岸辺露伴は動かない [another episode] (東田)
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another:01 《自殺代行》

 本サイトでは初投稿となります。

 二次創作は初めてなので、まだキャラを掴みきれていない部分等あると思いますが、どうか宜しくお願いします。


 朗らかな秋晴れのある日の昼下がり。会社勤めのサラリーマンのランチタイムによる客波も落ち着いてきた杜王駅前のカフェテリア“カフェ・ドゥ・マゴ”

 店の表通りに面するテラス席の一席で、漫画家 岸辺露伴(ろはん)は担当編集者と向かい合って座っていた。

 露伴が週刊誌で連載するマンガ“ピンクダークの少年”の次週以降の打ち合わせを終えた二人は、それぞれの作業に入っていた。

 既に固まりつつある構想を元に、露伴は自前のノートにネームを書き始めている。二十代前半の新人担当編集者の方はというと、彼もまた持参のノートを開き、中を眺めていた。

 

「露伴先生」

 

 担当が顔を上げ、露伴を呼ぶ。

 

「何だい」

 

 作業の手を休めることなく、露伴は応答した。

 

「露伴先生は、小説って読まれるんですか?」

 

 担当の問いに露伴は手を止め、怪訝そうに顔を上げた。

 

「あのなぁ。君ももう社会人だろ?常識をわきまえなよ。仕事中の相手に、雑談を持ちかけるか?普通」

 

 睨めつけるようにする露伴。

 

「そもそもこのネーム作業だって、新人編集者である君の要望だろ?僕は別に必要にしてないんだぜ、この作業。それを邪魔するってのは、どういう了見だい」

 

 

 スミマセン、と担当は消え入りそうな声で謝った。露伴は手元のノートに目を戻し、しばらく作業を進めた後に答えた。

 

「読むよ、小説ぐらい」

 

 担当の顔が喜色を帯びる。

 

「読まれるんですか」

 

「当然だ。小説は、マンガに比べるとよりノンフィクションに近いフィクションだ。それはつまり、作家自身の体験が、そのまま作品に生き易いってことだ。小説は数多く読めば、それだけ多くの体験に触れられる。暇さえあれば、よく読むものさ」

 

 へぇ、と担当は感心そうに頷いた。

 

「それじゃあ、露伴先生の好きな作家って誰ですか?」

 

「なぁ、いつまでこの話を続けるんだ?」

 

 担当の質問に対し、露伴は不機嫌そうに問い返した。

 

「見て下さい、これ」

 

  担当は、両手に持つ自分のノートを露伴に広げて見せた。そこには

 

<露伴先生の好きな小説・露伴先生の好きな映画・露伴先生の好きな色・露伴先生の好きな食べ物・露伴先生の好きなマンガ・露伴先生の好きな....>

 

 と、延々と箇条書きがされていた。露伴はそれを一瞥すると、興味なさそうに手元に視線を戻した。

 

「編集の先輩に教わったんです。“名作というのは、作家と編集者が協力して創り上げるものだ。だから、編集者は最初に、担当作家のことをよく知るべきだ”って」

 

 露伴はペンの動きを止めると、溜め息を吐いた。

 

「君の仕事に対する情熱は分かった。君はまだ新人だ。だから、仕事中だが今回は特別に答えてやるよ。僕の好きな作家は―――そうだな、三島 由紀夫だ」

 

「三島―――誰ですか?」

 

「おいおいおいおい。まさか、三島 由紀夫を知らないのか?」

 

 露伴は背中を椅子にもたれかけるようにして言った。

 

「ええ、スミマセン」

 

 担当が軽く頭を下げる。露伴は大きく溜め息を吐いた。

 

「マジで君は、もっと一般教養を身に付けた方がいいぜ。この程度の知識も持っていないようじゃあ、僕と共に名作を作るなんてのはまず無理だね」

 

 担当はしょんぼりと項垂れて露伴の説教を受けた。

 

「“金閣寺”は知らないのか?」

 

「建物のですか?」

 

「違う。三島 由紀夫の作品だよ。“金閣寺”」

 

「聞いたこともあるような―――ないような」

 

「三島 由紀夫はだな―――」

 

 露伴はネームノートを閉じると、机に両肘を乗せて担当に語った。

 

「戦後の日本文学を代表する作家の一人だ。有名な作品は“金閣寺”“仮面の告白”“潮騒”。四十五歳でこの世を去るが、その最期は、自衛隊の駐屯地でクーデター決起を叫び腹割自殺。死に方なんかは特に有名だが、これでも分からないか?」

 

「スミマセン。無知なもので」

 

 担当はうなじを掻きながら露伴に謝った。露伴はそうか、と呟くと、冷めきったコーヒーを飲み干し、荷物を纏めて立ち上がった。

 

「それじゃあ、僕は帰るよ。来週分の原稿を早めに描き上げたいからね」

 

「あ。待ってください、露伴先生」

 

  踵を返し、会計に向かう露伴を、担当は慌てて呼び止めた。

 

「三島なんとかって人は知りませんでしたけど、今の話で一つ、思い出したことがあるんです」

 

「何をさ」

 

 露伴は足を止めると振り返った。担当は鞄の中にノートを仕舞いながら、露伴のそばまでやって来た。

 

「その三島って人は、自殺をしたんですよね?それで思い出しました。一つ、可笑しなサイトを見付けたんですよ」

 

 担当は鞄からスマホを取り出すと、しばらくいじった後に画面を露伴に示した。

 

「これです」

 

「“自殺代行”―――?」

 

  ページトップに書かれたサイト名を、露伴は読み上げた。

 

「何だ、これ」

 

「ネットの掲示板で、今少しずつ話題になってきているサイトです。色々な理由で自殺に踏み切れない自殺願望者がこのサイトでその自殺願望を書き込むと、“自殺”を“させてくれる”らしいんです」

 

「都市伝説か?」

 

「都市伝説とかとはちょっと違いますけど―――まあ、趣味の悪いサイトであることに変わりはありません。検証のために、俺も二日ほど前に“自殺代行”の依頼を書き込みましたけど、この通り生きてますから。根も葉もない噂話ですよ」

 

 担当が笑いながら話す。それに対し、露伴は眉を潜めた。

 

「書き込んだのか?」

 

「ええ、まあ。それがどうかされましたか?」

 

「なあ、君。仮にそれで“何か”が起こったとしたらどうするんだ?僕は別に、そのサイトを信じている訳じゃないが、その“何か”に対する解決策を持たない奴が、簡単に首を突っ込むものじゃないと思うぜ」

 

 露伴が真顔でそう言うと、担当は苦笑した。

 

「大丈夫ですよ、先生。眉唾物の話です。何も起こりやしませんよ」

 

「―――そうだといいな」

 

  露伴と担当は、会計を済ませると店を出た。

 

「それじゃあ先生、俺はこれで、一度本社の方に戻りますんで。何かあったら、電話してください」

 

 失礼します、と露伴に会釈すると、担当は駅方面へと歩いていった。

 

 

 

「僕の担当が、死んだ!?」

 

 翌日、編集部本社からかかってきた電話口で、露伴は思わず叫んだ。

 

「一体どう言うことなんだ。説明してくれ」

 

『岸辺先生と別れた後、杜王駅で飛び込み自殺したそうです―――そちらでも騒ぎになっていませんでしたか?』

 

 電話先の職員が露伴に尋ねる。

 

「全く知らなかった。昨日の打ち合わせの後からは、ずっと家に籠って原稿を描いてたからな。―――待て、今、何て言った?」

 

『はい?』

 

「彼はどうやって死んだのか聞いてるんだ」

 

『飛び込み自殺です。通過列車に、自ら飛び込んでいったそうです』

 

 “自殺代行”―――露伴は、昨日担当の彼が話題にしたサイトを思い出した。

 

『岸辺先生、彼の自殺について、何か思い当たる節はありませんか?打ち合わせの時に、思い詰めた様子があった、とか』

 

「僕が聞きたいくらいさ。少なくとも、僕と会っていた段階では、とても自殺するような様子じゃなかったよ」

 

 露伴はあえて、そのサイトのことを口にしなかった。そうですか、と職員が答える。

 

『ありがとうございました。申し訳ありません。お仕事中に電話してしまって』

 

  職員が何度か謝辞を述べた後、露伴は電話を切った。

 

「とするとつまり、あのサイトは本物だったのだろうか」

 

 電話を置いた後で、露伴は一人呟いた。

 

「――調べてみるか」

 

 露伴は自室に戻ると、スマホで“自殺代行”のサイトを調べた。自殺した担当の示していたものと同じページは、検索結果のトップに出てきた。露伴はそのページを開くと、ざっと内容を眺めた。

 

「成る程、確かに悪趣味だな。読んでるだけでもストレスが溜まりそうだ」

 

  ページを下にスクロールすると現れた、“自殺代行”を望んだ書き込みの数々を見て、露伴は呟く。

 

「“私は二年前に子供を亡くし、最近会社をリストラされました。更に、妻が不倫をしていたことが判り、離婚しました。両親ももうこの世には居ないため、未練は残っていません。けれど、自殺しようとしても、どうしても手足がすくんで留まってしまいます。どうか、私を自殺させて下さい”か。―――馬鹿馬鹿しい。一体、どこのどいつだ?こんなサイトを作ったのは」

 

 ページを最下部までスクロールさせると、サイト主のプロフィールがあった。“大童 甲(おおわらわ こう)”とある。名前のその下に、ツイッターのリンクが貼られているばかりで、他に情報はない。露伴は、リンク先へと飛んだ。

 大童のツイッターが開かれる。投稿内容は、非公開となっている。そのプロフィールを見ると、“自殺代行”とはまた別の、個人ブログのリンクだけが貼られていた。露伴はまた、そのサイトへと飛んだ。そのサイトのプロフィールにも、やはりまた別のサイトのリンクが一つだけ貼られており、その別のサイトのプロフィールにも、リンクが一つだけ貼られていた。

 そうして、いくつものページを飛んでいるうちに、露伴はとうとう、大童の連絡先に至った。そこに載せられた電話番号に、露伴はスマホから電話を掛けた。

 

『もしもし、大童です』

 

 五回目のコールを数えた辺りで、大童が電話口に出た。声には張りがあり、聞いた感じ、まだ若そうだ。

 

「君が“自殺代行”の大童 甲か?」

 

『えっと...どなたでしょうか』

 

「岸辺露伴、漫画家だ。週刊少年ジャンプで“ピンクダークの少年”というマンガを掲載している」

 

 え!?と大童は驚愕の声を上げた。

 

『あの岸辺露伴先生ですか!?凄いなぁ。毎週読んでますよ、立ち読みで』

 

  はは、と大童が笑う。

 

「どうせ読むなら買え、と言いたいところだが―――まあ、楽しんでるのならいい。それよりもだな、大童 甲。僕は君の運営する“自殺代行”について取材をしたいんだ。時間をもらえるかい?」

 

『今ですか?』

 

「いいや。直接会って話がしたい。どこに行けば会える」

 

『そうですね―――俺、M県の地方に住んでるんですよ。S市の杜王町って、知ってますか?』

 

 

 

 大童 甲に指定された駅前広場の噴水前で、露伴は大童を待っていた。露伴の顔を知っている彼が、露伴に声をかける手筈になっている。大童を待っているその間、露伴は駅前を行く人々をスケッチしていた。人通りの多い場所は、様々な感情が溢れ返っている。露伴はマンガの参考に、そんな彼らの表情をスケッチするのだった。

 

「お待たせしました、露伴先生。大童です」

 

 声につられて露伴が顔を上げる。二十代半ばの男が、露伴の前に立っていた。

 

「早かったですね。電車の到着時間が早まったんですか?」

 

「いいや。一本電車を早めたのさ。町中がどんな雰囲気なのかを知っておきたくてね」

 

 露伴は大童と握手を交わしながら答えた。

 

「それなら、一本連絡を下されば駆け付けましたのに」

 

「いや、いいのさ。その分、沢山刺激が貰えた」

 

「?まあ、露伴先生がそうおっしゃるのなら―――ところで、立ち話もなんですから、移動しましょう」

 

 大童が駅を背に歩き出す。露伴はスケッチを片付けると、大童の後を追った。

 

  大童が向かったのは、カフェ・ドゥ・マゴだった。二人は、店内の隅の席に落ち着いた。

 

「一つ、先に言わなければならないことがある」

 

  席に着くや否や、露伴が話を切り出す。

 

「僕が今日ここに来たのは、実は取材のためじゃあない。君に直接会って、確認したいことがあったんだ」

 

  露伴の言葉に、大童は戸惑いの顔を見せた。

 

「僕の担当編集者が“自殺代行”のサイトに書き込みをして死んだ」

 

 露伴は大童を見据えて言った。

 

「はあ―――御愁傷様です」

 

「なあ、勘違いしてほしくないのは、僕は別に、君にその責任を追求しようって訳じゃないんだ。彼は自殺したのか?それとも君のサイトに殺されたのか?それが知りたい」

 

「どちらもです」

 

  大童は即答した。

 

「その彼が、“自殺代行”に“自殺したい”と書き込んだのであれば、彼の死は間違いなく自殺で、間違いなく、“自殺代行”によって殺されました」

 

「ちょっと待てよ。矛盾してないか?“自殺”なのに“殺された”ってのは、どういうことだ」

 

「そういうものなんですよ」

 

 大童は、机に肘を立てると両手を組んだ。

 

「地球上の物体は重力に従って落下するとか、太陽は東から昇って西に沈むとか、そういうものと同じ“決まり”なんですよ」

 

「なあ、要領を得ない話は止めてくれ。他人の僕にも解るように説明しろよ」

 

「―――あのサイトの運営主は、俺ではありません。俺はあくまで、あのページを“管理”しているに過ぎないんですよ」

 

「だったら、誰が運営しているんだ?」

 

  露伴の問いに、大童は首を横に振った。

 

「分かりません。サイト自体はかなり昔からあるようで、俺の務めてる“管理人”も、俺で四代目らしいです」

 

「全く、手掛かりもないのか?」

 

「全く。そもそも運営主は人間じゃない気がしますけどね」

 

「人間じゃない?だったら、AIか何かかい?」

 

 大童は、再び首を横に振って否定した。

 

「それが、さっき言った“決まり”に繋がるんです。あのサイトには“決まり”があるんです。自殺願望を書き込むと、数日の内に“自殺させられる”という“決まり”が」

 

「それがルールなのか?」

 

「違います。ルールではありません。“決まり”です。条件が揃った時点で、絶対に避けることのできない“決まり”。言わば法則です」

 

「つまり“自殺代行”のサイトに自殺願望を書き込むと、自殺するという法則があると」

 

「分かり易く言ってしまえば、そうです」

 

「僕の担当編集者が飛び込み自殺したのも、“自殺代行”に自殺願望を書いたから、と」

 

「そうです」

 

  大童は二度頷いた。

 

「罪悪感はないのか?」

 

「サイトに書き込んだ彼らを殺したのは、俺だと言いたいのですか?」

 

「サイトを閉鎖させるなりして、対策はできただろ」

 

「罪悪感なんて、微塵もありませんよ」

 

 大童は、悪びれるよう様子なく答えた。

 

「人間が人間として最も輝く瞬間は、“自殺”にこそあると俺は考えています。“死にたい”と思うということは、最も“生”を実感できるのです。“自殺”は人間だけが行う行為です。他の動物には、本能から来る自滅や自己犠牲はあっても、“自殺”はありません。“自殺”は人間だけが行う事の出来る、人間を人間たらしめる崇高な行為なんです」

 

 大童は、一息にそう言った。

 

「―――壮大だな」

 

 呆れた露伴の口をついたのは、その一言だけだった。

 

「露伴先生、あなたはどうですか?自殺肯定派ですか?それとも否定派ですか?」

 

 急に話を振られ、露伴は戸惑った。しばらく頭を整理してから口を開く。

 

「正直、赤の他人が自殺しようがしまいが、どうでもいい。僕にとって重要なのは、仮に自殺を決意した奴が居たとして、そこに至るまでの過程なんだよ。そいつがどんなことを経験し、その結論に至ったのか。その“記憶”の方が重要だ。だから、テレビや何かで自殺のニュースを知ったところで、僕の心は動きやしない」

 

「つまり、肯定派ですか?」

 

「―――まあ、稀に、こいつは自殺した方が幸せなんだろうなって思う奴も居るが―――だが『露伴先生なら分かってくれると思いましたよ!」

 

  大童は、露伴の言葉を遮って喜んだ。机から身を乗り出し、露伴に迫る。

 

「これまで、色んな人に何度もこの話をしてきました。けれど、誰もまともに取り合ってくれなかった。同調してくれたのは露伴先生、あなたが初めてだ」

 

「おい、ちょっと待てよ。僕は別に同調なんかしていないぞ。人の話は最後まで聞けよ」

 

 しかし、露伴の声が届いていないのか、大童は話を続ける。

 

「露伴先生、あなたなら、五代目に相応しい」

 

「五代目?おいおいおいおい。もしかして、あのサイトを僕に擦り付けようとしてる訳じゃあないだろうな」

 

 大童は更に机から身を乗り出すと、露伴の胸ポケットに挟まっていたボールペンを取り出した。

 

「なあ、さっきから何なんだよ、お前。勝手に人の物を持ってくんじゃあない」

 

  露伴がペンを取り返そうと手を伸ばす。しかし、それを避けるようにして、大童は席に座り込んだ。

 

「“自殺”は本当に素晴らしい。露伴先生、“自殺”の利点はですね、誰でも、どこでも行える所にあるんですよ。例えばこんな風に―――」

 

「おい、いい加減に―――」

 

 露伴がペンを取り返そうと身を乗り出す。

 

 それと同時に、大童はペンを握った右手を大きく振りかぶり、ペン先を自分の首筋に突き立てた。

 

「なッ!」

 

 露伴が絶句する。口から血を流し、目をひんむきながら、大童は机下に崩れた。

 

「おい!何やってるんだ!」

 

 机下を屈んで覗きながら、露伴が叫ぶ。

 それに反応した客が、机下に倒れ込んだ大童を見て悲鳴を上げた。

 

「クソ!よりにもよって、僕のペンで自殺しようとしやがって!おい、誰か!救急車を呼べ!」

 

 騒ぎに気付いてやって来た店員が、それを聞いて青ざめながら店の奥へと転げ込んでいった。

 

「ったく!どういう思考回路してたら、いきなりこうなるんだ!?この状況で“これ”を使ったって、シャレになんかならないぜ!?」

 

 大童の突飛な行動には、謎が多すぎる。露伴は、彼の考えを“読む”ために“それ”を使った。

 

 大童の左頬に、切れ込みが入る。その切れ込みは、瞬時に彼の左顔に縦に走り、と同時に、そこからまるで本のように皮膚がめくれた。

 

 それはまさしく本だった。大童のめくれた顔面の皮膚の下には、ビッシリと文字が書き込まれていた。

 

「“天国への扉(ヘブンズドアー)”」

 

 露伴が呟く。それは、露伴の持つ不思議な能力。彼は他人の人生を“本”にして読んだり、書き込んだりすることが出来た。

 

 “自殺代行”

 

 本となった大童に記されたその項目を、露伴は一目で見付けた。大きく、目立つように書かれたその見出しの下に、露伴が大童から聞いた“自殺代行”の仔細が列なっている。露伴はその文章を目で追った。彼が先刻発した“五代目”という単語が、やけに露伴には引っ掛かっていた。

 

「あったぞ。こいつめ。まだ秘密を隠していたのか」

 

 露伴は、大童が自分に語らなかった事項を発見した。

 

 

 “自殺代行”の継承について

 

 ・“自殺代行”の管理を後継者に継承するには、後継者の目の前で、後継者の所有物で現管理人が“自殺”しなくてはならない。

 ・継承は、現管理人が死亡した時点で、初めて有効となる。

 ・一度継承され、後継者が次期管理人となった以降、その役割を破棄することは出来ない。

  ・役割を終える方法は一つ。次期後継者を発見し、その役割を継承することのみである。

 

 

 更にその下に、別の字体で殴り書きがされていた。

 

 

<ついに、俺の思想に同調してくれる人物が現れた!岸辺露伴。彼なら、俺の後継者に相応しい!彼ならきっと、俺の意思を継いで“自殺代行”を管理し続けてくれるだろう!これで俺もやっと“自殺”することが出来る>

 

 

「こいつマジでイカれてやがる」

 

 読み終えた露伴は、額から冷や汗を流しながら呟いた。

 

「早く自殺したくて、焦っていたということか。嬉々として自殺する奴が、この世のどこに居る」

 

 しかし、と露伴は舌打ちする。

 

「マズいな。実にマズい。このままじゃあ、この僕に“自殺代行”の管理責任が移っちまうじゃあないか」

 

  露伴は解決策を求めて、大童のページを捲り続けた。

 

「―――待てよ」

 

  ふと、露伴がページを捲るその手を止める。

 

「僕は何故、“自殺代行”を信じているんだ?それを信じるに値する事象が、いつ僕の周りで起こった?ないぞ、そんなものは」

 

 いつの間にか、露伴は“自殺代行”というサイトが自殺願望者の自殺を代行する、と信じていた。しかし、それを裏付けるようなものは―――一切ない。

 

「よく考えれば、僕の担当が自殺したのだって、“自殺代行”が原因だなんて証拠は、どこにもないじゃあないか。彼が“自殺代行”のサイトに自殺願望を書き込んだのだって―――」

