お酒にまつわる、エトセトラ (駄犬@)
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たまには、アラウンド・ザ・ワールド
お酒にまつわる~ということで、卒業後ifになるのでしょうか。
最終章が世に出る今の内!ということで書きました。
短いですが、お付き合いくださいませ。一応シリーズものになっております。
pixivにも掲載中。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8502125
「おや、ダージリンさんではありませんか?」
不意に声を掛けられた。その声はどこか懐かしい。
物凄いスピードで記憶の糸を辿る。お陰で、私が振り向く間には答えは出ていた。
「あら、絹代さん」
声の主は西絹代。
高校時代、知波単学園戦車道チームの隊長を務め、大学戦車道でも武勇を轟かせた人物でもある。私も彼女には幾度か煮え湯を飲まされた経験もあった。
「お久しぶりです!ダージリンさんとはあの時の東西対抗戦以来ですか」
「ええ、お久しぶりね。その節はどうも。あの時のことを思い出すたびに、私は胃が痛むわ」
「ああ!そんなつもりでは……失礼しました!」
絹代は慌てて頭を下げた。
こういった真面目なところも昔のままで、彼女らしい。
「いいのよ。冗談だから」
私は、笑って手を振る。
絹代は恐る恐る頭を上げた。頬を掻きながら言う。
「ダージリンさんと話していると寿命が縮んでしまいます」
「そう?私のおばあさまは、もうしばらくしたら卒寿のお祝いよ?」
「それはそれは!是非お祝いをさせてください」
「そういうつもりではなかったのだけれど……ありがたいわ。じゃあ、落花生最中と南房総のえびせんべいを送ってくださるかしら」
「せんべいも食べられるほど、歯もそろってらっしゃるのですか!」
「違うわ。私が、食べたいのよ」
なるほど、と絹代は手を叩く。
何故か彼女の方が嬉しそうだ。長い黒髪が揺れている。
少しちぐはぐは会話だが、私にはとても心地良く感じられた。この空間に一人でいるよりは数十倍もマシだ。
ここは、都内某ホテルのパーティー会場だ。芸能人がたまに結婚式などで使用している〝部屋〟と呼ぶには大きすぎる一室。ここで今夜催されている戦車道関係者のパーティーに、私は参加しているのだ。
片隅に置かれたグランドピアノでは、しっとりとアレンジされた《ユア・ソング》が生で演奏されている。フロアにうごめく燕尾服やドレスで着飾った紳士淑女は、もっぱら歓談に夢中だ。国内外問わずプロチームのGMや選手、果ては各省庁の役人に国会議員の姿も数名みられた。彼や彼女らがどんな話をしているかは、想像に難しくない。大方、大好きなマネーの話だろう。下らないまつりごとや、トレードに出される選手の決め打ち。次のドラフト。雑多な欲望が、この部屋には渦巻いていた。
「まったく……」
私はため息交じりに呟いた。
「どうかされましたか?」
「いえ。ごめんなさいね、お気になさらず」
絹代は、案外耳ざとかったようだ。彼女は続けた。
「ところで、ダージリンさんは何故、ここに?」
「ちょっとした野暮用……と言った所かしらね。それはいいとして、もう私はダージリンではないのよ絹代さん」
「これはまた失礼を……聖グロは代々襲名されるんでしたね。では、何とお呼びすれば?」
「そうね、じゃあファンティーヌとでも」
「なるほど、では私は今日はジャンと名乗りましょう」
絹代はそう言って笑ったが、私がそう名乗った理由を真に理解できたかは分からない。
『レ・ミゼラブル』――今の私にはピッタリではないか。
「喉が渇きましたね。何か飲みませんか?」
絹代の提案。それは私にとってもありがたい提案だった。
ここに到着してから何も口にしていない。喉はカラカラだった。
「そうね、頂きましょうか」
私はそう言ってボーイを呼び止めた。
「私は赤ワインを。絹代さんは?」
「では山崎の12年をダブルのロックで」
「あら、お強いのね」
「嗜む程度です。父に、酒の味くらいは知っておけとうるさく言われるものですから。もう耳にタコができていますよ」
私は軽く一礼して去っていくボーイの後ろ姿を見つつ、改めて絹代の立ち姿をまじまじと見る。深いブラウン地のスリーピース。それが絹代の雰囲気を更に凛としたものにしている。男装の麗人、といっても何ら差し支えない。女性でスーツを着ているのは会場でも彼女だけで、やもすれば浮いてしまいそうなものだが全くそんなことはない。先ほどから派手に着飾ったご婦人方の熱い視線を感じるのは、ひとえに彼女のお陰だろう。
「そういえば、絹代さんこそどうしてここへ?」
先ほどの質問への意趣返しだ。純粋な疑問でもあった。
「私ですか?私は、やはり親からの言いつけです。まつりごとはさっぱりだと散々抵抗したのですが……」
そういえば、絹代の実家は貿易会社をやっていると聞いたことがある。それも、確か戦車のパーツなどを手掛けていたはずだ。それならば、彼女がここにいるのも納得がいく。
「なるほどね。じゃじゃ馬にも遂に手綱が付けられたと、そういうワケね」
「祖父にもそう言われました」
「貴女のおじい様とは気が合いそうだわ」
そこで、丁度注文していたドリンクが届けられた。お互いにグラスを受け取る。
「では」
「そうね」
そう言って、私たちはグラスを合わせた。
気が付けば、私のグラスは空になっていた。
もし、絹代と会わずにこの空間に一人であったなら一杯たりとも飲むことなく帰宅することになっていただろう。彼女との再会は私にとってもこの上ない幸運だったのだ。
「いやはや、あなたにここで会えて私は幸運でした」
2杯目に口を付けている絹代がしみじみとそう言う。幸運だったのは私だけではなかったようだ。
「それは、もしかして口説き文句かしら」
「あなた程の女性を口説くには、もう少しアルコールが必要ですよ。私にも、あなたにも」
何故か絹代の眼差しは真剣だ。彼女は続ける。
「でも、今日のあなたにはアルコールはそんなに必要ないはずです。もう一度聞きます。何故、あなたは今日ここに?フォンティーヌ」
戦車から離れて長い筈の絹代、彼女の目の奥の眼光は鋭い。商人となった彼女には、私の心の内が見えているのだろう
か。
「あなたが、ただの野暮用程度でここにいるとは思えないんです。ああ、少し喋りすぎました。忘れてください」
言い終わって絹代はもう一度グラスを口に付けた。照れ隠しのつもりなのか半分ほど残っていたグラスは、彼女がグラスから口を離すと、ほとんど空になっていた。
私が、今日ここにいる理由。それは母校の聖グロリアーナの戦車道絡みだ。我が母校はOB会が絶対的な権力を持っている。それは、チームに編成される車両を決定してしまうほどに。近年、各学園の戦車道の進歩はあらゆる面において目覚ましい。
伝統とは、守るものではない。創るものだ。
それが分からぬOB会は、殊更〝伝統ある編成〟を守れ、と態度を変えようとしない。それを変えるため、私は今日ここに来たのだ。戦車道界、あらゆる方面にパイプを持つ聖グロリアーナOBが多数出席している、このパーティに。
「あなたは、どこまで〝分かって〟いるのかしら?それとも〝知って〟いる?」
「さぁ、どうでしょうか。この業界。人のうわさは回覧板ですから」
「75日ではなくて?」
「ええ」
なるほど。
学生時代から育成に長けた絹代だ。人の内側を見抜く力は人一倍ならず、二倍三倍はあるのだろう。学生時代以来、数年ぶり何度目か、またしても彼女に完敗。
「貴方と喋っていると、寿命が縮まる気がするわ」
パーティ会場を後にして、私はホテル一階のエントランスにいる。
備え付けのソファは、やはり一級品。座り心地は申し分ない。
「フォンティーヌ、ここにいらっしゃいましたか」
アルコールに少しだけ顔を赤らめた絹代が、エレベーターから顔を出した。
「ごめんなさいね、ジャン。ちょっと疲れてしまって」
言葉の通り、私はオフショルダーのカクテルドレスを今すぐにでも脱いでしまいたい気分だった。
「構いませんよ。それで、戦果のほどは?」
言いながら、絹代は対面のソファに腰を降ろした。
「どうかしらね。私としては一億総玉砕の覚悟で臨んだのだけれど」
「それは、それは。武運を祈るしか私にはできませんが」
「イジワルな人」
「言ったではないですか。私にはまつりごとはわからぬ、と」
そう言って、絹代らからからと笑った。
「そうだったわね。ごめんなさい」
「でもきっと、上手く行きますよ。新たな一日が始まった。この新しい世界が何をしてくれるのか見てみよう」
「私は……どんなに暗い夜でもいつかは終わる。そして太陽が昇るんだ、の方が好きだわ」
そう言って二人で笑い合う。絹代が思いついたように言った。
「最後に、もう一杯どうですか。ごちそうしますよ」
「ありがたいけど、本格的に私を口説く気かしら」
そんな私の言葉に心底可笑しそうに笑う絹代は、夜風のように爽やかだ。きっと彼女は実家の三代目として、家をもっと大きくするだろう。
「そうですね……これで、前後不覚になれたのならばそうします」
「期待しているわ。何をごちそうしてくれるのかしら?」
「たまには、こういうのもいいんじゃないでしょうか」
ボーイを呼びつけると絹代。彼女は、卓上のメニューも見ずにこう言った。
「――アラウンド・ザ・ワールドを」
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決意の色は、ブラッディ・メアリー
酒と煙草と戦う女。百合っぽくしないって難しいですね。
pixivにも掲載中です。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8372941
歓声と怒号が同時に巻き起こった。
隣のおじさんは口から泡まで飛ばして怒鳴り散らしているし、反対方向に座っているおばさんは手まで叩いて笑い転げている。溜息も拍手も交互に聞こえ、狂騒にも近い人々の熱気がそこかしこで渦巻いていた。
私が、今見ているのはタンカスロン。それは、非公式な戦車戦。それは、ルール無用の野良試合。私が良く知る戦車道とは全く違う、〝異質〟と言っても過言ではない危険な競技だ。
それでも、私は胸の奥になにか熱いものを感じざるを得ず、立ち上がって拳を振り回したくなるのを抑えるのに必死だった。
横から腕が伸びてくる。紙製のカップに突き立てられたポテトが視界を遮った。
「どう?たまにはいいもんでしょ?」
ケイだ。
彼女はそう言いながら私がカップからポテトを一本抜いたのを確認すると、ゆっくりと私の隣に腰を降ろした。
私は彼女の誘いで、このタンカスロンを見物に来たのだ。
「まぁ、な」
ゆっくりとポテトを口に運ぶ。
揚げたてらしいポテトは香ばしく、熱い。そのせいで、私は上あごに少しだけ火傷をこしらえた。強烈な太陽の下で口の中はひりひりと痛み、遠くで鳴りやまない火薬の炸裂音が傷に沁みた。
舌で口蓋を舐めていると、ケイがうずうずとした様子を隠そうともせず言った。
「私もすぐにでも飛んで帰って、所かまわず75ミリをぶっぱなしてやりたい気分」
ウェーブの掛かった長い髪を揺らしながら、ケイは笑う。天井に輝く太陽のような笑顔だった。
彼女はポテトを口にくわえたまま立ち上がり、シャドー・ボクシングを始めた。デニムのショートパンツからすらりと伸びた健康的な肉付きの脚が、軽快なステップで青々とした草を踏みしめる。
「シーズンが始まれば、飽きるほど撃てるだろう?」
「ええ、それもスポンサーのお金でね」
そう言って、私とケイは顔を見合わせて笑った。
「ごちそうするわ」
ケイにそう言われ、連れてこられたのは彼女の自室だった。
3LDKに一人住まい――話では、使ってない部屋もあるということだった。流石は一流選手の自宅である。
私は、そのだだっぴろいリビングに据えられたソファに身体を預けて寛いでいる。
有線でも引いているのだろう。静かに流れるBGMは、彼女の趣味らしく《FIND TOMORROW》。日差しは大分傾いていたが、まだ〝明日〟というには早すぎる時間だ。
ホームシアターまで設備が整っているテレビ台。その上の、いくつかの写真立てのうち一つが目に入った。立ち上がり、それを手に取る。それは高校時代の写真だった。私にも、これには見覚えがある。最後の大会で、各高校の隊長陣にケイがわざわざ声を掛けて撮ったものだ。
白い木製の写真立ては、わざとヴィンテージ風の塗装が施されていたが、その時の記憶は昨日のことのように思い出される。自然と頬が緩む気がした。
キッチンから、油が弾ける音と一緒にケイの声がする。
「あら、見つけちゃった?」
「ウォーリーを探すのよりは簡単だったさ。とても、懐かしいよ」
「でしょう?今を時めくスター選手の、古き良き学生時代の写真よ?」
そう言って、ケイは大げさに指を折って数えるそぶりをした。
「サザピースに持ち込んだら、いくらの値が付くかしら」
「世界中のメイプルリーフを集めても足りるかどうか」
「違いないわ」
「しかし、この真ん中の黒いジャケットの仏頂面はいただけないな。誰だこれは」
私は、にやりと笑う。ケイが笑いを堪えながら答える。
「さあね?私は知らないけれど……もし、もしね?そんな辛気臭いのがウチにいたら、即刻叩き出してるわ」
腕時計が指す時刻は7時半。
食卓に並べられたのは、オリーブとチーズがこれでもかと乗せられたピザと、トランプ束位の厚みがあるリブ・ステーキだった。肉汁滴る焼き加減はレアらしい。
「あっちのスポンサーが送ってくれるの。食べきれない位あるんだから」
ケイはウインクしながらそう言った。
「だからこうして私を呼んだんだな」
「文字通り〝神様からのギフト〟よ。平等に分け与えるべし、ってね?じゃないと、冷蔵庫に入りきれなくて、牛肉のベッドで寝ることになるもの」
「生臭くて寝られたもんじゃないな」
「でしょ?」
付け合わせのブロッコリーを指先でつまんで口に放り込むケイ。だが、今日はその行儀の悪さを咎める気にはなれなかった。きっと、彼女はこう言うだろう。『何事も赦す、広く寛大な心を持ちなさい』と。
「ほら、食べましょ?折角のステーキが冷えちゃうわ」
ケイの号令に、私は十字を切る代わりに心の中で手を合わせ、静かにナイフとフォークを手に取った。
食後。
ケイに食事のお礼を言った私は、リビングを出てベランダにいた。眼下に見下ろす車も人も豆粒のように小さい。
ポケットから取り出したセブンスターは、最期の一本だった。
いつの間に出て来たのか、隣にケイがいた。
「今年はいくつ星を取る気なのかしら?セブン?エイト?ナイン?」
「どうだか。出来ることをやるだけだよ、ケイ」
「アナタはいつだってそう言うわ、マホ。でも、星の数はテンまでにしといてね」
「なぜ?」
「私はそんなに足の指が器用じゃないの」
タバコに火を点けていた私は、煙を笑いと共に吐き出す。私の方が風下だ、ケイの顔に煙がまとわりつくこともないだろう。手すりにしなだれかかった彼女は、長い髪を赤いヘアゴムでまとめている。時折吹く風に、それが小さく揺れた。
「誰かとお酒を飲むの、久しぶりだわ」
細長いグラスをマドラー代わりのセロリでゆっくりとかき混ぜながら、ケイがそう言った。私たちは再びリビングに戻っていた。今度は二人並んでソファに座っている。
ウォッカをベースにトマト・ジュースを入れ、タバスコが数滴垂らされたブラッディ・マリーはさっぱりとしていて、口の中に残ったオージー・ビーフの油を洗い流してくれた。ケイが作ってくれたものだ。
「そうなのか?」
「ええ。特に、友人とはね」
グラスの中で、ロック・アイスがからりと音を立てる。
「友人は多いだろう?」
「お金と口を出すだけの人のことを友人とは言わないわ」
「そうかもしれないな」
ケイは、少しだけ目を細めてグラスを空にした。私もそれに続いて中身を飲み干す。
「あ、そうそう」
もう一杯作る気だろう。ウォッカの瓶を手に取ったケイが続ける。
「来シーズンは、負けないよ」
「突然の宣戦布告だな」
「日本人はね、真珠湾作戦の時から奇襲が得意なのよ」
そう言ってにっこりと笑う彼女の目の奥には、確かにブラッディ・マリーのような燃え上がる決意と覚悟の色が見て取れる。グラスに入った少量のウォッカに、トマト・ジュースが注がれた。
「グッドラック」
なみなみとお代わりが注がれた真っ赤なグラスを合わせて、私たちはそう言った。
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涙の、サイド・カー
この二人には殊更関係性を感じます。
卒業後も、きっと……。
pixivにも掲載中です。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8550519
ひっきりなしに運ばれてくる料理と、ジョッキ。それらは瞬く間に空にされ、オーダーは繰り返される。その度に呼びつけられる店員も態度にこそ出さないが、少し迷惑そうだ。
私は、自分のグラスに刺さるストローに口を付ける。軽く吸い込むと、すでにオレンジジュースはぬるい。見ると、氷は溶け切っていた。雫が机にしたり落ち、丸い円を描いていた。
もごもごとした声が聞こえる。
「ふぉら!まこも食べて!飲んで!」
「食べながら喋るな、沙織」
一応、行儀の悪さを咎めては見る。
だがやはり、彼女は一向に気にしてはいないようだ。
「あ、コレ美味しい!コレも!この生春巻きは……ん〜!最高!」
皿の上から次々と料理が消える。口の中をいっぱいにした彼女は、それをビールで一気に流し込む。その様は、魔法を見ているかのようだ。
これまでにも、こういったことは何度かあった。これは、この友人が失恋をする度に行なう。暴飲暴食――つまりはヤケ喰いとかヤケ飲みと言った類のモノ。呼び出された理由も、連絡を受けた段階で何となく察しがついたものの、今日の儀式は特にヒドい。
「もう少し落ち着いて食べたらどうだ」
「ムリ」
一瞬だけ目から光を消した沙織。
そう言って、掴むが早いか一瞬で空にされたジョッキが机に叩き付けられる。ガチャリと空の皿がタップダンスを踊った。
これに毎度付き合わせられる私の身にもなって欲しいが、これを西住さんたちに押し付けるワケにもいかない。
時計を見る。
入店して、もう2時間。
時計の針は天辺近い。私は目の前の友人の介護と、午前様を覚悟した。
◇
2軒目は、どこにでもあるチェーン店。
ここでも沙織は相変わらずだ。ハイペースでジョッキを空け続けている。
変わったことと言えば、だいぶ呂律が怪しくなったのと――時折、会話に鼻をすする音が混じるようになったことくらい。
「なぁ、沙織。大丈夫か……?」
「んあ?ばかいってんじゃないよまこぉ。大丈夫にきまっへる!ずずっ……」
と、この調子だ。
今回の件の相手の名前をひたすら呼んでは、表情をころころと変える沙織。その姿は、人には滑稽に映るかも知れない。でも、私はその姿を見て胸が痛んだ。
余程ショックだったのだろう。アルコールのせいだけではないのが分かるほど、沙織の目は真っ赤だ。私はこうして話を聞いてやることしか出来ない。だからこそ、胸が痛むのだ。
「まこものめーっ!」
ぐい、と目の前に突き出されるジョッキ。
沙織の距離感は既に狂っているのか、ジョッキが鼻先に軽く触れる。感じる冷たさと共に、水滴が鼻先を濡らした。
◇
「まぁ、こうなるとは思ってたが……」
あれから3軒目、4軒目と居酒屋のはしごをした。最後の店で、その店の店長に追い出されるまで沙織の儀式は続いたのである。
当の本人は、さすがに疲れたのか眠っている。私の背中で。それは、学生時代からは考えられないことだった。きっと、これを見ればあんこうのみんなも驚くことだろう。
空を見る。もう朝が近いのだ。東の方には少しだけ朱が差していた。
あれだけ騒いでいたのに、眠ってしまえば静かなものだ。寝静まった街に、背中からは寝息一つ聞こえない。
私は、一歩一歩ゆっくりと踏み締めるように歩いた。起こしてしまってはかわいそうだからだ。もっとも、それでなくても起きるのは今日の夕方過ぎだろうが。
「ごめんね……」
耳元で聞こえたのは謝罪の言葉。
寝言だろうが、今日の話を聞く限り沙織は何も悪いことはしていない。きっと、悪いのは相手の方なのだ。誰に謝る必要があるというのだろうか。背負った沙織の重みが、心にまでのしかかってくるようだった。
もう一度空を見ると、明るみが増していた。
「ありがとう……」
今度聞こえたのは感謝の言葉。誰に感謝しているというのだろうか。自分を捨てて、次の相手に鞍替えした最低な奴に感謝することなどあるものか。それとも、短い間でしたが――ということなのだろうか。私には分からなかった。
幸いにして、沙織の家の住所は知っていた。と言うよりこっちに出て来て、いの一番に押し付けるように教えられた。こういう時にしか役にやったことはないが、まぁそれも良しとしよう。ひとまず、明るくならないうちに沙織をベッドに放り投げるのが先決だ。
私は、少しだけ歩幅を開いた。その時、また耳元でかすかに声が聞こえた。
「……まこ……」
私の名前だった。思わず脚が止まる。
「まこ、ごめんね……ありがとう……、まこ」
私の名前と、謝罪と感謝。
てっきり、昔の恋人へ送る言葉だと思っていたそれは、私に対するものだったらしい。
私は、彼女に何かしてやれていたのだろうか。
謝られるようなことを。有り難がられるようなことを。
そう思うと、何故か涙が出てきた。鼻水も一緒に。
何も出来なくて、ごめんなさい。頼ってくれて、ありがとう。
「それを言わないといけないのは私だよ、沙織」
鼻すすりながら、無理やり声に出す。
「ふが……!」
突然、背中から怪獣のような声が聞こえた。
今まで静かだったと思ったら、このタイミングで盛大ないびき。それが何とも滑稽で、涙など一瞬で引っ込んでしまった。多分、これが質問への答えなのだろう。明日聞いても多分、本人は覚えちゃいないだろうけど。
遠くで始発電車の走る音がする。
電柱にとまっていたカラスが3羽、夜明けの空に羽ばたいた。もうしばらくすれば、街も目を覚ます。
今度は私から沙織を誘ってみよう。何か、お祝いごとでも重なってくれれば御の字だ。その時は、沙織に極上のサイド・カーでもごちそうしてやろう。
一気飲みはするな、と付け加えて。
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ジン・トニックで、思い描いて
多分、きっと二人は仲良し。
pixivにも掲載中です。
河原には見渡す限りの緑があった。
季節は11月。
たまにうっすらと見えるのは、イヌタデの心もとないピンク色か、ノコンギクの白色だ。
河川敷を隔てて隣を走る大きな川。それは、海まで伸びているのだろうが結末をここから見ることは叶わない。せいぜい出来るのは、土手を舗装して作られた目の前の道を延々と走り続けることだけだ。
私は忙しく回転させていた脚を止め、耳のイヤホンを外した。すると、だいぶん遅れて背後から足音が近づいてくる。
「い、逸見殿……、ようやく追いつきました……」
私が立つ場所の3歩後ろで、優花里が荒い息を吐いている。
「まぁ、ロードワークなんてこんなもんよ。貴女はよく付いて来ている方だと思うわ」
「そうですか……これを、毎日?」
「もちろん。使う?」
実際には、いつもより距離も長くペースも上げていた。意地悪をしてやろうと思ったのだ。
でも、彼女はそれに遅れながらも付いてきた。悔しいが、この賭けは私の負けだ。
私は首に巻いていたタオルを優花里に差し出す。それは汗を吸い、少しだけ湿っていたが既にお互いそんなことを気にするような間柄ではない。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
差し出したタオルを手に取った優花里は、わしわしと顔面を拭う。その動作が、どことなく元気のいい柴犬のイメージと重なる。私は、笑いを堪えた。
「どうしたんですか?逸見殿」
「いいえ、なんでもないわ」
丁度、遠くに掛かる鉄橋が、夕日を真っ二つにしようとしている所だった。
「ようこそ、我がヴェルダン要塞へ」
「既に私の侵入を許してしまっているじゃない」
「なるほど、一本取られました」
優花里の後に続いて、決して立派とは言えない玄関のドアをくぐる。パッと見て、部屋自体もそんなに広くないことが分かる。6畳一間、と言ったところだろうか。だが、その大半がミリタリーグッズの陳列棚に場所を取られてしまっていた。
「ちょっと、散らかってますが寛いじゃってくださいね」
「散らかってる、というか生活するスペースが足りてないじゃない……」
「いや、まぁ……あはは……」
優花里は頬を掻いた。卒業後、ミリタリーに関する豊富な知識を買われ、専門誌の編集者の道をひた走っている。彼女らしいと言えば、彼女らしい。というか、ぴったり。
「シャワー、使います?私はその間に準備をしておきますから」
そう言うと、優花里は迷彩柄のリュックの中を漁り始めた。
今日、彼女が私のロードワークに付いてきたのは取材のためだ。彼女が手掛ける専門誌は私も購読しているが、その本のインタビュー・コーナーに私が槍玉にあげられたのだ。話を持ち掛けられた時は『なんで私が!』と拒否したが、熱心に毎日連絡を寄越してくる彼女の熱意に折られてしまったのだ。
「脱衣所は?」
私は優花里に聞いた。
「恐れながら!脱衣所はないのであります!」
何故か自信満々に言ってのける優花里。
私は鼻から空気を一度抜いて、黒いウインド・ブレーカーを脱ぐ。
「一刻も早い引っ越しを要請するわ」
「シャワー、ありがとう」
「いえいえ」
「アナタはシャワー、浴びないの?」
「私の仕事はこれからですので」
「熱心なのね」
「逸見殿には、負けます。とりあえずどうですか?」
優花里は、丸見えのキッチンに鎮座している冷蔵庫から何かを取り出しながら言った。手に握っているのはビールだ。
「アナタ、飲むの?」
「仕事で付き合いも増えますから、訓練です」
「恐れ入るわ。でも、今からインタビューなのに、いいの?」
「上司が言うんです。『本音を聞きだすにはアルコールだ!』って」
そう言って、優花里は人差し指を私の鼻先に突き付けた。彼女の会社の上司のマネなのだろう。似ているかどうかはさておき、それなりに説得力はあるような気がする。
「使えないインタビューになっても知らないわよ」
「そこは腕次第、ですかね。あと、逸見殿のアルコール耐性」
小さな部屋に、炭酸が勢いよく抜ける音が響いた。
2本目のビールの缶が空になった。
それとなく、話がそういう方向を向きかけた時。私の視界の隅で、優花里は自然な手つきで卓上のボイス・レコーダーを一瞬操作した。
私は感心する。
これも、インタビュアーとしての技術だろう。彼女は、相手に身構えさせることなく、自然な流れで〝聞きたいこと〟と〝相手の本音〟を収める気だ。優花里は、学生時代にサンダースの学園艦に情報収集のため忍び込んだことがあると聞いたことがあるが、なるほど彼女はスパイとしてのポテンシャルも秘めているのかも知れない。
まぁ、私に気取られているようではまだまだなのだろうが。
優花里は、私に付きあって空けた2本目の缶を置いて、口を開いた。
「逸見殿は、どうしてあのような辛いトレーニングに耐えられるのですか?」
アルコールを入れているとはいえ、彼女の目は真剣だった。だが、人間、いざという時にはなかなか上手く言葉が出て来ないものだ。一拍置いて答える。
「まぁ、これでも一応プロだしね」
「では、〝プロ〟とはなんでしょう?」
優花里がボイス・レコーダーを私の方に近づけながら言った。
「難しい質問ね」
私は、考えるフリをした。
本当は、答えなど当にある。学生時代、私は〝あの子〟に〝その姿〟を見たのだ。
「質問を変えますか?」
少し不安げな優花里の声。
「いえ、いいわ」
私は続けた。
「夢を――希望を持っている、諦めないのがプロだと思うわ。これは、心構えの一つとしてね?」
「深いお言葉です、いやぁ深い」
優花里はさらりと言ってのけた。
「ほんとにそう思ってる?」
「もちろんですよ」
「熊本にはね、同じ言葉を二回続けた時、その言葉は嘘だって言い伝えがあるの」
私は少しだけ、意地悪を言った。慌てる優花里の髪が揺れる。
「ことわざですか?」
「お酒のコマーシャルよ」
姿勢を崩す。優花里が立ち上がった。
「いったん休憩にしましょう。ビールはもう飽きたでしょうから、私が一杯作りますよ」
そう言って、腕まくりをする優花里。止められるボイス・レコーダー。
「なんでも揃ってますよ、スキットル用に大体のモノは。今すぐマッターホルンに強行軍することになっても大丈夫です」
彼女なら、やりかねない。私は猛吹雪の中、スキットルをぐいと傾ける優花里の姿を想像して笑った。
「呆れた。じゃあお任せしようかしら」
「了解であります。では、そうですね……逸見殿には――」
開かれたシンクの上の戸棚には、彼女が言う通り酒瓶が所狭しと並べられていた。
「――ジン・トニックを」
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ヨコハマ・ギブソン
ペコちゃんは苦労人。
pixivにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8523298
そばで歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
私は顔を上げる。
どうやら、急に降り始めた雨に、会社員のグループが上げた嬌声らしかった。同時に、街中が浮足立つのが分かる。私は、これ見よがしに準備していた折り畳み傘を広げた。天気予報さまさまだ。
広げたオレンジ色の傘を小雨がぽつぽつと叩く。私は、道をぽつぽつと歩く。
雨は、次第に強くなって来た。この天気だ、雪になるかも知れない。
指定したお店のカウンターで待つこと15分。指定した時刻ちょうどぴったり。恐ろしいほど正確に、その人は姿を現した。
「あら、ペコ。早かったのね」
「後輩の努め……ですかね。すみません、お呼び立てしてしまって」
「いいのよ。私も丁度飲みたい気分だったの」
ダージリン様は備え付けのコート・ハンガーに上着を掛ける。掛けられた真っ白なコートは、雪を塗り付けたように白かった。私の隣に彼女は座る。
「いいお店ね」
隣で、ダージリン様が呟く。今日、私がこの日のために選んだお店。それは、どうにか彼女のお眼鏡に叶ったようだ。
場所は横浜市の中区。サンフランシスコ・スタイルのロング・カウンターが特徴的なお店だ。小さく流れるBGMは《virtual insanity》
「私たちは隣どうしの席でよかったのかしら。離れて座った方が……」
「グラスを端から滑らせる……なんてことを考えてないですよね」
「この店からグラスがなくなってしまうわね」
自分で想像してツボにはまってしまったのか、ダージリン様はくすくすと笑う。
「とりあえず、何か飲みましょうか」
「そうね。じゃあ私は、ワインでも」
「私も同じものを」
「ペコも大きくなったわね……」
「なんですか」
「いえいえ。三日会わざれば……と言うものね」
グラスを黙って磨いていたマスターに目くばせする。すると、彼は無言で頷いた。彼の手元のグラスには、一点の曇りも見えなかった。
「あら、美味しい。ペコが選んだお店だけあるわ」
ダージリン様の言葉に、マスターが小さく頭を下げた。
「前に、先輩に連れて来てもらったことがあるんです」
「そこで口説かれた?」
「違います。チームの先輩ですよ。入団祝いに、って」
「無粋な先輩ねぇ。こんなにかわいい女性を前にして、口説き文句の一つも出て来ないなんて」
「からかわないでくださいよ。素敵な先輩なんですから」
「私よりも?」
唇を尖らせるダージリン様。何となく感じる優越感。
学生時代にはできなかったような会話が、妙に心地いい。
「ま。それはそうと」
ダージリン様が続けた。
「今日は、なんの用なのかしら?」
彼女らしい単刀直入な質問だった。
私は無意識に視線を逸らしていた。ダージリン様の眼差しが、私の横顔を斬りつけるのが分かる。
逸らした視線の先には色とりどりのボトルが並んでいた。ブラウン、グリーン。ホワイトにコバルト・ブルー。それらは、店内の薄明りに照らされて万華鏡のように輝いて見えた。
「それは……」
言い淀む。
こういう所は流石だ、と思った。他の人とは鋭さが違う。勘とはまた違った、嗅覚にも似た独特な感覚。彼女のそれは、学生時代よりも鋭敏になっているようだった。
「失礼するわね」
隣でダージリン様がタバコに火を点けた。フリント式で細身のガスライターは、キャサリン・ハムネット。〝らしい〟チョイスだ。唇から吐き出される煙が漂い、空調に掻き消されては消える。
「本当は辞めたいのだけれどね。ワインの味も分からなくなると言うし」
と、ダージリン様ははにかんだように言った。それが、彼女なりの緊張のほぐし方だろうことはすぐに分かった。学生 時代にも何度かその表情にお世話になったことがあったからだ。
私は、グラスに残っていたワインをぐい、と飲み干す。『話します』の合図だ。
「実は、相談がありまして」
「何かしら?子猫の里親募集なら、生憎だけれど……」
「そうじゃないんです。仕事のことで」
「随分と深刻ね」
「深刻です」
「話してごらんなさいな」
ダージリン様は正面を向いたままだ。先ほどから、彼女はワインに手を付けていない。グラスの中はもう温くなってしまっているだろう。
「来シーズンのことです」
「もうすぐだものね」
「はい。私、ファームから上がれるのかなって……」
私が今日彼女を呼び出した理由はそれだった。来シーズンへの不安をぶちまけるため。そのために彼女を呼び出したのだ。ダージリン様は黙っている。
いつの間にか、BGMは《Cosmic Girl》に変わっていた。確か、このミュージック・ビデオに登場する紫のランボルギーニ・ディアブロは、事故で大破してしまったはずだった。
ダージリン様は、一本目のタバコを灰皿でもみ消した。一拍間を置いて喋り出す。
「ペコの目標は何かしら?」
「え?」
「目標よ。1億円プレイヤーになる、とかブガッティ・ベイロンをキャッシュで、とか。殿堂入りする、とか自分のチ
ームを持つとか、そういう目標」
「そういうのは、まだちょっと……」
「まだ、ね」
ダージリン様は二本目に火を点けた。
薄暗い空間で、ゆらゆらと揺れる火種が蛍のように見える。彼女は続けた。
「多分、貴女は焦ってるのよ。ペコ」
「焦ってる?私がですか?」
「そうよペコ、焦っているのは貴女。他の誰でもないわ。貴女はプロ何年目かしら?」
「一年目です」
「そうね、一年目。しかし、本人は聖グロきっての装填手。ダージリンの後継者。同期には、あの〝首切りウサギ〟の澤梓。活躍を期待されながらも、今はファームでの調整を余儀なくされる……でも、〝一年目〟」
そう言って、半分ほどになったタバコをもみ消すダージリン様。そのフィルターには、柔らかなピンクのグロスが張り付いていた。
全てが図星だった。私は唇の裏を前歯で噛むことしかできない。
「焦り……というか。背伸び、にも近いかしら」
「背伸び、ですか」
「そう、背伸び。人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかにふるまうかにかかっている」
「ヘミングウェイですか」
「そう。でも貴女はまだ負けたわけじゃない。今、何が出来るか……するべきかを考えるべきよ。私が知ってるオレンジペコは、もっと我慢強くて、目標を持っていて、目先の利益では動かない聡明な女性だわ」
何と言葉の回りくどいことだろうか。
しかし、今の私にはそれで十分だった。十分すぎた。
喉に刺さった魚の小骨が食道を流れていくように、ストンと自分の中に何かが落ちる。
『自分らしく、出来ることを』
言葉に詰まったままダージリン様を見る。すると、彼女は笑っていた。
「すべての道はローマに通じてるのよ、ペコ。それを忘れないことね」
そう言って、三本目のタバコに火を点けるダージリン様。彼女は、一時見ないうちに相当なヘビー・スモーカーになってしまわれたようだ。
「ご注文は?」
マスターの声がした。私は顔を上げる。
「――ギブソンを、こちらの女性にも」
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ウイスキー・フロートを、花束の代わりに
誕生日を過ぎたアンチョビの元を訪れた杏は……?
