私に友達ができないのはどう考えても幻想郷が悪い (puripoti)
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第1話 社ノ中 静カニ思イヲ巡ラセル

 それは例年よりも随分と短い梅雨が明け、幻想郷に住まう人妖が照りつけるお天道様の威勢に辟易とした顔を見せ始めたある日のことであった。

 

   *

 

 その日、博麗神社の巫女はいつものように神社の境内からいつもと変わらぬ空を見上げていた。

 

 いかに幻想郷がこの世のありとあらゆる怪奇不可思議摩訶不思議無茶苦茶破茶目茶魑魅魍魎(ちみもうりょう)の吹き溜まりたる場所であろうとも、そこが世界のひとつとして括られている以上、四季もあれば季節の移ろいもある。春が暖かけりゃ夏は暑さで目が回る、秋になったら涼しくなるし冬が来たれば寒さが身にしみる。それはこの珍妙奇天烈な小世界であっても変わらない。至極ときたまではあるが、気色の悪い霧が発生して季節も風情(ふぜい)もへったくれもなくなったり移ろうのが妙に遅くなったり何時まで経っても朝が来なかったり季節外れもいいところの草花が咲き乱れたりつい最近も陽気につられたと思しき阿呆がええじゃないかと騒ぎ出したり、挙句それらの解決のために少女たちがそこかしこで弾幕を撒き散らしまくったりすることがあるものの、それはそれでこの常識に囚われては生きていけない奇妙な楽園ならではの愛嬌(あいきょう)と大目に見るべきであろう。

 

 そんな幻想郷の鎮守(ちんじゅ)と管理を(にな)う当代の巫女はいまだうら若き少女である。

 年の頃なら10代半ば、陽光を浴びて艶やかに輝く髪を肩の辺りまでのばし、その肩のあたりを大胆に取り払い胸元や袖口ににリボンやフリルをあしらうという、見ようによっては巫女の装束のようにも見えなくもない風変わりな格好の彼女は、社務所の縁側に腰掛け、雲一つなく晴れ渡る楽園の空をただただ見上げていた。

 

 博麗の巫女の日常はいたって簡素なものだ。晴れた日は境内のどこかに腰を落ち着けて茶をすすりながら空行く雲の軌跡を辿り、雨の日なら湯呑みを手にして降りしきる雨粒の音に耳を傾ける。気が向いたなら箒などを手に境内や社を清めたりもするし、気が向かないなら掃除したふりをする。別にそれが楽しいというでもなく、彼女はそれだけで日々を送っていけるのだ。巫女と神社の後見人たる妖怪の賢者などその様子を見るにつけ「年寄りくさいわねぇ」などと嘆くのだが、今のところ彼女に自身の在り様を改める気はなかった。

 

 かしましい蝉の鳴き声に包まれながら、少女は空を見上げている。お天道様の位置からすると、おそらくは昼を少し回った頃か。この季節、時間帯ともなればその暑さは日陰でじっとしているだけでも霍乱を起こしかねないほどだが、少女の肌には薄汗さえも滲まない。おそらくはたゆまぬ修練による賜物なのであろうが、どうもこの少女の場合、汗をかくのも億劫(おっくう)だという“ものぐさ”故ではないかと思えて仕方がない。

 

 一体どれほどの刻をそうしていたものか、まるで世界が始まった時からそうであったかのように身じろぎもせずにいた少女の視線だけが“ちら”と動いた。

 

「……今日は何しに来たのか知らないけど、参拝なら場所を間違えてるわよ」

 

 いつの間に、いつからそこにいたものか、視線の先には一人の女がいた。

 

 息を呑むほどに美しい女であった。

 

 色鮮やかな萌葱(もえぎ)の髪に彼岸花を思わせる紅の瞳、南国の花のように豊かな肢体を白菫色のブラウスとチェック柄の入った薔薇色のベストにスカートで包んでいる。

 手には日傘。無駄な装飾を施さぬ、それでいて上品な仕立ては、さながら一輪の花のような風情さえ思わせた。

 

 あえかな美貌に浮かぶのは風に流れる蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のごとく“ふわふわ”と、つかみどころのない微笑み。きっと、この女は消え行く時までこんな笑顔だけを浮かべているのだろう。

 

 たとえ世界が終わることのない冬に包まれたとしても、その女の周りだけは燦々と輝く太陽の季節であるような、その女。

 そのくせ、これほどの熱気の真っ只中であるにもかかわらず、背筋に冷や水でも流されたような気分を感じずにはいられない、その女。

 

 名を風見幽香(かざみゆうか)といった。

 

   *

 

 およそ人を迎える為のものではない巫女の態度を、“くすり”と笑って幽香は受け流した。

 

「相変わらず愛想とは無縁なのね、貴女は。この神社が閑古鳥(かんこどり)の棲家になっているのだってそのせいじゃないのかしら」

「ついでに、あんたみたいな物騒な妖怪が用もないのにうろつくのが大きいんじゃないかしら」

「あらまあ、ひどいことを言うのね。こんなに大人しくて人畜無害な妖怪なんてそうはいないのに」

 

 どの口でぬかすか、口の中だけで呟きつつ少女は縁側から立ち上がる。

 

 風見幽香とは強い妖怪である。それ以外に形容すべき言葉は、ない。

 

 巷では、やれ四季のフラワーマスター危険度極高友好度最悪俺の嫁アルティメットサディスティッククリーチャー永世サド名人いや俺の嫁だよ触らぬ幽香に祟りなしゆうかりんかわいいよゆうかりん幻想郷で今一番踏んでほしい女ゆうかりんなら俺の隣で寝てるよエターナルドSゆうかりん近寄ると死ぬちょっとゆうかりんペロペロしに幻想郷逝ってくる・・・等々、様々な二つ名で畏れられ、幻想郷でも一二を争う危険生物として知られている彼女だが、しかしそれらの風評とは裏腹に、本人はいたって悠悠自適(ゆうゆうじてき)に日々を過ごす妖怪だったりする。

 

 おおまかな性質はちょいと剣呑な遊牧民のようなものだ。年がら年中日がな一日、それぞれの季節の花に囲まれて暮らし、そこから動くことはあまりない。ちなみに今の季節だと、幻想郷の奥地にひろがる『太陽の畑』と呼ばれる場所に腰を落ち着けているのが常である。そして新しい季節の訪れとともに、花の咲く場所を求めて移動する。春なら春の、夏なら夏の、秋なら秋の、冬なら少ないながらも冬の花が咲く場所に。その際に生じる様々な障害(邪魔をする者、邪魔な物、邪魔だと思われたもの)は、片っ端から人妖問わず問答無用の力づくで排除にかかる。前述のごとき歩く局地災害の扱いを受けるようになった理由がそれである。季節の変わり目に訪れる、傍迷惑なからっ風のようなものと考えてもいいかもしれない。

 

 そんな厄介極まりない妖怪を前にしても、博麗の巫女は揺るがない。緊張のあまり冷や汗を流すでも恐れるでもなく、探るような視線で風見幽香を見やるのみである。

 

「それで、何の用があって来たのよ。見てのとおり私は忙しいんだけど」

「あら、そうなの。やることもなく“ぼけっ”としてただけみたいだったけど?」

「素人はこれだから困る。あれこそは博麗神社一子相伝の修行法よ。己を虚と為し空に散らすことにより転じて実を───」

「まあ、それはどうでもいいわ。興味もないし」

「…………」

「そんなことより……」

 

 風見幽香は意味ありげに言葉を切り、笑みを深めた。

 

「さっきから待っているのだけれど、いつになったら私にお茶を淹れてくれるのかしら」

「なんであんたに茶を出してやらにゃならん」

「だって私、お客様なのに」

「招かれざる客に出す茶なんてない」

 

 つれない返事に気を悪くする風でもなく、風見幽香は左の手で自分を指さした。

 

「でも、お客様なのよ?」

 

 さらに“ちょこん”と首を(かし)げ、繰り返す。

 

「お客様なのよ?」

 

 さらに繰り返す。

 

「お客様なの」

「…………」

 

 博麗の巫女はあくまでも無言で返す。別に意地悪でしているのでもましてや呆れているのでもなく、口を開くのもイヤなので無視しているのだ。そして幽香もそれを承知で繰り返している。

 

「お客様」

 

 風見幽香はしつこかった。おそらく、茶が出されるまでずっと同じ事をやる気なのだろう。この女は人の神経を逆撫ですることにかけて不毛な労力を惜しまない。少女の肩が溜息とともに、こころもち下がった。

 

「……出涸らしでよければ出したげるわ」

 

 疲れた声を残し、少女はさも面倒くさそうな足取りで縁側に上がり、台所へと消えていく。それを見送った幽香は、日傘を畳んで縁側へ静かに腰を下ろした。

 

   *

 

「薄いわねえ」

 

 出された茶を口にした幽香の感想である。

 

「文句あるなら飲まなくていいのよ」

 

 忌憚ない感想に、右隣に座る巫女の目と声色が刺々しいものになるが幽香は気にもせず茶をすする。実に優雅なその所作(しょさ)には、少なくとも不満があるようには見えなかった。ひょっとしたら味は二の次で、誰かに淹れてもらえれば充分だったのかもしれない。

 

「文句なんて言ってないわ、あるがままの感想を述べただけだもの」

「なお悪いわ」

「ところで、お茶請けはどうしたのかしら?」

「お茶だけだって言ったでしょ。人の話聞きなさいよ」

「貴女まだ若いのに、ずいぶんと“しわい”のね」

「贅沢は敵よ。それよりも、一体何の用で来たのよ」

 

 ナチュラルな厚かましさに険しくなる巫女の視線なぞ気にも留めず、風見幽香は唇に手を当てて何かを思い出すような顔をした。

 

「……ああ、そういえば用事があったんだわ。ちょっと相談に乗ってほしかったのよ」

 

 相談ときた。思いもよらぬ一言に少女の柳眉がひそめられる。

 

「ふん、幻想郷にその名も高き大妖怪が、こんな小娘に何を持ちかけるのかしら」

「そんなに身構えないでもいいんじゃないかしら。別に無茶なことを頼もうっていうのじゃないのだし」

 

 眉間の強ばりを緩めぬ少女に、“ふんわり”とした微笑みを幽香は向けた。知らぬものが見たのなら夏を司る女神かと見紛うほどに美しい笑みで、風見幽香は切り出した。

 

「私、お友達がほしいの」

 

 あんた、暑さで脳ミソやられてんじゃないの? 喉元まで出かかった一言を、博麗の巫女はかろうじて飲み込んだ。

 

   *

 

 繰り返しになるが───

 

 風見幽香とは強い妖怪である。それ以外のなにものでも、ない。

 

 そして強い妖怪とは本当に強いのだ。どこからどこまでも、なにからなにまでも。

 

 例えばの話、この女を人っ子一人蟻の子一匹、それこそ誰もいなくて何もない場所に放り込んだとする。それが百年であろうと千年であろうと、この女はまったく動じもすまい。力の多寡など問題ではない。もしこの女が非力無能な存在として生を受けていたとしても、やはりこいつは世界か自分、どちらかが終わりを告げる日までただ風見幽香としてのみ在り続ける。自分以外の誰も何者も必要としない。こいつは、そういう女だ。

 

 その女が、言うに事欠いて友達がほしいときた。何の冗談だ。それともこれは新たな異変の予兆なのか。巫女が向けてくる胡乱な目つきに何を感じたものか、幽香は唇を尖らせた。

 

「なにか酷いことを思われている気がするわ」

「気のせいじゃないの。永く生きすぎてると疑い深くなってイヤね」

「嘘をつく子は閻魔(えんま)に舌を引っこかれたり地獄に堕ちて鬼にいじめられたりするらしいわよ。貴女は大丈夫かしら?」

「お生憎様、巫女ってのはほっといても功徳(くどく)を積める商売よ。これくらいなら許容の範囲内」

「なにを(まつ)っているのかも知らないバチあたりさんのくせに」

「ほっとけ」

「私が想像するに……多分、七福神とかじゃないかしら。もしくは弁財天(べんざいてん)とか」

「弁財天も七福神の内の一匹でしょ。ていうか、なんで七福神?」

「随分と前に立ち寄った神社で祀られてたの。そういえばそこの巫女さん、貴女にちょっと似てたわね。空も飛べなきゃ腋も出してなかったけど。もしかするとお知り合い?」

「知るかい」

 

 投げやりに言い捨て、博麗の巫女は自分の湯呑みを傾けた。ちなみにこちらも幽香に出したものと同じ出涸らしである。他人にだけ粗末なものを出したりしないのは美徳といってもよかろう。ひょっとしたら、わざわざ別の茶を用意するのが面倒くさかっただけなのかもしれないが。

 

「それにしても、一体全体なんだって急に友達がほしいなんて思ったのよ」

 

 喉を潤した巫女はもっともな質問をした。先にも述べたが、およそこの女にとって他者とは(わずら)わしいだけの存在であろうに。

 

「あんたってお花が友達みたいなやつじゃない。だったらそこらの草なり花なりにでも話しかけてりゃいいでしょ」

「そんなのいつもやってるわ。でも、それじゃあ私、傍から見て寂しい女みたいじゃない」

「やってたのか。なら、それで我慢なさいよ。そもそも他人にどうのこうのと思われたって、微塵も気にするようなタマじゃないでしょ」

「冷たいのね、協力する素振りだけでも見せてほしいものだわ。もちろん、協力してもらうからにはタダでとは言わないし」

 

 そう言って、幽香は胸元のポケットに手を入れ、そこから一抱えほどもある袋を取り出した。どう考えてもポケットの容量を大幅に逸脱しているが、それを不思議と思うような者はここにはいない。

 幽香から手渡された“ずしり”と重いそれの口を慎重に開き、中を確かめ───博麗の巫女は露骨に顔をしかめた。

 

 入っていたのは袋一杯の向日葵(ひまわり)の種だった。なんでも、ここを訪れる前に風見幽香の力───花を操る程度の能力───を用いて太陽の畑でかき集めたものだそうな。

 

「……で、これをどうしろっていうのよ」

「植えればいいじゃない」

「それで私に何の得があるっての」

「花が咲くわよ。たくさん」

 

 それで喜ぶのはあんただけよ。博麗の巫女は素っ気なく言った。

 

「それでなくとも、あんたの力に影響された花の種なんて物騒すぎて植える気になんてなりやしない」

 

 博麗の巫女はなんともいえない表情で袋を突き返した。なにせ余人はいざ知らず、幻想郷に知らぬものとてない大妖怪の手になる花の種だ。力と妖気の影響でおかしな変化───植えたら食人植物が生えてきたとか───を遂げていたとしてもおかしくはない。この考えを大袈裟(おおげさ)だと歯牙(しが)にもかけぬ脳天気は、すくなくとも幻想郷では三日も保たず誰ぞの腹の中である。

 

「ああ、それなら心配ご無用よ。貴女だったらよほどの油断をしたってかすり傷くらいで済むはずだし」

 

 幽香はあくまでも気楽な様子で返す。逆に言うなら博麗の巫女程度の力がなければ、かすり傷どころでは済まないということらしい。

 

「ざけんな、さっさと持って帰れ」

「あら、お気に召さなかったかしら?」

 

 風見幽香は心底不思議そうな顔をした。この少女は綺麗な花に囲まれることの一体どこに不満があるというのか。

 

「だったら食べればいいんじゃない? 軽く炒るだけでちょっとしたお茶請けくらいにはなるわよ」

「だから、あんたの妖気が染み込んだ花の種なんか食べたくないっつーの」

「よく噛んで食べれば大丈夫なはずよ。熱の通りや噛み方が中途半端だと、お腹を食い破られるかもしれないけど」

「ねえ、もしかするとあんた私に喧嘩を売りに来てるんじゃないの」

 

 だったら言い値で買ってやるわ、いくらだこのやろう。半眼になって睨めつける少女をいなすように幽香は言った。

 

「もう、そんなわけないじゃない。なんでお友達を作りにきて、喧嘩をふっかけなきゃいけないの」

「あんたがここに“ずかずか”と足踏み入れてからこっち、私の神経を逆立てなかったことが少しでもあったか」

「……? なにか気に障るようなことでもしたかしら、私」

 

 幽香は唇に人差し指を当てて小首を傾げる。妙に愛らしいその姿からは、これが冥府(めいふ)の悪鬼さえ三舎(さんしゃ)を避けると噂される大妖怪とは想像もつくまい。

 無垢な童女のように(いとけな)い仕草に何を感じたものか、博麗の巫女はなにかを諦めるようにこれ見よがしのため息を吐いた。

 

「……もういいわ。あんたに理解を求めようとした私が莫迦だった」

「何の事かは判らないけれど、貴女にしては随分素直に自身の非を認めるのね。良い事よ、それは」

「私、誰かのことをこんなにぶん殴りたいと思ったのって生まれて初めて」

 

   *

 

 二人の実りなきやり取りはその後も続き、ふと気がつけば辺り一面が茜色に染まっていた。

 

 博麗の巫女は空を見上げた。数羽の(からす)が“かあかあ”と鳴きながら飛び回っている。その中に混じる人影は鴉天狗だろうか。なんとまあ、不毛な時間を過ごしたことか。博麗の巫女は偏頭痛を覚えてこめかみを押さえた。境内に響く鴉の鳴き声が、阿呆な人妖二匹をからかうかのように聞こえて、ますます気が滅入る。

 

 いい加減付き合いきれなくなった博麗の巫女は、ここらで話を切り上げることにした。そろそろお腹も減ってきたことであるし。

 

「なんにしても、そんなに友達欲しけりゃこんな寂れた神社じゃなくて、人間の里にでも行くことね。あそこなら人間でも妖怪でも、よりどりみどりよ」

「そうしたら、お友達がたくさんできる?」

「知らないわよ、そんなの」

「頼りにならないわねえ」

「うっさいわね。少なくとも、あんた見てくれだけはいいから、ほっといても男連中が声をかけてくるでしょ。そこから適当なのを見繕いなさい」

「そうね、そうしてみるわ。じゃあ話も決まったことだし、私はここら辺で“おいとま”させてもらうわね───あとこれはお礼、あげる」

「いらないって言ってんでしょ」

 

 幽香が押し付けてきた例の袋を博麗の巫女は断固として拒絶した。

 

   *

 

 話もまとまったところで、幽香は帰路に着くべく立ち上がった。博麗の巫女は疲れたような目でそれを追う。普段なら自身も立って客を送るくらいはするのだが、今日はもう何もしたくない気分だった。そんな彼女に、幽香は今日一番の笑みを寄越した。

 

「今日はありがとう。お友達ができたら、あらためてお礼に来るわね」

「二度と来んな」

 

 巫女の憎まれ口を“くすくす”と笑ってやり過ごし、幽香は踵を返した。神社の端、林と森の中間点のような木々の間に分け入っていく。そこから人里へと続く獣道が伸びているのだ。

 

 あの娘も、もう少し素直で可愛げのある性格になったら、友達になってあげてもいいのにな。そんなことを考えながら、風見幽香は彼女にしては珍しく、どこか浮ついたように軽快な足取りで夕闇の道へと消えていった。




 登場人物について

風見幽香

備考───虹界隈ではSだったりMだったりUSC呼ばわりと色々忙しい(薄い本調べ)このSSにおいてはともだち募集中の少女である

博麗の巫女

備考───巫女さんをやっている。


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第2話 INTO DARKNESS~食べられてしまいそうな程、ファンタジックな宵闇~

 月の輝きが静かに照らす夜の路を風見幽香は歩いていた。

 

   *

 

 博麗神社での相談の後、巫女の意見に従って友達たくさん作るべく人間の里に赴いた風見幽香であったが、その成果は実に惨憺(さんたん)たるものだった。

 

 里に足を運んだ幽香を迎えたのは、里の人々による温かい歓迎───などというものではなく、人妖問わずおよそ凡ての住人による丁重なる無視であった。言い方が悪いと感じたのなら敬遠と訂正してもよろしい。誰も彼もが彼女の姿を認めるや顔色を変えあるいは顔を背けもしくは目を合わせようともせず、道行く者達は残らず“そそくさ”と脇道に逸れるかさもなくば『おおこれはいかん道を間違えてしまったこれはすぐさま来た道を戻らねばならぬ』とばかりに踵を返す始末である。

 

 実はこの光景、風見幽香を見かけた際における一般的な衆生(しゅじょう)の反応であったりする。

 いくらなんでも大袈裟だろうなどと思ってはいけない。先にも述べたが風見幽香といえば歩く局地災害の別名である。蛇どころか獅子や虎が潜んでいる藪を、わざわざ進んで突つきたがるようなやつはいない。

 

 普通ならばこの時点で空気を読んで仕切り直すなりを考えるのであろうが、生憎ながらこの女にそのようなものを求めるのはまったくもっての無意味にして無駄かつ無益なことであると同時に無理である。はじめのうちこそ巫女が言っていたとおり、誰ぞが声をかけてくるのを待つ気ではいたが、このままでは埒が明かぬと考えなおした幽香はとりあえず一番近くに居た里人に声をかけることにした。

 

 声をかけられた側にしてみればたまったもんではなかったろう。逃げることさえままならず、眼前の大妖の一挙手一投足に死人もかくやの顔色となって歯を鳴らして震えるその様は、さながら冬眠を終えたばかりの熊に目をつけられた哀れな子鹿のごとしであった。

 

 とはいえこれはこれで、本来あるべき人間と妖怪との関わりの構図ではあるのだが。人は妖怪を恐れ、それを以て妖怪は己をあるいはその寄る辺を保つ。千古の昔から続くそれが、彼ら彼女らの正しい関係である。

 

 しかし今回ばかりは、それをやらかした場所が悪すぎた。

 

「里にて騒ぎを起こすのは、いかなる妖かしもご法度なり───それを忘れるとは夏の暑さに血迷いましたか」

 

 どうやら立ち去った里人からの連絡を受けたらしい、里の寺子屋で教鞭をとる半獣人に詰問された挙句、あわや幻想郷のルールに則った決闘による解決をみるか、というところまでいく羽目になった。

 結局、すったもんだの末に誤解は解け、今回の一件は不問に付されることにこそ相成ったのだが、騒ぎを起こしたのもまた事実なので暫くの間は里には出入り禁止との沙汰を下されるというオチまでついて、幽香は悄然と帰路についたのである。

 

 どうしてこうなったのかしら。

 

 人里を出て家路を辿る、その道中で幽香は首をひねった。本来ならば今頃は、友達がたくさんできてお喋りしたりお茶したりしているはずなのに───それがこのざまである。却って敵を増やすような結果に終わってしまった。詫びのつもりで差し出した大袋一杯の向日葵の種も「そんな危険な代物いらん」と拒絶されるという有様である。

 

 我が身に降りかかった理不尽に、幽香はただただ首をひねるばかりであったが答えはついぞ得られなかった。

 

   *

 

 星の瞬きが儚く灯る昏い路を風見幽香は歩いていた。

 

 こうして“ぼんやり”夜道を歩いていると思い出す、あてどもなく世界をさまよい歩いていたかつての自分を。

 

 花のある場所をひたすらに目指して三千世界のありとあらゆる場所をほっつき歩き、ときには気に入ったところで足を休めそれに飽きたらまた歩く。それが風見幽香の記憶のすべてである。別にそれが楽しいというでもなく、ただそれだけで彼女は満ち足りていられたのだ。それ以外の生き方なぞとんと興味がわかず思いつきさえしなかった。

 

 そんな自分が一体いつから、何を求めて幻想郷に居着いたのかを風見幽香は思い出せない。

 

 かつて威勢を振るった夜の世界の者共が、迷信伝承お伽話と切って捨てられ忘れられ自身と寄る辺のすべてを奪われ否定されても、幽香は変わらず気にもせずただ一人歩き続けた。世界がどれほど移ろい巡り変わろうとも、花はどこにでも咲いている。妖怪が人に否定されようとも、またあるいは自分達がそうしたようにいずれ人が何者かに否定されようとも、草花だけはたとえいつでも、いついつまでも変わり変わらず咲き誇る。だからこそ、いつか消えゆく我が身のことに思い煩うこともなく、幽香はひたすら歩き続けた。

 

 永い時の流れは、いつしか彼女から木花の姫君としての儚さを奪い去り、代わりに磐の姫のごとき強さを与え───

 歩いては時折立ち止まり、再び歩いてはまた休み、美しい花を見て美しい景色を眺め美しい世界を感じ───

 

 そしてふと気がつけば、奇跡や魔法が我が物顔で幅を利かせ石を投げれば神や魔物に“こつん”と当たりついでとばかりに妖怪たちも芋洗いのごとく右往左往する、今や消えゆくばかりであったはずの幻想の輩が掃いて捨てるほど投げ売りできるほどに溢れかえったこの隠れ里で“ぼけーっ”と突っ立っている自分を発見した。

 

 とはいえ、そこがどこであろうとも風見幽香がやることに大した違いなんぞあろうはずもなく、彼女はやはり今もなお花のある場所を求めて歩いている。

 

 変わったところがあったとすれば、求めるものに友達というものが加わっただけである。

 

   *

 

 幽かな光明も届かぬ宵闇の路を風見幽香は歩いていた。

 

 あら、おかしいわね。柳眉をひそめて幽香は立ち止まった。

 

 目を凝らす、何も見えない。文字通り、一寸先も見通せぬ闇である。

 ありえぬ話だ。彼女は妖怪、光も届かぬ真闇の中さえ白昼のごとく見通す目を具えている。それだというのに今や自分の手元さえ見ることが叶わないというのは───

 

 妖怪の仕業かしら。

 十中八九、間違いなかろう。とはいえ普段の風見幽香なら気にも留めずにやり過ごす程度の異常だが、この時ばかりは興味が勝った。早速潰えた友達作りの代わりに、時間を潰す口実が欲しかっただけなのかもしれないが。

 

 幽香は総身の力を抜く。一体誰が何を目的としてこんな真似を仕掛けてきたのかは知らないが、まずは相手の出方を知りたい。いわば誘いである。完全な無防備となっても幽香はあまり気にしない。彼女が知る限り、“風見幽香”を貫く力を持った妖怪で、闇ないし知覚を操作するような能力を持っている奴はいない。

 

 まあ、仮に未だ知られぬ強者の仕業であったとしても、それはそれで構わない。その時は、素直に一撃貰ってやり返せばよし。万一、その一撃が彼女の命を刈り取ったとしても、それもまたそれで構うまい。もしそうなれば、それが風見幽香の終わりであると受け入れるだけである。

 

 “ぼんやり”と幽香は佇む。何も見通せぬ暗闇の最中では、一体どれほどの時間そうしているのかも判らない。だが突如その耳に、

 

「ぷぎゃっ」

 

 という小さな悲鳴が届き、同時に幽香を捉えていた《闇》が消えてなくなった。

 幽香が声のした方へ振り向くと、右後方のやや離れた場所にある木の根本で金色の髪の少女が頭を押さえてうずくまっているのが見えた。

 

 年の頃は十かそこら、ミディアムボブにした金色の髪に大きめのリボン。闇夜に紛れるかのような黒い服が、どこか喪服のようにも見える幼い女の子。おそらくは彼女がさきほどの《闇》の作り手だったのだろう。幽香は肩透かしをくらった気分でその少女へと足を向けた。

 

 近づいてくる幽香のことなぞ気にもならぬ様子で、少女は頭を抱えて「うんうん」唸っている。ひょっとしたらだが、傍らの木にでも頭をぶつけたのだろうか。だとしたらさぞや痛いだろうな、そう思い幽香は少女に声をかけた。

 

「ねえ貴女、とても痛そうだけど大丈夫?」

「……とても痛い、あんまり大丈夫じゃない」

 

 少女は涙の滲んだ紅色の瞳で幽香を見上げる。夜目にも眩い金色の髪が、幽香の印象に強く残った。

 

   *

 

 話を聞いてみれば、やはりというかその少女こそが異常の正体であった。

 

 なんでもこの少女、『闇を操る程度の能力』なるものを持っているそうで、先の異常な暗闇も、久しぶりに“とって食べれる人類”を見つけたので、襲ってやろうと思い立ち放ったものだったらしい。この少女、無邪気な子供そのものの外見からは想像もつかないが人喰いの妖怪なのだ。

 

 それほど恐ろしい妖怪が、何故にかくの如き有り様となっているのかといえば、その《闇》というやつ、一度出してしまうとその中では当の本人でさえ方向を見失うほどのものだとかで、それがために少女は獲物を襲うどころか自ら近くの木にぶつかり頭を抱えて呻吟(しんぎん)するという憂き目に陥ったからだそうな。

 

 成程ねえ、幽香はなんとも言えぬ面持ちで呟いた。話だけ聞くと間抜けではあるが、それでも運のよい子だと思ったのだ。

 

 おそらくだがこの宵闇の少女、妖怪としては中途半端に強い部類なのだろう。

 強すぎる者は同じ強者に喧嘩を売らない。そんな真似をすれば、どちらかが死ぬしかないから。弱すぎる者も決して強い者に近づかない。生殺与奪を他人に握られていい気分でいられる奴はいない。両者に共通しているのは、強者を嗅ぎ分ける感覚である。それを持たないのは半端な力しか持たぬ証に他ならない。でなければ、こともあろうに風見幽香に襲いかかろうなどとは露ほどにも思うまい。

 

 もし少女の運の天秤があとほんの少し、良いか悪いかの方向へ(かし)いでいたのなら、その命運は間違いなく尽きていたであろう。相手が幼い少女(といっても見た目以上に歳を食ってるのだろうが)であるから手心を、などという気遣いをこの女に求めるのは、人食い狼に今日から菜食主義に転向しろと要求するようなものである。

 

 自分を感慨深げに見やる幽香から何を感じたものか、宵闇の少女は眉根を寄せて訊ねた。

 

「もしかすると、あなた妖怪なの」

「あら、気が付いてなかったのね」

「うん。人間にしては、変な気配をしてるなとは思った」

 

 ぼやくように言って、宵闇の少女は両腕を大きく広げるという奇妙なポーズで“ふわり”と浮かぶ。揚力を稼ぐというより、聖者は磔にかかり人類は十進法を採用しましたというジェスチャなのだろうか。幽香はどうでもよいことを考えた。

 

 ちょうど幽香の目の高さにまで浮かび上がった宵闇の少女は、幽香の瞳を“じぃっ”と覗きこむ。少女の紅の瞳の中に自分の瞳の紅が映る様は、どこか不可思議なものであった。

 

「判らなかったのも仕方がないわね。私、普段はあまり妖気とかを漏らさないようにしてるから」

「人のふりでもしているの?」

「外れ。無意味に強さを誇示しても周りが煩くなるばかり、それは私の生き方と相反するの。もうひとつは無用な威圧を与えないためね」

 

 今は後者のほうが重要だけどね、そうでもしないと友達もできないし。幽香の説明に、宵闇の少女は分かったような解らないような、微妙な表情を浮かべた。

 

 余談ではあるが、今幽香が口にしたこのスタンス、実は彼女を無意義無用の諍い争い騒動から遠ざけるのに何ひとつの寄与もしていなかったりする。それどころか、むしろ無益不必要な流血ばかりを呼びこむ結果となったほうが多い。何故というのなら、

 

 かつて、彼女に刃を向けた人は思ったものである───弱そうな妖怪だ、手柄とするには丁度よかろう。

 かつて、彼女に牙を剥いた妖も思ったものである───弱そうな妖怪だ、血肉とするには丁度よかろう。

 

 それらの者達がいかなる末路を辿ったかについては、わざわざ書き記すほどの理由も価値もないので省かせてもらう。そんな事実もいざしらず、幽香は肩をすくめたものである。

 

「能ある鷹は爪隠す、これもか弱い妖怪ならではの生活の知恵というものね」

「そうなのかー」

「そうなのよー」

 

   *

 

 それにしても、と幽香は思った。

 

「間違えたとはいえ人間を襲おうとするなんて、あなた、そんなにお腹が空いているの?」

「ううん」

 

 地面に降り立ち、少女は小さく頭を振った。闇夜を振り払うように、金色の煌めきが揺れる。

 

「でも最近は、取って食べれる人類が見つからないから困ってるんだ」

 

 ああ、成程。幽香は頷いた。

 

 妖怪とは人間を襲って初めて存在意義が有るものである。しかして幻想郷においては妖怪が滅多矢鱈に人を襲うことが禁じられている。ただでさえ少ない人間達を後先も考えもなしに襲い尽くせば、その後を追うように妖怪も滅ぶのだから。しかしそれでは妖怪達は存在する意義を喪失してしまう。人を襲わぬ妖怪は妖怪ではない。

 

 実に悩ましきこの矛盾。それを解決するために必要となってくるのが、今少女が口にした『取って食べれる人類』である。彼らもしくは彼女らは、妖怪たちの“存在意義を保つための栄養”を満たすために《招かれる者たち》のことだ。彼らに限っては、妖怪達は一切の遠慮無く襲うことが許されている。一応、念の為に断っておくが『取って食べれる』云々は誇張でも何でもなく、まんまその通りの意味であるからして襲われた後は胃袋に直行である。妖怪にはキャッチアンドリリースなどという、腹の足しにもなりゃしない考えをする奴はいない。

 

 なお幽香は詳しく知らないが彼ら彼女らの内訳とは、幻想郷の《外の世界》における存在意義を自ら失った者達であるとか。それこそ、外の人々から不要無用の存在として忘れ去られ、ついにはこの小さな世界だけでしか存在を許されぬに至った自分達のような。

 

 自分を保つために己の合わせ鏡の如き存在を喰う、ひどい自虐があったものね。口にこそ出さぬものの幽香は常日頃からそう考えていた。

 

 話を戻そう。そうやって招かれる『取って食べれる人類』だが、妖怪達の口を満たすのには、彼らの数は決して多いとはいえない。どうしても食いっぱぐれる者は出てくる。少女もその内の一匹であるわけだ。まあ、喰わなきゃ腹が減るだけで別に死んだりするわけではないだけれど。

 

 ふーむ。幽香は軽く握った手を顎に当て、何かを考えるような仕草をした。視線の先には少女の金色の髪。

 

 そしてしばしの黙考の後、おもむろに口を開いた。

 

「ねえ、ちょっといいかしら」

「?」

「あなたさえよければだけど、食べてみない───私を?」

 

 普通なら正気を疑うような発言だが、それをおかしいと思うような神経の持ち主はここにはいない。思いもかけぬ提案に、少女は“ぱあっ”と花咲くような笑顔を浮かべた。

 

「え、いいの?」

「ええ。その代わりといってはなんだけど、私のお願いをひとつ聞いてほしいの」

「お願い?」

「そう、お願い。決して無茶なことは頼まないつもりだし、それでも駄目なら断ってくれてもいいわ」

 

 どうかしら、と促す幽香。少女は少しの間「むー」と考え込んでいたが、

 

「わかった」

 

 頷く少女に軽く微笑みかけ、幽香は握手を求めるように右の手を差し出した。

 

「交渉成立ね。それじゃあ───どうぞ、召し上がれ」

 

 いただきます。目の前に差し出された、白魚のような繊手に少女は笑顔で齧り付いたが、すぐに顔をしかめて口を離した。目尻には涙が浮かんでいる。

 

「……硬い」

 

 あらまあ、失敗したわね。幽香は左の拳で自分の頭を“こつん”と叩いた。いまだ幼い少女では、長きに渡って積み重ねてきた“風見幽香”を噛み破ることはかなわないのだ。それを失念していたとは、自分の迂闊さに思わず笑ってしまいそうだった。

 

 ちょっと待っててね、上目遣いで怨ずる少女に断りを入れ、幽香は目を閉じ意識を集中した。『外』へ向かい外界に抗う自身の積み重ねを『内』へと向けて相殺し、己の有り様に手を加える。瞼の裏に思い描くのは昔の自分───時の流れを遡り、長く培った磐の姫から儚く散りゆく木花の姫へと自らを巻き戻す。

 

 目を開けた時、そこにいたのは風見幽香であって風見幽香ではなかった。

 

 幽香は少しの間、感覚を確かめるように右手を握ったり開いたりした後、改めて少女へと差し出した。

 

「今度は大丈夫なはずよ」

 

 先程のこともあり、少女はやや警戒したような面持ちでいたが、やがて意を決したようにその手を取り、再度齧り付いた。

 小さな口から響く“ぶちり”という音によって、少女は幽香の言ったことが本当だったのを知った。さっきは岩でも齧ったかのごとくびくともしなかった彼女の手が、今は雲でも口にしているかのように容易く食い千切れていく。

 

 瞬く間に手指を噛み砕いた少女はその傷口を見て、言った。

 

「血、出ないんだ」

「ええ。せっかくの可愛いお洋服ですもの、汚したら悪いでしょう?」

 

 そっか。何か納得したような気分で、少女は独り言のように言う。

 

「親切な妖怪ね、あなたって」

「まあ」

 

 幽香は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。それほど少女の一言は思いもよらぬものだった。色々な時代にありとあらゆる場所で様々な人々と多くの人外から沢山の言葉を投げかけられてきたが、まさかに自分のことを親切などと言ってのけたのは、この少女が初めてではなかろうか。

 

 我知らず幽香の口元が柔らかな弧を描く。ほんの少しだけ、この少女が好きになった。

 

 少女が食餌を再開する。闇の中、ぶちりぶちりと悲惨な音が響く。

 音に聞こえし大妖怪と云えども痛覚は常人のそれと大差ない。手を噛まれれば痛い、食い千切られればなお痛い。しかし幽香は平然としたものである。それどころか微笑みさえ浮かべて、少女が己の肉を咀嚼するのを興味深げに見つめている。

 

「私が聞くのもおかしな話だけれど、美味しい?」

「まずい」

「正直だこと」

 

 植物由来の妖怪の血肉だけに、肉食妖怪の口には合わないのかしら。どうでもよさげにつぶやく幽香の左の袖を少女が引っ張った。既に右腕は肘から先がなくなっている。

 

「ねえ、ちょっといいかな」

「なにかしら?」

「食べにくいから、しゃがんで」

「あら、気が付かなくてご免なさいね」

 

