縁側で茶をすするオーバーロード (鮫林)
しおりを挟む

序章
今生の暇乞い、不発に終わる


 気が重い。

 

 

 プラグを首筋の穴に挿し込み、データロガーを頭に取り付けて、ゲーム開始時のローディングを待つ。

 かつてDMMORPGの代名詞とまで呼ばれたユグドラシル。12年の時を経てその栄光はすっかり過去のものになり、今日はとうとうサービス終了日だ。

 

 この日のために、なんとか休みをもぎ取った。おかげで明日は4時起きになってしまったけれど、ギルドメンバーを迎えるためならなんてことない。

 

 ──最後だから集まりませんか。

 

 ギルド長として、かつての仲間全員に送ったメールは自分でも笑えるくらいに未練がましかった。何人かから既に不参加の返事をもらっている。

 ……メールの文面を考えるくらいなら、一瞬でいいから顔を出してほしいなんて、思っていいことじゃあないとは、わかっているけど。

 

 実のところ、期待しているわけではない。

 わかっている。

 みんな、忙しいのだ。

 

 ただ、最後なんだから、少しの時間でも来てくれないだろうか。少しの間だけでも、思い出話に花を咲かせることができないだろうか。

 そう、願うことくらいは、許してほしかった。

 

 ローディングが完了する。目を閉じて、ため息をひとつついた。

 誰かいるだろうか。誰もいないかも知れない。待っていたら誰か来てくれるだろうか。……誰も、来なかったら?

 

 不安とわずかな期待を胸に、入り込んだ円卓の間には―――。

 

 

 

 

 

 

「や」

「……!」

 

 片手を軽く挙げて挨拶する細身のシルエット。少し掠れた、けれども穏やかな低い声。

 

 糊の効いたシャツの上にダークグレーのベスト、質の良い綿の手袋に皺ひとつないスラックス、そしてピカピカに磨かれた革靴。円卓の椅子に優雅に腰掛け、脚を組むその姿は一見非の打ち所のない紳士のようだけど、本来首がついている筈の場所には、サッカーボール大の水の塊が浮いている。深い海の色をした頭の中には、目の働きをしているんだろう光がふたつ、妖しく灯っていた。

 

 古代の水精霊(エルダー・ウォーターエレメンタル)

 アインズ・ウール・ゴウンにおいて、その種族名が差す人物はひとり。まさか、このひとが。

 

「死獣天朱雀さん……!」

「おお、覚えててくれたんだ。嬉しいねえ」

「忘れませんよ!」

 

 叫ぶようにそう言って、思わずピコピコと「感動」のアイコンを連発しながら近付けば、彼も椅子から立ち上がり、握手を求めてくれた。ピコン、と「笑顔」のアイコンがひとつ。

 遠慮なく手を握り返せば、ふふ、と変化のない表情で、声だけが笑う。

 

「久し振り、モモンガさん。何年ぶりかな」

「本当にお久し振りです。5年ぶり、ですかね?」

「そんなにかぁ。時が経つのは早いなあ、待たせてしまって申し訳ないね」

「そんな! 来ていただいただけで嬉しいです。こんな朝早くに……」

「やー、もうね、年寄りは朝がはやくて」

 

 そう言って、首の後ろを掻く動作。彼の癖だ。懐かしい。

 ギルド、アインズ・ウール・ゴウンの最年長者にして大学教授。とは言っても、ご本人が言うほどのお年寄りではなかったはずだ。老獪、という言葉が似合う人ではあるのだけど。

 ぴこん、と疑問のアイコンを浮かべながら死獣天朱雀さんが問う。

 

「モモンガさんさえ良ければ今日は終いまでいようと思うんだけど大丈夫かな」

「大丈夫ですよ! なんの問題もないです!」

 

 むしろ、と。

 不安になって思わず聞いた。クソ運営の名にふさわしく、サービス終了の今日はなんとド平日だ。

 大学で働いている人が気軽に休める日ではないのではないだろうか。

 

「朱雀さんの方は大丈夫なんですか? その、講義とか」

「ん? うん、大丈夫。しばらくおやすみなんだ」

「なら良かったです。存分にいてください」

 

 小卒の自分には大学の休みはよくわからないが、大丈夫という声に無理はなさそうだったので大丈夫なのだろう。

 ごゆっくり、と、本心からそう言えば、ふたたび笑顔のアイコンが表示された。

 

「それじゃあ久し振りだし、色々と見てまわろうかな。モモンガさんはずっとここに?」

「うーん、よければ一緒にまわっても良いですか? 誰か来たらログでわかりますし、指輪ですぐに戻って来られるので」

 

 ここしばらくは狩り場と宝物殿との往復しかしていなかったので良い機会だ。ひとりなら円卓の間でずっと待っていようと思ったけど、ナザリックを見て回るくらいのことはメンバーの皆も許してくれるだろう。

 もちろん! と快い返事をもらったので早速下の階から順番に上がっていくことにした。

 

 円卓を出て、ロイヤルスイート。荒野。溶岩。ジャングル。氷河。地底湖。墳墓。

 攻略するときに苦労したトラップ。ナザリックを手に入れてから作りこんだ外装。ギルド長には、と口止めされていたらしい内緒のギミック。四十一人がそれぞれ少なくとも一体ずつ、思い思いに製作したNPC。

 ひとつひとつ思い出を確かめながらナザリックを練り歩く。

 それからぽつぽつと人が来て、その度出迎えて、あっという間に一日が過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すみません、本当は最後までご一緒したいんですけど、眠すぎて……」

 

 ヘロヘロさんがその名にふさわしい生気のない声で告げた。社会人ギルドゆえに社畜と呼ばれる人が多く在籍しているアインズ・ウール・ゴウンだが、その中でもヘロヘロさんの勤務状況は同情を禁じえないところまできている。転職して少しはマシになるかと思ったら余計に酷くなったらしい。死獣天朱雀さんがふうむ、と深刻そうなため息をつく。

 

「ログインしたままの寝落ちは危ないからねえ、企業も改良しようとしないし」

 

 ニューロンナノインターフェイスをコンソールと連結することで遊ぶという仕様上、最中の睡眠は脳に悪影響が出る、というのが、近頃企業に弾圧されながらもまことしやかに流れている学説だ。脳内ナノマシンの起動によってある程度覚醒はするのだが、それでも疲労による睡魔には勝てない。

 

「翌朝頭痛どころの話じゃないですもんね……、ゆっくり休んでください、ヘロヘロさん」

「ありがとうございます……、お言葉に甘えさせてもらいますね」

 

 そう言った後、ヘロヘロさんは周囲を見回した。

 

「でも、正直ここがまだ残っているなんて思ってませんでしたよ。……モモンガさんがずっと維持してくれていたんですね、感謝します」

「みんなで作り上げたものですからね。ギルド長として当然のことをしたまでですよ」

 

 一抹の寂しさを感じながらも、ねぎらいの言葉を素直に受け入れることができたのは、今日一日が想定していたよりもずっと楽しかったからかも知れない。こんなに長い間ゲームの思い出について話し込んだのは何年ぶりだろうか。

 

「またどこかでお会いしましょう、つぎはユグドラシル2とかで」

「ハンドルネーム変えないでね。捜すから」

「あはは。死獣天朱雀さんもそのままでお願いしますね! それじゃあ、お二人とも、お疲れさまでした」

「……お疲れさまでした、ヘロヘロさん」

 

 余韻も残滓もなくヘロヘロさんはログアウトする。さっきまで彼がいた場所をぼんやり眺めていたら、無意識に声が出た。

 

「どこか、か……どこで会うんだろうね」

 

 思わず口をついて出てしまった言葉が気恥ずかしくて、はっ、と朱雀さんを見る。彼は小首をかしげて、なんてことのないように言った。

 

「どこでもいいんじゃないかな。通信手段のない未開の時代じゃないんだし、生きてさえいれば、どこでだって声を交わせるよ」

 

 ね、と諭すのが彼でなければもう少し憤っただろうか。簡単に言ってくれると。その通信手段が発達した今でさえ会いにきてくれないじゃないかと。

 けれど。

 生きてさえいれば。その言葉が胸を締め付ける。

 死獣天朱雀さんの年齢になったら、ご友人で亡くなった人もいるんじゃないだろうか。自分の母もまた、若いといえる歳のうちに過労で死んだ。

 命を繋ぐだけのことが、今の時代、とてもとても難しい。

 

「……そうですよね。すみません、朱雀さん」

「ん?」

「移動してもいいですか?」

 

 もう夜も遅い。今からログインしてくる人は、多分いないだろう。

 アインズ・ウール・ゴウンは悪にこだわったギルドだ。最期のときはふさわしい場所で迎えたい。

 

「最後はやっぱり玉座の間かなっ、て」

「ああ、そうか。そうだね、降りようか。ついでに持ってったら? それ」

 

 朱雀さんの視線の先にはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンがあった。ギルドの皆で血反吐を吐くような思いをして作ったギルド武器。これひとつとっても、いくつもの思い出がこみ上げて来る。

 

「……いいんですかね、俺が持っていっても」

「持って行くとしたら、モモンガさんじゃないといけないと、ぼくは思うけど。最後のときに壁に飾ってあるだけじゃあ勿体無いよ」

「それじゃあ……」

 

 杖を手に収めた瞬間、醜悪なオーラを放つ赤色のエフェクトが立ち上る。二人でその作りこみに感心した後、第十階層へと向かうべく、円卓を後にした。

 目的の階層に降り立ったとき、ふと死獣天朱雀さんが尋ねてくる。

 

「……もし良かったら、なんだけど。図書館に寄っていってもいいかな」

「もちろん。そういえばティトゥスは死獣天朱雀さんが作ったNPCでしたね」

 

 ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス。

 大図書館「アッシュール・バニパル」の司書長として作製されたNPCだ。アンデッド系の初期種族であるスケルトン・メイジであるが、一段階上のエルダーリッチよりもレベル的には上の存在で、製作系に偏ったスキル編成をされているという中々尖ったキャラクター。古代ローマの賢人の名前を連ねて、とにかく賢いイメージにしようという願いがひしひしと伝わってくる。

 

「うん。顔だけ見にいきたくてさ」

 

 昼間のうちに上の階層は大体見てまわったけれど、最下層に降りる前に他のギルメンが来たので結局足を踏み入れないままだった。

 行きましょう行きましょうと促して、すまないね急がせてと謝る声に、いえいえなんのと返しつつ、図書館の扉を開く。自分が作ったNPCに対してはみんな少なくない思い入れがあることだろう。……自分が作った黒歴史についてはそっと蓋をした。

 

「…………」

 

 図書館に入ってその姿を発見した後、死獣天朱雀さんは無言のままじっと、こちらを向かせたティトゥスを見つめている。変わらない表情のその内に、どんな感情が渦巻いているのかはわからない。時折、こぽり、と、朱雀さんの頭のエフェクト音が鳴った。

 時間にして2分ほどだろうか。朱雀さんはこちらを向き直り、行こうか、とそう申し出た。

 

「もう、いいんですか?」

「うん、もう十分」

 

 ゆっくりと踵を返し、扉に向けて歩き出す。一歩一歩静かに、厳かに。

 その一連の行為がまるで黙祷のようで、ぎゅう、と胸が締め付けられるような心地になった。

 そう、彼らは今日、みんな死ぬのだ。サーバーにどのくらいの時間残っているのかはわからないけれど、時間を過ぎてしまったら、もはや誰もこの地下墳墓に足を踏み入れるものはいなくなる。

 アンデッドの巣食うダンジョンがこれから死んでしまうなんて、皮肉な話だ。そう自嘲しながら、最期の時を迎える場所へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道中でセバスとプレアデスを連れて入ってきた玉座の間は、依然変わらない姿で俺達を迎えてくれた。

 ナザリックの最奥にして最重要箇所。その事実にふさわしく、精巧な作りこみと荘厳な雰囲気を持つこの場所にただただ圧倒される。

 

「おおぉ……」

「はー……、凝ったねえ……」

 

 ゆっくりと辺りを見渡しながら玉座まで進んでいけば、とあるものが目に入った。

 純白のドレスを身に纏い、玉座の傍に立つ美しい女性、守護者統括アルベド。……の手に握られた、ワールドアイテム、真なる無(ギンヌンガガプ)

 ギルドメンバーの誰かが持たせたのだろうか。いつの間に。

 

「どうしたのモモンガさん」

「いえ、アルベドが真なる無(ギンヌンガガプ)を持ってるのが気になって」

「……ほんとだ、なんでだろ」

「……設定に書いてあるかな、……長っ!」

「ちょっと待って読ませて読ませて」

 

 洪水のような文章量に圧倒されて、さっさと流そうとする俺を止め、まだちょっと時間あるよね、と長大なアルベドの説明文を死獣天朱雀さんがやや急ぎ足に読み進めていく。

 真なる無についての記述はないなあ、という呟きに、裏設定かもしれないですね、と返す。ここまで文字を詰め込んでおいて更に欄外に設定を増やすなんて、と一瞬思ったけど、タブラさんならやりかねない。

 そう思ったことを朱雀さんに知られたわけではないだろうけど、ふ、とため息のように笑みをもらして、ぼそりとつぶやく声。

 

「タブラくんも業が深いなあ……」

 

 基本、老若男女問わず「さん付け」で呼ぶ朱雀さんにしては珍しい呼称に、けれど在りし日を思い出してアバター越しに目を見開いた。

 そういえば朱雀さんは、リアルで知り合いだったタブラさんに勧誘されてアインズ・ウール・ゴウンに入ってきたんだっけ。それまで人間種でプレイしていたのをわざわざデータロストして今の姿を作ったのだと聞いている。

 ……そんなリアルでの知り合いに自分の作ったNPCの設定をじっくり読み込まれるなんてどんな気分なんだろう、と一瞬薄ら寒くなった。こちらの内心を知らないまま、無邪気に読み進めていた朱雀さんの指が、最後の一文になってぴたりと止まる。

 

『ちなみにビッチである。』

 

「あっはっはっは!」

「笑い事じゃないですよ! なんだこれ!」

 

 そういえばタブラさんはギャップ萌えだったっけ。それにしてもビッチは酷い。最後だし許されるだろうと、ギルド武器を利用して件の一文を消す。

 消したはいいものの、なんとなくこのままじゃあすわりが悪いなあ、と思い悩んでいたところ、すっ、と死獣天朱雀さんが横からなにやら書き加えた。

 

『モモンガの伴侶である。』

 

「これでよし」

「よくない!!! 何してるんですか朱雀さん!!?」

「だってほらタブラくんも『嫁にやるならモモンガさんみたいな人が良い』って」

「タブラさぁーーん!!!」

「はっはっはっは!」

 

 ひとしきりじゃれ合って、はしゃいで、気が付けば残り時間はもうあと僅かだった。玉座に座り、朱雀さんはその横、アルベドと反対側に立つ。座りますか? と聞いてみたけれど、いやいや最後にここの支配者が立ってるなんてそんな、と丁寧に断られた。そんなことしたらウルベルトさんに叱られる、という一言に思わず笑ってしまったので、年長者を立たせる不本意もそのままに、「悪のギルドらしい定位置」に着く。

 ふう、と一息ついた朱雀さんが、こちらに顔をむけた。

 

「今日は一日つきあってくれてありがとう、モモンガさん」

「こちらこそ! 今日は楽しかったです!」

 

 本当に久しぶりに楽しかった。嘘偽りない気持ちで笑顔のアイコンを出す。しかし、朱雀さんの方はアイコンを表示する様子が無い。もしかして楽しくなかったのだろうかと不安が募ったそのとき、朱雀さんはふと俯いて、おもむろにぽつりと溢した。

 

「……実はね」

「はい?」

「辞めてきたんだ、仕事」

「……えっ?」

 

 死獣天朱雀さんがリアルの話をするのは本当に稀なことだ。朱雀さん自身がリアルとゲームを徹底的に分ける主義であったのもそうだけど、この世界において大学教授なんていう職業はエリート中のエリートで、ギルドメンバーを信じてはいても、万一余計なトラブルの原因になっては寝覚めが悪いだろうと、ギルド長である俺のほかには秘匿しておくことにしようと、リアルでの知り合いであるタブラさんと三人で話し合った結果そうなった。

 その甲斐もあってか、基本出しゃばらず一歩引いたところから、誰にでも穏やかな物腰で接する人柄が受け入れられて、ギルドメンバーのみんなには好意的に受け止めてもらっていたように思う。

 

 聞きたいことは色々あったが、それが纏まる前に、朱雀さんは話を続ける。

 

「長いことねえ、同じ分野で競ったライバルがいたんだけどね。ちょっと厄介な病気でさ。見舞いとかもしょっちゅう行ってやって尻叩いたりしてたんだけど、それがこないだ亡くなって」

 

 ふ、と朱雀さんは短いため息をついた。アバターでは読み取れないけれど、どこか遠いところを見ているような。

 

「ずっと一人でこの道を続けてきたと、続けられると思っていたんだけど。やっぱり思い上がりだったみたいで」

 

 なんにもする気が起きなくなっちゃった。

 本当に寂しそうに言う朱雀さんにかける言葉も無く、じっとその姿を見つめる。

 さっき、ティトゥスを見ていたとき、朱雀さんが何を考えていたのか。その片鱗を掴んだ気がした。

 

「でもね、君からメールをもらって、ここのことを思い出してさ。酷い話だよね、連絡がくるまで忘れてるなんて」

「そんな……」

「それでさ、もし、良かったら。忙しいかも知れないけど、空いた時間に連絡をくれないかな」

「え?」

「や、嫌ならいいんだけど」

「いえ、そんな! 嫌なんてことはないんですけど!」

 

 自分でいいのだろうか、という思いが脳裏に浮かぶ。ユグドラシルも終わってしまうのに、外で会ってどんな話をすればいいのかわからないのだ。俺には本当にユグドラシルしかないのに、大学の教授をやっていた人が普通の会話をして楽しいわけがない、と。もちろん、これからも関係性が続いていくことは嬉しい。ユグドラシルで繋いだ絆が残ることは喜ばしい。けれど、それがユグドラシルの外であっけなく壊れてしまうことがあったら。それが、他のギルドメンバーとこれから外で連絡を取り合う気になれない理由でもあった。

 そんなこちらの内情を見透かしたように、ふふ、とこちらにわかるよう、はっきりと声を出して朱雀さんが笑う。

 

「それなら、時間のあるときに話相手になって欲しいな。老い先短いじいさんで悪いけれど」

「……朱雀さんこそ、俺で良いんですか?」

「君は本当に自己評価が低いね。もう少し自信を持っていいんじゃあないかな」

 

 その声ははっきりと事実を断定するように、きっぱりと告げた。嘘偽りの無い言葉だと、聞くだけで思えるような声だった。

 

「ぼくは、ここで切らしてしまうには勿体無い縁だと思う。なかなかいないよ、モモンガさんみたいな人」

「……それはどういう意味でですか?」

「ははは」

「……ふふ」

 

 ようやく笑う余裕ができて、ふと時計を見れば、本当に僅かな時間しかない。

 ちらりと朱雀さんを見る。これからやるロールプレイに、乗ってくれるだろうか。これで乗ってくれなかったら恥ずかしくて二度と連絡できないかも知れない。

 そう思っていたらなんと、朱雀さんが玉座の前の階段を数段降りて、まっすぐこちらに語りかけてくる。

 

「偉大なる死の支配者よ。末期をここで迎えることができて、ぼくは本当に嬉しい」

 

 急なロールプレイだったが、返す台詞はすぐ頭に浮かんだ。

 いい歳した大人がこんなことを、と馬鹿にするひともいるけれど、いい歳をした大人が全力でこういうことをするのだから楽しいのだと、心から思う。

 そう、楽しかった。この12年間、ユグドラシルで、ナザリックでみんなと過ごした日々。

 本当に、楽しかったんだ。

 

「それは何よりだ、我が友よ。その死、その最期が、あなたにとって安らかなるものであることを、心から願う」

 

 視界の端でカウントダウンが残りの時を刻む。あと数秒。最後の台詞は朱雀さんに託す。

 

「ありがとう、友よ。また来世で会おう」

 

 ああ、完璧な最後だ。きっとウルベルトさんが聞いたら悔しがるに違いない。俺もその場にいればよかったと。

 そう思い、そっと目を閉じて、強制ログアウトを待った。

 

 待った。待っ……た?

 

 おかしい。待つほどの時間が余っていただろうか。

 目を開いて確認すれば、なんとコンソールが開かない。GMコールも効かない。

 ありえない現状に心の中で叫ぶ。

 

 最後の最後までなんなんだあのクソ運営は!!!

 

 怒りを共有してくれそうな人物に視線を移せば、死獣天朱雀さんはこちらを見ていなかった。何かと思って彼の視線を追えば、そこには驚愕すべき光景がある。

 ……黒髪の美女が、はらはらと涙を溢していた。

 

「そのような……」

 

 その表情は哀しみに満ちている。寄せられた眉根が、赤く腫らした眼が、涙を堪えるようにときおり噛み締められる唇が、ドレスの裾を握り締める指先が、それぞれあまりにもリアルに悲哀を伝えてきた。

 

「そのような、ことを仰らないでください」

 

 美しい声が、途切れ途切れに自らの意思を紡ぐ。聞いたこともない声だった。そのはずだ。ギルドにいた女性メンバーの誰一人として、NPCに声を吹き込んだ者はいなかったのだから。

 死獣天朱雀さんは相変わらず、無言のまま彼女を見つめている。

 

「わたくしと、モモンガ様との、縁を結んで下さった方が、そのような」

 

 膝から崩れ落ちる彼女を見て、思った。

 

 

 

 

 どうなってんだこれ、と。

 

 

 

 




至高の方々が転移するにあたってこの辺はみなさんもう見飽きてるでしょうし、原作にあるところはさらっといく方針です。


本日の捏造
・死獣天朱雀さんの見た目
???「『朱雀』なのに水属性……ギャップですね!」
???「バードマンはもういるしね」

・ティトゥスさんの創造主
まだ決まってなかったよね? よね……?

・死獣天朱雀さんの加入理由
手元にBD特典小説がないので詳しくはわかりませんが、なんとなくナザリック攻略戦の後に入って来たイメージがあります。
いい歳したおじさん? 下手するとおじいさん? に没入型RPGの戦闘は辛い……辛くない?


※2022/07/29追記
2022年7月29日に発表された死獣天朱雀さんの公式ビジュアルとは違う見た目で書いておりますが、2017年に執筆を始めたものなので、「ぼくのかんがえたさいきょうのしじゅうてんすざくさん」としてお許しいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死に慣れる者はいないが生きた心地は忘れられる

前回のあらすじ



モモンガ様、教授と転移する。


 

 

 この歳になると、大概のことには驚かなくなる。

 否、覚悟ができるようになる、と言った方が良いだろうか。諦念と言い換えることもできる。

 長年競いあった友人の死も、それによって辞めることを決意した後の職場でのいざこざも、かつて心から楽しんだゲームの終わりも。

 

 どうしようもない。人にできることは余りにも少なく、個人の力というものは悲しいほどに弱い。

 失われる環境、荒廃する社会、蝕まれる身体。それらをどれほど嘆こうとも、たとえ命をかけてすら動かせないものなど世の中には山ほどあるものだ。

 

 だから長く生きていくうち、そういったものに覚悟ができるようになる。諦められるようになる。

 なるようにしかならないのだからと、流されるままに、状況を受け入れることが容易くなる。 

 

 あるいは経年によるものではなく、個人的な資質なのかもしれない。最後の最後までみっともなく足掻ける人というのを、心のどこかで尊敬している自分がいる。

 そういう性分なのだ。どうにも視点が俯瞰になりがちで、いまひとつ集団に入り込むことができない。

 その点、このギルドは本当に居心地が良かった。異形種を選ぶだけあってそれぞれ個性的で、しかしみな社会人であるがゆえに過度に干渉してくることもなく、ぼくのような「新参の年寄り」という面倒な扱いの者も容易く受け入れてくれた。かつての日々は本当に楽しかった。転勤の関係でログインしづらい環境にならなければ、もっと長い間プレイしていたと確信するほどに。

 

 話が逸れたが、要するに今言いたいことは、年齢的な意味でも、個人の資質という意味でも、大抵のことには狼狽えない自信がある、ということだ。

 

 

 ……しかし、流石にこれは。

 

 

 先ほどまでは物言わぬ電子の人形であった彼女、守護者統括アルベドが、涙を流しながら床に膝をついている。

 ひく、ひく、としゃくりあげる様子も、肩にかかる髪がするりと滑り落ちるさまも、涙の一粒一粒でさえ、まるで現実のように鮮明で。

 はて、ユグドラシルというゲームはここまで描写にこだわるゲームであったかと自らの記憶を疑ってみたりもしたが、確かに先ほどまでは電子遊戯関連の法律を遵守したレベルのグラフィックでしかなかったと思い至る。

 

 他に何か材料はないか、と周りを見回せば、何やら中空を指でこつこつと叩くモモンガさんの姿。何をやっているんだろうと一瞬思ったが、ふと、さっきまで視界に存在したはずのゲージや時計がなくなっていることに気がついた。

 そして、彼と同じように中空を叩く。しかしコンソールは開かない。

 ふむ、と癖で首の後ろを掻こうとしたとき。

 

 ぞわっ、と違和感が身体を突き抜けた。

 

 その正体を確かめるべく、もう一度同じところに手を当てる。否。当てることはできなかった。

 

 そこには、首がなかったからだ。

 

 何故、と思い至る前に理由にたどり着く。

 自分の手が、ぞぷん、と頭にめり込む音によって。

 

 なるほど道理である。今、自分の頭はぷかぷかと浮かぶ水なのだ。恐らくは精霊種の魔法的な力で成り立っているその現象において、支える首が要らない、というのは大変理に叶っている。

 

 現実的にあり得る話かはまた別の問題として、だ。

 

 異形種とはいえプレイヤーは人間だ。

 ユグドラシルに限らずニューロンナノインターフェイスによる没入型のゲームにおいて、自身の形がどれだけ歪であろうが実際に触れられるのは人間の部分とそう変わりなく、何本触手が生えていようが動かせるよう設定できるのは手足の数までである。

 あまりにゲームの感触と現実のそれとを解離させてしまうと、社会生活に支障が出るからだ。

 一般市民を奴隷か何かと勘違いしているのが現在の企業というものだが、いくら愚民政策が進んでるからといって、使える労働力と使えない労働力では前者の方が良いと、どんな企業でも言うだろう。

 

 したがってこの状況、ゲームの延長線上とは考えられない。

 

 その結論に達し、頭から手を引き抜いて、相談をするべくモモンガさんに向き直れば、彼はアルベドの肩に手を置くところだった。

 

 アルベドは、あっ! と艶めかしい声を上げ、びくんと身体を震わせる。

 いきなり触れられて驚いた……というよりは、モモンガさんのスキルが効いてるんだろう。なんだっけ、しょんぼりタッチ、みたいな名前のやつ。どうも横文字が覚えられない。

 

 しかし、友軍への攻撃が有効になっているということか。厄介な。

 

 こちらが心の中で唸っている間に、モモンガさんは低く、厳かな、それでいて慈しみに溢れた声でアルベドに語りかける。

 その様はまさに、配下を愛する慈悲深い魔王そのものだった。そして何やら中空に手を刺しいれて、そこからハンカチを取り出し、アルベドに手渡す。……アイテムボックスかあれ。

 

「アルベドよ、落ち着くのだ」

「あなた……」

 

 あなた。貴方。You。日本語における割と丁寧な部類の二人称。

 この場合はあれだね、女性が男性の配偶者を呼ぶときに使われる呼称だね。

 うん、いい。風情がある。今どき上流階級のお嬢さんでも、あなた、なんて夫を呼ぶひとは見たことない。

 

 ……なんて浸ってる場合じゃない。

 さっき改変した設定が生きているのか。

 だとしたら、もしかすると、まずいんじゃあないだろうか。

 

 タブラくんが書いた「あの設定」がそのまま彼女であるのなら。

 彼女の愛のベクトルをひとつに収束させてしまっては、いつか。

 

 思考の海に浸りかけたぼくを、モモンガさんの声が呼び戻す。

 

「ナザリックにおいて死とは救いである。たとえ誰であろうと、例外は許されない」

「……っ!」

「だが、今このとき、私は友にそれを許すわけにはいかなくなった。そうだな、死獣天朱雀さん」

 

 大変答えやすいパスに、おお、と感嘆した。さすがは長年悪鬼羅刹を率いて魔王を演じていただけのことはある。

 

「そうだねえ、厄介なことだ。もう少し情報がほしいところだけど」

「ふむ、そうだな。……セバス!」

「はっ!」

 

 モモンガさんの呼び掛けを受けて即座に、力強くセバスが応答した。

 

「ユリを連れて、ナザリックの周辺1kmの地理を確認せよ。知的生物がいた場合はできる限り穏便に交渉し、友好的にここまで連れて来い。他のプレアデスは九階層に上がり、八階層からの侵入者が来ないか警戒に当たれ。直ちに行動を開始せよ!」

「承知いたしました、我らが主よ!」

 

 命令を下したモモンガさんと、突っ立ってるぼくにそれぞれ跪拝すると、彼らは仕事をこなすべく足早に部屋を去っていった。

 出ていく直前、三つ編みの娘がすん、と泣いている最中のように鼻を啜るのを、夜会巻きの女性がルプー、と小さな声で嗜めていたが、それはまあ置いておいて。

 

「アルベド」

 

 モモンガさんの穏やかな声を受け、渡されたハンカチを強く握り締めて、アルベドはゆっくりと、しかし凛と背筋を伸ばして立ち上がる。指の背で涙を拭い、きり、と表情を引き締めて、真っ直ぐにモモンガさんの顔を見上げた。

 

「お見苦しいところをお見せしました。何卒この私に罰を」

「よい、アルベド。お前のすべてを許そう。それよりも、守護者統括としてのお前に命じることがある」

「はっ、モモンガ様! 何なりとご命令を!」

 

 ふむ。

 モモンガの伴侶と守護者統括という立場は分けて考えているらしい。いや、本人がそう望んでいるとは限らないか。モモンガさんがそう言ったから、それに従っている可能性はある、と。

 

「守護者たちにそれぞれの階層に異常がないか確認させた後、彼らを第六階層、アンフィテアトルムに集めろ。1時間後だ」 

「はい! ……あなた」

「……なんだ」

 

 睨むほどに強かった彼女の視線がしっとりと潤む。モモンガさんは明らかにたじろいでいた。美人の目力というのはそれだけで武器になる。

 いやー、ぼくは端から見てるからいいけど、真正面からあの瞳を見つめる自信はないなあ。モモンガさんもすごいひとをお嫁さんにしたなあ。

 原因は完全に自分だけど、気分は完全に他人事だった。アルベドはモモンガさんに向かって、優雅に一礼する。

 

「行って参ります」

「あ、ああ。くれぐれも頼んだぞ、アルベド」

 

 去る前に、ぼくにもきっちりと礼をして、アルベドもまた部屋を去っていった。

 玉座の間に、再び静寂が訪れる。

 

 と、ほぼ同時に。

 かっくん、と、今度はモモンガさんが床に膝をついてしまった。盛大なため息のおまけ付きで。

 

「はあぁ……」

「おつかれ、モモンガさん。よく頑張ったね」

「ありがとうございます、すざくさん……」

 

 へなへなと崩れ落ちるモモンガさんに労いの言葉をかけた。

 実際、素晴らしい采配だと思う。

 即座にぼくらが二人きりで残れるよう正当な理由で人を払い、尚且つ周辺の状況も知ることができる。

 

「……どう思います? 今の状況」

「細かいニュアンスの違いはあるとして。少なくともぼくらとナザリックが現実のものとして顕現している、ってところかな」

「……そうですか。朱雀さんでも、そう思いますか」

「モモンガさんは違うと思う?」

「いえ、最初の方はゲームの不具合も疑ったんですが、その、朱雀さんがいきなり頭に手を突っ込んだので……」

「あー……、ごめんね、びっくりさせて」

 

 また首の後ろに手をやりそうになって、そこには何もないのだと思い直し、手を下ろす。

 いえいえ、とモモンガさんは手を振った。

 

「朱雀さんが体を張って確認してくれたから早い段階で決心がついたんです。ありがとうございました」

「痛みは全然ないんだけどね。あれ? 手袋は濡れてない」

「……ちょっとだけ良いですか?」

 

 そう尋ねて、モモンガさんは恐る恐るぼくの頭に手を差し込む。

 骨の手が頭をゆっくりとかき混ぜるが、とくにこれといった感触はない。

 

「どうですか、何か感じますか」

「んー、何も。目で確認できてるから、触られてるのがわかる感じ」

「ここ、多分目のあたりだと思うんですけど」

「視界は良好だね。モモンガさんは大丈夫?」

 

 設定だけでいえば、12mほどの水の塊を圧縮している、という存在なので、水圧で手が潰れたりしないかは少し心配だった。

 そんな様子もなく、モモンガさんがとぷん、と、ぼくの頭から手を引き抜けば、その手には水滴が付着している。ふむ、と感心したような声。

 

「濡れないのは装備のランクが関係しているのかも知れませんね。朱雀さん、今の装備は?」

遺産級(レガシー)、だったかな? もしかしたら聖遺物級(レリック)かも。神器級(ゴッズ)ではないね」

「なるほど」

 

 モモンガさんが手についた水滴を自分の装備にぽたぽたと落とす。水滴は装備についた瞬間、ふっと消えてしまった。神器級(ゴッズ)の装備である豪奢なローブは、濡れたという事実すらなかったように、美しい光沢を保っている。

 

「汚れとかもつかなさそう。便利だなあ」

「洗濯用品のことを考えなくてよくなったのはひとつ安心ですね。そもそもこの体、飲食とか睡眠はどうなってるんだろう……」

「アンデッドはねえ……」

 

 そう呟いて、ふと、先ほど気になったことを思い出した。

 

「そういえば、あれ、スキル切れるんだね。なんだっけ、あの、落ち込んでる感じの」

「もしかしてネガティブ・タッチのことですか?」

「そう、それ。よく分かったね」

「合ってたことが驚きですよ。オンオフできるのは救いですね。これがあったらおちおち触ることも……」

 

 言いかけて、モモンガさんは言葉を止める。

 

「よくネガティブ・タッチが効いてるとわかりましたね、朱雀さん」

「え? 効いてたよね?」

「だと思います。けど、エフェクトもないし、外から見てわかるようなものではないはずなんですよ。不意打ち用の嫌がらせスキルなんで」

「ふむ」

 

 そういえば先ほどから何かがおかしい。自分の疑問に対して、答えが出るスピードが速くなっている気がする。

 その疑問の答えについても、すぐさま脳裏に浮かんできた。

 

「……そっか、ぼくのもスキルだね。多分、《知者楽水》」

「ちしゃらくすい?」

「知ある者水ながるるを楽しむ。水系の魔法に何%かのボーナスがつくだけの種族スキルなんだけど、フレーバーテキストが能力として採用されているみたいだね」

 

 知恵とは水が流れるように巡るものである、だったかな。

 本来の意味とは違うテキストだけど、ゲームを楽しむためのおまけみたいなものだから、そこに深く突っ込むのも野暮というもの。今大事なのは、その曖昧なテキストこそがぼくの思考にプラス補正をかけているということ。

 

 と、なれば、だ。

 普段使い道のなかった、フレーバーだけがやたらと大層な技の数々もそこそこ使えるように、あるいは凶悪な効果になっている可能性がある、と。

 

「理由はどうあれ、心強いですね。はっきりと「頭が良い」って設定されたNPCもいますし、対抗できるかもしれない」

「やっぱり対抗する必要あるかな」

「さっきここにいたNPCたちは大丈夫でしょうけど、なにせ数が多いですから。用心に越したことはないかな、と」

「モモンガさんは周到だなあ」

 

 ぷにっと萌えさんが言ってたっけ。状況対応能力において、モモンガさんの右に出る者はアインズ・ウール・ゴウンにはいないって。

 これなら年寄りが冷や水を浴びる羽目にならなくて済みそうだ。実際浴びてもどうにもならないんだけど。種族的な意味で。

 

「まあ、アイテムも使えるみたいですし、そこまで深刻にならなくて良いかとは思いますが……」

 

 アイテムボックスの中を覗くモモンガさんにつられて、自分のボックスも確認する。……なんかやだなあこれ。風情が無い。後で袋とか探してみよう。

 露骨に顔をしかめていたのか、モモンガさんに、一応表情っぽいものがあるんですね朱雀さん、と言われた。こっちはわからないよ君ガイコツだし、と答えれば、ポーカーフェイスができるのは本当にありがたいです、とのこと。……思っていることはそこそこわかりやすいことは黙っておこう。

 

「けれどいきなり襲ってくる可能性も否定はできません。朱雀さん、装備を整えなくて大丈夫ですか?」

「んー? いいよ、手持ちではこれが一番強いし」

「いえ、そうじゃなくて。宝物殿に朱雀さんの装備を残してあるので」

「――――」

 

 しばしの無言。ことばが、出てこなかった。

 確かに渡した。引退するときに、良いように使って、と。そう言って。

 でも、まさか、残っているなんて。

 

「売っ、て……なかったん、だ……」

「売りませんよ。大事な仲間の装備ですから」

「…………は、はは」

 

 頭の奥が痺れるような感覚がする。目頭が熱くなる、ということはない。きっと、今のぼくには涙腺がないんだろう。

 ああ、でも。人間のままだったなら泣いてたなあ、これは。

 嫌だね、本当に。年寄りは涙もろくなって。

 

「ありがとう、モモンガさん」

「いえ、そんな、ギルド長として当然の――」

「うん、なんか、ね。今日一番、感動した」

「…………」

「ありがとう」

 

 きちんと姿勢を正して、深く頭を下げた。この程度でモモンガさんの献身に報いることができるとは到底思わないけれど。礼とは、尽くすものだから。

 

 頭を上げれば、表情は読めないながらも、もの言いたげな様子のモモンガさんが目に入る。

 彼は少し俯き、視線を彷徨わせると、ゆるゆると首を振った。

 

「……すみません、朱雀さん」

「ん?」

「俺が呼んだばっかりに、こんなことになってしまって。もっと早く謝らなきゃと思ってたんですが」

「はあ」

 

 呆れたものだ。どれだけお人好しなんだ。

 ほんとに気の毒な人だ。全部背負い込もうと自分の中になにもかもを溜め込んで。挙句の果てにこんな老人とわけのわからない事態に巻き込まれることになって。

 ふっ、と、ひとつ、笑って言ってやった。

 

「若い人が老い先短い年寄りの心配なんかしなくていいよ。モモンガさんの方が大変だろうに」

「……向こうに帰っても仕事しか残ってないので。もしかしたらそれもなくなってるかも知れませんけど」

「そっか。じゃあお互い帰ることは考えなくてもいいね」

「そう考えたら、気楽でいいですね」

 

 若干、気を張り詰めたまま笑う彼に、気を重くするのは自分次第なのだと、言ってやれれば良かったけど。

 今の彼には背負うものが確かにあって、荷物のひとつは間違いなくこのぼくだ。子泣きじじいの気分だな。

 せめて、彼の重荷が少しでも軽くなるように、動いてやらなければ。曲りなりにも年長者として。

 

「それじゃあ行こうか、宝物殿」

「はい。指輪は持ってますよね?」

「勿論。使えるといいな」

「使えなかったら大惨事ですからね……」

 

 

 そうして不安を抱えながらも無事に宝物殿へ転移したぼくらを待ち受けていたのは、目も眩むばかりの黄金と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んンよォくぞおいでくださいましたァ!!!!! 至高の御ン方々ァ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

熱烈な歓迎だった。

 

 

 




忠誠の儀まで行かなかった……。
年配の男性がいる前で妻()の胸を揉むのは良くないよね、ということでイベントカット。期待していた方はすみません。


本日の捏造

・エルダー・ウォーター・エレメンタルの体積について
元々馬鹿でかいモーファっぽいものを課金で形成した上にフレーバーテキストで整えた感じ。文章力が! 追いついていない!

・死獣天朱雀さんのスキル関連
なんとなく水系の言葉で統一されているイメージです。
賢そうな熟語がおおい(小並感)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Nicht den Tod sollte man fürchten, sondern daß man nie beginnen wird, zu leben.

「人は死を恐れるのではない、二度と生きれない事を恐れるのだ。」
第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス




2017/8/30
なんとここまででギルド長と教授がアイテムボックスの確認を忘れているという重大事件が発覚したので2話を少し修正しました。
本当に申し訳ない。
これから登場人物も増えるのにこんなんじゃ先が思いやられる……。


 

 

 

「かくて汝、全世界の栄光を我がものとし、暗きものは全て汝より離れ去るだろう――だったか、な」

 

 宝物殿、武器庫へと続く扉の前。死獣天朱雀さんが、澱みなくパスワードをそらんじる。

 なんていうか、朱雀さんの声ってやっぱり、こういう難しい文章を読みなれてる声、って感じがする。知的、と言ったらいいんだろうか。

 

「覚えてたんですか、朱雀さん」

「っていうよりは、知ってる、かな。タブラくんには散々蘊蓄聞かされたし」

 

 立ち並ぶ無数の武器の横を、雑談しながら進んでいく。

 ああ、気が重い。ある意味今日ユグドラシルにログインしてきたときよりも気が重い。

 駄目もとで提案だけしてみようか、と恐る恐る聞いてみる。

 

「朱雀さん、その、ですね。この先は、ちょっと」

「ん? 何か新しいトラップでも置いた?」

「いえ、そうですね、はい……」

「……はあーん」

 

 水の中にたゆたう光が、悪戯っぽい笑みの形に歪んだ。

 バレますよね。そうですよね。知ってますよね!

 

「宝物殿の領域守護者、製作者は誰だったかなあ」

「……うう」

 

 ないはずの胃痛の原因となっているのは、昔製作した自分のNPCが原因だった。

 散々好き勝手設定した黒歴史が、今は声をあげて動き回るのだから、そのダメージは計り知れない。

 先ほどから何度か、激しい感情が沸き上がったときに沈静化される現象が起こっているけれど、それでもアレに向き合う羞恥に耐えきれるのだろうか。

 

 

「まあ、会わせたくないなら無理にとは言わないんだけどさ。ここで待ってようか?」

「え」

 

 朱雀さんが一度歩みを止め、つられてこちらも歩くのを止めた。

 それは願ってもない申し出だった。

 自分ひとりで黒歴史に立ち向かう必要はあるが、それにしたって、誰かに見られるよりはずっとマシだ。

 

「ほ、本当に良いんですか?」

「うん、君がいいならね」

「?」

 

 朱雀さんの言葉の意味がわからなくて、思わず首を傾げた。

 

「俺はもちろん、その方がありがたいんですけど……」

「ほんとにそう?」

「……どういう意味でしょうか」

「だって、装備を整えたら、ぼく多分二度と、は言い過ぎかもしれないけど、しばらくは来ないよ、必要ないし。君がいないときにこっそり見に行ったって仕方ないもの」

「そう、ですね?」

「これからきっと、忙しくなるよ。彼を宝物殿から出す予定、ある?」

「……ないですね」

「そうなったら、次来るときは、ええっと、ワールドアイテム? を取りに来るときぐらい? でもその状況って、かなり切羽詰まってるときなんじゃないかな。そうしたら、結局君ひとりで急いで取りに来るよね?」

「…………」

「一度機会を逃したものを、新たに機会を作り直すのって、すごく勇気がいることだと思うよ。きみにその勇気がないとは言わないけど、絶対に、後になればなるほど苦しくなる。そして、ぼく個人の意見としてはーー」

 

 そこで一度言葉を区切り、朱雀さんはこちらを見上げた。

 

「会える前に死んでしまう予定だった君のこどもに、是非会ってみたいなあ、と、思うんだけど」

 

 やっぱり笑みの形に歪められた目の光は、けれどさっきのそれよりずっと優しげに見えて。

 ずるいなあ、と思うのだ。そんなことを言われて、断れるだろうか。

 肺もないので、わざとらしくため息の真似事をして、再び奥への一歩を踏み出した。

 

「……笑わないでくださいね」

「笑わないよ、約束する。けどモモンガさん」

「なんですか?」

「きみちょっとチョロすぎない?」

「そうですね! 自覚は! してますよ!」

 

 死獣天朱雀さんの、笑い声が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、どこ?」

「その辺にいると思うんですけど……」

 

 霊廟へと続く広間、しかし一見したところ、誰かがいるように見えない。

 もしや勝手に出ていってしまったのかと一瞬思ったが、ソファの背で隠れていた影がゆらりと立ち上がり、こちらを振り向いた。

 

 死体のような体色を光沢のある革の衣装と銀の装飾で包み、蛸のような頭から生える6本の長い触手を蠢かせながらゆっくりとこちらに近づいてくる、ブレイン・イーター。

 

 その姿がよく見知ったものだったからだろう、朱雀さんが息を飲む気配がする。

 しかし、何かを口に出す前に、朱雀さんはちらりとこちらを見上げた。

 そう、もしもあれが彼ならば、タブラさんならば、俺がこんなに冷静でいられるわけがない。

 

「彼、か」

「……ええ。戻れ、パンドラズ・アクター!」

 

 ぐねぐねと形が変わり、本来の姿がかたち作られる。

 子供の落書きのような顔をした丸い頭に軍帽を乗せ、きっちりと軍服を着込んだ異形ーーグレーター・ドッペルゲンガー。

 正体を取り戻した途端、しゃきぃん! とでも効果音を背負っていそうな動きでびしぃ! と敬礼をし、それは高らかに宣言する。

 

「んンよォくぞおいでくださいましたァ!!!!! 至高の御ン方々ァ!!!!!」

「ひぃ」

 

 意図せず情けない声が出て、ぱぁあ、と、体から緑のオーラが立ち上る。

 

 ださい。ださすぎる。

 

 当時格好いいと思って作ったというのに、今になって見ると何故こんなにださいのか。

 

 なおもオーバーリアクションで今の感動を表すパンドラズ・アクターと対照的に、やけに隣が静かなのが気になって、おそるおそる朱雀さんの方を見た。彼は首の襟元を押さえたまま、二、三度、首を傾げる。きゅっ、とないはずの心臓が縮む音。死刑宣告を待つ囚人の気持ちが今ならわかる。

 少しの間(永遠のように感じたが)、そうしてパンドラズ・アクターを観察した後、うん、とひとつ頷いて、朱雀さんは朗らかに言った。

 

「いいじゃないか」

「えっ」

「ネオナチの衣装だよね? 欧州アーコロジー戦争の」

「あっ、はい……」

「懐かしいね、やー、昔から格好良いと思ってたけど、当時それ言ったら滅茶苦茶に叩かれて。組織の善悪はともかくとして軍服に罪はないと思うんだけどなあ」

「……は、」

 

 恥ずかしい……!

 やばい、沈静化が追い付いてない。

 何が恥ずかしいって、当時を知ってる人に、にわか知識で作ったものをまじまじと見られるのが、なにより恥ずかしい!!

 朱雀さんはきっと知ってる。いや、絶対知ってる。意匠の由来とか、胸章の階級とか、そもそもの戦争の原因とか、そういうの全部ぜったい知ってるう!!!

 ごめんなさい! 服のことしか覚えてなくてごめんなさい! 

 

「ドッペルゲンガーって初めて見たよ。なんかあれだね、すごく愛嬌のある顔してるね」

Herzlichen Dank(ありがとうございます)!」

「素晴らしい発音。さすがアクター」

「それこそ私が創造された理由にして存在意義でありますれば!」

 

 心の中で羞恥に溺れる俺を置き去りにして、何やら朱雀さんとパンドラはたのしそうに雑談していた。

 ああ、なんか知的な話題に移ってる。うう、すごい疎外感。

 やだー! 創造した本人より黒歴史の方が教養があるなんてやだー! そう作ったのは俺だけど!! 俺だけどお!!!

 

「……なんて言ってもね、年寄りに誉められたんじゃ嬉しくないだろうけど」

「なにを仰いますか死獣天朱雀様! 優れたものを愛でる御心にお歳など関係ありましょうか! いやない!」

「はんご。あはははは、いやー、モモンガさん。面白いね、彼」

「そうでしゅか……」

「恐悦至極にございます、死獣天朱雀様! ……して、お二方。この度は如何なるご用件でこの宝物殿に?」

 

 くりっ、と首を傾げて、パンドラズ・アクターが問うた。正直忘れてた。時間もあまりない。

 

「ん、んん! そ、そうだ。パンドラズ・アクター。今ナザリックは未曾有の事態に巻き込まれていてな」

「なんと! 偉大なるこのナザリック地下大墳墓が!」

「うむ。そこで、死獣天朱雀さんの神器級(ゴッズ)装備を取りに来たのだ」

「おお! 死獣天朱雀様の神器級(ゴッズ)装備! 魔法外衣(ローブ)・鏡花水月と(ワンド)・覆水不返ですな!」

「そんな名前つけてたんですか」

「タブラくんが勝手につけたんだよ。デザインはこれとあんまり変わらないのに」

 

 着ているシャツをぽんぽんと叩きながら、朱雀さんはため息をついた。

 

「用途がなんとなくわかるからいいんだけど、大仰だよね」

「かっこいいから良いじゃないですか」

「その通りでございます Meines Gotte(我が神よ)! 至高の御方々がお召しになる装備に相応しきお名前かと!」

「……と、いうことで、だ。指輪を預かってくれ、パンドラズ・アクター」

「畏まりました!」

 

 びしぃ! と敬礼するパンドラに、もはや脱力しながらリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを渡す。せめてドイツ語だけでもやめさせようかと思ったけどその気力がなかった。

 朱雀さんもそれに倣って、腰につけたチェーンから指輪を外して、パンドラの手に乗せた。

 朱雀さんの手袋は、見た目は完全に綿の手袋だが、実際の扱いは杖になっている。普通の杖だと「手が塞がってる感じがして嫌」なのだそうだ。結構な額を課金して、外装を無理矢理変更したと聞いている。その関係で指輪の外見上の装備場所に悩んだ結果、今の形に落ち着いたらしい。

 

「では、任せたぞ」

「後でねー」

 

 お待ちしております! と敬礼する(これもやめさせたい)パンドラへ声を掛け、霊廟へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いや、ごめんねモモンガさん。ほったらかしにして」

「……いえ、いいんです。朱雀さんに楽しんでもらえたなら。あいつを作って良かった」

 

 静謐な空気で満たされた霊廟を歩く。

 本心からの言葉だった。ギルドメンバーに楽しんでもらえたなら、それ以上の幸せはない。

 

「それ、本人に言ってあげたら良いよ。喜ぶよ、きっと」

「……そうですね、そのうち」

「そっか。……ああ、ついたね」

 

 託された装備を身につけた、37体のゴーレムたち。

 引退したメンバーのアヴァターラ。

 かつての思い出が眠る、墓標。

 

「……なんだか、生前葬って感じだね」

「すみません、こんな、死んだみたいに」

 

 自分の言葉に、思ったよりも傷ついて、その事実にまた愕然とする。

 置いていかれた、という自覚がじわじわと湧いてきて、心の奥底では彼らを恨んでいるのかも知れない自分が、恐ろしかった。

 

「いいんじゃないかな。昔の偉い人は生前に墓を作るのが慣わしだったし」

「そうなんですか?」

「大昔ね。今はもう、日本にあった古墳もエジプトにあったピラミッドも開発でほとんどなくなっちゃったけど」

 

 すごく寂しそうに、朱雀さんは言った。

 汚染された環境下で、人類は生存圏を広げるため、残されていた自然保護区や文化遺産のあった場所にも手をつけてしまったのだと、死獣天朱雀さんやブルー・プラネットさんが嘆いていたのを覚えている。

 

「人は知恵を得て、死の概念を本能でなく理屈で理解するようになった。次に彼らは恐れるようになる。“死者が復活する”という可能性を」

「……あったんですか、そんなこと」

「ちゃんとした死亡の確認ができるようになるまでは、死体に見えていた瀕死の人間が息を吹き返すこともままあっただろうね。身体中痛くて苦しくて、近くにいる人間に呪詛のような声をかけながら縋っただろう。そして周囲の生者は思う。死者が甦って人を襲いはじめた、と」

 

 想像してみたらなんだか間抜けだけど、実際出くわした人間にしたら恐ろしいことだろうと思う。

 ゲームにあるネクロマンサーの能力や、昔からあるゾンビ映画なんかのルーツなのかもしれない。

 

「故に生まれたのが“埋葬”の文化だ。死者が勝手に甦ってこないよう、死体をちいさく折りたたみ、深く穴を堀って、土に埋める。……やがて人々の間に身分がおこり、宗教がはじまるに至って、ときの権力者たちは自分が生きてる間に、巨大な墓を建てるようになった。何故だろう、わかるかな?」

「……権力を誇示するため?」

「その通り。建材の調達。膨大な副葬品の製作。それに伴う人件費。当時にして途方もない財力を持っていること、それを見せつけ、自らの支配力を示すため、権力者は競うように自らの墓を建造した。……尤も、生没年と墳墓の完成年月日がはっきりしないことが多いから、一概には言えないけど」

 

 こつ、こつ、こつ。ゆったりと歩きながら、まさしく骨に染み入るような声で、朱雀さんは講義を続ける。

 ……なんていうか、すごく、贅沢だな。大学教授のお話が、無料で聞けるなんて。

 

「さて、先ほども少し述べたように、多くの場合、それらの墳墓には副葬品が付き物であるわけだけど、どうしてだろう」

「え? えーっと、お供え物? 死後の世界で使う、みたいな」

「概ね正解。厳密には宗教によって意味合いの違いがあるけどね。死後の神世で、あるいは復活した後、彼らが不便に思わないよう、あらゆる調度品、人馬を模した土器、あるいは生きた人間を贄にして共に埋葬した。向こうでも労働力が必要だと考えたんだね。さてーー」

 

 どこか遠くを見るように指を立て、先ほどまでとは少し調子を変えて、朱雀さんは話し始めた。

 

「日本の西の方、三島という土地に、ぼくの友人が死守した古墳……1600年くらい前に建てられた天皇のお墓があってね。前方後円墳といって、こう、鍵穴みたいなかたちをしているんだけど」

 

 指先が、中空に形を描く。丸と四角がくっついたような形。

 

「諸説あるが、この形は子宮を模していると言われている」

「……あ、なんか聞いたことがあるかも知れない。タブラさんだったかな? 色んな作品で、回帰としてのモチーフに使われることが多いって」

「ーーよく覚えていたね、その通りだ。死者は母の胎内へ帰り、ふたたび生まれでる」

 

 そこで、ふ、と息をついて、朱雀さんはこっちを見上げた。お腹の前でそっと指を組む。

 まあ、何が言いたいかっていうとだね、と前置いて。

 

「こういった霊廟に、回帰や復活の願いを込めた偶像を作るのは、昔から行われているきわめて一般的なことで。恥じ入る必要や落ち込むようなことなんて、何もないってことだよ」

「ーーーー」

 

 理解するのに、いくらか時間がかかった。今、俺の口はかぱっと開いたままになっているんだろう。

 しばしの間、言葉を噛みしめて。

 慰めてくれていたのだと、ようやく自覚したとき。すう、と、胸の支えが取れたような気がした。

 

「……朱雀さん」

「さて、ぼくの像はどれだったかな」

「……はい、ええ。あれですね」

 

 あからさまに誤魔化されて、でも、確かにお礼を言うのはなんだか違う気がした。

 5年前、自分が作った歪なゴーレムの一体を指差して、そこに移動する。

 渋茶色のスーツ一式にダークグリーンのチェック柄のベスト、ワインレッドのリボンタイ。綿の手袋はやっぱり白だけど、縁のところに銀の刺繍がついている。

 

「……これ、一応全身鎧だから全部脱がないといけないんだよね。めんどくさいなあ……」

「……朱雀さんの中身ってどうなってるんでしょうね」

「んー、とりあえず、脱……、うわあ、ええ……?」

 

 今着ている装備を脱ぎ捨てた朱雀さんには、頭しか残っていなかった。ふよふよと浮かぶだけの水のかたまり。

 ……なんのモンスターだこれ。

 

「……身体の感覚が全然ない。服着れるのかなこれ……、あ、持てる、けど、これ持ってるの手じゃない。なにこれ気持ち悪い」

 

 ぶつぶつ言いながら装備を身に付けて、元々着ていた服を手に取ると、アイテムボックスに捩じ込んだ。

 

「これもなんか変な感じだなあ。便利だからいいんだけどさ」

「そのうち慣れますかね。それじゃあそろそろ戻りましょう。守護者たちに、会わ、なきゃ……」

 

 はあ、とため息が出る。

 これまで会ったシモベのことを考えれば、多分いきなり襲いかかってくることはしないと思うけど。

 至高の御方々。パンドラズ・アクターはさっきそう言っていた。彼らを創造したものとして、きっと圧倒的にすごい存在だと思われているんだろう。

 もし、俺たちが元々はただの人間だってバレたら。朱雀さんはいくらでもごまかしが利くだろうけど、リアルではただの営業職だった俺に、彼らを騙しきれる気がしない。

 朱雀さんもなにかしら思うところがあるのか、ふむ、と襟の後ろに手を置いた。

 

「台本を考える時間があれば良かったんだけどね。あんまり長い時間待たせてもあれだし」

「言葉なしでコンタクトがとれる方法があれば、なんとか……」

「パンドラに何か合図とか考えてもらう? ポーズとか」

「絶対嫌ですよ、何考えてるんですか」

「冗談だよ、どうしようか。なんか魔法あったっけ」

「あっ」

 

 そういえば、と、ある魔法を使うべく、精神を集中する。ほどなく糸で繋がったような感覚を掴み、その力を行使した。

 

『聞こえますか、朱雀さん』

『え? ああ、聞こえる聞こえる。なんだこれ。<伝言(メッセージ)>か』

『良かった。これで相談しながら守護者と会えますね』

『……肉声と分けて使える気がしない』

「あはは……はあ、行きますか。ちょっと時間過ぎちゃってるや」

 

 やや足早に霊廟から出て、パンドラズ・アクターから指輪を受け取る。

 去り際、パンドラに、「私の力が必要になればいつでもお呼びください」と言われ、顔を合わせる前よりかはいくらか気楽な気持ちで「近いうちに」と返すことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六階層に転移して、守護者たちが既に集まっているのを見つけ、遅れてすまない、と言おうとしたとき。

 ぞくり、と背骨が震える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一斉にこちらを睨み付ける、6対の視線に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




モモンガさんがビビってるだけで次回普通に忠誠の儀です。
またたどり着かなかったけどな!!!
おかしいなあ……装備を取ってくるだけでなんで6千字もかかるのかなあ……だらだらした会話文を書くのが楽しすぎるからなんです。です!


教授のお話でなにか間違ったところがあればそれはすべて私の浅学ゆえのことでございます……。
どうにか頭が良く見えそうな文章を! 考えているんですけど!
ごめんなさい許してくださいなんでもしまむら!!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

昨日はもう死んだ時間、明日はまだ生まれてない時間

前回のあらすじ



モモンガさんビビりすぎ問題。



ようやく忠誠の儀ですよ奥さん。







 叛乱。謀反。クーデター。

 守護者たちの鋭い視線に、それらの言葉がぐるぐると過ぎる。

 駄目だ。一回宝物殿に戻ろう。そう思ってリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンに手を伸ばしかけた瞬間。

 ざっ! と音を立てて6人の守護者たちが一斉に跪いた。

 

「お帰りなさいませ! モモンガ様! 死獣天朱雀様!」

 

 一切の乱れなく揃えられた声。

 あらかじめ練習してあったかのような十全十美の完璧な跪拝。

 言葉はなくとも態度でわかる。

 こちらの疑心を嘲笑うかのような絶対的な忠誠がそこにあった。

 

「いや……、うむ。面を上げよ」

 

 やはり同時に上げられる6つの頭。……みんなで集まって練習してたのかな。俺なら練習する。いっぱいする。

 

「待たせてしまったようだな。遅れてすまない」

「いいえ、モモンガ様! 御身が謝られることなど何ひとつございません!」

 

 即座に返されたアルベドの叫びにも、守護者たちは「その通りです」と言わんばかりにまったく、これっぽっちも異を唱える気配がない。

 あ、駄目だこれ。このままじゃ話が進まないやつだ、と、いえいえそんなこちらこそと営業同士の応酬を経験したこの身は悲しく察する。気持ちを切り替えて先を促すべく、「俺が考えた支配者っぽい声」を絞り出した。

 

「……そうか。うむ、今戻った」

「ごめんね、ぼくが着替えるのに手間取ってたから」

「滅相もございません、死獣天朱雀様! 死獣天朱雀様が心行くまで御召し換えいただければ……」

「ありがとう。でも遅れたのは事実だからね。上が時間を守らないと示しがつかない。モモンガさんもごめんね、付き合わせて」

「ん? ああ、気にするな、友よ」

 

 途中から謝る相手を変えて有無を言わせず話を切ったか。

 なんていうか朱雀さん、口調は割と砕けてるのに知性と上位者のオーラがすごい。そりゃあそうだよな。元々上流階級の人だもんなあ。

 

「……では。略式ではありますが、至高の御方々に忠誠の儀を」

 

 アルベドがそう言うと、守護者たちはその場に跪いたまま、乱れもない居住まいを更に正す。

 

「第一、第二、第三階層守護者、シャルティア・ブラッドフォールン。御前に」

「第五階層守護者、コキュートス。御前ニ」

「第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ。御前に」

「お、同じく第六階層守護者、マーレ・ベロ・フィオーレ。御前に」

「第七階層守護者、デミウルゴス。御前に」

「守護者統括アルベド。御前に」

 

「第四階層守護者ガルガンチュア及び第八階層守護者ヴィクティムを除き、各階層守護者、御前に平伏し奉る。我等の忠義全てを、御方々に捧げることを、誓います」

 

――――誓います。

 

 アルベドの声に合わせて、階層守護者全員の声が唱和する。その声は力強く、金剛石のような忠義と、それを死しても実行せんとする信念に満ち溢れていた。

 大きく手を広げ、高らかに宣言する。

 

「素晴らしいぞ、守護者達よ。お前たちならば私の目的を理解し、失態なくことを運べると今この瞬間強く確信した」

 

 守護者全員の顔をもう一度見渡す。

 一人たりとも微動だにしない。忠義ゆえのことでもあるんだろうけど。

 ……なんだろう。表情が不自然に固い。

 自分の発言になにか問題があったかと不安になったが、彼らの意識が隣にいる人物に注がれているのを感じて、そちらを見る。

 死獣天朱雀さんが、襟の後ろに手を当てて、彼らをじっと注視していた。まるで実験対象を観察するかのような、温度のない目で。

 少なくとも、自分と話していたときや、パンドラズ・アクターと談笑していたときとは違う光が、暗い色の水中に漂っていた。

 

「……なにかあったか、死獣天朱雀さん」

 

 声は、震えてはいなかっただろうか。

 さきほどまで確かに見知った友人だったはずのものが、まるで別のものになってしまった気すらして、じっとその姿を見つめる。

 すると、その目に、ふ、と良く知った光が灯り、いつもの朱雀さんの声で、いや、と呟いた。

 

「……驚いただけだよ。頼もしいとは思ってたけど、ここまでとは思わなかった。うん、ぼくも、君たちに大いに期待しよう」

 

 それを聞いた守護者たちはやはり姿勢を完璧に保ったままだが、はりつめた空気がほんの少し緩んだ気がする。上司に観察されて、緊張してたのかな。そりゃそうだよなあ。

 一応、朱雀さんに理由を聞いてみるか。

 

『……どうかしたんですか?』

『……後でね』

 

 ……やっぱりなにか、あったらしい。

 どうしよう。俺が気づかないだけで謀反の兆候とかを察知したのだろうか。

 仲間の予感は信じたくても、守護者の忠誠はもはや疑うことができない俺に、朱雀さんが次いで言葉を放った。

 

『とりあえず、こちらに絶対の忠誠を尽くしてることは疑いようもない。いまのところは、安心して良いんじゃないかな』

 

 その言葉に、内心ほっと息をつく。そこさえはっきりしたなら、個人的には、どうにでもできると思う。

 

 それから、守護者たちに各階層で異常が無かったかどうか尋ね、ナザリックそのものは――NPCに意思が宿っていることはともかく――何ら変わりないことがわかった。

 その報告を聞いて間も無く、セバスが情報を持って戻ってくる。

 ナザリックの周辺が、草原になっていた、と。

 ダメージやバッドステータスを与える地形ではなく、モンスターも見当たらず、ギルド拠点も周囲にはない。ひとまず、すぐさまナザリックに脅威がなだれ込んでくる状況でないことはわかった。

 各守護者に担当階層の警戒レベルを一段階引き上げるように伝え、アルベドとデミウルゴスにナザリックにおける情報共有システムをより完璧なものにし、第八階層を除いたすべての階層にシモベたちが出入りできるよう手はずを整えろと命令した。「至高の方々の御座すところにシモベの進入を許可して良いのか」と畏れられたが、緊急事態であるゆえに、と許可を出す。もとよりこちらとしては全く問題のないことであったが。

 外壁に土をかぶせて隠蔽するよう、アルベドを宥めながらマーレに指示を出し、まあこんなところか、と一息ついた。

 

『朱雀さんからは、何かありますか?』

『今のところはないよ、大丈夫』

 

 朱雀さんからもお墨付きをもらったので、あとは、そうだな。軽い意識調査でもやっておこうかと、守護者たちを見た。

 

「最後に……、お前たちに聞きたいことがある。まずはシャルティア。お前にとっての私たちとはどのような存在だ?」

 

 シャルティアは美しい顔に恍惚の表情を浮かべて即座に語りだす。

 

「モモンガ様は美の結晶。まさにこの世界で最も美しいお方であります。死獣天朱雀様は例えるならば深海の宝石。いえ、この世の如何なる宝石でも、その美しき蒼には輝きを曇らせるでしょう」

 

『びのけっしょう……?』

『いやあ、評価基準が見た目とは、女の子なんだねえ』

『女の子は骨に美を求めたりしません……』

 

「コキュートス」

「モモンガ様は守護者各員ヨリモ強者デアリ、マサニナザリック地下大墳墓ノ絶対ナル支配者ニ相応シキ方。死獣天朱雀様ハ、数多ノ獣ヲ指揮スル力ニ長ケタ、類稀ナル将デアラセラレルカト」

 

『……なんだか、朱雀さんの評価が低いような』

『そりゃそうでしょ。多分ぼく、コキュートスと闘ったら0対10で負けると思う』

『朱雀さん、凍結被ダメージ8倍ですからね……』

『誉めるべきところは誉める。そうでなければ無理には誉めない。実直な武人って感じがしてぼくはいいとおもうけど』

『……そっか。そうですね』

 

「アウラ」

「モモンガ様は慈悲深く、深い配慮に優れたお方です。死獣天朱雀様は冷静沈着で、とても多くの知識を有された方です」

 

『こういうビジネス用の無難な答えがすらすら出てくるあたり茶釜さんの作った子なんだなあと思います』

『そつがないよね』

『でも、慈悲深いってどういうことだろう』

 

「マーレ」

「モ、モモンガ様はすごく偉大な方だと思います。し、死獣天朱雀様は、とても頭の良い方だと思います」

 

『シンプルだね』

『なんかこういうのが一番胸にくるかも……』

『孫がいたらこんな感じかなあ……』

 

「デミウルゴス」

「モモンガ様は賢明な判断力と、瞬時に実行される行動力も有された方。まさに端倪すべからざる、という言葉が相応しきお方です。死獣天朱雀様は、ナザリックにおける資源・兵站の補充という重大な事業に関わっておられた方であり、また、聡明叡知、洽覧深識、知をあらわす言葉は数多ございますが、御身の深慮を正しく意味する言辞は存在しないものかと」

 

『採集採掘がメインだったのがバレてるのか』

『……たんげいすべからざる、ってどういう意味ですか……?』

『んー、推し量るべきではない、って意味かな。多分モモンガさん物凄く頭が良いと思われてるよ』

『ひい』

『がんばってね!』

『うう……!』

 

「セバス」

「モモンガ様は至高の方々の総括に就任されていた方。そして私達を見放さず最後まで残っていただけた慈悲深きお方です。死獣天朱雀様はその深い知識で至高の方々を支えておられた方。お帰りをお待ちしておりました」

 

『ああ、なるほど。慈悲深いってそういう』

『……やっぱり置いていかれたって思ってるんですかね』

『なのかなあ。ぼくも置いてった側だからなんとも言えないけど』

『戻ってきてくれたじゃないですか。……それに、もどれなかった人にも事情があるって、いつか……説明、できるのかな』

『…………』

 

「最後になったが、アルベド」

「死獣天朱雀様はその知識と地道な収集活動によってナザリック運営の一助を担っておられた、賢者と呼ぶにふさわしきお方。そして私とモモンガ様の仲を取り持って下さった仲人でもあります。モモンガ様は至高の方々の最高責任者であり、私どもの最高の主人でございます」

 

 アルベドはそこで一旦言葉を区切ると、ふわり、と、花が綻ぶように笑った。金色の瞳が、水の膜の向こう側できらきらと揺れている。

 

「そして、私の愛しい、旦那様です」

 

『仲人、ね。やったやった』

『……朱雀さぁん』

『冗談だって。しかし設定を書き換えたことも認識されてるとは』

『……俺、その、童貞なんですけど』

『へーきへーき。アルベドはサキュバスだし』

『全然平気じゃないですよ!!』

 

 少しの間そうしてじゃれ合った後、ふと頭の中に響いてくる声音が真剣なものになった。

 

『……モモンガさん、ぼくからも少し、いいだろうか』

『どうぞ。俺としては、これ以上この場で聞けることは思い付かないんで』

『じゃあ、遠慮なく』

 

 <伝言(メッセージ)>でそう言った朱雀さんは、守護者たちの方へと1歩、足を踏み出した。 

 

「ぼくの方からもいくつか聞きたいことがあるんだけど良いかな。ああ、立ちたかったら立ってもいいよ」

 

 朱雀さんの申し出にも、その場の全員微動だにしない。忠誠心がすごい。

 

『……おじいちゃん見てるだけでお膝が痛いんだけど』

『まあ、大丈夫なんでしょう。みんなLV100だし』

 

「そうだな、まずシャルティア」

「はい!」

「以前、ここに1500人の敵が攻め込んできたことは覚えてるかな」

「……忘れようがありんせん」

「そのときシャルティアは何人倒した?」

「え……っと、細かくは覚えていないのでありんすが……、10人もいかなかったと……」

「そっか。そのあとペロロンチーノさんが君に何か言ってたと思うんだけど、どんな様子だった?」

「……獣のようなお声で咽び泣いてらして、ふ、不甲斐ない私を、よくやったと、何度も褒めてくだ、さっで……! ず、みませ……、すぐ……!」

「うん、よくわかったよ。思い出してくれてありがとう」

「ん、ん゛ん……っ、……失礼、いたしました。こちらこそ、勿体なきお言葉を、ありがとうございます」

 

 あったなあ。ペロロンチーノさん、「んごめんよおジャルディアァアアアアア!!!! よぐがんばっだねえええええ!!!!!」って、おんおん哭いてたっけ。NPCを大事にしてるのはよくわかったけど、シャルティアの足元にぐりぐりすがり付いてるのはちょっと引いた。

 ……と、いうか。覚えてるのか。そのときのこと。

 ペロロンチーノさんの痴態を見ていた割には、シャルティアは頬を赤く染めて、全力で感動しているとばかりに涙まで流している。

 まあ、大事にされてるってことは伝わってるのか、な。

 

「じゃあ次、デミウルゴス」

「はっ」

「君が覚えている一番古い記憶は?」

「……ウルベルト様が私を御覧になりながら、『やっぱり赤よりオレンジかな』と仰られているところ、でしょうか」

「服のこと?」

「はい。ご納得がいくまで色を微調整していただいたと記憶しております」

「そうか。ちなみにデミウルゴスの好きな色は? 理由も合わせて聞きたいな」

「白、ですね。建材として映えるので」

「ふむ、いい趣味だね。覚えておくよ」

「ありがとうございます」

 

 建材? あー、なんか聞いたことある。日曜大工が趣味なんだっけ、デミウルゴス。

 見た目も設定も拘ってたなあ。ウルベルトさん、自分の理想の悪魔にするんだって張り切ってた。懐かしい。

 

「次、アウラ」

「はい!」

「君の年齢は76歳ということだけど、生まれて最初に見たものは覚えてる?」

「はい、ぶくぶく茶釜様が『どっちにしようかなあ、やっぱりキュロットかなあ』とお悩みになっているところです」

「それって何年前?」

「8年と7ヵ月前だったと思います」

「なるほど。ちなみに君自身はキュロットとスラックス、どっちが良いと思う?」

「スラックスです! ぶくぶく茶釜様に選んでいただいたので!」

「うん、ぼくも似合ってると思うよ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 76歳と設定されて産まれたって自覚があるのかな。これから成長していけばいいんだけど。

 ……アウラのズボンが長くなったのは、ペロロンチーノさんがアウラを見て、「絶対領域……」って呟いたからなんだよなあ……。あの後の茶釜さんは怖かった……。

 

「じゃあ、マーレ」

「は、はい!」

「ぶくぶく茶釜さんが君の造形について最も時間をかけたところは?」

「ス、スカートの長さ、だったと思います」

「……そのときの彼女の発言で一番印象に残ったのは?」

「え、えっと、あ、『あと2mm……』と仰ったことです」

「う、うん。そのことについて君はどう思う?」

「ぼ、ぼくみたいなシモベでも、いっぱいこだわっていただけて、す、すっごく嬉しいです!」

「そうか、マーレが嬉しいとぼくも嬉しいよ。ありがとう」

「……ふわ、あ、ありがとうございます!」

 

 あの朱雀さんが引いてる……。

 そう。これに関しては。ペロロンさんと茶釜さんはほんとに姉弟なんだって実感した。遠くから離れて見たり、後ろにまわりこんだり、下から覗き込んだりして、最高にかわいい男の娘を作り上げるのに必死だった。「数字変えるだけじゃすまないんだよお!!」って、グラフィック担当を泣かせてたっけ。

 

「ふむ、コキュートス」

「ハッ」

「武人建御雷さんが君に与えた武器の中で、ナザリックの外から持ち込まれたものはある?」

「ハイ、ゴザイマス。ニヴルヘイムヨリ、黄金ノ橋ヲ守ル巨人ガ落トシタトイウ大鉈ヲ賜リマシタ」

「ほう、それじゃあ、ニヴルヘイムについて君の知ってることをざっくりと」

「土地スベテガ霧ニ包マレタ氷ノ世界デアリ、“フヴェルゲルミル”ト呼バレル泉ニハ、世界樹ノ根ヲ囓ル大蛇ガ住ンデイルト聞イテオリマス」

「正解。良く覚えていたね、コキュートス。武人建御雷さんも誇らしく思っていることだろう」

「オオ、有リ難キオ言葉……!」

 

 うわあー、なつかしー……。そうなんだよ、ニヴルヘイムの黄金橋イベントでいい感じの大鉈が手に入るらしいからって建御雷さんを手伝ったんだけど、ドロップ率がむちゃくちゃ低くて、ひいひい言いながら巨人狩りまくったんだよ。巨人も女巨人だったんだけど恐ろしくかわいくないし。そっかあ、知ってるのかあ、そっかあ。

 

「よし、セバス」

「はっ」

「君の目の前に、ひどく弱っている人間がいるとします。その人間をどうする?」

「助けます」

「ぼくがその人間を殺せって言ったら?」

「……殺します。即座に」

「嫌そうだね」

「滅相もございません。御方のお言葉こそすべてでございます」

「そうか。まあ、そのときが来たら出来るだけ便宜をはかると誓うよ」

「感謝の極み」

 

 ……ああ、たっちさんだ。

 困ってる人を見捨てられなくて、いつもいつも、つい助けに入っちゃうたっちさんだ。

 ……でも、忠誠心が勝っちゃうのかな、セバスは。心置きなく人助けさせてやれればいいけど。

 

「最後にアルベド」

「はい」

「君が、君自身の造形で一番気に入っているところは?」

「すべてです。この髪一本、爪のひとつひとつ、からだから衣服に至るまで誇れぬところなどひとつとしてございません」

「ふむ。もし、タブラさんに何かひとこと伝えられるとしたら?」

「……モモンガ様と私の婚姻を望んで下さってありがとうございます、と」

「もし会えたら伝えておくよ」

「ありがとうございます、死獣天朱雀様」

 

 ……なんだろう、タブラさんが考えた姿を、誇りに思っているのは伝わるんだけど。

 アルベドはなんでずっとこっちを見てるんですか。俺は食べてもおいしくないですよ? 骨しかないからね!!

 

「……うん、うん。みんなありがとう。……マーレ」

「!? はっ、はい!」

「もし、作業中に知的生命……会話が通じる生き物と遭遇したら、殺さずにぼくたちのところまで連れてきてもらえるかな?」

「っは、はい! もちろんです!」

「よろしく頼むよ。じゃあ、モモンガさん」

 

 朱雀さんの視線がこちらを向く。移動しようか、という合図のようだった。

 

『はい。そろそろ行きましょうか。転移先は……レメゲトンの前で良いですか?』

『うん、問題ない』

 

「うむ。各員の考えは十分に理解した。今後とも忠義に励め」

 

 それだけ言い残し、2人で第六階層を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レメゲトンに入るなり力が抜けて、よろよろと壁に手をついた。

 もうやだ。疲れた。疲労のバッドステータスはつかないはずなのに心が疲れ果ててる。もうむり。むーりぃ……

 

「はぁあ……」

「お疲れ、モモンガさん」

「ありがとうございます朱雀さん……、ああ、このやりとり何回やるんだろう」

 

 とりあえずの指示は出したし、少しの間、時間は稼げるだろうけど。この先は一人で彼らと対峙することも増えるかもしれない。

 やだなあ、ボロが出そうだなあ。……ユグドラシル時代のことを覚えてるなら、あんまり思い詰めることもないのかもしれないけど。

 

「俺、支配者できてましたかね……?」

「大丈夫大丈夫。すごく支配者だった。ザ・理想の上司って感じ」

「それなら良かった……、今度は何偉そうにしてるんだって怒られそうで怖いけど……。あ、鎮静化した。ところで朱雀さん」

「うん?」

「何か気になることがあったみたいですけど、大丈夫ですか?」

 

 あのときの朱雀さんは正直、すごく怖かった。古代の水精霊(エルダー・ウォーター・エレメンタル)の意識に引っ張られたのかと思うくらい。……死の支配者(オーバーロード)よりは凶悪じゃないとおもうけど。

 

「ああ、もう平気。そのあとの質問で大体納得したからね」

「そうですか、それなら良かった。……じゃあ、一旦現状をまとめましょうか」

「だね。まず、彼らはぼくらを“至高の方々”と呼んでいて、ナザリックを手に入れNPCを作った者たちを創造主と認識し、絶対の忠誠を誓っている」

「ナザリック自体にも異常はなし。あとでギミックが動くか確認しとかないと。周りは草原で、特に敵影もなく、ナザリックごとどこかに転移してきたもの……、と考えて良いですかね?」

「そうだね。そしてNPCたちは過去のことを覚えていて、設定にしたがってそれぞれの能力や性格、感性などが顕れている、か。設定が少なければ創造主の性格にだいぶ引っ張られるみたいだね」

「ですね。今日のところはセバスしかわからなかったけど、今後彼らにアインズ・ウール・ゴウンの皆の影が見えてくるかもしれない」

 

 色々と大変だけど、それに関してはちょっと楽しみだ。関係性も似てたりするんだろうか。落ち着いたら、パンドラズ・アクターをシャルティアに会わせたりしてみようかな。

 

「うん、中はとりあえず心配ないでしょう。後は、外……、外かあ、どうしましょうか。シモベに頼んで厄介なことになっても困るしなあ……」

 

 できるだけ穏便に、がちゃんと理解できるシモベがどれだけいるのかわからないし、トラブルがあってから発覚しても遅い。メンバーが作った子たちはあんまり遠くに出したくないし、ほんとにどうしよう。

 

「んー……何か安全な索敵方法が……、あっ」

 

 朱雀さんはなにか閃いたように目を光らせて、手をぽん、と打ち合わせた。

 

「あるじゃないか、なんだ。なんで気がつかなかったんだろ」

「えっ? ……あ、そうか。朱雀さん、召喚師(サマナー)でしたね」

「やー、すっかり忘れてたよ。えーっと、第3位階水精霊召喚(サモンウォーター・エレメンタル・3rd)第5位階水精霊召喚(サモンウォーター・エレメンタル・5th)

 

 空中にふたつ、魔方陣が浮かび上がり、そこからそれぞれ幻影の水魚(フレンドシップ・ドリーム)水霊殿の乙女(アクア・メイデン)が現れた。透けて見える骨をぼんやりと光らせながらあぶくを吐く魚と、水でできた羽衣のような着物を纏いぷかぷかと浮かぶ青い肌の少女は、朱雀さんの手がひらめくのに合わせて、追いかけっこをするように宙を泳ぎ、朱雀さんのまわりをくるくるとまわる。そして朱雀さんが片方の手をぐっ、と握りしめると、水霊殿の乙女(アクア・メイデン)幻影の水魚(フレンドシップ・ドリーム)をぱくりと食べてしまった。数秒の後、音もなく3つの魔方陣が浮かび上がり、3匹の幻影の水魚(フレンドシップ・ドリーム)が姿を現す。

 

「無詠唱化も三重召喚も問題なし。再召喚の時間もそのまま。なるほどね」

 

 何度か頷きながら、朱雀さんが水精霊達を俺の前に移動させたので、まとめて火球(ファイアーボール)でそれらを焼き払った。

 

 朱雀さんは、手袋型の杖、覆水不返の効果により、リキャスト時間を半分にする代わり、召喚獣の<帰還(リターン)>と<回復(リカバリー)>ができなくなっている。

 フレンドリーファイアが出来なかったユグドラシルでは、時間経過や敵による撃破を待つしかなかったが、今となっては大したデメリットになっていない。 

 

「でもこうなると便利だな、フラ、フリ……フレイムフレンド、違うな」

「フレンドリーファイア」

「そう、それ」

「朱雀さん、人名は覚えられるのに……」

「なんでだろうねえ、不思議だねえ……」

 

 心底ふしぎそうに言う朱雀さんだったが、口元に拳を当て、こぽ、と咳払いをするように泡音をひとつ立てて、こちらを向き直った。

 

「……咳もできないのかこの体。……それはそうとしてモモンガさん、ひとつ確認したいことがあるんだけど」

「はい?」

「帰らないね?」

 

 一瞬、何を言われているのかわからなかったが、続く朱雀さんの言葉がその意味を示す。

 

「ぼくはもう向こうに帰るつもりはない。残してきたものは何もないし、身体はどこも痛くない。力も思考も前以上で、まあ不便や不慣れもあるけれど、メリットを考えたら微々たるものだ。モモンガさんが帰らないと言うなら、もうぼくは帰還の方法については一切考えないけど、それでいいかな?」

「……考えて、どうにかするつもりだったんですか」

「どうにかなるものさ、こういうものは。で、どうする?」

「……俺は、俺も、帰りません。帰りたくない。友達も、恋人も、家族もいないし、仕事も別に好きじゃない。帰る理由は、ないです」

 

 何よりもう、ユグドラシルは終わってしまった。

 元々俺にとって帰る場所は、何もなかった現実じゃなく、ゲームの中だった。たとえ誰もログインして来なくても、あそこが俺の家だった。

 そして、いまは、ここが。

 

「よし。じゃあぼく、外に出てくるよ。……屋根に登ったら怒られるかなあ」

「朱雀さんなら大丈夫ですよ! 多分」

「たぶん?」

「あはは。それじゃあ、お願いします。俺もちょっと調べものしたらすぐ行くんで」

「はーい」

 

 遠足にでも行くような軽い調子で、朱雀さんは索敵をするべく転移していった。

 

 さて、そうか。ナザリックのギミックを確認しとかないといけない。

 アルベドに<伝言(メッセージ)>を送ろうとしたとき、部屋の入り口に、ひとつの影が現れた。

 

「失礼いたします、モモンガ様。御側に侍るため、馳せ参じました」

「ああ、セバスか。うむ、ご苦労」

「ところで、死獣天朱雀様は何処に……?」

「ああ、彼なら外、に……」

 

 外、という単語を聞いた瞬間、表情こそ変わらないものの、セバスの気配が異様な空気を纏う。

 それは完全に、怒らせたときのたっちさんそのもので、俺が思わず1歩下がると、さきほどよりもずっと低い声が、唸るように響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「お一人で、でございますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 





他の方の二次創作を見ても思ったのですが、ノーリスクで広範囲索敵ができるキャラクターがいたらオーバーロードの異世界ってほんとにイージーモードになってしまう。

書き溜めがなくなってしまったので次回は少し遅れるかもしれません。



本日の捏造とか


・偉大な人です
双子のお水イベントをすっとばしてしまったので、モモンガさんが優しいかどうかはマーレにはまだわかりません。

・シャルティアの撃破人数
ガチ装備をしたガチビルドのNPCなんで100LVのプレイヤーが相手でもちょっとは健闘できる……のかな? 正直侵攻してきたプレイヤーの腕がどんなものかわからないのでなんとも言えませんが。なんとなく7階層までで乙ったプレイヤーの殆どが罠で逝ったイメージがある。

・アウラの作成年月日
くがね先生詳細な年表くださいな。

・ニヴルヘイムについて
完全捏造。うぃき先生におたずねしました……。
ユグドラシルはデータクリスタルで武器を作りますがこんなイベントアイテムがあってもいいよね

・水精霊
適当に作りました。ここしかでてこないのでどうぞ忘れて。



あとは本当にいろんなことを間違いすぎ問題。教えてくださった方々は本当にありがとうございます。
知識不足と確認不足がもろバレではずかしい。
またなにかありましたらば気軽にお願いいたします……。

誤字修正に関しても本当にありがとうございます。
個々にお礼をする時間まではちょっと持てないのですが大変に助かっています。大変毎度毎度多いですが温かく見守ってくだされば幸いです……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

喪なくしていためば憂い必ずむかう・前編





前回のあらすじ




セバス「おひとりでですか^^」
モモンガ「」







はなしが どんどん ながくなる







 

 

 ナザリック地下大墳墓、第一階層地表部の屋根の上。何度か足踏みをして、滑落しないことを確認する。少々傾斜があったところで滑って転ぶような柔な身体ではなくなってしまったが、万が一ということもあるし、こちらに来ての初ダメージが屋根からの転落というのはあまりにも情けない。

 十分に安定性を確認したのち、ふと、空を見上げた。

 

 ……天の光はすべて星。そんな題名のSF小説があったな。

 

 満天の星空。一切の曇りない大気が星から届く光をやさしく溢す。スモッグで覆われて、天文学が初等教育から姿を消して久しいかつての現実では考えられない光景だった。

 ブルー・プラネットさんが居たならば、涙を流して喜んだことだろう。以前、アインズ・ウール・ゴウンで失われたものを共に嘆いたひとりの男を思い出し、こぷ、と笑みの吐息のかわりに泡がうかんだ。

 

 さて。

 あまりのんびりしてもいられない、と、意識を切り替える。

 周囲の索敵は可能な限り早急に済ませてしまわねばならない。

 あの心配性なギルド長のためにも。

 ――自分のためにも。

 

「<召喚三重最小化(トリプレットミニマイズサモン)八咫烏(ヤタガラス)>」

 

 3つの魔方陣からそれぞれ3羽ずつ、合計9羽の烏が姿を現す。3本の脚を持つそれらは紫黒の翼を星明りに輝かせながら周囲をひとまわり滑空したあと、ばさばさと腕や肩、足元に降り立った。

 ユグドラシルで何故か行われた日本神話イベントにて獲得した、イベント限定召喚獣。元々は全長140cmほどの大きな鳥だが、索敵するなら小さいほうが良いだろう。大きさは元来の5分の1ほど、手にとまっても違和感のないサイズに収まっている。

 それに応じてレベルも下がっているようだ。おおよそゴブリンと互角程度。探索というなら十分だろう。各種状態異常への耐性が残ったままであることも確認済み。もしレベルが足りないようならもう少し強いものを召喚し直せば良い。

 

 

「<感知接続(コネクト・センス)>」

 

 ぱち、ぱち、ぱち、と頭のどこかで線が繋がる感覚と共に、脳裏に浮かぶ景色が何重にもかさなる。よく磨かれた革靴、幾年の風雨を凌いだであろう石造りの屋根、星の散らばる空、浮かぶ水球のなかに灯るふたつの光、真っ赤な瞳の烏。

 それらの光景はカードを捲るように自在にシャッフルできる。情報過多による頭痛などもなし。

 感知接続を通して見たものは肉眼扱いになるので魔法による罠に引っ掛からないのが良いところだ。

 右手の先に止まっていた1羽を飛び立たせ、ナザリックの外周をぐるりと上下に波を描くように移動、再び着地。それぞれの聴覚が羽音を拾った手ごたえがあり、酔いなどの感覚もない。

 一応は成功といったところか。あとは準備のための魔法をいくつかかけるだけ。

 

「<永続召喚化(コンティニュアルサモン)>、<臆病者の義眼(クレイヴン・マーブルズ)>、<心臓への鎖(チェイン・トゥ・ハート)>、……魔力あぶないな。えーっと、<魔力変換(コンヴェーション・マナ)>」

 

 体力を魔力へと変換して、アイテムボックスから取り出したポーションを飲む。腕や肩にとまった烏たちが何も言わなくてもどいてくれるのはありがたいが、頭の中にポーションがじわじわ広がって染み込む感覚がするのが気色悪い。果たしてこれは慣れるのか。

 一応まだかなりの量の魔力が残っていたのだが、何故かはわからないが魔力が減っていくことにかなりの抵抗感がある。……もしかして自分が精霊種だからなのだろうか。ゲームにはそんな仕様はなかったはずだけれど、可能性はゼロではない。

 魔力切れになったら死ぬ、か? 恐ろしいことだ。

 

 さて、あとは、と指折り数える。時間制限をなくして、ある程度対象の情報がわかるようにして、洗脳対策をして、ああ、そうか。肝心なのを忘れてた。

 

「<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>」

 

 魔法による監視を受けた際に攻性防壁と情報取得が同時にできる優れもの。また魔力がごっそり減ったけど。とりあえずはこんなところか。

 

「<記録(レコード)>、……よし」

 

 現在の状態を記録。これで何羽か死んだとしても、<補充(リストレイション)>を使えば補助魔法が全部かかった状態のものを召喚できる。

 1羽だけを肩に残し、のこりの8羽を放射状に飛び立たせた。ユグドラシルのときは自動操縦しかなかったが、手動、自動、思考による命令を与えたまま放置、と、なかなか融通が利くらしい。ゲームの容量的な問題でできなかったことはひととおりできるようになっていると見ていいだろう。何にしたって限界はあるだろうが、今はそのことは保留でいい。

 自分の中に満たされていく外界の情報を感じて、ひとまずはこぽりと一息つく。

 しかし、まあ。

 

「困ったねえ」

 

 優しいやさしい我等がギルド長は、彼らの答えを聞いて尚、『脅威とはナザリックの外からくるもの』であり、『NPCたちはかつてのメンバーの志を受け継いだ存在』程度にしか思っていないらしい。

 無論それは彼の欠点ではなく美点であって、少なくとも現段階でぼくが持ちえていないものであることには変わりない。多角的な視点は非常に重要だ。重要なのだ、が。

 

「けっこう怖いことも言ってたと思うんだけどね」

 

 とりあえず今は、周囲の探索に集中しよう。

 と、思考を置き去りにして接続に意識を向けようとしたとき。

 

「ん?」

 

 おろおろ、うろうろと、地表部分をぱたぱた走る影がひとつ。

 

「マーレ?」

 

 たいして大きな声ではなかったろうに、ぴゃっ! と小さな身体を跳ねさせて、少年はおそるおそる、こちらを見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は、少し遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早く、はやく、もっと早く。

 もっと速く走らなきゃ。

 至高の御方に文句をつけようなんてこれっぽっちも思わないけれど、いまだけ、今このときだけは、はやく上まで駆け上がれる体がほしい。

 いそいで急いで、第一階層まで走り抜ける最中、頭に浮かぶのは偉大なる御方々のお言葉。それを受け、とある確信を持ってアルベドさんがぼくに告げた命令。

 そして、御方々がぼくらの階層にいらっしゃる前と、去っていかれた後に、皆で交わした言葉だった。

 

 

 

 

 

 それぞれ階層の確認をしてから、アンフィテアトルムに集まるように。

 アルベドさんからぼくたちにそう命令が届いた。

 珍しいことではあったけど、守護者統括の命令を断る理由なんてない。特に異常がないことを確認し、ぼくたちはアンフィテアトルムで待っていた。

 やがてシャルティアさん、コキュートスさん、アルベドさんとデミウルゴスさんが、それぞれ第六階層に来た。ぼくはお姉ちゃんと顔を見合わせる。みんながみんな、やけに神妙な顔をしていたからだ。

 おかしいなあ、とそのときは思った。だって今日はすごく幸せな日だったのだ。

 近頃おいでにならなかった至高の御方の気配がいくつもして、モモンガ様と死獣天朱雀様なんて、ぼくらのところにお顔を見せにいらっしゃった。色々と楽しそうにお喋りをしておられて、ぼくはそれだけですごくすごく幸せな気持ちになったのを覚えている。

 

 やがてアルベドさんが口を開いた。

 なんとぼくたち守護者をここ、アンフィテアトルムに集めるよう仰せになられたのは、モモンガ様なのだという。

 それを聞いて、まず湧き上がってきたのは喜びだった。ぶくぶく茶釜様がやまいこ様や餡ころもっちもち様と開催されるお茶会に同席させてもらうのも勿論大好きだったけど、シモベの一番の喜びは至高の御方のお役に立つことだからだ。

 お姉ちゃんとシャルティアさん、コキュートスさんも同じことを思ったのだろう、心から嬉しい、っていうため息を揃ってこぼした。でも、アルベドさんとデミウルゴスさんはそうじゃないみたいだった。このふたりに限って至高の御方のお役に立つことが嫌、なんてことはないだろうから、何か心配事でもあるのかな、と思ったとき、すごく真剣な声でデミウルゴスさんが言った。

 

「やはり、というわけですか。アルベド」

「……ええ」

 

 なにがやはり、なのかぼくにはわからない。答えを求めるようにデミウルゴスさんを見れば、先にアルベドさんが背筋をのばして言葉を発した。

 

「ひとまず、皆に伝えておかなければならないことがあるわ。玉座の間で、モモンガ様と死獣天朱雀様がお話になっていたことを」

 

 アルベドさんがそのときの状況をぼくらに伝える。

 モモンガ様が玉座に座り、そのすぐ隣で死獣天朱雀様がお話になっていたのだそうだ。

 けれど突然、死獣天朱雀様がわざわざ階段をお降りになられて、モモンガ様とお言葉を交わされたのだという。

 

 いわく、末期をここで迎えることができて嬉しい、と。

 その最期があなたにとって安らかなものであることを願う、と。

 そして、来世で会おう、と。 

 

 絶句。その場にいた全員が、それだけしかできなかった。息を飲むことすら忘れて立ち尽くし、絶望に身をまかせることしかできなかった。

 

――――至高の御方が、お隠れになる。

 

 死亡を表す最上級の敬語が、このナザリックにおいて正しく使われるのは初めてだった。お隠れになる、は文字どおり御姿を現さなくなってしまわれた御方々に使われる言葉であって、死すら魔法で塗り替えることが当たり前のぼくたちにとっては、そしてすべてを超越する至高の御方々が永遠の死を迎えることなんて尚更信じられるはずもなく、胸の中に疑問が巻き起こる。

 何故。どうして死獣天朱雀様がそのような。原因は。もしや他の至高の御方々も……!

 疑念と焦燥の渦の中に、アルベドさんの声が次いで投げかけられた。

 

「当然、死獣天朱雀様をお止めした私に、モモンガ様はこう仰せられた。“ナザリックにおいて死とは救いである。たとえ誰であろうと、例外は許されない”」

 

 ひ、と呼吸をひきつらせたのは誰だったのか。きっと誰であってもおかしくはなかっただろう。

 例外は許されない。それがたとえ至高の御方であろうとも。

 至高の御方のまとめ役、ましてや死の支配者(オーバーロード)であるモモンガ様が仰るのだから、それはもはや天地が入れ替わろうとも、変えられない事実なのだ。 

 だけど、これまで痛ましげに顔を伏せていたアルベドさんが、きっ、とぼくたちの方を向いて、つよい声で言った。

 

「けれど、こうも仰られたわ。“だが今このとき、私は友にそれを許すわけにはいかなくなった”と。そうして我々守護者にナザリック内の調査を、セバス達に外の探索を命じられたの」

 

 おお、という小さな感嘆と共に、ぼくらの中にわずかな希望が生まれる。少なくとも今はまだ、死獣天朱雀様がお隠れになることはない。

 そんな中、ふと、デミウルゴスさんが訝しげな様子でアルベドさんに尋ねた。

 

「……その会話の前に、お二方は何かおっしゃってはいなかったかね、アルベド」

「ええ、私とモモンガ様の婚姻を認めていただいた後、しばらくお話されていたわ。……りあるでのご友、人? がご病気で亡くなられたということは聞こえたのだけど、ごめんなさい、玉座に遮られてよく聞こえなくて」

 

 アルベドさんは、きゅ、と柔らかく握ったこぶしを口元に当てて、一生懸命お二人のお言葉を思い出しているようだった。

 

「……そうね、なにか……、くれないか、と言っておられたわ。死獣天朱雀様が、モモンガ様に」

 

 それを聞いて、みんなそれぞれ頭を悩ませる。

 ぼくらは至高の御方に比べればどうしようもなくちっぽけな存在だ。至高の御方が、同じ至高の御方に何を欲しておられるのか、ぼくには想像もつかない。

 ナザリックのシモベでは最も頭が良いという風に作られているデミウルゴスさんも、今は材料が足りない、と一旦思考を打ち切ったようにみえた。

 

「セバスもその場にいたと言っていたね、後で聞いてみよう。他に変わったことは?」

「そう、ね。……そうだわ。モモンガ様が私にお声をかける直前、死獣天朱雀様は何かを確かめるように、ご自身の頭に手を差し込まれて……」

「ふむ……」

 

 やっぱりなにがなんだかわからない。死獣天朱雀様は水精霊だから、それでダメージを負うようなことはないと思うけれど。一体なにをお確かめになったのだろう。

 みんなの中にもやもやとした疑念が残る中、次に口を開いたのはシャルティアさんだった。

 

「……ところでアルベド? さっきぬしの口から聞き捨てならない一言が出たと思いんすが?」

「あら、何かしら」

「お主と! モモンガ様が! 婚姻を交わしたという話でありんす!」

「事実よ、シャルティア。死獣天朱雀様直々にお認めいただいたの。このアルベドは、モモンガ様の、伴侶である! と!」

「!!!」

 

 ほう、とか、ええー!? とか、ナント! とか。ひとりひとり違う反応だったけど、多かれ少なかれ驚きの感情であることに変わりない。ぼくもびっくりした。はんりょ、ってことは、お嫁さん、ってことだよね。

 ……いいなあ、お嫁さん。お嫁さんかあ、モモンガ様の、お嫁さん……。

 想像するだけでポカポカと幸せな気分になる。みんなでいっしょにお嫁さんになったらいいんじゃないのかな。と、言える勇気はぼくにはなかったし、シャルティアさんもそれどころじゃないみたいだった。

 

「そ、そんな、そんなこと!」

「もしかしてあなた、至高の御方の決定に異を唱えるつもり?」

「そうではありんせん! そうではありんせんが……!」

「が? 何かしらねえ、負け犬が何を言っても遠吠えにしか聞こえないけれど」

「ぐぬぬぬぬ……!」

 

 そろそろ止めた方がいいかなあ。そんな目でデミウルゴスさんをちらりと見れば、彼は肩をすくめて、ここに来てから初めて少し笑った。

 お姉ちゃんとコキュートスさんにも同じように目で助けを求めると、お姉ちゃんがす、と息を吸い、コキュートスさんが槍を持ち上げた、そのとき。

 

 ぼくも含め、その場の視線が一点に集まる。

 モモンガ様と死獣天朱雀様が、おいでになられたからだ。

 至高の御方々の前で立ち話などしていいはずがない。即座に跪いて、お帰りなさいませ、と、心から、声を揃えてそう言った。

 

 

 

 

 

 ……至高の御方々が去っていかれた後、ぼくらはしばらく動けずにいた。モモンガ様の圧倒的なオーラに。そして。

 

――――マーレが嬉しいと、ぼくも嬉しい。

 

 至高の御方が、死獣天朱雀様が、ぼくに、ぼくが、嬉しいって。

 ようやくふらふらと立ち上がって、弛みそうになる口許をきゅっ、としめた。熱い頬をおさえていると、お姉ちゃんが顔を覗きこんでくる。

 

「マーレ? あんた、大丈夫?」

「ふえっ!?」

 

 だ、大丈夫! とわたわた手を振ってごまかした。不敬、ではないかも知れないけど、なんとなく後ろめたい。というか、恥ずかしい。

 むう、と、お姉ちゃんはまだ疑わしげな顔をしていたけれど、セバスさんが「では私、先に戻ります」と、ぼくらに声を掛けてきたので、一緒に振り向いた。

 

「御方々がどこにおられるかはわかりませんが、お側に仕えるべきでしょうし」

「待ってくれないか、セバス」

「……なんでしょう、デミウルゴス様」

 

 デミウルゴスさんがセバスさんを引き止めた。あたりの空気が少しぴりっとする。なんというか、触っちゃいけないもの同士が触れ合ってしまったような、そんな雰囲気。

 

「玉座の間で、モモンガ様と死獣天朱雀様は何か話しておられたと聞いた。その内容を教えて欲しいんだが」

「……申し訳ありませんが」

 

 いつもと変わりなく、淡々と、セバスさんは説明した。

 

「私は家令(ハウス・スチュワード)でありますが故に。如何に守護者の方でありましても、おいそれと主人の会話を漏らすわけには参りません」

「ああ、そうだろうとも。しかし我々シモベは御方々の要求に答えるためならあらゆる努力を払うべきだ。……ひとつで良い、教えてほしい。死獣天朱雀様がモモンガ様にお求めになったのは何か、ということを」

 

 聞いたこともないような切実な声だった。元々デミウルゴスさんは真面目なひとで、至高の御方に対する忠誠心は人一倍強いものだったけれど。

 そのときの声が、なんでそんなに切羽詰まっていたのか、ぼくは少し後で知ることになる。

 

「頼む」

 

 デミウルゴスさんはそう言って、セバスさんに頭を下げた。丁寧で、真っ直ぐな一礼だった。

 ぼくはびっくりした。お姉ちゃんもびっくりした顔をしてる。でも、その場で一番驚いた顔をしているのはセバスさんだった。

 セバスさんは、目線をすこし地面に向けた後、一瞬目を閉じて、ふたたびデミウルゴスさんの目を見た。

 

「……連絡が、ほしい。そうおっしゃっておられました」

「連絡?」

「はい。……では、守護者のみなさま、これで」

 

 セバスさんが礼と共にその場を離れたあと、ちょっとの間静寂が訪れる。デミウルゴスさんはまたなにか考え込んでいるようだった。

 するとおもむろに、それまでうずくまっていたシャルティアさんがすくっ、と立ち上がり、アルベドさんに凛とした口調で言い放った。

 

「アルベド、命令をくんなまし」

「ええ!?」

 

 思わず声を上げたのは、アルベドさんじゃなくてお姉ちゃんだったけど、アルベドさんもまた、その金色の眼を見開いていた。さっきまであんなに喧嘩してたのに。いや、守護者としては正しいんだけど、でも。

 

「あんたどうしたの……?」

「なにが、でありんすかチビすけ」

「いや、だって」

 

 思わず聞いてしまったお姉ちゃんに、シャルティアさんは、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「わらわにだって打算というものはありんす。正妻の座を掠め取られた以上、のんきにしているわけにはいきんせん。御方の前で無様をさらしたままで終わろうなどとは、ねえ?」

 

 死獣天朱雀様のご質問で泣いてしまったことを恥じてるんだろうか。無理も、ないと思う。ぼくだってあの侵攻の日、ぶくぶく茶釜様にいっぱいいっぱい褒めていただいたことを思い出したら、それだけで泣きたくなるのだから。

 

「……それとも」

 

 シャルティアさんは小首を傾げて、その真っ赤な瞳でアルベドさんを見上げた。

 

「わたしに正妻の座を奪われるのは恐ろしいかや? アルベド」

「……魚類に負けるつもりはさらさらないけれど、受けて立つわ。……その前に、デミウルゴス」

「……はい」

 

 あくまでも私の推測ですが、と前置いて、デミウルゴスさんは語りだした。

 

「原因不明のこの状況は、死獣天朱雀様が、なんらかの脅威に対処した結果なのだと、私は思っています。――死獣天朱雀様ご自身の、お命を使って」

 

 ざわめき、混乱。

 当然のように巻き起こった困惑の嵐のなか、シャルティアさんがたまらず叫びをあげた。

 

「そんな! 至高の御方がお命を投げ出すような脅威など!」

「ない、とは言い切れません。りあるという場所で、至高の御方々は常になにかと戦っておられる様子でした。死獣天朱雀様のご友人……、恐らくは同じ精霊種でしょう。状態異常に強いはずの精霊種をも死に至らしめるような病が存在するということも、すでに判明しています」

「そ、それじゃあ……」

「ですが、他の至高の方々がお亡くなりになったと考えるのも早計と言えます。あるいは今も戦っておられるのやもしれません。……我々の力が及ばないような、強大な存在と」

 

 僅かな安堵と、強い罪悪感が胸にせまる。至高の御方々が戦っておられるかもしれないのに、何もできないなんて。

 まとわりつく泥のような感情を振り払うかのように、デミウルゴスさんが顔を上げた。

 

「ともあれ、お二方がこのナザリックを守るために、なんらかの術を行使なさったことは間違いない」

 

 ナザリックをまもるため。その言葉に、つう、と冷や汗が背中をつたう。

 至高の御方を差し置いて、ぼくらだけが生き残る。

 おそろしいことだ。きっと、この世のどんなおそろしいものよりも、ずっと、ずっと。

 

「朝から各階層を見回っておられたのは、術の範囲を確かめるため。玉座の間で交わされたお言葉と、後にモモンガ様からアルベドへと告げられた文言を考えれば、死獣天朱雀様がそのお命を使って何かしらの術を発動させようとなさったことは明白だ」

 

 御身を犠牲になさるという死獣天朱雀様の壮絶な覚悟を。盟友を見送らなければならなかったモモンガ様の苦悩を。そして、そうまでしてナザリックをお守りいただいたお二方の、深い、ふかいお慈悲を。

 身が震えるほどに感じても、納得できないことがひとつあった。

 

「な、なんで、死獣天朱雀様が……、ぼ、ぼく、ぼくなら……」

 

 至高の御方自らのお命でなくとも、ぼくたちを使ってくれたら良かったのに。そう思って呟いた言葉に、答えてくれたのはお姉ちゃんだった。

 

「精霊は強い魔力を持った種族。しかも至高の御方なら、あたしたちが束になっても、それに足る贄になれるとは言い切れない」

「ソシテ、死獣天朱雀様ハ、至高ノ御方々ノ中デハ最モオ歳ヲ召シタ方ダト聞イタコトガアル。若キ者ヨリハ自ラガ、ト、オ考エニナラレタノヤモ知レン」

 

 コキュートスさんの言ったことは、ぼくにはよくわからなかった。だって、どのお方のお命であっても、至高の御方のそれはみな平等に尊いものだ。お歳なんて、関係ないとおもうのだけど。

 ……ぼくが、もっと大人になったら、わかるんだろうか。

 

「だが結果的に、死獣天朱雀様は今もご存命だ。精霊種の高い魔力と防御力、そして攻性防壁の扱いに長けていらっしゃる死獣天朱雀様だからこそ耐え抜くことができた、ということだろうね。頭に手を差し込まれた……、随分と混乱しておいでの様子でもあったようだから、至高の御方にとっても予想外のことだったのだろう。今ナザリックが草原に転移していることとも何か関係しているものと思う」

 

 防壁の魔法が、転移の魔法にすりかわってしまった、ということだろうか。聞いたこともない現象だけれど、なんにせよ今、ナザリックは無事で、死獣天朱雀様は生きておられる。その結果を手繰り寄せたのなら、やっぱりこれは至高の御方の御技であることに間違いない。

 ほっ、と少し弛んだ空気を切り裂くように、アルベドさんが鋭利な声で現実を突きつけた。

 

「けれど現状は、我々にとって決して良いとは言えないわ」

「そう、アルベドの言う通り、今我々は御方々の信用を失っている」

 

 ひゅ、と息が詰まる。さっきまで、至高の御方が敵わないもの、という強大で漠然とした畏れだったものが、より身近な恐怖へとすりかわる。

 至高の御方の信用を失うということ。役に立てないということ。存在意義を、失うということに。

 

「モモンガ様と死獣天朱雀様は我々を試しておられた。我々の忠誠が御方々に足るものであるか、そして我々の記憶が確かなものなのか」

 

 ぼくは浮かれていた。嬉しいとしか思えなかった。

 ぶくぶく茶釜様のお名前が出るだけで、死獣天朱雀様に嬉しいと言っていただけるだけで、幸せの他になにも考えられなくなっていた。

 でもそれだけじゃあ、いけなかったんだ。

 

「玉座の間にいらしたときと、ここに来られたときで、死獣天朱雀様の装備はより強いものへと変わっていたわ。我々に姿を見せるにあたって気を使っていただいたと考えることもできるけど……、単純に、万全を期すため、と考えたほうが良いでしょうね」

 

 万全を期す。それは、第六階層まで敵が侵入してきているかも知れないと、想定していらしたということ。あるいはぼくたち守護者が裏切るかも知れないと思っていらっしゃったということ。

 そんなことは絶対にない。あるはずがない、けれど。

 至高の御方に疑われるのは辛い。でも、絶対の忠誠を誓っているはずのシモベを、疑うほうがもっともっと辛いと思う。

 

「なによりも我々は、この異変に対して、誰ひとり気がつくことができなかった」

 

 そう、シモベの中の誰ひとり。誰ひとりとして、ナザリックが転移しているという事実に気がつかなかった。信用できない、と思われても仕方がない。

 

「我々は覆さなければならない。言葉ではなく、働きによって」

 

 守護者統括アルベドが厳かに宣言する。

 ぼくらは守護者だ。たとえ力が及ばずとも、このナザリック地下大墳墓を、御方々をまもりまもらなければならない。守護(まも)らせてもらわなければならない。

 

「失った信用を取り戻すことは、ゼロからそれを積み上げることの億倍は難しいと知れ。御方々のご命令を十全にこなすことは最低条件。御方々が欲するものを事前に察し、お渡しすることこそ我等シモベの使命であると心せよ」

 

 金色の瞳が守護者を見渡す。

 ここに、その覚悟がない者など、ひとりとしていなかった。

 

「……では、マーレ」

「は、はい!」

「あなたは今すぐ地上へ出て、ナザリックの隠蔽工作を開始しなさい。終わったら迅速に私へ連絡すること。……広範囲魔法が使える以上、あなたの仕事は多岐に渡ります。心するように」

「わ、わかりました!」

「よろしい。お願いね、マーレ。……では次、シャルティア」

 

 アルベドさんが次の命令を唱える前に、地上へと駆け出した。

 早く、はやく、行かなければならない。

 至高の御方のために。はやく、はやく!

 

 

 

 

 

 

 その先でぼくを待っていたのは、ある種の絶望だった。

 

 

 

 肩で息をする。第六階層からここ、地表部分まで休み無く走ってきたけれど、その程度で息を切らすような弱い身体には作っていただいていない。

 にもかかわらず、息が勝手に上がる理由はひとつ。

 

 至高の御方の、気配がする。しかも、たったひとつだけ。

 

 急いで、だけどそっと、音を立てないように。

 屋根の外へと足を踏み出せば、黒い鳥が何匹か、一斉に羽ばたいていくのが見えた。

 アンデッド、ではない。ということは、上にいらっしゃるのは、死獣天朱雀様だということ。

 そう、屋根の上に、たったおひとりで。あたりの様子を探るために? シモベに命令するわけでもなく?

 

――我々は御方々の信用を失っている。

 

 ぞっとした。ぼくは、いや、ぼくたちは見誤っていたのだ。あのデミウルゴスさんでさえ。

 失っているどころの話ではない。

 僕たちの信用は、地に落ちている。

 

「困ったねえ」

 

 びくん、と身体が勝手にふるえる。こちらに気付いていらっしゃる様子ではない。独り言、のようだった。

 困っている。死獣天朱雀様が困っている。一体何が死獣天朱雀様を困らせているのだろう。早く殺しに行かなきゃ。でも一体何が。

 考えはぐるぐるまわる。結局着地しないうちに、死獣天朱雀様がもう一言呟いた。

 

「けっこう怖いことも言ってたと思うんだけどね」

 

 怖い。至高の御方をして、怖いこと。

 なんなのだろう。もしかしてモモンガ様が何か仰ったんだろうか。それなら良い。「モモンガさんも怒ったらちゃんと怖い」と、ぶくぶく茶釜様が言っておられたのを覚えている。

 でも至高の御方同士で争いなんて、そんな、そんな。

 

「ん?」

 

 ぼくの命ひとつで止められたらいいけれど、そんな都合の良いことなんてあるはずない。

 どうか違うものであってほしいけど、でも、それはナザリックの外の敵を望んでいることになる。

 やっぱりぐるぐるとまわる思考。うろうろと落ち着きなくあたりを歩いていると。

 

「マーレ?」

 

 明らかにこちらへと向けられたお声に、大きく身体が跳ねた。

 おそるおそるそちらを見上げて――、ぼくは、心底驚くことになる。

 

 そのお姿はあまりに美しかった。

 死獣天朱雀様の頭の中に、星の光がきらきらと透き通って、反射して。

 こぽこぽとあぶくが浮かんで消えるたびに、数多のひかりが揺らめいて。

 両手で抱えられるくらいの水のかたまり。

 その中に、まるでひとつの星空を詰め込んだような神秘的な光景が瞬いていた。

 

「どうしたのかな、マーレ。こんな遅くに」

 

 こんな遅くに。責めておられるのだ、と一瞬思った。

 こんなに時間が経っているのに貴様らは何をやっているのだ、と。

 けれどそのお声があんまり優しいものだったから、怒ってはおられないように、ぼくには聞こえた。

 もしかして、心配、してくださっているのだろうか。気を遣わなければならないのは、こちらだというのに。

 

「あ、あの! おひとり、ですか……?」

 

 供を連れずに。なんて本当は、シモベに言う権利などない。

 だってぼくらは知っている。

 かつて41人の御方々が何人か、あるいは、あろうことかお一人でナザリックの外で狩りを行っていらっしゃったのだ。

 近頃はほとんどの御方がお隠れになられて、モモンガ様お一人でナザリックの運営資金を稼いでおられた。

 そのとき、ぼくたちは、かの偉大なる庇護の元にぬくぬくと安寧を貪っていたのだ。

 信用。信用、なんて、はじめからあったんだろうか。

 

「ん? ちょっと待ってね。……モモンガさん? 今? マーレといるけど」

 

 ちょっと待って、とぼくの発言をお止めになったてのひらが、屋根の上にくるようにと手招きをする。

 至高の御方のお傍に、なんて、緊張してる場合じゃない。命令はすばやく実行しなければ。

 いそいで屋根の上によじ登れば、<伝言(メッセージ)>でモモンガ様とお話しているのだろう、死獣天朱雀様はすごく朗らかに笑っている。

 

「んー? ほら、だってさっき。……で、どうしたの? ……あー、ええ……? 一応敷地内だよねここ。……中でも? これから? ずっと? そっかー……、うーん、うん? あはは、それは怖いなあ」

 

 怖い、というお言葉を、あまりにも軽く声に出されている。もしかしたら、死獣天朱雀様の口癖なのかもしれない。

 そうだったらいいな。きっとあんまり怖くなくても使ってしまわれるんだ。うん、それがきっと一番いい。

 

「まあセバスには、明日自分で謝っとくよ。その方がいいでしょ。……うん、うん。大丈夫、今のところは特に何も」

 

 至高の御方がシモベに謝罪をなさるなんて、と思ったけど、確かにおひとりでお出かけになったなら、セバスさんならきっとすごく怒る、と思う。もしもなにか危ないことがあったら、と思うと、平気でいられる気なんてしないし。

 

「そう? じゃあ待ってるよ。……へーきへーき、睡眠対策はしてあるし。それじゃあ後で」

 

 こぽ、とため息のように泡を浮かべて、会話を終えたんだろう死獣天朱雀様はこちらを見下ろした。

 

「ごめんごめん、ほったらかして」

「い、いえ! 至高の御方が謝るなんて、そんな!」

「しばらく待たせたしね。で、なんだっけ」

「あ、あの! 死獣天朱雀様は、おひとりでここにおられるんでしょうか!」

「ん? 今はそうだね。もうすぐモモンガさんが来ると思うけど」

 

 ひゅ、と喉が鳴るのを、必死で堪える。

 シモベではなく、モモンガ様。

 もちろん、ナザリックのシモベなどモモンガ様に比べれば塵芥のようなものだと誰もが理解している。

 けれども、シモベなど要らないのだと言外に言われてしまっては。

 お前たちなど要らないのだと、突きつけられてしまっては。

 

「ぼ、ぼくも! ぼくもおそばにいてよろしいですか!?」

 

 心臓がばくばくと鳴る。

 お断りになったらどうしよう。自害で済ませていただけるのだろうか。御方の気が済むのならたとえ100万年の拷問でさえ喜んで引き受ける自信はあるが、もしここで、要らない、なんて言われたら。

 きっと耐えられない。ニューロニストの拷問ですら甘美だと思えるだろう。

 もう泣く直前のぼくに、死獣天朱雀様は、その眼の光をふんわりと微笑みのかたちにして、穏やかな声で仰った。

 

「マーレがいいのなら、いつまででもいるといい」

 

 ああ、至高の御方とは、なんて、なんて慈悲深い存在なのだろう。

 あふれでる涙は、とうとう堪えることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 








デミウルゴスさんとアルベドさんは筆者が覚えていないことまで覚えているので困る。



魔法とかスキルはいつもどおり適当。

タイトルのネタが尽きてきたのもあって前中後に分けます。
中篇は多分三日後くらい。






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

喪なくしていためば憂い必ずむかう・中編

前回のあらすじ

マーレきゅんかわいいでしょう。


「おらっ! もっと入んだろイベントがよお!」
「だめえ! また文字数増えちゃうのお! もう時間ないのにぃ!」
「ここで入れとかねえと後々に響くだろぉ!? 旗立てろ旗ぁ!」
「いやあ、無理い、フラグの管理なんてできないぃ……!」
「泣き言ほざいてる暇があったら地の文のひとつでも考えろや! 同じような表現ばっかり使いやがってオウムかてめーは!」
「言わないでぇ……、もう語彙が限界なのぉ……!」
「今日は(キリが)イイとこにイくまで寝かせねえからなあ!」
「やめてぇえ……!」

なんてことをひとりでやってたら遅くなりました。申し訳ない。










 第一階層には罠が多い。

 加えて、数多の遮蔽物、入り組んだ狭い通路、わき出るPOPモンスター。それらが視界を制限し、足を踏み入れるものを焦燥させ、確実に罠へと導くよう、最大限の効率をもって作られた完璧な構造。

 

 自分が任されている第七階層にも勿論多大なる愛着があるが、ここ第一階層もまた、蛮勇を振るう無礼な侵入者共を迎え入れる玄関として相応しいものだと、内心で感嘆のため息をつく。

 

 ここまで作り込まれておきながら、かつては表層で至高の御方々自らが侵入者を手打ちになさっていたこともあるというのだから、なんとも贅沢な話だ。無論、その尊い御手であの世に送られる方が、である。

 

 

 

 マーレが自らの務めを果たすべく転移門へと消えてすぐ、モモンガ様からアルベドへと<伝言(メッセージ)>が届いた。

 ナザリックに設置してあるギミックの確認をせよ、とのお達しに、守護者統括は了解の返事といくつかの確認、そして愛の賛辞を二、三言述べて通話を切った。

 夢見がちに弛んだ顔はすぐさまきりりと引き締まり、ナザリックの内政を取り仕切るべく作られた頭脳が、新しく受けた命令を既存のそれに組み込んで再構築する。瞬きふたつほどの間を置いて、改めて我々に命令を下した。

 

 第七階層の罠の確認を既に終えていた私にひとまず与えられた仕事は、情報共有システムの再確認と、ナザリック隠蔽作業に充てるゴーレム等の手配、早期警戒網の構築、担当階層の多いシャルティアの手伝いのついでに、マーレへと伝言を持っていくこと。

 第六階層にある罠はアウラひとりで確認できるものがほとんどだが、魔法に反応するトラップも幾つか存在するので、作業が終わり次第第六階層の仕事に戻るように、と。

 

 担当階層の警備レベルは既に一段階引き上げているので、階層を離れることに問題はない。了承の返事をして、すぐに第一階層へと向かった。

 

 

 ……何も問題はない。少なくとも、今のところは。

 今後どうなるかは、まだわからないが。

 

 

 アルベドは明らかに情報を秘匿している。位置関係から言って、セバスに聞こえていたものがアルベドに聞こえていないという状況は、まずありえない。

 恐らく彼女は知っていて、一言一句記憶しているのだろう。モモンガ様と、死獣天朱雀様が、お話なさっていた内容を。

 

 しかし、無闇に問いただすべきか、と言われればそうではない。

 私が気付いていることに彼女は気付いているだろうし、それを踏まえて彼女が情報を秘匿しているということは、生半可な決意によるものではない、ということでもある。

 

 悪意によってそれが行われているのなら、彼我の力量差はともかく、実力をもって口を割らせる必要があるだろうが。

 とうとう婚姻を交わされたというモモンガ様への愛情は少々目に余るほどのものであり、また、仲人をつとめて下さったという死獣天朱雀様への敬愛も本物のようだ。お二人へ害を成そうという兆候は今のところ見受けられない。あるいは御方々に気を使って内容を伏せているだけ、という可能性も考えられる。

 

 だが、注意はしておかなければならないだろう。

 先ほどアルベド本人が言ったように、我々は至高の御方が欲するものを事前に察し、献上できるようつとめなければならない。

 ましてや、裏切りの牙など、届くどころか存在することすら許されないのだ。

 我々は既に、至高の御方々からの信用を失っているのだから。

 

 信用を、失っている。その言葉だけでぞっとする。

 我々は御方々を守護するために作られたもの。信頼は畏れ多いとしても、信用はしていただかなくてはならないというのに。なんと不甲斐無いことか。

 どれほど心を痛めておられることだろう。至高の御方々が作り出した絶対の忠誠を誓うはずの守護者が、御身を傷つけるやも知れない、と思われるなど。たとえ世界が滅びようとも有り得ないことを可能性として考慮しなければならないなど。

 

 やはりどうにかしてそのときの会話を聞き出さねばなるまい。当事者であるお二方に聞くことができれば確実なのだが、そのような不敬が許されるはずもない。

 私ひとりの首でそれが購えるのならば、御方々が望むものを知るために差し出すことは吝かではないばかりか喜んで捧げるべきものだろうが、その罰がナザリックの同胞にも及ぶというのなら、あるいは気分を害した御方々がお隠れになってしまわれては。

 彼の御方々の慈悲深さにおいては他に比肩するものなど存在しないが、我々がそれに甘えるようなことがあっていいわけがない。

 

 他の情報源として考えるなら、プレアデスもその場にいたのだろうが、セバスによる口止めは既に行われているはず。そうなればもはや口を切り裂こうと内容を漏らすことはない。……実際、ナザリック内のものにそのようなことはしようとも思わないが。

 

 しかして今、そのような手段を欠片でも可能性に含めるほど、私の手には情報が足りていない。

 

 

 そもそも。

 

 そもそも私は、なにか重大な思い違いをしているのではないだろうか。

 

 釈然としないのだ。違和感がある。時系列を敢えてぼやかされて伝えられているということだけでは済まされない、あるいは見方によって内容が180度変わってしまうような、得体の知れないなにかが横たわっている。

 死獣天朱雀様が玉座の前の階段を降りられてから交わしたという数言のおことば。なんといえば良いのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()がする。

 

 まるで舞台の上の演劇を見ているような隔絶を感じるのだ。元々我々シモベと至高の御方の間には隔たれているという表現すら烏滸がましい絶対の差があるものだが、それとはまた違う。

 

 死獣天朱雀様に対するモモンガ様の態度が以前と違われることも関係しているのだろうか。

 ……否、それは違うと結論が出ていたはず。

 

 モモンガ様は普段、死獣天朱雀様に限らず他のどのような至高の御方に対しても穏やかに接し、ともすれば格下と見られかねない態度をお取りになられていた方であるが、それは我々シモベにすら与えられる慈悲深さあってのことであって、至高の御方の誰もが認めるまとめ役であらせられるという事実は確然たるものである。死獣天朱雀様がモモンガ様より劣っているという訳ではないが、万が一モモンガ様と死獣天朱雀様のご命令が相反するものであった場合、モモンガ様のご命令を優先するのが組織として正しい形だと言えよう。

 おそらく、お二方の指示系統の序列をシモベが勘違いしないよう、気を遣っていただいているのだ。余計な混乱を招かぬように。

 

 言葉ではなく態度で示すとは、まさしく支配者の鑑。

 胸に溢れる畏敬の念と共に、より守護者として相応しい働きを献上できるよう、誓いを新たにする。

 

 やはり外部への索敵は早急に行わなければならない。

 ナザリック内の警備を万全にしたらすぐ捜索隊を組ませていただけるよう進言しなければ、と、決心したところで。

 

 

 足早に進めていた歩をはた、と止めた。

 自分が今いる場所に気づいたこともある。地表部、中央霊廟を通り過ぎ、外の草原を視認できるところまで来ていた。

 思考する間にたどり着いてしまったらしいが、問題はそんなことではない。

 

 

 耳に届く、恐らくマーレのものだと思われる、子どものすすり泣き。そして。

 

 あろうことか建物の外から、ただひとつだけ感じる、至高の御方の気配。

 

 

「…………!?」

 

 身体から血の気が引き、一斉に湧いて出た疑問が脳裏を廻る。

 何故至高の御方が外に出ておられるのか。

 隠蔽工作に出たマーレが傍にいるということは、まさかお一人で外に出て来られたのか。

 見た目こそ少年だが、栄光あるナザリックの守護者であり、その中でも随一の魔力を持つマーレが泣いている原因は何なのか。

 もしや至高の御方になにかあったのでは。

 結局すべてに答えが出せないまま、急いで草地に足を踏み出そうとしたその瞬間。

 

「困ったなあ」

 

 お言葉とは裏腹に、さして深刻な様子も無い死獣天朱雀様のお声が聞こえてきた。

 なにがお困りなのですか、お困りならぼくが、と途切れ途切れに響くマーレの声と、それに対する少し間延びしたお返事、ぽん、ぽん、となにか柔らかいものを優しく叩く音。

 依然として不明なことも多いが、おおよその状況を把握して、ひとまず肩の力を抜いた。

 

――――死獣天朱雀様は、君が泣いているからお困りなのだと思うよ、マーレ。

 

 その推測を後押しするように、死獣天朱雀様の呟きのようなお声が耳に入る。

 

「子守唄のスキルをとってなかったな、と思って」

 

 ……それは、スキルを習得なさっていたのなら歌っていただけたということなのでしょうか。

 羨ましくも畏れ多いことだ、と眼鏡のブリッジを押し上げて、ゆっくりと歩を進める。

 現状、マーレの態度は大変な不敬に当たるとは思うが、死獣天朱雀様は特別気分を害しておられる様子は無い。ならば無理に乱入して止めるような野暮をする必要もないだろう。

 すでに泣き声の方も止み、持ち直したようなマーレの声も聞こえる。

 

「う……、んく、ごめんなさい、こんな、みっともない……」

「いいよ、マーレ。気にしてない」

「そ、その! し、死んでお詫びを……!」

「しなくていいしなくていい。泣きたいときは好きなだけ泣けばいいよ」

「で、でも……」

「泣かないうちに泣けなくなる、なんてことが、あるかもしれないんだから」

 

 どきり、と心臓がひとつ跳ねた。

 ぽつりとこぼれたお声が、あまりにも弱弱しく、確かにこちらまで聞こえる程度の音量であったにも関わらず、消え入りそうな錯覚を覚えたから。

 けれど今しがたの発言などまるでなかったかのように、朗らかな声音がマーレを鼓吹する。

 

「マーレが気にするなら、働きで返してほしいな」

「! は、はい! がんばります!」

「よろしい」

 

 笑みさえ含んだお声にほっと胸を撫で下ろし、もう良いだろうと屋根の上が見えるところで足を止めた。

 マーレには悪いが、仕事はこなしてもらわなければならない。至高の御方のご命令はすべてに優先するのだから。

 二人の顔が見えることを確認して、声を張り上げた。

 

「失礼いたします、死獣天朱雀様」

「おや、デミウルゴス」

「デ、デミウルゴスさん!」

「マーレに伝言を持ってきたのですが、そちらに上がらせていただいてもよろしいでしょうか?」

「いいよ、どうぞ」

 

 許可をいただき、屋根まで跳び上がって、マーレにアルベドからの指令と、これからの計画を伝えた。ゴーレムやアンデッドも使用する予定なので、段階的にできるよう考慮して作業を行ってほしい、と。

 それを聞いてマーレは、はっ、と、自らの役目を思い出したのか、すみません! とこちらに一礼した後、死獣天朱雀様にぺこぺこと頭を下げて、場を離れる旨を告げる。

 それを受けて、死獣天朱雀様はやや申し訳なさそうにひらひらと両手を振った。

 

「やー、お仕事の邪魔しちゃったみたいで悪いね」

「そ、そんな! まったく! これっぽっちも!」

 

 取れてしまうんじゃないだろうかと心配になるくらいぶんぶんと首を横に振るマーレを穏やかに制して、死獣天朱雀様はやさしくマーレへと語りかける。

 

「途中で魔力が足りなくなったらくるといい。分けてあげるから」

「ふえ!? し、死獣天朱雀様から魔力をいただくなんて! も、もったいないです!」

 

 実際勿体ないどころの話ではないと思うが、偉大なりしは至高の御方。その程度は些少なこと、心底なんでもないというようにお言葉は続く。

 

「いいよ、昔はよくやってたし。急いでもらったほうがモモンガさんも安心だろうしね」

「……! は、はい! わかりました、ありがとうございます! そ、それでは失礼します!」

 

 深々と礼をした後、普段の臆病な態度が嘘のように軽やかに屋根を飛び降りて、マーレは己の職務を果たすべく駆け出して行った。

 

 それを見て満足し、改めて死獣天朱雀様に一礼をおくる。

 

「死獣天朱雀様、僭越ながら供を務めさせていただきたく存じます」

「ん? うん、良きにはからえ?」

「ありがとうございます。……つかぬことを伺いますが、死獣天朱雀様はお一人で外に……?」

 

 死獣天朱雀様はひとつ肩をすくめると、こぽりとあぶくを吐き出して微笑まれた。

 

「このあとセバスにも怒られる予定だからさ、勘弁してもらえないかな」

「それはそれは。大変失礼いたしました」

 

 至高の御方に対して怒る、などという行為は本来ナザリックのいかなるシモベにも許されたことではないが、主を戒めるのも家令(ハウス・スチュワード)の仕事のうちだ。彼にはしっかりと役目を果たしてもらわねばならない。情報提供の礼でもある。

 ……死獣天朱雀様にお一人での外出をさせたことに関しては許すつもりは無いが。まあ、あの男なら言い訳はすまい。

 

 しかし、今の時間に死獣天朱雀様がお一人で外に出られているということは、ほぼセバスと入れ違いになる形でここまでおいでになったということか。

 そこまで急いで、何をなさっていたのだろう。そう尋ねようとしたとき、死獣天朱雀様の肩にとまっている一羽の鳥が眼に入った。

 

 召喚獣、だろうか。赤い瞳に、真っ黒な羽毛を持つそれからは、微弱ではあるが確かに死獣天朱雀様と同じ魔力の波動を感じる。

 護身用、にしては大きさも強さも心もとない。いくつかの魔法がかけられているように見えるが、それでも御身ご自身を守るものとしては不十分だろう。そう、まるで。

 

 まるで、複数体召喚して索敵にでも、使う、ような……!

 

「……まさか、死獣天朱雀様は現在索敵をなさっておいでなのですか?」

「ん? 駄目だった?」

 

 やはりそうか、と内心で苦虫を噛み潰しながら、できる限り表情に出さぬよう、言葉を続けた。

 

「いえ、ですが! そのようなことは我々にお任せくださいましたら!」

「そのようなこと、ね。防衛責任者の言葉とは思えないけど」

「っ、御戯れを……!」

「わかってるよ、そういう意味じゃないんだよね」

 

 でもなあ、と、死獣天朱雀様は空を仰ぎ、襟の後ろをそっと押さえて、二、三度首をお傾げになり、なにごとかを考えていらっしゃるかのようだった。どうにか、こちらを言いくるめようというのだろうか。

 

 だが、これに関してはいかに至高の御方といえど譲るつもりはなかった。

 至高の御方がなされていることを横から奪うのは甚だしい不敬ではあるが、本来シモベがすべき仕事を至高の御方に委ねたまま放っておくのはそれに勝る大罪だ。

 至高の御方にしかできないようなことであればこちらも身を引かざるを得ない。が、索敵とあっては、まずシモベこそがその身を最前線へと運ぶべき事項である。死獣天朱雀様が当代随一の召喚師であらせられることは重々承知だが、こちらにお任せいただいた方が、御身の安全を得る上でも、効率的にも十分利のあることだと私は確信していた。

 

 説得できると思っていた。至高の御方であれば納得していただけると。

 自分にはそれを成すだけの理由があり、そのための技量も与えられていると思っていた。

 自信が、あったのだ。それが許されざる傲慢であったと知るまでは。

 

 

「ああ、そうか」

 

 ふと、なにかを得心なさったように呟かれ、死獣天朱雀様は身体ごとこちらを振り向いた。

 どのようにでも説得してみせる、と身構えた私に、水面に浮かぶ月のような眼をとろかせて、こう言ったのだ。

 

 

 

「置いていかれるのは恐ろしいね、デミウルゴス」

 

 

 

 ひゅ、と喉が引き攣れた。

 言葉が出てこない。先ほどまでこのお方に告げようとしていたあらゆる言論が霧散してしまっていた。

 代わりに己を満たすものがある。それは羞恥であり、焦燥であり、底の見えない絶望であった。

 

 ぎり、と唇を噛み締める。

 己のなんと浅ましいことか。見透かされていたのだ。死獣天朱雀様をお止めしようとする私の魂胆が、忠義からではなく恐怖から来ているのだということを。

 この感情、それ自体はナザリックの誰もが持っているものだ。

 至高の御方がお隠れになる。そのことを恐れぬものは、少なくとも私が知る上ではナザリックに存在しない。

 

 だが、栄光あるナザリックの守護者が、ましてや防衛の責を任されている私が、理性ではなく感情で至高の御方の妨害をしようなど、そんなことがあって良いわけがない。

 

 理屈で武装していたつもりだった。先ほどまでは、自らの行動は完全に理性が支配していると思い込んでいた。

 だが現実はどうだ。その可能性を考えただけで、お戻りになられない日々を思い出しただけで、私は答えを詰まらせてしまっている。

 間髪入れずに答えなければならなかったはずだ。恐ろしくはない、と。あるいは、私が恐ろしいと思っていることと、我々に索敵をお任せいただけないことは別の問題である、と。

 

 死獣天朱雀様は我々をずっと試しておられた。

 我々の記憶が確かなものなのか。根底に流れるものが創造主と相反してはいないか。

 我々の忠義が、働きが、偉大なる至高の御方々をお守りするに相応しいか、ずっとその目でご覧になられていたのだ。

 

 高を括っていた。もはや完全にナザリックの防衛に関してお任せいただいていると、慢心していた。

 ナザリック随一の頭脳を与えられ、至高の御方が欲するものを完璧に用意できると、愚かにも思い込んでいた。

 その結果はどうだ? 今の私の状況は、至高の御方をお守りするのに足りうるものか?

 

 答えは否、だ。

 少なくとも、私ならば任せはしない。

 

 ならば至高の御方にあっては、どれほど失望しておられることだろう。

 その罪、この命で贖えるものとは到底思えない。

 

 地位を剥奪されるならまだ良い。

 ナザリックからの放逐を命じられても不思議ではなかった。仮にも防衛の責任者だったのだから、その際は自害をお許しいただかなければならないが。

 

 兎も角。返事をしなければならない。

 体感では随分とお待たせしてしまっている。

 死刑台への階段を上る想いで、震えるくちびるを開いた。

 

「……はい、申し訳、ありません、死獣天朱雀様」

 

 まるで自分の声ではないようだと、どこかで嘲るこえがする。最期の最期まで無様だったな、と。

 まったくその通りだ、ともはや穏やかな心持ちで、私は宣告を待った。

 

 

 しかして、想定していた断罪の宣告が言い渡されることはなく。

 

 死獣天朱雀様から返ってきたお言葉は、完全に疑問のそれであった。

 

 

「どうして謝るの、デミウルゴス」

「……は、」

「ぼくは同意を求めたんだけどなあ」

 

 どうい、と間抜けにも呟く私に、そう、同意、と、柔らかい口調で仰った。

 

「置いていかれるのは恐ろしいことだよ。ぼくは、この世の何より恐ろしいと思う」

 

 すっ、と、その御手が天を指す。肩に留まっていた鳥が羽ばたいて、空へと発っていった。

 黒い鳥が高く高くのぼってゆく。やがて夜の闇に溶けて見えなくなる頃に、死獣天朱雀様は話の続きを口になさった。

 

「大抵のことには慣れたと思っていたんだけどね。こればかりは慣れない。もう二度と経験したくない。……そのためならぼくはあらゆる手段を講じようと思っているし、何を利用しようと構わないと思っている」

 

 空を見上げたまま放たれたのは、強い、つよい意思の籠ったお言葉だった。普段の飄々とした態度が嘘のような、頑健で強固な精神。

 あるいはこれが、この方の本質なのかも知れない。

 そう思ったのも束の間で、こちらを向き直った死獣天朱雀様は、常の温和な性に戻っておられるように見えた。

 

「君らも、きっと同じなんだろう。けれど、だからこそ。この怖がりな老いぼれに役目を譲ってもらえないだろうか?」

「な……、そのように卑下をなさらないでください!」

「それでも事実だ、デミウルゴス。この恐怖も、この老いも、ぼくの責任でぼく自身が持っているものだ。故に先走って行動もするし、先に逝く権利はぼくにあると思っている」

 

 先に逝く。その言葉に反論しようとした私を、そっとてのひらで制して、御方のことばはつづく。

 

「それを補ってくれる力が君たちにはあるとも、ぼくは思うんだ。……モモンガさんにも、そして勿論、君たちにも置いていかれたくはないから」

 

 死獣天朱雀様は、そこで一度言葉を区切った。

 こぽ、と一呼吸分の泡の音。水の中の光が、星の輝きにまぎれてちかちかと瞬く。

 

「成せることは、自らの手で為しておきたい。許しては、もらえないだろうか」

 

 そのお声の真摯な響きに。まっすぐにこちらを覗き込んでくる淡い光に。

 私は、自らの勘違いを悟った。

 

 死獣天朱雀様は、疑っておられたのではない。

 心配してくださっていたのだ。我々脆弱なシモベに、異常がないかどうか。

 

 ずっと違和感があった。当たり前だ。前提が間違っていたのだから。

 まさかここまで慈悲深いはずがない、と、自らの矮小な物差しで御方々を測っていたのだ。

 

 霧が晴れたかのようにすべてが繋がる。離れていた像と像が滞りなく結ばれていった。

 やはり、御方々は、ナザリックをお守りくださった、偉大なる支配者であらせられたのだ。

 その偉大なる御方々が、我々に、そのお力を補うことを許してくださる。

 

 零れ落ちそうになる涙をどうにか押しとどめて、今度こそ自らが発するべき言葉を間違えないように紡ぐ。

 

「許可など……、我々に御方がなさることを止める権利など、ありません。……ですが」

 

 背筋を伸ばし、凛と声を張る。さきほどまでの震えは、もうなかった。

 

「私も、責任ある者として、為すべきことを成したいと思います。お許し願えるでしょうか」

「お許しもなにもお願いしたいんだけど、んー、そうだな……」

 

 死獣天朱雀様は首を捻って考えこまれる。幼ささえ感じさせる仕草であった。

 掴みどころのないお方だ、と認識をさらに改めて、死獣天朱雀様に質問をする。

 

「何か問題がありますでしょうか」

「いや、いま索敵に使ってる召喚獣。結構な数の魔法をかけてるから下手に接触したらちょっと危ないんだよね。なんなら全部呼び戻すけど」

 

 危ない、というのは我々シモベのことであり、召喚獣そのもののことでもあるのだろう。さきほど見たものと同一種であるのなら、万が一なにかの拍子に死んでしまう可能性も考えられる。外敵の強さを測るならまだしも、味方と相打ちになっては意味がない。

 だが、わざわざ御手を煩わせることもないだろう。召喚獣の特徴を詳しく聞いて、こちらがそれに沿って動けば良いだけの話だ。

 

「いえ、それには及びません。……それでは」

「じゃあ、折衷案。今飛ばしてる八咫烏は……、さっき真上に飛ばしたやつは手元に置いとくつもりだから、残り8羽だね。それが全部死んでしまったら、君らに索敵を引き継いでもらおうと思うんだけど、どうだろう」

「……ふむ」

 

 8羽。数としては随分心もとないとは思うが、どの程度索敵能力に優れているのかは測りかねるところだ。召喚師と召喚獣の関係は、魔術師が扱うそれとは随分異なるものだと聞く。あるいは今現在もそのすべてと感覚が繋がっている、というようなことがあれば、むしろこの場はお任せした方が良いか。やはり心苦しいが、こちらが出したシモベが視界でうろついていてもご迷惑だろう。

 私の考えを後押しするかのように、死獣天朱雀様はもうひとつ提案を述べる。

 

「そもそも君、まだ中の仕事残ってるでしょう。今のところ危険な敵もいないようだし、モモンガさんの命令を優先したほうが良いと思うけど」

「……そう、ですね。畏まりました、お気遣い痛み入ります」

「こちらこそ、我侭を言ってすまないね」

「いくらでも仰っていただければ、これ以上の幸福はありません。我々のことは如何様にでもお使いください」

「いかようにでも?」

「はい、如何様にでも」

 

 襟の後ろに手を置いて、ふうん? とひとつ、興味深げなお声。

 その眼が一瞬、悪戯を思いついたかの如く細められたように見えたのは、気のせいだったろうか。

 

「じゃあさ、デミウルゴス」

「はっ!」

「GMコール。あるいはニューロンナノインターフェイス。これらの意味を知ってるかな」

 

 じーえむこーる。にゅーろんなのいんたーふぇいす。

 どちらも知らない、否、聞いたことすらない言葉であった。

 

「……申し訳ありません、死獣天朱雀様」

「いや、ぼくも良く知らなくてさ。全然急がないし、警備の合間でいいから、調べておいてほしいんだけど」

 

 至高の御方でさえ知りえぬことを、調べるように申し付けくださるとは。

 その光栄、直々にご命令を賜った喜びを押さえ込み、畏まりました、と一礼をした。

 

 ……さて、中に戻るにしても、死獣天朱雀様をお一人で残していくわけにもいかない。

 適切なシモベをつけるべきだろうと、連絡をしかけたところで。

 

 我々が仕えるべき、もうお一方が、その姿をお見せになられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つかれた……。

 

 霊廟からナザリックの外に出る道をぐったりしながら歩く。

 疲労のステータス無視はどこへ行った。いや肉体的には全然疲れてないんだけども。

 

 ここでため息のひとつでもつこうものなら、横にいるナーベラルから度を越した心配をされることは間違いないので、意識的に背筋を伸ばし、なんとなく支配者っぽいゆったりとした足取りで朱雀さんの元へと向かった。

 

 

 あの後。

 セバスに声をかけられた拍子にうっかりアルベドと<伝言(メッセージ)>が繋がったので、何か勘繰られる前にギミックの確認を言いつけた。用件を作っておいて本当によかった。何もないまま連絡して、咄嗟に「声が聞きたかっただけだ」なんて言ってしまったりしたらどうなるかわかったもんじゃない。

 

 いくつか質問をされたけど、お前に任せるという名の丸投げをして、これでもかというくらい熱烈な愛の言葉を囁かれて、通話を切った。

 あんなの外国のホームドラマでも聞いたことがない。ていうか、アルベドはあれを周りに聞かれて恥ずかしくないんだろうか。

 いや、流石に声には出してないよな? うん、そういうことにしておこう。

 

 続いて、セバスの不安を解消するため、朱雀さんにも<伝言(メッセージ)>を繋げる。

 

 さっきまでとまるで変わりないあっさりとした調子で、マーレと一緒にいる、という答えが返ってきた。

 何故マーレが外に、と思わず口に出したが、朱雀さんのひとことで、そういえばさっきナザリックの隠蔽工作を命じていたことを思い出す。……ちょっと仕事が早すぎないか。ほんとにさっきの今だというのに。

 

 先に休憩しろって命令した方が良かったかな。ブラック会社じゃないんだから。

 ……いや、俺ひとりならともかく、朱雀さんもいるんだから、安全に気を使いすぎるなんてことはない。ナザリックの防衛を万全に整えてから皆でゆっくり休憩させよう。

 

 そして現状の軽い報告。

 一人で外に出たからセバスが怒ってるかもしれないということ。

 これからお供がずっとついてくるだろうということ。

 今のところ外敵は確認できないということを聞いて、自分もすぐに行くと約束し。

 そういえば精霊種は睡眠耐性が無かったのではないかと思い出して、尋ねてみたところ対策がしてあると聞き、ほっと胸を撫で下ろして接続を切った。

 

 いままで待ってもらっていた、ゴゴゴゴゴ、とでも効果音を背負っていそうなセバスに、朱雀さんはマーレといることを告げる。

 これで一安心かと思いきや、「上でたまたま合流しただけですよね?」という内容のことを丁寧に突かれた。その通りです、はい……。

 

 それから、お供を連れないことが如何に危ないかということを端的に、かつ切実に告げられて、支配者にできる最低限の平謝りでその場をしのぎ、「自分も上に行きたいんだけど、できれば身軽に」という意図をおそるおそる聞いてみれば、プレアデスをひとり連れていくことでなんとか妥協してもらった。

 

 というわけで俺にはナーベラル・ガンマがお供につけられたわけだ、が。

 移動が面倒なのでリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを貸そうとしたら、真っ青な顔で畏れ多いと辞退され。

 ならば一緒に歩いて上がろうかと言えば、私のせいで御身を煩わせるなど、とやはり固辞されて。

 ではどうするのだと聞けば、私が御身を抱えて上がります! との返事。当然却下した。

 

 結局、本当に一時的だから、霊廟までだから、と半ば無理矢理指輪を押し付けて、霊廟まで転移し、宣言通り返してもらって、今に至る。

 これ、帰りも同じことになるんじゃないのか。……まあいいや。俺はマーレと一緒に戻って、ナーベラルは朱雀さんに押し付けよう。学生さんの相手で女性の扱いにも慣れていることだろうし。

 

 そんなこんなで、合流したのはいいんだけど。

 

 

『なんでデミウルゴスがここに』

『マーレに伝言を持ってきたみたいだからそのついで、かな?』

『なんで防衛の責任者がそんな使いっぱしりみたいなことを』

『それこそついでじゃないの。第一階層に彼が来るような用事、アルベドになんか命令しなかった?』

『え? あー、そうか。……えっ、でも、え? はや、早くないですか。ギミックの確認しか言いつけてませんけど』

『自分のとこはとっくに終わらせたから、シャルティアの手伝いに来たって感じかな。それと情報共有システムの構築、と。いやあ、優秀だねえ』

『ひい』

 

 遅くなってすまないな朱雀さん。いやいやなんの。ナーベラルと共に屋根の上へ移動して、いささか社会人的な挨拶を交わす。

 そんな会話の裏側でこっそり飛び交う<伝言(メッセージ)>。

 

 おまけにマーレが物凄い勢いで隠蔽工作を行っていて、よく見ればアンデッドやゴーレムまで待機している。聞けば土木作業用に動員したのだとか。

 部下の仕事が早すぎて怖い。なんで君たちそんな急いでるの? なにかの証拠でも溜めたいの? 労働基準監督所に訴える準備でもしてるの? いや、安全の確保が早いに越したことはないんだけど!

