咲-Saki- The disaster case file (所在彰)
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プロローグ

初投稿ですが、よろしくお願いします。
完結目指し頑張るので、感想、指摘等も頂ければ幸いです。

原作キャラの過去を勝手に解釈、改変などもしているのでご注意ください。

※7月26日 誤字・脱字修正しました。


 彼を意識したのはいつだったろう。

 

 

「…………日之輪君? また掃除押し付けられたの?」

 

「竹井か。押し付けられたのではなく、引き受けた、だよ」

 

 

 まともに言葉を交わしたのは、それが初めてだったはず。

 

 夕日の差し込むオレンジ色の教室。

 ちょっとした忘れ物を取りに戻った時、いつものように不真面目なクラスメイトから適当な理由で掃除を押し付けられた彼と鉢合わせた。

 

 彼のクラスメイトからの評価は『嫌な奴』、もしくは『便利屋』。

 いじめられるほど嫌われてはいないけれど、仲良くなれるほど好かれていない男子。それが彼の立ち位置(ステータス)だった。

 

 正直なところ、私も極力話したくない相手だった。少なくとも、その時は。

 何せ、口を開けば正論ばかり。言われたくない所を容赦なく責め立ててくる。笑わない、怒らない、感情らしきものを見せない冷酷無慈悲な鉄面皮。

 そんな人間を好きになれる人がいるのなら、私は惜しみない賞賛を送るだろう。

 

 

「あら、これ麻雀の教本と牌?」

 

「それは俺のだ」

 

「へぇ、日之輪君、麻雀できるんだ。ふ~ん」

 

 

 目に留まったのは何度も読み返したであろう古惚けた教本と何故か一つしかない白の牌。

 

 思い返してみれば、嫌ってこそいなかったけれど、話したくない相手に声をかけたのは、色々と参っていたからだと思う。

 家庭環境、幽霊部員しかいない麻雀部の実情、思い通りにならない私の人生。

 理不尽に対して憤っていた。不条理に対して項垂れていた。

 

 

 だからだろう――――

 

 

「じゃあ、誰か面子を揃えて一局打ってみない? これでもそこそこ打てるのよ、私」

 

 

 ――――そんな提案を口にしたのは。

 

 純粋に彼の実力を知りたかったのか。彼を打ちのめして、少しでも憂さを晴らしたかったのか。単純に久しぶりの麻雀を楽しみたかったのか。

 今でも理由は分からない。今では理由などどうでもいい。

 

 

「了解した。折角の申し出だ、無碍には断れんな」

 

 

 夕日を背に、彼は見たこともない優しげな笑みを浮かべて、提案を受け入れてくれた。多分、私の内心を理解した上で。

 

 私はその時、確かに感じた。

 我ながら似合わないと思うけれど、何とも乙女チックでロマンチックな結論で、とても人には話せない。

 

 ――――確かに私は、その日、運命に出会った。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 春が終わりを迎え、天地自然が夏へと向けて準備に入った4月のある日。

 長野県の片田舎にある清澄高校で、一つの出会いが生まれようとしていた

 

 

「さて、これで終わりか」

 

 

 清澄高校の校舎は、生徒の数に対して教室の数は僅かばかり少ない。

 その為、文化部などの場所を必要とする部活は、学校の裏手にある旧校舎の一室を部室として使用している。

 麻雀部も、そんな文化部の一つであった。

 

 麻雀部の部室は旧校舎の屋根裏に位置し、窓も多く日当たりも良い当たり部屋であった。

 部屋の中央には全自動卓が一台、部屋の隅には牌譜の管理とネット麻雀での練習を目的としたパソコンが一台。他には何故か保健室で使わなくなったであろうベッドがあった。

 他にもホワイトボード、雑多なジャンルの本が納められた本棚、デザインの良いティーセットの小物なども多くある。

 

 その部室で、一人の少年が箒とちり取りを手にして立っていた。

 

 

「あら、ようやく来たわね、この幽霊部員」

 

 

 部室へと足を踏み入れてきた少女はわざとらしい驚きの言葉を投げかけた。

 肩まで伸びた手入れの行き届いた髪。優しさの中に鋭さを秘めた鳶色の瞳。柔和でありながら捉えどころのない表情。女子の平均よりやや高めの身長。

 スタイリッシュ、という言葉がピタリと来る、如何にも有能そうな、それでいて堅苦しい雰囲気を纏っていない。

 麻雀部の部長にして、清澄高校の生徒議会長を務める彼女の名前は、竹井 久。

 

 

「好きで幽霊部員をしているわけではないのだがな」

 

 

 少年は掃除用具をロッカーへしまいながら、肩をすくめて応えた。

 鴉を思わせる黒髪。穏やかでありながら槍のように鋭い淡赤色の瞳。久と同様に捉えどころがないながらも、対照的な無表情。一見すれば運動部と見るであろう体格。

 固く引き結ばれた口元は寡黙な性質を示し、表情のない相貌は感情を窺い知ることはできない。久とは、何から何まで対照的な少年だった。

 麻雀部古参の部員であり、久とも二年の付き合いとなる少年の名前は日之輪 嵐。 

 

 

「ごめんごめん。でも、もう4月も終わりよ? 始業式から一度も部活に顔を出さないなんて、ちょっとねぇ?」

 

「それに関しては申し訳なく思う。だが、こちらもバイトをしなければならない理由がある」

 

「……そんなに忙しいの?」

 

「忙しかった、だな。ようやく新入りが仕事を任せられるようになった」

 

「まこの家にまで顔を出して掛け持ちでやってるけど、こっちの活動に参加できそう?」

 

「ああ。朝だけでなく、放課後も顔を出せそうだ」

 

 

 部活動に参加していないことを気にしていた嵐は元来の誠実さから、朝に一人で部室へと訪れていた。

 やることは部室の掃除と片付け、牌譜の整理、全自動卓の調整。

 自分は参加できないが、せめて他の部員が気持ちよく部活動に勤しめるように、という配慮から、誰に命じられることもなく行動に移していた。

 

 

「そっか……あー、こっちもこっちで大変よ。議会長の仕事も楽じゃないわー」

 

「お前自身の選択だ。色々と重荷もあるのだろうが、それが生きている証だろうよ」

 

「相変わらず、容赦がないっていうか何ていうか……」

 

 

 普段と変わらぬ態度の嵐に、久は僅かながら笑みを浮かべ卓の椅子に腰掛け、ぐっと身体を伸ばす。

 

 その様子に嵐は無言で備え付けられた棚の一つからインスタントコーヒーを取り出し、電動ポットから手早くカップへと注いでいく。

  

 

「今日はコーヒーより紅茶の気分なんだけど」

 

「だろうな。が、これから部活だろう。カフェインと糖分をとって疲れた頭を回転させろ」

 

「もう、だだ甘なくせにスパルタなんだから、アンタは」

 

「そのようなつもりはないんだが……、というよりも、言い分が矛盾しているぞ」

 

「いーえ、矛盾してなんかしてません。アンタはそう表現するしかない人間よ」

 

 

 砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーはもう別のものと化していた飲み物を渡し、彼はまたブラックのままのコーヒーを口にする。

 この2年間で何度となくしてきたやり取りは静かであったが、二人の間に培われてきたものが確かに感じ取れる。

 カップに注がれたコーヒーとコーヒーのようなものがなくなるまで無言の時間が過ぎてゆき、先に口を開いたのは久の方だった。

 

 

「重大発表が一つ、お願いが一つあるわ」

 

「ふむ、なんだ?」

 

「うーん、ちっとも驚かないのね」

 

「何か言いたいことがあるのは、一目見れば分かるだろうよ」

 

 

 第三者からすれば唐突な発言であったが、嵐からすれば彼女の発言は当然のものだったのか、変わらぬ無表情で視線を向ける。

 

 普段から飄々とした久も、これには流石に苦笑いを刻む。

 彼女は自らの感情とは別の表情を浮かべることのできる本来の意味でのポーカーフェイスである。

 だが、それが嵐に通用したことは一度たりともない。

 まして、それが2年間の積み重ねによって見抜かれているのではなく、出会った頃からこの調子。苦笑の一つもこぼしてしまうのは当然だろう。

 

 

「まあ、いいわ。重大発表の方はね、…………なんと部員が増えました!」

 

「ほう、それは喜ばしいな。もっとも実績のない麻雀部に入部するなど、余程の自信家か馬鹿者か、大会に興味のない者の三択だろうが」

 

「…………実績に関しては事実だけど、そう言われるとちょっとショックね」

 

「事実なのだから受け入れるしかないな。それで、何人だ?」

 

 

 嵐の問いに、久は右手の指を三本立ててみせた。

 

 

「…………全員、女子か?」

 

「残念ながら一人は男子。あ、でも凄くいい子よ?」

 

「それは喜ばしいが、お前にとって重要ではないだろう」

 

 

 清澄高校麻雀部は実績のない部活である。

 事実、嵐と久が入部してからインターハイや公式戦において優秀な成績を納めていない所か、そもそも大会に参加さえしていない。

 だが、それは二人やもう一人いる部員の実力が他校に劣っていたが故に先送りしていたわけではない。

 麻雀は運の絡む競技であるが故に絶対は存在しないが、それを差し引いたとしても三人が三人とも全国を目指せる実力と可能性を秘めていた。

 

 それでもなお大会に参加しなかったのは、竹井 久という少女が個人戦に興味を持てなかったから。

 彼女にとって団体戦のこそが公式戦であり、入学当初からの変わらない夢でもあったのだ。

 

 インターハイは個人戦と団体戦の二種類がある。

 個人戦は毎年細かなルール変更は見られるものの、多くの競技大会に近しいものとなっている。

 団体戦は個人戦のルールを元に、各校の代表5人一組が先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の順に半荘一回から二回を戦い、10万点の持ち点を奪い合う。

 麻雀競技人口が一億人を突破したこの世界において、県予選突破という門は狭く細く、全国の頂きに至るまでの戦いは熾烈を極める。

 

 しかし、それも5人が揃わねば挑むことすらできぬ夢。

 現状、清澄高校麻雀部の女子生徒の数は一年を含めて4人。つまり、夢に挑むにはあと一人、あと一歩が足りていない。

 

 

「どうするつもりだ?」

 

「待つわ」

 

 

 嵐の問いに、僅かな間も置かない答えが返ってくる。

 

 

「二年も待ったんだもの、あと数ヵ月待つなんて、どうってことないわよ」

 

「まだ諦めていない、と。…………それもいいだろう。夢が叶うのも一つの結果だが、夢に挑むことなく破れるのも結果であることに変わりはない」

 

「相変わらず、酷いこと言うわねぇ」

 

「当然だ。去年、オレは何度となく新入部員の勧誘に力を入れろと言った。その上で、お前はそれをしなかった。自業自得だな。大一番で分の悪い方にかけるのは分かっていたが、ここまでとは」

 

「う、ぐ…………だって、麻雀に興味のない人間を無理やり入部させたって戦力にならないわよ」

 

「だとしても、入部させれば麻雀に興味を持たせることも、戦力とすることも可能だったろうに。まこが入った時点で喜んで、それ以上何もしなかったお前の責任だ。今年もそんなところだったのだろう?」

 

「ぐぬぬ」

 

 

 嵐の正論を前に、久は悔しそうに顔を歪めることしかできなかった。

 人に嫌われる効率の良い方法は、正論しか言わないこと。人が感情を持つ生き物である以上、割りきれぬ感情は多々あるのだから当然だ。

 感情を抜きにした正論で諭されれば、自分の気持ちを理解してくれないと嘆くのも、冷静ではないと馬鹿にされていると受け止めるのも、また人として無理からぬ有り様だろう。

 

 しかし、久は悔しがってこそいたが、嫌ってはいない。

 彼女の性格故か、別の理由があるのか。それは彼女の心にのみ答えがあり、余人には知りえないことだった。

 

 

「忌憚のない意見、情け容赦のない正論、ありがとう」

 

「どういたしまして。以後、気をつけるがいい」

 

 

 にこやかな笑みと共に誰が耳にしても嫌味としか取れない言葉を、平然と受け止める。というよりも、嫌味に気づいてすらいないようだ。

 嵐の表情に不快感も怒りも見て取れない。事実として、彼は何ら負の感情も抱いていなかった。

 これも付き合いの長さからくる軽口叩き合い、相互理解を完了している故の歯に布着せぬ物言いというわけでなく、日之輪 嵐という人間の心の在り方によるものなのだろう。

 

 

「それで、お願いとは?」

 

「うん、その男子――名前は須賀 京太郎君ね。彼の教育をお願いしようかと思って」

 

「ふむ。教育など向いているとは思えんが、経験だけで言えば初心者へ教えられるのは俺だけか」

 

「そうなのよねぇ。女子の方は経験者だから、まだ指導の仕方も何となくは見えているんだけど」

 

 

 基礎が出来ている者に、そこから指導することと基礎も何もない完全な初心者に指導することは全くの別物だ。

 前者は基礎を骨組みとし、被指導者にとって有利かつ有意義な肉付けをしていく行為。

 後者は不要な先入観や他者の打ち筋と癖を排し、無理なく骨組みを組み立てさせる行為。

 前者は雀士としての腕があればあるほど向いており、後者は雀士としてよりも指導者としての腕が求められるもの。

 

 久自身、己の指導者としての腕がどの程度のものなのか把握していない。そもそも完全な初心者に指導した経験がない。

 対し、嵐は学生の身でありながら、そういった経験は充分に熟していた。

 

 

「いいだろう。どこまで出来るか分からないが、乞われた以上は全力を尽くそう」

 

「出たわね、アンタの悪い癖」

 

「なに……?」

 

「頼まれたのなら“断らない”」

 

「断れない、よりは遥かにマシだと思うが。それに悪癖と言われるのは心外だ。俺が動くのは道理が通っている時だけだ」

 

「アンタは度が過ぎてるのよ。長所も行き過ぎれば短所になるわ」

 

「成程、一理あるな。貴重な忠告だ、善処しよう」

 

 

 嵐は鹿爪らしく頷く。

 しかし、真摯さすら感じさせる所作にも関わらず、久はほんの少し肩を落とした。

 二年という歳月は人生において短い時間であるが、人となりを知るには充分すぎる時間だった。

 

 道理さえ通っていれば他人の頼みを断らない。

 嵐のそれは“情けは人の為ならず”という教訓や格言を守ろうとしているではなく、むしろ在り方に近い。

 その在り方がいつか彼の人生に破滅を呼ぶのではないか、と久は過去の一件から一抹の不安を覚えていた。

 

 

「それで、今年も公式戦に出ないの?」

 

「言った筈だ。お前が公式戦に出ないのなら、俺もまた出る訳にはいかない」

 

「でも、プロになるのが夢だって言ったじゃない。だったら……」

 

「くどいぞ。確かにそれは俺の夢だ。だが、果たすべき義理とは別の問題だろう」

 

 

 久には、一つの負い目があった。

 それは自分の我が儘に、嵐を付き合わせてしまったこと。

 

 

『部長のお前が出ないのなら、部員である俺が一人で大会に出る訳にはいかない。部員は部長の顔を立てるものだ』

 

 

 そんな理屈と一言で、彼は自分の夢が遠のく道を選択した。

 

 もし、自分が個人戦にも興味が持てていれば。もし、言葉で彼を説得できていれば。そんな意味のない過程が久の脳裏を過る。

 そもそも彼女の夢に付き合ったのは嵐の意思である以上、何ら負い目を感じる必要などない。

 だが、時に人は背負う必要のない重荷を背負ってしまうもの。彼女が嵐に対して感じているものも、そういったものの一つだった。

 

 それでも彼女は表情も態度も変えない。

 仮に、胸の内を吐露しても、嵐の誠実さ、献身を否定するだけ。それだけはしてはならない、と久は自身に戒めていた。

 

 

「…………そう。うん、でも、ありがとう。私よりも先に、アンタが一人で夢に近づいちゃうのは、ちょっと妬んじゃいそうだしね」

 

「そうか? お前はそのような人間ではないだろう。それは別として、いい性格とも言えないが」

 

「……はぁ、どうしてそうなのかしら、アンタって。歯に布着せぬっていうか、容赦がないっていうか、ほんとにもう」

 

「む、すまない。俺は見たまま、ありのままを口にしているだけのつもりなんだが」

 

「いいわよ。嵐がそう言うのは相手を本気で心配してだものね」

 

 

 大きく溜息をつきながら、久は片手で顔を覆った。

 

 嵐の優れた――というよりも優れすぎた洞察眼は一目で他人の本質を見抜く。弁明、欺瞞は意味がなく、騙されることはない。

 取り繕った態度も、隠しておきたい本心も、率直な性格から淡々と語ってしまう。

 彼の正論は本質を見抜いた上で、それでいいのか、それで大丈夫なのか、と相手を気遣い、問いかけているに過ぎない。

 しかし、誰とて自らの短所を語られるのは嫌なもの。嵐の心の内が伝わる前に誰もが彼から離れて行ってしまう上、嵐もそれを止めようとしない。

 おおよそ多くの人間が彼を嫌う理由は、そんな所だった。

 

 せめて率直な性格か、優れすぎた洞察力のどちらか一方だけなら嫌われることも少なかったでしょうに、と久は嘆息する。

 率直だけならば、その程度の人間はこの世に多く溢れかえってる。

 優れすぎた洞察力だけならば、口数の少ない彼のこと、全てを見透かしても胸の内に閉まっておくだろう。 

 だが、何の因果か、嵐は人に嫌われやすい性質を合わせ持っていた。

 

 

(それでも私は嫌いじゃないけど)

 

 

 辛辣で容赦のない言葉から落ち込んだことも少なくはない。

 だが、時間を置き、冷静に思い返してみれば、言葉の端々から相手を気遣う思いやりのようなものを感じ取れた。

 加えて、自らの夢が遠のくと知りながらも、相手の夢に付き合う義理堅い人間を、彼女は嫌いにはなれなかったのだ。

 

 その胸中を知ってか知らずか、当の嵐は首を捻るばかり。

 

 

「おつかれさまでー……すぅ?」

 

「部長と……誰だじぇ、この人?」

 

 

 久と嵐の会話が途切れると、タイミング良く部室のドアが開かれ、四人の男女が入ってくる。

 長身に金髪でありながら柔和で人当りの良さそうな少年と天真爛漫を形にしたかのような少女は、嵐の姿を目に止めると首を傾げた。

 仲の良い兄妹のような反応に、くすりと久は笑みを漏らした。 

 

 

「失礼ですよ、優希。ほら、例の……」

 

「おー、嵐さんも来ちょったか、重畳重畳」

 

 

 続けて入ってきたのは柔和な表情で友人を諭す桜色の髪をした少女、穏やかさと剽軽さを合わせた笑みを浮かべた眼鏡の少女。 

 

 

「みんな来たわね。じゃあ紹介するけど、彼が前に話した……」

 

「幽霊部員と紹介されていたであろう日之輪 嵐だ」

 

 

 久は言葉を遮り、嵐は椅子から立ち上がって自ら名乗り上げる。

 その様に久は顔を引きつらせ、まこは苦笑いを浮かべ、残りの三人は目を丸くする。

 五人が嵐の言葉で思い出したのは一年組が入部したばかりの頃――――

 

 

『私が部長で三年の竹井 久よ』

 

『わしが二年の染谷 まこじゃ。あとは……』

 

『そうそう、ここにはいない幽霊部員がいるけど、暫くすれば顔を見せると思うから、その時に紹介するわ』

 

 

 ―――そのようなやり取りが確かにあった。

 その場にいなかった人間が、ズバリ真実を言い当てれば、五人の反応も当然だろう。

 

 何とも言えない雰囲気が部室に漂い始めた時、金髪の少年が口を開く。 

 微妙な雰囲気に耐えられなかった、というよりは、生来の気質から話題を変更した方がいいと判断したようだった。

 

 

「日之輪先輩は三年生なんですか?」

 

「年齢的にはそうなるが、実際は二年だ。つまり留年している」

 

「……へ? ………………あ、い、いやその、す、すみませんでしたー!」

 

「これだから犬はダメダメだじぇ」

 

 

 話題を変更した先が見事に地雷だった。 

 どのような理由があれ、留年に関して触れるのも、触れられるのも嫌なものだ。

 

 金髪の少年は慌てて頭を下げ、その様子を眺めていた小柄な少女は呆れたように溜息を漏らす。

 

 

「あー、京太郎、気にせんでええぞ。嵐さんも直截すぎるわ」

 

「む、単に事実を言ったまでなんだがな」

 

「相手はそれを気にすることもあるんだから、ストレートすぎるのも考えものよ?」

 

「そう、なのか。……なら、そちらも気にする必要はないぞ。何にせよ、俺自身の不徳が招いた事態だからな」

 

「は、はぁ、そういって貰えると助かります」

 

 

 やっちゃったなー、という顔をしつつも、少年は安堵の吐息を吐き出した。

 

 

「じゃあ、一年組は自己紹介してもらえる? 名前は教えておいたけど顔とは一致しないでしょうし」

 

「分かったじぇ! 一番、片岡 優希! 好きなものはタコス!」

 

「二番、須賀 京太郎! えっと、麻雀初心者ですけど、頑張ります!」

 

「わ、私もやるんですか!? …………さ、三番、原村 和です。よ、よろしくお願いします」

 

 

 恐ろしく纏まりのない自己紹介ではあったものの、嵐は気にも留めずに顔と名前を一致させているのか、それぞれの顔を見て頷いていた。

 

 

「了解した。どれほどの付き合いになるか分からんが、よろしく頼む。ところで……」

 

「なに? 言いたいことでもあるの?」

 

「いや、俺も好きなものだの答えておいた方がいいのか?」 

 

 

(あ、この人、顔つき怖いのに真面目で天然だ)

 

(こんな大きいのに天然だじぇ)

 

(天然……というやつでしょうか?)

 

 

 助けを求めるように久とまこに視線を向けた嵐に、一年組の第一印象は決定した。

 

 

「とりあえず一局打ってみたらどうじゃ? 嵐さんも三人がどの程度の腕か見ておいた方がええじゃろ」

 

「――――すまないが、今日は顔を出すだけのつもりでな。この後、私用だが用事があるんだ」

 

 

 まこは新入部員との仲を取り持とうとしたらしく対局を進めたが、嵐はキッパリ断り、陳謝した。

 部活動といえど、個人の自由を縛ることはできない。例え、それが個人的な私用であったとしても。ましてや、その“私用”に心当たりのある久とまこであれば尚更であった。

 生まれついての生真面目さから和は何かを言おうとしたが、嵐の態度に問題があった訳でもない上、静かな誠実さに何も言うことはできない。

 残りの京太郎と優希も、そういう日もあるだろうと受け入れる。今日まで部活に顔を出せなかった先輩のこと、心に僅かな猜疑心もなかった。

 

 五者五様の反応を眺めつつ、自身の行いに問題はないと判断したのか、ではな、と短く告げ、嵐は部室を後にしようと自らの鞄を手に取った。

 が、何かを思い出したかのように虚空を見つめ、思案するように顎に手を当てる。

 暫くすると部屋の隅に配置された本棚の前に移動し、一冊の麻雀教本を取り出した。

 

 

「須賀、これに目を通しておけ。初心者なんだろう?」

 

「そうですけど、部長とか先輩とかに教えて貰うってのは……」

 

「それも構わんのだが……、何だ。本を読むのは苦手か?」

 

「はは、正直ちょっと……」

 

 

 手渡されたのは往年のスタープレイヤー、現シニアリーグ所属のプロ・大沼秋一郎著作の一冊。

 嵐がそれを選んだ理由は簡単。その一冊は著者の経験から初心者が理解しにくい部分に挿絵を入れられており、どの年齢層であっても受け入れやすいものとなっているからだった。

 

 

「まあ、自分のペースで構わんよ。どのように麻雀を楽しむのかは、お前次第だからな」

 

「いや、でも、和と優希は大会に出るつもりみたいなんですけど」

 

「大会で勝利し、自らの優位と性能を証明することも重要だが、遊びの一環として楽しみたいというのも一つの道だ」

 

「はあ、それでいいんですかね?」

 

「部活動の主題は大会で成績を残すことではなく学生生活をより良いものにするためのものだからな、好きに選べ。俺はそれに則した教え方をするまでだ」

 

 

 麻雀の楽しみ方は自分自身で決めること。

 大会に出る、というのは、あくまでも和と優希の決めたことであって、それにお前が付き合う必要は何処にもない。

 淡々とした口調ではあったが、嵐ははっきりそう言った。

 

 どのような選択であれ、個人の意思であれば尊重し、受け入れる。それが彼のスタンスらしい。

 一見すれば実に寛大な行為。実際、他人を批判、否定することの少ない彼のこと、器が大きいとも言える。

 だが、逆に言えば、それが当人の決めた事柄であるのならば、諭しもするし注意もするが、決して糾しはしないということ。

 

 人は間違いを犯す生き物。時に正しく間違う必要もあり、誰かに導かれる必要もあるだろう。

 彼はそれをしない。個人の意思を尊重しているが故に、少なくとも自ら手を出すような真似はしない。

 久が“だだ甘なのにスパルタ”と称するのも無理からぬことだろう。

 

 

「これから俺が、お前に基礎を教えることになる。男同士だ、お前も何かと聞きやすいだろう?」

 

「あー、まあ、確かにそうですね」

 

「分からないこと、厳しいものがあったのなら言ってくれ。どうにも、そういうのには疎くてな」

 

「はあ……、先輩の言っていることはよく分かんないですけど、頼りにさせて貰います!」

 

「そうか、わりと的確な自己評価だと思っているのだが……とは言え、頼りにされた以上は全力で臨むとしよう」

 

 

 それだけ言うと、嵐は今度こそ別れの挨拶と共に部屋を後にした。

 一年組の表情に変化はない。その様子に久とまこはお互いにしか分からぬよう、ほっと胸を撫で下ろす。

 嵐は初対面の人間に対してすら、歯に布着せぬ鋭い言動を放つことも間々あった。それが付き合いの浅い彼女らの間に、軋轢を生むのでは、と危惧していた。

 

 

「あの、部長。日之輪先輩は、やっぱり家庭の事情で……?」

 

 

 普段から穏やかながらハキハキとした口調で喋る和にしては珍しく、戸惑ったような口調。

 一ヶ月近く部活に顔を出さなかった幽霊部員であったが、彼の立ち居振る舞い、言動から不真面目さは感じ取れなかった。

 だからこそ、部活に顔を出さなかった理由を知っておきたかったのだろう。品行方正にして優等生と呼ばれている和らしい疑問。

 

 

「んー…………本人いわく単なる我が儘だけど」

 

「どう考えても真っ当な理由じゃな。家庭の事情と言えば家庭の事情じゃろう」

 

「何だったら、直接聞いてみればいいじゃない」

 

 

 意地の悪い笑みを浮かべながら、そんなことを言う久に、それはちょっと、と和は言いよどむ。

 初対面の人間が他人の家庭の事情に首を突っ込むなど、する側からすれば好意であっても、される側からすれば気持ちのいいものではない。

 それを弁えているからこそ、こうして第三者に聞いているのだ。久もそれを分かっていながら、自分で聞けと返しているのだから、些か以上に根性が悪い。

 

 

「これ、部員をイジめるな」

 

「あはは、ごめんごめん。でも、聞くんならそれなりに覚悟した方がいいわよ。さっきの須賀君みたいになるから」

 

「あー、やっぱりマズかったですかね、俺」

 

「まったく気の利かない犬だ。これからは私が調教してやるじょ!」

 

「い・ら・ねー! 仕方ねぇだろ! こっちだって悪気はなかったんだよ……」

 

 

 それがいつもの調子らしく、元気のいい漫才のようなやり取りを見せる京太郎と優希。

 だが、徐々に京太郎の声のトーンが落ちていく。いかにも最近の若者といった風の体に反して、根は真面目で純粋なようだ。

 

 

「いえ、アイツの場合、本当に気にしてないわね。覚悟しなさいっていうのは、こっちの予想を超えて何でも話しされちゃうからよ。中には腹を括らないと受け止めきれないくらいの重い話もね」

 

「まあ、嵐さんにとっちゃあ、別段、隠すほどのものでもないんよ。ただ聞かれたから答えただけなんじゃ」

 

「はあ……じゃあ、怒ってもいないし、不愉快にも……?」

 

「「ないない」」

 

 

 何とも言えない笑みを浮かべながらも、揃って手を振りながら、あっさり否定する。

 久もまこも似たような体験をし、それを経た人間だ。しどろもどろになってる京太郎の気持ちは痛いほどよく分かるのだろう。

 

 

「いいのよ。滅多なことじゃ怒らないから」

 

「普通の人間なら怒るところも、そがぁなこともあるじゃろう、と受け入れてしまう人じゃ」

 

「人間出木杉君だからね、アイツは」

 

「うーん、ちょっと信じられない話だじぇ……」

 

 

 優希の呟きに、確かになぁと独り言のように京太郎が答え、和も反応こそしなかったが表情には微妙な色が見える。

 少なくとも三人の同年代には、そのような人間はいなかったのだろう。

 

 決して三人の人生は長いとは言えないが、教育の過程は社会の疑似体験でもある。

 歪ながらも社会の縮図ともいえる学校生活は、僅かばかりであるものの、人がどのような生き物であるかを学ぶには充分だった。

 

 怒らない人間などいない。どんな人間でも踏み込まれたくない部分が存在し、不用意にその領域に踏み込めば攻撃的になるものだ。

 自分の意見を語れない、自分の気持ちを伝えられない人間はいるが、決して怒っていないのではなく、耐えているだけなのだから。 

 

 

「はいはい、アイツの話はここまでよー。部活なんだから、麻雀しましょう」

 

「そうですね。須賀君は、どうしますか……?」

 

「犬、のどちゃんもこう言ってくれている! お前も入れ!」

 

「あー、……いや、今は止めとく。せっかく薦めて貰ったから、コレ読んどくわ」

 

「チッ……、京太郎が入れば、須賀銀行開店御礼だったのに……」

 

「やっぱりそういう理由かよ! あと銀行は無意味に金くれたりしねーっつの!」

 

 

 その言葉を皮切りに、京太郎と優希は互いに互いの頬を引っ張りながら睨み合う。

 仲の良い者同士のじゃれ合いは、見ている者の笑みも誘い、少し騒がしくも穏やかな時間を約束する。

 

 麻雀部に置ける一つの出会いは、これにてお終い。

 さらに季節の進んだ初夏。また別の出会いが、麻雀部の行く末を決定することとなるが、それはまた、別の話。 

 



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第一話 『出会い』

※7月26日 誤字・脱字修正しました。


 俺の麻雀は、まず読み取ることから始まった。

 

 始めにあったのは麻雀牌。

 父は麻雀を心から愛していた癖に、俺に麻雀を教えてはくれなかった。

 今となってはその理由も納得しているが、当時は文句こそ言わなかかったものの不満には思っていた。

 

 それでも麻雀に興味を引かれたのは、牌に魅入られていたからだ。

 麻雀というゲームは楽しむ以前にルールすら知らなかったが、34種・計136枚の並びを子供ながらに美しいものと認識していた。

 

 父が仕事で家にいない時、目を盗んで牌を並べてよく遊んだ。

 パズル感覚だったのか、単なるおもちゃ扱いだったのか。今になっても言葉にすることはできない。ただ、とにかく楽しかったという記憶しかない。

 

 そこから、ある日テレビをつけてプロ同士の対局を目にし、牌の本来の使い方を知った。

 笑みと共に一枚の牌をツモる動作。闇の中を歩くが如く、牌を切る苦悩。和了りを目指しながらも、時に当たり牌を止める姿勢。

 羨ましいと思いはしなかったが、楽しそうだなとは思った。

 

 ――その日から、誰に教えてもらうこともなく、俺は麻雀を学んでいった。

 

 元より牌に魅せられていたのだ。麻雀に傾倒するのも、時間の問題だったのだろう。

 父に何も聞かなかったのは、子供心に教えてはくれないだろうという思いと、麻雀を愛しながらも教えない姿勢に苦悩を感じ取っていたから。

 

 だから必死になって中継を見続けた。

 やがて麻雀は四面子一雀頭を作るゲームであると学び、鳴きというルールを理解し、捨て牌から相手の手牌を予想できることに気づいていった。

 その一打にどんな意図が込められているのか。その鳴きにどんな意味があって動いたのか。

 

 手牌と捨て牌を再現し、ただ一人で学ぶ日々。

 それが、俺の麻雀の屋台骨にして原初の姿。

 

 人と卓を囲み、実際に麻雀を打つ楽しさを知るのは、まだほんの少し先の話だ。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 六月の半ば。

 気候も湿度と気温が格段に高まり、日本特有の蒸し暑く、過ごし辛い夏へと変遷を迎える真っ只中。

 清澄高校周辺の田には稲の苗が綺麗に並べて植えられ、いかにも初夏らしい風景が広がっていた。 

 

 

『ロン』

 

「だぁぁぁぁ!? やられた!!」

 

「――――惜しかったな」

 

 

 そんな初夏の放課後。

 麻雀部の部室にパソコンから流れる無慈悲な電子音と悲鳴染みた叫び声が響いた。

 

 パソコンの前に座っていたのは新入部員の一人、須賀 京太郎。その後ろで見守っていたのは古参部員の日之輪 嵐。

 

 彼らが行っていたのは国内で最大級の登録人数を誇るネット麻雀サイト。

 基本ルールも競技大会に則しており、世界の麻雀競技人口が数億人を突破した今でも高い人気を誇るサイトの一つ。

 

 

「くっそー、出和了りでもツモ和了りでも逆転トップだったんだけどなぁ」

 

「まあ、不用意であったのは否めん」

 

 

 今しがた終わった対局の内容は、南四局に下家のプレイヤーに京太郎が振り込み、下家は最下位の逆転トップ、京太郎は最悪のラスという結果だった。

 元々の点差に開きは少なく、ツモりツモられを繰り返し、何とか京太郎が二位を守っての最終局(オーラス)

 

 

 南4局0本場 親・下家 ドラ{②}

 

 京太郎手牌

 {一二三五六七②③④68西西}

 

 

 5順目で既に京太郎の手牌は、この形であり、カンチャン待ちであったが即リーといった。

 

 

「最近の麻雀は、何より速さが求められる。ドラ1ならばカンチャン即リーも珍しいことじゃない」

 

「ですよね。でも上がりまで15順目まで縺れ込んじゃいました」

 

「そうだな。そこで対面の捨て牌を注目しろ」

 

 

 対面・捨て牌 5順目

 

 {西③南61}

 

 

「さて、これをお前はどう読む?」 

 

「んー、……早すぎて何とも言えないですけど、{6}の後に{1}切りは変、ですかね?」 

 

「――――悪くない着眼点だ」

 

 

 基本、麻雀は端の幺九牌や手牌において浮いている牌から処理していくもの。

 幺九牌と周辺の牌で構成される役は極端に少なく、役牌が対子か暗刻でない限り、狙っていくのを躊躇する場面も多々ある。

 

 

「対面はかなり早い段階で決め打ちをするタイプだった。チャンタを狙うにしても、字牌は仕方ないのも分かるが{③}の出が早すぎる」

 

「浮いてるにしても先に{6}を切らなきゃ可笑しいってことですか」

 

「その通りだ。そして、3順目に下家が{北}を切った時、僅かながらに止まり、結局は誰も鳴かなかった」

 

 

 それは対面か上家が北の対子か暗刻を抱えている可能性が高かったということである。

 しかし、どちらにとっても旨味は薄い。自風でも場風でもない字牌を早い段階で鳴くのは自殺行為と言っても差支えない。

 

 

「対面に{北}の対子か暗刻があるとしたら、狙いは混一……でも、鳴くほど寄ってなかった?」

 

「ふむ、萬子に寄っていた可能性も否定できないが、それでは{6}から{1}切りの説明がつかないな」

 

「うーん、となると…………ああ、七対子か」

 

「そうだな。5順目以降、対面は切り出しが遅くなっていた。七対子と決め、他家の捨て牌を見て重なりそうなところを残していたんだろう」

 

 

 七対子は四面子一雀頭を作る麻雀の中で、七つの対子を作る異質な役。

 ドラの重なりがなければ高い役ではないが、最終的に待ちは単騎となり、捨て牌の迷彩が施しやすく、出あがりも期待できる。

 点数に開きのない場面において、北を鳴いて誰からも分かる混一に向かうよりも、手を作ること自体が難しい七対子を選択したのだろう。 

 

 

「恐らく、5順目の時点で萬子の対子が2つか3つ手にあったが、鳴くよりも手牌を読み辛くしてトップへの直撃を狙ったというところか」

 

「……この{6}切りは、隣の{5}か{7}を対子で抱えていたってことですか」

 

「それだけとは言い切れないが、可能性は高い。当たり牌を二枚を抱えられている可能性がある状態でのカンチャンリーチは自殺行為だった、ということだ」

 

「うーん、リーチで威嚇したつもりが、蓋をしただけだったんスね」

 

「それにネット麻雀は最後に押してくる可能性も高い。失うものは何もないからな」

 

 

 失うものは、精々がレーティングや自身の階級・段位だけ。

 競技大会のように公の場でもなく、団体戦のように仲間からの信頼を失ないもしない。自然、無理をしてくる人間も多くなるだろう。

 

 

「さて、答え合わせをしてみるか」

 

「うっす!」

 

 

 二人の利用しているサイトは対局後、過去の牌譜を確認することができる。最近ではそう珍しい機能ではない。

 

 この一ヵ月、二人の部活動はこうしたネット麻雀での対局と検討会の繰り返しだった。

 嵐がそうした理由は、予想していた以上に優希や和といった一年組の中で力量に開きがあったからだ。

 

 優希は東場における和了率、打点、テンパイ速度、どれを取っても常人とは桁違い――というよりもほぼ異常といって差支えのないレベル。

 和はインターミドル個人戦の優勝者。そもそも初心者の京太郎と実力を比べる時点で間違っている。

 久にしても、まこにしても、麻雀に携わっている時間が違う。言わずもがな、嵐もだ。

 

 部活内に、ただ一人の初心者というのは何かと肩身が狭い。

 その上、何度対局しても負け続け、負け通しではストレスが貯まる。そこから麻雀への興味や関心が薄れていくことを危惧したのだ。

 

 よってまずはネット麻雀で、同じ程度か、その少し上の実力の相手と対局を繰り返すことで、基礎を固め、自力を上げさせていった。

 無論、後ろから見ているだけでなく、あからさまなミスをした場合は即座に指摘し、ミスとは呼べない押し引きの妙は検討会で話し合う。

 

 

「ふむ、ネット麻雀でも勝率が上がってきているな。俺がいない時、部活内での勝率は?」

 

「あー、前は全然でしたけど、今は10回か20回やれば一回トップを取れるくらいですかね」

 

「まだまだだが、初心者にしては上出来だ。ラスを引く回数は?」

 

「それなら優希の方がちょい多いくらいだと。アイツは基本押せ押せだからですかね」

 

「攻めは一流、受けは三流の典型だな。大会までの課題だ」

 

「はあ、俺も取り敢えず出ようとは思ってますけど、どこまでいけるかなぁ」

 

「さてな。それはこれからのお前の努力と当日の運次第だ」

 

 

 二人でプリンターから印刷された今日の牌譜に目を通しつつも、細やかな談笑に花が咲く。

 嵐は京太郎の素直で真っ直ぐな性格を認め、京太郎は嵐の厳しく容赦がないながらも、大らかな性格を尊敬しつつあった。

 会って一ヶ月ほどでも、気さえ合えば人の仲など急速に近づくもの。互いの気質が噛み合った結果、二人は真っ当な先輩後輩としての関係を構築していた。

 

 

「――――ところで誰か、部活に入れそうな友人はいるか?」

 

「え? もしかして、俺なんかやらかしました?」

 

 

 唐突な嵐の問いに、慌てたように京太郎は自分を指さして椅子から立ち上がる。

 自身に何ら疚しい所がなかったとしても、そのような質問をされれば、知らず知らずの内に問題を起こしてしまったと考えても仕方がない。

 

 

「いや、そうじゃない。もしお前に問題があるようなら、教育係の俺が真っ先に指摘するさ」

 

「そうですよね。先輩、容赦ないですし」

 

「…………すまんな。悪気があるわけではないのだが」

 

「あ、いや、こっちも悪いんで。遠回しに言われるよりか、はっきり言ってくれた方がまだ……」

 

 

 京太郎が知った嵐の言動は、容赦がないものの、悪意や誰かを嫌って貶すものではないということ。

 事実、京太郎の一言に落ち込んだように肩を落としている。自覚をしながら、それをなかなか改善できない者の苦悩が感じ取れた。

 

 もっともヘコんだことは一度や二度ではなかったが。

 

 

『残念ながら、お前に麻雀の才能はないな。だが、見込みはゼロではないか』

 

 

 ネット麻雀をしている時に、そんなことを言われた。その際、嵐は久に助走をつけてぶん殴られた。

 恐らく、これが最も彼の落ち込んだ一言だったろう。見込みはゼロではないというのも、取って付けたようでありがたみはまるでない。

 

 それでも嵐を嫌わなかったのは、その才能がない後輩を、才能がないという理由で切り捨てなかったから。

 部活に顔を出せば、始まりから終わりまで京太郎の打ち筋に目を通し、改善点を指摘する。

 久やまこは、自身の実力向上を目的としているために、質問をしても返ってくる答えがおざなりであることも少なくなかった。

 対し、嵐は自分の時間を削ってまで、京太郎の実力向上に努めていた。事実、今日この日まで、部活において彼が対局している姿を見ていない。

 

 ある時、それを疑問に思い、直接問うてみたことがある。 

 

 

『気にすることじゃない。現状、部内で人の手が必要なのがお前なだけだ。それに安心しろ、家に帰ったら勉強がてら牌譜の研究も一人でやってる。実力が向上することはあれ、衰えることはない』

 

 

 才能の有無に関わらず、必要だからこそ、自身の役割がそういったものだからこそ、俺はお前が強くなれるように、麻雀を楽しめるように努めている。

 

 返ってきたのは、そんな気持ちがはっきりと伝わってくる言葉だった。 

 初めて出会った時、久の人間出木杉君という言葉を、すんなりと受け入れられてしまうほどに。

 

 麻雀の実力は分からないが、人として尊敬できることは間違いない。それが京太郎の嵐に対する認識であった。

 

 

「はあ、それじゃあマネージャーとかですか?」

 

「いや、それもない。雑用も俺とお前でやっているしな。全く、久のやりようにも困りものだ」

 

「はは、仕方ないですよ。先輩は兎も角、俺は一年の上に初心者ですし」

 

「馬鹿を言え、それは大規模な部活に限った話だ。お前の責任ではなく、奴の采配ミスだよ。俺は構わんが、お前についてはキッチリと話し合うとしよう」

 