 

 そこまで考えて、露伴はハッとした。

 

「―――解ったぞ、“自殺代行”。あれは決して、自殺に踏み切れない自殺願望者の自殺を“代行する”ものなんかじゃあない。あれは、自殺願望者が自殺に踏み切るための“踏み台”でしかないんだ。彼らがサイトに書き込んでいるのは、“自殺代行”の依頼じゃない。“遺書”なんだ」

 

 もっとも、彼らがそれを知った上でサイトに書き込みをしてしているのかは分からない。彼らは等しく“自殺代行”を信じているのかもしれない。―――いや、信じているのだ。だからこそ、最終的に彼らは自殺に踏み切る。

 

「無性に腹が立ってきたぞ。そうだとすれば、こいつのやってる事はただ、僕を巻き添えにした自殺ってことになるじゃあないか。このまま僕が“自殺代行”を信じ続けていたら、僕は自殺するところだったんだぞ」

 

 まあそれは、遠く先のことではあっただろうけどね、と露伴は小声で付け加えた。

 

「先だろうが前だろうが、関係ない」

 

 遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。救急車が来る前にと、露伴は鞄からスケッチに使った鉛筆を取り出し、大童に一言書き込んだ。

 

 

 死にたくない

 

 

「今から君が死ぬまでの間―――と言っても、生き延びる確率は高いんだが―――兎も角、その間、せいぜい自分のした自殺未遂を後悔するんだな」

 

 あ゛う゛、と大童が微かに呻いた。

 

「それと、もう一つ言わせてもらうと、僕は君の思想に同調なんかしていない。時には、自殺が正しい選択の人間も居るかもしれないが、誰も彼もがするもんじゃあないぜ。それに―――他人を巻き込んだ自殺は美しくなんかない。醜いだけだ」

 

 

 

 事情聴取を終え、警察から解放された露伴は、真っ直ぐに帰路へと着いた。

 

「まったく。散々な一日だったよ」

 

 陽は既に西の空に沈み、頭上では月が煌々と輝いていた。

 

「しかし、気になることが残るな」

 

 露伴は呟いた。

 

 何故、大童や自分を含め、人々は何の疑問も抱かず、“自殺代行”を信じたのか。その思い込みは異常だ。まるで、集団心理が働いたかのように。ふざけ半分でサイトに虚偽の自殺願望を書き込んだ人間が自殺してしまう程に。

 

 また、大童 甲は、果たして加害者だったのか、それとも被害者だったのか。彼以前にサイトを管理していたという三人は、実在したのだろうか。

 

 そして、あのサイトの運営主は、一体“何”なのだろうか。少なくとも、それが“邪”なるものである事は間違いない。あのサイトは、中途半端な自殺願望を助長させ、そして実行するにまで影響を及ぼす。

 

「何よりも怖いのは、あのサイトに書き込みをした自殺者達は、最期まであのサイトを信じてたって事だ。つまり彼らは、ほぼ無意識に自殺を敢行したって事になる。普通、自殺行為に及ぶと、途中で死が怖くなって、“生きたい”と思うものだ」

 

 しかし、無意識下での自殺では、話は違ってくる。彼らは“生きたい”と思う間もなく、気付いたら、いつの間にか自殺しているのだ。

 

「それとも“自殺代行”は、自殺なんていう人間のエゴに対する戒めだったのか?」

 

 大童は、“死にたい”と思う事で“生”を実感できると言っていた。しかし、“生きたい”と思わせてもらえなければ、その“生”への飢えがなければ、やはり“生きている”とは言えないのではないだろうか。

 

「動物の基本本能は、“子孫を残す”“そのために生きなければならない”。いわば“生存本能”だ。“自殺代行”は、この“生存本能”を失わせる」

 

 露伴は月明かりを見上げた。“何か”が人間を裁いている。

 

「“死にたい”と思うことは罪なのだろうか。それとも、何かを成すためでなく、“何も成せないから死ぬ”事が罪なのか?」

 

  いや、と露伴は首を横に振った。視線を前へと戻す。

 

「どのみち、僕には関係のないことだ」

 

  自分には、明確な“成さなければならないもの”がある。それを成すまでに死んでたまるか。

 

 秋の夜道は、靴底が冷えた。

 




 最後までお読み頂き、ありがとうございます。


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another:02 《地獄門》

「初めまして。精神科医の佐久です」

 

 M県S市杜王町につい最近移転してきた“S大学附属病院”。その一室で、佐久と名乗った五十代の男性医師と、岸辺 露伴は対面していた。

 

「漫画家の岸辺 露伴だ」

 

 佐久の差し出した名刺を受け取りながら、露伴も名乗る。

 

「お飲み物はいかがですか?」

 

「構わない」

 

 佐久は、一度浮かべた腰を椅子に下ろした。年相応の、落ち着いた動作だ。

 

「それで―――」

 

  白くなり始めた髪をかきあげながら、佐久は口を開く。

 

「本日は、どういったご用件で」

 

「電話でも話したが、二ヶ月後、マンガの月刊誌に僕の読み切りが掲載される予定になっている。その読み切りを、精神病を題材にするよう注文があってね。僕としても断る理由がないから、それを引き受けたんだ。だからそのために、精神病について専門家である貴方に取材がしたい」

 

「承知しました。患者様のプライバシーに関わらない範囲でお答えしましょう」

 

 佐久が頷く。ありがとう、と露伴は礼を言った。

 

  露伴はまず、精神病の正確な定義から入り、次々と佐久に質問した。質問に対する佐久の受け答えも早く、露伴の取材は順調に流れた。

 

「最後の質問だ。答えられる限りの内容で構わない。これまで貴方が出会った中で、一番“奇妙”な患者、疾患は、どんなものだった?」

 

 佐久は、しばらく思案した後、答えた。

 

「―――このことは、どこにも口外せず、作品にも使用しないと、約束していただけますか?」

 

「約束しよう」

 

  露伴は即答した。彼は、好奇心のうずくものには、どこまでものめり込む性分だった。特に“奇妙なもの”に関して、彼の好奇心が湧かないわけがなかった。

 

「この杜王町のはずれに、この町にしては風変わりな、小さな洋館があるのはご存じですか?」

 

「いいや、聞かないな」

 

「この病院に、元々そこの住民だった方が四人、入院しているんですよ」

 

「一家で事故にでもあったのか?」

 

 いいえ、と佐久は否定する。

 

「彼らはそれぞれ、全く異なる時期にその洋館に入居した、赤の他人です。ええ、ええ。そういう顔をされるのも無理はありません。順を追って説明しましょう」

 

  失礼、と佐久は椅子から立ち上がると、一度部屋の奥へと引っ込み、しばらくして厚いファイルを手にして戻ってきた。椅子に座り直し、露伴には中身が見えないよう、そのファイルを開く。

 

「最初の患者―――A氏としておきましょう。A氏は今から七年前に、旧附属病院に搬送されました。彼は当時、S大学入学の年で、安く貸し出されていた洋館を発見。そこに一人で住んでいました。彼はとても優秀な学生だったそうですが、ある日突然、記憶が退行し、小学一年生程度の知能になってしまいました。脳を調べても特に異常はなく、それまでも発達障害等はなかったというため、脳の先生も、我々もお手上げとなり、現在も彼を保護する形で、この病院に入院させています」

 

 佐久がファイルから顔を上げ、露伴を見る。続けてくれ、と露伴は目で促した。

 

「その二年後、A氏が入院し、空き家となった洋館にB氏が引っ越してきます。B氏はこの町のカメユー系列会社の転勤社員で、A氏と同じく家賃が安いという理由で洋館を借りました。仕事熱心で、当時三十代半ばだったB氏は、そのうち洋館内で“虫の大群”を見るようになります。何度も何度もその“虫”を目にしたため、会社の同僚にも相談し、出来る限りの害虫対策をしたのにも関わらず効果はなく、やがて、洋館以外の至るところでも“虫の大群”が見えるようになったそうです。そのうちに錯乱し、精神が崩壊。現在もここで療養中です。三年後、再び空き家となったところに、S大学への入学を決めたC氏が入居。彼は何の脈絡もなく、突然記憶障害に陥ります。外傷などもなく、まるで記憶を抜き取られたように、自分のことも思い出せなくなるのです。彼もB氏と同じく、現在療養中です。そして今年―――」

 

 佐久は一呼吸置いてから続けた。

 

「C氏の居なくなった洋館に、D氏が入居しました。D氏は地元育ちのS大卒の方で、独り暮らしがしてみたいということで、洋館に住みました。心臓に軽い持病はあったものの、特に問題はなく、健康的に生活していたD氏でしたが、突然音信不通になり、不安になった両親が洋館を訪れてみたところ、意識不明の状態で発見されました。その後、何とか一命はとりとめたものの、体の主要器官のほとんどが動かなくなってしまい、現在も、意識回復の目処は立っていません」

 

 佐久はファイルを閉じた。

 

「“奇妙”な話でしょう?一つの洋館から、四人もこの病院に患者が出ている。病院界隈では、“呪われた洋館”と有名です」

 

「なあ、無理な話だとは思うんだが―――四人の中の誰か一人でも、面会することは出来ないか?」

 

 彼らの身に何かが起きたのは明白だ。その“何か”は、露伴になら判るかもしれなかった。

 

「少し時間をいただければ―――B氏になら、面会できるかもしれません」

 

「出来るものならお願いしたい」

 

 それから数枚の書類に手続きを済ませ、露伴はおよそ一時間後にB氏との面会を果たした。

 

  それなりに設備の充実した個室の隅で、B氏は膝を抱えて座っていた。顔色は悪く、手足も細い。栄養が十分に摂取できていないのだろうか。

 

「幻覚などによる精神の衰弱が原因で、あのような状態になってしまっています。心の問題ですので、我々にも、治しようがないのです」

 

 佐久の言葉を聞きながら、露伴はB氏に近寄った。B氏 は露伴に対し、特に怯えたりする様子もなく、じっとそこに座り続けた。

 

「君には“虫の大群”が見えることがあるらしいが―――それはどんな虫だ?」

 

  露伴はB氏の前にしゃがみこむと、そう尋ねた。しかし、彼はじっと露伴を見詰め続けるばかりで、何も答えなかった。

 

「―――分かった。質問の仕方を変えよう。あの洋館で、君の身に何が起きた?」

 

 それにもB氏は答えなかった。

 

「岸辺さん」

 

 佐久に呼ばれ、露伴は振り向いた。

 

「彼は喋れません」

 

「精神異常でか?」

 

 佐久は腕を組むと難しい顔をした。

 

「いいえ。ただ喋れないというだけではないんです。彼は―――言葉を忘れてしまったのです。話すことも、聞くことも、書くことも、読むことも出来ません」

 

「それは、彼が見た幻覚とは関係しているのか?」

 

 分かりません、と佐久は素直に答えた。

 

「彼の脳の働きは、至って正常なのです。確かに、精神の方は不安定ではありますが、言葉を忘れるような障害は、脳にはないのです。まるで、彼の記憶から“言葉”という概念そのものが消えてしまったかのような、そんな印象を私は受けます」

 

 露伴はB氏に向き直った。

 

「触れてみても?」

 

「申し訳ありませんが、それは認められません。目の前に手をかざすぐらいでしたら可能ですが」

 

「そうか」

 

 露伴は、B氏の顔の前に手をかざした。

 

「“天国への扉(ヘブンズドアー)”」

 

  露伴が小さく呟く。B氏の左頬に、縦に亀裂が走り、そこから本のように、彼の顔の皮膚がめくれた。皮膚の下に、本のページが現れる。それを一目見て、露伴は絶句した。

 

「これは―――」

 

「いかがなされました?」

 

 思わず漏れた露伴の声に、佐久が反応する。何でもない、と露伴は答えると、B氏の皮膚の下のページを一枚めくった。

 

<一体これは―――どういう事だ?こんな現象、初めて見るぞ>

 

 B氏の皮膚下に現れたページは、ところどころに“穴”が空いていた。

 

<まるで、植物の葉や、保管の適当な古本によく見られる“虫喰い”だ――――いいや、これはまさにそれだ>

 

 職業柄、露伴はそういった“虫喰い”のある本を見かけることがたまにあった。露伴の記憶する限り、その“虫喰い”のある本は、目の前のB氏のものと同じ状態だった。

 

<“虫の大群”―――>

 

  B氏は、洋館で“虫の大群”の幻覚を見るようになった、と佐久は話していた。もし、その“虫の大群”が幻覚ではなかったとしたら。もし、このB氏の記憶のページの穴が“虫喰い”であるとしたら―――

 

<僕のヘブンズドアーは、他人の“記憶”や“人生”を読むことの出来る能力。それで開いたページに“虫喰い”があるということは、“記憶”が“喰われた”ということ―――>

 

 B氏が言葉を忘れたのは、“言葉”という記憶を食べられたからだ。露伴はそう結論付けた。

 

<これは、他の三人の記憶も調べる必要があるな>

 

 露伴は立ち上がった。

 

「もうよろしいのですか?」

 

「ああ、ありがとう。――なあ、他の三人には、どうしても会えないのか?」

 

「本日中、ということであれば不可能です。少なくとも、一週間はお時間をいただかなければと」

 

「二週間でも、三週間でも待とう。会わせてくれないか」

 

 露伴は迷わず答えた。

 

 

 

 三週間後、露伴は許可の得られなかったD氏を除いた、A氏とC氏にそれぞれ、間を置いて面会した。二人ともの記憶を読んでみると、やはりB氏のように“虫喰い”状態となっていた。

 

 四人が住んでいた洋館には、何かがある。露伴は、原稿を描き上げた後の暇な一日を使って、その洋館を訪れた。

 

 洋館は、露伴が想像していたものよりも小さかった。鉄製の、シンプルなデザインの門には、立ち入り禁止の看板と錠前が掛けられている。建物は、正面玄関から左右対称に棟が展開されていた。見た者に、いかにも洋館ですよと訴えかけるようなそのデザインが、露伴は気に入らなかった。

 

「“平凡であること”には一種の芸術性があっても、意図的に“平凡であろうとすること”には、芸術性は感じられんな」

 

 露伴は立ち入り禁止の看板を無視し、三メートルほどの門を器用に乗り越えた。つい数か月前まで人が住んでいた事もあってか、玄関前の庭には、整備された後が見えた。

 

 露伴は一度、建物の周りを一周した。戸締まりもよくされていて、どこからも侵入できる様子がない。一周して玄関に戻ってきた露伴は、駄目元で玄関の扉を押した。やはり、鍵が掛かっている。

 露伴は家の中にヘブンズドアーのヴィジョンを出現させた。露伴の連載するマンガ“ピンクダークの少年”の主人公に瓜二つの姿をしたそのヴィジョンは、家の内側から玄関の鍵を開けた。

 

 露伴がゆっくりとノブを回すと、軋む音をたてながら扉が開いた。扉の隙間から館の中を覗く。窓という窓が、侵入防止のために板を打ち付けられているため、館の内部を照らす光は、玄関口から射し込む太陽光のみだ。

 

 露伴は、館の中へ足を踏み入れた。床にうっすらと積もった埃が舞う。

 

 玄関を入ると、そこは広間だった。広間は二階まで吹き抜けになっており、露伴の正面に、その二階まで続く階段が設けられていた。玄関の両脇から左右には廊下が走っていて、その廊下に沿っていくつかの扉が並んでいた。露伴は、向かって右側の廊下に足を踏み入れた。一番手前の扉をゆっくりと開ける。大体、学校の教室大の広さの面積をした部屋だった。家具類が一切置かれていないため、何に使われていた部屋だったかは分からない。露伴は部屋の内部を一通り、ざっと調べると、部屋を出た。続いて、奥の部屋へと進む。

 

 一階の全ての部屋を見て回った露伴は、最初の広間へ戻ると、二階への階段に進んだ。

 

「それにしても」

 

 階段をゆっくりと登りながら、露伴は呟く。

 

「独り暮らしをするには、大きすぎないか?この館」

 

 入院中の四人は、いずれもこの館で独り暮らしをしていたと言う。しかし、館の広さは、少なくとも五人以上の家族でないと余りある広さのように思えた。

 

「家賃の安さに目が眩んだか、相当な物好きかのどちらかだろうな」

 

 二階の床に足をかけながら、露伴は言う。四人の入居期間には、二、三年の差がある。それぐらいの頻度なら、そんな変人が一人二人杜王町に引っ越してきたところで、不思議とは言い切れないだろう。

 

「そもそも、この杜王町には変な奴が多いからな」

 

 自分の事を棚にあげて、露伴は愚痴をこぼした。

 

 二階にも、一階と同じだけの数の部屋があった。露伴同じように、全ての部屋を調べて回った。どの部屋にも、これといって不審な点はない。拍子抜けした表情で、露伴は階段を降りた。

 

 突然、ポケットの中で電話が鳴った。露伴はスマホを取り出すと、発信源を確認した。山崎、と電話帳に登録されてある。しかし、露伴には見覚えのない名前だった。

 

「もしもし?」

 

  不審に思いながら、露伴は電話に出た。

 

『岸辺先生、只今、宜しいですか?』

 

「―――君は誰だ?」

 

『編集部の山崎です。先生に依頼している読み切りについて、お詫びしなければならないことがありまして』

 

「読み切り?何の話だ?」

 

 え?と、山崎と名乗る編集者が声を漏らす。

 

『二ヶ月後に掲載予定の、精神病をテーマにした読み切りですよ』

 

「―――悪いが、全く記憶にない。本当に、そんな話をしたか?」

 

『岸辺先生、冗談はよしてくださいよ。そちらで打ち合わせもしたじゃないですか』

 

 露伴にからかわれていると思ったのか、山崎は笑った。しかし、露伴にはその記憶がない。

 

『―――本当に覚えておられませんか?』

 

「ああ、さっぱりだ」

 

『多分、打ち合わせの時に先生、ノートを使っておられたと思うんですが―――今、ご自宅ですか?』

 

「いや」

 

 露伴は広間の中央で、周囲を見回した。

 

「――――――ちょっと待っててくれるか?」

 

 そういえば、どうして自分はここに居るんだ?露伴は不意に疑問に思った。何が目的で、この館に来たのだったか。

 

<そうだ。確か、S大学附属病院の精神科に入院している四人の患者が、共通してこの館に住んでいたんだ>

 

 その四人は、何かによって記憶を失っていた。

 

「――記憶を―――失なって」

 

『どうされました?』

 

 思わず露伴が呟くと、山崎が反応した。

 

「なあ、悪いんだが、また後でかけ直してくれないか?今忙しいんだ」

 

『はあ、それは失礼しました』

 

  露伴は電話を切ると、再度周囲を見渡した。

 

「既に術中って訳か―――やはりこの館、何かあるぞ」

 

 ゾクリ、と露伴の背筋が粟立った。広間の奥の闇に、何かの気配を感じる。露伴はその闇に目を凝らした。

 

「誰か居るのか!」

 

 闇に向かって、露伴が声を張り上げる。しかし、闇の中の“何か”は、反応を示さなかった。

 

 恐怖よりも、好奇心が勝った。露伴は闇に向かって一歩、足を踏み出した。

 

「出てこいよ。僕はここだぜ」

 

  二歩、三歩と、ゆっくりと歩みを進める。あと五メートルと少しというところで、露伴は足を止めた。これ以上は危険だ。しかし、それでも気配に動きはない。痺れを切らした露伴は、スマホを取り出し、ライトを点けると闇を照らした。ガサガサと何かが蠢く。

 

 照らした先には壁があるばかりだった。だが、何かが蠢く、乾いた音は付近から聞こえる。露伴は固唾を飲むと、ライトをゆっくりと床に這わせた。その光が、気配の正体を照らす。

 

「ッ―――これは」

 

 気配の正体は、二十匹程度の、体長が一センチほどある黒い“虫”だった。

 

「虫―――か?見たことのない種類だが...観察するべきか?」

 

 ああ、いや、駄目だ。と、露伴は自分の言葉を否定した。

 

「B氏はこの館で“虫の大群”を見たと言っていたな―――だとすれば、この館で起きた奇妙な出来事の原因は全て、こいつらだったってことか」

 

  大群と呼ぶには少ないようにも思えたが、それは個人の感覚の問題であるとして露伴は片付けた。

 

「こいつら、どう処理すればいいんだ?普通の虫と同じように、潰したり燃やしたりすれば死ぬのか?」

 

 “虫”達に、露伴を襲ったりするような様子はなかった。露伴はその場にしゃがみこみ、遠目から“虫”の群れを観察した。群れは、露伴の視界から外れない程度の範囲を不規則に移動した。

 

 昆虫類の、それも甲虫だろうか。脚は六本あり、外殻の形から、羽が畳まれているのも分かる。カブトムシのメスに近い見た目だ。形状や大きさに、個体差はない。それがやはり、この“虫”が異常であることを知らしているようにも思えた。

 

「生態が気になるな。さっきから、ずっと一定の範囲を動き回っているが、この行動にはどんな意味があるんだ?特徴や体内構造はどうなっているんだろうか」

 

 興味が溢れて止まない。露伴は既に“虫”の観察にのめり込んでいた。

 

「写真も撮っておこう」

 

 スケッチも持ってくれば良かったなと、露伴は後悔した。数枚の写真を撮ると、露伴は立ち上がった。

 

「捕獲キットとかも持って、また来よう」

 