 軽く謝ってから幽香は膝を折り、少女と目線が合うくらいの高さにしゃがんであげる。よくよく考えてみればこの少女は空を飛べるのだから、こうまでしてやる必要なぞないのかもしれないのだろうが。

 

「ありがと」

 

 謝辞を述べ、少女は小さな口をいっぱいに開いて幽香の肩にかぶりついた。

 

 ───あら、やっぱり服も一緒に食べるのね。消化に悪そうだからお腹を壊さないといいのだけれど。

 

 幽香はまるっきり他人事のような気分で少女の腹具合を心配した。

 

   *

 

 風見幽香という存在が、少女の桜貝のような口の中に髪の一筋さえ余さず消えたのは、それから四半刻(およそ30分)ほど後のことだった。

 

   *

 

「ごちそうさまでした」

 

 誰もが恐れる花の妖を文字通り“片っ端から”食べ終えた少女は誰にともなく言った。食した量はどう考えてもこの小さな少女のやはり小さな胃の腑に納まりきるものではないが、そんな些細な事にかかずるような輩はここでは三日と正気を保てない。

 不味いと口にした割に、少女の表情はとても満足そうなものであった。目にしたものすべて、つられて顔がほころんでしまいそうだ。ひょっとしたら、腹が膨れれば文句はないというだけなのかもしれないが。

 

 “けぷっ”と、可愛らしくおくびを漏らす少女へ好もしそうな目を送り、幽香も返した。

 

「おそまつさまでした。ちゃんと挨拶ができるのは良い事ね、美味しそうに食事ができるのも」

 

「?」宵闇の少女は狐につままれたような顔で小首を傾げ、目の前の、食われる前と寸分たがわぬ姿で佇む幽香を見上げた。

 

「あなた、食べられちゃったのになんでそこにいるの?」

 

 尤もな疑問である。それ以前の問題ともいえるが。

 

「さっきのあなたは偽物? それともまぼろし?」

「さっきの私は紛れもない本物よ」

「じゃあ、あなたが偽物? それともまぼろし?」

「こちらも本物よ、偽りなしの」

 

 禅問答のごときやりとりに、少女は眉根を寄せた。

 

「よくわからない」

「言葉にするとややこしくなるのよ。うまく説明しきれる自信もないし、気にしないのが一番ね」

「そうなのかー」

「そうなのよー」

 

   *

 

「お腹も膨れたところで、今度は私があなたに、お願いを聞いてもらう番ね」

「わかってる、何をすればいいの?」

 

 首を傾げる宵闇の少女に、幽香はどこか悪戯っぽく微笑んだ。

 

「と言っても、そんなに大したことではないの───あなたの髪、触らせてくれないかしら?」

「そんなことでいいの?」

「ええ、目にした時から気になっていたの。だってそんなに綺麗な髪なんですもの」

「ふうん。まあ、いいけど───好きにすれば」

 

 少女はやや釈然としない風であったが、すぐに思い直したかして幽香の傍に近寄った。

 

「ありがとう。じゃあ、失礼するわね」

 

 幽香は短く断りを入れ、少女の髪の中に手を潜らせた。宵闇の中にあってなお、誘蛾燈のごとく妖しく輝く少女の髪に幽香の繊手が埋もれゆくその様は、さながら永い時を閲した白蛇が黄金の海に身を投げたかのようであった。

 

 頭頂からこめかみのあたりへと伝い、うなじへと指を滑らせる。その動きに合わせ、少女がわずかに身を捩った。

 

「あら、もしかしたら痛くしちゃったかしら。だとしたら、ごめんなさいね」

「痛くはないけど、ちょっとこそばゆいよ」

 

 堪えられぬとばかりに少女は“くつくつ”と笑った。口からこぼれる笑いとともに、少女の体が揺れる。

 

「出来れば動かないでほしいのだけれど」

「無理、くすぐったい」

 

 それからしばらくの間、闇夜の中に笑い声が響いた。

 

   *

 

「……髪、ボサボサだ」

 

 幽香によって心ゆくまで弄り回された後に、ようやっと開放された宵闇の少女は髪を手櫛で整えながら口を尖らせた。

 

「あらあら、ご免なさいね。あまりにも手触りが良かったものだから、つい」

「いいよ気にしないから。それより、もし次に遭うことがあったらその時はもう少し美味しくなってくれてると嬉しいね」

「善処してみるわ」

 

 そんなやりとりの後、二人はそれぞれの帰路に着くべく別れた。

 

 じゃあね。小さく手を振り、宵闇の少女は夜空へと消えていく。

 気を付けてお帰りなさい。それを見送り、風見幽香も歩き出す。

 

 しかし数歩ばかりを進んだところで、幽香は立ち止まった。

 

 

「あ」

 

 

 幽香はなにか大切なものを落としたかのような顔をしていた。ことここに至って、自分がとんでもない間違いを犯したのを悟ったのだ。

 

「お友達になってちょうだいってお願いにすればよかった」

 

 後の祭りである。




 登場人物とか

風見幽香

備考───植物性少女

宵闇の妖怪

備考───肉食性少女


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第3話 C~雪のように舞い散る彼女の為に~

 月に叢雲(むらくも)、花に風───

 

 良いことには何かと邪魔が入りやすいものである、という諺である。風情のない言い方をするのなら『好事魔(こうじま)多し』でもよろしい。

 

 幽香は考える。ならば今の私はどのように喩えられるべきか。

 月見をしたくてもそもそも月が出ていない、花見をしようにもぺんぺん草も生えない不毛の地ではいかんともしがたい。友達欲しいと思ったところで近づいてくる物好きなぞおらず、こちらから近づけば逃げられるか石もて追われる始末。まあ、岩が当たったところでこの女はビクともしないし、本気で追い払いたいなら山でもぶつけないといけないだろうが。

 

 前途多難だこと。さして困った風でもなく幽香はひとりごちる。

 

 妖怪の命は永い。ただ生きているだけでは簡単に倦むほどに。あるいは、そうなる前に消え去った連中こそ幸せであったのかもしれないが。

 事程左様(ことほどさよう)に永い生を歩むには、長く付き合える暇潰しが不可欠である。なればこそ、難題もいいところの彼女の目標はやりがいこそあれ難儀というわけではなかった。

 

   * 

 

 今の季節における幽香の住まいは、巷で“太陽の畑”と呼ばれる場所の片隅に存在している。

 太陽の畑とは幻想郷の最南端に位置する広大なひまわり畑のことだ。あまりにも広大すぎるため、遠目には黄色く輝く草原のようにも見えるその畑に到着した頃にはすっかり夜も更けていた。あちらこちらへ寄り道をしたり、見知らぬ少女に丸齧りにされたりしたせいですっかり遅くなってしまった。

 

 ひまわり畑の“そこかしこ”をはしるいくつかの小路、そのひとつに足を踏み入れた幽香の耳に、どこからともなくかすかな喧騒と音楽が流れてきた。どこかで騒霊の姉妹によるライブでも行われているのだろう。今の時期、夜ともなればこのひまわり畑は陽気な妖怪達によるコンサート会場となるのだ。以前、幽香も足を運んだことがあるが、あれは良いものだった。夏の暑さをものともしない熱気と活気があった。その後、彼女がいると知った連中がパニックを起こし、その場にいた全員が逃げ出してしまったが。それ以来、邪魔をしないように遠くから眺めるか聞き耳を立てるだけにしている。

 

 星の光が降りしきる小さな道を幽香は歩く。

 

 夜になってもなお残る太陽の熱、太陽を模した花の香り、花が根を下ろす大地の匂い、大地を駆けまわる虫のさえずり、溶け込むようにして届けられる音楽と賑やかな歌声。それらに包まれ歩を進める幽香は、このとき確かに幸福であった。

 

   *

 

 幽香の家が見えてきた。

 

 その名も高き花の大妖・風見幽香の住まいともなれば、さぞや豪奢を極めた絢爛たる邸宅と思われるであろうが、ログハウスと掘っ立て小屋を足して二で割り、あばら屋の風情を加味することによって絶妙なまでの侘び寂びを醸し出しているそれは、一見するとどこから見てもどう見ても前から見ても横から見ても斜めから見ても()めつ(すが)めつして見ても贔屓目に見ても、完全無欠の完膚なきまでに紛うかたなき廃屋以外の何物でもなかった。亡霊が好んで棲み着きそうな感じであるが、実際に住んでいるのは千倍万倍も恐ろしい妖怪だ。いくらなんでも“それ”はないだろうと目にした誰もが思いそうなものだが、しかし妖怪の棲家なんぞは大抵こんなもんである。そもそも家なぞ必要ともしない連中ばかりなので、住まいがあるだけ上等なものだ。

 

 とりあえず雨風さえしのげれば住み心地なぞ“どうでもいい”という意匠が露骨なその家まで、あと少しのところで幽香は足を止めた。

 

 妙に、涼しい。

 

 むせ返るほどの熱気が夜逃げでもしたかのように消え失せ、代わって辺り一面に空気もわきまえず秋がやって来たかのような冷気が立ち込めている。一体何ごとかと冷気の元を辿っていけば、家の少し前に小さな女の子が横たわっているのが見えた。幽香は眉をひそめた。あら行き倒れかしら、珍しい。

 

 よくよく目を凝らせば違った。というより知った顔である。

 歳はおよそ10歳くらいで背はあまり高くはない。強気そうな顔立ちで、ゆるくウェーブのかかった透き通るような水色の髪はやや長めのミディアムボブ。それが同色のワンピースとよく合っている。普段は生意気盛りな表情ばかりが浮かぶその顔も、眠りこけている今はあどけないものだ。幽香の口元が幽かにほころんだのは気のせいだったろうか。

 

 静かに見つめる幽香に構うこと無く、少女は無防備に、かつだらしなく寝ている。本当に無防備に、だらしなく。そこだけ切り取って見るかぎり、何の変哲もない夏の一夜の出来事(と言うにはおかしすぎるか)なのであろうが、しかし穏やかに寝息を立てる眠り姫の周りを見渡せば、その有り様が尋常ではなかった。

 

 ───少女の周りの草花が凍りついている。

 

 この少女、氷の妖精なのだ。

 

 妖精というのは自然現象が具現して人の形をまとったものだ。容姿は“まちまち”で背丈は小さい(大きくても人間の子供程度、手乗りサイズの奴までいる)、背中にトンボや蝶々のような羽を持つものが多い。総じて好奇心旺盛ながら頭の回転はよろしくなく、とんでもない悪戯好き。非力で大した力こそ持っていないが存在が存在だけに幻想郷の津々浦々、ありとあらゆる場所に湧いて出る上に、ごくたまにだが洒落にならない悪戯を仕掛けてくる場合もあるので、人間の姿をした害虫のようなものと考える者も少なくない。

 

 そして幽香の家の前で寝こける少女は、先にも述べた通り氷の妖精である。冷気を操る力を持ち、その力は妖精としてはありえないくらい強い。とはいえ所詮は妖精というべきか、自身の能力を完全に制御することはままならぬようで、周囲の有り様を見ても判るようにその冷気はいつもダダ漏れとなっており、それがために彼女の周りはいつも寒いのだ。

 

 彼女と幽香は少し前に起きたとある異変(実際のところはそんな大層なものではなかったのだが)の最中で知り合った。以来、なにかにつけて“ちょっかい”をかけられ続けている。

 無鉄砲な連中が多い妖精の中でも、どうやらこの少女は特にその傾向が強いらしく、泣く子も黙る大妖怪や幻想郷の強者たちを前にしても臆さぬどころか啖呵を切ってのける真似までしてくれた。もちろんそれは身の程を知らぬ蛙が鯨に喧嘩を売っただけのようなものなのだが、何故だかそれが幽香のどこかしらの琴線に触れたかしたようで、幽香はこの少女にそれなりの関心をはらっている。あくまで“それなり”の。

 

 それにしても、と幽香は疑問を抱いた。この少女、本来なら幻想郷のだいたい真ん中辺りに位置する“霧の湖”という場所を“ねぐら”というか縄張りにしているのだが、それがなんだってこんなところで寝そべっているのか。

 幽香の疑問も知らず少女は寝返りをうつ。背中に生えた氷の羽が、月光を弾いて銀色に輝いた。

 

 のんきに寝こける少女の姿に何を思ったものか、少し考え込んだ後、幽香は一旦家に入りすぐに手頃な布を二つ手にして出てきた。そして少女の傍らにしゃがみ、一つを適当な大きさに丸めて枕として少女の頭にあてがい、もう一つは身体にかけてやった。どうしてそんなことをしようと思ったのかは幽香にも解らない。だがまあ、こんな親切の一つや二つ、気まぐれに行うくらいはいいのだろう。

 

 幽香は“すうすう”と静かに寝息を立てる少女の髪に指を潜らせ、優しく撫で付けた。白魚のような指が澄んだ湖畔の色合いをした髪を(くしけず)る度、少女はむずがりながら寝言を呟く。妖精でも夢を視るのだろうか。

 

   *

 

 少女が目を覚まさぬよう適当なところで髪を()くのを止めて幽香は立ち上がった。指先に氷が張り付いていたので“ぱりぱり”と音を立てながらひっぺがす。ついでに皮や肉も剥がれてしまうがあまり気にしない。これが幽香でなかったら、凍傷をこじらせて指が壊死していたところだ。足音を立てぬように歩き、家の扉を開けて今度こそ帰宅する。今日はずいぶんと長い一夜を過ごしたような気がする。

 

 扉を閉める途中、氷精の少女の姿が目に入った。

 

 おやすみなさい。小さくささやきながらドアを閉める。

 

 どうせ聞こえてはいないのだろうけれど、よい夢を。

 

   *

 

 一夜明け、今日も幻想の郷に朝がやってくる。

 

 風見幽香の朝は早い。

 

 早いだけで別に建設的なことや生産的なことなぞ一切しないのだが、とにかく無駄に早起きである。空が白み始める頃にはもう目を覚まし、起きたかと思えばしばらくの間、木枠に布を敷いただけの粗末なベッドの上で着替えもせずに“ぼーっ”としているのだ。

 

 上体だけを起こした幽香は焦点の合わない瞳のまま、“ぼんやり”と周囲に視線を彷徨わせる。家の中は外見に劣らず質素というか貧相というかボロかったが、こまめに清掃をされているらしく、蜘蛛の巣が張っていたり埃が積もっているようなところはまったく見受けられない。

 

 置かれている家具は、ベッドに負けず劣らず粗末なものばかりである。

 ところどころが白蟻にでも食い散らかされたようにボロボロのテーブルに塗料のはげ上がった椅子、粗大ゴミと勘違いされてもおかしくない箪笥(たんす)。隅っこには幽香の手造りなのだろうか、、廃材やらを適当に組み合わせただけの本棚が置かれている。大きさだけは立派なそれに“みっしり”詰め込まれた書籍の内容はてんでんばらばらで、ざっと見渡してみても『花咲かじいさん』『アルジャーノンに花束を』『花と蛇』『ひまわりえのぐ』……等々、絵本小説哲学書、詩集に漫画と、驚くほどに統一感がない。共通しているのはどれもこれもやや古めだということ、そしていずれも《外の世界》から流れ込んできた“外来本”と呼ばれる稀覯本(きこうぼん)(流通量等の理由で手に入りにくい本)であるということくらいだった。

 

 “ぼうっ”とした顔で室内を見渡していた幽香だが、しばらくすると完全に目を覚ましたようで「おはよう」と一人つぶやいて“もぞもぞ”と這いずるようにしてベッドから出た。

 

 身支度を済ませ、古ぼけたかまどに火を入れて朝食の準備をする。どうせ妖怪なのでなにも喰わなくとも死にはしないのだが、長年続けてきた習慣なので今更止める気になれなかった。惰性と云ってしまえばそれまでだが。

 

 今朝の献立はパンケーキと半熟卵、季節のカットフルーツにハニーミルク。材料は幽香が自前で調達したものだ。一見すると何の変哲もない朝のメニューだが、卵にしてもミルクにしてもここから少し離れたところにある森に棲む妖獣・妖物の卵や乳なので、普通の人間が口にすればどれほどの悪影響が出るかは知れたものではない。

 

 いただきます。ガタつく椅子に腰掛けて、誰にともなく挨拶ひとつ。幽香は精緻な彫刻が刻まれた銀のスプーンを手に取り半熟卵の殻を剥く。その手つきは実に優雅である。

 

 そういえば、今幽香が手にしているカトラリーや卵が立てられたスタンドにしても、パンケーキが乗っかる白磁の皿にしても、切り分けられた果実が無造作に放り込まれた青磁の器も、それと判る者なら目を剥きかねないほどの逸品ばかりであるが、一体どこで手に入れたものやら。好事家ならば全財産どころか魂を投げ出してでも悔いはないであろう名物逸品が、こともあろうにこんな粗末な荒屋に当たり前のように置かれ、しかも使っているのが目も眩まんばかりの美女というのだから、これはもう“ちぐはぐ”どころか異様と云って差し支えない光景であった。

 

 ゆっくりと時間をかけて朝食を終えた幽香は、食後のハーブティーを喫して家を出た。

 

 扉を開ければ、朝も早よからお天道様が己が威勢を知らしめていた。今日も暑くなりそうだ。扉を閉めて日傘を差し、さてこれからなにをしようか考えながら歩き出す。

 しかし、数歩を進んだところでその足元から突然に、

 

「ぎゃあっ」

 

 と、まるで井戸に投げ込んだ石が中で逆さ吊りにされていた神父にぶつかったような悲鳴が聞こえてきた。

 

 はて、一体何事かしら。身も世もないその悲鳴の主を求めて足元へと視線をやれば、自分の足が昨夜の氷精少女の顔面を無慈悲に踏んづけているのが見えた。どうやらこの少女、ここで一夜を過ごしたらしい。

 

 “じたばた”と手足を動かし、己の足から逃れでようと藻掻く少女の姿を見つめた幽香は、ゆるく握った手を形のよい顎に添えて考える。

 

 ───足をどけるのとこのまま踏み潰してしまうのと、一体どちらのほうが手間がかからなくて済むのかしら。

 

 普通ならさっさと前者を選ぶのだろうが、残念ながらここにいるのは常識を屑籠に放り込んだような輩が掃いて捨てるほどのさばる幻想郷でも、五指に入るくらい『普通』と縁遠い女である。なので、いたいけな少女を踏んづけたまま真剣に考える。ひょっとしたら、まだ完全に目が覚めきっていないせいで、頭が働いていないだけなのかもしれないが。

 

 実に“しょうもない”ことを延々考えているうちに、いつの間にか足の裏から伝わる氷精の少女の感触が消えてなくなっていた。もしかしたら、それと知らないうちにうっかり踏み潰しちゃったのかしら。

 幽香の心配は杞憂に終わった。どうやら少女は自力で抜けだしたらしく、少し離れたところで顔を真赤にしながらこちらを睨みつけていた。

 少女が怒声を上げる。

 

「いきなりなにすんのさ!」

「あら、おはよう。昨日は良く眠れたかしら」

「うん、おかげさまでぐっすりと……じゃなくて、いきなり踏んづけるなんてひどいじゃないか!」

「人聞きの悪いことを言わないでほしいわ。私が歩いた先に、たまたま貴女の頭が転がっていただけじゃない」

「うそつけ!」

「うそじゃないのに」

 

 幽香は心外だとばかりに唇を尖らせた。それを見た少女がさらに満面に朱を登らせる。頭からは今にも湯気を吹き出しそうなくらいだ。氷の妖精なのに。

 

「さてはあたいの力に恐れをなして、なきものにしようと企んだな!」

「考えたこともないわねえ、そんなの」

「うそつけ!」

「うそじゃないのに」

 

 誤解を受けた幽香は頬を「ぷくー」と膨らませた。

 ひとくさり拗ねみせてから、今度は幽香が質問する。

 

「それより私からも訊かせてちょうだい。貴女、どうしてこんなところで寝てたの?」

 

 その問いかけに氷精の少女は“きょとん”とした顔を見せた。そして考え込む。どうやら忘れているらしい。この少女、妖精なだけに記憶力、というか頭の出来は然程よろしくない。

 

 どうやら長くかかりそうだ。「うんうん」唸りながら記憶の倉庫を漁る少女を横目に、幽香は彼女が用事を思いだすまで何をして暇を潰そうかと考えた。

 

   *

 

「思い出した!」

 

 ようやっと自分の用向きに思い至った少女が、叫ぶようにしてそんな声を上げたのは、暇を持て余した幽香が近くを飛んでいたてんとう虫の観察をはじめてしばらくのことである。

 アブラムシを駆逐するてんとう虫にエールを送る幽香を指さし、少女が叩きつけるように言った。

 

「おいお前、あたいと勝負しろ!」

「……じゃんけんとかで?」

「ちーがーうー! 弾幕ごっこ! 今日こそお前をやっつけてやるんだから!」

 

 ああ、やっぱりそうくるのね。たまには顔が見たかったからという理由で訪ねてきてくれてもいいのに。幽香は人知れずため息をついた。

 

 少女が口にした『弾幕ごっこ』とは幻想郷における決闘様式のひとつである。《スペルカードルール》の名前でも知られている。発案者は博麗の巫女、後押ししたのはその後見人たる妖怪の賢者だ。

 

 これは自分の得意技(スペル)手札(カード)として扱い、決闘者同士で“魅せ”合うというもので(一応、実物としての《カード》もあるが、『技名とその概要を契約書形式に記しただけ』の“ただの紙”である)、具体的には───

 

 ───完全なる実力主義を排し、妖怪が異変を起こし易く人間が異変を解決しやすくする。

 ───勝っても人間を殺さない。無意味な攻撃は恥と知れ、意味にこそ力が宿る。

 ───勝敗を分かつは美しさあるのみ、美しさと思念にまさるものはなし。

 

 と云った具合である。他にも“こまごま”したルールはあるのだがキリがないので割愛する。噛み砕いて述べるなら、工夫次第で弱者にも強者を倒す余地のあるスポーツに近い決闘というわけだ。

 これらの要項を見る限りにおいては、所詮はルールと馴れ合いに縛られた女子供のお遊びと映りそうなものではあるのだが、しかしよくよく条項に目を通せばこっそりと、

 

『不慮の事故は覚悟しておくこと』

 

 ……なるものが紛れ込んでいたりする。

 

 要は死んでも文句は言うな、もっと突き詰めていうのなら遊びに命もかけられないならすっこんでろというわけだ。

 

 これはかの博麗の巫女───何者にも、何物にも囚われない無重力の少女ならではの諧謔(かいぎゃく)であり皮肉であり、そしてほんのわずかな(しかもわかりにくい)優しさなのだろうと幽香は解釈している。こんなものを自らも、さも当然のように受け入れるあたり、やはりあの娘は大したものだ。

 

 話を戻そう。決闘を申し込まれたからには、幽香はこれを受けるか拒否するかの選択を迫られるわけであるが、

 

「面倒くさいわねえ」幽香は億劫そうに答えた。「お手玉とか“しりとり”とかじゃ駄目かしら。そっちのほうが面白いと思うの」

「ダメ!」

 

 まあ、そうでしょうね。気持ちよいほどの即答。こうなってしまうとこの少女、てこでも動かない頑として聞かない。それをイヤというほど知っているからこそ、幽香も仕方ないか、などと“ぼやき”ながら付き合ってやることにするのだ。

 

 いつものことではあるのだが。

 

   *

 

 ごっこ遊びの決闘といえども、力のある妖怪が地べたでどつき合いなんぞをやらかすと辺り一面に甚大な被害が出る。なので大抵の場合、弾幕ごっこの舞台は空中となる場合が多い。

 したがって今回の弾幕ごっこも、申し合わせたように空にて行うことになった。

 

 幽香は日傘を差し直し、つま先で軽く地面を叩く。たったそれだけの動きで、重力の軛など存在しないかのごとき軽やかさでもって幽香の身体が舞い上がる。続いて氷精の少女も、背中の羽を震わせて一直線に空へと駆け上がる。

 

 ちょうど、ひまわり畑が見渡せる程度の高さまで浮かんだ辺りで二人は睨み合う。と云っても睨みつけてるのは一人だけで、もう片方は状況を理解しているのかいないのか、“ゆったり”とした笑顔なのだが。

 

 幽香は何気なく下界の景色を見渡した。空の青と雲の白、山の緑と花の黄の色が鮮やかなコントラストを成して目に飛び込んでくる。

 

 ───本日快晴雲ひとつなく風は穏やか、天気明朗にして絶好の弾幕日和なり。

 

 でも、こんないい天気に喧嘩するなんて、間違ってるわねえ。ひっそりと溜息を吐く幽香の心中も知らず、少女が戦いの引き金を引いた。

 

   *

 

「凍符『パーフェクトフリーズ』!!」

 

 先攻したのは氷精の少女だった。

 スペルカードの宣告とともに少女の周りに無数の氷塊が現れ、弾幕として撃ちだされる。それらを危なげなく、“ひらりふわり”と風に流れる花びらのように優雅な動きで幽香は躱していく。

 弾幕を放つ少女、避ける幽香。

 

「こらーっ! ちょこまか動くな!」

 

 そんなこと言われても。

 素直に聞き入れられるはずもなく、幽香は次々と迫り来る弾幕を回避していく。その動きはあくまでも優雅に、そして無駄なく。

 

 弾幕ごっこにおいて必要なのは、飛び交う弾の疎密の見極めである。

 おおまかに分けると、弾幕には二つの種類がある。一つはただひたすらにばら撒くだけで軌道は固定されているタイプ。もう一つは相手を直接狙うタイプである。それらを見定め、どうやって対処するかが弾幕ごっこの勝敗の鍵を握る。

 特にスペルカードには必ず、『放たれる弾幕がどのようなもので、どのような動きをするか』が明記されている。例を挙げると『Aという種類の弾丸をBの軌道でもってC個撃つ』といった具合である。したがって、慣れたものならここから逆算するかたちで被弾せずに済むパターンを構築することだって可能になる。

 

 例えば、今幽香がやっているのがそれだ。

 軌道が固定されている弾は最初から当たらない場所に移動してやり過ごし、自分を狙う弾は引きつけた後に“ちょん”と移動して躱す。弾の密度が捌き切れないくらい厚い場合は大きく動いてバラけさせ、『弾幕の密度を薄め』て抜け道を『こちらで作る』。それをひたすら繰り返す。あとは根気の問題である。気力が尽きたほうが負け。偉い人も言っている───気合で避けろ。

 

 特にこの弾幕ごっこの場合、“少女が覚えていない”だけでこうしてやり合うのはもう両手両足の指に余るほどの回数になる。その気になれば、目を瞑っていても躱す自信がある。やると少女が怒るのでやらないが。

 

 ───そろそろかしら。

 

 何度目かの弾幕の波を捌いたところで、幽香は次の変化に備えた。それと同時に、躱した氷の弾幕が空間ごと凍りついたかのように“ぴたり”と停止した。まるで、幽香を中心として取り囲むように。

 

 これこそ少女の十八番ともいうべきカード、その真骨頂である。躱したと思わせた弾幕を瞬時に凍結させて相手を囲み、行動を抑制したところで本命の弾幕でもって狙い撃つ。凍結した弾幕は解凍後にランダムで動き、その後の軌道は少女にも予測はできない。それがため、ある程度のアドリブによる回避が必要とされるという、中々によく練られたスペルカードである。

 

「英吉利牛と一緒に冷凍保存されちゃえ───!!!」

 

 勝ち誇り、さらなる弾幕を撃つ少女。それを受けて幽香もスペルカードの宣告を行う。

 

   *

 

 余談ではあるが『弾幕ごっこ』といっても、べつに決闘者同士でマカロニ・ウエスタンのガンマンよろしく“ばかすか”と鉄砲を撃ちあったりするわけではない。決闘者の性質、信条によってその種類様式形態は千差万別いくらでも変わるのだ。

 

 今、氷精の少女がやってみせたように、大抵の場合は霊力だ魔力だ妖力だといった“いかにも”な《力》を用いて編み出した弾丸や謎のレーザーといったものを撃ちあうのだが、中にはやれでかい柱だの呪いの藁人形だの米だのきゅうりだの果物だの焼き鳥だの国宝級のお宝だの落ち葉だの泥団子だのどこかの寺の一枚天井だのを“投げつけ”てくる連中もいるし、酷いのになるとぶん殴る蹴っ飛ばす引っ掴んで放り投げる巨大化して踏んづけるなどといった、およそ『弾幕』という単語から連想されるものとかけ離れたものをぶちかましてくれる輩(高確率でタチの悪い酔いどれ)もいるくらいだ。

 

 したがって───

 

 迫り来る弾幕をやはり“ちょん”とした動きでもって避ける幽香。周りの弾幕はまだ解凍前。結果、幽香と少女の間に弾幕のトンネルが出来上がる。

 

 そのタイミングで幽香はスペルカードを発動した。

 

「殴打『ゆうかパンチ』」

 

 宣告と同時に幽香が爆ぜる。今までの“ゆったり”とした所作からは想像もつかぬ、まさしく爆ぜたかのごとき勢いで彼我の距離を潰し、少女の顔面へ右の腕を無造作に“撃ち”出す。一体どれほどの衝撃が襲ったものか。構えも適当ならフォームもいい加減なその一撃が、少女の小さな体の腰から上をさながら大砲の直撃を受けたかのごとき様相で吹き飛ばした。

 

 ───したがって、この『ゆうかパンチ』なるものも、一応は『弾幕』として成立はする、ということである。

 

   *

 

 おそらく氷精の少女は己の身に何が起こったかさえも判らなかったろう。散り散りとなった氷精の少女の身体は瞬く間に微細な氷片となり、真夏の陽光を受けて煌めき踊った。残った少女の下半身は、しばらくの間、上半身が消え去ったことに気付かぬ様子で頼りなく宙に浮かんでいたが、やがて力尽きたように落ちて地面にぶつかり砕け散った。

 

「まあ……」

 

 風に吹かれて“きらきら”と輝きながら舞い散る少女の名残を目にした幽香の口から感嘆の溜息が零れた。花から化生した身であるからかこの女、美しいもの綺麗なものへの賛辞を惜しまない。

 

 夏の真っ盛りに乱れ飛ぶダイヤモンドダストという、まさに“幻想的な”光景に陶然と見惚れるその表情からは、つい今しがた無残に殺めた少女への罪悪感や哀惜なぞ微塵も伺うことができなかった。




 登場人物とか用語とかそんなん

風見幽香

備考───お花の妖怪(物理)朝が弱い

氷の妖精

備考───クール系幼女(物理)頭が弱い

ゆうかパンチ

備考───スペルカード(物理)あたるとしぬ


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第4話 The girls of spirit

 幻想郷───

 

 神が魔物が妖かしが、かつて世界に根を下ろしていながらも時の流れに埋もれて、いまや幻想という名の彼岸に追いやられるばかりとなった輩の辿り着く“かりそめ”の寄る辺。

 

 大袈裟な者は、ここを地上最後の楽園とも呼ぶ。

 

 しかしてこの世のことごとくすべては多面的なものである。物事の見方、そこから通じる真実はいついかなる時でも一つではない。捉え方によっては千差万別千態万状、いかようにも変わるもの。したがって、見るもの聞くもの触れるもの感じ方次第によっては、幻想郷もまた違った側面を見せることになるのは必然と云わねばなるまい。ましてやここは幻想郷、目に映るものだけがすべてではないし音に捉えるものばかりが真実であるはずもない。

 

 前述したところから察することもできようが、要するに幻想郷には移ろい消え行く者達の駆け込み寺という側面もあるにはある、ということである。もっと身も蓋もない言い方をするのなら投げ込み寺でもいいし(うば)()て山でもよろしいが、いずれにせよ同じようなものか。塵溜めを掃き溜めと言い直したところで何の違いがあろう。

 

   *

 

 弾幕ごっこの後、地面に降り立ちしばしの間、風に吹きゆく少女の余韻(よいん)を見送っていた風見幽香であったが、不意に目にも留まらぬ動きでもって背後へと振り返り、まさしく紫電の疾さでもって右の腕を振りぬいた。

 意識しての動きではなかった。軽く目を見開き、自分のしたことに“やんわり”と驚いたような幽香の表情がそれを物語っている。

 

 そして先程の少女の惨劇をなぞるかのように、今度は幽香の腕が弾け飛んだ。二の腕の辺りまで、文字通りの粉微塵である。

 常人なら、ここで大仰に血相を変えるのであろう。しかし風見幽香少しも慌てず、腕の一本二本どうでもいいとばかりに目の前の空間を見据えるのみ。なぜというのなら───

 

 ───彼女の視線、その先に、ちょうど腕が薙いだ空間に《亀裂》のようなものが口を開けていた。

 

 《亀裂》からは女のものと思しき、(みやび)な意匠の扇子を手にした『腕』が生えている。“そいつ”こそが、幽香の腕を吹き飛ばしたものの正体だ。

 

「断っておくけれど……」

 

 『腕』の主のものだろうか。宙に“ぱかり”と口を開けた《亀裂》から、声が聞こえてきた。女の声。瑞々しさを湛えた少女のようであり、あるいは長い時を閲した老婆のようでもある、声。

 

「先に手を出したのは貴女なのだから、謝らないわよ」

 

 切り捨てるように言い放つ声とともに、一人の女が《亀裂》から姿を現した。

 

 絢爛豪華という言葉が形をなしたような女だった。

 

 黄金を引き伸ばしたかのような輝きを放ち腰まで波打つ髪、この世全ての宝石を集め彫琢(ちょうたく)したかのごとき優美な肢体。それらを彩る紫色を基調とした豪奢(ごうしゃ)なドレスと白の長手袋。たおやかな両の手には扇子と日傘。

 なによりも、風見幽香と相対しても引けを取らぬ美貌は、まさしく傾城(けいせい)と呼んで差し支えはあるまい。この女の関心を買うためなれば、城や国の一つや二つ傾けて悔いのない輩は“ごまん”といることだろう。ちなみに幽香も過去に何度か城を傾けたことがある。力づくで。かつて住み着いていた土地の近くに建っていた城や砦を、景観を損ねるあるいは日当たりが悪くなるからという理由で壊してやったのだ。

 

 《亀裂》から女の姿が現れきったのを見計らい、幽香が口を開いた。

 

「こんにちは、妖怪の賢者さん。久しぶりね」

「こんにちは、お花の妖怪さん。久しいわね」

 

 どこか白々しい挨拶を終えて、妖怪の賢者と呼ばれた女は《亀裂》に腰掛けた。

 

   *

 

 『妖怪の賢者』とは───かつて《龍》とともに、この地に幻想郷を生み出した者共であり、この女こそはその内の一人である。『者共』というからには他にも何人かの“賢者たち”がいるはずなのだが、幽香は知らない。興味もない。

 

 先に幽香が口にした賢者の肩書以外にも様々な二つ名で知られているが、そのすべての名が示すとおり数多の妖怪達の中でも飛び抜けて賢く、それに見合うように力も強い。性格も実に妖怪らしい。人情などというものを持ち合わせず(妖怪なので当たり前だが)、その行動原理は余人の想像が及ぶところではない。

 

 当然のことながら能力も桁というか格が違う。先ほど見せた《亀裂》───『すきま』とかいうらしいがよくはわからない───のせいで空間を操るものと誤解されがちだが、実際のところはそんなものでは済まない。この世全ての事象にまつわる《境界》の操作、すなわち論理的アプローチからの世界の構築ないし創造、破壊および否定という、世界を覆う常識・論理というものを根底から引っくり返すような力を有しているのだ。

 

 どう考えてもタダの妖怪には見合わぬ存在と力。そこから推察するにこの女、おそらくはどこか遠い国もしくは遠い時代における神話、それも造化に連なる神───具体的な例を挙げるなら“陰陽混沌ごちゃ混ぜの世界に《線引き》をして天と地を分かった”などの逸話を持つ連中など───の一柱が宗教改革なり解釈論争にでも巻き込まれたかして国を追われ、その騒動と歳月を経て性質や属が変化し妖怪に転じたものが正体ではないかと幽香は睨んでいる。まあ、だからどうだと問い詰める気もないのだが。正直、どうでもいい。

 

 幽香は女が腰掛ける《亀裂》を覗いた。その《向こう側》いっぱいに、なんだかよくわからない、どう表現したらよいのか検討もつかない《なにか》が“うねうねぐにぐに”と蠕動しているさまが視える。それを見たあるものは無数の目というか『眼』がこっちを睨んでいたと言い、あるものはあの空間いっぱいに『手足』が蠢いていたと話し、またあるものはあの中にひしめいていたのは沢山のガラクタだったと語る。おそらくだが、視る者の《気質》なりで中身が文字通り“十人十色に”変わるのだろう。まあ、これとてどうでもよいが。

 

 ───なんにせよ、あんな気色の悪い空間に片足どころか全身突っ込んで平気でいられるあたり、やっぱりこの女は頭がおかしいのは間違いなさそう。

 

「悪かったわね、おかしくて」

「あら、口に出てたのね。ごめんなさい」

 

 幽香は素直に、しかし微塵も悪びれずに謝った。普通なら激怒してもよさそうなものだが、妖怪の賢者は鷹揚(おうよう)に受け入れる。この程度でいちいち目くじらを立てているようでは、この女とは三日と付き合っていられない。

 

「ところで、今日は一体何のご用かしら?」

「少し貴女に訊きたいことがあってね。しばらくの間、顔を見ていなかったこともあるし」

「そう。よければ家に上がっていく? お茶くらいなら出すわよ」

「お構いなく。それよりも───その腕、いつまで放っておく気? 見ているだけで痛々しいのだけれど」

 

 妖怪の賢者は砕け散ったままの幽香の右腕に視線をやった。

 

「あら」妖怪の賢者の指摘に、今はじめて気がついたとばかりの顔をした幽香は“ちら”と右腕に目をやる。次の瞬間には、怪我を負った事こそが幻であったかのように腕が復元していた。ご丁寧なことに一緒に吹き飛んだはずの袖まで元通りだが、しかし今さら二人共この程度では眉の一つも動かさない。

 

 妖怪の賢者は目元を緩め、からかうように言う。

 

「望みもしない捨て身とはいえ、貴女に一矢報いるなんて───大したものね、あの子」

 

