駅から歩いて20分、そこは王国辺境領。 (河里静那)
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1章
1話 はじまりのトンネル。


 栗栖翔太少年が初めてこの街にやってきたのは、小学校2年生に上る前の春休み。

 会社へと向かう人々の賑わいも過ぎ、街が落ち着きを取り戻したくらいの時間のことだった。

 

 ターミナル駅から急行と各駅停車を乗り継いでおよそ1時間。畑ばかりが広がる娯楽施設に乏しい町並みだけれど、緑だけは多い。そんな街。

 とはいえコンビニなんかは普通にあるし、駅前にはスーパーマーケットも何軒か建っている。逆に郊外方面へと向かえば大型のホームセンターだってある。なかなかに暮らしやすい土地といっていいだろう。また、実際に過ごしやすく、彼はこの街のことがすぐに好きになった。

 

 そんな町並みを歩くこと、駅から20分ばかり。

 この場所に、両親が念願のマイホームを手に入れたのだ。親子3人で暮らすに十分な広さを持った、新築の庭付き一戸建て。

 身長190cm超えの体格を誇る父さんが長いこと夢見てきた、足を伸ばして入れるサイズの特注品のバスタブを備えた、広い風呂場まで完備されている。

 父さん、頑張った。超頑張った。お約束の30年ローンを抱えてしまったので、是非これからも頑張って欲しい。

 

 ちなみに、前に住んでいた賃貸マンションからは随分と離れた場所になる。なので、翔太は転校することになってしまった。

 せっかく1年間かけて仲良くなった友達と離れ離れになってしまうのは悲しかったけど、門の前で涙ぐみながらウンウンと頷いている大黒柱の姿を見ていると、文句を言う気持ちもなくなってくるというもの。

 とりあえず、真似をして隣でウンウンやってみる。二人並んで腕を組みながら家を眺めていると、どうだろう。なんだか、すごくワクワクしてきた。そっかぁ、今日からここが僕達の家なんだと、ドキドキしてきた。

 まあ、すぐに「引越し屋さんの邪魔になるでしょ」と、母さんにどかされてしまったけど。父さんは別の意味でまた涙目になっていたので、あとで慰めてあげようと思ったものだ。

 

 そんなこんなで、引越し屋さんの大型トラックから荷物が運び込まれて、ダンボールの開封作業が始まったのだけれど。何ということだろう、翔太少年の仕事は特にないらしい。

 完璧主義なところのある母さんは、家具の配置とかその他もろもろとか、誰からも口指しされずに納得の行くまで悩みたかった様子。

 故に、せっかく手伝おうと思っていた少年の決意は、やんわりとした表現ながらもはっきりと邪魔だと言われてしまったことで、行き場を失ってしまった。

 結構、酷い扱いだと思う。そこは怒ってもいいところだ、少年。

 

 邪魔者仲間として父さんとでも遊ぼうかと思ったが、父には力仕事要員としての仕事が言いつけられた。命を受けたその顔には、ふふんと得意げな笑みが浮かんでいる。まったくもって大人気ない。

 少年は決意した。慰めてあげるのは、やっぱりなしにしようと。

 

 しかし困った。家の中に居場所がなくなってしまった。

 なので、ご近所の探検に出かけてみようと企んでみる。

 

「母さん、ちょっと遊びに行ってきてもいい?」

「お昼までには帰ってくるのよ。あと、初めての場所なんだから、迷子にならないように気をつけてね」

 

 翔太少年は、年の割に随分としっかりしているところがある。大人びているとも言えるし、まあ、こまっしゃくれているともいう。

 そんな子供だったので、両親も彼が一人で出歩くことを、保育園時代から許可していた。もちろん、徒歩で行ける範囲に限定ではあるのだが。

 

 とはいえ、全く放任しているということでもない。万が一のことを考えて、緊急連絡用にキッズ携帯は持たされている。登録先が父さん、母さん、爺ちゃん、婆ちゃんの4つしかない上、如才ない翔太がトラブルに巻き込まれるようなこともこれまでなかった為、時計代わりにしか使われていないが。

 

 そういう下敷きがあった為、彼の申し出はあっさり許可されたのだ。だが、今の母さんの様子を見ていると、果たして信用しているからなのか、それともダンボールからお気に入りのお皿を取り出す作業に夢中で他に気が回っていないだけなのか。判断のつけづらいのが残念なところだ。

 

「家の前の道をしばらく真っ直ぐ行ったところに、大きめの公園があるんだ。行ってみたらどうだ?」

 

 裏切り者の父さんが、そう言ってくる。

 そこは公園といっても、滑り台のあるような児童公園ではない。体育館とかテニスコート、図書館といった公共の施設が集まり、散歩道まで整備された大人向けの公園だ。7歳の子供に向いていると言い難いが、翔太ならきっと気にいるだろう。

 父さんが家の下見に来たときに見つけた場所で、そのうち我が子と一緒に行こうと思っていたのだが。 

 

「じゃ、そこ行ってみるね」

「あ、水筒は持っていけな。熱中症になるほどは暑くないと思うけど、一応な」

 

 どうやら、子供と散歩よりも妻の命令のほうが優先度が高いらしい。一応は心配してるっぽい言葉をかけられた後、にこやかに送り出された。

 父さんは母さんのことが好きすぎるので、二人きりになれるチャンスがあると、とても機嫌が良くなる。子供の立場からすると少し寂しいけど、そんな父さんも可愛いから、これはこれで別にいいんじゃないかなと、翔太は寛大な心で父を許した。

 

 あっ、今日の荷解きは別にして、普段の彼がそう邪険に扱われてる訳じゃないから安心してほしい。それに、父さんはいつも朝早くから夜遅くまで家族のために働いてくれているんだから、少しくらいサービスしてあげないと。

 何せ、僕はもうすぐ小学2年生。もう1年生の子供とは違うのだから。そう、頷いてみる翔太だった。

 

 

 

 目的地の公園までは、子供の足で20分位かかるとのこと。のんびりと、これから住む街を眺めながらの散歩には丁度いい。

 といっても、目に入るのは大体、誰かの家と畑ばかり。今ひとつ変化に乏しい。それでも、この葉っぱは何の野菜だろうととか、考えながら歩くのは中々に楽しかった。

 

 あれは菜の花。これはニラ。それは多分、アスパラガス。そんでもって……何だ、これ?

 何か、緑のドリルがいっぱい付いたような変な野菜が生えていた。マジマジと見つめてしまう。これ、食べられるの? 謎だ。

 

 そうして歩いているうちに、見える景色に変化があった。道の右側がいつの間にか畑ではなく、ちょっとした林と言おうか、そんな木のたくさん植えられている風景に変わっていたのだ。

 一番外側には大人の背より少し高いくらいの、びっしりと葉っぱの生えた小さな木。いわゆる、生け垣だ。そのせいで中にはいってみることはできない。そしてその奥は、普通の大きな木が生えている。

 

 目につく範囲、特に入り口のようなものはない。道に沿って先の方まで、ずっと木が続いていた。

 ここが目的地の公園なのかなとも思ったが、まだまだ20分も歩いていない。のんびりといろいろ眺めながら歩いていたから、実際にはもっと短い距離しか進んでいないはず。

 じゃあ、ここ、何だろう?

 

 その木の向こう側、奥の方。じっと、葉っぱの隙間から覗いてみる。緑に隠れてよくわからないが、何やらフェンスのようなものが見えるような。

 どうやら、何かの広い敷地の周りに木を植えて、目隠しにしているようだ。生け垣といってしまうには随分と念入りなようではあるが。

 

 一体、何の施設なんだろう。敷地の周りを林に沿ってぐるっと一周してみたら、きっと何処かに入口があるはずだよね。ちょっと行ってみようかな。

 そう考えて再び歩き始めたときだ。彼は気がついてしまった。

 

 ちょっと行った先の、一番外側の生け垣部分。その、下の方。ポッカリと一箇所、子供だったら少し屈めばくぐれるくらいの隙間が開いていたのだ。

 秘密の抜け穴。何という、子供心をくすぐるフレーズなのだろう。

 

 キョロキョロと、周りを確認。

 現在、歩いている人影はなし。車も、たまに通る程度。今は見える範囲に走っていないし、音も聞こえてこない。

 

 ちゃ~んす。

 逸る心を押さえ込むと、そうっと中を覗いてみた。

 

「おおおおっ」

 

 はっきり言って、期待以上。冒険という言葉が、心に浮かんでくる。

 そこにあったのは、トンネル。生垣の木や、背の高い草、他にもいろんな植物が壁や天井になって、ずっと先まで続く緑の通路になってたのだ。

 まるで、前にテレビで見たクマみたいなあいつの、住んでる場所まで続いている道みたい。あの変な生き物は、まだ日本にいるのです。たぶん。

 

「すっごいなー、これ」

 

 翔太だって男の子だ。こんなのを見たなら、見てしまったのなら。ワクワクが止まらない、止められる訳がない。かつて少年少女だった皆様なら、それもわかってもらえると思う。

 

 もう一度、周りを確認。

 うん、やっぱり誰もいない。今なら、誰にも見つからない。何も、フェンスの中まで入ろうってわけじゃない。大丈夫、立入禁止とか書かれてないし、きっとこのトンネルまではセーフ。

 

 そう、自分に言い聞かせると。

 翔太は自分の心臓がドキドキ鳴り響く音を聞きながら、腰をかがめて、緑のトンネルをくぐった。

 

 

 

 そして、この道の続く先。

 彼は、彼女と出会ったのだ。

 

 

 

 ずっと後になってから、この時のことを思い出したとき、翔太は思ったものだ。

 よく、運命の出会いなんて言う言葉が使われるけど。きっと、この時の出会いこそが、それに違いなかったんだ。って。

 

 

 



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2話 お花畑の女の子。

「それじゃ母さん、いってきまーすっ」

「しっかり摘んでくるのよー」

 

 畑仕事をしている男連中の為に、大量の昼ごはんを仕込んでいる母親へと声をかけ、パティは家を飛び出した。

 玄関を出て、三歩も進めばもう、トップスピード。くすんだ金髪を風になびかせ、走る。

 途中ですれ違った村人がパティへと向けてくる微笑ましい視線に、右手に持った籠をブンブン振って応えるも、速度は落とさずに走る走る。パティは今日も元気いっぱいだ。

 

 目的地は、村近くの森の手前。そこまで足を止めずに走り抜けられれば、パティの勝ち。

 いや、別に誰と戦っているわけでもないのだが、パティの中ではそういうことになっているのだ。

 

 やがて心臓が悲鳴を上げ、肺が懸命に酸素を求め、鉛のように重くなった足が止まりそうになったとき。ついに、一面に白い花が生い茂ったその場所へとたどり着いた。

 ふう。今日もいい勝負だった。

 

 パティは今年で9歳になった。この、まだ出来て日が浅いセージ村において、数少ない子供の一人だ。もっとも、他の子供は村分けされてこの場所に住み始めてから生まれた子ども達。なのでまだまだ、よちよち歩き。

 一緒に遊ぶ相手がいないため、彼女は様々な事柄にマイルールを定め、勝った負けたと一喜一憂している。

 寂しい一人遊びだって? それも仕方がないではないか。実際、寂しいのだ。それに、他に遊ぶ方法などないのだから。

 

 ちなみに、村分けとは何らかの理由があってその村でそれ以上の住民を増やすことが難しくなった時、有志を募って別の地に新しい村を起こすことを示す。大体、単純に土地が足りなくなったとか、水路をそれ以上伸ばすのが難しくなったとかで、新しい畑を作れなくなったときに行われる。

 所謂、開拓民の村だ。そう聞くと過酷な生活が待っているような気もするが、実際のところはそこまで生活が厳しいということもない。

 

 その理由としては、もともと土壌が豊かな土地だとか、人を襲うような大型の獣が少ないとか色々とある。だが、一番の理由は領主様からの支援を受けられるから。

 この、王都から遠く離れた辺境の地一帯を治める辺境伯様は、領民のために様々な手助けをしてくださるのだ。

 

 

 

 辺境伯様は偉大な方だ。

 そう、この地に住まう民は皆、彼のことを慕っている。そして、その立志伝に強い憧れを抱いてもいる。

 

 彼はもともと貴族などではなく、一介の商人に過ぎなかったという。それも遠い異国からやってきた、己の身一つで商う行商人。

 つまりはこの国の階級の中で、奴隷を除けば最も底辺に近い存在だったのだ。

 そんな彼は、この国の王都に流れ着いた時、こう思ったという。

 

「何故、誰も手を洗おうとしないんだ?」

 

 当時、王国の民に手洗いという習慣は存在しなかった。

 うがいなんて聞いたこともない。風呂なんてもってのほか。3日に1度、濡れタオルで体を拭いたなら、それはもう綺麗好き。

 

 ぶっちゃけ、不潔だった。臭かった。誰も彼もが、汚かった。衛生? なにそれ美味しいの?

 自然と、病気が蔓延することとなる。だがしかし、それも彼らにとってはごく普通のこと。平民たちの間に赤子が生まれて一年が経った時、半分も生き残っていれば儲けもの。そんな国だったのだ。

 

 若き日の辺境伯には、それがどうしても我慢ならなかった。無駄に失われてく命に、強い憤りを覚えた。そして、彼はその衝動のままに行動を起こした。

 手洗いとうがいの重要性を説いて周った。体は毎日拭くよう、出来るなら水浴びをするよう指示を出せと、有力者に掛け合った。そして、皆がふんだんに水を使えるよう、決して多くはなかった資産を投げ打って井戸を掘った。

 

 下町を中心としたその活動を当初、真面目に受け入れる者は少なかった。けれど、試しに言うとおりにしてみると当然、体はスッキリと気持ち良い。それが気に入って続けてみるとどうだろう、不思議と体が丈夫になっていく。

 そして数年が経った後、彼の住む下町の病人の数は激減していたのだ。

 

 そしてこの事実が、王の目に止まることになる。彼はその功績を持って、1代限りの爵位である准男爵位を賜ることとなった。

 

 あとはもう、トントン拍子だ。

 彼が持つ異国の様々な常識、この国にとっての非常識を伝えていくうちに、だんだんと国が豊かになっていく。彼の爵位もどんどんと上がっていく。そしてついに、辺境の王とまで言われる辺境伯へと上り詰めたのだった。

 

 地位と権力、領土を手に入れた後の彼も、何も変わることはない。領民が健康で豊かに暮らせるように。それが彼の望みだった。

 井戸を掘り、時には水を生み出す高価な魔道具を配布し、過度な税をかけることもなく、自身は清貧な暮らしぶりのまま、ただ民のために。

 

 生活が楽になるということは、生産が上がるということ。生産が上がるということは、税収も上がるということ。

 そして辺境伯がその地位について、30年ばかりの年月が流れた今では。この地は辺境とは名ばかりの、国内でも有数の豊かさを誇る領土へと変貌を遂げていた。

 もともと、隣国である帝国と接した王都から最も遠い土地が故に辺境と呼ばれ、開発がなされていなかっただけだったのだ。土地が持つその潜在力は、十分なものだった。

 

 もっとも、辺境伯のことを批判する人がいないわけでもない。パティの父の弟、セリムなどは言う。伯が民に優しいのは、それが国力に繋がるからそうしているに過ぎないからだと。

 セリム叔父さんは子供の頃から頭が良く、厳しい試験をくぐり抜けて王都の学校に通うことの出来た、村の期待の星だった。

 ちなみに、この学校の設立も辺境伯の肝いりがあってものだ。

 能力のある民は身分にかかわらず育てるべきだと、それ結局は国の力となるのだと、彼は王の前で力説したという。

 

 だが、セリム叔父さんはそれなりに優秀な成績で卒業したにも関わらず、あまり良い仕事にはつけなかった。王都とは結局、生まれが物を言う世界なのだ。出身が農民では、上に登るのも難しい。結局は、商会の下働きとして安月給でこき使われる毎日が待っていたのだ。

 

 そういう訳で、王都でくすぶっていた叔父さんは、村分けによって兄が新たな村長となったという知らせを受けた時、辺境に帰ってくることにした。 

 新たに生まれたセージ村を発展させて、その功績をもって辺境伯に文官として取り立ててもらうつもりだとか。何だよ、結局は領主様に頼っているんじゃないかと、村人たちは呆れて笑っている。

 

 

 

 何だか随分と話が逸れてしまったが、パティの住む土地はそういう場所だった。生活していくに十分な収穫と、優しい領主様。おそらく国内の農民の中で比較すれば、相当に豊かな生活をおくれているのだろう。

 

 とはいえ、働かずに暮らしていけるなんて言うことは当然、ない。それが例え9歳の女の子でも、もちろん。

 パティの仕事は、親たちが仕事をしている間、ヨチヨチ歩きの子ども達の面倒をみること。それと、あれやこれやの様々な雑用。そのうちの一つが、今この場所まで走ってきた理由だ。

 

 村から近くの森の手前、この場所にはこの時期、一面に白い花が咲き乱れる。

 女の子なら自然と、うっとり見とれてしまうような光景。だがしかし、その花を見つめるパティの目は熟練した狩人のそれ。獲物を見つめる眼光が鋭い。

 

 パティの名誉のためにも言っておく。彼女も初めてこの場所に来たときには、湧き上がる衝動を抑えきれずにはしゃいだのだ。それはもう、女の子らしく、可愛らしく。

 歓声を上げ、微笑みを浮かべ、ゆっくりと花に近づき、その香りを堪能し。

 そして、思いっきり顔をしかめた。

 

 臭かった。

 

 何だろう、鼻にツンと来る。ちょっと涙が出てきた。

 ここまで案内してくれた母を見れば、必死に笑いをこらえている。酷い。

 

「ごめんね、パティ。この花はね、虫除けの花なのよ」

 

 そう、笑いながら言われた。

 先に言ってよ、そういうことは。いやこれ、絶対わざとだ。そうに違いない。 

 何でも、この花の香りが虫は大嫌いらしい。……いや、人間だって嫌いだよ。本当にひどい匂い。

 

 ただ、こんなにひどい匂いだけのことはあるようで。この花を煎じて煮詰めた汁は、万能虫除け薬になるとのこと。

 原液を木窓の桟や玄関の枠に塗っておけば、家の中に虫が入ってこなくなる。水で薄めたものを畑に撒けば、作物が虫でやられることがなくなる。そんな便利な花らしい。

 そしてこの日より、この花を集めるのがパティの仕事となったのだった。

 

 

 

 ぶちり。

 花を摘む。というか、もぐ。

 

 えいやっと抜いてしまうのは駄目。次の花が咲くように、草が死んでしまわないように、根っこは残しておかなければならないのだ。だから、花のちょっと下あたりを摘んで、ブチリと引きちぎる。

 

 一回に摘む花は、持ってきた籠に一杯になるまで。

 花はまだまだたくさん咲いているけれど、これ以上摘んでしまうのも駄目。その調子では花が散ってしまうまでに全部を摘むことは出来ないけれど、それでいい。種ができる分の花は残しておかなければ、いずれこの花畑がなくなってしまうから。

 

 指先が段々と緑色に染まってくるけれど、それは我慢するしかない。ナイフがあれば作業がだいぶ楽になりそうだけど、鉄製の刃物は貴重なのと、子供にはまだ危ないということで持たせてもらえないのだ。

 

 今日はいい天気だ。

 屈んで下を向き、一心不乱に作業をしてると、自然と汗が滲み出てくる。

 でも、気をつけなくてはいけない。これは、罠だ。

 何気なく手で顔の汗を拭おうとすると、染み付いた草の汁で目が染みるのだ。それはもう、痛いほどに。涙が出てきて、しばらく目が開かなくなるほどに。体験談なのだから、間違いない。

 

 虫除けの花摘みとは、過酷な戦いなのだ。

 もうパティの心の中には、初めて花畑を見たときの感動など、欠片も残ってはいない。ここは戦場だ。汗がポタリと垂れるまでの間に、籠を一杯に出来ればパティの勝ち。そういうルールの。

 

 やがて、決着のつくときがやってきた。

 籠の中は花で溢れている。そして汗は……垂れていない。

 

「……ふぅ。今日も、厳しい戦いだったわ」

 

 パティは自身の勝利を噛みしめる。

 そうして一息ついて、ニヤリとした笑みを浮かべつつ、額の汗を拭うと。

 

「目がっ! 目があああっ!!」

 

 その場にのたうち回る羽目になった。

 教訓。油断大敵。

 戦場では、気を抜いたその瞬間こそが一番危険なのだ。

 

 

 

 その時だった。不意に、背後から声をかけられたのは。

 知らない声。そして、意味のわからない音の連なり。外国の言葉? こんな響きは聞いたことが無い。

 村の人じゃないのは間違いないけど……って、しまったっ!

 

 戦いに夢中になりすぎて、周囲への警戒をすっかり怠ってしまっていた。最低限の警戒すら忘れてしまうなんて、戦士としてあるまじき失態だ。

 この辺りには大型の肉食獣もいないし、人さらいが出たという話も聞いたことが無い。辺境伯様のお陰で治安は本当に良くなった。

 とは言えそれでも。人は、死ぬときは死ぬ。それはもう、あっさりと。命の火が、消えてなくなる。それが、この世界の常識。だと、言うのに。

 

 目は、まだ開かない。もどかしい。はやく、そこに迫った危険を確認しないといけないのに。

 焦るパティに、再び言葉がかけられる。けれどやっぱり、何を言ってるのか全くわからない。声はまだ幼い子供のもの。自分と同じか、あるいはもっと年下か?

 はっきりとわかることは、一つだけ。やっぱり、聞いたことのない言葉だということ。

 

 染みて涙が溢れる目を無理に、どうにか薄っすらと開けてみる。

 涙でぼやけた視界の中には、心配そうな顔をしてこちらを見つめる、可愛らしい男の子の姿があった。

 

 

 



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3話 不審人物は外人さん。

 トンネルを抜けた先には、驚くべき景色が広がっていた。

 

「おおおお~~~~っ」

 

 ゴロゴロと木の滑り台を転がり落ちて、謎生物の上に放り出される。なんてことは、残念ながらなかったけど。それでも、この結果は予想外で、予想以上で。

 ドキドキ、ワクワク。確かに、きっと楽しいことがあると期待はしていた。けれどそれでも、せいぜい林の中に出るくらいだと。7歳ながらに培ってきた常識が、そう語っていた。

 それがどうだろう。この、冒険心をくすぐりまくる光景は。

 

 目の前に広がるのは、一面の草っ原。

 あの林の奥、謎の施設の敷地がこんなにも、広大なものだったとは。いくら田舎寄りの土地だとは言っても、これはちょっとすごい。すごすぎる。

 一体、どれくらい広いんだろう。目を凝らしてみるも、反対側の端が全く見えない。

 

 端は見えないけど、目に入ったものはある。

 少し離れたところに、お花畑。そしてそのもう少し先には、家が何軒か建っている。翔太がこれまでに見たことのない造りの家だ。

 外国風の家なのかな? なんとなくボロっちい気がするな。けど、もしかしたら、それが味ってやつなのかもしれない。

 

 どうしようかな、行ってみよかな。

 怒られるかな、戻ったほうがいいかな。

 

 自分の背後、逃走経路を確認する。

 外側から見たときは、そんなに木が密集しているようには思えなかったけど。こっちから見たら結構、奥深く鬱蒼と感じる林。その一部に背の高い下草が生い茂る所があって、そこの草をかき分けて覗いてみれば、現れるのはトンネルの出口。今さっき、翔太が這い出してきた通路だ。

 

 ここを通れば、すぐに元の場所に戻れる。わからなくなっちゃわないよう、ちゃんと場所を覚えておかないと。

 大丈夫。警備の人とかに追いかけられたとしても、すぐに逃げれる、問題ない。もし捕まっちゃたら、全力でごめんなさいをしよう。

 

 ようし、決めた。

 あの家まで、行ってみよう。

 

 行ってみて、誰かいたらここがどういう場所なのか聞いてみよう。怒られそうだったら、ダッシュで逃げる。うん、完璧な作戦だ。

 そして翔太は、一歩を踏み出す。いざ、冒険の旅へ。

 

 どうして子供という生き物は、心の奥底では駄目だとわかっている一線を越え、ついつい突き進んでしまうのか。

 これが分別を弁えた大人だったら、きっと引き返していたことだろう。不法侵入とか、そういう単語が脳裏にちらついてしまえば、自然と保身を考えてしまうのが当然なのだ。そもそも、緑のトンネルを潜ろうとすら思わなかったか。

 

 しかし、子供は違う。奴らは、突っ走る。そうしてしばしば、トラブルを呼び込む。例えば、迷子とか。その結果、大人たちは散々に苦労する羽目に陥るのだ。

 

 だがまあ、この場においてはきっと。翔太のこの選択は、最良のものであったのだろう。ここで彼が帰ってしまっていたのなら。彼と彼女の出会いは、失われてしまったはずなのだから。

 なので、この先で待つ少女。パティにとっては、きっと。翔太のこの選択こそが、運命ってやつだったのだろう。

 

 

 

 意気揚々と歩き始めた翔太だったが。数歩も進まぬうちに、最初の試練が訪れる。

 先程から見えていた、花畑。そこに、不審人物がいたのだ。

 

 咲き乱れる花びらは白。花の真ん中は、雄しべ雌しべの黄色。2つの色の中に、白っぽい服を着た、黄色い髪の女の子。

 しゃがみ込んでじっとしていたのだろう、保護色になっていて、遠目ではぜんぜん気が付かなかった。

 ところがだ。翔太が花畑の横まで来た時、その子は急に立ち上がると。何故だか突然、地面の上を転げ回り始めたのだ。

 

 ……何、してるんだろう?

 花畑の中で寝転がるというと、何だかとてもメルヘンチックな感じがするのに。何だろう、この残念感。

 可愛らしくコロコロじゃなくて、花を轢き潰すようにゴロゴロ。ロードローラーか。

 口から漏れ出してるのは、笑い声ならぬ、うめき声。

 しかも、全然いい匂いじゃない、この花。去年の夏におじいちゃんの家で嗅いだ蚊取り線香の匂いみたいだ。

 

 変わった遊びだな。全然、楽しそうに見えないんだけど。

 女の子はどうやら、僕と同い年ぐらい。それに気づいたときは、この町で最初の友だちになれるかなと思ったんだけど、どうしよう。一緒に転がろうとか誘われちゃったら、ちょっと困るかな。

 

 うーん、でも、折角だから声をかけてみようかな。他の遊びだったら、一緒にやりたくなるものもあるかもしれないし。

 この子も、どうせだったらもっと楽しそうに遊べばいいのに。そんな辛そうな顔をしてないで。そんな、涙なんて流していないで。

 

 ……って、苦しんでるんだ!

 

 あんまり勢い良く転がっているものだから、右へ左へキビキビと、切れの良いターンをしているものだから、てっきり楽しんでいるのかと思ってしまった。

 

「大丈夫? どこか痛いの?」

 

 とりあえず、近づいて声をかける。

 すると女の子は、ビクリと身を震わせ、ゼンマイが切れたかのように急に動きを止めた。慌てた様子でこっちを見ようとするけれど、しかし目はまだ開かない。

 

 周囲には、潰された草の匂いがモワッと立ち込めている。そりゃあ、涙も出てくるよ。すごく目に染みるもん、これ。

 とりあえず、怪我とか病気ではなさそうで一安心。

 

「ほら、こっちに来なよ」

 

 まずはここから離れないと。花畑の外まで案内してあげよう。翔太は女の子の手を取ろうとする。ところがびくりと、すごい勢いで手を引かれてしまった。

 

「ごめんね、怖かった? 大丈夫、別に意地悪なんてしないよ」

 

 翔太が優しくそう言うも、女の子は余計に身を強張らせてしまう始末。

 うーん、どう言えば安心してもらえるかな?

 ……って、もしかしてっ!

 

「外人さんだっ!」

 

 今更ながら気がついた。黄色い髪の色、これは日本人のものじゃない。肌だって僕よりずっと白い。転がっていたせいか、ちょっと泥だらけだけど。何より、ドレスを着たお人形さんみたいな可愛い顔をしているじゃないか。

 どうしよう、困ったな。言葉が通じないんだ。……そうだ。

 

 翔太はポケットから取り出したハンカチを、肩から下げた水筒の中身でたっぷりと濡らす。中身はただの水。引っ越ししたばかりで他に飲めるものがなかったからだけど、ちょうど良かった。

 そして、それを女の子の手に握らせる。

 

 視界が奪われた中、急に渡された濡れた謎の物体。最初はそれが何だかわからず、とっさに投げ捨てそうになった。が、すんでのところで、その正体に思い至った様子。

 女の子は、ゴシゴシと音が出そうな勢いで、濡れハンカチで目の周りをこすり始めた。

 

「そんなに強くこすったら、赤くなっちゃうよー」

 

 言葉は通じないのだけれども、ついそんなことを言ってしまう。

 やがてハンカチが草の汁と、あと顔についた泥で真っ黒になり。ようやく、女の子の目がはっきりと開かれる。

 透き通るような、青い瞳。

 

「キレイな目の色だねー。ねえ、君の名前は何ていうのかな?」

 

 だから、通じないんだってば。

 そんなツッコミを入れてくれる人もおらず、強引なまでに会話を続ける翔太。物怖じしないところは翔太の美点であり、欠点でもある。

 

「僕はね、栗栖翔太」

 

 自分のことを指差しながら、自己紹介。

 

「ね、言ってみて。く・り・す。しょ・う・た」

 

 発音がよく分かるよう大きく口を開け、一文字づつゆっくりと繰り返す。

 

「しょ・う・た。ほら」

「……しょーたー?」

「うん、そうだよ! くりす、しょうた!」

「……クリス・ショーター?」

 

 翔太はニッコリと笑い、大きく頷く。

 大丈夫。言葉なんて通じなくても、友達にはなれるんだ。

 

「うん、僕は栗栖翔太。ねえ、君の名前は?」

 

 自分のことを差していた指を、くるりと方向転換。女のを指し示す。

 また自分を指して、翔太と自己紹介。そして翻って女の子を指差す。それを何度か繰り返し。

 やがて、翔太の意図に気がついたようだ。どこか恐る恐ると言った空気ながら、女の子は名前を教えてくれた。

 

「……パティ」

「パティ? 君の名前はパティっていうの?」

 

 ほら、ね。

 これでもう、僕たちは友達だ。

 自分を指して、翔太。向こうを指して、パティ。

 

「翔太、パティ。パティ、翔太」

「ショーター、パティ。パティ、ショーター」

 

 名前を呼んでいるだけなのに、何だかとても楽しい。

 気がつけば二人とも、顔にはお日様のような笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 でもとりあえず、早くここから離れよう。

 何だか、僕まで目がしみて辛くなってきたから。

 

 

 



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4話 お友達が出来ました。

「ただいまー」

 

 新しい家の、まだ馴染みのない玄関をくぐり、翔太は帰宅の挨拶をした。

 ピカピカの玄関にも居間にもそれぞれの部屋にも、まだまだダンボールが山と積まれている。母の戦いに決着がつくのは、しばらく先のことになりそうだ。

 

 それでもなんとか食事を摂るスペースくらいは確保できたらしい。食卓の上からは食欲をそそる刺激的な香りが漂ってきている。

 大きな皿に載せられた、丸い物体。ピザだ。台所用品の布陣が完了していないため、どうやらお昼はピザのデリバリーで済ますらしい。

 

「おかえりなさい、翔太。……って、何この匂い? あんた、どこで何してきたの?」

 

 笑顔で息子を出迎えた母の顔が、みるみるとしかめっ面に変化していく。

 無理もない。だって、臭いもん。

 

 そんなに臭うかなと、自分の二の腕あたりに鼻を埋めて、スンスンと匂いを嗅いでみる。

 んー? 自分じゃよくわからないな。どうやら、すっかり鼻がお馬鹿になってしまっている様子。

 可愛らしく不思議そうな顔をする翔太だが、しかし母の眉間の皺が消える気配はない。完全に、服に匂いが染み付いてしまっている。

 

「多分、この匂い。はい、母さん、お土産だよ」

 

 そう言って、手にしていた一輪の花を母へと差し出す。絵面だけをみるなら、なんともまあ、微笑ましい光景だろう。でも、色々と台無しだ。

 それも仕方ない。だって、臭いんだもん。

 

「何だこの花、除虫菊か? 防虫剤みたいな匂いがするな」

 

 冷蔵庫にペットボトルのお茶やジュース、出来合いのお惣菜や切るだけで食べられるハムといった物をしまっていた父が、俺も仲間に入れろと話に参入。どうやら、当座の食料の買い出しに行かされていたようだ。

 我が家の主は母さんなので、休日の父さんの扱いなんてこんなものである。哀れ。でも、こっそりと自分用のビールも冷やしているのは抜け目ない。お駄賃代わりとして見逃してあげよう。

 

 ちなみに、普段からこんな手抜きの食事というわけではない。マイホーム購入のため、母さんは家計のやりくりを必死に頑張っていたのだ。安い食材で美味しい料理を作るのは得意技である。

 ただ、父さんが作ったほうがさらに美味しいというのは秘密だ。

 

「お花畑で遊んだんだ。いっぱい生えてて綺麗だったよ。……ちょっと匂いが目に染みたけど」

「花畑? 除虫菊を育ててたのか? そんなところで遊んじゃだめじゃないか」

 

 本当に、あの子は何で、あんなところで遊んでいたんだろう。そりゃ、たしかにきれいな光景だったけど、匂いが気にならないのかな? でも、目が痛いって泣いてたしなあ。

 地面を転がる不審人物を思い出して首をかしげる翔太。だがあの後は結局、自分も一緒に服に匂いが染み付くまで遊んでいたのだから、偉そうなことは言えない。

 

「ううん、畑じゃないと思う。なんかね、普通に草っ原に生えてた。それに、先にパティが遊んでたんだし、大丈夫だと思うよ」

「パティ?」

 

 両親が揃って、首をかしげる。

 パティとはなんぞや? とりあえず、ハンバーガーに挟まってるやつではないだろうと思われる。

 

「うん、パティ。友だちになったんだ。すごいでしょ、外人さんなんだよっ!」

 

 なんと、息子は知らぬ間に国際交流を果たしてきたらしい。物怖じしない子だとは思っていたが、人種の差など何の障害にもならなかったか。

 そう我が子の柔軟な思考を喜ぶ両親だったが、まさかそれが国際ですらなく、異世界交流だとは思いもよらない。まあ、あたりまえなのだが。けれども国際交流ならば自然だと、そう思ってしまう理由も、この家の近くにはあったのだ。

 

「外人の子か。あれかな、基地の子かな?」

「基地って?」

「ほら、公園に行く途中に林があったろ? あそこ、米軍の基地があるんだよ」

 

 基地とはいっても、戦闘部隊が駐屯しているような大掛かりな施設ではない。通信を主任務とした、基地として見るならこじんまりとしたものである。

 それでも所属はアメリカ軍にあり、基地内は治外法権となっている。当然、勤務しているのもアメリカ人だ。

 

「よく知らないけど、基地に勤めてる人の家族とかも一緒に住んでるのかもな。……って、翔太。敷地に入ったのか?」

 

 それはいけない。無断で侵入など、大問題だ。

 

「えっと、林の中には入っちゃいました。ごめんなさい。……でも、フェンスは超えてないし、立入禁止とかの場所にも行ってないよ」

 

 これは事実。

 翔太はフェンスを超えていないし、米軍施設に侵入もしていない。超えたのは世界の壁だ。

 

「んー。それならギリギリセーフか? ……でもなあ」

「パティの家の周りに、基地みたいのなんてなかったよっ! 基地の中には住んでないんじゃないかな?」

 

 これも事実。パティが住んでいるのは辺境領の開拓村だ。

 

「……それに。パティ、なんだか寂しそうだったんだ。きっと、一緒に遊ぶ相手がいないんじゃないかなって」

 

 最初は、急に目の前に現れた見知らぬ子供のことを警戒していたパティ。しかし、翔太の強引なまでにマイペースな攻撃は、彼女の壁をあっさりと壊してしまった。

 

 例えば。

 言葉が通じないために無言のパティに、翔太がその辺の草を抜いて一本手渡す。それを訝しげに受け取るパティ。

 こうやるんだよと、右手と左手で草の両端をつまむように持たせて。すかさず翔太が同じように持った草の葉をパティのものに引っ掛けて、そして引っ張る。

 ぶちりと音を立て、ちぎれるパティの葉っぱ。それを見てフフンと、ドヤ顔で見下す翔太。むっとするパティ。すかさず、隠し持っていた臭い花をパティの顔にぶつける翔太。転げ回るパティ。濡らしたハンカチで顔を拭いてやる翔太。されるがままのパティ。

 

 第2ラウンド。

 再びあっけなくちぎれるパティの葉っぱ。それ今だと、花をぶつけようとする翔太。それをヒョイッとかわすパティ。

 今度はパティの得意顔。そこに、反対側の手に隠していた花をぶつける翔太。転げ回るパティ。ドヤ顔の翔太。ただしパティは見えていない。

 

 そんな感じで、2人は仲良く遊んでいた。うん、パティは怒ってもいい。

 それでも、そろそろお昼だから帰るねと、手を振る翔太のことを。パティは、それは寂しそうに見ていたのだ。青い瞳からは、花によるものではない涙が、零れそうになっていたのだ。

 

 だから、翔太は。

 言葉が通じないのはわかっていたけれど、それでも。約束をしたのだ。また、遊びに来るよって。

 

「だから、僕はまたパティと一緒に遊びたい。大切な、友達だから」

 

 じっと静かに、父の顔を見つめる。

 駄目だ、この顔には勝てない。こんな顔をして男前なことを言う愛する息子に、もう遊んじゃいけませんなんて言えるわけがない。俺は言えるっていうやつがいるなら、そいつは父親なんてやめてしまえ。

 

「わかった。友達は大切にしないとな。ただし、約束だ。入っちゃいけないところには、絶対に入らない。守れるか?」

「うんっ! 絶対に守るよっ!」

 

 男同士の誓い。

 にやりと笑う父だが、心の中では泣きそうになっている。我が子の成長が嬉しくて。

 そんな2人のことをやや呆れ顔で見ていた母さんが、雰囲気を壊すことを言う。

 

「話は終わった? じゃあ、翔太はご飯の前にシャワーを浴びてきなさい」

 

 だって、それも仕方ないではないか。

 何度でも言おう。臭いものは臭いのだから。

 

 

 

 

 

 一方。王国辺境領、開拓村では。

 

「母さん! 母さん!! 母さーんっ!!」

「なんだいこの子は、帰ってくるなり騒がしいね」

 

 翔太と別れて一旦は気落ちしたパティだが、そこはそれ。持ち前の前向きさですぐに元気を取り戻すと、自宅へ向かって一直線に走り出す。

 そして、帰宅するやいなや、興奮の冷めやらぬ様子で母の元へと飛び込んだ。

 どうしても、誰かに伝えたかったのだ。今のこの自分の、心の中から溢れかえりそうな感情を。

 

「それにしても、随分と時間がかかったね。一体どうしたんだい……って」

 

 微笑みを浮かべながら娘の突撃を受け止めた母だったが、その笑みに黒い陰りが。

 

「なんだいなんだい、このざまはっ! 体中、虫除け草の汁まみれじゃないかいっ!!」

 

 そして、陰りから怒りへ。パティの頭に、ゴツンとげんこつが落とされた。

 

「ひーん、ごめんなさーいっ!」

 

 半泣きのパティ。

 それも仕方がない。だって、臭いんだもん。

 

 

 

「それで一体、何があったんだい?」

 

 昼食の準備をしていた母だったが、この悪臭の中ではそれどころではない。

 パティから服をひん剥くと、家の裏手に回って水瓶から桶へと水を移し、その中でじゃぶじゃぶ服を洗う。力強い働き者の手が、容赦なくゴシゴシ。

 あーあ、もう。服は貴重だって言うのに。臭いが残らなきゃいいけどね。

 

 その横では、涙目のパティが手と顔を洗っている。周囲には、昼食の待ちぼうけを食らうことになった男衆の姿。

 

「えっとね、虫除けの花を摘んでたら、お友達が出来たのっ!」

 

 うん。何を言っているのかわからない。

 妖精さんでも見えてしまったのだろうか、うちの子は。

 

「ほら、落ち着いて。ちゃんと分かるように話してごらん」

「えっと、えっとね。花を摘んでたら、知らない男の子に声をかけられたの。言葉がわからなかったから多分、帝国の子」

 

 パティのその言葉に、大人たちの顔が微妙に歪む。

 

「帝国の子って……あれか、温泉街のお客様か」

 

 近くの森の、その向こう側。山の麓には、数年前から新しい街が作られ始めている。

 それが、辺境領の新しい名物、温泉街だ。

 

 このセージ村が出来た後、村人によって周辺地域の探索が行われた。そしてその際に、今まで知られていなかった、温泉が湧き出る地が発見された。 

 この事実が上の方まで報告されると、耳にした辺境伯様は大喜び。そして領地の新たな収入源となることを期待して、街が作られることになったのだ。

 

 庶民が気軽に泊まれる宿から、王族が滞在することも想定された豪奢な宿まで。様々な客層をお迎え出来るよう、いくつもの宿泊施設が現在、絶賛建設中である。

 全くのゼロから街を作ることになったため、出来上がるのはまだまだ遠い先のことになるだろう。だがその分、緻密に設計された近代的な街が誕生する予定だ。

 

 そしてこの温泉街、既に宿泊することが可能である。

 全体の完成はまだ先とは言え、それまで寝かしておくのも効率が悪い。なので突貫工事で、宿が幾つか完成している。

 もともと、この世界において旅行を楽しめるだけの生活の余裕があるのは、一部の富裕層に限られる。心身ともにリラックスして財布の紐がゆるくなった彼らが落としていく金銭は、既に辺境領の重要な財源の一つだ。

 

 今では、王国内はもちろん、領土を接した帝国からも人が訪れはじめている。

 ちなみに、かつては互いに領土をかけて争っていた王国と帝国だが、現在では同盟国として、様々な交流を行っている。大使として、辺境伯が尽力した。伯、マジチート。

 

「この辺りで帝国人って言ったら、それしかないだろうねえ」

 

 じゃぶじゃぶと洗い続けながら、母が答える。

 温泉街からこの村まで、実はそう離れていない。間にある森だが、随分と小さい、むしろ林と言った方がいい程度の規模なのだ。鹿や狼と言った大型の生き物も棲んでいない。彼らを養うだけの広さがないからだ。

 さらにその中には、木々を切り倒していくつも道ができている。温泉街のお客のために、森の中の散歩道と称した遊歩道が作られたのだ。万が一を考え、安全確保のための護衛貸し出しサービスも行われている。

 

「でも、いくら行き来が楽だからって、子供一人でここまで来るか? なあパティ、どんな子だったんだ? 名前とかわからないか?」

 

 父のその疑問も、もっともだ。

 いくら近いとはいえ、並の子供なら途中でへばる。

 

「えっとね、すごい上等な服を着てた。初めて見る型だったけど、帝国だと普通なのかな?」

 

 上等な服? 少々、嫌な予感が。

 身分が違う子に、パティが粗相をしたのでなければいいのだが。

 

「あとね、名前っ! クリス・ショーターって言ってたよ! 言葉はわからなかったけど、名前だけは教えてくれたんだっ!」

 

 なんと、姓がある。やはり貴族か。姓があるのは貴族の証し。平民は、名しかない。

 これはますます、困った予感。

 

「ショーター……聞いたことがないな。セリム、お前は?」

 

 父が、隣で難しい顔をしていた弟にそう尋ねた。王都で暮らしていた彼なら、自分が知らぬ貴族の名も知っているのではと思ったのだ。

 だが、彼から帰ってきた答えは、予想を超えるものだった。

 

「……なあ。もしかして、ショーターじゃなくてシューターじゃないのか?」

 

 一同、顔を見合わせた後。一斉に浮かぶ、驚愕の表情。

 それも仕方がない。それ程に、驚くべき名前だったのだ、それは。

 

 帝国が誇る武の名門、シューター家。爵位は伯。

 始祖はそのあまりに超絶的な弓の技量を讃えられ、当時の皇帝から射手を意味するシューターの名を賜り、貴族に取り立てられたという。

 

 今も伝わる彼の伝説として、以下のようなものがある。

 150メトル離れた距離から、1ミニトの間に16発の射撃に成功。

 彼が潜んだ林に足を踏み入れた王国騎士の1団が、1アワト後に全滅。

 気をつけろと叫んだ兵士は、次の瞬間には頭を撃ち抜かれる。

 王国軍が野営をしている際、寝所から排泄のために10メトル離れる間に眉間を貫かれる。

 一門のわずか32人で、王国の一軍を撃退。

 

 等々。全くもって背筋の凍る伝説だが、これら全ては紛れもない事実だったりする。質が悪い。

 二国間の友好が結ばれた現在でも、シューターの名は王国民にとって恐怖の象徴なのだ。

 王国の子供は、親の言うことを聞かないと夜中にシューターが来るぞと脅されて育つ。なまはげか。

 

「……パティ。その、だな。これからは、その子と一緒に遊ぶのはやめたほうがいいんじゃないかと、父さんは思うんだが」

 

 そう、控えめに告げられる父の言葉。

 それを聞いたパティは、しかし。

 

「やだっ! せっかく、初めて友だちができたんだもんっ!」

 

 断固として、それを拒否した。

 まあ、それもわかる。この村の子供は、パティの他には言葉も話せないような幼子しかいないのだ。遊びたい盛りだと言うのに、この子には随分と寂しい思いをさせてしまっている。

 

 でも、だ。

 それはそれとして、だ。

 

「だがな、相手はお貴族様だ。失礼なことがあったら、困るのはパティだぞ」

「それでも嫌っ!」

 

 にべもない。

 困り果てた父は、助けを求めて周囲を見渡す。

 

 一斉に、視線をそらされた。援軍、来たらず。

 妻を見る。じゃぶじゃぶしている。背中が、私に話を振るなと語っている。

 

「なあ、パティ……」

「絶対っ! 絶対絶対絶対絶対にっ!! 嫌っ!!!」

 

 目に涙をため、地面を蹴り、全身を使って父の言葉に抵抗するパティ。

 一体どうしたものかと、天を仰ぐ父の顔は、急に5歳ばかり老け込んだような疲労が浮かんでいた。

 

 誰か、助けて。



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5話 おうちに行ってみました。

 ぶちりと、花を摘む。

 その花を、籠に入れる。

 

 摘む、入れる。摘む、入れる。もぎとる、入れる。

 来る、来ない。来る、来ない。来る……来ない。

 

 籠の中は、そろそろ花で溢れそう。

 今日の勝負は、籠が一杯になるまでに、あの子が来てくれれば、勝ち。

 一輪を摘んで、来ると願う。一輪もいで、来ないと嘆く。籠から花が、これ以上はもう無理ですと、こぼれ落ちた。花占いは……来ない。

 

「……負け、かあ」

 

 パティは、表情の抜け落ちた虚ろな顔で、森の入口をじっと見つめる。

 やがて踵を返すと、普段の踊るような足取りを忘れてしまったのか、トボトボと村へと戻っていった。

 

 

 

 パティが駄々っ子になった翌日。

 まあ、彼がまたこの村に来てくれるようなら、どうするかはその時に考えよう。そう言ってとりあえず、昨日はパティを落ち着かせることは出来た。同時に、セージ村としての対応も同様のものとなる。

 言ってしまうなら、厄介事の先送り。それ以外の何物でもない。

 

 けれど、それでも問題はないはず。シューター家の名前が上がったときは焦ってしまったが、冷静になって考えてみるなら、この対応で支障はないのだ。

 だってその子、どうせもう来ないだろうし。

 

 パティからしてみれば運命の出会いと思えたかもしれないが、お貴族様からしてみればおそらく違う。散歩の途中で戯れに、平民の子と遊んでみただけ。

 旅先での、ちょっとした楽しい思い出にはなったかもしれない。けれど、それで今後ともずっと付き合いが続くなんてこと、あるはずがないのだ。

 

 パティにとっても、時が経てばきっと同じことだろう。今は悲しくても、どうせすぐに忘れてしまうさ。

 だから、ひどく落ち込んだ様子で花摘みから帰ってきていても、昼食のこの席でスプーンを口に運ぶ動きが妙に緩慢でも。これも、ほんのひと時のこと。

 きっと数日もすれば、もとの元気なパティに戻ってくれる。この悲しみもきっと、この子の成長につながってくれる。

 

 そう、両親は考えた。

 確かに、それで問題ないはずだった。これで終わった話のはずだった。

 ただし相手が、本当にお貴族様であるならば、だが。

 

「……兄さん、大変だ」

 

 パティの両親は油断していた。ときに現実とは、物語よりも奇妙なものだというのに。

 だから、隣りに住んでいる弟が、沈痛な顔をしてそれを知らせに来たとき。

 

「パティへ、お客様がいらしている」

 

 幼いころに親から聞かされ、眠れぬ夜を過ごすことになった恐怖を思い出してしまったのも、きっと仕方のないことなのだろう。

 なまはげが、やってきた。

 

 

 

 

 

 食事を大慌てで片付ける。食べている暇はない。とりあえず隣の寝室へと運び込んでおいて、後でどうにかしよう。

 仕方がないではないか。子供とは言えお貴族様の前で食事など出来るわけがない。それにこれでも、この部屋が村で一番上等な部屋なのだ。仮にも村長の家なのだから。自宅と比較されてこの子がどう思うかなど、とても怖くて考えられないが。

 

 そしてどうにか、セリムに案内された男の子を迎え入れる。

 パティの言うとおり、見たこともない型の、恐ろしく上等な服を着ている。間違いなく、平民の子ではない。僅かに残っていた、パティの勘違いという可能性が、これで消えた。

 

 ただ、お付の者がいないのが気になるところ。

 幼いながらも、1人で危険を排除できるだけの力量を持っているのだろうか。それとも、隠密の技量に長けた護衛がこっそりと、この家を取り囲んでいるのだろうか。どちらにせよ、恐ろしい。

 

 言葉は通じないが、いや通じないからこそ、身振り手振りも交えて出来るだけ丁寧な対応を心がける。

 おいセリム。お前、王都の学校まで行ったっていうのに、なんで帝国語が話せないんだよ。

 八つ当たりされ、冷たい視線を送られるセリムが少し可哀想。

 

 とりあえず、半端な爵位持ちにありがちな、居丈高な様子は見られない。

 もしくは、相手が誰であろうと油断しない、腹の中はそう簡単には見せない。そういう習性が故のものかもしれないが。

 

 ってっ! おいっ! パティっ!!

 思わず伸ばした右手が空を切る。あろうことか愛娘は、父が止める間もなく。ぴょんと跳ねるように、体ごと飛び込むように。歓声を上げながら、彼へと抱きついてしまったのだ。娘の体が描く放物線が美しかったと、横から見ていた母は後に語る。

 

 そしてその勢いのまま、床へと倒れ込む2人。ドスンと響く音が、その衝撃を物語っている。

 終わった。なんかもう、色々と終わった。娘も、自分も、この村も。

 

「びっくりしたー。パティ、痛いよー」

 

 ところが、少年に怒りの感情が浮かぶことはなかった。それどころか、どこか楽しそうにパティへと語りかけてすらいる。

 なんと、心の広いことだろう。この場で斬り捨てられてもおかしくない行いだというのに、むしろ嬉しそうに笑えるなどとは。

 

 真の貴族というものはきっと、こういうものなのだろう。

 辺境伯様だって、平民相手に威張ったところなど決して見せないと言うではないか。

 さすがは帝国が誇る武の重鎮、シューター家。幼いとは言えその心は、しっかりと引き継がれているのか。

 

 それともあるいは。友達だから、か。

 もしかしたら本当に、この2人は友達になったのだろうか。住む世界が違うというのに、そうなってしまったのだろうか。それは喜ばしいことではあるのだろうが、これからのことを考えると正直、胃が痛い。

 なお、確かに住む世界は違う模様。

 

 起き上がるのに手を貸したほうがいいのかどうか。そんなことをして良いものなのか。判断がつかず迷っているうちに、彼は1人で立ち上がってしまった。

 そしてパティに手を差し出すと、彼女の手を取って引っ張り上げるように起き上がらせる。紳士だ。

 

「これ、お母さんからです。どうぞ皆様でお召し上がりくださいって言ってました」

 

 床に転がったことに動じた様子も見せず、彼は服についたホコリをパンパンと払うと、手にしていた四角い物体を、こちらへと差し出してきた。

 これは……いただけるのだろうか? 受け取っていいものなのか? 言葉が通じないということが、これほど不便なことだとは。

 

 ところで一体、これは何なのだろう。彼が持っているのを目にしたときから、ずっと気にはなっていた。

 木箱のような形をしてはいるが、開くような場所がない。表面はツヤツヤとした光沢があり、美しい模様のようなものが描かれているが、材質が全くわからない。

 

「パティにあげたいから、開けちゃってもいいですか? ……うーん、通じないんだよなー。英語、勉強しなくちゃ。パティに教えてもらえるかな」

 

 彼は何やら呟き、悩むような素振りを見せると、おもむろにその箱をひっくり返す。裏面には、合わせ目のようなものが見えた。そこに指をかけると、剥がすようにして箱から取り外していく。

 

 これは、布を巻いているのか? 贈り物はきれいな布で包む風習が、帝国にはあるのだろうか。

 それにしても、このような布は初めて見る。非常に薄く、厚さが存在しないと言ってもいい程だ。それでいて意外な硬さがあるらしい。完全に取り外されたというのに、箱の形状を残したまま崩れることがない。布というよりむしろ、薄く薄く仕上げた鉄板のようにすら思える。

 

 中から現れたのは、金属製の箱。これもまた、見事な作りだ。宝石や宝を収めるのに丁度いい、そう思える。

 まさか……パティを買い取りたい、とでも言うのか? まて、流石にそんなことは了承できないぞ。

 

 父が言葉にできない葛藤で心の中をざわつかせているうちに、ついに翔太の手が箱の蓋を開いた。

 中から現れたのは……なんだ、これは? パン? 食べ物だろうとは思うが、これまた正体がわからない。

 頭をひねる父だったがしかし、その横にいる王都帰りの弟には、その正体がわかっていた。

 

 これはっ! 焼き菓子っ!!

 

 砂糖を使った菓子など、庶民が口にすることは決してない。一生のうち、見る機会すらないのが普通。それ程に砂糖とは高級品なのだ。それが、これだけの量。

 それだけではない、入れ物の精緻な加工が施された金属の箱も、それを包んでいた布のようなものも、一体どれほどの価値があるものなのか。頭のなかで、計算してみる。

 

 王都にいたとは言っても、結局は庶民。想像でしかない部分もあるが、おそらくは……金貨での支払いが必要になるだろう。菓子の出来如何によっては、更にその数倍の値がつくことも考えられる。

 

 こんなものを、軽く差し出してくるなよっ! 困るだろうがっ!!

 これが、帝国大貴族の力、なのか。

 

「はい、パティ。あーん」

 

 そんな葛藤を尻目に、というか、それに気が付きすらもせず、翔太はクッキーの一枚をつまみ上げる。

 そしてそれを、パティの口の前に差し出した。

 

 パティ、これは食べ物なのか、美味しいものなのかと訝しげな顔。それでもそうっと、とりあえず一口。

 その顔が、蕩けた。頬を抑え、目尻を下がらせ、にんまりと。なんともまあ、幸せそうだ。

 そして、今度は自分の手で一枚、ぱくり。さらにもう一枚。やめられない、止まらない。

 その様子を眺める翔太もまた、幸せそうだ。

 

 駄目だって、そんなにいっぺんに食べたらっ! それ高いんだからっ!

 そう声を上げたくなるセリムだが、翔太の目が気になって動けない。

 父は、どうすれば良いのかと固まったまま。母はどこか諦観の表情で、2人のことを見守っている。

 

 大人と子供の感情の差が激しい。

 感情が目に見えるなら、部屋の中は混沌で色付いていることだろう。

 

「パティ、こっちのチョコクッキーも美味しいんだよ。ほら、あーん」

 

 でもまあ、子ども達は楽しそうです。

 よきかな。



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6話 仲良く遊びました。

「ただいまー」

「あら、今日は早かったのね。お風呂入っちゃう?」

「いや、これから飯だろ? 一緒に食べるよ」

 

 薄っすらと昼の残滓を残す微妙に明るい空。夜の帳の降りる少し前。真新しい玄関をくぐると、妻が出迎えてくれた。一家の大黒柱の帰還である。

 栗栖家の夕食開始時間は通常、午後7時。定時でうまいこと会社を抜け出すことができれば、父も一緒に食事をとれる。愛する妻と我が子と過ごす至福の時間のため、今日も父は必死に仕事を片付けてきたのだ。

 

 なお、ありがたいことにホワイトな職場に勤められているとはいえ、それでも週の半分は間に合わないことが多い。以前の家よりもこの家のほうが会社から遠いので、なおさらだ。決算期には、終電間際に電車に飛び乗ることもままある。

 企業戦士の戦いは過酷なのだ。下手をするなら、異世界での生活よりも。頑張れ日本のお父さん。

 

「おかえりなさい、父さん」

「ただいま、翔太。今日は臭くならなかったか?」

 

 風呂上がりなのだろう、パジャマに着替えてホカホカ湯気を立てた翔太も、ひょいと顔をだす。その頭をワシワシと撫でくりまわしながら、父が笑った。

 酷いよ父さん、そんな何度も同じ失敗はしないよと、やや不貞腐れたように言葉を返す。もちろん、本気で拗ねているわけではない。これもいつものコミュニケーションだ。

 

「今日は何してたんだ? またパティちゃんのところに行ってたのか?」

「うん。パティのお父さんとお母さんに挨拶もしてきた。あ、そうだ母さん、クッキー喜んでたみたいだよ。美味しそうに食べてた」

「そうでしょう。あれ結構、良いやつなのよ。母さん奮発したんだから」

 

 昨日に引き続き、今日もパティのところへ行ってくると言う翔太に、出掛けに渡したのがあのクッキー缶だ。引越し蕎麦の代わりにご近所に配ろうと、いくつか買い込んでいたうちの最後の一つ。

 こっそり自分で食べようとか企んでいたのだが、息子のこの街でできた最初の友達のためなのだからと、涙をのんだ。

 

「でも、喜んでたのは絶対なんだけど、何て言ってたのかわからないんだよねー」

「英語かあ。翔太、英会話学校とか通うか?」

「んー……いいや。パティに教えてもらうよ」

 

 まあ、そのほうが楽しく覚えられるかもなと、納得する父。

 言葉の壁があっても、子供同士で遊んでいる分には、なんとなく意図は伝わるものだ。そんな中で自然と学ぶほうが、学校で勉強するよりも覚えが早いかもしれない。駅前留学も結局、講師と雑談をして英語に慣れるのがメインだと言うし。

 

「翔太がそれでいいならそうしよう。それで、今日はどんなことをして遊んだんだ?」

「えっとね、父さん言ってたでしょ、アメリカ人だったら、日本の昔のおもちゃとか喜ぶんじゃないかって。だからね……」

「ほら翔太、続きは食卓でね。用意、できてるわよ。あなたは手を洗ってきて」

 

 気づけば、玄関でついつい話し込んでいた2人。母が呆れた様子で食事にしようと促す。

 今日のメニューはなんだろう。漂う良い香りを味わいながら、靴を脱いで洗面所へと歩を進める。

 念願のマイホーム、温かい食事、そして愛する家族。ああ、俺は幸せものだと。そう、父が微笑んだ。

 

 

 

 

 

 一方、その頃のセージ村。

 

 この世界の夜は早く、そして暗い。

 電気式の街灯などもちろん存在せず、明かりをもたらす魔法具はとても高価。闇を照らすには火を用いるのが普通だが、その為の燃料も貴重なものだ。出来るだけ節約しなくてはならない。

 なので、王都や領都のいかがわしいお店など、暗くなってからが本番の店などはともかくとして。一般の民は日の出る前に起き出して、そして日の入りとともに床につく。

 

 それはこの村においてももちろん同じ。

 だがしかし、どうやら今日は夜更かしをしている者がいるようだ。パティの住む村長宅の居間には明かりが灯され、3人の男女が難しい顔を突き合わせていた。

 

「パティはもう寝たか?」

「ええ、昼間あんなに遊んだから疲れたんでしょうね。床につくなりぐっすりよ」

 

 2人はパティの父と母。その会話だけを聞くなら、どこにでもあるあたたかい家庭の何気ない会話。だが眉間に浮かぶ物憂げな皺が、それを見事に打ち消している。

 

「それで、どうするんだい、兄さん」

 

 3人目、王都帰りのセリムの表情もまた、似たようなものだ。

 彼らの悩みの種はもちろん、昼間ここへとやってきたパティのお友達のこと。

 友人ができたこと、その事自体は喜ばしい。けれど問題なのは、それが身分の大きく違う相手だということ。

 

「とりあえず、あの子の名前はクリス・ショーター。帝国の人間で、家がとんでもなく金持ちというのは間違いない」

 

 こんな馬鹿げたものを、ぽんと手土産に持ってくるくらいだからな。

 セリムはクッキー缶を見つめながら、ふうっと溜息を一つ。

 

「そしておそらくは、シューター家の関係者。姓が微妙に違うようだから、直系じゃなくて一門の者なのかもしれないけど。どちらにせよ、貴族だ」

 

 わかってはいたことだが、改めて告げられると頭が痛い。パティの父に刻まれた皺が深くなる。

 貴族と平民の友誼というものも、なくはない。例えば、幼いころに家の子と使用人の子が一緒に遊んでいて、成長してからも気安い関係になったとか。長年使えてくれた家令に対し、当主が友情めいたものを感じたりとか。

 

 けれど、そういう間柄になるのは一般に、平民とは言っても貴族に近しい位置にいる、裕福である程度の教育を受けたような者だけだ。

 開拓村の農民の子では、流石に釣り合わない。たとえ本人が良いと言っても、周囲から文句が来る。そうすれば、被害をうけるのはこちら側だ。

 

 流石に邪魔だからと、村ごと焼き払われるようなことはないと信じたい。昼間の堂々とした態度を見れば、民にも優しい良い貴族だと思える。

 万一、周囲で先走るような者がいたとしても。国が違うのだ、そう大事には出来ないだろう。いざともなれば、辺境伯様に庇護を願い出ることも出来る。

 

 けれど、何らかの問題が起きた場合、結局は傷つくのはパティなのだ。可愛い娘に、そんな辛い思いをさせたくはない。

 せめて、貴族の中でも騎士や男爵など、下位のものならまだ釣り合いが取れたのだが。シューター家に連なるものともなれば、それも難しい。

 

 3人は、昼間に見せつけられた、あの紋章を思い出し。そしてまた苦悩を深めた。

 

 

 

 

 

 村の大人たちに衝撃をもたらした、手土産のやり取りの後。翔太はさあ遊ぼうと、いそいそと村の外の草原へパティを連れ出す。そして得意げな表情で、父からのアドバイスをもとに選んだ、家から持ってきたとっておきを取り出した。

 じゃじゃーんと翔太が口でつけた効果音をバックに、大きめのビニール袋から現れた物。それは竹ひごで作られた骨組みに、丈夫な和紙を貼り付けた、日本では正月の遊びとしておなじみのもの。つまりは、凧だ。

 

 ちなみに、父の手作りである。

 去年、翔太と一緒に凧を作るイベントに参加し、満足行く出来上がりになったので家の壁に飾っていたもの。もちろん、今の家にも持ってきていたそれを、翔太が持ち出したのだ。

 仕事から帰ってきた父が、散々こき使われてぼろぼろになった凧を見つけ、しょっぱい涙を流すことになる。

 

 しかし、得意げな翔太とは裏腹に、パティにはそれが何だかわからない。

 そもそも、この国の人間で凧を見たことがあるものなどいない。もしかしたら世界の何処かの国にはあるのかもしれないが、王国にも帝国にも凧は存在しないのだ。

 

 今一つな反応に、翔太がむうっと口を曲げる。

 けど揚げてみたなら、きっと喜んでくれるさ。そう気を取り直すと、凧を地面に設置し、凧糸を握りしめ、勢い良く走り出した。

 

 凧は地面を転がった。

 

 あれー? もう一回だ。

 向きが悪かったのかな。慎重に立て直し、今度こそ。

 

 凧は転げ回った。

 

 ……むうう。

 パティがなんとも言えない顔でこっちを見てる。控えめな感じだけど、何か文句も言ってるみたい。

 実際には、よくわかんないけど、なんか手伝おうか? と言ってくれていたのだが、未だ言葉の壁は厚いのだ。

 

 おかしいな、父さんと揚げたときは上手くいったんだけどな。

 あのときは……って、そうだ! 父さんに、持っててもらったんだっ!

