双子転生物語 (彩霞)
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第1話「赤ん坊」

初投稿。

少年陰陽師がなさすぎて、つい思わず。
増えればいいのに増えればいいのにふえればいいのに。


 冥く深く果てない闇。そんな言葉では表現しきれないほどの。

 暗く、黒く、醜く、浅ましく、冥がりへとそれは続く。

 

 それはいつもまとわりつき、心をかき乱す。闇を抱えた言葉は心を削り取る。

 果てには穴をうがち、傷を抉り、心を壊す。何度も何度も絶望の底へと突き落とされた。

 

 もう耐えられなかった。本当に、何もかもが嫌だった。

 発狂して、ものに当たって、自分に当たっても逃れられなくて。

 だから、俺は。

 

「益材、一の君も起きようだ」

「生まれたばかりから息があってるねぇ」

 

 ――誰。めっちゃ美人なんだけど、誰。

 可愛い系の美人さんなんだけど、葛の葉って、え。

 それ名前ですか。それが名前なんですかねぇ。

 

 逃れられなかった、という事実から目を背ける行為を人は現実逃避と呼ぶ。

 そんなことは百も承知だが、いかんせん事実を事実と認めたくない自分がいる。

 

 囚われているのはあいつのせいだと思っていた。

 何度も繰り返すのは、あいつの執念だと思っていた。

 全て、あいつのせいだと、そう思っていたのに。

 

 自死してなお、束縛からは逃れられなかった。

 

 じわじわと胸に広がる恐怖と不安。

 逃げなきゃと思うのに体は思うように動かない。

 それが尚更恐れを掻き立てて、拒絶する一心で足掻く。

 

 嫌だ。嫌だ嫌だいやだいやだいやだ。

 怖い、はなせ。来るな、もうやめてくれ…!

 

 助けて。いやだ、もう死にたくない!

 どうして見てくれない。なんで奪っていく。

 なぜ存在そのものを否定され続けなければならない。

 どうしてあの女から逃れられない。

 なんで、どうして…。

 

 初めて、あの時はじめて自分で命を絶ったのに、なんでまだ俺は生きている。

 頼むから、もう殺してくれ。俺が何をしたっていうんだ。

 どうして何度も死ぬ恐怖を味合わなければならないんだ。

 殺されることに怯え続けなければいけないんだ。

 

 頼むから、誰か。

 だれか、助けてくれよ……!

 

「大丈夫だ、  」

 

 それは音になったかもわからない、囁くような声だった。

 けれど不思議なことに確かにそれは自分の耳にしっかりと届いていた。

 全身を温かいものに包まれた感覚に、荒れ狂っていた心が徐々に落ち着きを取り戻す。

 

 自分を見下ろす黒い瞳をじっと凝視する。

 安堵したような慈愛に満ちた表情に、こわばっていた体から力が抜けた。

 恐怖など恐るるに足らないと言ったような温かく力強い“何か”。

 

 先ほどとは違う意味でわけもわからず呆ける。

 変わらぬ彼女の慈愛の微笑みに、思わず頬が緩むのを感じた。

 

「もう大丈夫だからな、吾子」

 

 ぽんぽんとあやすように背を叩かれてじわじわと胸に広がるのは歓喜。

 あの女に怯えなくてもいい。怖がる必要などない。

 だって、大丈夫だと、そう信じられるから。

 理由など知らない。でももう、大丈夫なのだ。

 

「幼いうちは母が守ってやるからな。だから、力をつけろ。

 自分の身を守れるように。大切なものを守れるように。

 お前たちには、母の血を引くお前たちは人一倍力はある。

 守ってやれるうちに、力をつけなさい」

 

 この人は自分が言葉を理解しているのを知っているのだろうか。

 守るとか、力をつけろとか、ただ半狂乱になっただけで読み取れることじゃない。

 

 自分が不思議に思っているのを読み取ったかのように笑みを深くした。

 神秘的な雰囲気を醸し出す彼女に、まぁいいや、と目をつむる。

 気が抜けたせいか瞼が重く、沈んでいく意識に身を任せた。

 

 

 

      ◇     ◇     ◇

 

 

 

 部屋に戻った葛の葉は腕の中で眠る嬰児を起こさないようにそっと褥に寝かせた。

 それを見て、もう一人の子を見ていた益材は寝息を立てる姿を見てほっと息をつく。

 

「泣き疲れたんだね」

「あぁ、おそらくは」

 

 おなかがすいたわけでもなく、襁褓(むつき)が濡れたわけでもない。

 それなのに唐突に泣き出した上の幼子。

 生まれてから数日とは異なる泣き方に益材はどうする術も見出すことはできなかった。

 

 幸い、何かに気づいたらしい葛の葉が対応してくれたので事なきを得た。

 ただ任せる形になってしまったのが少々心苦しい。

 

 一体、上の子に何があったのだろうか。

 部屋から出る前の葛の葉の険しい表情が不安を掻き立てる。

 けれども、知ったところでこの子たちの父親として何かできることはあるのか。

 神祓衆の血筋でありながら、力のない私に。

 

「何を憂えているのだ、益材」

「……いや。力の使い方を教えてくれるものが必要だなと、思ってな」

「ならば、それは早い方がよい」

「葛の葉?」

 

 険しい声音に、益材は目を瞬かせた。

 あどけない顔で眠る赤子から顔を上げる葛の葉。

 憂えた顔で苦笑して、ついっと上の子を見やる。

 

「この子は私たちの子だ」

 

 唐突に告げられた言葉を不思議に思いつつ、益材はうなずく。

 双子の男児。今の時代、双子は忌み嫌われる。

 

 人は通常、一回の出産で一人の人間を産むとされているからだ。

 牛などの家畜のように、一度に多くの子どもを産んだりはしない。

 だから、畜生腹と言って嘲り笑う。

 

 産んだ者も生まれた子も、どちらも(けだもの)だといって。

 

 この子たちは将来きっと苦労するだろう。

 双子だという事実ゆえに。

 人ではないものの血をひいているがゆえに。

 

 そのことは辛く思う。

 だが、それに負けないくらいの愛情を注ごうと決めている。

 心を通わせた者との子だから、大切じゃないわけがない。

 

 たとえ葛の葉が人ではないとしても、ともに在りたいと思った。

 たとえ自分が人だとしても、ともに在りたいと思ってくれた。

 

 それが、真理というものだ。

 

「出生率の低い天狐が産んだ、双子の子ども。

 受け継いだ力に振り回されることもあるだろう。

 それは致し方のないこと」

 

 人ならざる者の力だ。

 人の身で完全に扱うものなど無理にもほどがある。

 驕ればその力は身の破滅を導く。

 必要な指導はすれど、努力をするか否かは本人次第。

 怠ったがゆえに怪我をするのは自業自得というもの。

 

 だがしかし。

 

「生まれながらにしてこの子だけに刻まれた呪詛をどうして許せようか」

 

 静かに、けれども怒りを感じさせる声で告げられた内容に益材は息をつめた。

 

 呪詛。それは相手を呪い殺すための呪法。

 恨みつらみが積もりに積もって呪い殺せと頼む者もいる。

 自らを闇に貶めて己が力で呪う者もいる。怨霊がいい例だ。

 

 しかし、生まれたばかりの子に呪詛をかける理由は何だ。

 自分たちに対するあてつけか。

 もしそうだとするならばいったい誰がなぜ一の君だけを。

 

 そこまで考えて、ふと目を瞬いた。

 

「一の君だけ、なのか?」

「あぁ。この子の魂にだけ深く根付いている。

 …おかげでうちに眠る力を呼び起こす羽目になった」

「葛の葉、それは」

 

 益材はざっと顔を青ざめさせた。

 葛の葉が言うそれが意味するのはすなわち。

 すなわちそれは、その子の身を削ると言うことなのではないのか。

 

 こわばった表情で愕然とする益材に葛の葉が首を横に振った。

 

「案ずるな。むしろ魂を蝕む呪詛から守っている。

 そしておそらくこの呪詛は発動に条件がある」

 

 胎内にいたころ、呪詛の気配など感じなかった。

 生まれてからもそうだ。

 初めて気配に気づいたのが、つい先ほどのこと。

 

 何かに怯えるように、何かに絶望するように異様に泣け叫んぶ赤子。

 その子を飲まんとする黒い影がなければ気づけなかっただろう。

 

 まったくもって腹立たしい。

 この子に呪詛をかけているものもそうだが、気づけなかった己が一番赦せない。

 けれども、今はまだ自分にはどうすることもできない。

 

 呪詛はこの子の精神状態に左右されるのだと思う。

 裏付けに、心地よさそうに眠る幼子からは呪詛の欠片に簡単には気づけない。

 それほどまでに奥深くに入り込み、内側から蝕んでいく呪詛。

 

 先ほど眠る力を呼び起こしたと言ったが、実は違う。

 呪詛が魂を蝕んだことにより、本能がそれを排除しようと目覚めたのだ。

 自分がしたのは、目覚めた力が逆に人の身を蝕まないよう鎮めただけ。

 それによって呪詛も沈静化したは幸いだった。

 先ほどの推測するからすると、何らかの理由により情緒が安定したということだろう。

 

 天狐の力は、傷ついた魂を補い癒すために今はまだ眠っている。

 けれども一度目覚めてしまったので、今後は容易に覚醒するだろう。

 それにつられて二の君に影響があるかもしれないのは心配だ。

 

 一部を端折りつつ、その旨を告げれば益材は小難しい顔をした。

 心配事を押し付けていく形になるのは心苦しいが、自分にはできることが限られている。

 今ほど一所に留まれないのを悔しく思ったことはない。

 

「発動しさえなければ、天狐の力が暴走することもあるまい」

「……しなければ、か…。もし、再び発動した場合、この子はどうなる」

「魂が蝕まれるのが速いか、体が蝕まれるのが速いか、と言ったところだろう」

「そうか…。…感情の制御ができるようになれば、ある程度は安心なんだね」

「この子の事を思えばそれが良いだろう。

 だがそれは、子どもには酷なことでもある」

 

 だいたい、大人でさえ感情を制御できないときがあるのだ。

 子どもがそう簡単にできることではない。

 それに子どもは元気にはしゃぎまわっているのが一番なのだ。

 断じて、己の感情を押さえつけることがいいことではない。

 

「そうだな。だが、やらなければこの子が危ない。

 もし恨まれ訳が必要だと言うのなら喜んで引き受けよう。

 それでこの子が少しでも長く生きられるなら」

「益材……」

 

 初めてできた子どもたち。

 そのうちの一人が大きな問題を抱えているとは夢にも思わなかった。

 それがその子の命を脅かすものであるということも。

 

 全くもって癇に障る。

 益材は表面には出さないものの、内心ではひどく怒っていた。

 一の君をしばりつけるなら、二の君も同じように育てるべきだろう。

 そうしなければ扱いの差に不満が生まれ、二人の間にいらぬ軋轢を生む。

 それは本意ではないので、そうするしか術はない。

 

 前途多難になるであろう我が子たちの人生を思い、両親は願う。

 

 

 

 どうか、幸多からん人生であれ。

 

 

 

 



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第2話「7度目の人生」

 さて、状況を整理しようか。

 

 あのえらく綺麗で美人な少女はどうやら母親らしい。

 父親はいたって普通の成年である。

 名をそれぞれ葛の葉、益材というらしい。

 

 転生はこれで7回目。

 死にたいのに、死ねない。

 消えたいのに、今でも自分はここにいる。

 

 どうして、自分は死ねないのだろう。

 なぜ生きているのだろう。おかしいだろ、普通に考えて。

 逃げるのも、追われるのも、もう疲れた。

 

 なら、逃げなければいいのか。

 ……それは怖い。いやだ。死にたくない。

 

 矛盾している。そんなことわかっている。

 死にたい。でも死にたくない。

 追いかけてくるあれ(・・)を撃退できれば、こんな思いをせずに済む。

 

 耳にこびりついた罵声。まなじりを吊り上げ、蔑み見下す表情。

 嘲笑、侮辱、蔑みをはじめとした暴言。殴られ、蹴られるなどの暴力。

 そして、鬼のような形相で恨み言を吐く顔。

 命を狩るだけの何かとなり果てた姿。

 

 眼を閉じれば、簡単に思い起こせる。

 それくらい、幾度となく経験してきた。

 苦しくて、憎くて、つらくて、怨めしくて。――寂しくて。

 

 どんなに苦しくてもつらくても怨めしくても、憎みきれない。

 いつか自分のことをちゃんと見てくれるのではないかと、そう思ってしまう。

 そんな日は来ないとわかっていても、願わずにはいられない。

 望まずにはいられない。思わずにはいられない。

 

 どうしたらいいのだろう。

 どうすればよかったのだろう。

 

 ――あんたなんか、産まなきゃよかった!

 

 生まれてこなかったら、よかったのか。

 生きたいと望まなければいいのか。

 殺されることを、受け入れればいいのか。

 

「お、見ろよ。片割れが目を覚ましたらしいぞ」

「ほんとだ。ちょっと前まで、猿みたいにしわくちゃだったのに、だいぶ人間らしくなったなぁ」

「もう一人は寝てるな。寝れる方も豪胆だけど、泣かない方も、肝がすわってるよな」

 

 能天気で、朗らかな声に、思考を中断する。

 いや、中断するくらい摩訶不思議な存在に巡り合った。

 

 (なんだ、あれ)

 

 猿みたいなやつと、蜥蜴のようなやつ。それに角のついた丸っこいなにか。

 それ以外にも、見たことのない“何か”がわんさかいる。

 そのほとんどは寝ているけれど、起きている奴もいる。

 起きているやつは、興味深そうにこちらを見つめていた。

 

「なぁ童子。おまえさ、でかくなったら俺たちのこと助けろよな」

「もちろん、俺たちもお前の力になるからさぁ」

「そんなこと言ったって、まだわかんないと思うぞ」

「ほら、あれだ。えーさいきょーいく、というやつだ」

「なんだそれ」

 

 どうじ、同時……。名前? でも片割れにも『ドウジ』と言っているから違うよな。

 にしても、ほんとなんなのこいつら。害はなさそうだけど…。

 

「ううん……たしか、小さいうちからいいようにいろいろ言い聞かせるやつだ」

「なぁるほど。俺たちを助けてくれるように、刷り込むんだな」

「だったら、ちゃんとお願いしないとな」

 

 ……突っ込みどころ満載なんだが、どうしようか。

 もっとも、どうするとは言ったものの、何かができるわけではないが。

 

 口々に、赤ん坊に言い聞かせる“何か”。

 そもそも、これらが何で、助けるとは何か、というのは理解ができない。

 でも何にも縛られない自由奔放な彼らが、うらやましいと思った。

 

「それにしても、見分け全くつかないよな。双子だとなおさら」

「たぶん、今起きてる方が一の君だと思うぞ」

「え、なんでわかるんだよ」

 

 ……双子、か。

 隣は見ないように、知らないふりをしていたけど、やっぱり、そうなのか。

 あぁ、なんて怨めしい。どうしてこう、双子に縁があるのか。

 双子でなければ、あんなことにはならなかったのに。

 

「俺たちのこと、見てるから」

「見鬼の才があるのはわかるが、なんでそれが一の君だってわかるんだ?」

「二の君は見てるようで見てないけど、今起きてる見てるから。

 考えても見ろよ。今まで、生まれて間もない赤子がここまで俺たちの子とみるか?」

「…そういわれてみれば」

 

 やばい。そう思ったときにはすでに遅かった。

 普通と違う。『ふつう』から逸脱した存在は、迫害のもとだと知っていたのに。

 今までは慎重にやってきた。なのに、すっかり忘れていた。

 まずい。まずいまずいまずい。

 

「……お前、俺たちのことわかるのか?」

 

 視線をそらすタイミング間違えた。

 いま逸らしたら、なんと思われるか。

 いやでも、じっと見続けるのも、おかしいか?

 

 双子。生まれた先々で、片割れが迫害されていた。

 そして、片割れの復讐で殺された。

 怖い。迫害されることが。あれ(・・)と同じ瞳で、見つめられることが。

 

 なにより、どちらかしか、優遇されない不公平さが。

 忌み子。七つまでに、捨てられるのはどちらなのか。

 神のもとへお返しするという名目で、殺されるのはどちらなのか。

 自分か、片割れか。

 

 いやだ。死にたくない。死ぬのは怖い。

 何度あの恐怖を味わあなければならないのだ。

 死にたくない。殺されたくない。

 いっそのこと、死んだときに死なせてくれれば、怯えずに済んだのに。

 

 怖い。恐ろしい。

 どうして、双子に生まれなければならなかったのか。

 

「お前ら。二人から離れろ」

「なんだよ。俺ら何もしてないぞ」

「そーだそーだ」

「雑鬼ども。私は離れろと言っている」

 

 死にたい。死にたくない。

 生きたい。生きたくない。

 だれか、誰か殺してくれ。

 殺さないでくれ。

 怖い。怖ろしい。苦しい。辛い。

 

 突然、浮遊感に襲われた。

 予想だにせぬ事態に、心を恐怖が支配する。

 

 捨てられるのか。忌み子として、殺されるのか。

 いやだ。いやだ嫌だ嫌だ…!

 死にたくない!

 

 どくりと、胸の奥で何かが脈打つ。

 すっと周りの音が遠のいた。

 それと同時に、聴覚、触覚、視覚といった感覚が外界から膜を張ったように、そこにあるのに遠く感じる。

 一定間隔で脈打つそれだけが、感覚として認識できる不思議な感じ。

 

 音に耳を傾け、脈打つ振動に感覚を研ぎ澄ませる。

 身を委ねるようにその感覚を受け入れれば、不思議と心が落ち着いた。

 

 鼓動は次第に大きくなる。うるさいとも煩わしいとも思わず、むしろ眠気を誘うほどここちよい。

 うとうとするなか、やがて一際大きく脈打つと、何事もなかったのかのように、鼓動はふつりと途切れた。

 

 それに伴い、音をはじめとした感覚が戻ってくる。

 とん、とん、と一定の速さで背を叩かれている。

 もう大丈夫だ、と告げる暖かい声。視界に穏やかな目をした母の顔が広がる。

 

「よしよし。恐れることはない。私も益材も、お前たちふたりを愛している。だから、安心して元気に育て」

 

 手のひらから伝わる温もり。優しい瞳。微笑む唇。

 あたたかなものが胸にあふれだす。言葉にできないほどのその思いが苦しくて。でも、いとおしくて。

 

 熱いしずくが、目尻を伝う。

 大丈夫だと、信じてもいいのかもしれない。

 ほしい言葉をくれた存在に身を任せ、意識は闇に沈んだ。

 

 腕の中で眠る幼子をそっと寝かせ、葛の葉は雑鬼どもに視線を滑らせる。

 

「二人たちを頼む」

 

 言葉少なに子どもたちを任せ、退室する。

 力の弱い雑鬼。できることはたかが知れている。

 仮に何かあったら、その時は容赦なく消すまで。

 

「益材」

 

 愛しい夫の名を呼べば、益材は困ったように微笑む。

 その手に握られている書状は、見なくとも何を言わんとしているのかはたやすく想像がついた。

 けれど、彼が言わないから、知らないふりをする。長く同じ場所にとどまれない。連れていくことはできないから、置いていくしかない。

 

「忠行からか?」

「…まぁ、そんなところだ」

 

 力のない益材が、葛の葉を娶るために交わした約定。

 生まれた子どもを神祓衆の直系の家に送るか、娶らせるか。

 一人であれば、こう悩むことはなかった。けれど、生まれてきた子は、双子の男児。

 どちらかを寄こせと言われるのは明白で、事実、約定に従い生まれてきた子を、下の子どもを直系の家に入れろ、と催促する文が届いた。

 

 幸いなのは、今すぐ寄こせと言わないことか。

 無事に生まれてきた子でも、生き延びることができるのはほんの一握り。

 力があるとはいえ、病にかからないかというと、それはまた別の問題。

 何より、播磨までの旅に耐えられるとも思えない。

 

 刻限は、七年。七つまでは神の子と呼ばれる、その時が終わるまで。

 そうしたら、迎えが来る。

 

 苦い思いを抱きながら、益材はそっと手紙を火にくべた。

 申し訳ないと思う。子を、子孫を売るような真似はしたくなかった。

 でもそれよりも、気高く優しい彼女とともにありたいと思う気持ちが勝った。

 

 対価がなければ成り立たなかった婚姻。

 自分自身では祓うことができない代償。

 

 この先もずっと、あの子たちへの罪悪感を抱えて生き続ける。

 あの子たちのために、できる限りのことをする。

 それが親としての務め。それと同時に、あの子たちへできる唯一のこと。

 

 白い紙が炎に包まれていく様子を見つめる益材に、葛の葉は切なげに目を細めた。

 

 あぁ、この身が自由であれば、どんなによかったか。

 そうしたら、いとしい人のそばにいられる。かわいい子どもたちと過ごせる。疎ましい彼らへの、抑止力となれたのに。

 そう思って、そっと頭を振りかぶった。身の上ばかりは、どうしようもない。

 離れることは必要だから、胸が張り裂けるほどつらいということはない。

 

 遠くで、幼子の泣く声が聞こえた。

 

「呼ばれているから、行ってくるよ」

 

 やることがあるのだろう。行ってらっしゃいと告げ、机に向かう夫。

 その背中をみて過ごせる時は、もう長くはない。

 

 束の間の幸せ。それはわかっていたことだ。

 益材はしらない。私の秘密。共にありたいと望んでくれた彼と、束の間でも共に在りたいと思った。

 何も言わずに消えることを、申し訳なく思う。

 

 愛しい子どもたち。名はすでに決めてある。双子なのに驚いて、慌ててもう一つ考えたのは暖かい思い出だ。

 私はその名を呼ぶことはできない。呼べばきっと、届いてしまう。この胸に秘め、二度と呼べなくともかまわない。

 

 ただ。

 

 ふいに嬉しそうに下の幼子が笑った。

 …お前は、お前たちは私を忘れてしまうだろう。

 それが身を切るよりも辛く、悲しい。

 

 頬を、一つのしずくがすべる。

 

 視線を感じて、顔をあげた。じっと見つめてくる上の童子。

 内包する力を通じて、不安が伝わってくる。

 

 この子は賢い。赤子でありながら、まるで意識は成人のよう。

 何もできない母を、恨むだろうか。いなくなる母を、憎むだろうか。

 

「…母は、行かねばならないのだ」

 

突き刺すような緊張が伝わってくる。やはり、わかっいるのだろう。

守ってやりたい。その身を縛る呪を断ち切ってやりたい。だけど、できない。

 

「――愛しい子。そばにおれずとも、いつも思っているよ。

 恐れることはない。益材も、そしてこの子も、お前の味方だ。それを忘れるな」

 

二人の重さをその体に刻むように、葛の葉は抱きしめ続けた。

 



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第3話「穏やかな日々」

 母の姿を見なくなってから、六年の月日が流れた。

 初めは不安で不安で仕方がなかったけど、父は母と同じような愛情を向けてくれた。

 俺たち二人に、向けてくれた。

 

 それに答えたくて、俺は笑い続けた。

 狐の子だと、不気味がる人がいる。化け物だと、蔑むものがいる。

 それに耐えきれなくなった弟は笑うことがない。

 父は庇いたってくれるけど、それでも悪意はその盾を乗り越えて届く。

 

 動物を、雑鬼と呼ばれる、チビどもを通じて。

 彼らは噂話を持ってくる。見たこと、聞いたこと。

 どこで何があったのか、誰がなにをしただとか、そんな些細な話も持ってくる。

 

 それだけではない。最も大変なんは、人の心の声までが届くこと。

 我慢していた。耐えていた。けれども、幼い子どもがそれにいつまでも耐えられるわけがない。

 父が気付いた時には、弟は笑わなくなっていた。俺は、そんな弟に、気づかなかった。

 

 父の助けになることばかりを考えていて、弟のことが見えていなかった。

 そうして、俺は弟の笑顔を奪ってしまった。

 俺まで暗くなってしまったら、父は悲しむだろう。

 だから、笑い続ける。いたずらして、バカやって。身を粉にして俺は動く。

 

 そのうちに、父の友人だという賀茂忠行という人に陰陽術というものを教わった。

 そうすれば父が喜んだ。父と同じく、自分をきちんと見てくれたその人も、――師匠も喜んだ。

 喜んでくれるのがうれしくて。認めてくれるのがうれしくて。また頑張ろうと思えた。

 

 そんな自分たちに、師匠から仕事している所を見てみないかと言われたのが、三日前。

 すごく楽しみで、わくわくして指で数えながらその日が来るのを待っていた。

 待ち遠しにしていたのに。

 

「そう落ち込むな、童子」

「でも、わたしもいきたかったのです」

 

 ぶすっと頬を膨らませて答えた。

 父が困ったような空気をまとうので、落ち着かなきゃとは思う。

 頭ではわかっていても、感情が追い付かない。

 

「このくらい、なんとも……げほ、げほげほげごほっ」

「無茶はいけないよ。感冒は悪化させると大変だからね」

 

 なにを隠そう、俺は風邪をひいてしまった。

 よりにもよって、師匠のお仕事を見る大事な日に!