 そうね。気のないように言いながら、幽香は復元したばかりの手を白桃のごとき頬にあてがった。殺めた少女の名残を求めるように。

 

   *

 

 一矢報いる。

 

 それは先の、氷精の少女を撲殺、もとい弾幕ごっこによって撃破したときのことである。

 信じがたい話だが、その時点で幽香の腕が芯まで凍りついた。妖怪の賢者に腕を吹き飛ばされたのは、その余波とでも云うべきものでしかない。万全の状態であったなら、腕が千切れ飛ぶくらいで済んだはずだ。

 

 ありえない話だ。

 

 幽香とてそんな話を他人から聞けば与太話と切って捨てるであろう。しかし自身がその与太話を文字通りに“身を持って”体験する羽目になったからには、認めざるをえないのだ───吹けば飛ぶほどか弱く儚い妖精が、あの瞬間、風見幽香を右腕一本分、凌駕した。

 

 本当に、ありえぬ話だが。

 

 しかし判らないわね。至極当然の疑問を妖怪の賢者は口にする。それはそうだろう。多少は力が強いとはいえ、なんでたかが妖精ごときにそんな真似ができるのか。

 

「自分のこと、最強だって言ってた」

「妖精でしょ?」

「妖精なのよ」

 

 でもね、幽香は付け加えた。諭すように、あるいは自分に言い聞かせるように。きっと目に見えるだけの力なんて関係ないの。

 

「たとえそれが蟷螂(とうろう)の斧であろうとも、一片一筋の迷いさえ無く、一念もって振りかざしたなら岩でも砕いてのけるかもしれない。あの子は───きっと、そういう子なのよ」

 

 ふむ。妖怪の賢者は開いた扇子を口元にかざしながら幽香の言葉を吟味した。おぼろげながら、彼女の言いたいことを理解したのだ。もし、それが正しいとするのなら……。

 

「面白いわね、実に面白い」

 

 微かに、目を凝らさねば判らぬくらいに小さく妖怪の賢者の美影が震えた。幽香が珍しげな顔をする。

 

「こうでなければいけないわ、私が愛する幻想の郷は───こうでなければ、ね」

 

 妖怪の賢者は静かに笑う。

 

   *

 

 風のうわさに聞いた話によれば、妖怪の賢者が幻想郷を興したのには、消えゆく妖怪達の保護という名目以外にも理由があるらしい。むしろ保護云々はあくまでも建前以上ではなく、本命ともいえる目的のための方便ないし手段であるとかなんとか。

 

 その目的とやらが何であるのか、幽香は知らないし興味もない。しかし暇潰しの材料として考えてみたことはある。

 おそらくだが幻想郷とはこの女なりの意趣返し───復讐なのだ。自分たちを過去の遺物と記憶の墓地へ葬り去り、あまつさえいなかったことにさえして我が世の春を謳歌する外の世界の者達への。

 

 すなわち唯物的視点のみを真理と信じて疑わず、人の半面たる精神を蔑ろにする世界に抗う、なにものにも縛られぬ精神こそが全てに優越する《魂の世界》の構築である。

 《外》とは真逆の世界の在り方を、閉ざされた《内》なる世界で模索して、その果てに辿り着くであろう可能性を(あるいはその一端を)、人が不要と忘れ去り時が無用と置き去りにした者共が掴んでのける、これ以上の皮肉があるものか。その時にこそ、この女の復讐は成就する。幻想郷もそこに呼び込まれる者達も果てはスペルカードルールさえも、そのために用意された舞台装置のようなものなのだろう。

 

 穿(うが)ち過ぎかもしれないが、当たらずともさほど遠からずではないかと思っている。まあ、違っていても別に害があるでもないし。

 

 話が脇道に逸れすぎたが、その意味からすると先の氷精の少女がやってのけたことはこの女にとってさぞや痛快なことであったろう。特別な出自であるわけでもなく、何か選ばれた存在というでもない非力な妖精風情が、馬鹿らしいまでに純粋な一念“だけ”をもって、風見幽香という巨岩を貫いてのけた。それこそは妖怪の賢者が求めてやまぬ理想そのものではないか。

 

「珍しいわね、貴女がそんな笑い方をするなんて」

「そうかしら───そうかもね」

「そうよ。いつもはプロポーズを持ちかける結婚詐欺師みたいな笑い方しか見たことないもの」

「……言われたことへの仕返しは後でするとして、確かにこんなにも愉快な気分にさせられたのは───久しぶりね」

 

 でしょうね。幽香は花の種を運ぶ風のように“ふわり”とした笑みを見せた。

 

「だって私のお気に入りだもの、あの子」

「その“お気に入り”をずいぶんあっさりと手にかけるのね。それとも、それが貴女なりの愛情?」

 

 先の微笑みはどこへやら、皮肉というにはきつい視線を寄越す妖怪の賢者。それをまったく気にせず幽香は言い捨てた。

 

「いいじゃない。どうせ殺しても死なないのだし」

 

 無情というにもほどのある言いぐさだが、これは本当のことである。妖精は死と無縁の存在だ。より正確には、存在の“根っこ”ともいうべき部分が自然そのものに括られているので、一般的な《死》の概念が適用されないのだ。したがって五体をバラバラにされてもすぐに元通りだし、死んだところで少しすれば同じ姿で復活する。ついさっき惨殺された氷精の少女にしても、しばらくすれば“ピンピン”した姿を見せることだろう。

 

「それにあの子、ああでもしないことにはすぐに復活して喧嘩を売ってくるのよ」

 

 なにせ記憶力の無さには定評のある妖精だ。しかも困ったことに、かの氷精の少女はその中でも特におつむの具合がよろしくないようで、殴っても蹴っても折っても極めても割っても刻んでも千切っても捻っても裂いても砕いても()っても潰しても、少し経っただけで痛い目に遭ったことなぞ忘却の彼方に追いやって、懲りずに勝負を挑んでくるのだ。

 

 幽香も最初の内こそ喧嘩を売られる度、律儀に相手をしていたのだが、今ではすっかり面倒くさくなり先ほどのようにさっさと始末をつけてしまうようになった。さすがに殺してしまえば、しばらくは復活しない。あくまでも、“しばらく”程度の時間稼ぎでしかないが。

 

「適当にあしらうこともできるでしょうに、理解できないわね」

「そんな厭な顔をしないで。どうせこの関係は、それほど長続きするわけではないのだから」

「貴女を“やっつける”前に、あの子が飽きるとでも? そんなに諦めのよい子とも思えないけれど」

 

 違うわ。幽香は風にたなびく山百合のように静かに首を振る。

 

「長続きする前に殺されてしまうもの、私が」

「あの子に?」

 

 そうよ。幽香は道端を彩る(スミレ)のように儚く笑う。

 

「あんなに可愛らしくて、誰よりも真っ直ぐに自分を見てくれる子が私の死を運んでくる───それは、きっと、他のどんな死に方よりも素敵なことに違いないわね」

 

 夢見るように詠うように、幽香は言う。

 妖怪の賢者はなにかを言いたげではあったが、口に出しては「そう」と呟くのみであった。

 

 ───貴方は少しおかしくなっているのかもしれない。

 

 言わずもがなの台詞を口にするほど、妖怪の賢者は無粋ではない。

 

   *

 

「ところで話を戻すけれど、今日は一体何の御用で顔を見せてくれたの?」

 

 その問いかけに、妖怪の賢者の表情がやや引き締まったようだった。

 

「そういえば忘れそうになってたわね」

 

 前置いて、妖怪の賢者は切り出した。

 

「貴女、昨日の夕方に『里』で騒ぎを起こしたらしいじゃない。その詳細について訊きたくて、ね」

 

 ああ、あれね。幽香は目の前の女の用向きを察した。

 

 幻想郷において『里』といえば、それは十中八九『人間の里』のことだ。頭に『人間の』と付いてはいるが、妖怪も結構入り浸っている。そこではどのような形であれ、妖怪達が騒ぎを起こすのを厳に禁じられている(人間同士の諍いに関しては、あくまでも人間が解決すべきなので不干渉らしいが)。

 そして『里』を保護し、人間たちの安全を(里の中のみとはいえ)保証しているのが他ならぬ妖怪の賢者だったりする。なので、そこで妖怪が騒ぎを起こすというのは取りも直さず妖怪の賢者の顔に泥を塗るのと同義でもある。それでなくとも、前にも述べたが人間がいなくなれば結果として困るのは妖怪ばかりなのだから、多少はデリケートになるのも致し方がない。

 

 これが他の、例えば取るに足らない思慮も頭も足らない木っ端妖怪なら、妖怪の賢者なりその意を受けた者なりあるいは博麗の巫女が有無をいわさず『始末をつける』のだが(まあ、博麗の巫女は異変解決以外の仕事をしたがらないことでも知られているので、汗を流すのはもっぱら賢者が遣っている式になるのだろうが)、今回騒ぎを起こしたのはかくあろう風見幽香である。対外的な配慮等もあって、わざわざ妖怪の賢者自らが出張って事の真相についての釈明と、ついでに“けじめ”なりをつけに来たのだ。

 

 迂闊だったわねえ。目先の目的に浮かれた報いがこれである。なんともはや、これではあの氷精の少女を笑えないではないか。

 

「それで───弁解なり釈明なり、言いたいことがあるなら聞くわよ」

「つまらない言い訳はしないわ。したくもないし」

「ずいぶんと素直に非を認めるのね。私としては別に貴女に罰を与えたいのじゃない。とりあえず事の真相さえ聞ければそれでよいのだけれど?」

 

 ひょっとしたら、なにか裏があるとでも思われているのかしら。幽香は小首を傾げる。

 

「そんなにカリカリしないで。私にしても貴女の顔を潰す気は“さらさら”ないわ。間借り人としては、大家さんの機嫌を損ねたくはないものね」

「だとよろしいのですけれど」

「本当に、本当よ」

 

 ───と言っても、そうは簡単には信じられないわよね。自嘲というよりは苦笑いに近い笑みで幽香は呟いた。空気は読めずとも、自分がどのように思われているかくらいは見当がつく。それを承知のうえで相手の神経を逆撫でるからこそ、空気が読めないと言われるわけだが。

 

 なら、こうしましょうか。幽香は一人納得するように言って、左の手で右の小指を“きゅっ”と握った。

 

「知ってる? 外の人間達はね、悪いことをすると指を切り落として詫びの証を立てるんだって」

 

 言うや、思い切りよく小指を“捻りとる”。子供騙しの一発芸で似たようなものがあるが、こっちは“本当に指を切り落として”いる。

 しかし妖怪の賢者はさして感慨を受けた風もない。さもありなん。幽香にとってはたかが手指の一つや二つ、失ったところでかすり傷ともいえない。それが一体、なんだというのか。

 

 訝しげな顔をこしらえる妖怪の賢者へと、幽香はもぎ取ったばかりの小指を差し出した。傷口からは、それが当たり前かのように一滴の血さえ出ていない。

 

「はい、これ」

「……ますます判りませんわね。それをどうせよと仰る?」

「預かってて。期限は……そうね、里への出入り禁止が解かれるまで、というのではどうかしら───それまでこの指は“決して元には戻さない”わ」

 

 ふむ。幽香の意図を察し、妖怪の賢者は考えを巡らせる。確かにそれは、けじめをつけるという意味では妥当なように思えた。

 

 実際のところ、今回の一件では人間達にはかすり傷の一つも被害が出ているわけではなかったのだ。あまり重い懲罰を課していたのでは妖怪達が萎縮するし、そこから人間達が妖怪に対して増長するおそれだってある。しかし、だからといって一切を不問に付していたのでは、里の安全を保証する妖怪の賢者の公平性に些かとはいえ傷が付く(そう思われるのがむしろ拙い)。

 

 そこで指一本だ。これは罰としては中々に気が利いている。茨木童子よろしく腕一本では重すぎるし、なにより目立ちすぎる。しかし小指ひとつくらいなら彼女ほどの妖怪にとってはさしたる痛痒でもなく、悪目立ちもすまい。なにより彼女からの“担保”もしっかりと手に入る。落としどころとしては上々だろう。

 

 わかりましたわ。小さく頷き、妖怪の賢者は小指を受け取り、腰掛けた《亀裂》から取り出した───羅紗(らしゃ)だろうか───紫の小さな布に包む。

 

「証文代わりとして、確かにお預かりいたします。いつかお返しするその日まで、この指は大事に保管しておきましょうほどに」

 

 そうしておいて頂戴。幽香も頷く。

 

「その指もそれなりに愛着があるから、無くされると少し困るものね」

 

 ジョークというにはやや笑える部分が少ない軽口を聞きながら、妖怪の賢者は《亀裂》へと《指》を仕舞った。

 

 この風見幽香、隠し事もすれば韜晦(とうかい)もするし嘘さえ息をするように吐く女だが、一度約定を口にしたからにはその行動には一欠片の虚偽も裏切りも混じらないという特徴を持っている(ただしその言の葉はすべてを語るわけではないし、真実からも程遠いことさえ“まま”あるので、美点というわけではなかったりするのだが)。

 『これ』が自分の手の内にある間は、このいまいち行動の予測がつかない妖怪も大人しくしていることだろう。精々、大事にとっておくことにしよう。

 

「さて、お互いが納得できるけじめをつけたところで、昨日は一体何があったかの説明をしましょうか」

 

 できれば手短にお願いね。妖怪の賢者は日傘を開きながら幽香の説明に耳を傾けた。妖怪にとってお天道様のご威光は目に眩すぎる。

 

   *

 

「友達がほしい、ねえ……」

 

 幽香からおおよその話を聴き終わった妖怪の賢者は、なんともつかない、強いて言うなら塩と砂糖を間違えた料理を口にしたような顔をしていた。

 

「貴女も博麗神社の巫女さんみたいな顔をするのね。そんなにおかしな事かしら?」

「おかしいというかとなんというか……まあ、変だわね」

「失礼しちゃうわ。私だってお友達の一人や二人、欲しいと思ってもいいじゃない」

 

 むくれる幽香だが、しかしそれも致し方がない。この幻想郷で一体誰が、風見幽香の口から『友達』なんぞという単語が飛び出てくるなどと思うだろうか。

 

「だって、仕方ないじゃない。欲しくなったのだもの」

「まあ、悪いことではないと思うわよ」

 

 そこから騒ぎを起こしさえしなければ。

 

「貴女も“賢者”なんて御大層な肩書があるのだから、どうしたら友達ができるのか考えていただけないかしら」

 

 そんなこと言われても。聡明なことで知られる妖怪の賢者は、彼女にしては珍しく困ったように眉根を寄せた。

 

 無理なんじゃないの、と正直なところを口にするのは憚られた。別にこの女の機嫌を損ねるのを恐れたりはしないが、それでも面倒なことは避けたい。それに、友達とやらが出来たなら、この女も少しは丸くなるかもしれない。

 

「そうね───さっきの小指の件、その釣り銭代わりというわけではないけれど……私がなってあげましょうか、貴女の『お友達』に?」

 

 いかが? と妖怪の賢者は意味ありげというより、含むところがあるような流し目を幽香にくれた。男ならば、否、たとえ女であろうと容易く精神を蕩けさせるであろうほどに凄艶な一瞥と声。このうるわしい申し出を拒める者などいるだろうか。

 

「?」

 

 しかし幽香は何を言われたのか解らないとばかりに首を傾げた。

 

「私にだって、選ぶ権利はあると思わない?」

 

 二人の間を熱を孕んだ風が駆け抜けた。




 登場人物とかそんなん

風見幽香

備考───傾城の美女(物理)嘘は吐かないが正直とも程遠い

妖怪の賢者

備考───ゆかりんさんじゅうななさい


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第5話 風祝にはセンチメンタルなんて感情はない

 古人曰く───

 

 器物百年を経て化して精霊(しょうろう)を得る。

 付喪神記(つくもがみき)などで知られた一節である。長く年月を経た道具には神霊が宿り、粗略に扱うものに災いを招くであろう云々───噛み砕いていうなら、物を大事にしないともったいないオバケが出るぞ。

 

 ───と、いうことならば。幽香は愛用の日傘を“しげしげ”と眺めた。

 

 この日傘も使い始めてから随分と経つ。というよりも、いつから使いはじめたのか自分でも思い出せないくらい長く使っている。この分なら、ひょっとしたらこの傘も付喪神(つくもがみ)として具現して、その暁には友達になってくれるのではないだろうか。

 まだ時間が足りないなら、もう百年くらい待ってもいい。さんざか永く生きた身だ、そこに百年二百年の歳月をさらに積もうと気になるものか。

 

 むぅ、どうしたものかしら。幽香がかなり真剣に考えこんだそのときである、

 

「うらめしやー!」

 

 彼女の傍らに突如、威勢のよい声とともに何者かが躍り出た。

 

「ねえねえ、驚いた? 驚いた?」

 

 呼ばれもしないのに飛び出てきたのは、自分の体より大きな傘を手にした左右の目の色が違う女の子。近頃この近辺をうろつく“から傘”の妖怪だった。

 いつとも知れぬ、どこかの誰かが放ったらかした忘れ傘。それが付喪神として形をなした存在である彼女は、こうして誰かを驚かせることで己を保っている。驚くような奴がいるのかどうかは知らないけれど。

 

「もしかして、驚きすぎて声も出ない? スゴい、私スゴい! じゃなかった、わちき凄い!」

 

 幽香は目の前で飛び跳ねはしゃぐ、忘れ傘の少女を“じー”と見つめた。自分を見つめる幽香のことなぞ気にもならぬ様子で、少女は「凄いスゴい!」を繰り返し天にも昇らんばかりに喜んでいる。やったね。凄いね。

 

「でも、こんなナスみたいな色した友達は欲しくないわ」

 

 忘れ傘あらためナスの少女は泣きそうな顔をした。

 

   *

 

「無理なんじゃないですか」

 

 幽香の思いつきを素っ気なく否定して、守矢の巫女───本人曰く『風祝(かぜはふり)』とのことらしいが、違いがわからない───は座卓に湯呑みを置いた。

 

 ここは守矢神社、その客間である。

 八畳ほどの、飾りっけのない部屋の真ん中に置かれた座卓の上には、茶以外にも干菓子(ひがし)が載った皿が出されている。

 

 最初からこっちの神社に来ていればよかったかな。幽香は湯呑みを手にした。よく冷えた麦茶だった。一緒に入っていた氷が揺れて、涼やかな音を立てている。それを不思議そうな目で幽香は眺めた。この時期における氷は貴重品もいいところだが、一体どうやって手に入れたのだろう。

 

「ああ、それですか。霧の湖……でしたっけ、あそこを縄張りにしている妖精さんに作ってもらったのを、冷蔵庫───と言っても判らないですよね、小さな氷室みたいなものですけれど、それに入れて保存したんですよ」

 

 なぜか普通の氷より美味しいんですよ、これ。少女の説明を聞いた幽香は妙なところで感心した。その妖精というのは幽香もよく知る氷精の少女のことだろう。あの子、素直に誰かの言うことを聞くような子じゃないと思ってたけれど。なにかコツでもあるのかしら?

 

「ちょっと褒めたりおだてたり持ち上げたり挑発したりすれば、いくらでも作ってくれますよ。弾幕として。ご所望なら、幽香さんも作ってもらったらいかがですか」

 

 なるほど。幽香は“くす”と微笑む。

 

「したたかだこと」

「褒め言葉として、受け取らせていただきます」

 

 静かな微笑みを返す風祝の少女。元々、整った容貌の持ち主だが、こうして落ち着いた表情を見せると歳相応の清潔感も相まって、どこか侵しがたいものを面に現す。それは彼女の、ちょいと変わった出自が故か。

 

 腰まで流れる緑の黒髪と活力に満ちた瞳が、目にした者の印象に強く残る彼女はかの博麗の巫女と同年代で(ひとつふたつは年上かもしれないが)、今から少しばかり前に諸事情により居られなくなった《外の世界》から、半ば逃げ出すようなかたちでこの幻想の郷にやってきた。そのときの『お引越し』(夜逃げでもよろしい)が少しばかり奇抜というか奇妙というか奇怪というか奇天烈というか、幻想郷でもあまり例を見ないスケールのものであったため、ちょっとした騒動になったのはいまだに記憶に新しい。

 

 彼女の纏う装束は、赤と白が基調となる博麗の巫女のそれと異なり白地に青の縁取りがなされているのが大きな特徴だ。そういえば袴(むしろスカート?)の配色も青が主体だが、ひょっとしたら祀られている神様にあやかって風や空をイメージしたからこの色なのだろうか。

 

 幽香は湯呑みを傾けた。

 

「おいしい」

 

 思わず正直な感想が出る。この季節、これほどに冷えた飲み物がなによりの甘露であるのは言を俟たない。それを受けて、少女の笑みが嬉しそうに深まった。

 

「ご満足いただけたところで、先ほどの話の続きをしましょうか」

「お願いするわ。どうして無理なのかしら」

「そのためにまず、付喪神が発生するメカニズムというかプロセスの“おさらい”をいたしましょう」

 

 風祝の少女は信者を前にしての説法のごとく、滔々と語った。

 

「周知のように《付喪神》というのはある程度の年季の入った物品に神霊が宿り、それがなにがしかの要因───例えば使用者の魔力・妖力───によって活性化したことによって顕れたものです」

 

 より正確には、この世界(この場合は幻想郷ですか)には『条件を満たすことによって付喪神が発生する』というミームが存在しており、それをクリアすることではじめて付喪神という存在はこの世に根を下ろすことが叶うのです。これは神様や妖怪が発生するプロセスとも大体において一致しますが。

 

 その通り。風祝の説明に、幽香は頷きを返す。

 

「そしてこの傘はとっくにその条件とやらを満たしている。もしそれが足らずとも、きっかけとなる魔力なり妖力なりを注いでやれば強制的に付喪神として具現させることとて可能なはず」

「ええ、幽香さんならそれも難しくはないでしょう。しかし今回のケースにおいては、それはできない相談なのです」

 

 なぜならここに、その条件を阻むものがいるから。少女は意味ありげに言葉を切った。

 

「その『条件を阻むもの』がなんであるか、幽香さんはお解りですか?」

「さっぱり」

「では答えを───それは幽香さん自身です」

「私」

「ええ、灯台もと暗しとはよくいったものです」

 

 少女の説明は続く。

 

 所詮ミームはより強いミームに上書きされてしまうもの。こと幻想郷の中において『風見幽香』というネームバリューが保有する情報の重みはかなりのものです(それが良いか悪いかは別として)。当然ながら、それは幽香さんの周りに存在するものにさえ適用される。

 

「したがってこの場合、《付喪神が宿る為の条件》としてのミームよりも、《大妖怪・風見幽香が百年使った傘》にまつわるミームの方が内包する情報の質・量ともに前者をはるかに上回るので、結果としてその日傘には後者としての曰く因縁が優先的に括られてしまうというわけですね」

 

 喩えていうならロールプレイングゲームでよくある、《伝説の勇者が使った聖剣》みたいなものでしょうか。どこか適当な場所に突っ立てておけば、お参りなさる方も出てくるかもしれませんね。冗談とも本気ともつかないことを風祝の少女は言った。

 

「とはいえその方が、幻想郷にとっては幸いなことでしょうけれど。歴史を積み重ねた道具が“風見幽香”の力に影響されて顕れた付喪神───考えるだけで恐ろしいですから」

 

 風祝の少女はそう締めくくり、喉を潤すために麦茶を呷る。

 ろーるぷれいなんちゃらに関してはさっぱり分からないが、どう転んでも幽香の思うようにはならないことだけは判った。ままならぬものだ。

 

「いい考えだと思ったのに、ざーんねん」

 

 さして惜しそうな素振りも見せず、幽香も湯呑みを傾けた。

 

   *

 

「しかしまた、なんだってウチの神社に?」

 

 湯呑みを置いて、風祝の少女は訊ねた。

 

「何か事をなす前に、まずは神頼みからというのは基本かなって」

「なるほど、ファンタジーが当然のものとして存在する世界としては妥当な話ですね」

 

 納得した様子で頷いた風祝の少女だったが、すぐにその表情が苦笑いに取って代わられた。

 

「ただ残念なことにウチで祀っている神様、“どちらも”縁結びは専門外なのです」

「ああ、そういえばここの神社の神様って……」

「片や山坂と湖の権化を名乗ってこそいるものの元は風雨を司る戦神、片や名前さえも忘れられたド田舎の神様です。御利益なんて期待できると思いますか」

 

 私達が《外の世界》を捨てるはめになったのも、元をただせばそれですから。風祝の少女はやや力なく、困ったように笑う。

 

「戦いの神様なら、いざ鎌倉というときには本気でお参りする人だっていそうだけれど」

「神様に本気で祈らなきゃ、やってられない戦いのことを負け戦っていうんです。まあ、これは勝負事全般に云えることですが」

 

 実に身も蓋もないことを言うこの風祝。

 

「それに《外の世界》───少なくとも私の周り───はそれなりに平和でして。それこそ“撃ちてしやまん”の精神でお参りに来る方なんていなかったのです」

「それじゃあ、廃れるわよね」

「しかも困ったことに、もう一方の神様にいたっては土着神の頂点などといえば聞こえはいいですが、要は祟り神の大元締めですから」

「でも祟り神の看板を掲げている割に、ずいぶんと可愛らしい神様だって聞いたわよ」

「そりゃあそうでしょう。誰だって“むさくるしい”神様よりは、愛らしい神様の方がいいに決まってます」

 

 土着神なんぞという連中は、元をただせば人の力ではどうにもならない地震雷火事親爺台風大雨かかあのおかんむり、諸々の天変地異に人の形を纏わせることで、人智の及ぶレベルに落とし込もうとする意図が生み出したものだ。

 『人の形をしているからには、コイツらも人間の声に耳を傾けることができる』という括りをつけ、『大事に祀らねばへそを曲げて祟りが起こる。贄を寄越して崇め奉れば機嫌を損ねない、暴れない』というルールで縛るというわけだ。

 ついでとばかりに、そこに切ない願望が混じるのは至極当然である。もし祟りが起こったとしても、ワセリンでテカり輝くマッチョな舎弟を引き連れて漢のビームをまき散らす神様がやらかしたものよりは、ちっこくて可愛くて「あーうー」言うような神様が起こしなすったそれの方がまだ許せそうなものだろう。

 

「そういえば、その神様方はどちらにいらっしゃるのかしら。せっかくだし、拝顔(はいがん)くらいはさせてもらおうと思ったのだけれど?」

「残念ながら、お二方ともお出かけです。丁度、入れ違いになってしまいまして」

 

 本当はついさっき、幽香が神社に姿を現す少し前までは“もう一方の神様”が、少女と一緒に留守番をしていたのだが、気が付いたらどこかに消えていたそうな。

 留守番に飽きて、どこかへ遊びに行っちゃったんですかね。少女は申し訳ないと頭を下げた。

 

 ふうん、なるほどね。それを聞いて、あることが幽香の腑に落ちた。

 

 実はこの神社に足を踏み入れた時から、彼女の周りにおかしな気配───というにはずいぶんと希薄な、よほど気を付けないことにはその存在を忘れそうなほどに、静かで、冷ややかな、“視線”のようなものを感じていたのだ。おそらくは、姿を消した件の神が目を光らせているのだろう。万一、幽香がこの少女に害意の一片でも抱いたのなら、すぐさまその首を刈るために。

 

 そしてもう一柱の、出かけた風の神様の向かい先は天狗のところであるらしい。なんでも、人間の里から守矢神社へ通じる参道を造るための交渉をしに行ったのだとか。

 

「そういえば新聞にも載っていたわね、その話。まだ解決してなかったのね」

 

 言いながら、幽香は干菓子に手を伸ばした。

 

   *

 

 守矢神社の“現在の”所在というのは『妖怪の山』、その山頂という、こと人間にとっては凄まじく近寄り難いところにある。

 

 『妖怪の山』というのは幻想郷の北寄りに位置する、読んで字のごとく妖怪たちが跳梁跋扈する山だ。人間の里の妖怪版といえば判りやすいか。ここに棲む妖怪達は里や、麓の妖怪とは別の社会を築いており、古来より幻想郷におけるパワーバランスの一角を担っている。

 

 妖怪にとっての『里』のようなものとはいったが、大人しくさえしていれば妖怪でも気軽に入れる人間達のそれと違い、こちらはとかく排他的というか余所者(よそもの)に対する風当たりが強く、侵入者はたとえ誰であろうと追い返されてしまう。

 もちろん幽香にだってそれに当てはまるのだが、彼女に関しては山の連中は黙認している。これは別に彼女が、自分達と同じ妖怪だから大目に見てやってもよかろう、などという理由からではない。単に、なにを言っても聞く耳を持つような女ではないし、下手に行く手を阻もうものならこちらにどんな被害をもたらすか知れたものではないからだ。前にも述べたがこの女、邪魔をする者邪魔な物邪魔だと思ったものを排除するのに、ほんの僅かな躊躇もしない。後先さえも考えない。

 

 幽香のことはさておき、神社にしてみれば人間の参拝者が訪れないのは死活問題に関わる。

 神社、なかんずく神様というのは信仰があってこその存在だ。人々の信心が神様に力を与え、その力で神様は衆生(しゅじょう)に奇跡を振るまい、起こされた奇跡を享受して人々はまた神様に感謝と信仰(これが形になったのが、いわゆるお賽銭)を捧げる……のだが、どうやらこの神社ではその一歩目から躓いているらしい。

 

「一応、里の方に分社を設けてはいるのですけれどね」

 

 しかしそれでは根本的な解決にはならないし、最悪、分社のほうが本社と勘違いされて、そっちの方にばかり信仰が流れこむという本末転倒な事態だって起こりうる(更に始末が悪いと、そこから新たな神が産声を上げてしまう場合だってある)。なので、守矢神社としては一刻も早く人間が通るための参道の敷設許可と、立ち入りの制限に関する限定的ながらの解除(信仰の“書き入れ時”である年末・年始など)を求めたいところなのだがこれが中々、難しいのだそうな。

 

 まったく、天狗さん達の頑固さにも困ったものです。風祝の少女はやるせなさそうに頭を振る。

 

「それは仕方がないわね」

 

 幽香は、彼女にしては珍しく労るような表情を見せた。

 

「彼らは怖いのよ、“あなたたち”が。誰だって嫌いな人、怖い人には近づいてほしくないものでしょう」

「私達が、ですか」

「貴女“も”含めて」

 

 何気ないヒントに、風祝の少女は苦い薬を飲み込んだような顔をした。そして悟る。さっきの彼女の労りは、自分だけに向けられたものではなかったらしい。

 

「そんなに怖いものですか、人間が」

 

 答えず、幽香は菓子をかじった。

 

   *

 

 妖怪達が幅を利かせる幻想郷において、人間とは実に弱いものであるという認識が一般的であり、しかもそれが間違っていなかったりする。その地に根を下ろす命としても立場的にも、だ。

 

 さて、それはどうかしらね。幽香はそうは思わない。

 

 確かに人間は弱い。

 ちょいと妖怪が小突いただけであっさりと死ぬ、高いところから落ちただけでぽっくりと死ぬ、つまづいただけでころりと死ぬ、酷いのになると鳥やらコウモリのフンがあたっただけで死ぬ奴までいるくらいだ。

 妖怪達はそんな人間達を見下し、人間達はいつでも妖怪や彼らの起こす異変の脅威にさらされ、日々を怯えながら過ごしている。

 

 それでも幽香は思う。さて、それはどうかしらね。

 

 なるほど確かに、幻想郷において人と妖かしとは一方的な食って喰われるだけの関係だろう。ところがそこに、手酷い罠がある。

 巡ることもなければ相互に行き交うことさえない一方通行な結びつき。それは表現を変えるなら、妖怪達が人間という存在に依存しきっているとも言える。そもそもの話として、今までにもさんざか述べてきたが人間がいなくなれば妖怪は困るどころか滅ぶしかない。しかし妖怪が消えたところで人間にとってはなんの痛痒(つうよう)も感じないだろう(むしろ清々とすることだろうが)。

 

 極端なことを言ってしまえば結局のところ妖怪とは、もはやどこまでいっても人間という種の寄生虫以外の何物でもない、ということである。あるいはずっとそんな関係だったのを無視していただけなのかもしれない。

 

 なんとも滑稽な話しよね。幽香は笑いを堪えきれない。

 驚天の力を振るう者達、動地の智を誇る者共、古今の神々東西の魔物ら、そのことごとくが膝を屈したのは、こともあろうに彼らが侮り歯牙にもかけなかった脆くか弱く愚かな人間だったとさ。

 

 在りし日には世界の半分を我が物顔で闊歩していた夜闇の住人、あまねく人々の心にごく当たり前に根付いていた八百万とんでいくつかの神々。それが今や、こんな狭い島国の、さらに狭い幻想郷でしか存在を許されないという有り様だ。かつては自分達を畏れおののき、あるいは崇め奉っていたくせに、少し時を経たくらいで飽きたオモチャに興味を失くした子供のように、その存在を“なかったこと”にさえしてしまう人間の精神性は彼らにとっては理解不能である以前におぞましいとさえ感じるのであろう。

 

 なにより妖怪達が危惧するのは、幻想を忘れて放り捨てた《外の世界》の者達のように、この幻想郷の人間達もいざとなれば自分達を見捨てて“なかったことに”にてしまうのではなかろうか、というそのことだ。実際、打ち捨てられた幻想が辿り着くこの地にあってさえ、存在を否定される妖怪というのもいるにはいる(例を挙げると山彦(やまびこ)。この幻想郷においてでさえ迷信扱いされる不憫な連中だ)。明日は我が身でないと、誰が言い切れる。

 

 だから皆、腹の底では人間が怖いのだ。彼らが人間達へと居丈高に振る舞おうとするのは、その反動でしかないのだろう。

 

 こちらから擦り寄るなど矜持が許さない、しかれども忘れられる訳にはいかない。だから河童は培った技術をひけらかして自分を特別なのだと言い張って、鬼は自分達こそが人間を見限ったのだと姿を隠し、そして天狗は高いお山に陣取って人を見下し寄せ付けず我らはいや(たか)き者なるぞと己が威勢を見せつける。

 

 しかし、それではまるで───

 

 憐れみというより、むしろ呆れさえ浮かべて風祝の少女は呟いた。

 

「構ってもらいたくて、駄々をこねて気を引く子供のよう」

 

 そうねえ。幽香はいい加減な相槌を打ちながら、ふたたび湯呑みを手にする。空だった。あら残念、もう少し欲しかったのに。

 

「ところで、そんな幽香さんには無いんですか。怖いもの」

 

 それは少女ならずとも、幻想郷に住まうものなら誰しもが知りたいことであったろう。少し考えた後、幽香は湯呑みを差し出した。

 

「あえて言うなら───ここらでもう一杯、お茶が怖いわ」

 

 おあとがよろしいようですね。“くすくす”笑って風祝の少女は傍らに置いてあった、丸くなくて縦に長い奇妙な形の薬缶(やかん)───魔法瓶とかいうらしい。名前の通り魔法の道具なのか?───を手に取った。

 

   *

 

「前から気になっていたのだけれど」

 

 新しく用意された茶をすすりながら、幽香は訊ねた。

 

「貴女は帰りたいとは思わないのかしら、《外の世界》───貴女が本来いた場所に」

「ありませんね」

 

 少女のいっそ切り捨てるかのような口調に、幽香は興味をひかれた。

 

「厭な思い出でもあったのかしら?」

「まさか。《あちら》では両親はじめとした皆さんに、よくしていただきましたよ」

「なら、どうして? 《外》からやってきた人間達で、ここに骨を埋めたがる人なんてほとんどいないのに」

 

 いたとしても、それは妖怪によって“骨”にされた連中くらいなもんである。まあその場合、大体においては骨も残らないが。

 

「それに聞いた話じゃ《外の世界》は《こちら》とちがってずいぶんと暮らしやすいところみたいじゃない」

「ええ、それは否定しませんよ」

 

 しかしそれでも、戻りたいとはまったく思えませんね。少女は微塵の未練も見せずに言い切った。

 

「なんせ《向こう》での私というのは、言ってしまえば腫れ物に触るようなあつかいだったので」

 

 ふうん。呟きながら、幽香は少女へと手を伸ばす。己が身にまとわりつく“視線”が剣呑なものへと変わるが、幽香はそれを気にもせず白薔薇の花弁を思わせる手で少女の水蜜桃(すいみつとう)の頬に優しく触れた。

 

「こんなに綺麗な腫れ物なら───手を爛れさせてでも触れたがる人は多かったでしょうに」

「私も、幽香さんくらい素敵な花なら───高嶺から身を投げる羽目になっても手を伸ばしたいと思いますよ」

 

 お返しとばかりに、少女も幽香のそれへと(うやうや)しい手つきで触れた。

 あらお上手ね。幽香は嬉しそうに笑う。花に喩えてくれるあたり、世辞というものをよくわかっている。

 

「これくらいのリップサービスも出来ないようじゃ、信者なんて増えませんから」

 

 でも、まったくの世辞だけってわけでもないんですよ? 茶目っ気たっぷりにウィンクをひとつ、少女は手を離す。同じく、幽香の手も少女から離れていく。

 

「やっぱり判るものなんですかね、私に流れる血が自分達とは『違う』ということに。もしくは遠い過去に自分達を恐怖で縛り付けたものがなんであったかを、その血肉が教えるのか」

「順当に考えるなら後者でしょうね。人の、個人の《記憶》は頭の中に、しかれども種の《記録》───魂は身体にこそ宿るもの」

「故に私の居場所は《向こう側》には無く、そんな者達が流れ着く場所はただひとつ」

 

 それが《幻想郷》───来るものは拒まず全てを受け入れる、それはそれは残酷な、それでいてほんのわずかに優しい楽園。

 でも、事はそう上手く運ばないものよ。幽香は肝心な部分を指摘した。

 

「実際のところ、神代の時代に名を馳せたほどの神様を支え続けるだけの信仰が、このちっぽけな世界の少ない人妖だけで賄いきれるのかは甚だ疑問だわ」

 

 かもしれませんね。少女はその面に少しだけ寂しそうなものを浮かべて微笑んだ。それでも、私は構いませんよ。

 