 群れに背を向け、ポケットにスマホを仕舞う。その手が、ポケットの中で何かに触れた。

 

「な!?」

 

 露伴は慌ててポケットから手を抜いた。

 

「何だ?今のは」

 

 再びポケットに手を入れ、それを握る。露伴の手の中で、それは蠢いた。露伴はそれを取り出すと、スマホの灯りで照らした。

 

「―――何だよ。驚かせやがって」

 

 中に居たのは“虫”だった。

 

「勢いで触っちまったが、毒とか持ってないだろうな」

 

 露伴は手の上の“虫”を、より近くで、まじまじと見詰めた。“虫”は、露伴の手の匂いを嗅ぐような仕草をすると、頭から、露伴の掌の中に消えた。

 

「なにぃッ!?」

 

 まるで、水の中に潜っていくかのように、静かに、滑らかに、“虫”は露伴の体内へと侵入したのだった。そこに穴などの傷はない。露伴は“虫”が消えた一点を見詰め、しばらくしてからハッとして叫んだ。

 

「まさか!ヘブンズドアーッ!!僕自身を本にしろ!」

 

 ヘブンズドアーにより、“虫”の消えた露伴の掌が本になる。ページをめくるまでもなく、“虫”はそこに居た。露伴の記憶の書かれたそれを、“虫”が食べている。

 

「ああ、クソッ!やっぱりだ!!」

 

 露伴は空いている左手で“虫”を剥がすと、遠くに投げた。対処が早かったこともあり、幸い、記憶は無事だ。

 

「長居するのはマズいな―――早く出よう」

 

 玄関を向いた露伴の背後で、“虫”の群れの動く、カサカサとした乾いた音が鮮明になった。

 

 露伴はピタリと立ち止まると、ゆっくりと、汗を滴らせながら背後を振り返った。

 

「おいおい.......マジかよ」

 

  露伴の背後の床を、無数の“虫”が埋め尽くしていた。それらが、一斉に露伴に向かってくる。

 

「さっきので全部じゃなかったってことか?こいつら、一体どこに隠れてたんだ!」

 

 “虫”の大群が露伴に迫る。そのスピードが、思いの外速い。露伴は慌てて、走って館から抜け出そうとした。

 

 しかし、玄関との距離が一向に縮まらない。

 

「どういうことだ。まさか、現象は“虫”だけじゃあないのか!?」

 

  露伴は一度、背後を振り向いた。“虫”が更に迫ってきている。

 

「ハッ!」

 

 そして気付いた。

 

「何だ、これは―――まさか、“忘れた”のか!?」

 

 露伴は再び前を向いた。やはり、玄関との距離は縮まっていない。

 

「僕は走っていなかったッ!いや、それどころか、その場から一歩も動いていないんだ!!」

 

 道理で、玄関に辿り着かない訳である。露伴は走っても、まして歩いてもいなかった。ただその場で足踏みをしているのみだったのだ。

 

「喰われているのかッ!?既に!ヘブンズドアーッ!!」

 

 記憶を確認している暇はない。ヘブンズドアーで、露伴は自分自身に書き込んだ。

 

「“館の外まで走れ。今すぐ”!!」

 

 ヘブンズドアーにより書き込まれた命令には、逆らうことは出来ない。それは例え、露伴自身であってもだった。しかし、露伴はやはり、その場から動けなかった。やがて、足踏みすら出来なくなる。

 

「“走らない”だと!?こいつらに喰われると、記憶から“概念”そのものが無くなるのか!?」

 

  仮にそうだとすれば、いくら体に“走れ”と命令したところで、走れない。何故なら、露伴の体は“走り方”を“知らない”ということになるからだ。露伴には現在“走る”という“概念”が無かったのだ。魚に“二次関数を解け”と言っても、無理な話であるように、今の露伴には“走る”というのは不可能なことだった。

 

  ついにら露伴の足元に“虫”の群れが到達する。群れは、露伴の足を這い上がると、次々と露伴の体内へ潜っていった。

 

「うおおおおおおッ!」

 

 体のあちこちを本にしながら、露伴が叫ぶ。

 

「こいつらのこの“順序”!―――こいつらが行っているのは“狩り”だ!!」

 

  露伴の記憶のページのほとんどが、“虫”で埋められる。露伴はヘブンズドアーのヴィジョンを出現させ、“虫”を攻撃した。しかし、数匹を潰したところで、全体に影響はない。

 

「クソ!数が多すぎる!」

 

  ふと、ヘブンズドアーが“虫”の一切集まっていない記憶を見付けた。

 

「―――これは」

 

 ヘブンズドアーを通して、視覚が露伴に 共有される。露伴が先程書き込んだ“走れ”という命令には、“虫”が一匹も寄り付いていなかった。

 

「ヘブンズドアーによる書き込みは、奴らの喰らう“記憶”の対象外なのか?――だとすれば!」

 

 新しく書き込んだ情報は、食われることなく残るのだとすれば、露伴にはまだ勝機があった。

 

「こいつらが僕の記憶を喰らうってんなら、記憶を消せばいい」

 

 一見、滅茶苦茶な事のようにも思えるが、露伴のヘブンズドアーであれば、それが可能だった。

 

「ヘブンズドアーッ!!僕の記憶を消―――――いや!!待てッ!それじゃあ駄目だ!」

 

 露伴はかつて一度、自分の記憶を全て消した時の事を思い出した。

 

「記憶を消しても、“生きている”以上、こいつらからは逃れられない!」

 

 この“虫”に襲われた四人のうち、D氏は、生命維持に必要な、一部の生命活動が停止している状態にある。

 

「こいつらは、僕の中の“走る”という記憶を食べた―――それはつまり、こいつらはそのうち、“心臓の動かし方”とか、そう言うような記憶まで食うって事だ―――」

 

 記憶を消したところで、露伴の生命活動は続く。

 

「アレをやるしかないのかッ!?―――――――切り抜けるには、やるしかない!!」

 

 露伴は覚悟を決めると叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 

 

 はっとして、露伴は目を覚ました。いつの間にか床に横たわっていた体を起こし、周囲を見渡す。“虫”の大群は消えていた。

 

「賭けは―――成功したのか?」

 

 露伴は、本になっている左手の甲を眺めた。

 

“三十分間、全ての記憶を失い、仮死状態となる”

 

 

  甲にはそう書かれてあった。

 

「さて」

 

 露伴は、その文字を右手で擦って消すと、顔を上げた。

 

「一先ず、この館から出よう」

 

 露伴は一度、歩けるか試みた。しかし案の定、その場から足は動かない。仕方なく、露伴は床を這うことにした。いつ再び“虫”に襲われるか分からない状況である以上、一刻も早く館を出なければならなかった。

 

 館の外の門まで這った露伴は、門に体を預けると、スマホを取り出し電話を掛けた。

 

『もしもし。佐久です』

 

 かけた先は、S大学附属病院精神科の佐久医師だった。

 

「先日取材をさせていただいた岸辺 露伴だ」

 

『ああ、どうも。お久しぶりです』

 

「貴方にお聞きした、奇妙な洋館というところに今訪ねているんだが、面倒なことになった」

 

『とは?』

 

「説明は後回しだ。貴方が一番その辺の事情を知っているから、貴方に電話した。兎に角、救急車を手配してくれ。歩けないんだ」

 

『分かりました。直ぐにそちらへ向かわせます。あの洋館ですね?』

 

「ああ、宜しく頼む」

 

 電話の先で、佐久が誰かに指示しているのが微かに聞こえる。

 

『今、向かわせました。怪我ですか?』

 

「いや、これは―――怪我ではないな。そういったところも、そちらで話す。救急車を向かわせてくれたというのなら十分だ。ありがとう」

 

 露伴は電話を切ると、館の玄関を眺めた。その中に“虫”の群れを見付け、露伴は身構えた。しかし、“虫”は館から外へと出る様子がなかった。

 

「館から出られないのか?それとも、他に何か要因が?」

 

 襲ってこないというのなら、問題はない。露伴は洋館を見上げた。

 

「記憶を喰らう“虫”―――僕のヘブンズドアーとは、およそ対極的だな」

 

 館の後方に太陽がある。とっくに昼を過ぎているようだ。

 

「僕の能力が“天国への扉”であるとすれば、この奇妙な現象と、その原因の“虫”は、さしずめ“地獄門”といったところか」

 

 自分は一体、どれぐらいの“記憶”を奴らに喰われたのだろうか。露伴は思いを馳せる。

 

「歩けないのはイタいな。どれぐらいのリハビリが必要になるんだ?」

 

 歩けるようになったら、不動産屋に書き込んで、この館を取り壊させよう。

 

 救急車が来るまでの間、露伴は太陽光に目を細めて洋館を眺めた。




 最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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another:03《まどいや》

 


 冷たい風の吹くある日の昼下がり、S市中心地にあるS大学附属病院周辺を、岸辺露伴は散歩していた。

 

 およそ二ヶ月前に露伴がプライベートで遭遇した“とある出来事”により露伴は歩くことが出来なくなり、そのリハビリのために、露伴はこの病院に長く入院していた。

 

 散歩もリハビリの一環であった。最近では、日常生活を静かに送る分には支障のない程度には回復もしてきていたが、まだ走ったり、長時間歩くといったことは出来なかった。

 午前中の悪天候により、くるぶしの高さまで積もった雪の上を、滑らないように一歩一歩確実に踏みしめて歩く。雪の上では普段より足に負担がかかるため、露伴は足の疲労を懸念した。

 

「あのぉ、もしかして」

 

 不意に背後から声をかけられ、露伴は振り返った。

 

「もしかして、漫画家の岸辺露伴先生ですかあ?」

 

 若い女性が二人、露伴の後ろに立っていた。どちらとも、耳や首に数多のアクセサリーを装着し、この寒さの中にしてはかなり薄着だ。二人が話しかけてきた動機に、確信に近い見当をつけながら、露伴は首肯いた。

 

「そうだが。何か用かな?」

 

 キャァ、と二人が歓声を上げる。通りを行く人々が、何事かとこちらを一瞥する。自分にも向けられるその痛みを含んだ視線に、露伴は小さく顔をしかめた。

 

「先生ぇー。サインとか、お願いできますかぁ?」

 

 でもやっぱり、そういうのは無理ですかねぇ、と言いながら、二人が手提げバックの中から手帳とペンを取り出す。ファンサービスに関してだけは寛容な露伴は、快くそれを引き受けた。二人の手帳とペンを受け取り、一瞬でサインを書き終える。連載中のマンガの主人公イラストのおまけ付きだ。それを受けとると、二人は再び歓声を上げた。

 

「ところで先生ぇ。こんなところで、何なさってるんですかぁ?」

 

「そうそう。こんな田舎で、何してるんですかぁ?」

 

「取材だよ」

 

 露伴はそう嘘をついた。全国のファンに自分がここに入院していると知られでもしたら、堪ったものではない。毎日の知らない訪問者を作らないためにも、必要な嘘であった。

 

「何の取材ですかぁ?」

 

「この病院ですかぁ?」

 

「それは君達、秘密だよ」

 

 うーん、と二人が首を傾げる。どうした?と露伴は尋ねた。

 

「やっぱり、嘘だったのかなぁ」

 

「あのですねぇ、先生がこの町に住んでいるっていう、噂話があるんですよぉ」

 

「一部では、もう都市伝説みたいになってますけどお」

 

 そうか、と露伴は頷く。

 

「噂話や都市伝説ってのは、大抵が嘘だ。まともに取り合わない方がいいぜ」

 

 ですよねぇ~と二人が声を揃える。

 

「じゃあ、あの都市伝説も、やっぱり嘘だったのかなぁ」

 

「そうじゃないー?」

 

 露伴の眉が、ピクリと動いた。

 

「どんな話なんだ?その都市伝説ってのは」

 

 露伴は思わず、二人に訊ねた。

 

「先生も興味おありですかぁ?」

 

「でも、何てことない話ですよ?」

 

 構わない、と露伴は促した。不思議な話に関しては目のない露伴だ。

 

「蔵王って山、知ってますう?奥羽山脈の一部の山なんですけどぉ」

 

「その山中に、侍が住んでいるっていう、とんでもない都市伝説です」

 

「侍?この現代にか?」

 

「そうですぅ。おかしな話でしょお?」

 

「だからやっぱり、嘘なんですよ」

 

 そうだな、と露伴は頷いた。

 

〈嘘だと?とんでもない。天狗や鬼なら兎も角、何故侍なんだ?どうしてそんな、小学生が即興で考えたような話が都市伝説として囁かれてる。―――何か、裏がありそうだぞ〉

 

 自分がこの場に居たことを秘密にしてもらうよう、二人の気付かぬ間にちょこっと細工をした後で、露伴は二人と別れた。

 

 

 

 あいにく入院中で暇の多い露伴は、その都市伝説について少し調べてみることにした。一先ず、インターネットで検索をかけ、二人の女性ファンから聞いた情報の詳細を求めた。いくつかのサイトを巡った結果、二人の話が、確かに存在することは確認が出来た。露伴の目にした情報の全てに共通していたのは、次のものになる。

 

・M県のある山奥(固有名詞が出てきたのは蔵王のみ)に、侍が住んでいる。

 

・侍は、江戸時代のもののような服装をしている。

 

・正確な居場所は不明で、会えたとしても、逃げられる。

 

 以上の三点のみだった。蔵王が居場所なのだろうという、大方の見当は付いた。それを軸に、露伴は文献等で情報収集をしてみることに決めた。

 

 以来三ヶ月、リハビリの合間に露伴は、その都市伝説を様々なアプローチで調査していた。蔵王が侍の居場所であるということは、事実として露伴の中では固まり始めていた。後は、そのどこに侍がいるのかという情報と、足が登山にも耐えられるようになるのを待つだけだった。

 

 ある日、市立図書館まで赴き、蔵王のことを調べていたときだった。

 露伴は蔵王の三枚の航空写真に至った。一枚は、侍の都市伝説がネット上で噂されるようになる三年ほど前のもの。もう一枚は、都市伝説の流れ出した翌年のもの。最後の一枚は、今から半年前に撮られたものだった。三枚のそれぞれが掲載された三冊の出版物に関連はなかったが、どれもほぼ同じアングルで、同じ斜面を写したものだった。それらの三枚を何気なく見比べているうちに、露伴は一つのことに気付いた。

 

 年を経るにつれ、山の中腹に木の生えていない小さな更地部分が出来ていたのだ。都市伝説が流行る以前は、木々が生い茂っていたはずの場所が、都市伝説が流れた後のものでは一部伐採が進んでいたのだ。それも、最近の写真で更に大きく広がっている。露伴はそこに違和感を覚えた。それとも、誰かの所有地なのだろうか。それは考えにくかった。

 

 

 更に一週間が経過した。露伴はM県の蔵王の麓に居た。こちら側から登れば、航空写真で見た拓けた空間まで近い。調べれば、その広場は山道からは外れているため、辿り着くのは容易ではなさそうだった。地形図と方位磁針を頼りに露伴は進むことにした。

 

 山に入っておよそ二時間。露伴はやっと、山の丁度中ほどにあるその広場に辿り着いた。広場には、所々切り倒された木の幹だけが植わっていた。露伴はその適当な一つに腰を下ろした。やはり、登山は足に堪える。

 

「これは―――誰かが切り倒したのか?だが人の手で、こんな風に木が切れるものなのか?」

 

 切り株の一つひとつは、とても滑らかな切れ方をしていた。斧はもってのほか、電動のチェーンソーでも、こんなに綺麗に切れるものなのだろうかと、露伴は首を傾げた。

 

「侍とやらと関係しているのか?兎も角、人の手が加えられていることに間違いはなさそうだ。だとすると、この辺りに人が住んでいる可能性はあるな」

 

 露伴は立ち上がると、周囲の探索を始めた。遭難しないよう、広場からは離れ過ぎないようにして歩く。

 

 三十分も探し回ったところで、森の奥に露伴は小さな小屋を見つけた。方位磁針で方角を確認してから、露伴はその小屋へ向かった。

 

 小屋は四方十メートルもない、小さなものだった。丸太組の荒い造りで、精々、雨風を凌げるかといったところだ。露伴は正面に見える、玄関のような戸に近付くと、軽くそれを叩いた。

 

「誰か居ないのか?」

 

 しかし、中からは何の反応もない。露伴はしばらく思案すると、再び戸を叩いた。

 

「おい、山火事かもしれないぞ。誰も居ないのか?」

 

 途端、小屋の中が慌ただしくなる。一息置いて、戸が開く。

 

「山火事だと!?」

 

 無精髭をはやし、長く放置された長髪。小屋から出てきた男は、清潔感とは程遠い風貌をしていた。

 

「本当なのか!?」

 

「ああ、嘘だ」

 

 露伴は男の目の前に掌をかざした。男の顔の皮膚が中央から左右に割れ、本になる。露伴のヘブンズドアーだ。男は後方によろけると、すとんと尻餅をついた。既に意識はない。露伴は小屋の中へ立ち入ると、男の前にしゃがみこんだ。

 

「ふむ。名前は原内 義信―――なるほど、本当に武士の家系なのか。文政四年生まれ―――この男に何があったんだ?文政といえば、200年近くも昔じゃないか」

 

 文政年号――西暦で言うところの、1820年前後に使用されていた年号である。

 

「このままヘブンズドアーで読むのもいいんだが―――一つ、本人の口から聞くとしよう」

 

 “岸辺露伴に逆らえない”とセーフティーを男に書き込むと、露伴は男をヘブンズドアーから解放した。男が目を覚ます。

 

「な、何だ!?何が起こった?」

 

 座り込んだまま、男が目を丸くする。露伴はそれを横目に小屋の内装を眺めた。鹿か何かの毛皮が数枚、壁にかけられており、部屋の中央には簡素な囲炉裏がある。その他に目ぼしいものはなかった。

 

「いくらか話を聞きたいんだが」

 

 男に目を戻し、露伴が言う。

 

「いいかね、原内義信」

 

 男はコクコクと頷いた。

 

 

「俺は文政四年に、仙台藩で産まれた」

 

 露伴に促され、男、原内義信は出自を語り始めた。

 

「昔から俺は、神様とかの類いは信じなかった。そのことである日、仲間と口論になった。この蔵王には、地方に伝わる伝説“惑い家”がある、ないという話だった」

 

「“惑い家”――?」

 

 聞き慣れない単語に、露伴は首を傾げた。

 

「“惑い家”てのは、この地方のどこかの山奥に存在すると伝えられる、伝説の豪邸のことだ。一説では、奥州の平泉三代の子孫の建てたもので、この世の何よりも輝いているとも言われていた」

 

 有り得る。露伴は頷いた。奥州平泉氏といえば、あの金色堂で有名だ。それが発見されないことはともかく、そんなものが存在するとしても、違和感はない。

 

「そんな世俗の与太話なんぞ信じとらん俺は蔵王に入った。見付け出せなければ、それはないってことだ。だが、三日と経たないうちに、俺は道に迷った。二晩山中を彷徨った末、俺の目前に、不意にその金色の大豪邸は現れた」

 

「それが“惑い家”だった?」

 

 原内は頷いた。

 

「俺が呆気に取られていると、門が開かれて貴族みてぇな格好した女が出てきた。女は俺を敷地へ招いた。それまで数日、まともな食事と寝床にありつけていなかった俺は、女につられてその豪邸の中に入っていった」

 

 その後、と原内は続ける。

 

「客間に通された俺は、その豪邸の主人と名乗る男と面会した。男は俺に、食べ物と寝床を与えてくれた。しばらくの数日間、おれは言われるがまま、その豪邸で過ごした」

 

 そして。

 

「いよいよ帰ろうとなったとき、主人には土産を渡された。それから下山してみれば、そこは知らない世界だった。神隠しにでもあったのかと、俺は山の中に再び逃げた。帰り道も、あの豪邸も二度と見つからなかった。仕方なく、俺は自給自足の生活を始めた」

 

 五年前のことだ。原内が言う。

 

「自給自足には困らなかった。主人に渡された箱の中には、どんなからくりか知らんが、便利なものが沢山入っていた。どんな大木も一振りで倒せる斧とかな」

 

 原内が話し終える。メモを取りながら話を聞いていた露伴は、その手を止めた。

 

「帰ろうとは思わなかったのか?」

 

「思ったさ。あの屋敷に行けば、帰れると考えた。だが、屋敷は見付からなかった」

 

「その屋敷への行き方は?知ってるか?」

 

 原内は肩をすくめた。

 

「さあ。知らないから帰れないんだ」

 

「そうか」

 

 露伴が腰を浮かす。

 

「ありがとう。良い情報が得られた」

 

 露伴は立ち上がると、玄関へ向かった。その背中に、原内が声をかける。

 

「おいあんた。まさかとは思うが、行くつもりなのか?」

 

「当然だ。それがどうかしたか?」

 

「やめておけ。俺のようになるぞ」

 

 フン、と露伴は鼻を鳴らした。

 

「君と違って、僕はそんなドジを踏んだりはしないさ」

 

 

 

 

「方位磁針は持っているから、迷っても帰れなくなることはないんだろうが―――」

 

 やはり、不安ではある。

 

「まあいい。今日は行けるとこまで行こう。途中で引き返して後日出直しても良い」

 

 露伴は、山道に沿って頂上の方へ向けて探索することにした。

 

 

 

 

「―――暗くなってきたな」

 