 

 ねえパティ、お願い。ちょっと、これ持っててもらえる?

 うん、そうそう。そうやって高く上げて、そのままね。

 それじゃ、行くよっ!

 

 翔太、全力で走り出すも、手を離さないパティに引っ張られるようにして転倒。

 涙目の翔太だが、これでパティを責めるのは酷というものだろう。凧が壊れなかったのが幸い。丈夫に作ってくれていた父に感謝。

 

 むううううう。どうしよう。難しい顔をして考え込む翔太。

 いたたまれない空気の中、悩むことしばし。その時、翔太に電流走る──!

 

「パティが持って走って」

 

 結論。他人任せ。

 でもまあ、自分で揚げたほうがきっと、感動もひとしおだろう。きっとこれでいい。いいに違いない。いいことにしておこう。

 

 さっきから何をしたいのかは分からないが、翔太が走っているのをパティも見ていた。そして紐を渡されたのだから、きっと走れば良いのだろう。

 そして翔太が凧を持ち、パティが走り出す。タイミング良く翔太は手を離し、そして。

 

「揚がったっ! 見て、揚がったよ、パティっ!!」

 

 叫ぶ翔太を振り返って見れば、目に入るのは、浮かび上がった凧。

 そしてさらに、凧は風を掴みとると。ぐんぐん、天高くへと登っていった。

 

 驚きにまんまるの目。あっけにとられてぽかんと開いた口。そんなパティの顔が見る間に、眩しく輝いていく。

 後はもう、笑顔とはしゃぎ声しかない。パティの夕食の時間になるまで、2人は凧を手に、草原を走り回り、転げ回り。そして、笑いあったのだった。

 

 

 

 

 

「あれは、魔法具か何かなのかしらね」

 

 そう、母が言う。3人は貴族の子に何かあっては困ると、少し離れたところから子ども達の様子を見守っていた。そして、やはり見たこともない空飛ぶ道具に仰天したのだ。

 

「……わからん。俺にゃ魔法のことなんてわからんし、あれが子供のおもちゃなのか、それとも高価な何かなのか、それすらわからん」

「帝国のものなのか、もっと遠方から伝わったものなのか。少なくとも、王都でも見たことはなかったよ。それよりも……」

 

 あれの正体も気にはなるが、そんなの些細なことだ。

 重要なのは、あれに書かれていた紋章。それこそが、問題。

 

 翔太の父が凧を制作した際、そこには絵柄が入れられた。

 特にこれと言って意味のあるものではない、なんとなく和凧なのだから和風なのがいんじゃないかと探し、ネットで見つけた絵。素人でもこれならなんとかなると選んだ、そう複雑なものでもない。

 どこかの家の家紋らしい、2つの弓が交差した図案だ。

 

 日本ではその程度の、特に意味のないもの。だがその絵は、この場においては全く違う意味を持った。

 かのシューター家、その始祖は超絶的な弓の技量を持って貴族に取り立てられたという。

 故に、弓とはかの家の代名詞でもある。そしてその紋章にもまた、描かれているのだ。意匠化された、弓が。

 

「あれはやっぱり、シューター家の紋章を簡略化したものだと思う。かの一門に連なる証拠、って訳だ」

 

 貴族の紋章を勝手に使うことは、重罪に当たる。あそこまで簡略化されていれば、ただ偶然似ただけだと強弁することも出来るかもしれないが、目をつけられることに違いはない。わざわざそんなことをするメリットなど、ないのだ。

 

「もしかしたらあの道具は、戦場で使うものなのかもしれない。一族の紋章を空高くへと掲げることで、戦意の高揚をはかれるんじゃないかな。簡略化されているのも、遠目でもわかりやすくするためだと考えれば、理解できる」

 

 セリムのその言葉に、また頭を悩ませる。

 そして同時に、悩ませたところで意味もない。それがわかっているからこそ尚、父は苦悩する。

 どうせ、いくら厄介に思ったところで、追い返すことなど出来ないのだ。お貴族様に対して邪魔だから帰れなんて、言ってしまったら後がどうなるか。くわばらくわばら。

 

「結局、俺達にゃどうすることもできないか。とりあえず、あの子が来たら相手をするのが、パティの一番の仕事にする。それと、何か問題が起きたら、領主様の庇護を求めよう」

 

 長々と話し合ったが、平民に貴族をどうこうにできる方法など結局、ほとんど何もないのだ。

 父は長い溜息をつくと、今日はもう寝るかと、場を閉めようとする。

 

「でも、さ」

 

 と、何か思いついたように、母が声を上げた。

 

「そう悪い方にばかり考えなくてもいいんじゃないかい? もし、うまいこと妾にでもしてもらえたならさ、あの子の将来は安泰だよ」

 

 いや、待て。それはそうかもしれないが、でも待て。

 

「いやいやいやいや、まだあの子は9歳だぞ。嫁とか妾とか、そんな話は早すぎる」

「何も今すぐってわけじゃないでしょ。それに、あっという間だよ。女の子が大きくなるのなんてさ」

「なにをいう、パティは俺がずっと面倒を見てやるっ!」

 

 ふんすと、鼻息荒く父が言う。

 それを生暖かい目で見る、他の2人。

 

 この父は、パティを溺愛しすぎだ。

 まあ、わからなくはない。本来、働き手のためにも子沢山が普通の農村にもかかわらず、一人っ子のパティなのだ。その分、大事に思っているのだろう。

 

 パティを産んだ後の肥立ちが悪く、母は一命はとりとめたものの、次の子を産めない体になってしまった。それでもなんとかやっていけたのは、豊かなこの領土に住んでいたから。そして何より、村の皆が色々と手助けをしてくれたからからだ。

 その恩を返すため、父は村分けの際に、この地に移るのを立候補した。そんな経緯がある。

 

 もちろん、母もパティには幸せになって欲しい。

 その形の一つとして、身分違い故に妾ではあるが、幼馴染と一緒になるというのは悪くないようにも思う。

 

 まあ、どうなるかは、これから先の2人次第だろう。

 出来得ることなら、面倒な身分とか権力とか関係なく、仲良くやっていってくれたらと、願わずにはいられない。

 

「パティは、絶対に嫁にはやらんっ!」

 

 叫ぶ父。

 馬鹿なこと言ってないで今日はもう寝るよと、その後ろ頭をひっぱたく母だった。



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2章
7話 遊べない日も時にはあります。


 ショーターが来ない。

 朝からずっと待ってるのに、パティを訪ねてきてくれない。

 

 花畑まで行ってみても、森まで足を延ばしてみても、どこにもいない。

 どうしたのかな? 今日は来れないのかな? なにか、あったのかな?

 ……もしかして私、怒らせるようなこと、しちゃったのかな?

 思い悩むパティに、答えを返してくれる人はいない。

 今の彼女に出来ることはただ、じっと待つことのみだった。

 

 

 

 

 

 初めてあった日は、草の引っ張りっこをして遊んだ。

 何かコツがあるのか、パティの葉ばかりがブチッとちぎれるばかりで悔しかったけど。でも、負けたら飛んでくる虫除け花を避けるのは、妙にうまくなった。かわしたからと油断をしないのがコツだ。たまに連続攻撃が来るので。

 何度目かの勝負の後、ようやくパティが勝った時。パティの目が、キラリと光る。これまでの恨みとばかりに、籠一杯に摘んでいた花を、ショーターの頭の上から降らしてやった。目を押さえて転げ回る姿を見るともう、おかしくておかしくて。勢い良く放り投げた花がこっちにも飛んできて、自分の目まで痛くなったけど。それすらも何だか、楽しくて楽しくて。お腹が痛くなるくらい、思いっきり大笑いしたっけ。

 

 次の日も、彼は来てくれた。

 持ってきてくれた遊び道具は、パティの初めて見るもの。長い紐の付いた、四角い何か。ショーターはその紐を引っ張って、地面に転がせて遊んでいた。でもそれ、楽しいの?

 引っ張っては転がして、引っ張っては転がして。引っ張っては、転んで。正直、ちょっと微妙。でも、一生懸命な彼を見ているだけでも、それなりに面白いかな。

 でもそんな気持ちも、パティの番になったときには、あっという間に吹き飛んだ。ショーターの時は転がるだけだったのに、パティが引っ張ったときにはそれは、鳥のように空に舞い上がったのだ。

 すごいっ! びっくり!! 感動っ!!!

 それからはもう、ずっと最高に楽しいまま。その日は、2人ともくたくたになるまで走り回って、転げ回って、遊び回った。

 

 次の日も、そのまた次の日も、毎日毎日。彼は、パティを誘いに来てくれた。

 紐を使って放り投げるようにくるくる回す木のおもちゃとか、信じられないくらいに真ん丸でよく弾む球とか。ショーターの持ってくる物はどれも見たことがないものばかりで、とても珍しくてすごく面白い。

 

 一番びっくりしたのは、小さなガラス窓の中に世界が詰まった、魔法の道具。窓の中では、剣を手にした逞しい戦士が、竜と戦っていた。しかもどうやらその戦士は、ショーターが操っているらしい。

 もう不思議すぎて訳が分からなくて、そしてなんだか怖くて仕方なくて。自分でやるなんてとんでもない。ショーターの背に隠れるようにして、こっそり見ていることしかできなかった。

 それだというのに、どうしても目だけは離せなくて、気がつけば一生懸命に戦士を応援していたりして。ついに竜を打ち倒したときには、大声で歓声を上げてしまったっけ。

 

 毎日が、夢のような時間だった。

 一緒に遊ぶ友達がいるというだけで、世界がこんなにも変わってしまうなんて。

 もちろん、パティだけではなく、ショーターもとても楽しそうにしていた。

 それが何より、嬉しかった。

 

 

 

 それなのに。

 今日は、彼が来ない。

 

 

 

 でも本当は、なんとなくそんな気がしていた。

 いつもショーターは帰るときに、手を振って「じゃあね、また明日」って言ってくれる。彼の使う言葉は、少しづつだけどわかるようになってきている。これは、また遊ぼうねって言う意味。多分。

 

 でも、昨日は違った。

 ちょっと悲しそうな顔をして、聞いたことのない言葉をしゃべっていた。あれは、何ていう意味だったんだろう。

 さようならって、言う意味なのかな。もう来れないって、言ってたのかな。もしかして、国に帰っちゃったのかな。

 ……もう、会えないの、かな。

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 

「って、あああああああああああああああっ! もうううううううううううううううううううっ!!」

 

 なによなによ、私はっ!

 情けないぞ。かっこ悪いぞ。何をうじうじしてるのよ、パティ!

 

 相手は、帝国のお貴族様。私は開拓村の農民の子。釣り合わないって、父さんにも言われたじゃない。

 身分が違う。国が違う。言葉が違う。住む世界が違う。何もかもが、違う。普通だったら、友達になんてなれない。知り合えることすらないのがあたりまえ。

 そんなこと、わかってた。今が特別なだけなんだって、私だってわかってた。

 

 

 

 ……でも、それが。

 それが、どうしたっていうのよっ!!

 

 

 

 身分が違う? 偉くなればいいじゃない。

 国が違う? 帝国に移住すればいいんでしょ。

 言葉が違う? 覚えればいいだけのこと。

 住む世界が違う? この世界の、一緒の空の下にいるんだからっ!!

 

 決めた。

 ショーターが行っちゃったなら、もうこの村に来ないんだったら、私が追いかける。

 言葉を覚えて。偉くなって。帝国に行って。もう一度、会って。

 それで、こう言ってやるんだ。

 

「私の名前はパティ。クリス・ショーターさん、私達、友達になりましょう」

 

 って。

 

 

 

 下を向いていた顔を上げる。

 目尻にたまった涙をゴシゴシ拭い、不敵な笑みを作ってみせる。

 ただなんとなく毎日を過ごしていた女の子は、もういない。セージ村のパティ、9歳。ここに覚醒。

 

 まずは、やらなくちゃいけないことを、やらないと。出来ることから、しっかりと。

 ここのところは毎日、遊んでばかりだった。でも、それじゃ駄目。

 

 まずは、村の仕事から。

 チビ達の面倒は母さんに押し付けちゃってた。虫除けの花だって全然、摘んでない。これじゃただの無駄飯ぐらいだ。こんなんじゃきっと、ショーターと友達になる資格なんて、ない。

 

 それから、字を覚えよう。

 ショーターが置いていってくれた、本がある。大きく絵が描いてあって、その横に少し字が書いてある本。きっとあれは、字を覚えるための本なんだ。他にも何冊も、似たようなものから、もっと字がいっぱいのものまで。

 本なんてとてもとても高いものを、気軽にプレゼントされても困るって思ってた。押し切られて受け取っちゃったけど、もし言葉が通じてたら、きっと断って返していたと思う。でも、今となってはとても助かる。あれのおかげで、私は一歩を踏み出せる。

 

 さあ、やるぞ。

 明日からじゃない、今日からだ。今からだ。

 パティは力強く頷き、えいえいおーっと、鬨の声。

 

 泣いていた女の子はもう、どこにもいない。

 パティは心に決意を込め、しっかりとした足取りで村へと戻っていった。

 

 

 

 ……そうだ。

 次に会った時、ショーターじゃなくて、クリスって呼んでみようかな。

 友達だもんね。名前で呼んだっていいよね。

 

 そう、ちょっと楽しげに、企みごとを考えながら。

 

 

 

 

 

 ところで、その頃の翔太は。

 

「新しく2年生になった皆さん。今日からみんなと一緒に勉強することになった、転校生を紹介しますね」

「栗栖翔太ですっ! よろしくお願いしますっ!!」

 

 学校が始まっていた。



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8話 それぞれの毎日を過ごしています。

 小学校2年生の生活は忙しい。そして、苦しい。

 

 起床時間は午前7時。まだ草木も眠る時間だというのに容赦なく、けたたましい目覚まし時計のベルが鳴り響く。

 そんなもの、止めてしまえばいいじゃない。そう考えるのは浅はかであると言わざるをえない。ベルを止めてもまだ布団の中でぬくぬくとしてなどいようものなら。その時には、角の生えた母の手で、えいやっと布団をひっぺがされる羽目に陥るのだ。恐ろしい。

 

 どうにか布団から這い出したなら、歯磨きが待っている。時計を睨みつけながら5分以上は磨き続けないと、容赦なくやり直しの沙汰がくだされる。試練だ。

 保育園時代には、恐怖の磨き残しチェックが行われてすらいた。もう、あんな暗黒時代には戻りたくない。今という幸せを噛み締めながら、丁寧に磨く。それが自分にできる、わずかばかりの抵抗だ。

 

 次は朝食だ。もちろん、食べないという選択は許されない。

 炊きたてご飯にお味噌汁、それに海苔や納豆、焼き魚といったおかずが3品程度。それを残さずにたいらげる。例え、嫌いな物が並んでいたとしても。

 考えてもみたまえ。もし残しでもしたら、どのような目に合わされるかを。わかっただろう? そう、そのときには夕飯のおかずがピーマンと椎茸づくしにされてしまうのだ。

 故に、出来ることは一つ。全てを諦め、お腹いっぱいになるまで食事を詰め込む。それだけだ。

 

 責め苦はこれで終わりではない。ゆっくりと朝の情報番組を見ることも許されず、家から放り出される。そうだ、学校だ。

 学校までの道程は長く険しい。およそ10分という果てしない時間を、ただひたすら歩き続ける。

 途中で出会う、出来たばかりの友達とのジャンケン勝負も待っている。負けた場合には、相手のランドセルまでもを運ばなければならないのだ。

 そしてこの旅の終わり、ついに学校へと辿り着くのである。

 

 

 

 あ、父さんは翔太が起きるよりもずっと前に、既に出勤しています。

 頑張れ、日本のサラリーマン。

 

 

 

 まあそんなこんなで、学校においても。授業で当てられたりとか、中休みのドッヂボールとか、給食での牛乳一気飲み勝負とか、昼休みのサッカーとか。翔太は過酷な戦いを繰り返している。

 放課後は放課後で、友達の家に集合してゲーム大会とか、地域の集会場でテーブルゲームやボードゲームに興じたりとか、課せられた使命を全うせんと努めている。

 

 物怖じとか内向的とかいう言葉を、母の胎内に忘れてきた翔太である。転校した初めの週には既に、新しい学校に馴染んでいた。馴染みまくっていた。

 そんな訳なので、翔太はこの春から始まった新生活を、全力で楽しんでいた。楽しんでるって言っちゃったよ、まあいいか。

 

 そしてその結果、月曜日に新学期が始まってから今日の金曜日まで、一度もパティのところへとは行けていない。

 パティのことが嫌いになったとか、そういうことではもちろん、ない。単に、時間が足りなかったのだ。

 

 パティの家の門限は早い。そう、翔太は認識している。

 翔太が5時には帰ってきなさいと言われているのに対し、パティはそれよりも前。おやつの時間が過ぎた頃にはもう、家に帰らないとという素振りを見せるのである。

 これでは、学校が終わってからパティの家に行ったとしても、遊ぶ時間など殆ど無いのだ。

 

 もちろんこれは、太陽が完全に沈んだのならもう寝る時間という、向こうの世界の事情に即しているわけなのであるが。そんなこと、翔太は知る由もない。

 

 でも。

 明日は、違う。

 

 翔太は自分の部屋の、壁にかけられたカレンダーを見る。今日は金曜日。そして明日は、土曜日。学校は休みだ。

 パティ、明日は暇かな? 時間は開いてるかな? 何処かに出かける用事とかないかな?

 

 わかんないけど、とりあえず。朝ごはんを食べたら、会いに行ってみよう。

 遊べるといいな。何をして遊ぼうかな。こっそり父さんのゲーム機を借りて持って行って、通信対戦とかしてみようかな。狩ゲーはちょっと怖がっていたから、可愛らしいゲームのほうがいいかも。何かいいのあったかな?

 パティの青く透明でまっすぐな瞳を思い出し、翔太が笑う。

 

 時計の針が指すのは午後9時、そろそろ良い子の寝る時間だ。既に布団に入った翔太のまぶたが、ゆっくりと閉ざされていく。

 ああ、今日も楽しかった。明日はもっと楽しいといいな。

 それじゃあ、おやすみなさい。いい夢が見られますように。

 

 

 

 あ、父さんはまだ家に帰ってこれていません。

 負けるな、日本のサラリーマン。

 

 

 

 

 

 明くる日のセージ村。

 パティの目覚めは早い。空の白み始めた頃には既に目を覚まし、朝一の仕事に取り掛かる。

 

 村の共用で使っている井戸から水を汲み、家まで運ぶ。桶になみなみと入った水は、それは重たい。えっちらおっちらと台所の水瓶まで辿り着き、水を移す。

 水瓶が一杯になるまで、それを何度も繰り返さなくてはならない。水汲みとは重労働なのだ。

 

 もっと大きい桶を使えば。そうすれば、運ぶ回数が少なくてすむ。けれどその代わり当然、運ぶ作業がより辛くなる。転んで桶をひっくり返してしまえば結局、より疲れるだけだ。

 急がば回れ。パティは自分の運べる無理のない範囲での作業が、最終的には一番早くて効率もいいということを知っている。経験が、人を成長させるのだ。

 

 水汲みの後は、母の朝食の支度を手伝う。

 火を使うのは母の仕事だが、それ以外にもやることはたくさんある。台所での作業に限ってであれば刃物を使う許可を得ているので、野菜の皮むきなどの下拵えを任されている。

 むいた皮も、もちろん大切なもの。それを捨てるなんてとんでもない。別の料理に使ったり、人が食べるには厳しいところでも、村で飼っている山羊なら喜んで食べてくれる。

 

 畑作業をしていた男衆が戻り朝食をともにした後は、パティの一番の仕事が待っている。子ども達を一つの家に集めて、まとめて面倒を見るのだ。

 泣く子はあやし、漏らした子のおしめを替え、喧嘩する子は引き離す。子供の相手とは、一見すると楽な仕事と思えるが、実はとても大変。あれやこれやと息をつく暇もない。

 でもそのお陰で、それぞれの母親たちはこの間に、家の仕事をすることが出来る。

 

 昼食の時間が近づけば、子ども達をそれぞれの家に帰す。その後、虫除け花との勝負だ。

 朝のうちに昼ごはんの分まで仕込んでしまうので、心置きなく戦場へ向かうことができる。畑の野菜が虫にどれくらいやられてしまうか、それはこの戦いにかかっている。決して気は抜けない。

 

 花を摘んだら念入りに手を洗い、家族で昼ごはん。

 食べた後は、森に行って草の実を摘んだり、落ちた木の実を拾ったり、収穫の時期には畑の手伝いをしたり、季節によって色々だ。

 このように、パティの毎日は中々に忙しく、慌ただしい。

 翔太は、パティの爪の垢でも煎じて飲んでみればいいと思う。

 

 でも最近、パティのこのスケジュールに変化が加わった。

 朝ごはんの後から、昼ごはんまでの間。まだ日差しが優しい、屋外での作業がしやすい午前中。家族や村の人との交渉の結果、この時間をパティの自由時間として勝ち取ったのだ。

 その分、子ども達の面倒を見るのが午後になったりとか、仕事時間の変更があった。慣れるまで大変かもしれないけど、頑張る。

 

 ちなみに、交渉はすんなりと終わった。パティはまだ子供なのだから、仕事ばかりじゃなくて遊ぶ時間も作ってあげたほうがいいんじゃないかと。前々から、そういう意見が村人たちによって出されていたからだ。

 けれどパティ自身が、別にいいよと、それを断っていたのだ。だって、自由時間なんてもらっても、別にすることなかったし。

 

 でも、今のパティにはやることがある。

 やらねばならぬことが、ある。

 

 

 

「えっと、これは馬ね。『う、ま』っと」

 

 パティは家の前に座り込むと、木の棒で地面に何やら書き記す。

 それはこの村の人間が見るなら、ぐにゃぐにゃとした曲線を組み合わせた出来損ないの記号としか思えない。けれどもちろん、そうじゃない。

 もし翔太がこの光景を見たなら、こう言うだろう。パティ、すごいね。覚え始めたばかりなのに上手だね、って。

 そう、これは文字。日本語の、ひらがなだった。

 

「これは、牛かな? 『う、し』っと」

 

 翔太からもらった本のページを開いて、そこに描かれた絵を判別。そして絵の横に書かれた文字を、地面に書き書き。

 本当は、字を書くための道具が欲しいところ。理想は羊皮紙と羽ペン。もちろん、そんな贅沢ができるわけがないけど。街でも、きちんとした契約とかの文書を残す時くらいにしか羊皮紙は使わない。というか、使えない。高すぎて。

 それじゃ普通はどうしてるのか。セリム叔父さんが言うには、薄く削った木の板を、尖った金属の棒で削って書き留めるそうだ。

 

 子供が字を覚えるために使われるのは、主に粘土板。書いてもならせば何度でも使えるので便利。これもそこそこ高いそうだけど、子供に字を覚えさせることが必要な家庭はだいたい裕福なので、問題ないそう。うちの村はそれなりには暮らせている村だけど、現金を手に入れる手段があまりないので、買うのはちょっと厳しいかもしれない。

 

 でも、地面と木の棒だったらいくらでもあるからね。頑張るよ。

 目的を定めたパティの心は、これくらいのことじゃ揺るがないのだ。

 

 なお、パティが手にした本を見たセリムは、どこか遠くを見る目で現実から逃げ出していた。

 だって、本だよ、本。ただでさえ高い羊皮紙を束ねて、一文字一文字を手書きで記さなくてはならない本とは、とんでもなく高価なものなのだ。

 それを何冊も……って、ちょっと待て。これ羊皮紙じゃ、ない? なんだこれ、正体がわからない。こんな材質の紙なんて、見たことも聞いたこともない。

 

 あっ! あの金属の箱を包んでいたのは、これかっ。あれは紙だったのかっ!

 帝国とは、こんなものを作り出せるほどに文化が進んでいる地なのだろうか。

 それに、この精巧な絵。同じ大きさ、同じ書き方で全く揺るがない文字。どちらも、とんでもない技術の結晶だ。

 そして何より、これを何冊もぽんと差し出すシューター家の財力。……ああ、空が、綺麗だなあ。

 とまあ、こんな感じである。

 

 まあ、空の高さに思いを馳せているセリムのことは置いておき、話をパティに戻そう。

 

 絵を見ては、ひらがなを記す。それを繰り返して、まずは単語を覚えていこう。

 馬はすぐわかった。温泉街へと向かう馬車を何度も見たことがあるから。

 牛も問題ない。セージ村にはいないけど、前の村では畑を頑張って耕してくれていたから知ってる。

 これは多分、狼。近くではっきりと見たことはないけど、たしかこんな感じだった。『い、ぬ』っと。

 

 問題なのが、この本にはパティの知らない生き物も描かれているということ。

 多分、魔獣の仲間か何かだと思う。だって、こんなに首の長い『きりん』と書かれた動物や、顔の前にもう一本足が生えた『ぞう』なんて生き物、魔力に汚染された魔獣としか思えないもの。

 帝国じゃ、こんなのが普通にいるのかな。怖い。帝国、怖い。

 

 おっと、つい気持ちが横にそれた。集中、集中っと。

 これは鹿。『しか』ね。

 これは、熊かな? 『くま』と。

 これは、猫。前の村で穀物倉の守護神だった。『ぬこ』っと。

 

「違うよ、パティ。そこは『ぬこ』じゃなくて、『ねこ』だよ」

「わひゅああっ!!」

 

 びっくりした。

 急に、顔のすぐ後ろから声をかけられた。目の前の文字に集中しすぎて、またしても周囲の警戒を怠ってしまっていた。

 まったく、これじゃあ戦士だなんてとても……。

 

 ってっ! ちょっと待ってっ!!

 

「ショーターっ!!」

 

 ぐるんと、体ごと勢い良く振り返ると。

 目の前には、会いたかった顔。もう会えないかもと、思っていた友だち。

 

 「でもパティはすごいね。覚え始めたばかりなのに、とっても上手だね」

 

 クリス・ショーターが、ニコニコと。

 前に見たときと変わらぬ笑顔で、立っていた。

 

「ショーターああああっ!!」

 

 それを心が認識した時、パティの体は宙を舞っていた。

 いつぞやのように、ドシンと。二人の体が重なるように、地面に転がる。

 

「いたたた。パティは感激屋さんだなあ」

 

 まだ、何て言ってるかはわからない。

 けど、自分に会いに来てくれたってことはわかる。自分のことを、優しい気持ちで思ってくれていることは、わかる。

 

「一週間ぶりだね、パティ。今日も一緒に遊ばない?」

 

 そう、笑う。ショーターのその顔は、何だかとても嬉しそうで。

 もちろん、パティの顔も輝く笑顔。

 だけどちょっとだけ、眼尻には涙が滲んで。お日様の光に照らされて、キラキラと輝いていた。



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9話 人が成長する理由にも色々あります。

 何でショーターがここにいるの?

 てっきり、帝国に帰ったと思ってたんだけど?

 違うんだったら、何で会いに来てくれなかったの?

 

 パティの頭の中をぐるぐると、はてなマークが飛び回る。

 聞いてみたい。尋ねてみたい。問い質したい。絞め上げて白状させたい。おっと、最後のはちょっと問題だ。

 

 でも、心の中に湧き上がるものは、それだけじゃない。

 疑問符なんか蹴散らしてしまう、もっと別の気持ち。もっと大きな衝動。

 

 嬉しい。

 ショーターが会いに来てくれて、嬉しい。

 また彼の顔を見ることが出来て、嬉しくて嬉しくてたまらない。

 ああもう。この気持を表すのに、嬉しいとしか言えないなんて。言葉の表現の仕方がわからない、勉強を知らない自分が悔しい。

 

 そして、それ以上に。そんな簡単な言葉ですら伝えることの出来ない、今の自分がとてもとても、もどかしい。

 やっぱり、絶対に覚えてみせるよ、帝国語。

 

 でも。きっと、言葉になんてしなくても。今のこの気持は、ちゃんと彼に伝わってる。

 だって、ショーターの顔だって、こんなに楽しそうな笑顔なんだから。

 

 

 

 ……そうだ。

 今なら、言えるかな。次に会えた時には家名じゃなくて、名前で呼んでみようって思ってたんだ。

 だって。友だち、なんだから。

 

「クリ、ス」

「……パティ?」

 

 地面に転がる翔太に、馬乗りになった体勢のパティ。そこからさらに身を乗り出すように、ぐぐっと顔を近づけて。勇気を振り絞り、そう、彼の名前を呼んでみた。

 

「クリスっ!」

 

 大切なものを、愛おしいものを呼ぶように。

 心を込めて、気持ちを込めて言の葉にのせる、大事な大事な友だちの名前。

 少しだけ不安気なパティの顔。拒絶されたらどうしよう。でも、大丈夫だよね。だって、クリスは私の大切な……。

 

「えっと、パティ、怒ってる?」

 

 あれ? なんか、思ってたのと違う。パティって、自分の名前を呼び返してくれると期待していたのに。

 けれど彼の顔は、どこか困っているかのようで。

 

「しばらく来れなかったから、怒っちゃったかな? ごめんね、でも学校が始まっちゃったから、しかたなかったんだよー」

 

 まるで、拗ねているかのようで。

 そして、まるで懇願しているかのように、こんなことを言ったのだ。

 

「ねえ、苗字じゃなくてさ、今まで通り翔太って呼んでよ。ほら、翔太って。ねえパティ、翔太だってば」

 

 ショーター、ショーター、ショーターと。そう、連呼されてしまった。

 もしかしてそれは、名前でなんて呼ばないでくれと。そういう、意味?

 クリスなんて親しげに呼ばれるほど仲がいいわけじゃないよって、そう言いたい訳?

 なに、友だちだって思ってたのは、私の方だけだったって、こと?

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 

 パティはのろのろと。翔太の上から降りて、ゆっくりと立ち上がる。

 ぱんぱんと、服についた土を払う動作は、どこか作り物めいてぎこちなくて。

 翔太からは見えないようにと横に逸らされて、俯いた顔は影になって表情がよくわからなくて。

 固く握りしめた拳が、何かを抑えるかのようにプルプルと震えていて。

 

 あ、やっぱりこれ、怒ってる。すごく怒ってる。

 怒った女の子は、怖い。とても恐ろしい。まだ7歳の翔太でも、それは知っている。父さんだって、母さんのご機嫌を損ねたときには、部屋の隅でガタガタ震える心の準備はOKなのだ。

 だからこんな時、男の側に出来ることなんて、一つしかない。例え、自分には何の非がなかったとしても、それが一番の解決策なのだ。一般的には。

 

「ごめん、パティ。学校休みの時はできるだけ遊びに来るからさ、だから許してよ」

 

 そう言って、ごめんなさいと頭を下げる。そう、とりあえず、謝っとけ。それが男の処世術。

 けれど残念ながら、この場合。それは悪手にしかならないぞ、翔太。

 なぜなら、パティはからはこう見えてしまったのだ。こう、思ってしまったのだ。頭を下げてまでも、名前で呼ばれるのは勘弁して欲しいのだと。

 

 しばし、沈黙が場を支配する。

 俯いたまま動かないパティ。翔太は腰は曲げたままに、顔だけをそっと上げて彼女の様子をうかがってみる。うん、どうしよう、これ。

 居た堪れない空気。無言のパティ。頭は下げたままの翔太。そんな2人の姿を見てアワアワとする周りの大人達。

 

 そんな混沌とした状況の中、ついにパティが動く。

 ゆっくりと、顔を上げる。日差しを受けて影になっていた表情が、段々とはっきりしてくる。

 そして、翔太は見た。そこには、鬼がいた。

 

「ショオオオオオオオオタアアアアアアアアアっ!!!」

 

 パティは勢い良く右手を振り上げると、翔太のことをズバッと指差し。そして彼の名を叫んだ。威勢よく。

 空気が震えた。翔太も震えた。大人たちだって震えた。

 

 あーもうっ! あったまきたっ!!

 いいわよいいわよ。ショーターがその気なら、こっちにだって考えがあるわよっ!!

 

 絶対に。

 認めさせてやる。

 

 私のことを甘く見たのが運の尽きってもんよ。本気の私を見せてやるんだから。

 うんと勉強して、うんと賢くなって、ショーターの横に立つのにもふさわしいようになってやる。

 

 そしてそのときには、絶対に言わせてみせるんだ。

 家名なんかじゃなくて、名前で呼んで欲しいってねっ!!

 

 既にしていた決意を、より強固なものへと固め直したパティ。確固たるその誓いは崩れない。もう誰にも攻め落とせない。

 まるで難攻不落の城塞に、対軍兵器を満載にしたかのよう。しかもそれが動く。移動要塞パティだ。

 

 パティは、飛びついた際に放り投げてしまっていた本を拾う。そしてその最初のページを開いて、翔太へ向けてずいっと突きつけた。

 

「んっ!」

 

 そこに描かれた絵を指差し、翔太のことを睨みつける。

 座った目の色が氷点下。

 

「えっと、パティ?」

「んっ!!」

「その絵? 馬、だけど……?」

 

 なんとかご機嫌を取ろうと、愛想笑いに必死の翔太。

 返されるパティの言葉は、しかし。期待した許すような雰囲気のものではなく。

 

「うっ! まっ!!」

 

 力強く。というか、怒鳴るように、復唱。スタッカートが素晴らしい。

 

「そ、そうそうっ! パティ上手だねっ! パティは馬が好きなの?」

「んっ!!」

 

 一生懸命に褒めてはみても、まったくもって取り付く島もない。

 ペラリとページがめくられ、次の絵が示される。

 

「えっと、牛だね」

「うっ! しっ!!」

 

 まるで脅しているかのように。早く次の文字を読みやがれと、翔太に迫る。

 えっと、どうしよう。せっかく父さんのゲーム機も持ってきたんだけど。ゲームも色々あるんだけど。

 えーっと、パティ。どうかな、ゲーム。カバンから、ちらりと出して見せてみたけど。じっとりとした目を向けた後、フンと鼻であしらわれた。

 ああ、無理だこれ。今日はもう、日本語の勉強に付き合うしかないのかもしれない。

 

 でもまあ、いいか。これでパティの機嫌が治ってくれるなら。

 僕だって、怒ったパティじゃなくて、楽しそうなパティのほうがずっと好きだしね。

 

「んっ!」

「ね、こ。これは猫だよ、パティ」

「ぬっ! こっ!!」

「だから、ねこだってばー」

 

 それに、パティとお話ができるようになるなら。

 それはきっと、とっても素敵なことに違いないんだ。

 だから、一生懸命覚えてね。僕もちゃんと手伝うから。あ、今度、僕にも英語を教えてくれたら嬉しいな。

 

 そんな事を思い、思わず顔に笑みが浮かんでしまう翔太。

 その様子に、つられて笑ってしまいそうになるパティ。それを頬を膨らませて怒っているのだぞとアピールすることで、なんとかごまかすのだった。

 

 

 

 こうして。

 学んでいるのだか、喧嘩しているのだか、それとも遊んでいるのだか。なんとも判別のつきにくい勉強会は、週末ごとに続けられることになった。

 

 家名なんかじゃなくて、名前で呼び合う関係になりたい。

 そのパティの願いは、とうの昔に。初めて会ったときからずっと、叶っていたのだと。

 それを彼女が知ることになるのは、もう少しだけ先の話。



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10話 勉強会とはいつの間にか脱線するものです。

「それじゃ、いってくるよ」

「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」

 

 愛する妻に見送られ、翔太の父が会社へと向かう。

 出掛けのキスは忘れない。結婚してもう10年になるが、今でも2人は新婚気分のラブラブバカップルだ。

 だが、それがいい。父は割と本気でそう思ってる。人生なんて結局、楽しんだ者が勝ちなのだ。

 

 家を出て数百メートルも歩けば、既に額から汗が染み出し始めてくる。

 まったく。時刻はまだ午前6時過ぎだというのに、今日も朝から暴力的な日差しだ。

 

 けれど、これでもまだまだ、この辺りの環境は優しい方。

 会社の近くは日中ともなると、まさに灼熱地獄。エアコンの排気とビルの照り返し、もわっとくる湿気で不快指数は天井知らず。歩いている人がぽっくりと倒れても、全くおかしいところなどない。

 

 ぶっちゃけ、行きたくない。けれども、そういう訳にもいかないか。家族のために、父は稼がねばならぬのだ。

 彼はよしっと一つ気合を入れると、駅まで歩いて20分の道程を進み始めた。

 戦え、企業戦士お父さん。

 

 

 

 

 

 翔太とパティが出会い、友だちとなって、3ヶ月ばかりが経っただろうか。

 季節は、夏を迎えていた。

 

 移動要塞パティが顕現して以来、週末ごとの帝国語勉強会は順調に回数を重ねている。

 翔太が読み上げ、それをパティが復唱。さらにその文字を何度も何度も書き連ね、着実に自分のものとしていく。

 

 尚、最初のうちは棒で地面に書いていたのだが、流石にそれでは色々と不都合も出てくる。なので、途中から大学ノートと鉛筆が使用されることとなった。

 もちろん、提供元は翔太だ。これを目にしたセリムは、また遠い目をして、時の悠久さに思いをはせることになる。

 

 さて、肝心のパティの習熟度はいかがなものかといえば。彼女は、非常に優秀な生徒だった。

 意外に思えるかもしれない。翔太とのお馬鹿なやり取りを考えれば、それも仕方がない。

 

 だがしかし。はっきりと言ってしまえば、パティはとても頭の回転が早い。それこそ、天賦の才を持って生まれたと言っても過言ではないほどに。

 村の仕事の覚えも早い。例え失敗したとしても、何が悪かったのかを自分で考え、改善することが出来る。より良いやり方を、大人たちに提示することすら出来る。

 本来であればお世話を受ける側の年齢の頃から、生まれたばかりの子ども達の面倒を見てこれたのだ。判断力、学習能力、対応力といったものに秀でていなければ、中々出来ることではない。

 

 パティの不幸は、生まれた環境にあるといえるかもしれない。辺境の開拓村で暮らすのに、学問など必要とされないのだ。

 ましてや、女の子だ。いくら可能性を持つ子供であっても、そもそも学問を学ばせるという発想自体が出てこない。

 

 もし、パティが翔太の世界に生きていたなら。この世界でも、貴族の家に生まれていれば。せめて、男の子であったなら。

 既にその才能を見出され、相応の教育を与えられていたことだろう。

 

 けれど、不遇のままに終わる運命は、既に過去の話。パティの未来に、今は別の道が示されつつある。

 翔太との出会いによって、秘められたままで終わるはずだった彼女の才能に光が辺り、芽が出始めたのだ。

 

 とはいえ。今のパティに出来ることは、まだあまりない。

 せいぜいが、フンッと得意気に鼻を鳴らし、誇らしげに胸を反らし。

 

「すごいでしょ。もう、ひらがなは完璧よ」

 

 そう翔太へ、自慢げに宣言することくらい。

 反らした胸に膨らみが皆無なのは、見なかったことにしてあげて欲しい。まだまだ9歳。これからの成長にも十分以上に期待が出来るのだから。

 

 尚、それに答える翔太の言葉といえば。

 

「ほんとすごいよね、パティは。覚えるの早いよね。それじゃあ次は、カタカナだ」

 

 というもの。

 え? カタカナ? これで終わりじゃなかったの? と、軽く絶望するパティである。

 さらにその後には、恐怖の漢字が控えていることを、彼女はまだ知らない。

 頑張れ。先は長いぞ、パティ。

 

 とはいえ、だ。今のやり取りからも分かる通り、会話に関しても十分、意思の疎通が可能なレベルに達している。まだまだ知らない単語は多いとはいえ、日常的な会話ならば不都合な点は、既にない。

 繰り返そう。何気にパティは、天才だったのである。

 

 尚、天才の特徴の一つとしてよく挙げられるものに、何かに熱中すると周りが見えなくなるというのものがある。星を見ていて穴に落ちたりとか、そういうのだ。

 これもまた、パティには大いに当てはまる節がある。彼女を側で支える者は、色々と苦労を抱え込むことになりそうだ。それが一体、誰の役割になるのか。未来のことは、まだわからないけれど。それを楽しみながらこなしてくれそうな人材だったら、ここに一人いるようです。

 ウンウン言いながらカタカナを書きなぞり始めたパティを、翔太はニコニコと眺めているのだった。

 

 

 

 

 

「ところでさ、ショーター」

「ん? 何?」

 

 現在パティは、自分の家で勉強に励んでいる。教材としているのは、文部科学省検定済み、小学1年生用の教科書。とりあえず、国語と算数。

 読み書きと計算が出来るようになりたいというパティに、じゃあこれ貸してあげるよと、翔太が家から持ってきたもの。

 

 これが非常に面白い。パティの知的好奇心をくすぐりまくり、翔太そっちのけで没頭している。

 せっかく遊びに来たのにと、いじける翔太が少し哀れ。仕方がないので、彼もパティの隣で学校の宿題をしたり、彼女からの質問に答えたりして、時間を潰していた。

 

 聞かれて、答えて。また聞かれて、答えて。それを何度か繰り返し。

 いい加減に飽きが来ていた翔太だったが、ふと顔を上げたパティの次の質問に、少しばかり面食らう。

 

「この本を読み始めてからね、ずっと疑問に思ってたんだけど」

「またわかんないところがあった?」

「ううん、そうじゃなくて。……えっとね、もしかして翔太って。帝国の人間じゃ、なかったりするの?」

 

 そう。流石におかしいのだ。

 パティは今まで、本というものを見たことがなかった。大きな街などに行ったこともないし、もちろん帝国の文化もよく知らない。

 だから、そんなものなのかとも思ったのだが。それでも、どうしても湧き上がる疑問を抑えきれない。

 

 帝国って、こんなに文化が進んでいる国なの?

 

 隣り合った国だというのに、いくらなんでも王国と違い過ぎはしないだろうか?

 この教科書も、ノートも、鉛筆も。どれもおかしい、ありえない。こんなにも優れた道具を、本当に帝国は作り出せるの?

 ううん、これだけじゃない。ショーターの着ている服もそうだし、持ってくる玩具も。言葉だって、王国の言葉とこんなに違うものなの?

 わからない。どれもこれも、自分の常識でははかりきれない。

 新しいことを知れば知るほど、疑問がどんどんと溢れてくる。

 セリム叔父さんが言うからそのまま信じていたけれど、どうにも変な気がしてならないのだ。

 

 だから、思い切って聞いてみた。

 もしかしたら、聞いちゃいけないことなのかも。そんな不安も心をよぎったが、それでも疑問と好奇心を抑えきれなかった。

 

「なに言ってるの、パティ。違うってば」

 

 緊張に包まれるパティに対し、翔太はあっけらかんと爆弾を落とす。

 まさかという驚きと、やっぱりという納得と。あれやこれやと嵐吹きすさぶパティの心に、ここで更なる追い打ちが。

 

「だって帝国なんて、もう昔の国だし」

 

 なん……ですって?

 かつては覇をかけて相争った、大陸に君臨する双璧。王国と、帝国。

 その一方を、既に過去のものであると。既に終わった国なのだと。そう、ショーターは言い放った。

 

 ありえない。帝国に対してそんな大言を放てる国なんて、存在するのだろうか?

 あ、でも。ショーターが持ってくる数々の道具、あれらがその国では当たり前のものだというのなら。そんなすごい国なら、確かに。その言葉も、間違ってはいないのかもしれない。

 

 驚きに目を見開くパティ。

 しかし翔太は、何を当たり前のことを言っているんだと、不思議そうな顔。

 

 だって、大日本帝国って、もうないんでしょ?

 昔は日本のことをそう呼んでいたみたいだけど、今はもう違うって。父さんからそう教えてもらったよ。

 何を変なこと言ってるんだろうね、パティは。

 

「それじゃっ! それじゃあショーターは、どこの国の人なの?」

「えー? 日本に決まってるじゃん」

 

 ニホン。聞いたこともない。どこか遠くの国なのかしら。きっとそうなのね。

 ……世界って、広いのね。王国と帝国よりも、もっと優れた国があるんだもの。きっと、私の知らない国は、まだまだたくさんあるんでしょうね。

 知りたい。もっと色々なことを、知ってみたい。

 

 パティ、また一段、階段を登る。

 彼女の向上心が、とどまることを知らない。

 

 そして、ふと考えた。あ、もしかして。

 ショーターがずっと温泉街で暮らしてるのは、辺境伯様がニホンから人を呼んだからとか? ニホンの優れた技術を、温泉街をつくるのに役立ててもらっているとか?

 うん、何だか有り得そうな話だ。セリム叔父さんなら何か知って……。

 

 パティがちらりと視線を向けると、2人の会話を聞いていたセリムはといえば、部屋の隅でガタガタ震えていた。

 うん、だめだあれ。今は役に立ちそうもない。っていうか良く考えたら、もともと全然役に立ってなかった。

 

 とりあえず。

 きっと私は。ううん、とても私は、恵まれている。こんなにすごい文化を持った国から来た、ショーターと出会えたなんて。

 そして、そんな彼と、友だちになれたなんて。

 ……友だち……友だち……。

 

「ねえ、ショーター」

「何?」

「私たち、友だち、だよね?」

 

 ちょっとだけ、不安になった。

 だってショーターは、こんなにすごい国の生まれなのだ。それ相応の教育を、間違いなく受けてきているのだ。

 それなのに、私でいいんだろうか、って。

 でも。

 

「当たり前じゃん。さっきから変だよ、パティ」

「ごめんなさい。……ううん、ありがとうっ! ショーターっ!!」

 

 パティは、にこりと。顔に大輪の花を咲かせると、隣りに座る翔太にぎゅっと、抱きついた。

 うん、変に弱気になんて、なっちゃ駄目。自分じゃ釣り合わないとか、思っちゃいけない。

 私は、このショーターの。一番の、友だち、なんだからっ!!

 

 いつの間にか、翔太の友だちランキングの一番上に、勝手に自分を格上げしているパティ。

 でも、それは思い上がりなんかじゃない。それは、決意。絶対それにふさわしい自分になるという、誓い。

 その思いを込めて、翔太を抱きしめる手に、さらに力を込めるパティだった。

 

 

 

 

 

 ところで。

 パティの勉強に関してだが。

 

 国語はともかくとして、算数? パティの学校では算数やらないの?

 そう考える翔太の疑問はもっともだろう。それに対するパティの答えは、学校になんていかせてもらえないよ、というものだった。

 

 これを伝え聞いた翔太の父と母は、何やら難しい顔で考え込んでしまった。

 聞くところによると、パティちゃんは随分と質素な暮らしをしているらしい。家の仕事も随分とやらされているようだ。

 そして、学校にも行かせてもらっていない。

  

 まさか、虐待?

 

 その可能性に思い至ってしまった父は、なので翔太に言ったのだ。

 

「なあ、翔太。今度うちに、パティちゃんを連れておいで」

 

 と。



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11話 お呼ばれするとドキドキします。

 王国辺境領はセージ村、その村長宅。パティの暮らす家の居間では、4つの人影がテーブルを囲んでいる。

 夕暮れの赤い光が差し込む中で行われているのは、その日その日を一生懸命に生きる彼らにとって、一日の中で一番の楽しみ。

 つまりは、夕食。家族が揃って食事をしながら、一日の出来事を語り合う。匙を口に運んで笑みを作り、誰かが何かを話してはその笑みが深くなる。

 

 なに? パティにとっての一日で一番の楽しみは、翔太と遊ぶことなのではないのかって?

 それは違う。それは一日ではなく、一週間の中で一番の楽しみなのだ。

 

 まあそれはさておき、会話は続く。

 さして広くもない村だ。それぞれがどんな仕事をしたかなど皆、知っている。その日に何があったかなんて、わざわざ聞かずともわかってはいる。

 けれどそんな他愛のない、日々のやり取りこそが、幸せというもの。

 

 食事の品数は多くはない。スープと、固いパンだけ。

 けれども、量はしっかりとある。残念ながら肉は滅多に口にできないが、スープには豆と野菜がたっぷりと。むしろ、煮込み料理と言ったほうが適切なほど。

 味付けは塩と、ハーブ代わりの野草を少々。海から遠いこの地では本来、塩は高い物。庶民がたっぷりと使うにははばかられる。けれど、彼らが口に運んでいるものには、しっかりとした塩味が。

 

 これも、辺境伯様のおかげだ。

 塩分とは、人が生きていくのに必須のもの。それなのに値段が高いからと十分に摂取できなければ、体を壊す原因となる。

 そこで、辺境領では海沿いの領土から塩を大量に仕入れ、それを領民に格安で販売しているのである。本当に、この地に住むものは領主様に対して頭が上がらない。

 

 けれど、注意も必要だ。

 安く手に入れることができるのは、あくまで自分たちが必要とする分だけ。それ以上に購入して、他の領土や国外に転売する行為は、固く戒められている。

 

 

 

 伯は領民に優しい領主様だが、犯罪者に対しては一転して、非常に厳しい。

 罪を犯した者は、その罪に応じて顔に入れ墨を入れられる。窃盗や傷害などで一段階、強盗や詐欺などで二段階、殺人や性犯罪などが三段階。三段階ともなれば、入れ墨のせいで元の顔がわからなくなるほど。四段階目は存在しない。罪を重ねてそこまで達した者は、等しく死刑となる。

 

 また、入れ墨の他にも、罪に応じた労役も課せられる。鉱山での穴掘りなどの他、現在は王都から領都、領都から各主要都市へと伸びる街道の整備へと回されることが多い。

 尚、この働き口は一般の人も受け付けている。衣食住が保証される上に給金も悪くはないので、農村からの出稼ぎ先として人気だ。

 他には、労役を終えた元犯罪者も、結局はこの仕事へと戻ってくることが多い。入れ墨のせいで、中々まともな仕事にありつけないのだ。こうして、辺境伯領の労働力は確保されているのである。

 

 

 

 それはさておき。

 どうやら、パティ一家の食事もそろそろ終わりのようだ。

 

「ごちそうさまでした」

 

 匙を置いたパティが両手を合わせ、食事終了の挨拶をする。

 ああ、美味しかった。翔太がくれるお菓子は別格だけど、やっぱり母さんのご飯もとても美味しい。

 

「それは帝国式のマナーなのかい? 食事を始めるときも何かやってたよね」

 

 セリムが不思議そうに尋ねる。

 王国では、食事の前後には神に感謝を捧げるのが一般的だ。パティがやっていたような仕草はしない。

 ちなみに、セリムの家は隣。一人暮らしをしているのだが、食事はこの家で一緒に取っている。一人分くらい増えても変わりゃしないよという、パティの母の好意だ。

 

「帝国じゃないけど、ショーターに教えてもらったの。『いただきます』が食べられる命への感謝、『ごちそうさま』が作ってくれた人への感謝なんですって」

 

 ほう。

 糧を与えてくれる神への感謝ではなく、食材への感謝。そういう考え方もあるのか。中々に興味深い。

 なるほどと頷くセリムに、パティがじっとりとした目を向ける。

 

「そういえば、叔父さん。叔父さんが前に言ってたこと、全然違ったよ」

「何の話だ?」

「ショーターが帝国の貴族だって話」

 

 ……へっ?

 

「いやまてっ! 彼がそう言ったのか?」

「うん。帝国じゃなくて、ニホンっていう国から来たんですって。叔父さん、ニホンって知ってる?」

 

 知らない。聞いたこともない。

 いや、重要なのはそこじゃない。帝国貴族じゃないだってっ!

 

「ショーターはシューター家の一門、とか言っていたな、お前」

「あの弓の絵は、シューター家の家紋を簡略化したもの、とかも言ってたわね」

 

 パティの両親もまた、じっとりとした目をセリムに向ける。

 いや待って、そんな目で見ないで。そうじゃないかって言っただけで、そうだって断言したわけじゃないから。だから待って、食べかけの皿を取り上げないで。

 

「いやほら、でもさ、彼の家が金持ちっていうのは間違いないんだしさ。……ねっ?」

 

 四面楚歌、孤軍となったセリムの必死の命乞い。

 でもだって、そう思ってしまうのも仕方がないじゃないか。この辺であんな身なりの良い他の国の子っていったら、温泉街に遊びに来た帝国貴族の子だろうって。皆も言っていたじゃない。

 なので無罪を主張。俺は多分悪くない。

 

「ま、住む世界が違うってことには違いないか」

 

 兄からの沙汰。ギリギリ無罪。ほっと息をつくセリム。

 

「で、ニホンって国に心当たりは?」

「いや、知らない。……けど、もしかしたら……」

 

 ニホンは知らない。

 けれど、この辺りではあまり見かけない、あの子の黒い髪と黒い瞳。それと、パティに渡された数々のあり得ない技術の結晶。

 そこから導くなら、もしかすると。

 

「なんだよ、はっきりしないな」

「いや、確証があるわけじゃないんだ。ただ、ずっと東の果ての海に浮かぶ島国で、ジパングっていう国があるっていうのは聞いたことがある」

 

 王都にいた頃に聞いた噂話。

 この大陸は、大きく分けて西側を王国、東側を帝国が支配している。そのさらに東、帝国の支配も及ばぬ海に、そういう名の国があるという。

 

「その国は黒髪に黒い瞳の民族が住んでいて、魔術があまり発達していない代わりに技術がとても進歩しているって。そして、その技術力で生み出した製品を売って生計を立てている、職人と商人の国だとか」

 

 実際には、ジパング出身という人間に会ったこともないし、知り合いにいるという人も見たことがない。進んだ文化の製品が王国に流れてきたという話も聞いたことが無い。なので、眉唾物の話だと思っていた。

 

 けれど。

 例えばあの本。紙の質も、書かれた文字も絵も、王国の本よりも遥かに質が良い。

 例えば、あの筆記具。細い棒の中心に固めた煤を詰めた物というのはわかるが、じゃあ作ってみろと言われて作れるようなものではないだろう。

 

 他にもあれもこれも、彼が持ってきた品々はどれもこれも、この辺りの文化水準を大きく上回っている。

 だから、もしかしたら?

 

「ショーター君とその家族は、ジパングから技術の指導に呼ばれた一家、とか?」

「叔父さんもそう思う? 私も、そうじゃないかなって思ったの。明日、ショーターの家の人にも聞いてみようかなって」

 

 明日?

 明日って?

