長谷川千雨は喫茶店に足を運ぶ (Mamama)
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1話

ハーメルンで進撃の巨人二次創作、『こちら調査兵団索敵班』を投稿させていただいているMamamaです。向こうが煮詰まってしまったので、気晴らしに書いてみました。一発ネタと思っていたのですが、思った以上に文字数が多くなりました。連載という体を取りますが、数話で終わります。

※読了後、こんなの千雨じゃないという感想を持つかもしれません。大丈夫、あなたは正常です。
※たんたんと進みます。魔法なんて使いません。というか魔法の知識なんてありません。ついでにギャグもありません。
※こちら調査兵団索敵班はもうしばらくお待ちください。


以上の注意事項に留意し本編を読んでください。



 そこはこじんまりという表現が似合う小さな喫茶店だ。白い屋根に白塗りの壁、見た目は西洋で見るようなペンションハウスに似ている。そのシックな見た目は店の外から見る分には中々にお洒落なのだが、吊るされたコルクボードに店の名前と今日のオススメが書かれた紙が画鋲でとめられているだけで、一見すると喫茶店には見えないのかもしれない。

 

 事実として、何年も麻帆良に住んでいる私、長谷川千雨がこの喫茶店に気付いたのはほんの半年ほど前だ。あるいはそれに気がつかないほどに追い詰められていたのかもしれない。

 

 オープンと英語で書かれた木彫りの札を確認し、古めかしい押し扉をゆっくりと開く。ぎぃぃ、という木の軋む音と共にからんからん、とカウベルの音が私を歓迎する。店内から漏れる暖かな光がほんの少しだけ眩しく感じた。

 

 見た目同様、中もこじんまりとした内装だ。カウンター席が5つ、テーブル席が3つの小さな喫茶店。若い人が好んで入るような、俗に言うチャラい喫茶店ではない。特別目を引くようなものが置いてあるわけではないし、はっきり言って地味だ。しかしベージュとブラウンで構成された店内は地味だけれど無性に安らぐような、そんな気持ちを抱かせてくれる。茜色の西日が窓から差し、一種の幻想さを醸し出している店内は外とくらべ、時がゆっくりと流れているようだった。誰も座っていない席はノスタルジーを感じさせる。

 

 音楽を魅せて奏でるような演奏のクラシックと、音楽を楽しみ体で弾くような演奏のジャズが混じったクラシックジャズのBGM。さして音楽には詳しくないけれど、店内の様子とマッチしたいい音楽だと思う。

 

 狭い店内の真正面のカウンター席はダイニングキッチンのようになっており、一人の男性がスタッキンググラスを磨いていた。年齢は二十歳前後ほどで銀縁メガネが特徴的。図書館から抜け出したような文学青年、という雰囲気の喫茶店のマスター。何故か猫のアップリケがあしらわれたエプロンをかけており、ちょっとしたギャップを演出している。無類の猫好きらしいが喫茶店なので飼えず、せめて気分だけでも味わいたいとの事らしかった。

 

「ああ、おはようございます、長谷川さん」

 

 グラススタンドにスタッキンググラスを掛け、マスターが私に声をかける。細身の体格には若干似合わないほどの低い声は父親を連想させる。夕方なのに『おはよう』とは妙だし、普通客には『いらっしゃいませ』が正しいのだが、これはマスターの悪癖らしい。マスターは言った後に言い間違いに気付き、ちょっと照れたように笑いながらいらっしゃいませ、と小声で言った。

 

「おはよう、マスター」

 

 私がカウンター席に座りながらからかうようにそう言うと、マスターは逃げるように注文を聞いてきた。その様子は赤点が見つかった時の小学生のようだった。人をからかうのは結構好きな癖に自分が受け身に回るとマスターは途端に弱くなるのだ。

 

 ニヤニヤ笑う私の姿をクラスメートが見れば一様に驚くだろう。クラス内の私は必要以上に喋らないタイプだし、冷淡なイメージで固定されている。対人恐怖症気味の私がこんなにも打ち解けるようになるとは、半年前の私も思わなかっただろう。

 

「じゃあ、水出しコーヒー。ホットで」

 

 私の注文に頷き、少々お待ちくださいと一言残し背を向ける。キッチンには水出しコーヒーの器具、大きな砂時計に似たウォータードリッパーが置いてある。

 

 水出しコーヒーとは文字通り、お湯ではなく水を用いるという抽出法だ。この方法により香りが逃げずに、そのまま珈琲に封じ込められ、良質な甘味と柔らかい苦味が引き出されるらしい。全てマスターの受け売りだ。少々値が張るが、このコーヒーを飲むと他の喫茶店のコーヒーなど泥水同然のように感じてしまう。チェーン店のものなどもってのほかで、缶コーヒーに関しては論外だ。

 

 ただ水出しコーヒーにも欠点がある。大きなものとして抽出時間の長さだろうか。このコーヒーを一から作るとなると、短くても数時間はかかってしまう。だから基本的には前日のうちからストックを作っておくのが普通だとか。私が頼んだのはホットだから、待ち時間はコーヒーを温めなおす数分間だ。

 

 

「お待たせしました」

 

 マスターが私の方に振り向き、流れるような動作でコーヒーを私の前に置いた。ソーサーと木製の机が接触する軽い音が私以外の誰もいない店内で響いた。

 

 砂糖もミルクも入れずに、コーヒーを口に運ぶ。酸味のやや薄く、ほろ苦い香りが私の鼻を刺激する。

 特段コーヒー通というわけでもないが、美味しいと素直にそう思った。捻くれ者の私だが、このコーヒーに関しては文句のつけようがない。

 これだけ美味しいコーヒーがあるのに、客のいない店内の殺風景な様子が不思議でたまらない。おそらく立地的な要因だろう。

 

「落ち着きましたか?」

 

 コーヒーを半分ほど残し、一息ついた私にマスターが声をかける。

 

「あー、そんな風に見えましたか?後何度も言いますけど、私の方が年下なんですから敬語はいいですよ」

 

 私も敬語を使っているが、この人相手だとタメ口よりも敬語の方がしっくり来る。人付き合いを事務的にこなすため、という初期の理由をズルズルと引きずってしまった結果でもあるが、最近は油断するとタメ口で話してしまいそうになる。別にそれでもかまわないといえばかまわないのだが、ちょっとした気恥ずかしさを覚えてしまう。

 

「接客業ですからね、敬語はもう癖みたいなものです。それとワタシの目には落ち着きがないように見えましたが?」

 

「……マスターってなんか人間観察とか得意そうですよね」

 

 若干失礼な事を言いつつ、暗に正解だと認める。半年間の付き合いだが、この人に口で勝ったためしがない。

 

「悩みごとですか?」

 

「悩み事というかなんというか、自分でも分からないんですけどね――――」

 

 悩み、なのだろうかこれは。悩みというよりもっと深く、救いようがない類のものなような気がする。クラスメイトと諍いがあった、成績が下がってしまった、などというものではなく。例えて言うならば、台風に巻き込まれて全てを無くし、これからどうやって生きていけばいいのだろうかと自問することに似ているように感じる。大いなる自然の脅威に無自覚のまま晒されているような、漠然とした不安感が胸を巣食っているのだ。

 

「取りあえずそれを吐き出してはどうでしょう。今日もそのつもりで来たのでは?」

 

「ええ、まあ」

 

 この喫茶店には週に1回ほどのペースで来店するが、そのほとんどがマスターに愚痴をぶちまけることが目的だ。マスターは聞き上手というのか、固く結ばれた紐を解かしていくかのように私の心の裡を引き出してくれる。そして最も重要な事はマスターが私の主観から見て、至極マトモな人間であるという点だ。

 

「マスター、麻帆良って何ですか?」

 

 麻帆良を一言で表すと?という疑問が投げかけられたら、私は間髪入れずに『異常』と返すだろう。世界樹とかいう明らかに限度の超えた巨木。メートル単位で吹っ飛ぶ学生。何故か集まる天才集団。学校に通うロボットを筆頭に女子中学生とは思えない濃い面子。オリンピック選手顔負けの速度で爆走する女子中学生に、トドメは10歳の教師だ。これが異常でないとすれば異常の定義がおかしいのか、麻帆良学園が異常者を集めた隔離施設かのどちらかだ。

 

「麻帆良とは何か、か。中々難しい質問ですね。参考程度に長谷川さんの意見を聞かせてもらえませんか?」

 

「何度も言いますけど、私にとっては全部が異常ですよ。だってどう考えたってありえないじゃないですか、例えばあの世界樹、どう思います?」

 

 私はそう言い、ガラス越しに確認できる世界樹を指さす。

 

「でっかいですねぇ……。ここに初めて来たときは思わず放心しましたね」

 

 ちなみにワタシはあれをエクスデスと呼んでます、と余計な注釈を入れるマスター。

 

「でかすぎるんですよ!あれ270メートルですよ!?ふざけんな!マウンテンアッシュの2倍近いじゃねーか!」

 

 最後は感情が高ぶりすぎて敬語が抜け落ちた。力説する私をマスターが落ち着くように手で制する。いつものように柔和な笑みを浮かべるマスターの顔は私を落ち着かせてくれた。

 

「確かにありえない大きさですが、現実としてそこに存在している以上、認めざるを得ないでしょう?それにワタシは学者ではないですからね、あの大きさの樹が存在することにおかしいと断言することはできません」

 

 まったくもって正論だ。論より証拠とはまさにこのことで、証拠そのものが堂々と鎮座している以上、結論は揺るぎない。私だって植物学者ではないので分からないが、もしかしたら理論上あの大きさの樹の存在は可能なのかもしれない。だが理解は出来てもそれが納得に繋がるかどうかはまた別の問題だ。少なくとも私は納得していない。

 

「それでも限度がありますよ。世界樹はまあいいとして、他はどうです?オリンピック選手顔負けの速度で走る学生なんてどうですか?」

 

「羨ましいですね。ワタシは運動が不得意ですから」

 

 見当違いな事をいうマスターに、私はそうじゃねーよと心の中で突っ込みを入れておく。

 

「まあ実際に記録を測ったわけでもないですし、オリンピック選手顔負けとは誇張しすぎでは?それとも長谷川さんはオリンピック選手の走りを間近で見た経験があるのですか?」

 

「それは……ないですけど」

 

 痛い所を突かれ、言葉に詰まる。テレビ越しよりも間近で見た方が迫力が大きいのは自明だ。目の前の迫力に圧倒された思い過ごし、ということは確かにありえる。

 

「じゃあ、マスターは麻帆良がおかしくないって言うんですか?」

 

 追い詰められた私は苦し紛れにそう言う。子供が拗ねたような――事実私は女子中学生という子供だが――物言いにマスターは苦笑する。

 

「いや、ワタシも麻帆良はおかしい思いますよ。どこがどうと言われると言葉に詰まりますがね。ですが、ただ目の前の事実に目を背け否定することは現実逃避と同じではありませんか?」

 

 マスターの現実逃避という言葉に私はハンマーで殴られたような強い衝撃を感じた。

 

「現実逃避、ですか……」

 

「言っておきますけど、長谷川さんの『麻帆良はおかしいのではないか』という疑問そのものを否定するわけではありませんよ。むしろ、物事に疑問を覚えることは良いことだと思います。ですが疑問だけに囚われるだけの人生なんてきっとつまらないものですよ」

 

 脳裏には底抜けに明るいクラスメートの顔が思い起こされる。一部を除いてどいつもこいつも楽しそうに人生を送っているな、と羨んだこともあった。今思えばあれはただの僻みだった。

 

「苦悩は人生のスパイスとも言いますからね。時々悩んで、それを糧に人生を楽しめばいいんじゃないですか?」

 

 最後はそんな言葉で締めくくる。なんとなくではあるが、マスターの実感がこもっているように思えた。だがそれは――――

 

「結局、それってなんの解決にもなってなくないですか?」

 

「まあそうですね」

 

 私の言葉をマスターはあっさり認めた。あまりのあっさり具合に拍子抜けしたぐらいだ。半目で睨む私を見たマスターは弁解するように口を開く。

 

「だって悩みなんて大なり小なり誰もが人生の中で味わっていくものですし、生きる上で切り離せないものですよ。だったらせめてポシティブに捉えましょう、という話です」

 

 それが中々難しいんですけどね、と言葉の最後に付け加えた。

 悩みなんて誰もが抱えているものだ、ということを私は忘れていたのかもしれない。私だけが重荷を背負っているわけではなく、多少の差はあれど誰のが苦悩を抱えて生きている。

 そう、それは私のクラスメートだって同じなはずだ。多分。

 ……ごめん、ちょっと想像できない。

 

「じゃあマスターには何か悩みがあるんですか?」

 

「店内を見れば分かるでしょう」

 

 話を転換しようと投げかけた疑問にマスターは即答する。ガラガラである。閑古鳥が鳴いているとはこういう時に使うのか。憮然とした表情のマスターに気を使って言葉には出さなかったが。

 

「あー……売上、大丈夫なんですか?」

 

「……まさか中学生に店の心配をされるとは。一応固定客もいますからなんとか黒字ですよ」

 

 哀れむような私の表情を読み取ったマスターは流石に心外そうだった。何やら大人の自尊心を傷つけられたようだが、多い時でも片手で数えることができる程度の客しか来ない喫茶店に自尊心もなにもないだろう。

 

「宣伝とかしないんですか?コーヒーは美味しいんですから、リピーターは期待できると思いますけど」

 

「うーん、確かにワタシもコーヒーには自信はありますけどね……」

 

 煮え切らない態度である。なにかに迷っているようにも見える。

 

「何か理由でもあるんですか?」

 

「そうですね……空気を壊したくない、からですかね」

 

 ポツリとそうこぼした。

 

「空気?」

 

「ええ。ワタシは喫茶店というものは単にコーヒーや軽食を提供すればいいというわけではないと思っています。空間であったり雰囲気であったり、そういった目には見えないものもサービスとして提供したい、とね。今の雰囲気を壊したくないんですよ。客を呼び込みたくないなんて喫茶店のマスターとしては失格なのかもしれませんけど」

 

 少しばかり、私は驚いた。マスターはマスターなりに自分の考えと信念を持って喫茶店を経営しているらしい。ただその結果がぎりぎり黒字という結果を招いていることがなんともアレだが。だが確かに落ち着いた店だということもこの店の魅力の一つなのかもしれない。騒がしい店内など、この店にはそぐわない。

 

 大仰な言い方になってしまうが、私にとってこの店は数少ない心の安らぐ場所なのだ。自室の次、いやもしかしたら優先順位はこちらの方が上なのかもしれない。それにもしこの喫茶店に客が入ってマスターが忙しくなると――――いや、これ以上はやめておこう。深みに嵌まりそうだ。

 

「お客さんは入って欲しいですけど、必要以上に入って欲しくない。傲慢な考えだとは分かっているのですがね。そういった意味で長谷川さんはとてもありがたいお客さんですよ」

 

 マスターはそう言い、スタッキンググラスを磨く作業に戻る。あまり触れられたくない部分なのだろう。

 そんなマスターの様子を横目で見ながら、私は温くなったコーヒーを口に運ぶ。温くてもコーヒーは変わらず美味しかった。コーヒーを飲み終えるのと日が沈むのはほぼ同時。門限の都合もあるため、30分ほどの滞在だが、店を出ることにする。

 

 鞄の財布から500円硬貨と100円硬貨を一枚ずつ取り出し、マスターに手渡す。計600円の支出は女子中学生の懐事情からすると高価な部類だが、このコーヒーにはそれだけの価値があると思う。

 ありがとうございます、というマスターの言葉を背にドアの取っ手に手を掛けるが、ドアを引く前に思い出す。

 一言、言葉を残しておかないと。

 

「来週も、また来ますね」

 

「――――ええ、またのお越しをお待ちしております」

 

 喫茶店のマスターと客の会話。ただそれだけのワンシーン。

 それでも私にとってそれは、とても心地の良いものだった。

 

 外は既に薄暗く、街灯が点滅を始めた頃だった。ふわりと風が吹き、辺りに植えられた7分咲きの桜の花弁を揺らす。日中は暖かくなってきたが日が沈むとまだ冷える。その証拠に息を吐くと僅かに白く濁る。三月末とはそんな季節の節目だ。

 

 気分は悪くない。寧ろ調子がいい方だろう。明日からまたあの騒がしい面々と付き合う羽目になるのに不思議なものだ。結局は気持ちの持ちようでどうにでもなる、ということだろうか。それでも悩みは未だ晴れず、私の将来はきっと暗雲が立ち込めているのだろう。

 けれども、立ち向かっていこうという気概は湧いた。

 おそらく、というか確実に私の薄っぺらい気概程度ではどうにもならずストレスを溜め込んでしまうだろう、という負の面での自信はある。けれど別にそれでもいいのではないのだろうか。

 私はただの女子中学生で、それに見合った程度のことしかできない。それはしょうがないし、仕方のないことでもある。

 乗り越えられない困難の壁にすぐそこまでに迫っているだろうけど、きっと大丈夫だと今は思える。

 

 私には愚痴を聞いてくれる、お人よしな喫茶店のマスターがついているのだから。

 

 後ろを振り返ると当然だが喫茶店が目に入る。明日から学校が始まり、私は中学3年生になる。そして私は一杯のコーヒーを飲むために、この喫茶店に足を運ぶのだろう。

 

 

 




需要がないと自分でも分かっていますが、書きたかったので書きました。こういう日常とか普段の生活の描写はすごく楽しいですし、筆が進みます。白紙の状態から書き始めて4時間強ほどで仕上がりました。

一言でもいいので感想などよろしくお願いします。また要望等ありましたら是非書いてください。


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2話

一体どこに需要があるんだよ、と筆者ですら思いました。でも書きたかったので後悔はないです。

※前編も大概でしたが、今回は群を抜いて地味です。ネギまssでこれほどまで地味なのは多分この作品ぐらいでしょう。喫茶店で駄弁っているだけなので当たり前といえば当たり前ですが。
※千雨メインの話なのに、後半の千雨の影が薄いです。中編・Ⅱでは活躍?します。
※書き終わって気づいたことですが、喫茶店内の人口比率が眼鏡100%です。
※読了後、何言ってんのコイツ?という感想を持つかもしれません。大丈夫、あなたは正常です。

上記の注意事項に留意した上で本編をご覧ください。



 意外というわけではないが、実はマスターは博識な方で、しゃべっていると結構勉強になったりする。客に話題に提供するということも店内の雰囲気づくりの一環らしい。変なところで几帳面さを発揮するマスターに、ちょっと笑ってしまった覚えがある。マスターの密かな野望は客に『麻帆良の生き字引』と呼ばせることらしい。今のところ誰にも呼ばれていない。

 

 そんなマスターから聞いたことなのだが、週末とは一般的には土曜日を指すらしい。週末と聞くと私はつい日曜日を想像してしまうが、正確には日曜日は週初めだ。週初めはイエスが十字架上の死から復活したとされる曜日で、それを記念するために礼拝日が設けられた。日本も明治時代に西暦を受け入れ、日曜日が休みになったのだという。マスターが若干ドヤ顔でそう語っていた。

 

 礼拝日というのは文字通り、神に祈りを捧げる日のことだ。神に祈りを捧げるという行為がどういうものなのか、信仰心の薄い私には分らない。けれど神に救いを求める気持ちならば、ほんの少しは理解できるかもしれない。

 

 そんな自分の考えに馬鹿馬鹿しいという烙印を押して自己完結。時間潰しにそんなことを考えている間に喫茶店に到着していた。軋みやすい押し戸を傷つけないように丁寧に開けると、客が一人マスターと談笑しているのが見えた。私以外の客はこの時間帯には珍しく、その客に視線を向ける。そして私の体は硬直した。

 

「いらっしゃいませ、長谷川さん」

 

 マスターがそう言うが、私の視線はマスターではなく、マスターと談笑していた客に釘付けだ。間違いであって欲しいと思うが、現実とはかくも非情なものだ。

 入口から右斜め前の場所のカウンター席にどっかりと腰を降ろしている人物を二度見し、私は不覚にも吹き出しそうになった。そこに座っていたのはやはり私の知っている人物だった。その人物は私が店内に足を踏み入れたことに気づいたのか、視線をこちらに向ける。向こうの方も私の姿は予想外だったのか、一瞬だけ驚いたように見えた。正直なところあまり関わりたくないが、こちらから挨拶するのが礼儀だろうと思い声をかける。

 

「こんにちは、高畑先生」

 

「やあ、千雨君。奇遇だね」

 

 デスメガネ、もとい高畑・T・タカミチがそこにいた。

 

 高畑・T・タカミチ。元2年A組の担任教師で担当科目は英語。

 英語の教え方は上手かったし、頼りがいという点で言えば今の子供教師とは比較できないほどの隔たりがある。破天荒極まりない私達のクラスを曲がりなりにも纏めることができた手腕から考えると、教師としての力量はそこそこ以上にはあるのだろう。

 

 こういう風にまとめてみると一見マトモそうに見えるが、一か月ほどの長期出張がしばしば入ったり、たむろっている不良達を笑顔で吹き飛ばしている姿を見ると、ああこの人もやっぱりおかしいんだ、と思わずにはいられない。異常のカテゴリに分類される中では比較的マシだが、それだけだ。

 

 そんな高畑と私が一つ席を挟んだ至近距離にいるのだから人生不思議なものだ。離れた場所に座ればいいじゃないかという指摘がありそうだが、そもそもこの狭い店内だ。離れることができる距離には限度があるし、私が高畑を避けているように見えるかもしれない。だからいっそのこと、いつもの正面の指定席に堂々と座ることにした。開き直ったともいえる。

 

 まあ、クラスメートとは違って高畑はちゃんとした……おそらくちゃんとした大人だから、こちらのことを無理に引っかき回したりはしないだろう。マスターにいつものコーヒーを注文し、できるだけ存在感を消してやり過ごそうとするが、

 

「……あの、高畑先生?」

 

「ん?なんだい、千雨君」

 

 つい声をかけてしまったが、私は悪くない。いやこれはむしろ突っ込み待ちだったんじゃないか、と疑ってしまうレベル。

 大抵の喫茶店はそうであるように、この喫茶店にもサンドイッチやホットサンド、ホットケーキといった基本的な軽食は置いてある。しかし高畑が食べているものは到底軽食と言えるものではない。

 茶碗にはご飯が盛られ、漆器には味噌汁。小鉢にはほうれん草の御浸しが入っており、大皿にはキャベツと鳥の唐揚が乗せられている。定食屋でよく見そうなソレはどう見てもこの喫茶店とはミスマッチだ。

 

「何食べてるんですか?」

 

「唐揚定食だね」

 

 私の目の錯覚であって欲しいという一縷の望みはあっさりとぶち壊された。

 

「いやなんで喫茶店に唐揚定食なんてものが・・・」

 

「いわゆる裏メニューというものです」

 

 そう言ったのは私にお冷を持ってきたマスターだった。ついでに空っぽになりかけていた高畑のコップにもピッチャーの水を追加する。

 

「裏メニューですか?」

 

「ええ、飲食店を経営するにあたって必須のものでしょう?」

 

 必須ではないと思うけれど、少年のように目を輝かせているマスターを否定するのも心苦しく、そうですかねと中途半端な返答をする。もちろん裏メニュー自体はあってもいいと思うが、何故そこで唐揚をチョイスしたのだろうか。時々このマスターという人物が分からなくなる。

 

「え?だって唐揚って大抵の人が好きでしょう?」

 

「それは確かに否定しませんが……」

 

 脂っこいのが苦手という人はいそうだが、唐揚げそのものが苦手というのは聞いたことがなかった。私だって嫌いではないが、だとしても他の選択肢はなかったのだろうか。例えば、オムライスであったりとか、カレーライスであったりとか。旨そうに味噌汁を啜っている高畑の姿を見ると、間違った選択ではないとは思うが。

 

「まあ、他にも理由はあったりしますがそれはさておき」

 

 柏手を一つ。私と唐揚にかぶりついている高畑を交互に見る。新しいオモチャを見つけたような、ちょっと意地の悪い笑顔。私をからかう時の顔と同じものだ。実に嫌な予感がする。

 

「高畑さんは確か教員と言っていましたね。長谷川さんは教え子なんですか?」

 

 高畑は最後の唐揚とご飯を咀嚼し終え、マスターの問いに頷く。

 

「去年までは僕が担任だったんだよ。今は違うけれどね」

 

「そうなんですか。それで、長谷川さんはクラスではどんな様子ですか?」

 

「ちょっ――!」

 

 突然始まった三者面談に狼狽する。私がどちらの口を閉じるべきか逡巡している間に、ノッた高畑が口を開いていた。

 

「そうだね、他の生徒とは一歩離れたところから物事を冷静に見ることができる、落ち着いた生徒かな。それに意外と面倒見も良いね」

 

 やめてくれ、なんなんだこの羞恥プレイは。顔の熱さが尋常ではない。おそらく顔は真っ赤だろう。それはそれは、と満足そうに頷くマスターに、ハハハ、と吞気に笑う高畑。どうやらこの場に私の味方はいないらしい。

 

「そ、そういえば!高畑先生はよくこの店に来るんですか!?」

 

 さらなる追撃をしようとマスターが口を開く前に、無理矢理話題を転換する。誰でもわかるような露骨なものだったが、高畑は私の意志を尊重してくれたのか、話に乗ってくる。

 

「もう2年くらいは通ってるかな。僕は海外出張が多いから中々行けないけどね」

 

 ここのコーヒーは美味しいからねえ、と高畑。

 

「そう言ってくれると嬉しいですね。ワタシにとって『ここのコーヒーは美味しい』以上の褒め言葉はないですよ」

 

 高畑が食事を終えたタイミングを見計らってマスターが私と高畑の前にコーヒーを置く。それ以上の褒め言葉はない、と言うようにマスターのいつもの微笑が通常より深く感じた。幼い子供が浮かべそうな純粋な笑み。それはきっとコーヒーに真摯に取り組んでいる証拠だ。

 

「いや、僕も結構コーヒーショップには詳しいんだけどね。ここ以上の店は知らないよ」

 

「コーヒーショップ?」

 

 聞きなれない高畑の言葉に私はつい聞き返す。

 

「え?ここって喫茶店じゃないんですか?」

 

「いや、喫茶店ですよ。ただ喫茶店にも種類があるんです」

 

 マスターの解説によると、コーヒーを主力商品として提供する場合はコーヒーショップ、紅茶を主力商品とする場合にはティーハウス、などと使い分けるのだという。この喫茶店には紅茶も置いてあるが、コーヒーのレパートリーが豊富で分類としてはコーヒーショップに当たる。成程、一つ勉強になった。

 

「へえ、千雨君とマスターは仲がいいんだね」

 

 マスターの解説にこくこくと頷く私を見ていた高畑がそう言う。コーヒーを啜りながら言うその姿は映画に出てくるようなハードボイルドな俳優のようで様になっている。神楽坂が見たら鼻血でも噴き出しそうだ。

 

「千雨君もよくこの店には通っているのかい?」

 

「通い始めて半年くらいですね。週に1回のペースで通っています。……その、マスターには愚痴ってばっかりで迷惑かけてるかもしれませんが」

 

「迷惑なんて思ったことはないですし、むしろ頼られて嬉しいですよ。それに高畑さんだってワタシの店に来る時は大抵愚痴っていきますからね」

 

 マスターからそんな意外な言葉を聞いた。今日もそのつもりで来たのでしょう?とマスターが問うと、高畑はバツの悪そうな顔をコーヒーカップを傾けることで隠した。

 

「……そうなんですか?」

 

「うっ……。いや、まあ、そんなことも……あったりするのかな」

 