 原内の小屋を出てから、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。露伴の前には、依然として屋敷は現れなかった。じきに日も暮れる。露伴は下山しようかと考え出していた。

 

「四時か。日没まで一時間もないな。―――降りるか」

 

 春先とはいえ、山は冷える。何の準備もなしに一夜を明かすという選択肢はない。露伴は下山することに決めた。地図と方位磁針を取り出し、現在位置を探る。しかし、周囲の地形と、地形図に記載されているものとが全く一致しなかった。

 

「まさか―――迷ったのか?」

 

 だが、山道に沿って進んできたのだ。まさか迷うはずもあるまい。

 

「おいおい。この地図、本当に合ってるんだろうな」

 

 露伴は地図を疑った。最新のものを買ったはずだ。あるとすれば、製作側のミスか。

 

「地図のミスを見付けると図書券が貰えるんだったか?だがこの場合、下手すれば裁判沙汰にもなるぞ?」

 

 宛にならない。露伴は地図を閉じた。周囲を見回しても、周りは木々が生い茂るばかりだ。

 

「日没も近い。無闇に動き回るのも考えものか....どうする。袋小路じゃあないのか?」

 

 周辺二十メートルくらいならまだ塩梅か。そう思い、露伴は一歩、踏み出した。

 

 その足元に、地面はなかった。

 

「な!?」

 

 バランスを崩し、足元に突如現れた地面のない空間に、露伴の身が投げ出される。露伴は落下する中で、我が目を疑った。周囲の地面が露伴を包むように隆起し、そして閉じる。露伴は、地面の中にできた空間を落下していった。

 

「くそッ!意識が!」

 

 落下はいつまでも続く。その中で、露伴の意識は遠退いていった。

 

 

 

 全身への衝撃で、露伴は目を覚ました。頭上の空は藍色になっている。地面に手を当てると、土の感触がした。露伴はひとまず安堵した後、上体を起こして周囲を見た。相変わらず、山の中ではあるようだ。自分の身に何が起きたのか。露伴は思案しながら立ち上がり、服についた埃を払った。

 

「あれは―――幻覚だったのか?」

 

 しかし、たった現在露伴が地面に落下してきたというのは、事実であるようだった。露伴の寝ていた地面が、微妙に窪んでいる。露伴は地図と方位磁針を取り出した。

 

「ムッ」

 

 方位磁針を微妙に動かす度に、その針がまばらな方向を示す。

 

「これは...磁場でも形成されているのか?」

 

 その動きに規則性はない。磁場でなければ、あるいは超常現象か。

 

 露伴は警戒しながら、周辺を探索した。

 

 斜面を上へ登っている時だった。不意に目の前が開け、金色の建物が現れた。荘厳な門の両脇に塀が連なり、その奥に豪華な御殿が見られる。おそらくそれが、原内の言っていた“惑い家”であることを、露伴は瞬時に理解した。

 

「流石にたまげたな」

 

 露伴は一歩、門に近付いた。

 

「これはいくらなんでも――豪華過ぎじゃあないか?金閣寺や金色堂なんて比じゃあないぞ」

 

 門の奥に見られる本殿だけでも、現代の一般家庭に見られる平均的な一軒家の二十倍以上の土地面積がありそうだ。本殿一棟だけである。その全てが、金箔に覆われている。夕日が反射して、建物は眩いばかりの輝きを放っていた。これだけの金が、一体どこで手に入るのか。

 

「一体、どんな奴が住んでるんだ?ここまでくると異常だぜ」

 

 金箔の輝きに目を細めながら、露伴は更に門に近付いた。門の高さも、五メートルはあるだろうか。塀の幅は、視界の続く限りどこまでも延びているようにすら思える。

 

「山奥の豪邸か...嫌なイメージしかないな」

 

 かつて自分の身に降り掛かった災難を、露伴は思い出す。そしてまたその時のように、不意に門が開かれた。

 

「旅の御方ですか?」

 

 門の先には、思わず露伴は見惚れてしまう程の美形の少女が立っていた。もはや芸術の域をいくようなその顔立ちに、露伴は言葉を失った。

 

「よろしければ、中でおくつろぎ下さいませ。お茶菓子などもございます」

 

 十代半ばに見えるその少女は、時代にそぐわない和服に身を包んでいた。原内が言っていたように、まるで平安貴族である。

 

「....いかがなされましたか?」

 

 いつまでも立ち呆ける露伴に、少女は首を傾げた。

 

「ああ、いや―――別に立ち寄る用はないんだ。ただちょっと道に迷っただけでな。帰り道を教えてくれ」

 

「お休みにはなりませんか?」

 

「ならない。別に疲れてないからな」

 

 山奥に人知れず佇む、超巨大な黄金建築。露伴の興味がそそられないはずはなかったが、原内という前例がある。長居は危険だと、露伴は感じ取っていた。

 

「どうしても、ですか?」

 

 少女が尋ねる。露伴は溜め息を吐いた。

 

「どうしても、だ。僕は早く帰りたいんだ」

 

「お茶菓子だけではご不満ですか?」

 

 少女が、目尻を潤わせながら露伴を見詰める。露伴は一瞬、多少の気負いを感じた。

 

「もしご所望でしたら、ごちそうもご用意できますけれども」

 

「なあ、いいって言ってるだろ?早く帰り方を教えてくれ」

 

「お土産もありますよ?」

 

 少女が涙声になる。露伴は顔をしかめた。

 

「そういうのはいいから。頼むから帰り方を教えてくれよ」

 

「どうしても―――ですかぁ?」

 

 ふぇぇ、と少女がか弱く泣き出す。

 

「なあおい、嘘だろ?僕が泣かせたみたいになるのはやめてくれよ」

 

 少女は泣き止まない。遂には膝を地面につけ、座り込んでしまう。

 

「分かった。分かったよ。お土産ぐらいなら貰ってやるよ。だから泣くのを止めて、早く帰り方を教えてくれ」

 

 露伴が折れる。途端、少女は泣き止み顔を上げた。

 

「本当?でしたら、ご主人を呼んできますね。お待ちください」

 

 少女は立ち上がると、トトトと屋敷の方へ駆けていった。どこか敗北感を味わいながら、露伴はその帰りを待った。

 

 しばらく待っていると、屋敷の方から一人の男性がやって来た。彼もまた、貴族風の着物に身を包んでいる。男性は少女と同じように門の手前で立ち止まると、仰々しく露伴に頭を下げた。

 

「この館の主人の者です。只今、娘に土産物を用意させておりますので、少々お待ちください」

 

「ああ。なあ、悪いんだが、土産物はいいから帰り道を教えてくれないか?道に迷っただけなんだ」

 

「ええ。お教えしますとも。でも、この山道を迷っていたのなら尚更、お疲れのことでしょう。お土産だけなどと言わず、どうぞ、中でゆっくりお休みになってはいかがですか?」

 

 微笑みながら、主人が露伴を中へ促す。

 

「あのなぁ~」

 

 露伴は顔をしかめた。

 

「さっきの娘といい君といい、何なんだ?お前達。何故そんなに僕を引き留めたがる?怪しいんだよ」

 

「まあまあ、そんなこと言いなさらずに――」

 

 主人の男が、露伴に近寄る。

 

「ささ、是非どうぞ。もしよろしければ、ご馳走もご用意しますよ。世の珍味も取り揃えております」

 

 主人は、露伴の腕を掴むと中へと促した。露伴は反射的に防衛行動に走った。

 

「ヘブンズ・ドアーッ!」

 

 露伴のヘブンズ・ドアーが発動し、主人が本になる。同時に、主人はズルリと地面に崩れた。

 

「こいつら、何が目的なんだ?全く理解が追い付かない」

 

 露伴はしゃがみこむと、地面に横倒れになった主人のページをめくった。

 

「柳 惟明(これあきら)―――それがこいつの名前か」

 

 内容を読みながら、露伴は更にページをめくる。

 

“旅人がお見えになられた。数日前に送り出した侍の方とはまた違った格好をしている。こんな数日間のうちにお客人が二人もやって来るのは珍しい。とはいえ、我々はこんな山奥に住んでおり、めったに外界の人間とは関われないため、これは嬉しいことだ。娘も大変喜んでいる。この客人にも、出来る限りのおもてなしをしよう”

 

 露伴は溜め息を吐いた。

 

「こいつら、本気で僕をもてなすつもりだったのか」

 

 ヘブンズ・ドアーには、真実のみが記される。この男と娘が露伴を執拗に屋敷へ誘い込もうとしていたのには、何の敵意も悪気もなかったことが判明した。

 

「だが、“数日前に送り出した侍”だと?原内のことか。あの男がこの屋敷を出たのは、五年ほど前のはずだぞ」

 

 彼にもヘブンズ・ドアーをかけた。嘘はついていないはずだ。

 

「だとすれば、考えられるのは―――やはり長居はマズい」

 

 露伴は男にかけたヘブンズ・ドアーを解除した。主人がはっと目を覚まし、立ち上がる。

 

「これは――失敬。躓いてしまったようで」

 

「なあ、悪いがやはり失礼するよ。旅は急ぎのものでね」

 

 そう露伴はうそぶいた。主人は一瞬、落胆の表情を見せた後に笑った。

 

「そうでしたか。そういうことでしたら、仕方がありませんな」

 

 お待たせしましたと、そこへ先程の娘がやって来た。手に小さな小包を抱えている。

 

「ほれ、それをこのお方に渡しなさい。この方もお急ぎの御用であるらしいから」

 

 コクリと頷き、少女が露伴にそれを差し出す。露伴はその小包をおそるおそる受け取った。

 

「これは―――」

 

「私どもよりのお土産でございます。きっと何かしらのお役に立ちますので、是非お納めください」

 

「あ、ああ」

 

 露伴は困惑しながらも、それを脇に抱えた。

 

「それで、帰り方なんだが」

 

 露伴が尋ねる。

 

「帰り方でございますか?それでしたら、この斜面をひたすら下っていただければ、山の麓に到着します」

 

 主人が答える。

 

「元の場所に戻れるんだな?」

 

「ええ。ご安心ください」

 

「そうか――それじゃあ、失礼するよ」

 

 露伴は踵を返すと、足早にその場を去った。

 

 

 

 

「本当に合ってるのか?この道で」

 

 山を下り始めてから、一時間が経過した。もう日もほとんど落ちている。しかし、未だに山の麓は見えてこなかった。露伴はいよいよ、主人の言葉を疑い始めていた。

 

 日が落ち、とうとう足元が見えなくなった。露伴は立ち止まると、途方に暮れた。

 

「まずいな―――春先とはいえ、山の中で夜を明かすのは危険だ」

 

 こんなことなら、懐中電灯でも持ってくるべきだった。露伴は自分の不手際を後悔した。スマホの明かりでは心許ない。

 

 その時、露伴の持っていた小包から急に光が漏れ始めた。露伴は慌てて小包を開けた。

 

「これは―――」

 

 中には、強い光を放つ提灯が入っていた。しかし、火を灯しているわけではないようだ。なら、何故光る?露伴はそれを取り出した。

 

「役に立つって言うのは、これのことか?」

 

 主人の言葉を露伴は思い出した。なるほど、確かにこれは夜の山道では役に立つ。

 

「だが、一体これはどういう原理なんだ?」

 

 その構造の不思議に、露伴は好奇心を持たざるを得なかった。しかし、この明かりがどれぐらい続くかも分からない今、分析をしているような余裕もない。露伴はその明かりを頼りに、下山を再開した。

 

 更に三十分も歩いた頃、不意に視界が開けた。目の前に突然、町明かりが現れる。

 

「着いた―――のか」

 

 しかし、降りてくる途中で麓の光は見なかった。やはり不思議な現象ばかり起こる。

 

 付近の表札から、ここが杜王町であることが分かった。ほっと露伴は一息吐くと、スマホを取り出し時間を確認した。既に八時近い。

 

「ム...?」

 

 スマホには、無数のメールと不在着信が届いていた。山を下り、電波が入ったからだろうか。次々と着信が入ってくる。一番最新の着信は、編集者からのものだった。露伴は一先ず、折り返し電話を掛けた。

 

『露伴先生ですかッ!?』

 

 電話に出た編集者は、電話の向こうで叫んだ。露伴はスマホを耳から遠ざけると口を開いた。

 

「何の用だ?あんなに電話やメールを寄越して。いくら僕が出なかったからって、ありゃかけすぎじゃないか?マナーを知れよ、君は」

 

『マナーを知れって―――露伴先生こそ、何してたんですか!留守にするなら連絡するもんでしょ!そんなに俺の事が嫌いなんですか!?』

 

「おいおいおいおい。どういうことだ?いつから僕は君に、一々プライベートを教えなくちゃならなくなったんだ?一日ぐらい連絡がつかなかったからって、そんなに怒られる筋合いはないぜ。原稿だって入稿済みなんだ」

 

『一日ぃ?いい加減にしてくださいよ!露伴先生!!俺だって、一日や二日連絡がつかなくたって、そんなに怒りませんよ!でも先生、今回は度が過ぎます!一ヶ月も音沙汰なしで、一体何やってたんですか!!』

 

「一ヶ月?」

 

『ええ、一ヶ月です!まさか自覚がなかったなんて言わないでしょうね!?警察にも、もう届出出しちゃってるんですからね!?冗談じゃあ済まされませんよ!』

 

「なあ、おい。落ち着けって」

 

『これが落ち着いていられますか!!』

 

 編集者が息巻く。露伴はそれを冷静な口調で制した。

 

「落ち着くんだよ。いいから落ち着け。一旦落ち着いて、僕の話を聞け」

 

 渋々、といった空気で編集者が黙り混む。

 

「まず聞きたい。本当に僕は、一ヶ月も留守にしてたんだな?」

 

『ええ、そうです。今は色々なところに無理言って、情報が漏れるのを抑えてますけど、そろそろ限界が来る頃でした』

 

「だが、僕が出掛けていたのは一日だ」

 

『―――?どういうことですか?』

 

「そのままだよ。僕はたった一日、留守にしていた。そして帰ってきたら、一ヶ月が経っていた」

 

『先生、ふざけるのも大概に――』

 

「ふざけてない。マジだ。何であれ兎に角、直接会って話をする必要があるようだ。明日にもそっちへ向かう」

 

『いえ。俺がずっとこっちに来てますから。先生は今から駅前に出てきてください。編集長達はともかく、僕が納得するまで説明してもらいたい』

 

 それはおそらく無理だろうな、と露伴は電話を切った。

 

「一ヶ月―――か」

 

 薄々勘付いてはいた。原内 義信が百年以上の過去から現代にやって来た理由は、あの屋敷にあると。

 

「そういえば、あの辺りに迷い込む直前、僕は“落下”したな」

 

 幻覚かとも思ったが、あれは異空間への入り口か何かだったのかもしれない。

 

「時空の狭間――にでもあるのか?あの屋敷。おそらくだが、あの空間の時の流れは非常に遅い」

 

 そう露伴は仮説立てた。主人の記憶に“数日前に侍を送ったばかり”とあったのも、そういうことなのだろう。“こちら側”では数年が経っていても、“あちら側”では数日しか時が流れていない。

 

「一ヶ月、か。連載を書き貯めておいて良かったな」

 

 速筆の露伴は幸い、行動の制限される入院中に、ある程度の連載分を書き貯めておいたのだ。一ヶ月分ぐらいなら問題ない。

 

「あの主人にその自覚があるかどうかに関わらず、迷惑な話だ」

 

 まあ別に、自分以外が迷い込む分には問題のない話だ。そもそも、被害自体が少ないだろう。行方不明者が特段多い山でもない。

 

 露伴は身震いを一つして、タクシーを呼ぶために車通りのある道を目指した。

 

 春先も夜は冷える。




 皆様お久しぶりです。

 前回投稿から数ヶ月経ってしまいましたが、ようやく、第三話が投稿できました。次回の話は既に執筆に入っておりますので、今回ほど時間を置かずに投稿できると思います。遅くはなってしまいましたが、これからも宜しくお願いします。


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another:04《御神渡》

 皆様大変お待たせいたしました。久々の更新です。今回は杜王町を出てのお話です。お楽しみいただけると幸いです。


「よお、露伴先生」

 

 馴染みのカフェで打ち合わせを終え、一人連載の構成を練っていた露伴の肩を、男が叩いた。露伴は視線を上げると、一瞬顔をしかめた。

 

 立っていたのは、杜王町在住の小説家であった。“天地 世命”という一風変わったペンネームの彼は、現代社会に世界各国の神話を落とし込んだ独特の世界観で世間を席巻させていた。昨年発売された新刊は150万部という売り上げを叩きだし、今、最も乗っている作家である。

 

 同じ杜王町に住むこの大物若手作家二人の間には、数ヶ月来の交流があった。露伴も、彼の才能のことは認めていた。尤も、大学ではモテていたであろう、天地のその爽やかで人懐っこい性格は気に食わないようではあるが。

 

「打ち合わせか?」

 

 天地が尋ねる。

 

「終わったところだ。君は何だ、こんな昼間から。暇なのか?」

 

「取材帰りだ」

 

 天地は、隣にあるキャリーバックを叩いた。泊まり掛けだったようである。

 

「四日ほど、京都に行ってきた」

 

 そうか、と露伴は目の前のコーヒーを口に運んだ。

 

「知らなかったな」

 

「子供じゃあるまいし。わざわざ知らせる必要もないだろ?」

 

「それはそうだ。だが、君が京都に?仏教か?」

 

 天地が首肯く。

 

「次の作品は京都が舞台だ」

 

「君ほどの人間が、わざわざ取材に行く必要があったのか?その辺の日本史の大学教授にだって引けを取らないぐらいの知識を、君は持ってるじゃないか」

 

「知識だけでものは書けないさ」

 

 対面に天地が座る。

 

「確かに、俺は頭の中に本物そっくりの京都を描けるけどね?それは本物ではない。やっぱり、現地で肌で感じたものを文章にしなくちゃ、毎度新鮮なものは書けない。リアリティが薄れる」

 

「成る程。それには同意だな。リアリティのない作品が全て駄目って訳じゃあないが、少なくとも僕は描く気にならないね」

 

「そう!流石だ露伴先生。やっぱり君とは気が合いそうだ」

 

 天地が露伴を指さす。露伴はジト目でそれを見た。

 

「で、何の用だ?わざわざ声をかけてきて」

 

「そりゃあ露伴先生、俺は知人を見かけても声をかけないほど非常識じゃあないさ」

 

「悪かったな、非常識で」

 

 露伴は肩をすくめた。

 

「だから僕は君が嫌いだ」

 

 露伴は手早く荷物を纏め始めた。

 

「冗談だよ、露伴先生―――悪かったって!本当は用件があるんだ―――だから待てって!」

 

 一度立ち上がった所で溜め息を吐くと、露伴は再び腰を下ろした。

 

「先生は確か、メチャクチャ速筆なんだよな」

 

「一般的にはそうなんだろうな。毎週の連載分なら4日―――いや、早けりゃ3日だな」

 

「凄いな。漫画家って、締め切りに追われてるイメージしかないぜ」

 

「だから速筆なんだろ。興味ないがな。で、用件は何なんだ。いくら速筆って言ったって、僕が暇してるって訳じゃあないんだぞ。こうして君と話しているより有意義な時間の使い方はいくらでもあるんだ」

 

「分かったよ。本題に入る」

 

 参った、といったような調子で、天地は片手で空を扇いだ。

 

「露伴先生、俺の代わりに取材に行ってきてくれないか?」

 

「断る」

 

 即答だった。

 

「タダとは言わないさ。報酬は出す。ひとつ頼まれてくれないか?」

 

「金銭云々じゃない。君の代わり、というのが癪に障るんだ」

 

「なあ露伴先生、業界間で自分が何て呼ばれてるか、知ってるか?」

 

「知らないね。興味もない」

 

「一部じゃあ“情報魔”って呼ばれてる。何でも、欲しいと思った情報は、例えそれが国家機密のような秘密事項でも手に入れてしまう、と」

 

 天地は顔の前で両手を合わせた。

 

「頼む!露伴先生!その情報収集力を貸してくれ!」

 

「聞こえなかったか?断る、と僕は言ったんだ」

 

 露伴は冷たくあしらった。

 

「第一、君の取材することだ。どうせ神話にまつわる何かだろ?今のところ、僕はそっち方面にあまり興味がなくてね」

 

 時期が悪かったと思って諦めろ。露伴は再び椅子から立ち上がりかけた。

 

「待てって、露伴先生。せめて取材内容くらいは聞いてくれ。きっと君も興味を持つ」

 

 天地が再びそれを引き留める。露伴は今度は座り直さずに答えた。

 

「そうかい。それじゃあ、僕はこのまま話を聞こう。興味のない話だったら、このまま帰る」

 

「それでいい、聞いてくれ。取材内容と言うのはだな―――“御神渡”って知ってるか?」

 

 露伴は頷く。

 

「長野の諏訪湖で有名なあれだろ?寒冷地の凍った湖面に見られる、神様が通った跡だとされる自然現象だ」

 

「自然現象のことだと思うだろ?」

 

「違うのか?」

 

「日本で一ヶ所だけあるんだ。本物の御神渡―――“神様の行列”の見れる場所が」

 

「祭か何かか?」

 

 露伴が首を捻る。天地は否定した。

 

「違う違う。本物の“神様”だ。人じゃない」

 

「神様に扮した人間ではなく?」

 

「正真正銘、本物の“神様”」

 