「なぜ。神様に消えてほしくなかったからこそ、貴女は《こちら側》に来たのではなかったのかしら?」

「だって、私はただ───」

 

 一旦言葉を切った少女は深く息を吸い込んだ。

 

「───ただ、私のことを大事に思ってくださった神様たちが、少なくとも私の生きているうちだけでも幸せでいてくださればいいんですもの」

 

 それから後のことなんて知りませんね。断ち切るようにさえ聞こえる少女の声であった。

 

「冷めているのね」

「奇跡を振るまうのは神様の役目、それに熱狂するのは信者の役目、聖職者はそれ“ら”をコントロールして信仰につなげるのが役目。なので誰よりも冷ややかに神に接する必要があるのです」

 

 無情といってもよさそうなセリフだが、幽香は不快に思うどころかむしろ感心するような面持ちを見せた。甘くするだけが優しさではなく、あえて冷たく突き放すように接する思いやりだってある。

 

 とは言いましても、まだまだ慣れない幻想郷暮らし。やっぱり不便なところがあるのは否めませんね。先ほどまでの、(おごそ)かとさえいえる雰囲気はどこへやら。風祝の少女は冗談めかした口調で言った。

 

「特に、海が由来の食べ物が口にできないのは結構寂しいですから」

 

 例えば、あんみつとか。学校帰りの甘い物屋さんで食べるのが好きだったんですよ。少女の瞳に一抹の寂寥ないし郷愁めいたものがちらついたのは、きっと見間違いだ。

 

「あんみつなら、『里』の甘味処で食べられるわよ。里に出向くことがあったなら、お品書きを覗いてご覧なさい」

「あれ、そうなんですか?」

「ええ。ついでに言っておくけれど、海産物も普通に売られているわ───干物ではなく鮮魚として。当然のことながら塩やお砂糖もね」

「塩はまあ、近場に岩塩の鉱脈でもあると仮定するとして……ここらにサトウキビ畑なんてありましたっけ?」

 

 ないわねえ。幽香は肩をすくめた。甘葛(あまかずら)なら自生しているところを知ってはいるが、巷に流通している量を考えると“つじつま”が合わないことはなはだしい(そもそもあれはシロップみたいなもんだし)。

 もちろんというか、それらを商っている店がどこで品物を仕入れているのかは誰も知らない。ひょっとしたら、店の人々も知らないのかもしれない。

 

「ここの人達は、それをヘンだとか思わないんですかね?」

「疑問に思うのは勝手。人妖神魔草花畜生、心だけはいつでも自由であるべきだから」

 

 でも口には出さない、それをルールと呼ぶ。

 

「気にしたって誰も得をしない、害があるでもないのなら放っておいてもいいのでしょうね」

「神経が太くできている、いや、肝が座っているといったところですか」

「幻想郷の住人は、きっと私や貴女が思っているよりもずっと“したたか”で逞しいんだわ」

 

   *

 

「ところで、こちらからも質問をよろしいですか」

「どうぞ」

「では不躾ながら───その小指、一体どうなされたんですか?」

 

 風祝の少女は怪訝な面持ちで訊ねた。幽香さんほどの方なら、すぐに治すことも出来るでしょうに。

 

「ちょっと悪いことをしちゃって───そのお詫びと“けじめ”への約束の証として、切り落としたの」

「読んで字のごとく“指切り”というわけですか。ずいぶんと剣呑(けんのん)というか物騒なものですが、本来の指切りもそんなもんだったと聞きますから、それはそれで正しいのかもしれませんね」

「“ゆびきり”?」

 

 風祝の少女の感慨深げなつぶやきに、幽香は聞きなれぬ言葉を耳にしたような顔で食いついた。

 

「なあに、それ?」

「あら、こちらでは知られてないんですかね。《外》での約束を守るためのおまじないです。それに願掛けを足して二で割ったようなものです」

 

 風祝の少女は左右の指を絡ませて“指切り”の実演をしてみせた。それを興味深そうに、幽香は見つめる。

 

 指きりげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーまーす。

 

 遠くから聞こえる蝉の声と真夏の空気に、少女の透き通るような声が静かに混じる。

 

「───で、『指切った』で指を離して、おまじないがかかるわけです」

「へえ、面白いわね。機会があったら試してみようかしら」

「一応言っておきますが、本当に指を切り落としたりはしないですからね」

「そうなの?」

「そうですよ」

 

   *

 

「ずいぶんと話が脱線してしまいましたね。そろそろ本題に移りましょうか」

 

 風祝の少女がそう切り出したのは、幽香達が何杯目かの麦茶を飲み干したときのことである。幽香に麦茶を注いでやりながら、少女は言った。

 

「手っ取り早くいくのなら、私が幽香さんのお友達になるというのが問題解決への一番の近道なのですが……」

「でも、出来ないのよねえ」

「はい。ぬか喜びさせてしまって、まことにあいすみません」

 

 やや惜しそうに幽香はぼやいた。風祝の少女も申し訳なさと惜しげな表情を半々にする。

 

 風祝の少女、というより守矢神社としても幽香との友誼(ゆうぎ)(というのは大袈裟か。精々がとこ顔見知り)を結ぶというのはかなりのメリットがある。なにせ彼女ほど名の知れた妖怪が参拝に通うというのは大した宣伝にもなるし、山の妖怪、とりわけ天狗連中への睨みとしてもこれ以上のものはそうはあるまい。

 

 ただし、同時に抱えるデメリットも結構なものになるのだろうが。

 

 具体的には守矢神社の商売敵(?)たる、博麗の神社。ここも参拝客が滅多に訪れないことで知られるが、これは立地の悪さによる交通の不便さもさることながら、それ以上に神社自体の“物騒さ加減”にも原因がある。なにせあの神社、巫女と神社の後見人たる妖怪の賢者をはじめとして、結構な数の(しかも強力な)妖怪が頻繁に出入りしており、ある意味においては妖怪の山以上の魔窟と評されても文句の言えない有り様になっているのだ。そりゃあわざわざ足を運ぼうなんて物好きはおるまい。

 

 博麗神社との差別化を図りたい守矢の神社にしてみれば、仮にここで幽香との付き合いを結べたとしても、それによって自分達が博麗神社の二の舞いの扱いを受けるようになっては元も子もない。彼女達は、いまだ幻想郷にとっての新参者なのだ。それでなくともでかい博打を打ったすぐ後で、また賭け事に手を出すべきではない。ここはまだ積極性よりも、謙虚さをアピールしておくのが手でであろう。

 

 だからこそ風祝の巫女は、今回ばかりは幽香に「ごめんなさい」をするしかないのだ。

 

 それらの説明を少女の口から聞き終えた幽香は、あらためて惜しいなあと感じた。説明をするにあたって、少女は歯に衣どころか糸の一本も着せずに、余さず包み隠さず思うところと自身の置かれた状況とを述べた。空気を読まずにそうしたのではなく、すべての事情をさらけ出すことによって信頼を得ようとするために。そういう計算ができるタイプを幽香が好むことも計算に入れた上で。

 

 頭の回転は悪くなく、必要とあらば言いたいこともハッキリと言うこの娘は幽香としても好ましい。それだけに残念さも“ひとしお”だ。自分でも驚くほどの未練を感じながら、幽香は口を開いた。

 

「そうなってしまうと、私がここにいるのだって結構マズい事になるのじゃないかしら?」

 

 客間の天井───より正確にはその先、遥か上の空───へと幽香は視線を送った。その先には、お山に入り込んだ時からこっち、彼女を監視するために遣わされた天狗がいるのだ。

 お気になさらず。少女はそれを見もせずに言う。幽香の視線の先に、何がいるのかくらいは先刻承知だ。彼女は八坂と湖の権化に仕える巫女。いかに姿を隠そうと、空の高みに身を置こうとも、神のおわします場所では彼女から逃れられない。

 

 ふむ。少し考えた後、少女が言った。

 

「今日のことに関してはそうですね……幽香さんがお散歩ついでにウチにお参りをしに来た、ということにでもしておきましょうか。お手数ですが、あとで拝殿の方へお越しいただけますか」

「構わないわ。こちらも迷惑をかけたのだから、それくらいはしないとね」

 

 微笑む幽香。そういえば、自分がお参りのために神社を訪れるだなんて初めてのことかもしれない。そう思えば、少しは楽しくなってくる。

 

   *

 

 せっかくだからということで、簡略なものではあるが参拝の作法も学んでいくことにした。

 

 本来入るべき一の鳥居はとっくに潜ってしまったし、いまさら入り直すのも何だということで、本殿よりの鳥居で一揖(いちゆう)を終え、その端を通り抜け手水舎(ちょうずや)にて身を清める。

 普段やらないことをするのは中々に新鮮な気分をもたらすもので、堅苦しさよりもむしろ愉快な心持ちで幽香は見よう見まねの作法をこなしていく。

 

 手早く禊を終えた幽香は拝殿の前に立った。

 

「そういえば、お賽銭はなんでもいいのかしら?」

「ええ。必要なのは金銭の量や価値ではなく、込められた『信心』ですので」

 

 とはいえ漫画の原始人が使うような石のお金とか放り込まれても困りますが。風祝の少女はやんわりと釘を刺す。

 

 それなら『これ』は大丈夫かしら。幽香は懐に手を入れ、やや大きめのコインを一枚、取り出した。少女の瞳がそれとわからぬ程度に細められた。

 

「……それ、ちょっと手に取らせていただいてもよろしいですか」

 

 風祝の少女は、断りを入れてコインを受け取った。表面には、彼女が《外の世界》で通っていた学校の、世界史の授業で何度かお目にかかった人物の横顔が彫られている。重さからして素材は間違いなく金無垢だろう。一体、どこで手に入れたのやら。

 

 ……《外》だったら、この一枚で一財産になったでしょうに。なんともつかない顔でコインを手の中で玩ぶ少女へ声がかけられた。

 

「あら、もしかして足りなかったかしら。まだあるから、もう何十枚か入れたほうがいい?」

「ゲームセンターの連コインじゃないですから、そこまでなさらなくとも神様に祈りは通じますよ」

 

 一枚入魂こそは少女達にとって基本の心構えである。

 

 鈴を鳴らして賽銭箱にコインを投入。祝詞(のりと)の代わりに「なむなむ」と呟き柏手、お辞儀。これにて参拝は終了。省略するにも程があるが、いみじくも少女が口にした通り必要なのは誠心と真心、そして信心である。息をするように嘘を吐く女にそんなものがあるのかどうかは知らないが。

 

   *

 

 風祝の少女に見送られ、幽香は守矢の神社を後にする。

 

「今日は楽しかったわ。貴女さえよければ、またお邪魔してもいいかしら?」

「もちろんですよ。“参拝”の方はいつでも歓迎いたしますから。またお越しください」

「本当にいいの?」

「本当ですよ」

 

 ふと思いついた風祝の少女は、ここで悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。

 

「なんでしたら、指切りでもしますか?」

 

 少女は右手を───差し出そうとしてすぐに思い直し、左の手を小指だけ立てて幽香に向けた。幽香の右の小指はとっくに“切れて”いる。

 

「うん」

 

 それに合わせて幽香も左の小指を差し出す。とても嬉しそうなその顔は、そんなに試してみたかったのだろうか。風祝の少女の口から、思わず“ふふ”と笑いがこぼれる。

 

   *

 

 じゃあ、いきますね。少女の合図、触れ合う影ふたつ。

 

「指きりげんまん」

 

 絡まる小指と小指。

 

「嘘ついたら針千本」

 

 重なる声と声。

 

「のーまーす」

 

 離れゆく影ふたつ。

 

 

 ───ゆびきった。




登場人物

風見幽香

備考───ナスみたいな友達は欲しくない

風祝の少女

備考───フルーツ(笑)とんでもねえ、こいつぁ冷徹な現人神だよ

ナスの妖怪

備考───傘之小路茄子右衛門とかいう名前なんだろう


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第6話 Legendary Wind

 風見幽香は落ちていた。

 

 切り立つ崖から真っ逆さまに。重力の(かいな)(いだ)かれて。頭から。いま、また、まさに、落ちていた。

 

 翼を()かれ大空を()ちゆくイカロスのごとく───などと云えば少しは叙情的にでもなろうが、いかに言葉を飾ろうと遠まわしに表現しようと他人がこれを目にしたらどう控えめに見ても身投げとしか思うまい。

 

 とはいえ別に幽香とて、好きでこんな有り様になっているのではないし、ましてや、いつまでたっても友達ができない我が身をはかなんで・・・なんぞという理由からこんなことをしているのでもない。もしこの女の神経がその程度のものなら、幻想郷の住民など産まれて三日もしない内に片っ端から首を吊るなり舌を噛むなりしていることだろう。

 

 風見幽香ともあろう者が、何故(なぜ)にかような有り様になっているのかといえば、それは時を少しばかりさかのぼったところに端を発する。

 

   *

 

 風祝の少女に見送られ、守矢の神社を後にした幽香はついでの散歩がてら、ゆっくりと参道を降っていた。

 歩むところは道の端。参道の真中は神のみぞ渡る通り道、故に、参拝をするものは神に遠慮して端を歩かねばならぬと風祝の少女に教えてもらったのだ。

 

 道中はひたすらに静かだった。世界から音が失われたかのような静寂が幽香を包んでいる。

 

 それが何処であろうとも、いかなる所であろうとも、《神》おわします地は峻厳(しゅんげん)な雰囲気を醸し出すものなのか、人っ子一人猫の子一匹通らぬ神の住まいに通ずる道は、まるでここだけ時が凍りついているかのようにさえ感じられた。ひっきりなしに耳朶(じだ)を打っているはずの蝉の鳴き声さえ、何処とも知れぬ彼方───すなわち常世(とこよ)彼岸(ひがん)の《向こう側》からやってくるようだ。

 

 何本目かの鳥居をくぐり、幽香は視線を巡らせた。

 ここからだと、神社から少し外れたところにある湖が一望できる。でかい柱が何本も突き立ち、夏の陽光に輝くそれはなによりも幻想の地にこそ相応しい光景であった。

 

 道を中程まで過ぎたあたりであったか、ふいに、幽香の頬を風が撫でた。

 その風が何であるかを幽香は知っていた。陰鬱な季節の終わりを告げて、生命を運び薫る風。たとえそれがどれほど冷たくて、それがどれほど厳しかろうとも、肌身に感じた者すべて口元を緩ませずにはいられぬ、そんな風。

 

 さながら、生命の風が吹く場所かしら。典雅な美貌に笑みがかすめる。この女をよく知らぬものが見たのなら、己が眼を疑うほどにそれは無邪気な笑みであった。

 

 手にした日傘を“くるくるり”と玩び、幽香は石段を降る。

 

 しばらくすると、一人の女が参道を登ってくるのが見えた。

 幽香も女も、互いが眼に映らぬかのような足取りで距離を縮めていく。幽香は風に吹きゆく花びらのごとき軽やかさで、女は吹きすさぶ風さえ打ち砕くように石段を踏みしめて。

 

 そして同じ石段にて二人はすれ違い───立ち止まった。幽香は道の端、女は道の中央。

 

 参道の真中は神や渡りし通り道。なれば、この女こそは───

 

 どちらともなく向き合い会釈を交わす。幽香はオジギソウのように慎ましい一礼を。女は堂々たる目礼のみで応える。

 

 深山幽谷(しんざんゆうこく)に佇む湖畔のような女だった。それはただひたすらに静かで、深く、誰も彼をも受け入れるけれども、迂闊に踏み込んだものはその懐に沈みゆき、二度と戻ってはこられない。

 肩のあたりで思い切りよく揃えた、紫がかって視えるほどに艶やかな髪。目にしたものすべて、居住まいを正さずにはいられぬ眼光を湛えた瞳と凛々しい顔立ち。なにより、総身から発せられる衆生(しゅじょう)を平伏させずにはおかぬその威勢(あるいは威圧)は───

 

 女が口を開く。やや低めの、耳にした者の心に染み渡るような、声。

 

「参拝かしら」

「参拝ですの」

 

 ここに可愛い巫女さんと、素敵な神社があると聞きまして。それを聞いた女の目と口元が、こころなしか柔らかいものになったようだった。

 

「卒爾ながらお尋ねいたしますが、守矢の神様であらせられますの?」

 

 如何にも。女は、山坂と湖の権化は“ふわり”と笑ってみせた。ひととき、夏の蒸し暑さを忘れるほどに、それは涼やかな微笑みであった。

 

「そういう貴方は、風見幽香でよろしい?」

「ええ。お初にお目にかかります、山の神様───それともはるけき古の、風の神様?」

「どちらでも構いません。好きに呼ぶとよろしい」

 

 では、風の神様で。幽香は慇懃(いんぎん)に応える。この女も礼儀というものを知っていたのかと、これも人によっては目を剥きかねない光景だが、花にとっての風とはときに生命を伝えときに育む担い手のようなもの。故に無碍(むげ)には扱えない。まあ、下にも置かぬ扱いをしたとて、無慈悲に吹き散らされる場合も“まま”あるのだけれども。

 

「その名も高きフラワーマスターにお出向きいただけるとは、ウチの神社もまだまだ捨てたものではないらしい」

「ふらわあますたあ」

 

 幻想郷の津々浦々(つつうらうら)に響き渡る己の二つ名(悪名ともいう)、幽香はその響きを確かめるように口の中で小さく反芻した。

 

「なんですの、それ」

「なにもへったくれも、他でもない貴方の二つ名でしょうに。ご存じない?」

「初耳ですわ」

 

 この風見幽香、自分が周りからどう思わているか、そんなことに興味を抱ける女ではない(そこに気を回せる神経の持ち合わせがほんの少しでもあったなら、とっくに良き友人にも恵まれていたであろうが)。

 

「どうせならもっと友達の出来そうなアダ名の方がいいですわ」

 

 例えば『ゆうかりん』とか、どうでしょう。“ごねる”幽香。それを聞いた風の神は少し困ったような顔をした。

 

「どうでしょうと言われても。文句は里に出回ってる《幻想郷縁起》、その著者にでもどうぞ」

「私、里にはしばらくの間、出入り禁止を受けてますの」

「一体、何をやらかしたのやら。だったらそれが解かれるまでは、じっと我慢の子」

「そういたしましょう」

 

 ついでに、大人しくて優しい妖怪とでも記述を加えてくれるように著者に頼んでみよう。幽香は心に決めた。

 

   *

 

「ところでいかがでした、ウチの神社は?」

「よいところでしたわ。静かで、心地よい風が吹く」

「それは重畳」

 

 それに───幽香は“ちら”と視線を動かす。向かう先は石段の先にある守矢の神社。幽香の眼差しは、さながら季節外れの春告精が通った跡のようであった。

 

「いい子ですわね、あの子」

 

 呟きながら幽香が想い出すのは、そこで会話を交わした少女の姿。

 

 幻想の郷における恐怖と気紛れと理不尽とハタ迷惑の代名詞というべき女を前にしても、あの少女は最後まで臆すことなく、あくまでも対等の位をとって接していた。それは怖いもの知らずだからでも、ましてや無謀だからでもない。恐いものも怖ろしいという気持ちも怯えるという感情も、少女は知ってはいるようではあったが、それに屈することも囚われることもなく瞳はどこまでも真っ直ぐに、掴みとるべき未来だけを見据えていた。それも、つい最近までは鉄火場修羅場とは縁遠い世界で“のほほん”と暮らしていたはずの小娘が、だ。

 

 勇気こそ君よ───いと美しき言葉であるが、実践できる者がはて、この世にどれだけいたものか。まったく、こうやって思い起こすほどに大した娘だ。

 自分でも気が付かなかったことだが、ひょっとしたら幽香はああいう子に弱いのかもしれない。だとしたら……。

 

 ───あーあ、やっぱりあの子にお友達になって欲しかったなあ。惜しそうな目を神社へと向ける幽香を見て、破顔する古代の風神。

 

「そうでしょうとも。なにせ“私ら”の自慢の娘」

 

 満面に浮かんだ笑みは、戦神というよりもむしろ福の神が浮かべていそうなものだが、それもむべなるかな。子を褒められて悪い気がする『親』はいない。自慢の子ならなおさらだ。

 

 しかし太古より名を馳せた戦神という割には、ずいぶんとフランクな印象の神様だと幽香は思った。

 

「最近は厳かな雰囲気を見せるよりも、友達感覚の方が信仰を得やすいので」

 

 勿論、時と場合にもよりますが。風の神はウインクをくれた。茶目っ気に満ちたその仕草は、つい先ほど別れた少女によく似ていた。

 

「娘さんだったんですの?」

「一応言っときますが、私は未婚」

 

 まあ。幽香は口元に手を当て、優雅に笑った。

 

「血も繋がりもないのに娘ですか」

「血の繋がりごときで母娘の縁が決まるのですか? 初耳です」

 

 穏やかな口調で交わされる痛烈な皮肉と厭味の応酬である。もし彼女らの素性を知るものがここにいたとしたら、そいつは緊張と心労のあまり胃の腑に大穴を空ける羽目になっていたことだろう。

 

 しかし会話の内容はともかく、二つの影の間にあるのはどこまでも静かな空気と小春日和の気配だけであった。それはきっと、彼女らの話題にのった少女のお陰なのは間違いない。

 

「風の神様が“こちら”にいらしたのは、あの子の為なのですよね?」

「その通り───本人から聞きましたか」

 

 ええ。幽香は頷いた。

 

「とはいっても、最初はあの子まで連れてくるつもりではなかったのですけれど」

「あら、そうだったんですの」

「あの子が《外の世界》で《異端》の扱いを受けざるを得なかったのは、とどのつまりは過去から血肉に纏わりつく“私達”の存在があったればこそですもの」

 

 本来、私達が支払うべき過去の落とし前を関係のないあの娘に押し付けたようなものですか。自嘲する風の神。

 

 彼女らが、そんじょそこらの野良神であったならここまで話はこじれなかった。なまじ昔語りに残るほどの力と逸話を伴ったのが、不幸の始まりだ。姿形は消えたとしても、目にも聞こえず耳にも入らずとも、血肉に溶け込んだ畏怖の記憶が少女と、少女を取り巻く人々とを最悪の形で断絶させた。

 

 それらを帳消しにするには、自分達がただ消えるだけでは生ぬるい。かつて《外の世界》に確たる形を成して“在った”という痕跡の一切合財を、それこそ過去にまで遡って“なかったこと”にする必要があった。常識と非常識の境界、論理的側面から現世と幽世を分つる《博麗大結界》ならば、ミームの領域から自分達の存在を抹消することが出来るのだ。彼女らが《こちら側》にやってきた理由とは、実にそれであった。

 

 今を生きる生命の芽と、もはや花も咲かせぬ葉もつかぬ枯れ木───どちらを優先すべきかは言わずもがなでしょう? 風の神は話す内に気も晴れたのか、どこか“さばけた”様子を見せた。

 

 肝心なことを忘れています。幽香は言った。

 

「しかしあの子は“ここ”にいる。現し世に生きる《人間》ではなく、幽世の側の《存在》として在ることを選んだ」

 

 一度、幻想の側に取り込まれた人間が、元に戻れるかは不明である。

 

「そう、その通り。私達はあの子についてきてほしくはなかった」

「本当に?」

「本当に。ただ心の何処かで憶えてさえくれれば、それでよかった」

 

 本当に? 幽香は透き通るような表情で再度訊ねた。冷たくはないが暖かくもない、ただ底だけがまったく視えないその瞳。

 

 ややあって、こころもち目を逸らしながら風の神は答えた。

 

「嬉しかったのは、否定しませんよ」

 

 左様ですか。幽香は満足気に矛を収め───そして新たな矛を突きつけた。

 

「しかし、それとて長続きしないはず。いずれ訪れるであろう“終わり”の時に、貴女は一体どうなさるおつもりで?」

 

 さして永く、在れるわけでもないでしょうに。

 

 それはかの少女にも投げかけたものであった。幽香の関心を惹いてやまぬ少女、その親をもって任ずるこの女は果たしてどのような答えをよこすのか。

 

 風の神は笑みになりきれない、それでも優しい顔で言った。

 

「大丈夫。あの子か私達、どちらかが死ぬときまでは一緒に居ますから」

 

 子供の死を親が看取るというのは“あべこべ”もいいところ。だから、叶うなら───

 

 その先を聞く必要はなさそうだ。幽香は今度こそ矛を収めた。

 

   *

 

「そういえば、天狗のところにお出かけしていたのでしたっけ。交渉は上手くいきまして?」

 

 あまりよろしくはない。風の神は渋い顔を見せてぼやいた。

 

「相変わらずでしたよ。あいつら、こちらの主張に貸す耳も聞く耳も、持ち合わせていないようで」

 

 以前にも述べたが、『余所者立ち入るべからず』の看板を“でかでか”と掲げる妖怪の山、その頂に位置する守矢の神社は常日頃から参拝客不足を託つ羽目になっている。その状況を打破するべく、神社の側でも様々なアイデアを捻り出しているのだが、これが今一つ上手くいかないらしい。

 

「ついこの間の新聞にも掲載されていた『架空索道(ろーぷうぇい)』……でしたか、あれも結局は“おじゃん”になってしまったのでしたっけ」

 

 残念ですわ。幽香は呟いた。

 彼女が口にした架空索道とはロープで吊るした籠の中に人や荷物を載せて運ぶという代物だ。これなら参拝客が空中に浮かんでいるため、《山》に“足を踏み入れて”いないからセーフというわけだ。スケールがでかいだけで、やっている事は正直、寺子屋に通う子供ばりの屁理屈である。

 

「ええ。交渉に(あた)った大天狗が言うには、『籠の中のものをこちらに幾らか奉納するのなら、考えなくもない』とかなんとか」

「巻き上げるだけ巻き上げて、何もしないつもりなのが見え見えですわね」

「まったくもってその通り。連中の頑迷さには私としても辟易しています」

「本当に、残念」

 

 心底、残念そうな幽香であった。実は完成の暁には是非とも乗ってみたいと、密かに出来上がるのを心待ちにしていたのだ。

 

「連中が言うには、これも《天魔(てんま)》のご意向であるとかなんとか」

 

 《天魔》ねえ。その名を聞いた幽香は気の抜けた様な声で呟く。

 

「いもしない“もの”のために忠義を尽くすとは、天狗達も難儀なことですのね」

 

 侮蔑というにはあまりにも“どうでもよさげ”な声に、風の神の目が光る。

 かつて仇なす者共ことごとく、その名を耳にしただけで顔色なからしめたと謳われた荒ぶる風の残り香を、幽香はそこに嗅ぎとった。

 

   *

 

 天魔───妖怪の山を実質支配する天狗たち、その親玉である。

 

 曰く、神にも匹敵する力を持つと云われ、古来より天狗達を強力に統率してきた、伝説にのみ語らるる大天狗。

 その神通力(じんつうりき)は山をも貫き目ははるか千里を見通し耳は万里むこうの声さえ聞き分ける。膂力はまさしく千人力、腕を振るわば天地が震え足を踏みしめれば雲つく山をも鳴動させる。手にした団扇(うちわ)を一度振るったならば妖風大嵐(ようふうたいらん)を巻き起こしてあらゆるすべてを吹き散らし、背負う翼をはためかせたなら瞬きひとつで三千世界をひとっ飛び。

 

 まこと妖怪の山を支配する天狗達の頭領に相応しき、天狗の中の大天狗───それが天魔。

 

「いるわけないでしょう、そんな天狗」

 

 幽香は肩をすくめる。

 

「何故、そう言い切りますか」

「普通に考えれば誰でも判ります。だって、私でも判るくらいですもの」

 

 ふむ。風の神は目にしたものが総毛立つような眼光で幽香を貫いた。続けろ、ということらしい。

 

 では遠慮無く。それを気にした風もなく、幽香の説明は続く。

 

 おそらくだが『天魔』というのは、元は天狗達の長老なり総元締めなりを意味する役職名のことだったのだろう。選ばれる基準は知らないが、年功やら序列やらが妥当なところか。それが時が流れていくうちに、人の耳から耳に移っていくうちに、おかしな伝わり方をするようになった。手っ取り早くいうなら伝言ゲームのそれだ。最初のワードが奇々怪界だったのが何人目かで飛鳥&飛鳥になり、終いにはメガブラストに変わっていたとか。

 

 かくて年月を重ね世代を重ねする内に、いつしか人々の間で“妙ちきりん”な噂が立った。

 

 妖怪の山には強くて怖ろしい天狗がいる。その名は天魔、天狗達を束ねるとてもとても強くて怖ろしい天狗、と。

 

 そこに目をつけたのが他ならぬ天狗達であったわけだ。根も葉もないその噂を自ら肯定し、あるいは尾鰭をつけ、あるいは煽り(これらは天狗たちの得意分野でもある)、人々が思い描く『天魔』の形へ自分達に都合のいい肉付けを施した。

 これこそすなわち、神や妖怪が発生するプロセスに他ならぬ。

 

「天狗達の保身と打算、それらによって産み落とされた彼らの宗教とその神様───もしくは偶像───それが天魔の正体でしょうね」

 

 目的はおそらく幻想郷における主導権の確保。特に自分達がお山を掌握する上での一番の障害となるであろう鬼への対抗策か。

 

 だがその試みは、おそらく───

 

「失敗したのでしょうけれど」

「どうしてそう思う?」

「だって成功したのなら連中、大々的にアピールするでしょう。それをやらないということは……」

 

 失敗したか、あるいは彼らの思惑とは離れた形になったかのどちらかだろう。そもそも『神にも匹敵する力』を持つ妖怪なんて、幽香の知るかぎりでは一匹しかいないわけで。

 

「ああ、あれ」

「そう、あれ」

 

 頷きあう一柱と一匹。まあ神様にも上から下にピンからキリまで、それこそ天地万物森羅万象一切合切に比類も比肩もするものなしという(たか)くも高きお方もいれば、社も持てない野生の神様、(まつ)っているはずの神社の巫女さんが名前さえ知らないという有り様の神様までおわしますのだけれど。

 

「しかし期待しただけの強さを得られなかっただけで、《天魔》の名を冠する“それなりに”強力な妖怪は実在している可能性だってあるのでは?」

「それもないでしょう」

 

 幽香は取り付く島もなかった。

 

 幻想郷とは決して、その名前から連想されるような牧歌的ファンタジー世界というわけではない。むしろその内情あるいは内幕は、実に殺伐というか血生臭さいというか死体が山とまでいかなくとも丘くらいは築けそうなものだったりするのだ(そもそも妖怪の大半は『人喰い』なのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれども)。

 そんな剣呑な地盤の上に構築された楼閣(ろうかく)のバランスが盤石なものであるとは口が裂けても言えるはずもなく、それこそ何かの拍子に“あっさり”と崩れだすことだって“まま”ある。誰の台詞であったか『砂上のバベル』とはよく言ったものだ。

 

 具体的な例をひとつ挙げる。

 

 少しばかり前の、スペルカードルールが制定されるより少しばかり前のことだ。幻想郷にやってきたばかりの吸血鬼が、考えもなしに大暴れしたという異変があった。名を《吸血鬼異変》。実にそのまんまな名前だ。

 

 結局この騒動自体は当時最も力のある妖怪連中(誰のことかはご想像いただきたい)が、力業で元凶を叩きのめして様々な禁止事項・協定を結んで和解と相成ったのだが、しかしそれら一連の異変解決に関わった者共の中に、天魔の名を見つけ出すことはできなかった。

 

 またそれ以前・以降にも色々な異変事件が幻想郷を襲ってはいるのだが、それらに際して天魔が動いたなどという話を幽香は聞いたことがない。自分よりも古参の妖怪ならば知っているのかもしれないが、残念ながらそういった話を聞かせてくれる伝手(つて)はない(友達どころかロクな知り合いもいないから)。これは一体どういうことか。

 

「それとも、さっき神様が口にした《幻想郷縁起》でしたか、それには書かれていましたか」

「ない」

 

 でしょうね。幽香が疑惑を確信に変えたのが、かくあろう守矢神社とその引っ越しに関わる一連の騒ぎである。

 

 彼女らが妖怪の山に“やってきた”時でさえ天狗達は、天魔は腰を上げなかった。本来ならば、お山を支配する彼らこそが真っ先に(正確には部外者が解決する前に)、事にあたるべきはずだったにも関わらず、だ。それどころか異変の解決さえ実質、麓の巫女や森の魔法使いに任せきりにするという有り様だ。一応、「調子に乗るようだったら排除する」と口にしてはいたようだが、それもどこまで本気だったことやら(実際問題として、それができたかどうかも怪しい。なにせ相手は古の時代に名を轟かせた本物の《神》様だ)。何人たりともお山に入るべからず───これが妖怪の山の不文律のはずではなかったか。これではあちこちで話が矛盾する。

 

 それ以前の話として、『天魔』という妖怪が凄い力を持っているという『風評』がどれほど伝わっても、その実情そのものはまったく伝わっていないのだ。

 

 ───どんな能力を持っているのか? どのような姿なのか? 背丈は、髪の色は、性別は男か女かあるいは“どちらも”か? まったく、誰も、何も、少しも、知らない。

 

 誰も彼もが褒めそやせども、伝わるのは名ばかり。誰も、何も、“そいつ”のことはなにひとつ知らない。そんなものを“いる”と考えるなんて無理な話だ。自分の目で耳で肌で、見て聞いて触れたわけでもないものの実在を信じる奴はいない。幻想郷のありとあらゆる《幻想の徒》は、人々が目で見、音に聞き、肌で触れられるがゆえに(実在が確たる形を纏って証明されているが故に)存在していられるのだ。その意味では幻想郷における《ファンタジー》とは実に即物的な一面を持っているとも言えるのだけど。

 

「そういえば、伝えられる情報の“あやふや”さを逆手に取って、自身の力の糧とする妖怪ってのもいたわね。何といったか、虎だったり鳥だったりするっていう未確認幻想飛行少女」

「ああ、“ちょっとばかり前”に、穴掘りが得意な検非違使(けびいし)に地面の底に埋め立てられていたあの()

「弓が得意なお侍ではなくて?」

「それこそいい加減な情報伝達によって、歪まされた言い伝えです」

「まるで実際に見ていたかのようにおっしゃる」

 

 だって私、その娘が生き埋めもとい封印されるところをこの目で見てますもの。幽香はなんてことのないように言った。

 

 巷に伝わる口伝によれば、“みなものとのなんちゃら”(どうでもよかったので覚えていない)とかいう天下無双にして万夫不当(ばんぷふとう)の豪傑が退治したとされる件の妖怪だが、それはまったくのでまかせ適当嘘八百である。実際にかの正体不明の妖怪を退治してのけたのは、いまや名前も定かではないただの下っ端官憲だったりする。使った武器は何の変哲もないただのシャベル───そしてわずかな知恵と小さな勇気だけ。

 “ただ”のつまらない人間が、どこにでもいる有象無象が、たったそれだけでいと怖ろしき妖かしに立ち向かい、ついには“ただ”であることを自ら否定することさえ出来た時代のことであった。

 

 じゃあ、それがなんだって現在伝わるような伝承となったのかといえば、それは偏に大人の事情と云うやつである。

 

 腕に覚えがある“つわもの”どもが音に聞こえし“もののふ”たちが、雁首揃えて手も足も出せずに終わった妖かしを討ち果たしたのが、こともあろうに一介の警吏(けいり)では格好も示しもつきゃしなということで、急遽、前述のストーリーが(でっ)ち上げられたのだ。なんでそこまでと思われるかもしれないが、けちな矜持些細(ささい)な面子つまらぬ体面取るにも足りぬ世間体が潰れた潰れないで誰ぞの首が飛頭蛮(ひとうばん)よろしくすっ飛ぶご時世のことだから仕方ない。

 

「だからあのお嬢さんを本気で退治しようと思ったら、その検非違使が使ってたシャベルだかスコップだかで掘った穴に埋めるか、さもなきゃ殴るのが一番なのです」

 

 事実は小説より奇なり、か。感慨深げな風の神。小説よりなど足下にも及ばぬどころか影さえ踏めえぬ、ヘンテコ不可思議奇怪千万な生き方を積み重ねた女の述懐には説得力があった。

 

 長い説明(しかも途中で脇道に逸れる)を聞き終えた風の神はやや疲れたような吐息を絞り出した。

 

「中々にユニークな『推測』でしたが……まさかそれを、他人に話したりはしてないでしょうね?」

 

 それこそまさか。幽香は“しずしず”と首を振った。この風見幽香、いちいち数え上げたら三日三晩はかかるほどに欠点欠陥の多い女だが、それでも他人の弱みを吹聴してまわるような趣味の持ち合わせだけはない。ましてや、それが自分にとって何ひとつの利さえもたらさぬとあればなおさらだ(もたらしたとしても、その気になれたかどうか)。

 

 それに、だ。幽香は意地悪そうな流し目を風の神へとくれた。どうせ、そちらでもとっくに察してらっしゃるのでしょう。そもそも“同じようなこと”ならば、身に覚えがあるでしょうに。

 

「あえて口にしないのは天狗達への『手札』を確保するためですの?」

「さて、どうでしょう」

 

 風の神は是とも否とも答えなかったが、幽香は追求をしなかった。所詮、自分が関われえぬ問題だ。

 

   *

 

 それからしばらくの間、にこやかに───その実、常人なら神経を磨り減らすような───歓談する一柱と一匹であったが、途中、不意に風の神がおかしなことを言ってきた。

 幽香の顔を“じぃっ”と見つめ、

 

「ふーむ」

「どうかしまして。私の顔に何か付いてますの?」

 

 ええ。“にこり”ともせずに言う風の神。

 

「“付いて”いるというよりは“憑いて”いますね。……貴女、ここに来る途中でおかしな“もの”に出くわしませんでしたか?」

「おかしなもの……厄神様とかですか」

 