 

 そんな怖い想像も、目の前の光景の前に霧散する。

 

「凄いな……」

「ねえ、ほんとに」

 

 素晴らしい、なんて言葉では足りないような絶景が広がっていた。

 見渡す限り一面の星空。アンデッドだからわからないが、きっと空気も澄み切っているんだろう。

 風に揺れる草が、こぼれた星の光を反射してきらきらと輝く。

 星と月の明かりだけで物が見えるなんて。

 ブルー・プラネットさんが見たら、きっと喜ぶだろうな。

 

「きらきらと輝いて……、宝石箱みたいだ……」

「お、詩的だねえ、モモンガさん」

「……いいじゃ、んん、いいだろう、別に。なあ、デミウルゴス」

「まさしく。この世界が美しいのは、至高の方々の身を飾るための、宝石を宿しているからかと」

 

 乗ってくれた! 今デミウルゴスの株がものすごい上がった。

 ありがとうデミウルゴス。悪徳弁護士みたいな見た目だと思っててごめん、デミウルゴス。

 

「確かにそうかも知れないな。我々がこの地に来たのは、この誰も手に入れていない宝石箱を手にするため……、私と、我が友たち、アインズ・ウール・ゴウンを飾るためのものなのかもな」

 

 雰囲気に酔っている自覚はあるけれど、このくらい良いだろう。朱雀さんもこれ以上は茶々を入れるつもりもないようで、静かに佇んでいる。

 

「お望みとあらば、ナザリック全軍をもって手に入れて参ります」

 

 デミウルゴスが一礼と共に宣言した。

 ほんとに手に入れてきそうだな、と一瞬思うくらいに真剣な様子だったが、来たばかりのこの世界は未知に包まれている。どんな敵がいるのかわからない以上、迂闊に動くべきではない。

 

「この世界にどのような存在がいるかも不明な段階でか? ……そうだ、朱雀さん、何か見付かりま、……見つかったか?」

「一応ね。周りは草原だけど、後ろのほうは深い森がある。下はレベル一桁。上は85くらい」

 

 85、という、決して無視できない数字に、思わず眉間に皺が……、寄らないが、険しい顔をしたい気分になる。

 

「……随分と開きがあるな、詳細は?」

「どっちの?」

「高いほうから」

「じゃあまずあっち。レベルは80台……、って言っても一体だけだね。その下は30ちょっとまで落ちる」

 

 朱雀さんはほぼ真後ろを指して、森全体を表すように手をひらめかせた後、すとん、とその手を下げた。

 随分と極端なレベル差を不審に思ったが、それより大事なことがひとつ。

 

「よく見つけましたね……、す、ざくさん」

「なにせでかいんだよ。100メートル以上あるんじゃないかな。見た目はあれ、なんか木のモンスター……」

「トレント?」

「もっと悪そうなの」

「なら、イビルツリーか」

「それだ! で、寝てるのかなんなのか、動く気配はまったくないね」

「ふむ」

 

 ならば、へたに手を出すこともないだろうか。

 万一襲ってくるようなことがあっても、その程度のレベルならどうにかなる。

 

「距離は?」

「まっすぐ突っ切って片道……、一日かかるかな、徒歩だったら。ここからじゃ肉眼では見えないね。結構広いよこの森」

「なるほど」

 

 それならば尚更、放っておいても問題ない、と。

 そして、その下のレベルが30ほど。偽装工作をしている可能性もあるが、こちらが気付かれないよう心がければいい。

 

「あとは……、そうだな、知的生命はなにかいたか?」

「確実なのは真正面、しばらく行ったところに人間のものと思しき集落がひとつ。恐らくは農村。24から26世帯ってところかな」

「プレイヤーの可能性は?」

「ない」

「確実に?」

「ちょっと覗いたけど、住民は軒並みレベル一桁、生活様式は、乱暴に言えば中世ヨーロッパの田舎の農村そのもの。これでプレイヤーがいたとしたらそいつはもう立派な原住民だよ。どの程度の文化レベルかは、朝になってからもうちょっと様子を見ようと思うけど」

 

 人間種の原住民、か。まだ一つ目の村なので油断はできないが、俺と離れてから今までにそれだけしか見つかっていないのなら、当面の危機はないと言っていい。防衛の準備が整い次第、NPCたちを休ませよう。

 そう決心して、ふと「覗いた」という言葉に、今召喚獣がどんな状態になっているのか気になった。

 

『ところで今何を召喚してるんですか、朱雀さん』

『<最小化(ミニマイズ)>で5分の1に縮めた八咫烏9羽。八方位にそれぞれ1羽ずつ、あと真上に1羽。それはもうちょっとしたら手元に置いとこうと思う』

『ふむ、魔法は?』

『<感知接続(コネクト・センス)>、<永続召喚化(コンティニュアルサモン)>、<臆病者の義眼(クレイヴン・マーブルズ)>、<心臓への鎖(チェイン・トゥ・ハート)>、<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>、あとは<記録(レコード)>……、モモンガさんこれわかるの?』

『感覚接続して、永続化と感知能力つけて、洗脳対策と攻勢防壁。最後に状態保存。さすがですね、朱雀さん』

『いや……、うん、ありがとう……。でもモモンガさんのほうがすごいと思う……』

 

 お世辞でも嬉しいです、と、<伝言(メッセージ)>で返事をして、もうひとつ気になったことをデミウルゴスに問う。

 

「デミウルゴス、周囲の警戒はどうする予定だ?」

「おおよそ5キロ範囲内に知的生物が侵入した場合、相手に気付かれず即座に発見することができるよう、現在シモベを選抜しています。いましばらくのご猶予をいただければと」

「ああ、構わん。お前に任せよう。……、いや、待てよ」

 

 警戒はするに越したことが無い。念には念をいれるべきだ。今取れる手段があるのならなおさらに。

 

「警戒要員、及び隠蔽工作の作業員に暗視のスキルはついているか?」

「夜間でも滞りなく作業できるよう、万全に」

「それは例えば、深い霧の中にあっても問題なく見えるか?」

「問題ありません」

 

 自信を持って頷くデミウルゴスの答えに満足し、朱雀さんの方を向いた。

 

「……よし。朱雀さん、頼みたいことがある」

「ん? あー、はいはい。7? 10?」

「話が早くて助かる。10だ。どの程度の範囲になるかも見ておきたい」

「了解。……マーレは大丈夫かな」

「ドルイドだから大丈夫だとは思うが……、ん?」

 

 丁度そのとき、たたたたた、と駆け寄ってくるひとつの影に気付く。それはぽーん、と軽やかに屋根へと跳び乗ると、息を切らしたようすもなくこちらに深々と礼をした。

 

「モ、モモンガ様! ご、ご挨拶が遅れて申し訳ありません!」

「構わん。良くやってくれているようだな、マーレ」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 褒められて嬉しい、というオーラを全身から放つマーレに、わざわざ挨拶をしに来たのか、と尋ねれば、なにか言いにくそうに朱雀さんの方を見る。その様子に、ああ、と何事か納得したように、朱雀さんがマーレへと両手を差し出した。

 

「こっちおいで、マーレ」

「は、はいっ! 失礼いたします!」

 

 朱雀さんの手の上に、マーレがそっと手を乗せたので、そこでやっと状況を把握した。

 

 魔力譲渡。

 ユグドラシルにおいて、MPはアイテムでは回復できず、譲渡、奪取、時間経過のいずれかでしか回復することができない。

 なので普通は、これほど簡単に譲渡して良いものではないのだが、朱雀さんが取得している種族には、HPをMPに変換できるというスキルが存在している。やろうと思えばHPすべてをMPに変換することもできるし、一日の使用回数もそこそこ多いのだが、精霊種そのものが中々癖のある種族だということもあって、実のところあまり知られていない。

 

 しかし懐かしいな。ワールドエネミーを狩りに行くときなんかは朱雀さんが後ろで魔力タンクをしていたっけ。

 譲渡にかなりの時間がかかるから乱戦では使えないし、普段の狩りなんかでMPが切れることはまずないから、ほんとに限られた状況でしか使われてなかったけど。

 

 そうして思い出に浸っていると、十分な魔力を補給し終えたのか、マーレが朱雀さんから手を離して、もう一度丁寧にお辞儀をした。

 

「あ、ありがとうございました! 死獣天朱雀様!」

「はい、どうも。……ところでマーレ。君暗視のスキル持ってた?」

「はっ、はい! 持ってます!」

「これからここら辺一帯、霧が出てくるんだけど、大丈夫そう?」

「だ、大丈夫です! 問題ありません!」

 

 おどおどしながらも、迷いなく告げられる返事に満足して、ひとつ頷いた。自分にできることとできないことに関しては、おそらくプレイヤーである俺達よりも彼らのほうがずっとわかっていることだろう。もし霧で見えなくなってしまったとしても、一人分くらいならアイテムでどうにかなる。

 

「そっか、でも無理しないで、ほどほどにね」

「そうだな、休憩を取りながら進めるといい。大変な作業だからな」

「ふわ、お、お気遣いありがとうございます! で、でも、デ、デミウルゴスさん!」

 

 突然呼ばれたにも関わらず、「なんですか、マーレ」と落ち着いた様子でデミウルゴスは返事をする。見習いたい、その余裕。

 

「も、もう少しで一区切りつくので、そしたら一旦第六階層に戻ろうと思います! それで、あの」

「わかりました。その後はこちらが揃えたゴーレム達に引き継がせましょう」

「よ、よろしくお願いします!」

 

 そうしてまたぺこりとお辞儀。

 なんか、こんな小さい子を遅くまで働かせていることに、ものすごい罪悪感がする。

 とりあえず、この後また走って第六階層まで戻らなくていいようにしてやろう、と、走り去って行こうとするマーレを引き止めた。

 

 ……ここでもやっぱりひと悶着あったが。

 やはりリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンというのは彼らにとって特別な存在らしい。渡すものが間違っている、とまで言うマーレに、これまでの働きとこれからの期待に、と、指輪を渡せば、ほう、と幸せそうに顔を上気させていたので、一先安心する。……何故迷いなく左手の薬指に嵌めるのかは聞けなかった。

 

 今度こそ作業へ戻っていくマーレを見送って、デミウルゴスを振り向いた。

 

「デミウルゴス、お前はどうだ。不便を感じているなら渡しておこうと思うのだが」

「お気遣いありがとうございます。ですが今は特に不便を感じてはおりませんし、かの偉大なる指輪に見合う働きをしているとは思えませんので、僭越ながら辞退させていただきたく存じます」

 

 ……デミウルゴスの働きで指輪がもらえないっていうんなら、彼らの「十分な働き」ってどのくらいになるんだろう。

 ここはハードルが上がらないうちに押し付けておくべきか? とも思うが、これからもし外で作業することが増えるのなら、無闇に渡すのは危険だろうとも思う。

 

 朱雀さんにも意見を聞こうと彼を見る、と。

 

 おもむろに取り出したポーションをごくごくと飲んでいるところだった。

 

『……なんでポーション飲んでるんですか朱雀さん』

『え? <魔力変換(コンヴェーション・マナ)>でHP減ったから、足しとこうと思って』

『さらっと何やってるんですか。ふたりともびっくりしてるじゃないですか』

 

 びっくりしてる、なんてもんじゃない。

 ナーベラルはほとんど涙目でぷるぷる震えているし、デミウルゴスに至ってはこの世の終わりのような顔をしている。

 ……マーレがこの場にいなくて良かった。勢いで自殺とか、いや、さすがに、……ありえるな。

 

『モモンガさん』

『はい?』

『まかせた!』

『はあ!?』

 

 ここを、誤魔化す? 誤魔化せるのか? ええい、ヤケだこのやろう。

 

「……二人とも、よく聞いてくれ」

 

 青ざめている二人を落ち着かせるように、できるだけ穏やかな声で話しかけた。

 まずは勘違いしてるかもしれないから、状況を説明して、怖くないよということをアピールする。

 

「別にお前達が気が付かないうちに朱雀さんが怪我をしたというわけではない。魔力譲渡、HPをMPに変換する行為、その後の回復。ユグドラシルにいたころは幾度か見られたことだ。回数は多くなかったが」

「……それでは、死獣天朱雀様はその身を削ってマーレに魔力を分け与えて下さった、と?」

「そ……、んん、いや、それほど深刻なことではない。与えた量は多くはない……はずだ。そうだな、朱雀さん」

 

 問いかけに、朱雀さんは頭を縦に振る。それを見て、二人はほんの少しだが、安心しているように見えた。

 それで、ええっと。昔を思い出しながら、今言うべきことを必死で考える。脳みそが無くなってからのほうが考えることが多いってどういうことなんだ畜生。

 

「アインズ・ウール・ゴウンの者達が束にならないと勝てないような強敵に挑む際、使われた手法でな。……だが、こちらに来ていざ強敵と出会ったとき、使えませんでした、ということでは話にならない」

 

 ここまで説明すればいいだろう、と朱雀さんを見れば、彼はこちらを向いて、こくりと頷いた。

 

「……、うん、そう。だから、今のうちに実験しとこうと思ったんだ。驚かせて悪かったね」

 

 謝りながら、朱雀さんはそっと、かつて口があった場所に人差し指を当てて、微笑んだ。

 

「マーレには内緒にしといてね。……<召喚時間延長化・霧吹き老女(エクステンドサモン・ミストレア)>!」

 

 詠唱と共に、宙に浮かぶ魔方陣から、ずるり、と一人の幼女が現れ、ぺたん、と屋根の上に座りこんだ。白い髪を頭上で結い上げて、仙人が着るような白い着物を纏うそれは、すううう、と、大きく息を吸い込んだかと思うと、口や鼻、耳からも、物凄い勢いで霧を吹き出してゆく。

 あたり一面が霧で覆われる頃には、さっきまで幼女だったものはすっかりしわがれた老婆に変貌していた。口元から霧を垂れ流し、ぴくりとも動こうとしないが、なんとこの召喚獣、今の状態のほうが強いらしい。

 

 これで、とりあえずは安心できるだろうか。

 一息ついて、最後にこれだけは、と、霧に包まれた中でもはっきりと見える二人に向かって語りかける。

 

「その、なんだ。我々がすることにそう怯えてくれるな。我々とて、本当に危ないことはしたくないからな」

 

 そこまで言って、ようやくナーベラルとデミウルゴスは肩の力を抜いてくれたようだった。

 

 さて、と、一息入れて、朱雀さんの方に意識を向ける。

 

『朱雀さん、俺はこれから戻ろうと思いますが、どうします?』

『今夜はこのままここにいるよ。時間経過で霧がどうなるかと、朝日がどっちから出てくるか見ておきたい』

 

 霧については確かにありがたいのでそのまま了承した。

 けれど、朝日? ああ、そうか。東西南北を決めるためか。日常で何気なく使ってることも確認しないといけない、と。

 

『デミウルゴスだけ中に連れてってくれないかな。ぼくのお供で随分拘束しちゃったから』

『わかりました、元々ナーベラルを置いていく予定だったので。セバスにもそう伝えておきますね』

『……こわいなあ、会いたくないなあ』

『あはは、ぜひ絞られてください。それじゃあ、またあとで』

『うん、また』

 

 そうやって挨拶した後、お供の交換をデミウルゴスとナーベラルに言い渡せば、二人とも快く了承してくれたので、そのまま場を離れることにした。作業用のゴーレム達も、中から指示を出せるようにしてあるのだという。……ほんとに指輪をあげなくてもいいんだろうか。けど今のところ本当に困ってなさそうでもある。有能すぎるっていうのもなんだかなあ。

 

 夜中だというのにちっとも訪れない眠気を不思議に思いながら、何故か前倒しになっているような気がする仕事を片付けるべく、デミウルゴスを連れてナザリックの内部へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ナーベラル」

「はっ」

 

 深い深い霧の中。水の頭を持つ紳士が、黒髪の美女に話しかけた。

 

「今からしばらく考え事するからさ、朝日が見えたら教えてくれないかな」

「畏まりました」

「ちょっと呼んだだけじゃ気付かないんだ。強めに揺すってくれて構わないから」

「そ……、はい、畏まりました。そのように、致します」

 

 ナーベラルの頭の中を、不敬の二文字が過ぎったが、辞することも失礼に当たるだろう、と彼女は考えた。御方の護衛に選んでいただいた誉、なんとしても働きで返さなくてはならない、と。

 

「お願いね」

 

 そう言い残し。

 死獣天朱雀の意識は、思考の海に沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、教授の思惑とルートの仮決定。
今度こそ3日後には。




デミウルゴスさん視点はモモンガさん視点の実に3倍の時間がかかっています。おかしいなあ……。
でも星空イベントはデミウルゴスさんでやりたかったんや……。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

喪なくしていためば憂い必ずむかう・後編

前回のあらすじ


新妻より先に指輪を渡しちゃって大丈夫なんですかねモモンガさん。


教授による現状の整理とルート仮決定回。
プロローグ上下と劇場版総集編が届いたのが嬉しすぎて遅くなりましたごめんなさい。
そんで書きたい情報とそれに必要な文字数を理解してないってはっきりわかんだね。以後気をつけます……。






 

 

 

 

 

 潜る。深く、ふかく、ふかく。

 思考の海へ。完璧な孤独が許された聖域へ。

 

 

 もっとだ。もっと、もっと、もっと。もっと深く。

 

 

 もっと。

 

 

 

 

 

 もっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂が訪れる。

 

 さきほどまで脳をざわめかせていた烏たちの視界が消えた。

 木々の葉や草花が擦れ合う音も、この世界に来てから鳴り続けていた泡の音も聞こえない。

 

 思考開始だ。一度こうなってしまえば、外の情報はもはやそうそう届かない。

 特段、なにかのスキルというわけではない。人間だった頃からしばしば使っていた、一種の逃避である。少々呼ばれてもうんともすんとも言わないので、友人と呼べる人間には、よく怒られたものだが。

 

 ちなみに、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーはこのことを知らない。

 彼らとは友人と呼べるような関係ではなかった、という話ではなく。脳内ナノマシンが起動していると、どうにも微弱なノイズが発生しているようで、結局集中できた試しがないからだ。

 

 あるいは今の種族がそうさせているのか、人間だった頃よりも、静かなところにいる気がする。

 静謐で孤独な空間。

 うみのそこにいるようだ、と改めて思った。

 

 

 

 

 

 さて、現状を整理しよう。

 

 

 まずは、ぼくとモモンガさんについて。

 

 ぼくと彼は某企業の看板DMMO-RPG、ユグドラシルにて、仲介のタブラくんを通じて知り合った友人である。

 彼はギルド長。ぼくはヒラ構成員。

 

 彼がぼくをどう思っているかは置いといて、ぼくは彼を人間的にとても好ましく思っている。

 性格は極めて温厚。誰に対しても柔和な態度で接し、勉強と研究を怠らず、責任感に溢れ、いざというときの判断力に優れた、ギルドの良きリーダー。

 少々仮想の世界にのめり込み過ぎるところもあるが、それを差し引いても組織をまとめていく素質が十分に備わっている人間だと言えるだろう。彼に格差という現実の残酷が重く圧し掛からなければ、それなりに地位のある人間として生きていけただろうことは想像に難くない。

 

 

 そんな彼と、ついでにぼくが、人間として生きていけなくなったことには理由がある。

 

 ほんの数時間前。

 ぼくにとっては数年前しばらく遊んだ、彼に至っては20代のほぼすべてをつぎ込んだゲームがサービス終了になると知り、最期のときを楽しく過ごそうと強制ログアウトまで遊ぼうとしていた結果。

 ぼくは古代の水精霊(エルダー・ウォーターエレメンタル)のまま、彼は死の支配者(オーバーロード)のまま、ギルド拠点ごと別の世界に転移してしまったらしい。

 

 なんとも若者が好みそうな展開だ。おじいちゃんは正直しんどい。

 

 不満があるわけではないのだ。あちこちがたが来ていたはずの身体はどこも痛くないし、魔法やら何やらを使えるのはそこそこ楽しい。人間のとき普通にできたことがスキルがないとできなかったり、頭の中がこぽこぽうるさかったりするけれど、まあメリットに比べれば些細なこと。

 何より友人が一緒にいる。素晴らしいことだ。ひとりぼっちは寂しいものな。

 

 

 ……これが。ぼくがもう40も若ければ色々と疑ったことだろうけど。

 

 

 ぼくはほんとにぼくなのか。彼はほんとに彼なのか。

 だって証明するものなんて何ひとつない。よくわからない原理で浮いてる水の塊と、欠片ほどの肉もついていないまっさらな人骨が、いくらお互いが知ってる声で喋るからと言って、元のぼくらと同じものだと果たして言えるのか。

 

 そしてこの状況は誰が仕組んだ? 

 どう解釈したって、今ぼくらが放り込まれているこの状況は偶然で起こっていいものじゃない。

 

 企業の推進するある種のユートピア計画? 神様の気紛れ? ナノマシンの暴走?

 モルモットに注射された細菌なんて立場もありそうだね。後々ワクチンを注入されるなり、世界に抗体ができるなりするわけか。それでぼくらの冒険は終い、と。

 

 ふざけるな、と。ひとの人生を弄んでおきながら高みの見物か、と。

 憤り、憎悪し、そして剣を取って。

 これを仕組んだ黒幕と、たたか、たた……。

 

 

 ……かわないね。戦わない。探したくもない。心底どうでもいい。

 人選間違ってるよ神様。若い子に買ってもらう苦労としてはいい値段だろうけど。

 

 これに関してはモモンガさんも同意してくれることだろう。

 アインズ・ウール・ゴウンの前身はPKKギルド、度を越した異形種への差別に抗った結果だと聞く。

 ナザリックは元々守りに異様に長けてはいても攻めにはあまり向いていない。どこのなにかもわからない何某神などに喧嘩を売ることなんか、あの石橋を叩き壊して横に鉄橋を作り出すようなギルド長であればまず考えもしまい。

 

 大体そんなに不安かね。自分が何で出来てるかわからない、なんて。現実にいる頃だって、自分自身の組成を詳しく調べたことなんてないだろうに。いつの間にか泥男(スワンプマン)と入れ替わってる可能性だってあるかも知れないのに。

 

 自分が「そう」だと思えば「そう」なのだ。

 我思う故に我在り。病は気から。別に精神論者ではないけれど、ポジティブに生きるのとネガティブに生きるのではどちらが生きやすいかなんて論じるまでもない。

 

 おまけにここには二人いる。ぼくが彼を彼だと認識していて、彼がぼくをぼくだと認識してくれている。

 

 これ以上ない証明だ。Q.E.D。

 この話はこれで終わり。次に行こう。

 

 

 

 

 

 この世界について。

 

 素直に見れば、未だ汚染されていない美しい世界。

 澄みわたる空、生い茂る草木、牧歌的な様相を色濃く残す村々。ある程度発展した街は存在するみたいだけれど、環境破壊と罵られるほど開拓されている様子もない。

 自然なくして生きてはいけないことを、理解しているものたちが住んでいる世界、だ。

 

 穿った見方をすれば、表面上美しく見える世界。

 ぼくもモモンガさんも呼吸がいらないし、毒も効かないものだから、この世界が一体何で出来ているかなんて結局のところわからない。形だけ綺麗な毒物でできていたとしても、だ。

 はたまたサーバーが違うだけで、ぼくらは未だ電脳空間に捕らわれたまま、ということも考えられる。データ量の桁が違うけれど、現在の技術であれば困難であっても不可能じゃない。

 

 もしくは、あるいは、もしかしたら。

 色々可能性はあるけれど、ここは素直に、「自然いっぱいの異世界」だと割り切ろう。もうどうにでもなあれ。

 

 そもそも考えてもどうしようもないことに脳の容量を圧迫されるのが好きじゃない。暇なときの手慰みならまだしも、今は他に考えなければいけないことが山ほどあるっていうのに。

 

 モモンガさんも帰りたくないと言ってくれたことなので、このあたりの証明不可能な事象のすべては「考えない」の箱にしまって鍵かけて焼却炉に放り込んである。時間の無駄。時は金なり。

 

 

 

 と、いうわけでもう少し焦点を絞ってみよう。

 

 ぼくらのギルド拠点、ナザリック地下大墳墓は周囲を草原に囲まれており、程近いところには、それはもう広大な大森林が広がっている。ほとんどが広葉樹で、地面も苔やらよくわからない草花やらでみっしりと覆われていて、人の手が入っているところは森の端のごく僅かだ。……無理やりにでもログインさせたかったなあ、ブループラネットさん。

 

 しかし植生はともかくとして、生息しているものが非常に気になる。

 どいつもこいつもどこかで見たことがある外見をしているのだ。具体的にはユグドラシルで。

 ゴブリン、バーゲスト、オーガ、エトセトラ、エトセトラ。

 

 世界そのもののことはあまり考えたくないところだけど、こいつらの出どころは調べる必要があるかも知れない。元々ここに住んでるのか、あるいは誰かが持ち込んだのか。要検証。次。

 

 

 

 知的生物について。

 

 モモンガさんがナザリックに引っ込んだ後、もう少し足を、否、羽を伸ばして、さらにいくつかの集落と、要塞のような都市を見つけた。

 

 森の奥地にある大きな湖の畔、沼の上に支柱を深く突き立てた木造の建築物。なんと住んでいるのは爬虫類。トカゲの亜人、かな?

 湖のとある一帯が彼らの版図のようだが、種のすべてが同じ共同体に属しているわけではなく、小さな共同体に分かれていて、それぞれ生活様式や風習が微妙に異なっているように見える。

 こういうのはいいね。人間種とはまた違う現地人独特の文明。外見だけでは予測がつかないことも多いし、ぜひインタビューしに行きたい。言葉が通じるといいけれど。

 

 そして要塞。城塞都市、か。最初に発見した集落の方へしばらく進んだところにある。

 

 立派な都市だ。造りもしっかりしてるし、この世界の攻城兵器がどの程度の威力かはわからないけど、セオリー通りにいくなら落とすのに数年はかかるんじゃないだろうか。銃火器も見当たらないし。

 これがどのような地理的要因がある場所に建てられていて、どことどこが戦う際に造られた城塞なのかはもう少し詳しく調べる必要があるだろうけど。

 ぱっと見て気掛かりなことがひとつ。

 

 ランプがやけに美しい。正確にはガラスの部分が汚れていない。

 このあたりの文明レベルで純化できる油なら、もう少し煤で汚れていてもいいはずだ。

 不自然にならない程度に近付いて見てみれば、どうも燃料を燃やして灯りをつけているのではない様子。

 炎ではない何か別の点灯手段があるのだろう。かといって電気を使用しているにしては、電線も発電機も見当たらないし、そんなものがあれば、酔っ払いが剣を引っ提げて革鎧で街を歩く、なんていう光景には多分ならない。

 

 高確率で、現実には有り得なかった未知の技術が発達しているとして間違いはない。

 

 それこそ、魔法、のような。

 

 個人的には、ぼくらが使えるのだから原住民が使えてもおかしくはない――モンスターと同じく出どころは辿らなければならないが――と思うんだけど、これを伝えたらモモンガさんはまたひどく警戒するだろうと考えると、ちょっと気の毒になってしまう。

 

 正直なところ、ぼくはモモンガさんほど、「ユグドラシル的な脅威」を警戒する気になれない。

 なにか得体の知れないものに巻き込まれてあっさり死ぬ、なんていうことは、かつての現実の方がよほど有り得た事態だったからだ。

 

 市民の多くには伏せられていたが、企業が推進する安全保障対策など、あってないような代物だった。

 下層市民の生活に関する予算削減、衣食住に関しての安全性は二の次、一定の間隔で繰り返されるマッチポンプじみたテロリズム。

 軽犯罪は「健全な社会」には必要なものとして対策を切り捨てられて、けれどそこから更に荒廃するほどのエネルギーを、社会はもはや有していなかった。

 ゆるやかに、しかし確実に滅び行く世界。そこがぼくらの現実だった。

 

 アーコロジーの住民だって絶対に安全とは言い切れない。

 このあいだも西区の方で、老朽化した施設に有害ガスが入り込んできたとちょっとしたニュースになっていたし、欧州でちょくちょく行われているアーコロジー間の紛争では毎回それなりの数の犠牲者が出ている。アーコロジー外の死傷者のほうが余程多いにしても、だ。

 

 

 索敵をぼくが買って出たせいもある。

 が、断言しよう。元いた世界の方が絶対危ない。ぼくらがレベル100のプレイヤーだということもあるけれど、それにしたって平和なものだ。

 

 だからモモンガさんのいう「外の脅威」は、ぼくにとっては「取るに足らないもの」、もしくは「どうしようもないもの」のカテゴリーに分類される。

 

 たとえばこの世界にプレイヤーがいたとして、だからどうだというのだろう。

 自分でいうのもなんだが説得には自信がある。どのような種族でこちらに来たとしても元々は人間だ。会話ができるならばどうにでもなる。欲にかられて襲いかかってくるやつはその時点で脅威ではない。

 徒党を組んで攻めてくるやつがそこそこ厄介か。でもなあ、いるかなあ。メンバーの大半が引退しても問題なく防衛できていて、最終日になっても攻めてこなかった連中が転移してきたからってそうそうナザリックに喧嘩を売ろうとは考えないんじゃないだろうか。

 

 たとえばこの世界にレベル1万の化け物がいるとして、だからどうだというのだろう。

 どうしようもないではないか。災害と同じこと。たとえ生き返ることが出来なかったとして、そんなことは「当たり前」の話であり、そう特別怯えるようなことでもないと思うのだ。

 

 この、ぼくと彼の間にある齟齬はきっと、ぼくらが辿ってきたルートの違いと年齢差によるものだ。

 

 まだ若かった彼と、老い先短いぼくの、危機感の違い。

 

 そして主だった交友関係は現実の方にあったぼくと、ユグドラシルの外にほとんど世界を持たない彼。

 彼は命を繋ぐために生きていた。現実世界ではなく、ゲームの中での生活を続けるために。

 別段、珍しいことじゃないのだ。ネットゲームへの依存が危惧されたのはそれこそ開発当初、百年以上前からのことだけど、MMOがDMMOになってからゲームへの没入感は更に増して、「帰ってきたがらなくなった」人間は余計に増えた。大学の教え子でさえ何人か帰ってこなかったし、他に碌な娯楽の無い層の市民ならばなおさらだろう。

 

 ゲームと現実を混同するな、なんていうけれど、それは生身の人間であったときの話であって、今現在、ぼくらは異形そのものの見た目と能力を持ってしまっているのだから、混同するのも無理からぬことだと思うのだ。

 人生のうち12年をゲームに費やしてきた彼ならば、尚更に。(まさかぼくの使える魔法まで覚えてると思わなかった。ぼく自身も覚えてないのに。「こんな魔法が使いたいなあ」って思ったら脳内にぼんやりと浮かぶから良かったけど)

 

 そのことが今、ぼくを大いに助けてくれている。

 ぼくだって別に死にたいわけじゃない。この危機感の欠如は文字通り致命的なものだ。自覚はある。

 彼は補ってくれている。その知識と経験によって、未熟で危なっかしいぼくをどうにか生かしておけないかと必死に足掻いてくれている。

 

 それに、報いることができればいいと、ぼくは思う。

 

 

 

 さて次。第一の本題だ。ずばりこの世界で何がしたいか!

 

 

 冒険、は、ちょっと興味がある。でもそれなら街頭調査を先にしたいかな。データを集めて愉悦に浸りたい。

 

 身体は確かに頑丈になったけど、若返った、っていう感覚はあんまりしないんだよね。ぼくが火精霊(ファイヤーエレメンタル)風精霊(エアエレメンタル)ならもう少し違ったのかもしれないけど、しがない水精霊(ウォーターエレメンタル)のぼくは、できればひとつところに落ち着いていたい。

 

 というわけで侵略や発展補助なんかもパス。せっかく現地で独自の文化を築いているのだから、それをぼくたちが滅ぼしたり助けたりしてしまっては勿体ないよね。栄枯盛衰を遠くからぼんやり眺めてるくらいがちょうど良い。

 

 

 だからできるだけ大人しくしておく方向で……、隠居? いいね、隠居したい。

 

 近くに湖もある。湖畔に別荘でも建てて、のんびり過ごしたい。洋風のロッジでもいいけれど、できれば和風がいいな。昔は田舎にまだいくらか残ってた、旅館っぽいやつ。

 スキルがないから多分釣れないだろうけど、窓際から釣糸垂らしたりして。現地のお酒とかも買ってちびちび飲むんだ。どうしよう、ちょっとわくわくしてきたぞ。

 

 幸い種族的に飢えや排泄の心配もしなくていいみたいだし、インフラなんかはとっぱらって、こぢんまりとした部屋で本でも読みながら過ごすのだ。

 ひとりじゃなくったって、TRPGのシナリオは図書館に山ほど持ち込まれてるし、ボードゲームもあったはず。インドアの娯楽はそうそう尽きない。

 

 この身体の寿命がどれだけあって、いつまでそんな生活を飽きずに続けられるのかはわからないけど、そうなったら最終手段。

 

 寝る。

 

 なんだかこの身体、耐性切ったらいくらでも寝られそうな気がするし。それこそ年単位で。

 

 しばらく寝たら周囲の風景も様変わりしていることだろう。そうしたらまた地道に現地でうろうろ調査に繰り出す、と。

 

 

 うん、決めた。

 当面は現地の調査と観察。

 最終目標、隠居! 

 

 我ながら素晴らしいプランだ。

 早速モモンガさんに打診したいんだけれど、も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……それが。

 

 許されそうにない理由が、ひとつある。

 

 

 これが、こちらの世界に来てから、一番大事なことで、最も恐ろしいこと。

 

 

 拠点と共に転移してきた、自我を持つNPC。

 アインズ・ウール・ゴウンのメンバー41人それぞれに、愛と理想と性癖を惜しみなく注がれて造られた、意思ある0と1の羅列。

 

 おそるべきちからをもった、怪物たち。

 

 ちから、といっても。単純にステータス上のことではない。

 昨日のうちに名前のついたNPCの設定はすべて読み込んだけれど、正直ゲーム上の強さに関してはピンと来ない。

 が、相性が最悪のコキュートスはともかく、1対1でやりあうなら流石に負ける気はしない。

 ぼくが怖いと思っているのはもっと別のものだ。

 

 

 順を追っていこう。

 

 

 転移した直後。ゲームの終了と同じだと思われるこのときは、自分達が置かれている状況を把握するのに精一杯で、NPCに関して考える時間も心の余裕もない状態だった。

 

 精々わかっていたと言えるのは、NPCに感情らしきものが表出するようになったこと。

 命令できる内容がコマンドの域を越えていること。

 直前に書き換えた設定が反映されているということ。

 

 タブラくんがアルベドに与えた設定を書き換えてしまったことに関しては、漠然と、まずいなあ、という思いが頭の隅にあったけれど、具体性もなにもない考えが、現在進行形で存在しているかも知れない危機に優先されるはずもなく。

 時間は進む。 

 

 

 パンドラズ・アクターに宝物殿で会ったときも、気にかかることは特になかった。

 前情報がゼロであったことも関連しているのだろう、少々仕草が大仰だとは思ったけれど、こちらが投げ掛けた話題に対しての返答は実に流麗で、ストレスなく会話を楽しむことができたのだ。

 

 ……今思えば、そのことに対してもっと疑問を抱くべきだった。パンドラズ・アクターの知識に、知恵に、教養に、「至高の御方」という単語に、この時点で疑いを持つべきだったのだ。

 

 パンドラズ・アクター自身の存在を危惧しているわけではない。

 ティトゥスに会ってみるまで確証は持てないが、モモンガさんがいる以上、パンドラのことはそこまで警戒しなくて良いはずだ。

 

 

 そう、問題はここからだ。

 第六階層で出会った、階層守護者たち。

 

 顔を合わせた瞬間からなにかがおかしいと思っていた。

 

 

 命令もなくひれ伏すのは当たり前で、聞いたこともないような敬称でぼくらを称し、こちらが知りもしない忠誠の儀とやらを勝手に行う。

 別に、勝手に行動したことが嫌だったとか、そういう話ではなく。

 ただ、この時点で、すごく嫌な予感がした。

 

 第九階層へシモベを立ち入らせることを戸惑い、外壁に土をかけることを厭う。

 ぼくらが自分達にとってどのような存在かを聞けば、日常生活ではまず聞かないような賛美の嵐。

 お世辞じゃなくて、心からの。

 

 このときにはもう、ぼくの中でNPCの意識がどのようなものか確定していたから、後に行った質問は、彼らの記憶に関してのことだ。

 嘘をついていることは考慮しない。隠し事はしているかもしれないけど、まず嘘はついていない雰囲気だったし、いちいち考えていたらきりがない。

 

 

 まず彼らは1500人の敵が侵攻してきたことを覚えている。そこで殺したという事実も、殺されたという事実も。シャルティアが倒した人数を覚えていないのは、上階層になだれ込んできた大量の敵の生死を把握しきれなかったことと、単純に彼女の記憶力によるものだろう。

 創造主が無様に泣きながら褒めてきたことは、思い出しただけで泣くほど嬉しい、と。

 

 デミウルゴスとアウラ、そしてマーレ。彼らは一様に、身体のデータをいじられたことに関しては全く覚えていない。

 ぼくはナザリックがアインズ・ウール・ゴウンの拠点になってから入ってきた後続組だけど、多くのNPCが完成する前に入ることができたから、色々と見聞きしたものがある。

 

 デミウルゴスは当初、もう少し悪魔然とした衣装を身につけていたが、執事キャラに決まったセバスのコンセプトデザインに対抗してか、急遽スーツに変更することになった。その際尻尾の位置や髪の色などを変更して、スーツと一緒に微調整を行っていたので、ウルベルトさんがスーツの色を迷っているところがデミウルゴスの最古の記憶ならば、NPCの記憶の始まりは、「身体のデータが確定した瞬間」ということになる。NPCの着せ替えは度々行われていたが、作成担当の手を煩わせることもあって、一度確定した身体データに関しては変更しないようにとの決まりがあった。故に確定してしまった外装を補うために設定に性癖をぶち込んだ者も多い。

 

 アウラに関しても同じことが言えるが、そういう設定であることを認識しているのか、時間の感覚がそもそも違うのか、はたまたダブルシンクによるものか、年齢のことに関しては完全に矛盾を受け入れているようだった。他の連中も疑問を抱いている様子がなかったが、モモンガさんは流石に気付いていたと信じたい。「8年前に生まれた76歳です」なんて、NPCのことながら頭がおかしくなりそうだった。

 

 駄目押しにマーレ。事実としてあったことでも、知覚できないことは覚えていない。

 ぶくぶく茶釜さんは双子の肉体を作るにあたって、それはもう服とは比べ物にならないほどの時間をかけている。双子のこどもとはいえ男女なのだからその身体には性差がある、と。造形担当が泣いて許しを乞いだしたので途中で妥協することになったが、あそこからスカートの微調整まで要求していたとは、いやはや彼女の業の深さは弟さんの比ではない。

 一応擁護させてもらうなら、彼女は普段分別を弁えた大変理知的な女性であり、今回のこだわりが許されたのは、タンクであった彼女が造形担当の狩りを何度か手伝った結果の正当な報酬である。

 

 彼らの肉体と記憶の関連性については十分だと思ったので、ここから先は別のこと。

 コキュートスはナザリックの外に世界があると知っており、簡単な情報も頭にあるが、聞いた限りでは、すべて伝聞で認識している。設定に「ニヴルヘイムから来た」と書いてあるだけでは、知識が勝手に補完されるわけではないらしい。

 NPCの眼前で行った会話だけで知識のすべてを得ているわけではないようだから、恐らくサーバーからいくらか与えられたものがあるのだろうが、利用するにあたっては個人差があり、そちらは設定にある知力が反映されている、と。

 ともかくこれでわかったのは、NPCにとってはナザリックがすべてであり、外のことについては、たとえ本人の設定的に重要なことであっても、勝手に知識が補完されているというわけではない、ということだ。

 

 では、設定で足りないところを、彼らは何で補っているか?

 ずばり創造主の思想である。

 

 今ならみんなが「糞製作」「糞運営」と言っていた意味が心から理解できる。

 知ってたけどね。企業がナノマシンを通じて使用者から情報を吸いだしてるのは。ある程度公然の秘密だと思ってもいたけど。

 

 モモンガさんじゃないけど、ティトゥスに会いたくない。設定はかなり詰め込んだ方だから、セバスほどのことにはなってないと思うけど。

 

 

 

 

 

 さて、ここまで情報を得て、強く確信したことがある。

 

 

 NPC達はぼくらに忠誠を捧げると言った。

 モモンガさんにもぼくから何度か忠誠という単語を出したけれど、それに関して彼は特に違和感を覚えないようだった。

 だが、ぼくの認識においては、連中がぼくらに向けるあれは、忠誠ではない。

 

 

 信仰だ。

 

 

 NPCはぼくらに誠意をもって尽くしているが、それ以上に信じ崇めている。

 似て非なるもので、より性質の悪い方。まさに神の如くぼくらを敬っている。

 

 が、しかし。

 その信仰は歪でちぐはぐだ。

 

 順序が逆なのだ。

 はじめに人ありき。それが信仰の根底である。少なくともぼくの持論はそうだ。

 人は弱い。肉体的にも、精神的にも、人間という種族は余りにも脆弱だ。

 故に人は拠り所を必要とした。理不尽な災害に、権力に、絶対的で覆ることのない根源的な理由を求めた。

 

 そうして生まれたのが神であり宗教だ。一神教も多神教も変わらない。

 勿論本気で神の存在を信じるものはいるし、中には現人神として名乗りを挙げた者に全力の信仰を預ける例もあるけれど、彼らが求めているのは大体が救いであり、神の存在そのものではない。

 神の存在非存在についてここで多く論じるつもりはないが、ぼく自身は地球で最初の生物は煮えた硫化水素から産まれたと思っているし、神が世界を形造った物的証拠はどこにもない。

 

 

 けれどナザリックのNPC達には事実がある。

 ぼくらにかたちづくられたという前提があり、愛されて生まれたという自覚があり、それらに対しての感謝があり、それを誇りに思いながら、絶対の忠誠を捧げ、神の如く信仰している。

 

 だからこそ、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーを雲の上の存在として敬い慕っていて、強大な力と神算鬼謀を有した絶対的なものだと信じて疑わない。

 

 

 これによって何が起こるか?

 

 もし、ぼくらがNPCの思うような支配者ではなく、凡人の集まりだと知られたら?

 連中が思うような力も知恵もないと知られたら?

 

 叛乱? 謀反? クーデター?

 否、もっと恐ろしいことになる。

 

 

 NPC達はきっと責める。ぼくらではなく、神を神たらしめられない自分達を。

 

 そして自らの力と知恵を以て、ぼくらを神へと奉り上げようとするだろう。

 自分達を創造し、その上に君臨するに相応しいものにしようと、全力を尽くすだろう。

 

 NPCにはそれを成すちからがある。

 そしてNPCはきっと折れない。

 どれほどの困難が立ちはだかろうと、この世界のすべてを犠牲にしてでも、必ずやり遂げる。

 

 

 それが単純な力であれば、ぼくはここまで思い悩まなかった。

 それならあくまでステータス上のことであって、その力はぼくらもまた有しているものだからだ。

 

 しかし。

 知恵者、とはっきり設定されたものに関して。

 

 財務担当のパンドラズ・アクター、防衛担当のデミウルゴス、守護者統括アルベド。

 まともに会話したのはこのうち二人だけだけれど、もはや疑いようもない。

 

 

 

 知恵者として設定されたNPCの知能は、創造主のそれを遥かに凌駕している。

 

 

 

 さっきデミウルゴスと会話をしていて痛感させられた。

 レスポンスが早すぎるのだ。

 

 デミウルゴスが八咫烏を発見したと思しき瞬間から、ぼくに索敵をしているのかと問いただすまで、時間にして2秒もたっていない。

 ぼくがNPCによる索敵を渋って、デミウルゴスの中にいくつの対案が生まれたのかはわからないが、言葉の途中で口を挟まなければ、ぼくはその案に乗らざるを得なかっただろう。はっきり言って、なんでデミウルゴスがぼくの案で退いたのかいまだに良くわからない。遠慮が先に立ったのだと思うんだけど。

 また、ぼくらがここに来てから今までの数時間で、アルベドによっていくつの計画が生み出されたのか。それがどれほどの数守護者達によって実行されてきたのか。「把握している」とか「優れている」という設定があるにしたってちょっと早すぎるだろう。

 

 

 そもそも、だ。

 優秀である、と。知恵者である、と。

 なにがそれを定義づけ、具体的な能力を与えているのか。

 

 

 少なくとも創造主ではない。

 言っては悪いが、パンドラズ・アクターの語彙、教養はモモンガさんのそれより確実に豊富である。

 本来、被造物は作者よりも賢くはなれないはずなのだ。被造物の頭にあることは、作者の頭の中にしかないのだから。

 ナノマシンを通じてやりとりしたことで、性質的には創造主を継いでいるところはあるかも知れないが、少なくとも知能に関しては創造主のそれを使って補われているわけではない。

 

 アルベドとデミウルゴスにしても、「役目を担うだけの知能を持ち合わせている」と設定されてはいても、「そのためにどの程度の計算処理能力が備わっているのか」は具体的に記されているわけではなかった。にも拘らず、二人は創造主を大きく超えた、否、文字通り人外の、悪魔的頭脳を持ち合わせている。

 

 

 故に。

 ナザリックの財政を管理するのに、防衛を担うのに、守護者を統括するのに。

 必要だとされる知能を定義し、与えたものは。

 

 考えうる最悪を想定するならば、ユグドラシルの製作会社が有しているスーパーコンピューターそのものであり、且つ、その演算能力がそのまま、知恵者と設定されたNPCに適応されている可能性がある。

 

 

 それでいて。

 この場に創造主が来ていない者は皆例外なく。

 置いていかれることを恐れているというのだ。

 

 毎秒、垓を超える計算を可能とする頭脳が!

 ぼくらをナザリックに引き留めるために全力を尽くそうというのだ!

 

 

 馬鹿かよ、と、面と向かって言いそうになったけど。

 他の質問にはぽんぽん即答したくせに、たっぷり20秒は悲痛な顔で沈黙してしまったものに、そこまで無情になれなかったわけで。感情の処理ってやっぱり容量を食うんだね。

 まさか感情論にシフトした途端あっさり折れると思ってなかった。あそこは本当に否定して欲しかった。否定してくれると思ってた。

 セバスの「見捨てないでくださった」という発言から、ギルドメンバーが去ることを恐れる度合いは書き込まれた設定の量に関係するかと思い、アルベドに比肩するほどに設定の書き込まれたデミウルゴスならばもしや、とわずかな希望を抱いたけれど、彼が駄目ならもうナザリックのどのNPCも駄目だろう。

 

 

 そこから脱却する可能性があるとすれば、アルベドだろうか。ぼくが感情のベクトルを収束させてしまったことで、モモンガさん以外のメンバーには、創造主のタブラくんにさえ、興味が薄れている様子。あるいは置いていかれたことを恨んでいるか。

 

 だが彼女の場合は設定そのものが問題だ。ぼくがセーフティを外してしまったから。

 はじめはタブラくんのギャップに対する愛が溢れた結果、最後の一文になったのだと思っていた。けれど今思えば、あれもまた設定の一部だったのだ。

 愛憎もろともに深い彼女が、性欲という形でベクトルを拡散することによって、守護者統括として完璧に落ち着いている、という。

 それを外してしまった今、下手を打てば伴侶たるモモンガさんの監禁まで実行しかねない。それはあまりに気の毒だ。

 

 

 ナザリックに監禁されるだけなら別に良い。

 41人もの人間がめいめい好きなように手を加えたこの場所は、些か情緒に欠けているとは思うが、その欠落こそ愛すべきところだとも思っている。

 このナザリックに引き込もって穏やかに過ごしていられるのならばそれでいい。

 

 

 が、そうは、ならない。

 

 

 ここがユグドラシルの9枚の葉の世界なら、わずかなりとも可能性があったかもしれないがここは異世界だ。

 ナザリックの外には実に平和な世界があり、そこにはぼくらより遥かにか弱い存在が身を寄せあって暮らしている。

 

 主人がこの土地を美しいと言った。

 愛する主人に是非とも献上したい。

 その地には虫けらがたくさんいる。

 

 ならば、駆除してから渡すのが道理だろう、と。

 

 

 ……あり得る。絶対やる。

 ぼくらを「至高」と言うことは、他はそれより「下」ということだ。少なくともロールプレイにおいてはそのような表現をメンバーは度々行ってきた。

 別に現地の人間が死ぬことに関しては、この身体のせいだろう、そこまで忌避感を覚えないが、今ある現地独特の文化が滅ぼされてしまうのは個人的には避けたいところではあるし、なにより。

 

 

 モモンガさんが、死の支配者(オーバーロード)になってしまう。

 

 

 そこまで飛躍した発想ではないはずなのだ。

 仮に、もし、モモンガさんがたった一人でこの地に来てしまったと想定しよう。

 

 彼はまず怯える。

 見知らぬ土地に。自らの境遇に。周りの部下達に。

 けれど周到で適応力の高い彼ならば、ぼくらが今いる段階までは容易くこぎつけるだろう。

 

 NPCから見ても、彼は「最後までこの地に残った慈悲深い主人」であるようだし、ギルド長という地位もあって、彼らは問題なくモモンガさんに忠誠を誓い、ほどなくして、そのことだけがモモンガさんを安心させる。

 仲間の作った子達を使役することに戸惑いながらも、人手の足りないモモンガさんは彼らを外へと送り出してゆくだろう。

 

 見た限り、外の世界の生き物は僕らから見てあまりに脆弱だ。

 だったら何をする? 実験するよね。

 

 モモンガさんは優しいからそんなことしない、なんていうことはもう言えない。

 彼より少々長い時間生きているぼくでさえ、人間(こころ)水精霊(からだ)に引きずられつつある。

 病は気から。しかし逆もまた然り、だ。精神(メンタル)肉体(フィジカル)に少なからぬ影響を受ける。

 

 最初はそう大きな規模のものじゃない。度重なるPKによって他のプレイヤーを恐れる彼は、その時点では大きくことを動かすようなことはしない。いるかどうかもわからない他のプレイヤーに発見されることを防ぐためだ。HPの枯渇がイコール死を意味するかもしれないのなら、なおさらに。

 適当な暴漢に魔法を叩き込んだり、傷ついたものを回復できるか試したりしながら、徐々に生活圏を広げ、また色々と実験する。

 何ができるのか、何ができないのか。この世界では何が手に入り、どのように失うのか。ミクロとマクロの両方において、どれだけの規模のことができるのか。

 

 彼はそれに慣れていく。死の支配者(アンデッド)として命を奪うことに慣れていく。実験しなければならないことも、実験材料も、そうそう尽きはしない。確実に、彼が慣れる方が先だ。

 彼を信奉する人外の存在に支えられながら、彼は少しずつ、しかし着実に人間性を手放してゆくだろう。

 

 敵対するプレイヤーが近くにいなければ、現地での実験がより大規模なものになり。

 近くに現れたならそいつを使って様々なことを試す。

 現地にとって一番悲惨なのは敵対するプレイヤーに隠れられたときだろう。周囲を最大限警戒しながら実験規模を拡大せざるを得ないモモンガさんに、現地の生物に与える慈悲など残ってはいまい。

 

 平行して、彼はNPCに相応しい主であろうと努力し続ける。

 はじめは彼らの裏切りを恐れて、次第に彼らの真っ直ぐな期待を裏切ることを恐れるようになり、彼は神経をすり減らしながら、支配者としての演技を磨き続ける。

 

 そうして磨耗した精神は肉体の侵蝕を許し、元々ナザリックの外にほとんど繋がりを持たなかったモモンガさんは、ナザリックの者だけを愛する支配者に変貌してしまうことだろう。

 名実共に立派な死の支配者(オーバーロード)に。

 

 

 

 ……それで?

 

 それは果たして悪いことか?

 

 

 

 別に不幸なことではない。

 ぼくからしたら彼らは今尚プログラムの延長線上にいるけれど、モモンガさんはすでに彼らを友人の子どものように思っているみたいだし、そんな彼らにひたすら慕われて、優しい彼が、気を悪くするなんていうことはきっとない。

 どこかしらギルドメンバーの面影を残す彼らに囲まれて、寂しがりやの彼の生活は、大変ながらも満たされたものになるだろう。

 

 ぼくがいたってさして変わりは無い。

 ユグドラシルというゲームに詳しくないぼくが、彼のためにできることは余りにも少ないし、彼がそうして幸せに暮らすのを邪魔するつもりも、その権利も持ち合わせてはいない。元々観察は趣味でもあることだし。

 

 放っておいたら決して低くない確率で世界征服の路線に乗るだろうけど。

 彼はきっとこの世界に仲間が来ていないか探したがるだろうし、NPC達は主が宝石箱と例えたこの世界を献上したがるに違いない。自分達の目の届く範囲が増えるということは、それだけ危険も減るということでもある。

 世界征服が成功不可能と言われているのは、統治する者に寿命があり、配下の者たちが内部分裂を起こす危険性が考えられるからであって、圧倒的な力と、寿命がないとされている異形種の身体、そして絶対の忠誠を誓うNPCがいる現状では、実は達成できてしまう範囲の事柄でしかない。

 ぼくは面倒くさいからあんまり関わりたくない。元々後方支援だし。

 

 たとえばぼくらがモルモットに注射された細菌の立場だったとして、じゃあ大人しくしてたら何も起きないのかといえば確証なんかないわけで。

 それならできる限りNPCのストレスにならないように動くほうが後々いいんじゃないか、と。現地の生き物に関しては、ご愁傷様、というしかない。

 

 いくら人間性が失われると言ったって、まさかぼくのことまで忘れるなんてことはないだろう。願望でしかないけれど、少なくともぼくが今の関係性を維持しようと思うなら、基本彼はギルドメンバーであるぼくのことを優先してくれる。

 

 彼には頑張って支配者をしてもらって、ぼくは仕事を手伝いながら隠居の準備に入る。

 時々息抜きに連れ出してやれば、ストレス値の上昇も軽減されて、幾分精神の疲労もマシになることだろう。

 

 それで彼はゆっくりと死の支配者(オーバーロード)になっていくわけだけど、同時にぼくも古代の水精霊(エルダー・ウォーターエレメンタル)へと近づいていくので、きっとそんなに気にならなくなる。

 

 世界征服を進めていく彼の友人として、この世界を満喫する。

 うん、いいんじゃないかな?

 

 

 それなら。

 

 

 それで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、違うだろう。

 

 

 

 彼がそれを心から望むというのであれば、ぼくはもう何もすることはない。

 

 だが、彼は人間だったはずだ。今もまだ人間でいたいと思ってくれているはずだ。

 そうでなければ「帰りたくない」なんて言わない。

 どうでもいい、じゃないんだよ、帰りたくない、だ。明確に、こっちにいたいと示してくれた。

 

 あの、滅びを待つだけのどうしようもない世界で、自分がなにも持っていないことを自覚しながら、失われたものを眺めて余生を過ごすのは嫌だ、と。

 自分からはあの後連絡を寄越す気がなかったくせに、それでも去っていかれるのは寂しいと、置いていかれるのはおそろしかったと。

 それでいてこちらの世界では、従僕たちの羨望や忠誠にいちいち怯えて、傍仕え一人連れて歩くのも落ち着かないという。

 

 自分勝手で、寂しがり屋で、臆病で、責任と依存を完全に履き違えている、けれどもそうならざるを得なかった哀れな生き方の。

 全部切り捨ててしまえば楽になるっていうのに、今ならまだそれができるっていうのに、そんなことは選択肢にも上がらない、愚かしいほど優しいこころの。

 

 それが人間でなくてなんだというのだ!

 

 

 そんな彼がぼくを守ろうとしてくれている。

 かつての思い出を共有した仲間達がいつかふらりと帰ってくるかもしれない。それだけの理由でナザリックを維持し続けた男が、未知という恐怖に怯えながら慣れない指示を出して懸命に防衛を固めようとしている。

 ふたたび仲間(ぼく)を失わないように、必死に足掻いてくれている。

 

 たとえそれがぼくの願望だったとしても。

 

 

 だからぼくも、足掻かなければならない。彼の献身に報いるために。

 

 彼の人間性が削られないように、最大限の努力を払わなければならない。

 

 だって失われたものは、もう二度と戻ってはこないからだ。

 命も、歴史も、信用も、人間性も、一度失われてしまえば決して戻らない。

 戻ってきたと思っても、それは前とは別のものだ。同じものでは絶対にない。

 

 保つことができるのはまだ持っているものだけだ。捨ててしまったなら拾うことはできないのだ。

 ひとは過去には戻れないのだから。

 

 

 

 だからぼくは目標のひとつに、現地生物との相互不可侵を掲げる。

 

 

 観察と調査は進めよう。でも関わらない。あくまでもこちらは異邦人であり、傍観者であるというスタンスを貫く。

 

 改革や征服をこちらで操縦するのはまず不可能だ。

 この頭ひとつで世の中を渡ってきたという自負はあるけれど、ちょっとNPCには勝てる気がしない。

 なにより面倒くさい。ほんとにやりたくない。

 

 早期段階でぼくが望む方向に誘導することも考えたが、モモンガさんを差し置いて彼らを説得することもしたくない。

 今の段階ではまだモモンガさんは彼らがどれだけ世界征服をしたがるか認識してくれないだろう。ナザリックの防衛で頭がいっぱいのようだし、別の方向から負荷をかけることは本末転倒になる。

 

 故に、先手を取るしかない。

 彼らが世界征服路線に頭を回し始めたなら、もうぼくには追いつく術がない。

 できる限り情報を制限して、可能な範囲で彼らをナザリックに閉じ込めておく。

 

 

 ……もうとっくに、後手にまわってるかも知れないけれど。

 

 

 それでもやれるだけやってみようじゃないか。

 もう駄目だ、と膝をつくまでは、せめて。

 

 そこから這い上がる気力も意地もぼくにはないけれど、そこまではなんとか足掻いてみよう。

 生まれたての化け物どもに、人間の方がよほど手強いということを教えてやろう。

 

 

 そこで、問題がもうひとつ。

 

 ぼくにもまだ人間性と呼べるものが残っているから、今後高い確率でNPCに絆されることだろう。

 人間は、自分に対して好意を向けてくるものに対して、そう長い間気を張っていられないものだ。ましてやあんなひた向きで真っ直ぐな、無条件の好意に対して。

 世界征服ぐらいいいかな、って、思うようになってしまうかも知れない。

 

 なので。

 自分の中にある、ひとつのスキルを確認する。

 

 明鏡止水。

 

 少々ざわついていた心が嘘のように静かになるのを感じる。

 元々は精神系のステータス異常を好悪関係なく受けなくなるというスキルだが、やはりフレーバーテキストの効果があらわれているらしい。

 

 友人の人間性を保つために、自分がモンスターのスキルを使うなんて、なんとも皮肉なことだとは思うけど。

 

 

 

 さあ、方針も決まった。

 多分、そろそろ時間だ。

 

 不安なことだらけだけど、なんとかしてみよう。

 

 

 そっと決意して、意識をゆっくりと浮上させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼が覚めて、はじめに見たものは。

 ぼくの目の前で、ディフェンスのようなポーズを取るナーベラルだった。

 

「……ナーベラル?」

「!!」

 

 申し訳ありません、死獣天朱雀様! と、素早く後ろに下がって一礼する。屋根から落ちそうで危なっかしい。

 起こしてくれ、とは言われたものの、どう触れていいものかわからなかったらしい。

 いいからいいから、と、宥めつつ、ふと横を向くと、空がどんどん白んでゆくのが見えた。

 

 なるほど、こちらが東。ぼくは今まで南を向いていた、と。

 自分の心にむかって、もう少し朝日に感動しても良いものじゃないか、と思ったけど、スキルがちゃんと働いているようで安心した。

 

 上空に飛ばしていた八咫烏を戻しながら、視界を切り替える。

 想定よりも霧の範囲が広い。森の南側、3分の1ほどが完全に覆われてしまっている。

 召喚獣は時間経過で消えているから、あとは風があればそのうち散ると思うけれど。

 ちょっとやりすぎたようなので、今度は第7位階を永続化で召喚し直せば、ちょうど手元に八咫烏が戻ってきた。

 

 ……攻性防壁は、まだ残っている。誰かから覗かれているということはないらしい。外からも、中からも。

 

 一応今どのあたりに他の八咫烏がいるのか確認するために、視界を切り替えていく、が。

 

「あれっ」

 

 1羽死んでる。北の方に行かせてたやつが。

 例のイビルツリーにやられたか? でもレベル差が開いてるやつにはあまり近づかないよう命令を出してたんだけど。

 思わずあげてしまった声に、ナーベラルがきっちりと反応する。

 

「いかがなさいましたか?」

「ん、いや。面白いもの見つけたから。後でモモンガさんに報告しようと思う」

 

 <補充(リストレイション)>で新しいものを召喚して、もう一度北側に飛ばしなおした。

 死んだ数だけ覚えておけば、デミウルゴスとの約束を破ったことにもならないだろう。

 

「さて。そろそろ戻ろうか、ナーベラル」

「はっ」

 

 きれいな声で応答する彼女の姿勢はやはり美しく、弐式炎雷さんはこだわってたものなあ、と、ぼんやり思う。

 

 なんとはなしに見上げた霧の向こうの空は、こんな青が世の中にあってもいいのかとおもうくらいに青くて。

 思わず、声に出そうになった。

 

 

 

 あー、隠居したい。

 

 

 

 口に出してしまったらナーベラルに何事かと思われるので、絶対口に出せないけれど。

 

 

 

 最終目標は随分と先のことになりそうだ、と、こぽり、ため泡をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





年寄りが冷や水。


というわけで、ここまでがプロローグ。
次から相互不可侵(努力目標)ルートへの準備に入ります。
果たして縁側で茶をすすれる日は来るのか。

次回は周辺地理の共有回なのでちょっと遅くなります。
常軌を逸した方向音痴なので今からこわい。


本日の捏造

・NPCの記憶について
原作でモモンガさんが彼らに聞く気配がないのでほぼ全てにおいて好き勝手捏造してます。
本編で言ってなかったように記憶してはいるのですがもしあったらどうしようと震える今日このごろ。
前提が崩れるどころの話じゃねえ。

・ゲーム製作会社がスパコンて
ニューロンナノインターフェイス? を使用した? ゲームらしいので? 
処理能力的に必要かなって……100年以上未来ならあってもおかしくないかなって……




遅ればせながら、お気に入り、感想、評価、ご指摘誤字報告ありがとうございました。感謝の極み。
日々何故かじりじりと増え続けるお気に入りの数に正直怯えていますがぼちぼちやっていきます。
やっぱみんな死獣天朱雀さんに飢えてたんやなって……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一章 進出
オーバーロードはスケルトンメイジの夢を見るか・前編


前回のあらすじ


ルート仮決定。



今回と次回は情報共有回なのでいつも以上に何も起こりません。

もうみんなして難易度ルナティックっていうもんだから怖くなってきたじゃない!
ハードルはもっと下げてどうぞ(懇願)

2017.10.10
ちょっと文字数が増えました。



 自分の部屋って言ってもなあ。

 昔、集めるだけ集めた武器や防具が散らばる床を眺めながらそう思う。ローブやスタッフはまだしも、グレートソードや全身鎧(フルプレート)の外装データをこんなに買って昔の俺は一体どうするつもりだったのか。衝動買いとは恐ろしい。

 

 しかし実感が湧かない。まだ24時間も経ってないのだ。

 暗く寂しいがらんどうの、「これだけは質の良いものを」と奮発して買ったゲーム用の椅子が真ん中にぽつんとあるだけの、何も無い部屋から、ここに転移してくるまで。

 

 それが今ではこれか、と、ふいに辺りを見回す。<永続光(コンティニュアルライト)>で照らされた煌びやかなドレスルーム。ここだけで十分住めるというのに、ロイヤルスイートをイメージして作られたギルドメンバーの個室には41室それぞれに、主寝室、キッチン、浴室のみならず、客用寝室やバーカウンターまであるのだから、担当者の作りこみには敬服するばかりである。出張先で泊まるホテルといったらカプセルホテルだった現実(リアル)とは大違いだ。

 

 ふと、傍に控えていたソリュシャン・イプシロンと目が合った。きれいな縦ロールの金髪を揺らすこともなく、如何なさいましたか、という柔らかな微笑をこちらに向けてきたので、彼女の足元にあったグレートソードをこちらに持ってくるよう指示を出す。自分で取れよ、と俺の中の小市民が声を上げたけれど、ソリュシャンに限らずナザリックのNPCは仕事を与えられることに幸せを感じるらしく、ちょっとしたことでも嬉しそうに従ってくれるのでついついお願いしてしまうのだ。「メイドは飾るものではありません。使うものです。そして愛でるものです!」と力説していたホワイトブリムさんを思い出した。そのままヘロヘロさんとのメイド談義に入ってたっけ。懐かしい。

 それにしても、メイドつきの部屋に住むような身分になるなんて、想像したこともなかったな。部屋が豪華なのは嬉しいけど、落ち着くか落ち着かないかって言ったらあまり落ち着かない。根っからの小市民なんです。そのうち慣れるかなあ。

 

 

「失礼します」

 

 ソリュシャンからグレートソードを受け取るとほぼ同時、丁寧なノックが4回。入れ、と命じた一拍のち、メイドの涼やかな声と共にドレスルームの扉が開かれる。

 夜が明けた、との通達がありましたので、ご報告を。これまた丁寧なお辞儀をもって、41人いる一般メイドのひとり、インクリメントがそう告げる。転移してくる前に一通り設定を確認していて良かった。こちらに来てから慌てて覚えることになるとか、考えただけでぞっとする。ただでさえいっぱいいっぱいなのに。

 

 そうか、ご苦労。と、出来うる限りの威厳を保ったままメイドを労って、ちらりと部屋に備え付けられている時計を見た。細かい装飾が彫られた木製の立派な柱時計だ。

 ユグドラシルにいた頃は画面に時計が備え付けられていたから使う人はあまりいなかったけど、「異世界で冒険をしている」というこだわりのために、わざわざ作った時計を装備品として携帯している人はたまに見かけた。「未知を開拓する」がコンセプトのギルド、ワールドサーチャーズなんかで流行ったという話も聞く。

 俺は部屋と同時に作ってもらったこの時計が気に入っているからそのまま使ってるけれど、ここナザリックの第九階層、ギルドメンバーの私室にもそれぞれ思い思いの時計が飾られている。デジタルだったりアナログだったり、各々の個性が見えてちょっと楽しい。

 

 夜明けの瞬間なんてものは現実世界で見たことがないからピンと来ないけど、結構遅い時間なんだな、と思った。というか俺はいつも夜明け前に起きて出社してたのか……。こんなことをあのブラック会社の上司に言えば、昼夜逆転してないだけマシ、なんて言葉が返ってくるんだろうけど。

 

 もやもやと前の職場の文句を考えながら、手の中にあるグレートソードを片手でもてあそぶ。魔法職とはいえ100レベル分積もり積もった筋力があるから、羽根のように軽い。が、両手で構え、頭上に持ち上げて、振り抜こうとしたそのとき、かしゃん、と音を立てて剣は床に落ちた。

 

「やはり駄目か」

 

 朱雀さんと別れてから、部屋をひっくり返して色々と調べてみたが、ユグドラシルで種族的、職業的にできなかったことは、こちらの世界においてもできないようだ。もうちょっと融通を利かせてくれてもいいと思うんだけど。

 

 落ちた剣を拾い上げたソリュシャンがそれを手渡そうとしてきたのを断って、<上位道具創造(クリエイト・グレーター・アイテム)>を唱えた。突如として現れた全身鎧(フルプレート)が身体を覆う。魔法で創り出したものならば問題なく着用できることを確認して、装備を解いた。そっと、下を見おろす。

 

「実践使用しないでなくなっちゃったか……」

 

 そんな予定も、使用できないという焦りも実のところはなかったけれど、なくなってしまうとやはり物悲しい。そんな感情もあっさりと沈静化されて、冷静になる。

 こちらに来ていた頃から薄々感じてはいたが、アンデッドの種族特性、精神攻撃無効化が効いているらしく、激しい感情は抑制されてしまう。状況が状況なので、冷静でいられること自体はそう悪いことではないと思うが、嬉しいときも容赦なく沈静化されるのが非常に鬱陶しい。

 

 物理的に性行為ができないことに加えて、飲食、睡眠も不可。不要ではなく不可。どれもできないのだ。飲食物は口に入れるなり骨の隙間からぼたぼたと零れ落ちてしまうし、一晩中起きてるのに眠気がまったく襲ってこない。すごい早さで人間からかけ離れていっているような気がしたけれど、そこに大した恐れもない。そのことが、少し怖かった。

 

 

 しかしこれらのことを踏まえても思うのは、実験が足りないということだ。特に対人のスキルや、魔法に関して。

 朱雀さんが使えるのだから俺も発動は問題なくできるのだろうけど、やっぱり練習はもう少ししておきたい。ナザリックの中で試し撃ちをしてもいいけど、できることなら、この世界のものにちゃんと魔法が効くのか確認しなければ。退治しても問題ない手頃なモンスターとか都合良くいないかなあ。

 ……モンスターも、そうだけど。

 

「……<伝言(メッセージ)>」

 

 唱えてはみたけれど、やはりGMにも、朱雀さん以外のギルドメンバーにも繋がらない。こちらの世界には、来ていないのだろうか。

 いや、諦めるのはまだ早い。

 もしかしたらこちらに来ているけど、遠すぎて<伝言(メッセージ)>が届いていない、ということもあるかも知れないし、これからこっちに転移してくる可能性だってある。これからどうしようか、朱雀さんとも相談して考えてみよう。そう決心して、今度は朱雀さんに<伝言(メッセージ)>を繋げた。

 

 

『おはようございます、朱雀さん。まだ上ですか?』

『おはよ、モモンガさん。いま円卓』

『円卓?』

 

 指輪で転移してきたんだろうか。

 じゃあ俺の部屋に集まりますか、と尋ねようとしたところ、朱雀さんの言葉が続く。

 

『ナーベラルを待ってるとこ。最初は歩いて戻って来ようかと思ったけど、そういや第五階層通れないなって気付いて』

『あー……、そうですね、凍りますよね朱雀さん』

 

 朱雀さんが身につけている神器級(ゴッズ)の防具には、ある属性の耐性弱化と引き換えに別の属性の耐性を引き上げる効果を持つデータクリスタルが使われている。なので大抵の攻撃にはびくともしないが、デメリットも存分に獲得した。

 その結果が凍結被ダメージ8倍、凍結耐性半減、凍結状態解除不可。

 元々水精霊(ウォーターエレメンタル)は凍結に弱いというのに、そんなことでやっていけるのかと心配した時期もあったけど、ユグドラシルで精霊種を選ぶ人間は基本弱点耐性を補う形でビルドする傾向にあり、アイテム看破系の魔法は装備で防いでいるので、そうそう凍結攻撃が飛んでくることはないのだという。それに加えて、真っ先に攻性防壁と召喚獣でまわりを固めてしまうので、採集に行く程度であれば、攻撃が届くこと自体滅多にないんだそうだ。

 

 ユグドラシルにいたころはナザリック内のギミックに引っかかるなんてことはなかったし、そもそも節約のためギミックを切っていたことが殆どだったが、この世界ではフレンドリーファイアが有効になっていて、しかも警戒状態を一段階引き上げているので、もし朱雀さんが凍結してしまったりなんかしたら大変に面倒なことになる。

 

 そして、お供を連れて行かないとまた怒られるので、転移した先でナーベラルを待っている、と。

 

『指輪、もうひとつ渡しとけば良かったですね。すみません』

『大丈夫大丈夫。ところでモモンガさん、何か用? 定時連絡?』

『ああ、いえ。そうですね、なにか新しい発見でもないかなと思って』

『あるある。いやあ、市場が動き出すとやっぱり面白いね』

 

 市場、という言葉に、こめかみ……、は、引きつらないけど、ないはずの顔の筋肉がひくつく感覚がする。

 

『ありますか、市場』

『あるよ、たくさん。特に規模が大きいのがみっつかな』

『三つ……』

 

 どこにあるのか、どのくらいの規模なのか。それはまだ聞いていないけれど、頭に過ぎったのは、かつてユグドラシルで開かれていた幾つかのバザーの様子だ。

 市場があるということは人がいるということで、人がいるということはそれがプレイヤーの可能性もあるということ。アインズ・ウール・ゴウンのメンバーも探したいけれど、いるとすれば、同じ時間にログインしていた他のギルドのプレイヤーである確率の方が高い。

 そんな疑念を払拭するかのように、朱雀さんが穏やかな声で語りかけてくる。

 

『先に言っといた方がいいかな。プレイヤーらしきものは見つかってない。すべてがそうだとは断言できないけど、なりを見る限りは殆どが現地住民だと思うし、レベルも大したことないよ。森のほうがよっぽど危ないくらい』

 

 思わずほっと息をついた。

 まわりに敵がいない、というのは大事なことだ。朱雀さんが索敵を引き受けてくれて本当に助かった。

 

『そうですか。ああ、すみません朱雀さん。任せきりにしてしまって』

『ん? いいよいいよ、お気遣いなく。好きでやってることだし』

『ありがとうございます、お言葉に甘えさせてもらいますね』

 

 昨晩ばたばたしていて伝え忘れてしまっていた礼を言えば、ふふ、と微かに笑う声。

 

『モモンガさんは律儀だなあ』

 

 律儀も何も、と思う。

 俺一人で転移して来ていたら、どうなっていたかわからない。索敵に関してはNPC達が引き受けてくれたんだろうけど、安全を確信するまでどれほど引きこもっていたことやら。

 

『朱雀さんが一緒でよかったと思ってるんですよ。本当に』

『こちらこそ。ぼく、ゲームの知識に関してはからっきしだし。頼りにしてるよ?』

『はは、そっちは任せてください。……それじゃあ、どうしようかな。一旦周辺地理の共有をしておきたいんですけど』

『うん、そうだね。図書館行って、製作室でも借りようか。地図にしたほうが後々わかりやすいでしょ』

 

 是非もない、と提案に乗って、ふと思い出した。

 周辺の警戒網も組んでくれてるようだし、NPCにも情報共有しておいた方がいいのだろうか。

 

『アルベドとデミウルゴスにも共有させておいた方が良いですかね?』

『うん? や、今はまだいいんじゃないかな。とりあえず二人で方針決めてからのほうが混乱しないと思うけど』

 

 それもそうか、と思い直す。舵を取るにしてもトップが方向性を決めていないんじゃあ話にならない。

 ……トップ。トップかあ。ないはずの胃が痛い。現実世界では出世なんて考えたことないし、ユグドラシルでは一応ギルドマスターだったけど、実質は多数決のまとめ役だったし。全力で忠誠を傾けてくる部下にふさわしい上司でいなきゃならないなんて、思いもしなかった。それも自分より遥かに賢い連中相手に。

 

 怖い。失望されるのが本気で怖い。

 

 恐怖をふりはらうように、頭をひとつ振った。俺がこんなことでどうするんだ。朱雀さんもいるのに。

 

 それじゃあ俺だけで行きますね、と伝えれば、ちょうど円卓にナーベラルが着いたとの返事。ならすぐそこで合流できるかな、と思った矢先に、あー、と、何か諦めたような朱雀さんの声がした。

 

『セバスも来たから、怒られてから行くよ。ちょっと待っててね』

『わかりました、ごゆっくり!』

『このやろう』

『あはは、それじゃあまた後で!』

『はーい』

 

 通信を切って、図書館に行く旨をソリュシャンに伝える。

 畏まりました、と、当然の如く後ろに侍る彼女になんとも言えない感情を抱きながら、自室の扉へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 玉座の間といい、ここといい、本当によく作ったよなあ、と、建築担当のメンバーの顔を思い出しながら、目の前の扉を眺めた。

 

 二階建ての建物ほどもある重厚な扉、その両脇を守るように立つ、巨大な武人のゴーレム。暖色光がドーム型の天井を伝い、エボニーブラウンの室内を穏やかに照らしていた。

 

 玉座の間と同じ階層にあるんだから、それ相応に厳かでなければならない、と担当者が力説してたな。最古図書館(アッシュールバニパル)って言っても、中にある本はメンバーが悪のりして増やしまくった外装データやら召喚モンスターのデータが殆どで、全然古くないじゃん! なんて良く茶々を入れられたりしてたっけ。けど、100年以上前のTRPGのシナリオも混ざってたりするから、あながち間違いではないかも知れない。

 

「扉を開けよ」

 

 声に反応したゴーレム達の手によって、最古図書館(アッシュールバニパル)の扉がゆっくりと開かれた。

 

 図書館の内部は、天井、床、本棚のひとつひとつに至るまで繊細な細工が施され、まるで美術館のような雰囲気を醸し出している。本の保護というよりは雰囲気作りのために薄暗い室内、無数の本棚の合間で、死の支配者(オーバーロード)達が本の埃を払っていた。

 

 数時間前に来たばかりだけど、こうして機能しているのを見ると、また別の趣があるな。そんな感慨に浸りながらも、目的のアンデッドを探すために辺りを見渡せば、ちょうど目が合った彼がこちらに近づいてきた。

 

「これは偉大なる支配者モモンガ様、ご機嫌麗しゅう」

 

 冷静そうな男性の声を静かに響かせて、ここ最古図書館(アッシュールバニパル)の司書長、ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥスは、恭しく頭を下げる。四本指の手を胸に沿えた、優雅な一礼だった。それに合わせて、身を隠すように纏ったサフラン色のヒマティオンがふわりと揺れる。鬼のような二本の角を生やした頭蓋骨は、150センチほどしかない身長のためか殊更低い位置にあるように見えた。

 面を上げよ、と告げて、もう一人、目的の人物を目視で探すが、そちらはまだ来ていないようだった。

 

「お前も元気そうで何よりだ、ティトゥス。朱雀さんは……、まだのようだな」

「我が創造主(あるじ)に何か?」

「いや、待ち合わせをしているだけだ。このあと製作室を借りたいんだが、使っても構わないか?」

「許可など。いつ如何なるときにあっても御身の気の向くまま使用なさっていただければ幸いでございます」

 

 そう言ってまた一礼。

 ……昔はなあ、動きがオーバーな方がかっこいいと思ってたんだけどなあ。洗練された、っていう表現はこういうときに使うんだろうなあ、と、誰を思い出してというわけではないがちょっと落ち込む。

 

 ため息をつきそうになるのをなんとか堪えて、ならば奥で待たせてもらおうか、と足を踏み出したとき、タイミング良く背後の扉が開かれ、朱雀さんとナーベラルが姿を現した。朱雀さんの肩の上で、八咫烏があたりをきょろきょろと落ち着きなく見回している。

 

「おはよ、モモンガさん」

「おはよう、朱雀さん。早かったな」

「まあ怒られ方にもコツがあって。ああ、ティトゥスもおはよう」

「おはよう、我が(あるじ)

 

 ん? あれ、いまなにか違和感が。

 

 気のせいかな、と思いつつ朱雀さんを見れば、彼は手を上げかけて、すぐに下ろし、ぽつりと呟く。

 

「わがあるじ、か」

 

 それは本当に、本当に小さな声だった。この体になってから嗅覚や聴覚がだいぶ鋭敏になっていたこともある。そうでなければ聞き逃していただろうけど、それにも増してひどく耳についたのは、朱雀さんの声がやけに寂しそうに聞こえたからだ。

 何か気に障ったのだろうか、と、こちらが声をかける前に朱雀さんはぱっと顔を上げて、ティトゥスによびかける。さきほどの心寂しげな気配はもう微塵も無い。気のせい、だったんだろうか。

 

「ティトゥス、大きい紙とペンくれるかな。これから地図書くからさ」

「地図?」

 

 ティトゥスは角のついた頭を不思議そうに捻った。スケルトン・メイジなので表情は変わらないはずだが、どこか訝しげな雰囲気を感じる。

 

「主が書くのか?」

「うん、そう……、だけど」

「主は確か製図のスキルを有していなかったと記憶しているが」

 

 眼が語っている。それで本当に大丈夫なのか、と。ナザリックの支配者に相応しい地図を書き上げられるのかと。

 

 そのことに気が付いてようやく、先程覚えた違和感の正体がわかった。転移してきてから初めてなんだ。朱雀さんに敬語を使っていないシモベを見るのが。

 

 これは一体どういうことだ。そう尋ねようと朱雀さんを見下ろせば、彼はじっと立ちすくんだまま、瞬きの代わりにちかちかと眼の光を明滅させていた。

 他のシモベの対応に慣れすぎたかな、と思った瞬間、はっ、と気付く。恐る恐る、ソリュシャンとナーベラルを見た。

 あっ、これ、まずい。瞬時にそう思った。ナーベラルの顔はあからさまに険しくなっているし、ソリュシャンは薄い微笑みを保ったままその瞳をどろりと濁らせている。

 ユグドラシルでは、レベルが10も離れていればまず勝てないとされていて、ましてやティトゥスと彼女達のレベル差は20以上。おまけに製作特化の司書長と戦闘メイド(プレアデス)では、結果は火を見るより明らかだ。というか、結果云々の前に、NPC達が争うところをそもそも見たくない。

 顔には出ないが、軽いパニックに陥る俺を余所に、朱雀さんは肩をふるわせて、心底おかしそうに笑い出した。

 

「ふ、ふふ、あははは」

「……気色悪い。どうしたというのだ」

 

 おまけにこの罵倒。逆に新鮮だ。ギルメン同士でもこんな光景は中々見たことがない。

 朱雀さんは一切気にするようすもなく、呼吸を落ち着かせようとしているのか、こぽこぽと頭に泡を浮かべて、どうにか笑いを抑えようとしていた。

 

「いや、ふふ、そうだね、ごめん。じゃあアレ、アレ貸してよ」

「アレではわからん」

「なんかほら、製図とか芸術ができるようになりそうなやつ」

「なんという頭の悪い説明だ……」

 

 言いながらも、ティトゥスは身につけた指輪をひとつ外し、朱雀さんに手渡した。

 なんていうか、うん、その、なんていうか。

 

 ちょっとうらやましい。

 

 こっちに来てから、気の置けない友人なんてものは、ギルドメンバー以外にできるわけない、そう思ってたんだけど。

 もしかしたら、と、そんな希望を抱いてもいいのだろうか。あるいは創造主と被造物の垣根を越えられるんじゃないか、と。

 

 物思いに耽っていたら、紙とペンは製作室に置いてあるから好きに使うといい、と気軽に言うティトゥスの声。

 ふとプレアデスに視線を移せば、先ほどの殺意は失せているように見えた。創造主が許しているんだからオッケーということなのか、な? しかしNPC同士でこれなら外の人間とかだとどうなっちゃうんだろう。

 軽く不安になっていたけれど、朱雀さんがこちらを見ていたので、そろそろ行こう、という意味でひとつ頷いて、製作室へと歩を進める。

 

「ありがと。じゃあ製作室借りるね」

「汚してくれるなよ。それではモモンガ様、ごゆるりとお過ごしください」

「う、うむ。すまんな、なるべく早く用を片付ける」

 

 俺にもその態度がいい、とは流石に今は言えず、ティトゥスに見送られるまま、朱雀さんに追従する形で製作室へと入った。

 そこまで着いてきていたナーベラルとソリュシャンを扉の前で制して、扉を守るように言いつければ、彼女達は恭しくお辞儀をした後、門番の如く扉の横に整列した。

 監視がいなくなった気分になり、些かほっとした気分で、ぱたん、と扉を閉めると、ふふふ、と朱雀さんがふたたび笑い出す。

 

「……朱雀さん、ティトゥスにどんな設定付けたんですか」

「んー? モモンガさんがパンドラにどんな設定書いたのか教えてくれたら言う」

「うっ」

 

 言い淀む俺が可笑しかったのか、朱雀さんはまたもや声を上げて笑う。無数の触媒や羊皮紙が置かれた棚から迷いなく一枚の大きな紙を取り出して、同じように難なく探し当てたペンと文鎮も一緒に机の上に置いた。

 

「ま、こういうことはわかっちゃったらつまんないし。お互いの秘密っていうことで」

「……そう、しときましょうか」

「誤解のないように言っとくけど、あれでぼくに敬意がないってわけじゃないと思うんだ。許してやってくれないかな」

 

 紙を丁寧に広げながら、文鎮で端を押さえて、少し心配そうに朱雀さんは言った。

 もしかしたら、俺が気分を害したと思ったのかもしれない。

 

「許すも何も。……ちょっと羨ましいだけです。なんだか、何年も一緒にいる友達みたいで」

「……そういえば、リアルの友達はあんなんばっかりだったな。こっちが何かするたびに心配してくる感じの。ぼくってそんなに自由に見える?」

「一般論を言うなら、大学教授がDMMORPGに手を出してるっていう話は聞いたことがないですね……」

「それもそうだね……」

 

 朱雀さんは照れくさそうに襟の後ろをかいて、こぽ、とひとつ咳払いをした後、指輪をひとつティトゥスから預かったものに付け替えて、準備が整った紙の上でペンを握る。

 

 

「さ、始めようか」

 

 

 

 そう言って、朱雀さんは紙の上に線を引き始めた。

 

 

 

 

 




ちょっと短いですが今回はこのへんで。地理関係の把握が苦手すぎてしょんぼりしてるので後編は今しばらくお待ちを。


・ティトゥスさんについての色々
 ティトゥスさんを朱雀さんが作ったNPCにしよう、というのは、実は朱雀さんのビジュアルを決める前から決定しておりまして。
 懺悔いたしますとティトゥスさんめっちゃ好きです。なんていうかあの戦闘力の外にある実力で守護者と完全に対等なところとか。本編ではあんまり出てこないけど裏では確実に有能、っていうキャラクターがたまらなく好き。
第一話で彼のレベルを勘違いしてたのを今日こっそり修正したのは内緒です……。75レベルもねえよ、馬鹿かよこの野郎。ほんとごめんなさい……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

オーバーロードはスケルトンメイジの夢を見るか・後編

「百聞は一見にしかず」という言葉をすっかり忘れていたので初投稿です(震え声)
伝聞だけで地理の説明をしようと思ったらそりゃキツいわけですわ……。

教授が周辺地理の説明をするにあたって、モモンガさんと八咫烏の視点を共有しただけなので、今まで掲載していた内容とほぼ変わりません。強いて言えば新しい召喚獣とかカルネ村の現状が追加されてたりします。
それに伴って朱雀さんの考え事の内容が少々変わるので、アルベドの独白をこっちの最後に貼り付けました。

1度お読みいただいたものをここまで大幅に改稿して良いものか迷いましたが、傷の浅いうちに納得できるものを公開したかったので、申し訳ありませんが「ほんとどうしようもねえなこいつはよぉ!」等々、罵倒と共にお付き合いいただければ幸いです。
ここまでの改稿はもう二度としないので、許してくださいなんでもしますから……。



「そっちは何かあった? 面白いこととか」

 

 <永続光(コンティニュアルライト)>の薄ぼんやりした光の下。あわく照らされた紙面にペン先をすべらせながら朱雀さんが問う。垂れるでもなく零れるでもなく、朱雀さんの頭は今朝もきれいな水球だ。なんか魔法的な力で形を保っているとかそんな設定だったような気がする。魚とか入れたらどうなるんだろう、と疑問は思ってみても言えないことのひとつだった。

 

「面白い、かどうかはわかりませんけど、色々実験をしてみまして。どうも手持ちのスキルに無いことは一切できなくなってるみたいですね」

「ああ……、そうだね。鼻歌ひとつ歌えないんだよね……」

 

 特殊効果とか、付加価値とかはいらないから、形だけでもできるようにしといてはくれなかったものかな。

 ぶつぶつと垂れ流される文句に心から同意しながら、部屋で行っていた実験の話をいくつか語った。クラスで装備できない武器や防具のこと、物理的な装備と魔法的な装備について。自分の体でできることとできないことの話をしていたとき、作業をしながらふんふんと機嫌良く聞いてくれていた朱雀さんの手がふと止まる。そのまま顔を上げてこっちを見た。

 

「そういえばモモンガさん、ゆうべ寝た?」

「そんな、朱雀さんが起きてるのに寝れないですよ」

「んー、質問が悪かったね。寝れそう? その体」

「……いえ、寝られないです。食事もできないし、その、言いにくいんですが」

 

 ああ、と得心したような声。もうこの歳だから使ってなかったけど、なくなるとちょっと落ち着かないよね、と。

 

「骨しかない、かあ……。ぼくも似たようなもんだけど、モモンガさん若いのにね」

「いえ、使う予定もなかったんで……」

 

 言ってて空しくなってきた。悪いことばかりではないのだ。周りにはギルドメンバーの子供とも言える存在の、絶世の美女がたくさんいて、これで性欲があったなら、手を出さずにいられたという保障はまったくない。向こうから懐いてくるしなあ……。伴侶。伴侶って。ああ、胃が痛い。胃薬なんてないし、ポーションは……、ダメージを受けるだけだな。

 タブラさんへの罪悪感とこれからのアルベドへの対応を考えて胃(空洞)を痛める俺に、製図を再開した朱雀さんが呟く。

 

「まあ、でも、夜は横になって大人しくしておくだけでも大分楽だと思うよ。目隠しでもしてさ」

「はは、お気遣いありがとうございます」

「ぼくとモモンガさんでは心労が全然違うしね」

「うう」

 

 改めて突きつけられる現実。一度始めてしまったからには続けなければならない支配者ロール。せめてもう少し砕けた口調にしておけばよかったかな。大体絶対なる支配者ってなんだ。何する役職なんだ。俺は営業です。営業の鈴木です。営業のモモンガです! ……すごく間抜けだ。実際に取引先の前で言ったらふざけてるのかって怒られそう。

 

 しかし、と思う。NPCたちは意思を持ち、限りなく現実に近い風景を持つこの世界で、俺達に課せられたこの縛りは一体なんなのだろう。

 

「なんなんでしょうね、この……、融通の効かない感じ」

「容量による制限と、この身体にかかってる制約とは別のものなんだろうね。現実には容量なんてないし」

 

 それはそうだろう。あっては困る。現実が処理落ちやサーバー落ちなんて、怖いどころの騒ぎじゃない。

 けれど頭のどこかで、体そのものには制約も確かに必要だろうと思うのだ。この世界がどれほどの強度を持っているのかわからないけれど、普通に土が掘れて、普通に木が切り倒せて、普通に建物が壊れるような世界で、100レベルの魔法やスキルがなんの縛りもなしに飛び交ったらどうなるか。まず、持たないだろう。せめて個々人の制約くらいはそのままにしておかないと、と。

 

「後で説明するけどさ、霧の範囲も前より広くなってて」

「そうなんですか?」

「そもそもフィールド異常を受け付けない地形もユグドラシルではあったけど、こっちではそれがないみたいだし」

 

 ユグドラシルは非常に自由度が高いことで有名なゲームだったが、だからと言って、辺りのものを手当たり次第ぶち壊せるかといわれたら当然そうではない。自分や手持ちの道具(アイテム)、ギルド拠点やNPCにおいては手を加えられるだけ加えることが出来るが、フィールドそのものを弄ることに関しては、地形クラフト系のゲームに一歩譲るところだ、と昔ベルリバーさんとかが言っていた気がする。俺はユグドラシル以外のゲームは殆ど触ったことがないので実感は湧かないが、あれだけの規模とサーバーの人数で、更にフィールドにまで手を出せるようになってしまったら、どれだけ容量があっても追いつかないだろう、とは簡単に想像ができた。実際、フィールドクラフト系のゲームでユグドラシル程の規模を持つゲームはまだ発売されていなかったはずだ。

 

 思考が逸れたが、フィールド異常を受け付ける、ということは、運営が施していたような壁も、また、プレイヤーが行使している妨害の魔法も近くにはない、ということ。霧が掻き消されたという話も出ていないので、対抗魔法が使われた形跡もなし。

 気を緩めるには早い、けど。ひとまずは安心していいだろうか。そう思ったとき、朱雀さんが、ふう、と声に出してため息らしきものをついた。

 

「よし、こんなもんかな」

「ありがとうございます、朱雀さん」

 

 お礼を言って、中心から半分ほど埋まった地図を眺めた。

 森林、山脈、平地、河川。都市、街、村、集落、街道。それぞれがある程度記号で分けられていて、非常にわかりやすい。

 地図の真ん中に書かれた小さな丸と、ナザリック地下大墳墓の文字。

 今置かれている状況については未だ不安の方が大きいけど、ここが世界の中心、って感じがして、少しだけわくわくする。

 

「さて、と。どこから聞きたい?」

「……朱雀さん、もうひとつお願いしたいことがあるんですが」

「うん?」

 

 首を傾げる朱雀さんに、手を合わせてお願いのポーズ。アラサーの骸骨がやる仕草じゃないけど、表情に出ない分形だけでも感謝の意を示したい。

 

「<水鏡(ミラー・オブ・ウォーター)>と八咫烏の視界を繋げられませんか?」

「へ? ……あー、うん、でき、そうだね。多分大丈夫。うん、大丈夫大丈夫」

 

 自分の脳内を検索しているかのような逡巡の後、えーっとぉ? と、朱雀さんは棚の上の方にあった、両手でやっと抱えられる程の大きな器を引っ張り出して、地図の横にごとん、と置く。なんというか、土のままの色をした、陶器というよりは、土器、という感じの一品だった。

 

「ごめん、モモンガさん。水持ってる?」

「水、ですか? ……ああ、そうですね。ここで<水球(ウォーターボール)>は流石に使えませんよね」

 

 水精霊が何を、と一瞬言おうと思ったけど、こんなところで水が出せる魔法を使ったらあたりが水浸しになってしまう。汚すなよ、とティトゥスから言われていたことだし、と、アイテムボックスの中から無限の水差し(ピッチャー・オブ・エンドレス・ウォーター)を取り出し、器に水を注いだ。

 

「ありがと。……まずは、えーっと、<召喚持続時間延長化(エクステンドサモン)橋下の贄(クライング・フェザント)>」

 

 言葉と共に、床に展開した魔方陣から、ずず、ず、と、人型の魔物が現れる。高さは2メートルほどもあるが、全身に巻かれている包帯のせいで性別はわからない。大きな体に隙間無く巻かれた薄汚い包帯には、赤黒い文字がびっしりと呪詛のように書き付けられていた。それだけならただのミイラ型の召喚獣と言えただろうが、異様なのは腕や足、胸や首にまで、錆びた鉄の杭が位階と同じ数、合計で9本刺さっているということ。

 

 八咫烏を通して召喚者本人が映像を見るだけなら肉眼扱いになるのだが、それを映像視(ビューイング)系の魔法やアイテムで他人と共有した場合は魔法扱いになってしまう。つまりは攻性防壁を仕掛けられたときの保険だ。魔法ひとつにつき、その威力に応じて1本から3本の杭を消費して無効にする召喚獣である。上級者相手だと1体では心もとないが、今のところはこれで十分だろう。

 

「よし。<水鏡(ミラー・オブ・ウォーター)>、<視界接続(コネクト・ヴィジョン)>」

 

 ユグドラシルでは「魔女の泉ごっこ」をするくらいしか使い道のなかった魔法だが、先んじて眼を飛ばしておけば、低燃費のモニターとして役立ってくれる。尤も、空を飛んでいる他人の召喚獣など即時撃墜の対象でしかなかったので、成功率は決して高くなかったが。

 

 

 器に満たされた水が一瞬、ぽう、と輝き、ゆらりと像を結ぶ。

 そこには、異国の街があった。石造りの街並み、古めかしい装い。ユグドラシルでは結局入ったことなかったけど、まさしく人間種の街って感じがする。

 中世ヨーロッパのような建物。そこで生きるたくさんの人間。音声はなかったが、そこで暮らす者たちの雑踏が聞こえてくるようだった。

 

「……わあ」

 

 ほんとにいたんだ、というような間抜けな声が出て、我ながら呆れる。ちらりと目線を向けた先、橋下の贄(クライング・フェザント)に刺さった杭は1本たりとも微動だにしていない。ときどき、ヴゥゥ、と唸り声を上げるのが不気味だが、それはデフォルトなんだろう。こちらの監視に警戒をしている敵はいないと見ていい。

 

「これ、は……、どのあたりの街なんですかね?」

「これだね。多分、ここから……、このあたりまでを治めてる国の首都」

 

 白手袋の指先が、ナザリックの北西にある都市をとんとんと指差す。ついで、埋まった地図の左半分ほどを、山脈や森を避けてぐるりと一周。城塞都市、と書かれているところも範囲に含まれていた。同時に映像が切り替わる。八咫烏を高く飛び上がらせたのだろう、土地の遠景が映し出された。

 しかし、一目見て国境や領土がわかるような印はない。時代、というか、文化レベルを見る限り当たり前といえば当たり前なのだが、丁寧に国境線が定められて、色分けまでされた地図に慣れた現代人の目には、どこの土地がどう、なんていうものは、ぱっと見では判別できなかった。

 

「そんなことまでわかるんですか」

「推測だけどね。建築様式とか、農耕技術とか、街道の使用状況とか」

 

 はー……、と、思わずため息が漏れる。傍から見れば口をかぱっと開けているようにしか見えなかっただろうか、どうしたのモモンガさん、とでもいうような目線を向けてくる朱雀さんに、心底からの賛辞を贈る。

 

「朱雀さんはすごいなあ」

 

 ギルドメンバーがすごい、っていうのは、俺にとっては自分のことのように嬉しいもので。勿論すごいのはギルドメンバーであって、俺がすごいわけじゃないんだけど、誰かに褒められたり畏怖されたりすると俺の仲間はこんなにすごいんだ、って自慢したくなるし、何かあるたびに、アインズ・ウール・ゴウンは最高だな、って思ったりもする。

 41人もいれば当然相性も出てくるもので、どうしても好きになれない、という人はいたけれど、その人だってゴーレムを作製することに関しては右に出るものはいない、自慢のギルドメンバーだ。ちょっと周りを省みないところもあるけど、明るくて楽観的、と言い換えることができなくもない、はず。

 

 自分にないものに対しての羨望、というのもあるけれど、誇らしい、という気持ちが一番強い。

 

 真正面からいきなり褒められた朱雀さんはちかちかと瞳を明滅させて、顔を逸らして襟元を抑えた。ううん、と、唸り声。照れているんだろうか。何かまずいことでも言ったかな。ちょっと心配になってきた俺に視線を戻して、彼ははにかんだように言う。

 

「……ありがとう。一応、専門だからね。よく怒られるんだけどさ、結論が早すぎるって」

「そういえば、朱雀さんの専攻って……」

「言ってなかったね。この際だから、伝えておこうかな」

 

 拳を口元に当てて、こぽ、と、一泡。咳払いのスキルはないのか、とぼやく彼に喉元だけで笑って、続きを促した。

 

「……文化人類学。普段は郷土史やらサブカルチャー史なんかを中心にやってたんだけど、人に聞かれたときには、ぼくは文化人類学者だと名乗っていた」

 

 ぶんかじんるいがく、ですか。俺がそう呟くと、読んで字の如くだよ、と微笑んで言う。

 

「インタビューや参与観察などのフィールドワーク……、調査対象の社会や集団に直接会って、ときに一緒に生活しながら、観察や聞き取りを行ってそれをまとめていくんだけど」

 

 画一化された現実社会においてはかなり廃れた学問でね、と彼は肩をすくめた。

 

「それでね、モモンガさん。あくまでも提案なんだけど」

「こっちでも、フィールドワークがしたい、と?」

「それもある」

 

 も、という言葉に込められた力、それを伝える視線がやけに真剣で、思わず姿勢を正した。

 朱雀さんが言うには、この世界に対しての自分達のスタンスをはっきりさせたいのだ、と。

 

「この世界にはすでに確立された文化があって、種族ごと、人種ごと、国ごとに多様性がある。それは彼らが個々に積み重ね、培ってきたものだ。彼らは発展する権利と滅びる権利を同様に持ち合わせている。ぼくらのような異物にそれを奪う権利は無い、とぼくは思う」

 

 ぼくが奪いたくないっていうだけで、ただの我侭なんだけどさ。そう呟いて、彼は続ける。

 

「だから、索敵や調査は引き続き行っていきたいんだけど……、現地の生き物、とりわけ知的生物は出来得る限り殺さず、助けない方向で進めたいって言うのがぼくの意見」

 

 もちろん自分達の安全が最優先だし、ナザリックの保全や保護のほうが大切だから、自分達の脅威になるものを取り除いていくのは構わないと思ってるんだけど。

 そう言いながら、朱雀さんは八咫烏が乗っている肩と反対側の手で襟の後ろを掻く。どうやら彼は完全に襟を首がわりにすることを決めたようだ、とぼんやり思った。

 

「駄目、かなあ」

 

 こちらの様子を伺いながら問う朱雀さんに、すぐさま言葉を返した。駄目じゃないです、朱雀さんがそっちのほうが良いと言うならそれで、と。

 

 ギルドメンバーがやりたいことを制限する権利は俺にないし、朱雀さんの意思はできる限り尊重したい。そもそも無闇に現地生物を殺したいとも思わない。これ以上のレベリングに興味がないと言えば嘘になるが、周囲のモンスターや人間のレベルを考えれば、必要性はほぼないとも言える。大体100レベルより上を目指すことができるとしたら、俺達だけじゃなく他のプレイヤーにもそのルールが適用されている可能性が高く、そうなると俺達より前にいるプレイヤーのほうが圧倒的に有利になる、という恐ろしい発想も生まれてくるわけで。

 

 思わず身震いしながら、とにかく俺達とナザリックを他のプレイヤーから守れるのならそれで良いです、とそう伝えれば、朱雀さんはほっとしながらもどこか寂しげな様子だった。

 

「モモンガさんは、何かないのかな。したいこととか」

 

 したいこと。俺自身がしたいこと。

 実は考えても思い当たらない。現実(リアル)にいたころから、俺にとっては食事も睡眠も生きる手段に過ぎなかったし、そもそも俺にとっての生きる場所というのはユグドラシルだった。

 だから強いて言えば、冒険がしてみたいとは思う。ユグドラシルにいたとき、みんなで冒険に出るのはすごく楽しかったから。できることなら朱雀さんや、シモベたちとも、未知の世界を楽しめたらそれはすごく素敵なことだ。

 

 あとは、もし。もしも。

 

「もしも俺達以外のギルドメンバーがこちらの世界に来ているのなら、彼らを探したいとは、思っています」

「……そうか」

「朱雀さん?」

 

 朱雀さんは、彼らに会いたくないんだろうか。表面上そうは見えなかったけど、俺の知らないところで、他のギルドメンバーと不仲だったとか。

 

「見つかる可能性は、低いと思うけど」

 

 しかし、悩ましげにこちらを覗き込む姿を見て、そうではない、と気持ちを切り替えた。俺が落胆するかもしれない、と心配してくれているのだろう。

 転移の条件はわからないが、ログアウトの時間にユグドラシルにいた、ということが含まれている可能性は高い。あのとき、最後のとき、俺と朱雀さん以外にはメンバーは誰もいなかった。

 

 それでも。

 

「もし、ひとりで転移してきてたとしたら、心細いと思うんで。……お気遣い、ありがとうございます」

 

 ナザリックの後ろ盾もないところで、一人何かと戦っているかもしれない。

 周りになにもないようなところで、途方にくれているかもしれない。

 そう思うと、胸が締め付けられるような錯覚に陥る。そっと抑えた場所には、固い骨しかなかったけれど。

 

 朱雀さんは、数呼吸ほどの間、こちらをじっと見つめた後、ふ、とひとつ頭を振って、目線を下げた。

 

「ごめん、余計なおせっかいだったね」

「いえ、そんな」

「ぼくも、考えるよ。こっちの安全を確保したまま、彼らを探す方法を」

「……ありがとうございます」

 

 探したい、とは言っても、具体的な案は今のところ何ひとつない。

 微笑んで言う朱雀さんのことばが、とても心強かった。

 

 

 

 

 

「で、モモンガさん。何か聞きたいこととかある? 見たいものとか」

「うーん……、そうですね。ここの一団、近づけます?」

「ちょっと待ってね。……このくらいでいい?」

「はい、ありがとうございます。……杖、杖かあ」

 

 革鎧に剣。ローブに杖。いかにも冒険者、という装備を身につけた、少人数のグループが雑談しながら路地を歩いている。みな歳若く、健康そうで、支えとして杖が必要な人間には見えない。

 

「やっぱり、魔法とか、あるんですかね」

「ちょうど戦ってるところがあるけど、見る?」

「えっ!? み、見ます! ぜひ!」

 

 申し出に一も二も無く賛成すれば、即座に水面の画像が切り替わる。大体このへん、と朱雀さんが指し示したのは、ナザリックの南東にある平野だった。上空からの映像には、あたり一帯を覆う深い霧。自分達と同じことを考えているプレイヤーがいるのではないか、と一瞬どきりとしたが、攻性防壁にも探知にもひっかかるものはない。

 

 目線が地面に近づいて、霧の中に突っ込んだ。元々暗視のスキルがあるのか、さして視界が阻まれているようには感じない。少しの間飛んだ先には、霧に包まれながら、スケルトンやゾンビなんかの低級アンデッドと戦っている冒険者っぽいパーティがいた。

 

 ……イビルツリー、という単語がでた時点である程度予測はしていたが、ユグドラシルに出てくる、一般的なアンデッドだ。誰かが持ち込んだのか、元々ここにいるのか。調べてみる必要があるだろう。

 

 しかし、なんというか、こう、緊張感が無い。

 いや、緊張感はある。アンデッドの方はよくわからないが、人間の方はとにかく必死だ。命を懸けて戦っているのは傍から見てもわかるのだが、どうにも。

 

「……弱すぎませんかね?」

「どっちが?」

「どっちもです」

「だよねえ」

 

 アンデッドの方はレベル1の裸装備縛りでようやく苦戦できる種類のものしかいないし、冒険者の方も初心者の館で揃うような粗末な装備しか身につけていない。魔術師らしき人間が発動している呪文も見た限り、低位階のものばかりだ。

 

「朱雀さんには声が聞こえているんですよね」

「うん。呪文?」

「はい」

「最初に<早足(クィック・マーチ)>使って以来、あとはずっと<魔法の矢(マジック・アロー)>だけ。ああ、神官が<中傷治癒(ミドル・キュアウーンズ)>使ったね」

「……全部ユグドラシルの魔法ですね」

 

 とは言ったものの、プレイヤーにしてはあまりにも弱すぎる。なんだろう、ほんとに縛りプレイでもしているのだろうか。雑魚敵は広域魔法でさっさと粉砕するもの、という先入観があるからか、ああやってちくちくと一体ずつ倒していると、初心者ロールをしているドMプレイヤーにしか見えない。

 それにしてもこの場所、次から次へとアンデッドが湧いてきているようで、最初は優勢だった人間側がどんどん押されてしまっている。

 

「減りませんね、アンデッド。死霊術師(ネクロマンサー)とか死の支配者(オーバーロード)でもいるんでしょうか」

「んー、どうも霧そのものの特性っぽい。土地中にみっしりいるみたいだし、今はちょっと姿が見えないけど、幽霊船が走ってるのも見かけたし」

 

 アンデッドが無限に湧き出る霧。陸を走る幽霊船。怪しい。怪しすぎる。

 自分達が草原に突如出現した墳墓の主であることを棚に上げて、平野への警戒レベルを上げていると、画面の隅にふらふらと現れるひとつの影。

 

「あっ、スケルトンメイジ」

 

 冒険者の一団はまったく気が付いていない。完全に彼らの死角から忍び寄ってきたスケルトンメイジが杖を翳し、その先端が鈍く光った、と同時に。

 

「あっ」

「あっ」

 

 集団の先頭で、ゾンビ相手に剣を振るっていた戦士の頭に、<魔法の矢(マジック・アロー)>が直撃した。ぐらり、と大きく傾いた戦士はそのまま地面に倒れ伏し、しばらく痙攣していたが、やがてぴくりとも動かなくなる。

 ごくあっさりと戦士は死んだ。仲間は大きく取り乱し、叫びを上げ、陣形を崩す。そこに群がるアンデッド。パニックになって闇雲に振り回される武器も、狂乱状態のまま唱えられる魔法もろくに当たらない。アンデッドなら、と意識の隅に置いてあった神官は、とうとうMPが尽きてしまったようだ。

 回復もできず、退路も絶たれ、体力ももうない。彼らが行き着く先は、決まっていた。

 

「まだいける、は、もう危ない。狩りの鉄則なんですけどね」

「駆け出しなのかねえ」

 

 やがてその場から生者が消えうせ、死体には興味がない、とばかりに、アンデッドがその場から離れて行く。冒険者達の死体が消える様子は無い。この世界ではリスポーンができない、ということの証明のようだった。現実なのだから当然といえば当然なのだが。

 あまりにも生々しく死体へと変貌した彼らを見ても、不思議なほど何の感情も湧き上がってはこなかった。

 ただ、気になったことがひとつ。

 

「……朱雀さん、そのへんのスケルトンに攻撃してもらえますか?」

「ん? はいはい」

 

 霧から逃れるように、上へ、上へと高く飛び上がる。薄灰色の世界から、透き通るような青空へ。

 こちらがその青さに一瞬見とれている間に、十分な高度を確保したと判断したか、くるりと視界が反転する。そのまま、再び霧へと急降下し。

 その勢いのまま、一体のスケルトンの頭蓋骨を、嘴でまっすぐに打ち砕いた。

 すぐさまくるりと標的へと向き直り、様子を確認する。アンデッドなのでこの程度の攻撃では行動不能になることはないが、頭の無くなった体が、かくかくとぎこちなく動くところから見て、確かに効いているようだった。

 

「見た目通りの強さみたいですね。ありがとうございました、朱雀さん」

「じゃあ、ちょっと離脱するね。魔法使えるやつがこっちに気付いた」

 

 先ほどのものと同じ個体だろうか、スケルトンメイジが放った不可避の<魔法の矢(マジック・アロー)>が1本、八咫烏に直撃する。

 が、姿は鳥獣でも、八咫烏の種族は魔法生物に分類されている。大したダメージを受けた様子もなく、優雅に大空へと発っていった。

 

 広範囲を覆う、一面の霧。中にいるのが全部アンデッドなら、俺の<アンデッド支配>でどうにでもなるし、今見る分はここまででいい、か。

 

 しかしここまで視界が悪いと、暗視がなかったら大変だろうなあ、とぼんやり思い、はた、とひとつの発想が浮かぶ。

 

「召喚獣の霧の範囲に、村とか入ってないんですか?」

「入ってるよ。ゆうべ話した村がひとつ」

「えっ」

「えっ」

 

 沈黙。ヴゥ、と相変わらず響く唸り声。八咫烏が、くり、と首を傾げる。

 

「入ってるんですか」

「モモンガさんならてっきり入ることも想定してると思ってて」

 

 沈黙。

 してる場合じゃない。と、いうことは、だ。

 

「……レベルは1桁なんですよね? 村人全員」

「……そうだね」

「都合よく暗視のスキルを持ってたりなんかは」

「……ちょっと待ってね?」

 

 画面が切り替わり、堅牢な城塞がちらりと映る。南西の方角にある、城塞都市にいた1羽を向かわせたようだ。

 草原を見下ろしながら飛んだ先、いきなり現れる深い霧。隠蔽の一助になればと思っていたのだが。

 

「……なんか、逆に目立ちますね」

「まあ、上から見ないと範囲はわからないし、上空で鉢合わせるような生き物は見なかったし、隠蔽作業やってる間くらいはいいんじゃないかな」

「そうですよ、ね?」

 

 ふたりして楽観的な結論をたたき出して、乾いた笑いで場を濁す。シモベ達がなるべく作業を早く終えてくれますようにと祈りながら、見つめていた水面に、牧歌的な農村が映し出された。

 何事も無く農作業に勤しんでいる、なんて希望的観測も空しく、大勢の村人が、中央の広場らしきところに集まっていた。

 

「……なんて喋ってるのかわかりますか朱雀さん」

「やーもうすごい異常事態だしこのままじゃ仕事もできないしどうしようってみんな」

「あああああ」

 

 確実に迷惑をかけている。しかも大変な迷惑を。本当に申し訳ない。

 声に出したほどの罪悪感が実際あるわけではないが、自分が意図しない方向で意図していないものに影響が出てしまったことに対してはすごくやるせない気分になるし、何よりさっき、朱雀さんと決めたばかりだ。現地住民には極力関わらないようにと。それがこの体たらく。ギルド長として実に情けない。

 

「いや、ここまで広いと思ってなくて。ごめん、モモンガさん」

「朱雀さんは悪くないです、お願いしたのは俺なんで」

 

 トラブルの際に責任を取るのは実行者ではなく責任者であるべきだと、しがない営業をやっていた俺は常々思っていた。立場が変わったからって、その持論を覆すわけにはいかない。

 しかしどうしようかな。召喚獣の位階を下げる? 村人達にこっそり<暗視(ダーク・ヴィジョン)>をかけてまわる? どちらも策としては微妙だ。これ以上霧の範囲が限定的になってしまったらそれこそ怪しまれるし、突然霧の中で眼が見えるようになったら驚くなんてものじゃない。霧を消すにしても、今やってる作業が終わってからでないと。

 

「怪我人や死人は出てますか?」

「今のところ出てないみたい」

「村人たちに何か動きは?」

「とりあえず、エランテル? に相談しに行こうかって言ってるね。多分ここの城塞都市だと思う。今から出たらぎりぎり夜には着くだろう、って」

 

 ふむ、と少しの間考える。村人達は割と前向きに行動しようとしているらしい。助けることも霧を止めることも簡単だが。

 

「ちょっと、様子を見ていいでしょうか」

「ぼくはいいけど、そのこころは?」

「こういう異常事態が発生したときに、都市からどんな連中が来るのか気になるんです。レベルとか、職業とか、そいつが使う魔法とか、あるいはこの世界にしかない解決手段があるかもしれない」

「ああ……、それはちょっと興味あるかも」

「少なくとも半日以上かかるみたいですし、その間にある程度こっちの作業が終わればそれでよし。怪我人が出るようなら、回復ができるシモベを旅人と偽って派遣して、そこから交流のきっかけを作ったりもできますし」

「なんだかマッチポンプじみてるなあ」

 

 呆れながらも、突発的な自然災害に対する人間の対処方法への好奇心には勝てなかったらしい。若干薄くできないかコントロールだけ試してみる、と、その他は放置することに同意してくれた。

 

「じゃあ、申し訳ないけど、本人達に頑張ってもらう方向で……」

「作業班にも急いでもらうようにしますから許して……」

 

 村人の映像に向かって手を擦り合わせる朱雀さんに習って、聞こえてはいないだろうが謝罪の言葉を投げる。

 

 しかし、見たところ西洋風の顔立ちをした人が多いけれど、何語で喋ってるんだろうか。朱雀さんなら何ヶ国語かできそうなイメージは確かにあるけど。

 

「そう言えば朱雀さん、彼らが何語で喋ってるか、わかるんですか」

「んー? うん、普通に、日本、語……」

 

 日本語? と俺が不思議に思うと同時に、自分の言葉に不審を抱いたのか、朱雀さんの表情はみるみる曇っていった。映像を凝視しながら、頭の中に聞こえてくる彼らの声に耳を澄ませて、苦々しげにつぶやく。

 

「……自動翻訳がかかってるみたいだね。口の動きと音が合ってない」

「言葉が通じるのは助かりますね。不気味ではありますけど」

「……んー、緊急事態だし、通じるに越したことはないけど。現地語の習得も旅の醍醐味なのになあ」

 

 むう、と、こっちに来てから一番不満な様子で、朱雀さんは唸る。俺としては、便利だなあ、としか思わないけれど、語学が出来る人からしたら勝手に翻訳されるのは耐え難いのかもしれない。

 

「オンオフが切り替えられるようになるといいですね。文字はどうですか?」

「そっちは全く。なんでこう中途半端に不親切かな……」

 

 ぶつくさと文句を垂れる朱雀さんが可笑しくて、思わず笑ってしまった。こういう小さな不満とか、不安とか、逆に楽しいこととかも、共有していけたらいい、と、そう思った。

 

 

 

 

 

「でも、この、城塞都市……、エランテルでしたっけ? 最初に見た都市よりも随分活気がありますね」

 

 用は済んだとばかりに戻ってきた城塞都市は、朝から人で賑わっていた。三重構造になっている2番目の壁の内側、そこには幾つもの露店が並び、商品が行き交っている。祭りがあるとか、そういうことでもないらしい。

 んー、と間延びした返事のあと、多分この辺りが国境、と、地図の上、城塞都市と霧の平野の中間あたりをなぞって朱雀さんが説明してくれた。

 

「国境防衛の拠点なんだと思う。それで商人を中心に人間が集まってて、物流が捗ってる」

「西と東の国は敵対関係にある、ということですか?」

「それで間違ってはない。けど、どっちかといえば、理由をつけて戦争する関係、かな。相手を倒すことより、自国へのアプローチとか、内部勢力の調整を目的とした……」

 

 そこまで言って、朱雀さんはしばらく悩む仕草を見せたあと、これは確証がないからまた今度、と話を打ち切ってしまう。

 

「だ、大事な話なんじゃないんですか?」

「語り始めたらキリがない話でもあるから、ちょっと保留。今大切なのは、商人に限っては割方出入りの制限が緩いっていうこと。そのお陰でこの都市は潤ってる。さっきの都市の治安がかなり悪いこともあるけど」

「首都なのに?」

「首都だから……、と言いたいところだけど、比べてみれば一目瞭然」

 

 まずこっち、と、西の国の首都が映されてた。次にこっち、と、ナザリックの北東、東の国の首都を映したものへと、映像が切り替わる。

 

 山脈で分け隔てられたふたつの都市。地図上ではさして離れていないのに、まるで違う環境がそこにはあった。

 

「あっ、すごい。全然ちがう」

「ね。土地は西の方が広いし、人口も多いんだけど、生活水準は東の方が断然上」

 

 建物に詳しいわけではないけど、それでも一目でわかる。東の国の方が良く整備されていて、街並みも新しい。ひと世代違う、と言われても信じてしまうかも知れない。

 何より、道を歩いている人の顔がみな明るく、希望に満ち溢れていた。

 

「どうしてここまで違うんでしょう」

「権力の分散かな。あと麻薬」

「麻薬?」

 

 不穏な言葉が出てきたので思わず聞き返せば、ひとつの村の映像が水鏡にうつる。西の国の領土だそうだ。

 高い柵で囲まれたその村はやたらと厳重に警備されており、中で何やら植物を栽培しているようだった。

 モンスターが存在しているようなので、ただの警戒心が強い村だと言えなくもないが、それにしては警備の連中のガラが悪い。村の隅では、何やら荷物を馬車に詰め込み、何重にも偽装を施している最中であった。これは、確かに。

 

「……どこの世界でもあるんですね、こういうの」

「まあ、ある程度は切り離せないものではあるけど。良いものではないよね」

「これのせいで、西の国の発展が遅れている、と?」

「かなり蔓延してるのは確かだと思う。でも……」

 

 襟元を押さえてしばし考え込み、何事か確信を得たのか、ひとつ頷いてから、朱雀さんは言葉を続けた。

 

「停滞してはいるけど、西の国が遅れてるって言うよりは、むしろ東の国が進みすぎてる気がする」

「……誰かが、知識を持ち込んだ可能性がある、ということですか」

 

 意図せず、声が低くなる。

 未来からの知識を持ち込んで、自分の意のままに国を動かす。どれだけ頭が良ければそんなことができるのか俺にはわからないけれど、ユグドラシルのプレイヤーだとしたら、厄介なことになるのではないか。

 

 そう思っていた俺に、朱雀さんは控えめな否定をもって答える。それは、どうだろう、と。

 

「なんていうか、真っ当なんだよね」

「真っ当?」

 

 水の中、どこまでも透明なまなざしに灯りをともしながら、白手袋の指先が、ナザリックの北東にある都市を撫でる。魔法のインクで書かれた線は滲むことも掠れることもなく、はっきりと存在を示していた。

 

「そう、真っ当。善い王かどうかはわからないけど、賢い王が治めている国だと思う。公共事業がちゃんと動いてるんだ。道路がレンガや石で舗装されてて、灯りが確保してあって、すごいよ、歩道も整備されてる。馬車が普及してるから別におかしなことじゃないんだけど、似たような工事をあちこちでやってるし、ここ数年くらいでかなり大規模な工事に踏み切ったんじゃないかな。警備兵も巡回してるし、きっと治安もすごく良い。もっと細かいところで言えば、そうだな、裏路地にある……、ほらここ、食堂かな。煙突から煙がぽこぽこ出てる。今まさに化粧が落ちたお姉さん達が入っていったけど、お仕事帰りなんだろうね。悪い意味じゃなくて、「こういう層」の人が元気なのは景気が良い国の証拠だとぼくは……」

 

 すらすらと淀みなく語られていた講義がぴたりと止まる。興が乗って喋りすぎた、とでも言うように、朱雀さんは黙ったまま一歩下がった。

 どうぞどうぞ、とジェスチャーで続きを促せば、いやいやこれ以上は、とやはり身振りで辞される。なんだこれ。

 

 つまり、と、相変わらずうまくいかない咳払いをひとつして、朱雀さんは続けた。

 

「何が言いたいかって、並外れてはいるけど、必要なものを必要なだけ整備してるって意味では、常識の範囲内ってこと」

「たまたま現地で優秀な王様が産まれた可能性の方が高いっていうことですか」

「そうそう」

 

 天才なんて1世紀にひとりくらいいるもんだし、そういう時代に来たんだろう、と再び机に1歩寄って、こんこん、と器の縁を叩く。土くれのような色のわりに、うつくしく澄んだ陶器の音がした。

 

「でもこれ、後が大変だろうとは思う。歳とって呆けたり、次の王様が無能だと、あっという間に瓦解しかねない」

「後継ぎを作るのも、上に立つ者としての義務、ってやつでしょうか」

「だね。どうも古き良き世襲性の匂いがするし」

「どんな匂いですか」

 

 そんな感じしない? という問いに、わからなくもないですけど、と返して、水面に映る、向かい合った獅子が描かれた旗を見る。この国の国旗なんだろう。

 

 上に立つ者の義務、か。確かに大事なんだろうけど。

 

「俺達には関係なさそうで、良かったですね」

「えっ」

「えっ」

 

 かかか、と、八咫烏が羽繕いをする音。瞬き数回分の沈黙。

 今回それを先に破ったのは朱雀さんだった。

 

「……モモンガさんがそれ言う?」

「いやいやいやいや! ええ!? そんな予定は……、違いますよ! アルベドは! 違いますから!!」

 

 唯一の心当たりだが、タブラさんの娘とも言える存在に手を出す気など毛頭ない。

 そもそもの原因である朱雀さんはしかし、わざとらしく、よよよ、と口元を押さえて、肩を震わせた。泣いているのではない。笑っているのだ。

 

「……ごめん。ぼくが余計なことをしたばっかりに、モモンガさんの、貞操が……、ふ、ふふっ!」

「笑わないでくださいよ! ないです!! ないですって!!!」

 

 

 

 

 

「市場にはちょっと近寄れないんだよね。見た目カラスだから、追い払われちゃう」

「やっぱり、街には直接行かなきゃ駄目ですか」

 

 ひとしきり騒いで落ち着いた後、改めて露天を覗こうとするも、あまり近くに寄ると、カラスと勘違いされてしまうらしい。

 どうやら日用品の類は銅貨や銀貨でやりとりされているようだが、それがユグドラシル金貨とどう互換性があるのかまではわからず、スクロールが売っていることまでは確認できたが、ここからでは流石に中身は判別できない。

 

 結局、街へは後日改めて調査に向かおう、と一旦目視を打ち切って、地図上でまだ書かれていない空白の場所を見た。

 

「ここから先も続いてるんですよね?」

「<探知接続(コネクト・センス)>の範囲からは出てないけど、今はまだ、このあたりまでしか進んでないね」

「なるほど」

 

 必要なことは大体聞いたかな。最後は近場にある大きな森、か。

 

「じゃあ、あとは……、森のことを詳しく教えてもらっていいですか」

 

 森、という単語が出た途端、朱雀さんはのろのろと顔を逸らす。年齢にそぐわない、叱られるのがわかっている子供のような仕草だった。

 

「どうかしたんですか、朱雀さん」

「……うん、その、言いそびれてたんだけど」

 

 珍しく言いよどみながら、何だかしゅんとした様子で、上目遣いにこちらを見る。とは言っても顎を引いているだけで眼の光の位置は変わらない。ちょっと不気味だ。

 

「モモンガさんに謝らなきゃいけないことがひとつあって」

「えっ」

 

 言いながら、映像が切り替わる。今にも動き出しそうな、巨大な樹木。確かにイビルツリーと言われれば、それっぽいような気はする。

 朱雀さんは、その辺にあった緑色の鉱石を地図の上、森の中心あたりに置いた。イビルツリーのつもり、だろうか。

 

「ゆうべ見たイビルツリーはこのあたりにいたんだけど、今朝見たらこの辺まで移動してて」

 

 中身の無い白手袋が、鉱石を湖のそばへと動かす。同時に視点が俯瞰になり、そこには確かに湖が一緒に映っていた。

 何故だろう、喉でも渇いたんだろうか。植物系モンスターにそんなバッドステータスあったっけ。

 

「あと、こっちの索敵にまわした八咫烏が1羽死んでて……」

 

 くり、と、朱雀さんの肩に乗っていた八咫烏が首をひねった。

 殺された、ということだろうか。レベルも低いし、それ自体は不思議なことじゃないんだけど。

 

「うーん……、理由はわかりますか?」

「ごめん、それがわからないんだよね。ちょうどその時考え事してて」

「……精神攻撃、という線は」

 

 感覚が繋がっている召喚獣が死んでしまって、気がつかないなんてことがあるんだろうか。

 心配になって思わず聞いてしまったが、朱雀さんは両手をぱたぱたと左右に動かしながら、ばつが悪そうに首を横に振った。頭にぶつからないよう、八咫烏がそっと身をかわす。

 

「ないない。昔からなんだよ、考え事してると周りの情報が入ってこなくって」

 

 鼻に辛子詰め込まれるまで気がつかなかったこともあるし、と中々衝撃的な告白をした後、朱雀さんはしょんぼりと肩を落とした。

 

「これじゃ索敵の意味がないよね。本当に申し訳ない」

 

 心底申し訳なさそうな朱雀さんの謝罪の言葉に、いえいえそんな、と反射的にわたわた手を振った。

 任せてしまっているのはこっちなんだから謝られても困る。それより朱雀さんに大事がなかったことが幸いだ。

 

「朱雀さんが無事ならそれでいいですよ。……けど、そうだな。最初の霧の範囲はどのくらいだったんですか?」

 

 んー、と朱雀さんがひと悩みしたとき、ばささ、と八咫烏が肩から机に降り立った。そのまま、てん、てん、てん、と跳ね歩いたかと思うと、違う色のペンを咥えて、また朱雀さんの所に戻っていく。

 ……便利だな、召喚獣。

 感心してる間に、明るい色のペンで、ナザリックの周りに大きめの円が描かれた。

 

「このくらい、かな」

 

 ……思ってたより随分広い。北の方は湖まで届いてる。と、なると。

 

「今イビルツリーがいるところまで完全に被ってますね。霧から逃げ出した訳じゃなさそう、かな」

 

 霧そのものに視界を塞ぐ以上の効果はないし、視覚に頼るようなモンスターでもないので当たり前といえば当たり前だが。

 イビルツリーだと決めうちするのは危険だから、自分の知識は参考程度に考えておいた方が良いかもしれない。

 

「<霧吹き老女(ミストレア)>を感知して逃げ出したんでしょうか」

 

 見た目こそ老婆だが、<霧吹き老女(ミストレア)>は第10位階に相応しい凶悪な召喚獣だ。物理攻撃力もさることながら、猛毒、麻痺、呪いなど、悪辣な状態異常を容赦なくぶち込んでくる。

 イビルツリーにどこまで知能や生存本能があるのかはわからないが、いちプレイヤーとしては決して戦いたくない相手なので一応聞いてみたけれど、朱雀さんから返ってきたのは否定の言葉だった。

 

「やー、確かに戦ったら<霧吹き老女(ミストレア)>が勝つと思うけど、レベル的にはとんとんだからなあ。それはないと思う」

 

 それも一理あるかと思い、別の方向から考えてみる。

 逃げたんじゃないなら、何かを追いかけたのだろうか。もしかして、八咫烏を? いや、それなら最初にイビルツリーを発見した時点で殺されていたはず。何にせよ。

 

「今はもう動いてないんですよね?」

「うん、最初からそこにいたみたいにじっとしてる」

 

 なら、大丈夫、かな?

 あらかじめ設置されたボスじゃあるまいし、移動くらいするだろう。

 

「それなら大丈夫じゃないですかね。けどこれからどうしましょう」

 

 朱雀さんは街に興味があるみたいだし、できれば気兼ねなく移動させてあげたいんだけど、今の段階でナザリックから遠くに離れるのはあまり気乗りしない。

 部屋にこもって実験の続き……、は、シモベのみんなが急ピッチで働いてくれてるし、なんだか申し訳ない。だからと言って中にいてもできる仕事なんてないしな……。部下が優秀って困ることもあるんだなあ……。

 そんなことを思っていたら、朱雀さんが緑の鉱石をこつこつ叩いて提案する。

 

「今イビルツリーがいるこの場所、トカゲ……、あー、リザードマンだっけ? 集落があったんだけどさ」

「ふむ」

「でもイビルツリーに轢かれちゃって、ほぼ壊滅状態なんだよね」

「あー……」

 

 気の毒に、が2割くらい。まあレベル的に、この大きさのモンスターにぶつかったらただではすまないよね、という納得が8割の声。

 

「別に不幸を煽りに行きたいとかそういうわけじゃないんだけど、わりとここだけの独自文化を築いてるみたいだから、滅びる前に覗きに行きたいなあと思って。ゆうべのお詫びにセバス連れてさ」

 

 ふむ、と少し考えた。いつかは外に出なければならないのだし、場所もそこまで遠くない。水辺なら朱雀さんの地形ボーナスが適用されているかの確認もできて、あわよくばイビルツリーで魔法の試し撃ちもできるかもしれない。

 今できる行動の中ではすごく良い案だと思った。

 

「もう、すぐに出かけるってことで構いませんか?」

「あっ、モモンガさんも来る感じ?」

「イビルツリー相手に魔法の練習ができないかな、と。ご一緒してもいいですかね」

「もちろん。いやしかし初めてじゃないかな、ふたりで外に出ていくって」

「そう、です……、ね? そういえば、そんな気が」

 

 ナザリックの中で色々話したり、TRPGなんかのゲームをしたことはあったけど、採集担当だった朱雀さんと、狩り担当だった俺では、外で何かを一緒にやった記憶がない。

 どうせお供が着いてくるから実質2人ではないけど、流石にわくわくする。……感情の余剰分が沈静化されるのが果てしなく鬱陶しい。でも、油断は禁物だ。何が起こるかわからないんだから。

 

 同時に、プレアデスをお供に連れて行くには彼女達のレベルが足りないので、守護者の中から2人ほど連れて行けないか確認も取らなければ、と思い立つ。

 

 でも外に出るのにリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを持ち出したくはない。即座に退避するのに便利ではあるけど、万が一奪われてしまったらナザリックの深部に転移される危険性がある。だから、ええっと。

 とりあえず部屋の外にいる二人に指輪を渡して、霊廟までは着いてきてもらって、そこでアルベドに……、そうだな、<転移門(ゲート)>を使えるシャルティアと、レンジャーのクラスを持っているアウラがいいかな? を連れて行けるか聞いて、いけそうなら彼女達と合流したあと、プレアデスに指輪を預かってもらって、目的地に転移する、と。そんなところか。

 

「ああ、そうだ。指輪をひとつ渡しておきますね。転移先は霊廟前でいいですか?」

「うん。あ、ちょっと司書に用事あるから先上がっといてくれる? ティトゥスにこれ返さないといけないし」

 

 セバスも途中で拾ってから行くよ、との言葉に、了解です、と返して、二人で製作室を出た。

 

 先にティトゥスに礼を言って、ソリュシャンに事情を話し、指輪を渡す。ナーベラルのときと同じことになるのではないかと一瞬思ったが、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの認識については個体差があるのか、はたまた話が早いだけなのか、ソリュシャンは想定よりもすんなりと指輪を受け取ってくれたので、すぐに霊廟へと移動することができた。

 

 

 外への道を歩きながら、内心でそっとため息をつく。

 この数時間で本当に色々なことがあった。

 異世界についての知識が一気に増えて、現状やらなければならないこともたくさんあって。

 

 だから、すっかり忘れていたのだ。

 伴侶という言葉の意味について。

 

 

 

 

 

 この先に襲いくる後悔など頭の片隅にも浮かばないまま、<伝言(メッセージ)>をアルベドに繋いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けた。

 シモベからそのように報せが来たが、当然眠るわけにはいかない。守護者統括として成すべきことはまだ山程ある。装備によって耐性をつけているので、その必要もない。

 

 玉座の間、至高の41人の御旗が並ぶその先。諸王の玉座、と名がついた、まさしくかの偉大なる支配者に相応しい玉座の前。私の居場所。私の存在意義。

 

 マスターソースと、守護者達から上がってきた報告を照らし合わせる。

 罠、モンスター配置、各階層の建造物、すべて問題なし。

 そこから更にナザリック全体の確認を言い渡したシズ・デルタからも、異常は一切ないとの報告が先ほど来た。

 転移によるズレなどは見受けられない。そう断定して良いだろう。

 

 ふ、と息をつく。安堵からではない。

 ナザリックには一切の異常が見られないというのに、至高の御方々はどのようにして転移を察知なさったのか。

 

 至高の御方にしかわからない、探知能力のようなものがあるならばそれで良い。だが、もし。もしもその兆候を我々シモベから得たのだとしたら。

 この程度の頭脳労働でどうにかなるような柔な身体はしていないが、それでも痛むような気がするこめかみを押さえる。

 

 私には、私達にはわからない。

 我々のなにが、以前と違うのか。

 

 お二人の、我々への接し方が以前と違うことは明らかだ。この地に転移してきてやっと、御方々の目に入ったような錯覚さえする。

 あるいは私こそが原因なのかもしれない。御方の前で泣き崩れるなど、守護者統括にあるまじき失態だ。

 

 何故なのか、と思う。私がタブラ・スマラグディナ様に創造されて以来、このようなことは一度もなかった。

 玉座の傍にいながら御方々にお声をかけられることすらなくても、かつての侵攻の折、守護者統括としての任を果たせないままみすみす第八階層まで敵の侵入を許してしまったときも、至高の御方々がどれだけナザリックにお戻りになられなくなっても、『この身を裂くような哀しみを感じていながらも、それを面に出すことなど有り得なかったと記憶している』というのに。

 

 しかしそのことを責められるというわけでもなく、私はこうして守護者統括の任を預けていただいている。私を不審に思われているのなら、考えられないことだ。

 

 しかし、なんだろう。枷が外れた、とでも言うのだろうか。以前は声をかけることもままならなかったというのに。

 

 それが不満だったというわけではない。偉大なる至高の41人であればお傍にいるだけで、否、ナザリックに存在してくださるだけで、我らシモベは無上の幸福を得ることができる。それが我々にとっての常識だ。常識だった。

 

 

 少なくとも私にとって、そうでなくなってしまった理由がふたつある。

 

 

 自らの肩をそっと抱きしめた。思い出すのは大きな掌、硬い指の感触。真っ白な美貌の(かんばせ)、深淵を思わせる闇に嵌った赤い瞳。私の中に流れ込んできたモモンガ様の波動。腰骨に響くような低いお声はどこまでも慈しみに溢れていて。

 慈悲深き君。私の愛しい方。

 そんな方から、まるで大切なもののように扱っていただけて。こんな風に接していただいては、もう前のような関係で満足などできるわけがない。

 

 ほう、ため息をついて、モモンガ様からいただいたハンカチを握り締めた。愛すべき死の匂いがする。

 私の涙を拭うためにくださったものだけど、そんな勿体ないことができるはずなかった。モモンガ様の匂いが薄れてしまうかもしれない。そう、わざわざモモンガ様が私にくださったのだ。

 

 私の、涙を拭うために。

 

 幸せな気分が急降下する。

 死獣天朱雀様が、お隠れになる。そのときの失意を思い出し、そして。

 

 

――――酷い話だよね、連絡がくるまで忘れてるなんて。

 

 

 ぎり、と、唇を噛む。

 忘れていた。死獣天朱雀様は、このナザリックを、忘れていた。

 

 モモンガ様が、必死でこのナザリックを維持して下さっている間、あろうことか、このナザリックを、忘れていた!

 

 吹き上がる炎のような激情はしかし、表層へ滲み出るだけで、すぐに燻って鎮火する。

 その一言だけ抜き出せば、彼の腸を抉り出しても収まらないような怒りがこみ上げてくるが、前後の会話を聞いていてなお、憤怒に身を任せていられるほど愚鈍ではない。

 

 御二方はまず、私が真なる無(ギンヌンガガプ)を持っていることに疑問を持たれた。

 その後モモンガ様と私の婚姻を、死獣天朱雀様が仲立ちしてくださって。

 ご友人が亡くなられたことで、『りある』での役目をお離れになったという。「忘れていた」というお言葉はこのときに出たものなので、それだけお役目に没頭していたということなのだろうか。

 そして、モモンガ様がお手隙のときに、連絡が欲しい、と。……死の支配者(オーバーロード)である、モモンガ様に。

 

 それに加えて、と、記憶を手繰り寄せた。

 もう4年と337日前になるが、ここ玉座の間で、タブラ・スマラグディナ様と死獣天朱雀様が話しておられたことがある。

 

――――朱雀さん、テンキンですか。寂しくなるなあ。

 

 テンキン。……転勤、だろうか?

 つまり、「りある」において、どこか遠い地に行くことになった、ということ。死獣天朱雀様がナザリックにおいでにならなくなってしまった理由。

 

 至高の御方々は「りある」という場所で、ナザリックのことを忘れてしまうくらい激しい戦いに身を投じておられた。

 ナザリックに来られないような遠方に死獣天朱雀様は行ってしまわれたが、その地でご友人を亡くし、戦意を喪失されていたところを、ナザリックの危機を感知したモモンガ様に招集された、と。

 

 我々に感知することはできなかったが、ナザリックに襲い掛かろうとしていた脅威は死獣天朱雀様をして死を覚悟なさるほどのものであり、御自らの死後もモモンガ様と交流を望んでおられた。死の支配者(オーバーロード)であるモモンガ様であればその程度のことは可能だろう。何もおかしなことはない。

 

 そして、玉座の前での御二方のやり取りがあり、死獣天朱雀様によって何らかの術を行使され、現在に至る、と。

 

 

 私しか知らない事実。私にしか出せない結論。

 しかし、それはデミウルゴスが出した結論とほとんど同じものだ。むしろ説が補強された気さえする。

 

 

 ならば別に、デミウルゴスに情報を開示しても構わないとは思う。

 なぜならデミウルゴスは恐らく気付いている。私が情報を出し惜しみしていることに。

 基本的にナザリックのものに注ぐ慈悲を惜しまない男だが、私に対しては殊更甘いような気がする。あるいは、彼の創造主と私の創造主の関係性がそうさせるのかもしれない。

 

 私が御方々に危害を加える気がないと見て、尋問の必要はなし、と判断したのだろう。セバスとプレアデスもその場にいたが、彼らがそれを明かすことは、職務上あり得ない。

 私が直接彼に伝えなければ、情報が伝わることは決してない。

 

 

 しかし、なんなのだろう。

 私の中の何かが、情報を開示することを拒否している。

 

 伝えた方が良いはずなのだ。それでデミウルゴスはきっと安心するし、一層職務に励んでくれることだろう。

 デミウルゴスを疑っているわけではない。至高の御方に対する裏切りなど、ナザリックのシモベであれば当然有り得ないことで、その中でも彼がそうなる可能性は那由他にひとつも考えられない。寧ろ、それっぽっちの可能性でさえ自分の中に見つけてしまったら、即行で自害する様がありありと想像できる。

 

 もしや、と思う。

 私が疑っているのは、至高の御方そのものなのか?

 

 この世のあらゆる不敬を集めても足りない無礼ではあるが、どうしても、どうしても違和感が拭えないのだ。

 

 御二方で微笑を交し合った直後。玉座に座るモモンガ様と、階段下の死獣天朱雀様とで成された会話。

 前触れも何も無く、唐突に始まった、そこだけ乖離したような、切り取られた1シーン。

 

 もう、脅威が間近に迫っていたのかも知れない。

 あるいは、御二方にだけ理解できる、なにかがあったのかも知れない。

 

 でも、けれど、何かが足りていない。私は一体何を知らないのだ。

 

 私は御方々の、モモンガ様の、一体何を理解できていないというのだ!

 

 

 

 

 

 

 

――――そこまで、考えて。呼吸を一旦整えた。

 

 少なくとも、今までナザリックを見捨てずにいてくださったモモンガ様は当然として、死獣天朱雀様もまた、この異世界でナザリックを守ることに全力を注いでくださっている。

 

 デミウルゴスからの情報によれば、その御身を削ってまでマーレに魔力を譲渡なさっていたというのだから、その献身を疑うなど、それこそ至高の御方に「そうあれ」と創造された者にしか許されたことではない。

 

 雑念を払うように、頭をひとつ振った。

 あまり長い間、考え事に浸っている余裕は無い。ともあれ自らの責務を完璧にこなすことが第一だ。

 

 守護者統括として。そしてモモンガ様の伴侶として。

 

 

 ……伴侶。

 狂おしいほどに沸き上がってくるこの感情。

 

 私の愛しい君。病めるときも健やかなるときも、死の超越者であるあの御方であれば、それこそ死がふたりを分かつ後まで。

 わたくしの、とこしえのだんなさま。

 

 

 そう、どれほど判然としなくても。

 ただひとつ。ひとつだけ、はっきりしていることがある。

 

 死獣天朱雀様が、私をモモンガ様の伴侶へと推してくださった理由。

 ナザリックにおいて、ある意味では最重要事項と言っても過言ではない、重大な事柄。

 

 

 

 モモンガ様の、お世継ぎを賜ること。

 

 

 

 ナザリックを支配する後継者を授かり、戦力を強化することができ、ナザリックの誰もが幸福になれる。

 万が一、考えるのも辛いことだが、万が一御方々がナザリックをお離れになるときのためにも。

 

 

 なるべく早く褥に呼ばれるよう、いいえ、隙あらば御寵愛を賜るくらいの気概で行かなければ。

 モモンガ様の伴侶として、守護者統括として、いちサキュバスとして!

 

 

 固くかたく、拳を握り締めて、その決意に打ち震えていると。

 

 

 

 

『アルベド?』

 

 私の愛しき旦那様から、<伝言(メッセージ)>が届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




最近迷走していて本当に申し訳ない限りです。ちょっとしたスランプだったのかもしれない。

次回は召喚獣によって迷惑を被ったひとたち。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

地より見上げし者たち

一日目のやたがらすと現地の人たち。
時系列的には 二人目(ナザリック転移から3時間くらい) → 一人目(ナザリック転移から16時間くらい) となっているので頭の隅にでも置いといていただければ幸いです。




 

 ごっとん、がたん、がたたん、ごとん。

 絶え間なく揺れる馬車の上。このあたりの道は人が良く通るからまだマシだけど、村を出たばかりのときは、それはもう酷かった。辺り一面が霧に囲まれてることへの不安もあって、お腹がぜんぶ引っくり返っちゃうかと思ったくらい。

 

 今はもう、とっくに霧を抜けて、街道を順調に進んでいる。日銭を稼ぐためにやってきた冒険者さんたちの姿がちらほら見えていた。これなら心配していたゴブリンやオーガなんかの襲撃も、きっとやり過ごせる。このまま何事もなくエ・ランテルまで着くかも知れない。そんな希望を私たちに抱かせていた。

 

 傾き始めた太陽の光が、膝の上の、ネムの髪をきらきら照らす。小さな頭をくしゃくしゃと撫でた。

 街に行ける! と笑い声を上げながら喜んでいたのはさっきまでのこと。どうやらはしゃぎ疲れて眠ってしまったらしい。暢気なことだ。今頃、あの霧の中には、アンデッドがうようよしているかもしれないのに。

 来た道を振り返る。ネムを起こさないように、そっとため息をついた。

 

 

 

 いつもの朝、いつもの食事、いつもの仕事。ちょっと退屈だけど、それでも変わりなく続いていくはずだった日常が、ある日突然無くなってしまうものなのだと知ったのは、今朝のことだ。

 

 扉の外は、ミルク色の世界でした。旅の吟遊詩人さんでも中々思い付かないような謳い文句。朝目覚めて、井戸まで水を汲みに行くために扉を開けたときの光景がそれだった。

 

 自分の鼻先すら見渡せない、一面の乳白色。空どころか、目の前の隣人の顔も見えないくらい。

 家族みんなでしばらく呆気に取られたあと、おーい、おーい、と、叫びはじめた村の人たちの声を聞いてようやく我に返り、互いの安否を確認するため、私たちも声を上げたのだった。

 

 

 点呼のため、情報を整理するため。濃い霧の中、なんとか時間をかけて村長さんの家まで集まった。

 

 こんなことは初めてだ、と村長さんは言う。100年前、ご先祖様がこの地を伐り開いて以来、こんな深い霧など伝え聞いたことがない、と。

 戦争のときに引っ立てられて行ったカッツェ平野の他に、霧など見たことがない。村人みんながそんなだから、対処方法なんて、考えても考えても出てくるはずがなかった。

 

 本当に何も見えないのだ。松明をつけてみた人がいたけど、霧に触れた途端消えてしまったのだという。

 これでは、農作業も、家畜の世話もできない。井戸まで水を汲みに行くことにさえとんでもない時間がかかる。前の人をうっかり井戸に突き落としてしまうかもしれなかった。

 

 でも、少しずつやれば見えないことにも慣れるんじゃないか。そう言った人のすぐあと、ぽつりと呟かれる声。

 

 

 カッツェ平野の霧とは、関係がないんだろうか。

 

 

 ざわ、と、みんなの間に動揺が走った。

 

 カッツェ平野。一年中霧に覆われている不思議な野原。

 中にはアンデッドがひしめいており、年に一度、帝国と王国が戦争をする時だけ、まるで仲間を迎え入れるかのように晴れわたるという、不気味な土地。

 

 ここ、カルネ村は平野に近いから、毎年戦争が近くなると、若い男の人が何人か兵隊にとられていく。平野の近くから、霧を直接見たという人が呟いた。魔物が住むにふさわしい、禍々しく、冷たい霧だった、と。

 

 ぶるり、と身が震える。そう言われれば、この霧がとても恐ろしいものに見えてきた。

 突然自分の眼前に、凶悪なアンデッドが現れる。そんな幻想が、ひたひたと心を満たしていった。ぎゅう、と抱きついてきたネムに、大丈夫よ、と小さく声をかける。ふるえる声は、自分へと言い聞かせたものに違いなかった。

 

 

 どうにかならないものか、と意見を出し合っていた村の人たちに、野伏(レンジャー)のラッチモンさんが提案した。

 

 いつから霧が出ているかはわからないが、とりあえず、今のところは、霧で視界が塞がる他には、私たちを害するものはない。

 この霧では、狩りどころか森に入ることすらできないので、自分には今できることがない。そこで、まだ体力が残っているうちに、何人か選抜して、エ・ランテルまで助けを呼びに行こうと思う。

 森の魔物は環境の変化に敏感なので、もうしばらくは大人しくしているはず。その間に街道まで出てしまいたい。

 

 兵隊や、森の獣なら自分達でなんとかしろと言われるだろうが、突如としてあらわれた霧ならば、今以上に広がる危険性を訴えることで、魔法を研究する人達が食いついてくるかもしれない。

 ここで、全員がひたすらじっとして、じわじわと消耗していくのを待つよりは、いくらか建設的ではないか。

 

 どの道このままではろくな作業もできないし、万一戦争の季節までこのままだったら、そっちに人手を割かれることになる。王国は、ちっぽけな村の都合なんて考えてくれやしないのだから。

 

 

 ラッチモンさんの意見は、概ね好意的に受け入れられた。

 男手を引き抜かれることに抵抗のある人もいたようだが、いま出ている意見の中では、いちばん前向きには違いない、と。 

 

 もちろん、今より酷いことになるかもしれない。道中事故に遭うかもしれないし、野党やモンスターに襲われるかもしれない。

 でも、なにもしないで待つよりは、ちょっとでもできることをした方が良いんじゃないかって、みんなも、私も、そう思っていた。

 

 みんな不安だったのだ。国に納める税は毎年増えるばっかりで生活はちっとも楽にならないし、近くの村ではモンスターによる被害が年々深刻になっているともいう。怪しい作物を無理矢理作らされている村もあると聞いた。

 みんなの漠然とした不安が、霧という形になって現れたんじゃないか、なんて、口には出さなかったけど。

 

 

 そうして、手分けして荷物を纏めることになった。村から出る人たちと、村に残る人の分、両方だ。もしアンデッドが現れたとき、いつでも逃げ出せるように。

 

 ありあわせのもので支度を整えていたとき、なんと、私にも声がかかった。エ・ランテルへ一緒に来てくれないか、と。

 

 なんでも、バレアレさんのとこの坊っちゃん、つまりンフィーレアに、エ・ランテルの冒険者組合に口聞きしてくれるよう頼んで欲しいのだという。

 確かに私とンフィーは友達だけど、大人の人が頼んだ方が良いんじゃないのか、そう言えば、エンリちゃんが頼んでくれるのが一番効く、と言われ、周りの人たちにも一斉に同意されてしまった。

 

 両親に助けを求めたが、村がこの有り様なら、エ・ランテルの方がむしろ安全ではないかと後押しをする始末。

 私も行く! と言い出したネムも、なぜか連れていって良いと許可が出たので、荷物の隙間に挟まるように、私たち姉妹は馬車に揺られて街を目指すことになったのだった。

 

 

 

 気がつけば、空は見事な夕やけ色。

 視界が晴れたことで少しだけ気分が良くなったけど、不安はいまだ、心の奥底に残ったままだ。

 

 これからどうなってしまうんだろう。もやもやと先のことを考えていたら、膝の上で身動きする気配。目をこすりながら起き上がったネムは、しばらく寝ぼけ眼で空を見ていたが、突然私の服の袖を引っ張って騒ぎ出した。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

「こら、ネム。静かにして」

 

 道中は決して安全ではない。今のところ何も出てきてないけれど、普段はしょっちゅうゴブリンやオーガが出てくる道だ。こそこそと行かなければ、いつ襲われるかわからない。

 注意したことでここがどこなのか思い出したのか、ネムは気持ち声を潜めて、空の一点を指差した。

 

「きれいなとりさん!」

「え?」

 

 赤く染まる空に、ぽつりと浮かぶ黒い影。随分とたかいところを飛んでいるはずなのに、大きな翼を広げている美しい鳥なのだとはっきりわかる。足が3本あるように見えるのは気のせいだろうか。

 

「ほんとだ……」

 

 とおいとおいそらを、ゆったりとおよいでいる。何一つ、縛られることなどない、というように。

 

 きらきらした眼で鳥を見つめ続けるネムの頭をひとつ撫でて、まだ長い道の先をぼんやりと眺めた。

 

 あるいは私も鳥ならば、どこへでも自由に行けたのに。すこしだけ、ほんのすこしだけ、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高く、たかく、煙が昇り、星の海に混じって消える。空気が乾燥しているのだ。雨の降らない日をわざわざ選んだのだから当然のこと。せっかくつけた火に消えてもらうのは大変困る。

 

 燃えているのは花畑。王国に蔓延る麻薬、「ライラの黒粉」の原料になる花だ。

 冒険者、「蒼の薔薇」のリーダーとしてではなく、国を憂う王女の友人として厄介ごとを引き受けてしまった我らが頭目の指示により、つい先程、火をかけてきたところである。

 消火のための水も片っ端から駄目にしてきたので、少なくとも畑を燃やし尽くすまでは消えないはずだ。

 

 花として愛でられるでもなく、薬として売られるでもなく、誰の手にも渡らぬままその身を焦がしてゆく花達を、ほんの少しだけ哀れに思った。精々、愚かな連中に種を蒔かれたことを恨んでくれ、と。

 

 

「しっかし、人使いの荒いこったな、おい」

 

 水袋片手に、干し肉を齧りながらガガーランがぼやく。麻薬畑を焼くのは本日2箇所目。この後もう1箇所、少し離れた場所まで火をかけに行かなければならない。後日に回してしまったら、敵の伝令が近くの畑に注意を促しに行くかもしれない。急ぐ必要がある。そのために万事をとってこの場で小休止を取っていた。

 だが、台詞ほどには、その表情に疲労や倦怠の色は見られない。並大抵の男よりも逞しい肉体がこの程度の仕事でどうにかなるはずもなく、何よりその「人使いの荒い人間」を好ましく思って従っているのだから、先の発言も、いつもの世間話の切り口に違いなかった。

 

「全部鬼ボスが悪い」

「お触りを要求する」

 

 ティナがそれに答えると、ティアが欲望に塗れた台詞で追従する。同じ背格好、同じ顔、同じ表情で、何を考えているのかまったく読めないが、ぽりぽりと木の実を口に放り込む姿はどこか小動物じみていた。

 彼女らとて本気でラキュースのことを鬼ボスと罵っているわけではない。彼女らが指示に従うのも、命を懸けても良いと思っているのも、すべてラキュースだからこそ。……ティアの発言は9割方本気かもしれないが。

 

「おしゃべりも大概にしておけ。気付かれたら面倒だ」

 

 ここにいないラキュースの代わりに小言をひとつ飛ばしておく。現場からいくらか離れているとはいえ、全力で追いかければ追いつけない距離ではない。もっとも私が、飲食を必要としない吸血鬼が警戒している以上、敵意のあるものを近づけさせるつもりは毛頭ないし、緩んでいるように見えても彼女らは歴戦の冒険者である。敵陣に近いところでおいそれと不覚を取ったりはしない。

 

 近いのか、と視線だけで問うてきたガガーランに、首を横に振ることで返事をして、未だ昇り続ける煙を眺めた。真夜中の暗闇すらこの目を遮ることはできない。そのことに慣れたのはいつだっただろう。そんなことを考えなくなるくらいには昔のことに違いなかった。

 

「あといくつだ?」

「今日はあとひとつだ」

「今日“は”、ねえ」

 

 喉元で笑みをかみ殺して、ガガーランは水を一口流し込んだ。そう、この仕事は、今日この日だけで終わるような簡単な仕事ではない。地道に、生えた端から雑草を引き抜くように、ひとつひとつ拠点を潰していくしかなかった。

 

 なにせ相手は強大だ。王国に深く根を張る犯罪組織、「八本指」。貴族と密接な関係を持つ奴らを叩くための証拠集めと、資金源への攻撃。現状、限られた戦力で取れる手段としては、悪くないと言える。

 リ・エスティーゼ王国が誇る「黄金」、心優しき王女様が立案した作戦にしては、少々血なまぐさいと思わなくも無いが。

 

 まあ、その程度の覚悟がなければ、王都に蔓延る麻薬を撲滅したいというご立派な志があったとしても、冒険者組合を通さない非公式の依頼をラキュースが受けることはなかっただろう。あれは、ラナー王女は、どちらか一方、取るべきものを理解している、優れた為政者だ。あれをまともに使うことができたなら、王国ももう少しマシな国になるだろうに。

 

 

 さて、私がいくらか考え事をしている間に彼女らの食事も終わったようだ。すぐに出られるよう支度を始めている。そろそろ移動を、そのように言おうと開いた口から、言葉が出ることは無かった。

 

 ちり、と、何かが探知に引っ掛かる気配がしたからだ。

 

「どうした、ちびさん」

 

 こちらの様子が変わったことに気が付いたガガーランの問いには答えぬまま、視線だけを()()に移す。

 闇に溶け込んでしまいそうな真っ黒な体に、赤い瞳だけが薄ぼんやりと光を点していた。足が3本ついているのはそういう種族だからなのか、はたまた他に理由があるのか。なんにせよ、一瞥しただけでは何の変哲も無い鳥にしか見えなかった。

 

「クアランベラト?」

「こんな夜中に?」

 

 双子の片方が、光り物を嘴でかっさらっていく憎たらしい鳥の名を挙げたが、即座にもう片方が否定する。意地汚い盗人ではあるが、人間と違って夜には活動しない。

 

 ティナがくないを1本投げた。ノーモーションで放たれた凶器は鳥のすぐ真横、木の幹に突き刺さる。ただの獣ならばまず逃げ去るだろう一撃にも、恐れるそぶりすら見せない。赤い、赤い目が、じっとこちらを観察していた。

 

「あやしい」

「殺しとく?」

 

 今度はティアがくないを取り出そうと懐に手を差し入れた瞬間、羽音も立てずに後方へと飛び去っていく。不穏な気配を感じ取ったか、はたまた人語を理解しているとでもいうのだろうか。獣にしては賢すぎる。我々を蒼の薔薇と知って偵察に来た、使役獣の可能性も考えられた。

 

 同じことを思ったのか、双子がその両足に力を込めたところを制し、外套を脱ぎ捨てる。奴に翼が生えていなければ任せたところだが。

 

「高く飛ばれたら厄介だろう、私が行く」

 

 こちらの提案に、ティアとティナが逡巡した時間はまばたきひとつ分。双子の忍者は即座に最適解を叩き出す。

 

「わかった」

「よろしく」

「気ィ付けろよ、ちびさん」

「ふん、誰にものを言っている」

 

 すぐ捕まえて戻ってくるさ。

 それだけを言い残し、<飛行(フライ)>の魔法を唱え、鳥の後を追った。

 

 

 

 

 

 多少は賢くとも所詮は獣。すぐに追いつけるだろうとたかを括っていた。が、その結果は。

 

「ちょこまかと……!」

 

 既に森の中ほどまで飛んできてしまっているだろうに、どうにも捕まえることができずにいる。速度では完全に私が勝っているのだが、あの鳥野郎は小さな体格を生かして枝の隙間を縫うようにこちらの進路を阻んでいたからだ。上に飛び上がれば捕まると理解しているらしい。畜生如きが生意気な。

 

 しかし、何度かニアミスしたことで、疑念は確信に変わっていく。微かに魔法の匂いを感じるのだ。やはり使役獣か、あるいはどこぞの魔法詠唱者が放った召喚獣かも知れない。

 

 少々深追いしすぎている自覚はある。だが、こいつを発見したのがあの場でなければここまで追うことはしなかった。任務の最中、あのときでなければ。

 

 タイミングが良すぎるのだ。偶然こちらを見ていたとはとても思えない。我々が「蒼の薔薇」だからか、麻薬畑に手を出したからか、あるいはその両方か。

 どうしても、ここで仕留めておかなければならない。私の勘が、全力でそう告げていた。

 

 だが、このままでは埒があかない。いっそこのあたり一帯ごと<龍雷(ドラゴン・ライトニング)>で吹き飛ばしてしまうか。

 そんな考えが頭に浮かんだとき、あるものが視界に飛び込んできた。

 

 

「霧……?」

 

 

 鳥を見失わないよう気をつけながら、一度上昇する。眼前に広がる光景に、思わず息を飲んだ。

 一面の、広大な霧。果たしてどこから出ているのか、どこまで続いているのか、少なくとも、森の南東は完全に覆われてしまっているように見えた。

 

「霧? 霧だと? トブの森に、こんな大きな範囲で霧?」

 

 200年は生きているが、トブの大森林でここまでの霧が出てきたという話など聞いたことがない。自然現象とは思えなかった。あまりにも不自然だ。どこかしら魔法の気配も感じられる。わざわざ誰かが展開したものとしか考えられない。

 

 頭の中で何かが繋がる。奴は、あの鳥は、こちらの捕捉をかいくぐりながらも、どこか一点を目指して逃走しているようだった。あまりにも真っ直ぐに。そしてこの霧だ。この霧の、中心に向かっているようには見えはしないか。

 

 

 きっと奴は、奴の、親玉のところへ向かっているのだ。これだけ膨大な霧を作り出す、魔術師のところへ!

 

 

 ぞく、と背筋を悪寒が駆け抜けた。鳥肌が立つ、なんて感覚はもう何十年と経験していなかったな、とどうでも良いことを考えている暇は無い。これからどうするのか、一刻も早く答えを出さなければ。

 

 一度後方に下がり、態勢を立て直す。判断としては間違ってはいないが、即座に否定した。確かに、この状況自体が既に罠かも知れない。私を捕らえるために張った網という可能性もある。

 だが、鳥から得た情報を使って、こちらを襲撃してくることだって考えられるのだ。これだけ大規模な霧を展開する相手が、どれほどの兵力を有しているのかは想像もつかないが、あの鳥だけが下僕とはとても思えない。

 

 そして、恐らくだが、まだこちらの情報は敵に届いてはいない。あれほど必死に逃げようとするのは、主と感覚が繋がっていないからだと推測できる。既に情報が届いているのなら、あそこまで急いで逃げ帰らずとも、その辺に身を隠してこちらの消耗を待つくらいの知能は持ち合わせているはずだ。

 

 目を閉じ、息を吸って、吐く。呼吸など必要ない身体だが、精神を落ち着かせるのには丁度良い。

 

 腹は決まった。今ここで、討つ。

 奴が親玉のところまで辿り着く前に、殺す!