 

「うぅぅぅぅ、せっかく師匠がつれてってくれるって…けほっ」

「また次があるさ。だから、今はゆっくりとお休み」

 

 父の言うことはわかっている。でも、うらやむ心は止められない。

 風邪をひいてしまったのは自分だけなので、いたって元気な弟は予定通り外出中。

 自分のうかつさを、運の悪さを呪わずにいられるかっ!

 

 風邪をひいた原因が、楽しみのあまり夜もなかなか眠れなくて免疫力が落ちた結果だとは、なんとも間抜けすぎる。

 陰陽師とか妖怪とか、知識として持っていても、実際にどのようにしてかかわっているのか見るのは初めて。

 知らない世界。未知の世界に足を踏み入れることに、わくわくしないわけがない。

 

 え、雑鬼? 知らない知らない。あれ無害だし、あれはあれ。これはこれ。

 

 あぁぁぁぁ、悔しい悔しいくやしい。

 見たかったのに、行きたかったのに、体験してみたかったのに。

 風邪をひいた俺を鼻で笑って出てった弟、許すまじ。

 

 うざかろうが、邪険にされようが、なんとしてもかじりついて様子を聞き出してやる。

 高確率でけられるし、うるさいと殴られるけど、めげるものか。

 弟に殴られる兄。なんとも情けのない絵面だが、譲れないものがそこにはある。

 

 おぉ、俺、いまかっこいいこと言った。

 

 --……やべぇ。思考回路やべぇ。熱に浮かされて変なことになってる。

 どこの厨二病のガキだよ。あぁでも、バカやるにはちょうどいいんだよなぁ。

 あれ、それなら思ってるより平常運転?

 

 …………いや、まさか。熱に浮かされておかしくなってるだけだよ。

 そうだよ。そうに違いない。厨二が俺の素というわけではない。断じてない。

 ないったらないんだい。

 

 くそう、頭くらくらしてきた。

 行けなかったことへ不満を抱きつつ、体のしんどさを思い出して袿を頭からかぶる。

 

 行きたかった行きたかったいきたかった。

 自分のアホ。ばーかばーかばーか。

 どーせ、おれなんか、どーせ。 

 

 不貞寝の体勢でいじけているうちに、いつの間にか眠り落ちた。

 

 

 

        ◇        ◇        ◇

 

 

 

 気づいたら日にちが変わってた。

 眠る前の記憶では日が傾き始めていたとはいえ、高い位置にあったはず。

 どんだけ寝たの、俺。寝すぎでしょ。

 

 東の空が白み始めている。

 いつもなら、隣で寝ているはずの弟の姿はない。

 弟の褥が部屋の隅に残されていることからして、おそらく昨日は帰ってこなかったのだろう。

 

 言ってたもんな師匠。逢魔が時に妖の活動は活発になる。

 だから、一緒に行くのであれば遅くなるぞ、と。

 人生初のお泊まりを、弟は一人で体験したのか。

 

 ……うん。しめよう。

 兄をさしおいて自分だけいい思いするとか、言語道断。

 

 勉強は苦手じゃないけど頑張る自分とは裏腹に、俺ほど頑張らなくとも知識の吸収が早い弟。

 座学では負けるが、体術ではまだ自分のほうが勝手いる。

 いつ追い越されるか、ひやひやしてるけど。

 ってか弟に頭も力も越された日には、兄としての面目なんて丸つぶれだけど。

 

 いや、そもそも兄と思われているのかも微妙だ。

 呼び方はおい、とかお前だし。どこの関白亭主やねんって突っ込むくらい、兄と呼ばない。

 へらへらしててうざい、と言われたことがあるけど、やっぱりそのせいなのかね?

 

 お兄ちゃんは悲しいよ、弟よ。

 そんな血も涙もない子に育てた覚えはないのに……!

 

「育てられたおぼえもない」

 

 冷ややかな声とともに足蹴りにされた。

 じんじんと痛む背中を抑えながら、声の主を振り返る。

 案の定、仏頂面で仁王立ちしている弟の姿がそこにはあった。

 

「なにもけることはないだろう!」

「だまれ。うるさい。さわがしい。ねる」

「ひでぇ! 弟の兄にたいするあつかいがひでぇ! こんなにもけなげでまじめでやさしい兄を……って、きけぇ!」

 

 ものの見事に無視をきめこみ、褥をしいて横になる弟。

 完全に寝る体制の弟に、この野郎と目を眇めた。

 

 大人しく寝させてやるものか。

 子どもの嫉妬は恐ろしいんだぞ。

 にやり、と不気味な笑みを浮かべて、転がる弟に突撃した。

 

「ぐぇっ」

「ふはははは! つぶれたかえるみたいな声してやんの!」

「ぅっ……お前……!」

 

 横になる自分の上でいい笑顔で笑う片割れを鬼のような形相でにらみつけた。

 だというのに、腹立たしいことに片割れは飄々と笑っている。

 頭おかしいのかこいつ、と思ったことは幾度となくあるが、頭おかしいのではなく、もはやこれは別次元の生物なのではなかろうか。

 そうだ。きっとそうに違いない。でなければ、人が寝ようとしているところに、勢いつけて乗るような真似はしない。

 

「おりろ!」

「やなこったー。あっかんべー」

 

 ぶち、と何かが切れる音がした。

 なぁにが兄だ。やってることはそこらのガキと何ら変わらない。それでどうして兄と思えようか。

 実は、上と下は逆なのではないかと疑っている。

 これが兄とか、たまったものじゃない。ありえない。

 

「ぐほっ……やるな、弟…」

「ひとのあんみん、じゃまするな…!」

「やーだねーだ! おれをおきざりにしてひとり師匠とでかけたお前からはなしをきくまでねさせないもんね!」

「とうじつにかぜひいたどこかの馬鹿がわるい」

「なにおぅ! お前もいっしょにひけばよかったんだ!」

「だれがそんな馬鹿なことをするか! 馬鹿はおまえだけでじゅうぶんだ!」

「馬鹿っていったほうが馬鹿なんだぞ! やーいやーい。ぷぷっ」

「こんの……っ!」

 

 殴り合い、蹴りあいからの追いかけっこ。

 部屋をぐるぐる回り、廊下に出て走り、庭に出て取っ組み合う。

 

 騒々しいこの兄弟喧嘩。なにかとくだらない理由でよく勃発している。

 やれ弟の態度がわるいだの、やれ片割れがお馬鹿で腹立つだの。

 …同じ理由で、毎日毎日、飽きもせず喧嘩を繰り返す。

 

 本人たちはいたってまじめ。互いに互いが気に食わないから、けんかになる。

 そのまえに、手を出すより話し合いを、と双子の父や師匠は言っているのだが、いかんせん聞き入れない。

 どちらかでも、と思うのだが、どちらも譲らないので平行線。

 

 でも、終わった後にはすっきりした顔をしていることが多い二人。

 ため込まずに動いて蟠りを発散する子どもなりの対処だろうとここは割り切り、度が過ぎないように見守るのが大人の役目。

 手を挙げるのはお互いに対してだけで、ほかの人間あるいは生き物に対して奴当たるようなこともないから放置。

 4年ほど言い続けてきたが、いつぞやに二人の喧嘩への思いを聞いてから、口うるさく言うのはやめた。

 

 ――うごくと、きぶんがすっきりするとおもったから。おこらせないとうごかないから、おこらせる。

 ――ちかくにいるのに、とおい。でもけんかしているときだけは、ちかくにいて、ちかいから。

 

 お互いに、お互いの何かを感じている。それゆえの喧嘩。

 

「上の童子も元気になったみたいでなによりだ」

「行きたかったのに、とずっとぼやいていたよ。それくらい、楽しみにしていた」

「下の童子は、無意識のうちに姿を探す様子が見られたよ。それに少し機嫌が悪かったかな」

「仲がいいからね、ふたりは」

「そうだなぁ。なんだかんだいいながら、お互いのことが大切なんだろうな」

 

 泥だらけになりながら、肩で息をしながらも、今なお取っ組み合うふたり。

 その根底にある思いは、互いを思う心。

 それを、こういう形でしか表せない。二人そろって不器用である。

 

「わざわざ送ってくれて、ありがとう、忠行」

「気にするな。……下の童子の秘められている力はすごいな。おそらく、上の童子も」

「……そうか。そちらの面は引き続き頼む」

「当たり前だ。途中で投げ出すつもりはないよ」

「ありがとう」

 

 邸をあとにする友を見送り、益材は庭へ視線を滑らせた。

 二人とも地面に転がって動かない。

 今日の取っ組み合いは無事終了したようだ。

 

 この光景を見ることができるのはあと1年もない。

 下の童子を、播磨へとやる事実を、まだ伝えられずにいる。

 また今度、と先延ばしにしているうちに何年もたってしまった。

 早く、覚悟を決めなければならない。

 

 二人は悲しむだろうか。父を恨むだろうか。

 この時がいつまでも続かないその現実が、たまらな寂しい。

 

 そっと嘆息して、庭に足を向けながら考えを巡らせる。

 伝えるならば早いほうがいいのはわかっている。

 それでも、どうしても願ってしまう自分が浅ましくて、吐き気がした。

 



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第4話「忍び寄るもの」

 今日は師匠が忙しいということで修業はない。

 俺と違って根が真面目な弟は一人、ついさっきまで手習いに励んでいた。

 そこは素直にすげーなと、思う。

 

 褒められるのはうれしい。認められうのはうれしい。

 でもたまにはぐだぐだしたいじゃないか。ぼーっとするのも楽しかった。

 が、それだけで丸一日がつぶれるわけじゃない。何もすることがなさ過ぎて暇になる。

 暇になりすぎてなにやることと言ったら、掃除だ。

 

 まぁ、二人いる女房が俺たちに近づきたがらないから自分でしているだけなのだが。

 生まれ変わって早数年といえど、未知なものはまだまだある。

 ここが平安京という名前から平安時代だと知ったのはいつだったか。

 現代を生きていた自分にとって、平安期と現代を比較するのも楽しい。

 それに掃除しなきゃ埃がすぐ散らかるのだ。

 

 修行を始めてから、いろいろ資料が増えた。

 師匠にもらったものもあれば、手習いで自分が書いたものもある。

 大切なものといらないものは一応分けてるみたいなんだが、弟が散らかすんだ、これが。

 

 俺もそんなに人のこと言えないんだけど。

 念のため内容を確認しながら紙を仕分けていると、ひょいっと一匹の雑鬼が顔を出した。

 それは、昔助けてから自分に懐いている、力の弱い猫の妖だった。

 

 一見どこにでもいそうな茶色の猫。

 その体躯は子猫ほどの大きさだ。

 その猫によると、体の大きさは力の強さに比例するらしい。

 だから、身体が小さいということはそういうことなのだそうだ。

 

 ちなみに、この猫の場合力が弱いと人の言葉も話せないらしい。

 だから会話する時は、頭に直接語り掛けてくる。

 それにも力が必要だから、一日から数日に一回くらいしか会話をしない。

 

 今日来たのも二、三日ぶりだった。

 

『またおまえは弟の後始末か。病み上がりというのに大儀なことだ』

「しんぱいしてくれて、ありがとな」

『あたりまえよ。さすがに元気のないお前では遊べないからな』

「こらこら。俺であそぶな。俺と、あそべ」

『なら弟みたいにもう少し鋭敏になるんだな』

 

 人で言うなら、にやりと笑っという表現がふさわしいのだろう。

 そんな雰囲気を醸し出して、猫はぽてぽてと傍らに座り込む。

 それができたら苦労はしない、とむくれて整頓へと意識を向けた。

 かさかさと紙を仕分ける音だけが室内に響く。

 

 こいつとのこういう時間は嫌いじゃない。

 むしろ好ましいと思っている。

 すぐ近くに誰かがいるって、いいなぁって思えるから。

 

『そういえば、下の若君がお前のことを呼んでいたぞ』

「っ……、それをはやくいえ!」

『忘れていた』

「そのかおぜったいわざとだ! けられるの俺なんだけど!?」

 

 欲しいものはとりあえず唐櫃に、そうでないものは飛ばないよう硯を重しに机に置く。

 またあとでな、と颯爽と去っていく後ろ姿を見て、くっと笑いをこぼした。

 

『忙しいやつだ』

 

 下の若君と違ってころころと表情が変わる。

 見ていてとても面白いと言うのに、なぜ人は双子を忌み嫌うのか。

 

 狐の子だと、忌み子だと、人は陰で二人をののしる。

 それがどんなに二人を傷つけているのかも知らず、恐れおののく人間たち。

 馬鹿だよなぁと思わずにはいられない。

 

 こんなにも優しく、まじめで、からかい甲斐があるというのに。

 

『そういえば、冗談だと言い忘れたな』

 

 まぁいいか。そのうち戻ってくるだろう。

 くるりと丸くなって目を閉じる。隙間風が毛を撫でて消えていく。

 心地よい風にまどろむ中で、とたどたと足音を立てながらあの子が戻ってきた。

 

「かえい! よんでねーじゃんか! あいつにまた鼻で笑われたんだけど、どうしてくれんのさ!」

 

 あぁ楽しい。これだから上の若君をからかうことをやめられない。

 

『すまんすまん。嘘だと言うのを忘れていた』

「わすれるなっ! 俺のいたいけな心が傷つけられていく……なんてりふじんな」

 

 泣きまねをする若君。ほんとにこいつ六つなんだろうか。

 疑うことせず鵜呑みにするたたりは子どもだが、そんな子どもが果たしてこう、おちょくるように泣きまねするのか。

 肉体年齢に反して、精神年齢が上なのか下なのかまったくわからん。

 その意味不明さも上の若君の魅力ではあるが。

 

「そのりふじんにしずめボケ」

「ぎゃぁっ」

 

 あぁ、また始まるなぁ。

 他人事のように構えながら、香瑛は耳をそよがせる。

 

「なにすんだこのやろう! 俺のりふじんさを思い知れ!」

「だがことわる」

「もんどうむよう!」

 

 楽しそうな声に耳を傾けながら、尾を揺らす。

 ここは本当に居心地がいい。

 恐ろしいものだと教えられてきた人間に、救われる日が来るとは思いもしなかった。

 

 いつものごとく取っ組み合いの喧嘩に発展する兄弟。

 うっすらと目を開けて、その様子を眺める。

 

 世界はこんなにも、まぶしく、輝いている。

 

 

 

        ◇        ◇        ◇

 

 

 

 ――おいで。

 

 聞こえた声に、目を開けた。

 あたりは暗闇に包まれいて、一寸先も見えない。

 きょろきょろとあたりを見回すと、再び声が聞こえた。

 

 ――おいで。

 

 甘いにおいが漂う。

 甘ったるいのに、不思議と気持ち悪いとは思わない。

 じん、と頭の芯がしびれて、何も考えられなくなる。

 

 ――こっちに、おいで。

 

 ふらりと声がする方へ足を向けた。

 呼ばれているから、行かなければ。

 考えることをやめて闇の中、足を進める。

 

 手招きしている手が見えた。

 白い手がぼうっと浮かび上がり、緩慢に動く。

 

 目の前に立つと手は差し伸べるように手の平を返す。

 それに応えるように手を伸ばしたときだ。

 

 どすっ。

 

「ぐえっ」

 

 けったいなうめき声をあげて、声もなく悶絶する。

 痛い。痛い痛い痛い痛い、めっちゃ痛い。

 ってか苦しい。まじで、ちょっと息するのもつらい、かも。

 

 咳き込めば、鈍痛が腹部にわだかまる。

 深呼吸を繰り返して、肘で状態を起こしつつ、仁王立ちになる弟を睨みつけた。

 

「もっとおんびんに起こせよ……!」

「…………今、何をみていた」

「は?」

「……なんでもない。朝餉だ」

「え、うそ! 俺ねぼうしたのか!?」

 

 跳ね起きて身支度を整える兄に背を向け、廊下へ出る。

 そのままたたずみ、険しい顔で胸元の衣を握り締めた。

 

 珍しく寝坊した兄の周りを黒いものが取り巻いていた。

 嫌な予感を覚え、揺さぶったり叩いたりしたけどぴくりとも動かなかった兄。

 かろうじて脈は感じ取れたものの、今にも消えそうなほどひどく弱弱しかった。

 

 今思い返しても、すぅっと胸が冷える。

 自分と違って、明るくて能天気な兄。

 雑鬼にも好かれ、兄の周りはいつも騒がしい。

 いや、本人が一番騒がしい。

 

 自分のそうだが父上も師匠きっと、そんな兄上に救われている。

 いまでも双子の片方を手放そうとしない父に、周りはいい顔をしない。

 双子を引き離すよう説得するどころが師として自分たちに教えている師匠への風当たりも弱くはない。

 

 双子というだけで、周りのものがこんなにも辛い思いをする。

 もし、どちらか一方がこの都を離れるなら、それは自分の方だと思う。

 兄ならうまく生きていけるだろうから。

 

 だから、くれてなどやらない。

 運命だと言っても、兄を冥府になどくれてやらない。

 冥がりになど渡さない。

 

 もし、その時があるのなら、その時は。

 

「あれ、待っててくれたのか。いい弟をもったなぁ、俺」

「ちがう。考え事をしていただけだ」

「照れるな照れるな。俺はちゃんとわかってるから」

「人のはなしをきけ」

 

 さぁ、朝餉に行くぞと笑う兄。邸の空気が一気に騒々しくなった気がする。

 兄のその騒がしさは嫌じゃない。むしろ安堵を感じている。

 前を行く兄の背を見つめ、ついっと目を細めた。

 

 その時は、何としてでも救い出す。

 

 

 

 

 

 

 

「――今日はここまでにしよう」

「ありがとうございました」

 

 弟と二人そろって頭を下げたのち、正座を崩した。

 あぁ、疲れた。甘いものほしいチョコ食べたい。

 のどか沸いた、布団が恋しい。でも。

 

「足しびれたぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「うるさいっ」

 

 すぱん、と弟に頭を叩かれ、口をへの字に曲げた。

 

「お前さ、すぐ手をだすのやめろよな」

「口で言ってしずかになるわけじゃないだろう」

「だからと言って、叩いたところでしずかになると思うなよ、えっへん」

「いばるな」

 

 また頭を叩かれた。

 まったく、言ったそばから手を出しやがって。

 少しくらい忍耐という文字をかみしめてもいいと思うぞ、俺は。

 

 怨めしげにすました顔の弟を睨みつける。

 相変わらず不愛想だし、はたから見れば目つきは怖いけどさ。

 昔に比べたら、すこし丸くなったような気がする。

 

 …あ、今でも殴るし蹴るし喧嘩するし、気のせいだな。

 

「仲がいいのはいいことだが、上の童子は今日は身が入らなかったようだね」

「そんなつもりはないんですけど……」

 

 ぽりぽりと頬をかき、あぁでも、と何かを思い出したかのように言葉をつづけた。

 

「夢で、誰かに呼ばれているような気がするんです」

 

 どんな夢かは覚えていない。

 でも、呼ばれているのだけは覚えている。

 

 下の童子のぴくりと、肩が跳ねた。

 兄の方へ視線を滑らせ、息を殺す。

 師匠も兄も自分の様子に気づいた素振りはない。

 それをいいことに、袂の陰でこぶしを握りしめた。

 

 時折、眠る兄にあの影はまとわりついている。

 今持ちうる知識を駆使して退けているが、根本的な解決にはなってない。

 眠っているとき以外はいたって健康だから、父も師匠も気づいてはいない。

 

 本来なら、父や師匠に相談すべきことなのだろう。

 でも言うことはできなかった。

 いや、言いにくい、言いたくないといった表現の方がふさわしい気がする。

 

「呼ばれている、とな?」

「はい。あくむってわけじゃないと思うんですけど、よく眠れてないのかも…」

「じゃあ、今日はこれを覚えておくといい」

 

 悪い夢を祓う呪いを教えてもらって、兄がほっと息をついたようだった。

 それに、ざわりと心が騒いだ。

 

 言い表しようのない感情が胸の内に広がっていく。

 ありがとうございます、と浮かべられるその笑顔に、今はただ腹が立つ。

 

 自分の視線に気が付いて兄が不思議そうに首をかしげる。

 

「どうかしたか?」

「…いや、呪いを唱えずともお前ののうてんきさにあくむも呆れて去るだろうなと思っただけだ」

 

 きょとんとした顔で目を瞬いたのち、へにゃりと兄は笑った。

 

「心配してくれてありがとな」

「………………………」

 

 どこをどう曲解したらそうなる。

 馬鹿か、と鼻で笑って視線を外した。

 なにおぅ、と突っかかってくる兄の足をげしげし蹴る。

 

 それににんまりと笑い、照れるな照れるなとつついてくる兄に一度拳骨を落とした。

 今回はあまり加減しなかったので、兄は目に涙を浮かべている。

 凹んだ様子にちょっとばかし動揺したが、素直じゃないんだから、という言葉にそっぽを向いた。

 

 

 

 



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第5話「欲深き人間」

 突き出した拳を避けられ、腕を捕らえられた。

 しまった、と思ったときにはすでに遅く。

 腕をひねりあげられ地面に引き倒される。

 もがき出ようとするよりも早く、首筋に手が添えられた。

 

「そこまで」

 

 師匠の声が厳かに響く。

 それを合図にまたがっていた弟は立ち上がる。

 腕で目元をおおい、すぅっと息を吸った。

 

「っだぁぁぁぁぁぁぁぁ、また負けたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「叫ぶな、うるさい、めいわくだ」

「32連勝のお前にはわからないんだぁぁぁぁぁっ!」

 

 仰向けからうつ伏せになり、ばしばしと地面を叩く。

 

「あともう少しだったのに!」

「最後の拳が致命傷だったな」

「ししょぉぉぉぉぉっ、傷をえぐらないでくださいよっ」

 

 それは自分が一番わかってる。あそこは引くべきだったのだ。

 ここ最近、体術で勝ててないからと焦りが出た。それが敗因となったのだ。

 

「あ――――、くやしいくやしいくやしいくやしいくやしいっ!」

 

 ずっと昔、運動は嫌いだった。ここに生まれてからも、初めは嫌で嫌で仕方がなかった。

 でもなんだかんだで修業を続けたところ、思うように体が動くようになった。

 それが楽しくて嬉しくてたまらなくて修行を頑張った。

 昔はだいたい勝ってたまに負けたりしていたが、ここ最近はずっと負けっぱなしだ。

 

「ふたりとも、傷の手当てをするから上がりなさい」

「はーい」

 

 ひょいっと起き上がって土ぼこりを払い、邸に上がった。

 

 今日の体術の修行は安倍邸で行われていた。

 師匠の事情に合わせて賀茂邸に赴いたり、安倍邸に来てもらったりしているのだ。

 

「いたたたたたたたたたっ!父上、いたいっ!」

「もう少しで終わるから」

「…………馬鹿丸出しだな」

 

 ぼそりと弟の呟いた言葉を聞きのがさなかった。

 目に涙を浮かべつつ、くわりと牙をむいた。

 

「馬鹿とはなんだ馬鹿とは! 馬鹿っていう方が馬鹿なんだからなっ」

「ふん。お前ほどではない」

「ぬあぁぁぁぁぁぁっ、むかつく腹立つ、どこでそんな切り返しおぼえてきたんだよ!」

 

 他愛のないいつもの兄弟喧嘩。傷の手当の最中なので取っ組み合いにまでは発展しないが、口は動く。

 なんだかんだ言って仲のいい兄弟に大人二人は思わず顔がほころぶ。

 

「よし下の童子はこれでいいだろう」

「え、もう終わったの!?」

「かすり傷ばかりだったからね」

「うらやましっ! 俺の傷と代われ!」

 

 びしりと指を差せば、弟に叩き落とされた。

 冷めた目で見つめられてむっと顔をしかめる。

 弟よ。いくらなんでもそれはちょっとへこむぞ。

 

「下の童子。少し話があるからきなさい」

 

 そういう師匠に連れられて奥の部屋に入る弟。

 説教でもされるのか? あ、それどもほめられるとか?