 厄神というのは厄を呼びこみ厄を溜め込む神様のことだ。別名、疫病神(やくびょうがみ)。ちなみに、名前に《神》とついてはいるが実は神様ではなく、妖怪の一部であるらしい。近くにいるだけで人間だろうが妖怪だろうがお構いなしの無差別に片っ端から等しく不幸のズンドコに叩きこむという、様々な意味で幻想郷において一番恐れられている存在である(いざとなれば退治することも出来る妖怪と違い、不幸や厄病なんてもんは(はら)いようがないから)。もし万が一、姿を見かける羽目になったとしたら『えんがちょ』するくらいしか対策はない。

 

 とはいえ本人には悪気はなく、むしろ人に災いをもたらす厄を引き受けてくれるという実に有り難い御方なので、幻想郷の住人からは“ひっそり”と感謝されると同時に丁重なる無視をされている(意識の端に乗せるだけで厄を呼び込むかもしれないから)。

 

「でも私、ここに来る途中ではどなたとも出会いませんでしたよ」

 

 それはそうだろう。わざわざ好き好んで、この物理的疫病神と接点を持ちたがる奴なんていない。付け加えるなら、この女と違ってかの厄神様は空気の読める方なので、迂闊に誰かと接して厄を撒き散らさぬよう、主な出没地点は玄武の沢や無縁塚といった滅多に人が立ち入らぬ場所に限定している。

 

「だとするなら、これは……いや、待て……」

 

 何か思い当たるフシがあったのか、風の神は一人納得したような面持ちを見せた。

 

「もしかすると貴女、“あいつ”を───ウチの神社のもう一柱の気に障るようなことをなさいませんでしたか?」

 

 “あいつ”というのは、姿を見せずじまいだった土着神の頂点のことか。

 さて、どうだったかしら。心当たりがなかったので、幽香はとりあえず神社で起こったことをかいつまんで語った。

 

   *

 

「───なるほど、そういうことですか」

 

 事情を聞き終えた風の神は、得心いったとばかりに頷いてみせた。熟練の名医かのごとき、見るものを安心させるようなその仕草の中に、どこか、諦観のようなものが混じっているのは気のせいだろうか。

 

「なにかお判りで」

「何のことはありませんよ。あの子が見ず知らずの方と、貴方と仲良くしているのが気に入らなかったのでしょう。その悪感情が───」

 

 “もったいぶる”というより、口ごもるように言葉を切る風の神。

 

「悪感情が、なんです?」

「まあ、その…………《祟り》として貴方に纏わりついているのです」

 

 風の神は実に碌でもないことを言った。

 幽香は“ぽかん”と口を開けるばかりである。

 

 どこの世界に、そんな理由で祟るような神がいるというのか───言いかけて幽香は口をつぐんだ。この世に蔓延る神話をよくよく紐解けば、結構な数のこれまた結構お偉い神様が、さらに輪をかけて程度の低い理由から、祟り災厄天変地異を「これでもか」とばかりに大盤振る舞いしているのだ。なら、こんな《祟り》があってもおかしくはない。

 

 気まずいというより、呆れたような空気を払拭するように、風の神が口を開く。

 

「口でなんと言おうとも、あいつは昔からあの子に甘い。今だって、きっと血相を変えて貴方に何かされなかったか、あの子に尋ねていることでしょう」

「甘いのは貴女もご同様とお見受けいたしますが」

「否定しきれないのが情けないですね」

「でも困りましたわ。このままじゃ“おちおち”、友達も探しにいけません。風の神様ではこの《祟り》をどうにかできませんの?」

 

 ムリ。短く答えて風の神は、処置なしとばかりに首を振った。

 

「私とあいつ、国譲りにまつわる話は知ってますね?」

「ある程度までは。かつて、守矢の神社の“本来の主”が治めていたとされる国、そこに攻め入り平らげてしまったのが貴女なのでしたっけ」

「いかにも。しかし“あいつ”の引き連れた祟り神への恐怖から、人々は新しい神を受け入れようとはしなかった」

 

 それが《神》の本意であったかどうかはさておき、一体どれほどの畏怖と恐怖とが人々を縛り付けていたのか。幽香には想像もつかない。

 判ることはただひとつ、その逸話によって彼女達との関係に、一つの因果が括られた。

 

「そういうこと。真っ向からの殴り合いはいざ知らず、《神》の本質において私はあいつに及ばない」

 

 ついでに言うとこの国の《神》なんて連中は所詮、どいつもこいつも根っこの部分は祟り神。どうあっても、根本的な“括り”としてそっちが優先されてしまう。

 近世における功利主義の生み出したものではない、原初の神々としての“それ”。すなわち祟り神、荒ぶる神、禍つの神としてのそれ。《祟り》をもって人を平伏させる、あるいは《祟る》くらいしか取り柄のない、ご大層な肩書を持つ大きな迷惑としてのそれである。

 

 “それ”を人々は《神》と呼び、(おそ)()()(たてまつ)っていたのだ。願うことはただひとつ───(あが)めてやるからどうか何もしてくれるな。

 

「したがって、私ではどうにもならない」

 

 困りましたわねえ。微塵も困っていなさそうにぼやく幽香。それを感心したような面持ちで風の神は眺めた。

 

「それでも大したものです。あいつの《祟り》というのは並みの者では、それこそ人間どころか妖怪だって“あてられた”だけで気死しかねないというのに」

 

 なのに幽香ときたら平気の平左ときたものである。神の瞳に浮かぶのは紛うことなき感嘆であった。

 

「よほど幸運の星の下に生まれついたのか、はたまたそれに抗うだけのものを“積み上げて”きたのか───」

 

 ───さて“どちら”かな。興味深げな風の神。

 ───さあ“どちら”でも。興味なさげな花妖怪。

 

「ところでその祟りですけれど、具体的にはどのような形で振りかかるのでしょうね?」

 

 ふむ。風の神は形のよい顎に手を当てしばし考えこみ、

 

「そこまで根が深いものじゃないでしょうから、一度か二度、ちょいとした不運に遭うくらいで済むでしょう」

 

 具体的には、歩いてる途中で転んだり足を滑らせたり泥をはねたり落とし穴にはまったり包丁で指を切ったり夕餉(ゆうげ)を不味く感じたり食あたりをしたり箪笥の角に足をぶつけたり豆腐の角に頭をぶつけたりとか。

 

「まあ怖い恐い。精々、気をつけるなり身を慎むなりいたしましょうか」

 

 そうしておくがよろしい。神妙な顔で風の神は頷いた。

 

「ついでにアドバイスをひとつ。ここから少し離れたところにある竹林、なんでもあそこに幸運をもたらす兎がいるとか。そいつを見つけて、運気を上げるというのはいかが」

「ご自分では、幸を授けてはくれないのですね」

 

 ふふん。皮肉ともとれるつぶやきを風の神は鼻で笑った。他の者なら癇に障るような仕草であっても、見惚れるほどに様になるのはさすが《神》様である。

 

「神は自らを助くるものにしか力を貸さないのです」

 

   *

 

 風の神と別れた後、“あちらこちら”に道草しつつ、お山の中腹まで歩を進めた幽香は、そこでふとした違和感に気がついた───この道って、さっきも通らなかったかしら。

 

 というよりも、家に帰るためには山道を『降りていく』はずなのに、さっきから自分は山を『登っている』ではないか。来た路は確かに間違っていないはず・・・なのにまったく帰れる気配がない。これは一体どうしたことだろう。

 幽香は立ち止まり、小首を傾げる。

 

 ───狸にでも化かされているのかしら?

 

 それにしては、化かされているときに特有の違和感が少なすぎる。精神や神経系に作用するタイプのものにせよ、あるいはさらに高度な空間に干渉するタイプであるにせよ、人を惑わせる類の術というのは、注意していればどこかしらに拭い切れない現実との相違を見受けることが出来るのだが、それがまったく存在しない。どこまでも“自然”なのだ。

 

 そもそも、風見幽香を騙くらかすことが出来る化け狸など、つい最近《外の世界》からやってきたという佐渡の古狸くらいなものである。しかしそんな大物が、わざわざこんなお山くんだりまで、花妖怪一匹を惑わすために足を運ぶとは考えにくい。狐にいたっては論外だ。アレはそんな真似ができるほどヒマではないし、酔狂でもない。

 

 では、一体何者の仕業だろうかと考えようとして、幽香は止めた。心当たりがありすぎる。この幻想郷で、自分に悪意敵意を抱くものなど数え上げたらキリがない。害意殺意を抱くものだって両手両足の指の数で足りるかどうか。

 

 普通ならここで不安に駆られ、怯えた様子のひとつも見せるのであろうが、そこは風見幽香である。いつもと変わらぬ、何を考えているのか掴めない顔で周囲を見渡してから再び歩き出した。これが誰の仕業か知らないが、放っておけば向こうの方で勝手に飽きて術を解くだろうと思い直したのだ。

 

 そして一歩を踏み出した幽香だったが、その身体が急に前へと“のめった”。まるで、切り立つ崖のてっぺんでバランスを崩したように。

 

 幽香はとっさに体勢を立て直そうと逆の足を前に出すも───なんということであろうか、今度は足元の地面が“消えて無くなった。

 “やや”驚きながら周囲を確認すると、ご丁寧なことにいつの間にやら周りの景色まで一変していた。どうやらさっきまで自分が突っ立っていたのは───切り立つ崖のてっぺんであったらしい。自分は今まさに、そこから足を踏み外しているというわけだ。

 

 あらら、これが祟りということかしら。

 

 のんきに呟きながら、風見幽香は落ちていった。

 

   *

 

 ───で、話は冒頭に戻り、かくの如き有り様である。

 

 幽香は崖の上へと目を向けた。こちらを見下ろし宙に浮かぶ、3つの小さな影が見える。小柄な背丈と背中に蝶々のような羽を持つ少女達───妖精だ。

 どうやらあの少女達の悪戯に引っかかったらしい。妖精による邪気なき悪戯は、ときとして洒落にならない被害をもたらす。

 

 崖下へと落ちゆく幽香を指さし、少女達は「やーい、ひっかかったひっかかった」だの「ばーか、ばあか」だのと好き勝手放題を言っている。

 

 幽香としては今さらこれくらいで腹を立てたりはしないが、しかしやられたことはやり返さなければならない。良いことならば良いことで、悪いことなら悪いことで、可能ならば利子を付けて。世の中が上手く回るコツである。

 

 幽香は右の人差し指の爪を親指の腹にあてた。

 

 軽くひと撫ですると、軌跡をなぞるようにして血が(たま)を結ぶ。梔子(クチナシ)の花さえ霞むほどの白い玉肌に浮かんだそれは、さながら紅玉の如き輝きさえともなって掌へと零れ落ち、またたく間に赤青黄白紫橙桃───色とりどりの花びらとなっていく。彼女は花の妖かし、その身に流れる血が花に変じたところで何の不思議があろう。

 

 花びらが手のひらにいっぱいになったところで、幽香はそれを口元にもっていき“ふう”と一息、吹きかけた。

 

 “かげろう”の薄羽さえ震わせえぬと思われる“ひそやかな”吐息に押され、花びらは瀑布(ばくふ)の如き弾幕となって三匹の妖精たちを飲み込んだ。




登場人物

風見幽香

備考───ゆうかりんと呼んで

風の神様

備考───薄い本があまり見つからない

あいつ

備考───『こいつ』の2Pカラー

三匹の妖精

備考───サニーレタスとルナチタニウム、あとスターフォックスだっけ? よく憶えてねえや


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第7話 VISIONNERZ~幻想人~

 幻想郷の南端からやや東寄り、人間の里から見ると、ちょうど妖怪の山とは正反対のところに広大な竹林が存在している。

 

 その名を『迷いの竹林』。

 頭に『迷いの』と付くのは伊達ではなく、迂闊に立ち入ってしまうと人間は元より自然の権化たる妖精さえもときとして迷ってしまうという幻想郷における難所のひとつである。

 

 だだっ広いのもさることながら、とかく目印になるものが少なく(というか皆無。なにせ竹かさもなきゃタケノコしかない)、さらに地面に僅かな傾斜があるせいで竹が斜めに伸びたりするので、それが訪れる者達の方向感覚や平衡感覚に支障を生じさせ、真っ直ぐ歩いているつもりがいつの間にか元来た場所に戻ってしまったりするのだ。成長速度が早い竹のせいで景色だってすぐに様変わりしてしまうので、記憶もアテには出来ない。しかもまずいことに、環境が肌に合うのか妖怪となった獣も好んで棲み付くので、下手に入り込んだが最期(誤字にあらず)、腕に覚えのない者ではたちまちの内にそいつらの餌食。迷うと迷わずと関わらず危険なところである。

 

 そんな迷いの竹林の一隅に、風見幽香はいた。

 

 ───ゆっくりと落ちる葉。鮮やかな色に囲まれた緑の御殿。彼女はそこにいた。 

 

「迷っちゃった」

 

 竹林を訪れてから、実に三日目のことであった。

 

   *

 

「ここって、前にも通った場所だわ」

 

 大きく育った竹の根本に置かれた“それ”を眺め、幽香は呟いた。途方に暮れるというよりも、ただ事実を口に出しただけのような口調だった。

 

 足元に転がるのは獣の屍。正確には幽香を襲おうとして返り討ちにあった、野良犬だか山犬だか狼だかの化生だ。表現が曖昧なのは、叩きのめした後で目印代わりにでもしようと手足を折って放置しておいたら、竹林の獣にでも食い荒らされたかして、生前の面影を残さない見るも無残な姿になっていたからだ。しかも夏の盛りだけあって屍のあちこちでは蟲が湧き、辺りには嫌な臭いが漂っている。まともな神経の通っているものなら、その場で戻してしまいそうなほど凄惨酸鼻(せいさんさんび)な有り様であるが、幽香は眉をひそめさえしない。ただ、立ち籠める臭いだけはどうにかならないものかな、とは思ったが。

 

 どこかに臭わない腐乱死体ってないものかしら。実に勝手なことを考えながら、幽香は再び歩き出す。特にこれといった当て所はない。ただ“ぼけっ”と突っ立っているよりは、漫然と歩いていたほうが出口も見つかりやすかろうという“いいかげん”な発想である。そんなことで脱出できるくらいなら誰も苦労はしないし、ここも迷いのなんちゃらなんぞというご大層な呼ばれ方をされることもなかったろうが。

 

 歩けども歩けども、先も見えねば終わりも見えぬ竹林の、道なき道を幽香は進む。

 

   *

 

 迷える佳人の歩みが止まったのは、中天におわしましたお天道様が西の方角へと大儀そうに御身を移しはじめた頃のことだった。

 

 別に何時まで経っても終わらぬ、竹林での彷徨に疲れ果てたとか絶望を感じたなどという理由から立ち止まったのではない。ただ、“なんとなく”である。この女の行動に、意味や意義や理由や辻褄を求めるのは不毛どころか徒労に終わるだけの結果しかもたらさない。

 

 周囲を見渡した幽香は地面があまり傾いていなく凹凸も少ない場所を見つけ、そこへ胸元のポケットから取り出した厚手の布を広げた。そして2畳ほどの大きさに広がった布の上に同じくポケットから出した白磁のカップとソーサー、シュガーポットと水筒を順に並べていく。

 

 どうやら一休みをするらしい。実はこの女、竹林に足を運んでからこっちひたすら歩き通しだったりする。まあ、かつては世界の“あちらこちら”をロクに休みもしないでうろつき歩いていた女なので、たかが三日三晩飲まず食わずの歩きづめになったところでなんら問題ないのだけれど。

 

 シートの上に行儀よく腰を落ち着けた幽香は、最後に茶筒らしきものと少し大きめの薬缶のようなものを取り出した。

 

 『パーコレータ』という、主に屋外で珈琲(コーヒー)を淹れるための道具であるそれは、ここから少し離れたところにある森、そこの入り口のところで営業している道具屋(半ば道楽でやっているらしい、殿様商売で有名な店だ)にて買い求めた品だ。その道具屋は《外の世界》から幻想郷に流れ着いた物品を取り扱っている店なので、これもおそらく《外の世界》から流れてきたのだろう。

 

 茶筒の中身(もちろん珈琲豆だ)と水筒の水を入れたパーコレータを幽香は右の手で持ち上げた。残った左手は底部に添える。すると数秒ほどでポットの水が沸騰し、中から“ぼこぼこ”という音と香ばしい香りが沸き上がってきた。ちなみにこの珈琲豆は、幽香がまだ出禁をくらう前に里の洋風カフェーにて購入したものであるが、どのようにして仕入れたものかは誰も知らない。もちろん、幻想郷でこんなものを栽培している奴もいない。そして幽香も興味はない。

 

 そのまま待つことしばし。

 頃合いを見計らって幽香は左手を離し、カップに珈琲を注いだ。辺りに広がっていく甘さすら覚えるほど芳しい香りに、幽香は顔をほころばせずにはいられない。

 

   *

 

 出来たての珈琲に砂糖を二(さじ)入れたものを“ちびちび”とやりながら、幽香は辺りを見渡した。

 

 どちらを向いても竹、なにを見ても竹、どこまでも竹、ときたまタケノコ。色合いといい育ち具合といい、どれもこれも見事なものばかりではあるのだが、こうも同じ景色ではさすがに飽きる。たんぽぽくらい咲いててもバチは当たらないのに。両手で大事そうにカップを持ち、幽香は時間をかけて珈琲をすする。

 

 緑一色の世界に変化が生じたのは、空になったカップに二杯目を注ごうとしたところであった。視界の端を“ちら”と見覚えのある人影が横切ったのだ。いや、“人”影というのには語弊(ごへい)があるか。より正確を期するなら“人のような”影が正しい。

 

 人のような影は、一風変わった風体の少女の形をしていた。

 

 あまり日に当たらないのか、雪うさぎのように真っ白な肌と透き通るような銀色の髪をした少女。服装もずいぶんと奇抜で、きっちりとネクタイをしめたブラウスの上に黒いジャケットを羽織り、そしてボトムはかなり短めのプリーツスカートという組み合わせの、幻想郷ではあまりお目にかからない“はいから”なデザイン。それだけでも大概珍しいが、なにより人目を引くのはその頭部───兎の耳のようなものが生えている。ただし、よくよく目を凝らすと付け根のところに『留め具らしき物』が付いているので、本物の耳なのかどうかまでは判らないが。

 

 自分のことを“ぼーっ”と眺める幽香に気がつく様子もなく、少女は大きな葛籠(つづら)を背負って竹林を歩いている。しかし、以前会った時には“しゃん”と伸びていたその背は猫背気味で、頭部の“耳”もどことなく“しなびた”ように見えるのは何故だろう。

 

 他にやることもなかったので、幽香は声をかけてみることにした。カップを置いて立ち上がり、

 

「ねえ、貴女───」

 

 気配でも感じたのだろうか、幽香の声が届くのにほんの少しばかり先んじて、少女がこちらを向いた。まさかこんな辺鄙なところで声をかけてくるような奴がいるとは思わなかったのだろう(当たり前か)、驚きにやや丸くなった少女の瞳、血よりも赤い紅の色が幽香の瞳の紅に飛び込んでくる。

 

 その途端、幽香の身体が立ち眩みを起こしたかのようにふらついた。

 

 いや、まさしく立ち眩みであった。いまや幽香の世界はトチ狂った画家が絵筆を揮った抽象画のように捻れ、歪み、回り、捲れ、うねくっていた。

 無論、現実に起こった現象ではない。外部からの介入による平衡感覚あるいは視聴覚神経への撹乱だ。

 

 幽香は両の足に力を込め、ふらつく身体をかろうじて支える。そういえば、あの娘の《能力》についてすっかり忘れていた。

 

 《狂気を操る程度の能力》───それが先ほどの少女が保有する能力である。これは生物含めた物事に宿る《波》、その揺幅を操ることで様々な事象に干渉するというものだ。波長を操る程度の能力と言い換えてもいいのかもしれない(むしろそちらが正解。能力は大概が自己申告なので、あえて爪を隠したがる奴もいる)。その能力によって、先の目が合ったその一瞬で幽香の《波》を読み取り、それを起点として体内周波(バイオタイド)にでも干渉したのだろう。

 

 一見すると地味な能力がらも、使い手の技量と発想次第では事程左様にこの通り、かなり凶悪な攻撃手段となる。幽香だからこそなんとか耐えていられるが、他の奴ならものの数秒で廃人一丁できあがりだ。おとなしやかな見た目にそぐわぬ、実にえぐい真似をしてくれる。

 

 余計なことを考えている内に、いよいよ世界が捻れながら“ぐるりぐるり”と回りだす。そろそろ手を打たないと、いかな風見幽香であってもまずかろう。

 襲い来る猛烈な嘔吐感を押し留めつつ、幽香は右手の指を真っ直ぐに揃えて固め───人間が云うところの『手刀』もしくは『貫手(ぬきて)』というやつだ───己が腹へとあてがった。

 

 ───そして思い切りよく自身の腹へと突き立てる。

 

 白鑞のごとき繊手は“ずぶり”と、まるで泥にでも沈み込むかのような容易さで手首のあたりまでめり込み、鮮血をまき散らして背中まで抜けた。

 

   *

 

 現在、幽香の身に起こった異常は、体内波長の操作によってその身を循環する血と氣のバランスを崩されたことに起因する。よって、痛覚という肉体と密接に関わる部分へ刺激(ずいぶんと強烈だが)を与えて血肉への比重を傾けることによって血と氣の優位を再度逆転させてやれば、それを足がかりとして精神を安定に導けるのである。

 

 などとまあ、もっともらしいことを述べたが、要は激痛与えて気付けをやっているだけである。そこにいかにもな小理屈が追加されてはいるが、それだってかなり強引というか屁理屈にも等しい暴論だ。

 しかし妖怪なんぞという連中は精神面に重きをおく生き物なので、こういうもんだと自分で納得できれば(少なくとも自分に関する限り)問題はないのだが。もし駄目であったとしても、それは“それ”。死に際して無駄な苦みが追加されるというだけのことなのだし。

 

 常人ならばショック死はまぬがれえぬほどの激痛がその身を苛もうと、幽香の美貌にはいささかの痛苦の色さえ浮かばない。ほんの僅かに、蛾眉をひそめただけが彼女の反応である。その様は、さながら静謐(せいひつ)伽藍(がらん)に設けられた仏像のようにさえ見えた。

 

 人知れず開けた静かな、しかして凄惨なる闘争の幕は、やはり誰に知られることもなく静かに降ろされた。

 果たして、《正気》を取り戻すことに成功した幽香は腹にめり込ませた腕を引っこ抜いた。勢いあまったか、噴き出る血と一緒に臓物もはみ出たようだがあまり気にしない。先ほどまでに比べれば、今はさながら清々しい風が吹く高原のど真ん中にでもいるように爽快な気分だ。

 

 ふぅ、と息をつきつき、落ち着いたところで周囲を伺ってみる。とうに少女の姿は消え失せていた。幽香が悶絶しているうちに、脱兎のごとく逃げたのだろう。兎だけに。

 その鮮やかな手並みに、幽香の口元が“ふわり”と緩んだ。

 

「やるじゃない」

 

 口をつくのは掛け値なき賞賛。時間にしてわずかに数十秒、これだけの時間、これだけの手間で、これだけ痛い目に遭わせてくれた奴はさて、どれだけぶりだったか。

 

 ならば私も報いるに、相応の“もの”をお見せしましょう。

 

 とくとご覧あれ。いつしか幽香の腹から滴る紅の流れが、五色七彩の色どりを帯びた小片となっていた。例の血肉から花びらへの変化である。零れ落ちるそれらは風に乗って優雅に舞い踊り、そこかしこに広がって緑と土色の世界に色とりどりの美麗なアクセントを加えていく。

 

 そしてしばらくの後、竹林のいたるところに花びらが行き届いたころ、

 

「みいつけた」

 

 いたずらっぽく幽香はつぶやいた。その視線の先、幽香から見て右斜め前、先ほどの少女を見かけた場所で、純白の花びら───鬼灯(ホオズキ)の花───が“ふわふわり”と漂っている。それ以外に何もない、誰もいないはずの空間に向けて、幽香は語りかけた。

 

「ねえ、そろそろ出てきたら」

 

 あるいは姿を見せたら? 語りかける幽香に応えるものはいない。しかし姿こそ見えずとも、幽香には“解っている”のだ。“そこ”に“いる”ということが。

 

「もう隠れても無駄。この花びらは私の血肉で編まれたもの───すなわち手指の延長。この花びらの在るところすべて、私の掌の上」

 

 花びらを介して伝わる感覚では、確かに“そこ”に少女の存在を感じている。大方、能力を使って可視光線の波長を弄っているのだろう。以前、幽香を崖から落としてくれた妖精達も似たようなことをやっていたので、すぐに勘付いたのだ。普通なら相手が前後不覚となっている間に逃げ出すのだが、下手な身動きどころかその場を一歩も動かず身を潜めるとは大胆なものだ。

 

「中々、悪くない考えだったけれど惜しかったわね。ちなみに、こんなこともできる」

 

 竹林に“ぱちり”と小気味よい音が響く。幽香の鳴らしたフィンガースナップだった。同時に、風もなく辺りを漂う花びら、そのひとつが人一人を飲み込めるくらいの大きさの火球となって爆ぜた。不思議なことに眩い光以外には音も熱も漏れてこないが、跡に残された1メートルほどの、すり鉢状に抉れた地面がその威力を如実に物語っていた。

 

「次は貴女の周りの花びらすべてで同じことをやる。消し炭や肉片からでも再生はできそう?」

「……《弾幕ごっこ》のルールに違反するわよ」

 

 ここにきてはじめて、姿なき少女からの反応があった───幽香の“背後”から。おそらくは音波の伝導にでも手を加えたのだろうが、そんなことで風見幽香は誤魔化せない。

 

「それを貴女が言うの。さっきのだって、私じゃなければ無事じゃすまなかったわ」

「“あんた”だからやったのよ」

 

 なるほど。幽香は小さく笑う。一本取られたような気分だ。

 

「一応、常識はわきまえてらっしゃる」

 

 幻想郷の、という但し書きがつくが。

 

「ねえ、姿を現してはくれないかしら。私は貴女と喧嘩がしたいのじゃない、お話がしたいの」

 

 返答はひたすらな静寂のみ。風にそよぐ竹の葉が静かにざわめく音だけが、幽香と少女を繋ぐ世界の音。

 

「どうしても信用ならぬというのなら───手足の一、二本撃ち抜いてくれて構わない」

 

 いかがかしら。幽香は両腕を胸前で、来たるものを招き入れるかのように広げてみせた。艶然と問いかける幽香の耳に、舌打ちの音が聞こえてきた。

 

「───ずるい女。そういうのを、私が嫌だっていうのを承知して言ってるのね」

 

 ええ、そうよ。幽香は野辺を彩る一輪の花のごとく幽かに笑った。

 

「でも、誓って嘘じゃないわ。貴女にできないのだったら、私が自分でやってもいい」

「…………」

「だから、お話しましょ?」

 

 幽香は左の肩に右手をやった。そして躊躇なく引っ張る。“みちり”と、聞いたものが耳を塞ぎたくなるような音が、皮を、肉を、骨を通して耳に伝わってきたが、幽香は力を緩めない。

 待つほどのこともなく、音が“ぶちぶち”というものに変わった。皮肉が千切れ、純白のブラウスに紅薔薇よりもなお紅い色が鮮やかに広がっていく。

 

「待って」

 

 努めて冷静さを保とうとする声が聞こえてきたのは、肩の骨が露出したときである。

 

「……わかった。今、出て行くわ」

 

 だからその腕とお腹をさっさと治してよ。忌々しそうな表情をこしらえつつも姿を表した少女へ、大輪の向日葵のような笑顔が向けられた。

 

「ところで貴女、珈琲はお好き?」

 

   *

 

 地面に敷かれたシートに並んで座り、二人はカップを手にする。遠目には仲の良い二人組のようにも見えるが、実際のところ片方だけが絵にも描けないほどの美しい笑顔で、もう片方は絵に描いたように綺麗な仏頂面だ。

 

 舌が焦げそうなくらい熱い珈琲を一口やった少女は、仏頂面をしかめっ面に変えた。どちらも似たようなものだが。どうやら苦いらしい。パーコレータは便利だが、使い慣れないと余分な苦味や渋みを出してしまうのだ。幽香がまだ使いこなせていない証拠でもある。

 幽香はシュガーポットを差し出した。その腕も腹も、当たり前のように元通りなら、服にだって染みの一つさえ浮かんではいない。

 

「はい、お砂糖」

「ありがと。ミルクはないの?」

「脱脂粉乳でよければ」

「ないよりはマシか、いただくわ」

 

 少女は珈琲に砂糖と粉のミルクを四匙、大盛りで追加した。もしかして甘党なのだろうか。

 珈琲をかき混ぜながら、少女は訊いた。

 

「で、あんたはなんだってこんな所にいるのよ。ここには花なんて咲いてない」

「小さな幸せを見つけに来たの」

「あー?」

「なんでもここには、見かけただけで幸運をもたらしてくれる兎がいるそうじゃない。私も御利益に肖りたいなって」

 

 へえ、なるほど。少女は合点がいったとばかりに頷く。

 

「それ嘘だから」

 

 あら、そうなの。幽香は大した感慨もなく聞き返した。“ふん”と鼻を鳴らして兎の少女は珈琲をすする。

 

「あまり驚かないのね。ある程度は予想がついてたってこと?」

「ええ」

 

 隠すほどのことでもなかったので、幽香は素直に首肯する。実はそんなもの、“てん”から信じちゃいなかったのだ。

 

 そもそも、どんな形であっても《運》なんてもんを自分の良いように操作するなんて出来るわけがないのだ。

 運、というかそれに連なる《運命》とはすなわち無数無限に枝分かれする世界の連なりそのものだ。それを操作するというのは、取りも直さず無量数の《世界》の重みを一身に引き受けることと同義である。

 たった一つの《世界》さえ、たかが長生きしただけの妖怪兎風情が背負うには過ぎた代物だ。ましてやそれが『無限数』、たちまちの内に存在の領域から“のしいか”になってしまうのがオチだろう。言葉の重みを理解しえぬ、思いをいたさぬ阿呆ばかりが永遠だの無限だの悠久だのという、とてつもなければそもそも測りようもない言葉を玩びたがる。

 

「なら、これ以上の説明は蛇足ね」

「そんなことないわよ。せっかくだから聞いておきたいわ」

「物好きだこと」

 

 カップを傾けて喉を潤し、兎の少女は語る。

 

 あれは程度の低い詐欺みたいなもんよ。あなたの探してた自称・幸福兎、あいつの能力ってのはね、ヒトの脳味噌のあまり使われていない領域───陳腐な言い方だけど《ナイトヘッド》ってやつ?───それを刺激したり開放することで視覚神経や反応速度にブーストをかますっていう代物なのよ。

 

 少女は人差し指で自分の頭を“とんとん”と突っついた。

 

 いつもよりも頭が働くから、もしくは目に見えるものが拡がるから、普段なら見逃すような発想や発見が出来るようになる。例えば、視界や注意力が強化されたから失せもの探しもの落しものを見つけられたり、普段なら気付かないような些細な目印を感じ取って迷ったところから脱出できたり。

 

「それがあいつの《人を幸福にする程度の能力》の正体よ。まあ、考える頭がありゃ判りそうなことか。もしその話が本当なら、真っ先に私が幸運に恵まれてるはずなんだし。ほとんど毎日、見たくもない顔を見せられてんだもの」

「たしかに、貴女ってば幸薄そうな顔してるものね」

「ほっといてよ」

 

 遠慮とか言葉を飾るとか気を遣うといったものから、どこまでも遠い物言いに兎の少女はとても厭そうな顔をした。

 

「ついでに言っとくけど、“見ただけで幸運をもたらす”云々だって、実は当の本人が撒いた噂だからね」

「マッチポンプってこと。なんでそんなことを?」

「決まってるでしょ、そんなの」

 

 噂を聞きつけた欲深な連中が、自分を血眼で探したり妖怪や獣に襲われたり逃げ回ったり竹林で迷ったりした挙句、骨折り損に終わる姿を見て楽しむためよ。兎の少女は付き合いきれないとばかりの顔でカップに口をつける。

 

「なんとまあ、ここに立ち寄る連中に忠告でもしておいたがいいのかしら」

「ああ、それはやめてくれないかな」

「どうして」

「迷い込んだ馬鹿を助けたり、出口までの道案内したりとかでお礼貰って小遣い稼ぎしてるのよ、私」

 

 意外にばかにならないんだ、これが。兎の少女は肩をすくめた。ときたま、若白髪したヘンな女にあぶらげ掻っ攫われるのが悩みの種だけどね。

 

「いい性格をしてるのねえ」

「あんたに言われたくない」

 

   *

 

「ところで私からも質問、いいかしら」

 

 どうぞ。兎の少女はいい加減に応えた。ただし、私に答えられるものだけよ。

 

「その葛籠、一体何が入っているのかしら。妙に薬くさいのだけれど」

 

 ああ、それ。幽香が指さした“それ”をつまらさそうに見て、兎の少女は言った。

 

「薬よ」

「薬?」

「そ。中身は色々───飲み薬塗り薬貼り薬粉薬水薬目薬胃薬座薬甘い薬に苦い薬となんでもござれ」

 

 無いものといったら鼻薬くらいなもんね。兎の少女は面白くもなさそうな顔で言った。実際、大して面白くない。この少女、ジョークのセンスは欠落しているらしい。

 

「見た目より、身体が悪いのかしら」

「私が使うのじゃないわ。今の“飼い主”が趣味なのか道楽なのか知らないけど、医者みたいなことをやってるの。私は薬の訪問販売員ってわけ」

「飼い主?」

「ああ、そういえばあんたは知らないのね。私、こっちに逃げてくる前はさる“やんごとない”お方のペットをやってたんだ」

 

 空を指差す兎の少女。見えていないはずなのに、その指は恐ろしいほど正確に彼女の故郷───緑の天蓋と蒼穹の向こうにある月に向けられていた。

 

   *

 

 一般には『兎の妖獣』あるいは『妖怪化した兎』として認識されているこの少女だが、実のところその正体は妖怪でも何でもなかったりする。

 彼女は元々、月に住まうと呼ばれる『玉兎(ぎょくと)』という生き物で、今からほんの少し前(大体3、40年くらい)に故郷を捨てて地上に逃げてきたのだ。

 

「月人か。私はお目にかかったことはないけれど、貴女のところのお姫さまとその従者さんもそうなのよね」

「面識がない割によく知ってるじゃない」

「少し前に起こった異変の大元だって、風のうわさで聞いたの。どんな異変なのかまではさっぱり判らなかったけれど」

 

 むしろ観測できない類の異変、細かいことを気にしない者にはどうでもよい異変というのが正しい。なお幽香は後者である。起こったことが知られなければ、どれほどの天変地異も『なかったこと』で済まされるのは世の常だし、ましてや幻想郷の住人がそんなものにかかずろうとするわけがない。

 

 それにしても。幽香は首をひねる。

 

「ペット、ねえ。貴女なら職種くらい選べそうなものだけれど、なんでそんなのを選んだのかしら」

「私ら玉兎は生まれついての奴隷階級、というか奉仕種族でね。職業選択の自由なんてないのよ」

 

 ついでに付け加えると、月では個々の能力に応じて、適職や天職を導き出してくれる機械というのがあるとかで、それによって各人に相応しい仕事に就かされるのだそうな。ちなみに、単純に能力から弾き出されるのが『適職』で、能力含めた個人の傾向から総合的に算出されるのが『天職』なのだとか。

 

「へえ、便利ねえ。ということは、貴女の元のお仕事もそれで決まったのね」

「まあね、適職がペットで、ついでに斥候兵(せっこうへい)───見回りの兵隊みたいなもんをやってた」

「天職は?」

「内緒。裏データにあったんだけどね……アホらしくて話す気になれない」

 

 ふうん。特に興味もなかったので、幽香は適当に相槌を打った。

 

「そういえば同期の中に天職が“独裁者”だの“宇宙海賊の女船長”って奴らもいたわね。今でも普通に餅ついてるんだろうけど」

 

 ほんとかしら。疑問に思う幽香だったが、確かめるすべはない。

 

「しかし、わざわざ逃げ出した先でも飼われる立場に甘んじるとは、物好きね」

「なによ、少なくとも私は今の関係に満足しているんだから、“ケチ”をつけられる謂れはないわ」

「向こうでは、そう思っていないかもしれないわよ」

「例えば?」

 

 尋ねられた幽香は「んー」とつぶやき、右の人差し指を形のよい唇に当てた。

 

「ありきたりだけれど───仲間とか家族とか」

 

 私はお友達がいいわ。幽香は“ころころ”と無邪気に笑う。

 私は冗談じゃないわ。兎の少女は思い切り顔をしかめる。

 

「もし連中がそんなこと考えてたとするなら私、今すぐにでも縁切って逃げ出すわ」

「どうして?」

「判ってるくせに。一度でも誰かを裏切った奴ってのは危なくなったら何度だって恩義もへったくれもなく裏切るもんよ。そんなのを信用する奴はいないのよ」

 

 いたとしても迷惑だしね、どちらにとっても。えらく投げやりな口調で少女は言う。

 

「私にとって望ましいのは、いつ切っても切られても問題ない、要は後腐れのない互恵関係(ごけいかんけい)。お友達だのお仲間なんて麗しい間柄じゃないわ」

「お友達っていうのは重すぎるものね、逃げる人には」

「やっぱり判ってるんじゃない。私に必要なものはポケットに入るくらいのものだけで十分」

 

 それもわからない阿呆なんかにゃ用なんてないのよ。いっそ潔いほどに少女は言い切った。

 

「自分勝手ってよく言われない?」

「だから、あんたが言わないでよ。たしかに、前の飼い主にもついでにこっち来てからも『ある方』に言われたことだけどさ……」

 

 少女は半分ほどに減ったカップの中身に映る自分の瞳を見つめる。

 

「でもしょうがないじゃない、こういう性分なんだもの。きっと死ぬまで───ううん、死んでも変わらないし変えられないし変えようもないんだわ」

 

 変えるつもりもないんだけど。向こうだってそれ承知で私を飼ってるわけだし、今のところは上手くいってると思うわ。

 

「上手くいかなくなったら?」

「そのときは、私が逃げ出すか捨てられるかのどちらかね」

 

 ふーむ。そこで言葉を切り、幽香は“まじまじ”と少女を見つめた。実験台の経過観察を行う研究者じみた視線。非難も憐憫(れんびん)も、ましてや同情の色さえ浮かんではいない。そんな“人並み”の感情と、ただの一度だって縁のある女ではなかった。

 その瞳を見つめ返した少女はしばしためらった後、

 

「こんな私を、あなたは軽蔑する?」

「まさか」

 

 幽香は首を振る。

 確かに褒められた生き方ではないけれど、少なくとも偽善は少ないでしょう。そんなものが入り込む余地もないくらい、生きることに必死なのだから。

 

「逃げ出したのを、後悔している?」

「まさか」

 

 少女は首を振る。

 悔いるくらいなら、最初から何もしなければいいのよ。いっそのこと、産まれた瞬間にでも首を吊るなりすればいい。

 

「なら、それでいいじゃない」

「そう、今更よ」

「それに、多分だけれど貴女の選択というのはかなり賢い部類に入るものだと思うし」

「あん?」

 

 お茶請けを用意していないのは片手落ちだったわ。口寂しさを覚えつつ、幽香はカップを傾けた。

 

   *

 

 現在、この世界に存在する『月』と呼ばれるものには二つがある。一つは現実に存在するただの月、もう一つは幻想に属するファンタジーとしての《月》である。

 前者が今現在、《外の世界》の人間が見ている月で、後者が古来から人々が思いを馳せてきた月と言い換えてもいい。

 

 しかしてその実、《外の世界》の人々が見上げているそれ(現実の月)こそが虚構の《月》であり、本物の《月》とは、本来ならファンタジーの側に位置するはずの幻想郷の住人が見ているものであったりするのだ。

 

「逆じゃないの? だってここは───」

 

 言いさして、兎の少女は口をつぐんだ。

 どうやら、気が付いたようね。幽香は優しく微笑んだ。聡い娘は嫌いではない。

 

「嘘か本当か知らないけれど、聞いた話じゃ《外の世界》の人間達はとうとう月にまで足を伸ばすことが出来たそうじゃない」

「……まあね。それがきっかけで、私は地上に逃げ出したんだけどさ」

 

 かつて《外の世界》の人々は、月にまで足を伸ばして旗を打ち立てて、“これ”は自分達のものであると言い切ったことがあるらしい。今からざっと3・40年ばかり前、人間以外の連中にとっては瞬きひとつかふたつくらいの時間である。

 

 ───蓋を開けてみれば、大失敗もいいところの結果に終わったのだが。

 

 月の民との科学力の差は歴然というより雲泥の違いもいいところで、月面に基地を造ると豪語していた連中は基地どころか建造物さえ造ることも出来ずに逃げ帰る羽目になったのだとか。その後も何度か、しつこく人間達は月に出向いてはみたのだそうだが、その都度痛い目を見ては追い返され続けているそうな。

 

 しかしその事実は一般には伏せられた。面子の問題だったのか、あるいはあまりに突飛な内容に公表するのを躊躇(ためら)われたのかは知らないが、とまれかくあれ《外の世界》の人々にとっての月面到着は大成功であると謳われて今に至るのである。

 

 そして問題はここからはじまる。

 

 結果はともかく、彼らは今の今までの人類という種が見上げる対象としてだけの《月》を否定してのけたのである。そして人間達はこれら一連の事象から一つのミームを、自分達も知らぬうちに産み落とし、それはやはり誰に知られることもなく瞬く間に《世界》を覆い尽くした。

 

 あるいは書き換えた。

 

 曰く───やはり月には《ファンタジー》なぞありえなかった。

 

 《外の世界》の人間達にとっての月とは荒涼たる死の世界であり、水も空気もありゃしないし宇宙人だっていやしない不毛の地である。もちろん兎が餅をついていたりもしない。

 幻想郷の住人にとっての《月》とは月の民が住み、地上よりも遥かに進んだ分明による壮麗なる都が建てられた天上人の住まう場所である。もちろん兎は餅をついている(餅以外もついているらしいけど)。

 

 この際、事実はどうでもよろしい。必要なのはより強く、多大な情報を保有する側が優先されるということである。

 

「なら、地上の人間達より月の民にこそ軍配が上がるんじゃないの? だって月と地上の人間達とでは、その差に歴然とした違いがあるのでしょう?」

「文明、あるいは技術、目に見える力に関しては」

 

 幽香に言わせれば、文明とはあくまでも“種全体が保有(共有でもよろしい)する”ポテンシャルエネルギーのごく一部を、目に見える形にしただけのものであって、それだけが種の優劣を決める基準にはなりえない。それがどれほど優れていようが、扱う者達の程度が低ければその意義も諸共に落ち込んでしまうのは至極当然である。道具をうまく扱うだけの畜生は、決して種として優れているわけではないのだ。

 

 “人間は大して成長していない、むしろ退化しているくらいである”とは、現在における兎の少女の飼い主の独白であるが、もしそれを風見幽香が聞いたのならば、彼女は嗤うことさえできずに呆れ返ったことだろう。

 

 ───数えることさえ馬鹿らしくなるだけの時間を、ただひたすら“どぶ”に捨て続けてきた“まがい”の死人に言えたことかしら?