 

 京太郎のフォローを言葉の一刀をもって断ち切り、久の不手際と溜息をついた。

 小規模な部であるのならば、仲間同士でフォローしあうのは当り前だが、それを一人に押し付けるのは嵐にとって好ましくないようだ。

 部活動に一番使えない者、価値のない者を雑用に回すのは当然のこと。力のない者が力のある者に奉仕するというのは、社会において当然の在り方だ。

 誰であっても否定できない。それが何らかの利益や目的に向けて行動している集団ならば仕方がないと、彼も認めているだろう。

 だが、いくら何でも一人に、ましてや付き合いの短い者に背負わせるには重すぎる。人によっては、部に来ることさえ嫌になるほどの重荷だろう。

 

 京太郎は、それを不満に思うことはあっても不遇を嘆くような人間ではない。

 あくまで思考それ自体は後ろ向きだが、明るさやひた向きさは失わず、自らの感情を処理できる。

 しかし、少なくとも嵐にとって、それとこれとは話が別であるようだ。

 

 

「お前にもインターハイには個人戦と団体戦があることは説明しただろう?」

 

「……ああ、そうか。個人戦は兎も角、団体戦の方は女子の人数が一人足りないっスね」

 

「そういうことだ。俺たち男子は二人しかいないが、女子はあと一人だ。折角だから、団体戦にも出してやりたくてな」

 

 

 久の団体戦にかける思いを知っていながら口にせず、自分の意思として京太郎に問いかける。

 いや、本心から自分の意思なのだろう。彼にとって義と恩は返すもの。人に押し付け、感謝や見返りを求めるものではない。

 

 

「と言われても、そりゃ男友達はいますけど、部活に入って大会まで頼める女友達となるとなぁ」

 

「そうか。…………いや、無理を言った。俺自身、知人はともかく、友人は極端にすく―――」

 

「――あ。一人だけなら……いや、でもアイツ、麻雀とかできんのかな……?」

 

 

 実力自体は別にしても、麻雀部に入ってくれと頼める程に仲が良い女友達がいるのか、京太郎はでもなぁ、うーんと眉間に皺を寄せながら唸る。

 

 話を聞けば、何でも中学時代からの付き合いらしく、引っ込み思案であるものの性格に問題があるわけでもないようだった。

 当人は本が好きな文学少女。麻雀についての話はしたことがなく、ルールを理解しているかも分からないそうだ。

 

 

「折角だ、今度連れてこい」

 

「はあ、でも初心者だと思いますよ。話してる時も麻雀の話題にならないですし」

 

 

 世界は今、野球でもサッカーでもなく、競技麻雀に熱を上げている。

 だが、全ての人間が麻雀を好いているわけもなく、嫌っている人間もいれば、興味関心を一切持たない人間も存在する。

 例え、熱狂しているのが麻雀であれ、野球であれ、サッカーであれ、千差万別を誇る人間のこと、何を重視し、何を楽しむかなど個人の感性に委ねられるだけだの話。

 流行に乗り損ねていると笑われる謂れも、人生の大半を損していると馬鹿する必要もない。

 

 

「初心者でもいいさ。それならそれで、お前も愚痴や文句は俺よりも吐き出し易いだろう?」

 

「でも、それって先輩の負担が増えるってことなんですけど……」

 

「そうとは限らんさ。久は久で、大会に出るのなら己の戦術のみならず、チームとしての戦略も見据えねばならない。俺一人に押し付けることはないだろう。

 それに俺は俺で、全てを納得した上で行動している。俺の負担など、それこそお前の気にすべきことではない」

 

 

 冷たく突き放すような言葉だが、声には暖かみと穏やかさで満ちていた。

 静かだが、一人の人間として、確かな決意と覚悟を感じさせる姿勢。これも京太郎が舌を巻き、見習うべきと判断した尊敬している点だった。

 

 

「じゃあ、今度声かけてみます。タイミングが良ければ、先輩とも顔合わせられるかもしれませんし」

 

「引っ込み思案なんだろう。俺は身体もデカいし、強面らしいからな。会わない方がいいんじゃないか?」

 

 

 うーん、と考え込む京太郎。

 確かに京太郎の知る幼馴染は人付き合いが苦手、というよりも下手くそだった。

 気弱、口下手、引っ込み思案。最低限の感情や意見を述べるが、あくまでも必要な分だけ。

 孤立こそしていなかったが、親しい人間を作らないその態度を、一人の友人として心配してもいた。

 中学時代は少なくともクラスにおいては、彼女を極力気にかけ、少しでも周囲に心を開くよう努力したのは、忘れようもない記憶だった。

 

 そんな友人が、この先輩と上手くやれるのか。

 当然の疑問であったが京太郎は答えを出すことができず、話を逸らすことにした。

 

 

「あー、ぱっと見、細身ですけど身長ありますもんね。どれくらいあるんですか?」

 

「この間の身体測定では、身長187、体重は80ジャストだったな」

 

「――デカッ?! はあ!? そんなに、いや体重も結構あるって完全に運動部の身体ですよ! しかもかなり鍛えてる連中の!」

 

「いや、これでも衰えた方だ。一年の終わりか二年の始まりの時は、体重は90以上あったよ。一時期、学生服の前が閉まらなかった」

 

「すっげぇ?! なに!? 先輩、ジョナサン・ジョースターか何か目指してたんすか?!」

 

「じょな……? 誰だ、それは。有名なスポーツ選手か?」

 

「波紋戦士です……!」

 

 

 想像以上の体格の良さに驚き、京太郎の頭から幼馴染の存在は一時的に吹き飛んだ。

 

 この時、二人は気づいていなかった。

 麻雀部と幼馴染の出会いは、一つの変遷をもたらし、嵐にとって深い意味を持っていることに――――

 

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 旧校舎の階段を一段飛ばしで上る。

 高校生の平均身長と体重を大きく超えた体格を持つ嵐にとって、その行為は急いでのものではなく日常だった。

 陸上競技――――殊更、短距離走において、その長い脚から約束された広い歩幅は、小柄故に足の回転数の多さで勝負をする陸上選手からすれば、垂涎ものの代物だろう。

 

 今日は部活に参加するつもりはなかったのだが、久とはタイミングが合わず、その旨を伝えることができなかった。

 せめて誰かに伝言か、メモだけでも置いておこう、と部室へと赴いていた。

 

 部長である久と一年の付き合いとなるまこは彼の事情を知り、残りの一年組も事情は知らないながらも納得をしている。

 わざわざ一声かけるまでもなかったが、義理堅い性格の嵐はそれを良しとはしなかった。

 

 呼吸を乱すことなく最上階の部室前にまで至り、部屋の内側に五人分の気配を感じ取った。

 過去の一件から、嵐は人の――というよりも生き物の気配に敏感だったが、常人離れしている感は否めない。

 ともあれ、五人分の気配というのに首を傾げる。少なくとも今日は曜日から言って、まこは実家の手伝いのために部活には参加していないはずなのだ。ならば、部員数から言って気配の数は四人でなければおかしい。

 

 それでも疑問を打消し、扉に手をかけた。

 麻雀部がまだ久、まこ、嵐の三人だった頃、ゲストと称して学校の教師や生徒を呼ぶことは多々あった。

 部活動のほとんどが三麻か、プロの牌譜研究だけでは実戦感が衰えるという理由で、久がたびたび外部から面子を連れてきていたのだ。

 もっとも、その中には彼女の眼鏡に叶う者は一人もおらず、一度限りのゲストにしかならなかったが。

 

 

「――――あ、先輩、お疲れ様です」

 

「おー、日之輪先輩が珍しく重役出勤だじぇ」

 

「お疲れ様です。……今日は、アルバイトの日じゃなかったんですか?」

 

「いや、今日は誰にも伝えられなかったからな。時間もあるし、直接伝えに来たのだが、……タイミングが悪かったな。邪魔してすまない」

 

「日之輪先輩はホント律儀だじぇ。お前も見習うんだぞ、犬!」

 

「そういうお前もな」

 

 

 対局を中断させたことを謝罪し、見慣れ始めた京太郎と優希のやり取りに表情に大きな変わないながらも、頬を僅かに緩ませる。

 

 そして、闖入者である己に目を向けていた見慣れないゲストを見た。

 栗色の髪に同色の大きな瞳。見る者によっては優希よりもあどけなさを感じさせる顔立ち。椅子から立ち上がれば身長は和と同程度と言ったところか。

 何処にでもいる普通の女子高生。だが、嵐にとってはそうでなかったのか、誰にも悟られぬように息を飲んだ。

 

 

「……ど、どうも」

 

「………………、ああ」

 

「え、っと、一年の宮永 咲です」

 

「そうか。二年の日之輪 嵐だ。須賀も言っていただろうが、こんな顔だが危険はないぞ」

 

「…………へ?」

 

「……先輩、聞いてもいないのに、俺の言ったこと言い当てないで下さいよ。咲、驚いちゃってるじゃないですか」

 

「あからさまにそんな顔をしていたから、確認ついでに言ったまでなんだがな」

 

 

 若干、顔を引きつらせた咲と京太郎を前にしても冷静な態度を崩さず、淡々と告げる。

 

 

「折角だ。まだ余裕もあるし、この半荘だけは見させてもらうとしよう」

 

 

 どのような心境の変化なのか、学生鞄を置き、京太郎と咲の手牌を確認できる位置に陣取った。

 三人は嵐の様子を気に留めることはなかったが、咲は後ろで見られることに慣れていないのか、僅かに落ち着きがない。

 

 そして、中座されていた対局は、再開された。

 

 

 

 

 南三局0本場 親・咲 ドラ{⑧}

 

 

 8順目 咲・手牌

 

 {二三四五六七③④⑤⑤668} {9}(ツモ)

 

 

(さて、{⑤}切りで{89}のペンチャンを残すか。{8}・{9}の切りのどちらかで{⑤}を一枚浮かせ、両隣のくっつきを待つか)

 

 

 待ちの良さを考えれば、{8}・{9}切りの{⑤}一枚浮かせが正着。

 だが、六順目の時点で{8}・{9}は共に三枚切れ。{7}が山生きである可能性は高い。

 事実として残り三人の手牌には一枚の{7}しかなく、計算上、三枚が山と王牌にある。

 

 

 南家 京太郎・手牌

 

 {三五六七⑧⑧222発発南南}

 

 

 西家 和・手牌

 

 {二二三四五⑤⑤⑥⑥⑦⑧34}

 

 

 北家 優希・手牌

 

 {五六七八八②③③357白白}

 

 

 {5}も場に一枚も出ておらず、優希の手牌に一枚のみ。{6}が裏ドラになっても可笑しくはない。

 また優希の手牌は白を鳴き、{4}が埋まれば、{7}が飛び出すだろう。

 全体を見渡せば、{7}ペンチャン待ちも、それほど悪いとは言い切れない。

 

 

({⑤}で原村は鳴くだろうが、片岡は{白}を鳴くか重ね、更に{4}が埋まった時、{7}を止められるかどうか)

 

 

 トップ目の和としては、タンヤオドラ1の手で充分。

 {⑤}を鳴き、{34}の両面待ちでテンパイできるのなら、鳴かない理由はない。

 だが、その形でテンパイした場合、残りの和了り牌は{2}一枚と{5}が三枚。ツモる確率だけを見れば、咲も和も然したる差はない。

 出和了りに関しても、優希から咲へ、京太郎が七対子へと移行した場合に和への放銃もあるだけ。

 

 

(勝負は殆ど五分。さて、どうする――――?)

 

 

 暫しの逡巡の後、咲が切り出したの{⑤}、つまり{7}のペンチャン待ちを選択した。

 彼女が素人にせよ、玄人にせよ、可笑しい選択ではない。

 

 素人ならば、単にテンパイしたから、その待ちを選択したと説明できる。

 玄人ならば、{7}が山生きと呼んで、あるいは裏ドラを期待しての先制リーチという考えからの選択と読むことができる。

 

 ――――だが、咲の選択は、その全てから外れたものだった。

 

 

 「ポン」 

 

 

 {⑤}を和が鳴く。

 咲はペンチャンの待ちを選択し、和をテンパイのために鳴いただけ。何ら可笑しいことはない――――

 

 

 ――――咲がリーチ宣言さえしていたのなら。

 

 

「……………………」

 

 

 {⑤}を鳴かれ、一発を消されることを警戒して、という可能性もあったが、咲はこの局において最後までリーチ宣言をしなかった。

 和が上がるまでの5順の間、嵐の予想していたように優希は最終的に{4}を自力で埋め、{7}を切り出したにも関わらず。

 

 タイミングを逃したか、弱気の虫が暴れたのか。他にもいくつかの可能性を立てたが――

 

 

(裏ドラはやはり{6}。いや、違うな。宮永は{⑤}切りの際、原村の捨て牌に視線を飛ばした。あの光、素人のそれじゃない。手牌はかなり読めると見るが、ともすれば………………ああ、そういうことか?)

 

 山を崩す際、見えた牌は{5}。予測通り、裏ドラは{6}だった

 だが結局、嵐はその全てが間違いだと断じ、一つの新たな結論(こたえ)へと辿り着いた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 最終的にオーラスは咲が234の三色を捨てた平和のみ1000点を和了り、半荘は終了した。

 トップは和、二位が優希、三位は咲、四位が京太郎だった。

 スコアだけを見るのならば、京太郎の一人沈み、咲は±0と、ぱっとしない成績である。

 

 

「………………」

 

「あー、最後に振り込んじまった。先輩、どうでした……?」

 

「……ん? ああ、そうだな。大会を見越しているのなら、最後の振り込みはないな」

 

 

 スコア票を眺めていた嵐は、京太郎の声にようやく反応を示した。

 

 大会における個人戦は、勝ち抜き戦ではなく、スコアのトータルを競うもの。

 一戦目に-20であったとしても、二戦目で+30を取れば、負債は帳消しとなり、スコアの総合は+10と扱われる。

 最終的にスコアが最も高かった者が頂点であり、一戦でどれだけ稼ぐかも重要であるが、同時に一戦でどれだけ失点を防ぐかも重要なのだ。

 

 その点、京太郎は最後のリーチ宣言は不用意としか言えない。

 確かに一発、裏ドラも乗れば逆転トップの大まくりではあったが、切り出す牌は他家の当たり牌である可能性が高かった。

 

 

「相手のテンパイを読めるかも、今後の課題か」

 

「京太郎もまだまだだ。しっかり精進するんだじぇ」

 

「そういうお前もだ、片岡。南場に入っていたからか、ある意味須賀よりも悪い点は多々あった。下がいるからと、自分の粗から目を逸らすのは感心しないな」

 

「うぐぐ……日之輪先輩は容赦がなさすぎるぅ」

 

「事実だ。あと、揃いも揃って牌の扱いが荒いぞ」

 

「……それは、実力とは関係ないと思いますけど」

 

「ないことはないだろう。一流には一流の品格と礼節が求められる。強ければ卓の上での行為が許されるなど、それこそ非人間的、(ケダモノ)の思考だ。まあ、人も獣の一種ではあるが」

 

 

 もし絶対的な強者がいたとしても、挑発的な発言、あからさまな威嚇が許されるわけではない。

 誰からも認められてなどいないが、実力の違いから指摘できず、ただ黙認されているだけ。強ければ物事を押し通せる、弱肉強食――獣の理屈だ。

 だが、人は勝負の最中はいざ知らず、前と後には礼を知る生き物。相手が誰であれ、礼節を忘れるべきではない。

 

 人も獣の一種であるがな、という言葉も本心であったが、人と獣の違いはハッキリさせておくべきと言っているも同然。

 至極正論、非の打ちどころのない意見だった。改めろ、と糾しはしないが、改めるべき、とは諭している。

 

 

「……それくらいか。原村にも目立ったミスはあったが、何処が悪かったかは自分で考えろ」

 

「あの、私に関しては、ちょっと厳しくないですか……?」

 

「ん? お前の麻雀は基本的に一人でやるものだろう? 競うことはあっても、他家を気にかけることはない。デジタルとはそういうものだ」

 

「そんなことは、ないと思っているんですが……」

 

「その割に久と口論になっていたじゃないか。別段、それを咎めるつもりはない。相容れぬ意見というものは、当然あるものだからな。だが、そういう道を選んだ以上、自分で責任を取るがいい」

 

「……日之輪先輩、きっついじぇぇぇ……」

 

「……い、いや、ほら、先輩は和の意見を尊重しているだけだから! そ、そうですよね!?」

 

「…………そのつもりだったのだが。すまない、口が過ぎたようだ。それこそ、お前は俺の意見など求めていまい」

 

 

 京太郎のフォローに、またいらぬ真似をしたと反省しながらも、自身のフォローで止めを刺していた。

 その発言に、京太郎も引き攣った笑みのままヒューと息を吸い込み、優希はポカンという顔で見つめ、和は和でしょんぼりと肩を落とした。

 

 デジタルとは常に最大の期待値を求める打ち筋だ。

 ツキや流れ、勢いといった抽象的な要因を反映させず、数字と確率が全てと断じる。そこに他人の存在を差し挟む余地はない。あくまで必要なのは他人がどの牌を抱えているか、という点のみだ。

 

 そういった意味で、嵐はミスも己で見つけ、改善してこそ和のためになるという意味での発言だった。

 決して責めてなどいない。むしろ認めてさえいるが、発言が率直すぎて責めているようにしか思えなかった。

 

 

「…………それから宮永だが、もうちょっとこう、巧いやりようがあると思うのだが」

 

「あー、それはしょうがないじぇ。咲ちゃん、もろ初心者だったし」

 

「…………あ、あはは」

 

「そういう意味で言ったのではないのだがな」

 

「……え?」

 

 

 咲だけにしか聞こえない声で、そんなことをボソリと呟いた。

 その呟きに、咲は凍りついたかのような表情で嵐を見た。

 

 何かを恐れているような、ただひたすら怯えているだけの人の表情(かお)

 それを前にしても嵐は表情一つ変えず、かといって言葉をかけるわけでもなく、いつも通りの鋭いながらも穏やかな視線で応じた。

 

 僅かな間だけ絡まった視線を嵐は自ら解き、そういうこともあるか、と今度は誰にも聞こえない声で呟き、頷いた。

 

 

「そろそろ時間だ。……では、お前たちはこのまま続けてくれ。四人とも、無理のない範囲で頑張るといい」

 

「あ、はい。先輩も言動に気を使ってアルバイト頑張ってください」

 

「それに関しては心配ない。俺は仕事中、殆んど口を開かんからな。……原村も、本当に悪かったな」

 

「いえ、そんなことは…………。須賀君、流石に失礼じゃ。落ち込んでますよ」

 

「和、先輩はそれくらいはっきり言わないとダメっぽい。あの人、超真面目。遠回しに言うと額面通りに受け取られる。あと、メンタル回復すんのも超速い」

 

「じぇぇぇ、部長や染谷先輩が言ってた通り、あんまり気にしない方がいいかもなー」

 

(気を使わせてしまったか。見たままを言っているだけのつもりなのだが……)

 

 

 ひそひそと極力、嵐に聞こえないつもりで喋っていたつもりなのだろうが、当の本人にはまる聞こえだった。

 壁を隔てた人間の気配を感じ取れるのだ。常人よりも五感が優れているのは火を見るよりも明らかだろう。

 

 失礼な発言をする後輩に対しても、むしろ気を使わせたと反省する。

 その後、パソコンデスクにあったメモ帳に何事かを書き込んでから学生鞄を片手に部室を後にしようとするが、その足が止まる。

 

 

「そうだ。忘れていたが一雨振りそうだ。もし傘を忘れているのなら昇降口の傘立てに入っているから使うといい」

 

「え? でも先輩の傘が」

 

「いや、俺のとは別だから心配するな。学校に捨てられていた壊れた傘を修繕しただけだ。一度だけなら問題なく使えるだろうよ。処理はお前達に任せる」

 

(((こんなに気が利くのに、なんで普段の言動がああなんだろう……)))

 

 

 三人が全く同じ思いを抱いているのに気付いているのかいないのか、それだけ言うと嵐は部室を後にする。

 

 彼からすれば、別段、不思議なことではない。

 いつも見たままを伝えても、相手が不快になり、怒るばかりで自分の気持ちが伝わったことなど殆どない。だから言動も、より率直で鋭利となっていく。

 

 自分が多くを語られずとも本質を受け取れるから、相手の言動を受け入れ、認めることができるからこそ、他人が自身の言動で不快になることに気づけても、言動の何処に問題があったのか気づかない。

 更には少ないながらも久やまこといった理解者もいるため、いずれは自分の言葉も相手に届くと信じている。

 正の悪循環ともいうべきか。誰の悪意がなくとも物事が悪い方向に進んでいく。それこそ、よくある話だった。

 

 

(……予想していた以上の大物だ。釣り上げられるかは、久次第といったところか)

 

 

 旧校舎の階段を下りながら、そんなことを考える。

 宮永 咲は文字通りの大物。それこそ県予選突破どころか、全国優勝を狙えるほどの逸材であると嵐は判断していた。

 彼女の打ち回しにせよ、生まれ持った強運にせよ、そこいら学生雀士とは比べ物にならない才気と努力が読み取れた。

 

 ただ同時に、麻雀がそれほど好きではないことも伝わってきた。

 どのような理由があったかまでは断定できないが、少なくとも麻雀を始めた経緯に何か関係があると嵐は踏んだ。

 

 部室に残してきたメモには“ゲストに要注目”とだけ書いた。

 久の夢も理解できたが、その夢に共感するか、拒絶するかは咲次第と、強制するつもりは毛頭ない。

 麻雀が嫌い、という気持ちは欠片ほど理解もできなかったものの、咲自身が自らの意思で麻雀を打たなければ意味がないと心から信じている。

 

 ただ、咲と打っていた三人は、嵐の評価を聞けば首を傾げたに違いない。

 何故、そこまでの評価を彼女に下すのか、と。

 

 

(しかし、意図した±0、か。…………何の意味があるのか全くもって理解できんが、実に大したものだ)

 

 

 そう、それが嵐の見抜いた彼女の意図。

 恐ろしい話である。たった2、3局でそこに秘められた意図に気づく日之輪 嵐も、狙って±0というスコアを叩き出す宮永 咲も。

 

 麻雀は運の絡むゲーム。その日の好調、不調で容易く結果は変化する。

 そんな中で、毎回±0という全く同じ結果を叩き出せるとするならば――――脅威驚愕を通り越し、もはや悍ましいレベルだ。

 

 

(だが、やはりお前のやり様で傷つく人間もいる、と伝えた方が良かったか。原村辺りが気づけば、さぞや悔しがるだろう)

 

 

 温和な性格な和であるが、麻雀の腕前同様、プライドに関しても一級品。 

 咲の±0には理由の如何に関わらず、勝つ気もなく、かといって負けるのも嫌、という我が儘同然に受け取ってしまっても可笑しくない。

 

 単に実力を隠すだけならば、僅かな+、僅かな-に納めればいい。 

 だが、咲の打ち筋はあくまで±0。ただただ異常さだけが浮き彫りになる。

 もう少し巧いやりようがあると思うが、という発言も咲と打っていた三人の心境を慮ってではなく、あくまで咲自身の将来やこれからの立場を考えてのものだった。

 

 

(何にせよ、相当の苦悩と努力が感じ取れる。…………それに、宮永、か)

 

 

 脳裏を掠める記憶。

 小学校の頃から付き合いのあった三人の幼馴染、中学の時に初めてできた女の友人。

 あの時は、ただ楽しかったという記憶しかない。明確な目的意識をもって麻雀を打っていたが、それ以上の喜びと楽しさがあった。

 

 それが崩れ去ったのは何時の頃だったのか。

 無邪気な悪意、幼稚で歪んだ正義感、残酷に追い詰められた一人の幼馴染、助けてくれない大人達、中学最後の夏に見た――――

 

 

(止めるか、終わったことだ。……ともあれ、アイツにも手紙を送っているんだから返事くらい寄越してくれてもいいと思うのだが…………もしや、そこまで嫌われてい、たの、か)

 

 

 階段を下り、旧校舎の昇降口まで辿り着いた嵐は、そこまで考え、膝から力を抜けていく前に大勢を立て直す。

 

 誰かに嫌われるのは仕方ない。誰にでも好悪の基準はあり、それを妨げる権利を誰もが持ちえぬのなら、誰を好くのも嫌うのも個人の自由。

 嵐も認めていることだ。が、それはそれとして仲が良いと信じていた友人に嫌われているのかも、と考えれば、誰でも落ち込むものだろう。 

 

 

(まあいい。ちょうどいい時期だ、また手紙でも送ってみるか。……こんなことなら、中学時代に携帯でも買っておくべきだったな)

 

 

 溜息と共に靴を履き、旧校舎を後にする。

 外は太陽が鈍色の雲で覆われ、だいぶ気温が下がっていた。反面、湿度は上がって不快指数は急上昇。

 雨が降り出す直前の、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。もう一時間もすれば、夕立ちが来るだろう。

 

 この二年ですっかり慣れたが、かつて住んでいた東京と今住んでいる長野では、匂いにすら違いがある。

 どちらがいいのか、など判断はつかなかったが、郷愁の念が生じていたことだけは間違いなかった。

 

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 後日、嵐は久に誘われ、昼休みに部室で昼食をとっていた。久も嵐も弁当を開き、向かい合せて食事に舌鼓を打っている。

 

 久の弁当はメインを鶏と豆腐のハンバーグ、脇に卵焼きとアスパラガスの肉巻き、彩りにはプチトマトとブロッコリーが添えられ、ご飯には桜でんぶが振り掛けられていた。

 対し、嵐の弁当はおかずは同じであったが、栄養のバランスよりも腹の膨れるように調整され、白米に梅干しの乗せられたシンプルなもの。

 

 おかずの内容が全く同じ、ということは作った人間が同じであることを示唆している。

 事実として、二つとも嵐の作ったものだった。

 

 かつて、学食ばかり食べていた久を見かね、嵐が苦言を呈したが、返ってきたのは“時間がないの”、“そこまで言うならアンタが作ってくれるの?”というつれない返事だった。

 

 ――――だったのだが、彼女の発言を真に受け、次の日には弁当を作ってきた上に、これで文句はあるまいという表情で渡した嵐。

 クラスメイトの前でそのような真似をしたものだから、あらぬ誤解を招いた。

 いらぬ憶測と冷やかしに辟易した久は弁当の礼も拒絶も忘れ、ズルズルとほぼ二年近い時を、こうして手作り弁当を食べ続けているのだった。 

 

 

「アンタの言ってた通り、大した大物だったわよ、宮永さん」

 

「ああ、そうか」

 

 

 あの半荘の後も咲は二回連続で±0のスコアで終了させたらしく、珍しく久の顔には興奮の色が露わとなっていた。

 しかし、嵐は平時の様子そのままで、殊更驚くに値しない事実のようだ。

 

 

「……反応薄いわね。嵐が須賀君に連れてくるように頼んだんでしょう?」

 

「入部させることを前提にしてはいたが、無理に入れるつもりはなかったさ。それにあの様子、麻雀の才は認めるが、好きでもないことを無理にさせるつもりもない」

 

「あー、和の話じゃ、家族麻雀でお年玉を巻き上げられないようにしてたら、ああなってたとかなんとか」

 

 

 何でも咲はお年玉を賭けて家族麻雀をしていたのだとか。

 親や家族からすれば、他愛のない遊びか、あるいは彼女の将来を思っての徴収を目的としていたのだろう。

 身内の賭け事とはいえ、負ければお年玉を失い、勝ったら勝ったで不興を買う。

 その中で身に着けたのが、あの±0にする、あるいはなってしまう打ち筋というわけだ。

 

 

「成程、子供からすれば一大事だ。勝っても負けても文句を言われ、不満が貯まるのなら勝ちもせず負けもせずに収めねば。麻雀を嫌う理由も納得だ」

 

「……でもねぇ。どうしたらウチに入ってくれるか」

 

「それを考えるのがお前の仕事だろう。俺は無理強いはしない。それが宮永の選択だというのなら、俺から言うべきことは何もない」

 

「あら冷たい。嫌だわぁ、こんなのが一番付き合いの長い部員なんて」

 

「好きに言え。俺はお前の味方だが、考え方まで変えるつもりはない。それに――――存外、こちらが何もしなくても入るかもな」

 

「…………どういう意味?」

 

 

 その問いかけに嵐は、いや、忘れてくれと頭を振って答え、弁当を処理していく。

 

 その様子に久は首を傾げたが、それ以上の追及をしなかった。

 嵐が何かを言いよどむのは、何か理由があってのこと。あるいは余人には分からぬ何かを見抜いた上で、口にすべきではないと判断している証拠。そうなった彼は頑として口を割らない。追及するだけ時間の無駄だ。

 

 加えて言うのなら、彼の憶測はよく当たる。

 確証がない故に忘れろとは言うが、持ち前の洞察力故か、的を射ている場合が大半で、外れていることの方が珍しい。 

 

 

(それでも何かした方がいいわよねー。コイツにお小言を貰うのはゴメンだし)

 

 

 思いついたのは、咲が家族でやっていた麻雀と自分たちがしている麻雀は別のものだと知ってもらうこと。

 そのためには、もう一度、和と咲をぶつけるのが、もっとも手っ取り早いと考えていた。

 

 少なくとも久の所感では、咲も和も、互いを意識していた。

 それがどのようなものであれ、そこを巧くつけば、咲を麻雀部に引き入れ、和の実力まで向上を望めるだろう。

 

 

(ちょーっと打算的だけど、私も私の夢のためにできることをしておきましょう)

 

 

 僅かな自己嫌悪に陥りながらも、少なくとも自らの夢に対して恥じることはない。

 ならば、他人の利益を侵害しない限り、自らの夢に邁進すると今一度心に誓う。

 

 それが二年間、文句の一つも言わずに寄り添い続けてくれた嵐への。それが一年間、潰えようとしていた夢に希望を持たせてくれたまこへの最大の報酬だと信じていた。

 

 

「………………さて、どう転ぶか」

 

 

 誰の耳に届くことなく、嵐の呟きは虚空へ消えた。

 

 この数日後、宮永 咲は麻雀部に入部することになる。決意の炎を宿した瞳と自らの意思をもって、敷居を跨いだ。

 胸の内に何を秘めていたのか。それを知っているのは咲と――――優れすぎた洞察眼を持つ嵐だけだった。 

 




速くもなくなる書き溜め。
そして牌画像表示ツールに四苦八苦する自分。

闘牌描写に関して、ツールを使用しすぎて読み難くないといいのですが。
あと麻雀の描写は以後もこんなものか、もっと簡略化されていくと思います。

では、ご意見、ご感想、お待ちしております


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第二話 『助言』

※7月27日 誤字脱字、修正しました。


「――原村か。お疲れ」

 

「日之輪先輩、お疲れ様です」

 

 

 今日は運よくアルバイトもなく、他人に面倒事を押し付けられることはなかったのか、早々に部室へ向かった嵐を迎えたのは和だった。

 

 和は全自動卓の前に立ち、牌を動かして何事か研究している。

 優希にせよ、京太郎にせよ、咲にせよ、一年組には見られない麻雀に対する一際強い熱意と真摯な姿勢に関心しながら、鞄をそっと置く。

 物は大事に扱うように育てられたのか、和の邪魔をしては悪いと考えているのか、嵐の動作には音一つなかった。

 

 

(……――ん?)

 

 

 さて、今日は京太郎に何を教えるべきか、とプランを考えていると、ふと可笑しな光景が目に飛び込んでくる。

 

 それは和の行動だった。

 嵐はてっきり過去の牌譜を再現して研究しているものと思い込んでいたが、実情は違っていた。

 彼女は卓のスイッチを押し、山を作ると自ら開き、その上で四人分の手を進めている。

 

 時間が余り、自分一人しかいないのなら、こうした行為も珍しくはない。

 ただ、山を開く意味がない。どうせやるのなら、実戦に近い形式でやった方がまだマシだろう。

 

 その行動を疑問に思いながらも、やがて答えに辿り着き、和に声をかけた。

 

 

「それ、やっていて楽しいか?」

 

「え? …………楽しくは、ないです。でも――」

 

「宮永の±0が気になる。いや、悔しいか」

 

「…………ッ!」

 

 

 嵐の急所にナイフを突き立てるような容赦のない言葉に、和は端正な顔を歪ませた。

 

 咲が初めて麻雀部にゲストとして招かれた後、そして入部に至るまでの間、二人は久の思惑と計らいでもう一度対局していた。

 結果は同じく咲の±0、更には25000の持ち点を1000点スタートすると思い込み、±0を実現することでトップに立たれた。

 その時の和の心境は如何ばかりか。現状の様子を見れば、語るまでもない。

 

 

「気持ちは分からないでもないが、一度の負けを引きずっても意味はないぞ」

 

「それは、分かって、いるつもりです…………」

 

 

 嵐の言い分は、和が誰よりも理解できていただろう。

 デジタルは全体を通して高い勝率を目指すもの。一度の対局で敗北したとしても、自分の打ち筋のどこに期待値を下げる要因があったのかを探るべきだ。

 そういう点に関して、和の行為に意味はない。少なくとも彼女の麻雀を高める要素は何一つないと言っても過言ではない。

 

 だが、それを和自身がよく理解しているのは、嵐の目からすれば明らかだった。

 これは理屈の問題ではない。感情の問題だ、通常の計算式には当てはまらず、割りきれぬもの。

 

 その全てを理解した上で嵐は――――

 

 

「ふむ。なんと言えばいいのか。…………原村、お前は心が狭いな。俺には真似できん狭量さだ」

 

「はい――――…………え? きょっ!?」

 

 

 ――――悪意なく最大級の地雷を踏み抜いた。

 

 この場に京太郎がいれば凍りつき、優希はタコスを取りこぼし、咲は読んでいた本に顔を埋め、まこの眼鏡は何もしないままに叩き割れ、久は助走のついたニードロップ・バットを脇腹に叩き込んだに違いない。

 

 

「――――ふ、ふふ。そう、ですか。きょうりょう、ですか。こころがせまい、です、か」

 

「どうした原村、急に威勢が悪くなっているぞ。俺はまた何か、いらぬ真似をしたのか?」

 

「は、はい。……あ、いえ、そうではなくて。すみません、ちょっと混乱しています。少し時間をください」

 

 

 嵐の言葉は的を射ていた。和自身も感じていたことだ。

 咲が入部してからというもの、一年組の間にはギクシャクとした空気が漂っていた。如何なる感情によるものであれ、和が咲を強く意識していたからに他ならない。

 元々人の気持ちを察することに長けた京太郎は言うまでもなく、無邪気な優希ですら、その空気を何とかしようと奮闘していたほどだ。

 和も、無意識ながら感じていたのだろう。嵐の指摘に、物凄い勢いで両肩が下がっていた。

 

 その様に嵐は、またやってしまった、と眉間に寄った皺を揉み解す。

 こうなれば女子は泣きだし、男子は殴りかかってくる勢いで怒鳴り声をあげる。嵐は何が悪かったのか分からないまま反省することしかできない。

 

 その点に今回はマシな方だった。和が未熟な精神ながらも、芯の通った強さを持った人間であったからだ。 

 

 

「…………少しだけ落ち着きました」

 

「原村、その、なんだ……」

 

「いえ、多分、日之輪先輩の言ったことは正しかったと思います。もうちょっとオブラートに包んでくれた方がすんなり受け入れられたと思いますが」

 

「そう、か。そう言ってくれると、此方も非常に助かる」

 

 

 和の言葉にほっと胸を撫で下ろし、二人は椅子に腰掛けた。

 

 

「確かに、私も狭量だったかもしれません。部の空気まで悪くしてしまって……でも」

 

「ああ、それは別段、構わんよ。お前の気持ちは、誰でも理解できるだろう。分からないのは宮永だけだ。それも仕方のないことだとは思うが」

 

「どういう意味ですか?」

 

「うん、こう、お前に理解できるか分からんが、宮永は初心者なんだよ」

 

 

 和は嵐の宣言通り、全く理解できていない、きょとんとした顔をした。

 当然だろう。咲の腕は他の追随を許さない。そうでもなければ毎回±0などという真似が実現するわけがない。

 

 それでも初心者だと言い切った。

 理由は簡単。咲が今まで経験した麻雀と和の経験してきた麻雀は全くの別物だからだ。

 

 ――宮永 咲にとっての麻雀は、ただ痛みに耐えるだけの、より己の腕を高めていくものだった。

 

 ――原村 和にとっての麻雀は、己が楽しむために、より己の腕を高めていくものだった。

 

 だからこそ、咲は初心者なのだ。少なくとも、和の――いや、多くの学生たちが楽しみ、涙してきた麻雀(たたかい)においては。

 だからこそ、咲には分からない。それが非礼に当るものなのだ、と。相手を傷つける行為なんだ、と。

 

 

「宮永だけが悪いとも言い切れんがな。アイツの麻雀をそういう方向に決定づけたのは、間違いなく家族麻雀だ。彼女の両親にどのような意図があったのか分からない以上、否定はできないが、苦言を呈したい」

 

「……そうですね。見方を変えれば、確かに宮永さんも被害者です」

 

「まあ、その当人も被害者のまま加害者になっているわけだが。少なくとも、原村を傷つけたという点においてはな」

 

「でも、宮永さんの気持ちも考えずに……」 

 

「いや、お前の言い分は極めて正しい。負けて悔しい、手を抜かれて許せないという当然の感情だよ」

 

「きょ、狭量と言っておいてですか……」

 

「ん? 俺としては感心して、褒めたつもりだったんだが」

 

「褒め……っ!?」

 

 

 嵐にとっては、狭量という言葉は褒めていたつもりらしい。

 

 狭量とは受け入れる心の狭いことを指す。

 だが、彼に言わせれば、それはより多くのものが心を占めているということ。和の場合は、麻雀に当たる。

 視野狭窄を起こしてしまうほどの深い専心は、人として正しいかはいざ知らず、誇りに思ってもいいほどに重いものだ。

 それこそが和の強さの源泉であると、受け取っていた。

 

 嵐自身、麻雀への思いが和に劣っているつもりはなかった。

 いや、そもそも思いは比べるべきものではないと考えている。最終的に勝敗は決まるが、その思いは決して秤では計れるものでないのだから。

 

 

「…………はあ、そこまで言われると感心し通しと言えばいいのか、何というか」

 

「そう言われてもな。あくまで俺の主観だ、参考程度に留めておいてくれ」

 

「では、日之輪先輩は今のままでもいい、と? 私も、宮永さんも」

 

「ああ、いいんじゃないのか。そういうこともあるだろう。お前たちの為にならないと判断すれば、言葉で粛々と諭すまでだ」

 

 

 それが、嵐の自ら定めた部活における役割であるらしい。

 過去の経験からか、自身の見識によるものなのか、和の言葉を、それでもいいと断言する。

 

 反発しあうことで深まる絆もあることを知っている。傷つけ嫌いあい、最終的に離れてしまうとしても、人として何ら可笑しくはないと肯定している。

 

 

「――――が、もう少し様子を見てくれると助かるな。折角、団体戦に出られるんだ。お前や宮永に抜けられると戦力ダウン以前に出場もできん」

 

「流石に、そこまでは――――いえ、考えていたかもしれません。でも、そこまで言われたら、後輩として応えないわけにはいきませんね」

 

 

 和にしてみれば、自分の考えを否定されたかと思ったら、何時の間にやら肯定されていた。意味が分からず、笑ってしまっても仕方がない。

 自身の醜いと感じた部分は矯正していくべき、と彼女は思っていたが、嵐はその目を逸らしたくなる部分の根底には。人として当然の感情が、譲れぬ誇りがあることを認めていた。

 

 どのような事柄であれ、自身が認められれば誰とて嬉しい上、心から安堵するものだ。

 やや短絡的とも取れなくはないが、少なくとも和にとって、いいものであったことは間違いない。

 

 

「あー、日之輪先輩がのどちゃんを口説いてるじぇっ!!」

 

「――ぬぅわにぃ?!」

 

「――えぇっ!?」

 

 

 その時、部室の扉を開けて入ってきたのは残りの一年組だった。

 中でも優希は、話し込んでいる和と嵐の姿を見つけると、その場の勢いで口を開いたようだった。 

 

 が、自身の予想していなかった言葉を発せられれば誰でも愕然とするもの、京太郎と咲の驚き様も仕方のないことだろう。

 

 

「いえ、どう見ても違います」

 

「馬鹿を言うな、片岡。…………しかし、何ということだ。最近では、女子に話しかけるだけで口説くに値する行為とは」

 

「先輩も、優希の冗談を真に受けないでください!」

 

 

 揃って優希の言葉を否定しつつも、嵐は口説いているように見えたのか、と驚いていた。

 他人の視点で物事を考えるのは重要であるが、彼の場合は行き過ぎだ。和も天然さに呆れとも怒りとも取れる表情で声を荒げる。

 

 

「まさか冗談だったとは…………まあ、いいか。面子も揃ったし、特打ちでもしようか」

 

「あ、俺はネト麻の方がいいですかね」

 

「いや、折角だからお前が入れ。俺は牌譜を取りたい。京太郎の指導も、そろそろ次の段階に移りたいしな」

 

「私としては、そろそろ先輩と打ってみたいのです。部内で打っていないのは、日之輪先輩だけですし」

 

「あー、確かに見たことないな。それでいいのか、日之輪先輩」

 

 

 確かに、嵐に打ってみたいという気持ちがなかったわけではない。

 久もまこもそうだが、一年の女子もいずれ劣らぬ実力者。どのような結果になるとしても、自らの性能を高める点においてに、これ以上の美味しい相手は存在していない。

 

 しかし、自らのしたいことを優先して、自らの役割を放棄できなかった。

 

 今、嵐にとって最も優先すべき行動は、部内で一段劣った京太郎の実力を引き上げること。

 

 彼もまた大会に出ることを決めている。

 それが和や優希の選択に流されたものであったのは否めないが、この世の多くの人間は周囲に流されて生きている。特段、責めるようなものではない。

 憂慮していたのは、大会に流されるように出場し、流されるまま終わってしまう可能性。

 

 大会は、部内での特打ちや仲間内での楽しんで行う麻雀とは、また趣が違う。

 一局に込められる熱意が、一打に込められる苦悩は、遥かに重いものとして個人の双肩に圧し掛かる。 

 勝つにせよ、負けるにせよ、大会出場という経験は必ず、京太郎にとって成長の糧になる。必ず、意味のあるものとなるだろう。

 だからこそ、その一打にどんな意図が込められていたのか分からぬレベルで参加するのは折角の経験を溝に捨てるようなものだ。

 

 久は三年であり、夢を叶えるチャンスは今年限り。同じく嵐も二年とはいえ留年している以上、大会に出場できるかは来年に発表される大会規約によるため、最後のチャンスである可能性も十二分に存在している。