pixivにも投稿しております。
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電話が鳴る。
5回、6回……無視を決め込む。
7回。鳴りやむ気配はない。
8回目。仕方がない。
暗闇の中、枕元に手を伸ばす。携帯を探すためだ。寝る前に読んでいた恋愛小説をベッドから叩き落としながら、やっとのことで携帯を見つける。通話のためのボタンを押し、端末を耳に当てる。
「はい……」
口の中が渇いていて、上手く声が出せない。
聞こえてきたのは、飄々とした、どこか掴みどころのない――そんな声だ。
「やっほ、チョビ」
私のことをそんな風に呼ぶのは、アイツしかいない。
「あのな、杏。私を叩き起こすのが新しい趣味にでもなったのか?」
「そういうなよ、チョビ」
「ニワトリよりも早起きなのは感心するけどな。今、何時だと?」
一言一言に溜息を混じらせて、どうにかやり取りを続ける。
目をこすりながら身体を起こす。携帯の隣に据え置いた目覚まし時計を見ると、まだ5時半過ぎだ。
「悪い悪い。でも、久々に会えないかなと思って」
途端にしおらしい声。こういう所は、マネできない彼女の武器だ、と思う。
なんというか、そう、ズルい。
「私は、今日も明日も明後日も仕事だぞ」
「チョビは一日24時間なら働いてるの?3日で72時間だぞ」
「そんなことが出来る人間がいるか」
「じゃあ、決まり」
「相変わらずだなぁ。とりあえず私は眠いから切るぞ」
そう言って、私は一方的に電話を切った。その内、メールが飛んでくるだろう。
一拍置いて、携帯が震える。文面はこうだ。
『今日、練習見にくるよ』
思った通りだった。私は時計を見る。気がつくと、もう6時前になっていた。欠伸を噛み殺しつつベッドから落ちた小説を拾い上げる。一番盛り上がるシーンのページには、折り目が付いてしまっていた。
「お疲れさん。チョビ」
杏が現れたのはその日の練習も終わり、生徒たちが全員帰った頃だった。
「練習、見に来るんじゃなかったのか」
「と、思ったけどね。やっぱりやめた」
「そういうとこも変わらないな、杏は」
「誉め言葉?」
にやりとする杏に私は、大げさに首をかしげて見せる。
「さてね」
斜陽に山際が赤く燃える。差し込む赤い光線に照らされて、漂う埃すら金色の雪のようだ。
小さな豆戦車が押し込まれるように並んだ倉庫。その床に置かれた工具箱に、私は腰を降ろした。額に滲んだ汗をぬぐう。
生徒たちにも簡単な整備をさせてはいる。
だが、最終確認は私の仕事。ゆくゆくは最期まで完璧にできるよう、教え込むつもりだ。
私の格好を見て、杏が小さく肩を揺らす。
「まぁ、でも似合ってるよコーチ・アンチョビ」
彼女が言う通り、私はもう〈ドゥーチェ〉ではない。卒業後地元に戻り、子供たちに戦車を教えている。だから〈コーチ〉。
「それは、誉め言葉だろ?」
「もちろん」
茶化したつもりだったが、真顔で頷く杏。私は何となく気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。陽の光が、頬の赤みを塗り潰してくれるのを期待するばかりだ。私は、わざとつっけんどんに言い放つ。
「で、今日はなんで?こんな場所だ、まともなおもてなしは期待するなよ」
「久々に会いたくなった、って言った」
「本当は?」
ここまで、詰めないと本音を言わない。角谷杏とは、そういう人だ。立ちっぱなしの彼女に、下からぐいと視線を向けた。
倉庫の外から、少しだけ長生きしたのだろう鈴虫の声が聞こえる。
「……チョビ、こないだ誕生日だったろう?」
「うん」
「それを、祝いに来たんだ。それとも遅刻者には罰則を?バケツを持って廊下に立つのは勘弁だよ、コーチ」
何かをバッグから取り出しながら、杏が笑う。
「良い指導者が、そんなことするもんか」
釣られて、私も笑った。
工具箱を二つ。その間に作動油の缶にベニヤを置いた簡単なテーブル。でも、それで十分だった。杏が催してくれた、小さなバースディ・パーティ。
「チョビ。氷ある?」
「あるけど。そろそろその後ろに隠したボトルを見せてくれないか?」
「ん。ああ、忘れてた」
そう言って、ベニヤの上に置かれたのは金色の箱だった。
「ディ、ン……プル?」
「そ、ディンプル。これがね、いい名前だし、ウマいんだ」
「名前?」
「そ、〝えくぼ〟」
わざとらしいウインクを飛ばす杏。
「いい名前だけど、ウイスキーはなんか杏のイメージとちがうな」
「そう言うなよ。折角見繕ったんだ。グラスは?」
「ここにスワロフスキーがあるとでも?プラスチックのやつなら」
「十二分だね」
私は、練習中の給水に使う小さなプラスチックのカップを二つテーブルに並べる。使った後はしっかりと洗っておかないと、子供たちが千鳥足になってしまいそうだ。
「テーブルよし、グラスよし、ドリンクよし。あと、BGMは?」
「ばかいえ」
カップに氷を3つずつ入れて、練習用のタンク・ジャケットの上着を脱ぐ。コップにウイスキーを注ぎながら杏が言った。
「私が歌ってやろうか?」
「それはありがたいね。何を?」
「『Birthday』」
「私の採点は厳しいぞ」
「それは勘弁願うよ。チョビ」
小さなカップの琥珀の海に、氷がフロートのように浮かび上がる。
私は、きっと幸せものだ。一年に〝2度も誕生日を迎えられた〟のだから。
「じゃあ、乾杯」
「だね」
無言でカップを合わせる。
いつの間にか、鈴虫の声も聞こえなくなっていた。
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アビエイションを、思い出して
酒と煙草を女……に、車まで出してしまいました。
pixivにも掲載中です。
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首元のマフラーに顎をうずめる。静電気で逆立った毛糸がチクチクと頬を刺した。疲労を絞り出すような深い吐息は白く色付いて、夜の空に薄く広がっていく。
寒さは身を斬るようだが、ジムで絞られて火照った体には心地いい。
とはいえ、シャワーを浴びたての身体だ。このまま、いつまでも12月の寒さを味わっている訳にもいかないだろう。風邪などこじらせてしまっては元も子もない。
私はコートの襟を合わせて、併設の駐車場に向けて歩き出す。すると、ポケットの携帯が鳴っていることに気が付く。
取り出した携帯電話。その画面に表示されている発信元の名前を見て、私は思わず眉間に皺を寄せた。
◇
「一体、どういうつもりだ」
「どういうって、どういう?」
「どうもこうもあるか。いいか……もう一度聞くぞ?一体、どういうつもりだ」
ハンドルを握りながら、私は少しだけ語気を強めた。
だが、隣に座る根無し草。風来坊。旅ガラス。流浪人。まぁ、この際呼び名はどうでもいい。――は、余裕たっぷりに答える。
「そんな怖い顔、貴女には似合わないよ。まほさん」
「そんな顔にさせたのはどこの誰だ?ミカ。他の誰でもない、お・ま・えだ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その責任の所在を明らかにすることに、何か意味があるのかな」
「分かった。分かった。もういい」
押し寄せる疲労感。正論など通じない相手だったのを忘れていた。
私は、青色に染まった溜息を吐いてハンドルを握り直す。アクセル・ペダルに置いた右足も踏み込んだ。
私たちを乗せるのは、メルセデスのゲレンデ・ヴァーゲン。その、4L V8直噴ツインターボエンジンが静かに唸りを上げる。スピード・メーターは、50マイルから60マイルへ。そして、ゆるやかに70マイルへ到達する。
カー・ラジオから流れるのは《Danger Zone》
もう11時近いと言うのに、未だ車の多い首都高速4号新宿線。その上で、タイヤをスタッド・レスに履き替えられた ゲレンデ・ヴァーゲンは一台、また一台と追い越していく。たった今追い抜いたのは、目も覚めるような黄色のフォルクスワーゲンだ。真っ赤なテール・ランプが、蛍火のように流れて見えなくなった。
「スピードの出しすぎは良くないよ、まほさん」
「ボディの堅牢さを確かめてみるのも悪くないだろう?」
「笑えない冗談だよ、まほさんらしくもない」
「冗談に聞こえたか?なら、謝ろう」
笹塚駅を左手にしながら走っていると、福永インター・チェンジが見えてくる。
私は、車をゆっくりと減速させながらハンドルを左に切った。
◇
「いいお湯だったよ」
シャワー室から出て来たミカは、薄い色をした下着だけの姿だった。
私は、几帳面に折り畳んだ服の山を指さす。
「とりあえず、何か着ろ。そこに私のジャージがあるだろう」
「見るに、こっちのセンスは相変わらずのようだね」
「何か言ったか?」
「空耳さ」
「いいからさっさと着ろ。家で風邪をひかれても困る。招かれざる……だが、一応客は客だからな」
「心配してくれてるのかい?」
「心配しているとすれば、それは自分自身の体調だよ。ミカ」
そう言って、私は対面を指さす。それは〝座れ〟の合図だ。
胸元にブランドのロゴがでかでかと印刷されたジャージを着て、ミカは対面のソファに腰を降ろした。
私は、手元の紙箱からタバコを取り出す。いつの間にか、中身は3本のみ。内心、舌打ちする。
「吸うんだね」
「私だってタバコくらい吸うさ。酒を呑む時、コーヒーを飲む時に考え事をする時。それと、胃が痛い時と〝誰かに説教をする時〟にね」
指折り数えながら懐から取り出したイムコ・ストリームライン6800で、タバコに火を点ける。肺に深く煙を落として、一気に吐き出した。すると、ミカが言う。
「じゃあ、それ消して貰っても?」
「私は、電話を無視しても良かったんだぞ。そうすれば、1時間前には温かい布団の中にいられた。余計なガソリンも使わず、これから〝余計なタバコも吸わずに〟だ」
「なるほど。そういう考え方もあるね。時間は有意義に使うべきだから」
「それについては全く同意見だよ。私も、つくづくそう思う」
タバコの火種が、ちりちりと紙を焼き焦がした。
ジムを出て、掛かって来た電話の内容。それは、余りにも突飛な内容だった。
『今、新宿駅にいるんだ』
話口に聞こえたのは不思議な〝報告〟
それを、私は聞き返すことはしなかった。そこに至るまでの経緯と、それからの出来事にはなんとなく予想が付いたからだ。
新宿駅で彼女の姿を見つけた時も、再開は久しぶりだというのに《私のハートはストップモーション》とはいかなかった。帰宅を急ぐ人の群れを掻き分けて、無言で近づき腕を掴む。そのまま車まで引っ張って行き、車内に押し込んだ。
我ながら少し乱暴だったとは思う。が、そうでもしないとあの場で口論を始めてしまいそうだったのだ。
灰皿に灰を落とす。細かな灰が、雪のようにふわりと舞った。
無造作に灰皿に置いたタバコ。それから立ち昇る煙は、空調に煽られて霧散する。掴みどころなく揺れては消えるそれは、まるで対面に座る年下の女性にも似ていた。
「なぁ、ミカ。別に私は、迎えに呼ばれたことも、お前を突然ここに泊めることになったことも別にいいんだ。怒ってなどいない、これは本当だ」
私は、自分に言い聞かせるように言った。
ミカの表情は変わらない。
「ただね、一つ質問があるんだ」
元々、お互い饒舌な方ではない。当たり前のように沈黙が落ちる。
『質問がある』そう言ってしまった上で、私は質問を躊躇っていた。どこかで、救急車のサイレンの音がする。聞こえる音は、それだけ。
視線の先で、伸びきった灰がポトリと落ちた。
「……どうして、ウチのスカウトを断った?不真面目な地方の選手を引き抜くだけにしては、待遇も破格だったはずだぞ」
それが、私が聞きたいことだった。
それは、ずっと引っかかっていたこと。
シーズン開始を前に、私はオーナーからミカをチームに招く構想があると聞かされていた。既に、獲得に向けて動いていることも。
しかし、ミカはそれを断った。そして、ふらりと何処かへ姿を消してしまっていた。誰にも行先を告げずに。そんな人物が突然新宿に姿を現して迎えに来いと言うのだ。タバコの本数だって普段より2割増しだ。
「それが、まほさんが怒ってた理由かな」
「怒ってはいないと言っただろう」
「どうかな」
「理由が聞きたい。ただそれだけだ」
「理由」
呟くようにミカは言葉を反芻する。彼女は天井を仰ぎ見た。視線を暫く泳がせて、続ける。
「別に、プロとして戦車に乗るのが嫌な訳じゃないさ。ただね、テレビで見るキミがあんまり必死そうに戦車に乗ってるものだから」
「必死は悪いことか?」
思わぬミカの言い草に、拳に力が入った。
しかし、素知らぬ顔でミカは言う。
「そうは言ってない。でも」
そこで、ミカは一度言葉を区切った。覗き込むように私の顔を見る。
「これっぽっちも〝楽しそう〟じゃないのさ」
◇
「楽しそうじゃ、ない?」
「ああ。そうだよ。しかも、これっぽっちもね」
「分からないよ、ミカ」
「私に分かって、まほさん本人が分からないワケがないさ」
困惑と動揺を隠しきれないままミカに問う。
だが、彼女はそんな私の様子を楽しんでいるようだ。
気が付くと、置き去りにされたタバコの火は消えていた。
「キミのそんな顔を見るのは初めてかも知れないね。スゴイ顔をしているよ」
くつくつと、ミカは肩を揺らす。
時計を見ると、日付は変わっていた。部屋にミカの声だけが響く。
「まだ分からないのかい?じゃあ言うよ。キミはね、学生の時のほうが楽しそうにしていたよ」
ミカは笑うのを止めて、一転真剣みを帯びた表情になる。
「そんなまほさんがプロになって、辛そうな顔をして戦車に乗っているのを見て……私がプロとして戦車に乗りたいと思うかい?他の人に、キミがどう映っているかは知らないけどね。少なくとも、私にはそう見えるのさ」
予期せぬ言葉だった。
戦車に乗る私が、ミカにはそう映っていたのか。
しかし、言われてみればそうかも知れなかった。きっと、彼女が見たのは前シーズンの映像か何かだろう。勝敗に拘り続け、命がけで試合に臨む。戦車とトレーニング漬けの日々。
結果を出すのがプロだ。そんな〝プロとして〟あろうとするばかりに、私の表情は般若のようになっていたに違いなかった。
「なるほど、そういうことか。理由が分かったよ、ミカ」
「そういうことさ。それにね、キミ……西住まほには、その表情の方がお似合いだよ。ファンの数だって、うなぎのぼりさ」
全てを理解した時、全身から力が抜ける。言いたかったことの全てが溶けてなくなったような心地がした。同時に、笑いがこみ上げる。
一頻り笑った後、私は立ち上がった。
「喉が乾かないか?普段なら水道水でも飲め、と言う所だが……今日は、何か一杯ごちそうしよう」
「本当かい?手作りの一杯が飲めるなんて、私はとても幸運かも知れないね」
呑気なミカの言葉を背中で聞きながら、オーディオ・プレイヤーの電源を入れる。
再生ボタンを押すと、流れ始めたのはKenny Logginsの《Footloose》
いつしか、忘れてしまっていた気持ち。それを、この人物から気が付かされることになるなんて思ってもみなかった。これからは、それを少しだけでも意識してみよう。
そうすれば、きっと今までよりも、もっと――色んなことがウマく行くはずだ。その感謝を込めて、カクテルを一杯振舞おう。それと、最後に確認を。
「なあ、ミカ。本当に、私と一緒のチームで戦車に乗る気はないのか?」
「その時はその時さ。また良い風が吹き始めたら、考えるよ」
「そうだな。その日が来るのを楽しみにしているぞ」
彼女らしい答え。それを聞いて私は笑う。ウチの優秀なスカウトは、これからも苦労することになるだろう。
戸棚に手を伸ばす。手に取ったのはドライ・ジンと、マラスキーノ。洋酒メーカーもスポンサーにいるらしい、ケイが送り付けて来たシロモノだ。それと、レモン・ジュースを冷蔵庫から取り出した。
それらを混ぜ合わせれば完成だ。出来たカクテルを机に置いたコースターに乗せる。
レモン色をした液体が、グラスの中で静かに揺れた。
「まほさん。これは?」
「これはな――」
目くばせをして、グラスを取り上げる。それは、乾杯の合図。
「――アビエイション、って言うんだ」
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ホノルル・ウインド・バドワイザー
エアハワイを満喫して書き上げました。
pixivにも掲載中です。
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水しぶきが上がった。
跳ね上げられた水滴が、シャワーのようにプール・サイドに降り注ぐ。
どうやら、遊んでいた若い観光客のグループの内一人がプールに突き落とされたらしい。水面にざばりと顔を出した若者は何事かを抗議しているが、落とした側はお構いなしに笑っている。
どこかの国の大学生だろうか。冬休みに入り、ハメを外しに来ているのだろう。リッチな学生もいたものだ。
私は、頬にまで飛んで来た飛沫を親指で拭う。読んでいた日本語の雑誌を閉じると、傍らの白い丸机に置いた。布張りのデッキ・チェアから身体を起こす。
サングラス越しに見えるホノルルの太陽。それは、もうしばらくするとクリスマスが来るというのに、日本とは比べ物にならないほど強烈だった。
「ハイ」
丁度目の前を通った青い目のウェイターに声を掛けた。
こちらもまだ若く、20歳を超えているようには見えない。アルバイトだろうか。
「何か、カクテルを」
「でしたら、おススメが」
「じゃあ、それで」
そう言って、ホテルの中に消えていくウェイター。
しばらくして彼は銀の盆の上に一杯のカクテルを乗せて戻って来た。
「お待たせしました」
私はカクテルを受け取る。
「これは?」
「ブルー・ハワイです」
そのロング・カクテルはハワイの抜けるような空の青をしていた。バターみたいに切り取って、溶かし込んだのでは
ないかと疑うほど。
「〈マハロ〉」
現地語で【ありがとう】を言う。それから私は、財布から1ドル札を抜き出してウェイターに渡した。
「ごゆっくり」
ウェイターは受け取った1ドル札をポケットにねじ込むと、軽く頭を下げて再び仕事に戻っていった。
私は、その背中を見ながらグラスをまじまじと見つめる。デコレーションのパイナップルとレモン、それに現地のモノだろう一輪の花が、なんともトロピカルな一杯だ。
さて、味見だ。
グラスに刺さるストローに口を付けようとしたその時、声がした。
「随分楽しんでるようじゃないか、アリサ」
ナオミだった。彼女が着ているラッシュ・ガードの水着は、プールには必要ないように思えるが、それしか持っていないのだというから仕方ない。対して私は、黄色のフレア・ビキニ。
「いいじゃない別に。カクテル位ゆっくり飲ませなさいよ。もしかして、アンタも飲みたかった?」
私は、わざと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。ナオミは首を横に振る。
「また、お前がチップに10ドルも払おうとしてないか心配になっただけだよ」
ナオミが私よりも更に凶悪な笑みを浮かべて言った。それは、私たちがここに到着した初日の、思い出したくもないダークな過去だった。
「性格わる」
「お互い様」
◇
夕暮れの中、海岸線を二人並んで走る。遅い午後の陽光を反射して、海は茜色だ。
宿泊先であるアストン・ワイキキビーチ・ホテルを出て、カラカウア・アヴェニューを抜ける。途中のクイーンズ・ビーチには、まだ大勢海水浴を楽しんでいる観光客が見受けられた。
水族館を右手に見ながら、ダイアモンド・ヘッドを回る。
ベンチャーズでも聞きたい気分だったが、ミュージック・プレイヤーは生憎日本に忘れて来ていた。今は波の音とカモメの鳴き声がBGMの代わり。
私たちはそのままアロヘア・アヴェニューを走り、ハワイ1号線と並走するように一気にアラ・モアナへ。
ハワイでも随一のショッピング・センターへ着いた頃には、二人とも肩が激しく上下していた。これが、ここに来てからのロード・ワークのルートだ。
日本の街並みとは、空気も何もかも違う街を走るのは新鮮だった。お陰で、ツラい筈のトレーニングもそれなりに楽しめていた。これだけ大勢の人がアロハ・シャツを着ているのも、日本ではなかなかお目にかかれないだろう。
「そういえばさ……」
駐車場の脇道で屈伸をしているとナオミが呟いた。アキレス腱を伸ばしながら振り返る。
「どうしたのよ」
「なんで、ホノルルに?」
「ああ、場所ってこと?」
「そう。グアムとかでも良かったなって」
「バカね。グアムは取っておくのよ。虎の子よ」
「なんのために?」
「ハネムーン」
「ウェディングフォト・ドリーマー」
「うるさいわね」
「うるさいついでに今日はどうする?」
「そりゃあ勿論練習の後はアレでしょ」
「ん。乗った」
そう言って、私たちは再び走り出す。今日はとびきり熱いシャワーを浴びてやろう。
ホテルまではちょうど折り返しだ。
◇
「エド。マイタイを頂戴。こないだ見たくラムを強くするのはナシね。そしたらその立派なお尻に17ポンド砲突っ込むわよ」
私は言った。
エドは、海岸線に店を構えるバーの店主だ。染めていない頭には随分白いモノが混じっている。もう60歳近いのだろう。
「私も同じやつを。果物はいらないから」
と、ナオミ。
私たちが座っているのはカウンター席。この店は、初日にふらりと立ち寄った店だ。ビーチにも直結で、グラスを持ったまま浜辺に出られる。その絶好のロケーションを痛く気に入った私たちは、ほぼ毎日のように晩酌をしに来ているという訳だ。
シャワーを浴びて直ぐの火照った体に、海風が心地いい。
「アイ・アイ・サー」
エドは、笑顔で頷いた。材料のジュースを取りに行く間、彼はお尻を抑えていた。
「……ったく」
笑いながら悪態をつく。ロケーションだけでなく、彼の気さくな人柄も私たちを入り浸らせる理由の一つだ。
「いつ見てもエドは面白いな」
「否定なしないけどね。こないだのは冗談が過ぎるわ。やりすぎよ」
「まあね。お前、一杯で千鳥足になってたもんなァ」
ナオミが取り出したタバコに火を点ける。銘柄はラッキー・ストライク。古いステレオから流れるのはリック・アストリーの《Together Forever》。確かに、この店の雰囲気には《グッバイ・ホノルル》は似合わないだろう。
流れる軽快な音楽に乗せて、ナオミが吐き出した煙も踊っているように見えた。
しばらく煙の行く末に目を泳がせていると、ドリンクが運ばれて来た。
「サンキュー。エド。注文通りかしら?」
「オフ・コース。毒見はしといた」
「なら、ちょっとまけなさい」
「マイタイの〝エド特製ジョーク添え〟だぞ。本当なら割り増しにするとこだ」
そういうエドも自分用のグラスを手にしていた。それには、琥珀色の液体がなみなみと注がれている。どうやら、一杯あやかろうということらしい。
そうして、私たちは三人で乾杯をした。
何杯か飲んでいると、夜も更けてくる。
店内にいる客も皆一様に赤ら顔だ。すると、突然大きな声が上がった。
「もういっぺん言ってみろ!」
今度は学生ではない。いかにもアメリカの大男、といった風貌のイカつい男たちだ。全員頭を剃ってしまえば、ダーティ・ハリーに見えないことも――無い。
どうやら、春先に開催される戦車戦の世界大会の話でエキサイトしているらしかった。
隣のナオミを見る。彼女は目を閉じたまま4杯目のマイタイで喉を潤していた。ほんのりと頬に朱が射している。
「ねぇ」
「なんだよ」
「あれ」
「ああ……アレが?」
「気にならない?」
「酒の肴にはいいんじゃないか。丁度ジャーキーもなくなったことだし」
ナオミが空の皿を指ではじく。
冷静なナオミとは対照的に、男たちは更にヒート・アップしてきたようだった。周りのお客も距離を取り出している。
「ヘイ、エド?」
「あー……。ありゃあ、ほっとくに限るよ。普段は気のいい奴らなんだがね……酔っぱらうといつもああさ」
耳打ちするように言う彼の口ぶりからすると、彼らは厄介な常連客らしい。エドの言う通り、ほおっとくのが一番なのだろう。
だが、内容が内容であるだけに私の心はざわついていた。
何も起こらないのを祈りながら、私はナオミに習ってマイタイを口に運んだ。
それから、小一時間経っても彼らは怒鳴り合いを続けていた。
よくもまあ飽きずに、と感心してばかりもいられない。掴み合いが始まったからだ。
見かねたエドが重い腰を上げる。
「おい。二人とも、やめてくれよ。こないだは椅子を一つとガラスを2枚割ったばかりだろう?また、アンタら宛てに請求書を書くのはごめんだよ」
心なしか、エドも及び腰だ。無理もないだろう。酔っぱらって激昂している男が何人もいるのだ。そこに、割って入っただけで拍手してもいい位だ。
だが、一人の男がエドの前に立ちはだかる。
「すっこんでてくれ。これは俺らの問題なんだ。請求書なんざ、何枚だって書いてやるよ」
エドの襟首を掴んで凄む男。私は、とっさに立ち上がっていた。
だが、誰かに肩を押さえられる。ナオミだった。
「離しなさいよ」
「〈スロー・ユア・ロール〉アリサ。あれは〝エドの仕事〟だ、そうだろ?」
右手で私の肩を掴んだまま、グラスに口を付けるナオミ。その姿に、私は余計に頭に血が昇った。
「離せってんだろ!このバカ!クールぶるのもいいけどね。アンタのそれはクールなんかじゃない。ただの腰抜けさ。私は助太刀に入るよ」
私はナオミの手を振り払って叫んだ。素早くエドに駆け寄る。
「大丈夫?エド」
「あ、ああ。大丈夫さ。いいから、あっち行ってな」
つま先を浮かせたまま、エドがそう言う。私は、男を睨む。
「アンタ。その手、離しなさいよ。迷惑してんのさ、ここにいる誰もかれもね。そんで、喧嘩は外でやりな」
男は、仲間と顔を見合わせて下品な笑い声を上げた。
「なんだお前。どうやら日本人らしいが、今すぐ消えな。さもないと、頬っぺたにジューモンジの傷がついても知らねぇぞ」
「〈ファック・ユー〉」
中指を立てて見せた私に、男は激昂したようだった。
掴んでいたエドを投げ飛ばし、私の胸倉を掴む。予想はしていたが、かなりの力だ。私の身体は簡単に持ち上げられそうになる。
「殴るか?クソ野郎。やってみろ。それとも〝オンナは殴らない主義〟か?」
「この……!」
男が拳を振り上げた瞬間、私はアザを一つ覚悟した。他の客からも悲鳴が上がる。きっと、私が殴り飛ばされるのを想像したのだろう。
目を閉じて歯を食いしばる。大丈夫。親父の張り手よりは、幾分かマシなはずだ。
しかし、いくら待っても私の顔が弾け飛ぶ気配はなかった。おそるおそる目を開ける。
「ナオ……ミ?」
拳が飛んでこなかった理由――それは、ナオミが男の腕を捻り上げていたのである。
「バカアリサ。頭ン中火薬でも詰まってんのか?それかニトロだ」
男の腕を更に強く捻りながら、ナオミは新しく火がつけられたタバコの煙を吐いた。
「こっからが、アタシの仕事だ」
◇
朝の風にヤシの葉が揺れている。
水平線には、すでに沖に出ているらしいヨットのマストが見えた。
海は少し波立っている。ウインド・サーフィンのセイルも数本立っていた。
ホテルの玄関の前で伸びをすると、背中が小気味いい音を立てた。背後で自動ドアが開く。
「早いね、アリサ」
「バカ言いなさい。鶏よりも早起きだったわ。アンタこそ、寝ぼけ眼で大丈夫なの?」
そう言って、隣に並んだナオミの脇腹を小突く。私の手を払いながら、ナオミはポケットからタバコを取り出した。無造作に火を付ける。
「オーライ。気付けに〝冷たいヤツ〟を一発キメてきたから」
「……冗談よね?」
「ああ、冗談だ」
「じゃあ」
「行くか」
ナオミがタバコを指先で弾く。それは完璧な放物線を描いて、灰皿に落ちた。
結論から言おう。昨日の出来事は、乱闘になる寸での所で駆けつけた警察のお陰で、事なきを得た。エドが呼んだのだ。見ていた他の客の証言もあり、私たちは無罪放免されることになった。
今日が、ここホノルルでの自主トレ最終日。明日の早朝にはタクシーに詰め込まれて空港行きの予定。
私たち二人は、どちらともなく朝から走ろうと言い出した。私としては、あのプールサイドも名残惜しかったけれども。
早朝の海岸線に足跡が二人分響く。着ているTシャツの裾が、風にはためいた。
私は言った。
「ナオミ」
私の方をちらりともせず、ナオミが答える。
「『昨日は、悪かった』とでも?」
「う……そうよ、その通り。腰抜け、なんて言って悪かったわ」
「オーライ。謝ることじゃあない。アンタが、切り傷作ってハネ・ムーンに行けなくなったら後味悪かったしね。それに謝るなら、エドに」
「そうするわ。でも、もうマイタイは懲り懲りね」
「違いない」
日本に帰れば、すぐにシーズンに入る。WTCが始まれば、あの男たちの揉め事の答えも出るだろう。
私が、私たち二人が選手として召集されるかは分からない。だけど、それなりのことはやってきたはず。後は、神のみぞ知る、だ。
今にして思うと、昨日のあの騒ぎ。そのまま警察沙汰になっていれば、私たちは日本の連盟から大きなペナルティーを科せられていたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。もしかすると、エドが駆け付けた警官にワイロを渡したのかも知れない。私は、恨めしい顔をしながら札を懐から取り出すエドの顔を思い浮かべた。首を横に振る。
「お礼もしないとね。ナオミにも」
「そうしてもらうとありがたいな。でも何を?」
「私のサイン?」
「バカ」
二人を一台の車が追い抜く。77年型、シボレー・K10だ。そのクラシック・カーの筋肉質なボディは、朝日に似たオレンジ色をしていた。
「アンタには、ステーキを一ポンド」
ナオミが口笛を鳴らした。
「エドには?」
私は、カーブを曲がって消えていくシボレーを見ながら続ける。
「バドワイザーを浴びるほど」
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飲み干すのなら、冬の日に
需要?知りません。
普通の女の子たちの普通のクリスマス……
そんなのを書きたかったのです。
季節外れでごめんなさい。百合でもないです。
pixivにも掲載中です。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8700376
「うー、さぶい……」
手袋をしたままの掌。それに、息を吐き掛けた。ほんの少しの気休めにしかならないが、こう寒くては気休めにすら縋り付きたい。南国、熊本とは言っても冬は冬。寒いことには変わりがない。
私は、首元のマフラーに顎を埋めた。
街を歩く人も足早だ。12月のことを師走とは良く言ったものである。
私は、熊本県民なら誰でも知っている場所、角マックの前にいる。角マックとは、通称だ。下通アーケードとシャワー通りの中間地点にあるファーストフード店。それを、私たちは〝角マック〟と呼んでいる。
この時間帯ともなれば、店内には多くの人が蠢いている。その店の前から見る通りの雑踏は、止め処ない川の流れのようだった。
空を見れば薄暗い曇天。押し潰すような鈍い色は、今にも雪を降らせそうだ。
「あーあ……」
そんな場所で私が何をしているのかと言えば――待ち合わせである。
5時から会うはずだった大学の友人が遅れているのだ。集合予定の5分前に送られて来たメールには、こう綴られていた。
『ごめん!遅れる!』
私は、時計を見る。既に、時刻は夕方5時7分だった。
それから、更に10分ほどが経った。一向に、友人が姿を現す気配はない。あれから、連絡もない。
だが、反比例するようにして、街には更に人の姿が増えたように思う。恋人と、友人と……みんな笑顔を浮かべて、楽しそうにしている。きっと、今、この街で孤独なのは私くらいだろう。
最近、恋人が出来たとはしゃいでいた友人のことだ。約束を反故にしなければならないほどに重大で、急を要するような事態が発生したのだろう。きっと、デートとか。例えば、デートとか。恐らく、デートか。もしくは――デートだ。