 でもそれならわざわざ二人きりになることないよな。

 

 傷の手当てを受けながら弟と師匠を目で追っていると、父が心配そうな顔をしていた。

 

「先ほどの手合わせ、少し動きが鈍くなかったかい?」

「そう、でしたか?動けていたつもりだったんですけど…」

「……………」

「父上?どうかしましたか?」

 

 突然黙り込んだ父。見上げると厳しい表情をしていた。

 そんな父上の表情は初めてでたじろぐ。

 

「あ、あの……俺、何かしましたか……?」

 

 はっと我に返ったように父は首を横に振った。

 何かしたというわけではないよ、と頭を撫でられる。

 何かしたわけではないが何かあるのだろう。

 得も言われぬ不安が、胸に重石を落とす。

 

「童子。忠行様から伺ったのだけれど、きちんと眠れているかい?」

「…眠れてると、思います。師匠が教えてくれたおかげで夢も見ないので」

「そうか。なら、いいのだが……もしまた呼ばれることがあっても、行ってはいけないよ」

 

 懇願するような眼差しを不思議に思いつつ頷いた。

 一体どうしたというのだろう。

 あんなに心地いいのに。

 

「さぁ、終わったぞ」

「ありがとうございます、父上」

 

 砂埃を落とすために井戸から組んできた水を庭に捨てる。

 その桶を片づけに父はその場を離れた。

 

 一人残されて、なんとなく膝を抱えた。

 それにしても、師匠の用は長いなぁ。

 やっぱりあれなのかな。あいつの方が優秀だから特に目をかけてるんだろうか。

 あ、それはへこむ。俺だって頑張ってるのに。

 

「楽しくないわけじゃないけど、むなしいよなぁ」

 

 双子は周りからも比べられるだけじゃない。

 自分でも弟と比べて、卑屈になることがある。

 双子なのに、どうして違うんだろうって、思う。

 一卵性なのにな。

 

 落ち込んでいると、甘い香りが鼻腔を掠めた。

 

「すみません!」

 

 来客を告げる声に顔を上げた。

 

 ――むかえに、きたよ…。

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 ぼう、と頭の心がしびれて、思考が遠のく。

 

 そうだ。迎えが来た。

 だから行かなきゃ。

 来たから、行かなかなきゃ。

 呼んでいるから、その先に。

 呼ばれているから、香りの下へ。

 

「童子っ!」

 

 早く行かなきゃ、また怒られる。

 

 

 

 

 

 

 

 赦さない。許さない。

 

 お前だけ生きているだなんて、許さない。

 

 だから来なさい、此方に。

 

 お前なんて必要ないの。

 

 お前なんかいらないの。

 

 おいで克寿。その命をあの子にちょうだい。

 

 

 

 

 

「童子っ!」

 

 父の切羽詰まった声に、部屋を飛び出した。

 とたん、鼻をつく甘ったるいにおい。

 顔をしかめ、鼻と口を袂で覆い隠した。

 

 先ほどいた、簀の子のところに父の姿はない。

 では、どこに。

 

「童子はここに居なさい」

 

 師匠が横をすり抜けた。

 その背を追うように首をめぐらせる。

 門の外に何かがいる、と感じるのと父が吹き飛ばされるのは同時だった。

 

 ここに居ろ、と言われたことも忘れ、一目散に門へ走る。

 そこで見たのは、“何か”に呑まれそうな兄と、それをひきとめる師匠の姿だった。

 

 触手のようなもので兄を絡めとり引きずり込む化け物。

 ぽっかりと浮かぶ人の頭は、けたけたと笑っていた。

 不意に、視線が合った。にぃ、と女の唇がつり上がる。

 

「っ!?」

 

 流れ込んできた思惟。

 憎しみ。恨み。悲しみ。妬み。

 そして隔意の根本にある、悪意。

 兄に向けられる明確な害意を感じ取り、呆然とした。

 

 どうして、そんなものを兄に向ける。

 確かに自分たちは双子というだけで敵意を向けられる。

 しかし、自分ならまだしも兄にだけ負の感情を向けられる意味が分からない。

 活発轆地な兄になぜ。

 

 ぐいっと肩をひかれ、引かれるように後退る。

 我に返り振り返ると、頭から血を流す父の姿があった。

 

「父上、血が……っ!」

「大丈夫だ」

 

 ふらふらと師匠に歩み寄る父。

 その背を見つめたまま、その場にたたずむ。

 どうしてか、現実味を感じられなかった。

 

 どうしてこんなことになったのだろう。

 なぜ父も師匠も傷ついているのだろう。

 なぜ兄は動かないのだろう。

 なぜあの化け物は兄に殺意を抱いているのだろう。

 

「…………さつ、い…?」

 

 そう、殺意だ。あの化け物にあるのは、兄への殺意。

 なぜ兄を殺そうとするのかはわからない。

 でも、呼んでいたのは兄を殺すため。

 

 兄が殺される。すなわち、死んでいなくなる。

 兄がいない。いつも騒がしいあの兄が。

 自分とは真逆の兄が。

 自分のそばから、いなくなる。

 

 すぅっと、心が冷えた。

 自我のない様子で宙を見つめ、抗わない兄。

 童子、と叫んで兄に手を伸ばす父。

 術を駆使して化け物と対峙する師匠。

 ……何もできない、自分自身。

 

 感じとった殺意に麻痺していた思考がようやく追いついた。

 ふつふつと様々なことに対して怒りがこみ上げる。

 

 ふざけるなよ。

 どれだけ自分が一喜一憂していたと思っている。

 いつも先に行く兄に置いて行かれまいと努力した。

 その能天気さが気に喰わないけど羨ましくもあった。

 有能なくせに異様なまでの鈍さが腹立たしくもあった。

 

 兄を大切だと思っている。失いたくないと思ている。ともに在りたいと思っている。

 それは父も師匠も同じこと。

 

 唐突に理解した。

 

 兄の様子がおかしいと初めて話したとき、言いたくなかったのは父や師匠に対する嫉妬だ。

 好き勝手して能天気で周りを惹きつける兄を、本当は尊敬していた。

 うるさくてやかましくて煩わしくても、大切な双子の片割れだから。

 自分の半身のような存在だからこそ、他の誰でもない自分の手でどうにかしたかった。

 

 そんなくだらない子供の自尊心のせいで、兄は囚われた。

 対応が後手に回ってしまった。父と師匠が傷ついた。

 

 ゆらりと、胸の奥で炎が揺らめいた。

 怒りに呼応するかのように、激しく脈打つ。

 

 驚いたように父と師匠が振り返った。

 何かを叫ぶが、その言葉は耳にまで届かない。

 ただ、怒りばかりが己を支配していた。

 怯えたように体をすくませる妖を睨み、うなりを上げる。

 

「兄上から、離れろ……!」

 

 

 

 

 

 

 唐突に、意識が戻った。目の前に広がる変な物体。

 うねうねぬめぬめと動くそれに、無意識のうちに足を退く。

 

 けれども、沼にいるようにうまく動けなくてしりもちをついた。

 のめり込む感覚に顔をしかめ、ずぼっと手を引き抜く。

 

「何だこれ、きもっ」

「兄上っ!」

 

 弟の切羽詰まった声。

 初めて聞くその声音に振り返り、瞠目した。

 弟を包み込む青白い炎。

 

 ぞわりと、肌が粟立った。

 あれはだめだ。危険だ。

 あの力は命を削ぎ、そして人ではなくするもの。

 

 そういう力だ、あの青白い炎は。

 

「やめ……ぐっ!?」

 

 やめるよう口を開けど、最後まで言葉が紡がれることはなかった。

 唐突に感じた喉の圧迫感。背中にぬめったものが当たる。

 苦しみと、もう一つ別のことに目を見開いた。

 

 ――ちょう、だ…い……。

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 唇がそう動いたから、そう聞こえたのかもしれない。

 

 自分の首を絞める触手に浮かぶ人の頭。

 記憶の中のものと随分と印象が違う。

 それでも、顔の特徴は覚えている。

 

「かあ…、…さ…………っ」

 

 薄れる意識の中で絶望にとらわれる。

 

 どうして、忘れていたのだろう。なんで、今まで笑って過ごせたのだろう。

 あれは俺を、俺の命を狙ってる。今までだって、そうだったじゃないか。

 なんで死んだと思っている。なんで自死を選んだのだと思っている。

 全部、こいつがいたからだ。

 

 忘れなければ。俺が、覚えていれば。

 もっと早くに、夢から目覚めていれば。

 

 それさえも嘲笑うかのような表情に、頬を涙が伝った。

 

 もういい。やめろ。やめてくれ。

 みんなを巻き込まないでくれ……!

 

 静かな叫びを下の童子は聞いた。

 

 喉を掻いていた兄の手が、力なく落ちる。

 それに下の童子は目を見開き息をつめた。

 どくりと、心臓が跳ねる。音が、さらに遠くなった。

 

 認めない。認めない。そんなこと、認めない。

 死んだなんて、そんな馬鹿なこと。

 誰が、誰が認めるものか……!

 

 ぎりっと歯をかみしめ、目の前の化け物を睨みつけた。

 

 ずるずると兄を引き込む化け物は嗤っている。

 此方のことなど目に入らないように、兄を見て嗤っている。

 楽しそうに、嬉しそうに、面白そうに、喜ばしそうに。

 その命を狩ることに歓喜している。

 

 何度目かもわからない術を放つ。

 もう指先の感覚がない。息も上がっている。

 気を抜けば倒れそうなのを、渾身の力で支える。

 自分が今持ちうる力のすべてを使い切る覚悟で、印を組んだ。

 

「兄上を、返せ――!」

 

 振り上げた刀印を、叩き下ろしたところで、ふつりと意識は途切れた。

 




2019年10月9日 誤字訂正、加筆


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第6話「前世と今世」

 いらないなら、生まなければよかったんだ。

 

 

 

        *        *        *

 

 

 

「克寿! 晴香に謝りなさい!」

「だってはるかがぼくのほんを」

 

 ぱん、と乾いた音が響いた。

 ひりひりと痛む頬に、目に涙を浮かべる。

 

 どうして僕が殴られなきゃいけないの?

 晴香が悪いんだよ。僕の本を破るから。

 なんで僕ばっかり怒られるの?

 

「なんでお母さんの言うことがわからないの!?」

「ご、ごめ……なさ…」

「聞こえない。ちゃんとはっきり言いなさい」

「ごめん、なさい………」

 

 なんでわかってくれないの。

 どうして晴香ばかり構うの。

 僕の話も聞いてよ、お母さん。

 

「大丈夫、晴香。ほらいたいのいたいの、とんでけ~」

 

 泣き止んだ晴香が僕を見て笑った。

 

 

 

 びしりと、不吉な音がなった。

 

 

 

        *        *        *

 

 

 

「どうしてあんたはなにもできないの!?」

 

 期末テストの結果を前に、あの人が怒る。

 赤点ばかりのテスト。いつものことだ。

 そして、双子の妹であるあいつが高得点であることも。

 

「まったく、晴香を見習ってほしいものだわ」

 

 何も知らないくせに。俺が努力していたことなんか、知らないくせに。

 

 始めの頃は勉強だけでもと頑張っていた。だから成績はあいつより良かった。

 負けず嫌いなあいつはそれが気に喰わなかったのだろう。

 でたらめを言って、テストの成績がいいのはカンニングしたせいだと豪語した。

 

 反論はした。そんなものしてないと言い張った。

 でも、顔が広く先生の覚えもいいあいつの言い分を皆信じた。

 友達も、先生も、親も、みんな。

 

 卑怯者というレッテルを張られて、何もかもがどうでもよくなった。

 

 誰も、信じてはくれない。

 誰も、味方なんかしてくれない。

 誰も、助けてはくれない。

 誰も。誰も――。

 

 それ以来、何もしなくなった。母とも呼ばなくなった。

 学校には行くけど、勉強も部活も何もしない。

 家事も、手柄をはるかに取られたあの日から、自分のことしかしない。

 

 

 

 ぴきっと、ひびが入るような音がした。

 

 

 

       *        *        *

 

 

 

「かっちゃんめーっけ」

「……ちぃちゃん…」

「またないてるの?だいじょうぶ?」

 

 膝を抱える自分の傍にしゃがみこむ。

 曲がったことが嫌いなちょっと気の強い幼なじみだ。

 晴香とは仲が悪いのに、なにかと自分に話しかけてくる。

 

 始めはしつこくて嫌いだった。

 晴香と仲が悪いから、晴香に何か言われるんじゃないかと怯えていた。

 でも今は、本音で会話できる唯一の友達、……だとおもう。

 

「ちぃちゃん、なんではるかばっかりほめられるの」

 

 なんで晴香とおんなじことをしたら、僕だけが怒られるの。

 なんで晴香が僕と同じことをしても、僕のように怒られないの。

 なんで晴香ばっかりお母さんは見ているの。

 

「がんばってはなそうとしても、ぜんぜん聞いてくれないの」

 

 タイミングが悪くても、晴香にだったら時間を作るのに。

 晴香のだったら、何かしながらでも話を聞いてるのに。

 どうして僕の話は聞いてくれないの。

 

 言いたいことを全部言って、ぽろぽろと涙をこぼした。

 どうしたらいいの。どうすればいいの。

 

 慰めるように自分の頭を撫でる手が、とても嬉しかった。

 

 でも。

 

 ブレーキ音とどん、と何かがぶつかる音が後ろから聞こえた。

 何事だと振り返り、愕然と目を見開く。

 多くの悲鳴や救急車を、という声が遠くに聞こえる。

 

 その傍らに、おびただしい血だまりがある。

 そのなかに倒れる、先ほどわかれたはずの幼なじみ。

 真っ青な顔で震えている晴香がいた。

 

 唐突に、場面が切り替わった。

 

 呆然としていると、晴香に蹴飛ばされた。

 がん、と床に頭をぶつけて声もなく呻く。

 

「あのおんながしんで、なにがかなしいのかさっぱりわからないわ」

 

 その言葉に頭に血が上った。

 なんでそんなことが言えるのか。

 人一人殺しておいて、どうして笑えるのか。

 

 お前が殺したくせに。

 お前が突き飛ばしたくせに。

 ちぃちゃんを殺したくせに。

 

「ちぃちゃんにあやまれ!!」

 

 悔しくて、苦しくて、腹立たしくて、悲しくて。

 もう、唯一の友達に、会えない。

 

 殴りかかればばたばたと自分の部屋に逃げ込む。

 悔しさにだん、と床を叩いた。

 何度も何度も、感情をたたきつけるように拳を落とす。

 泣き疲れてねむくなり、布団にもぐりこんだ。

 

 その夜、帰ってきた母に暴力はいけないと言いながらたたき起こされた。

 先にあいつに蹴られたことを言っても、信じてはもらえなかった。

 それから、ちぃちゃんを馬鹿にしたのは自分だということになっていた。

 

 もう、いいよ。あいつはもう、どうしようもない。

 

 

 

 ぱしん、と強度に耐えられなくなったガラスがたわむ音がした。

 

 

 

        *        *        *

 

 

 

 高校2年の修学旅行。

 年間行事の中でもこれが一番嫌いだ。

 だから、学校で自習する道を選んだ。

 

 あいつと俺の差は、たったそれだけ。

 しかし、その差がその時刻における生死を分けた。

 

 修学旅行の先で、バスが横転したらしい。

 それに後続のバスや自家用車などが巻き込まれたという。

 そして、横転したらしいバスにあいつが乗っていたのを家に帰って初めて知った。

 

 あの人はすでに連絡を受けていたのだろう。

 事故当日からしばらくの間、家に帰ってくることはなかった。

 

 数日後、帰ってきたあの人は酷くやつれていた。

 あいつが死んだことはテレビで見た。

 罰が当たった、としか思わなかった。

 

 あの人と会話なんてものは中学校に入った時点でしなくなっていた。

 日常会話どころか挨拶すらもしない。

 入れ違いに学校に行こうとして、唐突に首を絞められた。

 玄関で自分に馬乗りになり、首を絞めてくるあの人。

 どこにそんな力があったのか、爪を立てればひるんだのか、ようやくわずかながら力が緩む。

 

 けれども、油断はできない。

 跳ねのけようと腹筋に力を込めた時だ。

 

「どうしてお前が生きているの……!?」

 

 よもやそんなことを言われると思わなくて、動きを止めた。

 見計らったように、再び首を絞める腕に力が入る。

 

「なぜできそこないのお前が残っているの。

 どうしてお前じゃなく晴香が死んだの。

 お前なんかどうして産んだの。

 晴香だけでよかったのに。お前なんかいらなかったのに」

 

 

 

 ばきん、と済んだ音を立てて何かが崩れ去る音がした。

 

 

 

        *        *        * 

 

 

 

 暗闇に揺蕩う中で声もなく涙を流す。

 

 そうだった。俺は産みの親に殺された。

 首を絞められて殺された。

 お前なんかいらないと言われながら殺された。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 どうして忘れることができたんだろう。

 どうして思い出そうとしなかったのだろう。

 

 いらないんだった、俺は。

 生きてはいけないんだった。

 死ねばよかったんだ。

 消えてしまえばよかったんだ。

 

 あぁ、そうさ。

 俺なんて闇にまぎれて消えればいい。

 どうせ、誰も悲しんでくれる人なんか。

 

 ――暁明(かつめい)

 

 唐突に、暖かなぬくもりに覆われた気がした。

 傷つき凍てつこうとしていた心が、解けていく。

 

 このぬくもりには覚えがあった。

 昔、自分に家族というものを教えてくれた人。

 自分たちを慈しみいとおしんでくれた人のもの。

 

「ははうえ……?」

 

 ――恐れることはない。私も益材も、お前たちふたりを愛している。

 

 それは昔。生まれて間もないころの話。

 生まれたばかりで、生きていることが苦しくて、これからあるであろう受難に押しつぶされそうになっていたあの時期に、母からもらった言葉。

 その時からの記憶があることを誰にも言っていない。

 ふつうはその時の記憶はないものだから、愛していると言ってくれる人に怯えられたくなくて、言っていない。

 

 普通であれば持たない記憶を封じ込めてしまいたかった。

 その時のことを忘れ、ふつうに生きてみたいと思っていた。

 でも、今ほどこの記憶があることに感謝の念を感じたことはない。

 

「………………うん」

 

 暖かい記憶だ。ずっと昔の記憶を塗りつぶすように、楽しくて、うれしくて、幸せな日々。

 生まれてからのことを忘れたいと、普通でありたいと思う気持ちが完全になくなるわけではないけれど。

 

 ――おまえは決して、いらない存在ではないのだよ…。

 

「……うん、ありがとう、母上」

 

 非凡でよかったと、初めて思うことができたよ。

 

 本当にありがとう、母上。俺、帰らなきゃ。

 俺を待っている人たちのところへ。

 

 穏やかな気が、自分を纏う。

 母上の気配がするそれに、顔がほころんだ。

 青白い炎。それは弟にまとっていたもの。

 

 

 一つ深呼吸をして、なにもない暗闇を睨みつける。

 

 母上。どうか力をお貸しください。

 父上の、師匠の、弟のところに帰る力を。

 

 ぎゅうっと目をつむった瞼の裏が白く染まった。



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第7話「人ならざる者」

 清涼な風が頬を撫でる。

 磐座に腰を下ろして静けさを堪能するのが良い。

 今宵はみごとな望月というのもあり、気分は上々。

 

 そんな時、山腹あたりに気配を感じた。

 各地を彷徨い姿をくらます、朋友の気配。

 ……否、朋友と同じ気配。

 

 清廉な気が乱れ、木々がざわつく。

 静けさを乱され、眉をひそめた。

 山腹で揺らめく妖気はおさまることを知らない。

 

 出向こうと思ったのは、ただの気まぐれだ。

 安定しない妖気があるところで降り立ち、ほう、と感嘆した声を上げた。

 

 年半ばもいかぬ子供だ。

 妖気のなかにわずかばかり霊気の残滓がある。

 ということは、人の子か。

 どういうわけか妖の力を目覚めさせ、呑まれかけているらしい。

 

「――ん? これは…」

 

 暫しの間思案する素振りを見せた。

 無情ではないが、虫の居所が悪ければ追い出すこともあるくらいには非情だ。

 そういう自覚はあるし、元来そういうものなのだ。

 

 だが、もしかしたら面白いことになるかもしれない。

 確立としては低いだろうけども、待ってみるとしよう。

 

 収まることの知らない力を、自身の力をもって抑え込み、その子どもを連れて姿を消した。

 

 

 

 

 徐々に意識が浮かび上がる。

 重い瞼を緩慢に開けば目の前に紫紺の中に輝く数多の光が広がる。

 緩慢に目を瞬き、身体を動かした。

 思っていたより体が重く、関節がぎしぎしとなる。

 

 ようやく起き上がれたとき、上から聞きなれない声が降ってきた。

 

「起きたか、子ども」

 

 誰だ、と声がした方を仰ぎ見て、思わず言葉を失った。

 船の形を模した磐に、一人の女性が座っている。

 それが、今までお目にかかったことがないほど、美しい顔立ちをしていた。

 

 腰よりも長く癖のある薄紫色の髪。

 すらりと伸びる手足は細く華奢な印象を与える。

 身にまとう衣は、なんと形容すればいいのか、言葉が見つからない。

 胸元には深い色合いの大きな玉が首から下げられている。

 

 宝石だろうか。あんなに大きな玉は見たことがない。

 瑠璃色の双眸がすっと細められた。

 

「いつまで呆けているつもりだ」

「――うわぁぁぁぁぁっ、見惚れてましたごめんなさいっ」

 

 我に返り目にもとまらぬ速さで土下座した。

 鼓動はいまだに激しいままで、頭を下げながらもう目が回りそうだ。

 

 母上は可憐って言葉が似つかわしい人だけど、この人は。

 なんていうかこう、うん、妖艶っていうか艶やかっていうか。

 母上とは次元の違う美しさだ。

 

 脳裏に焼き付いた彼女の姿に、頬を染める。

 異性に興味なんてなかったし、むしろ嫌悪すら抱いていたけど、なんなんだこの緊張は!

 

「見ればわかる。気にするのはそれだけか」

「へっ? えー、えぇぇぇ、えーっと……?」

 

 そろそろと顔を上げれば、あおい瞳が自分を見つめている。

 

 ほんとに綺麗だよなぁ…。目は青いし髪は紫っぽいし、どこの国の人なんだろう。

 ってそうじゃないそうじゃない。気にするって、なにを気にすればいいんだ?。

 

 きょろきょろとあたりを見渡す。

 うん。ここがどこか知らないし、気にするといわれてもさっぱりわからん。

 何かが変わっていたとしても、変化なんてわからないぞ。

 場所の違いに気づけってことじゃないのかな。

 

 必死に考えをめぐらせていると冷たい夜風が頬を撫でた。

 わー冷たいなー、としか思わなかったが、視界の隅にむき出しの素足が視界に入った。

 

 ……………………、そういうことか!

 ようやく答えを見つけてもう一度ぐるりと周りを見渡す。

 そして自分とあたりを見比べて、もう一度目の前の美女を見上げた。

 うん、やっぱり寒そう。というか見てるこっちが寒いです。

 

 男として気遣いをもてと言いたかったんだね。すっきりしたぁ。

 

 水干に手をかけて、着物を脱ぎ腕に掛ける。

 飛び跳ね磐の端を掴む。――が、つるりと手が滑ってしりもちをついた。

 ぱちぱちと目を瞬かせてむっと顔をしかめる。

 今度は背を伸ばして落ちないようにぐぐっと腕に力を入れる。

 

 しかし、どうやら腕力が足りないらしく、耐えられなくなり再び地面に落ちた。

 打ち付けた所をさすりつつ痛い、と小さくうめく。

 

 予想だにせぬ行動に静かに女性は目を瞬かせた。

 断りもなく寄ったことについては、面白そうなことを考えていそうなので、今回は目をつむることにする。

 自分の手を見下ろして更に顔をしかめる子供。

 面白い玩具を見つけたとでも言うように目を細め、ようようと口を開いた。

 

「何をしようとしている?」

「…………お隣に行きたかったんですけど…」

 

 不貞腐れた顔で童子は自分を見下ろした。

 力が、いやでも俺まだこども。できるほうがおかしいか?