 

 目を開き、魔法を唱えた。視界阻害を無効にする魔法。これで霧に突っ込んでも問題はない。

 水晶で刃を作り、最高速度で再び森に突入した。枝を払いながら、少々引っかけても構わずに。この程度で傷がつくほど柔な身体ではなかった。

 

 大きく旋回し、進路を遮って、霧の外への誘導を試みる。半ば捨て身の追走に、当初の目的を諦めて、私から逃げ出すことを優先することに決めたようだ。逃がすつもりなど、ありはしないが。

 

 距離は縮まり、刃が鳥を掠めるようになる。いつの間にやら、周囲の景色が少し変わっていた。極端に枝が少なくなり、枯れてしまったような木々が大半を占めている。

 好都合だ。スピードはこちらの方が遥かに上。障害物が無ければ、撃墜することも容易くなる。

 

 あと少し、あと少しで叩き落せる。そう思ったとき。

 奴は一度地面すれすれに高度を落とすと、直後一気に舞い上がり、こちらを振り向いた。

 

 何かの攻撃か、と身構えた私を嘲笑うかのように、すう、と、鳥野郎の姿が消える。

 不可視化、と思った瞬間、かあっ、と頭に血が上った。

 

「舐めるなぁっ! <魔法最強化(マキシマイズマジック)透明化看破(シースルー・インヴィジビリティ)>!」

 

 吸血鬼の目を欺くほどの不可視能力も、強化された魔法の前には無力。放たれた魔法は正しく作用し、再び、黒い鳥は私の前に姿を見せ――。

 

 

「……!?」

 

 

――全身が、恐ろしく冷たいものに包まれた。

 

 視界が歪んでいる。口から泡が漏れる。みしみしと圧迫感を感じるが、ダメージを受けるほどではない。

 それが水だと判断するのにしばしの時間を要した。不死者ゆえに溺れることはないが、頭の中は疑問で満たされていた。

 

 なぜこんなところに水が、あの鳥の魔法なのか、もしや別働隊が来ていたのか。その考えに至り、ろくに身動きが取れないながらも咄嗟に周囲を見回すが、魔法詠唱者の気配は無く。

 

 兎も角、ここから離れなければ、と、<飛行(フライ)>で振りきろうとしたとき。

 視界に、黒い、大きな影が見えた。

 

 

 衝撃。

 

 

 それ以外に言葉がなかった。

 

 

 ばちん、となにかが弾ける音。くるくると廻る視界。星の光と木々の緑がぐちゃぐちゃに混ざる。何本も何本も枝がおれる感触。幾度か地面を跳ね、ざあっ、とその上を滑ったことだけは辛うじてわかった。霧で湿った土の香りが、やけに鼻につく。すぐに、血の匂いにかき消されてしまった。

 

「……は、……っ」

 

 状況を理解し得ぬまま、なんとか右腕で身体を起こす。左腕は動かない。あらぬ方向に折れ曲がっていて、ああ、さっき枝が折れた音の中には骨の音も混じっていたのだな、とやけに冷静に思った。

 

 一体、なにが。

 口に出そうとした瞬間、びりびりと辺りが振動する。地震か、とびくついたそれが、地獄の底から響くような咆哮だと気付くのに、少々の時間を要した。

 

 緩慢に、声の方向を見上げる。

 山が啼いている、と、最初はそう錯覚した。それがあまりにも巨大で、途方も無い力を持ったものだったから。

 

 ぐおんぐおんと触手がのたうつ。あれに叩き落されたのか、と回らない頭でぼんやり思った。巨体を引き摺るように移動を始めたその山が、この世のものでは在り得ないほど大きな樹の化け物だと理解したとき、古い、古い話をようやく思い出した。

 

 トブの森には、魔樹の怪物が封印されている。

 

 大昔、一緒に旅した「彼」から聞いた話だ。とてつもなく巨大で、ものすごく強かったから、触手を倒すだけで精一杯だった、と。

 

 あれが、そうなのだ。神話の怪物。破滅の化け物。魔樹の、竜王。

 そいつが、目覚めた。目覚めてしまった。

 

 絶望に心を砕かれそうになっている私には目もくれず、魔樹の化け物はずりずりと、一点を目指して進んでいるように見える。

 王都の、方向へ。

 

「……っ!」

 

 寒気が襲うと同時に頭も冷えた。力が入らないなりに、よろよろと立ち上がる。足も片方折れていたが、まだ魔力は大分残っている。野営地まで戻ることくらいならできそうだった。幸い、あれがこちらに気を払う様子は無い。今のうちに離脱しなければ。あいつらを、逃がしてやらなくちゃ。

 

 まだ、膝をつくのは早い。罪悪感に押し潰されるのは後でいい。まだやれることがある。やらなければならないことがある。

 

「<伝言(メッセージ)>……!」

 

 あれをどうにかできるやつなんて、ひとりしか思い付かない。そのために、ある人物へと<伝言(メッセージ)>を繋いだ。あの男は、位階魔法での通信を受け取ってくれないから、遠回りをしなければならない。私が直接行くよりは、多分この方が早いはずだ。

 

 はやく、繋がって。早く、早く!

 

「リ、グリット……、リグリットォ!!!」

 

 

 届けて、ツアーに。

 今はただ、そう願うことしかできなかった。

 

 

 

 




イビルアイを生け贄にツアーを召還。死んでないけどね!


本日の捏造

・黒粉の原料は「花」と断定されているわけではないのですが、ケシのイメージが頭から離れないので勝手に花にしました。穀物でも野菜でもないって書かれてるから多少はね?

・お話の都合でイビルアイちゃんに原作未使用の魔法を使っていただいたことを慎んでお詫び申し上げます。すまぬ……すまぬ……。


次回はお外! ようやくです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沙羅双樹を摘んだ日・壱

前回のあらすじ

エンリさんエ・ランテルへ
金髪の子かわいそう



ようやくお外です! 長かった……。



 さて、どうしたものか。

 

 胸の内で呟いても、答えるものは誰もいない。まして周りを囲むのが、寡黙な執事と物言わぬ墓石ならば尚更だ。

 彼に担がせた召喚獣からは時々呻り声が聞こえるが、そちらはノーカウント。封印状態では自力で歩行できないのは正直誤算だった。しかも重いし。

 

 だというのに、危なげも無く規則正しい足取りで後ろから付いてくるところは流石セバスといったところか。真っ白な頭髪と同じ色の髭、執事かくあれかしと賞賛すべき装いからは少しかけ離れて、その能力構成は打撃に特化しているのだという。目撃者曰く、製作者の現実(リアル)の姿に似ているらしい。なんとなく、想像できるところが少し可笑しかった。

 

 霊廟から外へと繋がる道、2足分の上質な革靴と分厚い石床が奏でる音を聞きながら、やはり思う。どうしたものかな。

 

 

 当初の予定では、モモンガさんはもう少し引き篭もってくれるはずだったのだ。自由度を売りにするだけあって、ユグドラシルにて使用可能な魔法やスキル、そしてアイテム数は膨大なもので、たかだか数時間実験しただけでやれることが尽きる事態に陥ることなどない。

 ちょっと安心させすぎたか。まさかモモンガさんが外に付いてくるとは思わなかった。

 

 別段、悪いことばかりではない。

 

 これから行く場所にセバスを連れて行くなら、こちらが上手く誘導すればリザードマンを助ける流れに持っていけるだろう。

 理由はさっぱりわからないが、巨大な魔樹に襲われた哀れなリザードマン達。見たところ死人や怪我人の対応に追われているようだが、イビルツリーが周囲の栄養と共に水を吸い上げてしまっていて、付近の湿地がすっかり枯れきっている。昨晩見た限り、軒先に魚を吊るしてある家が多かったので、魚を頻繁に食するのだろう。逆に穀類等を育てている形跡はなし。生活用水に困る有様で、食糧難まで付いてくるとは、まったく災難なことだ。

 

 そこでモモンガさんにイビルツリーを倒してもらう、と。何も復興まで手を貸す必要は無い。あれさえいなくなれば土地の自浄作用で徐々に環境は回復していくはずだ。自然の力というのは中々侮れないもの。水だけならぼくの力でどうにでもなる。

 モモンガさんはストレスの発散ができて、身近にあった脅威も失せ、自然と共に生きるリザードマン達と交流を深めることでそこそこ人間性の確保に役立ってくれるはず。

 そう考えれば、実は良い方向に進んでいるんじゃないだろうか。強引に理由をつけてナザリックに押し留めておくよりは。出来る限りポジティブに考えないとやってられないよね。

 

 モモンガさんに不自然に思われないように、障害を乗り越えながら、彼の人間性を確保する、か。

 完璧で幸福なトラブルシューターでさえ、ここまでの要求はされないだろうに。次のぼくは上手くやってくれるでしょう。任せられるものなら任せたいけど、次のぼくもぼくには違いない。よってことに当たるのは結局ぼく。見事に詰んでいる。助けてUV様。

 

 

 偉大なりしコンピュータ様でもいないものには頼れないので、これからどうするかをもう少し考えよう。想定していたよりもずっと手探りだけれど。

 

 精神抑制スキルも、役に立ってるんだけど諸手を挙げて歓迎できるものじゃない。

 外から見た感じ、モモンガさんの精神抑制は「昂ぶった感情を抑えるもの」のようだが、ぼくのスキル、<明鏡止水>はそもそも「感情が昂ぶらないようにする」性質があるようだ。内心は凪いだ湖面のように穏やかで、喜びも怒りも悲しみも湧き上がってくることはない。

 経験則で、ここは笑うところ、とか、ここは憤るところ、とか、そこそこ上手いこと面に出せていると思うんだけど、あのギルド長、敏いときと鈍いときのムラが激しいから、いつ発覚するかわからないのだ。時限爆弾みたいなものだね。

 しかしこのままじゃモモンガさんが死の支配者(オーバーロード)になる前にぼくが古代の水精霊(エルダーウォーターエレメンタル)になる方が先になってしまいそうなので、早いところ準備を終わらせて、スキルを切って市でも巡りに行きたい。ぼく、やれることが終わったら、地酒と名産品買って部屋で飲むんだ……。

 

 露骨なフラグを立ててる場合じゃない。今後のことだ。

 

 今のところギルド長は手当たり次第そこらのモブをぶち殺したいとは思っていない様子。現地のものにあまり干渉したくない、というぼくの考えにも了承の意を示してくれた。

 感情論が通じる相手は楽でいい。でも、そう思っているといつか足をすくわれることは必至なので、ほどほどにしておかなければいけないね。要注意だ。

 

 ギルドメンバーを探したいと言い出したのも、まあ想定通り。

 しかし、ここら辺を虱潰しに探したって、諦めてくれないだろうな。どこまで探さなきゃいけなくなるかなあ。<探知接続(コネクト・センス)>の効果範囲もあるけれど、出来る限り広い範囲で、街や平野は勿論のこと、森とか坑道とか海底とか? 

 ……正直非常に面倒くさい。散策自体は決して嫌いじゃないけれど、何事にも限度がある。

 

 ぼくとモモンガさんの間で、ユグドラシルの重要度がはっきりと違うということもあるけれど、人間関係なんて足を運んだ各々の土地で構築できるものと思っているので、ああもひとつのコミュニティに執着する気持ちを、ぼくは共感することができない。

 理解はしよう。そのための努力も。ご両親が既にお亡くなりになっているという話は小耳に挟んだことがあるし、もはやナザリックは彼の故郷のようなものなのだと。

 でも、1日に召喚できる数には限りがあるし、何よりNPCにも神経をさかなければならないので、どうにか省エネルギーにならないものかとも思っている。説得の方向で、要検討。

 

 

 隠蔽工作も急がせなくていいよ、って、何度言いそうになったことか。どう言ったところで不自然になるから結局言えなかったけど、もう少しNPCにはナザリックに籠っていてもらいたいんだってば。近所の村のことは気の毒だけどさ。

 

 NPCと言えば。どうするんだろうねデミウルゴスは。自分の仕事を終わらせたら、ぼくの宿題にとりかかるんだろう。

 さっき製図用アイテムをティトゥスに返した後、司書に確認した。

 図書館の中に、「GMコール」及び「ニューロンナノインターフェイス」の文字が書かれた書籍は一冊も無い。

 

 著作権の切れてない学術書のデータはゲーム内に持ち込めなかったし、ユグドラシルで配布されていた創作物の中にも、ナザリックの中にあるものでその文字が書かれているものは、5年前まで無かったことは確認済みだ。そこから足されていなかったのは幸運だった。TRPGのシナリオにもなかったのはちょっと意外だったかな。まあ、既にゲームの中にいて、そこからわざわざ現実を思い起こさせるようなシナリオを選ぶ必要もない、か。

 

 存在しない物を探すことはできないし、他のNPCに聞き取りでもするのかな。ナザリックで一、二を争う知恵者であるデミウルゴスが知らないことを、他のNPCが知ってるとは思えないけれど。

 最終的にはモモンガさんにでも聞くのかね。ぼくが何をさせてるのかモモンガさんに怪しまれると思うけど、まあ言い訳はいくつか考えてあるし、大丈夫、かな。

 

 マーレに対しての魔力譲渡もこちらが想定していたよりも衝撃的だったようで、少しは作業の遅れの一助になってくれることだろう。いや、どうかな。霧のこともあるし、とんとんってところかな。

 ともあれデミウルゴスはもう少しの間、ナザリックに留めておける。アルベドは……、守護者統括の仕事を放り出すような真似はしないと思ってるんだけど。なんだか嫌な予感もする。やっぱりモモンガさんに釘をさしておくべきだったか。

 

 右肩に乗った八咫烏をちらりと見る。攻性防壁が作動している様子はなし。てっきりアルベドあたりに監視されてるかと思ったけど、流石に杞憂だったか。

 

 色々と酷いことをしている自覚はある。けれどもスキルのおかげで罪悪感を覚えることはないし、その暇も無い。

 時間を稼がなければならない。一分一秒でも多く。せめてぼくが、感知できる範囲の索敵を終えるまでは。

 

 

 根本的な問題として。ぼくはいつまで時間を稼げば良いのだろう。どうなったら勝利と言えるのか。

 

 NPCに、現地の人間とて無闇に殺したり傷つけたりしてはいけない、と理解させるのが一番良いし、平行して教えていく予定ではあるけれど、現状、「至高の御方のご命令だから」以上の理由を彼らが見出すのは難しいものと予想している。

 

 なので、彼らのことを命令で縛るのが最も現実的な手段だ。そしてそれは、ぼくからのものではなく、モモンガさんからの命令でなくてはならない。

 それも、モモンガさんが考えた、モモンガさんの言葉でなければ。「至高の御方のまとめ役」であり、「絶対なる支配者」が納得していないものを、ぼくが勝手に方針にするわけにはいかないのだ。ぼくと彼の立場が逆転することは望むところじゃない。

 

 偉大なる支配者であらせられるモモンガさんの言葉がNPCに誤解なく届けば、そこで第1段階は終了として良いだろう。そうなれば、NPCの動向に今ほどの気を配らなくてよくなるし、結果的にモモンガさんのメンタルにだけ注意を向けられるようになる。

 

 そして。

 そのためには、モモンガさんに納得してもらわなければならない。

 

 ギルドメンバーの探索は、この世界を犠牲にしてまでやるようなことじゃないということを。

 

 周辺の捜索が済んだらモモンガさんは、アインズ・ウール・ゴウンの名前を広める方向に舵を切る可能性が高い。迷子センター方式だね。なりふり構わないんだったら効率が良いことは確かだ。

 だけどそうなってしまえば、大義名分を得たNPCによって、この世界におけるSKクラス支配シフトシナリオが成されることは明白なわけで。この近辺しか見てないから、人類がこの世界の支配種とは限らないけど。

 だからそうなる前に、ぼくが彼を納得させなければならない。ぼくが持ってる切り札を使ってでも。

 

 具体的に、いつ、どう納得させるかは、まだ未定。自分が持ってる説得のステータスが高いことは十分認識してるけど、考えなしにダイスを振れるほど頼るつもりにはなれない。懐柔させる材料も、ナザリック内外の情報も、全然足りていない。

 

 しかしさじ加減が難しいな。天を仰ぎたい気持ちをぐっとこらえて、何食わぬ顔で歩を進める。

 周囲に敵がいないと安心させすぎたらNPCを大幅に展開してギルドメンバーを捜索する方向に向かうし、脅威になるものがたくさんいるとなったら軍拡を行うべく周囲の資源、すなわち死体未満の原住生物に手を出すことになるだろう。

 モモンガさんがNPCを信用しすぎるとそっちに捜索を任せるようになってしまうだろうし、まったく信用できないとなればモモンガさんの神経が磨り減るわけで。なるべくNPCに外の仕事をさせないよう立ち回りたいけど、あんまりNPCを追い詰めて独自に行動するようになっても困る。

 

 もっと非人道的でてっとり早い手段なんていくらでもあるけれど、モモンガさんとの友人関係を絶ってまでやりたいとは思わないし、ぼくにだって気に入る勝ち方と気に入らない勝ち方くらいあるのだ。

 

 一体何と戦ってるんだ、と自分でも呆れるけれど、いっつもいっつもなくなってから気付くんだから、今回ばかりは、失くしたくないんだよ。

 

 それでもないものねだりくらいはさせて欲しい。孤軍奮闘は正直きつい。

 

 抑止力になる程度に強くて、かつ理性的な存在が都合よくいないかな、この世界に。過去にいたであろうプレイヤーを適度に敵視していれば言うことはないんだけど。そこまで望めはしないか。

 

 

 先の展望は靄に包まれて、進むのも戻るのも一苦労。

 こんなとき、()()()ならどうするんだろう。

 

 あいつならきっと、胸襟を開くのが先だと言うんだろう。不安も、思惑も、すべて吐き出してしまわないで何が信頼関係だと。

 ……馬鹿馬鹿しい。情報は秘匿すべきものだ。ユグドラシルでは常識ですよ、とモモンガさんもきっと言ってくれる。

 

 それにしたって。参った。本当に参った。現状もそうだけど、実際に司書長に会って、ちょっとじゃなく驚いた。

 なんでああも姿がダブるかな。設定を書き込んだときは、似せようなんて思ってなかったんだけど。

 実際、似ているかと言われたら微妙と言わざるを得ない。生前のあいつはあんなに理知的じゃなかったし、品性のある振る舞いなんて知らないですって顔をして、するりと人の懐に入り込むような奴だった。

 

 なのに。

 声のトーンといい、間の取り方といい、こっちの常識をはなから疑ってかかっているところといい。あのまま関西弁を喋りだしたらどうしようかと思ったぐらいの。

 ……まずいなあ、製作室(あそこ)、入り浸りそうだ。

 

 でもぼくの考えてることを、ティトゥスに知られるわけにはいかないんだよね。絶対邪魔される。ぼくにはわかる。

 大体いつもいつも、こっちの腹を全部打ち明ければそれで解決すると思ってて、情報なんか秘匿して価値があるものだってぼくがどれだけ言っても――。

 

――言ってないな。違う。ティトゥスはあいつじゃない。それは、双方に失礼だ。思うことすら許されない。

 それに、あいつはもう死んだんだ。ティトゥスとは……、アンデッドだからなあ、どっちも死んでるっていうかなんていうか。

 

 

 とにかく、ぼくのつまらない感傷はどうでもいい。

 

 あくまで臨機応変に。そうしてきただろう。これからもそうするだけだ。

 何よりも、ぼくが状況を楽しむことが第一だ。誰の言葉だったか、この世には遊びに来ているのだから。

 

 不確定要素は腐るほどあって、想定外のことも山ほど起きるだろうけど。

 ひとつひとつ丁寧に対応していくしかないな、と、決心したところ、眼に入ったのは外の景色。

 

 

 

 それを見て。

 固めたばかりの心が早速折れる音がしたのは、気のせいではなかっただろう。

 

 

 

 まず、豪奢なフードを被った凶悪な面の骸骨。

 我らがアインズ・ウール・ゴウンが誇る、タブラくん曰く「絶滅寸前、天然もののギャップ萌え」こと、ギルド長モモンガさん。

 勿論これは問題ない。先に行っといて、と送り出して、しばらく待たせてしまっていた、リザードマンの集落崩壊についての調査及びイビルツリー討伐という名目のお散歩に同行することになった友人である。

 

 そこから少し離れたところ。

 長身のモモンガさんから視線を大幅に下へと移すと、色違いの瞳をきりっと見開いて、霧の中にあってもなお陽光の如く輝く金髪を跳ねさせた、健康的な少女が姿勢正しく直立している。

 第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ。彼女もまた問題ない。こちらに来てからというもの、心配性のNPCたちがやたらとぼくらに供をつけたがっていて、レベル85のイビルツリーがいるところに連れて行くのならば、相手のレベルを出来る限り上回っていることが求められる。その点、100レベルNPCであり、物理的監視に対応できるアウラであれば申し分ない。

 

 その隣、ややモモンガさんの近く。

 アウラよりも少し年上で、背も高い。金色の髪と小麦色の肌を持つ彼女とは対照的に、冴え凍る月のような銀髪と白磁の(かんばせ)、血を固めたルビーのような紅い瞳の少女。

 第一、第二、第三階層守護者、シャルティア・ブラッドフォールン。ここまでは予想の範囲内と言えるだろう。セバスを連れて行くとは言ったが、モモンガさんが思う安全を確保するなら、確かに少々心許ない人数ではあった。

 真紅の全身鎧(フルプレート)神器級(ゴッズ)武器はちょっと武装過多じゃないかと思わなくもないけれど、それは、まだ、良い。

 

 

 予想外なのは最後のひとり。

 

 モモンガさんの隣にぴったりと寄り添うように立っている、暗黒騎士じみた漆黒の鎧。手に持つバルディッシュは既に何人か殺してきたんじゃないかと思うような凄みを放ちながら、よく手入れされて濡れ輝いている。

 思わず、こいつ誰? と言いそうになったけど、そいつの立ち位置が、鎧の中から発せられた声が、自分が考え得る最悪を突きつけてきた。

 

「お待ちしておりました、死獣天朱雀様」

 

 鈴の鳴るような声。人を魅了するために生まれたのだと疑いもしない種族が持つ、生温くも甘美な響き。凛としながらも優しげで、だというのに異様なほど蠱惑的なそれに、くら、と意識が遠のきそうになったのはしかし、彼女の声に魅了されてのことでは決してない。

 

「……、うん、待たせてごめんね、アルベド。……モモンガさんも」

 

 よりによって今この場に一番いて欲しくない人物がいるのは日頃の行いが悪いせいだろうか。

 守護者統括アルベド。ナザリックの管理という面においては全NPCの中で最も優れているという設定を与えられ、それに相応しい頭脳が転移によってついてきた、カルマ値マイナス500の、極悪NPC。

 現状、最も情報を秘匿しておきたい人物だというのに、何故こんなところにいるのか。なんのために奥まった製作室で地図を書いたと思ってるんだ。

 

 こぽ、と一呼吸ついて、幾分か冷静になった頭で考えてみれば、まあ仕方なし、と言えなくもない予想が立つ。

 階層守護者を引っこ抜いていく許可を求めるために<伝言(メッセージ)>を繋げたら、自分も行くと言い出したんだろう。

 

 守護者統括の仕事はどうした、とか、色々と言いたいことはあるけれど。

 

「なんで、全身鎧(フルプレート)……?」

「ああ、私が命じたのだ。完全武装で来るようにと」

 

 威風堂々、これこそ支配者という風情の声色をもって答えたのはモモンガさんだった。

 

 お前か。このチキンめ。骨しかないくせに。

 アルベドのことにしたって「お前にしか任せられないからナザリックを守ってくれ」ぐらいのことを言えないのか、この童貞骸骨は。

 

 些か理不尽にも思える罵倒が、ない筈の喉から出かかったとき、脳内に聞こえてきたのは、同じ人物とは思えないような、萎縮した態度の声で。

 

『すみません、朱雀さん。大所帯で……』

『うん? んー、ちょっと驚いたけど、まあ、このくらいなら』

『近衛を用意するって言い出したのは、なんとか阻止したんですけど』

『……おつかれ、モモンガさん』

 

 前言撤回。彼なりに頑張ってくれた後だったようだ。ここから更に近衛まで連れていくことになるとかたまったもんじゃない。なんかもう、既にアルベドの手の上で転がされてる気さえする。 

 

「まあ、なんだ、とりあえず。おはよう、みんな」

「おはようございます、死獣天朱雀様」

 

 三者三様の可憐な声で異口同音に紡がれるご挨拶。うん、挨拶は大事だ。古事記にも日本書紀にも書いてないけど。

 

 ふと気配がして入り口の方を見れば、製作室を出るときにモモンガさんに連れ添っていたソリュシャン・イプシロンの姿。寸秒、彼女も連れていくのかと思ったが、モモンガさんが例のイビルツリーとのレベル差を考慮しないはずがないので、別の目的でここにいるのだろうと思い立つ。

 ああ、そっか。指輪持ってうろうろできないよね。後で預かってもらわないと。

 

 再び正面に向き直り、駄目元でアルベドに問うてみる。

 

「アルベドは……、お仕事はいいのかな」

「問題ありません。必要なことはすべて整えております」

 

 端的にして明解な返答。自らの立場と与えられた任務を余すことなく熟知した者の、自信に満ち溢れた声。

 彼女がすべて、というからには本当にすべてなんだろう。まったく嫌になるね、優秀で。

 

「それに、私はモモンガ様の完璧にして強固なる盾でございますので」

 

 左手をそっと胸に当てて宣言した彼女の顔はヘルムに隠されて見えなかったが、殊更甘やかな響きがその表情をありありと伝えてくる。漏れでる肉食獣の気配に反応してか、モモンガさんが彼女から1歩離れた。すぐにまた詰められたけど。

 

 モモンガ様の、と来たか。

 好きなんだねえ、どうにも。そう書き込んだのはぼくだけど、一途で羨ましいことだ。

 ……そんなに良いものかな、恋って。わからないな。だからバツイチなんだけどさ。

 

 しかしもっとわからないのはタブラくんだ。こっから寝とられる展開が大好きだってよく言ってたな、彼。なんだっけ。寝とられバッドエンド派のタブラくんと寝とりハッピーエンド派のペロロンチーノさんが言い争ってる現場を見たことがあるけどあれは酷かった……。

 

 ああ、やなことも一緒に思い出した。忘れよう。問題はここからどうするか、だ。

 

 もうここまで来てしまったからには仕方がない。モモンガさんが許してるのにぼくが今更追い返すわけにもいかないし。

 むしろモモンガさんに生け贄になってもらうことでそっちに食いついてくれるならその方が良いような気がしてきた。ごめんねモモンガさん。アルベドはサキュバスだし、痛くはされないんじゃないかな、多分。

 

 そう、あくまで臨機応変に。まだ序の口だろう。隠蔽工作も当初の予定よりずっと早く進んでるのに、ここで挫けてどうするんだ。

 

「ところで死獣天朱雀様、その……、セバスが担いでるのは、死獣天朱雀様の召喚獣でしょうか?」

「ん? ああ、忘れてた。ありがとうアウラ」

 

 湿気た木乃伊のような異形をしげしげと覗きこみながら尋ねるアウラに礼を言って、降ろしていいよ、とセバスに許可を出す。その重量を感じさせない滑らかな動きで丁寧に地面に置かれた橋下の贄(クライング・フェザント)は、こちらが完全に失念していたことに対して抗議するかのように、ささやかな呻り声を上げた。

 

 興味深そうにその様子を観察するアウラの横で、こてん、とシャルティアが小首を傾げる。

 

「随分と厳めしい様相でありんすが、一体いかな力を持っているのでありんしょう……?」

「攻性防壁対策。杭が抜けないことを祈っといて」

「! 承知いたしんす!」

 

 神官(クレリック)の祈りならさぞ効くことだろう。尤も、こいつが本領を発揮するのは杭が抜けてからなのだけれど。

 

 さて、あんまり悠長にしてるとリザードマンが全滅してしまいかねない。ちらりとモモンガさんに視線を向けて、<伝言(メッセージ)>を送る。

 

『モモンガさん、彼女らに事前説明は?』

『とりあえず、イビルツリーを確認しに行くと言っただけです。それに同行するように、と』

『おーけい、ぼくから遠足の注意事項を少し伝えさせてもらってもいいかな』

『遠足』

『違った?』

『ちがわないですね。どうぞ遠慮なく』

 

 

「はい、注目!」

 

 お墨付きももらったので、パンパン! と、視線を集めるために両手を叩けば、中身もないくせに割合良い音が響いた。思わず自分の手を見下ろす。そういえば、ハンドクラップなんてスキルもあったな。味方の狂騒状態の沈静効果だっけ? 使ったことないや。

 

「えー、モモンガさんから聞いてるかも知れませんが、今回の調査についてぼくからいくつか注意事項があります。心して聞いてください」

 

 年少組はぴしっ、と、アルベドはたおやかに姿勢を正す。

 まあ素直に言うことを聞いてくれるぶん、学生の引率よりは楽かな、と、やけくそ気味なポジティブシンキング。

 

「今から行くところは、ここナザリックから北北西にある湖の畔。レベルにして85相当のイビルツリー系モンスターがいるけれど、まだ討伐するとは決まったわけじゃないので、勝手に攻撃しないように」

 

 はい! とお手本のような返事。

 よしよし。待て、くらいは覚えている良い子達のようだ。でも問題は多分、もうひとつのほうなんだよね。

 

「で、この周りにはぼくらが観察しようと目星をつけていたリザードマンの集落もあります。今はちょっと滅びかけてるけど」

 

 滅びかけている、と聞いて、少女たちはきゅっ、と顔をしかめる。意外と同情的なのかな、と思ったのも束の間。

 

「至高の御方が見に来られるっていうのに、勝手に滅びるなんて!」

「まったくでありんす!」

 

 ……理不尽という言葉を辞書で引いたらきっとこの会話が載ってるんだろう。モモンガさんがちょっと引いてるじゃないか。良い傾向だけどさ。

 

「まあそれは自然の摂理だから仕方がない。それより大事なことを言うからよく聞いて。そもそも敵対しないように立ち回るつもりでいるけれど、リザードマンがこちらに攻撃、あるいは罵倒などをしてきたとしても襲い掛からないように」

 

 目を見開いてぽかんと口を開けるシャルティアの隣で、ぱちぱちぱち、と、音がしそうな瞬きを繰り返すアウラが、上目遣いにこちらを見て、恐る恐る尋ねてくる。

 

「それは、その、モモンガ様と、死獣天朱雀様へのものに対しては、例外ですよね?」

「たとえぼくらに対しての暴言であっても、攻撃は認められない」

 

 えぇええっ!? と、思わず驚愕の声を上げる二人を余所に、アルベドは静かに佇んでいた。甲冑のせいで、表情はわからない。一体何を考えながら大人しくしてるんだろう。モモンガさんへの侮辱を黙っていられるとは到底思えないんだけど。

 当のモモンガさんも、何故? という顔をしているように見えた。彼は彼でカルマ値低いからな。面倒なことだ。

 理由を知りたそうにしているギルド長と、反対意見を唱えたいが「至高の御方」に反論しても良いものか迷っている風情の子供たちに対して、説明を続ける。

 

「まず、ぼくらは今、極力目立たないように行動しているのはわかってもらえるかな」

 

 守護者たちはこくこくと頷いた。

 こらそこ骸骨。一緒になって首を振るんじゃない。

 

「この世界に来てからまだ数時間、どこにどんな敵が潜んでいるかわからない。今のところイビルツリー以上の脅威は見つかっていないけど、ぼくらより先に転移してきた勢力がいる可能性は高いと見ている。こちらが思いもしないところと、ユグドラシルのプレイヤーが繋がっているかもしれない。それを無闇に刺激するような真似は極力避けたいということが、まずひとつ」

 

 ここまでで何か質問は? そう言って見渡せば、はい! と小さな手が元気良く挙がる。

 

「はい、アウラ」

「それなら、イビルツリーも、倒さない方が良いということでしょうか」

「んー、飼いイビルツリーにしては素行が悪いから、多分野良だと思うけど。知性と、魔法的なつながりの有無を確認してから考えるかな」

 

 そうは言ったものの、こっちとしては完全に死んでもらう予定でいる。誰かの飼いイビルツリーだとしても知ったことか。あんなもの持ち込む方が悪い。

 

「他には……、ないようだから、ふたつめ。見たところリザードマン達は独自の生活様式を築いている。つまり知性があるということ。交渉すれば、こちらの世界にしかないものの情報を聞くことができるかも知れない。情報は何より大事だ。恐怖で少々錯乱したリザードマンがこっちを攻撃してきた程度で手放してしまうには余りにも惜しい」

 

 ここで先ほどと同じく、質問が無いか問う。今度はシャルティアが手を挙げた。

 

「拷問するのでは、いけないのでありんしょうか。1匹や2匹、見せしめに殺してやっても」

「ひねり潰すのに片手もいらないような存在が攻撃してきてそれは、ちょっと反撃過剰かな。こっちの反撃を見て逃げ出す連中を確保するよりは、行動を起こす前に説得したほうが、ぼくとしては手間がない」

「死獣天朱雀様のお手をわずらわせなくても、あたしがスキルでなんとかします!」

「ありがとアウラ。……んー、そうだな」

 

 まだ釈然としない様子のふたりを見て、どうしたものかと少しの間だけ考える。

 ……この例えは使いたくなかったんだけどな、仕方ない。

 

「自然のものは、自然のままで。要するに、ぼくらが観察する蟻の巣に、わざわざ熱湯を注ぐような真似をしないでねってこと。噛み付いてきたらそれはそれで良い観察対象だ」

 

 ようやく呑みこめた、とばかりに明るくなるふたりの顔を見て、こちらの気分は少々暗くなる。あんまり現地住民の位を下げたくなかったんだけど、何かしら奇跡でも起きるまで彼らの認識が変わる気がしなくなってきた。

 

 ともあれ、言いたいことは言い終えたので、モモンガさんに視線を送る。

 

『これでいいかな、モモンガさん。なにか問題あったら訂正するけど』

『大丈夫です。準備してもらえますか』

『了解』

 

 どうやらモモンガさんも納得してくれたらしい。最後の例で納得してたらやだなあ。どうか一つ目の理由で理解してくれていますように。

 言ってしまった言葉は戻らない。覆水盆に帰らず。自分自身にそう言い聞かせて、頼まれた準備を施すべく、適当に声をかけて、場所を少し空けてもらった。

 <水球(ウォーターボール)>を発動し、あらわれた水の塊を、そっと地面に下ろす。とぷん、とかすかな音を立てて、できあがる水溜り。霧に遮られて何も映らないが、晴れていたなら綺麗な青空がうつっていたことだろう。

 

 <水鏡(ミラー・オブ・ウォーター)>と<視界接続(コネクト・ヴィジョン)>を続けて行使。イビルツリーを視認している八咫烏と視界が繋がったことを確認し、ソリュシャンにリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを預けた。

 

「……よし、いけそうだな。朱雀さん、セバス。こっちに寄ってくれ。<完全不可知化(パーフェクトアンノウンアブル)>をかける」

 

 本当に周到だなあ、と、半ば呆れたような感想は胸の内に仕舞っておいて、大人しく魔法をかけてもらった。次いで、シャルティアによって<転移門(ゲート)>が開かれる。ここに至っても異常が見られないので、橋下の贄(クライング・フェザント)は置いていくことにした。どうせもうすぐ消えてしまうし、必要なら出しなおせば良い。

 

 行くぞ、と、モモンガさんの号令。はっ! と答えるシモベたちの声。

 果たしてどうなるか、と、いくつか算段をつけて、ぽっかりと開いた禍々しい穴へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱき、と足下で乾いた音が鳴る。枯れた枝を踏みつけたようだ。朱雀さんの話では昨晩この辺りまで霧が届いていたという話だったが、風で流されたのか、雲を浮かべた青い空がはっきりと見えている。

 本来ならば木々に覆い隠されて見えなかったのだろうが、眼前に(そび)えるイビルツリーの影響で周囲の草木は枯れきっており、遠目には湖があるというのに、土にはまるで水気がなかった。

 

 イビルツリーは相変わらず動く気配が無い。不可知化を看破するほどの力はない、というよりはまるで眠っているようだった。

 

「アウラ」

「はいっ!」

 

 こちらが命令を下す前に、アウラは親指と人差し指で作った輪を覗きこむ。

 理解が早くて助かるけれど、なんだか心を読まれているようで落ち着かない。

 

「……出ました! 死獣天朱雀様が仰っていた通り、レベルは80から85、突出してるのは……、体力が測定不能です!」

「測定不能? レイドボスじゃあるまいし」

「あとは……」

「うん?」

 

 じろ、と、アウラが後ろを睨みつけたので、つられてそちらに視線を向けた。

 

 俺達がいるところから更に後ろ、まだ木々が緑を残しているところに、リザードマン達が集まってきている。こちらをじっと見ている、というよりも、イビルツリーを見物している、といった感じか。

 

「こちらに気付いているわけではないようだな。見学するにしても近すぎないか?」

 

 アウラに頼んだところ、リザードマン達のレベルは高くても20に満たない。300メートルほどの触腕を持つイビルツリーを見に来たというのなら少々無謀な距離なのではないか。

 何をしに来たんだ、と、思わず呟いた言葉に答えてくれたのは朱雀さんだった。

 

「そりゃ戦いに来たんだと思うけど」

「……戦いに? 何と?」

「イビルツリーと」

 

 戦化粧がしてある。

 そう言われてよくよく観察してみれば、リザードマン達の表皮には色とりどりの染料で何やら紋様のようなものが描かれていた。リザードマンに共通する一般的なお洒落ではないことは、彼らの鬼気迫る表情が十二分に示している。

 

 しかし、それにしても。

 

「力量差がわかっていないのか……?」

「まあ、戦っても戦わなくてもどのみち死ぬからね」

 

 不穏な台詞を洩らしながら、朱雀さんはゆっくりと周囲を見渡す。

 夜中見たときは、このあたり一帯湿地だったんだけどさ、と。

 

「ここまで干上がってしまったら、水も当然だけど食料が採れない。農耕をしてる形跡は見られなかったし、逃げたとしても増えた人数分の腹を満たす方法がない。リザードマン同士で争いになるよりは、って、考えたんじゃないかな」

「口減らし、というわけか」

 

 なんとも世知辛いことだ。が、俄かには信じがたい。もう少し小さければともかく、20階建てのビルより大きな生物に立ち向かっていこうなどと。昔たっちさんに見せてもらった怪獣映画でも、人間達は化学兵器を用いて戦っていたというのに。

 

 あるいは、こういった強大な敵に対して、リザードマン特有の対抗手段があるのだろうか。もしくは、死んでも蘇生できる方法とか。

 

 少し興味が湧いたので、戦いが始まるまで待っていようか、と、伝えようとしたとき。ふいにセバスの顔が眼に入る。

 普段、相手を射殺さんばかりに鋭く輝く鷹のような瞳が、微かに和らいでいる。そこには、自らの全てを懸けて戦うものへの、死に逝く戦士への敬意が込められていた。

 

 その様子に、思わず、ふ、と微笑う。

 そうだ。そうだった。彼は、たっちさんの。

 

「朱雀さん」

「ん?」

「我々は便宜を図ると、そう言ったな?」

「言ったね。確かに」

 

 そう言った朱雀さんが悪戯っぽく笑ったような気がしたので、それを了解の合図と見なし、セバスに向き直った。

 

「セバス。助けたいか?」

 

 俺の言葉に、守護者たちの視線が一斉にこちらを向く。

 当のセバスは一瞬その目を見開いた後、恭しく頭を下げて言った。

 

「はい。……ですが私は、モモンガ様のご意思に従うまででございます」

「ふむ、ならば言い方を変えよう。ここに来てから碌に魔法の練習をできていないことが気がかりでな。大きな的が欲しかったところなのだが、手伝ってくれるか?」

「畏まりました。……ありがとうございます、モモンガ様」

 

 その表情が、どこかほっとした様子だったのは俺の気のせいではないだろう。

 困ったひとを助けるのは当たり前。弱者のために手を差し伸べるのは、当然のことなのだ。

 今この場にいない彼の人への憧憬が、脳裏に浮かんで、消えた。

 

 さて、レイドボス相手の采配なんて久しぶりだ。うまくやれるといいけど。

 

「アルベド、シャルティア」

「はっ!

「前衛を任せようと思う。そうレベルは高くないが……、ふたりだけでやれるか?」

 

 ほんの僅かな間、虚を突かれたような表情をした後、両者揃って、にっこりと――恐らくアルベドも――微笑んだ。

 

「恐れながら申し上げます、モモンガ様」

「我らは至高の御方の盾にして矛。故に」

 

 獰猛にして可憐。そんな表現が似合うぞっとするほど美しい顔で、彼女らははっきりと牙を剥いて笑う。

 

「そうせよ、とご命令くださいまし」

「かくあれかし、とご覧にいれます」

 

 その自信に満ち溢れた瞳に満足し、うむ、とひとつ頷いてやる。

 今までAIで制御されていたNPCが、自我を持ったこの世界でどこまで戦えるのか気になってはいたところだ。見ておいて損はない。

 

「ならばお前達はこちらに来る攻撃をできる限り防げ。本体にはあまりダメージを与えてくれるなよ。早々に死なれても困るのでな」

「はっ!」

「はい!」

 

「セバスは、後ろのリザードマン達に流れ弾が当たらないよう守ってやれ。破片ひとつ当たったらそれだけで死にかねん」

「承知致しました」

 

「アウラは、リザードマンの他に監視してくるものがないか十分に注意せよ。朱雀さんは、万一森が炎上した際、消火を頼む」

「はいっ!」

「了解」

 

 魔法的な監視に対しては、朱雀さんが普段から自分にかけている魔法で十分だろう。

 朱雀さんとアウラ以外の不可知化を解除し、イビルツリーをたたき起こすべく、無詠唱化で呪文を用意する。

 

「さあて」

 

 

 

 <獄炎(ヘルフレイム)>――!

 

 

 

「キャンプファイヤーと行こうじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 災厄が、雄叫びを上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




このモモンガさん、ノリノリである。

ちょっと諸事情ありまして、次回の更新は11月7日以降になります。申し訳ない。

季節の変わり目なので皆様も風邪などひかれぬよう十分お気をつけください。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沙羅双樹を摘んだ日・弐


前回のあらすじ

女子3人と執事を連れてついにお外に出たモモンガさんと教授。

リザードマンの集落の傍に聳え立つ巨大なイビルツリー。

100メートルを超す巨体を相手に、果たして勝機はあるのか!(勝ちます)


ただいまー。
今回は初めての現地人視点です。





 

 

 十分に理解していたつもりだった。

 

 自らに降りかかってくる物事が、自分に理解できる範疇のものだけでは決してない、と。

 

 あるいはそれすら驕りだったのかも知れない。

 蜥蜴人(リザードマン)としては少々稀有な足跡を辿ってきたという、今となってはつまらない自負が、無意識に己を増長させていたのかも知れなかった。

 

 

 だが、こればかりは魂あるものの常だと思うのだ。

 

 これ以上の驚愕はない、と。

 未知の出来事に触れるたびに、逃避のように言い聞かせてしまうのは、意思を持つものとして褒められぬながらも仕方の無いことであると。

 

 

 命を繋ぐための食糧(もの)を巡って同族で殺し合いをした、かの戦争も。

 

 少しでも見聞を広められたら、そう願って出立した先で、魚が養殖できると知った、あの旅も。

 

 運良く戻って来られた村で、試行錯誤しながら生け簀と格闘した日々も。

 

 表だってのことではなくとも、確かな助けと声援に満たされていた、恵まれた時間も。

 

 そんな穏やかな日々が、まるで悪夢から這い出てきたような異形によってあっけなく潰されてしまうことも。

 

 せめてもの抵抗にと、周囲の部族から戦士を集める最中、見たこともないような美しいメスと出会ったことも。

 

 

 それぞれが、それぞれに。

 もう二度とはあって欲しくはないと、もう一度戻れないかと、願っても届かぬと、決して手放しはしないと。

 

 与えられる感情は違ったとしても、思ったのだ。これ以上はない、と。

 これに勝る感動が、驚愕が、決意が、あってたまるものかと、そう思っていたのだ。

 

 つい先ほどまでは。

 

 

 

 しかし、今。

 いまこのとき、眼前に広がる光景は一体なんだというのか。

 

 

 吹きすさぶ風、膨れ上がる熱。

 この身で受けるには些か過剰な重圧を受けながら、半ば呆けた心で、思う。

 

 まるで、神話のような光景だと。

 

 

 大樹の異形が、赤黒い焔に炙られて凄まじい悲鳴をあげる。

 

 首が痛くなるほどに見上げても、その頂きが覗き込めぬような強大な化け物を相手に戦っているのは、こちらとさして変わらぬような身の丈の、人間だった。

 

 否、あれらは人の形をしてはいるが、きっと人ではないのだろう。

 

 

 そっと撫でるだけで蜥蜴人(リザードマン)が容易く絶滅するであろう巨大な触手。

 あろうことか思いきり振り下ろされたそれを、黒い鎧を着た――恐らく――女は片手斧だけで軽々と跳ね上げた。

 

 次の一撃のためにのたうつ触手を、赤い鎧を着た少女が楽々と切り刻む。

 こちらとあちらでは随分と距離があったが、実に軽やかな動きで敵を翻弄する少女の表情は涼しげで、微笑んでいるようにさえ見えた。

 

 ばらばらにされてなお身の丈ほどもある大樹の欠片は、魔法詠唱者(マジックキャスター)が放つ電撃によって焼き尽くされていく。

 夜を切り取ったような漆黒の布を纏う者が次々に放つ魔法は、祭司長はおろか、今まで見たどんな魔法よりも強大で多彩だった。

 

 負けじと大樹は頭蓋骨ほどの大きさもある種を無数に飛ばしてきたが、殆どの攻撃は彼らに届く前に弾かれる。

 合間をすり抜けて飛んできたものも、顔中に白い毛を生やした黒服のオスに叩き落とされてしまった。

 ……叩き落とされてしまったのだと思う。彼の者の動きを目視できたわけではなかったからだ。

 

 

 突如として現れた、生きた地獄。

 

 この世の終わりのような地響きを鳴らして、川を枯らし、沼を干上がらせ、森を殺しながらやって来た、山ほどの大きさの化け物。

 

 ちっぽけな我々が、どうあがいたところで絶望しかなかったはずの恐怖の塊が、まるで枝葉を刈られる木のように、碌な抵抗もできぬまま蹂躙されている。

 

 

 頑強な金属が擦れる音。

 まばゆく弾ける火花。

 大樹を舞うように切り刻んでゆく赤と黒。

 

 色彩の洪水。

 炎が、氷が、雷が、風が。

 吹き荒れ、煌めき、輝いてほとばしる。

 

 誰もがその光景に魅せられていた。

 目が離せなかった。

 

 戦うことは疎か、逃げることも忘れ、ただただその場に立ち尽くしていた。

 

 

 狂宴はやがて終わりを告げる。

 

 すべての触手を切り飛ばされながらも、雄叫びを上げて身もがいていた大樹の異形が、ぴたりと動きを止めた。

 幾多の魔方陣が展開し、顕現した魔法もまた、炸裂する寸前でその形を保っている。

 

 自分には祭司の才能がなかった故に、魔法には詳しくない。

 一体何をどうしたらあんなことが可能なのかまるで見当もつかない。あるいは幻術の類なのではないか、とも思った。

 

 しかし、あくまで直感だったが、わかってしまった。

 ああ、あれは、遊んでいるのだ、と。

 

 確かにあれは、大樹の命を削るに足る魔法で、それを何らかの形でその場に留めて、飾っているのだ。

 一方的な戦いだと思っていた。その認識すら甘かった。

 戦いですらなかった。戯れだったのだ。

 

 脳裏に大樹の咆哮が蘇る。

 空も割れよとばかりに鳴り響く、怨嗟と激憤に満ちた雄叫びに、悲痛な慟哭が混ざっていたのだと思い直すのは、なにも俺の願望だけがそうさせたのではないのだろう。

 

 許せるはずもない。数多くの同胞を殺め、住処を潰していった異形にかける情などない。

 

 ただ、敬意は払おう。

 その生き様に。強さに。年月に。

 神世の伝説の如き存在に立ち向かっていったその無謀に。

 

 煌々とかがやく光の奔流が、大樹を追悼しているようにも思えた。

 

 

 

 いつのまにか、雨が降りだしていた。

 恵みの雨だ。これがなかったら、今頃舞い散る火の粉で森が焼けていたことだろう。

 

 大樹がいたはずの場所は始めから何もなかったかのように跡形もなく、先ほど戦っていた4人に加え、ダークエルフと思しき子供と、なにかよくわからない人のような生き物が集まって何やら話していた。

 

 どうやら黒い布を纏った魔法詠唱者(マジックキャスター)が一番上の立場にいるようで、そいつを中心に小さな輪ができている。

 ダークエルフの子供が何か手渡し、魔法詠唱者(マジックキャスター)がそれを労うように頭を撫で、はにかむ子供を見て羨ましくなったのか、赤い鎧を着た少女と黒い鎧を着た女が自分も自分もとまとわりついていた。

 

 それは初めての狩りに成功した子供を誉める父親の姿そのものだった。狩られた獲物があの大樹であったと一瞬忘れそうになる。

 話が通じるのではないかと、希望があるのではないかと錯覚させる程度には、微笑ましい光景であった。

 

 

 黒い布の中身が、真っ白な骸骨でなければ、だ。

 

 

 アンデッド。

 生きとし生けるものを憎み、冥府に引きずりこまんとする、邪悪なモンスター。

 

 先ほどの悪趣味な戯れも納得がいく。周囲の者たちも、やはりそれに類する化け物の類いなのだろう。

 

 我々には暴虐の矛先は向かわぬだろう、と日和見などしていて良いはずもなく。

 どうする、と逡巡したそのとき。

 

 すぐ横から、ひとつの影が飛び出していった。

 

 草で編んだ外套を投げ捨ててひた走る、白い、背中――!

 

「待て、クルシュ!」

 

 思わず引き留めたが、そう言われて大人しく止まるメスではない。

 そこに惚れたのだから仕方がない、と意識を切り替えて、兄に向かって叫んだ。

 

「兄者、すまん! 追いかける!」

「ザリュース!」

 

 強く引き留めようとした兄はしかし、はっ、と息を飲み、二の句を次がぬまま数呼吸押し黙る。

 ばしばしと地面を叩く尻尾がその内心を如実にあらわしており、心の中でもう一度、兄に謝罪した。 

 

「……わかった。行ってこい、ザリュース」

「感謝する、兄者」

 

 返事もそこそこに、クルシュの後を追った。

 きっとこれが最後の会話になるだろう。心苦しくはあったが、未練はなかった。

 

 素晴らしい兄を持った、と心底思う。

 あのシャースーリュー・シャシャならば、すぐさま部隊を編成し直して、多くの同胞を生かしたまま帰してくれることだろう。もし我々が連中に殺されてしまったなら、その時点で行動に移してくれる。

 

 思えば、兄はいつだって俺を助けてくれた。

 至宝、フロスト・ペインは兄が共に戦ってくれたからこそ今この手にあり、旅に出るときもなんだかんだと言いながら受け入れてくれて、兄からの助力によって生け簀を形にすることができた。

 

 今回だって、かなりの無茶を言った。

 

 どうせ死ぬのなら、と戦士達を鼓舞して、異形に立ち向かうべきだと主張した。

 長老たちは渋っていたが、なんとか受け入れさせることができたのは兄の賛同があってのことだ。

 

 やがて来るかつてのような食糧難から蜥蜴人(リザードマン)の明日を守るための戦いだと、一縷の望みにかけると、そう頷いてくれた、自慢の兄。

 

 兄に誇れる弟である自信は正直ない。

 が、今ここで惚れたメスに添えぬようでは、オスである資格すらないだろう。

 

 

 余程必死に走ったのか、祭司とは思えぬ速さで駆けていったクルシュとの距離はかなり開いてしまっている。

 

 急がなければ。

 脚に力を込めて、全身全霊をもってひたすらに駆けた。

 

 行き着く先がたとえどこであろうとも、後悔は微塵もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足がもつれる。肺が軋む。

 

 蜥蜴人(リザードマン)の身体は速く走ることに向いていない。戦士ではなく、祭司の、メスの私ならば尚更だ。

 

 それでも走った。とにかく走った。

 一刻も惜しかった。代表を選ぶ、なんて相談している時間もない。

 気付いた私こそが、いま、行かなければ。そう思った。

 

 本当は、相手の出方を待つべきだと、頭ではわかっている。

 私が勝手に代表として出ていくことが、後々部族の不和に繋がるかもしれないということも。

 

 しかし、一体、どれだけの者が気付いているというのだろう。

 この雨が、第六位階魔法、<天候操作(コントロールウェザー)>によって成り立っていることを。

 

 あの巨大な魔樹を倒した魔法が、この世に有り得ざるべき位階の魔法であることを。

 

 昔、一度だけ。

 一度だけ、年老いた祭司から聞いたことがある。

 

 人の身では唱えられぬ神代の魔法に、時を操るものが存在する、と。

 

 最後のあれは、きっとそうだ。

 動きを完全に止められて、目眩がするようなたくさんの光を撃ち込まれていた魔樹。

 

 世界を滅ぼせる力を、一切の抵抗を許さないまま蹂躙する圧倒的な魔法。

 

 

 怖い、こわい。恐ろしい。

 止まりそうになる足を必死に動かして、ただ、ただ走った。

 

 

 今、私が感じている恐怖は、あの魔樹に対する恐怖とは、まったく違うものだった。

 

 勿論最初から死ぬくらいは覚悟していたけれど、勝ち目のない戦いでも、それでも赴こうと思えた。

 私を求めてくれるオスがいたから。逃げたとしても、それを養うだけの食べ物がないから。

 

 もうごめんだった。同族の肉を喰らうようなことは、二度と経験したくなかった。

 

 さっきまで私たちが歯向かおうとしていたものは、知性のない暴風のようなものだった。

 

 私たちとは比べるのも馬鹿馬鹿しいくらいに強大な、けれども知恵を使わない、獣とすら呼べないほどのばけもの。

 

 私たちの村は確かにあの魔樹によって酷い目に遭わされたけれど、あれにとって私たちの村はただの通り道に過ぎなかった。

 どこから来て、何が目的だったのか今となってはわからないけれど、私たちが命を懸けて戦う決意をするような被害を受けたのは、あの魔樹がただ途方もなく大きかったというだけで、あれには、悪意も敵意も存在してはいなかったのだ。

 

 

 けれど、今はちがう。

 

 6人。たった6人。

 

 一生かけて泥を積み上げても、尚その頂きには辿り着けないであろう大きさの魔樹を。

 指折り数えることができるほどの時間で、ほとんど遊びながら、無傷で屠ってしまったのが。

 私たちとほとんど変わらない、小さな生き物だということが、どれほど恐ろしいか。

 

 知性あるものが、知性なき災害より強い力を持っていることが、どれほど恐ろしいか!

 

 

 遊んでいた。

 間違いない。遊んでいたのだ。信じられないことに、あの魔樹を使って、彼らは遊んでいた。

 

 でも、と、欠片ほどの希望を、そっと胸に抱く。

 私が近づいていくのに気が付いたのだろう、今はこちらを見て警戒しているけれど、さっきまで彼らはまるで親と子のようにじゃれ合っていたのだ。

 

 もしかしたら、話が通じる生き物なのかも知れない。

 黒服の男は私たちに攻撃が当たらないように動いてくれていたようだ。

 もしかしたら、もしかしたら私たちを助けに来てくれたのかも知れない。

 

 

 ……それならば、助けに来たと最初に言うものではないだろうか。

 そんな考えが、僅かな希望を蝕んでいく。

 

 邪推であってほしい。

 けれど思考はどんどん悪い方向に転がっていった。

 

 いたぶっていた。弄んでいた。

 自分達よりも遥かに大きな化け物が、為す術もなくもがき苦しみ、のたうちまわる様を、ひどく楽しんでいるように、私には見えた。

 

 ほんの少しでも脅威に思っていたのなら、最初から動きを止めてしまえば良かったはずだ。

 けれどあの魔法詠唱者(マジックキャスター)は、ひとつひとつ丁寧にばらばらの魔法を叩き込んでいた。まるで手に入れた玩具がどう動くのか確かめるように。

 

 この雨だって、魔樹をできる限り長く痛めつけるために降らせているのではないか。

 

 あれが終わってしまったから、次は貴様らの番だと、襲い掛かってきたりはしないか。

 

 魔樹の大枝を切り落とす怪力が、この世に存在することさえ信じられない数々の魔法が、私たちにふるわれる。それだけなら、まだいい。

 もっと、私が想像すらできないような悪辣な手段で、私たちを苦しめる気なんじゃないか。

 

 

 嫌だ。怖い。

 辿りつきたくない。

 

 それでもなんとか、身の内に残る僅かな勇気を振り絞って、必死になって地面を蹴った。

 

 説得が通じるかはわからない。懇願が届くかはわからない。

 そもそも同じ言葉を扱うのかさえわからないけれど。

 敵か、味方か。それだけわかれば良い。

 

 ザリュースなら、彼ならきっとなんとかしてくれる。

 私に注目している間に、皆が逃げ出す準備を整えてくれる。

 私が殺されている間に、少しでも多くの同胞が生き残る術を考えてくれる。

 

 住処を失って途方に暮れていた私に、もう一度生きる気力を与えてくれた彼なら――。

 

 

 

 

 

「止まりなさい」

 

 冷たく放たれた声に、思わず体が竦みあがる。黒い鎧の女性が、こちらに向かって真っ直ぐに斧を構えていた。

 距離はまだ随分と開いていたが、あそこからでも私の首程度なら軽く飛ばせるのだろう。べちゃ、と、ほとんど反射的に泥の上に跪いた。

 

「獣如きが、偉大なる御方の許可無くこんなところまで近付いて。無礼にも――」

「よい。武器を下ろせ、アルベド」

「はっ」

 

 殺意すら滲ませて私を叱責しようとしていた女性は、アンデッドが放った命令ひとつで言われた通りに武器を下ろす。

 

 低く、平坦で、穏やかな声。まるでそのあたりにいる普通の男性のような声だった。

 それが余計に恐ろしい。言葉が通じる、なんてことは、とうに喜べることではなくなっていた。

 

 きっと彼が「偉大なる御方」なのだろう。

 少しだけ、ほんの少しだけ、良かった、と、そう思った。あの絶大な魔法を扱う者が、彼らの中で一番偉いものでなかったらどうしよう、とも考えていたから。

 

「……それで?」

 

 「偉大なる御方」の声に、びくり、と身体が震える。

 僅かに小首を傾げる様が、生きた人間のようで酷くいびつだった。

 

「教えてもらえるだろうか。何のために、ひとりでここまで来たんだ?」

「わ、わた、わたしは……」

 

 舌が回らない。強まる雨足が、容赦なく体温を奪っていく。

 恐怖と寒さで震える体を抱きしめて、懸命に自身を鼓舞したが、言葉が喉に張り付いたままちっとも出てこなかった。

 

 はやく、なにか、言わないといけないのに。

 私だけが殺されるならまだいい。彼らの気分次第で、みんな殺されてしまうかも知れないのに。

 

 なのに、突き刺さる視線が現実をつきつけてくる。殺意だけで生き物を殺せるような、そんな眼。

 人間の表情はよくわからないが、その眼光の冷たさが物語っている。

 

 

 蜥蜴人(わたしたち)を助けに来たのでは、ない。

 

 

 覚悟していたはずだったのに、たったひとかけらの言葉を紡ぐ勇気が出ない。

 こんなとき、こんなときどうしたらいいんだろう。

 

「早くしてよ、蜥蜴人(リザードマン)。いつまで御方々を待たせるの?」

「いっそ魅了してしまった方が早いんじゃありんせんか?」

 

 苛立ったようなダークエルフの声に、けらけらと笑いながら紅い鎧の少女が提案する。

 内容とは裏腹に、許可を求めるような眼で「偉大なる御方」を見上げるさまは、玩具をねだる童のものと寸分変わりが無く。

 きっと私たちの存在も、玩具と大差ないのだと、改めて認識させられて。

 

 もう、何を言ったって、駄目なんじゃないかって。

 

 呼吸が、心音がうるさい。雨が地面を叩く音は、こんなにも大きくなっているというのに。

 

「わたしは……!」

 

 ありったけの気力をかき集めても、虫が鳴くような声しか出せない私を、別の私が嘲笑う。

 なんのためにここまで来たの、臆病者、と。

 

 ああ、私の心までもが、私を裏切るのだと、力なく落ちそうになった肩を――。

 

 

 

「妻が失礼をした。我々は、感謝を述べるために、ここに来たのだ」

 

 

 

――支えてくれる、ぶ厚い掌があった。

 

 

「ざりゅーす……?」

「遅くなってすまない」

 

 小声で問うた私に、ぼそぼそと返す彼の声はいつもと変わらず穏やかで、胸のなかに、ぽう、と火が灯るのがわかる。

 

 私を追いかけてすぐに走ってきたんだろうけど、雨の音にかき消されて、足音に気がつかなかった。

 

 どうして来たの。

 殺されてしまうかもしれないのよ。

 みんなはどうするの。

 ていうか、妻って。

 わたし、まだ、返事をしてないんだけど。

 

 言いたいことはたくさんあったけど、ぐっと飲み込んだ。その眼差しが、出会ったときと変わらない瞳が、お前ならできる、と、期待してくれているように思えたから。

 

 たったそれだけで、もう一度頑張れるって思わせてしまうんだから、このオスはずるい。

 それに絆される自分に呆れながら、首を伸ばして、しっかりと前を見た。

 

「お待たせして、申し訳ありません。そして、私たちを助けていただいて、ありがとうございました」

 

 敵かもしれない、ということは一旦忘れよう。

 あの魔樹を倒してくれた、ということは、事実なのだから。

 

「あれは、あの魔樹は、我ら蜥蜴人(リザードマン)を滅ぼす力を持った、邪悪な敵でした。戦士たちを集めて立ち向かうつもりではいましたが、まず、全滅は避けられなかったでしょう」

 

 反応はない。

 取るに足らないと思っているのか、それとも他のことを考えているのか。

 じっとこちらの様子を伺っていた。

 

「心から、お礼を申し上げます。我々を救っていただき、本当に、ありがとうございました」

 

 深く、深く頭を下げる。

 言うべきことはすべて言った。あとはなるようにしかならない。

 首のひとつでも持っていけばいい、そのくらいの気持ちだった。

 

 そのまま十数秒、もしかしたらもっと待ったのかもしれない。

 

 ふいに、肩を掴む手に力が込められたのを感じて、こっそりと前を見た。

 

 目の前の、ほんの2、3歩の距離。

 

 そこには、人の身体の上に水の球を浮かべた奇妙な生き物が立っていた。

 

 音もなく歩いてきたとでもいうのだろうか、まったく、一切の気配を感じなかった。

 

 遠目からはなんの生き物かまるでわからなかったけれど、今は……、今も、確証があるわけじゃない。

 けれど、これは、私たち祭司が使役する精霊に近しい、(スワンプ)……、いえ、(ウォーター)精霊(エレメンタル)……?

 

 やけに整った服装の、しかし確かに異形と言える存在は、私たちを前にして。

 

 

 おもむろに、片膝をついた。

 

 

「ヒッ――!」

「し……!!」

 

 赤い鎧の少女が、悲鳴のように息を飲んだ。

 何事か叫ぼうとしたダークエルフの口を、黒い鎧の女性が塞ぐ。

 

 先ほどまでの余裕が嘘のような彼女たちの狼狽えぶりに、はた、と思い出した。

 さっき、ダークエルフの子供は言っていた。「御方々」をいつまで待たせるのだ、と。

 この、水精霊(勝手にそう呼ぶことにした)もまた、彼女らに心酔される「偉大な御方」のひとりなのだろう。

 

 

 目の前の状況にやっとのことで思考を追いつかせたとき、す、と、水精霊の手が挙がる。

 

 向こうを見れば、赤い鎧の少女の手がぶるぶると震えていた。血が出そうなくらい槍を強く握りしめて、ぎりぎりと唇を噛み締めている。

 彼が止めなければ、私の頭にはきれいな穴があいていたに違いない。

 

 彼女は多分、この水精霊が私たち程度に膝をついているのが我慢ならないのだろう。

 そして、少なくとも、水精霊自体には、私たちを害するつもりがないことがわかった。

 

「こんにちは」

「こ、こんにち、は?」

「……こんにちは」

 

 挨拶された。

 思わず返してしまったが、これで良かったんだろうか。

 

 幾らか歳を経た男性の声。

 どこから出ているのかもわからないけれど、不思議と恐ろしくはなかった。

 

 水の中の2つの光が水面の三日月のように歪んでいる。

 優しく微笑んでいるのだろうと、何故か理解することができた。

 

「そう怯えなくて良い。ぼくたちは、君たちが崇める存在に頼まれてここに来た。あの化け物を消し去ってほしい、と」

「祖霊、に……?」

「まあ名前なんて生者が勝手につけるものだから、好きに呼んでくれたらいいけど」

 

 ほら、と、まだ半信半疑の私たちの視線を、空へと誘導する。

 

 いつの間にか、雨は上がっていた。

 

 夕日で真っ赤に染まる空には、無数の光が煌めいている。

 

 まるで、魂そのもののような、あたたかなひかり。

 ここはもう、あの世だと言われても信じてしまいそうな、幻想的な光景。

 

 後ろの戦士たちにも見えているのだろう。ざわざわと動揺がこちらまで伝わってくる。

 まさか、あれはなんだ、祖霊だ、俺たちの祖霊だ、と、私の心中を代弁するかのような声が聞こえた。

 

 視界がぼやける。頬に触れれば、手のひらには水滴。知らず、涙を溢していたらしかった。

 

「あ、あなた方は……!」

 

 ザリュースが何か言おうとするのを、片手でそっと制して、水精霊は厳かに仰った。

 

「君らの、蜥蜴人(リザードマン)の、永きに渡る繁栄を祈ろう」

 

 その声は、私たちを導いてくださると、確信に足るもので。

 

 もう一度、今度は心底からの気持ちで、深く、深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 






『朱雀さんに見せたことありましたっけ、苦しみますツリー』
『ねんまつはがくせいのれぽーとがあったのでろぐいんできたことがないです』
『あっ……』

演出は大事。古事記にも書いてある。

ちゃっかり薬草も入手。
あと2、3話くらい蜥蜴人の村に滞在しますよ。


次回は多分日曜日。今週の日曜日だといいな!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沙羅双樹を摘んだ日・参


前回のあらすじ

【悲報】ザイトルなんとかさん、誰にも名前を知られないまま死ぬ


リザードマンがゲシュタルト崩壊してきた。
あと伝聞の語彙が限界。助けてデミウルゴス。

今回何故ザイなんとかさんが動きだしたか明らかになりますよ。






 

 

 貢物にでもなった気分だな。

 

 

 簡素ながらも頑強に組み上げられ、篝火と色とりどりの花や果物で精一杯飾られた祭壇の上、明らかに場にそぐわない豪奢な玉座に身を預けて、こっそりため息をついた。

 

 「至高の御方をこのような粗末な壇上に乗せようなど!」と怒り出しそうになった守護者たちを朱雀さんとふたりがかりで宥め、「せめて椅子だけは」と彼女たちに懇願された結果が、このなんともちぐはぐな状況である。ちなみに椅子は「こんなこともあろうかと」と言いながらセバスがインベントリから出してくれた。シチュエーション的にはすごく執事っぽいけど、なんか違う気がする。

 

 一応貢物は貰う方の立場のはずなんだけど、なんかこう、「飾られてる」感が半端じゃない。未開の地で、動物の骨を装飾として扱うところって、なかったっけ。

 

 

 

 

 ……現状を整理しよう。

 

 

 

 

 なんら滞りなくイビルツリーを倒し、主要な魔法も十分使えると確認できて、ついでにアウラの活躍でちょっとレアっぽい薬草が手に入り、結果は上々、とかなり満足していたとき、蜥蜴人(リザードマン)が2体、こちらに向かって走ってきた。

 「殺しますか?」と尋ねてくる守護者たちを抑えながらも、内心攻撃してきたらどうしようかとびくびくしていたが、どうやら襲われる前に降伏しようとしただけのようで、深々と頭を下げて感謝を告げる2体に敵意がないのははっきりとわかった。

 

 とは言ったものの、対処には随分迷った。

 「気にしなくていいよ! じゃあ!」とその場を立ち去るのが一番面倒がなかっただろうけど、この世界のことについて直接情報を聞きたかったので、少し蜥蜴人(リザードマン)から話を聞く機会は欲しかったところだ。深い森に閉ざされた湿地で、相当閉鎖的な暮らしをしているようだったから、大した内容は期待していなかったが、ないよりはマシだろう、と。

 

 しかし、降伏したふりをして後でだまし討ちをする可能性がないわけじゃない。レベル差から言えば不意打ちを食らう程度は全く問題がなかったが、逃げられたり、他の強者を呼ばれたりしたら殲滅が面倒だな、という考えも頭を過ぎる。

 

 決死の覚悟でイビルツリーに突撃しようとしていたのはわかるが、どの程度の脅威としてイビルツリーを見ていたのかは判然としない。こちらが無傷でイビルツリーを倒したことは見ていたようなので、圧倒的な力量差があることは伝わっているだろうが、こちらが強い、と思ったのではなく、向こうが弱いのではないかと思われていたならば。

 

 ここはひとつ超位魔法でも撃っておいたほうがいいかな? と思いつき始めたころ、朱雀さんからひとつ提案が上がった。

 

 

『モモンガさんモモンガさん』

『はい? どうしたんですか朱雀さん』

『モモンガさんって、なんかこう、火の玉っぽいの召喚できたっけ。うい、うぃー……』

『ウィル・オー・ウィスプですね。できますけど』

『それそれ。こっちが合図したらさ、そいつをできるだけたくさん、できれば魔法陣が見えないように召喚して欲しいんだけど、いける?』

『うん? んー……? ええっと、こちらが召喚したことを蜥蜴人(リザードマン)に気付かれないように、っていうことでいいですか?』

『そう! そういうこと!』

『いいですけど、朱雀さん、一体何を……』

『ちょっとね。悪いようにはしないつもり』

 

 その言葉を信じ、了解の返事をして、歩き出した朱雀さんを守護者と共に見守る。<水上歩行>を使っているのか、泥に足が埋まることもなく、実に堂々とした歩みでリザードマン達に近づいたかと思うと。

 

 朱雀さんは、彼らの前でおもむろに片膝をついた。

 

 シャルティアが引きつった声を上げ、アウラは狼狽し、セバスまでもが顔色を青くして息を飲む。アルベドだけは朱雀さんのしたいことを理解していたのか、冷静にアウラの口をふさいでいたが、総合的な状況としては、「悪いように」の定義を朱雀さんとちょっと話し合わなければならないんじゃないかな、と思う程度のものだった。尊敬している会社の幹部がいきなり蜥蜴に膝をついたら、そりゃ驚くだろう。

 ともあれ、まだ合図も出ていないことだし、と、慌てふためく守護者を身振りだけで必死に落ち着かせていたところ、おまけとばかりにさらっと大嘘をつく朱雀さんから、<伝言(メッセージ)>で合図が届いたので、やけくそ気味にウィル・オー・ウィスプを大量展開した。

 

 するとどうだろう。

 感謝の言葉を述べながらも緊張に強張っていた蜥蜴人(リザードマン)たちが、涙を流しながらウィル・オー・ウィスプに見入っているではないか。

 

 祖霊、という単語が聞こえてきたということは、ご先祖様の霊と勘違いしているらしい。こんなことで騙されるとか、生存競争を放棄しているんじゃないかと言いたくなったのだが、かくして我々は無事に蜥蜴人(リザードマン)の信用もとい信仰を勝ち取ったのであった。

 

 

 

 そして現在。

 日はすでにとっぷりと暮れて、空には星が瞬き、大きな月が酒宴を照らしている。

 

 曰く、我々と祖霊を称えるため、そして死者を追悼するための宴だそうだ。保存しきれなかった魚を処理してしまうという目的もあるらしい。これから来る食糧難を考えればもう少し数を確保しておきたかったが、と、ザリュースという蜥蜴人(リザードマン)が嘆いていた。彼らでも腐った魚は食べないようだ。

 

 そんなわけで、あちこちで飲めや歌えやの騒ぎになっているのだが……、正直、そろそろ帰りたくなってきた。

 

 飲み食いが不可能な上に、元々飲み会そのものに良い印象を抱いていない。そしてこの場所、雨上がりの湿地特有の泥の匂いと、蜥蜴人(リザードマン)の体臭、そして何より大量の酒気が混ざり合って、言っては悪いがちょっと臭い。爬虫類だからまだ良かったのかもしれない。これが獣人なんかの体臭がきつい種族ならどうなっていたことか。ゲームに嗅覚が実装されない理由が身にしみてわかった。

 

 加えて、蜥蜴人(リザードマン)達手製の祭壇の上に座っているのは俺ひとりだ。一応アルベドが傍についてはいるが、どうにも見世物にされている感じがして落ち着かない。一番鱗の綺麗なメスを傍仕えに、と言われたときは、どうにか丁重にお断りした。

 

 この状況を作った張本人はと言えば、杯を片手にあちこちの蜥蜴人(リザードマン)と実に楽しげな様子で話をしている。行く先々で杯に酒を注がれているので相当量を飲んでいるはずだが、毒に対する完全耐性を持っているのでその足取りは非常に軽い。「いける口だなじいさん!」とか「ぐいっといけぐいっと!」なんていう声も聞こえてくる。いつの間にそんな仲良しになったんですか朱雀さん。俺にもそのくらいフレンドリーでいいって言ってくれませんか朱雀さん。

 

 至高の御方を軽視している、と守護者達がまた怒り出したりはしないかと目を配ってみたが、先程アルベドが守護者を集めて何やら説明してくれたようで、過剰に反応することもなく、それぞれ適当に蜥蜴人(リザードマン)と交流している。

 

 セバスは片腕がやけに発達したゼンベルという蜥蜴人(リザードマン)と手合わせをしており、シャルティアはそれを丸太に座り込んでぼんやりと見物していた。アウラは4本首の多頭水蛇(ヒュドラ)を気に入ったようで、絡みつかれながらも撫でてやっているのが微笑ましい。

 うっかり殺してしまったりなどしないかと最初は心配したが、無事に交流を深めているようだ。それ自体は大変喜ばしいことなのだが、個人的には居心地が悪いというか。

 

 

 

「……どうか、なさいましたか? 死の精霊様」

「ん? ああ、なんでもない。少し考え事だ。それより、その位階に含まれない魔法のことだが――」

 

 白い鱗を持つ蜥蜴人(リザードマン)、確かクルシュと言ったか、祭壇の下から心配そうに見上げる彼女に続けて質問をぶつけた。

 朱雀さんが水精霊と認識されたこともあり、彼らは俺達を精霊の一団と定義することに決めたようだ。名前はもう少し伏せておいた方がいいのではないか、と朱雀さんと話し合って決めたこともあり、俺は「死の精霊様」、朱雀さんは「水の精霊様」とそれぞれ呼ばれている。骸骨って言ったって、なにか魔法的な力で動いているようなものだし、あながち間違ってはいないと思う。

 

 

 まあ状況にはいくらか不満が残るが、情報源として蜥蜴人(リザードマン)を選んだのは正解だったと言える。大当たりだ。

 

 てっきり閉鎖的な暮らしをしていると思っていた蜥蜴人(リザードマン)。それは概ね予想通りであったのだが、彼らの風習には「旅人」と呼ばれるものが存在しており、いくつかの条件を満たせば、外の世界を見たいと思った者が外界に出て見聞を広めることが許されている。多くの者は過酷な道のりに耐えかねて命を落とすらしいが、今この場においては、ザリュースやゼンベルといった集落で1、2を争う強者が外界の知識を得て帰ってきていた、と。

 

 それはもう色々聞いた。根掘り葉掘り聞いた。最初に朱雀さんが「ぼくたち精霊界から来てさ、折角だから人間の町とかも観光していこうかと思うんだけど」と微妙に真実を交えたでたらめを吹き込んでくれたこともあって、特に疑問を持たれることもなく情報を聞き出すことができた。やっぱりこいつらちょっとチョロすぎやしないか。

 

 色々と思うことはあったが、なにせ様々なことを尋ねたわけだ。

 魚の養殖に詳しいという「森の人」のこと、山脈に住む山小人(ドワーフ)の話。通用する貨幣や物の相場、一般的に使われているアイテム。この世界で流通しているポーションはどうも青いものらしく、試しに手持ちの下級治癒薬(マイナーヒーリングポーション)を見せてみたら、そんな禍々しい色のポーションは見たことがないとその場の全員に言われてしまった。下手にどこかで使ってしまうことにならなくて良かった。きっと怪しまれるなんてものじゃない。

 

 武器や防具の話。彼らが知る一番硬い鉱石はアダマンタイトだと言う。蜥蜴人(リザードマン)に伝わる至宝というものも見せてもらった。氷結効果を持つ剣、無限に酒が湧き出る大壺。持ち主の知力を吸って硬度に変えるという鎧には、朱雀さんがえらく興味を示していた。別に着たいというわけではないらしい。レア度という意味では大変魅力的だったが、能力的には大したことがなかったので、彼らには大事にするようにと忠告しておくに留めたのだが。

 

 この世界の強者の話。事前に聞いていた通り、このあたりに限定してのことではあるが、20レベルほどしかないザリュースでもかなり強い部類に入るのだそうだ。過去出会った人間に、「冒険者で言えば上から3番目くらいのランク」という評価を受けたことがあり、よくわからないながらも褒められていると認識したとのこと。そもそも亜人と人間では基礎能力が違うようなので、そこらへんはユグドラシルと同じなのか、と納得した。

 プレイヤーと思われる存在のことは誰も知らなかったが、山脈に生息するという噂の竜については色々と興味深い話を聞くことができた。竜といえばユグドラシルでも特別なモンスターだ。高い身体能力を持ち、強力な魔法を行使する。高レベルの存在であれば、100レベルプレイヤーであってもソロで狩るのはまず不可能だ。用心しておいて損は無い。

 

 

 その他思いついた雑多なことはあらかた聞き終えて、今は開放した元旅人達の代わりに、蜥蜴人(リザードマン)の間で祭司と呼ばれている者達から話を聞いている。クルシュと、シャースーリューという2体が壇の下から俺の話に付き合ってくれていた。

 

 蜥蜴人(リザードマン)がいつから位階魔法を使えるのかは残念ながら伝承がなかった。彼らが言うには、部族の始まりから当然のように使っていたとのこと。

 この世界が最初からユグドラシルの魔法が使える世界なのか。あるいは遥か昔に転移してきたプレイヤーがいたのか。やはり人間種の伝承も調べてみる必要があるかも知れない。

 

 祭司の中で最も魔法に長けた者でも、個人で操ることができるのは第三位階までだという。個人で、というところに引っかかりを覚えたので聞いてみれば、人数を集めた大儀式なるものを行うことによって、もっと強力な魔法を使うこともできるらしい。内容としては大変興味をそそられるものだったが、準備に時間がかかるので今気軽に見せられるものではない、としょんぼりされてしまった。到達する位階も大したことがなかったので、気にしないよう告げておいたのだが、ユグドラシルには存在しない魔法強化である以上、警戒はしておかなければならないと思い、儀式の手順だけは聞いておいた。方法さえ知ることができたなら、もしかしたら自分達でも使うことができるんじゃないか、とも希望を抱いて。

 

 さらに魔法について詳しく聞いてみれば、位階に含まれない魔法も多く存在するらしい。皿を暖めたり、指先に火を点したりする程度のものだが、ユグドラシルに存在しない魔法を現地の者が独自に開発したというのは、驚嘆に値する事実だった。MODもなく、お願いする運営もいないのだから、大変だっただろうに。

 運営にお願い、と言えば、今、運営に要求する類の魔法はどうなっているのだろう、という考えが脳裏を掠める。もう課金できない以上、ユグドラシルのアイテムは現存するもの以上には手に入らないのだから無駄遣いはできないが、どこかで試せはしないだろうか、と。

 

 

 そんなこんなで大体聞き終えたかな、と思った頃、そのあたりをうろうろしていた朱雀さんが木の杯を片手に戻ってきた。まだ飲んでたのか。そんなに美味しかったのかな。

 

「ただいまー」

「おかえり。楽しんできたようだな、朱雀さん」

「いやあ、お酒とか久しぶりでさ。ごめんねほったらかして」

 

 言いながら、くいーっと杯に残っていた酒を飲み干して、近くにいた蜥蜴人(リザードマン)に渡してしまうと、そうそう、とクルシュに向き直った。

 

「クルシュ・ルールー、だったかな」

「は、はい!」

「この度はご成婚おめでとうございます」

「は、ぅえっ!? ふぁ……、はぃ……」

 

 ありがとうございます……、と消え入りそうな声でクルシュは礼を述べた。蜥蜴人(リザードマン)なので顔が赤くなるということはなかったが、びたんびたんと暴れる尻尾が彼女の心をはっきりと表している。

 そういえば、ザリュースがクルシュのことを妻とか言っていたな。新婚さんだったのか。

 

「それはそれは。私からも祝福しよう、おめでとうクルシュ」

「あ、ありがとうございます」

「ご兄弟なんだっけ? シャースーリューとは」

「はい。困ったものです、今までどんなメスを薦めてもつがいには選ばなかったというのに、彼女を一目見て気に入ってしまったようで」

 

 ゆらゆらと嬉しげに尻尾を揺らすシャースーリューの言葉に、うぅう……、と両手で顔を覆いながらクルシュは呻く。部族間の政略結婚とかではないようで、彼女の尻尾は怒りや哀しみではなく、羞恥で暴れているらしい。泥が跳ねるからそろそろやめてもらいたいんだけど。

 

「それでは、何か贈り物を考えなければならないな」

「おく……、そんな! あの魔樹を倒していただいた精霊様からこれ以上何かいただくわけには!」

「気にするな、あの程度は些細なこと。我らにとっても利のあることだった」

「もらえるものはもらっといたらいいよ。この先大変だろうし」

 

 朱雀さんの言葉で、一族の未来と自分の遠慮を天秤にかけ始めたのか、うんうんと唸り始めたクルシュだったが、突然、はたと何かに気が付いたように顔を上げた。

 

 

「……もしかして、既にいただいているのではないでしょうか」

「えっ?」

 

 疑問を浮かべるこちらを意に介さぬまま、クルシュは過去を思い返すように、口元にそっと手を当てて言う。

 

「昨晩、深夜のことです。私たち朱の瞳(レッド・アイ)の集落に、突然大きな音を立てて、水の塊が突っ込んで来ました。家屋の屋根を幾つか吹っ飛ばしていったこともあって、何事か、と部族のみんなで起き出して見たものは、こちらに迫ってくる巨大な魔樹だったのです」

 

 赤い瞳が潤んでいる。恐怖か、感動か。こちらからは判別がつかなかった。

 

「あのとき皆が起きていなければ、被害はもっと大きくなっていたことでしょう。何から何まで、本当に感謝しています、精霊様」

「……それはよかった。何よりだ」

 

 さっきと打って変わって押し黙る朱雀さんの代わりにとりあえず返事をしておいた、が。

 まさか。いや、間違いない。少なくとも俺の中では繋がってしまった。

 何らかの要因で死んだ八咫烏。突然動き出し、こちらが着く頃には眠っていたイビルツリー。もうあれだ。あれしか考えられない。

 

 

――――深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)

 

 

 朱雀さんが八咫烏にかけた攻性防壁、<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>が発動したときに召喚されるモンスターのひとつで、看破系統の魔法やスキルを受けたときに選ばれる水精霊だ。

 攻撃力はほぼ皆無と言って良いが高い耐久性能を持ち、対象者1名を体内に取り込んで拘束し、防御力を一時的に0にして窒息効果を与える。HPが0になれば、周囲に睡眠効果をばらまくというスキルも持っていたはずだ。

 

 それだけなら特に脅威というほどではないが、こいつの恐ろしいところはINTが一定以下のモンスターのヘイトを一身に稼ぐということ。当然攻撃されれば中にいるプレイヤーにもダメージが通る。しかもフレンドリーファイア解禁のおまけつき。助け出そうと仲間が攻撃しても同じようにダメージが入る。一定量のダメージをモンスターに与えれば中のプレイヤーは吐き出されるが、その頃にはプレイヤーも深刻なダメージを食らっているという寸法だ。ようやくHPを削りきったと思ったらスキルによって眠らされ、周囲のモンスターの打撃を受ける。地味に嫌な召喚獣である。

 アインズ・ウール・ゴウンの後発組で採集担当だったにも関わらず、朱雀さんが他のギルドに思いっきり嫌われていたのは、PKギルドの狩場に不可視性能を持つ召喚獣を度々突っ込ませて遊んでいたからだ。対策をかけた監視魔法で覗きながら、るし★ふぁーさんさんやウルベルトさんなんかと一緒にきゃっきゃと笑っていたような記憶がある。

 

 昔のことはともかくとして、現在。

 何者かが八咫烏と接触し、看破系統の魔法をかけ、モンスターが召喚された。イビルツリー本体が看破の魔法を使った、という可能性は限りなく低いだろう。もしそうなら先ほどのイビルツリーはもっとえげつない死に方をしている筈だ。朱雀さん本人にかかっている攻性防壁は八咫烏の比ではない。

 誰が、なんのために八咫烏を攻撃したのかは不明。現地のものか、プレイヤーなのか、その生死さえも。これも真剣に考えなければいけないことだが、今は少し置いておこう。

 

 深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)の特性によりイビルツリーのヘイトが引き付けられ。木々をなぎ倒し水を吸い上げながら湖まで移動し。深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)が倒されたと同時に、付与された睡眠効果によりその場で眠りについていた、と。

 

 今、イビルツリーを倒したということで俺達は蜥蜴人(リザードマン)の信頼を得ているのだが。

 そもそも<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>が発動しなければイビルツリーは動き出さなかった可能性が高いわけで。

 イビルツリーが動き出さなければ蜥蜴人(リザードマン)の集落は襲われなかったわけで。

 

 つまり、もとを正せば、この騒動の原因は。

 

 

 

「……どんな外見だったかわかる?」

「えっ? いえ、申し訳ありません。私も、見た、という者の証言を聞いただけですので、実物はちょっと。……気が付いたらどこかへ行ってしまっていたようですし、水の塊、とだけ伝わっております」

「そっか……」

 

 朱雀さんはそれを聞いて数秒ほど俯いて悩む素振りを見せ、その後ぱっと顔を上げた。

 

 

 

「……もしかしたら先走った眷属かも知れないね。ぼくは知らないけど」

 

 あっ。

 

「そうなのですか……」

「もしわかったら謝らせに行くよ。おうち壊してごめんなさいって」

「いえ、そんな! そういうわけには!」

 

 あっ、あっ! 誤魔化した! 誤魔化したぞこの人!

 

「というわけで、お祝いは別のものがいいね。良ければ、期限付きで食料の援助をしようかと思うんだけど、どうかな」

「……! それは、願ってもないことですが……!」

「モモンガさんも、いいよね? それで」

「……高くつくぞ?」

「うん、わかってる」

「え?」

「こちらの話だ。援助自体は喜んでさせてもらおう。勿論いくつか条件付ではあるが、な」

 

 罪滅ぼしのつもりだろうか、提案をしつつ、お願い黙ってて、というような視線を送る朱雀さんに、年長者としてどうなんだという思念を返しながら、それでも蜥蜴人(リザードマン)の食料を援助することには同意した。

 一度助けた蜥蜴人(リザードマン)と敵対することになるのは避けたいし、元はといえば、朱雀さんひとりに索敵を任せた俺の落ち度でもある。

 細かいところはあとで人をやって詰めるが、とりあえずは、何かの際に、命や健康を損なわない程度の実験や単純な労働力として若い蜥蜴人(リザードマン)を貸してもらうということで締結した。期間は食料の自給が整うまで。蜥蜴人(リザードマン)は全部族をあげて自給自足に全力を尽くすこと。

 クルシュとシャースーリューは心の底から喜んでいるようだ。是非ザリュースにも聞かせてやらねば、と。……どうか彼らが気付きませんように。

 

 

 

 

 

「しかしこれだけ集まると壮観だね。5部族だっけ」

「はい、魔樹へと一矢報いるために集結した者たちです」

「風習とか信仰も微妙に違うだろうに、よく纏めたものだ」

 

 酒宴を見渡して、心底感心したように朱雀さんが言った。

 良く見れば、蜥蜴人(リザードマン)はそれぞれ鱗の色や体の特徴が少しずつ違っている。現実世界の人間も、文化というものが生まれてから相当の年月が経っているけど、未だに見た目だけで差別する習慣がなくならない。ゲームにまでそれを持ち込むのだから、それはとても根が深いものだ。蜥蜴人(リザードマン)達も、きっと苦労したんだろう。

 クルシュは少し声のトーンを落として呟く。白い尻尾が泥の上にゆっくりと1本の線を引いた。

 

「……纏めたのは、ザリュースです。彼がいなければ、ここまでのことはなし得ませんでした」

「……ふうん」

 

 いつものように襟の後ろを押さえながら、朱雀さんはすっと目の光を細める。意地悪な聞き方をするけれど、と前おいて、言った。

 

「迷惑だと、思うことはない?」

「……どういう意味でしょうか」

「今まで分かれて暮らしていたものが、何かしらの圧力でひとつの集団になることで生まれる鬱屈というのは相当なものだ。飢饉による戦争もあったと聞く。遺恨もあることだろう。クルシュ自身は、本当にうまくいくと思っているのかな?」

 

 温度のない声。その目に既視感を覚えた。最初に守護者達と対峙した、あのときの目だ。

 レベル100の守護者達ですら息を飲んだ沈黙を真正面から受け止めながら、クルシュ・ルールーはぽつぽつと語りだす。彼女の目は伏せられているが、決して死んではいなかった。

 

「重い、と思ったことは確かにあります。逃げ出した方が良かったんじゃないかって、よけいな血を見るだけなんじゃないのか、って」

 

 一呼吸。落ち着けた心を表すように微動だにしない尻尾。赤い瞳がはっきりと前を見据える。

 

「けれど、もしあのとき逃げ出していたら、私たちはいつ襲ってくるかわからない魔樹に怯えながら、精霊様と出会うこともなく、餓えに苦しんで生きることになっていたでしょう。それは、とても、辛いことです。戦って死ぬよりも、ずっと」

 

 部族によって多少の差異はあるが、基本的に蜥蜴人(リザードマン)は強い者に従う種族なのだと聞いた。それは強者に媚びへつらうことではなく、戦って自らの力を示すことなのだと。

 

「彼には、部族を正しい方向へと導く力があります。今この場所こそがその証明。……そして、もっと単純なことですが」

 

 そこまで強く言い切っていたクルシュは、ふ、と息を吐いて、肩の力を抜く。

 

「彼は、ザリュースは、皆を愛している」

 

 そう言って、彼女ははっきりと微笑んだ。蜥蜴人(リザードマン)の美醜は理解できなかったが、きっと、見惚れるくらい美しい笑みなのだろう。

 

「伴侶が愛するものを、同じように愛するのは、当然のことですから」

 

 俺の勝手な期待であり、願望でしかなかったが、凛と伸びた背筋は、これからのし掛かる重圧にも折れることはきっとない。本当に苦しいときはわからないが、そうなったときは、彼女の伴侶が支えるに違いない。素直に、祝福したいと、そう思った。

 ……昔はクリスマスのリア充アカウントに突撃したりもしてたんだけどな。俺も大人になったってことか。

 

 で、意地悪な質問とやらをした本人は、まだ少々納得が行かない様子で、襟元から手を下ろした。

 

「……結果論、か。まあ、本人が納得してるならいいんだけどさ」

「それでも、あなた方は来て下さったでしょう。我らが祖霊のお導きによって」

 

 む、と朱雀さんがひとつ唸る。これは朱雀さんの負けだな、と、心の中だけでそっと笑った。現れて助けてしまったのはこっちなんだから、これ以上突っ込みようがない。

 その場の勝者は困ったような顔で小さなため息をついた。

 

「ひどい方。試しておられたのでしょう」

「問答が好きなだけだよ。ごめんね付き合わせて」

「いいえ。私でよければお付き合いいたしますとも」

 

 重い空気も完全に弛緩して、お開きにするなら今しかない、と、アルベドに声をかける。

 が、彼女はうんともすんとも言わないまま、ただそこに立ち尽くしていた。

 

「……アルベド?」

 

 未だ鎧を着たままなので表情がまったくわからない。

 恐る恐るもう一度呼べば、はっ、と我に返った様子で、慌ててこちらに頭を下げた。

 

「も、申し訳ありません! モ……、御方様!」

「い、いや、気にするな。そろそろ戻ろうと思う。皆を呼び戻してくれるか」

「畏まりました、すぐに!」

 

 もうお帰りになってしまうのですか、と、何人もの蜥蜴人(リザードマン)に惜しまれながらも、やることがあるのでな、と丁寧に誘いを断って帰り支度をする。

 実際やることは山積みだ。攻性防壁の顛末も朱雀さんと解明しなければならない。

 

 守護者達が集まったところで、盛大な別れの挨拶を受けつつ、周囲に敵が潜んでいる可能性を考慮して幾つかの魔法を展開し、我らがナザリック地下大墳墓へと戻った。

 

 

 

 

 

 召喚獣が吐き出す霧は深く、種族スキルがなければ一寸先も見えないことだろう。ナザリックを手にいれるために沼地を進んだかの日を思い出す。

 

 外壁の隠蔽工作も進んでいるようだ。これなら近いうちに完全なものが出来上がるに違いない。

 

 さあ、会議ならどこかな。自室かな、円卓かな、と思っていた矢先、走り寄ってくる小さな影が見えた。

 

「モモンガ様! 死獣天朱雀様! ……あっ、お姉ちゃんたちも!」

 

 仕事がひと段落ついたのか、マーレが嬉しそうに駆けてくる。

 

 

 

 月の灯りで、薬指に嵌るリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンをきらめかせながら。

 

 

 





オバロお家芸マッチポンプ(無自覚)。一度はやってみたかった。
お逃げくださいマーレ様。

ウィル・オー・ウィスプを勝手にアンデッド扱いしましたが果たして良かったのか。この世界では沼地に住んでるらしいけど、間違っていたらごめんなさいしまむら。


次回は多分7日後。少々お待ちを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沙羅双樹を摘んだ日・肆

前回のあらすじ

ねんがんの じょうほうを てにいれたぞ!


おで ねんまつ いそがしい わすれてた

そういうわけで遅れまして大変申し訳ありません。

あと、今回予定を変更しまして守護者女子の回想になってます。予定とはなんだったのか。
一応途中まで予定通り書いてたんですけど、これ以上じいさんと骸骨が喋り倒してるだけの話はもういいかなって……(今後書かないとは言ってない)



 

 

 

――モモンガがシャースーリューとクルシュを質問責めにし、死獣天朱雀が酒を飲みながら徘徊している頃。

 

 

 

 まったく、器用なものだ。

 

 蜥蜴人(リザードマン)の組手に付き合ってやっているセバスを見物しながら、心底そう思う。

 殺さぬよう、できる限り傷付けぬよう。それが至高の御方からのご命令とはいえ、自分が同じように相手をして、うっかり殺してしまわぬかと言われれば正直自信がない。これが金髪のょぅι゛ょであればいくらでも弄んで、否、揉んでやるというのに。どこをとは言わないけど。

 

 至高の御方を讃えるという粗末な宴が始まってすぐだったろうか。名前は忘れてしまったが、片腕がやたらと大きな蜥蜴人(リザードマン)が、「どうか自分と組手をしてくれ」と土下座する勢いで頼み込んできたのだ。

 

 至高の御方の御威光に触れておきながらなんて図々しい、と思わないこともなかったが、我らが御方々の慈悲深さはとどまるところを知らず、「付き合ってやれ」と命じられたセバスが相手をすることになった。

 わたしはその見物。本当は御身のお傍についていたかったのだけど、何かしら学ぶこともあるだろう、と仰られてしまっては、それはもう食い入るように見つめるほかない。それがどれだけ退屈なものだったとしても、だ。甲冑の下に存在していたであろうアルベドのどや顔は心の奥底に封印しておくことにした。今のうちにいい気になっているといいわ、あの大口ゴリラ。

 

 異論はない。あるはずもない。至高の御方のご命令はすべてに優先する。それがどんな些末なものであっても喜びに咽び泣きながら享受すべきものであることは確かなのだ、が。

 

 なにせ暇で仕方がない。くあ、とひとつあくびが出た。

 攻撃というものは速ければ速いほど厄介だと思っていたが、遅すぎることにも難があるのだと知る。端から見ていてこれなのだから、対峙しているセバスにしたらもっと退屈なことだろう。

 

 そういう踊りなのかや? と茶々を入れたくなるくらいにはすっとろいリザードマンの動きを軽々と避け、怪我をさせないよう立ち回るナザリックの執事は、跳ねる泥を避けるほうによほど苦心していた。

 本当に真面目で辛抱強い男だ。ナザリックの門番として、それに相応しい力と忍耐を持ち合わせている自負はあるが、あれはちょっと真似できない。

 

 元々わたしというものが、さして我慢強くないこともある。まあそれはいいのだ。がまんよわいことは美少女の特権だとペロロンチーノ様も仰っていた。

 

 

 しかし、なかなか終わらない。手甲を着けたままの指先を眺めた。未だ鎧を脱いでよいとお許しがでないので、爪の手入れもできないし。

 

 いっそうっかりを装ってあの蜥蜴人(リザードマン)の首をはねてしまえば、この下らない茶番も終わって、泥汚れも気にしなくて済むのかも知れないが、待てもできない愚図だと思われるのも心外である。

 

 それに、どれほど些細に見えることであっても、そこには至高の御方のご意志が隠れているのだ。見逃すわけにもいくまい。

 

 

 でも、と、ため息をひとつ。即席で作られた闘技場から目をそらし、至高の御方々を見た。

 

 白皙の美貌を持つ愛しき君は何やら蜥蜴達からあれこれお聞きになっていて、深い蒼色に星の光を煌めかせている大老に至っては、盃片手にあちこち動き回ってなにやらお喋りに興じておられる。

 

 今すぐお傍について相槌のひとつ、酌のひとつでもして差し上げたいのはやまやまなのだが、殿方には殿方としてやることがあることもまた理解しているつもりだった。それをうろちょろと纏わりついて邪魔するのは淑女のやることではない。

 良い女の条件は、殿方のやることにケチをつけないことである。

 

 

 それに、と、思い出す。再びつまらない試合へと視線を戻した。にまにまと勝手に頬が緩む。

 そもそもいま、わたしはとても気分が良い。

 

 数刻前、アルベドから聞いた話を脳内で反芻する。何回でも、何百回でも、何千回でも。至高の御方の素晴らしさというものは聞いて聞き飽きるものではないものだ。

 

 

 

 

 

「どうして止めたの!」

 

 宴の設営中、湖の畔。誰にも聞かれぬよう気を払いつつ、しかし小さな体をいっぱいにつかい、全身で怒りを表現しながら、ちびすけがアルベドに食って掛かる。死獣天朱雀様のお名前を呼ぼうとしたとき、アルベドが止めたことに腹を立てているのだ。

 当然の怒りだ。そう思った。あんなゴミにも等しい生物を相手に、死獣天朱雀様がお膝をつかれるなど。一族郎党、首を吊るしたって許される罪ではない。

 

「落ち着きなさい」

「落ち着いてるよ! だから説明して!」

 

 今にも飛びつきそうなアウラとは真逆に、アルベドの様子は至って涼しげなものだった。この女に限って、至高の御方を軽んじているなどということはないはずだから、何か思惑があるのではないかとは思ったが、死獣天朱雀様直々の制止を受けていなければ、わたしも同じように突っかかっていたことだろう。

 アルベドは、ふー、ふー、と獣のように息をついて興奮を抑えるアウラの小さな肩にそっと手を乗せ、鎧の下からまっすぐに色違いの瞳を見つめた。

 

「気持ちはわかるけど、抑えなさい。すべては至高の御方が思い描かれている計画の内なのだから」

 

 至高の御方の計画。そのことばに、アウラがようやく呼吸を整える。わたしも、聞き逃すまいとぐいぐい距離を詰めた。

 聞く準備が出来たわたしたちを見て、満足そうにひとつ頷くと、アルベドは密やかに説明を始める。黒い手甲をつけた掌が、周囲を見渡せとばかりに、ゆっくりと中空を滑った。

 

「まずこの場所は、至高の御方によって既に整えられたフィールドだということに気が付いているかしら」

「えっ?」

 

 重なる疑問符。そのうちひとつはわたしの喉から出たものだった。そこからか、と言うようにため息をついて、アルベドはまずアウラに問う。それまでよりも、殊更に抑えた声量であった。

 

「アウラ。イビルツリーが元々この場所にいたものではないことくらいは、流石にわかっているでしょう?」

「うん、でも……、モモンガ様と、死獣天朱雀様が、ここまで誘導なさったっていうこと?」

 

 ちら、と、アウラは森の方へと目を向ける。その視線を追えば、確かに木々がなぎ倒されたような痕跡があった。そうだったのか、と、今の今まで気がつかなかったことをとりあえず棚に上げて、そ知らぬ顔でぽつりと呟く。

 

「いったい、なんのためでありんしょう?」

 

 わたしの言葉に、アウラもまた頷く。

 イビルツリーをここまで連れてきた。そこまでは、わかる。至高の御方であれば赤子の手を捻るようなものだろう。

 しかし、わからないのがその理由だ。こんなところまでイビルツリーを誘導してきたとして、なんのためにその尊い御手を煩わせることになったのか。

 

 なぜ。なんのために。それを隠さないわたしたちに、アルベドは思考を続けるよう呼び掛ける。

 

「もういちど、よく考えてちょうだい。この場所に、一体何があるのか」

「なにが、と、言われんしても……」

「森と、蜥蜴人(リザードマン)と……」

 

 ひとつひとつ丁寧に挙げていたアウラの指が、ふと止まった。

 

「湖……?」

「そうね」

 

 それもまた正解のひとつよ、とアルベドは言う。確かに、ここまで大きな湖なら、死獣天朱雀様のお力が存分に発揮できることだろう。

 けれど。

 

「別に、奴をここまで連れてくる必要はなかったんじゃ……」

「そう。湖だけを手に入れるなら、ね」

 

 アウラの問いに答えたアルベドは、次いで設問を投げ掛けた。

 

「そもそもの話。御方々が、この世界において脅威とお考えになるものは、一体なんだと思う?」

 

 脅威。その単語に、思わず、きゅ、と唇を噛み締めた。

 絶対にして至高なる御方々であるが、無敵であるか、と言われれば、残念ながらそうではない。個人的には絶対無敵だと言いたいところなのだが、事実として存在する過去があるのだ。

 今はどの勢力がどのあたりにいるだの、どこどこの誰々に殺されたから報復するだの、さぞ激しかったのだろう戦の様子を、まるで昨日の夕飯を語るように和気藹々と話し合われている御方々のお姿を覚えている。

 

「……ほかの、プレイヤーでありんすか?」

 

 かつて口惜しくも侵入を許してしまった、忌々しき愚か者共の名を口にすれば、アルベドはそれを肯定した。

 

「私達と同じように転移している、若しくは過去に転移してきた、あるいはこれから転移してくるプレイヤーに対して」

 

 守護者統括は厳かに語る。どこか恍惚とした様子で、ゆっくりと手を広げた。

 

 

「この場所こそが、重要な布石となる」

 

 

 ざわざわと心が騒ぐ。アンデッド故に止まっているはずの心臓が早鐘を打つ心地すらした。至高の御方が敷かれたという布石が、これからどのように展開していくのか、ひとつも逃すまいと、わたしたちは聞き入っていた。

 

「湖は言うまでもないわね。加えて、あそこにいる連中」

蜥蜴人(リザードマン)?」

 

 ちびすけとふたり、首を傾げる。至高の御方がお選びになったものにケチをつける真似はしたくないが、戦力としても、はたまた交易の相手としても多少どころではなく心もとないように思える。

 

「大事なのは、種族じゃない。ここの原住民であるということよ」

「原住民? 元々ここに住んでるっていうこと?」

「そう。この場所で平穏に暮らしていた彼らは、“不幸にも”“偶発的な災害によって”絶滅の危機に瀕することになってしまったわ」

 

 アルベドは片手を頬に当て、いかにも気の毒そうに、“不幸な事故”であることを強調した。レンジャーとしての資質を与えられたアウラですら、「移動してきた」ということ以外の痕跡を見つけられなかったのだから、確かにこれは“不幸な事故”なのだろう。

 

「それを慈悲深くも、我らが御方がお救いになった。仮に、他のプレイヤーがいたとして、彼らと友好的な存在ならばひとまず懐柔する足がかりになり、敵対的行為をとったならば、大義名分を得たうえで背後から攻撃することができる」

 

 誇らしいことではあるけれど、我らがナザリックには敵が多いのよね。悩ましげにため息をついてアルベドは言う。本気でアインズ・ウール・ゴウンを滅してやろうと考える者は少なくとも1500人以上。その名が知れ渡っているのは結構なことだが、イコール敵だと即断するであろう輩のなんと多いことか。

 

 故に、奴らを使う。言うなれば緩衝材だ。たとえ殴りかかられたところで、へしゃげるのはナザリックではない。

 ああ、至高の御方々とはなんと慈悲深く狡猾であられることか。既に感動し始めているわたしたちへと、続けざまに計画が明かされてゆく。

 

 

「そうして、“不幸な事故”から哀れな蜥蜴人(リザードマン)を助けた私達は、堂々とこの土地を歩けるの。湖の上をなんの障害もなく通過することができる、死獣天朱雀様を含めて、ね」

「通過してしまうのでありんすか?」

「シャルティア、あそこに山が見えるわね?」

 

 確かに見える。そう頷けば、立派な雪山よね、と世間話が返ってきた。くすくすと笑うアルベドに、首を傾げているのは、わたしひとりだった。横を見れば、ちびすけは目を見開き、口元を押さえてふるふると震えている。

 

「ちょ、ちょっと! なに? なんなの?」

「アンデッドのシャルティアには、すぐには理解しづらいかも知れないわね」

「馬鹿にしてるわけ!?」

「ああ、ごめんなさい。そうじゃないのよ」

 

 アルベドはひらひらと否定の形で手を振って、この世界に人間が生息していることは聞いているか、とわたしに問うた。肯定すれば、くつくつと低く笑う声。完全に、悪巧みをしている者のそれだった。

 

「ナザリックと敵対しているプレイヤーの大多数は人間種。この世界においても、潜伏しているとすれば人間の町である可能性が高い。そうね?」

「え、ええ。間違いないでありんす」

「生きている以上、人間というものは水を飲まなければ死んでしまうわ。……さて」

 

 守護者統括は、一旦そこで言葉を区切り、そっと指を組んだ。

 

 

「人間が飲む水というのは、どこから来るのかしらね?」

 

 

 ぽかん、と口が開く。首が山の方を向いた。湖を越えた先、真っ白な雪で覆われた山脈が見える。

 人間が飲む水。川。地下水。水は高きから低きに流れる。雪山。雪解け水――。

 

 ひゅ、と、息を飲んだわたしの横で、アウラが震える声で呟く。

 その要所を、水精霊である死獣天朱雀様が押さえるということは。

 

 ……ああ、ああ! ああ! なんて、なんてこと!

 もうどうにでも、どうにでもできてしまうではないか!

 

 この場所でなければ、この場所でなければ駄目だったのだ。

 水の出所を押さえ、蜥蜴共を懐柔することができ、かつイビルツリーが“勝手に”移動するにあたって不自然ではないぎりぎりの距離。

 

 ナザリックに異変があったと思しき時刻から、まだそれほどの時間が経っているわけではない。そんな短時間に、ナザリックに居ながらにして、異世界においての要所を見つけ出し、準備を整えてしまわれるとは!

 

 身体中が歓喜で満たされる。至高の御方の叡智に触れることが許されている。至高の御方に支配されることが許されている!

 

 

 わたしたちが一頻り興奮したところを見計らい、最初の質問に戻るわ、と、アルベドは言った。先程よりも厳粛な様相。落ち着いた声で、ちびすけに確認する。

 

 なぜ、死獣天朱雀様への進言を、止めたのか、だったわね? と。

 

 この場所の有用性は痛いほどよくわかった。それでも、尊き御身がそのお膝をつくに値するか、と言われれば。

 

 その疑問を顔に貼り付けたままのわたしたちに、質問は続けてぶつけられる。

 

「あそこにいる蜥蜴人(リザードマン)。一匹たりとも逃がすことなく、捕らえなければならない。そんなとき、アウラ、あなたならどうする?」

「えっ? ……うーん、魔獣を使って、包囲する、かな。足止めのスキルもあることだし!」

 

 至極、真っ当な解答だと言える。わたしであっても似たような答えになるだろう。眷属化、という選択肢は増えるにしろ、なんらかの形で囲まなければ話にならない。

 

 間違いではない、とアルベドは言った。手持ちの能力を使って取る手段としては、間違いではない、と。

 

「でも、完璧と言えるかしら。あなたのレンジャーとしての資質を疑うわけではないけれど、見知らぬ土地で、幾千もの生き物を、果たして一匹も漏らさず捕らえられると断言できる?」

「それは……」

 

 御方より与えられた仕事を、完璧にこなす。その自負がないのは不敬ではあるが、万が一を想定しないのもまた職務怠慢だ。悔しそうに目を逸らしたちびすけを笑えるほど、生け捕りに向いた能力を自分が有しているとはとても言えない。

 

「それを、至高の御方は、最小限の手間をもって行われた。至高の御方への、崇拝という形で」

 

 圧倒的な力を見せておきながら、敵意がないことを示し、更には場の演出を使って精神的な拠り所さえ利用する。

 

 蜥蜴人(リザードマン)は、あれらは、もう逃げない。だって逃げる必要がないのだから。

 

 自分達より圧倒的に強い生き物が、自分達に対して膝をついている。上げて落とす趣味を持つ快楽殺人者でもなければ、まず敵であるなどという思考にすら至らない。

 

 自分達よりも格下である、と増長する可能性もあるにはあったが、そのリスクがあってなお例の行為を為されたということは、蜥蜴人(リザードマン)の性質さえ見抜いておられたということ。

 我らナザリックのシモベのように創造主を最上として考えるわけでなく、人間のように権威を重んじるでもなく、もっと原始的かつ本能的な、強者に従うことを良しとする種族であることを、この短い時間で、御方々は見抜いておられたのだ。

 

 取り逃しがいることを確認する必要さえない。手間を、時間を、人員を、ありとあらゆるリソースを極限まで抑えた上で。

 

 そこまで一息で言い切ったアルベドは、噛み締めるように呟いた。

 

 なによりも、と。

 

「死獣天朱雀様は、私達へのメッセージとして、そのお膝を土につけられたのよ」

「わたしたちへ……?」

「そう。手段を選ぶな、という死獣天朱雀様からのメッセージなの」

 

 ……もはや、絶句するしかない。

 

 なんという自己犠牲の精神であろうか。我々ごときに、そこまでして下さるなんて。

 こちらに来てからというもの、死獣天朱雀様から与えられる慈愛と叡智はとどまるところを知らない。

 

 そして、その上をいく才知でもって至高の御方々をおまとめになられていたというモモンガ様の手腕たるや!!

 

 知らぬ間に、涙が零れていた。これ以上わたしたちを溺れさせて、御方々は一体どうしようというのだろう。

 

 素晴らしい。その言葉さえも安っぽく感じられてしまう。

 そんな方々にお仕えできる喜びを噛み締めながら、わたしは――。

 

 

 

 

 

「シャルティア様?」

 

 名を呼ばれ、はっ、と意識を飛ばしていたことに気がつく。

 目の前にはセバスが立っていた。執事服には泥跳ねのひとつもついてはいない。彼は職務を全うした、と言って良いだろう。

 

「気がすんだかや?」

「そのようですな」

 

 誰が、とは言わない。あの程度の雑魚相手ではこの男の気晴らしにすらならないと理解しているからだ。

 

 そこまで考えて、はて、と何かが引っかかった。気晴らしが必要だ、と、そう思う程度には、セバスの心が沈んでいる、と?

 

「どうも浮かない顔でありんすね」

 

 指摘してやれば、多少運動したことで気が緩んでいるのか、普段の鉄面皮はどこへやら、若干気まずそうに顔をしかめている。

 

「同じナザリックで働く大事な同僚でありんす。話を聞くくらいはやぶさかではありんせんが?」

 

 そう伝えれば、セバスは数呼吸ほど逡巡した後、意を決したように口を開いた。

 

「……前々から気になっていたのですが、アウラ様とは仲がよろしくないのですか?」

 

 思いがけない質問に、ぱちぱちと幾度か瞬きをする。ちら、と、向こうでヒュドラと戯れているちびすけを見た。確かに、顔を見れば一言二言、言い争いにならぬこともない、が。

 

「本気で悪いとは思いんせん。かくあれかし、と命じられたゆえに従っているまででありんす」

 

 なにしろ、ペロロンチーノ様とぶくぶく茶釜様はご姉弟でありんすから。

 

 とっておきの情報を教えてやれば、おお、そうでしたか、と礼まで言われてしまった。

 セバスのこの様子、わたしとちびすけの仲を憂いているというよりは。

 

「……そういえば、ぬしもデミウルゴスと仲が良くありんせんぇ? 命じられたわけでもないというのに」

 

 ぎく、と、一瞬、セバスの体が僅かに強ばる。意外とわかりやすいことだ。

 わざとらしく、くすくすと笑ってやれば、ふー……、と細く細くため息をついて、ぼそぼそと何やらこぼし始めた。

 

「否定はできません。が、無理に改善する予定もありません。職務に支障を来すつもりは、毛頭ありませんので」

「ふうん」

「……ですが」

「ですが?」

 

 髭のせいで判りづらいが、苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろう、若干の悲痛さすら湛えた目を、そっと伏せた。

 

「向こうも同じように思っているものとばかり考えていたのです。つい、最近までは」

 

 きっといま、わたしはきょとんとした顔を晒しているに違いない。その認識は、わたしにも確かにあったものだから。

 

 それを否定するということは、最近何かしら事件でもあったろうか、と記憶の糸をたぐり、ああ、とひとつ得心する。

 そういえば、アンフィテアトルムで、デミウルゴスがセバスに頭を下げていたな、と。端から見れば、利益のためにプライドを捨てた結果なのだろうと予測できるが、当事者からすればまた違って感じるもの、ということか。あのとき、もし立場が逆だったらどうなっていただろうかと、少し考えればわかりそうなものだが。

 

 まあ、わりかし本気で思い悩んでいる執事長に、そんな意地悪を叩きつけてやるほど機嫌が悪いわけでなし。解決策のひとつでも与えてやろうかという程度には、気分が良かった。

 

「聞いてみれば良いんじゃありんせんか?」

「ご本人にですか?」

 

 自分だけが、と気にしておきながら、嫌なものは嫌らしい。微妙な顔で聞き返してきたセバスに、違いんす、と否定の言葉を送る。

 直接聞いたからって、あの悪魔が素直に答えるわけもなし。良くて躱されるか、悪ければ私では考え付かないような罵詈雑言が投げ掛けられる可能性も否定できない。ゆえに、ここは。

 

「ペロロンチーノ様が仰っていたでありんす。“ふらぐが立たぬまま目標に突撃しても玉砕するだけ。真の漢足るもの、将を射んとすればまず周りを固めよ”と!」

「ふらぐ……? 旗、でございますか?」

「わらわは、きっかけ、という意味でとらえていんす。わざわざ本人のとっかかりを探さなくても、別の方向からアプローチしたって良いんではありんせんかぇ?」

「別の方向……とは」

「確かコキュートスあたりが、デミウルゴスと仲良くしていたはずでありんす」

「コキュートス様、ですか」

 

 セバスの顔が少し曇る。

 別段、セバスとコキュートスの仲が悪いというような話は聞いたことがなかったので、大方、無関係の者を巻き込むことについて何やら思うところがあるのだろう。あるいは、そこまでしてデミウルゴスとの関係を整理する必要があるのか、と考えているのやも知れない。

 

「デミウルゴスと歩み寄るか離れるかは、行動してみてから考えても良いんではありんせんかぇ? コキュートスなら、快く話し相手になってくれると思いんす」

「……そう、でしょうか」

「御方々も、今までになかった親交を深めることには、きっと賛成してくださることと存じんすぇ」

 

 きっと嘘は言っていない。かくあれかしと命じられたのでないならば、仲が悪いよりは良い方が望ましいと思う。至高の御方をだしに使ったことへの罪悪感がないわけではなかったが。

 

 セバスはしばしの間、何事か考えていたが、やがて自分の中で折り合いがついたのか、少々吹っ切れた様子でこちらに頭を下げた。

 

「ありがとうございます、シャルティア様。もし時間が空いたならば是非実行してみようと思います」

「どういたしまして」

 

 意気込みはよろしいことだが、同じ至高の御方に創造された身、いつまでも様付けでは親交を深めるのに差し支えが出るだろう。

 

 わたしってばなんて気の利いた女なんでしょう、と自画自賛しながら、敬称についてもの申すべく、口を開いた。

 

 

 

 

 

 






アルベドちゃんの台詞を考えてると、「キャー! 至高の御方ステキー!」と何故かこっちもテンションが上がってくるのが楽しいですね。

そして無理矢理にでもフラグを立てないと1章の間にコキュートスの出番がないじゃんと気づいたので捩じ込みました。馬車イベント大好きです。一触即発に見えて全然そうじゃないところが良い。

長くなったので分けます。
次回明日か明後日。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沙羅双樹を摘んだ日・伍

――円卓でモモンガが「もぅむり、しんどぃ……」と崩れ落ち、死獣天朱雀がそれをよしよしなだめている頃。

 

 

 

 もふもふもふ、と、フェンの首もとに顔を埋める。くぅん、と心配そうな鳴き声。クアドラシルが鼻先をお腹に押しつけてくる。そっと撫でてやれば、嬉しそうにぐりぐりと両目を回していた。

 

 魔獣がしてほしいことだったら、手に取るようにわかる。初めて見る獣でも、どこに触ってほしいとか、走りまわりたいとか、戦いたいとか、何か食べたいとか。優れたビーストテイマーとして生み出された存在なのだから、それが当たり前。

 当たり前、なのに。

 

「んぅー……」

 

 自分の喉から勝手にうめき声が漏れる。随分と疲れた声をしているな、と、どこか冷静な自分がそう思った。

 実際疲れているのだ。肉体的な疲労じゃなくて、精神的な疲労。そりゃあ、ちょっとやそっとのことじゃへこたれないようには創っていただいているけど、なんていうか、もやもやする。

 

 ちら、と少しだけ顔を上げた。巨大樹が見える。至高の御方に造っていただいた居住スペースが入っている、立派な巨木だ。今は、部屋でマーレが寝ている。

 少しでも早く魔力を回復させたいのだと言いつつ、戻ってくるなり弟は部屋に引きこもってしまった。いつものように、わざわざ思いっきり寒くした部屋で布団にくるまっているんだろう。……モモンガ様にいただいたリングを、薬指に嵌めたまま。

 

 嫉妬とか、そういうことじゃない。いや、ちょっとぐらいはしないこともないけど、モモンガ様がマーレのためを思ってして下さったことに、異論を挟む気はこれっぽっちもないのだ。

 

 いや、でも、どうだろう。もしかすると、もしかするとモモンガ様は、女心というものを、あまりお分かりになられていないんじゃないだろうか。

 ううん、そんなことない。アルベドに言われたばっかりじゃないか。至高の御方が為される行動の意味を良く考えろって。きっと、何かしら意味があるに違いない。

 

 けど、考えても考えても、ちっともわからない。ふつう、指輪を誰かにあげるっていったら、妻にあげるのが先じゃないの? と。

 至高の御方を私が思う「普通」というカテゴリに納めることがどれだけ不敬なことかはわかっているつもりだけど、だって、アルベド、見たこともないような顔してたのに。

 

 

 蜥蜴人(リザードマン)の集落を離れて、戻ってきた私達を出迎えたのはマーレだった。ちょうど、ナザリックの隠蔽作業に一区切りついたところだと、嬉しそうに走り寄ってきたのだ。

 敷地内に入ったから、シャルティアとアルベドは武装を解くことが許されていたんだけど。マーレの左手の薬指にリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを見つけたときのアルベドの表情は、それはもう筆舌に尽くしがたいものだった。

 

 素顔を晒しているのにも拘らず、アルベドの顔といったらまるで能面みたいに固まっていて、このままじゃそのうち般若に変身しちゃうんじゃないかって、ひやひやしながら見守ってたんだけど。

 

 まあ、モモンガ様のことだから、アルベドがどんな反応をするのか、わかっておられたんだろうとは思う。実際、心配したほどの騒動にはならなかったわけだし。

 

 

 そう、あの場を収めたのも、死獣天朱雀様だった。

 

 死獣天朱雀様は、ふいにアルベドへと近寄られたかと思うと、一言か二言、ぼそぼそと耳打ちなさって。

 その途端、アルベドの顔には生気がみなぎり、背筋が伸びて、翼がばさっ! と広がった。そして、くる、とモモンガ様に向き直り。

 

 差し出がましいことではありますが、モモンガ様にお願いがございます。守護者統括として、より完璧な仕事をこなせるよう、かの偉大なる指輪を私めにお与えいただけないでしょうか、と、いつもの綺麗な声でそう言った。

 

 ちゃっかりしてるな、とは思ったけど、アルベドの仕事を考えたら、別におかしな言い分じゃない。モモンガ様もそうお考えになったみたいで、快くアルベドに指輪を授けておられた。

 アルベドはリングをもらってすぐ、いそいそとそれを薬指に嵌めた。……()()の薬指に。

 

 それまでの不穏な空気はどこへやら、アルベドはにこにこしながらこれからの予定をモモンガ様に尋ねていた。

 ものすごい変わりようだったのだ。思わずシャルティアと顔を見合わせてしまったくらい。ビーストテイマーじゃなくて、サモナーでいらっしゃると思ってたんだけどな。

 

 

 それから、外に出ていた私達に、少し部屋で休むようモモンガ様がご命令なさって、今に至る。

 

 全然疲れてないのでまだ働けます! そう進言したけど、もう夜も遅いから、とやんわり断られてしまった。

 ご命令なら仕方ない、けど、もっともっとお役に立ちたかった。

 

 守護者の本分は文字通りナザリックを防衛すること。だから、ここに詰めていること自体は不満に思うことはない。当然のことだ。侵入者が来なくて暇なのは仕方ない。来ても来なくても悪いのは侵入者だけ。いつかここまで来たときに、存分にこの義憤をぶつけてやれば良いだけの話だ。

 

 でも、至高の御方々は、もう外で活動を始めておられて、それは私達がたくさんたくさん考えなければ追いつかないようなところまで見通されている計画のうちで、それを。

 私達に何か命じなくても、御二方だけで、済ませてしまわれるのだ。

 

 聞けば、夜の内から既に索敵を始めておられたのだという。シモベの誰にもお命じにならないまま。

 イビルツリーのことも、蜥蜴人(リザードマン)のときも、全部、ぜんぶ至高の御方だけで解決してしまわれる。

 

 文句があるわけじゃない。至高の御方が素晴らしいのは当たり前のことで、誇るべきことだ。

 でも、だけど。

 

 ひとこと、たったひとこと仰っていただければ、なんだってやってみせるのに。もう少しくらい、任せていただいても、いいんじゃないかな、なんて。

 

 ぐるぐる、もやもやと、身の内に澱みが渦巻く。口から嫌な言葉が飛び出してしまいそうになる。

 

 なぜ、イビルツリーの誘導をお任せいただけなかったのだろう。なぜ、このあたりの索敵をお任せいただけなかったのだろう。

 そりゃあ、至高の御方がなさる方が、効率も結果も良いものになるんだろうけど、ナザリックのシモベの中では、私が一番索敵や誘導に優れていると言っても良いはずだ。

 でも、なぜ。

 

 なぜ、頼っていただけないんだろう。

 なぜ、命じていただけないんだろう。

 

 信用を、失っている。

 アンフィテアトルムで聞いた言葉がぐるぐると頭をまわる。

 

 だから任せていただけないのか。

 だからご自身の手でみんな済ませてしまわれるのか。

 

 至高の御方のお役に立てないなんて、そんなものに存在価値なんてないのに。

 存在している、意味がないのに……!

 

 

 

「……よし!」

 

 

 

 ぱっ、と顔を上げて、フェンの背中に飛び乗る。フェンはいきなりのことでちょっとびっくりしたみたいだったけど、すぐに私の意図を汲んでくれて、軽やかに走り出した。

 

 自分の心をわかってくれるのは、嬉しい。当たり前のことだ。私も、御方にとって、そうでありたいと思う。守り支えることが我ら守護者の役目。たとえ力が及ばなくても、より良くあるために考えることをやめて良い理由にはならない。

 

 そして、昔、お茶会のとき、やまいこ様が仰っていた。考えても考えてもわからないときは、余計なことが思考を邪魔しているのだそうだ。

 

 

 『夜中にろくでもないことを考えるのは運動不足!!』

 

 

 まさに至言だ。このところ侵入者が来ていなかったからろくに汗をかいていない。今日だって、周囲の警戒を任されていただけだったから、一緒に来ていた皆ほど運動できてないし。

 

 大丈夫だ。御方々はシモベにできることをちゃんと理解なさっていて、任せて良いところはちゃんとこっちに任せて下さっている。

 頭のてっぺんがぽわぽわと熱い。モモンガ様の掌の感触を思い出した。固い、骨の指が、私の頭を優しく撫でて下さった、温度のないあたたかな感触を。あの薬草は、御方様のお役に立つだろうか。

 

「フェン、もっと! もっと速く!」

 

 風を切って走る。第六階層は広いから、フェンが全力で走ったって、どうということはない。ついでに何周か見回って、異常がないことを確認しておこう。

 与えられた領域を守護することこそ、守護者の役目なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――モモンガが玉座の間でマスターソースを確認し、死獣天朱雀が自室に溢れかえる酒瓶を見て茫然としている頃。

 

 

 

「くふ、くふふ、くふふふふ……!」

 

 喉の奥から、自然と愉悦がこみ上げてくる。身の内に猛るのは、歓喜であり、恍惚であり、抑えきれない無上の幸福であった。

 誰がこの状況を喜ばずにいられようか。伴侶として権利を与えられたのだ。モモンガ様の私室を使う、正当な権利を与えられたのだ!

 

 今日この日ほど、タブラ・スマラグディナ様に感謝したことはない。何らかの意図があってのことかは不明だが、他の守護者達とは違って、私には自室というものが用意されていなかった。守護者統括として特に疑問を感じることなくその事実を受け入れていたのだが、モモンガ様にとってはそれは非常に耐え難いことであられたようだ。

 

 私室で休むように。そう命じられたはずの私が玉座の間で業務を続行していると知ったとき、モモンガ様は激怒なされた。恐れ多くも命令を無視する形になってしまった私にではなく、そもそも「守護者統括の自室」がないことを失念していたご自身に対して。

 なんと慈悲深く、ご自身に厳しいお方なのだろう。感動に打ち震える私に、モモンガ様はお尋ねになった。

 

 すぐに部屋を用意する。どこか希望する部屋はないか、と。

 

 ああ、私の旦那様は少々意地悪であらせられる。そんなもの、ひとつしかないではないか。伴侶として、モモンガ様とひとつ屋根の下で暮らす以外に、どんな希望があると言うのだろうか!

 

 問われた私は必死に捲くし立てた。自らが如何に防御に長けているか、お傍に仕えることでどれだけナザリックの運営が円滑に進むか、そして何より、伴侶としての義務を果たすために同じ部屋で寝ることがどれほど重要なことなのか!

 至高の御方に対してなんとおこがましい、と守護者統括としての私が自分を責める。だがそれも、夫婦としてのメリットを考えれば些細なこと。モモンガ様の後継を得るという最重要任務に比べれば黙殺することになんの問題があろうか。

 

 全力を以って行われた説得の甲斐あって、ああ、だの、うう、だのと唸りながらも、最終的にモモンガ様はその御首を縦に振って下さった。

 けれど、かのお方は意外と照れ屋であらせられるのだろうか。予備の部屋も与えるので、出来得る限りそちらを使うように、とも仰せになった。何故ですか、と、しかめ面を作る私の肩にそっと手を触れて、愛しき支配者は、悪戯を告白するような密やかな声を、私の耳に吹き込まれた。

 

 世の中には、悪い秘密ばかりがあるわけではないだろう、と。

 

 卑怯な方。そんなことを言われてしまっては、一歩引き下がる他ないだろうに。あの方は本当に、どれだけ私を狂わせれば気が済むのだろう。

 

 

 そんなことだから勘違いしてしまうのだ、と、自身の行いを反省する。あのとき、死獣天朱雀様の一言がなければ、あらぬ怒りをマーレにぶつけてしまうところであった。信賞必罰。優れた働きには褒美が必要であることは自明の理だというのに。それを理解できぬようでは、妻としても、守護者統括としても満足な働きはできないだろう。至高の御方の意図を汲むように、とアウラとシャルティアに言いつけたそばからこの様では。

 

「はあ……」

 

 深いため息をつく。喜びからくる充足が半分。もう半分は自身の不甲斐なさへの落胆に。

 現在地はモモンガ様の自室、かのお方の執務室だ。出来得る限り、ということは、我慢できなくなったら来ても構わない、ということ。解釈上なんの問題も無い。

 

 目の前には、大きな旗がある。執務机の後ろにかかったアインズ・ウール・ゴウンの旗。指先で刺繍をなぞる。手袋越しでもわかる、滑らかな絹の感触。

 

 偉大なるギルドの象徴。最後まで残って下さったあの方が、愛してやまないもの。

 

 

――伴侶が愛するものを、同じように愛するのは、当然のことですから。

 

 

 脳内で、あの雌蜥蜴の声が反響する。

 別に、真に受けたわけではない。ただ、一考の余地はある。そう思ったのだ。

 

 とある至高の御方より拝聴したことがある。古より伝わる“こぴぺ”なるものに、夫のものを大事にしなかった妻の末路が書かれている、と。夫のものを勝手に捨ててしまった結果、脱け殻のようになってしまったその人をただただ見ていることしかできない愚かな妻の話。結末は書かれていないが、そのような女の最期など、想像するに余りあるものだ。

 

 ぞわ、と背筋に冷たいものが走る。考えただけでも恐ろしい。もし、モモンガ様がそのようなことになってしまわれたら。何もかもを払い落として、ただそこに在るだけの抜け殻になってしまわれたら。

 

 そのようなことは、なんとしても避けなければならない。私は、心から理解しなければならないのだ。あの方が、何を愛し、何を必要としておられるのか。

 

 

 では、モモンガ様が愛するものとは一体なんなのだろうか。歩みを進めながら考える。寝室の扉に手を掛け、開いた。至高の御方の寝所として相応しい、けれど一人で眠るには少々広すぎるであろうベッドが目に入る。ああ、いつか、ここで……、と脱線しかかった思考を元に戻して、ベッドの上にそっと腰掛けた。

 

 モモンガ様が愛するもの。その内のひとつに、アインズ・ウール・ゴウンそのものが入ることはまず間違いない。ナザリック地下大墳墓を、他の40人の至高の御方を、御方々に形作られた我々をも愛してくださっている。

 それを、同じように愛し守ることについての異存は全く無い。元々守護者統括としてそのように作られているのだ。ナザリックの守護に、繁栄に、心血を注ぐ覚悟などとっくに済ませている。

 

 アイテムボックスから、大きな布と、裁縫道具を取り出した。休め、ということは、好きなことをしても良い、ということ。これも解釈上問題ない。モモンガ様のエンブレムを与えられた自室に飾るために、迅速かつ丁寧に刺繍を施してゆく。

 考えに耽る間の手慰みとしても丁度良かった。

 

 そう、もうひとつ。

 ナザリックの守護という大命を、実際に遂行するにあたって。

 考えなければならないことが、もうひとつあった。

 

 

 死獣天朱雀様のことだ。

 

 

 こちらの世界に転移してきてからナザリックで起こったことについては、すべての情報が私の元に届いている。ナーベラル・ガンマから伝え聞いた話によれば、死獣天朱雀様は昨晩、ナザリックの地表部分から一歩も動かないまま索敵を続けておられたという。八咫烏と霧吹き老女(ミストレア)の他に召喚されたものはない、とも。

 

 しかし、あの白い雌蜥蜴の話を信じるならば、「水の塊が集落に突っ込んできた」のは「深夜」である。その時間帯に、死獣天朱雀様が直接召喚したモンスターなどいないはず。雌蜥蜴が嘘をついているという可能性もゼロではないが、まずメリットが考えられない。あの場において死獣天朱雀様は繋がりを否定したが、それはイビルツリーと我々は“あくまで無関係”ということを示すためだろう。

 

 で、あるならば。

 昨晩蜥蜴人(リザードマン)の集落に降ってきたのは、攻性防壁によって召喚されたモンスターということだ。

 

 私の創造主、タブラ・スマラグディナ様と死獣天朱雀様は友好的な関係を結んでおられたが故に、死獣天朱雀様の攻性防壁についても、いくつか記憶していることがある。

 死獣天朱雀様の攻性防壁によって召喚されるモンスターは大まかに分けて2種類。<次元の目(プレイナー・アイ)>などの監視に対して制裁を行うものと、<看破(シースルー)>によってこちらの特性を見抜こうとする敵を返り討ちにするもの、そのふたつだ。外見から言って、今回イビルツリーを誘導したのは後者だろう。前者が召喚されていたなら、周辺一帯が見る影もなくなっていたことは想像に難くない。

 

 だが、もし、そうなら。

 死獣天朱雀様は、<看破(シースルー)>系統の魔法が使える者を、昨晩のうちに、既に発見しておられた?

 そうして攻性防壁を発動させ、ヘイトを引きつける効果を持った召喚獣を呼び出し、最終的にイビルツリーを所定の場に移動させた、と?

 

 それはあまりにも。あまりにも手際が良すぎはしないだろうか。

 見も知らぬ土地に転移してきてから数時間で、そんなに都合よく看破系統の魔法を使う者が見つかるだろうか。

 

 まさか、とは、思うが。

 

 

 死獣天朱雀様は、最初からこの土地のことを知っておられたのではないか?

 

 

 だから真っ先に外に出て、我々に知られないように索敵を買って出られたのではないのか。

 もしや、ナザリックの転移でさえも、死獣天朱雀様の手によるものなのではないか。

 もし、もしそうならば、私は――!

 

 

 

 ……そこまで考えて、ふ、と一息ついた。

 我ながら、下らない妄想が過ぎる。モモンガ様と合同で立案なされた作戦だということも十分に有り得ることだというのに。

 迂遠に過ぎると思われそうな作戦だが、万が一にも痕跡を残したくないというお心が私には感じられる。至高の御方に相応しい配慮であらせられるというものだ。

 

 されど、と思う。針を刺す。糸を引く。また針を刺す。繰り返し繰り返し、糸を縫いつけながら、死獣天朱雀様の瞳を思い出した。

 

 あの方はどこか、我々と違うところを見ているような気がする。

 確信には程遠い。勘とすら言えないような、薄ら寒い気配。遠く、雨が降る空気を感じた獣は、こんな気持ちになるのかもしれない。

 

 万が一。万が一、死獣天朱雀様が敵になるとしたら。

 あの方の知略に、私は追いつけるのだろうか。

 

 

 

 

 

 




ようやく転移してから24時間が経過。

次回からお食事回へ
多分まだ食べられない


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飲食(おんじき)はあたたかいうちに・前編

転移二日目の夜のはなし。
食事回までいきませんでした……。メイドちゃんたちがかわいいのが悪い。

大変お待たせいたしまして申し訳ありません。明けましておめでとうございます。
今月中にはカルネ村に行く予定なので、本年もどうか気長にお付き合いいただければ幸いです。

明日の夜にはオーバーロード2期とかうせやろ……?



 

 

 その部屋に入るなり目にしたのは、ぱたぱたと忙しなく動き回るメイドたちだった。丁寧に刺繍が施された、毛足の短い絨毯の上、細くしなやかな足が右へ左へ。それでも彼女たちは足音ひとつ立てることなく作業をこなしてゆく。

 

 ある者は無限の背負い袋(インフィニティ・ハヴァサック)を抱え、ある者は両手に瓶を提げ、またある者は野菜や穀物を選別していた。ちょっとした市場っぽい光景だったが、それでも優雅な所作を保っている辺りは流石だと、胸の中でこっそり感心する。

 

「……なんだかすごいことになっているな、朱雀さん」

 

 いそがしく働く彼女たちの中心、何かのリストだろうか、紙束片手に指示を出している朱雀さんに声をかけた。手元からそっと外された視線、目の光がゆるやかに歪む。微笑んでいるのだろう。そろそろ細かい表情がわかるようになってきた。

 

「ああ、こんばんはモモンガさん」

 

 朗らかな挨拶。時刻はもう夜、蜥蜴人(リザードマン)の集落からナザリックに帰還して、丸一日近い時間が経っていた。

 じゃあ後よろしく、と傍に控えていたユリ・アルファにリストを手渡して、周囲に比べれば幾分か片付いた様子のテーブルへと、俺を手招きしながら移動する。……ここに来たときから思ってたけど、やっぱりこの人、他人を使うのに慣れてるよなあ……。使われる側が優秀だっていうこともあるんだろうけど。

 

「やー、ごめんね散らかってて」

「いや、それは構わないが……、どうしたんだ一体、この有り様は」

 

 視線をどこに移しても、無限の背負い袋(インフィニティ・ハヴァサック)無限の木箱(インフィニティ・ウッドチェスト)が視界に飛び込んでくる。どうやらそれぞれ中身が目一杯詰まっているらしい。整理整頓に使うための道具が部屋に溢れかえっているのはちょっと本末転倒な気がした。源次郎さんの自宅もこんなんだったのかなあ。しばらく会っていない仲間の部屋に馳せた想いをそっとしまい込んだ。

 

 さて、死獣天朱雀さんという人は、このように大規模な片付けに着手しなければならないほど、普段の整理整頓ができない人だったか。とつとつと記憶の糸を辿っていると、当の本人は肩をひとつ竦めて、こぽ、とため息をついた。

 

「部屋に入ったら、棚に飾ってた分が全部床に転げ落ちててさ」

「ああ、なるほど。スタック分があふれてきたのか」

「そ。割れてなかっただけまだ良かったよ。ほとんど瓶なんだよね、これ」

 

 世の中にある多くのゲームと同様、ユグドラシルでは、特に手を加えていない家具であっても、棚や引き出しなどの収納スペースであれば1スロットにアイテムを重ねて置くことができる。アイテムの重要度やデータ量によっては不可能なものもあるが、大抵のものは16個だとか32個だとか64個だとか、まあそれなりの数をスタックすることができたわけだが、転移してきたこの世界ではそうはいかないようだった。魔法的な力もなく質量保存の法則に喧嘩を売ることはできない、ということらしい。そりゃそうだ。現実世界で品物がさくさく重なっていったらとてもこわい。

 

 俺の部屋の家具はぜんぶ改造済みだったから無事だったけれど、もしかしたら他のギルドメンバーの部屋も同じようなことになってるかもしれない。データクリスタルで容量を増やした家具は大丈夫みたいだから、デフォルトの家具に収集品を手当たり次第ぶちこむような真似をしていなければ大丈夫だと思うんだけど。

 

 ……候補となる人物が多すぎるな。NPCがいる場所に被害がなくて本当に良かった。後で確認させなきゃ。

 

「こんなことならもっとちゃんとした棚に収納しとくんだった。横着はするもんじゃないねぇ」

 

 自嘲気味に溢す朱雀さんだったが、個人的にはそう気にすることじゃないと思う。「突然異世界に転移するかもしれないから、ちゃんと魔法的な家具を用意しておこう」なんて考えるのはとんでもない馬鹿か事件の黒幕ぐらいだ。

 

「この際仕方あるまい。予想だにしなかった事態だからな」

「そう言ってもらえると救われるよ。メイドさん3人とプレアデス2人に手伝ってもらって一晩かかっちゃった」

 

 その場には確かにメイドが5人。

 えーっと? ユリとルプスレギナ、フォアイルと、シクススと、デクリメントか。よし、覚えてる覚えてる。今朝念のためこっそり復習した甲斐があった。上司に名前を覚えられてないとか、悲しいどころの話じゃないからなあ……。

 

 しかしながら、6人がかりで一晩中、か。なんなら作業はまだ終わってないように思われる。あんまり良くないタイミングで訪ねてしまったかな。申し訳ない。

 

「ふむ、忙しいときに邪魔してしまったようだ。出直そうか?」

「や、大丈夫。もうすぐ終わるとこだったし」

 

 朱雀さんはよっこいしょ、と、長椅子に腰掛けて、なんでもないことのようにひらひらと手を振る。

 

 嘘だあ。一瞬、思いっきり声に出しそうになって、口を塞いだ。あぶないあぶない。

 

 しかしなるほど、ぱっと見た限り部屋はかなり散らかっているように感じられるが、よく観察すれば、雑多なりに整頓はされているようだった。新しく収納スペースを確保してから片付けるつもりなのが見てとれる。

 

「むしろ、良いときに来てくれて助かったよ。ちょうどモモンガさんとこ行こうと思ってたんだよね」

 

 朱雀さんのインベントリから取り出される陶器の大皿と、いつの間にやら端から端まで書き込まれた地図。余ったスペースに挟み込まれるように召喚されたモンスターは攻性防壁対策のそれで、これから何が始まるのか、その準備だけで察することができた。

 

「何かあったのか?」

「あったあった。とりあえず座ってよ」

 

 促されるまま、テーブルを挟んで向かい側の席につく。絶賛作業中のメイドたちを、部屋に残したまま。

 

 ……ちょっと、あの、これ、このまま始めるんですか。何か適当な理由をつけて人払いをした方が良いんじゃないのかな。してほしいんですけど。

 

 対NPCなら、全力で気を張りながらもなんとか支配者らしい態度を取れているような気がしなくもないのだが、どうも朱雀さんと一対一で会話しているとメッキが剥がれてしまいがちだ。

 NPC達はゲーム時代のことを覚えているというから、そこまで気にする必要はないのかも知れないが、今はまだ、幻滅されるのがすごく怖い。

 

 内心だらだらと冷や汗を流しつつ、正面の朱雀さんに全力でアイコンタクトを送る。俺の視線に気が付いた朱雀さんは、こくりとひとつ頷くと、ユリを呼びつけた。

 

 ああ、持つべきものは気心知れた仲間だなあ、と心から感動する。言葉がなくても意図はちゃんと――。

 

 

「ごめん、お茶ふたつ淹れてくれる?」

 

 

――伝わってなかった!!!!

 

 畏まりました、と備え付けのキッチンへと去ってしまうユリ。当然続行されるメイドたちの作業。かぱっと開いた口が塞がらない俺。ふんふんと調子外れの鼻歌をうたいながら大皿へと水を注ぎ始める朱雀さん。

 

 <伝言(メッセージ)>使えばいいだろ、と冷静な自分からの突っ込みが入るが、流石にこれはあんまりではないだろうか。

 

 いや、お茶が飲みたかったのなら飲んでくれるのは全然構わない。むしろどうぞと言いたいところなのだが、今の流れでそれはないだろう。そもそも俺、飲食できないって言ったよね。え? 言ったよね?

 

 自分の記憶があやふやになってきたので、とりあえずそこだけ確認しておこうと、開きっぱなしの口から辛うじて声を絞り出した。 

 

「す、朱雀さん? 私は……」

「以心伝心は存在しない」

 

 思わず体が硬直する。一瞬、心を読まれたのかと思った。低い声で紡がれた言葉とは、裏腹に。

 浅い器に、ひたひたと水が満たされてゆく。表情からその内心は読み取れない。意図的に隠しているのか、あるいは。

 

「ぼくが常々そう思ってるだけのことなんだけどね。結局、読心というものは、言語的コミュニケーションが積み重なった結果でしかない」

 

 朱雀さんが何を伝えたいのか量りかねているうちに、水差しから注がれていた水が、ぴたりと止まった。最後のひとつぶ、しずくが水面に波紋をえがく。

 

「伝えたいと想うことは、なんとかして言葉にしなければ絶対に伝わらないってことだね」

「朱雀さ……」

「それはそうとして」

 

 声のトーンが少し変わる。ことん、と小さな音を立てて、水差しがテーブルに置かれた。

 

「さっきも言ったけど、作業自体はあと少しで終わるから、もうちょっとだけ待っててもらえるかな」

 

 下から覗きこむような視線が灯す、悪戯っぽい光。くすくすと笑みさえ含ませながら告げられた言葉は、俺の意図を確かに汲んだもので。

 

 つまるところ。

 

「やっぱりわかってたんじゃないか!」

「あっはっはっはっは!」

 

 やーい横着者ー! と、けらけら笑う、アインズ・ウール・ゴウンの最年長者。最年長、者? 最年長者の笑い方か、これが。

 まあいい。要するにからかわれたのだ。ひどい。なんだか段々いじわるになってきてないかこの人!

 

 あまりにも屈託なく笑い続けるものだから、メイドたちが不審に思うんじゃないかとはらはらしたが、その笑い方はるし★ふぁーさんやタブラさんの発言がツボに入ったときなんかに聞いたことのある笑い方で、懐かしくてとても遮ることなんてできなかった。さてはこれも計算のうちか。ぐぬぬ。

 

 ……いや。きっと朱雀さんは俺に伝えたかったんだろう。報告・連絡・相談は社会人の基本だって。言葉で伝える努力を怠ってはならないって。

 こっちに来てからずっと俺のロールプレイに付き合ってもらっているけど、本当はもう少し砕けた態度で部下達に接したいと思っているのかも。

 

 見れば、メイドたちは実に涼やかなものだ。手を止めることすらしていない。怯えさせるかと思ったけど、どうやら杞憂だったようだ。驚くほどのことでもなかったか、あまり驚いたら失礼だと思ったのか。なんにせよ、この状態が過剰に反応するほどのものではないと認識しているらしかった。

 

 以心伝心は存在しない。

 それはその通りなんだろうけど、相手のことを慮ることは誰にだってできるはずだ。

 けど、俺ときたら、自分のことに手一杯で。

 

 ギルド長、なのになあ。

 

「……私は、甘えすぎているんだろうな」

 

 ぽつりと溢した声は、想像していたよりもずっと弱々しいもので。

 傍から見ていれば随分と思考が飛躍したように見えたのか、ぴたりと笑い声を収めた朱雀さんは狼狽えぎみに問うてくる。

 

「ど、どうしたの、いきなり」

「これでも反省しているのだ。私の臆病につき合わせてしまっているんだろうと」

「ああ、ごめんごめん。そういうことじゃなくてさ」

 

 朱雀さんは背凭れに体重を預けて、んー、と頭を捻りながら襟の後ろを擦る。

 

「昨夜からちょっと色々考えてたんだけど、物理的な距離が近くなると、どうしても溜め込んだものを処理しにくくなるから」

 

 なんとなく、わかるような気はする。むかし、ルームメイトがいるギルドメンバーが言っていた。一緒に暮らすようになって、悪いところが見えてきて、喧嘩が増えたって。 

 

 俺は身近にそういう人がいなかったから、実感はそこまでわかないけれど、ギルドのみんなが、ナザリックで見せていた顔だけが、彼らのすべてではないことくらいは、わかっているつもりだった。

 

 そして、このひとも、また。

 

「だから、思ったことは小出しにする癖をつけとかないと、後々しんどいだろうなあ、と」

「……気を使わせてすまないな」

「こんなもん使ってるうちに入んないよ。ぼくがボンクラ相手にどんだけ奮闘してきたと思ってるの」

「ふ、はは」

 

 散々な言いように思わず笑ってしまった。

 

「珍しいな。朱雀さんから、そういう愚痴を聞くのは」

「もう守秘義務も何もあったもんじゃないし。もう学生が年々幼くなるんだもの。やってられないよね」

 

 多分1000年以上前から言われてることだと思うけど、と、小さく肩を竦めて、朱雀さんは優しい声で続きを語る。

 

「ていうかさ、少々甘えてくれないと困るよ。モモンガさん、ぼくの半分くらいでしょ、歳」

「そう、だったか? そうか、そうだな、うん」

 

 しばしの沈黙。

 のち、ふふ、と、どちらともなく笑いがこみ上げる。

 

 うん、そうだ。もう少し、頑張ってみよう。

 態度ひとつで幻滅されるような人間じゃなくなれば良いんだ。

 

 できるかどうかは、まだ、わからないけど。

 

 

 

「失礼致します」

 

 会話が途切れたと同時、ユリがトレイにお茶を乗せて戻ってきた。さりげなくタイミングを計ってくれていたのだろう。そっとテーブルに置かれたカップから、ふわりと豊かな香りがたちのぼる。

 

「……ああ。良い香りだな」

 

 甘やかな、けれどしつこくない、なんていうか、優しい匂いがする。お茶なんて取引先で出されたものしか飲んだことないし、美味しいと思ったこともないけどこの香りは結構好きだ。

 ユリが選んでくれたのだろうか。彼女もアンデッドだから、同じテーブルに着く者が等しく楽しめる方法を考えてくれたのかもしれない。

 

「ありがとう、ユリ」

 

 少々気が解れたのか、存外、するりと礼を言うことができたが、当の本人はわたわたと慌てだしてしまった。

 

「も、勿体のうございます、御礼など! ボ……、私は……!」

「ユーリ」

 

 間延びした朱雀さんの声にユリは、はっ、と息を飲むと、そのまましおしおと身体を縮めて、申し訳ありません、と控えめな態度で謝罪をする。

 

「? どうしたんだ、一体」

「“死獣天朱雀とのお約束事項”第2項」

「おやくそくじこう」

「“至高の御方にお礼を言われても、辞退せず素直に受け取ること”」

 

 言いながら、朱雀さんはカップを手に取り、お茶を一口含んだ。透明な頭に、オレンジ色の液体が滲む。

 

「なるほど、それは必要だな」

「でしょ?」

 

 しょんぼりしてるユリには悪いけど、お礼を言う度にこの対応じゃこっちの立つ瀬がない。結局命令で押さえつけてることには変わりないかも知れないけど、じわじわと意識を浸透させていく手段としては、悪いものじゃないと思う。

 こちらとしてはもうちょっと気軽に接したいのだ。向こうからあんまり壁を作られても困る。

 

「ユリ」

「はっ、はい!」

「我々は心底感謝しているのだ。お前達がいて、本当に助かっている。どうか、素直に受け取ってくれるよう、皆にも伝えてはもらえないだろうか」

 

 できる限りまっすぐに視線を合わせながら、ユリにそう伝える。彼女は幾度か迷うように口を開閉させた後、きゅ、と引き結び、畏まりました、とお辞儀と共に恭しく返答をくれた。

 

 そんなやり取りがあってすぐ、ルプスレギナと、一般メイドの3人が、失礼致します、と声を掛けてくる。

 

「いただいた業務、すべて滞りなく終了いたしましたので、ここに報告申し上げます」

「ああ、ありがとう。長い時間拘束してごめんね」

 

 なんかあげられるものないかな、と、朱雀さんがアイテムボックスをあさり始めると、途端にメイドたちは青ざめた。

 

「そんな! お止めください、死獣天朱雀様!」

「至高の御方より直接お仕事を頂戴しておきながら、これ以上のものをいただくなど!」

「やー、でも、ねえ」

 

 朱雀さんは困ったようにこちらを見る。仕事に対して報酬を、という考えには完全に同意するところだ。ましてや時間外労働に対してはなおさらのこと。

 

「受け取っておいてくれるか。忠勤には報酬で答えるのが礼儀というものだろう」

「で、でも……」

 

 尚も躊躇するメイドたちに、こっそり耳打ちする赤毛の娘がひとり。

 

「戴けるっていうならもらっておくッス! あんまり遠慮するのも失礼にあたるッスよ?」

「……ルプー」

 

 態度を戒めるユリの冷めた声に、ぴゃっと竦みあがるルプスレギナ。それを見て困ったように微笑むあたり、彼女なりに柔軟に対応しようとしているのが見てとれる。

 

「ユリ、構わん。そう堅苦しい場でもないのでな」

「寛大なお言葉、ありがとうございます。モモンガ様」

 

 そこまでのやり取りでようやく一般メイドたちは、はにかみながらも報酬を受け取ってくれる気になったようだった。そわそわと待つ姿がとても可愛らしい。彼女らを作った3人にも見せてあげたかったな。

 

「……、ごめん、今渡せるのこれぐらいしかないや」

 

 ごそごそと取り出されたのは、クッキー缶が3つ。それも贈答用のでっかいやつ。あー、なんだっけこれ。8年か9年くらい前のハロウィンイベントで配ってたような記憶がある。賞味期限とか、は……、大丈夫かな。イベントアイテムだし。

 

 冗談みたいな大きさのそれを、一般メイド達に直接手渡していく。にしてもなんだか、孫にお菓子をあげるおじいちゃんみたいだな……。実年齢を考えたらそのぐらいだしなあ。

 

 受け取ったメイドたちはというと、なんだかふるふると震えている。涙目になってる娘もいるし。時間外労働の対価にお菓子はちょっと嫌だったのかも。

 

「……労働時間の対価として見合っていないのでは?」

「……やっぱそうだよね、ほかの……」

 

 もう一度アイテムボックスを漁ろうとする朱雀さんに、先程までのしおらしさはどこへ行ったのか、メイドたち3人はずいっと一歩前へ出て、叫ぶような勢いで主張を始めた。

 

「とんでもございません!」

「何よりのご褒美です!」

「大切に飾っておきます!」

 

 飾ってどうする。

 

 同じことを思ったのか、みんなで食べてね? と朱雀さんは念を押す。

 一般メイドたちは再三丁寧にお礼を述べて、クッキー缶を大切そうにインベントリへ仕舞うと、ちょっと名残惜しげに自室へと戻っていった。

 

「さて、プレアデスの2人はもうちょっと番をしててもらわないといけないから、後でね。……で、悪いんだけど、これからちょっと内緒の話をするから、扉の外で待っててもらえる?」

 

 よっこらせ、と立ち上がった朱雀さんに、外に出るよう促され、2人は不安げに顔を見合わせる。自分達に何か落ち度があったのかと心配しているように見えた。

 

「お前達に不手際があったわけではない。私達の我侭につき合わせて悪いが、従ってくれるか?」

 

 だんだんわかってきたことなんだけど、NPCたちはどうも支配者権限で強く命令される他に、殊勝なお願いにもかなり弱いらしい。あんまり多用すると効かなくなりそうだから程々に使わなきゃならないが、個人的にはこちらの方が胃に優しいのでついつい下手に出てしまうのだ。

 

 幾分かほっとした様子で、畏まりました、と声を揃えて、ユリとルプスレギナは執務室を出て行った。何かございましたらすぐにお呼びください、と言い残して。

 

 ふいに朱雀さんの方を見れば、ほら君達も出て行った出て行った、と、天井に張り付いていた八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジアサシン)達も引き摺り下ろし、ずいずいと追い出しているところだった。

 

「お、お待ちください! 死獣天朱雀様! 万一この部屋に侵入者などありましたら……!」

「待たない。誰がどこからどう入ってくるの、こんなとこ」

「し、しかし!」

「しかしも案山子もないの。お嬢さん方は聞き分けよく出て行ってくれたでしょ」

 

 職務の違いが、とか、至高の御方に何かあっては、とか、なかなか頑張って粘っていたが、物理的に押し出してくるレベル100の上司に本気で抵抗できるはずもなく、最終的には納得したようで、扉の外に出て行ってくれた。

 なんかちょっと申し訳ないけど、許してくれ。俺の心の平穏のために。

 

 最後のひとりまで見送ってから扉を閉めた朱雀さんは、こぽぽ、と、長めのため息を吐いて、くるりとこちらを振り返る。

 

「……モモンガさんさ、NPCにお願い押し通すの上手になってきたよね」

「いやいや、朱雀さんほどでは」

 

 ふっふっふ、としばらく悪代官のようなやり取りが交わされる。本題に戻るべく、長椅子に座ったタイミングで、朱雀さんに問いかけた。

 

「で、話っていうのは?」

「そうそう、ちょっと相談ごと。どうしようかなって」

「相談事?」

 

 うん、ともう一度頷いて、朱雀さんは優雅にお茶を飲み始める。

 この調子だと、あまり緊急性の高い用件じゃ――。

 

 

 

「攻性防壁で召喚された10位階のモンスターがさっき撃退されたんだけど」

 

「えっ」

 

「どうも相手がノーダメージみたいなんだよね」

 

「えっ」

 

 

 

――ないですか……。

 

 

 

 

 

 

 




今年の目標
プレアデス及び一般メイドちゃんたちの出番を増やす。


本日の捏造

・スタックした分があふれる事案
そもそもユグドラシルの家具でアイテムスタックができるのかの言及があったようななかったような。


次回は3日後。情報収集2日目ですがどのくらい情報を出そうかまだ悩んでます。がんばる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飲食(おんじき)はあたたかいうちに・中編


イベントを一個入れるか外すか悩んでたら遅くなりました。申し訳ない!