溜息と共に吐き出される息は白い。その色は、憂鬱に色が付いたようだった。
私が何度目かの溜息を吐いた頃、横殴りに声がした。
「あれ?小梅?」
聞き覚えのある声に、私は顔を上げる。視線の先には、高校の同級生がいた。
「直下さん?」
「何してんの?こんなところで」
その言葉に、眉を片方下げる。ついでに唇も尖らせる。
「待ち合わせ。してた」
現状を端的に示した最適な言葉。それでも、直下さんは小首をかしげる。
「してた。って……今は?」
「待ちぼうけ」
時刻は夕方5時と20分過ぎ。思いもよらない旧友との再会だった。
◇
「ひどい目にあったね」
ことの顛末を聞いた直下さんは、私を指さして笑った。目じりには涙まで浮かんでいる。
「その言い方こそ、酷いなぁ。同じことされて、笑ってられる?」
「どうだろ」
そう言って、直下さんはグラスを掴む。彼女は米焼酎のお湯割りを一口飲んで、小さく息を吐いた。
私たちがいるのは、上乃裏通りだ。上通アーケードの北側、並木坂通りに並行して伸びる、言わば裏路地。
車が一台やっと通れるような狭い路地の両端には、古い建物を改修して作った小洒落た店舗が並んでいる。喧騒で溢れかえる上・下のアーケードと比べれば、昔ながらの静かな通りだ。都会の喧騒から離れた――そんな雰囲気が、私は気に入っている通りだ。
「小梅は次、何呑む?」
直下さんは、私の前のグラスを指さした。立派な一枚杉のカウンターに置かれた空のグラスは、アルコールの代わりに吊り下げられた電灯の灯りを満たしている。
店内には数人のお客の姿があり、店員は一人。木造の家屋を改修した、雰囲気のあるバーだ。前を通りかかった直下さんが『ここ、どう?』と、直感で決めた店。彼女の直感も、あながち馬鹿には出来ないようだ。
「んー。米にしようかな」
「ん」
軽く頷いて、直下さんは注文の声を上げた。店員は愛想のいい返事を返す。
「小梅、今なにしてるんだっけ?」
くい、とグラスを傾けて、直下さん。
私は答えた。
「学生、だよ」
「将来は……?」
「まだ、決めてない」
「そっか」
「まだ2回生だしね。直下さんは?」
「普通に会社員だよ。毎日、スーツとハイ・ヒール。硬いブーツが懐かしいなぁ」
その言葉に、私は小さく頷く。
カウンターの奥に飾られた、ステンド・グラスのカンテラが目に入った。中で揺れる炎は、色とりどりのガラスを万華鏡のように光らせている。長崎製のモノだろうか。キレイだと、私は素直にそう思った。
「ねぇ、直下さん」
「なに?」
「仕事、楽しい?」
「まぁ、それなりかな。大学、楽しい?」
「まぁ、それなりかな」
それなり。そう答えて、私は大学に入った理由を思い出していた。
思い返せば、戦車に乗ることが条件で、大学推薦もあった。実業団入りだってあったし、プロの入団テストを受けてみないか――という誘いもなかったワケでは無い。これでも、黒森峰という、歴戦の強豪校でレギュラーを張っていたのだ。それは、間違いなく今でも私の誇りであり――思い出だ。
でも、私は、それを選ばなかった。もちろん、同級生の中にはそういう道に進んだ子もいる。
しかし、私は思い知ったのだ。あの世界は、余りにも眩しくて、遠かった。彼女たちには、私の目から見てもセンスがある。才能、ではない。センスが。
そんなものは関係ない。そんなことを言う人は確かにいる。でも、そんなものは詭弁だ。人は、生まれた瞬間に平等ではないのだから。
私は、聞いた。
「直下さんは、もう戦車乗ってないの?」
私の質問に、直下さんは一瞬手を止めた。グラスの中の液体が揺れる。
「うん。忙しくってね」
「社会人だもんね」
「……言い訳、っぽいけどね」
そう言って、直下さんは半分ほどになっていたグラスの中身を空にする。
彼女の横顔は少しだけ、寂しそうだった。それを聞いて、私は何も言わなかった。
私は携帯を取り出した。時間は8時を回った頃。
備え付けのモニターには、シーズンを前にして戦車道の特集番組が映し出されていた。各チーム注目の選手と、WTCの選抜予想。ベテランから新人まで、色んな選手が次々と紹介されていく。中には、知った顔も映る。東京のチームで活躍している西住隊長や、サンダース大付属でキャプテンだったケイさん。
名勝負――と呼ばれている試合のダイジェストに映る、彼女たちの真剣な表情。それを見て、なんとも言えない気持ちになる。口に運んだ〝コンソメ味だったであろう〟ポテトチップスも、なんだか味気ない。
なんとか食らいついてでも、彼女たちのように戦車に乗り続けているべきだったのだろうか。
「スゴイよね、みんな」
ふと、隣の直下さんが画面を見ながら言った。
「そうだね。すごいよ。西住隊長とか、去年最優秀車長賞で車貰ってたしね」
「え、マジで」
「うん。イカツいの貰ってたよ。インタビューされてる時、すごく困ってたけど」
「隊長らしい、ね」
「うん」
私たちの間に沈黙が流れた。
「まだ、焼酎でいい?」
「うん」
「白岳?」
「ううん。せっかくだし赤霧島、貰おうかな。ロックで」
「おお。お強い。大学の仲間内でも、そんな飲み方を?」
「まさか。今日はそんな気分なんだよ。たまたま、ね」
軽く笑って、私は注文のために手を上げる。
会話を聞いていたのだろう。店員は、にこやかに頷いて大きな一升瓶を手に取った。
焼酎は、違う銘柄を同じグラスで作ることは絶対にしない。その基本通り、店員は新しいグラス――ではなく、焼き物を取り出した。
底から口にかけて広がるような形の焼き物。その形は、焼酎の香りを楽しむにはうってつけだ。
注ぐお湯の温度は大体80℃。沸騰したてのお湯ではお酒の香りがトんでしまうし、アルコールが先に昇ってしまって、鼻を刺すからだ。
4割ほど注がれた焼酎に、ゆっくりとお湯が注がれる。全国的に見れば、6割の人がお湯を先に注ぐらしいが、ここ熊本ではそれはあり得ない。そうして、出来上がったお湯割り。それに、私は手を付けずに眺めた。まろやかで、甘い紫芋の香りが立ち昇る。
「美味しそう」
思わず、口に出していた。香りが鼻をくすぐる、というのはこのことを言うのだろう。
「私も、それにしよっかな」
またもやグラスを空にして直下さんが言った。彼女も相当イケるクチらしい。でも、顔は淡い黄色の灯りの下でも分かる位に、真っ赤だ。
店員に追加の注文をして、彼女は言った。
「私も一個質問していい?」
「いいよ」
「小梅は……もう、戦車乗らないの?」
手元のおしぼりで手遊びをしながら、彼女はそう言った。小さなヒヨコが出来上がった。私は、机に置かれたそれを隣から指先で突く。簡単に作られたヒヨコは崩れてしまった。
「うん。もう多分、乗らないと思う」
「なんで?」
「質問は一個って言った」
「まぁまぁ」
悪戯っぽく笑う直下さん。
私は、モニターの画面に目を移した。そこには丁度、同じチームで活躍しているみほさんと逸見さんのインタビューが映っていた。正反対でも、心が通じ合っているかのような二人のやりとりは、見ていてどこか懐かしかった。
口を開く。
「応援する側も、悪くないかなって」
「いやー。とんだクリスマス・イヴにしちゃったね」
店を出て、直下さんは言った。私は、首を振る。
「そんなことない。もしかしたら、最高のイヴだったかも」
それは本心だった。今頃、友人は恋人と〝ヨロシク〟やっている頃だろう。
でも、今更それを咎める気は、私にはない。今日、直下さんと会って色んな話をして、もう一度自分と向き合えたこと。それには、友人とひたすら最近の流行りのドラマとブランド、学内の男子の話をするよりも何倍もの価値がある。私には、そう思えてならなかった。
高校を卒業して、私が歩いてきたこれまでは少しだけ不器用だったかも知れない。自分を殺して、無理やり進んで来た道かも知れない。
けれど、それは間違ってはいない……。そんな、根拠のない自信が私の胸を満たしていた。風は冷たい。それなりにあった人通りも今は、ほとんどない。
そんな時、直下さんが言った。
「あ、雪だ……」
私は空を見上げる。すると、彼女の言葉通り街に雪が降り注ぎ始めていた。滅多に降らない熊本では珍しいことだ。
「で?この後は?」
直下さんが、私の肩に腕を回す。感じる吐息は、少しだけお酒臭い。
不意に、携帯が鳴った。見てみると、友人からのメッセージだった。
《今日、ほんとゴメン!埋め合わせはするから!》
そのメッセージに内心舌を出して、携帯をカバンに放り込んだ。
私は答える。
「そうだね。美味しい焼酎がある店で、直下さんが潰れるまで、呑む……とかはど
う?」
「それ、悪くないね」
肩を組んだまま、私たちは歩き出す。
どこかのお店のBGMだろうか。聞こえて来た曲はPaul McCartneyの《Wonderful Christmastime》だった。
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スパナ・レンチ・スクリュー・ドライバー
お付き合いいただければ、と思います。
あれ?この戦車って、もしかして……
pixivにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8711916
「きたぞー」
肩に薄く乗った雪の欠片を軽く払いながら呼びかけてみる。
静かな整備場の中で、返答はなかった。
代わりに、ギア・レンチがカリカリと鳴く音が聞こえる。暫くすると、車体の下から低床クリーパーに背中を預けたナカジマが顔を出した。その顔は油で真っ黒だ。
「お、誰かと思えばホシノじゃんか」
「こんな所。他に誰かくるとでも?」
「確かにそうだ」
ナカジマは身体を起こし、つなぎの袖で顔を拭う。付いていた油は塗り広げられてしまい、逆効果だったようにも見えた。
「お疲れさま。はい、差し入れね」
「ありがと」
私はナカジマに向かって缶を投げる。ゆるい放物線を描いてナカジマの手に収まったのは、缶コーヒーのホット。彼女が好きな銘柄だ。
自分用のコーヒーに口を付けながら私は指さす。
「コレは?」
威圧感のある鉄の巨体からは長い砲身が伸び、左右には二つの履帯を備えている。それは、戦車だ。しかも、コメット巡航戦車。学生時代には実物を見たことすらなかった、イギリス製の傑作戦車である。それが、薄暗い整備場に堂々と鎮座していた。
「あー……なんか、飛び込みでね。もっと大きい所がありますよ、って言ったんだけど。『ここがいい』んだってサ。前金まで貰っちゃったよ」
「ふうん」
腕が鳴るよ、とナカジマは肩を回して見せた。普段はもっと小さな豆戦車や、それこそ2輪や4輪の整備ばかりしている彼女からすれば、確かにこれは大仕事だろう。
締め切られた整備場には、石油ストーブが一つだけだ。外は、クリスマスから降り続いた雪で、積雪が既に10センチはある。私だって、寒さのせいで鼻が痛い。
だけど、ナカジマの首筋には汗の球が浮かんでいる。それからも、彼女がこの仕事に熱中していることがうかがえた。
高校を出た彼女は、専門学校に進んだ。更に専門的な整備の知識を蓄え、技術を磨くために。この整備場は、元々個人で整備工をやっていた彼女の親の工場だった場所。
彼女の親父さんは、もう隠居してしまっている。そんな親父さんに、ナカジマが頼み込んで自分の名義にして貰っているのだ。カエルの子はカエルだって言われたよ、とナカジマは笑っていたのを覚えている。それから私は、暇があれば茨城から車を飛ばしてここを訪れるようになっていた。それは、私の密かな楽しみだった。
私は、コーヒーを一口すすった。
「ナカジマ、楽しそうだね」
「そりゃあそうだよ。きっと、このコは戦車道……やるはずなんだ」
「どうして、分かるの?」
ナカジマは汚れた手袋を外して、車体に手を置いた。目を閉じる。
――戦車と会話をしている。そんな光景だった。
「んー……勘、かな?」
そう言って、彼女は目を細めた。
缶コーヒーが開けられる音がする。ナカジマは缶に口を付けた。風呂上がりに牛乳を呑むような、豪快な飲み方だった。
二人で、オイル缶に腰かける。その上に敷いた段ボールは、TEINの車高調が入っていた段ボールだ。いつ頃だったか、地元の後輩のセダンに取りつけたモノらしい。
前に置かれた石油ストーブに手をかざすと、ほんのりと温かかった。今年の冬は特に寒い。来年は春の訪れも、少し遅れてやってきそうだ。私の車のスタッド・レスも、今年はフル稼働ということになるだろう。
「ホシノの方はどう?」
しばらくじっとしていて、身体が冷えて来たのだろう。手を擦りながらナカジマは言った。
「どうって?」
「調子、とか?」
「ぼちぼちかな。こないだ、新車のテストドライブさせて貰ったよ。コースをぶっとばすの、楽しかったな……」
そう言って、私はハンドルを握るふりをして見せる。口では、エンジン音のマネ。
あの経験は、今思い出しても鳥肌が立つようだった。工場からリフト・オフされたばかり。ダズル・カモフラージュが施された車体は、混じりっけなしの新車だ。そのテスト・ドライブ。
踏み込んだアクセルに呼応して唸りを上げるエンジン。タイヤを通して伝わってくる硬い路面の感触。それらは、私が憧れていた全てのことだった。心残りがあるとすれば、2ドアのスポーツ・カーではなく、4ドアのセダンだったこと位……
「へぇ、いいなぁ。最近忙しくって、ドライブにも行けてないよ」
ナカジマが唇を尖らせた。私は、彼女を覗き込むように言う。
「助手席、空けとくよ?」
「何言ってんだか……ホシノ、恋人は?」
「……クルマ!!」
「言うと思った」
私たちは顔を見合わせて、拳を合わせた。
「ま、今日はこんなもんかな」
ナカジマがスパナを作業台に置いた。かしゃん、と音がする。鋼にモリブデンが加えらえたそのスパナは、彼女が父親から譲り受けた特注のモノらしい。ここには、それがあらゆる大きさで一式揃っている。改めて買おうとすればいくらかかるのか、私には見当も付かない。
黄色い電灯を跳ね返して、手入れの行き届いた銀色の工具たちは鈍く輝いていた。
既に日付は変わっている。
だというのに、ナカジマの顔には疲れの色一つ見えない。戦車に触れる時間――それは彼女にとって、とても幸せなことなのだろう。
「流石だわ、ナカジマ」
「でっしょ?」
自慢げに胸を張るナカジマ。私は、短く息を吐いた。高校時代から変わっていない〝そのサイズ〟と、彼女の仕事っぷりに、である。
ナカジマは思い出したように口を開いた。
「あ、なんか飲む?」
「お、イイね。貰おうかな」
「ん」
小さく頷いて、ナカジマは片隅に置いてある冷蔵庫に近づいた。中から取り出したのは、発泡酒だ。どうやら、これで今日の疲れを癒してしまおう――と、言うことらしい。
「乾杯」
片手に発泡酒の缶を持った私たちは、どちらともなくそう言った。
気温のせいもあるのだろう。喉から食道を落ちていく炭酸は、氷のように冷たい。その刺激のせいで、目じりに涙が浮かぶ。
そこで、壁に貼ってある一枚のポスターが私の目に飛び込んで来た。それは、あるプロ戦車道チームのポスターだった。大仰なキャッチ・コピーと共に、選手たちが腕を組んで整列している。シンプルなデザインだ。
私の視線に、ナカジマも気が付いたらしい。
「アレ、いいでしょ?」
「うん。カッコいい」
私は、頷いて答えた。
戦車道に本気で取り組んだ時期があったからこそ、私はポスターに映る選手たちのことを本気でカッコいいと思ったのだ。その言葉に、少しも嘘はない。
「本当に、カッコいいよねぇ」
ナカジマは噛み締めるように言った。
ぐい、と缶を傾ける彼女の横顔を私は見る。その表情には、何とも言えない憧れが滲んでいた。あるいは、悔しさだったのかも知れない。
「ナカジマさ〝アレ〟ってまだ本気なの?」
「〝アレ?〟ああ――勿論本気だよ。ここで、こうしてるのはそのための第一歩。あのランボルギーニだって、最初は小さなショップから始まったんだ。〝やれないことはない〟よ。いつか、絶対ね」
そこまで言って、ナカジマは頭を掻いた。少しだけ頬が赤い。
「うわ、青春しちゃった」
こちらを向いた彼女は、笑っていた。
悪戯がバレた少年のような顔だった。
「コレ、いつまでに仕上げるの?」
聞くと、ナカジマは壁に掛かったカレンダーを見ながら答えた。
「えーとね、3月末までには絶対にってさ」
「え。もう時間ないじゃない。一人で間に合うの?」
「まぁ、何とかなるよ。それに今更、出来ないなんて言いたくないしね」
ナカジマは拳を握ってそう言った。力強い答えだった。
私は、彼女の姿に喉元まで出かかった『手伝うよ』の一言を飲み込む。その言葉は、今の彼女にかけるには余りにも無粋だ。
「そっか」
彼女の頼もしい姿に、自然と目じりが下がる。
「試運転の際には、是非ご用命を」
「それ目的?」
「私だって久しぶりに戦車乗りたいし」
「はいはい。ホシノには黙って、こっそり納車しちゃおうかな」
「それやったらもう絶交だからね」
「小学生?」
吹き出すナカジマの脇を私は小突く。そして、もう一度戦車を見上げた。
このコメット巡航戦車は、いざ戦場に出れば大活躍をしてくれるに違いない。
だって、このナカジマが手掛けるマシンなのだ。そこで、整備が好評で話題になる。その手腕が口コミで広がる。たくさんの仕事が来る。そして……
――もし、本当にそうなれば、彼女は〝第二のフェルッチオ・ランボルギーニ〟だ。
いや、きっとそうなるだろう。
「あ、そうだ」
私は、あることを思いついて手を叩いた。
「なに?」
「秘密」
この戦車が仕上がったら、お祝いをしよう。納車と、ナカジマの夢の第一歩に。その時、何が飲みたい?と聞けば、きっと彼女はこう答えるはずだ。
冷蔵庫の発泡酒――ではなく。
――『スクリュー・ドライバー』と。
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設定備忘録
がしゃがしゃ書いたので、余り中身はありません。
設定備忘録
劇場版より4年後の未来。
登場人物たちは各々自分の道を歩いている。
たまに作中に出てくる【WTC】は〝ワールド・タンク・クラシック〟の略称。野球でいう所の【WBC】。
↓今まで登場した人物たち
《西住まほ》
プロ3年目で西住流戦車道家元。高校を卒業後、大学への進学はせずプロの道へ。注目されたドラフトでは8チームが1位指名をするという、プロ戦車道界では前代未聞の事態となった。契約金、年俸共に推定額ながら歴代1位の記録を持っている。プロ戦車道界内でも異彩を放つスター選手である。現在はチームの本拠地がある東京に一人住まい。愛車は、前シーズンにMVPを獲得した際に貰った『メルセデス・ベンツ G550』。折角貰ったものなので売ることも出来ず……仕方なくマンションに駐車場を新しく借りたという。タバコの銘柄は《セブンスター》
《ケイ》
プロ3年目。高校を卒業後、地元九州・長崎の社会人チームに入団するとの噂が流れたもののプロ入り。西住まほとは違うが、同じ東京に本拠地を置くチームの花形選手である。その人柄から老若男女問わずファンが多く、メディアへの露出も度々。ナオミ、アリサとの仲も継続中で、連絡は頻繁に取っているようだ。
《ダージリン》
何してるんでしょうかね。この人。
母校に戦車を手配するためにいろいろ裏で動いたりしているが、詳細は不明。
《西絹代》
大学を卒業後、在学中の活躍からドラフトに引っかかるも全て蹴り実家へ。
貿易商を営む家の三代目として修業中の身。たまに、母校にも顔を出しているらしくコーチを頼まれることもあるらしいのだが、彼女はそれをやんわりと断ると言う。曰く、「戦車のことは、戦車に乗っている人間しか分からない」だそうだ。
《武部沙織》
大学2年生。冷泉まこと同じ大学、同じ学部に進む。持ち前のコミュニケーション能力と面倒見の良さで学友は多い。ただし、ダメな相手に引っかかるのが玉に傷で、周囲をいつもハラハラさせている。一気飲みはサークルの飲み会で覚えたクチ。
《冷泉まこ》
大学2年生。高校を卒業する際、初めは家のために就職をしようとしていたが祖母と武部沙織の説得もあり大学へ進学。もちろん、首席で入学。既に、就職が決まっている……というのは学内での噂。武部沙織の失恋話にいつも付き合わされている。
《逸見エリカ》
プロ2年目。西住まほを追う形で、プロ入りを表明。地元・熊本のチームを希望。
チーム入団時、西住まほの直属の後輩だったということで、やはりいくつかのチームが2巡目での指名。同じチーム入りとはならなかったが、同ドラフト会議にて最も多くの氏名を受けた、西住みほと同じチームに入団することになる。
《西住みほ》
プロ2年目。当初は大学への進学を希望していたが、家族や友人の強い勧めもありプロ入りを表明。行われたドラフト会議では大学、社会人が入り乱れる中で7チームからの氏名を受ける。これは、ドラフトにおける歴代最多氏名数を誇る姉・西住まほに次いでの記録である。
現在は地元である熊本にいるものの、実家は出ており熊本市中央区にマンションを借りているらしい。
《オレンジペコ》
プロ1年目。20歳。希望通り、地元・神奈川に本拠地を置くチームに入団。高校時代の活躍から入団後すぐ1軍での活躍を期待されたが、成績が振るわず2軍へ。同期には、関東県内のチームで活躍している澤梓がいる。
《秋山優花里》
社会人2年目。卒業後、持ち前の戦車やそれに関する軍事・歴史の知識を活かせる仕事に……ということで、ミリタリー雑誌の編集者になる。会社は東京にあるものの、日々取材だなんだと全国を飛び回っている模様。彼女の各コラムや記事はかねがね好評で、名物ともなりつつある。無茶ぶりをする上司に振り回されがち。
《ナオミ》
プロ2年目。その射撃センスから多くのチームからの氏名を受けるが、「地元のチーム以外なら社会人に進む」と進路を表明。蓋を開けてみると、交渉権を獲得したのは地元・長崎のチームだった。2年目ながら、その《撃破率》の高さで玄人も唸らせる砲手である。アリサとは同じチーム。タバコの銘柄は《ラッキーストライク》。
《アリサ》
プロ2年目。本人はプロへ行かず、地元の大学へ行く気だったがナオミに煽られる形でプロ入りを表明。ナオミを指名したチームの3巡目での指名となった。しかし、情報戦を重視するようになった現代のプロ戦車道において彼女の能力は過小評価されすぎていたらしく、彼女の人柄も併せて、一部では〝軍師さま〟と呼ばれるほど。いぶし銀な活躍を見せている。
未だにケイには頭が上がらないようだ。
《赤星小梅》
大学2年生。高校を卒業後、地元・熊本の大学へ進学を希望。戦車に乗ることはやめ、普通の学生でいることを選んだ。実家暮らし。
《直下さん》
社会人2年目。高校を卒業後、地元・熊本で就職。戦車に乗ることはやめ、普通の会社員でいることを選んだ。一人暮らし。
《ミカ》
詳細は不明。ただし、西住まほの推薦もあり、彼女が所属するチームからのスカウトを何度も受けては断っているようだ。
《ナカジマ》
専門学校2年生。高校を卒業後、地元の専門学校に入学。卒業を前に、父親から工場を譲り受ける。
《スズキ》
社会人2年目。卒業後、地元栃木にある大手自動車メーカーに就職。開発部に所属している。
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シャンパンを、雪に抱いて
アッサムとローズヒップの話です。
どうぞ、お付き合いください。
ちなみに、前編です。
ピクシブにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8752792
私は、ようやく大地に脚が付いたことに安堵した。何度乗っても飛行機には慣れない。
太平洋に落ちるようなことはない。と、頭では分かっているつもりだ。
だけど、心のどこかで『あんなモノが空を飛ぶなんて!』と疑っているのだろう。
私は、その飛行機を見上げた。
停止したばかりだというのに、白い身体には薄っすらと雪が積もり始めている。この大きな金属の渡り鳥は、翼を畳むことも出来ないのだ。
降り立ったのは――北欧、フィンランド。首都であるヘルシンキから約270キロほど北に位置する、ユバスキュラという森と湖の街だ。
滑走路では除雪車が忙しそうに右往左往していた。なんでも、今年は例年にない降雪量らしい。今着ている厚手のダッフル・コートが、大いに活躍してくれることだろう。
私は、携帯の機内モードを解除して振り返る。背後でそわそわと落ち着きのない同行者を咎めるため。言葉はため息混じりだ。
「きょろきょろするのはお止めなさいローズヒップ。この間も〝偶然テレビを見ていたらしい格言好き〟から、電話で笑われたばかりでしょう?」
しかし、私の言葉は彼女には響かなかったらしい。
「……でも!雪ですのよ!雪!」
「雪ぐらい降るわよ。ここは北欧で、今は冬ですもの」
はしゃぐローズヒップ。そのせいで、立ち往生を余儀なくされている私を、外国人が次々と追い抜いていく。
こう言っては何だが、恐らく〝カタギ〟ではない。雰囲気からして関係者だ。業界人か、またはマスコミか、それともスタッフか――までは分からないけれど。
幸いなことに、その中に選手やコーチはいなかった。
ここまで1年間、12戦も競い合ってきたのだ。お互いに顔を知っている者もいる。こんな滑走路のど真ん中だ。そんなところで行う視線の応酬は、神経を無駄にすり減らすだけだ。私はローズヒップをもう一度呼ぼうとした。その時だった。
「あっ……」
「おっと……」
タラップを降りて来ていた最後の一人。初老の男性。彼と、ローズヒップがぶつかった。
体勢を崩したローズヒップは滑走路に尻もちを突く。
「ローズヒップ!!」
私は慌ててローズヒップに駆け寄る。自然と抱きかかえるような格好になった。
「ケガはない?」
「大丈夫ですの……それより、ごめんなさいですの。おじいさん」
地べたに座ったまま、ぺこりと頭を下げるローズヒップ。先ほどまでの元気はどこへやら、途端に水を被った捨て犬のようになってしまっている。
しかし、そんな彼女とは対照的に男性はゆっくりと笑って言った。
「いや、私の方こそ悪かった。ちょっと考え事をしていたんだ」
60代も半ばだろうか。その男性からは紳士的な雰囲気が漂っていた。長身で、髪はごま塩混じり。だけど、きっちりと整えられている。
私は、立ち上がった。彼に向かって深々と頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
「いいんだよ。二人は見たところ日本人のようだが、旅行者かな?」
男性は、終始穏やかな笑みを浮かべてそう言った。私は答える。
「そんなところです」
「そうかね」
『じゃあ、良い旅を』そう言って、彼は歩き出す。その背中に、私はもう一度頭を下げた。もちろん、ローズヒップも一緒に、だ。
彼は、片手を軽く上げて去って行った。
その背中が見えなくなった辺りで、私は言う。
「さ、行きましょう。ローズヒップ。あんまりゆっくりもしてられないわ」
私は右腕の時計を見た。ホテルのチェックインの時間が迫っている。
◇
「部屋が空いてない?」
静かなホテルのフロントに、私の声だけが響いた。
カウンター越しのコンシェルジュが、眉間に皺を寄せて小さく頷く。
「いや……だって、予約を……」
ローズヒップの不安げな視線を背中に感じながら、慌てて携帯を取り出す。掛ける相手は、私たちのチームのゼネラル・マネージャーだ。数回のコールの後、応答があった。
『はい』
「はい、じゃないですよ。マネージャー。ホテルの部屋が取れていないんですが……」
『そんなワケないだろ?アッサム。君たちの分の部屋はちゃんと取った筈だぜ。ホテルを間違えたんじゃないか?時差ボケには慣れてるはずだろう?』
「慣れてるからこそ、そんな間違いはありませんよ」
『んー……だよなぁ。ちょっと待ってくれ。確認してみるよ』
「お願いします」
そう言って電話を切る。
「アッサムさま……?」
「大丈夫よ、ローズヒップ。貴女は何も心配しなくていいの」
そう言って、頭を撫でてやる。そうしても、ローズヒップの表情は曇ったまま。
このイベントの時期、周辺の宿泊施設は観光客や、それこそ関係者で一杯だ。だから、チーム丸ごと同じホテルに、という訳にも行かない。個別でホテルを取ることも珍しくはなかった。
だが、それが原因で選手の宿泊先が確保出来ないということが他のチームで起こったことがある――とは、聞いたことがある。
嫌な予感が脳裏を駆け巡る。まさか……。
しばらくすると携帯が鳴った。画面に表示されているのはマネージャーの名前だ。
私は、ローズヒップから少し距離を取って通話のボタンを押す。
「もしもし」
『まず謝らないといけない』
「まさか……?」
『ああ、そのまさか。だよ。本当に申し訳ない。ホテルの手配に、明確にミスがあった』
怒りの言葉が出て来そうになるのを、私はぐっと呑み込んだ。
「分かりました。こちらで何とかします」
努めて冷静にそう言って、携帯を鞄に放り込む。背中を嫌なモノが伝った。
何とかする。そう言ったはいいものの、どうすれば良いのだろうか。ここはフィンランドであって、日本ではない。簡単に泊まることが出来るような宿泊施設など、そうそう見つからないだろう。
しかも、私達は――ただの観光ではないのだから。
私たち二人が、雪の降る極寒のフィンランドに来たのには理由がある。それは、3日後にユヴァスキュラで行われるワールド・タンク・ラリー・チャンピオンシップ、通称〝WTRC〟に参加するため。
1年を掛けて世界の各地を転戦するWTRCは、戦車を使ったレースのワールド・カップとも言えるレースだ。
あらゆる気候条件、あらゆる路面状況について対処しなければならないため、選手とチームの本当の地力が試される。名実ともに世界の頂点を決めるレース――合法的な公道最速を掛けて、私たちはここにいる。ローズヒップはドライバー。私は、彼女の付き人として。
今日は火曜日だ。
明日はコースの下見をして、木曜にはシェイク・ダウン。金曜日からは本番だと言うのに、ドライバーであるローズヒップすら泊まる所がないのはハッキリ言って緊急事態だ。
私は、ゼネラル・マネージャーに任せっきりだったことを後悔した。これでは、付き人として失格ではないか。
既に12戦は終えている。このフィンランドで行われるのは最終戦。ここまででローズヒップが獲得しているドライヴァーズ・ポイントは十分に表彰台を狙える位置だ。そんな選手をベスト・コンディションでレースに送り出せない可能性がある。それだけで、私がここにいる価値はない。これまでに感じたことのないような不安が襲う。
そんな時、声がした。
「アッサムさま」
ローズヒップだった。私の顔を覗き込んでいる。私は、我に返った。
「ああ。ローズヒップ。ごめんなさい、貴女の宿が本当に取れていなかったらしくて……これじゃあ、付き人失格ね」
どんな叱責も受ける覚悟だった。私は、それだけのことをしたのだから。
しかし、叱責は飛んでこなかった。代わりに聞こえて来たのは溌剌とした声だった。
「大丈夫ですわよ!アッサムさま。これしきのこと、私にとっては路傍の石、ですわよ!」
「ローズヒップ……」
そう言って、ローズヒップは自分の胸を叩く。
使い方を間違った日本語。それに、叩いた力が思いのほか強かったのだろう。彼女は咳き込んだ。その姿に、私は唇を強く結んだ。拳を握る。
確かに、彼女の言う通りだ。もう起きてしまったこと。大事なのは〝これからどうするか〟だ。私は何かを振り払うように首を振った。
「泊まるところがないなら野宿でも、ですわ!!」
そう言って、勢いよくローズヒップはフロントを飛び出して行く。
呼び止めようとした時には、遅かった。
◇
「それは災難だったね。ゆっくりしていっておくれ」
「ありがとうですわ!!」
「ローズヒップ?」
「お世話になります……ですわ……」
「そう畏まりなさんな。ここにあるものは自由に使ってくれて構わないよ」
そう言って笑うのは、空港でローズヒップがぶつかったあの紳士だった。
――1時間前、フロントを飛び出したローズヒップ。
彼女は、また誰かにぶつかったのだ。地面に尻もちをつく彼女の姿に、私は強烈なデジャブを覚えた。そして、その既視感の正体がもう一つ。