 

 だが、京太郎には先がある。嵐が卒業した後、男子の柱にならねばならない。

 

 嵐の見立てでは、京太郎はその重責を背負うに足る男だった。

 煌めくような才能はない。決してプロになれるような素養は生まれ持っていない。

 プロは才能と努力の二つの柱がなければ成り立たない。だが、高校大会はそのレベルを要求されない。努力だけでも十分に戦うことが可能だ。

 

 何よりも、彼は人の気持ちを察し、他人を気に掛ける余裕がある。

 実力がどこに着地するか、嵐はあえて能力面に関しての想像を避けた。いらぬ想像は京太郎への指導に当たり、多くの選択肢を奪いかねないからだ。

 それら実力面の話を差し引いても、精神的な要になると踏んでいた。

 天才は煌めく才をもって集団全体の能力を引き上げる。凡才はその弛まぬ努力と献身によって、周囲の心を支えるものだ。

 

 

 「…………いや、済まないが、今日は研究をしたい気分なんだ。俺は後ろで見ているとしよう」

 

 

 その全てを飲み込み、嵐は椅子から立ち上がった。

 

 付き合いの浅い優希と咲は、残念そうにするだけだったが、僅かなりとはいえ、嵐の内面に触れた京太郎と和は違和感を覚えているようだった。

 

 

(気分じゃないからって、頼みを断る人じゃないと思うんだけど……)

 

(先輩にも、何か考えがあるようですけど、何を考えているかまでは流石に分かりませんね)

 

 

 ハッキリ言って、嵐は京太郎に何の期待もしていない。

 正確には誰にも期待していない。付き合いの長い久にせよ、まこにせよ、そこに変わりはない。

 決して自分以外の人間を信じていないのではなく、人間的な暖かみから嵐は他人へ期待を拒んでいた。その理由は、まだ誰も知る者はいない。

 ともかく、今までの考えは、あくまで可能性の一つとして考慮しているに過ぎなかった。

 

 久ならば部全体の利益を見越し、そういった方向へ京太郎を成長させていったかもしれない。

 だが嵐が尊重するのは個人の意思。京太郎自身が望まなければ、方向性を決定づける真似はしない。

 

 

「時間は有限だ。大会までもうそれほど時間は残っていない。早く始めるといい」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「…………今日は帰ります」

 

「――――…………」

 

「…………ッ」

 

「あ、私も一緒に……」

 

 

 何度目かの対局が終わると和は椅子から立ち上がり、部室を後にしようとした。

 その際、嵐に一瞬だけ視線を飛ばしたが、申し訳なさそうに逸らすのみで、そのまま部室を後にする。

 

 

「待て、宮永」

 

「え? は、はい。日之輪先輩、あの、なにか……?」

 

「あまり口を挟みたくはないのだが…………そうだな、時に自身の全力をぶつけることや、感情を露わにするということも必要な行いだぞ?」

 

「えっと、それはどういう……?」

 

「理解できないのなら、それでも構わない。ほら、早く原村を追うといい。貴重な機会を逃すことになる」

 

 

 嵐はそれきり口を閉ざし、咲は彼の言葉を理解できないまま和を追いかけて行った。

 

 

「あー、またラスかぁ…………ん? んん?」

 

「どうかしたのか、京太郎?」

 

「いや、なんつーか…………あー」

 

 

 自身の至らなさを痛感していた京太郎は、崩さずに残っていたそれぞれの手牌と捨て牌を見て一つの疑念を抱いた。

 そのまま優希の問い掛けに言葉を濁しながら嵐を見たが、首を振るだけで何も言わない。

 

 

(こりゃあ、和も怒るわ)

 

 

 最終局(オーラス)、咲は国士聴牌から{⑤}をツモ切り、優希の跳満に振り込んだ。

 だが前順、京太郎は{⑨}を切っている。{⑨}は物の見事に咲の当たり牌だったにも関わらず、またしても咲は和了りを放棄したのである。

 

 

「んー? まあいいじぇ、タコス食ーべよっと」

 

「俺、お前の能天気さがちょっと羨ましいわ」

 

「ふふふ、ようやく私の偉大さに気づいたようだな」

 

「何というポジティブシンキングッ! くれくれ、俺にも分けてけろ」

 

「はいどーぞ、あ・な・た、チュッ!」

 

「なに投げキッスしてんだ? 頭大丈夫か?」

 

「そっちこそ急に素に戻るなー!」

 

 

 があ、と猫のような勢いで京太郎に飛び掛かる優希であったが、悲しいかな、その体格差ゆえに飼い猫が主人にじゃれついているようにしか見えない。

 暫くするとスキンシップに満足したのか、タコスが恋しくなったのか、珍しく自分からお茶を入れようと離れていった。

 

 そのタイミングで京太郎は嵐の隣に移動した。

 

 

「先輩、さっきの対局なんすけど」

 

(おおむ)ね、お前の考えている通りだろうな」

 

「はー、アイツ……やっぱり、はっきり言ってやった方がいいんですかね」

 

「色々と間違った優しさを発揮しているが、……それはお前の役割ではないな」

 

 

 暗に京太郎の実力から咲を諭すのは無理、とも受け取れた。

 京太郎も初心者脱却を急務としている身、誰かに姿勢を正せと言える立場にないことは理解していたのだろう。悔しげに口元を歪ませる。 

 しかし、嵐の視線を追って、それも間違っていたことに気がついた。

 

 彼の視線は何処までも優しげで、二人の出て行った扉を見続けていた。

 

 

「ああ、和に任せるんスね」

 

「まあ、俺やお前が言うよりも、効果があると思ってな」

 

 

 原村 和は自他に対して厳しいが、同時に人を認められることも、人の言葉を受け入れることもできる少女である。

 事実として、和は部室を出ていく直前、視線を送ってきた。

 もし、ただただ自分の考えのみが正しいと信じて生きている人間ならば、嵐の言葉は彼女には届かない。

 視線を送ってきた理由は、あれだけ言っておきながら、まだ自分自身の感情を巧く整理できない不甲斐なさによるものだろう。

 

 彼の言葉の多くは他者に届かない。大抵が、怒りと共に吐き捨てられてしまう。

 なればこそ、僅かであっても和の心に、その言葉が届いているのであれば、嵐にとっては報われたも同然だ。彼の顔には涼やかな喜びが、笑みとして刻まれている。

 

 

「卓が割れてしまったな……折角だ。時間もあるし、俺の実戦譜から捨て牌読みをやってみるか。片岡、お前も付き合え」

 

「――へ? いや、あの、私そういうのは得意じゃないしー…………」

 

「得意ではない分野を切り捨て、得意な分野を伸ばすというやり様も理解はできる。お前の東場での爆発力・速攻は大したものだが、その利点を台無しにするほど南場での失速が酷過ぎる。もう一度、基礎からやり直せ」

 

「……ぐふ、私はもうダメだ」

 

「相変わらず容赦ねー! 優希、大丈夫か! 傷は深いぞ! ひっでぇ、こんなに胸が抉れてやがる!!」

 

「いや、元々洗濯板のように薄かったが」

 

「「トドメ刺してキターーーーッ!!」」

 

 

 二人にとって嵐の言葉は予定調和だったのか、ひとしきり絶叫すると同時にけらけらと笑い出す。ちょっとしたショートコントのつもりらしい。

 

 呆れた様子でコントを眺めながら、この部室も随分と賑やかになったな、と感慨を浸る。

 二年前は、想像もできなかった。一年前は、よもやと光が見えてきた。そして今年、この部室は人の発する暖かな光で満ちている。

 

 頂点を目指す集団にしては、微温湯(ぬるまゆ)に使っているかのような環境。

 それでも部活動という点に関しては健全だ。まだまだ彼らは多くの選択肢があり、取捨選択を迫られる以前の状態。たった一つを極めるには早すぎる。

 多くの経験を熟し、多くの出会いと別れを体験し、多くの知識を蓄積させる時期。その結果として一つの選択(けつろん)へと至る。

 

 

(ならば、こういうのも決して無駄にはならないか。…………原村と宮永の方は、何かと対照的だからな。一度、本音でぶつかり合った方が良い結果に転ぶだろう)

 

 

 結果だけを語るのならば、嵐の見識はまたも真実を射ぬいていた。

 

 この日を境に、和と咲は急速に心の距離を縮めていく。

 一体、二人で何を話し合ったのか。それは嵐も知るところではない。あるいは、いつものように多くを見抜いた上で見守っていたのか。

 それこそ、語るまでもない。語ってしまえば、花を愛でながら摘み取るような、野暮な真似でしかないだろう。 

 




この作品の京太郎は、主人公の影響で原作よりも人間的にも雀士的にも成長していきます。
ある意味で重要なコメディリリーフでもあるので、忘れないで上げてくださいね!

では、ご感想、ご報告、お待ちしております!


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過去編 竹井 久の場合

 ――――竹井 久は夢を見る。

 

 意識の深層へ、記憶の深淵へ沈んでいく。

 

 夢は深層心理の具現とも、記憶の編纂とも呼ばれている。

 どちらが正しいのか、どちらも正しいのか。事実は、この世を作り出した何者か(かみ)以外には分かるまい。

 万物の霊長と自らを称した人間でさえ、未だ解き明かせぬ自らの機能。

 

 ともあれ竹井 久の見ている夢は、どうやら後者のようだった――――

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「ごほっ、んっ、……不覚ね」

 

 

 我が家の自室で、情けない自嘲を漏らす。

 

 本当に不覚としか言いようがない。振り返り甲斐の、研究し甲斐のある良い牌譜を手に入れたからと言って、熱中して夜更かしした挙句に風邪を引くなんて。

 それだけ麻雀に打ち込んでいると言っても、学校の友人には笑われるだろうし、多くの大人たちに言わせれば、自分を律することのできない証拠と説教されるに決まっている。

 

 でも、言い訳だけはさせて欲しい。

 手に入れたその牌譜は、私にとって素晴らしい価値を秘めていたんだから。

 

 それは麻雀部の新入部員――日之輪君と対局した時の牌譜。

 

 はっきり言って、彼の闘牌は私の予想を覆す――――ううん、想像すら超えるものだった。

 

 麻雀にはデジタルと称される効率と数字を優先する打ち方と、オカルトと称されるツキや流れを優先する打ち方がある。

 

 私の打ち方、オカルト寄り。デジタルに徹する時もあるけれど、ここぞという時、対局を左右する分岐路では、確率の悪い方を選ぶ。

 不思議なことに、その方が上がれる。まともに調べたことはないけれど、通常の確率とは比較にならないはずだ。

 

 悪待ちを主軸に、相手を翻弄するスタイル。私は今までそれを武器に、麻雀を制してきた。

 全てが全て通用すると思っていないけれど、少なくともこれまでの大会では通用してきた。

 

 

 ――その私が、負けた。

 

 

 打ったのは半荘三回。先生二人にゲストを頼んでの勝負だった。

 結果だけみれば、彼がトップを二度、二着を一度。私がトップを一度、二着が二度と、それほど気にするものじゃない。

 麻雀の実力者――特にデジタルに傾倒している人なら、何を馬鹿な、と思うだろう。

 麻雀は一度や二度打った程度では、勝敗は決しても、どちらが上であるかは計れない。運が絡む競技である以上、当然の言い分。……確かに、その通りだ。

 

 でも、対局を通じてしか感じ取れないものは確かにある。

 とにかく、私は久しぶりの――――もしかしたら、生まれて初めての決定的な敗北感を味わった。

 

 彼の闘牌は何と言っていいのか。

 一番初めに浮かんだのは、ニュースでみた海外の大嵐(ハリケーン)。人の意思も思惑も意に介さず、全てを吹き飛ばす未曾有の天災(disaster)。 

 卓についた瞬間から、彼はその名の通り、意思を持った“嵐”と化した。

 

 

「…………ふふ」

 

 

 刻み込まれた決定的な敗北感にも拘らず、私は漏れ出す笑みを抑えきれない。

 

 彼の闘牌は凄まじくもあり、同時に素晴らしいものでもあったから。

 端的に言って、私は魅せられた。子供がテレビで見たプロの闘牌を絶対に真似できないと確信していながら、背中を追い求めるように。

 既に自分の打ち筋を確立しているから真似しようとは思わないけど、抗えない魅力に満ちていた。

 

 

「入ってくれて、よかった」

 

 

 今いる麻雀部は幽霊部員ばかりで廃部寸前だった。

 一人で部活を続ける日々。来年まで、下手をすれば再来年まで、こんな日常が続くのかと思うと、諦めようとは思わなかったけれど、辟易はしていた。

 

 そんな時、降って湧いた好機(チャンス)を、この私が逃すわけがない。

 人の頼みを断らない彼のこと、入部も二つ返事でOKを貰えると思っていたが、以外にも返ってきたのはNOという拒絶だった。

 

 勿論、部活に興味がなかったわけではないらしい。ただ自分を連れて行き、私の部内での立場を危ういものにするのでは、と危惧していたとのこと。

 うん、自分が周囲からどのような目で見られているか理解しているのはいい。たまたま面子が足りないのだろう、と部活の人数を勝手に判断するのもいい。

 

 だけど、いくら此方を思っての拒絶とは言え、二週間も理由を喋らないのは如何なものか……!

 

 最後の方など、わざわざ嘘泣きまでして口説き落としたんだから、彼も相当な頑固者ね。

 …………アレ? 嘘泣き、だったわよね。多分、きっと、メイビー。うん、アレは嘘泣きだった。絶対、何があっても、嘘泣き以外に認めない。

 いや、でも、日之輪君に嘘なんて通用しないし、……アレ? あっれぇ? 私、相当恥ずかしいところを――――

 

 

「止めましょう。…………しっかし、ほんと凄いわね、彼」

 

 

 精神衛生上、これ以上はよろしくないので無理矢理に頭を切り替える。頬が熱いのも、きっと風邪のせい。

 

 ぼんやりと靄のかかったようにハッキリとしない頭を振って、手にしていた牌譜に目を向ける。

 これは彼の書き起こしたものだった。驚くべきことに、自分のついた卓における牌の動きをむこう半年は忘れないと言っていた。

 流石に、ゲスト二人と私の手牌までは記入されていなかったが、四人分の捨て牌と自身の手牌は完璧に記録されていた。 

 

 彼が言うには、子供の頃は同じ三人とばかり打っていたらしい。

 皆それぞれの理由で麻雀を楽しみ、それぞれが強い向上心を持っていた。

 どうすれば勝てるのか、どうすれば腕前が向上するのか。子供ながらに意見をぶつけ、否定し、検討し、最終的に同じ結論に至った。

 

 

『とにかく、牌譜が欲しい。自分の打牌のどこが間違っていたのか分からなくちゃ、上手くなるわけない』

 

 

 で、四人が始めたのは、取り出し順からツモまで全ての牌の動きを記憶すること。

 四人が覚えていれば、記憶違いがあったとしても、それぞれの記憶で完璧な牌譜が完成する。

 

 とんでもない子供たちだ。発想自体は誰でも思いつくようなものだけど、それを実現してしまっている辺りが特に。

 一つだけツッコませて貰えば、アンタ達――――どうして余所からもう一人連れてくる発想ができなかったのよ……!

 

 …………けど、四人の気持ちも分からなくはない。

 その四人で打つ麻雀は、きっと他人など差し挟む余地のない、楽しいものだったに違いない。

 

 

 ――彼らの世界は閉じていた(なんて小さい)

 

 ――――けれど、それは目映いばかりの(なんて幼い)

 

 ――――――たった四人だけの、完成した世界(侵すことの許されない、小さな楽園)

 

 

「いいなぁ、羨ましいなぁ」

 

 

 何時もだったら情けなくなるような声をあげて、ゴロゴロとベッドの上を転がり回った。

 きっと風邪のせいで思考も行動も緩くなっている。

 

 羨ましい。自分よりも、心底から麻雀を楽しんでいただろう彼らが。

 妬ましい。自分の持ちえなかった、深い絆で結ばれた友人を持っていた日之輪君が。

 

 誰にも邪魔されることなく、誰にも学ぶことなく、余計な重荷(ウエイト)を背負うこともなく、ただただ純粋に麻雀を楽しむ日々。

 成長するにつれて、人は色々な(しがらみ)に捕らわれる。勝ちに拘る執念、周囲からの期待、大人からの余計なお世話。

 そんなものに縛られず、四人の才能と努力だけで培われ、補いあった故の実力。それが日之輪君の麻雀を高い領域にまで引き上げた。残りの三人も、きっとそう。

 

 だからこそ勝ちたい。だって負けたままでは悔しい。

 自分が勝ったからと言って、人を馬鹿にするような彼ではないけれど。だからこそ、見せつけたい。決して、私の麻雀も劣るものじゃないんだと。

 

 そんなことを言っても彼は――

 

 

『…………そうか。前回は運良く勝ちを拾ったが、次回はどうなることか。恐ろしくもあるが、嬉しくもあるな』

 

 

 こんな感じに、嬉しげに微笑むだけだろうけど。

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 その時、家のインターホンが鳴った。

 今日は来客の予定はないと母さんに聞いている。回覧板も先日、お隣さんに回したばかり。

 つまり、この突然の来客は、怪しげーな宗教関係者か、訪問販売員か、新聞の勧誘のお誘いのどれかだ。

 いつもなら、出るだけ出てハッキリNOと告げてお帰り頂くけれど、今日は流石に動く元気すらない。

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 一定間隔で鳴らされるチャイムの音。

 連続で押されない所を見ると、近所の悪ガキの悪戯でもなさそう。こういうのは無視に限る。限るのだけど……

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 流石に、それが10分も続けば不快なわけで。どうしてもイライラが募る。

 何が不快かと言って、こちらが牌譜に集中しようとすると、遮るように鳴らしてくる辺り。

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 あったまきた。

 相手には相手の都合があるのだろうが、こっちだって風邪を引いている。無理な話だけど、少しは気を使ってほしい。

 

 節々の痛む重い身体でベッドから這いずり出て、壁に掛けておいたカーディガンを羽織る。

 流石の私だって、女としての恥じらいは存在する。寝間着姿で出て行くの嫌だ。見た目に少しは気を使ってもいいでしょう。

 

 

 ――ピンポーン。

 

 

 よたよたと覚束ない足取りで、我が家の階段を下っていく。

 それほど熱があるわけじゃないけど、頭痛は酷いし、何よりも全身が鉛のように重い。自室に戻る時を思うと億劫で仕方がない。 

 よし、決めた。もし相手がしつこく食い下がるようなら、即110番してやろう。それも盛大に怖がりながら、泣き声を上げて。 

 

 熱に浮かされた愚かな考えで自分を奮い立たせながら、やっとの思いで玄関にまで辿り着く。

 間違いなく不機嫌な表情をしているであろう顔の筋肉を動かさず、扉を開けた。

 

 

「はい、どちらさ――――」

 

「無事だったか、出るのが遅いから心配したぞ。……まさかとは思うが、眠ってい――――」

 

 

 ガチャ、バタン。

 

 ……………………………………え? 今、何かありえない生物がいたような……?

 

 とりあえず、大きく息を吐いて、吸って深呼吸。心を落ち着け、意を決してもう一度扉を開ける。

 

 

「………………竹井、俺はお前が何をしたいの――――」

 

 

 ガチャ。バタン。

 うん、確かに今し方まで考えていた日之輪君その人だった。私が熱の余りに幻覚でも見ていない限りは。

 

 いや、いやいやいや、確かに日之輪君は見た目や言動に反して気の利く方だ。

 だからって、お見舞いに来てくれるほど、私たちって仲良かったっけ?! まともに話すようになってから一月くらいしか経ってないわよ!?

 しかも今の時間は昼過ぎ、明らかに学校途中で抜けて来てるじゃない! 何年か前の土曜日じゃないんだから!

 

 混乱が極地に達し、くらくらと眩暈を起こしそう。

 と、とにかく、日之輪君を迎えないと。またどんなことを言われるか分からない……!

 

 

「ご、ごめんね。ちょっと予想外だったものだから――――って、あれぇ?!」

 

 

 言い訳を交えつつ、三度目の正直と扉を開けると、そこには、とぼとぼとした足取りで我が家を去ろうとしている彼の後ろ姿。

 いつものピンと伸びた背筋は曲がり、気のせいか両肩もカクンと落ちている。私の気のせいでないのなら、あれは落ち込んでいる。

 

 

「ちょ、ちょちょ、ちょっと待った!」

 

「ん? ああ、無理をしなくていいぞ。……まさか、部に誘っておきながら俺を嫌っているなど予想外だったが」

 

「ち、違う! 驚いただけ! 驚いただけだから!」

 

「そうだったか。………………それはそれとして、そんなに声を上げて身体は大丈夫なのか?」

 

 

 誰のせいだと思ってるのよ……!!

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 すったもんだの後、何とか日之輪君を家に上がらせた。

 流石に、出会ったばかりの男子を自室まで上げるのは乙女として如何なものかと思ったが、身体を横にしたかったので羞恥心を感謝の心で押し切った。

 

 日之輪君が持ってきたのはスポーツドリンクにクラッシュゼリー、風邪薬と冷却シート、果物少々と学校の配付物と授業ノート。

 完璧といえば完璧な見舞いの品々。風邪薬と冷却シートは使い掛けみたいだけど。

 

 

「ああ、それに関しては家にあったものでな。こちらもそれほど金に余裕はない。すまないが、それで勘弁してくれ」

 

「それじゃ悪いわよ。ちゃんとお金を払うから」

 

 

 そりゃ、こっちだって金持ちなわけじゃないけれど、最低限のプライドはある。

 清澄に通うことになったのだって、私立にいけるだけのお金がなかったからだ。

 不満があったわけじゃない。お母さんだって、私のために必死に働いているのは知っているし、感謝もしている。本音を言えば、麻雀の名門、風越に通いたかったけれど。

 今は清澄に通って正解だったと思う。こちらの思惑と想像を易々と超えてくる雀士に出会えたのだから。

 

 

「余計な気遣いだ。病人は黙って、全快に努めろ。全て俺が必要と判断したから金を使っただけだからな。それに、至らぬ部長を支えるのも、また部員の役目だ」

 

「ぐっ……!」

 

 

 本当にコイツはぁ……!

 

 なけなしのお金でプライドを守ろうとしたコッチの思惑を見透かした上で、正論によって論破する。

 反論することも許されず、フラストレーションは貯まる一方。

 何が一番酷いって、ここで私が怒りを爆発させようものなら、自分自身の品性を貶める結果になってしまうこと。

 

 彼は善意――いえ、多分、そんな単純なものじゃないだろうけど――で行動している。

 それを一時の怒りに任せて否定するなんて、人間としてどうなのか、という話。

 

 この一月で気づいたことがある。

 日之輪君は冷酷無慈悲な無表情、自己主張も少ない、物事にも積極的に関わろうともしない上、情け容赦のない言葉から全てを嫌っているように見える。

 でも、喜びの笑みを浮かべるし、行動で自らの主張を示しているし、人の頼みは断らないし、言葉の端々には相手を気遣う優しさも滲んでいる。

 

 実際、先生方には受けがいい。それがまた同年代に嫌われる要因になっているのだけど。

 彼と付き合う上で重要なのは、精神(こころ)の強さにおいて他ならない。

 既に完成した価値観と自身を正しく見据える強さを持った大人には、自分の短所を突く言葉など“そうか、なら改善しないと”という気にさせる助言にしかならないのだから。

 

 

「……そ、そう。なら、お言葉に甘えるわね」

 

「そうしてくれると、俺も嬉しい」

 

 

 そう言って、分かる人だけには分かる朴訥な笑みを浮かべる。

 ……ぐ、不覚にもキュンときた。病気で心も身体も弱っているところに付け入るとは、卑怯者め……!

 

 そうやって、相手に責任を求める自分の卑怯さを心の中で棚上げし、バッと布団を被って赤くなった頬を隠す。

 

 

「…………? 何をしている?」

 

「放っといてちょうだい」

 

「…………そうか」

 

 

 自室に招いておいて、相手にしないのはどうかと思うけど、流石に今の顔を見られるのは情けない。

 

 早鐘のように脈打つ鼓動と布団の中で格闘すること数分。何か、ペラペラと捲っている音が聞こえている。

 そっと目だけを布団から出して様子を伺うと、ベッドのすぐ横の床に腰を下ろした日之輪君は、初めて会話をした時、目に留まった麻雀教本を読んでいた。

 

 

「それ、そんなに面白い?」

 

「ん? そうだな。色々と酷いが、読み物としては面白いんじゃないか?」

 

「ふふ、なにそれ」

 

「見てみるか、そりゃあ酷いぞ」

 

 

 読み物としては面白いということは、教本として向いてないと言っているようなものだ。

 まあ、基礎しか載っていない教本なんて、私や日之輪君くらいになると読み物としての意味しか成さないものかもしれないけど。

 

 すっと目の前に差し出されたボロボロの教本を受け取る。

 出版は何時頃のものだろう。少なくとも十年は経過しているように見える。

 その上、何か飲み物を溢したのか、著者の名前が滲んで読めなくなっていた。物を大事にする彼には考えられない失態だ。

 

 

「……ああ、それか。お世話になった人のお孫さんを預かった時、粗相をされてね。滲んでしまった」

 

「大事なものだったんでしょ? やっぱり怒った?」

 

「まさか。子供は失敗するのが仕事だ。中は読めるんだ、目くじらを立てるほどのことでもないさ」

 

 

 いや、日之輪君は中が読めなくなっても怒らないでしょうに。

 

 人間出木杉君の言葉は放っておいて、教本に目を通してみる。

 

 ……………………………………………………………………うん。うん、これは酷い。

 

 教本の始めにある、初心者へのルール説明などに関しては一般的な教本と大差はない。

 十年以上前はオカルトが全盛期だった時代。その時代に手役に拘らず、牌効率に深く注目している点は評価できる。

 けれど、その上で流れやツキも否定せず、自分の実戦譜や主観によった主張が多々見られた。

 

 これは確かに教本としてはダメだ。何というか半端すぎる。

 デジタルに徹しきれないオカルト雀士か、逆にオカルトを否定しきれないデジタル雀士が書いたような、中途半端で客観性の乏しいデキの悪い教本。

 きっとプロの方が書いたんでしょうけど、これは売れなかったと確信できる。

 

 ただ、文章には引き込まれるものがある。

 上手く説明できないけれど、著者の文には、麻雀への確かな愛を感じ取れた。 

 

 

「これは酷いわ」

 

「だろう?」

 

「でも、嫌いじゃない、かな」

 

「俺もだ」

 

 

 教本としてはいざ知らず、読み物としては面白い。

 彼が、この本にどんな思いを抱いているのかは分からない。もしかしたら、これも彼の麻雀を支える一つの要因なのか。

 聞けば答えてくれるだろうけど、やっぱり少し躊躇われる。どうせ聞くなら、もっと仲が良くなってから聞くとしよう。

 

 

「ところで、この前の幼馴染の話だけど」

 

「ああ、奴等か。東京に置いてきてしまったが……」

 

「そういえば、こっちに引っ越してき――」

 

「そうだ。まあ、仕方の――」

 

「そっか。残念――」

 

「でもない――」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「んあ……?」

 

 

 気が付けば、眠っていたみたい。

 窓から夕日が差し込み、もう少し薄暗い。時間的に4、5時間は寝ていたらしい。

 

 寝汗は余りかいていないけど、体調はよくなっているのか、倦怠感は殆んどないし、思考もクリア――――って

 

 

「――日之輪君!」

 

 

 ガバっと身体を起こし、部屋を見回すけれど当然のように誰もいない。私の声が空しく響くだけだった。

 私が寝たタイミングを見計らって帰っただろうか。しまった、色々と話しているうちに寝てしまってお礼の一つもしていない。

 

 

「次にあったら、ちゃんと謝らなきゃ。いえ、お礼よね、この場合」

 

 

 多分、この様子なら明日か、明後日には学校に行ける。その時に、きちんと頭を下げてお礼を言う。

 そう、心に誓うと―――ガチャリと部屋のドアが開く。

 

 

「む、目が覚めたか。ちょうどいい、お粥ができたぞ」

 

「………………えぇ~」

 

「なんだ。そんな不満か、お粥。消化にいい万能の病人食だぞ、お粥」

 

 

 違う、そうじゃない。

 彼はどうしてこう、間が悪いというか、こちらに肩透かしを食らわせてくれるのか。

 夕飯まで作ってくれたのはありがたい。でも、こちらが心に誓ったことを二秒で台無しにしなくても。

 

 まあ、どうでもいいか。確かに、午前中にはなかった食欲が鎌首をもたげてくる。

 

 

「何でもないわよ、気にしないで。でも意外ね、いつも礼儀正しい日之輪君が、人の家の台所を勝手に使うなんて」

 

 

 我ながら、性格の悪いこと。

 夕飯まで作ってくれて嬉しいとか、起きた時にいなくてちょっと寂しかったとか、色々と言いたいことを押し隠して、照れ隠しで嫌味を言ってしまう。

 

 だけど、当の本人は嫌味を真面目に受け取って、さぞ申し訳なさそうな――――――あれ? なにそのキョトン顔。

 

 

「許可なら貰ったが」

 

「え? やだ、私、寝る前に許可したの? それとも寝言?」

 

「違う。竹井の母親にだが」

 

 

 ……………………………………………………んん? 何か今、とんでもないセリフを言わなかった?

 

 

「いや、実はな」

 

 

 彼が言うには、私が寝息を立て始めてすぐにウチに電話がかかってきたそうだ。

 緊急を要する連絡だった時、困るのは私だから、と勝手で申し訳ないが電話に出たらしい。

 うんうん。問題ないわね。私も同じ立場ならそうするわね。

 

 

『はい、ひの――じゃない、竹井です』

 

『え? ……え?! ちょ、だ、誰なのよアンタ!』

 

『あ、失礼しました。久さんのご家族の方ですか? 俺は久さんと同じ麻雀部員の日之輪 嵐です。見舞いに来て、家に上がらせて貰っています』

 

『………………あ、ああ、びっくりしたー』

 

『申し訳ありません。今し方、久さんは眠ったばかりで。緊急の用かと、勝手ながら電話に出させて頂きました』

 

『ああ、いいのよいいのよ。こっちもタイミングが悪かったみたいだし。………………へー。そっかー、君がー。ふーん』

 

『……はあ? 何かよく分かりませんが。とりあえず、何か伝えておくことがあるんじゃ?』

 

『そうだったそうだった。今日はどうしても仕事が遅くなりそうでね。悪いんだけど、食欲があるようなら店屋物で済ませるように伝えて貰える?』

 

『ふむ。……もし許可を頂けるようでしたら、俺が簡単なものでも作りますが。店屋物では消化も悪いですし』

 

『あら、そう? じゃあ、お願いしようかしら。家庭系男子はポイント高いわよぉ~』

 

『……? 何のポイントが高いかよく分かりませんが、任されました』

 

『うん、あの娘を気遣ってくれてありがとうね。じゃあね~』

 

 

 なんてやり取りがあったのだとか。

 

 ……ああ。もう、あの、なんていうか、その、あああああぁぁぁぁぁぁぁッ!

 

 さいあく! さいあくよ!

 だって日之輪君のこと、お母さんに話しちゃってるし! それも結構、嬉しい感じで!

 やだやだやだ、絶対からかわれるし! だって私の母親よ?! 私よりも輪にかけて性悪に決まってるじゃない!!

 もう絶対にあることないこと言われる。根掘り葉掘り今日のこと聞かれる。やだよぉ、ニヤニヤ笑ってる母親(あくま)にからかわれるぅ。

 

 

「青くなったり、赤くなったり忙しいことだ。…………ところで、あの、お粥」

 

 

 誰のせいよ! 食べるわよ! お腹空いてるし! もう自棄よ!

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「―――――い。……きろ。そろそろ、……だ。起きろ、久」

 

「んあ……?」

 

「おい、一年が来るぞ。みっともない姿を見せるな」

 

「んー……うるさいわねぇ。いいのよ、どうせ三人とも私の寝ぼけてる姿、見てるし」

 

「…………酷い後が首から上に残っているが、それでも構わないのか?」

 

「えっ?! 嘘ぉ!?」

 

 

 寝ぼけていた脳髄に、静かだがよく通る声が叩き込まれる。

 慌てて身体を起こし、ゴシゴシと口元を擦る。流石に涎を垂らして眠るのは乙女として如何なものか。

 

 が、涎の後らしきものも、目脂(めやに)もついていない。

 

 

「…………ちょっと」

 

「いや、俺が言ったのは寝癖のことだったんだがな」

 

 

 睨みつける私の視線を素知らぬ顔で受け流す。

 当然だ。嵐は本当のことしか言っていない。間違っていたのは私の方で、正しかったのは嵐の方。

 

 親しき仲にも礼儀あり。

 相手が私のだらしない所を知っているからと言って、私がだらしない姿を見せていい理由にはならない。

 須賀君や和、まこ辺りならまだしも、優希は割と心が弱いところがある。私の姿を見て、自分を律する必要はないと思われても困る。

 

 相変わらず、非のない正論だ。本当に、腹立たしいほど。

 ただ、同時に感謝もしている。嵐が居なくても夢を諦めていたとは思わないけど、随分と心は軽くなった。

 

 

「なんだ、急にニヤついて」

 

「うぅん、何でもないわよ。…………いつも、ありがとうね」

 

「……………………………………………………」

 

 

 なんなのかしら、そのポカン顔は。

 でもまあ、気持ちは分からないでもない。こんなストレートな感謝の気持ち、私には寝起きで鈍った頭でもなければ出てこない。

 それとも夢のせいかしら。ちょっと恥ずかしい記憶だったけど、それ以上に楽しく、大切な記憶だった。

 

 暫くすると、フッと普段の無表情が信じられないくらいの爽やかな笑みを浮かべる。そして向けられる生温かい視線。

 

 

「まさか、お前から素直に礼を言われるとは。この二年、重ねてきた苦言も無駄ではなかったらしい」

 

「あー、はいはい。どーせ、アンタには迷惑かけっぱなしよ。ご迷惑おかけします」

 

「否定はしないが、好きでやってきたことだ。お前には感謝しているとも」

 

 

 …………? それは、どういう意味なのか。

 

 確かに、麻雀部に誘ったのは私だったけど、当時の惨状を思えば、どう考えても苦労の方が大きい。

 何よりインターハイには部活に入っていなくても出場できる。そういう意味では、私は嵐にとって大きい足枷でしかないはずで――――

 

 

「いや、俺は御覧の通りの粗忽者だ。だからか、同年代に部活に誘われたことなどなくてな」

 

「へ……? 幼馴染とか、居たんでしょ?」

 

「それは俺の方から声をかけた。切欠(きっかけ)は大抵が自分だった」

 

 

 誰かに誘われるのは初めての経験で、何よりも得難いものだった。

 だからこそ、この経験は、インターハイに出場し、優秀な成績を残すよりも自分にとって価値あるもの、と謳うように。

 

 

「…………………………――――――~~~~~~~ッ!」

 

 

 気が付けば、枕を掴んで嵐の顔面に思いっきりぶん投げていた。

 

 

「おい、俺に当たるのは構わんが、部室の備品をだな――――」

 

「うるさい! あー、……この、このこのぉ、……この、堅物クソ真面目!」

 

 

 自分にも私にも誰に対しても(ばかじゃないの)何一つ恥じることもなく(ばかじゃないの)この足枷こそが何よりの宝だと(ばかじゃないの)

 

 そんなことを言われたら(ばかじゃないの)負い目よりも喜びの方が勝ってしまうわけで(ばかじゃないの)緩んでしまう頬が恥ずかしくてしょうがない(ばかじゃないの!)

 

 

 あー、もう! コイツといると、ほんと調子狂うわねぇ!

 

 




とゆう感じで部長の過去編でした

原作じゃ確定してませんが、ここではとりあえず金銭の問題から片親という風に。
明確な理由は描写はしませんでしたが、重要は重要ですが、原作でもさほど気にした様子はないのでボカしたままにしておきました。

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております!



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第三話 『雀荘』

※ 8月5日 誤字と牌のミスを修正しました。


「いらっしゃいませ」

 

 

 嵐は愛想がないものの、礼節を心得た一礼で入店した客を歓迎する。

 

 清澄高校から程近い場所に一件の雀荘がある。

 この田舎には珍しい、全自動卓が10卓ほどある中規模のフリー雀荘。店名は『roof-top』。

 屋上を意味する雀荘は店主だった者の意向なのか、それこそどこかの屋上のような解放感と、高みを目指す向上心を感じ取れる客が散見した。

 そこそこ昔から店を開いている雀荘ではあったが、店内から衰えは感じ取れず、むしろ年輪を重ねた大樹のような活気に溢れていた。

 

 

「ただいまー……っと、嵐さんは先に来とったか」

 

「ああ、おかえり。今日はホームルームも速く終わってな」

 

 

 自らの帰還を知らせる挨拶もそこそこに、一足先に来ていた嵐の姿を確認すると、まこはニッと明るい笑みを見せる。

 

 二人の言葉からも分かるように、『roof-top』は彼女の両親が経営しており、また嵐のアルバイト先でもあった。

 まこの姿を見つけると、客の何人かがおかえりと声をかけ、彼女もまたそれに応える。元来の性格ゆえか、客との仲は良好で、看板娘として店の売り上げに貢献しているようだ。

 

 

「しかし……うんうん、それもよく似おうとる。重畳重畳」

 

「…………そうか、俺は普段の方が良かったんだが。掃除がし易くて」

 

「はは、嵐さんは普段着がラフじゃからな」

 

 

 『roof-top』は普段、店名の入ったTシャツが仕事着であったが、現在は違っている。

 男は執事服を、女はメイド服を身に纏って、接客をするようになっていた。この後、まこもメイド服を着てくるだろう。

 

 麻雀の競技人口が増えたとはいえ、近場の雀荘に通うよりも、環境を整えてネット麻雀をした方が気軽にできる。

 現在、麻雀は賭博としての側面よりも、競技としての側面が大きく取り上げられている。そのため、何年か前に法も整備され、賭博麻雀は厳罰化されてた。

 だが、雀荘で賭博麻雀が横行していたイメージは抜けておらず、人々がネット麻雀へと移行していくのは、人の繋がりが薄くなってきた現代では当然の結果だったかもしれない。

 

 そこで多くの雀荘は生き残りをかけて、それぞれの可能な経営戦略が必要となった。

 大規模な雀荘は、元々の客の多さを利用し、いくらかの参加費を徴収して、上位何名かに賞金と副賞を与える大会を行う。結果的に金銭面で店側は損失するが、大会が前提であるのなら法にも触れず、客にも新たな楽しみを提供できるメリットがある。

 それが不可能な中規模、小規模な雀荘は常連客を確保しつつ、新規客も取り込めるよう、地域密着、店の雰囲気を良くする方向へと走った。

 またそれぞれの雀荘のマスターが横の繋がりを強めることで、客の取り合いをなくし、互いの店を紹介しあうことで閉店の危機を回避していた。

 

 『roof-top』のメイドデーも、そういった経営戦略の一つである。

 

 嵐は燕尾の上着こそ着ていなかったが、長袖の白いシャツに赤いネクタイを締め、黒いスラックスとベストを纏っていた。

 立ち居振る舞いも普段から礼節に気を使っている彼のこと、執事らしいと言えば執事らしい。

 だが、体格の良さと鋭い眼つきのせいで、荘厳な屋敷で働く執事(バトラー)というよりも、酒場(バー)の秩序と客同士の諍いを諌める用心棒(バウンサー)のようだった。

 実際、昼間から酔っぱらった大人や、何処に出しても恥ずかしい帰郷中の大学生にご退店願った過去もあるので、あながち間違いでもない。

 

「そうそう。今日は和と咲が来るからの。承知してくれんさい」

 

「それは構わんが……今日はそこまで忙しくなるとは思わんが」

 

 

 雀荘と言えど、娯楽を提供する施設である以上、客足が増える日は他の店と変わらない。

 金曜の夜から日曜まで。あるいは連休の前日から終わりまでが、この店で客足が最も増える日であることを嵐は経験上知っていた。

 だが、今日は平日だ。仕事を退職して暇を持て余している年配の客、たまたま仕事が休みだった客、ほぼ毎日通っている麻雀好きが来る程度。全ての卓が埋まるかも怪しいところ。

 

 

「まー、何と言えばいいのか…………部長がの」

 

「成程、いつもの悪巧みか」

 

 

 一言で全てを察したわけではなかったが、納得したように頷く嵐。まこは、その様子に苦笑せざるを得ない。

 悪巧み、と称してこそいたが、彼自身も効果は認めているのか、ここにはいない久を責める様子はない。

 

 その“悪巧み”は彼女の意思や主観に基づいているとはいえ、大抵が巻き込まれた人間に利益を与えるものである。

 竹井 久は年齢以上に聡く、賢い少女だ。人は自らの幸せを追い求めることで、結果的により多くの人間まで幸せに出来る生き物であると無意識のうちに理解していた。

 

 それは嵐も認めるところ。そもそも、自分の幸福と他人の幸福を天秤にかけること自体が間違っている。

 ただ気がかりだったのは、そこに利益が生じなかった時だ。そうなった時、巻き込まれた人間には久に良いように操られたという不快感だけが残る。

 が、そこも彼女ならば巧くやるだろうと信じていた。人の上に立つ以上、人の不満を受けた上で納得させらせるよう、説き伏せる力も求められるのだから。

 故に、控えろとは諭してきたが、止めろとだけは口にしていなかった。

 

 

「ふーん、何も言わんのか?」

 

「これと言って、特に。久の気持ちは分からないでもないしな」

 

 

 ここ最近、和と咲は目に見えて仲良くなっていた。それ自体は悪いことではない。

 

 目に付いたのは、気の緩み。

 二人とも全国を目指せる実力である、と嵐自身認めている。しかし、だからこそ他に対する警戒心が薄れていることも確かだった。

 実力があるからこそ、インターミドルでも優勝を納め、そんな相手と渡り合える。一年であれば充分すぎる成果だろう。

 だが、それでは駄目だ。そんな心持ちではどこかで必ず負ける。己が井の中の蛙でしかないことを、咲はまだ知らず、和は忘れかけている。

 

 

「嵐さんと対局でもすれば良かったかもしれんのう」

 

「それもどうかな。俺が勝てるとは限らんだろう?」

 

「相も変わらず、謙虚なもんじゃ」

 

 

 まこは、卑屈とさえ取れる謙虚な物言いに、嘆息しながらも笑みを浮かべた。

 その言葉は確かに負けを見越していながらも、卑屈さとは無縁の響きがあったからだ。

 

 

「しかし、ここのレベルでは原村や宮永に危機感を覚えさせることは難しいだろう。負けても“たまたま”で済ませられるしな」

 

 

 好ましいのは、二人が全く知らない第三者に言い訳しようのない敗北を突きつけられること。

 嵐の知る強者をぶつける手立てもあったが、生憎とその手のコネは東京に置いて来た。

 ましてや、こちらに事情があるとはいえ、相手にとて生活や人生の目的がある。長野の地へと呼びつけるのは憚られた。

 

 

「心配せんでもええ。今日はプロが来る予定じゃからな」

 

「……驚いたな。マスターかお前に、そんな繋がりがあったとは」

 

「嵐さんとは今まで顔を合わせとらんけぇ。藤田さんちゅう人なんじゃが」

 

「……藤田、藤田…………藤田 靖子か? トッププロの一人じゃないか。また凄いコネがあったものだ。いや、誰かからの紹介でもあったか。……まさか、久か?」

 

「ご明察。相変わらずの慧眼、どこまで見通しておるんだか」

 

 

 藤田 靖子。長野をホームとするプロ麻雀チーム、佐久フェレッターズに所属している雀士の一人。

 “まくりの女王(Reversal Queen)”と呼ばれ、その名の通りオーラスでの逆転が得意とされる女子プロである。

 数々の受賞を逃してはいるものの、目覚ましい成績と打ち筋から極めて高い評価と人気を有している。

 

 そんなトッププロが、『roof-top』に繋がりがあるとは考え難い。

 実際、この周辺でプロを招くような大会も、麻雀教室も開かれていない。

 たまたまふらりと立ち寄った雀荘を、たまたま気に入り、たまたまその後も顔を出しているという可能性もあったが、些か以上に話が出来過ぎている。

 プロは麻雀だけでなく、解説やイベント、大会のために日本中を、時には世界にまで足を伸ばさなければならない。

 どう考えたところで、この地域の近辺に住んでいるはずもない。もっと交通の便が良い地域に居を構えているはずだ。

 

 ならば、あとは人の繋がりしかない。

 嵐は久がトッププロと繋がりがあることに少しばかり驚いたが、いつものように“そういうこともあるだろう”と受け入れた。

 

 

「なら、藤――――」

 

「し、失礼します!」

 

 

 その時、嵐の言葉を遮るように、『roof-top』の扉が開いた。

 開いたのは、今し方話題に上がったばかりの和だった。その後ろには咲の姿もある。

 見事、と言えば見事なタイミングである。二人にとって良いタイミングであったかは別として。

 

 雀荘というものは経験がない二人の面持ちは固く、誰の目から見ても緊張しているのは明らかだった。

 だが、嵐の姿を確認すると、目を丸くする。久がどのような口上で送り込んだかは確認する術はないが、彼がいることは聞いていなかったのだろう。

 

 

「おう、来たなお二人さん!」

 

「はぁ、あの、どうして日之輪先輩が……?」

 

「部長には、人手が足りないので手伝ってくるように言われたのですが……」

 

「ここは俺のバイト先の一つだ。金の管理もしなければならないんだ、察してくれ」

 

 

 疑問を口にする二人であったが、嵐のフォローに一応は納得したようだった。

 少なくとも嘘は言っていない。マスター――まこの父親は客足が芳しくないのを見て、嵐に店を任せて買い出しに出ていた。

 雀荘では飲食物のサービスは当然のもの。食べ物は飲食店からの出前が中心であったが、ドリンクは店で用意している。

 経費削減の一環として、ドリンクはマスターが直接、業務用スーパーまで買いに行くのだが、生憎ともっとも近い所でも遠出となる。帰ってくるのは当分先だった。

 

 

「じゃあ、二人とも服をしかえて貰おうかの」

 

「し、しか……?」

 

「広島弁で着替えて、という意味らしい。臨時とはいえバイトはバイト。速やかに仕事着へ着替えろ」

 

「「は、はい……」」

 

 

 簡潔で冷たい正論に、和と咲は気圧されながらも頷いて応えると、まこに連れられ、奥の更衣室へと消えていく。

 

 

「嵐君、アイスコーヒー、ナシナシで」

 

「はい、かしこまりました」

 

 

 客からの注文に、レジスターの鍵を閉めてカウンターの裏へ移動する。

 

 店で人気のドリンクは、冬場夏場でホット、アイスの差はあるがダントツでコーヒーだった。

 他の既製品とは異なり、店の特性ブレンドである。マスター曰く、ここが雀荘として人気でなければ喫茶店にしていたとのこと。

 アイスは作り置きできるが、ホットの入れ方はコーヒーに興味のない嵐にとって下手な苦行より難しかったというのも、今ではいい思い出となっている。

 

 グラスに氷を目一杯入れ、冷蔵庫から取り出した作り置きのアイスコーヒー注ぐ。そのまま慣れた動作で、客の元へと送り届けた。

 暫く、その客と何を切ればいいのかと相談を受けたり、他の客からの世間話に付き合っていると、ようやく三人が更衣室から現れた。

 

 

「どうじゃ、似合おうとるじゃろ?」

 

「なかなか可愛いですね」

 

「えぇ~……」

 

 

 更衣室からメイド服を着た三人が現れ、店内の視線が一気に集中した。

 

 まこはオーソドックスなロングスカートと白いエプロンがよく映える黒いメイド服。

 地味に映るが如何にも正統派といった趣で、少々野暮ったい眼鏡もアクセントの一つとなっている。

 

 和はピンク、咲は水色の同系統のメイド服であった。ただしスカートは膝上30センチを超え、フリルはまこの五割増し。更には白いオーバーニーソックスと長手袋。

 秋葉原のメイド喫茶でも、ある意味ここまで気合の入ったコスプレを見れるかどうか、といった装飾過剰、属性過多な姿であった。

 

 

「ああ、似合っているんじゃないか?」

 

「反応薄ッ! もうちょっとこう、なんかあるじゃろう……」

 

「そう言われてな。見た目の良し悪しなど、俺には分からん。あえて無理に口にするのなら、毎度毎度、お前たちのスカートは短いものばかりだな。…………心配だ」

 

((…………おとうさん?))