アニメ見ました。良かった(小並)
リグリットさんかっこいい……かっこよすぎない……?(エンヤ婆みたいな見た目を想像してた人)





 

「……撃退ですか? 強制帰還や、洗脳ではなく?」

「死んでる。それは確実」

「……ちょっとどういうことか詳しく説明していただいても良いですか」

 

 ああ、あたまがいたい。何も入ってない空っぽの頭なのに。

 

 だってここへ来て、こちらの10位階魔法と同等以上に渡り合う存在なんて。周りにいるのが大したことないからと、完全に油断してた俺が悪いんだけど。

 

「まずこれ、はい」

 

 そう言って手渡されたのは、分厚い紙束だった。ところどころに色違いの付箋が挟んである。資料、かな。

 

 パラパラと捲れば、周辺諸国の地理、凡その人口、文化や生活様式など、詳細なデータが書き連ねてあるのが見てとれた。

 

「こんなにたくさん、いつの間に」

「いやあ、やってると楽しくなってきちゃって。とりあえず黒い付箋のとこ、見てもらえる?」

 

 言われた通りに黒い付箋が貼られたページを開く。そこには、ひとつの国の名前が書かれていた。

 

「スレイン、法国……」

 

 俺の呟きと同時に、水鏡にひとつの都市が映る。

 どこか高い塔の上か、山の上から視ているらしく、随分と遠景で映っているその都市はしかし、一見しただけでも、この世界に来てから確認したどの都市よりも発達しているように思えた。

 

「だいぶ警戒されてるみたいだから、遠くて悪いけど」

「いえ、十分です。召喚獣を倒したやつというのは、ここに?」

「うん。でも先に、経過から説明させてもらっても?」

「お願いします」

 

 映像が切り替わる。

 先ほどの都市とは別の場所、低位の魔法で身を隠した、40人ほどの集団が映されていた。こっちから見れば随分下級の装備に見えるが、この世界の基準ならばそこそこ上等な衣服鎧を揃いで着込んでいる。

 衣装が完璧に統一されているからか、実力はともかく、ずいぶんと洗練された部隊のように見えた。

 

 魔術師の部隊、なんだろうか。

 

「どうもね、こいつらに張り付いてた監視魔法に、通りすがりの八咫烏が引っかかっちゃったみたいで」

「……事故じゃないですかー」

「ねー」

 

 正直、ちょっと気が抜けてしまった。

 

 ユグドラシルにおいても、他のターゲットを監視している最中に、たまたま割り込んだ別のプレイヤーの攻性防壁が発動してしまうことはたまにあった。

 が、慣れたプレイヤーであればそのあたりも織り込んで二重三重に対策をするのが常識のはず。

 

 と、いうことは。

 魔術師の部隊を監視をしていた相手は、少なくとも攻性防壁での騙し合いに長けていない、あるいは経験がない連中だと推測できる。

 ひとつ安心できる材料を得られたと言って良いだろう。朱雀さんのモンスターが無傷で倒されてしまったことは確かに脅威だが、正面から実力者が攻めてくるより、搦め手を使ってくる相手の方がずっと恐ろしい。

 

「監視されていたっていうことは、彼らはスレイン法国? と敵対してるんでしょうか」

「や、聞いてる限り、こいつらの所属もスレイン法国みたい。任務中、おかしなことしないか、見張ってたんじゃないかな」

 

 ……身内からの信用がない部隊なのかな? いや、逆かも知れないな。万一のときに備えて、保険を怠らない組織なのかも。

 その保険もうっかりで無くしてしまったのだから気の毒と言う他ないが。

 

 今この辺なんだけど、と、朱雀さんは地図の上、トブの森の南西あたりを差し、少しだけ東側に指を滑らせる。

 

「なんかね、この辺走ってる……、ガゼフっていう人の暗殺命令が出てるみたい。それで追っかけてるのがこの魔術師連中ってわけ」

「……随分きな臭いですね」

 

 暗殺なんて、ゲームの外ではニュースでしか聞いたことない。テロで周囲ごと、っていうのが多かったから、頻繁に聞いたわけでもないし。

 

 それにしても、情報統制がなってないな。暗殺命令が他所から来た赤の他人に筒抜けとか、大丈夫なのか。

 

「それだけ重要な人物っていうことなんでしょうか。貴族とか?」

「なんか、こっちの……、リ・エスティーゼ王国。そこの戦士長さんなんだって」

「戦士長」

 

 強いんですか、と聞いてみれば、レベル的には30前後、という返事。

 ……それでなんで狙われてるんだろう。悪いことでもしたのかな。

 

「で、その……、なんだっけ、そう、攻性防壁が発動したのが今日の夕方くらいなんだけど」

 

 朱雀さん曰く。

 

 特に目的地を定めずにふらふら飛ばしていた八咫烏が、偶然スレイン法国の監視と接触。攻性防壁が発動し、監視している者の傍にモンスターが召喚された。

 

 そこは暗い室内で、裸同然の女性を中心に何やら儀式のようなものが行われていた。

 一瞬強制召喚でもされてしまったのかと思ったが、周囲の人間は突然現れた召喚獣に錯乱するばかり。口々に発する内容をどうにかかき集め、部屋で行われていた儀式は監視魔法を発動させるためのものだと推測できた、とのこと。

 

「突然だったから状況把握するのに少し手間取って。ちょっとごたごたしたけど、監視者自体はなんとか無力化できたんだ。折角だからもう少し情報集めようと思って、バリケード作ったりしてしばらく部屋に立て篭もって」

「ふむふむ」

「でもついさっき、バリケード破られたのと殆ど同時だね。単騎で突っ込んできたお姉さんにあっという間にやられちゃった」

 

 語る朱雀さんの口調は台詞ほど軽くはなかった。無理もない。自身が持つ召喚獣の中でも5本の指に入る程の戦闘力を持つモンスターがあっさり殺されてしまったとなっては。

 

 ピンキリはあるにせよ、10位階の召喚獣となればどれも強力なもの。戦闘ビルドの100レベルプレイヤーなら負けることはまずないが、ノーダメージで倒すとなると、相当のプレイヤースキルを要求される。それなりの相手がいる、ということだ。

 

「隠密特化の召喚獣にすれば良かったな」

「……いえ、10位階の戦闘特化型をノーダメで攻略する相手がいるとわかったのは収穫だと思います」

「ありがと。で、こっから相談なんだけどさ」

「はい?」

 

 朱雀さんは、ユリが置いていったポットからお茶を継ぎ足し、大皿の縁をきん、と弾いた。

 

「この、法国に対して。もう少し情報が欲しいところだけど、ちょっと八咫烏ではレベルが足りないからさ」

「別に斥候を送り込むか、ということですか」

「そう」

「うーん……」

 

 難しいな。

 唸りながら、手元の資料を見る。

 

 スレイン法国。

 「六大神」を信仰する宗教国家。周囲の国家より数段国力が上で、特に魔法詠唱者のレベルは他の国の追随を許さない。

 半面、閉鎖的で、人類以外を敵と見なしている節があり、奴隷市場にはエルフなども並んでいることから、只人(ヒューム)以外の人間種とも関係は険悪であることが見て取れる。

 まとめるとこんなところか。

 

 基本、既存の国家と好き好んで敵対したくはない。

 この先、問答無用で襲い掛かってくるプレイヤーの相手をしなきゃいけないかも知れないのに、そんなときに周辺国家と小競り合いなんかしていたら背後を突かれる危険性がある。

 

 が、亜人を殆ど無条件に敵視しているとなると、異形種と遭遇したときも同じような対応をするだろう。警備からはなんの報告も上がってないので、ナザリック本体はまだ見つかっていないはず。今のところ。

 

 しかし、見つかったときは厄介なことになるだろうな。向こうの総戦力次第だけど。

 

「……朱雀さん的には、どうですか?」

「とりあえず、この魔術師の一団がこっちに来るまでは待ってもいいかな、と」

「暗殺部隊? の皆さんですか?」

「うん。霧の村辺りまで来るからさ、そのときに何か情報もらえないかなって」

 

 聞けば、別動隊で村を焼き払いながらトブの森に沿って移動しているのだという。

 ガゼフという人がそれを止めるために追いかけているので、挟み撃ちにするつもりなんじゃないか、と。

 

 人ひとりのために大げさなことだ。ていうか、村が焼かれるのを止めるためって、ガゼフってもしかして善い人なんじゃないのかな。うーむ、余計複雑になってきたぞ。

 

 とりあえず人物関係はおいといて、魔術師の一団だ。そんなにうまくナザリックの近くまで来るだろうか。霧も出てるし、迂回するような気がするけど。

 

「来ますかね、こっちまで」

「来る」

「確定ですか?」

「うん」

 

 強い断定。ちょっと珍しいくらいの。

 ちゃんと説明を聞いておこうか、少し迷った。根拠がどこにあるのか、今の俺にはまるでわからなかったからだ。

 

 だけど、と、扉の方を横目で盗み見る。内緒話もあまり時間をかけていたら心配されてしまうだろう。

 

「信じます。どのくらいで来ます?」

「明後日、夕方」

 

 こちらも断定。頼もしい限りだ。

 ここまで断言してくれているのだから、こちらはそれに乗っかろう。

 

「じゃあ、それまで待ちの方向で」

「モモンガさん的にはいいの? それで」

「……ちょっと、場所が遠いのが気になるんですよね。こっちは土地勘もないし。ゲームだったら迷わず送り込んだところなんですが」

 

 確かにこの近くには、水晶で出来た草地や毒の沼なんかの、ダメージを与えてくる地形は見当たらない。

 けど、他の土地もそうだとは限らないし、現地の人間だけが利用できる地形だって存在するだろう。それをいちいち警戒しながらとなると、移動だけで骨が折れる。

 

 イビルツリーを倒したときのように八咫烏の視界を通じて<転移門(ゲート)>を開くという手もあるが、この様子では相当警戒されてしまっているようなので、任意の場所に降り立つのも難しそうだ。

 送り込む斥候にしても、中途半端なレベルのシモベを送っても先の召喚獣の二の舞だろうし、かといって高レベルNPCを送り込んで何かあったらと思うと、とてもじゃないが踏み切れない。

 

 逆に、向こうからこちらに攻め込むのも難しいだろう。朱雀さんの召喚獣という手がかりを自分達で潰してしまったなら、向こうもこちらの存在を確認できずにいるはずだ。

 不自然に広がる霧を上空から見られたら気付かれてしまうかも知れないが、霧の中は簡単に目視できない以上、間近まで突然接近されるということもない。

 加えて、魔法的な観測には滅法強いのもナザリックの強みだ。少々の監視なら跳ね返せる。

 

 スレイン法国の内情を知る者が近日中にこちらに来るのなら、そいつから話を聞いてからでも十分に対処できるだろう。

 

「万一発見されて、<転移門(ゲート)>なんかで侵入されたら、こっちからも部隊送り込んで殲滅しましょう」

「言うねえ、モモンガさん」

「万一の話ですよ。例の部隊が予定から外れた行動を取ったらまた教えてください」

「了解」

 

 チェックされる前にチェックすれば勝ち。ぷにっと萌えさんも言っていたことだ。

 スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンも今朝、第八階層の100レベルNPC、オーレオール・オメガに預けておいた。最悪、ギルド武器さえ守りきればなんとかなる。

 

 それまでに壊したものの代償は、支払ってもらうことになるが。

 

 

 

「報告はそれだけですかね?」

「急ぎのはそれだけ。あとはそこに大体書いてあるよ」

「どれどれ」

 

 あー、わかりやすい。

 情報量は多いのに表とかグラフとかが丁寧に書き込まれてあって、なんていうか、資料を作るのに慣れてる人が作る資料って感じがする。朱雀さんみたいな人が上司だったら俺ももうちょっと楽に働けたのになあ。前の上司はぎりぎりで仕事投げてくる上にデータが判りづらかったんだよ……。

 

 ……はっ! いけないいけない。せっかくあの職場から離れられたっていうのに。

 

「これ、このままプレゼンに出せそうですね」

「なんの?」

「あはは。でもこれ、グラフとか表とかどうしたんですか?」

「ティトゥスに頼んで<製図>の指輪もういっこ作ってもらったんだ。それで応用できるみたい」

 

 へえー。感心しながらページを捲っていく。こういう、用途とは少し違うけど使い勝手の良いアイテムって他にありそうだな。もっと色々実験してみないとなあ。

 

 ……それにしても、何だか情報が偏ってる気がする。いや、気のせいじゃない。確実に偏っている。

 

 他の国や土地はどれも、「データとしては申し分ないけど出張の参考にするには心許ない」程度のものなのに、この「リ・エスティーゼ王国」だけやたらと詳しい。資料を閉じていてもわかる。付箋の間隔が明らかに違うのだ。

 

「……もしかして、王国で協力者なんか見つけてたりします?」

「お、鋭い」

 

 当たった。

 どんなコミュニケーション能力してるんだこの人。こんなに早く、しかも八咫烏で。召喚獣を通して会話ができるようになったりしてるのかな。

 

「どうやって意思疎通してるんですかそれ」

「んー? 向こうの話を聞くのがメインかな。こっちも簡単な合図は出すけど」

「それは、大丈夫……、なんですか?」

 

 つい、場面を想像してしまった。合図は出すけど喋りはしないカラスに延々と話しかける情報提供者。うん、確実にヤバい人だな。

 内心冷や汗をだらだら流す俺をよそに、朱雀さんはいたって涼しい顔でティーカップを傾けている。

 

「大丈夫、大丈夫。資料も別におかしなところないでしょ?」

「まあ、そうなんですけど……」

「ぼくの方も王国語の読みは大体覚えたから、時間はかかるけど会話はできるし」

「そうですか、なら大丈夫ですね」

 

 ……ん?

 

「今、なんて言いました?」

「へ? 時間はかかるけど会話はできるし」

「その前」

「王国語の読みは大体覚えたから」

 

 待って。待って待ってちょっと待って!

 

「は、はや、早くないですか!? もう!?」

「教師が優秀なんだよ。生徒を生かすか殺すかは先生次第ってこと」

 

 あっさりと言ってのけた朱雀さんは、蓋を押さえてポットを揺すっていた。誰か言ってたなそういえば。お茶は最後の一滴が美味しいって。

 ちがう、そんなことはどうでも良くて。

 

 朱雀さんの自力があるにしても、まったく知らない言語を、言葉を発しない相手に覚えさせる?

 

「……どんな、人間なんですか。人間なんですか? その協力者」

「人間。只人(ヒューム)だよ、レベルもそんなに高くない」

 

 なにそれこわい。

 もしかして、この世界の人間はみんなそのくらいの頭脳を持ってたりしないだろうな。

 

「ず、ずいぶん、あたまがいいんですね?」

「すごいよ、これは。中々お目にかかれないレベル」

 

 あ、よかった……。そのへんにほいほいいるわけじゃないんだな……。

 

「こちらの存在に気付いてる、なんてことは」

「気付いてると思うよ」

 

 ひゅう、と鳴るはずのない喉が、鳴るような錯覚。気付いてる? こっちに?

 俺の頭蓋骨が青ざめたように見えたのか、朱雀さんは、ああ違う違う、とはたはた手を振って否定した。

 

「所属とか、正体とかはともかく、召喚獣だって認識した上で、八咫烏の向こうに誰かいることくらいはわかってると思う」

「ああ、そういう……」

 

 そのぐらいなら、まあ、いい……のか? もしかしたら、召喚獣が一般的な情報ツールとして使われてるのかも知れないな。

 

「そういえば朱雀さん、元々何ヶ国語か覚えてるんでしたっけ」

「まあ、腐っても教授だったから、それなりには。王国語はそんなに難しい言語でもなかったし」

「今度また教えてください。覚えられるかどうかはわからないですけど……。

「そのうち辞書でも作るよ。それの一番後ろにもいくつか単語のっけてるけど」

 

 その言葉を受けて、ちらりと該当のページを見た。うわ、本当だ。覚えられる気が全然しない。

 ……なんかほんとに、何から何までお世話になりっぱなしだな。

 

「……俺にできることがあったら、言ってくださいね。できる限りのことは、させてもらうので……」

「もう十分助かってるってば。年寄りは使うだけ使ってくれたらいいんだよ」

「そんな……」

「ぼくが好き勝手できてるのも、モモンガさんが忠義の矢面に立ってくれてるからだし」

「うう……」

 

 なんか最近、感動しかけたところを叩き落す遊びが朱雀さんの中で流行ってるような気がする。

 楽しんでくれる分にはもちろん良いんだけど、できれば、俺「で」じゃなくて俺「と」遊んでほしいなあ……。

 

 

 

 

 

「これ、借りてても良いですか?」

 

 せっかく作ってもらった資料だが、今じっくり読んでいる時間は無い。そろそろ追い出したプレアデスたちを部屋に入れる準備をしないと。

 

「ん? それモモンガさんの。ぼくのは別にあるから」

「ありがとうございます。あとでゆっくり読ませてもらいますね」

「ゆっくり読んでくれたら良いんだけど、まだまだ増えるから急いで読んでね」

「どっちなんですか」

 

 あはは、と笑う朱雀さんだったが、何か思い出したように、はた、と動きを止めると、アイテムボックスに手を突っ込んで何やらごそごそと探し始めた。

 

「そうだ、モモンガさん。これ」

「なんですか? これ」

 

 手渡されたのは、なにやらじゃらじゃらしたものが詰まった袋。机の上に取り出せば、ぴかぴかに磨きあげられた小さな銀と銅の板が入っていた。これは、まさか。

 

「硬貨じゃないですか!」

「そー、蜥蜴人(リザードマン)の集落でもらってきたやつ」

 

 なんでも蜥蜴人(リザードマン)たちは、歴代の旅人たちが持ち帰った分を溜め込んでいて、それを朱雀さんがもらって来たのだという。

 蜥蜴人(リザードマン)の集落まで貨幣を使う種族が入り込んでくることはまずないし、路銀を自分で稼ぐのも旅人の矜持であるから、俺たちが持っていってしまっても困らないのだそうだ。

 

 うろつきながらお酒ばっかり飲んでるなあと思ったけど、これを集めてまわってたのか。気づかないうちにさらっとこういうことをしてくれているからほんと侮れない。

 

「ありがとうございます、朱雀さん。……それにしても、やけに綺麗ですね」

「いや、泥まみれだったからメイドさんにお願いして。そしたらぴかぴかになって戻ってきた」

 

 ナザリックのメイドさんたちは本当に仕事熱心だなあ……。顔が映るぞ、これ。

 

「どのくらいの資金になるんですかね、これで」

「んー、貧乏旅行1ヶ月ってとこかなあ」

 

 正直、俺と朱雀さんでは貧乏の基準が違うような気がするので鵜呑みにはできないが、散財したらあっという間に無くなってしまう金額なのは確かだろう。

 

「何に使うのかも考えなきゃいけないですね。ていうか、全部もらってしまって良いんですか?」

「どうぞ。ぼくは今のところここから出る予定ないし」

「じゃあ、預かっておきますね」

 

 再び硬貨を袋に入れ、資料と一緒にアイテムボックスに仕舞う。

 

 すると、最後のお茶を飲み干した朱雀さんが、これからどうする? と問いかけてきた。

 

「ぼく今から晩酌するけど」

「ばんしゃく」

 

 その言葉に、ふと、机の端に並べられているものへと視線が移った。瓶がやけに多い。それぞれ中には液体が満たされているようだが。

 

「これ、まさか全部酒瓶ですか」

「そ。いやあ、飲めもしないのに買い漁った甲斐があったというか」

 

 やっぱり。え? これ全部そうなの? 後ろに置いてある袋とか木箱に入ってるやつも全部?

 聞いてみようかと思い朱雀さんに視線を映せば、どこからか取り出した酒器をいそいそと並べ始めている。

 

 大丈夫なんだろうか。昨日けっこう飲んでなかったか? いや、毒耐性もあるし、痛める肝臓もないような体だけど。

 そこですこし気になったことがあったので、恐る恐る聞いてみた。

 

「昨日から思ってたんですが、朱雀さんもしかして、お酒好きなんですか?」

「いや?」

 

 えっ、と思わず声に出してしまった、が。

 

「だいすき」

「あっ……」

 

 続く言葉で納得した。そうでしたかそれはそれは。もうご存分に。

 

「で、どうする? 素面で付き合ってくれるならいてもらうのは別に良いんだけど」

「……もう少しここにいてもいいですか?」

「お、なんか理由ありそう」

 

 ぐ、と軽く身をのりだして、悪戯っぽくわらう朱雀さんに、うう、だの、ああ、だのといくらかの逡巡に付き合ってもらった後、少々げんなりしながら理由を溢す。

 

「どうもアルベドに部屋を乗っ取られたみたいで……」

「はあ?」

「いや、なんか、どうしてこうなったのか俺もよくわからなくて」

 

 ふうん? と訝しげな声を出して、彼は襟元を撫でた。

 

「……夫婦なんだから同じ部屋がいい、って主張されただけじゃなくて?」

 

 うう、鋭い。

 ていうか、「だけ」ってなんですか、「だけ」って。こっちは一大事なんですよ!

 

「まあ、そうなんですけど……」

「普通に言ったら良いんじゃない? 出て行ってほしいって」

「言えるわけないじゃないですか……」

 

 そんなこと言ったら悲しむに決まってる。半ば無理矢理嫁入りさせられたような状況だけど、一応俺のことを好いてくれてるみたいなのに。

 

 意気地のない俺を罵ることもなく、朱雀さんはその表情に企みを乗せて、ふっふっふ、と怪しげに笑った。

 

「そんなモモンガさんにもうひとつ夫の仕事を増やしてあげようねえ」

「ええ……」

 

 嬉々として朱雀さんのアイテムボックスから取り出されたのは、1冊の本。きちんと装丁が成されている、真新しいものだった。かなりぶ厚い。なんだろう、魔導書?

 

「なんなんですか、これ……」

 

 ページを指でつまみ、恐る恐るめくる。横からそっと覗き込めば、どのページにも絵と、いくつかの説明が描いてあった。すべて指輪の絵。指輪、指輪、指輪。どれもペアリングだ。揃いのデザインのものや、僅かに違いが見られるもの、中には腕輪と見紛うような豪奢な意匠のものもあり、何故、と口に出す前に、昨夜の記憶がぶわっ! と脳裏に蘇ってきた。

 

「……これか! 昨日言ってたの!」

 

 マーレの指に嵌ったリングを見てしまったアルベドが、朱雀さんの一言で目に見えて落ち着いたから一体何事かと思ってたが、まさか結婚指輪のカタログが作られているとは。

 

「え、これ、どうしたんですか? 誰が?」

「ティトゥスが大体4時間くらいで作ってくれた」

「NPCに何をさせてるんですか!!!」

「だって仕事寄越せってうるさいんだもの。張り切ってたよ、偉大なる支配者モモンガ様の身を飾るならそれに相応しいものでなければって」

 

 確かに、どれもこれもひたすらに美しいものばかりだ。煌びやかな宝石の嵌まったものから、シンプルながら洗練されたデザインのものまで。

 しかし、どれが結婚指輪に相応しいかなんて俺にわかるはずもない。

 

「これ、俺が選ぶんですか? 冗談ですよね?」

「良し悪しはともかく、モモンガさんが選ぶことに意味があるんだよ」

 

 うぐう、先手を打たれた。

 だけど、退くわけにはいかない。NPCたちは、みんなの子供も同然だ。そんな大事なものに手を出すなんて言語道断。許されることではないのだ。

 

「いや、でも、アルベドは! 設定を書き換えてしまったから!」

「ぼくがね? だから責任を取りたいと思ってるんだけど」

「いえ、あの、朱雀さんが悪いというわけでは……」

「せっかくアルベドが仲人って呼んでくれたのに、ぼくの面子を潰すつもりなんだ。ひどいなーももんがさんはー」

「言われると弱いところを的確に突くのやめてもらえませんか!?」

 

 こちらがちょっと怯んだところをピンポイント狙撃。

 ヤバい、もう退きそう。口でこの人に勝てる気がしない。

 

「いや、でも、その、伴侶とか、まだ……」

「まだっていう歳でもないでしょ」

「その、あれですよ、お付き合いもしてないのに」

「支配階級が恋愛結婚したいって? なかなか無茶言うね、モモンガさん」

 

 ころころと笑いながら、朱雀さんは酒の銘柄を選び始めた。

 だめだ、もう勝ちを確信してる。余裕のオーラが滲み出てる!

 

「しは……、お、俺は! 根っからの! 庶民なんですよ! お布団が広すぎると落ち着かないんです!」

「ロールプレイしてる以上今は違うし、アルベドだって立派な貴族のご令嬢だからね? ナザリック地下大墳墓の守護者統括様だよ?」

「うー! うー!」

「せめて言語を使いなさい、往生際の悪い」

 

 はああ、と深くため息を吐き、白い手袋から、カタログを受け取った。

 この際、もう仕方がない。選ぶだけ選ぼう。

 

 よっぽど意気消沈しているように見えたのか、朱雀さんは選んだ1本を机の上に置いて、まっすぐにこちらを見る。

 

「……アルベド個人が嫌だっていうなら、ぼくも無理強いはしないけど」

「まさか、そんなわけないじゃないですか」

 

 それだけは即座に否定して、しかし思い悩む二の句を、朱雀さんは辛抱強く待ってくれた。

 

「……真面目に考えなきゃいけないとは思ってるんですけど」

「うん」

「やっぱり本人にもタブラさんにも申し訳ないし、俺なんかじゃ釣り合わないよな、っていうのが、先に立ってしまって」

 

 進むにも戻るにも踏ん切りがつかないというか。ぼそぼそと呟くようにそう溢せば、たっぷりと呆れたようなため息。実際は転移してから聞き慣れてしまった水音だったが、なんとなく、込められた感情を判別できるようになってきたと思う。

 

「モモンガさんの長所は謙虚なところだけど、モモンガさんの短所は自己評価が低いところだね。表裏一体とは良く言ったものだ」

「実力相応だと思うんですが」

 

 まったくしょうがないな、とでも言うように朱雀さんは肩をすくめて、まあとりあえず選んであげてよ、と目の光をそっと細めた。

 

「結婚指輪が重たいっていうならさ、イビルツリーの討伐とか、普段の働きへのご褒美だと思えばいいんじゃないかな」

「……そっか。そうですね」

 

 そうだ、昨日着いてきてくれた、シャルティアとアウラ、セバスにも何か考えないと。

 仕事が偏ると報酬も偏るから、業務の配分にも気をまわさなきゃいけない。うう、今から胃が痛い。頭も。

 

「上司って大変なんだなあ……」

 

 うっかりぽろりと零れた台詞をしみじみと噛み締める。会社の歯車でいたときは大変だったけど、ある意味楽だったのかもしれない。そう思い直し、直面する現実をどうにかやり過ごす決心を固めた。

 

 

 

 

 

「ところでこれ、何本くらいあるんですか?」

 

 ユリたちを部屋に入れる前にこれだけは聞いておこうと、部屋を見回しながら尋ねた。

 部屋の主は、背凭れに片肘を乗せつつ、んー、と少し考えて。

 

「本数は忘れたけど、1500種類ぐらい」

 

 と、のたまった。なにそれすごい。

 

「自分で作ったんですか?」

「いやいやいや、全部市販品。買ったの」

 

 ログインして、ギルドの用事がないときは、採集がてら市場へと買い物に出ていたのだという。他ギルドに直接買い付けに行ったりもしていたのだそうだ。

 

「けっこう面白かったんだよ。現実(リアル)だったら酒造権のある酒蔵でしか作れないけど、ゲームでは気にしなくていいから、色んなギルドが作ってて」

「へえ……」

「酒造専門ギルドもいくつかあったんだけど、神殿とかの宗教系ギルドからが一番多かったかな? ドワーフ専門ギルドとかもあったし、中身はおまけ同然だったけど、陶器とかガラス細工作ってる工芸ギルドとか。あとは……」

 

 楽しそうに指折り数える朱雀さんを見ていたら、なんとなく嬉しくなって、つい一言。

 

「……朱雀さん、意外とユグドラシル楽しんでたんですね」

「えっ、なに、意外とって」

「ああ、すみません。特に他意があったわけでは」

 

 軽く手を振りながら謝罪する。ギルドメンバーとうまくやっていたのは知ってるけど、いつも飄々としていて、ここまでディープに何かを収集しているとは知らなかったのだ。

 

「しかし、ほんとにすごいですね。異形種に解禁されたマーケットだけで、これだけの種類はなかなか」

「んん? いや、買い物のときは普通に……」

 

 朱雀さんはそこまで言って、あ、となにかに気がついたように、ぽんと手を叩いた。

 

「できるかも知れない」

「なにがですか?」

 

「飲食。モモンガさんが!」

 

 

 





情報の内容を思いっきり濁すの巻。
反省はしてます……許して!

次回こそお食事回! 
待ってました!(筆者が)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飲食(おんじき)はあたたかいうちに・後編


連載開始前から、ここまではなんとかたどり着きたかったお食事回ですよ。長かった……。

2話見ました。「我々はトカゲから逃げない」が伝わり過ぎてやばい。
求愛ボイスが予想の8倍は求愛ボイスで笑い死ぬかと思った……。




 

 

 ちょっと待ってて、と、木箱の山をかき分けながらドレスルームに入っていった朱雀さんは、大して間を置くこともなく、小さなケースを片手に戻ってきた。

 

「確かここに入れてたはずなんだけどなー」

 

 どれだったかな、と箱の中をごそごそ漁る朱雀さんの手元を、そろっと横から覗きこむ。

 緻密な彫刻が施された木製の箱には「未鑑定・普段使い」とシールが貼られており、様々な種類の指輪が綺麗に陳列されていた。

 中には、俺が見たことないものもいくつか――。

 

「えっ?」

 

 思わず上げてしまった声。目的の物とは違うとわかっていたが、もう()()から目が離せない。

 

 凝視。瞬き。目元を擦る。二度見。

 

 あまりにも不審だったのか、ちょっと怯えた様子の朱雀さんが俺の顔を注視していた。

 

「ど、どうしたのモモンガさ……」

流れ星の指輪(シューティングスター)じゃないですか!」

 

 ぴゃっ、と竦み上がった彼は、俺の顔と箱の中身を交互に見ながら右手をうろうろさせている。どうやら流れ星の指輪(シューティングスター)の存在さえ知らない様子。

 驚かせてすみません、と一応は謝ったものの、沈静化されて尚、興奮はおさまらない。

 

「えっ、なに? 流れ星? どれ?」

「一番下の段、左端! 銀色のリングに青い宝石が3つはまってるやつです!」

「こ、これ?」

「それです!」

 

 こわごわとこちらに突き出されたのは、まさしく課金ガチャアイテム、流れ星の指輪(シューティングスター)

 運営への要求を含めた「願い事」を叶えることができる超位魔法、<星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)>の経験値消費を3回まで無効にし、有効な願いを叶えられる確率が大幅に上がる超々希少アイテムだ。

 

 指輪の光はひとつぶん減っている。残り2回分。確か朱雀さんは<星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)>の習得条件を満たしていなかった筈なので、誰かの使用済みを拾ったというところだろう。

 

 ようやく落ち着いてきたのでその旨を聞いてみれば、朱雀さんはしばらく考え込み、あー、思い出したかも、と天井を仰いだ。

 

「引退する直前くらいかな。PvPで返り討ちにしたやつがドロップして」

「……鑑定するのを忘れて放置していた、と」

「多分そう」

 

 朱雀さんの苦々しげな表情で、こっちも思い出した。朱雀さんが引退した直後、数ヶ月の間、出待ちでPvP仕掛けてくるアーチャーがいたなあ、と。あいつか。

 確かに指輪は超レアなアイテムだし、ガチャで溶かした金額によっては同情しないこともないが、PvPで負けた挙げ句ドロップ対策まで怠るようなやつでは、この結果も仕方ない。御愁傷様、と心の中だけで祈りを捧げてやった。

 

「じゃあ、はい」

「んん!?」

 

 なんとも言えない思いで虚空を眺めていた俺に、ひょい、と軽々しく差し出される稀少な指輪。

 

「いやいやいや! なんでですか!? 受け取れませんよそんな貴重なもの!!」

「だってぼく、<星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)>使えないもの。持ってたって使いようがないし」

「え、ええー……?」

 

 手を引っ込めてくれそうになかったので受け取ってしまったが、戦利品を横から奪うようで申し訳ないし、俺もこの指輪には少なくない金額を注ぎ込んだひとりなので、どうにも複雑な気持ちが拭えない。

 

 渋る俺を見て、ふうん、と首を傾げ、それじゃあ、と朱雀さんは提案する。

 

「ぼくがお願いしたくなるときまで持っといてよ。使ってくれても構わないし」

「使いませんよ。そういうことなら預かっておきますけど」

「ありがと。……ああ、これこれ」

 

 ようやく見つけた、とつままれた指の先、白金のリングがきらりと光る。台座には神秘的な碧色の石が嵌まっており、ささやかながらも魔力が満ちていることを主張していた。

 

「これは?」

「転生の指輪。平たく言えば人間種に偽装できる指輪だね」

 

 人間種に偽装するだけなら、魔法なりアイテムなり手段はそこそこあるのだが、どれも肉体の外側に幻術を施す程度のもので、骸骨の俺に食事機能を与えるようなものではない。

 転生、という名前からして、根本から種族を変えてしまう指輪、なんだろうか。

 

 はい、と掌に乗せられた指輪。魔法で鑑定すると内容が頭に流れ込んでくる。ついつい眉間に皺が寄った。

 

「……随分とクセのあるアイテムですね」

 

 要するに、幾らかの魔力を消費して、只人(ヒューム)レベル1を含めた21レベルの人間種に変身できるアイテム、ということらしい。イベント限定アイテムであり、本来存在しない人間種のレベルを獲得する特別仕様のため、複製は不可。

 

 得られる20レベル分のクラスはなんと完全ランダム。人間種の街に入ると指輪は外れなくなり、着用前に装備していた武器や防具は外れることこそないが、ちゃんと機能しなくなる可能性も高い、と。

 自分の安全が確保されてる場所以外では使えないな、これは。

 

「まあ、ナザリックから出なければ問題ないかなって。1回つけてみてよ、モモンガさん」

「では……」

 

 大丈夫かな。朱雀さんがしょっちゅう使ってたらしいから、元のレベルが失われるような不具合はないと思うけど。

 異形種のギルドホームで着けたら爆発する仕様とかないよね?

 

 戦々恐々とした思いで、指輪を付け替える。

 当然ながら俺の不安は杞憂だったようで、特に異常はなし。肉のついた掌を握りしめ、開いた。

 ほんの2日ほど前には当たり前の光景だったはずなのに、随分と昔のことのように感じる。

 

「はー……」

 

 レベルが下がった、ということはわかるけど、脱力感などの不都合を覚えるわけではない。

 が、これはひどいな。使えるスキルや魔法がてんでバラバラだ。そもそものクラス構成が、吟遊詩人(バード)侍祭(アコライト)剣闘士(グラディエイター)スリ(ピックポケット)側用人(ヴァリット)に……農民(ヨーマン)? と、とにかくめちゃくちゃ。

 

 <挺身>があるのに防御系のスキルがなかったり、<韋駄天>と<鈍足>が競合して打ち消しあっちゃってたり。とてもこの状態で外へ出る気にはなれない。

 

 まあ、とりあえず今はいいや。確認を先にしよう。

 ティーカップに手を伸ばし、お茶をひとくちいただく。随分と冷めてしまっていたが、鮮やかなオレンジ色の液体は、淹れてくれた人の心情を表すような優しい味がした。……朱雀さんが気に入るのもわかるな。おいしい。

 

 指輪を外しても、未消化のものが身体の隙間を通り抜ける気配は無い。はたしてどこにいってしまったのかは、気にならなくもない、けど。

 

「……うん、大丈夫そうですね」

「良かった。いけそうだね」

 

 何度かうんうんと頷いた朱雀さんは、手をぱん! と叩いて景気良く言い放つ。

 

「よし、飲もう!」

「えっ」

「ユリ達に言っておつまみ取りに行ってもらおう。何がいい? モモンガさん」

「えっ」

 

 飲む。飲む、って、晩酌? おつまみ? 急に言われても困るんですけど。

 朱雀さんは相当楽しみなのか、ぽふぽふ手を叩いては早く早くと急かしてくる。

 ちょ、ちょっと待って。ちょっと待って!

 

「オ……」

「オ?」

「オムライスで……」

 

 いや、ない。

 言ってから思った。オムライスはない。

 30過ぎた男が「つまみは何がいいか」と聞かれて咄嗟に出る答えが「オムライス!」はない!

 

「あー、オムライスいいね。ぼくも頼も」

 

 が、朱雀さんはこちらの内心など意に介さず、どっちにしようかなあ、と呟いている。

 

「デミグラスにしようかな。モモンガさんは薄焼き卵にケチャップでいい?」

「は? あ、はい。えっと、はい、いいです。それでお願いします」

「お肉とかは? いらない?」

「は、はい。あとはもうお任せします」

 

 薄焼き卵とケチャップ以外のオムライスってなんだ。こわい。

 

 これ以上俺からリクエストが搾れないとわかると、「ロールするなら戻ってくるまでに覚悟決めといてねー」と、部屋の外までとことこ出て行ってしまった。

 

 ぽつねん、と残された部屋は静寂に満ちていて、寒さなど感じないはずの体がぶるりと震える。

 

 術者がいなくなり、今まで映像が浮かび上がっていた水鏡に映るのは、骸骨の影がひとつだけ。ふと思い立ち、指輪を嵌めれば、影はたちまちに冴えない男へと移り変わった。ローブだけが死の支配者(オーバーロード)のとき身につけていたそれで、実に奇妙なアンバランス加減を醸し出している。

 

「……現実(リアル)と同じ顔になるんだな」

 

 朱雀さんはこれを使って市場を巡っていたらしいけど、トラブルとか起きなかったんだろうか。大学教授というのがどの程度顔が広い職なのかはよくわからないけれど、朱雀さんのことだから要領よくやっていた、ということにしておこう。

 

 指輪を外す。死の支配者(オーバーロード)に戻る。つける。人間に変わる。外す、つける、外す。徐々にMPが減っていくが、時間経過である程度回復するので、大した消費ではない。

 頭の中で使えるスキルが、魔法が、くるくるとまわる。今のところ、低位の職業ばかり。完全ランダムと聞いたけど、知らないクラスが現れたりもするんだろうか。

 

美食家(ガストロノミー)のクラスが出るまでやり直したほうが良いかなあ……」

 

 料理を食したときの補正にボーナスが入るクラスだが、素の料理知識が皆無だからあんまり意味がないような気がする。

 まあいいや、一応リセマラしとこう。無いよりはマシだと思うし。

 

「……食事、か」

 

 正直、ちょっと気が重い。元々食事そのものに興味が無いのだ。腹に入れても結局出て行くだけなのだから、そこにお金をかけることにどれほどの意味があるというのか。無課金時代から変わっていない価値観だけど、課金するようになってからは余計に顕著になった。どうせすぐ無くなってしまうものなのに、と。

 ……所詮はデータなのだから、いつかは無くなるものだと言われれば、ぐうの音も出ないけど。

 

 お金の問題を別にしても、食事に重きを置く人の気持ちというのが理解できない。これは高いから良いとか、安いわりに美味しいとか、そういうことがまったくと言っていいほどわからない。貧乏舌、ってことかな。……あれ? 結局お金の問題になったような気がする。

 

 結論、朱雀さんが楽しめるなら他のことはどうでも良い。できれば俺も便乗して楽しみたいとも思っている。

 けれども不安で仕方がない。本当に楽しめるんだろうか。適性とか、経験がないと、楽しめないんじゃないか、と。

 

 魔王ロールは別にしても、楽しくもないのに無理に楽しんでる振りをするなんて接待じみたことはギルドメンバー相手にしたくないし、きっと朱雀さんには見抜かれてしまうような気がする。

 

 ……なるようにしかならない、か。

 

「それにしても……」

 

 不思議な部屋だ。タブラさんとかウルベルトさんの部屋もなんというかすごかったけど。

 

 木目が剥き出しの壁。そこに隙間なく掛けられた大きな布はどれも細かい刺繍で埋め尽くされている。公式のショップでは見たことがないから、これらもきっと市場で買ってきたものなのだろう。手縫いという設定で作っているのか、刺繍はどれも意図的に少しずつ不揃いにしてあるようで、しかし決して不自然ではなく、独特の暖かみを演出していた。

 

 木製の家具はすべて暗めの色で統一され、点在する暖色の照明がその重さを和らげている。時折ゆらゆらと揺れるのは、蝋燭を光源にしているからか。

 

 布の他にこれといった飾りはないが、ぽつんと置かれている香炉からは、微かに香りが立ち上っていた。嫌な匂いではない。けど、ちょっと、線香の匂いに似ているような気がする。

 

 全体的に異国っぽいんだけど、落ち着く雰囲気がするというか。ヨーロッパでも、中国でもない、なんていうか、あれ。

 

「エクゾディックな……、なんか違うな。なんだっけ」

「エキゾチック?」

「それです! あ、おかえりなさい」

 

 強そうだね、と笑う朱雀さんの両手には酒瓶が1本ずつ。軽く揺らすと、中の酒がとぷん、と揺れる音。ざらりとした陶器の入れ物には「オーガ崎酒造」と逞しい字体で刻印されているのが見えた。伝言にしては時間がかかっていると思ってたけど、あれを取りに行ってたのか。

 

「わざわざ取りに行ってたんですか?」

「モモンガさんも一緒に飲むなら絶対これだと思ってさ」

「悪い人ですね、味覚をオンにしてプレイしてたなんて!」

「あちゃー、バレちゃったかー」

 

 笑い合う。そんなことはないとわかっているからこそ飛ばせる冗談だ。しかし最も味が想像できる酒だというのは本当らしく、フレーバーテキストには酒の種類、アルコール度数はもちろん、製法、材料になる穀物の品種、果てはどこの湧き水で作られていて、何の木を樽にして醸造しているかまで詳細に書かれていた。

 どこのギルドにも設定魔はいるもんだなあ。ちなみに効果は5分間物理攻撃力5パーセントアップ。うーん、微妙。

 

「色沢良好でつきたての餅を思わせるふくよかな香り、艶やかな飲み口、柔らかな甘みと余韻が……、どういう味なんですかこれ」

「百聞は一見にしかず」

「えっ」

「どーぞ」

「えっえっ」

 

 いつの間にか抜かれていた栓、突き出されたので思わず受け取ってしまった杯にまあまあ一献一献、なみなみと注がれる酒。

 

「気が早い! おつまみまだ来てないじゃないですか!」

「いいからいいから」

「よくない! ていうかちょっと待ってこぼれる! これ絶対入れすぎですよね!」

「えーこんなもんだってー」

 

 杯のふち、表面張力でたゆたゆと酒が揺れる。ぷるぷる震える手。ちょうど指輪をつけてしまったとこだから、種族を理由に断ることもできないし。うわあ、香りだけでくらくらする。毒耐性がないだけでこんなに違うのか。

 

「ああ、もう……!」

 

 やけになって、半分こぼれかけている酒を迎えるように口に含み、飲み下して。

 

 戸惑う、数呼吸。

 

 じっと酒の水面を見つめ、朱雀さんの顔に視線を移し、どう? と首を傾げる彼に、ぼそぼそと。

 

「……その」

「うん」

「実を言うとアルコールってあんまり得意じゃなくて」

「うん」

「さっきまで<美食家(ガストロノミー)>を引こうと思って頑張ってたんですけど」

「けど?」

「けど……」

 

 言うが早いか、杯に残っていた分を、くっと飲み干し。

 刺激に、ぎゅっと目を閉じる。喉を焼く甘い熱、鼻から抜ける艶やかな香り、染み入るような余韻。

 

 半ば睨むようにして目を開き、アルハラ紛いの強行手段を取ってきた人物に、空の杯を突きつけて。

 

「……もう1杯いただけますか?」

「あっはっはっはっは!!」

「何がおかしいんですか!!!」

 

 憤慨する俺、朱雀さんは苦しそうに身体を折り曲げてひいひいとひきつりながら尚も笑う。

 

「だって、モモンガさん、全部、表情に出て……」

「そうですね! 今までは! 骸骨だったので! さぞわかりやすいことでしょうよ!」

 

 ああもう。慣れない酒と羞恥で顔が熱い。プレアデスが戻ってくる前にちょっとでもポーカーフェイスを仕込んでおかないと。無駄かもしれないけど。

 

「で、ご感想は?」

 

 未だ収まらない含み笑いをくつくつと漏らしながら、今度は適量の酒を俺の杯に注いでくれた。ちゃっかり自分の杯にも。まさかの手酌だ。メイドさんが見たら悲しむだろうな。告げ口してやろうか。

 

「ご感想、と言っても……、美味しい、としか。お恥ずかしいことですが」

「良かった。悪いね、無理に付き合わせて」

 

 乾杯、と杯を軽く打ち付ける。きん、と澄んだ音。羞恥でささくれた心が洗われるような。

 少々強引に引っ張られないと新しいことになんて手を出さないのだから、彼の手段は正しいと言えなくもない。

 

 改めて、ちび、と杯の中身をひとくち。辛うじて、けれど作り笑いではない笑みを向けて、朱雀さんに礼を言う。

 

「……いえ。一緒に楽しめたら、とは思ってたので。ありがとうございます」

「それは何より。……あー、おいしい」

 

 でももうちょっと辛いほうが好みかなー。言いながら、もう1本別の瓶を開けようとさ迷う手。ほんとに酒飲みだなこの人。

 

「いいんですか、そんなことして」

「いーの、部屋飲みの醍醐味だよ」

 

 既に蓋は開けられて、中身はなみなみと注がれている。いつの間に最初の1杯を飲み干したんだ。いくら毒耐性があるからって。

 

 

 そして始まる、他愛のない会話。いい歳をした男ふたりの、実に他愛のない。

 

 

 もうちょっと飲むでしょ? そりゃ、まあ。 いやーしかしアルコール添加してないお酒がまだ飲めると思ってなかったなあ。 ……よくわからないですけど、違うものですか、やっぱり。 そうだねえ、現実(むこう)ではほら、材料もそうだけど、水がもう。 あー……。

 

 そうだ、モモンガさんお箸使えたよね? あ、はい、一応。 良かった、結局自分が食べたいものばっかり頼んじゃったからさ。 ……テーブルマナーとか、自信ないんですけど。 できるだけカジュアルにって言ったから多分大丈夫だと思うんだけどな、目黒のサンマみたいなことにならないよう祈っといて。 神話でしたっけ? 落語だよ。

 

 このテーブルクロスとかも、市場で買ったんですか? うん、というより、ぼくの部屋にあるものは基本そう。 へえ、何かこだわりとかあるんですか? こだわりっていうか、こう、細かい仕事が好きなんだよね。 職人が作った、みたいな? うん、ほんとは現実(リアル)で揃えたかったんだけど、今日日手縫いの刺繍布なんて、家と同じ値段するから。 ひえ……。 向こうの壁にかかってるやつが“シルキー”から買ったやつで、木箱で見えないけどあっちの隅にあるのが“ラブ・マフェット”で衝動買いしたやつ、このテーブルクロスは“裁縫倶楽部”で特注した1点もの。 ……“裁縫倶楽部”だけ知ってます、綿花の無限増殖でサーバー落としたとこですよね。 あったねそんなこと。

 

 うっわ……。 どうしたの。 毒消し飲んだら酔いが覚めた……、こわい……。 やったねモモンガさん、いっぱい飲めるよ! やめて!!

 

 

 なんて、下らないやりとりをしながら、瓶を半分ほど空けたころ。扉の外から、入室の許可を求める声。食事を取りに行ってくれたユリとルプスレギナが戻ってきたのだ。

 すぐに許可を出してやれば、失礼します、と部屋に入ってくる2人。

 

「やー、ありがとう、ふたりとも」

「ああ、おかえ、り……、」

 

 つっかえることもなく優雅に木箱を避けながらこちらに向かってくる彼女たちの手元を見て、咄嗟にひとつの感想が浮かぶ。

 

 なにあれ、すごい。

 

 ユリの両手にはまるいトレイ。その上には、ドーム型の銀の蓋。名前がわからないけど、なんかすごいレストランとかで出てきそうなあれだ。

 すごい。正直映画でしか見たことない。あんな仰々しいものに入れられて出てくるなんて、一体何をつまみに頼んだんだろう。つまみって鶏皮とかイカの乾いたやつとかそんなんじゃないの? カジュアルってどういう意味だっけ?

 ルプスレギナに至っては七輪抱えてるし。なに? なんか炙るの? そのミスマッチなんなの?

 

 こちらの疑念は彼女らに届くはずもなく、ひとつひとつ、恭しくテーブルの上に料理が置かれていく。

 ひとりにつき小鉢がふたつ、焼き物皿がふたつ。焼き物の片方はまだ皿に乗っていない。現在、七輪の上でじわじわと炙られている真っ最中だからだ。小さめの魚が丸焼きにされている。なんの魚かはわからないけど、とにかく魚だ。

 

 すべてが机に乗った後、ユリがこれまたひとつひとつ、料理の説明をしてくれる。

 

「こちらご注文いただきました通り、揚げ出し豆腐、ニラのおひたし卵黄添え、焼き茄子、鮎の塩焼きでございます。オムライスはお食事が進みましたら出来立てをお持ち致しますので、もう少々お待ちください」

 

 やばい、味が想像できるものが何一つとしてない。

 そして実物を見なくてもわかる。オムライスだけなんか浮いてる。

 

 しかし、ここから後に引けるはずもないので、とりあえず箸を手に取った。これだけは使えて損はないからって、子供のときに叩き込まれたのがこんなところで役に立つとは。大人になってパック食ばっかりで、ちっとも使う機会なんかないと思ってたけど。

 

 いただきます、と丁寧に手を合わせる朱雀さんに便乗して合掌する。

 あったかいものを食べるのも久しぶりだな……。どれから食べたらいいんだろう。マナーとかあるのかな。

 

 朱雀さんは揚げ出し豆腐に手をつけている。……豆腐ってあれだよなあ、上司と接待で行った居酒屋でしか食べたことないけど、あのなんていうか、どぅるっとして生臭い……。

 ええい! と自分を奮い立たせ、箸で一口サイズに割ったひとかけらを口に入れた。

 

「……は、ふ。……っ、あ、く!」

 

 熱い。すごく熱い。

 左手で口を押さえて、はふはふと息を吐いて熱を逃がす。なんとか飲み込んでお酒をひとくち。

 

「……あれっ」

「い、いかがなさいましたかモモンガ様!」

「おいしい……」

 

 言ってしまってから、はっと気がついた。おいしい、はないだろう、子供か。

 ユリもルプスレギナも、一瞬ぽかんと口を開けた後、それはようございました、と破顔一笑。うう、いたたまれない。……朱雀さん、にやにやしないでください。バレてるんですよ!

 

 ああ、もう。ただでさえ薄っぺらい支配者の仮面がここへ来て剥がれっぱなしだ。こほん、とひとつ咳払いをして、なんとか取り繕うべく言葉を紡ぐ。

 

「……美味かった、と、料理長に伝えておいてくれ」

「はい、畏まりました」

 

 返事をくれたユリは心底嬉しそうににこにこしている。……もういっかあ。食事のときくらいは。NPCも機嫌が良さそうだし。

 

 どうにも気が抜けてしまったので、いくらか穏やかな気持ちで、再び料理に箸を伸ばした。

 

 揚げ出し豆腐。狐色の表面と断面の白の綺麗な対比。今度はふうふうと少し冷ましてからいただいた。

 さっきは火傷寸前でよく味わえなかったけど、つゆの塩気のなかにほんの少し大豆の甘みを感じる。そこに大根おろしと葱の辛味。なんていうか、優しい味がする。

 柔らかいんだけど、どぅるっとしてないし、生臭くない。俺が昔食べたのは一体なんだったんだろう……。

 

 続いてニラのおひたし。濃い緑と卵黄の鮮やかな黄色が目に楽しい。

 あおあおとしたニラの独特な香り。みどりの匂い。ちょっとにんにくに似てるような気もする。ごま油の風味と、少し濃い目の味付けを、黄身の濃厚な旨味が中和していた。

 

 ほんとに焼いただけの茄子。お醤油だけで、と言われたそのままに、シンプルながらも完成された一品。

 焼き目のついた美しい紫。とろとろした食感。ビタミンとかは全部サプリメントで取ってたけど、野菜って甘いんだな。

 ほんとの贅沢って、こういうことなのかも、と少し思った。

 

 さっきまで炭火で炙られていたアユ? の塩焼き。聞けば川で捕れる魚なんだとか。魚なんて、ゲームの外では切り身で泳いでるのしか見たことないけど、海と川では味が違うらしい。

 ぱりぱりの皮目に歯を立てれば、ざくりと小気味の良い音。身は淡白だけどしっとりしてて、じゅわじゅわと旨味がにじみ出してくる。

 

「あー……」

 

 やばいな、これ。幸せだ。堕落しそう。

 理性を振り絞ってできる限りゆっくり食べてるけど、もうまったく取り繕えてる気がしない。だって杯を干す度にユリが酒を注いでくれてるんだけど、いつからそれが行われてるのか全然記憶に無いし。

 

 またこれがどれも酒に合うのだ。酒飲みが酒を飲むためにリクエストしたメニューなんだから当然なんだけどさ。

 正直酒のつまみって油もののイメージが抜けなくて、もっとギトギトしてる印象があったから、個人的にはこのくらいが落ち着いてて良い。

 

 ほとんど無言で食べ進めて、皿の上がすっかり片付いた頃。ひとつの料理が仰々しく持ち込まれた。

 そして、下げられてゆく空き皿の代わりに追加されるスプーン。

 お、おお、まさか、これは。

 

「お待たせいたしました、こちらオムライスでございます」

 

 きたよ。なんかもうすごい。こわい。

 

 釣鐘型の銀の蓋(クロッシュというらしい)が開け放たれ、豪快な湯気と共に、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てているオムライスの姿が顕になる。

 ……いや、ほんとすみません。手間をおかけしまして。

 

 何をどうやったらここまで綺麗に焼けるのか、つるりとした表面の薄焼き卵がケチャップとのコントラストで黄金色に輝いているようだった。

 敢えて下まで卵で包まず、鉄板と米が接するよう配慮してあるのだろう。ケチャップが焦げる香りに、再び食欲をそそられてしまう。

 

 ちら、と正面、朱雀さんの白い皿には、とろとろとオムレツ状の卵に茶色いソース。あー、あれがデミグラスか。野菜がたくさん煮込まれた、甘くて香ばしい匂いがする。

 

「……すごいことになってるね、モモンガさんの」

「あ、ああ、うん……」

 

 想定外すぎて支配者ロールが全く追い付かない。もういいや、知らない。

 

 なんとなくもう一度、いただきます、とお祈りして、スプーンで一口分を切り取りにかかる。橙色に染まった具だくさんの米。見ただけで絶妙な炊き加減だとわかる。これ絶対おいしいやつだよ……。

 料理人の鋭意努力は無事実ったようで、きれいなお焦げがついてるのに鉄板に張りついてない。すごい。

 

 期待に胸を膨らませながら、ひとくちめを、ぱくついて。

 

「…………?」

 

 ……あれ?

 

 オムライスって、こんな味だったっけ?

 

「……モモンガ様?」

「ん? ああ、いや、うまいな。うん」

 

 おいしい。すごくおいしい。

 間違いなく人生で一番美味しいものを食べているという確信がある。

 

 卵はパサパサしてないし。

 肉は固くないし。

 米はねとねとしてなくて、べたべたと甘くもない。

 具もたくさん入ってて、本来けっこうジャンクな食べ物のはずなのに、上品な味がする。

 

 だけど、なにか……。

 

「モモンガ様、何か不都合がありましたら、遠慮なく仰ってください」

「いや、不都合は何もない」

 

 何もない、んだけど。

 なんだろう、何かが胸につっかえてる。

 

 なにが?

 

「モモンガさん、最後にオムライス食べたの、いつ?」

 

 胸の中をかりかりと引っ掻く違和感の原因を探っていた俺に、朱雀さんから声がかかる。

 

「最後……?」

 

 最後。最後にオムライスを食べたのは、いつだった?

 少なくとも社会人になってからは食べてない。名前のある料理を意識して食べることがなくなってしまったから。

 

 なのに、咄嗟に聞かれて、最初に答えてしまうくらいには、印象に残ってる。

 

 もっと昔。まだ、家に帰るとき、明かりがついていた……。

 

「ああ、そうか」

 

 思い出した。

 

 11歳の誕生日。お誕生日は何がいい? と、聞かれて答えた、教科書にたまたま載っていただけの。

 

 当時揃えられるだけの材料で作ってくれたんだろう。卵はパサパサで、肉は噛みきれなくて、べたべたと甘いだけの赤い米がいつまでも口のなかに違和感を残していた。

 

 それでも、世界一美味い食べ物だと、信じて疑わなかった。

 

 ……まだ、母が、生きていた頃の話だ。

 

「モモンガ様、失礼ながら申し上げます」

「うん?」

 

 ユリの固い声が、思い出の底から意識を引き上げる。決死の覚悟を感じさせる瞳が、眼鏡の奥で輝いていた。

 

「モモンガ様が、どうしても、と記憶に留めておられる一品があるように見受けられます。それを配慮できなかったのは我々の失態。ですがどうか、ボ……、私どもに、その一品の再現をお許し願えませんでしょうか」

 

 俺の返事を待つ彼女の表情はいっそ悲痛なほどで、主の喜びのために、心血を注ぐ決意がそこにはあった。

 

――もういっかい! もういっかいだけお願いします! モモンガさん!

 

 それで思い出したのは、ある女性の姿。俺を真剣に説得するやまいこさんも、こんな顔をしていたのだろうか。そんな彼女の表情を直接見ることは、結局なかったけれど。

 

「……ふ、ふふ、ははは」

 

 懐かしくなって、嬉しくなって。ついつい笑いだしてしまった俺を、3対の目が不思議そうに見つめていた。

 ああ、すまない、と手を振って、ゆっくりと言い訳の言葉を組み立てていく。

 

「その……、私の、産みの親が作ってくれた料理でな」

 

 モモンガ様の!? と女性2人には驚かれてしまったが、気にせず続ける。

 死の支配者(オーバーロード)だって誰かの骨なのだから、産みの親くらいいるだろう。間違ってはいない。

 

「恥ずかしい話だが、その頃の私は決して裕福とは言えない身分だった」

 

 これも嘘は言ってない。現実(リアル)では今も、がつくだけで。

 

「材料もろくに揃わなくて、味も酷かった。あんなものをお前たちに作らせるわけにはいかない」

 

 ここだけは、完全に真実。

 そもそも材料が揃わないだろう。汚染された土地で、けれども多少は食べられるものを、と探してようやく手に入ったという、粗悪でかけがえのない食材なんて。

 

「ああ、でも」

 

 言葉を区切る間も、保たれる静寂。嘘ではない、が、完全に本当のことを言っているわけでもない。

 隠さなければ話もしてやれないことを、少しばかり申し訳なく思った。

 

「あれに勝るものはなかったのだな、と、今ようやく思う」

 

 生きるのに必死で。忙しくて。

 思い出せるということさえ忘れていた、埃だらけのものだけど。

 

「……思い出には勝てない、ということにしておいてくれるか?」

 

 半ば懇願するようにユリへと視線を向ければ、彼女はきゅっと唇を噛み締めて、深々とお辞儀を返し。

 

「畏まりました、差し出がましいことをしてしまい、申し訳ありません」

「お前のすべてを許そう、ユリ・アルファ。その気持ちこそが、私は嬉しい」

 

 いつかすべてを話すときに、俺のことも許してくれるか、とは、とても言えなかった。

 

 いつか、なんて、いつ来るんだか。

 

 

 

 そんな悶着とも言えないやり取りがあってしばらく、穏やかに談笑しながら食事を続け、オムライスの3分の2ほどが胃のなかに消えた頃。

 アルベド様とデミウルゴス様が入室の許可をお求めです、と、一般メイド・リュミエールが報告をよこしてきた。

 

 アルベドとデミウルゴス? なんだろう、何かあったのかな。

 ともかくここは朱雀さんの部屋なので、入れるか否かを決めるのは彼だ。すっかり食べ終わり、食後酒へと移っていた朱雀さんは、んー、と少し考えるような素振りを見せ。

 

「食事中でも良かったら、と伝えてくれる? こっちは入れてくれて構わないから」

 

 と、軽く許可を出す。

 

 まもなく2人は恭しい挨拶と共に入室し、部屋の様子に少々面食らいながらも、なんとかこちらと会話ができるポジションを確立した。俺も彼らの方に顔を向ける。すると、きょとん、と目を見開くアルベドと視線がぶつかった。なんだろう、なんだかやけに不思議そう……。

 

 ……待て。これ、まずいんじゃないのか?

 

 プレアデス達には、俺が人間の姿をとっていることが朱雀さんから伝わっていたんだろう。しかしアルベドとデミウルゴスがそのことを知らなかったとしたら。

 単純な偽装なら見破ってくれるだろうが、現在装備しているのは転生の指輪。根本から種族を変えてしまうアイテムだ。100レベルのNPCと言えど、看破できるかどうか。

 

 考えれば考えるほど今の状況がろくでもないものに思えてくる。

 だって考えてもみろ。見知らぬ人間が朱雀さんの部屋でオムライスを貪ってるとか、いきなり攻撃されてもおかしく――。

 

「まあ、モモンガ様! 仰ってくださいましたら私自ら“あーん♡”をさせていただきましたのに!」

 

――あっ、大丈夫だったみたいですね。良かったです。

 

 そういえば、死の支配者(オーバーロード)のときと同じローブを着てるんだった。そりゃわかるか。

 

 両手で口許を押さえて、ハの字に眉根を寄せ、ぱたぱたと羽をはためかせるアルベドの周りには、いったいいくつのハートが飛び交っているのやら。

 

 ほら、デミウルゴスが眉間揉んでるじゃん。頭痛を堪えてるじゃん。

 もしかしてこれ、平常運転なのかなあ……。ごめんね忙しいのに……。

 

「……遠慮しておく。しかしよくわかったな、私だと」

「たとえお姿を変じられたしても、その溢れるご威光は隠すことなどできません」

 

 もちろん、普段のお姿の方が素敵でいらっしゃいますが!

 

 アルベドは目にハートを浮かべながら普段の俺がどんなに素晴らしい存在か主張し始めた。うん、ありがとう……。ちょっと複雑だけど嬉しいよ……。

 

 ……? なんだ? 胸がざわざわする。食べすぎたかな。

 

「それ、もうちょっと詳しく聞いていい?」

 

 先ほどまでより些か鋭い声で、朱雀さんはアルベドとデミウルゴスに問いかけた。かなり真剣な様子を見て、アルベドはすっと真面目な顔になり、デミウルゴスと共に居住まいを正す。

 

 俺も一度指輪を外した。あまり戸惑っている表情を見せるのは良くないし、本人にその気がなくても、デミウルゴスのスキル(支配の呪言)がうっかり効いてしまうかもしれない。

 

「状況が状況だから、まずモモンガさんで間違いないと思ったんだろうけど。でも、そういう確信の持ち方じゃなかったよね」

「仰る通りでございます、死獣天朱雀様。我々はこの部屋に入った瞬間、いえ、入る前より、ここにいらっしゃるのがモモンガ様と死獣天朱雀様だと確信しておりました」

「……ふうん?」

「ほう」

 

 曰く。

 NPCたちは、お互い、あるいは「至高の41人」であるかどうかを「気配」で判断することができる。

 

 その感覚はスキルや魔法の有無、あるいはレベルの高低に関わらず、アインズ・ウール・ゴウンに関わる者ならば、階層守護者から一般メイド、果てはシモベの1体1体に至るまで、誰しもが持っているものだ。

 

 完全不可知化までいけば探知することは流石に不可能だが、多少の変装や偽装ならば問題なく看破することができ、例えば「至高の41人」と同じ種族、同じ装備、同じクラス構成、習得している魔法やスキルが完全に同一であったとしても、アインズ・ウール・ゴウンの者ではない、と即断することができる。たとえ距離が開いていたとしても、だ。

 

 それほどまでに「至高の41人」という存在は絶対的な支配者のオーラを放っており、それを感じ取れることはシモベにとって無上の喜びなのだ、ということまで語ってくれた。

 

 ただ、とデミウルゴスが前置きし、頭を下げる。

 

「申し訳ございませんが、ナザリックの外に関してはどこまで効力を発揮するのかわかりかねます。調査につきましては、今しばらくご猶予をいただければ、と」

「ああ、お前に任せよう。結果が出たら教えてくれ」

「畏まりました。微力を尽くします」

 

 ……ふむ、もしかして、すごく良いことを聞いたんじゃないだろうか。

 種族を根本から入れ換えるような装備を着けていても、彼らにはわかるという。なら、もしも異世界に転移してきてしまったギルドメンバーがいたとして、外に怯えてなんらかの方法で偽装していても、彼らに見てもらえばわかるということだ。

 こちらもあまり大っぴらに動くわけにはいかないし、これなら、間違ってお互い攻撃しあう、なんて悲劇も起こらなくて済みそうだな。

 

「……希望が見えてきた、か」

「希望、でございますか?」

「ああ、僅かながら、な」

 

 おお、と一緒に感動してくれる2人。

 そこに「ところで」と投げかけられるひとつの質問。

 

「何か報告?」

 

 はい、と返事をしたのはアルベドだった。彼女はまずデミウルゴスに発言を促す。軽く一礼した後、防衛の責任者は口を開いた。

 

「ナザリックの隠蔽作業が完了致しましたので、そのご報告に」

「おお、早いな!」

「……ぇ?」

 

 ん? 今かすかに戸惑う声が聞こえたような。

 気のせいかな。

 

「霧に紛れて少々強引に作業を進めさせていただきました。そこで僭越ながら、死獣天朱雀様にお願いがございまして」

「……なに?」

「霧の中心にナザリックがあるというのが少々気掛かりでして。できれば召喚獣の位置をずらしていただけたら、と愚考致します」

「ああ、はいはい」

 

 えーっと、どのへんがいいかな、と中空に視線を漂わせる朱雀さんに、アルベドが口を挟んだ。

 

「司書長より伺ったのですが、死獣天朱雀様が地図を作成してくださっている、というのは事実なのでしょうか」

「……あいつめ」

 

 朱雀さんは何故か苦々しげに毒づいて、インベントリに手を突っ込んだ。なにか不都合がおありですか? と続けて尋ねるアルベドに、だって……、とまるで子供のような返事。

 

 ああ、でも、そうかあ……。自分が作った地図を他人に見せるって緊張するよなあ。ましてやこの2人なら尚更だ。

 

「ぼくが、じゃなくてさ。あんまり細かくないよ、これ」

 

 丸まった地図はアルベドの手に渡り、製作者の思惑むなしくするすると紐解かれる。

 拝見いたします、と、手渡された地図を2人は一目見て、殆ど同時に眉をひそめた。

 

 ええ、なに、こわい。他人事なのに胃がきりきりする。

 

「……度々申し訳ありません、もうひとつ、お伺いしても?」

「どーぞ」

「この短期間でこの精度、どのように情報をお集めになられたのですか?」

「それ褒めてるの? 貶してるの?」

「賞賛、とお受け取りいただければ」

 

 あ、そっちか。良かった。

 ふふふ、そうだろう、すごいだろう。ついついギルメンの自慢をしたくなるのをぐっとこらえて、会話の行く末を見守る。

 

「別に、普通のことしかしてないよ。空から見たり、人がいるところで情報集めたりとか」

「……なるほど。ありがとうございます」

 

 ……案外すぐ終わった。

 なにが? なにがなるほどなの? 何に納得して引き下がったの?

 

「ところで死獣天朱雀様」

「まだ1匹しか死んでないんだけど」

「先の発言を覆す愚行、許されるものではございません。ですが何卒ご容赦をいただければ、と」

「でもなあ……」

 

 俺がぐるぐると目を回している間に、デミウルゴスと朱雀さんでぽんぽんと会話が進んでいく。やばい、このままじゃ地蔵になってしまう。

 

「……すまない、私はその話を聞いていただろうか?」

「そういえば言ってないね。全部の八咫烏が死んだらデミウルゴスに索敵権を譲るっていう話」

 

 なんだけど、と少し呆れたように朱雀さんは続けた。

 

「彼が我が儘言うのさ。とっととこっちに寄越せって」

「ああ、なるほど」

 

 わがまま、という言葉を聞いて、デミウルゴスは困ったように少し笑う。どうも手元に索敵の仕事がなくて不安な様子。一般メイドでさえちょっと過剰なくらい勤労精神に溢れているのだから、責任者の立場であるデミウルゴスの意欲も相当なものなのだろう。先ほどから静観しているアルベドもどこか心配そうだ。

 

 蜥蜴人(リザードマン)の村のことを聞いて、周囲に大した敵がいないことも耳に入っているんだろう。このままでは、八咫烏が全滅するのはいつになることやら、と。上司のペットが死ぬのを待つのも微妙な気分だろうしなあ。

 

「朱雀さん」

「攻性防壁がなあ……」

「八咫烏では入りにくい洞窟や地下空間があっただろう。そこを任せてみたらどうだ?」

「……そう、だね。うん、わかった。じゃあ地図には書いてないんだけど、大体この辺り。編成いくつか考えといて」

 

 仕事が増える、と聞いて顔を明るくする2人に内心ちょっと引きつつ、とりあえずシモベには休みを取らせるようにと伝達を頼んだ。こっちに来てからというもの、働き詰めで苦労をかけているから、と労いの言葉を付け加えて。

 イビルツリーの討伐に参加したメンバーは、命令に従い帰ってきてから十分な休息を取っていたので、それと交代する形で休ませる、とアルベドが提案してくれた。一瞬デミウルゴスが恨みがましげな視線をアルベドに向けた気がしなくもなかったが、休めるときには休ませたいのでそっと黙殺する。でないと俺が休めないからね!

 

 スレイン法国での一件も簡単に説明する。はじめの内は顔色を変えていた2人だったが、後々部隊がこちらにやってくるのでそれまで待ちたいと伝えると、またもや「なるほど、そういうことですか」と勝手に納得してしまった。こっちがダメージを受けそうなので深くは追及しなかったが、ほんとに大丈夫なのかなあ……。

 

 それからナザリックに関しては何ら異変はないこと、侵入者の影も特に見当たらないこと、新しく発覚したことなどの報告をいくつか受けて、双方特に何も伝えることがなくなったところで、そろそろお開き、ということに。

 それでは、と彼らが外へ出て行こうとしたところで、朱雀さんが声をかけた。

 

「ああ、ちょっと待ってデミウルゴス。外に行く用事ある?」

「何かございますか?」

 

 きりっとした顔からは、なくても作るよ! という意思がありありと見てとれる。

 すると今までどこに隠れていたのか、朱雀さんとずっと一緒にいた八咫烏がデミウルゴスの肩にとまった。

 

蜥蜴人(リザードマン)の村に行ったとき、それ置いてくるの忘れちゃってさ。ナザリックの地表からでいいから、外に放してきてくれないかな」

「畏まりました。そのように」

 

 快く引き受けてくれた悪魔のとなり、もうひとりの悪魔がじっとこちらを見ている。

 ……私には何かないのか、という目なのだろうか、あれは。

 

 伝えなきゃいけないことは確かにあるんだけど、と、一度朱雀さんの方へと視線を逸らせば、彼は案の定楽しげににやついている。味方なんていなかった。くそう。

 

 ええい、どうにでもなれ。

 そんな想いでこほん、とひとつ咳払いをして。

 

「あー、アルベド?」

「なんでございましょうか、モモンガ様」

 

 涼しげで妖艶な微笑み。傾国の美女そのものの甘やかな声に一瞬たじろいだものの、意を決して言葉を発する。

 

「その、もうしばらく、時間がかかる。待っててもらえるか」

 

 何が、とは言わなかった。わからなければそれで良いと思った。

 

 ぽかん、と虚を衝かれたようにぱちぱち瞬くきんいろの瞳。

 やがて、言葉の真意を理解したのか。見る見るうちに、ぱああああっ! と輝くような笑みへと変わり。

 

「はい! はい!! いつまでもお待ちしております!!」

 

 と、夢見る乙女そのものの輝きを放ち、彼女はデミウルゴスと共に部屋を去っていった。

 

 

 

「持っててくれて良いのに」

 

 食事も終わり、もう一度完全に人払いした部屋の中、朱雀さんは掌の指輪を眺めながら呆れたように溢した。

 色々あってなんだかどっと疲れてしまって、机の上に突っ伏したまま返事をする。

 

「……いえ、いつでも食事ができるとなると、ダメになりそうで」

 

 ここのところ、ただでさえ気が緩みがちになっている。ちょっと意図して引き締めないと、堕落の底はきっと深い。

 

「そっか。まあ、いつでも言ってよ。付き合うからさ」

「はい、ありがとうございます」

「あ、そうだ。モモンガさん、お願い事決まったんだけど、いい?」

 

 お願い事? <星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)>のことだろうか。

 俺で何か役に立てるなら、と机から身体を引き剥がした。

 

 

 

 

 





キリの良いところ、と思いながら書き進めてたらなんかめっちゃ長くなってしまった。
いつも以上に勢いで書いたので色々忘れてるような気がしてならない。


次回は現地の人々+α。2月4日更新予定です。
今月中にカルネ村は無理だったよ……。でも次の次です。しばしお待ちを。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

賽の女神は今日も嗤う

前回までのざっくりしたおさらい

ナザリック
・異世界へ転移
・攻性防壁を仕掛けた八咫烏(計9匹)を各地に飛ばす
・ついでに霧も出しとく
・リザードマンの集落を襲ったイビルツリーを撃破
・リザードマン達の崇拝もGET
・周辺諸国の大まかな情報入手
・隠蔽工作も無事終了
・スレイン法国の監視に八咫烏が引っかかって攻性防壁発動、しかし召喚獣は撃退される
・色々お話が聞きたいからこっちに来てる特殊部隊(ニグンさん)を待つことに←いまここ

カルネ村
・霧が出てなんも見えねえ
・火が使えねえ
・なのでエ・ランテルに助けを呼びに行こう←いまここ

イビルアイ
・なんか怪しい鳥がいたから追いかけよう
・なんか怪しい霧が出てるこわい
・なんか魔樹の竜王復活した
・助けてツアー!←いまここ


ここまでの動きが現地の人々にどう関係してるかというのが今回のお話

視点があっちこっちステーションしますので分かりにくいところなどありましたら教えていただければ。



 

(ナザリック転移より31時間後、エ・ランテル)

 

 

 

 鳥の鳴き声が人のざわめきに塗り替えられる時間帯、蒸してきたとはいえ窓から射し込む陽はやわらかく、朝方のまだ涼しい風が吹き込んでいる応接室はそこそこ快適だ。

 冒険者組合で出される茶は今日もまあまあ美味い。時間が時間だから、朝淹れたばかりの出涸らしじゃないやつがいただけるだけ、とも言えるが。

 

 テーブル挟んで対面に座ってるのは金髪の坊っちゃんと二人の村娘。バレアレ薬品店の跡継ぎ、ンフィーレアと、カルネ村から来たという姉妹だ。

 それぞれ表情は固く、姉の方はガチガチに固まっちまってるが、妹の方は物珍しげにキョロキョロとしながらも堂々としたもの。肝が据わってることだ、と胸中で感心する。ガキは別に嫌いってわけじゃあない。大人しくしてる分には、っつう前置きがつくにせよ。

 そしてはす向かいの席には見知った男、プルトン・アインザック。組合長自ら出てくる程度には深刻な依頼、ということだ。

 

「頼めるか、イグヴァルジ君」

「……要するに裏取りしてこい、ということで?」

 

 組合長の頷きに、もう一度手元の依頼内容に目を通した。

 

 カルネ村近郊に深い霧が出た。この季節にはあり得ない濃度の上、太陽が高く昇っても一向に晴れる気配がなく、さらに霧の中では火がつかない。

 以上のことから自然に発生したものとは考えにくく、何かしらの魔法によって生み出されたものである可能性が高い。

 よってこの濃霧について調査を依頼する。範囲、性質、原因、と情報量に応じて報酬額は変化し、また、調査に向かった際既に霧が晴れていたとしても、幾らかの金銭が支払われる、と。

 

 裏取りは組合自体がレンジャーを集めて現場に放り込むことも多いんだが、フォレストストーカー()が頭目をやっている以上、こういう事前調査の依頼が来るのは珍しいことではない。調査対象が完全に未知数であるのなら、なおさらミスリルクラスの俺たちにお鉢がまわってくる。

 大抵のことはこなせるくらいの実力と、情報の精度は勿論、引き際を見誤らない、嘘をつかない、報酬に後から文句をつけない、大事なのはここんところだ。

 それができない冒険者がいかに多いか、っていうのは、まあ嘆きどころだな。

 

 で、肝心の中身について。

 依頼としては悪くない。場所も近いし、報酬の額も適正。稼ぎがてら王都の方まで向かおうと思ってたところだから今日にでも出発できる。……普段からエ・ランテルを拠点に置いてる身としては、「霧」っていうのが気にならなくもないが。

 

 逡巡する様子を見せた俺に、対面に座っている連中が揃って頭を下げてきた。

 

「お願いします、どうか」

「お、お願いします!」

 

 バレアレの坊ちゃんの表情は今だ固く、隣の嬢ちゃんは涙の滲んだ目をぎゅっと瞑っている。情に流されてやるほど綺麗な心はしちゃいないが、俺もチンケな村の出だから、火も使えない霧の中で暮らしていく農民の今後くらいはわかるつもりだ。

 離れられねえんだよな、土地ってのは。まだ駆け出しの頃、ゴブリンやらオーガやらに参ってる村へ討伐に出かけたことは何回もあるが、どんだけ村に危機が迫ってても、連中には全部を捨てて逃げるっていう選択肢ってのがない。

 俺みたいに村を捨てて出てきた奴から見れば滑稽に映るが、慣れ親しんだ拠点がなくなる不安というのは、想像するだに余りある。

 

「カルネ村から買い取っている薬草はとても上質なものなんです。あれがなければ、ポーションの質は大きく落ちることになる」

 

 まっすぐに姿勢を正したお坊ちゃんがそう言った。はきはきとした声には深刻な響きが滲む。

 ちょっと驚いた。てっきり隣の嬢ちゃんとデキてるから依頼に名を連ねたのかと思ってたが、実利方面でも理由があったらしい。

 ふむ、と一息。エ・ランテルに薬師は多くいるが、ちょっと名の知れた冒険者なら、バレアレのポーションと他のポーションにどれだけ性能の違いがあるか文字通り身に沁みて理解している。

 

「まあ、なんだ。受けるつもりではいるんだが……」

 

 表情を明るくする坊ちゃん達を横目に、組合長と視線を合わせれば、彼は顎を撫で、低い声でひとつ唸った。

 

「カッツェ平野、か」

 

 再び部屋に重い沈黙。無理もない。この辺りに住む人間なら誰でも行き着く思考だ。

 

 カッツェ平野の霧と言えば、年がら年中大量のアンデッドを内包している特殊な霧で、王国と帝国が戦争する日にだけ晴れるもんだから、霧自体に意思があるんじゃないか、とまことしやかな噂まで流れてる。

 

 カッツェ平野の霧と、平野に発生するアンデッドにどのような関係があるのかは、今のところわかっていない。

 霧の外にアンデッドの軍勢が襲い掛かってきた、なんていう話は聞いたことないが、程近い場所にあるエ・ランテルからすれば決して無視できない可能性のひとつ。アンデッドが人間の期待や理屈を汲み取って動いてくれる、なんてことは寝物語にもならねえ笑い話だ。

 当然そこのところは歴代の都市長を主導に、もしもアンデッドが出てきたとしてもそれなりの戦はできるよう、常に備えは整えているはず。

 

 だが、それが二正面となると、どうなるかわかったもんじゃない。もしかすると俺たちの調査が、エ・ランテル、ないしは周辺国家の命運をわける鍵になるかも。

 これはある意味じゃチャンスかもしれないな、と、内心でほくそ笑み、怯えた様子のお嬢ちゃんに告げる。

 

「条件を確認するぞ。俺たちの仕事は例の霧の調査。いいか、あくまでも調査だ。可能なら原因も排除するが、すぐには村に帰れないと思っておいた方がいい」

「……はい」

 

 不安げに返事をするお嬢ちゃん、それを心配そうに見つめるバレアレの坊ちゃん。肩のひとつでも抱いてやれよ、と言いたくもなるが、そこまでサービスしてやる義理もない。せいぜいがんばれ、若者よ。

 

「トブの森に原因があるとわかったときも撤退する。そのときにはもうどうしようもないからな。……村を捨てる覚悟もしておけ」

「そんな……」

「……エンリ」

 

 唇を噛んで俯く気持ちもわかるが、トブの大森林はモンスターの巣窟だ。カルネ村の近くは森の賢王とかいうモンスターの縄張りだなんて話も聞く。

 森の中まで霧に覆われているのなら、深追いどころか足を踏み入れることすら危ない。

 

「まあ、そうなったら俺らよりも上のクラスも含めた討伐隊を組むことになるだろうよ。安心しな」

「そのときは魔術師組合の方にも声をかける。どうも只事じゃないようだからな」

 

 まだ村娘の証言だけで何もわかっちゃいないだろうに、組合長の面はやけに真剣だ。長年冒険者をやってきた勘というやつだろう。意外と馬鹿にできたもんじゃない。俺だって、理屈のわからない自分の勘に助けられたことが何度もある。

 

 それから、いくつかの細かいことを確認し、お互いの同意を得たところで、早速チームメンバーに説明しに戻ろうと、席を立った。

 

「それじゃあ、朝のうちに発つ。何もなくても1週間後には戻るってことで」

「ああ、すまないな。頼んだ」

 

 部屋を出る直前、ちっこい方の嬢ちゃんと目が合ったので、安心させるように微笑んでやる。

 

 “英雄”ってやつぁ、子供に優しくなくちゃならねえからな。

 

 

 

 

 

「とりあえずは事前調査に来ると思うんだよね。レンジャーの部隊とか」

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より37時間後、バハルス帝国首都・アーウィンタール)

 

 

 

 本格的な夏はまだ迎えていないにせよ、太陽が頂点に来ればそれなりに暑い。魔法具で空調を効かせたこの部屋には関係ないことではあるが、雨が多いこの時期は公共事業が滞りやすいのが悩みどころだ。

 腐った貴族の大部分は粛清を完了し、後は国の発展へと全力を傾けられる……はずだったのだが、問題というものは意識していないところから次から次へと湧いてくるものらしい。

 

 ()()が持ち込まれたのはつい先ほど。午前中の公務も終わり、一息いれるためにペンを置いたまさしくその瞬間のことであった。

 何かと間が悪い人生であるのは自覚している。祖父の代から準備を続けてきた計画を実行に移さねばならないときに産まれてきたところから既に始まっていたのだろう。どうも私という人間は大きな問題に直面しやすい性質であるようだ。

 とはいえ今日のこれは、常日頃の、人間関係という汚泥を凝縮し煮詰めた泡から這い出てきたような厄介事に比べれば随分とマシな部類と言えようが。

 

「で、それは?」

 

 兵に抱えられて持ち込まれたのはひとつの籠。正確には、籠の中の鳥である。深窓の令嬢に使う比喩でもあるが、今目の前にあるのは文字通りのそれだった。

 真っ黒な翼と体躯。三本足に紅い瞳。肩に乗せられる程度の、クアランベラトに良く似た鳥だが、そこらの獣にはない落ち着きを感じる。厳重に魔法具で封印を施された籠が不釣合いに思えるほどだ。

 

「中庭をうろうろと飛んでいたので捕まえたのです。その場で処分しようという流れに、兵の間ではなったのですが……」

「私が待ったをかけましてな」

 

 至極真っ当なことを述べる兵に続いて、豊かな白髭を撫でながら、帝国が誇る魔法詠唱者、フールーダ・パラダインが答えた。

 

「どうも魔法的な力を有しているようで」

「どこぞの召喚獣か?」

「恐らくは」

 

 ふむ、とひとつ首を傾げ、改めて籠を観察する。鳥はこちらをじっと見つめたまま微動だにしない。

 あるいは何かの罠という可能性もある。私の命を狙うものは帝国にも、周辺諸国にも数多存在することだろう。じいとてそのことは百も承知のはずだが。

 こちらの考えを読んだかの如く、じいは懐から小さな紙切れを取り出した。

 

「こやつが、翼の中からこのようなものを取り出しましてな」

 

 呪いの類はかけられておりませなんだ、と、こちらに手渡す。

 そこに書かれていたのは、王国語で「言葉」を示す単語。辛うじて読むことができたが、お世辞にも綺麗とは言えない。そう、まるで、獣か何かがペンを咥えて書いたような。

 ……まさか。

 

「帝国語を身に付けたい……、と?」

 

 獣が答えるわけでもあるまいに、と半ば冗談めかして問うた先、黒い鳥は当然のように、こくり、と頷いた。

 思わず目を見開くと同時、ざわ、と周囲がさざめく。このような小さな獣が人語を解し、文字を操るなど。いや、まさか、偶然に違いない。懐疑と驚嘆のざわめきの中、にやりと笑うじいと視線がぶつかった。

 ……なるほどな。既にいくつか実験を終えていて、確信を得ている、ということか。

 

「面白い、教えてやれ」

「へ、陛下!?」

「鳥に、でございますか!?」

 

 家臣達の戸惑いを、フールーダが一笑で切り捨てる。そこで何人か気付いた者もいたようだ。

 

「それの向こう側に、操り手がいるんだろう。恐らくは、王国民の」

 

 崩れ行く国から逃げ出したいと願っている魔法詠唱者(マジックキャスター)か。

 あるいはその実力を売り込みたい冒険者か。

 何らかの理由で動くことができないようだが、それは追い追い聞いていけば良い。

 

 そんなことを考えていると、文官のひとりが険しい顔で問うてくる。

 

「王国の罠、ということは?」

「このくらい迂遠な罠を張れる連中なら、私はもっと楽をさせてもらっているだろうよ」

 

 どっ、と部屋に笑いがおこる。

 油断をしてやる気は毛頭ないのだが、連中の愚かさときたら、こちらが想定する遥か下を潜り抜けてくるものだから、逆に予測がつかない。普段から悩みの種であることは確かだった。

 

「それに、このような芸当ができる獣を召喚し、寄越してくる実力の者ならば、もっと直接的に私を害する力を持っているはず。そうだな、じい」

「まこと、その通りでございます」

 

 フールーダの瞳に鋭い光が宿る。まだ見ぬ実力者への期待か、あるいは対抗心か。

 

 こちらとしては、向こうにどのような意図があろうとも、今は一人でも多く優秀な人材が欲しい。

 少なくとも王国語が扱えて、これから帝国語を学ぶ気概があるということだ。

 罠というのならそれはそれで面白い。よほど引き抜きがいがあるというもの。

 近ごろ阿呆の相手ばかりで少々疲れていたのだ。たまには知的な争いをしてみたいと思うのも無理のないことだと思うのだが。

 

 私が今あちこちから人材を引き抜こうとしているのは家臣達も了承の上。そういうことならば、と少々呆れたように今後の対策を練ってくれている。かつて私が戦場でガゼフ・ストロノーフを勧誘したときと同じ表情だった。

 

 とりあえず、万一にも危害を振り撒かれることのないよう、離れで厳重に保管した上、翻訳家を志す若い文官に相手をさせる、ということになった。獣相手に本気で言語指導ができるのなら、さぞ頭の柔らかい翻訳家が誕生することだろう、と本気か冗談かわからない期待をかけながら。

 大事をとって、洗脳対策だけは怠らぬようにとフールーダから再三言いつけられて、来たときと同じように籠を抱えたまま、兵は退室していった。

 

 終わってみれば騒動とも呼べない代物だったが、と、背凭れに体重を預け、机上で指を組む。

 久方ぶりの楽しみに、知らず喉奥から笑みが溢れた。

 

「さて、どう転ぶことやら」

 

 優秀な味方となり得るか。

 はたまた敵であることを望むのか。

 たまには賽を振るのも悪くはない。そう思った。

 

 

 

 

 

「いやー、看破の魔法かけられなくて良かった」

「大惨事になるとこだったよね」

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より41時間後、スレイン法国・土の巫女の間)

 

 

 

 かちかちとなにかが鳴る音。自分の歯の音だ。極限までの恐怖を感じると、人は心を置き去りにしてしまうらしい。がたがたと自分の身体が恐怖に震えるのを、どこか俯瞰した視点から感じていた。

 尻餅をついた床はじっとりと塗れている。ずりずりと可能な限り後退り、もはや背中に張り付く壁。逃げ場はもう、どこにもない。

 

 採光のために備え付けられた高い位置の小窓からは、ぬるい空気と血のような夕陽がひたひたと流れ込んできていた。

 

 一体なんだ。これはどういうことなんだ。

 私たちは、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフの抹殺指令を受けた、陽光聖典隊長ニグン・グリッド・ルーインを監視している最中だったはず。

 

 これは、これはいったいなんだ?

 いま、目の前にいる()()は、果たしてなんだというのだ!?

 

 心の叫びを聞き取ったか、みちみちと音を立てながら、()()蛞蝓(なめくじ)の歩みを思わせる速度で、のろのろとこちらを振り返る。

 少しずつ、少しずつ。断頭台に上がる死刑囚ですらもうすこし潔いことだろう。あるいは甘い菓子を惜しみながら舐め続ける童のようでもあった。

 

 既に部屋の灯りはかき消えて、光源というには心許ない幽かな夕日が射すばかり。ほとんど闇に覆われてしまっているにも関わらず、()()の輪郭ははっきりとこちらの目に焼きついてくる。

 

 大きさはビーストマンほど、一見すれば、ヒトからそう離れた生き物でない。そう錯覚した精神に、薄すぎる胸板と長すぎる手足がヒビを入れる。

 その全身は濁った夕焼けに照らされてぬらぬらと輝き、ぼこぼこと沸き上がる皮膚からは魚が腐ったような匂いのする液体を絶えず滴らせていた。

 

 湖に身を投げた女のような長く汚ならしい黒髪は、よくよく見れば一本一本がずるずると蠢く触手になっており、獲物を捕らえんと這いまわっている。

 

 顔と思しき場所の中心には縦に亀裂が入っており、ぬちゃ、ぬちゃ、と()に開閉する瞼らしきものが、辛うじてそれを眼なのだとこちらに認識させていた。

 腐って溶けたような肉体の、じゅるじゅるとのたうつ触手の、その瞳だけがやけに透明な緋色をしていて。

 擦りきれた精神は、いっそこの怪物が深い海から来たる断罪の使徒ではないのかと知覚をつくりはじめていた。

 

 恐怖で霞む視界の隅、勇ましく立ち上がり、化け物へと吠えつこうとする者がひとり。遠目から見ても震えているのがわかる彼の手には、それでも異形に一矢報いるべく、魔力が集中しているのがわかる。

 

「き、貴様! 一体なん……!」

 

 彼が突きつけた声はしかし、本人の絶叫によってすぐさまかき消された。

 ぎい、ぎいいい! と顔面を掻き毟りながらのたうち回る彼の眼孔には、あるべきものが嵌まっておらず、黒々とした穴がぽっかりと開いているだけ。

 

「目が、ああ、目が、目がぁあ!!」

「ひ、ひひ、ひひひひ! ひーっ! ひーっ!」

「ママァ、ママァア……」

 

 気付けばあたりは阿鼻叫喚の地獄絵図。

 ある者はひたすら自傷し、ある者は幼児のように泣きじゃくり、ブクブクと泡を吹いて白目を剥いている者がいるかと思えば、ただただ虚空に向かって笑い続ける者もいた。

 誰ひとり正気を保っていない空間で、自我を失くした巫女姫だけが、祈りの姿勢のまま静かに鎮座している。

 

 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。

 

 悲鳴と狂気の中に混じる足音に、ひゅ、と息を飲んだ。いつの間にか、異形のモノがこちらに近付いている。

 

「く、くるな……」

 

 懇願など受け入れられようはずもない。だが、無駄とわかっていても願わずにはいられなかった。

 

 それを嘲笑うかのように、きぱ、と化け物の顔面に三日月型の亀裂が入る。澱み色の糸を引きながら開かれる真っ赤な口内、ころころと舌で転がされている2つの球体と視線がかち合った。

 

 あたりには恐怖で垂れ流された不浄の臭いが充満しているというのに、()()がこちらに近づくにつれ、強くなる水底の匂い。

 嗅いだこともないというのにわかるのだ。それが水底の匂いだと、わかってしまうのだ!

 

「来るなぁあああ!!!」

 

 ただただ本能のままに叫ぶうち、ふと、神が残して下さった経典にある一文を思い出した。

 

――深淵を覗くとき、深淵もまた我々を覗いているのだ。

 

 ああ、神よ。偉大なる神々よ。私は、我々は、一体何を覗いてしまったというのですか。

 

 やがて、水かきのついた、その身体に対して不釣り合いなほど大きな掌が、ゆっくりと私の頭を掴み。

 

 私はそこで、意識を手放した。

 

 

 

 

 

「あちゃー……」

「ほとんど幻覚なんだけどなあ」

「やっちゃったものは仕方ない。フナムシ撒いとこフナムシ」

 

 

 

 

 

(同時刻、トブの森南端)

 

 

 

 茜色に染まり始めた空はただただ静かに雲を漂わせている。

 先ほど起きた異常など夢か幻なのだとせせら笑うような、穏やかな夕焼け空だ。

 

 それに対して地上にいる男達の狼狽えぶりといったら。燦燦(さんさん)たるものだな、と密かにため息をつく。

 いや、流石に法国で選りすぐられた優秀な魔法詠唱者(マジックキャスター)としての風体は保っているが、もしもこの有様をかの番外席次に見られようものなら、馬の小便どころか頭から肥溜めに突っ込まれても文句は言えまい。

 当事者としてあの現象を目の当たりにしてしまった私からすれば、隊員の動揺も無理からぬものだとは思うが。

 

 うつくしくなめらかな空。

 さきほど一筋の罅が入ったなどとは到底信じられない、おだやかな。

 

「……いい加減に落ち着け。任務を続行するぞ」

 

 さして大きな声を出したつもりはなかったが、隊員一同、命令を耳にした途端にぴたりと平静を取り戻す。その様子にひとつ頷いて、全員に異常が無いか精査を命じ、獲物を檻に追い込むべく思考を開始した。

 

 そう、大事な獲物。

 リ・エスティーゼ王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ。

 

 亜人との戦争は日々激化の一途を辿っている。人類が一丸となって戦わねばならないというこのときに、貴族による収奪と麻薬の被害が蔓延する王国をそのまま放っておくわけにはいかない。人類の盾であるスレイン法国としては、至極当然の判断であった。

 もはや腐り落ちる寸前の王国を至急バハルス帝国に併呑させるため、王国随一の戦士であるガゼフを抹殺する。それこそが、スレイン法国の特殊部隊のひとつ、我々陽光聖典に与えられた使命。

 

 だが、と。

 地平の向こう側に飲み込まれてゆく太陽、紫紺が混ざりつつある空をきつく睨んだ。

 

 殲滅専門の部隊である陽光聖典は、単一の目標を追うことに関して長けているとは言えない。ましてやガゼフは王国最強の戦士。英雄の領域に片足を踏み入れている男だ。囮の部隊と共同で追い込んでいるが、こちらの安全を確保したままの捕り物には数日を要することだろう。

 本来であれば、全員が英雄級の人材で構成されている漆黒聖典や、隠密に長けた風花聖典が任務に当たるべき内容だが、それぞれが破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)、そして裏切り者の第九席次へと戦力を傾けているため、こちらには手を回せない状態でいる。

 

 決して芳しいと言える状況ではない。そんなときに、あの現象だ。

 幻術の類か、どこからか攻撃でもされたのか、それとも何かの前触れか。魔力の痕跡すら残っていない今、考えたところで答えが出るわけでもないが。

 

 やがて、全員の点検が完了したと副長に当たる男から報告が上がった。もはやその声に先ほどまであった戸惑いは残されていないことに満足して、再び進行を命じる。

 

 ふと、1羽の黒い鳥が、上空高く旋回しているところが目に入った。黒い翼が朱紺の空にやけに映える。

 

 果たしてあれは凶兆か、それとも吉兆か。過ぎる思考を、軽く頭を振って追い出した。

 神の御名に縋ってはならない。己の力で道を切り開いてこそ、神は我らに微笑まれるのだ。

 

 ともあれ、今起こったことは報告しておかなければなるまい。

 <伝言(メッセージ)>を起動し、相手の受信を待った。

 

 

 

 

 

「攻性防壁の発動エフェクトをご存知ないとは」

「時代は変わるってことですかね」

「一度に複数のギルドが来てるわけじゃないっぽい?」

「かもね。ああ、これかな。100年毎の伝説ってやつ」

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より47時間後、エ・ランテル西側にある山村)

 

 

 

 ド田舎の村。住民はみんなくたびれてて、夜風はじっとり生ぬるい。腰掛けた柵は今にも壊れそうで、元からするつもりはないにしても、大して長居はできないだろうと思わせた。

 

 でもまあ、気分はそこそこ上々。月は綺麗だし、身も心も軽いし、ズーラーノーン(新しい職場)が手引きしてくれたお陰で、追っ手もだいぶ突き放せてる。

 何よりさっき、偶然通りかかったシルバープレートが3枚も手に入ったのだ。鼻歌のひとつでも歌いたくなるようないい夜であることは間違いない。早速コレクションに追加する。月の光を受けてきらきらと輝く極彩のメタリック。うん、いい感じ。

 

 なので、ぺらりと渡された小さな紙切れも、普段より真剣に見てみようという気分になったのだ。小さな火種でもあればあっという間に燃え尽きてしまうような大きさのそれには、ひとつの指令が書かれている。

 

 トブの森南東部、カルネ村近郊。魔法的な力による霧の発現あり。調査されたし。

 

「ふうん」

 

 指令を運んできた骨のハゲワシ(ボーンヴァルチャー)にたぱたぱと聖水をかける。崩れる骨の鳥。がしがしと踏み潰し、土と混ぜ込んで証拠隠滅。アンデッドってほんと便利ね。

 どうせエ・ランテルに向かう予定だったから、見てくるくらいなら全然構わない。盟主様直々のお願いなら断るわけにもいかないし。

 それにしても。

 

「霧、ねえ」

 

 どっかの馬鹿が調子に乗ってるのか、はたまたカッツェ平野の霧が広がったか。魔法は不得手なので見てみるまでわかんないけど、っていうか、見てみてもわかんないかも知れないけど。まあ、術者がいるならとっ捕まえて来い、ってことだよね。スッと行ってドスッ! かんたーん!

 ていうかあの近くニグンちゃんが来てるんじゃなかったっけ? 鉢合わせたりしたら面倒だなー。執念深くてお固いんだよね、あのオトコ。

 

 ……ま、いっか。

 霧に乗じて追っ手も完全に撒けるかも知れないし。こっちの立ち回り次第だよね、こういうのは。優秀なところを見せてあげますか。

 

「よっと」

 

 腰掛けてた柵から立ち上がり、北へと進路を取る。懐から取り出したるはひとつの冠。叡者の額冠。スレイン法国の最秘法のひとつ。持ち主の自我を奪う代わりに高位階の魔法を使えるようになる、素敵なティアラだ。かわいいかわいい巫女姫ちゃんからのプレゼント。もう発狂しちゃったから、巫女姫じゃなくなっちゃったけどねー。

 どんなアイテムでも使えるっていうタレント持ち、エ・ランテルのンフィーレアくんにつけてもらえば、相当の力を発揮することだろう。今からどんなことになるか楽しみだ。

 

「もうちょっと待っててねー、カジっちゃーん」

 

 楽しい楽しいお祭りに参加するために、とっととお仕事を終わらせてしまおう。

 クレマンティーヌちゃんは足取り軽く、トブの森へと向かうのであった!

 ……が。

 

「ん?」

 

 視線を感じて、振り向く。眼前には夜の闇が広がるばかりで、何の気配も無い。

 さっきまでは、確かにあったというのに。

 少なくとも人の気配じゃなかった。こんな山奥だから、獣はたくさんいるんだろうけど。

 

「……ちっ」

 

 ああ、くそ。せっかくいい気分だったのに。

 獣、という単語だけで胸がむかむかする。()が追いかけてきているはずはない。漆黒聖典は今、破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)への対策にかかりきりだからだ。

 けれど、何か嫌な感じがする。ろくでもないことが起こる前は、いつもこんな前触れを感じる。

 

「……急ぐか」

 

 漆黒聖典に追いつかれるよりは、陽光聖典と鉢合わせするほうがずっとマシだ。今夜も眠れそうにないな、と、山道を駆け出した。

 

 

 

 

 

「見つかるとこだった」

「見つかったらなんかまずいの?」

「普通に殺されると思う。あれは多分追いつかれる」

「要マーク?」

「要マーク!」

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より51時間後・アーグランド評議国)

 

 

 

 風鳴り。穴の開いた天井から吹き込んできた空気が、部屋の中に渦巻いて反響している。

 夜風がずいぶん熱を帯びてきた、と季節の移り変わりに敏い者は言う。自分にはわからない。ドラゴンが持つ強靭な皮膚は、夏の日差しも、冬の木枯らしも跳ね返してしまうからだ。

 不吉な風だ、とは思う。100年の揺り返し。世界を汚す力がまたもやこの世界に現れるときが近づいている。否、もう来ているのかも知れなかった。

 

 その前兆を告げに来た存在が目の前にいる。

 フードつきの外套を着たその人間は自身の記憶にあるものよりも細く、弱い。しかし200年という歳月を経てもその眼光は鋭く、肢体はなおまっすぐで、歴戦の冒険者としての風格を漂わせていた。

 

 人間というものを「小さきもの」と侮る同種は少なくない。人間種というものの大きさはドラゴンからすればひと呑みで片付いてしまう程度のもので、強いと言われる人間でさえ我々の皮膚に傷をつけることも叶わないが故に。

 けれど、眼前に立つ女性は物怖じする素振りすら見せず、淡々と状況を語り続ける。慣れではない。最初から彼女はこうだった。見上げるような巨体を前にして一切怯むことなく、彼女はただただまっすぐに、凛とした花のように対峙してきた。

 そんな彼女を、リグリット・ベルスー・カウラウを見るたびに思い出す。これだから「でかきもの」は考え方が雑なんだ、と笑っていた彼のことを。

 

「――と、まあ。こんなところじゃな」

「……要領を得ないな」

 

 思い出の淵に浸りかけた私を、話を区切ったリグリットの声が呼び戻した。

 

 わしもようわからんかった、と、ため息混じりに肩を竦め、「呆れた」のポーズ。その仕草も表情も、少女であったかの時とさして変わらず、彼女の心までは老いに侵されてはいないのだと目を細める。

 

 曰く、先日、評議国までの道のりを歩いていた彼女の元に、キーノ――インベルンの嬢ちゃん、とリグリットは呼ぶ――から<伝言(メッセージ)>が届いた。トブの森で麻薬を焼いていたら、魔樹の竜王が霧まみれで王国が危ない、だからツアーに伝えてくれ、と。

 

「随分な慌てようじゃったからの。落ち着いた頃を見計らってかけなおしてみたんじゃが、うんともすんとも言わん」

 

 普段はこちらが出ないと怒る癖に、と、まるっきり遠く離れた孫娘を心配する祖母の顔でそう溢した。2人の歳はそう変わらないものであったはずだが、彼女の方がよほど老獪に見えるのは、種族によって時の流れが違うからなのだろうか。

 時折、私ですら若輩のように扱うときがある。不思議と心地よさを感じる反面、どこか物悲しい思いも身の内に溜まってゆく。他の種族よりも寿命が長い故に、置いていかれる事には鈍感な種族のはずなのだけど。

 

「それは……、大丈夫なのかい?」

「心配はいらんよ、あれは頑丈じゃ。知っとるじゃろ」

 

 ころころと笑う彼女の顔には、もはや憂慮の情は浮かんでいない。何らかの手段で確認は済んでいるのだろう。

 とりあえずは大丈夫そうだ、と安堵の息をつき、キーノが残したというメッセージを読み解くべく思案を巡らせる。

 

 麻薬、は最近王都に蔓延っている黒粉のことだろう。冒険者である彼女が誰かしらの依頼を受けて原料の畑を焼いて回っていたところ、霧に隠れた魔樹の竜王と接触してしまった、と。

 

 ……うん、やっぱり要領を得ない。

 昔と場所が変わっていないのなら、人間があんなところまで麻薬畑を作りに入るはずもないし。

 ……霧、か。吸血鬼である彼女を誘致するような何かが、トブの森に発生したということ、か?

 

「それで、肝心の魔樹は?」

「姿も見えんよ。大方、途中で止まっとるんじゃろ」

 

 まあ、そうだろう。世界を破滅たらしめるに十分な力を持つとは言え、あれの本質は樹木だ。あたりの土地や木々から栄養を吸い上げて生きているので、折角の餌場から大きく離れるようなことはしない。近くに湖もあるので、行くとしたらそっちだろう。あの巨体が進路を西に取ったなら、勘違いするのもわからないではないが。

 

「……とりあえず、確認だけはしておかなければいけないな」

 

 私自身はここから離れられない。八欲王が残したギルド武器を、ここで守らなければならないからだ。

 

「お、行くのか? ツアー」

 

 にやにやと意地悪そうに笑うリグリットの視線の先には、私ではなく壁がある。正確には、壁に飾られた鎧。彼女なりの嫌みだ。200年前、本当の姿を隠して共に旅をしていたことをまだ根に持っているらしい。そろそろ許してくれても良いだろうに。

 

「ああ、行ってくるよ。もしかしたら、プレイヤーが既に来ているかもしれない」

 

 ひとつ、目を閉じる。空の鎧に意識を移すべく、力を込めた。

 

 

 

 

 

「そういえば最初の攻性防壁ってなんで発動したんだろう」

「結局わかんないよね」

「人間がひっかかったんならまず生きてはいないと思うんだけど」

「ところでアーグランド評議国の方はどうする?」

「まだいいんじゃない? そろそろ目が足りなくなってきたし」

「イベントが終わるまでお預けかな」

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より52時間後、スレイン法国・聖殿前の廊下)

 

 

 

 もう間も無く日が昇る。日があるうちにできる限り距離を稼がなければならない。夜のモンスターは凶暴とはいえ、漆黒聖典の者を害するには至らないが、今回相手にするのは破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)。対峙する際の体力は残しておかなければ。

 

 真正面から聞こえるのはルビクキューの音。たおやかな指が真四角の玩具をかちゃかちゃといじる。白銀と漆黒の間から覗く面差しにはいつもの微笑みがなく、どこかむくれたように艶やかな唇を尖らせる様は、年頃の少女と錯覚させるに十分なものだった。

 難度250はあるであろう化け物を容易く屠る、スレイン法国の番外席次『絶死絶命』とはとても思えない。いや、その強さ自体はこの身に嫌というほど刻み込まれている。かつて、自らこそが最強の存在だと驕り昂ぶっていた私を、完膚なきまでに叩きのめしてくれたのだから。

 

「生け捕りにしろって怒られちゃった」

 

 当然でしょう、と、口に出してしまいそうになった言葉を、そっと仕舞いこむ。

 

 本日未明、陽光聖典を監視していたはずの部屋に、突如として怪物が現れた。定時連絡が途絶えていたことから発覚したのだが、扉は中から未知の力で溶接されており、『占星千里』に視させたときには既に中は手遅れ、といった状態。

 この人が扉を破って突入した時点で、死者こそいなかったものの、部屋にいた者たちは全員狂乱状態に陥っており、未だ回復の目処が立っていない。土の巫女が手付かずであったのが不幸中の幸いか。

 なぜあれが現れたのか、あれがなんなのか。何一つわかっていないのだ。目撃者から情報が得られない以上、化け物を生かしておいたまま、魔法で逆探知を試みる他なかったのだが。

 

「飛びかかってきたから、反射的にやっちゃったのよ。……でも」

「でも?」

 

 色違いの瞳が虚空を見据える。今はもう存在しない怪物のことを思っているのだろうか。

 

「あれは、自分から切られるために飛びかかってきたのね。今から思えば」

「……口封じ、というわけですか」

「まともに戦えば、結構強かったんじゃない?」

 

 まあ、もう考えたって意味のないことだけど。

 つまらなさそうに溢す彼女から一旦視線を外し、上に集まってきた報告のことを思い返す。

 

 発動していた<次元の目(プレイナーアイ)>が切れていたことから、ニグン・グリッド・ルーインが関連しているのかと一時思われていた。

 だが、怪物が現れたと推測される時間とほぼ同時、当のニグンより、管制部へと<伝言(メッセージ)>が届く。作戦進行中に異常あり、空が割れた、と。

 

 それは、かの六大神が残したという言伝ての中に確かに残っている「監視に対抗する魔法」が発現した際の異常そのものであった。現れた怪物はその魔法によって召喚されたものだと考えられている。

 ニグン本人がその魔法をかけられていた可能性は低く、何者かがこちらの監視に滑り込んできたのだろう、というのが、上の最終的な判断だ。

 

 と、なると、やはり。

 

「100年の揺り返し……、と見るべきでしょうね」

「かもね」

「“ぷれいやー”には興味がありませんか?」

「今のところはね」

「……?」

 

 妙に含みのある返答に微かな不安を抱いたが、番外席次は玩具から目線を離さないまま、それ以上の説明をする気はないらしい。相変わらず気まぐれなことだ。

 なんにせよ、彼女はここに残らなければならない。あのレベルの怪物が再び現れたなら、彼女以外に対処できる存在などいないのだから。

 

「行くの?」

「ええ、間も無く」

 

 早急に破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)を洗脳すべし、と命令を受けている。どれほど早く辿り着けるかが鍵だ。きっと、道中は強行軍になる。

 

「では、これで……?」

 

 挨拶を済ませて離れようとした瞬間、視界の隅で何かが動く気配がした。

 隠し持った小刀を投擲する。命中はしたものの、しゅう、とほんの僅かに煙のようなものを上げて消え失せてしまった。

 

「今のは……」

「これ?」

 

 顔の高さまで持ち上げられた彼女の指に摘ままれているのは、大量に脚が生えた小さな小さな虫。かさかさと蠢くその生き物に、思わず顔をしかめる。海辺にはこんな虫が大量にいると聞いたことがあるが、少なくともこのあたりでは見ない虫だ。

 人差し指と中指、親指に容易く潰されてしまったそれは、先程と同じく、煙を出して消えた。白い指には残骸すら残っていない。かすかに、魔力の残滓が漂うだけ。

 

「20匹くらいは潰したんだけど、途中で面倒になってきたのよね」

 

 軽々しく言い放つ唇は、とうとういつものように弧が描かれていた。

 嫌な予感がする。とてもとても、嫌な予感がする。

 

「……それを、最初に見かけたのは」

 

 にんまりと可憐な微笑みから、遂に溢れる笑い声。

 それを聞いた瞬間、足早に元の場所へと引き返す。

 

 なんということだ。なんということだ!

 

 最初から、こちらの監視が目的だったのだ。強力な召喚獣を囮にして、殺させることで魔力反応をばらまき、魔力を感知することすら困難な極小の「目」を浸透させる。

 いつからだ? いつからこちらのことを覗いていた? もうどれだけの「目」が国内に広がっている?

 

 恐ろしい。向こうの情報は何一つ手に入っていないというのに、こちらの情報は筒抜けであるという現状が。

 こんな悪辣な手段を思いつける“ぷれいやー”が人類の味方であるはずがないという現実が。

 

 ああ、そうだろう。貴女は報告しないだろうよ、番外席次。

 監視があった方が、再びこちらに召喚獣を寄越してくる可能性が高くなるから。前のものよりも強力な召喚獣と戦えるかも知れないから!!

 

 厄介なことだ、敵も、味方も。

 ひとつ舌打ち、上層部へと急いだ。

 

 

 

 

 

「あー、ばれちゃった」

「しょーがない、撤収しよう」

「必要な情報は手に入ったしね」

「逆探されない?」

「されたところで、ねえ」

「もういっかい攻性防壁にひっかかってもらうだけだし」

 

 

 

 

 

(某日未明、リ・エスティーゼ王国首都リ・エスティーゼ、ロ・レンテ城)

 

 

 

 人生において、賽というものを必要としたことがない。

 

 賽というものは人に振らせるよう立ち回るもの。自ら転がすようなものではない。それが私の常識だった。

 ところが、どうも世の中では違うのだと、気がついたのはほんの幼少の頃。

 他人の思考、明日の天気、何をどう動かしたら将来的にどのようになるのか。

 私にとってはすべて頭の中だけで完結することを、世のヒトは賽に頼って決めているのだと、物心ついたときには、深く深く思い知らされていた。

 

 なんともまあ不便なことだ、と今となっては思う。

 けれど、幼い私の心は今よりずっと繊細で、異物を見るような視線を向けられる度、少しずつ確実に磨り減っていった。

 本当に、幼く、純粋なこどもだったのだ。今もそう汚れているつもりはないが。

 

 そう、だから、賽子を振ったことがあるとしたら、たった一度、一度だけ。

 あの雨の日、捨てられていた子犬の瞳の中に、私と同じ、“人間”を見出だしたとき。

 理屈ではなく、自分の奥底にこびりつくように残っていた残滓の如き情に突き動かされて、彼の手を取ったあのときだけが。

 

 あれが最初で最後だと思っていた。

 彼に首輪をつけて飼い慣らすために、今後賽を振る必要などないと確信めいて感じていた。

 

 

 しかして今、私は、人生で二度目の賽を振ろうとしている。

 

 

「――以上が、ここ3年ほどの王都の天気ですね。王国は南北にも広いので、北と南でだいぶ気候が異なっていますが」

 

 机上には地図と王国語の文字盤。漆黒の翼を持つ3本足の鳥が、疑問がある度にこつこつと嘴で盤を叩く。会話としてはやや拙い速度だが、端的で的を射た質問は、余計な時間をかけているという苛立ちなど欠片も起こさせない、見事なもの。

 

 この鳥は先日の昼下がり、換気のために開け放たれた窓から入ってきた。

 魔法に詳しい者が見れば、召喚獣なのか使役獣なのかわかっただろう。魔法に疎い私には、ただの獣ではないことだけしかわからなかったが、それだけで十分だった。

 

 どのみち、()()の向こうには、繰り手がいる。大したやり取りもないままに、()()の向こう側のものと私の間には、ひとつの契約が結ばれた。

 文字通り暗黙の了解。私は()()を通じて文字を教え、この世界の情報を明け渡し、その代わり、()()には私の思惑通りに動いてもらう。

 

 可能な限り迅速に、帝国が王国を併呑できるよう、王国の力を削ぐために。

 

「今年は例年より花の咲く時期が2日ほど早いです。王国暦においても、かなり暖かい年になっていると――」

 

 私ひとりなら別にどこで生きたって構わないけれど、あまり長い間、この腐った国にクライムを置いていたくない。

 この国を再生させる方向で頭を回したこともあったけれど、それを成すには余りにも足りないものが多すぎた。力も、時間も、人材も、資本も、私個人では動かせないものがありすぎたし、そもそも私が必要とするレベルのものが存在しないということも珍しいことではなかった。

 

 だから、帝国に王国を併呑させる方向に、切り替えることにした。鮮血帝と渾名される通りに、王国貴族は皆殺しになるだろうけど、皇帝は私を殺せない。私には、帝国をより発展させるための、アイデアの製造機として働いてもらわなければならないから。

 そして、私を随分と嫌っている様子の、あの中途半端に賢しい皇帝ならば、私を囲うような愚は犯さない。クライムと私を引き離したりしない。そうなったとき、私が何をするのか、あの皇帝ならわかってくれるだろうから。

 

 帝国の近衛には、身分など関係なく高い実力の者が集っているのだという。私のクライムを馬鹿にするような側仕えではなく、もっとマシな娘を宛がってくれるに違いない。

 なんなら、側仕えなんていなくてもいいくらいだ。私には、クライムさえいればそれでいい。クライムの他には、何もいらないのだから。

 

 クライムを縛りながら、捕らわれた亡国の姫君を演出しつつ、帝国で慎ましやかに生きていくことが、現状、力のない私にとっての最善案だと思っていたのだが。

 

「先月は、肉の取れる家畜がたくさん産まれたと聞いています。具体的には――」

 

 ここへきて、選択肢が増えるかもしれない、とも思い始めている。

 

 と、いうのも。

 ()()の向こう側には何がいるのか、というのを、暫く考えていた。

 

 最初に浮かんだのは「漂流者」という言葉だ。

 まだこの土地に来たばかり。拠点から動けない、あるいは動くつもりがない。

 言葉もおぼつかず、手探りでどうにか自分が対峙する状況を変えようと必死になってもがいている、海の外から流れ着いた、魔法詠唱者(マジックキャスター)

 薬や包帯の類を要求してこないので、怪我や病気でその場に留まっているわけではない。

 

 次に、彼――恐らく男性と思われるので便宜上“彼”と呼ぶことにする――は、とても頭が良い。知識の吸収が異様に早く、教えを乞う事にも乞われることにも慣れている。王国にそのようなものはいないが、名前をつけるならば「教育従事者」といったところだろうか。少なくとも、今まで対面した中で最も優れた頭脳を持っている者であることは間違いない。

 

 そして、彼はとても急いでいる。まるで誰かを出し抜こうとしているかのように。

 知ることに対して、情報を集めることに対してあまりにも貪欲だ。砂漠の真ん中に放り出された者が水を求めるが如く、私が差し出した情報を、種類を問わず飲み込み続けている。

 

 これらのことから、海外から亡命してきた教育従事者がどこかに潜伏しており、追っ手から逃れるべく知識を集めている最中なのだと、ひとまずは推測したのだけれど。

 

「――ええ、はい。現在王国では奴隷の売買を禁止しています。私が、手引きいたしました」

 

 どうも、違うのではないか、と、最近考えを改めた。

 

 彼は本当に頭が良い。彼がいた国の教育によるものなのか、彼本人の資質によるものなのかは流石にわからないが、私が今吐き出している情報は、正直個人の手には余るものだ。しかし受け答えからして、彼はそれをきちんと把握しているように思えるし、上手に活用するつもりでいることもわかる。

 聡明で、知識に富み、大勢の人間と対話を続けてきた者特有の意思疎通能力は、私の言葉に含まれた機微を決して間違えない。

 

 よって。彼は、私という生き物がどの程度の頭脳を有しているのか既に把握しているはず。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()気付いているはずなのだ。

 

 バハルス帝国との国境付近、トブの森南東部、カルネ村より北東へ少し。それが彼の居場所。彼の潜伏地。

 イビルアイが大怪我をした、と、青褪めていたラキュースの証言とも一致する。魔法による霧が出ている場所。

 

 随分と迂闊なことだ。自分はここだ、と主張しているようなものだろうに。

 

 しかしながら。

 彼がそれを気にしている様子は一切無い。

 

 気にする必要など、ないとでもいうように。

 

「とは言っても、裏で借金を背負わせたり、冒険者を騙して無料同然の値段で使役したり、不法行為に等しい手段で労働力を得ている者が絶えないようですが」

 

 自暴自棄なのではない。自らを省みないものがするような足掻きには見えない。

 ならば、おそらく。

 

 私が誰に吹聴しようと、彼は私ごとその存在をどうにでもできるような力を持っているのだ。

 たとえば私が彼を裏切ったとして、私がどうにか動かせる戦力では、彼に影響を与えることなどできないような。

 王国から出立する万の兵も、アダマンタイト級の冒険者も、かつて国堕としと呼ばれた吸血鬼も、内通者を通じて送り込まれるかも知れない法国の部隊でさえ歯牙にもかけないくらいの力。

 

 人ならざる力を持ったもの。

 それこそ御伽噺に出てくる神のような力を持ったもの。

 どうかすれば、空を墜としたり、海ほどの雨を降らせたり、国ごと食い尽くすほどの蝗の群を呼び出せるくらいの、圧倒的な、馬鹿げた力を持っている存在。

 

 それがどうして、何に抗おうとして私に、斜陽の王国に潜む籠の鳥、深窓の王女に知恵を借りるようなことをしているのか?

 

 王国の征服でも企んでいるのかと一瞬だけ思い、すぐに否定する。

 確かに王国は肥沃な土地を持つ広大な国だが、これほど迂遠なやり方で情報を集めてまで征服するようなうまみは、少なくとも彼にはない。

 征服するにしても滅ぼすにしても、もっと良い手がいくらでもあるはず。

 

 と、すれば、鍵になるのは、彼がなぜ拠点から動けないのか、ということ。

 

「そして、今年度はリ・ブルムラシュールの鉱山で採れる金とミスリルの量が減って……、いえ、少なく報告されているようですね。なぜ、なんでしょうね?」

 

 彼は捕らわれている。自由の身ではない。気軽に動けない。

 身分が卑しいからというわけではなく、その逆。彼はひとりではなく、なにか、彼を敬い崇めるものと共にいる。あるいはほんとうに、神のごとく、大切に大切に囲われている。

 そして。

 

 彼は、彼自身のために、ああも急いてことを進めようとしているわけではない。

 彼なら、彼ひとりならばどうにでもできるはず。どこへ行っても、なにをするにしても、ひとりで生きていくだけなら、どうにでもできるはずなのに。

 それが、できないのは。

 

 彼には守りたいものがあるから。

 どうにかして、内部の何かしらの脅威から遠ざけたいものがあるから。

 できうる限り早く、自らが取れるすべての手段で、脅威から離してしまいたいものがあるから。

 

 私と、同じように。

 

 ゆえに、彼はきっと人間なのだ。人ならざる力を持ちながら、人としてあがいている、非常に真っ当な。

 時間というものが如何に尊く、過去というものが如何に取り返し難いものかを知っている存在。それが、人間でなくてなんだというのだろう。

 

 ならば――。

 

「……今日は、ここまでです」

 

 ぱたん、と地図をたたみ、文字盤をしまう。見上げてくるふたつの赤い目。

 

――駆け引きを、させてもらいましょう。

 どうも彼は、秘匿主義で、臆病で、とてつもなく卑怯だけど、情に厚くて、約束をよく守ってくださる方のようだから。

 

「次は、ふたつほど、お願い事を聞いてもらってから」

 

 そうなれば、当初私だけで計画していたよりも、良い席を用意してもらえるかもしれない。

 「クライムが尊ぶ王女ラナー」が気にかけている、王国の浄化さえできるかもしれない。

 獲らぬ獣のなんとやら。もしかしたら、ここまでのすべてが彼の戯れで、私は遊ばれているだけなのかもしれないけれど、でも。

 

「ね?」

 

 期待くらいは、させてもらっても良いでしょう?

 

 

 

 

 

(ナザリック転移より50時間後、ナザリック地下大墳墓・第九階層ロイヤルスイート)

 

 

 

 人払いは済ませた。

 誰もいないことを再度確認する。

 

 この先は、決して見られてはならないものだから。

 誰にも、見られてはならないものだから。

 

 後ろ手に、寝室の扉を閉めた。ロイヤルスイートとしてはなんの変哲も無い、天蓋付きのベッドだけが置かれた部屋。

 しん、と完璧な静寂があたりを包む。もう一度だけ監視がないかを確認し、歩を進める。

 

 扉を背に右の隅へ、そこから13歩。かり、と掻いた壁に僅かな引っ掛かり。近くにあるスイッチを押せば、人ひとり分通れる範囲にだけ、黒々とした穴が開いた。

 

 秘密基地を作りたい。そのように相談したギミック担当しか知らない、正真正銘の隠し部屋。相談した人間は「秘密基地」というものの浪漫にいたく感動してくれたので、今この世界にいない彼から情報が漏れているということはまずないだろう。

 

 ぽっかりと開いた黒い穴に足を踏み入れる。先の見えない、長い長い暗闇の廊下。一度でも振り向けば外に放り出されて、穴の位置もリセットされるようになっているので、ここを知らない者が入ってきてしまったときも、一応の時間稼ぎは可能だ。

 幾重もの偽装と、それを隠すための更なる偽装によって覆い隠されているため、そもそもここを探し出すこと自体が容易ではないが。

 

 特別、何が置いてあるというわけではない。現実(リアル)の個人情報なら兎も角、ゲーム上で秘匿しなければならない情報など片手で数えて余る程度だったから、これはほんのフレーバーだ。

 そう、フレーバー()()()

 

 大事なことほど隠してしまうのはもう生来の癖のようなもので、今さら治す気はないし、治せるとも思っていない。

 

 スレイン法国に発現したモンスター、<深き者の従者(サーヴァント・オブ・ハイドラ)>が、恐怖公と同じく下位種族の無限召喚能力を持っているということも、それらはHPを分け与えることで従者(サーヴァント)の死後も活動が可能だということも、それによって既にかの国の情報は十二分に手に入っているということも、NPCは元より、モモンガさんにも伝えるつもりはない。

 

 なぜなら、ここへ来て光明が見えてきたからだ。

 

 さっきは驚いて見せたけど、隠蔽工作の終了時間は予定通り。想定し得る最短というのが恐ろしいが、モモンガさんが彼らに休息を命じてくれたから、あと少しだけ時間が稼げる。

 

 加えて現地の協力者、深窓の令嬢、リ・エスティーゼの王女様。

 発見したのは本当に偶然で、城の窓が開いていたので、貴族の生活様式の一端でも垣間見れたら、と、こっそり近寄っただけなのだが。

 彼女と目が合ったときに、確信してしまったのだ。これを逃したら、これ以上の人材は決して望めない、と。

 

 結果的に彼女とはきれいなギブアンドテイクが成立し、情報をもらう一方で、王国内でのお使いとしてせっせと働いている。

 まあ、すごい()だ。モモンガさんに渡したあの分厚い資料でさえ、彼女からもらったものの10分の1ほどしか情報が載っていないのだから恐れ入る。

 ああいう手合いは、時代の節目にひとりくらいは産まれるものだけどね。歴史から葬り去られるレベルの叡智を実際この目で見ることができたのは幸運以外の何物でもない。ここが運のピークじゃありませんように。

 

 正直、昨日の時点ではもうほとんど諦めかけていた。

 

 意気込んだのはいいものの、いざ手をつけてみたら何もかもが足りていないことに気付いたから。

 NPCを引き離すための頭脳はもちろん、情報を集めるための目も、それを整理するための手も、ナザリックにはすべて揃っているのに、今のぼくにはどうにもできない、と。

 誰かに相談できたなら叶うはずのことなのに、現状ぼくひとりでどうにかするしかない。もういっそモモンガさんを連れて逃げるか? と錯乱したとしか言えないような考えまで脳裏に浮かぶ始末。

 

 部屋満杯に酒瓶が転がっていたときにはほんともう絶望した。

 これを片付けながら、モモンガさんのケアをして、八咫烏9羽の視界をスイッチングしつつ、情報を統制して、NPCを出し抜く? ひとりで?

 

 もう、ほとんど諦めていたのだ。犠牲なしになにかを得るのは、やはり無理なのかもしれない、と。

 

 

 その状況を覆したのが、彼女の存在と、もうひとつ。

 

 部屋の惨状に茫然自失としていたとき、ふと隠し部屋の存在を思い出し、その活用方法を思いついたこと。

 

 手段としては大変気にくわない。

 精神的に、というよりは生理的に受け入れ難くあるものの、現状の最適解とも呼べるひとつのスキルが見つかってしまったからだ。

 

 八咫烏の数は9羽、攻性防壁が発動し、モンスターが召喚されたときも、そいつの視点でものを見ることができる。

 けれどぼくはひとりしかいない。すべての視点を並列で同時に管理することはできず、迅速に視点をシャッフルすることでしか情報量を増やせない。

 だから限界は見えていたのだ。

 

 

 ぼくは、ひとりしか()()()()()から。

 

 

 入口から体感で800mほど進んだころ、そこでようやく永続光(コンティニュアル・ライト)の明かりが道に差し込む。

 

 たどり着いたのは小さな部屋。たっぷりとした光で照らされた、殺風景な場所。大量に散らばる紙と筆記用具。

 そして。

 

 足を踏み入れた途端、ざっ、と部屋の視線が一斉にこちらを向いた。

 

 

「こんばんは、ぼく」「遅いぞ、ぼく」「デミグラスソースの匂いがする」

「こんばんは」「こんばんは、って時間なの? もう?」「おはよー」

「休憩?」「もうちょっとだから今待って」「やあ、ぼく!」

「差し入れとかないの?」「こんばんは、本体」「そこからの景色は慣れたかい、ぼく」

 

 

 膝ほどの高さから次々に聞こえる()()()()

 嫌々ながらそちらを見れば、台詞を飛ばす度にふるふると揺れる、サッカーボール大の水の塊。その数12。完全な球ではなく、床と接している面は平らに潰れており、水精霊というよりはどこかスライムじみていた。

 

「…………」

 

 あまりのおぞましさと生理的嫌悪に言葉が出ない。

 一度に喋るなら、せめて同じ言葉を吐いてくれ。ただでさえ悪夢のような光景だというのに。

 

「ひとりで固まらないでよ、本体」

「気持ちはわかるけど」

「同じ目線で作業してる方の身にもなってよね」

「なんか実験思いだした、鏡のやつ」

「お前はだれだ、ってやつ?」

「この状況でもできるのかな」

「お前はだれだ?」

「お前はだれだ」

「お前はだれだ」

 

「……やめて、お願いだから今すぐやめて」

 

 ほとんど膝から崩れ落ちそうになりながら懇願すれば、ぼくの分身たちは一応の静けさを取り戻した。

 

 そう、ぼくは「本体」、彼らは「分身」。

 彼らはすべて、ぼくと同じ思考を持つ、ぼくの欠片なのだ。

 

 水精霊(ウォーター・エレメンタル)の低位スキル、<分裂>。

 その名の通り、自分の身体を複数に分けることができる、それだけ。

 

 ユグドラシルでは完全な死にスキルと言われていたものである。

 なにせ精霊固有の仕様なのか、粘体(スライム)なんかの不定形種族はすべて同じ仕様なのかはわからないが、分裂先にいくつかレベルを振り分けてやらなければならないからだ。分裂先が倒されてしまうとその分レベルが下がるという恐ろしい仕様。

 おまけに操作できるのは1体ずつ。武器、防具、アクセサリーは装備不可。精々レベル消費型の誘導ミサイル代わりが関の山だったのだが。

 

 この世界ではどうなのだろうと試しにやってみたら、自分と会話できてしまったことで判明した。

 ここ、異世界では、分裂した個体も本体と同等の知能を持ち、個別に思考し、作業を行うことが可能である、ということが。

 

 そして、ぼくが持っている上位クラスのスキルにより、本来ランダムで分裂先に振り分けられるレベルが、種族、クラス共に選択できることも。

 これができなければ絶対に取らなかった手段である。正直、心情だけで言わせてもらえるなら、できない方が良かった。

 が、背に腹は代えられない。目は足りてるけど頭が足りない状況をひっくり返せる唯一の手だったのだから。

 

 12体の水精霊にはそれぞれ水精霊(ウォーター・エレメンタル)召喚士(サマナー)、エレメンタリストから1レベルずつ、1体が3レベルになるように割り振っている。合計36レベル、残った本体に64レベル。

 このくらいなら、分かれた個体が万一叛意を持ったとしても、どうにでも対処できる。

 

 各々、決まった八咫烏にアクセスして情報を得たり、得た情報を纏めたり、どっぷり思考に浸かって何やら考えたりしていたわけだ。この部屋で、こっそり。

 

「……知能も分かれるはずだよね、理屈では」

 

 なんとも有情なことで助かるが、本当に不気味で仕方がないし、なまじ己の考えがわかる連中だけあって、いちいちムカつくことこの上ない。

 

「1レベルのぼくと100レベルのぼくではINT(知能)が違うはずだって?」

「……それなら死の支配者(オーバーロード)のモモンガさんはぼくより賢くないといけないよね」

「ユグドラシルの魔法とか技の威力にINT依存のものがあるってだけの話でしょ」

「パズルとかのギミックは数値上のINT関係ないもんね。自力で解かないと」

 

 やいのやいのと喋りだすぼく(別個体)たち。

 うん、そうだね。本体の独り言を拾ってそれぞれ考えてることを口に出すのはやめようね!

 

 完全に嫌がらせだとわかってる分余計に腹が立つ。大量のおぞましい生き物(自分)と部屋に置き去りにされたことに対する意趣返しだ。

 こいつらは基本ぼくと同じ感性を有しているので、ぼくが生理的嫌悪を感じるものには、こいつらもまた同様の感情を抱くようになっている。

 スライムじみた見た目のものがたくさんいる、ということが嫌なんじゃない。()()()()()()()()()()()()()()スライムが量産されていることが嫌で仕方ないのだ。

 

 一応、同時に同じことを考えながら個別の作業を行うこともできなくはない。

 が、4体目くらいで頭が痛くなってきたので結局接続を切ってしまった。多分、そのあたりが限界なんだろう。水精霊としてではなく、人間としての。

 

 まあ、これから、彼ら(ぼく)が感じたことや、学んだことを一旦取り入れるわけだけれども。

 

「ほら、こっち来て。一回統合するから」

 

 手招きすれば、ざわざわと騒ぎ出す水精霊ども。反逆する気か。だからあんまり長い時間置いておきたくなかったんだよね。

 

「……、なに、嫌なの」

 

「統合そのものはしなきゃいけないだろう」

「その様子だと新要素が加わったか追加でスキルを発動する必要が出てきたみたいだし」

「でもねえ」

「ねー」

 

 なおも渋るぼくの残骸。わかっているならとっととしてくれ。困るのは結局自分なのも知ってるだろうに。

 

 分裂前に発動したスキルは分裂後にも適用されているが、分裂後、本体が発動したスキルは他個体に適用されない。なので追加で何かしらのスキルを適用させたいときは、一度ひとつに統合してからスキルを発動し、再び分裂する必要がある。

 

 今回ここに来たのは、一度こいつら(ぼくら)から情報を得るため、そしてモモンガさんにかけてもらった<星に願いを(ウィッシュ・アポン・ア・スター)>による効果を確認するためだ。

 

 モモンガさんにお願いしてもらったのは現地の言語について。

 「死獣天朱雀が、この世界の言語について、翻訳されたものと翻訳されていないものを選択して扱えるようにする」こと。

 要するに二カ国語のスイッチングを可能にして欲しい、ということだ。

 

 これはもうほんとに単なるぼくの我が儘で、「どこの誰が翻訳したかわからない異国語」を聞き続けることが心底ストレスだったから、この機会を得られたのは渡りに船と言う他ない。

 言語の自動翻訳がワールドアイテムで行われていたら、と思ってちょっと願い方を捻ったけど、本体であるぼくに関しては、問題なく作動することを確認した。

 今はまだ無理だけど、ゆくゆくは完全に翻訳を切って、原語だけで会話を成り立たせたいと考えている。

 

 対象が「死獣天朱雀」だから今の状態でも説明してやればちゃんと使えると思うけど、念のため統合した方が手っ取り早いだろう。

 

 と、いう思惑が、こちらにはあるというのに。

 

「でもまた痛いんじゃないの?」

「ユグドラシルには“痛み止め”ってないんだよね」

「そもそも幻肢痛みたいなもんだし、あっても効かないとおもう」

 

 これだよ。痛いのはぼくだって言うのに。いや、ぜんぶぼくなんだけどさ。

 

「それに、感覚的にはぼくら一回死ぬんだよ?」

「統合される多重人格の気分」

「それが12体?」

「どう考えても増やしすぎでしょ」

「行き当たりばったりで考えなしなんだから、もう」

 

 知ってるよ、わかってるよ、だから黙ってろよ!

 自分でも思ってる欠点を他人に言われるのもそうだけど、それが自分ならなおのこと腹が立つな。精神安定のスキルが働いてる気がしないんだけど。

 こいつら、この苛立ちも後で共有することになるの、本当にわかってるのかな。やっぱりいくらかINT下がってるんじゃないのか。

 

「……びびってないで、さっさとこっち来て。モモンガさんが指輪を断ったから急ぎたいんだよ」

 

「はあ!!?」

「え、指輪って婚約指輪じゃない方?」

「変身するほう? だよね?」

「一緒にご飯食べてないの?」

「なに遊んでるのさ」

「ほんと使えないな、本体」

 

 あー、ぶち殺したい。今すぐ超位魔法叩き込みたい。

 こいつらがぼくの一部でなかったら。こいつらがぼくの36LV分でさえなかったら!!!

 しかし悲しいかな、こいつらはどう足掻いてもぼくの一部分で、しかも全員水精霊だから、水属性の攻撃しかできないぼくじゃほとんどダメージを与えられないのだ。

 

「食事はしたよ。喜んでくれたみたいだったけど、堕落しそうだから、って」

 

「ええ……」

「修行僧かよ……」

「さすがはモモンガさん」

「ていうかまずくない?」

「当初の予定ではしばらく人化しててもらうつもりだったのに」

「まずいよね」

「ねー」

 

「……そうだね、まずいね」

 

 それでも一向に近付いてこない連中に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

 

「だから……、いい加減にしろお前ら!」

 

 響く怒号に、静まり返る部屋。

 学生を相手にしてても、こんな声出したことない。

 

「NPCがぼくらを気配だけで認識できることがわかった。急がないとぼくがいないって騒ぎになる。だから、はやく」

 

「……ああ、それはだめだ」

「戻らなきゃ」

「戻ろう戻ろう」

 

 ぞろぞろと、足元の12体が並びだす。

 別にこいつ(ぼく)らも本気で嫌がっていたわけではない。これでも、痛いのには慣れているのだ。人生も終わりに差し掛かった老人なのだから、がたが来ていたところなんてひとつやふたつでは利かない。

 つまり、こいつらは全力でぼくに嫌がらせをしていただけ、という、殊更情けない理由で反抗していたに過ぎない。やだね、水精霊は。陰湿でさ。

 

 ひとつ、またひとつと、水精霊達がぼくの頭に吸収されてゆく。その度に増える情報量。この世界について、ナザリックについて、ぼくらについて。12体がそれぞれ体感して、考えていたことが、ぼくのなかに注がれてゆく。

 思っていたほどの痛みは無い。風船に限界まで水を入れたらどうなってしまうのか、そんな実験をしている感覚も拭えなかったけれど。

 

 ふと眼前に、最後の一体が立ち止まっていたことに気が付く。

 

「どうしたの」

「ひとつだけいいかな、ぼく」

「……今でなきゃ駄目?」

「統合されたら、ぼくは考えなくなってしまうことだから」

 

 それに沈黙で答えれば、こぽり、呼吸の真似事をひとつして。

 

「これら一連のことは、モモンガさんの人間性を確保するため、というのがぼくらの共通認識なわけだけど」

「……うん」

「果たしてこれは、人間が取り得る手段だと言えるのかな?」

 

 しばしの静寂。分裂すれば、こういう個体が出てくるだろうとは思っていた。考えなくても良いことを考えて、言わなくても良いことを言ってくる個体が。

 

「……思考レベルは人間のものだ。まったく問題ない」

「本当に?」

「ぼくは立ち止まるわけにはいかない。そうだろう」

「わかっているよ。だけど問題提起は必要だ」

 

 透明なからだに灯る、ふたつの瞳。

 瞬きすらせず、ただただ同じ光量を保ちながら、じっとこちらを見る。

 

「どれほど目を逸らし続けようとも、いつかは向き合わねばならないときが、必ずやってくる」

 

 どんなことにもね。

 

 それだけ言い残し、ぼくのかけらは、あっけなくぼくに統合されていった。

 

 

 

 いくら賢しらなことを言ったとして、結局あれもぼくであることに変わりは無い。

 現状問題と思われることのひとつを、自分自身で確認した、それだけのはなし。

 

 だが、ぼくは知っている。口に出してしまった言の葉は、呪いになるということを。

 

 言葉には魔力が宿るのだ。

 言霊というものは、はるか昔から、現在に至っても廃れることのない、ひとが使える唯一無二の魔法なのだから。

 

「わかってるよ」

 

 呟いても、拾うものは、誰もいない。

 

「わかってる」

 

 誰も、いない。

 

 

 




人間性を捧げよ。

この回で出てきた方が皆カルネ村イベントに参加するというわけではないので、あしからず。

次回から新章に入ります。
結局1章の間にコキュートス視点を入れられませんでした。すまねえ……すまねえ……。
5話めっちゃかっこよかったよ!!2章では出番あるからね!!待ってて!!!!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 接触
メメント・モリ 壱


ガガーランさんの絶対領域が気になりすぎて遅れました。申し訳ない。

前回のあらすじ

なんかいっぱい集まってきた。


カルネ村イベント(大盛り)はぁじまぁるよー


 

 

 

「レィディーッス! エンッッ!! ジェントルメェン!!!」

 

 かっ! と真っ暗な会場に突き刺さるスポットライト。その熱と煌きをものともせず、長い手足をキビキビと動かすひとりの演者。その堂々とした立ち居振舞い、マイク越しによく通る声。どれひとつとっても、名司会者と言って差し支えない。実際すごいと思う。なんなら誉めてやってもいいくらいだ。

 あれが、あの特徴的な軍服を着ていなければ。いちいち敬礼をしなければ。ことあるごとにドイツ語を挟まなければ。

 あれが、俺の黒歴史(パンドラズ・アクター)じゃなかったら!!

 

「皆様方がここにお集まりいただきましたことは、まさに至高の御方の崇高なるご意志……! おお、Gott sei Dank(神に感謝を)!」

 

 そんな俺の内心など知ったことかと嘲笑うように、黄色い軍服を着込んだグレーター・ドッペルゲンガーは高らかに口上を述べる。

 広い闘技場に朗々と響き渡る声。ひとことひとことを彩るオーバーな仕草。もう何度目の沈静化だろう。数えるのも嫌になってきた。

 

「さあ参りましょう! ただいまより! 至高の御方主催!! “ナザリック完全隠蔽作戦”大中継会を開催致します!!!」

 

 わぁあああっ! うおおおお!!

 ぱっと照明が点くと同時、天よ割れよとばかりに響く歓声、打ち鳴らされる拍手、盛り上がる会場。ぴゅーい! と口笛を吹く音まで聞こえ、催しとやらが始まったばかりだというのに、シモベたちのテンションは既に最高潮だ。

 

 1500人の侵攻以来めっきり敵が入って来なくなって、しばらく本来の用途では使われていなかったはずの円形闘技場(アンフィテアトルム)だが、いま、客席には観客が大勢集まっている。

 

 わあい、おきゃくさんがいっぱいだあ。むかしはゴーレムしかすわってなかったのになあ。

 

 ……現実逃避してる場合じゃない。状況を整理しなければ。

 何年かぶりに座る貴賓席、隣に腰かけた朱雀さんにこっそり<伝言(メッセージ)>で問い掛ける。

 

『朱雀さん、これは一体』

『モモンガさんのリクエストに最大限答えた結果このように』

『いえ、まあ、そうなんですけど』

『……うん、ごめん。流石にここまで集めろとは言ってない』

 

 いや、そっちじゃなくて。そっちもなんですけど。

 

「なお司会を務めさせていただきますのはこの私、偉大なる支配者モモンガ様に創造いただきました、パンドラズ・アクターでございます。以後お見知りおきを!」

 

 びしっ! と格式張った見事な敬礼と共に、丁寧な自己紹介。やめろ。俺の名前を出すんじゃない。

 パチパチと暖かな拍手が逆に辛い。お願いだから気を遣わないで。

 一旦精神が沈静化するのを待ってから、状況を把握するべく、言葉を選ぶ。

 

「……ひとつ良いか、アルベド」

「はい、モモンガ様。なんなりと」

 

 後ろの席、並ぶ守護者たちの真ん中に座るアルベドが身を乗り出した。落ち着いた涼しげな声は、この状況になにひとつ疑問など持っていないように思わせる。

 

「私は、志願者を集めろと伝えていたはずだな?」

「はい、すべて志願者でございます。このナザリックに、至高の御方が開いて下さった催しを拒む者などおりません」

 

 そっかあ。ありがたいなあ。

 

 いや、ちがう。ちがう! 流石にこれはちょっと集まりすぎだし、盛り上がりすぎだろう。“隠蔽作戦”の規模自体は地域の祭り以下なのに。そこのところはちゃんと説明されてるのか?

 もう、逆に馬鹿にされてるんじゃないのか、とも思えてくる。もしくは、初めて生まれた子供の一挙手一投足に興奮する若い夫婦みたいな。

 ……たっちさん、あなたはどうでしたか? 娘さんはお元気でしょうか。こちらは一応元気です。体重は随分減ってしまいましたが。

 

「ですが、まことに申し訳ございません。防衛や業務の関係上、領域守護者など、どうしても持ち場を離れられない者もおりまして。何とぞ、ご容赦いただけますでしょうか」

 

 宙に飛びかけた意識が、心底申し訳なさそうなアルベドの声に引き戻される。しおらしく謝る姿が容赦なく罪悪感を与えてきたので、お前が謝ることはない、と、慌てて手を振った。

 少ないのは良い。多いことに困ってるんだ。

 

「むしろよくここまで集めてくれたな、感謝しよう」

「感謝など……、いえ、お褒めいただきありがとうございます。モモンガ様」

 

 おお、なんだっけ。「死獣天朱雀とのお約束事項その2」だったかな、どうやら広まっているらしい。良い傾向だ。いちいち感謝もできないんじゃ息が詰まるし。

 

 ちょっと気分が落ち着いたので、改めて舞台の方を見た。

 かつて侵入者とモンスターを戦わせていた舞台には、現在特大の球形スクリーンが設置されており、そこには霧に覆われた例の村が映し出されている。

 

 意図せず盛大になってしまったが、この催しのきっかけは、俺のわがままだった。

 NPCを成長させたい。そう朱雀さんに相談したのが発端である。

 

 

 いくつかの実験を経て判明した。NPCたちは、今以上にレベルが上がらない。100LVのカンスト勢は勿論、1LVのメイドや使用人であっても、だ。

 拠点のNPC製作可能レベルを全部使いきってしまっているからなのか、そもそもNPCに経験値というステータスが存在しないのか。

 

 理由はともかく、数値の上で成長することができないのなら、NPCに経験を積ませることで、“学習”してもらうわけにはいかないだろうか。

 そんな話を朱雀さんに持ちかけた結果、何やら様々な勢力が集まりつつあるらしい、このカルネ村という農村を使わせてもらおう、ということになり、現在に至る。

 

 狙いは大まかに分けてふたつ。

 いくつかの条件をつけて、シモベだけに作戦を任せた場合、どこまでこちらの要望に答えられるのか。

 また、それを観たときに、彼らがどこまで思考を巡らせることができるのか。

 

 すべてはナザリックの戦力を強化するため。

 朱雀さんに数日間索敵をしてもらい、この近辺に脅威と呼べる敵はいないとわかったが、もしかしたら索敵の範囲外に強者がいるかもしれないし、こちらが予想だにしない未知の力が存在するかもしれない。

 もはや課金できる運営もいないし、金貨も以前のように容易く集めることはできなくなった。出来る限り、資源を節約しながらアインズ・ウール・ゴウンを強くしなければならない。

 

 そのための実験とも言えるのが、今回の催しだった。

 

 

 ……の、だが。

 結果がこれである。ちょっと泣きそうだ。

 まあ、呼びつける範囲をきちんと決めておかないと後悔する、ということがわかっただけ良しとしよう。

 

 しかし、と、この催しの主旨を身ぶり手振りを交えて解説するパンドラズ・アクターを眺めた。

 何人か持ち場を離れられない、と聞いたはいいが、あいつも同様に。

 

「領域守護者……」

 

 の、はずなんだが。

 思わず漏れ出た声に、隣でお茶を啜る朱雀さんが返事をくれる。

 

「ああ、それぼく」

「ん"ん!?」

「こういうのって司会がいた方が楽だし」

「いやそうかもしれませ、しれないが……」

 

 なにもあいつじゃなくても良いじゃないですか!!

 この鬼! 悪魔!! 水精霊!!!

 

 <伝言(メッセージ)>も使っていない俺の心の叫びなど聞こえるはずもなく、度重なる沈静化の元凶は、悠々と空になったコップに手酌でお茶を注いでいる。

 ……なんだか朱雀さん、こっちに来てからやけに水分を欲しがるな。蒸発してる分を取り戻そうとしてたりして。大丈夫なのか。加湿器とか置いといた方が良いのかな。

 

 ふう、とまたもや強制的に落ち着いた精神は、半ば諦めの境地に足を踏み入れて、まあいっか、と心から呟ける程度の余裕をもたらした。

 心なしか、宝物殿にいたときよりは、パンドラズ・アクターの挙動もおかしくないような気がする。広い場所だから、大袈裟な動きがそこまで気にならないのかもしれない。こんなことがなかったらずっと宝物殿にしまいっぱなしだったろうし、いい機会だったのかもな。

 うんうん、とようやく自分を納得させたそのとき。

 

「……では、至高の御方よりひとこと!」

「ぇっ」

 

 すっ、とパンドラから差し出されるマイク。殊更に沸き上がる会場。ちょっと待ってなにそれ聞いてない。

 受け取ってしまった手前返すわけにもいかず、朱雀さんに視線で助けを求めれば、どうぞお先に、のジェスチャー。あっ、そうですよね、慣れてますよね大学教授ですもんね!!

 

 なんなのだこれは。どうすれば良いのだ! と叫び散らすわけにもいかず、とりあえずコホン、とひとつ咳払い。

 しん、と場が静まり返る。衣擦れの音さえ聞こえない静寂。

 余りの緊張が精神を平静にもどし、もう後で喋る朱雀さんにフォローしてもらえばいいや、と、ほとんど投げやりに言葉を紡ぐ。

 

「んん、あーー、今回は想定を大きく超える数の者が集まってくれて、ひとまず感謝する。意識が高いことで何よりだ。私は嬉しい」

 

 オオ……、と感動のさざめき。生身のままならマイクが手汗でびっちょりだろうな。

 さて、上司の長話ほど鬱陶しいものはない。できるだけ簡潔に、要点だけを……。

 

「今回、村に集まって来ている人間たちの強さは正直大したことがない。迎え撃つ側も低位のものに限らせている。派手な戦闘になるとは考えにくいが……」

 

 ごく少数の例外を除き、前線に出るのは低位のモンスターだけ。使用できるのも、低位階の魔法と、下級クラスで使えるスキルのみ。圧倒的な力で終わらせてしまったら、実験の意味がないからだ。

 欲を言えば、もう少しだけレベルの高い現地人が集まらなかったものかなー、と思わなくもないけど。村へと向かってる勢力の半分は、偶然こっちに来ちゃったみたいなものだし、贅沢は言えない。

 

「時として、人間は思わぬ手段を用いて敵に立ち向かうものだ。どんな些細なことでも良い、そこから何か学ぶところがあれば、あるいは自分ならどう対処するか。考えてもらうきっかけになれば良いと思う。……以上だ」

 

 マイクを下ろす。静寂が痛い。

 なにかやらかしてしまっただろうか。そう思った瞬間、ぱちぱちと拍手の音がひとつ。

 朱雀さんの、と認識した途端。

 どっ! と押し寄せる白熱の波。

 拍手と喝采の嵐。

 モモンガ様! 至高の御方万歳! と、高らかに……、いや、だから盛り上がりすぎだろ! 大したこと言ってないよね!?

 耐えきれず、さっさと朱雀さんにマイクを渡した。守護者の何人かはハンカチで涙を拭いてるし。なんでだ。なんの状態異常だ。

 

 あからさまに戸惑う俺が可笑しかったのか、朱雀さんは顔を逸らして忍び笑いを漏らしている。このやろう。

 ひとしきり笑った彼は、指先でこつこつとマイクの頭をつついた後、一息ついてから、すっと片手を上げた。それだけで、再び会場は静まり返る。

 

「はい、規模と内容に関しては先の二人から説明があった通り。ぼくから言うことはひとつだけだ」

 

 ひとつ、という言葉と同時に人差し指が立つ。普段より少し固い印象だったが、それでも落ち着いた、ひとに物を教えることに慣れた声だった。

 

「今回、兵を動かす者には、出来る限り現地の人間を殺さないよう努めてくれ、そう伝えてある。生かしておくのも作戦のうち、ということもあるけれど……、こちらの実験に巻き込む以上は、それが最低限の礼儀であると考えてほしい」

 

 隠蔽するだけなら霧を消せば済む話。どのみち、今来ているレベルの人間では、ナザリックの監視網を潜り抜けることはできないだろう。

 それを、もう一捻りほしい、と実験がてらカルネ村を使うことにしたのは、こちらの我が儘だ。ならば、対価は支払わなければならない。それが朱雀さんの、唯一とも言える主張だった。

 対価は、命。殺さないこと。こちらの存在を知られたくない以上、特別なにか与えることはできないし、その必要も無い。人間というものは生きてさえいれば、何かしら得るものがあるのだと。

 

「疑問に思うものがいるかも知れない。外の生き物に、ましてや人間などに礼儀を払う必要があるのか、と」

 

 ナザリック至上主義とでも言えば良いだろうか。NPCたちはナザリックの外の者、特に人間種を過剰に蔑視する傾向にある。原因は恐らく、全体的に低めのカルマ値と、俺たちギルドメンバーのロールプレイのせいだ。ユグドラシルで散々人間種相手にPKとPKKを繰り返してきたツケが回ってきている。

 この前の晩酌のとき何も言われなかったから、変身する程度は問題ないだろうけど、元々人間だってことがバレたら一体どうなるのか。

 

「その疑問の答えとしては、大いにある、と言わせていただこう。本来払うべき礼儀を、相手のステータスや種族によって引っ込めるのは、ナザリックに所属する者の品位として相応しくない」

 

 正直に言うと、人間に対してそこまで親密な感情を抱いているわけじゃない。精々昆虫くらいの愛着が関の山、というところだ。

 ……朱雀さんは、どうなんだろう。人体の7割くらいは水で出来てるっていうし、生者と死者よりは、人と水の方が近いのかもしれない。文化人類学が専攻だって、言ってたっけ。本当は直接街とか見に行きたいんだろうけど。

 

「ユグドラシルはぼくらの庭のようなものだったから、ぼくらもかなり好き勝手なことをしていたけれど、ここは、違う。君らから見れば未熟なものに見えるかも知れないが、この世界には独自の成り立ちがあり、文明があり、文化があって、その価値はとても重いものだ」

 

 外の価値。外の価値ってなんだろう。

 外の世界が、俺にとって、ナザリックより大事なものになることなんて在り得ない。せいぜい、ギルドメンバーも転移しているかもしれない、というくらいか。

 

 ……朱雀さんは。

 ナザリックと、外の世界と。どっちが。

 

「それがどのような価値であるかは……、これ以上は長くなるね。今のところはとりあえず、君らでよく考えてもらえれば嬉しい。以上!」

 

 締めくくられた言葉と、周囲の歓声に、はっ、と意識を目の前に引き戻した。軽く頭を振って、雑念を頭から追い出す。

 よく考えなくても失礼な話だ。現状散々朱雀さんの世話になっておいて、自由意志を縛るようなことを。好きなときに好きなところに行ってもらえばいい。安全を確保できてから、という前提はあるにせよ。

 

 マイクが再びパンドラの手に渡り、ありがとうございました、至高の御方々! と気合の入った敬礼。やめて。

 

「……おっと、今情報が入ってまいりました。最初の一団が間も無く霧の縁に到着するとのことです!」

 

 画面が切り替わり、スクリーンに騎兵隊が映る。視界に突如霧が入り、動揺しているのだろう。これからどうするのか少々揉めているようだ。

 

「無事こちらに誘い込まれてくれると良いが」

「そのために色々準備したからね。突貫だったけど、どう?」

 

 朱雀さんが守護者たちの方へ振り返れば、彼らはみな、自信ありげに微笑んだ。なにひとつ問題は無い。そんな表情だ。

 

「第1部隊、既に配置を終えていんす」

「ナザリック警備ノタメノ人員モ整エテオリマス」

「スキル部隊も位置についてます! ()()()やつも発動を確認しました!」

「む、村人たちの安全も、確保してあります!」

「現在、こちらの動きを察知されている様子はありません。魔法的な監視も今のところないようです」

 

 最初の報告は上々と言ったところ。特に問題は見当たらない。

 よし、とひとつ頷いて、朱雀さんも画面へと視線を戻した。

 

 実のところ、結構わくわくしている。この世界の戦闘をちゃんと見るのは初めてだ。

 

「お手並み拝見と行こうじゃないか」

 

 ほどなくして、騎兵達が霧の中へと突入して行った。

 

 

 




というわけで前提条件がだいぶぬるくなってしまいましたが、退屈な展開にはならないといいなあ、と祈りながら書いています。

次回なる早。
順番に処理していきますよー。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メメント・モリ 弐


前回のあらすじ

カルネ村で実験が始まりましたよ


実は当初存在を忘れていた先遣隊のみなさんのお話。



 纏わりつく霧の中を散策する。呼吸の度に湿った空気が肺に溜まっていくようだ。その感覚が陰鬱な自分の心情とぴったり重なることに辟易しながらも、ただひたすら目標の村人を探し続ける。

 視界が明瞭であることだけが幸いだった。薄い霧なのだろう。しかしそれが逆に、この国境沿いの農村から人気が感じられないことをまざまざと思い知らせてきて、殊更いやな予感ばかりが頭を過ぎる。

 

 いつもと変わらない任務のはずだった。

 ガゼフ・ストロノーフ抹殺の囮として、村人を駆り立て、家捜しをし、適度に間引いて、何人かは逃がして。それだけの任務だったはずなのだ、が。

 

 無音。ほぼほぼ無音であった。馬は見張りに任せて入り口に繋いできたので、今はもう、鎧が擦れる金音と、湿った地面を踏みしめる幾つかの足音が聞こえるばかり。それ以外はなにも聞こえない。人がいる、気配が無い。

 

 事実、さっきから手当たり次第に住居の扉を蹴破っているが、一向に村人の姿が見えなかった。隠れているのか、あるいはこちらの存在を察知して逃げ出したか。未確認の家は遂に、高台にある一軒が残るのみとなり、ただでさえ高いとは言えない士気は目に見える標的がいないことで更に低下している。

 

 最初のうちは嬉々として任務に当たっていたお飾りの……、ベリュース隊長も、随分と退屈そうに辺りを見渡していた。誰もいないではないか、とぶつくさ文句を垂らすのに、あんたがこの村に入ると言ったんだろうが、と胸の中で独言する。

 

 最初に霧が見えた時点で進言したのだ。この季節に霧などおかしい、本隊に指示を仰ぐべきだ、と。

 お前は臆病者だなロンデス、の一言で一蹴されてしまったが。

 

『ガゼフ・ストロノーフが迫っているというのに、どうやって本隊に知らせるというのか』

『むしろ、この機を逃すべきではない』

『村の連中も怯えて縮こまっているはずだ』

 

 ベリュース隊長の意見は間違いではない。本隊との間にガゼフを挟んでいる以上、奴に見つかることなく報告に行くことは容易ではなく、霧に乗じて姿を隠し、村に奇襲をかけることは効果的であると言えた。現状、成果を得られていないのは、隊長の指示が原因ではない。

 だが、にやにやとした下品な顔が頭に浮かぶたび、自分の腹に濁りが溜まるのを、自覚しないふりをするのは、もう何度目のことだろう。

 

 結局、どんなに正しい内容でも、誰が命令するかによって良案にも愚案にもなるということだ。副隊長である自分だけでも身に刻まねばなるまい。部下がついてくるかどうかは、普段の行いにかかっている、と。

 

「あとは、あの高台の家だけだな。さっさと行って来い」

 

 ……下克上、など。考えただけで実行できることではないのだから。

 

 

 

「開かないか」

 

 結果として、与えられた小隊を率いてやってきた高台の家は、当たりと言って良かった。

 建物自体はごくごく一般的な農村の家屋。他のものよりやや大きいことから、村の中でも地位のある者が住んでいるのかも知れない。これといってなんの特徴もない、石壁と木の屋根を用いて作られた住居だった。ある一点を除いて。

 

 家の扉が開かないのだ。押しても引いても、蹴り破る勢いで足裏を叩きつけても、2人がかりで体当たりをしかけても、薄っぺらな木の板をちいさなちいさな蝶番で取り付けただけの扉はびくともしなかった。ならば壁、と武器を使って打ち壊そうとしても、なんら状況は進展せず。

 あからさまに、何らかの、恐らくは魔法の力が働いている。村で魔法に秀でた者が生まれていたか、あるいは我々の動きをどこかから察知して、魔法詠唱者(マジックキャスター)でも雇ったのかもしれない。面倒なことになったものだ。

 

 格子戸から見える中の様子は真っ暗で、一体何人の人間がいるのかは知れなかったが、明らかに人がいる気配がする。立て篭もっているというのなら、やることはひとつだが。

 

 広場をちらりと見る。すっかり気の抜けたベリュース隊長が欠伸をしていた。入り口の方では、置いてきた馬が草を食んでいる。

 数呼吸ほどの逡巡、呼んだときの厄介と、こちらで済ませてしまった後の叱責を天秤にかけ、腹を決めた。

 

「やむを得ん、火を放つ」

 

 基本的に、村人の何人かは生かしておけ、という命令を受けてはいるが、立地的にもタイミング的にも、ここが最後の村になるだろう。火をつければ中から人が出てくるだろうし、最悪、全員焼死してしまって問題はない。

 部下のひとり、デズンが、松明に火打石で火花を散らせる。

 ……が。

 

「火が、つきません」

「なんだと?」

 

 がちん、がちんと空しく石を打つ音だけが響く。

 へたくそだな、貸してみろ、と笑いながら何人かが交代して火をつけようとしていたが、どれだけやっても火がつくことはなかった。確かに霧で湿気てはいるが、火打石にはささやかな補助の魔法もかかっている。松明に染み込ませた錬金術油は、水の中でも火がつくように配合してあるはずなのに。

 

 そもそも、と、周囲を改めて見渡したのは、なにか過ぎる不安がそうさせたに違いない。

 確かに視界は明瞭だ。薄い霧なのだろう。そう思っていた。

 

 すぐ近くの森。広場であくびをしている隊長。入り口に草を食んでいる馬。

 

 おかしい。普通、霧が出ているのなら、遠くの景色ほど不鮮明になるはずではないのか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()状態とはいったいどういうことだ?