ローズヒップがぶつかった相手は、空港の滑走路でローズヒップがぶつかった紳士だったのだ。
なんという運命のいたずらだろう。私はそう思ったものだったが、それは相手も同じだったらしい。ホテルが取れていなかったと話すと、個人で経営しているロッジに泊めてくれるという。藁にも縋る思いで、私はその申し出に甘えることにしたのだ。そして、私たちは彼の車に乗り込んだ。
彼はビルと言った。運転しているのは深緑の古いパジェロ。1インチほど車体がリフト・アップされた、雪国らしい仕様だ。
パジェロに揺られて30分ほどで彼のロッジに到着した。彼のロッジは、大きな木材をこれでもかと使ったログ・ハウスだった。この時、私は初めて本物の丸太を使ったログ・ハウスに脚を踏み入れた。
「素敵な建物」
第一声が、それ。
隣のローズヒップもそうだったらしく、相変わらず動きが忙しない。何か見上げたり、覗いたり――
「ログハウスに入るの、初めてですの!」
「気に入ってもらえたかな?」
「はいですの!」
この辺りの針葉樹をハンド・カットして使っているのだろうログ・ハウス。
だからだろうか。この木造の建物からは、コンクリート造りのそれよりも随分と温かみを感じることが出来る。
リビング中央の壁際には、立派な鋳物の暖炉が備え付けられている。その中では、薪に炎がまとわり付いてゆらゆらとダンスを踊っていた。
サービスは一流でも、無機質なホテルの部屋に泊まるよりはゆったりと身体を休めることが出来るだろう。
驚くべきことに、立地も良かった。レースの本部まで、車で30分しか掛からない。しかも、歩いて数分もすればコースにだって出ることが出来る。
私は、ほっと胸を撫で下ろす。これで、明日以降もなんとかなりそうだ。
ビルが、パイプをふかしながら言った。
「何か飲むかね?」
「はい。お言葉に甘えて……甘えっぱなしで心苦しいですが」
「いいんだ。二人はお客さんだよ。それに、そっちのお嬢さんとは一日に二回もぶつかったんだ。日本のドラマなら、恋が始まってもおかしくないだろう?私は、今日運命というものを再確認したよ。二人は、もう友人さ。気にすることはない」
そう言って、彼は笑う。そして、キッチンへ向かう。
ビルはグラスを取り出した。そのグラスに注がれる琥珀色の液体はバーボンだ。それに、ソーダ。出来たのは、簡単なバーボンのソーダ割りだ。比率は6と4。それを彼は 私と、自分に。
「ええと。彼女には、そうだな……」
次に酒棚から取り出されたのは透明な瓶――ウォッカだ。冷蔵庫から出て来た黄色いボールはグレープフルーツ。
大胆に半身にされて絞られるグレープフルーツの香りが、部屋に充満する。ビルが作ったのはソルティ・ドッグだった。しかも、ウォッカの比率の高い、少しだけドライな作り方。
「はい。これは君に。ソルティ・ドッグだよ」
「ソルティ・ドッグ?なんで私はこれですの?」
ローズヒップは、ぽかんとしている。
すると、ビルはいたずらっ子のような笑顔を見せた。
「だって、君は落ち着きのない子犬のようじゃないか。バウ!バウ!バウ!ってね」
私は思わず噴き出していた。彼の犬のモノマネはそっくりだった。
暖炉の火でグリッリ・マッカラが炙られている。
机の上には、トナカイのシチュー。二つとも、日本ではなかなか食べられない食事だ。シチューを、木製のスプーンですくいながらビルが口を開く。
「そういえば、君たちがフィンランドに来た理由を聞いてもいいかな?」
私はスプーンを置いた。
隣のローズヒップは、フォークに刺したマッカラにふうふうと息を吹きかけている。
「ラリー・フィンランド」
短くそれだけを言った。すると、今度はビルがスプーンを置く。
「ラリー・フィンランド……」
私の言葉を繰り返して、ビルは手元のバーボン・ソーダを一気に飲み干した。
「見物客?」
「違います」
「メディア?」
「それも、違います」
「じゃあ……ドライバー?」
私はゆっくりと頷いた。
「ただし、ドライバーはこの子ですけども。私は、付き人です」
「そうか……」
マッカラの皮が弾けた音がした。ぱちりと、小さい音。
ビルが窓の外に視線を移す。私も釣られて窓の外を見た。外では、深々と雪が降り続いている。ガラスに映るビルの顔には、何とも言えない表情が浮かんでいる。
「頑張れよ」
スプーンを置いた彼の指が、宙に円を何度も描いていた。
◇
翌日。
私は、セットしたアラームよりも早く目が醒めた。隣のベッドで寝ているローズヒップは、まだ夢の中だ。起こさないように、ゆっくりと一階に降りる。客室は二階にあるのだ。すると、既に暖炉には火が入っていた。かすかに油が弾ける音。キッチンからビルが顔を出す。
「おはよう。朝食の匂いに釣られたかな?」
ビルは赤いチェックのエプロンを付けていた。それが、長身の彼にはなんとも言えず滑稽で、私は笑う。
「そうかも知れません」
「ちょっと待ってくれるかな?もうちょっとで目玉焼き用の卵が三つ生まれそうなんだ」
「もしこのロッジで出る目玉焼きが、全部〝ビル産〟のモノなら遠慮願いたいわ」
くすくすと笑いながら椅子を引いた。目の前にコーヒーが差し出される。
「冗談さ。〝フロム・ショッピングストア〟これでも飲んでてくれ。モーニングは、その後にしよう」
ビルは再びキッチンに戻った。
淹れたてのコーヒーを嗅ぎながら、窓の外を見る。外は曇りだが、雪は降っていないようだ。暫くすると、ローズヒップが階段を降りて来た。両眼を手の甲でしきりに擦っている。
「おはようございますですわ」
「おはようローズヒップ。よく眠れた?」
「はいですわ。もう起きたくない位ぐっすりと……」
「バカおっしゃい」
流石のローズヒップも、朝と夜だけは弱い。このやりとりも慣れたものだった。
ビルが作った朝食を食べた後、私たちは彼のパジェロで大会本部へ向かった。
到着してみると、すでに多くの関係者がいる。
私たちはビルにお礼を言うと、関係者の群れに飛び込んで行った。チームのメンバーを探すためだ。
お祭り会場のようになっている大会本部。その周辺をしばらく歩いていると、ようやくマネージャーの姿を見つけることが出来た。既に、他のドライバーはコースの下見に出ているらしい。彼は、無線で忙しそうなやりとりを続けている。
私は声を掛けた。
「ごきげんよう、マネージャー」
マネージャーは私の声に気が付くと、無線を切った。
「ああ、アッサム。それにローズヒップ。ホテルの件だが、本当にすまない。なんとかなったようで、こちらも安心していたよ」
「ええ、お陰様で。シャンパン・ファイトの準備だけは入念にしておいて貰おうかしらね」
「キツイなぁ。でも、ここからのケアはバッチリやらせて貰うよ」
そして握手。私はローズヒップの方を見た。
「ローズヒップ?準備は良くて?」
「もちろんでしてよ。アッサムさま」
ローズヒップは力強く頷いた。
WTRC最終戦、ラリー・フィンランド。このレースは、毎年一番過酷だと言われている。極寒の北欧で、林道を走るグラベル・コース。道幅は広く、路面もスムースなので走りやすいコースではある。
だが、それだけに、超が付くほどの高速レースになりやすい。また、自然が作りだしたジャンピング・スポットがいくつもあるので、足回りが早々にやられてしまう車両も多いのだ。
上手くそれを切り抜けたとしても、着地点に待ち構えるのは見通しの悪いコーナー。進入する角度、姿勢のコントロールを間違えば、一瞬でクラッシュしてしまう。まさに最終戦を飾るに相応しいコースだろう。
私は、前を行くクルセイダー巡航戦車を追いかけるように走っている。そのクルセイダーは外装こそチーム・カラーのそれだが、中身はノーマル。テスト走行で競技用車両は使わないのだ。
私は、チームメイトが運転する車の助手席で無線機を握った。
「こちらアッサム。ローズヒップ?調子はどうかしら。どうぞ」
カリカリと雑音が入った後、応答があった。
「アッサ!……ごほん。こちらローズヒップですわ。早く本番でカッとばしたいですわ。どうぞ」
無線を受けた車内に、ローズヒップの声がスピーカーで響く。彼女はいつもの調子のようだ。本番は明後日だが、特段気負いのようなものは見られない。これも、ビルのお陰だろうか。私は、ここにいないビルに小さく頭を下げた。
ローズヒップがこの世界に飛び込んで2年。その間、彼女は国内のタンク・レース・シーンを総ナメにした。
〝スーパー・ノヴァ〟と周囲は騒ぎ立てたが、私はそうは思わなかった。学生時代から、彼女の操車技術を知っていたからだ。それは、もはや動物的な勘、天賦の才と言ってもいいかも知れない。付け加えるなら、素直さ――それが彼女の絶対的な武器。新しいこと、知らないものを愚直に吸収しようとするローズヒップは、まさに乾いたスポンジだった。見たなら、見ただけ。教えられたら、教えられただけ彼女は成長する。
正直、底が知れなくて私自身彼女を恐ろしく思う時がある。だからこそ、名乗りを上げたWTRCへの挑戦。まだ、経験が豊富とはお世辞にも言えない。
だが、それ故の期待感。そして、あのコンディション。
私は、助手席で確かな手ごたえを感じていた。
◇
ロッジに戻ると、煙突からは煙が上がっていた。すっかり覚えてしまったマッカラの香りが周囲に漂っている。
隣で、ローズヒップが鼻をひく付かせた。
「アッサムさま!また、きっとあの美味しいやつですわ!」
「そうね。さ、早く入りましょう」
そう言ってドアを開くと、やはりマッカラが暖炉で炙られていた。
「ほら!ですわ!」
「指をさすのは止めなさいローズヒップ」
「お帰り。寒かったろう。マッカラはもう食べごろだ。すぐ飲み物をいれよう」
にこやかに言ってソファを立つビル。
暫くすると、豪勢な食事が机に並んだ。お礼を言って食べ始める。すると、不意にビルが口を開いた。
「今日、コースには出たのかい?」
私は食べる手を止める。
「ええ。今日はレッキでしたから。入念に」
「手ごたえは?」
ビルの質問。それには、ローズヒップが答えた。
「ばっちりですわ!」
その言葉に、私も頷く。全くの同意見だった。
「そうか……」
そう言ったっきり、無言になるビル。
私は聞いた。
「何か、気になることでも?」
私の質問に、彼は一瞬しまったという顔をした。数秒して、再び口を開く。
「夕食の後、少し時間をくれるかな」
◇
夕食後、ビルはバーボン・ソーダを飲みながら私にコースの地図はあるか、と尋ねた。
私は頷いて机に地図を広げる。
ビルは地図を指さして言った。
「このヤンプス、着地後何キロでコーナーに突っ込んだらロールするか分かるかい?」
唐突な質問だった。
当然答えは出ない。ビルは続けた。
「それと、ここ。何メートル飛ぶと、サスがお釈迦になるかな?君もペース・ノートは作っているはずだ。でも、そこまで詳細な情報が書いてあるだろうか?」
ビルは淡々と言った。彼は、私の目をじっと見ている。
思わず息を呑んだ。
薪が弾ける。その音がやけに大きく聞こえた。
私は遂に答えられなかった。
やがて、ビルが首を横に振る。
「ああ、すまない。こんなつもりじゃなかったんだ。楽しかった夕食が台無しだ」
彼は苦笑している。
私は言った。
「ビル。質問しても?」
顔を上げるビル。彼は頷いて私を見た。
「貴方は、WRTCの関係者?」
ビルは、目を細めて答える。
「違うよ」
その眼には、〝ある色〟が浮かんでいる。それは過去を懐かしむ懐古の色だった。
「じゃあ何故、私たちを泊めてくれたの?」
私の質問に、ビルは指で宙に円を描いた。どうやら、それは彼が何かを考える時のクセらしいことに私は気が付いた。
やがて、指が止まる。
「少し、昔の話をしようと思う。構わないかな?」
私は頷く。隣のローズヒップも、小さく頷いていた。
「ありがとう」
ビルは満足そうに微笑むと、ゆっくりと語り出した。
「まず、私は……WRTCはハイ・スクールの時に見て熱を上げた、ただのファンさ」
「……」
「もう、病気だった。あの日、テレビで見た興奮を直に見られるなら、どんなに幸せだろうと考えるようになった」
「……」
「そして、ハイ・スクールの時にラリー・フィンランドを見たのが最初。テレビの画面でしかみたことがなかった風景は、真面目な学生だった私に、アルコールの味を覚えさせるくらい素晴らしかった……」
そこで、ビルはグラスに口を付けた。とても美味しそうに、二口。喉を鳴らして飲んだ。グラスを置く。
「でも、それ以上に素晴らしかったのは……ある女性との出会いだった。彼女は私の2つ上のフィンランドのドライバーだった。見かけたのは、シェイク・ダウンの日。真っ赤なレース・ウェアが良く似合う人だった」
「その人と、恋に落ちた?」
と、私。
ビルは、微笑しながら頷いた。
「まぁ……結果的にはそうなった。私の一目ぼれだったけれどね。運が良かったのは、向こうも私に好意を持ってくれたことだ。直接レースを見に来るようになって2年目に、そういう関係になった」
と言って、ビルは再びグラスを持ち上げた。
今度は飲むでもなく、氷をグラスの中で回すだけ。
「彼女も世界を飛び回る選手で忙しい身だった。フィンランドにいるのは本当に僅かな期間だけだったよ。それでも、短い暇を見つけては二人で色んな所に出かけたりもしたよ。父親から譲ってもらった、あのパジェロに乗って……」
ビルの目は、ここではない――どこか遠くの日を見ていた。私も、出されていたバーボン・ソーダに口を付ける。
「……その恋の結末は?」
と聞いた。ビルは、遠くを見ながら答える。
「別れたよ……。私が、遂にプロポーズを決心したその年。3年目のラリー・フィンランドまではもたなかった」
「なぜ?」
「彼女が、フィンランドを離れてしまったからさ。チームを移籍することになったんだ。そして、私は彼女を追いかけて行くことができなかった。そして、プロポーズの言葉と、指輪の代わりに渡そうと思っていたシャンパンはお蔵入りになった」
「その理由は?」
「単純さ。それなりの年齢だった親を置いていくことが出来なかったんだ。そして、その年、彼女がフィンランドに来ることはなかった。調子を落としてしまった、と聞いたよ」
「なるほど……じゃあ、ロッジをやってるのは?」
「それも単純さ。ここがラリー・フィンランドを見るには適した場所だろう?だから、土地を紹介された時、すぐに決めたよ。そして、ログ・ハウスを建てた。ロッジにしたのは、〝元〟恋人がいつ泊まりに来てもいいように……かな。その後すぐに仕事の都合で国を離れてしまったけどね。毎年、このレースだけは見に来ているよ。かつて、ただのファンだった少年は、ラリー・フィンランドに関しては〝オタク〟のようになってしまった……」
とビル。
暖炉の中の炎はいつの間にか姿を潜めていた。今は、薪の中でくすぶっている。ビルの昔の恋のように……。
「まあ、そんなところかな。下らない昔話に付き合ってくれてありがとう」
ビルはバツが悪そうに頬を掻いた。
「そんなことないわ。悲しいけれど、ロマンチックな話だった」
ビルは、目を閉じた。
ローズヒップは、無言でぶんぶんと首を縦に振っている。こういう時、なんと言えばいいか分からないのだろう。
「さぁさぁ」
二人で押し黙っていると、ビルが手を叩いた。
「明日も早いんだ。シャワーを浴びて、ゆっくり寝なくちゃいけないよ」
その表情は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
to be continued
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シャンパンを、雪に抱いて2
珍しく長くなってしまったので、分けました。
頑張れ、ローズヒップ。
ピクシブにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8757287
〈スタートまで20分!〉
アナウンスが響いた。
DAY1。それが、ついに始まろうとしていた。大会本部の前では選手やコーチ、大会のスタッフたちがあわただしく動き回っている。
天気は曇り。気温は低めで、風が強い。コンディションとしては――まずまずだ。
ローズヒップは軽いストレッチをしていた。レース用の真っ赤なウェアの上に、風を防ぐアウターを着込んでいる。彼女のスタート順は、まだ先だ。
だが、その表情には少しだけ緊張が見て取れた。
「緊張、してる?」
「……いえ……。ああ、してる……かも、ですわ」
そう言ったローズヒップの顔には緊張の色こそあれど、迷いの色は無かった。そして、それは私も同じだ。
昨日、ビルに頼んで教えてもらったコースの特徴、注意点。その全てで、ペース・ノートを書きかえたのだ。後は、ドライバーであるローズヒップを信じるだけ。
「貴女なら大丈夫よ」
私は、ローズヒップの肩を軽く叩き、大会本部前に設置されたスクリーンの前に移動する。そこには、レースの開始を待つトップ・バッターが映し出されていた。
車両は、イタリア製フィアットL6/40。直列4気筒液冷のガソリンエンジンが、唸りを上げながらスタートを待っている。飲料メーカーやパーツのメーカーのステッカーがデカデカと張られたその姿は、まさに〝鋼の広告塔〟だ。
キューポラから顔を出している選手が、何度も深呼吸をしているのが見える。
大会のトップ・バッター。流石に緊張の色を隠しきれていないようだった。
スクリーンの隅に映し出されているカウント・ダウンが徐々に減って行く。30秒前。20秒前。10秒前――そして、スタートを告げる号砲で、レースが幕を開けた。
◇
WRTCは、アイテナリーと呼ばれるタイム・スケジュールに沿って進められる。前の車両がスタートして2分ごとに次の車両がスタートしていく。このため、ゴール直前で、デッド・ヒート――なんてことは発生しない。スタートからゴールまでの計測タイムで順位を付けるのだ。
たった今、1番にスタートした選手が最初のチェックポイントを通過した。画面に刻まれたタイムが、今後の選手たちの目指すべきタイムとなる。そして、順位がその横に表示された。この選手は最初にスタートしたのだから、当然、番号は〈1〉だ。
スクリーンを見ているギャラリーから歓声が上がった。
次々と選手がスタートしていく。ファースト・ランナーから7番目。その選手が、一番良いタイムから、さらに0.32秒上回るタイムで第一チェック・ポイントを通過した。キューポラから身を乗り出して片手を突き上げる。体感で、自分が良いタイムを出したのが分かるのだ。その戦車はソ連製、青く塗られたBT-7だった。
スタート直後からの、きわどくも大胆なライン取り。私の目から見ても、いい走りをしているのが分かった。そこから先が、なかなか良いタイムが出ない。ミスが目立つようになる。良いタイムを出そうとして、ブレーキが遅れて大きくコーナーで膨らんだり、あるいはロールしてしまう車両もある。上位に食い込もうと、実力以上のことを無理に行った結果だ。
スタートも30人を超えてくると、会場の雰囲気が明らかにゆるむ。スクリーンの映像そっちのけで、雑談とアルコールに興じている人間も増える。
やがて、ローズヒップのスタートが近づいてきた。前評判で言えば、彼女はそう高評価ではない。日本から来た新人。そういう目で見られている。
スクリーンにローズヒップが映った。安全のためのヘルメットとゴーグルで表情は分からない。
既に、ゴール地点では選手へのインタビューなども行われている。観客は興味を失いつつある。そんな空気の中での出走だ。
だけど、私はスクリーンをじっと見ていた。隠れて見えない彼女の顔をじっと見ていた。そして、スタートの号砲がなった。
クルセイダー巡航戦車。学生時代から、彼女が愛車としていた車両。そのスポーツ・チューン。一流のメカニックによって手が加えられた、ナッフィールド・リバティ製のエンジンが吠えた。積雪を豪快に巻き上げながら履帯を回転させ、クルセイダーはスタート地点から飛び出していく。私は、ローズヒップがこれまでにない走りをしているのが分かった。
強引でも、慎重でもない。彼女らしい〝しなやかな〟ライン取り。時に、前の車両の轍を使い、時にはその轍を踏みつぶす。減速、あるいは加速――目が醒めるような走りでコースを駆け抜けて行く。その姿は深紅のキャノン・ボールだ。
やがて、クルセイダーが最初のチェック・ポイントを通過した。スクリーンにラップ・タイムが表示される。同時に順位も。数字は〈6〉。
会場にいたギャラリーがどよめいた。
30番を超えて出走した選手が、一桁の数字で第一チェック・ポイントを通過するのは珍しいからだ。それからも、ローズヒップは良い走りを見せた。危なげなく、ペースを維持したままゴール。
最終的な順位は9位だった。
◇
ゴール地点に遅れて到着した私に、ローズヒップは笑顔を見せた。
クルセイダーは真っ赤なペイントもスポンサーの名前も分からないほど、雪と泥にまみれていた。
降りてくるローズヒップに、私は何も言わなかった。そして、無言のままハイタッチチ。
「良い走りだったわ」
「ありがとうございます、ですわ」
彼女の息は少しだけ弾んでいた。キューポラからずっと顔を出していたせいだろう、頬も赤く染まっている。そんな彼女の元に、外国人記者がやってきた。英語でインタビューを始める。
「良い走りでしたね。今日は、どこが良かったのでしょう?」
何とか聞き取れたらしいローズヒップは、たどたどしい英語で答える。
「たまたま調子がよかったのと、友人のお陰ですわ」
記者は、手帳にペンを軽く走らせると頷いた。
一緒にいたカメラマンがシャッターを数回切る。たかれたフラッシュが雪に反射して、辺りは一瞬白金に輝いた。
ロッジに戻ろうとした時に、マネージャーに呼び止められた。
「ナイス・ラン」
言葉と共に、一枚の紙を渡される。それは、DAY2の選手リストだった。
DAY2には、30位までに入った選手が出ることが出来る。そのリストだ。
私は、乗り込んだタクシーの中でその選手リストを見た。ローズヒップはDAY1を終えて9位。実に20人近くを抜いたことになる。驚くべき結果だった。そして、それが明日のレースに影響するかもしれないことも、私には分かっていた。
初日である今日、彼女には何も失うものがなかった。ゼロからのスタートだった。
しかし、今は全選手中9番目の成績を持っている。今日で、他の選手にもマークされたかもしれない。追うものと、追われるものであれば――当然、前者の方が力を発揮できるのを私は知っていた。
車の中でローズヒップは窓の外の雪を見ていた。
私は彼女の顔を覗き込む。
「明日も、今日と同じように走れるかしら?」
ローズヒップは私の方を見た。しばらくの間、見つめていた。
「アッサムさまなら、どうですか?」
ローズヒップの言葉に、私は微笑む。
「――きっと、大丈夫」
私の言葉に、ローズヒップはゆっくりと頷いた。
そして、また窓の外の雪に視線を移す。いつの間にか、また雪が降り始めていた。
ロッジに戻ると、既に机には食事が並んでいた。しかも、メニューは昨日よりも豪勢。ヘタをすると、小さなホーム・パーティーでも開けそうだ。
「わ!スゴイですのよ!アッサムさま!ビル……やっと本気をお出しになったのですわね!?」
はしゃぐローズヒップを視線で咎めて、ビルの方を向く。
「ビル、これは?」
「とりあえず、初日を突破したお祝いだよ」
ビルは朗らかに笑った。
「でも、こんなお金は……しかも、ビルのお陰で……」
私は、机にならんだ食事を眺めながら言った。
ビルが首を横に振る。
「いいんだ。気にしないで。どうしても、というならお代を貰わないこともないがね」
そうして、彼はいつか見たようにウインクを投げて寄越す。私は笑った。
「じゃあ、私の代わりにローズヒップが明日、良い走りを」
「ああ、良い走りを」
言いながら、ビルはバーボンをグラスに注ぐ。
私達は、三人で乾杯をした。
◇
DAY2が始まった。
降り続いていた雪は止み、空には太陽がのぞいている。
最近のユヴァスキュラの天候からすれば、奇跡のような晴れ間だった。同時に、何かが起こる予感がした。
ほどなくして、一番目の選手がスタートを切る。流石に初日を突破した選手だ、良い走りをしている。私がスクリーンを見ている間に、ローズヒップの姿が映し出された。彼女は、ぶるぶると首を振った。ズレたヘルメットを戻す。そして、スタート――
息が詰まるようだった。
念願のワールド・タイトル。それが、手に届く位置にある。私は知らず、手を胸の前で組んでいた。
やがて、ローズヒップの駆るクルセイダーがチェックポイントを通過した。映ったタイムはここまでの選手と0.7秒差でトップ。彼女は、私が知る限り、今までで最高の走りをしていた。ドローンに設置されたカメラがクルセイダーを追い続ける。
ビルのアドバイスが、このコースでの彼女の走りを完璧なモノにしたのだ。脳裏に、ビルの顔が浮かぶ。どうか、彼女に力を――そう、私は祈った。
次のチェック・ポイントは、やや遅れながらもぼほトップの選手と同着。これならば、十分に表彰台の可能性がある。いや、優勝の可能性さえも……。
ゴールの手前、最終コーナー。そこにクルセイダーは差し掛かろうとしていた。
ビルによれば、あのコーナーに突っ込んでコース・オフしない速度は62キロ毎時。そのままの速度であれば難なく通過できる。
だが、クルセイダーは速度を上げた。巻き上げられる雪混じりの土砂の量が、目に見えて増える。
その時、私は理解した。
彼女は、一切守りになど入っていない。この世界一過酷なレースに挑もうとしている。思い切り、挑戦しようとしている……。
紅い弾丸となって、クルセイダーがコーナーに突進していく。微妙に車体を振り、
アウトからインに一気に切り込む。慣性で軋む車体の音が、画面越しにでも聞こえてくるようだった。車重と、速度を利用したパワー・ドリフト。ローズヒップの得意技だ。
「お願い……」
私は、呟いた。祈ることしかできない無力さが歯がゆかった。
これさえ突破出来れば、トップは間違いないだろう。コーナー脱出までは、残り僅か。
だが、残り1メートルという所でまさかの事態が起きた。クルセイダーの履帯が、前の車両が掘った一際深い轍に取られたのだ。
重心が一気にズレる。当然、減速は間に合わない。半分スピンしながら、クルセイダーは、コース・オフ。それどころか、車体がロールした。
太い幹の杉にぶつかり、車体は何とか止まったものの、観客からは悲鳴が上がった。ざわつく会場。
一瞬の静寂の後、クルセイダーのキューポラが蹴り開けられた。横倒しになった車体から這い出て来たのは、ローズヒップだ。救護スタッフが彼女に駆け寄る。あお向けになって、彼女は白い息を吐いていた。
◇
夕方が近づいていた。
遠くでは、表彰式が行われている。シャンパンの栓を抜く音も聞こえた。私達はチームメイトに挨拶をして、いつものようにタクシーで帰るため駐車場へ向かう。
手ごろなタクシーの運転席の窓を叩こうとした時、声がした。
「アッサム、ローズヒップ!こっちだよ」
振り向くと、ビルの姿があった。その後ろには、アイドリングをしている深緑のパジェロも見える。
ビルに促され、私たちはパジェロに乗り込む。
ドアを閉めると、ゆっくりとパジェロが発進した。
窓から見える遠くの雪景色は、沈んでいく夕日を浴びて砂金をまいたようだった。
「《The Gold Experience》……」
ビルは、一言だけ、そう言った。
ロッジに着いて車から降りた私たちに、ビルが言った。
「ちょっと、そこで待っててくれ」
そう言うと、彼は敷地内の雪の固まりに近づいた。それは、雪かきの後だ。
ビルは、突然その中に腕を突っ込む。引き出した雪だらけの手には、グラスとボトルが握られていた。
白い盾型のラベルが貼られた瓶はドン・ペリニョン。それに、グラスが三つ。
「それは……?」
そう言う私を見て、ビルが微笑む。
コルクが抜かれた。なるべく音をたてないように、静かに……。
渡されたグラスに、シャンパンが注がれる。グラスの中に、淡い金色の泡が立ち昇った。
「君たち二人が戦い抜いた、この一年に乾杯」
私達三人はグラスを軽く合わせた。軽い金属音がする。
気が付くと、涙が零れていた。唇を噛んでいないと、声が漏れそうだった。
ローズヒップを見ると、既に涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。きっと、ここまで我慢していたのだろう。私は、シャンパンが零れないように、そっと彼女を抱きしめた。
エンジンが切られていないパジェロのカー・ステレオでは、ローリング・ストーンズが《Winter》を唄っている。
見上げた空は、青と赤が混じった色をしていた。黄昏が、近い。
グラスを口にすると、心地いい炭酸が弾けた。
雪に抱かれていたシャンパンは、キンキンに冷えていた。
◇
フィンランドを出るフライトの日。私達二人は、ビルのパジェロで空港まで来ていた。初日に利用したユバスキュラではなく――ヘルシンキ・ヴァンター空港だ。
出発ロビーで、握手をしながらビルは口を開いた。
「ありがとう。君たちと会えて本当に良かった」
私は首を横に振った。
「こちらこそ。でも、ビル。教えて欲しいことがあるの」
「なんだい?アッサム」
「あのシャンパンの意味は?」
ビルは、指で宙に円を描いた。そして、頷く。
「一つ目は、言った通りだ。君たちの一年に。二つ目……君たちは確かに、レースには勝てなかった。だけど〝勝負には負けてない〟ローズヒップ。そうだね?」
そう言って、ビルはローズヒップの方を向いた。ローズヒップは首をかしげている。その様子にビルは笑った。
「ローズヒップは、私のアドバイスもあったかもしれないが……あのコースに果敢に挑んだ。きっちりと、立ち向かった……自分から、何かを掴むためにね」
彼の口ぶりは、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「もちろんですわ!来年は絶対勝ちに来ますのよ!」
「その意気だよ、ローズヒップ。君なら絶対に大丈夫だ。活躍を楽しみにしているよ」
そう言うビルの表情は明るかった。ここ数日で、一番の〝彼らしい〟表情だった。
空港内に、日本行きの便の登場案内が流れ始める。
「おっと……もう、行かないとね。あんな所にもう一泊はごめんだろう?アッサム、ローズヒップ。もう一度お礼を言うよ、本当にありがとう……」
「いえ……こちらこそ、本当にありがとうビル」
「ビル、また会えますの……?」
「それは、どうだろうね?ローズヒップ。君が来年もここに来るようなことがあれば……。いや、来てくれることを祈っているよ。また、空港の滑走路でね」
飛行機の時間が迫る。なごり惜しいが、ビルとはここでお別れだ。
「じゃあ、ビル。また会える日を」
「ああ、楽しみに」
そう言って固く握手をかわす。
動こうとしないローズヒップを引きずるようにして、金属探知機を通る。そこで、私はもう一つ聞きたいことがあったのを思い出した。
振り返ると、ビルの姿は雑踏に消える寸前だった。
「ビル!あのシャンパンって何年のモノ!?」
私の声に気が付いたのか、ビルが振り返る。大声が返ってきた。
「1996年……20年モノさ!」
それを聞いて、私は肩の力が抜ける思いだった。鼻から深く息を吐き出す。
ビルが渡せなかったシャンパン。飲んだのは20年モノのドン・ペリニョン。つまり……。
そのやりとりに、ローズヒップは首をかしげる。
「アッサムさま、どういうことですの?」
「そうね……貴女も、もう少ししたら分かるかも……さ、行くわよ」
初めてのWTRCは、私たちにとって忘れられないレースになった。
経験、出会い。そして――雪で冷やされた、シャンパンの味。
Fin
初めての前後編ということで、いかがだったでしょうか。
その内ローズヒップ、アッサムについての設定と、WTRCについてもまとめようと思います。
補足として、今回描いたWRTCは一応WRCに則って開催されています。アッサムがコ・ドライバーをしていないのが不思議ですね。
しかし、登場人物3人とも立てようとすると難しいですね……。おじさん出すぎィ!とか思った方もいたのではないでしょうか?