 

 

 重苦しく感想を口にする嵐に、和と咲は同じ感想を抱いたようだった。 

 久やまこを麻雀部の姉や母とするなら、嵐は確かに兄か父と言える。厳格であるが口うるさくはない、それでいて常に見守る立場。

 

 

「全く理解できんが、好きにしろ。……ストッキングの一つでも身に着けてくれるといいが。アレはいい、とても安心する」

 

((……これ、本気で言ってるんだろうなぁ))

 

 

 受け取りようによっては、フェチズムを押し付けているようにしか聞こえないが、実際には万が一の場合、中身が見え難くなるというだけの理由である。

 

 スカートを短くする理由は、やはり見た目が最有力だろう。スカートを短くすることで足を長く見せ、より自分を可愛く演出する。膝下の丈では寸胴体系に見えてしまうとか。

 そういった乙女の意地と心意気は嵐に理解できない。口にした通り、見た目の美醜の基準がよく分からないからだ。

 鼻が低い高い、目が小さい大きい、眉毛が細い太い、顔が整っている、という差異は分かる。分かるには分かるが、それだけ。それ以上の感想を抱かない。

 自分のように、体格も良く、顔も強面という居るだけで他人に威圧感を与えるのならば、相応しい振る舞いをするというのは理解できたが、わざわざ自分の見た目を偽る、というのは率直な彼には理解の外の理屈だ。

 

 

「まあ、嵐さんはこういう人じゃ、気にするな。で、仕事の方じゃが、メンバーとして入ってもらうけえ」

 

「メンバー……?」

 

「そうか、説明が必要か」

 

 

 メンバーとは簡単に言えば、代打ちだ。 

 フリー雀荘は四人でセット卓を予約することもできれば、一人で店に遊びに来ることもできる。

 そのため、卓で一人だけ帰ることもあれば、トイレに立つ場合もある。その時、客に代わって入るのがメンバーだ。

 

 また雀荘は店によってルールが異なる。地域差、客の年齢層、あるいはマスターの趣味など理由は様々である。

 『roof-top』は赤牌アリの競技ルールを採用しており、唯一違うのは30符4翻と60符3判を満貫として扱う切り上げがある程度。雀荘としてはオーソドックスなルールを採用している。

 店によっては大車輪などのローカル役満を採用していたり、四暗刻単騎、国士13面、純正九蓮をダブル役満として扱う場合もある。

 

 

「おーい、ここ抜けでー」

 

「っと、もう時間か。こっちも抜けで!」

 

「ちょうど空いたな。では、二人とも頼む」

 

「え? 日之輪先輩が入らないんですか……?」

 

「お前たちは接客の経験がないだろう? 慣れているところから熟していけ」

 

 

 確かに、和と咲には接客どころかアルバイトの経験すらない。

 慣れている所、得意な分野を生かせ、という言葉に疑問を差し挟む余地はなく、二人は恐る恐るといった様子で空いた卓に入っていった。見事、上級生たちの思惑に乗せられたなど、夢にも思っていまい。

 

 ようやった、とばかりに視線を向けるまこに、それほどでも、と嵐は同じく視線で返す。

 そして、まこは今日の売り上げの確認を、嵐は接客をメインに、言葉を交わすことなく、それぞれの仕事に就いた。

 

 結果として、久の思惑とは別として、新顔二人の存在は店にとっては良い方向へと転んだ。

 咲は小動物を思わせる愛くるしさで、和は人目を引く容姿で、客の心を掴んでいた。

 

 『roof-top』のメイン層は、30代以上の男性が中心で、殆どが家庭を持っている。

 女性関係を新たに構築できる歳でも立ち場でもなかったが、子供――特に娘を持つ者には、二人の存在は眩しく映ったのだろう。

 

 年配の客は、既に家を離れた子供たちと二人の姿を重ね。

 二人と同年代の子供を持つ客は、自分を邪険に扱わない二人に癒され。

 まだまだ幼い子供を持つ客は二人に、これからの成長を幻視する。

 

 嵐の想像通り、和と咲は連勝を重ねてはいたが、店の雰囲気や客の機嫌を損ねなかったのは、そういった理由だったのだろう。

 

 それから数時間、半荘何回かを終え、何人かの客が入れ替わった時――――

 

 

「………………」

 

「……――ッ!」

 

 

 ――――カラン、と新たな存在を告げる鈴が鳴る。

 

 店内に足を踏み入れたのは女性であった。

 外にはねる癖のある黒髪、化粧で引き締まった顔、170を超えているであろう長身、肩とヘソを大胆に露出させたキャミソールとタイトスカート、手首と中指のリングを繋いだベルト。

 中々お目に掛かれないパンクファッションは目を引くが、それ以上に威風堂々とした振る舞いは、さながら民草を睥睨する女王のよう。

 

 客は誰も彼女の存在を気にも留めない。まこだけが笑顔を浮かべ、女性を迎え入れていた。

 ただ、言葉で説明することのできない“何か”を感じ取っている者はいた。

 

 “何か”に気圧され、怯え震える咲。 

 

 “何か”を見据え、なお静かな態度を崩さない嵐。

 

 

「いつもの出前、特盛で」

 

「カツ丼ですねー、ちょっと待ってて下さい。……席は、此処で」

 

「はいよ」

 

 

 まこが案内したのは、恰幅の良い中年と咲と和が座っている卓だった。

 

 

「よろしく」

 

 

 短く告げ、女性が席に着く。

 たったそれだけの動作にも拘らず、虎に目をつけられた兎のように、咲は身体を震わせていた。

 和もまた冷や汗を掻いていた。普段の態度とは異なる咲の怯えように、女性に対して警戒心を強めているようではあったが、その理由が分からない以上、口を開くことはない。

 

 彼女こそ藤田 靖子。

 数々の凄まじい天才ひしめく世界に足を踏み入れ、轡を並べるトッププロ。

 咲が怯えているのは、彼女の実力を感じ取り、自身が蛇に睨まれた蛙でしかないことを無意識に悟っていたからか。

 

 

「おーおー、咲は怯えとるようじゃのう」

 

「…………まこ、お前は最近、久に似てきたな。性格の悪さなど、特に」

 

「――んなっ?!」

 

「今の笑い方、悪待ちで出和了った時のアイツにソックリだった」

 

 

 やや顔を俯かせて表情を隠しながらも、吊り上った口元は悪魔そのもののような笑み。

 

 そこを指摘され、まこは愕然と嵐を見る。

 自分が聖人君子のように性格の良い人間などと思ってはいなかったし、久のことを尊敬し、好いてもいたが、流石に心外だったらしい。

 というよりも、面と向かって性格が悪いなどと言われれば、誰とて戸惑うものだろう。

 

 

「……はあ、容赦ないのう。まあ、ええわ。出前の電話を」

 

「いや、もうしておいた。だからこうしてダラダラと無駄口を叩いているわけだ」

 

「はは、仕事が早いのう。で、どうじゃ?」

 

 

 まこの問いに嵐は暫く考え込み、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「店の伝票を整理していた時に見た大量のカツ丼の領収書は、彼女のものだったのだな」

 

「いや、なんでそうなる……!」

 

「ん? 麻雀の方か? それは語るまでもないことだと思うが」

 

 

 突出した才能を武器に、恐れなく自らの夢に邁進してきた人間が弱いはずがない。

 今も勝利と敗北を繰り返し、常に上を目指し続けている。いずれ才能の限界に到達するだろうが、それでも足を止めることのないであろう人種。

 嵐にとって、麻雀そのものの才能よりも、その諦めの悪さ、粘り強さこそが恐ろしい。人にとって最も恵まれた才能は、根気であると信じているから。

 

 

「あー、こういうのも何じゃが、見のおてええんか?」

 

「あのな、俺は仕事に来ているんだぞ。そこで私用を優先するわけにはいかないだろう」

 

「ワシも、オトンも何も言わんぞ」

 

「それは関係がない。俺は俺の考えに沿って行動しているだけだ」

 

 

 いくら雇い主の許可があったとしても、優先すべきは仕事と断じる。

 

 確かに嵐にとって麻雀は、夢を、人生をかけるに足るほど面白く、楽しみに満ちたものである。

 しかし、どれほど才能に恵まれようと、どれだけ努力していようとも、プロではない以上、所詮は趣味、部活動の範囲は出ない。

 今ある責任を放棄してまで趣味に走ることは、己にとって恥ずべきことであり、他者に対しても失礼だと本気で思っている。

 

 まこも一年の付き合いで分かっていたが、嵐の己に対する厳しさには、もはや諦めて笑う他なかった。

 

 

「じゃあ、掃除を頼もうかの。わしは金の計算をしとくけぇ」

 

「承知した」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「――――っと、失礼」 

 

 

 藤田の入った卓で半荘二回が終わり、東三局に差し掛かった頃。男性客の携帯が鳴った。

 折角の面白い対局を邪魔された、と不機嫌そうな顔だったが、携帯の画面に表示された件名を目にすると表情が一気に引き締まった。

 

 

「三人とも済まないね、ちょっと外させて貰うよ。……嵐君、代走を頼めるかい?」

 

「ええ、構いませんが。どうかしましたか?」

 

「いや、ちょっと会社からね。緊急の用だと困るから、取り合えず任せるよ」

 

「分かりました」

 

 

 静かな豹変は、麻雀好きの親父から仕事に携わる男の顔への変化だったらしい。

 そのまま男性客は皆の邪魔にならぬよう、あるいは会話を聞かれないように奥のトイレへと消えていった。

 

 その姿を見送り、嵐も三人の卓へとつく。

 

 

「日之輪です。よろしくお願いします」

 

「ああ、よろしく」

 

 

 名を名乗り、きっちりと頭を下げるも、返ってきたのは藤田のさして興味のないような返事だけだった。

 

 

(……しかし、酷い負け面だな)

 

 

 己がプロの眼中に入っていないことは気にも留めず、嵐は両脇の和と咲に視線を向ける。

 和は悔しげに表情を歪め、咲は半荘二回が終わってもなお震えていた。

 

 半荘二回を終え、スコアは藤田の一人浮き、残りの三人はマイナス。嵐も二人の気持ちは分からないでもなかったが、理解できなかった。

 

 敗北は辛く、悔しく、惨めなもの。

 そんなことは、何かを続けていれば当然のように体験し、あるいは生まれる以前から知っていることだ。

 

 彼女たちの心には驕りがあった。自信は物事を円滑に進める潤滑油のようなものだが、行き過ぎれば破滅を呼び込むガソリンと大差はない。

 二人は強い。それは誰の目からも明らかだ。嵐も認めざるを得ない。しかし、上には上がいることも、また事実。

 

 

(敗北を素直に受け入れてこそ、先に進めると思うが……)

 

 

 敗北は酷く悔しいものだが、恥ずべきことではない。

 ただ一度の敗北も、ただ一度の勝利も結果に過ぎず、これからも同じ道を歩み続けるのならば、ともに等しく価値のあるもののはず。

 なればこそ、真摯に受け止めるべきだ。自らの驕りも粗も認めた上で、一歩を踏み出してこそ、何よりも当人にとっての力になる。

 

 しかし、そういった考えを口にせず、嵐は自らの仕事に徹することに決めた。

 

 

 

 東家 藤田   28900

 

 南家 和    23800  

 

 西家 代走・嵐 20000 

 

 北家 咲    27300

 

 

 

 点数自体はそれほど離れていないが、前局、前々局と藤田の安手での連続で和了っている。

 東1局、2局は和と咲がそれぞれ一度和了っており、代走に入った嵐はヤキトリ状態だった。

 

 自分の負けではないからか、それともまだ東場が終了したわけではないからか、嵐の表情に変化はなく、牌を取る動作に陰りもない。

 

 

(ん? ……へぇ、見事なものだ)

 

 

 嵐は配牌を取ると手の中で重ねられた4つの牌を広げ、自身の目の前に持ってきていた。

 かなりの時間、牌に触れていなければ出来ぬ芸当。失敗すれば、見せ牌になりかねない。それは牌の扱いに関しては、自信がある証拠だろう。

 

 

(何より、静かで動作に淀みがないどころか、美しさすら感じるな。……ふ、このネット麻雀全盛期の時代に、面白い坊やだ)

 

 

 そこでようやく嵐の存在を認識したかのように薄く笑った。だが――

 

 

(隣の小さい方ほどじゃないな。あの天江 衣のような圧倒的な気配を感じ取れやしない。まあ、アレほどの才能、見つける方が難しいが……)

 

 

 ――さして興味を抱いた様子は見受けられなかった。

 

 

 

 東3局2本場 親・藤田 ドラ{八}

 

 嵐・手牌

 {一一二三八②249南西北発}

 

 

 今までヤキトリだった席に座った影響なのか、嵐の配牌は5向聴。

 役は123、234の三色か、さもなければチャンタが見える程度。鳴いて仕掛けるにしても、面前でリーチをかけるにしても、和了りまでの道のりは長いことは明らかだった。

 

 しかし、ボロボロの手牌に内心で悪態を吐くこともなく、自らのすべきことを考える。

 

 

(普段なら役を狙ってもいいが……)

 

 

 万が一、三色、チャンタが成就しても困る。

 満貫を上がっても対局の趨勢を決することはないが、勢いが傾く可能性があったからだ。

 今は点数に差のない平たい場。こういった場の醍醐味は、誰が一番初めに突出する和了りを成就させるかにある。

 代走として、客の見せ場を奪うわけにはいかないだろう。

 

 

(ベストは安手での親落とし、ベターは両脇を鳴かせてアシストか。……しかし、)

 

 

 そこまで考えた時、藤田の第一打が決定する。

 最初に河へ捨てられたのは翻牌の{中}。続く和の打牌は同じく翻牌{発}。

 

 

(やれやれ。どちらも手が早いのか、高いのか)

 

 

 親の第一打の翻牌切りと信仰にも似た強い信念を持ったデジタル派の翻牌切り。

 どう考えたところで、どちらも鳴かれたところで問題ない手牌が入っている、と見るべきだろう。

 

 困ったことになったな、と思いつつも、嵐にとって楽しさを感じずにはいられない展開だった。どうやら、少なくとも麻雀において、窮地を楽しめるタイプらしい。

 

 嵐はツモ{九}から打{発}。

 南家の和、北家の咲から鳴きを警戒しつつ、様子見を兼ての打牌。自風の西が重なる可能性がある以上、それ程度しか選択肢は存在していなかった。

 

 だが、その後のツモは凄まじかった。

 嵐の生まれ持った強運か、それぞれの思惑が牌の並びを決めたのか。

 

 

 嵐・手牌

 {一一二三八九②249南西北} {九}(ツモ) 打{北}

 

 {一一二三八九九②249南西} {8}(ツモ) 打{西}

 

 {一一二三八九九②2489南} {3}(ツモ) 打{南}

 

 {一一二三八九九②23489} {7}(ツモ) 打{八}

 

 

 藤田と和が何度かの入れ替えとツモ切りを続けている間、嵐は急速に手牌を1向聴にまで進化させた。

 

 

(流石の強運。嵐さんの怖いところの一つじゃな。そして、早めのドラ切り。威嚇のつもり……だけじゃないか)

 

 

 接客をしつつも、四人の対局を見守っていたまこは嵐のツモに舌を巻く。

 ドラの{八}切りは受け入れの広さ、周囲への威嚇の意味もそうだが、万が一{一①1}を掴み、チャンタに向かった場合に捨て牌から匂いを消すための一打だった。

 

 しかし、次順、嵐が掴んだのは{七}。

 

 

(結果だけ見れば、{九}切りしてりゃ、打{②}でテンパイじゃった。普通の打ち手なら仕方がないで済むが…………らしくないのう)

 

 

 もし、まこが日之輪 嵐の雀士として凄まじいところは何処か、と問われても言い淀むことだろう。

 

 例えば、彼女自身であれば、過去に見た牌譜を人の顔のように覚えており、そこから現在の卓上の捨て牌と照らし合わせることができる、と答える。

 例えば、和であれば、数千局を見越した徹底的なデジタル打ちが真似できん、と答える。

 例えば、咲であれば、毎局±0を叩き出す点数調整の能力と、異常なまでの嶺上開花で和了りがありえん、と答える。

 例えば、優希であれば、東場での速攻は東風戦ではとても追いつけん、と答える。

 例えば、久であれば、悪待ちでの引きの良さと、それを利用した心理戦が恐ろしい、と答える。

 

 だが、嵐に関しては別だ。

 強運、直感、心理戦、動揺を見せぬ精神、異形の発想力、自分とは異なる世界を見ているとしか思えない眼力。

 彼の麻雀は、どこを切っても極めて高い性能で纏まっている。相手がどのような打ち筋であったとしても、対応してみせるだろう。

 確かに、恐ろしい。恐ろしいが――――

 

 

(それ以上に、底が見えんのが一番怖いところじゃな)

 

 

 だからこそ訝しい。だからこそ疑問に思う。このようなミスは、日之輪 嵐に相応しくない、と。

 

 

(そうこうしている間に……)

 

 

 9順目、聴牌に一番乗りしたのは、意外なことに咲だった。

 他の三人が手を高めようと、あるいは手を進めることに四苦八苦している間に、静かに、確実に手を進めていた。

 

 

 9順目 咲・手牌

 {⑧⑧⑧三四四赤五六六七七八6} {7}(ツモ) 打{三}

 

 

(次に日之輪先輩がツモる{⑧}は、多分止まらない。そしたら槓して嶺上牌の{5}で和了る……!)

 

({⑧}の槓材残して、この捨て牌か。全く理解できんが、掴んだら止められるかどうかじゃな)

 

(まだ死んでいなかったか。……やっぱり、最終局(オーラス)のまくりじゃなきゃ、調子でないかな)

 

 

 咲の考えは、まず発想自体があり得ない、伏せられた牌山を見透かすような考えだった。

 咲の打牌に僅かな違和感を読み取ったのか、藤田の視線が動く。だが、恐れた様子はなく、そのまま{南}をツモ切り、今度は和に視線を送る。

 

 

 10順目 和・手牌

 {四赤五六4566②③④④⑤赤⑤} {6}(ツモ) 打{②} 

 

 

({③⑥}のどちらをツモっても跳満確定。ここは押します……!)

 

(こっちも聴牌か。ヤバそうなところを掴んだら、降りるか)

 

 

 ふう、とまくりの女王が溜息をつく。

 だが、彼女の嘆息など比較にならない危機が、嵐に迫っていた。 

 

 

 10順目 嵐・手牌

 {一一二三九九②234789} {⑧}(ツモ)

 

 

 咲の読み通り、嵐は{⑧}を掴んだが、次の瞬間、三人の捨て牌に鋭い視線を飛ばしていた。

 

 

 藤田・捨て牌

 {中東北南95}

 {六東八南}

 

 和・捨て牌

 {発1①⑨西9}

 {白三西②}

 

 咲・捨て牌

 {中東24⑨⑦}

 {⑥九三}

 

 

(取り敢えず、{②}は通る。だが、まずは……)

 

 

 嵐の選択は打{二}。

 咲の思惑から外れていたが、彼女にとっては想定内だったのか、それとも切られるのは時間の問題と踏んだのか。驚きの表情はなかった。

 

 

(ありえん。降りるにしても、まずは{②}{三}{九}辺りが先じゃろう。一体、何の意図で……?)

 

 

 後ろで見ていたまこも首を傾げる。

 彼女の疑問も尤もだった。降りる手順としても、まずは捨て牌にある牌から切っていくのが普通だ。

 攻めて行くにしても、わざわざ面子を外す必要もない。

 

 わざわざ面子を崩す意図に最も早く気づいたのは――――

 

 

 11順目 藤田・手牌

 {①①②③③④赤⑤⑤123一三} {②}(ツモ)打{①}

 

 

(一順前に当たり牌を処理された、か。…………まさか)

 

 

 

 藤田は和を警戒し、一盃口の形は崩す{①}切りから嵌{二}の待ち聴牌しながらも、睨みつけるように嵐を見た。その視線に、彼は自らの成功を確信する。 

 

 嵐が藤田の捨て牌から違和感を感じ取ったのは6順目の{5}ツモ切り、一順離してはいるが{六八}嵌張搭子の外し。

 そこから彼女の手牌は中に寄っているのではなく、1234辺りに集中していると見ていた。

 更に5順目の{9}が出てきたのは、彼女から見て左から五番目。以後、その間に牌を入れることはなく、嵌張搭子は左端から順に切られた。

 つまり、その時点で彼女の手牌には二枚の萬子が残っていた可能性が高く、その後の咲と和の{三}切りに、僅かな反応しか示さないのを見て、手牌に{三}があると踏んだ。

 ともすれば、危険なのは{二三}の{一}-{四}待ちか、{三四}の{二}-{五}待ち。もしくは嵌{二}しかなく、聴牌が入っていないと読んでの、打{二}だった。

 

 この読みが功を奏したのか、数順後――

 

 

「ツモのみ。二本場は6本9本です」

 

 

 嵐・手牌

 {一一一九九⑥⑧234789} {⑦}(ツモ)

 

 

 両脇の当たり牌と槓材を止めての和了りに、三人の視線が集中する。

 和も、咲も、自分の当たり牌を止められたことに驚いてはいたが、そう珍しくもなく、落胆するほどのことでもない。でもないが――――

 

 

(私の当たり牌を1順前に切った挙句、両隣の聴牌を躱しての和了りだと。コイツ……!)

 

(藤田さんの顔、相当驚いておるようじゃの)

 

 

 ――全体を見通してみれば、嵐が唯一、和了可能な手順を踏んだことは明らかだった。

 気づいたのは後ろで見ていたまこ、そして突出した実力を有する藤田だけ。

 

 

「あれ? 嵐君、この3人相手に和了れたのかい? 流石にやるなぁ」

 

「普段通り打って、たまたま和了れただけです。それより仕事の方は?」

 

「ああ、大丈夫だったよ。部下の一人がミスらしくてね。まあ、いくらでも取り返せるミスでよかったよ。説教だけは済ませたがね」

 

「それは重畳。では、どうぞ」

 

 

 椅子から立ち上がると、そのまま戻ってきた客を座らせ、別の仕事に就こうとする。

 

 

「ちょっと待て、お前、名前は?」

 

 

 それを止めたのは、他ならぬ藤田だった。

 どうしても気になったのだろう。咲が藤田に“何か”を感じ取ったように、彼女も咲に“何か”を感じ取っていた。

 だが、嵐からは何一つ感じ取れるものはなかった。にも拘らず、この和了り。興味を抱くのも無理はない。

 

 

「いえ、名前なら初めに名乗りましたが」

 

「う……す、すまん、聞いてなかった」

 

「そうですか。日之輪、日之輪 嵐です」

 

 

 では、とだけ告げ、卓を離れていく。

 藤田というプロや和と咲相手に一局とはいえ念願の対局を果たしておきながら、礼儀は失っていないが素気ない態度だった。

 

 

(普段通りに打って、ですか……、私は本当に普段通りに打てていた?)

 

 

 何気ない嵐の言葉に、和は自問自答した。

 藤田への予想外の放銃。その後も、相手を意識し過ぎて、自分の打ち筋を通せていなかった。

 頭に浮かぶのは、らしくない明らかなミスの数々。

 

 

(駄目ですね。自分のスタイルを守っていれば、相手が誰かなんて関係ない。それを口にしておきながら実行できていなかった)

 

 

 ふぅ、と大きく息を吐き、張っていた肩肘をストンと落とす。

 それだけで思考の熱は引いていき、視界は鮮明(クリア)に。

 

 インターミドルで優勝した時よりも、自宅でネット麻雀を打っている状態に近づいていく。

 

 

(さて、何があったか分からんが雰囲気が変わった。こりゃ、ちょっとは善戦できるか。咲の方は、相変わらずか)

 

 

 必要以上の緊張がなくなった和に安堵を覚えつつも、まだ怯えた様子のどうしたものか、とまこは頭を悩ませた。

 目的は既に達成しているが、必要以上に今日の負けを引き摺られても困る。

 フォローをいれるかも考えたが、嵐が言葉にしなかった以上、その判断に従うことにした。

 

「見事な和了りじゃったの、少しは嬉しそうな顔をしてもええんじゃないんか?」

 

「そうは言われてもな。所詮、一局だけの和了りだ。それだけで優劣は競えないだろう」

 

「それもそうじゃがのぉ……」

 

 

 まこが嵐を高く評価しているのは、実力もさることながら、その打ち筋が印象に残るものだからだ。

 プロ雀士も玉石混交だが、トッププロは勝ったとしても、負けたとしても人々の印象に残る。

 そういった意味では、嵐も決してトッププロにも劣っていない。少なくとも彼女はそう信じていた。

 

 

「それで、{⑧}を止めた理由は?」

 

「あぁも露骨ではな、流石に分かる」

 

 

 {⑨}から{⑦}{⑥}と続いた宮永の打牌。その隣には常に三枚の牌が鎮座して動かなかった。つまり{⑧}を槓材として残している可能性が高い。

 和に関して言えば、残っていた{三}{②}ともに安牌であり、{⑥}は{⑧}が切れない以上、残しておくしかなかった。

 

 

「そんなところか」

 

「運も読みも、大したもんじゃよ」

 

「………………」

 

 

 離れていく背中を見送りつつ、藤田はようやく一つの記憶に辿り着いた。

 それは久が清澄に入学したばかりの頃、興奮した様子で凄腕の雀士に出会ったと語っていた。

 彼女もそれほど高校生――殊更、男子について詳しくはなかったが、女子のレベルに比べるとどうしても見劣りしているのは明らかだった。

 男子のレベルが低い、というよりも、女子のレベルが異常に高まっているというのが正しい。

 もし、全国レベルの学生雀士が同卓した場合、女子に太刀打ちできると断言できるのは、僅か二名。

 

 

 ――女子の頂点と双璧を成し、インターハイ個人戦で二連覇を果たし、今年も三連覇を目指している彼か。

 

 ――性格故になのか、成績にムラこそあったが、ある一点において凄まじい和了りを連発する彼か。

 

 

(もし男子個人戦に出るのなら台風の目になるかもな。………………しかし、日之輪か。何処かで聞いたことがあるような、久ではないと思うんだが) 

 

 

 日之輪という名に、どこか引っ掛かりを覚えながらも、目の前の対局に集中するため、思考を中断する。

 嵐の和了りで対面の客は勢いづくだろうし、次は雰囲気の変わった和の親番、咲も油断の許される相手ではない。余計な思考を持ち込んで、容易く勝ちを拾える相手ではなかった。

 

 

(まあいいさ。この雀荘で、このレベルの相手と戦えるなんて、私にとっては幸運だ……!)

 

 




やたら難産でした。闘牌シーンは頭の中ではできていたけど、実際に書いてみると難しい。
というわけで、主人公の地味な活躍回でした。
分類としてはガイトさんやキャプテン、かじゅに近い雀士のイメージで。ただ、牌の偏りないままにやたら強運ですが。

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第四話 『合宿』

 

「おー、これが合宿所っすか。思ってたより立派だなぁ」

 

「大きな大会や休みがある時は、一杯になるしのう」

 

「へぇ……じゃあ、私たちは幸運だじぇ!」

 

「ですね。よく捻じ込めましたね、部長」

 

「まぁね。これでも学生議会長だし?」

 

「…………それって、職権乱用じゃ」

 

「宮永、捨て置け。コイツは不正をしない。……人としての誠実さに欠け、他人から見れば悪辣な行いかもしれない、というのは否定できないが」

 

「はーい、正論しか言わない奴の戯言は放っておいて、入るわよー」

 

 

 嵐の言葉をばっさりと切って捨て、久は一歩先に出る。だが、引きつった笑みを見る限り、彼の言葉は真実をついていたらしい。

 その様子に一同は溜息と同情の視線を嵐に寄せたが、当の本人は気にした様子もなく後に続いた。

 

 清澄高校付近から出ているバスを乗り継いで数時間、合宿所は山を分け入った先にポツンと存在していた。

 清澄は数年前、ある運動部が連続で全国大会に出場した。だが、数名の天才たちが周囲の実力を押し上げた結果だったのか、後援会まで設立された栄光は既に過去のものとなっている。

 その名残りが、この合宿所であった。学校側が厳しい維持費を捻出していたのは、それぞれの部長や生徒議会の強い要望があったからである。

 潰れた旅館を改装した合宿所は温泉も引かれており、生徒たちに強い人気を博していた。夏直前の急な合宿で利用できたのは幸運であったのか、久の手腕であったのか。

 

 

 二日前、『roof-top』で行われた対局は、当然のように藤田に軍配が上がった。

 嵐の代走以後、和は驚異的な勢いで追い上げを見せたものの、藤田もまた隠していた実力を発揮し、最終的にただの一度もトップから転落することはなかった。

 和は自身の問題点を正しく認識し、咲は自身の浮ついた気持ちを粉砕された。

 

 だが、問題だったのは藤田の口から、ある人物の名が語られたことか。

 

 インターハイは一万人以上の高校生が参加する夏の祭典。

 県での予選を突破し、全国への切符を奪い合う以上、各県で強豪校と呼ばれる高校は多数存在している。

 

 長野においては真っ先に名前が上がるのは二校。

 

 まず一つは風越女子。六年連続インターハイ出場という輝かしい記録を残し、80名以上の部員を擁する名門校。

 麻雀部には監督を招き、その力の入れようも、清澄とは比較にならない高校である。

 

 もう一つは、龍門渕高校。

 二年前まで然したる成績も記録も残していない、よくある麻雀部の一つであったが、去年でその評価は一変した。

 団体戦に出場した5人全員が一年であり、風越を下して全国出場を果たした後も、猛威を振るった新進気鋭の高校。

 

 特に凄まじかったのは、大将を務めた天江(あまえ) (ころも)であり、また藤田の口から語られた少女の名前。

 

 

『天江 衣には勝てない』

 

 

 その一言が、藤田の結論であり、二人の実力を推し量った上で見えた未来。

 

 

 ―――だが、それが和に火をつけた。

 

 

 優等生ではあるが、同時に勝気な彼女のこと、勝てないと言われて、敗北すると決めつけられて引き下がるはずもない。

 結果、和の強い要望で合宿を行う運びとなった。

 

 しかし、藤田と久には繋がりがあった。事実を知る嵐とまこの目には、効果的であったし、必要だったと認めてもいたが、随分な茶番にしか映っていなかった。

 もっとも、和も、全てに気づいていたわけではなかったが、久の思惑をある程度見抜いた上で乗っている節がある。

 久は夢のために一芝居を打ち、和は嵌められた上で実力の向上を願った。互いにとって益があるのであれば、責める謂れも、怒る理由もなかったのだろう。

 

 

「うぉぉ、広いなぁ。ここ、二人で使うんスか」

 

「女子と同じ部屋で寝るのも問題だろう。それとも、狭い部屋で俺と二人きりの状況が良かったのか?」

 

「それ、答えようによっては誤解を招くじゃないですか! やめてくださいよ!」

 

「そうか、それは良かった。そのような性癖は持ち合わせていないからな」

 

 

 京太郎と嵐が合宿所の管理人に案内されたのは、十畳以上の大部屋。

 運動部の人間が十人以上も寝れる代わりに、寝ること以外に何もできない家具や小物が何もない部屋だった。

 

 

「取り敢えず、私物を置いて女子の部屋に行くぞ。ここでは何もすることがない」

 

「うっす…………しっかし荷物多いなぁ」

 

「文化部だから――――とは言っても、これは流石に……」

 

 

 二人が見下ろしたのは、二つの巨大なリュックサック。

 過酷な訓練を行う自衛隊員でも、ここまで露骨な大荷物を背負うことはないのではないと思ってしまうほどの大きさだ。

 

 中身を知っているのか、それとも背負った時の重さに辟易したのか、少なくとも京太郎の顔は暗い。

 女所帯の黒二点。力仕事を任されるのは仕方ないとは考えられたが、素直に受け入れられるかは別問題のようだった。

 

 嵐はそれ以上何も言わず、京太郎は四苦八苦しながらも何とか背負い、大部屋を後にした。

 

 合宿所の内部は旅館を面影を残しながら、あくまでも学業の一環としての部活動を目的としているためか、質素かつ簡素な作りで遊びや個人の趣味など反映されていない。

 そういった雰囲気も、初老を超えて還暦に手を掛けようとしている管理人夫婦のおかげだろう。

 建物自体の古さは仕方ないにしても、埃一つない清潔さは管理が行き届いている証拠だ。利用する側として、これ以上嬉しいことはない。

 

 

「入っていいか?」 

 

「いいわよー」

 

 

 しっかりと扉の前で入室の確認を取り、扉を開ける。

 女子の使用する部屋は、大部屋に比すれば半分程度の大きさ。五人で使うのに調度いい、あるいは少しだけ狭い部屋だった。

 

 古い型のテレビとエアコン。小型の冷蔵庫。漆塗りの茶びつと中身。窓辺には座卓と座椅子。

 豪華ではなかったが過ごし易いようにという配慮なのか、旅館時代の調度品をそのまま使っているらしい。

 

 京太郎はそのままその場に腰を下ろして大きく息を吐き、嵐は立ったまま久の指示を待つ。

 

 

「京ちゃん、お疲れ様」

 

「……ああ。ほんと、疲れた」

 

「うむ、褒めてつかわす!」

 

「お前は褒める以前に、バスん中で延々と絡んできたのを謝ってくれませんかねぇ?!」

 

「確かに、他の乗客がいなかったからいいですけど……」

 

 

 アレはちょっと、と和が続ける。

 部室での部員同士のふざけ合いならば、とやかく言うほど口五月蠅くない彼女であったが、時と場合は選んでほしいとジト目で二人を睨む。

 

 その様子に京太郎はさっと目を逸らし、優希は露骨に口笛を吹いて誤魔化した。どうやら二人とも自覚はあったようだ。

 まあまあ、と割って入る咲と苦笑して眺めるまこ。相変わらず静観を決め込む嵐。

 

 全員を満足げに見つめながら、合宿の開始を告げる部長の言葉が発せられる。

 

 

「じゃあ、着いて早々だけど――――まずは温泉よね!」

 

 

 彼女らしいとは言えばらしい、何とも緊張感のない、気の抜けた開始の合図であった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「ふー、さっぱりしたぁ。…………あれ、先輩?」

 

「ああ、もう出たのか。もっとゆっくり入っても良かったんだぞ」

 

 

 聞いていたよりもずっと立派な温泉を堪能した京太郎は浴衣に着替え、一足先に女子の部屋を訪れた。

 

 中で待っていたのは制服から私服へと着替えた嵐だった。

 ベージュのチノパンに、グラデーションの入った青い長袖のTシャツ。

 洒落ている、流行を先取りしているなどとはお世辞にも言えない格好であったが、落ち着いた雰囲気の嵐にはよく似合っていた。

 

 

「先輩、風呂入んないんスか?」

 

「…………ああ、人前で肌を晒すのに抵抗があってな。風呂には一人で入る主義なんだ。それに、あまり生活のリズムを崩すのも、な」

 

「はあ、そういうもんですか」

 

 

 京太郎は後半の言い分には理解できたが、前半の言い分には共感できなかったのか、生返事を返した。

 なにせ同性同士だ。何も隠すことなどないだろう。自分の身体に気に入らない点があったとしても、それはそれで話のタネになる。

 

 ただ、嵐の様子は恥ずかしい、嫌い、という精神的、生理的な反応ではなく、少しだけ悩むような素振りがあった。

 

 昔、何かあったのかな、とは思いつつも口には出さない。

 聞いてみれば、単なる事実として全てを答えてくれるだろう。だが、下手に突くと、とんでもなく重い過去が顔を出しそうで怖かった。 

 何せ、自分の留年を何の感慨もなく事実として明かすような人間だ。ポロリと顔を出した過去が、自分では受け止められない可能性もある。

 下手な反応を見せて、相手を傷つけたくもない。気にならない、と言えば嘘になるが、まだ知らない嵐の過去を聞き、受け止めるだけの覚悟と時間が欲しかった。

 

 

「―――て、先輩、卓の調整もできるんですか?」

 

「ああ、部室の自動卓の調整は俺がやっているからな。流石に故障はどうにもならないが。雀荘のアルバイトをしているんだ、これくらいはできるさ」

 

 

 合宿所の備品なのだろう型落ちの全自動卓は、既に部屋へと運び込まれていた。

 

 電源を入れたまま卓の天板を外し、内部の機構に問題がないかを点検している。

 洗牌を行う中央の回転筒、牌を運ぶベルトコンベア、点数表示盤の配線。一つ一つが問題なく動くか確認し、更に故障の原因となる汚れまで落としていく。

 

 皆が風呂に入った直後から始めていたのか、京太郎が部屋に入ってから僅か数分で点検は終わった。

 

 

「各種問題なし。故障も当分先だな、少なくとも合宿中に壊れることはあるまい」

 

「お疲れ様です。今度、調整の仕方も教えてくださいよ」

 