 高畑は逃げ道を探すような挙動不審な態度を見せるも、観念したのか最後には認める。誤魔化すように笑う高畑の表情は不良共に怖れられているデスメガネとはほど遠い。取引で失敗して凹んでいるサラリーマンのような、そんな一般人の表情。

 

「ほら僕だって人間だからね。ストレスだって溜まるんだよ。特に思春期の女子生徒と関わるわけだから色々と気を遣うしね」

 

 特に私が詰問するわけでもないのに、高畑は言い訳染みた言葉を重ねる。先ほどまでのハードボイルドさと落差が激しい。今の印象は不倫がバレた時の言い訳をする夫、という感じだ。

 

「まあいいではありませんか。完全無欠な人間などいませんよ。誰もが苦悩を抱えて生きている、そうでしょう?」

 

 そう私に同意を求めてくるマスター。先週同じような話を聞いた身としては頷かざるを得ない。ただ本当に高畑が悩みを抱えていることが意外だった。

 

「高畑先生、私が居て困るようでしたら出ますけど?」

 

 なにせ三十路男の悩みだ。女子中学生にはあまり聞いて欲しくないだろう。気を利かせたつもりの私の言葉を高畑は首を振って否定する。

 

「生徒にそこまで気を遣わせるわけにはいかないよ。それに、千雨君にも聞きたいことがあるしね」

 

 深くため息を吐き、高畑は語り始める。

 

「マスター、千雨君。君達は自分の人生が正しいものだと思えるかい?」

 

 それは思いのほか、ヘビーな内容の悩みだった。

 

「それは自分の人生が正しいものなのか不安、ということですか?」

 

 マスターの言葉に高畑は頷く。

 

「僕はもうそれなりの歳だ。今の生き方のレールを外れることはできない。好き勝手に振舞うことなんてできない。組織の歯車として生きることしかできないんだ。責任や立場や派閥、そういったものに雁字搦めになってしまってね。それに気づいた時、ふと思ったんだ。僕の人生はこれでよかったのかなって」

 

 ここではない、どこか遠くを見るような高畑の目。私はどう反応していいか分からなかったし、軽々しく発言をしていいものでもないのだろう。大柄な高畑の背中がいつもより小さく見えた。

 

「自分の人生に後悔があると?」

 

「それは当り前だよ、悔いだらけだ。けど人生にやり直しなんてきかない。自分が取捨した選択肢の結果を最善だと信じてどうにかやっていくことしかできない。だからきっと僕のこの悩みなんて意味のないことなんだろうね。だって、もう選んでしまったんだから」

 

 もうどうにもならないことなのだと、高畑自身気づいているのだろう。声は弱弱しく、今にも消えてしまいそうだった。私は義務教育中の女子中学生で、きっと私には高畑の苦悩の10分の1も理解できていない。けれど語る高畑の姿からその重さを推測することはできる。

 

「結局、そんなどうにもならない悩みを誰かに聞いて欲しかっただけだ。2人には詰まらない話を聞かせてしまったね」

 

 高畑の話をつまらないとは思わなかった。教師というフィルターを通してではなく、高畑・T・タカミチという人間に直に触れることができた気がする。一気に喋って熱くなった喉を冷ますためか、高畑はコップの水を一気に飲み干した。

 

「千雨君」

 

 高畑は空のコップを手の中で弄びながら私に声をかける。

 

「今の僕の話を聞いて、君はどう思う?」

 

 言葉に詰まる。少しばかり私には想像しがたい話だ。マスターの方を見ると、マスターは神妙な顔で軽く頷いた。好きに喋った方がいい、という意思表示に私は感じた。

 

「……正直、よくわかりません。私はまだ中学生ですし、イメージしにくいです」

 

 傍から見れば逃げの一手にしか見えないだろうが、これが私の偽りざる気持ちなのだからしょうがない。ただ、高畑の方はそんな私の答えにむしろ満足したようだった。

 

「それでいいと思うよ。君はまだ中学生なんだから、僕の話は実感できないと思う。でも近い将来、君は人生の大きな選択を迫られるかもしれない。その時にどうか僕の話を思い出してほしい」

 

 予言めいた言葉。それはどこか確信に満ちていて、同時にどうか外れていてほしいという懇願の念が籠っているようにも感じた。

 

「マスターも済まなかったね、つい熱くなってしまった」

 

「いえ、構いませんよ。ワタシも若輩者とはいえ社会人ですから、多少なりとも高畑さんの気持ちは理解できます」

 

 いつのまにか自分の分のコーヒーカップを用意したマスターはポットからコーヒーを注ぎ、「これはサービスです」と言いながらに既に空になった私と高畑のカップにもそれを注ぐ。私が普段飲んでいる水出しコーヒーとは違い、香りが強い。一口飲むと酸味の後味と、ほのかにシナモンのような香りが口の中に残った。ハイ・マウンテンという種類の豆を使ったのだとマスターは言った。

 

「ワタシはね、子供の頃は魔法使いになりたかったんですよ」

 

 会話の途絶えた店内で、湯気の立つコーヒーの水面を見ながらマスターは脈絡もなくそうこぼした。メルヘンチック極まりないカミングアウト。昔を懐かしむようにマスターは透明な笑みを浮かべる。高畑は魔法使いという単語に何故か反応を見せた。

 

「魔法使い、か。それはまた、なんでだい?」

 

 そう聞く高畑。かくいう私も興味がある。今思えばマスターのそういった話はあまり聞いたことがなかった。

 

「単純に憧れですよ。高畑さんだって子供の頃、思ったりしませんでしたか?魔法使いや英雄、そんなものになりたいと思いませんでしたか?」

 

「……ああ、思ったね。僕もそうなりたいと思っていた頃があった」

 

 高畑の声には実感が籠っているように感じた。それは私の気のせいなのかもしれないけれど。

 

「でも、魔法なんてものはなかったんですね。少なくとも、私の周りには。だからワタシは魔法使いにはなれませんでした」

 

 未だマスターがどんなことを言いたいか分からないけれど、マスターの言葉にはつい耳を傾けてしまうような、そんな不思議な魅力があった。それはもしかしたらカリスマというべきものかもしれない。

 

「結局ワタシは魔法使いになることを諦めて、他の色々なことを諦めて喫茶店を開きました。高畑先生、ワタシの選択は間違っていると思いますか?」

 

 マスターの言葉に高畑は否、と首を横に振る。

 

「マスターのコーヒーは素晴らしいからね。ここのコーヒーがないなんて僕は耐えられないよ」

 

 おどけるようにそう言う高畑の意見に私も追随するように頷く。この喫茶店が潰れてしまうことになったら冗談抜きで私は発狂してしまうかもしれない。そんな私達を見てマスターは嬉しそうに微笑んだ。

 

「ええ、ワタシ自身もここで喫茶店を開いて良かったと思いますよ。高畑さんや長谷川さんに出会うこともできましたからね。だから私の生き方は間違いではない、と今では思います」

 

 今では、ということはかつては迷いがあったのだろうか。いや、きっとあったのだろう。

 

「高畑さんと言う通り、一度選んでしまったらもうやり直すことなんてできません。でも人生なんて選択の連続ですよね。今日の朝食は和食にするか洋食にするとか、そんなものから仕事や結婚だってそうです。ゲームみたいにセーブポイントがあるわけでもありませんし、時間は有限です。ワタシ達は常に選択を迫られています」

 

 4分の1ほどに体積を減らしたコーヒーを揺らしながらマスターは語る。私と高畑は静かにマスターの話を聞いていた。

 

「選択肢はたくさんありますけど、きっとベストやベター、正しいや間違った選択肢なんてものは始めから存在していないと、ワタシはそう思うんです」

 

 例えベストだと思えるような選択肢をすべてにおいて選ぶことができたとしても、それが最善のエンディングを迎えるとは断言できないとマスターは言った。理想は際限なく高く、それに反比例して現実は常に低空飛行だ。理想とは手が届かない夢だからこそ理想なのだ、とどこかで読んだ名言が脳裏をかすめた。

 

「選んだ時の選択肢に差はありません。差があるように見えたとしても、それはほんの些細なものでしょう。選んだ後に、その選択肢をベストなものにしていくのだとワタシは思います」

 

 選んだ時にその選択肢はベストなものであると言うことはできなくても、その選択肢はベストだったと言えるようになることはできるのだと、マスターはそう言った。そんなマスターの姿に、厳かな雰囲気の中で聖書を朗読するような聖職者を幻視した。

 

「すみませんね、人生の先輩にこんな失礼なことを言ってしまって」

 

「いいや、タメになったよ。最善の選択肢を選ぶのではなく、選んだ、選ばされた選択肢を最善に持っていく、か。僕もまだまだだね。年下のマスターに教えられるなんて」

 

 高畑はそう言って朗らかに笑った。何の気負いもない少年のような笑顔だった。根本的な部分で悩みが解決されたわけではないだろうけど、慰め程度にはなったのか。

 

「もしかしてマスターって教師に向いてるんじゃないですか?」

 

 何の気なしの私の発言だったが、高畑も同意見のようだった。

 

「ははは、本当だよ。僕なんかよりもずっと教師らしい。マスターはまだ若いんだし、今から教員免許でも取ってみたらどうかな?」

 

 平日は教師で休日は喫茶店のマスターなんて生活はどうだい?という高畑の言葉は冗談のようで、半分以上は本気のように聞こえた。実際のところ、マスターは教育者として大成できるのではないかと思う。家庭科の授業でコーヒーの淹れ方を教えているマスターの姿が簡単に想像できた。もちろんエプロンは何時もの猫のアップリケ付き。

 前向きに検討したいと思います、とマスターが言葉を返す。政治家のような物言いに私と高畑は笑みをこぼした。

 

 その後にあったのはなんてことのない、数日後にはどんな内容だったか思い出すのが難しくなるようなただの雑談だ。昨日の野球はどうだったとか、麻帆良はやっぱりおかしいとか、今度ちょっといい豆が手に入りそうだとか、そんなとりとめのない内容。ただの日常の一コマ。それでも今の私にとっては大きな意味を持つものだ。

 

「――――さてと、僕はそろそろ帰るよ。千雨君も暗くならないうちに帰るんだよ?」

 

 一段落したところで高畑が立ち上がり、革製の財布をバックポケットから取り出す。財布の中から出てきたのは万札だ。高畑はそれをテーブルに置いて、お釣りも貰わずにそのまま外に出ようとする。そんな高畑をマスターは慌てて引き止めた。

 

「高畑さん、お釣りがまだですよ」

 

「お釣りはいいよ。今日はそれだけの価値があった」

 

「いやしかしですね……」

 

「年長者のプライドだよ。そう思って取っておいてくれないかい?」

 

 その後も言葉を交わすが水掛け論に終わる。結局はマスターが折れて渋々と万札を受け取ることになった。

 

「そうだね、じゃあ最後に一つ僕の質問に答えてくれないかな。それがお釣り分の料金だ」

 

 不服そうな表情のマスターの顔を見て、高畑は苦笑しながらそんなことを言った。

 

「質問、ですか。分かりました。なんでもお答えします」

 

「そんな気負わなくてもいいよ。簡単な質問だから。――――マスター、君は子供の頃に魔法使いになりたかったといったね。ありえない仮定だけど、もし時間を遡ることができて魔法使いになることができるという選択肢があったら、君はその選択肢を選ぶかい?」

 

 それは少なくとも私には意味がある問いかけには見えなかった。仮定尽くしで構成されたありえない質問。

 

「どうでしょうね。純粋な子供時代でしたら選んでいたかもしれませんね。けど今でしたらワタシは選ばないと思いますよ。喫茶店のマスターが、ワタシの天職だと今は信じることができていますからね」

 

 天職だと信じている、ではなく、天職だと今は信じることができている。ちょっとしたニュアンスの違いだが、そこには大きな隔たりがあるのだろうと理解できた。

 数多の選択肢から選択し、奇跡のような軌跡を辿り、マスターは美味しいコーヒーを入れるに至った。けれど、十全に人生を送ってきたわけではないだろう。もしかしたら始めは、喫茶店を開くこともあまり乗り気ではなかったのかもしれない。けれど今はこの道を選んで良かったのだ、と。きっとマスターは自信を持って言うことができる。

 

「高畑さんはどうですか?魔法使いになりたいと思いますか?」

 

 マスターは高畑に質問を返す。高畑は意表を突かれたようだったが、それでも迷うことなく力強い声で答えた。昔を思い出すような、そんな柔らかな表情を添えて。

 

「ああ。僕もね、実は英雄に憧れていた時期があった。もしかしたら今でもそんな子供じみた夢を追っているのかもしれない。きっと僕は魔法の呪文すら唱えられないような落ちこぼれなんだろうけど、落ちこぼれなりに努力してなんとかやっているんだろうね。そして結局教職の道も捨てきれないで二足の草鞋を履いて、オーバーワークに喘いで、自分の行いに苦悩する。きっと僕はそんな道を行っていると思う」

 

 それはやけに具体的な回答だった。けれど高畑の顔に冗談の色はなく、実際にその選択を突き付けられたら、迷わずその道を選ぶのだろう。そんな意味のない確信が私にはあった。

 

「なんというか、それはまた茨の道ですね。そんな人生を選んで本当に良かったのですか?」

 

 苦労に溢れていそうなハードモードな高畑の人生に、マスターの顔が若干引き攣る。そんなマスターの問いに高畑は迷うことなく頷いた。

 

「たくさん後悔していると思う。これで本当によかったんだろうかってね。けどその後悔から頑張っていけばいいのさ。過去は覆らないけど、未来をより良くすることはできる。そして過去は変えることはできないけれど、そんな過去を懐かしんで笑えるようにすることはできる。君がそう教えてくれたからね」

 

 そこが会話の終着点。

 ごちそうさま、また来るよ。ありがとうございます、またお越しくださいませ。店を出るときに交わすそんな形式ばった挨拶も私にはどこか親しみに満ちているように見えた。

 

 そうして高畑は出て行った。最後に、千雨君をよろしく頼むよ、という意味深な言葉を残して。

私はその言葉の意味を推測して少しばかり顔が赤くなってしまった。そんな私は顔を少し俯かせてコーヒーの追加注文をする。

 

 苦味の強いマンデリンが、私の顔を誤魔化してくれると信じて。

 

 




他の二次創作では大体オリ主の噛ませ役程度にしか扱われないタカミチを登場させました。理由はこないだコンビニで会ったオッサンがタカミチそっくりだったから。本当は5000字以下だったのですが、タカミチ登場によって軽く10000字を超えたので、2つにわけました。一話完結の予定のはずがどんどん文章量が増えていきます。

時系列として4月初頭。桜通りの吸血鬼事件が起こる直前です。
筆者の頭の中ではタカミチは原作の中の魔法関係者の中では最もまともなキャラだと考えています。アニメでは木久蔵ラーメンもどきを啜ってる変人キャラでしたけどね。

彼は戦争というものを直に体験した経歴もあります。だから本当はネギと3―Aと関わらせたくないと思っていたんじゃないでしょうか。ガトウとの約束を破ってしまうことにもなりますし。
勿論英雄の息子としてネギを認めていたけれど、教育者として考えるとそれはちょっと・・・という感じ。

しかし麻帆良学園という組織に身を置いている以上、彼にも立場というものがあり、そのことと自分の考えが板挟みになってしまい、精神的に参ってしまうことがあったと思います。まだ10歳のネギと生徒に重荷を背負わせてしまうことに罪悪感もあったと思います。きっと自分に対しもどかしい気持ちもあったのでしょう。そうした考えが募り、こんな道で良かったんだろうか、と自問した結果が本編のタカミチです。全部筆者の妄想の産物なんですけどね。

感想、ご意見お持ちしております。


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3話

コーヒーを淹れた→8字
今回の話でコーヒーを淹れるために使った文字数→1710字
あ、あれ・・・・?

※完全に趣味に走ってます、今更な気もしますが
※新しい登場人物がいますが、また眼鏡です。ここまで全員見事に眼鏡
※思春期にありそうな、口にだすのがちょっと恥ずかしい友情を書こうとしましたが、筆者が恥ずかしくなっただけでした。

以上の注意事項に留意し、本編をご覧ください。


 ピピピ、という無機質な機械音に頭を揺さぶられ、私の意識が急浮上する。その音源は安っぽい作りの目覚まし時計だ。目を擦りながら手探りで目覚まし時計を探り当て、叩き付けるように音を止めた。眠気を振り払うようにベッドの上で背伸びする。吸い込んだ息には、昨日飲んだマンデリンの苦味が残っているように感じた。

 

夜遅くまでネットサーフィンをやっていることが多いためか、元々私は朝に強い方ではなかった。ただ喫茶店に通うようになってから、私は喫茶店に行った日にはパソコンに触らないという不文律を打ち立てていたから、今日の目覚めはいつもと比べて爽快だ。

 

そんなことをする明確な理由というのは自分でもわからないけれど、きっと喫茶店の余韻を楽しみたいのだと推測している。パソコンをいじっている時間も楽しいけれど、機械相手というのはあの喫茶店と正反対の冷徹さを感じてしまうのだ。ネットの中でしか居場所がないはずなのに、そんな風に少しずつ変わる自分が嫌いではなかった。

 

いつも掛けている伊達メガネを手に取り、ベッドから起き上がる。まず行ったことはカーテンを全開にして朝の光を部屋の中に取り入れることだ。眩しさに目を細めそのまま30秒ほど日光浴。そこで完全に意識が覚醒した。

 

次に部屋に取り付けられているキッチンへ向かう。手に取ったのは銅のポットだ。時代を逆行するかのような古めかしいデザインのそれは私の愛用品だ、宝物と言ってもいいかもしれない。コーヒーやお茶は銅のポットで淹れることで味がよくなるらしい。一応これには理由があって銅には銅イオン効果があり、超微量の銅が水中でイオン化。 塩素を分解して水をまろやかにしてくれる、とのこと。

 

理屈というのは確かに大事だ。物事には理屈や根拠が必要だと思うし、私もそれを第一に考えている。だからこそ麻帆良をおかしいと思っているわけだし。

 

けれど、きっとこれにはそんな細かい理由なんて必要ない。古めかしい銅のポットのデザインがコーヒーを美味しくしてくれる、それで十分だと思う。マスターが使っているものと同じデザインだから、これを買った背景にはそんな下心も少しあったけれど。

 

使う水は水道水ではなく、スーパーで買ってきた軟水ミネラルウォーター。日本の水道水は世界的に見ても質が高いから水道水を使っても十分美味しいものが作れるが、それでも塩素の放つカルキ臭さはどうしても残ってしまうし、朝一の水道水は前日からたまっているものだからあまり使いたくない。

 

同室の葉加瀬には拘りすぎだ、と呆れられてしまったけれど、私の淹れるコーヒーなんてマスターの足元にも及んでいない。勿論使っている豆の品質にも差があるが、もっと根本的な技量の問題に大きな差がある。単なる経験の違いならば経験を積むことで追いつける余地はあるが、絶対に真似できないと確信できるものがある。それはコーヒーを淹れるマスターの動きだ。

 

フレアバーテンディングのような魅せる派手なパフォーマンスではないけれど、ゆったりとしているようで流れるような動きでコーヒーを淹れるマスター。その姿を頭の中でイメージしてトレースしても、序盤で既に追いつけなくなってしまう。

 

スタンドミラーを使って見てみたが、私のコーヒーを淹れる動きなどマスターに比べると性能の悪いポンコツロボット以下だ。きっと、あの流れるような動きを客が見ることでコーヒーも美味しく感じるようになるのではないか、と私は踏んでいる。

 

水に火をかけ沸騰するまでには少し時間の猶予がある。その時間を使ってドリッパーとペーパーフィルターを用意する。ペーパーフィルターは喫茶店で使われている余りを譲ってもらったもので、ドリッパーはuniflameコーヒーバネット。

 

ドリッパーだけで味が変わるのかと思うかもしれないが、別の水を使っているんじゃないかと思ってしまうほど口当たりがなめらかになるのだ。ペーパーフィルターをドリッパーにセット。コーヒー粉も入れ、サーバーに装着。

 

それとほぼ同時にお湯が沸く。それをいきなり注ぐのではなく、火を止めて暫し観察する。美味しいコーヒーを作るにあたって沸騰したお湯をそのまま使ってはならないというのは鉄則だ。お湯の理想の温度は95℃前後。表面のボコボコとした泡が鎮まったときが抽出に理想的な温度だ。

 

次に美味しいコーヒーを淹れるために最も重要な工程、蒸らしに入る。

初めにコーヒー粉に少量のお湯をそっと乗せるように注ぎ、粉全体に均一にお湯を含ませてから、20秒ほどそのままにして蒸らす。こうすることでお湯の通り道ができ、コーヒー粉とお湯が馴染みやすくなる。

 

蒸らしに入れるお湯の量は今日使うコーヒー粉から考えると20ccほどがベスト。この工程でお湯を多く注いでしまうと蒸らしが不完全になってしまう。銅ポットの注ぎ口は細口で調整がしやすいので大助かりだ。数ccレベルの調整など量販店に売っているヤカン如きには到底不可能な領域だ。

 

蒸らしが終わり、最後にお湯を抽出していく。小さな螺旋を描くようにゆっくりとお湯を注ぐ。丁度の量を見極めないと味のバランスが崩れてしまうのでここでも繊細な注意を払う。コーヒーを一杯いれるのは見た目以上に神経を使う作業だと、実際に自分で淹れるようになってから気づいた。

 

雨の雫が滴り落ちるようにコーヒーが出来上がっていく。サーバーからドリッパーを外すと閉じ込められていた香りが一斉に外に飛び出してくる。その香りを嗅いで今日の出来は中々だ、と自画自賛。

 

「うぅん・・。おはようございます・・・」

 

 コーヒーの香りに釣られたのか、同室の葉加瀬がふらふらとした足取りで、眼鏡をかけたまま目を擦るという器用な真似をしながらキッチンに現れた。ブラウスに下着一枚という危険極まりない出で立ちだ。女子寮だからといって緩みすぎではないだろうか。普段大学の研究室で寝泊まりすることが多いらしいので同室としてちょっと心配になる。

 

「おはよう、葉加瀬。コーヒー出来てるけど飲むか?」

 

「ふぁい」

 

 欠伸か肯定なのか分からない返事をする葉加瀬。昨夜もロボット工学に情熱を傾けすぎて徹夜でもしたのか、足取りどころか首まで振り子のようにかっくんかっくんと揺れている。その姿からは葉加瀬が超に次ぐ麻帆良学園のブレインとは到底思えない。

 

「・・・しょうがねーな」

 

 溜息を吐きながら、私は葉加瀬の手を引き、ダイニングテーブルの席に座らせる。あのまま転んだりしたら怪我でもしかねないからだ。うにゃー、と猫のような唸り声をあげて葉加瀬は机に突っ伏す。そのまま二度寝しかねない様子の葉加瀬だったが、私がコーヒーを持ってくると顔をあげマグカップを受け取った。そのままこくこくと半分ほど飲むとようやく覚醒したらしく、目つきがはっきりしてきた。

 

「今日の出来はどうだ?」

 

「・・・美味しいですね」

 

 ほう、と息をつき葉加瀬がそう言う。葉加瀬も眠気を抑えるためによくコーヒーを飲むらしく、コーヒーの良し悪しを多少は理解できるのだという。

 

「また腕が上がったんじゃないですか?」

 

 喫茶店に通うようになってから週に何回かコーヒーを淹れるようになった私だが、自分一人では独りよがりになってしまうので、葉加瀬がいる時にはこうやって飲んでもらい感想を聞いている。今回のは中々好感触。

 

「そうか?」

 

 私も席についてコーヒーを飲んでみる。口に含み、喉を通過していく。むぅ、と私は唸った。それは感嘆の唸り声ではなく、微妙という意味でだ。確かにそこらの缶コーヒー程度に負けるほどの味ではないという自信はあるが、まだまだ改善の余地はある。少なくともマスターの淹れるコーヒーとは雲泥の差がある。あれに比べると私の淹れたコーヒーなどまさに泥水だろう。

 

「・・・55点ってとこだな。深い苦味より浅い渋みが勝っちまってる。多分蒸らしの時間が足りてなかったのと、抽出のお湯が少なかったのが原因だろうな。それに酸味も強すぎる気がする。甘さも足りてない」

 

 香りが結構良かったのでいい出来かと思い蓋を開けたらこれだ。及第点もあげられない。そんな私の厳しい評価に葉加瀬は、私は美味しいと思うんですけどねー、と言ってくれる。その評価は嬉しいけれど私が思い描く味には程遠い。

 

「やっぱ粉じゃなくて焙煎から始めるべきかもな」

 

 少々値は張るが、コーヒーミルの購入を検討するべきかもしれない。

 

「いやでも、素人の焙煎なんて逆に不味くなるか?ホームロースターも買う必要があるし・・・」

 

「ほ、本格的ですね」

 

 思い悩む私を見た葉加瀬はちょっと引いたようだった。

 

「私としては美味しいコーヒーにあやかることができますから止める理由はないですけど、なんでそんなコーヒーに拘るんですか?」

 

「ん、喫茶店で凄く美味いコーヒー飲んでな。その味に追いついてみたいって思ったんだよ」

 

 私の答えに納得いったようで、成程と葉加瀬が頷き、

 

「じゃあ、長谷川さんの雰囲気が柔らかくなったのもその喫茶店の影響かもしれないですね」

 

 そんな聞き捨てならないことを言った。

 

「はぁ?私の雰囲気が柔らかくなったって?別にそんなことないだろ」

 

「そうですか?1年くらい前の長谷川さんでしたら寝ぼけてる私を心配して席に座らせてくれるなんてしなかったと思いますよ」

 

「いやそれぐらい・・・しなかったかもな」

 

 失敬な葉加瀬の物言いを否定することはできなかった。以前の私なら極力人との接触を避けていただろうし。悲しいことに葉加瀬の言葉に納得してしまっている自分がいる。その喫茶店でなにかあったんですか?と葉加瀬が聞いてきた。

 

「・・・その喫茶店のマスターと話すようになったぐらいだよ。ちょっとした心境の変化だ、たいしたことじゃない」

 

 コーヒーを飲むふりをしてマグカップを顔を隠すように傾ける。それが昨日高畑がやっていた動作とまったく同じであることをやってから気づいた。

 

「へぇ・・・。長谷川さん、ちょっと聞きたいんですけど」

 

「なんだよ?」

 

 葉加瀬のメガネがキラーンと光ったような気がした。日光の反射でそう見えただけなんだろうけど。

 

「その喫茶店のマスターさんって男の人ですか?」

 

「まぁ、そうだけど」

 

 この時点で葉加瀬の言いたいことが予想できた。

 

「もしかして、その人のこと好きなんですか?」

 

「・・・どうなんだろうな」

 

 コーヒーの水面に視線を落とし、私は静かに言った。そんな私に対して葉加瀬は驚いたようだった。意表を突かれた、というか狙った反応が得られなかったからだろう。

 

「あ、あれ?そこは『はぁ!?べ、別にあんな奴好きじゃねーから!』と言うべきではありませんか?長谷川さんのキャラ的に考えて」

 

「私はツンデレかよ。そんなこと言う奴、リアルにいるわけ・・・神楽坂ぐらいだろ、言うのは」

 

 発言途中に神楽坂ならいかにも言いそうな台詞であったことに気付く。後、特に理由はないがマクダウェルあたりも言いそうな気がする。

 

「でも否定しないのは意外でしたよ。てっきり顔を赤らめて否定するものとばかり」

 