次回は誰について書こうか迷っています。
では、また。
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関連資料及び設定備忘録
関連資料兼備忘録
【全日本学生戦車道連盟】
全国戦車道連盟とは違い、学生だけで運営されている機関。本部は日本武道館地下一階。
全国に点在する大学の戦車道部は、この連盟に加盟することで公式試合に出場することが出来る。
また、日本の地域ごとに9つのブロックに分けられる。以下の通り。
→北海道ブロック、東北ブロック、北信越ブロック、関東ブロック、東京都ブロック、東海ブロック、関西ブロック、中四国ブロック、九州ブロック
加盟することで出場が出来る主要な試合は以下の通り。
●全日本学生戦車道選手権大会(通称、インカレ)
●全日本学生戦車道王座決定戦(通称、王座)
→東西学生戦車道選抜対抗試合(通称、東西)
●全国大学戦車道選抜大会(通称、選抜)
関東ブロックと東京都ブロックが分けられているのは、東京都に大学の数が多いためである。学生戦車道でありながら、リーグの編成を持つのは以下の3ブロック。
→関東ブロック、東京都ブロック、関西ブロック
リーグ戦については、9月の第一週より開始。
毎週土曜日、リーグ編成表に従い試合を行う。全試合フラッグ戦とする。
関東ブロックについては4部リーグまで。東京都ブロックは5部リーグ、関西ブロックは5部リーグまで。最終節、勝敗により入れ替え戦を行う。勝敗数が同率の場合、被撃破車両の総数で順位を付ける。
インカレについては、基本的に連盟に加盟している大学であればどの大学でも参加権がある。ただし、王座決定戦については各地区のリーグ戦の優勝校、及びインカレの優勝校、また、前年度優勝校の出場が許される。
北海道、東北、北信越、東海、中四国のブロックについては各地区で代表決定戦を行い、その優勝校1校が参加資格を得る。
全試合フラッグ戦とする。トーナメント方式。
また、東西対抗戦については各リーグ、各地区大会の成績優秀者のみが出場資格を得る。全国を二つに分け、車長(ここでは車両と呼ぶ)を東日本より20人。西日本より20人を選抜して行う。車両単位での選抜となるので、実際には20人対20人とはならない。
計5試合を行い、勝利数の多い陣営を勝者とする。
全試合殱滅戦とする。
選抜についても、各リーグ、各地区大会優勝校が出場資格を得るものとする。全試合フラッグ戦とする。トーナメント方式。
【WTRC】
世界戦車ラリー選手権(ワールド・タンク・ラリー・チャンピオンシップ)
国際戦車連盟が開催するラリーの選手権。世界の各地がレース地とされ、公道、市街地、砂漠、草原、森林、雪原、山岳などあらゆる場所で行われる。砲撃の必要性、車長が無線にて直接やりとりをするため搭乗員は車長と操縦手のみとするチームが多い。
競技車両はノーマルの車両をベースに制作される。そのため、外観こそベース・モデルと大差はないものの、各パーツ、駆動方式、エンジンなど、内部にはあらゆる部分に手が付けられ全くの別物と化している戦車がほとんど。ただし、『観客及び、搭乗員に危険な生じる可能性のあるチューン』が認められた場合には出走を止められる場合もある。
3日間、または4日間のスケジュールで開催され。レース本番確実は『DAY』(例、初日→DAY1)で表す。DAY1の前々日からは『レッキ』と呼ばれるコースの下見が行われる。前日は『シェイク・ダウン』
年間13戦のローテーションでレースが行われ、1月を皮切りに最終レースは11月。
その年のコースは国際戦車連盟が決定する。一戦ごとに順位に応じて、ドライバース・ポイントが加算され、13戦終了時点でトップ・スコアラーにタイトルが送られる。
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ラム・コークを、窓際で
ダーさんがハンバーガーを食べます。昼間からお酒を呑みます。
思い浮かぶのは、誰の顔でしょうか?
pivivにも投稿しております
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8810474
女心と秋の空――とは、誰が言い出したのだろうか。
頬に当たった冷たいしずくを指先でなぞる。
空を見上げると、どこから現れたのか薄暗い雲が一面に広がっていた。内心で、一つ舌打ち。あいにく、傘は自宅で留守番中だ。
雨粒がアスファルトをたたく音が早くなる。それに習うように、周りの人もそろって早足になった。
予報では降水確率30%だった。そんな日に、傘を準備している人間の方が少ないのは当然だろう。
ブーツを履いた足で、歩道に面した店の軒下に駆け込んだ。バッグからハンカチを取り出し、肩を拭う。
まだ営業中の軒先を間借りするのは少し気が引けたが、致し方ないだろう。
ハンカチを手にしたまま、なんとなく中をうかがうと、その店舗は飲食店のようだった。アメリカ映画のポスターが壁に貼られ、カウンターにはアメコミ・ヒーローの精巧なフィギュアが数体乗っている。アルコール飲料の商品名をかたどったネオンの装飾。漏れ聞こえるBGMは、ドナ・サマーの《Hot Stuff》だ。
まだ、ギリギリお昼前だからだろう、中にはお客の姿はない。平日、というのもあるかもしれない。
ふと、中で机を拭いていた店員と目が合った。
相手は反射だったのだろう。いらっしゃいませ、の一言が聞こえてくる。マズい――と、思った時には時すでに遅し。私も釣られて、会釈を返してしまう。
やがてゆっくりと、空けられる入り口のドア。その隙間から顔を出した店員は、満面の笑みで言った。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
その店は、名前を『カウ・ガール』といった。どうやら、軽食もできるカフェらしい。アルコールも提供しているらしく、流行りの〝バル〟と呼んでも差し支えないだろう。
通された窓際の席で、通りを眺める。
降り始めだった雨は、いつの間にか本降りになっていた。今では、道行く人影もほとんど見えない。誰もかれも、どこかに引っ込んでしまったのだろう。誰だって、冷たい雨に濡れるのは嫌なモノだ。私だって嫌だ。だからこそ、こうしてこの店にいる。
出されたおしぼりで手を拭いていると、店員が声を掛けて来た。
「飲み物はお決まりですか?」
今日はもう予定はない。少々早い気もするが、アルコールを飲んでしまっても問題ないだろう。かといって、へべれけになるまで飲むつもりもない。
口を突いて出そうになった〝ワイン〟を一度呑み込んで、私はもう一度店内を見回す。郷に入っては郷に従え――だ。小さく頷く。
「ラム・コークを」
「かしこまりました」
そう言うと、店員は手元の小さなオーダーにペンを走らせた。一礼をして厨房の奥に引っ込んでいく。
私は、手元のメニューに視線を落とした。そこには、アメリカン・テイストを意識したさまざまなメニューが並んでいる。スパイシーなバッファロー・チキンにフライドポテト、ピザにサーロイン・ステーキ。そんな、目を通すだけでお腹が膨れて来そうなメニューが写真と共に名前を連ねていた。
脳みそがそれらを想像してしまったのだろう。途端に空腹を覚える。朝はしっかり食べて来たはずだったが、美味しそうなモノというのは何とも罪作りだ。カメラマンを内心呪う。
はた、とページをめくる手が止まった。そこに載っていたのは、ハンバーガーだった。 オーソドックスなクラシック・ハンバーガーを皮切りに、いくつものバリエーションが紹介されている。そのどれもが、また一段と美味しそうに見えて、私は思わず生唾を飲み込んだ。いつからこんなに食い意地が張ってしまったのだろうか。
私は、一人笑いを堪えて天井を見上げた。そこで、店員が戻って来たのに気が付く。手にしたお盆の上にはラム・コークが乗っている。目の前に、グラスが置かれた。
「お待たせしました。ラム・コークです」
グラスの端にはライムの輪切りが刺さり、それがみずみずしい香りを放っている。アイスはクラッシュ。一口飲むと、何ともいえない爽やかさが一杯に広がる。絞られたライムが清涼感を更に増していた。氷もクラッシュなのがいい。ロック・アイスでは、この涼やかなノド越しなかなか出ないだろう。
ほう、と息を吐き出して目を閉じる。炭酸の刺激が胃に落ちた時、ふと思い出した。
そう言えば、友人の一人にハンバーガーが大好きな女性が一人いる。決して友人が多いとは言えない私だが、そこは親交の深さでカバーしているつもりだ。浅く広くよりも、狭く深く――だ。彼女も、そんな〝深い〟友人の一人。
長崎出身だという彼女は、いつも溌剌としていた。開放的でポジティブ。後輩からも慕われていて、まさにリーダーシップの固まりのような人。
生まれ変わりたいとまでは思わないけれど、私はいつも彼女のことを羨ましいと思っていた。その誰に対してもフレンドリーな生き方は、今でも私の心の中に根付いている。初対面の人間に、いきなり抱きつく――なんて芸当は、逆立ちしたってマネできないけれど。
そんな彼女が好きだったハンバーガー。そのページに目を走らせる……。見つけた。
視線と並走するようにページを滑っていた指の先には、チーズ・バーガーの文字。友人が一番好きだったのは、このチーズ・バーガーだった。
店員を呼んで、オーダーを伝える。
「このチーズ。バーガーを頂けるかしら」
「はい。少々お待ちください」
そこで、ラム・コークをまた一口。
学生時代のことだ。渋る私を引っ張って、ファースト・フード店に連れて来ては、彼女がおいしそうにバーガーを頬張っていたことを思い出す。
初めて二人で店を訪れた時だ。
『ナイフとフォークはありませんの?』と聞いた私を、彼女は目じりに涙を浮かべて笑ったことを覚えている。
包装紙に包まれたハンバーガー。それを、彼女は器用にはぎ取り、中身を豪快にほお張っていた。どうしようかとオロオロする私。そんな私に、彼女は食べ方を教えてくれた。なんと言って教えてくれたのだったか……。それを聞いた私は笑っていたような気がするが、肝心の言葉の内容が思い出せなかった。
しばらくするとチーズバーガーが運ばれて来た。
大き目の白い皿に載った付け合わせのポテトとピクルス。ここまではいい。何よりも目を引くのは、高さが10センチを超えているのではないかと思うほどのバーガーだ。
焼き目の付いたバンズにチェダーチーズ。そのチェダーチーズがとろりと溶けて、下のパテは黄色いドレスで着飾っているようだ。炙ったベーコンも入れてあるのだろう。香ばしい匂いが鼻をつつく。
〝チーズバーガー〟という言葉の響きと、懐かしさに目を細める。
目の前にあるチーズバーガーは、思い出の中のモノとはだいぶ違うけれど。あの時のアレは、こんなに〝分厚く〟はなかった。これを見たら彼女は何というだろう。驚きで『Wao!』だろうか、それともうらやましさで『Shit!』だろうか。
いや、きっと彼女ならこう言うはずだ。
『Can I have a bite?』と。
あの友人のことだ、一口かじるだけではすませてくれなさそうだが……。
美味しそうに頬張る、金髪の友人の顔が浮かぶ。もちろん、その時の彼女は満面の笑みだ。それは、彼女の髪の色と同じ金色の笑顔。
「あ……」
そこで、私は思い出した。彼女が教えてくれたハンバーガーの食べ方を。
私はそっとバーガーを持ち上げた。プラスチック製のピンで留められてはいるが、崩れないようにそっと両手で。無事持ち上がったことに安心すると、一転して両手に力を入れる。すると、あれだけ高身長だったバーガーがわずかに小さくなる。今は中肉中背といった所。
今日は窓際の席で一人だ。誰に気兼ねすることもない。私は大きく口を開けた。
確か、彼女はあの時、得意げにこう言っていた。ようやく思い出した。
『プレス&バイト!』と。
店員にお礼を言って外に出る。
いつの間にか雨は止んでいた。空を見上げると、雲の割れ目から太陽が顔をのぞかせている。はしたないとは思ったが、満腹になったお腹をさすった。白いコートの下では、さぞかしお腹が張っていることだろう。
大きく一度伸びをする。たまにはこういう食事も悪くない。ペコやアッサムを連れてきたら、どんな顔をするだろうか。それはそれで見てみたい気はする。バーガーにかぶり付く私に驚く彼女たち。その唖然とした顔を見て、私は笑うだろう。
でも、今一番一緒にハンバーガーを食べたいのは最近永らく会っていない、あの友人。
今度会ったら彼女に見せつけてやるのだ。ナイフとフォークを投げ捨てた私を。
雨が上がったせいだろう。周囲には少しだけ薄いもやが掛っている。街は再び賑わいを取り戻しつつあった。その中を、私は軽快な足取りで歩き出す。
久しぶりに連絡でもしてみようか。そう思った私はバッグから携帯を取り出す。
電話帳で検索するイニシャルは、アルファベットで『J』の次――
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ニコラシカに、力をかりて
冬を目前にした寒い日に、逸見エリカの運命とは――
pixivにも掲載しております。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8834171
窓の外から見える薄暗い空が、すっかり冬を感じさせる10月の某日。
時刻は、午後6時35分。
「遅い……」
私は、机に肘をついたまま呟いた。
右腕に巻いた時計に非はないが、じろりと睨みつける。
約束の時間からは5分の遅れ。普段なら、これくらいの遅れなど気にはしない……ウソ。少しは、する。
今日は特別な日だ。待ち人の遅刻に対して、いつも以上にナーバスになっても仕方ない。それから、更に5分近くが過ぎた頃、店のドアが開いた。
ぎい、と音がした方向を見ると、私が待ちに待った人物の姿があった。その人物は、きょろきょろと店内を見回している。きっと、私の姿を探しているのだろう。こういう時、意地悪したくて少し身を隠すようにしてしまうのは何故だろうか。
「あ……!」
ようやく私の姿を見つけたらしいその人物は、私のいる席まで小走りで近寄ってくる。
「遅かったわね」
「ごめんね、エリカさん」
私の待ち人は、西住みほ。
彼女は白い二枚衿のブラウスに、グレーのカーディガンを着込んでいる。それに、くすんだ赤をしたフレア・スカート。私は、白いタートル・ネックに、ブラックのパンツ。
夏頃からすれば随分と伸びたみほの栗毛が、少しだけ乱れている。急いできたのだろう。息が少しだけはずんでいた。
「遅れちゃった」
「いいから座りなさいよ。上着は?」
私は、壁にかかったハンガーを見る。
みほは首を振った。
「ううん、ありがとう。大丈夫、椅子にかけちゃうから」
「そう」
カーディガンを脱いだみほは、椅子を引いた。手櫛で髪を撫でつけながら座る。
「おめかししちゃって……。遅れたのは、それが原因かしら?それとも、コンビニ?」
じろり、とみほを見る。すると、彼女は下を向いて答えた。申し訳なさそうな視線が、前髪から覗く。
「えーと……おめかし、かな?」
「……そんなに気合い入れてくることなかったのに」
みほは指先で頬を掻いた。
「そう言われるとアレだけど」
彼女の顔が、ふにゃりと緩む。
「折角、プライベートで会うんだし……」
と、みほ。
私は、一瞬たじろぎそうになった。顔が熱いのは、多分気のせい。
「う……はいはい!分かったわよ!お似合いですよ!」
何となく負けた気がして悔しい。それを理由に腕を伸ばす。手櫛で整えた髪を、台無しにしてやるためだ。
私たちは、安政町のバーにいる。
安政町、熊本市中央区の繁華街の一つだ。
私の住む、九品寺。また、みほの住む水前寺からも近い場所。その安政町の一角。ひょろりと伸びたビルの4地下に、そのバーはある。
カウンターとテーブル席、個室も完備。オーセンティックな雰囲気ながらスイーツも美味しく、女性客の支持が厚い――という、ネットの口コミを見て、私が決めた店だ。
今日も、既に何組かの客が店内にいた。口コミ通り、そのほとんどが女性客。友人同士の会話を楽しむヒト。カウンターで、背中を丸めて飲んでいるヒト……。はたから見ただけでは分からない関係や感情が、ここにはいくつもあるのだろう。
みほの最初のオーダーは、カルア・ミルクだった。その飲み方はまるで、ウイスキーをストレートで舐めるようにゆっくり。
グラスを持った両手を机に置いて、みほは言った。
「おしゃれなお店だね。エリカさんが見つけたの?」
「まあ……ね」
『ネットで調べた』というのは、何となくカッコ悪いように思えて、私は小さく頷く。
手元で、少なくなったウォッカ・リッキーの氷が、からりと音を立てた。そのカクテルの、すっきりとしたドライな味は好みだった。私は、甘いカクテルは苦手なのだ。
片手のマドラーで、ライムをつぶす。すると、グラスからはライムの香りが一層強く立ち昇った。
みほが続ける。
「今日は、どうしたの?」
突然思い出したような口ぶりだった。ある意味、今日の核心とも言える質問。
私は口ごもる。
「え?……ああ、えっと。まぁ、たまには?」
「そっか。いいよね、たまにはこういうのも」
「ええ。いいわよね、たまにはこういうのも」
言葉をオウム返しにして、私はウォッカ・リッキーを一気に飲み干す。動揺をみほにに悟られてはいないだろうか。
見ると、彼女はチャームのドライ・フルーツに手を伸ばしていた。口に運んだそばから、顔をとろかしている。
いくつかなくなった乾いたパイナップルのお陰で、何とか窮地は脱したらしい。私は、内心で深く息を吐き出した。
「エリカさんも、これ。美味しいよ?」
ふわりと彼女がススメる。
「……いただくわ」
そう言って、私は手を伸ばした。
パイナップルではなく、隣のチーズに。
◇
「それ、なに?」
みほが私のグラスを指さして言った。
「マルガリータよ」
「フチのやつ……砂糖?」
「塩よ」
「なんか、オトナっぽいね」
「オトナだもの」
「だよね」
そう言って、みほは笑う。
私は、口の端についた塩をちろりと舐め取った。
オトナというやつは、なんとめんどくさいのだろうか。さっきから、言い出すタイミングを計っては、やめる――を繰り返している。
いや、オトナがめんどくさいのではなくて〝私が〟めんどくさいのだろうか……。そんなことを考えながら、椅子に置いたバッグを見る。
少しだけ頭が飛び出した細長い箱が、自分の出番を手ぐすね引いて待っているようにも見えた。淡いピンクの包装紙と、赤いリボンが掛けられたそれは、今日のために用意した〝誕生日プレゼント〟だ。渡す予定の相手は目の前にいる。これを渡すために、私はこの場をセッティングしたのだ。
だが、出鼻をくじかれ、タイミングを逃し、結局だらだらとアルコールを飲んでしまっている。どこかで、お祝いを切り出さなくてはならない。
だが、言い出せない……。そんな、焦りばかりがつのる。《言い出せなくて》なんてバラードがあった気がするが、歌詞は思い出せなかった。
私はグラスを取り上げるフリをしつつ、右手の時計で時刻を確認した。すると、短い針は『11』を、長い方は『38』を示している。日付が変わるまで、後30分弱。
今日を逃せば彼女の誕生日は、また来年。きっと、私はその間の1年を後悔しながら生活することになるだろう。頭を抱える自分の姿を想像して、私は首をふった。
「エリカさん、どうかした?」
「いや……なんでもないわ」
そう返しながらも、落ち着かない。グラスについた水滴を指先で何度もなぞる。
店内でゆったりと流れる《All of me》とは裏腹に、鼓動は早足だ。もう、なりふり構っていられるような時間ではない。
私は、マルガリータのグラスを掴んで一気に飲み干した。
突然のことに、対面のみほは驚いているようだったが、気にはしていられない。空のグラスを机に置いて、私は次のオーダーにために手をあげた。
私が取った手段は、最後の手段。つまり――お酒の勢い、だ。
新しいオーダーは、ニコラシカ。
グラスの口に輪切りのレモン、その上に砂糖が乗った変わりダネ。その姿はまるで、グラスが山高帽を被ったようだ。ドイツで誕生したらしいこのカクテルは、お客に未完成のまま提供される。
今、グラスの中にはブランデーしか入っていない。頼んだ客がレモンをかじり、山の形にされた砂糖を口の中で混ぜ合わせる。そして、ブランデーを一気飲み。それで、ニコラシカはようやく完成を迎える。
もう、これしかなかった。お酒の勢いに頼る……。情けない話だが、これも私がオトナになったということなのだろうか。
「なんか、スゴいお酒だね……」
と、みほ。
彼女の感想は、もっともだ。これまでオーダーした、どのカクテルよりも〝不格好〟。このニコラシカは、今の私の分身だ。
みほの顔を見ると、薄暗い店内でも分かるほど不安気な色をしていた。その表情を見て、私は深く息を吐き出す。そして、覚悟を決めた。
まず、レモンを二つ折りにして齧りつく。それだけでは、ただ酸っぱいだけ。次に、砂糖を口に放り込む。すると、酸っぱさと甘さが口の中で混ざり合う。そして、間髪入れずにグラスのブランデーを喉に流し込む。
決して、上品な飲み方ではない。喉を滑り降りたブランデーの濃厚な味わいと、40度近い強烈なアルコールが内臓を焼く。
「…………!」
私は、むせ込みそうになるのを何とか堪えた。チェイサーのミネラル・ウォーターにも手は付けない。
「だ、大丈夫……?」
黙って見ていたみほが口を開いた。
私は返事が出来ず、こくこくと首を上下に振るだけ。こんな飲み方は、もうこりごりだ。
だが、ようやく覚悟は決まった。今日だけは、このカクテルに感謝しよう。
◇
「エリカさん……?」
急に机の上に現れたラッピング済みの箱。それを見て、みほは目を白黒させている。
「これは?」
「え、えーと。今日、23日でしょう?」
「だね」
「だから、これアナタに……その……とにかく、開けなさい!」
「う、うん」
困惑しがなら、みほは箱を手に取った。
解かれて行く赤いリボンが机の上に落ちる。それから彼女は、包装紙を丁寧にはがした。
「はこ、だね」
「じゃなくて!中身!」
「ごめんなさい!」
みほは慌てて箱を空けた。動きが止まる。
「……時計……?」
――そう、私が彼女の誕生日に選んだのは時計だった。
「他の何かに見える?」
「見えない、けど……」
「付けて見なさいよ」
私の言葉にみほは頷く。おそるおそる時計を右腕に巻いた。
小さなベゼルに、シンプルな文字盤と細身のベルト。それは、決して有名なブランドのモノではない。
だが、ベゼルの一部にピンク・ゴールドをあしらった腕時計は、彼女に良く似合っていた。
「これは……?」
不思議そうに、みほが言う。
私は、残っていた〝勢い〟を振り絞った。
「誕生日よ!誕生日!それ、誕生日のプ・レ・ゼ・ン・ト!それ選ぶのにどれ位時間が掛かったか分かる?どれなら似合うかな、って……それはもう、頭が痛くなるくらい悩んだんだか……ら……」
私の声は尻すぼみに小さくなった。我に返ると、どうやら勢いが過ぎたらしい。恥ずかしくて死にそうだ。
聞いていたみほの顔が、みるみる内に赤くなる。多分、私はもっと赤くなっている。アルコールのせいだ、と言えばごまかせるだろうか。
二人の間に、無言が落ちた。他の客の声はどこか遠く、BGMも聞こえない。
沈黙を破って、みほが口を開いた。
「ありがとう、エリカさん……大事にするね」
顔を上げると、みほの笑顔がそこにはあった。それだけで、救われた気がした。
「壊したりしたら、承知しないわよ」
「う、うん……。気を付ける」
あたふたとするみほ。その姿に、私はようやく笑うことが出来た。
思えば、今日はこれまで一度も笑えてなかった気がする。肩の荷が下りた、とはこのことだろう。
「みほ――」
「なに?」
大切な人の、大事な日。私は、それを面と向かって祝うことが出来る。それは、とても幸せなことだ。
私は、彼女が巻いた腕時計をちらりと見た。その時計は自動巻。実は、すぐ使えるように時間を合わせてある。
私は大きく息を吸い込んだ。
「――誕生日、おめでとう」
10月23日。時刻は、午後11時59分。
強化ガラス製のケースが、照明を反射してきらりと輝いた。
――願わくは、彼女がこれから過ごす時間に、多くの幸せが訪れますように。
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レモン・サワーは、そのあとで
モブおじが目立ちすぎた感がありますね……
pixivにも掲載しております。
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『――これから、どうなるのだろうか』
そうキーボードを叩いた所で、私は背もたれに思い切り身体を預けた。
初めて座った時から頼りなかった背もたれは、ぐぎ、と悲鳴をあげる。
いよいよダメか、とは思ったが無視を決め込んだ。
腕を投げ出して、上を見上げる。
だからどうした、というワケでもないのだが、これが私なりの開放感の表し方だ。1日が、ようやく終わった開放感……。
見上げた天井は暗い。
パソコン画面の右下を見ると、とっくに終電などない時間だ。オフィスに他の同僚の声がしないのもうなづけた。今頃、同僚や上司たちはベッドで夢の中――もしくは、アルコールに顔を赤らめていることだろう。別にそれをうらやましいとは思わないが、想像するだけで疲れがドッと押し寄せてくる。
私は誰もいないのをいいことに、大きなあくびを一つ。
終電がないのならどうするか――会社で寝ることになる。
編集者、とはキツい仕事だ。
業界の仕事なので、勘違いされることも多い。世間のイメージのように、華々しいなんてことはさらさらない。その実、とても泥くさくて体力勝負。
企画立案から誌面の作成。それによる校正と校閲作業。繰り返される会議と打ち合わせ。社内外問わない人間関係の構築……要は接待だ。
およそ、人間がこなせる量ではない膨大な仕事が、締め切りと共にやってくる。そして、それに追い回される。
まさか、終戦後の日本でデス・マーチを経験することになるとは思っていなかった。それも、毎週のように……。
今、未来の編集者を目指している学生がいたら、一旦考え直して欲しいところだ。
「……山。秋山~」
「あ、はい!