 露伴は鼻を鳴らした。

 

「生憎、僕は無神論者でね」

 

「―――10月31日。その地が少し早い雪に見舞われた年にだけ、それは出現すると言う」

 

「―――神無月か」

 

「そうだ。そして今年の10月31日は、全国的に雪の降る予報だ」

 

「―――」

 

 露伴はしばらく無言になった。

 

「いいだろう。乗った」

 

 露伴は椅子に腰を下ろした。それから店員を呼び止め、追加でコーヒーを注文する。

 

「詳しい話を聞かせてもらおう」

 

「そう来ると思ったよ」

 

 天地ははにかんだ。

 

 

 

 

 

 

 10月31日。N県某所。

 

 天地から話に聞いた“御神渡”の見られると言う神社の向かいに建てられたカフェに露伴は入店した。

 道路脇に面したカウンターに陣取り、テーブル上にスケッチブックを広げる。道路を挟んだ対面に、正面を構えて居据わる神社を、露伴はスケッチブックに写生した。まだ雪も降っていない。天地は、それが見られるのは夜だと言っていた。露伴は気長に待つことにした。ここでは、他にすることもない。

 

 二杯目のコーヒーを飲み終えた頃。露伴の隣に、一人の老人が腰を下ろした。老人は、露伴の手元に開かれたスケッチブックを興味深そうに覗き込んだ。その視線に気付いた露伴は、スケッチブックを閉じた。

 

「巧いもんだのぉ」

 

 老人が感心したように首を振る。

 

「何の用だ?他人の手元を覗くのが趣味なのか?」

 

「ああ、すまない。そんなつもりではなかったんだ」

 

 老人は笑って返した。

 

「ただ、珍しく思ってな」

 

「珍しい?僕がか?」

 

 老人が首肯く。

 

「あの神社に興味を持つ若者は珍しい」

 

「だろうな」

 

 今時、神社や寺といったものに興味を示す若者は少ないだろう。せいぜい、それらを研究対象にしている学生ぐらいだ。

 

「美大生かの?君は」

 

「いいや。書籍関係の仕事だ」

 

 漫画家であるとは、あえて言わなかった。この老人ぐらいの年代は、漫画に理解を示さない人も多い。

 

「ふむ、成る程。この神社が取り上げられたりするのか?何なら、儂の話を聞いていかないか?あの神社についてなら、人より多少詳しい」

 

「本当か?なら是非、尋ねたいことがある」

 

 何でもどうぞ、と老人が促す。

 

「“御神渡”の事についてなんだが―――」

 

 露伴がそう口を開いたところで、老人がそれを制した。

 

「待った。今、なんと?」

 

「耳が遠いのか?“御神渡”についてなんだが――」

 

 繰り返された露伴の言葉に、老人の目が険しくなる。

 

「どこでそれを知った?」

 

「“御神渡”か?知人からだ。それがどうかしたのか?」

 

「知人―――その知人はこの町出身なのか?」

 

「さあな」

 

 露伴は椅子に深くもたれた。老人はなお、険しさのある目で露伴を見ていた。

 

「それで、何なんだ?“御神渡”とは。その様子だと、知ってるんだろ?」

 

 老人は小さく溜め息を吐いた。

 

「“御神渡”は、この地元でさえ全く知られていない―――知られてはならないものだ」

 

「“知られてはならない?”ただ知名度がないだけとは違うのか?」

 

「我々のような“御神渡”を知る人々は、滅多なことではそれを人には話さない。“御神渡”とは、何百年と続く神聖な儀だ。無闇に知名度が上がれば、見物客達に神社を荒らされる。我々は“御神渡”が世間に広まらないよう、細心の注意を払っている。毎年、この日に神社を監視する仕事が一人にだけ割り当てられる。その該当者以外は遠くからしか眺められない。お陰で地元にさえ知られていない。だと言うのに、まして他の地域の者がそれを知ることなど、皆無に等しい」

 

「どれぐらいの人間が知っているんだ?」

 

「十人程度じゃよ」

 

 ならば、天地 世命はどうやってこの情報を手に入れたのだろうか。露伴は首を捻った。

 

「それで、“御神渡”ってのはどんなものなんだ?僕は詳しく知らないんだ」

 

「ムウ」

 

 老人は小さく唸ると、何やら思案を始めた。

 

「今更隠しても仕方ないだろ。僕は気になったものはとことん調べ上げるからな。ここで教えられなくとも、そのうち全て知るつもりだ。だが、それにも手間がかかるだろ?ここで教えてもらえると有り難いんだが」

 

「――誰にも話さないと、約束できるか?記事にもしないと、秘密にすると。出来るのなら話そう」

 

「神に誓おう。単に僕個人の好奇心だ」

 

 そもそも、天地の頼みを引き受けたのもそうだ。“好奇心”。これに勝る動機は、露伴にとって他になかった。

 

「ならば話そう。“御神渡”は10月31日の夜、この神社に祀られる神様が出雲からお帰りになさる儀のこと」

 

「そこまでは僕も知っている。雪が降れば、その“御神渡”が見られるってことも」

 

「そうだ」

 

 老人が頷く。

 

「時期的に少し早い雪が降れば、その“御神渡”の行列を拝むことができる」

 

「だが、それが理解できない。“行列が見れる”って、一体どういう状況のことを言ってるんだ?」

 

「自分の目で確かめればいい。今宵は七年ぶりに降雪の予報だ」

 

「ああ、そのために来た」

 

 それで、と露伴は尋ねる。

 

「それは何時に見られるんだ」

 

「そう焦らなさんな。雪が降りだすのは七時頃の予報じゃ」

 

 露伴は腕時計に目をやった。あと二時間は暇になりそうだ。

 

 

 

 

*  

 

 時計の針は、既に八時を過ぎていた。店の前の路面を、七時頃から降りだした雪がうっすらと覆っている。“御神渡”はまだ現れなかった。

 

 四杯目のコーヒーが届いたところで、露伴は神社の敷地内の人影に気付いた。若い男が五人、境内で騒いでいるらしいことが、目を凝らせば分かった。

 

「そうか、ハロウィンか」

 

 露伴が呟く。若者達は皆、異様な格好をしていた。吸血鬼とミイラらしき仮装をしている二人は、露伴からも識別できた。他の三人は何の仮装だか判別できない。酒が入っているのか、時期早々の降雪に気が昂っているのか。五人は遠目から見ても分かる騒ぎ様だった。

 

「何がハロウィンじゃ。下らん異国文化だの」

 

 剣呑な目付きで老人がぼやく。

 

「毎年毎年、ああ無駄に騒ぎおって。周りの迷惑も考えられんのか」

 

 露伴は小さく、同意の頷きを示した。ハロウィン自体は否定せずとも、最近の若者達の騒ぎ様は目に余るものがある。大都会では特に、毎年ニュースになるほどの騒ぎだ。

 

 神社内で騒ぐ若者達が社にイタズラを始めた。どうやら、社の扉を無理やりこじ開けようとしているようだ。露伴は溜め息を吐いた。流石にやりすぎだ。

 

「いいのか?放っておいて。“御神渡”の邪魔になりそうだが」

 

「放っておけ。神が裁かれる」

 

「神が?」

 

 怪訝な顔をする露伴を一瞥すると、老人は酒の入ったグラスを口元へ運んだ。

 

「今に分かる」

 

 老人のその言葉とほぼ同時だった。境内で騒いでいた若者達が、次々と地に倒れ込んだ。

 

「何だ。何が起きた?」

 

 露伴は椅子から立ち上がると、窓の外を凝視した。倒れ込んだ男達に、苦しむような様子はない。急に気絶したかのようだ。

 

「おい、あれは一体―――」

 

 老人の方を振り向き、問い質そうとした露伴の言葉を老人は片手で制した。

 

「“御神渡”が来る」

 

 遠くで笛の音がしたような気がして、露伴は再び外を見た。目前の景色に変化はない。

 

 再び笛の音が聞こえた。今度は聞き間違いではない。笛の音は、徐々にはっきりとしたものとなる。同時に、音の数も増え出した。小鼓やその他弦楽器の音もする。音の数は多かったが、それらの奏でる旋律は、決して賑やかなものではなかった。厳かで、神聖さを感じさせる音色である。

 

 やがて、演奏は間近で聞こえるようになった。

 

 視界の隅に、白装束を纏った男を捉えた。車道の上を、手に(ぬさ)を持ち、ゆっくりと歩みを進める。その後ろから、同じ様な白装束の男女が次々と続いた。笛や小鼓を手にしている者も居る。祭囃子の主は彼等であったようだ。

 

 一団は皆一様に、白装束に身を包んでいた。闇夜に立つ彼等だったが、その姿は浮かび上がるようにしてはっきりと認識できた。白装束に至っては、眩しさを感じるほどの輝きを放っている。彼等が普通の人間ではないことが察せられた。

 

 行列の中心には大型の神輿があった。神輿の上には、周囲とは異なり、狩衣のようなものを纏った人物が鎮座していた。男性か女性か、露伴からでは判別できない。

 

 立派な装飾こそなされていないものの、神輿の重量はとてもありそうだった。しかし、その神輿を担ぐ人々は何の表情も浮かべていない。彼らの体格は屈強とはほど遠く、むしろ華奢なものだった。にも関わらず、彼らは軽々と神輿を肩に乗せていた。

 

 集団の先頭の男が、進路を直角に変更し境内に正面から進入した。列も折れる。やがて神輿が曲がると、神輿に隠されそれより先の様子は見えなくなった。

 

 行列の最後尾が見えた頃、不意に、神輿の姿が消失した。境内の社に入ったわけではない。サイズ的に、それは不可能に思える。露伴は闇夜に目を凝らした。行列の行く先を凝視する。

 

 行進する白装束を纏った彼らは、社に到達すると同時に姿を消した。あの社が“御神渡”の終着点であるということか。

 

 行列の最後尾が神社の敷居を跨ぐ。露伴はそこで我を取り戻した。急いでその後ろ姿をスケッチにとる。二十秒としないうちに“御神渡”は完全消滅したが、露伴には十分な時間だった。それからも、記憶を頼りに神輿やその従者の様子を描き出す。

 

 一通り描き終えたところで露伴は顔を上げた。正面の道路を、隣にいたはずの老人が渡ろうとしている。いつの間にか会計を済ませていたようだ。老人は境内の方へ向かった。境内の様子を見ておきたいと思っていた露伴は、手元のコーヒーを一気に飲み干すと急いで会計を出た。老人の後を追って道を渡ろうとした露伴であったが、境内に広がる光景にはっとして足を止めた。

 

 境内に入った老人は、、その場にしゃがみ込み、倒れた若者の首に手をかけていた。

 

「おい!何をしてる!」

 

 老人の動きが止まる。露伴は道路を渡ると老人へ近付いた。振り向いた老人と目が合う。

 

「何をするつもりだ」

 

 老人を見下ろして露伴は訊ねた。

 

「神の裁きだよ」

 

 老人は答えると若者に向き直った。

 

「おい。流石にやり過ぎだ」

 

 露伴は老人の肩に手をかけると、半ば強引に若者から引き離した。

 

「確かにこいつらがやっていたことは気に食わないし、許せないことであるのは分かる。自業自得で怪我でもすればいいのにとは、僕でも思う。だが、実際に手をかけるってのは行き過ぎだ」

 

 諭しながら、露伴は老人から手を離した。老人は鼻を鳴らすと、露伴を気にも止めずに若者の方へ歩んだ。

 

「おい、聞いてるのか!」

 

「黙れ、人間風情が。神を冒涜した者に裁きを下すだけだ。何も不条理なことはなかろう」

 

 老人の口調が先程とは一変する。そこに確かな圧力を感じた露伴は、一瞬怯んだ。殺気はなかった。その圧力には負のオーラと言うよりも、むしろ聖なるものすら感じられた。だが、露伴の本能は何よりも危険を感じていた。今この老人に逆らえば自分の命も危ないような、そんな実感があった。

 

「いいや、不条理だね」

 

 しかし、それで引き下がるような露伴ではない。彼はあえて、一歩を踏み出した。この岸辺露伴が、こんな老いぼれに気圧されたままでたまるか。それは露伴のプライドであった。

 

「神を崇拝しない者からしたら、それは不条理でしかない。罪に対する罰の釣り合いが全く取れてないじゃあないか」

 

「貴様の意見など聞いていない。神に背いたのであれば罰せられるのは当然だろう」

 

「なあ、さっきから“貴様”とか“人間風情”とか、何なんだ?お前」

 

「何なんだ、とな」

 

 老人は歩みを止めると振り向いた。

 

「“神”だよ」

 

「はあ?」

 

 露伴の口から、思わず間抜けな声が漏れる。

 

「神である私に反目するのであれば、貴様にもそれ相応の罰を受けてもらわなければならない」

 

 言うや否や、老人は露伴の首に片手を伸ばした。

 

「うお!」

 

 すんでのところでその腕を露伴がつかむ。だが、老人の腕に力がこもると、露伴の 首筋に簡単に老人の指が触れた。想像以上の腕力だ。露伴は両手で老人の片腕を掴まざるを得なかった。だが、それでも老人の力が露伴を勝る。

 

「なんだコイツ!年寄りのパワーじゃないぞ!」

 

 露伴の膝が徐々に曲がる。

 

「おい!待てよ!やっぱり不条理じゃあないか!僕が一体何をした!」

 

「神を信じぬ者には罰を与える」

 

 露伴の膝が地に着く。老人の力は緩まなかった。露伴は更に、後ろ側に押し込まれた。

 

「おおおおおッ!!」

 

 ついには仰向けに倒される。その上に馬乗りになった老人は、余った反対の腕を露伴の首に伸ばした。咄嗟にそれを掴む露伴。だが、片腕でさえ力負けしていたのだ。首に迫る腕が二本に増えた今、露伴に抗う術はなかった。

 

「駄目だコイツ!イカれてやがる!!」

 

 両手は塞がってるが、それでも発動は可能だ。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 露伴のヘブンズドアーが発動する。一般人なら気絶するか、それでなくとも怯むはずだった。だが、老人の腕の力は弱まらなかった。それに加え、老人には視えていた。常人には視えないはずの、露伴のこの能力が。

 

「フム―――書物、か?不思議だな。私にも得体が知れぬ―――だが下らん」

 

「なにッ!?ッグ!」

 

 老人がとうとう、露伴の首を掴む。露伴は急いで老人に“岸辺露伴から手を離す”と書き込んだ。しかし、老人は手を離さない。それどころか、力を加え始めた。

 

「ヘブンズドアーが――――効かない...?」

 

「へぶんすどあ、と言うのか?何であれ、“神”である私が宿ったのだ。“運命”そのものである私が。何をしようとこの老いぼれは止まらん」

 

 老人の腕に更に力が加わる。露伴の視界はぼやけ始めていた。老人の情報を読もうにも、もう無理そうだ。

 

〈“神”だと?一体、“神”にどう勝てる?ヘブンズドアーが通じないんだぞ〉

 

 意識が遠退き始める。時間がない。

 

〈考えろ―――何か解決の糸口があるはずだ。神と言えど、万能じゃない。万能じゃあ....コイツは何が出来ない?何かヒントがあるはずだ。この神に出来ないこと―――それがヒント〉

 

 「あの小僧どもも始末しなくてはならないのでな。時間が惜しい。もう終わりだ」

 

 露伴の首が更に絞まる。

 

〈小僧?あの青年達のことか―――そういえば何故、この“神”とやらはこの老人に取り憑いた?何故、当事者である若者達の誰かに取り憑かず、近くのカフェに居たこの老人に取り憑いた?気絶した者には取り憑けないのか?〉

 

 いや、それはおかしい。露伴の脳はフルで回転を始めた。

 

〈それだと、わざわざ青年達を気絶させた意味がない。いくらなんでも非効率だ。他に理由があるはずだ―――〉

 

 奴は何か言ってなかったか?これまでの老人とのやり取りを、露伴は回想する。

 

〈そもそも、僕やあの若者達が殺されそうになってるのは何でだ?奴は“神に逆らった罰”と言っていたな―――もしや、条件は“信仰”か?〉

 

 もしそうだとすれば、勝ち目はある。老人の肉体への命令は、“神”が老人の肉体を支配している以上効かないが、老人の記憶や精神への書き込みなら通じるはずだ。だが、外れていた場合は―――

 

〈時間はない。ヘブンズドアーを動かせるチャンスは残り一回だけだ―――――賭けるしかないッ!〉

 

「ヘブンズ....ドアー....」

 

 掠れた声で呟き、片手を老人の顔に伸ばす。

 

「無意味な抵抗を」

 

《神を信じない》

 

 書き込めたのは、その短文。だが十分だった。ヘブンズドアーが発動する。老人の腕から力が抜け、露伴の首から外れた。老人はそのまま背後へ倒れ込んだ。

 

 喉元を押さえ、咳き込みながら露伴は立ち上がった。老人は仰向けに引っくり返って気絶していた。どうやら、賭けは成功したようだ。

 

「僕のヘブンズドアーは、記憶を書き換える。捉え方によっては、“運命”に抗える能力とも言えるかもしれないな」

 

 露伴は深呼吸で息を整えると、社へ向かった。建物の幅は広くない。せいぜい五メートルといったところだ。どう考えても、“御神渡”のあの神輿が入るような面積はない。社の扉は南京錠で固く閉ざされていた。若者達の暴行の跡はあるが、最近に解錠されたような形跡はない。露伴は続いて足元に目をやった。ここまで歩いてきた露伴と、青年達の踏み荒らした跡はあるものの、あの行列が通ったような跡はない。

 

 “御神渡”と言い、先程の“神”と言い、何か変だ。

 

「天地 世命――――アイツ、何か知っているのか?」

 

 気付けば雪は止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 三日後、露伴は馴染みのカフェのテラスで天地と向き合っていた。

 

「どうだった?“御神渡”は。見れたかい?」

 

 露伴は頷くと、“御神渡”の様子を描いたスケッチをテーブル上に広げた。

 

「これは―――まるで祭の行列だな」

 

「逆に言えば、そのモデルとも言えるかもな」

 

「鋭いね、露伴先生。―――うん、ネタにできそうだな、その発想」

 

 天地はスケッチを手元に手繰り寄せるとそれに見入った。露伴は一口、コーヒーを口に含む。

 

「それで、天地 世命。一体何のつもりだったんだ?」

 

「何がだ?」

 

 顔も上げずに天地は返答した。

 

「知ってたんじゃないのか?“御神渡”の主である“神”が本物だったってことを」

 

 天地が顔を上げる。

 

「何を言ってるんだ?露伴先生」

 

「不自然なんだよ」

 

 露伴は溜め息を吐いた。

 

「君がこの“御神渡”の情報をどこで入手したのかは知らないが、地元の人間の話を信じれば、この“御神渡”は部外者が知ることは皆無に等しい。そんな情報を仕入れた君が僕の情報収集力を貸してくれなんて、そんなことする必要があるのか?そもそも、その界隈じゃあ君の方が顔が利くじゃないか。わざわざ僕に頼む必要がないだろ」

 

「あれ?言ってなかったか?」

 

 天地はわざとらしくおどけた。

 

「一昨日まで、俺はホテルで缶詰めになってたんだよ。締め切りに追われてさ。だから代わりに行ってもらったんだよ」

 

「缶詰めぇ?」

 

「ああ。俺は露伴先生とは違って遅筆だからな」

 

 天地は苦笑いした。

 

「だったら、余計おかしいじゃないか」

 

 椅子の背もたれに肩肘を預け、テーブル上に反対の手を置きながら露伴は話した。

 

「僕に取材の話を持ちかけたあの日、君は京都からの取材帰りだと言ってたな。普通、そんな詰まったスケジュールの立て方するか?先ず、缶詰めになるほど締め切りが切羽詰まってるのに、取材旅行に泊まり掛けで行くのはおかしい。しかも行き先は行き馴れた京都で、更にその後には“御神渡”だって控えてるのにだ」

 

 天地が笑みを引っ込める。

 

「七年ぶりだぞ、“御神渡”が現れたのは。次に見れるのは何年後になるか分からない。そんなチャンスを逃すか?京都取材の方をずらすだろ、普通」

 

「取材先で俺が“御神渡”を知った可能性は考えなかったのか?」

 

「仮にそうだとしたら、帰り際に寄ってくればいいじゃないか。位置的には道中に寄れるところにあるんだ。移動中や宿での時間を使えば、原稿だって進められる。僕が君だったら、多少締め切りを押してでも行くがな」

 

 天地は口を閉ざしている。露伴は続けた。

 

「君はわざとスケジュールを詰めたんじゃないのか?天地 世命。僕を“御神渡”の取材に行かせるために」

 

「さあな」

 

 天地の口元が小さく歪んだように見えた。

 

「何を知っているんだ。“御神渡”について。あれの正体について」

 

 露伴の質問には答えずに、天地は千円をテーブルに置いた。

 

「露伴先生、俺らは作家だ」

 

 立ち上がりながら天地が言う。

 

「作家は“空想”に“リアリティ”を吹き込む。“リアリティ”は創作において重要なファクターだ。“リアリティ”こそが創作物に命を与える。“想像力”よりも“リアリティ”だ」

 

 天地は荷物を纏めると露伴の脇に立ち、その肩に手を置いた。

 

「だが時に、“想像”は“リアリティ”を超える」

 

 睨み付ける露伴に対し鼻を鳴らし、天地は通りに消えた。

 