 意外なのは私も同じだ。科学に魂を売ったとまで言われている葉加瀬が他人の色恋沙汰に興味を示すなんて。こいつにも年相応な部分があったのか。

 

「そこのマスターと話して落ち着くってのは本当だ。でもそれが恋愛感情かどうかなんて分かんねぇよ」

 

 自嘲するように私は言う。

 

「ほら、私って友達いないだろ?そういうのもあるしさ」

 

 一歩間違えば引きこもりの道まっしぐらの私に親しい友人なんていない。親しくしているのはマスターくらいだから、親しみの感情を恋愛感情と間違えてしまう可能性は無きにも非ずだ。尊敬や敬愛、そういった気持ちを抱いていることは確実だけれど。

 

一つの壁が私の前に立ち塞がっている。それは今の私でも十分乗り越えられる高さだ。けれど、壁の向こうになにがあるのかは分からない。だから進むのが怖くて、きっと私の足は竦んでいる。そんな妄想が頭に浮かんだ。

 

「え、なに言ってるんですか?」

 

 そんなことを考えていた私に向かって、きょとんとした顔で葉加瀬は言った。

 

「私達、友達じゃないですか。相談してくださいよー」

 

 そんなことを、何の気なしに。麻帆良のマッドサイエンティストと名高き葉加瀬聡美。けれど同時に彼女は中学生でもあって。間延びした声でそんなことを言ってのほほんと笑う葉加瀬の顔は、どこにでもいる少女の顔だった。

 

葉加瀬の何気ない一言に私がそれだけ嬉しいと思ったかなんて、どれだけ価値があったかなんて、葉加瀬はきっと分かっていない。だから私は、そっか、と重さを感じさせない軽い声で答える。

 

「あれ?長谷川さん、どうしたんですか?いきなり上向いたりして」

 

「なんでもねーよ。ちょっとコーヒーが目に染みただけだ」

 

 どんな言い訳だと自分でも突っ込むけれど、葉加瀬はなにも言わなかった。

 

「・・・なぁ葉加瀬」

 

「なんですか?」

 

「・・・ありがと」

 

「どういたしまして」

 

 そんな会話を葉加瀬と向き合って、朝のダイニングテーブルでする。今の雰囲気は少しばかり喫茶店の空気と似ている、そんな風に思った。弛緩した空気の中、そういえば、と葉加瀬が思い出したように言う。

 

「今日のコーヒーはいつもと淹れている種類と違いましたよね?なんていう名前なんですか?」

 

「ああ、今日淹れたコーヒーは――――」

 

 今でこそ水出しコーヒーにハマっている私だが、実は初めてあの喫茶店で飲んだのは水出しコーヒーではなかった。あの喫茶店の記念すべき一杯目は今日淹れてみたコーヒーと同じ種類のものだ。私が初めて飲んだその味を、きっと私は一生忘れない。それは文字通り、私の世界を変えてくれたのだから。

 

たかがコーヒーなんて馬鹿にする人がいるかもしれないけれど、本当に切っ掛けなんてものは些細なものだと思う。きっと人間の本質なんて単純なものだ。

 

半年が経過した今でもすべてを思い出せる。そのコーヒーの味だけではなく、喫茶店の景色、聞いた言葉、匂いや色さえも。例えて言うなら、それはまるで頭の中であの日の分だけフィルムを焼いたかのようだった。鮮明に、鮮烈に、克明に、はっきりと。

 

芳醇な香りと柔らかな酸味、深くまろやかなコクが特徴のコーヒー。口に入れると優しい苦味が広がり、後味にはまるでミルクチョコレートのような甘さが広がる。奥に感じる柑橘系を感じさせる良質な酸は、さらにコクと甘味を引き立てる、そんな味わいだった。

「――――エメラルドマウンテンっていうんだ」

 

 ブラックでも感じる甘さは、まるで私に足りていないものを補ってくれるような、そんな優しい味わいだった。それはちょうど、今のように。

 

 そんな風に話しをしているうちに結構な時間が経過していた。コーヒーは染みになりやすいので一度水で濯いでそのまま放置する。寝間着から制服に着替え支度をし終えると、走ってギリギリ間に合うか、という時間になっていた。新田の巌のような厳しい顔を思い出してゲンナリする。

 

「ほら、急がないと遅れちゃいますよ!」

 

 既に遅れた気分でいる私が玄関に向かうと、既に支度を終えた葉加瀬が律儀にも待っていた。

 

「・・・いや、先に行ってろよ。セグウェイで行けば十分間に合うだろ?」

 

 私がそう突っ込むと葉加瀬は思い当たったかのような表情を浮かべた。セグウェイの存在を忘れていたらしい。葉加瀬らしからぬ凡ミスだ。

 

「きょ、今日は気分じゃないんですよ!」

 

 葉加瀬らしくない、非論理的な反論だ。こんな葉加瀬もまた珍しい。

 

「ほら急いで!走りますよ千雨さん!」

 

 誤魔化すようにそう言い、私を手を引っ張り、葉加瀬は自然に私の名前を呼んだ。神楽坂や一部の生徒も私のことを名前を呼ぶけれど、それとは重さが違う。初めから距離が近かったのと、距離が近くなったという隔絶とした違い。

 

「ああ、分かったよ。聡美」

 

 私は観念するようにそう言って、眩しい朝日の中へ飛び出していく。友人から伸ばされた手を、離さないようにしっかりと握りしめて。

 

 




前回の唐揚定食云々の伏線を回収しようと思いましたが、例によって今回も暴走しました。この話の内容は元々は1000字程度だったんですが。唐揚定食は多分次の話ですると思います。

今回は葉加瀬聡美を登場させました。アニメ版では同室だったようなので。
原作では出番は少なかったので割と自由にしゃべらせることができました。

本編でのコーヒーの淹れ方はUCC公式ホームページを参考にしています。さすがに銅のポットとかに拘るのはやりすぎかもしれませんが、蒸らしは意識すればすぐにできることですので、自分でコーヒーを淹れる際には是非心がけてみてください。



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4話

少し遅れました。

※今回はどちらかと言えばマスターがメインになっています。
※どんな人にも悩み、挫折、始まりがあるんだ的な話を書きたかったんですが、仕上がりは自分のイメージとちょっとかけ離れたものになってしまいました。
※今更ですがベタな展開です。

以上の注意事項に留意し本編をご覧ください




 私がいつものように喫茶店の扉を開けるとコーヒーとは違う、なにやら油っぽい匂いを鼻が感じ取った。油っぽいといってもそれは決して不快なものなどではなく、食欲をそそる香ばしい匂いだ。

 

入口から確認できるキッチンを見ると、マスターが何故か菜箸を持っていた。コンロにかけられているのは大きなサイズの中華鍋。高火力に設定されているのか中華鍋の入れてあるであろう、油の弾ける音が耳に届く。コンロを高火力に設定している影響か、店内の温度がいつもより高いように感じた。

 

「おは・・・いらっしゃいませ、長谷川さん。今日はいつもより早いですね」

 

 私の姿を見たマスターは中華鍋の前に立ったまま挨拶。おはようございます、を言い繕って焦ったせいか、若干イントネーションがおかしなことになっていた。ただ以前よりはリカバリーが上手になっている。

 

「どうもです、マスター。何を作っているんですか?」

 

 いつもの指定席に座り、真剣な表情で中華鍋を見ているマスターに話しかける。

 

「ああ、これはですね」

 

 そこでマスターは言葉を切り、菜箸を素早く中華鍋に突っ込んでいく。慣れた手付きで中華鍋から中のものを引っ張り上げる。その正体は先週高畑が食べていたのと同じ唐揚だった。中華鍋の中の唐揚を全てキッチンペーパーを敷いた皿に乗せると、マスターはその皿を手に持ちキッチンから出てきた。

 

「見ての通り、唐揚を作っていたんですよ」

 

 個数は計6個。見事な狐色に揚がった唐揚は確かに美味しそうではあるのだが、客が一人もいないのに何故そんなものを作るのか。色々と言いたいことはあったが、私にできたのは、そうですか、と言うことだけだった。

 

「注文はいつもの水出しコーヒーでいいですか?」

 

「はい。あ、でも今日はアイスでお願いします」

 

「あー、揚げ物してましたからね」

 

 マスターは作ったばかりの唐揚をテーブルの上にそのまま放置し、再びキッチンへ向かう。大型の冷蔵庫から取り出したのは冷えた水出しコーヒーの入ったピッチャーだ。コーヒーグラスに水出しコーヒーを注ぎ、そこに大粒の氷を浮かべれば完成。煮沸という一工程を省いた水出しコーヒーはすぐに出てきた。

 

コーヒーグラスの大粒の氷はまだ春の季節なのに早くも夏を感じさせる。フレックスストローで軽く混ぜると、擦れあった大粒の氷がカランと音を立て、清涼感を演出する。ストローからコーヒーを吸い上げると、いつものホットとはまた別の味わい。

 

いつも飲んでいる水出しコーヒとの違いはホットとアイスくらいのものだが、清涼な喉越しは苦味や酸味を爽やかなものにしてくれている。アイスコーヒーも悪くない、なんて思いながら私は疑問に思っていた唐揚定食についてマスターに尋ねることにする。

 

「先週も言いましたけど、なんで裏メニューが唐揚定食なんですか?正直、あまりこの喫茶店には似合わない気がするんですけど」

 

 他にも理由があるって言ってましたよね、と言う私にマスターは私との視線を反らし、困ったような、どこか恥ずかしがるような顔をして言った。

 

「勿論理由はありますけど。・・・あー、聞きますか?」

 

 是非、と私は頷を頷いた。

 

「なんというか、ワタシにとって家庭の味だからですよ」

 

 少しばかり悩むように考えた末にマスターの口から出てきたのはそんな要領を得ない答えだった。要領を得ないというか、意図的に誤魔化しているような言い方だった。だから出しているんですよ、と言われてもそれは理由といえるものではないだろう。

 

「マスターにとっての家庭の味、ですか」

 

「ええ、ワタシの家では祝い事があったりすると家族が一番好きだった唐揚を作るハウスルールがあったんですよ。唐揚の時は家族が全員そろって食卓につきますから、ワタシにとって家族の象徴なんです」

 

 これもまた雰囲気作りの一環です、とマスターは言った。雰囲気作りのために裏メニューとして唐揚定食を提供している。成程、と私は納得するが今度は先ほどの疑問をさらに突っ込んだ疑問が浮かんでくる。

 

「家庭の味が雰囲気作りの一環ということですか?」

 

 私の言葉にマスターは、しまった、とでも言いたげな表情を浮かべる。知らず知らずのうちに核心部分を突いていたらしい。視線を彷徨わせるマスターの姿からそれは明白だ。マスターのその困った姿をもうちょっと見ていたいという気持ちもあったが、誰にだって踏み込んでほしくない領域がある、というのは私も分かっているつもりだ。

 

「詳しく聞かないほうがいいなら、私も聞きませんけど」

 

「そういうわけではないのですが・・・」

 

 照れたように、マスターは頬を搔く。

 

「少しばかり恥ずかしい昔話が関係しているのですよ。・・・ちょっと長くなりますけど、聞きますか?

 

 是非、と私は頷いた。マスターはコップスタンドに掛けてあったタンブラーにピッチャーの水をなみなみ注ぎ、それを一気に飲みほした。

 

「長谷川さんのお父さんは厳しい方ですか?」

 

 そう切り出したマスターの口調は淡々としたものだった。喫茶店の話から随分と話が飛んだように見えるが、マスターが時たまこういった思いもよらない切り口で物事を語る時は何か重要な話をする時だ、と半年間の経験で私は学んでいた。

 

「怒る時は怒りますけど、結構温和な方だと思います」

 

「・・・ワタシの父さんは昭和の頑固親父という表現がしっくりくる人でした。暴力を振るったりはしませんでしたけど、随分と厳しい父親で正直ワタシは父さんが好きではありませんでした。父さんの方もいつもむっつりした顔でね。仲も良いというわけではありませんでした。ただ」

 

 マスターはそこで言葉を切り、空のタンブラーに水を追加する。再び飲み干すマスターの姿は酒に逃げようとして一気飲みしている中年オヤジのようにも見えた。素面では語れない、ということなのだろうか。もちろん、水で酔えるわけはないのだけれど。

 

「ワタシの淹れたコーヒーだけは美味しいって言ってくれましてね。よく淹れさせられたものです。思えば、父さんに褒められたのはコーヒーの味だけでしたね」

 

そこで懐古するようにマスターは笑った。

 

「マスターのコーヒー好きって子供時代からだったんですね」

 

 幼い頃のマスターが背伸びをしてコーヒーを淹れている、私の脳裏にはそんな情景が簡単に目に浮かんだ。マスターは幼い頃から全然変わっていない、私はそう思っていたが、

 

「いいえ、そうではありません」

 

「へ?」

 

 マスターから飛び出したのは私の予想を裏切る否定の言葉だった。

 

「ワタシはね、コーヒーを淹れるのも飲むのも好きではありませんでしたよ。だって父さんが褒めてくれたのはコーヒーの腕だけで、ワタシという個人を褒めてくれたことは一度もありませんでしたから。あの頃、家の中ではコーヒー製造マシーンに徹していましたね」

 

 コーヒーを飲むのも淹れるのも好きではないと言う。ならば、マスターの人生の分水嶺はどこにあったのだろうか。私にとってマスターとはコーヒーに対し飽くなき情熱を燃やしている、というイメージで、コーヒーという要素を抜いたマスターなど想像できなかった。

 

「じゃあなんで・・・」

 

「実はワタシが高校1年生の時に父さんが脳梗塞で倒れて半年ほど入院してしまったんですよ。家でコーヒーを飲むのは父さんだけでしたからワタシは家でコーヒーを淹れなくなりました。でもいざコーヒーから離れてみると寂しいもので。その時気づいたんですよ、ワタシにとってコーヒーは好きとか嫌いとか、そんな言葉で語れるようなものではないと」

 

 なにせ一番幼い頃の思い出がコーヒーを飲んでいる自分でしたから、もう体の一部のようなものです、とマスターは言う。例えば自分の体に好き嫌いなんて感情は抱かず、あることが当然と思うように。マスターにとってコーヒーとはそういうものであると。

 

「父さんが倒れてしまって、家庭は一変した、というわけではないですよ。ただ何時もと違う。そうですね、色褪せてしまう、と言えばいいのでしょうか」

 

 自分の家にいるはずなのにホームシックになってしまったのです、と苦笑しながらマスターは言った。

 

「おかしいですよね。でも本当なんです。まるでよく似ているだけの別の家に住んでいるようなそんな感覚がしてしまって」

 

 おかしいなんて私には到底思えなかった。もし私がマスターと同じ境遇に置かれたとしたら、もっと酷いことになっていたかもしれない。家が恋しいなんて、麻帆良に来たばかりの私は常々思っていたことだ。だからマスターのそれは恥ずかしく感じる必要などなく、きっと人として当然のことだ。

 

「だから思ったんですよ。将来働くなら、アットホームな職場で働きたいなって。漠然と自分の将来をイメージしてみました。大学に行って中堅くらいの企業に就職する、そんな夢のないビジョンですね。それはそれでいいのかもしれないですけど、ワタシはそういう堅苦しいのが嫌だったんです。でもそんな都合のいい職場なんてないですから、自分で作っちゃいました」

 

「つ、作っちゃいましたって・・・」

 

 はっはっは、とマスターは笑う。大体の経緯は分かったが、色々と説明を省きすぎだ。もしくは、そういった自分の苦しかった部分を言いたくないだけかもしれない。最後の方で急におどけたような言動になってしまったから、きっと誤魔化したのだと思う。私の知るマスターとはそんな人だから。

 

「軽く言いましたけど大変だったんですよ。色々考えた末、結局ワタシが得意なのはコーヒーを淹れることだけと気づきましたから喫茶店を開こうとは思ったんですが、店を借りるお金もない、食品衛生責任者資格みたいなものも必要でしたし」

 

 幸いワタシの通っていた高校に食物衛生科があったので、2年から転科して調理師免許は取りましたけどね、と言うマスター。

 

「当時は勉強ばかりで本当に苦しかったですよ。でも終わりよければすべて良し、ということなんでしょうね。今ではいい思い出です」

 

「・・・両親は反対しなかったんですか?お父さんは厳しい人だって言ってましたけど」

 

 調理師免許の取得は可能かもしれないが、店を借りるお金もないだろうし、そもそも高校生がいきなり喫茶店を開く、と言い出して親が反対しなかったのだろうか。

 

「いや、それなんですけどね」

 

 私の疑問に対してマスターは何故かにやりと笑みを浮かべた。

 

「母さんは烈火の如く怒りましたね。なんでそんなことをいきなり言うのかって。まあ、当然の反応だとは思います。熱意は本気のつもりでしたけど、動機は結構ふわふわしたものでしたし。でもね、父さんは反対しなかったんです。寧ろ、母さんの説得に回っていました」

 

 当時の様子を思い出したのか、口に手を当て、マスターはクスクスと笑う。

 

「あれは本当におかしかったですね・・・『あなたからも何か言ってよ!』『ん、好きにやらせていいんじゃないか?』『えぇ!?』っていう感じで」

 

 あの時の母さんの愕然とした表情は忘れられない、と笑いながらマスターは言った。

 

「厳しいお父さんだったんですよね?なんで反対しなかったんですか?」

 

「厳しい人ではありましたけど、きちんと親の情は持っていたんですよ。ただ不器用な人でしたから、それを全面に出すことが出来なかったみたいなんです」

 

 不器用な人だとマスターは言った。子供のことを愛してはいたけれども、愛し方が不器用過ぎた。厳しさは愛情の裏返しで、きっと誰よりも自分のことを考えてくれていたのだと。少し恥ずかしように、嬉しそうにマスターは語った。

 

「父さんにとってコーヒーは唯一ワタシの事を自然に褒めることが出来るものでしたから、ワタシに頻繁にコーヒーを淹れさせていたんですね。・・・本当に不器用な人です。世間のイメージする『良い父親』からは遠くかけ離れていましたけど、ワタシにとっては立派な父親です」

 

 そう言い、マスターはおもむろに冷えた唐揚を口に運んだ。

 

「父さんの援助もあってワタシは麻帆良で喫茶店を開くことができました。裏メニューに唐揚定食なんてものを入れたのは、ワタシがアットホームな雰囲気を作りたいと思ったからです。訪れた時、どことなく懐かしいく感じるような、そんな喫茶店をね」

 

 ワタシにとって家庭の味だからですよ、と言ったのはこのためです、とマスターは言った。

 

「そしてなにより、唐揚は父さんの好物でしたからね。意地っ張りな人ですからまだ来てくれませんけど、いつ来てもいいように、こうやって練習しているんですよ」

 

 1つどうですか?と私に皿を向けてくる。私はいただきます、と唐揚を1つ口に運んだ。その味は絶品というわけではないと思う。本職の人が作れば、これよりももっと美味しいものが出来上がるだろう。けれど、どこか懐かしい味がした。運動会の日の弁当に詰められていた唐揚のような、そんな味。

 

「なんというか、意外でしたね。結構行き当たりばったりって感じで・・・」

 

 唐揚を咀嚼し終えた私は思わずそんなことを口走っていた。

 

「正直、コーヒー一筋かと思っていました」

 

「昔のワタシが見たら驚くでしょうね。でも人生なんてコロコロ変わるものです」

 

 身を以て経験したせいなのか、マスターの言葉には説得力があった。変節漢なワタシが偉そうに言えることではないですけど、と前置きをし、マスターが言う。

 

「中学3年生というのは一つの人生の節目ですよね。義務教育が終わりますし、高校になると授業にも専門性が出てきます。長谷川さんがどういう道を行くのかは分かりませんけど、ワタシみたいな行き当たりばったりな人生は苦労しますよ」

 

 それもまた楽しい人生かもしれませんけどね、と最後にそう締めくくった。

 

 

 

 

 

 喫茶店の帰り道、私は歩きながらぼんやりと思考に耽る。将来のことなんて遠い未来のはずと思っていたのに、何故かその距離が急激に縮まったような気がする。

 

小学生の時、卒業アルバムには自分の夢を書くスペースがあったことをふと思い出した。

宇宙飛行士になりたい。

パイロットになりたい。

パティシエになりなた。

プロ野球選手になりたい。

それは本当に子どもの描く夢で、純粋な憧れがそこに満ちていていたような気がする。

あの卒業アルバムで、私は自分の夢をなんと書いたのだろうか。ほんの数年前のことがもう思いだせない。

 

高校に進学して、大学を卒業して、私はどんなことをしているのだろうか。

私が得意とするのは・・・パソコンだろうか。プログラマー?システムエンジニア?

 

「なんか違うよな・・・」

 

 私の溜息と共に漏らした声は人混みの中に溶けて消えていく。普段からパソコンをいじくり回している私だが、それを職業とすると途端にイメージが消えていく。結局それは趣味の範疇を抜けていないのだろう。

 

職場は・・・私はあまり社交的な性格ではないから、できればアットホームな職場がいい。堅苦しいのは少し苦手というのもある。

 

そんなことを考えていると、不意にコーヒーの匂いが私の鼻孔を掠める。辺りを見ると、全国でチェーン展開しているカフェを発見する。オープンテラスもそこそこ席が埋まっており、中々繁盛しているのが分かる。

 

「っておいおい、何やってるんだよ」

 

 オープンテラスに視線を向けた私は思わず突っ込んでいた。視線の先には一組のカップルの姿。そのカップルはあろうことにホットコーヒーの匂いを嗅ぐこともせず、いきなり飲み始めたのだ。アイスならまだ分かるけど、ホットコーヒーならまずは匂いを楽しめよ。しかもいきなりコーヒーフレッシュ入れやがって。なにが『苦ーい』だ。その苦味を楽しむんだろうが。いちゃいちゃしやがって、私に対する当てつけか、ああ?

 

 そんな被害妄想を続けること数十秒。

 

「あ、そういえば私コーヒー好きだったな」

 

 唐突にそんなことを思い出した。なんであたりまえのことを今更思い出したのだろうか。この半年間、マスターに追いつけるように創意工夫を凝らしていたというのに。それはきっと、今の私の生活の一部に溶け込んでいるからだろう。美味しいコーヒーを淹れるにはどうすればいいのか、そんなことを日がな一日ずっと考えていたから。

 

そのことも踏まえて私の将来を考えてみよう。

答えは、割りと簡単に出た。

 

 

 

 




筆者の小学校の時のアルバムを開くと、将来の夢はプロサッカー選手になることと書いてありました。今思うと無謀なこと書いてんなー、と思いますけど、小学生の時は努力すれば何でもできると考えていた年頃だと思います。それが中学生になると自分の限界というか、そういうものが見えてきます。高校生のアルバムになると、手堅くサラリーマンと書いてある人もいたり。

勿論そういうのが悪いなんてことは思わないですけど、小学生時代のああいう若い気持ちはどこに忘れてきたんだろうな、と時々鬱な気分になったりします。本編の最後の方の卒業アルバムの下りは実際アルバムを見て、鬱な気分になりながら書きました。

話数的にはあと2話くらいで終わるんじゃないかと思います。ただ千雨とマスターが初めて出会った時のことを回想という形で書いてみたいとも思います。



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5話

また遅れました。パソコンに向かう時間が中々取れないですね。

※サブタイトルを変更しました。内容に変更点はありません
※最終回臭が漂っていますが、最終回ではありません。今回は閑話的な話です

上記の注意点に留意し、本編をご覧ください


 憎たらしいほどの晴天。高く感じる秋空には雲一つなく、上空に視線を合わせると綺麗なスカイブルーが広がっている。それは今の私の心情はまるで逆で、そんなことですら神経を逆なでする。

 

人通りの多い大通り。俯きながら、人を縫うようにして私は速足で歩く。

目的地なんてものはない。強いて言うなら目的地がないというのがこのあてのない強歩の目的だ。

ただ只管歩く。なにかから逃げるように。――――いや、実際逃げているのだ。

ただそれは逃げられるものではなく、結局のところ私のやっている行為なんて無駄そのものだろう。気分は三蔵法師の手のひらで踊る孫悟空。 

 

ただ無駄だというのに足は止められない。足を動かすことで強引に頭の働きを阻害させる。疲れ切ってしまえば、頭を動かす余裕なんてなくなる。そうすれば、少しの間麻帆良学園という地獄から逃れることができる。

 

原因はなんだったのだろうか。

古菲が他の部活動生をメートル単位で吹っ飛ばしたとか。

神楽坂が電車と普通に並走していたとか。

長瀬や龍宮みたいなお前明らかに年齢ごまかしてるだろ、と言いたくなるような連中がいたりとか。

人間どころかロボットが普通に学校に通っているとか。

・・・ああ、これ全部うちのクラスじゃねえかよ。

 

要するにそうした小さなストレスの積み重ねなんだろう。

少しずつ風船に息を吹き込むようにストレスが蓄積されていき、最後にはちょっとした衝撃で弾ける。今の私の状況がこれだ。

 

どこかに逃げたい。ならばどこへ逃げる?

そう、どこにも逃げることなんてできやしない。

 

だからこそ、こんなアテもなく馬鹿みたいに彷徨っているんだろう。

どこで間違えたんだろう、なんて問いは今更過ぎてなんの役にも立たないし、逃れる手段があったとしてもそれを実行する手段はない。私はなんの力もない女子中学生なんだから。

 

「馬鹿じゃねえのかよ、私・・・」

 

 正しく馬鹿そのものだ。間違っているのは世界か私か。そんなもの天秤にかける架けるまでもなく分かっていたはずなのに、その自信、私こそが善良な一般人であるという自負が揺らいでしまってきている。

 

「ああクソ、誰でもいいから助けろよ・・・」

 

 当然ながら白馬の王子様なんてものは登場しない。あるのは残酷極まりない現実だけで、私にとっての希望なんてものは存在しない。

 

疲れてしまった。精神的にも肉体的にも。もういっそ屋上から飛び降りて死んでやろうか、なんていう危険な思考が飛び出るようになってきたんだから、もう末期症状だろう。だが私にはそんなことをする勇気もなく、できたのはレンガの敷き詰められた地面で地団駄を踏むくらいだった。

 

どうにもならない感情を持て余す。今すぐにでもこの場で叫んでしまいそうだった。心を落ち着ける時間が欲しい。欲を言えばファーストフード店のような喋り声が響くような店ではなく、図書館のような静かな場所が良い。

 

しかし今日は日曜日。どこもかしこも客で賑わっているだろう。そんな都合の良い店なんてないだろう、と駄目元で辺りを散策すると、一つの店を見つけた。

 

小さな白壁の喫茶店。コルクボードには店の名前と今日のオススメが書かれているだけだった。外観は中々おしゃれだと思う。しかしそこを通る通行人はその喫茶店が見えていないかのように通り過ぎていく。まるでそこだけが周りの世界から切り離され、取り残されたようだった。

その様子はまるで今の私のようで、誘われるようにして私はフラフラとした足取りで古めかしい店の押戸の把手を掴んでいた。

 

ぎいい、という軋む音。からんからんというカウベルが来訪者を告げる音。

そんな音を聞き、私はその喫茶店に招き入れられていた。

外観からも想像できてはいたが、こじんまりとした店だ。しかしそんな狭い店内が自分の部屋のように思えてしまって、どこか懐かしさを感じさせる。店内には誰も座っていないのに何故か淋しいという感想は浮かんでこなかった。

 

 

そんな風に私が寸評をしているとダイニングキッチンのようになっているキッチンの奥から銀縁メガネを掛けた男が出てきた、男というよりも青年と称した方がいいかもしれない。童顔であることを差し引いても、年齢は20代だろう。猫のアップリケが刺繍されたエプロンは可愛いが、少し不似合いだ。

 

「おや、おはようござーー失礼。いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 

意外と声は渋い。深みのある声と言えばいいのか、若いのに齢を重ねたような落ち着きを感じさせる声。私はその男の言葉に従い、入口から一番近いカウンター席に腰を下ろす。

 

「・・・ホットコーヒーで」

 

 置かれたメニュー表を見る気力もなく、呟くようにして私は注文を伝えた。肌寒い体が暖まればそれでいい。喫茶店なんだからコーヒーくらい置いてるだろう、そんな安直な考えだった。しかし男は少し困ったような表情で、お客様、と私に声をかける。

 

「どちらのコーヒーになさいますか?」

 

 そんな言葉と共にメニュー表ひっくり返される。裏には語末にコーヒーと書かれたメニューが軽く10以上は書かれていた。

・・・ここ、コーヒーの専門店じゃなくて喫茶店だよな?