 

「あっ! そうだ、父さん。ショーターのおうちの人がね、遊びにおいでって言ってくれてるみたいなんだけど。……行ってきてもいいかな?」

 

 待ちなさい、パティ。

 そういう大事なことは、もっと早く言いなさい。

 父と母の視線が再びじっとりと。今度の標的は愛娘だ。

 

「村の仕事はその分、来週に多くやるからっ! だからね、お願いっ!!」

 

 父の眉間に皺が寄る。

 行く、行かないの話であれば、行かせるしかない。帝国貴族ではなかったとはいえ、上の立場からの招待を断ることなんて出来っこない。

 父が難しい顔をしているのは単純に、パティの身を案じてのこと。あの少年のこれまでの立ち振舞いを思えば、何かされるということもないとは思う。けれど、心配なものは心配だ。

 

「向こうの方に、失礼なことのないようにね」

 

 対して、母はといえば気楽なものだ。

 貴族相手なら不安は残ったが、そうではないというのなら。家柄の違いはあるとは言え、所詮は同じ平民同士。過剰な心配などいらないだろう。

 辺境伯様は民に優しく、罪を犯した者に容赦はない。仮にパティを害したとするなら、自分の身に返ってくるのだ。それを知っているなら、下手なことをするはずがない。

 

「……それとね。しっかり、おめかししていくんだよ」

 

 そして、金持ちの幼馴染とくっついて、娘の一生は安泰計画。もしかするなら、妾じゃなくて正妻の目も見えてきた。

 けしかける気、満々の母。

 その様子を見て、父は大きく溜息一つ。肺の中身を全て吐き出すように、ついていた。

 

 

 

 

 

「いってきまーすっ!!」

 

 翌日。

 朝食を食べてしばらく後。いつもの時間にやってきた翔太に連れられて、パティが元気に家を出る。

 

 顔は晴れ晴れ、意気揚々。弾む心が足取りにまであらわれて、一歩一歩がまるで飛び跳ねているかのよう。

 軽やかな足取りに合わせてブンブンと、しっかりと繋がれた手が振られている。そして顔が見合わせられれば、2人の顔が描き出すのはにっこり笑顔。もう、体中から楽しいが溢れ出して止まらない。

 

 一方、そんな2人を見送るパティの父とセリムの顔はすぐれぬもの。

 セリムはパティが粗相をしやしないかという不安で。父はパティの手を握りやがってという怒りで。

 そんな兄弟を苦笑とともに見やりつつ、母はふと思った。

 

「そういや、あの子達。向こうまでどうやって行く気なんだろね」

 

 というか。ショーターはいつも、どうやってこの村まで来ていたのだろうか。

 温泉街は森の向こう側。この村から、結構近い。とはいえ、歩いて行くにはそれなりに時間がかかる。大人の足で急いだとして、およそ2時間程度か。

 もっともこれは、森を迂回した場合の話だ。森の中を突っ切ればもっと短い時間ですむだろう。

 

 村人があの街に行く用事など早々ないが、行くとしたなら通常、迂回路を選ぶ。森の中には危険がいっぱいだから。と、いう訳ではない。

 あの森に、大型の獣は棲んでない。温泉街のお客様用に散歩道が整備されているので、見通しも悪くない。だが、この散歩道がいけないのだ。ぶっちゃけ、平民が貴族と鉢合わせると、色々と面倒という話。これも危険といえば危険か。

 

 でもまあ、平民とはいえ、温泉街のお客の息子だ。きっと顔が知られているだろうし、そのあたりの心配はないのだろう。

 

「ほら、いつまでもうじうじしてないで。仕事するよ、仕事っ!」

 

 小さくなっていく2人をいつまでも見送ろうとする父の尻を、いい加減にしなさいと蹴り飛ばす母だった。

 

 

 

 親たちの心配などなんのその。パティと翔太の2人は森の入口を目指して歩く。

 弾む心に合わせ、即興で歌なんて歌ったりしながら。作詞作曲、栗栖翔太。編曲、パティ。題名、さんぽ。

 色々と危ない。大きくなってから思い返したときに、恥ずかしさにのたうち回る、黒歴史的な意味でも危ない。

 

 でも、今の2人には関係ない。

 リズムに合わせて繋いだ手を振って、スキップしながらランランラン。次の曲は、作詞作曲パティ。題名、友だち。多分、黒歴史度は翔太の歌より高いと思われる。

 それが歌い終わった辺りで、森に到着。

 

「森の中、通っていくの?」

 

 森の入口、木の向こうを覗き込むようにして、パティが言う。

 この森、村から見て手前側は問題ないが、それより向こうには行かないように、両親から強く言われている。無論、貴族と鉢合わせないようにするためだ。

 なので、近いとはわかっていても、ショーターと一緒だから大丈夫なのだろうと思っていても、不安なことは不安なのだ。

 

 でも、帰ってきた答えは違うもの。

 ちょっと、パティが予想をしていなかったもの。

 

「ううん。ここにほら、近道があるんだ」

 

 そう言って1人で先に進み、下草が高く茂った一角を指し示すショーター。

 ……彼は、何を言っているのだろう? ただの草むらじゃない。

 

 最近パティの家で流行っている、じっとりとした視線をショーターへ向けて、パティが抗議の声をあげようと。した、その時。

 

「……ショーター? ショーターっ!!」

 

 不意に、彼の姿が掻き消えた。

 忽然と、草むらに溶け込むように。

 

 どくんと、心臓が一つ跳ねた。

 胸がきゅうっと締め付けられるように、痛い。

 いつも彼と会っているときのドキドキとは全く違う。不快な、痛み。不安な、心。

 

 嘘。ショーター、どこ行っちゃったの? いなくなったり、しないよねっ!?

 転げるように歩を進める。さっきまで彼がいた場所へと、慌てて駆けつける。

 草むらを、顔ごと体ごと突っ込むように、覗き込む。

 

「どうしたの、パティ。そんなに慌てて?」

 

 そこには、ショーターがいた。

 木と草で出来たトンネルがあって、その中に彼がいた。

 

 嘘。

 さっきまで、こんなのなかった。ここには草しかなかった。

 ……気が、する。

 

 気のせい? 勘違い?

 さっきいた場所からじゃ、見えなかっただけ?

 

 何だろう。

 何か、変だ。

 何だか、怖い。

 

「ほら行こう、パティ。ここを抜ければすぐなんだよ」

 

 ショーターに手をひかれる。

 さっきまで、手を繋ぐのがあんなに嬉しかったのに。あんなに、嬉しかったのに。

 何だか、嫌だ。じっとりと、手に汗をかいているのがわかる。

 

「……どうしたの?」

 

 ショーターは、何も気にならないのかな?

 ……そうだよね。いつも、ここを通ってきてるんだよね。なら、平気なんだよね。

 

「……ううん。急に見えなくなっちゃったから、驚いちゃっただけ。大丈夫、行こう」

 

 繋いだ手に込める力を、強める。ぎゅっと。

 大丈夫。ショーターと一緒なんだから、怖くなんかない。

 

 ふと。

 視界の端を、何かがよぎった気がした。

 あれは、蝶々?

 目をそちらへと向けた時、既にそこには何もいなくなっていた。

 

 ……森なんだから、蝶がいたって何もおかしくなんかない。全然、不思議じゃない。

 不思議なんかじゃない、はず。

 

「パティ? もし疲れちゃったりしたんなら、ちゃんと言ってね」

「うん。ありがとう、ショーター」

「平気? じゃ、いこっか」

 

 繋いだ手を握りしめ、一歩、踏み出す。

 緑色の、トンネルの中へと。

 

 どこからか、クスクスと笑う。

 子供の笑い声が、聞こえてきた気がした。



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12話 知らないほうが幸せだった真実もあります。

 トンネルの中は思っていたよりも、ずっとずっとしっかりしていた。

 翔太とパティの2人が、ぎりぎりだけど、並んで立って歩けるくらい。それだけの高さと横幅がある。

 

 けれども、のしかかるような圧迫感がものすごい。まるで、閉じ込められたみたいな不安感。逃げ場のない虫籠に、押し込められたかのよう。

 天井も、壁も緑色。びっしりと隙間なく、草や木で覆い尽くされて、それこそ虫の這い出る隙間もないほど。

 

 でも、そう感じているのは私だけ?

 隣を歩く翔太といえば、また新しい歌なんて歌って、相変わらず楽しそう。一緒に歌おうともしてみるけど、駄目。口を開くと、震えが漏れてしまいそう。

 だから、ただ歩く。

 翔太に手を引いてもらっておずおずと、口数も少なく、パティは歩き続ける。

 

 光が入り込むような隙間なんて、どこにももないように思える。入り口からの光だって、本当だったらもう届かないはず。それなのに、この中は不思議と明るい。翔太の顔が見えるのに、ただほっとする。

 ほっとはするけど。でも、やっぱり変。どうして明るいのかがわからない。何か不自然で、何処かおかしい。

 絶対に、こんな場所が自然と出来たりはしないと思う。

 

 怖い。

 何がかはわからない。何処がかは、わからない。それなのに、ただただ怖いという感情が、心の奥底からじんわりと滲み出してくる。自分の感情が制御できない。

 逃げ出したい。入ってきたところまで、思いっきり走って戻りたい。そんな気持ちが沸き起こる。

 

 翔太の手を握る力を、ぎゅうっと強めた。

 この手だけが、頼みの綱。繋いでいるなら、安心できる。多分、手にたっぷりと汗をかいているだろうから、ちょっと恥ずかしい。

 

 ……あっ。また、だ。

 また、視界の端の方を、蝶がひらりと舞い踊った。

 

 壁にも天井にも、蝶が入ってこれるような隙間なんてないのに。

 入口も出口も、見えないくらいに遠いのに。

 この場所に、蝶が飛ぶなんて、どう考えたっておかしいのに。

 でも、それ以上は考えないようにする。考えてしまったなら多分、もうこれ以上は歩けなくなってしまう。

 

「パティ、大丈夫? 疲れた?」

 

 パティの様子がおかしいのに、翔太もとっくに気がついている。だって、普段の彼女だったら、きっと喜ぶはずなのだ。

 こんな不思議で面白い場所に来たのなら、いつもの彼女なら大はしゃぎ。出口まで競争とか言って、翔太を待たずに走り出したに違いないのだ。

 

 それなのに。

 薄暗いのが怖いのか、狭いのが苦手なのか、知らない場所が嫌なのか。さっきから、怯えて震えて。

 まるで、可愛らしい女の子のようじゃないか。

 

「ううん。大丈夫だから早く、ここから出よ。それよりも翔太、なんか失礼なこと……」

 

 

 

──……帰れ。

 

 

 

「わひゅあうっ!!」

 

 何っ!

 今の、何っ!

 何か聞こえたあああああっ!!

 

「ショ、ショオオオタアァァ……」

「どしたの、パティ? いきなりおっきい声なんて出して」

 

 パティ、手を繋ぐだけじゃあ、もう駄目だと。体ごと抱きつくように、翔太の腕にしがみつく。

 無理よ、1人でなんて歩けない。歯の根は震えて、足はガクガク。

 何あれ、何あれ、今の何あれっ!?

 

 けれど。そんなパティのことを、翔太は不思議そうに見るばかり。

 涙目どころか、既に零れ落ちそうなほどに瞳に雫が溜まっているのを、首を傾げて見つめるばかり。

 

「何か、帰れって聞こえたあぁぁ」

「えー? 気のせいじゃない?」

「聞こえたもんっ! 絶対変だって、ここ……」

 

 

 

──……その手を、離せ。

 

 

 

「ほらまたぁぁ。手を離せってぇぇ」

「パティ? 何も聞こえないよ?」

「嘘だあぁぁ」

 

 翔太、私のことからかってる?

 ……ううん。翔太は冗談や悪ふざけは好きだけど、本気で嫌がられることはやらない。 

 だから。本当に聞こえてないんだ、翔太には。

 

 何で聞こえないの? 何で私にだけ聞こえるの?

 誰の声なの? 何の声なの? 何して欲しいの?

 戻った方がいいの? 手を離した方がいいの?

 いったい私は、どうすればいいの?

 

 頭の中が大パニック。疑問が溢れて止まらない。

 どうすればいいのか、わからない。どうしたら駄目なのか、わからない。只今、絶賛混乱中。

 

 足を止めて翔太にすがりつくパティの、その頭の周りを淡い光がをくるくると。おどけるように、嘲笑うように、舞い踊る。

 そしてまた、クスクスという笑い声がパティの耳へ。楽しむように、からかうように、響き渡る。

 

 

 

──帰れ。帰れ。離せ。クスクス。

 

 

 

 嫌。やめて。怖い。助けて。

 誰かっ! ショーターっ!!

 

 必死の思いも、届かない。

 すぐ隣りにいるのに、体温を感じ取れるほどなのに、この気持は届かない。翔太はパティを心配しつつも、変わらず首を傾けるばかり。

 

 

 

 帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。離せ。帰れ。帰れ。

 帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。離せ。帰れ。帰れ。離せ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。離せ。帰れ。帰れ。帰れ。帰れ。

 

 

 

──かえ……

 

「うるっっっさあああああああああああああああああああああいいいいいっ!!!」

 

 突然。

 パティが叫びを上げた。

 

 何よ、何よ、何よっ!!

 帰れ帰れって、それしか言えないの? 隠れてコソコソするしか出来ないの?

 むっかついた、頭にきた。あんたの言うことなんて、聞いてやらないっ!

 

 人間、恐怖が限界を超えてしまったなら、突飛な行動を取ってしまうもの。

 例えば、ただその場に蹲って泣きわめいたり、何処へ向かっているのかも定かではなく走り出したり。

 

 それがパティの場合には、怒りの発現という形で現れた。わかりやすく言うと、切れた。ブチ切れた。

 湧き上がる怒りが、恐怖を何処かへと押し流しす。何故にこんなにも理不尽に、自分が怯えなくてはならないのか。何故、従わなければならぬのか。

 

 そんな理由なんてない。そんな道理なんて、何処にもない。ええ、ふざけないでもらいたい。全く欠片も、ないったらないのだ。

 なによ、私に言う事を聞かせれるもんなら、聞かせてみせなさいよ。

 

 私は……負けないんだからねっ!!

 

 まあ、開き直ったとか、そうともいう。

 そういえば。翔太が村に来なくなったときととか、名前呼びを断られたときとかも、こんな感じになったような。

 怒りを糧に成長する女、パティ。扱いを間違えると大変だ。翔太は気をつけるように。

 

 まだ涙は残っているものの、顔つきを一転、きりりと引き締める。負けるものですかと、握りしめた拳が頼もしい。

 ただし、注意して欲しい。

 何も聞こえていない翔太から見れば、突然に叫び声を上げだした、ただの変な子に相違ないのだから。

 

「えっと、パティ?」

「行くわよっ! ショーターっ!!」

 

 繋いだ手を握りしめ、今度はパティが先頭に立って、ぐんぐんずんずん歩きだす。

 え、突然どうしたの? ちょっと待ってよ、パティ。待って、早いっ! 歩くの早いってっ!!

 

 翔太の必死の抗議もパティには届かず。だってパティも、これで必死だし。何気にテンパってるし、仕方ないよね。

 なので、手を引かれる翔太の足が追いつかず、つっかえつっかえになっていることなんて、ろくに視界に入ってないのもまた、仕方のないことなのだ。

 あ、翔太が転んだ。けれどパティは振り向かない。後ろは見ない、前向きな女。転んだ翔太をそのままに、繋いだ手もそのままに、ただただ前へ前へと歩みを進める。

 村の仕事で鍛えた力は伊達ではない。ズルズルと引きずられる翔太が、哀れ。

 

 

 

──帰れ。

 

 やだ。

 

──帰れ。

 

 知らない。

 

──手を離せ。

 

 何で?

 

──帰れよ。

 

 断る。

 

──帰れってば。

 

 やだってば。

 

──帰れって言ってるじゃんかよー。

 

 やだって言ってるじゃない。

 

──もー。お前、ほんと帰れよなー。

 

 何よ、どんどん怖くなくなってきてるわよ。

 

──コイツから離れろってー。

 

 絶対、嫌。

 

 

 

「お前なんて嫌いだーっ!」

「私だって、大っ嫌いっ!!」

 

 

……あれ?

 

 最後、今までで一番はっきりと聞こえた声に、思わず叫ぶように返事をした時。目に見える景色が、一変していた。

 迫るような天井も壁も、何処にもない。空は高くて青くて、お日様の光がさんさんと。

 

「……出れたんだ」

 

 振り返ってみれば、木でできた壁の下の方に開いた、屈めばくぐれるくらいの小さな隙間。

 あれ、今まで通ってきたトンネル? あんなに小さかったっけ?

 何か変だ。でも、変なのはあそこに入ってから。ううん、入る前からずっとそう。

 

 あそこは、人が通っちゃいけない道な気がする。

 少なくとも、私はそう。あの声が何なのかわからないけど、私のことを追い出そうとしてたことだけは、はっきりと分かる。

 

 でもなんだか、ショーターのことは違うみたい。あいつ、ショーターのことが好きなのかな?

 ショーターはあれが何なのか知ってるのかな? でも、声は聞こえていないみたいだったし。とりあえず、聞いてみよう。

 

「ねえ、ショーター……ショーターっ! どうしたの、大丈夫っ!!」

 

 一息ついたパティが、視線を翔太へと向けてみれば。そこには、引きずられてボロボロになった無残な姿が。

 服はドロドロ、髪はボサボサ。擦りむいた膝小僧からは血が滲んでる。

 

「……酷い。あいつにやられたのね。そうなのねっ!」

 

 あいつ、ショーターのことは好きなんじゃないかって思ったのに。

 許せない。私の大切な友だちを傷つけるなんて、絶対に許せない。次は絶対、とっちめてやるんだから。負けないんだからねっ!

 

 ボロボロの翔太を抱きかかえるように、自分の方へと引き寄せる。そして穴の向こうの何かから守ろうと、自身の体を盾にする。

 視線にのせた燃え盛る炎。怒りも露わに、トンネルの向こうを睨みつけるパティ。

 

「……パティって、力が強いんだね……」

 

 翔太とはいえば、ようやくそんなことを呟くのが精一杯だった。

 それでも、恨み辛みや怒りの言葉を口にはしない辺り、彼の体の半分は優しさで出来ているのかもしれない。

 

 とりあえず、これからもパティの友だちでいるためには、もっと運動をした方がいいのかもしれない。

 家でのゲームは控えめにして、もっと外で遊ぼうと誓う、翔太であった。

 

 

 

 

 

「ここが、ショーターの住んでる街なんだ」

 

 温泉街は、パティの村とは全くの別世界だった。

 どこまでも続く、真っ平らな一枚板で出来た道。その道を、馬が牽かない馬車が走っている。

 あれ? 馬が牽かないのに馬車って変よね。『ばしゃ』じゃなくて、『しゃ』? あっ! あれが本に載ってた『くるま』ってやつなんだっ!

 

 あの、人が動かしてる車輪が2つの乗り物も、『くるま』の仲間なの?

 あれ、乗ってみたい。楽しそう。

 

 小さな狼に縄をつけて、連れ歩いてる人が何人もいる。

 猛獣使いもいっぱい住んでるのね。衛兵みたいなものなのかしら?

 

 道の横に建っている建物もすごい。信じられないくらいに高い。翔太に聞いたら、10階建てくらいかなって言ってた。

 2階建ての家だって、村にはないっていうのに信じられない。階段で登るのが大変そうね。

 

 すごい。温泉街すごい。ニホンの技術力ってすごいっ!!

 

 でも、ちょっと。空気の匂いがあんまり好きじゃない。

 何だか臭くて、目に染みるような気がする。これが、温泉の匂いってやつなのかしら。独特の臭いがするって聞いたもの。

 

 目に映る物の全てが目新しくて、あれもこれもが物珍しくて。

 翔太を引っ張っては、あれは何だと聞いてまわり。翔太を引きずっては、これは何だと尋ねてまわり。

 さっきまでの恐怖や怒りなどすっかり忘れて。謎の声のことをショーターに尋ねるのもすっかり忘れて。全身全霊で、知らないものを知る。それに夢中になっているパティ。

 その一挙一動が、楽しそうで。その笑顔が、眩しくて。案内している翔太の顔も、にっこにこ。

 

 

 

 だからパティは、油断をしていたのかもしれない。

 あのトンネルよりも、この温泉街よりも。そんなものなど霞んでしまう衝撃が、この後に。パティに襲いかかるのを、虎視眈々と待っているというのに。それに一切、気づくことなどなかったのだ。

 真実とは、時に残酷なものだ。それを、パティは知ることになる。

 

 

 

「ついたっ! ここが僕の家だよ、パティ」

 

 ショーターの家は、とても立派なお屋敷だった。パティの基準では。

 そりゃあ、ここまで歩いてきた中には、もっと大きな家もいっぱいあったけど。それでも、今の村にも前の村にも、こんな素敵な家はなかった。

 

 家の周りは生け垣で囲まれて、そんなに広くはないけど庭もある、2階建ての家。庭には雨をしのげるように屋根の付いた場所があって、そこには『くるま』が停められている。

 あの不思議な乗り物、ショーターの家にもあるんだ。やっぱりすごい。あ、『じてんしゃ』もあるっ! 乗せてもらえるかな?

 

 パティの手を引いて、大人の胸の高さくらいまである金属で出来た門を開ける翔太。

 そこで、パティは気がついた。門の横に、何か文字が書かれた石版みたいのが貼り付けてある。

 

 知ってる。これは、漢字。

 でも、漢字は種類が多すぎて、まだ簡単なものしか読めない。残念ながら、これも知らない字だ。

 

「ねえ、ショーター。これ、何て書いてあるの?」

 

 尋ねてしまったのは、好奇心から。

 聞けば何でも教えてくれる。何でも知ってる。それがショーターなのだ。

 なので当然、その答えも返ってきた。

 

「これはね、表札っていうの。家に住んでる人の名前が書いてあるんだよ。だから、これは栗栖。くりすって読むんだ」

 

 ……?

 ……クリス?

 

「ショーター、家族と住んでるんでしょ?」

「そうだよ?」

「なら、クリスじゃなくてショーターって書いてないと変じゃない?」

 

 ショーターの説明を聞く限り、家名が書かれるのが普通なのではないだろうか。貴族のお屋敷に、家の紋章が記されるのと同じようなものでしょ?

 

 パティの質問に、翔太もまた不思議顔。

 この子は一体、何を言っているのだろう? 栗栖翔太って、何度も自己紹介しているというのに。

 

 ……って。

 あ、そうか。

 

「そっか、順番が違うんだ」

「順番?」

「うん。日本ではね、名字が先で、名前が後なの。だから僕は、栗栖が名字で、名前が翔太」

 

 ……。

 ……え? それって、どういうこと?

 ……もしかして? え? えっ!? えええっっ!!

 

「っていうかさ。じゃあパティは、ずっと僕のこと名字で呼んでるつもりだったの? ひどいよー」

 

 ショーターが、口をとがらせて抗議の声を上げている。

 でも待って。今、それどころじゃないから。

 だって。

 

──次に会った時、ショーターじゃなくて、クリスって呼んでみようかな。

──友達だもんね。名前で呼んだっていいよね。

 

 とか。

 え、もうとっくに呼んでたってこと?

 嘘、あの決意は何だったの?。

 

 

──そしてそのときには、絶対に言わせてみせるんだ。

──家名なんかじゃなくて、名前で呼んで欲しいってねっ!!

 

 とか。

 え、これって私の勘違いだったってことよね?

 言わせてみせるって、むしろ名前で呼ばなきゃ拗ねちゃってるじゃない。

 

 え?

 えっ!?

 えええっっ!!

 

「……恥ずかしい……」

 

 恥ずかしい、穴があったら、入りたい。

 パティ、心の一句。俳句とか知らないけど。

 

 両手で顔を覆って、その場にうずくまってしまったパティ。

 見えないけど、顔が真っ赤だ。見えてるけど、耳まで真っ赤だ。

 

「ちゃんと説明しなかった僕も悪かったよね。ごめんね、パティ」

 

 翔太、動かなくなったパティにどう対応したものか。迷った末、とりあえず下手に出ることにした模様。

 それが届いているのかいないのか。パティはしゃがんで、うーうーと唸るばかり。

 

 それでも何とか宥めようとする翔太の言葉を受けて。やがて、ゆっくりとパティが顔を上げた。

 

「……ショーター」

「なあに?」

「これからも、ショーターって呼んでも……いい?」

 

 伺うような、パティの声。

 そんなの、返事なんて決まってる。

 

「もちろんっ!」

 

 思いっきり元気よく、翔太はそう答えた。

 と、いうか。今更、栗栖なんて他人行儀に呼ばれたら。翔太はきっと、怒るだろう。

 

 それはパティもわかってたけど。それでも、名前で呼んでもいいかって、そう尋ねたのはパティのけじめ。

 なし崩し的にじゃなくて、なあなあじゃなくて、きちんと。ちゃんと友だちになるんだっていう。なりたいんだっていう、思い。

 

 うん。

 もちろん今までと何が変わるっていう訳でもないんだけど。これではっきりと、自身を持って言える。

 私とショーターは、友だちだって。

 

「それとね。ショーターの名前の漢字、教えて」

「うんっ! ちょっと難しい字だから、頑張って覚えてねっ!」

 

 そういって、翔太がパティに手を差し伸べる。

 はにかみながら掴んだ手は、とてもとても温かかった。



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13話 初めての体験とは楽しいものです。

 2つもつけられた鍵をガチャガチャと開けて、翔太が玄関の扉を開いた。

 小さな手は、まだ繋がれたまま。お屋敷にお邪魔するなんてとても緊張するけど、手が温かいから安心できる。

 

 木製のドアはどっしりと重厚感があって、とても立派だ。もちろん、どこからも隙間風なんて入ってこない。そこを見るだけでも、よくわかる。この家がいかに丁寧に、技術とお金をつぎ込まれて作られているのかが。

 ごくりと、つばを一つ飲み込んだ。

 

 今日の服は、本当だったら収穫のお祭りのときにしか着れない晴れ着。パティの持っている中では一番、豪華な服。染められてこそいないけど、真っ白でとてもきれいだ。スカートの裾には、ちょっとしたひらひらのフリルまでついている。

 

 でも。思い切りおめかししてはきたけれど、それでも場違いなんじゃないかしら? 見すぼらしいって思われちゃったら、どうしよう?

 去年からサイズ直しをしていなかったので、少しだけ合わなくなってしまった袖丈が無性に恥ずかしい。それで伸びるわけでもないのに、半ば無意識に袖口を引っ張ってしまう。

 

「ただいまー、パティ連れてきたよー。あ、パティ。靴はここで脱いでね。日本では、家の中で靴を履かないんだ」

 

 すーはーすーはと、深呼吸して気持ちを落ち着けようとするパティに、翔太は時間を与えてくれない。というか、彼女の緊張に気がついていない。気配りできる素養はあるが、まだまだ経験値が足りないようだ。

 そんな彼にちょっと恨みがましい視線を向けつつも、言われるままに靴を脱ぐ。一歩を踏み出すと、板張りの床の冷たさが素足に心地よかった。

 

 そのまま手を引かれて廊下を進み、また扉を一つくぐる。広い部屋の中には、ゆったりとした革張りのソファとテーブル。なんと、テーブルはガラス製だ。よく見れば、正面にある人より大きな窓にまでガラスがはめ込まれているではないか。

 ほんとうに、びっくりすることばかり。色の濁った小さなガラス瓶だって結構な貴重品だというのに。こんな大きくて透明なガラスなんて一体、どれくらいの価値があるのだろう。きっと、自分が見たことのある銀貨じゃあ、何枚あっても買えないんだろうな。

 噂に聞く金貨? それとも大金貨? 存在することだけは知っている、白金貨?

 うわ、もし割っちゃったらどうしよう。絶対、弁償なんて出来っこない。怖いから、あそこには近づかないようにしよう。

 

「いらっしゃい」

「はじめまして、パティちゃん」

 

 ガチガチになっているパティに、ソファに座っていた人が立ち上がって、声をかけてきた。

 とても背が高い、ガッチリとした男の人は多分、ショーターのお父さん。その横の、逆に小柄な女性は、お母さんね。ショーターって、お母さんに似てるんだ。笑った顔がそっくり。

 

 2人はじいっと、自分のことを見つめている。ひいっと、喉の奥から悲鳴が漏れそうになった。

 怖い。まるで、何かを見定めているみたいだ。何かっていうか、私のことを。

 やっぱり、場違い? 農民の子なんか、息子の友だちに相応しくないって思われちゃったかな。

 

 そう思われちゃうのは、仕方がないことなのかもしれないけど。それでもやっぱり、私はショーターの友だちでいたいから。だから、自分にできることをしよう。

 俯きそうになる顔を上げる。一生懸命に笑顔を作る。そして、勇気を振り絞って声を出した。

 

「はじめまして、パティですっ! 今日は、おまねに……おまねぎ……おま……おまめ、きに……」

 

 あー、もうっ! ニホン語ってば難しいっ!!

 ああ、奥様が口元を抑えて横を向いてしまった。肩が震えているから、きっと笑われちゃったんだ。それとも怒っちゃったのかな? 『モエル』とか呟いたのが聞こえたけど、燃えているのは怒りの炎とかそういうこと?

 

「パティちゃんはすごいな。翔太に会ってから日本語を覚えたんだろ? それでそれだけ話せるんだ、大したもんだよ」

 

 旦那様がそう言ってくれた。優しい声で、ほっとする。

 けど、大丈夫? 貴族の人は本音は絶対に言わないっていうけど、そういうのじゃない?

 

「だからね。慌てないで、ゆっくり言ってごらん。お、ま、ね、き」

「……おまね、き……、おまねき、いただきましてっ! ありがとうごじゃいましゅっ!!」

 

 言えた。言い切った。私、頑張った。

 なのに、奥様の肩の震えが大きくなってる。どうしよう、消火に失敗しちゃった?

 横を向いていた奥様が、大きく息をついた。溜息よね、あれ。やっぱり、がっかりされちゃったんだ。

 

「あなたもパティちゃんも、そんな無理して難しいこと言わなくてもいいじゃない。こんにちわとか、お邪魔しますとかでいいのよ」

 

 と、思ったのだけど。あれ、怒ってなさそう?

 こちらに向け直した顔はすごく楽しそうで、どこにも燃え盛ったような後は見つけられなかった。

 パティ、大きく安堵の息を吐く。良かった。とりあえずは、もうショーターと会うなとかは言われなさそうだ。

 でも、次のために練習だけはしておこう。おまねきいただきまして、ありがとうございましゅ。

 

「それにしても、翔太。あんた、また随分と泥んこね。膝まで擦りむいちゃって。パティちゃん迎えに行っただけで、どうしてそうなるのよ」

 

 母からの咎めるような声。

 確かに、トンネルでパティに引きずられたときの、ドロドロボロボロのままだった。このまま家の中で過ごされるのは、母としてはちょっと勘弁して欲しい。まだ建てたばかりの家なのだ、汚れに神経質になってしまうのも仕方なし。

 

「まず、お風呂に行って汚れ落として、着替えなさい」

 

 ビシリと、風呂場の方を指差す母。ハリーハリーと、息子を追い立て、追い出そうとして。ふと、何かを思い立ったよう。

 優しそうな笑い顔ではなく、パティを最初に見たときの見定めるような目をして。そして、彼女はこう言った。

 

「そうだ、良かったらパティちゃんもお風呂どう? 女の子だもんね、翔太と一緒って訳にはいかないから、おばさんと入ろっか」

 

 どくんと、心臓が一つ高鳴った。

 実は、密かに楽しみにしていた。もしかしたら入れるかなって、思ってた。

 それも当然ではないか、温泉街なのだから。温泉に入ってみたいなって思ってしまうのも仕方のないことなのだ。

 

 パティは、温かいお風呂というものを経験したことがない。

 もちろん、辺境伯様の教えもあるので、毎日きちんと体を拭いてはいる。夏場であれば、川まで行って水浴びをしたり、井戸水を頭からかぶったりもする。けれど、湯を沸かすには当然、薪がいるのだ。

 寒い冬に、手ぬぐいを絞る分だけ手桶にお湯を用意することならある。けれど、人が浸かれる分だけのお湯ともなると、必要な薪の量も相当なもの。それを賄うだけの余裕は、村にはない。

 

 これはセージ村だけではなく、王国でもそれ以外の国でも、庶民においては大体が同じだ。

 辺境領では、領民のために魔法具で湯を沸かす公衆浴場を用意し、庶民でも安値で入浴を楽しむことができるようになってはいる。けれど、いくら豊かな辺境領とはいえ、それがあるのは領都だけ。さらに、入浴希望者が多数いるため、利用する回数に制限がかけられてもいる。

 

 そういう訳で人生初、もしかするなら生涯において最初で最後のお風呂かもしれない。

 奥様と一緒というのが緊張するし、遠慮するべきではないかという気持ちもある。それでも、このチャンスを逃すわけにはいかないのだ、女の子としてはっ!

 

「よ、よろしくお願いしますっ!」

 

 期待に頬を染めて、両手を胸の前で握りしめ、力いっぱいお願いしてみた。

 その様子に、再び顔を背けて肩を震わす翔太の母。どうやら、また萌えているらしい。

 やっぱり女の子っていいわねえ、と。翔太に妹をつくってあげるべきかどうか、半ば本気で検討し始める母だった。

 

「あ、翔太はパティちゃんの後ね。洗面所で膝だけ洗っておきなさい」

 

 そして、翔太の扱いはこんなもの。

 まあ、諦めるしかない。この家では、母が最高権力者。男の立場は低いのだ。

 翔太は父と顔を見合わせて、諦観の笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 母とパティの2人と交代して風呂に入り、汚れを落としてスッキリとした翔太がリビングに戻ってきた時、パティはテレビにかじりついていた。

 

 入浴の様子?

 ひねるだけでお湯が湧き出てくるシャワーに大興奮したり。

 体用、顔用、髪の毛用にいくつかと、何種類もある液状の石鹸に感動したり。

 優しく体と髪を洗ってもらって、うっとりしたり。

 大きな浴槽にたっぷりのお湯に、思わずバシャバシャとはしゃいでしまったり。

 色々と楽しそうな様子が見受けられましたが、パティのためにも克明な描写は避けたいと思います。だって、女の子だし。

 

 それはさておき、今のパティであるが。すっかりと、見違えていた。

 どこか薄汚れた感のあった肌は真っ白で。くすんだ色だとばかり思っていた金髪はつやつやに輝いて。もともとの可愛らしい顔立ちがぐんと引き立てたれ、どこぞのお嬢様のようだ。

 長年の手荒れなどは、直ぐにはどうこうできないが。けれど母からハンドクリームをもらったので、やがてたおやかな手にもなるだろう。

 

 服装も、まるきり変わっている。真っ白なブラウスに、落ち着いた黒いスカート。まるで、ピアノの演奏会にでも行くかのよう。

 これは今年のお正月に、母が某所で買った福袋に入っていたもの。男の子用とか女の子向けとか書かれていなかったので、嫌な予感はしていたのだが。お正月なんだし少しくらいいいよねと、羽目を外して大失敗。物がいいだけに捨てるにはもったいなく、あげる相手も特にはおらず、ネットオークションなども面倒だしと、タンスの肥やしになっていた。

 それをここぞとばかりに、パティにプレゼント。よく似合う立ち姿に目尻が下がる。次回までにいくつか服を用意しておこうとか、家計を無視して企んでいる母の気分は、完全に等身大の着せ替え人形遊び。

 

 そして、そのパティの可愛らしさに、翔太も思わず見とれてしまった。

 パティって、女の子だったんだーと、わかりきっていたことを再確認。いつもみたいに手を繋ごうとしたなら、ちょっと緊張してしまいそう。

 

「あ、ショーターっ! これみてっ! これすごいよっ!!」

 

 けれど、どぎまぎする翔太にも気が付かず、パティの反応はいつもどおり。

 その態度にほっとする。うん、やっぱりパティはパティだ。元気なところが一番だ。でも、どこか少しだけ、残念なような。

 

 ……あれ? 何が、残念なんだろう? よくわかんないな。まあ、いいか。

 沸き起こりかけた疑問を横に放り投げて、翔太はパティの横へと移動。肘と肘の触れ合う距離で、一緒にテレビを見始めた。

 

 テレビに流れているのは、とあるアニメ作品。休日のお昼前なんて、子供が見て喜ぶ番組なんてやっていないだろうからと、父が用意したDVDだ。

 この図体といかつい顔をしながら、父はアニメなども嗜む。もともとは翔太も一緒に見れるようにと、子供向けのシリーズをレンタルしていたのが始まり。だが今では、特に気に入った作品なら購入してしまったりもする。

 あくまでお小遣いの範囲でのやりくりなので、母からの文句も出ていない。というか、翔太が寝た後に親は親で、肩に頭をもたせかける距離で、仲良く一緒に見ていたりする。

 

 その中から適当に選んで再生してみた。

 物語が始まって、すぐに思った。失敗した、よく考えなくても女の子の好みそうな話ではなかったな、と。

 だが、それは杞憂のよう。パティは1人で見ていたときも、翔太が合流してからも、手に汗を握りながら画面にかぶりついている。どうやら、とても楽しんでくれているようだ。

 

「絵が動いてお芝居をするなんて……すごい魔法ね」

「魔法? あ、うん。すごい魔法だねー」

 

 画面の中では、激しい戦闘の真っ最中。魔法使いが敵へと向けて、とっておきの大魔法を放っていた。

 お話の舞台は、剣と魔法の支配する世界。日本の少年がその世界へと召喚され、勇者として魔王を倒す冒険をする。そんな、王道の物語だ。

 

「いいなー。僕も異世界で冒険とかしてみたいなー」

「……ショーター、こんな異世界があるのなんて、お話の中だけよ」

「わかってるけどさー」

 

 翔太は知っている。

 異世界なんて、どこにも存在しないって。

 

 パティは知っている。

 異世界っていうのは、妖精の世界とか、精霊の世界とか、悪魔の世界とか、人間以外の種族が住む世界を示す言葉だっていうことを。

 

 翔太は知らない。

 自分が、とっくに異世界を堪能していただなんて。

 

 パティは知らない。

 自分が今いるこの場所こそが、異世界だなんて。

 

 それぞれの常識が、それぞれ間違っているだなんて。

 仲良く並んでアニメを見る2人には、そんなことを思う由もないのであった。

 

 ……今は、まだ。



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14話 帰りたいのに帰れない時もあります。

 時刻は午後の3時を回ったところ。

 栗栖家の応接間では家主夫妻がガラステーブルを挟んで向かい合い、午後のお茶を楽しんでいた。

 

「このテーブル、衝動買いで選んじゃったけどさ、あんまり使いやすくなかったな」

「結構、お値段したのにねー。カップ置くとカチャカチャうるさいし、かといって何か敷いたらガラスが見えないしね」

「レースの小さいクロスでも用意するか。ここで食事するわけでもないし、それで十分だろ」

 

 知人が尋ねてきたときとか、近所のママさんの集まりなどに使うことが想定された部屋。応接間ってこんな感じよねと、ドラマや映画に登場する部屋をイメージ重視で再現してみたのはいいが、使い勝手は今一つだったようだ。

 念願の我が家ということで、知らずに舞い上がっていたのだろう。まあ、それもそのうちいい思い出となる。

 

 そんな日常の会話をポツポツと。しかし、穏やかな内容の話とは裏腹に、2人の表情は真剣なもの。

 やがて、何かを考え込むようにしていた父が、ポツリと呟きを発した。

 

「いい子だったな」

「ええ、とっても」

 

 つい先程まで、ここで一緒に3時のおやつを口にしていたパティを指しての言葉である。

 今日、彼女を家に招待したのは、もしかするなら虐待されている子供なのではないかと。そういう疑惑が2人にあったからだ。

 質素な暮らしぶり。年齢からは厳しいのではないかと思われる仕事量。そしてなにより、行かせてはもらえない学校。アメリカの常識を、2人は知らない。けれど伝え聞く限りにおいてだが、少なくとも現代日本の常識に当てはめるなら真っ当ではない。

 

 けれど。

 

「いい、笑顔だったな」

「思わず、うちの子にしたくなっちゃうくらいだったわね」

 

 親から日常的に虐待を受けている子供は、笑うのが苦手だ。大人に対しては怯えの色を瞳に浮かべ、引きつった笑みを浮かべるものだ。

 

 しかし、パティは違った。

 好奇心で溢れかえりそうな、見るもの全てが楽しいとばかりに輝いていた瞳。喜怒哀楽がはっきりとしていて、コロコロと変化する表情。小さな体に大げさな身振り手振りが、可愛らしくて微笑ましくて。

 アニメを見ているときの様子など、画面よりもパティの顔を見ている方がずっと面白かった。にやけそうになる頬を引き締めるのに大変で、明日の朝には顔が筋肉痛になっているのではないかと心配なほどだ。

 

「痣とかもなかったんだろ?」

「ええ、手荒れとかはひどかったけど、怪我とか痣とかはなかったわ」

 

 母がパティをお風呂に誘ったのには、汚れを落とす以外にも意味があった。それは、体に異常が無いかを確かめるため。

 暴力を振るわれている子供は、服を脱ぎたがらない。体に浮かんだ、殴られた跡を必死に隠すのだ。親から見せるなときつく言われていたり、恥ずかしいからと自主的に隠していたりと理由はそれぞれあるだろう。だが、どちらにせよ風呂に入りたがるとは思えない。

 

 けれど、パティの反応は違った。

 脱衣所に入るやいなやポポポンと、あっという間に服を脱ぎ、浴室への突撃を敢行していた。思わず母の目が点になり、その後に吹き出してしまうような、それは威勢の良い脱ぎっぷりだった。

 その後、頭や体を洗ってあげる際にも体中をチェックしたが、パティの肌は綺麗なもの。虐待の痕跡はどこにも見つけられなかった。

 

 パティが可愛がられている子供だと確信したのは、2人でお湯に浸かっているときのことだ。

 最初こそバシャバシャと、飛んだり跳ねたりお湯を手ですくっては放り投げたりと、自由気ままに遊んでいたのだが。しかし続いて母も湯船に入ったなら、洗ってもらってすっかり懐いたパティといえば、えへへと照れた顔をして寄って来て。そして母の体を背もたれにするかのように、胸の中にすっぽりと収まってきた。ボヘーっと顔は緩みきり、体からは力も魂までもが抜けた様子。

 そんな彼女に、母は聞いてみた。

 

「ねえ、パティちゃん。お父さんとお母さんのことは好き?」

 

 パティの顔に浮かぶのは、はにかんだ笑み。

 そのはにかみが、だんだんと。にっこりを通り越して、お日様のような眩しいものへと変化して。そして彼女は言ったのだ。

 

「大好きっ!!」

 

 って。

 

 

 

「だから、パティちゃんが愛されてる子供なのは間違いないと思うんだけど……でも」

「でも?」

「あの子、お風呂に入ったのって、生まれて初めてなんですって」

 

 普段は、濡らした手拭いで体を拭いているだけらしい。

 多湿な気候のせいもあるが日本人は綺麗好きな民族で、毎日のように風呂に入るのが常識だ。だが世界的に見るなら、そういった習慣はむしろ珍しいという。

 けれどそれにしたって、汗をかいたならシャワーくらいは浴びるだろう。環境的に難しいならともかく、米軍基地内にその施設がないとは思えない。

 

 風呂が初めて。その言葉に、父が考え込むような顔。

 間違いなく、愛情をいっぱいに受けて育ってはいる。けれど、生活環境が良いとは、とても言えない。なんというか、チグハグな印象。

 

 食事に関しても同じのようだ。

 昼食をご馳走したのだが。最初、出された食事を見て固まっていた。こんなに豪華な食事なんて、見たこともないと、そう言って。

 

 外人の子供が好きそうなものということで、メインはハンバーグと海老フライ。付け合せにはポテトと人参のグラッセ。後は、サラダとコーンスープにフランスパン。

 確かに、昼の食事として考えれば豪勢だ。翔太がこの家に初めて友だちを連れてくるということで、少し奮発した。

 けれど、見たこともないような豪華な食事だなんて、とても言えるような代物ではない。

 

 けれど、パティにとっては違ったようだ。

 ハンバーグを一口サイズに切って、恐る恐る口に運ぶ。と、どこかおっかなびっくりだった顔が、ぱあっと輝いた。

 

「お肉だーっ!!」

 

 美味しいー、やわらかーいと、頬を緩めて幸せそう。

 それだけじゃない。揚げた芋も甘い人参も、コーンポタージュも柔らかいパンも、サラダにかかったドレッシングも、どれこれも初めて食べる味だと一口ごとに大騒ぎ。

 海老フライに至っては、食べてもそれが何なのかがわからなかったようだ。海を知らないらしい。小さな川海老なら見たことがあるが、海にはこんなに大きな海老がいるのかと、しきりに感動していた。

 

 普段の食事はどんな感じなのかと尋ねてみれば、豆と野菜のスープに固いパンを浸して食べているという。

 野兎の肉や木の中にいる芋虫などが、食卓に上ることもあるらしい。たまにしか食べれないご馳走だとか。兎はまだしも、芋虫って。母の顔がひきつっていた。

 

 

 

「どういう暮らしをしてるのかしらね」

 

 そう呟く母の疑問も、もっともなもの。

 所謂、発展途上国などの貧しい国々だったならばおかしなところなどないだろう。けれどここは、現代の日本なのだ。

 

「あの基地って一般に開放されることもないから、中がどうなってるのかわからないんだよな」

 

 横須賀や横田などの大きい基地においては、年に数回ばかり中を見学できる一般公開日が存在している。基地の中には学校や映画館といった民間向けの施設があって、まるで一つの街のようになっているそうだ。

 しかし、あの小さな基地も同じなのかといえば、そのようなことはないように思う。まず、中にいる人間の数からして違う。

 

「小さな基地で子供の数が少ないから、学校じゃなくて家庭教師みたいな制度になっている……とか?」

「学校はそれで説明つくとしても、お風呂は? 食事は? 何だか、変な宗教みたいで怖いわ」

 

 母のその言葉に、ピンとくるものがあった。

 宗教、か。

 

「もしかして、修道院みたいな感じなのか、あの中って。カトリックの」

 

 修道院。それは、俗世間を離れて禁欲的な共同生活をおくることで信仰を深めるという、キリスト教の施設である。日本だと禅寺が同じようなイメージだろうか。

 日の出とともに生活が始まり、祈りと清掃などの労働で一日を過ごし、日の入りとともに眠りにつく。もし、基地内においてそのような生活が行われているのなら、パティのあの暮らしぶりにも説明がつく。

 

「まあ、本当の修道院だったら男女が別れてるはずだから、家族で暮らしてるっていうのもないんだろうけど。それに近い感じなんじゃないか?」

「宗教かあ。どうも、ピンと来ないわよね」

 

 多宗教であるだけではなく、神道でも仏教でもキリスト教でも何でもかんでも受け入れて、ごちゃまぜにしてしまうのが日本人。その気質からすると、一神教の禁欲的生活というものは中々に理解しにくいものではある。

 けれど、理解が出来ないからといって排除する訳でもないのもまた、日本人。

 

「確かにピンとは来ないけど、こっちの考えを押し付けるわけにもいかないからな」

「そうね。パティちゃんが嫌がってるならともかくだけど」

 

 もし嫌がっていて、普通の生活がしたいというのなら、その時には相談にのるとしよう。何が出来るかはわからないけど、やれるだけの手助けはしてあげたい。

 

「でも、うちに来たときくらい美味しいもの食べさせてあげてもいいわよね?」 

「ああ。本当の修道院みたいに外に出ることも出来ないって訳じゃなさそうなんだし。うちに来たときくらい、いいんじゃないか?」

 

 あんなに、楽しそうにしてたんだしな。

 3時のおやつのイチゴショートを食べて、また綻んでいたパティの輝くような笑顔を思い出して。2人の顔にもまた、笑みが作られるのであった。

 

 

 

 

 

 翔太の両親があれやこれやと思い悩んでいた頃。

 パティは翔太と手を繋ぎ、家路へと歩を進めていた。

 

 今日は、本当に最高の1日だった。

 お風呂に入れてもらって、美味しいものを食べさせてもらって、アニメという動く絵を楽しんで。他にも色々、生まれて初めての楽しい経験をたくさんさせてもらった。

 本当は、もっとずっと一緒に遊んでいたいけど。もう帰らないと日が暮れる時間になってしまうのが、とても残念。

 

 それにしても、ニホンの文化というものは、どれも本当に素晴らしい。辺境伯様が取り入れようとしているのもよく分かる。

 もっともっといっぱい勉強して、いつか自分の村にもいろいろと取り入れてみたいものばかり。『くるま』なんて村にあったら、農作業とかに絶対に役立つと思う。

 

 でも、今日の一番の収穫は、お風呂でも食事もアニメでもない。それは、大切な友だちの名前を、きちんと知ることが出来たこと。

 ショーターが家名じゃなくて、名前だったこと。ショーターと伸ばすんじゃなくて、しょうた、だったこと。そして、漢字では翔太と書くこと。

 本当に、ずっと勘違いしてたのが恥ずかしい。思い出しただけで、また耳まで真っ赤になってしまいそう。

 でも、間違っていたと知ることが出来た。正しいことを知ることが出来た。それがとても嬉しい。

 

 知ることは嬉しい。学ぶことは楽しい。

 新しい本も貸してもらったし、ニホンのことをもっといっぱい勉強しよう。そうすれば、もっといっぱい翔太のことを知ることが出来る。

 今日のお別れは寂しいけど、またすぐに会える。そして次に会う時は、今日より立派な自分になってみせるんだ、絶対。

 

 そう幸せいっぱい楽しさいっぱいな気分のパティだったけれど。急にその顔が、きりっと引き締まったものになる。

 目の前にあるのは、生け垣にぽかりと開いた緑のトンネル。そう、これがあったのだ。

 

 ここに来るときに通った道。そこで聞こえたあの声は一体、何だったのだろう。

 翔太には聞こえていないみたいだったけど、あれは絶対に気のせいなんかじゃない。自分にだけ聞こえて、自分の心の声にも答えていた気がする。

 

 多分、相手は人間なんかじゃない。もっと不思議で、そしてもっと怖い何か。

 この道はきっと、通らない方がいいんだと思う。この森をぐるっと回れば、時間はかかるけど、暗くなっちゃうかもしれないけど、村までは帰れるはず。

 

「パティ、どうする? ぐるっと回っていく?」

 

 翔太がそう言ってくれる。

 朝にここを通った時、パティは何だか怖そうにしていた。怯えて小さくなって、震えていた。それは翔太にもわかっている。

 なので、無理をするつもりなんてない。ここのまわりを一周したことはまだないけど、それでパティの家まで行けるならそれでもいい。

 家のまわりの広い草原を思うとここの敷地は相当に広いので、時間はかかっちゃうかもしれないけど。あ、なんなら父さんにお願いして、車に乗せてもらうのもいいかな。

 

 けれど、パティからの返事は違った。

 彼女は凛々しい顔をして、声には決意をぎゅっと込めて、言ったのだ。

 

「ううん。ここから行こ」

 

 って。

 パティにも考えがあったのだ。あの声の正体はわからない。けど、わからないからこそ、それを突き止めなければいけないと。

 これから先も、翔太が村に来ることも、自分が翔太の家に行くこともあるだろう。けどその度にビクビクと怯えて、何時間もかかる遠回りをしていくなんて出来ない。

 

 だから、お願いしてみよう。

 嫌いって言われちゃったけど、私も大嫌いだって言っちゃったけど。でも、仲良くなれるならなってみたい。友だちになろうって、言ってみよう。

 だって多分、あの声は翔太のことが好きなんだ。友だちになりたいんじゃないのかな。そして私は、翔太の友だち。友だちの友だちは、友だちになれないかな?

 ……何だか、友だち友だちと考えすぎてよく分からなくなってきた。友だちってなんだろう?

 

「大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ?」

「ううん、平気。……でも、手は繋いでいても、いい?」

 もちろん翔太は、構わない。2人で歩く時は手を繋ぐ。何だかそれが当たり前になっちゃってるし。今も繋いでいるんだし。

 

 でも。ふと、改めてパティを見てみるなら。

 いつもとは違う余所行きの服に、つやつやと輝く髪の毛に、見違えるように白くなった肌の色。

 不思議と、何だか照れくさくなって。翔太は、いいよとぶっきらぼうに返事をすると、前に立ってぐんぐんと歩き始めた。

 自分の顔を、パティからは見えないように、して。

 

 

 

 

 

 入るときに、どこからか「クスクス」という笑い声が聞こえた。

 出るときに、「やーい」というどこか馬鹿にしたような声が聞こえた。

 

 でも、それだけ。

 意外なことに、トンネルの中では何も起きなかった。来るときみたいに理由も分からず怖いという気持ちが溢れても来なかったし、蝶の姿がちらついたりしてもいない。

 本当に何も起こらず、翔太とおしゃべりなんて楽しみながら歩いていた。トンネルの中、では。

 

「……」

「……」

 

 トンネルを出た2人は、目の前の景色を見て、顔を見合わせて、また前を見て。

 

「……ねえ、パティ」

「……うん」

「……ここ、どこかな?」

「……わかんない」

 

 緑の長いトンネルを抜けると知らない場所であった。

 本当なら見えるはずの花畑も、パティの家もどこにもない。代わりに視界に入ってくるのは、石材や丸太を運ぶ人や、荷車を引っ張る馬や牛の姿。その周りには腰から剣をぶら下げた人たちも。

 それらを運んだ先ではどうやら、家のようなものを建てている様子。

 

 ぽかんと、開いた口が塞がらない。

 村はどこ? 知らない間に村中の家が全部、建て直し中? と、パティ。

 馬だっ! 牛だっ! すごいっ! けど、何でトラック使わないんだろう? と、翔太。

 

 しかしパティよ、そんなはずがないだろう。

 そして翔太、驚くところが違う。

 

「道、間違えちゃったのかな?」

「途中で分かれ道とかあったのかしら。気が付かなかったけど……」

「戻ってみる?」

 

 翔太の提案に、振り返ってみれば。

 ……あれ?

 

「ねえ翔太。私たち、どこから出てきたっけ?」

「パティ、なに言って……あれー?」

 

 振り向いた先にあるのは、森。連なるように見える限り奥までずっと続く樹々と、木が密集していないところには生い茂った下草。

 けれど、無い。たった今、通ってきたはずの緑のトンネルも。それがありそうな藪も。どこにも、ない。

 

 もう一度、正面を見る。絶賛、運搬中。そして建築中。

 どうしよう。困った。というか、何が起きているの。

 混乱する頭を抱えて、途方に暮れる2人。

 と、そのときだ。

 

「どうした、こんなところで。迷子か?」

 

 そう、かけられる声があった。

 助かった、ここがどこなのか教えてもらえると喜ぶパティ。そして、何と言われたのかがわからない翔太。その言葉は、王国の言葉だったのだ。

 

 あ、さっき向こうに見えた人だ。いつの間に、ここまで近づいてきたのだろう。

 旅人が着る厚手で丈夫な服とマントに包まれて、腰には細身の剣を差している女の人。何より特徴的なのは、少しだけ先端が尖った耳。

 

 妖精族の人だっ!!

 翔太の家で見たアニメに出ていたけど、実際に会うのは初めて。本当に、びっくりするほど綺麗なんだー。胸がドキドキ、瞳はキラキラ、感動に全身が包まれるパティ。

 あ、でも今はそれどころじゃない。お話してみたいけど、握手とかしてもらえないかなって思うけど、とりあえずセージ村までの道を教えてもらわなきゃ。

 えっと、まずは自分の名前を言って、それから……。

 

 あたふたと混乱しつつもしっかりと、今の状況をどうにかしようとするパティ。

 けれど、目の前に現れた女性の視線は、パティを捉えてはいなかった。

 

「……驚いた。君は随分と、妖精に好かれているんだな」

 

 その視線は翔太のことを見定めて、固まっていた。



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15話 素敵な出会いにありがとうを言います。

「妖精?」

 

 唐突な女性の言葉に、きょとんとした顔のパティ。妖精って、小さくて悪戯好きで不思議な生き物だっていう?

 あれ? 生き物とはまた違うのかな? どうなんだろう。

 

 お話の中にはよく出てくるけど、実際に見たことなんて無いし、見たことがあるっていう人も知らない。けどもしかして、あの声は妖精の声だったのかな。

 妖精族っていうくらいなんだから、妖精の仲間なのかな。妖精が見えるのかな。人間には見えないってだけなのかな。

 

 妖精という言葉から、色々と考え始める。迷子になっている真っ最中だというのに、パティの知りたい熱がぐんぐんと急上昇。

 何より、翔太が好かれているっていうのはどういう意味なのか、それが気になる。

 聞いてみてもいいかな、いいのかな。駄目かな、いきなり尋ねたら失礼かな。

 

 段々と、その瞳が輝き始めるパティ。

 対して女性は冷静に、表情の変わらないまま言葉を続ける。

 

「ああ、すまない。いきなりこんなことを言われても訳がわからないな。忘れてくれ」

 

 女性はゆっくりと片膝を地面について、2人と視線を合わせた。

 安心感を与えたいのだろう、それはわかる。けれども優しそうな声とは裏腹に、変わらない無表情さが少し怖い。

 銀色の長いサラサラとした髪も。積もりたての雪のように真っ白な肌も。少女のような外見に見合わぬ、深い知性を感じさせる紫色の瞳も。どれもが怖いくらいに綺麗でいて、そして何だかどこか作り物めいても見える。

 

「さて。私はこの温泉街で警備のようなことをしている者だ。君たちはここの客かね。ならば宿まで案内するが」

「温泉街? ここって、温泉街なんですか?」

 

 パティが訝しげな顔をする。だって自分たちは、温泉街から森を抜けてここにやってきたのだ。ぐるっと戻ってきたのでもなければ、別のところに出ているはず。

 それに何より、見える景色が明らかに違う。

 

 見上げるような高い建物がない。あの高さなら、ここからだって見えるはずなのに。

 道を作っているのが見えるけど、敷いているのは石畳。あの、繋ぎ目の無い一枚岩の道路はどこ?

 いっぱいに積まれた荷車を牽いているのは、馬や牛だ。どうして車で運ばないの?

 どう考えても、さっきまで過ごしていた街とは違いすぎる。ここが温泉街だっていうのなら、日本の技術はどこへ行ったの?

 

「ああ。まだまだ建築中だが、中々に立派だろう。……ということは、客ではないのか。何処の子だ?」

「あの、私はセージ村のパティです。こっちは翔太」

 

 ……立派。

 あっちで作られている街は、確かに立派ではあるけれど。それはあくまで王国の、パティにも馴染み深い範囲においてはの話。

 女性の言葉にとりあえずは返事をするも、頭の中はごちゃごちゃのパティ。

 

「セージ村……森の向こうの開拓村のことか?」

「多分、そうです。……あの、ここは本当に温泉街なんですか? 王国の辺境領の?」

 

 ここが温泉街だっていうなら。この人の言っていることが正しいなら。だったら、私たちはどこに行っていたっていうの?

 

「君の村から子供の足で来れる範囲に、他に大きな街など無いだろう? 間違いなく、ここが辺境領温泉街だ」

 

 その理屈はあってる。確かに、他の大きな街まで行こうとするなら、大人の足でも数日はかかってしまうのだ。

 けれど。だからこそ、変なのだ。おかしいのだ。

 

「ここに来るのは初めてか。近代的な町並みに驚いているのだろう。私も随分と長いこと旅をしているが、このような街は他に見たことも聞いたことも……」

 

 ふと。唐突に、女性の言葉が止まった。パティと合わせていた視線を、後ろに立っていた翔太へと再び向けて。そのまましばし、何かを深く考え込むように黙り込む。

 見つめられている翔太といえば、会話に入れずに少しばかり拗ねていた。

 

「ねえ、パティ」

「ごめん翔太。考えてるから、ちょっと待って」

 

 ……うん。やっぱり、パティから英語を教えてもらおう。除け者はつまらないや。

 

 やがて女性は一つ頷くと、ゆっくりと立ち上がる。そして、2人へと向かって手を伸ばした。

 

「パティとショータといったか。どれ、村まで案内してやろう。少し時間がかかるが、日が落ちるまでには辿り着けるだろう」

「……いいの? お仕事とかは?」

「構わんさ。迷子の子供を放っておいたりしたら、かえって雇い主から文句を言われることになる」

 

 そこで、女性の表情が初めて動いた。どこか懐かしむような、淋しげな微笑みを浮かべる。

 それは僅かな動きではあったけれど、それだけで人形のようだった顔に急に命が吹き込まれて。見惚れる2人の子供の耳には、自分の胸からどくんと一つ、強く鼓動を打つ音が聞こえてきた。

 

「それに、知りたいこともあるだろう。道中、少しばかり話をしてやろう」

「お、おねがいしますっ!」

 

 勢い良く頭を下げるパティ。

 この人の言うことが本当に正しいのか、この人についていっても大丈夫なのか、不安はあるけれど。でも、信じてみよう。さっきの微笑みからはどこか、安心させてくれるような暖かさが感じられたから。

 

 

 

 

 

「さて。とはいえだ、何からどう話したものか」

 

 太陽が西へと傾き始め、うっすらと夕暮れが色づき始めた空の下、3人はてくてくと歩を進めていた。

 前に立つのは女性とパティ。後ろに続く翔太の顔は、ふくれっ面のまま。さっきからパティが相手をしてくれない。この人が案内してくれるからついて来てと言ったきり、放ったらかされている。

 

 けれど、パティは忙しいのだ。翔太の街のことを始めとして、知りたいことはいっぱいある。

 この人が何か知っているかのような雰囲気だけど、全て話しても大丈夫なのかがわからない。何を聞くべきか、何を話すべきか、そして何を黙っているべきか。必死に頭を巡らすパティ。自然と、口数も少なくなるし、可哀想だが翔太の相手をしている余裕なんて無いのだ。

 

「あの、翔太が妖精に好かれているっていうのは?」

 

 とりあえずは、一番気になっていたことを聞いてみよう。街のこともトンネルのことも知りたいけど、翔太の身に関することが最優先。

 

「文字通りの意味だ。まれにいるんだ、妖精の姿を見ることが出来ないにも関わらず、妙に奴らに好かれる人間が」

 そう言って、視線をふくれっ面の翔太へと。

 

「この少年は特に好かれてしまっているようだな。今も、肩の上に乗っているぞ」

「好かれると、何かいいことがあるとか?」

 

 考え込むように、眉根を寄せる女性。

 

「特に無いな」

「無いんだっ!」

「あいつら、面倒なんだ」

「何か身も蓋もないっ!!」

 

 心配そうな目で、翔太を見るパティ。さっきからチラチラと視線を向けられるだけで話には入れない、翔太の機嫌がどんどんと悪くなっていく。

 

「考えても見ろ。妖精は悪戯を好むというのは聞いたことがあるだろう?」

「うん」

「つまりは、常にその標的にされるということだ。命の危険があるような悪戯はしてこないとはいえ、はっきり言ってめんどくさい」

 

 心の底から嫌そうに、女性が言う。

 

「えっと、妖精から逃げるにはどうすれば?」

「大した力を持たない妖精なら、いる場所から離れればそれでいい。ただし力を持った妖精は別だ。あいつら、どこにでも現れるからな」

 

 あははと、乾いた笑いしか出てこないパティ。

 

「妖精といえば可愛らしく聞こえるが、力を持った奴らの魔力は絶大だ。壁を越え、空間を越え、時には世界まで越えて、その無駄に高い魔力を無駄に使って無駄に悪戯を仕掛けてくる」

 

 壁からにゅうっと出てくる妖精。行った先で待ち構えている妖精。想像してみた。ちょっと怖くなってきた。

 ……でも、世界まで越えてって……それって……。

 

「それでも、自然の少ないところは居心地が悪いらしい。王都などに行けば、出て来る頻度は少なくなるな。だが、完全に逃れるには、妖精が飽きるのを待つしか無い。もしくは、妖精の好みから外れるかだ」

「妖精の好みって?」

「基本的には、意思の疎通が出来る相手を好む。この少年のように例外はあるがな。そして、反応が面白いからだろうが、大人よりは子供のほうが好まれる」

 

 ふむ、と。考えを巡らすパティ。

 なら逆に、妖精から嫌われるためには。

 

「大人になるか、妖精から見てつまらない性格をしてたら寄って来なくなる?」

「理解が早いな、そういうことだ。私もそうだが、君もあまり奴らからは好かれなさそうだ。喜びたまえ」

 

 なるほど。……ってことは、翔太が嫌われるのは難しんじゃない?