「部員としての責任や、雑用係の使命感でもなく、須賀個人が望むのならそうしよう」

 

「勿論、俺個人の意思ですよ。でも、先輩がそれを言いますかね?」

 

 

 そうか? と嵐は首を傾げた。

 

 京太郎の目から見れば、部活で一番自分の時間を削り、貢献しているのは嵐だった。

 久やまこも、自分の知らない所で何か努力をしている可能性もあったが、その二人ですら彼の献身と努力は否定できないだろう。

 しかし、当人にとって何ら不思議なことでもなく、自然な行いなのは反応を見れば分かった。

 それ以上の追及は何となく躊躇われた。本人が気が付いていないからこそ、本人にとって自然な行いだからこそ、眩しく映るものなんだ、と。

 

 

「そう言えば、お前は牌山を積めるか?」

 

「いや、やったことないっす。家に麻雀牌もないし、部室のは自動卓だからなぁ」

 

「そうか。……じゃあ練習でもしておくか。実際に積むことなんて自動卓が簡単に手に入るようになった今はありえんだろうが、嗜みの一つだしな」

 

 

 女子が戻ってくるまでの時間潰しとして、牌山積みの練習をする。

 

 17枚の牌を二列に並べ、どちらか一列の端を両手の小指で抑え、そのまま重ねる。

 説明するのも、理解するのも簡単だが、これがなかなか難しい。力が強すぎても弱すぎても、持ち上げた牌列は脆くも崩れ去る。

 牌の扱いに慣れない京太郎には難業らしく、持ち上げては壊し、壊しては並べ、並べては持ち上げ、また壊すを繰り返していた。 

 

 

「お、……ほっ! って、あぁ! まーた崩れちまった」

 

「……………………どうかしたのか?」

 

「へ?」

 

 

 唐突な嵐の問いに虚を突かれた京太郎は可笑しな声を上げた。

 

 

「はぁ、それはどういう……」

 

「いや、単なる俺の思い込みかもしれないのだが……」

 

 

 嵐は自身の顎に手を当て、深く考えてから口を開いた。

 

 

「お前は会ってからの短期間で如実に腕を上げた」

 

「いや、それは先輩の教え方が巧いからで……」

 

「それは違う。確かに、俺が人にものを教えるのは巧い可能性もあるが、教えられる側にその気がなければ何の意味もないことだ」

 

 

 どんな高名な監督であったとしても、教え子にやる気がなければ意味がない。

 殊更、基礎固め、基礎練習ともなれば、ひたすら同じ教えを反復する必要がある。それがもっとも効率のいい練習法だ。

 身体的のものであれば思考を介さずに完璧な連動が咄嗟にでも可能なよう、徹底して身体――筋肉、神経、脳に覚えさせる。

 精神、思考法であれば、ある特定の場面で意識することなく教えられた思考が淀みなく行えるよう、徹底して脳に覚えさせる。

 

 それをスムーズに進めるのが、当人の興味関心と集中力だ。

 得手不得手、才能の有無はあったとしても、一つの分野の上達において必要不可欠なもの。これだけは、どんな人間にも共通して言えることだろう。

 

 

「以前、お前に麻雀の才能はないと言ったが、それはあくまで直接的なものだ。麻雀に使える才能がない、と言った訳ではない」

 

「………………?」

 

「例えば、原村を思い出してみろ」

 

 

 原村 和は実に頭の出来がいい。学年でも――いや、清澄でもトップクラスの秀才だ。

 “頭が良い”と呼ばれる人間でも様々な種類の人間がいる。

 単に勉強ができるだけの人間もいれば、頭の回転も速い人間もいるし、人付き合いが巧く、人の心の反応に聡い人間もまた“頭がいい”と呼ばれる。

 

 

「特に、原村の計算能力は驚異的だ。麻雀に限定せずとも、暗算の速さで勝てる人間はそうそういないだろうよ。それを考えれば麻雀でも使える才能と言うべきだ」

 

「んー、まあ確かにそうですね。優希や咲なんかは、もろに麻雀に限定した才能ですし」

 

「東場での速攻、槓材を引っ張ってくる強運。確率の偏りと言えばそれまでだが、無視できる数字じゃない」

 

「和なんて全否定するでしょうけどね」

 

「それも才能の一つだな。自分の考えを押し通す、左へ右へと揺れない思考。誰もが持ちえるわけじゃない。……お前の場合は、そのひた向きさと素直さだ」

 

「いや、そんなの誰でも……」

 

「誰でもは、持ちえない」

 

 

 人に教えを請わないのではなく、請えない人間もいる。

 自分の気持ちに素直にならないのではなく、なれない人間もいる。

 僅かなの気の持ちようでさえ、それもまた才能であると嵐は肯定した。

 

 そう言われても京太郎としては困惑するばかりだった。

 彼にとって自分よりも巧い人間に教えて貰うのならば、教えを素直に受け入れるのは当然のこと。何よりも麻雀はやっていて面白い、ひた向きになるのも普通こと。そんなことを言われてもピンと来ない。

 

 それこそが何より秀でている証明だ。

 才ある者にとって当然のことが、才無き者には当然ではないのだから。

 

 

「前置きが長くなったが、そのひた向きさと素直さに根差した集中力がお前にはあった。それがお前の実力を押し上げたはずだが……今は集中力に欠いている」

 

「……………………」

 

「はっきり言って、牌山を積むくらい、普段のお前なら形だけでも可能になっていたはずだ」

 

 

 何があった、と問いかけるように深い黒の瞳が向けられる。

 目付きそれ自体は責めるように鋭いが、瞳に映る光は春の日差しのように穏やかだった。

 

 

「………………あー」

 

「なんだ、言い難いことか?」

 

「いや、そうじゃなくて、なんていうか……」

 

 

 ガリガリと頭を掻きながら、京太郎は次の言葉を探していた。

 嵐の言うように口にし難いことではなく、京太郎自身も言葉にできない、心に芽生えていた正体不明の“何か”。それを嵐にも分かるように、必死になって言葉として組み立てていく。

 

 どれほどの時間をかけたのか。

 嵐は根気よく待ち、京太郎は考え抜いた末に一つの言葉を口にした。

 

 

「誤解するかもしれませんけど――――なんか、咲が気になって」

 

「…………どういう意味だ?」

 

 

 勿論、京太郎が言っているのは少なくとも恋愛沙汰ではない。

 

 

「アイツ、なんか最近、可笑しくないですか……?」

 

「そう言われてもな、俺は付き合いが浅い以上、何も言えない。入部してから明るくなったのは認めるが」

 

 

 京太郎が感じていたのは、何か可笑しい、とそれ以上の言葉にできない些細な違和感。

 

 嵐の言うように明るくなった、というのは認めよう。

 自分以外の人間にも心を開いているのは、友人として嬉しく思う。そこに京太郎が疑うようなこと、咲が偽るようなことはない筈だ。

 

 だが、彼女の笑顔の裏に、京太郎は言葉にできない何かを感じ取っているのは確かだった。

 

 

「……………………」

 

「勘違いかもしれないですけど。なんか、俺じゃ分からないもの抱え込んじまってるのかな、と」

 

 

 初めの内は、友人の少なかった幼馴染を気にかけておきながら、自分以外の親しい友人ができて醜い嫉妬でも抱いているのかと思った。

 だが、感情の紐を辿っていけば、行き着いたのは嫉妬ではなく不安であり、京太郎自身も困惑している。

 

 少なくとも、今の咲は満たされているはずだ。

 新たな友人を作り、嫌っていた麻雀を楽しめるようになり、色々と便宜を図ってくれる先輩たちも手に入れた。

 かつてのように本の活字を追うだけの学生生活よりも、よほど健全で、よほど青春を謳歌している。

 

 それを何故、不安に思う必要があるのか。

 

 

「…………………………………………その点について、俺から言えることは何もない」

 

「お、おう」

 

 

 たっぷりと溜めに溜めての言葉に、京太郎を思いっきり肩透かしを喰らった。

 

 自分とは見えているものが違う者。

 人の見えていない、目を逸らしている部分を的確に言い当てる嵐ならば、あるいは自分の抱えている不安の源泉が何なのかを教えてくれるのでは、という期待もあった。

 

 そこではたと気が付く。

 嵐は分からない、とは言わず、言えることはない、と口にすることを拒絶した。それはつまり――

 

 

「だが、そうだな。素直に聞いてみるのも、そっとしておくのもお前次第だ」

 

「いや、不用意に突いていいものかという話で……」

 

「お前がそう考えるのであれば、触れない方がいいだろう。もっとも、お前の不安は一切解消されないが」

 

 

 明確な答えも、どう行動すべきかも示さず、冷たく突き放すかのような言葉だった。

 

 思えば、嵐という人間は、口は出すが手は出さない。当人の問題であるのならば、当人の意思に全てを委ねている。

 人を信じているのか、それとも他人に興味がないのか。どう考えても前者だろ、と京太郎は考える。

 そうでもなければ、他人の様子の違いなど気にも留めないし、何よりも一人でいるはずだ。

 

 そんな人間が口すら出さないのは、自身で気付き、考えることが最も効果的であり、利益がある、ということなのだろう。

 

 

「それで、どうする……?」

 

「…………保留で。いきなり踏み込んでいく度胸もないし、かと言って見て見ぬ振りをするのも違う気がするし」

 

 

 このままでは不安だ。

 不安だが、あくまでも自分の勘のようなもので、咲には意味が分からず迷惑なものに過ぎないかもしれない。

 考えれば考えるほど思い当たる節もなく、意味もなければ価値もない妄想なのでは、と別の意味で不安になっていく。

 

 

「俺から言えることは、宮永はお前を信頼しているということだけだ。それがどういった信頼であるのか、よく考えるべきだろう」

 

「…………はあ」

 

「……いや、これは俺自身の目から見えたものに過ぎないな。話半分で胸に留めておいてくれ」

 

 

 嵐の言葉は京太郎にとって難解で、何となく崇高なだけで為にならない言葉にしか聞こず、生返事を返すしかなかった。

 

 世に残る名言も、発言者の背景や過去を知らねば、本来の意味が見えてこないように。

 嵐の視点で見えているものが見えぬ京太郎には、言葉に込められた意味を理解できよう筈もない。

 

 それでも真摯に受け止め、考える。

 

 嵐に麻雀の基礎を教わってから身に着けた癖だ。

 どの牌を切れば一番受入れが広いのか。相手が切った牌に、どのような意図と意味が込められているのか。

 それを考えることが重要だと教えられた。当たっているかどうかは問題ではない。正答率は、その思考作業を熟した分だけ増していくからだ。

 

 

「そうっすね、色々考えてみます。和ほど頭は良くないし、優希ほど大胆じゃないですけど、咲ほど臆病でもないんで」

 

「どのような長所も短所になりうるらしいからな。何事も時と場合によりけりだ」

 

「あー、先輩とか人の頼みを断らなすぎてアレなとこありますもんね」

 

「そうか。……そう、か…………やはり、そうなのか」

 

「あれ?! また地雷踏みました、俺ぇッ!?」

 

「いや、以前、久にも言われたのでな。改善した方がいいのか、しかし……」

 

 

 渓谷のような皺を眉間に寄せ、深く思い悩む嵐に京太郎は苦笑するしかなかった。

 そういったところもまた日之輪 嵐という男の魅力なのだ、と本人は気づいておらず、京太郎は勝手だと分かっていても思わずにはいられない。

 

 

(咲に、それとなく探ってみるか。昔から、そうだったしな)

 

 

 少なくとも中学時代はそうだった。

 もうお互いにそれほど幼くないが、成長しきったと言えるほど大人でもない。

 情けは人の為ならず。友人が困った時に手を貸したい、自分が困っていたのなら手を貸してほしい。理由はそれだけ。

 持ちつ持たれつの関係で今まで過ごしてきた。引っ込み思案の幼馴染が何か悩みを抱えているのなら、その重荷を肩代わりできずとも、支えてやるのが友人というものだろう。

 

 

(俺も大会に出るし、合宿の終わりまでには、どうするか身の振り方を決めなくちゃな)

 

 

 新たに一つの方針を定め、再び牌山積みに専念する。

 気の持ちようは集中力に関係するのか、女子たちが戻ってくるまでの間に、京太郎は人並みに牌山を積めるようになっていた。

 

 




という感じで京太郎回の前半でした。
作中、主人公の影響をもっとも受けているのは京太郎なので麻雀も人格も成長しています。咲の様子に違和感を抱いたのはそのせいです。
おもち大好きっぷりは変わってないですけどね、性癖だから!

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております!


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第五話 『対局』

「――ツモ、3000・6000です」

 

「く、……ぉぉお! 親っかぶりで三位転落かよっ!」

 

「京太郎なんか、まだいいぞ! 私なんか東パツで倍満上がったのに結局ラス引かされたじぇぇぇ……!」

 

 

 合宿二日目、京太郎の呻きと優希の叫びが部屋に木魂する。

 

 オーラス、手なりに進めていた和の手は順調に跳満へと変化し、10順目に和了りを迎えた。

 南場に入って集中力、注意力が散漫になっていたとはいえ一度はトップに立った優希、ラス親でトップを狙える配牌、点数だった京太郎には痛い和了り。

 

 

「トップは和、次いで宮永さん、須賀くん、優希か」

 

「また二人のワンツーフィニッシュ、流石にやるのぅ」

 

「半荘10回を終えて、トップの回数は原村4回、宮永3回、片岡2回、須賀だけは運よく1回か。トータルのスコアもその順だな」

 

 

 全員が浴衣を着ている中、Tシャツとジーンズとラフな格好を続けている嵐が最後を締め括る。

 

 今回の合宿の主な目的は新一年の強化。

 京太郎を除いた三人は実力的には申し分ないが、まだまだ脇が甘い。

 優希は利点と欠点がハッキリしており、和はネット麻雀と実際の麻雀の差に本来の実力が発揮しきれず、咲は元々の性格ゆえに精神面での弱さが見える。

 

 インターハイには魔物が住む。どんな分野、どんな世界にも例外(てんさい)は存在するものだ。

 ここ数年、女子の部は異常としか思えないほどレベルが上がっていた。中にはプロと比しても遜色ない力を発揮する者もいるほどに。

 

 三人とも純粋な実力、才能という点に関しては“魔物”と呼ばれる少女たちに肩を並べるだろう。

 だが、大会における経験値や精神面では劣っている。目に見えない僅かな差であるが、こと勝負においては明暗を分けるものでもある。

 

 この差は仕方がない。

 雀荘やネット麻雀と大会での対局が違いがあるように、インターミドルとインターハイもまた違う。

 別の大会経験者であっても、また別の大会における初出場というものは背負う重荷が違うもの。

 

 久もその違いを自覚しているからこそ、堅実に実力を上げる方向性を選んだ。

 

 

「――――で、須賀くんも初心者を脱却できて、大会に参加しても、ただただ負けて帰ってくるということはなくなったのはいいとして」

 

「そうですか? なんかあんまり強くなった気がしないんですけど……」

 

「そんなことないよ。京ちゃんが卓に入っても、だんだん和了り難くなってきてるし」

 

「嶺上開花で和了る咲ちゃんが言っても説得力ないじぇ……」

 

「そんなの、ただの偶然です」

 

「偶然かもしれんが、強いは強いからな。この面子じゃ、京太郎も成長は実感し辛いのも仕方ないわ」

 

 

 まこは京太郎の肩を叩きながら、自身の腕を疑う後輩を励ました。

 嵐の指導の結果か、京太郎の実力は格段に向上していた。二ヵ月前まで牌を触ったことなかったとは思えない成長だ。

 まだまだ部内での勝率は低いものの、全員が油断のできる相手ではない。

 自身の調子が悪ければ、あるいは逆に京太郎の調子が良ければ、いつもの立場は逆転しかねない位置に来ている。

 

 もっとも、麻雀はそういう競技だ。

 短いスパンであるのなら、ズブの素人がプロ雀士に勝ることは不可能ではないし、珍しいとは言い切れない。

 

 その点、京太郎は三人の当たり牌を明らかに自覚した上で止めることもあれば、捌きの難しい手を牌効率の面から見ての正答に導くことも多く、決して初心者・素人という域にいなかった。

 

 だが、残りの6人がそれだけで勝てるほど甘い相手であるわけもない。

 京太郎の通った道、これから通ろうとする道の先を行く者たちだ。一時の勢いで追い越せることはあっても、地力はまだまだ劣っている。

 成長など実感できるはずもない。確実に、堅実に足を進めている京太郎には、周囲の人間が高みにいる故に、自分の成長が一足跳びのものであると気づけない。

 

 

「須賀、焦るな。成長を実感できる者など一握りだ」

 

「先輩もですか」

 

「当然だ。前に進んでいるつもりだが、同じ場所で足踏みしているかもしれないという不安と常に戦っている。俺はその場で立ち止まっていることに耐えられない人間だから特にな」

 

 

 とてもそうには見えない。

 常に冷静沈着に物事を判断し、泰然自若とした物腰を崩さない人間に言われても信じられないだろう。

 

 しかし、人の心の内が本人以外も分からないものである以上、上辺だけの言葉と断じるのは、また浅慮であった。

 

 

「まあ、それほど焦ってるつもりはないですよ。負けて悔しいは悔しいですけど、そんなホイホイ勝てるほど皆の努力は甘くないでしょ」

 

「分かっているのならいい。焦ったところで空回るだけだからな」

 

「まー、俺がっつーか、先輩以外が全員思っていることの方が気になりまして」

 

「……ん? なんだ、言いたいことがあるのならハッキリ言ってくれて構わないぞ?」

 

 

 京太郎の言葉は嵐にとって予想していないものだったのか、目を丸くして辺りを見回す。

 他の部員たちは呆れた様子で顔を見合わせ、あるいは大きく溜め息をつくばかり。

 

 

「はーい、皆の気持ちは一緒みたいね。じゃあ、せーの」

 

 

『なんで合宿に来てるのに一回も麻雀打たないの?』

 

 

「えっ」

 

『えっ』

 

 

 久の音頭でハモる六人の言葉。

 しかし、嵐は言葉を受けて静かに驚き、六人は静かに驚いた嵐に驚いた。

 

 

「いや、新一年の強化が目的なんだから、俺が無理に入る必要もないだろう」

 

「あるわよ! メインは確かにそうだけど、私たちだって打たなきゃダメでしょ!」

 

「そうだが、牌譜も取らなねば、あとから見直せないぞ」

 

「それはワシや部長もできるけぇ。少しは任せんさい」

 

「でも、後ろで見てるだけでも俺には勉強に……」

 

「知ってます。後ろで見たり、夜に牌譜研究したり、俺たちにアドバイスくれたりもしてます」

 

「だろう? 必要なことであるし、俺がやりたいからやっているだけだが」

 

「だからって、やり過ぎだじぇ」

 

「そうですよ。そこまでされても私たちは……」

 

「ちょっと……うぅん、かなり後ろめたいです」

 

 

 それは批難というよりも、心配と申し訳なさからの言葉だった。

 

 確かに、嵐のアドバイスは歯に布を着せぬ分、何処にミスがあったのか分かり易く、また的確である。

 そういった意味で、指導者として申し分ない素養がある。効率の観点から見れば、部内での立場は間違っていない。

 だが、それはあくまで指導者の立ち位置だ。一介の部員が立つべき場所ではない。

 

 部員であるのならば、誰しもに大会に対しての意気込みや目的意識があり、自らの目指す場所への努力をすべきであり、そこに先輩後輩の垣根はない。

 

 加えて言えば、彼女らは人は持ちつ持たれつの関係を築くべきと無意識に知っている。

 一方的に頼るだけでは、相手に負担を与えるだけでなく、自分自身の成長を妨げる結果となるものだ。

 何よりも、こうまで見返りを求めぬ献身――例え、本人がそう思っておらずとも――に報いなければ、六人が自分自身を許せない。

 

 

「……そうか、逆に気を使わせていたのか。すまんな、俺としては必要だと思ったんだが」

 

「必要は必要だけど、アンタの場合はやり過ぎなのよ」

 

「成程、この手の加減は、よく分からなくてな。…………普段から須賀に雑用を押し付けているお前たちの言っていい台詞とも思えんが」

 

 

 最後の一言が、グサリと嵐と京太郎以外の心に突き刺さった。

 

 程度の差はあれ、京太郎もまた嵐同様、自身の時間を削り、部に対して貢献している。

 先の嵐に対して向けられた言葉が本物であるのなら、京太郎に対しても同じように労い言葉だけでなく、正当な報酬を与えて然るべきだろう。 

 

 

「……須賀くん、ごめんなさい。今度からは、買い出しの量は減らすわね」

 

「ワシも牌譜の整理を任せっきりじゃったのぅ……」

 

「今度から部活の前に、ちゃんと学食でタコス買ってくるじぇ……」

 

「わ、私も対局が終わった後に牌磨きをしなくては……」

 

「あ、あはは、いつも飲み物いれてくれてるの、京ちゃんだったよね…………ごめんね」

 

 

 それぞれ思うところがあったのだろう。

 普段の様子を思い返しているのか、各人が目を逸らしながらも顔を引き攣らせ、冷や汗を掻いていた。

 

 振り返っているのは嫌な顔一つせずに雑用を淡々と熟す京太郎。

 感謝はしている、ありがたくも思っている。だが、やはり最初に浮かぶのは、ごめんなさいという謝罪の言葉。

 

 その動揺ぶりに助け舟を出したのは、他ならぬ京太郎だった。

 

 

「いやほら、俺がやりたくてやって――――あ、ダメだ! この言い訳、今は使えねぇ?!」

 

「だろうな、俺と同じことを言っているぞ。……それに、一番弱いからと雑用を引き受け、今の立場に安堵するお前にも問題がある」

 

(バ、バレてる……!)

 

 

 京太郎にも引け目はあった。

 初心者だから、と実力者の手を煩わせる不甲斐なさ。自分の居場所がなくなるのでは、という不安。

 麻雀を楽しんでいるからこそ、麻雀を続けていたいからこその不安。

 誰にも否定できないものだ。いずれ親しい人間に捨てられる、置いて行かれるなど、想像したくもあるまい。

 

 自身の弱さ、甘さを指摘され、今度は京太郎が肩を落とす番だった。

 

 

「あー、もう! お互い悪かった、態度を改めるってことでいいのよね!」

 

「無論だ。それ以外の理由があるか?」

 

「アンタの物言いはコッチを責めているようにしか聞こえないのよ!」

 

「なに? ……そんなつもりはなかったんだが」

 

 

 部屋の中に漂い始めた暗い雰囲気を払うように、久が声を張り上げる。

 本気で苛立っていると言うよりは、無理に怒って自分を奮い立たせているようだった。

 

 久の偽りの怒りに押されたのではなく、その台詞に驚いた嵐は目を見開いた。彼としては、あくまでも指摘のつもりだったのだろう。

 改めた方がいいとも思ってはいたが、指摘をどう受け取ろうとも当人の選択。余人の口出しすべきものではないとして、それ以上踏み込んでいくつもりもなかった。

 

 相変わらず他人の考えや気持ちは察せても、自身の行動をどう受けとられるのかを分かっていない男だった。

 

 

「まあまあ、嵐さんもそんなに落ち込まんと。それに良い機会じゃろう。このまま打てず仕舞いじゃ、後輩に舐められるけえね」

 

「別段、舐められても構わんが。相手にはそのように映ったというだけの話だ。ましてウチの連中は不敬を働くような人間ではない。だが……」

 

「……だが?」

 

「ここまで言われたにも拘らず辞そうものなら、逆に俺が非礼だな。了解した、入らせて貰おう」

 

「じゃあ、俺が抜けます。負け続けで疲れたし、まずは後ろで見てみたいんで」

 

 

 嵐が僅かながら笑みを浮かべたのを見ると、京太郎は自ら席を立った。

 

 京太郎自身、打ってみたくはあったが、負け続けで疲労を感じていた。

 例え、肉体的な疲労が少なくとも、精神の疲労によって思考の鈍りや身体を重さを感じることもある。

 そんな状態でまともな打牌ができるとは思えなかったし、一応とはいえ師に当たる嵐と腑抜けた対局をしたくはなかった。

 勝つにせよ、負けるにせよ、全力で成長を見せたい。そんな思いから、背後で見ることを選択した。

 

 

「じゃあ、よろしく」

 

『よろしくお願いします!』

 

 

 嵐は僅かに顎を引き、目を伏せた。

 それが対局相手に向ける最大限の敬意であると受け取れる一礼。

 礼儀正しい和、咲はともかく、そういった堅苦しさを嫌う優希すらも釣られる形で頭を下げた。

 

 

「須賀くん、賢明だったわね」

 

「はは、何もできずに負けなくて、って意味ですか?」

 

「まさか。今のワレなら参加もできずに負けるなんてありえんじゃろう」

 

 

 久の言に自虐――ではなく、純然たる事実として考えていた京太郎の答えは、牌譜を取るために紙とペンを握ったまこに否定される。

 

 実際にトップ率、スコアという点において京太郎は部内で最下位である。だが反面、放銃率やラス率は優希の方が高い。

 それは性格の違いのみならず、勢いを武器にした優希の打牌と嵐に教えられた自身で考え抜く力を伸ばした京太郎の打牌の差であろう。

 優希のように派手に勝ち、派手に負けることに目を引かれる人間も存在すれば、京太郎のように勝ち星は少なくとも、少しでもスコアや結果を良くしようとする立ち回りに脅威を感じる人間もいる。

 一概にどちらが優れ、どちらが劣っているかなど語れるわけもない。

 

 ましてや麻雀はその場限りの運ですら、勝敗の決めてと成り得る競技。

 そういう競技と知っているからこそ、二人は京太郎の考えを否定した。

 

 

「なら、なんでですか……?」

 

「いいから、とにかく見てれば分かるから」

 

 

 いつものように意地悪げな笑みを浮かべ、久は京太郎に視線を絡ませる。

 その時、いつものと違うところを一つだけ見つけた。

 

 その瞳から発せられる光が楽しげなものではなく、嬉しげだったこと。

 

 付き合いがたかだか二ヵ月程度の付き合いであっても、久という人物を多少は把握していた。

 悪戯好き。悪巧みの手管に長けている。考えなしのように見えて、実際は人よりも多くのものを考え、多くを把握している。自分で動くよりも、人を動かす方が得意。

 

 ――そして何よりも、常に楽しそうに生きていること。 

 

 竹井 久という人間は人生を楽しんでいる。

 持てる全てを費やし、扱い、しかして努力を怠らず、最高の楽しみと最大限の利益を上げて、青春を全力で謳歌している。

 

 それが京太郎の久に対する人物評であり、所感だった。

 

 だからこそ不思議でならない。

 目の前の展開を楽しむのならば分かるが、喜ぶとはどういう意味が込められているのか。

 

 それはつまり――――――

 

 

「部長は嵐さんに惚れてるけぇ、しゃあないわ」

 

「…………へ?」

 

 

 眼鏡を光らせ、ニヤリとシニカルに笑うまこ。

 京太郎は予想だにしなかった答えに目を丸くした。

 

 言うまでもなく慌てたのは久だ。 

 

 

「ふぇっ?! な、なにをいってるのよ、まこぉ!」

 

「え? ワシは闘牌に惚れこんどる、っちゅう意味で言ったんじゃがな?」

 

「……ぐ、っく、覚えときなさいよ」

 

「おー、こわ。いつものお返しのつもりが、高くついたかのぅ」

 

 

 図星を突かれたのか、それとも単に恥ずかしかったのか。

 京太郎に胸中まで察することはできなかったし、考えることも止めた。

 耳まで真っ赤になった久を見れば、いつもからかわれている側だったとしても情けをかけたくなるのが人情だろう。

 

 

「須賀くんも勘違いしないようにね。絶対に。断じて。何があっても」

 

「ハイ、ワカリマシタ」

 

「なによ、その酷い棒読み?!」

 

 

 こういったやり取りは二人の仲の良さ故と理解し、被害が飛び火してくるのを回避するために京太郎はそれ以上の追及を避けた。

 

 

(取り敢えず、部長はからかうのは得意でも、からかわれるのは苦手。あと可愛い――――いや、重要なのはそこじゃないな。対局に集中集中っと)

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 四人の対局は優希の起家から始まり、続き、咲、和、嵐の順で親が回っていく形となった。

 

 優希は東場での速攻は言うまでもないが、起家率も極めて高い。

 起家になる確率は、たったの1/4。長く対局を続ければ、起家率が2割5分に近い数字となるのが普通だ。

 

 しかし、入部から2ヵ月余りで熟した200局以上の対局において、彼女の起家率は8割を超えていた。

 

 ただの偏りと割り切るのは容易い。もっと長いスパンで見れば、いずれ平らになるはずだ。それが何時になるのかさえ、除きさえすれば。

 数千局では手は届くまい。数万局でもまだ突出しているだろう。数億局に至って、ようやく平らになるかどうか。

 

 そのような数の対局を人間が果たせるわけもない。   

 人間の想像を超える者。神の定めた常識(かくりつ)を崩壊させる者――――優希もまたインターハイにおいて“魔物”と呼ばれるに相応しい存在である。

 

 そして彼女が起家を務める対局は――――

 

 

「ツモ! 8000オールの親倍だじぇ!」

 

 

 優希・手牌

 

 {二二三三四四②③④⑧⑧23} {4}(ツモ)

 

 

 ――――彼女の和了りから始まる場合が殆どだった。

 

 リーチ一発ツモ、平和、断ヤオ、一盃口に三色付き。更には雀頭の{⑧}がドラの化け物手。

 裏ドラが乗らず、三倍満には一翻届かなかったものの、そんな化け物手を手なりで進めた上、僅か7順目の出来事。

 並みの雀士ではやっていられない。止める暇さえない、バカヅキとしか言えない和了。

 

 

「これは痛ぇ……」

 

「あら、須賀くんなら諦めちゃう?」

 

「いや、どうですかね。諦めはしないでしょうけど、混乱して普段通りの打ち方ができるかどうか……」

 

「高い和了りは精神へのダメージも多いけぇ。立て直せないことも多いが、見てみんさい」

 

 

 四人の対局を邪魔しないような小声での会話だった。

 

 まこが顎で指し示したのは和と咲の表情と嵐の背中。

 

 和と咲の表情は、優希に和了られたにも拘らず、無表情ながらも固さのない柔らかなものだった。

 焦りや苛立ちは一切ない。しかし、同時に油断もなく、優希に対する賞賛の色が読み取れる。

 

 京太郎たちの位置から嵐の表情は見えなかったが、ピンと伸びた背中は不動であり、誰の目から見ても動揺は見られないだろう。

 

 

「相手がバカヅキしてりゃあ、こういうことも間々あるもんじゃ」

 

「そういう時、平常心が大事、と」

 

「その通り。まともに考えれば東風戦じゃ、ほぼ優希の逃げ切り確定でしょうけど、これは東南戦。つまりは半荘。チャンスはいくらでもあるわ」

 

「あの三人なら、東風戦でも油断はできんがの」

 

 

 優希の点数はこれで49,000点。対し、三人は17,000点。差にすれば32,000点。

 直撃を前提として、満貫ならば二度、跳満ならば一度と少し、倍満ならば一度で並ぶ点差。

 終局まで最低でもあと八局。ましてや三人とも親番を二度も残している。厳しく細い道ではあるが、決して歩いていけぬ道ではない。

 

 

「それもそうなんですけど、日之輪先輩の手牌は……」

 

 

 京太郎の気を引いたのは、嵐の手牌だった。

 

 

 嵐・手牌

 

 {一一四六③④赤⑤⑥⑦⑧⑧東東}

 

 

 6順目、優希の{五}切りリーチに対し、嵐はドラの{⑧}を掴んだ時点で即座に出来面子から{五}を抜き打った。つまり、その時点で聴牌はしていたのだ。

 更に不可解だったのは3順目に和の{東}切りで鳴かなかったこと。{東}対子は配牌の時点で嵐の手にあった。

 鳴けばその時点で東赤イチの2000点確定、ドラ{⑧}が顔を出すか、ツモれば3900点から4000点の――

 

 

 {一一四五六②③④赤⑤⑥⑦} {横東東東}

 

 {一一四五六③④赤⑤⑥⑦⑧} {横東東東}

 

 

 ――こんな形の和了りも十分に可能だったはずだ。

 

 東発の出だしとしては好調な点数と和了。その上、親を蹴れるのであれば多少は無理してもよさそうなものだろう。

 

 

「こう考えるのは、俺が素人だから、……じゃないですよね?」

 

「そうじゃな。最近のスピードに重きを置いた麻雀じゃ、可笑しかないわ」

 

「私なら威嚇の意味も込めて鳴いてたわね。相手が鳴きをテンパイ気配と感じて受けに回ってくれれば、それだけツモる回数も和了りの可能性も増えるし、決して悪手と言えないわ」

 

 

 昭和の時代、手役を重視した打ち回しこそが主流であり、鳴きを軽視する傾向にあった。  

 しかし、嵐は近年の麻雀はスピードも重要と常々語っていた。鳴いて捌くのも、一つの手段と認めている証。

 ならば、鳴きを嫌う面前重視の雀士、ということもないだろう。

 

 

「嵐さんは鳴きと面前のバランスがいいけぇ。どちらに寄るっちゅうことはない」

 

「……て、ことは、三人の打ち筋を見るために和了りを捨てたのか」

 

「そうね。嵐は敢えて和了りを放棄して一局か、二局くらい見に回る場合が多い。酷い時なんて東場丸々捨てることもあるわね」

 

「…………はぁ?!」

 

「流石に、そこまでいくのは稀だけどね」

 

 

 一局、二局ならばまだしも、半荘の東場を捨てることさえあるという。それは東場に全く和了れないこととは別次元の問題だ。

 見は無意味な行為ではない。明らかな当たり牌、切り辛い危険牌を掴んだ時点で和了りを諦め、相手の癖や打ち筋を見極めれば、次局の和了りへと繋げる布石となる。

 だが、状況から仕方なく見に意向するのではなく、自らの意思で見に徹するのは、スピードを重視する近年の麻雀ではリスキーどころか自殺行為にも等しい行い。

 

 嵐が見に徹する相手に例外はない。

 一度戦った相手であろうとも。明らかな格下であろうとも。見に回るだけで危険な強敵であろうとも。

 しかも、見に徹する回数も様々。油断のならない相手に対しての一局だけで済ませる場合もあれば、ズブの素人に数局を費やす場合もある。

 

 例外は相手ではなく場況。

 配牌一向聴。最終形の想定が高い時。ツモから自らの好調を読み取った時だけだ。

 

 

「嵐さんのことじゃ、癖や打ち筋くらいだったら一局もあれば見切っても可笑しかない。もっと深いところまで見通してそうじゃな」

 

「一度戦った相手に見に回る必要はないしね。相手の本質とかもそうだけど、成長の度合いとか、対局中の成長の伸びまで推し量っているかも……」

 

「……………………」

 

 

 京太郎も、相手が何処の馬の骨とも知れない人間であるのなら、二人の会話を一笑に付しただろう。

 しかし、隠し事や、直接見ていない場面の出来事を、人の表情や雰囲気から見抜く嵐であれば、話は別だ。

 

 二人の言葉を、半ばまで信じてしまっている自分が既に心の中にいることを自覚し始めていた。

 

 

 東1局1本場 親・優希 ドラ{9}

 

 嵐・手牌

 {三四五六七③③④⑤77中中}

 

 

(まだ高速配牌が続くのか。悪くない、悪くはないけど……)

 

 

 優希・手牌

 {678999①③一二三南西} {南}(ツモ) {西}()

 

 

「よし、ダブルリーチっ!」

 

(なんちゅー勢いだよ、おい! 嵌{②}で待ちは悪いけど、ドラ暗刻のダブリー。こんな手が入るもんなのか?!)

 

 

 前局の勢いをそのまま引き継いだのか、最低12,000点の親満を配牌から手に入れていた優希。

 待ちを良くし、相手に少しでも隙を当たるのは緩手と判断した上でのダブルリーチ。

 

 もうこうなれば、咲にせよ、和にせよ、よほど配牌がよろしくなければ頭を低くして耐えるしかない。

 

 

 咲・手牌

 {1234578七九③⑤⑧北} {八}(ツモ) {北}()

 

 和・手牌

 {①赤⑤⑥⑦⑦一二三四23中発} {4}(ツモ) {中}()

 

 

 二人とも、暗刻でしか面子が作れず、単騎かシャボでしか待てない、当たる可能性の低い字牌からの切り出し。

 ともにツモった時点で二向聴。攻めて行くには心許なく、これ以後のツモで押し引きを見極める様子見の一打。

 

 

「ポン」

 

 

 1/2の確率で和の手牌から押し出された{中}を嵐が何の迷いもなく鳴いた。

 

 

 嵐・手牌

 {三四五六七③③④⑤77} {横中中中} {③}()

 

 

「通るか……?」

 

「ぐ、通るじぇ」

 

 

 当たり牌の隣、{③}を切られ、僅かながらに優希の表情が歪む。

 三人がダブルリーチで手が縮こまるレベルの手合いなどと夢にも思っていなかったが、押してくる以上、相当の手が入っていると予想したのだ。

 無理もない。嵐の手牌を知らぬ優希には、三面張とはいえ、たった一翻の手でダブルリーチに押してくるなど考えられなかった。

 

 

(すっげぇクソ度胸。顔色一つ変えずに、ダブリーに無筋を押せるのかよ)

 

 

 京太郎の疑念を余所に、次順――

 

 

「ツモ、中のみ。一本場は4本6本」

 

 

 嵐・手牌

 {三四五六七③④⑤77} {横中中中} {二}(ツモ)

 

 

「じぇぇぇ、いくら三面張だからって、こんな手で私の親満がぁ!!」

 

「麻雀じゃ、よくあること、だろう?」

 

 

 東家・優希 474,00(-1,600)

 南家・咲  166,00(-400)

 西家・和  166,00(-400)

 北家・嵐  194,00(+2,400)

 

 

 実質、ただ一度の鳴きとツモでの和了り。優希のリーチ棒を含めた2,400のプラス。

 配牌と和の{中}切りと幸運が重なった結果とはいえ、まさに電光石火としかいいような仕掛けだった。

 

 裏も乗れば、勝負の天秤が大きく傾くリーチを蹴られ、優希は当然の如く悔しがっていたが、和了った嵐の態度は涼しいもので宥めるだけの余裕があった。

 

 京太郎は早業に舌を巻き、ふと咲を見れば、最後に掴んだらしい牌に視線を落としていた。

 じっと見つめていたのは{②}。今し方まで、優希の当たり牌であった。

 

 

(あのツモは元々優希のツモなわけだから、先輩の鳴きでズレた。……いや、ズラした?!)

 

 

 単なる結果論、単なる偶然。たったそれだけのこと、たったそれだけのはず。

 

 だが京太郎には否定できなかった。

 理由は定かではない。僅かな順目で最短の和了りを拾ったからか。無意識の内に、嵐の実力を読み取っていたのか。

 

 

「あら、不思議なことでもあったの、須賀くん?」

 

「あ、いや、先輩の鳴きがなければ優希の一発ツモだったもんで。…………偶然、ですよね?」

 

「うーん、どうかしら? アイツは、そういうことがあっても運が良かった以上のことは言わないから。…………ところで、感覚打ちって分かる?」

 

「ええ。優希とか咲みたいなタイプですよね。部長が言うにはリアルの情報を読み取っている、って感じの」

 

 

 感覚打ちとは、その時の運や調子、あるいは直感を優先し、具体的な数字や確率を度外視した打ち筋だ。

 そんな打ち方では素人同然であるが、だからこそ強い人間を京太郎は誰よりも身近で体験している。

 

 宮永 咲。片岡 優希。

 どちらも京太郎がもっともよく対局する相手であると同時に大きな壁であり、またいつかは超えたいと願う相手でもある。

 

 

「特に宮永さんなんかはズバ抜けてるわ」

 

「普通の人には見えてないものまで見えてる、でしたっけ。牌が全部透けて見えてるわけじゃないでしょうけど」

 

「流石にそこまではね。でも、ある程度なら、見えてるかも」

 

 

 そうでもなければ毎局±0などという離れ業ができる筈もなく、嶺上開花という役満以上に珍しい役を連発できるはずもない。

 そう感じさせるだけの条件は整っている、とも言える。 少なくとも、そう感じさせるだけの“何か”を咲は持っていた。

 

 相手の当たり牌を掴んだ時、捨てた時、何がしかの予感が電流として全身に奔るように。

 京太郎もまた、咲の持つ“何か”を、対局の度に感じていたのは確かだった。

 

 

「それに嵐の凄さは後ろで見てないと分からないのよ」

 

「もし、今のを狙ってやったっていうなら、確かに……。賢明って、そういうことですか」

 

 

 対局前に久が発した賢明の意味を、ようやく京太郎は理解した。

 対局していれば、嵐の運が良かったで済ませていた可能性が高く、何をされたのかも理解できなかっただろう。

 

 何よりも、たった一度の和了りで京太郎は魅了されてしまった。これが部長が惚れ込んでいる闘牌なのか、と。

 偶然にせよ、蓋然にせよ、当然にせよ、凄まじいことに変わりはない。

 

 咲や和、優希とは、また一味違った打ち筋。それはまるで―――

 

 

「嵐の闘牌はまるで災害。巻き込まれた人間は何が起きているのか、何をされているのか、終わってみなければ理解できない」

 

 

 ――意思を持った嵐のよう。

 

 さながら、四人の座る卓は突如出現した台風の目――嵐の中心に穿たれた空洞か。

 風は穏やかで、雨もほとんど降らず、普段と変わらぬ青空が覗ける(うろ)

 しかし、その洞から一歩でも外に出れば、最も激しい風雨に曝される、一時の安全だけが約束された危険地帯。

 

 “嵐”は静かに、穏やかに―――だが、確実なる猛威を振るうため、進路を決めつつあった。

 




五話目にして、ようやく主人公が真の実力を発揮です。
思ったよりも長くなったので中途半端なところで申し訳ありませんが、次回をお待ちください。

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております。


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第六話 『実力』

 東2局に差し掛かり、親は咲へ移行し、場は膠着状態にあった。

 

 前局の和了りに邪魔されたのか、優希は勢いの感じない三向聴の平凡な配牌から始まった。

 しかし、嵐の手牌は向聴数こそ同じだったではあったが……

 

 

 東2局0本場 親・咲 ドラ{1}

 

 嵐・手牌

 {①②⑤⑥⑦⑧18二西西発発} {三}(ツモ)

 

 

 自風牌・翻牌を重ね、僅か以上に筒子の混一、一気通貫を予感される好配牌。

 ツモないし和からのピンズの打ち下ろしがあれば、最悪、役牌を鳴けば親番だけでも蹴れる。

 

 だが、嵐はこの配牌に何の魅力も感じていなかった。

 役牌を鳴くのは容易いだろうが、和がこちらに筒子の寄りを感じれば、そう簡単に打ち下ろしてくるはずもない。

 自らの手を狭めるような真似はしないだろうが、ギリギリまで抱える可能性は非常に高い。そうなれば、嵐の一手遅れは目に見えている。

 

 結局、第一打に河に顔を見せたのは{⑧}だった。 

 

 

(この手牌でも見に回るのか。いくらなんでも徹底し過ぎだろ……)

 

 

 普通に考えれば{1}切りが安定。

 ツモが悪くとも、役牌を鳴いての混一を目指せる手牌を第一打から見限った。

 

 その打牌に、京太郎は薄ら寒いものを感じる。

 どう考えても、ここは和了りを目指す場面だ。点数は優希の一人浮き、少しでも点数を削り、自身の親番に繋げるべき。

 

 

(そうしないってことは、それだけ腕に自信があるのか……もっと、別の意図がある?)