 とにもかくにも、どうやら自分で掛けてあげることはできないようだ。

 

「これ、寒いと思うのでどうぞ」

 

 言葉とともに差し出された衣。あぁやはり、と女性はわずかに口角を釣り上げた。

 その目はふざけているようなものではなく、本心からそう持っているのだろう。

 なかなか面白い子どもだ。久方ぶりに、退屈せずに済みそうな気がする。

 

「その心意気だけはもらっておこう」

「寒くないのですか?」

「問題ない」

 

 よかった、と安堵の息をつく子どもをじっと観察する。

 もとより人間が持つような感覚を持ち合わせていない。

 その点に関しては問題はないのだが。

 

「あ、寒かったら無茶しないでくださいね」

「お前、私を何だと心得ている」

「?」

 

 きょとんと目を瞬かせたかと思うと、童子はわずかに首を傾げながら、おそるおそる口を開いた。

 

「えぇっと、きれいなひとだなぁって思って…ます」

 

 だって、お姉さんほど綺麗なひとを見たことない。

 美女って言おうと思たかもだけど、綺麗の方がお姉さんにはふさわしいなぁって。

 

 至極真面目な顔で告げられた内容に、思わず肩を震わせた。

 どうやら、いろいろと本気で気づいてないらしい。

 ここまで鈍感なのもいっそ見事だ。

 

 この後、面白いことことが見れるのを期待しつつ、ついっとある方角を指さした。

 

「あちらに川がある。そこへ行け」

「かわ、ですか?」

「そうだ」

 

 首をかしげつつもわかりましたと丁寧にお辞儀をして、子どもは言われたほうへ向かう。

 夜風に身をさらし、しばしの間の静寂を堪能していると、人よりも鋭い聴覚が素っ頓狂な声をとらえた。

 それに、やはり、と唇をゆがませた。

 

 人でありながら妖の、神に通ずる力を持つ天狐の力をもった子ども。

 彼は、人であることをやめ、妖として生きる道を選んだ。

 だが人の身ではその力に耐えられず、肉体は朽ちる。

 

 だから、年月をかけて肉体を変質させた。

 妖としての力に耐えうる肉体へと作り替えたのだ。

 

 それが成功するかは、その人の心次第。

 失敗すれば、あたりに害を及ぼすだけの、自我のない化け物へとなり果てていた。

 

 人が鬼へと堕ちた話は聞く。鬼が人に成り代わった話は聞く。

 だが、自らの肉体を作り替えて妖となった話は聞いたことがない。

 だから興味本位で、その子どもを保護した。

 

 見事生還した少年。だが、まさかその変化に気づかぬとは思いもしなかった。

 あの妖気に耐えられたのだ。もと霊力は桁違いだったはず。

 だというのに、自分の力が変質していることもわからぬ愚か者だと、だれが想像できようか。

 

 ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を吐きながらがんぜない子どもが戻ってきた。

 走ってきたのか、髪は肌に張り付き、汗が流れ落ちている。

 

 よほど衝撃的だったのだろう。

 ある程度息が整ったところで、子どもはばっと顔をあげた。

 

「なんですかこれは!?」

 

 両手で頭に生える耳を押さえながら、愉快そうに微笑む美女を見上げた。

 

 言われた通り川に行けと言われて行ってみれば、水鏡に移った己の姿は変わり果てていた。

 いや、顔立ちや年齢は変わらないのだが、頭の上にぴこぴこと動く獣の耳が生えていた。

 

 引っ張ると痛い。そのうえ取れない。意識をすれば動く。

 嫌な予感を覚えつつ、そろそろと臀部に手をやれば、案の定、もふもふしたものが触れた。

 恐る恐る手にもって前に持って来れば、ふわふわした獣の、それも狐の尻尾。

 

 言葉が出てこなくて、二の句が継げないとはこのことかと、現実逃避したのは記憶に新しい。

 いろいろ訳が分からなくて、その場から逃げるようにしてこの場所へと戻ってきたのだ。

 

「なんで、なんでこんな……っ」

 

 こんな姿じゃ帰れない。狐の耳と、尻尾をはやした状態じゃ帰れない。

 違う。こんなの俺じゃない。違う。俺は獣じゃない。

 違う、ちがう。俺は、……っ、おれは……!

 

「俺は、にんげん、なのに……っ、にんげん、っ……だったのに…!」

 

 どうして、と泣きじゃくるその子どもを、静かに見つめた。

 目が覚めたら妖でした。それで受け入れろというのは無理な話。

 人間だったことを覚えているのであれば尚更。

 

 どれほどの時を、見守っていただろう。

 声をあげて泣いていた子どもはやがて、俯いて鼻をすするまでに落ち着いた。

 それでも顔をあげないのは、この現実を受け入れたくないからだろうか。

 

 そうだとしても、現実ならばいつかは受け入れなければならない。

 逃れることなどできやしない。

 

「――子ども」

「っ……は、い…」

「その姿は、人と、妖の姿が混ざり合ったもの。人の血と妖の血が混ざりあうがゆえになったのであろう」

 

 天狐は、文字通り狐。

 生まれながらにして天狐であるものと、長き年月を生きた狐が神格を持つようになるものと、二種類存在する。

 どちらにせよ、本性が狐であることに変わりはない。人の姿は、変化しているに過ぎないのだ。

 

 しかし、人はどうだろう。

 人は変化することはできない。力を使って自らの認識をずらす(・・・)ことはできても、姿かたちを変えることはできない。

 

 人から妖になるにあたって、肉体を改変するとはいえもとは人間。

 二足歩行から四足歩行に変えるのには体に相当な負担がかかる。

 ただでさえ妖気に耐えうるのも危うい器が、それに耐えられるとは考えにくい。

 

 その結果、人であるけれど、妖としての特徴を反映した今の姿になったのだろう。

 

「人の血と、妖の血……。…まさか、母上…?」

 

 呆然と、自分の手を見下ろした。

 

 自分を包み込んでくれた青白い炎。それを自分は、母のものだと思った。

 狐の子だと噂されていた。父は人間。ならば母がそうなのだろう。

 火のないところに煙は立たないという。自分から聞くこともしなければ、父から言うこともなかった。

 母がそばにいないのは確かに寂しいが、父が、弟が、師匠が、雑鬼がいたから、それでよかった。

 

 ぎゅっと手を握り、目を固く閉じる。

 過去に二度感じたことのある温もりが、自分の中に根付いている。

 不安だったとき、怖かったとき、恐れていたとき、この温もりに安心したことを覚えている。

 大丈夫だと、愛しているよと優しく語り掛けてくれた声を覚えている。

 

 思い出して絶望した自分を、引き上げてくれたことを覚えている。

 

 ゆっくりと目を開き、目尻に残るしずくをごしごしと拭い去った。

 深呼吸をして、ゆっくりと女性を見上げた。

 

「今のおれは、あやかしですか?」

「そうだ」

「にんげんに戻れるかのうせいはありますか?」

「ないな」

「この耳と尾を、かくすことはできますか?」

「変化のちからをお前が使えるようになればあるいは」

「変化の仕方、わかりますか?」

「さてな」

 

 うっ。やっぱりわからないか。でもこの姿のまま帰ることはできない。

 せめて、ちゃんと人の姿をとれるようになってからでないと。

 どうしたら取れるのかな。想像したらできるのかな?

 

 耳としっぽなくなれ、と念じながら人であった頃の姿を想像したものの、まったく変わらなかった。

 やべぇ、凹む。こつが全く分からない。

 

「――己が力の流れを知れ」

「力のながれ?」

 

 そうだ、とうなずく女性。

 じっと手を見て思案する。

 そもそも、俺の力ってなんだ。

 

 頭で考えてもぱっとは出てこなくて首をかしげる。

 これは長期戦になりそうだ。

 

「あの!」

「なんだ」

「ちゃんと変化できるようになるまで、ごしどういただきたいのですが、ごつごうはいかがでしょうか」

「……子ども。私をなんだと心得る?」

「え? えーっと…?」

 

 ふわりと冷たい何かが体をまとう。なんだろうこれ。まぁいいや、それより質問の答えだ。

 さっきも同じことを聞かれたよな、と内心首をかしげつつ、自分の答えを口にする。

 

「きれいなお姉さん。じゃなきゃ、ようえんなお姉さん。…あれ、ようえんってほめ言葉だったっけ…?」

 

 妖しく艶やかな人。貶してはない、よな?

 

「――まぁいいだろう。気が向いたら見てやらないこともない」

「ありがとうございます。えーっと……、あ、俺は暁明といいます。あなたは?」

「……、………高淤と呼ぶことを許そう」

「たかおさんですね。あらためて、ありがとうございます。これからよろしくお願いします」

 

 ちょっと修行してくるので、気が向いた時にまたお願いします、と頭を下げる子どもに一つうなずき、その背を見送った。

 

「なかなか、面白いことになりそうだぞ、我が朋友よ」

 

この国のいずこかにいる、異国の少女に思いを馳せながら高淤は、――貴船の祭神・高淤加美神は天を仰いだ。

 

 

 




2017年9月22日 一部修正


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第8話「変化」

 自分の力とはなんぞや。

 

 さっきは咄嗟に出てこなかったが、よくよく考えてみると師匠にならった、霊力のことだよな。

 でも霊力って、人間が持つものだろ。今の俺にもあるのか?

 そもそも、霊力で姿をかえられるのか。

 

 それだったら、妖の持つ力、妖力の方が姿をかえられるんじゃなかろうか。

 狐も狸も猫も変化が得意だし。

 

 …今ふと思ったけど、妖力と妖気の違いってなんだ?

 霊力と霊気の違いも。

 

 霊力は戦闘の際につかうエネルギー。妖力も同じ。

 師匠は妖の気配がするとき、妖気が、と言ってたよなぁ。

 ……妖の気配。略して妖気。なんちって。

 

 たぶん、これと言った定義がないのではなかろうか。

 如何様にも解釈することできるからなぁ。

 

 弟ならばわかるのかもしれないが、この姿で会いにいたら蹴られるから却下。

 人か妖かで呼び方が違うだけで、自分の中にある力を使うという点では同じだろう。

 

 霊力がどうとか妖力がどうとか、そんな小難しいことをは空の彼方に放り投げて自分のなかに存在する力を制御できればそれでよし。

 変化できればすべてよし。頑張るぞ、おー!

 

「っ……、ぎゃぁぁぁっ!?」 

 

 突然激しい頭痛に襲われ、耳をふさいで、体をよじらせた。

 地面に倒れこみ、吐き気にみまわれえずく。

 

 体を丸めて、おなかにかかる圧を和らげると、すこし楽になった気がしないこともない。

 痛みの余韻が残る頭で、ぼんやりと景色を眺めた。星がきれいだ。

 東の空が明るみ始めたころ、ようやく動く気力が戻ってきて、ゆっくりと体を起こした。

 

「なんだったんだ……あれ…」

 

 まるで、頭の中をかき回されるのを通り越して、一気にぐちゃぐちゃにさせられるような不快感。

 何が起こったのか、改めて振り返ってみても皆目見当もつかない。

 

 恐る恐るあたりを見渡すも、特に何かがあるわけでもない。

 立ち上がって、慎重に一歩を踏み出した。

 

 ――大丈夫。

 

 もう一歩分、足を進める。まだ大丈夫。

 もういっ――。

 

「いぎゃぁぁぁっ」

 

 再び襲われた不快感に、後ずさり崩れ落ちた。

 心構えがあったからさっきよりまましだが、気持ち悪いことに変わりはない。

 

 あまりの気持ち悪さに目を潤ませながら、よろよろと立ち上がり、来た道を少しばかり引き返した。

 道の脇にはえている木に背を預けて座り込み、ゆっくりと息を吐いた。

 おなかに手を当てて深呼吸を繰り返しつつ、道の先を見やる。

 

「なんなんだよ、もう……」

 

 頭痛。不快感。何処が境界なのかさっぱりわからないが、何かを境に何かがある。

 それしか言えない。耐えればさらに何かが分かるのかもしれないが…。うん、ヤダ、ムリ。

 耐えられないし耐えたくない。できることならそこから先には絶対に行きたくない。

 でも、早く父上や弟、師匠のところに戻らなきゃ。

 

「……ここからじゃなければ、行けるかな?」

 

 その日から三日ほどかけて、山の周りをぐるりと回った。

 人ではなくなったゆえに身体能力が向上したからなせる技。元気だったら半分で回れたのではないかと思う。

 しかし、何かを境に先へ行くと得も言われぬ不快感が襲い、その度に地面とお友達にならざるを得ず。

 

「あぁぁぁぁぁぁ、でれねーじゃねぇかよちくしょぉぉぉぉぉぉっ」

 

 いや、出れなくはないけど。何回か経験して、耳ふさげば少しは楽になるような気がしなくもないことに気付いたけど、出たくねぇ。

 どうしろと。俺にどうしろっていうんだ!?

 引きこもれと? 家ならぬ山に篭れと!? どこの修験者だ!

 

 心のままに叫びをあげて文字通りごろごろ転がり回る。

 そうしても現状が変わるわけではないと知っているものの、かといって行き場のない感情を抑え込むこともできない。

 かくして、視える人が見れば正気を疑われる行動を感情のままに取るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「――っていうことなんですけど、俺ほんとにどうすればいいんですかね…?」

 

 頭痛は何なのか、どうしたらいいのか、原因に心当たりはないか。

 相談できる人と言ったら、思い浮かぶのは一人だけ。

 かくして、美人を前に情けのない姿をさらすことに己のふがいなさを感じつつも、出会った場所に来ていた。

 案の定、磐の上で悠然と微笑んでいる彼女に相談を持ち掛け、現在に至る。

 

「その答えを、私が知ると思うか?」

「知っていたらうれしいです」

「それは残念だったな」

 

 凪いだあおい瞳に見下ろされ、がくりと音が付きそうな勢いでうなだれた。

 彼女が座る磐に背を預け、伸ばしていた足を引き寄せた。

 膝を抱えるようにして腕をまわし、膝に顎を乗っけてぼんやりと視線の先にある地面を見つめた。

 

 どうして、世の中こうもうまくいかないんだろう。

 愛してほしくて、認めてほしくて、ほめてほしくて。ようやく手に入れたと思ったのに、俺のせいで傷つけてしまった。

 頭から血を流す父。必死に応戦している師匠。青白い炎に包まれた弟。大切な人が、俺という存在のせいで傷ついた。

 

 …はっ。俺ってほんとに馬鹿だ。

 目の前にあるものが暖かくて、あれの存在を忘れてしまう。

 いや、忘れようとしているのか。忘れたいと願っているのか。

 あれは、世界を超えて追いかけてくる。執拗に、この命を狩るために追いかけてくる。

 どこまでも、どこまでも、この命を狩りとるその時まで、永遠に。

 

 周りへの影響なんて考えもしない。

 傷つく人を何人も見てきた。人生を狂わされた人を何人も知っている。

 なのにどうして、誰かのそばにいるその危険性を忘れていたのか。

 

 俺がいるから、周りの人間が傷つく。

 忘れてはいけない。忘れてはならない。

 

 ぎゅっと腕に力を籠め、唇をかみしめる。

 

 なぜか忘れてしまっていたそれを、今度は忘れないように、刻み込むように何度も何度も繰り返す。

 大切だから、近づかないほうがいい。近づいてはいけない。

 忘れてはいけない。俺がいるから、あれは顧みないことを。

 俺がいるから、周りの大切な人たちが傷つくことを。

 

 一緒にいてはだめだ。傷つけてしまう。

 傷つけたくない。傷つくところを見たくない。

 

 自分のせいだと知って、畏怖の目を、軽蔑する目を、向けてほしくない。

 

「何を恐れている」

 

 唐突に上から降ってきた声に、びくりと体を震わせた。

 冷水を浴びせられたように、全身から血の気が引いていく。

 

 誰かと一緒にいることは、その人を傷つける。だから、一人でいるほうがいい

 そう思っていたのに、そばにいることは当たり前だというように感じていた。

 あまりにもそこにあることが自然で、空気のようにそこにいることを認識できていなかった。

 

 行かなければ。ここを、出ていかなければ。

 

 ――いいや。出て行ったところで、あれは周りを巻き込んで追ってくる。

 なら、どうすればいい。どうすれば、だれも傷つかなくて済む。

 追ってくるのは、この命がほしいから。巻き込むのは、あれにとってどうでもいい存在だから。

 

 あぁ、そうか。

 生きたいと、欲しいと願わなければいいのか。

 普通に過ごしたい。愛してほしい。生きていたい。そう、願うことをやめたらいいのか。

 そうして、あれの手を振り払うことなく取れば。

 

 ふらりと立ち上がり歩み出す。

 

 消えればいいのだ。いなくなればいいのだ。

 それは決して、いらないからじゃない。みんなが傷つくことがないように。

 人生を狂わせることがないように。

 自分さえいなければ、あれがみんなを巻き込むことはない。

 

 俺が、いらないわけじゃ。

 

「だめ、お兄様」

 

 後ろから聞こえた声。

 疑問に思うよりも早く、視界が闇に染まった。

 

 崩れ落ちた子どもを抱えて、唐突に表れた人物は振り返った。

 二人の間を流れる沈黙を破ったのは磐に泰然と座る神であった。

 

「かの一族のものが、何用だ」

「お兄様をやつに渡すわけにはいかない。ゆえに止めに参った次第。

 高淤加美神に置かれましては、ご機嫌麗しく」

「そう見えるか」

「近年まれに見る存在となりましたので」

「……。すでに、そこまで減ったのか」

「もとより、核たる神がいなければ成り立たない存在ですから、彼女たちは。核たるかみがいなくなっても保てる者はほんの一握り」

「お前は違うとでも?」

「似て非なるもの。もっとも、“姫”と呼ばれる彼女にこの命を握られていることに変わりはありませんが」

 

 まぁ、そんなことはどうでもいいんですけど。

 そう言うないなや、抱え上げている少年を差し出す。

 

「そういうわけですので、高淤のお母様にはお兄様のことを気にかけていただきたく」

 

 真顔で平然と紡がれた言葉に、耳を疑う。

 しかし、目の前の人物の背後にいるものを思い出して、納得した。

 

 この世界とは全く異なる世界がある。

 この世界に重なるように存在している世界とは異なる、完全に独立した世界だ。

 その独立している数多の世界の均衡を司る神と、その神に付き従う者と一族がいる。

 彼らを総じて『調節者』あるいは『世神(ときがみ)』と呼ぶ。

 

 その中に、数多の世界で転生するものがいると聞いたことがある。

 このものは、そういう役を担うものなのだろう。

 転生した中に、”高淤加美神”の娘として生まれたことがあったのか、はたまた別の理由なのか。

 なんにせよ、お母様と呼ばれる所以がそこに在ったのだろう。

 

 とはいえ、それは別の世界での話。私には関係のない事。

 じっと見つめてくる黒曜の瞳を見つめ返した。

 

 関係はないが、おじけないその態度は気に入った。

 不遜とも取れるが、その働きに免じて水に流すことにする。

 

 先ほどから結界に干渉していた煩わしい者がいなくなった。

 おそらく、この男が手をくだしたのだろう。

 

 そこまで考えて、ふと思い至った。

 世神が背後にいる条件のもと、気に掛ける、というのは死なないよう守れ、というのと同義だ。

 結界に干渉していた者は、おそらく子どもを狙ったもの。

 手を下しているのであれば、その必要はないはず。ならば、退けただけであって、完全には消せいないということか。

 

「お前が排除したあの煩わしい者から、この高淤にその子どもを守れと」

「願わくは。…あれは、脅かすもの。何度も消そうとした。でも生きている。

 消せるのは、おそらくこの者だけ。そういう事実を踏まえたうえで判断していただきたく」

「この子どもだけが、あの煩わしい者を倒せるとでもいうのか。お前にも出来ぬ事を」

「あれに力を与えたのは“姫”なので、おそらくはそのせいかと」

「なんだと?」

「次代は立った。だが、補佐が皆無に等しい。だから、引き込むための状況を作り上げる」

 

 そのために、人ひとりの運命を捻じ曲げているのか。

 理由はわかった。しかし、それは数多の神々にでさえ批難されること。

 人の運命に関わったうえ、その世界から魂を一つかっさらう真似。一つとはいえ、重要な構成要素だというのに、彼らは顧みない。

 それに加え、もともと目的のためなら手段を問わない者たちだ。より癇に障るというもの。

 もっとも、多くの神々にとっては、の話ではあるが。

 

「相変わらず、あれらは無情だな」

「彼女らは無情でなければ、多くの世界の存続が危ぶまれてますよ」

 

 必要があらば情を捨てる。それが世神。

 捨てられなかったものは、情を持つ代わりにその命を失う。ただそれだけだ。

 

「――いいだろう。私がその子どもに興味を抱いている間ならば、気にかけてやる」

「寛大なお心に御礼申し上げます」

 

 子どもを受け取れば、その男は安堵したように息をついた。

 

「随分と、気にかけているようだな」

「世界は違えど、私があなたを母と慕うのと同じように、兄として慕っていますので。

 しばらくは大丈夫だとは思いますが、あれに呑まれて消える真似だけはしてほしくない。それだけですよ」

「お前は、あれらとは別だと?」

「好きに生きろと、”姫”から仰せつかっておりますゆえ」

 

 それが、情を捨てる前の彼女のささやかな願いだと知っている。

 彼女自身の願いを知っているが、彼女は彼女で、私は私。

 それとこれとは話は別。だから好きなように適当に生きている。

 その時が来るまで、生き続ける。それが役目だから。

 

「それでは、御前を失礼いたします。そのうち、また伺うのでその時はどうぞよしなに」

 

 返答を待つことなく、それは消えた。

 厄介な奴に目をつけられたものだと、安心しきったように眠るその子どもを見つめた。

 

 興味を抱いている。

 物おじしない子どもに。妖となることを選んだ子どもに。

 力を持ちながら、気配の区別がつかない、ちぐはぐな子どもに。

 

 だから。

 

「せいぜい、楽しませてくれるんだな。がんぜない、人と妖の子よ」

 

 この先、この子どもがどんな道を歩むのか、それを見ていようではないか。

 

 

 



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第9話「いつの日か」

 年はとっくにあけてます。
 今更ながら、おめでとうございます。

 気まぐれ更新ですが、のんびりとお付き合いいただけますと幸いです。


「のぉぉぉぉ、うわぁぁぁぁぁぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

 全身で嘆き落ち込む様子を体現して見せる子ども。

 言葉そのものに意味は持たないが、頭を抱え声を上げる行動は彼の心境を如実に表している。

 文字通り転がりまわるそれも同様。

 

 私を目の前にして、このような姿を見せる者など、神代の時代までさかのぼったとしても過去に例を見ない。

 朋友と呼ぶほど親しいものもいるが、それでも無様な姿は見せることはない。

 だというのにこの子どもは、現在進行形で見事、前例を作ってのけている。

 

 無礼ではあるが、奇妙な行動を傍らで見るこというまたとない経験に、口角があがる。

 

「――随分と、面白いことをしているな」

「はっ、そうだ! 聞いてくださいよたかおさん!」

 

 いいことを思いついたといわんばかりの顔で飛び起きたその子どもは、奇妙な行動を恥じることなく、鬱憤を晴らすかの如く滔々と語り始めた。

 

「人がせっかく、たかおさんに力の使いかたをおそわって変化もできるようになったっていうのに。

 頭痛もなくなって、無事にげざんできるようになったっていうのに、なにあの仕打ち!

 なんで、なんであんなにあいつ成長してんの!? いつの間にそんなに時間たってんの!?

 俺だけ姿が変わってないとか、会おうにも会いづらいわ!

 ぜったい、無言で冷たい目でみおろされて、なぐられた後に『おそい』って言われるんだ!

 いつもいつも手より先に口を動かせって言ってるのに!」

 

 畜生、と地団駄を踏むのは構わないが、よくもまぁ想像でそこまで腹を立てることができるものだ。

 

 それが、貴船の祭神高淤加美神の率直な感想である。

 そんなことを思われているともつゆ知らず、暁明(かつめい)は腕を組んでしかめっ面をする。

 

「だいたい、父上とお師匠様にだってどんな顔して会えばいいのさ。あいつはともかく。

 ただいまーって、子どもらしく元気いっぱいで帰ればいいのか?

 それともおそるおそるといった感じで、帰宅時間とかにはちあわせするよう動けばいいのか?