 

 ぞくぞくぞくっ、と背筋を悪寒が駆け抜ける。

 松明は、まだ点かない。炎が燃えない霧。明瞭過ぎる視界。

 いつからだ。我々は、いつから罠に嵌っていた?

 我々は、いつから見られていたと――。

 

「お、お前ら! 俺を守れ!! おれをまもれええ!!」

 

――金属を引き裂くようなひどい悲鳴に、はっと意識を引き戻す。

 広場から、わめき声。ベリュース隊長の声だ。

 何が起こったのか、と思った次の瞬間には、腸を鷲づかみにされるような緊張を強いられる。

 

 広場にいた兵達が、大勢のスケルトンに囲まれているのだ。

 

 数はざっと見ても50以上。まだそう近くまで接敵されてはいないが、生者を己の糧とすべく、じりじりと距離を詰めている。

 まさか、と周囲に視線を走らせれば、我々分隊がいる高台にも、霧から滲み出るように、かしゃんかしゃんと足音が近づいてきた。

 

「小隊、下へ――」

 

 降りろ、と叫ぼうとした口を引き結ぶ。村の入り口で、馬の綱が切られているのが見えてしまったから。

 状況と言うものは悪い方向へ流れていくものだな、と、部下の手前、舌打ちを仕舞いこんだ。

 

 さあ、どうする。

 迫り来るスケルトン、こちらの手勢。侵攻の速度、逃げ出せる可能性。手持ちの武器、天気、状況、情勢。突っ切れるか否か、走りきれるか否か。何を利とするか、何を切り捨てるか。

 

「……下には降りない! 小隊、屋根の上へ!」

 

 倍程度ならどうとでもなる。3倍までなら戦える。しかし、この数ではとても勝てる見込みはなく、この密度では逃げ切れそうにもない。馬を逃がされてしまったのなら尚更だ。

 幸い、頑強な魔法が掛けられた建物が1軒。直下の6人程度なら屋根が十分に遮蔽の役割を果たしてくれる。こちらから見える限り弓を持ったスケルトンはいないようだし、体力さえ持てばしばらくは戦える。

 

 広場の方も遮蔽物には事欠かない。弓騎兵への伝令用の角笛も向こうが持っている。僅かな援軍ではできる隙も知れているだろうが、逃げることくらいなら可能だ。隊を率いているのがあの隊長だというところが最大の不安要素だが、我々が合流したところで一緒になって押し包まれるだけ。このくらいは働いてもらわなければ。

 

 そして、屋根上の篭城もそう長い時間にはならない。まもなくガゼフ・ストロノーフがこちらにやってくる。我々を守るために剣を振るうということはまずないが、これほど溢れているスケルトンを奴なら見過ごさない。村のためならば、と数千体のスケルトンを蹴散らすくらいは、あのストロノーフなら容易くやってのける。

 そのとき、隙を見て逃げ出せたならよし。逃げ出せず王国戦士団に捕まったとしても、なんとか本隊が来るまでの時間を稼ぐ。神の御名において、任務は達成されなければならない。

 

 ……故に。この機に乗じて、あのクズを葬ることができないか、などと、考えているわけではないのだ。決して。

 

「副隊長、早く!」

「ああ、すまん!」

 

 最後になった私をモーレットが引き上げる。1体1体の強さは大したことがない。屋根に取り付こうとする連中も、手持ちの武器だけで捌けている。これならば、なんとか保つだろう。

 

 しかしながら。

 高所に潜み、若干の余裕ができたことで、周囲の情報が入ってくる。

 

 馬を繋いでいた縄はいつ切られたというのだろう。アンデッドが切ったのだろうか。生者を襲うだけの木偶と化した、知能の無いモンスターに、そんなことができるのか。

 

 広場では、再びの悲鳴。鈍器ならば多少はマシになるだろう、と納屋に入っていった隊員のひとりが、隠れ潜んでいたスケルトンに殴られて意識を失っていた。待ち伏せ。アンデッドが、待ち伏せ。

 

 スケルトンは執拗に、我々を狙い続けている。この家屋に籠城している村人には目もくれず、我々だけを。

 奴らが持っているのは鍬だの鋤だの、農具ばかりだ。カッツェ平野で見るような、剣を携えているような敵は1体も見当たらない。

 

 村人が雇ったのは、死霊術師(ネクロマンサー)なのか?

 白骨と農具は村人が提供したのだろうか。

 迫り来るスケルトンを叩き落しながら、考えだけがぐるぐると回る。

 

 だが、これだけの規模、これだけの数。

 ごくり、唾を飲み込み、足元の屋根を見た。この中に、どんな人間がいるというのだ。

 

 引き込み、退路を断ち、待ち伏せをする。

 うすら寒いほどの統率力。

 いったい、誰がアンデッドを率いているというのだ。

 いや――。

 

――我々は、()と戦っているのだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャルティアは、ふうん、と指先を口元に当てて小首を傾げ、眉毛を八の字に寄せる。何事か不満に思っている様子はしかし、まさしくペロロンチーノさんが語った理想の女子像のように見えた。

 その顔、その姿、その仕草。どれをとっても可憐な少女そのもので、ナザリックの門番、守護者序列1位の真祖(トゥルーヴァンパイア)であり、ただいま現地の人間にスケルトンをけしかけている張本人とは思えない。

 

 今回の作戦を行うに当たり、守護者たちには役割分担が書かれたカードを渡してある。

 

 現地の人間と直接戦う兵を扱う役。

 ナザリックの防衛をする役。

 敵を補足し、都合の良いバフやデバフをかける役。

 村人たちを守る役。

 ナザリックへの監視を警戒する役。

 以上5つ。

 

 守護者たちはこれを目隠しして引いても構わないし、相談し合って分けても良いし、自分の得意分野になるよう奪い合っても良い。また、自分のカードが決まった後は、直接的に他の領分へ踏み込むことは基本禁止とする。

 

 加えて、共通認識として頭に置くよう伝えたことがいくつか。

 なるべく低位のモンスターと能力を使うこと、現地の人間を殺さないこと、ナザリックの存在を知られないようにすること、そして、可能な範囲内で良いから、現地の人間だけで物事が収束しているように見せかけること。

 後は大雑把な流れだけを説明し、細かいところの指示はほとんど丸投げにしてある。欲しいものや足りないものは遠慮なく言うようにと付け足して。

 

 カードの分け方の説明を朱雀さんがしたときはちょっとどきっとしたけれど、特に何の争いがあったわけでもなく、普通にくじ引きで決めたようだ。

 

 シャルティアが引いたのは前線で兵を動かす役。下手を打ったら作戦のすべてが崩壊しかねない、難しい役どころだと思ったが、なかなかどうしてうまくやっている。

 少々数が多いような気もするが、騎兵隊を生かしたまま上手に追い込んでいるし、剣ではなく農具を持たせることで村人の祟り感を演出しつつ、現地の人間をなるべく殺すな、という命令にも対応している。

 実際は農具の方が殺傷能力が高いとかいう話も聞くけれど、手加減するのに殴打ができるのは大きい。剣の腹でぺちぺち叩くよりは不自然じゃないだろう。

 

 こちらから見ても及第点だと思うのだが、シャルティアには何か不満があったのだろうか。

 

「もうちょっとバリエーションを増やしたほうが賑やかで良かったかも知れんせんねえ」

 

 かくん、と力が抜けそうになる。そっちかあ。

 まあ、今の状態だと、完全にスポーツ観戦のノリだし、無理もないかな。

 

 悩ましげな声は少女らしくて可愛らしいが、与えられた役割からすれば少々的外れかと思える反省に、そうだよ、とアウラが横から茶々を入れた。

 

「スケルトンばっかじゃん。動死体(ゾンビ)とか入れらんなかったの?」

「あの生々しさも嫌いじゃありんせんが、やっぱり白で統一したかったというか……」

「あんたあれ趣味で選んだの!?」

 

 鋭いツッコミ。思い出すなあ、茶釜さん。

 

 しかしどうやらネクロフィリアにもこだわりがあるらしい。シャルティアにとってこの世で最上の美は俺のアバターだとこの前聞いたけど、美醜の基準がさっぱりわからない。アゴのとがり具合とか?

 ……死の支配者(オーバーロード)になっても、女性の骨に興奮する性癖が付与されなくて本当に良かった。

 

「まあ、わからなくもないですがね。あの軍勢、相当選りすぐったのではないですか」

「で、ありんしょう!? ありんしょう!?」

 

 違いのわかる男と言えば良いのか、デミウルゴスは美的観点からスケルトンの集団を評価し、シャルティアを喜ばせていた。

 本来防衛の責任者である彼は今回、魔法的・物理的な監視への警戒を受け持っている。

 彼が布陣した警戒網は、なんというかスパイ映画の絡み合った赤いビームを思い起こさせるもので、「これを越えて監視してくるんならぼくらじゃもうどうしようもないね」と、攻性防壁特化の100LVプレイヤーからお墨付きが出る代物。俺も布陣図を見たときは変な声が出た。俺の部下が優秀でお腹いたい。

 

「ヨクワカランナ。多種多様デアル方ガ軍ニトッテハ良イト思ウノダガ」

「だよねー。ちょっと実用性にかけるっていうかさー」

 

 軍の実用面から苦言を呈するコキュートスとアウラは、それぞれ防衛とスキル付与に割り振られている。コキュートスが構築した防衛陣は武骨ながらもしっかりしたもので、建御雷さんが作った武器を思い出した。

 たぶんナザリックの防衛が一番やることないと思う、というのは朱雀さんの弁。周囲には大した敵がいない上に外側の警戒網があれだからなあ。

 

「で、でも、あんまり種類を増やすと、つ、強くなりすぎちゃいますよね」

「現状、『殺さずに』という条件が付くと、ナザリックでは戦力過多なのよね。致死性のパッシブスキルを持つシモベも少なくないし」

 

 ある意味では一番頭を使っただろう村人の保護を担当したマーレの言葉に、アルベドが追従する。

 アルベドにはカードを引いてもらってないが、統括として、空いた穴の確認にまわってもらっている。守護者たちがここに集まることで、どこかに弛みが出ないとも限らないからだ。

 ヴィクティムとガルガンチュアは動かせないので除外。立場的にセバスも入れようか悩んだが、特にこれといった役が残っていないことと、第九階層を管理している彼を外に出す予定は今のところなかったので今回は保留にした。

 

 きゃっきゃと軍の内容について談義する守護者たちの様子は完全にスタジアムの観客といったところ。スクリーンの中との落差が激しい。

 

「まあ、仕事に趣味を取り入れられるのは良いことだ。それでうまくいくならなおさらね」

 

 朱雀さんに誉められて、えへへ、とシャルティアは上機嫌に微笑んだ。

 

 この役割には、ちょっとした縛りプレイも要求してある。シャルティアがアンデッドを直接操作しちゃいけないのは勿論のこと、追加で命令するのも禁止。命令を出して良いのは最初だけで、あとは成り行きを見守らなければならない。ある種のシミュレーションゲームみたいなものだ。

 当初はいくらか取り零すと思われたが、今のところ問題なく機能しているのは正直予想外。よほど知恵を絞ったと見える。

 

「スケルトンの武器を農具で揃えるという案は、シャルティアが出したのか?」

「もちろん……」

「ふーん」

 

 自慢げに胸を反らしかけたシャルティアは、物言いたげに唇を尖らせるアウラを見てしゅるしゅると落ち込み、どうにも罰の悪そうな顔でボソボソと弁明する。

 

「……ちびすけにも、意見をもらいんしたが」

 

 それで良いのだ、と言わんばかりに、アウラはふふん、と鼻を鳴らした。

 やっぱりあの2人を思い出すなあ。ペロロンチーノさん、小さい頃は自由研究が間に合わなくてよく手伝ってもらった、なんて言ってたっけ。

 

「自分のわからないことを素直に問うのは悪いことではない。お互いを補い合えるように、これからも精進してくれ」

「は、はいっ!」

「もちろんです!」

 

 相談してはならない、という条件を入れなかったのは、むしろこのためだ。上司に見せる場でも、彼らは足の引っ張り合いを起こさずに行動することができるのか。

 結果は上々。組織のために率先して協力するところを見せてくれたのは実に嬉しい。

 

「あ、そうだ。マーレ」

「は、はい! な、なんでしょうか、死獣天朱雀様!」

「確か村人って60人くらいいたと思うんだけど、あの家のなかに全員入ってるの?」

 

 朱雀さんは疑問を投げかけながら、頭にお茶を滲ませる。口にものを、いや、頭にものを入れたまましゃべるんじゃ、……そういえばどこで喋ってるんだろう。俺もだけど。

 しかし他の家より多少広いとはいえあの中に60人、もし詰め込まれているなら確かにきつそうだ。

 

「え、えっと、えーっとぉ……」

「ゆっくりでいいよ、落ち着いて」

「は、はい! ま、まず、ドッペルゲンガーさんに頼んで、む、村の中で立場が強そうな人に化けてもらったんです」

 

 呼ばれた気がして、と振り返る黒歴史。お前じゃない座ってろ。

 

「そ、それから、その人をさらって、入れ替えて……、あっ、さらってきた人は、眠らせて、隠してあります!」

「うん、それで?」

「それで、入れ替えたドッペルゲンガーさん達に、<人間種魅了(チャームパーソン)>を使ってもらって、て、敵が来るから危ないって、信じ込ませました! な、何度か魔法を切ってみましたけど、怪しまれては、ないです!」

 

 精神系の魔法はユグドラシルにも多々あるが、こっちではいまいち効果のほどがよくわからないものもたくさんある。

 <人間種魅了(チャームパーソン)>は、使用者を非常に親しい人間だと誤認させる魔法だが、今回のように、元々親しい人間が説得の強化として使う分にも威力を発揮する、ということか。

 

 ちなみに最も怪しまれるであろう、家屋にかかった魔法に関しては、「こんなこともあろうかと昔もらった魔法の護符をとっておいた」で押し通したそうだ。それで良いのかカルネ村。

 

「なるほど、それから?」

「ゆ、床下に大きな穴を掘って、そこにも村の人を潜ませてます。<植物の絡みつき(トワイン・プラント)>で壁を補強したので、崩れたりはしないです!」

「ほうほう」

「あ、あと! デ、デミウルゴスさんに、弱い人間はすぐ死ぬって、教えてもらったので、体調は、こまめに確認してます! だ、大丈夫です!」

 

 大丈夫です、と言い切った割に、子犬のようにぷるぷると震えている。慣れない役職にどのような評価が与えられるのか、緊張がひしひしと伝わってきて、つられて俺も胃が痛い。

 

「うん、良いと思う。よく考えたね、マーレ」

「あ、ありがとうございます!」

「デミウルゴスも。良い補佐になってくれたみたいだね」

「些細なヒントを出しただけです。マーレの功績ですよ」

 

 大したことはしていない、と謙遜するデミウルゴスは、それでも誉められて嬉しそうだ。

 マーレはお礼を言ったとたん、ぷしゅー、と席に沈んでしまった。お疲れ様。

 

「ところでアウラ、スキルを付与したことに気付いた者はいたか?」

「それが全然!」

 

 首を元気よく横に振って、ため息までついてみせる。拍子抜けです、といったところだろう。

 

「スキルどころか、シモベ本体に気付いてるやつもいないみたいです。透明化はしてありますけど、不可知化は使ってないのに」

「ふむ……」

 

 本当に見た目通りの強さということか。まあ、ある程度予想はしてたけど。

 屋根の上からひたすらスケルトンを叩き落とし続けている様子はまさに必死で、とても演技でやっているとは思えない。

 

「ロールプレイをしているという可能性も、これではなさそうだな」

 

 そのとき、ぴたり、と守護者たちの動きが止まり、お互いに顔を見合わせた。

 

「……申し訳ありません、モモンガ様。ろーるぷれい、とは一体どのようなものでございましょうか」

 

 神妙な表情でアルベドが尋ねてくる。

 困ったな。説明できるほどは詳しくないし、だからってユグドラシルでのことをそのまま話しちゃうと、どこかボロが出そうで怖い。

 

「ロールプレイというのは、あー、文字通り役割を演じる、ということなんだが……、なんと説明したものかな……」

 

 朱雀さんに視線で助けを求めれば、彼はそうだなあ……、と一度宙を仰ぎ。

 

「例えば……、シャルティア」

「はい!」

「前に出て」

「はい!?」

 

 さあさあ早く早くと促す声にわたわたと慌てて舞台まで降りていったシャルティアは、何をさせられるのかと緊張した面持ちで次の命令を待つ。

 

「はい、想像してください。きみは今、スクリーンの中と同じように、屋根の上でスケルトンの軍勢に囲まれています。その数100体。味方はおらず、シャルティアひとりだけです」

「は、はい。想像したでありんす」

「よろしい。では今からその状況を打開すべく動いてみてください」

「はい!」

 

 すっ、と白い両手が胸の前へ。レベル100のクレリックなら、一瞬で対処できる事態だろう。

 ぱん、と打ち鳴らす直前に、朱雀さんがただし、と前置きを入れた。

 

「今のシャルティアは、人間種、レベル5、剣士です。装備は軽量化された鉄の鎧と鋼の剣のみ。アイテムは使い切ってしまっていて、スキルも魔法も使用できません」

「えっ」

「はい、よーいスタート!」

「ちょ、まっ」

 

 予想していた手段が使えず、シャルティアはただおろおろしている。

 そこへやたら生き生きと畳み掛ける朱雀さん。この光景見たことある。PVPで罠に引っかかった敵がじわじわ死んでいくのを煽ってるときの朱雀さんだ。

 

「さあ! スケルトンがもう間近まで迫っている! どうする? どうする!?」

「えっ、えっと、と、とりあえず叩くでありんす! や、やあ! とお!」

 

 シャルティアは目の前に向かって手をぶんぶん振り回す。ぎこちない動きが逆に新兵っぽくてリアルかもしれない。

 

「ああっ! 死角からスケルトンが忍び寄っている! しかしシャルティアは目前のスケルトンに集中していて気付くことができない!」

「ふえっ!? な、なんとかならないでありんすか!?」

「ならない! 現実は非情だからだ! スケルトンの鋭い剣が、人間種の柔らかい首へ見事に突き刺さる!」

「えええ!?」

 

 展開が早い。まあ実際、提示された戦力差ならこんなものだろう。戦いは数だよ、って、誰の言葉だったかな。

 

「はい、奮闘空しく、シャルティアは死んでしまいました」

「む、無念でありんす……」

「ありがと、シャルティア。戻ってきていいよ」

 

 朱雀さんの無茶振りに打ちのめされて、シャルティアはとぼとぼと席に戻ってきた。すとん、と腰を下ろし、くうん、とため息をつく姿がどうにも不憫だ。いつも些細な言い合いをしているアウラでさえ、心配そうに顔を覗き込んでいる。ちょっとフォローを入れてやらなきゃ。

 

「あまり気を落とすな、シャルティア。実際に死んだわけではないのだからな」

「ありがとうございますモモンガさま……」

「さて、シャルティア。どうすれば生き残れたと思う?」

 

 朱雀さんの質問にシャルティアはううん、と唸り、顔をきゅっとしかめてしばらく考えるが、あまり良い策は浮かばなかったらしい。恐る恐る妥協案を口に出す。

 

「事前にこの状況を回避するしかないと思いんす。そもそも……」

「そもそも、レベル5の剣士に何ができるのか覚えていない、か」

「うう……」

「おめでとう、シャルティア」

 

 予想だにしない言祝ぎに、シャルティアだけでなく、何人かの守護者も驚いた顔を見せた。アルベドとデミウルゴスは穏やかに微笑んでいる。朱雀さんの意図が既に伝わっているのだろう。早い。

 

「きみは今ふたつのものを得た。課題と成果だ」

「は……」

「剣士……、だけじゃないね。低位の職業において、何ができて何ができないのか、きちんと調べ直すこと、これが課題。そして成果だけど」

 

 言葉が切られ、そっとアイコンタクト。目線だけで頷いて、その先を受け取る。

 

「お前が既に、限られた駒を使って、どうにもならないところまであの騎兵隊を追い込んでいる、という事実だな」

「あ……」

 

 状況も人数もそれぞれ違いはあるが、追い込む側の仕事としては、立派にやり遂げているという証だ。

 

「とはいえ、お前にはまだやることが残っている。続きもしっかり励むと良い」

「は、はいっ!」

 

 背筋を伸ばして元気良く返事をする様を見て満足そうに頷く。立ち直ったみたいだな。良かった。

 

「と、いうわけで。雑になったけど、これがロールプレイ、役割演技法。疑似体験を通して、状況判断力や思考力を養う学習法だ。本来はもう少し準備や事前知識の収集に時間をかけるものだけど」

 

 納得してもらえたかな。

 はい、ありがとうございます、死獣天朱雀様。

 朱雀さんとアルベドの穏やかなやり取りに、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 けど知らなかった。そんな高尚なものだったのか、ロールプレイ。ごっこ遊びの延長線上だと思ってたのに。

 

「もうひとつだけ、教えていただいてもよろしいでしょうか」

「うん?」

「モモンガ様は当初、連中が野外で役割演技法による学習をしているとお思いになったのですか?」

 

 あっ、そうか。この話の流れだとそうなるよな。どうしよう。

 

 朱雀さんの方に顔を向ければ、自分の分の説明は済んだとばかりにじわじわお茶を飲んでいる。あなた飲みながらでも喋れるでしょ! 知ってるんですよ!

 

 ええい、もうどうにでもなれ。

 

「いや、ロールプレイという行為にはもう一側面あってな。身内だけで役割を演じて遊ぶ、単純な娯楽の意味も含んでいるのだ」

「娯楽、でございますか?」

「ユグドラシルではよく見かけたのだよ。架空の人物を模してなりきったり、あるテーマを決めてそれに相応しく振る舞ったりする輩をな」

 

 まさに俺たちのことです! とはさすがに言えない。

 ユグドラシル時代のことをどう思っているのか知りたい気持ちはあるけど、蛇が出るとわかってる藪は、あんまりつつきたくないよなあ。

 

「あくまで可能性として思ったのだ。“帝国兵に扮した弱小法国兵のふりをして遊ぶ強者”なのではないか、と」

 

 混乱させたならすまなかった、と、色々隠している手前、できるだけ殊勝に謝る。

 そんな! モモンガ様が謝られることなど! と慌てる守護者たち。彼らがどんな反応をするかそろそろわかってきて謝罪するんだから、卑怯というほかないな。

 

「でも、つまり……」

 

 腕を組み、首を傾げるアウラがひとこと。

 

「それって、幼稚なごっこ遊びってことですよね?」

「ごぅっ!」

 

 やばい。音が聞こえた。

 ざっくぅ! って、胸に言葉の刃が刺さる音が……!

 

「現実から逃げているのね……」「ぐふっ」

「さ、寂しいひとたちですね……」「うぐぅ」

「哀レナ者達ダナ……」「ぉお」

「まったく、矮小というべきか、卑小というべきか……」「うぅぅ……」

 

 ごめんなさい、俺が悪かったです。だからもうやめて。

 呆れ返ったような空気のなか、朱雀さんのどこか渇いた笑い声が響く。

 

「辛辣だねえ、きみら」

「……わらわは、わかるような気がいたしんす」

 

 そっと胸に手を置いて、大事なものを宝箱から取り出すように呟いたシャルティアへと、視線が集まる。

 わ、わかってくれたのか、さすがペロロンチーノさんが作った自慢の……。

 

「つまり、ろーるぷれいのぷれい、とは、“女教師プレイ”や“看護師プレイ”など、非日常を取り入れたプレイの一環と同じ意味……」

 

 じ、自慢の……?

 

「つまり、ろーるぷれいをする者は、業の深いド変態ということでありんすね!」

 

 自慢の、変態だったかあ……。

 

 やめてくれ、ドヤ顔で締め括らないでくれ。他の守護者たちも納得しないでくれ。

 

 上げて落とされただけに、よけい深く突き刺さった杭の痛みを受け止めなければならず、ひそかに体を丸めながらじっと耐える。

 そこへ、タイムキーパーも兼ねているパンドラズ・アクターが声をかけてきた。

 

「モモンガ様、そろそろ次が迫ってきていると」

「あ、ああ。わかった。聞こえたか? シャルティア」

「はい、モモンガ様!」

 

 威勢の良い返事と共に姿勢を正したシャルティアは、スクリーンの向こう側で抵抗する兵をじっとりと眺め、ふふん、と妖艶にせせら笑う。

 

「中々頑張っているでありんすが、ここまでにいたしんす」

 

 軽い深呼吸のあと、妖しく見開かれる深紅の瞳、ぐっ、と突き出される小さな拳。

 

「第二陣、発進でありんす!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スケルトンが、退いていく……?」

 

 もうどれほど抵抗しただろうか。交替で休憩してはいたが、疲労の色が隠しきれなくなってきた頃、スケルトンの攻勢が緩み出した。それどころか、まるで何かを恐れるかのように後ずさっていくではないか。

 

 ネクロマンサーの魔力限界か、あるいは神の思し召しか。未だ気を抜けない状況ではある。だが、あるいは脱出の兆しが見えたかもしれない、と、状況に希望を見いだしたそのとき。

 

「ロ、ロンデス副隊長……!」

 

 部下の震える声に呼ばれ、中空高く指し示された方向を見た。

 

「……神よ」

 

 思わず溢れ出た祈りには一生分の罵倒が込められていたことだろう。

 今まで自分は敬虔な信徒であったはずだ、と。なのにこの仕打ちはどういうことなのですか、と。

 

 その程度で砕けるが故に、貴様の信仰は浅はかであるのだ。

 そう嘲笑う神の悪戯そのものが、中空高く翼を広げて待ち構えていた。 

 

「スケリトル、ドラゴン……!」

 

 竜の形を人骨で模した、冒涜的なアンデッド。魔法を完全に無効化し、幾多の魔法詠唱者を死に追いやってきた、凶悪なモンスター。

 

 スケルトンは、退いたのではない。邪魔にならぬよう、道を空けただけ。そして、待ち構えているだけなのだ。このあと、地に叩き落とされるであろう、我々のことを。

 

 スケリトル・ドラゴンは、より高く舞い上がる。助走をつけようというのだろう。我々を確実に殺すために。

 逃げられない。逃げ場など、どこにもない。その気力も、また。

 

 猛烈な勢いで突進してくる骨の塊を、もはやただ、見ていることしかできなかった。

 

 

 




お話の都合上ロンデスさんをやや無能にしてしまったことをお詫び申し上げます。
つぎからはゆっくり休んでもらうので許して。

次回はミスリル冒険者の見せ場。
来週上げられたら良いなと思ってます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メメント・モリ 参

毎度お待たせしております。
予告した途端に忙しくなるのほんとなんで?


前回のあらすじ

先遣隊のみなさん VS スケルトン軍団+スケリトルドラゴン
ファイッ!
カーン‼(試合開始)
カーン‼(試合終了)

今回は残党処理からの、(筆者が)おまちかねあの人まで。
微グロ注意。




 

 

 走る。走る。走った。

 とにかく一番近い家屋へ。扉とも言えないような木の板を引きむしるように開け、身を滑り込ませると同時に勢い良く扉を閉める。

 追いついてきた連中の手によって開け放たれる前に、そこらに置いてあったものを積み上げてバリケードを作った。生活臭が染み込んだ机、ひょろひょろの椅子、ほとんど中身の入っていない虫食いのタンス。なんでも良い。とにかく少しでも頑丈になれば。

 

 どん、どん、どん! もはや立てかけられるような物が無くなってしまった頃、粗末な木の戸が叩かれる。向こう側から、聞きなれた声。

 開けてください、隊長、あけて、あけ……!

 

「馬鹿が! 誰が開けるか! お前らでなんとかしろ!!」

 

 叫び、後ずさり。扉から離れる。

 そんな、とも、ちくしょう、とも聞こえた気がするが、やがて雄叫びとともに離れていくのがわかった。

 それで良いんだ。お前らはとっととスケルトン共を駆逐しろ。

 扉から最も離れた壁に背をつけて、ひとまず、安全は確保できた、だろうか。

 

「はっ、はっ、はっ、……っんぐ」

 

 荒げた呼吸を落ち着ける。つばを飲み込んだ。

 瞬間、どかっ! と跳ねる扉。ひ、と喉から自然に漏れる吐息。ひきつる体。粗末な家具を並べただけのバリケードはしかし、がたがたと揺れるだけでこちらに雪崩れ込んで来る様子はない。つう、と頬を冷や汗が流れた。

 

「ふーっ、ふー……っ」

 

 ぴたりと身を寄せた壁は今にも倒れそうなほど薄く、呼吸をするたび、土の匂いが鼻をつく。土臭い民家だ。薄い壁と、地面がむき出しの床。意匠を凝らした絨毯や、装飾品はおろか、魔法による冷暖房さえついていない、貧乏臭い家。

 藁と泥に塗れながら一生を終える、ちっぽけな農民のすみか。こんな場所、俺には縁のないところだと思っていたのに。

 

 悲鳴、打撲音、金切り声。どん、どん、どん、どん。扉を叩く音。

 やめろ、叩くんじゃない。ここは開かないんだから、さっさと周りの敵を片付けろ。無能共め、本当に使えない。

 ロンデスのバカは何をやってるんだ。この程度の敵も殲滅できないのか。

 

 どうしてこうなった。簡単な任務だったはずだ。馬鹿な村人を追い立てて、殺して回るだけの。それがどうしてこうなった。スケルトンの群れなんて、聞いてない。だから、俺は戦う必要なんてない。

 真っ先に家屋に逃げ込んだことにだって理由がある。俺は、誰を犠牲にしても俺だけは、安全を確保しなければならなかった。俺は特別な人間だからだ。そんじょそこらの、つまらない連中とは違う、選ばれた、資産家の後継ぎなんだから。

 

 この隊を率いることになったのは、箔をつけるためだ。いずれ継ぐことになる家業を、更に発展させるのに、利用させてもらう。それだけの。

 言うことをロクに聞かない無能な部下の尻をたたきながら、ここまでやってきたっていうのに。

 

 あいつだ。全部あいつが、ロンデスが悪い。

 あいつがもっと強く俺を止めていれば。もたもたせずに高台の家を攻略していれば。スケルトンの軍勢が押し寄せてきたとき、一番に助けるべき、俺のところにさっさと戻ってきていれば!!

 

「くそ、くそが……っ」

 

 家に隙間があるのか、じっとりと霧が滲み入ってきている。蒸し暑い。鎧の下、汗と湿気でべたべたと濡れて気持ちが悪い。

 がちがちと歯が鳴る。 身が震える度に鎧が軋む。なんでおれがこんな目に合わなきゃならない。なんでこんな、たったひとりで、嵐に震える虫のように、みじめに隠れ潜まなきゃならないんだ。

 

 畜生。畜生。俺の家がいったい、幾ら国に寄進したと思ってる。俺が死ぬことが、法国にとってどれほどの損害になるのか、わかっているのか。俺の危機を感じたら、すぐに助けにくるべきじゃないのか。

 

 死ね。

 くたばれ。

 みんなくたばってしまえ!

 

「はあ……、はあ……、…………?」

 

 ありったけの呪いを胸の内で叫んだとき、ふいに気がつく。

 

 外から、悲鳴が聞こえなくなった。かしゃかしゃと鳴り響いていた骨の音も、剣と農具が打ち合う雑音も。

 

 しばらくそうやって耳をそばだて、ほっと胸を撫で下ろす。

 恐らく、無能共が無能なりに健闘したのだろう。無事、敵を殲滅した、ということだ。

 

「は、はは……っ! そ、そうだよな。俺の、部隊だからな!」

 

 自然と笑みがこぼれる。

 良いじゃないか。ベリュースの部隊、スケルトンの軍勢を一網打尽。ありきたりだが、吟遊詩人に歌わせるならまたとない英雄譚だ。

 

 今にも崩れそうな壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。

 まずはあいつらに謝らせなきゃならない。時間がかかって申し訳ありません、隊長の安全を完璧に守れなかった愚かな部下を許してください、と。

 そのあとでなら、まあ、労いの言葉ひとつくらいならかけてやらんでもない。

 

 そう思い、意気揚々と扉に向かおうとした、そのとき。

 

「……?」

 

 無音だと思われた外から。

 なにか、ちいさい物音がする。

 しばし考えて、何やら固いもので壁を引っ掻く音だと思い至った。

 

 かりかり、かりかり。

 かり、かりかりかりかり。

 

 ひとつではない。複数聞こえる。まるで虫が朽ち木を囓るような、こまごまとした耳障りな音に、ぞわりと背中が粟立った。

 俺の隊員達が、俺をびびらせようとしているんだろうか。置いていかれたことを恨んでいるとでも? 馬鹿な。自分の仕事をさせてやっただけだろうに。

 

「お、おい、ふざけてるのか?」

 

 まったく、無能はどこまでも無能だな、と鼻で笑ってやる。指導のひとつもしてやらなきゃならないな、と怒鳴り付けようとしたとき、今度は、背後からも壁を掻く音。わざわざ回り込んだというのか。冗談にしてもたちが悪い。

 

「お、おい! 貴様ら! いい加減にしろよ!!」

 

 精一杯の怒りを込めて叫んだ。

 しかし。

 

 がりがりがりがり。

 かりかりかりかり。

 

 音は止まない。それどころか増えるばかりだ。どんどん大きくなる。

 

「お、おい……?」

 

 がりがりがりがり。

 がりがりがりがり。

 がりがりがりがり。

 がりがりがりがり。

 

 やつらは恐ろしいほどに均一なちからで、おぞましいほど一定に、ひたすら壁を掻き続けている。

 

 やつらが。

 おれの、隊員たちが。

 

 否。数えるまでもなく。

 

 壁を掻く音は、とっくに。

 

 隊員の総数を超えていた。

 

「ひっ、ひぃいいいい!!」

 

 それが意味するところがようやく頭に届いて、音から遠ざかるように、部屋の中央へと四つん這いで走る。

 殲滅されたのはスケルトンじゃない。あいつらだったんだ。

 

 俺が察したことに気が付いたのか、壁を掻く音は更に増す。

 部屋中に反響して、鼓膜を揺るがしている。

 

 がりがりがりがり、がりがりがりがり。

 がりがりがりがり、がりがりがりがり。

 

「やっ、やめろ! やめろおぉおおおお!!!」

 

 耳を塞ぐ。頭蓋が軋むほどにつよく、つよく。

 土臭い床に頭を押し付けて、身を縮こめた。まるで、折檻を受ける童のように。

 

 がっ、がっ! がりっ! と、明らかに壁をぶち抜こうとする音まで混ざり始めた。もうじき奴らが押し寄せてくる。怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。

 

「やめろよぉ、やめてくれよぉお……」

 

 とうとう嗚咽を堪えきれず、懇願する。

 なんでだ、なんでだ。なんで俺がこんな目にあわなきゃならない。

 俺がいったい何をしたっていうんだ。

 

 ひ、ひっ、としばらくしゃくりあげている間に、ふと、周囲の空気が変わったことを感じる。

 

 壁を掻く音が、止んだ。骨の音も、足音も聞こえない。

 

「た、助かっ、た……?」

 

 ぱら、と天井から埃が舞い落ちる。

 さきほどまで確かにあった、押しつぶされそうな重圧が消えうせていた。

 

 飽きて、去っていってしまったのだろうか。

 

 はぁあああ、と深く、ふかくため息をつく。

 とりあえず、外の様子を確認しようと、起き上がろうとした。

 

 

「ぎゅぁあ!?」

 

 

――瞬間、天井を勢い良くぶち破り、何かが圧し掛かってきた。

 

「ごふ、おふぅうううう!」

 

 圧倒的な質量に胴を押さえつけられて、空気が肺から一気にあふれ出る。

 ばらばらと降りかかる瓦礫、舞い上がる砂塵に息が出来ない。

 

 なんだ、いったい、何が起きたんだ。

 

 現状を必死に把握しようとしたものの、冑で隠れた視界では、何が起こっているのかさっぱり理解できなかった。

 ただ、強大なモンスターが俺をどうにかしようとしているのはわかる。喰われるのか、引き裂かれるのか、とにかくろくなことにならないというのは間違いなかった。

 

「こ、こいつを倒せ! 誰か! 誰かぁあああ!!」

 

 肺に残った空気でありったけ叫んでも返事はない。無能共め。何を勝手に死んでるんだ。いったい、いったい誰が、今まで、恩を……。

 胸のうちの憤りもむなしく、ふわりと体が持ち上がる。

 

「ひい!」

 

 どこかに連れて行こうというのか。

 不安に思った時間は、しかし、そう長くはなかった。

 

「うぐぇえ!」

 

 ずん! とふたたび打ち付けられる地面。その衝撃は最初のそれの比ではない。

 

「お、おぎゅ、おぶぅうう!!」

 

 痛い、いたい、いたい。

 めりめりと鎧がきしむ。魔法で軽りょう化された、特ちゅうの一点ものに、ひびが、はいる。

 おもいだす。ふみつぶされる、むしの、からの。

 そして。

 

「おっ、ご」

 

 にくにめりこむよろい。ほねのあし。つちのゆか。けつえきときりのにおい。

 ばしゃばしゃと、なにかでぬれるじめん。くちから、こみあげて。

 

「ぐ、ぶうぇ」

 

 うちおろされる、おとが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高く振り上げられた槌が、その重みのままに目標へと降り下ろされる。がきぃん! と確かな音、骨の竜から放たれる空っぽの悲鳴。あとは、何か潰れるような音がしたような……、気のせいだな、うん。

 

 なにはともあれ、首尾は上々。今のところは問題ない。

 

 アンデッドは生き物の気配に反応する。当然、他に反応するものが山ほどある森の中じゃ発見される確率がぐんと低くなる。やたらと騒ぎになってやがるから、何事かと森のぎりぎりから侵入してみれば、いるじゃねえか、大量のスケルトンがよ。おまけにスケリトルドラゴンまで。大盤振る舞いだな。

 まあ、最悪のところまで想定してた、ほんの範囲内だ。逃げ惑ってるのが村人じゃなくて帝国兵だっていうのがそこそこ誤算だったか。

 

 出方を窺ってたところで、ひとり、一目散に家の中に駆け込んだ奴がいた。あんなうっすい壁だけでアンデッドの探知能力から逃れられるわけないわな。その辺の掃除を済ませたスケルトン共があっと言う間に群がってきて、スケリトルドラゴンも屋根からそいつを引き摺りだそうとする。モテモテでうらやましいこった。

 

 そんな色男のおかげで、俺たちの仕事がいま、上手くいってるわけだから感謝しなきゃならねえが。

 

 民家に取りついたところを狙って、打撃系の武器を持った奴がひとり、上から飛び乗り、神殿で聖別した油を翼の付け根にぶっかけて、脆くなったそこを叩く。ひたすら叩く。

 あんなすかすかの翼だけで飛んでるわけはねえだろうに、付け根からもいでしまえば飛べなくなるってのは、どういう理屈なのかね。別にドラゴンの骨で出来てるってわけでもあるまいし。

 スケリトルドラゴンだけなら、倒すのにそこまで時間はいらない。と、言うより、時間をかければそれだけ不利になる。飛び道具も持ってないし、魔法無効化以外の特殊能力もないが、あの巨体で飛べる、という一点がただただ厄介なモンスターだからだ。どれだけ早く翼を剥がせるかが勝負ってわけだな。

 

 俺達後衛はその間のサポート。飛び道具や投擲でさんざっぱら暴れる奴さんの邪魔をしつつ、わらわら寄ってくるスケルトン共を排除していく。

 西側と南側にそれぞれひとりずつ、射線が十字になるよう配置している後衛は、死者の皮(アンデス・レザー)なんかでアンデッドに対しての探知妨害をつけていて、4人目の仲間も、いざというときのために森の縁に潜ませている。いま、暴れ狂うスケリトルドラゴンやスケルトン共の目に入っているのは、骨竜の上で鎚を振るっているあいつだけってことだ。

 だから、俺達は、後衛は確実に、奴に迫る脅威を排除してやらなきゃならない。信用とか信頼とか、そういう問題じゃなく、それができなければ冒険者のパーティというものは成り立たないからだ。てめえの役割をこなす。当たり前の話だ。冒険者として続けていくなら当たり前の。のし上がりてえってんなら、なおさら。

 

 今も、辛うじて残ってる壁の上にちょこんと乗った天井へとよじ登ろうとしてる一匹がいる。

 

「させねえよ」

 

 こちとら伊達や酔狂でミスリルプレート引っ提げてるわけじゃねえんだ。仕事はさせてもらうぜ。

 

 とぷん、神殿で買った聖水に手頃な石を浸して、スリングショットにセット。狙いを定め、引き絞り、息を止めて……、放つ!

 

 ぱかぁん! と小気味の良い音を立てて、2体の頭蓋骨が粉々に砕け散る。見事な二枚抜き。我ながら惚れ惚れする。

 頭を失ったスケルトンは、手に持った鍬を所在無げに2、3度振り回すと、かしゃん、と膝から崩れ落ちてしまった。

 

 普通は、頭がないくらいじゃ動きは止まらない。身体だけで獲物を探し続けるのがスケルトンだ。

 が、聖別した武器や聖水なんかで対アンデッド用に威力を上げてやればこの通り。スケルトン程度なら一撃で倒せる。

 

 弓より精度は落ちるが、弾を選ばなくて良いのがスリングショットの利点だな。スケルトン相手に矢は効きにくい。火矢なら問題なかったんだが、この霧だ。あの嬢ちゃんが言った通り、どうやっても火がつきやしねえ。

 

 だからこそ、色々と準備はしてきた。

 薬屋で買った瞼への塗り薬で霧を見通し、聖別した魔石の粉末で、ささやかな結界も作っている。念のため神殿でいくらか補給しといたが、やっぱり役に立った。出費は痛いが、命には代えられねえ。ここらへんをケチる奴から死んでいく。俺は知ってる。

 

 壁を背に、淡々と、確実に。徐々にだが、スケルトン共の数は減っていっている。このまま何事も無ければ、無事に殲滅できるだろう。気になることは色々とあるが、考えるのは後だ。

 

 戦士なら鎚なり何なり振り回して終わらせるんだろうけどな。蒼の薔薇のガガーランあたりが突っ込んでったら爽快だろうよ。まあ、パーティ構成上仕方が無い。地道にこつこつ少しずつ。それが心情ってやつだ。ただし。

 

「いずれ、追い付くけど、なっ!」

 

――チャンスを逃すつもりは、毛頭ない。

 

 今回の偉業がどれだけ評価されるかを算用しつつ、新たに2体のスケルトンを土に還した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャルティアは顔を押さえてうずくまっている。ううう、と可愛らしい呻き声だが、種族の特性上、これだけで軽いデバフが乗っているはずだ。

 それを掻き消すようにぱたぱたと手を振って、その手を頭の後ろで組んだアウラがいたずらっぽくつぶやく。

 

「これは時間の問題かなー」

「ま、まだわかりんせん。これからでありんす!」

 

 強がりを言ってはいるが、あらかじめ命令を与えているわけではないのだろう。目が諦めている。

 

 いま、シャルティアが用意した軍勢は、森の縁に隠れ潜んで様子を窺っていた冒険者の一団に、もろとも殲滅させられつつあった。会場では最初から捕捉していた連中だが、現場にいた低位のモンスターでは存在を把握しきれなかったらしい。

 

 新しく現場に投入されたスケリトルドラゴンは、屋根の上に篭城していた騎士達を見事撃墜し、無力化することに成功。広場の方は既にスケルトンによって片付けられていたようで、ひとり真っ先に家屋へと篭城した隊員を引きずり出すべく、屋根を潰し破って降り立ったところまでは良かったのだが。

 獲物を捕らえて再び飛び上がる瞬間を狙われた。ハンマーを持った重戦士に上を取られ、今もそいつに殴られ続けている。スケルトンたちにはスケリトルドラゴンの救援を優先するようにと伝えてあるのか、重戦士を引き剥がそうと群がってはいるものの、それが逆に仇となっているらしく、他の冒険者から完全に背を向けたところを次々と撃破されていた。

 

 レベルはともかくとして、事前の準備という点において、小慣れた冒険者たちに軍配があがったということだろう。いつも使っている狩場でそうそう遅れを取ってくれる相手ではなかったようだ。

 

 スケリトルドラゴンの様子が痛ましいのか、会場はどことなく沈痛な空気に包まれている。こら、パンドラズ・アクター。煽るんじゃない。それが仕事なのはわかってるけど!

 

 まあ、スケルトンはPOPモンスターから引っ張ってきたし、スケリトルドラゴンも低位アンデッド作成で生み出したものだからコストはゼロ。こちらの懐はまったく痛んではいないし、勝つことは必須条件じゃない。問題は。

 

「……ヒトリ、殺メテシマッタナ」

「ですねえ」

 

 この場でカルマ値が最も高いコキュートスが、ぼそりと事実を漏らし、眼鏡のブリッジを押し上げながらデミウルゴスが同意する。めいめい聞こえるため息は、落胆か、諦念か。

 

 現地の人間はなるべく殺さないように。事前に守護者達に伝えられていた条件であり、さきほど会場で宣言もされた、死獣天朱雀さんからの指令でもある。普段から俺たちを「至高の御方」と過剰に敬う守護者たちは当然、直接与えられた命令に答えるべく、すぐに死んでしまうであろうか弱い現地の人間に対して細心の注意を払っていた。

 ああ、だの、うう、だの、ほとんど泣きそうなうめき声を上げて、シャルティアはおずおずと朱雀さんの表情を窺う。

 

「も、申し訳ありません。至高の御方からのご命令をこなせず……」

 

 彼女は言い訳ひとつせず、深々と頭を下げて謝った。きゅっと目を閉じて、身体をちいさくちぢこませて。

 しかし朱雀さんは彼女の発言になにか思うところがあるのか、ふうん? とため息にも似た疑問符をシャルティアへと向けた。

 

「まあ、やっちゃったものは仕方ないけど。やっちゃったことは事実だからねえ」

「も、もしよろしければ、蘇生魔法を……」

「よろしくない。それで済ませようとするのは、ぼくは好きじゃない」

 

 あと、蘇生魔法ぎりぎり耐えられないと思うんだよね、彼。朱雀さんはそう言って、襟の後ろに手を添える。

 行使できる者は少ないが、この世界にも蘇生魔法があり、レベルダウンのペナルティも存在すると聞いた。5レベル分の消費に耐えられない弱者は、灰になってしまう、とも。<真なる蘇生(トゥルー・リザレクション)>ならばあるいは、とも思うが、そういう問題ではないのだろう。少なくとも、朱雀さんの中では。

 

 彼はつんと冷たく逃げ道を塞いでいるように見えるけど、実を言うと、誰かが失敗することを期待していたところが、俺たちにはあった。何もかも順調に行くよりも、軽く失敗した方が印象に残りやすいからだ。

 現地の人間とまともに戦うのはこれが初めてで、ひとりやふたりは偶発的な事故で死んでしまうかもしれない。それを仕方が無いで済ませることはできるが、「俺たちの厳命」にどこまで真摯に対応してくれるかも見ておきたかった。それが彼らの心情に反するもの、「ナザリックの外の人間を尊重する」というものであったとしても、なお、やってくれるのかどうか。

 

 結果が伴わないのはやる気が足りないから。俺はこの言葉が大嫌いだ。現実(リアル)の頃に散々言われたせいで、今でも思い出すたびに胃がきりきりする。

 俺としてはシャルティアはよく頑張ってくれたと思う。戦闘特化の彼女が、「女の子はちょっと頭が弱い方がかわいいよね!」と豪語してやまないペロロンチーノさんが作った脳筋美少女が、周囲の意見を集めながら必死に考えてくれた。それだけでも俺は、今回の催しをやった価値があると思う。

 判断力の低い下級モンスターを事前の命令だけで完璧に動かすということは、要するにプログラミングをするということに近い。あらゆることを想定して、それに対応するなんて、ゲーム時代、メイドたちのAIを担当していたヘロヘロさんでも難しいだろうに。

 

 それでも、失敗には何かしらのペナルティが必要だ、と、朱雀さんと話し合った結果意見は一致した。リスクを軽減させる方法はいくらでもあったし、役割をくじで決めたのも彼ら自身。

 内容については慣れてるからまかせて、と言ってくれたけど、果たして。

 

「じゃあシャルティア、減点1」

「げっ、減点!?」

「みっつ貯まったらひどいことになるからね。覚えておいて」

 

 空の白手袋が立てる三本の指に視線が集まった。言った本人は軽い冗談のような口調だったが、守護者たちは至って深刻である。減点とはなにか、ひどいこととはなにか。そんなことを聞きたくてしょうがない、という雰囲気だが、朱雀さんもまた、教える気は毛頭ない、と言いたげに、画面に視線を戻してしまった。

 

 しかしなるほど、良い案だと思う。具体的な罰じゃなく、回数に余裕を与えることによって、こちらにもあちらにも猶予ができる。先送りと言えばそれまでだけど、俺も朱雀さんも、ギルドメンバーの子供とも言える存在に対して、酷いことなんてしたくないのだ。

 3回までなら大丈夫、と調子に乗るようなことは……、表情を見る限りなさそうだ。みんな十分怖がってくれている。これなら次回があっても、成果を出すために真剣に考えてくれることだろう。

 

 とはいえ、ちょっと怯えさせすぎたんじゃないかな。なんだかかわいそうになってきた。

 

『朱雀さん、すみません』

『うん? ……、ああ、いいよ。どうぞ』

 

 許可を取って、涙目のシャルティアに向き直る。今日は厄日だな、シャルティア。なんかごめん。

 

「お前が何か功績を上げたならば、減点は取り消すと約束しよう。これからも励んでくれ」

 

 できるだけ優しく聞こえるようにそう言ってやれば、蒼白だった顔色に赤みが差し、はい! と元気な返事が戻ってきた。他の守護者たちもほっとしている。よしよし。

 

 さて、画面の方は……、そろそろか。

 

「パンドラズ・アクター」

「はっ! ()()()()間も無く、と!」

「ふむ」

 

 軽いアクシデントはあったものの、概ね予定通りだ。これなら計画もうまくいくだろう。

 

「では悪いがシャルティア。選手交代とさせてもらおう」

「はい、モモンガ様、ご存分に!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スケリトルドラゴンの始末を終えた仲間が、最後のスケルトンの頭を打ち砕いた。辺りに動くものが何もなくなったことを確認してから、ふう、と息をつく。こんで片付いたか。

 一応周囲を警戒しながら村の中央に集まると、鎚を担いだ仲間が苦虫を噛み潰したような顔で謝ってくる。

 

「すまん、イグヴァルジ。下で誰か潰しちまった」

「んあ?」

 

 見に行けば、確かに胴で真っ二つにされた死体がひとつ。上から攻撃しに行った時、スケリトルドラゴンの下敷きになっちまったらしい。聞き違いじゃなかったか。帝国兵の鎧を着ているが、隠れ潜んでたってことは大した地位のやつじゃなさそうだ。周囲を見れば、同じ鎧を着た連中がちらほら倒れている。

 

「帝国兵か? 厄介なことになるんじゃないのか、おい」

 

 仲間のひとりがそう言うのに、ううん、と顎をひとつ撫でて、思考を巡らせた。

 

 冒険者には、国の政治や戦争に加担しない、という規約がある。帝国兵の思惑がどうであれ、交戦することは基本許されていない。たとえそれが、村を守るという名目であっても、だ。自己防衛のためならまあ、ってところだが、そもそも国に雇われた兵が冒険者に手を出すなんてことはまずありえねえ。そのためのプレートだ。

 そんな諸々の事情があって、帝国兵を王国の冒険者が殺した、なんてことになれば、少々厄介なことにはなるんだが。

 

「このデカブツが潰しちまった後だろ? こいつが死んだのは」

「……そういうことでいいのかね」

「穴掘って埋めてやりゃ恨まれもしねえだろ」

 

 そうか、と、どうにもバツが悪そうに後ろ頭をがしがしと掻いている。身体のわりに気が小さい。情けねえったらありゃしねえ。おまけにきょろきょろとあたりを見渡して、身震いして言うのだ。恨みと言やあよ。

 

「変じゃねえか……?」

「んん?」

「スケルトンがあんなに、鋤だの鍬だの担いで……」

「まさか、村の連中がいないのは……」

 

 ひとりの言葉に、もうひとりが同調する。あのスケルトンが全部、殺された村人だって?

 ろくでもない妄想に、ばーか、と、ひとこと投げかけてやった。

 

「死にたてほやほやの死体があんな綺麗な白骨になるわけねえだろ。せいぜい墓場掘り返して出てきた骨だっつの」

「そ、そうか……?」

「案外、村がネクロマンサーでも雇ったのかも知れねえしな」

 

 戦ってる最中からおかしいとは思ってた。探知能力に引っかからないよう準備してきたとはいえ、あまりにも行動が単純すぎる。まるで術者が命令だけ与えて、隠れ潜んでいるかのように。姿を見られたくないか、よほどの臆病者か。

 

「これだけの量を操る、ネクロマンサーを、か?」

「冒険者では聞いたことないが……」

 

 蒼白になるのも無理はない、が、あれだけスケルトンを用意した後だ。こんな小さな村にある骨の数なんか知れてる。これ以上、敵は出てこないだろう。

 

 肌で感じてわかった。この霧は、カッツェ平野の霧とは違う。アンデッドへの探知阻害効果を持つ、あの粘りつくような死臭のする霧とは、まったく別のものだ。

 恐らく、誰かが偽装したがってるんだ。カッツェ平野から近いことを良いことに、てめえの仕業を、どうにか隠したいってな。

 

「こんな邪法紛いの術を使うんだから、良くてワーカーだろうな。まあ……」

 

 今から確かめてやる。

 無傷で残っている高台の家。見るからに怪しいじゃねえか。

 

 さて、これだけの騒ぎを起こしたネクロマンサーの首はどれだけの報酬になるかね、と、頭の中で計算しつつ、意気揚々と足を踏み出した。

 

 そのとき。

 

「あだっ!」

 

 勢い良く歩き出した速度と同じ分の衝撃が、顔面に走る。痛みに顔を抑えながら、前方不注意にしたって何も無い広場で、と怪訝に思い、片目をそろそろ開きながら。

 

「んなとこに、壁……」

 

 なんか、と。

 

 続きは、言葉にならなかった。

 

「んぶぉっ」

 

 撥ね飛ばされる身体。ぐりんぐりんと回る視界。懐かしい景色だ。頭のどこかでそう思った。駆け出しの頃、オーガの棍棒でぶん殴られたときも、こんな。

 

「っが、……!」

 

 うつ伏せに叩きつけられた地面。イグヴァルジ!! と悲鳴のような仲間の声。きいん、耳鳴りに混ざって辛うじて聞こえる。いま、どうなってる。どんなときでも、現状を把握しなければ。生き残る。いきのこるんだ。

 

 右腕しか動かない。遅れてやってきた、鼻と、腹と、片腕と片脚に激痛。着地に失敗した。左足が変な方向を向いている。げふ、と、口から血の塊がこぼれた。鼻血と、胃を少し破いたらしい。混ざりもののある、真っ赤な。

 

 敵は、なんだ。今、どうしてる。

 何本か折れてしまった歯を食いしばり、顔を、上げて。

 

――上げなければ良かった。人生で、一番後悔した瞬間だった。

 

「オァアアアアアアッ!!!!」

 

 びりびりと、殺意そのものの咆哮が大地を振るわせる。地面に倒れ付していることを差し引いてもなお大きいと言える体躯。血管を思わせる真紅の紋様が描かれた鎧、悪魔のような角が生えた兜、そこから覗く、腐りかけた人間の顔。その眼は生者を地獄へ引きずり込むべく爛々と輝いており、右手に持った長大な剣には、眼光と同じ色のオーラが心臓の鼓動の如く蠢きながら纏わりついていた。左手にはその身を覆い隠すほどのタワーシールドがあり、あれで跳ね飛ばされたんだろうな、と、やけに冷静にそう思った。

 

 攻撃されたのが剣じゃなくて良かった、とは、思わなかった。なぜならば。

 

「な、なん……」

 

 一歩一歩、化け物が近づいてくる。残された右腕で必死に距離を取ろうともがいた。

 

 わかるのだ。これでも、他人の悪意には敏感なほうだから。

 遊んでいるのだ、あいつは。俺をいたぶって、なぶり殺しにするつもりでいるのだ。

 

「く、来るな……」

 

 懇願むなしく、化け物の丸太のような足が、俺の胴に突き刺さる。げぅ、と、蛙が潰れたような声。ぽきぽきぽき、骨が折れる音も。

 ごろごろと地面を転がる度に痛みが走る。仲間の助けは、期待していなかった。俺ならもう逃げてる。

 

「あ、ぅあ……」

 

 まるで意味の無い音が口から漏れ出る。恐怖と傷と痛みとで、呼吸がままならない。股間の生暖かいものはきっと血じゃないんだろう。

 あーあ、こんなとこで終わりか、情けねえ。嫌だ、諦めたくねえ、英雄になるんだ。頭の中でぐずぐずと回る声は、けれども身体を動かすに至らず、ひゅー、ひゅー、と喉を鳴らすに留まった。

 

 また、やつの足音がする。今度はさっきほど怖くなかった。もう、ほとんど気を失いかけていたから。

 

 視界の端で、やつが剣を振り上げるのが見えて。

 

 

 薄れゆく意識の中。

 

 

「おぉおおおおおっ!!!」

 

 

 まるで、御伽噺の英雄のような叫び声が、たしかに聞こえた。

 

 

 

 

 




\キャー!/ \デスナイトー!/

おかしいなあ……ニグンさん以外は殺すつもりなかったんだけどなあ……。

まあいいや(適当)
3期発表されましたね。めでたやめでたや。

次回は多分日曜日。
どうせ間に合わないなら予告なんてしなきゃいいのに! バカ!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メメント・モリ 肆


戦闘シーンを書くのが苦手だということをすっかり忘れていました。
面目ねえ。


前回のあらすじ

ベリュース「」
イグヴァルジ「」


実のところ、カルネ村イベントはもっと後に回す予定だったのですが、フル装備と正装のガゼフさんがかっこよすぎて予定を変更してしまいました。フル装備なんていうか牡鹿っぽいよね。



 

 道途は傾き始めた陽に照らされている。もうじき朱に染まるだろう道は、もはや20ほどになった行軍の足音を受け止めていた。敵の足跡を追いながら、ひたすらに駆ける。次の村には、間に合わなければ。逸る思いを必死に落ち着かせて、行路の向こう側を睨みつけた。

 

 「王国国境で目撃された帝国騎士達の発見。及びそれが事実だった場合の討伐」。我々戦士団が、王より賜った任務である。

 実際足を運んでみれば、「発見」どころの騒ぎではなく、執拗にまで焼かれた村々と、数多の死体、そして焼け出された僅かな村人が、奴らの所業を物語っていた。

 

 だが、余りにもタイミングが良すぎる。エ・ランテルまで村人の護衛を頼んだ副長はそう言っていた。我々がエ・ランテルに到着したタイミングと、村が襲撃された時期が重なりすぎている。恐らく、否、確実に、仕掛けられた罠。むざむざ殺されに行くようなものだ、と。

 

 事実、そうなのだろう。帝国側の、もしくは王国貴族によって仕掛けられた罠であったとしてもなんら驚きはなかった。

 むしろ、帝国側の罠にしては浅はかだという感想まである。かつて、戦場で俺を直接勧誘してきたあの若き皇帝ならば、もっと周到で逃れようのない罠を用意してくるであろう、と。それができる男であり、それ故に帝国は栄えているのだろうと感心する反面、どうあっても帝国側に寝返る気にはなれなかった。あれほどではなくとも、王国貴族が、もう少し愚かでなければと、思わないときはなかったが。

 

 俺を殺したいのなら、毒のひとつでも盛れば良いだろうに。無辜の民の命を利用してまで、王を蹴落としたいか。

 握った手綱がぎりりと軋む。易々と殺されてやる気は毛頭ない。ない、が、厳しい状況に立たされていることもまた、拭い去ることのできない事実だった。

 

 それでも、戦力を分断してしまったことに後悔はない。

 最善どころか悪手としか言えない手段ではあったが、あそこで、残された僅かな村人を見捨てるわけにはいかなかった。たとえその考えが貴族の手の内にあることだとしても、成さずにはいられなかったのだ。自らの信念においても、大義ある王のためにも。

 

 王のため。王のため、か。

 

 常々思うことがある。ただ一振りの剣であれたなら。王の意思ある剣として、敵を屠るだけの存在でいられたならばどれだけ良いか、と。

 ただの言い訳であることは承知している。だが、何事にも才能と限界があるのだ。どれほどの年月を費やしても、使用できない位階の魔法があるように。王女のために血反吐を吐くような努力を続ける男が、どうあっても到達できない領域があるように。自分は、舌戦や謀略を武器とするようにできていない。にわか仕込みでそれらを習得したとしても、結果は見えている。

 

 ならば、より単純な形で、己を活かすことはできないだろうか。

 

 こう考えるようになったのは今に始まったことではないが、最近、特に強く思うのだ。

 不敬なことではある。許されないことであるとも。しかし、考えなければならないことだ。

 

 もし、もしも、自分よりも先に王が亡くなったとき、自分はその後どうするのか?

 

 あらゆる脅威から王をお守りする覚悟と自信がある。たとえ千の矢が降り注ごうとも、万の敵が襲いくるとしても、すべてこの身とこの剣で打ち倒す決意がある。

 だが、老いをこの身に引き受けることまではできない。

 近頃王は、よりお年を召された。そう感じる。見るたびに、よりか細くなられている、と。実年齢のこともあろうが、心労が重く圧し掛かっておられるのだろう。いつまでも派閥争いをやめない貴族達、後継とするには頼りないご子息。

 

 あるいは、と、思うのだ。

 老いそのものを切り払えなくとも、御身に降りかかるものを少しでも断ち切ることはできはしないか、と。

 

 それができたなら、自分は――。

 

 

「……隊長、ガゼフ隊長!」

 

 呼び声に、はっ、と、意識が引き戻される。副長代理に任命した部下の声だった。どうした、と、聞くまでもなく、異常は眼中に飛び込んでくる。

 

「……なんだ、これは」

 

 それは、一面の霧であった。軽く見渡すだけでも、広大であることが知れる。

 恐らくはカルネ村全域、森の端まで食い込んでいるだろうか。この時期に、こんな場所で、このような範囲の、霧?

 報告は受けていない。とすれば、遠くともここ数日に発生したものだろうか。あるいはこれも、何がしかの罠か。一瞬の逡巡の後、足跡を確認し、迷いを振り払う。

 

 迂回をした形跡は無い。次の村までまっすぐ続いているようだった。そしてこの霧の中、森まで逃げることはしないだろう。そう思い、腰袋に手を伸ばした。

 傭兵時代、カッツェ平野でよく使用した、見通しの薬だ。近頃は王都での警護が主な任務であったため、使用することはなかったのだが、いくつか捨てずに取っておいてよかった。何が役に立つかわからないものだ。

 

「副長」

「はっ!」

 

 代理、とはつけない。時短のためであったが、彼の力強く、落ち着きのある返事と、瞳の輝きを見て、そうであっても構わない、と判断したが故に。それでいらぬ諍いを起こすような部下達ではないという信用もあった。

 余った薬を手渡して、命令を言い渡す。

 

「6人選抜しろ。村の様子を見に行く」

「はっ!」

「他の者はここで待機! すぐに戻る。日が暮れるまでに我々が戻らなければ、エ・ランテルに引き返せ!」

 

 了解の返事と共に、周囲を警戒せよ、といちいち付け加えるまでもなく、防御のための陣を組み始める。本当に、良く育ってくれた。たとえ率いるのが俺でなかったとしても、今後十分にやっていけるだろう。俺に、何かあったとしても、十分に。

 元々そこまで憂いてはいなかったが、酷く安堵した心地で、自分に薬を使う。視界が完璧に晴れる、とまでは行かないが、戦闘に差し支えるほどではなくなった。

 

 選抜した者達にも、ちょうど薬を配布し終わった、そのとき。

 

――オァアアアアアアッ!!!!

 

 聞こえてきたのは、異音。まさしく異音だった。獣の断末魔のような、それでいて、ヒトのなり損ないが叫び散らすような咆哮。

 それは自分のみならず、部下の耳にも入ったようで、今のは一体なんだ、と、さざめきが走る。

 

「副長、先に行く! 準備が出来次第、後に続け!」

「た、隊長!?」

 

 引き止める声も無視して、霧の中へと突っ込む。嫌な予感がする。あれは、放っておいてはならないものだ。どこか確信めいた直感であった。

 

 村が見え、目的のものを探した時間はごく僅か。一目でわかった。先ほどの絶叫は、まさしくそれが放ったのだろう、というあからさまな異形。

 大きな身体。棘だらけの鎧。波打つ剣には赤黒いオーラが纏わりついており、巨躯を覆い隠すほどのタワーシールドには微かに血がついている。兜の中にある顔は見るからに生者のそれではなく、真っ赤な眼光が獲物を前に爛々と輝いていた。

 化け物の眼前には男がひとり倒れている。周囲に仲間らしき者もいるが、腰が引けて動けそうにない。

 

 間に合えよ、と胸の内で祈りながら、弓を取り出し、矢を番え、引き絞り――、放つ!

 

 矢は、ぱきん、と軽やかな音を立てて、その大剣に叩き落された。

 双眼がぎろりとこちらを睨む。注意は、引き付けた。

 剣を抜き、息を吸って――。

 

「おぉおおおおおっ!!!」

 

 叫び、異形の方向へと馬を走らせる。

 そのまま突進する、と見せかけて、後ろに跳んだ。身体のあった場所に、剣閃の弧。ぱっ、と血の花が咲く。

 首を落とされながら走る馬の身体、異形との隙間に狙いを定め、武技――!

 

 <流水加速>

 

 背後に回りこみ、縮めたままの体勢で、膝裏に蹴り。

 傾ぐ巨体を視界の端に、<即応反射>で姿勢を無理矢理立て直す。

 終わらせるつもりで行かなければ、これは。

 

 <急所感知>、<戦気梱封>――

 

 

「六光連斬!!!」

 

 

 確かに直撃した全力の剣撃。ざああっ、と異形の体躯が地面を滑る。

 だが、盾を構えたその姿勢はさして崩れておらず、異形本体はおろか、盾にわずかな傷も見られない。

 さて、どの程度の実力であったものかと切り込んではみたが、これは。

 

「長引きそうだ」

 

 剣を構え直した。敵もまた、ゆっくりと姿勢を正す。

 同時に、蹄の音が複数。準備を終えた部下であることを確認し、化け物から注意を逸らさぬまま、ざっと周囲に意識を払う。

 

 間近に倒れている男と、今も立っている男たちは、どうやら冒険者のようだった。プレートはミスリル。人数からして、この霧の調査に来たのだろう。

 あちこちに倒れた帝国の騎兵。散らばった農具。この場で何が起こったのかは今ひとつ判然としないが、こいつ以外の敵の気配はなく、家屋の損傷のわりに村人が死傷している様子も見られない。

 

「私は王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ! 領内に侵入した帝国騎兵を討伐するために来た! 状況の説明を求む!」

 

 ひと呼吸の間ほど呆けていた冒険者たちは、ほどなく、はっ、と我を取り戻し、口を開いた。

 

「お、俺たちはミスリル級冒険者チーム、クラルグラ! 任務は、この辺りに突如発生した霧の調査だ! 先ほど200体ほどのスケルトンと交戦、討伐! そのへんの帝国兵は、来たときにはもうその状態だった!」

「ここの村人は! 見かけたか!?」

「いや、見てない! 生きてる奴も、死んでる奴も見ていない。どこかに隠れてるんだと思う!」

 

 どこかに、という言葉と共に、男の視線が一瞬、高台にある一軒の家屋へと向かう。なるほど、他の家屋よりも損傷が遥かに少ない。なぜ今の今まで篭城が成功しているのか、という疑問はあったが、考えるのは後回しだ。

 

「感謝する! 君らはそこの彼を連れて村の外まで下がれ! 巻き込んでも知らんぞ!」

「あ、ああ! すまない、ありがとう! そいつ、突然現れたんだ! 気をつけてくれ!」

 

 言うが早いか、ふたり掛かりで倒れた男を担ぎ上げ、場を離れて行く。

 突然、現れた。まだ、他にいる、ということなのだろうか。だが。

 

「副長、聞いていたな!」

「はっ!」

「俺がこいつの相手をする! 帝国兵を回収し、この場を離脱しろ! 村人の捜索は最低限で構わない!」

 

 彼らが言う、スケルトン200体が本当だとして、その間悲鳴のひとつも聞こえないのならば、今もなお篭城を成功させているか、既に全滅しているか、あるいは果敢にも逃げ出しているか。なんにせよ、無闇に時間をかけて探す必要はない。

 

「了解! すぐに……」

「戻らんでいい! 邪魔だ!」

「……はっ!」

 

 何か言いたげな表情で、しかし速やかに副長代理は任務へと戻っていく。副長に比べれば随分と素直でやりやすいと思う一方で、ずけずけと反対意見を突きつけてくる方が優秀ではあるのだろうな、とも思った。贅沢なことだ。俺にはもったいないくらいの部下に育ってくれているというのに。

 

 ずん、と重々しい一歩。今の今まで沈黙を保ち、微動だにしなかった異形の騎士が、動き出した瞬間であった。

 

「はっ。待っててくれたのか?」

 

 返事は無い。果たしていつから屍であったのか、腐りかけの顔からは表情というものが読み取れなかった。少なくとも逃がしてくれる気はないようだし、アンデッドである以上、こいつがこの後どう動くかわからない。

 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。血が冷たく沸き立つ感覚。世界に敵と自分しかいないという、ある種多幸的な興奮。早まっていく鼓動が心地よく感じられた。

 

 やはり考えるのは性に合わない。

 倒すべき敵を倒す。実にシンプルだ。

 

 俺は、それだけの剣であればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 盾が強固と見たか、剣を弾き飛ばすべく一閃。打ち合い、迫る盾を横跳びに避け、顔面へとひと突き。時に剣を手放し、体術を織り交ぜて、まるで剣舞のような激突が続いている。

 なるほど、確かに今までの連中とは一線を画している。さすがはリ・エスティーゼ王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフといったところか。近隣諸国でも名高い実力者だと、朱雀さんのレポートにも書いてあった。

 ……が。

 

「……こんなものか」

 

 少々の落胆を交えて、ぽつり、と溢す。周囲には聞こえなかったらしく、発言を拾う者は誰もいない。

 あらかじめレベルは聞いていたので予想はついていたけれど、加減させたデス・ナイト相手に互角、というは、ちょっと期待はずれだ。この世界特有の、武技、とやらも、スキルの範囲を脱していないように思う。

 

 もしくは、自分の目が肥えているだけかもしれない。俺の中で剣を扱う実力者、といえば、それこそ世界王者(ワールド・チャンピオン)のたっち・みーさんや、彼を目指して剛剣を振るっていた武人建御雷さんであり、その他、ユグドラシル内に範囲を広げたとしても、レベルはカンストしてるのが当たり前。70以上のレベル差があれば、大した実力に見えなくても仕方ない、か。

 

 これでは会場も盛り下がってしまうのでは、と不安になったのも束の間。意外と、というか、ちょっとこっちが引くくらいには盛り上がっている。悪いことではないんだけど、むしろ楽しんでくれるのはありがたいんだけど、「危ないクスリとかやってませんよね?」と問いたくなるくらいのテンションだ。

 

『意外と楽しんでますね。レベルも大したことないのに』

『敬愛する君主のカブトムシ対野生のクワガタムシ、ってところなんじゃない? 良い傾向かどうかはともかく』

『あー……』

 

 なんとなく、わかったかも。ブルー・プラネットさんが持ってきてくれた資料映像にそんな試合があった。小さな丸太の上に乗せられた、今は絶滅したカブトムシとクワガタムシが向かい合って、場外へ放り出されたほうが負け、っていう。確かに、意外と白熱しながら見てたような記憶がある。

 まあ、今のこの盛り上がりは、それだけが理由じゃないんだろうけど。

 

「ふむ……、そうだな。コキュートス」

「ハッ!!」

「お前から見て、あの男、どう見える?」

 

 この場でカルマ値が最も高く、武器の扱いに秀でたコキュートスならば、何か思うところがあるんじゃないかと考え、聞いてみた。

 問われたコキュートスは僅かに頭を上げる。表情からは、どのような思いを抱いているのか想像もつかない。

 

「確カニ、至高ノ御方ハ元ヨリ、我々ト比ベテモ脆弱デショウ。……デスガ、アノガゼフトイウ男、戦士トシテノ輝キガ見エマス」

 

 賞賛、というところ、なんだろうか。ガチン、と顎を鳴らしたコキュートスの声は、どこか弾んでいるように聞こえた。

 

「戦士としての、輝き?」

「ハイ。モモンガ様ガ召喚ナサレタデス・ナイトヲ強敵ト見ルヤ、真ッ先ニ自ラヲ囮トシテ晒スソノ心意気。アルイハ、指揮官トシテハ誤ッタ行動カモ知レマセンガ、迷イナク付キ従ウ部下ノ動キカラ見テ、少ナカラズ信頼ヲ集メテイル者デアルコトモ見受ケラレマス」

「……なるほど、な」

 

 言われてみれば、部下の動きが段違いだ。細かい指示が無くても法国の……、彼らから見れば帝国兵をきちんと回収しているし、霧の外で待ってる戦士たちもサボる気配は欠片も見られない。最初の兵とは、比べるのが申し訳ないくらいだ。

 やっぱり上に立つ人間が見本を示さないと、下がついてこないってことだよなあ。ほんと勉強になる。

 

「良い意見が聞けた。礼を言うぞコキュートス」

「オオ……! 有難キオ言葉……!」

「他に、何か気がついたことがある者はいないか? どんなささやかなことでもいい、言ってみるが良い」

 

 NPCが学習の場、と銘打ってはいるが、俺自身、なにかしらのヒントを得られる機会でもある。参考にできる意見があるならどんどん吸収したい。

 最初の者が口火を切った瞬間から、流れるように意見が吐き出されていった。

 

 現地人の単純な弱さについて。

 魔法のアイテムや補助魔法の使い方。

 移動手段。

 戦闘要員の男女比と装備の露出について。

 戦術と人数から見る王国の政治情勢。

 冒険者と国有兵士の関係。

 冒険者のプレートから推測できる希少鉱石の価値。

 金属の加工技術。

 家畜の状態から見る食料事情。

 森林の開拓と森のモンスターの関係。

 現状を鑑みての監視魔法の普及率。

 街道の整備状況と建築技術の質。

 

 うんうんと頷ける意見もあれば、お、おう……、としか言いようのない感想、あ、はい……、と置いてきぼりにされるような高尚な議論まで。

 半分魂が抜け、ついていくのがやっとだったが、聞いた限り、思ったよりも「人間はやはり愚かだ」という話になっていないような気がする。考えを改めてくれた、というよりは、無駄な話を省くため、という側面が強いような気がするけど。

 なにか感想はないものかと朱雀さんをちらりと見たが、いま彼は()()()()()()()()にかかりきりになっている。これは話しかけられないな、と思い、ふと視線をそらせば、目に入ってきたのはひとりの司会。

 

「……パンドラズ・アクター、お前はなにかないか?」

「私でございますか?」

 

 マイクを持ったままくるりと振り向き、尋ねる仕草までいちいちオーバーだ。身体にひねりを加えながらこっちを見るのをやめろ。ポーズをつけるな。

 願いが通じたか、パンドラズ・アクターの視線は画面に戻り、間近で鑑定してみないことにはわかりませんが、と前置いて言うことには。

 

「戦士長なる男が装備している指輪。あれが気になるところですね」

「む?」

 

 言われてみれば確かに、左手の薬指、翠色の石を嵌めた指輪がある。結婚指輪か? と口から出そうになった言葉をギリギリで飲み込んだ。まさか妻帯者がどうの、という話にはならないだろうし、何より後ろからどんな視線が刺さるかわかったもんじゃない。

 

「一見して特殊な力が込められているようですが、宝物殿にあるどの指輪とも形状が一致しておりません。ナザリックに、外界すべての指輪が集まっている、とは申しませんが……」

「この世界独自の方法で作られたものだという可能性がある、と?」

「あくまで可能性に過ぎませんが、確かめてみる価値はある品だと思われます」

 

 その際は! 是非! 私に! 鑑定を! お任せくださいましたら!

 

 黒い穴しか開いてないはずの顔をやたらときらきらさせて、パンドラズ・アクターは乞う。そういえば、「マジックアイテムに関することだけでご飯が食べられる」っていう感じの設定をつけたような気はする。

 

 考えておこう、と、先延ばしの常套句を突きつけながら、「この世界独自の方法」について思考を巡らせた。

 位階魔法があるからと言って、他の魔法がない、と断定するのは、確かに早計だった。今のところ、探索した範囲でそんな魔法は確認されていないと聞いているけれど、もしかしたら、こちらの防御手段を突破してくるような魔法が存在するかもしれない。

 要注意だな、と頭のメモに付箋を貼ったところで、モモンガさん、と隣から掛けられる声。

 

「お待たせ。2割切った」

「ああ、すまないな朱雀さん。ありがとう」

 

 作戦も佳境に入った、ということだ。重要なのはここからのタイミング。遅すぎても早すぎてもよろしくない。

 

「それでは、アウラ。予定通り進めてくれ」

「……ほんとにいいんですか?」

 

 いつもきりっと上がった眉を八の字に下げて、見るからに不安げな様子。俺が召喚したデス・ナイトにデバフをかけることを嫌がっているんだろう。

 できる限り安心できるようにと思いを込めて、言葉を紡ぐ。

 

「ああ、やってくれ。そうでなくては、この作戦は成り立たないからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 主力はシールドアタック。剣の腕も相当だが、盾の扱いはそれ以上だ。守りに異様に長けており、攻撃にすら転用している。

 乱れがちな呼吸を整え、剣を持つ右手側に回りこんだ。巨体とは思えぬ素早さで対応してくるが、必死に喰らいつく。自身への攻撃を気にしている場合ではない。盾によるノックバックの方が厄介だ。次に離されたら、距離を詰められるかどうか。

 

「オォアァアアアアッ!!!」

 

 やがて焦れたか、大降りになる剣。首があった場所、頭上すれすれを薙ぐ風。

 懐ががら空きになる。今しかない。

 

 密着する距離まで踏み込み、渾身の力を込めて。

 

「戦気、梱封……!」

 

 狙うは、ひとつ。盾を持つ、手首の関節! 

 

 振り向きざまの一撃、確かな手ごたえ。ごこん、と鈍い音。

 手首ごと外れた重い盾はしかし10歩ほどの距離を跳ねとび、がらん、と一周、縁を地面に転がして動かなくなった。

 

「はっ、はあっ、はあ……っ!」

 

 後ろ跳びに距離を取る。うまくいった、否、()()()()()()()()()()()()()が、それだけで勝てるほど生易しい相手ではない。

 異形は、じっと盾を見ていた。在り得ない、とでも言いたいのか。動かないまま、しばらくそうしていたかと思えば。

 

「オアアアアアアッ!!」

 

 今日幾度目かの咆哮。もはや盾に見向きもせず、剣と共に突っ込んでくる。巨体から繰り出される一撃は見た目通り強烈なもので、風を巻き上げ、地面を抉り、こちらの皮膚を削いで行く。まともに当たれば、無事では済むまい。

 

 だが、と、剣を交えながら不審に思う。

 どういうことだ。全力を込めた一撃とは言え、ああも簡単に関節を破壊できるとは。

 

 加えてもうひとつ。ここへ来て、明らかに敵の動きが鈍くなっている。アンデッドは疲労など感じない。その穢れた2度目の命尽きるまで、能力を減衰させずに戦い続けるのがアンデッドだ。だというのに、これは一体。

 

 疑問に思いつつ、恐らくは全力なのだろう一撃を、剣で弾き飛ばす。

 ……まただ。やはりおかしい。

 

 こちらのインパクトの瞬間、明らかに威力が上がっている。

 本当に一瞬だけ。力や速さは変わらない、ほんの一瞬だけだ。が、長年振るい続けてきた剣、かち合う衝撃を読み間違えることは在り得ない。

 

 他に、誰かいるのか――?

 

 周囲に感覚を凝らしても、恐ろしいほどになんの気配もしない。さきほどの、冒険者の言葉を思い出す。こいつは突然現れた、と。

 どこから? なんのために? 

 これもまた罠の一環なのか。そのわりには追撃が来ない。なにかの、なにか。

――大きな力が、働いているような。

 

「オァアアアッ!!」

 

 余所見をするな、と言わんばかりの叫び声。

 どこか申し訳なくなる反面、そう思う自分に対して自嘲が漏れた。ほとんど反射だけで相手をしていた剣に、心底からの力を込める。

 

 猛攻であることには違いない。しかし、今となっては、大振りの攻撃は悪手と言えよう。

 隙を見て、膝から下を切り飛ばした。剣だけで立とうとしているところを、腕ごと薙ぎ払う。ずん、と、巨体がうつ伏せに倒れた。

 

 残された、手首のない左腕だけが地面を抉り、オォオオ、と、正しく亡者のような呻き声があたりに響く。悔しいのだろうか。

 アンデッドというものには、生前というものがある。微かな未練は死後の魂をゴーストにし、強い執念はレイスにするように、生前の恨み辛みで強力なアンデッドになるのだとも。これだけの力。どれだけの怨念が遺体に込められているというのだろう。

 

 しかし、とも思う。

 これだけの実力が、死後の怨念だけで形成されたものだというのは、あまりにも救われない。生きて、剣を振るい、盾を構えていた頃から、相応の実力者であったのだと、そう願いたかった。

 

「貴公とは、生前に戦ってみたかった、な」

 

 望みえぬ願いを溢し、敵だった者の首を刎ね、頭を潰す。どれだけ小さな部位であっても、力尽きるまで動くのがアンデッドだ。とどめは完璧にささなければならない。

 

 完全に動かなくなった身体を、そこらにあった石で叩き潰した。

 

「終わった、か……?」

 

 さらさらと崩れる敵の遺骸を確認し、ふぅう……、と、深く息を吐く。

 相変わらず、周囲には何の気配も感じない。だが、ここにはまだ、何かがいるはずだ。我々の戦いに介入し、こちらを観察しているであろう何かが。

 

 警戒を新たにしたそのとき、ざわり、と空気が揺らいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――同時刻、トブの森。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、なんという幸運だろうか。

 神は私の働きを見てくださっているのだろう。

 

 最上位天使の働きによって、霧を吐き散らしていた醜悪なモンスターも撃破することができた。

 倒れ付している部下の中にも、死人はいない。時間を空ければ立て直すことができる。

 

「では……」

 

 そして、今から本国へ、手土産を持っていけるのだ。

 

「覚悟はいいか?」

 

 一応尋ねてみた。

 よかろうと悪かろうと手を緩めるつもりなどさらさらありはしないが。

 

「クレマンティーヌ……!」

 

 肩の高さで切られた金髪は乱れ、玉のような汗をかき、呼吸は荒い。

 数多の未来ある人間を刺し貫いてきた腕、そして疾風走破の異名のままに、すべてを置き去りにして駆け抜けるしなやかな脚には、それぞれ深々と鉱石のような棘が突き刺さっていた。子供の腕ほどもあるだろうそれは、ぼんやりと黒色の光を放ち、今も尚、じくじくと傷口を蝕み続けている。

 

「……クソ、が……ッ!!」

 

 鈴を転がすような美しい声が、地を這うような響きで汚い言葉を吐く。哀れなことだ。末期のひとことがそのような罵声とは。

 

 愚かな女。法国を裏切った快楽殺人者。今すぐ、この手で屠ってやらねば。

 止めを刺すべく、監視の権天使(プリンシパリティ・オブザベイション)に攻撃を命じた。

 

 

 

 

 

――時刻は、クラルグラがスケルトンの軍勢と戦っているところまで遡る。

 

 

 





馬はさすがにスクワイアゾンビにならない……ならないよね?

ようやくここまで、という感じ。
お待たせしましたニグンさん。出番ですよ。次で死ぬけど。

ここを空けたくないのでできるだけ早く投稿したいのですが、どうなることやら。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メメント・モリ 伍


前回のあらすじ

○ガゼフvsデスナイト● (八百長)
ニグンさん死亡カウント5秒前


果たしてどれだけの方が覚えて下さっているのか、序章の最後の方で呼び出していた召喚獣と陽光聖典が戦うお話。

描写の関係上、前回、今回とひとつの画面のことにしか言及していませんが、実際は同時並行でお話が進んでいたということで脳内補完よろしくお願いいたします。




 

 

 そこは、ぽっかりと開けた空間であった。

 

 周囲に生い茂る樹木、濃霧に満たされてなお、むせ返るような緑の匂い。場所は恐らく森林の中ほど、足下に生えた草から、自然にできた場所だということが窺える。否、そう見えるよう、森を切り拓き、魔法で草を生やしたのかもしれない。自然的に発生した空間としては、少々拓け過ぎているという印象を受けた。

 

 だが、その程度の違和感は、今置かれている状況そのものに比べれば、些細と切り捨てられる程度のものでしかない。

 

 なぜだ。なぜ、なぜ我々はこのような場所にいる?

 

 ガゼフ・ストロノーフを追い詰めるために、村を包囲する手筈ではなかったか?

 いや、確かに、たしかに森に入ってきた記憶はある。そう、我々は、逃げたガゼフを追い込むために……、森の中へ、逃げたガゼフを、隊の全員で。

 

 馬鹿な。有り得ん。常識的にも、いかに愚かなストロノーフとはいえ、いや、ストロノーフだからこそ、この霧の中、村人を捨てて、森へと逃げるなど、絶対にありえないことだ。

 

 思い込まされていたというのか? 何かに拐かされたというのか? 我々が?

 偉大なりし神の庇護を受けたスレイン法国、その栄えある特殊部隊、陽光聖典が丸ごと、何らかの術を受けてここまで連れてこられたというのか?

 

 ……なんのために、という疑問までは湧いてこなかった。

 拓けた空間の中心、そこに居座るひとつの異物を、否応なく認識してしまっていたから。

 

 一見、岩の塊のように見えるそれは、土や石というよりは鉄のような灰褐色をしていた。肥えた牛ほどの大きさを持ち、よくよく見れば、全体にぽつぽつと黒い穴が開いている。そこからとろとろと吐き出される濃厚な霧におぞましさを感じずにはいられなかったが、なぜこの時期に、このような場所で霧が出ているのか、その答えとしては十分だった。

 

 身体中に空いた穴は絶えず蠢いており、注視すればするほどに、ヒトの顔を模しているように見える。顔面のひとつひとつが呪詛の如く呻き声を上げながら霧を垂れ流すその様は、あるいは何らかの装置である、そう認識しようとした脳を呪殺せんと試みているかのようだった。

 

 湿った空気が肉体と精神を容赦なく冷やしていく。冷や汗はとめどなく流れているというのに身体の芯は妙に暑く、心臓がどくどくとうるさくて仕方ない。

 

 あれは、なんだ。あれは一体、なんだというのだ。 

 

「な、なんだ、あれは……」

「モンスター、なのか……?」

 

 歴戦の隊員があからさまに取り乱していることにようやく気が付き、深く、静かに呼吸を整える。霧を肺に入れる度にとてつもない不快感に苛まれるが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 

「落ち着け」

 

 制止のひとことで、ざわめきはぴたりと止む。まだ命令を聞く程度の理性は残っていることが判明し、内心ほっと息をついた。

 そうだ。何を怯える必要がある、ニグン・グリッド・ルーイン。まだ隊は無傷で残っている。こんなものは窮地とも呼べない。ビーストマンの一撃に、隊員がなすすべもなく葬られたこともあっただろうに。

 

 頬の傷がじくじくと痛む。愚かな女につけられた傷。「罪のないビーストマンの子供を守るため」と嘯きながら、切りかかってきた、かの女を思い出した。

 本当に愚かな女だ。罪があろうとなかろうと関係ない。「亜人と異形は殺さねばならない」のだ。

 奴らにヒトの理屈は通用しない。あの女に助けられたビーストマンの子供は、やがて人類を殺すために爪を研ぐことだろう。ヒトの兵士が育つために必要な時間の、数分の一程度の時を経て前線に立つだろう。助けられたという自覚すらないはずだ。ヒトのメスとヒトのオスが勝手に争っていた、その程度の認識しか。

 もはや奴らは我々を血と臓物なしに許しはしないし、我々もまた奴らの死なくして奴らの存在を許すつもりはない。

 

 亜人と異形は殺さねばならない。

 それが人類を守護するために必要な第一義。陽光聖典(われわれ)に与えられた、最重要任務。

 

 誰かに招かれた戦場であろうが、用意された罠であろうが、我々が成すことはただひとつ。滅殺するのみだ。

 

「退路を確保しろ。残りは散開、全員で天使を召喚せよ」

 

 こういった非常時に、我も我もと退路を確保しに行くような愚か者達ではない。きっちり決められた人数が、敵に勘付かれぬよう、音もなく森へと消えてゆく。

 同士討ちを防ぐため、射線を意識して散開。自身も監視の権天使(プリンシパリティ・オブザベイション)を召喚する。陣形は整った。あとは、奴がどう出るか。

 

 すると、こちらの準備が出来るのを待っていたとでもいうのか、それまで微動だにしなかった異形が、みちみちと音を立てて動き出す。

 顔と顔の隙間から、ぬるりと這い出してくる触手。それは異形の身を支えるのに十分な長さを確保すると、老婆のようにしわがれた、しかし隆々とした筋肉を露出させた腕へと変形した。前後2本ずつ、まるで4本足で進む獣のような姿勢。ゆっくりと、身体が持ち上がった。

 

 ぽっかりとあいた歪な穴、眼とおぼしき場所が、こちらを捉えるのがわかる。敵としてか、あるいは獲物としてか。

 こひゅう、と、岩戸に鳴り響く風のような音を鳴らして、周囲の霧をいちど吸い込んだかと思えば。

 

『 キィァアアアアアアア!!! 』

 

 その音量、重なる音声。すべての顔がその叫びを発していることは想像に難くなかった。空気の震えが否応なしに叩きつけられ、全身の皮膚がぞわぞわと粟立つ。部下の様子を確認した。<不死の精神(マインド・オブ・アンデス)>は――間に合わない。

 

 奇声を上げながら、真っ直ぐに突進してくる巨体。速さはさほどでもない。追いつける!

 

「怯むな! 天使を盾にせよ!」 

 

 命令のままに、5体の天使が突進の壁になる。鈍い金属音を響かせて、化け物の動きは一時的に止まったものの、すぐさま強靭な腕で薙ぎ払われた。光の粒子を残して消える天使達。物理的な攻撃に関しては、難度100以上と見て良いだろう。噛み締めた唇から血の味がした。

 だが、止まる。止められる。即座に次の天使を召喚させ、再び盾に。そして背後から剣を突き立てるよう命令する。

 恐怖に身を震わせる隊員もいる中、攻撃は確かに行われたものの、全面が岩のようになっているのだろう、かきん、と天使達の剣は空しく弾かれ、振り回される豪腕によってまたもや消滅する。露出しているように見えるのは見た目だけのようで、幾分柔らかそうに思われる腕もまた、本体と同じような強度を誇っていた。

 

 物理的な攻撃は効かない。となれば。

 

「魔法主体に切り替える! 総員……!」

「ニ、ニグン隊長!」

「なんだ!」

 

 振り向けば、そこにいたのは、退路の確保を命じた隊員たち。その意味を察し、一瞬、くらりと意識が遠のく。

 臆して戻ってきたわけではない。意図せず戻ってきてしまったのだ。やはりというか、ご丁寧に逃げ出した者を元の場所へ迷い込ませる魔法までかかっているらしい。どうあっても、逃がすつもりはないようだった。

 

「……<魅了(チャーム)>、<支配(ドミネート)>の影響を確認した後、戦列に戻れ。なんとしても、あの化け物を倒さねばならなくなった」

 

 戻ってきたものが本人かどうか、判断している余裕はなかった。今はひとりでも多くのダメージソースがほしいのだ。もはや現状の打破と化け物の死亡は同義と判断せざるを得まい。あの化け物に、ここまで周到な罠を張る知性があるとは思えないので、どこかで我々を嘲笑っている何某かがいるのだろう。ならば、わからせてやらなければなるまい。我々の、実力というものを。

 

 ……無理矢理に意気込んだは良いものの。

 

「ぐあっ!」

「かは……っ!」

 

 魔法の隙間を縫って、張り付いた顔面から放たれた飛礫が、次々に隊員を打ちのめしてゆく。部下の魔法も着弾してはいるが、怯む素振りなど欠片も見せない。

 着弾の様子からしてまだ天使の剣よりはマシだろうが、このままでは魔力が先に尽きてしまう。隊の負傷者も増えてきた。回復、攻撃、天使の召喚。割り振る魔力が、足りない。

 

『 <水球(ウォーターボール)> 』

 

 ぱしゃん、と水の弾ける音、隊員の悲鳴。しわがれた亡者のような詠唱は化け物が放ったものであることに間違いなく、魔法まで使うのか、と、こちらの肝を縮ませるには十分だった。

 

 どうすれば、と、半ば絶望しかけたそのとき。

 

「よっ、と!」

「……!?」

 

 どっ! 肩に圧し掛かる重み。視界に入ったのがすらりと伸びた脚である、と認識すると同時に、上から小気味の良い声が聞こえてきた。見上げれば、鱗鎧(スケイルアーマー)に覆われた胸、さらりと揺れる金髪、そして、猫のようにつり上がった赤い瞳。

 

「おっすー、ニグンちゃーん!」

「ク……、クレマンティーヌ!?」

 

 ひらひらと手を振り、人の顔を太腿で挟み込んでいるその女は、確かに見知った、しかしここにいるはずのない女だった。

 漆黒聖典の裏切り者、元第九席次、“疾風走破”のクレマンティーヌがなぜここに。

 振り落とそうと試みるが、単純な実力差もさることながら、戦士職と魔法職。がっちりと肩に組みついた脚は小揺るぎもしない。どんな力だ。

 

「き、貴様! まさかこの事態……!」

「ちーがうって、もー。私はアレをぶっ殺したいの。ねーニグンちゃん、取引しよ!」

「はあ!?」

 

 なにを馬鹿なことを。ふざけるな。誰が裏切り者の甘言に乗るものか。

 

 そんな罵声を込めて睨み上げれば、かち合った視線にぞくりと背筋が凍る。ぐにゃりと淫らに歪んだ、血のように赤い。

 

 法国を裏切った狼藉者、という現状を除いたとしても、漆黒聖典に属していた頃から、この女のことは個人的に嫌いだった。……尤も、癖の強い漆黒聖典において、好きな人物がいるかと問われれば否と答えるだろうが。高すぎる実力は性格を歪めてしまうらしい。

 

 そんな内心など知ったことではないと言う風に、からだを柔らかく折り曲げて、こちらに顔を近づけてくる。目と鼻の先で、金色の髪がきらきらと揺れた。

 

「出口、知りたくない?」

 

 それはまさしく甘言だった。思わず眉間に皺が寄る。

 暗に、森の外から確たる意識を持ってここまで来たという証左。ここまで協力的なこいつは異常に珍しい故に、何を企んでいるやらわかったものではなかったが、先ほどから時たま飛んでくる飛礫を自力で弾いて防御している様子を見るに、少なくとも化け物の仲間ではないらしい。

 

「……貴様のメリットは」

「私はここであれをぶっ殺せればそれでいーの。それとも今、アンタが死ぬ?」

 

 いつのまにか抜かれたスティレットを、赤い舌がペロリと舐めた。実質的な選択肢の排除だ。ここで私が死ねば、隊が瓦解する。

 この女を信用するわけにはいかない、と自分の理性は叫んでいるが、だからと言ってこの状況をどうにかできるわけでなし。

 

 なるだけ苦々しく聞こえるように。それが精一杯の抵抗だった。

 

「……援護を、要請する。魔法は、自分で避けるように」

「はっ、じょーだん! 誰にモノ言っちゃってくれてんの?」

 

 当たるわけないでしょ。

 そう言って鼻で笑って見下す表情は、明らかにこちらを馬鹿にしている者のそれで。

 改めて、あらためて強く思う。

 

 やはり私は、この女が大嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ごめんモモンガさん、ちょっと時間かかりそう』

『いいですよ、こっちで調整するんで。ごゆっくり』

 

 いささか憔悴した様子で溢す朱雀さんの<伝言(メッセージ)>に、お疲れ様です、と返し、画面を見守った。

 

 計画も後半戦。今は法国の特殊部隊の連中と、この間朱雀さんに召喚してもらったモンスターが交戦しているところだ。

 朱雀さんの召喚獣は、装備の影響で<帰還(リターン)>ができなくなっている。なので一度永続化をかけてしまうと、HPを0にするまで召喚獣は消えないのだが、とある事情があってナザリックの者では倒すことができない。

 なので今、連携的な魔法攻撃を見るついでに、半ば無理矢理森の奥へと引っ張ってきた特殊部隊に倒してもらっているんだけど。

 

 如何せん、相手が弱すぎる。

 

 召喚されたのは第7位階召喚獣、水端の堰(ミスト・ポット)。レベルは40半ば。物理攻撃と魔法攻撃を使い分けるオールラウンダー……、といえば聞こえはいいが、100レベルのプレイヤーに対しては1ダメージも与えられない、ささやかなものだ。物理防御力と体力以外のパラメータは貧弱そのもの。生きている間は、霧を吐き出すくらいしか取り得がない。

 

 ……んだけど、向こうの部隊はどうにも戦い方を掴みあぐねているようだ。

 一応補則しておけば、上位の水精霊(エルダー・ウォーター・エレメンタル)水霊術師(ハイドロマンサー)、そして大召喚魔導士(アークサマナー)のクラスを持つ朱雀さんによって召喚された水精霊は、召喚された時点で結構なバフが乗っている。魔法攻撃にはあまり強くないとは言え、第3位階の魔法が精々では、HPを削りきるのに相当な時間がかかることだろう。

 

 こっちが手加減していることがバレると戦闘を続行してくれなくなるかもしれないし、できるだけ向こうにとっての脅威と見せつつ最終的には倒されなきゃならない、というのは、かなり難易度が高い。

 まあ、乱入してきた女性の手助けで、結構な数の魔法を叩き込めるようになってきたみたいだし、これなら思っていたよりも時間はかからなさそうだ。

 

 むしろ心配したいのは隣の朱雀さんのほうだ。5年もゲームを離れていて、しかもやったことのない手加減を強いられており、頭の中にある光がちかちかと点滅している。漫画で見たらぐるぐる渦巻きができているんじゃないだろうか。

 俺が作成した死の騎士(デス・ナイト)は、実力があまり離れていないこともあって、簡単な命令を与えてほったらかしにしてもうまくやっているみたいだけど、万一どうにかなっても困る、と、朱雀さんは操縦権を手放せないでいる。

 

 かといって手動で問題がないかと言えばそうでもなく。

 

『あれさ、顔がさ、いっぱいついてるからさ』

『……もしかして』

『視点が全部共有できて、処理が追いつかなくて……』

『あー……』

 

 時代が時代なら免許返納も考える歳でこれはちょっときつい。そう言って、彼は眉間らしきところに指を突っ込みながら、こぽぽ、とため息をつく。揉む血管がないので疲れが取れるかもわからない。お互い様だけど。

 それでも人数が減って幾分すっきりした画面のおかげか、最初よりは小慣れた様子で操作しているように見えるのは、気のせいではないだろう。被ダメージ量が減ってしまっている要因でもあるが。

 

『にしても、あのお嬢さんが乱入してきてくれて助かった。どう出るかと思ってたけど』

『知り合い、なんですかね? あの隊長格の男と』

『かもね。同社他部署ぐらいの関係と見た』

 

 ということは、スレイン法国の別の部隊にいる人間、なのかな。動きが怪しかったから霧の中に招いてみたけれど、人選としては意外と当たりだったか。

 レベルにしては、という前置きがつくものの、とにかくすばしっこい。武技とやらに精通しているのか、水端の堰(ミスト・ポット)の攻撃をいなしつつ、特殊部隊から放たれる魔法も自力で避けている。今のところ疲れで動きを落としているようにも見えない。

 

 それでもしばらく時間がかかりそうだったので、「HPが2割切ったら教えてください」と朱雀さんに伝えて、耳があったらさぞ痛いだろう熱狂の中、コキュートスにもうひとつの画面について質問を投げかけた。これを皮切りに守護者達の意見を集めていけば、ちょっとは時間が稼げるだろう、そう思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――<不落要塞>」

 

 しわだらけの巨腕が大振りに攻撃してくるのを、愛用のスティレットでいなす。当たんないっつーの。心の中で舌を出した直後、ぶっとい腕が突き刺さる地面、その反対側にある顔の真ん前に魔方陣が光った。つまりは、私の真正面。

 

『 <水槍(アクアランス)> 』

「――<流水加速>」

 

 身体のあった場所を水の槍が突き抜けて、後ろの木にぽっかりと穴が空く。見てから回避よゆーでした。攻撃はいちいち派手だけど、こいつ、そこまで速くない。

 化け物がこっちに意識を向けた隙に、叩き込まれる幾多の魔法。ギィイイ! と叫びながら陽光聖典へと突進する前に、とんとんとんとん! と顔を踏みつけて横断してやる。それだけで敵意をもっかいこっちに向けてくれるんだから、頭もあんまり良くないみたいだ。……良くないように、見せかけているのか。

 

 マジックアイテムで魔力を探知しながら踏み込んでいった霧の中、そこにいたのは色々と予想外のものだった。

 

 かたや何だかよくわからないキモい化け物。てっきり魔法詠唱者(マジックキャスター)だと思い込んでたから、正直当初の算段が崩れてしまった。脅すなり殺すなりすればどうにかなると思ってたのに。

 かたやニグンちゃん率いる陽光聖典。お前らガゼフを追っかけてたんじゃねーの? なんでここにいんの? と、聞きたいのはどうやらあちらだったようで、明らかに自分達の状況に動揺したまま化け物と戦闘を始める光景は中々見ものだった。おもしろかったー。

 

 せっかくなのでしばらく見物しながら、色々と考えたんだけど。

 化け物は随分と硬いみたいで、召喚された天使の剣はたやすく弾かれて、陽光聖典の隊員たちもぽこぽこと倒れてゆく。すかさず切り替えた魔法攻撃もあんまり効いてないようだったけど、化け物の攻撃力もそんなに高くはないようで。

 でもあいつでかいし凶暴だし、生け捕りはまず無理だなーとか思いながら、まあこんだけ人数に差があればそのうち倒せるでしょ、と楽観視しようとした直後に、ふと、倒せなかったら? という思考が頭の隅に過ぎる。

 

 任務中の陽光聖典とまるごと連絡が取れなくなった。さて、本部はどう考えるだろう。

 王国戦士団に返り討ちにあった? 否、向かない任務とはいえ手塩に掛けた特殊部隊、失敗は考えにくいし、万一失敗したとしても、あのガゼフが陽光聖典を皆殺しにするとはとても思えない。

 法国を裏切った? 否、それも違う。確かニグンの奴には監視がついていたはずだ。この霧で詳細な位置までは見えなかろうが、少なくとも、任務に従事している最中の陽光聖典は本国で捉えている。霧の中で密会? 45人の部下を全員引き連れて? 集団で反乱なんか起こしても、どうしようもない実力差が間に横たわっていることは、隊長まで上り詰めるくらいなら十分に理解していることだよね。

 

 となれば行き着く結論は、何らかの理由で全滅したのだろうということだ。

 

 陽光聖典が倒せない敵となったら、破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)との位置関係上、きっと漆黒聖典の仕事になる。そうなればあっという間だ。

 こっちはなんの成果も得られず、よくわからないモンスターはよくわからないまま漆黒聖典(あいつら)の手にかかる、か。

 

 ……それは、面白くないよねー。

 

 じゃあ今、あの堅物に力を貸す形でもいいから、倒す手ごたえだけでも掴んどいたほうがいいんじゃない? って。一体とは限らないじゃん? あんなの。どうせ生け捕りなんか無理なんだし。

 陽光聖典をこっそり皆殺しにしてからでもいいけど、流石にそれは骨が折れる。交渉が決裂したときはさっさと逃げればいい。しーらないって。あはは!

 

 そんなわけでいま、クレマンティーヌちゃんはせっせと囮を買って出ているわけだけれど。

 

 陽光聖典も、今んとこはニグンちゃんの命令にきっちり従い、私を攻撃するようなことはしてない。偶然に見せかけて一撃、くらいはあるかと思ってたのに、なかなかどうして、私が引き付けたところで的確に魔法を叩き込んでいる。

 まあ、この状況だし、あいつらは上の厳命には従うよう調教された生き物だ。私に反撃でもされたら余計不利になるし、当然か。

 ニグンちゃんも堅物だけど馬鹿じゃないしねー。私ひとり入ってここまで立て直すんなら、やっぱりそこそこ優秀なんじゃない? ()()()()

 

 しかしなんだかな。もう何発目か、頭ほどの大きさの水球を避けながら、この状況について冷ややかに思う。

 絶対罠だよね、これ。ニグンちゃんは気付いてないか、罠でもいいと思ってるのか知らないけど。

 

 ニグンちゃんが負傷者とか気絶者を後ろに下げてるのもあるけど、どうもあの化け物には、こっちを殺す気がないように見える。

 生け捕り狙いかなんなのか、目的まではわからないけど、この場をじっとり眺めてる魔法詠唱者(マジックキャスター)がいるのは間違いなさそうだ。

 私の本命はそっちになる。基本、偵察用の使い魔なんかを除けば、召喚獣というのは召喚者よりも強いものだ。つまり、こいつをぶち殺しさえすれば、後はそいつを見つけてどうにかすればいい。……なるほど、結局罠でもやることは変わんないのか。なっとく。

 

「……っと!」

 

 ちょっと考え事をした隙に襲い掛かってきた触腕をぎりぎりですり抜ける。連続で飛んでくる魔法をバックステップで避けて、突進してきた本体を飛び越えて回避。結構な音を立てて木にぶつかったところで、ここぞとばかりに魔法が叩き込まれた。こきり、と首を鳴らす。

 

 今のは、ムカついたかな。すこーし。

 

 何度目か、化け物が陽光聖典にターゲットを変更した一瞬、跳んで張り付いた本体、顔のひとつの眼孔に、スティレットを2本とも突き刺してやった。

 いいや、ここで使っちゃえ。どうせ周りに魔法詠唱者(マジックキャスター)なんていっぱいいるし。

 

「いい、かげん! 死んどけよ! 化け物が!」

 

 叫びと共に、閃光と炎が弾けた。深々と刺さった凶器から、流し込まれる<雷撃(ライトニング)>と<火球(ファイアーボール)>。流石にこれは効いたのか、おぞましい悲鳴を上げながら、化け物はのた打ち回る。

 

 いいザマ、と笑ってやろうとした直後。ぞわぁ、と、ものすごい気配がして、大きく距離を離し、身を伏せる。

 どうした、と、ニグンの声が聞こえた、ほぼ同時に。

 

『 ギィャァアアアアアアア!!!! 』

 

「――――っぅあ……!」

 

 鼓膜をつんざくような奇声に思わず耳を塞いだ。頭ががんがんする。血液まで揺さぶられてるみたいだった。

 周囲の隊員がばたばたと倒れていく。どうやら私の行動は正解だったらしい。気絶効果か、と、舌打ちし、状況を確認する。

 隊のほとんどは地に伏せていたが、ニグンのやつはまだ立っている。まあ、その程度はね。そう評価しようとしたとき、言いようのない異変が視界を掠めた。

 

「ひ、ひひ、ひひひ」

 

 笑い声。化け物の声じゃない。ニグンの重心はふらふらと揺らいでいる。目は開いているが、焦点が合っていない。口の端から涎を垂らして、ひーっ、ひーっ、と引きつるように笑い続けていた。

 

 あー、こりゃだめだ。どう見たって正気じゃないや。

 気絶するより厄介だな、と思いながら、もっと面倒なことになる前に、と前傾姿勢を取った身体は、あのバカがぶつぶつと何事か呟きだしたのを聞いて、ぴたりと止まる。

 このときの好奇心を、思いっきり後悔することになるのは、もう少し先のことだ。

 

「化け物め。神の御意思を汚す怪物め。わ、わからせてやる。神の怒りが、神の一撃が、どのようなものか、わか、わからせてやる!」

 

 狂気に満たされた男は、まるっきり信奉者の顔をして、懐からひとつの水晶を取り出した。

 

「最上位天使を召喚する!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「最上位天使……!?」

 

 にわかに会場がざわつく。ここへ来てこれか、と、僅かな期待と大きな戦慄を込めて画面を注視した。

 

 部隊の正隊員らしき人間の中で唯一気絶しなかった男は、しかし明らかに錯乱しており、他の人間と同様、召喚獣のカウンタースキルによる状態異常の影響下にあるようだった。ちなみに、召喚獣のHPが残り2割を切ったら発動するこのスキルを、召喚者本人はすっかり忘れていたのか、隣から小さく「ぁっ」と聞こえたような気もしたが、きっとそんなことはなかったんだろう。なかったと思いたい。

 

 さて、今重要なのは男が今手にしている物だ。恐らくは魔法封じの水晶。輝きからして、超位魔法以外を込められる一級品のようだった。

 あれならば、本人のレベルを問わず、一切のリスクなしで、強力な天使を従えることができる。

 

「……アルベド。備えは整っているな?」

「はい、モモンガ様。仰られた通りに」

 

 万が一、100レベルプレイヤーに拮抗するような相手が出てきた場合に備えて、部隊を見繕っておくようにとは言っておいた。

 流石に恒星天の熾天使(セラフ・エイススフィア)以上は出てこないと思うが、至高天の熾天使(セラフ・ジ・エンピリアン)が出てきた場合は、俺であっても全力で戦う必要がある。

 

「どうする? 止める?」

「……いや、今からでは間に合わんだろう。もしかしたら、朱雀さんにも超位魔法を使ってもらうかもしれん。心構えだけしておいてくれ」

「了解」

 

 こちらの知っているものであれば戦いようもあるが、もしかすると、この世界特有の天使がいるかもしれない。そうなった場合、果たして手持ちの戦力だけで、なんとか周囲にバレないように撃破できるのだろうか。

 思惑がぐるぐると胸のうちに渦巻く中、画面の中の男が叫ぶ。

 

『出でよ! 最上位天使!』

 

 水晶から、光が迸り――

 

 

威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)!!』

 

 

――会場のテンションが下がった。

 

「あー……」

「ドミニオンかー……」

 

 がっかり、という空気が満ちている中、モニターから零れ出る光だけがやたらと清浄だった。翼の集合体と、そこから生える笏を持った手。確かに俺の知っている威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)だ。どうかすれば採集担当の朱雀さんの方が多く狩っていたレベルの天使である。監視から入ってきた情報を聞くに、擬態でもなんでもないとのこと。

 

 さっきまでの緊張を返せ、と思う反面、全力で戦う羽目にならなくて良かった、と安心する気持ちが芽生えているのも事実。時間的にも、レベル的にも丁度良い相手が現れてくれた、と思っておこう。

 

 手にした笏が砕かれ、破片がきらきらと主天使(ドミニオン)の周りを漂う。1召喚ごとに1度だけの、特に珍しくもない能力だが、こうして俯瞰で見ると結構新鮮だな。

 

『消え去るがいい、化け物ォ! <善なる極撃(ホーリースマイト)>を放てェ!』

 

 男の発言通り、放たれた光の柱が水端の堰(ミスト・ポット)を襲った。清浄な青白い光を浴びた召喚獣は、悲痛な叫び声を上げながらぼろぼろと崩れ落ちてゆく。

 <善なる極撃(ホーリースマイト)>はその見た目のまま、敵のカルマが悪に偏るにつれダメージ量が大きくなる技だ。召喚士(サマナー)が召喚したモンスターのカルマ値は召喚者本人のそれに依存するので、残りHPが2割を切った現在は言うに及ばず、召喚獣のHPが満タンだったとしても耐え切れるものではなかっただろう。

 それだけ大きいダメージを()()()()()()ということだ。

 

 光が収まり、辺りが静寂に包まれる。画面の向こうは緊張に、こちら側では期待に。

 岩のような皮膚が完全に剥がれ落ち、ぐずぐずに溶けた中身が露出した。タールのように真っ黒などろどろした液体はところどころが沸騰しており、果たしてどんな匂いがするのか、画面の中では2人ともが口元を押さえている。

 ユグドラシルでは匂いが無くてよかったなあ、と暢気なことを考えたとき、黒い液体が、きゅう、と、掌ほどのサイズまで縮小、いや、凝縮された。

 

 何事かを察したのか、女性の方はいつでも逃げられるように体勢を整えていたが。

 

「残念、必中だ」

 

 水端の堰(ミスト・ポット)は弱い。100レベルのプレイヤーであれば、職業の如何に関わらず一撃で倒せる程度のステータスでしかない。

 にも関わらず、ギルド参加から引退まで朱雀さんのお気に入りであり続けたのには理由があった。

 

 あのモンスターは、自身のHPが0になったとき、自身が今まで受けたダメージを、()()()()()()()()()()()()そっくりそのまま攻撃した者に返すことができる。

 調子に乗ってカンストダメージを叩き込んだプレイヤーが何人も沈んでいったものだ。懐かしい。

 

 思い出に浸る最中、黒い塊が膨張し、破裂して。

 紫黒に輝く槍が、対象者をそれぞれ貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灼熱が肩を、右足の付け根を焼く。一瞬、何が起こったのかわからなかった。かくん、と地面に崩れ落ちる膝。

 違和と共に迸る閃熱はやがてはっきり激痛という形を取り、深く傷を受けた事実を容赦なく頭に突きつけていった。

 

「ぐ……っ、ぁああああ!!」

 

 引きつる喉から悲鳴を搾り出した。隠密中でもなければ、叫んだほうが痛みはマシになるからだ。ひゅう、ひゅう、と掠れる呼吸の合間に、動くほうの手でなんとか懐をまさぐり、痛み止めの葉を噛む。

 焼けるような苦味、すうっ、と冷たくなる鼻孔。がんがんと脳を揺さぶるような痛みが、鈍痛へと変わるにつれ、状況の方もようやく飲み込めてきた。

 

 ニグンの奴が召喚した巨大な天使にも、自分に刺さっているものと同じ棘がぶち込まれている。その数、その大きさ。私に刺さっている棘の比ではない。びしびしと大袈裟にヒビが入ったかと思えば、ぱりん、とガラスのような音を立てて粉々に砕け散ってしまった。

 今際のきわの呪いというやつだったんだろう。恐らくは、攻撃した相手をそのまま報復する類の。その証拠に、ニグン本人には1本の棘も刺さっていない。指令に徹していたあいつは、化け物に1発も攻撃を当てていなかった。私が避けられなかったものをあのグズが避けられるわけがない。

 

「ふーっ、ふーっ……、……?」

 

 辛うじて息を整えながら、やけに静かだな、と、思う。あの化け物を召喚したクソ魔法詠唱者(マジックキャスター)が姿を現さないのは想定内として、国から預かった大事な天使が相打ちになったなら、もう少し騒いでも、と。

 傷のせいか、疲労のせいか。私の頭もかなり煮えてしまっていたらしい。今の静寂が悪意によって作られていると思い至ったのは、ただひとり、無傷で残っていた神官が、ぬるりとした視線を私に寄越してからだった。

 

「苦しそうだな」

 

 ぞわりと肌が粟立つ。その声にたっぷりと満たされた卑しい悪意に吐き気を催しながら、ああ畜生いい声してやがんな、なんてどうでもいいことを考えていた。

 ニグンが身体ごとこちらに向き直る。近づいてくるような愚行は流石におかしてくれなかった。今まで後ろに控えていた監視の権天使(プリンシパリティ・オブザベイション)が音もなくニグンの前へ出る。

 既に、霧は薄れ始めていた。

 

「法国を裏切った愚かな女。本来ならあらゆる痛苦を与えられてしかるべきだが……、我らの神は慈悲深い。これから私がすることもお許しくださるだろう」

 

 ぎり、と歯を食い締めた。ああ、クソ、やっぱりか。

 この場所を離れられない原因は霧そのものにあると踏んだんだろう。それが薄れゆく今、私の道案内など必要ない、と。あるいはまだ錯乱状態にあるのかも知れなかった。

 どちらにしろ、今の私の傷では、天使の追跡を振り切って森を駆け抜けることはできない。

 

「では……」

 

 ニグンの薄ら笑いと共に、ゆっくりと天使が近づいてくる。処刑人を気取るバカ野郎に、心の中で思いっきり唾を吐きかける。1歩、2歩と後ずさる度、貫かれた箇所から痛みが走った。

 

「覚悟はいいか?」

 

 せめて、と、脚に刺さった棘を掴んで力を込めるが、びくともしない上に、掌からじわじわと血が滲む。それでも渾身の力で半ばほど引き抜いたときには、天使はもう、眼前まで迫っていた。

 

「クレマンティーヌ……!」

「……クソ、が……ッ!!」

 

 気安く呼ぶんじゃねえよ。そんな罵倒も空しく、天使のメイスは容赦なく振り上げられる。果たしてどれほどの抵抗になるのか、目を逸らすことだけはしなかった。

 次、蘇生されることがあるとすれば、目を醒ますのは法国になるだろう。今度はきっと逃げ切れない。

 つまんない幕切れだな、と、自分の人生にため息をついて、最期の時を待った。

 

 とすっ。

 

 あまりにも間抜けで軽い音。だが、天使の武器は今も中空でこちらを見据えたまま。

 なにごとかと思った視界の端、ニグンの喉から突起が生えているのが見えた。

 

「……?」

 

 本人も何が起こったのかわかっていないらしい。呆然とした顔で喉のあたりを掻き毟っている。ぱくぱくと魚のように口が開閉し、やがてぐるんと白目を剥いたかと思えば、そのままだらんと手を下ろして動かなくなった。絶命した瞬間、天使の姿も掻き消える。

 突起が引き抜かれ、ニグンだったものがぱたりと地に伏せるに至り、ようやく奴を葬ったと思しきものが視界に飛び込んできた。

 

「不意打ち御免。しかし、それがしの縄張りで随分勝手を働いてくれた様子。報いは受けてもらうでござる」

 

 白銀の体毛。体格だけならさっきの化け物と同じくらいか。ぴっ、と、長い銀色の尻尾を振って血を払う様は人間の剣士がする行為と変わりなく、放たれた言語と、身体の中心に浮かび上がる紋様が、()()に確かな知性があることを表していた。

 

 トブの大森林。「縄張り」という言葉。すがたかたち。間違いない、こいつは。

 

「――森の賢王……!」

 

 こちらが名前を呼んだことで初めて存在に気がついたのか、図体に似合わない小動物じみた仕草で首を傾げ、ふうん? と森の賢王は鼻をひくつかせた。

 

「怪我をしているようでござるな。逃げるなら追わぬでござるぞ?」

 

 獣のくせにやたらと上から目線な物言いに、びき、と頭の血管が張り詰める。が、戦り合えばどうなるか、結果は見えていた。自身の中でプライドが軋む気配がしたが、ここでせっかく拾った命を落とすようなことがあれば、間抜けでは片付かない。

 

「そう、させてもらおうかな。……っぐ、う!」

 

 ようやく棘が抜けた痕に、くすねてきた虎の子、「神の血」を流し込む。まだ痛みは残っていたが、軽く走れる程度には再生したようだ。気絶した陽光聖典の処理を始めた森の賢王に背を向けて、一心不乱に脚を動かした。

 

 

――最悪だ。

 

 走って、走って、走って。とにかく森の外へ出るために、必死になって駆けた。どれほどの時間そうしていただろう。時間の感覚がまったく無かった。もう、森の外へ出たいのかもわかっていない。なんでもいいから、景色に変化が欲しかった。

 

 これからの経路、風花聖典の位置、傷を癒す手立て、陽光聖典が全滅したことによる、法国の動き。

 あの場を離れた直後には、考えていたはずのことが、今はなにひとつ考えられないまま、ただ自分の軽率さを呪う。

 

――最悪だ、最悪だ、最悪だ……!

 

 血の匂いに惹かれて襲い掛かってきた悪霊犬(バーゲスト)の脳天にスティレットを突き刺して、息も絶え絶えに歩みを進めた。

 可能性としては十分にあったはずだ。何故今まで気がつかなかったのか。凶悪な化け物の、実験のような戦い方。姿を現さない魔法詠唱者(マジックキャスター)

 破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)をあれほど本国が警戒しているのはなんのためだ。

 

 もうすぐ()()()()()だからだ。

 やがて来る「ぷれいやー」が、人類の味方とは限らないから。

 

 そして、私が、遭遇したのは。

 

「…………ぁ」

 

 小さく声が漏れ出る。視界に、入って欲しくないものがあったから。見覚えのある木だった。先ほど、あまりにも代わり映えしない景色を恐れて、スティレットで傷をつけた木。

 まっすぐに進んでいたつもりが、同じ場所をぐるぐると回り続けていただけ。

 

「……もう、やだ」

 

 へた、と、その場に座り込んだ。疲労も、出血も、もう限界だった。回復薬も残っていない。

 なんで、こんな任務受けてしまったんだろう。なんで、あの化け物と戦おうなんて思ってしまったんだろう。

 その都度正解だと思っていた選択が、すべて覆される絶望というものを、生まれて初めて味わっていた。

 

 もっと体力があるときに、もっと圧倒的な力に出会っていたならば、もっと足掻くことができたかもしれない。

 けれどいま、何を相手にしているのかわからないまま、出られるのかさえわからない森の中、あまりに傷を受けすぎていた。

 

 これからどうなってしまうんだろう。

 このまま朽ちていくんだろうか。モンスターに屍を食われてしまえば、もう蘇生すらできない。

 もう、いい。もう、どうでもいい。

 

 掠れてゆく意識のなか、たくさんの手が視界に入っても。

 動く気力なんか、私にはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「霧が、晴れてゆく……?」

 

 先ほどまで立ち込めていた霧が、ざあっ、と一陣の風によってかき消えてゆく。

 すわ、何かもうひと騒動あるかと身構えた瞬間。

 

 耳が、扉の開く音を捉えた。

 

「戦士長様……?」

「戦士長様だ……!」

 

 いくらか安堵した、それでも怯えたような声が複数。振り返った先にいたのは、この村の住人らしき者たちだった。やはり高台の家に篭城していたらしく、かなりの人数がぞろぞろと姿を現す。霧が晴れて安心したのだろうか、こちらに走り寄ってきたので、一度剣を収めた。敵の気配も、今のところは感じない。

 

 村長曰く。

 深い深い霧に覆われて、畑仕事もろくに進まない。

 じっと身を潜めていたところ、アンデットが湧いてきた。

 こんなこともあろうかと、と、100年前、ご先祖が残してくださった秘伝のお守りを使って、家屋を魔法で固めていた、と。

 

 聞いた限り、特におかしなところは無いように思った。

 魔法には詳しくないので、そんな便利な守りがあるということには驚いたが、それがどの程度すごい魔法なのかは判別がつかない。魔術師組合に話を聞いてみれば何かわかるかも知れなかった。

 だが、村人に怪我もないようだし、若干憔悴している他には健康被害もない様子。それが何よりの救いだった。随分と壊されてしまった家屋について、守れなかったことを詫びれば、命はあるのだからまた作れば良い、と皆で頷いてくれた。

 

 再建する気力もあるのなら問題はないか。

 そうほっと一息ついたとき、村人のひとりが若干興奮したように告げる。

 

「あなたが()()()()を倒してくださったのですね……!」

「……なに?」

「い、家の中から音を聞いておりました! 最後の音がなくなると同時に、霧が晴れていったのです。戦士長様が倒してくださったんだ! そうですよね!」

 

 本当ですか、戦士長様!

 すごい! 戦士長様!

 ありがとうございます、戦士長様!

 

 口々に紡がれる感謝がどうにも面映く、それにも増して違和感が拭えないことから、素直に礼を受け取ってはならないような気がした。

 確かに、あのアンデッドを倒すと同時に霧は晴れていったが、どうもあれが霧の元凶とは思えない。アンデッドの特性を完全に熟知しているわけではないが、あれはどう見てもただの騎士だった。霧を出す、という特殊能力からはかけ離れているように感じたのだ。

 

「い、いや、私は……」

 

 言いかけて、はっ、と言葉を詰まらせた。

 村人の表情は切実だ。もうこれ以上、何かあっては耐えられないとでもいうように。

 

 自分も平民出身だ。だからわかる。日々の暮らしに精一杯の者には、「危険がないという事実」より、「危険は去ったであろうという安心」の方が重要視されることもしばしばあるのだ。

 村での生活は過酷だ。その上心労まで重なっては、とても毎日の暮らしを健やかに暮らすことはできない。

 

 ここで言ったとして、どうなる? 霧が晴れた原因はわからない。まだ得体の知れない何かがいるかも知れない。そう告げたとして、彼らになんの益がある?

 勿論、原因を見つけて、それを取り除くのが最善だ。だが、どうやって見つけるというのか。 トブの大森林は虱潰しに探せるほど狭い森ではない。どう足掻いても、無駄骨になる可能性の方が高かった。

 

 本当にあのアンデッドが原因であったという見込みさえある。あるいは、何らかの理由で霧が取り除かれたのかも知れない。

 何せ自分には確約ができない。今日ここであったことすら、貴族達に信じさせることができるとは思えなかった。王は信じて下さるだろうが、このことが貴族との更なる確執に繋がるであろうことは想像に難くない。まして、いるかどうかもわからない霧の原因を調べるため、戦力を割きたいなどとは、とても。

 

 しかし、それで良いのか? また無辜の民が危険な目に遭うのではないか?

 黙り込む俺を訝しがる村人に、せめて何か、と思ったそのとき。

 

「隊長ーーー!!!」

 

 聞きなれた声と蹄の音が耳に入り、振り返る。そこには急いでエ・ランテルから折り返してきた副長と、部下達の姿があった。霧が晴れたことで何かしらの進展があったのではないかと、急いで馬を駆ってきたのだろう。

 

 やってきた部下達に、村人が口々に囃し立てる。

 

 戦士長様が、霧を吐くモンスターを退治してくれたんだ!

 

 それを真っ向から否定することは、自分にはできず。

 せめて、と、周辺の警戒を増やすよう、王に具申してみる。そう言うことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて」

 

「彼は見事、民の安心へと天秤を傾けてくれたようだ」

 

「王国の英雄、ガゼフ・ストロノーフによって“霧を撒き散らすアンデッド”は退治され」

 

「真相の目撃者はすべてこちらで確保した」

 

「カルネ村からはもう、何も見つからない」

 

「何ひとつ我々の痕跡はなく、彼らに降り注ぐ平穏は、今日このことを次第に忘れさせていくだろう」

 

「これにて、“ナザリック完全隠蔽作戦”を終了する」

 

「通常の警備は怠らないこと。以上だ」

 

 

 

 





本日の捏造

最近捏造が多すぎて自分でもごっちゃになってきたので、「ここ捏造してやがんなこのハゲ」と気付かれましても暖かく見守ってくださると嬉しい限りです。

・召喚獣のレベルについて
1位階7レベル説を採用しています。71レベル以上のモンスターはデメリット付与、もしくは超位魔法、経験値消費で召喚できるのではないかという妄想。
ちなみにFAの対象者に気絶者は含まれず、対象を失くした攻撃が残りの対象者に向かうということもありません。

これにてカルネ村イベント本体は終了。次回から事後処理に入ります。
新刊楽しみなんですが、至高の御方ガチャが怖くて仕方がない。旗のエンブレム見る限り魚人のような気がするんだよなあ……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

メメント・モリ 陸



前回までのあらすじ

「ナザリック完全隠蔽作戦」とは!
ナザリックの隠蔽作業を覆い隠すべく発生させた霧をなんやかんや誤魔化しながら消すついでに、周辺にいる人間の戦闘能力を把握してしまおうという現地民にとって非常に迷惑な作戦である!

トブの森で霧を発生させていた召喚獣をニグン率いる陽光聖典に殺させると同時に、カルネ村でガゼフに倒されるデス・ナイトを村人に目撃させる!
これにより、「霧を発生させていたアンデッドの親玉をやっつけてくれた英雄ガゼフ・ストロノーフ」が完成! 面倒くさいことを彼ひとりに押し付けることができるのだ!

なお、現状ナザリックの手にかかって死んだ人間は1名! ナザリックにしては頑張った方だ! えらいぞ!! (なお森の賢王によって多数の死者が出ている模様)



というわけで大変お待たせいたしました。
この先のルート分岐について考えていたらいつの間にかこんな季節に。暑い!
登場人物が勝手に喋りだしてズルズル延びてしまったこともお詫び申し上げます。更新する詐欺はもう嫌じゃ……。

今回はプチ反省会と称した御方を褒めちぎる回、と、覗き見。




 

 

 

 いまだ胸の内に熱が燻るような感応。我が創造主、武人建御雷様に与えられた堅固な殻の内側、凍河の支配者たるべく常に極低温で保たれたこの血肉を焦がすが如き、魂の灼熱。

 

 素晴らしい。陳腐で使い古された言葉ではあるが、それ以外の言い様が見つからないのだ。あるいは友人である炎獄の悪魔であればよほど気の利いた言い回しを考え付くものかも知れなかったが、今の私にこれ以上の賛辞を思いつくことはできなかった。

 

 もはやシモベ達も撤収を完了した円形闘技場(アンフィテアトルム)。なんと贅沢なことだろう。武人建御雷様が、盟友にして好敵手であるたっち・みー様へと幾度と無く挑戦し、剣を交えたこの場所で、至高の御方が紡ぐ計略を拝見することが叶うとは。

 先ほどまでは熱狂と共にみっしりと詰まっていた観客席にはもう誰もいない。至高の御方々も部屋にお戻りになられた今、残されたのは、めいめいどこか恍惚とした表情を見せている階層守護者だけだ。

 

 ああ、しかし、素晴らしい。至極当然の理であることには違いなかったが、至高の御方、その御業のなんと素晴らしきことか!

 

 敵の手の内を探りつつ、我々守護者へ試練を与えながら、シモベ達を鼓舞し、かつナザリックの隠蔽作業を完璧にする。誰からも気付かれぬまま仕舞いこんだ人材からは、多くの情報が搾り取れることだろう。ひとつひとつは些少なれど、これほどの短時間ですべてをやり遂げてしまわれるとは、なんたる手腕か。

 ナザリック地下大墳墓がヘルヘイム、グレンデラ沼地よりこの地に転移してきて今日で4日目。デミウルゴスの話では、我らが忠誠の儀を行った直後に霧で辺りを覆われたと言うのだから、そのときには既に、この作戦が御方の念頭にあったということだ。

 恐るべしモモンガ様。畏るべし死獣天朱雀様。至高の御方のまとめ役であらせられた方と、その知恵と知識を以て御方々を支えてこられた方が手を組み作戦を実行に移せば、これほどまで迅速に、多大な利を得られようとは!

 

 もはや(くじ)の結果ですら御方々の手の上にあったのではないかと思うほどだ。勿論、小細工が施されていたなどという次元の小さい話ではなく、この世の運命全てがその御手に握られているのだという意味で。

 

 ……籤の結果、か。

 拳をひとつ、握り締めた。今回の催しの際、侵入者は誰一人として、偉大なるナザリック地下大墳墓に足を踏み入れることはなかった。当然の結果である。グレンデラ沼地にあったときさえ侵入者は減る一方で、近頃は皆無と言っても良かった。ましてやこの周辺の脆弱な人間達では、ナザリックの存在すら知覚できなかったらしい。デミウルゴスの警戒網にさえ掠りもしなかったというのだから、ここまで侵入してこようはずもなかったのだが。

 

 故に。今回の催しにおいて、ナザリック内の警備網作成を命じられてはいたものの、結局どの程度侵入者に対して有効であるかは測ることができなかった、というわけだ。侵入者は、いなかったのだから。

 

 甚だしい不敬である。侵入者を、御方の敵を望むなど。それでも、願わずにはいられない。我が腕を振るう機会を、刃を交わすに値する猛者を。

 剣はそこに在るだけでは飾りにしかならない。振るわれなければ十全に役目を果たしたとは言えないのだ。

 御身の役に立つことが我々にとって最上の幸福であり存在意義。敵がいなければそれも果たせないというのは、なんという矛盾であろうか。

 

 思わず力を込めてしまいそうになった手中、そこにあるものをじっと眺めた。

 何の変哲もない紙束であるが、只の紙束ではない。至高の御方よりお預かりした、大事な紙束である。右上隅に「記名」の欄が設けられている以外は完全な白紙。今回の催しに参加した者に、何でも良いので感想を書かせよとのご命令を賜っている。

 

 御方々は仰せになられた。

 ひとつ、72時間という制限を設けるので、それまでに各階層で箱を用意して集めておくこと。

 ひとつ、字が書けない者は書ける者に代筆させるか、音声記録に残しておくこと。

 ひとつ、紙が足りなくなったら遠慮なく取りに来ること。紙を勝手に用意しても構わないが、あまり望ましくはない。

 ひとつ、文章の量を競うものではなく、内容や文章の巧拙によってその者の評価が変わるわけではないこと。

 

 なんと希望者には今回の映像記録を複製したものを配布してくださるという。まったく御方の慈悲は留まるところを知らない。

 感動に打ち震えていると、低い位置から、ぼそり、と聞こえる声。

 

「……至高の御方のお眼鏡に適う意見を、搾り出さなければならないでありんすね」

 

 めら、とシャルティアの赤い瞳に炎が灯った。その手は震えているが、握られた紙束に皺ができていないあたり、よほど自らを押さえ込んでいると見える。

 御方に見合う意見を部下達から引き出そうと言っているのだろう。相応しい意見の判断は兎も角として、心意気としてはごく当たり前のことだと思った。

 

 のだが、それに対して、待ちたまえ、と制止を掛けた者がいる。デミウルゴスだ。

 

「それはよろしくないよ、シャルティア」

「何故でありんすか?」

 

 きっ! と睨みつける彼女の目は必死そのものだ。シャルティアは先の催しで人間をひとり死なせてしまっていて、御方より「減点1」を与えられている。その挽回をしようと必死なのだろう。それを滑稽だと、嘲笑う想いは自分の中にはなかった。ここいらの人間は弱すぎる。役割の如何によっては、減点を与えられていたのは自分だったかも知れない。今回そうでなかったことに、運以外の理由などありはしないのだ。

 

「……私カラモ聞キタイ。ドウヨロシクナイト言ウノダ、デミウルゴス」

「そうだよ! 御方に相応しい意見じゃないと!」

「し、失礼になると思います……!」

 

 同じことを考えていたのか、私の質問に、アウラとマーレも便乗した。彼らが担当する第六階層の魔物たちはアウラの指揮により強い力を発揮するが、言語能力を持たないものが大多数。意見を出す、という行為自体向いていない個体が殆どだ。声ならぬ声を理解し文章に纏めるのは双子の役目になり、その内容に関しても彼らが手を入れざるを得なくなる。

 だからこそ失礼のないようにしたい、という彼らの真剣な眼差しにも、デミウルゴスははっきり、否、と答えた。

 

「意見を精査するのであれば、催しの最中のように、階層守護者(われわれ)に聞けばそれで良いはずです。わざわざこのように効率の悪い方法で意見を収集するのには理由がある。そう断言して良いでしょう」

 

 そ、それじゃあ、と、いつにも増して怯えたような声でマーレが呟く。

 

「ぼ、ぼくらが……、ぼくが、何か、だ、駄目なことを言ってしまったんでしょうか……」

「そうとは限らないわ。御方々は私たちが粗相をしてしまったときの明確な基準点になる制度を設けて下さった。勿論、それに甘えることは許されないけれど、今のところ、発言に失態はないと言って良いでしょう」

 

 アルベドの言葉に、今度はシャルティアがその身体を縮こませる。明確な失態、それによる減点。3回までの猶予があるとは言え、御方を失望させるという事実のなんと恐ろしいことか。

 

「ただ、不十分である、と判断なされたのかも知れないわね。御方の叡智は、私たちが想像するところを遥かに超えていらっしゃるから……」

「どちらにせよ、シモベ達による飾り気のない意見を望んでおられる。そこに変わりはないと思うよ」

「そう、そうね。ただ……」

 

 知恵者ふたりから重い溜息が漏れる。原因にはすぐ思い至った。今回の感想文において、「至高の御方に対する讃美の一切」が禁じられているのだ。死獣天朱雀様曰く、「どうせそれだけで紙が埋まるんだから読むのが面倒くさい」のだと。至高の御方の手を煩わせることが無くなった、と安堵する反面、もはや呼吸と同じくして湧き上がるこの畏敬の念を言葉に表せない、という無念が胸中に渦巻く。

 

 それはそうとして、御方が何を望んでおられるのかは納得のいく説明が成されたと思ったが。

 

「そ、それでも、それでも……!」

 

 シャルティアはまだ足掻き足りないらしい。言葉を紡げ切れぬなりに、反論を試みている。若干涙目であるのが気の毒であった。

 それを見て、アルベドがそっと彼女の肩に手を添えて、優しい声で諭す。金色の瞳には、慈愛にも似た感情が浮かんでいるように見えた。

 

「焦るあなたの気持ちはわかるわ、シャルティア。けれど、聞いて。あなたが失敗することもすべて御方の計算のうちだったのよ」

「え……?」

 

 シャルティアのみならず、幼い双子達もまた目を丸くする。私もまた、驚嘆の思いを抑えきれず顎をひとつ鳴らした。

 

「人間には価値がある。催しのはじめに、死獣天朱雀様がそう仰ったのを覚えているかい?」

 

 デミウルゴスの言葉に、説明を聞いている側の守護者達がみな、こくり、と頷く。死獣天朱雀様は確かに仰っておられた。外の人間を生かしておくのは作戦のうちであり、同時に最低限の礼儀である、と。

 

「そもそもの話だ。今回の作戦の肝は、ナザリックを完全隠蔽することにはない」

「え?」

「でも、ナザリック完全隠蔽作戦、って」

 

 そう、アウラの言う通り、催しの始めにはパンドラズ・アクターから、締めくくりには至高の御方から、それぞれナザリック完全隠蔽作戦であると明言されていたはず。

 だが、その事実があってさえも、アルベドは疑問を呈した。それだけならば他にもっとやりようがあったはずではないか、と。

 

 確かに、霧は、目立つ。

 事実、この度至高の御方がご用意なされた霧に遭遇した人間たちは皆、対応に違いはあれど、「この場所に霧が出ているのはおかしい」と判断した様子だった。季節にしろ、環境にしろ、「霧に相応しい状況」というものが、ナザリックの外へ出たことがない私にはわからないが、疑われぬ為には何かしらの条件を満たす必要があったのだろう。今回は「霧を出すアンデッドを捏造する」ことにより条件を満たしたが、単に隠蔽作業を隠すだけならば、怪しまれない自然現象が他にあったのではないか。

 そしてそれを、よもや至高の御方が考えておられぬはずがない、と。

 

 私がひとつの思考を終えると同時に、デミウルゴスが自らのインベントリから何やら資料のようなものを取り出した。あれには見覚えがある。周辺国家のことが詳細に書かれた、恐れ多くも死獣天朱雀様によるお手製の資料。複製したものを階層守護者で共有するようにとモモンガ様から仰せつかったものだ。

 

「今作戦のキーパーソンであったガゼフ・ストロノーフ。彼はここより西にある人間国家、リ・エスティーゼ王国随一の剣士であり、その名は他の国家にも広く知れ渡っている。このたびの事件のことも、彼の輝かしい人生の1ページとして記録されることだろう」

 

 ガゼフ・ストロノーフ。単身、モモンガ様の創り出したデス・ナイトに向かっていった、中々気骨のある戦士だと記憶している。只人(ヒューム)であるゆえ、見た目からは判断できないが、もしもこれから成長するような年齢ならば良い。そうであれば将来、彼の者が十分強くなったとき、存分に刃を交わすことができるだろう。どこか、敵対まではしたくない、という想いがないわけではなかったが。

 

 そのようなことを考える自分はどうやら少数派であったようで、ふふん、と誇らしげにアウラが鼻を鳴らし、その横でマーレが据えた目をしながら眉間に皺を作った。

 

「至高の御方の手の上で踊ってただけなのにねー」

「……納得いきません。すごいのは、モモンガ様と死獣天朱雀様なのに」

「しょうがないでしょ? 御方々の作戦のうちなんだから!」

「で、でもぉ……」

 

 怯えながらも珍しく反論するマーレを、気持ちはわかるけど、と言いながらも押さえ込もうとするアウラの隣で、アルベドが軽くため息を吐く。

 

「至高の御方の誉れ高き名が広まるのは良いことだけれど……、人間如きの覚えがめでたくても、ねえ?」

「まあ、今は秘匿しておく段階だということですね。広げたものを収束するよりは、秘めたものを開放する方が容易いでしょう」

 

 話を続けますよ、と、デミウルゴスが一度、眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「至高の御方によってその名を高めることになった“英雄”ガゼフ・ストロノーフ。彼は“基準”なんだよ」

「基準、でありんすか?」

 

 1ガゼフ、2ガゼフ……、と、なにやら不気味な単位を作り出したシャルティアに、いえそうではなく、と訂正が入りつつ、話は進む。

 

「基準と言っても我々が使うわけではない。基準にするのは外の人間達だ」

「カルネ村で起こった事件はきっとこう噂されるわ。“あの”ガゼフ・ストロノーフと互角に戦うアンデッドがいた、と」

「我々から見れば、というのは置いておいて。相対的には、ガゼフという人物は周辺諸国においても一騎当千とされる猛者。訓練された魔法詠唱者(マジックキャスター)の部隊であっても、あのような小細工を要しなければ倒せない、と判断されるほどの」

「となれば。この事件に興味を持ち、直接調べようとする者は。必然的にガゼフ以上の戦力を持ち合わせていることになるのよ」

 

 組織であれ、国家であれ。英雄と呼ばれるほどの個人、それと渡り合う、話も通じないアンデッドが出現する可能性があるならば、それを捕縛できる、あるいは情報だけでも持ち帰ることができる程度の部隊が寄越されるのだろう。

 つまり、我々は相当の実力を持ってこの場に来たのだと、自己紹介をしながらやってきてくれる、というわけだ。

 

「売名目的の身のほど知らず、という可能性もあるけれど。それはまあ、ものの数には入らないわ」

「ソウ都合良ク釣レルモノダロウカ。ガゼフガ終ワラセテシマッタコトトシテ扱ワレルノデハ?」

「それならそれで良いんだよ。どちらにせよ我々には更なる準備期間が与えられる。向こうが手を(こまね)いている間にね」

 

 なるほど、来ない分には問題がないわけか。臆病であっても賢明であっても、此方が敵を精査し、必要な戦力を整える時間ができる。ナザリックには損がない。

 

 納得したところで、いつも以上にびくびくと怯えた様子のマーレが、ぼそぼそと尋ねる。

 

「って、ことは……、ナ、ナザリックに、強い人がいっぱい来るかも知れないってことですよ、ね……?」

「いいえ、違うわマーレ」

「えっ?」

「連中は()()()()()()()の。だって()()()()()()()()()()()()んですもの」

「あ……っ」

 

 そう。この度の事件、外の人間からは、「カルネ村で起こった出来事」以外に見えるものがない。

 唯一そこから外れて法国の部隊が死獣天朱雀様の召喚獣と対峙していたが、彼らは残らずナザリックに収容されている。

 

「そしてもうひとつ。重要なのは、“カルネ村がほぼ無傷の状態である”ということだ」

「どうして? 何人か死んでた方がすごい事件! って感じがするけど」

「規模の問題ではないんだよ、アウラ。大事なのは“不可解”に思わせることなんだ」

 

 デミウルゴスは語る。

 

 ガゼフ・ストロノーフと互角のアンデッド。

 にも拘らず、死人ひとり出ていないカルネ村。

 

 ある者は思うだろう。

 ガゼフはなんてすごいんだ。

 凶悪なアンデッドを倒した上に、村人達を守りきったなんて!

 純粋な英雄譚として、目を輝かせながらその話を聞くだろう。

 

 しかしある者は思うだろう。

 本当にそんなことが可能なのか?

 いつの世も、秀でた者は妬まれる。

 霧に囲まれていて、村人の他にはろくに目撃者もいないなんて。

 ガゼフのために作られたほら話じゃないのか?

 悪態でもつきながら、胡散臭い作り話として、その噂を耳にするだろう。

 

 そして、ある者は思う。

 カルネ村に、秘密があるのではないか? と。

 

 魔法か? 術か? タレントか? 

 どのような連中であれ、ある程度自分達の知識を元に、原因を絞って探りに来るだろう。

 死霊術師(ネクロマンサー)魔術師(ウィザード)神官(クレリック)

 それぞれの着眼点を以て、それぞれの方法で、カルネ村を調べにかかるだろう。

 

 規模、手段、術式。

 彼らの使うすべてが、我々にとっての判断材料になる。

 

「我々はそれを、ナザリックで安全に確認できる、というわけだ」

「そうしてカルネ村が餌として機能してくれている間に、シャルティア、あなたが為したことが意味を帯びてくるわ」

「……あの男を、殺してしまったことでありんすか?」

「正確には、至高の御方によって死ぬことを運命付けられていた、だけどね」

 

 アルベドが不敵に微笑んだ。一番最初に家屋へと逃げ込んだ男の話をしているのだろう。しかし、仲間を見捨ててひとり逃げるような者は死んでも仕方がないとは思うが、死ぬことにこそ意味があるというのは、どうにも想像し難いところがある。

 

「調べによると……、あの男、どうやら先遣隊の隊長格らしいわね」

 

 ざわっ! と皆の間に動揺が走った。

 

「うそでしょ!?」

「ほ、ほんとなんですか……?」

「ありえないでありんす!」

 

 アルベドは悩ましげに目を閉じ、掌を頬に添える。それが事実なのよ、とひとこと付け足しながら。

 

「テッキリ、屋根ノ上デ奮闘シテイタ方ガ隊長ダト思ッテイタガ……」

「想像を絶する愚者というものは存在するものだよ。……俄かには信じがたいことだが」

 

 なんということだろう。有事の際に真っ先に逃げ出すような者を頭目に据えているとは。

 我々とて、軍を率いる際に最前線に出るようなことはしないし、時にシモベを置いて撤退するという選択肢を取ることも有り得る。この血この肉この魂、そのすべてが御方の所有物であり、それを蔑ろにすることは、御方への不敬に当たるからだ。

 が、奴は命令を受けてあの場にいたはず。我々にとって至高の御方からの命令は絶対。途中で放棄するなど、考えられないことだ。……あるいは、命令している者の底が知れる、ということでもあるか。

 

 驚愕に震える我々を尻目に、デミウルゴスは更に説明を続ける。

 

「さて、あれほどの愚者が隊を率いているということは、それなりの理由があるということだ。我々のように「かくあれ」として偉大なる御方に定められたのではなく、もっと醜いしがらみが、ね」

「し、しがらみ、ですか?」

「とある資産家の息子らしいわ。なんでも、箔をつけるために隊を率いることになったんですって」

 

 箔、という言葉が釈然としなかったのか、シャルティアはこてりと首を傾げた。

 

「人間に箔などつけては、すぐに剥がれてしまうのではありんせんかえ?」

「実に興味深いことだが……、この場合は物理的な行為を差すわけではないんだよ。権威付け、程度の意味合いにとらえてくれたら良い」

「ふうん? ……捨て駒のようにしか見えんせんでありんしたが」

「我々が参加してしまったからそうなっただけで、本来ならば彼らの任務は、さほど難しいものではなかったはずなんだ」

 

 連中の任務は、ガゼフ・ストロノーフを誘き出すための釣り餌であった。自分達より弱い者を相手に、武装をしっかりと整えて、容易く燃え上がる木製の建家に火を灯してゆく。

 本来ならば失敗する方が難しい任務であったはず。……果たしてそれでどのような箔がつくものか、疑問に思わないではなかったが。

 

「さぞ揉めるだろうねえ。安全だと思って送り出したというのに、帰ってきたのは訃報だけなのだから」

「ソノ程度ノ任務モコナセナイヨウナ軟弱者、トシテ切リ捨テラレハシナイカ?」

「至高の御方によってわざわざ選び出されたのだからそれはまずないと思うが……、仮にそうなったなら、今回は確実性をお選びになったということだね」

「確実性?」

 

 過ぎたる愚者というものは、ときに何をしでかすかわからないもの。御方ならばそれすらも利用なさるのだろうが、リターンに見合わないのならばリスクは切り捨てるべき、と判断なされることもある。どちらにせよ、至高の御方の決断としては、おかしなものではない。

 

 デミウルゴスがそう断定すると、今度はアウラが不服そうな表情を見せた。

 

「揉めるには揉めるとしてさ、その……、至高の御方のご意志にしては、みみっちくない? なんか、もっと……」

「そんなことないでありんす! 偉大な御方にふさわしい、おっきな作戦でありんすぅ!」

「わ、わかったから泣かないでよ! もう!」

 

 きゃんきゃんと(かしま)しく戯れる少女達に、アルベドが声をかけた。

 疑問に思うのは仕方のないこと。今はまだ、芽吹きすらしていない小さな小さな種なのだから、と。

 

「これから水を与えられるのよ。至高の御方による毒を含まされた水をね」

「彼の愚者が、どこの国から来たか、覚えているかい?」

「えっと……」

「スレイン法国、だったよね?」

 

 ここより南、人類こそが神に選ばれし唯一種族であり、故に他種族を殲滅すべしと高らかに叫ぶ宗教国家、スレイン法国なる国が存在していると聞く。

 

「し、死獣天朱雀様の攻性防壁に引っ掛かったんですよね? 召喚獣は、殺されちゃったって、聞きましたけど……」

 

 怯えたような表情の下、確かに怒りの炎を湛えたマーレが尋ねた。無理もない。死獣天朱雀様が呼び出した召喚獣、そこいらの雑兵とは価値が違う。

 

 デミウルゴスは頷き、言った。

 今なお、健気にも警戒を続ける彼らのお陰で、こちらも向こうの情報はさして手に入っていない、と。

 それに続いてアルベドが、御方より伝言(メッセージ)で寄越されたのであろう情報を我々に伝える。

 

「先ほど捕獲した魔法詠唱者(マジックキャスター)の部隊。間もなく蘇生して放流することに決まったわ」

「もう逃がしてしまうのでありんすか?」

「そうよ。至高の御方自ら、記憶操作をなさった上でね」

 

 ごくり、と、誰ともなく喉を鳴らす音。

 至高の、御方、直々の、記憶操作。

 具体的にどのようなものであるかはとても考えが及ばないが、想像を絶するような効果を持つに違いない。

 

「まだ詳細は伺っていないけれど……、腐った種子を芽吹かせる、甘露な毒水のご用意をなさっておられるのは間違いないわ」

「あるいは毒餌かな。持ち帰らせて、虫けらを巣ごと退治するときのように……」

 

 デミウルゴスはそこまで言うと、はっ、と何かに気付いた様子で、申し訳なさそうな表情を作った。

 

「……すまないコキュートス。他意はなかったんだが……」

「構ワナイトモ、デミウルゴス。ソコニ区別ガアルコトヲ私ハ知ッテイル」

「ありがとう、友よ」

 

 軽いやり取りの後、彼は語りを続行する。

 兎も角、今現在、御方に届きうる刃を有しているのは、近隣諸国に限って言えば法国のみ。その他の有象無象がカルネ村に誘き寄せられている最中に、彼の国に対して先制の準備を整える。

 

「これが今回の作戦の真相……。そして、もうひとつ肝要なことがある」

 

 気を落ち着けるかのように一呼吸を挟み、物語の山場を語るような口調で、良く通る囁き声が言うことには。

 

「連中がこの計画に気付いたときには、すべてが手遅れだということだ」

 

 アルベドとデミウルゴスが実に悪魔らしい笑みを浮かべた。人間を堕落へと導き、不幸を甘露として啜るもの特有の。

 

「トブの森地下にある大洞穴。先日御方々より調査を命じられた、マイコニドの集落が点在する洞穴だが……、なんとこの穴、アゼルリシア山脈の地下深くへとまで繋がっていてね?」

 

 ひゅ、と誰かが息を飲んだ。

 蜥蜴人(リザードマン)の集落に恩を売った出来事に関しては私も聞き及んでいる。山脈の水源を利用すべく、怪しまれることなく要地を確保した、あの計画。耳にしたときはこの外皮に鳥肌が立つような震えが走ったものだ。

 

 そして、今回は、誰に知られることなく、地下の水源まで入手した。これで地上と地下、双方の水源を押さえたことになる。

 

 つまり、今回の作戦は……!