「天地 世命―――何者だ」

 

 天地の消えた通りの流れを見ながら、露伴はポツリと呟いた。

 

 

 冷たい風が吹き抜けた。通りを行く人々が、思わず襟を立てる。もうじき冬だ。




 最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 更新には時間がかかってしまいますが、作者の都合がなかなか空かないことをご了承下さい。


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another:05 《イリバーシブル・キャンバス》

「露伴先生、私の話聞いてます?さっきから目の焦点が定まってないんですけど。ちゃんとその脳みそに入ってます?私の話。それとも、クソ暑すぎて脳がイッちゃいました?」

 

 岸辺露伴は対面に座る女性を訝しんだ。

 

「聞いてるよ。この後の対談の話だろ?別に脳は正常さ。これだけ涼しい室内に居ればね」

 

 ふん、と女性は鼻を鳴らし、手元のアイスティーを口にする。二人は、露伴がいつも打ち合わせに使うカフェにいた。普段はテラス席を使用する露伴だったが、今日ばかりは店内の席を選んだ。外の気温は35℃を超える。

 

「それよりも何だ。さっきから気になってるんだが、君のその粗暴な口調、どうにかならないのか?」

 

「どうにもなりませんね。子供の頃からずっとこうなんで」

 

 女性は、とある美術雑誌の記者である。名は円山 麻美。露伴も彼女の記事を読んだことがあるが、文章は一流だ。

 

「たちが悪いぜ、まったく」

 

 だがそれは、あくまで文章に限った話であるようだ。彼女の口調は、乱暴なものだった。

 

「私からしたら露伴先生だって十分乱暴な物言いだと思いますけどね。年季の入った芸術家ならともかく、先生ぐらいの青二才で、ビシネス相手に敬語を使わない世間知らずは初めてです」

 

「必要になれば、僕だって敬語は使うさ。だが君は―――」

 

 露伴は再び円山を眺める。年齢は三十代前半といったところか。ラフな服装の露伴とは対照的に、シワひとつなくキチッとスーツを着こなしている。

 

「僕が敬語を使わないからって、怒って話もしないような人間ではないだろ?」

 

「仕事ですからね―――それがなければ今にでも帰ってやりたい」

 

「残念だが、互いにもう少し付き合わなくちゃならない。君の仕事は今日いっぱい続きそうだぜ」

 

「なら、とっとと次に行きましょう。少しでも早く貴方と離れたいわ」

 

 円山はアイスティーを一気に飲み干すと立ち上がった。

 

「こんなんなら、引き受けなきゃ良かったわ。この先の日本美術界を担う天才若手二人の対談だからって息巻いてきたけど―――片方は最悪だったわ」

 

「おいおい、そこまで言うことかよ。そんなに嫌なら敬語くらい使うぜ?仕事に支障が出ても困るだろ」

 

「冗談よ。馬鹿みたいに真に受けないで頂戴。仕事はきっちりこなすわ」

 

「分かったよ。それで、彼の所へはどうやって行くんだ?S市内に別荘があるとは聞いたが、まさか歩いてくわけじゃあるまいな」

 

「ほら、やっぱり私の話聞いてなかったじゃない。タクシーで行くって言いましたよね、私」

 

 円山は大袈裟に溜息を吐いた。

 

 

  *

 

 

萩原 紺葉(おぎわら こんよう)か―――気になってはいた。デビューと同時に、世界の巨匠達と肩を並べたその才能には」

 

 荻原 紺葉。五年前、突如美術界に出現し、世界中を虜にした画家である。人物画の専門で、年に平均して三枚ほどの作品を発表。そのどれもが世界中で高く評価されている。将来的にはゴッホやピカソにも並ぶだろうとは、円山が過去に書いた記事の一文でもある。

 

「二回ほど見かけたことがあるけれど、少なくとも貴方よりはよっぽどまともな人間だったわよ、露伴先生。ちゃんと敬語も使ってたし」

 

「どうだろうな。実際に話してみたら、もっとヤバい奴かもしれないぜ」

 

「ありえるわね」

 

 円山は大きく頷く。

 

「露伴先生がそうだったから。SF的でありながらも、非常に現実感のある世界を描く天才。読者に与える作品への没入感に関しては、後にも先にもこれ以上を描ける者は現れないだろうという評価だったから、どんな人物かと期待していたのだけれど。調子に乗ったクソガキだったみたい」

 

「ム、今のはカチンと来たぞ。確かに僕は敬語を使っていないが、だからといって世間を舐めてる勘違いじゃあ断じてない。作品に対しては、僕は常に本気だ。自分の作品がこの世で一番面白いと天狗になったこともない。むしろ、いつ読者に見放されるか、不安ばかりだ。面白くなくなったと言われ、誰にも読まれなくなることが何よりも怖い。決して、世間に対して尊大な態度を取ってるつもりはないぜ。君に対しても敬語は使っていないが、だからといって君に敬意を持っていないってわけじゃない。君の書く文章は一流のものだ。それぐらいは僕にも分かるし、僕はそれを尊敬してる」

 

「あら、それはごめんなさい。そんなつもりで言ったわけじゃないのだけれど、怒らせたのなら謝るわ」

 

 露伴は何とも、決まりの悪い思いをした。

 

 

  *

 

 

 荻原 紺葉はS市内在住ではなかったが、現在はS市内の山麓にある別荘で仕事をしているようだった。大型のペンションのようだ。二人はタクシーから降りると、玄関のインターホンを鳴らした。だが、しばらく待っても反応がない。円山は再びインターホンを押した。しかし、それでも屋内からは物音一つ起きない。

 

「何してんのよ。出なさいよ」

 

 腕時計を眺めながら円山は呟く。

 

「この時間に来るって言っておいたじゃない」

 

 苛立ったように、もう一度強めにインターホンを押す。遠くで慌ただしそうな音がした。それから、ドタドタと足音が聞こえてくる。しばらくとしない間に、玄関の扉が開いた。

 

「お待たせ致しました。円山 麻美さんと、岸辺 露伴さんですね。荻原 紺葉です。どうぞ、お入りください」

 

 現れた男は、全身を紺色のツナギで覆っていた。この猛暑日に、暑くないのだろうか。額には薄っすらと汗が滲んでいる。金髪の短髪を逆立たせた髪型は非常にラフなもので、顔にかけた眼鏡が不釣り合いだ。露伴がその出で立ちを観察していたことに紺葉が気付く。

 

「ああ、この服装ですね。失礼しました。本来客人を迎えるような服装ではないのですが。現在作品を製作中なものでして。ついつい、時間を忘れて没頭してしまって」

 

 露伴はその弁明に頷いた。自分にもよくあることだ。良いネタを思いついた時には彼など、訪問客に対し居留守を使うことも暫しだ。

 

 玄関を通り、廊下に入ってすぐ左手の部屋に二人は通された。部屋の中央にはテーブルがあり、向かい合うようにソファが設置されている。広さは12畳程。

 

「そういうことでして、何もおもてなしの用意ができていないもので。お飲み物だけでもせめてすぐにお出ししますので、腰を下ろしていただいてお待ちください」

 

 二人が下座に腰を下ろす。紺葉は小走りで部屋を出ていった。隣の部屋から、ガチャガチャと食器の擦れ合う音がする。数分も経たないうちに紺葉は部屋へ戻ってきた。コップの2つ乗ったトレーを抱えている。それらをテーブルに置いてから、二人の対面に座る。

 

「麦茶です。外は暑いですから、どうぞ」

 

「ありがとう。丁度喉が乾いてたところだし、頂くわ」

 

 円山がコップに手をかける。

 

「それで、円山さん。対談は僕のアトリエでというお話だったのですが…すみません。先程も申しましたように現在作品を製作中なものでして。掃除もろくにしていないもので、アトリエでの撮影はちょっと…」

 

「そう。分かったわ。他の部屋で構わないわよ。でも、何か作品を見せていただけるというのは大丈夫?」

 

「ええ、そちらの方は大丈夫です。あくまで撮影場所の変更ということのみですので。一昨年発表したものを、作品は用意してあります」

 

「そう。なら部屋を移動しましょう。悪いけれど、お茶はもういいわ」

 

 

  *

 

 廊下の最奥の部屋から数えて二つ目の部屋で対談は行われた。テーマは“日本美術の今・未来”。一時間ほど露伴と紺葉が語らったところで、丸山がストップをかけた。

 

「荻原先生、そろそろ作品の鑑賞に移りたいのだけれど、絵は持ってこれるかしら」

 

「ええ、只今。少々お待ちください」

 

 紺葉が席を立ち、扉を開け放したままに部屋を出る。少しして、大きなキャンバスを抱えて紺葉は戻ってきた。紺葉の身長近くあるそのキャンバスは白色の布で全体が覆われ、紐できつく縛られていた。紺葉はそのキャンバスを静かに壁に立て掛けると、紐の結び目を解いた。

 

「これは一昨年に描いたものなんですが、丁度このS市でテーマを見付けた作品なんです。タイトルは“絶望”」

 

「聞いたことがあるぞ。過去に見たこともあるかもしれない」

 

「ええ。大変評価していただいている作品なので、写真などでお目にかかられたことがあるかもしれません」

 

 言いながら、紺葉がそっと布を外す。現れたのは、その真っ白な布とは対象的な、黒を基調とした絵だった。真っ黒に塗られたキャンバスの中央に一人の少女が、膝を抱えて座り込んでいる。頭を垂れており、表情は伺えない。一糸まとわず晒された肌には無数の傷や青痣がある。脇腹に見える火傷は、負ってからまだ時間が経っていないようだ。中央のその少女に目を奪われがちだが、その背後の描かれた闇に、露伴はこの絵の真髄を見た。

 

 紺葉は、この闇を作り出すのにどんな黒を使ったのだろうか。見れば見るほどその闇は暗く、深くなっていく。闇は見るものに不安を与えた。闇に対し、少女は絶望を感じているようだった。

 

「正直、気分の良い作品ではないでしょう。この少女は、両親から虐待を受けていました。最初は人目につかない暴力でしたが、やがてエスカレートします。しかし、いよいよ少女が虐待を受けていることが目に見て分かるようになっても、周囲は見て見ぬふりをしました。そんな社会に、人生に絶望した少女の絵です」

 

 露伴は絵に近付き、腰を折って覗き込んだ。少女の輪郭は所々が歪んでおり、デッサンも正確ではない。写実的ではなかった。しかし、そこには紛れもなく

 

「リアリティがある」

 

 露伴は呟いた。

 

「凄まじいな。この少女がどのような体験をして、何を思ってきたのか。全て追体験しているようだ。想像力が掻き立てられる」

 

 これまでに露伴が目にしてきた絵画と比べても、表現力が桁外れている。決して、描かれている情報は多くない。構成もシンプルだ。だというのに、そこから想起される情景は膨大だ。

 

 円山も露伴の横で絵を覗き込んだ。二人は並んで食い入るように絵を見詰めた。

 

「まるでヘブンズドアーを読んでいるような…」

 

 ヘブンズドアーはその人の人生を文字に起こす。それを読んでいる時のような感覚を、露伴はその絵に覚えた。

 

「感嘆、の一言ね。溜息しか出てこないわ。絵自体は単純なものなのに、どうしてこうも沢山の情報が流れ込んでくるのかしら」

 

「素直に感動した。素晴らしい作品だ」

 

 紺葉に向き直り、露伴は絵を絶賛する。紺葉は微笑んだ。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけることが何よりもの幸せです」

 

 ところで、と紺葉が続ける。

 

「僕も、先生の作品を見せていただきたいのですが。漫画でありながら、芸術としても一方で評価されていらっしゃるという作品。その原稿を生で拝見させていただけるということで、とても待ち遠しいもので」

 

「ああ、すまない。ついつい魅入ってしまって、忘れていたよ」

 

 露伴はバッグを手にすると、その中からプラスチックのケースを取り出した。その中に収められた原稿用紙を抜き、紺葉に渡す。拝見させていただきますと、丁寧にそれを受け取った紺葉は、原稿に目を通した瞬間に瞳孔を大きく開いた。

 

「これは―――これはッ!」

 

 それから、凄まじい早さで原稿を読み進める。

 

「何だこれは!面白い!面白すぎる!ページを捲る手が止まらない。どんどん続きが読みたくなる!」

 

 一話分の原稿二十枚弱を、ものの二分で読み終える。読み終えると紺葉は最初から読み直し始めた。

 

「岸辺先生!貴方は天才だ!」 

 

 紺葉が叫ぶ。

 

「これはもう、毎週購読するしかない!岸辺先生、このシリーズの単行本は今、何巻ぐらいまであるんですか?」

 

「三十巻くらい…かな」

 

 デビューしたのが18歳の時。それ以降連載の続いている《ピンクダークの少年》は、三ヶ月に一巻のペースで刊行される。単純計算で三十巻程度だ。

 

「現在刊行されてるのは三十三巻ね。今月末には三十四巻が刊行される予定だけど」

 

 円山が詳細を答える。

 

「一冊が四百円くらいだから、一万五千円もあれば揃うわね」

 

「一万五千円か――明日にでも買いに行こう」

 

 尚も原稿を捲りながら、紺葉は楽しげに呟いた。

 

 

 

 

 それからまた一時間ほどの対談を挟んだ。一通りの会話を終えて一段落ついたところで、紺葉がある提案をした。

 

「岸辺先生、アトリエご覧になられますか?」

 

「いいのか?製作中だから入れないんじゃあないのか」

 

「それと散らかってるので。撮影はしてほしくないですが、ご覧になられるだけであれば大丈夫ですよ」

 

「なら是非見てみたいな。君も、撮影できなくてもいいだろ?」

 

 露伴に尋ねられ、円山が頷く。では、と紺葉が部屋を出る。二人もその後に続いた。紺葉の向かった先は廊下突き当りの一番奥、たった今まで居た部屋の一つ隣だった。

 

 紺葉が扉を開けると、モワッとした熱気が飛び出してきた。肌に絡みつく不快な空気だ。露伴は思わず顔をしかめた。

 

「すみません。閉め切っていたので。今開けます」

 

 露伴のその表情を見た紺葉が急いで窓に駆け寄り、開放する。山麓の比較的涼しい空気が部屋に入り込んできた。

 

「円山さん、念のため、カメラ類はそこの机の上に置いておいて頂けますか?」

 

 五つある窓を端から開けながら、紺葉は入口横にある机を示した。円山はバッグからカメラを取り出すと、そっとそこに置いた。

 

 改めて、露伴は室内を見渡した。先程までの部屋と比べると、この部屋は“広間”とでも呼ぶべきだろうか。四倍ほどの面積がある。四方はおよそ三十mか。その面積の割には、備えられた五つの窓は小さめだ。取り込まれる光の量が少ないため部屋は薄暗い。室内には“絶望”のキャンバスと同じサイズのものが、専用のスタンドに掛けられた状態で無数に、無造作に置かれてある。部屋の中央にも一台、キャンバスがあり、それはきっちりと布で覆われ、紐で縛られている。状態からして、おそらくそれが製作中の作品というやつなのだろう。

 

「中央のものは発表予定の作品なのでお見せできませんが、その他のものは全て発表する予定のないものなので、ご自由にご覧いただいて構いません」

 

「絵の具とかの道具は置かれていないが――何で描いているんだ?」

 

 キャンバス周辺には、筆やパレットもおろか、ペン類も何も置かれていない。

 

「それは企業秘密ですよ、岸辺先生。それはまだお見せすることはできません」

 

 人差し指を口の前で立てて、紺葉が小さく微笑む。

 

「まあいい。それを聞くのはまた今度の機会にしよう。ところで、あの中央の絵以外には触れても大丈夫なのか?」

 

「傷つけたりされなければ問題ありません。ご自由にどうぞ」

 

 露伴はまず、右手側にあるキャンバスに寄った。キャンバスの表は壁を向いている。回り込んでそれを覗く。描かれていたのはやはり人物画だった。杖をついた、横向きの老人の絵だった。背中と腰が、S字を描くように異様に曲がっている。構造が歪な上に、描かれている老人もどこか扁平な印象を受ける。“絶望”と比べると、確かにこれがボツ絵であることに納得がいく。どこか陳腐なのだ。

 近場のキャンバスを覗いてみても、やはり一目でボツだと理解できるものばかりだ。二十代くらいの若い女性や、中学生の男の子など、描かれている人物の年齢や性別はバラバラだ。人物画であるということ以外、共通点は見当たらない。部屋に置かれたそれらを全て見終えるのに、十分もかからなかった。

 

「新作というのは、いつできあがるんだ?」

 

 部屋を一周し、扉の前に戻ってきたところで露伴は紺葉に尋ねた。

 

「あと数日で完成する予定です。既に仕上げに入っていますので」

 

「次の作品は発表されるのか?」

 

「そればかりは、完成してからでないと言い切れません。制作途中までは傑作になると確信していたものが、仕上がってみるとその輝きを失っていたことや、その逆のこともありますから」

 

「そうか――」

 

「気になるようでしたら岸辺先生、完成したところで真っ先にお見せしましょうか?」

 

 露伴の眉がピクリと動く。

 

「いいのか?」

 

「ええ。岸辺先生なら構いません。先生はこちらの芸術にも造詣が深そうですし、最初に批評していただけたら私も嬉しい」

 

「光栄だな。製作者である君がそれでいいと言うのなら、僕からも是非お願いしたい」

 

「決まりですね。では完成したらまたこちらから連絡致しますので、またここへいらしてください」

 

「あら、二人で楽しそうね。私は仲間外れみたい」

 

 ゆっくりと絵を見回っていた円山が二人の会話に入り込んでくる。

 

「荻原先生、不躾なお願いなのだけれど、私にも見せていただけないかしら、新しい作品の完成。勿論、個人的にだけれど。発表前にリークするだとか、そういうことはしないと約束するわ」

 

「ええ、勿論。その方が、発表するときの僕の自信にもなりますから」

 

 

 

    *

 

「じゃあまた、絵が完成した時に。数日後って言ってたわね。それまでは市内に滞在するわ。いつでも連絡をちょうだい」

 

 玄関口で見送る紺葉に円山は言う。紺葉は微笑みながら頷いた。

 

「ええ。またお越しいただける時を楽しみにしています」

 

 紺葉に手を振られながら、二人は別荘を後にした。呼んだタクシーを見つけに、少し下ったところにある大通りへ向かう。

 

「やっぱり、貴方とは違って礼儀正しい人だったわね」

 

 道中、円山が口を開く。

 

「まだその話を引っ張るのか」

 

「当たり前じゃない。貴方が敬語を使うようになるまでは、少なくとも使い回すつもりよ」

 

「ふん。君がそう言うのなら、僕はあえて、二度と君に対して敬語を使わないぜ」

 

 円山が溜め息を吐く。

 

「何のプライドなんだか。全く」

 

 それから間を置かずして、円山があっと叫んだ。

 

「しまったわ」

 

 円山が立ち止まった。タクシーの手前だ。露伴も歩みを止め振り返る。

 

「カメラを忘れたわ。彼のアトリエに置きっぱなし」

 

 取りに行かないと。円山が踵を返す。

 

「おいおい、大事なものじゃあないか」

 

「ええ、今日の対談の写真も全部入ってるわ。よりにもよってカメラを忘れるなんて」

 

「タクシーはどうするんだい。待ってもらうか」

 

「いえ、貴方だけ乗って帰ってて頂戴。どうせ行き先は違うんだし、待ってもらうのも気が引けるわ」

 

「ならそうさせてもらう」

 

「ええ。また今度、彼の作品が完成したところで会いましょ。まあ私は、そんなに会いたくもないのだけれど」

 

「君がどう思おうと、僕は別に構わないがね」

 

「そうね。今度会うときにはもう少し冗談が分かる人間でいてくれればいいのだけれど」

 

 露伴一人がタクシーに乗り込む。円山は鼻を鳴らすと紺葉の別荘へと道を戻った。

 

 

 

   *

 

 

 それから三日としないうちに、紺葉から作品が完成したと連絡が入った。紺葉の“絶望”に触発され、ひたすら原稿にのめり込んでいた露伴は、その日二件目の留守電で初めてそれに気付いた。

 

 翌日露伴は、紺葉の別荘のインターホンを押した。今度は即座に扉が開かれた。満面の笑みを浮かべた紺葉が露伴を出迎えた。

 

「お待ちしていました、岸辺先生。さ、中へどうぞ」

 

 紺葉に案内され、露伴は別荘へと入る。廊下最奥のアトリエへと紺葉は直接足を向けた。

 

「彼女――円山 麻美はまだ来ていないか?」

 

 紺葉の一歩後ろを歩きながら露伴は尋ねる。

 

「いいえ。彼女は仕事が入って来られなくなりました。残念ですが」

 

 それ以上何かを聞くわけでもなく、そうかと露伴は一人頷いた。アトリエの前に到着する。紺葉がその扉をゆっくりと開いた。

 

「ッおお――」

 

 アトリエ中央にキャンバスが一つ、正面を向いて置かれていた。まだ開ききっていない扉の間からそれを目にした露伴は感嘆の声を洩らした。

 まず何よりも目が奪われるのは、きらびやかなその背景である。キャンバスの中央には男が立っている。その周囲のキャンバスは、金に塗りつぶされていた。男は大きく口角を釣り上げて笑っている。

 