 父上もお師匠様も、かんるいきわまるだろうなぁ。あいつはともかく。

 何年たったか知らないけど、久しぶりだから当然っちゃ当然だよな。あいつはともかく。

 弟なら弟らしく『あにうえー』って、優しくかまってくれたって……うん、ないわ、あいつだし」

 

 聞いて、と言ってはいたが、もはや独り言だよなと思いつつ、じっとその子どもを見守る。

 

 普段であるならば、ここまで放置されれば機嫌を損なうこと必須。

 今そうならないのは単に初めて経験するこの状況を面白がっているからだ。

 

 目の前の状況に笑みを浮かべつつ、頭の中の冷静な部分がそう分析する。

 

 興味があるうちは気に掛ける、つまり何かあったら守る。それが誓約。

 だからと言って、この不躾な態度を許容するのは、また別の問題だ。

 初めての経験とはいえ、その態度に興味を失ったといって切り捨てることもできたはず。

 それをしないのは不快な感情より面白いという快が勝ったからに過ぎない。

 なぜ快が勝ったか。それは気まぐれとしか言いようがない。

 

「あーあ、『兄上』ってまた呼んでくれないかなー。

 呼んでくれたら、にやにやしながら出てってやるんだけどなー。

 むりだよなー、一応仮にも兄である人をけりとばすようなやつだし」

 

 拗ねた発言をかます暁明に、それまでの思考を打ち切った。

 興味がある。面白い。長い時を生き、退屈していたのだから、この状況を享受する理由はそれだけで十分なのだ。

 

「本当にどうしたらいいと思いますか」

 

 切実に訴えかけてくる瞳をようようと口を開く。

 

「さて。どうするかはお前次第だ」

「ですよねー。けっきょくは俺がどうしたいかなんですよね。わかってます、えぇ、わかってました。でもんなプレッシャー投げ出したかったんですよちくしょう・・・!」

 

 そして再び心の赴くままに呻き声をあげる。

 人が体感している時間と、神などの人よりも長生きしているものが感じている時間の流れは異なる。

 今は人の括りを外れているとは言え、元は人として生きていた。

 その子どもが唐突な時間の流れの変化に困惑するのも無理のない話ではある。

 

「あぁぁぁぁ、どうしようどうしよう。どうしたいんだろう。

 父上とお師匠様には会いたい。でもあったらあいつにも会ってくれるかっていわれるんだろうな。

 …今会いに行ったらほんとなぐられる気しかしない。もうちょっと、ほとぼりさめてからでもいいかな。

 いいよな、いいよね。うん、そうしよう。

 く……っ、『あにうえ』って呼んでくれるような懐っこい弟だったら、ここまでなやむことなかったのに…!」

 

 どこで育て方をまちがえたんだ、と泣きまねをする子ども。

 果たしてそれに何の意味があるのか理解に苦しむが、一人芝居は退屈を紛らわすのにちょうどいい。

 独り言のつもりなのだろうが、それが芝居の解説にもなっているから、まったくわからないということもない。

 

 意図せずしてここまで楽しませてくれるとは。

 口には出さないが胸のうちで高淤は感嘆する。

 

 暁明は両手で頬を何度かたたくと、まっすぐ磐座に座る女性を見上げた。

 

「力の使い方についてのごしどう、ありがとうございました」

「構わんよ。--今も面白いものも見れたことだしな」

「…あ」

 

 しまった、という表情を作るがもう遅い。

 変化の練習をしていたこの半年のなかで、想定外のことが起こると直情的に行動し、後々恥ずかしい思いをしたことが幾度となくある。

 気を付けようと思っているのだが、いかんせん、その時になるとそこまで考えが及ばないのだ。

 

「あぁぁぁぁぁ、ごめんなさいごめんなさい。

 はずかしいとこみせたのでわすれてくださぃぃぃぃっ」

「ふっ。断る」

「あぁぁぁぁぁぁぁ、俺のくろれきしがぁぁぁぁ」

 

 がくりと膝と手をつきうなだれる子どもに、くつくつと声を立てて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日。

 直接会うのはいやだけど、父や弟の様子が気がかりで、連日気配を消して様子を眺めていた。

 基本的に、父は仕事で、弟は師匠のところで修行、という日常に変わりはない様子。

 あの雑鬼どもも、変わらず邸に入り浸っているようだ。

 ただ、あの猫――かえいの姿はないけれど。

 

 記憶にあるより、父も師匠も歳を重ねてる。

 弟は背が伸び、声も低くなっており、さらには顔立ちも精悍なものへと変わっている。

 いくつになったのかはわからない。ただ、そろそろ元服するんじゃないか、という話を小耳にはさんだ。

 

 弟は相変わらず不愛想で、感情の起伏に乏しい。

 いや、乏しいと言うより、世の中のすべてのことがどうでもいい、と言った感じか。

 そうか、あのまま育っちまったか。でもまぁ、人のこと言えないよなぁ。

 

 父上と、母上と、お師匠様と、仲のいい雑鬼どもと、弟と、たかおさんと。

 雑鬼をひとくくりにしてしまえば、関心のある存在は両手でこと足りる。

 

 わずらわしいというか、鬱陶しいしな。異形の子だと陰口叩いて勝手に怯えて、勝手に蔑んで。

 どうでもいいと言い聞かせてたら本当にどうでもよくなったから、そこはよかったと思ってる。

 いちいち傷ついて凹んでちゃ、こっちの身が持たないし。

 

 ……ただ、双子についての悪口は決して言わない。

 言霊、という考え方がある。言葉には魂が宿り、魂が宿った言葉は、現実となる、というような考え方。

 双子について悪口を言って、妻が双子を産んだら、という不安から口をつぐんでいるのだろう。

 …それはわかるし、なにより陰口をたたくやつらの心情はどうでもいいんだけどさ。

 

 父上も、お師匠様も、弟も、誰も“俺”のことを口にしない。

 忘れてしまったのだろうか。みんな、俺のことを覚えていないのだろうか。

 勇気を出せば会える状況で現実を見て、不安に駆られる。

 

 初めは、殴られるのがいやだと、どんな顔をしたらいいのかわからないから、後にしようと思った。

 でも今は、もうみんなの中に俺という存在はないんじゃないかと、覚えてないと言われることが怖くて躊躇する。

 覚えていても、もう何年もたってるから、死んだ人が今更ひょっこり現れても迷惑なのかもしれない。

 

 いろいろ考えてしまって、弟にだけでなく、父上にも師匠にも会うのが怖くなった。

 

 お師匠様の邸の向かいの邸の屋根から、父と弟と師匠の姿を眺める。

 人であった頃と比べて格段に耳がよくなった。だから、その距離でもなんなく音を拾うことができる。

 

 元服する際の、後ろ盾はお師匠様がするらしい。

 弟の表情的にはあまりのり気じゃなさそうだが、出仕を受け入れる様子。

 

 元服について話し合う様子に、父も師匠も弟も、すごく遠い存在のように感じた。

 いや、事実そうなのだろう。自分は人ではなくなった。

 妖としての道を歩んでいる。――生きる時間が違う。

 遠く感じて当たり前だ。むしろ、今までと同じように考えていた自分が間違っていたのだ。

 

「ほんと、ばかだよな…」

 

 気づいてしまったら、これ以上、このまま様子を見ることが耐えられなくなり、暁明はその場を去った。

 

 

 

 帰ってきてから膝を抱えて顔をうずめて微動だにしない子ども。

 時々、手を握り締めては頭を振りかぶって、じっと何かに耐えている。

 

 血縁者の様子を見に降りはじめた数日前から徐々に元気をなくしてはいた。

 けれど、ちょっぴり寂しさを混ぜながらも嬉しそうに語る姿に大丈夫だと思っていたが。

 

 磐座に背を預けて丸くなる子どもの後頭部を見下ろした。

 

 何かがあった。でもそれは、この子どもが忘れているもの(・・・・・・・)とは関係がないだろう。

 思い出したのであれば、おそらくここにも寄り付かなくなる。あの時の様子を見ていれば、それくらいのことは想像がつく。

 

 あの影のことを、この子どもは覚えてはいない。いや、覚えてはいるのかもしれないが、意識に上らない。

 無意識下に押し込めているか。あるいは、あの男に押し込められている可能性も捨てきれない。

 どちらにせよ、なぜ自分が妖となったのか、その原因たる存在を頭に留めおくことができていない。

 だから、親しき存在に関して一喜一憂し、心を向ける。

 

 もしも、再びがあったのなら、その時子どもはどうなるのだろうか。

 絶望し、今度子をあの影を享受して闇に沈むのか。

 それとも、立ち向かって未来をその手につかみ取るのか。

 

 どうするのかは、その時になってみないとわからない。

 だけど、その結末を見届けるまでは、退屈しのぎに気にかけてやってもいいかもしれないと、思った。

 

 

 



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第10話「それぞれの思い」

 暁明(かつめい)は元服の儀が執り行われる様子を遠目から眺めていた。

 近いようで遠い存在だとわかっている。同じ時間を生きることができないのだとわかっている。

 俺は母のようには割り切れない。いつかは終わると知りながら、父やお師匠様は年齢的にともかく、弟とも生きる時間が違う。同じ時間を生きていても、結局は自分を置いていく。

 自分は、大切な人たちよりも、長い時を生きる。それが、たまらなく悲しい。

 

 一度は目をそらした。耳をふさいだ。

 でも、閉じた瞼の裏に、父上の優しく笑う顔が、お師匠様のまっすぐ自分たちを見つめる顔が、弟の不機嫌極まりない顔が浮かんでは消える。

 知らない時間がある。弟と手合わせして負けたのはつい昨日のことのようなのに、彼らにとっては10年近く前の話。

 さらには、父上もお師匠様も、年を重ねている。弟も随分と成長した。

 変わっていないのは、自分だけ。人ではなくなった、という意味では変わったが、彼らが過ごした時間分の変化が自分にはない。

 苦しい。自分だけが取り残されているこの感じが苦しくてたまらない。

 

 弟は今日、成人する。元服して、帝に使える官僚となる。

 似合わねー、と昔ならば腹を抱えて笑い転げるところだが、そんな気分に離れない。

 成長していく姿が、自分よりずっと先にあるその背中が、置いて行かれている事実がどうしようもなく心に陰をおとす。

 

「……せめて」

 

 せめて、確証があるなら。

 9年という月日を経てもなお、受け入れてくれるという確証があったのなら。

 

「…………はっ。ないものねだりも、たいがいにしないとな」

 

 そっとため息をついて、ぼーっと儀式の様子を眺める。

 邸を出入りする人間。その人たちの表情は硬い。

 化け物の子と恐れているから。その強大な力を恐れているから。

 …だれも、あいつ自身を見ようとはしない。

 両親を除き、お師匠様以外、誰も見てはくれなかった。

 

 軽蔑する視線。恐れる視線。

 うんざりしている様子を隠しもしない弟。

 その様子に心配そうにしつつ、自分への畏怖や侮蔑の視線をものともしない父。

 あんな化け物になぜ、と疑心の目を向けられても飄々としているお師匠様。

 

 あぁ、なんて醜い。

 なんて腹立たしい。

 

 母が妖で何が悪い。持っている力が桁外れで何が悪い。

 母が何をした。お前たち仇をなしたのか。

 俺たちが何をした。力におぼれて迫害でもしたのか。

 

 いいや。俺たちはただ在っただけ。

 すべては、人の常識に、己の定める基準から外れたものを恐怖するお前の心。

 それは人の防衛本能。力が自分に向くことが恐ろしいがゆえに抱いた心を持て余した結果が、異端を忌避すること。

 

 力の使い方はその人次第。そうわかっている反面、強大な力に抗うすべなど持たないから、忌み嫌う。

 あいつの為人をしれば、そんなこと歯牙にもかけないのはわかるはず。けれども、人は見たいものを見て、聞きたいものを聞く。

 自分に都合の悪い事実には目を閉じ、耳をふさぐ。人を貶めて、優位に立とうとする。

 

 そんなくだらない自尊心、へし折って粉々に砕いてやりたい。

 

 唐突に、ひらめいた。

 

「……影ながらほうふくするって、ありじゃね?

 ぶっちゃけていえば、お前らがひげしなけりゃここまで神経すり減らすこともなかったんだよな。

 あいつが感情の起伏にとぼしくなることもなければ、生きることに飽いたようすをみせることもなかった。

 おぉ、なんてすばらしい考えなんだ。さすが俺」

 

 なるべく明るい声で呟き、けれども、心に落ちる陰にふと表情を消す。

 わかっている。それが根本的な解決にならないことは、わかっている。

 

「…おいて行かれるのがさびしいからやるんじゃないんだい。確認したいから、やるんじゃないんだい。

 気づかれなくたっていい。気づかないでほしい。ただ、俺がほうふくしたいからするんだ」

 

 でも、気づいてほしい。

 誰でもいいから、気づいてほしい。

 父上でも、お師匠様でも、雑鬼でも。

 ――弟でも、誰でもいいから。

 

 ぽたりと、落ちたしずくによって屋根瓦が円形に濡れる。

 唇をかみしめ、こぶしを握りしめ、静かに濡れる瓦を見つめた。

 

 自分勝手なのはわかってる。

 考えすぎなのかもしれないこともわかってる。

 臆病者なのもわかってる。

 だけど、どうしてもあと一歩を踏み出す勇気を自分は持てない。

 

 持てないけど、大切な人たちのそばにいたい。

 覚えていなくても、そばにいたい。気づいてほしくて、以前のようにそばに。

 

 相反する激情を抑え込むことができなくて、力を入れて目をつむり言い聞かせる。

 

 気づかれなくても、忘れられていたとしても、この心が一方通行だったとしても、俺の心は、思いはみんなのそばにある。

 自分だけがそれを知っている。知っていればいい。ないものをねだるより、今に満足すればいい。

 求めるから苦しいのなら、求めなければいい。

 でも大切に思う心を捨てきれないから、自己満足のために思い込んでいればいい。

 

 馬鹿なことだと知っている。でも、そうしなければ自分を保てない。

 だから、それでいいのだ。それで、自己満足のために、みんなの陰で生きていたらいいのだ。

 

 毅然と屋敷を見据えた。

 

「首をあらってまってろよ、ばかども! 俺は…俺はっ、父上とお師匠様と、……っ、だいじな弟をさげすむやつはゆるさないんだからな!」

 

 目じりから伝うものをぬぐうこともせず、誰にでもなく大上段に宣言すると、ぱっと身をひるがえした。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、懐かしい声が聞こえた気がしてあたりを見渡した。

 けれども、どこにも追い求める姿を見出すことはできなくて、小さく肩を落とした。

 

 10年近く前にいなくなった自分の半身である双子の兄。

 化け物に呑まれて、それ以降行方が分からなくなった、戯けもの。

 生死を確認しようと占じてみても、星が見つからなくて生きているのか死んでいるのかもわからない。

 

 普通に考えれば、呑まれて生きているはずなどない。

 けれども、感情はその事実を受け入れない。

 父も師匠がどう思っているかはわからない。自分もあまり話題に出そうとはしない。

 

 あれが何なのか、よくは知らない。あの馬鹿は『かあさん』と言っていたが、あれが母であるものか。

 父にも師匠にも確認を取り、あれが産みの親ではないことは確認している。

 けれど、絶望した顔で、涙を流しながら抗うことをやめた兄の瞳に、嘘だとはっきり言い切ることもできない。

 

 兄はなぜ、あの化け物を母と呼んだのか。化け物の姿をしたあの女を。

 自分たちの知らないところで、何があったのか。何を知っているのか。

 なぜ、すぐに諦めてしまったのか。

 

 そんなに、頼りなかったか。

 すぐに諦められるほど、自分たちという存在はあいつにとってちっぽけなものだったのか。

 

 兄はいつも笑いながらちょっかいかけてきて、うっとおしく思っていた。

 でも、明るくて元気で、自分と違って今を楽しそうに生きている兄を羨ましくも思っていた。

 

「せっかくの晴れ舞台に、なにを落ち込んでいるんだ、童子」

「…師匠。なんでもありません」

「なんでもないようには見えないが……まぁ、言いたくないなら言わなくて構わない。話したくなったらいつでも聴くから、一人で抱え込むなよ」

「ありがとうございます」

 

 兄は帰ってこない。

 きっと、二度と会えない。

 会うことはかなわないだろう。

 

 後悔があった。

 だから、もし、もし願いがかなうなら。

 

 

「童子。何をぼんやりしているんだい?」

「――いえ。何でもありません、父上」

 

 元服の儀が終わり、父の部屋に呼ばれた。

 これから、童子という仮の呼び名ではなく、きちんとした名を授けられる。

 

「そうか。……名はな、お前の母とともに決めた名だ。あいつが呼ぶことのかなわなかったお前の名は、――晴明という」

「せい、めい」

「そうだ。――安倍晴明。今からそれが、お前の名だ」

「ありがとうございます」

 

 安倍晴明。それが自分の名前。

 なら。

 

「父上」

「なんだ、晴明」

「……、…………、…………兄上の名も、決まっていたのですか?」

 

 静かに驚く気配がした。

 ここ何年か話題に出すこともほとんどなかったから、なんとなく顔をあげづらい。

 帰ってこない。星が見えない。探しても見つからない。逃げることをあいつは諦めた。ならば、生存は望めない。そう、諦めるようになったのはいつだったか。

 

 知ったところで、帰ってくるわけでもない。

 あれから十年近くの月日がたっている。

 帰ってこれるのなら、とおに帰ってきているはず。

 ……帰ってくることを、あいつが望んでいれば。

 

 そこまで考えて、静かに息をついた。

 

 これ以上考えても詮のないこと。帰ってこない、それが事実。

 それでも訪ねてしまったのは、心のどこかで期待している自分がいるから。

 いまだに願っている自分がいるから。

 

「あぁ、決まっているよ。あの子の名は暁明だ」

「かつめい」

 

 小さく名を紡ぎ、心に刻み込む。

 暁明。安倍暁明。それが、兄の名。

 

 益材の部屋から退室して自室に戻るなかで、ふと足を留めた。なんとなく庭へと視線を滑らせる。

 示し合わせたように唐突に風が吹き抜け、庭にある木々がざわめく。

 木の下で、探し求めていた人の姿を認めた晴明は、思わず手を伸ばした。

 

「兄上……っ」

 

 けれども、瞬いた途端にかき消えた姿。

 あれが、自分に見せた幻であると理解が及んだとき、伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。

 

 声が聞こえた気がした。自分を呼ぶ声が。静かに泣く声が。

 今、自分が見たものも聞こえたと思ったものも、すべてはまやかし。

 こうで会ってほしいと願う、自分が作った幻想。

 

 ――なんて、救いようもないほど、愚かしいのか。

 すべては、自分の驕りのせいだというのに。

 嫉妬に駆られなければ、変な自尊心を抱かなければ、あんなことには。

 

「はっ……、何をむだなことを……」

 

 怒っても、悲しんでも、後悔しても、兄は戻らないのだ。

 自分にできるのは、ただ生き飽いたこの世を、父と師匠が望むから生きるだけ。

 何かを求める資格は自分にはないのだ。

 

 自分自身を嘲笑う表情を浮かべると、晴明は庭に背を向けた。

 

 

 



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第11話「大切な人」

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ」

 

 情けない声を上げながら走り去っていく貴族たちに、暁明はおなかを抱えて笑いを押し殺す。

 

「くくくくくっ。ざまぁみやがれ。なにかあったら師匠頼みのくせに、馬鹿にするからだ」

 

 怪しい術を使うとか、鬼と契約してるだとか、遠回しに晴明の師をしていることを蔑んだりとか。

 言いたい放題言ってくれる役人どもを脅かして回り始めて、時が経つ。

 おかげで陰口を言う人が減りつつあるも、それは報復があるという恐れから言わないだけだと知っている。

 

 晴明は地獄耳だとか千里眼を持ってるとか、そんな見当違いな噂が流れている。

 なぜか、自分のした報復はすべて晴明がやったと言われていて、それが更におかしくてならない。

 

「さぁて、最後の仕上げに夢見を悪く……っ」

 

 近づいてくる人の気配に暁明は極限まで気配を消した。

 直後、視線を向ける方向から姿を見せたのはここ最近、陰陽寮に入ってきた人間だ。晴明と同じように賀茂忠行を師事する男。

 

 その男の名を、榎岦斎と言う。

 

「うーん……」

 

 あたりを怪訝そうに見渡して眉間にしわを寄せる姿に、暁明は息を殺す。師匠や父、晴明に気づかれないように細心の注意を払って報復を重ねているのだが、勘が良いのかこの男は最近よくやってくる。

 

「気の、せいか…? 雑鬼どももとくに誰かの姿を見たわけじゃないと言うし」

 

 やばい。やばいやばいやばいやばい。この男まじでやばい。

 知らないくせになんか勘づいてやがる!

 

 そんなことさせないからな! 俺の唯一の楽しみ奪われてなるものか!

 ……なんか、悲しいなぁ。楽しみってそれしかないのか、俺…。いやでも、まったく楽しみ持たない晴明よりはましだ、うん。そうだ、絶対にそうだ。

 

「だけど、仕返しする様なやつじゃないんだよなぁ…」

 

 よく分かっていらっしゃる! さすが晴明の友人!

 めげずに体当たりしてたまに玉砕するそのしたたかさ、賞賛に値する。岦斎を相手にするときだけは、人間らしくわずかに表情が崩れる。

 弟のコミュ障を心配していた兄としては非常に嬉しい現実だ。しかも、晴明自身をみて関わりを持ってくれるような人間がまず奇特。逃すなよ、晴明。

 

 心の内で晴明に声援を送りながら、岦斎がその場を立ち去るのを見届けた暁明はそっと息をついた。

 

 にやり、と口角を吊り上げ、先ほど力を使って幻覚を見せた相手の邸へと足を向けた。

 

 

 

 その夜。自身が妖に変貌して人を襲うという夢を見た貴族は飛び起きた。顔を青ざめさせ、悲鳴に駆けつけた雑色や女房たちを下がらせ、貴族は震えながら褥でまるくなる。

 それから三日三晩、化け物となって人を襲い、調伏されるという夢を見続けた貴族は憔悴し、化け物の子と名高い陰陽師へと護符作りを依頼することとなった。

 

 それが今朝の話。

 

「ということで、今回も無事気づかれることなく報復を果たしてきました!」

 

 嬉々として一連の出来事を語る幼子を、祭神は静かに見下ろす。

 彼が来たのは日付が変わるころ。それから飽きもせず語り続けている。

 

「あいつを蔑む馬鹿に仕返し出来るうえ、結果としてあいつに依頼が舞い込む。あいつが食いっぱぐれなくてすむし、一石二鳥! ただ、獲物はわんさかいるから毎日やっても終わりませんけど、流石に報復のネタが尽きた……。なんか面白いことありません?」

「さてな。よくもまあ飽きないな」

「だってそれが俺の生きがいですからね!」

 

 けらけらと笑う子ども。本心でもあるが強がりでもあることを高淤は知っている。

 知っているけれど、あえてそれを指摘することはしなかった。

 

「高尾さんの生きがいってなんですか?」

「…随分と酔狂な質問だな」

「そうですか?」

 

 暁明としてはそこまでおかしい質問では無いと思う。けれどもそう判断された理由が分からず首をかしげた。

 瑠璃色の双眸に隣に腰を下ろす幼子を写す。

 

 はじめは磐座の下に座って話していたが、今では隣に座って話しを聞く事が当たり前になっている。

 

 後にも先にも、それを許すのは彼だけだろう。許したのはただの気まぐれ。その方が面白そうなことになると思ったから。

 

 少年は、暁明は未だに気づいていない。"たかお"と呼んでいる存在がどういうものであるのか、自身が今、どんな綱渡りをしているのか、まだ気づかない。

 

 いつ気づくか、気づいたときにどんな反応をするのか。

 祭神ははそれが楽しみでならない。

 

「強いて言うのであれば、退屈しない、面白いことだな」

「退屈しない、面白いこと……? ……え、今もしかして退屈してたりします!?」

「見て分からないか?」

 

 質問を質問で返され、暁明は高淤を見つめた。

 楽しそうな顔ではない。どちらかと言えば不機嫌そうな顔、あるいは普段の表情とかわりない。そう見せてるだけ? それとも本当に退屈してた? え、どうしようわからない。人の機微とか無理。どうしようこれで実は退屈してましたとか言われたら俺、もう立ち直れない。

 

 眦が徐々に下がり、泣きそうな顔をしてうつむく様子に高淤はくつくつと喉の奥で笑った。

 

 びくりと体を震わせて恐る恐る視線をあげた暁明に向けて、口角を吊り上げる。

 

「相変わらずからかい甲斐のある」

「っ……、からかわないでください! 高尾さんに嫌われたら俺泣きますよ!」

「ほう、泣くのか」

「泣きます! 色々お世話になってる人ですし、そのあともいろいろ構ってくれますし、飽きもせず話し聞いてくれますし、感謝してます! だから嫌われるのは心にきますし、なにより、高尾さんみたいな綺麗なお姉さんに嫌われたら……っ」

 

 暁明は想像して頭を抱えた。

 

「男としての自分が信じられなくなるっ」

 

 高尾さんほどの絶世の美女。それに嫌われて見ろ。目の前真っ暗お先真っ暗。男として終わってる。せめて有象無象でありたい。嫌われるとかむり。耐えられる自信が無い。そんなことになるくらいなら死んだ方がましだ。

 

 心の底からの叫び。それは嘘偽り泣く高淤の心に届く。

 あぁ、ほんとうに面白い。あくまで私を神ではないただの“女性”として扱うか。身の程を知らない愚かなこと。けれども、嫌ではない。むしろ、愚か故に想像を超えた返答が返ってくるから退屈せずにすむ。

 