「なにボーッとしてんの。お茶くんない?カンカンに熱いやつ」
「はい、すぐに!」
私は返事をして立ち上がった。いそいそと給湯室に向かう。換気扇の下には、山盛りになった灰皿がそのままになっていた。
まだ新人である私は、こういう雑務も仕事だ。というよりは、押し付けられる。
ここ数年、新卒はおろか中途でも〝続く〟新人がいないらしい。私が入社してから何人か新しい人も来たが、例によって長くは続かなかった。
上司に退職を告げる、彼らの死んだ魚のような目。それを思い出すだけで寒気がする。なので、今でも私が一番下っ端だ。
ケトルに水を入れて、戸棚から茶筒を取り出す。それを開けると、少し葉っぱが古くなっているのか、緑のにおいは薄くなっていた。
さっき、私にお茶を頼んだのは後藤さん。私の直属の上司だ。いつもよれよれのワイシャツに、くたびれたジーンズ姿。あごには無精髭を生やしている。出社するなりスポーツ新聞を広げ、1時間おきに煙草を吸いに行く。
デスクにいても、キーボードを叩いている様子はまるでない。指示をくれるのは1日に何回か。それ以外は、私がいれたお茶をすすっている。
私が激務なのは、上司が仕事をしないから。と、私は密かに思っている。
ふと、視界のすみに雑巾が見えた。いつか見たドラマを私は思い出す。溜まったうっぷんを晴らすため、お茶汲みのOLさんが上司の湯飲みに雑巾から滴る水を――
その時、ぱちりと音がした。お湯が沸いて、ケトルのスイッチが戻った音だ。
私は、それまでの不穏な妄想を、頭を振って追い出した。
「どうぞ」
「ありがとう。そこ、置いといて」
後藤さんは新聞から顔を上げずに言った。
ぺこりと頭を下げて、デスクに戻る。椅子を引いた所で声がした。
「秋山~」
また、後藤さんだ。相変わらず、顔は新聞に隠れたまま。
「なんでしょう?」
そこで、初めて彼は新聞から顔を覗かせた。何故か口の端がつり上がっている。
「雑巾、絞ってないよね?」
ぎくりと肩を震わせて、私はただただ首を縦に振った。
◇
1日ぶりに帰ってきた自宅で、私はベッドに飛び込んだ。そのまま枕に顔をうずめる。
最近、掃除もまともに出来ていないせいだろう。部屋がほこりっぽい。
「うー……」
疲労困憊だった。学生時代、戦車に乗っていてもここまで疲れたことはない。装填手として、重い砲弾を抱え上げるのも苦ではなかった。楽しくて仕方がなかったのもあるだろう。
だが、戦車に乗るのと、デスク・ワークでは勝手が別次元だ。
ブルー・ライトに目をさらし続けた続けたせいで、まぶたがやたらと痙攣する。キーボードを間断なく叩く指は腱鞘炎寸前。ずっと同じ姿勢でいることが多いので肩は凝るし、座りっぱなしの腰も痛い。
月曜から金曜までひたすら働いて、休日は泥のように眠る。それが、私の1週間だ。
自分で望んでこの仕事に就いたとはいえ、流石に疲れていた。目の下にできたクマを見るのが恐ろしい。
入社した時に、上司が『まず、1年頑張ってみようか……いや、半年でもいいか。それを越えたら3年ね』と、言っていた意味が分かった気がした。
だが、どれだけ疲れていても、このまま眠るワケにはいかない。熱いシャワーでも浴びて、ビールでも飲むことにしよう。私はのろのろと浴室へ向かった。
くせっ毛にドライヤーを当てながら、くしを入れる。
戦車の駆動輪を象った時計を見た。まだ帰宅してから1時間と経っていない。それなのに、針は日付を越えていた。
髪の毛が乾ききったのを確認して、机に積まれた雑誌を1冊抜き出す。すると、うず高い雑誌の塔がぐらりと傾いた。それを慌てて押さえつけ、安全を確認する。いい加減、片付けもしなくてはいけない。部屋を改めて見渡すと、散らかりっぱなしだ。
溜息を吐いて、手に取った雑誌をながめる。愛読書の戦車道専門誌【steeL】だ。その、先月号。そして、この雑誌はウチが手掛けている雑誌でもある。
確かこの号は、その年のルーキーたちを追った企画を組んだはず。当然、私の企画ではないけれど。
インデックスに目を通しても、私が出した企画など1つもない。かろうじて最後のページに名前が『Editor:秋山優花里』と、クレジットされているだけ。不服というワケでもないし、親は喜んでくれた。
だけれども、あれだけ毎週企画会議を開いているのだ。私も、その度に企画書をいくつも作っている。どれか1つくらい通っても――という、思いはある。それだけで、モチベーションもかなり違うのに、とも。
私は、雑誌を閉じて立ち上がる。熱いシャワーのせいか、喉が渇いていた。
冷蔵庫を開けると、何本かあったはずのビールが最後の1本だった。秘蔵の瓶が並ぶ戸棚を開くことも考えたが、この時間から深酒をするわけにはいかない。明日は平日。出勤だ。ひょろりと長い、500ミリの缶を取り出す。銘柄はアサヒ。
冷蔵庫に寄りかかり、プルタブをかちかちと指先で鳴らす。
視線の先には、一枚の写真があった。金属製の写真立てに入れられたその写真は、高校の卒業式で撮ったモノ。写っているのは、鼻も目も真っ赤にしたあんこうチームのメンバーだ。
誰が撮ったのかは、もう覚えていない。遊びに来た角谷前会長だった気もするし、違う気もする。
だが、それはとてもいい写真だった。青春の1ページ――なんて言葉で片付けてしまうのは簡単だろう。たしかに、他人から見ればそうかもしれない。
でも、私にとっては1ページどころか、何ページも詰め込んだ写真だ。思い出、とか。出会い、とか。キレイなモノをかき集めて薄く伸ばしたようなその写真は、卒業から数年経った今でも色鮮やかに見えた。
少しだけ、鼻が痛痒い。
指先に力を入れると、缶のプルタブが持ち上がる。
ひとりの部屋。空気の抜ける音に重なって、鼻をすする音が響いた。
◇
電話が鳴り響き、キーボードを叩く音がする。合間を縫って聞こえるのは、コピー機がのうなり声。それが、私のオフィスの日常だ。
時刻は、午前10時30分。
出社すると、まだ他の同僚は誰も出社していないようだった。嵐の前のようにオフィスは静けさに包まれている。
私は、手帳を開いた。スケジュールを確認するためだ。
今日のマスを見ると、小さな文字がびっしりと並んでいる。13時から企画会議、14時半からデザイナーとの打ち合わせ、16時がメールマガジン用のミニ・コラムの締め切り。それ以降も予定が詰まっている。
しかし、泣き言を言っていても始まらない。
――仕事は、やらねば終わらない。
「んー……」
迎えた13時。企画会議のため、私のチーム・メンバーは額を寄せ合っていた。会議室で、後藤さんは赤ペンで頭を掻きながら言った。眉間には、深くシワが寄っている。
「あのなぁ、秋山」
「は、はい!」
急に話の矛先を向けられる。慌てて返事をすると、彼は続けた。
「……コレ、読んだけどさ。〝売れる!〟と思って書いた?」
そう言って、後藤さんは手にした紙の束を指先で弾く。それは私が作った企画書だった。
「い、一応……」
質問の意図が分からない。そのせいで、返答はしどろもどろだ。視線も宙を左右に泳ぐ。
上司の低い声が会議室に響いた。
「あのね。それじゃあダメなんだよ、秋山。お前のコレね、企画会議のための企画になってる」
大きなあくびをしながら、後藤さんは立ち上がった。『じゃあ、そういうことで』と言い残し、会議室を出て行く。
ぞろぞろと他の同僚が後に続く中、私は椅子に縛られたように動けなかった。
◇
下から吹き上げる風が頬を度々切りつけて行く。
見下ろす街の風景はビクともせずに、普段通りの光景を繰り返していた。多分、私がここから飛び降りたって、道を走る車の数はいつもと変わらないのだろう。
私がいる屋上は、いつも開放されている。お昼時になれば、ここでお弁当を食べたりしている人もいる。
だが、今は自分のほかに誰もいない。辺りは真っ暗で、今は夜。腕時計を見れば、後数本で終電という時間だ。
手すりに背中を預けて、空をながめる。
最初の方こそ、何度も漏らすことができたため息。それすら、もう面倒くさく感じられた。無言で、空をながめ続ける。
「やめようかな……」
ため息の変わりに零れた言葉に、自分自身驚いた。
けれども、同時に納得もしていた。
激務に疲労。通らない企画に、意味の分からない上司の言葉。それだけで、辞める理由になるのではないか。きっと、私は向いてなかったのだ。その内、新しい人だって入ってくる。私がいなくても、誰も困らないだろう……。
「よし」
そうと決まれば、色々と早い方が良い。引き継ぎのための資料を作らなければ……。今日も社内泊で構わない。そう決めた私が、手すりから身体を起こした時、背後で足音がした。気だるそうな声も一緒に。
「おー、いたいた。生きてたか、秋山……って、寒ッ」
振り向くと、後藤さんだった。置かれたベンチに座り、胸ポケットからタバコを取り出している。あれは確か、ハイライトだ。給湯室の灰皿をいつも山盛りにしているのも、ハイライト。
「何やってんの、こんなとこで」
と、煙草に火を点けながら、後藤さん。
「なんでも、ないです」
「そうか……」
言葉と共に吐き出された煙が、夜空にゆるりと消えていく。大げさに息を吐く音がしたきり、後藤さんは黙っていた。
――色々と早い方がいい
さっきの決意を思い出した私は、大きく息を吸い込んだ。
どうせ遅かれ早かれ、直属の上司には辞意を伝えなければいけない。ならいっそ、今ここで……。
しかし、私の声よりも先に屋上に響いたのは上司の声だった。
「……で、辞めるの?」
私は息を呑む。
「んま、それもいいかも知れんね。それは自由。俺は止めないよ?引き止められるような材料もないし。ただ、ちょっと答え合わせしようか」
後藤さんは息を吐いた。
聞こえる救急車のサイレンが、次第に遠く聞こえなくなって行く。
「今日の会議のことだ。俺が言いたかったのはね、企画、ってのは自分が一番見たい、面白そう。って思えるようなモノじゃないとダメってことなの。どんな記事だって、最初に読むのは本を買った読者じゃあない。実際書いた自分でしょ?その最初の読者が、読みたい!と思える記事や、見たい企画じゃなかったら誰が本を買う?もちろん、本は売れるに越したことはないよ」
そこまで言って、後藤さんは煙草を咥える。
「けど、面白い本と売れる本は違うんだ、秋山。お前、言ってたじゃないの。最初の歓迎会の時さ。『面白い記事書けるようになります!』って。レモンサワー飲みすぎてグデングデンだったけど……覚えてるよ?俺はね」
ゆっくりと、1つ1つを確かめるように後藤さんはそう言った。
「身を粉にして働け!とか、残業しろ!とは言わんさ……結局、好きなことを好きなようにして欲しいワケ。こんな業界だもの、好きじゃないと続かないんだよ。辞めてく子が多いのは、仕事との板挟みで好きなことが分からなくなっちゃうから。企画だって同じ。働くための企画……会議のための企画って、そういうことなんだよ」
そこまで言って、後藤さんは煙草を灰皿でもみ消した。それから腕時計を見る。
「っと……喋りすぎた。終電ないだろうからタクシー使っちゃってよ。コレ、渡すから。領収書、忘れずにね。今月競馬でスってピンチなんだ」
懐から取り出された一万円札が、上司の指先で揺れている。
「いいんですか?」
「もちろん」
頭を下げて、万札を受け取る。
「ありがとうございます」
「ま、他の仕事の負担も減るよう調整するからさ。晴れてお茶汲みも卒業だ。それから、辞表を出すにしても明日以降にしてね。今日はもう働きたくないんだ」
そう言って、後藤さんは頭を掻いた。ベンチから立ち上がり『じゃあ』と、手を振る。――ポケットに片手を突っ込んで、気だるげに。
彼が階段に脚をかけた時、私は口を開いた。
「あの!」
ぴたりと、後藤さんの足が止まる。その表情は、困ったような笑みを浮かべていた。
「どしたの。やっぱり、今日じゃなくちゃダメ?」
「いえ……そうじゃなくて、お茶汲みは大丈夫です。私、やりますので!それに、ありがとうございました!」
「そう言って貰えると助かるね」
手を挙げて階段を降りて行く上司。やがて、頭の先まで見えなくなる。
最後に、彼の声だけが聞こえた。
「お前の淹れるお茶はウマいんだよ」
◇
翌日の午前11時ちょうど。
電話が鳴り響き、キーボードを叩く音がする。その合間を縫って聞こえるのは、コピー機が紙を吐き出す駆動音。いつものオフィスの日常だ。私も既に、デスクでキーボードを忙しなく叩いている。
だけど今日は、そんなオフィスの風景が少しだけ違って見えた。
昨日、後藤さんに退職を止められていたなら、きっと私は辞めていただろう。
けれど、あの気だるそうな上司は、わたしを止めはしなかった。
彼がしたのは、ほんの少しの昔話とタクシー代をくれたこと。
後藤さんの言う通りだ、たしかに私は仕事ごと、大好きな戦車も嫌いになりかけていたのかもしれない。『好きなことを好きなように』、その言葉で気が付かされた。
『――ご提案させて頂きます』と、キーを叩いた所で手が止まる。いつもの気怠げな声が聞こえたのだ。
「おはよーさん」
「おはようございます」
「ああ、秋山。おはよう……ん?」
彼は、通りがかりに、私のモニターを覗き込む。
「なになに?〝安全神話を創った男たち〟……。カーボンの織り手に迫る、か。なるほど」
画面から目を離して、後藤さんは無精髭の生えた顎をさする。そして、無言。
――もしかすると、また……。
背筋に緊張が走った。思わず目を閉じる。
だが、聞こえてきたのは思いがけない言葉だった。
「そっちの方が、よっぽどお前らしいよ」
こん、と。私のデスクに何かが置かれた。見ると、肝臓の機能を促進するドリンクだった。小さな茶色い瓶に、デフォルメされた内臓のイラスト付きのシールが貼ってある。
「ほい。それ、プレゼント」
そう言うと、そそくさと後藤さんはデスクに着いた。そして、すぐさまスポーツ新聞を広げている。耳には赤ペンを差して。
「あの……これは……?」
「仕事が終わったら、仕事だぜ……ってね。今日、20時から接待。こないだの会社な、もう一つ上のお偉いさん、引っ張り出したから。本音を言わせるには、アルコールが一番なんだよ。これは経験ね。お前はレモン・サワー飲みすぎないでね?」
そう言う上司の顔は、新聞に隠れて見えない。
だが、その声色はいつもよりほんの少しだけ弾んでいるように聞こえた。後藤さんは続ける。
「その企画書見せるよ。体裁整えといてね。終わったら出力よろしく」
「はい!」
私は勢いよく立ち上がった。声の大きさに、オフィス内の視線が集中する。
でも、今はそんなこと気にならなかった。
まだ、修正は間に合うはずだ。
おととい書いた記事の締めの文句に、少しだけ付け加えよう。
『今から、とても楽しみだ――』と。
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ストレイ・ドッグと、ソルティ・ドッグ
本当に申し訳ございません(お待ちいただいていた方がいれば、ですが)
今回のネタなんですが、某アニメが今作執筆中にやってくれやがりまして、没にするかまよったのです。が、結局アップする運びとなりました。
楽しんで頂ければ、幸いです。
pixivにも投稿しております,
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雨が、しとしと傘を叩く午後の2時。
もう昼過ぎだというのに、気温はやたらと低い。
我慢できないほどではないが、念のために着込んで来た薄手のフリースに感謝する。それはテレビのコマーシャルでもおなじみの、洗えるフリースだ。色は黄緑。
辺りは静かだった。色んな音が、足元の水たまりに吸い込まれているようだ。
特に予定のない午後。
部屋で一人、暇を持て余していた私は散歩に出ていた。こうして、ゆっくりと街を歩くのはいつぶりか。越してきた初めの頃、近所にスーパーがあると聞いて探し歩いた時以来ではないだろうか。
結局自力では見つけられず、自転車に乗った警察官に道を尋ねたことも懐かしい。冬の雨とは、人をセンチな気分に浸らせるチカラでもあるのだろうか。
街は、薄いヴェールに包まれていた。その中を私は思うがまま歩く。風の吹くまま、気の向くままに……。
雨の中を歩いていると、幼い頃を思い出す。
妹と一緒に、雨の中を歩いたあの日。二人して大きな水たまりに飛び込むモノだから、洋服はどろどろ、足元はべちゃべちゃ。
履いていた小さな長靴も、黄色のレイン・コートも意味はなくて。帰宅した私たちの姿を見るなり、菊代さんが悲鳴を上げたことを思い出す。〝あの〟菊代さんが、あれだけ取り乱したのだから、あの時の私たちの姿は相当にひどかったに違いない。きっと、良くて捨て犬。悪くてぼろ雑巾か。今思えば、その時は丁度母が外出中だったのが幸いだった。お陰で、私とみほは〝命拾い〟をしたのだ。そんな慌ただしかった昔の実家を思い出して、思わず目じりが下がる。
ぺしゃりと、靴底が水を跳ね上げた。歩くスピードを少し緩める。
実家と言えば、家の柴は元気にしているだろうか。その犬は母の誕生日の朝、父が連れてやって来た。そういうことはからっきしだった父が、必死に絞り出したサプライズだったのだろう。
玄関で初めて見た時、その子犬は父の腕ですやすやと眠っていた。
『いぬだ!』とはしゃぐみほの隣で、言葉を失っていた母。その表情は今でも忘れない。嬉しいやら、恥ずかしいやら、困惑するやら――。今まで私が見たこともないような、いろんな色が混ざった顔だった。
父は父で、『3人目は毛むくじゃらだね』と、恥ずかしそうに笑っていた。私も、新しい弟が出来たようでうれしかった。
ただ、次の朝。両親が揃って寝坊をしていた理由は、未だに分からないままでいる。
◇
しばらく歩いていると、雨脚が強くなってきた。
足元はスニーカーだ。防水加工はされているが、この雨に耐えられるとは思えない。
私は、通りかかった公園に逃げ込んだ。屋根付きのベンチを見つけ、その下に滑り込む。傘を閉じて、水滴を払う。走ったせいでスニーカーには泥が跳ねていたが、中まで水が染み込む難は逃れたようだ。
一息ついて、ベンチに腰を降ろす。もちろん、濡れていないことは確認済み。
小さな休憩所の雨どいから流れ落ちる雨は、滝のようになっていた。いよいよ本降りになってしまったらしい。
腕時計を見ると、時刻は午後3時前。夕方までに弱くなってくれるだろうか……。
携帯は一応持って来ていたが、散歩に出ておいて帰りはタクシーというのもの格好がつかない。
まぁ、どうにもならなければ、その時はその時だ。濡れながらでも帰ってしまえばどうにかなるだろう。じたばたしても状況は変わらない。こうなればここで、籠城戦の構えだ。
私は背中合わせに配置されたベンチの片方で全身を伸ばす。寒さに縮こまっていた身体がほぐれていくのが分かった。その時、背後で何者かの声がした。人の声ではない。何か、もっと低くて唸り声のような……。
「ワン!」
「……!!」
それは犬の鳴き声だった。突然響いた大音量に、びくりと肩を震わせる。
ゆっくり首だけで振り向くと、小さな犬がベンチにいた。赤褐色の毛並みをした柴犬だ。小柄な体格なので、恐らく体重は6キロくらい。まだ子犬なのだろう。記憶にある実家の柴よりも一回りは小さい。耳をピンと立て、舌を出している。その柴犬は大きな黒眼で、じっと私を見ていた――。
「――ついて来るんじゃない」
すっかり夕方になった午後の4時過ぎ。雨もとっくに止んでいた。
お腹が空く前に、帰ろうとした時だった。
ベンチから腰を上げると、いつの間にか小さな柴が足元に移動していた。それから、ずっとこの犬は私の後を付いて来ている。私が歩けば、同じ速度で歩く。赤信号で止まれば、同じように止まる。
「だからダメだって言ってるだろう」
犬に向かって呼びかける私に、通行人の視線が刺さった。学校帰りの学生には、笑われていたような気もする。
だが、何度しゃがみ込んで〝帰宅〟を促しても、この小さな柴は知らん顔だ。後ろ脚で顎の下を掻いたり、前足を舐めたりするばかり。馬の耳に念仏なら、犬の耳にはなんなのだろうか。
部屋があるマンションは、一応ペットがOKとなっている物件だ。たまにエントランスで真っ白なウェスティーや、毛並みの良いダックス・フントを抱えている住人だって見かける。
しかし、だからといって家にペットの受け入れ態勢が整っているわけでは無い。
エサや寝床、犬用のシャンプーだってもちろんない。家に上げるわけにはいかないのだ。となれば隙を見て、逃げるしかない。
見ると、柴犬は道の脇を忙しなく嗅ぎまわっている。そこで私は、覚悟を決めた。一目散に走り出す。水たまりに片足が突っ込むがお構いなしだ。そのまま飛ぶように住宅街を走り抜ける。すると、急に走り出した私に驚いたのか、背後から吠える声が聞こえた。その声は次第に小さくなっていく。同時に、悲しくも。
後数メートル先の角を曲がれば、完全に犬を置き去りにできる――という所で、私の足は止まっていた。
私は小さく溜息を吐いた。
「まいったな……」
結局、私はこの犬を連れて帰って来てしまっていた。あのまま、振り返らずに走り去ることが私にはできなかった。
この犬は多分、捨て犬か迷い犬だろう。飼い主のいない、ストレイ・ドッグ。そんな境遇の犬の鳴き声に後ろ髪を引かれるのだ。自分で言うのもなんだが、私は相当な愛犬家らしい。
柴は汚れにまみれていたので、そのままにしておく訳にもいかなかった。とりあえず、シャワーで身体を洗ってやったは良いモノの、それだけで風呂場は酷い有り様だ。
この犬は水が嫌いなのだろう。もがいて、シャワーから逃げようとする犬に脚を取られ、転ぶこと3度。拭いてやろうとすると、また逃げ出してフローリングは水浸し。幼い頃の妹でも、まだ聞き訳が良かった気がする。この分だと、ソファーに歯型が付くのも時間の問題だろう。
だが、そんな私の心配はどこ吹く風。柴は座り込んで顎を掻いている。その前に、私はしゃがみ込んだ。
「なぁ、お前はどこから来たんだ?」
言葉が通じたのかは分からない。
だが、柴は動きを止めた。大きな黒眼に私の姿が映っていた。そのまま動かない。
この犬が人間の言葉をしゃべることが出来たなら、なんと私に言うのだろうか。飼い主への恨み言か、私への夕飯の催促だろうか。
一瞬、犬が身体を小さく震わせた。同時に、広がる〝水たまり〟
その意味をやっと理解しきった時、私は叫び声を上げていた。
◇
唐突に始まった犬との共同生活は、一言で言えば大変だった。
まずケージや首輪、ドッグ・フードに犬用のシャンプーなどの必需品を揃える。毎日の粗相の始末。それから獣医に連れて行き、念のため狂犬病の予防接種を受ける。子犬ならではの大変さだった。実家で犬の世話をしてくれていた菊代さんには、改めて頭が下がる。
しかもこの柴。身体は小さいくせに、気ばっかり大きいらしい。エントランスで出くわした他の犬にやたらと吠えるのだ。その上、甘噛みをする癖があるらしく、私の心配通り家の中のモノは歯型だらけになってしまっていた。リビングのソファーは、既に買い替えを検討中。
散歩に関しては、朝夕の私のランニングに付き合わせている。最初の頃は、すぐにへばって動かなくなるので結局抱きかかえて帰ってくることも多かった。
しかし、一週間もすれば立派に完走できるようになっていた。人間に比べて、犬は元々身体能力が高いのだろう。それが、少し羨ましくもあった。それから、名前は『虎太郎』にした。柴犬に『エリザベス』や『キャロライン』は似合わないから。ネーミングのセンスはともかく、だ。
しかし、いくら大変とはいえ、新しい家族が増えたようで何となく嬉しかったのも確かだ。家に帰れば〝誰か〟がいる、というのが、こんなにも落ち着くということを私は久しく忘れていた。
『虎太郎、行ってくるよ』
『ワン!』
『虎太郎、ただいま』
『ワン!』
たまに人の言葉を理解しているのではないか? と思うような時もあるが、それもまた楽しかった。
虎太郎はお酒の匂いをとても嫌がったので、それをお仕置きの代わりに鼻に近づけてやったりもした。
新しい住人が増えて、あっという間に2週間が経とうとしていた。
ある日のことだ。
いつものように、決まった時間のロードワークをこなしている途中。電信柱に張り付けてある一枚の紙が目に入った。
だけど、私は気にすることなく通り過ぎようとする。
しかし、その張り紙に感じた違和感。そのせいで、電柱を通り越して3メートル行ったところで引き返す。進行方向と逆にリードを引かれ、虎太郎がぐえとヘンな声を上げた。
これまで気が付かなかったということは、昨日か今日に貼られたモノだろう。
紙は、丁寧に電柱に張り付けられていた。その紙には、太いマジックでこう記されている。
『迷い犬 探しています』
その下にはでかでかと〝お尋ね者〟の写真。その写真の犬に、私は覚えがある。
「……虎太郎?」
思わず、口に出る。
「これ、お前か?」
私の問いかけに、そっぽを向いていた虎太郎が顔を上げる。私越しに、張り紙を見ているようだった。虎太郎は、アスファルトに座ったまま微動だにしない。
やがて、頭の上でカラスが一度鳴いた頃、虎太郎も小さく鳴き声を上げた。
◇
「良かったな、虎太郎。飼い主、見つかったぞ」
ソファに座ったまま、小さな身体を抱え上げる。
しかし、虎太郎は無言。
「どうした? 嬉しくないのか」
私の言葉に、虎太郎はまたそっぽを向く。フローリングに降ろすと、一人でケージに入りうずくまる。エサを入れたプラスチック製の容器を見ると、珍しく少し残っているようだった。
ロードワークの途中で見つけた迷い犬の張り紙。そこに書かれていた番号に電話してからは話が早かった。
まだ時間も浅かったせいだろう。1時間後に直接飼い主が引き取りに来る――とのことだった。
時計を見ると、時刻は夜の7時半を少し回った頃。あと30分もしないうちに、虎太郎の〝本当の〟飼い主がやってくる。
「おい、虎太郎。ご飯、食べないのか」
エサの残った皿を指先で滑らせて、ケージの入り口に持ってくる。覗き込んで呼びかけてみても、虎太郎は無視を決め込んでいるようだった。
やがて、インターホンが鳴った。時刻はきっちり夜の8時。
このマンションはオートロックなので、返事と共にカメラのモニターを確認する。そこには小さな少女を真ん中にして、左右に両親らしき人物が立っているのが映し出されていた。
少女は精いっぱい背伸びをして、カメラを見ているのだろう。最初は、もじもじとしているだけだったが、隣に立つ母親に背中を押されて決心したようだった。
『あ、あの……こんばんは!まっくす……犬のかいぬしです!』
「こんばんは。お待ちしてましたよ――」
言いながら、ちらりとケージの方を見る。
「――今、開けますね」
が、虎太郎はピクリとも動かない。
もう、さよならなんだぞ、虎太郎。
「まっくす!」
どうにもケージから出ようとしなかった虎太郎。それを何とか引っ張り出し、少女の元に連れ出す。少女は、虎太郎の姿を見るなり、床に転がるようにして虎太郎を抱きしめた。目は少しうるんでいるようだ。
彼女は相当に寂しかったのだろう。それと、再会の喜び。
「お姉ちゃん!」
「こら、失礼だぞ」
「いえ、いいんです。お父さん」
少女を咎める父親に頷いて見せて、私は腰を折った。少女と視線を合わせるためだ。
「まっくすを拾ってくれてありがとう!」
「こちらこそ。お役に立ててよかった」
「本当にありがとうございました」
「いいえ、この子も大人しくて助かりました」
「そうですか、そう言って頂けると助かります。ほら、もう一回お礼を言って」
そう母親に促され、少女は虎太郎を抱いたままぺこりと頭を下げた。
「じゃあわたし、帰るね!」
「うん。気を付けて帰るんだよ」
「本当にありがとうございました」
「いえ。こた……マックスも元気でな」