 

   *

 

 あまり知られていないことではあるが、実は月の民という連中、元を正せばそのルーツはこの地上に住まう、要するに地上の人間とだいたい同じような連中だったりする(まあ、湧いて出た時期はやたらと早かったみたいだが)。

 それがなんだって、いまや地上から遠く離れた月なんぞに居着いているのかといえば、それは偏に地上に蔓延(はびこ)る“(けが)れ”から逃れるためである。

 

 “穢れ”とはありとあらゆる《生命》が、生き死にの際に撒き散らす汚染物質のようなものだと思えばいい。これが溜まりに溜まり、その重みに耐え切れなくなった時が“寿命が尽きる”ということである。

 では何故こんな、文字通りの死に至る病のごときものが地上に蔓延するようになったのかといえば、それは生命の営みが織り成す生存競争が主な原因だ。

 

 かつて《世界》は何者も棲まず、それが故に静かで穢れてもいなかった。それが変化しだしたのは、いつしか世界に《生命》が産声を上げだした頃のことである(最初の生命に発声器官なぞがあったかどうかは知らないが)。

 まず海に満ちた生命が戦いを始めた。個として、あるいは種として少しでも多く生き残るために。そして勝者となった生命は地上に進出し、やはりというかそこでも生き残りを賭した壮絶な戦いを繰り広げた。その過程で数多くの生命が死に、あるいは死に絶え、世界のいたるところで屍の山が積み重ねられ、流された血は河のごとき有様となり───結果、地上に“穢れ”が撒き散らされることになったのである。

 

 本来ならば、生き物はいつまでも生きることができるのだが、撒き散らされた“穢れ”が生き物に寿命を与えてしまった。その量、大まかには何十億年分。途方もないとはこのことだ。

 生命の歴史は闘争の積み重ね、一秒ごとに幾千幾万の血を啜り上げる世界であったから地上はますます穢れる一方で、現在だと地上の生き物は百年以上は生きられないという始末だ。こんなどうしようもない世界では、かつての月の民が地上を棄てたのもけだし当然といえよう。

 

 しかし、そこに手酷い“しっぺ返し”が潜んでいたと誰がどれほど気付いているのだろうか。

 

 先にも述べたが、“穢れ”とは生命が他の生命、その存在を食い散らかしたことによって己が身に刻み込まれた罪の証である。

 しかし逆に考えるならそれこそは、現在、地上に生きるすべての者共が激烈無比なる生存競争の果てに掴んでのけた勝利の証であるとは云えまいか。そして月の民こそはその血みどろの闘争から、真っ先に逃げ出した敗北者と捉えることができまいか。

 

 風見幽香は嘆息する。

 

「人間達は───もっと言ってしまうと人間含めたすべての生命は───貴方達がいうところの《穢れ》に満ち充ちた世界でずっと戦い続けてきたのよ。それこそ死に物狂いで、ね」

 

 その間、この世界を不浄汚濁に満ちた穢土の地と決めつけて、生きていくことさえままならずに逃げ出した貴女達は何をしていたのかしら。幽香の舌鋒は鋭くはないが、耳にする者の心を鈍器で打つような響きがあった。

 

 風見幽香は人間という生き物を特別だと考えたことなど、ただの一度もありはしない。しかして、人間という種が積み上げてきた“営み”までを軽んじたこともまた一度もなかった。確かに《個》としての“人間”はあまりにも脆弱で、月の民とは比べることさえ愚かしいだろう。しかして《種》としての『人類』が、進化の過程で血肉に刻みつけてきた《記録》に、はてさて、月に住まう者達が勝ちうるものだろうか。

 

「人間達が全体で共有するミーム、その力はもはや当の人間達でさえ御しきれるものではなくなっている」

 

 いわんや、貴方達では抗うことも出来ないでしょうね。

 

「でも、あんたの説明には根本的な問題、というか矛盾がある」

「?」

「百歩譲って、地上の人間達には月の連中が敵わないとしても、それがどうして《外の世界》に確固として存在している《月》の否定に繋がるのかってことよ」

 

 幽香が語るように《外の世界》で月やその住人が存在を否定されたとするのなら、そいつらは片っ端から《こっち》に流れているはず。いわゆる、《幻想入り》と呼ばれる現象である。あるべき現世からありえぬ幽世への追放刑、もしくは役に立たなくなったファンタジーの廃棄。幻想の郷といえば聞こえはいいが、その実はただのガラクタの埋立地であるわけだ。

 

「私の飼い主が言うには月からは《こちら側》───幻想郷の存在を確認できないんだって。ということは、いまだに月は《あちら側》にあるとみるべきでしょ」

「なにか勘違いがあるみたいだけれど、幻想郷を維持している《結界》は、物理的な距離や壁として世界を“断絶”しているのではないのよ」

「あー?」

 

 幻想郷を形成する上で欠かせぬものの一つに、《博麗大結界》というものがある。

 

 通常の、世界を『俗世』『聖域』でカテゴライズして切り離すだけの《結界》と違い、これは現世と幽世を物理的にではなく『論理的側面から』隔離するという代物だ。世界を《常識》の支配する場所と《非常識》が幅を利かせる場所とで別ち、妖怪の維持にとって不利な情報を遮断する論理の迷宮、それが《博麗大結界》である。

 

「そもそも、並の結界ごときで囲ったくらいじゃ《外の世界》による《常識》の侵食は防げないでしょう」

 

 それ以前に、もし物理的に断絶していたとするのなら、その時点で幻想郷は巨大な密閉空間となって内部の住人は片っ端から全滅である。

 

 妖怪達の存在が危うくなったのは、人間が妖怪の存在を信じなくなったという以上に、『この世に妖怪なぞ存在しない』というミームが世界を覆い尽くしたというのが大きい。

 ミームの力は絶大だ。それこそ、現在どころか過去未来の一切合切にさえ干渉し、白を黒、有るを無いと置き換える。そして一度目をつけられたが最後、もうなにがどうあろうと“そういうものである”と括られてしまうのだ。例を挙げると少し前に復活した古代の豪族の親玉がそれだ。本人の実態は一切考慮されず、後世の(要するに現在の)人々にとって都合のよい部分だけが抜き出されて現世に留まり、都合の悪い実像は《幻想》の彼岸に放逐された。

 

「その意味で言うのなら、今まで幻想郷において私達が見上げてきた『月』とは、人々が思いを馳せてきた《幻想》の側に属していた《月》であったというわけね」

「……ますます解らない。それなら今、《外の世界》に存在している月っていうのは何だってのよ」

「ここまできたら、もう解っているんじゃないの?」

 

 幽香は投げやり気味に言った。

 

 ───目の前に見えるのは真実ではない あなたの脳が作り出す幻よ。

 

 《月》がいまだに人の手から遠い場所にある内ならば、まだ人の心の片隅に《月》への憧憬や幻想が残っていられるけれど、人間の進歩によってはいずれそれとて消え失せる。その時、あらためて人間達の生み出したミームと、月の民の実像(積み上げてきた歴史を含んだ存在意義)とがぶつかり合う時がくる。

 

「現実と幻想の間で、辛うじて保たれているバランスが傾いた時、それが《月》が完全に否定される時というわけね。果たして、彼らは上手いこと幻想の側に取り込まれることが出来そうかしら?」

 

 滑稽ね。世界を捨てたと思った貴方達こそが、その実、世界からも人間達からも見捨てられていたのよ。語る幽香の瞳には、しかしほんの僅かな笑みさえ浮かんではいなかった。

 最早、《外の世界》の人間達は月の民のことなど相手にもしないどころか、存在を認識することさえできないだろう。なにせ、そんなものは“元からいない”のだから。

 

「あんた達、妖怪みたいにね」

「まったくもって、その通り」

 

 少女の皮肉の返礼を、幽香は怒りもせずに首肯する。月のファンタジーも地上の幻想も、人間達にとってはもう過去の遺物どころか飽きたオモチャ以下のガラクタでしかない。

 

「でも“ここ”でなら、存在する理由さえない“まぼろし”でも、生きていくことができる。結果として貴女は、正しい選択をしたとも言えるのよ」

「まさか、それで慰めてるつもり?」

「それこそまさか。言ってみただけよ」

「あんたならそう言うと思ったわ」

 

 兎の少女は心底から厭そうな顔をした。

 

 所詮、幻想はそれを抱く者達にとっての都合のよい道具以上にはなれっこないのだわ。幽香は今更ながらの慨嘆を抱いた。見れば少女も似たような表情でコーヒーカップを玩びながら、虚空に目を彷徨わせている。

 どちらともなく顔を見合わせる二つの異なる口から同じ声音が聞こえてきた。

 

 怖いわー人間怖いわー。

 

「Glory with the Moon. Mercy on the Earth───今となっちゃ虚しい空威張りね」

「なあに、それ?」

「私達が、玉兎が最初に憶えさせられる言葉、『月ノ民ニ栄光アレ、地上ノ民ニ慈悲アレ』ってさ」

 

 より正確には刷り込みだけど。兎の少女は自嘲気味に語る。

 なんでも彼女達の故郷では、脳みそに直接、記録や知識を焼き付ける学習機械というものがあるのだとかで、教育などはそれで賄われるのだそうな。つくづく便利なものだと幽香は思った。

 

「その機械でなら、私でも友達たくさん作る方法とか学べるのかしら」

「あるわけないでしょう、そんなもん。それにあったとしても、植え付けられるのは『知識』だけで、それをどう使うかは本人次第でしかないのよ」

「んー……じゃあ、貴女のところの薬剤師さんに頼んで、友達のできるお薬でも作ってもらおうかしら」

「どんなのよ、それ」

「飲んだ人がなんでかよく判らないけど私とお友達になりたくなるの」

「……私が言うのもなんだけど、そういう風に作るもんじゃないでしょ、友達ってもんは」

「常習性とか禁断症状があるお薬ならいけるんじゃないかしら」

「さては馬鹿でしょう、あんた」

 

   *

 

「……なんだか、ずいぶんと長話になったわね。誰かとこんなにお喋りしたのって、久しぶりだわ」

 

 下手すりゃ生まれてはじめてのことかもね。“ぽつり”と、独り言のように言って少女は残った珈琲を飲み干した。

 

「私、そろそろ行かないと。珈琲、ごちそうさま」

「あら、もう行っちゃうのね。名残惜しいわ」

「一応、これで食べてるわけだからね、いつまでも油売ってられる身分じゃないのよ」

「薬売りだけに」

「上手いこと言ったつもり?」

 

 少女は呆れ顔でカップを返して立ち上がり、葛籠を背負う。幽香もシートとカップを仕舞って立ち上がる。

 別れしなに、兎の少女が言った。

 

「私はこれから『里』の方に行くんだけど、あなたはどうするの。迷ってるんだったら“ついで”に出口まで道案内してあげるわよ?」

 

 もちろん“ロハ”って訳にはいかないのだけど、珈琲のお礼として少しならまけてあげる。少女の提案に幽香は“しずしず”と首を振った。

 

「今回は遠慮しておくわ。もう少しここを回ってみたいの」

「あっそ。まあ好きにすればいいんじゃない」

 

 兎の少女は素っ気ない。あえてそうしているのでもなんでもなく、目の前の女がどうなろうと腹の底から知ったことではないのだ。

 そんな態度に気を悪くもせず、幽香は奇妙なことをしだした。手を合わせて目を瞑り、「なむなむ」とまるで拝むようにして頭を垂れたのである───スカートからすらりと伸びた、少女の足に向けて。

 

「……なにをしてるのよ」

 

 兎の少女の訝しげな問いに、幽香は片目だけを開けて応えた。

 

「お祈り。兎の足って縁起物なんでしょう?」

「私の足に祈っても御利益なんて期待できないと思うけど」

(いわし)の頭も信心から───貴女の足は、鰯の頭よりはありがたみがありそうだし」

 

 はあ、そんなもんなの。釈然としない顔の兎の少女。未開の地に住まう原住民による、得体の知れない儀式か奇祭を目の当たりにしたような気分だった。

 

   *

 

 このお祈りが功を奏したのか、はたまた少女の足に本当に御利益があったのかは定かではないが、風見幽香はそれから一週間後に竹林を出ることがかなったのである。




 登場人物

風見幽香

備考───ちいさなしあわせみつけたい

兎の少女

備考───エロ同人で高確率で酷い目に遭う程度の能力を持つブルセラバニー


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第8話 Love so

 風見幽香の朝は相変わらず早い。

 

 いつものように空も白まぬ内から目を覚ました幽香は、いつものように上体を起こしたベッドの上でいつものように身じろぎもせずいつものように“ぼけーっ”としていた。

 

 そこまでは“いつものこと”なのだが、今朝は少しだけ違ったらしい。

 

 幽香はベッドの端っこに遠慮するようにして身を寄せている自分を、焦点の合わない瞳で見渡した。ただでさえ粗末で手狭な(当然のことながら寝心地も悪い)ベッドに、そんな格好で寝ていたら誰だってよく眠れた気分がしない。

 だったら普通に真ん中を使えば良さそうなものだが、そうすることはできないのだから仕方がない。

 

 たまにあることなのだ。

 

 とはいえ、多少“いつも”と違った朝を迎えたところで、“風見幽香”にはいささかの違いもありはしない。しばしの間、“ぼーっ”とした顔でいた後、幽香は「おはよう」とつぶやき、“もぞもぞ”と這いずるようにしてベッドから出た。

 幽香はいつものように、手早く着替えをはじめとした身支度を済ませて台所に足を運び、手を洗い慣れた様子で皿や調理器具を用意していく。

 

 今日の朝ごはんはオムレツがいいなあ。眠気の抜け切らない頭で考えながら、幽香はかまどに火を入れた。

 

   *

 

 結果として今朝の食卓に上ったのは、炊きたての熱いご飯と生卵、茄子と胡瓜の漬物に大根の味噌汁だった。なんでそうなったのかは幽香にも判らないが、そういうものなのだから仕方がない。

 

 たまにあることなのだ。

 

 いただきます。両手を合わせて行儀よく挨拶ひとつ、箸を手に取る。

 テーブルの上には二人分の食事が並べられているが、幽香が箸をつけるのは一人分、自分の前に置かれたものだけである。風見幽香は大食らいでもなければ小食でもない。じゃあ、なんだって二人分用意したのかという話になるが、そういうものなのだから仕方がないのだ。

 

 なにせ、たまにあることなのだから。

 

   *

 

 ゆっくりと時間をかけて朝食を終えた幽香は、食後の茶をこれまたゆっくりと喫してから後片付けにかかった。綺麗に食べつくされた二人分の食器を台所に運び、汚れを拭ってから水に漬けておく。洗うのはしばらく経った後でいい。

 

 後片付けを済ませた後、手持ち無沙汰になった幽香はなにかやることを思いつくまで読書をすることにした。新しく茶を淹れて、大きさだけは立派な本棚から一冊の漫画───表紙には『アップルパラダイス』とある───を取り出した。

 それと選んでいるときに気が付いたのだが、少し前と本の並びが違っていた。しかしこれも、たまにあることなので気にしない。

 

 軋み音を立てる椅子に優雅に足を組んで座り、茶を口にしながらゆったりと読み進める。時折、思い出したように口元を緩め、あるいは“くすくす”と静かに笑うその姿は、まるでページをめくることすらも楽しくてしかたがないように見えた。

 

   *

 

 ───そういえば、洗濯物が溜まってきてたんだっけ

 

 それを思い出したのは3巻目の丁度真ん中あたり、雨の日のエピソードに目を通したときだった。金糸で織られた(しおり)をはさんでページを閉じ、椅子から立ち上がって窓に近寄る。

 

 良い天気だこと。窓の外に広がる景色に、幽香の口元がほころぶ。空を臨んではるかな向こうに蝸牛(かたつむり)のような緩慢さで空を流れる入道雲、ゆるやかな風にたなびく向日葵が陽の光を弾いて黄金色に輝いている。洗濯物や布団を干すのには、まこと絶好の日和と言うべきであろう。

 

 そうと決まれば善は急げ。幽香は早速、洗濯の準備にかかった。

 

   *

 

 洗い物を詰め込んだ二抱えほどの大きさのラタンの籠と、同じくらいに大きな洗濯桶、それとこれだけは並のサイズの洗濯板を手に幽香は家を出た。

 

 籠にせよ桶にせよ、余程の力自慢でも難儀しそうなサイズだが、幽香にとっては何ほどのこともない。軽々と担いで向かう先は少し離れたところを流れる小川。普段の洗濯なら家の横に置かれている井戸を使うのだが、せっかく天気が良いのだからということで、お散歩がてらにわざわざ遠出したのだ。

 

 しばらくして、目的の川に到着した。

 

 幽香は木桶を川に突っ込んで水を汲み、洗い物を洗濯板を使って清めていく。布地を傷めぬよう優しく、それでいてわずかな汚れも残さぬように、丁寧に洗う。どうせ元から塵の一つだって付着していないのだけれど。

 なぜか洗濯カゴの中に普段から着用しているブラウスやスカート、ハンカチなどと一緒に、見覚えのないどころか購入した憶えもましてや袖を通したことさえない、リボンやフリルをふんだんにあしらった服(しかもサイズも合わない)がいくつも混じっていたが、気にせずそれも一緒に洗う。

 

 照りつけるお天道様と、どこからか聞こえてくる蝉の鳴き声、それに混じる“ざぶざぶ”という水の音、手に伝わる水の涼やかさが心地よい。

 

 いつしか、幽香の秀麗な唇から歌声がこぼれてきた。

 

 ───今日の仕事も大変だけど、まどろすさんは流れ者ー

 

 軽妙かつ脳天気な、それ以上に珍妙にして奇天烈なフレーズの歌であった。何処で憶えた歌なのか幽香自身も知らない。ひょっとしたら今、彼女が勝手に作った歌なのかもしれない。

 

 楽しげに歌いながら幽香が川で洗濯をしていると、川上からなにかが“どんぶらこどんぶらこ”と流れてきた。

 あら、なにかしら。手を休め、幽香はそれに目を向けた。

 

 流れてきたのは女の子だった。水の色をした髪を両サイドでアップに括り、大きなリュックを背負った少女。それが失神でもしているのか、水面にうつ伏せ力が抜けきったような格好で流されているのだ。

 

 ───なんだ、河童(かっぱ)

 

 一瞥(いちべつ)してその正体を見て取った幽香は途端に興味を失った。歌と洗濯を再開する。

 

 ───はたらくはたらくはたらく少女ー

 

 歌う幽香の目の前を、河童の少女が流れゆく。

 

 河童というのは《妖怪の山》、その麓にある『玄武の沢』を主な“ねぐら”にしている、読んで字の如くに河の妖怪だ(なので河を離れて暮らすようになると『山童(ヤマワロ)』と名前が変わる)。

 

 そういえばいつだったか忘れたが、長年に渡り悪さをしてた仙人をひっ捕まえるために地獄の大物が地上に出張って来たことがあったのだが、その時とばっちりをくらって玄武の沢を追ん出された大量の河童連中が山童に転向したとかなんとか。そんな簡単になれるもんなのだろうか。

 

 手先が非常に器用なことで知られ、その技術を活かして生活の役に立つ道具を作ったり、何の役にも立たない道具を作ったり、誰の足しにもならない道具を作ったり、どうやって使うのか自分達でもわからない道具を作ったりしている。例えば、人間の里に天気予測機能付き『龍神の石像』というものが置かれているのだが、それを造ったのが実はこいつらだったりする。それ以外にも、ときたま《外の世界》から流れてくる道具を修繕したり見よう見まねでコピーしたりするあたり、器用なんてレベルを超えているような気もしないでもない。

 

 また妖怪の中では珍しく、人間に対して友好的な態度で接することでも知られ、『古来よりの人間達の盟友』を“自称”したりもする。先の、『龍神の石像』を造ったのがその表れである。

 

 しかしその割には普通に人間の尻子玉を引っこ抜いたり(引っこ抜かれると死ぬ)、水遊びと称して人間を川で溺れさせたり(溺れると死ぬ)するらしいので、人間の側からどう見られているのかまでは不明なのだが。水と油は交われない。

 

 それはさておき件の河童の少女だが、傍目にはどう見ても土左衛門(どざえもん)のごとき格好である。川上で何かあったのだろうか。そういえばこれはどうでもいい話だが、幽香はかつて本物の、土左衛門の語源になった相撲取りを見たことがあるのだが、水死体に喩えられるほど酷いご面相ではなかったような気がする。本当に、どうでもよろしいが。

 

 しかれども、そんな河童の少女の有り様も幽香の気を引くにはいたらない。そもそも『河童の川流れ』は幻想郷における季節の風物詩のようなもので、大騒ぎするほどのものではないのだ。まあ、春だろうと夏になろうと秋が来ようと冬を迎えようとお構いなしに流れてきたりするのだけれど。

 

 どうせなら桃が流れてくればよかったのに。まこと残念な気分で幽香は洗濯を続ける。桃だったら割ると中から友達が出てきてくれるらしいと昔、本で読んだことがあるのだが河童ではどうしようもない。割っても精々がとこ、臓物が飛び散るだけであろう。風見幽香は血なまぐさいのはあまり好きではない。

 

 幽香の心中も知らず、河童の少女は“どんぶらこどんぶらこ”と流れていった。

 

   *

 

 一般には花の大妖・風見幽香によって護られていると云われ、迂闊に立ち入るものは死をもって償わされるなどとまで伝わる『太陽の畑』だが、実のところ彼女自身はこの向日葵畑に関してはノータッチである。誰が入ってこようが何をしでかそうが、彼女の知ったことではないし興味もない。というのも───

 

 たまたま夏の時期に、一番花の咲いてる場所が“ここ”だったから住んでいるだけで、他にも良い場所があるならそこに住むだけ。

 

 ───なのだそうな。

 そもそもこの女、四季折々にその季節ごとの花を求めてうろつき回る遊牧民(ずいぶんと物騒だが)のようなやつなので、特定の場所や物に対して執着するということがない(というかできない。それ以前に理解の範疇外なのだ)。

 

 空を泳ぐ雲の闊達(かったつ)さと、世界を巡る風の自由───風見幽香と人が呼ぶ、花の女のポケットにはそれだけがあれば満ち足りる。“しがらみ”のない、といえば聞こえは良いが、結局のところなにもかもが“どうでもいい”ということである。知ったことではなく興味もないとはそういうことだ。

 

 したがって、例えばこの畑の花が目の前で枯れようが風に吹き散らされようが誰ぞに踏み荒らされようがつぐみの名を冠するロケットが堕ちてこようが、特に思うことも感じることもないのだ。気が向けば、水をやったり種を蒔いたり害虫を取ってやったりといった世話を焼いたりはするのだが、大体の場合はほったらかしである。彼女に言わせれば『咲くも一生、枯れるも一生』ということらしい。

 

 とはいえ、目についた者がなにか気に障るようなことをしたなら、何も言わずに殴り飛ばす手足を千切るくらいはする女なので、やはり下手に近づくような真似はしないのが賢明なのだけれど。君子賢者を名乗るための第一歩は、危ないものには近寄らないことである。

 

   *

 

 洗濯物を庭の物干しに吊るし終えた幽香は、少し休んだ後に再度、家を後にした。

 

 さっきと違い、今回の外出ではおとぎ話のヒロインよろしく、ラタンで編まれたバスケットを手にしている。中身はケーキとブドウ酒の瓶ならぬ、弁当と酒の入った(ふくべ)だ。洗濯のときと同じく、せっかくだから外出ついでに軽いピクニックとでも洒落込もうというわけだ。たまには書を捨て町へ出るのも悪くない。里はあっても町はない場所だが。

 

 出かける幽香を見送るように、洗濯物が風に揺れた。今日は日差しが強くそこそこ風も出ているので、これなら帰ってくる頃にはちょうどいい具合に乾いているだろう。

 

 太陽の畑を出て、そこから山を迂回してその脇を流れる川伝いに歩いていく。途中、見かけた綺麗な鳥や蝶々を追いかけて何度か“ふらふら”と道を逸れたり、川を泳ぐ小魚の姿や路端に咲いている花を眺めたりと、道草をしながら気ままに歩いていく。

 それからしばらくの後、『魔法の森』と呼ばれる原生林の少し手前にある野っ原で幽香は足を止めた。家を出てからもう半刻ほど経っている。どれだけのんびり歩いても、その四半分程度の時間も必要としないはずの道程に、これだけかかった理由は言うまでもない。

 

 到着した野原では一人の少女が“つくねん”と立っていた。

 

 夏の草木にも負けぬほど、鮮やかな緑の髪を思い切りよくショートカットにした小柄な少女。真っ白なブラウスと古めかしいデザインのキュロットという、レトロな組み合わせの服が、ボーイッシュな顔立ちも相まって中性的な印象を植え付けている。しかし真夏の最中だというのにインバネスとマントの中間のような黒い外套を羽織るのはどうかと幽香は思う。見ている分には暑苦しくて仕方がない。少女の頭頂部からは虫の触覚のようなものが生えているので、目端の利くものならそこから妖怪の類であるのが見て取れるだろう。ちなみに蛍の妖怪である。

 

 幽香は穏やかな挨拶をその少女へと向けた。

 

「こんにちは」

 

 春や夏に咲く花を集め、顔の形に飾ったかのように華やかな笑顔を向けられても少女は無反応だった。というよりも無視を決め込んでいると言ったほうが正しいのか。

 無礼と言ってもいいその態度を気にも留めず、幽香はポケットからガラスでできた少し大きめの空き瓶を取り出して用向きを伝えた。

 

「要件はいつもの通り。蜂蜜をわけてほしいの」

 

 少女は黙って瓶を受け取り、草むらの奥に溶けこむように消えていった。

 

 相変わらず、無愛想な子だ。少女の姿を見送り、幽香はやや残念そうな顔で思った。さもありなん。本来ならば快活な表情こそが似合いそうな少女だけに、あのような憮然とした顔をしているのは勿体ないと、誰も彼もが彼女に同意したことであろう。

 

 しかしそれも致し方がないことではあるのだが。

 

 実は当の本人である幽香は忘れているのだが、彼女と少女の間にはちょいとした、そして面倒な関わり合いがあった。

 

 あれは一体どれだけ前の夏のことだっただろうか。例年のごとく季節の移り変わりとともに太陽の畑に居を移したばかりの幽香の元へ、かの蛍の少女が姿を見せたのは。

 

 例によって“ぼんやり”と、状況が掴めないかのように風変わりな客を出迎えた風見幽香へ、少女は傲然と言い放ったものである───この花畑を明け渡せ。

 

 やだ。幽香は短くそれを拒絶した。とはいっても別に───

 

『下賎な蟲妖怪風情が、この天下に名高き大妖・風見幽香に楯突くとは増長慢(ぞうちょうまん)ここに極まれり。己が矮小なる身の程を知るがよい』

 

 ───なんぞという格好の良い理由からでは、ない。

 

 丁度その頃、日課としていたアサガオの観察日記をつけるのに忙しくてそれどころではなかったのだ。少女が意気揚々とやってきたその日も、幽香は真新しい日記帳を手に、育てているアサガオのところへと向かうところであった。

 

 なので、それ以上は何も言わずに少女を殴り飛ばし手足を引き千切った。

 

 無論、少女とて無抵抗主義を奉じているわけでもなければ非暴力主義への殉教者を気取っているわけでもなかったので抵抗はした。まったくの無駄に終わったが。全身を一分の隙なく少女の喚び出した毒虫害虫魔蟲妖蟲に、たかられ覆われ纏わりつかれ裂かれ溶かされ囓られ貪られ喰いちぎられてなお、幽香はまったく気にも怯みもしないで少女の手足をもぎ取ったものである。

 

 最初に首を引っこ抜いておけば手間がかからずに済んだのかな。

 幽香がそれに気が付いたのは、蛍あらため“芋虫”となった少女を道端に蹴り転がしたところであったが、あらためて少女を手にかける気にはなれなかった。せめてもの仏心からでもなんでもなく、それより日記をつけるほうが大事だったのと、あと単に面倒くさかったからである。風見幽香は暇人もとい暇妖怪だが、それでも踏めば潰れる羽虫のために時間を浪費したいとまでは思わない。

 

 なお、これら一連の行動をやり過ぎと罵るものがいるとするのなら、そいつは妖怪というものをあまりにも知らなさすぎる。手足をなくしたら“それっきり”の人間と違い、妖怪というのは死にさえしなければ多少の怪我を追ったところで、しばらくすれば元通りなのだ。

 

 観察日記を付け終わって帰ってくる頃には少女の姿はどこかへと消えており、その時点で幽香もその存在を忘れていた。この女、馬鹿ではないがあまり頭を使わない生き方をしてきたせいか、物覚えはさほどよろしくない。

 

 なんとも無残な形で切れたはずの少女と幽香の縁の糸が再び交わったのは、それからいくつかの、両手両足の指の数を足したくらいの季節が巡った後のことだった。虫を操る力を持った妖怪がいるとの噂をどこからか聞いた幽香は、その能力を使って新鮮な蜂蜜を集めてもらおうと思い立ち、幻想郷の津々浦々を探しまわった末に蛍の少女と再会を果たしたのである。

 

 蛍の少女にしてみればたまったもんではなかったろう。半ば自業自得とはいえ、かつて自分に地獄を見せた女がその時のことなぞ“けろり”と忘れて頼み事をしに来たのだ。幽香にその気がなくとも、傍からすれば脅迫されているようにしか感じられまい。

 

 なによりもあれほどの目に遭わされた自分の存在とは、この女にしてみればほんの僅かな記憶にもとどめられぬ、文字通り“虫ケラにさえ劣る”ものでしかないという事実は、少女のちっぽけな矜持をこの上ない形で踏みにじったのだ。これで仏頂面以外の顔を浮かべることが出来る奴は、それこそ金城鉄壁(きんじょうてっぺき)のごとき精神の持ち主か、はたまた余程の聖人君子(せいじんくんし)のどちらかくらいなもんである。蛍の少女はそのどちらでもなかった。

 

 そんな過去の出来事もいざ知らず(知っていてもどうでもよかったろうが)、幽香の頭の中は少女が持ってくるであろう蜂蜜のことでいっぱいである。彼女らの関係は、少なくとも幽香にとっては有意義なものであるらしかった。

 

 さして待つほどのこともなく、少女は戻ってきた。

 採れたての蜂蜜が一杯に詰められた瓶を受け取り、幽香は艶やかな笑みを浮かべて礼を言う。向日葵の女王のごときあえかな笑みの向かい先にいる少女は、やはり黙りこくったままだったが。

 

「じゃあ、またね」

 

 小さな会釈をひとつ、幽香は軽快な足取りで歩み去る。

 

 その背中を蛍の少女は睨みつけた。煮えたぎるほどの憎しみと凍りつくほどの恐怖がない混ぜになった瞳で───花の妖怪がここに来てから、ずっとそうだったように。

 

 立ち去ってからしばらくしても、それは変わらずにいた。

 

 時が凍りついたかのように身動ぎもせず、少女は立ち尽くしていた。




 登場人物

風見幽香

備考───てきぱきはたらきもの

河童の少女

備考───モブ河童の中でも頻繁に出てくるボブヘアーの子、あれって河童とおかっぱ、もしくはモブ河童とボブカットをかけたシャレなんかね

蛍の少女

備考───芋虫にトランスフォーム可能


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第9話 星蓮ガランドウ

 蛍の少女からお目当てのものを受け取った幽香はその足で魔法の森を抜け、森の裏手にある『再思(さいし)の道』へと進んだ。

 

 秋ともなれば地面を埋め尽くす彼岸花によって、真紅の彩りを帯びるこの小路も今の季節は寂しいものだ。なによりこの辺は幻想郷の端の端とでもいうべき場所なので、人も妖怪も滅多にうろつかない。それがより一層の寂寥感(せきりょうかん)として来る者を抱きすくめるが故に、この小さな道を尚更に近寄り難いものにするのだ。

 

 自身の立てる足音以外は、何も聞こえぬ再思の道を通り抜けた幽香がたどり着いたのは、木々に囲まれた小さな空間であった。

 現世から切り離された常世のごとき静けさでもって、幽香を招じ入れる“ここ”は幻想郷の“行き止まり”のようなところである。

 

 その名を『無縁塚(むえんづか)』。

 

 無縁塚は幻想郷の中でも、とりわけ人間妖怪一切問わずに危険な場所として知られている。

 というのもここは元々、縁者身寄りの無い者の墓地───故に『無縁塚』───だったのだが、閉じた世界である幻想郷において、縁者親戚がいないものといえば《外の世界》からやってきた者達が大半を占める。それがため、ここの比率が段々と《外の世界》に偏りはじめ、ここらの結界が緩んでしまったのである。

 

 更にはまずい事というのは重なるものなのか、墓地ということもあり冥界とも接点が出来ているので、下手に足を踏み入れれば何が起こるか知れたものではない(結界の、いわば現実と非現実の交錯地点であるので、自身の存在を維持するのが困難になる)。そういえば、魔法の森の入り口で店を構えている雑貨屋の店主は、彼岸の時期ともなればここを訪れて無縁仏の供養をしているのだと聞く。自分の身を(かえり)みず死者の魂を慰めるとは、まこと(とく)(あつ)き人物であると言わざるをえない。その死後は極楽に行けること請け合いであろう。