「…嫌われぬよう、自分を改めようとは思わないと?」

「だってあいつがあいつだから、兄として可愛い弟の実況報告は譲れない…! 最近は特に! 性格ちょっと丸くなったのもあるけど、あいつが師匠や父上以外の人間と親しくなってるんですよ!? この喜びを胸に秘めておくのは到底無理です!」

 

 口より先に手が出ていた晴明が。

 いつも荒んだ目をして蔑んでた晴明が。

 馬鹿にされて鼻で笑っていた晴明が。

 あの日、初めて兄と呼んでくれた晴明が。

 

「自覚はありますよそりゃ。でもやめられません。あ、もちろん師匠や父上もですよ。師匠すごいし、父上滅多に会えないけど、元気にしてたみたいで嬉しくて、やっぱりしゃべらないのは無理です! 高尾さんが付き合ってくれるのは嬉しくて、甘えてるのはありますけど…。嫌なら、口閉じてます」

 

 まくしたてるように言いたいことを言ううちに、どこまでも自分本位な考えしかないことに気がついた暁明は悄然と肩を落とす。

 

 父上も、師匠も、晴明も、大切な存在だ。彼らは覚えていないのだろうけれど、そう思う心は止められない。止められないけれど、押しつけて言い訳じゃない。

 

 何をやっているのだろう自分は。高尾さんが何も言わないからって、甘えすぎじゃないか。嫌われたくないとかいいながら、嫌われるようなことしかしてない。どの口が嫌われたくないと言っているのだろう。ほんと馬鹿。俺の馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。

 

 何やってるんだろう、俺。好かれる事なんてありやしないのに。そうだ。いつも嫌われてばかりで、何を勘違いしているのだろう。嫌われてるに決まってるじゃないか。

 だから、俺のことを覚えていない。嫌いだから、忘れたいほど嫌いだから、誰も覚えていない。

 

 あぁ、俺は必要ない。いらない。誰にも必要とされない、いらない子。だから――。

 

 清涼な風が頬を撫でる。ふつりと、暁明の意識は途切れた。

 

 意識を失い、磐座から落ちそうになった暁明を力で支え、高淤神は磐座の上に寝かせた。

 

 意識を失う直前、彼の中で蠢く呪詛があった。その身を蝕む呪詛を抑え込んでいるのが暁明に流れる天狐の力だ。先ほどのように落ち込んだり凹んだりすると、二つの力の均衡が崩れて荒れかける。

 

 それはこの場を乱すことにもなるため、そうなる前に度々暁明の意識を刈り取っていた。そうなれば落ち込まずに済むから力は治まる。

 寝て起きればあっけらかんとしているような単純馬鹿なので聞く荒技でもある。

 

 気に掛けることにはしていたが、磐座にのぼることを許すほど、気にかける事になろうとは思ってもいなかった。

自身のその意外さに驚きつつ、それを成した人と妖の子に感嘆する。

 

「あぁ、日が昇るな」

 

 東の空を目を細めて見つめ、龍へと姿を変えて空高く飛翔した。

 

 

 

 

 

 

 



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第12話「ほつれる縁」

 その日、暁明は今までにないくらい衝撃を受けた。

 

「あいつがお友達と祭りに出てる……!?」

 

 それがたとえ、仕事終わりに岦斎に引きずられるように連れ出された結果だったとしても。

 あの、出仕も度々サボり屋敷にこもってばかりで人間嫌いを絵に描いたようなあの、晴明が。

 家族や師匠以外と外出。しかも仕事じゃなく、催しに参加している。

 

 暁明は口をぱくぱくさせて、やがてゆっくりと顔を覆った。

 

「なんて人間らしい……!」

 

 感動のあまり視界が涙でゆがむ。

 友達と一緒に祭りにでて、買い食いする。

 

 なんてことない祭りの日にはよくありそうな光景なのに、それを晴明がしているその感動はおして図るべし。

 

 機嫌が悪そうだったから、振り切って帰りそうだと思っていた。

 祭りに誘われて嫌そうに鬱陶しさを隠そうともせず、けれども丸め込まれた晴明。

 

 なんだかんだ言いながら岦斎という存在を許しているというのには気づいていたけれど、まさか一緒に祭りに参加するほど許しているとは思わなかった。

 

 流石、と言うべきか。岦斎という存在は、晴明にいい影響を与えている。

 雑鬼たちが、歳を重ねるごとに丸くなったとは言っており、それも一理あるとは思う。

 けれど暁明は、それでも厭世的な晴明の生き方は変わらなかったのは知っている。

 

 今でもそういうところはあるけれど、赤の他人というものを受け入れる程度には悪くはないと思っているのだろう。

 

 暁明は遠目で二人の姿を見ながら、ため息をついた。

 

「いいなぁ……」

 

 なぜ今、晴明の隣に自分はいないのだろう。

 恐ろしくて隠れることを選んだのは自分だけれど、それでもうらやむ心は止められない。

 

 最近、特に榎岦斎という人間が晴明の周りに出没するようになってから、よく考える。

 

 あからさまな害意はなりを潜めていて、平穏と言えば平穏だ。

 そして晴明は人らしい道を歩み始めている。

 

 果たして自分は、いつまでこうしているのだろう、と。

 

 師匠も父上も晴明も、みんな自分のことなど忘れているのだろう。

 自分だけが、あの日々にとらわれている。

 

 暁明は顔を伏せて息をついた。

 

「友達、かぁ……」

 

 そういえば、友達と呼べる者を、自分は持っていない。

 自分の世界は師匠と父上と晴明とたかおさんから成っていて、逆に言えば親しい者など挙げたものだけ。

 友達というよりも家族という感覚で、友と呼べる存在はどんな者であったのかも思い出せない。

 

 いや、もしかしたら心の底から友だと思っていた者がいないのかもしれない。

 その事実にたどり着いたとき、暁明は自分の孤独に膝を抱えた。

 

 悲鳴のような者が聞こえて視線を向けると、暴れている牛車があった。

 いつもなら対応する晴明をはらはらしながら見守るのだが、どうしてかそんな気分になれないでいる。

 

 逃げた化け物。牛車の中の様子をうかがう晴明の姿。

 あたりを警戒する岦斎。

 

 羨ましいのに、あそこに自分がいる光景を思い浮かべることができなくて。

 

 予感がした。晴明は今から人との縁を繋いでいくのだと。

 その縁に、自分は含まれていないのだと。

 

「~~~っ!!」

 

 暁明はぱっとその場を飛び起きてかけだした。

 

 長く続く縁もあれば、すぐに薄れていく縁もある。

 願うだけじゃ消えてしまう。

 紡がれていく縁に飲み込まれないように、たぐり寄せておかないと。

 

 でないと。そうでないと。

 

 

 

 

 

 本当に置いていかれてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、血相を変えて飛び込んできたわけか」

「頼む、いい案がないな一緒に考えてくれ!」

 

 泣きそうな顔で駆け込んできてどうしようと半泣きで取り乱す様子を見て何事だと思ったが、なんてことない、単にこじれているのを更にこじらせようとしているだけだった。

 

 影から見守ると決めたのは本人だが、その先のことは深く考えていなかったのは想像に容易い。

 

「手っ取り早く会いに行け」

「それはいやだ、殴られる!」

 

 面と向かって会ってしまえば、おどろおどろしい空気を背に絶対零度の視線をもって睨まれる。

 それより先に少なくとも拳が1発降ってくる。

 

 暁明は唇を尖らせた。

 

「兄というものに敬意の"け"の字くらいほしいよな、まったく」

「果たして、お前が思うように殴ってくれるほど、その人間はお前のことを覚えているのか?」

 

 暁明から表情がすっとかき消えた。

 ひやりとしたものが胸をなでる。何か言わなければと思うのに、喉は凍てつき音にならない。

 

 今までだって、何かあれば口より先に手を出されて喧嘩になったのだ。

 だからそうでなければならない。

 そうでないなららば、何だというのだ。

 

 会ったらきっと、晴明は怒った様子で殴って。

 

 暁明はつぶらな瞳を見開いた。

 

 想像しようとするのに、他人を見る晴明の瞳しか思い出せない。

 冷や水を浴びせられた気がした。

 

 どうやって、晴明と喧嘩してたっけ。

 どうやって、晴明と話してたっけ。

 どんな顔して晴明と、会っていたっけ。

 

 俺はどうやって晴明と関わってた……?

 

 以前のように過ごせることを夢見ていた。

 以前のように殴られるのだと信じて疑わなかった。

 

 人間だったあのころと違うのに。

 晴明は人として生きているのに、何も変わらることなどないと現実から目を背けていた。

 

 血の気の引いた顔で呆然とする暁明を高淤は興味本位で眺めていた。

 鈍感な人と妖の子がどのような答えを導き出すのか。

 

 頭では理解していても感情はまったく追いついていない。それ故に、愚かなまでに何度も現実から目を背け、けれども諦めきれずに幻想を抱き続けていた。

 それが、崩れた。

 

 向き合わなければ押しつぶされて落ちるか、その身をむしばむ呪いにのみ込まれる。

 現に、暁明の体内では呪いと天狐の力がせめぎ合っている。

 

「どーしよう……」

 

 どうしたらいいんだろう。どうすれば良かったんだろう。

 恐ろしくて目を背けた。傷つきたくなくて自ら歩み寄ることを諦めた。

 その結果など、わかりきっていることだったのに。

 

 俺は一体、何をしたかったのだろう。

 

 晴明から逃げ、父上や師匠からも隠れて、それで以前のようにと夢を見るのは道理に合わない。

 

 夢のような未来を捨て去ったのは自分なのだ。

 師匠も、父上も、晴明も、雑鬼たちとも関わることすらしなかったのは自分自身。

 置いて行かれるのは当然のこと。

 

 手を伸ばせばそこにあると思っていたもの。それが手の届かないところにあった事実に、暁明はどうしようもない孤独感に苛まれる。

 

 じわりじわりと活性化する呪いに天狐の力が押し負け始めているのを高淤は感じていた。

 そろそろ止めに入らなければ、呪いはがんぜない子どもを闇へと落とす。

 

 眠らせようと力をまとわせた腕を持ち上げる。

 

「ひとりは、嫌だ……!」

 

 絞り出された言葉に、高淤はぴくりと動きを止めた。

 耳を塞いで嫌だ、と肩をふるわせる暁明を待とう呪いの気配が強くなる。

 

 気に食わない。

 

 不機嫌そうに目を細めた高淤は傍らの鬱陶しい陰の気を払うと、嘆く子どもの頭に手を乗せ、乱雑にかき回した。

 

「わ、わわっ!」

 

 上げられようとする頭を押さえながら、高淤は立ち上がる。

 

「一人がいいならばそうすればいい」

 

 普段とは違う冷たい声音。頭の上の重みが消えて、恐る恐る首を巡らせる。

 先ほどまでそこにあったはずの人影を、暁明はみつけることができなかった。

 

「高尾、さん……?」

 

 さぁっと、やや湿り気を帯びた風が山間を通り過ぎていく。

 

「高尾さん……、高尾さん、どこだ!?」

 

 目に見える範囲で見つからず、磐から飛び降りて暁明は山の中を探し回った。

 夜通し山を駆けずり回っても見つからず、磐座まで戻ってきた暁明は座り込んだ。

 

「どこ……行ったんだよ………高尾さん……」

 

 貴船にいるときはいつも彼女がいた。

 一方的に話してばかりだけど、いつも話を聞いてくれた。

 この場所に訪れる度に出迎えてくれた。

 辛かったときも楽しかったときも、いつも。

 

 俺は高尾さんに救われていたんだ。

 

 磐座に寄りかかるようにして座り込む。

 ずっと探し回っていたせいか体が重い。

 声も枯れて、喉が悲鳴を上げている。

 

 頬を滑り落ちた雫が衣に染みをつくる。

 

 愛想を尽かされてしまった。

 呼んでも返事はない。探しても姿は見つからない。

 ――嫌われた。嫌われて、しまった。

 

 晴明も、父上も、師匠も、高尾さんも、みな、いなくなってしまった。

 この手には何も残っていない。残らない。

 

 ――………に……………で……。

 

 声が聞こえる。呼ぶ声が。誘う声が。

 焦点の定まらない目で立ち上がった暁明はよろめきながら足を踏み出す。

 

 なんで何も残らないのだろう。

 どうして全部こぼれ落ちていくのだろう。

 どうしたら、この手に何かを残せるのだろう。

 どうすれば失わずにすんだのだろう。

 

 どうして、なんで。

 

 ――まったく、危なっかしい。兄様、こっち。

 

 傾いだ体を受け止めるものは誰もなく。

 音を立てて暁明の体は地面に倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

 闇に包まれたその空間で、その者は安堵の息をついた。

 その腕には青ざめた顔で眠る暁明の姿がある。

 

「一段落ついたから見に来てみれば、いったい何をやってるんだか」

 

 若い女のぼやきか闇に消える。

 その闇はただの闇ではない。夢殿とよばれる、夢の中のもう一つの世界。

 

 そこを通じて、呪詛にのみ込まれかけてる暁明の意識を刈り取るという暴挙を成し遂げてた彼女は、片腕で抱えていた暁明をそっと横たわらせた。

 暴挙を成し遂げるべく利用した刀を傍らに置き、彼女もその場に座り込む。

 

 困ったように首をかしげ、がしがしと頭をかきむしる。

 

「……干渉のしすぎは怒られるが、でも兄様だからな」

 

 多少の過干渉は大目に見てもらいたいものだ。

 

「そっちに行くから、頼むから、捕らわれるなよ。…それに、呼んでくれたらいくらでも手を貸すんだけどな」 

 

 眠る暁明の頭を、軽く何度も叩く。

 すねた子どものように、何度も何度も叩く。

 呼んでくれと、意思を表示するかのように。

 

 いくら叩いても全く反応を示さない暁明に口をへの字に曲げた。

 頭を叩いていた手で、眠る暁明の頬を摘まむ。

 そのまま頬を揉み続けているうちに、への字に曲げた唇が尖る。

 

 極めつけと言わんばかりに額をちょっと強めに叩く。乾いた音が一回、夢の果てに消えていく。

 彼女はため息をついた。暁明は目覚めない。

 

 叩いて乱れた暁明の髪を整えつつ、その頭を指先でなでた。

 愛おしむような暖かい視線を向けて、そのものは薄く微笑を浮かべた。

 

「またね、兄様」

 

 その言葉を合図に、互いの夢は切り離された。

 

 

 

 



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第13話「ほどける心」

年はちょっと昔に明けてます。
おめでとうございました。

今年は何話更新できるかな。
相変わらず更新頻度は低めですが、気長にお付き合いいただければ幸いです。


 はっと目覚めた暁明は、空に広がる星空に目を瞬かせた。体を起こし、辺りを見渡す。

 貴船の本宮に人の姿は見当たらない。夜だから人の姿がないのは当然のことだが、いつもここにいるはずの人の姿もない。

 

「あれ?」

 

 なんでこんなところで寝てるんだっけ。

 眉間にしわを寄せながら記憶をたぐり寄せ、どうしようもない現実に悄然と肩を落とした。

 近づいた磐座をしたから見上げる。

 

 そういえば、上から見上げるというのはずいぶん久しぶりだ。

 隣で語るようになったのはいつの頃からだったか。

 ずいぶんと昔のことのように思えるほど、隣にいるのは当たり前だったのに。

 

「……嫌われた…」

 

 磐座に背を向けて座り、膝を抱えて目元を膝に押し付ける。

 さみしさは募り孤独感が心を蝕み、泣きたいくらい悲しいのに涙は出てこない。

 

 鬱々と、悪い方向へと沈む思考。

 胸が引き裂かれるように痛くて苦しい。

 それなのに、誰も助けてはくれない。

 

 誰もいない。俺のそばには、もう誰も。

 

 かたん、と音がした。

 いつもなら耳に入らないはずの音が、落ち込んだ意識の狭間をぬって届く。

 

 物音がした方をとっさに振り返り、暁明は眦を下げた。

 求めている姿はそこにはない。けれども代わりに見たことのない脇差しが転がっていた。

 なんとなくそれを手に取り、ふいに目を見開いた。

 

 選べ。

 

 そう、言われた気がした。

 声が聞こえたわけではないのに、何かを選べと、それは言う。

 この手には何も残っていないのに、何を選べというのだろう。

 

 失ってしまった人たちの面影が脳裏をよぎり、脇差しをかたく握りしめる。

 

 分からない。わからない。選べるものなどないだろう。

 何も持たない自分に、欲しいと思いながらすべてを捨て去るまねをした自分に今更何を選べと。

 

 何かを選ぶ資格なんて自分には。

 

 ふつりと意識が途絶える。

 

 

 

 

 

 

 

 曇天が広がる空。荒れ果てた原野に晴明がいた。

 見たこともない景色。隠れる場所もなくておろおろする暁明は、けれども自分の存在をいぶかしむ様子がないことに首をかしげた。

 少なくとも晴明と対峙する赤い髪の男と金色の髪の少女の視界に入っているはずなのに、こちらを見る様子はない。

 

 なに、してんだ……?

 

「貴様が我ら十二神将を使役にと望む、そのわけは」

「…………は?」

 

 思わず呆けた声がこぼれ落ちる。

 口元を慌てて塞ぐけれど、赤い髪の男にも金色の髪の美少女にも晴明にも反応は見られない。

 

 自分の姿は見えていない、ということだろうか。

 

 困惑している間にも応酬は続く。

 

「俺は何度も言ったはずだ。人間は己を偽り、欺き、騙すのだと。貴様が貴様自身を偽っている限り、欺いている限り、俺は使役にはくだらない」

 

 真の言葉をもって使役に望むそのわけを答えよと、男は再度、晴明に問う。

 意味が分からないまま、暁明はぼろぼろの晴明の背を見つめる。

 

 怒りの形相をにじませて、この身に宿る母から受け継いだ力をまとわせて震える手で刀印を組む、幼い晴明の姿が脳裏をよぎる。

 あれは確か。

 

 いつかどこかで見た光景。そのはずなのだが、それがいつのことでどこで見たのか、思い起こす前に疑問は霧散する。

 ただあのときの晴明にどこか似ている気がして、暁明は目を離せないでいる。

 

 似ているのに、あのときとは違って暁明から晴明の表情は見えない。

 どんな顔をしているのだろう。やはり、怒っているのだろうか。

 

 思い悩んでいるうちに、晴明は赤い髪の男を使役となしたようだ。

 

 すごいなぁ、晴明は。

 

 羨望のまなざしを向けて、自分自身の無力さにため息を吐いた。

 所在なさげにあたりを見渡す。

 

 自分はどうやってここに来たのだろう。

 どうやって帰ればいいのだろう。

 

 ここにいたら晴明と自分を比べて卑屈になる。

 筋違いにも晴明に嫉妬してしまいそうになる。

 それは、嫌だ。

 

 三人から背を向けるけれど、どこかに行こうという気にもなれない。

 ついつい気になって三人の会話に意識を向けてしまう。

 

「晴明。お前はばけものを倒したいから我ら十二神将を使役に望むのだと言った。そして、姫のためではなく、自分のためだと太陰と白虎に告げていたな。だが、そうではないだろう」

 

 晴明に朱雀と呼ばれた男の晴れやかな声がした。

 

「ばけものを倒すためではなく、いとしく思う姫を救うため。確かに姫のためではない。姫を救いたい自分のためだ。それが、お前自身も全く気づいていなかった、お前の真の心だ」

 

 なんですと。

 

 暁明は思わず振り返った。

 

 え。ちょっとまって。えっと。え? 化け物って……あ、あの祭りの時のか?

 じゃあ姫って、化け物に狙われていた牛車に乗ってたあの?

 

「…………そうか。好きな人できたのか……」

 

 嬉しいような安堵したような、それでいて、やはり新たに紡がれている晴明の縁を苦く思う。

 

 嬉しいはずなのに、苦しい。

 喜ばしいはずなのに、悲しい。

 どうしてこんな思いをしなければないのだろう。なんで自分ばかり。

 

 妬む心が止められない。

 僻む心が感情を埋め尽くす。

 

 聞くんじゃなかった。

 

 踵を返した暁明の耳に、冷たい声が届く。

 

「逃げるのか」

 

 体を震わせて思わず足を止めた。

 恐る恐る振り返りながら、頭の中は疑問で埋め尽くされている。

 

 なんで。自分のことは見えていないのでは。

 

 果たして、朱雀の瞳は暁明を移してはいなかった。

 どこかへ行こうとしていたのか、身を翻しかけた晴明しか男の瞳には映っていない。

 

「分が悪くなると背を向け、真実から目をそらす。そうやって生きていても、これまでは何ひとつ不都合はなかっただろうさ。お前がそうしている以上に、誰一人としてお前のことをまともに見ようとしていないのだから」

「なにを……!」

 

 憤る晴明とは反対に、暁明は言葉を失う。

 のろのろと顔を両手で覆って、その場に崩れ落ちる。

 

 痛い。痛い。心が痛い。

 自分に向けられた訳ではないのに、言葉が刃となって胸に突き刺さる。

 それは思い当たる節があるからだ。

 

 おびえて目を背けて夢を抱いていた。

 夢を暴かれて、いつの間にか大切な物はこの手からこぼれ落ちていて、一人になった。

 

 向き合うことを恐れていたのは自分だ。

 向き合われなくて当然。まともに見ようとしてくれなくて当然。

 

 行いは、自分に返ってくるのだ。

 

 ――一人がいいならばそうすればいい。

 

 だから、冷たく突き放された。

 

 ざく、ざく、と足音がする。

 十二神将と言うくらいだから、あの場にいた二人の他にあと十人、神将がいるはずだ。

 一人一人名前を呼んで回っているのなら、おそらく次の神将のもとへ行くのだろう。

 

 遠ざかる足音。またしても広大な土地に一人と残されるという現実に、暁明は顔を歪めた。

 

 寂しい。ひとりは寂しい。

 悲しい。辛い。苦しい。どうしようもなく、心は引き裂かれんばかりに泣き叫ぶ。

 

「……………無様に泣き叫ぶような姫なら、放っておけたのに…」

 

 人のくくりを外れた耳は、遠のく晴明のつぶやきをしっかりと拾う。

 

 なぁ、なんで泣き叫ばなかった。いづこかの姫。

 そうしたら晴明が遠く感じることはなかった。

 なんで、祭りに連れ出した。榎岦斎。

 そうしたら晴明は姫と出会うことはなかった。

 なんで。なんで。

 

「……ああ…そうか……」

 

 唐突に足音がやむ。

 そのまま足を止めて、逃げてしまえ、晴明。

 顔を背けて目を閉じて、耳を塞いでしまえ。

 そうしたら、また。

 

「……それも、ある。……だが…巻き込みたくないと言った彼女を救うことで……あなたへの贖いにしようとしていた……。すみません……あにうえ……」 

「っ……!?」

 

 息をのんだ。

 思いもかけない言葉が暁明から思考を奪う。

 

 地面を踏みしめる音が、ゆっくりと世界の奥に消えていく。

 その音を聞きながら、暁明は右手で目元を覆って天を仰いだ。

 

 俺は今、何を思った?

 俺は今、何を願った?

 俺は今、何を祈った?