そう言って、少女の腕の中にいる虎太郎の頭を撫でてやる。その時だった、虎太郎が少女の腕の中で身を捩って地面に着地する。一目散に私の部屋の中に戻ると、ソファに思い切り噛みついた。今までにない、激しい噛みつき方だった。そして、一度だけ大きく吠えてみせる。
「虎太郎……」
それが他の人間にどう聞こえたかは分からない。
だけど、私には虎太郎が『俺のこと、忘れるなよ』と言っているように聞こえた。
◇
歯型の付いたソファの修理代だと、財布を取り出した少女の父親をなんとかなだめ、一人になったのは夜の8時30分過ぎ。部屋はいつも通りの静けさを取り戻していた。
もう、ばたばたと走り回ったり、エサの容器をひっくり返したり、あちこちで粗相をしたり、私が今座っているソファに歯形を付ける住人はいない。
主のいなくなったケージも、ぽっかりと口を開けている。
そこで、私は買い置きのアルコールがあったことを思い出した。虎太郎のエサを買いに行ったとき、一緒に買い物かごに放り込んだモノだ。
キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。すると、目論見どおりに缶が一本中央に鎮座していた。黄色を基調にしたラベルに、犬のイラスト。
プルタブを押し上げ、喉を鳴らして流し込むとグレープ・フルーツのみずみずしさと、塩のしょっぱさが全身を突き抜けた。良く冷えた、ソルティ・ドッグだ。
キッチンからソファを眺める。
丁度、噛みつく塩梅が良かったのだろう。四隅がぼろぼろになったソファ。
でも、買い替えるのはもう少し後にしようと思う。そうしないと、もし虎太郎がまたここに来た時、今度噛みつかれるのは私だろうから。
「しかし、マックス……だもんなぁ」
思わず、笑いが零れる。
「忘れるものか」
そう呟いて、私は残りのソルティ・ドッグを一気に飲み干してしまった。
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そのワインは、黄金色
西住さん、またフラれたらしいですよ。
pixivにも投稿しております
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「悪いな、なにからなにまでお世話になっちゃって」
窓の外を流れる景色。それから運転手の横顔に視線を移して、千代美は頬をかいた。
運転手は小さく笑って頭をふる。頭の動きに合わせて、サングラスが日の光を反射した。
「いや、いいんだ。気にするな」
「気にするよ。今回は、本当に助かったんだから」
「困った時はお互い様、だろう。それに、請求書はきっちり送るよ」
その言葉に千代美はぎょっとした。「冗談だろ」と、頭の中で、ものすごいスピードで電卓が弾かれる。
「交通費……宿泊費……食費……」
ぶつぶつ言いながら指折り数えても、いくらになるかなんて見当も付かない。そんな千代美の様子に、ついにまほは吹き出した。ハンドルさえ握っていなければ、腹を抱えて転げ回っていたかも知れない勢いだ。
「安斎……いや、すまん、冗談だよ」
「あのなぁ」と、千代美は唇を尖らせた。
「本気で、親にお金の無心をするところだったよ」
目元こそサングラスで隠れているが、まほはこういう冗談を〝クソ〟が付くような真面目な顔でいってのける。そのせいで、冗談が冗談に聞こえない時が、ままあるのだ。
口元から笑みを消さずに、まほが言う。
「兵は詭道なり」
「それは西住流?」
「いや、わたし流」
「門下生は?」
「わたしだけ」
そう言って、まほはおもむろにサングラスを外した。偏光グラスの奥に隠れていた瞳があらわになる。まほは、サングラス・ホルダーにレイバンのつるを差し込んだ。そのまま器用に片手をハンドルから離し、ドリンク・ホルダーの缶コーヒーに手を伸ばす。口を付けて、こくりと一回喉を鳴らす。一連の動作を眺めていた千代美がぽつりと言った。
「西住、お前、変わったよな」
「なにが」
「人を困らせるようになった」
「その言い方は心外だな」
ちらりと千代美を一瞥して、まほは唇を尖らせた。
だが、その表情には優しい笑顔が浮かんで見える。
千代美は大げさに腕を組んで、あごに指を当てた。
「そうだな……じゃあ……」
「じゃあ?」
「……人間らしくなった」
「もっと心外。私はジャンクの山からオイルとサビにまみれて生まれたわけじゃないぞ」
尖らせた唇に続いて、頬まで膨らませるまほ。千代美は小さく笑う。肩の揺れに合わせて、ツインテールも軽く揺れた。
「まぁ、そういうことだ」
「どういうことだ」と、首をひねるまほを千代美はたしなめる。
「まぁ、つもる話は?」
「一杯やりながら」
「そういうこと」
「また、言った」
不満そうな声を上げたまほに、千代美は微笑んだ。
「西住。窓、少し開けてもいいか?」
「構わないよ」
パワー・ウィンドウのスイッチを指先で少しだけ押し込む。すると、わずかに開いた窓からひんやりとした空気が流れ込んできた。鼻先を都会の匂いがかすめて行く。
着慣れないスーツ・が窮屈に思えて、千代美はシャツの胸元をもう一つ開けた。
「寒くないのか?」
「ああ、寒くない。足元はすーすーするけどな」
冷えた空気が、千代美の暖房でほてった頬にはちょうど良かった。目を細めると、見知らぬはずの東京の街並みが、どこか懐かしい。そう感じるのは、まほと一緒だからだろうか。
左手には、水をたっぷりと湛えた堀が見えた。
「今、どの辺りなんだ?このデッカいのが皇居ってのは分かるんだけど」
と、指をさしながら千代美は聞いた。まほが答える。
「今は、大手町って所だ。もう見えてくるぞ、武道館」
その言葉に、千代美は「へえ」と感嘆の声を上げた。
「案外、近いんだな」
「東京駅からなら目と鼻の先だよ。地球の裏側まで行こうってわけじゃないんだ」
「違いない」
「なんなら、今から行くか?地球の裏側」
そう言って、まほは悪戯っぽく笑ってみせた。
千代美は首を振る。
「シュラスコは確かに魅力的だけどな、やめておくよ西住。カイピリーニャも捨てがたいけど」
「そうか、残念だ」
「あのな、近所のコンビニにジュースを買いに行くのとはワケが違うんだぞ」
「そうだな……でも……」
何かを言いかけてやめたまほに、千代美は食い下がった。
「でも?」
まほの方を向くと、いつの間にかまたサングラスが目元を隠していた。少しだけ間を置いて、まほが言う。
「まぁ、そういうことだよ安斎」
「あっ、ずるいぞ」
「お互い様だよ。ほら、見えたぞ」
そう言って、まほは車をゆっくりと減速させた。前方に見える信号が、赤になったらしかった。
ハンドルに身体を預けたまほが指差した方向を見ると、独特な作りの八角形が見えた。
「If I needed someone to love・・・」
「ビートルズ?」
「正解。よく分かったな」
まさか一発で言い当てられるとは思っていなかった。ふふんと自慢げに鼻を鳴らすまほに、千代美は心底感心してしまう。
「……っと」
気がつくと、信号が青に変わっていた。後ろから鳴らされたクラクションに、まほは車を発進させた。
「もう着くからな安斎。降りる準備を」
そう言って、まほはぐいとコーヒーを飲み干した。
まほの運転するメルセデス・ベンツのGクラスは近代美術館を右手にしながら走って行く。見えてきたのは、北の丸公園第三駐車場と書かれた看板だった。まほは緩やかに車を減速させ、黒い巨体を駐車場に滑り込ませる。空きスペースに、全幅1700ミリ近い車がするするとバックで収まって行く。
「西住は駐車も上手いんだな。こんなに大きい車なのに」
「ティーガーに比べれば、全然余裕だ」
その言葉はどことなく白々しかった。用意していた解答、とでも言おうか。少し、突っついてみよう。千代美は、口元を歪めて覗き込むように言った。
「本当は?」
「たくさん練習した」
じわじわと後退していた車体。そのタイヤが車止めに当たり停止する。同時に、まほは大きなため息を吐いた。
「未だにどきどきだよ」
北の丸公園第三駐車場は、武道館にほぼ隣接した駐車場だ。大きめのキャリーを引きずって来ていた千代美には喜ぶべき立地だった。
「本当にすまないな西住」
「これもまた、戦車道だからな」
テール・ゲートを閉めながらまほが言った。
自信満々でまほが口にする、その言葉の意味を千代美は未だ掴めずにいる。というより、掴めている人間がいるのだろうか。あるいは西住流の奥義、という可能性もある。が、馬鹿らしくなって聞くことはしなかった。
「お、伝家の宝刀」
「ばかにしたな安斎」
「してないよ」
そうして、顔を見合わせる。静かな武道館の広い敷地に、二人の小さな笑い声が響いた。
千代美は思い出したように腕の時計を見た。あと10分ほどで14時になろうとしている。ちょうど、受付が始まる時間だ。
「もう行かないと」
「昼食とかは良かったのか?途中寄ってくれば良かったな」
「眠くなってもいけないだろ。ウトウトしてると徹甲弾が飛んできそうだから」
「確かにな。じゃあ終わったらまた連絡してくれ。迎えに行くよ」
「了解」
そう言って、千代美は首のマフラーを巻き直す。
一歩踏み出すと、履きなれないヒールに足を取られそうになった。つんのめりそうになるのを必死に耐える。地面に転がるのを何とか回避し、後ろを振り向く。すると、まほは吹き出しそうになっているらしかった。両手で、口元を押さえている。
「いつもの安全ブーツに履き替えなくていいか!?」
「うるさいぞ!」
茶化すまほに、腕を振り回して抗議する。
ほう、と息を吐いて片手を挙げる。それに、まほはうなづいて応えた。「行ってきます」の合図だ。
まほの着ているタートルの白いニットは、吐いた息と同じ色をしていた。
◇
千代美が、日本武道館に来た理由は一つだった。
柔道の選手権に出るためでもなく、流行りのアーティストのライブを見るためでもない。戦車道の公認2級指導員としての資格をえるためだ。そして、今日はその講習会の日。それを受けるために、栃木くんだりから大都会東京まではるばるやってきた、というわけだ 。
指 定されたカリキュラムを地方の連盟で受講し、レポートを本部に送付する。そして、検定試験を日本武道館で受ける。これが現在の日本戦車道連盟の指導者資格試験だ。
試験とは言っても、まだ2級の試験。T・レックスが受けるのでなければ、そんなに難しいモノではない。
学力を測るわけではなく、モラルやマナー。競技の規定やルール。歴史や一般教養などが中心の試験だ。高校の時のテストに比べれば、大分マシ。
とはいえ、2時間ほども座りっぱなしでは流石に肩がこる。
千代美は、武道館の2階フロアで自販機に小銭をつっこんだ。なんとなく目に留まったカフェ・オレのボタンを押す。すると、勢いよく落ちて来たペットボトルが、取り出し口から顔を覗かせた。それを取り出し、隣に設置されている椅子にどかりと腰掛ける。
フタをひねると、ぱきりと小枝が折れたような音がした。飲み口からは甘い香りが立ち上る。一口だけ含むと人工的な甘みがいっぱいに広がった。
試験が終わった解放感だろうか、普段口にするものよりも2割増しで美味しい気がするから不思議だ。
「西住、よぶか……」
そう呟いて、胸ポケットから携帯を取り出す。通知はない。電話帳を開く。
正直なところ、疲労感よりも、空腹感が限界だった。
◇
「お疲れ様」
「ほんとに疲れたよ。スーツは窮屈だし、会場の椅子は硬いし」
千代美はそう言いながら、上着を脱ぐ。脱いでしまって、掛けるところがないことに気が付いた。なので、上着は丸めて太ももの上。
「でも、顔はそうは言ってないぞ」
「顔?なんかついてるか?」
「そうじゃないさ。安斎、嬉しそうな顔してる」
途中で購入してきたのだろう。缶コーヒーを口に運びながら、まほは言った。
「嬉しそう?」と、千代美はオウムに聞き返す。
「なんていうのだろうな、難しいけど、とにかく嬉しそう」
「そう言われると恥ずかしいな。私が浮かれてるみたいだ」
ふいと、顔を外に向ける。首都高速4号線の上を、ゲレンデ・ヴァーゲンは走り抜けていく。時刻はもう夕方だ。
2月と言えど、まだまだ日は短い。遠くに見える太陽の下端は、地平線に届きそうになっていた。
光は、真横からさしこんでいる。世界の全てが、真っ赤に染まっていた。見渡す町並みも、前を走る車も。窓ガラスに映る私の顔もだ。それに、見えないけれど、まほの顔も。ぜんぶが、黄昏に染め上げられていた。
千代美は、身体をよじって腕を組んだ。腰を上げて、座席に座り直す。
確かに、まほの言う通りかもしれなかった。
とにかく試験は終わったのだ。結果が出れば、指導員としても確実に一歩進むことができる。横のつながりが増えれば、教え子たちにも、もっとレベルの高い指導ができるだろう。そのツテで、新しい車両だって手に入るかも――そんな未来への期待が、顔に出てしまっていたのだろう。
車のオーディオからは、静かにラジオが流れている。誰かのメールが読み上げられているらしかった。
「西住のお陰だよ」
「私は何もしてないぞ」
「ん、そうだな。一番頑張ったのは、コイツだった」
千代美は、ダッシュボードをぽんぽんと叩いた。
「安斎知ってるか? 車はアクセルを踏まないと進まないし、ハンドルを切らないと曲がらないし、ブレーキを踏まないと止まらないんだぞ。自我を持った金属生命体じゃあないんだ」
不服そうに指先でハンドルを叩くまほを見て、千代美は「冗談だよ」と笑う。
「今西住が言ったことな、知ってるよ? 全部。でもそれ以上に分かってるのは、西住は〝めちゃめちゃ〟いいヤツだってこと」
千代美がそう言った所で、車内が静まり返った。ラジオでは3通目のメールが読まれている途中。
「うー……」
唸り声がした。まほの唸り声だ。
「どうした?」
「不意打ちだった」
助手席から見るまほの横顔は、茜にやけた世界よりも更に赤く染まっていた。
◇
「おい、西住」
「なんだ、安斎」
「いや。送り迎えもして貰った上に泊めてもらう身分の人間が、こういうこと言うのもどうかとは思うけどな」
そう言って、頭を掻く。ツインテールは、もうほどいていた。
「じゃあ言わなくてもいいんだぞ」
「いや、やっぱり言う。お前、ほんとに人間か?いや、前々から怪しいとは思ってたんだけどさ」
「そこまで言うか」
「言うよ。これを見れば、誰だって」
そう言って、千代美が取り上げたのは棚を開くなり雪崩のように押し寄せて来たレトルトのカレーだった。
「いや、カレーだけじゃないだろ?」
「なんで自慢気なんだよ。レトルトのカレー、レトルトのカレー、また、レトルトのカレー。それにレトルトのカレーとレトルトのカレーに、レトルトのカレー。んで、カップ麺と大量のプロテインにビタミン剤。それに、大量のアルコール類……復帰を決めたランボーでも、もうちょっとマシな食生活してたぞ」
「それだけあれば生きていける」
「お前、現代風修行僧か何かなのか?」
千代美は呆れを通り越して感心していた。まほがカレーが好きなのは知っていた。
が、これはそれだけでは説明が付かない。ちょっと見ない間に、カレー以外を受け付けない身体に改造されてしまったのだろうか。この量のレトルトがあれば、カレーのお風呂にでも浸かることができそうだ。
「ある意味ではそうかも」
「だから、胸をはるところじゃないって」
千代美はためいきを吐きながら立ち上がる。握っていたレトルトの袋は、シンクに置く。
この時、心の中に一つの感情が湧いていた。
――この友人を、この食生活から救い出してやらねばならない。それは、もはや使命感にも近かった。
壁に掛けられたまほの上着をハンガーから外す。時刻はまだ19時前。時間は十分にある。
「ほら、これ着て」
「どこかに行くのか?」
まほは首をかしげる。どうやら、本当に分かっていないようだった。
「かいものだ!」
◇
買い物から帰って来てからは早かった。
まほがどこからか引っ張り出してきた〝新品〟のエプロンを首から掛けて、千代美は調理に取り掛かった。
お湯を沸かしながら、野菜を洗う。フライパンを温めて油を引く。ボウルでドレッシングの材料を混ぜて、肉に切れ目を入れた。
長い髪は、ポニーテールに縛られている。流れるような手つきだった。
まほは手持無沙汰のまま、リビングをうろうろする。そして「手伝うぞ」と言っては、
「座ってろ」と千代美になだめられる。そんなことを繰り返している内に、机には所狭しと料理が並べられていた。
「完成だ」
エプロンを脱ぎ、リビングへと戻って来た千代美にまほは言う。
「なぁ、安斎。作ってもらってなんだが、これは作り過ぎじゃないか?」
「そんなことない。これでもまだ足りない位だ。ビルトインのオーブンレンジが泣いてたぞ」
「体重計に乗るのが恐ろしくなるよ」
かぼちゃのスープと、たっぷりのレタスにトマト、ベビーリーフを乗せたグリーンサラダ。ドレッシングは特製のフレンチ・ドレッシングだ。それに、パスタは合挽肉ににんにくを効かせたボロネーゼで、オーブンを使ってじっくり焼き上げたチキン・ステーキには、輪切りのレモンが乗っていて、塩だれの香りが食欲をそそった。
いつもは無地のキャンパスのような机の上が、見たこともないような色で埋め尽くされている。ほかほかと湯気を上げる料理は、とても美味しそうに見えた。
「もう少しスパイスを買ってくればよかったけど、なんとかなったよ」
千代美は、そう言いながらワインのコルクを抜いている。
普通、若い女の子がするような危なっかしいやり方ではない。しっかりと腕に力が入っている。とても手馴れたやり方だった。やがて、コルクが抜ける音がした。
「さ、食べよう。パスタが冷める前に」
と、千代美。
銀のボウルからサラダを取り分け、チキン・ステーキを目の前の皿に乗せた。まずは、まほの皿。次に千代美の皿に。そして、まほのワイングラスに真っ赤なワインを注ぐ。
「これ、なんて読むんだ?」
まほは、ボトルのラベルを指さした。あまりワインを飲みつけていないまほは、銘柄には疎かった。自分のグラスにワインを注ぎながら、千代美が答える。
「ぺポリ、って読むんだ」
「ぺぽり。小さい怪獣みたいな名前だ」
「ぺぽり」と、もう一度繰り返して、まほは笑った。
「だけど、味は保証付きだぞ。それに、大体どんな料理にも合う。さっき行った所、たまたま売ってたんだよ。流石は東京」
「へえ」と相槌を打って、まほはグラスに満たされたワインを眺める。透明なグラスの中で、真っ赤なワインはルビーを溶かしたようだった。
「なんに乾杯する?」
グラスを取り上げて、千代美が言う。
まほは同じようにグラスを持ち、上を見上げる。なにか、考えているようだった。しばらくして、口を開く。
「素敵な食卓と、安斎の試験合格に」
「まだ、合格かは分からないけどな」
千代美の言葉に、まほほおどけてみせる。
「じゃあ、君の瞳に?」
「西住。それは古いよ」
肩の力が抜けたような気がした。
「分かった。素敵な食卓と、変わらない私たちの……」
そこまで言って、まほは何かを言い淀んだ。何故か頬が赤い。何を言おうとしているのだろう。
「私たちの?なんだ?」
「……友情に!」
声を張り上げたまほに、千代美は目を丸くした。
突飛な発言だった。
しかし、不思議と茶化す気は起きなかった。目じりが下がる。
「ああ……友情に」
「……そういうことだ」
「そういうこと、だな」
口癖のようになってしまっているまほに、今度こそ笑いがこぼれる。そして、どちらともなくグラスを差し出す。間接照明のあたたかな光が部屋の中を満たしていた。窓の外は、もう暗くなっている。
「じゃあ、素敵な食卓と」
「友情に、乾杯」
「乾杯」
そうして、二人がグラスを合わせる直前、千代美の手が止まった。大事なことを思い出したのだ。まほは不思議そうな顔をする。
「あ、メルセデスのエンジンにも」
まほは微笑んで、うなづいた。
「ああ」
かちりと、軽い金属音がした。
◇
「ごちそうさま。美味しかったよ」
まほは正直に言った。
千代美は満足そうに頷いて、白い歯を見せる。そして、実際に満足していた。千代美自身でも不可解だったが、なにかの勝負に勝った気さえしていた。
「いいか西住、あれが〝食事〟だ」
「じゃあ私が今までやってきたのは?」
「〝作業〟だよ」
と、千代美は言い放つ。すると、まほはそれを復唱した。
食器を片付けた二人は、再びテーブルに向かい合って座っている。千代美が言った通り、ぺポリの味は確かだった。ワインのボトルは、半分ほど空いている。つまみにしているドライ・ソーセージの薄切りにも良く合った。
「辛辣だ」
「悪かった。言い方を変えるよ。養分の摂取」
「さっきとあまり変わらない」と笑いながら、まほは立ち上がる。
リビングのオーディオの方に歩いて行き、CDラックから無造作に引き抜いたのはS・ワンダーのアルバム〈Natural Wonder〉だった。その2枚目をプレイヤーに飲み込ませる。まほが席に戻ってしばらくすると、スティーヴィーが〈Dancing To The Rhythm〉を唄い始めた。
ぷつりと会話が途切れる。春先に凪いだ、海のような穏やかな沈黙だった。
まほは、その沈黙を〝アテ〟にして、ワインを口に運ぶ。華やかで、コクのあるぶどうの味が口いっぱいに広がった。ほんとうに、いくらでも飲めそうだとまほは思った。
飲み込んでグラスを置くと、ことりと音がした。
まほが口を開く。
「なぁ、安斎」
「どうした?改まって」
それまで、グラスを指先でもてあそんでいた千代美が、手遊びを止めてまほを見る。その表情は、とても真剣だった。だから、机に突いていた頬杖も、やめる。
まほが息を吸い込んだ。意を決したように口を開く。
「ウチに、こないか?」
沈黙が今度は色を変えて落ちて来た。息の詰まるようなグレーの沈黙だった。
千代美は、その言葉の意味が分からなくて、訳もなく親指の爪を撫でたりつまんだりした。顔を上げて聞く。
「それは、どういう?」
「言葉通りの意味」
まほが続ける。
「安斎は、いずれ1級から国際まで公認を取る気なんだろう?そのためには東京にいた方が都合が良い思うんだ。それに、今ウチのチームは指導者が不足してるんだよ。安斎は有名だし、私が推薦すればチームのコーチとして迎え入れることもできる。そうすれば、リアルな話だけれど、収入だってずっと増える。シュラスコだって、好きな時に食べに行ける。それに、家が見つかるまではここにいてもいいし……そうすれば、私も何日もレトルトカレーで過ごさなくてよくなる」
見ると、机の上に置かれたまほの拳は少し震えている。それで、今まほが冗談を言っているわけでは無いのが分かった。そこまで言ったところで、まほはグラスを掴んで中身を一気に飲み干した。
まほの提案は、間違いなく魅力的で建設的な提案だった。何一つ間違っていない。
だけど……。
千代美はゆっくりと口を開いた。
「最高の提案をありがとう、西住。多分、私が今〝ただの戦車乗り〟だったら飛びついてたよ」
千代美が紡ぐ言葉を、まほは黙って聞いていた。
「そう……〝ただの戦車乗り〟だったらね。でも、違うんだ西住。私は、お前が言った通り〝指導者〟なんだよ。まだまだ子供たちに教えないといけないことが沢山あるし、私自身、まだまだ教え足りないんだ」
そして、にっと笑って見せる。
「確かに、西住の今後の食生活は不安だし、プロの世界で指導者としてやってみるのもいいかもしれない。だけど、これが今の私の戦車道。甘いって思われるかもだけど……ご飯なら、いつでも作りに来てやるからな」
と、千代美が言葉を締めくくると、まほは首を横に振った。
「やっぱり、安斎は安斎だな」
オーディオからは〈Stay Gold〉が、ゆったりと流れ始めていた。
「安斎の気持ちの大きさとか重さを、私が図ることはできないよ。安斎にとって、それが大切なら、それが24金だ」
まほの言葉に、千代美はゆっくりと頷いた。そして、右手を差し出す。まほは少し驚いたようだったが、同じように右手を差し出した。短く、けれど堅い握手だった。
「帰ったら、子供たちに自慢するよ。プロにスカウトされたぞ!って」
「生徒募集の張り紙にも書き加えないとな」
最後の一切れになったドライ・ソーセージを摘まみ上げて、まほが言った。空になった皿を脇にどける。
「じゃ、最後に、もう一杯」
と、千代美が言った。ボトルを持ち上げて、ワインを2つのグラスに注ぐと、ちょうどボトルは空になった。一杯をまほの方に押し出す。二人は、それぞれにグラスを持つ。
「今度は、なにに?」
「それぞれの金色に」
まほの言葉に、顔を合わせて笑い合う。まほがグラスを掲げたのに、千代美も応える。今度はグラスを合わせることはしなかった。
スティーヴィーが〈Stay Gold〉のサビをしっとりと歌い上げていた。
fin
今回、作中BGMとしてスティービーワンダーを選んでみました。
「Dancing To The Rhythm」と「Stay Gold」です。両方とも素晴らしい曲で、歌詞も今回の話のイメージにピッタリだったのでコレを選びました。
久々の投稿で、文体もメチャクチャな上、消化不良感も凄いですが、楽しんで頂けたなら幸いです。
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色褪せないで、ヨコハマ
全作品にいえるのですが、〈〉くくりの曲名や、
カタカナの固有名詞などはググるともう少しだけ楽しんで読んでいただけるかもです。
ドラマチックな感じが、どうもうまく表現できませんね。
pixivにも掲載中です
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9313685
観客のいないスタジアムに、規則的な靴音が響いていた。
今にも雪が舞い落ちて来そうな曇天の1月、初旬。低い雲に風は冷たく、あらゆる物に所かまわず突き刺さる。
だが、次に聞こえて来た声は、わびしく空を飛ぶカラスの鳴き声ではなく――寒さを吹き飛ばすような、熱のこもった声だった。
「次、ラスト一周!」
ぱん、と手のひらが弾ける。その音と声に足音の速度が増した。軽快で、〝飛ぶように駆ける〟という表現がぴったりな足音だ。
やがて、足音が止む。
足音の主がどさりとトラックに倒れ込んだ。そのまま仰向けに寝転がる。
「もう……動けませんわ……」
呻くような声。赤いジャージに包まれた胸が、遠目でも分かるくらいに激しく上下していた。
横浜市港北区にある横浜市国際競技場のトラックは、一周で400メートル。そこを最初から最後まで、変わらないペースで走り続ければ誰だってこうなるだろう。しかも、それを10周も20周もするとなれば、尚更だ。
「ほら、起きなさいローズヒップ。身体が冷えるわ」
「はいですの、アッサムさま……」
ローズヒップの返答は、息も絶え絶えだ。そんなローズヒップに、アッサムはタオルを差し出す。
ローズヒップは上体を起こした。「ありがとうございますですわ」と、タオルを受け取る。
もうしばらくすれば、WRTCのシーズンが始まる。それに、今回の第一戦の開催地は、なんと日本。願ってもない好条件だった。それだけに、練習にも熱が入る。
WRTCのドライバーは、戦車に乗ることだけが練習ではない。うだるような暑さや、身も凍るような寒さ。それに、耳をつんざくエンジン音。窮屈な車内に何時間も閉じ込められた極限状態で、冷静かつ的確な判断が求められる。こういった陸上でのトレーニングも欠かせないのだ。
ローズヒップの額には、玉のような汗が滲んでいる。それが、練習の激しさを物語っていた。
すると、タオルで顔を拭っていたローズヒップが突然顔を上げた。アッサムは首を傾げる。
「どうかしたの?ヒップ」
「いえ、アッサムさま、柔軟剤変えましたの?」
「あら、よく気が付いたわね」
「アッサムさまのことなら、なんでも分かりますことよ!」
「それは、喜んでもいいのかしら?」
「それはもう!」
そう言って笑顔を見せるローズヒップ。彼女には、いつも驚かされてばかりだ。感覚の鋭さは、本当に野生の動物を思わせる。前世はネコ科の猛獣かなにかだったのだろうか?