 

 今日日(きょうび)珍しいくらい清廉篤実(せいれんとくじつ)なる店主のことはさておいて、そんな無縁塚の近くに一軒の小屋が建っている。

 

 小屋というよりは掘っ立て小屋、掘っ立て小屋というよりむしろボロ小屋、ボロ小屋呼ばわりするくらいならいっそ廃屋とでも言ったほうがしっくりくる、人間たちが原始的な土器を造り始めた時代の住居の方が“まだしも”と思わせるほどの粗末さ加減は、幽香の棲み家にさえ勝るほどである。勝ったところで家主は嬉しくなかろうが。

 

 小屋には扉はなく、出入口のところに煮染(にし)めたような色合いのこれまた粗末な“むしろ”がシェード代わりに架けられているきりである。それを潜った先の小屋の内装は、外見の見窄(みすぼ)らしさに引けをとらないくらい貧相なものであった。

 

「君か。そろそろくると思っていたよ」

 

 壁紙などという洒落たものは当然のようになく、地べたには擦り切れた茣蓙が敷かれただけの仄暗い室内で幽香を迎えたのは、ややクセのある灰色の髪と血色の瞳を持つ少女だった。

 

 少女は茣蓙の上に胡座をかき、幽香を見上げている。幽香を伺う視線といい物腰といい、知的というよりむしろ聡明さと狡猾さが同居する、決して気を許せない小動物のようなイメージの少女。頭にはネズミのそれを思わせる大きな耳と、腰からはやはりネズミのような尻尾が伸びている。風体から察することもできようが妖怪だ。念の為に断っておくが、猫の妖怪ではない。猫が好んで追っかけてる方だ。

 

「食事のお邪魔をしたみたいね」

 

 少女が手にしている獣のものとも鳥のそれともつかぬ、得体の知れない肉の丸焼きを“ちら”と見て、幽香は言った。

 

「なあに、構わんよ。お客ってのは神様だ。神仏に仕える身としちゃ、神様は敬わんとな」

 

 やや皮肉げなものを面に浮かべ、。少女はまだ半分ほどを残した肉を小屋の片隅に放った。“投げ捨てた”のでは、ない。

 放られた肉が床(といっても地べたに茣蓙を敷いただけのものだが)に落ちるや、どこからともなく湧いて出た『黒い塊』のようなものがそれを覆い尽くし───そこから“かりかりかり”という、硬いもの同士が打ちあうような音が聞こえてきた。

 

 音はしばらくの間、小屋の中を満たし、唐突に止んだ。同じくして、肉に覆い被さっていた塊も“そそくさ”と消え失せる。跡には何も───それこそ肉の一片どころか、骨粉一つ───残されてはいなかった。並の人間ならばその気色の悪さに怖気をふるうなり居心地の悪さを覚えるなりするのであろうが、ここにいるのは両者ともに“並”でもなければ“人間”ですらない。

 

 手についた肉の名残を惜しそうに舐めとる少女へ、バスケットから大きな瓢を取り出しながら幽香は言った。

 

「後片付けが済んだところで、商談といきましょうか───それとこれは差し入れよ」

「やあ、すまないね」

 

 少女は満面の笑顔を浮かべて瓢を受け取った。

 ほう、これは。微かに漂ってくる芳醇な酒の香に可愛らしく小鼻をひくつかせ、ネズミの少女は軽い驚きを口にした。

 

「───《老春(ろうしゅん)》だな」

 

 はるけき過去に《詩仙》《詩聖》の名をもって讃えられた大詩人が愛したと伝えられる酒の銘である。ただしそれがいかなるものであったのか、いかにして造るものであったのか、それらの口伝も今や失われ、ただ《老春》の銘とその造り手の名のみが、彼の詩仙がものした詩にとどめられるばかりであるが。

 

「よくご存知で」

「昔、何度か口にする機会があってね。しかし今の御時世によく手に入ったものだ。一体どうやって、これを手に入れなすったね?」

「造ったの、自分で」

「ほほう?」

 

 思いもかけぬ応えに、興味深げな顔を向けるネズミの少女。濁酒、いわゆる家庭でも造れる“どぶろく”と違い、こと“清酒(すみざけ)”呼ばれるものは造るのにそれなりの手間と人手、そして相応の設備が必要になるはずだが、一体どうやって仕込んだのだろう。それ以前に、どのような伝手でこの酒の作り方を知ったのやら。

 

 まあ、よかろうさ。少女は胸中で鎌首をもたげかけた好奇心を引っ込め蓋をした。

 下手な好奇心は時として、彼女らの不倶戴天の敵をも殺すのだ。この女の私生活に首を突っ込んだところで、ロクな事にならなさそうな気がするし。大した力も持たない少女だが、それだけに危機を察知する嗅覚には並々ならぬものがあるのだ。

 

 少女は取り繕うように瓢を幽香へ掲げてみせた。

 

「商談の前に一献(いっこん)いかがかね? と言っても、元は君のだがよ」

 

 いただきましょう。艶然とした笑みを浮かべ、幽香は誘いを受ける。どうせ両名とも、真昼間から酒を飲むことに抵抗があるわけでなし。

 

 ネズミの少女は小屋の隅っこに置かれている頑丈そうな茶色の紙箱から、ところどころが欠けた粗末な茶碗を取り出した。その数、三つ。ここにはネズミの少女と花の女がいるっきりのはずだが。

 

 一瞬だけネズミの少女は訝しげな顔つきをしたが、黙って茶碗を幽香の前に二つ、自分の前に一つ置き酒を注いだ。

 賢明というべきである。この程度のことをいちいち気にするようでは、幻想郷では三日と保たずにノイローゼとなるのを免れない。

 

 音に聞こえし天下の銘酒を満たした茶碗を手に取って、ネズミの少女は揺らめく酒精の波頭に愛おしげな視線を送った。そして思い切りよく“ぐい”と呷る。

 

 見た目からは想像もつかぬ呑みっぷりに、幽香の唇がわずかにほころんだようだった。幽香が手にするのはやはり、少女のそれと同じく粗末極まる欠け茶碗だが、この女の手にあるとそれさえも天下の大名物のようにさえ見える。当人も意図せぬ“華”とでもいうべきものがそう見せるのだ。

 

 口元を手で拭い、少女は腹の底から絞り出したような歎声を発した。

 

「……ああ、堪らんね。辛い浮き世にゃ、これがないとやってられん」

 

 実はネズミの少女がこんな辺鄙(へんぴ)な場所に住み暮らしている理由の一つがこれであったりする。彼女の主人やお仲間連中が暮らしているところは、生臭物が厳禁なうえに酒もご法度の場所なので、向こうから用事なり呼び出しでもかからない限り、彼女はここで一人、気ままに過ごしているのだ。

 

 新たな一杯を注いだ茶碗を掲げつつ、上機嫌の態でネズミの少女が詩を吟じた。

 

 両人対酌山花開(両人(りょうにん)対酌(たいしゃく)山花開(さんかひら)く)

 一杯一杯復一杯(一杯(いっぱい)一杯(いっぱい)復一杯(またいっぱい))───

 

 その一杯を“ぐい”と呷り、詩が途切れる。その続きは幽香が紡ぐ。

 

 我酔欲眠卿且去(我酔(われよ)うて(ねむ)らんと(ほっ)(きみ)(しばら)()れ)

 明朝有意抱琴来(明朝(みょうちょう)意有(いあ)らば琴抱(こといだ)いて()たれ)

 

 詩の終わりとともに、幽香も酒盃を空けた。

 こちらは口を拭いもしない。手にする茶碗も、注がれたものなど元から無かったかのように乾ききっている。満たされていた酒精は、一滴も余さず“うっすら”と紅を引いたような朱唇の中へ我先に飛び込んでいったのだろうと、ネズミの少女は自然に思った。

 

 空になった茶碗にまた一杯を手酌で注ぎつつ、ネズミの少女が話題を振った。

 

「琴といえばこの間、ここいらで琴を持った妖怪を見かけたな。琵琶(びわ)を担いだ奴とのペアで」

「へえ、ずいぶんと風流な妖怪がいたものねえ。私の周りにはナスを担いだ妖怪しかいないっていうのに」

「なんだね、そのトンチキな妖怪は」

「パッと見、ナスっぽい妖怪だったの。それとも本当にナスの妖怪だったのかしら。夏のお野菜だし」

「わかったようなわからんような……なんにせよそいつら、タダの妖怪にしては妙な気配を撒き散らしてはいたがね」

 

 というよりもありゃあ、付喪神の類だろう。それも、なにがしかの要因で強制的に具現させられた。少女の推測に「へぇ」と、感心したような声を幽香は向けた。

 

「そういうのって判るものなのかしら」

「判らいでか。こう見えても《賢将》の二つ名を戴く身さ……と言いたいところだが、半分くらいは勘だな」

 

 最近、拾ったお宝が勝手に動いたりどこかに消えたりしているのと関係があるのかもしれんよ。ネズミの少女は肩をすくめた。

 

「また異変が起こるのかしら?」

 

 いやねえ。心持ち眉をしかめる幽香。花とともに静かに、のんきに生きていたい幽香としては騒動や異変というのは煩わしさが増えるだけでしかない。

 

「わからん。あるいはとっくに起きているのかもしれんが……まあ、そうなったところで問題はなかろうがよ」

「どうして?」

「ここには異変となれば、呼ばれもしないのに自ら進んで首を突っ込むような奴らがいるだろう? なら、そいつらに任せておいたがよかろうさ」

 

 あの連中、頭の中身や性格はともかく腕は確かだからな。ネズミの少女の口調がやや苦々しげに聞こえるのは、はたして気のせいであったろうか。

 

「そういえば貴女も、最近“そいつら”に痛い目に遭わされた内の一匹だものね」

「さて、どうだったかなあ。それはむしろ、君にこそ思い当たるフシがあるんじゃないのか」

 

 さて、どうだったかしら。ゆるやかな微笑みを浮かべ、幽香は韜晦(とうかい)した。

 

「まったく、手のかかるご主人様を持っちまうと色々苦労が絶えない。その御蔭であんなのとかち合うハメになるんだ」

「そんな面倒な主人なんて見限って、勝手気ままに生きればいいのに」

 

 それとも、わざわざ自分から苦労を背負い込みたがるタイプなのかしら。妖怪のくせに。(いら)う幽香を小馬鹿にするように、少女は鼻を鳴らした。

 

「ふふん、知らんのか。多少くらいなら手のかかる主人、あるいは適度にバカな上役や同僚ほど可愛いもんだというのに」

 

 要はお世話好きなのね。幽香は愉快げに微笑む。

 

「馬鹿な連中の(もう)(ひら)くのも、我が崇高なるお努めなのさ」

 

 “にやり”と笑い、ネズミの少女は茶碗を呷る。

 

 それからしばらくの間、会話を肴に二人は酒盃を酌み交わした。話題に上がる事柄は様々だ───最近の幻想郷について、勃発する事件・事変・異変、新たに持ち上がった諸問題、それらへの各勢力の動向、人里で新たにオープンした店、流行りの遊び、廃れた娯楽・・・両者ともに聞きたいこと、話したいことは山のようにあった。ひょっとしたら、誰かとの会話に飢えていたのかもしれない。

 

 幾杯目かの杯を空けたところで、ネズミの少女が話題を変えた。

 

「───さて、そろそろ商売の話をするべきかな」

 

 前置いて少女は茶碗を地面に置き、先ほどの紙箱から『商品』を取り出して茣蓙の上に並べていった。

 

「これが今日の分だ」

 

 ところ狭しと並べられた『商品』、それは何冊もの書籍であった。

 形状、仕様は“まちまち”で、ポケットサイズの文庫から新書、分厚いハードカバーや革張りのものまである。当然とでもいうべきか、そのジャンルに統一感はまったく無い。小説随筆辞典教養書料理本、およそ『書籍』と呼ばれるものならほとんどを網羅している。共通点はたったの一つ、これらが《外の世界》で刊行された《外来本》という稀覯本(きこうぼん)であるということだけである。

 

 ここまできてピンときたかもしれないが、幽香の家に置かれている書籍、その出処の一つがこの少女であったりする。

 というのもこの少女、『探しものを探し当てる程度の能力』というものを身につけており、こんなおかしな場所に居を構えている大元の理由というのが、ここら一帯に眠るお宝(大体は《外の世界》からの流入品)を自身の能力を用いて手に入れる為なのである。

 

 少女の能力とその目的についての噂をどこからか聞きつけた幽香が、彼女と接触を試み取引を持ちかけたのは今から少しばかり前、ちょうど『空飛ぶ宝船』の異変に前後してのことである。

 

 ───《外の世界》から流れ着いた本の幾つかを融通してもらえない? 

 

 少女にとってもそれはもっけの幸いというべきであった。なにせこの女ときたら、取るに足らない本一冊に目の玉が飛び出るほどの対価を払ってくれるのだ。彼女にも関わりの深い《宝船》の一件において、少なからずの赤字を出していた少女としては、目の前に座る女は妖怪どころか福の神といってもいいくらいだった。どうせ、大した違いなぞないし。

 

 幽香は“ずらり”並んだ本の中、小説をメインに物色した。

 江崎まりあん・著『海底人ビスケー湾上陸』、同著者による『地下室の井戸の怪物』『殺人雪だるま対武器商人』……等々。それらに混じって30年くらい前の花輪和一みたいな妙に妖しい挿絵のついた小説もあったが、そちらはどうでもよろしい。

 

 少しして、幽香は一冊の小説を選んで手に取った。タイトルは『河童』。芥川(あくたがわ)なんとか(かすれていて読めなかった)という作家が書いたらしいその本の端に、わずかに付着した“それ”を指差す。

 

「血が付いてる」

「おっと、済まんね。そいつは“元の持ち主”のものだ」

「その持ち主さんは?」

 

 死んだ。ネズミの少女は素っ気なく言った。

 

「まさかとは思うけど、貴女が?」

「失礼なことを言わんでもらいたい。仮にも仏門に帰依(きえ)する者が、不殺生戒(ふせっしょうかい)すら守らんでなんとする」

「お肉、食べてたくせに」

「それくらいは大目に見られるべき。他者を喰らい、己が血肉とし、命を繋ぐ。生きとし生けるものすべてが、生きていくその限り背負い続ける罪───仏の教えでいうところの《業》というやつだ」

「お酒、飲んでるくせに」

「飲みようによっては百薬の長ともなるという。故に賢く付き合うべきだろう───例えば私のように」

 

 ネズミの少女は微塵も悪びれない。

 彼女の言によれば、お宝求めていつものように無縁塚を漁っていたら、件の“持ち主”とやらがぶっ倒れていたのだそうな。

 

「どこぞやの妖怪の『食料』だったものが逃げ出してきたのだろうね」

 

 “なんてことない”ように言うネズミの少女。幽香もさして気にしないが、これは当たり前だ。彼女らにとっては───なかんずく幻想郷にあっては文字通りの“日常事”であり“茶飯事”なのだから。食事や呼吸の度に、驚き目を剥き仰け反るような奴はいない。

 

「助けてあげればよかったのに」

「生憎だが、誰ぞを癒やす術の心得はなくてね」

 

 見つけた時には身体のいたるところに手傷を負ったそれはひどい有様(あちこちが“無かったり”してたらしい)だったとかで、どの道、手の施しようもなかったらしい。

 

「宗教は人を癒やすものでしょう」

「神仏の教えは救いをもたらせども癒やしはせんよ。それを間違えてはいけない」

 

 救いはあくまでも己で見出し、癒やしは誰かに『恵んでもらう』ものである。そして宗教とはあくまでも前者である。そうで“あらねばならない”。神も仏も───そして人も───救える者とは、自らを助くる者だけだから。往々にしてそれを履き違えるもの曲解するものが宗教を歪め、あるいは形骸化し、救いをもたらす以上の迷惑を生む。

 

「いやはや、“楽に”してやろうにも戒律で禁じられてるからなあ。死に水を取ってやるくらいしかできなんだ」

 

 なるほど。幽香は“ひっそり”と、気付かれないくらいの緩やかさで口の端をほころばせた。息を引き取るまで、ずっとそばに居てやったということだろう。優しさをわかりにくい形で表すやつがここにもいた。

 

「その手間賃として、身ぐるみはじめとした持ち物をいただいたというわけさ。獣や蟲に食わせたり、土に還すにゃもったいない物ばかりだったからね」

「仮にも仏様の御遣いともあろうものが(かばね)(あさ)りとは───世も末とはこのことね」

 

 わざとらしく嘆いてみせる幽香だったが、その程度では少女の面の皮にかすり傷さえ付けられない。ネズミの少女は気を悪くするどころか、馬鹿にしたように鼻を鳴らすばかりである。

 

「所詮は《外の世界》、それも神仏の存在さえも信じぬ不心得者(ふこころえもの)さね。それに───」

 

 君だって知ってるだろう。“ここ”に呼び込まれるのが一体、どんな連中なのかってことくらい。ネズミの少女は厭味っぽく口の端を歪めた。

 

 前にどこかで述べた気もするが、幻想郷にやってくる者達、とりわけ妖怪の“食料”として招かれる輩とは《外の世界》においての存在意義を自ら喪失した連中、要は“死ぬ価値さえない”連中なのだ。

 

 生はともかく死ぬことに意味があるのかというのは“生きる”という、言葉と行為の本質を見誤った考えである。《死》とは、ありとあらゆることごとくすべからくの生きとし生けるものの終着地、あるいは総決算とでも言うべきものだ。終わり良ければすべて良し。立派な死に方をするものとは、立派な生き方をしたものだけ。すなわち、その死を誰かが悲しみその死を誰かが惜しむということである。生きていようが誰も彼もが気にも留めない、死んだところで誰も彼もが惜しまない。それが『死ぬ価値すらない』ということだ。

 

 誰とも関わらず誰にも必要とされず、意味も、理由も、目的も“なんにもない”、考えることさえ放棄した息するだけの(あし)

 誰かと繋がる絆を無くして何かを繋げる心は亡くして自身は偽りだらけのガランドウ───

 

「そんな奴原を、毘沙門天直々の配下たる私が用立ててやろうというのだから、これもひとつの功徳というべきだろうさ」

 

 違うかね? ネズミの少女が浮かべた笑みは皮肉というにはやや“どぎつい”。

 だが、それを見て幽香はつくづく思った。様々な意味合いで、ここは《楽園》に違いない。どのような形であれ皆、生きることに必死だ。そうでなければ生きていけない。

 

 それを承知しているのからこそ、幻想郷の住人も“招かれる連中”には一定の隔意をもって接する。請われれば手を差し伸べるくらいはするのであろうが、積極的に関わろうとはしない。念の為に断っておくが、これは自分さえ良ければそれで良し、などという明快なエゴからきているのではなく、もっと根本的な部分による理由からだ。何度も述べているが、“ここ”にやってくる者、物、モノというのは《外の世界》での存在意義を“自ら手放した”連中ばかりなのだ。そんな輩を身を呈して助けようとするのは高潔にして至誠篤実なる人格者とは言わない。最大限に譲歩してお人好し、妥当なところならただの阿呆である。

 

 もっと身も蓋もない結論を述べるなら、家畜小屋の牛や豚へ同情の視線を向けるのは個々人の自由だから好きにすればいいが、そのシステムまでを非難してもいいことはないということだ。『偽善』などという方向性を間違えたような問題ではなく、誰も得をしないからという至極単純な話である。

 

 そもそも、妖怪の餌にされることに文句があるなら妖怪に目をつけられるような生き方をしなければよいだけの話である。それさえ出来ないような輩がどのような死に様をしたところで、気に病む奴はいない。少なくとも、《幻想郷》では。無論、忸怩たるものがないではないのだろうが、火の粉が降りかかるのは他ならぬ自分である。ましてや《外の世界》では『死』とは生命を失うというだけで済むが、幻想郷では生命以外のものだって“喪い”かねないのだ。それを思えば誰だって二の足を踏む。

 

「それに死体だってちゃんと即席のものではあるが、作法に則りきちんと弔ってやったんだ。それも、タダで。ここまでさせておいて、駄賃の一つもなしは無かろうが」

「あら、ここいらに火葬場なんてあったかしら」

「名にしおう花の化生ともあろうものが、馬鹿を言ってはいけない」

「それじゃ土葬? そのまま埋めるのは流行り病を撒き散らすわ」

 

 うんにゃ。ネズミの少女は小さく頭を振り、小屋の隅へと意味ありげな視線を送った。つられて幽香もその視線を追う。

 

「ウチの仔たちは肉食、ことに人間のそれが大の好物でね」

 

 どうやら鳥葬ならぬ獣葬ときたらしい。小屋の“そこここ”にわだかまる《塊》が灯す鬼火のごとき赤光こそは、人喰らいの証であった。

 

 まともな神経の持ち主なら、いたたまれぬどころか泡を食って逃げ出しそうな状況だが、風見幽香は顔色一つ変えない。それどころか得心いったような面持ちで小屋を見渡し、

 

「むしろチュー葬とでもいうべきかしら。ネズミだけに」

 

 上手いこと言ったつもりかね。ネズミの少女は呆れたような面持ちをこしらえた。

 

「空を行き交う鳥どもに地を駆け巡る畜生ばら、その中でもとりわけ一番手に入りやすい肉が人間のそれときた……どこに行ってもいつの時代でも、これだけは変わらない。その意味では人の世はいつでも“末”なわけだがよ」

 

 だがお陰さまとでも言うべきか、ウチの仔らが腹を空かせることだけはなかったのは有り難いやな。ネズミの少女の声にどこかやりきれないような、あるいは疲れたような響きが混じったのは気のせいだったろうか。

 

「鳥でも獣でも魚でも人でも、お腹に入れちゃえば同じお肉だものね」

「他人事のように言うなあ。君だって同じようなものだろうに?」

「食べるのはずっと前からやめてるわ」

「ずっと前、ね。どれだけ昔のことやら」

「ずぅーっと、昔よ。考えてみればパンやご飯ほど美味しくもないし。精々がとこ日課としていじめたりしてたくらいかしら」

「日課ときた。そんなもんでいびられてたら、被害者連中の立つ瀬がないな」

「だって仕方ないじゃない。私、妖怪なんだもん」

 

 幽香は秀麗な唇を尖らせた。

 

 誤解のないように述べておくが、別に幽香は楽しみのために誰ぞを痛めつけたりしたことなど、ただの一度もない。ただし、明確な理由目的意味事情があってしたこともまたないのだが。

 

 というよりも、憎悪憤怒怨恨享楽愉悦───そのどれでもよろしいが、“感情”を理由ないし原動力として他者を傷付けられるのは『人並みの』感情を持てる者の特権である。風見幽香と呼ばれた女には縁がない代物だ。そしておそらくは、これからも縁を持つことはないのだろうけれど。

 

 では何故そんな女が、かつて大した理由もなく様々な連中へと───それこそ人間であろうと妖怪であろうと幽霊であろうと妖精であろうと───片端から攻撃を仕掛けるような真似をしでかしていたのかといえば、それは偏に“妖怪は恐れられ怖がられ嫌われ憎まれ疎まれてナンボ”という存在理由に基づいての『日課』としていただけのことである。

 

 日課というのは楽しくなかろうが面倒くさかろうがやらねばならないもの。だから、やる。

 

 そんな寺子屋に通う子供とさして変わらない理由から、この女は“あちらこちら”から恨みを買うようなことをやらかしてきた。例えばここに来る前に立ち寄った先で会った蛍の少女、その手足を無残にもいだときでさえ幽香は何の感情も感傷も感慨も感心も感動も抱けなかったくらいだったから。ただ、面倒くさいなあと思ったのだけが唯一の感想である。

 

 ネズミの少女は“付き合いきれない”とばかりにため息を吐いた。

 

「ある意味においては、質の悪いサド公の方がまだしもかもな。一切合切の感情さえをも無視して暴れまわるあたり、君はどこまでも純粋に“ひとでなし”というわけだ」

 

 まったくもっておっしゃる通り───妖怪だけに。幽香は肩をすくめた。洒脱なその仕草には悪気もなければ悪意もないが、罪悪感さえもありはしない。ネズミの少女はそんな幽香の有り様を非難もせず、白けたような態で茶碗に口をつけている。馬より聞く耳を持たない妖怪に、念仏経典説教説法を語って聞かせる不毛さを少女はよくわきまえていた。そういえば、かのお釈迦様の説法デビューは鹿をリスナーとしたものであったと聞くが、馬ならぬ鹿の耳なら念仏も届くのだろうか。

 

「でも、それだって昔の話。最近はやらないの。面倒くさいし、花でも眺めてたり本を読んでたりする方が楽しい」

「まことに結構。他の妖怪連中も君のようであったのなら、ウチの寺の住職殿も少しは気が休まるものだろうさ」

 

 言い捨て少女は、新たな酒を復一杯。

 

「住職さんてあれよね、少し前に幻想郷のあちこちで妖怪とか巫女さんとかと一緒に“ぶったりけったり”してた人。お友達が多そうだから羨ましいわ」

「一応断っとくが、あの寺にいるのは友達じゃなくて彼女のシンパかさもなきゃ寺の信者だからな」

「同じようなものでしょ。いいなあ」

 

 幽香は心底、羨ましそうに言った。私もあやかるために入信でもしようかな。

 

「そいつはやめてもらいたいね。お前さんみたいな物騒な輩にうろつかれたら、せっかく集めた寺の信者が逃げちまう」

「あ、でもお寺に入門するためには頭を丸めなきゃいけないんだっけ。それはちょっと嫌かなあ。今の髪型って結構、気に入ってるんだ」

「人の話を聞きたまえよ。ついでに言っとくが、ウチの寺にゃ剃髪(ていはつ)の義務なんぞは無いからな」

 

 精々がとこ、禿頭(とくとう)の時代親父が一匹(一人ではなく)いるくらいである。そもそも寺の顔ともいうべき人物にしてからが、紫やライトブラウン、果ては金色のグラデーションのかかったウェービーヘアという奇天烈にもほどのある髪型だったりするわけであるし。

 

「ところで、そんな貴女自身はその住職さんのことをどう思っているのかしらね」

「話を聞けと言っとろうが、まったく……。それによくもまあ、聞いてほしくないことを尋ねるなあ」

 

 少女は露骨にいやな顔をした。

 

 現在、ネズミの少女が(便宜上)属しているコミュニティは、今彼女が口にした『住職殿』を慕う者達によって構成されたものである。しかしてこの少女に関しては、あくまでも主人に付き従っている(厳密にはお目付け役のようなものであって、単純な上司部下の関係とは程遠いらしいが)だけなので、件の住職殿に対して敬意も義理も持ちあわせてはいないとかなんとか。

 

 その彼女の目から、件の人物とそれを取り巻く面々がどのように映っているのか───それはひどく幽香の興味をくすぐった。悪趣味ともいえるが。

 

「いいじゃない、どうせここには私達しか居ないのだし。たまには言いたいことを吐き出さないと心に悪いわよ」

「そして口外無用の王様の耳についてぶち撒けた、マヌケな床屋の二の舞いになるのか。泣けてくるね」

「それは心配無用。ここにいるのはおしゃべりで無粋な葦ではなく、寡黙かつ見目麗しい花の妖怪だもの」

 

 自分で言うかね。何の衒いも臆面もなく言ってのける厚かましさに、ネズミの少女は失笑したようだった。毒気を抜かれたとも云うが。

 新たな酒で唇を湿らせ一息つきつき、少女は自分の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと口を開いた。

 

「知っとるかもしれんが“あれ”は元々、純粋でもなけりゃ無垢とも程遠かった」

 

 我欲の赴くままに禁忌とされる力に手を染め、挙句、人と相容れぬ妖かしの輩に近づき傀儡とさえなし、保身を計った背教の徒───人の身で八苦を滅したとさえ噂される女の、それが正体であった。

 

「それでいながら、“あれ”は無垢に戻った」

 

 永きに渡る歳月を経て、己が浅ましき身と心根を恥じる心が生まれたか、はたまた交わった朱の色に自らも知らぬ内に染まりきっただけなのか……どちらなのかは知らんし知ったことではないがね。

 

 道に惑ったその果てに、泥に堕ちて汚濁にまみれ、傷つき朽ち果て擦り切れて、それでも咲いた蓮の花。

 穢れに身をやつしてなお純白に咲き誇るその花に、もはや何人たりとも瑕疵をつけることも穢すこともできはすまい。また、彼女を深く知る者達がそれを許すまい。

 

 ネズミの少女はどこか遠いところを見るような目をした。

 

「私ゃ滅多に誰かを褒めたりはせんが、そこを認めることには吝かではないよ」

 

 ───大した女だ

 

 短く締めくくり、少女は茶碗を呷る。幽香はほんの少しだけ優しく、そのくせ意地の悪さも張り付かせた表情を少女に向けて言った。

 

「でもそれ、当の本人にも言ってあげたりしないのかしら」

 

 悪い冗談はよしたまえよ。ネズミの少女は頭の上で厭そうに手を振ってみせた。

 

「こんなこっ恥ずかしいこと、今際の際くらいでしか言えやせん」

「でしょうね」

 

 幽香は三分咲きの桜のように淡い微笑みを浮かべて瓢を手に取り、話を聞かせてくれた礼とばかりに少女へ酌をしてやった。

 

 その後も雑談を交わしつつ少女達の酒盛りは続き、瓢の中身が尽きたところで幽香は5冊の本を購入して少女の棲み家を辞去した。




 登場人物

風見幽香

備考───わりと困ったちゃん

ネズミの少女

備考───薄い本がネズミ講ばりに増えますように


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第10話 Mutiny - 騒動は少女と共に

 ネズミの少女の小屋を後にした幽香は再び『再思の道』を辿り、そこを抜けた先にある魔法の森とその真向いに位置する『無名の丘』に挟まれた草原に出た。

 

 静かな野っ原の真ん中ら辺、気持ちのよい風が通る場所に陣取って、例のごとくポケットから取り出した厚手の布を敷いて腰を落ち着けた幽香は、購入したばかりの本の一冊を手にした。表紙に記載されたタイトルは───『戦闘妖精・雪風』。頭を飾る言の葉が紡ぐ雄々しさよりも、触れれば静かに消え失せる霞のようなどこか切ない儚さこそが印象に残るのは、余計なものが入り込まぬタイトルのシンプルさ故だろうか。

 

 少しの間、表紙とタイトルを楽しみ、余韻(よいん)が消えぬ内に幽香はゆったりとページをめくる。内容は“フェアリィ”とかいう、聞いたこともない国だか土地だかを舞台にしたドキュメンタリーのようなものらしかった。途中よく解らない単語がいくつも出てくるが、それらは無視して純粋に話の筋だけを追っていく。

 

 この本によると今、《外の世界》ではちょっと美味しそうな名前した侵略者によって、なんかえらいことになっているのだとかなんとか。いつでもいずこもどこでもかしこも、生きていくのは大変だ。ところ変われど時代も移れど、そこは違わぬ浮世の世知辛さに、幽香は嗟嘆(さたん)せずにはいられない。

 

   *

 

 ───今日の晩ご飯、チキンブロスが食べたいなあ。

 

 それは中ほどまで読み進めたあたり、なんとなく幽香が夕餉(ゆうげ)について“ぼんやり”思いを馳せた時のことである。

 

 

「うきゃあああああぁぁぁぁああ───!!」

 

 

 はるかに遠く碧々と、高い空の彼方から、絹を裂くよな乙女の悲鳴(などと表現できるほど典雅なものではないけれど)が時ならぬ驟雨(しゅうう)の如き勢いで降ってきた。続いて、年頃の女の子くらいの大きさと重さの何かが空高くから落っこちて地面にぶつかったような音が、地を揺るがす響きとの二人三脚で幽香の耳朶(じだ)を震わせる。

 

 騒ぎの発生源と思しき方に目を向ければ、少し離れたところで“もうもう”たる土煙が上がっているのが視え、幽香は柳眉(りゅうび)をひそめた。何があったのかと訝ったのではなく、こちらにまで土埃が漂ってきたらイヤだなと思ったのだ。常人とは心配のしどころが違うのは、そうそう簡単に滅びぬ身ゆえの鷹揚(おうよう)さゆえか、はたまた我が身のことさえ“どうでもよい”からか。

 

 幽香は一旦シートを仕舞い、バスケットを手に土埃が漂ってくる心配のなさそうな場所へと退避した。そこで腰を下ろし読書を再開する。この場を立ち去ろうとはしないのがこの女らしい。ひょっとしたら、別に読書に専念できる場所を探すのが面倒くさかっただけなのかもしれないが。

 

   *

 

 土煙が治まったのは、ページを捲った白磁の指が去りゆくインディアンの夏を見送り、新たに妖精達の冬を招き入れた頃のことだった。栞をはさんで本を閉じた幽香は、先ほどの轟音が上がっていた地点へと向かった。

 

 足を運んだ先では年頃の女の子が仰向けのかたちで“のびて”いた。

 

 腰まで届く、蒼穹(そうきゅう)の色を集めて()り合わせたような髪と、空に遊ぶ白雲を人の形に造形したかのごとき肌が目にも眩い少女。気を失い、総身を土で汚してなお一目瞭然な気位の高さと育ちの良さを顕した美貌、身に纏う衣装の豪奢さがやんごとなきその出自を言外に語っている。それが手足を思い切りよく投げ出し、さながら天に愛された書聖が心魂没入の果てに生命さえをも(なげう)ち揮った筆が墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と記したるがごとき大の字を描いて地面にめり込んでいるのだ。

 

 様子から察するに、どうやらこの少女が先の悲鳴の主であるらしい。少し離れたところに、少女の持ち物であろうか桃の実と葉をあしらった帽子が落ちていたのでそれを幽香は拾い、落っこちてきたときにでも付いたらしい土埃を払ってやった。

 

 粗方の汚れを払った幽香は、帽子とその持ち主を交互に見比べた。この娘って、少し前に騒動を起こしたとかいう『天人』じゃなかったっけ。なんで、こんなところで寝っ転がっているのかしら。

 

 静かに首を傾げる幽香の視線の先では、いまだ目を覚まさぬ少女の長い睫毛が風にくすぐられる若草のごとく微かにそよいでいる。

 

   *

 

 『天人』

 

 読んで字のごとく《天界》という、雲の上に存在する世界(と、巷で言われているだけで実際は違うのだが)に住まう人々のことである。

 

 曰く───老いることなき頑強なる肉体と朽ちることを知らぬ崇高なる精神を併せ持ち、輪廻転生の輪からも外れて永遠の刻を生きる雲上人。俗世の煩わしさとは無縁の世界でときには歌をときには詠を、またときには音を楽しみ舞を嗜む高雅風流たる日々を送りつつ世界の流れを睥睨する、まさに衆生の思い描く理想を体現したる尊き人々───

 

 ……などと云えば聞こえはいいが、実際のところは他にやることもないのでそういった生活をしているだけで、別に高邁な主義主張の持ち合わせなぞ皆無らしく(欲を捨てた連中なので、その裏返しに存在するべき部分もまたないのだ)、ついでに付け加えるなら老いず朽ちずの肉体にしても、自分らのお迎えにやってくる死神連中を、力に物を言わせて返り討ちにして寿命をごまかしているだけだったりするので(もちろん、それはそれで大したものではある)、実際のところはそこまでご大層な連中と言えるのかどうかは疑わしかったりするのだが。

 もっとも、見た目だけなら神々しく感じなくもない種族なので、遠くから見上げるだけの対象としてならいいのかもしれない。

 

 それはさておき幽香の足元で寝っ転がっているこの少女、少し前に起こった異変の発端もしくは中心であったとされる人物である(そういえば、それに前後しておかしな女が幽香の家にやってきて、天変地異が来るから気をつけろと忠告して去っていったのだけれど、あれは一体何だったのだろう)。天狗の発行している新聞によると、それら一連の騒動の過程において博麗神社が文字通りの意味で“壊滅的”な被害を被ったと聞くが、その一件も元を質せばこの少女に行き着くらしい。しかし、さすがにそれは話に尾鰭背鰭ついでに胸鰭、おまけに鰓が付きすぎだろうと幽香は思っている。

 

 だって、もしそれが本当だったとしたなら、神社の後ろに控えるあの女───妖怪の賢者が黙ってはいまいから。天人はたしかに強力な連中だが、それでもあれを本気で怒らせて無事で済むわけがない。

 

 手にした帽子を弄びながら、少女の様子をうかがっていた幽香はふと思い立ち、右手を軽く一振り。すると、いつどのように取り出したものか、熟練の手妻師よろしくその手にいつも彼女が使っている日傘が現れた。それで一体何をするのかと思いきや、彼女は順手に握った傘の先端で少女の腹を軽く突っついた。

 

 鳩尾のあたりをつつかれて、少女がかすかに身じろぐ。特に痛がるわけでもないあたり、内臓等に傷が付いているわけではないらしい。地面のめり込み具合から考えるにかなりの高さから落ちてきたはずだが、見るかぎりかすり傷さえ無いのはさすが天人、頑丈なものである。

 

 少しだけ感心して、幽香は右手をもう一振り。日傘を仕舞って少女の傍らへ身を屈め、今度は人差し指でもって少女の白桃のごとき頬や生活の労苦を感じさせぬほっそりとした腕、滑らかなラインを描く脇腹をつつきはじめた。

 茉莉花の生まれ変わりのような指が触れるたび、少女が微かにむずがるような声を上げる。介抱しているようにも見えなくもない気がしないでもないが、実際のところ何を理由としてそんなことをしているのかは幽香自身にもよく判ってはいない。この女のやることすることなすことに、意味理由動機切欠辻褄損得を求めることほど不毛な行為はない。

 

 幽香はしばらくの間、なにを考えているのか一向に掴めない様子で少女を突つき回した。

 

   *

 

「───ん…………ぅあ?」

 