 

 ――晴明の不幸を、闇へと沈むことを、今、俺は望んだ。

 

 妬みがある。嫉みがある。僻みがある。羨む心がある。

 それは至極当然のことだ。その負の感情に流されて他人の不幸を望み、それを為そうとしてしまえば、それは自分たちを蔑んできた人間と同じ程度まで成り下がるということだ。

 

「俺は……おれは……っ!」

 

 ぐいっと、意識が引っ張られる感じがした。

 

 はっと目を開けると、そこはいつもの貴船の本宮だった。

 陽はいつのまにか頂点を超え傾き始めている。

 あともう何刻かしたら空は茜色に染まり始める。

 

「…今のは、ゆめ……?」

 

 口にして、暁明は頭を振りかぶる。

 夢ではあったが、ただの夢ではなかったような気がする。

 

 見たこと感じたことをもう一度思い返して、手にする脇差しに額を当てた。

 深く息を吐いて、思考を整理する。

 

 大切だと思っていたけれど、それは上辺だけ。本当に守ろうとしていたのは自分自身。

 口ではなんとでもいいながら、心は自分にしか向けられていなかった。

 

 だから、忘れられてるかもしれない事が恐ろしいと理由をつけて距離を置いた。

 だから、殴られるのが嫌だと理由をつけて会うのを拒んだ。

 だから、いつもそばにいてくれた人をないがしろにして、愛想を尽かされ孤独に陥った自分に酔いしれていた。

 

 当然だ。自分のことしか考えない人と好んで関わろうとする人はまずいない。

 俺だって、そんなやつと関わるのは願い下げだ。

 

 ――でも。

 

 今更伸ばす手を、受け入れてくれるだろうか。

 それでも伸ばさなければ何も変わらないと分かっている。わかっているけれど、恐れる心はどうにもならなくて。

 

 一歩を踏み出す勇気が欲しい。

 

 

 

 選べ。

 

 

 

 暁明は顔を上げた。

 誰かに告げられた気がするのに、やはり誰の姿も見えない。

 首をかしげた晴明はふと自分の手に持つものに視線を奪われた。

 

 先ほどからずっと持っていたのに、なぜか意識を引きつけられて目を離せない。

 

「……選べ、と言ってるのはお前か……?」

 

 声は聞こえない。暁明はいぶかしげに眉を寄せた。

 脇差しではないのか? でもなんでこんなにも惹きつけられるのだろう。

 

 しばらくそれを眺めていた暁明はぐっと唇を引き結んだ。

 勘違いかもしれないけど、選べ、というその言葉は自分の背を押しているようにも聞こえた。

 

 いつの間にか傍らに落ちていたこの脇差しは誰かの落とし物なのだろう。

 でも、ちょっとだけ。持ち主が見つかるその間だけ、借りてもいいかな。

 

 気のせいなんだろうけれど、それがあれば、ちょっと踏ん張れる気がする。

 お守り代わりだ。

 

「……よし」

 

 とりあえず、晴明の所に行こう。

 深く息を吐いて、暁明は一歩踏み出した。

 

 

 



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第14話「分かたれる道」

 貴船の山を下っていた暁明は、確かな確証を抱きながら歩みを進める。

 言うなればそれは勘だ。他のことに関してはともかく、晴明に関してだけはそうそう外れない優れものである。

 

 背丈の半分ほどの脇差しを背負いながら貴船の山を下る。

 案の定、貴船の山間、開けたところに探し求めていた姿はあった。

 

 地面に横たわる晴明。駆け寄りたいのに、どういうわけか足は地面に縫い付けられたように動かない。

 叫びたいのに、凍てついたかのように喉が動かない。

 

 最悪の事態が胸をよぎるが、わずかに上下している胸が生きていることを示していた。

 

「っ!?」

 

 安堵したのもつかの間、唐突に胸の奥で鼓動が撥ねた。

 晴明を包む青白い焔。自分を守ってくれる同じ焔が揺らめいている。

 

 それは母より受け継いだ力。強い力だが、使いすぎれば人として破滅してしまう、諸刃の剣。

 

 背負っていた脇差しを腕に抱えて握りしめる。

 

 愛しく思った姫を助けるために、いるかどうかも分からない十二神将を使役に望み、実行している晴明。

 彼女を助けることで、自分に贖おうとしていたという晴明。

 

 あのときのことを、なんでお前が悔いる必要がある。

 贖わなけければならないのは自分の方だというのに。

 

 目の前の景色が遠ざかるような感覚に襲われた。脳裏をよぎるいくつもの景色。

 自身の闇をさらし、毒を突きつけられ、穢れに苦悩して。

 自らと向き合うことはとても心が痛くて辛くて、目を背けてしまいたくなるほど苦しいものだ。

 

 見なかったことにしても、醜さはついて回り、ことあるごとに自身を苛む。

 じくじくと痛く心に唇をかみしめながら、目を硬く閉ざし握られた拳を額に押し当てる。

 

 それでも、晴明は自らの足で立ち、歩き、生きている。

 体に流れる異形の血に、妖たちが住まう冥がりに染まりながらも、それでもまだ生き足掻いている。

 

 疲れ切っているけれど、どこか穏やかな顔で何かを呟いた晴明が崩れ落ちた。

 たくましい痩躯の男が晴明を受け止め、精悍な面差しを崩すことなく静かに晴明を見つめている。

 

 唐突に、脳裏の光景がかき消えた。目を開けると、遠かった景色が目の前に広がっていて、体に戻った感覚が現実であると知らしめる。

 

「……お前が頑張ってるなら、俺も頑張らないとな」

 

 自らを奮い立たせるように呟いた暁明はおもむろに顔を上げた。

 橙色に染まる陽に照らされる晴明はぴくりともしない。

 追いすがるように手を伸ばし、動きを止めた手。

 

 その手に黒い靄のようなものがまとわりついていた。

 静かに息をのむ間、気づけば同じような者が晴明の足にまとわりついている。

 

「は……?」

 

 自身の手と晴明にまとわりつく靄を見比べ、それが同一の気配の者であることを理解する。

 それは悪しきもの。身を蝕むもの。靄の濃さは手にまとわりついている方が上だ。

 

 脇差しを小脇はさみ、試しに靄を引き剥がそうと伸ばした指は、しかし宙を切る。

 両腕に、足に、体にまとわりついているらしいその靄に、暁明は困惑を隠せないでいた。

 

 今までにはなかったはずだ。いつからあるのかも分からない。

 ずっとあったのだろうか。ならばなぜ、突然認識できるようになったのか。

 

 ――…………。

 

 耳の奥で誰かが嘲笑う声がする。

 誰の者か考えるより先に、抱いた疑問は霧散する。

 

 ただ、その靄が良くないものと言うのだけはわかった。

 そしてそれは晴明にも何かしらの影響を及ぼしていると言うことも。

 おそらく、師匠や父上、高尾さんにもあるのかもしれない。

 

 その考えに至ったとき、暁明は木陰に隠れるように足を引いた。

 樹に背を預けて、自身の足下を凝視する。

 

 もっと早くに腹をくくっていれば良かったのだろうか。

 それとも気づくのが遅すぎたのだろうか。

 

 いろんなことから目を背けていた代償が、これか。

 

 自嘲を含んだ笑みを浮かべ、暁明は息を吐いた。

 

「……もう、呼べないな……」

 

 師匠と、父と、晴明と、高尾さんと。大切な人の名を呼ぶことはもうできない。

 呼べば、この靄は皆を冥がりへと誘う。誰よりも晴明をこちら側へと引き込んでしまう。

 人として生きて欲しいと願う思いを、踏み躙らせてしまう。

 

 木々を挟んだ反対側で、地面をこする音がした。

 強い力の気配が貴船の山に広がり、硬い何かが地面を叩く。

 

「安倍晴明。これより我ら十二神将すべて、汝が使役としてその命に従おう」

 

 厳かな声に呼応するかのように、更に強い力がその空間を満たした。

 焦り祈るような声と地面を踏みしめる音。突風が吹き上げ、晴明の気配が瞬く間に遠のいた。

 

 誰もいなくなった空間で、暁明は静かに肩を落とし天を仰いだ。

 紅に染まっていた空はやがて群青へと移ろう。

 

 黄昏時を過ぎて、冥がりに住むものたちの時間だ。

 

「…………ごめん」

 

 口をついて出た謝罪が闇夜に溶けて消える。

 

 気づかなければ、知らないままでいられた。そして、己の愚かさを悔い嘆くことになっただろう。

 気づいてしまったら、知らないままではいられない。そして、己の愚かさに苦しみ抗うことになる。

 

 乗り越えて新たな道を歩むのか、絶えきれず押しつぶされて立ち止まりうずくまるのか。

 心という者は誘惑に弱い。より楽な方へと逃れようとする。

 逃れればさらなる苦しみが待ち受けていると分かっていながら、一時の安楽に身を委ねてしまう。

 

 目を塞ぎたい。耳を塞ぎたい。知らなかったあの頃に戻りたい。でも、戻れない。

 知らなかったあの頃に気づけなかったことを、知った今ならばできることがある。

 

 安倍晴明は、人として生きる。それが父である安倍益材と師匠である賀茂忠行の願い。

 そして彼と縁を紡いだ榎岦斎とどこぞの姫君と十二神将がそれを成す。

 

 たぶん、そうなる。だから。

 

「…………お前はさ、ちゃんと生きろよ」

 

 人として。友人と愛しく思う姫とともに。その命が尽きるまで、人として。

 そのために、妖である自分は節度を守る。晴明が人ではないものになろうとするならば、この身を賭すことも厭わない。

 

 この先、互いに歩む道が重なることはないだろう。

 願う心は止められないけれど、そんな日は来ない方がいいのだ。

 

 幹から背を離し、小脇に抱えていた脇差しを背負い直して暁明は山の頂に背を向けた。

 

「ごめんなさい」

 

 大切な者たちへの思いを、脳裏に描いた面差しを心の奥底へと押し込めて蓋をする。

 心を向ければさらなる闇を呼び込んでしまうから。遅いかもしれないけれど、今よりも事態が悪化するよりはずっといい。

 

 だから、あえかな願いは置いていく。ここに、この場所に、もう一つの帰る場所だったここに。

 

 ゆっくりと、確かな足取りで山を下りながら念じた。

 

 瓜二つのその姿はきっと決意を鈍らせてしまう。

 心を向けることがないように、星のきらめきにも似たいくばくもの思い出とともに宝箱にしまい置いていく。

 

 その心に従うように空から降り注ぐ月の光に照らされた影がのびる。

 幼さの残る顔立ちは、十代半ばほどの面立ちへと姿を変える。背丈も二尺ほど伸び、いつもよりも高くなった視線に困惑しつつ頬をかいた。

 

 背が伸びない、成長しないということを恨めしく思ったことはあったが、よもや変化でどうにかなるとは。

 予想外に叶ったひとつの願いに乾いた笑いをこぼし、息を吐いた。

 

 こんな時でなければ狂喜乱舞するのだが。

 

 貴船から下る川の辺へとおりたち、月夜に照らされた川の水をのぞき込む。

 第一印象は、どこの不良だ、というものだった。切れ長の目、不機嫌そうともとれる険しい顔。黙っていればなく子も黙る鬼とでも言われそうな、そんな顔。

 

 その顔を、見たことがある気がする。けれどどこで見たのかは思い出せない。

 思い出せない事実をさらりと流し、新たに付き合うことになる自身の顔を頭に刻み込み暁明は立ち上がった。 

 

 軽い身のこなしで川沿いをくだり、都へと進入を果たし、物珍しげに夜の都を練り歩く。

 妖になってからというもの、世間一般的な妖とは昼夜逆転の生活をしていたために、夜の都とはほとんど縁がなかった。

 

 ひそひそと自分を伺う視線に居心地の悪さを感じながら、今後の拠点をどうするか思案する。

 

「あ」

 

 間抜けな声をこぼし、暁明は足を止めた。

 ようやく思い至った事柄に、思わず片手で顔を覆いうつむく。

 

「このあと、どうしよう……」

 

 距離を置くことを選んだ。妖として冥がりを生きることを選んだ。

 だけど、そこで自分は何をしたいのだろう。何を成したいのだろう。

 心を向けることはできない。だけど、だからといって関わりを断とうと逃げ続けるのは嫌だった。

 

 我ながらなんと愚かで浅ましく強欲なことか。

 

「なんだお前。おっかない気配してる割に、間抜けなのか」

 

 緊張感のない快活な声が耳朶をついた。

 目元を覆っていた手を離すと足下に栗鼠のような体躯の雑鬼が己を見上げていた。

 

「……開口一番耳が痛いな雑鬼」

「お前、妖だろ。おっかない割に分別のある新参者は大歓迎だ。間抜けだけどな」

「やっぱり新参者か。そういう情報はなかったから、わざわざ山越えでもしてきたのか? 間抜けだなぁ。人間が作った道はそれなりに通りやすいってのに」

「お、前らよくそんな態度とれるなぁ。新参者と言っても、おっかねぇものはおっかねえよ」

 

 いつの間にやら大小様々な雑鬼どもに囲まれた暁明は視線を彷徨わせた。

 

 どうしたらいいか分からねぇ。

 

 雑鬼と言えばいたずら好きでからかい上手で良く弄ばれていた事しか覚えていない。

 取り立てて仲が良かったのは、よく邸に転がり込んできた三匹トリオと、あとは猫の雑鬼だった香瑛くらいだ。

 暁明は目を瞬かせ、やいやいと沸き立つ雑鬼どもに問いかけた。

 

「なぁ。子猫くらいの大きさの、香瑛という雑鬼って、今どこにいるんだ?」

 

 思い返せば、妖になってから昼の都では見かけなかった。

 猿と蜥蜴と丸っこい雑鬼どもは頻繁に見たけれど、香瑛の姿はとんと見ていない。

 

「かえい? 誰だ?」

「知ってるか?」

「知らないな」

「……それは、山猫のことかい?」

 

 静かな問いかけに、雑鬼たちが水を打ったように静まりかえった。

 ナマズのような姿をした雑鬼がのそのそと前に出てくる。

 首をもたげる雑鬼の前にしゃがみ膝をつく。

 

「茶色の毛並みで、一見すれば子猫のようだけど妖で、力に比例して体が大きくなる特性をもつ妖のことなら、そうだ」

「やはり、そうか。……あやつなら、少し前にこの都から消えた」

「え……?」

「恩を感じ懇意にしていた力ある人間の子どもが、陰惨な妖に食われてな。……己の無力を嘆き、程なくして都から姿を消した。妖に食われたのだろうて」

 

 それが、雑鬼と呼ばれる力なき多くの妖がたどるひとつの末路。

 

 語られた事実に、暁明は口元を覆い隠した。

 

 どうして、忘れていたのだろう。なぜ今まで思い出さなかったのだろう。

 まるで意識の外へと追い出されたかのように、思惑により存在を認識させないかのように、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

 

「おぬし、あやつの知り合いか」

「……あぁ」

 

 たまに言葉を交わせばからかわれて弄ばれ遊び返そうとして相手にされず何度も悔しい思いをした。

 言葉を交わさずともただ傍らによく丸まって、軽口を叩きつつも自分を案じる心がそこにはあった。

 

「大切な友人なのに……なんで今の今まで忘れてたんだ……?」

 

 今日という日は、本当に嫌なことばかりだ。

 自分の醜さに辟易して、愚かさに嘆いて、現実に打ちのめされて。

 それでも、気づかなかったことも気づけなかったことも自分の力が及ばなかったから、今の結果があるのであって、その現実から逃れることはできなかった。

 

「お前みたいなおっかない奴が、俺たちのような妖を友人と呼ぶのか?」

「友人と呼んじゃいけない理由なんて、どこにもないだろう」

 

 血の気の引いた顔でありながら、怒りを宿した瞳に射貫かれて、雑鬼たちは顔を見合わせた。

 

 弱い者同士結託することはあるけれど、強い者が弱い者を友と呼ぶことはまずない。

 弱い者が庇護を求めることはあっても、強い者が弱い者を気にかけることはない。

 

 おっかないくせに、おっかなくない変な奴。それが雑鬼たちの共通認識となった。

 

「……。ついてくるがよい、新参者」

 

 ナマズはのそのそと身を翻し、ゆっくりと都を歩む。困惑し佇む暁明は無邪気にナマズのあとをついて行こうとする雑鬼たちに促され、立ち上がり足を踏み出した。

 その肩に栗鼠の雑鬼が飛び乗る。尾でバシバシと背を叩きながら、栗鼠が不思議そうに問うた。

 

「おっかなくないおっかない妖はなんだって都に来ようと思ったんだ?」

「……妖として生きるために」

「なんだそりゃ。どっからどうみても妖だろお前」

「おっかないけどおっかなくない妖ってのは、俺たちみたいな有象無象と違って難しいこと考えるんだな」

「その点、俺たちは気楽に生きていられる幸せな存在だな」

 

 明らかになった現実に沈む心が、雑鬼の気の置けない態度に少しばかり浮上する。 

 

「そのおっかないおっかなくないという呼び方やめてくれないか。長いしわかりにくい」

「えぇぇ。でもお前おっかないけどおっかなくないからなぁ」

「ならさ、おっかなくないおっかない力をもつお前さんは、なんて呼ばれたいんだ?」

 

 それなら、と名を名乗ろうとして暁明は口をつぐんだ。

 その名は名乗るべきではない。願いも思い出も姿も大切にしまい込み、偽りの姿で生きていくことを選んだ。

 ならば、偽るにふさわしい名前でなければならない。

 つながりを想起させるような名ではない方がいい。

 

 でも。

 

 やばい、何も考えてなかった……!

 

 行き当たりばったり感が否めず、自分の至らなさに遠い目をする。

 ちょっと待てどうしよう。ここでなにか良さげな名を名乗らなければ、おもしろおかしい呼び名をつけられる気がする。

 それは嫌だ。心の底からごめん被る。

 

 考えろ、考えろ。考えるって言ってもでも、なんか良さげな名前ってなんだ!?

 

「えぇっと………あ、そうだ。(あかつき)!」

「あ、そうだ、ってお前、いま考えたのかよ」

「お前みたいな人の形をしたおっかない奴は名前があるものかと思ってたぞ」

「さっきから思うけど、やっぱなんか間抜けだな」

「うっさい!」

 

 けらけらと機嫌良く笑い立てる雑鬼どもに一喝して、暁明改め暁の心は穏やかではなかった。

 

 暁って、暁って、名前の下の漢字をとって読み方変えただけじゃないか!

 いくらなんでももっと他に何かあっただろう、思い浮かばないけど!

 考え無しにも程があるだろ流石に!

 

 心の平静を保とうとすることに精一杯で、目的地に着くまでの道中にした会話のほとんどは覚えていない。

 

 目的地というのは香瑛がねぐらにしていたという所らしい。ねぐらと言っても普通の廃屋。

 そこを使っている、初対面の雑鬼たちにも軽く挨拶をして、自分もそこに住まわせてもらうことにした。

 

 新参者の歓迎会だ、ということでその場で突如始まったどんちゃん騒ぎ。

 酒があったわけでもつまみがあったわけでもない。歓迎会というのは口実で、騒ぎたかっただけなのは推測できる。

 それでも、受け入れられたという現実が、香瑛のことを知っている者と話せたことが嬉しくあり、悲しかった。

 胸に去来するいくつもの思いをのみ込んで、調子に乗ってからかい倒してくる雑鬼たちに吠え立てる。

 

「調子乗るなよこの野郎! 祓うぞ!」

「だー、やっぱり暁は間抜けだなぁ。俺たちは祓われる側だぞ」

「そーだそーだ。俺たちを祓うのは陰陽師であって、お前は陰陽師じゃないから大丈夫だな」

 

 妖としての認識と、人として生きていた頃の認識とでは大きな差がある。

 この世界に住むだけでやがて自分は人として生きていた頃のことを忘れていくのだろう。

 

 言葉のひとつからしても、生粋の妖とは異なる価値観に暁は頭痛を覚える。

 

 東の空が明るくなりはじめ、多くの雑鬼たちは自らのねぐらへと戻り、休息につく。

 その廃屋に住まう雑鬼たちも一足先に眠りに落ちていて、起きているのは暁だけだった。

 

 埃まみれの簀の子に腰を下ろして、山際に昇る日を見守る。輝かしい光に目を細め祈るように目を閉じた。

 

 思いたいことは沢山ある。けれどもそれは、今の自分には過ぎたもの。

 都に降り注ぐ暖かな陽の光に背を向けて、暁は部屋の奥へと姿を消した。

 

 

 

 

 




やばいぞ、なんか鬱々してる。
こんな予定じゃなかったのに、もうちょっと気楽な感じで晴明を見守り愛でるお兄ちゃんを書きたかっただけなのに。

はよう鬱から脱出して以前の暁明君に戻ってほしいものだ……


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第15話「絡まる運命」

去年、何話投稿できるかなといいつつ、かれこれ一年経ってます。
お待たせしました。

例によって今年ももう明けてますね。
おめでとうございました。



 闇がぐにゃりと蠢いた。

 音にならない慟哭が闇を震わせる。

 

 許さない。許さない。また邪魔を……。いつも、いつも、いつも、いつも、いつも邪魔ばかり…っ!

 あれは私のものだ。私たちのいいや、あの子のものだ。あの子の命になるのだ。あれには、それしか価値がない。あれの命を有効に使ってあげるのだから、感謝される筋合いはあっても、疎まれる筋合いはない。

 

 許さない。許さない。許さない。

 

「――邪魔する者がいるのね」

 

 くすくすと笑う声。闇にもかかわらず、くっきりと輪郭を浮かび上がらせた女性は、闇に向かって手を伸ばし、撫でるような仕草をする。

 

「そう…。まったく困ったものね。いいわ。その邪魔者については私が対処してあげる。だから、ね? あなたはあの子のために、“あれ”を待ちなさい」

 

 逃がさない逃がさない。待てないあれは待っても来ない。迎えに行ってあげないと、あれは愚かにも逃げてしまう。

 

「なら、格好の待ち場があるわ。あれは必ずそこにくる。だってそこには、あれの守りたい者があるから。そこで、待ちなさい。時が来るまで。確実に仕留められるその時まで」

 

 あぁ。あぁ、それならば。ふふふふ。ふふふふふふふふふ。

 待ちましょう。待ちましょう。あなたが来る、その時を。

 あぁでも、早く来なければ、食べちゃおうかしら。

 

 蠢く闇が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 都で過ごすようになってからひと月。雑鬼たちに混ざり夜の都に拠点を置いた暁は、体の不調を覚えていた。

 

 全身の倦怠感が日に日に増し、動悸の波や猛烈な睡魔がある。力の不安定感も感じていた。

 その不調に拍車をかけるようにまとわりつく靄はより色濃さを増している。

 

 廃屋でうずくまっていた暁は、夜にもかかわらず眠りの淵にいる。

 動こうと思えばなんとか動けなくはない気がするが、動こうと思う気力がないからやはり動けそうもない。

 

 動きたくない。だるい。眠い。胸が苦しい。熱い。

 ちりちりと体が痛む。まるで炎に灼かれるかのように、体の奥が熱を帯びている。

 

 体の不調を改善するためのその眠りは、しかし突然妨げられることとなる。

 

「ぐえっ」

 

 潰れた蛙のような声でうめき、背中にかかる重みに体を横に倒した。ぽてぽてとあたりに転がる音がする。

 部屋の床に沈み込んだ暁の耳に、暢気な声が届いた。

 

「あ、潰れた」

「死んだかー?」

「安らかにな暁」

「勝手に殺すな……っ!」

 

 暁の心からの叫びを楽しそうに笑って流した数匹の雑鬼たちは、覇気のない暁の顔を覗き込んだ。

 

「どうした?」

「元気ないな、暁」

「風邪でも引いたのか、妖のくせに」

 

 硬く目を閉ざし眉間にしわを寄せている。呼吸はいつもより浅く速い。本調子ではないことは見知って間もない雑鬼にも伺い知れる。

 

 うんうんと唸りながら体のだるさを格闘していた暁は、緩慢に目を開いた。

 

 猿のようなやつ、丸い一つ角をもつ丸い鬼、そして三ツ目の蜥蜴。

 顔を合わせた当初はかなり緊張したが、姿が違うためか気づかれている様子はない。矛盾した思いは消えないけれども、知っている顔があるということに暁は安堵を覚えていた。

 

 顔見知りという人間のところまで遊びに行ったはずなのだが、思いのほか帰ってくるのがはやい。

 

「おかえりー……」

 

 緩慢に手を伸ばして、憂い顔の猿のような雑鬼の頭を二、三回、なでる。それだけで力を使い果たした暁はぱたりと腕を落とした。

 普段と違う暁の様子に、雑鬼たちは顔を見合わせた。

 

「暁も顔色悪いぞ」

「熱は…ないな」

「むしろ暁も冷たいな」

「おー……そうかー……」

 

 力のない返事をして、暁は視界を閉ざす。息を長く吐き出して丸くなった。

 しばらくして、規則的な寝息が聞こえる。

 

 元気がないとは思っていたが、本格的に体調がよくない様子に雑鬼は足下に丸めておかれた袿へと飛びついた。

 こそこそとかけ声を掛け合いながら、己の体よりも遙かに大きい布を横たわる暁に掛けて、雑鬼たちは息をつく。

 

「これでよし、と」

「今日はどうするよ。都も最近またおっかないだろ」

「暁もこんな調子だしなー」

 

 怪我をした様子でもなく、風邪をひくようなこともないため、暁の不調がどこから来るものなのか雑鬼たちには見当がつかない。

 不調とは言え、雑鬼よりも遙かに強い妖であるため、あまり心配はしていないが、いろいろと面白い遊びを提供してくれていた人がいないというのは、いささかつまらない。

 

「最近またおっかないからな。おちおち遊べやしない」

「もっと俺らが棲みやすくなればいいんだけどな」

「晴明が俺たちの冥がりに来て、ほかのおっかないやつらを牛耳ったらどうだ?」

「なーるほど!」

「良い考えだな!」

「えっへん」

 

 言いたい放題な雑鬼の傍らで、ほのかに甘い香りが漂う。

 ひくりと暁の鼻が動いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ざわめくものがある。冥く深い闇の底で、揺れるものがある。

 呼ぶように、招くように。

 恐ろしいほどに美し花を咲かせて、それは嗤う。

 