インスタントコーヒーをたまに飲む程度の私がコーヒーの知識を持ち合わせているはずがない。いくつかは缶コーヒーの銘柄で知っているが、その程度だ。

 

「・・・じゃあ、オススメのコーヒーを一つお願いします」

 

 メニュー表と睨めっこしても答えなんて出るはずもないため、丸投げする。男は何故か嬉しそうな表情を浮かべ、少々お待ちください、と言って厨房へ引っ込んでいった。男が私の前に帰ってきたのは僅か数分後。コーヒーなんて直ぐに出来るもの、というイメージはあったが、些か早すぎる――と思っていたら、持っていたのはコーヒーカップではなく古めかしいデザインのポットだった。コーヒーは私の目の前で作るらしい。

 

コーヒーを作るということは電子ポットのお湯とコーヒ粉を混ぜてできあがり、なんて簡単なものではない。そんなことは分かってはいたが、こうやって本職の技を間近で見ると、随分と無駄なことをしているな、という感想を抱いた。手を翳すようにしてお湯の温度を測ったり、2回に分けてお湯を入れたり、コーヒーの量を横目で一々確認したり。ただ動作の1つ1つにはキレがあり、そこだけは凄いと思った。動きそのものは地味なのに、どこか引き込まれるような芸術性を感じた。

 

「――お待たせいたしました」

 

 ぼけっと観察していると、いつの間にかコーヒーが出来上がっていた。流れるような動作でコーヒーカップが置かれ、その音で我に返った。

コーヒーカップ内の黒々とした液体から、何かの香りがする。もちろんそれはコーヒーの香りなんだろうけど、インスタントコーヒーからは感じ取ったことのない香りだ。それをどういう香りか表現するのは難しい。ただ今まで飲んだコーヒーとはまったく違う強い香りだ。

 

湯気の立ち上るコーヒーを一口だけ口に含んでみる。そのコーヒーはブラックなのに不思議と甘く、何故か涙が溢れてきそうになった。

 

スピーカーから流れているジャズクラシックのBGMは背景に溶け込んでいる。

音すらも古めかしい内装の一部で、内装のピースは完成したジグゾーパズルのように一寸の隙もなく組み合わさっている。しかしそれでもこの店内には完璧なんていうコンピューター染みた冷徹さはなく、人の感情が介入する余地のある、言うならば不完全である完全という矛盾を孕んだ人間臭い側面も持ち合わせていた。

 

心が安らぐ。雰囲気に酔うとでもいうのか、実家でのんびりしているのと同じ感覚。

男は黙ってグラスを磨いている。ただそれが寡黙な父親に暖かく見守られているようだった。

 

会話はない。無言のまま時間だけが過ぎていく。

ぶちまけたいことはいくらでもあるけど、初対面の相手に言えることでもない。

だから私はご馳走様、と一言残し、会計時に言われた500円玉を置いて外に出た。

 

本当に、ただそれだけの話。

私が古ぼけた喫茶店に足を運び、一杯のコーヒーを飲んだ。

そんな日常の一幕から始まった、日常の一幕を描く物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がこの喫茶店に通うようになって半年が過ぎた。その中で1つ思ったことがある。

 

時々、この喫茶店は悩みのない人間には見つけることができないのではないか、と思うときがあるのだ。思う、というよりはそれは確信に近い。

 

この喫茶店に訪れるのは、大抵が苦悩を抱えた人達ばかりだ。しかもその苦悩は軽いものなどではなく、妻と喧嘩して離婚の危機とか、リストラされたとか、これからどうやって生きていけばいいのかわからないとか、そういった重いものばかりだ。中にはこの人は自殺してしまうんじゃないか、と思わずにはいられないような人もいたりする。そういった客も邪険に扱ったりせず、きちんと対応するマスターには一種のプロ意識を感じる。

 

人間というのは大雑把でもあり、繊細でもあると思う。

普段は気にも留めないちょっとした違和感。せかせかと生きている間は気が付かないけれど、どうしようもなくなって立ち止まってみると、気づくものがある。そうやって迷い人が誘われるようにしてこの喫茶店にやってきて、ヤケクソのように愚痴をぶちまけていく。そしてマスターは苦笑しながらそれを聞き、さりげなく助言じみた言葉を投げかける。私もそんな道を通った一人だ。

 

「でもワタシにできるのは結局それだけなんですよね」

 

 マスターはそう言った。

 

「ワタシは特別頭がいいわけでもありません。魔法や超能力や気みたいな特別な力なんて持っていません。長く生きているわけでも、なにか特別な経験をしたわけでもありません。ちょっとコーヒーに自信があるだけの喫茶店のマスターですよ」

 

 愚痴や悩みを聞くだけ、と自分を卑下するように。

 

 それはまぎれもない事実。麻帆良にいくらでも転がっている異常者と比べるとマスターなど没個性だろう。どうあがいたって物語の主人公にはなれそうにない。ちょっとした脇役程度が精一杯、そんな人だ。けれど、そんな人に私が救われたというのもまた事実。

人間なんて単純なもので、なんの気なしに投げかけられた言葉一つで救われるようなことなんていくらでもある。

 

「ははは、ちょっとした脇役ですか。それも悪くないですね。そのあたりが妥当でしょう」

 

 思考が漏れ出し、うっかり口を滑らせて失礼な事を言ってしまった。マスターの方は軽く流してくれたけれど、私はすいませんと謝る。最近は少しばかり気が緩んでいる。

 

「いえいえ、脇役という役割を与えられただけありがたいものですよ。脇役というのも物語の上では外せない存在ですから。・・・そうですね、ちょっと待ってください」

 

 マスターはふと思いついたようにそう言って、喫茶店の壁際に置かれている本棚から一冊の漫画を持ってくる。表紙がボロボロでセロハンテープで補整されている、随分と古い漫画。サブカルチャーには一家言ある私も知らない漫画だ。渡されたそれをパラパラと眺めてみる。内容はファンタジーもの。主人公の少年は魔法使いで、仲間と共に冒険をしていく、そんなありふれたものだ。

 

「漫画というのは一つの世界です。この漫画の中には一つの確固とした世界が成立しています・・・まあ、そういう仮定だと思ってください。ワタシ達が見る分には彼らは紙という二次元に描かれた絵に過ぎませんけれどね」

 

 なにやら哲学っぽいことを言い出す。本人は学がないなんて嘯いているけど、マスターのこういった思考の柔軟さは素直に羨ましい。

 

「そうやって考えてみると・・・例えばこの少年達は旅をしていますけど、食事や寝る場所はどうしていると思いますか?」

 

「それは・・・食堂とか、宿屋を使っていると思いますけど」

 

「ええ、そうです。彼らも人間ですから、そういった場所を使わなければいけません。でも漫画のページ数には限りがありますから、そういった部分は大体カットされます。ですが人間の性格や人格を形作っているのはそうしたなにげない人との触れ合いであったり日常生活なんですよね」

 

 物語の主人公である少年は才能に溢れており、勝気な性格だった。けれど初めから強い者なんて存在しない。この漫画には描写されていないけれど、多くの出会いや別れ経験があり、この少年というものを形作ったのだろう。

 

ヘラクレイトスの『万物は流転する』という言葉を思いだした。

すべては相互回帰的に循環しながら、流動している。ヘラクレイトスは世界とは諸々のものがせめぎあいつつ、その動的なプロセスのなかから調和したものや一なるものが生成される、と主張したそうだ。

 

漫画の住人は私達と同じように生活を営んでいるという仮定。なるほど、面白い。綾瀬が好きそうな話題だ。

 

「もしかしたら、ワタシ達の住んでいるこの世界も漫画の中なのかもしれませんね」

 

 マスターの言葉は冗談半分なんだろうけど、私はちょっと納得してしまった。

 

「だったらうちの担任が主人公かもしれませんね」

 

 思い起こすのは赤毛の子供教師。初めて見た時は冗談抜きで空いた口が塞がらなかった。今でもこれは悪い夢なんじゃないか、と思うときがある。

 

「前に聞いた10歳の子ですか?ああ、確かにあり得そうですね」

 

 マスターも私の言葉に同意する。これが例えば大学とかであれば学生よりも年齢の低い教員というのは可能性としてある話だが、多感な年頃の女子中学にそんなものを放り込むという異常。どう考えてみても訳有りだと分かる。不透明なバックボーンもそれに一役買っていて怪しいことこの上ない。というかあの子供教師は怪しいという概念を体現した存在だろう。

 

10歳にして大学卒業レベルの知能を持つ外国人教師。

将来イケメン間違いなしの整った顔立ち。

なんか杖っぽいの持ってるし、よく手品っぽいなにかをやってる。

 

こうやって箇条書きに整理してみると、その異常さがさらに際立つ。しかもそんな異常を快く受け入れるクラスメイト達。いやお前らちょっとは反発してくれよ、初期の神楽坂の反応が一番まともだったぞ。

 

この世界は漫画の中の世界かもしれない。それは誰もが『ありえない』と一笑に付すような荒唐無稽な話のはずだが、謎のリアリティがそんな言葉を侵食していく。

冗談じゃねえぞ、と悄然とする私に気づかず、マスターが続ける。

 

「もしそうなら、ワタシの喫茶店は多分漫画では描写されていないでしょうね。なんの変哲もないただの喫茶店なんですから」

 

 少しだけ、寂しそうに。マスターの言葉に反論したかったが、言葉は出てこなかった。それは確かにそうかもしれない、と認めてしまう自分もいるのだ。美味しいコーヒーが飲める、懐かしい雰囲気のする喫茶店。ひっそりと営業している喫茶店の中でコーヒーを飲みながらのんびりと会話をする、ただそれだけの場所。

 

きっとそんなシーンを漫画で描いたとしても、楽しいものではないんだろう。けれど私にとってこの場所はかけがえのない場所で。

人を形作るのはなにげない人との触れ合いであったり日常生活。そうマスターが語ったように、今の長谷川千雨という人間を形作っているのはこの喫茶店だ。

静謐な空間、懐かしい匂い、コーヒーの苦味、苦笑するマスター。

 

切っ掛けはほんの小さなもの。ドラマであるような衝撃な出会いも展開もなかったし、これからもそんなものはないだろう。世界中に溢れていそうな、小さな出会い。

 

でも一つくらいはそんな物語があってもいいんじゃないか、とも思う。

喫茶店の中でコーヒーを飲みながら、愚痴をぶちまけたり、どうでもいい雑談に興じたり。そんな日常生活を描いた物語。需要があるかと聞かれると返答に困るけれど、それだって多くの人が体験するであろう人生の1ページなのだから。

 

何気ない日常をだらだらと綴っていく。少しずつ前に進んで、時には立ち止まり、後ろを振り返って。泣いて、笑って、怒って、はしゃいで。普段の日常を描いたありふれたストーリー。きっとそれは当たり前すぎてつまらないけれど、だからこそ共感を得ることができるのではないだろうか。

 

どんな物語にもタイトル名が必要だ。

特に私がこれからも綴っていくであろう物語は地味極まりないから、目を引き、かつ端的で分かりやすい、そんな高度なものが求められる。

少しの間思考に耽り、一つ思いついた。

『長谷川千雨は喫茶店に足を運ぶ』なんていうのはどうだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『変わらないものなんてない』。そんな言葉をどこかで聞いたけれど、変わらないものだってある。それは例えば芸術作品であったり、映画であったり、昔の思い出だったり。そういったものは変わらないものだと私は思う。

 

そして変わらないものがあるように、いくらでも変わっていくものがある。それは自分自身だ。

きっと自分自身はいくらだって変わっていくことができるのだから、全てのものが変わっていくように見えるのだろう。だから『変わらないものなんてない』という言葉も完全に間違いというわけではない。

 

私とマスターが出会って半年間。

それぐらいの時間があれば、変わるには十分すぎる。

男子三日会わざれば刮目して見よ 、なんて言葉があるが人間が変わるのにそんな長い時間は必要ない。

必要な時間は・・・そう。

きっと、一杯のコーヒーを飲み干す時間だけで充分だ。

 




最終回ではありませんが、最終回を意識して書いた話です。ちょっと実験的な試み。

この作品、すぐに終わるかと思いきや、書いてるとガンガン字数が伸びていきます。
あと数話で終わるとか書きましたけど、終わらないかもしれません。ただ最終回をどんな感じにするかは大体決まっているので、未完結ということはないと思うのでその点ご安心を。

サイモン&ガーファンクルの『栄光への架け橋』をテーマに書きたい話があったんですけど、利用規約を見るとそれも無理そうですね。筆者にとって思い出深い曲で、最終話にも使いたかったんですが、ちょっと残念です。

感想、意見お待ちしています。


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6話

おかしいな、話が全然進んでいない・・・。そんな6話目です。

※時系列としては4話→6話です。
※ちょっと中途半端な終わり方ですが、例によって書いている内に文章量が加速的に増えた結果です。ご了承ください。
※恋愛?のタグが生かせる時がようやく来ました。今までのは全部前振りみたいなものです。

以上の注意事項に留意し、本編をご覧ください。


 夕焼けの空が目に染みそうだ。寮に向かう帰り道にそんなことを思った。ゆっくりと大地を踏みしめるように歩く。俯いて風を突っ切るような速足とは見えてくる景色が随分と違って見える。

それは変わった看板だとか新しくオープンしたコンビニとか、そんな小さなものだけれども、いつも見ているはずの風景とはほんの少しだけ違う新鮮なものを感じる。

気の持ちようと歩くスピードを変えるだけで世界なんて変わってしまうものなんだ、と当たり前の事を今更ながら実感した。

 

自分の部屋に着くのと太陽が地平線へと沈んでいくほぼ同時だった。陽が沈む、陽が落ちる、 陽が沈む、太陽が地平線の下に沈む、陽が落ちる、日が沈む、落日する、日が落ちる、太陽が沈む。たった一つの事柄にぱっと思いつくだけでこれだけの表現が存在する。

 

それが何故かなんて知識のない私には分からないけれど、きっと昔の人は太陽が沈んでいく様子になにか特別なものを見出したんじゃないだろうか。もしそうなら昔の人の気持ちは今の私にも理解できる。寮の廊下から僅かに見える太陽の頭。空と雲は茜色に染まって、そんな黄昏時の空と麻帆良の西洋建築物とのコントラストが不明確になる。太陽と麻帆良が一緒になって溶けていく、そんな印象派の絵画を見ている気分。

 

断末魔のような最後の残光。光は消え、ここからは夜の世界。太陽が沈む短い時間に世界は劇的に変化した。世界が変わるようにという表現があるが、まさしくこの事を指すのだろう。

 

おそらく大体の人が夜より朝昼を好むように、私も夜が好きではない。もちろん嫌いというわけでもないけれど、街灯の明かりだけを頼りに外に出るような真似はしたくない。暗中模索なんて真似は半年以前には嫌というほど経験した。

 

夜は本来の私が姿を取り戻す時間だ。マスターに遠慮のない、朗らかな長谷川千雨はいない。聡美がいればまた違ったんだろうけど、彼女は大学の研究室だ。

一人は寂しい、なんて贅沢なことを聡美と友人関係になってから考えるようになった。一人が気楽だった時代が懐かしくもあり、なぜ一人で平気だったんだろうという疑問を抱かせる。

 

入口付近の電気のスイッチを押すと、シーリング照明が無遠慮に光りを灯す。私しかいない部屋は喫茶店と違ってもの寂しさしか感じさせない。私と聡美の私物が少ないこともそれに一役買っているだろう。

 

手提げバッグをそのあたりに適当に放り投げ、ベッドに直行。着替えることもなくそのままダイブを敢行する。飛び込んだうつ伏せの状態から身を捩るように仰向けの状態へシフト。そこでようやく一息ついた。

ぼんやりと天井を見つめる。何の変哲のないモノトーンが広がっているだけだが、その殺風景さは考えをまとめるにはちょうどいい。

 

私、長谷川千雨にとってマスターがどういった立ち位置の人間なのか?と聞かれると、それは中々に返答に困る質問だ。

友人と呼ぶには些か苦しい。それほど深い仲ではないし、年齢も離れている。

相談相手、というのもしっくりこない。そんな事務的な付き合いではない、と私は思っている。

様々な位置を巡りめぐって、結局は『喫茶店のマスター』へと回帰する。

喫茶店のマスターと常連客、それ以上でも以下でもない関係。

 

だからこそ気楽でいられたし、喫茶店は居心地の良い場所でいられた。

しかし日溜まりに微睡む猫のような居心地に、同時に不安感に襲われる。

全ての物事には終わりがある。私とマスターをつないでいるのは喫茶店というただ一つのものであり、例えばこの喫茶店が潰れてしまうとそれだけで、私とマスターの縁は切れてしまう。

 

――――嫌だ。

考える間もなく反射的にそう思った。

ああ嫌だ。それだけは絶対に認められない、認めてはならない。

 

だからこそ、私はマスターと別の繋がりが欲しい。喫茶店のマスターと常連客ではなく、まったく別の強固な絆を。それは例えば――

 

『もしかして、その人のこと好きなんですか?』

 

『・・・どうなんだろうな』

 

 唐突に聡美との会話を思い出す。私の言葉ははぐらかしたわけでもなんでもなく、本当に分からないんだ。

自分のことは自分が一番よくわかっているなんて大嘘も大嘘。自分の事を分かっているんだったら、私はこんなに苦しんでいない。頭の中はぐるぐると螺旋を描き、混沌と化している。様々な考えが頭の中を駆け巡っては消えていき、頭に幻痛を生み出していく。

 

 

分からないんだ。私はどうしたいのか、私はどうありたいのか、私はなにがしたいのか。

まるでマスターと出会う半年前に逆戻りしてしまったように、分からないことだらけだ。

けれどただ一つだけ、確信していることがある。偽ってはいけないものがある。

 

 

 

 

高校に進学して、大学を卒業して、私はどんなことをしているのだろうか。

そんなことは考えたって分からない。半年でも分からなかったんだから、何年も未来の事に目を向けるなんて今の私にはできそうにない。けれど、ただ一つだけ。

 

――――そのことも踏まえて私の将来を考えてみよう。

答えは、割りと簡単に出た。

 

あの人と、ずっと一緒にいたいなぁ・・・。

 

具体性の欠片もなく、将来の職に思いを馳せるわけでもなく、なぜそんなことを思ってしまったのかなんて自分でも理由は分からないけれど。唐突にごく当然のように、そんな思いが心の表面に現れた。

それだけは、私の偽りざる気持ち。

 

 

 

 

 

 

 

 くぅ、という自分の腹の音に私は我に返った。壁掛け時計を見ると午後8時を回るところだった。お腹は減るけれど、何かを食べたいという欲求は湧かなかった。けれど明日は学校だ、なんでもいいから腹に詰めようとのっそり立ち上がる。

 

キッチンの棚を漁るも、目当てのブロック型の栄養食品のストックは底を尽いていた。最近はあまり食べなかったからつい買うのを忘れてしまっていたようだ。冷蔵庫の中も確認するが、そのまま食べられる冷凍食品の類ははなかった。食材そのものは揃っているが、いまいち料理をする気分にもなれない。電子ジャーの中も空っぽだ。

 

諦め半分、キッチンの収納スペースを開いていく。そこで食品ではないが懐かしいものを発見した。

 

「インスタントコーヒーかよ・・・」

 

 今では無用の長物になりさがったが、喫茶店に通うまでは時々お世話になっていた代物だ。ラベルを確認すると賞味期限は今月末。半分以上は残っているコーヒー粉は消費するには量的にも味的にも厳しいだろう。ボトルキャップを開けてみると意外と香りは良い。興味が湧いたのと暇つぶしを兼ねて、インスタントコーヒーを飲んでみることにする。コーヒーだって少しは腹の足しにはなるだろう。

 

今回のコーヒーは安っぽさに拘っていれてみようと思う。お湯を沸かすのは銅ポットではなく電気ケトル。使う水も水道水だ。コーヒー粉を適当にスプーンですくい、マグカップに入れていく。そこにお湯を入れてかき混ぜれば完成。実に簡単だ。便利というのはいいものだが、時々恐ろしく感じるのは私だけだろうか。

 

おそるおそる黒々とした液体の匂いを嗅いでみる。渋みが強いような気もするが、まあ許容範囲。

マグカップを揺らし一口。味を楽しむというよりも薬を飲むような感じだ。

 

味の感想は・・・うん、これはない。

賞味期限が間近であることと単純にコーヒー粉の量が多すぎたということもあるだろうが、只管苦いだけだ。深みもコクもあったもんじゃない。お湯に大量のカフェインをぶち込んだだけの代物。確かに目は覚めるかもしれないが、目覚まし以上のものにはならないだろう。

結論。不味い。

 

頑張って飲もうと思ったが、3口ほど飲んだところで挫折する。マスターのコーヒーに慣れきった舌にとってこれは耐えがたい苦行だ。余りの不味さに何故か笑いさえ込み上げてきた。

 

「ぷっ・・・くくく・・・!」

 

 口を手で防ぐが堪えきれず、噴出してしまった。声が次第に大きくなり、最終的には爆笑レベルへ。カフェインが心の中の暗鬱としたものを吹き飛ばしてくれたようだ。心が落ち着き、思考がクリアになる。

 

下手な考え休むに似たりという言葉がある。どんなに考えたって分からないことなんていくらでもある。私は自分がただの女子中学生であることを忘れていたらしい。

分からないことがあるなら、誰かに教えてもらえばいい。

知らないなら、知ればいい。

 

時間は有限で私達は常に選択を迫られている。だからこれも私に突き付けられた選択肢の1つなのだろう。

そこでどんな選択をするか、それは大した問題ではない。後になってその選択肢は良いものであったと言えるようになればいいのだから。

 

思い立ったが吉日、鉄は熱いうちに打て。

そんな諺があるように、たまには向こう見ずな行動だって悪くはない。

気恥ずかしさがないわけでもないが、リスクなしでリターンを得ようなんて然うは問屋が卸さないのだ。

聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥なんて言葉もある。つくづく先人は偉大だと思い知らされる瞬間だ。

――――さて、今日はそんな偉大なる先人の言葉に従って若者らしく何も考えず突貫しようか。

 

向かう先は玄関。ドアを開くと外はすっかり暗くなっており、廊下の蛍光灯が通路を照らしていた。目指す場所はとあるクラスメイトが暮らす部屋だ。正直な話、親しい間柄というわけではないが、彼女ならば私の気持ちも理解できるだろうし、なんだかんだで真摯に相談に乗ってくれそうだ。少なくとも性格から考えると無碍にはしないでくれるだろう。

 

なんか私、女子中学生っぽいことしてるな。

歩きながらそんな感想を抱き、再び笑みがこぼれた。

 

 目的の部屋の前へ到着する。もしかしたら大浴場の方に行ってるかもしれないという不安はあったが、部屋の中から僅かに話し声らしきものが零れているのでその心配はなくなった。私は深呼吸を数回繰り返し、心臓を落ち着かせドアチャイムを押す。ピンポーン、という何だか間抜けに聞こえる音を合図に誰かがぱたぱたとした足取りで玄関に向かってくる。

 

「はーい、誰ですかー・・・って千雨ちゃん?どないしたん、こんな時間に」

 

 玄関扉からひょっこりと顔を覗かせたのは同じクラスメイトの近衛木乃香。黒髪ロングヘアーの和風美少女だ。近衛も意外と世話好きな一面があるから、彼女に頼るという手もないことはないが、今日用があるのは彼女のルームメイトの方。

 

「悪いな近衛、こんな時間に。迷惑だったか?」

 

「ううん、そんなことないけど。千雨ちゃんが来るなんて珍しいなぁ」

 

 とりあえず上がっていく?という近衛の誘いを丁重に断る。ここに住んでいるのが2人だけなら一考の余地があったが、ここにはあの子供教師も住んでいる。下手をしたら話が肥大化して教室内で公開処刑なんてことがありえそうだ。ここは子供教師が出てこないうちにさっさと用件を済ませるとしよう。

 

「ちょっと相談っていうか、聞きたいことがあってな。神楽坂を呼んでくれないか?私の部屋に招きたいんだが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 神楽坂は私直々の指名に驚いたようだったが、特に文句を言うことなく快諾してくれた。3-Aは非常識でぶっ飛んでいて騒がしいくせに、基本的に気のいい連中が揃っている。だからこそなんだかんだで嫌うことはできないんだろう。

 

「悪いな、親しくもないのにいきなり部屋に呼んじまって、はいお茶」

 

 神楽坂をダイニングテーブルの席につかせ、冷蔵庫の麦茶を注いだコップを神楽坂に差し出す。コーヒーを淹れようかとも思ったけれど、神楽坂の好みも分からないから止めておく。

 

「気にしないでいいわよ、ちょっと驚いただけだから。でも聞きたいことって何?」

 

 単刀直入に聞いてくる神楽坂のさばさばとした性格はたまに羨ましくなる。姉御肌というのは神楽坂のような奴を指すのだろう。なんだかんだであの子供教師の世話もきっちり焼いているようだし。

 

「ああ、なんていうかちょっと聞きづらいことなんだけどさ――――」

 

「うん」

 

 のどが渇いていたのか、神楽坂はコップを急角度に傾け、

 

「高畑先生のどこに惚れたんだ?」

 

「ぐふぉ!!」

 

 女子中学生が出してはいけない声と共に麦茶を盛大に咽た。予想外すぎる私の質問の意図がよくわかっていないのか、放心したようにぼけっとした表情を保っている。口の端から零れる麦茶のせいでいつもより2割ほどバカっぽく見えた。

 

おそらく神楽坂の頭の中では私の言葉が何度もリフレインされているんだろう。数秒後、意味を理解し頬を真っ赤に染めた神楽坂は混乱のせいか、狂ったビデオテープ映像のような奇声を発した。ここまでは完全に予想できた反応。

 

「ちちち千雨ちゃん!?い、いいいいいいま何て言った!?」

 

 身を乗り出し、私の肩を掴む。無意識なんだろうが、マウンテンゴリラを彷彿させるとんでもない握力のせいで肩がもげそうだ。

 

「まあ落ち着いてくれよ。ほら、麦茶も溢してるし」

 

「え!?・・・あ、ごめん」

 

 神楽坂は直情的なタイプだから一度感情が高ぶってしまうと、普通だと中々元には戻らない。戻すためには何でもいいからワンクッションが必要だ。要するに、冷静になるための切っ掛けを作ると案外戻り安い。マスターの薀蓄話の一つだが、なかなかどうして侮れない。

 

予め用意しておいたハンドタオルを神楽坂に渡す。神楽坂が顔を拭いている間に私は台拭きで零れた麦茶を軽く拭いておく。気持ちを落ち着かせるように顔で拭うと神楽坂も落ち着いてきたらしい。私に使い終わったハンドタオルを手渡す神楽坂の瞳にはちゃんと理性が戻っていた。顔は相変わらず熟れた林檎のように真っ赤だが。