 紺葉が露伴のために道を開ける。露伴はキャンバスへと一直線に向かった。最初は惹き込まれるようであった露伴だったが、あと数歩というところでピタリと足を止めた。

 

「いや、これは――何だ」

 

 違和感があった。これは本当に紺葉が描いたものだろうか。背景の金は、最初こそ輝きに圧倒されたものの、よく見れば深みがない、安っぽさのある金だ。描かれた男性の浮かべる笑みも、どこか表面的だ。“絶望”にあったような、見ているこちら側に迫ってくる何かがない。失敗作か?だが露伴は、即座にその可能性を否定する。彼が、そのような失敗作を見せるためだけにここに呼ぶはずがない。彼には芸術家としての誇りがあるはずだ。失敗作であるなら、こうも嬉々として自分を迎え入れはしないだろう。きっと来訪を断るはずだ。だとするとこれは紛れもなく彼の作品だ。それも、一つの作品として完成されているはずだ。

 

 ならば紺葉は、この作品を通じて観ている者に何かを伝えようとしているはずだ。だとすると、この絵から露伴が感じる“何か”とは――

 

「この作品のタイトルは“偽物”です」

 

 いつの間にか、紺葉は露伴の隣に立っていた。

 

「我ながら素晴らしい作品ができたものだと思います。高尚なようでありながら下品で、満たされているようでいて空虚で。私の作品でありながら、まるで私の作品でない」

 

 紺葉は更にキャンバスに近付くと、うっとりとした表情で絵を撫でた。

 

「テーマを見付けた時は、こんな作品になるとは思いませんでしたが――いいものを残してくれました」

 

 その紺葉を尻目にふと顔を上げた露伴の視界に、別のキャンバスが一つ飛び込んできた。部屋の隅に、布と紐で縛られた状態でこちらに背を向けて立ってある。不思議なのは多くの、おそらく失敗作のキャンバスが、その一台を隠すように囲んでいることだ。

 

「なあ、あれは何だ?」

 

「ああ、見付かってしまいましたか。まああれだけ露骨な隠し方をしていれば、見付からない方がおかしいかもしれないな」

 

 紺葉がそのキャンバスの群れに足を向ける。

 

「次の作品です、これは。またいいテーマを見付けたんですよ」

 

 失敗作のキャンバス群を脇にどかしながら、布に覆われたそれを引っ張り出す。

 

「見せてくれるのか?」

 

「いいえ。それは流石に」

 

 申し訳なさそうな表情を浮かべ、キャンバス上部の縁を撫でる紺葉。

 

「どうしても駄目かい。絵の制作過程に非常に興味が湧くんだが」

 

「先生、この間も申し上げましたが、こればかりはどうしてもお見せできません。誰であろうと、絶対に」

 

「なあ、どうしてもか?そんなに特殊な技法なのか?」

 

「ええ、まあ。そんなところです」

 

 露伴の好奇心に火がついた。

 

「別に模倣したり、どこかに公表したりとかはしないぜ。あくまでプライベートとして、だ。単なる好奇心だ。動機はそれだけなんだ」

 

「できればその言葉を信じたいものですが――ですが、絶対に人には見られたくないのです」

 

 そこに、着信音が鳴った。露伴のものではない。紺葉のポケットから音はしていた。

 

「――ちょっと失礼」

 

 紺葉はポケットに手を突っ込みながら部屋を出ていった。露伴はふと、この間に絵を覗き見てしまおうと思い付いた。そっとキャンバスを縛る紐に手を伸ばす。しかし、紺葉は直ぐに戻ってきた。

 

「何でもない要件でした。すみません」

 

露伴は慌てて手を引っ込め、何事も無かったかのように振り向いた。

 

「折角ですから岸辺先生、飲み物でもお出ししましょうか。ちょうどいい機会です。先生と少し話したい」

 

「それは構わない。君となら幾分会話も楽しめそうだ」

 

 再び着信音がした。今度は露伴のものだった。露伴は紺葉を一瞥した後に、彼と同じように一人廊下に出た。円山の勤め先の編集社からの着信だった。

 

『もしもし?よかった。やっと繋がった――岸辺 露伴先生ですね』

 

 知らない男の声がした。

 

「やっと?今日着信のあった覚えはないぞ」

 

『いえ、2日ほど前から何度かおかけしていたんですがりどうも先生の側が出られなくて』

 

「それはすまない。ここ数日、ずっと机に向かっていた。全く気付かなかったよ」

 

 露伴は昨日、二件留守電が入っていたことを思い出した。紺葉の新作に気を取られてすっかり忘れていたが――そうか、あれのことか。

 

『それよりもです、先生。お尋ねしたいことがあるんです。うちの円山 麻美はご存知ですよね。先生と荻原 紺葉先生の対談を取材した記者です』

 

「彼女がどうかしたのか?」

 

『実は、お二方の取材日以降、彼女と連絡がつかないんです。音信不通です。原稿の入稿日のこともあって、彼女の動向が知れないのは会社としても困るものでして』

 

「それで、最後に彼女と接触していた僕に電話か――悪いが、取材後の彼女の動向は一切分からない」

 

『そうですか――ありがとうこざいます。この先もしかしたら、警察の方から連絡があるかもしれませんが、そういう事情ですのでご容赦下さい。お忙しい中ありがとうございました』

 

 通話が切れる。

 

「音信不通か――僕も電話を掛けてみたほうがいいのか?彼女が僕の番号に出るかどうか知らないが。もしかしたら無視するかもな」

 

 言いながら、電話帳から円山のものを探し当ててコールする。

 

「うん?」

 

 耳に新しい着信音が流れた。ついさっきどこかで聞いたような――。露伴はすぐに、いつの事なのか思い出す。最近なんてものではない。つい数分前に聞いた音だ。

 

 露伴はゆっくりと、アトリエに顔を向けた。部屋の入口付近で、紺葉が携帯を片手に立っていた。露伴は自身の携帯をゆっくりと耳から離した。そして、同じ着信音が紺葉の持つ携帯から流れていることを確認した。

 

「なあ、僕が間違えたのか?」

 

 携帯には、間違いなく“円山”とある。登録時に入力を誤っていない限り、露伴は今、円山 麻美の携帯に電話をかけているはずだ。紺葉は無言のまま、小さく笑みを浮かべた。

 

「そもそも荻原 紺葉――お前、何て言った。彼女が来ていないかを僕が尋ねたとき、何て言った」

 

 アトリエへの案内の途中、紺葉は確かに言った。

 

「“彼女は仕事で来られなくなった”と言ったな。何で君がそれを知っているんだ。会社が知らない彼女の動向を、何故赤の他人である君が知っている」

 

 紺葉は答えない。露伴は電話を切ると紺葉に正対した。

 

「答えろ、荻原 紺葉。彼女はどこだ」

 

「遅かれ早かれ、知れてしまうものでしたから――もう必要ない」

 

 紺葉は円山の携帯を投げ捨てた。

 

「もう一度聞くぞ、荻原 紺葉。円山 麻美に何をした」

 

「彼女はカメラをこのアトリエに忘れたと言っていました。無事にそれは取り戻せたのでしょうか」

 

「なるほど、答える気はないというわけか」

 

 扉の横で笑う紺葉へと、露伴は近付いた。

 

「だがそれでも構わない――ヘブンズドアーッ!!」

 

 ヘブンズドアーが発動し、紺葉は仰向けに倒れ込む。

 

<“偽物”が完成した>

 

 露伴はその横にしゃがみ込むと、紺葉のページを捲った。

 

<このシーズン、この別荘帯ではやはり多くの“テーマ”が見付かる。今年も当たりだ。新たに二人の“テーマ”を見付けた。二人とも最高級の素材だ。これまでは凡人ばかりを扱ってきたが、その道々の天才は、作品の新たな境地を開いてくれるかもしれない>

 

 読み進めながら、露伴は首を傾げた。文章に何か違和感がある。ふとすれば見逃してしまいそうな、微妙な違和感を感じる。

 

<“偽物”も完成した事だ。直ぐに一人目に取り組むことにした。最初は“円山 麻美”が“テーマ”だ。彼女はどんな世界を見せてくれるのか。今から楽しみだ>

 

 そこまで読んで、露伴はあることに思い至った。紺葉をそのままに立ち上がり、布に包まれた新作というキャンバスに向かう。布を縛っていた紐を解き、布をはがした。

 

「――ッ!これはッ!?」

 

 現れたキャンバスに、露伴は目を見開いた。キャンバスに描かれていたのは――いや、描かれたと言っていいのだろうか。これでは映ってると言ったほうが正確であるような――ともかく、そこには円山 麻美の姿があった。

 

「これは――荻原 紺葉が描いたものか?これまでのものとまるで雰囲気が違う」

 

これまで露伴が見てきた紺葉の人物のデッサンは、どれも歪だった。どこか抽象的で、しかし観る者にはそのリアリティを訴えかけてきた。そんな神秘性が彼の描く人物画の特徴でもあった。だが、いま目の前にあるそれは、限りなく現実的だった。極限的な写実絵だった。写真をそのまま貼り付けているんじゃないかとすら露伴は疑った。

 

「見てしまいましたか。企業秘密と言ったじゃあないですか」

 

 背後から紺葉の声がした。

 

「何ッ!」

 

 露伴が振り向く。ヘブンズドアーは発動したままだったが、紺葉は目を覚ましていた。

 

「それじゃあやっぱり、これは円山 麻美本人ってわけか」

 

 露伴はなるべく平静を装った。へぇ、と紺葉は感心した。

 

「察しがいいと言いますか、発想が流石といったところですね、岸辺先生。普通なら考えられない事実であるでしょうに」

 

「生憎、こういう奇妙なものの類とは縁が多くてね」

 

「正解ですよ。これは円山 麻美そのものです」

 

 紺葉はキャンバスに寄ると、その中の円山 麻美を撫でた。彼女の輪郭が、心なしか先程よりもぼやけているように見える。

 

「それで?彼女はどうすれば元に戻る」

 

「戻る?何を仰っているんですか岸辺先生。戻るわけがないじゃないですか」

 

「何だと」

 

「当たり前のことじゃないですか。不可逆性ですよ。一度変化したものは、二度と元通りにはなりえない。一度このキャンバスに“塗り込まれた”人間は、永遠に絵画として存在する他ありません」

 

「本気か?これまでの作品も、全部そうやって実在した人物を閉じ込めてきたってことか?」

 

「では逆に聞きますが岸辺先生。貴方は他人の不幸を悲しみますか?例えば、特に親しくもなかった隣人の親類が亡くなったと聞いて、貴方の心は悼みますか?」

 

「何が言いたい」

 

「どうなんですか?質問しているのは僕の方です」

 

「さあな。特に感じないだろうな」

 

「そうでしょう?結局、他人の不幸なんて知ったことではないでしょう?」

 

「ああ、そうだな。だからそれがどうした」

 

 露伴は次第に苛立ち始めた。

 

「だから、そういうことですよ。人が一人居なくなったところで、それを悲しむ人数なんてたかが知れてる。世界全体で見ればむしろ、僕の作品を待ちわびてくれている人の方が圧倒的多数だ。それだけ沢山の人を感動させることができるのなら、その他の、ほんの一握りの関係者の悲しみなんて気に留める必要もありませんよ」

 

「正気か?やってることは殺人と何ら変わりないぜ」

 

「ですが、世間は実際そうなんです。赤の他人の不幸なんて、自分に被害が及ばない限り知ったことではないんです。だから僕の作品は成立している。僕が作品を出すタイミングと人が一人行方不明になるタイミングが一致しても、その作品の人物が行方不明者と似ている気がしても、世間は誰も気にはしない」

 

 露伴は呆れたように、ただ紺葉の言葉を聞いた。

 

「それに僕もそこまで鬼ではありませんからね。基本的には存在価値のない人間を選んでテーマにしている。最終的に、殆どの人は損をしていないんですよ」

 

「少し前、同じような質問を僕にしてきた奴が居た。そいつは、他人が自殺した時、心が動くかと聞いてきた」

 

 露伴は胸ポケットに常備しているペンを取り出した。あのとき、その男はこの胸ポケットのペンで自殺を図った。今思い出しても迷惑な話だ。

 

「その時に一つ学習したことがあってな。“先手必勝”というやつだ。君みたいなタイプの人間は、いくら話したところで他人の意見を聞き入れやしない」

 

 紺葉に近付き、露伴がペンを紺葉の顔の前まで上げる。

 

「しばらく気絶してもらう」

 

“気絶する”  

 

 そう紺葉に書き込んだ。再び倒れ込んだ紺葉に、更に露伴は書き込む。

 

「とりあえず“安全装置(セーフティーロック)”を掛けておこう」

 

“岸辺露伴に危害を加えられない”

 

 と書き込んだ。これで、仮に紺葉がまた目覚めることがあっても、露伴の安全は保証された。

 

「さて――ああは言っていたが、本当に彼女は戻らないのか?」

 

 紺葉のページを捲り、“塗り込み”について詳しく書かれたものを探す。

 

「あった。これだ」

 

<原理については、自分でもよく分からない。だが、気付いたときには“塗り込み”という才能が自分には芽生えていた。キャンバスに人を“塗り込む”と、ゆっくりと、時間をかけながら絵が完成する。その絵は、塗り込まれたその人の人生を表す。虐待を受けてきた少女を塗り込めば、虐待によって絶望した少女の絵が出来上がる。絵の完成度はその人の人生の深みによって決まる。より濃厚な人生を送ってきた人物の絵ほど、魅力的な傑作となる。塗り込まれた後、絵の中でもその人物が生きているのかは分からない。生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。どちらにせよ、彼らが二度と絵の中から戻ってくることはない。彼らは絵画として、永遠に存在し続けるしかない――>

 

 “塗り込まれた”人々を元に戻す方法は、やはり紺葉さえも知らなかった。露伴のヘブンズドアーには嘘はつけない。真実は全て晒される。

 

「戻ってこないのか、彼女らは――だが、僕にできることはここまでだ。僕のヘブンズドアーでは、これ以上はどうしようもない」

 

 どうにかできるかもしれない心当たりはないわけではない。しかし――

 

「不可逆性、とこいつは表現したな。その摂理に従った方が賢明かもしれないな。特にあの少女――」

 

 露伴は“絶望”の少女を思い出す。

 

「戻らない方が幸せかもしれない。どちらを選んだところで、彼女を待っているのはおそらく“絶望”そのもの」

 

<“塗り込み”を忘れる。跡形もなく>

 

 露伴は紺葉にそう書き込んだ。せめてこれ以上の犠牲者が出ないように。

 

「そもそもネタが分かってみれば――僕はこんなものを芸術としては認めない。“芸術”とはリアリティある創作だ。これはただの、“本物”の流用だ。美術的ではあっても、芸術ではない」

 

 そう言い訳をしながら。

 

 

  *

 

 

<天才画家 突然の引退>

 

 二人の対談が掲載される予定だった雑誌は、担当記者の行方不明とそのビッグニュースにより差し替えられていた。露伴は自室の椅子に座って、今朝刊行されたその雑誌を読んでいた。

 

「<今年初の新作を発表した荻原 紺葉(24)は、発表会の壇上で引退を表明>か」

 

 “塗り込み”がなければ、何もできなかったようだ。今となっては、なぜ自分があれほどの絵を描けたのかすら、彼は忘れている。

 

「だが――世間は無関心、か。それに関してはどうも、奴の方が正しかったようだな。もしくは、絵の放つ魅力はそのための防衛能力か」

 

 机の上の携帯が鳴った。雑誌の編集社からだ。露伴は雑誌を見開いたまま机に置くと、携帯を手に立ち上がって部屋を出た。

 

 雑誌には、荻原 紺葉が発表した新作の絵と並んで写っていた。新作は、無数の白紙が舞う中に立つ女性の全身像だった。




 皆様明けましておめでとうございます。《御神渡》を投稿してから八ヶ月強。Twitterでそろそろ投稿できるかも…?と呟いてからおよそ半年。大変長らくお待たせしました。


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another:06 《独立不撓》

「『凱風快晴』って知ってるか?葛飾北斎の『富嶽三十六景』の一遍で、赤富士を描いたものだ。あれと『神奈川沖浪裏』が最近、それぞれ五千万円ほどで落札された」

 

「北斎って?あの北斎?五千万円は安すぎじゃありません?」

 

「落札されたのは、あくまで版画だ。オリジナルのものでも数千枚は刷られている。主版ならともかく、大量に流通した版画の一枚に五千万円というのは破格だ」

 

「だったら、どうしてそんなお値段が?」

 

「保存状態が良かったからだ。版画というのは、主版さえあれば何度でも刷れる。―浮世絵があの当時流行したのには、そんな理由もあるわけだが――一般に出回ってたわけだから、つまり素人の手にも渡っていたってことだ。そうなると、現在まで良質なまま保存されたものは少なくなる。更に今回のものはより早い時期に刷られていたものだった。だから、より価値が高まったわけだ」

 

「へえ、そうなの」

 

 岸辺 露伴と向かい合って座る女性は生返事を返した。恰幅が良く、“いかにも”な金色のアクセサリーを全身に纏っている。女性が椅子に腰を掛け直すと、ジャラジャラと金属の擦れ合う音がした。

 

 金井 毬亜(まりあ)、39歳。一児の母で、専業主婦。夫はここS市の地元中小企業の社長である。そんな彼女が子供を連れて露伴宅の呼び鈴を鳴らしたのは、まだほんの十五分ほど前の事である。

 

「それで、どうして北斎なんかの話を?」

 

「芸術品というのは、決して外見だけではその価値を判断できない」

 

 露伴は正面の机に置かれた、十五センチ四方の木箱を手に取り、蓋を開いた。

 

「いつ、どこで、誰が作ったのか。勿論例外もあるが、そういった情報が前提として必要だ。それらがあって、初めて“芸術品”としては価値が測られる」

 

 木箱には、高さ十センチほどの土偶が横たわっていた。

 

「遮光器土偶。縄文時代に作られたものの中で、最も有名なタイプのものだ。教科書にも載ってるな。だが、こんな小さなサイズのものは見たことがない」

 

「実家の蔵にあったものですの。祖父が亡くなって、その遺品を整理している中で見付けました。他にも古いものが沢山あったけれども、一番に目についたのがそれ」

 

「聞いたよ、親戚から」

 

 露伴は蓋を閉じると、箱を机に戻した。

 

「鑑定に出そうとも考えたが、場合によっては作品の値段よりも鑑定料の方が高くつくこともある。こんな微妙な骨董の場合、尚更だろうな。それで先に、大まかにでも値打ちのあるものかどうかを知りたい。それを友人に相談したところ、その親戚である僕に何故か話が回ってきた」

 

 それだけアクセサリーに金をかけておきながら、何故そんな所でケチるのか。露伴は小さく息を吐く。

 

「結論から言おう。これが価値のある本物である可能性は低い。そもそも、こんな小さな遮光器土偶は見たことがない。もし仮にこれが本物なら――保存状態は良くないが、資料価値として評価は一変する。だがどちらにせよ、本当の値打ちが知りたいのなら、ちゃんとした所に持っていく事をおすすめするね。この作品に興味は湧いているが、あいにく専門知識に欠ける。今の僕には無理な注文だ」

 

「あらそうなの。それじゃあ困っちゃうわねぇ」

 

 知ったことかと心の中で呟き、露伴は立ち上がる。

 

「さて、それじゃあ僕も仕事があるのでこの辺で――」

 

 ガシャン――――

 

 露伴の言葉を遮るように、背後で大きな物音がした。振り返ると五歳ほどの、毬亜の子供が突っ立っていた。その足元には

 

「何をしているんだあアアアアアアーーーッ!!」

 

 露伴はそれに駆け寄った。

 

「“一反木綿”に“油すまし”――おい“鬼太郎”まで壊れてるじゃあないかッ!」

 

 床に散乱していたのは、棚に飾ってあった水木しげるの妖怪フィギュアだった。

 

「どうしてくれるんだ!五万円はするんだぞ!!」

 

 呆然と立ち尽くす子供に露伴が怒鳴る。

 

「スミマセンねぇ~センセぇ」

 

 椅子にもたれた金井 毬亜が、机に肘を立てて謝罪を口にする。

 

「でも、その辺で許してくれません?子供のした事ですし」

 

「あのなぁ」

 

 思わず露伴は顔をしかめた。

 

「それに、そんな壊れやすいものを、そんな所に置いていた先生にも問題はあったと言うか」

 

 今度は頭を抱える。

 

「――お母さんのところへ戻りなさい」

 

 子供を母親の元まで帰す。安易に家に上げた自分の失態だ。フィギュアをひとまず棚の上に置き直す露伴に、毬亜が語りかける。

 

「やっぱり子供は、のびのび育てた方がいいですからねぇ」

 

 露伴は溜息を吐くと椅子に戻る。

 

「貴方の教育方針にどうこう言うつもりはない。だが“けじめ”は必要だ。それがどのような形であれ、子供の過失は親の責任。弁償しろとは言わないが、せめての態度ってものがあるんじゃないのか」

 

「ですからセンセ、謝ってるじゃないですか」

 

「ああ…そうだな……確かにそうだ…」

 

 嫌な汗が流れる。自分の主張を絶対として曲げない。苦手な人種だ。

 

「その首輪は」

 

 これ以上話を続けても無駄そうだと判断し、露伴は咄嗟に話題を逸した。毬亜の横に立つ子供の首を指差す。鉄状の、銀の首輪が巻かれている。

 