 

 

 そんな考えを裏切るかのように、局は12順目に縺れ込んだ。

 

 

 嵐・手牌

 {②③④赤⑤⑥⑦456西西発発}

 

 優希・手牌

 {白白②②④⑦⑧} {東横東東} {横二三四}

 

 和・手牌

 {二三四五45688④赤⑤⑥⑦}

 

 

 嵐は聴牌こそいれていたものの、{西}{発}はそれぞれ場に二枚切れの純カラ。和了りを逃した形となっていた。 

 対し、優希は牌を入れ替えた嵐の{二}と和から捨てられた{東}を鳴き一向聴。

 和も{六}{③}{⑧}を引き入れれば、{7}が場に一枚も見えておらず、一発の目に裏ドラも期待できる三面張の一向聴。

 

 やや和が優勢の展開であったが、ここで動いたのは、咲だった。 

 

 

 咲・手牌 13順目

 

{12345五五赤五⑤⑤⑨⑨⑨} {②}(ツモ) {5}()

 

 

 

 僅かに、悩むような素振りを見せての打牌だった。

 そして、その牌に和了り宣言も鳴きも入らないのを見て、僅かばかりに安堵の吐息をついたように見える

 

 

(両面搭子を崩して{②}残し、優希の鳴きを警戒してか?)

 

 

 しかし、咲の打牌は京太郎の予想を全て外したものだった。

 

 

 咲・手牌

 {1234五五赤五②⑤⑤⑨⑨⑨} {③}(ツモ) {4}()

 

 {123五五赤五②③⑤⑤⑨⑨⑨} {③}(ツモ) {②}()

 

 

「……リーチ」

 

(んっ?! また両面搭子を外してシャボ待ちに変更してリーチ!? でも{⑤}は先輩と和が持ってる、{③}はあと一枚、気づいてな……いや、待てよ、おい)

 

「その{②}、ポンだじぇ!」

 

 

 優希・手牌

 {白白②②④⑦⑧} {東横東東} {横二三四} {②②②} {④}()

 

 

 咲のリーチ宣言に、一発消しと聴牌を目指しての鳴きが入る。

 

 その時、京太郎の脳裏に過ったのは、かつて咲の見せた対局と久の言葉。

 普通の人間には見えていないものまで見えている。それが事実であるのなら―――

 

 

 

 咲・手牌

{123五五赤五③③⑤⑤⑨⑨⑨} {⑨}(ツモ)

 

 

(狙いはこっち、しかも咲が槓するってことは……!)

 

 

 「カン――――嶺上ツモ、6000オールです」

 

 

 咲・手牌 ドラ{1}・裏ドラ{発}

 {123五五赤五③③⑤⑤} {裏⑨⑨裏} {③}(ツモ)

 

 

 ――この和了りは、彼女にとって当然のものかもしれない。

 

 

 東家・咲  34,600(+18,000)

 南家・和  10,600(-6,000)

 西家・嵐  13,400(-6,000)

 北家・優希 41,400(-6,000)

 

 

「また嶺上開花とか、咲ちゃんは怖いじぇ。もしかして狙ってたとか?」

 

「そんなオカルトありえません。ただの偶然です」

 

「あ、あはは……」

 

「………………」

 

(和も先輩も強心臓だよなぁ。こうなっても顔色変えないし、焦りが見えない。優希はまあ、点差が一気に縮んだから焦るのも分かるけど……なんで、咲も?)

 

 

 点数は和と嵐が大きくへこんではいたものの、態度に変化は見られない。むしろ、焦っていたのは優希と咲だった。

 優希は大きく開いていた筈の点数が、あとは6,800点差まで詰め寄られ、5,800のツモか、3,900の直撃で逆転されてしまう。その焦りは当然だ。

 カクンと落ちた両肩が、今抱いている感情をストレートに表現していた。

 

 ――だが、咲が焦っている理由を京太郎には理解できなかった。

 

 誰がどう考えても焦る理由などない。

 これがオーラスの断ラスだというのならば理解できるが、東二局のトップの目は十二分にある状況に焦りや不安を抱える必要などないはずだ。

 

 

(そういえば、咲が{②}を掴んで{5}切りだした時、ちょっと迷ってたよな。あの時見てたのは……)

 

 

 視線の先に居たのは、間違いなく嵐だった。少なくとも、京太郎の目から見れば。

 

 

(先輩の待ちが純カラに気付いていなかったから、切り辛かったのか……?)

 

 

 しかし、それにしても気にし過ぎのように思えてならない。

 嵐の捨て牌には{23789}の索子5種が見えており、{5}が当たりとなるのは{46}の嵌張待ちだけ。

 迷彩を施し、咲を狙い撃ちという可能性もないでもなかったが、優希からの直撃を取った方がトップとの差が縮む分だけ有利なはずだ。

 わざわざ面倒な手順を踏んで、咲から点数を奪うだけの利点が嵐にはなかった。

 

 

(…………半信半疑だったけど、宮永さんと嵐をぶつけたのは正解だったかしら)

 

 

 咲の焦りに気付いていたのは京太郎だけではなかった。

 後ろで嵐の手牌と場の推移を見守っていた久も、また咲に動揺のようなものを感じていた。

 元々、久は人を手玉に取ることに長けた少女であり、心理戦は最も得意とするところ。人の変化には非常に聡い。

 

 

(気を付けなさい、宮永さん。靖子は経験と技術でアナタの感覚の上をいった。……でも、嵐はアナタの感覚がそもそも通用しない相手よ)

 

 

 咲を気にしておきながら、口元には底意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 

 

(何か、また可笑しな笑い方でもしていそうだな……)

 

 

 背後で意地の悪い笑みを浮かべているであろう友人の気配を感じ取り、嵐は心配だとばかりに首を振る。

 

 

(しかし、面白い和了りだった。…………その和了りが、確認したかった)

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 その後、和が咲の打った{④}を山越しに優希を狙い撃ち、7,700の直撃を加えた。

 東3局に至り、親番も回ってきたこともあってか、更に咲と優希から二度の小さな放銃を奪ったが、2本場に入り、その勢いを警戒した咲と嵐は結託し、優希をアシストに回った。

 

 

「よし、ツモ! 中のみの600・900。これでのどちゃんの親は蹴ったじぇ!」

 

 

 優希・手牌 

 {①①23} {横中中中} {⑨⑨横⑨} {横888} {1}(ツモ)

 

 

 東家・和  27,400(-900)

 南家・嵐  12,800(-600)

 西家・優希 31,600(+2100)

 北家・咲  28,200(-600)

 

 

 一時、優希は転落したものの、再びトップへと返り咲いた。後を追うように咲、和が続き、大きく遅れて嵐が追いかける点差。

 

 

「日之輪先輩だけ、点数がへこんでる。大丈夫ですかね」

 

「あら、これくらいの点差、よくあることよ」

 

「じゃなあ。親満ツモればほぼ横並び、親跳をツモれば逆転トップ。まだ東場じゃけぇ、いくらでもチャンスはある」

 

 

 三人の会話もそこそこに東4局、嵐の親番が始まった。

 

 

 東4局0本場 親・嵐 ドラ{発}

 

 嵐・手牌

 {一六九①④⑤⑨1赤567南西北} {北}()

 

 

 (酷ぇ……)

 

 

 重要な親番での配牌は、見に徹し続け、多くの和了りを放棄したツケか、ボロボロの五向聴。

 かろうじて一面子と両面搭子があり、567の三色が僅かに見える程度で、せいぜい鳴いて捌くのがやっとの手牌。和了りを目指すには余りにも遠すぎた。

 

 京太郎が嘆くのも無理はない。

 配牌五向聴から上がれる確率は、1割と少し。現実的に考えれば、十度に一度上がれれば良い方と聞いていた。

 多くのデジタル雀士も、ここまで配牌が悪ければ鳴いて捌くより、始めからオリを意識して手を進めていくものだ。

 

 しかし――

 

 

 嵐・手牌

 {一六九①④⑤⑨1赤567南西} {四}(ツモ) {一}()

 

 {四六九①④⑤⑨1赤567南西} {⑥}(ツモ) {1}()

 

 {四六九①④⑤⑥⑨赤567南西} {7}(ツモ) {九}()

 

 {四六①④⑤⑥⑨赤5677南西} {五}(ツモ) {①}()

 

 {四五六④⑤⑥⑨赤5677南西} {③}(ツモ) {西}()

 

 {四五六③④⑤⑥⑨赤5677南} {7}(ツモ) {⑨}()

 

 {四五六③④⑤⑥赤56777南} {4}(ツモ) {南}()

 

 

(む、無駄ヅモなしに、あっという間の聴牌。高速配牌の次は鬼ヅモ。咲にも負けてねえ……!)

 

 

 京太郎は知らなかった。藤田との対局の際に見せた嵐の強運を。

 怒涛の中張牌八連続引き。幺九牌を切っている間に、{③}が顔を見せれば親満に手が届く和了りにまで昇格してしまった。

 

 しかし、そこで立ちふさがったのは、同じく常識はずれの強運を生まれ持った咲だった。 

 

 

 咲・手牌 8順目

 {八八4567②③④赤⑤⑦⑦⑦} {②}(ツモ) {7}()

 

 

 僅かながら和に視線を送っての打牌だった。

 それは警戒によるものではなく、あたかもオーケストラの指揮者が演奏者たちの調子を見るかのような瞳。

 

 三年の付き合いになる京太郎、心理を読むことに長けた久ですら見逃してしまう微細な変化。

 常人ならば見過ごすであろう咲の異変を、嵐の眼力は決して逃さなかった。

 

 

「チ――」

 

「すまない、原村。ポンだ」

 

 

 嵐・手牌

 {四五六③④⑤⑥4赤567} {7横77} {4}()

 

 

「は……? この手で鳴く? しかもカンじゃなくてポン? わざわざ三色を崩して?」

 

「普通じゃ、まずありえない鳴きじゃな。邪魔ポンにしか思えん。部長はどう見る?」

 

「さあ……? 麻雀やってる時のアイツの頭の中なんて読めないわよ。でも、そうね。須賀くん、折角だから和の手牌でも見てきたら?」

 

「はあ、そういうなら……」

 

 

 四人の背後を回って手牌や打ち回しを見ていた京太郎が、今度は和の後ろに回った。

 

 

(つーか、咲の奴、何であんなありえないって顔してるんだ……?)

 

 

 ついでに咲の後ろに回り手牌を確認しながらも、目を開き、信じられないものでも見るような目で嵐を見る咲に首を傾げた。

 

 そして、全ての疑問が氷解したのは9順目の和のツモだった。

 

 

 和・手牌

 {⑤⑥⑧四赤五六七七七3368} {⑦}(ツモ) {8}()

 

 

({⑦}が埋まりましたが、既に宮永さんと日之輪先輩は聴牌気配。{8}切りで様子見ですね)

 

 

 和から見れば、嵐のポンによって{7}三枚切れ。{68}の嵌張搭子を残しておく意味はなく、当たり牌である危険性の低い{8}切り。

 何ら不思議なことはない、当然の選択だ。しかし、後ろから見る者には驚異的だった。

 

 

(和が{7}鳴けば、あの{⑦}は咲のツモ……てことは、また嶺上開花もあり得たんじゃ)

 

 

 もし、嶺上牌が咲の待ち通りだとすれば、{八②}のどちらを手牌に吸収しても、手が狭くなるだけだ。これを見越していたというのなら―――

 

 出来過ぎといえば出来過ぎの展開に、京太郎はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 もし、もし仮にこの展開を嵐が読んでいたというのなら、嵐もまた咲に近い生き物ということ。

 しかも、一時的かもしれないが、咲を上回る何かを秘めている証しでもある。

 

 

(違う……いつも打ってたお姉ちゃんとも、この間対局したカツどんさんとも、日之輪先輩は違う……!)

 

 

 咲は卓の下で、手を握ることで何とか震えを抑えていた。

 

 経験という点ではカツどんさん――藤田 靖子が上だろう。

 相手に“何か”が与える威圧感という点では、彼女の姉の方が上だと思っていた。

 

 だが、全くと言っていいほど相手の手牌が読めない経験は、今までに一度足りとてなかった。

 

 勿論、全てが見えているわけではない。あくまでも何となく、直感の領域を出ておらず、薄ぼんやりとした、曖昧模糊とした説明できない感覚に過ぎない。

 それでも咲はこれまで経験した対局において、全てが外れることなく的中していた。

 

 

(…………分かった。お姉ちゃんやカツどんさんみたいに“何か”は確かにあるけど、感じ取れないんだ)

 

 

 言葉にできない威圧感。時に吐き気すら催す存在感。

 姉や藤田に感じたそれが、嵐には感じ取れなかった。咲同様、藤田もまた同じように。

 

 だが、それは0だったからではない。むしろ逆だ。

 

 巨大な物体が目の前あれば、全体像を把握できないように。

 巨大な音を耳にすれば、耳鳴りで周囲の音を聞き取れないように。

 あるいは、巨大な嵐の中に飛び込めば、激しい風雨に視界を塞がれてしまうように。

 

 “何か”が圧倒的過ぎて、逆に全ての感覚が麻痺してしまっている。

 

 

(もしかしたら、今のお姉ちゃんよりも………………なら、なら―――ッ!!)

 

 

 急速に、咲から放たれる“何か”が高まっていく。

 同じ感覚打ちの優希はぎょっとしたように身体を竦ませ、麻雀の経験の厚い久とまこは冷や汗と共に笑みを浮かべ、付き合いの長い京太郎も違和感に眉を寄せる。

 

 それを一身に受けた嵐は、薄く笑みを浮かべる。

 

 

(流石だ、流石は…………まあいい、森林限界を超えた(みね)の上に花が咲こうとも、(おれ)は何度でも吹き飛ばす……!)

 

 

「ツモ。タンヤオドラ1、1000オール。…………閉まらない安手で済まない」

 

 

 嵐・手牌

 {四五六③④⑤⑥赤567} {7横77} {③}(ツモ)

 

 

 東家・嵐  15,800(+3,000) 

 南家・優希 30,600(-1,000)

 西家・咲  27,200(-1,000)

 北家・和  26,400(-1,000)

 

 

 普段の冷静な態度を崩さず、咲の意気込みに比して、余りにも安い和了りを謝罪する余裕すら見せる嵐。

 咲の変化を察せず、一人蚊帳の外にいた生粋のデジタル雀士・和はきょとんとした表情をしていた。

 

 

(何が安手で済まないよ。この和了りが、アンタ以外に出来るわけないでしょうに)

 

 

 多分に勘を含んだ読みとは言え、咲の手牌と変化を見抜き、自らの判断を信じなければ不可能な和了りだった。

 だが、それでも嵐は運が良かったと言い切るだろう。そもそも{7}を引っ張ってこれたのは偶然でしかないのだから。

 

 その時、久の頭に浮かんでいたのは、かつて部室で交わした会話。

 

 

『感覚や直感も馬鹿にはできない。自分自身でも説明がつかないからそう片づけているだけだ、と俺は思っている』

 

 

 感覚打ちについて意見を交わしていた時、自己主張が少ない嵐が珍しく自分の意見を口にした。

 

 感覚、直感、予感、虫の知らせ。

 所詮、どれも個人の主観に過ぎないものだが、的中することも少なくはない。

 何故、と紐解いても、誰一人として説明できるものはいないだろう。

 

 だが嵐は、そこに理由を付けた。

 そういった感覚は自分自身も言葉にできないだけで、人は五感から何かを感じ取っているのではないか、と。

 

 例えば、聴牌時に生じる打牌音の僅かな変化。

 例えば、自分の引きたい牌を引き入れた時に緩む表情筋。

 例えば、自分が欲しかった牌が川に並べられた時の視線。

 

 例えば、例えば、例えば。

 

 無辺際に存在する数多の仕草(サイン)

 それらを無意識の内に拾い上げ、頭の中で感覚や直感として再構築しているのならば――――

 

 

(だからって、そんな推論に全霊を賭けた上に、現実にしちゃってる、なんてねぇ)

 

 

 それら全てを、嵐は鋼の意思で封じる道を選択した。

 どのような優れた感覚が相手だったとしても悟られぬように。自らの手の内を一切明かさぬように。

 嵐の言が正しければ――――嵐の手牌は、如何なる感覚を用いようとも察せない、悟られないものである。

 

 必要なのは純然たる技術と推察力だけ。

 天から贈られた才能を武器に戦う“魔物”であったとしても、嵐の前ではただの人と変わらない。

 ましてや異能を歪ませるほどの強運があるのならば、多くの“魔物”たちにとって天敵とも呼べる存在である。

 

 久が“感覚の上をいく”ではなく、そもそも“感覚が通用しない”と称したのは、そのような理由だった。

 

 

「さあ、俺の親番、続けさせて貰おうか。」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 そこからは嵐と咲の場と化した。

 辛うじて和が喰らいついていったものの、流れを掴んだ嵐と咲の強運の前には、一歩及ばずといった具合であった。

 一番酷かったのは優希だ。南場に入った途端、風船の空気が抜けるように集中力を失い、いいように毟られ続けた。

 途中、咲と嵐の点数に差が生じた際、優希が飛ばされることを警戒し、嵐が優希への意図的な放銃があったものの、現在は咲と嵐のトップ争いの様相を呈していた。

 

 

 東家・嵐  29,300

 南家・優希 11,500

 西家・咲  32,800

 北家・和  26,400

 

 

 最終局(オーラス)、咲は和了りトップ。和は3900の直撃を咲に、5200のツモ和了り。優希は倍満を超えた和了りがトップ条件となる状況だった。

 嵐はラス親。何点で和了ろうが、トップに立つまで親番を離さなければ構わない。

 

 和と優希が点数を高めていく中、咲は何とか聴牌を果たした。

 

 南4局0本場 ドラ{8}

 

 咲・手牌 10順目

 {二二三五六七②③③④④⑥⑧} {⑦}(ツモ) {三}()

 

 

(これで、聴牌! ……でも)

 

 

 咲が視線を向けたのは嵐の捨て牌だった。

 

 

 嵐・捨て牌

 {二四西35北}

 {南九6②}

 

 

 露骨な筒子面混を感じさせる捨て牌。

 ラス親での連荘がありながら、ただの一撃で勝敗を決する意思が現れているかのような索子萬子の嵌張払い。

 咲の手牌に多くの筒子が残っていたのは、嵐からの鳴きを警戒してであり、索子の一面子を捨てた結果が10順目まで局を長引かせる結果となっていた。

 そして、咲の待ちを見切ったかのような{②}の先切り。

 

 しかし、それも仕方あるまい。

 いつもなら何となく相手の手牌が頭に浮かび、点数も待ちも把握できるにも拘らず、嵐にはそれが全く見えてこない。

 咲はまるで午前にやったネット麻雀のように、全てが手探り、全てが闇に包まれている不安感に苛まれていた。

 

 和は三枚目の{発}をツモ切り、勝負を決する11順目。

 

 ――嵐の河に二枚目の筒子、{④}が並べ打たれた。

 

 

(間違いなく聴牌。ううん、多分待ち替え。{②④}の嵌張から良型の待ちに変えた……!)

 

 

 だが、その待ちが分からない。

 その二枚の筒子から推測するには余りにも判断材料が少なすぎる。

 {③⑥⑨}の三面張、{⑤⑧}などの両面待ち、あるいは{④}を使った{①⑦}の筋引っ掛けシャボ、あるいは字牌も可能性も。

 

 優希は筒子でも掴んだのか、観念したような笑みを浮かべ、安牌の{四}を切り出し、咲のツモ順が回ってきた。

 

 

(安牌以外の筒子と字牌を掴んだら……お願い、勝ちたいの……勝てなくちゃ、いけない――!)

 

 

 牌に願いが届いたのか。咲が掴んだのは{一}。

 まだ咲の心に安堵はなかった。だが、まだツモり合いに持ち込める。自分の感覚以外の予測で危険と判断できる牌を掴むまでは押し通せる。

 嵐の捨て牌と優希が今し方切った{四}の筋であり、そして手牌に抱えておく必要のない牌。

 

 

(これは、ない……!)

 

 

 そんな心の間隙へ、白刃が滑り込むように――

 

 

「――――ロン」

 

 

 ――嵐の静かで、よく通る和了(ホーラ)宣言が耳朶に打った。

 

 え、と漏れた声は誰のものか。あるいは嵐の手牌を知らなかった全員のものだったかもしれない。

 

 

 嵐・手牌

 {①②③一⑦⑧⑨東東東中中中} {一}

 

 

「掴んだら止まらないと思ったよ、12,000だ。俺の逆転トップだな」

 

 

 東家・嵐  41,300(+12,000)

 南家・優希 11,500

 西家・咲  20,800(-12,000)

 北家・和  26,400

 

 

 二順前、嵐の手牌は、この形だった。

 

 

 {①②②③④⑦⑧⑨東東中中中} {東}(ツモ)

 

 

 {③}の嵌張待ちでは、まず顔を出すはずもなく、ツモ勝負に持ち込んでも分が悪い……いや、そもそも和了りを逃しかねないと考えていた。

 そこに{東}を掴んだ瞬間、{②}はまだ通ると切り出し、一旦{①④}のノベタンに受けた。それでも三人のレベルから和了りは望めないとは分かっていた。この時点で、嵐は混一による和了りを見切り、端牌のどれかを掴み、チャンタへと変更を選択していたのだ。

 

 自身の捨て牌は混一を目指していた故に、チャンタとは読み難い。

 混一は50符5翻、チャンタでも50符4翻。値段が同じならば、より和了りの確信がある方を選ぶのは当然の選択だ。

 

 咲・捨て牌 

 {9西九6白南}

 {78①三}

 

 

 また前順に咲の切った{三}も理由の一つ。その際、咲から見て左側に二枚の牌が残っていた。つまり{一二}どちらかの雀頭対子を持っていた可能性も高かった。

 筒子を掴めば、まず間違いなく崩してくる。暗刻になったとしても、和了りトップの状態で平和、タンヤオ以外の役を狙う理由は薄い。

 {二三三}からの{三}切りの可能性も否定はできなかったが、{三}切りの際、咲は手牌の中央からやや右寄りに視点が移動していた。待ちは筒子か索子と読んだ。

 特に9順目まで残した手出しの{①}から、待ちはこの周辺と見切り、{①④}ノベタンから{一}単騎待ちへの切り替えを決断した。

 

 場状と自らの運を利用し、的確な読みを以て道を固め、三人の想像の上をいく、正に完璧としか言いようのない迷彩だった。

 

 

「――――フフ」

 

「おー、こんなの流石に止まらないじぇ」

 

「先輩、尖り過ぎっすよ」

 

「本当に。でも、どうして混一に……?」

 

「そうだな。ここまで牌が寄ってきてくれた、と言うのもあるが、全員タンヤオが絡みそうな捨て牌だったからな。一つの色で固めれば字牌や端牌が切り辛くなって手牌の進行が送れる、という意図もあった」

 

 

 一年組は負けたにも拘らず、晴れやかな笑みを浮かべ、嵐の打牌を賞賛していた。

 最も勝ち負けに強い意識を向けていた咲ですら同様のありさま。まるで、こうまでされては笑うしかない、と言わんばかりに。

 

 

「相変わらず、こっちの想像を超えてくるわね、アンタ」

 

「ワシなら染め手一択じゃから、あの手牌からチャンタを目指せんわ」

 

「賞賛は素直に受け取っておこう――――それで、今すぐにでも卓に入りたいという顔をしているが?」

 

 

 座ったまま首だけで後ろを振り返った嵐は、二人を見据えて言い放つ。

 久とまこは一瞬、キョトンとした表情で顔を見合わせたが、すぐさま満面の笑みを浮かべる。

 

 

「じゃあ、入らしてもらうかのう」

 

「ほら、最下位と三位は抜けなさい。久しぶりに本気で行くわよぉ」

 

「お前のそういう言動は聞き飽きたが、手は抜けないな」

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

「凄かったなぁ、先輩」

 

「あの直感と強運は、可笑しいじぇ。……イカサマか?!」

 

「全自動卓ですよ、優希。私としては、あの読みの方が怖いですが」

 

「無筋を押し通してるかと思ったら、当たり牌掴むとピタリと止めちゃうもんね。槓材も一枚浮かしで止められて、なかなかカンできないし」

 

「そんなオカルトありえません」

 

 

 入れ代わり立ち代わりメンバーを変えての半荘五回、嵐はただの一度もトップを譲らなかった。

 東場で優希に勝り、和の効率と速度を超え、咲の槓を封じ、久の悪待ちを読みきり、まこの染め手を染め手で返す。

 

 自らの実力をまざまざと見せつけ、弱いから卓に入らないではという疑念を払拭した。

 もっとも嵐にも、一年達にも、そのような疑念は些細なものであり、始めから思慮の外であったが。

 

 兎も角、四人は久の部長命令で散歩に出ていた。

 いくら合宿だからと言って、根の詰め過ぎも良くない。重要なのは緩急と集中力。

 学ぶべき時は全身全霊で学び、休む時はきっちり身体と頭を休める。なあなあで続けても、成長は望めないだろう。

 

 四人が行くのは合宿所に程近いに流れている『早乙女滝』と呼ばれる滝へと続いている遊歩道。

 周囲は木々に囲まれ、遠くには川のせせらぎと滝の流れる音が聞こえる。

 道の脇には似たような種類の野花が咲いており、茂る新緑は夏の到来を静かに謳っていた。

 

 

「あー! くっそー! 飛ばされたの俺と優希だけかよ!」

 

「一緒にするな犬! 私は狙い撃ち、お前はツモだじぇ!」

 

「こいつぅ、結果が一緒じゃ変わらねぇよ!」

 

 

 元々守りの薄い優希、経験が圧倒的に足りていない京太郎は嵐を含めた部員達にはいいカモだった。

 優希は勢いに任せて当たり牌を掴んでも止められず、京太郎は押し引きの加減が分からず、当たり牌を止められても、その後の和了りへと繋げられなかった。

 

 京太郎は優希の頬を引っ張り、優希はドスドスと京太郎の鳩尾を小突く。

 見慣れた光景ではあったが、いつもの部室とは場所(シチュエーション)が違うからか、和と咲には新鮮な光景に映っていた。 

 

 ふん、とお互いに顔を逸らして離れるまでが、いつもの流れだった。

 

 

「ちぇー! のどちゃん、さっさと先に行くじぇ、京太郎がイジメるぅ!」

 

「ちょ、ちょっと優希、待って、待ってください!」

 

「こらー! 人聞きの悪いことを言うんじゃねぇー!」

 

 

 優希は和の腕を引っ張り、さっさと遊歩道の先へと進んで行ってしまった。

 和に対して高嶺の花を見るような感情を抱いている京太郎への細やかな嫌がらせだったのだろう。

 

 

「……ったく、優希にも困ったもんだ」

 

「ふふ、京ちゃんも楽しんでる癖に」

 

「ま、それは否定はしないけどな」

 

 

 クスクスと笑い声を漏らす咲に、京太郎は肩を竦めませ、おどけてみせる。

 

 それに調度いいタイミングだった。

 合宿が始まったばかりの頃、嵐と話した咲から感じて違和感の正体が何なのかを探るには、またとない機会だ。

 

 

(アイツ、何かとタイミングがいいんだよなぁ。あんな性格だけど人から嫌われることがないのは、そういう理由かな?) 

 

 

 片岡 優希は非常に子供っぽい性格である。

 小生意気な性格をして、自分に素直になれない場面も多々あり、真面目な場面でふざけてみせる。

 人によっては敬遠したくなる者もいるだろうが、優希に限っては別だった。

 

 いつも皆の中心にいるわけではなかったが、賑やかしとして皆を盛り上げる役回り。それでいて、タイミングがいい。

 人が傍にいて欲しい時には傍に、一人にして欲しい時にはふらりと消える。

 人との距離感が近く、馴れ馴れしさとも取れる態度も、そのタイミングの良さの前には、愛嬌にしかならなかった。

 

 

「…………京ちゃん、どうかしたの?」

 

「あー…………、咲はさ、麻雀、楽しいか?」

 

 

 京太郎が咲に違和感を感じ取ったように、咲もまた京太郎の変化に気付いたのか、不思議そうな顔で問いかけてくる。

 しかし、どの程度まで探っていくかを考えていた京太郎は、逡巡の後、咲が変わり始めた頃から聞いていくことにした。

 

 

「……? 凄く楽しいよ。先輩たちと打つのも、和ちゃんたちと打つのも。…………勿論、京ちゃんと打つのも」

 

「あれぇ?! 何か俺だけ取って付けた感がありませんかねぇ!?」

 

「あはは、冗談だよ、冗談」

 

 

 絶妙の間を持たせて自分の名前が出てきたことは予想外だったのか、思わぬ精神的なダメージに顔を悲痛に歪ませながらの絶叫だった。

 

 それもいつものやり取りなのか、咲は楽しそうに笑うだけ。

 今、こうしている間は、三年の付き合いになる幼馴染に何の違和感も感じない。

 

 

「じゃあさ、なんで大会に出るんだ?」

 

「だって、麻雀部員なんだから、当たり前でしょ?」

 

「それはそうなんだけどさ」

 

 

 京太郎には確たる目的意識も、インターハイに何か夢を抱いているわけではない。

 ただ、自分と同じ一年の和と優希が出場を決めたからこそ、それに合わせた。流されたと言ってもいい。

 優希にせよ、和にせよ、他の先達たちにせよ、何がしかの明確な目的や夢があって大会に望もうとしている。

 

 楽しいだけなら大会に出る必要などない。

 そもそも、京太郎の知る宮永 咲は好きこのんで人前に出るタイプではなかったはずだ。

 

 

「部長はインターハイの団体戦に出て優勝するのが夢だろ。染谷先輩は多分、部長の手助けをしたいんだと思う。日之輪先輩はプロになりたいんだと」

 

「………………」

 

「だから、お前が大会に出るのも、俺とは違って理由があるんじゃないかー、って思ってさ」

 

「それは……っ!」

 

「――――咲?」

 

 

 歩幅を合わせ隣を歩いていた京太郎は、突然隣から消えた咲に背後を振り返る。

 見れば、咲は顔を俯かせ、遊歩道の真ん中で立ち止まっていた。

 彼女の弱々しい姿なら何度も見てきたが、余りにも悲痛な姿を見るのは初めての経験だった。

 

 

「……それは、その」

 

「――――……」

 

「ほ、ほら、部長も三年生だし、全国へ行けば、私が初めて麻雀を楽しめた全員と、長く楽し、める、から…………」

 

 

 自分でも無理に態度を保とうとしているのを自覚しているのか、台詞は後に行くに連れ、途切れ途切れの擦れたものとなっていった。

 それは何かを隠そうとしているのではなく、抱えているものを明かすべきなのか、それとも口を閉ざしてしまうべきなのか、迷っているように。

 

 口を開き、いっそ全てを吐き出そうとしても言葉にならない。言葉にするだけの勇気がない。

 それら全てを感じ取った京太郎は、ふぅと溜め息をつきながらも、優しげな笑みを浮かべる。

 

 

「そっか。そうだよなぁ、部長たちには随分世話になってるし、恩も返さないとな。…………それはそれとして、別の隠してる理由があるのはモロバレですけどね?」

 

「……あ、あうぅぅ」

 

「しかもそれ、優希か和に話してね?」

 

「え? えぇぇぇ? なんで、なんで分かるの?」

 

「おいおい、ポンコツ咲ちゃんと三年も付き合いあんだぜ。幼馴染京ちゃんを舐めんなよ?」

 

 

 京太郎が察したのは、後ろめたさだった。

 幼馴染に全てを話していない後ろめたさ。新しくできた友人に隠し事を先に明かした後ろめたさ。

 

 それぐらいは分かるだけの付き合いはしてきたつもりだ。気づかれていないと思われたのは、それこそ心外だった。

 

 

「ぽ、ポンコツは酷いよ! 私だって家事くらいできるし!」

 

「えー、いまだに迷子になったり、何もないとこでコケそうになったり、和とか優希とかいないとボッチだし」

 

「うぐ、……くぅぅ、そういう京ちゃんだって、原村さんの胸ばっかり見て鼻の下伸ばしてるよ!」

 

「ぐっはぁぁぁ?! 嘘ぉ! バレてんの!?」

 

「バレバレだよ! 女の子は視線に敏感なんだからね! あと部長とか私の足もよく見てるでしょ!?」

 

「咲の足から尻にかけてのラインと部長のストッキングはエロい!」

 

「そういうこと本人の前で力説する?! 京ちゃんのエッチ、スケベ、変態!」

 

「男子高校生なんて、こんなもんだぞ。変な幻想持つなよ」

 

「…………………………………………日之輪先輩は?」

 

「あの人は、ほら、色々と次元が違い過ぎて、ちょっと……」

 

 

 此処にはいない先輩の顔を思い出し、二人の本気半分悪ふざけ半分の口論はピタリと止んだ。

 

 嵐にも欲望や本能はあるのだろうが、それを理性で完璧に抑え込んでいる。

 高校生などまだまだ子供だ。自分のやりたいことだけをやって、明日(これから)のことなんてどうでもいいから今日(いま)を楽しみたい人間で溢れている。将来に向けて明確な進路を定め、そのために必要な努力をしている人間など一握り。

 だが、彼はそれ以上だ。行動の一つ一つに信念を感じるほど、強い意志を感じ取れる。

 

 二人は目を逸らしあい、引き合いに出した人物が間違っていたのを認める。

 咲は嵐と京太郎を比べたことを、京太郎は嵐に至らぬ自分を、お互いに謝りあう。

 

 

「まあさ、言いたくないならいいけどな。俺だって、お前に言ってないこととかあるし」

 

「ふーん、そうなんだ。ちょっと意外かも」

 

 

 京太郎は裏表のない性格をしている。色々な意味で、自分に正直な人間である。

 

 そんな性格だったとしても、隠している部分、言っていない秘密はあるものだ。

 隠すという行為は、それが当人にとって重要な意味を秘めているのだ、と示している。

 もし、他人に対して何も隠すことのない人間は、何一つ大事なものがない人間か、全く逆に自分の人生に何一つ恥じる所などない人間だけだろう。

 彼は、人格が破綻した人間でも、高潔な人間でもない。何処にでもいる、普通の人間だった。

 

 

「聞いてほしいなら喜んで聞くけど、お前が言いたくないなら無理矢理になんて聞かねーよ。デリカシーに欠けるのは自覚してるけど、ないわけじゃないからさ」

 

「………………うん、ありがとう、京ちゃん」

 

 

 結局、京太郎はそれ以上、踏み込んでいくのを止めた。

 決して臆病風に吹かれたのではなく、咲の内面に触れるのが怖かったわけでもない。

 嵐に言われた、咲が自分に向けている信頼がどういったものなのかを考えた結果だった。

 

 中学時代、咲との関係を冷やかされることも少なくなかった。

 思春期特有の気恥ずかしさから互いに距離を置かなかったのは、相手を心配していたからではなく、何となく居心地が良かったからだ。

 

 恐らく、咲も同じ理由だろう。

 互いにとって居心地の良い関係。それが三年間続けてきたものであり、咲の望んでいるものと京太郎は判断した。

 

 

「そろそろ行こうぜ、お姫様」

 

「うん! しっかりエスコートしてね、王子様?」

 

 

 仰々しく片膝を付き、まるで埃を被った演劇のワンシーンのように京太郎は手を差し出した。咲も芝居がかったノリに満面の笑みを応え、手を繋ぐ。

 咲はともかく、王子だの騎士だの、どう考えても自分のガラではなかったが、笑いあえるならそれでいい。

 

 結局、京太郎は不安の正体も、咲の抱えているものを知ることはなかった。

 何一つ解決しておらず、何一つ変わっていない。人によっては、問題を先送りしているだけと笑うだろう。

 

 だが、もし……もし、咲から感じていた違和感が、言いようのない不安が、現実に顔を見せたというのなら―――

 

 

(迷子になったら手を引っ張って連れ戻して、倒れそうなら支えてやるだけだ)

 

 




というわけで、主人公の実力でした。
多分、これなら十分に魔物相手でも戦っていけるレベルなんじゃないかなぁ、と思っています。
あと幼馴染二人も本編よりぐっと仲良くなっています。これからもそういうところも書いていくつもりです。

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております。


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第七話 『大会』

 俺が麻雀は人と共に楽しむものと知ったのは、忘れもしない小学校に上がったばかりの春先だった。

 

 俺が住んでいたアパートは、学区の境目近くに建っていた。

 もう数メートル西に行けば、別の公立小学校に通っていたであろう位置。

 東京には有名な私立小学校に通うため、幼稚園の時分から受験勉強があるそうだが、俺には無縁の話だった。

 勉強は重要だと分かってはいたが、如何せん金もなく、そういった私立に通えと言う人間もいなかった。一番近い学校に通うのが、自然な流れだろう。

 

 ある放課後。いつものように授業を終え、いつものように学校での日常を過ごし、いつものような家への帰路。

 

 

 ――――そこで、俺は不思議なものを見た。

 

 

 学校からの帰り道に、当時の俺からすれば大きな公園があった。

 アパートの二階からも見え、建物でごった返した東京に空いた空白のような公園ではあったが、日曜なれば遠出する時間も金もない親子連れがポツポツと遊んでいた記憶がある。  

 その公園を通るのが、俺の通学路であり、もっとも近い帰り道。

 

 遊具すら少なかった公園には、小さな丘の上に屋根に机付きのベンチが一つだけあった。恐らく、家族連れの休憩所として設けられた設置物だったのだろう。

 

 そこで、一人ポツンと座っている同年代の少年がいた。

 誰かと遊んでいる中で一人疲れて休んでいるのなら分かる。だが、公園には彼以外の人影はなかった。

 隣の学区の人間が紛れ込んでいても可笑しくない位置の公園。家路への道のりに疲れ、休憩しているなら分かる。だが、彼は一人黙々と机に向かっていた。

 

 勉強をやるにしても、誰かを待っているにしても、奇妙奇天烈な光景。

 それでも、そういうこともあるのか、と不思議に思いながら家路についた。

 

 だが流石の俺も、そんな奇妙な光景を一ヵ月近く目にすれば、疑問は増していく。 

 その疑問を解消すべく、何となしに丘を登り、何となしに少年の後ろから何をしているのか覗き込んでみた。

 

 ――机の上に広がっていたのは、牌と古雑誌、古新聞だった。

 

 薄汚れた雑誌と新聞はゴミ箱から拾ってきたのだろう。コーヒーか何かの飲料水で濡れていた。

 麻雀牌は一つ二つと抜けがあり、これも何処かから拾ってきたのは目に見えた。麻雀が流行しているこの世界、抜けのある牌を捨てるなんて珍しくもない。

 少年は雑誌と新聞に載っていたプロの牌譜を再現していた。

 

 牌譜研究、と呼べるほどのものだったのかは分からない。

 ただ、驚いた。まさか、自分と同じような真似をしている人間がいるとは思わなかった。

 

 麻雀教室に通っているクラスメイトも居たが、そういう者は自分が如何にして麻雀を打っているか、どれだけ勝ったかを語るだけで、俺や少年のように他人の打ち方になど興味を示していなかった。

 当時から随分と世話になっていた大人たちは麻雀教室を開いてはいたが、俺に麻雀を教えない父の方針を知っていたのだろう、誘ってくることはなかった。

 

 自分と同じ視点を持つ者に出会ったことで、俺は何を思ったのか。

 そのまま家に帰り、父の牌とマットを勝手に持ち出して、再び公園の丘へと向かっていた。

 

 

『何だよ、お前。頼むから、放っといてくれよ』

 

 

 少年――アイツの第一声は、そんな拒絶の言葉だった。

 

 明確な個人へ決して向けられることのない、やり場のない憤怒と憎悪で濡れた瞳。

 家が貧しいのか、それとも生まれつきなのか、同年代と比べても小柄で細い身体。

 

 アイツの第一印象は、触れるもの全てを傷つける氷の刃でも突きつけられたかのようだった。

 

 

『それ、いくつか抜けてる牌があるだろ? 一緒にやってもいいなら、これ使おう』

 

 

 全てを拒絶し、神の助けすら拒むような少年も相当だが、怯まずにそんなことを言った俺も相当だ。

 

 そうして俺とアイツの麻雀が始まった。

 俺もアイツが打ち解けるまで相当に時間がかかったが、それでも共に牌譜研究をできたのは互いに思うところがあったから。

 

 同時に俺とアイツの麻雀は、その日を境に激変した。

 今まで一人、たった一つの思考で行っていた作業が、別の視点と思考を得ることで、考えつく可能性が爆発的に増した。

 ルールもより正しいものに、他人の打ち筋はより明確に、より詳細に詳らかになっていく。

 

 更に相手を得ることで、牌並べは牌遊びへと成長した。

 二人で配牌を取り、それぞれが二人分の手牌を進行させる、まだまだ麻雀の形を得ただけの牌遊び。

 当時は三麻や17歩という遊びは、存在すら知らなかった俺たちには、これくらいしかやることはなかったのだ。

 

 

 ――そんな二人だけの遊びもまた、それほど長い期間ではなかった。

 

 

 放課後どころか、ほぼ毎日と言っていいほど公園で牌遊びをしていた俺たちは、周囲の人間からすれば奇怪なものに映ったらしい。

 子供が麻雀をするなら麻雀教室に行けばいい。小学校側が監督や指導者を雇って小さな倶楽部を開いていることもあった。

 まして、麻雀は室内でやるものだ。外――公園の休憩所でやるような文化は中国では珍しくないようだが、日本では珍妙でしかない。

 

 子供の間では噂になり、大人たちはそんな俺たちに近づくなと諌めていた。

 大人たちの杞憂。理解できない人間に近づくことで、自分の子供も似たような存在になることを恐れた。

 