 少女が小さなうめき声を上げて薄目を開いたのは、幽香がその白桃のような頬を摘んだときのことである。天人の頬っぺたは驚くほどによく伸びた。

 どうやら気が付いたらしい。瞼の奥、大地の底で長い永い年月をもって醸成された紅玉のような瞳が焦点を定めぬままに宙を彷徨う。

 

 幽香は手を離し、声をかけた。

 

「おはよう」

 

 場違いなくらい“のんびり”とした呼びかけに、虚ろな視線が向けられた。自分を見下ろす花の女へ。次いでその傍ら、右隣へ。気付けも兼ねて、幽香はもう一度呼びかける。

 

「おはよう」

 

 天人の少女は二度三度の瞬きをした後、やや気怠げでこそあるもののはっきりと意思の宿った瞳で幽香の姿を捉えた。

 

「……誰よ、あんた達」

「私は誰でしょう」

「……………質問に質問を返さないでくんない」

 

 人を食ったような(実際に食ったこともあるが)返答に、天人の少女は顔をしかめながら“むくり”と上体を起こした。その動きが操り糸が数本まとめて切れた人形のように“ぎこちない”のは、高所からの受け身も取れずの落着による衝撃が、さしもの天人の肉体にも無視し得ぬ痛苦を与えたからに相違ない。

 

「立てる?」

 

 訊ねる幽香。台詞だけなら少女を気遣うかのようであるが、手を貸そうともしない。口調にも心配そうな響きなぞなく、ただ口にしただけの、独り言にも似た声である。

 少女は無視して大儀そうに立ち上がり、体内に残った苦痛と倦怠とを吐き出すかのように大きく息を吐いた。

 

 ああ、酷い目に遭ったわ……。小さくぼやき、次いで首や肩、腕を回す。

 

 そんな調子で体のいたるところの調子を確かめていた少女が蛾眉をひそめ、不意に動きを止めた。半眼の視線が幽香を射抜く。

 

「───なんだか、身体のあちこちにおかしな違和感があるんだけど……あんた、人が気絶してんのをいいことにおかしな事をしてないでしょうね」

「無事かどうかを確認するために少し触らせてもらったけど、ヘンなことはしていないわ」

 

 ホントかしら。“いけしゃあしゃあ”と答える幽香に、不信と不審を綯い交ぜにした目を送る少女だったが、直ぐに気を取り直したかして表情を切り替え、土埃にまみれた服の肩と腰のあたりを軽く叩いた。ちょっとした埃を払い落とすような、たったそれだけの動きで少女の服に付着した汚れが水に流されたかのように消え失せ、泥にまみれていた肌が白玉の輝きを取り戻す。

 

「まあ、いいわ。本来なら下賤な妖怪風情が私に触れるなんて、あってはいけないくらいの不敬もいいところだけれど、今回ばかりは大目に見てあげる」

 

 それより、他に泥とか付いてたりはしてない? 天人の少女は軽やかに身を翻して訊ねた。

 しなやかに躍る肢体が繽紛(ひんぷん)と降りしきる夏の日差しに輝いて七彩の(きゅう)を放ち、風を切る蒼髪が五色の輝きを纏って揺れる。さながら陽光に煌めく風花のようなその姿に、幽香の目が陶然と細まった。思考志向に少なからずの問題を抱えていようともこの女、美しいもの綺麗なものへの賛美を忘れたことだけはない。

 

「大丈夫、綺麗なものよ。服も───貴女も」

 

 満足気に頷く少女へ、捧げるかのようにして帽子を渡してやる。恭しいとさえいえる手つきは、思いもかけず美しいものを見せてもらったこの女なりの礼であったろうか。

 少女はさしたる感謝も見せずそれを無造作に受け取った。無礼と云ってもいい態度だが、幽香は特に不快とも思わない。自分のような根っからの風来妖怪と違い、貴者はつまらないことで目下の者に礼など言うべきではないのだ。地位や立場を伴う者の言動には、些細なものにさえ意味が宿る。それを思えば迂闊に謝意(のみに限らぬすべての言動)を表すことが、いかほどの害悪になるかは察するべきであろう。

 

 帽子を被り直し、位置を正しながら少女はなにか違和感に気が付いたような顔をした。訝しそうな顔で周囲を見渡し、

 

「ねえ……あんたの他に誰かいなかった?」

「誰かって?」

「誰か、よ。思い出せないけどもう一人、《誰か》がいたはずだけど───気のせいだったのかしら」

「誰か、ね。思い起こしても私と貴女の他には《誰も》いなかった───気のせいでしょうね、きっと」

 

 ふうん? 少女は釈然としない風に眉をひそめたが、それも一瞬のこと。細かいことに拘らないあたり、中々に剛毅あるいは態度に見合った図太さである。幽香は前者であるということにした。

 

「で、一息ついたところで最初の質問に戻るけどさ、何者よあんた」

「見ての通りの、しがない妖怪です」

「見りゃ判るわよ、そんなもん。私が聞きたいのはそういうことじゃないっての」

 

 ったく、なんだかすっとぼけた奴ね。少女の声に呆れ半分、“うんざり”半分の疲れたような響きが混じった。それを気にも留めず、幽香が口を開く。

 

「それより私からも質問、よろしくて?」

「こちらの問いかけに答えもせずにものを訊ねようとするあたり、お里が知れるわね───なによ」

「貴女、なんだってまたこんなおかしな所で倒れていたの」

 

 至極当然の疑問に、少女は苦い薬を水なしで飲み込んだような顔つきをした。バツの悪そうな顔でもよろしい。

 

「答えたくないわね」

「何故に」

「イヤだからよ」

 

 少女はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言い捨てた。頑として答える気のなさが、幽香の悪い意味での好奇心を刺激した。息がかかるほどの距離に近寄って両手を後ろに組み身を屈め、あらぬ方を向く少女を下から覗き込むようにして再度訊ねる。その姿は、まるで絡みつく宿り木を探して這いずる茨の蔦のようであった。

 

「そう仰らずに、聞かせていただけないかしら」

「イヤなもんはイヤよ」

「ヒマワリの種をあげますから、聞かせてくださらない?」

「いらない。ていうか、しつこい」

「今ならアサガオの種もおまけいたします。なので、是非とも」

「だから、いらないっつーの。鬱陶しいからどっか行け」

「じゃあ、ホウセンカの種も……」

「人の話聞きなさいよ」

 

   *

 

 結局、お天道さまの位置が少なからず変わるほどに渡った言え言わないの応酬の末、少女は折れた。妥協をしたというよりも、いい加減こんなことで時間を潰すのが阿呆らしくなってきたのだ。この女に話を聞いてもらおうなどと考えていた時点で、十二分に馬鹿らしさの極地と言わざるをえないが。

 

 さも辟易とした顔で、少女は自らの身になにが起こったのかを語った。

 

「暇潰しがてらここらを散歩してたら、どこからかすっ飛んできた《大幣》みたいなやつにはたき落とされたのよ」

「おおぬさ?」

 

 聞きなれぬ単語に幽香は眉根を寄せた。そんな何気ない仕草でさえも、言い知れぬ華やかさを感じさせるのはさすが花の妖かしである。苦虫を数匹まとめて口に放り込んだような顔をした少女には、微塵の感銘すらも与えないとしても。

 

「知らないの? アレよアレ、よく巫女が持ってるアレ。お祓い棒のこと」

「ああ、アレ」

「そう、アレ」

 

 つーか、アレって博麗ンとこの巫女が使ってたやつね、間違いない。一体いかなる根拠に根ざしたものか、天人の少女は確信を込めて言った。

 

「判るものなのかしら」

「目ン玉が節穴か、さもなきゃ余程の馬鹿でもないかぎり見りゃわかるでしょ、そんくらい」

 

 少女が言うには自分をはたき落としてくれた大幣、その全体の形状や握りの部分の変形具合、全体についた傷などが、以前、博麗の巫女と相対したときに見たものと一致していたらしい。よくもまあ、そんなところに気が付いたものだと幽香は胸中で感心したものである。

 

「それ以前に、あんなもんを商売道具にしてる奴なんて、この界隈じゃ一人しかいないでしょ」

 

 言われてみればそうね。少女の慧眼(けいがん)に幽香は頷いた。

 そしていろんなことに合点がいった納得をした腑に落ちた───《異変》が、起きはじめている。

 

 幽香は今日一日の、自分の辿った道程を思い返す。今にして思えば、洗濯の最中に見かけた河童の川流れ、あれも件の大幣とやらが原因だったのだ。ネズミの少女が言っていた、物が勝手に動き出す云々というのにも関わりがありそうだ。それ以外にも、幽香の知らないところで似たような事例が起こっているのであろう。

 

 そしてこれは幽香の勘だが、一連の事象───物品があたかも意思をもって動く。すなわち暫定的乃至(ないし)、擬似的な付喪神化───は本命というべき《異変》の前触れでしかないのではなかろうか。ずいぶんと前に読んだ推理小説の神父ではないが、あえて別の場所で目立つ真似をして本題というべき事柄から衆目の目を外すのは謀の基本である。おそらくはこの後に、もっと重大な事態が控えているに違いない。

 

 とはいえ、知ったことではないのだけれど。

 

 それがどのようなものであれ───それこそ幻想郷が“ひっくり返る”ような事態が起ころうとも───どこまでも果てしなくとことんまで徹頭徹尾、知ったことではない。大昔の渡世人ではないが、自分には関わり合いのないことである。解決するのは無精者の巫女なり手癖の悪い魔法使いなり、それ以外の暇人がやればいい。あとは早急に、そちらで対処してもらいたいというのが幽香の正直なところだった。この時点で、彼女はこれから起きうるであろう《異変》への興味をほぼ喪っていた。正直、どうでもいい。

 

 なら、最初から聞かなけりゃよさそうなものであるが、後々まで尾を引く他人の不愉快不興を承知した上で目先の興味を満たすというのが悪趣味というやつの真骨頂、すなわち風見幽香と呼ばれる女の根っこの部分である。

 

「もう他に聞きたいことは無いでしょ。じゃあ、私はこれでお暇させてもらうわ」

 

 最初からこうしとけばよかった。口の中で“ぶちぶち”と悪態を垂れながら、天人の少女は踵を返した。

 そのときである。清楚可憐な少女の華奢な腹が、“ぐう”というえらくリアルな音を立てたのは。

 

 背を向けたまま彫像のごとく微動だにせぬ少女と、それを茫洋と見やる幽香の間に曰く言い難い沈黙が落ちた。まあ、少なくとも片一方の、日がな一日四六時中明けても暮れても常住坐臥で春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)といった風情を崩さぬ花の女は気にしていないようである。空気を読めないともいうが。

 

 お腹がへってるの? 言わずもがなの問いかけの代わりに、幽香は足元に置いてあったバスケットを拾い上げ、中から竹の葉で包んだ弁当を取り出した。

 

「よければこれ、食べる?」

「ああん?」

 

 少女へと弁当を差し出す幽香。それのなにが気に障ったのか、振り向いた少女は不快げな色を紅玉の瞳に灯した。

 

「ふざけんじゃないわよ。地べたを這いずる土くさい妖怪の施しなんて、仮にもこの非想非非想天の───」

 

 口上を述べようとしたところで再度、自己主張する腹の虫。飼い主に似たのかは知らないが、こちらもえらく威勢がいいようだ。周りが静かなこともあり気持ちがよいくらいに響き、少女と幽香の間になんとも言えない───強いて近いものを挙げるなら気まずさだろうか───空気が漂う。

 

 それをまったく気にも留めず、幽香は再度、訊ねる。

 

「いる? それともいらない?」

「貢物としてもらっといたげる。身に余るくらいの栄誉と思って感謝なさいよ」

 

 だからさっさとよこしなさい。少女はひったくるようにして、幽香の手から弁当を受け取った。

 誰にも悟られないくらいの微妙さで口元を緩め、幽香は先ほど仕舞ったレジャーシートを懐から出した。

 

   *

 

「なにこれ、ずいぶんと貧相な弁当があったものね」

 

 幽香と並んで腰を下ろし、弁当を開いた少女の第一声がこれである。

 中身は握り飯だった。目にも目映い真っ白な塩むすび、大根の葉に小松菜を混ぜ込んだ菜飯やタケノコや山菜を炊き込んで握ったものなどと一緒に、茄子と青菜の漬物が添えられている。

 

「少しは期待してた私が馬鹿だったわ」

 

 不満をこぼしながら塩むすびを手に取り、見た目だけは可憐な口をいっぱいに開けて頬張る少女へ興味深げな目を幽香は向けた。

 

「美味しい?」

「不味いにきまってるでしょ。けど、とりあえず全部食べてあげる。それより飲み物はないわけ?」

「珈琲でよければ」

「握り飯に珈琲って……どんな取り合わせよ。舌が腐ってんじゃないの、あんた」

「じゃあ、要らないの?」

「さっさと用意なさい、気が利かないわね」

 

 天人の少女はなおも“ぶつぶつ”と文句を垂れ、次のおむすびに手を伸ばす。隣に座る女の名を知るものが聞けば、命が惜しくないのかと顔を青ざめさせるようなことばかりである。当の幽香本人は、次から次へとぶち撒けられる悪態雑言を微塵も気にせず珈琲の用意をしているが。

 

「ねえ、早くしてよ。これだから妖怪ってのは……」

「もうちょっとだけ、待っててね」

 

 急かす少女を楽しげな微笑みであしらう幽香の姿はどこか、我儘で生意気盛りな、それでも可愛い妹をからかう姉のようにも見えた。間違いなく気のせいだろうが。

 

   *

 

 なんだかんだで、天人の少女は不味い不味いと不平不満に悪態文句をまき散らしながらも、幽香の弁当を米粒一つ残さずに平らげた。

 

   *

 

「ところでさ、アンタさっきから何読んでんの」

 

 少女が訊ねたのは食後の、砂糖と粉のミルクを“うんとこさ”入れた珈琲の3杯目をお代わりしたときのことである。当然というべきか、お代わりのカップをそっと出すような殊勝さの持ち合わせはこの少女にはなかった。カップとは逆の手には新鮮な蜂蜜をたっぷりからませたスコーン。こちらは《外の世界》から流れ着いた料理本に載っていたレシピを基に、幽香が作ったものである。今日のところは作り主の口に収まることはなさそうだが。

 

「それって《外来本》でしょ。あんたみたくに“ちんけ”な妖怪風情がよく手に入れられたわね」

「ご明察。よくわかったわね」

「だから、見りゃわかるって言ってるじゃない」

 

 製本に使われてる技術とか紙の質とかが“こっち”のものと全然違うんだもの。少女はなんてことないように言うが、さっきの大幣の件といいこの少女、言動はともかく目も頭も相当に(さと)い。

 幽香は小説から目を離し、少女の瞳を覗きこんだ。絢爛たる彼岸花の花弁の色と、磨きぬかれた紅玉の色が交差する。

 

「読んでみたい?」

「そんなこ汚い本なんかに興味なんてないわ」

 

 少女は“すっぱり”と言い切って視線を外し、スコーンを齧った。幽香も手元に目を戻し、再び活字の世界へ没頭する。

 

 しばらくして、無慈悲な妖精の踊る季節が終わりを告げ、新たな物語へと旅立つためにページを捲る幽香の目の前に、横合いから何かが突き出された。

 それに驚くこともなく、幽香はむしろ不思議そうな顔つきで視界を遮るもの───鳥も立ち入れぬ霊峰にひそやかに降りしきる雪で象ったような手を見つめた。

 

 美しい手である。有象無象が不用意に触れたなればそれを恥じ、儚く砕け散っても不思議とは思わせぬ。美への敬意を一片でも持ち合わせる者なら、この手だけを見つめ続けて生涯を終えても悔いは残るまい。

 

 それ自体が白々と光を放っているかのような手、その持ち主は、こちらを向きもせず横目だけを寄越して言った。

 

「でも、これも経験の内ってことで我慢して読んであげる。寄越しなさい」

「これはまだ読んでる最中だから、だめ」

 

 幽香は持っていかれまいとするように、手にした文庫本を胸に掻き抱いた。

 

「ケチくさいなあ。なに勿体ぶってんのよ」

「別の本じゃダメかしら」

「なんでもいいわよ。どうせ下界の連中が書いた本なんて、大した違いなんて無いんだろうから」

「むしろ外界というべきかしら。《外の世界》だけに」

「上手いこと言ったつもり? どれでもいいから、さっさと選んでよ」

 

 はあい。逆らいもせずに、幽香は購入したばかりの本の中の一冊を懐のポケットから取り出した。この女にしては珍しいことではあるが、当然のことながら少女には判らないし、判ったところで態度を改めたりもしないのであろう。

 幽香から小説を受け取った天人の少女は、そこでふと、意外な事に気が付いたかのように小鼻をひくつかせた。

 

「ところであんた、香水をつけているのね。妖怪のくせに」

「生まれてこの方、そんな“しゃれた”ものとは縁がないわねえ」

「うん?」

 

 眉を寄せる天人の少女。目の前の女からは気のせいではなく、花のような薫りが漂ってきているのだが。月の一夜にのみ咲く、名も知れぬ花の薫りが。幽かに、ひそやかに。

 瞬きを二つ三つほどした後、少女は何かに思い当たったような表情をちらつかせたが、それには特にこだわる素振りも見せず、幽香に珈琲のお代わりを申し付けて小説のページを捲った。

 

 それからしばらくの間、花の妖怪と天人の少女は二人並んで、静かに読書に没頭した。

 

   *

 

 気がつけば、もう夕暮れの時間であった。

 

 茜の色に染まった閑やかな草原に、本を閉じる“ぱたん”という音が鳴る。この辺り一帯は人も立ち入らぬどころか、獣も鳥も滅多に姿を現さぬ。まるで世界から音が消え去ったかのような静寂に、その音は染み渡るように響いた。

 

 幽香は閉じた本を懐に仕舞い、いまだに小説を読み耽る天人の少女の肩を遠慮がちに叩いた。この女に遠慮などという感性があるのかどうかはさておいて。

 読書を邪魔された少女は、手にした小説───『夕映少女』から面倒くさそうに目を離した。

 

「なによ、邪魔しないでくれない」

「あら、ごめんなさいね。私、そろそろ帰らないといけないの」

「それが何よ」

「だからその本、返して」

「イヤよ」

 

 どうして? 幽香は“ちょこん”と小首を傾げた。

 

「まだ読んでる途中じゃない。もう少し待ちなさい」

「もう少しって、どれくらい?」

「もう少し、よ」

「でも私、帰らないといけないの」

 

 もう遅いし、お腹も減ったし。

 

「だったら、さっさと帰ればいいでしょ」

「うん。だからその本、返して」

「まだ読んでる途中だって言ったでしょ」

「でもその本、私のものなのよ」

「だから何よ」

「返してほしいの」

「だから、もう少し待ちなさいって言ってんじゃない」

「返してー」

 

 天人の少女の服の袖を摘み、侵略者の追い払いを日課とする少女のように懇願する幽香。その姿は哀れを誘うというより、むしろ鬱陶しさの極みであった。人の嫌がること、神経を逆なですることにかけては、この女の右に出るものはいない。

 

 さも煩わしいとばかりに少女の眉が歪んだ。

 

「……あーもー、判った、わかったわよ。返せばいいんでしょ、ほら」

 

 だからさっさと、手を放しなさい。少女は押し付けるようにして小説を渡した。幽香は鳴いた鳥もかくやの勢いで、表情を変えて礼を言う。

 

「ありがとう」

「でも、タダで返したんじゃないからね」

「?」

 

 唐突におかしな事を言い出した少女を、またも“ちょこん”と傾げた小首で幽香は見やる。

 

「あんた、よくここら辺を通ったりするの?」

「んー、時々は」

「ならいいわ。次に会ったときにでも、その本をまた借りるから」

「もしかして、気に入ったの?」

「そんな下等な本なんかに、天人たるこの私が興味を惹かれるわけないでしょ。でも、途中で放っぽり出すのも嫌だから、仕方なく読んであげるのよ」

 

 はあ、そうなの。気の抜けた様な幽香へと、更に少女は要件を突きつけた。

 

「あと、その時にはお茶とお菓子の用意もしておきなさい」

 

 お菓子は今日出したスコーン以外のやつにすること、だそうである。

 

「もしかして、気に入ったの?」

「あんたみたいな木っ端妖怪なんかに、私を満足させられるようなもんが作れるわけないでしょ。でも、口寂しいよりはマシだから、我慢したげるつってんのよ」

 

 はあ、そうなの。ここまで明瞭に言い切られると怒る気も失くすものなのか、やはり幽香は気の抜けた様な返事を返した。そういえば、天界というところは食べ物といえば桃しかないのだと(しかも不味いらしい)、どこかで聞いたことがある。どうでもいいけれど。

 

   *

 

「じゃあね。約束、忘れんじゃないわよ」

 

 一方的にそれだけを言い残して、少女は注連縄のようなものが巻かれた岩を呼び出して飛び乗り、何処へかと飛び去っていった。神々しいのか奇っ怪なのか、にわかには判別しづらいその姿へ“ふるふる”と手を振って見送り、幽香は足元のシートを仕舞いバスケットを手にした。

 

 今度会うときにはマフィンかクッキーでも持ってきてあげよう。幽香は“ぼんやり”考えながら夕暮れに染まった草原を後にした。




 登場人物

風見幽香

備考───チキンブロスの“材料”にこだわりはないそうだ

天人の少女

備考───マジてんこ


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第11話 Love me

 お天道様が沈みゆく、茜の色に染まった小路を風見幽香が(そぞ)ろに歩む。

 

 夕焼けの中、軽やかに歩む典雅な美貌に浮かぶのは、(わらべ)のように無邪気な微笑み。傍目には、大禍刻(おおまがとき)に咲き誇る妖しく不吉な花の精にしか見えなかったろうが。

 幽香は西の空へと目をやった。視線の先の、遥か彼方のその向こう、今日一日の勤めを終えたお天道様が、ゆったりその身を横たえなさる。

 

 花の女が微笑した。安らかな笑い方であった。

 

 風見幽香は今このとき、心底楽しくて仕方がない。昼と夜とが交じり合う、どこか曖昧な空気を孕んだ黄昏の世界。幽香はそれが、誰より好きだったから。

 昇る陽を好むものはいても、沈む陽を好もうとするものはいない。殷賑(いんしん)を極める者ならなおさらだ。日差しの下に住む人々にせよ、夜闇の中に棲まう妖怪にせよ、己の浮沈を脳裏に思い描いて、いい気分でいられるものは少ない。しかし、それでも幽香は黄昏どきの世界をこそ、ひたむきに愛した。去りゆく夕陽を追いかけて、どこまでも歩いてひたすらに歩き通して果てもなく歩き続けて、そのままあてどもない旅に出てしまったこともある。

 

 こんな自分はきっと、どうしようもなく“へそ”が曲がっているか、さもなければ救いようもないアマノジャクなのだろう。だとしても、目を離せば“はらはら”と、指から零れていくこの僅かな刻が美しく感じられて仕方がない。

 

 時は誰そ彼、夕映えの茜が宵の蒼へと移ろい変わる。静やかに下ろされた夜の帳の中、はばかるような蜩の鳴き声が幽香を包む。

 

 沈む夕日。この世にただ一人で残されたかのような静けさを伴に、ひっそりと訪れ、またひそやかに消え去る、夏の夕暮れ。

 

 その美しさに心奪われ、

 

 しばし、たたずむ。

 

   *

 

 幽香が帰宅したのは、“とっぷり”と夜も更けた頃のことである。

 

 途中、禿頭に長く伸びたヤギのような顎鬚(あごひげ)という、お伽噺の仙人みたいな風体をした職漁師の老人に出会ったので、丁度釣れたばかりだという鮎を数匹と(すずき)を買った。これが今晩の夕餉となるわけだ。本当なら、夜道でよく出会う夜雀が引いている屋台で、適当な鳥の肉でも分けてもらってチキンブロスを作るつもりだったのだが、気がつけばこれを買っていた。理由はよくわからない。

 

 食材をひとまず台所に置き、洗濯物を回収した幽香は調理前に手を洗うために外に出た。家の脇に設けられた井戸(幽香が掘ったものだ)から木桶で水を汲む。

 

 水を湛えた桶を手にしたところでふと、動きを止めた。

 

 水面に月が映っている。今夜は満月であったらしい。

 すぼめた手を桶に潜らせ、水面の月を手に取る。(たなごころ)の中、人魚の流した涙のごとき月の影が白玉の輝きを放って波打ち泳いだ。

 

 幽香は何かを思いついた様子で桶を置き、家の裏手にある物置へと足を運んだ。

 

   *

 

 せっかくなので行水もつかい汗も流すことにした。熱砂吹き荒ぶ砂漠のど真ん中に終日過ごしたところで、汗の玉ひとつ浮かばせばせない女がそんなことして、何の意味があるのかはさておいて。

 

 新たに用意した、大の大人が余裕で入れるくらいにでかいタライに冷えた水を注ぎ込む。程よいくらいに水を足したところで桶を片付け、代わって体を洗うのに使う道具をまとめたラタンの籠を持ってくる。

 服を脱ぎ、先程のラタンの籠の中に入れる。なぜか大量のリボンやフリルをあしらった、やたらと少女趣味な服が先に入っていたが、気にはしないことにした。

 

 一糸纏わぬ姿となった幽香は大ダライの中に足を入れ、身を沈めた。ちょうど腰が浸かるくらいに水を入れたはずなのだが、量を間違えたらしく水位がやや上のところに来ていた。もちろん、気にはしないし気にならない。

 

 水をすくい、体にかける。よく冷えた水が肌の上を滑っていくのは、格別の心地よさであった。梔子の花さえ及ばぬ白い肌に弾かれた水滴が、玉を結んで月光に白々と煌めいた。

 

 ひとしきり涼を満喫した幽香は、水を含ませた糸瓜を手に取って体の隅々まで清めていった。どうせ血が出るほど体を擦ってみたところで微塵の垢も出るわけではないのだが、なにごとも雰囲気というのは大事である。身を清めているという気分が味わえればよいのだ。

 

 しばらくすると幽香の口から、歌が流れてきた。月明かりを集めて作った水晶を打ち鳴らしたような歌声が、夜気に溶けて染みわたる。

 

 月 月 青い月 その力のひとしずくをわたしの胸に───

 

 今日一日の埃を水に洗い流し、花の女が上機嫌の態で歌を口ずさむ。天を仰いではるかに高く、煌々と輝く青い月の下、まさしく月下美人の精とも見紛う麗姿であった。

 

 しかし、一人きりで入っているはずなのに妙に手狭な気分なのだけは、いただけない。

 

   *

 

 行水を済ませた幽香は、さっそく料理にとりかかった。

 今日の夕餉は鮎の塩焼きと鮎飯、ついでに鱸の洗い。鮎はすべて塩焼きにしてしまうつもりだったのが、気がついたら半分ほどが鮎飯になっていた。これはこれで嫌いじゃないのだけれど。

 

 二人分の食事と食器をテーブルに並べ、幽香は一人静かに誰に聞かせるでもないはずの食事の挨拶をした。

 

  *

 

 どうやら自分の家に『座敷わらし』がいるらしい。

 

 座敷わらし───気に入った家に棲み着いて、その家人に幸やら福やらを運んでくると云われる妖怪である。

 その性質もあってか、自分で勝手に人間の盟友を名乗っているだけの河童と違い、こちらはむしろ人間から好かれるという珍しい妖怪だ。ただし、それはあくまでも人間の側から見た場合であって、当の座敷わらし達がどう思っているかまでは不明なのだが。油は水と交わらない。

 

 手にした詩集のページをめくった幽香は、酒を満たしたクリスタルのグラスを手にした。なんだか今日は、あちらこちらで呑んでばかりな気がしないでもない。

 

 半分ほどを一息に飲み干し、肴に手を伸ばす。用意したのは夕餉で残した鮎と、家の脇にある菜園で育てている枝豆、夏野菜のスティックピクルスである。

 

 自分では用意した憶えのないどころか、いつ漬けたのかも判らないピクルスの中からニンジンを摘みとり、齧る。美味い。程よい漬け具合に酒も進む。

 

 グラスを手にしながら幽香は思い出す。あれは確か、季節の巡りを二つか三つばかり遡った冬の頃、博麗神社の辺りで間欠泉が湧きだしたときのことであったろうか。その時期を境にして、彼女の住処(現在の時期に住んでいるものとは別の場所だが)に姿の視えぬ同居人が居付くようになったのは。

 

 幽香がそれに気付いたのは、わりと早かった。

 自分が飲み食いした酒や食料の量や、洗濯物の数が一致しない───それに“違和感を全く覚えない”という《異常》に、逆説的なかたちで気が付いたのだ。

 

 やがて季節が変わり、春の住処に居を移しても姿なき同居人は“そこ”にいた、ような気がした。

 声は聞こえず姿も見えず、しかし確かに“誰か”いる。そこから真っ先に連想したのが座敷わらしという結論だった。思い至っても、構うのも面倒くさいので放っておいたのだけれど。

 

 空にしたグラスへ酒が注がれた。

 

 テーブルに置かれたグラスは自分のために用意したものと、向かいの席に置かれたものの二つ。 当然のように向かいのそれにも酒は満たされているのだが、幽香には注いだ憶えはない。無意識のうちに注いだか、あるいは“勝手に注がれた”のだろう。

 向かいのグラスの脇には二冊の文庫本。内、一冊が真ん中らへんまで頁が捲くられている。ややかすれたタイトルは『ドグラ・マグラ』とある。今日、ネズミの少女から買い求めた品だが、勿論、幽香は読んでいないし、そもそもこんな趣味の合わない本を購入しようと考えたことさえ無い。それなのに気がついたら手にしていたのである。折角なので、気が向いたら読んでみるつもりではあるが。

 

 それが一体いつになるかは知らないけれどね。幽香はグラスを手にして目の高さにまで持ち上げ、そこを透して映る若草の色に染まった世界を覗きこんだ。

 

 春に芽吹いた新緑を思わせる色が美しい、ニガヨモギを主な原料とするその酒は、やはり幽香が自前で仕込んだものだ。強く麗しい酒精と独特の香気、そして魔性の毒によって過去には多くの人々を蠱惑し、あるいは破滅に誘ってきた“悪魔の酒”。とはいえ妖怪、それも幽香にとってはただの味付き色水でしかないが。

 

 テーブルの脇には小さなランプが置かれ、部屋の中を粛々と照らしている。青銅の基部に磨いた水晶の薄片をはめ込んだ、華美さはなくとも積み重ねられた年月を見るものに否応なく感じさせる“それ”は、ここに───幻想郷に訪れるよりもはるかな昔に、これまたはるか西方の旅先で幽香が手に入れたものである。マッチほどの火種を置くだけで、三千世界を昼間のごとく照らし出すことさえ出来るという至極便利な品物で、元はどこぞやの灯台で灯火として使われていたのを、幽香が一目で気に入り貰い受けたのだ。ただし許可は得ていないが。ちなみに、その気になれば国一つを丸々焼き払うだけの出力を得ることも可能で、昔一度だけ使い方を誤ったことによって大変なことになったのはよい思い出だ。

 

 それはさておき、幽香の家に棲み着いているらしい座敷わらし(ではないかと思われる何者か)だが、こいつは基本的に何もしない。本当に何もしない、してくれない。悪さをするわけではないが、その代わり良いことだってしやしない。

 

 できる事といえば、その日の食事の献立を自分の好きなもの(献立からすると、どうやら和食派)に変えたり、洗濯物を増やしたり、本棚に置かれた書籍を読み散らしては並びをめちゃくちゃにしたり、ベッドやタライを占拠して寝心地居心地を悪くするくらい。そしてタダ飯タダ酒食らって飲んでは“ふらり”とどこかに消え失せる。御利益や幸を運んでくるどころか、どう控えめに云っても穀潰しである。もしかしたら貧乏神の類なのではないかとさえ幽香は疑っている。まあ、目にも視えなきゃ物音さえ立てないので、目障り耳障り癇障りとならないだけマシではあるのだが。

 

 そんな迷惑とまでは言わないが、居てもらったところで微塵も嬉しくない厄介者の世話を焼くようなことをなんだってしているのかといえば……それは幽香にも判らない。なんでか知らないが気が付いたらそうしているので、構わずにいるという選択肢が存在しないのだ。

 

 おそらくだが件の“座敷わらし”というやつ、実際には幽香にも視えているし存在を認識してはいるのだろう。しかし目を離すか意識しないでいると、すぐさまその記憶を忘れてしまうのだ。そしてこれまた推測ではあるが、それは座敷わらしとしての能力というよりも、それくらいそいつの存在が薄いせいだからなのではなかろうか(そうでなくとも、他人の家に勝手に上がり込んでタダ飯を食う程度の能力を有しているのだけは間違いなさそうだが)。“いてもいなくてもいい路傍の小石”みたいなやつと喩えることができるかもしれない。

 

 ふと思いついて、幽香は目の焦点を外してみた。

 

 次いでぼやけた視界から意識を外してみる。その間、何も見ようとも感じようともしない。ただ、目の前の光景が“ある”だけ。視線からは意味が奪われ、瞳は用をなさず、眼球はただ眼前の光景を映すだけの装置と成り果てる。

 

 すると、テーブルを挟んだ向かいに、見慣れない少女らしき姿が───

 

 視えたと意識が捉えた途端に、それは散らばる雲か消えゆく霧のように“はかなく”なってしまった。同時に、幽香の記憶からも先ほどの光景が忘れ去られる。目の前には誰もおらず、薄暗い室内には幽香が一人きりである。まるで最初からそうだったように───いや、最初からそうだった。

 

 ───まあ、そんなものでしょうね

 

 特に思うところもなく、幽香はグラスを紅薔薇の蕾のような朱脣へと運んだ。酒瓶はとうに半分を切っている。幽香も大概“うわばみ”だが、姿なき座敷わらしも相当な“のんべえ”であるらしい。さっきまで満たされていたはずの向かいのグラスはいつの間にか空になっている。それを今更、不思議がりもせず、幽香はあらためて酒瓶を手に、グラスに中身を“なみなみ”と注いでやった。

 

   *

 

 そろそろ、眠るべきかしら。口元を押さえ、幽香は“つつましやか”な欠伸をこぼした。

 

 実際のところ妖怪にとって睡眠も食事も、そこまで大事なものではないのだが。なにせ『眠る』という行為そのものへの意味合いが人間や動物とは違うのだ。飲まにゃくたばり食わにゃお陀仏眠らにゃおっ死ぬ人間と違い、その気になれば妖怪は飲まずとも喰わずとも眠らずとも、“死ぬまで死なずに”いることができる。幽香の場合、やらないのは単に“その気”になれないからだ。霞を食うよりご飯を食った方が美味しいのは誰だって当たり前。睡眠にしても、今のところは眠っているより起きている方が楽しいことが多い。そもそも、眠ったままでは本が読めない。

 

 彼女以外の妖怪の場合はどうなのかは知らない。興味もない。聞いた話では妖怪の中には年の半分以上を寝て過ごす奴もいるそうだが、おそらくそいつは現世よりも夢の世界でこそ生きがいを見出しているのか、あるいは夢と現の《境界》さえをも“あやふや”にしてしまっているのだろう。どうでもいいけれど。

 

 幽香は金糸で編んだ栞を詩集にはさみ、立ち上がった。

 空になった食器を台所に持っていき、流しに置かれている桶に溜めてあった水に漬けておく。洗うのは明日でいい。そしてテーブルに置かれた書籍をすべて本棚に仕舞う。もちろん、すべての書籍に栞をはさんでやるのも忘れない。

 

 寝間着に着替えた幽香は、ランプを消してベッドに潜り込む。粗末な寝具の端っこに身を寄せ、もう一人分が横になれるくらいのスペースを空けてやり、枕に頭を沈める。

 

 おやすみなさい。誰に言うでも聞かせるでもなく、幽香はつぶやき目を閉じた。

 

   *

 

 ほどなくして、窓から差し込む月明かりが密やかに照らす室内に、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 

 ベッドに横たわるのは、月光を糧に咲いた花の姫君がごとき女が一人きり。

 

 その寝姿はどこか、目に見えぬ誰かと仲良く抱き合っているように見えた。

 

   *

 

 風見幽香の朝は相変わらず早い。

 

 いつものように空も白まぬ内から目を覚ました幽香は、いつものように上体を起こしたベッドの上でいつものように身じろぎもせずいつものように“ぼけーっ”としていた。

 

 そこまでは“いつものこと”なのだが、今朝は少しだけ違ったらしい。

 

 幽香は寝間着に身を包んだまま、ベッドの上で“すんすん”と鼻を鳴らした。餌の匂いを嗅ぎつけた猫か犬のような仕草である。この女、花の妖怪のはずだが。

 

 普段なら届かぬはずの匂いを嗅ぎ取った幽香は、その源を求めてさして広くもない家の中へと視線を彷徨わせた。

 すぐに見つかった。行き着いた先は部屋の真ん中に置かれたテーブルであった。そこにはいつの間に用意されたものか、飯を盛ったらしい茶碗や料理を盛った皿が置かれていた。もちろん、幽香はこんなものを作ったりはしていない。

 

 普通ならば、その異常さに不審なり気色の悪さを抱くなりするのであろうが、そこは風見幽香である。顔色ひとつ変えず、いつものように“もぞもぞ”と這いずるようにしてベッドから出て、着替えをはじめた。

 

 いつものように手早く身支度を済ませた幽香は、ここだけはいつものように食事の支度をすることはなく、そのままテーブルに向かった。今朝の献立は小ネギを散らした白粥に、葱をたっぷりと混ぜ込んだ炒り玉子。それに香の物がいくつか添えられている。

 

 どうせならオムレツが食べたかったな。“のんびり”した口調でぼやきながら幽香は椅子に座った。向かいの席にも、当然のように食事の支度がされているが、いまさら気にはならない。

 

 いただきます。両手を合わせて行儀よく挨拶ひとつ。幽香は箸を手に取った。




 登場人物(人と物、ついでに人外)

風見幽香

備考───和食派というわけではないらしい

職漁師の爺様

備考───風体だけなら絶対タダモンじゃねー

糸瓜

備考───私はへちまになりたい

ピクルス

備考───キュウリとニンジン、あとオクラ


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