 そう、途方に暮れるパティ。だが、勉強に目覚めて理性的な考え方ができるようになってきたとはいえ、実際のところはパティも似たようなものだ。気をつけたまえ。

 

「でも、妖精に好かれないっていうのに、まるで付きまとわれたことがあるみたい。やっぱり、妖精族の人は人間とは違うの?」

「確かに、妖精族は妖精から好かれやすいのは間違いない。もともと、この世界に受肉した妖精が妖精族の起源だ。半分は同じものなだけあって、気が合うのだろう。妖精族の里には、妖精もたくさん住んでいるぞ」

 

 ……えっと。

 聞く限り、妖精とお姉さんの性格って合わなさそうなんだけど。

 

「私は、半分は人間だからな。妖精族と人間の混血というやつだ。妖精の血も四分の一は流れていることになるが、幸運なことに性格は人間に引かれたようだな」

「……なんだか、ごめんなさい」

 

 妖精族は、深い森の中で静かに暮す種族だという。それなのに彼女が人間の街にいるのはやっぱり、混血であることに理由があるのだろう。不用意に聞いちゃいけないことだったのかもしれない。

 と、パティは反省したのだが。

 

「気にするな。というか、勘違いするな。妖精族は、人間の間で言われているような種族ではない」

「……っていうと?」

「肉体を持った妖精が、妖精族だと言っただろう」

 

 つまりは?

 

「つまりは、奴らもめんどくさい。だから里から逃げてきた」

「夢が壊れたっ!!」

 

 人の入り込まない深い森の中で、自然と一体になって暮らす。そんな神秘的な種族。滅多に人前に姿を表さない妖精族は、人の間ではそう伝えられている。

 なのに、違ったのっ!?

 

「奴らが森の中に住んでいるのは、自然の精霊力がないと生きていけないから仕方なく、だ。無限の寿命を持つというのに娯楽が少ないので、数少ない仲間同士で延々と悪戯を仕掛けあっている、性質の悪い種族だ」

「……そうだったんだ……知りたくなかったかも」

 

 世の中には、知らなくてもいい真実なんていくらでもある。翔太の名前順の勘違いを知ったときにも、似たようなことを考えたっけ。

 パティが遠い目して上を見る。お空、青い。

 

「あ、でも。妖精族の住む森に立ち入った人間は二度と帰ってこない。捕まって殺されるっていう話は?」

「ああ、それは退屈しのぎの大歓迎の宴が終わらないから戻ってこないだけだな」

「どんだけ長く飲んでるのよっ!」

「飽きるまで、だ。私の父の歓迎会も、そろそろ1000次会くらいになるんじゃないか?」

「3桁くらいおかしいんだけどっ!!」

 

 ゼイゼイと息をつく。突っ込みが追いつかない。

 

「お姉さんが生まれて大きくなって、人間の街に来て、それでもまだ歓迎会が続いてるの?」

「まあ妖精も妖精族も、奴らは時間という概念が希薄だからな。人間も、妖精族の里にいる限りは、ほぼ年を取らないし」

 

 えっ、そうなんだ。もう何でもありね、妖精も妖精族も。

 ……もしかして。妖精の国に行って帰ってきたら何百年も経っていたみたいな昔話って。

 

「ああ、その話か。あいつは結局また里に戻ってきて、それなりに楽しくやってるぞ」

「まさかの知り合いだったっ!!」

 

 ああもう、なんか疲れた。話を聞いてるだけなのに、すごい疲れた。

 それはさておき、話をまとめると。

 

「お姉さんは妖精から好かれてるわけじゃないけど、血が近いから付きまとわれたってこと? 大変だったんだね」

「いや? あいつら、私には寄ってこないぞ。……ああ、説明の途中で脱線していたか。すまんな、話をするのは得意じゃないんだ」

「あ、いえ。じゃあ、付きまとわれてたのって?」

 

 あ、またあの顔だ。

 何かを懐かしむような、そんな表情。

 

「昔のことだ。草原で野営をしていたら、子供の泣き声が聞こえてきた」

 

 とつとつと語る。

 ゆっくりと、その時のことを思い出して。

 

「死霊か何かかとも思ったのだがな。声の方へと行ってみると、男の子が1人いたんだ。今の君と同じくらいの年だったろうか」

 

 優しい表情。

 なんとなくわかった。この人にとって、大切な思い出なんだ。

 

「その子の周りでは、力を持った妖精が囃し立てるように舞っていた。妖精は、旅人を惑わして道に迷わせる。その子も、迷わされたんだ」

 

 眉をしかめてそう言う。……ああ。この人、別に感情が薄いってわけじゃないんだ。

 声の起伏はあまりないし、表情もそんなに動かない。でも、少し見てればわかる。とっても感情の豊かな人なんだって。優しい人なんだって。

 

「その子は遠いところから連れてこられていた。言葉も違う、文化も違う、何もかもが違う、本当に本当に遠いところから。捨て置けなくてな。少しの間、共に旅をした」

「なるほど。そのときに、妖精に付きまとわれたのね」

「そうだ。せっかくうるさい里を出てきたというのに、あれやこれやと面倒を仕掛けてきてな。まったく、騒がしい旅だったよ」

 

 でも、わかる。

 それが、とても楽しい思い出なんだって。

 

「ねえ、今はその子、一緒じゃないの?」

「ああ。彼が1人で生きていけるようになった時、別れたよ」

 

 その理由は、何となくわかった。

 この人が一体、どれくらいの時を生きているのかは知らないけど。でも、人とは生きる時間が違うんだ。

 その子が大人になっても、おじいさんになっても、この人は同じ姿のままなんだ。

 

「……ねえ。もう誰かと一緒には旅をしないの?」

 

 答えも、何となくわかっていた。

 

「私は、1人でいるのが好きなんだよ」

 

 そう、寂しそうに笑う姿は。

 それでも、とてもとても綺麗だった。

 

 

 

 

 

「さて、そろそろ村に着くが」

 

 空からお日様の残滓が消え去り、闇の帳が降りようという時間。3人は、ようやく目的地まで辿り着いた。

 背後には暗い森。目の前には虫除けの花畑。そしてその先に広がるセージ村。既に家々の大半は眠りについているようだが、一軒だけ明かりの灯っている家が見える。パティの家だ。彼女の帰りを待ってくれているのだ。

 心配させちゃった。きっと、怒られちゃうな。でも不思議と、それがとても嬉しく思う。

 

 と、その時。どしんどしんと、大げさに立てる足音が背後から聞こえてきた。

 翔太が、森へと向かって歩いている。怒っているんだとアピールしながら歩いている。先にあるのは、今は姿を表している緑のトンネル。暗闇の中だというのに、うっすらと輝いて見えている。とても不思議な光景だが、何故だか今はもう怖くない。

 

 入口まで無言で歩いていた翔太が、勢い良く振り返った。そして思いっきり、あっかんべー。これでもかと舌を出し、敵意を丸出しで睨みつけてきて。そして踵を返すと、トンネルの中へと駆け出していった。

 

「……あの子は、自分の意志で帰れるのか?」

「うん、そうみたい。私も行けたよ」

 

 パティの言葉にひどく驚き、そしてどこか諦め顔。

 まったく本当に、どこまで自由で勝手で理を無視した存在なんだろうか、あいつらは。

 

「どうやらあの子についているのは、よほどの力を持った存在のようだ。それはさておき、さっきのは君へと向けたものではないな。どうやら、君を独り占めしていたのが気に障ったらしい」

 

 思い出の中の誰かと、姿が重なったのだろうか。口元を僅かにほころばせながら、優しそうな声。

 

「2人で私へと向けて、全く同じタイミングで舌を出していたよ」

 

 かつても、同じように舌を出されたことでもあったのだろうか。

 ころころと笑うその様子は、見た目通りの少女の、綺麗で可愛らしい姿だった。

 

「私も、妖精が見えるようになるかな」

「あの子は無理だ。目がそういうふうには出来ていない。けれど、君なら見えるようになるだろう。そこにいると、認識さえしてしまえば妖精は見える。……だけど、面倒だぞ?」

「いいの。きっと、そのほうが翔太の役に立てるから」

 

 そうか、と。また、ころころと笑う。

 

「私の名はラニという。パティ、今日は楽しませてもらった。しばらくはあの街にいるから、何かあったら尋ねてこい」

「うん、ありがとう。きっと行くと思う。……けど、旅には出なくていいの?」

「実は少し前にな、例の少年と再会したんだ。もうすっかり、爺になっていたけどな。……あいつがくたばるまではまあ、ここにいるさ」

 

 その顔が、優しすぎて。そしてどこか、悲しすぎて。

 つい、聞いてしまった。

 

「ねえ、ラニ。……寂しい?」

 

 返事は、ゆっくりと首を振るもの。

 

「別れがあり、また出会いがある。あいつの街でパティと出会えたことも、妖精の導きってやつなのかもしれないな。面倒な奴らだが、稀に良いこともする」

 

 そう言ってラニは、パティに背を向けて。

 後ろ向きに手を振りながら、暗闇の中へと歩き去っていった。

 

 その姿をしばらく見送り、パティは家へと歩き出す。

 今日は、本当に色々なことがあった。ありすぎた。家族へのお土産話も山ほどある。そして、話せないことも山ほどある。

 

 ラニから聞いた話で、大体のことがわかった。わかってしまった。

 翔太のことも、翔太が住む街のことも。きっと、そういうことなんだろう。

 

 そう考えると。本当にあの出会いは、どこまでも奇跡のようなもの。いや、奇跡そのものだったのだ。

 翔太と出会えた。その感謝を神へと捧げようと……して、思い直して。

 振り返ったパティは一言、森へと向けて。ありがとうと、呟いた。



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3章
16話 男の子は決意する。


 帰宅したパティは、案の定に怒られた。

 こんな時間まで一体、何をしていたんだと。仁王立ちで問い詰めてくる父の目が怖い。だけどまあ、それも仕方のないこと。普段ならとっくに床についているはずの時間なのだし、何よりパティは女の子なのだから。身に降りかかるかもしれない危険の種類は、男の子よりも多いのだ。

 

 ごめんなさいと謝るパティには、見えていた。父の怒った顔の下からチラリチラリと、気遣うような心配顔が見え隠れしているのが。

 

「ちょっと、道に迷っちゃったの。でも、温泉街の警備の人に送ってもらえたから、平気だったよ」

 

 考えていることがまるわかりの父を、安心させてあげよう。まさかと考えていることなんて、何もなかったと教えてあげよう。

 

「警備……男か?」

「すっごく綺麗な女の人っ!」

 

 駄目だ、変なスイッチが入っちゃってる。

 

「ほら、あんたはまた、馬鹿なこと言ってんじゃないの。それにしてもパティ、随分と見違えたねぇ。どこのお嬢様かと思ったよ、あたしゃ」

 

 母が目を細め、パティへと手を伸ばす。ツヤツヤでサラサラになったパティの髪に指を通してみればするりと、流れる水のように指の間からこぼれ落ちた。

 

「あんたの髪って、こんなに綺麗だったんだねぇ。それにこの服、いただいたのかい?」

「うん。女の子がいないからいらないんだって。あんまり上等だから遠慮したんだけど……」

 

 もらっちゃいけなかっただろうか? 不安そうに顔を伏せ、上目遣いに母を見つめてみる。

 一応、言ったとおりに、一度はパティも断ったのだ。こんなに高そうなものをいただく訳にはいかないと。けれども、いいのよいいのよと、押し付けてくる母親パワーには勝てなかった。

 それに、正直に言ってしまうなら、パティもこの服が欲しかった。欲しくて欲しくて、仕方がなかった。だってこの服だったら、翔太の横に立っても見劣りしないし。

 

「んー……普通だったら、受け取るべきじゃないね。いくらなんでも仕立てが良すぎるし、値段の想像もつかないよ。後から色々と言ってきそうで怖いね」

 

 少し真面目な顔で、母が言う。

 けれどその表情ををくるりと、仮面を裏返すように変化させた。

 

「けどまあ、いいんじゃないかい? これまでにも色々ともう貰っちまってるんだ。今更さ」

 

 むしろ、断ることで相手の機嫌を損ねる方が怖い。せっかく気に入られてるようなんだから、精一杯に綺麗にしてアピールしないとね。

 

「着ていった服はどうしたんだい?」

「あ、この中に入ってる」

 

 翔太の家でもらった、持ち手のついた袋を掲げてみせる。

 袋を見たセリムが、まだどこか諦めたような目をした。袋の材質は、例によって紙だ。村で使われてる、布や草を編んで作ったものとは違う。村の基準では、これだけでちょっとした財産だ。

 ついさっきまでのパティも、同じように思っていた。でも今は、違うとわかる。きっと、翔太たちにとっては安いものなんだろう。トンネルの向こう側に関しては、今の自分の常識なんて捨ててかからなければならない。文字通りに、違う世界のことなのだから。

 

「それにしてもね。この服だってうちじゃあ上等だってのに。こんな服なんていったい、いつ着ればいいんだろうね」

「翔太の家に行くときに着ていくよ」

 

 ああ、それがいいだろうねと、パティの言葉に納得する母。いただいた服だってんなら、着ていっても失礼にはあたらないだろうからね。

 

「……いろいろ良くしてもらったみたいだけどな。それにしたって、こんな時間になるまで連れ回すなんて、俺は納得いかん。ちょっと、向こうまで行って文句をつけてくる」

「やめてよ、お父さんっ!」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で、家を出ようとする父。それを恥ずかしいからとパティが止め、さらに頭をパコンと母の平手ではたかれる。

 まあ、どうやったところで、翔太の家には辿り着けないんだけどねと。パティは心の中で舌を出した。

 

 

 

 温泉街のこととか、ショーターの家のこととか。他にも色々とと聞きたいことはあるけれど、もう遅いから明日にしましょう。そういう母の言葉で、今日のところは寝ることに。

 

 村でいつも着ている服に着替え、ベッドに入るパティ。薄手の布団を頭の上まで引き上げて、ゆっくりと目を瞑る。

 今日は本当に楽しかった。それでもって、とっても疲れた。

 明日、温泉街のこととか、どういう風に説明しよう。あの街は結局、遠くからちらっと見ただけだし。日本のことは上手く話せそうもないし、何か考えておかないと。

 

 他にも、明日からはやることがいっぱいだ。とりあえず、妖精が見えるように練習しないといけない。上手くいかなかったら、ラニに相談してみようかな。

 色々と考えてみるものの、だんだんとそれを拾い上げれなくなっていく。意識が遠ざかっていく。

 ああ、もう駄目。おやすみ……なさ……

 

「……あっ」

 

 ああ、大変。

 大事なことを忘れていた。

 

「……じてんしゃ、乗せてもらうの……わすれて……」

 

 呟きが最後まで紡がれることはなく。

 パティの意識は、幸せな眠りの中へと誘われていった。

 おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 一方の、翔太である。

 彼は自室の勉強机に向かい、一冊の本を開いていた。

 

「まい、ねーむ、いず、しょうた」

 

 手にしているのは、小学生向けの英語の教材。

 パティちゃんと話せるようになれるといいなと、父が買ってくれたもの。

 

 彼は燃えていた。

 せっかくパティと2人で楽しくやっていたというのに、それを邪魔した憎き相手。

 あの綺麗なお姉さんに、負けるわけにはいかないと。

 

 道に迷った自分たちを、案内してくれたというのはわかる。それはとてもありがたい。

 けどだからって、パティとばっかり話さなくてもいいじゃない。

 

 もしかしたなら、あの美人さんは日本語が話せなかったのかもしれない。

 けどだったら、パティが通訳してくれてもよかったじゃない。

 

 僕をのけ者にしなくたって、いいじゃないかっ!

 

 翔太は激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬ。

 なので次に会うときには、思い知らせてやらなければならぬのだ。僕という存在を、見せつけてやらなくてはならぬのだ。

 

「はう、あー、ゆー」

 

 と、いうことで。一生懸命に、英語の練習に励んでいる訳である。

 例えパティが間に立ってくれなかったとしても、僕が英語を話せるようになれば問題ない。

 

「あい、きゃん、すぴーく、いんぐりっしゅ」

 

 英語さえ話せれば、2人が話しているところに入ることだってできる。

 パティともっといっぱいお話しできる。

 そして、あのお姉さんに言ってやるんだ。僕も仲間に入れろって。

 

 あの、銀色の髪をした美人さんに。

 あの、お人形さんみたいに綺麗な人に。

 あの、とっても素敵で、でもちょっと悲しそうな笑顔に。

 

 あの……あの……。

 

「……あの人、綺麗だったなー」

 

 お姉さんのことを考えていたら、自然とそんな言葉が口からこぼれた。

 翔太の口元には、どうしてだろうか微笑みがつくられて。

 そして何故だか、頬は照れたように赤く染まっていた。



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17話 お姉さんは愕然とする。

「そこにいるのはわかってるのよっ! 出てきなさいっ!!」

 

 静かな森の中、パティが叫びを上げた。

 びしりと、突き刺すように伸ばされた右手の指先。それがぶるんと振るわれて、茂みの奥を指し示す。そのまま、指差しポーズで待つことしばし。

 風が涼しげに通り過ぎていく。だが、何も起こらない。

 鳥がチュンチュン鳴いている。けれど、何も出てこない。

 

「なら、そっちねっ!」

 

 切れよくターン、反対を向いたパティが今度は左手でずばっとポーズを決める。

 反応はない、ただの藪のようだ。

 

「……むー。こっちかっ!」

「残念、後ろだ」

「うひゃあうっ!!」

 

 さらにステップを踏んで、正面の草むらへと向き直ろうとしたときに、唐突に。真後ろのすぐ近くから、耳元にささやきかけるように、言葉がかけられた。

 後ろに気配なんて何もなかった。いつの間に近づいてきてたの?

 一体、誰? あ、もしかして。ついに現れたのね……って、違う。この声は。

 

「ラニっ!」

「ああ、パティ。しばらくぶりだ。ところで一体、君は何をしているんだ?」

 

 不思議そうに、ラニが尋ねる。

 あの夜に村まで案内してもらったときと変わらない、同性だというのに見とれてしまう整った顔。それでいて、人形のように乏しい表情。それでも、その顔がどこか満足気そうにも見えるのは、不意打ちでパティを驚かせることができたからだろうか。

 

 そういえば。この人にも、妖精の血が混じっているのよね。悪ふざけの相手をするのが面倒で、里を飛び出したとか言ってたけど。なんだかんだでラニも結構、悪戯が好きなんじゃないの?

 思わず、そんな疑念を抱いてしまう。

 

「妖精、探してたの。私だったら見えるようになるって言ってたでしょ。ラニはどうしてここに?」

「言っただろう、警備のようなことをしていると。この森も私の管轄だ。妖精が変な奴がいると騒いでいるのでな、様子を見に来たのだが」

 

 ラニの表情が動く。どこか呆れたように。それでいて、少し楽しそうに。

 妖精が見えるようになりたいからといって、ああいう手段をとるとは。なかなかに自由な、いや自由すぎる発想が感情をくすぐる。

 この子は自分と同じく、妖精には好かれない性格だと思っていたのだが。わりあいと、そうでもなさそうだ。

 

「まさか、君だとは思わなかったぞ。なかなか面白いことをしていたな」

「うー。恥ずかしいとこ見られたぁ!」

 

 耳を赤くして口をとがらすパティ。

 その反応に、ラニはころころと笑っている。

 

「まあ、そう拗ねるな。君の指差した先には妖精はいなかったが、周りで見物はしていたぞ。道化になれば寄ってはくるだろう」

「道化って。それ何か嫌だ」

「私もお勧めはしないな。ところで、何かあれば訪ねてこいと言っただろう。見えるようになりたいのなら、私に相談しようとは思わなかったのか?」

 

 その言葉に、ちょっと困ったように眉根を寄せるパティ。もちろん、それは真っ先に考えた。どうやったら見えるようになるのかなんて、見当もつかないのだし。

 それでもやるだけやってみようと、試行錯誤した結果が先程の面白行動なのだ。まさか見られてしまうとは。

 

 それならば、何故に会いに行かなかったのかといえば。理由は単純なものだったりする。

 何気に遠いのだ、温泉街。

 

 森を迂回して街へと辿り着くまでに、急いでおよそ2時間。往復で4時間。滞在時間も考えれば、半日ばかりがつぶれてしまう。

 これだけの時間は、村の仕事を抱えているパティには少々厳しい。翔太が会いに来てくれた日は一日ずっと遊ぶことが許されているけれど、普段の日はそんなことはない。せいぜい、頑張って仕事を切り詰めても、自由時間は3時間もとれれば良い方だ。

 

 それに、理由はもう一つ。

 治安は悪くないとはいえ、女の子一人でこの距離を出向くのは少しばかり躊躇ってしまう。父さんに同行を願えばついてきてくれるとは思うけど、ついでに翔太の家に挨拶に行くとか言われてしまうと困ってしまう。

 

 ちなみに、翔太の家に関してだが。温泉街の奥の奥、立ち入るのに気後れしてしまう場所に建てられた、魔法と区別がつかない不思議技術だらけのお屋敷だった。そう、家族には話してある。

 火とは違う熱くない明かりに照らされた家の中、お芝居をする動く絵が映し出される箱やその他、これまた謎の道具がいっぱいある家。さらには広々とした個人用温泉も完備されているのだ。

 うん、嘘は言っていない、嘘は。多分。

 

「森の中を通れば良いではないか。往復で2時間、用事に1時間。合計3時間でちょうど良い」

 

 パティからつらつらと、会いに来なかった理由を説明されたラニがそういう。

 けれどパティの顔は、渋いまま。

 

「森の中は、貴族の人たちが散歩しているときがあるから、通るなって言われてるの」

「ふむ」

 

 平民を見かけたからといって難癖をつけてくる貴族もそうはいないと思われるが、用心するに越したことはない。身分の低い側に抵抗する術などないのだから、最初から機会を作らないならその方が良い。

 変態貴族に目をつけられて、可愛いパティが攫われでもしたら後悔しても仕切れない。これは子煩悩が過ぎる父の言い分だが、その気持ちもわからなくはない。

 

「ならば、これをやろう」

「これって?」

 

 ラニが懐から取り出して、パティへと差し出してきたのは、何やら初めて見るものだった。

大きさは手の平に収まるくらい。材質は木だろうか、全体が黒く塗られているのでよくわからない。継ぎ目があるから、箱のように中に何かが入りそう。そして、何やら絵が描かれている。

 丸の中に3つ、矢尻のような葉っぱのような角の丸い三角が、頂点を突き合わせる形で収まっている。これ、どこかで見たことがあるような、ないような……。

 

「あっ!」

 

 眉根を寄せて、しばし考える。

 ぴんと、思い出したとき、漏れ出てきたのは驚愕の声だった。

 

「これ、辺境伯様の紋章じゃないっ!!」

 

 間違いない、父さんから教えてもらったことがある。

 

「そうだ。やっかいな貴族に絡まれても、これを見せれば問題なかろう。まあ、通行証みたいなものだな」

「でも、領主様の紋章を勝手に使うなんてっ!」

「勝手ではない。私はあの街を守護しているといっているだろう。私の判断でこれを誰かに渡す権限はある」

 

 あ、何か得意気だ。だんだんと、ラニの無表情から感情を読み取れるようになってきたパティ。

 けれど、ラニの言っていることが本当だとしても、ちょっと怖い。こんなの持つなんて身に余る。

 

「私、ただの平民だよ?」

「知っているが?」

「……何で、ラニは私に良くしてくれるの?」

 

 パティの言葉に、そんなの決まっていると答えようとして。そこで、ラニの動きが固まった。

 右手の指先をあごに当て、瞳を閉じて。しばしの間、何かをじっと熟考する。

 やがてその眼が再び開かれたとき。彼女の顔は、驚愕の色に染まっていた。

 

「……大変な事実が発覚してしまったぞ、パティ」

「どうしたの?」

「理由を考えていて、気がついてしまった。どうやら、私は」

 

 重々しく、そして何か大きな悲しみに耐えるように、宣言。

 

「どうやら私は、君があれやこれやと迷走するのを見て、楽しんでいたようだ」

「酷いっ!」

「まったくだな。これでは里の皆と、そう変わらないではないか」

 

 思えば、かつてあの少年と旅していたときも、そのように感じていたのだな。なるほど、それ故にあの旅が強く心に刻み込まれているのか。

 ふむ。私もやはり妖精の血を引く者であったか。

 しみじみと。まじめな表情でそう語るラニに、やっぱりそうなんじゃないと冷たい視線を向けるパティであった。

 

 

 

 

 

「だが、私が君のことを好ましく思っているのは事実だ。また顔を見せに来い」

 

 衝撃の告白からしばらく。そう言って、ラニは去って行った。

 後に残されたのは、どっと疲れたパティの姿。

 

 綺麗で素敵なお姉さんだとばかり思っていたけれど、予想外に困った人だった。

 けれどまあ。まだ会ったばかりの短いつきあいには違いないけれど、パティも既にラニのことが大好きだし、とても頼りにもしている。

 それに早速、妖精の見方のコツを教えてもらったのだし。少しくらい遊ばれるのは仕方がないと、大目に見よう。

 

 ラニが言うには、こうだ。

 まず、視界に入る景色を覚える。次に目を閉じる。まぶたの裏で、さっき見た景色を思い出す。そしてその中で、妖精がいる姿を想像する。

 そうすることで、妖精の気配的なものが徐々に察知できるようになっていくそうだ。やがてだんだんと、ただの想像だったものが現実味を帯びていき。ついにまぶたの裏の姿と現実の妖精が一致したとき、目を開けてもその姿が見えるようになるとか。

 

 正直、うさんくさい。けれどまあ、ラニのことだ。嘘は言っていないだろう。天然でぼけている可能性は否定できないけれど。

 そういう訳で、それからしばらくのパティの自由時間は、妖精を見る練習に当てられることになった。

 村の中よりも自然の中の方が、妖精がたくさんいるらしい。なので、場所は森の中。もしくは、虫除けの花畑で。

 

 自然の中に座り込み、じっと目を閉じる。端から見れば、まるで瞑想でもしているかのよう。

 そして時折、くわっと目を見開く。そしてまた閉じる。

 

 閉じて、くわっ! 閉じて、くわっ! また閉じて、くわわわっ!!

 村の人たちは、森を見て座り込んで何をしているのかしらねと、不思議顔。あの子を待ってるんじゃない、きゃー。そんな風に、パティは本人の知らぬ間に、井戸端会議で時の人になっていたり。

 

 時折、こっそり見つからないように、ラニが覗いていたりもする。

 そして、くわっとしているのを見て、満足気に帰って行く。ちょっと口元が緩んでいる。

 

 そんな風に、数日が過ぎて。

 

 

 

 閉じて、くわっ! 閉じて、くわっ!

 また閉じて、くわわわっ……あっ。

 

 何か見えた。

 不思議そうな顔で、こっちを見ている男の子がいた。

 

 その子の顔が、不思議顔から変化する。

 にいっと口元を歪ませて、どこか見ていると腹が立つ得意顔に変わっていく。

 

「はい、パティっ! まいねーむいず、しょうたっ!!」

 

 っていうか、翔太だった。

 翔太が近づいてきて、謎の呪文を唱えてきた。

 

「ハイ、ショウタ? マイネームイズ、パティ?」

 

 とりあえず、よくわからないままに真似をしてみる。

 なんか、ますます得意気になっていくのが妙にむかつくわね。

 

 翔太の肩の上では、なんか変な生き物がケラケラと、お腹を抱えて笑い転げている。

 背中から蝶の羽の生えていて、背の高さは15㎝くらい。生意気そうな顔で、こっちを指差して笑っている。

 

「なにこれー、この状況なにこれー。こいつらおもしれー」

 

 もしかして。これ、妖精?

 っていうか、見えてるじゃないの。言ってること聞こえてるじゃないの。

 

 ケラケラと笑う、おそらく妖精。

 彼だか彼女だかは、翔太の上で転がって。地面の代わりに肩をばんばんと叩いて、涙を流して笑い続けている。

 それを見ていると、だんだんと腹が立ってきて。

 

「はう、あー、ゆー?」

「あったまきたっ!!」

 

 思いがけないパティの返事に、翔太が涙目になっていた。



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18話 少女の怒り心頭に発する。

 急に眉間にしわを寄せて、大きな声で怒鳴りだしたパティにびっくりする翔太。

 何て叫んだのかは良くわからなかった。英語の勉強は始めたばかり、聞き取りなんてまだ練習してない。でも、怒っていることだけは良くわかる。けれど、なんで怒ったの?

 

 翔太の瞳が、じわりと涙で湿っていく。男の子なのに恥ずかしい。でも、その気持ちも良くわかる。

 怒られるなんて、想像もしていなかった。翔太としては、英語の勉強始めたんだ、頑張ってるんだねって。そう、褒めてもらえると思っていたのに。

 それがまさかの反応だ。予想だにしていなかったリアクションだ。

 

 でも、何がそんなに気に入らないの? はうあーゆー、ご機嫌いかがって、お約束の挨拶なんじゃなかったの?

 それとも、本に書いてあるのが間違ってた? 実はとっても失礼な言葉だったりとか?

 

 あ、もしかして。発音が悪くて、何を言っているのかわからないから怒ってるとか。

 そうだとするなら、パティは酷い。パティだって日本語の勉強を始めたばかりの頃は、発音が変だったったじゃない。猫のこと、ぬこって呼んでいたじゃない。

 そりゃあその後、あっという間に話せるようになったけどさ。その辺り、パティはすごいと思う。とっても頭が良いとは思う。でもだからって、そうじゃない人を馬鹿にして良い訳ないじゃないか。

 

「パティ、酷いよ」

 

 結論。パティが悪い。

 だから抗議の意思を視線に乗せて、じっとりとパティを睨みつける。睨み返されたらと思うと、ちょっと怖い。

 けど、僕とパティは友達だ。友達っていうのは、仲間なんだ。楽しいときは一緒に遊んで、悲しいときは一緒に泣いて。そして仲間の誰かが間違えたときには一緒に間違うのではなくて、正しい方へと案内してあげる。それが、友達。先生も父さんも、アニメのヒーローもそう言ってる。

 だからここは勇気を持って、パティに文句を言わなきゃいけないところなのだ。強い言葉で一刀両断、その思い上がりを斬るっ!

 

「僕の英語はまだ下手くそだけど、だからって怒んなくてもいいじゃん」

 

 う、ちょっとへたれた。

 もうちょっと強気に言うつもりだったけど、まあいいか。僕が怒っているんだと伝わったみたいで、パティがあたふたし始めたから。

 これでごめんって言ってくれれば、話はそれでおしまい、仲直り。後は英語の勉強をしよう。どこが悪かったのか、怒らせちゃったところも聞かないと。

 けれど、パティが慌てたように言い出したのは、これまた予想外の言葉。

 

「ち、違うのっ! 今のは翔太に言ったんじゃなくて」

 

 ん?

 僕とパティしかいないのに。それじゃ、誰に言ったっていうの?

 

「えっと、今のは……今のはね……」

 

 言葉の途中で、パティが何やら考え込む。

 あれ? 妖精のこと、翔太に言っても大丈夫なのかな?

 

 ちょっと整理してみよう。

 まず、翔太は妖精を見たことがない。ラニが翔太には見えないって言ってたし。多分、間違いないと思う。 では、妖精が存在することは知ってるの?

 

 ここが問題だ。

 トンネルのこっち側、私たちは妖精がいることを知っている。セージ村の人たちで妖精を見たことある人なんていないけど、皆いるのが当たり前だと思ってる。

 でも、向こう側は?

 もし、妖精なんていない世界だったとしたら。今のは妖精に向かって言ったんだなんて、信じてもらえないかもしれない。だったら別の上手い言い訳を考えた方が良い?

 

 けど。嘘つくのは、嫌だなあ。

 それに、今も翔太の肩の上でケラケラ笑ってるこいつは、あの街に行ってるってことよね。あそこまで遊びに行って、そこで翔太を見つけて気に入って、こっちまで連れてきたのよね。

 だったら、見えなくても。いることくらいは普通に知っているのかな?

 ああもう、わかんないっ!

 何かない? 向こうでも妖精がいるっていう証拠みたいの、何かない?

 

 左右のこめかみに両手の人差し指をそれぞれ当て、深く考え込み始めるパティ。それを翔太が、じとっとした眼で見つめている。

 彼から見れば、じゃあ誰に言ったのという問いに、答えられずに悩み始めたパティなのだ。必死に言い訳を考えているようにしか見えない。

 

 風の音と鳥の鳴き声。それしか聞こえない静かな空気の中、黙り込んでしまったパティ。空気が重い。

 パティには、加えてケラケラと笑う声が聞こえている。うるさい。

 

 笑い声を聞いてイラッとして、じと眼の翔太を見て焦って。どうしよう、どうしよう。考えがまとまらない。なんだか目がぐるぐると回り始めたパティ。

 もう、しょうがない。正直に言おう。もし信じてもらえなくても、なんとか説明してみよう。きっと大丈夫。きちんと説明すれば、きっと翔太はわかってくれる。頭ごなしに全否定なんて、翔太だったらきっとしない。

 

 だって、ほら。翔太は優しいもん。たまにちょっと意地悪だけど。

 当然よね、翔太のお父さんもお母さんだって、あんなに優しんだから。だからあの二人に育てられた……。

 

 その時、ひらめくものがあった。パティの頭の上に、ピコーンと電球の絵が浮かぶ。

 そうよっ! あの家に行ったときにことを思い出してみれば、ヒントがあったじゃないのっ!

 

 あのとき見たアニメ、そこに出ていた主人公パーティ。

 別の世界から召喚された少年勇者。辺境の村出身の格闘家の女の子。謎のお爺さん魔法使い。そして、妖精族の魔法剣士のお姉さん。

 あれは、お芝居。でもお芝居になってるくらい何ですもの、あっちの世界にも妖精族がいるってことよね。そして、妖精族がいるんだったら、妖精がいたっておかしくない。

 つまり、翔太に妖精のことを話したって平気ってことっ!

 

 完璧。

 完璧な推理だわ。自分が怖い。

 

「翔太、さっきのは翔太に怒ったんじゃないの」

「じゃあ、誰に言ったのさ。他に誰もいないのに」

 

 不貞腐れる翔太に、にやりと笑うパティ。

 そしてパティが伸ばした人差し指で、翔太の肩の上の空間を指し示した。勢いよく、ちょっと芝居がかった動作で。

 

「それは、翔太の肩の上にいる。そこにいる、妖精へと向かってよっ!」

 

 決まった。

 翔太から見て半身になり、指を突き出したポーズ。論破とか、エフェクトが流れていきそうな勢いだ。

 

 翔太、それを見て、それを聞いて、しばし固まる。

 そして目を瞑って、眉間を親指と人差し指で挟むように考え込むポーズ。

 やがて動き出し。その手でポンと、パティの肩を叩いて曰く。

 

「ねえパティ。僕、流石にそれはないと思う」

 

 え?

 私、失敗した?

 

「よ、妖精は、いるのよ?」

「うんうん。わかったよパティ。でも、もうちょっとこう、ね」

「なによーっ!」

 

 翔太の、一見すると優しい視線。

 でもどこか、生暖かいような。可哀想なものを見ているような。そんな雰囲気。

 

「いるんだからねっ!!」

 

 はいはい、いるよね。きっとどこかにいるよね。いるといいよね。半笑いでからかうように受け流す翔太を、今度はパティが拗ねた視線で見つめていた。

 ケラケラとお腹を抱えて笑う妖精に対しては、殺意すらこもった視線を向けて。ああ、憎しみで妖精が殺せるなら。今に見てろよ、おまえ。

 

 

 

 

 

「いるんだもん。見えるんだもん」

 

 困った。パティが拗ねた。

 でもなんか、さっきまでの嫌な空気がどこかへ飛んで行っちゃったから、正直ちょっとありがたい。

 パティは結構、怒りっぽい。なんだかいっつも怒っている気もする。別に嫌な怒り方じゃないし、そんなパティも可愛いけど。でもそれでもやっぱり、楽しそうなパティの方が僕は好きだ。

 

 僕もなんだか、嫌だった気持ちがどうでも良くなっちゃったよ。

 パティが怒った理由は結局わからなかったけど、どうやら僕のせいではないみたいだし。少なくとも、僕に怒鳴っちゃったことは反省してるみたいだし。だからもう、この話はおしまいでいいや。

 

「ところでさ。僕の英語、どうだった?」

「英語?」

 

 話題を変えるために、聞きたかったことを尋ねてみる。

 上手く発音できてたかな? あんまり通じてなかったみたいだし、やっぱりまだまだ下手くそなのかな。

 

「英語って?」

「英語とすら分からなかったのかあ、ちょっと悔しい。ほら、さっき言ってた『まいねーむいず』とか『はうあーゆー』とか」

「あれ、英語っていうんだ。どこの国の言葉なの?」

 

 ……あれ?

 

「えっと、パティが話してる言葉って、英語じゃないの?」

「違うよ? この言葉はね、王国語って呼ばれてるの」

 

 何か、本当はもっと別の名前の言葉だった気がするけど。王国を中心に使われているから通称、王国語。

 ……そっか。翔太に王国って言っても通じないんだ。っていうか、翔太は自分が今どこにいると思ってるんだろう?

 違う世界にいるっていうのはわかってる? それとも前の私みたいに、まるっきり気がついてなんかいない?

 英語っていうのを話す国なんだと思っているようだし、多分これは気がついてないわよね。

 

 一回、きちんと話し合わなきゃ駄目ね、これは。

 異世界とか上手く説明できる自信はないけど、ああいうアニメがあるくらい何だから、翔太だったらあっさり理解してくれそうな気もする。

 でも、いまとりあえず。それよりも先に、聞いておきたいことが出来た。

 

「……ねえ、翔太。私が普段使ってる言葉、話したいの?」

「うん、そうだよ」

「じゃ、じゃあ、教えてあげる。だけど、どうして? どうして、話せるようになりたいの?」

 

 本当は。聞かなくっても、わかってるけど。でも何故だろう、翔太の口から言ってほしい。

 私が一生懸命に日本語を勉強したのは、翔太と話せるようになりたかったから。

 だから、翔太が王国語を話せるようになりたいのだってもちろん、同じ理由だよね。

 友だちと、おしゃべりできるようになりたい。もっと、大事な友だちのことをよく知りたい。

 ……私と、私がいつも話している言葉で、会話してみたい。そういうことだよね。

 

 なんだか、うれしいな。

 私が翔太を大事に思っているように、翔太も私のことを大事に思ってくれている。

 大切な、大切な、ともだ……

 

「この間、お姉さんに道案内してもらったじゃん。あの綺麗な人。あの人と、話せるようになりたいなって」

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 

 ……はっ?

 

 

 

「ね、ねえ、翔太。もっかい、言ってみて」

「だから、この間の美人のお姉さんとお話しできるようになりたいんだってば」

 

 

 

 はああああああああああああっ???

 

 

 

「……翔太。ラニと、お話ししたいの?」

「ラニっていうんだ、あの人。この間、パティと2人で話してるのに僕だけ仲間に入れなかったからさ」

 

 そう。

 あのお姉さんに、僕を除け者にするなっていってやる。パティとばかり話していないで僕も仲間に入れろって、そう言ってやるんだ。

 あの人が日本語を話せるならそれでもいいんだけど、そんなことはないと思う。話せるなら、あのときに話しかけてきただろうし。だから、僕が話せるようになる。

 でも、英語じゃないのか。王国って、どこの国なんだろう。

 

「ねえパティ、王国……って……」

 

 あれ?

 なんだろ、寒気が?

 

「ふうん。翔太、ラニとお話ししたいんだ。綺麗だもんね、ラニ」

 

 パティが、にこりと微笑みながら、言ってくる。優しい言葉で言ってくる。

 でも、あれ? 変だな? 笑ってるのに、言葉は優しいのに。どうしてか、全然そう感じられないぞ?

 何か怖い。まずい気がする。怒ってる? これ、怒ってるよね?

 こういうときは、女の子の言うことにとりあえず同意しておけって、父さんも言ってた。

 

「えっと、うん。ラニさん、綺麗だよね。お人形さんみたいなのに、笑うととっても可愛くて……」

「うん、そうね。そっかー。翔太は、私とお話ししたいんじゃなかったんだー」

 

 あれ、おかしいな。なんだかますます、まずい雰囲気になっているような?

 でも、パティは何を言ってるんだ? いや、だってさ。

 

「だって、パティとはもうお話しできてるよね?」

「うん、できてるね。できてるよねー」

 

 怖い。

 僕、知らなかった。笑顔って、怖いんだ。

 どうしよう。とりあえず、よくわかんないけど、謝っておこうか。でもなんか、それもあまり良くないような気がするぞ。

 ああもう、パティわかんないっ! 何を怒ってるんだよっ!

 

 混乱する翔太を前に、ゆっくりとパティの右手が上がっていく。

 そして、その手が顔の高さまで達したとき。パティの顔が、作られた笑顔が、吹き飛んだ。

 

 きっと眉根を寄せ、目尻はつり上がり、口元はきりっと引き締められて。

 そして右手を思いっきり振り上げると。

 

「大っ嫌いっ!!」

 

 平手を、翔太の頬へと向けて思いっきり叩きつけた。

 ぱしんと、威勢のいい音が響き渡る。

 手と頬に挟まれる形になった妖精が、ぴぎゃあと悲鳴を上げて吹き飛んでいった。

 

 何が起きたのか分かっていない、翔太の顔。

 あっけにとられていたその顔が、だんだんとゆっくり崩れていって。

 やがて生まれた泣き顔で、訳の分からないまま翔太が叫ぶ。

 

「パティの、馬鹿っ!!」

 

 そして身を翻すと、森の中へと駆け込んでいった。

 その後を追いかけるようにして妖精が、パティへと向けて思いっきり、大きな舌をべえっと出して。

 2人はそのまま、いつの間にか生まれていたトンネルの奥へと消えていった。

 

「……翔太が……馬鹿、なんじゃない……」

 

 一人残されたパティの呟きは、風に流されて消え去って。

 瞳からは、透明の雫がきらりとひとすじ流れ落た。



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19話 大切なことに遅れて気がついたりもする。

 右手が痛い。右の、手の平がじんじんする。

 別に怪我をしている訳じゃない。あれからもう何日も経っていて、痺れなんかもとっくになくなってる。

 それでもまだ、痛い。翔太の頬を叩いた感触が鈍い痛みになって、手の平にまとわりついて離れない。

 日はとっぷりと暮れて、今はもう寝る時間。けれどパティはベッドの中で今日も眠れず、ぎゅっと右手を握りしめていた。

 

 

 

「あの子と喧嘩でもしたのかい?」

 

 夕食の時に聞いてきた、母の言葉が思い出される。

 いつもだったら翔太と2人で遊びに行っている日のはずなのに、出かける様子も迎えに来る気配もないまま一日が終わって。次の日も同じで。そりゃあ、何かあったなんてすぐわかる。

 けど、そのお見通しっていう顔はやめてほしい。なんだかイラッとする。翔太が来なくて喜んでいる父と、何をしでかしたんだと青くなっている叔父の顔は、更に癇に障るけど。

 

「別に、なんでもないよ」

「本当に?」

「……」

「パティ?」

「……叩いた」

 

 ごまかそうとかとも思ったけど。パティは嘘をつくのが嫌いだし、それ以上に嘘をつくのが下手だった。それにどうせ、母さんにはすぐばれる。

 パティは溜め息一つはき出すと、やらかしたことを正直に告白した。

 

「あの子がかい?」

「違う、私が」

「だろうねえ」

 

 そこで納得するのはさすがにどうなのよ。私だってそこまで乱暴者じゃない……と、思う。

 父が喜色満面になっている。父さん、しばらく口をきいてあげないから。セリムはあわあわしている。もう、叔父さんはそれでいいよ。

 

「で、何があったんだい?」

「……翔太はずるいの」

 

 そうだ、翔太はずるいんだ。

 だって、そうじゃない。私が日本語を一生懸命に勉強したのは、翔太と友だちになりたかったからなのに。なのに翔太が王国語を覚えたいのは、ラニと話をしたいからだという。

 なんだか、私だけが必死になってる。私の友だちは翔太しかいないのに、翔太からすれば私なんて友だちの一人でしかないみたいで。そんなの、ずるい。そんなの、不公平だ。

 

 たどたどしく、自分でも良くわかっていなかった心の内を整理しながら、パティが言葉を紡ぐ。

 聞いている母の顔は優しい色で満ちていて。対照的に父はぶすっとした顔。叔父さん? 青くなったままですが。

 

「なるほどね。あんたが何を気に食わないでいるのか、だいたい分かったよ」

「ね、翔太はずるいでしょ?」

「いいや、それは違うよ、パティ」

 

 自分の言葉を否定され、むすっとするパティ。

 そんな彼女に母は優しく、諭すように言葉を続ける。

 

「ショータ君の友だちが、自分一人じゃなきゃ嫌なのかい?」

「……ううん。翔太にはもう、いっぱい友だちいるし」

 

 翔太は学校の話をしてくれた。この村の全員を合わせたよりももっといっぱいの子供が通っていて、友だちだけでも何十人もいるって言ってた。

 別にそれを聞いたときは、ずるいとは思わなかった。いいなあと、うらやましくは感じたけど。だから、今いる友だちと別れろなんて、流石にそんなこと思ってない。

 

「それじゃあパティ。そのラニって人のこと、あんたは好きかい?」

「うん、ラニは好き。いい人だよ」

「なら、ショータ君とラニさんと、そしてパティ。3人で友だちになるってのはどうだい?」

 

 考えてみる。

 3人で一緒に遊んでいるところ……は、いまひとつ想像できないわね。でも、自分と翔太が遊んで、それをラニが見守ってくれているところだったら。それなら、しっくりくる。

 うん、それは素敵な光景だ。

 

「別にショータ君とラニさんが仲良くなるのが嫌ってわけじゃない。だったらパティは、何が気に入らないんだろうね?」

 

 ……なんでだろう?

 母さんの言っていることは間違ってない。なら、なんで私はあんなに嫌な気持ちになったんだろう。

 

「……わかんない」

「そうだねえ。まだ、よくわかんないかもね」

 

 眼を細めて、なんだかとても楽しそうな母。

 

「教えてあげるのは簡単だけど、自分で気がついた方がパティのためだ」

「そうなの?」

「ああ、そういうもんさ」

 

 そう言ってくすりと笑う。

 ぶすっとしながら何か言おうとした父の額を、母の手がぺしりと叩いた。

 

「とりあえず、ショータ君は悪いことしてないってのは分かるね、パティ?」

「……うん」

「じゃあ、どうしようか?」

 

 ううっと、下を向いて考えるパティ。

 けど、本当はもう分かってる。認めたくなくて、わがまま言ってただけだって。

 

「……謝る」

「よくできました。次に会ったときに、きちんとごめんなさいするんだよ」

「……うん」

「パティ、一つだけ母さんからヒントだ。あんたは言ってたでしょ、自分がショータ君の一番の友だちになるんだって。頑張りな、自分が一番だったらきっと、怒ったりはしなかっただろうからね」

 

 おっと、ちょっとヒントを与えすぎたかねえ。

 にやりと、母が珍しく悪戯顔を浮かべていた。

 

 

 

 寝床の中で、母の言葉を思い返すパティ。

 自分が翔太の一番になるってこと、その大切な気持ちを忘れてた。翔太は普通だったら自分じゃ届かないところにいるけれど、それに釣り合う自分になるんだって。そう、決意していたのに。あんなに強く思っていたはずなのに。

 ……まあ、貴族だと思ってた翔太は、実際はそうじゃなかったんだけど。

 

 それなのに、いつの間にか翔太と一緒に遊ぶのが当たり前になっていて。自分が翔太の隣にいるのが当たり前だと思うようになっていて。その気持ちを忘れかけてた。

 でも、そうじゃない。そうじゃ、なかったはずなんだ。

 

 翔太がラニとお話ししたいんだったら、すればいい。他にいっぱい友だちを作りたいんだったら、つくればいい。

 それでも翔太の中での一番に、自分がなればいいんだった。

 もう、忘れない。私はもっと、もっとっもっと、成長してみせるんだ。

 

 とりあえず、今やらなければいけないのは、勇気を出すこと。きちんと、叩いてごめんなさいって、躊躇わないで翔太に言うこと。

 本当は、今すぐにでも翔太の家に行って、この気持ちを伝えたい。けど、私の方からじゃ会いに行けないからなあ。

 

 ……あっ。

 もし、翔太がもう来てくれなかったらどうしよう。どうしようもないんだけど、そうなっちゃたら私、どうしたらいいんだろう。

 

 頭を抱えて、ベッドの上でごろごろと。

 パティの眠れぬ夜は、今日も続いていくようだった。

 

 

 

 

 

 その頃。翔太もまた、眠れないでいた。

 パティに叩かれたことをまだ怒っていたから、ではなく。それとはまた、別の理由で。

 

 あの時は、そりゃあ頭にきた。

 けれど家に帰って、父さんと母さんにパティが酷いんだよと話してみたなら。

 

「あー。そりゃあ、翔太が悪い」

 

 って言われてしまったので。

 パティちゃんは、翔太と話したくて日本語を覚えたんだろ? それなのに翔太は別の人と話をしたいんだって。そんなこと言っちゃったら、そりゃあパティちゃんだって面白くないさ。まあ、手が出ちゃったのは良くないことだけどな。

 

 そう言われてみて、納得できた。

 うん、確かに。パティが自分のために日本語を覚えたんだったら、自分だってパティのために王国語ってのを覚えるべきだった。

 あのお姉さんとお話ししてみたいのは本当のことだけど、一番の理由は2人が話しているところに入っていけなかったからなんだから。だから、パティと王国語で話したいっていうのも、それも本当のこと。

 

 だから、次の土曜に会いに行って、自分からごめんなさいをしよう。

 もちろん、パティからもぶったことについては謝ってもらって。それでおしまい、仲直り。また2人で一緒に遊ぼう。

 

 翔太の中では、このことに関しては気持ちの整理がついていた。

 いつまでもうじうじと、過去にはこだわらない。これも、翔太の良いところだ。まあ、細かいところを気にしない大雑把な性格だともいえるが。

 

 だから、翔太が眠れないでいるのは、また別の理由。

 今回の仲違いの原因の一つとなった、あのお姉さんのことを思い出していて。そして、気がついてしまったのだ。

 

 銀色のきらきらとした髪の毛。雪のような白い肌。宝石みたいに不思議な色の瞳。

 お人形さんみたいに綺麗な顔。少しさみしそうな笑い方。

 ファンタジー映画に出てくるみたいなあまり見ない服装。腰から下げた細い剣。

 

 

 

 ……剣?

 

 

 

 あれ?

 何であの人、剣なんて持ってたんだ?

 パトロールにつかうのかな? でも、ナイフとか銃とかじゃないの、普通は。よく知らないけど。

 

 なのに、剣。

 あんなの、アニメや映画の中でしか見ないよね。何て言うのかな、エルフが持ってそうな細い剣。

 

 ……あれ?

 あの人の耳、少し尖ってなかった?

 

 えっ? ええっ!?

 なんで? どうして今まで気がつかなかったの?

 それだけじゃない。ひとつおかしいと思うと、どんどん変なところに気がついてくる。

 

 あの森の奥の基地だって、いくら何でも地平線が見えるほどの広さなんてこと、あり得るの? 東京タワーやスカイツリーに上ったって、家やビルがいっぱい見えるだけだってのに。それなのに、あそこではそういう高い建物がどこにもなかった。

 

 あの緑のトンネルを抜けてパティを送っていったとき。あのとき、トンネル消えてたよね? 後ろを向いたら茂みがなくなってたよね?

 

 あの街だって、馬車とか今時ないってばっ!

 石畳の町並みとか、ヨーロッパの方ならあるかもしれないけど。でも、重機を使わないで人の手だけでわざわざ作ったり何てしないよね?

 

 えっ?

 ええっ!?

 えええええええええええええっ!!

 

 こんなの、おかしいって。

 これじゃあまるで、まるで。

 

「まるで、異世界みたいじゃないかっ!」

 

 どうして今まで、何も疑問に思わなかったのだろう。

 でも、気がついてしまったらもう。胸はどきどき、目は覚めて。

 今日はもう、とても寝れる気のしない翔太だった。



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20話 もう一度、最初から。

 翌日の翔太である。

 結局、昨夜は明け方近くまで眠れずに、布団の中でごろごろとする羽目になった。

 寝不足で物理的に重い足取りで向かった学校では、授業中にうつらうつらと船を漕ぎ。給食後の5時間目などは、先生の声を子守歌代わりに完全に机に突っ伏して、くーくーと寝息を立てている有様だ。まあ、すぐに先生に見つかって、丸めた教科書で頭をぽかりとやられて目を覚ましていたけれど。

 

 そんな翔太だったが、帰りの会が終わってからの行動は迅速で機敏なものだった。

 ランドセル運びジャンケンも、友だちの家でのゲーム大会の誘いにも乗らず、自宅へ向かって走り出す。赤信号で止まるのがもどかしく、大回りして歩道橋を渡って余計に時間をかけてしまう罠を乗り越え、ひた走る。

 

 そうして家へと辿り着いても、翔太の歩みは止まらない。

 玄関をくぐるや「ただいまいってきます」と叫びながら背負っていたランドセルを家の中へと放り投げる。こらっと叱る母の声には「ごめんなさい」と一言、言葉を返して。滞在時間3秒で、再び家から飛び出した。

 

 そんなに慌ててどこへ行くのかって? そんなの決まっているじゃないか。

 息を切らせながらようやく辿り着いたのは、基地を囲う生け垣の切れ目。ぽっかりと開いた、翔太が少し屈めば通れるくらいの緑のトンネル。

 そう、ここが目的地。より正確には、ここを通った先こそが。

 

 この場所も、とても変だ。どうして気にもしなかったんだろう。

 こんなに目立つトンネルが、何故か放置されてるってことを。自分がここを通ろうとするとき、何故か周りに誰もいないってことを。どうして不思議に思わなかったんだろう。

 その答えはきっと、この先にある。

 

 翔太はきりっと顔を引き締める。

 そして、震えそうになる足をぐっとこらえると。一歩一歩、足下を確かめるように、トンネルの中へと歩きだした。

 

「あーあ、ばれちゃったかー。……つまんねーの」

 

 翔太の肩の上にいる、彼には見えない何か。それが彼には聞こえない声で、そう呟いていた。

 

 

 

 

 

 今日の夕食のメニューは、相変わらずの豆のスープと固いパン。代わり映えしないメニューではあるけれど、それでも母さんが作るそれはパティの大好物。

 鍋から漂う食欲をそそる香りは、料理の完成が間近であることの証。食事を待つ家族の期待がだんだんと高まっていき、そして最高潮を迎えようとしている時間。

 それだというのに、パティの気持ちはずーんと暗く沈み込んだまま。

 

 今日は、一日中そうだった。元気の塊のようなパティだというのに、朝からどうにも大人しい。

 家族が察するところの理由は多分、あの子と喧嘩をしたこと。だけどそれは、母からの言葉で一応は気持ちの整理がついたはず。次に会ったときに、きちんと謝って仲直りをしようという話になったはず。

 だというのに、昨日はどうにか持ち直していたパティの元気は、朝にはまた最低値。それどころか底をさらに掘り下げている程の鬱陶しさだ。

 

 見かねた母が尋ねてみれば、「翔太が会いに来てくれなかったらどうしよう」と頭を抱えている。

 来てくれないなら、こっちから行けば良いじゃないか。何だったら、一緒について行ってやるよ。そう言ってはみたのだが、どうにも曖昧な返事しか返ってこない。どうやら、こちらからいきなり訪ねていくのは駄目らしい。上流階級ってのは色々と面倒くさいんだねえと母は思うが、そういう慣習を無視してしまえばしわ寄せはおそらくパティへと来てしまうのだろう。

 

 仕方ない。適当に元気づけながら、しばらくは様子を見て。それであの子が来ないようだったら、その時にどうするか考えよう。

 そう考える母だった。男衆はおそらく役に立たないだろうから、自分が頑張らないといけないな、と。

 けれど。

 

「パティっ!!」

 

 けれど、母の決意は必要のないものとなった。

 件のあの子が、すごい勢いで家の中へと飛び込んできたから。

 

「翔太っ! どうしたの、今日は来れない日のはずでしょっ!?」

 

 言葉の内容は訝しげなものだが、それと裏腹に口調は弾むようなパティ。抱えていた不安なんか、いっぺんに吹き飛んで。きらきらと瞳を輝かせて、ぱあっと顔には笑顔を浮かべて。

 そして飛び跳ねるような軽やかな足取りで一歩二歩、三歩目で踏み切って、翔太の胸へと飛び込んだ。

 まあ当然、翔太がその勢いのパティを支えきれるはずもなく。いつかと同じようにまた、2人そろって床に転がることになったのだが。

 

「ごめんなさいっ!! 翔太、あのねっ! わたしねっ!」

 

 身を起こし、転がったままの翔太にまたがるようにして詰め寄るパティ。

 会いに来てくれたことが嬉しくて。嬉しくて嬉しくてまぶしいほどの笑顔なのに、その瞳がだんだんと滲んできて。あっという間にぽろぽろと、大粒の涙が零れだした。

 わき起こる感情を上手く言葉にすることが出来ず、つっかえつっかえに。それでも一生懸命に謝罪の言葉を口にしようとして、でもやっぱり上手くいかなくて。

 そんなパティに、翔太がどこか照れくさそうに微笑みかけた。

 

「ごめんね、パティ。僕、パティときちんとお話しできるようになりたい。日本語だけじゃなくて、パティの国の言葉でも。だから、僕に王国語を教えてくれないかな」

 

 パティの目が大きく、まん丸に見開かれる。

 ああ、駄目だ。もう、限界。わき起こる気持ちを抑えるなんて、もう無理だ。

 

 パティは翔太の首にしがみつかんばかりに抱きつくと、堰が切れたように大きな声で泣き出した。

 翔太。ごめんなさい。大好き。友だち。沸き起こる感情のまま、そんなことを口にしようとするけれど。言葉にまとめることは出来なくて、泣き声だけがあふれ出て。

 それでも、気持ちだけは翔太にしっかりと伝わって。ぶつけられたまっすぐな感情に、翔太もつられるように泣き出してしまって。

 

 夕食の香り漂う家の中、抱き合いながら泣いている子供2人。それを見つめる大人たちの顔には、とても優しい表情が浮かんでいた。

 大人の中に1人だけ、ぶすっとした顔で翔太を見る者もいたけれど。横に座った家庭内最高権力者に頭を叩かれていたので、特に問題はないのだろう、多分。

 

 

 

 

 

 夕暮れに染まる空の下。並んで座った翔太とパティは、じっと目の前の景色を眺めていた。

 赤い光を受けて輝く、白い花々が美しい。そこは虫除けの花畑、2人が初めて出会った場所だ。

 

 どうにかこうにか泣き止んで、とりあえずは落ち着いた2人。夕食の支度は今日はいいから、ちょっとお話ししておいでと。そう言って母が送り出してくれた。

 どこで話そうかと悩むこともなく、足は自然とこの場所へと向かっていた。漂う香りが目に染みるのが大きな欠点だけど、景色はとても良い。それに何より、2人が友だちとなった思い出の場所なのだ、ここは。

 

 仲直りは、もう出来た。

 あれだけ泣いて、謝って。お互いに自分が悪いと思っていたのだから、もうそれで十分だ。

 

 でも話はこれで終わりじゃない。話さなくてはならないことは、まだある。

 けれど、どういう風に話せばいいのだろう。それに気がついているのが自分だけなのだとしたら、何を言っているんだと、馬鹿にされてしまうかもしれない。

 翔太もパティも、同じことを話そうとして、同じことで迷って。言葉を選んで結局、口にすることが出来ないでいた。

 でも、このままじゃいけない。これは大事なことなんだから、きちんと話し合わなくちゃいけないんだ。

 やがて、覚悟を決めた翔太がゆっくりと、口を開いた。

 

「ねえ、パティ」

「なあに?」

「ここってさ……異世界、だよね」

 

 目に映る景色。赤い花畑。その向こうの辺境の村。そして草原が果てしなく、地平線へと広がっている。

 うん、やっぱりだ。この景色は絶対、日本のものじゃない。僕が住み始めたあの街に、こんな場所があるなんてあり得ない。

 疑惑を確信に変えて、翔太が言う。

 

 パティはどう思うだろうか。

 おかしなことを言っているって、馬鹿にされるかな? それとも、信じてくれるかな?