アッサムは、ローズヒップから受け取ったタオルを見つめながら、そう思った。
乾いていたタオルは汗をたっぷり吸いこんで、少しだけ湿っぽい。
「アッサムさま」
「今度は何? 洗剤までは変えてないわよ」
「いえ、そうじゃなくて。あれって……」
そう言って、ローズヒップは誰も居ないはずのスタンドを指さしている。その先には、真っ白なコートを着た人物が立って
いた。その人物には、たった一人だけ心当たりがあった。
「ダージリン……?」
アッサムが呟くのと、ローズヒップが駆け出していくのは、ほとんど同時だった。
◇
「久しぶりねアッサム。それに、ローズヒップ」
ダージリンは、真っ白な手袋を外しながらそう言った。純白のレザーには、汚れ一つ見えない。
ローズヒップはといえば「ダージリン様!」と、嬉しそうに飛び跳ねている。そうやってじゃれつく姿は、飼い主と再会した動物のようだ。さっきまでの疲れっぷりが嘘のよう。それほどまでにダージリンとの再会が嬉しいのだろう。
ローズヒップをなだめながら、アッサムは軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、ダージリン。本当に、久しぶり」
「ええ。会えて嬉しいわ二人とも。元気そうでなにより」
2人きりだったスタジアムに、3人目の声がする。
さっきまで感じていた身を斬るような寒さ。それが、少しだけ和らいだのは気のせいだろうか。アッサムは小さく鼻から息を抜いた。
「貴女こそ。どこかで野垂れ死んでいないかと心配でしたよ」
「死にそうなほど忙しかったの。それに、まだ死ねないわよ。この子が表彰台の一番上でシャンパンの栓を抜くまではね」
ダージリンは、アッサムの方を見ずに答えた。片手では、ローズヒップの頭を撫でている。その表情には、どきりとするくらい優しい微笑みが浮かんでいた。すると、それまで黙って撫でられていたローズヒップが口を開く。
「ダージリンさま! 何日かお暇ですの? 私、ダージリンさまと沢山お喋りしたいですわ!」
その言葉に、ぴたりとダージリンの動きが止まった。ゆっくりと手が下ろされる。
「私もよ、ヒップ。貴女の言う通り、沢山お喋りしたいわ。日が暮れて、夜が明けるまでね。でも、ごめんなさい。そんなに長くはいられないの」
表情を曇らせたダージリン。その言葉に、ローズヒップは「そうですの……」と、悲しそうな顔をする。ころころと変わる彼女の表情は万華鏡だ。
アッサムは溜息をはいた。
「もっとゆっくりできる時にいらしたらよかったのに。可哀想なローズヒップですこと」
そう言って腕を組む。
ダージリンは笑いながら答えた。
「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い」
「ああ……ここに、ペコがいないのが悔やまれます。電話をしたら来てくれるかしら」
「私を腫物扱いするのは貴女くらいよ、アッサム。ペコをフード・デリバリー扱いするのも」
「腫物どころか爆発物です。彼女は、優秀な処理班ですから」
そう言って、アッサムは再びため息をはいた。さきほどのため息よりも、2段階は深い。
ローズヒップは、二人のやりとりを不思議そうな顔をして聞いている。
可笑しそうに笑っているダージリンに向かって、アッサムは続けた。
「では、私も同じ言葉を借りますが……貴女は、今日ここに〝何事かをなしに〟いらしたのですか?」
じろりとした視線をダージリンに向ける。
今まで音沙汰のなかったダージリンが、わざわざ姿を現した――。ということは、何か目的があるのだろう。ただの暇つぶしではないことは間違いない。練習を冷やかしに来るような人でもない。けれど、その目的が何かまでは分からない。
ダージリンがゆっくりと口を開く。
「同級生と、昔話をしにきた……では、理由にならないかしら?」
首を捻っているアッサムに、わざとらしいウインクが投げつけられた。
◇
ダージリンはぐるりと首を回して、店内を見渡す。
「素敵なお店」
アッサムは得意げに答える。
「私のとっておきですから」
「そう言われると勘ぐってしまうわね。誰か〝素敵なヒト〟と?」
「下衆の勘繰りって、そういうのを指すんでしょうね。〝もし本当にそうであれば〟絶対に貴方を連れて来たりはしませんよ、ダージリン」
2人がいるのは関内駅からほど近い、老舗のジャズ・バー。
平日ではあるが横浜の人気店だ、流石に貸し切りというわけにはいかない。店内にはそこそこの数のお客が入っていた。テーブル席が取れなかったので、座っているのはカウンターの席。
「いけずね」と唇を尖らせたダージリン。彼女を横目に、アッサムは演奏されている音楽に耳を傾けた。ジャズ・アレンジをされたE・クラプトンの〈Layla〉が、低く静かに流れている。どうやら、メドレーで演奏をしているようだ。
アッサムが口を開いた。疑問を解消したかった。
「それで、今日は何の用ですか? まさか、本当に昔話をしに来たワケじゃないのでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「私も貴女も、昔話で酔えるほど年をとっていないから」
そう言って、アッサムはグラスを傾ける。
「真理に年齢はない、わ。アッサム」
「ロダン……ですか?」
ダージリンはゆっくりとうなづいた。
グラスを置いたアッサムと入れ違うように、ダージリンがグラスを手に取った。それには、真っ赤に燃える夕焼けのような色をしたカクテルが注がれている。
「アッサム」
「なんでしょう」
「キレイな色だと思わない?」
ゆったりとダージリンの手の中で回されたグラス。その水面の上を転がるようにして、スポット・ライトが赤く反射する。
本当に夕焼けのようだとアッサムは思った。
「ええ、きれいな色ですね。ヨコハマ……でしたか」
「そう、ヨコハマ。帰ってくると、いつも飲みたくなるわ」
「前言撤回します。今のは少しおばさん臭かったです」
ダージリンのじろりとした視線を感じて、アッサムは口元を隠してくすくすと笑う。
聞こえて来た「失礼しちゃうわ」と、咎めるような視線には素知らぬ顔で対処。肘で小突かれた分は、小突き返したのでおあいこだ。
おもむろに、ダージリンがチャームのドライ・フルーツを摘まみ上げた。
彼女の指先で、水分の抜けたレーズンは、皺が寄った黒真珠のようにも見える。
「ローズヒップの調子はどう?」
ぱくりとレーズンを口に運ぶダージリン。アッサムもそれに習う。
奥歯で噛み潰すと、わずかに残った酸っぱさと、ほどよい甘みが口の中に広がった。
「最高ですね。去年よりも、更にモチベーションも高い。まぁ……あの子のモチベーションが低かったことはないんですが……。とにかく、今までで一番のベスト・コンディションですね」
「そう。それは良かったわ。去年の最終戦、私も見ていてよ? もちろんテレビ放送で、だけれどね。あの子らしい走りだった」
「ええ……本当に……あの子らしい走りでした」
ダージリンの言葉を繰り返す。
訥々と語るダージリンの話は、今となっては少し懐かしくもある話だった
彼女は決して「惜しかった」とは言わない。勝負の世界に「惜しかった」なんて言葉が存在しないのを、ダージリンは良く知っているのだ。それを軽々しく口にするのは、お金で雇われた解説者か評論家気取りの〝自称〟業界人だけ。
2人の間に、すとんと無言が落ちた。
薄暗い店内と、眩しいスポット・ライト。その下で演奏しているのは3人。彼らの演奏は、かなりのレベルだった。目を閉じて聞き入っているお客もいる。しっとりと始まった〈Crossroads〉が、どこか遠くに聞こえた。
やがて、ダージリンがぽつりと口を開く。
「あの子の走りに、デジャヴを感じたわ。何故かしら」
ダージリンは、手元のカクテルグラスを見つめていた。
「起伏の激しいグラベルコースを物ともしない走り。それに、ここ一番でアツくなるクセ。〝誰かさんにそっくり〟だった」
覗き込むようなダージリンの視線。
大げさに息を吐いて見せる。
「なるほど。それが本題、ですか」
「そうよ? だから言ったじゃない。昔話をしにきた、って」
ダージリンは、ほほ笑む。
「私には、贔屓のドライバーがいたの。そのレーサーはあらゆるデータに裏打ちされた走りをしてた。精密機械……なんて呼ばれてたかしらね。デビュー戦で、いきなり表彰台に立ったときなんか飲んでいた紅茶を噴き出しそうになったのも、覚えてる」
彼女の目は、ここではないどこか遠くの日を見ていた。そして続ける。
「そして、そこからの快進撃はすごかった。本当にすごかった。国内のタイトルはほとんど総なめ。紅茶の園では、モンスターを栽培しているのか?って言われたこともあったわ」
「……」
「彼女も今のローズヒップと同じ、真っ赤なレース・ウェアが良く似合う人だったわ。そうね……」
そこでダージリンは言葉を切った。手元のグラスに視線を落とす。
「ちょうど、このヨコハマみたいな色の、真っ赤なレース・ウェア」
アッサムは、黙って聞きながらグラスに口を付けた。ショート・カクテルはもうぬるい。
「でも、彼女は華々しいデビューからしばらくしてドライバーを辞めてしまった。忘れもしないわね、サーキットを飛び出して、国内ラリーへの挑戦を表明したその年の第一戦。大変な注目度だった。そしてレースの当日、あの日の北海道は雨が降っていたわね」
いつの間にか〈Crossroads〉の演奏が終わりに近づいていた。
「朝から酷い豪雨だった。決行か、延期かで競技会が揉める中、赤いウェアの彼女は決行を支持。最終的にレースは予定通り開催された……そして……」
「国内ラリー史上最悪とも言われる大クラッシュが発生。死者が出る悲惨なレースとなった」
と、アッサムはさらりと言った。周到に用意していた言葉だった。
ぬるくなったカクテルを、ぐいと飲み干す。
空になったグラスを、力を込めて握る。
「本人も重症を負い、しばらくはベッドの上にはりつけ。その間、彼女はずっとこう考えていました。あのクラッシュの原因は自分にある、と。延期を支持していればこんなことにならなかった、と。そのまま、彼女は病院のベッドの上で引退を表明した」
アッサムは、目を閉じて上を向いた。
今となっては珍しい白熱電球の灯が、瞼を通して赤く光っている。
〝And I'm standing at the crossroads, believe I'm sinking down.〟
と、最後の一小節が歌いあげられた。店内では控えめな拍手が沸き上がる。その音が鳴りやむのを待って、アッサム。
「ひどく残酷な昔話です。グリム童話よりひどいかも」
今度はダージリンが黙る番だった。
アッサムの口調は飄々としていて――なのに、彼女の表情には深い後悔の色が痛々しいほど浮かんでいたからだ。
ダージリンは言葉を探す。その隣で、アッサムはバーテンに「おなじものを少し強めに」と言った。
◇
オーダーしたアルコールが届いた頃、アッサムは思い出したように懐に手を差し入れた。何かを探しているらしい。
やがて、手が止まった。お目当てのものを見つけ出したのだろう。ことりと、それがカウンターに置かれる。
「タバコ、吸っても?」
置かれたのはウィンストン・キャビンの5ミリ。ボックスだ。
少しだけ面食らって、ダージリン。
「構わないけれど、貴女吸うのね」
「こういう時だけです。ローズヒップには内緒ですよ」
かきん、と音がする。ライターはダンヒル。シルバーの本体に彫金が施された、シンプルなデザインだった。
ダージリンは首を傾げる。
ダンヒルと言えば、男性からの圧倒的支持を受けるブランドだ。それをまさか彼女が持っているなんて……。
「また渋いチョイスのライターね」
「〝ホンモノ〟は、天地がひっくり返っても〝ホンモノ〟ですよダージリン。男モノだからとか、女モノだからとか……そんなの、気にしていては息が詰まります」
「それは否定しないわ。でも、じゃあ、今日の貴女の下着はトランクスなのかしら?」
「まさか。見てみます?」
「それは勘弁願いたいわ」
そう言って、いかにもわざとらしくダージリンは顔をしかめた。再び、会話が途切れる。
やがて、アッサムが火を点けたタバコの灰の長さが小指の第一関節を超えたころ、ダージリンが口を開いた。
「単刀直入に言いましょう。アッサム、復帰する気はない? 今の私には、復帰した貴女を迎える十分な準備と、後ろ盾があるわ」
これまでにないハッキリとした口調だった。
アッサムがゆっくりと吐き出したウィンストン・キャビンの煙。人工的なバニラのフレーバーが、少し鼻をつく。
「それは、友人としての言葉? それとも、ファンとしての言葉? もしくは、ビジネスかしら」
「全部よ、アッサム。全部。友人としてもファンとしても、そしてビジネスとしても……私は貴女に復帰してほしいわ。一度の挫折がなに?確かに、あのクラッシュは元をたどれば貴女が原因かもしれない……でも、貴女は今こうして私の隣にいるじゃない。チャンスはいくらでもあるわ」
お互い、視線は交わさない。交わされないまま、会話は続く。
「確かにそうかも知れないけれど、もう私の両手はそれを掴むほどの握力がないんです。なんどか運転席に座って見たこともあった。でも、やっぱりダメ。そもそも、あの狭い車内が怖い。トラウマなんです。あの時のことを思い出して、子供みたいに眠れない夜もある。押しピンがいるんじゃないかってほど、手が震える時だってある。そういう時は、キッチンに逃げ込む。それから潰れるまで〝キツイの〟をやるんです。何杯も何杯も……誰もがジェームス・ハントになれるとは限らないんですよ、ダージリン」
アッサムは、手元の灰皿でタバコをもみ消す。
かろうじて上がっていた糸のように細い煙。それは溜息でかき消され、やがてゆっくりと見えなくなった。
「あの子は……ヒップは私とは違います。違うんですよ、何もかも。学生の時から才能はあった。眩しくて嫉妬してしまうような才能が。興味本位で運転席に座らせてみたことがあったんです。簡単なコースでね。1周目は慣れない操作に戸惑って勿論がたがたのレコード。2周目はアクセルの踏みすぎでコースアウト連発。でも3周目にはもうコースレコードに近いタイムを出していた……。彼女は誰もがブレーキを踏むところで、躊躇いなくアクセルを踏み込むことが出来る。ヒップには、感覚以上に〝勇気〟っていう才能があった。私にはこれっぽっちもないモノ。ホンモノですよ。まったく、ほんとうに恐ろしい話だわ」
全てを聞いた話のように語るアッサムの複雑な表情は、ダージリンにそれ以上の追及を許さなかった。捩じって捻ってこねくり回した、繊細なガラス細工のような笑顔だった。
アッサムは首を振る。
「でも、まだ世界に私のファンがいただけでもうれしいわ。ここに貴方と私の二人きりなら踊り出してしまいそうなくらい……」
◇
「ご足労かけたのに申し訳ありませんでした、ダージリン。貴女を手ぶらで帰らせる日が来るなんて」
店を出ると、いよいよ雪が降りそうな天気になっていた。そんな予感に、2人して上を見上げる。
だけど、夜空を覆う雲からは、なんの感情も読み取れなかった。
上を向いたまま、
「いいのよ」
と、ダージリンが言った。
「同級生と昔話ができた、それだけで十分すぎるお土産だわ」
「それはよかった」
「ありあけハーバーの数倍の値打ちはあったわ」
アッサムは肩をすくめる。
その姿に、ダージリンは小さく笑った。
◇
「じゃあ、明日も練習があるのでそろそろ……。寝坊なんてしたら、ローズヒップになんて言われるか」
と、アッサムが腕時計を見ながら言った。
時刻は、夜の11時になろうかという所だ。アッサムの言葉に、ダージリンがうなづく。
「そうね、私もホテルに戻らないと。まだ仕事が残ってるの」
「では、また」
「ええ、また」
ダージリンは、右手を差し出そうとして――やめた。頭を下げるアッサムに向けて、小さく手を振る。
アッサムがくるりと背中を向けた。歩いていくのは駅の方角だ。
店の中ではまだ演奏が続いている。音楽が漏れ聞こえてくる。
さっきの言葉は本心だった。
久しぶりに帰省して、古い友人と昔話ができた。これだけで、値千金だ。アッサムの気持ちだって知ることができた。それに、妙な確信もある。
今年、きっとローズヒップは表彰台の一番上に昇るだろう。そして、その隣で笑っているのは間違いなく彼女――アッサムだ。ヨコハマに似た、真っ赤なレース・ウェアに抱きついて、それこそ夕日のように目を泣きはらして……。
ダージリンは口に手を当てて声を上げた。
「アッサム!」
もう豆粒のようになっていたアッサムが、はたを脚を止めた。
けれど、彼女は振り向きはしなかった。構わず、叫ぶ。
「自分の人生は、自分にしか作ることができない!」
いつぶりにこんな大声を上げただろうか。わずかに上がった息が、白く夜空に消えていく。
アッサムの姿は遠い。
右手を挙げた彼女の姿は、頬を掻いたようにも目を拭ったようにも見えた。
しかし、ダージリンにはそれを確認するすべはなかった。
また、歩き出したアッサム。あっという間に小さくなっていくその背中は、大きな傷と大きな覚悟を刻み込んだ背中だった。
「タバコ、ヒップはきっと気づいてるわよ」
ぽつりとつぶやいたダージリン。
アルトサックスが〈Change The World〉を奏でているのが聞こえた。
fin
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ヴァージン・ロードは、まだ遠い
彼女が目的地に選んだのは……
pixivにも投稿しております
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9371134
インターホンが鳴った。
ぴんぽんと、間の抜けた機械音。
1度目は、聞かなかったことにする。2度目は、空耳なんだと思い込む。
私は、ベッドの上で身体をよじった。隠れるように布団を頭からかぶる。昨日洗ったばかりのシーツだ。もう少し、それに甘えていたい。
しばらくすると、3度目のインターホンが鳴らされた。「ぴん」と「ぽん」のあいだに、やたらと間のある長い呼び出し音だった。それが続けて2回。来訪者の執念めいたものを感じる。
うつ伏せになって、布団の隙間から枕元の時計を見る。すると、学生のころから使っている置き時計は、昼の12時すぎを指していた。それから、5度目のインターホンが鳴る……。
ここまでくると、訪問販売や新聞の勧誘の線は薄いように思えた。届く予定の荷物だって、ない。じゃあ、いったいだれが……?
だが、考えてみても思い当たる人物など一人もいなかった。
また、インターホンが鳴らされる。
最後の抵抗とばかりに、布団の中で身体をよじって、「んああ」とうめく。すると、また間延びしたぴんぽんが聞こえた。
私の根負けだった。触り心地の良いシーツに後ろ髪を引かれるような思いをしながら、ゆるゆると身体を起こす。
あくびをしながらリビングに行くと、朝の冷え込みが私を出迎えた。ひやりとした空気が、ふるりと身体を震わせる。暖房を入れても、部屋が暖まるまではだいぶ時間がかかる。そこで、私は適当なカーディガンを引っ張り出して羽織った。だいぶ前に買った、ブラウンのカーディガンだ。
袖に出来た毛玉を指先でちぎりながら、インターホンのモニターへと向かう。画面の前に立つ。
一瞬、やたら粘り強い新聞の勧誘だったら――という考えが頭をよぎる。もしそうだったら、またベッドに潜り込んでしまうという選択肢も一緒に。そうして、私は寝ぼけ眼をこすりながらモニターのボタンを押した。
◇
「お久しぶりです。みほさん」
対面に座る華さんは、そう言った。謎の来訪者の正体は、五十鈴華――その人だった。モニターに彼女の姿が映し出された時、私はとても驚いた。と、同時に肩の力が抜けた。
湧き上がったのは、睡眠を邪魔された怒り……ではなく、懐かしさの方だった。
「うん。久しぶり」
「いつ振りでしょうか?」
華さんは小さく「いただきます」と言って、湯飲みを持ち上げた。
こんなこともあろうかと、山鹿に行ったときにお茶を購入しておいてよかった。彼女には、紅茶やコーヒーはきっと似合わない。
「えーっと、2年とか……かな?」
「もう、そんなになりますか」
「私が、弾丸成人式で大洗に行ったとき以来だから、多分そうだよ」
そう言って、私は目を細めた。あの時のことは今でも思い出せる。
ハタチの時。すでに故郷に帰っていた私は、熊本での成人式に出席してすぐ、大洗の成人式にも顔を出すため、その足で飛行機に飛び乗ったのだ。
一緒に成人式に出たエリカさんは呆れていたが、結局「いってらっしゃい」と送り出してくれた。熊本空港までのお見送り付きで。そして、大洗の人たちも快く迎えてくれた。あの時のことは一生忘れられないだろう。
我ながら、無茶をしたな――と、思う。
あれから2年。高校を卒業してからは、もう4年が過ぎている。
だけど、目の前の華さんは、記憶の中にある姿とほとんど何も変わってはいなかった。
服装こそ、ベージュのフルレングス・ワイドパンツに、白いニットという大人っぽい恰好。だけど、長くてつややかな黒い髪に、少し垂れた優しい目。それに、穏やかな物腰。どこを切り取っても、私の知る華さんその人だった。一つだけ、私の知る華さんではなくなっている部分があるとすれば――彼女からは、もう鉄と硝煙の匂いはしなくなっていたことくらいだろう。
「みほさんの姿は、ずっと見てましたけどね」
と、お茶をすすりながら華さんが言った。
「えっ? どこで?」
その言葉に、一瞬ぎくりとする。まさか監視カメラとか?
私の考えを見透かしたように、華さんが小さく笑う。
「もちろん、テレビで、ですよ」
「あー……」
なんとなく気恥ずかしくなって、私は指先で頬を掻いた。
空になった自分の湯飲みに、お代わりを注ぐ。
私は聞いた。
「でも、急にどうしたの? 来るなら、連絡くれたらよかったのに」
すると、華の湯飲みを持つ手が止まった。ポケットから何かを取り出す。
「電池、切れちゃったんです。〝持ち〟が悪くて……きっと、不良品です」
携帯だった。画面は真っ黒。それは、最近テレビでコマーシャルをやっている最新の機種だ。
確かに、彼女が携帯ゲームで充電を食いつぶすのは〝らしくない〟。きっと、言う通り〝はずれ〟を引いたのだろう。
華さんは続ける。
「熊本に来たのは……旅行です。ちょっと休暇が取れたので。たまには……と」
彼女の視線が、床に置かれたスーツ・ケースに移った。それは、パープルのサムソナイトだった。
そういえば、彼女は藤の花がすきだった……。私は、そんなことを思い出した。
「で、私の所にきたの?」
「すみません、ご迷惑を掛けてしまって……」
華は頭を下げた。机に額をこすり付けんばかりだ。
「そんな! 全然いいよ! 私も、まさか華さんが来るなんて思わなくて」
言葉の通りだった。
華さんは卒業後、実家に戻った。『華道五十鈴流』を掲げる彼女の家にも、大勢の門下生がいる。彼女はその跡取りとして、教室を開いたり、展覧会に出品したり……それこそ、忙しい毎日を送っていたはずだった。そんな彼女が我が家のインターホンを鳴らしていたなら、誰だって驚く。
華さんは、ふわりと笑った。
「でも、本当に助かりました。熊本に来たのは良かったんですが、何も予定も立てていなかった上に、地理もさっぱりで……携帯も〝アレ〟ですし……教えて貰った住所を控えていてよかったです」
何も予定を立てずに来た、という所がなんとも華さんらしい。
私はうなずく。
「役に立ってよかった。私も今日はとりあえずオフだから、案内してあげられるよ」
「ほんとうですか!?」
「うん」
華さんの目が輝く。
携帯の充電切れで、出鼻をくじかれた熊本旅行。見知らぬ土地で、不安だったの想像するのは簡単だった。
ふと時計を見ると、もう昼の1時を過ぎていた。そろそろ……。
「じゃあ、みほさん……私……」
と、華さんが何か言いづらそうにしている。
「お腹がすきました」
やっぱり、変わらない友人だった。
◇
新水前寺駅から市電に揺られること約15分。到着したのは通町筋だ。
新水前寺から通町筋までは、市電に乗って約15分の距離。タクシーを使う手もあったが、電車を使ったのは華さんたっての希望だった。
道路の真ん中を車と並走するように走る電車。それは私にとっては見慣れた景色だが、県民以外には珍しいらしい。隣に座る華さんは、しきりに声を上げている。こんな、熊本の見慣れた景色も、今だけは少しだけ違って見えた。
旅人の華が、私にも新しい発見をさせてくれているのかも知れない。
電車は大江本町を抜けて、九品寺へ。そして、ゆっくりと白川の上を渡る。
窓から見える広い川は、とても穏やかに流れていた。水面には、水鳥の姿もあった。薄いガラスのようになったその上を、滑るように泳いでいる。
「みほさん。この川は?」
「白川、っていうんだ。たまに、氾濫しちゃうんだよ」
やがて、電車は国道3号線を越えて街に入った。この辺りからが、熊本市の中心部だ。大きなビルの数が途端に増える。前方には、熊本城も見えてくる。
熊本県民は、この辺りのことを〝街〟と呼ぶ。
水道町の電停を乗り過ごして、もう一つ先の通町筋電停へ。やがて、電車が止まる。人が出口に向かって動き出す。
「華さん。ここ」
「はい」
私はICカードを使って降りた。華さんは、小銭をじゃらじゃらと料金箱へ流し込む。
この電停は、車道の真ん中にある。陸の孤島のような状態だ。目と鼻の先を車が走り抜けていく。電車のタラップから注意深く降りる華さんの姿が、なんとなく微笑ましい。
この陸の孤島では、もちろん信号が変わらないと動くことはできない。丁度、車道の信号は青だ。
私は、大きく口を開けるアーケードの入り口をさして言った。
「あっちが、上通り」
そして、反対方向をさす。
「こっちが、下通り。で、あれが……」
「熊本城、ですね」
と、華さんが言った。その視線の先には、城の本丸が顔をのぞかせている。
「行ってみたいです」
華さんは、そう言って目を細めていた。
◇
そこから、色々な所を回った。
まずは、タイピーエン発祥の店らしい紅蘭亭で腹ごしらえだ。
華さんは、もちろんおかわりをする――大盛りで。そのオーダーに、店員が一瞬顔を引きつらせたお陰で、私は笑いを必死に堪えなければいけなかった。
お腹も膨れた所で、熊本城へ向かう。
二人して、県立劇場の前の加藤清正像になんとなく一礼。そのまま、入り口を目指して坂を登る。途中、両端に植えられた桜の枝には、蕾が芽吹いていた。もう少し暖かくなれば、この坂も桃色に飾られるのだろう。
坂を登り切ると、本丸への入り口が見えてくる。ここで、料金を払って入場するのだ。
しかし、財布を取り出そうとした私を、華さんが止めた。
「みほさん、ここは私が」
「えっ? 悪いよ。華さん、お客さんだし」
「いえ、私のワガママに付き合って貰ってますから。これくらいは……」
その口ぶりから、華さんの意思は固いことがうかがえた。
ここは、一旦甘えておこう。
「ありがとう。華さん」
「こちらこそ、です」
地震で被害があった部分も、今ではほとんど修復されていた。
ブルーシートだらけで痛々しい姿だった――と、言っても今では誰も信じないかもしれない。
「すごい石垣ですね」
と、華が見上げながら言った。
私は、同じように見上げながら答える。
「武者返し、っていうんだよ。上に行くほど傾斜がきつくて登れない……お侍さんも帰っちゃうから、武者返し」
私の説明に、華は「へぇ……」と息をもらした。
二人の後ろを、観光客の団体が通り過ぎて行く。
日本語が聞こえなかったので、多分外国の人。平日の昼間でも、アジアからの観光客は多い。彼らの後ろ姿を見ながら、華さんが口を開く。
「外国の方、やっぱり多いんですね」
「うん。最近は特に凄いかな」
「なんか、おトクな気分です」
「なんで?」
私は首をひねった。
「韓国旅行も同時進行しているみたいで」
と、華さん。
私は、肩を揺らす。
「その考えはなかったなぁ」
「今度は私、もっと遠くへ行ってみたいです」
「茨城から熊本でも、十分遠いよ」
と、私は笑う。
不意に吹いた風に、砂埃が巻き上がった。
私は、目をつむる。
風に紛れて、華さんの声がする。
「そうですね。十分に、遠い……」
呟くような声だった。
熊本城のふもと。
観光施設でお土産のコーナーを二人で物色しているうちに、気がつくと夕方の6時を回っていた。ちらりと見た右腕の時計が、夕陽を反射してピンク・ゴールドに光る。
季節が春めくにつれ、日は長くなった。
が、流石にあたりは暗くなりはじめている。
「もう、こんな時間だね」
「本当ですね。全然気がつきませんでした」
窓からは、ライトアップされた熊本城が見えた。夕暮れに、堂々とその姿を映している。
しばらく、二人でそれを見つめていた。
「じゃあ、夕ご飯にしよっか」
「はい。私も、ちょうどお腹空いてきました」
と、華がお腹をさすりながら言った。
「あんなに試食してたのに?」
「みほさんだって……それに、ご飯と試食は別腹です」
そう言って、華さんは頬を膨らませる。
意地汚さを押し付け合うようなやり取りに、私たちは顔を見合わせて笑った。
地平線に、夕日が沈んでいく……。
◇
その30分後、私たちは銀座通りにいた。
下通りと交わる部分から数百メートルに渡りアーケードを作っている、大部分が歓楽街の賑やかな通りだ。その一角。菅乃屋という郷土料理店で、馬刺しに舌鼓を打っている。
「初めて食べましたけど、これ、本当に美味しいです」
と、華さんが言った。
頬が落ちそうなのを押さえるかのように、左手は頬に添えられている。
「でしょ。ひともじぐるぐるとか、辛子レンコンとかあるけど……正直、あんまり私は好きじゃないから」
「そうなんですか?名物だ、って聞いていたので、てっきり普段からよく食べられてるんだとばかり」
私は首を振る。
「ううん。めったに食べないよ。私なんて、最後に食べたの10年以上前だもん。しかも、一回きり。お母さんに、『みほ、食べなさい』って。今の高校生とかだと、知らない子もいるんじゃないかな」
私は続ける。
「でも、やっぱり馬刺しだけは鉄板」
というと、華さんはとても驚いたようだった。
でも、これが本当なのだ。
正直なところ、ひともじぐるぐるなんて観光客におススメ出来るか? と聞かれると、私でも首をひねってしまう。
「お姉ちゃんも、あんまり好きじゃないって言ってたなぁ」
「まほさん、ですか?」
「うん。ちょっと甘酸っぱい草の味って」
言いながら、私は眉間にシワを寄せる。それは、仏頂面をした姉のモノマネだった。
料理がおいしいと、会話も弾むがお酒も進む。特に、華さんは相当イケる口らしい。机の上の白岳のボトルは、もうすっかり軽くなっていた。
「もう、帰りたくなくなってきちゃいました」
華さんが、ポツリと言った。
手にはグラスが握られている。
頬は、アルコールにほんのりと染まっていた。
私は笑う。
「元気に家に帰るまでが、旅行だよ」
「そう、ですね……」
そう答える華さんの視線は遠い。
口に当てられたグラスの傾斜がきつくなる。
イケる口と言うよりも、ザルに近いのかもしれない。あまり強くない私からすると、少しうらやましい。
ふと、ポケットの中で携帯が震えていることに気が付いた。途切れることのない、長い振動。電話だ。私は「ごめん、電話だ」と言って席を立つ。
誰だろう、なんて思いながら携帯を取り出す。すると、画面には「沙織さん」の文字。
一体どうしたのだろうか。急な用事でないなら、連絡用のSNSでもいいはずだ。あんこうチームの5人で作っているグループだって、ある。
私は首をかしげながら通話のボタンを押した。携帯を耳に当てる――
「もしも――」
「みぽりん!」
――と、同時に叫び声が聞こえた。思わず、携帯を耳から離す。
私は、もう一度携帯を耳にやった。
「もしもし?沙織さん?」
「みぽりん!居なくなって!華が!あのね!大変なの!居なくなって!」
「さ、沙織さん。落ち着いて……」
電話口で、沙織さんが早口でまくし立てる。
話がブツ切りになっているせいで、どうも要領を得ない。
いない?華さんが?どういうことなのだろうか。
やがて、電話の向こうが静かになった。ごそごそと雑音が聞こえる。どうやら、誰かが沙織さんから携帯を奪い取ったらしい。すると、打って変わって落ち着いた声が聞こえてきた。
「もしもし、西住さん?すまない。沙織の奴、パニクってて」
「まこさん……?」
声の主は、まこさんだった。沙織さんとは打って変わって、冷静な声色だ。
だが、同時に深刻さも感じる。そんな声。後ろでは、相変わらず沙織さんが叫んでいるのが聞こえる。ずるずると、鼻をすする音もする。
通話口を押さえて喋ったのだろう。まこさんが「さおり。ちょっと黙ってろ」と言ったのが小さく聞こえた。
私は聞いた。
「どうしたの?すごく久しぶりだけど……」
「ああ、久しぶり。ほんとはゆっくり話したいんだけど、ちょっと問題が起きちゃってな」
まこさんは〝問題〟と言った。さっき沙織さんが叫んでいたことと、なにか関係があるのだろうか。
「問題?」
と、私は聞いた。
「ああ……」
と、まこさんが答える。
なにかを言いよどんでいるらしい。少し間をおいて、耳を疑うようなセリフが聞こえた。
「五十鈴さんが、行方不明なんだ」
◇
電話で聞いた内容はこうだ。
華さんが、突然姿を消したこと。その足取りも掴めないこと。華さんのお母さんが警察に失踪届けを出そうとしている、ということ。それに、沙織さんもまこさんもとても心配している、ということ――
「もし何か分かったら連絡して欲しい。みんな、心配してるから。……沙織、泣くな。 じゃあ、西住さん、また」
「うん。また……」
そうして、電話を切る。
電話の向こうでは、沙織さんが最後まで泣いていた。胸が、ちくりと痛んだ。
「今、熊本で一緒に馬刺しを食べてるよ」とは言えなかった。言えるはずも、ない。
華さんは、そんな突飛なことをして周りを困らせるような人ではない。きっと、何か理由がある……。みんなに本当のことを話すのは、その理由を聞いてからでも遅くはない。 そう、思った。
私は、元いた個室に戻った。
扉を開ける。すると、卓上の皿はほとんど空になっていた。
「お待たせ。ごめんね。ちょっと長くなっちゃった」
「いいえ。お仕事のお電話ですか?もうすぐ、シーズン始まりますもんね」
華さんは、手元のグラスを見つめていた。そのグラスも、もう空っぽだ。
私は首を横に振る。
「ううん……」
華さんは「じゃあ、だれ?」とは聞いて来なかった。
私の様子が変わったことに、彼女も気がついたのだろう。どことなく重い沈黙が流れる。
私は、一度奥歯を強く噛んで華さんを見る。
目が、合う。
「華さん。お家、出てきちゃったの?」
その言葉に、華さんは驚くでもなく――ただ、ゆっくりと息を吐いた。
「もしかして、とは思ったんですが……やっぱり、その電話でしたか」
「うん。沙織さんと、まこさん。沙織さん、泣いてた」
「そう、ですか……」
溶けた氷が、グラスの中でくるりと踊った。
からり、と音が響く。
「グルメツアーをしに来た、じゃ納得していただけませんよね」
華さんは小さく笑った。
「なんでって聞いてもいい、かな」
私がそう言うと、華さんは無言でうなずいた。
それから彼女は、息を吸って、吐く。その間が、私にはずいぶん長く感じた。
外の通路では、ほかのお客が行き来している。その気配が消えた頃、華さんはようやく口を開いた。
「お見合いをするのが嫌で、逃げたんです」
と、華さんは言った。そして「コドモみたい」とつぶやく。
私は、黙ったまま聞いている。
「別に、結婚するのが嫌という訳ではないんです。私だって、五十鈴流華道家の端くれ。 それを次の世代に、とも思います。母の気持ちだって分かる。孫の顔を見たら、どんなに喜んでくれるだろうか、とも……」
そこで華さんは言葉を切った。深く息を吐く。
「でも、もうウンザリしてしまって……。展覧会の度にとりあえず挨拶って、母が私の知らない誰かを連れてくる。すると、次の日にはその方の写真が家に送られてくる。それを断ると次の展覧会で五十鈴流の娘が、どこそこの方をフッたと、噂される。そして、また母が……。そんなのに、疲れてしまったんです」
「……」
華さんは華道家の一人娘で、跡取りだ。彼女には、私の計り知れない苦労や心労があるのだろう。かける言葉が見つからなかった。ただ、俯くことしか……。
「でも、多分……嫌、というよりも怖いんです。本当に、この人でいいのだろうか。相手のお家とは、うまくやって行けるだろうか。幸せに、なれるんだろうか……そんなことばかり、考えてしまうんです」
「マリッジ・ブルー?」
「そうかも、しれないです。結婚が決まった訳でもないのに……ヘンですよね」
そう言って華さんは微笑んだ。自分を嘲るような、そんな微笑みだった。
「なんで熊本に?」
と、私は聞いた。
少しだけ躊躇って、華さんが口を開く。
「みほさんがいたから、でしょうか」
その回答に、驚きが「え」の音になって漏れた。
「結局、誰かに聞いて貰いたかったんですよ。学生の頃もそうでした。一人じゃ何もできない。一人じゃ何も決められない。皆さんに、ウチまで来て貰ったこともありましたね……。それに、みほさんも家元の方。私の話を分かってくれる、ヒドイ話だ、って言ってくれる。勝手に、そう思い込んでたんですよ」
華さんは、グラスの中の氷を指先でくるりと回した。濡れた指先を、おしぼりで拭う。
「ほんと、バカみたいですよね」と、華さんは小さく笑った。
◇
会計を済ませて店を出る。
華さんが腕の時計を見た。
私もつられて時計に目をやる。時刻は、もう夜の9時近い。私たちはずいぶん長いこと話し込んでいたらしかった。
通りには、人があふれていた。会社帰りの人から、酔っ払って千鳥足の人もいる。色んな人がいる。
だけど、こんなに多くの人の中で、今の華さんと同じ境遇の人がいるだろうか……?
「本当に美味しかったです」
と、華さんが言った。
――いや、きっと、いない。それは、私を含めて。
このまま、解散してもいいのだろうか。私はなんの力にもなれていない。ここまできても、何の言葉も出てこない。
「華さん、私ね……!」
喉を絞りに絞って、出てきたのがそれ。自分が情けなかった。
言葉が、喉に詰まって息苦しい。なにかを言おうとして、口を閉じる。言おうとして、
閉じる。周りから見た私は、とても滑稽だっただろう。
「お魚みたいですよ」と、華さんが苦笑する。そして、続けた。
「今日は、ワガママに付き合わせてしまってごめんなさい。本当に楽しかった……。ワガママついでに、もう一ついいですか?」
すると、華さんの姿がぐっと近くなる。そして、手を握られた。
私の手よりも、ほんの少しだけ大きな華さんの手のひら。それが、私の手を包んでいた。
無言のまま、ほんの一瞬だけ。やがて、手のひらから温もりが離れる。
「私、明日の朝一番で帰ります。みんなにきちんと謝って……それから、お母様と話しをします。沙織さんにはヤキを入れられてしまうかもですけど」
彼女の手の感触を、私は覚えていた。アレは確か、私が大洗に越してきてすぐ。生徒会長室でのことだった。勇気を貰えたあの時の私のように、私も華さんになにかを上げることができただろうか。
「じゃあ、また」
「うん。気を付けて……」
「旅をするのには慣れてますから」
しっかりとした口調だった。そして、別れる。
去っていく彼女の背中を、私はぼんやりと眺めていた。
暖かい風が一つ、前髪を揺らした。その風に乗って、花の香りがした。
◇
華さんから連絡が来たのは、それからしばらく経ってからだった。
――――――――――――――――――――――――
先日は、お世話になりました。
やっぱり、大洗はまだ寒いです。熊本はとっても暖かかった……
あれから、みんなに頭を下げて回りました。
母にはとても叱られました。
沙織さんにはヤキを入れられることはありませんでしたが、何軒も付き合わされました。
あの時、熊本でみほさんに会って、話せて本当に良かったと思っています。
アーケードや熊本城の景色を時々思い出します。焼酎の味も、馬刺しの味も。
熊本にいたのは少しの間でしたが、一生忘れないと思います。
最後に、一つだけ謝らないといけません。
携帯、不良品と言いましたが、連絡が来るのがイヤで電源を切っていただけだったんです。
ほんとうに、ごめんなさい。
それでは、お体に気を付けて……。
五十鈴華
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私は、その文面をべランダで読んだ。華さんらしい、丁寧な文章だと思った。
目の前には、熊本の夜が広がっている。
たまに街を歩くと、華さんと一緒に歩いたことを思い出す。
ふと、あの時の花の香りがした……そんな気がすることがある。
fin
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