 

「慌てすぎだって。いつもクラスで弄られてるだろ?」

 

「パルとか朝倉に弄られるのはある程度耐性がついてるけど、千雨ちゃんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったのよ・・・」

 

 神楽坂は疲れたように、テーブルの上で腕を組み顎を乗せる。いきなり私と聡美の部屋に呼ばれて緊張した顔つきだったが、先ほどのやり取りでそんなものは吹き飛んでしまったらしい。悪い悪い、と謝る私に胡乱気な視線を寄越す。

 

「大体なんで今、そんなこと言わなくちゃいけないのよ」

 

 まったくその通り。いきなりクラスメイトの部屋に呼び出されたかと思えば、片思い中の男について語れだなんて、ただの悪質な罰ゲームだ。

 

「あー・・・気になったから、じゃ駄目か?」

 

 神楽坂は何故高畑を好きになったのだろうか。頼りがいのあるイケメンが選考基準であれば、そんなものは麻帆良を探せばいくらだっているだろう。自分の倍ほど生きている高畑を選ぶ必然性なんてどこにもない。

だから神楽坂が何故高畑を選んだのか、そこには明確な理由があるはずで。

その明確な理由は一体なんなのか、私と神楽坂の違いはどこにあるのかを知りたい。

 

そんな諸々の思いを混ぜた『気になったから』だったが、神楽坂としてはそんな言葉一つで納得できるものではない。

 

「そりゃあ高畑先生の魅力についてなら1時間は話せるけど。それなら別に今日じゃなくてもいいんじゃない?1週間もあればどうせまた弄られることになるわよ」

 

 不貞腐れたように神楽坂はそう言うが、神楽坂本人の口から語られるからこそ価値があるのだ。3-Aはその場のノリで生きているような連中だが、弁えるところは弁えている。神楽坂が本当に嫌がっているようだったら弄るのを止める程度の分別は、あいつ等は持っている。

 

つまり教室で語られるものは表面上のものだけだ。私が知りたいのはもっと深く踏み込んだ部分。無茶苦茶なことを要求していると自分でも理解しているが、今日を逃したらもう永久に一歩を踏み出せなくなりそうだった。

 

「なんでいきなり急に・・・ハッ!?もしかして千雨ちゃんも高畑先生の事が!?」

 

「いや、それは違う」

 

 昼ドラのようなドロドロの三角関係などご免だ。神楽坂がヤンデレと化したら冗談抜きで私は殺されるんじゃなかろうか。学校に警察を呼ぶような展開なんて嫌すぎるので、そこはキッチリと否定しておく。

 

「別にふざけてるわけじゃねえんだ。私も結構悩んでさ。もしかしたら神楽坂の話が私の悩みを解決するための鍵になるかもしれないって思って。・・・気を悪くしたなら謝る。でも私も真剣なんだ」

 

「いやそんな頭を下げられると私も困るんだけど。・・・ああもう、分かったわよ!話すわよ!話すから頭上げて!私がすごい悪者みたいじゃない!」

 

 最終奥義『情に訴える』が功を奏し言質を取ることに成功する。もちろん申し訳ないという気持ちは本当にあったから、真摯な態度で頭を下げた。

 

「悪いな神楽坂、恩にきる」

 

「このくらいいいわよ、いつもの焼き増しみたいなものだし。あ、でも一個条件付けてもいい?」

 

「条件?」

 

「うん、だって私だけ喋るなんて不公平じゃない。だから私の話が終わったら、千雨ちゃんがいきなりこんな話を聞きたがった理由を教えて。これが条件」

 

 バカレッドの癖に強かな真似をしてくれる。神楽坂が全てのカードを握っている以上、私の神楽坂の条件を呑むしかない。それはちょっと、と悪あがきするが、最終的にため息をついて了承するはめになった。見下していたわけではないが、バカレッド相手に手玉に取られるというのは中々衝撃的だ。

 

「その前に新しい飲み物でも持ってくるよ。・・・そういえば、神楽坂ってコーヒー飲めるか?」

 

 神楽坂のイメージ的に飲めそうになかったが、聞いてみると飲めるらしい。新聞配達のバイトに行く道すがら、自動販売機で眠気覚ましのコーヒーをたまに買うのだとか。

 

エスプレッソでも作りたい気分だが、生憎エスプレッソマシンもマキネッタも持ち合わせていない。だから今日は深煎りのイタリアンローストでもご馳走しよう。

深い苦味は神楽坂の話にいい感じにアクセントを加えてくれそうだ。

 

 




 正月の番組でよく『富士山の頂上からご来光を』みたいなものがよくありますよね。でも別に富士山に限定しなくたって他の低い山に登ればいいし、太陽なんて一個しかないんですから家で見ようが富士山の頂上で見ようが、本質的にまったく同じものです。

にも関わらずあれほど感動できるのは、途中の悪路であったり、天候不順であったりとか、そういった障害を乗り越えてきたからだと思います。つまり気の持ちようです。
『長谷川千雨は喫茶店に足を運ぶ』ではそういった人間特有の微妙な部分を描写したくて頑張っています。物語も佳境ですが、是非最後までお付き合いください。

話は変わりますが、感想で『珈琲時間』という漫画を薦められたので買ってみました。地味ですが、余韻を味わうのにいい作品だと思います。本屋で見かけた際には手に取ってみてはどうでしょうか。

感想、意見お待ちしています。


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7話


※随所にお酒の力を借りて悶絶しながら書きました。一応推敲してますが、もしかしたら文脈的におかしなところがあるかもしれません。
※明日菜がキャラ崩壊していますが、仕様と思って諦めてください。

上記の注意事項に留意し本編をご覧ください。


コーヒーの湯気が立ち上る。ブラックよりも苦味にキレを持たせたイタリアンローストだが、神楽坂の方は意外というか、案外気に入った様子だった。子供教師にギャーギャー喚いているいつもとは違い、マグカップを傾けるその仕草だけでぐっと大人びて見える。あの神楽坂が大人というのは致命的に似合わない気がしたが、こうやって面と向かって観察してみると案外似合っている。

 

「・・・美味しいわね、これ」

 

 マグカップの中のコーヒーをまじまじと見つめながら神楽坂が言った。行儀悪く肩肘をついてマグカップを揺らすだけの動作だが、どことなく、なんというか表現に困るが気品というものがあるように見えた。一瞬そんなことを考えてしまったが、気品という神楽坂からほど遠い名詞にうすら寒いものを覚える。

 

「缶コーヒーのブラックとかよりも苦いけど、飲みやすいわね。千雨ちゃんってこんな特技あったんだ」

 

「ん?まあな。今回淹れたのはイタリアンロースト。苦味は強いけど、いいもんだろ」

 

 私としてはちょっと雑味が混じってしまっているようで今回の出来は満足いくものではないが、流石にそのレベルを神楽坂に要求するのは酷だ。美味しい、と言ってくれるだけで今回は十分。

 

雑談をしながら一服。弛緩した空気に身を任せすぎてしまうと本題を忘れてしまいそうになるため、私としても少々名残り惜しいが、話を進めることにする。

 

「高畑先生とは年も大分離れてるだろ?なんで高畑先生を好きになったんだ?」

 

「いや、それは・・・」

 

 神楽坂は真顔で言われると恥ずかしいわね、と頬を掻いた。

 

「今はこうやって寮生活だけど、初等部の頃は高畑先生のところにお世話になってたのよ」

 

 私の真剣な顔を見て観念したのか、ため息を一つつき、話し始める。

 

「そうなのか」

 

 初めて聞いた話だ。高畑は神楽坂の保護者で神楽坂は子供教師の保護者。この三者になんらかの因果関係があるのではないか、と邪推してしまうのは私の性格が捻くれているからだろうか。まあ今日のところは関係ない。

 

「そんな積極的に誰かに話すような事でもないしね。この髪留めも高畑先生からのプレゼントよ」

 

「へえ」

 

 大きな鈴の付いた髪留めを手で触りそう教えてくれる。髪留めについているベルが揺らされたことでチリン、と音を立てた。毎日付けてくるから思い入れのあるものだとは思っていたが、まさか高畑からのプレゼントだったとは。

 

素人の見た感じだが、そうそう高いものでもないと思う。ところどころ小さい傷がついているし、長期間使用したことで全体が傷んでいる。きっと似たようなものを探せばいくらでも見つかるんだろうけど、神楽坂はこの髪留めが壊れてしまうまで大切に使っていくのだろう。

 

「私にとって高畑先生が一番身近な異性だったし、優しくしてくれたし。好きになったのはまあ、そんな理由かな」

 

 話はそこで終わり、神楽坂は残りのコーヒーを流し込む。そんな神楽坂が私にとっては意外だった。

 

「・・・・結構あっさりしてるな」

 

 だからそんな言葉がついてでた。

 

「あっさりって?」

 

「いや、私としては長々と話し込むとばかり思ってたからさ」

 

 クラスで早乙女達に口を割らされている情景を思い出す。大抵は開き直ったように堂々と頬を赤く染めながら赤面ものの話をマシンガンのごとくまくしたてて周囲を引かせていた。だからこそ今日の話も長丁場になると思ってコーヒーを用意したのだ。

 

「高畑先生の魅力なら何時間でも語れるわよ。でも、今回は『なんで好きになったのか』でしょ?だったらそんな時間かからないわよ。『好きだから好き』でいいでしょ」

 

「好きだから好きってなぁ・・・」

 

 確かにそれが一つの真理であることは否定しないが、そんなあやふやな理由で高畑を追っかけていられるのだろうか。なんせ同い年の男子を好きになったのと次元が違う話だ。その恋を実らせるには些か以上に障害物が多すぎる。

 

サバサバした性格だが、恋愛事には奥手な神楽坂だ。告白まで行きつくどころか途中で力尽きてしまうかもしれない。いや、きっとその方が可能性は高いだろう。

 

「年齢差はどうするよ?結構離れてるぞ」

 

「恋愛に年齢なんて関係ないなんて言うつもりはないわよ。でも年齢差なんて気にならないくらい好きなのよ」

 

 しょうがないでしょ?という風に神楽坂は笑った。

 

「高畑先生は確かに頼れる大人だけど、完璧な人間じゃねえぞ?」

 

 喫茶店での高畑との会話を思い出す。あそこで語った高畑はなんでもできる頼れる大人なんてものじゃない。自分の道に悔恨し、誰かに打ち明けたいほどの悩みを抱えていた。けれど学校ではそんな様子はおくびにも出さなかった。あれはきっと高畑なりに意地を張った結果だろう。

 

「そんなこと分かってるわよ。掃除はしないし、料理は作れないし、洗濯物は放置するし、時々悩んでるみたいだし、案外ズボラなところもあるわよね。・・・ううん、完璧じゃないから好きなのかもね」

 

 完全であるならば、寄り添う相手なんて必要ない。不完全だからこそ寄り添うことに意味があり、支えてあげたい、と神楽坂は言った。

 

「中学生と教師だぜ?もし付き合うようになったら、よくわかんねえけど、それって法律的にまずいだろ」

 

 年齢や他の問題ならばまだどうにかなるかもしれない。けれど今度ばかりは法律というどどうにもならない壁が立ちふさがる。麻帆良は大概のことがどうにかなる程度にはぶっ飛んだ場所だが、それでも法律というものは絶対的なものだ。

 

「いくらでも待つわよ。そのぐらいの覚悟はできてる」

 

 けれど、神楽坂は言い切った。力強くも自然体な姿は気負っている様子など見当たらない。きっと待つことで芽があるのであれば、いつまでも待つことができるんだろうと私は思った。

 

「彼女がいてもおかしくないし、結婚してもいい歳だぞ?」

 

 客観的に見ても高畑は条件の悪い物件ではない。長身で紳士的な性格だし、英語教師ということもあって語学も堪能。又聞きだが、朝倉の怪しげな情報筋によると同じ英語教師である源しずなとの関係が噂されているらしい。あのパパラッチの言をマトモに受け取ろうとは思わないが、源先生は美人だし未婚だ。可能性として十分あり得るだろう。

 

「彼女ならまあ、なんとかなるかもしれないけど。さすがに結婚したらどうしようもないわね」

 

 これにはさすがの神楽坂も困ったようだった。下手に介入すればどんな修羅場が生み出されることか想像もつかないし、下手をしなくても高畑の幸せをぶち壊してしまう可能性もある。

 

「諦めんのか?」

 

「ううん、告白する」

 

 さすがにそこまで来たら諦めてほしい、と内心で思いながらの言葉だったが、神楽坂はそう断言した。

 

「いや不倫でもするつもりかよ」

 

「ははは、高畑先生がそれを望むならそれもいいかもね。けど高畑先生、きっと断るんだろうなぁ・・・」

 

 こいつは悪質なストーカーにでもなるんじゃないだろうか、と慄きながらの言葉だったが、神楽坂は顔を曇らせてそう返しただけだった。きっと神楽坂が好意を寄せる高畑ならきっぱり断るはずだ、という確信があったのかもしれない。

 

「断られたら?」

 

 少し意地悪な物言いかな、とは思いつつも聞いてみる。私の言葉に神楽坂は悲しそうに首を振って答えた。

 

「さすがに結婚までいってたら諦めるわよ。高畑先生の家庭に亀裂をいれるようなまねしたくないしね。でも結婚もしてなくて彼女もいなくて、単に年齢差で断られたんだってならきっと諦められない」

 

「・・・いやなんつうか、すげえな」

 

 純粋にそう思った。すげえとした表現できない自分の貧相な語彙に呆れる。教室でのガキ臭い神楽坂の姿は鳴りを潜め、私の目の前にいるのは一人の女性だ。あの先輩がカッコイイだの、あの人イケメンじゃない?などというよくありがちな女子中学生の恋愛の範疇には収まりきっていない。

 

神楽坂のそれは本当の意味での恋愛であり、高畑に向けている好意の感情の中には女子中学生の恋愛では到底感じさせるはずのない愛が見え隠れている。

――――高畑、アンタは果報者だよ、こんないい『女』に好いてもらってさ。

 

「そう?でもこのくらい当たり前じゃない?同級生好きになったわけじゃないし、障害が多いのは当たり前でしょ」

 

 そう言ってみせる神楽坂。茨の道を目にしてもなお笑って見せる神楽坂の姿を見て、初めて私は神楽坂のことを羨ましいと思った。

 

「障害が多いってもんじゃないだろ。勝率は限りなく低いぜ?」

 

 これは言わなくてもいい言葉だと分かっていたけれど、口に出してしまった。私の心をもやもやと覆うそれは、もしかしたら嫉妬という感情なのかもしれない。もしくは羨望だ。神楽坂のことを羨んで私は憎まれ口をきいてしまっている。

 

「そんなことパルとか朝倉とかから散々言われてるわよ。自分でも分かってる。でも」

 

 神楽坂はこちらを見据える。左右色の違うオッドアイには私の顔が映っていて、心の中を見透かされているようだった。

 

「私ってバカだからそれでも諦められないんでしょうね。『勝率が限りなく低い』程度なら初めから好きになってないわよ。諦めてしまったら確率はゼロだし」

 

 これくらい私でも分かるわよ、と神楽坂は言い。こいつにはかなわないな、と私は独り相撲ですら敗北喫した。ため息が出る。なんというか、格の違いを見せつけられた気分だった。

 

「なんつーかお前って・・・やっぱすげえな」

 

「うん、それは聞いたけど。これって結構普通のことでしょ?」

 

「いやぁ『好きだから好き』でそこまで突っ走れるとかすげえよ。私じゃ無理だ」

 

 神楽坂はうーんそうかなー、と首を捻る。

 

「ほらよく少年漫画とかで言うじゃない。『~~なのは理屈じゃない』とか」

 

「言いたいことはなんとなく分かるけど、漫画と現実をごっちゃにすんなよ。世の中大抵理屈だと思うぞ?」

 

 私はそう反論するが、神楽坂の方は私とは違う意見のようで、そうでもないんじゃない?と言葉を続ける。

 

「千雨ちゃん、好きな食べ物ある?」

 

 脈絡もなく、そんな疑問を私に投げかけた。

 

「なんだよ急に」

 

「いいからいいから」

 

 急かす神楽坂に向かってため息は吐き、数秒間考えて答えを出す。

 

「好きな食べ物って、まあ・・・コーヒー、かな」

 

 より正確に言えば嗜好品にカテゴリされるが、同じようなものだろう。

 

「じゃあなんでコーヒーが好きなの?」

 

「なんでってそりゃ・・・美味いから」

 

 勿論細かい理由なんていくらでもあるが、最終的に『美味いから好き』というところに着地する。

 

「うん、私が高畑先生の事を好きなのも同じよ。好きだから好き」

 

 きっとそういうのは理屈がどうこうじゃないのね、と神楽坂は言った。神楽坂の乱暴な理論に少しだけ納得してしまう自分がいる。暴論といえばそれまでだが、なんとなく筋が通った意見のようにも感じる。

 

神楽坂が高畑を好きになるまでに様々なことがあったはずだ。きっと好意を寄せるに足る相応しい理由というのもあったのだろう。神楽坂が言いたいのは『色々あって好きになった。好きだから好き』という極シンプルなものだ。そんなことを考えている私に、神楽坂は言っておくけど、と前置きをして言う。

 

「高畑先生のこと本当に好きになっていいのかなって一時期は、それこそ知恵熱出すくらい色々考えたわよ?でも結局それって自分に嘘ついてるだけじゃないかなって」

 

 現在ではオジコンの名を欲しい侭にしている神楽坂だが、恋心を自覚した当初は様々な葛藤があったのだという。それを意外に思う気持ちもあったが、それよりも神楽坂が言った『嘘をついている』という言葉が私の心に深く突き刺さる。

 

「嘘をついている、か」

 

「んー。嘘をついているっていうか、誤魔化しているって感じかな。年も離れてるしとか、教職についてるから、とか言い訳みたいなことばっかり考えちゃってね。そのお蔭で一番大切なことを忘れかけていたのよ」

 

「大切なこと?」

 

 ええ、と神楽坂は頷いた。

 

「結局のところ年齢差とか職業とかそういうのは全部オマケなのよね。それなのに私はオマケの方にばっかり目が行ってたの。バカみたいでしょ?高畑先生が好きっていう一番大事な部分から目を背けようとしてたんだから」

 

 オマケとは言うが、神楽坂も年齢や職業が重要なファクターではあるのは理解できているはずだ。話は単純で、そんなものが気にならなくなってしまうほど高畑のことを好きになってしまったんだろう。

 

――――ああ、本当に、コイツには敵わない。

 

私もこんな風に、純粋に真っ直ぐ、誰かの事を思えたなら。それはきっととても幸せなことなんだろう。高畑の事を語る神楽坂は活き活きとしていて、嬉しそうな表情をしていたから。

 

「やっぱそんな風に考えられるとかすげえよ。神楽坂って、実は頭いいんじゃないか?」

 

 2年の期末考査では中々良い成績を取っていたようだし、勉強をしないだけで頭の出来そのものは悪くないんだろうと私は推察している。実は私もバカレンジャーほどではないが、成績はよろしくない。神楽坂達の成績が上がるということは相対的に私の順位が下がるということで、最近ではポストバカレンジャーの位置づけを食らってしまうのではないか、と内心戦々恐々しているのだ。

 

「千雨ちゃんが深く考えすぎなのよ」

 

 きっと物事ってもっと単純よ?と神楽坂は苦笑しながら言った。下手な考え休むに似たり、という言葉もある。私は知らず知らずのうち、考えることで思考停止状態に陥っていたのかもしれない。答えはとうに出ていたのかもしれない。けれど、その答えを表に出すのが恥ずかしくて、これまでの関係が壊れてしまうのが恐ろしくて、自分で自分を誤魔化していたんだろう。 

 

「なあ神楽坂」

 

 今日、神楽坂の話を聞いてよかったと心からそう思う。けれど私が神楽坂に対してできることなんて、これだけだ。

 

「なに?」

 

「告白はするのか?」

 

「・・・うん。今年の麻帆良際の時に告白しようかなって。ずるずる引き摺るのもよくないしね」

 

「そっか。・・・頑張れよ」

 

 短い言葉に可能な限りの気持ちを込めてエールを送る。私と境遇のよく似た神楽坂に。私の気持ちが伝わってくれたのだろうか。私の言葉に神楽坂は驚いたような表情をつくり、その後照れたような表情で微笑みを浮かべ、頷いた。

 

 

「それはそれとして、千雨ちゃん。聞きたいんだけど」

 

「・・・なんだよ」

 

 先ほどまでの大人びた様子とは一変。野次馬根性丸出しでニヤニヤ笑っている神楽坂の顔面に拳を叩き込みたくなる衝動を抑え、聞き返す。

 

「話す前に言ったじゃない。私が話したら千雨ちゃんもその理由を話してくれるって」

 

 そのニヤニヤ笑いを止めろ。さっきまでの大人びた神楽坂はどこに行ったんだ。あと、流石に察してるだろうから、今日はもうお開きにしないか?いやしてくれませんか?

 

「何いってるのよ。駄目よ」

 

 懇願するも当然却下される。そりゃあれだけ神楽坂から恥ずかしい話を引き出しておいて、知らんふりを決め込むなんて許すはずがない。机越しににじり寄ってくる神楽坂は一種のホラーだ。

 

そんな神楽坂から逃げるようにして、現実逃避ぎみにマグカップに視線を向けるとまだ底の方に染みのように黒ずんだコーヒーが残っている。それを眺めているとふと、ある名言を思い出した。言い回しが気に入っているのか、マスターが何度かドヤ顔で語っていたものだ。

 

マグカップをほぼ垂直に傾け、残りのコーヒーを飲み干す。

『人間の意思の力はその人が飲んだコーヒーの量に比例する』そんな名言を胸に秘め、苦味の強いこのコーヒーが、私の背中を押してくれますように、と願いながら。

 

「ああ、聞いてくれるか、神楽坂。実はさ」

 

 ――――好きな人が、出来たんだ。

 




6話と7話の出来がイマイチなんで、もしかしたら書き直すかもしれません。特に7話。
ちょっと話の展開に無理があるかなーと思ったんですが、無理やり進めました。

今回の話の前にタカミチを狙った張り込中の明日菜が、喫茶店でばったり千雨と遭遇してしまった話であったり、マスターと茶々丸が猫と戯れたりしている話だったり、最近娘が冷たいんだと愚痴るガンドルフィーニの話だとか、色々書きたいことはあったんですが。どう考えても短編の域で終わりそうになかったので、そういうものは丸々カットしました。

おそらく次回が本編最終話になります。どういう風に落ち着くかというのは大体考えてありますので、今回ほど時間はかからないかと思います。

今回遅れた理由は友人に進められたPSYCHO-PASS に嵌ってしまい、HELLSINGとかそっち方面にも手を伸ばしてしまった結果です。PSYCHO-PASS の二次小説はほとんどないみたいなんで、誰か書いて欲しいですね。

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プロローグ

「ところで長谷川さん、エピローグってどう思います?」

 

 マスターがそんな話題を投げかけたのはいつの頃だったのか忘れてしまったけど、その時の会話は不思議と心の中に残っている。なにげない会話の断面を切り取って頭の中に貼り付けたように。

 

「エピローグ、ですか?どう思うって言われても困るんですけど・・・」

 

 いきなりエピローグをどう思うかなんて言われても反応に困る。エピローグとはエピローグでしかないというのが私の考えで、おそらく大多数の人も同じような反応だと思う。唐突にそんな哲学染みた話題を投げかけてくるのは大分慣れたけれど、未だにマスターの思考回路の全貌は明らかになっていない。

 

けれど、そんな風に気兼ねなく私に話題を振ってくれることが私を身近に感じてくれているようで、単純だと自分でも思いながら嬉しかった。

 

「『どう思うかと言われても困る』。まあそれが普通の反応ですよね。けれどワタシはエピローグという言葉があまり好きではないんですよ。いや、好きではないというかしっくりこないというのが正確ですかね」

 

 ふむ、と腕を組んで唸るマスター。

 

「はあ、それはまたなんでですか?」

 

 エピローグ、という言葉のどこに問題があってしっくりきていないのか、とんと見当もつかない。

 

「そうですね、どういう風に言えばいいのか・・・。まずはエピローグとはどういうものか知っていますか?」

 

 さすがにエピローグの意味くらいは私も知っている。本とか漫画を読んでいると頻繁に目にかかる単語だ。実はマスターがこういった誰でも分かるような単語の意味を尋ねるということは以前にもあった。その時は馬鹿にされているのかと思ったけれど、ディベートや討論の際には誰もが知っているような言葉でも定義づけというものが大事らしい。線引きを曖昧にしてしまうと、話し手との間に齟齬が生じてしまうのだとか。

 

「物語の結末、小説とか漫画の結びの部分ですよね」

 

「そうですね、それであっていると思います。けれどワタシはふとこう思ったんですよ。そもそも『物語の結末』とはなんなのでしょうか?」

 

 言いながら、壁に寄り添うように置かれている本棚から一冊の漫画を取り出す。それは以前、マスターが私に見せた漫画だった。その漫画の最終巻。差し出されたそれを受け取りページを捲る。最後は王道ファンタジーものらしく『魔法使いは悪者を倒し、姫と仲睦まじく暮らしました、めでたしめでたし』、そんなありふれたハッピーエンド。

 

「魔法使いが悪者を倒してハッピーエンド。それはそれで素晴らしい終わり方だと思いますが、これは物語の終わりなどではなく、むしろ始まりではないだろうか、そうワタシは思ったんですよ」

 

 悪者を倒し世界を救った魔法使いの少年はエピローグでは立派な青年へと成長し、世界中を飛び回っている。多才ながらも充実した生活を送っているのだろう、と笑顔を浮かべている様子から想像できる。

 

「この漫画は終わってしまいましたけど、彼らの物語は最後まで、死ぬまで続いていきます。彼らの人生は未だ終わっていません。もしかしたら悪者を打倒する以上に困難な出来事が待ち受けているかもしれませんよね。だから私はエピローグという言葉に違和感を感じるんですよ。彼らの冒険はここからが始まり、プロローグであってもエピローグではないとね」

 

 ワタシのような考えは異端かもしれませんけどね、とマスターは苦笑した。

 

「ならマスターはどういう最終回なら良いと思うんですか?」

 

 水出しコーヒーに舌鼓を打ちながら、私は言った。

 

「そこに不満があるなら、満足のいく結末を自分で考えればいいじゃないですか」

 

「満足のいく結末ですか・・・」

 

 マスターはうーん、と首を捻り腕を組む。

 

「そうですね、例えば――――」

 

 それからのことは覚えていない。古ぼけたブラウン管がショートしてしまったかのように映像はそこでブツ切れだ。あの時マスターはなんといったのか、それは最早忘却の彼方に置かれてしまったけど、無理に思い出すことも改めて問いただすこともしなくていいだろう。大事なのは自分の頭で考え、そして自分の足で歩くこと。

 

小説や漫画の最終話。それがハッピーエンドでもバッドエンドで終わっても、その物語の中に生きる彼らの人生が終わるというわけではない。読者が最後のページまで熟読したとしても、それだけでは観測できない、語られない彼らの人生がある。

 

歩んだ人生を物語風に纏めるとしたら、きっとエピローグも起承転結もないのだろう。そんな風に区分けして語ることができるのは綺麗にまとまった物語の中だけだ。だからこれから私が語るのはエピローグでもなんでもない、これからも続いていく物語のほんの一幕。

それでもあえてサブタイトルをつけるとしたら、やはりプロローグが相応しい。

私の人生はきっとこれからが始まりだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テレビドラマにありそうな劇的な変化なんていうもの、現実にそうそうあるものではない。泥沼の三角関係であったり莫大な借金であったり、そんなものは一介の女子中学生である私にとってはまったく縁のないものだ。だから続いていくのはちょっと非常識な連中達と一緒に過ごすただの日常。それだって日々を過ごすたび違う景色が広がり、私を退屈させることはない。

 

麻帆良学園が、クラスメイトの連中が非常識だとか、そんな風に心の中で罵倒していたけれど、彼らはまごうことなく『ただの人間』だということを知った。

悩みを抱え心を痛め能天気に笑って。結局私となにも変わらない、ただの女子中学生。

私が孤独にいた時だってクラスメイトの連中は私の手を引っ張ってくれようとしてくれた。それを払いのけたのは私で、結局そんな因果が自分に返っていただけだ。

非常識な連中であることは今更否定できやしないけど、今考えてみると捻くれ者の私に手を差し出してくれるなんて私よりよっぽど出来た人間だ。

心の中で文句を垂れているだけで事態が好転するはずがない。そんな当たり前のことは知っていたはずなのに。

 

時は金なりとはよく言ったもので、経過した時間を取り戻すことは今さらできない。過去とは過ぎ去った時間であり、過去を教訓に生かすことはできても過去そのものをなかったことにはできない。

中学校に入って2年近くも無駄にしてしまった、そういう考えもあるかもしれない。

けれどその過去がまったくの無駄であったなんて私は思わない。

だって、あの無為に見える時間があったからこそマスターと出会うことができたのだから。

それはまさしく奇跡の一端だ。

 

「奇跡とは、人間の力や自然法則を超えたできごとを指すそうです」

 

 正面の立つマスターが私の心を読んだようにマスターはそう切り出した。思わずマスターの顔をまじまじと見てしまうけれど、いつもと変わった様子はない。こんな話題を切りだしたのは偶然のようだ。

 

「では一体、奇跡とはどこからどこまでを指すと思いますか?」

 

「奇跡の範囲、ですか。日常生活で言ったら、宝くじが当たるとかですかね」

 

 想像力の貧困な私にはこういう俗っぽい奇跡しか思い浮かばない。

 

「ええ、それもまた奇跡の一つだと思います。けれどワタシはこう思います。私と貴方がこうして対面していることもすでに奇跡なのではないか、と」

 

 なぜか心臓が締め付けられる音がした。

 

「人生は選択の連続だ、と以前言いましたよね。その選択によって多くの平行世界、所謂パラレルワールドが生まれます」

 

 例えば道を右に曲がるか左に曲がるかそんな選択でも平行世界とやら出現するという。右に曲がるか左に曲がるかで発生する事象が異なるから、選択しなかった方はifの未来として分岐する。

 

「何千何百という選択ではありません。何億何兆という取捨選択の結果、今私達二人が向いあっている。これは奇跡ではありませんか?それこそ一等の宝くじが当たるよりも遥かに」

 

 今過ごしている日常は数えきれないほどの、それこそ那由多を超える奇跡が連続して存在している。これが奇跡でなくてなんなのだろうか。そう熱っぽくマスターは語った。

もし、私がこの喫茶店の訪れていないとしたらきっと今でも私は部屋に半分引き篭もるようにして一人でパソコンを弄っているんだろう。そんなifの私を想像して苦笑が零れる。

 

本当に、『この世界の私』は幸せだ。

なあ『別の世界の私』、アンタは今幸せか?