 すごく頭の良いパティのことだから、もしかしたらもう気がついているんじゃないかとも思うんだけど。

 

「……翔太。何、馬鹿なこと言ってるの?」

 

 あっ。パティは気がついてなかったのか。

 それとも、ここがファンタジーの世界だって言うのなら、異世界っていう考え方自体がないのかも……。

 色々と考えを巡らす翔太。しかし、それは途中で止められた。強制的に。

 何故なら。

 

「ここじゃなくて、トンネルの向こうが異世界なのよ」

 

 何故なら、パティの口元がにいっと笑い顔になって。

 そして悪戯の成功した顔で、得意気にそう言ったから。

 

 ぽかんと口を開ける翔太。

 それを見たパティが、クスクスと笑い始めて。やられたと苦笑いの翔太も、だんだんとパティにあわせて笑いが大きくなってきた。

 笑いが笑いを呼んで、それがまた笑いを呼び寄せて。やがてお腹を抱えるほどの大笑いとなった2人が、地面に転がった。

 

「ねえ、翔太。異世界人だけどさ」

「異世界人だけど友だちだよね、パティ」

 

 パティの問いかけに、皆まで言うなと翔太が言葉をかぶせて言う。

 それがまたどうにも可笑しくて。2人はまた、声を合わせて笑いだした。

 

 

 

「でーーーもーーー。もーこれでおしまいなのだあーーー」

 

 その時だ。

 2人の笑い声をかき消すようにして。小さな子供のような甲高い、怒ったような声が聞こえてきた。……パティの耳だけに。

 

「……出たわね」

 

 パティの目が、翔太の肩から頭の上へと移動した、それの姿をとらえる。

 その背の高さは15㎝ほど。木の葉で出来た服を着て、背中からは蝶の羽が生えた小人。つまらなさそうな顔をした妖精が、パティのことをぶすっと見つめていた。

 

「せっかく、いつまで気がつかないかって、遊んでたのにさー。おまえがぶったりするから、こいつの目が覚めちゃったじゃないかー。つまんねーのー」

 

 不貞腐れた態度で、そうぼやく妖精。そこへパティが、きりっとした視線を向ける。

 人差し指をしゅっと伸ばして、びしりと妖精へと向けて指し示し。眉根を寄せて睨みつけるようにして、強い意思を込めて言い放った。

 

「妖精っ! あんたに一言、言いたいことがあったのよっ!!」

「おー、おもしれー。言ってみろよー」

 

 パティとは対照的にへらへらと、それでいて視線だけには敵意を込めて。妖精が、パティの挑戦を受けて立つ。

 そして。パティの口から、言葉が紡がれた。

 

「ありがとうっ!!」

「……へっ? あっ、どういたしまし……て?」

 

 ふわふわと浮かんでいた妖精が、あっけにとられて首を傾げる。その勢いで体ごと、頭が下向きになるまでくるりと回転。

 

「えーっと。あれかな、妖精ってやつ?」

 

 置いてけぼりなのは、妖精の姿が見えない、声も聞こえない翔太。

 けれど、この間のパティの言葉を思い出して、妖精だろうと当たりをつけて。この辺りかなって見当違いの方向へ手を伸ばし、ぶんぶんと虚空を掴もうとしていた。



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21話 戦の国の妖精は剣を振るう。

「……って。なんだよ、ありがとうってっ! おまえ、バッカじゃねーのっ!?」

 

 不意打ち気味に予想外の言葉を言われ、思わずどういたしましてと反応してしまった妖精。しかしすぐに我に返ると、逆さまになったままパティを指差して抗議の声をあげた。

 だって、ここは怒るところだろう。そして、かんかんに怒っているのを見て、それを楽しむところだろう。そのつもりで煽っていたというのに、ありがとうだなんて計算違い。この男で遊ぶのももう終わりなので、最後にこいつで遊ぼうと思ったというのに、なんなんだよ。

 

「だって、翔太と会えたのあんたのおかげじゃない。だから、ありがとう」

 

 何を当たり前のこと言ってるの。そんな風にパティが言う。

 まったくもって、妖精としては予定が狂う。

 

「僕がパティと会えたのって、妖精のおかげなの?」

「うん。こいつが、あのトンネル作ってたの」

「そうなんだ。じゃあ僕からも、ありがとうございました」

 

 深々と頭を下げる翔太。残念ながら、妖精とは別の方を向いての礼だったけど。

 こいつもか。俺は別に、感謝の言葉が欲しいんじゃないんだって、逆だって。引っかき回されて困って怒る、間抜けなお前等が見たいだけなんだってば。

 それなのに、まったく。

 

「ああもう、めんどくせー。もうそれでいいよ、俺に感謝しろ、感謝。崇めよ讃えよ奉れよ」

 

 頭をかきかき、溜め息一つ。

 ああもう、調子が狂う。最後の最後で締まらないったらない。

 

「おまえら、次に俺たちに悪戯されたらもっと悔しがれよなー、それが礼儀ってもんだぜ。……んじゃ、こいつ向こうまで連れてくから」

 

 いっそ置き去りにしてやろうかとも思ったが。何となく、そうするとこの女が喜びそうな気がするからやめにする。

 次はもっと、わかりやすい反応をしてくれる獲物を探すとしよう。こいつらみたいのは懲り懲りだ。

 妖精は悔し紛れの言葉をパティにぶつけ、そう幕を引こうとした。だがしかし、パティにはまだ妖精に用があるようだ。

 

「ねえ妖精、これからも翔太と私が行ったり来たり出来るようにしてよ」

 

 ……はっ?

 こいつは一体、何を言っているんだ。この俺様を都合の良いマジックアイテムみたいに思ってるんじゃないだろうな。

 怒らすつもりだったのに、逆に怒らせてくるなんて。こいつ本当に、妖精と人間の関係ってもんが分かってない。自由すぎる。

 

「ふざけるなー、なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだよ」

「だって、翔太ともう会えないなんて困るし」

「知らないねー。勝手に困ってりゃいいじゃん」

「妖精さん、かっこいー」

「かっこいー」

「褒め方が適当だよっ! 褒めたってやらねーよっ!! 後、おまえっ! 俺はそっちじゃねーよっ!!」

 

 妖精に混乱の精神異常。言葉の届かない翔太に対し、つい突っ込みを入れてしまう程度に。

 何か少し、妖精にからかわれる人間の気持ちが分かった気がする。相手の立場を思いやれる俺、偉い。

 

「そこを何とかお願い、妖精。……妖精……ねえ、あんたさ。名前はあるの?」

 

 ふと、何かを思いついたようにパティが言う。

 

「妖精って呼ぶのって、私たちだったら人間って呼ばれるようなものでしょ? だから、あんたの名前あったら教えてよ」

 

 名前を問われた妖精と言えば、きょとんとした顔。その口元が次第ににやりと笑い出し、偉そうな顔へと変化する。

 色々とむかつくやつだが、名を知りたいというのは良い心がけだ。ならば教えよう、讃えるが良い、この王の名をっ!

 

「俺の名は『湯煙の森を統べし緑奥深き森の森の王』だっ!!」

「長い」

「敬えよっ!」

 

 両手両足をぶんぶん振り回す、王の抗議。

 対するパティの眉間にしわが寄る。

 

「適当に言ってるでしょ」

「適当じゃねえよっ!」

「森って三回も言ってるし」

「おまえらの言葉にするとこうなっちゃうのっ!」

 

 ふうん、そうなの? 日本語にすると変だけど、妖精語では普通なの?

 妖精の言葉ってどんなんだろう。って、そういえば。翔太と話してたときに妖精が乱入してきたから、ずっと日本語で話してたけど。

 

「モリーって、日本語話せるんだね」

「世界を渡れるんだぞ、俺。それくらいは出来る……って、モリーって何だよっ!」

「名前長いから、もうこれでいいかなって。森の王だから、モリー」

「おまえ、センスないなっ!」

 

 む、酷いことを言う。

 いいじゃないの、あだ名なんてそんなもんで。もう、我が儘だなあ。

 

「じゃあ、モーリ」

「変わってねーよっ!」

「森が三回だから、モーリモリモリ」

「おう、喧嘩売ってんだな、買うぞ。いいのか、買っちゃうぞっ」

 

 パティの頭の周りをくるくると回りながら構えをとり、しゅっしゅと拳を打ち出す動作を見せる自称妖精の王。

 彼は実際に王を名乗るだけの力を持ってはいるのだが、その姿は威厳からはほど遠い。

 

 と、ここでこれまで言葉数の少なかった翔太が口を挟んできた。

 まあ、彼からしてみればずっとパティが一人でしゃべっているようにしか見えないのだ。会話に入りにくいのも、まあ当然。それだけに何かを言えるのが嬉しかったのか、とても楽しそうに言ってきた。

 

「なんか、もーりもりもりって、戦国武将みたいでかっこいいね」

 

 漢字に当てはめるなら、毛利守盛といったところだろうか?

 翔太のその言葉を聞きつけて、ファイティングポーズをとっていた妖精の動きがぴたりと止まる。なんだって? かっこいいだって?

 片耳がにょきりと物理的に、顔の半分くらいのサイズまで大きくなって、見ていたパティがうげっと嫌そうな声を上げた。

 

「何かきもい、それ」

「おい、センゴクブショーって何だ?」

「私に聞かれても知らないわよ。……翔太、センゴクブショーって何?」

 

 聞かれた翔太は得意顔。

 人差し指を立て、ふふんと楽しげに説明する。

 

「昔、日本はたくさんの小さな国に分かれてた時代があったんだ。それで、それぞれの国が天下統一して一番になるんだって、戦ってたの」

「どこの世界も似たようなものなのね」

「それでね、戦国武将はその国で一番偉い人。この世界だと何て言うんだろう……王様でいいのかなあ?」

 

 武将よりも大名といった方が正しいだろうし、他にも色々と微妙に違う気もするが、翔太の認識はそのようなもの。

 そのまま翔太は言葉を続ける。得意気に。

 

「毛利っていうのは戦国の中でもすごく強い武将だったんだ。クロスボウとか大きな輪っかみたいな剣で、何百人も相手に戦ったりもするんだよ。」

 

 違う、翔太。混じってる。空想が混じってる。けれど、それを指摘できる者はこの場には存在しない。

 パティと妖精の頭の中では、一騎当千に無双乱舞する豪傑の姿が思い描かれていた。

 

「……そうか。強いのか。かっこいいのか。ふふふふふ……」

 

 妖精の拳闘スタイルが、刀を振る動作に変わっていた。

 後で手頃な木の枝を拾って、剣にしよう。そんな予定を立ててみる。

 

「気に入ったの?」

 

 呆れ顔のパティ。男って、そういうのが好きなのよね。妖精もそうなんだ。

 でも、後でこっそり翔太に聞いてみようかな。パティっていう名前に近いセンゴクブショーがいないかどうか。

 

「悪くはないなっ! よし、俺様のことをモーリ・モリモリと呼ぶことを許してやろうっ!」

 

 斬って払って突いて、ついでに撃って。パティの頭の周りをくるくると回りながら、見えない1000人を相手に戦い始める妖精。

 ああもう、髪の毛がぼさぼさになるからやめてよねっ!

 

「もう、向こうでやってよっ! ……それよりモーリ、さっき言ったトンネルのことだけどさ」

「ん? ああ、いいぞ。こいつが来たいときには道をつなげてやる」

「……えっ? いいの?」

 

 先程までの渋るような、意地悪な様子はどこに行ったのか。パティのお願いを、あっさりと聞き入れる妖精。

 どうせまた断られるから、どう言って納得してもらおうかと考えていたパティが訝しげな顔をする。

 

「何だよ、いらないのか?」

「ううん、いるっ! 約束だからねっ! 後からやっぱりやめたとか、なしだからねっ!!」

「うるさいなー。そんなことしねーって」

 

 どうして急に言うこと聞いてくれたのかしら。適当につけた名前がそこまで気に入ったの?

 でも、理由はわからないけれど。これからも翔太と会えるのは、とっても嬉しいっ!!

 

「ありがとうっ!!」

 

 見えない剣を振りつづける妖精を、両手でぎゅっと捕まえて。そのまま胸にかき抱き、そしてその場でくるくると踊るパティ。

 捕まった妖精は、これも王の試練かと叫び。そして翔太は、良くわからないけどとりあえず問題は解決したらしいと、にこにこと笑っていた。

 

 

 

 

 

 後日。

 このやり取りを、パティがラニに話したときのことだ。

 ラニはたまに見せるころころとした可愛らしい笑い、ではなく。珍しく、堪え切れんとばかりに大きな笑い声を上げていた。

 

「パティ、また随分と上手くやったものだな」

「えっと、どういうこと?」

 

 笑いつづけて目に涙すらためているラニに、パティが尋ねる。

 

「君は、その妖精のことを名で縛ったのさ」

 

 どうにか笑いの発作を抑えたラニが解説してくれたところ、どうやらこういうことらしい。

 

 名前というものは実は、個体を区別するというだけのものではない。それ以上の、特別なもの。誰かの名を知るということは、自分とその相手の行動を縛る力を持つ。

 例えば、自分の名前を知っている者に対しては、それなりに親身になって対応したりする。逆に、名を知らぬ相手が傷ついたところで、さして気にしたりはしない。

 そして、名付け親という存在は、実の親と同程度に尊敬の対象になったりする。

 

 個人差こそあれ、肉体を持つ人間ですらそういった傾向はある。ましてや精神的な存在である妖精ならば、尚更だ。

 真実の名である真名であるなら、特にそれは顕著となる。真名を授けてくれた相手に対しては、基本的に忠誠を捧げることになる。妖精なりの忠誠ではあるが。

 真名を授けたものではないとしても、真名を知られて魔術的に縛られてしまったなら、絶対服従せざるを得ない。それこそ、その相手が死んだ後も未来永劫に。

 それほどに、妖精にとって名前とは重要なものなのだ。

 

 今回パティは妖精に、モーリ・モリモリという名前をつけた。

 もちろん、これは真名ではない。ただのあだ名のようなもの。だが真名ではないとはいえ、名付けてそれを相手が受け入れるという行為は、それなり以上の意味を持つ。

 

「命令に服従させるような効力はないだろう。けれど、おそらくはお願いの範囲だったら聞いてくれるだろうな」

 

 それを聞いたパティは、思ったものだ。

 

「……ばっかじゃないのっ!?」

 

 そんな。ただの冗談半分でつけた名前が、そんな大きな意味を持つだなんて、思ってもみなかった。

 何で受け入れちゃったのよ。何、気に入っちゃってんのよ。もっと自分を大切にしなさいよ、この馬鹿妖精っ!!

 

「まあ、いくら気分だけで生きている妖精とはいえだ。普通だったら、そう簡単に名前を受け入れたりはしないさ」

「じゃあ、どうしてっ!?」

 

 ラニがにやりと笑う。

 四分の一は妖精の彼女が、楽しそうに笑う。

 

「ようは、君も妖精に気に入られてしまったと。そういうことだな」

 

 これから色々と大変だろうが、まあ頑張りたまえ。

 そう告げたところで堰が切れ、ラニは再び呵々大笑。まったく、君は本当に見ていて面白い存在だ。

 

 そんな彼女をパティといえば。

 ふんだと鼻を鳴らして、ラニの馬鹿とじとりとした目でねめつけていた。



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4章
22話 パティ、魔獣と遭遇する。


 その獣は、獲物を引き裂く爪を持たない。

 肉を噛みちぎる牙を持たない。

 それはただ巨大なだけであり、ただ力が強いだけであり。

 そして、それが故に――強い。

 

 群がる肉食獣の群れを薙ぎ払い、踏みつぶし、たやすく蹴散らすその風格はまさに、王者。

 力こそが最大の、そして最強の武器であると。そう、その存在を持って証明する姿こそは、暴君。

 

 そして、その獣は膂力の他に、もう一つの武器を持つ。それは、顔の前から生えた5本目の足。

 その異形の足は、時に手となり武器を振るう。時にそれそのものが武器となり、鞭のごとく敵を打ち据える。

 

 その魔獣の名は――

 

「――ゾウ」

「違うのに、だいたい合ってるのが何か悔しいよ」

 

 深い堀の向こう側で、巨大な生物がゆっくりと歩いている。

 その姿を目をきらきらと輝かせ、柵から身を乗り出すようにしてパティが眺めており。そして、彼女の口から零れる独白めいた台詞を耳にして、翔太が少し呆れた視線を向けていた。

 

「私もっとね、ゾウって怖い魔獣だと思ってた」

 

 パティが象という生き物の存在を知ったのは、翔太からもらった日本語勉強用の絵本からだ。

 その本に描かれていた象は、子供向けに可愛らしくデフォルメされた絵ではなく、特徴を良く表したとても写実的なもの。そしてその姿は、パティの持つ常識の中には存在しない、存在してはいけない類いのものだった。

 

 人よりも、熊よりも遙かに巨大な体。てっきり足だとばかり思っていた、異形としか思えない長すぎる鼻。どこからどうみても、まっとうな生き物とは思えない。パティの世界においては、魔力に汚染されたとされる見た目がおぞましく変化した生き物のことを、通常の獣とは区別して魔獣と呼ぶ。象とは、パティの知らぬ魔獣の一体だとしか思えなかった。

 だと、いうのに。

 

「でもなんか、のっそりとして可愛いのね」

 

 ゆったりとした動作で、長い鼻を器用に使って餌を口に運ぶ姿に、目を輝かせる。

 鼻に吸い込んだ水を体にかけて水浴びする様子に、そういう風にも使えるんだと口をあんぐりと開ける。

 大きな体に見合った、これまた大きな糞をしている光景に、ケラケラと笑い声を上げる。

 

「でも、象って怒るとすごく怖いんだって」

「そうなんだっ! やっぱり、大きいから強いのねっ!!」

 

 気に入った生き物が強いというのが嬉しくて、パティが歓声を上げた。

 アジア象ならまだしも、アフリカ象とはとても繊細で、それでいて獰猛な生き物だ。長くつきあった飼育員ですら、一瞬の気の緩みが死につながることすらあるという。

 しかし、目の前の光景からはそのような様子は見て取れない。パティの目に写るのは、のんびりゆったりのほほんとした、のどかとしか見えない風景だ。

 

「……ねえ、翔太。私、一日中ゾウを見ていても飽きないかも」

「僕も象は好きだけど。でもパティ、他にもいっぱい面白い生き物がいるんだよ」

「う-。もっと見ていたいけど、他のも見たいし-」

「この先に、あの本に載ってたキリンもいるって」

「キリンって、あの首が長いやつっ!? 行くわよ、翔太っ!!」

 

 そしてパティは翔太の手を取ると、足取りも軽く走り出す。そっちじゃないよと笑う翔太の声が、辺りに響いた。

 2人が今いるのは、翔太の住む街から少し離れた場所にある動物園。

 季節は夏の真っ盛り。小学生が一年間の中で一番の楽しみとしている、長い長い夏休みの。その、一幕である。

 

 

 

 

 

 栗栖家の今年の夏休みは、家を買ったばかりで予算的に苦しいことと、父さんが長期の休みを取れなかったこととが重なって、泊まりがけの旅行はなしである。代わりに毎週土曜日に日帰りで、何処かへ遊びに連れて行ってくれることになった。

 土日はゆっくりと体を休めたいだろうに。お疲れ様です、お父さん。

 

 最初の週末は遊園地へと出かけた。パティには、この日は会いに行けないんだごめんねと、事前に話してある。

 会社の福利厚生で手に入れたフリーパスを持ち、家族3人でくたくたになるまで乗り物に乗って、帰りにはレストランでご飯を食べて。とても楽しい一日だった。夏休みの宿題の、思い出絵日記の一つはこれで決定だ。

 

 翌日の日曜。トンネルをくぐってパティの元へと向かった翔太は、遊園地での出来事を色々と語って聞かせてあげた。

 猛スピードで疾走するジェットコースターに、高い高い観覧車。自分が何人にも写って見える迷路のミラーハウスに、怖い怖いお化け屋敷。大げさな身振り手振りを加えてそれらの話を一つするごとに、パティの口からふわあっという声が漏れ、目からきらきらと輝きが飛び散る。時には聞いているだけなのに怖くなって、翔太の手にしがみついたりする。

 

 パティの世界では、旅人がもたらす遠い街や異国の話というものは、貴重な娯楽の一つだ。ましてや、翔太が話しているのは日本の、異世界の話。それも、翔太にとっても非日常の出来事。話す側にも力が入るというもの。そりゃあ、パティが興味津々になるのも当然。

 一生懸命に想像してみてもしきれない、機械仕掛けの乗り物たち。それは移動するためではなく、ただ楽しむためだけにぐるぐる回るのだ。それは何という贅沢な遊びなんだろう。何て面白そうなんだろう。異世界って、日本ってすごいっ!

 自分の話に聞き入って、楽しんでくれるパティの姿。それを見て、翔太も満足したものだ。

 

 けれど、そこで翔太は思ったのだ。

 話を聞いているだけなのに、パティはそれでもとても楽しそうだ。でも、実際に体験したなら、もっともっと楽しいんじゃないかなって。

 

 だから、お願いしてみた。

 父さんと母さんに、次のお出かけはパティも一緒に行っちゃ駄目かなって。

 

「もちろん、いいぞ」

 

 返事は、とてもあっさりとしたもの。パティの同行を快く了承してくれた。

 ただし、向こうの親御さんの了承は得ること。その条件を聞いた翔太は、パティのところに行ってくると言って、家を飛び出していった。その姿を見送る両親の目が温かい。

 

 出かけて遊ぶにはもちろん、お金がかかる。なら、パティの分の費用はどうするのか。翔太はそこまで深く考えていなかったが、両親は自分たちが支払うつもりでいた。

 翔太の親友であり、両親も気に入ってる可愛らしい女の子。そして、普段は宗教的な理由からとても質素な生活を送っている子供。それを一方的に可哀想だと決めつけることは危険なことだ。それぞれの常識や価値観というものがあるのだから。

 けれど、我が子と遊ぶときくらい。その時くらいは、子供らしい楽しみを与えてあげてもいいじゃないか。それくらいの負担は受け入れてあげよう。それが父と母の考えだった。

 

 尚、このことからも分かる通り、翔太は両親にパティの住む場所が異世界だという話はしていない。信じてくれるか分からないし、そもそもどういう風に説明したらいいかも分からなかったので。

 それに、もし話したとして。向こうに行っちゃいけませんなんて、そう言われてしまったら翔太は困る。パティに会えなくなるのは嫌だ。なのでしばらくは黙っていよう。いずれ話さなくてはいけないときも来るだろうけど、それまではこのままでいいかなと。

 そして翔太と同様に、パティも家族に異世界について、妖精について話していない。2人で相談して、そうしようと決めたのだ。

 

 そして、次の土曜日。待ちに待った、パティも一緒のお出かけである。

 

 

 

 

 

 いつもの翔太が起きる時間は、朝の7時。休みの日はもう少し遅くなることも、多々あるけれど。

 けれどこの日は自主的に6時過ぎには布団から抜け出し、用意してくれていた朝ご飯を詰め込んで、食べ終えるやいなや家を飛び出そうとして、いくら何でも早すぎでしょと母さんに怒られていた。

 

「えー、早く出かけようよー」

「まだ動物園は開いてないわよ」

 

 今日の目的地は動物園。

 翔太としては、パティに話して聞かせた遊園地に連れて行ってあげたかったのだけれど。まあ、2週続けてというのも栗栖一家にとっては面白みが少ないので、パティには我慢して欲しいところ。

 

 でも、予定を聞いたパティは、それでもとても楽しみにしていた。遊園地と同様、パティの世界に動物園などというものは存在しないのだ。それに近いものといえばせいぜい、大きな街でのお祭りの時に、見世物小屋がやってくるくらい。むろん、セージ村には来たりしないので、パティはそれすらも未体験。

 見たことのない変わった動物がいっぱいいるよと。そう聞かされたパティはとても楽しみで楽しみで、実は既に森の前で翔太を待っていたりする。もしかして、魔獣のたぐいもいたりするのかしらと、わくわくしながらスタンバっていたりする。

 

「何より、こんなに早く迎えに行ったらパティちゃんのおうちに迷惑でしょ」

 

 苦笑いしながら母が諭す。

 確かに、日本においてはそうだ。だがパティの家は日が昇る前から既に動き出しているので、そんなことはないのだけれど。母はそれを知らないので、その判断も仕方ない。

 

「じゃあ、何時に出かけるの?」

「8時半に家を出るから、7時半になったら迎えに行きなさい」

 

 パティ、あと1時間の待ちぼうけが決定。

 翔太はぶーっと口を尖らせ、早く時間が過ぎろと時計とにらめっこ。ずっと見てたら、余計に時間がたつのが遅く感じるわよと。母が注意しながらも、微笑まし気に息子の様子を見守っている。

 

「お、翔太。流石に今日は早起きだな」

 

 普段よりはゆっくりと睡眠をとれた父さんが起きてきて、寝間着姿のままリビングに入ってきた。妻とおはようの軽いキスを交わし、翔太にも声をかける。

 けれど翔太は父におはようと言葉を返すも、視線は時計に固定されたまま。

 

「……後、55分……」

 

 おかしい。さっきから5分しか進んでない。そう眉間にしわを寄せる翔太の頭をポンと叩いて、父もまた優しい目を息子へと向けた。

 待っているときの時間って、長いんだよなあ。これが、かの相対性理論。

 

 それにしても。父より、友だちか。まあ、そんなもんだよなあ。そう呟いた父さんは、母さんが入れてくれたコーヒーを口に運んで、少し苦そうな表情を浮かべていた。

 けどまあ、愛する家族とその友だちのため、今日は頑張りますよっと。

 

 これから父さんは、割と本気で仕事がある平日よりも疲れる休日を過ごさねばならぬのだ。

 頑張れ、家族サービスのお父さん。



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23話 パティ、魔獣を大いに愛でる。

「遅いっ!!」

 

 それがパティの第一声。

 なんだか見慣れちゃったけど、ここって異世界なんだよなあ、と。トンネルをくぐって草原に立った翔太が辺りを見渡し、さあパティの家まで行こうと第一歩を踏みしめようとした、その半瞬前。横合いから、いらだちとともに抗議の声が上げられた。

 

 おっとと蹈鞴を踏み、そちらへと顔を向けた翔太の視界に入ったのは、膝を抱えて座り込んでいるパティの姿。ほっぺを膨らまし、じとっとした目で翔太を見ている。

 

「パティ、ずっとここにいたの?」

「そうよっ! 日が昇ってからずっと待ってたんだからねっ!」

 

 ふんだっ、と。拗ねた様子のパティに翔太も苦笑い。いくら何でも早すぎだよと、少し前に母から言われたことを棚に上げて、翔太がごちる。

 でもそういえば、うっかり忘れていたけれど。今のこの時間はパティにとって、もうとっくに一日が動き始めている時間なのだった。今日の朝に迎えに行くとは言ったけど、ここと日本の感覚は違うのだった。

 何時に行くと、きちんと時間を伝えておけば良かったんだろうけど。でも、それは難しかったりする。だって、こっちの世界には時計がないから。

 

 パティたちの時間管理は、日本人から見るととても大雑把。日の出、お昼、日の入り、それぞれの間の時間。これくらいの分け方で、十分に世界が回っていける。お城に使える文官たちとか、もっと時間に厳しい職業の人たちもいるけれど、農民たちはどこでもこんなものだ。

 

 今度、パティに時計をプレゼントしよう。高くて立派なものは無理だけど、最近は100円ショップでも時計くらいは売っている。まあ、すぐ壊れてしまうような質の悪いものだけど。でもこれなら、翔太の月当たり500円のお小遣いでも何とかなる。

 喜んでくれるといいな。パティはいつでも感情表現がまっすぐだ。素直に怒るし、素直に喜ぶ。そんな彼女が贈り物をもらって、ぱあっと顔を輝かせる様子を思い浮かべて、翔太の顔がにんまりと。

 

「私、怒ってるのに。なに笑ってるのよ?」

 

 ますますじっとりと湿り気を増していく、パティからの視線。

 それを翔太はごめんごめんと笑ってごまかして。さあ行こうとパティの手を取り、森のトンネルへと歩き出した。

 

「俺様の後に続けーっ!!」

 

 意気揚々と先導を切るモーリも、今日のお出かけをとても楽しみにしていたようだ。普段よりも5割増しで羽をひらひらとはためかせ、高々と右手を天へと突き上げていた。

 

 

 

 

 

 翔太の家から気軽に行ける動物園としては、大きい所が2カ所ある。

 一つは都心の、美術館や博物館なども連なる大きな公園の中にあるもの。

 もう一つは、逆に郊外へと向かった場所。ちょっとした山の中にあり、高低差の多い敷地が斜面に広がっている。

 

 今日の目的地はこの、山にある方の動物園。

 移動にかかる時間はどちらもさほど変わらない。そういう意味ではどちらへ行ってもかまわないのだが、都心の方を選択した場合には一つ大きな困難に遭遇する。この動物園、立地がいいだけのことはあってとても混み合うのだ。特に今日は夏休みの、更に週末である。その人口密度はいかほどのものか。

 なので、比較的に空いている方が選ばれた。まだパティには、街の人混みは早すぎる。

 

 その動物園の駐車場に今、一台の車が到着した。ステーションワゴンと呼ばれる、人も荷物もたくさん運べるタイプの車だ。

 その後部座席のドアが開かれ、中から待ちきれないとばかりに転がり出てくる人影二つ。

 

「着いたーっ!」

 

 翔太が拳二つを突き上げるようにして、歓喜の叫びを上げる。

 

「着いた着いたーっ!!」

 

 その横でパティが、同じく喜びの舞。

 更に2人はどちらがより高く飛べるかを競うかのように、次々に飛び跳ね始める。

 

「こらこら。今からそんなに元気じゃあ、すぐに疲れて歩けなくなるぞ」

 

 車の鍵をしっかりとかけつつ父さんが、微笑ましくも呆れた視線を向けてきた。この動物園、立地が立地だけに坂が多く、見て回っているうちに気がついたら疲労困憊になっていたりするのだ。

 けれどそんな忠告も、2人の子供には聞こえていないよう。跳ねるのをやめた2人は手を繋ぐと、その手を中心にして独楽のようにくるくると、喜びの舞を舞い踊りはじめた。見ていて頬が緩みそうになる光景だが、全くもって落ち着きがない。

 そして次の瞬間には、動物園入り口の大きなゲートへと向かって、一直線に走り出してしまった。

 

「翔太、前に来たときはもっと大人しかったのにね」

「友だちが一緒だからな。兄弟でもいればまた違ったんだろうが」

 

 残された翔太の両親は、顔を見合わせて苦笑い。でもまあ、翔太もパティちゃんも、楽しんでくれるなら何よりだ。

 朝から大盛りのお弁当を作ってくれたお母さん。ここまでの運転手にここからの荷物持ちのお父さん。休日なのにお疲れ様です、2人とも。

 

 

 

 

 

 

 その獣は、獲物を引き裂く爪を持たない。

 肉を噛みちぎる牙を持たない――

 

「――そしてその異形としか思えない長い首を鞭のように振り回し、敵を討つのだ」

「それはもういいよ、パティ」

 

 象からキリンへと移動して、またもやかぶりつきのパティである。相も変わらずお目々はきらきら、口からはふわぁという感嘆の声が漏れ、しばらくはここから動きそうにもない。

 翔太といえば、そんな様子を眺めているのがどうにも楽しくて、視線は彼女の百面相に固定されたまま。一体、動物を見に来たのやら、パティを観察しに来たのやら。

 

 ちなみに、象を見る前から保護者とは別行動をとっている。テンションマックスで駆け回る子供たちを追いかけるのは、運動不足気味の大人勢には厳しいものがあったのだ。平地ならまだしも、坂ばかりだし、ここ。人が多くても都心の動物園にするべきだったかと、父は軽く後悔。

 仕方なく、他人に迷惑をかけるような行動はとらないこと。携帯での定時連絡を必ずすること。それ以外にも、何かあったら電話を入れること。以上を条件に別行動を許可したのだった。父と母は一足先に、お昼ご飯を食べる予定の休憩所で一休みである。

 

 それと、モーリとも別行動だ。

 園に入ってしばらくは翔太の頭の上を定位置にして、パティ同様に目をきらきらさせていたのだが。

 

「ちょっと俺、どっちが上ってやつかを教えてくる」

 

 という謎の言葉を残し、関係者以外立ち入り禁止の柵の向こうへと飛んでいってしまった。

 何に教えるのか。何を教えるのか。知りたいような、知るのが怖いような。パティも、彼女から説明を受けた翔太も、興味は引かれたのだけれど。まあ、柵の向こうまでついて行く訳にも行かないし。お腹が空けば、そのうち帰ってくるよね。

 

 

 

 キリンの長い首と長い舌、つぶらなようで眠そうな瞳などを十分に堪能し、次の場所へと移動する。そこは決まった時間にしか入れない場所なので、最初から予定に組み込んでいた。

 たくさんの子供たちと一緒に列に並び、順番に柵の中に入って。それぞれが気に入った子を抱え上げる。そう、ここはいわゆる、ふれあい広場。ウサギやモルモット、ひよこといった小動物を実際に抱っこっして触ることが出来るのだ。

 

「ふかふかで可愛いね-、パティ」

 

 にこにこ笑顔で翔太の膝の上に乗っているのは、モルモット。撫でられるのが好きなのか日だまりが気持ちいいのか、その表情はまるでうっとりとしているかのようだ。瞳が閉じそうになり、ちょっと開かれてまた閉じそうで。見ていてとても癒やされる。

 

 パティの膝にいるのは白いウサギ。

 そのウサギもまた、翔太のモルモット同様に気持ちよさそうにしている。でもそれ以上に、何故だかパティの視線の方が更にうっとりと。

 

「パティ、ウサギが好きなんだね」

「うん、大好き」

 

 可愛いもんね、ウサギ。女の子はだいたい大好きだ。

 そうだ。今度、ウサギのぬいぐるみとかプレゼントしてあげたいな。

 

 にこにことパティを見つめながら、そんなことを考えている翔太。

 けれど、パティの思惑は少し違ったようだ。

 

「……ねえ翔太。多分ね、ここでこういうことを言うのは間違ってるんじゃないかって、私も思うんだけどね」

 

 どうしたのだろう。その口ぶりは普段と違い、なんとも歯切れが悪い。

 そしてパティは照れたように頬を染め、こう言った。

 

「この子ね、すごく……美味しそう」

 

 ……あ、うん。

 そっか。パティにとってウサギっていえば、そうだよね。

 

 うん。ぬいぐるみは、やめておこう。

 それからパティ、ウサギを抱っこするのも、もうやめにしておこうか。ほら、急におびえ始めちゃったから、その子。

 ほら、あんなこと言うから、周りの子供たちも涙目でパティのこと見ちゃってるから。

 

 一匹くらい連れて帰れないかなと、名残惜しそうにするパティ。

 そんな彼女の背を、お腹空いたなら母さんのお弁当があるからと言って押して、この場から立ち去らせようと懸命な翔太だった。

 

 

 

 その後はお昼に待ち合わせをしていた休憩所に行って、皆でお弁当を食べた。

 おにぎりは、中身の違う3種類。それに唐揚げとかフライドポテトとか、子供の好きなおかずがたくさん。普段はパン食のパティだけれど、おにぎりはかなり気に入ってくれたようだ。中身が違うのねと大はしゃぎ。

 右手に鮭のおにぎりを握りしめ、左手でタラコおにぎりをつかみ取り。あっ、もう一種類はどうしよう。悩んだところで、翔太におかかおにぎりをあーんとされて、頬が落ちそうな満面の笑みを浮かべていた。

 この瞬間は母さんのスマホで激写されており、これからしばらく彼女の待ち受けを飾ることとなる。

 

 

 

 さて。お腹いっぱいまでお昼を食べて、別腹だからとアイスクリームを買ってもらって。

 夏なのにっ! 熱いのにっ! 冷たい氷のお菓子ってっ! と、パティがはしゃぎ回ったりもして。

 そろそろ、午後の部の始まりだ。

 

 今度は4人そろって、皆で向かったのは昆虫館。動物コースからは少し外れたところにある、室内展示の建物だ。

 食後は、涼しい冷房が効いたところで休憩なのである。なにせ、太陽が一番高いところまで昇り、夏の日差しが随分と厳しくなってきたもので。

 

 昆虫館と聞いたとき、どういったものを想像するか。おそらくは、水槽なんかにいろいろな虫を飼育して、それを展示しているものが浮かぶのではないだろうか。水族館の虫バージョンみたいな感じで。でも、ここの展示はそうではない。

 もちろん、生きている虫も何種かいる。けれど中心となっているのは、トンボの羽の動きの解説だとか、ムカデの足運びを再現したロボットとか。あるいは、蝶の鱗粉が輝いて見える理由だとか。そういった、どちらかと言えば博物館寄りの建物なのだ、ここは。

 

 なので子どもたち、特にパティには少し受けが悪いのではないか。翔太の両親はそう懸念をしていた。その時にはまあ、涼をとるのは諦めて次に行けばいいかなと。けれど意外なことに、パティはこの場所にもかぶりつきだった。

 その様子を見た大人たちは、設置されたソファーに座ってもう少し体を休めることにする。アップダウンの激しいこの動物園、運動不足の体には厳しく、既に足にきているのです。

 

 パティは翔太を引き連れて、ゆっくりと時に足早に、展示を見て回っている。

 その中でも、ずらりと並んだ数々の標本には、特に興味を引かれたようだ。食い入るように、じっと見入っている。

 

「ねえ翔太。この虫だけどね」

「うん」

「うちの方にもいるの。他にも、この虫も、あれも、それも」

 

 パティが指差しているのは、蜘蛛やバッタ、蝶にカブトムシ。翔太の世界ではどこにでもいるようなごく普通の虫。そしてそれらは、パティの世界においてもごく一般的な虫であると、彼女は言う。

 

「虫だけじゃなくて、猫とか狼なんかもいるの。ウサギだっているし、他にもいっぱい。もしかしたら、何処かにはゾウやキリンもいるのかもしれない。それでね、もちろんんだけど、人間もいるのよ」

「そりゃあ、パティは人間だもんね」

「そうなの、人間なのよ。……ねえ翔太、不思議だとは思わない?」

 

 そんなことを言って眉根を寄せ、何やら考え込んでしまったパティ。

 何を言っているのだろう、パティは。パティが人間だなんて当たり前のことなのに、何を悩んでいるんだろう。首を傾げる翔太に、彼女は言葉を続ける。

 

「だって、世界が違うのよ?」

「えっと、パティ?」

「世界が違うんだから、住んでる生き物だって全然違ってても不思議じゃないと思わない?」

 

 うーん、と。

 言っていることはわかるんだけど、そんなに気にするようなことなのかな?

 

「気になるわよ。世界が違うはずなのに、生き物は同じなのよ。番いになってもおかしくないくらいに。これって……」

「これって?」

「……ううん。やっぱり、いい」

 

 何かを言いかけ、でも自分でもなんと言っていいのか分からずに。言葉にすることが出来ないパティ。

 そんな彼女を不思議そうに見る翔太。パティが何を気にしているのか、どうしてそこまで気になっているのか。どうにも自分には良くわからないけれど。だけど、この後に呟いたパティの言葉は、長く翔太の心に残ることになった。

 

「……私もっと、いろいろなことが知りたい」

 

 

 

 

 

 パティと翔太の心に波紋を残した昆虫館。この場所も、最後の展示でおしまいだ。そして、今日の動物園巡りもこれでおしまい。

 本当だったら、もう少し見て回るだけの時間はあるのだけれど。けれどパティの門限を考えて、おやつの時間には翔太の家に辿り着けるようにしておくのだ。

 

 最後の展示は、これまでのものとはひと味もふた味も違っている。今までに見てきた今ひとつ子供受けしない博物館めいたものとは、一線を大きく画している。

 

「……なに、ここ」

 

 二重になった扉をくぐった先、そこは地下から二階を超えて天井までの、吹き抜けの大広間。通路に沿うように、それ以外の場所にも点在して、南国風の木や草が植えられている。仮にも屋内だというのにもわっとした湿気が襲ってくる。そして、外とそう変わらない高い気温。

 

 けれど、そんなものは些事でしかない。

 ガラス張りの天井も、立派な吹き抜けも。不快な湿度も気温も、珍しい木や草も。そんなものよりももっと遙かに目を引きつけるものが、その空間には存在した。

 

 それは、蝶。

 蝶、蝶、蝶。蝶の群れ。

 

 白地に黒い斑点。赤にオレンジの縁取り。艶やかな黒に散らした赤い飛沫。様々な羽を持つ数多の蝶が放し飼いになり、視界のあちらこちらで舞い踊っている。

 まさに、圧巻。危害を加えられることはないと蝶も分かっているのか、人を怖がる様子もない。手を伸ばせば掴めるほどの、いや、わざわざ伸ばさずとも体に触れるくらいの近くを、ひらひらと飛ぶ。

 

 まるで、おとぎ話の妖精の里のよう。そう、うっとりとその光景を眺めるパティ。

 ラニから聞いた、どんちゃん騒ぎする妖精と妖精族の姿は、思い浮かべないように気をつけよう。何か色々と台無しになるから。

 

 ゆっくりと、右手を差しのばしてみる。するとどうだろう、遠慮がちに躊躇うように、一匹の蝶が指先に止まったではないか。

 沸き起こる感動。首筋から震えが上ってきて、頭のてっぺんへと抜けていくかのような思い。でも、普段のようにそれを素直に表現してしまえば、きっとひらりと逃げてしまう。だから、我慢。じっとこの態勢のまま、我慢。

 

 やがて、羽を休めていた蝶が再び宙へと舞う。

 感嘆のため息を、一つ。そこでくるりと振り返り、後ろにいた翔太へと向き直る。

 

「ねえ翔太、今の見てたっ!? 私の指に、蝶が止まった……」

 

 なんと言うことだろう。

 指先などではなく、翔太の頭の上に。ひときわ大振りの一匹の蝶が。……って。

 

「なんだ、モーリじゃない。お帰り、どこ行ってたの?」

 

 翔太の頭に座っていたのは、別行動をとっていたモーリだった。得意気な顔をして、ふんぞり返っている。

「おうっ! きっちり上下関係たたき込んできてやったぜっ!!」

「誰によ」

 

 この建物の中でも一等立派な蝶の羽を持っているというのに。なんだろう、この残念な生き物は。

 返せ。この感動に満ちた時間を返しやがれ。

 

「なんかよ、この山の妖精が俺様に向かって誰だ誰だってうるさかったからよ」

「えっ! こっちの世界にも妖精っているの?」

「ああ、いるぞー。数はずっと少ないし、見た目もかなり違うし、弱っちいけどなー」

 

 いるんだ。妖精まで、いるんだ。

 どうしてなんだろう、全然違う世界なのに。まるで、同じ世界のようにも思えるほど、一緒のところがある。

 

「パティ、モーリ帰ってきたの? 妖精とか言ってたけど」

「あ、うん。なんかね、こっちの世界にも妖精がいて、お話ししてきたみたい」

「いるんだ、妖精っ! すごいね、何か感動だねっ!」

 

 翔太、今日一番のきらきら顔。

 ゾウを見ていたときのパティにも負けないくらいの、輝く笑顔。

 

「ねえっ! 僕にはモーリは見えないけどさ、こっちの世界の妖精だったら見えるかなっ!?」

「どうなの、モーリ?」

「知らねー。あんまりあいつらのこと知らないしー」

「使えないわね、この駄妖精」

「てめー、王に向かってっ!」

「王じゃなくて、武将じゃなかったの?」

「そうだったっ! 我こそは毛利守盛なりぃぃっ!!」

「もうっ! 僕も話しに入りたいよっ!」

 

 ぶー、と。口先をツンと尖らす翔太。

 モーリじゃわかんないんだって。そう伝えられて、さらにがっかり顔だ。

 

 一回、またラニに相談してみよう。

 翔太がこっちの妖精だったら見えるようになるかとか、二つの世界についてとか。ラニにも分からないんだったらお手上げだけど。でも何となく、このまま放ってはいたくない。

 

「翔太、今度ラニにも聞いてみるよ」

「あの、エルフのお姉さん?」

「妖精族。こっちじゃエルフって言うの?」

「多分、そうだと思うけど。本物はいないからなあ」

 

 妖精族はいない、らしい。妖精はいるのに?

 うーん、基準が分からない。

 

 って、翔太。

 何、照れた顔をしてるのよ。何、頬を染めちゃってるのよ。

 

「翔太ってさ、ラニのこと好きなの?」

 

 聞いてみた。

 前から気になっていたことを、ぶっこんでみた。

 

「……え?」

「だから、ラニのこと好きなの?」

「あ、えっと……」

 

 もう、どっちなのよ。好きなの? 嫌いなの?

 男ならはっきりしなさい、はっきりっ!

 

「……別に嫌いってことはないけどさ。でも、話したこともないんだよ? 好きかどうか何てわかんないよ。綺麗な人だなーとは思うけど」

「あ、そっか。忘れてたわ」

 

 そうだった。すっかり忘れてたけど、翔太は王国語を話せないんだった。

 それともう一つ、忘れてた。翔太に王国語を教えるって約束してたんだった。

 

「じゃあ、翔太。しばらく学校ないのよね。だったら、毎日お昼前にうちに来てよ。王国語、教えてあげるから」

「えー、毎日勉強?」

「そうよ。早く覚えたいんでしょ?」

「そりゃそうだけどさー。せっかくの夏休みだよ?」

「こっちは夏休みなんてないんだから、知らないわよ」

 

 渋る翔太と、無理矢理に約束。2人の小指を絡めて、指切りげんまん指切った。翔太から教えてもらった、約束するときのおまじない。

 

 そうだ、私は翔太の友だちなんだから、手伝ってあげるんだ。

 王国語だって教えてあげる。本当にラニのことが好きだって言うなら、恋のお手伝いだってしてあげるんだ。

 だって。翔太は私の一番の友だちで。そして私は、翔太の一番の友だちになりたいんだから。

 

「ねー、翔太っ!」

「何が、パティ?」

「なんでもなーい」

 

 ケラケラと笑うパティと、困り顔の翔太。

 そして、そんな2人をにやりとした笑みを浮かべながら、モーリが眺めているのだった。






 


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24話 翔太、王国語を学ぶ。

 動物園で大満足の一日を過ごした、その翌日。

 翔太は朝ご飯を勢いよく掻き込むと、約束したとおりにパティの住む村へと向かうことにした。

 

 家から歩いて少しの場所にある基地の、その生け垣。その一箇所にぽっかりと、草木で編まれたトンネルが口を開けている。

 改めてまじまじと見てみれば本当に、なんとも奇妙な光景だ。どうしてこれを不思議に思わなかったのかと、自分の観察力とかそういったものを疑問に感じてしまう程。でもどうやらパティがいうには、それもモーリの悪ふざけの一つだったらしい。魔法なのか何かは分からないけど、妖精の力でそれが普通だと思わせていたとか。その上で世界が違うということに、どれだけ気づかせずにいられるか。それを楽しんでいたとのこと。

 エルフのラニが、妖精はめんどくさいと言っていたそうだけど。うん、確かにそれも良くわかる。

 

 でも、そのおかげでパティと友だちになれたんだ。だから、僕はモーリに感謝している。お礼をするというのも変な話なのかもしれないけれど、一回きちんとお話しをしてみたい。そう、翔太は思っているのだが。

 

「ねえ、モーリ。いるんだよね?」

 

 虚空に問いかけてみるも、応えはない。

 もしかしたら、頭の上辺りで返事をしているのかもしれないけれど、その声は翔太には届かない。

 

 しばしの後。ちぇっと、小さく呟いて。翔太は異世界の友だちと会うために、トンネルの中へと一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

「いらっしゃい、翔太っ!」

 

 目的の家の扉をコンコンと叩くと、待ちかねたと言わんばかりに元気よく扉が開かれ、パティが嬉しそうに顔を覗かせた。夏の日差しを浴びた金色の髪がきらきらと、顔に浮かんだ笑顔とともに輝かんばかり。

 

 ちなみに、パティの髪の毛であるが。翔太の家でお風呂に入らせてもらって以来、かつてのくすんだ黄色に戻ることもなく、輝きを保ち続けている。

 こっそりと母さんがお土産に持たせてくれたリンスインシャンプーで、週に一度は髪を洗っているのだ、パティは。川辺で泡泡になっているパティを見て、そんなにこまめに洗わなくてもいいんじゃないかいと、母などは呆れた様子で言っている。それに怒ったように顔を赤らめて、もしくは照れたように頬を染めて、「別にいいじゃないっ!」と声を荒げるパティである。

 彼女だって女の子。やはり容姿には気を使ってしまうのだ。自分の髪の毛が実はきらきらととても綺麗だったのだと、そう知ってしまったのだから尚更だ。もう、元には戻れない。これも文明の毒に染まってしまったと言うことなのか。

 そして、可愛い娘が誰かのために綺麗でいようとしているのかと。それがどうにもこうにも気に入らなくて。色気付きやがってとぶつぶつと、不貞腐れたように呟く父。ここまでがワンセットである。

 

 さて、翔太を見る目がじっとりと湿っている父のことは、さておき。

 いよいよ、王国語の勉強会だ。

 

「じゃあ、まずね。これが、パティっていう字。私の名前ね」

 

 以前に翔太からもらったノートと鉛筆を使い、パティが文字を連ねていく。翔太もよく知る英語のアルファベットにもどこか似ているようで、やはり異なる文字列。

 これが、パティの名前なんだ。これで、パティって読むんだ。全く知らない言葉を覚えるのはとても大変で、時間のかかることだろう。それでも、この名前だけは一番に覚えよう。すぐに書けるようにしよう。そう、心の中で決意する翔太だった。

 

「それでね、これが村の名前。セージ村ね。それで、これが村長の父さんと、母さんの名前」

 

 白いページに、次々に書き連なれていく文字たち。

 パティの顔は得意気な色に染まり、翔太に何かを教えられるのがとても嬉しそう。

 

「後は、領主様に納める作物の名前が、これと、これと……」

 

 パティ先生の気分は最高潮。気分はまるで、おとぎ話の魔法使い。鉛筆という杖を振るい、文字という魔法が生まれていく。

 

 だが、しかし。前触れもなく、翻っていた右手がぴたりと。時が止まったかのように、固定された。

 楽しげに響いていた声は沈黙に取って代わり、魔法は打ち止め。笑みの浮かんでいた顔に表情はなく、真顔で虚空を見つめるパティ。

 

「……パティ?」

 

 訝しげな翔太の声にも、反応はなし。その動きは、固まったまま。

 

「どうしたの? 平気? 気分でも悪いの?」

 

 ぽん、と。翔太の手がパティの肩に乗せられた。とたん、ビクリとパティの背筋が震える。

 心配した翔太が首を傾けて、その顔を覗きこんでみたならば。視線を合わせまいと顔を逸らし、あさっての方向を見つめている。なんだか、だらだらと冷や汗までかき始めた始末。

 

 じっと、無言で見つめる翔太。

 やがて、観念したようにパティが口を開いた。

 

「……翔太ぁ」

 

 声が震えている。悲しみとはまた違う、別の要因で。

 

「私ね、王国語って、これしか知らないんだった……」

 

 堪えるようにぷるぷると震える、鉛筆を握る右手。うつむいた顔は、恥ずかしさを堪えて赤く染まり。上目遣いに翔太を見つめる目には、うっすらと涙がにじんでいた。

 

 

 

 くてんと机に突っ伏して、決して顔を上げようとしないパティ。

 大丈夫だよ、僕は気にしてないよと翔太が告げても、嫌だ嫌だと伏せた顔を左右に振るだけ。机とおでこがぶつかってゴリゴリいってるけれど、大丈夫だろうか。赤くなっていないか心配なところ。

 

 まあ、つまりはそういうこと。

 パティに出来る王国語の読み書きは、自分の名前と家族の名前、村の名前、税として納める農作物の名前。これでおしまいだったのだ。

 現在のパティは、翔太に対抗意識を燃やすあまりに、母国語よりも日本語の方がよほど達者に読み書きできるようになってしまっている。目的に対して一直線に過ぎるというか、脇が甘いというか。なんとも、パティらしい話であった。

 

 けれど、別にパティが誰かに劣っているという話でもない。むしろ、これだけ知っているだけでも、たいしたもの。辺境の開拓村の暮らしにおいて、必要にして十分なだけの読み書きは出来るということなのだから。

 

 そして、これまで翔太に日本語を教えてもらった分のお返しが出来ると思って舞い上がって、その事実に自分で全く気づいていなかった。恥ずかしい、ああ恥ずかしい、恥ずかしい。

 そうして顔を上げられず、首を振るだけの現状である。羞恥に顔が赤く、おでこは擦れて赤い。

 けれど一体、どうしたものか。このままずっと机とおでこを喧嘩させたままでいる訳にもいかない。

 

 だが、仮にパティが十分に王国語の読み書きが可能であったとしてもだ。それを翔太に十分に教え込むことは、なかなかに厳しかったことであろう。全くの未知の言語を学ぶというのは、非常に難易度が高い行為なのである。

 しかし、パティ自身はそれを成し遂げた。異世界の言語である日本語を、少なくとも小学生レベルには習得して見せた。ここに、何か現状を打破する方法が隠されていないだろうか。

 パティは考える。おでこをゴンゴンさせながら考える。自分が日本語を学ぶ際に役に立ったことは何だろうか?

 

 まず第一の理由を挙げるならば、それはパティ自身の能力の高さだろう。彼女が生まれ持った頭脳の優秀さは並大抵のものではない。一方向に集中すると周りが見えなくなる欠点はあるけれど。

 第二に、学習意欲の高さ。怒りから転化された、絶対に翔太と話せるようになってやるというモチベーションの高さもまた、常人に持てるものではなかった。

 この二つの理由はパティだからこそというべきものであり、残念ながら翔太にはないものであろう。

 

 では、翔太にも転用できるものは何かないのか。

 次に挙げられるものとして、教師の存在。言うまでもなく、パティに日本語を教えた翔太のことだ。

 これは、立場を入れ替えることで自分が王国語を教えられるとパティが思い、舞い上がり。そしてつい先程、挫折した。

 

 四つ目、そしてパティの日本語習得において役に立った最後の要因。それは、教材の存在である。

 翔太が持ってきた文部科学省監修の国語の教科書は、長年に蓄積されたノウハウの詰め込まれた、問答無用に優秀な教材だった。まあ、それはそうだろう。小学校に入学したばかりの子供が、一から学ぶための教材なのだから。

 しかし、パティはそのようなものを持っていない。持っているはずがない。以前にも言ったが、この世界において本とはとても貴重で高価なものなのだ。叔父のセリムが学んだ王都の学校などならまだしも、こんな辺境の村に存在するはずがない。

 では、何か代わりになるようなものはないか。何か、翔太が学ぶ助けとなるようなものは、この家にないものか。

 

 パティはがばりと、おもむろに顔を上げると、きょろきょろと家の中を見渡す。

 急にどうしたの、僕は気にしてないから、ゆっくりと王国語を勉強していくから気にしないでと。慰めてくる翔太の声も置き去りにして、必死に考えを巡らせる。

 

 そして。

 ついに、パティは見いだした。とっておきの、教材を。

 

 

 

「これが、翔太が王国語を勉強するのに使う、とっておきの教材です。はい、拍手ーっ!!」

「おー、ぱちぱちー」

 

 意味が良くわからないけど、とりあえず拍手する翔太。

 意味が分かっているので大笑いしながら、翔太の頭の上で拍手するモーリ。

 

「……俺には帝国語は分からないけどね。でも、とりあえず扱いが酷いんだろうなってくらいは察せるよ、パティ」

 

 やけくそ気味に声を張り上げ、はいこちらと。ぴんと指を伸ばした両手の平で、自分の横の席を指し示すパティ。

 そこには、苦々しい表情を顔に浮かべて、パティの叔父が座っていた。

 王都の学校で学問を学んで、それなりに優秀な成績で卒業して。でも色々あって辺境へと帰ってきた、セリムの姿があった。



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25話 翔太、お礼の手紙を書く。

 セリム先生による王国語教室、生徒は翔太とパティの二人。

 夏のとある日に、なし崩し的に始まったこの勉強会であるが。その後も順調に回を重ね、現在は週に一度の頻度で行われている。

 

 教材扱いされて苦い笑みを浮かべることになったセリムだけれど、別に教えること自体には異存があるという訳でもなかった。もともと、いずれパティにはきちんと王国語を教えようとは思っていたのだ。そのついでに一人増えたところで、どうと言うこともない。

 まあ、翔太が帝国貴族のご子息であったなら、絶対にお断りしたい話ではあったけれど。貴族にものを教えるなんて、想像するだけで胸の辺りがきゅうってなる。そんなことになったなら、早々に胃に穴が開くに決まっている。

 

 翔太が初めてこの村に顔を出してからの日々の中で、セリムは思い知ったのだ。帝国貴族のご子息(推定)と顔を突き合わせるというのが、いかに胃に悪いかと言うことを。自分のような小心者が貴族と関わる仕事に就くなんて無理なのだと言うことを。

 王都から帰ったばかりの頃は、いずれ文官として辺境伯様に取り立ててもらえればと。そんな風に思っていたけれど。でも、そんな気持ちも、もう消えた。穴を掘ってゴミとして埋めて、消え失せた。人というものは、相応な仕事に就くのが一番なのだ。

 王都で得た知識を生かす術がないのならば、少しばかり口惜しい。学校に通わせてくれた家族に申し訳ない気持ちもある。でも、パティや翔太といった子供たちにそれを教えられるなら、これまで学んできたことも無駄にはならない。

 

 そうだ、いっそのことそれを生業にするのもいいかもしれない。

 農作業の傍らで子供たちを集め、読み書き計算を教えていく。畑を耕して、種をまいて、収穫して、大地と共に生きる。更に教育という名の種をまき、生徒の成長という収穫をして。子供たちとふれあいながら、ゆったりとした時間の中で生きていく。ああ、それは何という幸せな人生なのだろう。

 そして今日も、まるでお坊さんのような達観した笑みを浮かべ、教鞭を執るセリムであった。

 

 教えを受ける側の子供たちといえば、やはりパティの優秀さには目を見張るものがあった。

 王国語は元々の母国語であるのだから、習得が早いというのも当然ではある。だがそこに生来の頭の良さが加わって、それを際立たせているのだ。更には、セリムからの教えを通訳して翔太に伝えることで、一段と理解が深まるというのが大きいのだろう。

 翔太も翔太で、学ぶという行為には慣れているという強みがある。日本の義務教育の水準はとても高いのだ。頭の回転という点ではパティに劣るとはいえ、習得速度が目に見えて遅いということもない。遠からず、簡単な日常会話くらいならこなせるようになりそうだ。もちろん、怒りをエネルギーに変換したときのパティのように、たったの数ヶ月で他国語をマスターするなんて芸当は無理だろうけど。

 

 そんなこんなで時は過ぎ、そろそろ楽しかった夏休みも終わろうとしている頃の話である。

 

 

 

 

 

「この日は、翔太の家の人に遊園地に連れて行ってもらいました。遊園地っていうのは、科学の力で動く、移動のためじゃなくて楽しむことだけを目的とした乗り物がいっぱいあるところです。人がとてもいっぱいいて、国中の人が集まってきているんじゃないかって思いました」

 

 パティが一生懸命に書き連ねているものが何かというと、ずばり絵日記である。

 今日は二人で遊ぶ日だというのに、翔太は何やらお絵かきに夢中な様子。自分の部屋へとパティを案内した後は、彼女の相手もせず真剣な様子で絵と字を書き連ねていた。

 当然、放っておかれているパティはおかんむりだ。約束をすっぽかさないで迎えに来てくれたのは良い心がけだが、後は勝手に遊んでてと言われて面白い訳がない。横から邪魔をしてやろうかとも思ったのだけれど、何やら必死さすら感じさせる翔太の様子に、それも少々はばかられた。

 なので仕方なく、王国語の復習がてら翔太の真似をし始めたのだが。初めて取り組む絵日記というもの、これがやってみると中々に面白い。いつしか翔太そっちのけで夢中になっているパティだった。

 

「作り物の馬に乗って回る『めりーごーらんど』とか、馬なしの一人乗り馬車の『ごーかーと』とかに乗りました。ものすごい早さで駆け回る『じぇっとこーすたー』がくるりと一回転するところなんかは、とても怖……とてもびっくりしたけど、全然怖くなんてありませんでした」

 

 尚、パティの相手をする余裕もなく、翔太が必死になっている理由が何かというと。お察しの通り、そろそろ新学期も始まろうとしているのに、宿題が全然終わっていないから。

 まったくもって、今年の夏は楽しすぎた。パティと過ごす日々がまぶしすぎて、宿題なんて見えなかった。そう自分に言い訳をする翔太であるが、パティと遊ぶのは週に一回だけだったじゃないかという自己突っ込みなども入りつつ、頭の中はてんやわんやである。

 

「大変だったのは、途中で翔太が迷子になったことです。家の人を心配させたりして、翔太は悪い子です。でも、緊急の時のために持っていた携帯電話を使って、すぐに合流できて良かったです。いろいろなことがあったけど、とってもとっても楽しい一日でした。またいつか、連れて行ってもらえたらいいなって思いました。パティ」

 

 ノートの下半分に書き連ねていた王国語の文章の、最後に自分の名前を記して、これで絵日記の完成だ。

上半分に書かれているのは、二人の子供が手を繋いでいる姿。正直、上手とは言えない絵ではあるが、それでもパティの顔にはにまにまとした満足げな笑みが浮かんでいる。

 思い出を形にして残すこの絵日記というもの、パティはとても気に入った。動物園とか、水族館とか。他の出来事も同じように書いて、大切な記念にしていこう。いつかこのノートいっぱいに絵日記が描かれることを思って、パティがふふっと小さく笑い声を上げた。

 尚、ここに描かれた絵の通り、遊園地では普段通りにパティは翔太と手を繋いで行動していた。翔太が両親とはぐれたときも、しっかりとその手は握られたままだった。つまりは、パティも一緒に迷子になっていた訳である、が。

 都合の悪いことは形にして残したりしない。パティ、一つ大人の階段を上ってしまったようだ。

 

「できたっ! 絵日記書けたよーっ!」

「パティ早いねー。でも、僕ももうすぐ終わるよー」

「じゃ、終わったら遊ぼうっ! 何しようか?」

 

 絵日記を書くのは面白い。でも、それは一人でも出来ること。だったら、今この場所でするべきは、翔太と一緒に遊ぶこと。

 なの、だが。彼の返事は全くもってつれないもの。

 

「ごめんね、パティ。もう一つ宿題残ってるんだ」

「えー。遊ぶ時間なくなっちゃうじゃん。……じゃあ、モーリ。仕方ないから遊んであげる」

 

 口を尖らせて不満を表すも、翔太の申し訳なさそうな顔を見てしまっては、それ以上の文句も言いにくい。

 代わりに、世界の道先案内人へと白羽の矢を立ててはみたのだが。

 

「今、忙しいから。声かけるなー」

 

 妖精王の返事はつれないもの。彼はこの部屋に来たときから、ずっと翔太の携帯ゲーム機に夢中になっている。

 小さな体を一生懸命に伸ばして、両手を使って十字キーを、両足を器用に駆使して各種ボタンを操って。まるで全身を使って遊ぶ、体感アトラクションのごとくが有様。

 ちなみに、プレイしているのは武士が数多の雑兵を薙ぎ払うタイプのゲームだ。当然、使用キャラは毛利の姓を冠している。

 

「あんたって、ほんとに自由よねー」

「おうっ! 俺は自由気ままに生きるのよ。あの雲のようになっ!」

「……あんた、翔太の父さんの漫画読んだでしょ」

 

 それが分かるパティもまた、なのだが。今、彼女の中で百裂パンチが熱い。

 とりあえず、モーリを誘っても無駄らしい。となると、パティの狙いはやはり一人しかいない訳で。

 

「ねえ翔太、宿題はまた後でやればいいんじゃない?」

「うーん、僕もそうしたいんだけどねー」

「駄目なの?」

「母さんがね、宿題忘れて遊んでるようだったら、パティちゃん家に行っちゃ駄目よって」

 

 それは困る。とっても困る。翔太の母さん、それは酷い。

 なのでパティはこう言った。背筋を伸ばし、顔をきりりと引き締め、まなじりは鋭く、言い放った。

 

「翔太っ! 手伝うわよっ!!」

「うん、ありがとうパティ。でもね、残ってるのは手伝ってもらえるようなやつじゃないんだよね」

「どんなのなの?」

 

 問われて翔太が差し出したのは、一枚の葉書。まだ、何も書かれてはいないもの。

 

「これにね、夏休みの間にお世話になった人に手紙を書くんだって」

「書けばいいじゃない」

「んー、誰に書いたらいいのかなって」

 

 お世話になった人とは言っても、これがどうして名前が挙がらないのだ。

 候補としては、まずは両親。でも厄介なことに、出来るならご両親以外の人でという注文がつけられている。

 で、次の候補となると、だ。これがまた、困ったことになってしまうのだ。

 

「一番お世話になった人って言うと、セリムさんなんだけど……」

 

 大変お世話になっております。いつも王国語を教えていただき、ありがとうございます。

 でも、書いた葉書はいったん先生が集めてちゃんと書いたかチェックして、そのまま郵便物として出されることになっているのだ。

 セージ村って、住所はあるのかな? まあ、仮にあっても届く訳がないのだけれど。

 

「じゃあ、翔太の家の住所にして、栗栖セリムとか書いて出しちゃえばいいんじゃない? 届いたら、私が叔父さんに渡して、何て書いてあるのか教えてあげるよ」

 

 そうすれば確かに、セリムさんに手紙を届けることが出来る。でもそれって、嘘を書いたことになっちゃわないかな?