 

「一連ノ流レソノモノガ、餌ダトイウコトカ……!」

 

 しん、と一瞬静まり返り。思考が繋がったものから順に沸き上がる歓喜の声。迸る尊敬の念。

 おお、かくも素晴らしき、至高の御方よ!!

 

「すごい!! すっごいよ!! これだけ大きな餌なら、絶対気付かないもん!!!」

「し、至高の御方は最初からそこまで考えて……!?」

「はあ、なんて……、なんて……!」

 

 頬を紅潮させ、涙ぐむ者さえいる始末。無理もない。これだけの叡知にあてられて、どうして正気を保てようものか。

 果たして御方は、どれほどの視野を持って物事をご覧になられているというのだろう。元よりこの身、この肉、この魂、最後の一片まで御方の物であるが、より一層の忠節を誓った瞬間であった。

 

「単なる餌ではありませんよ、十分に実利を見込める作戦です」

「けれど彼らがこちらの意図に気付き、宣戦布告でもしたとして……、ふふ、人類の生活圏の大半に及ぶ水源を押さえられて、何ができるのかしらね?」

「……まったく。御方々の叡智というものは……、どこまで先をいかれているものなのでしょうね……?」

 

 長い長い、恍惚とした溜息。多幸感と羨望が入り雑じったそれには、共感の他に言うべきところがない。

 

「それでシャルティア。さっきまでは汚名を濯ごうと躍起になっていたようだけれど……、忘れたの? あなたは既に、御方より汚名を返上する機会をいただいているのよ?」

「……忘れてなど。わた……、わらわは、僅かでも御方のお役に立てるなら、と思っただけでありんす」

 

 皮肉めいたアルベドの言葉に、シャルティアが居住まいを正した。

 

 そう。シャルティアは既に、御方より大命を賜っている。

 捕らえた女。死獣天朱雀様の召喚獣に止めを刺すという、誉れ高いながらも冒涜的な役目を与えられた、あの娘。あれの対処を任されているのだ。

 

 あそこにいた者の中では最も実力が高く、特殊部隊とも顔見知りのようであったから、洗脳魔法などの手段で聞き出したならさぞ多くの情報が手に入るだろうと、用意を進めようとしていたそのとき。至高の御方より待ったがかかった。

 

 曰く、無防備に過ぎる、と。

 

 足跡(そくせき)から見て、どうも法国から足抜けしてきたようだ。それでいて、ガゼフの殺害を任されていた部隊よりも、更に暗殺に秀でているように思われる。

 逃げ出した時点で死ぬような措置が為されていないのなら、他に何かしらのセーフティがかかっていると見るべきだ。

 

 洗脳魔法がこの世界にあるのは既に確認している。それに対して、加えて拷問による自白も対策が為されていると考えておいた方が良いだろう。

 

 ならば、どうするのか? というところで、シャルティアが命ぜられたのだ。

 魔法やスキルを使わず、拷問でもない手段を用いて情報を引き出してみせよ、と。

 

「何か考えてあるの? 魔法もスキルも使っちゃいけないんだよ?」

「要するに口を軽くすれば良いのでありんしょう? 古今東西、娘の口を開かせる方法など決まっておりんす」

 

 アウラの言葉にも動じることなく、シャルティアは不敵な笑いを溢した。

 拳を握り締め、彼女は自らの指名を、高らかに宣言する。

 

「このわたしのすべての技を持って! あの女を立派な 雌 奴 隷 にしてみせるでありんす!」

 

 どっぱーん! と、その瞬間、確かに波飛沫を幻視した。その瞳には、やる気というやる気が満ち溢れている。

 

 実のところ、記憶を覗いてしまえば事足りる話を、わざわざ役目として与えて下さったのだから、御方の慈悲は本当に留まるところを知らない。となればやはり、先の失態は御方の画の内にあったものなのだろう。

 

 なんにせよ、意気盛んであるのは良いことだ。うんうんと心中で応援の頷きをしていると、これまた低い位置から、ちいさな疑問の声。

 

「お、お姉ちゃん。めすどれいとおすどれいって、違うものなの……?」

「ええ……? うーん、鶏とか魚だったらオスメスの違いはけっこう大事だったりするんだけど……」

 

 くりん、と色違いの瞳が2対、こちらを見上げてくる。

 

 ……これは、どうしたものだろう。

 子供であるまいし、意味がわからぬことはないが、如何せん猥談を避けて通れるほどの語彙力があるわけでもなし。

 しかして76歳の幼子に尾籠(びろう)な話を始められるわけもなく。

 

 横目で友を窺っても、彼は肩を竦めるばかり。再度、どうしたものだろうと悩んだそのとき、シャルティアから声がかかった。

 

「あ、忘れていんした。コキュートス!」

「ウン?」

「近々、セバスがそっちに行くかも知れんせん。なにぞ相談事があるようでありんすえ?」

「セバスガ? 珍シイナ」

 

 了承の意を返す視界の端で一瞬、デミウルゴスの笑みが消えるのが見えた。はて、と理由を考えて、さして間を置かず思い至る。そういえば、何故かは知らぬがこの二人、あまり良い仲とは言えなかったな、と。声のひとつでも掛けようかと思いはしたが、彼の表情が既にいつもと変わらぬものへと戻っていたので、この場ではよいか、と捨て置くことにした。

 友の心が穏やかにあることは好ましいことであるが、男の人生、そればかりでも善いとは限らぬ。反発し、切磋琢磨を繰り返す相手が居るのは素晴らしい財産になるだろう。

 故に、先ほど見捨てられた意趣返し、というつもりなどないのだ。決して。

 

 ひとり静かに納得する最中、アルベドが今後成すべき役割について命じ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 守護者統括によって解散を命じられた後も、いくつかの確認のため、残っている者達がいた。

 それも終わりに差し掛かり、先に踵を返そうとしたのは、男性の方。

 

「……では、私もこれで」

「……デミウルゴス」

「なんですか? アルベド」

 

 呼び止めた女性は、数度瞬きをして、意を決したように顔を上げた。

 

「警備を強化しておいて欲しいの。ナザリック、内部の」

「……それは」

「独断よ、私の」

 

 短く一呼吸。眼鏡のブリッジを上げる。

 

「理由を、聞かせてもらっても?」

「今ナザリックには異物が入り込んでいるわ。逃走は……、まずないでしょうけど。あれを起点に、転移魔法で侵入されるかも知れない」

「わかりました。それでは、氷結牢獄の周囲、ということでよろしいのですね?」

 

 沈黙。

 短いため息。

 

「一体、何を警戒しておられるのですか? 守護者統括殿」

「わかっているんでしょう?」

 

 再びの沈黙。男性の眉間に皺が寄る。

 

「おかしいと思わない? 何故頑なに索敵を任せていただけないのか。何故、私たちに記憶の操作をお任せいただけないのか。あれほどの情報を、この短期間でどのようにして集めたのか」

「我々に対する信用がまだない、ということでしょう。……恐ろしいことですが。情報に関しては、外に内通者でも……」

 

 はた、と何かに気付いたような表情。

 

「死獣天朱雀様に、離反の可能性があると?」

「いいえ」

 

 断言。

 男性が目を見開く。

 

「それにしては、無防備すぎるもの。こんなにもあからさまな資料(もの)をお渡しになるなんて」

「では、何をそこまで警戒する必要があるんです?」

「死獣天朱雀様は、私たちに何か隠し事をしておられるんじゃないかと思って」

 

 先ほどよりも大袈裟なため息。

 だからなんだと言うんです。吐き捨てるように。

 

「隠されているのは我々の不甲斐なさゆえでしょう。それを暴き立てることなど」

「あなたも気付いているんでしょう? この資料には、意図的に隠されたところがある。モモンガ様は仰られたわ。“これは自分に渡されたものの複製品である”と」

「それは……」

「私達にならば構わない。けれど、死獣天朱雀様は、モモンガ様にさえ何かを秘匿しておられるわ。まるで……」

 

 一度言葉が区切られる。

 呼吸を落ち着けて、まっすぐに向き合った。

 

「お一人で、何かに立ち向かっておられるかのように」

 

 男性が身を震わせる。

 何事か思い出したかのように視線をさ迷わせ、やがて意を決したのか、口を開いた。

 

「だから、死獣天朱雀様を、ナザリックに閉じ込める、と?」

「私達よりも先に、至高の御方が身罷ることを、あなたは許容できて?」

「……っ、しかし、それでは!」

「どのような手段を使ってでも、私は護らなければならないのよ!」

 

 男性の、言葉が詰まった。

 強い、金色の眼。縦に割れた虹彩が彼を射抜いた。

 

「護らなければ、ならないの」

 

 かち合う視線。無言のまま流れる時。

 しばらくして、細いため息。折れたのは男性の方だった。

 

「……いつでも動けるよう、配置はしておきます。今のところは、それで」

「ええ、お願いするわ」

 

 踵を返し、数歩。

 男性は立ち止まり、女性に問う。

 

「ひとつ、聞きたいことがあります」

「なにかしら?」

「もし、もしも、モモンガ様と死獣天朱雀様が対立なさったとき、あなたは……」

「あなたにその答えがあるならば、私も答えるわ」

 

 (いら)えはない。

 男はそのまま去っていった。

 

 そのまましばしの時をおいても、俯く女はひとり、佇んでいる。

 

「死獣天朱雀様……」

 

 やがて、ちいさく呟き。

 

「あなたはいったい、何を――」

 

 

 

 

 

――――暗転。

 

 

 

 

 

「……わかるものかよ」

 

 呟いたぼくの声に、モモンガさんが顔を上げてこっちを見た。

 

「どうかしたんですか? 朱雀さん」

「いーや。ところでモモンガさん、もしかしてだけど、守護者達にぼくが作った資料渡した?」

「えっ!? 駄目でしたか?」

 

 こいつめ。

 まあ、こんなこともあろうかと、あらかじめ情報をいくらか抜いといた身としては、強く言えないけどさ。

 

「駄目じゃないけど、ひとこと欲しかったかな。突貫で作ったやつだったから、彼らに渡すならもうちょっとちゃんとしたものが良かったなって」

「すみません……。でも、あれでも十分過ぎるくらいの出来だと思います、よ? 言い訳になりますけど……」

「それはどーも。まあ、ぼくも何も言わなかったし、いいけどさ」

 

 まだ申し訳なさそうにしょんぼりしているモモンガさんに、まるで今気付いたかのように質問を投げかける。

 

「そうだモモンガさん、指輪決まった?」

「……はい。ティトゥスに作ってもらいました」

「おっ、やるじゃん。後は渡すだけだね!」

「うう……」

 

 よしよし。これでアルベドの方はちょっと時間が稼げるぞ。

 モモンガさん? 食われろ。

 

「さーて、そろそろ行ってくるよ」

 

 早いとこ記憶の改竄して放流しないと法国に気付かれる。……毒水だの毒餌だの好き勝手言いおってからに。あいつらの中ではどれだけスケールが大きくなってるんだ。喧嘩腰にも程があるだろう、現地民に対して。

 

 ふと、モモンガさんの赤い眼光と目が合った。申し訳なさそうに点っているような気がする。

 

「……本当にお任せしていいんですか? 俺もなにか手伝ったほうが」

 

 蘇生と<記憶操作(コントロール・アムネジア)>の実験をぼくひとりに背負わせることに何かしら思うところがあるらしい。

 その方が都合が良いとは、流石に言えず。

 

「いいよいいよ。ふたりでやったら記憶に齟齬が出るかも知れないし。モモンガさんはこれから何が必要か洗い出しといて」

「……ありがとうございます。何かあったらすぐ呼んでくださいね」

 

 ひらひらと手のひらを振る。返事は、しなかった。

 

 

 

 





お待たせコキュートス! ごめんね遅くなって!!

クレマンティーヌさんの処遇についてはよくあるものになってしまい期待してくださっていた方には申し訳ない限りです。
しかし彼女をそのまま逃がしてしまうとあっという間にエ・ランテルが滅びてしまい、それはちょっと困るということで結局シャルティアちゃんの玩具ルートに。物語後半で大事な出番がある予定なので許して。

次回はカルネ村イベントに関わってもらった現地の人のお話になります。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄昏て宵闇へ




お待たせしました。


前回のあらすじ

さ す し こ


今回はカルネ村イベントに参加してもらった人たちのその後についてちょろっと。前回までに何があったかの説明も兼ねて。

大変ぬるいですが、シャルティアちゃんがクレマンティーヌちゃんに手を出すシーンがあるので、苦手な方はご注意ください。






 

 

「う、あ……」

「お、起きたかイグヴァルジ」

 

 自分の呻き声に混じったのが仲間の声だと、気付くのに結構な時間を要した。

 軋む肺に鞭を打って、無理矢理に空気をねじ込む。鉄錆と、青草の匂い。滲む視界にはぼんやりと霞む夕焼け。うまいこと開かない眼をどうにかこじ開けながら、重い半身をやっとの思いで起こした。

 途端、全身に走る激痛。ぐう、と意図せず声が漏れて、再び地面に背中を預けるハメになった。なんでだ?

なんで俺はここまでズタボロになってんだ。ここはどこだ? 何が起こった?

 

 視線だけをぎょろつかせて状況を必死に把握しようとする俺を見かねたのか、ため息混じりに仲間が声を掛けてくる。

 

「落ち着けよ。もう敵はいないんだからさ」

「て、き……?」

 

 敵。その言葉を聞いて、ぶわっ! と記憶が蘇る。

 霧の村。探査の依頼。山ほどのスケルトンと一体のスケリトル・ドラゴン。そして――。

 

「あ、あいつは? あの化け物は!?」

「心配すんな。戦士長が倒してくれたよ」

「せ……」

 

 戦士長って、お前。

 声に出さずとも仲間の向こう側に、確かにそいつはいた。

 

 リ・エスティーゼ王国戦士長、ガゼフ・ストロノーフ。

 英雄に片脚を突っ込んだ男。なんであの男がこんなところに。

 

「はあ!? なん、おま……、っで、いでででで……!」

「急に動くと傷に障るぞ。まだあちこち折れてんだよ、お前」

 

 ほら、と差し出された水袋を受け取り、喉を潤した。口中に広がってた鉄の味が小マシになって、激痛が鈍痛程度に治まる。

 治療のために剥かれたんだろう革鎧の下、厚手の布の服にはあちこちポーションの染みができていた。バレアレ印のポーションですら完治には至らなかったんだと思うと改めてぞっとする。全身まだらに青い汁で染まってはいたが、腹から太腿までが特にじっとりと湿っているあたり、仲間の気遣いに涙が出そうだった。

 

「村に帝国兵がたくさん倒れてたろ。あいつらを追ってここまで来てたんだとさ。良かったなあ、お前、あの人がいなかったら死んでたかも知れないんだぞ」

「……そうかよ」

 

 仲間の感嘆が、ちり、と腹の底を撫でていく。燻るその熱をそのままに、今度はゆっくりと身を起こした。

 ガゼフ・ストロノーフとその部下、王国戦士団の連中が、村人達にしこたま礼を言われている。はらわたにこびりついた灯火が、黒い感情になって燃え上がってゆくのを、冷めた自分が眺めていた。

 

 クソが。ふざけるなよ。何もかもてめえひとりで片付けたような面しやがって。

 俺が、俺がどれだけ準備して、どんな目に遭わされたと思ってる。それをたまたま居合わせただけで、感謝されて当然みてえな態度で。

 

 睨め付ける俺の視線を感じたのか、振り向いた戦士長と目が合った。一呼吸ほどにらみ合った後、戦士長はこっちに近づいてくる。ざくざくと草を踏みしめる足取りまでもが英雄然としていて、それが余計に苛立ちを募らせた。

 

 なんだ? 労いの言葉でもかけるつもりか?

 「大丈夫か?」「痛みはないか?」

 

 はっ、笑わせんな。

 大丈夫じゃねえしあちこち痛えに決まってんだろ、クソが。

 

 きっとあいつは俺のことを下に見ているんだろう。自分が倒したアンデッド相手に無様を晒した雑魚野郎だって。それで憐れんで見せるつもりなんだ。俺を踏み台にして、自分が更にのし上がるために。

 畜生、許せるか。在り得ねえ。許してたまるかそんなもん!

 

 ついに眼前まで近寄ってきたガゼフを親の仇のように睨みつけ、文句のひとつでも言ってやろうと口を開いた、そのとき。ためらいもなく膝をついて、戦士長が、まっすぐに。

 

 

「ありがとう」

 

 

 そう、言った。

 分厚い掌にかたく握られた右手。ばしっ! と景気良く叩かれる肩。痛え。

 

「は……」

 

 ぽかんと開いたまま口が塞がらない。相当な間抜けヅラを晒しているんだろうに、それを笑うどころか意にも介さず、戦士長は一言一句を丁寧に紡いでいく。

 

「貴公らがスケルトンの群れを、スケリトル・ドラゴンを倒してくれていなかったら、私はあれに勝てていなかったかも知れない」

 

 あれ、というのは、俺をぶちのめしたでかい騎士のアンデッドに違いなかった。これでも長いこと冒険者をやっていたから、間近にいる人間が嘘をついているかどうかくらいわかる。深刻な表情でかつての辛勝を語るその姿には、謙遜の響きなんて欠片も含まれちゃいない。その体をよくよく見れば、相当な戦いだったんだろう、細かい傷や痣が未だ痛々しく残っていた。

 

「貴公らの奮戦に。そして自らの傷で以って敵の存在を示してくれたことに」

 

 元の色はグレーかブラウンか、真っ直ぐ見つめてくる瞳に夕焼けが映りこみ、炎のように燃えている。

身長は大して変わらないはずなのに、がっちりと鍛えられた身体は俺よりもふたまわりほど大きくて。そんな体を座っている俺よりも低いところまで縮こめて、頭を下げたと思えば。

 

「感謝する」

 

 しゅん、と、冷や水でも浴びせられたみてえに、自分の中の激情が鎮火してしまうのがわかった。

 あっけにとられたままの俺を置き去りにして、戦士長は踵を返す。やけにでかく見える背中、夕日に染まった鉄鎧が憎たらしいくらい鮮やかな茜色で。ああ、そういや面と向かって「ありがとう」なんて言われたのは一体いつだったろうかと、柄にもねえ考えがぽかりと浮かんで、消えた。

 

「ぶ厚……」

 

 掌に視線を落とす。戦士長の掌は、それはもうぶ厚かった。日々欠かさず剣を振るっていることが一目で分かる、潰れたマメと積み重なった擦り傷でがちがちに固くなった手。叩かれた肩がまだ、じん、と痺れている。

 知っている。本当の強者っていうのは、べらべらと喋りたくらなくても、つまらねえ小細工を使わなくても、ほんの些細なことで力を示すことができるんだって。

 

 わかっている。本当はわかっているんだ。クソでかいアンデッドにぶん殴られて無様に小便まで漏らした俺と、颯爽と現れて勝利をもぎ取っていったあの男と、どこで差がついてるのかくらい。

 最初の最初の最初から、奴にはできて、俺にはできねえってことくらい、わかってるんだよ。

 

 あれが、あれで、英雄に「片脚を突っ込んだ」男、か。

 あれが、まだ英雄じゃねえって言うんなら、ああ。くそ、ちくしょう、畜生が!

 

「だぁああっ! クソッ!!」

 

 こんままじゃ終われねえ。終わらせてたまるか!!

 勢いをつけて立ち上がる。足が軋んで、肋骨に鈍い痛みが走った。構うもんか。ほとんどヤケクソのまま、大きく息を吸い込んで、叫ぶ。

 

「待てよ、戦士長ォ!!」

 

 振り向いた戦士長と、こっちを見ている戦士団の目には、「ああ、またこの類か」という感情がありありと浮かんでいた。面倒だな、ってツラ。今まで散々難癖つけてくる輩に絡まれたんだろうと容易に想像がつく。

 ここに至るまで、どれだけの妬みや嫉みがあの男に圧し掛かってきたのだろう。当然だ。平民上がりの、傭兵崩れの、たまたま腕っ節が強かっただけの男が、王に見初められて隣に侍ることになるなんて。まさしく御伽噺の英雄譚だよ、クソが。

 

 ああ、うるせえ。わかってる。わかってるっつってんだ。

 俺じゃ英雄に届かないって。

 

 だから小手先で戦うんだろうが。だから頭を捻るんだろうが。

 足りないから、届かないから、それでも時間は過ぎるから、いつか本当に届かなくなる前に、ほんの少しの希望に指先引っ掛けようと死にもの狂いで足掻いてんだろうが!

 

 ふざけんな。生まれ持ったものがどれだけすげえか知らねえが、目にもの見せてやる。がしがしと大股で奴さんがたへ近づく俺に、「おい、イグヴァルジ」と仲間から制止の声。うるせえ、黙って見てろ。

 

「まさかあんた、このまま王都まで帰ろうってんじゃねえだろうな」

「エ・ランテルで賊を下ろしたら直ちに。事態は一刻を争う。時間を無駄にするわけにはいかないのだ」

「へえ、そんで? あんた、ここで起こったことをそのままバカ正直に話すつもりかよ」

「そのつもりだが」

 

 それ以外に何がある、ってな顔で、あっさりと戦士長はのたまった。やっぱりな。そんなこったろうと思ったよ。

 ちらりと視線を動かせば、副長らしき男がこめかみを指で押さえているのが見える。これが上司じゃ苦労するよな、と鼻で笑いつつ、さっさとこちらの用件を伝えることにした。

 

「そんなもん、貴族連中が信じると思うのか? 帝国兵を追っかけてたら、すげえ霧が出てて、そこでやたらと強えアンデッドと戦いました、って。笑われるぞ、普通」

 

 はっきり言って笑われるどころか、正気を疑うような内容だ。この目で見たって信じられねえような光景だったってのに。おまけに、ガゼフ・ストロノーフが貴族派の間で良く思われてないなんて、今どき王国内じゃ酒の肴にもならねえくらい知れ渡ってる。文字通り一笑に付されて終わりだろう。嫌味の三つや四つくらいはおまけについてくるかも知れないが。

 

「それでも、私が成すべきことは変わらない」

 

 そうほざいた戦士長の眼はあまりにもまっすぐで、誠実で愚直な性格をそのまんま表に出したような、それはもうきれーなお目々をしていなすった。腹芸って言葉を知らねえのかこの男は。

 知らねえんだろうなあ。そりゃそうだ。戦場の最前線で剣を振るうことしかして来なかったんだから、根回しやら袖の下に長けてる方がおかしい。にしたって酷すぎるがよ。

 

 はあーっ!! と、これ見よがしにでかいため息をついてやって、戦士長を思いっきり指差した。たじろぎもしねえ英雄様に、今出せる限界ギリギリの大声をぶつける。

 

「だから!  クラルグラ(おれら)が組合通して都市長に書面書かせてやっから! 一旦組合に寄れっつってんだよ! このバカ!」

 

 きょとん、と、お手本のような戦士長の間抜け面。逆襲成功だ。ざまあみろ。ほんの少し、溜飲が下がった。

 

 ミスリル級とはいえ、冒険者の陳情なんざ貴族にとっては屁でもない。が、それが都市長からの書面となれば話はちっと変わってくる。王派閥の人間とはいえ一都市の長。貴族共も軽々しく跳ね除けたりはできない。

 アインザック組合長には優先的に処理してやるよう伝えるつもりだが、パナソレイ都市長はガゼフを高く買ってるようだし、きっと快諾してくれる。つうか俺がわざわざ手ェ出さなくても、こいつが直接言ったってどうにかなるはずなんだが、裏から手を回す、っていうことを知らないクソ真面目な男らしく、今初めて気付いたような顔でぱちぱちと瞬きをしていた。

 

「それ、は、願ってもないことだが……」

「ああん!? まさかてめえタダでいただけると思ってんじゃねえだろうな!? 王都に行ったら飯のひとつも奢れよ、忘れんな!」

「あ、ああ、わかった」

「そんじょそこらの安宿ですませるなよ!! 一番高い宿だぞ!! いいな!?」

 

 興奮しすぎたか、えっふえっふと重たい咳が出る。肺が痛え。すると、戦士長が肩を震わせて笑っていた。何が可笑しいんだ畜生め、と、大袈裟に睨みつけてやる。が、返ってきたのはよっぽど邪気のない素直な微笑で。

 

「わかった、約束だ」

 

 朗らかな声で戦士長はそう言った。

 条件はイーブンだ。ギブアンドテイク。五分五分の取引だっていうのに、たったそれだけで、旧い友人を見つけたかのような面で笑うものだから、いっそ悲しくなった。どれだけ味方が少ないんだよ、この戦士長さんはよ。

 そんな哀れな戦士長をこれ以上罵る気も失せて、「先に行ってるぞ」とだけ伝えて、仲間の方向に足を向ける。去り際に、副長らしき男がひとつ、頭を下げるのが見えた。

 

 

 

 繋いであった馬を引いてきた仲間のところに寄れば、3人が3人共、それぞれ珍妙な顔をしている。ゴブリンがバジリスク産んだような面しやがって。殴るぞ。

 

「おっまえどういう風の吹き回しだよ……」

「槍でも降るんじゃねえか?」

「短い人生だったなあ……」

 

 好き勝手言いやがる。馬にくくりつけてあった荷物から最後のポーションを取り出して一気に飲み干し、吐息交じりに、ばーか、とお返ししてやった。

 

「ここで恩を売っときゃあ、将来何かしらの役に立つかも知れねえだろ?」

 

 手回しなんざ期待しちゃいないが、王との世間話でチームの名前が出ればしめたもの。これで良い仕事がまわってくるなら、オリハルコンへの昇格もそう遠い未来のことじゃない。

 自然と口角が上がる俺を見て、仲間達が心底安心したように何度も頷いた。

 

「良かった。やっぱりいつものイグヴァルジだ」

「俺らの頭目はそうでなきゃ」

「助かったー」

「どういう意味だてめえら……」

 

 怒りで震える手を必死に押さえて、手綱を握る。(あぶみ)に足をかけて勢い良く鞍に跨った。

 

「夜駆けになんぞ! 遅れるなら置いてくからな!」

 

 戦士長にああ言った手前、戦士団よりも先にエ・ランテルに戻っておかなきゃ意味がない。ガゼフを後手に回らせることになっちまうからだ。痛みはまだあるが、エ・ランテルに戻るくらいなら耐えられるし、仲間達も俺が伸びてる間、十分に休んだだろう。

 

 そうだとも。こんなとこで終わってたまるか。これからだ。ここからが、俺の。

 

「英雄への第一歩、ってな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……副長」

「はい」

 

 準備を整えながらこちらを呼ぶガゼフ戦士長の声はやたらと物憂げであった。内容は、まあ、予想がつく。以前より何かしら思うところはあったようだが、改めて第三者に突きつけられると、堪えるものがあったらしい。

 

「俺は、そんなに世渡りが下手そうに見えるか?」

「下手そう、ではなく、下手なんですよ」

「……そうか」

 

 きっぱりと言い放って差し上げれば、戦士長はしゅん、と分かりやすく肩を落とす。少しだけすっきりした。自分がいない間に、死を覚悟するような強敵と戦ったというのだから、このくらいの反逆は許されるだろう。

 

 しかし、先ほどの冒険者の提案は渡りに船であった。戦士長が思いつかなくとも自分が進言するつもりだったが、彼らが先駆けてくれるのなら事が潤滑に進む。元々偵察目的でカルネ村まで来ていたと言うから、書面の内容も、より詳細なものになるだろう。果たして罠を用意した首謀者の発覚までは期待するつもりはなかったが。

 

 戦士長には敵が多い。平民出身である、という、ただひとつの理由が、彼をどうしようもなく妨げている。同じだけ彼を慕う者はいるはずなのだが、それが味方に成り得るかどうかは、また別の話だった。

 あるいは、彼が貴族であったのなら、と思ったこともある。そうすれば、何に縛られるでもなく存分に力を振るえるのではないか、と。結局は下らない妄想として切り捨てた。生まれ持ったものは変えられないし、この人が変わらずにいてくれるから、自分たちは今ここにいるのだから。

 

「あなたはそれで良いんです。策謀も偽計もなにひとつ出来なくていい。それでこそ、我らが戦士長なんですから」

「それで、お前達を危険に晒すことになったとしてもか」

「承知の上ですよ、そのくらい」

 

 大体、人間なんていつどこで死ぬのかわかったものじゃない。自分の村がモンスターに襲われたとき、自分が生き残ったことに、運以外の理由など何ひとつないのだ。どれだけ足掻いても、どれほど望んでも、何か強大な力の気まぐれに殺されることなんて、もはやこの世にはありふれすぎてしまっている。

 

 ならばせめて、自分が定めた人の下で死にたいじゃないか。

 

「嫌と仰っても、どこへだって付いていきます。私たちはとっくに覚悟を決めているのだから、戦士長も覚悟を決めてください」

 

 日が、落ちる。周囲の景色が暗闇に陰る。冷えてゆく空気の中、それでもなお猛る想いをぶつけた相手は、ぐ、と一瞬息を詰めた後、やや苦々しげに笑みを作った。

 

「では、とことん付き合ってもらおうか。地獄の果てまで、な」

 

 勿論ですとも。

 そう返した言葉に微塵の嘘もなく、やがて訪れるそのときに後悔することなどありはしない。

 

 たとえその日が明日であろうとも、この人の下ならば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 揺られる馬車のなか、疾うに日は暮れて、星がちかちかと瞬いている。武器は取られ、鎧は剥かれて、下穿きひとつのまま両手を後ろ手に縛られて。敵兵に対する拘束としては些か簡素と言えなくもないが、もはや我々に逃げる気などないのだから、これで十分と判断するのも道理と言えよう。

 疲れと打撲で身体はあちこち痛むし、これから状況が好転するわけもない。けれど、心はやたらと晴れやかであった。

 

 ベリュース隊長亡き今、形ばかりではあるが指揮権を継いだ。とはいえ、何をするでもない。粛々と王国の戦士団に捕らえられた、それだけだ。これから自分達がどのような扱いを受けるか、容易に想像できることであったが、反論するものは誰ひとりいなかった。エ・ランテルに到着すればまず拷問、そのあと良くて街の処刑、悪くて口封じの暗殺と言ったところか。任務に着く前に、防御を僅かに上げる呪法だと、なにやらまじないを受けたが、果たして本当だか。今となっては信用できたものではない。

 

 霧の中に現れた、大量のスケルトン。突如として舞い降りたスケリトル・ドラゴン。数刻前に味わってしまったあの恐怖が、実感を麻痺させているのだろう。あるいは単なる疲労のせいかもしれなかった。誰も彼も、死んだ魚のような眼でぼうっと中空を見ている。ひたすらに押し黙ったまま、愚痴すらも口に出す者はいなかった。

 

 諦めも混じっているのだろうとは思う。

 後続の部隊は、結局、来なかった。

 

 途中までは確実に追ってきていた。それはわかる。あるいは、本当にガゼフを暗殺するための行程が組まれていたんだろう。途中までは。

 

 だが、俺達は、捨てられた。

 

 世界のためにならぬのであれば、英雄であっても殺すべし。他国に対してもそのような姿勢でいる法国が、まさか自国の膿を放っておくはずもない。少し考えればわかることだった。

 

 しかし俺たちは、あんたは、殺されるほどのことをしましたかね、と、心の中で故人に問いかける。何せ思い出せないのだ。確かに良い思い出は全くと言っていいほどなかったが、悪い思い出でさえ、記憶の底の澱から姿を現さない。

 生きている間は色々と思うところを募らせていたはずなのに、殺してやりたいと思ったことも一度や二度ではないのに、いざこうして死んでしまうと、意外に「良かった」と口に出す気分にはならないものだな、と、まるで他人事のような気分でそう思った。

 

 ふと、見張りの男と目が合う。誇りと希望に溢れた目をした、若い男。仕えている人間に何一つ不満なんかないのだろう。きっと、ガゼフが死地へ赴くときは、喜んでついていくのだ。

 それは何もこの男ばかりではない。命令も、国家への忠誠も関係ない。ガゼフの人望がそうさせるのだ。聞いた話では、スケリトル・ドラゴンよりも遥かに強いアンデッドと一騎打ちを果たしたらしい。疑う気も起きなかった。さぞ勇壮な光景であったのだろう、と見逃したことを悔いはしたが。

 

「……いいな」

「あん?」

「上司がまともっていうのは、いいな、と、そう言ったんだ」

「なに言ってんだ、当たり前だろ」

 

 心底呆れたような声で男は言った。眼には、星が映りこんでいる。この男には、我々の瞳が暗闇そのものに見えているに違いない。

 

「俺たち戦士団は、自分で選んであの人の元に集まったんだ。後悔なんかしてたまるかよ」

 

 それを聞いて、ああ、最初から俺達とは違うのだな、と腑に落ちると同時。

 次に生まれてくるときは、あんな男の下で働けるといい。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とふとふとポットから茶を注ぐ。薬屋ゆえに、種々の薬草の匂いに溢れていながら、茶葉は一際高く香った。一口いただけば、ほう、と、自然にため息が漏れる。今年のは特に甘味が深い。当たり年だな、と満足して頷いた。

 窓の外には瞬く星。良い天気だ。この時期にあまり雨が降らないのも困りものだが、日が無ければ薬草が干せなくなる。魔法で乾かしたって同じことだけれど、そればかりではよろしくない。

 

 これで茶飲み友達でもいれば、と斜向かいを見れば、孫のンフィーレアがそわそわと落ち着かない様子でカップを玩んでいる。ぬるくなると旨くないというのに、このままでは冷めても飲むまい。ふん、とひとつ鼻を鳴らしたが、こちらを気にも留めはしなかった。

 

 いま、うちではとある娘を置いている。二日前、うちが薬草を仕入れるのに懇意にしている村、カルネ村から来た娘だ。なんでも、一寸先も見えないような深い霧が突然出てきたらしい。だから冒険者組合へ相談するのに、ンフィーレアの顔を借りたい、と。

 実のところ娘がうちに来たのは「エンリに惚れています!」と顔に書かれた孫を見たことがある、村の連中のおせっかいだが、働き手が増えるのは悪いことではない。幾らか手伝いをさせてみても嫌な顔ひとつしないし、はきはきとして、覚えも良く、器量もそこそこ。かわいい孫の恋路を邪魔する理由は特別ない、良い娘である。

 

 はてさて問題はこの孫息子だ。今亡き娘夫婦の忘れ形見であるが、大変優秀な薬師に育ってくれたはいいものの、色恋に関しては実につまらない男に育ててしまった。今もまあもじもじと、別室で片づけをしている娘に声をかけるかかけまいか悩んでいる。カルネ村で起きたことが解決しようがしまいが、どのみち娘は村へ戻らなくてはならないのだから、早いとこ行動を起こさなくばならんというのに。

 娘ひとり養えぬような稼ぎであるまいし、迷っているだけ時は過ぎていく。「嫁に来い」とひと言突きつけるだけで終わるものを。なんとも意気地がないことだ。

 

 ここは助け舟を出してやらねばなるまいか、と、カップを机の上にとんと置いた。

 

「ンフィーレア、ひとつ言っとくが」

 

 声を掛けられてようやっと我に返ったか、ンフィーレアは少々慌てた様子で茶を口に含み。

 

「惚れた娘は嫁にしない方がいい」

 

 ぶっ! と勢い良く吹き出した。気管に入り込んだらしく、げふげふと盛大に咳き込んでいる。

 

「は、あ、ええ……っ?」

「なんせ惚れて嫁にした女の尻には一生敷かれることになる。お前の父さんもじいさんも、そのまたじいさんもみいんなそうじゃった」

「うう……」

 

 まさか己の恋心が祖母にバレているとは思わなかったのか、情けないやら、恥ずかしいやらという表情で、汚した机を拭きつつ唸る。遠まわしな反対とも取られているのだろう、落胆の色も混じっているように見えた。

 

「じゃがなあ、惚れた娘が、いつまで生きとるかなんぞ、わからんじゃろ」

 

 ンフィーレアはぴたりと動きを止めた。顔を上げる。伸ばした前髪の隙間から、不安げな瞳が覗いていた。

 今回の騒動もそうだが、村娘というのは大変に死にやすい。モンスターの襲撃や戦、病に飢え、このあたりは王の直轄領であるが故に、貴族に攫われたという話は聞いたことがないが、いまや王も老い、いつまでその安寧が続くかなどわかったものではない。娘夫婦が死んだときも、前触れがあったわけではないのだ。

 

 それを思い出したか、きゅ、と口を紡ぐンフィーレアに、もう一押しか、と見当をつける。

 

「ま、向こうさんに断られるやもしれんがな」

「……だよね」

「少なくとも私は、お前に惚れとる娘より、お前が惚れとる娘の方が良いと思うよ」

 

 我が孫ながら、見る目は確かだ。薬草に関しても、人間に関しても、ンフィーレアが選んだものには外れというものがない。

 それから、と、大事なことをひとつ。

 

「私だってね、いつまでも生きてるわけじゃあない」

 

 そんな、と、席を立った孫を片手で制して、茶をひとくち。しかめっ面を見上げて、にやりと笑ってやった。

 

「曾孫の顔を見られるんなら、早いほうがいいんじゃが?」

 

 ンフィーレアはぽかんと大きく口を開けた。かと思えば、見る見るうちに赤くなり、湯気まで出そうな勢いでぶわりと汗を噴出す。こりゃ熱さましがいるか、と呆れかけたそのとき、うつむいて、はあーっ! と大仰に息を吐いた。そのまま数呼吸、ふと顔を上げ、幾分すっきりとした顔で、にっこりと口の端を持ち上げる。

 

「いってきます、おばあちゃん」

「ん」

 

 ようやく覚悟が決まったらしい。足早に部屋を出て行く背中をじっと見送った。

 

 玉砕しようが成就しようがどちらも運命。今は駄目でも、押していけばなんとかなるんじゃないかと、長年の経験から予測しつつ、ポットから茶を継ぎ足す。

 

 窓を見た。空には変わらず、星が瞬いている。誰が言っただろうか、死んだ人間は星になるのだと。あの瞬きは魂の輝きなのだと。

 別にそれを信じるつもりはなかったが、なんとはなしに、今は亡き娘夫婦を胸中で呼んだ。

 

 お前たちの息子が、男になったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う……、んん……」

 

 目を醒ますと、石造りの無骨な天井が見えた。取り付けられた白色光が瞬きの度にちかちかと明滅する。他には、と、見渡せば、鉄格子や鎖など、一見してここが檻の中だと判るものばかりだった。やけに暖かいのは、周囲に暖房用の魔術具が置いてあるからだろう。

 少なくとも法国の檻ではない。エ・ランテルのものとも、ズーラーノーンのものとも違う。それじゃあ、と増やそうとした選択肢の中に、最悪のものがひとつ紛れ込んで、一気に頭が冴え渡った。

 

 そうだ。思い出した。

 ズーラーノーンの盟主からの指令。霧を出すモンスター。放たれた石塊。結局死んだニグンのクソ野郎と、森の賢王、そして。

 

「ようやくお目覚めでありんすか」

 

 鈴が鳴るような声に、ばっ、と飛び起きた。構えを取る。そこにちり、と違和感を覚えて手元を見れば、確かにスティレットが握られていた。そのほかの装備品もきちんと整っている。傷の治癒も完璧。僅かな痛みすら感じない。

 相手が間抜けだから、ではない。絶対の自信だ。お前なんかどうにでもなる、という、傲慢な自負。ぎり、と、噛み締めた歯が軋んだ。

 

「おやおや、そな怯えなくとも、取って喰いはいたしんせん。お腹を満たす、という意味では、ね?」

 

 そう嗤う女は異様に美しかった。月の明かりを集めたような銀髪。白磁のような肌。ほっそりした肢体は上品なドレスで飾られており、貴族の令嬢であると紹介されても不思議には思わなかっただろう。

 

 優美に微笑むその顔に嵌った、ふたつの瞳を見なければ。

 

 血のように赤い瞳、縦に割れた虹彩。それだけで魅了されてしまいそうなくらい綺麗だったけれど、私にはわかる。あれは、化け物の眼だ。人を殺すことと虫を屠ることに差異を見出せない、捕食者の目だ。

 

 乾く唇を舐めて、震える喉から声を絞り出す。

 

「まあ、この状態で? それを信じろって方が無理なハナシだよねー……」

「信じようと信じまいと同じことでありんすのに。抵抗してくれんした方が燃えるから、私は別に構いんせんが」

 

 何が面白いのか、ころころと女は笑う。くるくると髪の毛を弄る指先はひどく華奢で、傾げた真っ白な首は少し力を込めれば折れてしまいそうなくらい細い。なのに動作のひとつひとつに自信が溢れていて、今から私に攻撃されることなんて、塵ほども気にしていないようだった。会話が通じることが逆に恐ろしい。これが、こいつが、もし、「ぷれいやー」の一味なら、勝ち目なんか万にひとつだってない。

 でも、だけど、それでも。

 

「ああ、寒くはありんせんかえ? 屍蝋幻室(うえ)でも良かったけれど、おんしはちょっと人より強いようだから、氷結牢獄(こっち)を一部屋借りんしたの。在り得ないことだけれども、もしも逃げられたら大変でありんすゆえ」

 

 くすくすと嗤う美貌が、発言のひとつひとつが、自信に溢れた動作のすべてが、私の神経を逆撫でしていく。

 

 むかつく。むかつく、むかつく、ムカつく!!

 

 怒りがひたひたと腸を満たし、理性と感情が一致した。

 今、こいつが私を過小評価して、油断している今でなければ、億にひとつの勝機が消える。だから、やるなら、攻撃するなら、今しかない。今しかないんだ。

 

 <流水加速><疾風走破><能力向上><能力超向上>――!

 

 気付かれぬよう、ありったけの武技を使い、太腿に力を込めた。喉笛に一撃。それで終わりだ。人間の形をしている以上、どんな化け物だって首をやられれば死ぬ。

 

 煮え立つ心と真逆に頭は冷えてゆく。細く、ほそく、集中し、研ぎ澄ませて。

 ぱち、と、女が瞬きをした瞬間、首筋を狙い、飛び出して――

 

――突き刺したはずのスティレットは、2本とも指先だけで止められていた。押しても引いても、動く気配すらない。相手はその手に、力を込めている素振りさえ見せなかった。

 

「へえ、レベルより随分と速いでありんせんか」

「舐、め、る、なァアッ!!」

 

 余裕綽々の相手に、ならば、とスティレットに込められた魔法を発動する。<火球(ファイアーボール)>が弾け、<雷撃(ライトニング)>が迸り、あたり一面に舞い散る火花。これで死にはしなくても多少のダメージは与えられるかと思った、が。

 

 しゅう、と、魔法がおさまって焦げたものは空気だけで、女は涼しげに、いっそつまらなそうな表情でこちらを眺めていた。

 赤い、赤い眼が。虫でも見るような目で、私を、じっと。

 

「……っ、ぅ、ぁあああああっ!!」

 

 反射的にスティレットを手放して、顎目掛けて拳を繰り出した。当然のようにするりと後ろに回りこまれ、そのまましっとりと鎧の上を掌が這う。ひ、と、引きつった声が喉から勝手に漏れた。

 

「……けしからん大きさでありんすね」

「は、なせ、この!」

 

 どれだけもがいても外れそうにない。女の細腕に込められていい力じゃない。化け物とは得てしてそういうものだが、それにしたって度が過ぎている。オーガだって、トロールだって、あの森の賢王だって、無傷の状態でやりあうならどうにでも戦えるのに。

 

 ここへ至ってようやく、自分が何に手を出したのか、理解が追いついてきた。

 

「安心しなんし。御方様より、おんしのことは傷ひとつ付けてはいけないと、命じられておりんす」

 

 御方様、という言葉が耳から頭に入る前に、つうっ、と、まるでパイ生地のような軽やかさで鎧の前部分が引き裂かれた。剣はおろか、道具すら使っていない。滑らせた指先に合わせて、ぱらぱらと今まで集めたプレートが落ちる。

 

「ま、待って、待ってよ。謝る、謝るから!」

「謝罪はいりんせん。欲しいのは情報でありんす」

「な、なんでも喋るから! だから、ね? ゆるして……?」

 

 自分の声があんまりにも情けない。むぎゅうっ、と、胸を揉み込まれて、ふぎ、と獣みたいな声が出た。痛みはない。が、たしかな劣情を感じさせる手つきに悪寒が走る。命ではなく身の危険を感じて、いやいやをするように振った頭は、小さな手にがっちりと押さえ込まれた。

 

「そう? でも、それを鵜呑みにするほど、わたしは馬鹿じゃあないのよ」

 

 さっきまでの変なはなしことばが取れた、やや熱に浮かされたような口調。赤い瞳ががっちりと咬み合い、そこからすとん、と力が抜けて、おなかが熱くなる。これからどうなってしまうのか、恐怖ばかりが頭のなかをぐるぐると渦巻いていた。

 

「ひとは嘘をつくもの。知ってるんだから」

 

 この唇だ、と言わんばかりに口付けで塞がれて、蠢く舌が容赦なく思考を奪う。絡み合うように繋がれた手が、指先でなぞられる背筋が、太腿に押し上げられる股間が、甘く痺れて脳髄を溶かしてゆく。とうとう零れ落ちた涙を桜色の唇がついばんだとき、きゅう、と、胸が締め付けられた。

 

「さ、楽しむでありんす」

 

 そう、彼女が言ったときにはもう、薄い唇を滑った舌のこと以外、何も考えられなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐにゃり、と転移によって歪んだ視界がやがて凪ぎ、青々とした緑の匂いが鼻をつく。広範囲に拓けた土地の周りを木々が囲み、ところどころ、抉られたかのように土が隆起していた。

 確かに、『占星千里』の視界に映っていたトブの大森林、かつて破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)が居座っていた地点で間違いない。

 点呼。全員の存在を確認。転移による取りこぼしはなし。ふ、と、短く息をつく。尤も、法国の切り札、漆黒聖典がこの程度で脱落するようでは困るのだが。

 

 さてここからどうするか、と、現状を軽く頭の中で浚った。

 

 2日前、難度250を超える怪物が土の巫女の間にて出現。土の巫女本人は無事、しかし怪物の能力か、周囲にいた人間は残らず発狂しており、今朝方ようやく快復に至る。怪物の本体は『絶死絶命』の手により倒されたが、法国内部に偵察目的であろう小虫が大量にばらまかれていたことが発覚。残っていた人員で駆除にあたり、国内にいる分は撲滅を完了。やや遅れたが、当初の命令に従い、漆黒聖典はカイレ様の護衛として破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)を洗脳に向かう、はずだった。

 

 本日、数刻前。

 ニグン・グリッド・ルーインの定時報告が一時途絶え、のちに回復。<伝言(メッセージ)>を通して、曰く。

 

 ガゼフ・ストロノーフの暗殺に失敗。囮の部隊を捕らえてエ・ランテルに向かっていることを確認。

 陽光聖典は先ほどまで()()()()()()()が召喚したモンスターと交戦、最上級天使の使用により撃破。そのモンスターと敵対し、深手を負ったクレマンティーヌも発見したが、『森の賢王』の乱入により状況が混乱。以降、その行方は不明。

 <伝言(メッセージ)>の阻害により通達ならず。任務にあたった隊員はすべて、多少の怪我や神経の衰弱はあれど五体満足で活動可能。指示を、求む。

 

 この報告により、神官長の方々は頭を抱えることになった。最悪、ズーラーノーンが『ぷれいやー』と結託している可能性が出てきたからだ。

 

 姿形は違えど、法国に現れた怪物と、トブの森で陽光聖典が接触したモンスターには共通点が多い。水属性を主体とした攻撃、精神への干渉能力、水底の澱みが腐ったような匂い。まず、同一召喚者によるものと見て良いだろう。

 ズーラーノーンがその召喚者を近隣諸国で確保したか、あるいは『ぷれいやー』が召喚者なのか、確定する術はないが、後者であれば『ぷれいやー』が異界より持ち込んだマジックアイテムや、従属神が共に在るということだ。より悪い状況を想定しておかなければなるまい。

 ズーラーノーンと接触があったはずのクレマンティーヌが、何故ズーラーノーンの召喚獣と敵対していたのかは疑問ではあったが、火急の問題ではないとして一旦保留となった。彼女の性格的に、些細なことで敵対していても不思議ではない、と判断されたからでもある。

 

 とにかく状況を、と、『占星千里』にトブの大森林を視させたところ、もうひとつ、望ましくない事態が露呈した。

 

 トブの森に、破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)の姿がない。

 一方向に向かって木々が枯れ、なぎ倒されており、まるでどこかへ移動してしまったようだ、と青褪めた『占星千里』が語っていた。

 

 まさかズーラーノーンの手の内に、という想像はしかし、すぐさま否定される。もしそうであったのなら、既に国のひとつは滅んでいることだろう。事実、魔樹の足跡は湖で途切れており、あの巨体を隠す術もあるまいということで、何者かによって倒された後だと会議は決定づけた。

 

 だとしても、決して楽観的になれるはずがない。あの魔樹を周囲に被害を及ぼさず倒すことができる存在がいる上、現在法国では、敵に関しての情報をほとんど掴んでいないのだ。はたして真にズーラーノーンの手によるものなのかさえ怪しいところ。エ・ランテルでクレマンティーヌを待ち伏せていた風花聖典に、陽光聖典に対する洗脳状態の有無を確認させるつもりではいるそうだが、『ぷれいやー』と思しき存在が術をかけたとしたなら、それがどこまで役に立つことか。

 しかして今、手をこまねいたまま陽光聖典を丸ごと失えるだけの余裕が法国に無いのも確か。使えると判断したのなら、次の現場に向かわせなければならない。ガゼフ暗殺失敗の責を問うている時間すら、我らにとっては惜しいのだ。神官長の方々はそう仰っていた。

 

 ともあれ、トブの大森林に眠る破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)を洗脳に向かう予定だった我々の任務には大幅な修正が加わった。

 

 事態は一刻を争うとして、移動手段を陸路から緊急離脱用のスクロールを用いての転移に変更。

 破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)が倒されたと思しき場所から、召喚者の痕跡を突き止めること。

 

 些か短絡的とも言える修正内容ではあったが、土の巫女、陽光聖典と、法国関係者を狙い打ちに来ている可能性も考えられる以上、多少のリスクを負ってでも、打開策を見出さねばならなかった。

 

 そうして我々は現下、僅かな手がかりを求めて『破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)』跡地に降り立っている。

 

 さて、予定通り湖の方角へ足を進めようとした、そのとき。

 弱く、小さな、けれども確かな生命の気配を察知した。

 

「そこにいる者。姿を見せろ」

 

 「ひっ」と、怯えた子供のような声が聞こえたというのに、一向に姿が見えない。牽制の一撃でも必要か、と槍を持つ手に力を込めたとき、恐る恐る、といった風情で現れた影がひとつ。シルエットは人間種のそれに良く似ているが、その小さな体と黒目がちの大きな瞳は人間のそれでは在り得ない。

 

森精霊(ドライアード)か……」

 

 古い森に出現する樹木の精霊。魅了や困惑などの魔法で森に迷い込んだ人間を惑わすとも言われているが、基本的には非力かつ無害な魔物だ。魅了を使われたとしてもマジックアイテムが反応する上、彼我の力量差は明らか。これが敵意を持ってから対処しても十分に間に合う。そう思い、一旦警戒態勢を解いた。

 

「も、もしかして、きみたち……、あの魔樹を倒しに来てくれたのかい?」

「……何故そう思う?」

「ち、違ったらごめん! その、だったら、ずっと前に来た7人組のこと、知らないかなー、なんて……」

 

 話を聞いたところ、「太陽がたくさん昇る前」に、その7人組が枝分かれした触手の1本を倒したのだという。特徴を聞く限りでは、二百年前の十三英雄によるものだと見て良いだろう。

 まさかこのあたりで知性のある生き物に出会えるとは思っていなかった。時間の感覚が違う以上、情報源としては心許ないが、ないよりはマシと判断。既に魔樹が倒されていることを伏せたまま、「討伐に来た」のだと伝えてやれば、森精霊(ドライアード)は、ぱあっと表情を明るくし、殊更やかましく喋り始めた。

 

「いつ動き始めるかはわからない状態だったんだけどさ、いつも通り眠っていたはずなのに、いきなりドドドーッ! って動き始めて! すっごく怖かった……」

「それはいつのことかわかるか?」

「え? うーん、太陽が3、4回くらい? 昇る前、かな……? 月が高いところにあって、ちょうどこの辺りに霧が出てきたのと同じくらい……」

「……霧?」

 

 陽光聖典の報告にあった場所とここでは相当な距離がある。普段自然に霧が出るような場所でなし、まず何かしらの力が働いた結果だろう。

 となれば、南東から発生した霧がここまで届いていたのか、あるいは2体目の召喚獣がこの近辺で呼び出されていたか。まったく関係の無い第三者による行為の可能性も捨てきれなかったが、どれを選んだとしてもあまり愉快なことではなかった。

 

 カルネ村の方角へ進むことも一瞬考えたが、陽光聖典と接触した場所にいつまでも留まっているとは考えにくい。一度、魔樹が倒された地点も調べておくべきだろう、と、当初の任務を遂行することにした。

 木々が倒れている方向に魔樹が進んだということだけ森精霊(ドライアード)に確認をとり、隊員を率いてその場を離れる。

 

「あっ、その! 気をつけて! 頑張ってね!」

 

 森精霊(ドライアード)はそう叫びながら、ぶんぶんと力の限り手を振っている。魔物の声援など受けたところで僅かな喜びも感じはしない。魔物は本質として人間と敵対する生き物だ。そのことを前提にしておかなければ、いつ足元を掬われるかわかったものではない。

 

「……放っておいて良いのですか?」

「大した力はない。ここまで迷い込んでくる者もいない以上、奴が人間に害を加えることもないだろう」

 

 いたずらに増えるような種族であるなら別だが、と付け加え、目的地へと進む。

 今は僅かな力も温存したい。これから対峙する悪意が、想定の範囲にあるものだとは限らないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「以上が、ことの顛末になります」

 

 白いメスの蜥蜴人(リザードマン)はそう言い終えて、ふ、とため息をついた。周囲の仲間たちもまた、やや緊張した面持ちでこちらを見ている。アーグランド評議国の特使、という存在を図りかねているためか。鎧で覆われた外見から種族を読み取ることができないからかも知れない。もっとも、剥いたところで中身なんかはないのだけれど。

 評議国にも時折「旅人」がやって来るので、まるきりお互いを知らないこともないはずだが、どうも最近一族が大規模な移動と合併をした直後のようで、警戒心が高まっているらしい。

 

 リグリットから相談を受けて1日と半分。魔樹の近辺を捜索してはみたものの目ぼしいものは特に見つからず、何か手がかりでもないかとトブの大森林、ひょうたん型の湖の畔、蜥蜴人(リザードマン)の集落を訪れた。

 夜中に突然赴いた僕に蜥蜴人(リザードマン)達は驚いていたが、こちらが身分を明かし丁寧に説明を願うと、敵対の意思が全くないことを理解してくれたようで、長の家屋へと招いて幾らか知っていることを話してくれた。

 

 ちょうど3日前、突如として現れた巨大な魔樹を、「死の精霊様」と「水の精霊様」、「御付の方々」が倒してくれたのだ、と。

 

 要約すればそれだけだが、情報としてはとても重要だ。その能力、力の示し方、「精霊様方」に対する「御付の方々」の態度。間違いない。プレイヤーだ。

 弱者を見境無く狩り殺さないだけ善人の部類に入るのかな。プレイヤーの中には亜人と見るや襲い掛かってくる輩もいるから、まだマシな連中と言えるか。尤も、亜人や異形の存在を許さないのはプレイヤーに限らないのだけれど。

 

「ありがとう。そこから『精霊様方』とやらは接触を図ってきてはいないんだね?」

「はい、ご本人様方のお姿は見ておりません。今朝、使者の方が保存の利く食料を幾らか運んできてくださったのですが」

 

 見たところ洗脳されている気配はなし。脅されているようでもないし、彼らが「精霊様」と崇めているのは、単純に恩義から来るものだろう。個人的には力の差をまざまざと見せ付けた時点で遠まわしな恐喝と取れるとは思うが、今のところは友好的な関係を築いていくつもりらしい。

 

 あるいは、既に連中が何らかの思惑で動いている、か。

 わざわざ魔樹をけしかけた、という可能性も否定はできない。

 

 けれどそこまで考えて、まさか、という想いも過ぎる。魔樹を無傷で倒せるような者が、そんな迂遠な方法を使ってまでここらを手中に収める意味がない。それだけの力を持っているのなら、ここの者達程度、どうにでもできるのだから。

 

 ともあれ、これ以上聞くこともなくなったし、お暇することにしよう。怯える相手のところに長居をするのは本意ではない。立ち上がり、軽く礼をした。

 

「夜中にすまなかった。有意義な話を聞けたよ。ありがとう」

「こちらこそ。アーグランド評議国の方には、一族の『旅人』がお世話になったこともありますので」

 

 そう言った長の体に描かれた紋様、真新しい塗料が「未婚」を「既婚」に書き換えている。ふと彼女の隣に意識を移せば、精悍な若いオスがいつでも彼女を守れるよう姿勢を整えているのが見えた。

 危機を乗り越え、散っていた種族を纏め上げる若き長。そしてそこに寄り添う夫、か。彼らの前途には数多の困難が待ち受けているのだろうが。

 

「君らの一族に永久の繁栄を。猛き竜の神、その加護が君らの魂にもありますように」

 

 

 

 さて、ここからどうするか、と、集落から少し離れた場所で考える。

 

 リグリットがキーノから聞いたという霧の中心はここより更に南東になる。どうかすれば、森から外れてしまうくらいの位置であったはずだ。いくらかの戦闘を覚悟でそこへ足を踏み入れてみるか、と、移動を始めようとしたそのとき、知覚に視線が引っかかった。

 

 さして強い力ではない。悪意を感じるわけでもない。見張りの蜥蜴人(リザードマン)のものかも知れなかったが、どうにも頭から追いやることができず、後ろを振り向けば。

 

 

 闇に溶けそうな漆黒の鳥が、赤い眼を爛々と輝かせていた。

 

 

 

 

 







本作では破滅の竜王=ザイトルクワエと認識しております。ご容赦を。

今回視点が多いので「ここわかりにくい」とか「あいつ今なにしてんの」とかありましたら遠慮なく。



次回から新章。前半をまとめにかかります。
のんびりお待ちください。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章 対峙
己が墓穴に頭を垂れよ 壱



今回から原作で登場した現地の脅威二つを畳みにかかります

とりあえずいきなり一般メイドちゃんについての捏造から始まるのでご注意を
3期には一般メイドちゃんがちらほら出てきてて大変嬉しい





 

 

 天上の幸福とは今この瞬間を示すものなのだろう。

 

 偉大なるナザリック地下大墳墓、至高の御方が御住まいと定められた第九階層ロイヤルスイート。その内の一室、至高の御方がおひとりであらせられる死獣天朱雀様のお部屋にて、尊き傍らで御身のお世話をさせていただくという大命を授かっている、今この瞬間。至福のため息を堪えることにさえ喜びを感じるくらいには満たされている自覚があった。

 このお役目が、ようやくまわってきた、という期待からの解放感も相まって。

 

 至高の御方に直接ご奉仕できる御付の順番は、それはもう厳密に決められている。

 メイド長と執事長の両名により作成された、まさしく完璧な作業遂行表。現在降臨なさっている至高の御方のお世話が滞りなく行えること、他の部屋のお掃除も完璧にすることを最優先に、メイドたちの労働量に不公平がないかまで緻密に計算されたシフトの上で、私たちの労働は成り立っている。

 

 至高の御方に対しての不平不満など、脳の片隅に存在するだけで死罪に値する重罪だけれど、働けないということはつまり、自らの存在意義を失うということ。毎秒毎分毎時間、毎日毎月毎年に至るまで、至高の御方のために働きたい。働き足りない。まだ、もっと、この身を尽くして御方のために働きたい! ……そう思ってしまうことは半ば黙認されていた。ナザリックの中で、それを願わない者など誰一人として存在しないから。

 

 ともかく、御方より頂戴した職務に優劣をつけるつもりは断じてないけれど、それでも御身の傍で、御身のために働かせていただくのは、私たちに格別の喜びを与える仕事なのである。

 

 ましてやそれが、死獣天朱雀様の御許となれば。

 

 もちろん、恐れ多くも至高の御方に優劣をつけようと言うのではない。先日、偉大なる墳墓の支配者モモンガ様のお傍でアイテムの実験について手伝わせていただいたときも、とても非常に甚だしく幸福であったのは紛れもない事実。

 

 けれど私たち41人の一般メイドには、それぞれ「好み」というものが与えられている。私たちの創造主、ヘロヘロ様、ホワイトブリム様、ク・ドゥ・グラース様による話し合いによって定められた、ちょっとした役割分担のようなものだ。尤も、全員が全員名前を与えられているわけではないので、そこまで厳密なものではないが。

 

 もし、41人の至高の御方が、それぞれ第九階層の自室にお入りになられるのならば、41人のメイド達もそれぞれ割り振らねばならないだろう、と。

 

 夢のような光景だ。41人の御方が自室でお休みに、あるいは趣味に興じられているのを、私たちがひとりひとり甲斐甲斐しくお世話をさせていただく。なんて幸福な光景なのだろう。

 ……もっとも、今となっては、少々の痛みを伴う夢想ではあるけれど。いつかお戻りになると信じてはいても、至高の御方のほとんどが、ここしばらく姿をお見せに来られていないというのはとても寂しい。

 

 ともあれ、「読書が好きっていうならここしかないでしょ」と、司書長をお造りになられた死獣天朱雀様を、あくまで相対的に慕うメイドとして私は設定され、今ここで仕事に励んでいる。

 

 ああ、それにしても、なんと美しい御姿なのだろう。

 

 古代の水精霊(エルダー・ウォーターエレメンタル)特有の、磨きぬかれた蒼玉(サファイア)ですら及ばぬ深いあおいろのかんばせ。

 その奥底に灯る、まるで深海の生き物が放つ光のような、それでいて理知を感じさせる瞳。

 私たちメイドが手を出すまでもなく、皺ひとつないままに整えられた衣服。モモンガ様やウルベルト・アレイン・オードル様のような絢爛さ、あるいはペロロンチーノ様やたっち・みー様のような輝かしさこそないものの、長い年月を重ねた樹木のような色のスーツと、銀糸によって施された繊細な刺繍が入った純白の手袋は、穏やかで聡明な人格と丁寧で優雅な所作を包むのに相応しい落ち着いた趣のある衣装だと、心よりの賞賛を贈らざるを得ない。

 

 襟元に手を当てて何か考え事をなさっている御様子はまさしく一枚の絵画のよう。否、どれほど優れた画家であったとしても、御方々の威光を表現などできるはずもない。あるいはホワイトブリム様であればこの光景を完璧な絵として落とし込むことも可能なのだろうけれど。

 

 

 ……さて。

 こうして存分に見惚れつつ、空想に浸っていられるのには少々理由がある。

 

 死獣天朱雀様はこの世界に転移してから現在までずっと、索敵を一手に引き受けて下さっているのだという。なんて畏れ多くも有難いことだろうか。

 今もまた、召喚獣の目より得たなんらかの情報をひたすら紙面に整理しておられるようだった。

 

 その集中力といえば凄まじく、先ほどから私にも警備の八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)にも一切お声を掛けられていない。部屋にお戻りになられてすぐにお渡ししたお茶も、御手をつけられていないままだ。

 至高の御方をして、それほどまでに恐ろしいと思わせる何かが、外にはあるというのだろうか。

 

 外。外は、怖い。

 

 私たち一般メイドがナザリックにおいて最も脆弱な部類のシモベだということ。加えて、かつてこのすぐ上の階層、第八階層まで1500人に及ぶ敵が押し寄せていたという事実。階層守護者の方々でさえ足止め程度にしかならなかったという、外の世界のプレイヤー達。もちろん偉大なる至高の御方々によって侵入者はすべて滅殺され、今なお私たちは偉大なる御方の庇護の下で生活をしているけれど、そのときの恐怖は奥底に燻ったままだ。

 こちらの世界においては周囲の敵のレベルが大幅に下がっていると聞くけれど、私たちからすれば例外なく強者。どのような手段を講じようと、野に咲く花より容易く踏み荒らされてしまうことだろう。外にいるものが怖いという認識に変わりはなかった。

 

 至高の御方におかれては、以前より脆弱になった敵に対して、恐ろしいなどという感情を抱いているとは思えない。今朝から夕方にかけて行われた催しでも、圧倒的な力を振るわれたと聞いている。

 けれど、直接侵入者と対峙なさっていた方として、何かしら思うところがおありなのだろう。

 

 微力にして卑小なこの身なれど、ほんの少しでも、至高の御方のお役に立てるよう、よりいっそうの働きを見せなければ。

 

 

 私がそう決意を新たにしたとき、ふと、死獣天朱雀様が天井を見上げられ、そのまま少しの間動きをお止めになる。八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)に何か、と思ったのも束の間、すっ、とその尊き視線がこちらを向いた。

 

「インクリメント」

「はい」

 

 待ちに待った御方のお呼びかけ。

 喜びに震える身を精一杯押さえ込み、ナザリックのメイドかくあれかしとばかりに、優雅な返答を成し遂げる。

 

「ちょっとドレスルームから取ってきて欲しいものがあるんだけど、頼めるかな」

「勿論でございます。お伺いしてもよろしいでしょうか」

 

 至高の御方曰く、入り口近くの棚にある箱のどれかに入っている、朱塗りの軸に銀の吸い口で形づくられた、煙管(きせる)をひとつ。緋色の鳥が描かれているからすぐにわかる、と。

 

 我らメイドにとって何よりの幸福、至高の御方直々のご命令に、足取りも軽くドレスルームへと向かった。

 

 本当に、私はなんと幸福なのだろう。

 御方の私物を探すという栄誉を賜った上に、ちょっとした情報まで手に入ってしまうなんて。

 死獣天朱雀様は、煙草をお吸いになられる。今までそのご様子は見たことが無いけれど、ひと段落ついてからにしようとご自分を戒めておられたのかもしれない。みんなに教えてあげれば、きっと羨ましがる。

 

 そうして多幸感に満たされたまま探し物をして。

 ……すぐに、ドン底へと叩き落された。

 

「……あれ?」

 

 ない、ない、ない。

 見て、開けて、ずらして、動かして。

 探しても、探しても、探しても。

 死獣天朱雀様が指定なさった場所に、煙管らしきものが、ない。

 

「ど、どうしよう……」

 

 じわじわと焦りが募る。これ以上至高の御方をお待たせするわけにはいかないのに、一向に見つかる気配がない。

 改めて周囲を見ても、「棚」らしき形状の家具はこれひとつ。よもや死獣天朱雀様が仰ったことに間違いがあるわけはないので、この棚に置かれた、箱のどこかにあるはずなのに。

 

 さっきまで幸せで死にそうだったのに、今度は罪悪感で死にそうだ。

 至高の御方に創造されたメイドである私が、探し物ひとつできないなんて。

 死獣天朱雀様ばかりでなく、創造主に対しての申し訳なさも募るが、それでも自らの失態を隠しておく方が余程の大罪だ。それこそ死をもってしても償えないくらいの。

 

 ならば叱責を受けることを前提にしても正直にお伝えしなければならない、と、首を差し出す覚悟でドレスルームを出た。

 

「申し訳ございません、死獣天、すざく、さま……?」

 

 しかして、その名の主は部屋のどこを見渡しても目に入らず。

 部屋の中にいるのは床の上、仰向けに転がるエイトエッジアサシンたち。

 机上、偉大なるアインズ・ウール・ゴウンの紋章が描かれた指輪がひとつと。

 

 こちらを見ながら首を傾げる、八咫烏(ヤタガラス)が1羽だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 方針かあ。

 

 死獣天朱雀さんからもらった資料、そして守護者達から上がってきた、本日の催しについての報告書に眼を通しながら、心の中だけでため息をつく。うっかり口に出してしまったらどうなることか。近くでそっと佇むリュミエールと天井の八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)の気配を感じつつ、骨しかない身を引き締めた。

 

 この世界に来て初めての現地人とのコンタクト、もとい実験も終わり、さっきまで少し話をしていた朱雀さんと別れて、今は確認しなければならないことをひとつずつお互いの自室で確かめている最中だ。

 とは言っても、俺はこっちに上がってきた情報を見ているだけだけど。

 

 朱雀さんの資料をぱらぱらとめくる。

 この間見せてもらったものに更なる加筆がされており、周辺には人間の国家だけでなく亜人の国家も存在することや、知性あるドラゴンが存在していること、プレイヤーのものと思しき伝承が残されていることなど、中々興味をそそられる情報が多かった。

 蜥蜴人(リザードマン)の集落のこともあるし、もしコンタクトを取るのならやっぱり亜人の国からが良いのかな、と少し考える。今朝、使者を出して食料を少し持っていってもらったけど、帰って来た使者から俺達充てに丁寧なお礼の言葉が届いていた。このやり取りは今後も続けていきたい。

 

 未だにナザリック本体の存在は誰にも知られていないわけだし、人間種は異形種を相当警戒しているようなので、まだ亜人の方が受け入れてもらいやすいんじゃないかな、と。アベリオン丘陵の方では単一種族による集落を形成していることが多いみたいだけど、アーグランド評議国という国は複数の種族が纏まって生活しているみたいだし。

 

 だけどそれを決めるには、先に周囲に対してどのようなアプローチをするのか決めなきゃいけないわけで。

 

 敵対視されているわけでもないのにこちらから攻撃するのは違うだろう。そもそも周囲の国はこっちの存在に気付いてすらいない。「とりあえず殴ってから考える」っていうのは……、やまいこさんでも敵じゃないMOBにわざわざ殴りかかるようなことはしなかったしなあ。

 

 防衛以外の理由でどうしても殴らなきゃいけない、っていうなら物資が足りないときなんだろうけど。NPCの衣食住に関しては金貨の消費を気にしなくていいし、採集担当だった朱雀さんがこの間部屋をひっくり返してくれたお陰で、宝物殿に入れ損なっていたモンスターの皮やら鉱石やら薬草やらがそこそこの数手に入った。ほんと朱雀さんが一緒に来てくれてて助かった。ひとりで来てたらギルドメンバーの私物に手を出そうなんて思わなかったもんな。

 

 もっとも、強化という面で言えば全然足りていないとは思う。

 ナザリック地下大墳墓はかつて1500人の侵攻にも耐え切った不落の要塞。だけどそれはメンバーが41人揃った上で成し遂げられたことだ。おまけにかつての侵攻では、セラフィムやワールドサーチャーズなんかの「本当に実力のあるギルド」は参加していなかった。たっち・みーさんとまでは行かなくても、高いスキルを持ったプレイヤーが数人でもいたら、今のナザリックでは心許ない。

 

 俺も朱雀さんも完全な後衛だ。前衛クラスで構成された高レベルNPCは何人かいるけれど、正直プレイヤーに対してどこまで通用するかは疑問が残る。

 意思を持ったことで以前よりは戦えるようになったはずだが、そもそもの話、100LVプレイヤーと100LVNPCでは取得できる職業の性能に違いがありすぎるのだ。ワールド・チャンピオンやワールド・ディザスターなどのいわゆる「称号系」のクラスをはじめ、俺が持っている「エクリプス」や朱雀さんの最上位クラスなんかもNPCでは取得することができない。そしてそれらのクラスは概ね、通常のクラスよりもステータス上昇率が高く、かつ有用な魔法・スキルを習得することができるもの。

 

 だから、出来得る限り外のものと敵対したくはない。ギルドメンバーが作った子供達とも言える存在のNPCを、危険に晒すようなことはしたくないのだ。

 相手が余りにも攻撃的で、こちらの目にも脅威だと映った場合は、敵対するのも仕方のないことだとは思うけれど。

 

 

 なので今のところの最善手はこのまま徹底的に隠れ続けることだと言える。が、永遠にそうしていられるかというとそうでもない。

 

 守護者からの報告書にも書いてあったが、異変があったときにすぐ集まってくる範囲で、ナザリックの敵と呼べる存在は今のところ見つかっていないし、魔法的な介入も一切受けていない。結構自由にうろうろさせている八咫烏でさえ、落とされたのは最初の一匹だけだ。朱雀さんの立ち回りが良いのもあるけれど、やっぱり根本的にレベルが低い。

 

 しかしながら、今のナザリックは地理的にリ・エスティーゼ王国の領土内にある。隠蔽工作は完了しているし、今すぐどうにかなることはないけれど、問題はこの後だ。

 

 直線的な距離でも、トブの森を挟んでいるという地形的な点から見ても、リ・エスティーゼ王国の首都、リ・エスティーゼよりも、バハルス帝国の首都、アーウィンタールの方がナザリックに近い。それ自体がどうということはないが、王国と帝国は長年戦争をしていて、かなり帝国優勢に傾いているらしい。あと2、3年もすれば併呑にこぎつけるだろうし、そうなれば10年以内にこの辺りの土地まで開拓が及ぶということも十分に考えられる、というのが朱雀さんの見解だ。正直ぴんと来ないけど、10年と言う月日はそんなに長いものじゃないというのはわかる。

 

 ならば人間の国とも、それなりに友好的な関係を築いておくべきだろうか。

 いまだ影も形も見当たらないけど、もしも他のギルドメンバーが見つかったとき、この世界に異形種への差別が残ったままというのもすわりが悪いし、そのあたりもなんとかしたいんだけど、できるのかな。

 

 ……できるかな、とか言ってるけど。個人で話し合うのにさえ、元の世界の営業スキルが通用するかわからないのに、国規模なんて。朱雀さんも守護者達も、報告書の観点が国単位だから釣られてついつい思考のスケールが大きくなってしまう。

 そういう意味では、今回の催しで人脈的なとっかかりを作れなかったのは痛手かもしれないな。結果的に相対する規模がどうであれ、アポイントメントは重要だし。本格的に異世界の言語を習ってお手紙を書くところから始めるべきか?

 

 だめだ、だいぶ迷走してきた。

 とりあえず、今後の方針については後で朱雀さんと相談して決めよう。うん、そうしよう。今は陽光聖典とかいう法国の部隊から搾り取った情報をまとめてくれているところだし。朱雀さんが記憶を触ったのなら大丈夫だとは思うけど、うまいことナザリックの存在を隠せてるといいな。

 

 

 そうやって課題を先延ばしにする決意を固めたとき、リュミエールから声がかかる。

 

「モモンガ様。アルベド様が入室の許可を求めておられます」

「ああ、許可しよう」

 

 いい加減ノックこんこんでもいいですよと思う反面、突然ノックされると思ったら気が休まらないのでこのままにしようとも思っている、いつものやり取りの後、アルベドが姿を現した。

 

「守護者統括アルベド、御身の前にご報告をお持ちいたしました」

「うむ、ご苦労」

 

 優雅な一礼をして、俺の近く、執務机の隣あたりまでアルベドが寄ってくる。……一般的な秘書さんってこんなに距離が近いものなんですかね、朱雀さん。

 脳内の庶民的な感想が届くはずもなく、アルベドによる報告が始まった。

 

 催しの後片付けも終わり、シモベ一同、通常業務に戻っていること。

 記録した映像の複製、配布も完了したこと。

 感想を書いた紙を入れる箱も各階層に準備できたこと。

 シャルティアが、捕らえた女性の尋問に取り掛かり始めたこと。

 

 ……相変わらず仕事が早いなあ。やっぱり先に休むように言っておけば良かったかな。ナザリックを、ヘロヘロさんが苦しんだブラック会社のようにはしたくないのだ。誰かに相談できたらいいんだけど、この意識改革は俺一人でなんとかしなくちゃならない。朱雀さんにも少し相談したが、「本人たちが好きでやってるんだからいいんじゃない?」と軽く流されてしまったからだ。

 

 確かにこの世界には治癒魔法や疲労回復魔法が存在するけれど、それが後々どんな影響を及ぼすかはまだわかっていない。少しずつ磨耗して、気付いたときには手遅れ、なんてことになったら、本人達にもギルドメンバーの皆にも申し訳が立たない。

 

「……以上が、現在のナザリックの状況、そのご報告になります」

「ああ、ありがとうアルベド」

 

 NPCたちの労働環境について考えていたら、いつの間にか報告が終わっていた。

 なんて言ってたっけ。えーっと、催しが終わって、片付いて、事後処理が終わって、あ、そうだ。改めて聞いておきたいことがあったんだ。

 

「それはそうと、アルベドよ。ひとつ聞いておきたいことがあるのだが」

「はい、なんなりとお尋ねください」

「今回の催しで、数多の人間を眼にしたが……、外の人間について、お前はどう思う?」

「脆弱で下等、愚かしく浅ましいどうしようもない生き物と認識しております。虫けらのように踏み潰せばどれだけ気分が良いことでしょう」

 

 タブラさんによってこだわり抜いて形作られた美貌が冷たい微笑を浮かべる。心底からそう思っているのだろう、甘やかだけれど酷薄な声音からは、人間に対する慈悲などこれっぽっちも感じることはできなかった。というか、こっちが見下されてる気分になってちょっとぞわっとした。ひええ。

 

 けどそうだよなあ。そうくるよなあ。

 カルマ値極悪、設定的にも人間を嫌ってるアルベドなら、大体そう答えるだろうというのは予測がついていたことだが、いざ対面したとき無闇に攻撃的にならないかは少し心配になる。蜥蜴人(リザードマン)のときも最初はすごく警戒してたし。あのときも結局大人しくしててくれたから、そこまで心配することもないとは思うけど。

 

 こちらの沈黙をどう捉えたのか、はっ、と何かに気付いたかのように、アルベドが訂正の言葉を追加し始める。

 

「もちろん、高レベルの者が現れたときはその限りではありません。それが敵対的な存在であれば、万全に万全を重ねた上で、その首を御身の前に差し出してみせましょう」

「お、おう、期待している、ぞ?」

「はい、ご期待ください」

 

 きらきらと眼を輝かせて熱弁する様子が眩しくてうっかり突っ込めなかったが、「敵対的」のハードルが俺とアルベドでかなり違うような気がする。どうやら、敵に対して油断とかしない? と考えているのだと思われたらしい。味方でいい人間を敵だと誤認しないか心配してるだけなんだけどな。首とかいらないよ……。

 

 紙に書かれた感想が戻ってきたらもっと詳しくわかるんだろうけど、この調子じゃ他のNPCも似たり寄ったりかも知れない。忠誠心が低いよりはいいけれど、高すぎるのも困りものだよなあ。

 

 まあ、この辺りも含めて、朱雀さんと話し合おう。そう思い、アルベドを通常の業務に戻そうとしたところ、思わず目に入ってしまった。

 アルベドがちょっと寂しそうに、左手の薬指を撫でるところを。

 

 

 ああ~~~~~そうだったあ~~~~~まだこれが残ってたあ~~~~~……!

 

 

 直面した新たな、もとい、数日前から先に先にと延ばしていた問題。気付かれないように、意識だけを執務机の引き出しに向ける。そこには、司書長、ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥスに頼んで作ってもらった、ひとつの指輪(リング)が入っていた。

 

 仕事をするのにあんまりゴテゴテしたのも邪魔かと思ったので、涼しげな色の小さな石がいくつか嵌った、シンプルなもの。その代わりと言ってはなんだが、防御力向上と、ミサイルパリイの命中率アップ、そして幸運のエンチャントを少し。同じものがもうひとつ、俺のインベントリにも入っている。

 俗に言う、けっこんゆびわ、というやつである。俺に決心がつかなくて、中々渡せなかったが。

 

 婚約云々を抜きにしても、アルベドには何か褒美になるものをあげなければならないとは思っていた。

 イビルツリーの討伐を手伝ってもらった守護者には褒美として、製作者にまつわるアイテムをそれぞれ渡してある。アウラにはぶくぶく茶釜さんの声が入った時計、シャルティアにはペロロンチーノさんから預かったエンサイクロペディア、セバスにはたっちさんが置いていった著作権切れの特撮の映像データを。

 

 みんな大層喜んでくれたし、だったらアルベドにもタブラさんの私物を……、と口に出そうとしたら、朱雀さんに「それだけは絶っっっっっ対にやめておきなさい」と大反対されてしまった。

 乙女心っていうやつなのかな。童貞だからよくわからないけれど。

 

 別に、照れがあるとか、嫌とか、そういうことではなくて。

 考えてみるといい。もし、社長が、仲間たる従業員のいない間に、娘に手をつけたなら。駄目だろう普通に考えて。

 設定を書き換えたのは朱雀さんだし、この場合は政略結婚? になるのか? 自分より立場が上の人間に嫁ぐよう仕向けられたなら?

 

 ……ああ、もう。「本人が嫌がってないならいいじゃん」って、ギルメン複数人の声で聞こえてくる。なんだか当のタブラさんの声が一番大きいような気がする!

 

 えーっと、それじゃあ、逆の立場から考えてみよう。

 何からの理由で、社長の娘と平社員おれが婚約することになって。

 その娘曰く、「お爺様が勝手に決めたことなの。あなたに申し訳ないから婚約は解消するわ」って。言われたときの、それは――

 

――あなたのことが気に入らなかったの、っていう、遠まわしなお断りだよなあ……。

 

 架空のお断りを想像し、思わぬダメージを受けてげんなりする。魅力がないのは今自覚したわけじゃないけど、それでもけっこう精神にくる。

 あれ? ということは、だ。このまま俺がまごまごした態度を取っていると、アルベドも同じように思う……、のか? いや、悪魔だからそのくらいは、でも、うーん……。

 

 俺の場合は心底から、設定に振り回されることになってしまったのを申し訳ないと思ってるし、アルベドに不満なんかこれっぽっちもないんだけど。それでも。

 

 傷つくよなあ……。

 

 タブラさんの娘とも言える存在を勝手に嫁にするのも気が引けるけれど。

 NPCが傷つくのは、それ以上に見たくない。

 

 こっちに来てから、彼らの表情や声色は目まぐるしく変わり、まるで本当に感情があるような、いや。

 感情を持って、俺達に相対しているんだから。

 その彼らが、悲しんだり、苦しんだり、傷ついたりしているのは。

 

 

 ようやく、今ようやく腹をくくり、自分を鼓舞するべく、はあーっ、と、心の中で深くため息をついて、引き出しを開いた。

 

「アルベド」

「はい。如何いたしましたか、モモンガ様」

 

 甘い香りのする髪をふわりと揺らして、アルベドがこちらを向く。やばい、緊張してきた。ドキドキする。心臓もないのに。

 

「この度の……、いや、この世界に来てからのお前の働きに、私はとても満足している」

「ありがとうございます。御身にご満足いただけることこそ、何よりの幸福でございます」

「それで、というわけではないが、あー……」

「?」

 

 グダグダか。グダグダだな!

 

 ええい、もう、と勢いに任せて小箱を引っつかみ、椅子から立ち上がる。あっ、椅子倒れた。リュミエールが元に戻すべく近づいてくるのを片手で制する。いや、恰好つけるところはここじゃないだろ俺。

 

「モ、モモンガ様?」

「……慣れないことはするものじゃないな」

「え?」

「手を出せ、アルベド」

 

 未だに良くわかっていない様子でおずおずと右手を差し出すアルベドに、左手だ、と訂正をし、自分の左手も掌を上に向けて待ち構える。こういうときのお作法って何かあるのだろうか。今更遅いけど。

 

 ナザリックで一、二を争う頭脳はそれだけで何が行われるのか察したらしく、たおやかな白い手が、震えながら、そっと骨の手の上に重ねられた。……馬鹿な子の方がかわいい、っていうけれど。察しが悪いほうが、期待を裏切らなくて済むっていう意味なのかもな。

 そういえば、初めて触ったとき、ネガティブ・タッチがONのままだったんだっけ。ついこの間のはずなんだけど、もう遠い昔のように思える。

 

 気に入られなかったらどうしよう、とか。やっぱり嫌だって言われたらどうしよう、とか。

 色んな不安を抱えたまま、けれど小箱から指輪を取り出して。

 細い薬指に、指輪を滑らせた。

 

 お互いの手が離れてもアルベドは無言のまま、自分の右手で自分の左手首を支えて、じっと指輪に見入っていた。表情からは、何を思っているのかまるで読み取れず、もそもそときょどつきたくなるのを懸命に抑える。

 うう、いたたまれない。沈黙の痛みに耐え切れず、こちらから口を開いた。

 

「その、なんだ。儀礼的なものも必要かと思ったのだが……、気が、急いてな……?」

「……よろ、しいの、ですか?」

「うん?」

 

 途切れ途切れに尋ねたアルベドの声は、微かに震えていた。きめこまやかな白い肌が紅潮し、うっすらと水を湛えた金色の瞳が、きらきらと潤んでいる。喜んで、くれてるんだよな? これは。

 

「よろしい、のですね?」

「ああ、構わん。好きにするがいい」

 

 受け取ってもいいのか、っていうことだろうか。それなら、YES以外の答えはない。

 捨てることはないだろうけど、万一気に入らなくてもつけっぱなしじゃなくて良いという意味を込めて。

 

「お前のものだ」

 

 そう答えると、何故か周囲から、おお、と感嘆の声。

 え? と疑問の声を出す間もなく。

 

「失礼します!!」

「ふあっ!?」

 

 掛け声と共に、ぐうん! と宙に持ち上げられる体。片手は背中に、もう片方は膝裏に。この抱え方は知っている。古今東西、異性を抱っこする上での最もロマンチックなものとして知られている――

 

――わあ! お姫様抱っこだ!!

 

 なんで!!?

 

「こ、こら! 降ろせアルベド! 降ろせ!!」

「ご心配なく、モモンガ様! 御身は羽のように軽くていらっしゃいますので!」

 

 そりゃあ骨だからね!!!

 

 なんて突っ込みを入れている間に寝室の扉が蹴り開けられ、ベッドの上に放り投げられる。悲しいかな、かたや純粋な魔法職、かたや防御特化の戦士職。マウントを取られた今、どれだけ暴れてもびくともしない。

 つうっ、と、ローブから露出した肋骨を撫でられて、感触は鈍いはずなのに、思わず、ひい、と声が漏れた。

 

「やめろ、アルベド! やめなさい! 変なところを触るんじゃない!」

「お断りいたします」

「は!?」

「ベッドの上では理が変わるもの、そうでしょう? モモンガ様」

 

 でしょう? っていわれても! 寝る以外に使用したことがないもので! 童貞だからね!

 魔法の衣服故に一部だけをずらすことができず、装備破壊か脱衣が必要なのよね、とドレスの胸元に手をかけたままで、アルベドが微笑み、言うことには。

 

「嫌よ嫌よも好きのうち……、お父様よりそう教わっておりますわ」

「タブラ・スマラグディナァ!!!」

 

 バカーーー! タブラさんのバカーーーーー!!

 変態! 厨二病!! 設定フリーク!!!

 今後観賞するホラー映画は全部クソ映画になる呪いをかけてやる!!!!

 

 そんなタブラさんへの罵倒もどこ吹く風、アルベドは完全にやる気まんまんだ。

 うっとりと、というかねっとりとこちらを見つめる縦に割れた虹彩。髪をかき上げる仕草ひとつ取っても恐ろしく扇情的で、興奮で乾いたのか、唇を赤い舌が這うその表情は、獲物を前に舌なめずりする捕食獣そのもので。

 あっ、駄目だ、食べられる。食べられちゃう。

 

「な、なあアルベド? 他に、やることがあるだろう? こんなことをしている場合じゃ……」

「御身のお世継ぎを賜るより重大な仕事は、そのすべてを済ませてございます」

 

 わあ優秀!! クソが!!!

 っていうかお世継ぎ賜れないよな! モノがないんだから!!

 

 そんなことは些細なことだと言うのか、アルベドの手が通称「モモンガ玉」を撫で回す。

 

「ああ……、モモンガ様の大事なモノがこんなに硬く……」

「元から硬いわァ! 世界級(ワールド)アイテムをそんな風に言うんじゃない!」

 

 もうやだこの守護者統括。

 突っ込みも精神抑制も全然追いつかなくてそろそろ疲れてきた俺の上に、とうとうアルベドが覆いかぶさってきた。胸骨にふかっとしたものが押し付けられて、艶やかな黒髪がさらりと肩をすべり落ちる。

 

 ふわーー! いい匂いーーー!! ……じゃなくて!!!

 

 尚も往生際悪くもがき続ける俺に何か思うところでもあったのか、はた、とアルベドが動きを止めた。

 

「もしや、モモンガ様」

「な、なんだ!?」

「初めてでいらっしゃるのですか?」

「んん!?  いや、ちが、ああ、えーっと……、とにかく!」

 

 ヤバい、NPCにバレちゃいけないことベスト3に入るであろう機密事項があっさりバレた。

 失望されるか、悪ければ怒られるか。戦々恐々と言い訳を紡ごうとしていた俺の予想はあっさり外れ、アルベドは、ほわ、と、その美貌を綻ばせる。

 

「うれしい」

「ファッ!?」

「愛しい殿方の初めてをいただけるのに、喜ばぬサキュバスはおりませんわ」

 

 へー、そういうものかー。

 なんて感心してる場合じゃない。状況の打開策がまったく思い浮かばないのだ。

 

 遂に俺のローブを脱がしにかかる手は筋力差の関係で振り払うこともできず。

 かと言って攻撃魔法を叩き込むわけにもいかず、睡眠などの比較的安全な魔法は耐性によって防がれるだろうし。

 執務室でのやり取りはどうもシモベの誰から見ても「OK」だと取られるものだったようで、誰かが助けに来るような気配もない。

 

 す、朱雀さんに<伝言(メッセージ)>で助けを……? ああ、駄目だ。目に浮かぶ。「や、お邪魔しちゃ悪いし」って通信をぷっつり切られる様がありありと目に浮かぶ!!!

 

 ああ、もう駄目だ、と、大人しく身をゆだねそうになった、そのとき。

 

「失礼いたします! ……あっ!! 失礼いたしました!!!」

 

 余程慌てていたのか、ノックもせずにリュミエールが扉を開け……、再び閉めようとしたところに待ったをかける。このタイミングを逃したらもう、貪り食われる他の選択肢が無くなる。アルベドの視線に構っている暇などない。すっごく怖いけど。

 

「いや! 構わないぞ!! 用件はなんだ!?」

 

 それが……、と説明しようとしたリュミエールの隣には、涙目のインクリメントと、その肩に乗った八咫烏。

 待て、八咫烏? 八咫烏!? 全羽外に放したはずの召喚獣が、何故ここにいる。

 

 召喚獣を手元に転移させる魔法がないわけじゃないが、そうしなければならない理由がすぐには思い当たらない。

 いざとなれば飛んで逃げることができる上に、召喚獣は元々殺される前提で索敵を行っている。もし手元に戻すとすれば、召喚獣を通して情報を抜かれそうになったときくらいしか思いつかないが、それを行うには朱雀さん本人の攻性防壁を越えなければならない。そうなった場合、まず相手は無事では済まないし、朱雀さん本人からの<伝言(メッセージ)>ではなく、部屋の当番だったんだろうインクリメントが報告にくるのもおかしい。

 

 ……まさか。

 

 半ば答えにたどり着いた疑問は、インクリメントの発言によって確信に至る。

 

「死獣天朱雀様のお姿が、どこにも見あたらないんです……!」

「なんだとォ!?」

 

 

 

 






~その昔~

朱雀さん「採集場所からナザリックに徒歩で戻るのめんどくさい。上位位置交換で直接中に入れるようにしてほしい。ぼくPVP弱いから指輪持って出るの怖いし」
モモンガさん「良いんじゃないですかね。どうせ召喚獣が侵入できなきゃ召喚者も入ってこれないし、深部目指してくる敵は気にしなくても。異論ありますかね皆さん」
皆さん「「「ないでーす」」」
朱雀さん「わーい」


エクリプスがプレイヤー限定という記述はないのですが、そうじゃなかったらNPCのレベルをこちゃこちゃ弄ってるだけで職業が発見されてしまうのではと思いましてこのように。
NPCはリビルドできないっていう制約があるだけかも知れませんが、多少はね?


次回、評議国の代表とお喋り。
多分10月入ってからになるかと。気長にお待ちください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

己が墓穴に頭を垂れよ 弐




ただいま!


前回までのあらすじ

DMMORPG「ユグドラシル」のサービス終了と同時、ナザリックごと異世界に転移したモモンガと死獣天朱雀。
ゲームの知識を生かして慎重に情報を集めようとするモモンガと、主ふたりの信頼を獲得するべく動くNPC達。それらを出し抜き、モモンガの人間性を確保するために、死獣天朱雀は八咫烏(ヤタガラス)による広範囲索敵を一手に担っていた。

隠蔽目的でナザリック周辺を霧で覆った結果、イビルツリーに襲われた蜥蜴人(リザードマン)達を助けたり、カルネ村を利用して後始末をつけたりして、どうにかこうにか拠点の完全隠蔽に成功する。その夜、本懐(子作り)を遂げようとするアルベドを抑えようとしていたモモンガのもとに火急の知らせが届いた。「死獣天朱雀が姿を消した」、と。

一方そのころ、旧友から「魔樹の竜王」が復活した可能性を聞きつけ、蜥蜴人(リザードマン)の集落を訪れたツァインドルクス・ヴァイシオン。情報を得て集落を発ったそのとき、闇夜に紛れる一匹の烏と相対する。






 やや湿った、ぬるい初夏の風が森を抜けていく。沼地特有のじめついた空気。かつての仲間、人の身の彼らであれば、不快感に文句のふたつやみっつ漏らしていたことだろう。空の鎧であることを隠して相槌を打っていたかつてを思い出し、思わず零れそうになる笑みを緊張に引き締めた。

 

 月から零れ出た光が纏わりつく枝葉の隙間、黒々とした闇に溶け込むようにして、それはじっと息を潜めていた。

 うまく夜に擬態しているようであったが、竜の知覚からすれば抵抗と呼べるものですらない。目を凝らす必要もなく、くっきりとした輪郭のそれを観察する。

 

 人間種の肩にようやく止まるかという大きさの鳥。羽根を広げればもう少し大きいだろうが、自分の元々の大きさに比べれば些細な違いに過ぎなかった。

 そう、些細な違いに過ぎない。闇色に染まった真っ黒な身体も、3本の脚も、地の奥底で育まれたルビーのような赤い瞳も、そこらにいる生物との差異であると断言するには弱い、が。

 

 あからさまに放たれる、魔法の力。それひとつで、こちらが臨戦の準備を整える理由に足るような。

 

 まだ私が若く弱かった時代、インクの染みの如く世界を汚していった力。原始の魔法を尽く駆逐していった、忌まわしき位階(異界)の魔法。小さな身体に満たされたそれは、昨今、巷に溢れているようなささやかなものでは決してない。

 

 じり、と身構える。が、鳥は微動だにしない。こちらを品定めするように、私と視線を合わせたまま。

 敵対するつもりがないのか、敵対するほどの力がそもそもないのか。否、あれほどの魔法に満たされた状態で?

 どの程度の力の魔法かはなんとなしにわかっても、どのような種類の魔法かまではわからない。厄介なことだな、と、内心唸った。

 

 ()()()にやってくる連中というのはどうにも戦い慣れしている者が多い。「彼」の話によれば「最後まで残っていた連中は大体そう」だという。今は亡き、六大神、八欲王。それらと同等、あるいは匹敵するほどの力を持った者たちが連日連夜殺し合いをしていた世界であった、と。

 

――つって俺も最後だからって()()()()()作り直したお祭り組だし、どんだけ人が残ってたかはわかんないけど――

 

 その言葉について、理論立てた説明をもらう前に「彼」は死んでしまったが、こちらに来たばかりの弱かった彼も、戦闘に関しての知識は豊富だったように思う。

 要するに、長らく戦場を離れていたものであっても、「最後まで」戦い続けていたものと脅威度はそう変わらないということだ。こちらの世界の者にとっては。

 

 それを踏まえて、眼前の鳥は如何に、と思考を巡らせる。

 鳥そのものに大した力はないように思えた。そしてこれほどにらみ合っていても仕掛けてくる兆しひとつない。こちらの行動に合わせて何らかの罠が発動する仕組みの魔法か。あるいは、こちらの考えすら及ばない形で既に術が発動しているか。

 

 ならば、と。用意した剣の一本に力を込める。柄の端から刀身の切っ先まで、ひたひたと、水が杯を満たすように魔力を注いだ。ひぃん、と、磨きぬかれた金属が夜の空気を震わす音。枝に留まる鳥は相変わらず動かないまま。

 剣を地面と水平に浮かべる。頭のすぐ横、刀身が月明かりにきらめいた。狙いはひとつ、距離はこの鎧の歩幅で10歩ほど。的としては少々小さいが、ここからならば外しはしない。

 目と鼻の先に死が迫っているというのに、反応を示す様子もなく。未だこちらの実力を見極めようとしているのか。まさか思惑を測りかねているのか。あるいは、何かの、罠か。

 

 されど、もはやここに至り、こちらの成すべきことはただひとつ。照準は赤い瞳へ。中空に浮いた剣に、ふ、と、勢いをつけ――

 

 

――そのまま、下ろした。

 

 

 ここまでやってもことを構えるつもりがないのだから、向こうから敵対する意思はないのだろう。見え透いた罠にわざわざ乗ってやる義務もなければ、手がかりのひとつをむざむざ潰すこともない。

 踵を返した。こちらの油断をついて襲い掛かってくる様子もなく、周囲の静寂は保たれたまま。もしかしたら、蜥蜴人(リザードマン)たちが言う、「精霊様」とやらが見張りに置いていったのかもしれない。善意と断じるには甘いとは思うが、悪意と決め付けるのも尚早だろう。

 

 次に向かう方向も決まっている。ここから南東、キーノが見たという、広範囲の霧。ここからでは特に感じるものもないが、もう少し近づけば何か感知できるかもしれない。そのときに、ついてくるか、その場に残るか。それで相手の出方も少しはわかるだろう。

 そう思い、一歩踏み出した、そのとき。

 

 

「よ、っと」

 

 

 少し掠れた、男性と思しき声。梢の摩擦音、濡れた地面に何かが落着する気配。背後から聞こえてきたそれに、十全の警戒をしながら、ゆっくりと振り返る。

 果たして予想を外れることなく、ひとりの、否、人型をした何かが、まっすぐに佇んでいた。

 

 姿、輪郭はおおよそ人間種のものと相違ない。

 いつの間にやら南方で見られるようになったスーツという服。落ち着いた色合い、ぷれいやーが選ぶものを思い起こせば些か地味と言えるだろうが、先ほど聞いた声の主が選んだというのなら納得がいく。

 

 しかして、本来頭部にあたる場所にはほぼほぼ球形の水が浮いており、肌を露出しているはずの部位にはぽっかりと何もない空間があるばかり。年齢どころか、なんの生き物かすらわからない。生き物であるかどうかも怪しいところだ。

 ただひとつ。ただひとつ確信をもって言えることは。

 

 明らかに、この男が、ぷれいやーだということ。

 

 この世界ではどうあがいてもこの形の生き物が自然発生することはないし、ある時期を境にふつふつと湧いてくるようになったモンスター、そのどれひとつとして形状が一致しない。無理に共通項を見出すとするなら、術師が召喚する精霊(エレメンタル)が一番近いだろうか。

 加えて、装備。身につけているものどれひとつとっても、最上級、破格の性能が感じられる。周辺諸国にひとつでもあれば、勢力図が塗り替えられる程度には。

 

 蜥蜴人(リザードマン)の首長が口にした、「水の精霊様」とは恐らくこれのことなのだろう。「御付の方々」が区別されていたことから、えぬぴーしーではないということもわかる。そうでなくとも、物腰が、もう、違う。

 

 正直もう少し隠れて様子を窺ってくるかと思っていたが、存外、積極的な相手であったようだ。

 おそらくはこちらを向いているのだろうふたつの眼光。海の果てに灯る漁火のような茫洋としたそれからは、感情など読み取れようはずもなく。まあそれは、向こうから見た空の鎧(こちら)も同じことだろうけれど。

 

 さて、どう出てくるか。

 戦わずに済むのならばそれに越したことはない、が、ぷれいやーという人種は基本、好戦的だ。ユグドラシルという世界がそうさせていたのか、はたまた元々そのような性質があったからこそユグドラシルにいたのかはわからないが、同じぷれいやー同士でさえ散々に争っていたのだから、こちらに来てその性質が容易く治まるものでもあるまい。

 まして、目の前にいるぷれいやーがいつこの世界にやってきたのかは不明だが、未だにここがユグドラシルの延長線上だと思っていた場合、我々のような原住生物に人格がないと考えている可能性まである。

 

 もしそうであれば、と、気付かれぬよう身構えた真正面、男が、ひとこと。

 

 

「こんばんは」

 

 

 ……挨拶。

 

 挨拶?

 

 挨拶ときたか。

 

「……こんばんは」

 

 一応の礼儀として、返礼。

 正直、魔法の詠唱でもなければ敵対意思の確認ですらなかったことに一瞬虚を衝かれ、反応が遅れた。戸惑いも警戒も顕な返答をどう思ったか、しかし、読めない表情が、かすかに笑んだような気配。

 

「よかった、言葉の通じる相手で」

「…………、」

 

 何気ないひとことだった。

 初対面の、種族のわからない相手なら、何ら不思議のない。

 だが、そのことばが脳に溶け込んだ、瞬間。

 

 ぞわあっ、と、背筋を悪寒が駆け抜けた。

 

 悪意や殺意を感じてのことではない。逆だ。敵意らしきものを全く感じ取ることができなかった。ほんのひとときだが、警戒を解かされていたのだ。この私が。

 

 もし。もしも今、無詠唱化された魔法がこちらに飛んできていたのなら、確実に一撃食らっていただろう。

 あからさまに安心したような物言い。穏やかそうに見える物腰。敵対行動をまるで示さない動作のすべて。まるで鎧越しに存在するこちらの呼吸まで見透かされているかのような間の取り方。

 

 完全に忘れさせられていた。

 あの小さな鳥に膨大な魔力を付与していたという事実を。こちらの知覚が全く及ばない場所から、鳥と位置を入れ替える程度の手段を持っているということを。

 

 今でははっきりと友人と呼べる、「彼」やリグリットですら、初対面のときにはもう少し強張りがあったはずだ。

 これが、意図しないものならば、それで良い。完全に敵対しないと断言できる生き物ならば、それ以上に望むことはない。

 

 けれど、もし。

 これが、計算して行われているのならば、私は。

 

「はじめまして。ぼくのことは、スザク、と呼んでもらっても?」

 

 沈黙を貫くこちらに焦れたか、男はそっと自らの胸に手を置いて、名を告げた。

 その名が真か偽かまでは聞くまい。「彼」から、ユグドラシルでの名の大半は偽名のようなものだと聞いている。どうせ、こちらも。

 

「……ああ。私は、……私は、リク・アガネイア。はじめまして」

「まあ、聞きたいことはお互いにあるだろうけれど……、とりあえず場所を移動しても良いかな」

 

 巻き込んでしまっては申し訳ないから、と提案した水頭の男、スザクの視線の先には、先ほど私が訪れた蜥蜴人(リザードマン)の集落があった。

 提案自体に異論はない。異論はない、が。

 

「……巻き込むような事態を、これから起こすつもりがある、と?」

「そんなに警戒しないでもらえるかな。君にないのならぼくにもないよ」

「どうだか」

「意見を違えれば声を荒げることもあるだろう。無用な心配をかけたくない」

 

 その物言いは、低い声に違わず落ち着いている。心から弱き者を、蜥蜴人(リザードマン)たちの心労を憂いているのだと感じさせる声だった。

 

 しばしの逡巡。そして。

 

「……わかった」

 

 今しばらくの間は、それを信じることにした。

 彼が、スザクが未だ攻撃の意思を見せない以上、これ以上意地を張る理由がない。向こうの言い分は、道理にかなっている。何かしらの事情があって敵対するにしても、元より蜥蜴人(リザードマン)たちを犠牲にするつもりは毛頭ないのだから。

 

 じゃあこっち、と、彼が指し示す方向へと共に歩く。沼地の開けた方角。あるいは水精霊のように見える彼が得意とする地形であるかも知れなかったが、有利不利を考えて動いていたのならば、その方がまだ、わかりやすくて良い。

 

 目的地へと向かう途中、ひと2人分ほどの間をあけて、スザクは気安く質問を投げかけてきた。

 

「ご出身は?」

「……聞いてわかるのかい」

「知らないから聞くものじゃないかな、こういうものはさ」

「なるほど?」

「言い辛ければ特産品でも聞けたら嬉しいんだけど」

「旅行でもする気なのかい」

「駄目?」

「いや、……いや。そこまで止める権利は、私にはないだろうね」

「……権利」

「こっちの話さ。アーグランドという国だよ」

「へえ、いつ頃から?」

「600年と少しかな」

「はー、長いねえ。良いところなんだね」

「うん、……、良い国だよ。とても」

 

 他愛のない、本当に他愛のない会話。他種を侮るでも、異文化を貶めるでもなく。よもや本気で旅行に来るつもりなのか、どの酒が美味しいのか、良い感じの宿はないのか、保存がきく食べ物は売っているのか、そんなことばかりで。重要に思えることは殆ど聞いてこないし、こちらが濁すことに深く突っ込んではこない。

 逆にこちらが尋ねたことにも快く答える始末だ。

 

 ひとりの仲間、そして多くのシモベと共にこの世界へ来てしまったこと。

 この世界に来て数日しか経っておらず、どうしようかと途方にくれていたこと。

 とりあえず近くに何かないかと鳥を飛ばしてみたら、蜥蜴人(リザードマン)の集落が魔樹に襲われていたこと。

 あの鳥は見張りのつもりで置いていたが、見慣れない人物を見つけたので思わず出てきてしまったこと。

 

 拠点の場所は「さすがにそれは勘弁」と断られてしまったが、評議国の方角さえ聞いてこない以上、詳しく聞くことができず。また、話しているうちに、その必要もないように思われた。

 

 最初に感じた悪寒の正体とでも言えば良いだろうか。

 この男、スザクは、どうにもぷれいやーらしくないのだ。

 

 私が知っているぷれいやーとは総じて幼く、厭世的で、力を振るうことに容赦がない。スザクがそうでないと断定するのは早計だが、今のところ彼からは、力を試すことに対する忌避感のようなものを感じていた。こちらへ来て数日という言が真実であるのならば、子供が新しい玩具を手に入れたときとそう変わらない反応を示すのがぷれいやーだと思っていたが。

 

 「彼」の言葉を思い出す。この世界においてどのような姿かたちをしていようとも、ぷれいやーは例外なくかつて人間種であった者なのだ、と。荒廃した世界から目をそらし、逃げ込むようにユグドラシルで過ごしていたのがぷれいやーなのだと。

 もしかすると、スザクの元々の年齢はリグリットとそう変わらないのではないだろうか。もちろんただの推測ではあったが。長年、人と対話し続けたことで得たのであろう技術。年齢を考えるのならばあっておかしくないものを、未知のスキルか何かと誤認したのだ、先ほどは。

 過剰な警戒を抱かされた疲れに内心、ため息をつく。私もまた、ぷれいやーの常識というものに毒されていたらしい。

 

 

 

 

 

「やー、見事な月だねえ」

 

 片手を目の高さに持ち上げて、スザクは空を仰いだ。少しばかり欠けた月が、けれども淡く光り輝き浮かんでいる。どうもぷれいやーにとって、空というものは特別な存在であるらしい。「彼」もまた、空が覆い隠されて久しいからと、夜空に見とれていた。

 ……今日はよく「彼」のことを思い出す日だな。別段、似ているところなど無いはずなのに。

 

「それで」

「うん?」

「わざわざ私の前に姿を現した、その理由を聞きたいのだけれど」

 

 こちらの質問に、スザクは僅かな間沈黙した。そうだなあ、と、やや間延びした声。種族的な特性か、その両脚は沈むことなく沼の水面を踏みしめている。

 

「さっき言った通りなんだけどな。蜥蜴人(リザードマン)の集落にあんなことがあった後だから、見張りを置いてて」

「私がぷれいやーだという可能性もあっただろう。敵対するかもしれない、とは考えなかったのかい?」

「亜人に対して友好的なのは端から見てもわかったから。言葉が通じるならどうにかなるかなあって」

 

 小首を傾げるスザクは片手を首の後ろ、襟の辺りに添える。癖なのだろうか、ここに来るまでの間も数回見せていた仕草だった。

 ……もしかしたら、意外と突発的に行動を起こすタイプの人間なのかも知れないな。

 

 こちらが言葉を選ぶ間をどう取ったのか、些か表情を曇らせたように見えるスザクが、ぽつりと言う。

 

「やっぱり勝手に倒しちゃったのはよくなかったかな」

「……?」

「いや、誰かの飼いイビルツリーだったりしたら申し訳ないなあと思って」

「か……、い?」

 

 イビルツリー、とは、魔樹のことだろう。

 しかし、飼う? あれを? どうやって?

 イメージが錯綜する。首輪をつけられて、日向で引きずり回される巨大な魔樹。ほうら取って来いと投げられる木の棒、それを追いかけ捕まえる触手……。

 

「ふ、ふふ、ふはははは」

「……なんかぼく可笑しなこと言った?」

「いや、だって。飼うって、誰があんなもの……ふふふ」

 

 こみ上げる笑いを抑えることができなかった。自分の想像力の貧困さと、余程絆されかかっている己に。

 ああ、駄目だな、と、自らを戒める声が聞こえたが、もはや私は、スザクを悪人と決め付けることができないでいる。

 

「ザイトルクワエ」

「ザイ……、なに?」

「魔樹の名前さ。ザイクロトルの一種、ザイトルクワエ。そう、名付けた者がいた」

 

 星図の見方も、食べられる植物も、凍える夜の暖の取り方も、ヒトにとって大切なはずのことはなにひとつ知らない癖に、神話や物語は一晩中でも語り尽くす。おかしな男だった。ぷれいやーにしては、話が通じる。その程度の関係で終わるつもりだった。

 人間が、こうも思い出を占拠することになるなんて、出会ったときには、思ってもみなかったんだ。

 

 淡い期待だということはわかっている。

 ヒトの心がどれほどに移ろいやすいかということも。

 

 けれど、もしかしたら、もう一度、と。

 

 数呼吸ほどの間、何事か思い出すように天を仰いでいたスザクが、ぽつりと呟く。ザイクロトルの死の植物。

 

「『妖虫』か。渋いとこいくねえ」

「神話、と聞いていたけれど」

「そうだね。大体200年くらい前に体系化されたものだけど」

「最近じゃないか」

 

 宇宙の始まりがどうとか言っていたのに。なんとはなしに裏切られたような気分でいた私に、まあ神話なんて大体人が作ったものだから多少はね? とスザクが笑う。

 

「長いことクトゥルフの話もしてないなあ。名付けた方は今どちらに?」

「……それこそ、200年ほど前の話だからね」

 

 彼は、ヒトだったから。その一言の後、こぷ、と、息を飲んだような気配。こちらの言葉は決して多くはなかったが、察してくれたようだった。もっとも、「彼」の死因は寿命ではなかったが。

 伏せるように目の光を細め、スザクは申し訳なさそうに口を開く。

 

「それは……お悔やみを」

「寿命は違っても月日は平等だ。気にしてもらわなくても、もう、大丈夫」

 

 もう、という言葉が出たことに、自分でも少し驚いた。傷の深さを測るのならば、キーノやリグリットの方が余程酷いものだろうに。

 

「……こういうとき、君らの国ではなんて言うのかな」

「決まった作法はないよ。彼の魂に、帰る所があったのかさえ、今となってはわからない……」

 

 生まれ変わったら、という言葉は何度か聞いたことがある。輪廻転生、という宗教観は未だ母国に残っているのだとも。その通りになったのか、死後魂が行き着く場所で今尚蘇生を拒否し続けているのか。残された側としては想像すら意味を持たない。

 

 それでは、と、スザクの目が暗く灯る。空に浮かぶ月より淡い、穏やかな光だった。

 

 

「その方の魂が、安らかなところにありますように」

 

 

「……参ったな」

「うん?」

「いや、なんでもない」

 

 頭をひとつ振った。少々どころではなく無駄話に時間を使いすぎている。忘れたわけではないのだ。かつて、この世界にやってきたぷれいやーが何をしでかしてきたか。

 まっすぐに向き直る。元々腹芸は得意ではない。成すべきことは、ただひとつ。

 

「単刀直入に聞こう。君は、この世界で何を望む?」

「何も」

「……即答か」

「強いて言えば心穏やかに過ごすことだけど、それは先住の憩いを荒らす理由にはならない。拠点から出るな、という指示ならば同意しかねるけれど、無用な争いを引き起こす意思は、ぼくにはないよ」

 

 さきほどまでの柔らかな雰囲気は鳴りを潜め、やや硬い、交渉事に慣れた様子の声が真正面から届いた。

 ……()()()()、か。そう言えばもうひとりプレイヤーが来ていると、先ほど。

 

「もうひとりはそうじゃない、と?」

「いいや? ぼくなんかよりずっと温厚だよ、ほんと」

 

 それが真実か否かはともかく、肩をすくめるスザクからは、他に原因があるとでも言いたげな様子が感じられる。と、なると。

 

「……えぬぴーしーか」

「ご名答」

 

 話が早くて助かるよ、と、スザクは軽くため息をついた。

 

 えぬぴーしー。ぷれいやーによって創られた意思ある人形。ぷれいやーを崇拝し、その望みを十全にかなえようとする狂信者たち。主の為ならば死さえも厭わず、金貨があれば拠点で何度でも復活する。魂に刻み込まれた文章によっては、ぷれいやーの知恵を容易く凌駕してみせる、ある意味ではぷれいやー本人よりも余程厄介な存在。

 

「言い聞かせてはいるんだけどね。どうもきちんとはわかってくれていないみたいで」

「……希望を踏みにじるようで悪いけれど」

「……始末の方向には、持っていきたくないなあ、まだ」

 

 始末、ということばに、少し、自身の神経が尖る。自分たちで作ったものとはいえ、意思を持って動く者たちに対して、始末、という言葉を使うのならば、意味する可能性はふたつ。

 彼が、そこまでの覚悟を持ってこの世界を守ろうとしてくれているか。

 すべての生き物に対してそのような価値観が働いているか、だ。

 

 どちらにせよ、ぷれいやーとえぬぴーしーの間に横たわる溝はそう簡単に埋まるものではない。種族的な意味ではなく、根本的に生き物として違うのだ。……それでも。

 

「厳命すれば言うことを聞くはずだけど。制御する気はない、と?」

「あるからこうして外に出てきたんだ。ぼくは、周囲に敵がいないことを、彼らに証明しなくてはならない。ひとつでも多くの情報が欲しい」

「……なるほどね」

「だから。きみに、どうしても聞きたいことがある」

 

 こぽり、息をひとつつくように、スザクの頭にあぶくが浮かぶ。

 

「……この世界、プレイヤーは現存しているのか?」

「ぷれいやーでなければ敵ではないとでも?」

「向こうに敵が多すぎるんだよ。異形ってだけで殴りかかってくる奴がどれだけいたことか」

 

 肩をほぐすような動作。見たところ服には中身がないように思われるが、心底辟易としている様子は伝わってくる。

 その感覚にはこちらとしても覚えがあった。竜には昔から敵が多い。宝を溜め込む習性を狙われること、その皮、その骨、血液に至るまで、余すことなく利用できるということ。とはいえ、素材呼ばわりされるようになったのはぷれいやーが現れて以降の話になるが。

 

「……いない。いないよ。私の知る限り、存命しているぷれいやーは、君たちだけだ」

「亜人種や異形種でも?」

「寿命で死んだ例は知らない。人間種ではないぷれいやーの死因はその殆どが他殺だ。500年前に転移してきて、魔法の理を塗り替え、私の一族をあらかた殺した者たちは、同士討ちによってこの世を去った」

 

 同士討ち、と、スザクがその目を歪ませて呟く。忌避感、あるいは恐怖か。かつての来訪者たちにも確かにあっただろうそれは、しかしてそのまま(たが)として機能するものでは決してない。

 

「それより前にも、後にも。100年毎にぷれいやーはこの世界へとやってきたが、凡そ例外なく、彼らは気の赴くままにその力を振るってきた」

「……そうなるだろうね」

「習性で済ませるには、彼らはやりすぎた。神として崇拝の念を集めるにしても、災害として脅威を振りまくにしても。今なおその力を利用しようとする勢力もある。野放しにしておくには、性格はともかく、性質が危険すぎる」

 

 本音を言うのならば、今すぐ殺しておきたい。それが最も安全で、最も確実だ。一緒に転移してきたという連中からの報復を想定してなお、ぷれいやー1人の戦力を削ぐことの意味は大きい。

 ……だが。

 

「しかし、話が通じるぷれいやーというのはとても貴重だ。今ここで君をどうにかする機会を棒に振っても、なお余りあるくらいには」

「ふふ、はっきり言ってくれるねえ」

 

 こちらのささやかな殺気をするりとかわして、スザクは笑った。その笑みをすぐにしまいこみ、神妙なようすで語りだす。

 

「……今はなにも約束できない。ぼくだけで決められることは少ないし、来たばかりで生活基盤も整っていない。ぼくらを害するものに対して、加減をすることもできそうになければ、()()にうまく手綱をかけられるかもわからない。……ないない尽くしだな、こうして挙げると」

「ついでに言えば君のことを完全に信用したわけじゃない」

「だろうねえ……」 

 

 わざとらしい落胆を見せるスザクに、けれど、と前置いて。

 

「君たちがこの世界に来たことが、不可抗力だということも十分知っているつもりだ」

「……うん」

「君たちにその気がなくとも、悪意をもって近づくものもいるだろう。……今日のところは、すぐに拠点へ戻った方がいい」

 

 実際、スザクの後方にいくつかの気配を感じていた。私は、あれを知っている。そんじょそこらの冒険者ではあり得ない、この力。

 彼が気付いているのかはわからないが、あまり長居させるのは好ましくなかった。

 

 あれらが何者なのかスザクに伝えるべきか? とも思ったけれど、流石にそこまでの義理はないし、興味を持って向こう側に近付いていかれるのも面倒だ。

 ……あれらが至宝を持ち出して何をするつもりだったのかは気になるが。まさか理由もなしにぷれいやーといきなり敵対するような真似はしない、はず。

 私と今接触していることも牽制になるだろう。こちらへの切り札としてスザクを確保するようなことは……、どうだろうな、あの国は。

 

「ご忠告ありがとう、大人しく従うよ」

 

 ひとつ肩をすくめて、首もとに手を添えたスザクがそう言った。

 その言葉をまるっきり信じられるわけではなかったが、従う意思を見せてくるだけ評価に値する。

 それもこちらが姿を消した後、どう出るかで変わってくるけれど。

 

 ……そうだ、肝心なことを聞き忘れていた。

 

「スザク、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「うん?」

「私の友人が魔樹に襲われて怪我をしたらしいんだけど、何か知らないかい?」

「? 友人? 蜥蜴人(リザードマン)ってこと?」

「いや、あー……、そうじゃなくて。どうも単独で動いてたようなんだけど」

「ふうん?」

 

 頭を傾げるスザクに、虚偽の様子は見られない。本気で心当たりがないようだった。

 

「ぼくらがこのあたりでイビルツリーと敵対したのは蜥蜴人(リザードマン)の集落が襲われてからで、それまでに被害に遭われたのなら、ちょっとわからない、かな。ていうか、大丈夫なの、そのひと」

 

 深刻そうにスザクが尋ねた。水の陰影が眉間の皺らしきものをかたちづくっている。彼女がしんじつ、人、と呼べる存在かは微妙なところだったが、この流れでわざわざ否定するほどのことでもない。

 

「霧にまかれて魔樹に接近しすぎているのに気がつかなかったらしい。命に別状はないし、そのうち再起できるだろう」

「それならいいけど。……いや、良くはないな。お大事に、って、お会いしたなら伝えておいてくれる?」

 

 ぼくからのお見舞いがどれほどの価値になるかはわからないけど、と、うすく笑うスザクに、やはり一連のことに対する認知はないように思えた。

 ……てっきり霧については関係してると思ったけど。当てが外れたか。

 

「君たちと今後どういうつきあい方をしていくかによる、かな」

「そりゃそうだ。ぼくとしては、良い付き合いをお願いしたいけど」

「……良い付き合い、ね。もちろんだとも」

 

 具体的にどういったものかはともかく、悪いよりは良い方がいい。それについては、全面的に賛成だ。

 

「それじゃあ、私はそろそろ行くよ。君がアーグランドに来るのなら、そのときは歓迎する」

「うん、ありがとう、アガネイア。またね」

「……ああ、また」

 

 リク、と呼ばない距離感に少しの安堵を抱きつつ、踵を返した。あれらの出方も気になるところだし、もうしばらく感知にひっかからないような距離から様子を見るつもりだが。

 何も起こらないといい。それだけは、強く願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沼が、月からこぼれた雫を揺らめかせている。アーコロジーでも昼夜の切り替えは設定されていたけど、やはり天然の夜は孕んでいる静寂の趣が違う、気がする。ひと仕事終えた後ならば、なおさらに。

 

「……よし、よし。よぉーし……!」

 

 この達成感。独り言のひとつも漏れ出るというものだ。NPCを押さえつける第一条件、「周囲の安全」がひとまず確約されたも同然なのだから。

 

 プレイヤーに対する権限を単独で有する、アーグランド評議国の長命種。ニグン・グリッド・ルーインからすっぱ抜いた記憶とも合致する。十三英雄の時代より、鎧だけで渡り歩く生きた伝説。ツァインドルクス=ヴァイシオン。白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)

 

 いや、リク・アガネイア、か。名乗る時に若干のタイムラグが見られたから、即興ないしは使い慣れていないのだろう。故人から拝借したのかもしれないな。怪しい人物に偽名を使う程度の知能があるのはこちらにとって幸いでしかないから、僕が今後ボロを出さないように気をつけるだけだけど。ツァインドルクスさんなんて知りませんよ? まだ。

 

 しかしようやくだ。ようやく周辺諸国のピースが埋まった。彼と接点を作れば周囲に点在するという竜王たちとの交渉材料にもなる。後はこっちから手出しさえしなければ見つかることはない。

 

 とかく会話が通じることのなんとありがたいことか。「歓迎する」という言葉を文字通りにとるほど純朴じゃないけど、「来たばかりで右往左往している」「周辺地理にちっとも明るくない」「まあまあ話のわかる人物」と評価されているのは、こっちの勘違いではないはずだ。初対面であれなら懐柔と呼べる程度まで警戒心は解けている、と言っていいだろう。少なくとも、予告なしに襲いかかってくるような関係ではなくなった。

 こちらが評議国の場所を把握していないと思っているのか、向こうからも拠点(ナザリック)について暴いてやろうという気概はそんなに感じられなかった。尾行だけ気をつけなきゃいけないけど、それも召喚獣と入れ替えすればいいだけだし。

 

 疲れた。ほんとに疲れた。こっちに来てからまだ数日しか経ってないのに、もう何ヶ月もかけて調査したような気さえする。

 

 これで準備は整った。あとはモモンガさんを「まわりは安全だから迷惑かけないように大人しくしとこう? ひきこもろ? ね?」とうまいこと説得するだけだ。

 ……待て、引き篭もってどうする。市街調査行くんだろう。まあいいや、その辺は後で交渉すれば。今考えることじゃない。

 

 長期的に見るなら周辺国家によるトブの森の開拓は気になるところではあるけど、いざとなったら「ナザリック完全隠蔽作戦Part2」も考えてある。モモンガさんはもの凄く嫌がるだろうけど。まあこの辺も説得次第だな。

 

 とりあえずはこれで外のことに費やす脳の容量が一気に削減できたので、その点に関しては今までより遥かに気が楽だ。中のことに関しては何ひとつ解決していないのが現状だけど。それもモモンガさん次第でどうにでもなる……。

 

「さ、帰……、あれ?」

 

 ひとまずリク・アガネイアの進言通りさっさと戻ろうと、ナザリックに入れ替わりで置いてきた八咫烏(ヤタガラス)と感覚をつなげようとした、が、うんともすんとも返事がない。まさか転移世界でバグなんか、と、一瞬焦ったが、すぐに理由を思い出してどっと脱力する。

 そうだった。ナザリックは基本、探知妨害が発動してるから、中から外に戻るには召喚獣に(マーク)つけとかないと入れ替えできないんだった。忘れてた。

 

「こっから徒歩かあ……」

 

 面倒くさい。うん、面倒くさいな。騎獣召喚しちゃおう。ここからナザリックまで結構な距離がある。転移系の魔法にリソースを割く余裕がなかったんだよね。何かあったらと思って指輪も置いてきちゃったし。早く帰らないとモモンガさんに怒られる。……もう遅いかもしれないけど。

 

 いや、直で戻るのはさすがにまずいか。今夜は蜥蜴人(リザードマン)の集落に泊めてもらって、迎えを、待って? 転移で、帰る?……うん、よし、怒られよう。しょうがない、もう。

 なんにせよ騎獣は召喚すればいいや。乗っていこう。

 

「えーっと、騎獣、騎獣……、お、これで。召喚時間延長化(エクステンドサモン)深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)……!?」

 

 召還した途端、尋常じゃない勢いでMPを持っていかれて戦慄する。なに? 何が起こったの?

 脚を生やしたシャチの怪物が、気遣わしげに身体をすり寄せてくる。立派な一本角がついた鎧を纏っているからごつごつしてるし、正直あぶない。

 けれどまあ、とにかく本気でこちらを心配している様子は見受けられる。最初から疑ってたわけじゃないけど、召喚獣が勝手に吸いとったのではない、と。

 

「あ、あー……、えー……?」

 

 異常の理由はすぐに判明した。昔設定した自動バフがそのままになってたんだ。タクシーがわりにしょっちゅう使ってたから色々弄ったのを今ようやく思い出した。ユグドラシルならともかく、ここら辺のタクシーとしては明らかに戦力過多だけど、やってしまったものは仕方がない。

 ……召還時間延長(エクステンド)永続化(コンティニュアル)になってる。どうしよう、これ。後で考えるか。

 

 とりあえず、と、魔力変換(コンヴェーション・マナ)からのHP回復をしようとアイテムボックスを漁るが、しかし。

 

「嘘でしょ」

 

 アイテムボックスに、HP回復アイテムが、ひとつもない。

 ……何故って? 陽光聖典から記憶操作(コントロール・アムネジア)で情報を吸い出すときに全部使い切って、補充するのを、忘れていたから!

 そんなことある? あるんだなこれが。嫌だね年寄りは。

 

 「朱雀(ざー)さんガバガバじゃん!!!」ってるし★ふぁーさんの声が聞こえる。うるさいよ、もう。

 

 いいやとっとと行こ、と、騎獣に跨がろうとした、そのとき。

 

「フォルルルルル……」

「……?」

 

 深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)の様子が変わった。姿勢を低く、エンジンをふかすような音が周囲を揺らす。威嚇、か?

 視線は森の方に向かっているようだ。ぼくのパッシブスキルには「本人のパラメータを下げる代わりに召喚獣のそれを上昇させる」系統のものが多く、ぼくに感知できない何かを騎獣が察知していても不思議ではないが。……もしかして、さっき彼が忠告してきたのはこれのことかな。

 

「……行こう、今日はもう相手にしなくていい」

 

 鎧に覆われた背中を撫でる。体力的には問題なくても、時間と気力が足りない。村をこっそり抜け出してきた蜥蜴人(リザードマン)かも知れないし、友好敵対問わず、どう対応するにしても今は手を出したくない。

 

 だというのに。こちらの意を完全に無視して、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)は森へと駆けていった。全速力で。

 

「っ! 待って、待て! こら! 待ちなさい!」

 

 慌てて命令を飛ばすも、聞く気配が一切ない。ぼくのレベルが足りてないのか。なんてことだ。

 みるみるぼくから離れていく騎獣の尻を見つつ、頼むから隠れているのが善良な蜥蜴人(リザードマン)であってくれるなよ、と、祈るように内心で嘆願した、そのとき。

 

 繁みから輝ける竜が飛び出し、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)にぶつかったのを認識し。

 瞬間、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)との接続が、ぷつりと切れた。

 

「えっ」

 

 攻撃を受けたにしては手応えがない。命令に背いていたにせよ、今の今まで確実にあったはずの“繋がり”が失せている。

 何が起こったのかを把握する暇もなく、猛烈な勢いで深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)がこちらに向かって引き返してきた。

 

「はあ?」

 

 完全に予想外の出来事だった。疑うどころか思考の端にも浮かんでいなかった状況に対処する暇もなく、なりふり構わない突進をまともに食らう。

 

「ぐ、ぅ……っ!」

 

 からっぽのはずの身体に深々と角が突き刺さった。召喚獣はなおも止まらない。

 痛みと呼べるほどのものはない、が、ダメージを受ける感覚は確かにあった。これが、外的要因でHPを削られる、ということ。

 

 冷静に分析している場合じゃない。なんとかしなければ。この状況の、打開策を……! 

 

「っ、<魔法最強化(マキシマイズ・マジック)偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)>!!」

 

 黒々とした頑強な鎖が沼を突き破って幾本も出現し、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)を絡めとり、拘束する。それに乗じて角を引き抜き、近くの水面に着地した。頭の奥ふかくが密やかに凍るような感覚がする。冷や汗、に近いかな。身体の血が一気に下へとさがるあの感じ。

 

 さて、と、前を見据える。召喚獣のHP半分と引き換えに洗脳を解くはずの魔法はしかし、暴れ狂う獣をかろうじて繋ぎ止めるのみで、効果を発揮しようとはしなかった。

 

 いや、待て、待て、待て。あり得ない。

 そもそもの話、ぼくの召喚獣に対する魅了ないし洗脳の成功率は、魅了特化のギルドメンバーでさえ1割を切る。なんならぼく自身よりもそのあたりの耐性は高いはずなのだ。

 

 確かに今現在ぼくのレベルは下がっている。が、召喚するモンスターの強さができる限り変動しないようクラスを残したつもりだ。耐性をすり抜けて洗脳される可能性は0ではないが、そこから主導権を取り返すことができないとなると。

 

「ワールドアイテムか……!」

 

 油断した。存在を認識してはいたのに、今の今まで失念していた。プレイヤーとしての意識は低い方だと自負しているが、その危険性くらいは知っている。

 ああ、そうか。こちらの命令を振り切って障害を排除せんとした召喚獣、陽光聖典を捕らえた際の影響、部隊あるいは国家としての役割。もう少し後になるかと思っていたが。

 

 半ば答えにたどり着いたとき。

 槍を構えた青年が、飛びかかってくるのを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







いつの間にか14巻が出てて表記ゆれやら名前やらを泣きながら直したりするなど


次回、漆黒聖典と。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

己が墓穴に頭を垂れよ 参

しばらく見ないうちにハーメルンに面白そうな機能がいろいろ増えてて大はしゃぎしています


前回のお話

ツアーさんと和やかにおしゃべり
朱雀さん渾身のガバ二連発
からの召喚獣くんによるファインプレー


漆黒聖典と朱雀さんの状況を整理する回
法国関係は情報が少ないのでどうしても捏造が増えますごめんね


 



 呼吸を、ひとつ。ほそく、ながく。

 鼓動を静めて、逸る精神を落ち着けて。

 

 深いふかい森の端、むわりと湿気た空気が立ち上る沼地。夜になったことで山脈から吹き降りてきた風がささやかに梢を揺らす。

 生い茂る木々の影に隠れ、狩人のように、獲物を狙う肉食獣のように、我々は、漆黒聖典は、水面で和やかに談笑などしている、ふたつの影を注視していた。

 

 まさしく談笑である。気配を遮断し、マジックアイテムで物音を消しているこちらとは対照的に、聞かれて困ることなどないとばかりの、堂々とした。しかして内容はといえば。

 

 

『やっぱり……に倒しちゃったのは……なかったか……』

『…………』

『……、誰……飼いイビルツリー……したら申し訳……』

 

 

「……倒した、というのは」

破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)のことだろう、な……」

 

 世界を滅ぼす力を持った魔樹を、隣の家の果実をもぐような気軽さで「倒した」とのたまう。

 決して聞き逃せるものではなく、また、会話の主そのものを見ても、見逃せるものでは決してなかった。

 

 片方は知っている。数多の武器を携えた白金の鎧。お伽噺の時代から、しかして確実に存在する英雄のひとり。ほとんどの仲間が死に絶え、生き残った者も方々へ散った今となっても、調停者を気取ってふらふらと飛び回っているとは聞いていたが。

 それでもここにいること自体は問題ではない。蜥蜴人(リザードマン)の集落も近く、評議国寄りにあるこの場所で奴を見かけることは不都合であっても不思議ではなかった。

 

 ──では、もう片方は?

 

 ぎり、と、下唇を噛み締める。先を越された、という焦燥が胸の内を燻った。

 

 先を越された。改めてそう忌々しむ。

 会話を続ける、もうひとつの異形。()()()。間違いない。証拠はないが確信があった。

 土の儀式に携わる神官たちの精神を死に至らしめ、諜報虫をばらまいた元凶。悪しきぷれいやー。世界を滅ぼすに足る力を持つ、邪神。

 

 見てくれだけで言えば、予想よりも禍々しくはなかった。

 水の頭の化け物。首から下は人の形をしているが、そもそも服の中身がない。種族は一体なんだ。精霊(エレメンタル)、か?

 所作に至っては人間と変わりないどころか典雅とさえ感じさせるもので。

 

 それがいっそう、おぞましさを際立たせていた。

 

 人の形をしているということは、人に紛れるつもりがあるということだ。人ではないものが、人のようなふりをして、人を拐かすために。

 穏やかで、人当たりが良く、お前のことはすべてわかっているのだと言わんばかりに、甘やかな声で囁くものが、悪魔でなくてなんだと言うのだ。

 そんなものに、ああも簡単に絆されて。

 

 ああ、これだから、これだから竜は愚かだと言うのだ!

 

 

 ……もう一度、深く呼吸を整える。腹の底に雑念を沈めるように。

 所詮竜は竜、獣の延長線上でしかない生き物に怒りを燃やしても仕方がない。

 重要なのは、これからどうするか、だ。

 

 おそらく、いまここで本国へ引き返せば、最も少ない犠牲で任務を果たすことができるのだろう。少なくとも漆黒聖典に限っては、被害を0に抑えられる。評議国と結託している異形のぷれいやーがいる、その情報だけでも、貴重な転移のスクロールを消費した価値はあるというものだ。

 

 だが。

 

 頬を、ぬるい冷や汗が伝う。それでいいのか? 本当に?

 放置して、本当に良いのか?

 

 こちらの情報だけを貪り食われたまま。居場所を悟られずに、番外席次でようやく対処できるような怪物を召喚するものを。このまま野放しにしておくことが、正しいことなのか?

 

 それぞれのリスクが天秤を揺らす。

 ツァインドルクスに気取られる可能性がある以上、難度を調べる魔法はまだ使えない。したがって奴がどれほどの力を持つか詳細は判然としないが、まともにやり合えばまず損害は免れないだろう。我々の手に神器がある以上、「まともにやり合う」という前提もいささかこちらに傾いてはいる。しかしあれがモンスターを召喚できるというのならその前提も頼りなく、そもそも相手がひとりとは限らない。

 

 あれから本国に異常存在は出現しておらず、陽光聖典との合流を待つ風花聖典からも、虫や小動物含め特に怪しいものは発見していないと聞いている。安寧、と言えば聞こえはいいが、要するに追加の情報が何もないということだ。目の前のあれを逃したならば、次はいつ連中の足取りを掴めるか。

 

 今この状況が罠ということもまた考えられる。自らを囮にして、我々を捕らえる算段をも立てているのやも。あとからあとから懸念は尽きることがない。

 

 否応なしに鼓動が脳髄を揺さぶる。自分の判断ひとつで隊どころか国が滅ぶかもしれない、その重圧がじくじくと胃を炙る。あれが策略も権謀も持たないただの暴力であったのならばまた持ち得る心構えも違ったのだろう。力ではなく経験が足りていないと今ほど強く思ったことはなかった。

 苛立ちがつのる。必要な力が手に入らないもどかしさに。悪意にこそそれを成す力が与えられている理不尽に。拳をきつく、きつく握りしめ──

 

「おい」

 

──密やかな呼び声と共に脇腹を軽く小突かれた。

 

 振り向けばそれは第二席次で、みどりいろの目が低い位置から鋭くこちらを睨みつけている。「ひとりでごちゃごちゃと考えるな阿呆」とでも言わんばかりに。年が近いこともあっていつでもつっかかってきていたこの男が正しく自分の下についてからというもの、瞳から燻り出るような苛烈な妬みはなりを潜め、呆れやら憤りやら心配やら、要するに出来の悪い兄弟を見守るようなぬるい視線を寄越すようになった。

 ちらと周囲を見渡せば、誰の視線も同じような温度で。面映ゆさを苦い笑みで包んだときには、もう先ほどまでの緊張はどこぞに失せていた。

 

 番外席次に拷問、いや、教育を受けてからというもの、隊員の視線は同情的だ。昔はもっとどうしようもないものを見るような目だったような気がする。否、実際どうしようもないクソガキだった。当時自分の知る誰より秀でていたが故の万能感に任せて、周囲のものを力任せにねじ伏せて傲慢に振る舞っていた。

 その程度のことにも気付かなかった頃に比べれば、少しは成長していると思いたいが。

 

 先ほどまでよりは幾分マシな頭で、息を整える。何にせよ、もう少し様子を見ることだ。今の法国に、評議国まで敵にまわす余裕はない。なにか事を起こすなら、あの二匹が離れてからだ。

 

 

『えぬぴーしーか』

『ご名答』

 

『言い聞かせては……。どうも……わかってくれていない……』

 

 

「……従属神と対立しているのか?」

「……確かに本来、供も連れずにひとりで行動するなんて、あり得ないことだけど」

 

 『ぷれいやー』と『えぬぴーしー』の関係性は非常に強固なもの。『ぎるど武器』が存続する限り、『えぬぴーしー』は『ぷれいやー』に忠誠を誓い、その身を盾に守り抜くと聞く。かつて六柱の神に従属していた方々がそうであったように。

 

 周囲に何かが隠れている様子もなく、『えぬぴーしー』と離れて行動しているのがあの化け物の独断だとするならば、そこにこそ隙があるはずだ。

 

 

『……この世界、プレイヤーは現存……のか?』

『……でなければ敵ではない……?』

『向こうに敵が多すぎ……。異形ってだけで……かかってくる奴が……いたことか』

 

 

 誰ともなく、ぶる、と身を震わせる。『ぷれいやー』を、探している。うぞうぞと蠢く蟲どもが脳裏を這いずり回るような錯覚。

 ……法国が狙い撃ちになるわけだ。現状、人間の領域にある国家で、スレイン法国以上に『ぷれいやー』の残滓を残している国はあるまい。そういった情報をどのようにして得たのかは皆目見当がつかないが、ようやく敵の行動に目的らしきものが見えた。

 

 あれが、ツァインドルクスの『ぷれいやーはもういない』という言葉を鵜呑みにするような純朴な生物であるならばどれだけよかったか。このままいけば、()()()に危害が及ぶことも十分に考えられる。

 いっそのこと暴露してやれれば。あの愚かな竜へと、化け物が法国に一体何をしたのか、懇切丁寧に教えてやろうか、とも。五百年前に一応の盟約を交わしているとはいえそこまでの義理はないし、そもそもこちらの言説を信じるとは到底思えなかったが。

 

 

 ……もう、いいだろう。

 腹は決まった。動くべきだ。

 

 隊員たちもまた、各々その気になっているようだった。音にはならずとも筋肉が軋み、魔力が満ちる。漆黒聖典に在する者で、()()()への危害を、不敬を許す者は、誰一人として存在しないからだ。……番外は、どうかわからないが、今は置いておくとして。

 

 我らが信仰を寄せるひとかけらを、汚されるわけにはいかない。

 

 とにもかくにも、手を打たなければ。

 

 評議国が化け物どもの傀儡になる前に。

 あるいは化け物どもが評議国の駒になる前に。

 

 

 

「……使()()。準備を」

 

 そのひとことで隊員たちが居住まいを正し、万一の戦闘に備える。衣擦れの音ひとつなく、決行のときを待つ。

 

 上からは傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)使用についての判断を一任されており、仮に法国に被害を与えた悪しき『ぷれいやー』を見つけたのなら、確保して構わないと仰せつかっている。

 あの化け物に仲間がいるとして、人質にするにしろ戦力を削ぐにしろ、あるいは対立しているという言を信じて交渉材料にするにしろ、こちらの手の内に入れることは急務であると言っていい。

 

 ……ふと、思い立った。

 

 あり得ないことではあるが。

 もし、仮に、万が一。

 

 いまツァインドルクスに話している内容が()()()()()()

 あの化け物の敵が()()()()()()

 法国に発動したのは()()()()()()()

 法国の監視が()()そこに割り込んでいたとしたら。

 

 ……馬鹿馬鹿しい。

 だとしたら使いのひとつも寄越さないというのはどういうわけだ。悪意を持たずあのようなことができてたまるものか。

 どのみち魅了すれば判明することだ。目的も、拠点も、規模も、何もかも。

 

 ツァインドルクスが化け物に早々の帰還を勧め、ニ、三の会話を交わし、別れの挨拶をしたところで、タイミングをはかる。これからすることに乱入されてはたまらない。ツァインドルクスの忠告があってもなお、水頭の男がこちらに気づいている様子は見られなかった。

 白金鎧の邪魔者が姿を消し、気配ももはや感じられなくなったことを確認、傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)の使用命令を発するために、浅く息を吸った、そのとき。

 

 

召喚時間延長化(エクステンドサモン)深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)

 

 

 やけに通る声が夜闇に響いた。ずん、と、莫大な質量と魔力がその場に顕現する。地上にあるどのような獣とも似つかない四つ足の獣。青鈍色の鎧を着けたその獣は呪いのような唸り声を歯牙の隙間から垂れ流し、わずかに露出する皮膚がてらてらとどす黒く濡れ輝いていた。

 

 まずい、と、当初の命令を伝えるため口を開く前に、醜悪な召喚獣は身を低く構え、それに合わせて、水球の男が。

 

 こちらを、見た。

 

 気づかれた、と背筋に冷たいものが走った瞬間、召喚獣がこちら目掛けて一直線に突進する。ギラギラと光る双眼に満ち満ちる殺意。確実な鏖殺の意を露わに、丸太のような脚からは考えられぬような速度で迫る。

 我々を認めてから排除に至るまでの時間があまりにも短い。逡巡など感じられなかった。敵だ敵だとは思っていたが、これほどまでに。

 

「使え」

「どちらに」

「……召喚獣、召喚獣だ。動きを止めろ」

 

 命令通り、カイレ様の着衣から金色の竜が迸る。

 あの勢いだ。召喚者を魅了したとしても、すぐには止まるまい。見るからに位階の高い召喚獣である。手駒として扱えば、あの化け物を駆除するのに少しは役立ってくれるはずだ。

 

「行け!」

 

 かくして無事に魅了は成り、カイレ様の命令と共に、こちらに来た勢いのまま獣が疾駆する。避ける素振りも見せぬまま、化け物は召喚獣の一撃を受け止めた。

 

「この場で奴を仕留める。散開しろ」

 

 ざっ、と、各々が配置につく。敵を逃がさないように。敵に致命の一撃を叩き込むために。射線を確保し、攻撃の構えを取る。

 水頭の男もおとなしく貫かれていてはくれないようで、詠唱と共に禍々しい鎖が召喚獣に絡み付き、動きを封じる。堅固な鎧を足蹴に、角から逃れ、水面に足をついた。やはりあの中は空なのか、血の一滴も零れているようには見えない。

 

 それでも、わざわざ抜いたということは、効果があると同義であり。

 ならば殺すこともまた、可能である。

 

 走る、走る、走る。

 召喚獣を飛び越え、槍を突き刺すべく、高く掲げ。

 目が合った。果たして目と呼べるものか、水の中に、仄暗く灯るひかり。

 それが、すう、と、細められて。

 

 果たして化け物は第二席次と第十席次が待ち構えていた背後に下がるでも、第三席次と第七席次がいつでも魔法を叩き込めるよう準備していた上へと飛び上がるでもなく。

 ただただまっすぐ私を見据えて、叫んだ。

 

「眷属、無限召喚!」

 

 直後、(おびただ)しい数の水精霊が沼から湧き上がる。ぼぼぼぼぼ、と次から次へとあふれ出てくる水球。拳大から子供の頭ほどまでの大きさのそいつらは攻撃力こそ持たないようだったが、圧倒的な質量を持って化け物と我々をはっきりと隔てた。

 

「っく!」

 

 跳ね回り、まとわりつく水精霊どもを振りほどき、槍で薙ぎ払う。ひとつひとつは軽く小突けば消える程度の脆い生き物に過ぎない。他の隊員もそれぞれ傷つくことなく対処しているのを確認しつつ、どうにか水垣をかき分けて進んだ先、召喚者がようやく視界に入った。

 が、私の姿を見とめると同時、重力に従うままその身を後ろに倒し、大した深さもないであろう沼にどぷり、と完全に沈みこんでいく。

 

「……っ」

 

 やられた。服なぞ着ているように見えていたから失念していたが、あれもまた水精霊なのだろう。水の中に姿を隠すのは奴らの特性だというのに。

 

「逃がすな!」

「<氷球(アイスボール)>!」

「<泥の壁(スワンプ・ウォール)>!」

 

 退路を断つべく、即座に魔法が放たれた。そこら中にいた水精霊ごと水面が凍り付き、泥の壁がそそり立つ。先ほどまで周囲で蠢いていた水球どもの中にもはや動くものはなく、再度邪魔にならないよう入念に砕いた。

 ガツガツと氷が割れる音だけがあたりに響き、一緒に凍ったのかと思いきや、奴の姿はどこにも見えない。

 

 警護対象のカイレ様と鎖に捕らわれた召喚獣を囲み、死角を作らぬよう周辺を警戒する。魔法で作られたのだろう鎖は近くで見ると一層禍々しく、獣の鎧と擦れて何やら薄黒い煙をぶすぶすと上げており、触れることすら躊躇われた。

 だがこのままでは使い物になるまいと、鎖を断つべく槍を強く握った、途端。

 

「逃げないよ、失礼な」

 

 声が、ひとつ。嘲笑の響きを多分に含んだそれは改めて投げかけられてみればはっきりと年嵩の男とわかるもので。正体をこの目で見ていなければどこぞの紳士かと聞き紛うくらいには穏やかだった。

 なんとも言えない不快さに背筋を震わせつつ声の出どころに目をやれば、泥の壁がずるりと音もなく溶け出しており、人の形をしたものがゆっくりと膝立ちの姿勢から立ち上がる。

 

 それのまわりには、とろりとひかる灯火がふたつ。

 みずを淡く照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっぶな。凍るとこだった。

 内心ひやひやしながら凍らずの誘餓灯(ウォーム・インセクトライト)を消す。ほっとくとこの辺の雑魚敵がみんな寄ってきちゃう。

 

 ひの、ふの、えーっと、12人?

 ……()()()()()な。以前ぼくの召喚獣を殺したお嬢さんは確か特別枠だったからいないのは良いにしても、あちらの、……ええと、際どい格好をしたご婦人は、おそらく正規のメンバーでは、ない。

 ……なるほど、趣味でああいったお召し物を着ているわけではなくて。彼女が作戦の要、ということか。把握した。

 

 ぼくが召喚士(サモナー)でなかったら詰んでたってことか。護衛を振り払ってここまで来たやつが言う台詞じゃないけど、夜中の散歩はひとりでするもんじゃないな。

 

「ずいぶんご挨拶だね。君たちここらの盗賊かなにか?」

「黙れ化け物」

 

 少々手荒い歓迎に抗議の意も込めて煽ってやれば、リーダー格である黒髪の青年が槍をぼくへとつきつける。こちらが一方的に知っている彼はたしか漆黒聖典第一席次、ここらへんの人間の中では二番目に強い人物、だったかな。只人(ヒューム)という意味なら一番と言ってもいいかもしれない。

 

 えー、なんだかやたらと喧嘩腰だなあ。ぼく何かしたっけ。

 

 まあ、したよね。監視に割り込んでの索敵班無力化、超小型生物での広域浸透による情報奪取、イビルツリーの撃滅、あたりかな? 陽光聖典の一時的鹵獲とクレマンティーヌ(シャルティアにあげたお嬢さん)の確保も疑われていると見ていいだろう。ついでに召喚獣(飼い犬)の監督不行き届きの現行犯。

 

 あとは政治的な事情もあるかもね。非人間種撲滅派のスレイン法国と、多種族議会制のアーグランド評議国では想像するまでもなく相性が悪い。

 さっきの会話を聞かれてたかな。盗み聞きされて困るようなことは話してないはずだけど、スレイン法国お抱えの最強特殊部隊が敵視するのには十分だろう。

 

 うん、ぼくなら生かしておかないな! あっはっはっは!

 

 笑い事じゃないな。一応説得を試みてみようね。できる気はしないけど、やろうとしたという事実が大事なんだ、こういうのは。

 

「ぼくとしては、あまり事を荒立てたくないんだけどなあ」

「貴様が善良な無辜の精霊であればその道もあっただろう。だがことここに至り、道はもはや潰えた」

「ここに至るもなにも、初対面のはずだけど」

「抜かせ。貴様の所業、知らないとは言わせん」

 

 うーん、見るからに交渉の余地がない。お若い第一席次くんだけじゃなくて、この場にいるぼく以外の全員がぴりぴりと殺気を放っている。懐かしいなこの感じ。

 でもなんだろう、確かに法国の警戒度をMAXに引き上げた自覚はあるけど、ちょっと違うもののような気がする。どこで踏み抜いた地雷かな。多分信仰に由来するものなんじゃないかとは思うけど。

 ……やだねえ、どこもかしこも雁字搦めで。生きてるものに信仰を委ねると、本当にロクなことにならない……。

 

 となればぼくは善良で無辜な精霊である証明をすればいいのかな? 善良で無辜な精霊。善良で無辜な精霊って何? 「ぼくわるい精霊じゃないよう」って五体投地してぷるぷる震えてればそれっぽく見える? 手持ちの装備とアイテム全部投げ出して命乞いするとか?

 

 はは、絶っ対やだ。

 

 こちとら早々にカルマ値下限まで到達した邪悪で罪咎に塗れた極悪精霊だよ。「朱雀さんの罠ってほんと性格滲み出てますよね」って褒められたこともあるんだから。褒められてはないか。

 

 なんにせよ、だ。ここでへり下って恭順の意を示すほど法国につくメリットは感じられないし。そもそもの話、スレイン法国という国はその成り立ちから印象が良くないのだ、ぼくにとっては。

 だって彼らはほろぼしたもの。その結果ある今についてまで罪と呼ぶつもりはないけれど。私欲で世界を塗り替えた八欲王の方が個人的な心証としてはまだマシ、かな。

 

 一応、最後通告くらいはしておこうかな。

 

「いま退いてもらった方がお互いのためになると思うけど」

 

 これは本音。

 モモンガさんとナザリックを抑えておくことを考えるなら、ぼくは絶対に殺されるわけにはいかないし、彼らの手に落ちるわけにもいかない。彼らを脅威であると、ましてや敵であると認識させてはならないからだ。

 

 同じように彼らを皆殺しにするのもちょっと具合が悪い。可能か不可能かで言えばそりゃあ可能だが、ナザリックに不殺を押し付けておいてぼくがぽんぽん人殺しをしては本末転倒だし、ぼくが持ってる直接攻撃手段は基本、洪水(フラッド)だの酸の雨(アシッドレイン)だのを筆頭に範囲が広いのだ。まず威力の調節なんかできないし、下手を打てば蜥蜴人(リザードマン)に被害が及ぶ。 

 それに加えて、ゴブリンに劣るぼくの探知能力ではわからないが、おそらくリクはまだこちらが見える場所にいるのだろう。あくまでも勘でしかないけれど。法国と評議国が友好的な関係にないとはいえ、あまり気軽に虐殺するところを見られたくはない。

 

 彼らだってぼくをどうにかしたらとても酷いことになるんだけど、信用させる手立てがなあ。「ぼくたちの難度は合計10000(概算)以上あるぞ!」なんて言っても苦し紛れの大嘘にしか聞こえないだろうし、仮に真実だと理解したって、ぼくに人質としての価値が付与されるだけだ。

 とはいえやはり、ここで退く以上の最善はないと思うのだけれど。

 

 そんなこちらの気遣いも虚しく、漆黒聖典の皆様は返答すらしないまま、各々戦闘態勢に入っていた。じりじりとぼくを包囲すべく動き始めてさえいる。

 

「……ああ、そう。なるほどね」

 

 自分で想定していたよりも冷めた声が出て、密やかに自嘲する。交渉する気がはじめからないのだ。彼らにではなく、ぼくに。

 

 

 さて、それではここからどうするか。

 ざっくり分けて選択肢はふたつ。戦うか、逃げるか。

 

 応援を呼ぶ、は始めから除外。ナザリックに救援要請なんかしたらどうなるかわかったもんじゃないし、さっきからモモンガさんの<伝言(メッセージ)>を悉く拒否しているから、今更呼ぼうものなら。

 リク・アガネイアは……、いま割って入らないということは助ける気がないのだろう。彼にとっては漁夫の利を狙う方がずっと効率が良い。賢い選択だ。余所の争いに割って入るものじゃない。

 

 で、選択肢として出したはいいものの、ぼく今逃げられないんだよね。

 転移魔法はほとんど覚えてないし、手持ちの召喚獣に深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)以上の敏捷を持つモンスターがいないので、距離での解除判定がある<偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)>がなくなったらすぐに追いつかれてしまう。

 

 逃走方法のもうひとつ、確実かつ安全かつ簡単な問答無用の最適解、八咫烏(ヤタガラス)との位置交換。……を、さっきから試してるのに、他のぼくに繋げてた八咫烏(ヤタガラス)との接続がうまくいかない。ナザリックの警戒度が上がっているからか、距離が開きすぎているからなのかは判然としないが、ともあれ「使えない」ということはよくわかった。

 あの運動不足っぽい眼鏡のドラゴンのところに転がり込めたらそれが一番平和だったんだけどな。致し方なし。

 

 と、なれば。戦うしか選択肢が残っていない、のだけど。

 これまた一筋縄ではいかなくて。

 

 さっきも言ったとおり殺すわけにも殺されるわけにもいかないから、比較的温厚な方法で彼らを無力化する必要があるわけだ。

 しかしながら。現在ぼくのレベルは上位クラスを残す形で大幅に下がっており、それに伴い基礎ステータスが低下しているのは勿論、スキルや魔法がごっそりと使用できなくなっている。

 具体的には溺死(ドラウンド)麻痺(パラライズ)睡眠(スリープ)恐怖(スケアー)支配(ドミネート)なんかの、その場で動きを封じる系統の術を、他のぼくのところに置いてきてしまった。八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)巻物(スクロール)で無力化したけど、まだ手元に在庫があるかは正直微妙。もとより戦闘中、悠長にアイテムボックスを漁る余裕なんてない。

 

 じゃあどうしようかな、と本気で悩みかけたとき、視界にちょっとした違和感。あれ、11人しかいない。誰がいないんだろうと、記憶を手繰ろうとして。

 

「……ぐ、オ"……ッ!!」

 

 背後からうめき声。

 えっなに、ぼくまだ何もしてない。

 

 振り向けば、武器を手に這いつくばる、えーっと、第十二席次くん。暗殺者(アサシン)らしくすっきりしたシルエットは見る影もなく、背中から大小様々なキノコがもりもり生えている。フレーバーテキスト通りだとすれば、あのキノコは背中の皮膚ではなく、胃腸や肝腎などの臓腑にみっちり生えたものが背中を突き破っているはずだ。いやぼくに背後攻撃(バックアタック)しようとすればそりゃそうなるよね。

 

 視線を前に戻せば、対凶悪プレイヤーへの集中攻撃が今まさに始まったところで、近接担当の隊員が何人かこちらに向かってきていた。なぜ第十二席次がやられたのか分析するためか攻撃はまだ届いていない。

 表情を変えない訓練をしているのだろう、動揺を浮かべないままぼくを睨み据えていて、それでも仲間の惨状に顔色はいくらか青褪めている。

 

 と、いうことは、だ。

 

「ふうん……?」

 

 正直な話、勝てるかどうかは微妙なところだった。

 他の有象無象はともかく、隊長くんとのレベル差はユグドラシルにおいての完全敗北ラインである10を超えているだろうし、魅了のワールドアイテムについても厄介なことこの上ない。

 チャイナ服のご婦人だけ先に倒せれば幾らか楽になったろうけど、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)が傍にいる以上、それも難しかった。術者への攻撃を吸収する能力が彼女に移っているようだから。

 

 おまけに回復アイテムを忘れてきたからHPとMPの回復手段がない。一応指輪でいくらか補ってはいるけれど状況をひっくり返せるほどのものでなし、必然、使える魔法や召喚も回数が限られている。

 

 しかして。

 

召喚位階上昇化(ブーステッドサモン)耳鳴りの鐘(ノイジーベル)

 

 試しに召喚をひとつ。濁った黄金色の鐘がささやかな羽根でふわふわと宙に浮かぶ。錆びついた(ぜつ)をぎりぎりと擦り、耳障りな音をかき鳴らした。

 この召喚獣はぼくのお気に入りで、大した力はないけれど周囲にちょっとしたデバフと騒音をふりま、う、うるさ、うるさいな!? 本当に煩い。こんなに煩かったっけ。

 

 塞ぐ耳もないので甘んじて轟音を受け入れるぼくと対照的に、降りかかるデバフを重く見たか、はたまた鼓膜に限界が来たか。耳鳴りの鐘(ノイジーベル)には大きな火球がぶつかり、弱ったところに斧の一撃が叩き込まれる。

 ギィイイイ! と、怨嗟の金切り音を鳴らし、ぐずぐずとあっけなく崩れて、いき。

 

「はは」

 

 思わず笑いがこぼれた。

 おーけー、わかった、ありがとう。

 

 なんとかなりそうだ。

 

 

「召喚獣はうかつに潰しちゃいけないって、習わなかったかな?」

 

 彼らが訝しむ隙に、無詠唱で魔法をひとつ。耳鳴りの鐘(ノイジーベル)の尊い犠牲により、魔法強化をノーコストで付与されて発動したそれは、ぼくの背後に4本の柱を作り出す。それぞれ苦悶の顔がみっつずつ、いわゆるトーテムポールとして出現した柱たちは、声にもならない声でぶつぶつと呪詛のようなものを呟いていた。

 

 彼らは玄人だ。

 人類においては間違いなく最強クラスの人員を揃え、信仰によって意思を束ねた精鋭部隊。人類の版図を守るべく日夜戦う、対超常存在のスペシャリスト。

 ステータス抜きの単純な技術ならば、少々護身をかじった程度のぼくなど足元にも及ぶまい。紛うことなき戦闘のプロフェッショナルである。

 

 けれども彼らは素人だ。

 せっかくの大儀式による監視を、通りすがりの攻性防壁でふいにするような国で、100年に一度しかやってこないプレイヤーに関するわずかな資料をかき集めてようやく対策した戦術に。

 まさか攻性防壁に特化したプレイヤーへの対処方法など、あるはずもなく。

 

「大サービスだ、教育してあげよう。授業料はきみらの身体で払ってもらうが」

 

 あんまり煽るのはマナー違反だと、わかってはいるのだけど。

 ぼくらはプレイヤー(Player)。この世には、遊ぶために生まれてきたんだから。

 

「学べ、若造」

 

 やるとなったら、楽しまなくちゃ、ねえ? 