もし自分の事を不幸だとか、麻帆良の異常者共にはついていけないだとか、そんなことを考えているなら今すぐそんな考えは捨てた方がいい。

いつか誰かが助けてくれるなんて悲劇のヒロイン気取っても無駄だ。誰かが背中を押してくれたとしても最後は自分で考えて自分の足で歩かなきゃ意味なんてない。

幸せの青い鳥なんて其処ら中にいくらでも飛んでる。それを掴もうとするか見逃してそのまま腐っていくかは全部自分の責任なんだ。

 

麻帆良が異常だなんて、とうの昔に分かってるんだ。でもそれが学園生活を楽しまない理由になんてならないだろ?周りの連中全員まともな人間に見えなくて、自分一人だけが異端に感じて臆病になってるんだろうけど、それは違う。確かに非常識な連中だけど、話してみれば分かる。あいつ等だってただの人間なんだ。

少なくとも私は胸を張って言えるよ、周りは揃いも揃っておかしくて螺子が数本飛んでるやつらばっかりだけど、それでも一緒にいて楽しいって。

 

神楽坂とは一緒に勉強する仲になった。神楽坂は意外に英語が出来て、この前小テストで負けたのがショックだった。私は数学がそこそこできるのでそこで役割分担ができている。芋づる式に近衛とも喋るようになって時々勉強を教えてもらってる。

 

聡美との仲も良好だ。聡美は私生活がズボラだからあれこれ世話を焼いている。聡美は私の事を周りに喋ったのか、麻帆良大学に忘れ物を届けに行ったときに茶坊主、もといコーヒー坊主をする羽目になった。まあ喜んでもらったみたいだからいいけど。

 

聡美つながりで超とも話すようになった。中学生にして麻帆良随一の天才とか、雲の上の存在に思っていたけど、自分の事を火星人と称したり事あるごとにボケをかましたり中々面白い奴だ。超は私を突っ込み要員と見ている節があるが、分かってるなら少しは自重してくれ。

 

隣の席の綾瀬は、私が本を読んでいると向こうから話しかけてきた。私が読んでいたのはマスターから勧められた哲学書で、その著者がなんと亡くなった綾瀬の祖父だという。それからは本の話題で盛り上がったりする仲だ。ただ事あるごとに奇天烈なジュースを飲ませるのはやめてくれ。なんだよ超微炭酸ラストエリクサーって。 

 

そして驚いた事に絡繰と話すようにもなった。プラプラと歩いていた時、絡繰とマスターが揃って現れた時の私の驚きようといったら、失神寸前までいったと言っていい。マスターが猫好きなのは知っていたが、まさか絡繰まで同好の士だったとは。クラスでは文字通り機械染みた様子の絡繰だったが、ここでは子供達に物凄く好かれていた。猫と接する絡繰は感情が上手く表現できない幼子のようで、何故か微笑ましくなった。

 

私でも出来たんだ。大丈夫、『別の世界の私』にもきっと簡単にできるさ。

 

「そういえば眼鏡、外したんですね」

 

 無い方もよくお似合いですよ、とマスターは微笑む。不意打ち気味にそう言われて咄嗟の顔を伏せた私を誰が責められようか。クラスでは裸眼も随分慣れたつもりだけど、未だこの喫茶店では慣れない。

 

「まあ、なんというか・・・そう、決意表明みたいなものです。あれは伊達眼鏡でしたし」

 

 伊達眼鏡を外すことのなにが決意表明かと言われそうだけど、私にとっては大きな一歩だ。その後はマスターにその決意表明の内容を追及されるがなんとか躱していく。その内容と目の前のマスターが深く関わっているなんて言えるわけがない。いつか私の心の裡を吐露する時が来るかもしれないけれど、それは少なくとも今じゃない。

 

それでも、いつかきっと。

 

誤魔化すようにして水出しコーヒーを口を運ぶ。

――――うん、美味しい。

今のところはこれで十分かな。

 

 

 

 

「じゃあな、マスター。また来るよ」

 

 あれからほんの少しだけ私とマスターの距離は近くなった。小さいようで大きい変化。

 

ああ、やっぱりこれはプロローグだ。

本筋の展開に先だつ前置きの部分で、まだ物語の序の序。

 

「ええ、またのお越しをお待ちしています――――――千雨さん」

 




俺達の冒険はここからだエンド。
実際この話は打ち切りみたいなものですから。書こうと思えばまだまだ書けるんですが、風呂敷広げすぎて未完結でエタるというのが一番怖いので無理矢理感を出しつつも本編は完結という形になります。本編で触れたようにこの話は赤松ワールドのパラレルワールドみたいな感じで書いてます。こういう可能性もあったんじゃないかな、という筆者の妄想。

プロローグではあえて具体的な描写はしないようにしました。明日菜との会話後、マスターと千雨の間に何があったのか、そういった部分はカット。その部分は各々脳内で補完してください。一応マスターの名前とかも考えていますが最後まで出しませんでした。閑話を書くとしたら、名前の部分に触れるかもしれません。

需要がないだろうなと思いつつ書いてましたが、温かい応援を頂きなんとか完結まで持ってくることができました。感想をくれた方、お気に入り登録をしてくれた方、閲覧してくれた方々、本当にありがとうございました。

感想、意見お待ちしています。


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0話

 茶々丸さんが可愛過ぎて生きるのがつらい、そんな話。


 

 きりきり、と発条が巻かれる音がする。一巻き毎に込められた魔力が体内の電子回路に染み渡るように深く浸透していく。起動してからまだ日も浅く、電子頭脳が感情を習得するにはまだ時間がかかる。だから、顔を覆うように細かく張り巡らされているアクチュエーターが動かされることはない。表情そのものを作ることはできる。けれどそんな表情を作る必要性などそもそもない、という自身の思考ルーチンが下した判断だった。

 

「こんなものか。どうだ茶々丸、魔力の方は十全か」

 

 主であるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが発条を抜き、後ろから茶々丸にそう声をかけてきた。茶々丸は無言で立ち上り、体を軽く動かす。

 

「Yes,master.魔力の質は高純度です。動力エネルギーとして使用するに問題はありません。シーケンス制御にも不備は見当たりませんので十全と判断します」

 

「そうか。・・・よし、私は別荘に籠る。お前には暇を出すから今日は自由に過ごせ」

 

「・・・Yes,master.それでは今から夕食の買い出しに行って参ります」

 

 茶々丸はただのガイノイドではない。魔法と科学という本来相反する技術の粋を込めて作り上げられ、現段階のロボットでは到底持ち合わすことのできない疑似的な自我すら持っている。そういう意味で、茶々丸は既にロボットの域を超えていた。自身の意思を持つロボットを、果たしてロボットと言えるのだろうか。

 

そんな茶々丸であるが、製造し起動してから未だ一年足らずと経験が不足している。思考ルーチンが完全に完成されていないため、先ほどのように返答までに時間がかかってしまう。暇を出されるということは自由に過ごせということであり、それは自身で考え自身で答えを出せということだ。人間にとってはなんでもないことだが、未だ自我とプログラムの境界が曖昧な茶々丸にとって、それは中々難解な問題だった。

 

「まあ、それも大分マシになってきてるんだがな。あとは経験を積ませることか」

 

 エコバッグを手に掲げ、ログハウスから出ていく茶々丸の後ろ姿を眺めながら、エヴァンジェリンは呟く。未熟な従者が日々を過ごしていく中で少しづつ成長していくのを見ていくのは、中々悪いものではない。

 

「そうだな、あとは何か切っ掛けがあればいいんだが・・・」

 

 

 

 

 

 正直に言ってしまえば困ったというのが茶々丸の本音だった。食材の詰まったエコバッグを片手に、オロオロすることしかできない。足元に視線を向けると、そこにいたのは猫。しかも数は一匹ではなく三匹。その三匹が何故か茶々丸の足を枕にするように眠っていた。

 

茶々丸が猫に絡まれたのが10分ほど前。野良猫のようだが、人馴れした様子の猫は茶々丸に警戒心を抱くどころか、向こうからすり寄ってきた。猫は一般的に気紛れな性格であるから放っておけば向こうから離れるだろうと判断しされるがままだったが、猫の方は茶々丸を気に入ったのか足を枕にして寝だした。

 

茶々丸には高度な電子頭脳が埋め込まれており、一度経験したことを学習し、それを応用して思考ルーチンに加えることができる。だが逆に言えば一度は経験しなければならないということだ。勿論一般常識的な事ならば初期の段階でインプットされているが。日常生活における一般常識は応用することで大抵の物事には応用が利くが、さすがに『足元に寝付かれた三匹の猫を起こさないようにどうやってどかせばいいのか』なんてものは都合よくデータベースに載っていない。

 

他の人の力を借りようにも無駄なエネルギー消費を抑えるため、人通りの少ない最短ルートを選んでいる。ちらほら通り過ぎる通行人は茶々丸には目もくれず過ぎ去っていく。まだ時間の猶予は大分あるが、だからと言って無為な時間を過ごしていいわけではない、そんな思考は茶々丸にはあった。

ならば猫達を気にすることなくどかしてしまえばいいのだが、未熟な感情の表層に現れる『ナニカ』がその行動を否定する。それが彼女の持つ優しさであるということにまだ茶々丸は気づいていない。

 

「――――おや?」

 

 不意に前方からそんな疑問符を付加された言葉を茶々丸の耳に搭載されたマイクロフォンが捉えた。茶々丸が視線を向けると10メートルほど前方に一人の青年がいた。猫のアップリケが取り付けられたエプロンを着用し、眼鏡をかけた青年。茶々丸と猫達に視線を向けるとおおよその事情は察したのか、苦笑しながら柏手を一つ。

 

鳴った音はそれ程大きなものではなかったが、猫達は直ぐに目を覚まし、青年の姿を確認すると茶々丸から離れて青年の方にすり寄ってきた。先ほどまで茶々丸を寝床替わりに扱っていたのに薄情なものだ。それが猫らしいとも言えるが。

 

「すみませんね、猫達がご迷惑をかけたようで」

 

「いえ、かまいません」

 

 会釈するように軽く頭を下げる青年に茶々丸が返す。実際、困ったとは思っていても迷惑だとは何故か思わなかった。

 

「貴方の飼い猫なのですか?」

 

「野良猫ですね。一度余りものをあげてしまったら懐かれてしまって」

 

 青年が慈しむように猫の頭を撫でると、猫は嬉しそうにニャー、と鳴いた。

 

「週に一度ほど、餌を与えているんです。あまり良くないということは分かっているんですが・・・」

 

 ワタシ猫が好きなもので、と言葉を重ねる。

 

「そうだ、時間があるならこの子達に餌をあげてみませんか?」

 

「私が、ですか?」

 

 予想外の提案に帰路につこうとした茶々丸は足の動きを止める。それは何故か抗いがたい魅力に溢れた提案のように思えた。

 

「ええ。ワタシには懐いていますけど、この子達は警戒心が強い方なんですよ。それなのに初対面の方に懐くのは本当に珍しい。きっと猫に好かれやすい体質なんでしょうね。あなたも猫好きそうですし、どうです?」

 

 茶々丸は掲げたエコバッグに視線を向ける。今日買ったのは大根や人参などの野菜類と切れかかっていた洗濯用洗剤だ。直ぐに冷蔵庫に入れなければならない生ものや冷凍食品の類はない。真夏ならともかく、今は肌寒くなってきた10月上旬。野菜類なら常温でも問題はない。時刻も昼を過ぎた頃で、帰宅する時間と夕食を作る時間を逆算した結果、3時間弱ほどの猶予がある。

 

エヴァンジェリンが自身に暇を与えた理由は茶々丸にも理解でしている。茶々丸はエヴァンジェリンが作成した他の人形たちのように魂を吹き込まれたわけではなく、基本的にはプログラムで動作している。未だ自我とプログラムの境界が不明瞭で思考ルーチンは不安定だ。そのため数回ではあるが、動作エラー、回路のオーバーヒートを起こしかけたこともある。

 

エヴァンジェリンは自身に思考させることで、思考ルーチンをより円滑にしたいのだろう。経験を積めばそれだけ進化するが、基本的にエヴァンジェリンの側を離れることがないため、一般人との接触が少ない。エヴァンジェリンが度々自身に暇を与えるのはその機会作りのきっかけだ。

 

つまり猫に餌を与えるというのも一つの経験であり、その経験を通しステップアップすることができる。ひいてはそれが主であるエヴァンジェリンの要望を叶えることに直結するのだ。

長々とした『言い訳』に正当性を持たせる。こんなところでスパコンに引けを取らない電子頭脳はフル回転した。

 

「分かりました。ご一緒させていただきます」

 

 思考すること僅か数秒、その間に人間が知恵熱を出しかねないほどの演算処理を行い、頭を下げて肯定の返事をする。断じて猫に興味があるわけではない、そう自分に言い聞かせて。

 

 

 

 

 

 

 

 青年を先頭に茶々丸がその右後ろに控えるようにして続く。3匹の猫は互いにじゃれ合いながらも2人に続く。舗装された道路を少し外れた場所を数分ほど歩き続け、辿り着いたのはちょっとした開けた広場のような場所だ。手を使うからと青年に言われ、エコバッグは倒れないように木に寄り掛かるようにして置いた。

 

一見すると他に猫などいないようだったが、青年に着いてきた猫が一声鳴くと、付近の茂みから3匹の猫が勢いよく飛び出してくる。計6匹に増えた猫は腹が減ったというように鳴きながら青年と茶々丸にすり寄ってくる。

 

「なんというか、猫っていうのは現金というか都合がいいというか。そういう部分も含めて猫が好きなんですけどね」

 

 言いつつ、バッグから幅の広いビッグサイズの猫の缶詰とプラスチックスプーンを取り出し茶々丸へ渡した。

 

「ゼリー状に固まっているので、スプーンで解してから地面に置いてください」

 

 青年は手本を見せるようにして実演してみせる。缶詰を地面に置くと、待ってましたとばかり猫が缶詰に群がった。同じように茶々丸がするとちょうど半分、3匹の猫が茶々丸の置いた缶詰の方に群がる。互いを押しのけるようにして缶詰を奪い合い、あっという間に缶詰の中身は綺麗になくなった。

 

リラックスした様子の猫に触れてみる。猫は逃げるどころか、嬉しそうに鳴いて身を任せてきた。掌の温度センサーが人の体温よりも少し高いことを教えてくれる。心臓の拍動する音が掌を通じて伝わる。茶々丸には存在しない、生命の息吹。壊れ物を扱うように、手慣れない手付きでおずおずと猫の頭を撫でてみる。むずがるような猫をレンズに捉え、胸中に生まれたものは一体何なのか。

 

ああ、まただ。

頭が痛い。埋め込まれている電子頭脳が過剰に働いているせいだ。

胸が痛い。心臓にあたる部分に位置する動力高炉が軋みを挙げているせいだ。

それは初めての経験ではない。これまでに何度か経験してきたものだ。

その旨を葉加瀬に伝え、内部構造をスキャンしても異常は見当たらなかった。

エヴァンジェリンにその旨を伝えると、何故か嬉しそうに笑った。

 

――――茶々丸、それは多分感情と呼ばれるものだ。

――――ありえません。私はガイノイドです。動力部に何らかの不備が発生した、そう判断しています。

――――ククク、まあいい。命令だ茶々丸。それがなんなのか、自分で考えてみろ。思考ルーチンに身を任せるのではなく、自分の意思でな。

 

主たるエヴァジェリンの命令は絶対だ。それに反発しようなどと露とも思わない。

意味もなく苦しませるような命令をする方ではない、というぐらいには理解がある。

けれど、何故こんなことを自分にさせるか茶々丸には分からなかった。

あるのはただ不可解なエラーだけだ。

 

「感情とは、なんなのでしょうか?」

 

 気が付くとまるで縋るかのように、救いを求めるかのように茶々丸は青年に言葉に投げかけていた。軽く意識が飛んでしまっていたようだった。

 

「私はガイノイドですが、葉加瀬曰く疑似的な感情が生まれる余地があるそうです。ですが私には感情というものが理解できません。観測することは可能ですが、それを自己プログラムに取り入れるには私の処理能力を超えた演算シュミレートを行う必要があるため、演算途中でオーバーヒートしてしまいます」

 

 青年と茶々丸はいわば行きずりの関係だ。こんな自分の心情を吐露するような信頼関係を結んだわけではない。エヴァンジェリンにすらこんな事は言ったことはないのに、何故かこの青年にはなんの抵抗もなく話せることができた。この人が好さそうな青年ならば、一つのアドバイスをくれるだろうという非論理的な考え。

 

「不可解です。私の電子頭脳は人間のソレとは比較できないほどに優秀であるはずです。なのにどうして人間はいともたやすく感情を表現できるのですか。なぜ私には表現できないのですか。どうして」

 

 あなたは、笑うことができるのですか。

 

 青年は困ったように笑うのが茶々丸の網膜レンズに映し出される。なぜそんな風に笑うのかという理由は茶々丸にも理解できる。けれどどうやったらその表情が作れるのか、ということは茶々丸には理解できなかった。

アクチュエーターを動員することで、表情そのものを作ることはできるだろう。けれど、表情を発生させるに至るプロセスはあまりにも複雑怪奇だ。

茶々丸には感情を習得したい、という強い願望があるわけではない。あくまでエヴァンジェリンを補佐するために作られたのだから、感情を習得するなんていうのは副次的なものだ。

けれどどうしようもなく苦しいのだ。連鎖的に発生する機能エラーは機能不全に陥ってしまう寸前までに茶々丸を追い詰める。

 

「感情、ですか」

 

 笑顔から僅かに表情を引き締め、青年は考えるようにして軽く目を瞑る。

 

「ワタシはロボットの専門家でもありませんし、心理学にも詳しくないので難しいことは言えませんけど。自分の感情で悩む必要なんてないんじゃないでしょうか」

 

 感情について悩んでいる茶々丸に、青年はそもそも感情で悩む必要はないと言った。

 

「冷たいようですが、他人の感情なんて多分誰だって分からないんですよ。そもそも感情そのものの定義が不明瞭です。ですので感情とは何かという問いには、そんなものは誰にも分からないという答えしか返せませんね。それと、感情を理解できないと言っていましたが、そうですねえ、哲学的ゾンビというものはご存じですか?」

 

 行動的ゾンビは外面の行動だけ見ていては、普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持っているものだ。それに対し哲学的ゾンビとは脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビのこと。

要約すると簡単で、『認識できる自分は感情を持っていると理解できるが、認識できない他人は感情かあるかどうかは理解できない』というものだ。

 

「あなたはワタシが感情を持っているという確信があるようですが、それは実証できません。つまり、ワタシが感情を持っているかどうかなんてワタシ以外誰にも分からないんですよ。それはもちろんあなたにも言えることです」

 

 青年が茶々丸を指で指す。

 

「ワタシはあなたが感情を持っているかどうかなんて分かりません。それが分かるのはあなただけです。つまり、感情は自分が持っていると思えば持っているものなんですよ、乱暴に言ってしまえばね。『感情とはどういうものであるか』そんなものは誰にもわからないんですから、自分の中に感情と思えるナニカがあれば、それは感情と言っていいでしょう。自分で決めてしまうものなんですよ、結局はね。さて、それでは聞きましょう」

 

 あなたには感情があるのですか?

 

自分のは感情があるのか、それともないのか。それは誰かに観測されて認識するものではなく、自分の意思で決めるものだと。茶々丸の問いは、自分のところに戻ってきた。

認めるか否か、答えはどちらか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 現行の技術では感情のあるロボットを作り出すことはできないと言われている。

けれど、外見上感情を持ったように見えるロボットを制作することは可能だ。

例えば、人間が経験をするであろう全ての出来事をシュミレートし、その無限に近い条件分岐の反応パターンを機械に組み込むとしよう。人間と同じように振る舞い、反応するロボットは果たして感情があるといえるのだろうか。

 

人間も形のないアルゴリズムに従って行動していると捉えるならば、人間ですら高度なプログラムによって行動しているロボットと捉えることもできる。

機械が感情を得ることができるのか、それは結局思考実験の範疇であり、それを実証することはできない。

何が感情なのか。

感情が何なのか。

そもそも感情など存在するのか。

なにも、何一つさえ分からないのに、答えが出るはずがない。

 

もう一つ、終わらない問題を投げかけてみよう。

感情の有無で人間とロボットの境界を定めるとしたら、その線引きはひどく曖昧だ。

人間は人間である。

事故によって四肢を失い、代わりに義手と義足をつけた者も人間だ。

今の技術では不可能だが、事故によって全身をサイボーグ化した者がいるとしよう。それだって多くの人間が彼は人間だ、と判断するだろう。

ならば。

自我を持ち、感情を取得したロボットはただのロボットに過ぎないのだろうか。

 

 

 

 

 

 ふらふらとした足取りで茶々丸は帰路についていた。思考にエネルギーを費やした結果、足の駆動に回す動力エネルギーが心もとなくなっているのだ。。10月ともなれば太陽が沈むのも早くなる。ログハウスに着いたのは落ちていく太陽の西日が眩しい時間だった。

 

「なんだ茶々丸、随分と遅かったな」

 

 エヴァンジェリンは既に別荘から出てきていた。リビングのソファにだらしなく寄り掛かりながら行儀悪く文庫本を開いている。そんな様子を横目に見ながら、遅くなってしまい申し訳ありません、と頭を下げる。

気にするな、という風にエヴァンジェリンはパタパタと手を振って応えた。

 

「ああそうだ茶々丸。帰ってきて直ぐでなんだが、何か温かい飲み物でも淹れてくれ。この時間帯になると大分冷えるからな」

 

「Yes,master.」

 

 茶々丸はそう言い、キッチンに入っていった。

 

 

 

「む?」

 

 エヴァンジェリンがそんな言葉を発するのと、茶々丸がキッチンから出てくるのは同時だった。何時も飲み物といえば紅茶を淹れるのが普通だったが、微かに漂う香りは紅茶のものではなく。

 

「コーヒーか・・・」

 

「お嫌いでしたか?ログにはそのような記録は残っておりませんが」

 

「いや、別に飲めるが。いつもはコーヒーじゃなくて紅茶だろう?それが不思議に思ってな」

 

「いえ、今日出会った方からアドバイスを頂きました。『たまに美味しいコーヒーを飲んでみると、世界が変わるかもしれない』と」

 

「ほう・・・」

 

 エヴァンジェリンが感心するように唸る。初めて聞いた言葉だが、老獪な哲学者が書物に記したような、深い含蓄のある言葉のように思えた。

何気ない事でも、初めて経験した出来事は自分の可能性を広げることができるかもしれない、おそらくそんな意味を含んだ言葉だろう。600年の蓄積がある自分にとって最早縁遠い話ではあるが、微笑ましい従者に付き合うのも悪くない。

 

「ふむ、悪くない。たまにはこういうのもな」

 

 市販の粉を使っているのであろうが、紅茶と同じくその味も中々のものだった。

 

「ところでmaster,なんの本を読んでいたのですか?」

 

「ん?ああ、別荘の書庫に転がっていた本だ」

 

 やや古ぼけた表紙を表にする。デカルト著の『方法序説』だった。

『我思う、ゆえに我有り』という言葉を残したことで有名だ。多分、多くの人が一度くらいは聞いたことがあるだろう。

 

一切を疑うべし、という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、その疑っている自身の意識作用が確実であるなら、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑うことができない。つまり、『自分は本当は存在しないのではないか?』と疑っている自身の存在は否定できないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

――――分からない。

青年から投げかけられた問いの返答。それが茶々丸がオーバーヒート寸前まで悩んで出した結論だった。

 

「それでもいいと思いますよ。人間が本当に感情を持っているか、なんて分かるのは神様だけですから。けれど、あなたという存在は今この瞬間に確固たるものになったのではないのでしょうか。少なくともワタシはそう思います」

 

 なぜならば、と言葉を続ける。

 

「意思こそが、自身が自身であると決定づける最大の要因である、とワタシは考えているからです。あなたは悩みました。悩み、意思を持って分からない、と言った。ならば少なくともあなたには自分の意思があるということなんでしょう。『あなたは今ここにいる』。取りあえず、今日はそれで充分なのでは?感情なんてものは移ろい変わりゆくものですし、ゆっくり時間をかけて学んでいけばいいでしょう。結論づけるのはそれからでも遅くはありません。それでも余裕がなくなってしまう時は・・・そうですね、コーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせてください」

 

「コーヒー、ですか」

 

 何故コーヒーなのだろうかと茶々丸は疑問を抱きながらも、次の言葉を待つ。

 

「ええ。――――たまに美味しいコーヒーを飲んでみると、世界が変わって見えるかもしれませんよ」

 

 冗談めかすように肩を竦め、青年はそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 絡繰茶々丸は生まれたばかりの赤ん坊だ。その赤ん坊の困ったところはなまじ優れた頭脳を持ってしまったことか。理論的に物事を考えることはできるが、それしかできない融通の利かない電子頭脳。

一人取り残された赤ん坊が自分には感情が存在するのだと、胸を張って断言できる日はいつかくるのか、それとも未来永劫来ないのか。少なくとも、それは今ではないことは確実だ。

不確かな情報で世界は満ち溢れている。

それでも茶々丸にも確固たる自信を持って言えることが一つだけあった。

 

『私はここにいる』

 

 コーヒーが好きな青年が教えてくれた、ただそれだけを。

 




 時系列としては原作が始める1年ちょっと前。彼女達が麻帆良中学に入学してまだ1年目の10月。
0話と書いた通り、千雨はまだ喫茶店に通っていません。前日譚みたいな感じで書きました。今回は視点を変えて三人称。元々茶々丸メインで話を書こうと思ったんですが、茶々丸コーヒー飲めないんじゃんと気づいて急きょ千雨に変更。ただ茶々丸さんが好きなので書いてみました。
まだ起動してから1年足らずということで、かなりロボロボしている印象があります。ただところどころに未熟な感情が見え隠れしていて、戸惑っている感じ。今回は書くのがえらい難しかったんです。哲学とかも絡んできましたし。俺なにが言いたいんだろと書いていて思いましたが、あまり深く突っ込んでくれないと助かります。

当時漫画を見ながら思っていたんですが、茶々丸が実際に存在するとしたらロボットなのか人間なのかそれともどちらでもないのか。そのあたりどうなんでしょうかね。筆者はあまり学のない人間なんでそのあたりが分かりません。詳しい方がいたら感想で是非教えてください。

それと、オリジナルの方で『枝垂れ桜と幽霊少女、その他諸々』を掲載しています。こちらは連作ものの短編集になっています。時間があればそちらの方も閲覧と感想をお願いします。おそらく今週中に2話目を投稿できると思うので。



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Silver girl 〈上〉

べ、別に新しい感想もらったから嬉しくて、わざわざ時間作って新しい話考えたわけじゃないんだから!
勘違いしないでよね!