 少し迷った翔太は、母さんに相談してみることにした。色々教えてもらってお世話になってるから手紙の宿題はセリムさん宛にしたいんだけど、普通の方法では手紙が届かないかもしれない。だから一旦、この家宛に送ってもいいかなって。

 母の回答。別にかまわないんじゃない、お礼をしようって言う気持ちは大切だしね。ただ、宛名は栗栖様方セリム様っていう風にして、パティちゃんから事情を説明してもらってね。

 やっぱり、基地の中へ宛てて手紙を出すのって、検閲とか色々な問題があるのかしら。一度ご挨拶に伺いたいんだけれど、やっぱり難しいのかしらね。母はそのように考えたが、世界の壁を越える手紙など難しいどころの騒ぎではないだろう、実際の所。

 

 こうして、翔太からセリムへの手紙は無事に届けられることとなった。

 パティから手渡しされて、書かれている内容を翻訳してもらったセリムといえば。教え子からの率直な感謝の言葉に感極まり、不覚にも思わず涙などを流してしまう羽目になった。

 姪っ子にかっこわるいところを見せてしまったけれど。でも、これもまたいいものかもしれない。やっぱり俺、教師の仕事が向いているのかも。やり甲斐を感じるかも。そういえば、辺境伯様が庶民向けの学校を作ろうとしているという話を聞いたことがある。それが本当だったら、そこの教師に応募してみようかな。そんな将来設計を考えてしまうほどには、喜ばれたようだ。

 

 そしてこのとき、手紙だけだとさみしいからと、ちょっとした贈り物も一緒に渡されることとなった。

 はっきり言ってしまうと、翔太のお小遣いの範囲で買えるものなので、こちらの世界ではたいしたものではない。普通、贈り物としてこんなものを用意したりはしないだろう。

 でもパティとも相談した結果、これだったら喜んでくれるだろうと決めたものだ。そして実際にとても喜ばれ、同時にかえって迷惑をかけてしまったのではないかというほどに恐縮されてしまうことになったのだが。

 

 そして。

 翔太のこのふとした思いつきを発端として、パティの世界での彼らを取り巻く環境に、ちょっとした変化の兆しが芽生えることになったのだった。



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26話 パティ、買い物に出かける。

 栗栖家の自室で、翔太が夏休みの宿題のお礼の手紙の文面を、うんうん唸りながら考えていたときのことである。

 

「ねえパティ、セリムさんにさ、何かお礼した方が良いのかなって思うんだけど」

 

 唐突に、彼がそんなことを言い出した。

 王国語を教えてくれてありがとうじゃ、先生や両親に何のことだって思われちゃうよね。勉強を教えてくれてって書いた方が良いかな。あと、他にはどんなことを書いたらいいんだろう。んー……だめだ、思いつかない。

 などと、頭を悩ませていた様子だったのに。どうやら随分と煮詰まってきて、集中力が途切れてしまったようだ。

 

 絵日記も書き終えて、特にやることもなく翔太の漫画を読みふけっていたパティが、億劫そうに顔を上げる。

 いま、良いところだったのに。主人公の格闘家が雑魚敵をばったばったとなぎ倒し、ボスの下に辿り着いたところだったのにと、少し不満顔だ。ちなみに、恋愛漫画などには手を出さないパティである。まあ、翔太もそういう本は持ってないけど。

 

「お礼って、その手紙じゃないの?」

「これもそうなんだけどさ。ほら、授業料みたいなの払った方が良いかなって」

「そんなの気にしなくてもいいのに。今までに本とか色々もらってるんだし」

「でも、それはパティにあげたやつだし。セリムさん、何か欲しがってるものとかないかな?」

 

 叔父さん、本当にそういうの気にしてないと思うんだけど。でもまあ、翔太がそうしたいって言うのなら。もしかするなら、こっちの世界の常識だとお礼をするのが当然で、しないのは礼儀知らずってことなのかもしれないし。

 ならばと、パティは考えを巡らせる。右手の人差し指をあごに当て、視線は空へと向けて、ん~っと頭を悩ませる。そのまま、しばし。

 あれ? 何も思いつかないわね。

 

「……特に、ないんじゃないかな?」

「えー。村で必要なものとか、何かあるでしょ?」

 

 と、言われても。基本的に村の生活というものは、自給自足で成り立ってしまうのだ。

 セージ村で育てられている農作物は、税としても納める麦と豆が主な物となる。これは、辺境領の他の村でも大体が同じ。麦の育ちにくいところでは芋を主食にしている場合もあるけれど、幸いなことにこの地は豊かな土壌に恵まれている。これに自分たちで食べるために育てている野菜や森からの恵みを加えれば、生きていくのに十分な糧となるのだ。

 他に必要な物と言えば、なんだろう。塩は税を納めるときに一年分まとめて領主様から買わせてもらっているし、味付けに使う野草も自分たちで採ってこれるから大丈夫だし。村であんまり手に入らない物っていうと……。

 

「あ、お肉っ!」

「いや、食べ物から離れようよ、パティ」

 

 なによ、せっかく教えてあげたのに。ぶーっと口を尖らせるパティ。

 でも実際、お肉はとても貴重品。栄養的な意味では豆からタンパク質は摂取できている。でも、それはそれとして、やっぱりお肉は美味しいのだ。特にセージ村では食べるための家畜は育てていないし、森にも大きな獲物は棲んでいない。つまり、肉を口にする機会は少ない。口に入る動物性タンパク質といえば、たまに罠にかかっている野ウサギや、川で獲れる魚。あとはせいぜい、木の中にいる芋虫ぐらいな物。

 肉。それはセージ村の住人にとって、垂涎の的なのである。文字通りに涎が垂れるという意味で。育ち盛りのパティならば尚更だ。

 

 ちなみに、村人の主なタンパク源である豆であるが、元々この辺りでは育てられていなかった。何でも、辺境伯様が自身の故郷の食べ物を再現したく、余所から持ってきて育て始めたのが始まりだったらしい。それがやがて、栄養価に優れて保存も利く素晴らしい食材であると、市井に広まっていったそうだ。

 尚、件の故郷の味の再現は叶わなかったとのこと。哀れ。

 

「でも、食べる物以外でって言われても……」

 

 村の暮らしでそれ以外の物はあまり必要とされていない。強いて言うなら、農機具や調理器具といった金物の類いだろうか。

 これらは、年に数回やってきてくれる行商人から買うか、急ぎの場合には温泉街まで出向いて手に入れることになる。とはいえ、これらはそう頻繁に買い換えるような物でもないし、現在は新しい物を必要とはしていない。それに何より、だ。

 

「翔太、そんなに高い物を買うお金持ってるの?」

 

 パティの疑問も当然。翔太がお貴族様だったなら、こんな心配は必要ないのだろう。でも実際は違うと言うことを、もうパティは知っているのだ。

 こっちの世界の物は、どれもこれも素晴らしい物ばかりだけれど。これらを持って帰れたなら、向こうでは一財産なんだろうけど。もしも車なんかが向こうにあったなら、とても便利なんだろうけど。個人的にはテレビとブルーレイが欲しいんだけど。でも、そういった物は子供の小遣いで買える値段ではないのだと、パティは既に学んでいるのだ。

 尚、それらを使うためにはガソリンとか電気が必要なので、仮に持って行けたとしても役に立たないという事実にはまだ辿り着いていない。

 

「えーっと……200円くらいかな?」

「それって、どれくらいの価値?」

「うんとね、菓子パンが二つ買えるくらい」

「翔太だって食べ物が基準なんじゃない」

 

 呆れた視線を向けるパティ。そして、同時に悟る。こちらの物価がどれくらいなのかは良くわからないけど、200円じゃお肉は諦めた方がいいんだろうなと。いや、セリムへのお礼であって、別にパティにあげる訳ではないのだが。

 

「200円で買えるもの、他にどんなのがあるの?」

「……ジュース二本くらい」

 

 パティのじと目に、渋い顔をする翔太。やっぱりこの値段では、セリムが喜ぶお礼の品などは難しいのだろうか。

 でもまあ、翔太を責めないであげて欲しい。200円というのは、彼からしてみればかなり思い切った額なのだ。月の収入の40%を大放出なのだ。

 しかも、貯金箱に収まっているお金を勘定に入れていないのにも訳がある。翔太はこれから毎月、お礼の品を届けるつもりでいるのである。所謂、月謝としてセリムに支払うつもりなのだ。それを踏まえての、200円なのである。

 

「菓子パンもジュースも美味しいから、それでも喜ぶと思うけど。ねえモーリ、何かない?」

「鎧兜」

「あんたに聞くだけ無駄だったわね」

 

 モーリ、平常運転である。

 ちなみにゲームにも飽きたようで、今は翔太の髪を気付かれないようにこっそりと三つ編みにするのにチャレンジしている。

 あ、追加でリボンが装着された。それ、どこから持って来たのよあんた。ばれないように、必死に笑いを堪えているパティも、随分とモーリに染まってきたようだ。

 

「お店に行って考えた方が良いかなあ」

「お店?」

「うん、駅前のスーパー。パティ、一緒に行かない?」

「行くっ!!」

 

 お買い物っ! 期待に胸の前で両の拳をぎゅっと握り、瞳を輝かせて即答するパティ。

 買い物なんて、彼女には初めての経験。こっちの世界だけでなく、自分の世界においても。村での暮らしに貨幣はあまり必要ではなく、子供にお金を持たせるなんてもってのほか。パティもこれまでに、お金を触った経験などほとんどない。

 

「ねえ翔太、お金を払うとき、私がやってみてもいい?」

「え? 別に良いけど?」

「ありがとうっ!!」

 

 喜びの感情のままに、ぴょんとパティの体が宙を舞う。これまでに何度も見てきた光景に、既に翔太も慣れたもの。両腕を開いて待ち受けていたりする。パティは予想通りにその勢いのまま胸に飛びつくと、力一杯ぎゅうっと翔太の体を抱きしめた。

 でも、自分も抱きしめ返すのは、やっぱり少し恥ずかしかったようだ。開いた腕が所在なさげにさまよっている。よく見ると、頬に少しだけ赤みが差してもいる。困ったような照れたような、そんな笑みを浮かべている。けれどそんな翔太の様子に、パティは全く気がついていない。既に心は買い物へと向かっていた。

 

 ああ、楽しみ。本当に、楽しみ。

 お店って、どんな物を売ってるのかな。遊園地や動物園の売店みたいな感じかな。ソフトクリームを買ってもらったときみたいな、屋台がいっぱい並んでいたりするのかな。

 あっ、きっとお肉も売っているわよね。買えないのは分かっているけど、見ているだけでも絶対楽しいに決まっている。一体、どういう風に売られているのかな。もしかして、一頭いくらとかで売っているのかしら。山羊や豚といった家畜がずらりと並んでいる様子を想像し、パティの口元がにんまりと。

 

「ほらパティ、離してくれないと出かけられないよ」

「あ、ごめんなさい。さ、翔太、行くわよっ!」

 

 パティはぴょんと翔太の体から離れると、颯爽と風を切って玄関へと向かって歩き出す。足取り軽く、意気揚々。さあ出発だ。

 っと。でも、その前に。

 

「翔太、出かける前に鏡を見ておいた方が良いわよ」

 

 パティの言葉に、不思議そうな顔をする翔太。

 その頭の上では、虫除けの花を翔太の髪に挿そうと、そうっとモーリが忍び寄っていた。



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27話 パティ、大いに買い物を楽しむ。

「駅ってあの、おっきい鉄の蛇みたいなのに乗れるところよね?」

「電車だね。パティはまだ乗ったことなかったっけ」

「うん。出かけるときは、いつもお父さんの車だったじゃない」

「今度お出かけするときは電車にしてもらおうか。街の方は車だとかえって不便だって言ってたし」

「本当っ!? うわ、楽しみーっ! ……あ、でも私、車も大好きよ。びゅんって速いしっ!」

 

 そんなとりとめのない会話をしながら、玄関から真っ先に外へ飛び出したパティ。ずんずんと進むその姿に、駅が何処にあるか知らないでしょと、苦笑いの翔太が続く。けれどパティもそれは分かっている。道も知らずに歩き出すような愚は犯さない。ただ、その斜め上を行くだけだ。

 パティは躊躇いなくガレージへと歩を進めると、一台の自転車を引っ張り出す。そしてひらりとそれにまたがると、雄々しくも言ったのだ。

 

「さ、後ろに乗って、翔太。道案内は任せたわよ」

「……それ、僕の自転車」

 

 得意満面の決め顔のパティに呟きかける、翔太の声が弱々しかった。

 

 電車には乗ってみたいし、車も大好きなパティだけれど。目下の所、一番はどれかと尋ねられれば、それは自転車であると元気よく答える彼女がいる。車窓から流れゆく景色を眺めるのも悪くはないが、自分の力で前へ前へと疾走する自転車の楽しさはまた別格なのだ。

 翔太にお願いして初めて乗せてもらったその直後は、流石におっかなびっくりだったけれど。そんな殊勝な態度だったのも、ほんの一時間ばかりのこと。桶になみなみと入った水を井戸から運ぶ日々で培った力とバランス感覚を駆使し、パティはあっという間に自転車を乗りこなせるに至った。補助輪から始めた翔太が思わず拗ねてしまうくらいには、それはもうあっさりと。

 そしてこの日より、二人が自転車で移動する際には、荷台が翔太の定位置となったのである。

 

 もう一台、パティ用の自転車があれば良かったのだが。残念ながら、母さんのママチャリを借りようにも二人にはまだ少し大きい。父さんのロードバイクに至っては論外だ。サドルが二人の頭くらいの位置にある。それに、こつこつと小遣いを貯めてようやく手に入れた宝物なので、借りていったら父さんが泣く。

 なので、翔太の荷物扱いも仕方のないことなのだ。ハンドルを譲る気なんて、パティにはさらさらないし。

 尚、自転車の二人乗りは道路交通法により禁止されております。決してやらないように。

 

「おまわりさんに見つかったら怒られるよー?」

「任せろっ! 見つからないように、気逸らしの魔法をかけてやる」

「ほら、モーリもこう言ってるし」

「聞こえないってばっ!」

 

 狭い空間に押し込められるのではなく、風を受けて走れる自転車はモーリも大のお気に入り。なのでパティに協力的なのだが、その声が聞こえない翔太としては、これもまた面白くない。

 モーリがこちらの世界にいるとき、基本的に自分にくっついているというのは、翔太にも分かってる。飲んでいたジュースがいつの間にか空になっていたり、知らない間に髪の毛が三つ編みにされていたり、対戦ゲームを始めると乱入してきたりするから。コントローラーが勝手に動いているのに、最初はびっくりしたものだ。

 

 けれど、自分には彼の姿は見えないし、声だって聞こえない。パティばっかりずるいと思う。姿が見えないのはどうしようもないらしいけど、声くらいは聞こえるようにならないかな。あのエルフのお姉さんがそういうの詳しいらしいけど。

 でも、ラニさんに相談するにしても、今はまだ言葉が通じない。パティの通訳だけじゃなく、ちゃんと自分でいろいろ聞いてみたいから、はやく向こうの言葉を覚えないと。そうだ、王国語が使えるようになったら、モーリと筆談で会話できたりしないかな? うわっ、これはいい考えなんじゃない? セリムさんには悪いけど、もっといっぱい教えてもらおう。

 

 と、ここで物思いにふけっていた翔太、当初の目的を思い出す。そうだ、セリムさんにプレゼントだ。買い物に行かないとだ。

 そして、はやくしなさいよと荷台をぽんぽんと叩くパティにじっとりとした視線を送り。色々と諦めて、大人しく荷台にまたがるのだった。

 

 

 

 パティが「風になるっ!」とか爆走して。

 モーリが「世界を縮めろっ!」とか煽って。

 翔太が「ちょっとっ! 速いっ! 速すぎるって、パティっ!!」とか悲鳴を上げて。

 そんなこんなで、一行は駅前へと到着した。ちなみに、タイムは新記録である。速さは足りたようだ。

 

 セリムへの贈り物だが、結局の所、食料品から選ぶことになった。パティの熱い希望が通った形だ。まあ、他に候補が思いつかなかったのが一番の理由であるのだが。それでそれを何処で買おうかと考えると、候補は何店舗か存在する。安さが売りだけど狭くて品揃えも今ひとつの所とか、ちょっと高めだけど珍しい物を色々と扱っているところとか。その中で選ばれたのは、全国展開していて誰もが知っている某店舗。品揃えはまずまず、安さはそこそこ。決め手には欠けるけれど、ここにくれば大抵の用事は足りる。そんな感じのお店だ。

 だがしかし、そういう印象でこの店をとらえているのはあくまでも、こっちの世界の人間の話。物に溢れる生活に慣れきった、現代人の発想。

 

「何ここっ!」

 

 では、お店なんて一件もないような場所に住んでいる者がここ見ると、どう感じるのか。

 

「何ここっ! 何ここっ!!」

 

 買い物なんて生まれてこの方したこともないような少女が見たなら、どうなるか。

 

「こんなにいっぱいっ! 今日はお祭りなのっ!? そうなの、翔太っ!!」

 

 このように、お目々をきらっきらさせながら、店の中を駆け回るパティが出来上がることになる。

 

「パティ、走っちゃ駄目だって。危ないし、お店の人が困ってるよ」

「でもっ! 思ってたよりずっと大きいお店でっ! 思ってたよりずっといろんな物を売っててっ! 私っ、びっくりしちゃってっ! ああもうっ! 行くわよ、翔太っ!!」

 

 絶賛、舞い上がり中のパティである。

 まず、店そのものの大きさがパティの予想外だった。翔太の家が丸ごといくつもいくつも入るような、巨大な建物。あれ全部、一つのお店だよと言われたパティの目が見開かれ、まん丸になった。

 その建物の大きなガラス張りの、ひとりでに開け閉めしてくれる不思議な扉をくぐって店の中に入る。遊園地とかにもこの扉はあったけど、相変わらず仕組みがさっぱり分からない。魔法じゃないって翔太は言うけど、それ以外の方法でどうやって動いているんだろう。

 その先は、これまたひとりでに動いている階段だ。しばし握った両拳と顔を上下に振ってタイミングを計って、えいっと飛び乗れば地下一階食料品売り場へとご案内。そして、そこは夢の国だった。まさにスーパーなマーケットだった。

 

 まず、野菜売り場が目に飛び込んできた。

 パティの知っている野菜もあれば、知らない野菜も並んでいる。それも、沢山。山ほど。一体これ、何人分の野菜なの? 私の村の人、全員で食べたとしても、痛むまでに絶対に食べきれない。つまり、それよりもっともっと沢山の人が買いに来るってことよね。この町、何人くらいの人が住んでるんだろう。

 それと、種類や量も驚くほどだけど、それ以上に不思議なことがある。今の季節にはとれないような野菜も、普通に並んでいたりするのだ。きっと、季節に関係なく野菜が作れる、何か特別な育て方とかあるのよね。魔法以外の。

 

 野菜売り場を抜けた先には、パティにはあまり馴染みのない、けれども翔太の家でご馳走してもらったことがあるので美味しいとは知っている、そんな品々が並んでいた。鮮魚売り場だ。

 銀色の、黒いの、赤いの。丸いの、長いの、とげとげなの。いろんな色や形をした魚たちが並んでいる。翔太が言うには、これらは全部、海の魚らしい。道理で、近くの川では見たことがないと思った。この辺って、海が近いのね。知らなかった。ふんふんと感心するパティだが、実際には海はそれなりに遠い。日本人の、新鮮な魚を食卓へと届けることに傾ける過剰な情熱など、それこそパティに知る由はない。

 

 とどまることの知らないきらきらお目々のままに魚を眺めていたパティの動きが、ふと止まる。視線の先は、既に包丁が入ってパック詰めされた切り身のコーナーだ。訝しそうに手を伸ばし、人差し指と親指を使って大まかに切り身の長さを計るパティ。そしてその手を、先程の魚たちと比較したとき、パティの顔に驚愕の表情が浮かんだ。

 

「翔太っ! この魚っ!」

 

 つばを飲み込み、この世の神秘を垣間見た驚愕に震えるパティ。だって、この切ってある魚、ここが背中でここがお腹なんでしょ? だとすると、さっきの丸ごとの魚の長さと幅から想像するなら……ゴクリ。

 

「これ、元は私と同じくらい大きいんじゃない?」

「えっと……ブリだから、パティよりは少し小さいくらいじゃないかな」

 

 パティの身長は、130㎝にちょっと届かないくらい。向こうの世界の同じ年齢の女の子の中では、平均くらいの背の高さだ。ブリは大型の物だと1mを超えてくるので、翔太の言うことはだいたい合っている。ちなみに、翔太はパティよりも拳一つ分くらい背が低い。きっと、時間が解決してくれる。彼はそう信じている。

「……海の魚って、大きいのねえ」

「もっと大きい魚もいるよ。テレビでマグロ釣ってるのみたことあるけど、3mくらいだったかな」

 

 パティの目が点になる。3mの魚なんて想像も出来ない。パティ二人と半分くらい。2.5パティだ。

 

「食べれる魚じゃないけど、一番大きい魚はジンベイザメって言って、最大18mもあるんだって」

 

 15パティ……だとっ!?

 雑学を披露できて得意気な翔太と対照的に、パティの顔には恐怖すら浮かんでいる。18mって、それもう、ドラゴンとかそういう生き物なんじゃないの?

 翔太は妖精や魔法が存在する私たちの世界が不思議だって言うけれど、こっちの世界だって十分に不思議でいっぱいじゃない。ゾウとか、キリンとか、ジンベイザメとか。あと、自動ドアとか。向こうで話したって、きっと信じてもらえないわよ。

 

 この世界の神秘に思いを馳せるパティであるが、それはそれとして、思うことがある。

 ジンベイザメは駄目みたいだけど、3mのマグロは食べられるのよね。……どんな味がするのかしら?

 

 

 

 十分に数々の魚を堪能した後も、パティははしゃぎまくった。

 お待ちかねのお肉売り場では、まるまる一頭では売られていないのに少しがっかりしたけれど。それでも美味しそうな牛や豚に鶏、厚切り薄切りミンチにブロック、大量の魅惑のお肉たちを前にして、涎が垂れそうになるのを堪えるのに随分と苦労したものだ。

 

 他にもずらりと並んだお菓子の群れや、思わず手が出そうになるパンコーナー。更には目の毒としか思えないお総菜コーナーなど。どこもかしこもパティの食欲中枢をこれでもかと刺激してくる。

 ああ、きっと天国ってこういう所なのね。あっ、でも、お金が無いので見ているだけで買えないから、もしかすると地獄なのかもしれない。こっちの世界のお金を稼ぐ方法って、どうにか無いものかしら?

 

 ……あ。お金で思い出した。今日、ここに来た理由を、すっかり忘れてた。

 

「ねえ、翔太。200円で買えるもので、何か良いのってあった?」

「……そうだったっ! セリムさんへのプレゼント買いに来たんだったっ!」

 

 どうやら、翔太もすっかり忘れていたようだ。

 だって、仕方ないじゃ無い。あんまりにも、パティが楽しそうにはしゃいでいたのだから。そんなパティの様子を眺めたり、お話したりするのが、翔太としても楽しすぎてしまったのだから。何だか、いつも通りの一緒に遊んでいるときの空気。いつも通りの、自分の横で笑っているパティ。そんなここのところの、当たり前の、幸せ。

 でも、ここは気を引き締めて。遊んでいるだけじゃ無くて、きちんと今日の目的を果たさないと。そのためには。

 

「じゃあ、こうしよう、パティ」

「翔太?」

「……プレゼントを探して、お店をもう一周っ!」

 

 翔太の言葉に、にかっと笑って、パティが駆け出す。

 だから走っちゃ駄目だってばと、そんな彼女を追いかける翔太だった。

 

 

 

 

 

 紆余曲折はあったものの、どうにかこうにか翔太はプレゼントの品を選ぶことが出来た。

 食品関係で、200円で買えて、セリムやパティたちが喜ぶ物。中々に難しい注文に思えたのだが、とある品を見つけたパティの、これにしようという鶴の一声で決められることとなった。

 それは、パティの常識の中においては、とてもとても高価な物。開拓村で使うなんて普通は無理で、それでいてあるならとても幸せになれるはずの物。それがこんなに安い値段で売られていることに、パティは目を見開いて驚いた。

 

 砂糖である。

 1㎏の、ビニールでパックされた、翔太にとっては見慣れた品。けれど向こうの世界では、砂糖というものは金貨で取引されるのが当たり前の物らしい。まして、こんなに真っ白で上質な砂糖など、例え貴族であろうとも容易に手に入る物では無い。

 それが、子供のお小遣いで簡単に買えてしまうなんて。やっぱり、こっちの世界だって十分に不思議で満ちているじゃ無い。つくづく、パティはそう思ったものだ。

 

 そしてそんな品をポンと手渡されたセリムといえば、予想通りにカタカタ震えることになった。携帯のバイブレーション機能のように。

 子供に読み書きをちょっと教えただけで、こんなにも高価な物を受け取る訳にはいかない。そう言って固辞しようとしたセリムであるが、僕のお小遣いで買った物なので気にしないでくださいと言われ、小遣いっていくらなんだよと、その財力に更に震えることとなった。カタカタ、カタカタ。

 そんな押し問答もあったものの、かたくなに断り続けるのもそれはそれで失礼に当たる。最終的に、砂糖1㎏はセリムの手に受け取られることとなった。怯えながらだったけれども。

 

 気軽に使えるような品では決して無いが、死蔵してしまうのも正直に言えばもったいない。腐るような物では無いので、大切に大切に使っていこう。病気になったときの栄養補給や、特別な日の料理やお茶などに、大事に大事に使っていこう。

 そうして一財産を手にしたセリムだが、さらなる衝撃が彼を襲うことになる。翌月、彼の元へと届けられたのだ。新たなる砂糖1㎏が。

 正直、勘弁してください。頭を抱えるセリムであったが、使い切れないようなら誰かに譲っても良いですよと言われ、悩みに悩んだ末に受け取ることにした。そしてそれを、暴利をむさぼることも無く村に様々な品を届けてくれる馴染みの善良な行商人に、普段の礼だからと格安で譲ったのだった。

 

 ちなみに、砂糖はもう簡便してと言ったところ、翌月には胡椒の小瓶が届けられることとなり、セリムは小一時間ばかり気を失うこととなる。

 その更に翌月は、冬で野菜があまり食べられないという話を聞いた翔太の発案により、増えるワカメが贈られた。珍しい物ではあったが、こちらの世界では海藻など海辺に住む人たちが自分たちで食べる分だけを採るくらいであり、特に流通はしていない。値段のつけようが無いものなので、割合と気楽に口にすることも出来、パティ一家の冬の食卓を彩ることとなった。最初は食べたことの無い食感に戸惑ったが、スープに入れたりすると中々に美味しい。特に母が気に入って、それからしばらくの間は翔太からの贈り物の定番となった。

 

 さて。セリムから極上の砂糖を譲ってもらった行商人であるが、彼も金銭感覚は庶民派であった。自分のために気軽に砂糖を使う気にはなれない。かといって、格安で譲ってもらった物を高値で売りさばくのも気が引ける。結局、砂糖は温泉街で行商人に品を卸している馴染みの商人に譲られることとなる。

 更にその商人から取引先の大商人への心付けとして利用され、その大商人からはとある貴族に譲られて。人から人へと旅を続けた砂糖1kgは、ついには王都にてこの国でも有数の権力を持つ侯爵の手にするところとなった。

 

 ある日、この侯爵に王より命が下る。帝国にてちょっとした催し物が行われることとなったため、王の名代として出向いて欲しいという物だ。

 かつての両国が争っていた時代であるなら、これは命がけの任務となったであろう。けれど時代は変わった。侯爵はちょっとした観光気分でこれを引き受け、王国を旅立つことになる。手土産の一つとして、極上の砂糖1㎏を携えて。

 

 王国から帝国へと向かうと、道中で辺境領を通ることになる。その際の宿泊先として、辺境伯が賓客として侯爵を迎え入れることとなった。貴族の中でも有数の家柄を誇る侯爵に見合った宿などそうそう無いし、辺境伯としても知らぬ仲では無かったために旧友と顔を合わすようなもの。

 再会した二人は互いの息災を喜び合い、茶の席、酒の席を催すこととなる。そしてその茶の席において、事件は起こった。

 

「そういえば、珍しい砂糖を手に入れたんだ」

 

 本来であれば高価な磁器の砂糖壺などに移し替えられるものであろうが、この砂糖の外袋はビニール製。水を通さないビニールは、あたりまえだがこの世界では非常に珍しく、代えの利く品がない程に高性能な物である。そのため、大きめの壺に外袋ごと入れられていたそれ。

 そこに、辺境伯の目が釘付けになっていた。……いや、そこに書かれていた文字こそに、視線を奪われていた。

 

「どうかしたかね?」

「……いや、変わった文字だなと、思ってな」

「ああ、その文字か。何人かに見せたのだが、誰も読めん。そもそも、この品の出所自体が判然としない。毒など無いのは確認済みだが、ここまでの品で無ければ口にしようとは思わなかっただろうな」

 

 ……読めんか。そうであろうな、と。

 そう口中で呟くこの地の主の言葉には。クレイ辺境伯ジョージ1世の声には、かすかな震えが混じっていた。



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28話 辺境伯は遠い故郷を想う。

 王国の帝国との国境に位置するクレイ辺境伯領。かつては敵国に対する砦として、現在は交易の重要な拠点として、王国に存在感を示しているこの地。

 その一角にそびえる、とある山の麓。そこには、辺境伯領ひいては王国に更なる富をもたらさんと、只今絶賛建築中の街がある。それがこの、辺境伯領の新名所、温泉街だ。

 

 ちなみに、温泉街という名は既に広く浸透しているけれど、実はこれは単なる通称。では正式な名称は何かと問えば、答えとして返ってくるのは、まだ決まっていないという意外な事実だったりする。

 常ならば果断で知られる辺境伯であるが、名付けで迷いに迷ってしまっているのがその原因だ。ハコネ、あるいはクサツ。この二つまでは候補を絞れたのだが、あと一歩を踏み出せない。どちらの名も伯にとっては何やら思い入れの深いものらしく、安易には決められないと、うんうん頭を悩ませている。

 

 そんな、温泉という物に強い執着を持つ伯であるからして当然というべきか。この街には領主別邸という名の立派な建物が存在している。とはいえ、公務に忙しい伯が領都より訪れることなど、めったにないのであるが。

 敬愛する主人に奉仕する機会に恵まれないのは、いかにも寂しいものではある。だが、観光地でのんびりと暮らしつつ、好きなだけ湯につかれるこの館の使用人たちはある意味、勝ち組でもある。辺境伯領の家臣団にとって、勤めたい職場人気投票の筆頭候補だ。

 

 そんな普段は静かな邸宅であるが、今日はなにやら違った雰囲気。静かな中にも熱気というか、使用人たちのやる気が空気の中に充ち満ちている。

 この館に主人が訪れることは滅多にない。しかし、湧き出る源泉の一つにほど近い、街でも一番奥まった場所に建つこの場所では今、その滅多に無いことが起きていたのだ。

 

 

 

 王国における貴族の庭園というものは、綺麗に刈り込まれた低木や花壇が幾何学的に配されたものが多い。けれどこの場所は、そういったものとは随分と趣が異なっていた。

 人の手のあまり入っていない無骨な岩や石を、白い砂利を敷き詰めた上に無作為に並べたように見えるその庭は、伯の生まれ故郷の思想と文化を詰め込んだものだという。ここ招かれた客の半数は寂しい庭だと思い、残りの半数は大いなる自然を感じとるという。

 その庭の外れにある、一軒の四阿。そこで凝縮された宇宙を眺めながら、老人と若い娘が野外でのお茶を楽しんでいた。

 

「貴女に会うのも久しぶりだが……本当にいつまでも変わらず、美しいままだな、ラニは」

 

 向かいに座った女性にそう声をかける老人の背は、あまり高くない。姿勢良く椅子に座っていてもすぐにそれとわかるほど、小柄な体型だ。この地に住む一般的な男性と比べると、骨格からして違うのだろう。黒い瞳と、かつては黒かったであろう白髪も、この辺りではあまり見ないもの。無数の皺が刻まれた彫りの深くない顔立ちも相まって、彼が生粋の王国人ではないことを示している。

 顔に浮かぶのは、ほのかな微笑。総じて受ける印象は、優しそうで可愛いお爺ちゃんと言ったところか。若かりし頃に築いた数々の剛毅な逸話からすれば意外にも思える姿の彼こそが、この館の、そしてこの領地の主である、ジョージ・クレイ辺境伯その人である。

 

「そうか? 最後に会ってから、そう時間も経っていないように思うが」

 

 不思議そうに答える女性が、何かに気づいたように口を閉ざす。

 そうだったな、君と私では時の流れというものの受け取り方に、随分と差があるのだった。もう慣れたつもりでもいたけれど、それでもとっさには違和感を感じてしまうのはどうしようもないのだろうか。

 

「1年ぶりだよ。私にとっては長い時間だ。まあ、以前の50年ぶりの再会に比べれば確かに短いがね」

 

 そう、困ったように笑みを浮かべて、伯が女性を見つめる。

 銀糸の艶やかな髪に、深い知性を感じさせる紫水晶の瞳。新雪のような白い肌。作り物めいた無表情でありながら人を惹きつけてやまない、ある種の理想を体現したとばかりのその美貌。そしてその少女の耳の先は、少しだけ尖っていた。

 

「私としては、もっと頻繁に貴女と顔を会わせたいものだ。やはり、森小屋での暮らしをやめる気はないのかね? 領都の館に招く話を、もう一度考えてみて欲しいのだが」

「そう言うな、ジョウジ。君のことを好いてはいるが……やはり私には、森の中の方が過ごしやすい」

 

 そう言葉を返す半妖精族の女性、ラニの顔には。彼女には珍しい、誰が見てもそれと分かる柔らかな微笑みが浮かんでいた。

 

 

 

「精霊力というものだったか」

「ああ。純血の奴らみたいに必須という訳でははないが。それでも、森にいれば気が落ち着く。飢える心配もないしな」

「食事なら、使用人に用意させるが?」

「とはいえ、君の客ともなれば彼らにも遠慮が出るだろう。かつての誰かのように、私の口の中に無理矢理パンを突っ込んでくるような真似をしてくれるだろうか?」

 

 まあ、それは流石に無理だろうな、と。

 辺境伯はその時の光景を思い出し、懐かしむように目を細めた。

 

 妖精族が深い森の中に住んでいる理由は、生きるために自然の精霊力が必要だからだ。逆に言えば、それさえあれば生きていける。口から取り入れる食事や酒といったものは、あくまで趣味的な、娯楽としてのものに過ぎない。

 人との混血であるラニにも、似たようなことが言える。人が口にする普通の食事も生きる糧になるが、精霊力を取り込める環境にあるならば、何も口にしなくても構わない。

 

 ところで、つい先程ラニも再認識したように、人と妖精族では生活における時間感覚が全く違う。妖精族が少しのんびりと宴会を楽しんでいた時間が、人にとっては数年に相当したとか、ざらな話。これは妖精族の、特定の条件を満たさない限りは終わらぬ寿命と、環境の変化の少ない森の中での暮らしに起因する。人とは似て異なる、彼らの特徴の一つと言えるだろう。

 ラニが人の世界に出てきたばかりの頃は、この感覚の違いに随分と苦しめられた。知り合った友人に久々に会いに行ってみれば、既に老衰でこの世を去っていたなどということもあった。

 

 これらのことから、街に出てきた半妖精族という極めて珍しい存在であるラニならではの、決して看過できない、とある危険な可能性が浮き彫りになる。

 可能性というか、実際になった。何度も起こった。つまりは、ほんの少しぼうっと考え事をしていたら、飢え死にしそうになったという経験だ。

 

 流石に人の世の時間の流れにも大分慣れてきたラニであるが、未だに油断をするとお腹が空いて動けなくなることがある。けれど、かつて10年ばかりの間ともに旅をした少年と一緒にいた頃は、飢えることなく生活することが出来ていた。

 一度、ラニが前触れもなく急に倒れ込むのを目の当たりにした少年は、その光景が半ばトラウマになってしまった。それ以来、彼は食事の時間になると、問答無用でパンをラニの口の中に突っ込んでくるようになったのだ。

 最初のうちはこれに抵抗を見せていたラニではあったが、少年の必死の思いやりに次第に慣れていった。そのうち、少年が無言で口元に差し出すパンに、無表情のまま齧り付くという光景が当たり前のものになっていったのだ。なんとも、色気のない「あーん」である。

 

 やがて青年となった元少年と別れる際、彼は絶対に守るようにと、一つの約束をラニに課してきた。いついかなる時であろうと、食料を手元に置いておくように、と。

 その約束を、今でもラニはしっかりと守っている。腰のベルトに付けられたポーチには、小さな岩塩の塊と氷砂糖、堅く焼き締められたビスケットなど、長期的な保存の利く携帯食が詰め込まれている。これまでに三度ほどお世話になった。

 

「初めて会った時は、綺麗で知的で完璧なお姉さんだと思ったものだが。中身は何て残念なんだろうな、ラニは」

「……随分と酷いことを言う。誰にだって、些細な欠点の一つくらいあるものだろう」

「命に関わるような欠点を、些細な事とは言わないと思うが?」

 

 ラニの眉間に皺が寄り、切れ長の目が辺境伯を鋭く見据えた。怒っているように見える。顔が非常に整っているだけに、何とも言えぬ迫力がある。馴染みの薄い者ならば尻込みしてしまいそうな表情だが、彼女をよく知っている者なら分かる。これは、反論できずに不貞腐れている顔だ。

 この話をこれ以上続けるのは分が悪い。そう判断したラニが、この場にやってきた目的を切り出した。

 

「食事の話はいいとして。随分と忙しいというのに君がこの街にやってきたのは、ただ私に会いたかったというだけなのかね?」

「久々の休暇で温泉に入りに来たというのもあるが……ひとつ、気になることがあってな」

「気になること?」

「ああ。……その前に、お茶のおかわりなど、どうかね?」

「いただこうか」

 

 控えていたメイドがすっと進み出て、新しいお茶を用意する。カップを手にしようとしたラニに、辺境伯がそっと砂糖壺を差し出した。先の一杯に使った物とは別の壺だ。

 何故、2種類も砂糖が、と。疑問に思うラニだったが、差し出された壺の蓋を開けてみて、全てを悟った。

 

 壺の中身は、純白の砂糖。先日、領都にて歓待した侯爵が持参してきた、極上の砂糖。それを、無理を言って引き取らせてもらったものだ。

 辺境伯は砂糖を覆う、透明の袋に書かれた文字に目をやりながら、言葉を続ける。

 

「これは、この地には存在しないはずの物だ」

 

 この地というのが、何処を指す言葉なのか。それはこの街のことではない。辺境伯領のことではない。王国全体のことでもない。そして、この世界そのもののことですらない。

 ラニは、この砂糖そのものを見たことはなかった。それでも、伯が何を言いたいのか。それはすぐに察することが出来た。一人の少年の姿が、このところ親しくしている少女の姿が、目に浮かんだ。

 

「この品の出所を探していてな。手にした者を順に追っているうちに、領都から王都、そして最終的にぐるりと回ってこの温泉街へ。王国中を一周する羽目になったと、部下が嘆いていたよ」

 

 その報告をしてきた部下の様子を思い出し、悪戯気な笑みを浮かべる辺境伯。しかし、表情とは裏腹に、その声には真剣な響きが籠もっていた。

 

「この温泉街に住んでいるという少年が、これを持っていたところまでは分かった。しかし、その先が分からない。ジパングから来たというその少年が、見つからない」

 

 人づてにとうとうセージ村までやってきた辺境伯の使いの者に、セリムは言ったのだ。カタカタ震えながら、伝えたのだ。温泉街に住むクリス・ショータという名の少年からもらったのだと。

 しかし、温泉街にそのような者は滞在していない。ジパングという島国からやって来た商人など、いやしない。そもそも、だ。

 

「そもそも、ジパングという名の国など、この世界には存在しない。あれは、かつて私の出身が何処かと尋ねてきた者に教えた、半ばでまかせのようなものだからな。どうやら、都市伝説的にそういう名の島国があると伝わってしまっているようだが」

 

 ラニの瞳が、砂糖の袋をじっと見つめる。彼女には、これに見覚えなどない。けれど、誰が持ち込んだ物なのかは、すぐに分かった。

 そして、ラニがそれを知っていると、伯が悟ったことも分かった。持ち込んだ者について、伯と故郷を同じくする者について、ラニが知っていると。そして、黙っていたと。それを、彼は知ってしまったと。

 ラニの目に、かつて故郷を思って泣いていた少年が思い浮かんだ。帰りたいと、涙を流していた姿が思い浮かんだ。

 

「……すまなかった。君には伝えるべきではないと、そう判断してしまっていた」

 

 伺うような、ラニの言葉。

 

「このことを知っても、君が悲しむだけだと。帰れないままその年になってしまった君が今更、このことを知っても。きっと、苦しむだけだと。そう思ってしまった」

 

 俯いて、絞り出すように言葉を紡ぐラニ。

 そんな彼女に対し、伯が言う。遠い所にあるものを見るような目をして、ゆっくりと、言う。

 

「確かに私は、帰りたかった」

「……すまない」

「違うよ、ラニ。帰りたい、じゃない。帰りたかった、だ」

「……過去形か?」

「ああ、過去形だ」

 

 辺境伯の顔に浮かぶのは、微笑み。

 諦観とも、達観とも似ていて、それでいてまた違う。そんな寂しそうな、笑み。

 

「あの時、私は10歳だった。それから10年、君と旅をして。20年、王国に尽くして。そして30年、この地を治めた。……もう、私は70歳になってしまったよ。かつての家族も、友人も、おそらくもういない。いたとしても、私のことなど覚えてはいまい」

 

 そして彼は、笑う。にやりと笑う。

 望郷がないとは言うまい。未練がないとも言うまい。けれど自分はこの生に、後悔何てしていない。

 

「暮井譲治は、もういない。私は、ジョージ・クレイ。クレイ辺境伯ジョージ1世、だ」

「……そうか」

 

 ラニの瞳に映るのは、毅然と胸を張る誇り高き貴族の姿。

 その横に10歳の少年と、20歳の青年の姿が浮かんで見えて。そして、伯に重なるように消えていった。

 

「……立派になったな、君は」

「ラニ、貴女にそう言ってもらえるのが、私は何よりも嬉しい」

 

 母であり、姉であった人からの言葉に、伯は素直な喜びを示して。まるで少年のような、混じり気のない笑みを浮かべていた。

 ……けれど。

 

 本当に、立派になるのが速すぎて。

 君もまた私を追い越して、届かない所へと行ってしまうのだな。

 けれど、そう口中で呟いたラニの小さな慟哭は、伯の耳に入ることなく消えていった。

 

 

 

 

 

「それで、故郷に帰りたいのでなければ、何故これの持ち主を探していたんだ?」

 

 思わずしんみりとしてしまったが、そういえば話はまだ途中で止まったままだった。どうにも、自分は話すのがあまり得意でない。

 見つからないようにそっと眦を指で拭ったラニは、気持ちを切り替えてそう尋ねる。

 

「かつて、貴女が私にしてくれたことを。どんな人物かはわからないが、もし助けを必要としているようなら。そうであれば、出来る限りのことをしてあげようと思ってね」

 

 かつての自分は、ラニに拾われなければ間違いなくのたれ死んでいた。ならばその恩を、誰か必要としている人に返すのもまた道理。それだけの力が、今の自分にはあるのだから。

 決意を込めてそう語る伯であったが、ラニが返した言葉はなんとも、理解の外にあるものだった。というか正直、理解したくなかった。

 

「いや、その必要はないだろう」

「既に、それなりの生活が出来ているのか?」

「それなりの生活というか。あの子、帰れるからな」

 

 えっ?

 

「……帰れるというのは?」

「だから、こっちに遊びに来て、あっちの世界の自分の家に帰っていっているんだ」

 

 ……えっ?

 

「……自由に行き来、出来ると言うことか?」

「遺憾ながら」

 

 えっ、ほんとに? 俺、あんなに苦労してきたのに?

 いや、うらやましいとかじゃないよ? 良い人生だったって思ってるし、ほんとに。

 でもさ、うらやましいんじゃないけどさ、なんていうかさ、そのさ。

 

「……ずるい」

「いや、気持ちは分かるが、とりあえず落ち着け」

 

 握り拳をぷるぷる震わせ、下を向き、血を吐くような声でずるいと呟くこの地の主、辺境伯。それを、どうどうとなだめるラニ。

 少し前までのしんみりとした雰囲気はどこへ行った。しばらく、おまちください。

 やがてぷるぷると震えていた伯が、ふううううううっと大きな大きな溜め息一つ。

 

「……妖精か?」

「他に、何がある?」

 

 自分の時は一方通行で、それでもとんでもないことだったというのに。力のある妖精というのは、そんなことまで出来るのか。

 まったく、どこまでも勝手で、我が儘で、はた迷惑で、自由な存在だな、あいつらはっ!

 ……でも、まあ。

 

「その子と言うことは、まだ子供なのか?」

「ああ。私は数回会っただけだが、あのときの君と同じくらいだったな」

「……そうか」

 

 まあ、良かった、か。その子が自分のような辛い思いをしていなくて、良かった。ああ、それは間違いない。

 そしてジョージ・クレイ辺境伯は、どこか諦めたかのような、何処かほっとしたかのような。そんな自分でも整理しきれない溜め息を、今度は短く、ほっと一息ついていた。

 

 

 

 

 

「何だか、すっかり気が抜けてしまったな」

 

 同郷の者の力になりたい。そんな使命感に突き動かされていたけれど、それは単なる空回りだった。安心したのは間違いないが、反動なのかどっと疲れが。

 トントンと自分の肩を叩く辺境伯。年相応といおうか、随分と老け込んだその仕草にラニが思わず言う。

 

「さっき自分でも言っていたが。君も、もういい年だ。そろそろ引退したらどうなんだ?」

「まあ、いい加減に頃合いだろうかと、私も思うよ。まだまだ経験不足とはいえ、子供たちも資質は悪くないしな」

 

 伯には子供が何人かいるが、一番上の子でもまだ30歳に届いていない。すっかり大領地へと変貌を遂げたこの辺境伯領を任せるのには、経験的な意味でいささか不安が残る。

 親の年齢が70であることを考えると、子供は随分と若いのだが、これは伯の結婚が遅かったからだ。旅人から成り上がっていった彼には当時、味方もそれなりにはいたが、それ以上に敵が多かった。婚姻によって下手に何処かの家と関係を深めることは、大きな争いの引き金にも成りかねなかったのだ。

 

 彼は、ある理由によって結婚を考えていなかったこともあって、それを良しとしてきたのだが。流石に辺境伯という爵位を叙されるに当たっては、何処とも繋がりのないことがかえって騒乱の種となる。そこで重い腰を上げ、政略結婚に踏み切ったという経緯がある。伯、40歳の時の話である。

 ちなみに、お相手は砂糖侯爵の年の離れた妹だった。当時まだ10代半ば。親子ほどに年の離れた相手だったが、なんだかんだで互いが互いを大事に思っていたようである。爆ぜて、辺境伯。

 

「爵位を譲って、この街に隠居すると言うのも悪くない。……いや、貴女の近くで暮らせるというのなら、むしろ幸せなことだな」

「……君はまだ、初恋を引きずっているのかね。20歳の時に振ってやっただろう」

「男なんて、そんなもんだ。妻が亡くなってもう10年、彼女も許してくれるさ」

 

 年が離れているのにも関わらず意外に仲の良い、貴族には珍しいおしどり夫婦の辺境伯夫妻だったのだけれど。夫人は10年ほど前に些細な事故が原因で亡くなってしまっている。

 政敵による暗殺なども疑われたが、正真正銘に、単なる事故だった。この世界に連れてこられたこと以上に、やりきれない思いを伯は抱えて苦しむことになった。

 けれど、それから10年。思いが風化した訳ではないし、今でも彼女のことを愛してもいるけれど。次の生を歩んでも良いのではないかと、そう思えるほどには伯の心も落ち着いてきた。問題は、普通なら次などない高齢だと言うことなのだが。

 

「まったく。もう先もそう長くないだろうに、君は」

 

 困ったようで、それでいて何処か少しだけ嬉しそうなラニの表情。

 実際、自分はこの元少年のことを好ましくは思っている。それは確かに自覚している。けれど、共に生きるとなるとまた別の話だ。彼と自分とでは、生きる時間が異なるのだから。

 

「……君がくたばるまでは、この街にいてやるさ」

 

 だから、これがラニの精一杯。浮かんだ笑みを無理矢理消して。代わりに、しかめっ面を表情に乗せて。

 そんなラニだったが、伯の次の言葉に何処か浮ついた気持ちが消え去った。しかめっ面度150%。素で浮かんだしかめっ面の上に、さらに意図的にしかめっ面を乗せたという状態だ。

 

「妖精族の里に行って、二人で永遠の余生を過ごすというのも悪くはないと思わないか?」

 

 ラニの顔が、歪みすぎて少し面白い位になっている。パティが見たならきっと、吹き出している。

 そして発せられる声は、心の底からの嫌そうなもの。モーリが聞いたならきっと、爆笑している。

 翔太ならきっと……きっと彼なら、心配してくれるのではないだろうか。良心だし。

 

「……ジョウジ。君は、妖精族という者たちを分かっていない。あいつらは、本当に、どうしようもないほど、ろくでもない奴らなんだ。関わらないでいられるのなら、その方が良い」

「また、随分な言いようだな。それでも、人間にとって永遠の生というものは魅力的に見えるのだよ。それが好いた者と二人でならば、尚のことね」

 

 ラニは下を向き、肺の中身を全て吐き出すかのような長い長い溜め息をつく。その顔が再び上を向き辺境伯の顔を見定めた時、伯の背筋にぴりりと怖気が走った。

 それは、伯の知らない顔だった。

 

「身内の恥となるが。ひとつ、君の知らないことを教えてやろう。そうだな、君にはその資格がある」

「……どんなことかね?」

「妖精族のことだ。奴らにも、死は存在するのだよ」

 

 妖精が肉の体を得た存在。深い森の中、終わらぬ生を謳歌していると伝えられる妖精族。

 その生に終わりが来る時があるなどと、人の世においては知られていない。

 

「どんな享楽にも、やがて飽きる時が来る。何を楽しもうとしても、心が動かなくなる時がやってくる。……そうなったとき、妖精族は自ら、この世界から立ち去るのさ」

「自殺すると、いうことかね?」

「いや、そんな可愛げのあるものじゃない。あいつらはこの世界に飽きた時に、世界樹の下で眠りについて、夢の世界へと旅立つ。そしてそこで、これまでに旅立った全ての妖精族と共に、同じ夢の世界で遊んでいるんだ」

 

 平坦な、ラニの声。感情がないのではない、激情を押し殺しているからこその、平坦な声。

 怒りに近いが、違う。憎しみとも違う。罪悪感、それが近いものかもしれない。

 10年、共に旅をした時も。この街で再会してからも。辺境伯は、こんなラニの声を聞いたことはなかった。

 

「それが、妖精族の死。私にはこれが、おぞましいものと思えて仕方がなかった。里を出たのは悪戯に付き合うのが面倒だったとか、好奇心からとか、いくつか理由があるが……」

 

 そこで一旦、ラニは言葉を句切り。

 自分の気持ちを確かめるかのようにゆっくりと、続けた。

 

「自分も彼らと同類になってしまうのかもしれない。その恐怖も、大きな理由だ」

「……どんな夢を見ているというのかね?」

 

 問いを発した辺境伯の声は、微かに震えていた。自分の知らぬラニの姿に飲まれ、剛毅なはずの心が揺らいでいた。

 ラニが答える。彼女にとって紛れもない禁忌であろう、答えを。

 

「……神と、妖精の、夢を」

 

 



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29話 翔太、世界の成り立ちについて学ぶ。

 まず最初に、神が在った。

 

 永い永い思索の果て。ふと、神は独りでいることに寂しさを覚えた。

 そこで神は、自らの姿に似せて妖精を創り出した。そして小さな箱庭を創り出し、妖精をそこに住まわせた。

 日だまりと、そよ風と、枯れることのない花々と。その楽園で歌い踊る妖精たちは、永く神を楽しませた。

 

 永い永い歌と踊りの果て。ふと、妖精たちはその日々に退屈を覚えた。

 そこで妖精たちは、自分たちも神のように世界を創り、そこで遊ぼうと思い立った。神には秘密で。

 

 四重に冠せし妖精の主。

 風の主が空を創り、水の主が海を創り、地の主が大地を創り、そして火の主が世界に熱をもたらした。

 

 三重に冠せし妖精の王。

 山の王、川の王、湖の王、森の王、草原の王。それらの王たちが世界に彩りを加えていった。

 

 そして妖精たちはその冠の数に関わらず力を合わせ、自らの姿に似せて数多の人形を作り出した。

 細かいことを気にしない妖精たちの作った人形は、妖精から見てとても大きい物となってしまった。だが、やはり細かいことを気にしない妖精たちはそれにかまわず、人形たちと永く永く遊び暮らした。

 

 ある時、その世界の存在を神が知ることとなった。

 無断で勝手に世界を創ったことに神は怒り、永い永い説教をする為に妖精の主を箱庭へと呼び戻した。

 

 四柱の主が世界から去ったことにより、世界も人形も有限の存在へと成り代わった。

 世界はいつか終焉を迎える運命を背負い。そして人形は人間となり、死する運命を背負った。

 

 これが、この世界と人の始まりである。

 

 

 

「――そして神の箱庭では今も、妖精の主たちが神より説教を受け続けているという。正座で」

「……うん、問題なし。上手に読めたね、ショウタ君」

 

 何処か読み間違えてなかったかな。発音が変だったりしなかったかな。そんな不安気な面持ちで、音読に耳を傾けていた先生を伺う翔太。

 対してセリム先生は、一つ大きく頷いて。真面目に聞いていた顔に微笑みを浮かべて。そして翔太に、花丸をプレゼントするのだった。

 

 ここは辺境領セージ村、翔太にもおなじみのパティの家。そして今日は、週に一度の勉強会の日。習う科目はもちろん、王国語の読み書きだ。

 翔太とパティがセリムより教えを受け始めてから、気づけばそれなりの日々が過ぎ去って。あの頃よりも少しだけ背の伸びた二人が、ここは変わらず仲良く並んで、ちょこんと席に座っていた。

 

 季節はぐるりと巡って、春。

 村近くの丘の上では、暖かな日差しを一杯に受け止めてすくすくと育った虫除けの草。今年も悪餓鬼たちの目にキツい一撃を食らわせてやらんとばかりに、一面に咲き誇っている。

 そう。翔太とパティが出会ってから、もう一年が過ぎたのだ。翔太はこの春休みが終われば3年生。パティも既に10歳になっていた。

 

 そして今日行われているのは、これまでの勉強の集大成。いわば、卒業試験のようなもの。

 セリムが記憶を頼りに大学ノートに書き綴った、少し難しめの文章を、最後まで間違えずにきちんと読むことが出来るかどうか。これが出来るなら、日常的な会話と文章の読み取りは問題なし。話せて読めるなら、字を書くのも自然と上手くなっていくもの。とりあえずは、セリムが教えたいと思っていた内容も一段落。

 そして翔太は、見事にこの試練に打ち勝ったのだった。

 

「やったっ! パティ、僕やったよっ!」

 

 隠しきれない、というか隠す気など全くない素直な喜びを、笑顔と声に一杯まで詰め込んで。隣に座るパティに呼びかける言葉もまた、王国語。バイリンガルな翔太である。まあ、日本では全く役に立たなかったりするのだけれど。

 ところが、翔太が声をかけた先のパティといえば。常ならば翔太の課題達成を自分のことのように喜んで、一緒に手を取り合って大騒ぎして、そしてセリムに怒られているであろう彼女といえば。

 

「……違うわよ、ねえ? いや、だって……ねえ?」

 

 どうやら、翔太の言葉は耳に届いていない様子。ぶつぶつと、そんなことを呟いている。

 眉根をぎゅっと寄せて皺をつくり、口元はへの字に曲げられて。あごに手を当てて何やら訝しげな表情。視線の先をたどっていくと、そこは翔太の頭の上。

 

「んー? なんだー? 俺に用かー?」

 

 この場にいる者の中で、パティの視界だけに映っている、背中から蝶の羽を生やした小人の姿。

 いつもだったら、大人しく二人が勉強するのを見ていたり何てしない。翔太と一緒にここまではやってくるけど、その後は勝手気ままに過ごしているはずの、妖精。部屋の中をうろちょろしたり、ふらりと外に出て行ったり、問題を出しているセリムの後ろから笑わそうとしてきたり。それなのに今日は珍しく、翔太が読み上げるこの世界の創世神話を大人しく、目を瞑って聞いていた、モーリ。そんな彼がパティの視線に感づいたのか、薄目を開けて尋ねてきた。

 

 ……いや、待って。よく見たら、口の端から涎が垂れてる。寝てただけね、こいつ。

 うん。やっぱ、ない。ないわ。あるわけないわ。だって、モーリだし。

 

「おーい、パティってばー」

「どうしたの、翔太?」

 

 ふと気がつくと、翔太がこちらを見ていた。じとっとした拗ねた目で、少し怒った顔で見つめていた。

 

「どうしたのじゃないよ。僕、間違えないで読めたんだけど?」

「えっ? ああっ! やったじゃない、おめでとう翔太っ!」

 

 そうだった。今は翔太のテスト中で、世界の成り立ちについて読んでたんだった。

 ちょっと内容で気になるところがあって、思わず考え込んじゃったけど。でも、ちゃんと聞いてたんだから。本当よ?