 

 

 

 




次回、攻性防壁特化型サモナー系水精霊(特殊編成lv64) VS 漆黒聖典(傾城傾国仕様)(うち1名脱落) ファイッ!

なお、お話の都合もあり隊長の槍は非ロンギヌス説を採用しています。ご容赦を。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

己が墓穴に頭を垂れよ 肆

前回のあらすじ

漆黒聖典のみなさんとご対面
なお拳が先に出ている模様


今回は
一方その頃ナザリック、と、教授がんばるのお話

「ヴァルキュリアの失墜」における要素を捏造しています
SFにおける現代装備には夢がある


そしてアンケートご協力ありがとうございます! ニューロニストちゃん好きな方いっぱいいて嬉しい
尋問小説はそのうちR-18に単発で置いとくのでどスケベの皆さんはもうちょいお待ちを




 氷結牢獄。

 ナザリック地下第五階層「氷河」に居を構えるその牢獄は、「ナザリックに敵対した者すべてを放り込む」と設定された極寒の監獄だ。

 実際そのような用途で使われていたかと聞かれれば、答えは否。完全なるフレーバーである。強制ログアウトがあるんだからまともに牢屋として機能するわけがない。

 

 それでもノリと勢いで「作ろうぜ!」と言い始めたのは果たして誰だったか。

 

 牢獄作ろうぜ牢獄。 えー、いるぅ? 悪の組織に牢獄は必須だろ。 なにいれとくの、プレイヤー? そういう具体的なあれじゃなくて、こう、スパリゾートみたいに、あれば嬉しい的な……。 気持ちはわかる。 作るとしたら何階? あんまり上の方だとすぐ逃げられちゃいそうじゃない? 下の方はメイドが危ないので却下です。 てか予約ないのもう五階くらいしかなくないですか。 いいじゃん、なんかこう牢獄って寒いとこにあるイメージだし。 んじゃとりま仮でー。 階層守護者に見張らせとくんですか? ひとりあたまのしごとりょうはへらしてあげましょうよお……。 じゃあ拷問官置いとこうぜ拷問官! 拷問すると聞いて!女騎士!?シスター!? 座ってろフライドチキン!

 

 ……なんて、とっぷりと思い出に浸っていられる余裕は、今の俺にはないんだけれど。

 

「着ておけ、アルベド。ここは外より冷える」

「はっ。身に余るご厚意、感謝致します」

 

 裾に炎のような紋様がついた真紅のマントをアルベドに手渡す。神妙な様子で受け取った彼女からは表面上、俺を襲っていたときの熱や興奮みたいなものは感じられなかった。機嫌の良し悪しも表情からは読み取れない。

 今の状況にも、気にしてやれない自分にも苛立ちを募らせつつ、凍り付いた廊下をがつがつと半ば蹴るような足取りで進む。

 

 「死獣天朱雀様のお姿がどこにも見当たらない」との報告がインクリメントから来たあと、即座にナザリックを警戒態勢へと移行し、とりあえずナザリック内及び周辺15kmに朱雀さんがいないかを目視で探させた。下手に情報系の魔法で探すと朱雀さんの攻性防壁が発動してとんでもないことになりかねない。

 インクリメントが目を離した隙に姿を消し、八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)が床に転がり落ちていたという話だから、まず朱雀さんが自分でこっそり出ていったのだとは思うが。万が一にも誘拐の可能性があるのでは、と、狼狽えるNPCに請われるまま仕事を渡した形になる。

 その範囲内で見つかるとは俺も思っていないし、案の定見つからなくてNPCたちから「もっと遠くへ足を延ばしたい」と嘆願されているが、一旦保留にしている。朱雀さんに集めてもらった情報で、周辺には危険がないとわかってはいるが、なんとなく、言葉にできる感覚ではないけど、嫌な感じがしていたから。

 

 そう、なんとなく、嫌な感じがする。

 

 別に外出したことに関しては良い。「ちょっと羽を伸ばしたくてこっそり外出しちゃった」と後出しで言われても仕方がないくらいの作業を押し付けてしまっているので、そのことについて文句を言うつもりはまったくない。……どうせ行くなら俺も連れてってほしいと思わなくはなかったけど。

 

 だが、外に出ていくことに関してなにひとつ連絡がなく、さっきから一向に朱雀さんと<伝言(メッセージ)>が繋がらない。「ちょっとした外出」を「こっそり」するにしたって、少し妙ではないだろうか。

 まさか本当に誘拐されたとまでは思っていないけど、外に出て連絡も返せないような状況に陥っている可能性はある。100レベルのプレイヤーが、片手間の<伝言(メッセージ)>にも返せないような非常事態って、一体なんだ?

 

 悪い方悪い方へと流されそうな思考をどうにか塞ぎつつ、館のあちらこちらに潜むアンデッド達がいちいち感知に引っかかるのを煩わしく思いながら、ひたすらに歩を進めた。ナザリックにおいて最も探知能力の優れたNPCのところへと。

 

 

「アルベド、人形を」

「はい、こちらに」

 

 体感的にようやく、という時間をかけてたどり着いた目的の場所。崩れかけた母子のフレスコ画が一面に描かれた壁の中心、一枚の扉を前にして、アルベドから赤ん坊のカリカチュアを受け取る。ぎょろりとした大きな目から視線を受けつつ扉を押せば、音も無く滑るように開かれた。

 

 家具ひとつないがらんどうの部屋、何十、何百という赤ん坊の泣き声だけが響き渡るその真ん中に、ひとりの女性がいる。喪服をまとい、長い黒髪で顔を隠した女性は、こちらが部屋に入ってきたことに気づいていないかの如く、ただ黙ったまま、ゆらゆらと揺りかごを揺らしていた。

 

 やがてその手がゆっくりと揺りかごに差し入れられ、赤ん坊、いや、赤ん坊の形をした人形をそっと持ち上げる、前に。

 

 ずかずかと女性に近づき、揺りかごの人形をその辺に放り投げ、ずだん! と、手持ちの人形を代わりに叩き込んだ。黒髪の隙間から見える目がぱちくりと開かれ、両手が所在なさげに宙を彷徨う。赤ん坊の声もぴたりと止み、しん、と、刺すような静寂が満ちていた。

 ……タブラさんが丹念につくりこんだ設定をないがしろにするのは正直心苦しいが、今は構っている暇がない。

 

「悪いがイベントスキップだ、ニグレド。私は急いでいる」

「……! 畏まりました。如何なる御用件か、お伺いしても?」

 

 切り替えが早いところは姉妹だな、と思いながら、アイテムボックスに手を伸ばす。まさか使う羽目になるとは思っていなかったが、一応用意しておいて正解だった。

 

「死獣天朱雀さんが姿を消した。お前に探してもらいたいのだ」

「死獣天朱雀様を? ……恐れながらモモンガ様、私の力では」

「わかっている。これを使うがいい」

 

 そう言いながらニグレドに手渡したのは、真っ黒な砂で満たされた砂時計。砂が入ったガラスの周囲をミスリル銀でつくられた幾本もの手が装飾しており、それらはまるで空間を抉じ開けようともがいているようにも見える。

 このアイテムは60秒間、こちらの探知に対する攻性防壁を無効化する課金アイテムだ。この世界ではもう課金ができないので、使ってしまえば二度と手に入らない虎の子だったけど、ギルドメンバーの非常時にそんなこと言ってられない。

 

 ……戻ってきたら、インクリメントと八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)に謝るくらいはしてもらおう。「お引き留めできず!」「我々が不甲斐ないばかりに!」「自害をお許しください!」と次々言い募るのをなだめるのにすごく苦労した。俺たちが本気で出ていこうと思ったら止められるわけがないんだから、ああも気に病まれると見ててこっちが気の毒になってくる。

 

 そのためにも、まずは本人を探さなければ。ニグレドに使い方を説明し、さっそく魔法を詠唱し始めた彼女を見守る。

 と、同時に。

 

 部屋の外から異音がした。かかかかか、と何か硬いものがリズミカルに近づいてくる音と、べっちんべちんと何か柔らかいものが叩きつけられるような音。

 な、なんだなんだ。イベントスキップで追加される隠しギミックか何かか?

 

 内心戦々恐々とする俺と、とても、非常に、すごくすごく嫌そうな顔をしたアルベドが扉を振り返り、ふた呼吸ほど後、ばぁん! と勢いよく扉が開かれて。

 

「失礼いたします! モモンガ様ァ!」

 

 尻を担いだシャルティアが、姿を現した。

 

 一瞬の間。精神が抑制される。尻がある。

 すっと目を逸らす。戻す。まだ尻がある。

 

 なに?

 

 その尻誰の、と俺がシャルティアへと説明を求める前に、ドレスのスカートにしがみついている、ぶよぶよとした肉塊が濁声で叫んだ。

 

「ハアッ! ハアッ! この、こ、小娘ェ! 私が! 管理してる! 囚人を! 勝手にもっていくんじゃないわよ!!」

 

 はぁはぁぜぇぜぇと荒く息をつきながらも言い切ったニューロニストは、きれいなネイルアートが施された手でぺちぺちとシャルティアの背中をたたく。だが悲しいかな、レベル23の特別情報収集官の攻撃ではレベル100の階層守護者に毛ほどのダメージも与えられていないらしい。

 ……さっきの音はニューロニストがシャルティアに引きずられて床にべちべち当たる音だったのか。かわいそうに。

 

「この雌奴隷のしつけを任されたのは、わ! ら! わ! でありんす! 必要なときに持ち出す権利はこっちにありんすえ!?」

「持ち出すなんてかわいいもんじゃなかったでしょ!! 蹴り壊した牢屋直しなさいよこの脳筋ブス!!!」

「は~~~っ!? 至高の御方であるペロロンチーノ様に創っていただいた私の造形にケチをつけるつもり!?」

「行動がブスだって言ってんのよ!! かけた迷惑を棚に上げて御方のお名前を出さないで頂戴!!」

 

 ひぇ、キャットファイト? こわ……。

 

 あー、しかしなるほどよく聞くと、「場所(真実の部屋)の管理者である」ニューロニストと「囚人を任されている」シャルティアとで「囚人を移動させる権利がどっちにあるか」を争ってるのか。それは……、最初に決めてやれなかった俺たちが悪いよな。

 

「黙りなさい二人とも!! モモンガ様の御前よ!!」

 

 多少なりとも罪悪感を抱いた俺が声をかけるより先に、アルベドがふたりを叱り飛ばす。びゃっ! と身体を跳ねさせた彼女たちは俺の前に跪き、「申し訳ございませんモモンガ様!」と頭を下げた。

 

「よい。顔を上げよ、ふたりとも」

「はっ!」

「……怒りはもっともだがニューロニスト、ちょっと待っていてくれ。……シャルティア、()()を私のところに持ってきたのはどういうことだ?」

「はっ、はい! モモンガ様がニグレドのところにいらしたと聞いたので……よっ、と」

 

 シャルティアは肩に担いでいた尻、いや、女性を床に下ろす。防寒の効果が付与された毛布でぞんざいに包まれた、たしか、クレマンティーヌとかいう名前の。カルネ村完全隠蔽作戦の際、トブの森で朱雀さんの召喚獣と戦っていた人間、だったはず。

 あぅ、あぅ、はぅ……、と言葉だか吐息だかわからないものを口からこぼしている彼女は、頬を上気させもぞもぞと身動ぎし、目をぐるぐる回している。よく見れば丸出しの尻からは尻尾が生えていた。あれ、人狼だったっけ。勝手に只人(ヒューム)だと思い込んでた。

 

 若干現実から目を逸らす俺へと、シャルティアが言うことには。

 死獣天朱雀様が映る画面をクレマンティーヌにも見せ、知っているものの名前を挙げさせるなどすれば良いのではないか。至高の御方の叡智には及ぶべくもないが、現地の人間だからこそ見えるものもあるはず。必ず役に立ててみせる、と。

 

「ふむ、なるほど」

 

 正直なところ、クレマンティーヌの状態を見ればあまり有効な手段とは思えなかった。だってふらふらのぐずぐずで目の焦点もあってないし。言いつけ通り傷ひとつつけていないのならどんな尋問をしていたんだか。

 

 とはいえ、俺はうれしかった。俺がこの部屋に来たのは何故なのかを自分で推理して、自分の持っているものをどのように使うかちゃんと考えて行動してくれたのだから。

 シャルティアのわずかながらも確かな成長と、キラキラとこちらを見上げる期待に満ちた目を裏切ることは、とうとうできなかった。

 

 

 

「発見いたしました」

 

 元々は俺たちの指示に不備があったのだと謝ったりそれに対して恐縮されたりするうちに、ニグレドが宣言した。砂時計の砂は既に落ち始めている。すぐさま<水晶の画面(クリスタル・モニター)>を発動したことで浮かび上がった水晶の画面には。

 

「……戦闘中、だと?」

 

 沼地らしき場所で、複数人の人間と戦闘をしている、朱雀さんの姿があった。

 

「まさか……!」

「どこのどいつでありんすかこいつら!!!」

「全員とっ捕まえて尿道をガバガバにしてやらなくちゃ!!!」

 

 アルベドが、シャルティアが、ニューロニストが。めいめい叫ぶ言葉の意味が頭に入らない。混乱していた。ただひたすらに、状況に混乱していた。

 

 なぜ、なぜだ。

 なぜ朱雀さんが人間と戦っている。なぜ朱雀さんと戦っているのにまだ生きている。一対一PvPでの朱雀さんの勝率は決して高くないが、相手の数が増えるごとに勝率が上がっていくのに。まして低レベルの相手に苦戦するなんてことがあるのか。レベルの高い生き物はこのあたりにはいないんじゃなかったのか。

 なぜ深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)をあいつらが使役してるんだ。朱雀さんのクラス構成じゃなきゃ召喚なんてできないはず。朱雀さんが召喚獣のコントロールを奪われたとでもいうのか。そんなまさか。

 なぜこれだけ苦戦してるのにナザリックに応援を要請しないんだ。通信を途絶するような魔法でも使われているのか。もしかして、朱雀さんが一方的に通信を拒否しているのか。それほどの相手には見えないのに。

 なぜ、なぜ、なぜ!!

 

 ……落ち着け。

 

 そう、朱雀さんが言うには、この周辺にはプレイヤーの影などない、ということだった。だというのに、彼らの装備はプレイヤーのものに他ならない。いや、ひとりを除いてはプレイヤーのものだと断定することはできなかった、が。

 

 倒れている人間の中に()()()()がいる。

 

 記憶が確かならばあの装備、「ヴァルキュリアの失墜」以降、関連ダンジョンでドロップするようになった「青春の遺骸」シリーズだ。

 もしかしたら天文学的な確率でああいった装備がこっちの世界で作られたのかもしれないし、別の世界から迷い込んだ女子高生が遺したものかもしれないが、そういうのを考え始めたらキリがない。

 

 それをふまえて、朱雀さんからの情報を嘘にしないのならば。

 

「……スレイン法国の者か? どう思う、アルベド」

「まさしくそう思います、モモンガ様。かつてプレイヤーによって建国されたというスレイン法国、そこで飼われている特殊部隊の者どもかと」

 

 死獣天朱雀様よりいただいた資料とも特徴が合致いたします、付け加えられたアルベドの言葉で自身の考えが正しいことを確認し、改めて画面に意識を移す。助けに行くにせよ、もう少し状況を見極めなくちゃならない。朱雀さんの<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>が発動しているから負けることはまずないだろうけど。

 

「それでも、苦戦するほどの強者には見えないが……」

 

 全体的に動きがすっとろい。ひとり突出して強いのがいるようだが、それだって100レベルのプレイヤーと比べれば雲泥の差だ。が、それに対する朱雀さんも、ちょっと動きがぎこちない。外部からの観測に対してレベルを低く見積もらせる認識阻害でもかかっているのか。

 ……まさかとは思うが、術か何かで朱雀さんのレベルを下げられている可能性もある、のか? 

 

「ほら! しゃっきりするでありんす! あっち! あっちを! 見なんし!!」

 

 ひやり、と、ない肝を冷やす俺をよそに、シャルティアがクレマンティーヌの肩を掴んでがくがくと揺さぶる。それ大丈夫? ムチ打ちにならない?

 砂時計の砂はもうわずかだ。無くなるときには探知を切らなければ攻性防壁が発動してしまう。わかっているだろうが一応釘を刺しておこうか。

 

「……あー、もうすぐ画面が消えるぞ?」

「言うの! ほら! 何が映ってるか! はやく!!」

「ぅあ、う……」

 

 必死に画面を指さして叫ぶシャルティアはほとんど涙目だ。この様子では新しい情報が出てくることもないか、と、アルベドに援軍の編成を言い渡そうとした、そのとき。

 

 

「ケー……、セ、ケ……コゥク……?」

 

 

 画面がぷつりと切れ。

 途切れ途切れにつむがれた声が聞こえて。

 ぱちり、と頭蓋骨の奥でなにかがひらめく感覚がした。

 

 映っているのは、朱雀さん。と、戦闘中の槍使い。双剣の少年。派手な大剣使い。大盾の男。

 深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)。老婆。チャイナドレス。女性用装備……。

 

 けい、せーけ、こ……、…………!!

 

 

「アルベドォ!!」

「はっ、はい!!」

「ナザリックの警戒レベルを最大まで引き上げ、100レベルのプレイヤーを想定した少人数の部隊を編成しろ! ナザリックの何を使っても構わん! 2分、いや、1分半だ! できるな!?」

「はっ! 勿論でございます!」

「俺はこれから宝物殿に行き、世界級(ワールド)アイテムとパンドラズ・アクターを連れてくる! それも踏まえて行え!!」

「畏まりました!」

 

 もはや一刻の猶予もない。警戒が過ぎて肩透かしを食うことなど、最悪の事態を想定すれば微々たる損害だ。

 目的を果たすためにリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを起動する。……前に、ひとこと。

 

「シャルティア」

「は」

「よくやった」

 

 驚愕か、あるいは歓声か。

 何かしら取られたのだろうリアクションは、宝物殿からは聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……いま、()()()()な。

 ニグレドあたりに課金アイテム渡してやり過ごしたか。

 

 現状を把握してから戦力を編成、こっちに来るまでおよそ3分……、あればいいほうだね。

 それまでに、カタは。

 

「つきそう、かな」

 

 相手方の数は既に半分。一番最初に背後攻撃(バックアタック)をしかけてきた男性が、次に情報系統の魔法を使ってきた制服のお嬢さんが、それぞれキノコの餌食になった。もしかしたら食道あたりまで浸食してるかもしれないけどギリギリ呼吸はできているだろうから、死んではいないはず。そのうち酸欠で意識を失うだろう。

 

 続いて如何にも魔法使い然とした男性と、これまた魔法使いというより魔女っぽい大きな帽子のお嬢さんが……、まあ水精霊相手なら<脱水(デハイドレーション)>は使いたくなるよね。あれ生きてるのかな。ネムリユスリカはカラカラに乾燥した状態でも余裕で生存するらしいし、多分……、いけないいけない、種族差を考慮しなくちゃ。後で回復魔法でもかけといたらなんとかなるだろう。生きていれば。

 

 鎖のお兄さんはこっちを捕縛しようとしてきたので、綱引きの要領で引っ張ってからきゅっと絞め落とした。敵に利用されそうな武器をわざわざ選ぶ人の思考ってわかんないね。それから近づいてきた斧の男性に鎖のお兄さんを投擲して、隙ができたところを思いっきりぶん殴った。見るからに頑丈そうだったし、ぼくのSTR(筋力)貧弱だから身体がまっぷたつになるようなことはなかったけど。中身はちょっとどうなってるかわかんないな。

 

 で、仲間がここまでやられてるときに、他の連中だって手をこまねいていたわけじゃない。

 羽根帽子のお姉さんは傷ついた仲間を懸命に治癒しようとしてるし、大盾のお兄さんは常に攻撃の起点へと目を光らせている。そうだね、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)のダメージ吸収があるといえど、君がご婦人の前から動けばぼくは何するかわかんないぞ。

 

 ぼくとしては有難いことに、ご婦人のワールドアイテムは複数対象に効果を付与することができないらしい。ならば深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)の魅了を外してからぼくを、とはいかないのが現状。プレイヤースキルが低いとはいえ、魅了が解除されたのを見逃すぼくではない。そうなったときにはこちらもすぐさま召喚獣を縛っている<偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)>を解く用意がある。それは向こうもわかっているんだろう。現状の膠着状態よりも、騎獣が見境なしに暴れまわる方が厄介と見たか。もしかすると解除そのものができないのかもね。

 

 で、残りの三人は、と言えば。

 

「シッ!!」

「おっと」

 

 眼前に突き出された双剣を紙一重で避けて、同時に切り上げてきた大剣を、背中の空間から生やした腕でいなす。目の前でギャリギャリと散る火花を、まったく恐ろしいと思えないことに、ほんの少しひやりと背を冷やしつつ。

 それにしても、うん、追加で召喚した百腕卿の侍衛(ガーダー・オブ・ハンドロード)がいい仕事をしている。水を圧縮したような透き通る刀をそれぞれ握りしめた四本の腕は、ぼくへと迫る攻撃に自動(オート)で対応してくれる、優秀な召喚獣だ。ほんとに助かる。三人相手に腕二本で戦うのも、腕六本を手動(マニュアル)で動かすのもちょっときつい。おじいちゃんだからね。

 

 いま戦っている彼ら、漆黒聖典の前衛も良い練度をしていると思う。味方同士のレベル差が開いた状態でパーティを組むのは推奨されていない。ユグドラシルでもそうだったし、異世界(こっち)ならなおさら。にもかかわらず、今のところ彼らの連携はうまくいっている。レベルの低い方が高い方を邪魔することなく動き、動線をきちんと開けて──

 

「ハァッ!!」

「む」

 

──このように、決定的な一撃を叩き込む。

 

「……ちっ!」

 

 あるのかないのかわからない手ごたえが不気味だったのだろう、忌々しげに舌打ちしつつ、槍の坊やがぼくの頭から得物を引き抜いた。

 実際、ぼくと彼のレベル差ほど、ぼくにダメージは入っていない。神器級(ゴッズ)で固めた装備のおかげとか、精霊種にはもともと物理攻撃が効き辛いのもあるけど、原因はそれのみではなく。

 

 槍の坊やから攻撃を受けたことで、ぼくの背後に並び立つ4本のトーテムポール、12ある顔のうちのひとつが口をひらき、そこから赤紫色の水を溢れさせた。それを見て、漆黒聖典の連中もはっきり動揺を浮かべる。そろそろ攻撃を起点にして何かしらの効果が発動していることには気づいているだろう。すでに10の口が解放され、時が満ちるのを待っている。だからといって攻撃しないわけにもいかないよねえ?

 

 と、次の攻撃を受ける気満々でいたのだけど、槍の坊やは前衛を引っ込めて、自分も一旦後ろに下がった。損耗率も激しいし、妥当な判断だとは思うけど。

 だからって、突っ込んで来られなくなるとこちらとしても都合が悪い。

 

 それじゃあ、ひとつ情報を開示してあげようか。

 

「あと2分」

「……何?」

「本隊が来るってさ。どうする?」

「……!!」

 

 いい加減表情を取り繕えなくなってきてるな。もしかすると、見た目より若いのかな?

 情報自体は嘘じゃない。憶測でしかない上に、来てもらったらぼくも困るってことはおくびにも出さないがね。

 そして、槍の坊やは次の手を取らざるを得ない、と。

 

「てっ……」

「<一方的な決闘(ロプサイテッド・デュエル)>」

 

 ひゅ、と息を飲む音。あると思っていた逃げ道を塞がれた、絶望の。

 まあ追尾転移なんて覚えちゃいないけど。はったりとしては十分だったようだ。なまじ魔法の知識があると身動きが取れなくなる好例だね。

 

 こちらとしても、今更逃がしてやることなんてできない。彼らは少々、情報を抱えすぎた。ぼく個人のもそうだけど、評議国と繋がりがある風に見られるのが政治的にいやかな。特定勢力への肩入れは気取られないよう行うべきですね。

 

 やがて覚悟を決めたのか、槍の坊やが姿勢を低くとり、その目が怯えた只人(ヒューム)のものから人類の存亡を預かる存在に相応しいものへと変わる。才能と研鑽の証である武技がひとつひとつ積まれてゆく。

 攻性防壁への答えとしては及第点と言っていいだろう。発動する前に圧倒的なダメージを叩き込み、一気呵成に殺してしまえば、防壁は意味を成さない。もちろん例外はあるとしても、だ。

 

 さて、ここで確認しておこう。

 <祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>の効果について。

 

 魔法を唱えた瞬間に現れる4本の柱。これらは計数器(カウンター)だ。

 一定時間、ぼく自身に加えられた物理攻撃と魔法攻撃の威力と回数をはかり、総攻撃回数が12回になったとき、ぼく自身を除いた範囲内すべての者にデバフと呪いのダメージを与える。

 物理攻撃を受けたなら攻撃力と防御力に、魔法攻撃を受けたなら魔法攻撃力と魔法防御力に、それぞれ報復としてデバフを与えるわけだ。

 

 柱が立っている間、ぼくへのダメージは報復計算のため保留となり、たとえHPが0になるようなダメージを受けても死ぬことはない。そのかわり、時間内に攻撃回数を満たせなかったり、途中で解除したりすると、大量のMPをコストとして持っていかれる上にすべてのデバフと呪いがぼく自身に返ってくる。ダメージの7割くらいがデバフに変換されるからその場で即死っていうことはないけど。デバフで弱ってるからそのあと敵に殴られてすぐ死ぬ。

 

 で、この魔法を高威力で作動させるにはどうしたらいいか? 答えは簡単。できる限り高威力の攻撃「だけ」を食らえばいい。

 

 今蓄積されているのは<脱水(デハイドレーション)>の2発分、避けそこなった双剣と大剣の攻撃が1発ずつ、あと6発は槍の坊やから。なので残り2発分、攻撃を受ければ。

 

 さあ、むこうの武技も積み終わったようだ。

 罠とは知らず、あるいは罠とわかっていても、彼は向かって来ずにはいられない。そうでなくては、こちらも困る。はは、両手を広げて待つ乙女の気分だな。

 ぼくをはっきりと見定めた視線がかちりと噛み合って、疾走するための一息が整い。

 

 その一歩を、踏み出したとき。

 

 

 

「<氷結爆散(アイシー・バースト)>!!」

 

 

 

 ……は?

 

 

 突如として目の前が白く染まる。

 驚愕と冷気に。精神的な意味でも、物理的な意味でも。

 

 すわ何事かと後ろに退がってしまった槍の坊やを確認すると同時、森の端から出てきた影が五つ、ぼくを庇うように立っていた。

 

 ザリュース・シャシャ。シャースーリュー・シャシャ。

 ゼンベル・ググー。スーキュ・ジュジュ。キュクー・ズーズー。

 

 どいつもこいつも蜥蜴人(リザードマン)の族長クラスの連中だ。なんでこんなところにいる。

 

「なんで、きみらが」

「バカにでかい耳障りな鐘の音が聞こえたんでなあ! 来てみりゃこれよお!」

 

 耳鳴りの鐘(ノイジー・ベル)か!!

 

 ゼンベルからのありがたい説明に、ごぽ、と、舌打ちになり損ねた空気が頭の中で滲む。そうだねぼくだね、呼び寄せたのは。ユグドラシルの頃はあんなもの鳴らしたところで誰も来やしなかったのに。効果範囲を甘く見たか。

 

「ば……っか! 邪魔だ! きみらの敵う相手じゃない!!」

「ならば盾にでもしていただければいい。ここで恩義を返せぬのなら、なんのための誇りか」

「せいれいさま、ま、まもる」

 

 ほぼほぼ本心から吐き出した言葉がまともに届くことはなく、退くどころか戦る気まんまんで蜥蜴人(リザードマン)たちは敵との間に立ちはだかる。

 

「そこを退け、亜人。死にたいのか?」

「断る。たとえこの身が滅ぶとしても、退くわけにはいかない」

「ならば化け物と諸共に死ね!」

 

 ああ、クソ。なんてことだ。

 これだから、これだから善良で無辜な生き物は嫌いなんだ。

 

 こちらが悪意を込めて丁寧に濾過したものを、いとも簡単に濁していくから!!

 

 ……落ち着け。時間がない。

 情ではなく打算によって、ぼくは彼らを見捨てることができない。族長クラスの彼らが死ねば蜥蜴人(リザードマン)の集落は揺れるだろうし、リクからの心証もよろしくなければ、ナザリックへの説得力も薄くなる。

 

 放っておけば彼らは間違いなく漆黒聖典に殺されるし、もし仮に万が一漆黒聖典がぼくの討伐を優先したとしても、<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>の呪いダメージだけで死んでしまう可能性がある。都合よく彼らだけダメージを回避するような魔法は持っていないし、たとえ呪いに耐えたとしても、残るのは強烈なデバフを食らった虚弱な身体だ。なんの拍子で死なれるかわかったもんじゃない。

 

 彼らをここから離脱させるのは……、間に合わない。間に合うような召喚獣はレベルの関係でぼくの言うことを聞くかどうかもわからないし。

 彼らはぼくの召喚獣じゃないからバフも盛れない。回復もできない。都合よくぼくだけを守る召喚獣はたくさんいるけど、都合よくか弱い誰かを守るような召喚獣は持ってないんだよ!

 

 ……時間切れだ。モモンガさんなら何か思いついたかもしれないけど。

 

 とにかく今は。

 <祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>を解除、するしかない。

 

 ざっとMPの計算をする。報復解除の分を差っ引いて、蜥蜴人(リザードマン)に最低限の防御をつけ……、る、分しか残ってないな。打算を優先して死ぬつもりはないんですけど?

 

 ……しょうがない、気は進まないが。

 

「<集団標的(マス・ターゲティング)水精の面紗(ヴェール・オブ・アンダイン)>!!」

 

 とりあえず、と魔法を発動し、薄灰色をした極薄のヴェールが蜥蜴たちを包んだ。ほんとは自分にもかけておきたいところだけど、攻性防壁の威力を上げる代わりに、ぼく自身に付与される攻性防壁ではない防御系の魔法は効果がデメリットに変化してしまう。

 

 準備とも言えないような準備を整えたところで、意を決して、<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>を解除する。ビョオオオオ、と、風が空洞を通り抜けるような悲鳴がトーテムポールから響き、ぐずぐずと形が崩れだした。

 同時に、デバフと解除コストがぼくに圧し掛かり。

 

 がくん、と片膝が抜ける。

 

「…………っ!」

「精霊様!?」

「へいき。前見て、危ないよ」

 

 MP切れだ。頭の奥がぐらぐらと煮え立つような吐き気がする。さすがに死ぬだの形が保てなくなるだのということはなかったが、これは、ちょっとキツい、かな。

 焼石に水だけど、呪いのダメージはスキルで百腕卿の侍衛(ガーダー・オブ・ハンドロード)に押し付けた。四本の腕がさらさら砂と化し、沼地にひたひたと溶けてゆく。

 

 ……そして、<偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)>の維持コストを払えなくなったことで。

 

「ヲォオオオオオオン!!!」

 

 深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)が、暗黒の鎖から解放される。

 

「……ままならないねえ、人生ってのは」

 

 もう人ではないんだけれど、人ではないなりに、足掻かせてもらおうか。

 

「……なんだ、あれは」

 

 突然乱入してきた蜥蜴人(リザードマン)と、先ほどまで意味ありげに鎮座していたのにさっさと姿を消したトーテムポールを訝し気に睨んでいた漆黒聖典の残りメンバーだが、新たな戦況の変化に驚愕を隠せないでいた。

 

 派手なんだよなあ、超位魔法の準備エフェクトっていうのは。

 

 発動できるのは1日に4回。MP消費0。強力ながら、チームメンバーで再発動までの冷却時間を共有しなければならないことから、使いどころを選ぶちょっとした切り札。

 まさかこんなところで使うとは思ってなかった。万一使うことがあるとしたらナザリックのNPC相手だとばかり。モモンガさんには口が裂けても言えないけど。幸いにしてぼくには裂ける口もない。

 

 眼前の異様を明確な脅威と判断したか、漆黒聖典はすぐさま乱戦の準備を整え、蜥蜴人(リザードマン)たちもそれに応じるべく隊列を組みなおす。きみらはできるだけ後ろにいてほしいんだけどな……。<水精の面紗(ヴェール・オブ・アンダイン)>には水精霊の目を誤魔化す効果があるから、少なくとも甲殻騎獣(デルフィオス)の餌食にはならない……と、思うけど。

 

 果たして願いが通じたと言っていいのか、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)は一直線にぼくへと突進し、蜥蜴人(リザードマン)たちを飛び越えながら、ぐわりと大顎を開く。

 事実としてもそうだけど、直観的にわかるよね、発動前に潰せばいいっていうのはさ。

 

 さぁて、ここが正念場だ。超位魔法の発動まで攻撃を避けきればぼくのかち。今のステータスでは食らえばアウトだろうから、死ぬ気で避けなきゃいけないね。というより避けなきゃ死ぬ。

 水精霊のDEX(敏捷)でどこまでやれるか、試してみようじゃないか、と、腹を据えた、ところで。

 

 今まさに飛び掛からんとしていた甲殻騎獣(デルフィオス)が、突如として飛来した1本の剣に、盛大にひっくり返された。

 

「なに!?」

「リ、……」

 

 ク、と言葉にする前に、慌てて発動直前だった超位魔法をキャンセルする。さすがに彼を巻き込むのはシャレにならない。

 

 ツァインドルクス=ヴァイシオン。自称リク・アガネイア。

 てっきり静観を決め込むつもりだとばかり思っていたから数に入れてなかった。なんで割って入ってきたんだろう。

 ぼくが疑問を口にする前に、より一層この状況を不可解に思っているだろう漆黒聖典を代表して、槍の坊やが吠えた。

 

「邪魔立てするつもりか、ツァインドルクス=ヴァイシオン!!」

「…………」

 

 意に介さぬといった様子で、リクは無言のまま宙に浮いている。ぼくに偽名を名乗った以上はここで返事するわけにはいかないよね。やっぱりぼくから聞いてあげるしかないか。

 

「えーっと、助けてくれてありがとう?」

「正確には君じゃないな。蜥蜴人(リザードマン)はアーグランド評議国に幾度も旅人を寄越している、盟約の民。それを害するというのならば、介入する理由としては十分だろう」

 

 やったー! 大人の建前だー!

 とはいえ本音もそう離れてはいないだろう。アベリオン丘陵で群雄割拠のどさくさに亜人を殺すのと、僻地で隠遁している善良な亜人をわざわざ殺しに来るのとではわけが違う。政治的に対立するほどか、と聞かれたら微妙だけど、帰さなきゃいいんだもんね、要は。

 多分だけど、ぼくが死ぬことでナザリック(残りの連中)が暴走することも可能性に入っている。あとはなんかわけのわからないでかい魔法を阻止したかった、ぐらいかな。

 

「邪悪に傾倒し、なけなしの大義も失ったか! ツァインドルクス=ヴァイシオン!」

「邪悪邪悪ってうるさいよ、もう。先に魅了しようとしてたのはそっちでしょ」

「どの口が抜かすか! 貴様は黙っていろ、語る口も持たぬ化け物が!」

「語る口なきぼくに沈黙を要求するなら、もはや崇める神()ききみらは何を支払ってくれるのさ」

 

 瞬間、彼らから表情という表情が抜け落ちる。

 ついで、ぶわっ! と、膨れ上がる殺意。先刻までの、本気ながらもどこか義務が垣間見えるものではなく、純粋な、混じり気のない、100%の透明な。

 

 空気が変わったのを察したか、蜥蜴人(リザードマン)たちが、ずず、と半歩下がる。きみらイビルツリーの時より怯えてない? でもわかるよ。人の殺意って怖いよね。いや、やらかしたのはぼくだけど。

 

「……今のは君が悪い、スザク」

「ごめん」

「あまり煽らないでくれ。相手をするのは私なのだから」

 

 お、相手してくれる気あるんだ、とは言わない。思っても言わない。MPがろくすっぽないことがリクにバレているとしても、それを自ら宣言してやる道理はないよね。お任せしとこう。

 

「きみらは下がりなさい。今度は本当に邪魔になる」

 

 敵の前に立ちはだかって死ぬのは良くても、味方の剣に巻き込まれて死ぬのは遠慮したいらしい。蜥蜴人(リザードマン)たちはじりじりとこちらに下がってくれた。

 

 さて、まあ、しかし。こぽ、と、短いため息をつく。

 もうすぐナザリックの勢力が到着するだろう。モモンガさんなら万一ほっといてくれたかもしれないけど、NPCはまずこっちに来る。

 やだなあ、どのくらい来るんだろう。一個小隊でも戦力過多なんだよな。<完全不可知化(パーフェクト・アンノウアブル)>のかかった兵がもうそのへんにいたりして。リクが無反応だからないと思いたいけど。

 

 「世界」に対してのアプローチを問うだけあって、リクの強さは本物だ。槍、刀、ハンマー、大剣を巧みに扱い、隙あらばこちらへ抜けてこようとする前衛を容易く妨害する。のみならず、前衛3人のうちレベルの低い2人をあっという間に昏倒させ、大盾を弾き飛ばして無力化し、羽根帽子のお嬢さんも地に引きずり倒した。彼自身の思惑か、それともぼくの意を汲んでくれたのか、死人は出ていないように見える。状態としてはぼくがやっつけた連中の方が酷いかな……。

 

 残るは2人。ワールドアイテムのご婦人と隊長格の坊やだけ。

 槍の坊やは一対一ならばもう少し実力が近づくのだろう、しかし今は、あからさまに狙われるご婦人を守ることで精いっぱいの様子。

 このまま決着がついてくれたのなら、「ぼくとは関係ないところで戦っていた二勢力にちょっと、ほんのちょっと巻き込まれただけ」で押し通せる……、かな? ……駄目だな、頭が回らない。MP切れの弊害こんなに重いの? 嘘でしょ?

 

 まったく想定していなかったところから妙に弱るぼくを見て好機と捉えたか、一瞬の隙をかいくぐって深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)がぼくらの方へと突進してくる。おっとそう来たか。

 

 うっかりを装って見逃す、ということもなく、凄まじい速度で飛んできた大剣が、騎獣の横っ腹に突き刺さった。

 ご婦人へと注がれたダメージを肩代わりすることで弱っていたのだろう甲殻騎獣(デルフィオス)は、しばしもがき苦しむような挙動を見せた後、深々と突き立てられた大剣を溶かさんとばかりに煙を上げつつ、ぐずぐずと崩れてゆく。

 

 そうして、死……、あっ。

 

「アガネイア! ()()だ!!」

「外側……!?」

 

 反射的に手を横に突っ張ってくれたことで、白金の鎧は巨大な一対の手のひらに押しつぶされることなく、拮抗状態を保っている。濃紺のルーンが刻まれたターコイズブルーの両手はどこか機械的で、白金鎧のリクがみしみしと圧を押し返す様は、たっちさんご推薦のロボット大戦じみていた。……あれだ、そろそろ死に際のカウンターを全部把握しておかないと。

 

「……なるほど、外側、ね」

「ごめん、ほんとにごめん」

「騎獣が死亡したときの罠だろう。どのみち……」

 

 リクの言葉が不意に途切れた。なにかあっただろうか。もはや拮抗状態はリクの勝利に傾きつつあり、ほどなく抜け出せることだろう。そもそも彼は武器を操るのに両手を必要としない。もはやご婦人のダメージを肩代わりできる甲殻騎獣(デルフィオス)も死んでるからあとは──

 

──待てよ、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)が死んだということは。

 

「スザク!!」

 

 気づいて、視線を移したときにはすでに遅く。

 その衣装にふたたび龍を宿したご婦人が、こちらに構えているのが見えて。

 

 

 視界が、一色に染まった。

 

 

 

 

 

 

 




次回、ナザリック到着


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

己が墓穴に頭を垂れよ 伍

前回のあらすじ

モモンさんのアイデアロールクリティカル
乱入に次ぐ乱入
傾城傾国リチャージ完了


サブタイ回収回





 

 

 

 からん、と、音がした。

 

 それは中身が干された杯の渇きにも、持ち主を失った鎧の嘆きにも、終わりを告げる鐘の囁きにも聞こえ。先ほど潰した鐘の召喚獣よりもよほど澄んだその音はしかし、確かな終焉を運んできたのだろうと、思い知らせるような響きがあった。

 何よりその証拠は、目の前に提示されている。

 

 死だ。

 

 死が降臨した。そう思った。

 身も皮もない真っ白な骨のかんばせ。黒々とした眼窩に燈る火精の赤(サラマンダー)。豪奢な飾りのついた外衣(ローブ)は闇よりもなお黒く。力あるものの象徴のような深い血色の宝玉が肋骨の陰で息づいており。

 ただのアンデッドと一蹴できたのならどれほど良かっただろう。できはしない。できるわけがない。なぜなら、あれは、あの方は、まさしく。

 

「スルシャーナ、様……?」

 

 呼びかけに、答えてくださるかのように。

 磨き抜かれた5つの指輪に飾られた白い、白い掌が、こちらに、そっ、と差し伸べられ──

 

 

心臓掌握(グラスプハート)

 

 

──力強く、握りしめられた。

 

「っぐ、あ"……っ!!」

 

 同時に胸へと襲い掛かる、強烈な痛み。心臓が焼けつくように熱く、禍々しい血液がどろどろと全身にまわるような錯覚に、ぐらりと景色が傾ぐ。膝をつき、辛うじて倒れこむことは防いだものの、息をつくことすらままならない。

 

 なにが、とは思っても、なぜ、とは思わなかった。

 あれはスルシャーナ様ではない。どれだけ似ていようとも、たとえ種を同じくしていても、あれは、違う。本当は、姿を見た時から、頭の隅で理解していた。もはや弑された我らの神が、私たちを憐れんで再臨してくださるよりは、化け物が言っていた「本隊」が来る可能性の方が、ずっと、ずっと高いのだから。

 

「ちっ。抵抗(レジスト)したか」

「ちょっと?」

 

 実につまらなそうなぼやき声に、ちいさな抗議の声がぶつかる。その声は間違いなく今しがた戦闘していた化け物のもので、浮かされる熱など感じさせない正気の声色は、ただしく傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)による魅了が失敗したことを意味していた。

 

「正気か?」

「よく言われる」

「……その様子なら大丈夫そうだな」

 

 ふ、と、吐息だけでほほ笑む気配が、どうしようもなく優しくて。心臓ではなく胸が痛むのを、どうにか唇を噛んでやり過ごす。違う。あれは、違うのだ。法国が長年待ち望んだ、黒の神では、ない……!

 

 かすむ目をどうにか凝らして眼前の光景を叩き込む。

 そこに化け物の姿はなく、否、姿はあった。我々と奴との間に、別の化け物が堂々立ちふさがっていたというだけで。

 

 ウォートロールを凌ぐであろうその巨体。その巨体をしてアンバランスと言わざるを得ない、膨れ上がった異様な大きさのガントレット。いでたちこそ妙に小奇麗で、いっそ聖職者と言われても信じてしまえる程度には神聖なものではあったが。あれのせいで化け物を仕留め損ねたことを思うと、装いへの気遣いが余計に忌々しさを募らせた。

 

「パ……、『ヤマ』、す……、彼の回復を」

「はっ。よろしいでしょうか、Herr.(ミスター)

「ちょっと待ってMP補充する……」

 

 『ヤマ』と呼ばれた者は後ろにいるのであろう化け物を振り返らぬまま、ぽう、と、魔法の光を放つ。それは万に一つ、あるいは億にひとつあったやもしれない勝機が、完全に失われたことの証左であった。

 

「……カイレ、さま。どうか、お逃げ、を……」

「……いや」

 

 与えられた指揮系統を無視した懇願に、カイレ様は静かに、だがはっきりと「否」を唱えた。漆黒聖典の隊員というものはそれぞれ替えの利かない存在ではあるが、傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)を扱える、戦闘に秀でた者が国内にもういない以上、カイレ様の優先順位は最上位にあたる。それでもなお、カイレ様が退避を拒むのは、私を慮ってのこと、ではなく。

 

 夜よりもなお深く、暗い闇が、ぽっかりと、禍々しく口を開けている。そこから滲む出るように、よっつの影があらわれた。

 

 双子なのだろう、揃いの金髪と背丈をしたダークエルフ。いかにも身軽そうな装いの少年と、身の丈ほどの杖を抱えた少女は、王族の証である色違いの瞳を持ち、じっとりとこちらを睨みつけている。

 ライトブルーの鎧を身に着けた重戦士。見るからに蟲人といった風情のそれは4本の腕それぞれに武器を握りしめ、時折がちがちと鳴る大顎から、しゅう、と冷気が漏れ出していた。

 羽の生えたカエル頭の生き物。悪魔的、とも言える容貌の怪物は銀のプレートがついた尻尾をゆらりと揺らし、表情も乏しいというのに誰かを貶めようとする悪意に満ち満ちているのがわかる。

 

 種族も、大きさも、装備も、性別も異なるそれらは、我々に確かな殺意を抱いているということだけが共通していた。

 

「<氷壁(アイス・ウォール)>!」

「<次元封鎖(ディメンジョナル・ロック)>!」

 

 蟲人が、悪魔が、それぞれ魔法を放つ。高々とそびえる氷の壁がぐるりと周囲を囲み、不可視の断絶が空間を揺らした。物理的にも、魔法的にも、決して獲物を逃がすまいと捕らえるための檻。傷つき、弱ったものへの慢心など、そこには一欠けらもなく。

 

 がしゃん、と。音のした方に意識を向ければ、巨大な掌をたたき伏せ、身の自由を確保したツァインドルクス=ヴァイシオンがいた。特別どちらの手助けをするでもなく、宙に浮いたまま状況を睥睨している。

 ……中立を気取るのであれば最初から手など出さずにいれば良かったものを。苛立ちはすぐ自嘲へと変わった。あの場面で蜥蜴人(リザードマン)を敵に含めなければ、あるいは現状は違っていたかもしれない。

 

「さて」

 

 戦力が整ったと言わんばかりに、「死」が動き出した。総数、というには余りにも少ない数だったが、これで十分、ということなのだろう。漆黒聖典(われわれ)がそうであったように。

 

「あらかた終わっているが……、後始末は必要だな?」

 

 玩具を散らかしたのだから、片付けるのは当然。

 言外に含まれる意図が口調をさらりと軽くして、いよいよ我々の終わりが目前に迫る。

 

 こうして死を覚悟するのは、実のところ初めてではない。あの人にしごかれていたときはしょっちゅう川の向こう側を幻視した。肉体的にも、精神的にも、今よりずっと痛かったし苦しかった。

 早すぎる、とでも言われるのだろうか。神官長の方々にも、他の聖典の連中にも。憐憫か、憤りか、あるいは面倒と思われるかもしれない。代わりはそうそう見つからないのに、と。身分の偽装に使っているあの家の、隣のおばさんにはなんて説明されるのだろう。何度かおすそわけされた豆のシチューが天才的においしくて、ああ、結局作り方を聞きそびれたな。

 

 普段なら思い出しもしない出来事が、脳裏に浮かんでは消える。走馬灯のよう、とはじめに言ったのは誰だったのか。

 もはや知る機会すら与えられぬまま。

 「死」が、すっと片手を挙げ──

 

「殺──」

「殺すな! 全員生きたまま捕縛しろ! あとそこの浮いてる人は敵じゃないから攻撃しないように!」

 

──化け物が、命令に割り込んだ。

 

 従者であろう者たちが硬直する。おそらくは困惑と驚愕に。主ふたりのうち、どちらの命令を聞けば良いのか。……主のひとりに無体を働いた連中を、生かしておいてよいのか。

 

 困惑したのは、こちらも同じだった。

 あれが傾城傾国(ケイ・セケ・コゥク)の魅了を受けていないことは確実だ。不殺を命じる宣言にしても、助けとしては中途半端に過ぎる。命があることが、救いであるとも限らない。

 

 命令を遮られたことに激高するかと思われた「死」は、かるく首を傾げ、ふむ、とひとつ呆れ混じりの吐息のような納得をこぼした。

 

「……それで妙に手こずっていたのか」

「そお。駄目?」

 

 ねだるような化け物の物言いに、「死」がじろりと視線をぶつける。

 

 派閥争いか、などと、希望を持つほど純粋ではない。化け物は不殺を宣言しただけで、どのみちこの檻から逃げられはしないのだから。

 そして、あくまでも、それとは、別に。

 

 愕然とした。

 化け物との死闘が、手加減ありきで成されていたという事実に。殺そうと思えばいつでも我々を殺せる実力を備えていたことに。

 

 我々は、はじめから。

 奴の手の上で踊っていたのだ。

 

「……、後で、説明は、してもらうぞ?」

「もちろん」

 

 その言葉に「死」がひとつ頷き、化け物の命令が通る。従者たちはちらりと目線を交わし合い、元々あったのであろう「鏖殺」の命令を「捕縛」に書き換えたようだった。

 

「<魔法位階上昇化(ブーステッドマジック)植物の絡みつき(トワイン・プラント)>」

 

 少女が魔法を唱えるのに合わせ、少年が何やらふうっ、と長く息を吐いた。

 甘やかな香りが満ち、蔦がのたうつ中、カイレ様が、私の肩に手を添え。

 

「お前の指示が間違っていたとは思わん。あれを野放しにするわけにはいかなかった。足りなかったとすれば、我らの力と……」

 

 それは慰めであったのか、ご自身を納得させるためのお言葉であったのか。蔦に視界は塞がれ、意識は遠のき、とうとう。

 

「運であろうよ」

 

 ぐちゃ、と、泥に額づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はー、助かったー! 一時はどうなることかと思った!

 魅了される前に来てくれたからぼくは無事だし、漆黒聖典のみんなも殺さずに済んで、これでめでたしめでたしだね!

 

 なんて甘いこと、あるわけがないんだよな。

 

 むしろこれからが大変まである。手の中で「ヒュギエイアの杯」をもてあそびながら、こぽぽぽぽ、と、長いため息をついた。

 いや、助かったのは事実だとも。ワールドアイテムの所有者はワールドアイテムの効果を打ち消す、だったっけ? ワールドアイテムを持ったパンドラが割って入ったことで盾になったのか、ぼくがワールドアイテムを所持したことで無効化されたのかは要検証ってところかな。危険性を考えると検証できるかは別として。

 

 というわけでそれぞれワールドアイテムを貸与された……、コキュートスとデミウルゴスとアウラとマーレ? どういう人選だ、これ。モモンガさんの采配っぽくないな。アルベドあたりか?

 とにかく選抜された守護者により、一面を氷の壁で閉ざされ、転移も阻害された檻の中は、精神干渉の吐息と荒れ狂う蔦で満たされている。時々「ごきっ」って音が聞こえるけどそれほんとに死んでない? 後でチェックするよ?

 

 ほら、蜥蜴人(リザードマン)たちも引いちゃってるじゃん。これで漆黒聖典と一緒に捕縛するようならちょっときつめに叱らないといけないところだったけど、さすがに杞憂だったか。……そうだ、彼らをお家に帰しとこう。

 

「とりあえず、きみらは家に帰りなさい。クルシュも心配しているだろう」

「しかし……」

「……ありがとう、来てくれて。助かったよ。こっちはもう大丈夫だから」

 

 ぼくとしてはあんまり大丈夫じゃないけどね。この後のことを考えたら。

 なんなら転移で送るけど、という申し出を丁寧に辞退して、蜥蜴人(リザードマン)たちは集落へと帰っていった。

 

「それで」

 

 漆黒聖典の連中があらかた縛り上げられた頃、地を這うような低い、ひくい声が静かに響く。モモンガさんか。一瞬誰かと思った。

 

「あちらの方は、紹介していただけるんだよな?」

 

 ……なんだかモモンガさん妙に怒ってない? ぼくなにかしたっけ。いやしてませんとは言わないけど。 

 呼ばれたことを察したか、さっきからこちらの所業を傍観していた「あちらの方」ことリクが地面に降り立つ。

 

 ……空気が重いな。

 

 さもありなん。

 片や外界のすべてを敵と教えられている、人ならざるものの集合体。群れの上位者が危険に晒されて大変気が立っており、「敵じゃない」と宣言されてはいても目の前の人物が何であるのか測りかねている。

 片や100年ごとに訪れるプレイヤーの対策に生のすべてを注ぐ竜王。あまり話のわかる連中ではないとぼくから聞いているうえに、敵対者を封じ込める檻に自らも入れられていることで警戒心はMAXだ。

 

 とにもかくにも「紹介」だね。えーっと、と、まず手のひらをリクの方へと差し出して。

 

「こちらリク・アガネイア氏。アーグランドという国の要人で、さきほどぼくと蜥蜴人(リザードマン)たちをそっちの人らから助けてくれた恩人でもあります。くれぐれも失礼のないように」

「……それだけか?」

「……ぼくが拠点から抜け出したのは彼を見かけたからです。その節はご迷惑をおかけいたしました」

 

 モモンガさんの一睨みに、そっと謝罪を追加する。ははは、視線が痛い。ナザリック陣営からは言わずもがな、リクからも「何やってんだこいつ」って感じの呆れが見える。漆黒聖典とのことがなければすぐに帰る予定だったんだってば。

 

 ちょっと待ってね、とリクに言い置いて、ついでとばかりに現状を説明してしまう。僕が一方的にリクを見かけて対話を要求したこと、別れた後偶然人間の部隊と敵対してしまったこと。蜥蜴人(リザードマン)たちは健気にもぼくの盾になるべく前に出てくれて、異変を感じて戻ってきてくれたリクが魅了された召喚獣を倒してくれたこと。

 あわやワールドアイテムの餌食になりかけたところで君らが。に、続く形で紹介につなげた。

 

「お待たせ。こちら温厚で慈悲深い我らがギルド長。蜥蜴人(リザードマン)たちからは『死の精霊様』と呼ばれているね」

「……挨拶が遅れて申し訳ない。初めまして、リク・アガネイア殿。私のことは……、デス、とでも呼んでいただければ」

「……初めまして、デス」

 

 はじめてのごあいさつ。ごたごたあってようやく、と言うよりは。正直ここで会わせる予定じゃなかった。もう少し時間をかけてゆっくり顔合わせするつもりだったのに。

 声にださない思惑が届くはずもなく。そういえば、そろそろこっそり伝言(メッセージ)が飛んでくると思ったけど。ぼくがさっき拒否し続けたから通信障害を疑ってるのかな。

 

「改めて、私からも感謝を。我が友を暴漢共から救ってくれたようで、ありがとうございます」

「礼には及ばない。力の振るい方を間違えている者から、弱き者を守るのは当然のことだ。……その暴漢共についてだが」

 

 表面上は穏やかに、というより営業用の顔を全面にだしながらモモンガさんからお礼の言葉が贈られる。

 リクはそれに返答しつつ、白金の右手をそっと差し伸べて。

 

「こちらに引き渡してもらおう」

 

 ……そう来るよね。

 

 何度でも確認するが、アーグランド評議国とスレイン法国は対立しているのだ。地理的に隣接していたならば戦争になっているだろうと断言できるくらいには。法国が直接リ・エスティーゼ王国を併呑しない理由がここにある。法国側の敵対感情の方がよほど大きいけれど、評議国側も良い感情を抱いているとはとても言えない。

 そんなときに降ってわいた、敵主要戦力を拿捕するチャンス。それがたとえ異邦人が関わることによって成されたものだとしても、逃す手はない。むしろ彼の経験から言えば、異邦人の手にこれ以上力が集まることを忌避している、が正しいか。

 

 それはそうとこっちの存在を抱えられたまま他所にやりたくはないよね、と、モモンガさんに同意を求めようとした、が。

 

 かるく俯くモモンガさんの目に光がない。手がちいさく震えているようにも見える。

 

「……せ、と?」

「?」

「許せ、と、言うのか?」

「なに?」

 

 んん……?

 

 困惑するぼくらを置き去りにして、さらに告げることには。

 

「私の仲間に手をかけて、あまっさえ洗脳しようとしたクズ共を、見逃せ、と?」

 

 ……、そう、きたかー……。

 

 演技、じゃないな。さっきから割と、本気で怒ってる理由が、えっ、なに、ぼく? ぼく!? 理由ぼくなの!? 嘘でしょ。なんだか今日一日で一生分驚いてる気がする。

 

 そう、か。うん、わかった。見積もりが甘かった。修正しよう。

 蘇生魔法をかければ生き返ることは確認してるんだから、殺されても生き返らせればいいや、とはならなかった、と。洗脳されても解く方法があるとはいえ、ぼくと敵対する可能性を作ったものを、許すことができない、と。

 

 はー、それはまた、なんとも。

 ひとのこころは、度し難い……。

 

 黄昏てる場合じゃない。守護者連中はモモンガさんの怒気にあてられて軽く戦闘態勢に入ってるし、それを察したリクも武器をすぐ扱えるよう動かし始めている。万一決裂したら武力行使になるのかな、とは頭の隅で思ってたけど、いくらなんでも早すぎる。

 比較的喧嘩っ早くない連中を連れてきたものだと若干安心してたのに。上がこうなったら仕方がない、か。

 

 とりあえず、ぼくしか止められるものがいないんだから、えーっと、バフをいくつか盛って……。

 ……いける、か? いくしかないな、と、モモンガさんの方へひっそりと移動し。

 

「見逃せるわけがないだろう! 俺の! 仲間を! 傷つけた連中を!! 許すことなど、でき……っ!?」

 

 パァン! と、高らかな破裂音。モモンガさんの目の前で叩きつけられた両掌は火花を散らし、夜闇を刹那の間、閃光に染める。ハンドクラップから火花が出るってどういうこと?

 

 もう一度蜥蜴人(リザードマン)たちがこっちに来ちゃうんじゃないかって轟音はともかく、効果は確かに出たようだ。モモンガさんは表面上、怒りを引っ込めて、赤い眼光をしぱしぱと瞬かせていた。召喚獣相手の精神鎮静効果がどれくらい効くかわからなかったけど、大きな音と光はそれだけで気を逸らせる。

 

「す……」

「朱雀でいいよ。彼には教えたから」

「朱雀さ、なにを……」

「3つだ」

 

 立てた指を3本、モモンガさんに突きつける。

 

「ひとつ、結果としてぼくはほぼ無傷だ。洗脳もされていなければ他の状態異常にかかっていることもない。きみらが助けに来てくれたからね」

 

 遅くなったけど、ありがとう、と、指をひとつ折った。

 ぼくは法学者ではないから未遂と既遂における刑罰の加減について語る立場にないけれど、ことぼく自身に与えられたものに関しては、程度はあるにしても「未遂であるなら許容する」を大前提に置いている。

 

「ふたつ、彼が要求しているのは装備品含めた『戦力としての身柄』だ。慈悲をかけろと言っているわけじゃない」

 

 ふたつめの指を折ると同時にリクを窺えば、頷きがひとつ。

 実際彼は「見逃せ」とも「許せ」とも言っていない。命まで取るかはわからないし、ナザリックになぜか揃っている拷問手段ほど酷いことをする気はないだろうが、そもそも情けをかけるような間柄ではない。

 

「みっつ。ぼくを加害したものへの怒りはぼくのものだ。ぼくを差し置いて勝手に怒らないでくれ」

 

 最後の指を折り、手袋の甲で剥き出しの肋骨をこつりと叩いた。ぽつ、と、仄赤い視線が眼窩からおちる。

 世の中には、他人への加害を我がことのように怒れる人がいて、自分の代わりに怒ってくれる人を有難いと感じる人もいるのだろう。

 だけど、ぼくは、そうでは、ない。それだけの話だった。行為の度が過ぎていれば普通に怒るし、報復だって自分でする。その際助力を求めることがあるにせよ、ぼくが求めてもいないのに独断で激高されるのは正直不愉快だ。

 ギルド長として、というのはわからなくもないけれど、元々ぼくは彼に私物化されるような存在ではない。

 

 モモンガさんはぱちりとぼくに視線を合わせた後、その目線を彷徨わせて、すん、と、肩を落とし。

 

「……随分、取り乱した。すまなかったな」

 

 落ち着いた、けれどもはっきりした声でそう言った。そこに、今ほどまであった激情はかけらもなく。守護者たちも心配そうに彼を見つめている。

 ほどなくして、こっそりと<伝言(メッセージ)>が繋がった。

 

『……すみません、朱雀さん』

『そんなに落ち込まなくても……』

『いえ、ほんとに、お恥ずかしいところを。交渉は……』

『最低ラインは漆黒聖典全員の記憶処理、でいいかな』

『はい、おねがいします……』

 

 いつものモモンガさんが戻ってきたことに内心ほっとしつつリクを振り返れば、彼はじっとこちらを見て、訝し気に、ひとこと。

 

「……温厚?」

「温厚温厚。すっごく温厚。怒ってなければ温厚」

「それは温厚とは言わないのでは……?」

「ごもっとも。でも本当に温厚なんだよ。今まで怒ったところなんて見たことなかったもの」

 

 るし★ふぁーさんが追い回されてるのを見たとき、くらいかな。なにしたときだったっけ。モモンガさんのチェストにトラップ仕込んだときだったか。開けたら運営からの通知そっくりのメールが届くやつ。

 

「……大事にされているようで何よりだ」

「ありがたいことにね。で、さっきの話だけど」

「私の結論は変わらない。装備品を含め、そいつらは全員こっちに引き渡してもらう」

 

 はいステイステイ、とばかりに片手を挙げておく。アウラとマーレあたりかな、何かをきつく握りしめる音。「御方様が求めたものを差し出さないなんて」といったところか。

 さっきのモモンガさんへの宣言が守護者たちに対しても牽制になっているようで、いまのところ抗議を差し挟む様子はない。結構だ。そのままおとなしくしておいてくれ。

 

「それは困るな。ぼくとしても義理や温情で彼らを生かしておいたわけじゃない。装備はともかく、身柄はこっちで預かりたいんだけど」

「……君たちがそいつらを確保して、一体どうするつもりなんだい? スザク、君がこちらの世界にかかわらない、と言ったのは偽りだったのか?」

「『ぼくらの身に危険が及ばない限り』だ、アガネイア。このまま彼らが姿を消せば、いずれ彼らを捜索する者が現れる。ぼくらとしては是非にでも避けたい」

 

 実際のところ、国内最強の部隊が消えた上で、次いで捜索部隊を派遣できるかは非常に怪しい。ぼくはそれを知らないはずなので言わないけれど。

 「知ったことじゃない。寄越せ」とすぐさま返してこないあたり、やっぱり随分人がいいな。と、そこにつけこむように言葉を続けた。

 

「……どうするつもり、に答えてなかったな。彼らにはぼくらに()()()()()()()()()()()()()()。それだけだよ」

「交渉でもするつもりかい? できなかったからこそこうなっているのだろうに」

「拠点に戻れば手段はある、とだけ。肉体的にも精神的にも、彼らを一切損なうことなく遂行できる」

 

 馬鹿正直に「記憶を弄ります」なんて言う必要はない。ぼく個人は記憶処理を「アリ」と認識してるけど、人によっては殺すよりも忌避感を抱く者がいるから。

 ぼくが濁した言葉の詳細を吐くことはない、とすでに認識してくれているのか、「手段」を深く掘り起こすことなく、リクは別の質問を投げかけた。

 

「……その言葉を、真とする証明は?」

「捕虜の扱いが不透明であるのはお互い様だろう? そこは論点にするべきではないと思うけど」

 

 捕虜の扱いを透明にできないのはアーグランドの方、とみるのは……、ちょっと早計かな。

 現状スレイン法国は人類の生存権を守ることに必死な上、南にあるエルフの国と絶賛戦争中だ。漆黒聖典を取り返すためなら、少々無茶な条件でも飲むだろう。

 

 ちょっとアプローチを変える必要がある、か。

 

「アガネイア。先んじて言った通り、ぼくが望むのは『平穏』ただひとつだ。嘘偽りなく、ぼくらは外界との不用意な関わりを望まない」

「ならば──」

「ならば、の続きはこうだ。我々の介入によって特定の勢力が政治的に利害を得るのならば、ぼくはそれを看過することはできない」

 

 たとえそれがきみであっても。

 

 しばしの沈黙が満ちる。

 要は「世界のためって(てい)だけどそれっておたくが政治利用するために確保するんじゃないの?」と。我ながらほとんど挑発に近い主張だとは思うけれど、中立を目指すのであればここは譲れない。

 

 どう出るかな。本格的な戦闘に移行するにしても、ちゃんとした同盟を結ぶにしても、モモンガさんの了承を得てからにしたい。交渉事楽しいからついやっちゃうんだけどモモンガさんを差し置いてあんまり前に出たくないんだよ。今日のところは漆黒聖典の扱いについてすり合わせられたならそれでいい。

 

 最低ラインは漆黒聖典の記憶処理……、というより、それさえできれば他はいらないのだ。モモンガさんは装備も欲しがるかもしれないけど。ワールドアイテムだけどうするかってくらいかな。

 ただ、この場で記憶処理だけして引き渡すとなると。戦っているときの感触からいって、隊長格の槍の坊やがどうも精神干渉に抵抗力があるようだから、それがネックというところ、か。彼には改宗してもらった方がいいかも知れないな。

 

 ぼくがつらつらと考えている間に答えが纏まったのか、鎧で見えないリクの視線が、こころなしかまっすぐ前を向いたような気がした。

 

「……君の発言の真偽をはかる術はなく、私の目から見た君は、すでに『哀れな漂流者』ではない」

「だろうね」

「故に、私が判断を下せるのは事実だけだ。君が成したこと、その経過と結果について」

 

 ぼくが成したこと。

 どのあたりだろう、とさかのぼる前に、リクが評を述べる。

 

「少々危ういところはあったが、君の戦い方は専守を徹底するものであり、敵味方問わず死者を出していない。加えて、義によって参戦した弱者を、その身を挺して守ろうとしたことは、評価に値すると私は考える」

 

 お。

 これは。

 

「さっきの問答も、君の理念と矛盾するところはみられなかった。……よって、一月後」

「うん」

「一月後の今日、この時間。スザク、君が、この場所に来てくれると言うのなら。そいつらはそのまま君たちが持って行っていい」

 

 

 ──……、ああ。

 

 いま、ぼくの顔を正面から見れば、目の光が弧を描いているんだろう。

 ぼくの存在、あるいは危険性が、元々あった利害を上回ったことの証左。

 

 自己顕示欲はそこまで高くないと思っているのだけど、この瞬間ばかりは、どうしても気分が高ぶる。

 

 背後で息を飲む気配がした。そりゃそうだ。流石にストレートな罠を張るまではいかないだろうけど、それにしたって、一月後、この時間、この場所に、何の用意もないのはあり得ない。

 日付が少し遠いのは、単純に手がはなせないのか、それとも時間感覚が竜なのか。……なんてね。

 まっとうに考えるのなら戦力の準備、だろうな。ぼくらが本当に漆黒聖典を解放するのか確かめる意図もある。そして、持ち帰って評議したいのは、ぼくらだけではないということ。目の前にいる彼がおそらく傀儡である以上、口封じは不可能。今ここにある戦力がナザリックのごく一部であることは幸いだった。

 

 ぼくだけの決定権ではないから、と、モモンガさんを振り向いて、問うてみる。

 

「だ、そうだけど?」

「……朱雀さんさえ良いのなら、私は別に構わない。あ・ら・か・じ・め、相談してもらえるのならな」

 

 おっとやぶへび。まだちょっと怒ってる。

 しかしあっさり通ったな。もう少し……、いや、どうだろう。あまり言葉の裏を読まない人だから、ぼくへの評価を含めて額面通りに受け取ったかな。それこそ一月あるんだからこっちの出方やら何やらたっぷり相談すればいいんだけど。

 

 ぼくとモモンガさんはそれでいいとしても。

 根本的に、ぼくがノコノコ指定された場所に出ていくことが耐えられない、と、たまりかねたように、悲痛な制止がひとつ。

 

「お待ちください! それでは……!」

「待たない。ぼくはさっき何と言った?」

「……っ!」

「ところで、護衛は連れていっても?」

 

 不満は汲んでやったぞ、と、デミウルゴスにアピールしつつ、単純な疑問としてリクに尋ねた。いくらなんでも2回目はひとりで外出させてくれないだろうし。索敵開始のときを数えたら3回目か。つくづく常習犯だな。

 

「そういうことも含め。すべて、君の判断に委ねるよ」

 

 判断に委ねる、ね。それを許容するとは言っていない、と。便利な言葉だ。

 

「……わかった。当日その時間、ぼくはここに来るよ。約束する」

「それでは、成立だ。こちらの暦には慣れていないだろう。多少の誤差には目をつむるよ」

「それはどうも」

 

 こぽ、と、ひとつ息をつく。

 当初の目的は果たした。ぼくらはまだ何も失っていない。一月後ぼくが暗殺される……、ことはないと思いたいけど。一応殺すより生かしておく方が有用なはず。

 

 用は済んだとばかりに、依然分厚い氷に隔たれている方向へとリクは踵を返し、去り行く前に、ひとこと。

 

「ひとつ忠告させてもらうなら、獣の手綱を離す癖があるのはいただけないな。私には君が自ら望んで破滅へと向かっているように見える」

 

 思わぬ忠告に、ちか、と、ひとつ瞬く。

 獣、っていうのは、あれか、深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)か。いや、でも、多分、あれがいなかったら今頃ぼく法国にいるだろうし……。これは言い訳か。

 

「……肝に銘じておくよ」

 

 素直にそう返せば、リクは、ふ、と吐息のような微笑みをこぼし、文字通り姿を消した。

 印象はそう、悪くないと決め込んでいるのだけど。一月後にあるのが平和な対談であればいいな、と、心底から思った。

 

 

 

「……デミウルゴス、<次元封鎖(ディメンジョナル・ロック)>は」

「……いいえ、モモンガ様。解除しておりませんでした」

 

 何はさておき、どこから見ているかわからないから、と、ナザリックの前までみんなで転移して。アウラが周囲を警戒し、何もいないことを確認している間、モモンガさんの問いにデミウルゴスが否と答える。

 リクが転移したとき、<次元封鎖(ディメンジョナル・ロック)>は解除されていなかった。転移阻害をすり抜けて転移する術があるということだ。ユグドラシルの魔法が蔓延する以前からいた生き物だというから、位階魔法に縛られる存在ではないということだろう。つくづく敵対したくないな。

 

 それから。

 リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが運ばれるのを待つうちに、我慢の限界だったアウラとマーレに泣きつかれたり、ぼくの無事が確認されたことで出てきた残りの守護者たちから盛大なお帰りなさいを食らったり、氷結牢獄に漆黒聖典をしまい込んだり、インクリメントに号泣されたり、ワールドアイテムを宝物殿に戻したり、そういったことを片っ端から対処して。

 

 現在地は第九階層、モモンガさんの私室である。

 応接室でローテーブルを挟んで対面するよう促されて、なんだか久しぶりのお茶をいただいているところだ。おいしい。

 

 それでこの部屋、すっかり人払いが済まされていて、八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)どころかメイドひとり置かれていない。ぼくとモモンガさんの他には、ぼくらがいない間のナザリックの様子を報告しているアルベドだけだ。その彼女も、今からモモンガさんが部屋の外に出そうとしている。

 

「アルベド、玉座の間に主要なシモベを集めてくれ。二時間後だ」

「畏まりました。では、失礼いたします」

 

 ……なんだか嫌な予感がする。

 

 だってモモンガさんぼくに詰め寄ろうとしたセバスに「明日にしろ」って言ったんだよ。今回のことは全面的にぼくが悪いから説教の3つや4つくらい覚悟してたんだけど。

 大事な話、っていうだけならまだいいけれども。

 

「遅くまですみません。ちょっと、ナザリックの方針について、周知しておきたくて」

「……方針?」

 

 いや遅くなったのは主にぼくのせいだから、と、謝る間もなく。

 モモンガさんはじっとこちらを見ながら口を開き。

 

「アインズ・ウール・ゴウンの名前を、世界に知らしめたいんです」

 

 ひどくまっすぐな声で、そう言った。

 

 

 

 

 




Q.漆黒聖典こっそり死んでない?
A.パンドラがちょいちょい回復してくれてるからへーきへーき


法国の心配をしていただいた方々には申し訳ありませんが

・教授のMPがほぼ0
・デバフマシマシLV64
・そもそもコキュートスとの勝率が0:10
・この場にツアーがいる
・「自由意志のない状態」で「法国の管理下」に置かれても大した脅威ではない
・ちょっと今法国に滅亡されると困る

等々の理由から朱雀さん洗脳√は回避と相成りました。割とギリギリまで悩みましたが前々からやってみたかった展開があるのでどうかお付き合いいただければ幸いです。


次回、一世一代の説得


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死の支配者(オーバーロード)の水葬・前編

前回のあらすじ

ツアー「後で面貸すなら漆黒聖典(そいつら)くれてやるよ」
朱雀 「やったぜ」

モモンガ「アインズ・ウール・ゴウンの名を世界に知らしめたいんです」
朱雀「」


水葬:棺を沈める、船に乗せて流すなどの手段で、海や川に死体をほうむること。


お待たせしました。ねっとり会話させてたら遅くなっちゃった




 ぐずぐずと、べたついた雨みたいな憤りが、胸の内を荒らしている。慣れ親しんだ酸の雨はもう、よほどのことがない限り見ることはないのだろう。けれどもたしかに、俺の中にあったはずの寛容さや余裕を溶かして食い荒らす、激流のような感情があるのを、認識せざるを得なかった。

 

 あるいはそれを見抜いているのか、死獣天朱雀さんは俺の発言をじっと飲み込むようにして黙り込んでいる。水の中にあるふたつの光をちかちかと点滅させながら、いつものように、襟の後ろに手を添えて。

 白磁に金縁のティーカップには赤褐色の液体が熱もないまま残っていて、とつとつと刺すような秒針の音を受け止めるように凪いでいた。

 

 ……どうしてこんなに長い時間考え込んでいるんだろう。察しの良い朱雀さんらしくない。俺は、なにかおかしなことを言っただろうか。

 それともさすがに説明が足りなかったかと、補足のために口を開こうとしたとき。

 朱雀さんが意を決したように、顔を上げた。

 

「アインズ・ウール・ゴウンの名を、世界に知らしめたいっていうのは……、ユグドラシルのときみたいに、ってこと?」

 

 探るような、怪訝な視線に、む、と心がささくれる。わかってくれたというのに気分が晴れないのは、そこにささやかながらも明確な「反対」の意思を感じたからだ。

 それでも今の段階で意見を対立させるわけにはいかなくて、そうです、と答えを返せば、朱雀さんはもう少し具体的な内容を聞きただす。

 

「強大な戦力を持ち、あらゆる攻撃を許さぬほどに堅牢で、理不尽に対する報復を忘れない。そういう組織であることが、宣伝ではなく伝聞によって広域に知られている……、ことが望ましい、のかな」

「話が早くて何よりです」

 

 俺が出した曖昧な提案をちゃんとした枠に入れて返してくれて、ほっとする反面不安が過ぎる。そこに勘違いや理解の不足がないのなら、朱雀さんが妙に消極的な理由は、俺の提案そのものにあるということ。

 とりあえず、俺が何を思って意見を出したのかは、伝えなくちゃいけない。

 

「今回のことで思ったんですが、なんて言うかな……、侮られてると、危険な目に遭いやすいんじゃないかって」

 

 今回、朱雀さんがこっそり家出して、偶然接敵したという現地の特殊部隊・漆黒聖典。明らかに格下の相手だったにも拘らず朱雀さんに喧嘩を売った身の程知らず。朱雀さんが、できる限り殺さないように、と本人の身が危なくなるくらいに手加減していなければ、とっくに全滅していただろう。文字通り、影も形もなく。

 <麻痺(パラライズ)>や<睡眠(スリープ)>を使えばもう少し楽に立ち回れたんじゃないかと思わなくもないが、連中が中途半端に抵抗(レジスト)したのかもしれないし、朱雀さんにとっては5年前に触ったきりのゲームだから立ち回りを忘れていたっておかしくない。

 今はそこを責めている場合ではなく、そもそも責めるつもりもなかった。大事なのはそこじゃないからだ。

 

 いるのだ、世の中には。

 自分より弱いと見るや、徹底的に攻撃を加えてくる、どうしようもない連中が。

 

 まだ俺が骸骨の魔法使い(スケルトン・メイジ)だった頃、痛いほど思い知らされた。経験値やアイテムを稼ぐために自分より弱い相手を選ぶのは当たり前だけど、そういった効率や実利とは関係ないところで、わざわざ自我のある弱い相手をすすんで甚振る奴らがいるってことを。思い出したら腹立ってきた。

 

「もちろん、相手が強いってわかってても襲い掛かってくる連中はいますけど、抑止力? ってあるじゃないですか。必要だと思うんです」

 

 こっちの世界に来てからは、アインズ・ウール・ゴウンの名前なんてどこにもなくて。俺たちが何をしたのか、どんな伝説を打ち立ててきたのか、どういう理念で戦ってきたのか、誰も、誰ひとり、知らなくて。 

 

 だから、傾城傾国(ワールドアイテム)の的として狙われる羽目になった。

 

 ぞっとする。

 朱雀さんが騎乗用の召喚獣を呼び出していなかったら。

 俺への報告がもう少し遅かったら。

 シャルティアが捕虜を連れてきてくれなかったら。

 あの場で俺が、ワールドアイテムの存在に気づかなかったら。 

 

 こんなギリギリの綱渡りみたいな体験は、もう二度とごめんだった。もっと前の段階で、確実に、危険を遠ざける術が欲しい。

 ここがまだゲームの世界ならまだ受け入れられたかもしれないけど。ここは現実で、かつ異世界なんだ。不要な危険はできる限り避けておきたかった。

 

 牽制が必要だ。

 俺たちが誰で、何をしてきたのか。

 俺たちに何をしたら、どうなるのか。

 

 知られていれば、手を出されないかもしれない。

 手を出すことを、ためらうかもしれない。

 

 ……それと、もうひとつ。

 

「あとは……、ギルドの名前が世に広く伝わっていれば、目印になるんじゃないか、って」

 

 目印。少なくとも近隣諸国にはいないという、もしかすると俺たち同様転移してきたかもしれない、アインズ・ウール・ゴウンのギルドメンバーへの。 

 わかっている。こちらに来ている可能性が低いっていうのは、わかっているんだ。

 それでも、彼らがどこか遠いところで、心細く過ごしていると思ったら、何もせずにはいられなかった。

 

 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、朱雀さんはそっと、確認するように尋ねる。

 

「……ぼくとアガネイアの会話は聞いてたよね?」

 

 ……ええ、もちろん。聞いていましたよ。

 そして覚えています。

 

 

『アガネイア。先んじて言った通り、ぼくが望むのは『平穏』ただひとつだ。嘘偽りなく、ぼくらは外界との不用意な関わりを望まない』

『ならば──』

『ならば、の続きはこうだ。我々の介入によって特定の勢力が政治的に利害を得るのならば、ぼくはそれを看過することはできない』

 

 

 ──ああ、嫌だな。何が嫌って、自分が嫌だ。

 処世術だとわかっているのに、この短時間で呼び捨てあう仲になっているのが気にくわないと感じている心の狭さが。

 行動を縛りたくないと思っていたくせに、いざ出ていかれると狼狽えるしかない準備力のなさが。

 こんなに頭が良い人が反対しているのに、自分の意見を通すなんてできるわけないじゃないかと、勝手に劣等感を覚える卑屈さが。

 

 それらすべてを、ひといきに、ぐっと飲み込んだ。

 できるだけ、嫌われるのを先延ばしにしたくて。

 

「……聞いていました。それについても、ちょっと、お話が」

「うん?」

「教えてください。彼は一体誰で、二人のときに、何の話をしてたんですか」

 

 評議国の要人で、危ないところを助けてもらった、っていうのは聞いたけど。そもそも朱雀さんが彼を見つけて会いに行ったから危険な目にあったわけで。ざっくり説明は受けたにしても、あの場で聞いた短いものだけではとても納得できはしなかった。

 

「……聞くところによれば、彼はアーグランドで要職に就いているリク・アガネイアという名士であり……。話の内容は、そうだな、挨拶や世間話を除けば……、お互いの立ち位置について」

「立ち位置?」

「そう。我々がこの世界で、何を望んで生きるのか」

 

 この世界で何を望むか。リク・アガネイアの問いかけに対し、朱雀さんはこう答えた。

 自分たちはただこの世界で心穏やかに過ごしたいだけで、今この世界に住んでいる人々の脅威になるつもりはない。そのためにも、自分たちの周囲に敵となる存在がいないか証明しなければならない、と。

 

 正しい。なにも間違っていない。

 俺たちは別に好き好んで侵略行為がしたいわけじゃなくて、ただただ身の安全を確保したいだけだ。俺たちの意見は一致している。

 

 なのに、こんなにも、腹の内がもやもやするのは。

 あからさまに情報を隠されているからか。俺に信用がないのか。以前相談されたときに何かまずい答えを返しただろうか。それともギルド長としての働きに不満があったのか。

 アインズ・ウール・ゴウンの名前を広めることを嫌がるのはどうしてなんだ。脅威になるつもりがない、というリクとの約束の方に重きを置いているからなのか。転移してきているかもしれない他のメンバーのことはもうどうでもいいのか。

 そういえば朱雀さんは一月後に身柄を要求されているんだったか。そのことも考えなくちゃいけない。護衛、護衛をつけてどうにかなるのか? そもそも朱雀さんを呼びつけて何がしたいんだ。あらかじめ相談してくれとは言ったけど、相談、相談して、くれるんだろうか。何も言わずに出て行ったのに。

 

 うずまきじみて思考がめぐる。駄目だ、ちゃんと話を聞かなきゃ。

 そう思い直し、改めて視界に入れた朱雀さんは、組んだ足の上で指を組み、ゆったりと話を続けている。いつもはまったく思わないのに、やけにその余裕が癪に障った。

 

「話が通じるプレイヤーというのはとても貴重だと言っていたよ。脅威を野放しにするリスクを背負ってでも、期待をかけるくらいには」

「貴重、ですか?」

「観測できる範囲では、存命しているプレイヤーはいないそうだ。大体が同士討ちで亡くなった、と聞いた」

 

 同士討ち。

 思いつく限りでは最も避けたい状況に、ぶるりと身が震える。

 

 今回想定した最悪の事態がそれだ。朱雀さんを盾に、ナザリックへと攻め込まれること。想像しただけで怒りで吐きそうになって、すぐに沈静化された。起こらなかったことに対して負の感情を持ち続けるのも良くないと、わかってはいる、が。

 心情的な問題とは別に、戦闘面でも厄介なことになっていたのは間違いない。朱雀さんが展開する召喚獣をくぐり抜けて、連中だけを殺す……、ことができればいいが、そう簡単にはいかないだろうし、操者が近くにいてくれるとも限らない。とりあえずコキュートスにまとめて凍りつかせるのが一番早くて確実だったろう。胸糞悪い、ということを度外視すれば、だが。

 

「……頻繁に起こるものなんですか。そんなものが」

 

 あってほしくない。あってはならない。考えたくもなかった。

 今回みたいな外的な要因で起こるものでも胃が痛いのに、殺し合いにまで発展するほどの仲間割れなんて、何があったらそんなことが起こるんだろう。意見の対立で、と記憶を漁れば、思い出すのはナインズ・オウン・ゴールの時代。たっちさんと合わなかったあの人も、PvP(殴り合い)の喧嘩になる前に自主退団したし、それだってゲームの中での話だ。

 リアル、は、どうだろう。意見を突き合わせるほど仲良くなった人がいないからわからない。テロはニュースでしょっちゅう見たけど、なんであんなことするんだろうってずっと不思議に思ってた。意見を通したいから暴れるってどういうことなんだろうって。

 

 もし、万が一そんなことになったら。

 ……無理。無理だ。理性じゃなくて感情がついていかない。

 

 だってそんなことになったらNPCたちはどうなる? 頭がふたつに分かれるなんて、仲違いなんて軽い言葉では済まない。派閥ができて、抗争になって、それから、それから。

 背筋が凍り付いたみたいに冷たくなる。殺すNPCと殺さないNPCを選ぶ。ギルドの仲間が作ったこどもたちが、ギルドの仲間へ攻撃することを許容する。仲間を、攻撃するために、指示を、出す。

 

 嫌だ。嫌だ。耐えられない。

 そんなことは絶対あっちゃいけない。いけないんだ。

 

 ──それなのに。

 朱雀さんは、困ったように微笑んで。

 

「そりゃあ、元は普通の人間だもの、いろいろあるでしょ。痴情のもつれとか?」

 

 くつくつと、かろやかに笑いながら言うものだから。

 かっ、とないはずの血が頭に上った。

 

「茶化さないでください!」

 

 思ったよりも(かたく)なな声が出たことで、笑い声がぴたりと止まる。しまったと戸惑う反面、苛立ちは冷めなかった。

 

「……こっちは気が気じゃなかった。ワールドアイテムの洗脳は簡単には解けない。一刻もはやく向かわなきゃいけないのに、準備を怠るわけにもいかなくて」

 

 堰を切ったように、言葉が流れ落ちていく。意識の隅で「やめておけ」と冷静な自分が言うのに、どうしても止められなかった。

 

 支度を整えている間も、焦燥と自己嫌悪で頭が割れそうだった。

 傾城傾国による精神干渉を解除する手段は確かにある。が、強大な力を持つ使いきりのワールドアイテム「二十」を消費することは避けたかった。今後他の「二十」に対抗しなければならない状況に追い込まれるかもしれないし、消えたアイテムが別の誰かのところにリスポーンするかもしれない。そうやって考える時間さえも惜しくて、仲間とアイテムを天秤にかける自分が嫌で仕方なかった。

 

「怖かったんです。今回、本当に。本当に怖かった。朱雀さんと、ナザリックのNPC(こども)たちが、殺し合うことになるんじゃないかって」

 

 未然に防ぐつもりだったし、未然に防ぐことができた。そうじゃなかったとしても、策を講じるつもりではいた。

 それでも平気だったわけじゃない。ちっとも冷静でいられなくて、自分の中のどこにこんな殺意があったのか、とうすら寒くなるくらいには怒りに満ちていた。

 

 そう、怒っていた。怒っている。

 今も! 俺は、怒っている!!

 

「なのに、どうして、朱雀さんはそうなんですか! そんな簡単に、()()ことを受け入れて、自分から敵を作る気でいてどうするんだ!!」

「いや、ぼくは……」

「なんで自分の身の安全を第一にしない! それじゃこっちだって守れないだろ!? 一人で勝手に出て行って、得体の知れない相手の前にのこのこ顔を出して、殺しにかかってきた連中をわざわざ生かして! 乱入してきた蜥蜴人(リザードマン)だって放っておけばよかった! なんで危険な方を選んで突っ込んでいくんだ!!」

 

 敵にデバフはかかっていなかった。それは<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>の諸々の効果を解除コストとして朱雀さん自身が受けたということで。蜥蜴人(リザードマン)を巻き込まないように魔法を解除したのだと、容易く予想がついた。

 

 信じられなかった。理解できなかった。

 八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)を無力化してまで外に出る理由が。深淵宮殿の門番(パラティ・ヒェリ)を軽々とねじ伏せる相手と一対一で話ができる神経が。襲い掛かってくる複数の相手に手加減できる理性が。蜥蜴人(よわいもの)のために不利を受け入れる献身が。

 

 今の感情が怒りなのか、妬みなのか、恐れなのか。

 もう自分でもよくわからなくなっていた。

 

「何がぼくの怒りはぼくのもの、だ! 怒るに決まってるだろ! 仲間が、傷つけられて! 良いように使われるかも知れなかったのに、それを……っ! ……、抑制されたか、クソ……」

 

 燃えるような怒りが瞬時に鎮火し、しかし奥底でぶすぶすと燻る。同時に冷静さが戻ったことで、申し訳なさがじわじわと染み出してきた。

 相手の発言を封殺して、言いたいことを一方的にぶつけるなんて、いい大人のすることじゃない。さっきも止められたじゃないか。向こう(アガネイア)の要求に不満があったのは確かだけど、それにしたって怒りをぶちまける相手を間違えたと、反省したつもりだったのに。

 

「その、怒鳴ったのは、すみませんでした……。けど、あー……、撤回をするつもりは、ないです」

 

 間違ったことは言っていない。……はずだと、自分では思う。感情のままに怒鳴りつけたから、ちゃんと伝わったかどうかは怪しいけど。

 とは言え、毅然と自分の正当性を主張する気にまではなれなくて、そろそろと這い寄る不安に促されるまま、朱雀さんの顔色を窺う。

 

 怒っただろうか。呆れているだろうか。怖がられたかもしれない。

 それとも面倒なクレーマーみたいに思われてたらどうしよう。

 

 最後にこれだけは、と、懇願をひとつ振り絞る。

 

「……あんまり、無茶を、しないでください。お願いします……」

 

 結局のところ、言いたいことはそこに集約されるのだ。傷つかずに、無事でいてほしい。それだけだ。朱雀さんのためというよりは、俺の心の安寧のために。

 ……そう、「お前のためを思って言ってるんだ」っていう言葉は上司から何度も聞いたことがあるけど、それが本気でためになると実感したことなんて一度だってありはしなかった。

 

 果たしてそんな思いが伝わっているのかどうか。外からはわからない。凪いだまま静かに言葉を受け止めているようにも、静けさの中に嵐を閉じ込めているようにも見える。

 

 朱雀さんは、ふいにカップを手に取り、すっかり冷めきったお茶を飲み干して。

 

「……本当に、ずいぶん心配をかけてしまったんだな、ぼくは」

 

 ぽつり、とつぶやいた。

 

 ようやく理解したのかと思わなくもなかったけれど。

 それを指摘する言葉は出てこなかった。その声が、あんまり寂しそうで、澄んだものだったから。

 

「まったくもって不甲斐ないな。まだ道理を解さない悪童(ワルガキ)の頃でさえもう少し慎重だった。転移と一緒に自制まで置いてきたかな」

「……本気で言ってるなら検証した方が」

「冗談だよ。……焦りが出たんだな。足場を確保するのに必死で、まわりが見えていなかった」

 

 だから大事なことも言い忘れるんだ、と、カップをソーサーに置いた朱雀さんは、まっすぐ俺の方へと向き直り。

 

「ただいま、モモンガさん」

 

 少しはにかんだ様子で、そう言った。

 

 同時に、胸の奥で燻っていた燃え残りのような怒気が、しゅん、とかき消えて。じりじりと、別の感情が湧きあがってくるのを感じていた。

 

 安堵。帰る家があるという、安心感。

 なんのことはない、ゲームの中でも軽く使われていた言葉だ。まだたくさんのメンバーが残っていた時代。狩りから帰ったとき、イベントに顔を出して戻ったとき、他のギルドを潰してきたとき。ナザリックで待機しているメンバーが、その一言と一緒に迎えてくれた。

 

 そう、俺にとっては、外で仕事をして、ナザリックに戻るまでが「帰宅」だったけど。リアルからユグドラシルに来るときに使うひとは、結局。

 

 でも、いまは違うんだ。

 ここが。此処こそが。

 

「いえ……、いいえ。こちらこそ、すみません。偉そうにして」

「ふふ、新鮮だったよ。この齢になると叱られることなんて滅多にないものだから。……正直、すこし堪えた」

「わかっていただけたようで、何よりです。ええと、……おかえりなさい」

「はい、ただいま」

 

 言いつつ、朱雀さんはポットから二杯目のお茶を注ぐ。透明な茜色の液体はあたたかな湯気を上げてカップを満たした。

 

「これ言ったらまた怒られそうだけど。もしものことがあっても、蘇生のひとつでもするものと思ってたんだ」

「……それは、俺のことを見くびり……、いえ、買い被りすぎです」

 

 確かに、「アインズ・ウール・ゴウンのメンバー」ではなく、「一人のプレイヤー」として割り切ったなら、蘇生実験を行うメリットは大きいだろう。プレイヤーの蘇生は可能なのか、から始まり、レベルダウンの仕様の検証、死後の魂がどこにあるのかまで。

 だが、そういった一連の実験を仲間に対して行えるほど非情にはなれないし、割り切る度胸もなかった。

 

「第一、朱雀さんが言ったんじゃないですか。蘇生ありきの考え方は好きじゃないって」

「あいにく齢だから自分の言ったことを長い間覚えてられないんだよね」

「ぜったい嘘でしょ、それ」

 

 そんな軽口を叩きながら。

 俺たちはナザリックに帰ってきてからはじめて笑いあったのだった。

 

 

 

「さて、自称リク・アガネイアについて、もう少し補足をしてもいいかな」

「自称」

 

 気を取り直して、と言わんばかりの軽妙な語り口。すでにお茶は三杯目がなくなりかけている。

 自称に関しては俺も適当な名前を名乗ったから別にいいんだけど、も。

 

「偽名に対して本名名乗ったんですか?」

「ぼくが頭に死獣天をつけなきゃならなくなった理由、もう一回話す?」

「まあそうですけど」

 

 朱雀に限らず、四聖獣はいつの時代も有名で人気だ。ユグドラシルは他プレイヤーとアカウント名の重複ができなかったから、「ス・ザァーク」とか「朱雀王」とか「☨朱雀☨(アカキハネノホロビ)」なんてのもいて、もしユグドラシルの事情に詳しいプレイヤーがいても「朱雀」とだけ伝えているのならまず特定は……、どうだろうな。朱雀さん見た目が特徴的だから、かく乱はあまり期待できないかも。

 

「あくまでぼくの見解だけど。十中八九、彼はアーグランド評議国の永久評議員、白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)、ツァインドルクス・ヴァイシオン……の、端末だ」

「待ってくださいもう一回お願いします」

 

 情報量と驚きで内容が思いっきり頭を素通りした。なんて?

 間抜けな俺に朱雀さんはこころよく、もう一度丁寧にゆっくりとひとつひとつ区切って教えてくれた。もらっていた資料と照らし合わせて自分なりに整理をつけた結果。

 

「ここから北西にあるアーグランド評議国、の、実質トップのドラゴンで、普段は鎧をリモートコントロールしてその辺をパトロール? している? のを、朱雀さんが見つけた、と」

 

 ……想像していたよりも大物の名前が出てきた。評議国って言い換えれば評議会の国版ってことで、評議会、評議会ってなんだ? いろんな意見を寄せ集める会? アーグランド評議国は亜人種が集まってできてる国家らしいから、そこで各人種の代表が選ばれて運営してる、のか? そんな国で、永久的な評議員として選ばれている、ドラゴン……。

 

 すご、すごくない? すごいよな。結構気さくに話してたように見えたけど、国の代表なんだよな? でも、そうか、相手は偽名を使いっぱなしだから、こっちが向こうの素性を知ってることは、まだ知られてない、のか。

 

「よくわかりましたね。ええと、ツァインドルクス・ヴァイシオン? だって」

「まだリク・アガネイアで通しておいた方が無難かな。槍の坊や……、あー、漆黒聖典の隊長格が本名で呼んでたから、多少ボロが出ても大丈夫だとは思うけど、一応」

 

 朱雀さんの提案に首肯で返す。

 教えられた名前で通すところはネットマナーと同じだろう。うっかりこちらが知りえないはずの情報を吐き出して無闇に警戒されるよりずっとマシだ。

 

「ああ、そうですね。そうしておきます。……そうか、そこで確証を得たんですね」

「ご協力ありがとう。……まあ、本人確認はまだ済んでないけど」

 

 冗談めかしてそう言った朱雀さんが続けることには。

 

 ツァインドルクス=ヴァイシオンは少なくとも600年の時を生きる竜であり、500年前こっちに転移してきた「八欲王」に一族をほぼ皆殺しにされ、世界の法則を塗り替えられたことで、プレイヤーに対して非常に強い警戒心を抱いている。

 だからと言ってプレイヤー絶対殺すマンになっているかと言えばそうではなく、新たにやってきたプレイヤーが世界に対してどのようなアプローチをするか、100年ごとに見定める役目を己に課している存在だ、とのこと。

 

 なるほど、朱雀さんを助けた、というよりは、漆黒聖典と敵対していた、が正解なのか。

 相性が悪いはずだ。スレイン法国はプレイヤーが建国したと思われる人間至上の国なんだから。頭に血が上っててそんなことを考える余裕もなかった。

 

「……合点がいきました。だから漆黒聖典の身柄を欲しがったんですね。というか、くれてやっても……、……いえ、なんでもないです、すみません」

 

 一瞬、恩を売っておくことに越したことはないんじゃないかと思ったが、情報の塊をそのまま明け渡すのはあまりにもリスキーだし、なによりあの場で激怒して拒否った俺が言うことじゃない。

 襟元を押さえた朱雀さんが頭を傾ける。んん、とひとつ唸り声。

 

「モモンガさんのことがなくても、彼らを丸々引き渡すのは避けたかったんだよ。さっきもアガネイアに言ったけど、ぼくはあらゆる国に対して政治的な介入を望まないし、法国の軍備に穴を開けることは望ましくない」

「……ちょっと待ってください」

 

 政治的な介入、はともかくとして。法国の軍備に穴を開けない、ということは、つまり。

 

「まさか、漆黒聖典も放流するつもりなんですか?」

「記憶処理してからね」

「いや、それはそうでしょうけど、そうじゃなくて!」

 

 呼吸はできない。が、たっぷり深呼吸一回分の間をあけて、つとめて冷静に。

 

「生かして、おくんですか?」

 

 尋ねた声は思ったよりも低く響いた。

 さっきまでの汚泥を煮詰めたような怒りはもうないが、不愉快であることに変わりはない。見せしめにするかしないかを話し合うくらいで、消すのは確定事項だとばかり考えていた。

 

 そんな俺に、朱雀さんは柔らかな、けれども真摯な語調で理由を説明する。

 

「別に情けをかけるつもりじゃなくて。ぼくが避けたいのは、アーグランドとの諍いだ」

「? スレイン法国、ではなく?」

「たとえばだけどモモンガさん。ナザリックから100レベルの守護者が全員抜けたら、どうなると思う?」

「……戦力に限定すれば、ナザリック総力の1割に満たないでしょう。けど、運営がもう、成り立たないんじゃないですかね……」

 

 転移してきて数日だが、骨身にしみて理解していることがある。ナザリックの運営はもはや、彼らなしでは立ち行かない。

 広いんだよな、ナザリック地下大墳墓。俺が住んでたあのちっさい部屋でさえ掃除やメンテナンスが面倒くさかった。ましてやこの規模、この人数。それに防衛面も加わるとなれば、各階層の要素ひとつひとつを管理なんてしてられない。

 そうでなくても彼らはギルドメンバーが創った大事なキャラクターだ。人数比、戦力比に拠らない価値がそこにはある。

 

「実際には漆黒聖典に行政権も軍の指揮権もないだろうし、求められている役割も違うだろうけど。で、実際いなくなったら探すよね?」

「それはもう徹底的に」

「その情報をアーグランドが握ってるわけだ」

「む」

 

 かち、とかすかにカップを鳴らして、朱雀さんは語る。

 

 漆黒聖典というのはスレイン法国にとって重要な存在だ。単純に最大戦力を有しているということもあるが、どちらかといえば宗教的な意味合いが強い。秘密部隊でありながら、存在理由に象徴的なものが含まれている。

 それが、何がしかの命を受けて外に出たまま、一向に帰ってこない。一大事だ。まず原因の捜索が行われる。

 

 法国の有する探知能力からいって、その捜索自体にナザリックが見つかることはないだろう。が、傾城傾国を持った漆黒聖典をどうにかできるものなんてここらの勢力では限られている。竜王か、プレイヤーか、だ。

 

 法国と評議国の関係は良いものではない。法国が多少混乱したところでわざわざ俺たちのことを教えてやる義理は評議国にはないだろう。

 しかし、法国が評議国に対してなりふり構わず情報を求めてきた場合はその限りではない。自分たちが疑われないようにナザリック(おれたち)の情報を売るくらいはするかもしれないし、すでに法国抜きでナザリックと交渉を開始しているように、法国に対しても条件付きで交渉をするかもしれない。

 そういった情報を逐一確認するために──

 

「──あちこちに間諜紛れ込ませるよりは、都合よく記憶処理した彼らを国元に返してやった方がローコストだと思うんだけど」

「むむ」

「もしきみの感情以外に反対理由があるのなら遠慮なくどーぞ」

「むむむ」

 

 正直なところ。

 殺しておきたい、というのはほとんど俺のわがままだ。

 PKには報復する。それがナインズ・オウン・ゴールから引き継がれているアインズ・ウール・ゴウンの理念ではあるが、メンバー全員に強要しているわけでもないし、襲われた本人がこれだけデメリットを主張するのなら、これ以上俺が食い下がるのは難しいだろう。

 

 しいて、気にするとすれば。

 

「……守護者たちがどう言うか」

「ぼくが説得する」

 

 即答。断言。

 できる、ではなく。やる、という、確固たる意志。

 

「誓うよ。きみが、復讐も成さぬような不甲斐無い主だなどと、不当に貶めることは絶対にさせない。約束する」

 

 水の中のともしびが、俺の目をまっすぐに貫く。つよいひかり。まさしく誓約であると示すような、有無を言わせない雰囲気がそこにはあった。……だが。

 

「『俺が』? ……朱雀さんは?」

「ぼくは少々腰抜け扱いされても良いんだよ。その方が後々楽なんだから」

「あっずるい! じゃなくて! 駄目ですよ! 朱雀さんの名誉もいっしょに守られないと!」

「はいはい」

「も~~~!!」

 

 打って変わって気の抜けた返事をよこす彼に一通り憤り、ふと、懸念材料を思いついたので投げかける。

 

「敵に兵を返した、っていう名目でアーグランドが敵対してくることはないですかね」

「話した感触ではそこまでしたたかな印象は受けなかったな。中途半端に有利な交渉材料を得るよりは、真摯な対応を是とするように見えた」

「中途半端、ですか」

「戦力的には取るに足りないからね。端末で相手してても余裕そうだったし」

 

 ……?

 

 漆黒聖典を脅威とみなしていたから、装備ごと奴らの身柄を要求したんじゃないのか? 確かに、強めに要求した割にはすぐ退いたように見えたが──

 

 ──ああ、そうか。

 

「リク・アガネイアが本当に欲しかったのは。漆黒聖典の身柄じゃなくて、朱雀さんともう一度会う口実だったんですね」

「お」

 

 正解、の響きが含まれた声音にちょっと気持ちが浮いて、直後に深く沈んだ。

 

「……行くつもりなんですか」

「もちろん」

「罠かもしれない」

「かもね」

「だったら!」

「ぼくの長所はね、モモンガさん。できない約束をしないところだ。反故にするわけにはいかない」

「なんで仲間の長所を守るために仲間の命を危険に晒さなきゃいけないんですか!」

「あははは」

「笑い事じゃないですよ!!」

 

 なおも食い下がろうとする俺を、朱雀さんはひらりとひとつ手を振っておさえた。こどもをあやすような穏やかな声が響く。

 

「相談すれば構わないと言ってくれたじゃないか」

「言いましたけど……」

「大丈夫、大丈夫だよ。加減していたとはいえ漆黒聖典(格下の脅威)を即座に排せないぼくに求められているのは、力ではなく知識、あるいは知恵だ。むやみに害されるようなことにはまずならない」

「わからないじゃないですか、そんなこと」

「わかるよ。この機会を逃せないのはぼくらではなく彼らだ。100年にたった一度、強欲で繊細なプレイヤーの中で、真偽はともかく世界に対して『何も望まない』と断言する者などおそらく今後現れない」

 

 何も望まない、という言葉に、どきりとする。緊張からか、心臓もないのに心拍数が上がるような錯覚も。

 

 そう、話が戻ってきただけだ。俺から切り出した話だった。

 なのに、「来てしまった」と思う自分がいる。幸か不幸か、冷静になった今でも、自分の中の考えは変わっていなかった。

 

「勝手にそんな宣言をして悪かった──、とは言わない。あのときはああ言うしかなかった、とも」

「……ええ、そうでしょうね。俺も覚えています。以前朱雀さんが言っていたことを」

 

『この世界にはすでに確立された文化があって、種族ごと、人種ごと、国ごとに多様性がある。それは彼らが個々に積み重ね、培ってきたものだ。彼らは発展する権利と滅びる権利を同様に持ち合わせている。ぼくらのような異物にそれを奪う権利は無い』

 

 忘れてはいない。わかっている。行為の善悪に関係なく、抑止力になる程度に名前を広めるということは、すなわち。

 

「反対、なんですね、そもそも。アインズ・ウール・ゴウンの名前を、世界に知らしめようというのが」

 

 わかってはいたものの、改めてはっきりと言葉にしてしまって、ずん、と気分が重くなる。さっきまでの、沼の底をかきまわしたような情念こそないが、複雑な気持ちはぬぐえない。負け戦に挑むような重圧も付与されて、気分は敗走途中の殿(しんがり)だ。

 仮にも営業職だったから最低限の交渉術は会得しているつもりだけど、話術よりも資料でごり押しするタイプだったから、いまは圧倒的に準備不足なんだよな……。

 

 それでも、今回ばかりは退くわけにはいかない。からっぽの腹に力を入れ直し、気分とともに俯いていた顔をぐっと上げれば。

 白い手袋が襟を何度か撫で擦り。猫が喉を鳴らすような吐息が、こぽり、と。

 

「ちょっと露骨だったかな」

「いえ、感覚じゃなくて理屈で反対されてるのがようやくわかったので。……だからって、その、諦める気にはまだ、ならないですけど……」

「どうしても駄目?」

 

 身を低くして、覗き込むような形で朱雀さんが問いかけた。懇願と取られかねないその響きは、けれど不思議とへりくだったような印象を受けさせない。

 

「ダメ、ではないですけど、他に、方法が……」

「あるのをわかって言ってるよね」

「う」

「今回ぼくが無駄な危機に陥ったのは、ぼくが連中を捕捉し損ねた上にろくに準備もしないまま慌てて一人で行動したせいであって、そこにギルドの知名度は一切関係がない。今回みたいなことはもう起こらないよ」

 

 不用意なまま外へ出ていかない。出るときは必ず誰かに伝えてから行く。少し治安の悪いところに出ていくのなら、誰だってやっていること。それを怠った結果が今回、というだけで、そこに過剰な防衛は必要ない。

 朱雀さんはそう告げた。

 

「もしそれで不安なら、アーグランドに後ろ盾を頼んだ方が早いし確実だ。ギルドメンバーの捜索についても力を貸してもらえばいい。こっちに来たばかりのぼくたちよりもずっとこの世界に詳しいんだから」

「いや、いやいやいや! 軽く言いますけど! そんな要求飲ませるとしたら、どれだけ条件をつけられるか……!」

「そこまで無理なことは言われないよ。ぼくらが思っている以上に、彼は協力的なプレイヤーの確保に必死だ。大した条件がなくても向こうは飲むよ。飲ませる」

 

 頼もしいその言葉が、相反して俺を追い詰めていく。

 根拠がない、危険だ、と強固に反対することは可能だ。が、それを言うなら俺の案だって中身が固まっているわけじゃない。

 実際、「漆黒聖典全員の記憶処理」が最低ラインだったのを、「装備含めた身柄の確保」まで持っていったのは朱雀さんだ。次に会う日取りももう決まっているし、交渉しようと思えば本当にできるんだろう、けど。

 

 ……けど。

 

「新参のぼくらが名を上げようとするとどうやっても角が立つ。……立てる気で突出するつもりなら止めないけど、おすすめはしないな」

 

 柔らかな物言いの、しかし実質的な拒絶。

 

 名声には衝突がつきものだ。何かを助ければ何かの敵になる。全方位に対して利益になる売名などあり得ない。ナザリックを守るために名声が欲しいのに、敵を作ることになれば本末転倒だというのは、わかっている。

 

 ……わかってはいる、が。

 

「もう一度聞いておこうか」

 

 そんな逡巡や鬱積を見透かしたような、すずやかな声が胸に落ちた。

 

「きみはなぜ、アインズ・ウール・ゴウンの名を、世に知らしめたいと?」

 

 促されて、しばし、言葉を失う。

 さっき俺が言った理由を、朱雀さんが忘れているとは思えない。

 だからこれは、この質問は、暗に「他に何かあるんじゃないのか」っていう詮索の意味を持っていて、そしてそれはおそらく正しいものだ。

 

 だって、俺がここで諦めたら。

 

 ()()()()()()()じゃないか。

 

 ……? 終わる? なにが?

 

 決まっている。

 

「俺は、そこまで評議国を……、いえ、いいえ。信用の問題じゃなくて。別に、評議国の下につくのなら、それはそれで良いんです」

 

 俺は、そう、俺は。

 

「このままだと、俺たちのやってきたことが、作り上げてきたものが、誰にも知られないまま埋もれてしまう」

 

 ()()()()()()()()()()()()()んだ。

 

 ナザリック地下大墳墓が。

 アインズ・ウール・ゴウンが。

 

 亡き者にされるのが我慢ならない。

 

「風化させたくないんです。アインズ・ウール・ゴウンの伝説を。『かつてあったもの』にしたくない」

 

 アインズ・ウール・ゴウンは俺のすべてだ。

 青春であり、人生であり、かけがえのない故郷である。

 俺の帰る場所はここしかない。

 

 それがまるで本当の墓所のように朽ちてゆく。

 それは、そんなのは、到底。

 

「朱雀さんの考えとは違うかもしれない。でも俺は、俺には、ここしかないんです。俺が心から誇れるものは、アインズ・ウール・ゴウンしか残っていない」

 

 朱雀さんはきっと、どこへでも行けるんだろう。無理に引き留めるつもりはないし、なにより引き留める材料がない。

 朱雀さんが「新しい出会い」を望むのなら、それだけは、ナザリックが用意できないものなのだから。

 

「朱雀さんが嫌なら、無理に巻き込もうとは思いません。誰と敵対することになっても、責任は俺が取ります」

 

 外からの攻撃も、中からの重圧も、全部俺が引き受けたっていい。

 

 ただ、ただ。それでも。

 

「でも、もし……、もしも、なんとか折衷案を見つけ出して、一緒にやっていけるのなら、それは、すごく、嬉しい……、です」

 

 とても難しいことだ。だが、外の何をも損ねることなく、アインズ・ウール・ゴウンの名前を広げる手段があるのなら。それは結局、アインズ・ウール・ゴウンには、できなかったことだけれど。いま、この異なる現実の世界なら、もしかしたら、ほんのわずかな可能性でも、あるんじゃないかって。

 

 あるいはNPCに案を募ったっていい。なんだっけ、三本の矢は折れない、じゃないけど。ふたりきりで考えるよりは多くのアイデアが集まるだろう。突飛な計画が出ても、暴走しないようにこっちで舵取りすればいい。

 

「どう、でしょうか……」

 

 恐る恐る尋ねるも、返事はない。水の中の光が消えているのは、目を瞑っている、と思っていいのだろうか。

 ここで急かしてもいいことはない、と内心そわそわしながらも返答を待った。カップの中は空っぽで、次の一杯が注がれる気配はない。

 

 どれだけの間そうしていただろう。しばらく沈黙していた朱雀さんの頭にふたつの光が灯り、顔を上げて、何かをあきらめたような声で、ひとこと。

 

「わかった」

「朱雀さん……!」

 

 ぱあっ、と、目の前が明るくなったようだ。

 ああ、やっぱり、話せばわかってくれるんだ、と、ほっと一息つこうとした。

 

 そのとき──。

 

「根本から、ひっくり返さなきゃならないことが、わかった」

 

──予想外の発言に、思考が止まる。

 

 肯定ではなく、否定であるということだけは理解できたが、根本的、とは。

 

 疑問を浮かべる俺に、朱雀さんは、ふ、とほほ笑んで。

 

「きみの呪いを解くところから始めよう。鈴木悟さん」

 

 

 

 

 

 

 




長くなったので一旦分けます。
今回話が全然進んでないんですがここの話し合いをすっとばすと遺恨が残るので許して

深淵宮殿の門番(パラティ・ヒェリ)
深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオス・オブ・ノーデンス)を倒した際にカウンターで召喚されるでっかい手。2話前でツアーさんの動きを一時的に封じるも、前話で難なくはたき落とされた。

・アカウント名重複禁止について
AOGのみなさん実に個性的なお名前なのであってもおかしくはないかなって 明確な記述はなかった気がする もし違ってたらまたこっそり編集します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

死の支配者(オーバーロード)の水葬・後編

箱に詰めて水に流す回。
前編を読んでいない方はそちらからどうぞ。

今回2138年の情勢についてもりもり捏造しているのでちょっとお覚悟


 ……なに? いま、なんて言った?

 完全に理解が追い付いていない。なぜならそれは、その名前は、朱雀さんの口からは絶対に出てくるはずがないものだからだ。

 

 鈴木、悟。

 俺が、ユグドラシルの外で使っていた名前。生まれたときにつけてもらった、とも言える。

 それをなぜ、朱雀さんが。

 

 ……いや、俺のことだ。前会ったときうっかり本名を口に出したことがあったかもしれない。記憶力にムラがあることは嫌というほど自覚している。

 

「……、俺、朱雀さんに本名名乗ったこと、ありましたっけ?」

「んー……」

 

 おそるおそる尋ねれば、返ってきたのはほとんど吐息のような曖昧な唸り声。いつの間にか音もなく立ち上がっていた朱雀さんはゆっくりとこちらに歩み寄り、頭を傾けてVサインをひとつ作る。

 

「きみに、謝らなくちゃいけないことがあって」

「謝らなくちゃいけないこと」

「そう。墓まで持っていけると思ってたひみつ」

 

 そうこうしている内に生きたまま墓に入っちゃったけど。

 朱雀さんは苦笑しながら、とすん、と俺の右側に、ひと一人分の隙間を空けて座る。気が付けば茶器も一緒に移動していて、新たに淹れられたお茶がふわりとあたたかく香った。

 

「この間、ぼくがナザリックに……、ユグドラシルに、久々にログインしたとき。サービス終了直前、きみにお願い事をしたのを覚えてる?」

「お願い事……? ……あ」

 

『もし、良かったら。忙しいかも知れないけど、空いた時間に連絡をくれないかな』

 

 そういえば、そんな話をした記憶がある。こっちに来てからのごたごたですっかり忘れてしまっていたが。

 

「連絡が欲しい、って話ですか?」

「そう、それ。ありがとう、覚えててくれて」

「……社交辞令でした、っていう話なら、別に──」

「逆だよ」

「え?」

 

 俯きかけた頭が、意外な返答によって朱雀さんへと向き直る。少し低い位置にある水球が、覗き込むようにこちらを見ていた。

 

「ひとつめ。あの日、ぼくは明確な下心を持って、きみに接触した。モモンガさんではなく、鈴木悟さんを目当てに」

 

 そのためにきみのことを少し調べた。氏名と生年月日、現職について。朱雀さんは申し訳なさそうにそう告げる。

 

 下心。心の中でひそかに考えていたこと。

 えっちなやつ!? と、心のペロロンチーノが出てくるのをそっと振り払い、どういうことですか、と、問いかけた。

 

「ちょっと長くなるんだけど、聞いてくれる?」

「ええ、もちろん。……時間の許す限りは」

 

 ちらりと時計を振り返れば、アルベドに命じた時間まであと1時間を少し切ったところだった。延ばそうと思えば延ばすこともできるだろうが、NPCたちをあまり待たせるのは忍びない。待てって言えばいつまでも待つだろうしなあ……。

 

「ありがとう。……どこから話そうかな。40年くらい前に捨てたはずの権限が巡り巡ってぼくのところに帰ってきてしまったのがきっかけで」

「権限、ですか?」

「うん。そのときぼくは大学に残りたかったから辞退して、一時は兄に移ったんだ。兄には子供も孫もいるから、順当にいけばそっちに相続されるはずだった。ぼくには離婚歴はあっても子供はいなかったから」

 

 ……なんだかさらりと重要なことを聞いてしまった気がするけれど、それよりも気になったことがひとつ。

 

「その、権限っていうのは……、世襲、なんですか?」

「笑っちゃうよね。22世紀も半ばになったっていうのに、結局血に頼る(いにしえ)の経営に戻るなんて」

 

 幼少時から英才教育が施せるっていう意味では世襲にも利点があるのかね、と朱雀さんは笑う。

 

「経営、ってことは」

「会社の経営に、口を出す権限。名前聞く?」

 

 好奇心に負けて聞いた会社の名前は、俺でも知ってる歴史あるメガコーポで。あそこのトップこないだ別の人に替わったってニュースやってなかったっけ。いや『経営に口を出す権限』っていう話だから、裏の顔とかそういうやつなのかな。えっちょっとかっこ良くない? すご。

 

「朱雀さんって、ほんとに上流階級の人だったんですね……。ああ、ええと、疑ってたっていう意味の方じゃなくて」

「まあねえ。いわゆる庶子だから生まれついての貴人(ノーブル)だったわけじゃないけど、理念は一通り叩き込まれたかな」

「理念?」

高貴なるものの義務(ノブレス・オブリージュ)。果たしてあの世界で正しく機能していたかは別として、持てる者はそれにふさわしい義務と自覚、教養を身に着けるべきだ、と」

 

 その「義務」に、本来含まれるはずの弱者の救済は、終ぞ成されなかったのだけれど。

 軽蔑というよりは寂寥を感じさせる声が、朱雀さんの頭からこぼれた。水の中にはじわりとお茶が滲んでいる。濃い褐色が一瞬、血の色に見えた。

 

「それでまあ、5年前に兄と甥が亡くなって、又甥の後見人として名前を貸してたんだけど」

「……深刻なお話の途中ですみません、又甥ってどこにあたる人ですか……?」

「甥の子ども。兄の孫息子だね。で、この間その子が相続を辞退して、結局ぼくのところまでもう一度回ってきたんだ」

「それを、受けたんですね」

 

 そう問えば朱雀さんは、一度は断ったんだよ、と、襟を押さえつつ、ぽこぽこと長いため息をつく。パーツの少ない顔はしかし、外から見ても明らかな渋面を作っていた。

 

「ぼくには時間がないし、後継者もいないんだからすぐにまた同じ問題が湧いてくる。大体40年も前に放棄したんだからもうぼくに相続権はないはずだ。そもそもコネもない人間を中核に突っ込もうとするな、遺伝子認証が必要な鍵なら開けてやるから、誰か使えそうなやつを適当に任命しろ、と」

「……時間がないって、どういうことですか」

「医者に言わせれば残り1年だって。だから診断書も突きつけて、無意味なことはやめるように説得したんだけど、結局押し切られて……」

「待って、まって待ってください!」

 

 さらりと流そうとするのを必死に押しとどめた。脳もないのに頭痛がして、からっぽの目頭がぎゅっと熱くなる。

 お医者さんが、1年で、時間がないって、それは、つまり。

 

「ご病気、だったんですか?」

「肺がね。不摂生が齢相応に祟っただけだよ。なにも特別なことじゃない」

「そんな状態で、来てくださったなんて」

「だから言っただろう、目的あってのことだと。きみが気に病むようなことは何もない」

 

 まあこんなことになってしまったから、もう考えるようなことじゃなくなってしまったけど。

 朱雀さんはそう呟いて、左胸のあたりを撫でさすった。かつてあった痛みを思い出したのだろうか、もはや存在しない肺腑をいたわるように。

 

 気に病むようなことはない、なんて。無理だろ、そんなの。そんな大変なときにこっちの都合で呼びつけて、一日付き合ってくれて。

 おれに、何をさせたくて、そんな。

 

「……どうも話が逸れがちだな。ええと、それでね、押し切られるにあたって、条件をつけたんだ。終活も終わらせた爺をこき使うつもりなら、このぐらいは飲めと」

「条件……」

「いま親しくしている若者をひとり、学術の方の後継に据えておきたい。ひいてはそっちの引継ぎに時間を取らせろ、ってね」

 

 言いながら、白いてのひらが、こちらに差し出され。骨の指で自分を指し示せば、浮いた頭はこくりとひとつ頷き。

 

 ……俺? おれ!!??

 俺を!!!???

 

「待、っは、あ"、え"えっ!!!??? 嘘でしょ!!!???」

「経営に口出す方が良かった?」

「そっちじゃなくて!!!!!」

「んー、まあ、ねじ込めばいけないこともないだろうけど、ちょーっと時間が足りないかな。きみの年齢から叩き込むならみっちり3年は欲しい」

「時間の問題じゃなくてですね!! もっと、こう……!! ……、ふう、……その手の冗談はやめてください。ちょっとタチが悪い」

 

 沸き上がった感情が沈静化され、わずかな苛立ちがふつふつと焦げ付いていた。揶揄うにしたって限度がある。特に、こっちの生まれ育ちを理解していて、できもしないことを希望のようにぶら下げるたぐいのものは、さすがに気分が悪かった。

 俺の苛立ちを真っ向から受け止めているだろうに、朱雀さんはさして気にした風もなく、ことりと疑問の意を示すように頭を傾げた。

 

「どのあたりが冗談だと?」

「俺がアーコロジーで職に就くってところからですね。人体実験のために提供される方がよっぽど信憑性が高い」

「きみの中でぼくはどれだけ人でなしなのさ……」

「……十分、人でなしでしょう。そんな都合の良い話、あるわけがない」

 

 首を横に振る俺の隣で、「都合の良い、ねえ」と零しながら、空のカップにお茶が注がれる。都合6杯目。……やっぱり、加湿器を探そう。地下だからカビが生えるだろうか。お掃除を頑張ってもらうしかないな……。

 

「そりゃあ、そうでしょう。ライトノベルじゃあるまいし。……いえ、この状況がすでに非現実的だと言われればそれまでなんですが」

「そうだねえ。で、この状況を受け入れているのに、ぼくの発言を信じないのはなぜ?」

「俺たちが置かれている状況は、目の前にあるじゃないですか」

「つまり、ぼくが選ぶに足る存在だと、きみが自覚できればいいわけだ」

 

 朱雀さんの瞳が、ゆらりと弧をえがく。光は強くなったのに、より深くへと沈んだようにも見えた。みえないなにかに足首を掴まれたような錯覚がして、きゅっとかたく身を縮こませる。

 

 この場は穏やかな話し合いの場で。朱雀さんもきっと、そう思ってくれているはずで。状況に、まったくそぐわないのに。まるで。

 獲物を、巣へと、引きずり込もうと、しているみたいに。

 

「……よく、ないです。時間はそんなにあるわけじゃない。もっと、現実的なことを話しておかないと」

「ぼくの60年を非現実だと切り捨てるか。言ってくれるね」

「これからのこと、っていう意味です! こんな、意味がないじゃないですか。だって、もう……」

 

 向こうの世界には、戻れない。

 

 戻らない、と、言ったよな。

 言ってくれた、はずだよな。

 

 ……どうだろう。戻りたいんだろうか。話を聞いていると、向こうで待ってくれている人が、いるんじゃないか、この人には。

 俺と、違って。

 

「意味ならあるよ」

 

 低い声が、沈みかけた思考を引き上げるように、はっきりと俺の言葉を否定する。合わせた視線に、先ほどまであった引き込まれるような冷たさは感じられなかった。

 

「言っただろう、きみの呪いを解くのだと」

「その、呪いってどういうことですか。こっちに来てから魂に呪いをかける術が見つかった、と?」

 

 それはすごく恐ろしいことだ。オーバーロードだから呪いには強い耐性があるが、肉体を越えて魂に作用するとなったら防げないかもしれない。

 けれども朱雀さんはこぽりと吐息をこぼし、苦い笑みと共に、否、と答えを返す。

 

「わかっていてはぐらかすのは良くないな。それも言ったはずだ。ぼくは、鈴木悟さんに掛かった呪いを解くんだって」

「呪い、なんて。ありませんよ、現実(リアル)なんですから」

「あるよ。ぼくは別にスピリチュアルだとか超常現象の話をしているわけじゃない。きみが、かたくなに、きみの能力を否定するその思考。それこそが呪いであると言っている」

 

 ちがう。違う。

 これはただの性格で、性分だ。

 それを、呪いなんて言われる筋合いはない。

 

 なのに、どうして俺は、反論することができないんだろう。

 

「ねえ。なぜきみは、ぼくが用意したものをきみができないと決めつけるのかな」

「……だって、そうでしょう。できる理由はなくても、できない理由は山ほどある」

 

 最終学歴は小卒で、十分な学がないから。「仕事」に対する熱意を持たず、無気力で、ゲームの他には食事にすら楽しみを見いだせないから。家族や友人もなく、ロクなコネクションも持たないから。

 

 去りゆくものを、止められなかったから。

 

 みずから指折り数えて、勝手に虚しくなる。だから嫌だったんだ。なんで異世界に来てまで、自分の卑しさを見つめ直さなきゃいけないのか。

 

「客観的な事実ですよ。学も、コネも、意欲もない。そんな、当たり前のことを、いまさら──」

「知識も人脈も意欲も後付けでどうにでも補えるものだ。そんなものは客観的な事実とは言わない」

「な」

「いい加減に、言わせてもらうけど」

 

 息継ぎなのだろう、泡がひとつこぽりと鳴り、たん! と膝を叩いた手袋から良い音がして。

 

「きみはちょっと卑屈にすぎる。一方向に偏りがちだが記憶力は決して悪くないし、ほんの少し訓練すれば学問への応用も容易い。マニュアルに忠実でありながら検証が必要なことにはよく気が付く。そしてひとつのことを突き詰めることに苦痛を感じにくい。実に学者向きだ。内向型の割には社交的で、周囲に気を配るのが得意だから医療に従事するのもありだと思う。それから──」

「ちょ、ま、待って! 待って!! 多い! いや、誰の話をしてるんです!?」

「今きみ以外に誰の話をするっていうんだ」

「お、お世辞でごまかそうったってそうはいきませんよ!!」

 

 学者!? 医療!!??

 今の自分から最も遠い職に身がふるえる。言い方はすごく悪いが、お年を召してちょっと目と頭に支障が出ているんじゃないだろうか。

 

 そんな失礼な思考が届いてしまったか、「は? なに言ってんだこいつ」を形にしたような視線が俺へと向けられる。

 

「お世辞じゃないよ。『客観的な事実』だ」

「だ、だって、だってそんなこと……」

「言われたことはあるんじゃないかな。特にこのギルドの長がきみになってから。問題はね、きみがそれを、心底からは信用していないところにある」

 

 手のひらを差し向けられて、どきりとした。

 俺がしているのはただの謙遜だ。傲慢に振る舞うよりずっといいだろう。責められる道理なんてないし、問題、なんて言われるほどのことでもない。

 

 はず、なのに。

 仲間の言うことを信じていないんじゃないかって、突きつけられたような。

 

 ……いや、いや。

 お世辞を鵜呑みにして調子に乗るよりはマシだ。こんな上げられ方をしたって、絶対に、落とされるときがくる。絶対に。……絶対に?

 

 そこまで確信するようなことか? ささやかに波立つ思考を前に立ち尽くせば、それをかき分けるように朱雀さんは話を続ける。

 

「聞いたよ。このギルドが新生するとき、満場一致できみがギルド長に推されたと。都合よく神輿に担ぎ上げられたとでも思った?」

「……そこまでは。おれの方が都合が良いと、思った人はいたでしょうけど」

「きみは温厚で献身的だから、勘違いする者は一定数いるだろう。そこで引き受けるあたり、本当に人が良い」

「俺が、ギルド長を引き受けたのは……、仲間が去っていくのが、嫌だったからです。大層な理由なんて何もない。……結局は、引き留めることも、できませんでした」

 

 そう。みんな、みんなアインズ・ウール・ゴウンから去っていってしまった。

 仕事や家庭の事情もあっただろう。亡くなっている人もいるのかもしれない。朱雀さんだって、引退した時期を考えれば、身内の方に不幸があったからだとわかる。どうしようもない理由で離れざるを得ない人がいたことは、わかっている。

 

 それでも、と考えずにはいられない。もっと俺がしっかりしていれば。強く引き留めていれば。良い環境を維持できていれば。

 みんな、アインズ・ウール・ゴウンに、帰ってきてくれたかもしれないのに。

 

「それはゲーム的な魅力を維持できなかったユグドラシルの……、ひいては企業の失態だ。決してきみの責任じゃない」

「けど、そんなことも問題にならないくらい、価値ある、魅力的な場所なら。離れていくこともなかったかもしれないじゃないですか。この世界なら、それが適うかもしれない」

 

 手つかずの自然がたくさん残っている、素晴らしい世界。力があり、魔法があり、財産があり、自らが作り上げた存在が自分たちを慕ってくれている。これ以上にないくらい、いや、少なくとも元いた世界よりは何百倍もいい、そんなここなら、もしかしたら。

 

「何度でも言う」

 

 そんなものに何ひとつ価値などない、とでも言うように、まっすぐな視線がこちらを貫いた。

 

「ギルドメンバーが引退したことも、あるいはきみがここの維持を放棄していたとしても、きみに一切の責任はない。ないんだよ」

「そんな、ことは……」

「それでもきみが『責任を負うべきだ』という思考に捕らわれているのは、きみが、そのように教育されているからだ。鈴木悟さん」

 

 きょういく、と、半ば反射的に口にした俺に頷いた後、朱雀さんは論説を続ける。

 

「2112年、教育推進法が可決。人口の減少を名目に初等、及び中等教育のカリキュラムが大きく変更される。具体的に実施されるのは2115年からだけど。……もう四半世紀経つのか、早いな」

「……その法律が、どうかしたんですか」

「ざっくり乱暴に説明するなら、社会の歯車を効率的に量産できるよう、初期段階から教育内容に手を加える法だよ。……一応反対派だったんだけどね。ぼくが政治家でなかったことを後悔したのは後にも先にもこのときだけだ」

「? 教育って、そんなものなのでは……?」

 

 社会的に都合の良いよう人間を育てるのが教育の役割だろう。携われるような身分じゃなかったが、そのくらいはわかる。

 けれど朱雀さんは困ったような顔をして、俺の疑問を受け止めた。

 

「そういった側面があることは否定しないがね。ちょっと諦念が過ぎる。……とはいえぼくの説明も抜けていたな。この法案の欠点はね、本人の適性を無視して教育が行われるということだ」

「適性を……?」

「効率が悪いと思うかい? ぼくもそう思うよ。けれど当時の、ひいては現在に至るまで。上の人間はそうは思わなかった。必要な労働力を必要なだけ生み出すことを優先した。氏より育ちであるならば、型に嵌めさえすれば性質はそれに沿うものだと。ははは、ゼリーじゃあるまいし。沿うわけないだろ」

 

 乾いた笑い声が、ひやりとわざとらしく響く。思わず二の腕を擦りながら、ふと思い立った。

 このひと、もしかして今、すごく怒っているんだろうか。

 

 俺がじっと見ていることに気づいたのか、こぽ、とひとつ咳ばらいをして、朱雀さんは話に戻る。

 

「まあ、ナノマシンによるホルモン調整でストレス値がある程度誤魔化せるようになってしまったけど、はっきり言って既存の教育への冒涜だ。企業による権威を独占するための……、まあ今となってはもういいや。内容だね、いま必要なのは」

「朱雀さん」

「うん?」

「怒ってます?」

「……ふふ、人の機微に敏い、も付け加えておこうか?」

 

 悪戯っぽく投げかけられた提案に両手を小さく振って遠慮する。勢いを一度鎮火するように、朱雀さんはカップを傾けて中身を干した。こぽぽ、と、一息、ため息のような泡がたつ。

 

「……本人の適性を無視して、とは言っても。ある程度の振り分けは必要だ。基礎的な体力、知力、そして在籍時の、あるいはこれから陥るであろう家庭環境に準じている」

「それ、って……」

「関東のある区画では、『養育者の喪失理由』を元にカリキュラムを組んでいたそうだ。実験的に」

 

 ひゅ、と、息が止まるのを確かに感じた。

 ないはずの心臓が凍り付いて、背中を冷や汗が伝うような感覚がする。

 

 寒い。スキルで無効化しているはずなのに、身体の芯から凍りそうだった。

 ローブを握りしめ、起こりそうな震えをどうにか抑えようとしたとき。

 

 もふり。柔らかい感触が頬に触れる。

 見れば朱雀さんが毛足の長い毛布を……、いや、これ毛皮だな。ニブルヘイム・ヒュージ・ラビットから剥ぎ取れるやつ。とにかく背中にかけてくれていた。するすると引っ掛かりのない手触りが心地よくてあったかい。

 

 お礼を言えば、気遣わしげな視線がこちらを覗き込む。目の光にも若干暖色が混ざっているように見えた。

 

「少し休む?」

「……いいえ。大丈夫です。続けてください」

「それじゃあ遠慮なく。ええと、そうだな。やたら『体調管理できない人間は悪』だと吹聴する先生はいなかった? 厳しくて、嫌みで、すぐ怒鳴る感じの」

「……いましたね、覚えてます。嫌いでした」

「じゃあこんな人もいたはずだ。『過労は周囲の環境に左右される』と主張する、穏やかで優しく、正義感に溢れた先生が」

 

 頷く。今でも顔を覚えている。お世話になった先生だ。学費が払えなくなって、職業従事が可能な年齢まで職業訓練施設に行くことになったときも、手続きを手伝ってくれた。

 

「きみの養育者が亡くなる前、その先生は大層親身になってくれたのじゃないかな。お父様、あるいはお母様は偉いね。支えてあげてね。家族を殺すような人間にならないでね」

「はい。……でも、母は、過労で」

「思い出を壊すようで悪いけど。100年前ならいざ知らず、ナノマシンで血中成分が記録できるようになった時代で企業が社員の体調を把握していないのはあり得ないよ。その教師には間違いなく連絡がいってるし、『わかって』そう説いている。きみに罪悪感を植え付けるために」

「──……」

 

 冷や水を浴びせかけられたようだった。かつての偶像が崩れたことへの悲しみはほとんどない。が、その可能性にいままで全く思い至らなかった自分にショックを受けた。

 理解はしていた。しているつもりだった。二極化する社会の下の方にいるのだと、そう認識して、ウルベルトさんと話をしていたこともあったはずなのに。

 まだ、甘かったのだと、思い知らされた。

 

「訓練施設へ移行する最中にも言われただろう、そっか、先生の言うことはわかってもらえなかったんだね。悲しいな。君は責任を取る力がないんだね。覚えておいた方がいいよ。……こんなところかな? 決して声を荒らげることなく、さもきみを心配しているのだという空気を醸し出して」

「…………」

「これはあくまで一例だ。こうして逐一つついていくことで、無気力かつ卑屈で、自己肯定力が低く、単一の娯楽以外に適性を見いだせない人格が出来上がる。企業の事故なんかで両親を失った者には、あえて反抗的な思想を植え付けて、ガス抜きのテロリズムへと誘導されたりもするけれど。きみからはそこまでの攻撃性が検出されなかったらしい」

 

 それだけは、ありがたいことだと言っておこうか。朱雀さんはそう締めくくり、ポットを傾け──、中身がないことを確認すると、ことりとテーブルに置いた。

 こちらにぐっと半身が向けられ、視線がかち合う。

 

「故に、だ。きみの謙遜はいっそ卑下であり、美徳でもなんでもない。ましてきみの性格も関係ない。それは外から押し付けられたもので、そうあれと望まれたものだ。NPCじゃないんだから、押し付けられた願望に、きみが答える必要はない」

「……だからって、どうすればいいんですか。俺が、俺に、何もないことには、変わりないでしょう」

「誠に遺憾だが仮にそれが真実だとして、なんだっていうんだ。必要なことはこれから学べばいい。最初の一歩は誰にでもあるもので、それを恥じる必要などないんだから」

 

 どこにでも行けるんだよ、きみは。

 

 その声色はとてもやさしくて、骨身に染みいるように響いてくる。いつだってそうだ。朱雀さんは穏やかで、冷静で、俺が知らないことを笑ったりしない。間違った方向へと行きそうになればそっと正してくれる。

 

 それは、まるで──。

 

「朱雀さんは」

「うん」

「こんなに俺に親身になって、俺に何をさせたいんですか」

 

──朱雀さんの言う、『都合の良い歯車』を製造する教員のようじゃないか?

 

 きょとんとする朱雀さんの顔をまともに見られなくて、知らず視線が下を向く。合ってても外れていても居たたまれない。なんでこんなことを言ってしまったんだろうと思う反面、滑る口を止められなかった。

 

「俺がどこにでも行けるって言うのなら、朱雀さんの方がよっぽどそうでしょう。アインズ・ウール・ゴウンの名を……、ナザリックの外の方が大事なら、それでもいいんです。縛り付ける権利は、元々俺にはありません」

「……」

「ただ、不満っていうわけじゃなくて、わからないんです。あなたの目的がわからない。俺に、自信みたいなものをつけさせて、どうしたいんですか。俺の目的を変えるだけなら、もっと他に手段があったでしょう。なんでこんなに手間をかけて、俺の意識改革にまで手を伸ばしたんですか」

 

 糾弾したいわけじゃない。ただひたすらに疑問だった。

 

 俺を自由にして、ナザリックのトップから引きずり下ろしたい?

 いや、朱雀さんからそういう欲を感じたことがないし、引きずり降ろされなきゃいけないほど俺は玉座に固執していない。言ってくれればいつだって替わるのに。

 

 洗脳術の実験台にしたかった?

 いやいや、流石にそこまで人でなしじゃないだろう。何より自分で言うのもなんだけど俺はチョロいから、洗脳しがいがない。……ないよな?

 

 なら完全に善意……、って答えにもたどり着かない。なんでだ。

 朱雀さんは俺の価値を信じてくれていて、期待してくれているから、なんて、とてもじゃないけど信じられない。そう、信じようとさせる朱雀さんの意図がわからない。

 

 わからない。

 もう何もわからない。ぐちゃぐちゃだ。

 

 単純な欲ならまだわかる。言ってほしい。責任とは別のところで、ギルドメンバーが求めるものはできるだけ叶えたいと思うから。

 

 だが、彼がほしいものがなんなのか、その片鱗すらつかめない。

 怖い。恐ろしいのだ。朱雀さんが何か、得体の知れないものになってしまった気がして、寒気にも似た恐怖を感じる。

 

 それでも、いつまでも俯いているわけにはいかず。

 意を決して、顔を上げた、視線の先で。

 

 

 朱雀さんは、満足そうに笑っていた。

 

 

「だって、つまらないじゃないか」

「……はい?」

 

 予想外の返答に、ちょっと声がひっくり返った。

 なんて? つまらないって言った?

 

 頭にハテナを浮かべる俺を意に介さず、朱雀さんは続ける。

 

「正直なところ、ぼくはきみから見えるほど世界の改変を憂いているわけじゃない。侵略的外来種も生態のうちというのならまあそうだろうし、絶えなば絶えねがぼくの座右の銘だ」

 

 なんだっけ。絶えるのならば絶えてしまえ、っていう意味だったか。やまいこさんあたりから聞いたことがあるような。昔の、俳句? の一文だと聞いたような。

 

「けれど、このままだときみは、ナザリックの支配者以外のものになれなくなる。それはひどくつまらないと思うんだ」

「つまらない、ですか」

「あるいはきみが外圧以外の理由でそうなるのならば止める理由はないだろう。きみが自ら望むのであればなんだってすればいい。殺戮でも、世界の征服でも」

 

 物騒な単語が出てきてぎょっとする。殺戮も征服もしたいとは思わないし、何より不可能だろう。夢物語にもほどがある。

 

「いや、殺戮もそうですけど、世界征服はさすがに」

「できるよ。きみにも、ナザリックにも、それだけの力がある。それを許さない力は確かにあるけど、ナザリックを押さえておくには心許ないものだ」

 

 内容は荒唐無稽でも、朱雀さんに、冗談を言っている様子は見られない。目の光はどこか遠くを見ているようで、誰かを思い出しているようにも見えた。

 思い出しているのは、リク・アガネイアか、それとも。

 

 朱雀さんの手が、そっと襟元に添えられる。見慣れた癖。ほんの数日だが、考え事をしているときや、言いにくいことを言うときに見られるものだと、なんとはなしにわかるようになった。

 

「ただ、ただねえ。力を意のままに振るうというのなら、どうか覚えておいてほしい。強い力には、義務が課せられるべきだ。人間かどうかに関わらず、力あるものはそれに値する覚悟を身につけなければならない」

「……ノブレス、オブリージュ、でしたっけ」

「正解。自覚無自覚を問わず、力を持てばそこには責任が伴う。失われたものは、二度と元に戻らないからね」

 

 だからどうしても、きみの自覚がほしかった。

 

 混乱の渦の中心に、ぽんと答えが投げかけられるような画が浮かぶ。

 結局のところ、今の今まで。俺には、力を振るわれる側の視点しかなかった。殴られることに怯えて、殴り返す口実を探して、どうすればこちらに被害が出ずに済むか、そればかりを考えていた。

 

 反対に朱雀さんには、力を振るう側の認識が強く出ていて。こちらも、相手も、双方どうすれば最も被害が少なくなるかを常に考えていて、最善のためにどうにか力を尽くそうとする。たとえそれが自分の身を危うくしても、それが『義務』で、『責任』だから。

 

 それが、俺の刷り込みとどう違うのか。……愚問だな。理解しながら義務を遂行するのと、自覚もなく言われたままに動くのでは全然ちがう。

 失われたものは、二度と戻らない。たとえ、強者が容易く取り戻せるものでも、弱者にとってはそうでないというのは、痛いほど知っていたはずなのに。

 

 俺が朱雀さんを理解できずに恐れたように、朱雀さんもまた俺を理解するのに時間を要したのかもしれない。そして、歩み寄ってくれた。わからないものをわからないまま恐れるのではなく、原因に手をかけようとしてくれた。

 

 それを、ちっとも大したことがないとでも言うように、軽く肩をすくめて朱雀さんは自嘲する。 

 

「ぼくの付け焼刃なメンタルセラピーもどきで、きみが積み重ねた年月を剥がせるなんて思ってないよ。今日してもらったのは理解だ。再三になるが、ぼくらはNPCじゃない。今ある自我はなぜ生まれたのか、いつどのようにして成形されたのか、自覚しようと思わなければ自覚できない」

「自覚……」

「うん。そして、自己肯定感を確保するのと、ぼくの言葉を鵜呑みにするのとは違うことだ。甘言に乗せられなくて実に結構。今日のところはそれで十分だ」

 

 まるっきり『先生』の顔をして、彼はほほ笑んでいた。

 その表情が、昔の先生と一切だぶらなかったのは、彼がはっきりと打算を口にしたからではなく、むしろ。

 

「覚えておいてほしい。きみは本当になんだってできるようになる。アインズ・ウール・ゴウンに対して責任を感じるというのなら、それは外圧からくるものではなく、内発的なものでなければならないと、少なくともぼくは思う」

 

 襟の後ろを撫でながら断定の言葉を使う彼にしかし、高圧的なところは少しもなくて。

 

「それを理解してくれるのであれば、きみの方針の一切にぼくは従うよ」

 

 諦念ともとれるような物言いに、けれど突き放すような印象は受けず。

 

 ひとこと、返そうとした、そのとき。

 

 

「失礼いたします」

 

 規則正しいノックのあと、艶やかな女声が響く。声の主、アルベドは静かに部屋に入ると俺たちを目に留め、ぱちり、と大きく瞬いた。

 何かあったか、と聞こうとしたとき、再度もふりとした感触が頬をなでる。……何かあったのは俺だな。上司が兎の毛皮を被っていればそりゃそんな顔にもなる。

 

 朱雀さんに毛皮を返しつつ時計を見れば、ちょうど二時間が経ったところで。その考えを後押しするように、お迎えに上がりました、とアルベドが恭しくお辞儀をする。

 

「じゃ、行こうか」

「……いや」

 

 立ち上がりかけた朱雀さんを制し、数呼吸、思考を巡らせた。

 意を決して顔を上げ、少し傾いた水の頭から、不思議そうにこちらを見つめる美貌の悪魔へと視線を移し、告げる。

 

「あと15分だけ、待ってくれるか。アルベド」

 

 

 

 

 




教授は嘘は言ってないんですけど本当のことをすべて話してるわけでもないので真面目に考察をしていただくとちょっと損をするかもしれない 話半分に読んで

あと教育や政治について捏造するにあたり「そうはならんやろ」と筆者も思うところではありますがなっちゃった体でひとつよろしく…

次回、ナザリックの方針を発表
4/26以降になります 気長にお待ちを


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

屍は墳墓を憂い、鳥は水底へ沈む

祝・4期!!!!!


前回のあらすじ

死獣天朱雀さんによるメンタルセラピー(仮)


大変お待たせしました 書いては消し書いては消ししてたらとても遅くなってしまい 恥


今回はナザリックの方針発表 原作1巻のアインズ改名宣言とほぼ同時期になります ちょい長めなのでご注意
転移してから5日しか経ってないってマジ?





 美麗荘厳にして絢爛華麗。

 最奥にして最美。象徴にして深淵。

 

 巨大な水晶から切り出されたような玉座は我らが支配者の尊き玉体をおさめるに相応しく光り輝き、七色の光を放つシャンデリアが、それぞれ異なるシンボルを掲げた四十一枚の御旗を照らしている。

 

 ここ玉座の間で、我らシモベは御方々への拝謁をひたすらに待ちわびていた。

 

 偉大なる支配者モモンガ様がご指定なされた時刻より少々遅れている。もっとも、既に守護者統括アルベドより通達はあった。他ならぬモモンガ様の命により、開始時刻が遅れる、と。

 

 至高の御方に対して不満など抱きようがない。待てと命じられたのならば、たとえ那由多の時を経ようと待ち続ける覚悟がある。

 しかし、この身体は微動だにせずともなお、心が、魂が(はや)っていた。

 

 至高の御方を一刻もはやく目にしたい。

 そのご威光に触れることを許されたい。

 御方が御触れになった空気でさえ尊びたい。

 

 あわよくば命じられたい。一分一秒、刹那の寸暇も惜しまず至高の御方のために働きたい。

 この身この力この魂の一欠けらに至るまで、御方の持ち物であるが故に。

 

 それは彼の地、ユグドラシルより此の地へと転移してからも変わらない、不朽の忠誠である。

 移り来て数日、既に与えられた幾つかの使命は短い期間ながら充実しており、御方々の偉大さを改めて感じられる素晴らしいものばかりであった。

 

 迅速に発せられたナザリック内部における異常の確認作業、及び平行してナザリック大墳墓自体の隠蔽。その間に蜥蜴人(リザードマン)共を支配下に置き、周辺諸国への侵攻の要所として湖を押さえてしまわれたのだから脱帽するほかない。

 ナザリック完全隠蔽作戦においてはシモベの端々にまでその叡知を余すところなく拝見させていただくことをお許しくださり、また、今後の布石として場を整えられることに我々を使っていただけて、しばらく感涙が止まらなかったシモベも十や二十ではきかない。

 

 我らの(よろこ)びとは労働である。

 我らの幸福とは奉仕である。

 

 永遠偉大なるアインズ・ウール・ゴウン、そこに御名を連ねる至高の四十一人。いと高き我らが創造主、我らが主人。そしてその御住まいたるナザリック地下大墳墓。

 

 嗚呼。

 これほどに尊きものが他にあろうか。

 これほどに偉大なものが他にあろうか。

 

 否。断じて否である。

 アインズ・ウール・ゴウンの他に至高なし。

 ナザリックの他に頂点なし。

 

 高遠たる至高の四十一人のため、その御住まいであるナザリック地下大墳墓のため。命果て塵と帰すまでご奉仕することが我らに与えられた存在意義であり、誇りであり、完全無欠の慶福である。

 

 

 ……それを理解せぬ愚か者共に鉄槌を与えるのもまた、我らの使命である。

 

 

 数時間ほど前のこと。死獣天朱雀様が御部屋付き護衛の八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)を無力化し、一般メイドのインクリメントを欺いてナザリックの外へとお出になられた。

 両者が至高の御方より与えられた尊き仕事を完遂できなかったことに対して思うところがないわけではないが、頭脳明晰にして強大な至高の御方を相手に抵抗など無意味であり、また、したいと思うはずもない。至高の御方ご本人が彼らをお許しになっているのに、どうしてシモベの我らが勝手に咎めることができようか。

 結局のところ、思うところがあるとするならばそれは嫉妬でしかないのだ。至高の御方から与えられるものならば、たとえ気まぐれによる暴力や死でさえ喜ぶべきものなのだから。

 

 で、あるにも拘らず、それを理解し得ない屑共が、あろうことか死獣天朱雀様を傷つけたのだという。御方が慈悲深いのを良いことに洗脳まで試みようとした、とも。

 

 凡百の水精霊ではない。死獣天朱雀様である。比べることも烏滸がましく、いかに無知蒙昧な外の愚物とはいえ間違えることなど許されぬ、“あの”死獣天朱雀様である。

 偉大なる至高の御方のお一人であり、その叡知をもってアインズ・ウール・ゴウンにおける蔭の立役者として知られており、更にはその尊いお命を懸けてナザリックをお守りくださったという、死獣天朱雀様を、害そうとした、などと。

 

 それだけでも永劫殺し尽くして然るべき罪であるというのに、さらには別の勢力が一月後に死獣天朱雀様の御身柄を要求したとも聞いている。

 

 なんと恐れ多い。

 まったくもって許しがたい。

 果たして滅ぼさずにいられる理由があるか?

 

 否、否。

 あるはずがない。

 

 愚か者どもは、殺して、殺して!

 滅ぼし尽くさねばならない!!

 

 不届きものどもを生かして捕らえてあるのは、幾万通りにも及ぶ拷問の末、処刑するためなのだろう。恐れ多くも御方に牙を剥いた救いようのない愚物共、それらを国ごと滅ぼす前準備として、情報を搾り取るのだろう。

 

 そしていざ滅ぼすとなったとき、我らの存在が必要になるはずだ。

 

 そのために、守護者から木っ端のシモベに至るまで、御方々が開催した『ナザリック完全隠蔽作戦』の所感をお集めになられたのだ。そうに違いない。

 来たるべき蹂躙の折、表面的な能力だけではなく、あらゆる要素を加味して適所にシモベを配置するために!

 

 なんたる深謀。

 なんたる叡智。

 

 幾度讃えたとて尽くせぬこの畏敬、今にもあふれ出してしまいそうだ。抑えなければ。いかに至高の御方が偉大だとはいえ、「そうあれかし」と刻まれていないにも拘らず内からこみ上げたものに振り回されてばたばたと騒ぐのはナザリックのものとして相応しくない。

 そうして、もはや幾つになるかわからぬ枷で己の激情を戒めたところで。

 

 

 守護者統括アルベドが先触れとして姿を現し。

 それから間もなくして。

 

 偉大なる至高の御方、モモンガ様と死獣天朱雀様が、その御姿をお見せになられた。

 

 感動が、興奮が止まらない。

 心臓があるものもないものも関係なく、胸がはち切れそうなほどに鼓動が強く脈打つのがわかる。

 

 おお、おお!

 かくも素晴らしき至高の御方!

 我らが支配者、神をも上回る我らが主よ!!