 1年間365日の中で本当に何もない日というのはきっと存在しない。祝日や記念日といったカレンダーに載せられているもの以外に、例えば親しい人の誕生日であったり個人とってはちょっとした特別な日であったり。今日なにげなく過ごしている日というのは誰かにとっての特別な日。それはもちろん私にも例外なくあてはまるわけで。

 

今日という日が他人にとってどれだけありきたりな1日であったとしても、私にとって今日は特別な日だ。

平常心平常心、と息を整える。深呼吸をし心臓の鼓動を落ち着かせる。いつも何気なく開いている喫茶店の扉が深淵へと続くような魔界の扉に見えてきた。それは間違いなく錯覚なんだろうけど、それくらいの重度のプレッシャーを感じさせるのだ。

私がなぜこんな魔王に挑む勇者の如く必死の覚悟で喫茶店の扉と対峙しているのか、話は今から1週間前に遡る。

 

 

 

 

 誕生日というのは誰にでも等しくやってくるもので、それはマスターも同じ。以前の雑談でさりげなく誕生日を聞き出していた私は普段から世話になっているということもあってなにか贈り物をしようと画策していた。問題は一体なにを贈れば喜んでもらえるかというところで、正直なところ何をプレゼントしたらいいのか皆目見当もつかなかった。

 

マスターがどんな人物かと聞かれると、案外その質問に答えるのは困窮する。

マスターは若いにも関わらずどこか老獪な雰囲気を漂わせていて、若者にありがちな快活さというか、そういうものがそっくり抜け落ちている。その代わりにあるものが齢を重ねた老人のような安心感で、話していると時折この人は本当に見た目通りの年齢なのだろうかと勘繰ってしまうことがある。

 

物欲が薄く、悟りを開いた僧侶のような超然とした態度を見せることもあり、そういった姿勢はまるで最近の若者らしくない。初めて出会った時の印象は落ち着きがあって穏やかそうな人というものだったが、交流を深めていって改めてマスターの人物像を脳内で構成していくと、この人もこの人でどこかしらが一般人とかけ離れている気がしてならない。勿論、それが悪いというわけではないけれど。

 

――――分からん。

数日悩んで出した結論がそれだった。とはいえその時は焦ってはいなかった。まだ誕生日までには十分な時間があったし、いつかアイデアも浮かぶだろうと思っていたのだ。

そんな考えのまま1日また1日と過ぎてゆき、あれよあれよという間に誕生日は1週間後に迫っていた。

 

誰かの協力を仰ぐというのは気恥ずかしさも相まって避けたかったが、タイムリミットが迫っているこの状況でそんな我を通すわけにもいかず、親しい友人に相談を持ちかけることにした。

 

「男の人が貰って喜ぶようなもの、ですか?」

 

「ああ。その、マスターの誕生日が来週でさ、なにか渡そうと思うんだけど何も思い浮かばなくてさ」

 

 相談相手は同室の聡美だ。一番気安い相手であるし、マッドなところを除けば良識もあるほうだ。少なくとも誰かに吹聴するようなことはないだろう。少なくとも、早乙女あたりよりはよっぽど信頼できる。あいつもあいつで引き際くらいは弁えているが、その引き際の線引きがかなりシビアだ。

 

特に親しいということないし、ラブ臭どうこう言っているから初めから選択肢にすら入っていないが。神楽坂は親身になってくれそうだが、あの子供教師が事態を引っ掻き回してくれそうな予感があったため今回の件では頼らないことにした。

 

「女子校通いだし男の人と喋る機会なんて殆どないだろ?でも聡美はよく大学に行ってるから、なんか思いつくかなって」

 

 何しろ私の身近な異性といえば父親とマスター、担任の子供教師くらいだ。年上の異性に誕生日プレゼントを贈りたいけど何がいいかなんて流石に父親には尋ねられないし、子供教師に至っては論外だろう。もしもそんな暴挙にでたら自身の尊厳をいくつか失いそうだ。

 

交友関係が極端に狭い私と違って、聡美は工学関係でよく大学に赴いているためか交友関係は広いし、大学ならマスターと同じ年頃の男なんてたくさんいるだろう。

 

「誕生日プレゼントというわけですか。そうですねえ、研究室の人達ならパソコンのマザーボードでもあげれば喜びますけど」

 

「いやまあ、マスターは喜ばないんじゃねーかな」

 

 マスターは喜ばないどころか工学関係の代物を貰って喜ぶのは一部の工学マニアくらいだろう。私だってパソコンの扱いには多少自信はあるが、そんなものを貰ってもどうしようもない。置き場所に困るだけだ。

やっぱりそうですよね、と言うあたり聡美も本気で言ったわけではないらしい。うーん、と顎に手を置き考える。

 

「やっぱりコーヒーに関係するグッズとかはどうですか?」

 

「それは考えなかったわけじゃないけど、大抵の代物はマスターが持ってるからなぁ・・・」

 

「あー、成程」

 

 マスターといえばコーヒーと等号で結べるほどだが、だからこそコーヒーに関連する商品は抑えているだろうし、マスターが持っていないだろうという商品は高価すぎて私では手が出せない。ちなみに今回の私の予算は5000円ほど。

 

「田中さん(仮)を喫茶店用にカスタムするというのはどうでしょうか?」

 

「いや、それはやめとく」

 

 聡美の提案に私はほぼ反射的に首を横に振った。田中さん(仮)がどんなものかは知らないが、どうせ麻帆良工科大学の粋を集めて作られた明らかにオーバーテクノロジーなロボットだろう。目からビームでも出そうだ。そんな物騒なものあの喫茶店に配置させるわけにはいかないし、それは聡美からの贈り物であって私からの贈り物ではない。

 

私にとっての誤算は聡美もまがりなりにもあの3-Aの面子の1人ということだった。貶すわけではないが、聡美も大分一般人からは感性がズレている。普段から年上の男性との付き合いがあるから良い意見を聞けると思ったが、聡美にとって大学生達は一緒に馬鹿をやる悪友の関係に近いらしい。友人以上の付き合いはないとのこと。結論としては失礼な話かもしれないが聡美は大して役に立たないということがわかっただけだった。

 

「喫茶店でしたら衛生面が気になるでしょうし、お掃除ロボというのは?」

 

「あの喫茶店は掃除の手間がかかるほどの広さはないし、あの人けっこうアナログだからな。多分もらっても使わないと思う」

 

「ならメイドロボ!メイドロボはどうですか!ほら、男のロマンですよ!?」

 

「・・・とりあえず工学関係から離れてくれねーかな」

 

 あーでもないこーでもないと話しあうものの、実りのある結果はなにもでなかった。

 

 

 

 

「誕生日に何が欲しいか、ですか?」

 

「ええ、来週マスターの誕生日じゃないですか」

 

 聡美との話し合いを終えた私はいつもの喫茶店でマスターにそう尋ねていた。何を贈ればいいかわからない?なら本人に聞けばいいじゃない、と開きなおったわけではない。話題を振ってマスターから情報を引き出そうとしたところ、あっさり看破され逆に口を割らされたというなんとも情けない結果だ。頭隠して尻隠さず状態の私は傍から見ればただの間抜けだったようで、微笑ましそうにするマスターの表情の意味を理解した私は羞恥に顔を染めた。

 

「そんな気を遣わなくてもいいんですよ?店の売り上げで言えばお世話になっているのはむしろワタシの方ですし」

 

「ハハハ、まあいいじゃないかマスター。他人の好意は素直に受け取っておくものだよ」

 

 そう言うのは私の1つ席を挟んで座っている高畑。私の援護射撃をしてくれているようだが、先ほど私の口を割らされた時にへらへら笑っていたあたりいまいち信用ならない。うるせえアンタは黙って唐揚げ食ってろと内心毒づいて鬱憤を晴らす。

 

「とは言いましてもね。欲しいもの、欲しいものねえ・・・」

 

 数分間ほど唸るように考え込んで出したマスターの答えは

 

「――――そうですね。パっとは思いつきませんね」

 

 特にないらしい。それが遠慮とかではないからタチが悪い。

 

「そういう答えが一番困るんですけど」

 

 なんでもいいというのは自由度は高いということだが、その正解を手繰り寄せるのはとても難しい。自分で考えて文章を書いて答える問題と三択の記号問題、どちらが難しいかと聞かれれば圧倒的に前者だろう。

 

「ワタシは高校を卒業して一人で麻帆良に来ましたからね。交友関係も広いとはいえませんし、祝ってもらえるだけで充分ですよ」

 

「つまりだね千雨君、マスターはこう言ってるんだ。――――君から貰えるものならなんでも嬉しい」

 

 むう、と難しい顔の私を見た高畑が余計な茶々を入れる。多分教師という立場が無かったらつま先を意図的に踏んづける程度のことはしてるだろう。というか学校での高畑と喫茶店での高畑は大分性格が違うような気がする。なんというか、いつもよりも子供っぽい。胡乱気な私の視線に気づいたのか、高畑が苦笑しながらコーヒーを口に運ぶ。

 

「まあ、実際のところ高畑さんの言う通りですね。千雨さんからもらえるものならなんだって嬉しいですよ」

 

 こういう台詞を臆面もなく堂々と言ってのけるのがマスターの厄介なところでもある。自分の言葉の1つ1つがどんな影響力を持っているのか、この人はまるで理解できていないのだ。

 

「そういうのって自分のセンスが問われるから困るんですよね・・・」

 

 実際のところ私が何を贈ったとしてもマスターは喜んでくれるんだろう。なんでもいいやと割り切れたら簡単なんだろうけど、優柔不断な私の性格ではそれも難しい。釣果はボウズ。マスターと高畑に恥を晒されたあげくハードルが上がっただけだ。今日は厄日だ、と項垂れる。

 

「せめて具体的でなくてもいいですから、こういう感じのものがいいとかありませんか?」

 

「・・・まあ、強いていうならこの喫茶店の雰囲気に合うようなものですかね」

 

「雰囲気にあうもの、ですか?」

 

 それもまた難しい注文だ。より難易度が上がった気がする。結局は私のセンスが問われるわけで。どっこいしょと爺臭く腰を上げる。マスターと高畑の悪乗りの相乗効果は馬鹿にはできない。これ以上二人の玩具になるつもりはなかったので、今日のところは退散することにする。

 

「おや千雨さん、帰られますか?」

 

「はい、御馳走様でした」

 

 いつものように500円を手渡し、店を出ようとする。今日が丸1日時間が取れる最後の日になるだろうから、街へ繰り出して色々と物色しなければならないのだ。

 

「ああ、そうだ千雨君」

 

 私が扉の取っ手に手を掛けるのと同時、背後の高畑から呼びかけられる。私は渋々と―――勿論それを表情に出すような真似はしないが―――振り向き、なんですか、と高畑に尋ねる。

視界に入った高畑の顔はこれまでのへらへらとした軽薄そうな笑顔ではなかった。だからといって教師の顔ではない。それはまるで娘の成長を喜ぶ父親のような純粋そうな顔で、

 

「頑張りなさい」

 

 高畑はそう言った。なにをだ、とは聞かなかった。

 

 

 

 

 気持ちが籠っていればいいなんて言ってくれたけど、気持ちを込めたゴミを渡したところで喜んでくれるはずもなく。結局主軸になるのはどんなものを贈るかということだ。当たり前といえばそうなのだが。

人混みの雑踏の中に紛れ、そんなことを思う。

 

マスターの性格や『喫茶店の雰囲気に合うもの』という限定条件があるものの、どうにも抽象的で上手く範囲を狭めることが難しい。喫茶店の雰囲気に合うものという点から、聡美が提案したロボットの類は無理だろう。時代に逆行しているかのような喫茶店にロボットは壊滅的に似合っていない。

 

置き物ならやはりアンティークの類だろうか。ピンキリだが、小さくて安いものなら私の予算でも手に入る。ただこのあたりは私のセンスがモロに反映されるからあまり手を出したくないというのが本音だ。もし失敗したら漬物石の代わりにもならない。リスクが重すぎる。

 

「お?」

 

 考え事をしながらぼけっと無計画に歩いていたせいか、街の中核を少し抜けたところの公園に出てしまう。それだけなら引き返せばいいだけだが、私は逆に公園の中へと歩を進める。

公園は普段とは別段の賑わいを見せていた。整えられた芝生の上にはブルーシートが引かれ、その上には洋服や小物の類がところせましと並べられている。そんな光景が公園の至るところで見ることができた。

有志によって開かれたフリーマーケットだろう。

 

別になにか期待があったわけではない。ちょっとばかり歩き疲れたというのもあるし、半分くらいは気分転換の気もあった。だからまあ、このフリーマーケットで誕生日プレゼントを発見できたことは僥倖と言ってもいいだろう。

 

 




なんとなく、活動報告をはじめてみました。なにかありましたらこちらへどうぞ。


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Silver girl 〈下〉

黒歴史確定。
疲労と酒の相乗効果は怖い。
大したことは書いていませんが、活動報告も更新しましたので時間がある方はそちらもぜひ。


 そのフリーマケットで売られているものは日常生活でよく使うよう小物から本当に売れると思って出品しているのか疑いそうになるような巨大で用途が不明な置物っぽいものなど、多岐に渡る。値札がかけられてないものもあり、それらは交渉で値段を決めるようだった。

 

小市民な性格のせいか、冷やかしお断りな高級志向のデパートのような場所よりもこういった青空の下のごったがえした様子のフリーマーケットの方が随分と気が楽だ。初夏というにはまだ早く感じる梅雨の明け、その名残を感じさせる中途半端な蒸し暑さが不快指数が押し上げていくが、それを微風が緩和してくれる。去年までの暑くなったらクーラー三昧の堕落しきった生活から比べると私も随分と進歩したものだと思う。

 

適当にプラプラと歩いていくと、ふと一人の女性の姿が目に入った。ジーンズなどの動きやすい服装が多い中、黒を基調とした修道服姿は明らかに異端だった。スカートの丈は結構短く、コスプレかとも思ったがそれにしてはコスプレで使うような安っぽい生地ではない上に、それを身にまとう女性の姿も随分と堂に入っているように見える。

 

興味半分で近づいてみるとその姿が明確になる。やはり見間違いとかでないらしく、キチンとした材質で作られた修道服だ。そしてさきほどは女性と表現したが随分と若い。もしかしたら私とそれほど違わないのかもしれない。

 

「うん?」

 

 シスターの横顔を捉えた私は奇妙な既視感に襲われた。この状況に対してではなく、そのシスターの顔にだ。そう、この顔はどこかで見たことがある。しかも結構な頻度で。

頭巾で髪型は分からないため、思い浮かんだ人物に頭巾の分を足し算する。そして1つの答えが浮かんだ。

 

「もしかして春日か?」

 

 3年A組 出席番号9番 春日美空

ベリーショートの髪が特徴の陸上部。短距離走では神楽坂と対等に渡り合えるという。この場合、陸上部と張り合える神楽坂が凄いのか、あの神楽坂と渡り合える春日が凄いのか。同じクラスというだけで交友関係があったわけではないから顔見知り程度だ。せいぜい寮の廊下で会ったら挨拶するくらい。私の声を聞き取った春日は壊れたブリキの玩具のような引き攣った動きでこちらの方を向き、すぐに顔を明後日の方向に反らした。

 

「だ、誰ですか、その春日さんというのは」

 

 誤魔化すつもりらしい。ご丁寧に声色まで変えているが怪しいことこの上ない。

 

「いや、お前春日だろ」

 

「違います、私はただの敬虔なシスター見習いですから。春日美空なんて人は知りません」

 

「名前言ってんじゃねえか」

 

 ツッコミ待ちかと思ってツッコんだが春日の方はしまったと言わんばかりの顔をしていた。素で言ったらしい。コイツは芸人の才能があるなとどうでもいい感想を抱いた。

 

「あれ、長谷川じゃん!こんなところで何してんの!?」

 

 どうやら先ほどの一連の流れを無かったことにしようとするつもりらしい。私も面倒だったので余計なことは言わないでおく。ヤケクソ半分開き直り半分で声が裏返りかけている春日は見ていて面白いし。

 

「何してるって。たまたまここ見つけて見て回ってるだけだよ。春日こそ何してんだ?教会から何か出品してんのか?」

 

「いやだから私はシスターじゃなくてシスター見習い、でもない・・・これはホラ、コスプレだから!」

 

 その必死な否定っぷりはなにかの強迫観念にとらわれてるようだった。だが残念ながら私の前でコスプレイヤーを自称するには十年ほど時間が足りていない。コスプレの基礎からやり直してこい。

 

「いやそれはもういいって。修道服似合ってるし、隠すことないだろ」

 

 春日というと普段の言動から活発的な印象ばかり受けるが、お淑やかなイメージの修道服姿も似合っている。馬子にも衣装というわけではなく、元々の素材がいいのだろう。別に可笑しなことを言った覚えはなかったが、何故か春日の方は目を剥いて驚愕していた。

 

「・・・クラスの皆にバラさない?」

 

「いやしねえよ、そんなこと」

 

「え?馬鹿にしないの?私がシスター見習いってものすごく不似合じゃない?」

 

「馬鹿にするって・・・そこまで性格悪くないぞ、私は。確かに春日は修道女ってイメージはないけど、信仰は人の勝手だし、いいんじゃないか?」

 

 春日が修道院で聖書を朗読している姿。瞼を閉じて神に祈りを奉げている姿。その断面を切り取ってみれば完成された絵画のように様になっているだろう。修道女が似合わないということはきっとない。というか信仰に似合うも似合わないもあるのだろうか。

 

修道女の生活というものがどういうものか詳しくは知らないが、その信仰生活は楽なものではないだろう。快適な生活な捨ててまで信仰の道に生きているのだ。尊敬はあれど、馬鹿にするなどありえない。普段鳴滝姉妹と悪戯に勤しんでいるのも禁欲生活の反動だろう。そうは見えないけど春日も見えないところで頑張っているのだと、そう考えてみると春日のはた迷惑な悪戯も笑って許せそうだ。

 

「あ、言っておくけど私が自分の意思でシスター見習いやってるわけじゃないから。親から無理矢理放り込まれただけだからさ」

 

 私の尊敬を返せ。というか一体なにがあったら修道院入りを強制されるんだ。私の白けた視線を感じ取った春日は慌てたように、いやいや神様はちゃんと信じてるから、と言い訳した。

 

「・・・はぁ、まあいいや。で、結局なんで春日はここにいるんだ?今回のフリーマケットになにか関係あるのか?」

 

「うん、今日のフリマは麻帆良教会の主催でやってるから。管轄は違うけど、私も一応監督役として派遣されてんの。教会からもいくつか出品してるから、見に来てよ」

 

 残ったやつの処分とかめんどいしねー、といってのける春日。よくこいつは破門されないな、と思うと同時に春日の教育者に深く同情した。私なら確実にさじを投げる。

 

半ば強引に手を引かれ案内される。それを煩わしく思うことなく苦笑しながら付き合えるようになったのは、春日の持つ人徳なのだろうか。それともそれは、私の成長なのだろうか。

 

 春日に案内されるまま教会が出品しているというエリアへと足を運んだが、待っていたのは修道服に身を包んだ褐色肌の女性だった。春日は『げぇっ!!シスター・シャークティ!?』と叫んでそのまま逃走しようとしたが、首根っこを掴まれてあっさり捕縛された。

 

鬼がいる。思わずそう言いそうになる口を理性を総動員して抑え込む。もしもそんなことを口走ってしまっては私も折檻、もとい教育の対象となってしまいそうだ。

春日はアイアンクローの餌食になった挙句、後に掃除と神父による説教が確定した。アイアンクローを継続されたまま説教をくらうその姿には同情が湧きそうになるが、現場をほっぽり出してサボっていたらしい春日を擁護するのは躊躇われた。蛙の断末魔のような呻き声をあげる春日を置いて逃げようとしたが、それをシスター・シャークティに目敏く発見される。

 

「貴女は美空の友人ですか?」

 

「ええ、まあ、クラスメートですけど」

 

 もしかしてこちらに飛び火するのか、と身構える。シスター・シャークティは春日の顔面を拘束していた右腕を外し、申し訳なさそうな顔で頭を下げる。

 

「すみません、美空が迷惑をかけたようで」

 

 なにが驚いたかといえば先ほどまでの悪鬼の表情をあっさり消したこともそうだが、こちらからなんら事情を聴くことなく状況を完全に把握していたらしいことだった。こういうのも信頼関係の一つなのだろうか。あまり羨ましくない信頼関係だ。

 

「あーいや、別にいいですよ。何か買おうと思っていましたし」

 

 同年代かもしくはそれ以下ならば抵抗はないが、どう見ても自分より年上の女性に頭を下げられて面食らう。まるで無理矢理自分が頭を下げさせているような、そんな錯覚に陥ってしまうのだ。

そう言っていただけると助かります、いえいえ、などと社交辞令のような会話を続ける私達の傍らで、春日は龍宮をそのまま小さくしたような子の足に縋り付いていた。

 

 ガミガミと小言を喰らった春日も反抗の意思はしばらく消え失せたのか、おとなしくブルーシートに体育座りで店番をしている。私は品物の物色だ。シスター・シャークティは先ほどまで春日が縋り付いていた少女―――ココネというらしい―――を伴って他の場所へと移動した。他の場所で値段交渉で諍いが起き、それを仲裁しにいくとか。

 

「ああ、やっとシスター・シャークティが行った」

 

 心底安堵したように春日が声を漏らした。

 

「あの人が春日の上司なのか?」

 

 品物を物色しながら春日に声をかける。

 

「上司っていうか、教育係って感じかな。固い人でしょ?もーホント大変でさ」

 

 愚痴る春日だが、それはまるで出来のいい姉を自慢する妹のようでもあった。ほんの数分間話しただけだが、きっと春日とは良い関係を築けているのだろう。二人の仲が険悪だというなら、春日はきっとそんな楽しそうな笑顔を浮かべていないだろうから。

 

「でも、良い人だろ?」

 

 古ぼけたロザリオを元の場所に戻し、春日に問う。答えはもう予想できている。だからこれは答え合わせという名の確認作業。

 

「―――うん、すっごい良い人だよ」

 

 私が見惚れるほどの笑顔で春日はそう言った。コイツとは仲良くなれる、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば長谷川ってなに探してんの?」

 

 なんてことのないことをネタに駄弁っている途中、春日が言った。

 

「なにか買うって言ってたけど、手当たり次第に見てる感じじゃん?」

 

「ああ、何を買うかとかは考えてないんだよな」

 

 春日の言った通り、今は手当たり次第に見ているばかりだ。教会からの出品されたものは日用品を除けばそれなりに年季の入ったものなのだが、いまだに私の琴線に触れるものがない。そもそも喫茶店に置いて似合うものというのがよく分からない。

 

「ってことは自分の部屋に飾るとかじゃないんだ。じゃあ何?誰かに送るの?もしかして男?」

 

「あー・・・」

 

 口が『あ』の音を発してから形を変えなくなった。探し物をしている私に対して何を探しているのかを尋ねるのは会話内容として実にありきたりでごく自然な流れだった。そして目の前にいるのは3ーAが誇る悪戯クイーン。冷や汗がどばっと流れてきた。明日の学校で私がクラスの玩具になっている場面が容易に想像できる。その光景は公開処刑そのものだ。もしくは魔女裁判。

 

「彼氏って感じじゃなさそうだね、お世話になってる人へ贈りものって感じ?んー、男の人に贈るようなものってなにかあったっけ」

 

「は?」

 

 春日はごく自然に流し、私は素っ頓狂な声を上げた。

 

「どしたの?変な声上げて」

 

「あ、いや、なんでも、ない」

 

 変な声を上げるべきではなかった。あのまま適当に話を合わせておけば話が流れていただろうに、私は話を掘り下げる機会をみすみす作ってしまったのだ。挙動不審な態度の私に春日は数秒考えこみ、何かに思い至ったのか、声を上げて笑い始めた。

 

「お、おい。どうしたんだよ」

 

 なんで笑い始めたのか分からない私は一しきり笑った春日にそう尋ねた。

 

「あのさ、もしかして長谷川、私が明日学校で皆のこの事をバラすだろうって思った?」

 

「それは、まあ」

 

 なにせ隙あらば悪戯を仕込んでくる春日のことだ。この手の話題は散々ネタにされると思っていたのだが。

 

「ひっどいなあ、いくらなんでもしないよそんな事。それぐらいの良識は持ってるって。確かにちょっと興味あることは否定しないけど」

 

 笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で弾きながら、春日は続ける。

 

「さっきの長谷川さ、私がシスター見習い隠してた時とそっくりだったじゃん。それがなんか可笑しくって」

 

 春日が私を信じていなかったように私もまた春日の事を信じていなかった、そういうことらしかった。箸が転んでもおかしい年頃、本当にどうということのない事が何故か可笑しく感じ、私にも笑みが零れた。

 

 

 

 

 