 基本的に、子供は親の言うことに逆らわない。だが、それでも逆らう子供もいるものだ。

 

 純粋に麻雀に興味があったのか、単純に俺たちが何をしているのか知りたかったのか。

 兎も角、それぞれが見えない運命の糸を手繰り寄せるように、それぞれが別の日に、別の時間に、だが二人の少年が牌遊びの列に加わった。

 

 一人は優等生。誰からも愛され、誰をも愛し、才能に恵まれ、周囲に恵まれ、正に幸福になることを約束された少年。

 

 一人は悪童。誰よりも笑い、誰よりも怒り、誰よりも悲しみ、誰よりも喜ぶ、ひたすらに感情に対して正直で愚直な少年。

 

 そうして、俺たち四人は麻雀を知った。

 他人と競い合う楽しさと難しさ。麻雀に満ちる苦しみと喜び。意見を重ね、時にぶつかり合う意義と意味。

 

 余りにも小さい、たった四人だけの閉じた世界は、それぞれに大きな宝を与え、それぞれの成長を促したと今でも信じている。

 

 ――そして、閉じた世界(小さな古巣)が砕かれ、俺たちがより高みへと羽ばたいていくのは、まだほんの少し先の話だ。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 長野県長野市。

 周囲を山脈に囲まれながらも、盆地を中心に発展を遂げた市内には様々な市営の建物が存在する。

 インターハイ本選への振るいをかける場――県予選の開かれる会場も、そういった市営の競技場だった。

 グラウンドは陸上競技のみならず球技場としての使用も可能であり、その脇には室内競技――柔道や空手の試合や昇段試験が目的の体育館もある。

 そして、それとはまた別に、文化系の競技――百人一首や合唱・演奏コンクールは勿論のこと、競技麻雀までも対応した試合場が建造されていた。

 

 インターハイ長野県予選が行われ、高校生一万人を超える祭典への登竜門にして決戦場。

 

 会場には県予選参加校の関係者は勿論のこと、マスコミや試合観戦を目的とした多くの市民が集まっていた。

 

 

「うおー、デケー……」

 

「ここに来るのは全中の試合以来ですね」

 

「だじぇ! 京太郎も咲ちゃんも怖気づくなよ! 臆病風に吹かれたら、いつもの実力が発揮できないじぇ」

 

「おっ、言うなぁ、優希。咲は大丈夫か?」

 

「うぅ、私は人ごみ苦手だよ。………………迷子になりそう」

 

 

 会場前の広場には、一年組を始めとした清澄高校麻雀部の面々の姿もあった。

 それぞれの表情には、度合いの違いこそあったものの、一様に緊張の色が見え隠れしていた。

 特に咲など弱音まで吐いている。ただ、これからの試合に対しての緊張ではないあたり、なかなかに太い神経とも言えるだろう。

 

 咲の聞き逃してしまいそうな見当違いの小さな弱音に、京太郎は一人苦笑を刻んでいた。

 

 

「ほらほら、お上りさんじゃあるまいし、さっさと入るわよぉ」

 

 

 パンパンと手を叩いて、会場を見上げていた四人の視線を集め、久はさあ行くわよとばかりに肩で風を切って歩んだが――

 

 

「……ちょっとぉ、どうしたのよ?」

 

 

 四人はジト目で彼女を見据えるだけで、その場を動こうとはしない。

 

 久は自分を責めるような視線にたじろいだが、間に割って入ったのは呆れ顔のまこだった。

 

 

「部長は嵐さんのこと話とらんけぇ、自業自得じゃ」

 

 

 まだ麻雀部の部員は揃っていない。あと一人――古参の部員、日之輪 嵐の姿がなかった。

 

 今日の早朝、6人は清澄高校の最寄駅に指定された時刻に揃っていたものの、大会開始と諸々の手続きに間に合う電車が到着するまでに嵐は駅に現れなかった。

 品行方正かつ真面目な先輩が連絡もなしに約束をすっぽかすなどあり得ないと感じていた一年組であったが、久の“大丈夫よ”の一言で何も言わずについてきたようだったが、流石に事ここに至れば疑問も不満も頂点に達するのも無理からぬことだろう。

 

 一年の先輩に向ける信頼、という点において久もまこも嵐も同程度の信頼は得ている。

 が、そこは普段の行いの差か。何事も真面目に取り組む嵐と、常に遊びや悪戯を織り交ぜる久とでは、扱いに差が生じても仕方がない。

 

 

「それで、先輩はどうしたんスか? まさか病気とかじゃ……」

 

「アイツが病気になるわけないでしょ。誰よりも自分を律して規則正しく生きてるんだもの――――って、噂をすれば、ね」

 

 

 京太郎は純粋に嵐不在の理由を心配しての発言だったが、久はそれこそありえないとばかりに否定した。

 

 そこで全員が耳にしたのは腹の底に響くエキゾーストノート。

 昨今の低燃費やエコが重視された車のそれとは違う、バイク特有の音だった。

 

 広場と歩行者用の道路を挟んだ車道のコーナーから姿を現した黒いバイクはゆるゆるとスピードを落とし、広場の前で停車する。

 周囲を見回し、駐輪場の場所を探しているだろう乗り手は、紺色のジャージの上下にマットブラックのハーフヘルメットを被ってこそいたが、間違いなく嵐その人だった。

 嵐は6人の姿を見つけたのか、片手を上げて視線に応えたが、同じく手を上げて答えたのは久とまこの二人だけだった。

 

 一年たちからすれば、意外だったのだろう。

 嵐は留年した二年。年齢的に、バイクや自動車の免許を持っていても可笑しくはない。

 また清澄の校則は基本的に緩い。学校にナンバープレートと免許書のコピーを提出して申請し、安全運転を心がける旨の誓約書にサインをすれば、バイク通学の許可証も貰えることは知っていた。

 

 ただ、嵐が麻雀以外に趣味らしい趣味を持っているとは思わなかった彼らには、線画のみの絵に、ある日突然色付けされたようで驚いてはいた。

 

 バイクは今の世の中、どう考えても趣味の一品である。

 近場へ行くのなら免許の必要ない自転車か、荷物を乗せやすい原付の方がいい。

 遠出をするのなら、各種交通機関や天候、気候に左右されない安全な自動車の方がいい。

 それを理解した上で自動車よりも危険性が高く、自転車・原付よりも燃費の悪い、利点よりも欠点の方が多いバイクを選ぶのは、趣味嗜好の域。

 そういった遊びの領域を麻雀以外に割り裂いているのは、彼らの抱く嵐のイメージには、どうしてもそぐわなかった。

 

 

「おはよう。全員揃っているようだな」

 

「……あ、はい、おはようございます」

 

「うぉー、カッコいいなぁ。なんてバイクなんスか?」

 

「……確か、VTR250だったか。貰い物だから大事に扱ってはいるんだが、バイクには余り興味なくてな」

 

 

 嵐の発言に得心が言ったのか、ああ、そういうといった感じに一年組はそれぞれに頷いた。

 

 彼の話では、近所の農家から譲り受けたものだとか。

 バイト――というよりも近所付き合いの一環として、農作物の収穫の時期によく手伝いをするそうだ。

 農家側としても、真面目で体格も良い青年は、労働力として申し分のない人材であり、彼の周囲の農家からは引く手数多であった。

 嵐としても、お裾分けと称して家計の助けとなる様々な作物を貰っていた。些細であれ、恩のある人間が困っているのなら、手を貸すのは当然のことだった。

 

 そんな中で、あるバイク好きの農家の一人息子から、そのバイクを譲り受けたらしい。

 一人息子は結婚をすることになり、それを機に車も新調するようで、バイクに乗る機会は必然的に減っていく。

 愛着を持っているバイクを捨てるくらいなら、使う機会の多そうな人間に乗っても貰いたい、ということで白羽の矢が立ったのが嵐だった。

 VTR250は名前からも分かる通り、250ccと車検も必要はなく高速にも乗ることができる。その上、燃費も良く、癖も少ないからか、初心者から玄人まで乗れる人気の高い車種である。

 

 嵐も片田舎で生活する上で足があると何かと便利と考えていた。

 折しも自動車の免許を取得中ということもあり、バイトで溜めていた金にも余裕があった故、そのまま二輪免許も一緒に取得したとのこと。 

 

 

「……でも、どうしてバイクで?」

 

「咲ちゃんの言う通りだじぇ。心配したんだじょ」

 

「心配……? いや、久には連絡しておいたが」

 

「…………ヒュ~♪」

 

「成程、そういうことか。…………相も変わらず、享楽的だな。俺はお前の将来が心配だよ、久」

 

「ちょっ! そういう反応が一番堪えるんだけどぉ?!」

 

「知っている。だからこそ言葉を選んだ。…………遅れたのは新聞配達のバイトがあったからだ。終わってそのまま来たんだよ」

 

 

 それも彼の持つバイトの一つらしい。 

 新聞配達は開始も終了も地域によってまちまちであるが、5時半頃までに配り終えているのが大半だ。

 ちょうど駅への集合時間もその頃。どう急いでも間に合わない。

 

 前々日には配達が終わり次第、そのまま会場へと向かうと久に伝えてはいた。

 

 

「アルバイトも結構ですけど、こういう日くらいお休みを頂けば……」

 

「そうは言ってもバイト先も仕事として雇っているんだ。俺一人の都合で世界が廻っているわけではない」

 

「………………」

 

 

 そのような正論を吐かれれば、和としても黙らざるを得ない。

 無論、互いに相手へ気を使ったことを理解した上での会話である。険悪さやギクシャクとした雰囲気とは無縁だった。

 

 

「じゃあ、先に入ってロビーで待ってるから。駐輪場は、この先を左に曲がってすぐよ」

 

「了解した。着替えてから向かう」

 

 

 それだけ言うと、嵐は安全運転のまま駐輪場へと向かっていった。

 消えていく背中を見送り、清澄高校麻雀部も会場入りを果たすべく、久を先頭に歩み始める。

 

 戦いの始まりまで、あと数時間。

 各々の胸に、各々の思いと願いを抱えた雀士たちは頂点を目指すべく、決戦の地へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 ――――のだが。

 

 

「………………どういうことだ」

 

「いや、本当にちょっと目を離した隙に居なくなっちゃって」

 

 

 嵐が駐輪場にバイクを置き、トイレで学生服へと着替え、身嗜みをキチンと整えて仲間たちの待つロビーに向かうまでおよそ20分。

 

 その僅かな間に、咲は迷子になっていた。

 

 5人の待っていた場所は、正面玄関から十数メートル足らず。

 確かに会場には人が多い。しかし、ロビーの広さもあって満員電車のようなスシ詰め状態でもない。見慣れた背中を見失うかもしれないが、はぐれる方が稀だ。

 これで迷子になるというのだから、もはや恐ろしいレベルのポンコツっぷりを炸裂させていた。

 

 

「ああ、そうか。方向音痴の上に不安や思い付きで動くタイプなんだな、宮永は。…………東京の友人を思い出す」

 

「正にその通りなんスよね。ほんと、その場で動かなきゃ、まだ見つけ易いんですけど」

 

 

 迷子になった時の鉄則は、不用意にその場を動かないことである。

 曖昧な記憶に頼って動いたり、何となくで動くと余計に見知らぬ場所に出てしまう。渡り鳥のように正確な方角を知る機能は、人間に付与されていないのだから当然だ。

 最善はその場を動かず、周囲の道に詳しい誰かを呼ぶこと。次善は誰かに道を尋ね、極力分かり易い目印を示して貰いながら、元の道へ戻ることか。

 

 似たような友人を持っていたからか、嵐と京太郎は同じタイミングで小さい溜め息をついた。

 そして同じ気苦労を知る者同士、また一歩、心の距離が近づいた。二人にとっては、決して嬉しい歩み寄りではなかったが。

 

 

「手続きなんかは私が居れば出来るけど、どうしましょうか?」

 

「取り敢えず、俺と須賀で探しに行こう。まこと片岡はここに居てくれ。原村も捕まっているようだし、宮永と入れ違うかもしれんからな」

 

「了解だじぇ」

 

「すまんな、二人とも」

 

「気にしないで下さいよ。俺らは今日試合があるわけじゃないんですから」

 

 

 予選はまず団体戦を二日間。そこから数日を挟み、個人戦が二日間の日程で執り行われる。

 初日は一回戦と二回戦を先鋒から大将が半荘5回を競い、決勝に参加する四校にまで絞りこむ。

 二日目の決勝は一日かけて、それぞれが半荘二回を争い、トップに立った高校が本選への切符を手にする。

 

 決勝の方は敵の実力が上がり厳しいが、初日は半荘一回という短い中で実力を発揮せねばならない厳しさがある。

 どちらも一筋縄ではいかない戦いだ。特に初日は総合的な実力が勝っていようとも、“その場限りの運”に対して後塵を拝する可能性も十二分に存在している。

 

 京太郎も部内で拾った勝ちの殆どを“その場限りの運”が味方してくれたこそのものと自覚しているからか、これから試合に向かう彼女たちに、普段以上の気遣いを己自身に誓っていた。

 行ってきますとだけ残し、既に歩き出していた嵐の後を追う。

 

 視線を何となしに和へと向けたが、マスコミに囲まれ取材を受けている彼女の表情は明らかに辟易していた。

 

 

「はー、人気ですね、和の奴」

 

「マスコミからも注目の的になるのは当然だ。全中王者の実力は、インターハイで通用するのか。誰もが抱く疑問だろう」

 

「いやいや、それだけじゃないでしょう。ほら、見た目もいいし」

 

「…………アイドル雀士、という奴も居るからな。容姿に優れていれば、自然と人の目も集めるか」

 

 

 嵐には全くもって理解できない言い分ではあったが、否定はしない。

 己のように相手の一打一打に意義と意図を見出せる人間もいれば、そういった真似のできない人間、必要を感じない人間もいる。

 ましてマスコミ関係者の本分は、大衆に情報を発信し、より多くの注目を集め、収益を上げることにある。 

 そういった意味で、原村 和はマスコミにとって都合の良い人間であろう。人は商品自体の良し悪しよりも、商品価値や器自体に惹かれてしまうものだ。

 

 

「しかし、誰も彼も度胆を抜かれるだろうな」

 

「ですね。全中時代と今の和は比較にならないし。新生和――つーか、真“のどっち”のお披露目か」

 

「…………お互い、負けていられないな」

 

「勝てる気はしないし、劣っている自覚はありますけど、気後れするつもりはありませんよ?」

 

「ならいい。自覚があるのはいいことだ」

 

 

 合宿を経て、和の実力は大きく飛躍した。

 いや、正確にはネット麻雀において伝説とまで呼ばれたプレイヤー“のどっち”が、顔を露わにしたと言うべきか。

 全中時代において僅かしか見せなかった片鱗は、久の策により完全なものとなった。

 

 さながら蛹を経て蝶が羽ばたくように。殻を破り、雛鳥が卵から孵るように。

 

 ――あるいは画面の中にしか存在しなかった天使(アバター)が、肉の器と共に現実へと抜け出してきたかのように。

 

 二人の心に心配や杞憂はない。

 結果がどうなるかは分からないが、それでも彼女たちの実力が評価されることを確信している。

 

 

「…………ところで、やはり二階や三階も探して回った方がいいのか、これは」

 

「残念ながら、咲の迷子はそういうレベルっす……!」

 

「そうか。……だろうとは思っていたが、宮永や俺の友人は思考からして理解できんな」

 

 

 目下の心配は、影も形も掴めぬ咲を、広い会場から見つけ出すことだった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 会場を京太郎と手分けして探し始めて早30分。

 少なくとも一般人の立ち入りが許された場所は全て見て回り、周囲の人間に聞いて回ったものの、咲の手掛かりは一向に掴めていなかった。

 最早、異次元にでも迷い込んだのではないか、と疑いたくなるような迷いっぷりである。

 

 

(入れ違いにでもなっていなければ、あとは――)

 

 

 残された一室を前に、嵐は足を止めた。

 誰に対しても物怖じせず、自らの感じたことを率直に伝え、行動に一片の躊躇も一切の容赦のない男が足を止めたのである。

 それは恐れからではない。真っ当な倫理観によるものであった。

 

 男子に入ることの許されない女子のみの領域。

 ストレス社会と呼ばれる昨今の世の中において、束の間の休息と強烈なまでの解放感、多幸感の約束された聖域。

 そして、社会の荒波に揉まれる前に、身嗜みを整えたい乙女心を汲んだ神域。

 

 ――即ち、女子トイレである……!

 

 

「…………」

 

 

 嵐は見上げた赤いスカートの女性を模した女子トイレのプレートを見上げ、ふぅと嘆息した。

 

 周囲を見回すが人っ子一人いないありさま。

 彼の名誉のために注釈しておくが、決して中に入る機会を窺っているのではなく、これから入る人間がいないかを探しているだけだ。

 そもそも嵐は欲望に忠実な変質者でもなければ、考えなしの愚か者でもない。女子トイレに立ち入るくらいなら、入口の前で相手に対して呼びかける人間である。

 

 その女子トイレの中には、人の気配があった。

 普段ならば気にも留めないし、わざわざ気配など探りもしないが、如何せん迷子探しの最中である。中の人物が咲の可能性がある以上、そのままスルーとはいかない。

 

 そこで通りがかった女子に事情を説明してみて来て貰おうとしているのが現状だった。

 しかし、待てど暮らせど誰一人通りがからない。

 それも当然だ。ここは大会参加校の関係者のみが立ち入りの許された場所。一回戦開始一時間前ともなれば、何処の高校もミーティングを行っている。人が増えるのは試合開始前の小休止を思い立つ、もう少し後だろう。

 

 そうこうしている間に、中に入っていた人物は自らの用を終えて女子トイレから姿を現した。

 

 

「あら……?」

 

 

 中から出てきた人物が嵐を目に留めての第一声は、警戒心の感じられない穏やか響きが含まれていた。

 普通ならば、女子トイレの前で悩むような素振りを見せる男など、警戒心を抱いても不思議ではないが、どうやら生来の気質がおっとりとした少女のようだ。

 

 出てきたのは、可憐でありながら芯の強さを持っていそうな少女。

 黄金の麦、その穂先を連想させる肩まで伸びた髪。年齢以上の母性を感じさせる表情と身体つき。そして、何故か閉じられた右の目蓋。

 

 

(…………彼女は、風越の)

 

「あの、どうかなさいましたか?」

 

 

 この少女こそ、久たちが全国へ向かうために越えねばならぬ壁の一つ。

 風越女子のエースにして、80名以上の部員を率いるキャプテン。一年の頃より全国出場を果たし続ける猛者。

 

 ――――風越女子、福路 美穂子。

 

 前年度、7年連続インターハイ出場を逃してはいるものの、今大会も極めて高い成績を残すであろうと注目される者の一人。

 

 風越はシード権を獲得しており、1回戦は免除。実質的な始動は午後の2回戦からとなる。

 人の居る筈のない場所にいたのは、そういった理由もあるのだろう。

 

 

「――――不躾で申し訳ないのだが」

 

「はい、何でしょう。私に出来ることなら、お手伝いしますが」

 

「そうか、助かる」

 

 

 そのような相手であっても嵐は物怖じせず、しかし礼節を損ねずに接する。

 

 美穂子もまた、普通に考えれば不審人物でしかない嵐に対して、朗らかな笑みを浮かべて応えた。

 困っている人間には無償で手を差し伸べる生粋のお人好し。周囲の人間はさぞやヤキモキとした思いに苛まれていることだろう。

 態度や考えに違いはあったものの、その一点に関して嵐と美穂子は似通っていた。

 

 嵐は自らの目的と咲の特徴を伝えたが、返ってきたのは芳しくない結果だった。

 

 

「ごめんなさい。中には私以外には誰もいませんでしたし、特徴と一致する娘も記憶に……」

 

「そうか。…………手を煩わせた。礼しか言えない身だが、感謝する」

 

「あの、よろしければ、ご一緒にお探ししましょうか?」

 

「いや、それには及ば―――――」

 

 

 美穂子は純粋な善意から手助けを申し出たが、嵐もまた純粋な善意によって拒絶しようとした。

 

 このまま行けば、手伝います、いや構わないという将棋の千日手を思わせるやり取りが発生したのだろうが――

 

 

「あーーーーーーーーーーッッ!!!」

 

 

 ――二人の会話を遮る大音量が廊下に響き渡った。

 

 二人が視線を向ければ、廊下の突き当たり。別の通路と繋がったT字路の前に指をさしている者と他何名かの少女たちが居た。

 皆一様に白いセーラーと桜色のスカートを身に着けており、誰の目からも見ても風越女子の一員であることは明らかだ。

 

 

「華菜……?」

 

「もしかしたら、君を探していたのではないか?」

 

「いえ、控室を出る時には一言断りましたけど……」

 

 

 華菜と呼ばれた少女が大声を張り上げる心当たりがあるはずもなく、嵐と美穂子は困惑して顔を見合わせ、首を傾げた。

 

 

「ウチのキャプテンに何してるしぃぃぃぃぃッッ!!」

 

「か、華菜ちゃん?!」

 

「い、池田先輩! やめてください!」

 

 

 妙に波長の合うらしい二人の様子が気に喰わなかったのか、友人たちの静止を振りきり、池田(いけだ) 華菜(かな)は地面を蹴った。

 スタンディングスタートにしては素晴らしい初速を見せ、二人と距離を詰める間にも加速していく見事な疾走である。

 

 

「え? ……えっ?」

 

「何というスタートダッシュ。実に見事だな」

 

 

 突然の行動に、美穂子は困惑。

 嵐は嵐で、あまりにも見当違いな賞賛の言葉を送っていた。

 

 

「キャプテンから離れるし、このナンパヤロォォォォっっ!!!」

 

「……成程、そういうことか」

 

 

 華菜の目には、嵐がそのような人間に映っていたらしい。

 オロオロとしている美穂子の動揺に反し、嵐は唐突な行動の全てに得心がいったのか、落ち着いた様子で静かに頷いた。

 

 そんな二人の困惑や動揺を余所に、華菜は再び地を蹴り、今度は宙に舞う。スタートダッシュに続き、見事な跳躍であった。

 蹴りが必殺技の某正義の味方を彷彿とさせる美しい放物線を描きながらも、標的から軸のブレない飛び蹴り。

 

 

「華菜ちゃんキィィィィィック!!!」

 

(避け――――ると彼女が怪我をしそうだな。素直に受けるか)

 

 

 余りの驚愕に言葉も出ない美穂子を余所に、嵐は冷静に彼我の体重差を計算し、更に避けた場合に相手が怪我をする可能性も考慮した上で、腰を低く重心を落とした。

 迫りくる体重が丸ごと乗った靴底を見ても大した感慨も感情も見せず、不動の大勢を崩さない。 

 

 砲丸の勢いの飛び蹴りを、右の前腕だけで受け止めた。

 

 

「にゃ!? にゃにゃにゃ?!?!」

 

「――――む」

 

 

 彼女からすれば、キャプテン――美穂子がナンパされていることも予想外ならば、自分の飛び蹴りを片腕で受け止められるのも予想外だったのか、猫が慌てふためくような声を上げる。

 

 物体は重力に引かれ地面に落ちる。

 見事な跳躍を見せた彼女でも例外ではなく、運動エネルギーを喪失すれば重力の縛りから逃れられない。

 蹴りの方にばかり意識を引かれて着地を意識していなかったのか、そのままリノリウムの床へと腰を打ちつける――ことはなかった。

 

 嵐は空いていた左腕で咄嗟に相手の胸倉を掴みあげ、地面への接触を阻止してみせた。

 

 

「…………ひぃっ」

 

 

 相手の気遣っての行動であっても、傍目から見れば酷いものだった。

 小柄な少女の胸倉を掴み、今まさに殴りかかろうとしているやたら目付きの鋭い大柄な鬼畜男の図、完成の瞬間である。

 

 華菜にしても同様の考えなのか、先程の威勢は何処へやら、情けない声を上げて両腕で顔を庇う。

 

 しかし、嵐は気にした様子はなく、そのまま立ち上がれる高さまで彼女を持ち上げると、ぱっと手を放した。

 

 

「にゃ…………にゃ?」

 

「華菜、何をしてるのっ!」

 

「これで、ようやく弁明の機会を貰えるようだな」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

『すみませんでしたっ!』

 

「いや、互いに怪我もなかった。いい加減、頭を上げてくれ」

 

 

 その後、美穂子を口説いているナンパ男という誤解を解いた嵐は、今度は自らの前に下げられた五つの頭に辟易していた。

 

 シチュエーションを考えれば、そう誤解されても仕方のない場面であった。

 まして、僅かな間に見た美穂子への慕いようを目にすれば、華菜の行動も納得がいく。

 怪我もなく、誤解が解け、その上誤解していた張本人も嘘偽りなく反省していた。嵐にしても、何一つ言うことなどない。

 

 

「あの、本当に、お怪我は……?」

 

「ない。いらん世話だ、気に掛ける必要はない。御覧の通り、体格は人よりも恵まれている」

 

 

 ようやく上がった五人の(おもて)は、申し訳なさ一色に染まっていた。

 勝手な誤解をした挙句、一歩間違えれば怪我を負わせていた罪悪感。そして、実態は別にせよ、冷たさを感じる嵐の物言いにも問題があったのだろう。

 当然と言えば当然の反応であったが、嵐は余りの人の良さに苦笑いを浮かべそうになる。

 

 ここで他校の生徒に怪我を負わせたとあれば、よくても悪評が広がり、最悪の場合は出場停止処分を喰らいかねない。

 大事な試合が台無しになりかねない瀬戸際で、純粋に相手を気遣っているのだから、人が良いと言わず何というのか。

 

 美穂子の影響なのか、全員が心配しているのは、あくまで嵐の身体と機嫌だけ。他の感情は彼の目をしても見受けられなかった。

 

 嵐に蹴りを浴びせた池田 華菜も。

 眼鏡をかけた少女、吉留(よしどめ) 未春(みはる)も。

 線も細ければ目も細い、文堂(ぶんどう) 星夏(せいか)も。

 縦にも横にも幅広な、深堀(ふかぼり) 純代(すみよ)も。

 そして言わずもがな、福路 美穂子も。誰一人として例外はない。

 

 これ以上、気に病ませるのも酷かと口を開こうとした時――――

 

 

「こらー! 嵐ー! いつまで油売ってるのー!」

 

 

 背後から声がかかった声に振り返る。

 見れば、さきほど華菜が立っていた辺りで久が腰に手を当て、いかにも怒っていますといったポーズで咎めるような視線を向けていた。

 

 

「宮永さんなら須賀くんが見つけてきたから、戻ってミーティング始めるわよー!」

 

「――タイミングがいいのか悪いのか。まあ、いいか。……此方も探し人は見つかったようだ。不要な誤解を招いて悪かったな」

 

「い、いえ、此方こそ華菜ちゃんがご迷惑をお掛けして」

 

「…………うぅ、本当にごめんなさい」

 

「いや――――」

 

 

 もう一度頭を下げた華菜に、最後に言葉をかけようとして嵐を飲み込んだ。

 急に彼女の行動に腹を立てたのではなく、かけるべき言葉を探していたのでもない。

 

 どういうわけか。驚きで固まった美穂子の表情を目に留まっただけ。

 頑なに閉じられていた右の目蓋まで見開き、左右でそれぞれ色の違う瞳を曝しながら。

 今まで閉じられていたことには何かしらの意味がある。だが、それを忘却してしまうほどの衝撃を与えたものは何だったのか。

 

 彼女の視線が向けられていた先には――――

 

 

「――――――清澄高校の日之輪だ」

 

「……………………え?」

 

「いや、礼を失していた。名乗るのを忘れていたからな。それにそちらは長野の有名人だ。此方だけ名前を知っているのは不公平だろう」

 

「あ、あぁ、えっと……」

 

「キャプテン……?」

 

「そちらの、池田だったか。ないとは思うが、身体に異常があるようなら連絡してくれ。治療費は工面しよう」

 

「い、いや、こっちが先に勘違いして手を出したし、そこまでして貰わなくても……」

 

「理由はどうあれ、怪我をしたのなら俺の責任でもある。さっきのは事故のようなもの、互いに責任を背負うのが筋だ」

 

「……はあ」

 

「用向きがあれば会場で声をかけてくれ。捕まらないようなら学校に電話を。…………それから、目蓋が開いているが構わないのか?」

 

「え? ……あっ」

 

「――――色々と無駄な手間をかけさせたが、感謝する。では、縁があれば、また」

 

 

 言うべきことは全て伝え、小さく頭を下げてから身体を翻す。

 嵐が最後に見たのは、恥じ入るように右目を手で覆い隠した美穂子と訳が分からないといった表情の四人だった。

 

 

「ちょっと、今の娘たち、風越女子でしょ? アンタ、何やらかしたのよ?」

 

「開口一番がそれか。宮永を見たか聞いただけだ。…………まあ、その後に蹴られたが」

 

「はあ? なんでそれで蹴られるわけ?」

 

「勘違いだ。…………ああ、いや、もしかしたら片岡が勘違いしていた最近は女子に話しかけただけでナンパに準ずる行為というのも、あながち間違いではないのか?」

 

「いや、ないわよ。ないない、それはない」

 

 

 何時ぞや、優希にからかい半分で和をナンパしていると言われたことを思い出し、そんな言葉を口にしたが、即座に否定された。

 むぅ、しかしと唸るも、久の呆れた視線を感じ、思考を中断する。

 

 

「…………ところで、お前は彼女と知り合いなのか?」

 

「何よ、藪から棒に。知り合いなわけないでしょ、風越は行きたいと思ってたけど行けなかったんだから」

 

「……そうか。ならば俺の勘違いだろう。忘れてくれ」

 

「――――あ、でも、何処かで見たことがある気もするわね」

 

 

 今度は久が首を傾げる番だった。

 

 福路 美穂子と竹井 久は、必ず何処かで顔を合わせている。少なくとも嵐の受けた印象はそうだった。

 明らかに美穂子の視線は久に向けられており、その衝撃がどれほどのものだったかは推し量るまでもない。

 戒めか、信念か。何らかの訳あって閉じていた目蓋が、意図せずに開かれた。余人でしかない嵐に分かる訳もない事柄だった。

 

 嵐は敢えて己が何処の誰なのかを伝えていた。

 所詮、彼女たちとの出会いは偶然によって生まれた一度限りの産物。互いのことを深く知る必要などない、感謝だけ伝えれば構わない間柄。

 

 それでも、彼女たち――正確には美穂子に対してのみではあるが――には、報いねばならないだけの手は煩わせたと感じていた。

 

 美穂子が何らかの思いを久に抱いているのは間違いない。

 だが、美穂子にとって印象的な出来事だったとしても、久にとっても同じとは限らない。

 物事は一面的な視点では全体像を把握できない。多面的な視点をもって、初めて全体が把握できる。

 これはその視点の差。美穂子を過去の出来事を引き摺り過ぎだと責めることはできないし、久にも薄情者と罵ることもできない。

 

 だからこそ、それとなく道を作っておいた。作った道を渡るかは、美穂子の意思次第。

 もし、どうしても久に言いたいことがあるのなら道を活用するだろう。そうでなければ、何も置きはしない。

 どちらに転ぶにせよ、誰一人も損をせず、生まれるのは利益だけ。

 

 

(少なくとも、彼女の表情に悪意はなかった。あるのは驚愕と――――喜びか。少なくとも此方が害されることはない。しかし……)

 

 

「何よ、その目は」

 

「いや、随分と人の顔を覚えない女だと思ってな」

 

「失礼ね。これでも記憶力はいい方なんだから」

 

「それもそうか。学生議会長ともなれば、それくらいのことはできなくては務めるまい。もっともそれ以前の記憶は曖昧になっているようだが」

 

「あのねぇ、アンタやまこみたいにズバ抜けた記憶力を持ってる方が可笑しいんだからね。そこのところ、理解してほしいものだわ」

 

 

 ぷりぷりと可愛らしく怒った久は、一人足早に先を行く。

 そういうものか、と思いつつも、嵐は首の振りを抑えることはできなかった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「…………ぶはぁ、緊張したぁ」

 

「許してくれたからよかったけど……、華菜ちゃんは短絡的すぎるよ」

 

「気持ちは分からないでもないですけど、相手が複数人だったらどうするつもりだったんですか」

 

「…………兎に角、暴力はいけない」

 

「うぅ、反省してます。キャプテンも…………キャプテン?」

 

 

 友人からの批判を素直に受け止め、もう一度皆に謝ろうとした華菜であったが、美穂子の様子に言葉を止めた。

 何処かほんわかとした彼女であるが、呆けているのは珍しい。何時もは声をかければ即座に反応が返ってくるし、声をかけずとも相手の意図を察して自分から話しかけることもあるほどだ。

 

 その美穂子が、清澄高校の日之輪と部活仲間と思しき少女が消えていった方向を何も言わずに眺めていた。

 

 

「どうかしたんですか……?」

 

「…………あ、あぁ、いえ、何でもないわ。それよりも華菜、すぐに暴力に訴えては駄目よ。まずはキチンと事情を聞いて、話し合いなさい」

 

「はい、仰る通りです……」

 

「でも良かったわ。あの人――えっと、日之輪さんが大らかな人で」

 

「あ、アレで大らかですか。私には冷たい感じの人に見えましたけど」

 

 

 少なくとも美穂子以外の四人には、日之輪は冷酷な鉄面皮にしか映らなかったのだろう。

 全くといっていいほど変化しない表情は、湧きあがる怒りを抑えている裏返しであり、あくまで倫理に沿った行動を見せているようにしか思えなかったようだ。

 人物評は、理性的な人物であるが、大らかさには程遠い男といった所か。

 

 しかし、美穂子の目は、日之輪と言う人間像を極めて正確な形で見抜いていた。

 あの言動も、行動も全て本心によるものであり、鋼鉄の無表情は、あくまでも相手に必要以上の気遣いを避けるため。

 無表情の裏に隠された優しさは、十分すぎるほど伝わっていた。

 

 

「…………それに、清澄だったわね」

 

「聞いたことない高校ですね。初出場校なのかな?」

 

「ウチと同じブロックにはいなかったと思いますけど……」

 

「…………確か、Dブロックにそんな読み方の高校があった気が……」

 

「すーみん、よくそんなとこまで見てるなぁ。色々迷惑かけたけど、それとこれとは話は別! 決勝まで上がってきたら全力で叩き潰すし!」

 

 

 美穂子の言葉に、それぞれが思い思いの言葉を口にする。

 しかし、決して表には出さなかったが共通する疑問を胸に抱いていた。

 

 ――何故、無名の高校にそこまで拘るのか。

 

 少なくとも彼女達の知る福路 美穂子という人間は、油断や慢心とは無縁の人間である。

 相手が強豪であろうとも無名であろうとも、抱く警戒は一律。敬意を以て全力を尽くす。自分の努力や性能に自信を持っているが、決して過信へと繋がらない性格だ。

 

 

「吉留さん。その、……」

 

「――清澄高校の試合映像を調べますか?」

 

「無名校ですから牌譜なんかはネットに転がっていないでしょうね。一回戦の試合を撮っておかないと」

 

「……あと、キャプテンは機械オンチだから牌譜にも起こさないと」

 

「にゃー! 龍門渕の対策も立てなきゃだし、やること山盛り! 先に控室戻ってますね! キャプテンも寄り道しないで戻ってきてくださいよー!」

 

「え、皆、そんな無理に―――――あぁ、行っちゃったわ……」

 

 

 だが、その全てを飲み込んで、四人は足早に控室へと戻っていった。

 彼女達にとって、疑問などどうでもよかった。問題なのは、キャプテンである美穂子が理由はどうあれ、清澄という高校に何らかの思いを抱いていること。

 

 福路 美穂子は周囲への献身を怠らない少女である。

 皆が麻雀を楽しんでくれることが嬉しい。そんな理由で多くの雑用を自ら引き受け、自分の時間を削って周囲を支えてきた。

 部員たちは、誰もが美穂子を尊敬し、誰に対しても誇れる部長と信じている。

 

 それでも苦々しく思っていることはあった。

 美穂子の献身に、応えられているのか。彼女の後に続く者として相応しい振る舞いと実力を身に着けられているのか。

 献身には苦痛が伴うもの。だが、献身を受ける側もまた苦しい思いを抱えることは決して珍しくはない。

 

 そんな美穂子が僅かなりとはいえ我が儘を、自分の願いを示してくれた。

 それに応えずして何がチームメイトか、何が後輩か。四人の胸中にあったのは、概ねそんな熱い思いだった。

 

 

(………………無理をさせた、かしら)

 

 

 後輩達の思いに気付いていたらしい美穂子は、目頭が熱くなるのを感じた。

 どれだけ我慢しても、溢れる思いを止めることはできない。彼女は悲しみで涙を流しはしないが、喜びによってよく涙を流す性質だった。

 

 誰にも見られることなく、嗚咽を漏らすこともなく、静かに涙を流した美穂子は俯いていた顔を上げる。

 

 その瞳に灯るのは、決意と闘志の炎。

 彼女もまた、負けられぬ思いを抱いた一流である。

 

 

(あの人は、上埜さん。見間違えるはずがないわ)

 

 

 彼女の脳裏に浮かんでいるのは、苦々しくも楽しかった思い出。

 三年前のインターミドルにおいて、彼女は苦戦を強いられた。今まで対局してきた相手とは、全く違う打ち筋に翻弄された。

 

 名前は上埜 久。

 美穂子の知るところではないが、ある事情から名字の変わった竹井 久の以前の名前である。

 

 

(もし、……もし、彼女が以前の――いいえ、それ以上の実力を身に着けていたとしたら、そして彼女が認めるほどのチームメイトだとしたら……)

 

 

 間違いなく、決勝で立ち塞がる壁となる。風越の栄光を阻む存在となる。

 

 確証などないままに、確信できることもあるものだ。そして、それは決して間違ってはいなかった。

 

 

(それでも、負けません。…………そして、)

 

 

 闘志とはまた別の淡い思いを胸に秘め、福路 美穂子は決意を新たに大会へと挑もうとしていた。

 




間が空きましたが、第七話でした。
そして風越に清澄警戒フラグが。主人公のせいで部長とキャプテンの出会いが早まった結果ですねー。

では、ご指摘、ご感想、お待ちしております!