 暁は顔を歪めながら、伸びてきた蔓をたたき落とした。

 狐火で灼けば、恐れてそれは深淵に沈む。

 

 静かになった冥がりで安堵の息をつき黒く塗りつぶされた空間を見渡した。

 

「なんだここ……」

 

 歩けどもどこかに繋がっている様子もなく、叫べども音が反響して返ってくることはない。

 眦を落として首を傾げたとたん、ぐらりと視界が回った。

 

 目頭を押さえて目眩をやり過ごそうとしたが不調は次々に体を襲う。

 冷える指先。速まる鼓動。痛む頭。せり上がる不快感。

 

 口元を押さえて嘔気をこらえ、暁はうずくまった。

 

 瞼の裏を光が突き刺す。

 鼻につく土の匂い。風の、木々の、人の生きる音が耳朶に届く。

 

 落ち着いてきた不調に息を吐き出して、暁は顔を上げた。

 

 目の前に門がある。その奥には玄関と、中を隠す衝立。

 そこを自分は知っている。

 よく、知っていた。

 

「なんでここに」

 

 呟いた直後、奥から人が姿を現した。

 上半身がずぶ濡れのまま、貴船で見かけた黒い少年と言い争っている。

 まっすぐにこちらを見ているはずの晴明の目は、けれども自分を捕らえていない。

 

 何か言おうとして、でも言えることがなくて、なにより言ったところで届かない。

 

 未だに願ってやまない自分を嘲るように嗤う。

 これもまた貴船で見たような夢なのだろう。

 

 呼べない。会わない。心を向けない。

 そう決めたのは自分なのに、夢に出てくるとは、なんて自分は意地汚いのだろう。

 

 立ち上がってその場から離れようとして、ぞわりと全身が泡だった。

 反射的に振り返るのと、土の中から蟹が出てくるのは同時。

 

 一尺ほどの蟹は晴明に向けて白い泡を吐き出した。咄嗟に身を翻し庇うように手を挙げるが一瞬遅く、泡が晴明の目を直撃する。

 苦しげにうずくまる晴明そ囲むようにわらわらと出てくる蟹の大群。

 

 紅い眼を光らせて晴明を凝視する。あれは式だ。誰かの式。晴明を害するために放たれた式。

 

「んの……っ」

 

 考えるより先に、かっと頭が熱くなる。

 しかし、我を忘れるよりも早く、絶大な力がその場に降り立った。憤怒に瞳を彩らせて感情のままにふるう青い式神。

 

 気味が良いくらいに蹴散らされる術者の式。構えた拳のやり場を失い、目を据わらせたまま今度こそ身を翻した。

 術者の気配を追って、都を跳躍しようとして、場面が変わった。

 

 そこでようやくそれが夢であると、実際にあったことを夢で見ているのだと悟る。

 

 行き場のない怒りに鼻を鳴らして都の一角にある廃屋――ねぐらとしている邸の屋根に腰を下ろした。

 

 逢魔が時。人は眠りにつき、人ならざる者の時間が始まる。暁は不機嫌を隠そうともせず顔をゆがませ、息をついた。

 

 力に惹かれて妖が集まっている。匂いにひかれて妖が誘われている。

 

 脳裏をよぎるものがある。

 

 道ばたの花よりも遙かに大きく気味が悪い花。冥がりに咲く花のもとにいるのは橘の姫。冥がりにとらわれた、晴明が心を向けた女性。

 暁が冥がりならば、晴明もまた冥がりに近い。分かっていた。だから引き込む者かと思っていたけれど、晴明が心を向けた少女にまで、それは及んでいた。

 彼女を捕らえる冥がりとは別の、黒い靄。

 

「……腹が立つ」

 

 自分の悩みを嘲笑うかのように、周りを絡めて縛り上げる靄。

 離れようとも無駄だというように巧妙に張り巡らされる鎖。

 

 罠だと分かっている。

 行ってはいけないと分かっている。

 

 声がする。

 

 晴明を冥がりの底に誘う声が。呪う声が。悲しい嘆きが。

 橘の姫を帰せと、かわりにお前が沈めと。

 

 甘い匂いの中に紛れて、式の気配がした。

 

「……ふざけんな」

 

 認めない。そんなこと、認めるものか。

 あの靄は、すぐすぐに晴明の命を奪いはしない。ただそれで俺を苦しめるためだけのもの。詳しくは知らないがそれだけは確信を得た。どうしてかは分からない。

 ただ、自分に対する嫌がらせだと。

 

「よくも傷つけてくれたな」

 

 苛立たしげに吐き捨てて、暁明は立ち上がる。

 術者はすでに冥がりに食われた。術者にこの怒りをぶつけることが叶わないなら、術者を食ったそれにぶつけるだけだ。晴明を、そして晴明が想う彼女を捕らえるそれに。

 

 

 

 

 

 

 

 暁ははっと目を見開いた。跳ね起きて、けれども揺れた視界に両手をつく。

 夢の中とは違って体が重い。思うように体が動かない。

 それでも、行かなければ。晴明が、沈む前に。

 

「だ、大丈夫か、暁」

 

 遠慮がちに掛けられた声に暁は顔を半分ほど手で覆いながら視線を滑らせた。

 二匹の雑鬼が気遣わしげに見上げている。

 

 他の奴らはと視線だけで探して、部屋の隅に息を殺している彼らを見つけた。

 彼らも感じ取っているのだろう。冥がりで蠢く気配を。

 

 力がないから食われるときも一瞬。だから気配を隠してやり過ごす。それが彼らの処世術。

 

「――お前たちはここに居ろ」

 

 強い感情をはらんだ声音に雑鬼たちはびくりと体を震わせた。その様子に暁は気づくことなく、重い体を叱咤して庭に降り、跳躍した。

 向かう先は甘い匂いが教えてくれる。

 

 早く。早く。動け、一秒でも早く、晴明の所に……!

 

 近づく度に甘い香りが強くなる。

 見えた邸から岦斎が辛そうな顔で走る様子を見つけた。

 

 あぁ、早くしなければ。早くしなければ、晴明が来てしまう。

 ここに、彼が救わんとする彼女の魂がここにある限り。

 

 その身を引き換えにしてでも、晴明ならやる。

 

 邸に侵入した暁は化生の間をすり抜けて、一目散に晴明の元に向かう。

 強すぎる甘い匂いに鼻はもう当てにはならない。

 だから足を勧める先は勘だ。でも間違っているとは思わない。

 

 果たして、今にも晴明を食わんと牙を剥く花があった。

 

「晴明から離れろ――!」

 

 怒号とともに腰に佩いていた脇差しを突き立てる。痛みに花がのけぞっているうちに、闇の沼に沈んでいく晴明の襟首をひっつかみ、思いっきり後ろに引いた。

 

「ぐっ…」

 

 うめき声にやべっ、と顔を歪めつつ、勢いのまま沼の外に転げる晴明との間に一線を引いた。

 それは境界。こちらとあちらの線引き。仮のもので弱いけれど、それでも一種の結界のような役割を持つ。

 

 ごめんな、晴明。

 

 胸の内で謝罪して、自ら沼の中へと身を躍らせた。

 冥がりの底。水にたゆたう少女を引き上げて、暁は安堵の息をついた。

 

「……俺の分まで、あいつを頼むな」

 

 取らないでくれといいたい。

 俺の弟だと、叫びたい。本当は頼みたくなんかない。

 でも、晴明は、ちゃんと人として生きなきゃだめだから。

 こんなところで冥がりに沈む訳にはいかないし、冥がりに染まらせる訳にもいかない。

 

 少女に黙礼すると上へと押し上げた。

 彼女の魂が在るべき場所へと還っていくのを見届けたかったが、蠢く気配に暁は向き直った。

 

 化生の影に、目を開き口角を吊り上げる。

 今はただ、晴明をこちらへ呼んだこれに報復を。

 

「お前らにあいつはやらないし、あいつが大事に思ってる人もやるか」

 

 餌の少女を奪われ、そして目的の晴明をも納めることが出来なかった化生の力が大きく膨れ上がった。

 その気に当てられた暁は転がる。その勢いのまま飛び起きて大輪の花を咲かせるそれを睨めつけた。

 

 不意に、がくりと膝から砕け崩れた。足首にまとわりつく沼が体力も気力も根こそぎ奪っていく。ぐわんぐわんと頭が揺れる。水しぶきを上げて倒れ込んだ暁は、抗うまもなく意識を刈り取られる。

 

 ――つかまえたあ……!

 

 歓喜の声が、冥がりに沈む暁の姿を捕らえた。

 

 

 

 

 

 気に掛けていた気配が、ふつりと途絶えた。それは丁度、膝元を騒がせている渦中。

 貴船を降りたあの日から、あの狐の子は戻ってきていない。

 

 神というのは気まぐれで不遜である。永劫にも等しい時を生きるその刹那で出逢い気に掛けた存在であっても、退屈な存在となり得たのならば気にかけ続ける必要もない。

 そう思っていたのに気づけば気に掛けているのだから、あれの存在はいかに特殊であると言えよう。

 

「……まあ、興味を抱いている間は気に掛けてやるという約束だからな」

 

 なにより退屈で退屈で仕方なかった。

 瑠璃色の双眸を細めて、うっそりと紅い唇を吊り上げる。

 

「我の機嫌を損ねておいて、大人しく逝けると思うなよ」

 

 妖気が色濃く渦巻く邸の遥か上空で、一筋の光がきらめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 




若かりし頃の晴明様の話にも沿いたいが、それすると本編までたどり着かないので端折りまくるスタンス。でも難産。

主人公の心理描写、前話と比べるとかなり少ない。
この文章力の落差はさぞ読みづらいんだろうな。
修正できるようだったらしよう。


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第16話「その心の名をまだ知らない」

 ぱっと目を開けた暁明は、目の前に広がる星空に目を瞬かせた。

 すごく寝覚めが良い。気分がすっきりしている。反動をつけて起き上がった暁は懐かしい空気に目を見開いた。

 

 頬を撫でる清涼な風を知っている。

 この場所から何度も空を見上げて、ほぼ一方的に語っていた。

 気づかないで、気づけなくて、いたずらに甘えていたあの頃の。

 

 そろそろと辺りを見渡して、見知った磐の上に人影はなく、息を吐いた。

 安堵と寂しさの入り交じったそれに気づいて膝を抱える。

 

 いつの間にここに帰ってきたんだろうか。確かさっきまで、俺は貴族の邸でそれで、冥がりの底で。

 

「起きたか」

「ひぎゃっ!?」

 

 頭上から降ってきた冷ややかな声に暁はけったいな叫びをあげた。そしてそろそろと後ろを振りかえり、音を立ててかたまった。

 その声音と同じ視線が容赦なく突き刺さる。

 

「た、たたたたた、たかっ、高尾さんっ!?」

 

 顔を見たいと思った。でも会えないと思っていた。会ってはいけないと。

 晴明と比べると薄いけれど、わずかにだがうっすらとまとわりついている靄がある。

 

 それに泣きたいくらいに心が締め付けられた。

 磐座に腰を下ろして足を下ろしている彼女の傍へ寄り、薄い靄へと手を伸ばす。

 けれども指先は宙を掻き、触れることすらままならない。

 

 晴明と、彼女と、高尾さんと。そういえば、晴明の所に行くことに集中していたからそのときは気に留めなかったけれど、岦斎にもあった気がする。直接的な関わりのない人にも影響があるのならば、会っていないとはいえ父や師匠にも累が及ぼしているのだろう。

 自分という存在があるせいで。

 

「我に、何か言うことがあるだろう」

 

 暁はびくりと肩を震わせた。

 鋭い声音に、ちらりと上を見上げれば表情のない顔。

 

 怒っているらしい、というのは分かった。

 ちょっと前に怒らせてしまった時のことが蘇る。それを思えば、こうしてもう一度会えたのは奇跡だとすら思っている。

 でも心を向ければ向けるほど、近くに居れば居るほど、この靄が皆を傷つけていくのではないか。ただ自分を苦しめるためだけに、皆が苦しむことになる。そんな顔は見たくない。

 

 彼女の顔を見上げながら暁は眩しそうに目を細めた。

 

「高尾さんは怒ってる顔もそれはそれで毅然としてて美しいけど、やっぱり楽しそうにしてる顔の方が綺麗だよな」

 

 そう思ったら、これ以上、手を伸ばすことなど出来なくて。

 だから言うことがあるとしたら、皆を思うなら別れの言葉が適切。頭では分かっているのに、喉は張り付いたように動かない。

 

 俯いて、固く目を瞑った。

 言わなきゃいけない。でも言いたくない。でも言わなきゃ傷つけてしまう。でも傍に居たい。理性と感情が衝突し合い、お互いが譲らない。激しくうねり渦巻く矛盾に唇を噛みしめた。

 

 忍び笑う声が耳朶をついた。

 その声は、先ほどまで怒った顔をしていた人のもの。

 声の元をたどるように顔を上げると、瑠璃色の双眸が柔和に笑っていた。

 

「本当にお前は退屈しない」

 

 喉の奥で笑う姿は本当に楽しんでいるよう。その姿にすとんと肩の力が抜けた。

 目頭の奥が熱い。つんとした痛みが鼻を突き、視界がにじむ。

 

「高尾、さん……っ」

 

 頬を伝う雫に虚を突かれた。

 軽く目を瞬いて、口角を上げる。

 

「いつまでその姿でいるつもりだ、暁明」

 

 ぽんと己の傍らをひとつ叩いた。

 それの意味することが分からない暁ではない。

 

 気づかなければ良かった。

 でも、気づけて良かった。

 

 とめどなく溢れる涙を流しながら、暁はもとの姿に戻れども緩慢に首を横に振った。

 鋭くなる視線を感じながら、震える声を吐き出す。

 

「だめ、なんです」

「我が良いと言っている」

「それでもっ」

「来い」

 

 強い口調に、暁は閉口する。

 この靄がどういう原理で移っているのかは分からない。

 だから少しのリスクも回避したいところだけれど、これ以上高尾さんを怒らせる勇気もない。

 受け入れることも、かといって突き放すことも出来ない自分が、酷く醜く思えた。

 

「暁明」

 

 名を呼ばれて、恐る恐る磐座に躙りよる。靄に変化はない。

 磐に飛び乗って腰を下ろす。靄も気になるけれども、なんとなく隣にいる人のことを見上げる事も出来なくて俯き続けた。

 

 不意に視界を覆われて、強く横に引き倒された。

 柔らかい感触が顔に当たる。

 

「た、高尾さんっ、あの」

 

 起き上がろうとするけれども、押さえるように頭に置かれた手を振りほどいてしまうのは惜しい。

 

「もう少し、眠っていろ」

 

 先ほどよりも断然穏やかな声が耳朶に届く。

 眠れと言われても、落ち着けるわけがない。

 

 目元を覆う手を掴むけれど、それはびくりともせず。

 申し訳なさのなかに嬉しさがあり、気恥ずかしさのなかに苦しみがある。

 筆舌に尽くしがたい感情に目を閉じた。

 

 貴船の風が心地よい。

 襲ってくる猛烈な眠気にまどろみながら、夢うつつの中で思考を巡らせる。

 

 最後の記憶は東五条殿。手に残る、今では自分よりも成長した弟の重み。

 本当に大きくなったなぁ、と口元がほころぶ。

 あいつが想いを寄せるあの女性も、随分と華奢で。でも化け物の子と恐れられる晴明を想える心の強さがあるのだろう。それとも、本質を見抜く目か。

 

 羨望がある。妬みがある。でも彼女が傷つけば晴明が悲しむからそれで良かった。

 冥がりに自分が沈めば、もうきっと。

 

 ――沈んだはずなのに、なんで俺はここにいる。

 

 意識が切り替えたようにはっきりする。

 思考を巡らせどもここにいる理由は皆目見当もつかない。

 ひやりとしたものが胸を滑り落ちた。

 

「あいつは……?」

「生きている」

 

 間髪入れずに還ってきた返答に目元を覆う手を抵抗なくずらす。

 横たわったまま見上げれば、静かな青が自分を見下ろしていて。

 大丈夫なんだと、心から思えた。

 

「あの子も?」

「生きている」

「よかった……。あれ、じゃあなんで…?」

 

 あれは餌を欲していた。

 確かに沈んだはずなのに。

 

「神の気まぐれだ」

「神の……? あ、まさか貴船の祭神様!? え、えぇっ、俺なにもしてないのに……っ」

 

 はっと目を見開いた。

 

 神は理不尽で、礼儀を欠けば祟られることもある。だから気をつけなさいと、礼儀を欠いてはならないと言われていたのに、すっかり忘れていた。

 暁は跳ね起きると姿を変えて磐座を飛び降りる。

 悠然と構える高尾さんにやっぱり綺麗だなと感想を抱きつつ、頭を下げた。

 

「ごめんなさい高尾さん。ちょっと、早急に祭神様へのお供え物用意してきますっ」

 

 くつくつと笑う声にむずがゆさを覚えながら山を下る。

 

 お供え物を調達する前に、晴明の様子を見に行くことにした。

 高尾さんの言葉を疑うわけではないが、それでも二人のことが気がかりで。

 関わらないという決意も虚しく、己を縛る黒い靄はそれを許さない。

 

 太陽は東から昇っており、南に至るまでにはもう少し時間がある。

 

 あれからどれほどの時が経ったのかは分からないが、無事であることを祈らずにはいられない。

 貴船の山を下り、一条戻橋を過ぎるとすぐに安倍邸はある。

 向かいにある邸の屋根に飛び乗って遠目から中を覗き見た。

 

 あげられた御簾の向こう。書物やなにやらが積み重なってそのままな部屋の惨状を垣間見て、切なげに目を細める。

 晴明は褥に臥していた。目を覆っていた布は取り払われていて、規則的に上下する胸にほっと安堵の息をつく。

 

 晴明にまとわりつく靄はあの日のままで変わりは見られない。

 あの時とひとつ違うことがあるならば、臥床する晴明のそばに式神がいることか。

 

 伸ばしたくなる手をぐっと握りしめて、頭を振りかぶった。

 晴明が人として生きていられるのならそれでいい。

 

 一台の牛車が道を走る。気にも留めてなかったが、邸の前で音が止まった。

 疑問に思い門が見えるところへ回り込むと、丁度中から降りてくる人影が見えた。

 女物の着物に来訪者が誰であるのか見当をつけることはたやすい。

 

 付き添いの者を残し、ひとりでに開いた門に彼女は体を震わせた。

 暁には見えていた。来訪者を歓迎するかのように門を開けた式神を姿を。

 開いてすぐに姿を消す様を。その体に、まとわりつく靄を。

 

 安倍晴明が下したのは、神である。六壬式盤に名を連ねる神である、十二神将。

 その神にさえ靄が及んでいるという事実に、暁は強い衝撃を覚えた。

 

 付き添いの者に何かを言い置き、彼女は邸の中へと足を踏み入れる。

 晴明の所にいた式神の姿もいつの間にか見えなくなっていた。

 だから式神の一人だけなのか、それとも全員なのか、一部の式神だけなのかはわからない。

 神に名を連ねる式神にまで、この靄は纏わり付いている。それが事実。

 

 暁は屋根の上に座り込んだ。

 手足が異様に冷えている気がする。体は強ばっていて、叫びたいのに喉は凍り付いて動かない。

 衝撃のあまり声が出ないと言うことはこういうことなのかと、理性の片隅で冷静な自分が思考する。

 

 それは唐突に現れた。

 自分に纏わり付く黒い靄が、邸宅を覆うように見えたのは。

 

 こちらを伺うようにざわざわとうごめき、一つの部屋の中へ、晴明と晴明が思いを寄せる女性がいる部屋へと入っていく。

 顔も何もないはずなのに、赤く濡れた唇が弧を描く様が脳裏をかすめた。

 

 殺される。

 

 それは勘だった。強ばって動かなかった体は考えるよりも先に脇差しを抜き放つ。

 煽るように嘲笑うように蠢いていたそれは、動きを止めたのを見て、思わず口元に笑みを浮かべた。

 

 首に添えた刃を押しつけながらわずかに引く。

 ぴりっとした痛みが走るけれども、それで彼らが無事ならば瑣末なことだ。

 

 過去に七度の転生を果たし、覚えている限り今が八度目の人生。他殺であろうが自殺であろうが、同じく転生することとなった。

 けれども、この脇差しで自害を果たせば違うと、予感がする。

 魂が輪廻に戻るのかそれとも消えるのかそれはわからない。ただ、今のように記憶を持ったまま転生することはないという予感がある。

 

 どうやらそれはあちらの望む事ではないらしい。

 その事実に笑わずにはいられない。

 

 静かなにらみ合いが続き、暁はゆっくりを息を吐き出した。

 脇差しを強く握りしめ、強く引こうとしたとき、その靄は何事もなかったかのようにかき消えた。

 思わず手を止める。

 

 どうした者かと視線を彷徨わせ、晴明の部屋から出てきた女性に二人が無事であるとわかり、迷いつつもそっと脇差しを下ろした。

 一瞬、邸に纏わり付く靄が見えた。

 

 胸にひやりとした者が落ちる。俺が自害しないための人質と言ったところなのだろう。

 

 暁は目を閉じた。

 

 会いたくない、関わらないようにしようという次元の話じゃなかった。

 恐らくそれはもうずっと前から。もしかしたら、生まれたときからそうだったのかも知れない。

 

「くそったれ……!」

 

 蠢く自身の感情に蓋をして、暁は屋根を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 安酒と自然の恵みという粗末なものだけれど、捧げて謝罪と感謝の念を社に向かって詣でた。

 祈りを終えて、社を見上げる。

 

「……神様。本当にいるのなら、一つだけ教えてください」

 

 助けてくれたついでと思って一つだけ。

 

「どうしたら、これを絶てますか? どうしたら、あいつに、高尾さんに纏わりつくこれを消し去る事ができますか? ただ、俺を苦しめるためだけに他の人間や、神と呼ばれる存在まで巻き込んであの邸に根を張るあの黒い者から、大切な人を、大切な人たちが大切に思う存在を守れますか?」

 

 願いを口にすれども答えがあるわけもなく。

 暁は目を閉じる。

 

 分かっている。すがっても、答えはないことを。

 どうしてあの場所から貴船の祭神が救い出してくれたのかはわからない。

 勝手にこの場所に居座っているのだ。今思えばむしろ何のお咎めもなくいていられたなと思う。

 

 脳裏に思い浮かぶのは、こんな自分でも引き留めていてくれる大切な人の存在。

 

 自分が今ここにいられるのは、高尾さんがいるから。

 いなければ、自分はここにいないし、神が気まぐれで自分を助けることもなかっただろう。

 

 俯いて地面を見つめた。ゆっくりと息を吐く。

 傷一つない首元を押さえて息を吐いた。

 

「あのまま、あそこで自害していたら、よかったのかな……」

 

 そうしたら、以上大切な人たちを人質に取る理由はない。

 そこまで考えて暁は首を横に振った。

 

 人質に取る理由がなくなったからといって、害を及ぼさない理由にはならない。

 自分を欲している事だけは事実で、そのためならば何でもするのだろう。それにも関わらず手に入れられなかった時の憤りの矛先が誰に向くのか、想像するだけでも血の気が引く。

 

 だからたぶん、これで良かったのだ。

 そしてこれからも、牽制する必要がある。

 

「……師匠……父上……」

 

 頼りない声が静寂に落ちる。

 様子を確認しなければと思うのに、見に行くのが何よりも恐ろしかった。

 

 夏の終わり。湿り気のある風が吹き抜ける。

 

 

 

 

 

 磐座で再び眠りにつく暁と名乗る子どもの頭を足に乗せながら貴船の祭神高淤加美神は右の耳朶に触れた。

 左につけ下がる耳飾りとは全く異なる装飾の、翡翠の玉がついた簡素な飾りがある。

 その対となる飾りは、眠る子どもの左の耳に。

 

 戻ってきた子どもは何も言わなかった。けれども、お供え物をする際に呟いていた言葉は届いている。

 

 彼が言っていたことは果たして、事実であった。

 巧妙に、本当にわずかながら纏わり付く者がある。

 神ですら欺くそれは、たかが一端の妖に出来る芸当ではない。

 

 人を人と、妖を妖と思わず、神ですら目的の為の道具と為す者。

 神は非情ではあるが無情ではない。けれども必要とあらば無情になり人であろうと神であろうと関係なく等しく利用するのが、世神(ときがみ)

 

 分かっていた。理解していた。

 けれども、当の本人の意思に関係なく知らぬままに翻弄されて足掻き続ける存在に初めて、彼らが気に食わないと心の底から怒りを抱いた。

 

 

 




書き直し始めたらすすまないので、ひとまず亀でも、矛盾が(ないように心がけてはいるが)あったとしても前に進む。


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