 本当にどうでもよく、どこにでもあるちょっとした事。けれどそれでいい。そんなことの積み重ねでいいのだ。何気なく過ぎていく日常は心躍る大冒険よりも劣っているのだろうか。考え方は人によりけりだが、私はそうだとは思わない。どんな場所にも幸せというものはいくらでも転がっている。見つけやすいか見つけにくいか、それだけの違い。

 

「長谷川ってさ、明るくなったよね、全体的に」

 

 二人で笑いあった後、春日がそんなことを言い出した。

 

「前はいつもぶすーってしてたけど今はよく笑うようになったでしょ?眼鏡も外したし」

 

 以前、聡美にも言われたことだった。

 

「ちょっとした心境の変化だよ、本当にそれだけ」

 

「ふーん、良い人見つけたんだ」

 

 誤魔化そうとするも一瞬で嗅ぎ当てられる。こいつを含め、3-A連中の嗅覚の鋭さは異常だ。

 

「・・・言っておくけど、別に彼氏とかじゃないからな」

 

 明日の学校で憤死するという最悪の未来は避けられたが、一応念押ししておく。春日がバラさないといってもどこから情報が漏れるか分かったものではない。

 

「今はそうかもね。でも男の人に贈るものかあ、ここにはそうないと思うけど」

 

 今回教会から出品されたものは日用品や古びた聖書や年季の入ったロザリオなどの小物が中心だった。確かに男性に贈るというには少々相応しくないもしれない。

 

「普段世話になってる人の誕生日だから何か贈ろうと思ってんだけど、その人ちょっと変わっててさ。・・・なあ春日、喫茶店に置いて合いそうなものってなんだと思う?」

 

「喫茶店に置いて似合うもの?んー、あるっちゃあるけど、プレゼントにはちょっとね」

 

 ロザリオやら聖書やらそういったものは喫茶店に置いても違和感がないかもしれないが、それをプレゼントとして贈るというのはおかしな気がする。かといって視界の端に移るハンガーに架けられたカソックは論外だ。いくら着なくなったからってそんなものを売りに出すなよ。

 

「あ、じゃあこれなんかどう?」

 

 そう言いながら春日が手に取ったものは古びた小さな木の箱。全ての辺の長さが10センチほどの木箱で、表面には宝箱を思わせる彫刻が施されている。彫刻そのものの出来はいいが、少し視線をやっただけで大した確認もしなかった品物だった。

 

「それがか?確かに作りは丈夫そうだけど、贈り物にはちょっと・・・」

 

「まあいいから見てなって」

 

 にやり、と悪戯をする時と同じ笑みを浮かべて春日はその箱をゆっくりと開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思えば、それもまた運命というものだったと思う。そんなことで運命を感じた、だなんて他の人に指をさされて笑われてしまうかもしれない。ただ運命という言葉は重く使われてしまいがちだが、定義という枠に嵌めてしまうと実はそう特別なものではない。

 

運命とは、人の意思や想いを越えて人に幸不幸を与える力を指す。極端な話、私がマスターや聡美、春日と出会ったというのも一つの運命だといえる。

人と人との出会い一つ一つが運命なのだと、そんな風に考えてしまう私はロマンチストなのだろう。けれど、人付き合いなど下らないと斜に構えていた以前よりはずっとマシだ。

 

コーヒーに舌鼓を打ち、BGMに耳を傾けながらそんなことを思う。今日流れているBGMはマスターがいつもその日気分で流しているものではない。マスターが自分で歌っているのだ。アカペラではなく、ちゃんと伴奏もある。振動板を弾き柔らかな金属音を奏でているのは、マスターが手に持っている木箱。開けられた蓋からはスターホイールが顔を覗かせているオルゴール。

 

私が頼みこむと最初は恥ずかしそうにしていたが、歌い始めると恥じらいは消えてしまったらしい。背筋を伸ばし、目を閉じて歌う姿は歌手が本職のようだった。

声は振動となって喫茶店の中へ広がっていく。狭い空間は低く深い声で直ぐに満たされた。歌詞は英語だが、ゆったりとした曲調で、使われている単語も簡単なものが多く、私の耳でも大分内容を理解することができる。

 

それは一つの物語だ。

大切な人に降りかかる苦難を荒れ狂う水の流れに例え、自分がそこに架かる橋になろうという励ましの歌。

中身を要約してみればよくあるタイプのフォークロック。けれども誕生して以来、長きに渡って世界中で聴かれ愛されている歌。

 

オルゴールの発条が事切れたように動きを止める。サビの部分がちょうど終わったところだった。

拍手をする私にマスターは恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「よく知ってましたね。この曲が好きだって」

 

「そりゃ結構な頻度で流れてましたからね、分かりますよ」

 

 緊張も度を過ぎてしまうと返って平常心を取り戻すということを今私は身を持って知った。喫茶店に入る前までは緊張で足が震えるくらいだったのに、一度腹を括ってしまうと緊張だとかそういったものを超越してしまった。むしろ普段よりも饒舌になっているぐらいだ。

 

「言葉で表現するのは難しいですが、なんというか心にフックする歌ですよね。もう30年以上前の曲なんですけど、本当にいいものというのはどんなに時が流れたっていいものです。この歌のように」

 

 この喫茶店もそうであってほしいものです、とオルゴールの蓋を閉めてマスターが言った。木箱が軽く軋みを上げ、それは喫茶店のドアを開ける音にどことなく似ていた。

 

「ちなみにこのオルゴールは一体どこで?」

 

「先週のフリーマーケットで売りに出されていたんですよ、そこでこう、ビビッと来まして」

 

 春日の話では、オルゴール収集癖のある神父が出品したのだという。一部装飾が剥げかかっていた部分を素人なりに修復し、曲の速さがズレてしまっているのは油を差し、何度か発条を巻くと改善された。

 

「なるほど、直感というものは馬鹿にはできませんからね」

 

 言いながら、マスターはオルゴールの蓋を撫でる。

 

「それで、どうですか?ちょっと古いですけど、このオルゴールは誕生日プレゼントになりますかね?」

 

 そんなマスターに私はコーヒーを飲み干しコーヒーカップをソーサーに置いて、あえて意地の悪い聞き方で尋ねる。

 

「ええ、それは勿論。本当にありがとうございます。大事に飾らせてもらいます」

 

 口角を釣り上げた満面の笑顔でマスターはそう言った。いつもの微笑ではなく、笑窪ができるほどの深い笑み。ただそれを見たいがために、私は東奔西走を繰り広げていたのかもしれない。そんな自分の思考の単純さに失笑してしまいそうになる。

 

再びマスターがオルゴールの発条を回し始めた。音が奏でられ、マスターが言葉で追いかける。歌いながら、意味ありげな視線を投げかけられる。一度私に視線を送り、次にオルゴールへと。どうやら一緒に歌えということらしい。そして始まったのはちぐはぐなデュエット。マスターはともかく、私は完全に歌詞を覚えているというわけではないのでこればかりは仕方ない。

ただ一つ、silver girlという言葉だけは耳に残っている。それまでは友情の歌に聞こえていたのだが、彼女の登場によってこの歌は男女間の関係を歌っているかのように思える。

 

歌の自分を投影してしまうということは割とあることだろう。だからこんな馬鹿な事を考えてしまうのだ。

私は貴方のsilver girlになれたのだろうかと。

 

今だ自分の気持ちに整理がついていないけれども、それを受け入れることができたのならば言いたいことがある。今はまだ無理だけど、言えるようになる日が来て欲しい。 

 

マスターは最近の若者にしては出来た人間かもしれないが、決して完璧な人間ではない。やたら猫好きで隙あらば猫漫談を織り交ぜてくるし、失言すればそれをネタに弄ってくる。実は極度の運動音痴で、自分の足に引っかかって喫茶店のドアを顔面ノックという斬新な荒業を披露したこともある。

顔の個々のパーツ自体は整っているが、顔の造りは割りと平凡。せいぜいポイントとして挙げられるは眼鏡の奥に隠れる、穏やかな印象を与える垂れ目くらいだろうか。少なくとも、テレビに出ているような端正な美形にはほど遠い。けれども―――いや、だからこそなのか。

 

面と向かって言うのは恥ずかしくて口に出すことはできない。だからせめて心の中で予行演習を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  そんな貴方が、大好きです。

 

 

 

 

 



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貴方のための物語

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もう一度投稿しようにも期限切れでコンテストに参加できず

暫く放置しましたが、このままお蔵入りというのもなんなので、とりあえず一話だけはここに乗っけておこうと思います。分けて投稿した方がいいのかなとも思いましたが、『長谷川千雨は喫茶店に足を運ぶ』の要素も大分残っているのでまったく別の作品というわけではないので。

オリジナルの方に投稿した方がいい、という意見がありましたら、この作品をオリジナルの方に投稿します。

あと誤字脱字の指摘をしてくださった方、ありがとうございました。


 人型の無貌達が蠢き跋扈する世界。私を取り巻く世界は大袈裟に言ってしまえばそんなもので、異形が犇めく世界に私は一人取り残されていた。見た目は私と同じ普通の人間でありながら、彼らは私にとっては同じ種類の生物ではなかった。

 

人間の振りをした理解し難い謎の生命体。昔の私は彼らに対しそんな認識を貫いていて、そんな彼らと友好関係など築けるはずもない。そもそも昔の私はそんな事を考えすら浮かばなかった。

 

私は正常であり彼らは異常である、というのが嘗ての私の数少ない自負だった。意識していなかったが、そんな傲慢な考えは日々の態度に出ていたのかもしれない。気がつくと私はたった一人、孤立していた。

 

それは唯の自業自得だ。自業自得、因果応報、身から出た錆。似たような言葉が溢れているのは愚かな人間が多いからに違いない。私もまたその愚かな人間の一人だったというわけだ。しかし矛盾するようだが、その孤独を受け入れ難いとも思っている私もいた。

 

口さがないクラスメイトに鉄仮面と称された私だが、列記とした人間だ。無機物には持ちえない感情があり―――まあ平たく言うと寂しくて仕方がなかったのだ、当時の私は。

 

当時の私にそれを指摘すると躍起になって反論するだろうが、多少余裕が出来るようになった今ならば分かる。私は彼らを羨んでいたのだ。授業を受けて部活をして、休みも日には友人を連れ立って街に繰り出したり。そんなごく普通の学生生活を送れる彼らが妬ましくて堪らなかった。

 

私だってそんなことがしたかった。騒がしい面々に向けた煩わしさに微かな憧れが入り混じっていたことを今となっては否定できない。けらけら笑う彼らの輪の中に一度たりとも自分の姿を幻視したことがないといえば嘘になってしまう。

 

外面だけでも取り繕って取り合えず長いものに巻かれておけば、私の学校生活はまた違ったものになっていたかもしれない。幸いな事にクラスメイト達は気の良い連中が揃っていて、適当に話しかければすぐその輪の中に入ることが出来たと思う。だが私はそれをしなかった。

 

自分とは異なる未知の塊である彼らと孤独を天秤に架けた結果恐怖が勝ってしまったのか。自分の融通のなさで妥協することができなかったのか。言い訳の文句はいくらでも出てくるが、結局私が指を加えて見ているだけだったという結果は変わりない。それどころか数少ない差し伸べられた救いの手すら払いのけていたのだから、全て私が悪いとしか言いようがない。

 

 我ながら頭の固い人間だと思うが、そこで自分を曲げてしまうと私の存在そのものが歪められてしまうような、そんな恐怖があったのだ。私の被害妄想だと言えばそれでお終いだが、当時の私にとってその恐怖は紛れもない本物だった。一度植え付けられたものを取り除くのは想像以上に難儀なことで、ただ孤立を深めていくばかりの負のスパイラルに陥っていた。

 

第三者が見れば()()()()()()()()()()()に同情したかもしれないが、私に被害者ぶるつもりはないし、その同情は大きな間違いだと断言できる。

 

孤立を招いたのは自分のせい。孤立を深めていったのも自分のせい。打開策がなかったとはいえなにもしなかったのは私の怠慢で、差しのべられた手を撥ね退けた事を考えれば寧ろ私は加害者側の人間だ。

 

断じて他人の責任などではない。道筋を辿る過程でやり直す機会は幾度も与えられたはずだ。それらを一切合財無視してきたのは自分自身の選択に他ならない。

 

感情の熱を閉じ込めて、冷たい金属に能面のような彫刻を施す。その方法が最善なのだと、愚かな事に当時の私はそう信じ切っていた。

人間らしい感情を心の奥に封じて一人きりの殻に閉じこもる。

 

そんな日々の繰り返しに小さな変化が起こったのは今から半年ほど前、寒気を纏った秋空が冷たい風を運んでいた時のこと。

 

目を閉じなくてもその時のことは今でも容易に想起できる。瞼の裏には当時の情景が焼きついていて離れない。喫茶店、コーヒー、喫茶店のマスター。個々がジグゾーパズルのように組み合わさって一つの情景を作りだす。コーヒーの香りまで再現されていると錯覚してしまいそうになるほど精緻に再現された思い出。

 

それは物語にありがちな劇的な、或いは悲劇的な出来事だったというわけではない。どこにでもある日々の生活を形作る数多の一つに過ぎない。きっと誰であれ経験するであろう一つの出会い。人によっては躊躇いなく切り捨ててしまうような記憶は、今の私を形作る分岐点だった。

 

凡庸な出来事に凡庸な出会い。おそらくそれは他人から見ればなんてことはない、特に注視するべき出来事ではないだろう。けれども私にとってそれは掛け替えのない特別だったことは間違いない。

 

―――不明確だった映像は次第に鮮明に。味気ないモノクロには色彩豊かな華やかさが加えられて。追体験するように思いを馳せる。

 

 

 

 

 

 

 

 季節は夏から秋に移り変わり、空も夏に比べて幾分高く感じるようになった頃の事。高い秋空は雲一つない快晴。首を上に傾けるとそこにはどこまでも群青色の青空が広がり、それを私は不機嫌そうに睨めつけていた。

 

美しい景色は荒んだ心を和らげると聞いたことがあるが、それは心が平穏な状態にのみに限定される事だと思う。年中機嫌が良くない私にとっては快晴の青空などイラつかせるものでしかなかった。心情とは真逆の空模様というだけで私の神経を逆なでしていたのだ。そうやって天気にすら悪態をつく辺り、私の精神の不均衡さが窺える。

 

その日は日曜日で、夏服から衣替えをした冬物の制服に身を包んだ私はあてもなく銀杏並木の大通りを歩いていた。休日で快晴という好条件からか、大通りには大勢の人々が集まっていて、私はその雑踏に紛れるようにして背中を丸めて歩を進めていた。

 

上半身を少し丸めた猫背気味の姿勢は他人と視線を合わせないようにしていたら自然と出来たもので、俯く姿勢で歩いているせいで私の視界に入るのは地面に敷き詰められた煉瓦と闊歩する人々の下半身だった。

 

そんな中今日の予定を楽しそうに話す同年代と思わしきグループとすれ違い、私は一瞬だけ足を止めた。そういえば私はどこに向かっているんだろうか、なんて間抜けな事に思いあたってしまったからだった。

 

私が若年健忘症を患っているというわけではない。ただ、本当に目的なんてものがなかったのだ。友人もいないから誰かと待ち合わせをしているわけでもない。興味のある店を覗こうなんてことを考えているわけでもない。ただなんとなく歩いていた。歩きながらも一体私はどこに向かっているんだと自問自答するが答えはでない。ただ、あえて言うならば目的地がないというのがあてのない強歩の目的なのかもしれない。まるで禅問答のようだ。

 

傍目から見れば、私は待ち合わせの時間に急いで向かっているように見えていたのかもしれない。目的がないと言いながらも私は早足で歩き続けていた。そもそも目的地がないのだから早足で歩く理由もない。意味がないと理解していながらも懸命に足を動かしていたのはある種の強迫観念に駆られていたからかもしれない。見えないナニかが私を追いたてて、それから逃げるように。

 

以前から意味のない奇行に走ることが何度かあった。どうにもならない気持ちを持て余してた結果の衝動的な行為で、今回もその一種。それ自体には慣れたものだったが、今回は輪にかけて酷い。中等部に入学する頃の一番尖っていた時期に引けを取らないほど、当時の私の内面は荒ぶっていた。

 

寮のルームメイトに隠れて自分の枕を親の敵のように何度も殴りつけ、それでも収まらない感情の爆発を静めようと寮を飛び出た結果が、ふらふらと当てもなく彷徨う生きる屍と化した私だった。

 

一体どうしてこうなってしまったのか。当時の私がこうなった原因を省みるが、その理由は枝葉の如く多岐に伸びて絞りこむのは到底不可能だった。というのも明確な要因と呼べるものは普段の生活に溢れているものばかりで、それら全てが主要因であったからだ。さて、当時の直近の出来事といえば―――

 

ルームメイトの少女が最先端の技術を明らかに超えた超技術で人造ロボットを造り、それが何故か同じクラスに編入してきたり、同じクラスの少年がコンビニに屯っている不良共と格闘ゲームさながらの空中戦を繰り広げていたり、その仲裁に現れた担任教師が気孔波のように掌から繰り出されたビームで両者を薙ぎ払っいたり。まあ、挙げてみれば枚挙に暇がない。

 

 これらは漫画や小説といったフィクション内の出来事―――ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。一体ここはどこの異世界なのかと自分でも突っ込みたくなるが、私の住む星は地球という太陽系の惑星で間違いない。そしてここは日本というアジアの一国で、私は日本出身日本在住の平凡な日本人だ。

 

だが残念な事に先ほど挙げた出来事は私が住む、地方都市の郊外に設けられた学園都市ではよく見られる光景だ。そんな非日常は、最早日常風景と言っても過言ではない。本当によくある、それこそ一日に一回は遭遇する程度の事なのだ。

 

この学園都市ではなぜか現実に有り得ない出来事が容易に起こり、それをこの都市の住民は極当然のように受け入れている。ここはそういった場所だ。

 

彼らとは違い一般的な感性の持ち主である私にとって非日常な日常は苛々を生み出すものに過ぎない。だからそうした日々のストレスの積み重ねが原因だったのだろう。

 

それはさながら風船のようだ。少しずつ息を吹き込むようにして蓄積されていった感情の奔流は、最後にはほんの少し針で突いてしまうだけで弾けてしまった。そして行き場のない感情が、ただ私に足を動かさせている。

 

「……疲れた、な」

 

 無意識のうちに吐いた弱音が誰にも拾われないまま雑踏に紛れて消えていった。辺りを見渡しても見知らぬ誰かが闊歩しているだけで、まるで私一人だけが異界に取り残されたかのような孤独感と不安が心の中にこびり付いていた。

 

いっそ屋上から飛び降りて死んでやろうか、なんて危険な思考が飛び出るようになってきたのだから末期症状に近かったかもしれない。当然思うだけで実行に移すほどの勇気はなく、できることといえばのは煉瓦が敷き詰められた地面の地団駄を踏むくらいのものだ。そしてそんな事すらも疲労を感じて億劫になるだけだった。

 

歩きながら、足の裏には疲労が蓄積していた。学校指定の革靴などそこまで品質のいいものではない。長時間歩き続けたせいで足には疲労が溜まり、薄らとかいていた汗は寒さを鋭敏に知覚させる。一度それを意識してしまうと体が弛緩し、休息を求め始める。心身共に疲労困憊の状態になっていた。

 

腰を下して落ち着ける場所を欲しいが、よく晴れた休日ということもあって周囲のカフェを覗いてもオープンテラスを含めてほぼ満席状態だった。そんな中に一人きりで入店するには心許ないし、あのがやがやとした雑音の中で身体を休めることはできても心の方はそうもいかないだろう。身体の疲弊もどうにかしなければならないが、心を落ち着ける方が優先すべき事項だった。

 

とはいえ、休日の昼時に静かな場所を見つけるのは至難の技だ。該当する場所といえば図書館ぐらいのものだが、ここからの距離を考えるとそれも難しい。一先ず人目につきやすい大通りの店は論外として、大通り外れた路地に出る。大通りの店は大抵が満席だろうが、大通りを外れた人気のない飲食店なら席が空いているかもしれないと思ったからだ。

 

 道に沿って歩いていたが横に方向転換し、大通りから一本外れた通りへと。初めて来る場所ではあったが、私は方向音痴というわけではない。寮の位置を頭に置いてそれに向かって見知らぬ道を進む。目的とする場所が見つからなくても最悪の場合は疲れを我慢して寮に帰ればいい。今の時間帯なら彼女だっていないだろう―――。

 

そんな事を考えながら見知らぬ小道を適当に何本か通りぬけ―――私はそこに辿りついた。

 

 その建物は森の中に隠された木のように周囲の建物に溶け込み、存在感を希薄にしてひっそりと佇んでいた。よく観察すると歴史を感じさせる古い建物だが、建物自体はなんの変哲もない。だが近づいて見るとそれは喫茶店らしいことが分かった。

 

断言できないのは喫茶店と言えるだけの情報が不足しているからだ。メニューが書かれているサインボードの類はないのはまだいいとして、喫茶店の名前すらどこにも書かれていない。それでも湯気が立ち込めるコーヒーカップの絵が描かれた小さな看板といえば、私には喫茶店のイメージしか湧かなかった。

 

大きな通りを外れたとはいえここにもそれなりに人通りはあるが、道行く人々は目もくれず過ぎ去っていく。まるでそこだけが世界から切り離されて、人々に認識されていないかのように。

 

勿論そんなものは私の気のせいだ。各々目的地があってそこに向かっているだけだろう。しかし、もしかしたらその時の私は親近感に近いものを抱いたのかもしれない。蛾が本能によって街灯に誘われるように、私は玄関口にふらふらとした足取りで近づいて、気が付くと古めかしい押戸の把手を掴んでいた。

 

ぎいい、という戸が軋む音。からんからんというカウベルが来訪者を告げる音。

そんな音をどこか遠くに聞きながら、私はその喫茶店に招き入れられていた―――。

 

 

 

 

 さて、ここから先は特筆するべきことはなにもない。偶然発見した喫茶店に入り、一杯のコーヒーを飲んでそれで御終い。そこで何か私の意識が大きく変えられた、なんて事もない。色々と溜まっていたものはあったが、初対面の喫茶店のマスター相手にあれこれとぶちまけるわけにはいかない。

 

会話らしい会話もなく無言のままただ時間だけが過ぎていって、私は最後にご馳走様と一言残して店を後にする。文字にするとそんな味気ない話で、それ以上のことは何もない。本当に、ただそれだけの話。

 

けれど、きっと今の私はそこから始まったのだと思う。その時の出来事はほんの些細な事だったけれど、きっと未来なんてものはそんな些細なものが積み重なって出来上がる。ほんの少しの進路変更でも走った距離と比例して、まっすぐ進んでいった時との違いがどんどん大きくなっていくように。

 

私の人生のレールが組みかえられた時は、きっとその時だった。

 

 

 

 

 

 

―――夢見心地の意識が急浮上していく。コーヒーの香りが私の鼻を刺激し、意識が速やかに現実に引き戻されていく。瞼を開き視界に入ったのはテーブルの木目だった。手を枕にするように眠っていたらしく、腕がじんと痺れている。ゆっくりと上半身を起こすと、そこは落ち着いた内装で統一された喫茶店の店内だった。

 

「ああ、起きられましたか」

 

 眠気を取るように背伸びをすると私に低い男性の声がかけられた。この半年間でよく聞くようになった喫茶店のマスターの声に、そういえば私は喫茶店に来ていたんだったと思いだした。

 

コーヒーを飲みながらうつらうつらと転寝をしていたらしく、眠る前の記憶は少し曖昧だ。マスターが気を利かせてくれたのだろうか、端に追いやられたコーヒーカップの中に少量の液体が残っている。カップの腰に触れるとひんやりと冷たく、それなりの時間が過ぎているようだと推測できた。

 

「すみません、寝てしまって」

「構いませんよ。喫茶店は休憩する場所ですし、他にお客さんもいませんしね」

 

 自虐を含んだ冗談。マスターの言葉の通り、狭い店内には私以外に客はいない。狭い店内故に空いているという印象は与えないが、私が喫茶店を訪れると殆どこのような状況だ。マスター曰く黒字収支らしいが、私は内心何時か潰れやしないかと冷や冷やしている。この喫茶店は私の心の拠り所で、無くなってしまうのは正直困る。

 

「それで何か夢でも見れましたか?」

「え?」

 

 いつものように微笑を湛えたマスターが私の顔を見て言う。

 

「どうも、渋いような顔になった気がしましてね」

「あー、まあ夢は見ましたよ。夢というより回想と言った方がいいのかもしれませんけど」

 

 言いようのない不思議な感覚だった。昔の私を今の私が他人事のように眺めている夢でありながら、乖離したもう一人の自分が昔の私と一体化して嘗ての出来事を追体験していた。そして二重の視点で繰り広げられる映像作品の出来栄えは正直よろしいと言えるものではなかった。

 

「回想というと、昔の失敗談が夢に出てきたとかそういうことですか?」

「まあ、そうですね。正直封印したい過去です」

 

 物語性がどうこうの問題ではなく、この映画の主人公と思われる人物には感情移入がし辛いのだ。地雷女が自分の事を棚に上げて周囲に向かって内心で不平不満をぶちまけるだけで、そりゃお前が全部悪いだろと突っ込まれることは請け合いだ。クソ映画とはどういうものかを体現したような駄作で、実際にこんなものが映画館で上映されれば、多くの観客が金を返せと怒鳴り散らす事だろう。

 

今ならばどうだろうか、と益体も無いことを考えてみる。手前味噌だが、少なくとも昔よりは多少見れるものになったとは思う。それはきっと、私の成長と言えるものだろう。

 

「そういえば、コーヒーはお下げした方がいいですか?」

「いえ、頂きますよ。勿体ないですし」

 

 ホットコーヒーは劣化が速い。淹れて数時間ほど経過すれば酸味が全面に出されて、美味しくなくなってしまう。壁に掛けられた古時計を見る限り、転寝をしていた時間は30分程度のもの。飲むに当たっての問題はない。

 

ソーサーを目の前まで引っ張り、手に取ったカップを傾ける。冷えてしまったコーヒーだが、まだ風味は損なわれていないようだった。カップの中を全て身体の中に迎え入れて一息つく。

 

「そういえば頼んだのって水出しコーヒーでしたね」

「ええ、そうですが。……やはり冷えて美味しくなくなっていましたか?」

「え?ああいえ、そういう事ではないです」

 

 ただ、少し思い出していただけだ。あの時も確か水出しコーヒーを頼んでいた、そんなどうでもいい偶然を。駄目だなあ、と苦笑が零れる。どうも、この場所にいるといつもより感情的になってしまう。それが悪い気分ではないあたり、私も大分毒されてきたようだ。

 

「ただなんというか、ちょっと前の事を思い出していただけです」

「それは水出しコーヒーに関係する事ですか?」

「水出しコーヒーそのものは関係ないんですけど、その時に丁度頼んでいたものですから。何か月か前に私が変な事を聞いたと思うんですけど、それって覚えてますか?」

 

緩やかな空気の中、雑談に耽りながらそれと同時に自然と湧き出る追憶に身を委ねる。私がこの喫茶店を訪れてからの半年間の軌跡、それを振り返るのも悪くない。

 

断片的な会話の記録は繋がれて1つの話へと。1つの話は1つの物語へと。

その始まり、歯車同士がようやく噛み合いを見せはじめた場所へ立ち返ってこれまでを見直そう。マスターとの何気ない雑談の中に時折現れる、ルームメイトの天才少女、ハードボイルドな二次元偏愛教師、自称学園都市最強。そんな彼らの事も織り交ぜながら。

 



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