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第八話 『四校』

 清澄高校麻雀部、記念すべき初公式戦の結果は見事な結果に終わった。

 先鋒、次鋒で他の三校を大きく突き放した挙句、大将戦では50,000近い点数を残していた一校をトバしての勝利。

 これを単なるバカヅキと見るか、それとも実力の程と見るのは人によるとしか言えないが、彼女達の試合を目の当たりにした者の記憶へ焼付けるには充分な試合運びと結果である。

 

 

「では! 1回戦突破を祝してっ!!」

 

 

 会場の二階、ファミレスと大差ない広さと品揃えの喫茶店で細やかな祝勝会と二回戦への先勝を込めた昼食を摂っていた。

 麺類、丼もの、定食、サンドイッチ。それぞれが思い思いの料理を注文し、優希だけタコスがメニューにないことを嘆いていたが、不味くもなければ、とび抜けて美味いわけでもない無難な味に楽しんでいる。

 

 そんな中、嵐と久だけは弁当であった。無論、嵐の手作りである。

 新聞配達のバイトまでしてきたというのだから相当の早起き――――というよりも、夜起きといって差支えない時間に起床しただろうに、ご苦労なことだった。

 

 

「……ていうか、普通はそういうの、立場が逆ですよね」

 

「いいのよ。コイツが勝手にやってくれてるんだから」

 

「そうだな。俺はただ久の偏った食生活が心配なだけだ。感謝の言葉が貰えるなど、始めから期待していない」

 

「カチンとくるわねー。……このっ!」

 

「待て、俺の発言の何処に問題があった。手を上げる前に、言葉で伝えろ」

 

 

 ペシペシと平手で久は隣に座る嵐の頭を(はた)いた。

 さして痛くもない力加減なのだろう。嵐は止める真似をしなかったが、困惑から首を捻っている。

 彼女とて感謝くらいはしている。それを始めから期待していないなどと言われれば、苛立ちの一つも覚えるのが人情である。

 

 

「しかし、コレを持ちながら打つことで、ああも変わるものとはな。理解できん」

 

「そうっスか? 普段からそれを抱えて打っているなら、そっちの方が普段通りに打てるってのは不思議じゃないと思うけどなぁ」

 

「そういうものか。しかし、審判がよく通してくれたものだ」

 

 

 嵐は手に持ったペンギンのぬいぐるみを眺めながら、そんなことを呟いた。当然、嵐のものではなく和の持ち物だ。

 

 和がネット麻雀と実際の麻雀の違いから、本来の実力を発揮しきれない状況を打破するための秘策がそれだった。

 ネット麻雀には存在しない動作、対戦相手の威圧とアバターではない本人の顔。その他様々な要素が和の思考を鈍らせ、打ち方そのものも周囲に流される結果となっていた。

 だが、今から全てを修正するには時間が足りず、かといってインターハイはネット上で行われるものでもない。

 

 そこで久は和がネット麻雀を行っていた環境に近づけることにした。

 

 始めは単なる久の思い付きに過ぎなかった。

 しかし、合宿でぬいぐるみを抱いて対局を続けている間は、目に見えてミスが減っていた。

 久、まこ、嵐の三人が牌譜を見て検討しあった結果だ。単なる偶然とは言い切れない。

 

 ぬいぐるみを抱くこと。それが和にとって、弛緩と緊張が最も良いバランスに保てる最大の要因であるという結論に至った。

 

 

「来年はコレを抱いていなくとも、実力を発揮できるようにならなくてはな」

 

「どうして? これはこれでええと思うが」

 

 

 審判が許可を下した以上、ルール上、何の問題もない。

 

 それにチーム戦という点においても悪くはない。

 

 ぬいぐるみを抱いている。

 麻雀大会で、そんな行為は当然、周囲の目を引くだろう。

 まして和は全中王者。ただでさえ集まりやすい注目が更に集まり、結果として他の四人に対して警戒が薄くなる可能性も高くなる。

 姑息の誹りも免れない行為であるが、卓の外における攻防や策もまた一つの戦略。それを止めるルールもなく、前例がない故にマナー違反とも言い難い。

 

 

「俺は原村の今後について言っているんだ」

 

「私の、ですか……?」

 

 

 そうだ、と静かに嵐は頷いた。

 

 和の打ち筋は極まったデジタルである。

 コンスタントにその実力を発揮し、高いトップ率を保つもの。

 その根幹にあるのは、全くと言っていいほどブレない精神。何一つ迷うことはなく、僅かも揺るがぬ信念が、彼女の麻雀をより高い次元へと引き上げた。

 

 だからこそ、今の原村 和の状態は決して望ましい状態ではないと断ずる。

 

 何かに頼る。何かに偏る。それは、それだけで精神そのものが傾き、揺らいでいることを示している。

 誇張や偽りの多いネット上ではあるが、伝説とまで呼ばれたプレイヤーは、今年度インターハイで遺憾なく実力を発揮するだろう。

 

 だが、今の状態ではそこまで止まり。そこから先への成長が望めない。

 もし、更なる成長の機会があるのなら、何に頼ることなく、何に寄ることもなく、本当の意味で自分だけの力で自らの身体を支えた時だろう。

 

 

「人間、楽な方に流れれば弱くなるものだ。自他共に厳しく接するのがお前という人間、と少なくとも俺はそう思っている。このぬいぐるみを置くことは、次の段階へ進むために必要なプロセスだろう」

 

「まあ、言わんとしてることは分かるけどねぇ……」

 

「今からすぐにやれと言っているわけじゃない。インターハイ後の課題だ」

 

「そう、ですね。いつまでもこのままでは、流石にちょっと恥ずかしいです」

 

「えー、そうかな。これはこれで可愛いと思うけど」

 

 

 嵐からぬいぐるみを返されると、和は胸の前でぎゅっと抱き締めた。それだけで、彼女がどれほど、このぬいぐるみを大事にしているか理解できる。

 

 理知的かつ勝気な和であるが、こういった子供っぽいところも残っている。

 普段の姿を知るからこそ、咲も可愛いという言葉を漏らしたのだろうが、受けた側としてはどのような顔をすればいいのか分からないらしく、困惑したように皆の顔を見回した。

 

 

「……う、ぉぅ」

 

「須賀、鼻の下が伸びているぞ」

 

「ふぉぅ?! あ、いや、これは、あはは。…………ところで、試合の最中、先輩は何処にいたんすか?」

 

 

 ぬいぐるみを抱き締めたことで潰れた和の豊満な胸に視線を注いでいた京太郎は、嵐の小さな指摘の声で我に返ると苦笑いを浮かべる。

 嵐の向けた視線は何とも生暖かいもので、気持ちは分からないでもないが自重しろ、と言葉にするまでもなく語っていた。

 

 その生暖かい視線に耐えられず、咄嗟に出てきた話題はそれだった。

 

 麻雀という競技の性質上、周囲にギャラリーを集めることはできない。

 観客の中に競技を行っているプレイヤー側の人間と結託して『通し』を行う可能性を否定できない。

 また観客の表情や歓声の沸きようで、誰かの手牌を読むことも可能となり、著しく公平性を欠いてしまう。

 

 故に競技麻雀はプレイヤーの対局を行う対戦室と観戦を目的とした観戦室は別となる。

 ここ長野競技場においても同様であり、観戦室の広さは優に百人以上を収容可能な程に広い。

 部屋の奥にある巨大なスクリーンに対局が映し出され、階段状に設置された無数の観戦席は小さな映画館を彷彿とさせる造りとなっていた。

 

 一回戦の最中、嵐は観戦室に姿を見せなかった。

 久だけは行方を知っていたのか、ほら見たことかと言わんばかに呆れ顔を見せた。

 

 

「ああ、男子の方の団体戦を見ていた。あと、コレもな」

 

 

 嵐がテーブルの上に置いたのは、クリップで止められた紙束。  

 一年たちが困惑と共にページを捲っていくと、男子団体戦において有力とされる高校生の牌譜だった。言うまでもなく全て手書きだ。

 個人戦にも参加するだろう有力選手の牌譜だけではなく、気づいた癖や打ち筋の傾向も記されている。

 複数の対局を同時に見ることができない以上、それぞれの高校の先鋒から大将まで全てを網羅することはできていなかったが、牌譜は前年度活躍した者を中心としており、嵐と京太郎には十二分な価値があった。

 

 

「普段なら、こんなことはしないがな。情報は共有していた方がいいだろう」

 

「あぁ、つまり、俺のため、ですか……」

 

「それもあるが……頭の中で処理するだけではなく、こうして書き起こしてみるのも悪くない。確認作業を挟んだ方が、より詳細に見えてくるところもあるものだな」

 

 

 彼女達は知りえぬところではあるが、嵐の麻雀は、まず読み取ることから始まっている。

 故に、牌譜や対局を見て得られる情報は他人とは比較にならないほど膨大であり、また情報は時に対局相手の運を凌駕してしまうほど、凶悪な刃と成り得ることも知っていた。

 

 元々、京太郎の為だけにわざわざ文字として残したのではなく、あくまでも個人戦に向けて自己の勝率を上げる“ついで”だった。

 

 感謝されこそすれ、責められる謂れのない行為。

 

 だが、京太郎の胸中には一体どんな感情が渦巻いていたのか。

 悔やむような、悩むような表情で、紙束に視線を落としていた。

 

 普段とは違う京太郎の様子に気づいたのは、幼馴染の咲と師弟に近い関係を持つ嵐だけだった。

 

 

「お前たちも気を付けろ。俺と同じ行為をしている奴も居るだろうからな」

 

「そう簡単に読み切られるほど、私たちも甘くはないわよ?」

 

「…………それもそうだな。その発言を気の緩みと断じることは容易いが、お前たち自身の戦いだ。口を挟む方が無粋だな」

 

 

 暗に気を引き締めろと忠告しているようにも取れるが、本気でそれ以上世話を焼く気はないのか、口を閉ざした。

 そして、テキパキと弁当箱を片付けると椅子から立ち上がる。

 

 

「では、俺はそろそろ行くぞ。午後は男子の方も混むだろうからな」

 

「あら、応援してくれないんだ?」

 

「俺の声援がなければ負けると? 応援自体を否定するつもりはないが、ふざけた勘違いだぞ。お前たちの勝利に必要なのは、お前たち自身の運と努力、そして気構えだけだ」

 

「まあ、分かってはおるが、相変わらず厳しいのぅ」

 

 

 これから戦いに挑む者たちに、激励の言葉すらない。

 どんな期待も、どんな応援も、結果を変えるほどのものではなく、最終的に物を言うのは、あくまでも自身の力と断じる。

 

 勝利は己自身の手で掴み取るもの。

 一聞しただけでは冷たく突き放すような言葉も、裏を返せば嵐の勝ちに対する拘りと信念が伝わってくる。

 だからこそ、他の者たちも、それ以上の追及や糾弾の声を上げることはない。

 

 加えて言えば、嵐は彼女たちが勝ったとしても、負けたとしても態度を変えるつもりはない。

 勝ったのならば奮戦を認め、負けたのならば何処が悪かったのかを指摘するだけ。

 対局の最中は一心不乱に勝ちを目指しこそするものの、対局が終われば、勝利も敗北も等しく価値のあるものと認めているからこその振る舞いである。

 

 

「あの、先輩、俺も行っていいっすか?」

 

「構わないが――」

 

 

 今まで俯いて黙っていた京太郎は、縋るような目で嵐に問う。

 

 別段、嵐としても拒絶する必要も意味もなかったが一旦言葉を区切り、これからの対局を控えた5人を見た。 

 

 

「午前は応援していたんだろう? しなくてもいいのか?」

 

 

 発せられたのは、京太郎と彼女たちを慮った言葉。

 己自身は応援はしないが、行為そのものを否定するつもりは毛頭ない。

 

 応援が力になる。

 嵐には到底理解できないが、己の考えが真理ではなく、個人の考え方の一つに過ぎないと理解している。

 

 だからこそ京太郎に問い返した。お前は本当にそれでいいのか、と。

 

 

「あ、いや、それはその……」

 

「むむ、生意気な犬だ! 私たちを応援しないとは!」

 

「こら、優希。須賀くんだって、大会に参加しますから、対局するかもしれない相手を見ておくのは無駄ではありませんよ」

 

 

 自分でも何を言っているか分からないのか、京太郎はしどろもどろになって取り乱す。

 彼自身、自分が何を思って口にしたか分かっていないらしく、次の言葉を出てこないようだった。

 

 優希も本心からの言葉ではなかっただろう。

 ある意味、咲以上に京太郎と仲の良い彼女のこと。生意気という言葉も、応援してほしい気持ちの裏返しに過ぎない。

 子供――というよりかは乙女心の現れ。素直になれない性分も、こうなっては足枷だ。

 

 

「……行って来なよ、京ちゃん。応援がなくても、私たちは頑張れるから」

 

「じゃな。ワシらも個人戦は互いに応援できん。ワレはワレで、やろうと思ったことをやればええ」

 

「咲、染谷先輩……」

 

 

 背中を押したのは咲とまこの二人だった。

 咲は幼馴染として、まこは先輩として、迷える京太郎の背中を押してやりたかった。

 

 それに見合うだけの働きと努力を重ねている。

 久も和も何も言わない。優希ですら不満は漏らしても、止める言葉は出てこないのが、何よりの証拠。

 認め、感謝しているからこそ、京太郎の細やかな、意味がないかもしれない努力をも認めてやりたい。

 照れ臭く、言葉にこそしなかったものの、皆の気持ちは一つだった。

 

 

「須賀、どうする……?」

 

「…………折角なんで、行きます」

 

「そうか。…………ならば行くとしようか」

 

「京太郎、しっかり見てくるんだぞ! 私たちの応援しないんだから、時間を無駄にするのは許さないじぇ!」

 

「わーってるよ! …………ありがとな」

 

「じゃあ、須賀くんも、嵐も、悔いの残らないようにやれるだけのことをやってきなさい」

 

「ああ。其方も、悔いは残さないようにな」

 

 

 対照的な二つの激励を受け、二人は椅子から立ち上がり男子団体戦が中継される観戦室へと向かっていった。

 

 

(俺も、恵まれてるよな。皆に応援されて、先輩にも助けられて……)

 

 

 先を歩く嵐の背中を追いながら、一人そんなことを考える。

 

 須賀京太郎は恵まれている。

 背中を押し合い、あるいは身体を支え合う、同じ道を歩む仲間たちが居る。

 己の道行きを示されてこそいないが、己が進もうとしている道を照らしてくれる先輩も居る。

 

 その道行きが何処まで続いているかは京太郎自身も分からない。

 高校生の時分だけか。大学生の時分までか。それとも、プロの高みへまで羽ばたいていくのか。(いま)だに明確な目標を定められずにいる。

 

 それでも、周囲の仲間は掛け替えのない存在である。 

 

 

(分かってる。そんなことは誰に言われなくても分かってる。なら、どうして――)

 

 

 小さいながらも、黒々とした感情が湧きあがってくるのか。

 

 真っ白な服に染みついた黒い汚点を見つけたかのような不快感。

 合宿の折、咲に感じた不安とは全く別種でありがなら、京太郎自身も説明できない謎の感情。

 

 悪意ではない。そんなものを抱けるほど、須賀 京太郎という人間は捻じ曲がっていない。

 

 無理矢理にでも“それ”を説明するならば、“痛み”に近かっただろう。

 心の何処かをチクチクと針で刺されるかのように、仲間の姿を見る度に痛みが奔るのである。

 

 

 

 須賀京太郎が恵まれている。

 ――だが、恵まれていることと幸福であることは、また別の話。

 

 彼の最大の不幸は、彼自身にも説明できない“痛み”を、共有できる仲間がいなかったことだろう。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 多くの人間の様々な思惑を余所に、大会は滞りなく、淀みなく進んでいく。

 

 二回戦を終え、決勝戦へと駒を進める四校は出揃った。

 シード枠を獲得していた前年度本選出場校・龍門渕、強豪・風越は当然のように勝ち残り、残りの二校は完全な無名校。

 

 一校は竹井 久率いる清澄高校。

 全中王者を擁する高校ではあったものの、原村 和のワンマンチームという大方の予想を裏切り、見事決勝への参加権を獲得した。

 誰もが快進撃も次で終わりと思いつつも、まさかと期待せずにはいられない実力と華を秘めたチームである。

 

 そして、もう一校は鶴賀学園。

 三校が勢いと輝きに満ちた一等星とするならば、鶴賀は誰も目を向けない六等星だった。

 誰が見ても、どうして決勝まで勝ち残れたのか分からない。個々人の実力も、副将は目覚ましいものはあったが、それ以外はパっとしない成績。

 個人としても、団体としても、他の三校には劣ったチーム。それが、多くの観戦者たちの結論だった。

 

 ……酷い誤認もあったものである。

 

 如何に県予選と言えど、運だけ勝ち残れるほど甘くはない。

 鶴賀学園が勝ち残る。そこには他の三校とは違った強さを秘めており、必ず何らかの理由があることを示している。  

 

 確かに一等星と六等星では、目に映る華々しさも、輝かしさも桁が違う。

 されど、その実体はどうか。一等星よりも大きく、目を焼くほどの輝きを放つ六等星など珍しくもない。

 

 清澄・龍門渕は、それぞれの実力と特色を最大限にまで高めたチーム。 

 風越は堅実で地道でありながら、弛まぬ努力によって極めて高くコンスタントに実力を発揮できるチーム。

 

 ――であるならば、鶴賀はただ一つの智慧を武器に、緻密な戦術戦略を以て是に挑むチームである。

 

 

 決勝に進んだ四校はいずれ劣らぬ強者たち。

 強者たちが喰らい合う決勝は、さながら蠱毒の壺の如き様相を呈するだろう。 

 

 その結末を予測する者はいても、明確な結果を知る者は――――――まだ誰もいない。

 

 



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第九話 『開戦』

 

 決勝戦当日。

 

 早朝というには遅く、昼前というには早い時間。

 普段ならば学生は学校へ、社会人は仕事先へと向かう時間帯であったが、今日は日曜だけあって県予選大会会場は前日よりも多くの人々が集まっていた。

 

 決勝戦に駒を進めた四校の対戦を心待ちにしている者がいた。

 特定の高校を支持し、応援に駆けつけた者もいた。

 来たる個人戦に向け、虎視眈々と対局相手の情報を得ようとしている者も―――。

 

 当然、今日この場で鎬を削り合う者たちも、また同様。 

 

 四校にはそれぞれ小さな控え室が与えられ、今日一日を其処と対局室を行き来して過ごす。

 清澄の通された控え室は中央にセンターテーブルがあり、周囲三方を囲むように三人掛けのソファが備え付けられていた。ソファのない一方の壁際に薄型のテレビが配置されており、その隣には簡易ロッカーが並んでいる。

 他の高校も似たような控え室だろう。県予選の大会運営委員会も、どこか一校を贔屓するほど愚かでもなければ、予算に余裕もない。

 

 

「さて、私たちは最終ミーティングをしておきましょうか」

 

「須賀、お前はどうする。俺は今日も男子の方を見に行くが」

 

「じゃあ俺も行きます。買い出しは部長から連絡を貰えばいいし、それまでは」

 

「……そうか」

 

 

 昨日から、些か以上に普段の快活さを失っている京太郎に気付いていながらも、嵐はそれ以上に踏み込んで行きはしなかった。

 関心がなかったわけでも、吐き出せずにいるものに見当が付かなかったわけでもない。

 京太郎の溜めこんでいるものが、どういったものなのかは分かっている。それがどれだけ苦しいものなのかも知っている。

 

 だが、共感はできなかった。

 

 この場にいる人間で、京太郎の内に汚泥の如く沈殿している感情に気づけるのは嵐だけだ。

 しかし、それはあくまでも経験や共感によるものではなく、知識によるものに過ぎない。

 二人の立場には、余りにも深く、遠い隔たりがあった。理解も共感もできない人間の言葉では、京太郎にとって何の救いにもなりはしない。

 

 ここで何を言った所で、京太郎を追い詰める結果にしかならない。

 

 そう判断したからこそ、伸ばしてやりたい手を抑え、口を閉ざしたまま何も言わなかった。

 

 

「では――――」

 

「ふえぇぇぇぇっっ!!」

 

 

 行くか、と紡ごうとした声を驚きに満ちた絶叫が斬り裂いた。

 

 何事かと見れば、手元に視線を落としつつもワナワナと震えている優希の姿があった。

 彼女の手に握られていたのは、タコスが入っているであろう紙袋もある。

 それだけで嵐と京太郎は、優希にとっては深刻な事態でありながら、他人には非常にどうでもいい事態が起こっていることを悟った。

 

 どうにも優希には人の話を聞かない節がある。

 正確には落ち着いて人の話を聞いていられない、ではあるが、結果が同じならばどちらでも構わないだろう。

 

 案の定、優希は一回戦、二回戦とは異なり、決勝戦が半荘二回であることを忘れていた。

 その上、大好物のタコスを半荘一回分しか持ってこなかったようで、後半戦の分がないそうだ。

 

 

「……うぅ、京太郎! タコスを買ってこい!」

 

「…………片岡、須賀はお前の召使いではないぞ。お前の責任は、お前自身で取るべきだろう」

 

「うぐぅっ……?!」

 

「ちょ、ちょっと、そんなことを言ったってねぇ……!」

 

『あと10分で先鋒前半戦が始まります。各校の先鋒選手は対局室に集合してください』

 

 

 無慈悲なアナウンスと嵐の言動に控え室の空気が凍った。

 

 全ては優希に責任がある。

 話を聞いていなかったのも、タコスを用意していなかったのも本人以外に責任を求めることなどできない。

 

 嵐の言葉は正論だ。正しさ以外に何もない。

 失敗は自らの手で注いでこそ、より価値のあるものとなるのは確かだろう。

 だが、誰もが自分一人の手で何をも出来るわけでもなく、失敗も同じこと。誰かの手を借りねばならぬ場面もある。

 

 

「…………いや、俺が行きますよ。これで優希が負けたら、もったいないじゃないですか。負けるにしても、全力じゃなくちゃ。そうですよね、日之輪先輩?」

 

「……………………」

 

 

 ただただ正しいだけの言葉に抗ったのは、京太郎の人間的な暖かみに満ちた言葉だった。

 仲間であるのなら、失敗の責任も分担して背負うことも決して間違ってなどいない。手を取り合うことを誰が否定できよう。

 

 誰もが京太郎を驚いたような目で見ていたが、やがて喜びと感謝の視線を送る。

 そんな中で、嵐だけが僅かながらに普段の無表情を崩していた。

 

 自分の意見を無視され、腹を立てていたわけではない。そんなことには慣れっこであり、彼の怒りを覚えるのは、もっと別の事柄だ。

 優希を甘やかすことが、彼女の為にならないと思っているわけでもない。手を取り合う必要性を否定するほど、孤独に満ちた心を持ってもいない。

 

 ――ただ、今この状況こそが、誰かにとって望ましいものではないとでも言いたげだった。

 

 

「……分かった。ならば、お前はここの周辺で店を探せ。幸い俺は今日もバイクだ。遠場を探してみよう」

 

 

 嵐の口から発せられたのはそんな言葉。

 

 今日は日曜。早朝の新聞配達はなかったが、足があるのなら何かと便利だろうと今日も電車ではなくバイクまで会場に来ていた。

 現状を鑑みれば、嵐の選択は正しいようだった。

 

 

「うぇぇっ?! 日之輪先輩まで行くのか!? いや、でも……」

 

「そ、そうっすよ! 先輩は男子の団体戦を見てくなちゃ……」

 

「俺も須賀も条件は同じ。責任を分担できるのなら、俺が背負っても問題ないはずだ。それとも、俺では悪い理由があり、須賀ならば良い理由があるとでも?」

 

「そ、それは、そうだけど……」

 

「反省しているのならば、それでいい。俺から言うべきことは何もない。以後、気を付けるがいい」

 

 

 何時ものように、相手を気遣ってこそいるものの、情け容赦のない言葉を投げかける。

 嵐本人は優しく投げ渡したつもりだが、渡された優希からすれば顔面に思いきり投げつけられたようなものだ。

 目に見えて意気消沈していく優希に、頭を抱えたのは久だった。 

 

 

「だーっ! もう、アンタはどうしてそういう言い方しかできないの! これから対局に行くんだから気を遣う方向性が間違ってるでしょ!」

 

「……そう、か。俺はまたいらんことを言ったのか。すまんな、片岡」

 

「い、いやぁ、確かに私が悪かったじぇ。…………京太郎、日之輪先輩、お願いしても構わないか?」

 

「おう、任せとけ!」

 

「無論だ。お前は目の前の対局に集中しろ」

 

 

 京太郎は力強く親指を立て、嵐は平静なまま応えた。

 

 優希は二人に強い信頼の視線を寄せ、今度は周囲の仲間たちを見る。

 皆の瞳に疑念や不安の色は殆どない。あるのは期待と信頼の色だけだった。

 

 

「行ってくるじぇ……!」

 

 

 先程までの不安は消え去り、力強い足取りで部屋を後にする。 

 相手は一筋縄で行く手緩い相手ではないだろうが、残された6人に出来ることは健闘を祈ることだけだった。

 

 これから対局に赴く後輩の背中を見送ると、嵐は京太郎に向き直る。

 

 

「決勝のレベルなら半荘一回がストレートに八局では終わることはまずない。休憩時間を挟んで後半戦が始まるまで、およそ一時間と少しといったところだ」

 

「そうですか。それまでにタコスを買って帰ってこなくちゃならない、と」

 

「そういうことだ。くれぐれも事故には注意しろよ」

 

 

 ロッカーの中からバイクのキーを取り出し、バタンと戸を閉める。

 既に嵐の表情は普段の無表情に戻っており、先程の苦々しい懊悩は消え去っていた。

 

 

「お前は駅前の方を探せ。俺は一駅離れたところに行ってみる」

 

「分かりました。先輩も安全運転でお願いしますよ」

 

「ああ。では、行くか」

 

 

 数分前とは全く違う行き先にも拘らず、その意気込みは変わっていない。

 二人にとって男子の団体戦を観戦し、個人戦に向けて準備を整える行為も、仲間のためにタコスを買いに行く行為も大差はないようだった。

 

 ――ただ、京太郎の表情に使命感や責任感とは全く別の、安堵の色が滲み出ていたことを嵐は見逃しはしなかった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「……って、あんなにカッコよく啖呵を切ったはいいけど、どーしよ」

 

 

 嵐と会場の表玄関で別れ、勢いよく飛び出したは良かったものの、京太郎は途方に暮れていた。

 

 あれから二十分が経ち、様々な店が立ち並ぶ駅前に到着したはよいものの、タコスをテイクアウトどころか扱っている店すら見つからない始末。

 それも当然だ。タコスはメキシコ料理。洋食の中でも日本では馴染みの薄いジャンルである。

 長野の中では発展を遂げている街とは言え、ふらりと家の外に出れば、目的のものが売っている店が見つかるほど供給が行き届いているわけでも、需要があるわけでもない。

 

 まして、地元ではない地域で何の情報なしに探している店を見つけるなど、余程の幸運でもなければ不可能な話だった。

 

 

「諦めるわけには、いかないよな。どっかで誰かに―――?!」

 

 

 脳裏に浮かぶ優希の泣きっ面を掻き消し、再び走り出そうと脚に力を込めたのが失敗だった。

 意識を視界よりも、思考に向けていたが故、目の前に人がいることに気が付かなかったのである。

 

 認識と同時に、もう避けられないことを悟るも、何とか互いの被害を最小限に抑えようと身体が無意識に右へと避けた。

 

 だが、それでも足りない。 

 衝突と相手からの罵声を覚悟した京太郎だったが――

 

 

「――――あれ?」

 

 

 ――覚悟とは裏腹に、衝撃が訪れることはなかった。

 

 しかし、予想外の結果は行動に支障をもたらすもの。

 無理な行動で崩れたバランスを立て直すことすらも忘れてしまっていた京太郎は、間抜けな声と共に肩から地面に倒れ込んだ。

 

 今度こそ訪れた鈍い衝撃と痛みに、京太郎は苦鳴を漏らしたが、咄嗟にぶつかろうとしていた相手に視線を向ける。

 相手も自分と同じように転んでいないかを確認するつもりだったのだが、視界に飛び込んできたのは白い手袋で覆われた右手。

 

 

「失礼致しました。お怪我はありませんか?」

 

「え? ……あ、ああ、はい。大丈夫です」

 

 

 反射的に差し出された相手の右手を取って立ち上がると、再度の予想外に目を丸くする。

 

 今し方ぶつかろうとしていた人物は執事だった。

 黒い燕尾のスーツに同色のベストとスラックス。すらっとした高身長に、やや長めの黒髪。モデルや俳優にも劣らない美丈夫だ。

 手の込んだコスプレとしか思えなかったが、丁寧で柔らかな物腰が本物であることを何よりも雄弁に物語っていた。

 

 

「あの、すみませんでした」

 

「いえ、此方の方こそ配慮が足りず」

 

 

 そう言うと執事が恭しく頭を下げる。

 配慮が足りなかったのも、間が抜けていたのも京太郎の方であったが、多少なりとも自分に要因がある以上は自分の責任という、執事としての気構えの現れだろう。

 

 こちらこそ、いえいえというやり取りを何度か繰り返す。

 元々他人を優先する気質の京太郎と他人を優先しなければ成り立たない執事と言う職業。

 自分の方が悪かった、と反省し合うのは当然の帰結だったのかもしれない。 

 

 

「本当にすみませでした。…………ちょっと急いでるんで、もう行きますね」

 

「……ふむ。失礼ですが、何かをお探しのご様子。私にできることがございましたら、何なりと」

 

 

 謝罪と不手際を不問としてくれた礼のつもりだったのだろうが、京太郎は内心を言い当てられて、ぎょっとする。

 何かを言った訳ではなく、嵐のように挙動や態度から察せられる人間が居たことに驚くのも無理はないが、今の彼には渡りに船だった。

 どの道、善意による提案であり、わざわざ初対面の人間を困らせて楽しむような人間にも見えない。断る余裕も理由もない。

 

 

「実は、タコスを探してるんです。できれば、持ち帰りで」

 

「タコス、ですか。そうですね。ここから二つ目の信号を右に曲がると喫茶店があります。トルティーヤとサルサソースの臭いが微かにしましたので、間違いなくメニューにあるかと」

 

「喫茶店かぁ。持ち帰りは……」

 

「心配はないでしょう。ケーキなどはテイクアウトのサービスをしていました。タコスも包みやすい料理ですので含まれているでしょう」

 

 

 本場メキシコではタコスの露店は珍しくない。

 イギリスならばサンドイッチ、アメリカならばハンバーガー、日本ならばおにぎりに近く、軽食向けで歩きながらでも食べられる料理にあたる。

 需要は兎も角として、物好きな店主ならばテイクアウトのサービスをやっていても可笑しくはない。

 心当たりがない以上、賭けられる分だけマシだった。最悪、頭を下げて持ち帰る手もあるだろう。

 

 

「ありがとうございます! 助かりました!」

 

「いえいえ、お役に立てたようで何よりです。では、失礼します」

 

 

 最後に晴れやかな笑みを浮かべながら、右肘を折り曲げての一礼をして執事は去って行った。

 

 見慣れない背中に奇妙な気分になったが、何時までも見送り続けているわけにはいかず、京太郎は身体を翻して走り出した。

 まだタコスが手に入ると確定したわけではないが、可能性が生まれたことで気持ちに余裕ができる。

 

 そして、どうしてこんな場所に執事がいたのか疑問が生まれたものの、答えが出る筈もない。

 この後、京太郎はこの執事と懇意になるのだが、今の彼にはまだ関係のない話だった。

 

 

「……っと、先輩に連絡しとかなくちゃな」

 

 

 執事の言葉通りに道を進むと、まだ営業時間ではない洋服店と居酒屋に挟まれた喫茶店があった。

 店先にはメニューの書かれた大きめの看板が出ており、開店を示すと同時に客の入店を誘っていた。

 

 入学と同時に買った最新型の携帯を取り出し、登録してあった嵐の番号にコールする。

 暫くすると電話が繋がり、微かなバイクの排気音と共に声が伝わってきた。

 

 

『もしもし』

 

「あ、先輩ですか。タコス、見つかりました。持ち帰りもできそうです」

 

『そうか。後半戦までに間に合いそうか?』

 

「はい、作る時間を考えても、余裕をもって戻れます」

 

『分かった。…………何だかよく分からんのだが、片岡の奴、結局タコスを食べていないらしいからな。多めに買ってやれ』

 

「はいぃぃ……?」

 

 

 電話口からでも伝わっている困惑した嵐の様子に、京太郎も動揺して語尾が上がっていた。

 

 嵐の話によれば、京太郎の前に久から電話がかかってきており、そこで更にタコス買い出しの緊急性が高まったそうだ。

 何でも優希の持っていったタコスを龍門渕の先鋒が差し入れと勘違いして食べてしまったのだとか。

 しかもその上で、気を遣った風越の先鋒がわざわざ自分の弁当を優希にくれてやり、何とか持ち直しているらしい。

 

 

「どういうことなの……?」

 

『俺に聞かれても、……その、なんだ。困る』

 

「ですよねー」

 

 

 少なくとも嵐と京太郎には理解できない話だった。 

 

 人の持ち物を確認せずに勝手に食べる龍門渕の先鋒も、軽率と言わざる得ない

 これから戦う相手に塩を送る風越の先鋒も、極度のお人好しと見れば不思議ではないが、やりすぎでもある。

 そして、アレだけタコスタコスと言っておいて、結局腹に貯まれば構わないのか、と言いたくなる優希も同様だ。

 

 決勝戦に参加する人間は、やっぱり俺とは根本的に違うなー、と薄ら笑いを浮かべて現実逃避する京太郎であった。

 

 

「と、兎に角、急いで買って帰りますね!」

 

『ああ、そうしてやれ。俺はついでに久から買い出しを頼まれたから、少し帰りが遅くなりそうだ。先に、男子の決勝を見ていても構わないぞ』

 

「あ、あー…………考えときます」

 

『……そうか。極力早く帰るとしよう。ではな』

 

 

 歯切れの悪い京太郎の返事にも、さして気にした様子もなく嵐は電話を切った。

 

 嵐の反応に対してなのか、それとも別の要因があったのか、京太郎の表情は暗い。

 それでも自ら買って出た仕事を果たすため、自らの頭に浮かんだ考えを雑念と振り切り、喫茶店の中へ足を踏み入れるのだった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「一発ツモ! 4000オール!」

 

 

 東1局0本場 親・片岡 優希 ドラ{西} 

 

 優希・手牌 裏ドラ{九}

 {234④⑤⑥⑥⑦⑧五六八八} {四}(ツモ)

 

 

 東家・片岡 優希  112,000(+12,000)

 南家・福路 美穂子  96,000(-4000)

 西家・井上 純    96,000(-4000)

 北家・津山 睦月   96,000(-4000)

 

 

 先鋒戦最初の和了りを決めたのは、やはり優希だった。

 裏ドラこそ乗らなかったものの、一発がつき親満まで伸びた好調な出足。

 しかし、優希からすれば不満なのか、僅かに表情を曇らせていた。

 

 

(いつもなら親跳くらいは伸びるんだけど、……しかも聴牌までかなり時間がかかったじぇ)

 

 

 普段の優希が起家から始める対局は、かなりの確率で一局目から爆弾手を和了る。

 親跳など当たり前、倍満も珍しくはない。三倍満にまで至ってようやく珍しいと言えるレベル。

 親満止まりが逆に珍しいなど、高打点を望んでも和了れない雀士には羨望の的であるが、優希が今日一日の先行きに不安を覚えるには充分だった。

 

 

(やっぱりタコさんウインナーでは力が足りないのか……?)

 

 

 優希は元々食べ物でゲンを担ぐタイプである。

 勝負や受験に勝つためにカツを食べたり、縁や合格を結ぶためにおむすびをと言った具合だ。

 明確な効果など期待できないが、精神を安定させる儀式、あるいは自己暗示の一種と考えれば、スイッチとして何らかの行為を設定しておくことは間違いではない。

 

 幸いと言うべきか、風越の先鋒――美穂子が与えた弁当の中にはタコの形に切られたウインナーが入っていた。

 タコス好きが高じて、タコと入っているのならば全てが力になると信じる優希には十分だったらしい。実に単純な話である。

 だが、自己暗示は当人の思考回路が単純であればあるほど効果が高い。自身の行為、願掛け、信念をより深く信じられるからだ。

 

 

(うぅ、それもこれも、全てノッポのせいだじぇ!)

 

(……俺のこと睨んでるなぁ。いや、確かに俺が悪かったけどよ。何もそこまで怒ることねーだろ)

 

 

 優希が睨み据えていたのは対面の椅子に胡坐をかいて座った龍門渕の井上 純。

 180cmを超える絵に描いたようなモデル体型、男勝りな口調と顔立ち、更には前年度のインターハイでの活躍から女子から強い人気を誇る学生雀士。

 龍門渕高校は指定の制服がない私服校であるからか、白いワイシャツに黒いネクタイを緩く締め、スカートの下にズボンを穿いていた。

 

 

(清澄の先鋒は東場で走る。先輩の言ったとおり……)

 

 

 優希の上家に座ったのは鶴賀学園の津山 睦月。

 ブレザーの制服に、黒い髪をポニーテールにした外見的な特徴が薄い少女。容姿同様、麻雀自体もこれといって目を引くことはない。

 一回戦と二回戦の収支は合わせるとマイナスに寄っているが、それでも±0に近い当たり素人とも言い難い。

 下手ではないが、上手くもない。そんな評価がピタリとくる実力であった。

 

 それでも善戦中の鶴賀が彼女を先鋒に据えたのは、与えられた役割を過不足なく熟してくるからであった。

 

 

(清澄は南場に入れば勢いが落ちる。むしろ怖いのは、龍門渕と風越のエース)

 

 

 睦月が対面と上家に視線を送る。

 どちらもインターハイを経験しており、自らも全国区クラスの実力を有する者。南場での失速が予想される優希よりも、警戒度は圧倒的に上だ。

 

 

(でも、風越は兎も角、龍門渕が鳴かなかったのは、なんで……? うぅ、相手の手牌をみたいなぁ)

 

 

 龍門渕の井上 純は、鳴きを多用するプレイヤーだった。

 過去の牌譜から、その傾向は顕著であるが――――常人には、余りにも不可解でしかない鳴きが目立っている。

 

 

(座った場所が悪かったか? 風越の先鋒、俺の鳴けるところを捨てやがらねぇ)

 

 

 純は風越の福路 美穂子について、それほど情報を持っていない。昨年、美穂子と卓を共にしたのは部長の龍門渕 透華だった。

 性格ゆえにか、純はそれほど対戦相手の研究は行わない。研究を重ねれば重ねるほど、自分の麻雀にはない打ち筋が求められるからだ。

 そして、研究をしなくとも自分は弱くない。そんな絶大な自信を持っている。

 

 井上 純は強い。頂点へ至らなかったが、全国への階段を上りきった以上、疑いの余地はないだろう。

 

 だが、卓上の実力者は、何も彼女だけではない。

 

 

(配牌とツモが悪かったから見に回ったけれど、正解だったわね。そして、清澄の彼女は牌譜から想像していた通り)

 

 

 美穂子は、パタリと手牌を倒す。

 彼女の手牌には、純の鳴いていきたい牌、優希の当り牌がごっそりと押さえられていたのは、ただの偶然であったのか。

 

 風越のエース、未だ動かず。牙と爪を隠し、姿と気配すら殺して、機を窺っていた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 東3局0本場

 

 東家・井上 純    97,600(+3,000)

 南家・津山 睦月   93,600(-1,000)

 西家・片岡 優希  108,300(-1,000)

 北家・福路 美穂子 100,500(-1,000)

 

 

 東1局1本場、美穂子が5200の一本場は5500をあっさりとツモ和了り、優希の親番が流され、続く東2局は純のみが聴牌を果たし、またも親番が簡単に流される結果となった。

 

 未だ流れは四者の間を揺蕩っており、誰もが抜きんでる可能性を秘めた東3局。

 

 

 優希・手牌 5順目 ドラ{中}

 

 {四赤五六③④⑤2268西西西} {赤5}(ツモ) {8}()

 

「リーチ!」

 

 

 普段よりもいまいち調子が上がらない優希ではあったが、東場での勢いは衰えず赤々自風のリーチ付き、最低でも満貫の手を張った。

 一発ツモで跳満に昇格、万が一自風の暗刻に裏ドラが乗れば倍満まで見えてくる大物手。

 

 この早い順目ならば嵌張即リーの目もあったが、周囲のレベルとツモ和了る確率を少しでも増やすために1順リーチを堪えた故に、赤{5}を引き入れての{47}両面待ちへの良形変化だった。

 

 しかし――――

 

 

 美穂子・手牌

 

 {一二二三五六①②④⑥⑦⑧7} {③}(ツモ)

 

({③}が埋まってくれたのはいいけれど、まだ一向聴。それに……)

 

 

 優希・捨て牌

 {北①⑧9横8}

 

(本線は{47}、捨て牌が少なすぎて{二}も可能性がある。ここは一旦、受けに回りましょう)

 

 

 たった5枚の捨て牌から、確信こそなかったものの精度の高い読みをする者もいた。

 

 美穂子の選択は打{①}。万が一、{7}周りを重ねたとしてもオリへと移行でき、{二}が安牌と確信できればリーチも辞さない姿勢の一打。安直に安牌を切り出したわけではない。

 3順目の{⑧}切り、続く{89}の辺張落としに、優希から僅かながらの迷いと戸惑いを見抜いていた。

 特に4順目の{9}切りは、これまでスムーズに打牌を続けていた優希にしては時間がかかっていた。

 即ち{89}の辺張待ちを選択か。更に{68}の嵌張でリーチか。はたまた{56}の両面まで堪えるのかの選択を迫られたということ。

 

 全く別の待ちの可能性もあったが、4順、5順目共に美穂子から見て右から4番目の位置にツモが入ったおり、{89}が納められていた付近。

 もっとも厳しいのは{8}周辺、ついで萬子筒子の上の両面搭子という読みだった。

 

 ここまで読まれれば、美穂子の手牌に潜む{7}は河に並ぶことはない。この時点で優希の当り牌は残り7枚となっていた。

 

 

 純・手牌

 

 {五六七七赤⑤56799東東東} {7}(ツモ)

 

(厄介なところ引いてきちまったな。安牌でもねー、手が進むわけでもねー牌をツモる時点で、清澄のチビに流れが傾きつつある証拠。このままオリたら離される、ツモを許せば即アウト。なら―――)

 

 

 井上 純は鳴きを多用する。

 だが、彼女の鳴きは手を進めるためのものではない。相手な有利な展開を阻害し、自らの不利な展開を排除するためのもの。

 他家の聴牌速度についていくわけでも、早和了りを目指しているでのもない。あくまでも流れを掴むための鳴き。

 

 ただ一度の和了りで今までの趨勢を覆す展開が、麻雀には間々ある。

 人はそれを流れと呼び、一時期は純粋な技術や技能よりも、科学的な根拠のないジンクスや行動が持て囃された。

 近年では否定されつつあるものの、未だ根強い信仰が残るオカルト。

 

 それが単なる思い込みなのか、事実なのかは誰にも分からない。

 麻雀にセオリーはない。科学的、統計的根拠に基づいたデジタルですら、高い勝率をキープする程度のものでしかないのだ。

 

 絶対のない麻雀に、絶対である答えは求められない。可能性が残る以上、流れもまた全てを否定される要素にはならない。

 

 そして井上 純は自らの打ち筋を信じ、勝ちを重ねてきた雀士である。

 流れの何たるかを深く理解し、余人常人に至れぬ道を歩む者。

 

 

 純・手牌

 

 {五六七七赤⑤567799東東東} {東}()

 

 (この一打しか、ありえねぇ――!)

 

 

 ならば、この一打は彼女にしか理解できずとも、流れを掴む一打であることに間違いはない。

 

 普通に考えれば、まずありえない打牌。

 {東}は生牌。オリるにしても一発を避けるために、まずは{9}を切り出し、その後に切り出した方が万一当たっても安く済む。攻めるにしても向聴数が後退し、自風場風の確定役二つを落としていく必要はない。

 

 決勝の実況を担当するアナウンサーも、解説のために招かれた藤田 靖子も、観戦していた者たちも、あまりに不可解な一打に困惑したことだろう。

 

 ――この場、この状況で{東}を落としていく根拠は何だ、と。

 

 答えなど出る筈もない。

 だが、純には当然の選択であったのか、鋭い眼光が対面の優希を貫いていた。

 

 

 睦月・手牌

 

 {②③④赤⑤⑥245689中中} {②}(ツモ)

 

(……五順目リーチで、こっちは一向聴。しかもドラの{中}を鳴いても無筋を押す羽目に…………、私なりの精一杯は、そうじゃない)

 

 

 逸る自分を押さえつけるように、睦月は一度大きく息を吐いた。

 その後、河に並んだのは{9}。二枚あった安牌の一枚を切り、まだ攻めていける可能性は残っていたものの、睦月の選択はベタオリだった。

 

 先鋒としては、多少の無理をしてでも押していくべきだろう。

 だが、睦月は自らの実力不足を自覚していた。他校のエースに比べて、運も技術も劣っていると。

 先手を取られた以上、足掻きは泥沼への誘い水。この一局で足掻くよりも、半荘を見据えて足掻いた方がチームの利益になると信じていた。

 

 その潔さ、意志を受けるかの如く、純が動いた。

 

 

「ポン……!」

 

 純・手牌

 {五六七七赤⑤5677東東} {99横9} {東}()

 

 

 ダブ東を捨ててまで残した{9}対子からの捌き。

 これは純からしても賭けだった。もし{9}が鳴けなければ、前半戦は優希のものとなっていただろう。

 その証拠に、再度の順目が回ってきた睦月が掴んだのは{7}。純の鳴きが入らなければ、優希の一発ツモだった。

 

 オリを決めていた睦月は、当然の{8}を切り。無理な攻めは決してしない。

 

 それから二順、既にリーチをかけていた優希は和了りを空振り、受けに回った美穂子は手牌が動かぬまま――

 

 

 「ツモ! 三色ドラ1の1000オール!」

 

 純・手牌

 {五六七赤⑤⑥56777} {99横9} {⑦}(ツモ)

 

 

 東家・井上 純   100,600(+3,000)

 南家・津山 睦月   92,600(-1,000)

 西家・片岡 優希  107,300(-1,000)

 北家・福路 美穂子  99,300(-1,000)

 

 

 鳴き仕掛けから一切の無駄ヅモなしに、純はストレートの和了りを決めた。

 

 前局の罰符逃れと変わらない僅か3000点のツモ。

 だが、{東}の暗刻牌を落とし、当たり牌を三枚抱えた上での和了は、優希に言い知れぬ不安を与えるには十分な和了りだった。

 

 

「ロン、7700(ちっちー)だ」

 

 

 そして、この和了を皮切りに、

 

 

「ツモ! 3900オール!」

 

 

 井上 純は完全に流れを掴み、

 

 

「ロン! 12600!」

 

 

 前半戦において、優希の二度目の和了宣言が響くことは、ただの一度もなかった。

 

 



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