 

「何か、てきとー。酷いよパティ」

「ちゃんと聞いてたってば。難しい言葉だってあったのに、すごく上手に読めてたじゃないっ!」

 

 そう言うとパティは手をすっと伸ばし、そして優しい手つきで翔太の頭を撫でた。撫でるのに邪魔なモーリはぺしっと払って、ゆっくり丁寧にいい子いい子。

 吹き飛ばされたモーリの、両手両足をぶんぶん振り回す王の抗議。ばたばたばたと、おもちゃを買ってもらえない駄々っ子のごとき、威厳ある抗議。

 視界の端にそれをとらえて、やっぱりないわーと。ちょっと安心するパティだった。

 

「……もう。少しだけお姉さんだからって、すぐそういうことするんだから」

「ふっふー。悔しかったら追い越してみなさいよ」

 

 時間旅行でもしろというのか。無茶を言うパティである。

 でも、翔太も文句を言いつつもやめさせようとはしないし、なんだかんだでちょっと嬉しそうだし。まあ、これもいつの光景という奴です。

 

「ほら、二人とも。おしゃべりはそのくらいにしておいて。次はパティの番だよ」

 

 仲良くおしゃべりを始めてしまった二人に、セリムからお叱りの声。パティも翔太もはっとして、ごめんなさいと前へ向き直る。

 パティのテストの文章は、王国の歴史について。後から読む方が有利にならないように、翔太とは別の内容だ。

 多くの小国が相争う戦乱の時代を経て、ついに統一を果たした初代国王の話をパティが読み始めた時。興味をなくしたように、モーリがふらりと部屋の窓から飛び出していった。

 

 

 

 

 

 パティも無事に試験に合格して、今日の勉強会はこれでおしまい。

 とはいえ、王国語の基礎意外にもまだ、セリムから教わった方が良いことは色々とある。王国や辺境領の制度についてとか、外国との関わりに関してとか。なので頻度は減るものの、勉強会自体はこれからも行われる予定だ。

 

 出来ればこの後、花畑や翔太の部屋で遊んだりしたかったのだけれど、もうすぐパティの家では夕食の支度が始まる時間だ。残念だけど、今日はこれでさようなら。

 家路につく翔太の横には、並んで歩くパティの姿。もう少しだけ一緒にいたくて、森の入り口までお見送り。それくらいなら、いいよね?

 

「さっきのさ、年のことだけど。もう少ししたら、少しだけ追いつくよ」

「どういうこと?」

「4月になったらね、僕の誕生日が来るんだ。去年は言葉が分からなくて上手く誘えなかったけどさ、誕生会やるからパティも来てよ」

 

 4月生まれで、もうすぐ9歳になる翔太である。

 去年は転校したばかりで家に呼べる友だちもいなかったし、家族三人での誕生会だった。でも今年は学校の友だちも呼んで、わいわい楽しめたら良いなと思っている。そこにパティも参加できるなら。それはきっと、とっても楽しいことに違いないのだ。

 

「誕生日……翔太の方は、生まれた日にお祝いするんだっけ」

「あ、そっか。パティたちは違うんだよね」

「うん。新しい一年が始まる時に、皆まとめて年をとるの」

 

 王国では、個人の誕生日を祝うという風習はない。年明けと共に、誰もが一緒に年をとる。年始生まれと年末生まれでは、同じ年齢でもほぼ丸一年の差があることになるが、日本と違って学校があって学年ごとに行動するなんてことがある訳でもないのだ。それで特に問題なく回っている。

 

「楽しそうねっ! ……でも、翔太の学校の友だちも来るんでしょ?」

「うん。嫌かな?」

「嫌じゃないんだけどね。私がどこに住んでるかとか、知られたりしたら困るかなって」

 

 パティの言葉に、翔太も困り顔。

 それは確かに、そうかもしれない。適当にごまかして何とかなるかもしれないけれど、日本でパティと親しくする人は少ない方がいいのかもしれない。

 でも、なあ。

 

「でも、パティにもっと友だちを増やしてあげたいんだ」

「うーん」

 

 翔太には友だちが一杯いる。クラスの生徒はみんな友だちだし、同じ学年の子や前の学校の子まで合わせれば、それこそ友だち100人出来ました、だ。

 友だちは一杯いた方が楽しい。翔太はそう思う。まあ、一番の友だちは誰かって言われれば、それはパティなんだけど。

 けれど、パティに考えは少し違うみたいだ。

 

「私ね、翔太が友だちになってくれて、本当に本当に嬉しかった。今も、とっても嬉しい」

「うん」

「だからね」

 

 そしてパティはこう言った。繋いだ手にぎゅっと力を込めて握りしめて、少し照れながら彼女は言った。

 

「だから私は、翔太がいれば、それでいいの」

 

 はにかんだ笑顔。とても幸せそうな、微笑み。

 その表情が翔太には、どこかまぶしくて。何か特別なものに思えてしまって。あふれ出てくる気持ちがなんなのか、自分でも良くわからなくて。

 翔太はきゅっと、胸の辺りが少し痛くなったような。どくんと心臓が高鳴ったような。そんな、気がした。

 

 

「それにどうせ、そっちの友だちと遊ぶ時間とかないだろうし」

「僕と遊ぶのも週に一回とかだしねー」

「村のチビたちも結構大きくなってきたし。あと、ラニもいるしね」

 

 ラニって、あのエルフのお姉さんだ。モーリに迷わされたときに、村まで案内してくれた人。その後も、こっちでパティと遊んでいる時に、何度か会ったことがある。

 今までは言葉が通じなかったので話したことはないけれど、今ならもう大丈夫。今度会ったら、モーリを見る方法がないかとか、いろいろ聞いてみたいと思ってた。というかそもそも、王国語を覚えようと思ったきっかけの一つが、あのお姉さんとお話してみたいから、だったっけ。

 

「そうだわっ! ラニよっ!」

「突然どうしたの、パティ?」

 

 ラニの名前を挙げた後、いきなり何か思い出したかのように大きな声を上げるパティ。

 訝しげな翔太に、パティは言った。ニヒヒと、悪戯気に笑う口元を隠すようにして。何事か企んでいる、そんな悪い顔をして、言った。

 

「ねえ、翔太。誕生会って、こっちでもやらない?」

「え? 別に良いけど、セリムさんとかパティのお母さんとか参加してもらうの?」

 

 人の家に押しかけて自分の誕生会を開くというのは、何か違う気もするけど。でも、あの二人ならきっとお祝いしてくれるんじゃないかな。

 パティのお父さんはどうだろう? 何だか、たまに睨まれているような気がするんだ。もしかして、嫌われてる?

 あっ。何だろう、パティの笑顔がどんどん悪だくみしている時の顔になっていくけど。

 

「えっとね、ラニを呼ぼうと思って」

「ラニさん? お話ししたいことがあるから、僕は嬉しいけど……」

 

 一体、何を企んでるんだろうなあ、パティは。でもまあいいか、何だかとても楽しにしてるし。パティが楽しいなら、僕も嬉しいし。それに、僕が本当にいやがる事なんて、パティがするわけないんだし。

 のほほんと、そんなことを考えている翔太であるが、果たしてそれはどうなのか。パティのやろうとしていることは、予想の斜め下を行っているぞ、気をつけろ。

 

 パティにとって、翔太はとても大切な、一番の友だち。そんな翔太に、恩返しの大作戦。

 私、知ってるんだから。翔太って、ラニのことが好きなのよね。

 だから、ね。

 

 妖精の笑顔。この世界には、そんな言葉がある。可愛らしいとか、神秘的だとか、そういう良い意味では使われない。ではどんな顔を指すのかと言えば。

 パティの今の顔が、まさにそれだった。

 



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30話 翔太、お誕生会を開いてもらう。

「そういうわけで、翔太のお誕生会をやるんだけど、ラニも来てくれない?」

 

 勉強会の翌日のこと。パティは早速、行動を開始した。目標を定めたのならば、脇目も振らずにまっしぐら。それが彼女なのである。

 朝の仕事を終えて自由時間になると、ラニの住む森の中の小さな小屋へ。途中で、巡回している警備の人に鉢合わせしたけれど、問題ない。何度もラニの元へと通ううちに、今では彼らとも顔なじみだ。最初に会った時、ラニからもらった辺境伯様の紋章入りの通行証を見せてみたなら、それはそれはびっくりされたけど。

 

「お誕生会? ……ふむ。そういった習わしがあると、そういえば聞いたような気がするな」

「あれ? こっちのほうでも、誕生日ってお祝いするとこあるんだ」

「……ああ。まあ、そんなところだ」

 

 辺境伯の秘密は、二人にはまだ内緒。帰れないまま何十年も経ってしまった人がいるなんて知ったなら、きっと悲しく思ってしまうだろうから。翔太なんて、帰れる自分と比べてみて、悪いところなんて何もないのに罪悪感を持ってしまうだろうから。

 だから、二人がもう少し大きくなるまでは、伯の故郷に関しては伏せておく。でもまあ、それはそれとして。ラニに、ふと思いつくことがあった。

 

「なあ、パティ。その席に、私の知り合いを一人呼んでも構わないか?」

「えっ? 別に良いんじゃない、人が多い方が楽しそうだし。どんな人?」

「古い友人でな、異国の物を食べるのが好きな奴だ。なので出来れば、翔太の国の食事をいくつか用意してもらいたいのだが」

 

 パティ、人差し指をあごに当て、んーっと考える。翔太の母さんにお願いしてみれば、きっと大丈夫よね。いつもご馳走になってばかりで、申し訳ないけど。

 何かお礼をさせてって、いつも言ってるんだけど。着せ替え人形になってくれれば、それでいいわよって返事が返ってくる。おかげで、パティの服も随分と増えてしまった。ちなみに、今日の服装は動きやすい七分丈のシャツとハーフパンツ。活発なパティによく似合っていて、彼女のお気に入りだ。翔太も似合うって言ってくれたし。

 

「うん、わかった。翔太に言っておくね」

「代わりに、場所はこちらから提供しよう。料理も別にいくつか用意しておく」

 

 ラニの言葉に、パティはありがとうと大きく頷いた。

 よし。まずは人員、一人目ゲット。ついでに場所の確保も成功。作戦の第一段階クリアだ。

 さて、次は。

 

 

 

 

 

「だからね、叔父さんも参加決定ね」

「なんだい、突然。まあ別に構わないけどさ」

 

 昼食の席で、既にセリムが参加人数として数えられていることが、本人に告げられた。

 まあ、王国語を教えていくうちに、最初に会った頃の苦手意識はもうほとんど消えてしまっている。それどころか、素直で人なつっこい彼のことは結構、気に入ってもいる。何というか、甥っ子が増えたような、そんな気分だ。

 だから、彼の成長を祝う席だというならば、参加するのに否はない。

 

 それにしても。甥っ子、かあ。セリムの目が少し遠くなった。

 二十歳までには子供がいるのが普通のこと。そんな農村の婚姻事情の中で、セリムは既に二十代半ば。もちろん、未婚。王都で暮らしている間に、村の友人たちは全員が誰かとくっついてしまっていたのだ。帰ってきた時には、相手なんてどこにもいなかったのだ。

 俺、結婚できるのかなあ。そんな呟きが漏れて出る。まあ、顔は悪くないし、気が弱いけれど何気に有能な男なので、温泉街辺りで本気で取り組めばまだどうにかなるだろう。多分。

 

「父さんと母さんはどうする?」

「あたしたちはよしておくよ。あの子とそんなに親しくさせてもらってる訳じゃないしね」

 

 顔の前で手を振りながら、母さんが言う。

 まあ、確かに。挨拶くらいなら普通に交わすし、嫌っているなんてことは間違ってもないけれど。母としては、将来の義理の息子だなんて勝手に思ってもいるけれど。でも、友だち同士の祝いの席に親がついていくというのも、何か違うだろう。

 ……それに。

 

「おい、セリム。野郎がパティに手ぇ出したりしないか、しっかり見張っておけよ」

 

 それに、だ。この、目を血走らせ、拳をぷるぷる震わせている父が一緒に行ったり何てしたら。おそらく、大変なことになる。きっと、血を見る羽目になる。そしてなんだかんだで、セリムの胃に穴が開く。

 嗚咽を漏らしそうになっている父の頭を、ここ最近の日課とばかりに、母が平手でペチンと叩く。その様子を、パティとセリムは乾いた笑いと共に見守っていた。

 

 これで、作戦第二段階クリア。参加者はこれでそろったかな。パティが指折り数えていく。

 翔太、パティ、ラニ、ラニの知り合い、叔父さん。あと、ついでにモーリ。うん、向こうでやる誕生会に何人集まるのかは知らないけど、こっちで翔太を祝うならこれで全員だ。一番大事なのは、ラニが参加するかどうか何だし。

 

 さあ、翔太。楽しみにしていなさいよ。

 妖精の笑顔をしたパティが、むふふと笑った。

 

 

 

 

 

 そして、当日。

 セージ村に、ラニがお迎えにやってきた。

 

 翔太とパティ、その周りを飛ぶモーリ。あと、胃の辺りを押さえるセリム。彼らを誕生日会の会場まで案内するため、豪華で立派で大型の、四頭立ての馬車に乗ってやってきた。

 

「馬だーっ!」

 

 お目々をきらっきらに輝かせ、翔太が駆け寄る。動物園でポニーには乗ったことがある翔太だけど、彼もちゃんとした馬を間近で見るのは初めてのこと。昂ぶる気持ちを抑えきれない。

 それにこの馬たちは、この世界でもとびきりの名馬だ。翔太でなくても、目を奪われる。立派で均整のとれた体格、つやつやとした毛並みがまるで、一つの芸術品のように美しい。

 

「うわー。おっきいー」

 

 そっと、馬を撫でてみる。本当は頭を撫でてみたかったけど、届かないので首筋の辺り。

 本来、馬に駆け寄って触れるなど、実はとても危険な行為。馬とは、臆病な生き物なのだ。びっくりさせて蹴られでもしたなら、人なんて簡単に吹き飛んでしまう。

 

「きみ、かわいいねー」

 

 けれど、何処かうっとりとした目をして撫でてくる小さな生き物を、馬は特段、嫌がっていないようだ。

 人に危害を加えることのないよう、良く訓練されていると言うことももちろんあるが、どうやらそれだけでもない様子。妖精にすら好かれる翔太である。馬をはじめとした生き物たちにも、同じように好かれるのだろうか。

 翔太の言葉に答えるかのように、ぶるるんと一つ、馬が鼻を鳴らした。

 

 

 

「すっごいっ! この馬車おっきいっ!」

 

 パティはどうやら、馬車の方に目が行ったよう。

 パティも、馬車自体は見たことがある。でも彼女が知っている馬車と言えば、馬が一頭かせいぜい二頭が引く、屋根のないむしろ荷車といった方が良いような物だけ。目の前にある黒塗りの、屋根や扉のついた箱形の、まるでお貴族様が乗るような馬車なんて初めて見た。

 

「これに乗っていくのっ!? 翔太の家の車と、どっちが速いかなっ!?」

 

 それはまあ、流石に車の方がずっと速いだろうけど。

 でもこの馬車も、そう馬鹿にした物ではない。車より遅いとはいえ、この辺境領、いや王国全土を見ても類を見ない、とっておきの一品なのだ。

 

 黒を主体とした一見すると地味ながら、細部に至るまで一切手を抜くことなく作り込まれた静かなる美。伯の好みを反映させた、王家の物とも引けをとらない最高級品である。

 尚、辺境伯の紋章はあえて彫り込まれていない。それが必要な時には、領主を示す旗が掲げられることになる。お忍びで使うこともあるからというのがその理由であるが、こんなものに乗っていて何を忍べるというのだろうか。それでも旗がない時には、領主が乗っている訳ではないこととして扱わねばならぬと言うのが、ルールなのである。奥が深い。

 

 また、この馬車であるが。当然のことながら、性能面でも折り紙付きだ。板バネを組み込んだサスペンション構造、柔軟性のある魔獣の皮でつくったチューブにゲル状物質を詰め込んだ、通称スライムタイヤ。これらの技術が合わさって、とても馬車とは思えぬ快適な乗り心地を実現している。主にコスト面での問題から全く同じものではないが、いくつかの技術は一般へも広まっており、辺境領製の馬車は王都の貴族たちの間でも人気を博していたりする。

 

 もちろん、これらは伯が持ち込んだ知識を下敷きとして作り上げられている。

 もっとも、伯の持つ知識はその多くが断片的な物でしかなかった。10歳の少年の知っていることなど、たかがしれている。確かこんな感じだったから何とか作ってみてくれと、丸投げされた職人たちの嘆きの声はいかなる物か。もっとも、無理難題を喜ぶのもまた、職人という生き物であるのだが。

 

 ちなみに、伯がこれまでに成し遂げてきた多くの業績、数々の技術革新においても、似たようなものである。

 アイディアと金を惜しみなく出した伯ももちろんだが、それ以上に。それを支えてきた、技術者や文官たち。彼らこそが、辺境領をここまで発展させた真の立役者なのであろう。

 

 

 

「すまない、待たせたか?」

 

 馬車から降り立ったラニが言う。服装は普段通りの、実用性を重視した旅人の服である。けれど、乗っていた馬車があれで、そしてこの美貌なのだ。まるで、お忍びで来ているどこぞのお姫様のよう。

 少なくとも、セリムにはそう見えた。そうとしか、見えなかった。

 

 一応、この場では子供2人の引率みたいな役割の自分だけれど。一体、俺はどう対応するのが正解なんだ?

 きりっとした顔で、お招きいただきましてとか言えば良いのか? それとも小洒落たことでも言ってみせれば良いってのか?

 

 いや、無理。無理無理無理無理、無理だって。絶対、声が震えるもん。既に足が震えてるもん。

 助けを求めるように、彼の視線が宙をさまよう。そうだ、ショウタ君だ。彼の知り合いなんだろうから、とりあえず全て任せてしまえ。

 そう決意し、翔太に声をかけようとした時。

 

「ラニっ!」

 

 パティが突撃を敢行した。たたたっと駆け寄って、姫様の腰にぴょんと飛びついた。

 って、そんなことしちゃ駄目だってええええええええっ! ちょっと待ってパッティイイイイイイイイイイイイイッ!!

 止めたかったけど、既に手遅れ。既にタックルぶちかましちゃってるのだ。伸ばしかけた手が途中で止まる。きっと、俺の人生もここで止まるんだ。

 

「今日も元気だな、パティ」

「うんっ! ……あれ? 友だちって人は?」

「ああ、あいつなら会場の方で待っている」

 

 って、翔太君じゃなくてパティの知り合いなのかよっ! たまに名前が出てきたラニさんって、その人かよっ! どうなってるんだよ、お前の交友関係っ!

 セリムは問いたかった。声を大にして問いただしたかった。でも、出来ない。萎縮しちゃって、声なんて出ない。心の声でしか叫べない。

 知らない間に、姪っ子が遠いところへと行ってしまっていた。もうすっかり馴染んでしまった遠い目をして、天を仰ぐセリム。ああ、なんて空が青いんだろう。

 

「なんだよー、お前もいるのかよー」

 

 モーリがふわりと飛んできて、ラニへと文句を言ってきた。ぷくりと膨れた頬が、普段の三倍くらいの大きさになっている。ハムスターの頬袋のごとく。

 

「お呼ばれされたのだから、仕方あるまい。君も王だというのなら、寛大な心で許したまえ」

「ふんっ! しょーがねーな、許してやらあっ!」

 

 ぷいっと横を向いて、そんなことを言うモーリ。

 でも、名乗る前に王と呼んでもらえて、ちょっと嬉しそう。口元がひくひくと、笑い顔になるのを堪えている。

 

「今日は、参加ありがとうございます」

「こちらこそ、招待ありがとう。随分と、この国の言葉が上手になったのだな」

「うんっ! 頑張って勉強したんだっ!」

「そうか。偉いな、君は」

 

 ちょっとかしこまった様子で、挨拶してきた翔太。その背伸びした様子に、ラニが目を細める。何処か懐かしく、昔の記憶をくすぐられる感覚。ふと、かつての少年の姿が、今の翔太と重なった。

 ……そうだったな。奴にも、こんな時期があったのだな、そういえば。

 

「さあ、立ち話も何だ。皆、乗ってくれたまえ」

 

 そう言って、ラニが馬車を指し示す。

 

「私は、歩いて行けば良いだろうと言ったのだがな。せっかくだから使ってくれと、友人がこの馬車を用意してきた。確かに、これなら会場まですぐだ。乗り心地も、中々のものだぞ」

「私、いっちばんっ!」

「お前っ! 待てよっ! 王が一番に決まってるだろーがっ!」

 

 待ってましたとばかりに、先陣切ってパティが飛び乗った。モーリが文句を言っていたけれど、翔太がそれに気づかず「にーばん」と続く。

 おめーら、もっと俺を敬えよっ! ぎゃーぎゃー言っているモーリはラニがむんずと捕まえて、ぽいっと馬車の中へ放り込んだ。

 

「さあ、あなたもどうぞ」

 

 手の平で馬車を指し示し、中へとセリムを誘うラニ。

 逡巡していたセリムが、ふうっと。何かを諦めたかのような、大きな溜め息を、一つ。

 

「……俺、何処に連れて行かれるのかなぁ」

 

 甘かった。考えが、甘すぎた。

 実は貴族じゃないってわかったし、一緒に過ごした時間も長くなってきて油断していたけれど。それでもやっぱり、ショウタ君は自分とは違う世界の住人なのだった。あとどうやら、今となってはパティも。

 

 頑張れ、俺の胃。負けるな、胃袋。帰ってくるまで、穴が開くんじゃないぞ。

 自分を叱咤し、震える足に力を込めて。どうにかこうにか、馬車へと乗り込むセリムだった。

 



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31話 翔太、新たな友人を得る。

「レッツッ! パァァァティィィッ!!」

 

 いきなり、パティがはっちゃけた。

 お腹から声を振り絞り、握った拳を高々と突き上げて。ちょっと巻き舌な感じで、雄叫びを上げた。

 

 やっぱり翔太の家の自動車よりは遅かったけど。それでも、とっても速くて乗り心地のいい、立派な馬車にガタゴト揺られて。温泉街の奥まった場所にある、これまた立派なお屋敷に到着して。

 照り照りと輝くお肉やら、見るからにふわふわとした白いパンやら、正体が良くわからないけどとりあえず美味しいんだろうなという何かやら。大皿に盛り付けられたそれらが、ずらりと並んだ席に案内されて。

 そして、パティがやらかした。

 

「それ、こっちの人には通じないと思うよ、パティ」

 

 何事かと、しんと静まりかえる一同の中。突然の奇行に動ずることなく、慣れた様子で軽くあしらう翔太である。モーリが隣で、パティと同じポーズで「ひあうぃーごーっ!」とか言ってるけど、それも無視。というか、聞こえてないし。

 あ、どうでもいい話だけど、パティの持ちキャラは隻眼のドラゴンです。ぱーりー。

 

「えっと、今日は僕の誕生日のお祝いに集まってくれて、ありがとうございます」

 

 様式美とばかりにカタカタ震えるセリムを筆頭として、まだちょっと動揺している面々。彼らに向かってお行儀良く、翔太からのお礼の言葉。

 拳をツンと伸ばして突き上げたまま、固まってしまったパティは放置の方向で。大丈夫、そのうち戻ってくるから。ちょっと内心、真っ赤になっているだけだから。実際に顔も真っ赤なのも是非、見逃してあげて欲しい。生暖かい目で見守ってあげて欲しい。

 ここまでの馬車での移動とか、見るからに立派なお屋敷とか、並んだご馳走とかに、つい気持ちが盛り上がってしまっただけなのです。翔太のお祝いの席を盛り上げなければという使命感から、ついやってしまった出来心なのです、刑事さん。

 

 まあ、そんなこんなで。

 出だしからちょっと躓いたけれど、翔太のお誕生会が始まったのだった。

 

 

 

 この世界では独特の景観をした、家主自慢の庭園の片隅。先日、辺境伯とラニが差し向かいでお茶をしていた、その四阿。ここが伯の用意した、お祝いの席の会場だ。

 もちろん、家の中に場所を用意することもできるけど。でも今日は、雲一つない空が広がるぽかぽか陽気なのだし、閉じこもってしまうのはもったいない。お日様の下で食べるご飯というのは、何だか特別な物なのだ。

 

 四阿に据えられた長方形のテーブルの、わかりやすくお誕生席に翔太が座って。彼から見て右手側にパティとセリム、左手側にラニと辺境伯がそれぞれ席につく。

 モーリの椅子は用意されていない。仮に用意されたとしても、どうせ大人しく座ってたりなんてしないだろうし。それで特には問題ないだろう。

 

 この邸宅の所有者であるどころか、この土地自体の主が末席になってしまっているけれど、それは気にしなくても大丈夫。この席順を意図したのは、伯自身なのだから。身分という観点からすると明らかに間違いだけれど、今日の会はそういったことに配慮しなくてはならない場でもないのだし。

 主役の少年が一番楽しめるよう、ホスト役として考慮した結果、こうなった。初めて会ったばかりの者よりも、慣れ親しんだ者が近くで祝ってくれた方が嬉しいだろう。そんな、伯のちょっとした心配りである。

 

 そういうわけなので、伯としてはこれで全く問題ない。問題があるとするなら、それは貴き人の真向かいに座る羽目になってしまった者の、その胃の壁だろう。

 セリムは気がついてしっまったのだ。ジョージだと、そう簡単な自己紹介をされただけだけれど。この老人が誰であるのか、その正体に勘づいてしまっていたのだ。というか、あの馬車を見た時から既に、嫌な予感がひしひしとしていたのだが。そしてこの邸宅を見た時には、それが確信に変わっていたのだが。

 気づきたくなんてなかったのに。気づかなければ、もう少しくらいは気楽にいけたのに。現実とは、残酷なものである。パティよ、お前の交友関係はどうなっているのだと。改めて問いたい、問いただしたい。

 

「翔太君、だったね。お誕生日おめでとう」

 

 きりきりと痛む胃を押さえるセリムを尻目に、その館の主人が口火を切ってきた。目元を優しげに細めて、ただでさえ皺だらけの顔をより一層しわくちゃにした、まさに好々爺といった顔。その言葉に、ありがとうございますと、翔太も笑顔で返してみる。

 でも、その内心ではちょっとだけ、疑問が渦巻いてもいた。このお爺さん、一体どんな人なんだろう?

 

 名前はジョージさん。さっき聞いた。ラニさんの知り合いで、珍しい物を食べるのが好きな人。日本の料理を食べてみたいから、代わりにこの場所を用意してくれたらしい。そして多分、すごいお金持ち。

 髪が真っ白だけど、これは白髪なのかな。それとも、元からこういう色なのかな。魔法なんかがある異世界とはいえ、アニメみたいに青とかピンクの髪の人とかは流石にいないと思うけど。でも、白くらいならいるのかもしれない。

 僕のお爺ちゃんと、どっちが年上かな。頭の中で顔を並べてみるけれど、今ひとつよくわからない。翔太のような子供にとっては、ある年齢以上の人は皆まとめて、お爺さんとお婆さん。お年寄りというカテゴリーでひとくくりにされてしまうのだ。

 でもとりあえず、この場の中では一番年上なのは間違いないよね。あ、でもラニさんはエルフだったっけ。じゃあ、実はもっと年上だったりするのかな。翔太のその考えは紛れもない事実。けれど、実はモーリがそのラニすら遙かにぶっちぎって、首位を独走していたりする。

 

 と、そこまで思考を巡らせたところで、翔太が難しいことを考えるのをやめた。まあ、別に誰でもかまわないかな。お祝いしてくれるんなら嬉しいし、それでいいや。そう思い、自然と顔がニコニコになっていく。

 相変わらず、割と大雑把といおうか、細かいことにはこだわらない性格である。そういうところが、モーリに好かれる要因の一つなのだろう。

 

「これ、母さんが作ってくれた、僕の国のお料理です。食べてみてください」

 

 そう言うと、抱えていた大荷物から三段重ねの重箱を取り出して、机の空いたスペースへ並べていく。高価な漆器とかではないけれど、実用性という面では中々のもの。きっちりと密閉することができて、中身が零れたりしない優れものである。母のお気に入りの一品だ。

 

「あっ! おっきい荷物だと思ってたら、このお弁当箱だったんだ」

 

 いつの間にか復活していたパティが、目をきらきらさせて覗きこんできた。

 この重箱は、パティも一緒に行ったお出かけの時にも、大活躍してくれた。動物園や遊園地。楽しい思い出と共に、あのときに食べたお弁当の味も思い出して、思わず涎がじゅるり。

 

「うん、パティもいっぱい食べてね。あっ、でもこっちのお料理の方がいいのかな?」

 

 んーっと、首を傾ける翔太。

 翔太の母さんの作った日本の料理が、パティは大好きだ。それは翔太も良く知っている。いつも、本当に美味しそうに食べている。けど、母さんの料理ならこれからも、何度も食べる機会があるだろう。それよりも、滅多に食べれないこの世界のご馳走の方が、今日は食べたいんじゃないのかな。

 そう考えた翔太だけれど。大丈夫、心配はご無用というものだ。

 

「どっちも食べるっ!」

 

 ほら、パティならこう言うに決まってるんだから。

 実際、パティはよく食べる。その小さな体の何処に入っていくのか、不思議に思うほどよく食べる。それでも太ったりしないのは、摂取した栄養が全て成長へと費やされているからだろう。育ち盛りなのである。それに加えて新陳代謝の高い、アスリートのように引き締まった体を持つが故だろう。村の労働で鍛え上げられたたまものである。

 まあ、その代償としてか、一年経った今でも胸の膨らみは全くもって慎ましいままなのだが。でもきっと未来はあるさ、パティ。

 

 それにしても。既に並んでいる大皿の数々に加えて、中身がぎっしりと詰まった重箱が参戦したのだ。料理の量が、ものすごいことになっている。

 6人がかりとはいえ、いくらパティが健啖家とはいえ、食べきれるのかどうか心配になってくる程。でも、そちらの心配もまた、ご無用。

 

「私もいただいても構わないか、ショウタ?」

 

 ラニ、参戦。

 いつものように、表情はあまり動いてはいないけど。でも、じっと睨みつけるかのような強い視線が、重箱の中身を捕らえて放さない。馴染みの薄い者には怒っているようにも見える表情だが、彼女をよく知っている者なら分かる。これは、期待に胸を膨らませている時の顔。

 

 実は、ラニは結構な食いしん坊だったりするのだ。

 うっかりと、食事をとるのを忘れてしまうことも多々あるけれど。その反動なのか、食べる時にはかなりの量をもしゃもしゃと、胃袋に一杯まで詰め込んでいく。その細い体の中で変な生き物でも飼っているんじゃないかと、錯覚するほどよく食べる。もしかしたら、食い溜めしようとしているのかもしれない。

 

「うん、もちろん。お腹いっぱい食べてね」

 

 きらりと輝く、ラニの瞳。

 確か、いただきます、だったな。そう小さく呟いて、誰よりも速く右手のフォークを振りかざし、そして振り下ろそうとしたところで。ぴたりと、その動きが止まった。

 そして眉をへの字に曲げて、じっと翔太のことを見つめてくる。彼女をよく知らない者でも、これは分かる。明らかに、困った時の顔だ。

 

「……すまない。これは、どうやって食べるのだ?」

 

 翔太が持ってきた重箱の中身。どれも見知らぬ料理ばかりではあるとはいえ、見た目からどのような物か想像のつく品も多い。例えば、何かの肉を揚げたであろう物。例えば、魚の切り身を焼いたであろう物。妙に黒っぽい煮汁が不安を煽る、いろいろな野菜と肉を煮込んだであろう物。これらは、食べ方で悩むということはない。

 けれど今、ラニのフォークが狙いを定めていた品は、正体が全くの不明であった。

 

 ラニの拳より少し大きいくらいの、真っ黒で、三角形の何か。

 肉とも魚とも、野菜ともつかぬ。さりとてパンとも思えない。何とも面妖な。フォークで突き刺すには大きいが、取り分けた後に手元でナイフを使うのだろうか。そもそもこの色、本当に食べても良い物なのか?

 手近なところで狙いを定めたはいいが、最初から躓いてしまった。

 

「それはね、おにぎりっていうの。僕たちの方では、パンじゃなくてお米っていうのが主食なんだけどね、それを、こう……」

 

 ラニの疑問に答える翔太を見て、パティがにやりと笑った。妖精のような、悪い笑顔を浮かべた。

 これってもしかして、チャンスなんじゃない? ラニに翔太の良いとこ見せつける、絶好のチャンスなんじゃない?

 協力するわよ、翔太。二人っきりって訳にはいかないけど、こっちは私が引き受けるっ!

 

「叔父さんとお爺さんには、私が説明してあげるねっ!」

 

 むふーっと鼻息荒く宣言し、男性陣に向き直るパティ。翔太に質問しちゃ駄目よ。2人の邪魔はさせないわ。

 そこっ! モーリ、うるさいっ! 今、翔太にちょっかいかけたら具材にするからね、覚悟なさいっ!

 

「ああ、ならよろしく頼むよ」

「任せてっ!」

 

 目を細めて嬉しそうにする好々爺とは対照的に、セリムの顔色は真っ青だ。

 待って、パティ。お爺さんって、お願い待って。そりゃ確かにお爺さんだけど、もうちょっと言葉に気をつけてっ! って、やっぱりこの人が誰だか分かってないのか、パティっ!

 館の主に気にした様子は見えないけれど、ここは姪っ子を注意するべきか。でも、敢えて身分を名乗ってないっていうことは、変に騒ぎ立てないほうが正解か?

 思考はぐるぐる、視界もぐるぐる。英断か保身か、混乱の極み。そんなセリムを置き去りに、パティの快進撃は続く。

 

「これはね、おにぎり。フォークとか使わないで、直接手で持ってがぶりって食べるのよっ!」

 

 実演してみせるパティ。言葉通りにおにぎりをつかみ取り、大きいお口でばくりと齧り付く。美味しいーと、口の端が弧を描く。中身はおかかだーと、満面の笑みになる。頬に燦然と輝くご飯粒がまぶしい。

 その様子を見たセリムは、考えるのをやめた。もうどうにでもなーれ。

 

「こう、かね」

 

 パティの指導の下、伯がおにぎりを手に取った。どこかぎこちなく、口元へと運ぶ。その手が、微かに震えていた。

 白いおにぎりを覆う黒い海苔を噛みちぎり、三角形の頂点を口に納める。ゆっくりと、一噛み。そして、もう一噛み。まぶたを閉じ、舌に全ての神経を集中させる。口の中でほつれる米からの甘み、海苔から漂う磯の香り。加えられた塩味と共に、全てが調和する。

 ゆっくりと、ゆっくりと。大切に大切に味わう、故郷の味。

 

「……ああ……美味い、な」

 

 名残惜しさと共に口の中の物を飲み込んで、しばし。ようやく開かれた伯の口からの、意図せずに漏れてしまった、そんな呟き。

 まぶたを開くことは、出来なかった。

 

「美味しいでしょっ!」

「ああ、美味い。本当に、美味い」

 

 とても美味しそうに食べてくれる様子に、パティもとっても嬉しそう。翔太の母さん、お料理上手なんだからと、自分のことのように得意気だ。

 でもまだまだ、こんなもんじゃないんだからねっ!

 

「じゃあね、次っ! これはね、煮物。醤油っていう名前のソースの中にお肉やお野菜を入れて、煮込んだのよっ!」

 

 違うぞ、パティ。そんなことしたら、しょっぱくて食べれたもんじゃなくなるぞ。

 パティの言葉を訂正してくれる人はいなかったけれど。でもいたとしても、もう関係なかったろう。伯にはもう、パティの言葉など耳に届いていなかったのだから。

 おにぎりを一口食べた伯は、それまでの噛みしめるように味わっていたのを一転。我慢できないとばかりに猛然と、次々に重箱の中身をつつきだしたのだ。

 

 まずは煮物。ねっとりとした食感の里芋に、甘くて土の香りの漂う人参。しゃきしゃきと歯ごたえのある牛蒡に、ほろほろとほぐれる鶏肉。そして味付けは醤油。そう、醤油だ。恋い焦がれ続けた、あの醤油なのだ。これで止まれる訳がない。ひょいぱくひょいぱくと、次から次へと口の中へ。

 唐揚げ。醤油をベースとして、効かせたニンニクとショウガがたまらない。美味しくない訳がない。煮た鶏肉もたまらなく美味いが、やはり鶏は揚げるのが正義だ。

 おっと、忘れていた訳じゃない。身はふっくらで皮は香ばしい塩鮭、君も最高だ。全てたいらげてあげよう。

 それぞれのおかずの合間には、おにぎり。おにぎり、おかず。おにぎり、おかず。永久機関の完成だ。

 わかってる。ひっそりとした脇役でいながら強烈な個性を主張する、たくあん。君がいてこそ、場が引きしまる。

 ああ、素晴らしい。桃源郷は、ここに存在した……。

 

 

 

 ふと。伯が我に返った時、場はしーんと静まりかえっていた。

 ぽかんとした翔太。びっくりしたようなパティ。目元を細めるラニ。相変わらず笑っているモーリ。青ざめたセリム。それぞれに浮かんだ表情は違うけれど、視線の導く先は同じ。伯のことを、見つめていた。

 

 ああ、しまったな。つい、我を忘れてしまった。

 この子の誕生祝いの席なのに、主役を差し置いて暴走してしまうとは。それは、皆も呆れるというものだ。もういい年だというのに、我ながら情けない。

 そう、反省する伯だったが。

 

「お爺さん、泣いてるの?」

 

 不思議そうに尋ねる翔太の言葉に、思い違いを悟った。呆れているのではなく、ぎょっとしていたのか。料理を食べて突然泣き出した自分に、驚いていたのだったか。

 そうか、泣いてしまっていたか。涙を堪えることが出来なかった、のか。貴族として長く生き、もう人前で素の感情など、見せることはなかったというのに。

 伯は恥じるように、それでもどこか満足気に息をつく。そして眦から零れた雫がつうっと流れ落ち、テーブルに染みを作った。

 

「驚かせてすまないな。あんまりにも美味しくて、感動してしまったよ」

「そうだったんだ。口に合わなくて泣いちゃったのかって、びっくりしたよ」

 

 ごまかす伯の言葉に、翔太が素直に頷いて、安心したと笑みを作る。けど翔太よ。素直なのは良いのだが、不味いと感じたのだとしたら、あれだけ勢い良く食い散らかしたりはしないだろうに。

 そんな、どこかずれてる翔太とは違い、パティには涙の理由がわかってしまった。彼女は、初めてラニとであった時に聞かせてもらった昔話を思い出していた。遠い遠いところから、妖精に迷わされて連れてこられてしまった少年の話を、思い出していた。

 そっか。この人が、そうなんだ。

 

「……ねえ、翔太」

「何?」

「今度また、お母さんにお願いしてさ、お弁当作ってもらおうよ」

「そうだね。ラニさんも、食べられなかったしね」

 

 見れば重箱の中身は、すっかりと空に。あれだけの量をほぼ1人で食べ尽くした、伯の胃袋も侮りがたし。

 かつての少年に故郷の味を堪能してもらうことが出来て、それを喜ばしく思いつつ。けれどご相伴にあずかることの出来なかったラニが言う。少し口を尖らせて、珍しくわかりやすく拗ねたように、言う。

 

「その時は、もう少し手加減してくれたまえ、ジョウジ」

「……善処しよう」

 

 眉根を寄せて、真剣に告げる伯の姿に、誰かがぷふっと吹き出した。

 パティ、ではない。ラニでもない。翔太も違う。モーリも笑っているけど、彼の声はパティとラニにしか聞こえない。

 残りは、セリム。犯人はセリム。意外なことにセリム。青ざめてほっとして、気持ちの揺れ幅が大きすぎて。ようやく一息ついたところでの、伯の一言。善処するだけって、譲る気持ちは更々ないって事ですかと、それが妙にツボに入ってしまった様子。

 安心したはずだったのに、また一気に奈落の底へ。いやそのと口ごもり、両手をばたばたと振り回してどうにか弁解しようと、あたふたとするセリム。

 

「ぷっ」

 

 そんな叔父の姿に、今度はパティが吹き出した。

 一応、一生懸命に堪えてはいるのだけれど。でも、両手をお腹に当てて、体をくの字に折って、我慢するあまりに涙まで流し始めたその姿では、意味がない。

 こうなると、もう駄目だ。パティが笑えば、翔太も笑う。楽しそうなパティの姿に、翔太だって笑い転げる。

 ラニだって笑う。口元に手を当てて、顔を背けてクスクス笑う。伯だってもちろん。まいったなという苦笑からだんだんと、やがては声を上げてはっはっはと笑う。モーリはいつも大体、笑ってる。

 そして、いつしかセリムも大笑い。堪えて吹き出すのではなく、もう駄目だとばかりに涙を流して大笑い。突如として沸き起こった笑いの渦は、辺境伯別邸の枯山水の庭にしばしの間、あははあははと響き渡っていた。

 

 

 

 

 

「礼をせねばならぬな」

 

 どうにかこうにか、皆を襲った笑いの発作も落ち着いて。改めて、誕生会の仕切り直し。翔太君、お誕生日おめでとう。

 と、そこまでやったところで。伯がそう、翔太へ向かって切り出した。

 

「お礼?」

「ああ。あんなにも美味い物を食わせてもらった以上、何もせぬという訳にもいくまい。全て一人で平らげてしまった詫びもある」

「別に、気にしなくても大丈夫だよ。美味しいって喜んでくれたって言えば、母さんだって喜ぶと思うし」

「ならば、祝いの品ならどうかね? 誕生日の、お祝いだ。何か欲しいものはないか?」

 

 って、言われてもなあ。腕を組み、首を傾げて考えてみる翔太。何か、欲しいものってあるかな?

 新発売のゲーム機……は、無理だよね。あっ、マウンテンバイク。だから、無理だってば。うーん、欲しいものならあるけれど、この人がいくらお金持ちでも手に入る訳がないよね。この世界にあるもので、欲しいもの、かあ。

 

「別に、ないかなあ?」

 

 実際、ないから困る。

 自分にはなくても、パティの村でいるものをお願いしてみようかなと、そう思ってもみたけれど。でも、僕からセリムさんへのお礼のときだって、必要な物とか特にないからってさんざん悩んだくらいだし。

 

「物でなくても、やってみたいこととかならば、どうだ? 大概のことなら手助けできると思うのだが」

 

 やってみたいこと。やって、みたいこと。……うーん。

 あっ、そうだ。

 

「あの、妖精が見てみたいです。僕でも見えるようになる方法とか、知りませんか?」

 

 後で、ラニさんに聞いてみようと思っていたこと。僕が妖精を見れるようになる方法。いつも一緒に遊んでいるはずの、モーリとおしゃべりする方法が、知りたい。

 モーリと、ちゃんと友だちになりたいんだ。パティと出会えたのだって、モーリのおかげのはずなんだし。まあ、最初はただの悪戯だったみたいだけど。

 

 欲しいものなど特にないと、頭を悩ませていた様子から一転。期待に胸を膨らませ、きらきらとした目で尋ねる翔太。

 対して伯は、しばし悩んだ様子を見せて。決断するように一つ頷くと首筋に両手を当て、服の下にペンダントとしてつけていた、銀の鎖の通された古ぼけた指輪を取り出した。

 

「ならば、これをあげよう。妖精の姿が見えるようになる魔法の指輪だ」

 

 伯のような身分のある人間には似つかわしくない品。飾り気のない、木製の簡素な指輪。

 それを見たラニの瞳が一瞬だけ、複雑な色を見せて揺れ動いた。まだ、持っていたのか。ずっと、つけていてくれたのか、と。

 

「私がまだ若い頃の話だ。旅から旅への暮らしをしていた時に、妖精につきまとわれたことがあってね。その時に、これが役立った」

 

 それはかつて、ラニから少年へと贈られたもの。

 妖精そのものは防げなくても、せめて悪戯から自衛くらいは出来るようにと。森の大木の枝から削り出し、ラニの魔力を込めた指輪。

 

「お爺さんも、妖精に好かれる人なんだ」

「好かれていた、だな。今はもう、これをつけていてすら、見えなくなってしまったよ。思い出の品というだけの物だ」

「思い出の品って。だったら、大事な物なんじゃないの?」

「……構わん。君がこれを必要としていて、そして私と出会った。ならばこれも、妖精の導きという奴なのだろう」

 

 翔太の手が、指輪を受け取ろうとして、戸惑って。手を伸ばそうとして、引っ込めて。

 迷う翔太に、伯は微笑みを浮かべて。翔太の手を優しく掴んで、そっと手の平に指輪を乗せて。自分の手で小さな手を覆うようにして、思い出の品を握らせたのだ。

 本当に、いいのかなと。視線で問いかける翔太に、頷きで答えを返す。

 

「……絶対に、大切にします」

 

 翔太は握った手を胸に当て、目を閉じる。このお爺さんの、これまで生きてきた思い出。それを自分が引き継ぐのだと。そんな、厳粛な気持ちになった。

 そして決意を込めて目を開けて、ペンダントを首から下げた。

 

 頭の奥の方で、何かが繋がった。そんな気がした。

 

 翔太は、周囲をぐるりと、見渡してみる。

 力が溢れてきたりとか、目の周りに何かエネルギーが集まったりとか。そんな風なことは全くなかったけど。今まで見えていたものが違った風に見えるとか、そういうのもなかったけど。

 

 でも、見つけた。まだ沢山の料理が並んだテーブルの、その真ん中。そこに座り込むようにして、彼がいた。

 人間にとっては一口の大きさに切られたステーキに、でも彼にとっては両手で抱えるサイズの巨大な肉の塊に、大きく口を開けて齧り付いていた。

 小人のような小さい体に、木の葉で出来た服を着て。背中からは、大きな蝶の羽。

 

「……ねえ。君が、モーリ?」

 

 んあっ?

 そんな擬音が聞こえてきそうな、面倒くさそうな顔をして、翔太の声に振り返ったモーリ。

 彼の視線がまっすぐ自分をとらえているのを確認すると、ふうっと大きく、溜め息一つ。

 

「あーあ。とーとー、お前にも見つかっちまったかー」

 

 見つからないように悪戯するのが、俺様の美学だっていうのによ。不貞腐れたように、そう呟く。

 そんな、しょっぱい対応だったけど。それで止まるようなら、翔太じゃない。

 

「はじめましてで、いいのかな?」

「おめーのほうは、そうじゃねーの?」

「うん。じゃあ、はじめまして、モーリ」

 

 肉汁にまみれた、神秘性とか何処かに忘れてきた様子の妖精に、右手をずいっと差し出してみる。

 そして翔太は、にっこにこの笑顔で、こう言ったのだ。

 

「モーリと話せるようになったら、言おうと思ってたんだけど」

「あんだよ?」

「僕ね、モーリのこと、大好きだよ」

 

 照れとか、そんな気配はかけらもなく。ど真ん中直球の言葉を、言ってのけた。

 正真正銘、心の底からの、素直な気持ち。それをぶつけられたモーリは、どうにもこうにも歯がゆくて。右手で頭を、がしがしと強く掻いて。脂まみれでテカテカになっちゃったけど、それでもがしがしと掻き続けて。あーとか、うーとか、苛立ち紛れの唸り声を上げて。

 やがて、ひとしきり悶え苦しんだ後。どこか諦めた様子で、こう、返した。

 

「……しゃーねーなー。もうしばらくは、お前と一緒にいてやんよ」

 

 モーリの小さな手が、ぶっきらぼうに伸ばされる。

 そして、翔太の差し出した指先を、そっと掴んだのだった。

 



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32話 そして駅から歩いて20分、そこは王国辺境領。

「それじゃ、モーリの魔法とラニさんの魔法とじゃ違うの?」

「本質的には同じものだが、制限が違うといったところか。私たち妖精族は、自然の精霊から力を借りて魔法を使うが……」

「俺なら何でも大丈夫だっ!」

「まあ、そういうわけだ。精霊という器に収まっていようがいまいが、こいつらには関係ない。でたらめだからな。何からでも、どこからでも、力を引き出すことの出来るのが妖精という存在だ」

 

 翔太が興味津々に、ふんふんと頷いたりしながらラニの話に耳を傾けている。ようやく会話の出来るようになった、モーリも一緒。めんどくさそうに逃げようとしていた彼だけど、どうやら翔太持参の板チョコで手を打ったらしい。ペリペリと包装紙を剥いて、口の周りを茶色く汚しながらかぶりついている。

 あっ、顔を歪めて蹲った。どうやら、銀紙まで一緒に食べてしまって、歯がきーんとしている様子。

 

 さっきから、ずっとこの調子。これまで、パティやセリムでは答えられなかったこと。魔法とか妖精とか、そういった異世界っぽい話にお目々はきらきら、心はわくわく。そして体は前のめり。

 そんな、男の子心が溢れて止まらない翔太を、パティは食後のお茶など飲みながら、見るともなく眺めていた。

 

 翔太とラニを仲良くさせよう大作戦。どうやら、ミッションコンプリート。作戦完了だ。

 ラニとお話ししてみたいと言っていただけあって、翔太はとても楽しそう。ラニもラニで翔太のことが気に入ったのか、普段より口数が多くなっているような気がする。当社比1.5倍の大サービスだ。

 

 全て、思惑通り。完璧に作戦をこなして見せた私、流石。

 心の中で自画自賛するパティであるけれど。どうしてだろう、いつものお日様のような笑顔が、今は浮かんできていない。代わりに顔を彩るのは、どんよりと曇り、雨でも降り出してきそうな。のっぺりとしていて、それでいて何処か悲しそうな。そんな、無表情。

 

 おかしいな。何でだろう。

 上手くいったっていうのに。予定通りのはずなのに。どうしてなんだろう。

 

 何で、私。こんなに、つまんないんだろう。

 

 自分に問いかけてみるけれど、答えは返ってきてくれない。

 翔太が楽しそうなのが、何か嫌。ラニがいつもよりおしゃべりなのが、イライラする。そんな自分に、翔太が気づいてくれないのが、むかつく。

 

 パティは、ふうっと大きく、溜め息一つ。よく、わからない。わからないけど。これ以上、あの2人を見ているのは、嫌だった。

 叔父さんたちの相手でもしてようかな。そう思って、残りの2人の方を見てみるけど。

 

「では、翔太君があれほど王国語が達者なのは、君が教えたからというわけか」

「ええ、まあ。あっ、でも自分なんてたいしたことしてないんですよっ! 彼が優秀だったと言うだけで、その……」

「セリム君、だったね。君は、何処かできちんとした教育を受けたことがあるように思えるが?」

「その、以前に王都の学校に通っておりました。けどっ、卒業した後も全然、芽が出なくてですねっ、あの……」

「あそこは、入るのは容易だが出るのは非常に難しいところだ。そこを無事に卒業できたというだけで、誇っていい。ふむ、どうだね。実は今、新しい事業を興そうと考えているのだが。一度、話をさせてもらえないだろうか?」

 

 なんだか、あっちはあっちで、パティの入り込む隙間はないようだ。

 セリム叔父さん、よかったね。領主様に文官として取り立ててもらいたいとか言ってたけど、このお爺さんも随分お金持ちみたいだし、いい機会なんじゃない?

 幸運が降って湧いてきた叔父を、やる気なさげに応援するパティ。しばらくは胃に優しい食事を用意してあげてって、母さんに言っておくね。

 

 翔太とラニは話に夢中。叔父さんたちも、忙しい。残されたパティはさて、困った。やることがない。

 普段だったらそんな悩みを抱えるまでもなく、大切な友だちの会話に混ざってるであろうパティは。皿に並んだ食後の焼き菓子を口に放り込むと、ばりばりと勢いよく噛み砕いていく。自分でも表現の出来ないもどかしい気持ちを、ぶつける相手を見つけたとばかりに。

 甘くて美味しいはずの焼き菓子は。何だか、しょっぱい味がした。

 

 

 

 

 

 やがて、お日様もゆっくりと西に傾き始めて。お誕生会も終わりの時間。迎えの時と同じ馬車に乗り込む一同。

 念願叶った翔太は、とびきりの笑顔で。ようやく胃の痛い時間が終わったというのに、セリムは行き以上にげっそりとして。パティは、どこかほっとした、そんな表情で。モーリはそんなパティに、ニマニマとした視線を向けながら。それぞれ、しっかりとクッションの効いたシートに座っていく。あ、モーリだけは定位置となっている、翔太の頭の上だけど。

 

「あれ? ラニさんは乗らないの?」

 

 ラニはどうやら、ここに残るようだ。最後まで身分を明かさなかった辺境伯と並んで、馬車を見送ろうとしている。

 

「ああ、少しジョウジと話すことがあってな」

「そうなんだ。今日は色々教えてくれてありがとう、ラニさん。あ、ジョージさんも、ご馳走とかありがとうございました」

 

 ぺこりと頭を下げる翔太。伯もそれに、手を振って答える。

 

「いつでもまた、尋ねてきなさい。歓迎しよう」

「うん。その時には、またお弁当持ってくるね」

「……歓迎しよう」

 

 楽しみのあまり、同じ言葉を二回も繰り返してしまう伯である。大事なことなので。

 やがて馬車は滑るように走り出し、その場には2人だけが残された。目を細めて、去りゆく馬車を見送る辺境伯。あの少年の祝いの席であったはずなのに、今日は本当に楽しませてもらった。もう二度と口にすることなどないと思っていた、記憶の彼方に風化してしまっていた醤油の味を思い出させてもらった。

 抑えきれない、望郷の念が沸き起こる。ゆっくりと頭を振って、その思いを断ち切ろうとする伯に、ラニが言った。

 

「また、つくってやろう」

「何をだ?」

「……指輪だ。もう、必要ないか?」

 

 顔はまだ、馬車の去って行った方へと向けながら。目だけで伯を見て、何処か伺うように。そう、尋ねてきた。伯の心に暖かいものが浮かんできて、それが胸を満たしていく。

 故郷を想う気持ちが消え去ることなど、決してないだろう。……けれども。

 それでも、自分は。この、ジョージ・クレイ辺境伯は。この世界を、愛している。心から。

 

「是非、お願いするよ」

 

 優しさ、慕情、慈しみ。そういった相手を思いやる気持ちの全てを乗せて、伯が微笑む。ふんっと鼻を鳴らして、ラニがそっぽを向いた。

 誰でも分かる。照れていた。

 

 

 

 

 

 3人の人間と一人の妖精を乗せた馬車は、特にトラブルに見舞われることもなく、セージ村へと到着した。空はうっすらと、茜色。そろそろ家族揃っての食事にしようか、そんな家もあるであろう時間。

 もっとも、ご馳走を詰め込んだお腹は今もぽっこりと膨れたままで、3人が今日の夕食をとるのは難しそうだけど。特にセリムは今日どころか、明日以降も食が細くなるかもしれない。しばらくは、胃痛に悩まされる日々が続きそうだ。

 

 翔太は、お世話になりましたと御者の人に挨拶して、ぴょんと馬車から飛び降りて。両手を空へと高々と、そして大きく、ひと伸び。

 後は家に帰るだけ。でも、気をつけて。家に帰るまでが、誕生会です。

 

 ラニと別れてから妙に元気になってきたパティも、途中まではお見送り。向こうへと続くトンネルのある森の入り口まで、一緒について行くのがいつものお約束だ。

 それじゃあ、セリムさん。今日はありがとうございました。そう言って手を振って、歩き始めようとする翔太に、そのセリムから待ったの声。

 

「ねえ、翔太君」

「どうしたの?」

「俺、頑張ってみようかなって、思うんだ。胃が痛いし、力不足なんじゃないかなって思うし、胃が痛いし、失望されるんじゃないかなって心配だし、胃が痛いし、それに胃が痛いけど」

 

 翔太よ。次の贈り物はワカメじゃなくて、胃薬が良いかもしれないぞ。

 

「でもね。せっかく、君が繋いでくれた縁なんだ。ここは頑張らなくちゃいけないんじゃないかなって、やる前から諦めちゃいけないんじゃないかなって、思うんだ」

 

 そしてセリムは、真っ直ぐに。翔太の目を正面から、真っ直ぐに見つめて。

 

「ありがとう、翔太君。俺は、君と知り合えて良かったよ」

 

 そう、彼らしくもない力強い口調で。辺境伯の、毅然と胸を張る姿に負けじとばかりに背筋を伸ばして。そう、言ったのだ。

 胸の下辺りを撫ですさる右手さえなければ、完璧だったのに。惜しい。

 

「えっと。よくわかんないけど、頑張ってください」

「ああ、そうする。それじゃ、今日はありがとう。これからも、よろしくね」

 

 そしてセリムは踵を返し、我が家へと向けて一歩を踏み出す。その一歩目の直後から、背中は曲がって肩を落としていたけれど。どんよりと影を背負って、右手は胃を押さえていたけれど。

 頑張れセリム。君は、やれば出来る子だ。いつか、結果が自信へと繋がってくるさ。多分。

 

「セリムさん、どうしたのかな?」

「叔父さんも色々あるのよ、きっと」

「ふーん。ま、いっか。行こう、パティ」

 

 翔太の差し出すその右手を、当たり前のようにパティがとる。仲良く並んで歩き始める、いつもの姿。何度も何度も繰り返された、二人の姿。足下から伸びる影法師の、その手もしっかりと、きゅっと繋がれていて。

 それなのに。重なった手の平は、確かに暖かいのに。手を伸ばすまでもなく、翔太はすぐそこにいるのに。でも、なんだか。パティは普段よりもずっと、翔太を遠くに感じていた。

 思い返されるのは、楽しそうな翔太の顔。ラニと話している、嬉しそうな顔。胸が、ちくりと痛んだ。

 

「……パティ、どうしたの? 何だか、元気ないけど?」

「えっ? 別に、普通だけど」

「そんなことないよ。お誕生会の時だって、途中から静かだったし」

 

 あっ。気がついて、くれてたんだ。言われるまでもなく沈んでいた心が、急に温かくなってくる。

 なんだろう、おかしい。今日の私、何だか変。自分で自分の気持ちが良くわからなくて。嬉しいはずだったのに、悲しくて。

 けど、今。翔太が心配してくれたのは、とても嬉しい。間違いなく、嬉しい。

 

「私は大丈夫。……うん、大丈夫」

 

 少なくとも今は、心が温かいから。だから、平気。

 

「それよりっ! 翔太、今日はラニと話せて楽しかった?」

 

 平気だから。私は、平気だから。翔太が喜んでくれるなら。ラニにとられたって、大丈夫だから。

 ……って、あれ? 私、今、何て?