 

 一流を超える存在とはまず見目からそれが溢れているというもの。そう確信しつつ、まず視線は死獣天朱雀様の方へと向いた。

 

 その御貌、アイオライト(菫青石)のような深い深い蒼色がシャンデリアの光を反射して輝いている。乾上がることを知らぬ永遠の海。永久的に満たされた凪の水球。

 つるりと美しい光沢を放つ玉体には傷ひとつ見受けられず、賊に襲われたという話もなかったかのように壮健な様子をお見せになられており、ほっと胸をなでおろした。種族的に傷や病が目視しにくく、類まれなる力を持つ攻性防壁により健康診断もままならないが、傍にモモンガ様がおられるのなら問題はないのだろう。

 

 そして、我らが偉大なる支配者、至高の四十一人のまとめ役であらせられるモモンガ様。

 踏み荒らすことを許されぬ新雪のような白皙の美貌を、やがてすべての生き物が逝きつく闇の如きローブが覆っている。

 平時と変わらぬ美しさ。平時と変わらぬ威容。死霊系魔法詠唱者(マジックキャスター)の頂点と言って過言ではない、圧倒的な魔力がにじみ出る、いつもの麗しき御容貌、なのだが。

 

 どこか、どこかが、いつもと違う。

 

 平時は、陽炎のようにゆらめく圧倒的な支配者のオーラがこちらを圧し潰さんとしているのに対し、今は、どうかすればシモベの熱狂に溶けてしまいそうなほどに静まりかえっている。

 

 それは今のモモンガ様が劣っている、あるいはその力に(かげ)りが見られるという意味ではなく。むしろより深みを増しており、ただただ静謐な、「死」そのものがそこに顕現したかのような錯覚を与えていた。

 

 玉座にお掛けになったモモンガ様は、呆けたように見惚れる我らをするりと見渡し、厳かな御声をお聞かせくださった。

 

「まずは遅れたことを詫びよう。よく集まってくれた」

 

 滅相もない、という意のざわめきは、ひら、と挙げられた片手によりぴたりと収まる。願わくばもっと横暴に、ぞんざいに扱ってほしいという欲求が湧きあがるが、御方の声を遮る方が遥かに不敬であったと、静かに恥じ入った。

 

「聞いているとは思うが、今回、こうしてお前たちを集めたのは、今後の方針を伝えるためだ。我々がこの世界で、どのように活動していくかについて……、だな」

 

 待ちに待った瞬間である。心象風景はまさしく飢えた魚が餌に群がるような様。深みのある御声が砂漠に垂らされた甘露の如く精神を幸福で満たした。

 

「お前たちも聞いているとは思うが、ナザリックの外は容易くどうにかできるような生易しい世界ばかりではない。我々……、そうだな、お前たちが至高の四十一人と呼ぶ者であっても、苦戦を強いられるような生き物がいる。身をもって、判明したことだ」

 

 ちら、と、モモンガ様の視線が隣へと滑る。知らず、身が震えた。恐れではない。尊き御身を傷つけられた怒りと屈辱、それを晴らさんとする決意への武者震いであった。

 

「それを踏まえて我々が下した決断を伝えたい。……のだが、その前に」

 

 真っ暗な眼窩に灯る赤い光が、シモベが並ぶ列の前方へと向けられた。ナザリックの駒の中で最も力ある者たちを、視線がひと撫でする。

 そうしてモモンガ様が階層守護者たちを視認する間、死獣天朱雀様は玉座の傍でまるで従者のように佇んでおられた。中空に留め置かれた視線はどこを見るでもなく、遠い、遠いところをご覧になられているような。

 水の中にくらく浮かぶ、死者を誘導する灯のような灰青の光にぞくりと背を震わせれば、ふたたびモモンガ様の厳かな御声が響いた。

 

「代表して守護者に問おう。我々は今後、どのように動くべきだと思う?」 

 

 ざわ、と玉座の間がさざめいた。

 無理もない。至高の御方が決定したからこそこうして集められたのではなかったか。この問いかけとて御方のご命令ではあるが、いくら最上位のシモベである階層守護者とはいえ、至高の御方の智慧に並ぶ案など出てくるはずがない、というのは自明の理であった。

 

 そんな我らの動揺が伝わってしまったか。ゆっくりと、厳かに挙げられた片手が、水を打ったように騒ぎを鎮める。

 

「お前たちの意見によって我々が出した結論が変わることはない。……どうしても、聞いてみたいのだ。私のわがままだな」

 

 さらりと含まれた自嘲のような響きに、わずかに息を呑む。

 わがまま、など。

 至高の御方による発言はそのすべてが綿密な計算によって差し出されたものに違いないし、万一そうではなかったとしても、御方の気まぐれを与えていただけるなどどれほどの幸福であることか。

 

 それだけで至高の瞬間に上り詰めるような気持ちであるのに、モモンガ様はことさら慈悲深い配慮を授けて下さった。

 

「答え如何によって、お前たちを咎めることはない。個人的でも、組織的な観点からでも、好きなように述べよ」

 

御方の視線がもう一度ゆったりと守護者たちを撫で、彼らは微かに息を呑んだ。緊張しているのだろう。するに決まっている。畏れ多くも至高の御方に意見を求められて、平常心を保つなど。幾万の敵を屠る方が余程心に波風立たぬに違いない。

 

「まずは……、シャルティア」

「とりあえず、捕らえた愚かな連中を公開処刑するべきだと思いんす。至高の御方に牙を剥いたことを後悔させてやるべきですぇ?」

 

「……コキュートス」

「進軍ヲ。報復ハ世ノ理デアリ兵ノ責ハ将ガ負ウベキモノ。ナラバ狼藉者ヲ放ッタ国ニハソレ相応ノ報イガアッテシカルベキカト」

 

「……アウラ」

「御方様の偉大さを理解しない奴らは、その命をもってでも償わせて、躾けなきゃいけないと思います!」

 

「……、……マーレ」

「え、ええっとお……。その、わるい人たちはみんな、殺しておいた方がいいかなって、思います……」

 

「……デミ、ウルゴス」

「兎にも角にも、我々の立場を明確に示すべきかと。二度と御方々が害されることのなきように。もちろん、秘密裏に掌握を進めるというのであればその限りではありませんが」

 

「…………、……アルベド」

「御身の御心のままに。あるいはなにか、その慈悲深き御心を痛めておられることがおありでしたら、それは無用のものと進言させていただきたく存じます。どうぞ、我々は使い潰されることこそが喜びであるとご承知おきいただければ」

 

 おおむねその通りだと守護者たちの言に頷きかけたところで、守護者統括の言葉にはっとする。

 御方の慈悲深さは留まることを知らない。進軍することで我らが傷つき倒れることを厭うておられるのだとしたら。

 それは断じて取り除いて差し上げなければならなかった。御方のご命令こそ我らが生きがい。それを遮るものなど我ら自身であっても許しがたい。

 

 果たしてその智謀を働かせているのか、モモンガ様の赤い瞳がちかちかと瞬く。御喜びのものであるのか、はたまた。

 

 長い、長いため息のような、痛々しい沈黙が満ち。

 ふ、と。モモンガ様の視線が我らへと向かう。

 

「……よく、よくわかった。お前たちが、……とてもよくわかった」

 

 まるで己に言い聞かせるような呟きの後、モモンガ様はゆらりとその身を起こし、厳かに立ち上がる。

 そして、片手を上げ、朗々と、低い御声を響かせられた。

 

「聞け、皆の者。我々は────」

 

 ああ、このときを、このときをどれほど待ちわびたことか。

 侵攻を、進軍を、進撃を。我らが誇るアインズ・ウール・ゴウンの威を世に示すために。

 

 我らに、ご命令を──!!

 

 

 

 

 

「──我々は、我々アインズ・ウール・ゴウンは、外部のものとの相互不可侵を掲げる」

 

 

 

 

 

 ──、…………?

 

 ……何を。

 

 何を、仰せになられたものか。

 しばしの間理解が及ばなかった。

 期待していたお言葉と、真逆の命令を授かったのだから。

 

「今まで通り、ナザリックの存在は全力で隠蔽し、かつ、外の者を傷つけることは許さない。可能な限り、外部に影響が出ないよう考慮せよ」

 

 やがて来たるべき侵攻のための潜伏でないことは、語られるお言葉から察せられた。

 隠れよと、触れるなと仰せられているのだ。モモンガ様は。

 

「今捕らえてあるものは、記憶の改竄に問題がなければそのまま放流する。今後一切、我々がアインズ・ウール・ゴウンとして現地のものに関わることはない」

 

 捕らえた人間共にろくな制裁も行われない。つまりそれは、報復すら許さないということだ。畏れ多くも至高の御方に傷をつけた、愚かな人間共にさえ。

 

「それが最良であると……、判断した。……傷つくものは、少ない方が良い」

 

 変わらず厳かな、けれども僅かに勢いが落ちた御声には確かな痛みが覗く。

 ああ、本当に、なんと慈悲深い御方なのだろう。その躊躇が我らの弱さあってのことならば、と、想像した胸がぎしりと軋む。

 

 それならば、と、動こうとしたのはアルベドだっただろうか。彼女が声を上げるべく、す、と息を吸った、そのとき。

 

 かつり、と、我らの動揺を踏み割るかのように、高らかな靴音が響いた。

 

「これがぼくらの決定だ。先ほどナザリック地下大墳墓の偉大なる支配者、アインズ・ウール・ゴウンの正当なる頂点であるモモンガ様が仰せになられた通り、今後ぼくらはでき得る限り現地生物との相互不可侵を目指し、特に敵対的意思をもって関わりを持つことは強く禁じていく」

 

 今まで玉座の傍らで微動だになさらぬままおられた死獣天朱雀様が、優しげにも聞こえるお声でそう仰せられた。心の内をざらりと撫で上げるような声色に、ぞくりと背が震える。同時にアルベドがぐっと言葉を飲み込み、たたらを踏んだ。

 とろりと光る水底のともしび。貴様らの思惑などすべてお見通しだと言わんばかりの、怜悧な視線。それが甘やかなお声とまるでそぐわず、脳髄をぐらぐらと揺さぶるようだった。

 

「強く報復を望んでいるところ悪いがそれらの裁量の一切は、自分事であると強く望んだことによってぼく個人に譲っていただいた。とはいえぼくから「玩具」を掠め取る意思がある、あるいはユグドラシルにいた頃の方針とずれがあることに意を唱えなければならないと、そういった内心を孕むものもいるんだろう。話のわからぬものでいるつもりもない。何か言いたいことがあるのなら是非にこちらまで来るといい。……けれど」

 

 視線の冷たさに声の温度が噛み合う。有無を言わせない、強制力のある、呪文のような。

 モモンガ様のお声が偉大な支配者のそれならば、死獣天朱雀様のお声は冷徹な統治者のようであった。

 

「そのような()()で我らが至高の支配者を煩わせることを許すわけにはいかない。この件に関して何か異論があるのならば、必ず、ぼくを。死獣天朱雀を通すように。以上!」

 

 ぱぁん、と高らかに鳴った両手の平に、はっと意識を戻されたときには。

 まさしく、それ以上言うことはないと突きつけるように、お二人は転移で退場なされていた。

 しん、と静まり返った部屋の中、主を失った玉座が虚しく輝いている。

 

 ……残された我々は、ただ、ただ茫然としていた。

 なぜ。そう、何故なのか。それだけが胸中に渦巻いている。

 

 御方の命令とあれば否やはない。至高の御方の意志こそがすべてであり、我らはそれを叶えるためにある。御方々がここにおられることで我々は存在を許されているのだから。

 

 しかし、ああ、しかし。

 疑問を呈さずにはいられない。

 なぜ、なぜなのか。なぜ、なぜ。

 

 何故、我々を使っていただけないのか。

 

 再三確認するが、御方々がここにおられることで我々は存在を許されている。ゆえにこそ我々は御方々のためにのみ働き、奉仕し、使い潰されなければならない。

 だというのになぜそれを許していただけないのか。

 

 階層守護者達に責を問うつもりはなかった。モモンガ様は確かに「守護者の意見によって結論が変わることはない」と仰せになられたし、彼らの答えはまごうことなく我々の総意であったからだ。

 

 敵ならば滅ぼし、有用ならば奪う。すでに大墳墓へと、ひいては至高の御方に危害を加えたものならば尚更に。

 

 ナザリックとは、アインズ・ウール・ゴウンとは、ずっとそのようなものではなかったか。

 

 どのような意見でも咎めることはない、とモモンガ様は仰せになられた。

 あれは。

 

 咎めることすら、していただけないということだったのか?

 

 だとしたら。

 だとしたら、我々は──。

 

 

「皆の者、面をあげなさい」

 

 そろりと這い寄る絶望に足元を絡めとられ、熱意ではなく困惑から顔を上げられずにいた我々へと、守護者統括アルベドが声をかけた。その表情にいつもの蠱惑的な微笑みはなく、どこか緊張しているようにも、あるいは何かしらの覚悟を抱いているようにも見える。

 

「……各員はモモンガ様の勅命には謹んで従うように。しかし、緊急の事態に備えて常に動けるよう準備を心がけておきなさい」

 

 その言葉に、は、と精神を持ち直した。

 至極当然、当たり前のことだが、外界との接触を断つということはすなわち、何もしなくとも良いということではない。

 このように遥か彼方、異なる世界へと来たる以前より、我々の使命には「ナザリックの維持」があった。もちろんそれは今も続いている。警護しかり手入れしかり、至高の御方に与えられたあらゆる使命は疎かにされるべきではない。

 

 すっかり動揺してしまったが偉大なる御方のこと。我々の想像など及ばないような凄まじい未来予想図を描いている可能性も大いにある。我らがその思考を汲めぬことは恥じ入るばかりであるが、御方々であるのならば我らの考えなどその御足下に及ぶことすらない。

 

 見捨てられたわけではない。

 至高の御方々は確かに、ナザリックにおられるのだから。

 

 そのように己を律し、鼓舞して。

 各々速やかに持ち場へと戻っていく。

 

 霧は、晴れぬままであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ~~……っ」

 

 終わったらここに、と示し合わせて転移してきた円卓の間。黒曜石の円卓がド深いため息とつっぷした腕を受け止める。支配者としてあるまじき姿勢だが、ここには突き刺さるような敬意が籠った数多の視線も感動や困惑の息遣いもない。朱雀さんとふたりきりだ。

 

 緊張した。もう駄目かと思った。

 もう駄目かと思った!!

 

 いやわかってたけど。わかってたけどやる気満々じゃん。こわい。守護者の暴走じゃないよなあれ。あの場が無言の肯定で満ちてたもんな。支配者のスキルなんてなくてもさすがにそのくらいはわかる。

 えっ大丈夫かな。この後「軟弱者め!! 死ね!!」ってなったりしないだろうか。なったとしてももう遅いんだけども。

 

 今までの人生でこんなにリスクかかえたまま行動したことある? いやないな! 圧倒的に準備が足りない。心の準備も含めて!

 

 やっぱり守護者たちにくらい根回ししといた方が良かったかなー……。

 いや、結局同じことになってたか。言い負かされる未来しか見えないもんな。「素人質問ですが」って俺には関係ない世界だとばっかり思ってたけど、実際やられるとなると恐怖しかない。

 

 さっきもアルベドが発言する前に朱雀さんが割り入ってくれなければ、というところまで考えて、はたと我に返った。

 

「朱雀さん、大丈夫だったんですか?」

「なにが?」

「その……、彼らへの説明を、引き受けて? くださったじゃないですか。負担ではないかと思って」

 

 二人で話し合っているとき、朱雀さんは確かに言ってくれた。復讐も成さぬような不甲斐無い主だなどと、不当に貶めることは絶対にさせないと。

 実際、朱雀さんが自分事だと宣言することによって有無を言わせずに彼らを黙らせることができたけど、今後説明を求められるだろう朱雀さんの負担にはならないだろうか。

 

 正直うまいこと喋る自信はなかったから、朱雀さんがあそこで言葉を引き取ってくれたのはすごくたすかったんだけど。こういうのって後から後からこうすればああしてればって出てくるんだよな……。どんなに拙くても相互不可侵(今回の結論)に至った理由はあの場で説明しておくべきだっただろうか。

 

 恐る恐る尋ねれば、朱雀さんはちかちかと目の光を瞬かせた後、こぽ、と泡だけでほほ笑んで答えてくれる。

 

「きみが、ぼくのことばを真剣にとらえて吐き出してくれたものに、ぼくが答えなくてどうするんだ」

「朱雀さん……」

「謀反が起こったら一緒に逃げようね」

「やめてください縁起でもない!!」

 

 刺されるならまずぼくからだから大丈夫だよ、とけらけら笑う朱雀さんに、ほんとにやめてくださいと一喝して、ふぅあと再び円卓にこんにちはする。

 

 とはいえ、だ。

 経過に不安はあっても結論を変えるつもりはなく、焦燥はあっても後悔はさしてしていないことに、自分で気が付いていた。

 

 さっきのことで改めて思い知らされたが、彼らは好戦的だ。勤勉で、忠実で、俺たちのことを第一に考えてくれる、だからこそ苛烈なシモベたち。

 もし彼らの言う通りとりあえずの報復を考えるとして、彼らの手綱を握ることができるような熱量ではなかった。まず間違いなく暴走する。手に余る。

 

 どこまでを報復の対象にするか、なんて制御できるわけがない。ひとつを敵にまわしたらすべてを敵にまわすことになる。このまま支配者ロールを続けるのなら、なおさらに。

 俺ひとりだったらそれもいいかなって流されたかも知れないけど、どこまで続くかわからない征服活動に朱雀さんを巻き込むわけにはいかなかった。

 

 ……いやでももうちょっと良い言い方とかあったんじゃないかな。威厳を保ちつつ後腐れのない感じに。延ばしてもらった15分で何か良い感じの言い方がないか朱雀さんに聞いてみたかったけど「付け焼刃で中途半端な人心掌握の手段を得るよりも素の言葉でぶつかった方が100億倍マシ」だと却下されてしまったからほんとにぶっつけ本番で。

 タイミングとかももうちょっと、いきなりこんな、でも朱雀さん失踪事件でだいぶ心労をかけたみたいだしこういうのは早い方が、う~ん、でも、うぐぐぐぐ……。

 

 そうして心の迷路を彷徨い頭を抱える俺の顔を、朱雀さんがひょいと覗き込んだ。

 

「正直いうと、もう駄目かと思った」

「はい?」

「きみが守護者たちに意見を募ったとき。きみはあそこで意見を覆すと思っていた。ぼくらの保身のために」

「あ~……」

 

 きみを侮っているわけじゃないけど、と続いた言葉に、そこは疑ってないです、と軽く首を振る。

 

 ……本当のことを言えば、今でも怖い。恐ろしい。不甲斐無いところを見せてしまったら、彼らにとって相応しい上司でなかったのなら、たちまち彼らの牙が俺たちに向くのではないか、と。

 そのリスクを負うくらいなら、彼らの意見に流されてしまってもいいのではないか、と、思わなかったかといえば嘘になる。

 

 けれどさっき朱雀さんは言ってくれた。攻撃をするにしろ、支配するにしろ、その行為は俺の内発的なものでなければならない、と。

 それじゃあ、俺の内発っていうのは、一体なんなのだろう。内発、俺の中のこと。俺の、望み。

 

 いま一番に欲しいものというなら、それは安全だ。何に脅かされることもない平穏。俺たちの、そしてナザリックの、……願わくば、後から来るかも知れないギルドメンバー達の。

 いまだに責任を感じている、というより、嫌なんだ。俺たちの作ったナザリックが、そこで生きているNPC(こども)たちが、危険な目に遭うことなんて耐えられない。 

 

 けれども、その手段として、さっき話し合ったことも含めて、色々と考えた。

 

「もしですよ、もしも、みんながこっちの世界に……、ナザリックに帰ってくるようなことがあるなら、みんなのために安全を確保しなきゃいけないとずっと思い込んでたんですけど……」

「けど?」

「それって、その、どうなんだろうって……」

 

 もちろん、命あってのものだね! ってやつで、ギルドメンバーを無闇に傷つけるようなものは極力ない方が良いに決まってる。

 だけどそれを、片っ端から排除して、敵対するものをすべて滅ぼしたとして。そこに残るものは一体なんなんだろう。

 

 俺の想像にあるのは、ぽっかりとした空虚だ。

 荒れ果てて草一本生えない荒野とか、人っ子ひとりいない廃墟とかですらなく。なにもない、完全な虚無。

 敵がいた場所をそういう風にしてしまいたいっていう願望ではなくて。

 むしろ想像ができなかった。なにひとつ思い浮かばなかった。滅びのその先にあるものが、どんなものなのか。

 

 理屈ではわかるんだ。

 新しく村や町を作るなり、草木や花を植えるなり、そのままにしておくなり、できることはたくさんあるんだろう。ナザリックにはそれができる人材がたくさんいる。

 だけど、「俺」がどうしたいのか。それがさっぱり思いつかない。

 

 俺は。おれは、本当にギルドメンバーのためを思うのなら、この世界をどうすればいいんだろう。

 こんなにからっぽのままの俺が、なんのビジョンもないままに、新しい場所を好き勝手にいじくりまわして、本当にいいのだろうか。そう、思ってしまって。

 自分への卑下ではなく、罪悪感でもなく、なんて言えばいいんだろう。

 

「そこまで、しちゃっていいのかなって、思ったんです。うまく言えないんですけど……」

「わかるよ。一度整備に乗り出してしまったら、前の状態には戻らないからね」

「そう、そうなんです! だからそれが……、怖くなったんだと、おもいます」

 

 そう、戻らない。

 一度手をつけたものは、手をつける前のものには決して戻らないのだ。

 皆で必死になって攻略した「ナザリック地下墳墓」にはもうお目にかかれないように。

 

 もちろん、まっさらなナザリックに手をかけていくのは楽しかった。内装、ギミック、娯楽施設。NPCの配置やフレーバーテキスト、意味のない大仕掛けやささやかな裏設定まで。あの日々が色褪せることは、今後どれだけの時間が経ってもないのだと断言できる。

 

 でも、それはみんなで作ったからこそ。

 本当に、みんなの帰りを待つというのなら。

 

 俺が好き勝手いじくった世界ではなくて、できる限り手をかけていないところを、一緒に触れていきたい。

 

 ひとりで来ていたらこんな余裕はなかっただろう。まだ見ぬ強敵に怯えて縮こまっていたかもしれない。

 あるいは、ちょっとしたきっかけで傷つけられたNPCのために、周囲を巻き込んで報復したかもしれない。

 

 だけど朱雀さんが証明してくれたから。

 

 周囲に敵と呼べるものがいないことを。

 考えが異なっていても話し合えることを。

 ……不意打ちで攻撃されてもNPCだけでどうにかなってしまうことを、それこそ身をもって。

 外からの危険に関してはほぼないと言えるところまで確かめさせてくれたから。

 

 だから、答えられるところは答えたいのだ。たとえ少々のリスクを背負うことになっても。

 外の世界にできる限り手をつけたくないという朱雀さんの意思を、尊重したい。

 

 ……ただ。

 

「……謀反。起こりますかね」

「そんなに心配?」

「……今のところホワイトな企業だと胸を張って言えないので。色々見直さないと……」

「じゃあ外の世界を彼らの玩具として与えてしまうかい? それが一番楽で確実だけど」

 

 すう、と、とうめいな青い光が細められる。いつも不思議に思うのは、確かに水の中に閉じ込められた灯火であるはずなのに、何故か水の外の光だと錯覚させられることだ。

 まるで、水に沈んでいるのはこっちで、水面に浮かぶ光をそこから眺めているような。

 

「……いえ、もう少しやりようはあったかなとは思いますけど、それはもう、覆しません。決めました」

「……そっか」

「あと朱雀さん、思ってもいないのに、真逆の提案を投げるのはやめてください。心臓に悪い……」

 

 心臓なんか入っちゃいない胸のあたりを撫でさすれば、朱雀さんはちかちかと瞳を瞬かせている。やがてそれはゆるやかに弧を描き、こぽり、笑みの泡がこぼれた。

 

「そうしよう。すまないね、試すような真似をして」

「そもそも楽でも確実でもないじゃないですか。胃がもたない」

「はは、そこをわかってくれてるならなお安心だ。…………モモンガさん」

 

 一息の間をあけて、ためいきのような声で。

 

「お疲れ様。……ありがとう」

 

 ……ああ。

 

 報われる、というのはこういう気持ちなんだろうか。自分が努力したことに対して、切り出したものに対して、労いの一言があるだけなのに、こんなにも違うと思うのは。

 我ながら安いと笑ってしまうけど。

 

 ものも言えずにいた俺に、朱雀さんは頭を傾けて尋ねる。

 

「そうだ。ついモモンガさんって呼んじゃうんだけどいいのかな。ご本名の方がいい?」

「いえ! 是非モモンガでお願いします! ……その、職場を思い出すので」

「なるほど、わかった」

 

 思い出したくもない履歴に消沈する俺のわがままを、彼はこぽこぽとひくく笑いながらも受け入れてくれた。

 

「その、こちらこそ、ありがとうございました。ほんとに頼りっぱなしで申し訳ないです」

「モモンガさんが慈悲深き偉大なる支配者様でいてくれるだけで十分だよ、こっちは。ちょっとやりすぎたかなってくらい」

「いだいなるしはいしゃにしてせいとうなるちょうてん……」

「わはは。まあ、顔を合わせなきゃ支配者ロールをする必要もないし」

 

 意味深な言葉に、えっ、と顔を上げると、朱雀さんが悪戯っぽく目の光を細めていた。

 

「だってモモンガさん、そろそろ外に出たくなってない?」

 

 ……なんでもお見通しか。いやバレるよな、そりゃ。

 

 なんとこの世界、冒険者という職業がある。ユグドラシルをはじめとした他のゲームや物語のように、未知を探索して冒険を楽しむ、といったものじゃなくて、害獣の駆除業者といった趣が強いけど。

 それでも冒険気分だけでも味わえるのではないかと、一緒に出掛ける際にはどうですかとお誘いしたかったのだ。

 

 ……外との相互不可侵をぶちあげといていきなり? って思わなくもないけど、個人的な付き合いまで禁止される筋合いはない、と思う……うん、思う! それと息を抜きたい。切実に。

 

「たしかに、そろそろ自分の目でも情報収集したいとは思ってましたけど、も……」

「行ってきなよ。気分転換は大事だ。カバーの身分作って街に潜り込むくらいなら、まあそううるさくは言われないだろうし。お供はつけられるにしても人数を絞れば……」

「えっ」

「うん?」

「ええっと……、朱雀さんは、ご一緒には……」

 

 てっきり外に出る=一緒にだと思っていたが、朱雀さん的にはどうやらそうではなかったらしい。

 突き放されておろおろする俺の前で、朱雀さんはいつものように襟の後ろに手を添えて、呆れのようにも自嘲のようにもみえる素振りで肩をすくめる。

 

「ちょっと自主的に謹慎しようと思って。黙って出ていったのもこれで二度目だからセバスに報いてやりたいし、護衛連中やインクリメントにも迷惑かけてるから」

「そんな、じゃあ……」

「きみが不在のうちに影の支配者ごっこするんだ。いいだろう」

 

 ふふん、と自慢げに言うものの、それが主目的であるはずもない。俺が気兼ねなく外へ出ていけるようにそう嘯いていることは丸わかりだった。

 

 ここで大人のふりをして「じゃあ俺も閉じ籠ります」ということは簡単だが、中はただでさえ人が余っている。俺がすることは特にない。本当にない。ふんぞり返っているだけの上司(置物)ってマジで邪魔だと思われかねないし、無理に手を出したってひどいことになりそうで怖い。

 どっちにしろ我が儘を貫くのなら、どちらかが得をする方が良いとは思うけど、だからって気を遣ってくれている人を置いて呑気にお出かけできるほど恥知らずでもないつもりだった。

 

「……俺よりも朱雀さんの方が対人交渉には向いてると思いますけど、その……」

「かもね。でもぼくはもう大物釣り上げたし次はモモンガさんだよ」

「えっノルマ制……? やだ、こわ……」

 

 営業成績……アポなし……飛び込み……うっ頭が……。

 

 一週間と経ってないはずなのにもはや遠い昔に思える地獄の日々(社会人生活)にうち震える俺をしげしげと眺めたあと。

 朱雀さんはこぽ、と吐息をこぼして密やかに笑った。

 

「頼むよ。年寄りがうろうろするのもそれなりにきついんだ」

 

 ……ああ、ずるいな。ずるい。

 こういうときばかり「か弱い年長者」を盾にされると何も言えなくなってしまう。

 気分だけでも深呼吸をして、彼の方をまっすぐに見据えた。

 

「……そうですね。徘徊したあげく接敵して洗脳されかけてますもんね。しばらく大人しくしといてください」

「容赦ないな。……えっ、ほんとに容赦ないな?!」

「療養は本当に必要だと思いますよ。……敵意を向けられるのは、疲れるので」

 

 そう、疲れるのだ。

 

 敵意を向けられることそのもの、悔しさや悲しさ、理不尽に対しての憤り、それをはね除けることができない自分への失望。

 現実に疲れて逃げ込んだゲームの中でも否応なくそれを味わわされて。紛いなりにも受け止めて笑い飛ばせるようになったのは、たっちさんやナインズ・オウンゴールの人たちがいたからだ。そうでなければ娯楽(ユグドラシル)でさえ続けてはいけなかった。

 

 たったひとりで、知らない土地で。準備もなしにあからさまな敵意と相対しなければならなかったことへの疲労はどれだけのものだろう。ぜひゆっくりと休んでほしかった。

 

 そして、外から向けられるだけでもうんざりする敵意(こんなもの)を内から向けられるのはたまったものではないので、既に我慢させてしまっている分、ナザリック内の精神ケアは充実させていきたい。

 

 ええと、まず今回の騒動関連で動いてくれたことへの褒賞を考えつつ、外へのアプローチがなくなった分、内側で何かできないか案を募ったり? どうも俺たちが思う「仕事」とNPCたちが思うそれが解離してるような気もするから、そこのところも擦り合わせていけるといいな。

 手始めにナザリックの防衛の強化について相談してみるか。ナザリックの資源は膨大なものだけど、決して尽きない泉じゃない。外貨を稼ぐのはもちろん、ギミックを節約しつつ効率の良い罠配置とか、考えてもらってもいいんじゃないだろうか。

 

 とりあえず、直近でやらなきゃいけないのは──

 

「そうだね。じゃ、疲労軽減のためにも、敵さんを減らす作業をしに行こうか」

「えっ、敵? ……ああ、氷結牢獄の連中ですか。今から記憶の改変やるんですか? 朱雀さんが?」

 

 ぐいん、と伸びの真似をする彼に慌てて問いかける。薄々気がついてたけどさてはこの人ワーカーホリックだな……?

 

陽光聖典(こないだの連中)でコツは掴んだし、こういうのはさっさと終わらせておきたいと思わない?」

「思いますけど休んでてくださいよ。またMP切れたりしたら負担がかかるかもしれないじゃないですか」

「……よくMP切れ起こしたってわかったね」

祖霊の報復(トーテムリタリエイション)が不発だったし、残ってたらあの程度の連中どうにでもできたでしょう」

 

 敵わないな、と、朱雀さんは肩を竦めたけれど、この程度一定レベルのユグドラシルプレイヤーなら誰でも立てられる予測に過ぎない。

 こちらとしては、そうならざるを得なかった状況の方が気になるわけで。

 

「……朱雀さん、隠し事をするなとは言いませんけど、無理をしようとしてるときは、ちゃんと言ってくださいね」

 

 ちかちかと目の光を瞬かせる朱雀さんに、言ってくださいね? とつづけて念を押す。

 何もかもを明け透けに、って関係ではないし、それが最善の関係とも限らない。

 ただ、一人で無理を抱え込むことだけはしないでほしかった。それで何人職場から消えていったかわかんないもんな……。

 

 俺の懇願を果たしてどう汲んでくれたのか、朱雀さんはこぽりと微笑んでひらりと手を振った。

 

「大丈夫、無理はしないよ。できる範囲のことしかやらないからね」

「できる範囲のことでもほどほどにしてくださいね。こっちでは疲労の蓄積がどう影響するかまだわからないんですから」

「ふふ。……じゃあ、連中の記憶処理を手伝ってくれるかな。正直人数が多いと思ってたんだ」

「もちろん。ていうか一人でやるつもりだったんですか! もう!!」

 

 さすがにそれはないよ、と指輪で転移をかける彼に、どうですかねえと返しつつ、続いて氷結牢獄へと降り立った。朱雀さんが戻ったことでナザリックの警戒レベルは下げてあって、水精霊の彼がここにいても凍ってしまうことはない。

 

 かつ、かつ、かつ、と革靴の音が廊下に響く。

 

 綺麗な姿勢で歩くその背をもそもそと追いながら、自分に何ができるだろう、と密やかに考えていた。ユグドラシルのゲーム知識を反映させることもしていきたいが、朱雀さんに限らず、NPC達の労働意欲が高すぎる。こっちに来たばかりでばたばたしていたのもあるけど、これからはできるだけホワイトな企業を目指したい。

 

 体調管理、ないしは休憩休日の充実については厳しく取り締まっていきたい。そう決意を新たにしつつ、牢への道を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……偉大なる支配者モモンガ様はずいぶんと我が創造主(あるじ)を甘やかしておられるらしい」

 

 誰が聞いているわけでもなかったが、零した言の葉は室内によく響いた。

 四方を囲んだ棚の中にはみっしりと触媒が詰め込まれ、部屋を幾分手狭に感じさせている。一人の役職の者に与えられた部屋としては十二分に過ぎるくらいだが。

 製作室、と、この部屋は呼ばれている。最古図書館(アッシュール・バニパル)の司書長として創造されしものに宛がわれた、ひとつの収容所。

 

 溜め息の真似事をひとつ。骨の身体に吐息はない。それでも今、己の心情を表にほろりと出しておきたかった。

 

 如何にも、甘やかすという物言いが相応しい。

 零れたものをなぞるように、もう一度心中で先の言を転がした。

 

 ナザリックの外との相互不可侵。それが偉大なる支配者モモンガ様より伝えられたナザリックの方針である。

 

 嘆かわしいという他ない。あれではあの場のシモベたちはなんのために集められたのだかわからん。実際あの場での皆の戸惑いは、正視に堪えるものではなかった。

 おおかた、我が創造主に唆されたのだろう。偉大なる支配者であらせられるモモンガ様のこと、それすら楽しんでおられるのならば別に構わないが、ただ甘やかしておられるだけなら少々考えものだった。

 

 これは、ひどいことになる。

 

 予感ではなく確信だった。

 高きから低きへ落ちた水滴が砕けるように、あるいはそのように転がり落ちてゆく物語のように。

 石ころひとつで大河の流れが変わるようなことなど、と、楽観視できるようなところはもうとうに過ぎている。

 

 覚悟はしておかなければならない。

 最悪、ナザリックが機能しなくなる可能性まであるのだから。

 

 またひとつ、溜め息をついた。

 

 ……とはいえ、己に何かできるわけでなし。

 諦観を持って、いくつか命じられていた仕事に戻る。無力を盾に傍観者を気取るところが創造主との確かなつながりだな、と自嘲がこぼれた。

 

 棚に詰め込まれた触媒のひとつを手に取る。水を閉じ込めたとされる宝石は、りろりろと、微かな音を鳴らして、透過した光が骨の指に青をうつした。

 確かに必要なものであると確認し、着席したところで、鳴り響く軽快なノックの音。入室の許可を出せば、いささか大仰なしぐさをもってひとつの影がすべりこんでくる。

 

 

Guten Morgen(おはようございます)!! 司書長殿!!!」

 

 

 軍靴が軽快な音を鳴らし、見た目にも鮮やかな男はいささか華やかに過ぎる声で挨拶を投げ寄越す。平坦な顔面にはぽかりと穴が開くばかりで、辛うじてこちらを向いていることだけが見てとれた。

 

「ようこそ、領域守護者パンドラズ・アクター。私は歓迎する」

「ンありがたいお言葉ァ! こちらこそ、かの死獣天朱雀様に創造されし永遠の賢者! 最古図書館(アッシュール・バニパル)の司書長ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス様に御目通りが叶いましたこと、大ッ変光栄に感じております、ハイ!!」

 

 ……ここまで大袈裟だと受け取る者によっては嫌みだととらえかねないのでは。ふつりと湧いた要らぬ心配を押し殺し、席に着くよう促せば、やはり少々過剰な動きでそれに従った。

 

 真面目なのだと思う。

 己に課せられたキャラクターを忠実かつ丁寧に実行し、かつ、それに対して忌避を持たない、その意匠の表すとおり軍属の生き物のような。

 果たしてどちらを向いているのやらわからぬ顔面がくるりとこちらへと対面する。

 

「つきましてはティトゥス様。少々ご相談したいことが」

「ふむ?」

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 パンドラズ・アクターの声色はさして変わらない。ただ、喜劇を演じるかのように朗々と響かせていた声が、今は策謀の入り口を示唆する密やかなものへと転じていた。

 

 臓腑のない身体ではため息をつくことはままならず、それでも外から見て心情を理解できるよう、ゆるやかに首を振る。

 

「……やはり、あの男はここに戻らぬ方が良かったのだ」

「いいえ。いいえ、ティトゥス様。それに関しては断じて『否』と言わせていただきます。私の創造理由を鑑みれば、それだけはあり得ない。あり得ないのです、ええ」

 

 強い、強い断定の言葉だった。ここへきて最も熱のこもったその言葉は、確かにパンドラズ・アクターというシモベが至高の四十一人の「型」を取り、モモンガ様の寂寞(せきばく)をお慰めするために作られたものだと明かしている。

 

 ここナザリックにいる多くの者たちがそう望むように、モモンガ様もまた、他の至高の御方を待ちわびていた存在のひとりなのだろう。

 

 たとえそれがナザリックにとって不利益を齎す存在であったとしても。

 

「ですが、今のままだと少々()()()()()()。おわかりですよね?」

 

 つい、と、乱れてもいない軍帽を直しながら、道化は問いかける。

 

 ああ、そうとも。わかっている。

 このままではいけない。

 

 このまま不可侵を推し進めれば、待っているのはナザリックの緩慢な死だ。

 

 戦力的にも、頭脳的にも。

 彼らの能力を生かしきるには、ナザリックでは狭すぎる。

 

 ならば今までどうしてそれに耐えてこられたのか、彼らでは決して理解し得ないというのに。

 

「それに個人的な恩もございますので」

「要らぬ仕事が増えただろうに」

「要らぬ、とは申しません。そして死獣天朱雀様がご提案してくださらなければ、私は今でも宝物殿にてひとり異変を知らぬまま、モモンガ様が訪れるのをただ待ちわびていたことでしょう」

 

 そこに見えたのは安堵と興奮、そしてわずかばかりの寂しさか。

 宝物殿に置かれることこそが彼の役目であるがゆえにそれを厭うことはない。ない、が、それでも、と思うのだろう。モモンガ様による命令以上に自らを奮い立たせるものなどないのだと。 

 

 ひとすくいの靄をふりはらい、やはり大仰なしぐさで高らかに宣言する。

 

「そう! やはり我々は使()()()()()()()!」

「ああ、そうだ。完全に同意する、領域守護者パンドラズ・アクター」

 

 シモベは、NPCは、使われなければならない。

 

 もはや我々はフレーバーとしての置物ではなく、意思ある異形の兵である。

 愛でられ、蹂躙されていれば良かったかの時は既に遠く、各々が欲を持ち、その熱に従って欲するものには自ら手を伸ばさなければならない。

 

 そうでなければ。

 そうでなければ、我々は。 

 

 ──そうしていくつか話を進め、実行に移すべくさっそく準備に取り掛かる。

 

「いやはや、あなたが今のお立場でなければ成しえなかった」

「ならば、あれがいなければこんなことにはならなかった」

「司書長殿は頑固でいらっしゃる」

「そのように創られたからな」

「ならば私もご覧にいれましょう。かくあれかし、と」

 

 そう宣言して、宝物殿の守護者はこちらをまっすぐに見た。

 ぽかりとあいた虚ろの穴は黒々として、どこまでもどこまでも底深く。

 

 ひとを呪わば穴ふたつ。

 己が埋まる穴としては(いささ)か小さいな、と、ひとつの箱に手をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お帰りなさいませ、死獣天朱雀様」

「……ああ」

 

 随分とぞんざいな返答をした自覚があったが、部屋で待ち構えていたセバスは気にする様子もない。同じく待機していたのだろう幾人かのメイド達もまた、ぴしりと整えられた丁寧な一礼を寄越す。

 主人への忠誠を欠片も疑わせない見事なそれはしかし、ぼくに安らぎを抱かせるには至らなかった。

 

 深く深くため息をつけばごぽごぽと頭のなかにあぶくが広がる。慣れない。胸の凝りがそとに出ていかずに再び内側を循環するこの感覚。

 

 慣れないといえばこの部屋もそうだった。

 指輪(転移)で戻ってきた自室は、かつて自ら整えたという事実があってなお、自分の部屋、というには実感が乏しい。

 異国の、否、まさしく異世界で宛がわれた部屋。異なる夢と言うのならぼくにとっては外よりも此処こそがその在り処だった。

 

 何故ならば、ここにあるのはかつて失われたものばかりだから。

 精緻で繊細な刺繍。清涼な水と潤沢な材料で造った酒。贅沢に切り出された木材で造られた家具。そして、勤勉で忠実な使用人。

 

 使用人、と思い立ち、ふと周囲を見渡せば、その中にひとり、姿の見えない人物がいることに気付く。

 

「インクリメントは?」

「謹慎しております。死獣天朱雀様を危険に晒した原因の一端でもありますので」

「そう命じた覚えはないけれど」

「はい。ですが己を省みる時間は必要でしょう。采配はお任せいただいたものと認識しております」

 

 ふうん、と、少々の感心を抱きつつセバスが会釈するのを眺めた。

 

 こういうとき、理詰めでくる連中よりも、一見忠実に見える彼の方が自分の意を通してくるのは面白い。あるいは自分の我を通すためならば、主が不利になるようなこともしてしまうのかもしれない。

 例えば、正義を成すために、であるとか。

 

「子は親に似るもの、か」

「は?」

「いいや。あまり気に病まないようにと伝えておいてくれるかな」

「はっ。お気遣い痛み入ります」

 

 気遣い、という言葉に、意識して自嘲を噛み殺す。ぼくの中に真実そんなものがあったのならば騙し討ちで外に出てきたりなどはしないし、こんなにも警戒しながら彼らと会話することもないのだ。

 

「……ところで、ぼくはきみのおはなし(説教)を聞いておいた方がいいのかな、セバス」

「いいえ、本日はどうかごゆるりとお休みください。モモンガ様からも、死獣天朱雀様の休息を優先するよう仰せつかっております」

 

 虚を衝かれ、二呼吸ほど間が空いた。辛うじて、そう、と返答し、先んじて為された命令の有り難さを思う。

 正直、すごく助かった。面倒なことは早めに済ませておきたい性分ではあるが、今は流石にきつい。

 

 そういえば彼は最初から「休みを取らせること」に並々ならぬ熱意を注いでいた。かつての労働環境であればさもありなんというところだが、休息の確保に対してあまりにも全力なのがおかしくて、ささやかな笑いが溢れた。

 ならばお言葉に甘えよう、と、着衣と身体が一体化している以上、現実の使用人のように上着を受け渡すこともなく、スーツのまま寝室に直行する。

 

「起きるまで寝る。モモンガさんが直接ぼくを訪ねてきたときだけ起こしてほしいな」

「畏まりました。それでは供を……」

「必要ない。人の気配があると眠れないんだ。ぼくが出てくるまで誰も寝室に近づけないでくれ」

「……畏まりました」

 

 いささか物言いたげに、けれども確かに了承の意を示したことを確認し、ひとり寝室へと身体を滑り込ませて、重厚なドアを後ろ手にしっかりと閉じる。

 

「……召喚(サモン)

 

 そろりと召喚した陣からつぷつぷと細身の海月が絞り出る。隠密と索敵に特化したそれは、ぼうっ、と二三度その身を光らせて、寝室(フロア)の中に召喚者以外の何者も存在しないことを証明すると、ずるりと全身を溶かして消えた。

 

 それこそ、溶けるように。

 ずるずると、背後の扉に預けた身体が下に崩れ落ちる。

 ごぱ、と、天井を仰いで吐いた息がまた、頭の中でぐるぐると循環した。

 

 ようやく、ようやく一息つくことができた。

 もはや蓄積する乳酸もないのに疲労で身体が動かせない。疲れた。本当に、疲れた……。

 

 ちょっと疲れすぎじゃないだろうか、と思い立ち、ここ最近の行程を脳裏に浮かべて頭を振る。

 「ナザリック隠蔽作戦」からここまで、まともな休息をとっていない。あのイベント関連の情報をまとめてる最中にツァインドルクスとの対談に出掛けて、そこから漆黒聖典と敵対、もう一度ツァインドルクスと交渉した挙げ句モモンガさんの説得。うん、年甲斐もなく動き回りすぎたな。一線を退いてしばらく経ってるからなおさらだ。

 

 睡眠防止の指輪を身に着けているから身体的にそれを欲しているわけではないけれど、今すぐ泥のように眠ってしまいたいくらいには精神が疲労している。

 今にもほどけそうになる意識をかき集めて、今後について思考を巡らせた。

 

 とりあえず、時間は稼いだ。

 

 先ほどあのように命じた以上、セバスはしっかりと門番の役割を果たしてくれることだろう。メイド達では少々心許ないが、彼であればデミウルゴスやアルベドでもシャットアウトするのに不足はない。無断外出常習犯であるぼくを逃がすつもりもないだろうが、おおよそ外でできることを成し遂げた今となっては好都合だ。

 

 ……来る、かな。ぼくのところへ、誰か。

 否、まず間違いなく来るだろう。黙ってはいまい。当然だ。

 

 「至高の御方」の我が儘というのは実際、神の勅命にも等しい最優先事項。それこそ例えばモモンガさんが「世界征服をしてみたい」と一声溢せば、彼らは全力でそれに答えるだろう。

 ぼくが「狼藉もの」への対処を自分事にし、「玩具を取り上げるな」と不可侵を命じたことで、NPC達はそこに手を出せなくなった。少なくともぼくの許しが出るまでは。

 

 だからこそ、許しを乞いに来る筈なのだ。

 

 ぼくが捻じ曲げたものはナザリックの方針それのみではない。今までアインズ・ウール・ゴウンが成してきたことの否定だ。

 

 攻撃に対して報復すること。侵略に対して迎撃すること。ユグドラシルで悪役ロールプレイをしてきた悪い大人たちが積み重ねてきたことを一度放り投げる蛮行。

 

 いくら彼らが至高の御方至上主義の狂信者でも、それそのものを傷つけられて大人しく指を咥えたままでいるはずがない。彼らがそれぞれ口にした通りの報復を望み、再度ぼくらに復讐を懇願する可能性は非常に高かった。

 

 「モモンガさんを些事で煩わせるな」と厳命したから、大人しくぼくに直談判しに来てくれる……、といいけど。

 抜け道などいくらでもあるので、モモンガさんに泣きつかれないうちに彼を外に出してしまうか。冒険者でもなんでも、好きにしてくれればいい。彼が健やかに自己を確立するのに、外での関わりがプラスに働いてくれることを期待しよう。

 

「……間に合った、かな」

 

 思わず口に出た言葉をそのまま転がす。

 間に合った、はずだ。

 

 モモンガさんは、鈴木悟氏は選択した。

 積み木を積み上げるとしても、周囲を犠牲にはしない、ということを。

 

 考える時間はそう多くはなかったが、自ら思考し、自ら組み立てた言葉で、堂々とNPCへ宣言してくれた。

 ここに、ナザリックに唯一残っていた彼が、まさしく正当なる支配者であるモモンガという存在が、自らの意思で発した命令以上の抑止力はない。

 

 これで、今後モモンガさんは外圧の驚異や内圧の恐怖に怯えることなく人間性を確保できるようになる……、かもしれない。

 少なくともNPC主導で世界征服のレールが敷かれるのを一時的にでも遅らせることはできたはずだ。今はそう信じたい。

 

 手放しに目標達成と言い難いのはやはり、よりにもよってという連中にぼくが傷つけられたのを知られてしまったからだ。

 

 あれさえなければもう少し、NPCの間に燻るものを抑えることができただろう。

 額を押さえようとした掌がそのままざぷんと頭の中に沈む。苛立ちに悪態をついてしまいそうになるのを、深く息を吐いて沈め、ゆっくりと手を引き抜いた。

 

 欲を言えば方針発表の際、答弁なりなんなり時間を設けた上で、理詰めの説得を試みることができれば良かったが、自我を生やし立ての温厚な若者と疲れてふらふらの年寄りでは文字通りお話にならなかったことだろう。

 ……地面に頭を擦り付けてでも一晩睡眠を取ってからにしてほしい、と懇願しておかなかったのを少し悔いる。まあこういうものは少なからず後悔が残るものだ。ぼくを除いた状態で方針発表されていたらと思うとぞっとする。よく事前に相談してくれたな、モモンガさんは。

 

 なんにせよ、ぼくが傷つけられたという事実がある以上、NPCはぼくらの外出に難色を示すだろう。

 こっちも散々索敵したし、脅威と呼べるものもあらかた片付けたのだから説得の材料はあるけども、面倒なのには違いない。モモンガさんの外出許可はなんとかむしりとるつもりだけど、一月後、いけるかな……。

 

 ……ふと思ったけれど、ここより五千倍危険なユグドラシルで、ぼくらがほいほい狩りに出ていたことを彼らはどう思っているんだろう。

 ……いや、それを問うのは酷か。どうであれ自律行動できないときの記憶だものな。

 

 ああ、しかしモモンガさんを外に出すことによってぼくが玉座を簒奪しようとする、なんて誤解が生まれるようであれば絶対に解かなければならない。そちらの方向に誤解されるのは、切に、心底、ごめん被る……。

 

 「最終的にモモンガ様の了承を必要とする」システムを周知させる……、だけでは足りないか? 書類の中身を見ずにぽんぽんと判子押しそうだもんなあの男もな……。

 あのタイプは自分より知能が高い相手から決済を求められると思考が停止する傾向にあるからもう少し気をつけて見ておかないと。

 

 ……ああ、もう、面倒だな、いっそ。

 

 

「……いっそ謀反が起こってしまえばいいのに」

 

 

 ぽろり、と。

 こぼれてしまった言葉に自分で愕然とする。

 

 聞き耳を立てたが、分厚いドアの向こうからは衣擦れひとつ聞こえない。聞こえてはいない、はずだ。それを可能とするようなちゃちな造りの扉ではないのだから。

 ほっと胸を撫で下ろし、自分の発言に意識を向ける。

 

 ……謀反、謀反か。

 

 モモンガさんはやたらと気にするが、そんなものが起こる可能性は非常に低い。

 例えば、口に出すのも憚られるような暴行を毎夜NPCに繰り返したとしても、彼らは喜んでそれを受け入れるだろう。

 

 彼らにとって「至高の御方」の言うことは絶対なのだ。

 ただ、「お隠れになる」のを恐れているだけで。

 

 「命令違反」はあるかも知れない。正確には命令の歪曲、といえばいいか。

 NPCにはそれぞれ性格があり、カルマ値があり、知能がある。「至高の御方による言いつけを遂行しつつ、自らの欲望を満たす」行為を平然とやってのける奴もいることだろう。

 

 そして、()()()をする対象を選ぶならば至高の御方(ぼくら)ではなく、外の有象無象の方が、欲望と使命の矛盾が少なくなる。

 

 漆黒聖典の放流を急いだのもそのためだ。手近に粗相した玩具があるなら、それに手を出さないとどうして言えるのか。

 彼らには既にカバーストーリー「ズーラーノーンの魔術師との接敵」を植え付けて、一人を除き、ぼくと戦闘した場所に放り出してある。

 一人未だに捕らえたままなのは、どうしても<記憶操作(コントロールアムネジア)>が通らなかったからだ。あれが生まれながらの異能(タレント)というやつなのだろう。

 脳だけこちらの手駒と入れ換えて放逐する、という手もあったが、中身が向こうに捕まるリスクを考えて断念した。早いところ身柄をどうするのか決めておかないと。

 

 なお、ご婦人が着ていた傾城傾国(ワールドアイテム)は流石に剥いで、似たような能力のレプリカに着せ替えてある。着替えは拷問の悪魔(トーチャー)達に手伝ってもらった。ぼくにもモモンガさんにも、ご婦人を無理矢理着せ替える趣味はない。

 

 ……思考が逸れた。

 つまり、なにかあるとすれば、こちらの命令をすり抜ける形で行われるものと考えていい、ということ。

 

 ……だから、もし。

 命令を「破棄」する形の。

 謀反と呼べるものが、起こるとするならば。

 

 「モモンガ」と「死獣天朱雀」が明白に決裂したとき。

 あるいはぼくらがナザリックそのものに深刻な被害を与えようとしたとき。

 そのいずれかになるだろう。

 

 前者は謀反というより上層部の分裂による選択の強制で、どちらを選ぶにせよかつて至高の御方と呼んだものを敵にまわすことになる状況だ。

 そんなことになったら大半のNPCはモモンガさんにつくだろうし、ぼくが一方的に討たれる形になるだろうけど。

 とはいえ彼が不可侵の方向で方針を発表してくれた以上、決裂する理由など残っていない。今後何があるかわからないから絶対とは言わないが、まずないと言っていいだろう。

 

 後者に関しては、ぼくはともかくモモンガさんは絶対にやるわけがないし、ぼくも特別ナザリックを害する理由がない。

 アインズ・ウール・ゴウンの理念を崩した今のこの状況を疎んじている者がいない、とは言い切れないが、それでいきなりこちらを攻撃してくる、というのも浅慮に過ぎる。

 

 そもそも謀反が起こるとそんなにまずいのだろうか。

 甘く見積もりすぎている自覚はあるが、それにしたってぼくもモモンガさんも不意打ちでそのまま死ぬようなビルドはしていない……、と思う。プレイヤーとNPCの間には、NPCがそう思っている以上に能力の隔たりがあるのだ。 

 

 まあ相変わらずコキュートスが出てきたらぼくは容易く氷漬けにされるわけだけど、彼の性格上正当な理由なく個人でぼくに歯向かうことはあり得ないし。

 他の誰かがなんらかの手段でぼくを凍らせようと企んだとして、今のナザリックに警備の目がないところなどないのだから、相当の無茶がいる。

 

 そして。

 ぼくの思いつかない手段で、ナザリックにあるすべての目をかいくぐってぼくに刃を届かせるのならば。

 それこそ。死んだ後のことは、知ったことでは……。

 

「……あー、駄目、だな。これは……」

 

 疲れている。絶望的に疲労している。さきほどからつらつらと妙な方向に考えを巡らせているのがその証拠だ。モモンガさんが謀反を厭う理由が、その行為に対しての心的なダメージを鑑みてのことだと、普段なら少し考えればわかるだろうに。

 

 ふらりと立ち上がる。どうも感情抑制のスキルが利いている気がしない。感情の揺れ幅が大きくなってないか。地味に鬱陶しいな。

 ドレスルームへ行くのは少し面倒だから、ここに何かあればいいけど、と駄目元でベッドサイドにある引き出しを漁る、と。

 

「お」

 

 幸い、使えそうなものがすぐに見つかった。

 

 涼しげな色の宝石が填まった華奢な首飾りは、見た目通り精神異常を打ち消すスキルに確率ボーナスを付与するものだ。

 朧気な記憶だが、普段使いのものはドレスルームに一括して置いてあるので、こちらはお休みどきのフレーバーとして設置した、ような気がする。多分。

 

 まあ置いてあった理由はなんでもいいや、と身につけ

 

「ああ、すごくすっきりした」

 

「や、ほんとにすごく調子がいいな。今なら“ぼく”達との接続もできるかもしれない」

 

「でもとりあえずは“ぼく”達と情報共有して、しばらく休もうか」

 

「まだまだ、先は長いんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございます。
大変申し訳ありませんがまだ終わりません。ここでちょうど折り返しです。
詳しくは活動報告にて。

ブクマ・評価・感想・誤字報告・ここすき(仮)、どれも大変励みになっておりますありがとうございます!!
特にここすき(仮)は読み手の作業カロリーが少なく、かつ「おっここがええんやな」とすぐわかる神機能だと思っているのでみんな気軽にここすき(仮)して(強欲)

途中長らく筆を置いていたにも関わらずまたたくさんの方に読んでいただけて本当に幸いです。大変ありがたい。

次からは「今八咫烏どこで何してんの?」という名の現地人視点と朱雀さんのプロフィールが挟まり次章へ、という形になると思います。プロフィールの方が先かも。ともかく今後ともよろしく。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

プロフィール「死獣天朱雀」

プロフィールまとめて♡っていうお声があったので大変遅ればせながら


死獣天朱雀

 

アインズ・ウール・ゴウン最年長にして大学教授の男性。

ギルド:アインズ・ウール・ゴウン(27名時)がナザリック地下墳墓を攻略した後に入団した。

 

 

↑ここまで公式↑

 

↓ここから捏造↓

 

 

 

◇種族 異形種(エレメンタル)

 

属性(アライメント) 邪悪 [カルマ値:-500]

 

◇種族レベル

 

 水精霊(ウォーター・エレメンタル) 15lv

 上位の水精霊(グレーター・ウォーター・エレメンタル) 10lv

 古代の水精霊(エルダー・ウォーター・エレメンタル) 5lv

 

職業(クラス)レベル

 

 サマナー 15lv

 マカイゲンシ 5lv

 エレメンタリスト(ウォーター) 15lv

 など

 

 種族レベル30 職業レベル70 合計100

 

 

◇ステータス

 

 HP───そこそこ。アウラと同じくらい。

 MP───わりと。マーレよりちょっと多いくらい。

 物理攻撃─貧弱。デミウルゴスに腕相撲でギリ勝つくらい。

 物理防御─なかなか。というか水なので武器によっては通らない。

 素早さ──鈍足。ハムスケとの競争なら一応負けない程度。

 魔法攻撃─お粗末。ただし直接魔法攻撃に限る。

 魔法防御─かなり。けど凍結は勘弁な。

 総合耐性─まあまあ。でもよく凍るしよく眠る。

 特殊───召喚獣や攻性防壁をここに置いて良いなら本領。

 

 

 身長 175cm (頭の大きさだけならサッカーボール大)

 体積 12000L 可変

    浮いてるので体重計のメモリは動かない。

 

 趣味 社会調査・飲酒

 著書 「各アーコロジーにおけるサブカルチャーの分布について」「欧州アーコロジー戦争におけるネオナチズム台頭の背景」「酒精と人」「手芸文化の死」など

 

 結婚歴 1回(バツ1) 

 実子  いない

 家族  両親・兄家族がいたが既に他界

     存命の血縁としては又甥がいる(兄の孫)

 

 作成NPC ティトゥス・アンナエウス・セクンドゥス

 

 

 

◇外見

 

 サッカーボール大の水球の下にスーツ・手袋・革靴一式がくっついている。あるいは「シルエットはスーツを着た細身の男性だが頭が水でできている上によく見ると服の中身がない」。

 

 頭は深い海の色をしており、目にあたるふたつの光が薄ぼんやりと灯っている。寝てるときは消える。

 

 

 

 

◇強さ

 

 運動は苦手ではないが、60代の男性にVRMMOの最前線はちときつい。というわけで選んだのは「その場に立ったまま」「ほぼ自動的に」「殲滅はできなくとも嫌がらせくらいはできる」プレイスタイル。

 最前線で狩りに行くメンバーが心置きなく遊べるようにという配慮もあり、面倒な採集を引き受けつつ後方支援に徹していた。

 ので、強いか弱いかと言われるとはっきり言って弱い。AOG内での戦力ランキングも下から数えた方が早く、完全生産職よりは戦えるという程度。

 

 では死獣天朱雀というプレイヤーが他ギルドから見て雑魚かと思われていたかといえばそんなことはなく、AOGアンチスレにて彼が「水玉ジジイ」と呼ばれ忌み嫌われていたことからもそれが察せられる。

 

 カウンターや攻性防壁で敵をひっかけつつ召喚獣でちくちくやる戦法は彼の性格にも性質にも大変よくはまった。召喚獣の7割ほどにLA(ラストアタック)をつけており、「召喚獣を倒さないとやってられないけど倒したら余計面倒くさいことになる」戦況をしょっちゅう作り出し、敵の憤怒と味方の愉悦をおいしくいただいていた。

 

 そうやって敵を罠に嵌めて遊ぶうちに偶然手に入れた最上位職は、そもそもの異形種の不人気と召喚獣の扱いづらさ、そして取得条件の複雑さ故に、正真正銘彼だけが取得しているオンリーワンである。悪辣で周到な彼のプレイスタイルを強力にアシストするスキルの数々と、未だ味方にも見せたことがない5つの超位魔法は、異世界でこそ真価を発揮する凶悪なものであり、彼がそれらを現地の生き物に使うつもりは一切ない。

 

 

 

 

◇性格

 

 モモンガ曰く「老獪で穏やかで人当たりがいい」。デミウルゴス曰く「慈悲深く聡明」。ラナー曰く「秘匿主義で、臆病で、とてつもなく卑怯だけど、情に厚く約束をよく守る」。クルシュ曰く「ひどいお方」。漆黒聖典の隊長曰く「悪辣で邪悪」。どれもが正解であり、されども本質を掴んでいない。

 

 誰に対しても物怖じせず、風情を尊び、礼を重んじ、自らの介入によって元あるものが崩れることを良しとしない。座右の銘は絶えなば絶えね。

 

 齢を取ってから横文字が覚えられなくなったと嘆く。が、本当に思い出せないときと思い出せないふりをしているときがあるので注意が必要。死獣天朱雀視点でないときにこれが出るときはほぼ「ふり」である。

 

 物腰が穏やかなので勘違いされがちだが結構好戦的。「罠を張る作業」と「罠に嵌っている過程」と「罠に嵌った後の断末魔」すべてを楽しむトラッパー。空間把握能力に優れてるのでなお質が悪い。

 

 一応行動より先に思考する人種なのだが、行動によるデメリットを受け入れる速度が尋常ではないので、他人からは考えるより先に行動しているように見える。いけるだろうとサイコロを振って95%を外すタイプの人間でもある。

 

 

 

 

◇願望

 

 せっかく未来ある穏やかな世界に怪我や病気を心配しなくていい体でやって来られたのだから、のんびり社会調査とか隠居とかしていたい。

でもモモンガさんが死の支配者(オーバーロード)になっていくのを見過ごすわけにもいかないし、NPCたちに世界征服路線へと舵を切らせるわけにもいかないと、どうにかこうにか奔走中。

 

 そしてもうひとつ。

 それは残滓であり、未練であり、権利だったもの。

 未だ自覚のないそれが語られることは、まだ、ない。

 

 

 

 

◇お気に入り

 

 なんでも読むしなんでも聞くしなんでも観るが、2080年代の日本で熱狂的な平成ムーブメントが起こったため、好みが平成から令和初期にかけての作品に偏っている。文章、音楽、映像問わず、騒がしいものよりしっとりしたものがすき。年を取ったから、ではなく、生来の嗜好であるとは本人談。

 犬派が大多数を占めるアインズ・ウール・ゴウンにおいてひっそりと猫を愛好していた隠れ猫派。

 

 

偉人   ヴラド・ツェペシュ、グスタフ・アドルフ

音楽   「愛の賛歌」「Now I Only Want You Gone」

小説   「嗤う伊右衛門」「新世界より」   

映画   「マローボーン家の掟」「パンズ・ラビリンス」

     「千と千尋の神隠し」「ジェーン・ドゥの解剖」

食べ物  酒、酒のつまみ

SCP  「蒸気船ゾンマーフェルト号」「校外学習」

TRPG CoC、永い後日談のネクロニカ

 

 

 

 

◇装備

 

 「手袋を除いた首からつま先まで」で一式扱い。

 手袋の形をしたものが手として動いているが実際は杖。つまり普通の杖を装備するには手袋を外す必要がある。杖の上から指輪を嵌めるわけにも……、ということで指輪は腰につけたチェーンに通している。

 

 最初はスーツのことを「全身鎧(フルプレート)」って表記にしてたけど「分類的には魔法詠唱者(マジックキャスター)だから全身鎧着られないのでは……?」と気づいてこっそり修正した。

 

 

 

・糊の効いたシャツ、ダークグレーのベスト、皴一つないスラックス、ぴかぴかの革靴

1話で着ていた装備。聖遺物級(レリック)。凍結防止と脱水防止つき。

 

・質の良い綿の手袋

1話でつけていた杖。遺産級(レガシー)。アイテムドロップ率アップと召喚獣の攻撃力・防御力上昇効果つき。

 

 糊の効いたシャツの上にダークグレーのベスト、質の良い綿の手袋に皺ひとつないスラックス、そしてピカピカに磨かれた革靴。円卓の椅子に優雅に腰掛け、脚を組むその姿は一見非の打ち所のない紳士のようだけど、本来首がついている筈の場所には、サッカーボール大の水の塊が浮いている。

 

 

 

・鏡花水月

3話時点で宝物殿に飾られていた魔法外衣(ローブ)。渋茶色のスーツ一式にダークグリーンのチェック柄ベスト、ワインレッドのリボンタイ。神器級(ゴッズ)

防御力の大幅な上昇に加え、脱水、及び情報系の魔法に耐性があり、攻性防壁の効果に強力なボーナスがつくなど。代わりに、凍結被ダメージ8倍、凍結耐性半減、凍結状態解除不可。

 

・覆水不変

3話時点で宝物殿に飾られていた杖。縁に銀糸の刺繍がついた白い綿手袋。神器級(ゴッズ)

召喚獣及び攻性防壁の魔法抵抗難度が大幅に上昇、一度に出せる召喚獣倍増、リキャスト時間半分など。デメリットとして召喚獣の回復と帰還ができない。

 

「うむ。そこで、死獣天朱雀さんの神器級装備を取りに来たのだ」

「おお! 死獣天朱雀様の神器級装備! 魔法外衣・鏡花水月と杖・覆水不返ですな!」

 

 

・指輪

情報のかく乱系がメイン。あと睡眠防止の指輪がひとつ。転移後は制作を可能にする指輪などを必要に応じてつけ外ししている。

 

流れ星の指輪(シューティングスター)

ご存じ課金ガチャ産、運営への要求を含めた「願い事」を叶えることができる超位魔法、<星に願いを>(ウィッシュアポンアスター)の経験値消費を3回まで無効にし、有効な願いを叶えられる確率が大幅に上がる超々希少アイテム。

死獣天朱雀がお食事の前に指輪を漁っているときに存在が発覚。PvPで返り討ちにしたプレイヤーから中古のものをゲット。死獣天朱雀は<星に願いを>(ウィッシュアポンアスター)を使えないので完全に死にアイテムと化していたが、この度モモンガさんに譲渡された。

「死獣天朱雀が、この世界の言語について、翻訳されたものと翻訳されていないものを選択して扱えるようにする」という願いを叶えているので、残り1回分となっている。

 

「ど、どうしたのモモンガさ……」

流れ星の指輪(シューティングスター)じゃないですか!」

 

 

 

・転生の指輪

魔力を消費して、只人レベル1を含めた21レベルの人間種に変身できるアイテム。イベント限定アイテムであり、本来存在しない人間種のレベルを獲得する特別仕様のため、複製は不可。得られる20レベル分のクラスは完全ランダムで、人間種の街に入ると指輪は外れなくなり、着用前に装備していた武器や防具は外れることこそないが、ちゃんと機能しなくなる可能性も高い。

モモンガさんと一緒に晩酌するために手渡した。実は75レベルの人間に転生する指輪もある。

 

「……随分とクセのあるアイテムですね」

 

 

 

・朱塗りの煙管

脱走事件の直前、インクリメントに探させていた煙管。本人のアイテムボックスに入っているのでいくらドレスルームを探しても見つかるわけがない。

 

 ない、ない、ない。

 見て、開けて、ずらして、動かして。

 探しても、探しても、探しても。

 死獣天朱雀様が指定なさった場所に、煙管らしきものが、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※使用した魔法・スキル・召喚獣(およそ話数順)

 

 

・知者楽水

パッシブスキル。水系の魔法に8%のボーナスがつく。

「知ある者水ながるるを楽しむ」という一文がフレーバーテキストにあり、それにより転移後、頭の回転が少し早くなっている。

 

伝言(メッセージ)

ご存じ通話魔法。原作との齟齬になるけど、今作では声に出さなくても通話ができる……、というより、二人とも口を動かさなくても喋れるんだからめっちゃ小さい声で喋ったら周囲にバレずに通話ができるのでは? というイメージ。ガバガバ。忠誠の儀を円滑に進めるためだけに採用した。

 

・水精霊召喚〇〇

水精霊召喚+位階で水精霊を召喚する魔法。メタ的には召喚獣が重要でないときは位階を表示し、位階が重要でないときは召喚獣の名前を表示している。名前を考えるのが楽しくなってきたので位階表示はもうしないかもしれない。

 

水霊殿の乙女(アクア・メイデン)

第5位階の水精霊。7位階と9位階に上位互換がいる。肉食。「魔法って今使えるの?」の確認のためだけに呼び出されて燃やされた。

若干ヘイトを引き付ける効果がある他はこれといって特徴がないので、普段は主にデコイとして使われている。

 

幻影の水魚(フレンドシップ・ドリーム)

第3位階の水精霊。魚版ドッペルゲンガー、あるいはシェイプシフター。攻撃を受けるまで相手の姿かたちを模倣することができる。「魔法って今使えるの?」の確認のためだけに呼び出されて食われた挙句燃やされた。

本気で騙すため、というよりは視覚的に「味方の姿が増えた」という一瞬の硬直を狙って使用されることが多い。るし★ふぁーに「ケツゲウオ」という渾名をつけられている。

 

八咫烏(ヤタガラス)

過去ユグドラシルにて開催された日本神話イベントの報酬召喚獣。赤い目をした3本足の鴉。全長140cm、60レベル相当。現在は最小化(ミニマイズ)されて大きさ、レベルともに5分の1程度になっている。第3位階までの魔法がいくつか使える。

今作で最も働いている生物。永続化(コンティニュアル)感知接続(コネクト・センス)臆病者の義眼(クレイブン・マーブルズ)心臓への鎖(チェイン・トゥ・ハート)深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)の魔法をかけられた上であちこちに放流されている。

 

最小化(ミニマイズ)

魔法の威力を小さくする魔法。召喚獣の弱体化、および縮小にも使用可能。召喚獣に使った場合はレベル、大きさが共に5分の1程度になる。

 

感知接続(コネクト・センス)

召喚獣と感覚を繋げる魔法。転移してからは五感すべてを繋げることができるが、情報量が多いので視覚と聴覚以外は必要に応じて切っている。

 

臆病者の義眼(クレイブン・マーブルズ)

召喚獣の感知能力を強化する魔法。ある程度のステータス、不可視化、不可知化を見破ることができる。感知能力の上昇率は召喚獣ではなく召喚者のレベルに依存する。これが発動している間は召喚者の感知能力がゴミ同然になるので、転移してからは「召喚者より召喚獣の方が勘がいい」という状態がデフォルトになっている。

 

心臓への鎖(チェイン・トゥ・ハート)

自身の召喚獣に対して洗脳あるいは魅了が成功したとき、召喚獣が即死するようになる魔法。死亡時のカウンターと併用すればいい感じにえぐいことになる。

 

魔力変換(コンヴェーション・マナ)

自身のHPをMPに変換する魔法。実質ポーションでMPを回復できるようになる魔法だが、うっかり変換しすぎるとHPが0になって死ぬ。これがあるので死獣天朱雀はMPの数値をあまり伸ばしていない。

 

深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)

看破系統の魔法に対しては深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)を、監視系統の魔法に対しては深き者の従者(サーヴァント・オブ・ハイドラ)をそれぞれ召喚する攻性防壁。強力だがアホみたいにMPを消費する。

 

深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)

攻性防壁<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>が看破系の魔法を感知することによって発動。魔法を使用した対象者1体を水精霊が包み込み、周辺モンスターのヘイトを引き寄せる。ある程度ダメージを受けると対象者は解放され、水精霊が倒されたときには周囲に睡眠効果をばらまく。

 

~幕間「地より見上げし者たち」で何が起こったか~

 深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)がかかった八咫烏がイビルアイと接敵

→イビルアイが八咫烏を追いかけまわす

→逃げるうちにザイトルクワエの近くへ

→八咫烏が透明化

→イビルアイが透明を看破、攻性防壁発動

深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)が召喚、イビルアイが捕獲される

深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)にザイトルクワエのヘイトが向く

→ザイトルクワエ、イビルアイごと深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)を攻撃

→イビルアイ解放(大ダメージ)、跳ねる深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)を追いかけるザイトルクワエ

→そのまま蜥蜴人(リザードマン)の集落がザイトルクワエに轢かれる

→ひょうたん湖のあたりで深き者の羊水(クレイドル・オブ・ハイドラ)が死亡し、FAが発動

→おやすみザイトルクワエ

 

という流れ。

 

深き者の従者(サーヴァント・オブ・ハイドラ)

攻性防壁<深き者の御簾(ブラインド・オブ・ハイドラ)>が探知系の魔法を感知することによって発動。第10位階召喚獣、深き者の従者(サーヴァント・オブ・ハイドラ)を召喚する。

単純な戦闘力は同レベル帯では上の下。周囲に幻覚や恐怖などの精神作用をばらまき、倒されたときには索敵用の小蟲を大量に放出する。

陽光聖典の上空を八咫烏が通過した際、攻性防壁が発動し、土の巫女の間に召喚。神官連中を錯乱状態に陥らせた後、籠城。応援としてやってきた番外席次に倒され、法国中にフナムシをばらまいた。

 

 

記録(レコード)

対象にかかっている魔法を記録する魔法。「あのとき何の魔法かけたっけ……」状態を解決することができる。ログアウト後も持ち越し可能。

 

 

補充(リストレイション)

ログイン中に呼び出した召喚獣をもう一度呼び出す魔法。記録(レコード)をかけていればその内容も反映される。一度ログアウトすれば履歴はリセットされるが、異世界ではログアウト=死なので試す機会がちょっと……、という感じ。

 

霧吹き老女(ミストレア)

第10位階の水精霊。ナザリック周辺を霧で包むために呼び出された。

召喚直後は仙人服を着た幼女だが、霧を吐き出すとみるみるうちに皺くちゃになり、あっという間に老女になる。完全な老女になると、HPが半分になる代わりにその他のステータスが1.75倍になる。

「もどして」「やだ」のやりとりが誰と行われたかはお察し。

 

・明鏡止水

精神系の魔法・スキルによる影響を遮断するパッシブ。揺れた感情を平静の状態に戻すのがモモンガさんの精神抑制ならば、こちらはそもそも感情を波立たせないようにする方の抑制。「NPCに余計な情を移さないようにするため」に発動したが、果たして。

 

橋下の贄(クライング・フェザント)

第10位階の召喚獣。攻性防壁に引っ掛かった際、体に刺さった杭を消費することで無効にする。周辺の地理を説明するときに保険で呼び出された。

最初は「サクリファイス・アンダーブリッジ」という名前だったが、あまりにもそのまんまだったのでこっそり名前を変更している。

雉も鳴かずば撃たれまい。成れ果ての雉は今も泣いているのだ。

 

水鏡(ミラー・オブ・ウォーター)

水晶の画面(クリスタル・モニター)の水版。周辺の地理を八咫烏視点で解説する際に使われた。水があるところならどこでも使えるが、逆に言えば凍ったり蒸発したり濁り過ぎたりすると使えなくなる。

 

視界接続(コネクト・ヴィジョン)

読んで字のごとく、視界と画面を接続する魔法。周辺の地理を八咫烏視点で解説する際に使われた。

 

水球(ウォーターボール)

低位階の水系攻撃魔法。火球の水版。極々低確率で呼吸を必要とする種族を窒息状態にする。イビルツリーのところへ転移する際、地面に水たまりを作るために使用。

 

天候操作(コントロール・ウェザー)

ご存じ天候操作魔法。モモンガさんが放った炎が周囲に燃え広がらないよう雨を降らせた。なお、雨が降っている間は地形が「水場」判定になる。

 

水端の堰(ミスト・ポット)

第7位階召喚獣。霧で周囲をかく乱し、魔法・物理共に使えるオールラウンダー……、もとい器用貧乏。体力が2割を切ると周囲に気絶あるいは狂乱作用を起こす悲鳴を上げ、体力が0になると、それまでに受けたダメージを「オーバーダメージを含め」相手に返す。

霧吹き老女(ミストレア)の代わりにナザリックを隠すために霧を出し、「ナザリック完全隠蔽作戦」において陽光聖典、およびクレマンティーヌと戦闘。陽光聖典をほぼ全滅においやり、威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)と相打ち、クレマンティーヌに重傷を負わせた。

 

・分裂

スライム、精霊などの不定形種族が有するスキル。文字通り自分を任意の数に裂いて分けることができる。転移してからは分裂した個体すべてに分裂以前と同じ人格が宿っており、上級クラスのスキルによって、スキル・クラス・魔法を任意で振り分けることも可能。

現在進行形で使用者のSAN値と人間性をごりごり削っている。

 

記憶操作(コントロール・アムネジア)

ご存じ記憶操作魔法、もといログの書き換え魔法。NPC相手に記憶操作を使うスニークミッション的なイベントがあったのかも知れない。

陽光聖典の記憶を「ズーラーノーンのモンスターと接敵した」と書き換え、漆黒聖典の記憶もいい感じに改変(内容未定)している。

 

深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)

高位階の召喚獣。甲殻騎獣というだけあって速くて硬い。存命中の特殊能力はないが、倒されると深淵宮殿の門番(パラティ・ヒェリ)が場に召喚される。ユグドラシルではタクシー替わりにしょっちゅう使われていた。

漆黒聖典の敵意を感じ取り、主のレベルが普段より低いこともあり、命令を振り切って強襲。傾城傾国の魅了を食らって反逆し、偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)によって拘束され、なんやかんやあってツアーに倒された。

 

偏執王の拷問鎖(パラノギアス・チェイン)

高位階の魔法。魅了あるいは洗脳を受けた味方に対して発動することができる。対象を拘束し、対象のHPを半分削ることで精神作用を解くことができる。一定時間ごとに魔力コストを支払うことにより、拘束を持続させることが可能。

魅了された深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)に使われたが、傾城傾国(ワールドアイテム)による効果であったため、拘束のみに留まった。

 

・眷属無限召喚

みんな大好き恐怖公とお揃いのスキル。溢れんばかりの水精霊を召喚するが、1匹1匹はウレイリカやクーデリカが余裕で倒せるくらいに弱い。1日3回限定。

漆黒聖典の隊長から身を隠すための防壁替わりに用いられた。

 

・水中移動レベル5

読んで字のごとく水中を移動するスキル。レベル5ともなれば、明らかに自分の体積より水深が狭い空間でも華麗に泳ぐことができる。

漆黒聖典から一時的に身を隠すために使われた。

 

凍らずの誘蛾灯(ウォーム・インセクトライト)

中位階の魔法。発動してる間凍結を防ぐことができるが、近くにいるモンスターを呼び寄せてしまう。

漆黒聖典の<氷球(アイスボール)>から身を守るために使われた。

 

報復胞子(リヴェンジ・マッシュルーム)

高位階のカウンタースキル。名前はここで初登場。特定の攻撃に対してキノコを生やし反撃する。ゲーム的には毒、麻痺、窒息、及びHP吸収の効果を持つ。

「背後攻撃」「脱水系の魔法」に対してセットされており、漆黒聖典を3人落とした。

 

耳鳴りの鐘(ノイジー・ベル)

中位階の召喚獣。攻撃力、防御力共に皆無だが、でかい音をまき散らすのでとてもウザい。倒されたとき、「魔法強化のMP消費を3つまで0にする」状態を付与する。

漆黒聖典が対プレイヤーの戦闘に慣れているか検証するために召喚された。結果漆黒聖典に秒で倒され、<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>の魔法強化がノーコストで行われたが、その轟音で蜥蜴人(リザードマン)を呼び寄せることにもなった。

 

祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)

高位階の魔法。魔法を唱えると4本の柱が現れ、一定時間、術者に加えられた物理攻撃と魔法攻撃の威力と回数をはかり、総攻撃回数が12回になったとき、術者を除いた範囲内すべての者にデバフと呪いのダメージを与える。

柱が立っている間、術者へのダメージは報復計算のため保留となり、たとえHPが0になるようなダメージを受けても死ぬことはない。時間内に攻撃回数を満たせない場合、または途中で解除した場合、術者は大量のMPをコストとして支払い、すべてのデバフと呪いを受ける。

対漆黒聖典の切り札として発動。それぞれの口から不気味に水を垂れ流し、あと二回攻撃を受ければ条件クリア、というところで蜥蜴人(リザードマン)が乱入。やむなく解除し、デバフを受け、呪いのダメージを百腕卿の侍衛(ガーダー・オブ・ハンドロード)に押し付けた。

 

百腕卿の侍衛(ガーダー・オブ・ハンドロード)

高位階の召喚獣。4本の腕による自動迎撃システムであり、ユグドラシルでは正直使えなかったが、転移後はある程度召喚者の思考を反映するため結構いい仕事をする。

漆黒聖典の攻撃からしばらくの間召喚者を守り、<祖霊の報復(トーテム・リタリエイション)>の効果を身代わりに受けて消失した。

 

水精の面紗(ヴェール・オブ・アンダイン)

中位階の防御魔法。付与した対象を「水精霊」扱いにし、物理攻撃を無効化。さらにフィールドが「水場」であった場合、一定以下のINT(知能)のモンスターから攻撃対象に選ばれなくなる。代わりに水精霊の弱点を得る。

乱入してきた蜥蜴人(リザードマン)達に集団標的(マスターゲティング)で付与した魔法。手持ちの魔法で辛うじて使えそうなのを必死で検索したらこれが出てきた。

 

専守過剰防衛(イクサーシブ・ディフェンス)

最高位クラスによる特殊スキル(パッシブ)。名前はここで初登場。攻性防壁、カウンターなどの「反撃を伴う防御」の威力を上げる代わりに、術者に付与される非反撃系防御の魔法効果をデメリットに変化させる。つまりこのスキルを発動しているとき、マジックシールドをかけられた状態で凍結魔法を受けると100%凍る。

 

深淵宮殿の門番(パラティ・ヒェリ)

深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)が倒されると出てくる召喚獣。甲殻騎獣(デルフィオス)を倒した対象を挟み潰す形で出現し、ダメージと共に窒息効果も付与する。が、呼吸しないツアー(鎧)には効かなかった。

 

 

 

 ※行動(およそ話数順)

 

 

・ユグドラシルのサービス終了日、朝からモモンガと一緒にいた。

・アルベドの設定を「モモンガの伴侶である」に書き換えた。

・ログインする前に、同分野で競っていたライバルが亡くなったことで意気消沈、職を辞してきた、らしい。

・サービス終了直前、モモンガと末期のロールプレイをした。

 

・首の後ろに手を置く癖があったが、首がなくなったので仕方なく襟に手を置いている。

・宝物殿に移動後、神器級(ゴッズ)装備「外衣(ローブ):鏡花水月」と「杖:覆水不変」を装備。

 

・第六階層にて守護者たちにいくつかの質問をする。

・レメゲトンにて軽く実験。第3位階水精霊召喚、第5位階水精霊召喚で幻影の水魚(フレンドシップ・ドリーム)水霊殿の乙女(アクア・メイデン)を召喚した。

・咳ができない。

・モモンガが元の世界に帰りたくないことを確認する。

・召喚獣で索敵をするために一人で地上へ。

 

八咫烏(ヤタガラス)を9匹召喚。最小化やら攻性防壁やら監視やら色々魔法をかけて異世界に送り出す。

・魔力が減ることに対しての忌避感を覚える。

・ひとりでいるところをマーレに見つかって泣かれる。

 

・子守歌が歌えない。

・地上にやってきたデミウルゴスと合流、護衛がマーレからデミウルゴスに交代。

・デミウルゴスとお喋りする。

・「今飛ばしている8匹の八咫烏が全部死んだら索敵を部下に渡す」と伝える。

・デミウルゴスに「GMコール」「ニューロンナノインターフェイス」の意味を調べるよう命じる。

・ナーベラルを連れたモモンガと合流。

・マーレに魔力を譲渡、その後魔力変換(コンヴェーション・マナ)でHPをMPに変換し、ポーションを摂取していたことでデミウルゴスとナーベラルを蒼褪めさせる。

霧吹き老女(ミストレア)を召喚、周囲を霧で覆う。

・地下へと戻るモモンガにデミウルゴスを押し付け、かわりにナーベラルが護衛として残る。

・思考の海へ沈む。

 

・現在の状況を確認。

・「時々社会調査しつつ隠居する」「モモンガさんの人間性を確保する」と自分の方針を定める。

・スキル「明鏡止水」を使用。

・第7位階の霧吹き召喚獣を呼び出す。

・八咫烏が一匹死んでいることが発覚。しれっと補充して地下に戻る。

 

・円卓でセバスに叱られる。

・図書館でモモンガと合流する。

・製作室を借りる際、ティトゥスに軽く罵倒される。

・地図の作成を開始する。

 

・<水鏡(ミラー・オブ・ウォーター)>と八咫烏の視界を繋げ、攻性防壁対策に橋下の贄(クライング・フェザント)を召喚する。

・モモンガに周辺地理と現在の状況を説明。イビルツリーに滅ぼされそうな蜥蜴人(リザードマン)の集落を見学しに行くことを提案する。

 

・霊廟を歩いている間考え事。ティトゥスの振る舞いが友人に似ている、らしい。

・セバスと一緒に地上へ。モモンガ、シャルティア、アルベドと合流し、イビルツリーのところへ転移する。

・モモンガの魔法実験とセバスへの詫びのため、イビルツリーを討伐することに。周囲に火災が燃え広がらないよう調整する。

 

・クルシュとザリュースの前に膝をつき、蜥蜴人(リザードマン)の繁栄をお祈りする。

 

・モモンガにウィル・オー・ウィスプを召喚させ、自分たちが祖霊の願いによりやってきたと蜥蜴人(リザードマン)たちに誤認させることに成功する。

蜥蜴人(リザードマン)の酌を受けつつ、色々と話を聞いてまわる。

・クルシュに祝言を伝える。ついでにイビルツリーが暴れだした原因が自身の召喚獣由来であることが判明する。

・クルシュと少し問答。判定負け。

・ナザリックに帰還。アルベドに結婚指輪のことを吹き込む。

 

・自室にあふれかえる酒瓶を見て呆然とする。

・自室の隠し部屋の存在を思い出す。

 

・ユリ、ルプスレギナ、メイド3人と部屋を片付ける。

・モモンガが部屋に訪問、近況を報告する。

・死獣天朱雀とのお約束事項をNPCに周知させる。

・メイドたちにお菓子を渡す。

 

深き者の従者(サーヴァント・オブ・ハイドラ)が「法国のお姉さん」に倒されたことを報告。

・モモンガに周辺の情報をまとめた資料と、蜥蜴人(リザードマン)の集落でもらってきた貨幣を渡す。

・モモンガに婚約指輪のカタログを手渡す。

・晩酌の準備を始める。

 

・モモンガに流れ星の指輪と転生の指輪を渡す。

・モモンガと晩酌を楽しむ。

・「ナザリックのNPCは至高の御方を気配で判断できる」という情報を得る。

・ナザリックの隠蔽作業が完了したと報告を受ける。

・アルベドとデミウルゴスに地図を見られる。

・デミウルゴスに近所の地下空間の索敵権を与え、最後の八咫烏を放流するよう頼む。

・モモンガから転生の指輪を返される。

 

・スキル「分裂」により、自分の分身を12体作成。作業と索敵を振り分ける。

・モモンガに<星に願いを>で自身に「この世界の言語について、翻訳されたものと翻訳されていないものを選択して扱えるようにする」と付与してもらう。

・自分の分身と少し問答する。答えは保留。

 

・カルネ村完全隠蔽作戦開始。

・パンドラズ・アクターを司会に推す。

 

・マーレに村人の様子を尋ねる。

・シャルティアを使って「ろーるぷれい」なるものの説明をする。

 

・騎士を殺めてしまったシャルティアに減点1をつける。

 

霧吹き老女(ミストレア)の代わりに召喚した水端の堰(ミスト・ポット)と陽光聖典が接敵。

水端の堰(ミスト・ポット)のHPが2割を切るまでうまいこと必死に立ち回らせる。

水端の堰(ミスト・ポット)威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)と相打ちに。

・ナザリック完全隠蔽作戦終了。

 

・シャルティアに「魔法やスキルを使わず、拷問でもない手段を用いてクレマンティーヌから情報を引き出す」よう命じる。

・アルベドとデミウルゴスにモモンガ用の資料を見られたことが発覚する。

・陽光聖典の蘇生と記憶処理を行う。

 

・八咫烏がツアーを発見。

・インクリメントにドレスルームへ煙管を取りに行かせ、八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)を無力化する。

・家出。

 

・八咫烏と交代する形でツアーと接触。

・ツアーとおしゃべり。

・良い感触を得てご満悦。でも直でナザリックに転移できないと発覚して脱力。

深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)を召喚して乗って帰ろうとする。

・が、レベルが足りないので命令を聞かず、隠れてた漆黒聖典と接敵。傾城傾国により召喚獣のコントロールを奪われ、そのまま戦闘へ。

 

・カウンターとレベル差でごり押しするも、蜥蜴人(リザードマン)の乱入により一転ピンチに。

深淵大帝の甲殻騎獣(デルフィオスオブノーデンス)が突っ込んできたところをツアーに助けられる。

・なんとかなるかと思ったのも束の間、自分が張った罠にツアーがかかった瞬間を狙われ、傾城傾国の発動を許す。

 

・間一髪ナザリックからの救援が間に合う。

・状況にぶち切れるモモンガを宥め、ツアーと交渉。漆黒聖典の身柄と引き換えに、一月後の会談を約束する。

・ナザリックに帰還。モモンガから「アインズ・ウール・ゴウンの名を世に知らしめたい」と相談される。

 

・死獣天朱雀によるメンタルセラピー(仮)

 

・第1ラウンド終了。一応の相互不可侵へ一歩踏み出す。

 

・お部屋へ戻り、眠る前に引き出しのアイテムを装備する。

 

・?????

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「もうちょいわかりやすくしてほしい」とか「他にこんな項目作って」とか「これ聞きたい」とか「お気に入りに項目増やしてほしい」などあれば活動報告に欄作るのででお気軽に聞いていただければ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ほど近く、されど今はまだ遠く

前回のあらすじ
ナザリックの方針が穏便に決定した模様(穏便とは言ってない)

お待たせしました
予定通り八咫烏が今どこにいるかってお話


  アゼルリシア山脈

  ドワーフの王国旧首都 フェオ・ベルカナ

  王城 「臆病者」の部屋

 

 

 

 

 

 死はいったいどこにあるんだろう。

 すぐ近くのような気もするし、とても遠いような気もする。

 少なくとも、今すぐに殺されるということはないようだった。

 

 

 とはいえ、あの短気で乱暴な父が今後自分をどう扱うものか。はふ、と憂鬱な気分で小さく息を吐けば、かすかに凍り付いた空気がはらはらと落ちた。眼鏡に霜がつきそうになり、慌ててぐいっと顔を上げる。

 ……天井に張った蜘蛛の巣ってどうやって取ればいいんだろう。つくづくドラゴンの身体は掃除に向いていないなあ、とげんなりした。

 

 あの性格の父だから、卵から孵ったばかりの幼いころは軟弱者だとよく叩かれた。成長した今はもうそんなことはない。というより、弟妹ができて意識もされなくなったんだろう。寂しいわけではないけれど、ちょっと虚しい。

 父はドラゴンらしく財宝を愛でるのに忙しく、ならばと部屋にこもりっきりで本を読み漁っていれば顔を合わせることもない。いつまでもそんな日々が続くなんて保証もまた、どこにも、ない。

 

 そのうち気まぐれを起こして尻尾で叩かれたり、兄弟の爪研ぎに使われたりするかもしれない。蹴りとばされたり、ブレスの練習台に使われたりするかもしれない。完全耐性があるからブレスは効かないけど、攻撃されるっていう事実が嫌じゃないか。

 ひっそり侵入してきたドワーフやクアゴアにうっかり狩られて、生きたまま皮を剥がされたりするかもしれない。せめて皮を剥ぐなら死んでからにしてほしいけど、新鮮なものの方が「良い」革になるらしいから、望みは薄いのだろう。ひどすぎる。お外こわい。

 

 こわい。こわい。

 痛いのはいやだ。痛いのはこわい。

 

 どうして痛みなんてものが身体に備わっているのか。

 ドワーフの医師が書いた本によると、痛みを感じることによって身体の異常を知らせて、そこに負荷をかけないようにするため、らしい。

 でも、あまりに酷い痛みだと、その衝撃だけで死んでしまうこともあるそうだ。なんだそれ。本末転倒じゃないか。

 

 いやだな、こわい。

 痛いのも怖いけど、死ぬのも怖い。

 世の中には恐ろしいものがありすぎる。

 

 死んだら一体どこにいくんだろう? 

 世の中には蘇生の魔法が存在するらしいから、身体が使えなくなっても、すぐに消えてしまうことはないんだろうけれど。

 ドラゴンの寿命は他生物よりだいぶ長いし、俺はまだ若いドラゴンだから、戦いさえしなければその日はずいぶん先になるはずだ。……戦いさえしなければ。

 

 フロスト・ドラゴンこそ最強であると考える父は、アゼルリシア山脈の覇権を握るために、いつかフロスト・ジャイアントへ戦いを挑むのだろう。

 そのときはきっと俺も駆り出されるに違いないし、何ができるかの適性を考慮されることもなく、盾代わりに前線へ投入されてしまうのだろう。想像に難くない。

 

 その戦場で起こることを考えるととてもとても怖くなるので、いつか来る日を遠くするためにも、俺はひたすら本を読むのだ。

 

「……うん?」

 

 ぺら、ぺら、ぱさりと、小気味良く続いていた紙擦れの音が止み、かしかしかし、と、紙をひっかく音がする。

 これは真っ黒な嘴が黄ばんだ頁をつつく音で、最近現れた小さな読書友達の意思表示であった。

 

「それは、えーっと……、……、ちょっと待って、確かこっちにわかりやすい図録が……」

 

 ついこの間まで児童書を読んでいたはずの黒い鳥は、どうやら大変飲み込みがよろしかったようで、今はもう建築の専門書に手を、いや、脚を出していた。三本も脚があって絡んだりしないのかなと心配になることもあったけど、なかなかどうして上手にページを捲っている。

 

「よいしょ、と。これでわかるかな。……ん? なに?」

 

 同じページを覗き込み、同じ文章を目で追って、同じ言葉の意味を考える。

 不思議な感覚だった。今までずっと独りで本を読んでいて、それが当たり前になっていたから、自分を寂しい生き物だと思ったことなんてなかった。友達なんて、物語本の友情を眺めることしかできないと信じてたのに。

 

「……こないだ教えたところの意味が違うって? 嘘だぁ。……えっほんとに?」

 

 まあ、声もない生き物だから、俺が勝手に友達呼ばわりしているだけなのだけど。友達だよね? とはさすがに聞けずにいる。

 おまけにこの黒い鳥ときたら、こんなに小さいのに結構辛辣で、間違いがあったらずけずけと指摘してくるし、気に入らないことがあったら容赦なくつついてくるのだ。

 

「……ああ。そうか、これって“河川”だけじゃなくて“流れ”っていう意味もあるのか」

 

 えっどうしよう、それだとこの間読んだやつの意味が丸々変わってくるぞ。

 わたわたと蔵書をひっくり返していると、積まれた本をごっそり崩してしまい、黒い嘴がここぞとばかりに俺をつついてきた。

 

「わ、いたいいたい! ごめん! ごめんって! 大事にする! 大事にするから!!」

 

 誠心誠意の平謝り。本当のところさして痛くはなかったが、悪いことをした自覚はあったから。

 すると赤い目の鳥は、わかればいいのだというように、ふす、と鼻息を漏らして胸をはる。

 

「……君は、本が好きだなぁ」

 

 黒い鳥が、ひたりとこちらに目を向ける。父が集める財宝に混ざる赤い宝石のような瞳が、そういうお前はどうなのだ、と雄弁に語っていた。

 

 ああ、そうだ。

 俺も、本が。本が、好きだ。

 

 紙の匂い。革表紙の爪触り。滲み掠れたインクの深い色合い。そこから読み取れる数多の知識。

 見たこともない生き物の生態。美しい詩や物語の羅列。かつての住人が整えた建築の計算式。とある国が栄華を極め、やがて枯れ落ちるまでを寄り添った手記──。

 

 俺が今いる一族も、やがて終わるときがくるのだろう。

 もしかしたら、いつか独り立ちした俺が、自分の一族を率いる日がくるのかもしれないけれど、今はとてもじゃないけど実感がわかない。

 

 父は、オラサーダルク・ヘイリリアルは確かに強いドラゴンだが、強さを追い求めるあまり知識をないがしろにするところがある。世の中にはフロスト・ドラゴンですら敵わない特別な力を持つものや、あるいは力の有無など関係なくすべてを飲み込むような天災や疫病だって襲い来るかもしれないのに。

 父が、そういったものへの備えをしているところを、見たことがない。

 

 だから、終わりの日はきっとやってくるのだ。

 そのとき、俺は、どうするのだろう。父母や兄弟を終わらせるようなものがきたときに、俺が生き残っているとは到底思えないけど、だけどもし、もしものはなし。

 

 すべてが崩れたこの場所で、奇跡的に生き残ったとして。

 剥き出しの青い空の先には、恐ろしく、おぞましいものがおびただしい数存在していて、けれども誰かが記したまだ見ぬ本がたくさん、たくさんあるのだろう。

 

 ちらり、と横に目線を流す。さっきまでこっちを見ていた鳥はもう、興味が失せたとばかりに次の本へと取りかかっていて。 

 

 ……こんな小さな鳥がふらふら飛んで生きられるんだから、いっそ外に出てみるのも、悪くないのかもしれないな、なんて。

 思うと同時に、ちょっと痩せなきゃいけないかもな……とたるんだ自分の腹を見つめ、こっそりと項垂れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  バハルス帝国

  帝都アーウィンタール 皇城 資料編纂室

 

 

 

 

 

 死とは何処にあるのか。

 もはや手の届くところにあり、さりとて身を任すつもりは未だない。

 どうか、その真髄を垣間見るまでは、と。

 

 

 真髄。魔法の深淵。未だ遠き神秘の中核。

 

 果たしていつからそれに魅いられたものか。もはや遥か昔日のことで、思い出すのも難しく、埋めた記憶を掘り返す時間も惜しかった。

 

 日に日に焦燥は募る。定められた命を大いに引き延ばし、されど老いの果ては確実にこの背へと迫りつつあった。

 残された時間は多くない。だのに魔法について学ぶべきことは尽きぬのだから、元々勝ち目のない戦いに挑んでいるようなものだ。

 

 逸る心を落ち着けるように、努めてゆったりと(ひげ)を撫でる。

 なにをどうしても気は急くが、それを表に出して良いことなどない。己にしても、他者にしても、頭脳労働に拙速を強いるのは極めて悪手であるからこそ。

 

 ああ、しかし。それでも。

 なにかしら切っ掛けがほしい。師がほしい。

 魔法の深淵を覗く術がほしい。

 

 手段は問わない。手を届かせることができるのならば、それが己の手でなくとも構わなかった。そこから師事を得ることができれば尚良かったが、もはや拘ってもいられぬところまできているのだから。

 

 それでも、帝国を見限ろうという気にはならなかった。

 

 考えたことがないとは言うまい。

 遠々しい、先々代が皇位に就く前の話だ。帝国に限らずとも、この身とこの知識さえあれば、どこかもっとうまくやっていけるところがあるのではないか。

 魔法の深淵にほど近い人物や、研究の環境を整えられる国は他にあるのではないか、と。

 

 だが、結局のところ理想に適う人物もおらず、帝国ほどの環境が与えられる国も他にありはしなかった。

 半ばわかっていたことではあるが、それでも些か消沈する私に、諦めろ、と笑い飛ばしたのは、ジルクニフの祖父、先々代の皇帝であった。

 

 

 諦めろ。この国の外でお前がなにかを成すことを。

 目移りしようが裏切ろうが俺の代ではお前を手放してやるつもりはない。

 魔法の深淵とやらは俺にはさっぱりわからんが、お前がそこに手を伸ばすための踏み台くらいは潤沢に用意してやる。それこそ、お前がこの国の外に価値など見出さぬくらいには。

 

 ……だから、どうか。

 どうか、血に濡れた道を歩むことになる我が子を。

 そして、いずれ俺の意思を形にする皇帝を、どうか。

 

 

 ……彼が老いの片鱗を見せる前に政争で死んでしまった後も、帝国と私の間に敷かれた契約は続いている。

 

 情だけでここにいるわけではない。

 彼らが契約を守り、それが他の追随を許さぬ価値を今なお持っているからこそ、私はまだここにいる。価値あるものが他所に姿を見せたのなら、恐らく私はすべてを切り捨ててそこに向かうのだろう。

 

 しかして。一応のところ。

 情と呼べるものは、確かに存在するのだ。

 

 ジルクニフ・ルーン・ファーロード。

 先の皇帝の遺志を継ぎ、余分のすべてを排斥して、見事帝国を統べる正当の皇帝になってみせた男。

 その苦難も、その達成も、すべてを見届けてきた、我が子同然のかわいいジル。

 

 そこにあるのは、確かな親愛の情であった。

 このまま何もなければ、この命尽きるまで仕えても構わないと思えるくらいの。

 

 そしてつい先日現れたものを思えば。

 この国に居続けたとしても、乞い願う深淵に、指先をかける手段を得られるやも、と。

 期待をせずにはいられないものだった。

 

 

「ふふ、あっはっはっはっは! いや、そ、それは……、くく、くひひ……」

 

 堪えきれぬというような笑い声が資料編纂室に響く。

 

 資料編纂室というのは、国によっては閑職の意でもあると聞く。

 実際帝国でも昔、そのように扱われていたこともあったが、此度の大規模な粛清の余波を受け、真実編纂せねばならない資料もまた膨大なものになり、一時期は人を集めて短期間で一気に取り掛かるようジルが指示を出していたのも記憶に新しい。

 それらが落ち着いた今になっても、「無能が給金を受け取るだけの場所にならぬように」と、若手の文官が仕事を覚えるための部所のひとつとして扱われている。

 

 で、あるからして。

 このように、高らかな笑い声を響かせるような気楽な部所では、なかったように思うのだが。

 

 ひとつ肩を竦める。

 笑い声の主は先日、皇帝陛下から三本足の烏の世話を仰せつかった男で、翻訳の専門を目指す文官であるらしい。陛下の覚えも良く、将来的には評議国の文書を相互翻訳する任に就けるよう努力を惜しまぬ、善き部下である、と。

 

 それがこの体たらくとは。期待はずれ、というよりは、「話し相手」が余程手練れなのであろう。

 

「……ずいぶんと楽しそうだな?」

「はっ?! パ、パラダイン様!!」

 

 慌てる文官と、その奥でぺこりとお辞儀をしてみせる籠の鳥。

 籠の中には、捕らえられた直後には入っていなかった水や食事、そしてインクの満たされた平皿と数枚の紙が入れられていた。

 どのようにしてそれを使っているのかと注視してみれば、爪の先にキャップ状のペン先が嵌め込まれており、それを駆使して文字を書いてみせているようだった。

 なんともまあ、器用なことを。

 

 文官に視線を戻せば、こほんとわざとらしく咳払いをし、きりりとこちらへ姿勢を正した。

 

「……失礼いたしました。どうにもその、“話せる”やつでして」

「構わんよ。どうだ、進捗は」

「すこぶる順調ですね。少々恐ろしいくらいに」

「ふむ」

 

 彼曰く、驚異的な早さで帝国語を習得し、日常会話も覚束ないところから、いまや古典に脚を突っ込んでいるのだ、と。

 文語のみならず口語の使い方も達者で、先ほどのように、知識階級を笑わせるくらいのユーモアすら解しているのだ、と。

 本人も知識階級の者であることはほぼ間違いないが、未だ何処に住む何者なのかは黙秘を貫いており、特定には至っていない、と。

 

 大した落胆もなく頷き、今までの会話から何かわかることがあるかと文官に問うた。

 すると。

 

「あくまで私見ですが、王国の民ではないのでは、と考えております」

「ほう?」

「なんと言えばいいものか。どうにも、王国民特有の諦念と停滞を感じないと言いますか。……故にこそこちらに繋ぎを求めている可能性も大いにありますが」

 

 与えられた言葉を呑み、ゆっくりと首肯する。

 

 リ・エスティーゼ王国。

 かつて祖を同じくしたのも今は昔。豊かな土壌と恵まれた資源にあぐらをかき、経年の腐敗著しいかの国の民は、犯罪組織がばらまく麻薬と帝国が仕掛ける戦によって更に疲弊し、貴賤を問わずどこか厭世的な雰囲気を漂わせている。

 もちろん、マシな者もまともな者も足掻く者もいるにはいるが、今の王国を塗り替えるほどの力を持たぬのが現状だ。

 

 あるいはひとりの「足掻く者」であるのか。

 

 そうでなければこの者は──

 

 

「パラダイン様!! こちらにおられましたか!!」

 

 突如の呼び掛けに、深く沈みかけた思考が浮かび上がる。

 

 ばたばたと慌ただしく入ってきたのは中堅にあたる弟子のひとりで、手が足りぬからと諜報の統括補佐に引き立てられていった者だ。

 

 何事か、と問う前に、手の中へ一枚のメモが滑り込む。

 その内容に思わずかっと瞠目し、息を詰めた。

 

「……まことか?」

「エ・ランテルの冒険者組合が正式に文書化したものです。間違いないかと」

「むう……!」

 

 先日、王国辺境領カルネ村にて、霧を発生させるアンデッドが出没。

 帝国兵を装った集団を追い、居合わせたガゼフ・ストロノーフがこれを討伐。

 

 禍々しい鎧を身につけた巨躯を持ち、捻じ曲がったような剣と巨大な盾を装備していたというそのアンデッドの特徴は──

 

「……デス・ナイト」

「幾らか調査に送り出しますか」

「……いや、先に陛下に話を通した方が良い。色々と奇妙なことも多いのでな」

「既に。“なんでも好きに使って構わないが、きな臭いところはすべて洗ってくるように”とのお言葉を賜っております」

「……ふっ」

 

 本当に優秀な子だ。

 私が何を目的にしているかを正しく理解し、首輪を締め付けて引き寄せるでなく、紐を伸ばして餌を与えてみせる。そうすればより良く働くことを知っているのだ。

 

「邪魔をしたな。身元が特定できたのならこちらにも知らせてくれるか」

「畏まりました。朗報をお届けできるよう努めてまいります」

 

 文官に退室する旨を伝える傍らで、ちらりと鳥籠を振り返る。

 さもその辺りの鳥と変わりませんという体でかしかしと首を掻くその姿がどうにもわざとらしく思えるのは、こちらの先入観があるからだろうか。どうにも怪しく見えて仕方がない、と。

 

 突如として現れた、見慣れぬ黒い鳥。

 時を近くして現れた、伝説のアンデッド。

 

 依然姿を見せず、思惑も靄の先にあり。

 ならば糸を引く先のものが繋がっていたとしても──

 

 

 

 ──まさか、な。

 

 いくらなんでも短慮に過ぎる。

 そう思いつつ、調査の手筈を整えるため、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  竜王国

  王城 玉座の間

 

 

 

 

 

 死は、どこにあるのか。

 それは常にほど近く、遠ざかってなどくれはしない。

 けれども今はまだ、そのときでないと言えた。

 

 

「こうも静かだと不気味になってくるものだな」

「食われる国民がいないのは良いことでしょう、女王陛下」

「食事の前にナイフを研いでいるのでなければいいが」

 

 ため息と共に吐き捨てれば、宰相が苦く微笑む。

 

 ここしばらく、ビーストマンからの襲撃が鳴りを潜めている。

 人間の国を都合のよい餌場だと思っている連中だ。大人しくしているのも、慈善や慈悲であるはずがない。

 長年共に国を支えてきた盟友も、そのあたりは察しているようだった。

 

 嫌な予感を持て余し、肘掛けにだらしなくもたれ掛かる。

 好きでだらけているわけじゃない。いまの幼い身体を隙なく納めるには少々玉座が大きいのだ。それもこれも、少女の姿でお願いすればほいほい言うことを聞くロリコン共が悪い。

 

 人の領域とビーストマンの領域の境界に位置する国、それがこの竜王国である。

 故に、この国の軍事費は嵩む一方だ。

 

 ビーストマンどもが領土的な野心でこちらを侵攻しているのならばまだ他にやりようがあったかもしれないが、向こうは人間を餌としてしか見ていないのだから外交もくそもない。防衛一択である。

 

「……いっそのこと滅ぼしてしまえればな」

「それができないからできるだけ守りを固める方向でやりくりしてるんでしょうに」

「はー……、世知辛いな、どうにも」

 

 ビーストマンと人間の間には、無慈悲なほどに明確な戦力の開きがある。個体としての能力がそもそも違うのだ。幸いにしてビーストマンには突出した個体が生まれ難いらしく、持ちこたえることが全くできないということもない。

 が、それはビーストマンどもがつまみ食い感覚でしか竜王国に手を出していないからで、向こうがまともに戦争を始めたならば、脆弱な人間の軍などひとたまりもないだろう。

 

 その差を埋めるために法国に多額の寄進をして戦力を借り受け、平時である今も国境域の警戒を怠ってはいない。

 

「国力そのものの強化もしておきたいんだがなあ。それで有事にかつかつのまま、民を食い尽くされては話にならんし」

「そのような時間が取れればいいですかね。向こうは進軍しようと思えば身ひとつで来れるわけですし」

「……兵糧は人間(こっち)で調達できるしな! やってられるか!」

「なのでこちらのお手紙をお願いしますよ。とびきりかわいくおねだりしてくださいね」

「かあっ! 酒! 酒を持ってきてから言え!!」

 

 情け容赦なく宰相が持ってきた執務。竜王国の女王を幼女(ロリ)だと信じる連中への嘆願書(おねだり)である。

 何が悲しくてこの年齢で幼女を装わねばならんのか。

 

 ……理由など、わかっている。

 

 戦力が、兵力が足りないのだ。少々質を突出させても数が揃わねば防衛しきれず、有象無象では数を揃えても敵の餌になるだけ。

 それを補うのに、自国では賄えないものを、他国へと願わなければ。

 

 国を守れるのならば衆目の前で裸で踊ってやっても構いはしない。

 そう、どんなことでもする覚悟はある。が、それに心を削られないかと言えば別の話だ。

 

 つまるところ、燃料が必要なのである。

 

「終わるまでは我慢してください。お酒を召されると文章に酒焼けした年増の匂いが滲み出てくるんですよ」

「お前もう少し容赦というものをな……、……ん?」

 

 渾身の力で放つかわいいかわいいおねだりを、血も涙もない宰相に無下にあしらわれていると、すいっと窓から何かが滑り込んできた。

 

「おお、戻ったか」

「……陛下、その鳥は?」

「かわいかろう? よく人に馴れているのでな。伝令に使えぬか試しているのだ」

 

 それはクアランベラトによく似た黒い鳥だった。

 先日庭先でこちらを見つめていたのでおびき寄せてみれば、なんとも大人しく従順で。

 今も三本脚のひとつに国境からの手紙がくくりつけられており、お使いを無事果たせたようだとにんまりする。

 

「……よく訓練された間諜だとしたらどうするのです」

「ビーストマンはこんなもの使わんよ」

「ビーストマンではなくても、です。我々の立ち位置を理解せずに竜王国を獲ろうというものがいないとは限らないのですから」

「ここまで国防を他国に頼っておいて今さらではないか。潔く腹をくくってしまえ」

 

 伝言(メッセージ)の信頼性がなくなった今の世で、誰でも使える遠距離の通信手段は大変貴重だ。

 通常の伝書鳥では空を飛ぶモンスターに食われてしまうのでこれまた常用の手段ではなかったが、この子は艱難辛苦を乗り越えて、行って戻ってきてくれたらしい。

 理知的な赤い瞳はどこか自慢げで、愛いやつめ、と首元を撫でてやれば心地よさそうに目を細めていた。

 

 さて、と、結ばれた紙を紐解いた。些か緊張する。「襲撃あり。陥落も間近」とか書かれていたらどうしよう。

 どうやら取り越し苦労だったようで、未だビーストマンに動きなし、とだけ、あの顔に似合わず可愛らしい字を書く指揮官の字で記されていた。

 

「よぉーしよしよし偉いぞー。この調子で働いてくれよー?」

「……やはり訓練されすぎていませんか?」

「前の職場が嫌で逃げ出したんだろ。たくさん飛んで腹が減ってないか? 何を食べるんだお前は」

 

 それも知らずに飼ってるんですか、と冷たい目で睨んでくる宰相はぽんと放っておいて、常備のビスケットや果物を鳥に促せば、ふいっと断るそぶりを見せるではないか。

 

「贅沢なやつめ。では酒でも飲むか?」

「飲むわけないでしょう、鳥なの、に……、……」

「ほら! 頷きよったぞ! やはり素面で仕事をしてはならんとの思し召しなのでは?!」

「いやそれただの鳥じゃないでしょ?! 絶対モンスターの亜種ですって!!」

「わからんではないか! すごく賢くて酒好きなだけの鳥かもしれないだろ?!」

 

 今すぐ殺すか、元の場所に捨ててきなさい! と喚く宰相からばたばたと逃げ回る。

 藁にもすがる気持ちなのだ。使えるものはなんでも使う。

 

 避けたい未来があるからだ。

 

 国民すべてを喰らい尽くされ、竜王国を越えた北へと侵攻を許すよりは、と、使い方だけを念入りに確認している秘術がひとつ。

 それは強力無比な力。敵の生存を一切許さない原始の破滅。しかしそれは、自分が脆弱な竜王であるが故に、百万の命を糧としなければ発動しない、諸刃の剣。

 

 民の命運は、とっくにこの手の上に乗っている。背負う重さにももう、とうに慣れたつもりでいた、が。

 

 願わくば、この手でその命を刈り取る日が来ないように、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  リ・エスティーゼ王国南東部

  エ・ランテル近郊

 

 

 

 

 

 死は、どこにあるんだろう。

 かつても今もすぐそこにあり、けれども状況は全然ちがう。

 なにもできなかったあのときよりは、今のほうが、ずっと。

 

 

 冒険者というのは、過酷な職業だ。

 

 そもそもの仕事がモンスターの討伐である以上、大小問わず危険は避けられない。

 小さく群れるもの、大きく凶暴なもの。ふたつが一度に襲い掛かってくることも少なくない。毒や石化でこちらを蝕んできたり、魔法を使ってくる敵だっている。

 

 叩いても傷つかない、切っても急所に届かない、何をどうしたら殺せるのかわからない敵はたくさんいるのに、こっちは何をどうしてもただの人間で、叩かれたり切られたりしたら簡単に死んでしまうのだ。

 

 モンスターだけでもそれだけ大変なのに、中にはメンバー同士の諍いで命を落としたり、準備不足による飢えや寒さに負けてしまったり、あちこち移動することで流行り病に罹ったりもする。

 ……貴族共に足止めされて慰み者になったり、不敬で首を切られた冒険者もいると聞いた。

 

 幸い、エ・ランテルを拠点にしている冒険者は、種々のことを調整してくれるアインザックさんのおかげで、そういうものとは縁遠く暮らしていけている。

 

 駆け出しをようやく抜けた頃の、まだまだ伸びしろのある未熟なチームだけれど、その分できることとできないことをきちんと弁えて、なんとか死ぬような無茶をせずにここまで来れた。逃げることもできないような強敵にも、まだ出逢っていない。

 

 メンバーはみんな優しくて、足の引っ張り合いなんて考えたこともないくらい。

 私の目的を理解してくれて、それでも、といつも気を使ってくれて。

 

 みんな、優しい。わたしは、恵まれている。

 

 ……恵まれている。

 

 

 エ・ランテルから王都方面に半日ほどの場所。仕事はいつもの、街道近くの露払い。

 いつもはこの辺りを見回っているとぽろぽろと森から出てきたモンスターに出くわすのに、今日はどういうわけか静かなものだった。

 ケガがねえのはいいことだけど商売あがったりだな、とぼやくルクルットに、こういう日もあるさ、とペテルが苦笑する。確かに懐事情は厳しいが、とその表情が語っていた。

 森から吹く風がいつもと違うのである、と言うダイン。常のおおらかで穏やかな様子は何かを警戒するように引き締まっており、森で何かあったのかも知れない、という言葉に現実味を添えていた。

 

 けれど、もうじき日が沈む。今から森に入るわけにはいかない。危険なことがあったのかもしれないのなら、なおさらだ。

 もう少し歩けば村に着くので、そこまで進もう、ということになった。空き家を借りるか、そうでなくても人里近くなら野営にも都合が良い。

 

 ひたひたと、空が夜の色へと変わる。

 沈みかけの夕陽を滲ませたグラデーションが胸に刺さるくらい美しくて、思わず空を見上げれば、そこには悠々と空を泳ぐ、まっくろなとりがいた。

 

 

 ……ああ、ねえさん。ツアレ姉さん。

 あなたはいまどこにいますか?

 

 未だ貴族に嬲られてすごしてはいませんか。ご飯は食べているのでしょうか。

 きれいなきんいろの髪はまだそのままですか。優しい人に出会えているといいのですが。

 

 御伽噺では、村娘の危機に現れる英雄が居て、けれどわたしたちのところには来てくれなかった。

 

 杖を持って、自ら戦うようになって初めてわかりました。すべてを救うことはできないのです。

 

 はき違えてはいないと自分では思っていました。悪いのは姉さんを連れて行ったあの豚で、誰にもどうしようもなかったのだと。

 けれど、どこかで思っていたのでしょう。どうして誰も助けてくれなかったの、と。力ある人が立ち向かってくれればこんなことにならなかったんじゃないの、と。

 ……ほんとうに、本当に甘い。まさしく小娘の考えでした。

 

 英雄だって助ける人を選ばなければ生きていけないんです。

 わたしたちはどうしようもなく人間で、抗えないほど強い力なんてどこにでもある。食べなければ生きていけない。お金がなければ食べられない。……報酬がもらえないのなら、断るしかない。

 

 幸い、そんな事態に見舞われたことはまだありません。仲間はみんな良い人たちで、善く生きようと思わない人なんて誰一人いないんです。

 

 わたしは恵まれている。幸福です。ねえさんを思うのなら、許されないほどに。

 

 ねえさんは、ねえさんはどうですか。

 愛する人は見つかりましたか。守りたいものはまだ持っているでしょうか。辛い日々を懐かしみに変える、日常のささやかな楽しみなど享受してくれてはいないですか。

 

 わたしは、わたしは、ねえさん、ツアレ姉さん。

 あなたのしあわせを──

 

「どうしたんだ、ニニャ。さっきからぼーっとして」

 

 頭ひとつ高いところからかけられた声に、はっと意識を現実に戻す。ルクルットだ。

 

「なんでも、……ううん、鳥が」

「とり?」

「あそこに。きれいで、すごく綺麗で……」

 

 指し示す先にはまっくろな鳥。夕焼けの空をひろく飛び回るその鳥は、檻に捕らわれることも枷につながれることも予期すらしていないようで。

 ……それがひどく、羨ましかった。

 

「本当だ、吉兆だな」

 

 すぐ近くまで来ていたぺテルが眩しそうにそう呟いた。その隣でダインが頷く。

 

「漆黒、であるな」

「はは、そりゃ幸先がいいや」

 

 彼らは本当に善い人たちだ。日々の細やかな幸福を取り逃がしたりしない、まっすぐな心根の持ち主だ。私のこともまた、善い男だと、かけがえのない仲間だと、認めてくれていて。

 ずっと、騙しているのが、申し訳なくなるくらい。

 

 けれど、心が痛んでも、わたしが幸福であることには何ひとつ変わりがなく。

 このしあわせが未だ見ぬ姉に分け与えられるのなら。そう、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  スレイン法国

  中央神殿 第一居住区 東棟

 

 

 

 

 

 死、なんてもの。どこにあるんだか。

 それはいつだってこちらが与えるもので、与えられるだなんて考えたことすらない。

 期待はまあ、したことがないとは言わないけど。

 

 

 神の遺産、と呼ばれるものがある。

 

 単純に、神が遺した規格外の装備やアイテムを指し示すのはもちろんそう。

 魔法が広く使われている今の世界においても超常的と呼ぶべき力を持ち、神ならぬ身が作ったものではその領域に触れることすらできない。

 

 それに加えて、もうひとつ。神の叡智とも呼ばれるもの。

 自分たち亡き後の人類に、と神が願い残した形なき遺産。社会制度であったり、風習であったり、料理のレシピや建築物の設計方法であったりもした。

 

 いま、自分が使用しているものも、そのひとつ。

 

 

「ふう……」

 

 身動ぎに、とぷりとあたたかな湯が揺れる。

 白灰色の壁、濃紺のタイルを敷き詰めた床、広々とした高さを感じる天井には永続光(コンティニュアルライト)のシャンデリアが取り付けられており、室内を柔らかく照らしていた。

 

 中央広場の噴水ほどもある大きさの浴槽にたっぷりと湯をはり、そこに浸かって身体をほぐす。

 神世の時代、川や雨で汚れを流すしかなかった人類に授けられた叡智。

 風呂、と、そう呼ばれていた。

 

「……言っても温かい湯を冷めにくい浴槽に入れるだけだから、どこかで誰かが開発はしたんでしょうけど」

 

 しかしこの設え自体は悪くない。神が遺した宝物の守り人であるが故に制限される行動範囲の中で、特に気に入りの場所であると言えた。

 

 視線を落とす。少し濁った湯の中に揺蕩う白と黒。まとめきれずに零れ落ちた色違いの髪。染めてもいないのに器用なことだと自分でも思う。

 

 席次は番外、けれども野外任務も多い漆黒聖典に名を連ねる以上、自分の支度は基本自分でできるよう叩き込まれている。だからこそ、こうして侍女もつかずにひとりで広々と入浴ができるわけだ。

 よほどのことがない限り宝物の番から離すわけにいかないので、神官長の連中は私を外に出せはしないが、緊急的に外に放り出されることがないとは言えない。

 

「……その野外任務で」

 

 何かが起こった。

 

 今回は流石に報告を聞いている。

 漆黒聖典の隊長(あのこども)が、敵と相打ちになって死亡したからだ。

 

 つい先ほどの話。漆黒聖典が調査任務から戻ってきた。

 全員ではない。隊長を除いた11人だけが、傷だらけの身体で。

 

 珍しく交戦記録も読んだのは一連のできごとにどこか胡散臭さを感じたからかもしれない。

 

 昨日未明、破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)の洗脳に向かった漆黒聖典が「白銀の鎧」と「スーツの異形」の密会現場に遭遇。なお破滅の竜王(カタストロフ・ドラゴンロード)は「スーツの異形」が「倒した」と証言し、実際その姿はどこにも見られなかった。

 

 「スーツの異形」は自らがぷれいやーであることを「白銀の鎧」に告白。その後「白銀の鎧」が離脱したのち、漆黒聖典へと召喚した怪物を差し向け、交戦を開始する。

 ぷれいやーと名乗るだけあって「スーツの異形」は強敵で、隊員の半数が早々に離脱。残る隊員で奮戦するも決定打は与えられず、そうこうしているうちに蜥蜴人(リザードマン)が乱入。隊員が蜥蜴人(リザードマン)に危害を加えようとしたことで「白銀の鎧」が介入し、隊長とカイレを残して他は全滅した。

 

 あわや完全敗北かと思われたが、そこで「スーツの異形」が自らを「ズーラーノーンの守護神」であると宣言し、「白銀の鎧」を攻撃。

 その隙を突いて隊長が「スーツの異形」を倒すことに成功した。

 

 が、死に際に道連れにせんとした「スーツの異形」の魔法を喰らい、隊長の身体は装備ごと失われ、余波を受けて気を失ったカイレが目を覚ましたときには、「白銀の鎧」も蜥蜴人(リザードマン)共も姿を消していた、と。

 

 細かいところは省くとして、大筋はこんなところか。

 神官連中はズーラーノーンがこの間出奔した元「疾風走破」を手に入れたことで本格的に法国へ敵対行動を開始したと見ている。

 まあ、あり得ない話ではない。あり得ない話ではないが。

 

「どう考えても隊長(あれ)は向こうの手に落ちてるわね」

 

 生きて帰ってきたんじゃない。

 生かされて帰されたのだ。

 

 私は魔法には詳しくない。だがわかる。連中には「それ」をする力があり、だからこそ隊長(あれ)だけが帰れなかった。

 

 他の生き物はつつけば死んでしまうので、その能力をいちいち覚えてはいないが、隊長(あれ)は多少マシだったので覚えている。隊長(あれ)には洗脳の類の一切が効かないのだ。それがタレントによるものだったかはあやふやだが、洗脳(その手)が使えなかったからこそ私自ら隊長(あれ)を徹底的に叩き直したのだから。

 

 つまるところ、戻ってきた隊員にはすべて手を加えられていると見た方がいいだろう。

 もちろん洗脳を受けているかは念入りに確かめると言っていたが、ひとりひとり頭蓋を開けて見た方がいいと言ったのに聞き入れられなかった。軟弱者どもめ。

 

 こちらの手札で解除などできないから放流されたのがわからないのだろうか。

 わからないんだろうな。力がないものには、わからないんだろう。

 

 連中の目的など想像できないし、するつもりもない。わかるのはただ、「遊ばれている」ということ。

 

 まさしく遊んでいる。神官共は忘れたのだろうか。いつぞや土の巫女の間に現れた怪物、私がいなければあれ一体で国ひとつ軽く滅びていたのだということを。

 

 あの怪物が最高戦力なわけもなく、殺せたはずの漆黒聖典をご丁寧にほぼ全員生きて返し、所属も国家もわかっているだろうに追撃の予兆すらない。遊ばれている以外のなんだというのだ。

 

 あれ以上に強い敵がいるはずがない?

 法国の魔法技術を以て解除できない洗脳などあるわけがない?

 

 ほんとくだらない。

 

 神という存在に何ができて何ができないのか誰にも、もしかしたら神にすらわからないのに。

 人間の身でそんなことできるはずがない、なんて散々言われてきたことだ。敵がそうでないなんてどうして言えるのか。

 

「最近は近所と小競り合いしかしてないから忘れたんでしょうね」

 

 どうしようもなく、抗いようのない絶対的な力があることを。

 泣いて喚いて叫んでも、死は等しく誰にでも訪れるということを。

 

 ああ、でも。

 

「面白くなってきたんじゃない? ようやくって感じ」

 

 ぱしゃん、と、湯から立ち上がる。

 窓を背にして湯船から身を乗り出し、蒼いタイルをひたひたと踏みしめた。

 

 召喚者は自身よりも強い召喚獣を喚ぶことができない。

 だが、そうして喚ばれた召喚獣よりも楽しませてくれた召喚者など今まで存在しなかった。

 

 召喚獣を戦闘に使うとなれば専門の魔法詠唱者がほとんどで、召喚獣に隠れて自身が詠唱する時間を稼ぐのが一般的な戦い方である。

 

 故に、召喚獣を一撃で切り捨てられる私からすれば雑魚もいいところの存在でしかなく。

 先日現れた怪物にも特別思うところはなかったのだが。

 

「だから、見逃してあげる」

 

 先ほどから窓のところに生き物の気配がしていた。

 おそらくは小動物。ここの高さを考えれば鳥だろうか。

 

 ケイ・セケ・コゥクを所持した漆黒聖典を転がして遊べる相手ならば、相手に不足はない。警戒網を潜り抜けてここまで入り込んでくる度胸も気に入った。

 

 相討ちなんてしているものか。残っていてくれなければ私が困る。

 いつか私たちが殺し合う(あいしあう)ときまで、万全の状態でいてくれなければ。

 

 根拠を示せと言われるのが面倒で、私自身の見解は神官長たちには伝えていないが、我慢できなければ「お出かけ」を「おねだり」したっていいのだ。

 

「精々楽しませてね。私が手塩にかけた坊やを()()()あげるんだから」

 

 あんなにかわいがってやったのに不甲斐無い坊やだけれど、もしかしたらもう少し面白いものになって帰ってくるかもしれない。

 

 楽しみなことだわ。色々と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ローブル聖王国 

  東城壁 城壁前の原野

 

 

 

 

 

 死なんざどこにあったものか。

 もしかしたら明日かも知れねえし、爺になるまでのさばるかも知れねえ。

 今んところ、くたばってやる予定はなかった。

 

 

 自分でもどうかしていると思うときがある。

 確実に死へと近づく行為であるのに、この瞬間ほど生きている実感を得るときはない。

 

 びりびりと肌に触れる殺気。研ぎ澄まされる感覚。沸き立つ血潮。

 周りのすべてが手に取るようにわかるのに、敵と己しか世界にいないような狭窄感。

 

 これを恋だと錯覚することもあるという。無理もない。女を抱いているときよりもよほど興奮するのだから。

 戦場とは、そんなところだった。

 

 

 じゃりん、と突き出された長槍を剣でいなす。安易に刺されてやるほど間抜けではないし、頑丈な皮鎧は生半可な攻撃では刃を通さないが、蛇身人(スネークマン)が持つ槍には本人の牙から抽出された強力な毒が塗られている。鍛えられたこの身体を殺めるには少々だらしない毒でも、進んで食らいたいとは思わなかった。

 

 夜は深く、月は雲に覆い隠されて、あたりはとっぷりと闇に浸かり。

 故に好機と見て砦へ攻撃を仕掛けてきた蛇身人(スネークマン)の数は十五に届くか否かというところ。

 ローブル聖王国とアベリオン丘陵を隔てる砦にとってはいつものことで、けれども今回はそこそこ切羽詰まっている連中だな、と、敵の喉笛に剣を突き刺しながらそう思った。

 

 佩いている剣はあと六本。突き刺した剣を回収するのは後でいい。ひゅん、と、叩きつけてきた尻尾を気配だけで躱し、おおよその場所を切りつければ、ざん、と確かに断ち切った手ごたえが残る。けれども悲鳴ひとつ上げずに噛み付こうとしてきた蛇頭に、ひっそりと唇の端を持ち上げ、剣一つと引き換えにその胴を両断した。

 

 ふうっ、と吐き出した息に熱が混じる。充満する血の匂いが軽い酩酊を誘う。それが蛇の血に混ざる微かな毒のせいなのか、それとも戦闘の高揚なのか。いまはどうでもよかった。

 次の敵。次の敵はどこだ。次の──

 

「あ"?」

 

 びょう、と風が吹き、雲間から月が顔を出す。照らされた地面には幾つもの死体がへばりついており、立っている敵は見当たらない。

 どうも、襲撃してきた蛇身人(スネークマン)のすべては地に伏しているようだった。

 

「なんだよ、せっかく気分良くなってきたってのに」

「贅沢なこと言わないでくださいよ班長閣下。大変だったんですよこっちも」

 

 ぼやく部下にひとつ肩を竦める。

 夜の戦闘で警戒しなければならないのは敵の攻撃だけではない。足を滑らせる血だまりは見えにくくなるし、暗闇に精神を削られ錯乱した新兵や、……味方との距離感をそもそも測るつもりがない困った班長の攻撃なんかも悩みの種だと聞く。いやあこまったやつだな、だれだいったい。

 

 しかし、と。足元に転がる蛇身人(スネークマン)共の死骸を眺めて、思う。

 

「妙に必死こいた連中だったな。何か聞いてるか?」

「西城壁でもちょっとした襲撃があったらしいですよ。大規模な勢力争いでもあったんじゃないですか」

 

 つまりはいつもの、ということだ。連中もよく飽きないなと逆に感心する。

 

 アベリオン丘陵は多種多様の亜人共がひしめく弱肉強食の大地。生態や生活様式も千差万別で、強者こそが覇権を握る血塗られた丘だ。

 ルールとしちゃシンプルでいいと思うが、弱者にしちゃあ暮らしにくいところなのだろう。そうした抗争に押し流されるように、幾らかの種族がこの砦まで下がってくることも少なくない。

 

 こっちに来たって結果は変わらねえのに、それでも、と思うのだろうか。

 この砦には歴戦の軍士がごろごろいて、俺がいて、何より──

 

 

「っ! 班長!!」

 

 

 部下が鋭い声を上げる。気を抜いていると思ったのか、死体に身を隠し生き残っていた蛇身人(スネークマン)が俺を背後から刺し貫こうと槍を振り上げ。

 

 ひょう、ざすっ、と。

 矢が裂く空気を感じる距離で俺の耳元を掠めていった一撃が、正確に蛇身人(スネークマン)の脳天を射抜いた。

 

「お見事」

 

 そう呟いて砦を見上げれば、篝火に照らされた、すらりと細いシルエット。確実なとどめを確認するまでは、と、手に持つ弓にはすでに二射目がつがえられており、月の明かりだけでこの距離を射抜いたのがあの男なのだと容易に想像がついた。

 

「いやあ、旦那はやっぱ流石だなあ」

「班長閣下、ほんとにバラハ兵士長のこと好きですね」

「うっせ。惚れねえ男がいるかよあの人によ」

「それはそうですけど。後できっと怒られますよ、最後まで気を抜くんじゃあないって」

 

 まず間違いなく訪れるだろうその光景はありありと想像できて、少々大袈裟なくらいのため息を吐いた。

 説教自体はそう苦ではないのだが、あの人の場合、そこについてくる娘の惚気が長いのである。

 

「……?」

 

 さあどうやって逃れるかと思案していると、地面の上で何かがごそごそしているのが見えた。なんだこれ。なにしてやがる。

 目を細めて凝視してみれば、どうやら鳥の形をした生き物が蛇身人(スネークマン)の尻尾を引きちぎっているようだった。よりにもよって旦那の矢が刺さった奴のを。全身真っ黒だから闇夜に紛れて今まで気づかなかったらしい。

 

 おいこら、とこっちが声をかける前に、お目当てのものを手に入れた鳥がまっすぐに砦の方へと飛んでいく。

 あの方向に行くのなら旦那が射落とすか。そう思っていたらなんと、その旦那の腕にとまり、尻尾と引き換えに何やら餌をもらっているではないか。

 

「なんだありゃ。どういうこった」

「娘さんにあげるっつって餌付け始めたらしいですよ」

「はあ?」

「なんでもこういう懐いたかわいい獣がいれば娘さんも聖騎士より弓を使う職業に目覚めてくれるんじゃないかって魂胆だそうで」

 

 そういや最近娘さんが向いてないのに聖騎士見習いをはじめたとか言ってたか。父親に似て目つきの悪……、勇ましい顔つきをしたお嬢さんだったが。

 確かに冒険者なんかは討伐したモンスターの部位を持ってって金に換える職業だが、それを教え込んだ鳥をプレゼントしたところで娘さんが弓の道へ足を踏み入れてくれるかは疑問しかない。

 

「妙に世間ずれしてんだよなあの人も……」

 

 いつもは娘さんの話は長くてうんざりするから敬遠しているが、たまにはからかいに行ってやるか。

 そう思い、ゆったりと砦へ足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  アベリオン丘陵

  バフォルク支配区域 闇小人(ダークドワーフ)の武器商テント

 

 

 

 

 

 死はどこにあるのか。

 いつかは来るのだろうが誰にも許すつもりはない。

 ただ、最期の時まで愉しめればいいとは思う。

 

 

 しゃら、しゃら、しゃら。

 

 濁りのない澄んだ音だ。

 肉を引き裂く音も、骨を砕く音も、戦での雄叫びも好ましいが、静かに酒を飲むならこの音がいい。

 

 砥石で削れるたびにきらめく濡れた刃。鍛冶を、命を吹き込む作業だと言ったのは誰だったか。

 で、あれば。研ぎとは刃を生き返らせる作業なのだろう。淀みなく、流れるような手つきは確かな技量を感じさせる。

 

 これだけの腕ならば、横から眺めているだけでも十分酒のつまみになる。

 気分良く飲んでいたところで、ふっと心地よい音が止まった。

 

「ひとりで勝手に飲みよって。ほれ」

 

 口調はぞんざいだったが、こちらへ剣を渡す仕草は実に丁寧だった。闇小人(ダークドワーフ)がそういう生き物なのか、ドワーフという生き物がそうなのか、はたまたこの男がそういう性質なのかはわからないが。

 

 剣を手に取る。すみずみまで磨き上げられた刃は溜め息が出るような美しさであった。武器折りを技としている以上、己の武器の摩耗もまた早いが、それに倦まず毎度丁寧な仕事をするところを大いに気に入っている。

 

 最初に仕事を頼んだのはまだ角も柔らかな若い時分。部族を束ねる王になった今でも自分の脚で仕事を依頼している。

 すっかり増えた部下たちには、なにも王自ら赴かなくとも、と苦言を呈されることもある。だが、自分が振るう武器が整えられるのを間近で見るのは、何にも替え難い高揚を齎すものだった。

 

「ああ、いい腕だな」

「当たり前よ。儂を誰だと思っとる」

「この豪王の専属鍛冶師だろう?」

「だぁれが専属だ、こわっぱめ」

 

 鍛冶師の(じじい)は、ふん、と大仰な鼻息を鳴らし、一仕事終わったとばかりにごびごびと酒を飲み下す。俺がこの辺りのバフォルクを統べるようになってしばらく経つが、俺のことを未だにこわっぱ呼ばわりするのはこの爺の他にいなかった。他の誰かがそう呼ぶなら八つ裂きにしてやるところだが、不思議とこの爺に呼ばれる分には悪くない。

 爺は、ぶは、とひとつ息をつき、じろりとこちらを睨みつける。

 

「大体、なにが鍛冶師だ。研ぎばかりさせよって」

「気に入りの鋼がなければ剣を打たないのはそっちだろうが」

「クズ鉄で武器なぞ打ったらヒゲが腐るわ」

 

 ずいぶんと雑な嫌がり方だったが、要は矜持の問題なのだろう。作るものの種類にこだわりがない一方で自らが作るものにはひどく真摯だ。気難しいわりに手広くやっている、とも言える。武器、防具、アクセサリーと、この爺以上のものを作る者を見たことがなかった。

 

 性分であり、鍛えた技であるがゆえに軌道修正するつもりもないが、破壊王、と呼ばれるほどに武器を壊すので、そこらへんの鍛冶屋からは仕事を断られることも多い。武器に敬意がないと言われることもあったし、豪王の破壊行為に耐えられる武器はうちでは作れない、と言われたこともある。

 この爺は違った。すぐに壊れるようななまくらを作る方が悪いのだ、と。武器に困るようならまずうちにこい。望み通りの品を作ってやる、と。

 

「今月分の支払いは外に繋いである。後で確認しろ」

「おうよ。この瓶が空いたら見に行く」

 

 支払いは奴隷で。この爺と取引をはじめたときからそうしていた。

 

 どれだけ強さを得て、どれほど隙なく民を統べようとも、ろくでもない奴は一定数出る。そんな罪人の引き取り手としても有難い存在だった。死刑になるよりも酷い顛末だと、抑止力になっているのもいい。

 

 爺曰く、バフォルクの奴隷は捨てるところがなくていい、のだそうだ。

 罪人の扱いに思うところなどないが、少々複雑ではある。

 

「ああ、そうだ。他になにかあるんなら来月までに言え」

「うん? なんだ。遠出でもするのか」

「引退よ。ここは甥っ子に譲る」

 

 唐突な申し出に思わず顔を顰めた。この間まで一生現役だとかなんとかほざいてはいなかっただろうか。

 

「甥っ子にはようく言い聞かせてあるが、なんぞ文句があったら殺す前に儂に言え。叩き直してやる」

「えらく急だな。何かあったのか」

「急もなにも、(トシ)以外になかろうよ。一本仕上がるまで鎚を持ち続けられなくなっちまった」

 

 爺は、寄る年波には勝てねえなあ、とぼやきながら二本目の酒瓶を開けている。なんでもないことのように飄々とした態度であっても、隠しようのない落胆が表情に出ていた。

 老いへの、思い通りにならない自分の身体への落胆であった。

 

「……手持ちの武器をひっくり返さなきゃならんな」

「言っとくがあんまりひでえようだと料金割増しにするからな」

「構わん。言い値でくれてやる。オークの連中から流れてきた酒もつけてやろう。引退の記念にな」

「かーっ! 出し惜しみしよってからに!!」

 

 ひとしきり騒いだあとはもういつものやりとりだ。爺が新しく作ったものや遠くから入ってきた品を一通り見物する。

 

 爺がいなくなると不便になる、という事実の他に、感慨のようなものがないわけではない。

 だが、移り変わりはあるものだ。昨日まで生きていた者が今日死んでいることなど珍しくはない。この土地では、そのようなものだった。

 

「あとは……、そうだな、首飾りか、腕輪を見せてくれるか」

「おう。また戦か?」

「いや。三番目の嫁が子どもを生んだから労ってやりたい」

「そりゃあめでたい。こいつはどうだ。少しだが疲労の軽減がついとるぞ」

 

 爺が取り出してきたのは粒が大きな蒼い宝石の填まった上品な首飾りだった。飾り気は少ないが、三番目の妻は重い装飾を嫌うし、これなら薄灰色の毛皮に映えるだろう。いい品だ。気に入った。

 

 首飾りを受け取っていると、こまごまと積まれた荷物の間を縫って、何やら黒い鳥が跳ね出てきた。薄らでかくて脚が三本。口には紙束を咥えており、それを爺に渡している。

 

「なんだそいつは。非常食か?」

「肉を見れば食い物だと思うんじゃない。これだから亜人は」

「肉は食い物だろう。で、なんなんだ」

「なかなか賢いから助手に使っとるのよ。そのへんのドワーフより賢いぞ」

 

 非常食か? という言葉に反応したのか、黒い鳥は爺の後ろに跳ね隠れてしまう。なるほど、確かに賢い。ドワーフより、というのは言いすぎだと思うが。

 

 爺はしばし俺と鳥を見比べた後、ちょうどいいとばかりにぽんと手を打った。

 

「そうだ、こいつも持っていけ」

「あ? 甥っ子とやらに継がせればいいんじゃないのか」

「あの弱虫はガキの頃クアランベアトの群れにつつきまわされて以来黒い鳥を見ると使い物にならなくなっちまうのよ」

「……お前の跡継ぎはそいつでだいじょうぶなのか?」

「まあなんとかならあな。ほれ、どうする? いるのかいらんのか」

 

 そこまで言うのなら、と試しに買うことにした。ほら今日からあの山羊がお前のご主人様だ、と爺に指された黒い鳥は、しぶしぶ、といった雰囲気を隠しもせずにこちらへ飛んでくる。

 肩先にちょこんとおさまり、ふてぶてしくしている様子をみると、果たして何に使えばいいものか悩んでしまう。本当に言うことを聞くのか、こいつ。

 

 手持ちを研ぎに出すなら一度に持ってくるなよ、と叫ばれつつ、爺のテントを出た。外に出ても黒い鳥は飛び去ってしまうことなく、けれども相変わらずどこか不遜な様子である。

 

 ……まあ、いいか。

 

 七人目の子供も生まれたことだし、遊び相手につけてやってもいいだろう。役に立たなければ食ってしまえばいい。

 羽は大きいが食いではあるんだろうな、と観察していたら、とてもとても嫌そうにこちらを睨んでくるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  リ・エスティーゼ王国 王都リ・エスティーゼ

  ロ・レンテ城 大回廊

 

 

 

 

 

 死とは、どこにあるのか。

 生に執着しているつもりはないが、粗末に扱うことも許されない。

 この命は、あの方のために使うものなのだから。

 

 

 なんでもして差し上げたいとは思っている。

 

 雨の日には傘をさし。雪の日にはあたたかい毛布を掛けて。

 泥の上を歩くのなら抱き上げて歩きたいし、傷つけるものがあればこの剣で守ってさしあげたい。

 

 自分のことを強いとは思わない。できないことより、できることを数えた方が早い。

 それでも、あの方のために。できる限りのことをしたいと、そう思っているのだ。

 

 だが、人間には得手不得手というものがある。

 

 努力してもどうにもならないことがいくらでもあるし、努力している方向性とまるで違う能力を求められることだって多々ある。

 

「おや、クライム。あの化け物のところに顔を出しに行くのか」

 

 ……いま、このときのように。

 

 廊下の端に身を寄せ、敬礼と共に伏せていた顔を上げる。

 雲の上の、というよりは。かつては存在すら知らなかった方々だ。薄汚れた裏路地で死にかけていた時は、こんな世界があることすら知らなかった。

 

 長身痩躯の男性、レエブン侯爵を背後に連れた小太りの……、ふくよかな男性。

 ザナック殿下。主君、ラナー様の異母兄弟であらせられるお方。

 

「殿下。恐れながらラナー様は決して化け物などではありません。心優しく美しい、王国の宝とも言えるお方です」

 

 不敬とわかっていても、挑発だとわかっていても、そう答えざるを得なかった。

 

 優しいお方なのだ。民の為に心を砕き、次々と新しい政策を考案するも、それをくだらない貴族の軋轢につぶされて苦しんでおられる。

 そんな方を、化け物と呼ぶなど、とうてい見過ごせることではない。

 

 当然反論があるのだろうと身構えていたが、やけに長く続く沈黙にふと正面へと視線を固定する。

 ザナック殿下は目を細め、丸い顎に手を当てて何やら考え込む仕草をしていた。なにごとかを、面白がるように。

 

「ふむ。その様子だとお前、知らないと見える」

「……? 何を、でしょうか」

 

 にたり、と音が出そうなお顔で殿下が笑う。ご兄妹だというのに、ラナー様とは似ても似つかない。

 邪悪ともいえるその笑みが、何やら良くない報せの前触れであることは疑いようもなかった。

 

「最近あいつの部屋から話し声が聞こえるともっぱらの噂でねぇ。お前がいるのだから不思議なことではないと思っていたのだが、どうも相手が違うらしい」

 

 いっしゅん、何を言われているのかわからなかった。

 

 どれだけ呆けた面をしていたのだろう。ぽかりと口を開ける俺を見たザナック殿下は、耐えきれないといったように咳のような笑い声をこぼし、ひらりと手を振ってそのまま歩き去る。

 

「それとなく聞いておいてくれ。新しいペットでも飼ったのか、と」

 

 

 自分が、そのまましばらく立ちすくんでいたのだと気づいたのは、耳に痛いほどの沈黙が足先までひたひたと染み込んでからだった。

 

 ザナック殿下方の姿はとうになく、通りかかったメイドがいつもの蔑みに訝しさを混ぜた視線を寄越してくる。ふらりと出した足は鉛のように重かった。

 

 いつか、こんな日が来るのではないかと、考えたことがないといえば嘘になる。

 

 不思議だとは思っていた。なぜ自分なのか。あのお優しいラナー王女が、なぜ自分だけを拾い上げ、傍に置いてくださっているのか。

 

 ザナック殿下のあの仰りようでは、メイドやご友人と歓談の類をしていたというわけではないのだろう。

 あるいは、ラナー様が誰かと話していたという事実などなく、ザナック殿下に揶揄われているだけなのかも知れなかったが、さすがにそこまで暇なお方だと思い込むのは不敬が過ぎる。

 

 自分にできることは少ない。突出した強さも、有り余るほどの財力も、尊い血筋も。何一つ持たなくても、それでもラナー様に見いだされたからには、何がしかの価値が自分にはあるのだと思っていた。自惚れではなく、ラナー様を信じるからこそ。

 よもや、憐れみや同情だけで人ひとりの人生を拾い上げることなどするまい、と。

 

 まだ捨てられると決まったわけではない。

 ラナー様はとかくお優しいので、今日から仲良くしてね、と言われることはあっても、あなたは明日から来なくていいわ、と言うお姿は想像ができなかった。

 

 そう、御身の周囲を固めるための人員を増やすというのなら、それは良いことだと思う。

 ラナー様を疎む人間のことは理解できないがどうも少なくはないようだ。ご友人のラキュース様や青の薔薇の方々、そして自分だけでは確実に守り切れると言いきれない。

 国王様もラナー様をよく気にかけておられるのは自分からみてもよくわかるが、表立って味方をすることができないのを歯がゆく思われているようでもあった。

 

 それとも。あの方に相応しくあろうと心がけてきたが、他の相応しいものを、と勧められることでもあったのだろうか。

 ラナー様が難しいお立場にある方だというのは重々承知している。ご本人の意思は関係なく、それを強いられることがあったのかもしれない。

 ラナー様が俺を手元に置いておられるのは、ラナー様自身の御意思によるものだと、思い込みたいだけなのかもしれないが。

 

 あるいは、これは考えたくないことだったが。

 お心を壊されて、おひとりで会話をなさっておいでなのではないか。

 

 それは、ある意味では捨てられるよりもずっとつらいことだった。

 

 ラナー様はお優しく、善良で、そして強いお方だ。

 肉体的に強いということではもちろんない。幾度壁に阻まれようと、弛まず民を思って提言を続けるあのお方が、強いものでなくてなんだというのか。

 だからといって、ラナー様が傷つかないわけでは決してない。何者かが放った心無い言葉が、ラナー様のお心を深く刺してしまったのだとしたら。

 

 その方が。

 ずっと、ずっと。耐えがたかった。

 

 

 悶々と考え込んでいるうちに、いつの間にか見慣れた扉までたどり着いてしまったことに気がつく。幾つかの可憐な花が彫り込まれた装飾は華美だがくどくはなく、中に住まわれる方のお人柄をよく表している。

 ラナー様のお部屋だ。周囲に王の目がないときには、ノックをしてはならないと仰せつかっているので、開けるときにはいつも緊張するが、今日のこれはいつもの比ではない。

 

 息を吸って、吐いて。震える指先をドアノブにかけた。

 ひどくゆっくりとノブをまわし、鋼鉄の城門を開くかのような重々しさで、扉を開く。

 

 高鳴る心臓とは裏腹に部屋の中はとても静かで、窓辺には我らが敬愛する黄金の姫君が、淑やかな佇まいで腰掛けていた。

 他には誰もいない。お一人きりだ。

 

「あら、おはよう。クライム」

 

 その微笑みはいつも通り、否、俺に思惑があるのを見透かすかのように美しく、金糸の如き髪が陽の光をとりこんできらきらと輝いている。

 

「おはよう、ございます。ラナー様」

「……どうかしたの? クライム」

 

 平静を努めるよう気を張ってはいたが、敏い姫君に拙い隠し事など通用しなかったらしい。

 自らが傷ついたようなお顔をしてこちらまで駆け寄り、はっきりと表情がわかるような傍まで近づいてくる。

 きゅ、と眉尻が下がったかと思うと、宝石のような瞳がそっとこちらを覗き込んできた。

 

「……また、お兄様になにか言われたのですか?」

「いえ! その、……特には」

「言いにくいのはわかります。けれども抱え込まないで、クライム。大丈夫! これでもお兄様をおしおきできるくらいの力はあるんだから!」

 

 ふすん、とかわいらしく両手を拳にして、本人的にはとても厳かに宣言なさっているのだろう。そのお姿はわざとらしくおどけていても、無理をしていたりお心を壊しているようには見えなくて、ほっと息を吐く。

 

 ラナー様の考えるおしおきはさぞ可愛らしいものだろうなと微笑ましく思ったが、誰かを傷つけることを厭うラナー様から「おしおき」という言葉を引き出してしまったことにじくじくと胸が痛んだ。

 

 聞いてしまうのなら、早い方がいいか。

 鋭く息を吸い、目を閉じて、開く。

 

 意を決し、言葉を紡いだ。

 

「噂、ということなのですが……、その、ラナー様のお部屋から、話し声が聞こえてくる、と……」

 

 はなしごえ、と、ラナー様はあっけにとられたようなお顔で復唱なさると。

 そのうつくしいかんばせをじわじわと赤らめて、そろりと目を泳がせた。

 

 それは初めて見るような主君の変化で、冷静になるべく重ねていた心の防壁を簡単に打ち砕いてしまう。

 

「……っ、ラナー様?!」

「……ごめんなさい、怖がらせてしまっていたのね」

 

 そうしてこちらの手を取り、窓際まで移動する。

 

 人差し指をバラ色の唇に押し当てて、内緒ですよ? と、ささやきながら。

 今の今まで目に入っていなかった、机に置かれた何か。その上にかけられていた、艶やかな布をするりとすべり落とした。

 

「……とり?」

 

 自分でもどうかと思うくらい間抜けな声がこぼれ落ちる。

 

 そこにあるのは鳥かごだった。中に入っているのは立派な黒い鳥で、赤い目に三本足の様相ははっきり言うと魔物然としていたが、特に人見知りや威嚇をすることなく、理知的で涼やかな面持ちのまま佇んでいる。

 

「言葉を話すようになると聞いたので頑張って話しかけていたのですけど。ちっともうまくいかなくて」

 

 ラナー様ははにかむようにそう言って、そっと手のひらを頬に添える。その姿があんまり可愛らしく、自分の不安がどれだけ馬鹿げていたのか思い知らされて、かくりと力が抜けてしまった。

 

「クライム?」

「いえ、いいえ。……ええと、賢そうな鳥ですね」

「そうなんです! すごく賢いんですよ!」

 

 きゃらきゃらと嬉しそうにほほ笑む彼女は本当に美しくて、まるで宝石でできた花のようだった。

 

 願わくばいつまでもこの笑みが続きますように。

 いるかもわからない神様に、強く願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かわいいでしょう?」

 

 

「あげませんよ、私のです」

 

 

「まあ、ふふふ。ひどい方!」

 

 

「うふふふふ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ナザリック地下大墳墓 第十階層

  最古図書館(アッシュール・バニパル) 製作室

 

 

 

 

 

「……()く失せるがいい」

 

 

「貴様が、貴様そのものの思惑で動いていようが、あれの思索の通りに動いていようが私はどちらでも構わんが、作業を阻むことは断じて許さん」

 

 

「同じようなものの顔をしてすり寄ってくれるな」

 

 

「私とお前では何もかもが違うのだ」

 

 

「職務の遣り口も媚の売り方も私では参考にならん。他を当たれ」

 

 

「いっそ職務の拒否でもしてみたらどうだ」

 

 

「あの男なら泣いて喜ぶだろうよ」

 

 

「……なに?」

 

 

「死は何処にあるか、だと?」

 

 

「……くだらない」

 

 

 

 

 

「我々はもう死んでいるのだ、召喚獣八咫烏」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




八咫烏の居どころまとめ

1.ヘジンマールくんのお友達(仮)
ドラゴンが本読んでる……と思って近づいたらなんか懐かれた。
中々深刻にふくよかなのでそのうち成竜病とかになるのでは? と日々観察している。

2.バハルス帝国の籠の鳥
捕まったのはもちろんわざと。
でも時々やってくるお爺ちゃんの目が怖いので逃げ出しも視野に入れている。

3.女王陛下の伝書烏
ビーストマンの大侵攻はもう少し先の話。
ビーストマンの食文化に対して特に思うところはないので、実際首都まで乗り込んできたら見捨てる気満々でいる。

4.通りすがりの黒い鳥
地形情報を集める係なのでマジでただの通りすがり。
この後カッツェ平野の幽霊船を見物したり海の底の都を見学したりする。

5.法国でギリギリの様子見
(覗きじゃ)ないです。武装を解除した相手とお話できそうな窓がここしかなくて……。
力のないものが緻密に行った考察より力あるものが雑に下した推測が正解に近いときがある。上層部とお嬢さんで見解が違うようなので上層部の混乱も見てみたいと思っているところ。

再三言うようですが「漆黒聖典の隊長に洗脳が効かない」というのは弊小説の捏造ですのでご了承をば。

6.パベルさんのペット
この世界の宗教について知りたかったので砦を拠点にした。
暗殺者みたいな顔のお兄さんがくれるビスケットはスパイスが効いて甘くないので美味しくいただいている。

7.バザーさんの非常食
細工物の行商に興味があって近づいたのに山羊さんに売り飛ばされてしまった。
亜人文化にも興味はあるけどなんとなく食われる確率が上がりそうでちょっと嫌。

8.ラナー王女のお話相手
もはや王国の事情は古参の貴族よりもよく知っている。
王女様に純朴な男性を適所で使わず飼殺すところ父親とそっくりだよ、とはまだ言えてない。

9.司書長とご対面
外に出るような用事ももうないし暇を持て余し中。
でも中にいてもやることがないのでリザードマンの集落に連絡係として放たれる予定。


次回から新章にはいります。エ・ランテルのとある人視点予定。
今しばらくお待ち下さい。



16巻の巻末御方が圧倒的大差をつけて死獣天朱雀さんになってしまい戦々恐々としています こわい

先んじて宣言しておきますが、仮に本作が完結する前に16巻が発売されても本作における死獣天朱雀さんのビジュアルやストーリーを変更するつもりはありません 「朱雀さんがこういう人だったら」というifストーリーのつもりで読んでいただければ
ただその場合さすがにオリ主タグをつけた方がええんやろかと考え中 どないしょ


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。