 

「うんっ! とっても楽しかったっ!!」

 

 弾けんばかりの笑顔で、翔太が頷いた。抑えきれない気持ちが溢れ出す声で、断言した。

 ずきん、と。その笑顔が、痛かった。その声が、心を切り裂くようだった。

 

 ……あ、そうか。そうだったんだ。

 私、やっとわかった。わかっちゃった。私ってば、翔太のことが……。

 

「だって、エルフだよ、エルフっ!」

 

 ……ん?

 

「漫画やアニメでしかいないはずのエルフだよっ! 魔法を使ったり、レイピアで戦ったり、精霊とお話ししたりする、エルフだよっ! 耳の長いエルフなんだよっ!!」

 

 何か、翔太の反応が思ったのと違う。

 

「びっくりするくらい綺麗だしねっ! もうね、僕が思ってたエルフそのままでねっ! 本物のエルフに会えただけじゃなくて、お話まで出来たんだーって。僕、もう感動だよっ!!」

 

 翔太の目が輝いている。今日一番、きらっきらしてる。

 エルフって、妖精族の事よね。何か、ラニじゃなくても、妖精族だったら誰でも良かったって聞こえるような。

 ……あれ?

 

「日本のファンタジーではね、エルフって絶対出てくるんだよっ! ううん、日本のだけじゃなくて、世界中の作品で登場するんだ。すごいよね、異世界に来ただけじゃなくてエルフともお友達になれたなんてっ! ねえパティ、エルフだけじゃなくて、ドワーフもいるのかな? ホビットは? 後は何だろ、オークとか、リザードマンとか? ああもう、ラニさんにこれも聞いておけば良かったよ。僕ね、いつかエルフ以外の種族とも絶対に会うんだっ!!」

 

 早口で一気に、身振り手振りも交えてまくし立ててくる。長い、長いよ。

 でも待って。あれー?

 

「ねえ翔太、ラニのこと……その、好きなんじゃなかったの?」

「えっ? 何で?」

「何でって。だって、お話ししたいって言ってたし」

「お話ししたこともないのに好きって、逆に変だと思うよ、パティ」

 

 翔太、首を傾げて不思議顔。

 

「だって、今日ラニを呼ぶって言ったら、嬉しいって」

「そりゃ嬉しいよ。だって、エルフだもん」

 

 まだ言うか。

 

「妖精族だったら誰でもいいって、なんかそれ酷くない?」

「えー。だってさ、会ってみたかったんだもん。しょうがないじゃん」

 

 だからって。

 

「うーん。じゃあさ、パティ、ゾウが好きでしょ?」

 

 突然、ゾウ? 好きだけど。何時間でも見てられるけど。

 

「パティだってさ、動物園でゾウを見れるってなったら、わくわくしなかった」

 

 した。

 すっごい、した。

 前の日、眠れなかった。

 

「そんな感じ?」

「ラニの扱い酷くないっ!?」

 

 ラニ、優しいのに。いい人なのに。動物園のゾウと同じって。

 

「ちょっと例えが悪いかなって、僕も思ったけど。でも、気持ちわかってくれた?」

「……何か悔しいけど、伝わった」

 

 そっか。翔太、別にラニが好きって訳じゃなかったのか。

 ほっとして。気が抜けて。そして浮かび上がってくる、新たな疑問。

 

「……じゃあ、翔太はさ」

「うん」

「誰が、好きなの?」

 

 聞いた。聞いて、しまった。

 口の中はからっから。舌が張り付いたように動かない。きっと顔は真っ赤っか。どうせ耳まで真っ赤っか。どきどきと鼓動がうるさくて。心臓が耳の横にあるみたい。伏せた顔から上目遣いに、そっと翔太の顔を伺ってみる。

 そして問われた翔太といえば。何でそんなことを聞くのかと。どうして尋ねてくるのかと。心の底から不思議そうな顔をして。こんなの当たり前のことじゃないかと、そんな顔して。そして、こう言ったのだ。

 

「パティだけど?」

 

 どくんとひとつ、痛いほどに跳ねる鼓動。

 え、待って。お願い待って、ちょっとだけ待って。今、なんて言われたのか、整理するからもうちょっと待って。

 心の中で必死に訴えかけて見るも、それで翔太は止まらない。止められない止まらない。

 

「僕が、パティ以外の女の子を好きになるわけないじゃん」

 

 だからお願い、待ってってばあああああああっ!!

 

「それはっ! あの、友だちとしてとか、そういうっ! そうっ、そういうのよねっ!」

 

 何故かどうしてか必死になって、翔太の気持ちを否定しようとするパティ。

 そんなパティに、もちろん翔太は不満顔。

 

「……大人になったら、結婚したいなって」

 

 嬉しいけどっ! 嬉しいんだけどっ!

 私だって、なんだけどっ!!

 

「……言わなくたって、伝わってるって思ってたのに」

 

 わかんないわよっ! ちゃんと言ってくれなきゃわかんないわよっ!!

 でも待って、今は言わないで。今はこれ以上言わないで。

 

 両手を前に突き出して、翔太との間に壁を作るパティ。その指先まで真っ赤っか。そんなパティに、ますます翔太は不満顔。

 何だかまるで、会話だけだと別れ際のカップルのごとし。でも翔太。言わなくても、わかってくれると思うとか、それは地雷だ覚えとけ。

 

 唇を尖らす翔太。腰を落として手を突き出して、じりじりと距離を離そうとするパティ。

 本人たちは至極当然に真面目だけれど、端から見ればちょっと面白い光景。それに、耐えきれなくなったものがいた。我慢していたけどついに吹き出した、この場にいる3人目。

 

「ぶっはあははははははははあはっ!! だめっ! もうだめっ! お腹痛いってっ! お前らっ!」

 

 空中でぐるんぐるんと転げ回り、両手をお腹に当てて涙を流しながら笑い転げる妖精の王、モーリ。

 今まで静かだと思ってたら。あんた、もしかしてっ!

 

「この、モーリっ! あんた、知ってたんでしょっ!!」

「何がだよー」

「だからっ、私が勝手に空回りしてたのよっ! 知ってて黙ってたんでしょっ!!」

「あったりー」

 

 くすくすと押し殺した笑い声を漏らし、パティの頭の周りをくるくると飛び回り。そしてパティを指差して、ぶふっと吹き出す。それを何度も繰り返すモーリ。

 それを横から見ていた翔太だけど。何だか、見ているだけで腹が立ってきた。もしかして、この妖精に大好きとか言ってしまったの、早まったかも。

 

 翔太は嫌そうに思うだけですんでいるけど、思いっきりからかいの的になっているパティがそれですむはずがない。

 うつむいて、ぷるぷると拳を振るわせていたパティが、切れた。ぶち切れた。

 

「こんのっ! 馬鹿妖精っ!!」

 

 くるくる回っていたモーリをむんずと、思いっきり鷲づかみに捕まえて。そしてトンネルの向こう側へと向けて、これまた思いっきり大遠投。素晴らしく綺麗なフォームから生み出された飛距離は、セージ村新記録。

 

「お前らーっ、やっぱ、おっもしれーわーっ! また遊んでやるよーっ!」

 

 そう叫ぶ声が、徐々に小さくなっていき。そしてモーリは星になった。いや、先にトンネルをくぐっただけだけど。

 後に残されたのは、ゼイゼイと肩で息をする怒れる少女と。拗ねていたはずなのにそんな気持ちは何処かに吹き飛んで、ぽかんと口を開けている少年。

 

 風がかさかさと、木の葉を揺らす。カラスだろうか、鳥の鳴き声が遠くから響いてくる。そんな音が聞こえてくるほど、この場を支配するのは沈黙。しばらく、お待ちください。

 

 そして、先に正気に返ったのは翔太だった。

 とりあえず、モーリのことは忘れておいて。やっぱり、思ってるだけじゃなくて、きちんと言わないと駄目だったのかな。言葉にするのは、やっぱり少し恥ずかしいけど。でも、僕がパティを好きなのは本当のことなんだから。

 

「えっとね、パティ。さっきの続きなんだけど、ちゃんと言うね。僕ね、パティが……」

「翔太っ!!」

 

 改めて気持ちを伝える言葉を途中で遮り、パティがキッと翔太を睨む。

 体の横に下げられた手の先は、拳。感情を抑えるように固く握りしめられ、ぷるぷると震えてさえいる。翔太を見据える視線は鋭くて。遮ってきた声も鋭くて。

 

 あれ? パティ、怒ってる? 何で?

 ……もしかして、パティは僕のこと。友だちとしてしか好きじゃないとか? 迷惑だ、とか?

 頭の中がぐるぐる巡る。見えるものも、ぐるぐるしてきた気がする。胃の辺りがきゅうっと。あ、セリムさんの気持ちが少しわかったかも。

 

「翔太っ! プレゼントっ!」

「えっ?」

 

 プレゼント? この流れで、プレゼント?

 パティってば、いきなり何?

 

「だから、プレゼントっ! お爺さんからもらったでしょっ!?」

「あ、うん。もらったけど」

 

 パティの眼光が強くなってきた。怒ったように言葉は強くて、また顔を真っ赤にして、見つめてくる。

 でも一体、何を言いたいのか。それがさっぱり伝わってこない。

 

「誕生日って、プレゼントをあげるものなのっ!?」

「えっと。そう、だけど」

「私、あげてないっ!」

 

 知らなかったんだし、しかたないよ。そりゃ、僕だってパティからのプレゼントなら欲しいけど。でも、無理はして欲しくないし。

 えっと、プレゼントのこと知らせなかったから怒ってる? うう、パティがよくわかんない。

 

「あげるっ! あっちっ!」

 

 そう言って指差すのは、翔太の後ろ側。振り返って見てみれば、そこはさっきパティがモーリを投げ込んだ、トンネルの入り口。

 えっと、あっちにあるの? 実は何か用意してたってこと? あれかな、サプライズって奴かな。それが台無しになって、怒ってるとか?

 うう、パティがよくわかんないよ。とりあえず、仲直りしたいん……

 

 

 

 ちゅっ。

 

 

 

 不意打ちだった。

 後ろを振り返っていた翔太に、パティがこっそり忍び寄って。パティの方を向いていた右の頬に、そっと顔を近づけてきて。

 

 そして。

 パティの唇が、翔太のほっぺたに。ちゅっと、触れた。

 

 えっ、今のって……

 驚いた翔太が振り向いた時には、既にパティは一歩、飛び退いていた。

 

「あげたからねっ!」

 

 またしても真っ赤な顔をして、力強くパティの宣言。もちろん、耳まで真っ赤っか。体中が心臓になったみたいに、ばくばくしてて。恥ずかしいのか、少し目が潤んでて。

 でも、口元は嬉しそうに、笑ってた。

 

 そしてもう一度、視線が交差すると。

 パティはひらりと身を翻し、村へと向けて走り去っていった。

 

 あっけにとられていた翔太の口元が、やがてひくひくと。何とも締まりのない顔になっていく。

 パティの唇の触れた頬に、そっと手を当てて。そこから発生した熱がどんどん伝わっていくかのように、気付けば顔も手も、どこもかしこも夕日の色に染まっていた。

 

「父さんにだって、あげたことなかったんだからねーーっ!!」

 

 遠くから、パティのそんな叫びが聞こえてきた。

 あっという間にあんな所まで行ったのかと、随分と遠い場所で翔太を振り。遠くまで声を飛ばす時の、指を伸ばした両手を口の横に当てるポーズで、そう叫んでた。

 そして大きく手を振ってくると。今度こそ、振り返らずに去って行く。

 

 パティが村へと辿り着き、その姿が見えなくなるまで。翔太はずっと、そこに立ち続けていた。

 やがて惚けていた顔が、ようやく正気に戻ったとき。嬉しさを抑えきれない笑顔になった翔太が、飛び上がるようにガッツポーズ。

 

 森の前で喜びの雄叫びを上げる少年に何事かと、森に住む小さな妖精たちがひょいと顔を出してきて。

 そんな翔太のことを。楽しそうに、のんびりと眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 都心から電車で一時間の街に住む少年、翔太。

 王国辺境領の開拓村に住む少女、パティ。

 

 決して交わることがないはずだった2本の糸、それが縦糸となって。

 出会ってきた大切な人々、結ばれた縁。モーリにセリム、ラニに辺境伯。彼らとの思い出を横糸にして。

 

 そうして紡ぎ織られていく、色鮮やかな物語。

 その物語は、これからもずっと。

 思っていたよりも、長い間。

 続いていくことと、なるのでした。

 

 

 

 駅まで歩いて20分、そこは王国辺境領。

 第一部、おしまい。

 




 これにて第一部、完となります。ここまでお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
 第二部として、中学生編があるかもしれません。少しだけ成長したような気がしたけど、あんまり変わっていないかも。あっ、だけど? ……そんな2人をお楽しみに。

 それでは、またいずれお会いしましょう。

 河里静那


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こぼれ話
セリムの胃痛日記


ネット小説大賞一次審査落選記念に、こぼれ話を投稿してみる。


○月×日

 

 今日から、日記という物をつけることにする。

 きっかけは、姪のパティが鼻歌交じりに、楽し気に机に向かっているのを見かけたことだ。何をしているのかと聞いてみれば、ショウタ君と一緒に遊んだ出来事を記録に残しているという。ご丁寧に、二人並んで手を繋いでいる絵まで添えられている。

 

 なるほどと、素直に感心した。面白い趣向だ。

 どんなに楽しい記憶でも、忘れたくない大切な思い出でも、いずれ風化して頭の中から消え去ってしまう。強く意識して、ずっと覚えていようとしても。流れる年月を前にしては、その努力など儚い物でしかない。仕方のないことだ。それが、人間なのだから。

 俺自身、幼い頃の思い出など断片的にしか残っていない。そのわずかな残滓にしたところで、実際にその記憶通りのことが起こったかどうかは怪しい物だ。王都時代の辛い記憶だったら、不思議と細部まで鮮明に、克明に覚えているんだけどな。ははっ。

 だが、この日記という物は違う。曖昧な記憶ではなく、確かな記録。時が過ぎ、例え本人が全てを忘れ去ってしまったとしても、そこに記された内容はずっと変わらずに残されている。後から読み返すことで、こんなこともあったなと、当時を思い出すこともあるかもしれない。これは画期的な手法だと言えるのではないか。

 

 しかし大変に残念なことに、この日記という行為には、見逃せない弱点がある。利点は確かに大きな物だが、決して無視の出来ない欠点が存在するのだ。

 まず、字が書けなくてはならない。絵心はまあ、なくても構わないだろう。最低限、何を描いたかがわかれば問題はないし、いっそのこと文字だけでも目的は十分に果たせる。だが、字を書けないことには話にならない。

 そして、もう一つ。思い出の記録という趣味的な行為に対し、紙という高価な品物を使えるだけの財力が必要だ。

 この二つの理由から、日記をつけることが出来るのは、上流階級に属する者に限られてくるだろう。興味がそそられるのは確かだが、どうやら自分には縁がなさそうだ。

 

 と、思っていたのだが。

 しばらく後、俺の手に数冊の「だいがくのーと」と「ぼーるぺん」が届けられることになった。恒例の勉強会の際に、満面の笑みを浮かべたショウタ君から手渡しされた。パティから、俺が日記に興味をもっていると聞いたらしい。

 何かにつけ、俺にプレゼントを渡そうとしてくるショウタ君なのだ。こうなることは予測してしかるべきだった。正直にいうと俺自身、心の何処かでこういう事態になると、そう思っていたのかもしれない。

 だからこの贈り物は、割合と素直に受け取ることが出来た。ただちょっと手が震えて、恨めしい目でパティのことを見て、そして色々と諦めたってだけのことだ。まったく、俺も随分と図太くなったものだ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 今日は領主様のお屋敷を訪ねた。ショウタ君の誕生日祝いの席で誘われた新しい事業について、詳しい話を伺うためだ。

 あれは場を盛り上げるための戯れ言にすぎなくて、実際にこちらまで話が来る事なんてない。と、言うなら、胃の痛い思いをする必要などなかったのだけど。現実は無情だ。

 いや、頑張ってみるつもりだよ、俺。ショウタ君に宣言もしちゃったし。だけどさ、ほら。少しくらい夢を見たっていいじゃない。穏やかな暮らしを、望むくらいはいいじゃない。

 

 ちなみに、お屋敷までは馬車で向かうことになった。俺は当然、自分の足で向かうつもりだったっていうのに、あのときと同じ馬車が迎えにやって来てしまったのだ。乗客は、俺一人。貴き方々仕様のあの馬車の中で、一人きり。ほんと、やめて欲しい、こういうの。

 おそらく、無限に等しい体感時間を過ごすことになるのだろうと。さぞ、キリキリと痛む胃を抱えて耐える羽目になるのだろうと。そう、覚悟していたのだが。実際には、馬車に乗ったと思ったら、もう目的地に着いていた。御者の方がやけに必死な顔をしながら俺を揺さぶりつつ、到着したと教えてくれていた。

 どうやら、馬車や景色に目を向けることもなく、思考に集中してしまっていたらしい。なお、何を考えていたかは、良く覚えていない。心配そうに、少し休まれた方が良いのではと言ってくださったけれど、大丈夫。思考が飛ぶなんて、良くあることですので。

 

 そして、先日と同じ四阿へと通されて、領主様にお目通りしたのだが。何故、お話を伺うのが俺一人だけなんでしょうかね? 他に誰かいないの?

 領主様と差し向かいとか。メイドさん達もいるけれど、言葉を発するのは辺境伯閣下と俺だけとか。何処かへ飛んでいきそうな意識を逃がさないよう、一生懸命に捕まえていた。とにかく必死だった。恐れ多くも自分などに随分と配慮してくださっているのだ、無礼な真似など出来ない。配慮がなかったとしても、できっこなんてないけど。

 領主様のお気遣いは、すぐに察することが出来た。誕生会の時と同じ場所に案内されたのも、領主様があの時と同じ服をお召しになられているのも、少しでも俺の気が楽になるようにという心配りなのだろう。本当に、下々の者にも優しいお方だ。これに応えずして、何が男か。頑張れ、俺。

 こうして、おそらくは寿命が片手の指の年数ほどは縮まりつつ、お話を伺う心構えができた。

 

 領主様はおっしゃられた。この街に、平民が通うための学校を作りたいのだと。王国が百年の太平を得るための、これは第一歩なのだと。

 現在の王国は帝国との仲も良好で、既に数十年の平和を謳歌している。だが、この安寧が永久に続くなどと言うことは、決してない。確かに、現王陛下は賢明なお方で、平和を愛されている。王太子殿下もまた気質を同じくされており、おそらくこの先も数十年は安泰だろう。

 だが、その先がどうなるかは、誰にもわからない。王家を批判するわけではないが、暴君や暗君が生まれないという保証はどこにもないのだ。

 この世界に、王という存在は必要だ。だが、王の意思により全てが決定する体制は、危うさをも含んでいる。故に、王が誤った場合にはそれを糾すための法を定め、そして全ての国民の目で王の資質を見極める、そういう社会を作らねばならぬのだ。

 その視点を持つ未来の国民を作るための、これは試金石である。ゆくゆくは全ての街や村に学校を作り、全ての国民が様々なことを学べる場を作っていきたい。

 これが、領主様の夢だという。そして俺には、その学校で教鞭を執って欲しいというのだ。

 

 心が、震えた。

 子供達に学問を教える。教育という名の種をまき、生徒の成長という収穫をして、子供達とふれあいながら生きていく。これは、俺自身が望んだ生き方でもある。そしてそれが、この国の礎になるというのだ。

 俺は一も二もなく、心の底からの承諾をした。領主様の差し出す右手を、躊躇いもなく掴み取った。そうだ、これが俺の生き方なんだ。教師こそ、俺の天職なのだ。

 その役割を担える運命に、出会いを繋いでくれたショウタ君に、妖精の導きに、感謝を。

 

 それに、まあ。同僚の多くは平民だというではないか。即断することが出来たのは、これも大きい理由の一つだ。

 教職にふさわしいだけの学問を修めている人材となると、まずは貴族の方々が候補に挙げられる。けれど、なり手がいないというのだ。

 それは確かに、わかる話。平民が学問を修め、知恵をつけることに難色を示す貴族は多いだろう。ましてや実際に自身が子供達と接するなど、もってのほかなのだろう。

 だがしかし、俺にとってはそれが好都合。貴き方々と肩を並べて仕事するなんて、俺に出来ると思うか? いや、出来はしない。出来るわけがない。

 平民とはいっても、おそらくは商家の出が多いと思われる。俺よりずっと育ちがいいに違いない。それでも、同じ身分と言うだけでどれだけ気が楽か。穏やかな生活、万歳。

 

 こうして俺は、太平の世の礎となる、天職を手に入れたのだった。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 学校長が領主様のご令嬢だなんて聞いてないんですけどっ!!

 

 

 

 

 

○月×日

 

 昨日は動揺してしまって、日記をろくにつけられなかった。

 とりあえず、何が起きたかを記しておこう。温泉街の外れに建てられた平民学校の校舎にて、事業に関わる者達の顔合わせが行われたのだ。

 

 予想通り、同僚となる教師の大半は商家の出が多かった。現在、驚くべき勢いで発展している温泉街では、本格的に拠点をこの街に移してきた商会もかなりの数に上っている。その商会主の血筋でありながら、家を継げない次男や三男といった者達。彼らは使い潰されるくらいなら、新しい事業に挑戦したいと願ったのだろう。

 他にも学者の家系の者などもいたが、農家の出身なのは俺一人だけだった。まあ、予想通り。王都にいた頃のように、格下と認定されたらこの先が面倒だと。そうも思ったのだが、仮にも領主様が集めた人材なのだ。同じ条件で選ばれた立場の者を、さしたる根拠なく侮るような浅はかな人間はいないようだ。正直、助かる。彼らとなら、良い関係を築いていけそうだ。

 

 問題なのは、学校長として紹介されたのが、領主様の末のご令嬢であったこと。話が違うじゃないかと、思わず意識が飛びそうになった。震えるだけですんだ、自分の成長を誇りたい。

 だが、よくよく考えてみれば、これは俺が悪い。考えが足りていなかった。辺境伯家が主導する事業なのだ、いくら実務に関わる者が平民中心とはいえ、責任者までもが同じというわけがなかったのだ。むしろ、領主様の直系が統括なされるというあたり、本気の具合がわかって歓迎すべきことなのだろう。胃の壁が鍛えられる。

 

 学校長の年齢は俺より十歳ほど下の、十代半ば。この年ならば、世間知らずの箱入り娘であるのが普通だろう。しかし彼女は、そんな常識ではかれる存在ではない。才女であり、そして女傑であらせられると、領民の間でも評判の高いお方なのだ。

 彼女の果断さを示す事例として、婚約者が逃げ出したというものがある。逃げられたのではない、逃げ出したのだ。伴侶となる相手の有能ぶりに恐れをなし、婚約の破棄を願い出たというのだ。

 いかなる理由であろうと、貴族のご令嬢が婚約を解消するなど、醜聞の種になりかねない。しかし彼女は、能がないだけではなく根性までなかったかと、躊躇うことなくバッサリと、その男性を切り捨てたという。ちょっとだけ相手の気持ちがわかってしまうのは、いけないことだろうか。

 

 なお、会合の席で、このことを話題に上げた馬鹿者がいた。うっかりと口を滑らしたという体であったが、失言に気付いたそいつの顔は見事に青ざめていた。俺の顔も真っ青に染まっていた。

 けれど学校長はそれを気にした風もなく、ニコリとひとつ微笑んで、胸を張るようにして誇らしく、こう言ったのだ。違約金と迷惑料、これでもかと毟り取ってやりましたわ、って。

 

 なるほど、女傑だ。

 この方には、何があっても逆らわないようにしよう。それを決めた瞬間だった。おそらくはその場にいた一同、全員が。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 平民が学問を学べる環境を整える、その事業の準備は着々と進んでいる。既に授業の内容は決定し、それぞれの専門に合わせて教える教科を決め、学校の存在を温泉街の民に広く知らしめた。もういつでも、開校の出来る状態だ。

 だが、たった一つだけ、根本的な大問題が解決していない。肝心の生徒がいないのだ。

 

 温泉街の発展にあわせ、この街に移住してきた民は多い。街を作る職人や、街の周囲で作物を育てる農民。様々な品物を取り扱ったり、娯楽を提供する商人。街が受け入れられる許容量を超えてしまいそうな程の勢いで、波及してセージ村の人口までもが随分と増えたほどだ。

 家族が揃って移り住んできた家庭も多く、子供の数も当然、増えている。学校側が想定している生徒の年齢の子供も、もちろんだ。それなのに、授業を受ける立場の者が集まらない。

 

 貴族の子弟は、それぞれの家で教師を雇う。商家の子供は、親の手伝いをしながら計算や商法などを学ぶ。だが農民には、自ら学ぶ手段が存在しない。それにもかかわらず、何故に彼らは学校に消極的なのか。

 会議参加者の視線が、俺に集中する。やめてくれよ、胃に来るから。

 いや、彼らが言いたいことはわかるよ、農家の人間は俺だけなんだから。何か良い案があるんじゃないかって、期待されるのもわかるよ。でも、大勢からの視線って苦手なんだ、そんなに見ないでくれ。特に学校長、あなたの視線は刺さるように鋭いんです。穴が開きます。

 

 何故に農民の子が学問を求めないのか。それは単純に、生活に必要がないからだ。学んだ知識を生かす場がない。それなのに苦労して修めたところで、意味がない。

 これを根本的に解決するには、社会の構造自体に大きな改革が必要だろう。現状では、農民の子供は基本的に農民になるしかない。だが、能力次第で身分や出自に関わらず望む職に就ける社会であるならば、積極的に学ぼうという者も出てくるというもの。

 領主様が目指しているのはそういった社会なのだろうが、一朝一夕に成し得るものではない。十年、二十年、更に長い時間が必要になってくるだろう。

 

 なら、少し目先を変えてみよう。学校に通うことで、利益が生まれるようになればいい。

 農家の子供達は、力不足とはいえ稼ぎ手の一人だ。彼らが勉強に時間を取られればそれだけ仕事が出来なくなり、生活の水準にも関わってくる。なので、その分の稼ぎに変わるものを用意すればいい。

 具体的には、金を渡す。身も蓋もないが、それが一番手っ取り早い。金額的には、文字通りに子供の小遣い程度の、本当に少額でいい。例え銅貨の数枚でも、現金での収入に乏しい農家では貴重なものだ。

 

 他には、家の手伝いが出来ないほどの幼子を預かる施設を用意してみるとか。

 セージ村でのパティがそうだったように、より小さい子の世話をするのが仕事だという子供も多い。その仕事を肩代わりすれば、面倒を見ていた側の子供の手が空き、学校に通わせられるようになる。幼子に対しても、遊びながら勉強の基礎を教えることが出来る。

 

 特に優秀な子供がいたなら、成績次第で更なる報酬を渡すのもいい。利益に直結するなら、賢い子を持つ親は積極的になるだろう。

 こうなってくると、いくら公共事業とはいえ支出が馬鹿に出来なくなってくるかもしれない。けれど、これは投資と割り切るべきだ。将来的には、他の街にも学校を作っていくことになる。その際に、教師が足りなくなってくるのは目に見えている。そこで、かつてこの学校で学んだ子供達の出番というわけだ。十年後を見越して、人材を育成するのは決して無駄にならない。

 農村の立場からしても、村の子供が領主様の文官として雇われるなど、出世もいいところ。大歓迎だろう。それに、これは能力があるなら出自に関わらず職を選べるという社会の、第一歩にもなる。

 

 皆からの視線に急かされるように、これらの考えを話してみた。所々で噛んだりどもったりしてしまったのは、見逃して欲しい。そこを責められたら、もうしゃべれなくなるから、俺。

 ありがたいことに、俺の出した案は概ね好意的に受け入れてもらえた。予算の見直しなども必要になってくるが、まずはやってみようといったところだ。元々、全くの新しいことを行おうとしているのだ。試行錯誤はどうしたって必要だろう。

 

 とりあえず、ほっとした。頭ごなしに否定してくる面々じゃなくて、本当に良かった。王都では、俺の意見ってだけで却下されるか、誰かの手柄として奪われるか、そんなことばかりだったからな。

 俺、何とかこの中でもやっていけそうだよ。目立たず控えめに、コツコツと縁の下で頑張るよ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 どうしてこうなった。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 諦めて、昨日の日記を書くこととしよう。諦めるのは得意技だ。

 

 試したことが成功したり、失敗したり。色々あったが何とか生徒も集まって、ついに学校が始まることになった。

 一応、正式名称としてクレイ辺境伯領立ハコネ温泉街領民学校、という名前がある。けど、この街では単に学校としか呼ばれていない。他に学校なんてないしな。

 

 開校するに当たって、俺は何故が主任教師という役職を賜ることになった。重圧がすごいけど、これはまあ、いい。胃に来るけど、この痛みとはもう長い付き合いだ、愛おしさすら感じる。ごめん、流石に嘘。

 中途半端に偉いせいで、上から下から仕事が沢山、これでもかと回ってくる。久々に顔を合わせたショウタ君が、中間管理職だねって苦笑いをしていた。俺の立ち位置を一言で表している、上手い表現だなと思ったものだ。

 とにかく忙しい立場となり、仕事を押しつけられている感がなくもないが、これも構わない。仕事が多いのは、無いのに比べれば遙かにいいことだ。やり甲斐もあるし、頼られていると思えば、胃が痛い。違った、意外に悪くない。表面上だけ取り繕うのは上手くなったよ、俺。

 

 でも、だ。これだけは受け入れがたいんだ。

 本当に、どうしてこうなった。

 

 何で、俺の机が学校長室にあるんだ? おかしいだろ、何故に姫君と二人きりで仕事しなくてはならないんだ?

 指示を出すのにいちいち呼びつけたり、他の部屋に行ったりしなくてすむからという、彼女の一声でこうなったのだが。一言、言いたい。あなた、そんなに俺の胃をいじめるのが楽しいんですかと、尋ねたい。

 まあ、こんな台詞、面と向かっては絶対に言えないんだけど。というか、もしこの日記を見られたらとか。想像するだけで、もう胃に穴が開きそう。

 

 退職という単語が頭をよぎるけど、そんなことしたら絶対に怒り狂うよな、学園長。

 慣れるしか、ないのか。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 ショウタ君が差し入れを持ってきてくれた。顔色悪いよと心配してくれて、小さなガラス瓶を渡してくれた。ああ、職場の環境が、ちょっとね。主に机の場所について、少しね。

 瓶の中に入っているのは、全て均一に同じ形、同じ大きさをした小石程度の大きさのもの。それがびっしりと詰まっている。正体はわからないけど、ショウタ君の持ってくるものだ。覚悟を決めるべきだろう。

 

 果たして、予想通りだ。これは、胃の薬らしい。薬なんて高価なものを、こんなに沢山だなんて。ああ、もう。

 相変わらず、この子は俺の胃を痛くする。でもこの薬を飲めば問題ないねって、そんな笑顔で言うんじゃない。いじめか。

 

 でも、差し入れはともかくとして、ショウタ君の顔を見れたのは嬉しかったよ。こっちに住むようになってから、彼と会う機会が随分と減ってしまったからね。

 色々と言いたいこともあるけれど、俺の大切な友人だ、ショウタ君は。年は離れているけどね。って、最近、年齢について考えることが多くなったな、俺。これが年か。ああ、また。

 

 しかし、彼もこの街に住んでいるはずなのに、村にいた頃より顔を会わす機会が無いのは何故なのか。まあ、答えは単純に、パティがいないからなんだろうが。

 今日だって、パティと一緒に来ていたよ。二人並んで、手を繋いでいたよ。まったく、何年経っても、相変わらず仲の良いことだ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 ショウタ君、本当にありがとう。

 俺もう、これがないと生きていけないかもしれない。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 学校の経過は順調だ。生徒数も増えたし、街にとって無くてはならない施設となりつつある。

 色々あったけど、本当に大変なことばかりだったけど。あの薬がなければ、絶対に血を吐いていたと思うけど。それでも俺、この仕事に就けて良かったと思うよ。

 

 そして今日、ついに初めて、一人の生徒が学校から巣立つ日を迎えた。

 規定の年数を通ったわけではないけれど、もう十分に学業が身についたと判断されて、飛び級という形での卒業だ。

 

 それに、ただ卒業すると言うだけじゃない。その子は、学んで身についたことが認められて、大商会に雇われることになったのだ。農民の子供である、あの子がだ。

 領主様の夢、今となっては俺の夢でもある、誰もが望む職に就ける社会。その、第一号だ。自分の力で未来を掴み取ったあの子を、そしてその手助けが出来た自分のことを、とても誇らしく思う。

 俺が経験してきたあれこれを思い出すと、とても心配だけれど。でもきっと、彼なら大丈夫だろう。俺なんかより、ずっと優秀な子だ。それに、俺より遙かに図太い。あの神経は分けて欲しい。切実に。

 

 最後に、あの子が挨拶に来てくれた時。先生、今までありがとうって。そう、言ってくれた時。泣いちゃったなあ。思い出しても恥ずかしいくらいに、大泣きしちゃったなあ。

 みっともないから涙を拭きなさいって、ハンカチを差し出してくれた学校長の目にも、涙が浮かんでいた。思わず、呟いちゃったよ。鬼の目にも涙って。

 

 でも、だからといって、あれは無いと思います。

 貴族のご令嬢なんですから、流石に蹴りはどうかと思います。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 学校長との二人きりの空間にも、いつの間にか慣れてきた。胃薬の力を借りることも、無くなった。

 すまん、無くなってはいない。以前と比べれば、いくらかは減った。これが正しい。日記の中でくらい、見栄を張ろうとしてもいいじゃない。変に罪悪感を感じて張り切れず、速攻で暴露したっていいじゃない。

 

 まあ、もう何年も顔を突き合わせているんだ。仕事の合間に世間話に興じる程度には、学校長に慣れてきたのは事実。そして今日の話の中で、領都にも平民向けの学校を建てる計画が持ち上がっていると聞いた。

 我が校の成功を受けての話だというのは、間違いないだろう。まだまだ試行錯誤は続いているとはいえ、この学校はそれだけの実績を積んできたと、自信を持って言える。俺もその末端に携わっていられることに、誇りを覚える。

 

 そして、ここから先は世間話では済まないのだが。どうやら新しい学校の長として、姫君が招かれるかもしれないらしい。その際には、ここで経験を積んだ人間を何人か連れて行きたいらしい。

 それは確かに、必要なことだろう。ここの人員が薄くなることは厳しいが、経験者がいるといないとでは、運営の難度は大きく変わってくる。手探りでやっていく厳しさは、俺もよく知っている。

 

 誰が良いだろうか?

 ああ、あいつが良いかもしれない。肩書きは持ってないけれど、とても優秀な奴がいる。むしろ、俺の主任という立場を譲ってやりたいくらいに。穏やかな性格で気配りも出来るし、新しい環境でも緩衝材になってくれるだろう。姫君、キツいから。色々と。

 あるいは、見習い教師をやっている卒業生から何人かって言う手もあるな。授業を受ける立場で過ごした経験は、きっと向こうの生徒達のためになるだろう。

 

 そんな意見を伝えてみたら、何故だか姫君の機嫌がすこぶる悪くなった。解せぬ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 あっ!

 姫君がいなくなったら、もしかして次の学校長って、俺?

 無理無理無理無理、無理だってっ!

 

 

 

 

 

○月×日

 

 もしかしてなんですけど、万が一のことなんですけど。学校長がいなくなった後、次の長は自分ってことですか?

 その可能性に気付かないでいた、そんな自分にふがいなさを感じて、学校長は怒られたのでしょうか?

 

 姫君の怒りは今日になっても収まっていなかったので、恐る恐るそう聞いてみた。

 大荒れになった。解せぬ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 私ももうすぐ二十歳を迎えることだし、いい加減に新しい婚約者を見つけないといけないかしらね。

 雑談の中で、学校長がそんな愚痴を零してきた。

 

 そうですね、やはり母君の家系である侯爵家に縁のある方の中からお選びになられるのが、よろしいのではないでしょうか。

 貴き方々の常識なんてよくは知らないけど、何とか無難そうな答えを返してみた。

 

 大層、荒ぶられた。解せぬ。

 

 

 

 

 

○月×日

 

 待って。お願い、待って。頼むから、ちょっと待っててば。

 何で俺。どうして、俺。こんな事態になっちゃってるの?

 一体、何を何処でどう間違えたっていうんだよっ!

 

 

 

 

 

 

 

 これより、数十年の後のことである。

 

 クレイ辺境伯領立ハコネ温泉街領民学校という名の、小さな学び舎から始まった、ある思想。それはやがて、辺境伯の全ての街に、更には王国中へと広まっていった。

 その流れは、多くの国民や貴族達すらをも巻き込んでいくことになる。そしてついには、全ての国民の目で王の資質を見極める社会をつくるという、その目的を見事に果たすまでに至ったのである。

 王国の政治形態は、絶対君主制から立憲君主制へと、移行することになった。武力を伴わない革命。それを、王国は成し遂げたのだ。

 

 この活動に最初期から関わり、百年の平和を手にする原動力の一因となった、とある人物がいる。

 常に右手で胃のあたりを押さえつつ、伴侶の尻に敷かれながら、人々のために尽くし、駆けずり回る彼のことを。

 人は、「平民宰相」と呼んだという。

 




 こぼれ話は今回の他に、
「パティのバレンタイン」「翔太の温泉街観光」「ラニとジョウジのはじめての」
の、3本が予定されております。
 それでは、またそのうちに。


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パティのバレンタイン

時期が違う?
時差ですよ、多分。


 なし崩し的にだったけど、翔太がパティに好きだと言って。それにパティがほっぺにちゅうで返事をして。あの誕生会の日の出来事から、めでたく両想いとなった翔太とパティ。

 けれど、それで二人の関係に何か劇的な変化があったかといえば、特にそのようなことはなかったりする。

 

 そりゃあ、あれからしばらくは妙に気恥ずかしくて、二人で会った時も互いの顔を上手く見れなかったりしたけれど。うっかり目と目が合ってしまったなら、二人して頬が林檎のように真っ赤に染まったりもしたけれど。一人でいる時だって、大人になった後の自分たちのことを想像して、ごろごろとベッドの上を転げ回ったりもするけれど。

 けれども今のところは、それ以上の何かがあるという訳でもなく。せいぜい、翔太が週末だけでなく、平日の学校が終わった後にも、ちょくちょくパティに会いに来るようになったくらい。ろくに話す時間も取れないというのに、それでも二人とも楽しそうにおしゃべりしているくらい。そして、それを見ているパティの母がニヤリと笑い、父がぶすっとした顔をするくらい。

 

 とはいえ、それも当然と言えば当然のこと。いくら十代の半ばから後半までには結婚するのが普通の環境に住んでいるとはいえ、流石にパティにはまだ早い。翔太に至っては、十年経ってもまだまだ早い。

 まあ、二人ともまだ子供なのだし、焦る必要などどこにもない。未来は二人の前に、無限の可能性と共に広がっているのだから。

 

 そして。今日も翔太は、はにかみながら手を差し出して。嬉しそうに笑うパティが、その手を取るのだ。

 これは、そんな二人に訪れた、とある小さな事件のお話。

 

 

 

 

 

「ねえ翔太、あれって何?」

 

 繋いでいない方の手でそこを指差して、首を傾げつつ尋ねるパティ。不思議そうな顔をしているのは、そこに見慣れぬ品々が並んでいたからだ。

 全体的に赤やピンクといった色彩で飾られた空間に、丁寧にラッピングされた箱がずらりと並べられている。前に来た時には、確かこんなのはなかったはず。

 パティと翔太の二人は現在、駅前のスーパーマーケットにて買い物を楽しんでいる真っ最中。毎月の恒例となっている、セリムに渡すプレゼントを買いに来ているのだ。

 

 トンネルをくぐって向こうに行って、パティを誘って戻ってきて。別にわざわざそんな手間をかけなくても、翔太が一人で買い物をすることだってもちろん出来るけど。仮にそうしてしまったのなら、後が怖い。

 向こうではあり得ない品数の並んだ店内を目移りしながら歩いたり、レジでお金を払ってみたりするのが大好きなパティなのである。誘われなかったら、とても悲しむのだ。そして、とても怒るのだ。

 まあ、目をキラキラさせながら品物を選んだり、お肉やお総菜に目が釘付けになっているパティを見るのは翔太だって楽しいので、何の問題もない。パティが喜んでくれるなら、それはとても嬉しいことなのだ。

 これってもしかして、デートなんじゃないかって。そう気がついてからは、さらに喜びもひとしおの翔太である。

 

 そうして二人並んで店内を歩いているうち、とある一角に目をとめたパティが疑問の声を上げたわけだ。売り場の並びを普段と変えて、人目に付くよう作り出された空間。そこに並んだ沢山の箱や袋。

 お菓子売り場にあるのだから、やっぱりこれもお菓子なのかしら。あ、初めて会った頃にもらったクッキー、あれと似ている感じね。パティとしてはそんな何気ない疑問だったのだけれど。でも、尋ねられた翔太の反応が、少しおかしい。

 

 返事が返ってこない。あれっと思って顔を覗きこんでみれば、目が泳いでる。

 何故だか翔太は曖昧な笑みを浮かべて、言葉を濁すばかり。困っているような、照れているような、そんな顔をしているばかり。

 

「翔太?」

「えーっと、あれはね。なんていうか、その」

 

 物怖じとなどとは縁のない、マイペースな翔太にしては珍しく、どうにも歯切れがよろしくない。

 しばらく、そのままじーっと見つめてみる。無言の圧力をかけてみる。やがて観念したのか、翔太が一つ息を吐いて、何とも言いにくそうに説明してきた。

 

「……バレンタインのチョコレート、なんだけど」

 

 ばれんたいん? 何それ、初めて聞く言葉ね。

 小首を傾げ、さらなる説明を求めて、じーっと見つめ続けてみる。

 

「えっと、二月十四日にね、女の子がね、チョコレートを上げるんだ……好きな男の子に」

 

 既に、顔が真っ赤の翔太である。

 だって、仕方がないではないか。パティの好きな人が誰なのか、もう翔太は知っているのだし。ここでこんな説明をしてしまったのなら、何だか催促しているみたいというか。僕にチョコを渡す日なんだよって、まるでそう言ってるみたいじゃないか。それって何だか、とても恥ずかしいじゃないか。

 以前だったらこんなに照れたりしなかったはずだけど、さらっと流せた気もするけれど。でも、こういうのは一度意識してしまうと駄目なのだ。年齢的にはまだちょっと早いけど、ただいま青春真っ盛りなのだ。

 

「へー。こっちには、そういう風習があるのねー」

 

 対してパティといえば、特にそれほど気にした様子は見せない。感心した風に、売り場の方を眺めている。でも、良く見て欲しい。耳の辺りとか。ほら、やっぱりこちらも真っ赤に染まっているから。

 けれど、パティから翔太にチョコを贈るには、一つ大きな問題がある。

 

「けど、ごめんね翔太。私、こっちのお金持ってないから」

「あっ、うん。……そうだよねー」

 

 うん、知ってた。それは知ってたけど、少し悲しいような。でもちょっと、ほっとしたような。けれどやっぱり、とても残念なような。そんな複雑な気分の翔太である。

 でも、ごめんねってことは。仮にお金を持っていたなら、チョコをくれたってことだよね。夜になってからそう気がついて、翔太はベッドの上でゴロゴロともだえることになる。

 

 そんなやりとりはあったけれど、セリムへの贈り物は無事に購入した翔太。ちなみに、今回はパティのすすめもあって、久しぶりの砂糖である。

 その後は二人でのんびり散歩をして、そのままパティを村まで送って。そしてその日は解散となったのだけれど。

 

 翔太は、気がつかなかった。

 スーパーでバレンタインの話をした時とか、さようならをしたときとか。パティが、何か企んでいるような、そんな顔をしていたことに。妖精の笑顔を浮かべていたことに。

 

 

 

 

 

「さて、と。これで準備は完了ね」

 

 あれから数日が過ぎ去って、今は翔太の世界の暦でいうところの二月十三日。バレンタインの前日である。

 場所はセージ村にある、パティの自宅のかまどの前。目の前に並ぶのは、今日のために彼女が用意した品々。足りない物がないことを確認し、満足気に良しと頷いている。

 

 一体、パティは何をしようとしているのか?

 答えは簡単。翔太にチョコレートを贈るために、準備をしているところなのだ。バレンタインの話を聞いた時、パティは既に決めていたのだ。これは、チョコを渡すしかないわよねって。

 きちんと言葉にして好きだと伝えるのは、まだちょっと恥ずかしいけど。だけどチョコを渡すくらいなら、自分にだって出来るはず。ほっぺにちゅうが出来たのだから、これくらいなら頑張れるはず。

 

「翔太、喜んでくれるかな-?」

 

 うきうき気分で、その時のことを想像してみる。

 気持ちのたっぷりと込められた、甘い甘いチョコレート。少し照れながら、それを翔太に渡す自分。翔太はきっと、ありがとうって言ってくれるわよね。それで、チョコを一口食べて、微笑んで。それから、お返しとか言って、翔太の顔が近づいてきて、口と口が……。

 

「駄目っ! それはまだ駄目っ! まだ早いんだからっ!」

 

 いやんいやんと、身もだえするパティ。やけに妄想が具体的なのは、おそらく翔太の家で見せてもらったアニメのキスシーンを参考にしているからだろう。

 なお、その先についての知識は、まだ彼女は持っていない。流石に翔太の両親も、見せる作品の内容については気を使っているようだ。

 

 ところで、パティの計画を実行するに当たっては、一つ重要な問題がある。それは、あのスーパーだけでなくこちらの世界でだって、パティがチョコを買って手に入れるのは難しいということ。

 こっちとあっちの世界の関係性から考えるに、こちらの世界においても、何処かにチョコは存在する。そう、パティは予想している。でも、残念なことにセージ村はもちろんのこと、温泉街でも売っているのを見たことはないのだ。仮に売っていたとしても多分、パティの手持ちのお金では買えないだろう。きっと、見たこともないような数字が並ぶ値段に違いない。

 では、どうするか。

 

「買えないんだったら、作るしかないわよね」

 

 それがパティの出した結論。正直、手探り感は否めないけど。でも多分、何とかなる。何故なら、パティは知っているのだ。チョコレートが、何から出来ているのかを。

 こっそりと、スーパーで売っていたチョコの箱をひっくり返して、原材料の欄をチェックしていたのだ。既にパティは、ひらがなカタカナはもちろん、漢字だって大体は読めるのだ。そうやって得た知識、すなわち。

 

「チョコレートの材料は、カカオ豆っ!」

 

 右手に作ったこぶしを高々と掲げ、得意気に宣言。

 

「……は、ないから、大豆で代用っと」

 

 初手、躓く。

 豆の種類は違うけど、まあ似たような物は出来るでしょ。そんなお気楽なパティだけれど、彼女は知らない。カカオは豆とは呼ばれているけれど、大豆などのいわゆる豆とは全然違う物だという事実を。

 けれど、それで止まるようならパティじゃない。彼女は、一度決めたことならば、壁にぶつかるまでは突き進む性格なのだ。むしろ、ぶつかったならば、その壁を正面からぶち破るタイプなのだ。

 

「とりあえず、水で戻しておいた大豆を煮込んで柔らかくして、っと」

 

 弱火でじっくり、クツクツと煮込まれていく大豆。

 ちなみに、大豆は領主様がこの地に広めた食材。彼の故郷ではよく食べられていた物で、この豆から作られる調味料を再現するために取り寄せたのがそもそもの始まり。結局、目的であったその調味料自体は、正確な作り方がわからなかったこともあって、似たような何かしか完成しなかったけれど。でも、豆そのものは優れた食材として、皆に受け入れられたのだ。

 なお、この豆が本当に領主様の言うところの大豆と同じものであるかどうかは、彼自身にも今ひとつ確信がない。けれどまあ、少なくともカカオ豆と比べれば、より大豆に近いものには違いないだろう。

 

「チョコは甘いんだから、これも忘れちゃいけないわよね」

 

 パティ、袋の口をびりっと破いて、中身を鍋にどばっと投入。この間、翔太と一緒に買ったばかりの、砂糖をどばどばと惜しげもなく投入。

 いいのか、パティ。その砂糖の使用量は、こちらの世界においては相当な金額となるのだが。というか、そもそもそれは、翔太からセリムへのお礼の品ではなかったのか。けれど、パティの行為を止める者はこの場にはいない。

 

 一応、パティも考えての行動ではある。前にもらった砂糖を大事にため込んでいるセリムに対して、もっと使ってくれていいのにって翔太は常々言っていたのだ。そもそも、砂糖は向こうでは百円ちょっとで買える品なので、使い惜しみする必要はないとパティは知っているのだ。

 それに、この砂糖を使い込んでしまった分は、別の形でセリムに返すつもりのパティである。彼は今、温泉街に学校を作るという事業に取り組んでいるので、その手伝いという形で。向こうの小学校のカリキュラムとかを図書館で調べて教えてあげれば、きっと手助けになると思う。

 

 そうこうしているうちに、どうやら豆はすっかりと煮えて、柔らかくなってきたようだ。

 試しに一粒を、あちちあちちと言いながら摘まみとって、ぱくりと口の中に放り込んでみる。柔らかく煮えた豆がほろりと崩れて、じんわりと染み出してくる甘み。うん、とっても美味しい。これはご馳走ね。

 ……何となく。本当に、何となくだけど。チョコとは、ちょっと違うような気がしなくもないけど。とりあえず、気にしないことにする。

 

「さてと。それじゃ、次はっと」

 

 これはこのままでもとても美味しく食べられるけど、このままではチョコレートとは呼べない。チョコはもっと滑らかできめ細かくて、口の中でとろりと溶けるもの。豆の形なんて、残っていてはいけないのだ。

 なので次に行うのは、豆を潰す作業。木べらを使ってえいえいと、大胆かつ丁寧に、げしげし豆をついていく。裏ごしするような道具があればいいのだけれど、残念ながらこの家にはない。頼れるのは、手にしたこの木べらだけ。よろしく頼むわよ、相棒。

 思っていたより重労働だけど、そこは翔太の喜ぶ顔を想像すれば、むしろやる気が満ちてくるというもの。嬉しそうに楽しそうに、笑顔で鍋の中にへらを振り下ろす少女。ちょっとホラー。

 

 ここで、予想外の事態がパティを襲う。

 あれ、これって、どうしようかしら。

 

「どうしよう、取った方がいいのかなあ」

 

 既に水分は十分に飛んだので、鍋は火から外されて。豆もあらかた潰れて、滑らかなペースト状になっているのだけれど。チョコレート(予定)の中に、豆の皮が固形物として残ってしまっているのだ。

 この状態からチョコを無駄にしないように皮だけを全て取り除くとなると、ものすごい作業量となってしまう。まあ、大変とはいえ、作業自体は苦にはならない。一つ一つ取り除く度に、より翔太の喜ぶ完成品に近づくと思えば、きっと楽しく出来ると思う。

 でも、それはそれとして。

 

「うん、これはこのままにしておきましょ」

 

 見た目や舌触りは変わってくるけど、味が悪くなる訳じゃない。

 それに何より、豆の皮だって大切な食べ物なのだ。美味しく食べれるものをわざわざ捨ててしまうなんて、とんでもない。開拓村育ちのパティとしては、いくら翔太のためとはいえども、この辺りは譲れない部分であるようだ。

 

 そういう訳で。これにて無事に、チョコレートの完成。

 とは、ならないようだ、どうやら。残念なことに。

 

「……これ、固まる気がしないわね」

 

 うーんと、眉根を寄せたしかめっ面で、鍋の中身を見つめるパティ。

 チョコレートとは、手に持っている時はカチカチだけど、口の中に入れればトロリと溶けるもの。それを目指して、一口サイズに丸めて乾かそうと思ったのだけど。

 どうしよう。これ多分、固まらない。どちらかというと、干からびる未来が見える。

 

 チョコって、どうやって固めるんだろう。何か固まる成分のあるものを混ぜるのかな。スーパーで見た原材料の中には、それっぽいものは無かったと思うんだけど。

 あっ! 冷凍庫っ! ……は、うちにはないし。翔太に頼んで冷凍庫に入れてもらうんじゃ、渡す前にバレちゃうし。うーん、困った。

 

 鍋を前に腕を組み、目を瞑ってうんうんと頭を悩ませるパティ。そのまま時が過ぎること、しばし。

 やがて、パティの目が見開かれる。頬が上気して、嬉しそうに口元がほころんでいる。どうやら、何か名案を思いついたようだ。

 

 パティは食糧の貯蔵部屋へと足を伸ばし、挽いた小麦の粉を用意。それを水で溶かしてタネを作って、フライパンに薄くのばして焼き始めた。

 まもなく、普段食べてるパンとは全然違う、まるで紙のように薄くて丸い生地が完成。そしてそれを何枚も、何枚も。

 

「ふっふーん。流石、私」

 

 そうよ。チョコが固まらないなら、手に持てないんだったら。持てるように、生地で包めばいいじゃない。

 これって、テレビで言ってた、逆転の発想って奴? そう得意気に胸を張るパティだけれど、残念なことにそれは違うよと突っ込んでくれる翔太は今、隣にいない。荒ぶるパティを止めてくれる人はいない。

 まあ、どちらにせよ、今となっては手遅れなのだけど。止めるのなら、豆を煮始める前に止めなくてはいけなかったのだけれど。

 

 焼き上げた生地の真ん中に、匙ですくったチョコレート(推定)を乗せて、くるりと巻いて。一口サイズの大きさに仕上がった何かを、丁寧に並べていく。

 入れ物は、以前にもらったクッキーの空き缶だ。既に綺麗に洗って、用意してある。包んで詰めて。包んで、詰めて。包んで、周りをきょろきょろ、誰も見ていないのを確認して、ぱくりと一口。

 

 美味しいっ! これ、すっごく美味しいっ!

 ……でも、あれ? 美味しいんだけど、あれ? これって、もしかして……あれえ?

 

 味は、間違いなく美味しい。作った自分だって満足出来る。きっとと翔太も喜んでくれる。

 見た目だって、悪くない。綺麗な入れ物にきっちりと並べられた、同じ大きさのチョコレート(仮称)。これなら温泉街に持って行ったって、きっと売れると思う。あのお金持ちのお爺さんだって、きっと喜んでくれる品になったと思う。

 

 ……だけど。

 おかしいわね。こんなはずじゃなかったのに。

 見事に完成した、翔太に贈るバレンタインのチョコレート。それを見つめるパティの顔には、何処か納得のいっていないような、憮然とした表情が浮かんでいたのだった。

 

 

 

 

 

「パティ、おはようっ!」

 

 一夜明けて、翌日。

 バレンタインデイ、つまりは決戦の日がやってきた。

 

 都合の良いことに今日は土曜日だったので、朝早くから翔太が会いに来てくれた。

 今日はどうしようか、お買い物かな? それとも図書館? 公園を散歩するのもいいし、こっちでピクニックも楽しそうだな。あ、温泉街まで行ってみるのもありだねっ! パティの顔を見るなり、指折り候補を挙げていく。

 

 どうやら翔太は、家の中でゲームをするのではなく、今日は外に出たい気分のようだ。

 でも、いいのだろうか。今日はとても良い天気だけれど、逆に気温はとても低いのだが。良く晴れている日こそ、二月の空気はとても冷たいのだ。

 けれど、心配する必要など全くない。この冷たい空気こそが、実は嬉しいのだから。だって、繋いだ手の温かさを、より感じることが出来るから。最近、冬が好きになった翔太である。

 

 そんな、今日という一日を過ごすのが楽しみで仕方が無い翔太とは裏腹に、パティの様子がどこかおかしい。手を後ろに回して、モジモジと。何だか気もそぞろな様子。

 いつもなら、色々と翔太が候補を挙げた後、鶴の一声とばかりにパティが予定を決定するのだけれど。でも今日は何故だか、翔太の声すら届いていないみたい。

 

「どうしたの、パティ? 具合でも悪いの?」

「だっ! 大丈夫っ! 元気、だからっ!」

 

 もしかして体調が悪いのかと、心配した翔太が顔を覗きこんでみるけれど。二人の顔と顔が近づいてきたとたん、急に飛び跳ねるように、赤い顔をして体ごと後ずさるパティ。

 その仕草に、翔太がむうっと口を尖らせる。何だよ、別にそんな、大げさに逃げなくったっていいじゃないか。ぷくりと頬を膨らませ、じとりと視線を湿らせて、無言で抗議を訴えてみる。

 

「違うからっ! 別に、近づいたのが嫌だったとかじゃないからっ!」

「……じゃあ、何さ」

「えっと、そのね。この間、言ってたじゃない、バレンタインって風習があるって。女の子が、その、あれなやつ。あれって、今日でしょ?」

 

 恥ずかしそうに、背中を丸めて。まだ翔太より少し背が高いのに、伏せた顔からの上目遣いで。はっきりと伝えたいのだけれど、上手く言葉に出来なくて。

 そんなパティが、どうにかこうにか勇気を振り絞って。一生懸命に思いの丈を、言葉にして紡ぎ出した。

 

「……だからね、作ってみたの。その、食べてくれるかな……翔太?」

 

 そうして。

 後ろに回していた手を、翔太へと差しだしてきた。少し震えるその手にあるのは、いつかのあのクッキーの缶。

 

 すると当然、今度は翔太の挙動が不審になる番だ。

 ロボットみたいにぎくしゃくと、上手く動かない手をカクカクと、心臓だけは飛び跳ねるように元気いっぱいで。

 そうやって、翔太は受け取ったのだ。パティの気持ちがぎゅっと、溢れるほどに詰め込まれている、その贈り物を。

 

 ごくりと、緊張で喉が鳴る。翔太も、パティも、二人とも。

 翔太が缶の蓋に手をかけて、伺うようにパティを見る。うん、と。パティが声に出さずに返事をする。

 

 壊れ物を扱うように繊細に、蓋がそうっと開けられて。中に並んだそれを見てキラキラと、翔太の瞳が輝いていく。パティの顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。

 そして、そっとその一つを手にとって。伺う翔太に、うんうんと頷くパティ。

 

 無言のまま、翔太の手が、口に運ばれた。

 ゆっくりと、ゆっくりと。一噛み一噛み、味わって。その甘い甘い愛情を、舌と心で味わっていく。

 期待するような、でも怖がるような。不安に揺れるパティの見守る中、最後の一欠片までしっかりと味わった翔太が、ついに声を上げた。

 

「……美味しいっ! 美味しいよ、パティ!」

 

 もう、声だけでなく、顔だけでなく、体中から一杯の幸せをまき散らしている翔太。

 その溢れる感情の激流を、喜びの奔流を。整えることなくむき出しのまま、言葉に乗せてパティへと。

 

「本当に美味しいよっ! このアンパンっ!!」

「チョコレートだもんっ!!」

 

 ちょっとだけ、涙目のパティであった。

 でも本当は、パティにもわかっていたのだ。最初に煮えた豆を味見した時に、思ったのだ。あれ? 色は違うけど、これって餡子じゃない? って。

 その後も、やっぱり思ったのだ。完成したものをぱくりとした時に、既にわかっていたのだ。薄いけどパンで包んじゃったんだから、これってアンパンよね、って。

 

 でも、それを素直に認められないのが、複雑な乙女心だったのである。

 この後、自分の言葉の何がそんなに彼女を傷つけてしまったのかもわからずに、必死にパティをなだめる翔太の姿があったそうな。

 

 でもまあ、特に心配する必要など無いのだろう。

 なんだかんだといいながら、それから二人は。今はまだ花の咲いていない、思い出の虫除けの草の生えた丘まで行って。

 冬の寒空の下、身を寄せ合うようにして。二人して、幸せいっぱいのこぼれそうな笑顔で。パティの主張するところのチョコレートを、互いに食べさせあったりなんて、していたのだから。

 

 辺境領は、今日も平和です。



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