「それもファッションなのか?」

 

 それにしてはダサい。デザインらしいデザインというものがまるで存在しない、無骨なものだ。毬亜の装飾を見るに、どうも自分の子供にそんなものを付けさせるとは思えない。

 

「ああ、それは。何だかよく分からないけれど、この土偶と一緒で実家の蔵にあったもの。気付いたらこの子の首に付いてたんですのよ。何でか、全然外れなくなっちゃったのだけれど…別に不便でもないし、何か面白いからそのままにしてるの」

 

「色々まずくないのか。衛生面とか」

 

「そうねぇ。まあでも、今すぐに病気になるわけでもありませんし。そのうち外しますし?」

 

「あのなぁ…」

 

 言いかけた言葉を飲み込む。額に手を当てて、困惑した表情を作った。

 

「とにかく。お役に立てず申し訳ないが、その掘り出し物は僕が判断できる代物ではない。悪いが、専門家を訪ねてくれ」

 

「そう。じゃあ残念だけれど、おいとまさせてもらうわ」

 

 毬亜は木箱を鞄に仕舞うと、部屋の入り口に立った。

 

「剛ちゃん、帰るわよ」

 

 それが子供の名前なのだろう。だが返事はない。

 

「剛ちゃん?」

 

 毬亜が呼びなおす。やはり返事はない。二人は部屋の中を振り向いて見た。

 

「…剛ちゃん?」

 

 部屋の中には、誰も立っていなかった。

 

「剛ちゃん――どこへ行ったの?」

 

 またあの子、遊んでるのかしら。毬亜が呟く。しかし

 

「いや………」

 

「――――ッ!!」

 

 様子に気付いた毬亜は息を呑んだ。

 

「剛ちゃん!!」

 

 二人が座っていた、部屋中央の接客テーブル。その影に、少年は倒れていた。毬亜が駆け寄る。

 

「ああっ。どうしたのッ 何があったのッ」

 

 少年は、首輪に指をかけ、泡を吹いて気を失っていた。首には赤く引っ掻いた痕がある。

 

「これは…何だ。何が起きている」

 

 しかし、露伴の目は別のものを捉えていた。

 

「何者だッ!お前はアアッ」

 

 露伴が叫ぶ。少年の首を絞め上げる“それ”の姿が、露伴には視えていた。

 

 “それ”は笠をかぶり、蓑で全身を覆っていた。足には藁靴を装着しており、露出している部分は顔と手のみ。その肌は、まるで影のように真っ黒だ。

 

「どうしたの!?剛ちゃん!!ねえ、大丈夫?」

 

「視えて…ないのか…?」

 

 少年の首に手をかける“それ”の姿は、毬亜には視えていないようだった。

 

 

「首…もしかして首輪なの!?」

 

 毬亜が少年の首輪を外そうと引っ張る。だが首輪は、外れるどころかピクリとも動かなかった。

 

「そんな――何でッ!」

 

 毬亜が叫ぶ。

 

「癒着してるッ!!」

 

 間に指を捩じ込む隙間もない。首輪は、少年の首の皮と同化していた。

 

「先生!助けて!剛ちゃんが…このままだと死んでしまう!!」

 

「分かっているッ!」

 

 分かってはいる。だが、この目の前の存在の正体が掴めない以上、迂闊に動いても事態が好転するとは限らない。相手の手の内が読めないうちに、こちらの手の内を晒すのは得策ではない。汗が露伴の頬をつたう。

 

「首輪――首輪が――」

 

 目眩がして、毬亜はしゃがみこんだ。

 

「――“首輪”」

 

 その拍子、過去のある記憶が、毬亜の脳裏をよぎった。

 

 

 

     *

 

 毬亜の実家、金井家は、山間部に位置する集落の地主の家系だった。本家の血族に生まれた毬亜には、成人した兄と、大学進学で別居中の姉が居た。毬亜が五歳の時、姉が婿を取り、入籍を果たした頃のある日の事。突然、父に呼び出しを受けた。

 

「毬亜、こちらへ来なさい」

 

 毬亜が父の元へ行くと、父は何も言わずに毬亜の手を引き、母屋を出た。父が毬亜を連れて向かった先は、敷地の隅にある蔵だった。二階建て分の高さのある大きなその蔵の中へ入ると、父は毬亜の手を離し、そのまま入り口で立ち止まった。

 

「お父さん?」 

 

「毬亜、いいか。これから三十分後にお前を迎えに来る。それまで、この蔵で好きなことをしていていい。この蔵の中のものなら、何でも使っていい。ただし、一つだけ。この蔵から外には出られない。私が迎えに来る三十分後まで、この蔵の中だけで時間を潰しなさい」

 

 毬亜は意味をよく理解できず、無言のまま父を見上げた。父はしゃがみこむと

 

「金井家には、代々伝わる大切な儀式がある。その時は、必ず訪れる。逃れる事はできない。金井家に課された試練だ。私達は乗り越えなくてはならない。いいかい、毬亜。これは大切な事なんだ。三十分間、必ずここに居なさい」

 

 父が蔵の扉を閉めて出ていく。蔵の中、毬亜は一人取り残された。蔵の上部に窓が取り付けられており、そこから射し込む日光で、明かりは確保されている。毬亜は訳もわからないまましばらく立ち尽くした。

 

 五分ほどして、急激に孤独感が込み上げて来る。毬亜は何だか怖くなり、外へ出ようとした。が、外から鍵がかけられたのか、扉は開かない。いよいよ泣き出しそうになったその時、背後で何かが床を打つ音がした。毬亜が振り向く。

 

「あれは――」

 

 蔵の中央、開けた空間に、鉄の輪が一つ落ちていた。周りに棚があるわけでもない。どこから落ちてきた?天井を見上げるも、屋根まで吹き抜けの構造で、物を置ける場所はない。毬亜は首を捻りながらも、恐る恐るそれに近付いた。

 

 それは鉄の首輪だった。直径は十センチ程度。全体が銀色をしていて、結合部のみ、鎖状に編まれている。毬亜はそれをそっと拾い上げると、再び周囲を見渡した。この首輪はどこから来た?やはり何も得られないまま、手元に視線を落とす。

 

「…あれ?」

 

 首輪が消えていた。床に落としたのかと、辺りを探すが見当たらない。急に現れて、急に消えた?毬亜はもう一度首を捻る。その首に、違和感を覚えた。そっと首元に手をやる。その指が、固く冷たい何かに触れた。

 

「……ッ!」

 

 首輪が、首に巻き付いていた。

 

「こ、これって……いつの間に」

 

 繋ぎ目の鎖状部に指をやり、首輪を外そうとする。だが首輪は全く外れる気配を見せなかった。毬亜は辺りを見回した。何か、これを外せる道具はないか。錆びたノコギリなどは、手の届かない高さにはある。しかし、あれでは金属は断ち切れない。

 

「お父さん…!」

 

 毬亜は扉に飛び付いた。

 

「お父さん!開けて!怖い!―――開けろぉぉぉぉぉッ!」

 

 拳で扉を叩く。だが、それが開かれることはない。しばらくは叫び続けていた毬亜も、やがて疲れ果て、その場に座り込んだ。

 

 放置されてから、一秒も狂うことなく、きっちり三十分が経つと、扉が開かれた。

 

「毬亜、起きなさい」

 

 入り口に立つ父を毬亜は睨み付けた。

 

「首輪は――見付けたようだな。だが、試練はこれで終わりではない。いいかい、毬亜。これは乗り越えなくてはならない。お前の兄も、姉も、これを乗り越えた。勿論、私も」

 

 手を握り、毬亜を無理やり立ち上がらせる。

 

「これからしばらくの間、その首輪をつけたまま生活しなくてはならない。――無理やり外そうとしても駄目だ。それを自分の意志で外すことは不可能だ」

 

 不貞腐れた顔で指を首輪から離す。父に連れられ、毬亜は家に戻った。

 

 

 およそ一週間の間、毬亜は首輪を着用しての生活を強いられた。入浴時も、就寝時も。そろそろ首輪の存在にも慣れてきたかという頃。十月の、涼しい夜の出来事。毬亜は息苦しさを覚えて目を覚した。鈴虫の音が耳に障る。何だか悪寒がして心細くなった毬亜は、隣で眠る両親を起こそうと、上体を上げた。その瞬間、息が出来なくなった。

 

「グ……ガぇ…」

 

 首元を触る――――首輪だ。首輪が、毬亜の首を絞め付けていた。隙間に指を滑り込ませようとする。しかし、子供の細い指が入るほどの隙間さえなかった。ぴっちりと首に張り付いている。

 

 死ぬ――

 

 首を掻きむしる。首輪は更に縮まっているようだった。意識が途切れがちになる。毬亜は仰向けに倒れ込んだ。――苦しい。視界が真っ暗になる。

 

 

 

    *

 

 

 毬亜は、無意識のうちに首に手をあてていた。記憶はそこで途絶えていた。その後自分がどうなったのか。今生きている時点で、助かったようであることは理解できる。

 あの首輪――息子の剛士の首に巻かれているものと全く同じだった。しかし、自分と同じように息子が助かるだろうか。

 

 気を失ってからどれくらいの時間が経っているのか。もう時間がない。露伴は打って出ざるを得なかった。

 

「気に入らないガキではあるが――目の前で死なれる方が困るぞッ!こいつの正体は全く掴めないが、しかし!やるしかない!ヘブンズドアーッ!!」

 

 少年の首を絞める“それ”に対し、ヘブンズドアーを発動させる。笠の下の頬の皮が捲れ、本のように開く。

 

「ヘブンズドアーを気にも止めない…やはりこいつ、“人”ではない」

 

 露伴のヘブンズドアーを受けた者は、大方が衝撃を受けて気絶する。そうでなくとも、並の人間ならば怯んで少年の首から手を離すかするはずだ。しかし“それ”はそんな様子も見せず、少年の首を絞め続けていた。

 

「だが、気にも止めないと言うのなら。今のうちに全て暴いてやる」

 

 ヘブンズドアーに抵抗を示さないのであれば。露伴は“それ”に一歩近寄った。

 

「《これは試練だ》」

 

 ヘブンズドアーによって曝け出された情報を露伴が読み上げる。

 

「《金井家に伝統的に伝わる、重要な試練。避けてはならない。避ける事は出来ない。そしてこの試練を乗り越えた者のみを、金井家の子孫であると認める》…コイツは…コイツはッ」

 

 文章は続く。

 

「《金井家に必要なのは、己の力で困難を乗り越えられる血。これはその為の試練である。その為の選別である。何人たりとも。例えそれが神の加護であろうとも、この試練に介在することは許されない。己の力のみで、乗り越えなくてはならない。それが、金井家に必要とされるもの》…何人たりとも介在できない…」

 

 “手を放す”

 

 露伴は試しにそう書き込んだ。しかしその文字は直ぐに染み込んで消えた。

 

「ヘブンズドアーはきかない…ッ ルールなんだ。この子が、自分で助からなければならない。そういう金井家に課されたルール!我々はただ見守ることしか許されない!」

 

 この“試練”という概念そのものは悪意あるものではない。露伴の言ったように、これはルールであった。物理的概念ではない。“そうしなくてはならない”という規則。定義。

 

「この少年に頑張ってもらう他に手立てはないか…」

 

 何より、そういうルール。それを破ってこの少年を助けることは、おそらく全くの不可能というわけではない。しかし。露伴は考えを巡らす。金井家は、この少年に繋がるまでの全ての先祖は、これを体験し、そして乗り越えてきている。だからこそ、ここに少年が存在する。ならば乗り越えられない試練ではないのだ。露伴はそっと少年から離れた。

 

「あ…あ…」

 

 毬亜が口元を押さえる。露伴は祈った。これで死なれては目も当てられない。

 

 直後、少年が大きく咳き込んだ。

 

「剛ちゃん!」

 

 毬亜が飛び付く。蓑の姿のそれは、いつの間にか消えていた。

 

「乗り越えた…のか?」

 

 毬亜の肩越しに、露伴も覗き込む。毬亜は少年を抱きかかえた。

 

「良かった。良かったわ剛ちゃん」

 

「なあ君、無事かい?自分に何が起こったか、分かるか」

 

 少年は露伴を見詰める。

 

「何があったか、話せるかい」

 

「先生、今はこの子を休ませたいの」

 

 毬亜が遮る。露伴はそうかと頷いた。

 

「それじゃあ、そこのソファに寝かせよう。救急車も呼んだ方がいいかもしれないな。僕がこの子を運ぶよ」

 

「じゃあ私、救急車を」

 

 まだ気が動転しているのか、毬亜は無警戒に露伴に息子を渡した。預かった露伴が部屋のソファに寝かせる。それから、ヘブンズドアーを発動させる。

 

「疲れただろう。少し眠っていればいい」

 

 露伴のヘブンズドアーにより、少年の意識が飛ぶ。毬亜は救急車を要請している。到着するまで五分やそこら。時間はある。露伴は少年の記憶を追体験した。

 

 

 

   *

 

 知らない場所。真っ暗で、何も見えない。さっきまで有名な漫画家さんの家にいたはずなのに――ここはどこ?お母さんは?

 

 少年が後ろを振り向く。知らない人が遠くに立っていた。三角の帽子をかぶっている。笠だ。

 

「君はもう帰れないよ」

 

 その人が言った。男の声だった。こんな遠くに居るのに何故こうもはっきりと聞こえるのだろうか。

 

「君は、私と永遠にこの場所で暮らすんだ」

 

 何だって?少年は眉間にしわを寄せた。

 

「帰れないって、何?」

 

 嫌だよ、そんなのは。男が少年に近付く。

 

「言い過ぎたかな。帰れないわけではないんだ。ただ、簡単ではないというだけで」

 

 男が少年の前に座り込む。輪郭ははっきりしていたが、顔のパーツは識別できないほど、全体が真っ黒だった。

 

「君は…元の場所に戻りたいかい」

 

 当たり前じゃあないか。少年が頷くと、男は直ぐに立ち上がった。

 

「なら出口を教えよう。こっちの方角にひたすら進むんだ」

 

 そう言って、男は少年から見て左を指差した。…それだけ?

 

「ただし君の足で歩いた場合、出口に着くまでに二ヶ月分ほどの時間がかかる――それでも帰ろうと思う?」

 

「こっちでいいの?」

 

 少年は男に方角を確認すると、直ぐに歩き始めた。二ヶ月分ほどの時間――少年は何を考えているのだろうか。まだ、この空間がどこかなのさえ分かっていない。男はそれ以上話し掛けて来なかった。

 

 それから少年はひたすら歩き続けた。昼や夜という概念がこの空間にはなかった。ただただ、闇がどこまでも続いている。何日経ったのかは数えられない。空腹や眠気は一切感じないようだった。だが、ひたすら寂しさが込み上げて来る。どれだけ歩いても出口は見当たらなかった。

 

 途中、嫌になったのか何度も少年は座り込んだ。その度、どこからともなくあの男が現れ、

 

「諦めたかい」

  

 そう少年に尋ねた。

 

 ここで、知らないこの男と暮らす方が嫌だ。尋ねられる度、少年は立ち上がって歩いた。ひたすら歩いた。

 

 ある時、前方遠くに突然光が現れた。出口だと少年は直感した。帰れる。光目指し、少年は駆けた。光に到達する。今度は、周囲が真っ白な光に包まれた。

 

 気付くと、少年は涙を流す毬亜に抱かれていた。岸辺 露伴の家だった。夢でも見ていたのだろうか。少年は不思議な感覚に包まれていた。

 

 

 

   *

 

 救急車のサイレンが聞こえて、露伴は文字から目を離した。今、追体験した少年の記憶…“あの男”が登場していることから、ただの夢ではないことは間違いない。しかし、夢の中の男に覚える違和感は何だ?露伴の目撃した男と、少年が出会った男。姿は同じだが、中身が異なるかのような印象を、露伴は感ぜずにはいられなかった。

 

 サイレンが止まる。毬亜はいつの間にか家の外に居た。隊員をこの部屋まで誘導しようとしている。露伴はその場を動かないでいた。少年を一人にするのはまだどこか不安だ。

 

 金井家の試練だと、男にはそう書いてあった。何のための試練なのだ?露伴は考える。

 

「“他者の介在は不可能”それが試練のルールだったな」

 

 ならばおそらく、この試練が求めていたものは“他者の力に頼らない”こと。己自身の力で目の前の問題を解決する能力。そこまでは推測できる。だが、その目的までは分からない。そこから先は、結局のところあの男と、試練を越えてきた金井家の人間にしか理解できないのだ。

 

 少年と毬亜を乗せ、救急車が走り出す。それを見送り部屋に戻った露伴は、フィギュアの事を思い出した。

 

「まあいいさ。興味深い体験をさせてもらった。それでチャラだ」

 

 毬亜の態度はやはり気に食わなかったが。

 

 カラン

 

 露伴の足が何かを蹴った。

 

「…これは」

 

 首輪が落ちていた。拾い上げて観察する。

 

「このまま僕が持っててもいいものなのか?」

 

 少年はこの首輪をしていた。あの男は少年の首を絞めていた。そして、少年が試練を乗り越えた今、首輪が外れた。おそらくこの首輪が試練の鍵だという事は分かる。

 

 まあ大丈夫だろう。首輪を机の上に置く。必要なものなら、そのうちに取りに来るだろう。

 

「金井家…興味深いな」

 

 金井家には掟があった。己の問題は己の力で解決し、他人を巻き込まない。そういう人間に育ち、そういう人間を育てなければならない。そのための教育を。そのための試練を。試練を通し子は掟を、親は教育方針を、その身に刻む。

 室町時代から続く金井家の伝統。これからも続く、名家に相応しい人材を育てるための責務。

 

「格式ある家に生まれるってのは、それはそれで大変なのかもな。ま、僕には何の関係もない話だ」

 

 現代の喧騒から隔離された村に続く伝統。いいネタになりそうだ。外の空気を吸いながら、構想を膨らませてみよう。

 

 露伴は町へ繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 




 お待たせしました。私事情に一段落がつき、やっと活動再開ができました。

 一ヶ月ほど前から執筆を再開し、二作連日投稿なども考えていたのですが、しばらくの間一切小説に触れていなかったせいか思うように文章が書けず、やっと投稿にこぎつけた今日は、もう3月の終わり。書き上げられたのは一作。その間三作ほど没作品が出来てます。ごめんなさい。

 これまでほどではありませんが、4月も多少忙しくなることが予想されますので、今度の更新は5月あたりになるかもしれません。

 質的には微妙かもしれない本話ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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another:07 《プレゼンス・フロッグ》

 目が覚めると、まだ意識が覚醒しきらないうちに家を出る。例え起きたのが午後であろうと、締め切り当日であろうと、同じコースを同じ時間、三十分たっぷりかけて歩く。それが小説家 天地 世命の日課だった。

 

 家を出て十分、駅前の大通りに辿り着く。比較的交通量の多いその通りの喧騒は、やっと働き始めた天地の頭に刺激を与える。

 それからカフェの前を通り、コーヒーや紅茶などの匂いに胃を鳴らす。駅の手前でUターンをし、脇道に逸れて往路とは違うルートで家へ帰る。

 帰るとまずコーヒーを淹れ、簡単な食事を作り、いっときの休息を得る。起床から一時間と少し。書斎の机に座り、仕事を始める。

 それが彼の日常だった。

 

 

 その日の天地 世命は、非日常な気分だった。昨晩、しばらく停滞していた原稿の入稿が完了し、開放感にあふれていたせいかもしれない。普段引き返す駅前の噴水広場。そこをつっきり、駅の構内にまで歩を進めた。

 時刻は夕方の五時。定時退社のサラリーマンや学生が、駅の外へと流れていく。その波に逆らうように天地は駅へ侵入する。

 

 彼は人混みを好む男ではない。だが今日だけは、気分が違った。むしろ何者にも逆らってしまいたいような、何も恐れないような、そんな高揚感を覚えていた。

 

 特にあてもないまま、駅の最奥へ足を運ぶ。とはいえ人の流れの勢いは凄まじく、天地は自然と道の端へと追いやられていった。

 

 券売機の手前、小さな売店で飲み物を買う。売店を出ると、道を引き返すことにした。歩きながら天地は、何か違和感を覚えた。

 

 人の流れ方がおかしい。

 

 真っ直ぐではなく、天地のいる壁側に一部大きく膨らんでいる。対面の壁際に障害物でもあるのだろうか。明らかに、何かを避けているかのような流れだ。

 

 天地の好奇心が騒ぐ。実際のところ、大したことではないのかもしれない。誰かが立ち止まっているだとか、ちょっと大きな落とし物が落ちているだとか、そういう些細な理由かもしれない。だが、それが結果的につまらない理由だったとしても、それは天地にとって問題ではない。ただ気になったことを知りたい。天地にとって、ひいては創作作家にとって、十分な行動動機だ。

 

 人混みの中を天地は無理やり横切った。迷惑がる周囲の視線が刺さる。だが、今の天地はそんなことは気にしていない。疑問を解決することが優先事項だ。掻き分けた先には――

 

「あれ、露伴先生じゃないか」

 

 岸辺 露伴がしゃがみ込んでいた。天地の目下、露伴の目の前には、男が一人倒れている。人々は、二人を避けて流れているようだった。

 

「天地 世命――いい所に来てくれた。救急車を呼べ!今、直ぐに!」

 

 露伴が叫ぶ。天地は即座にポケットから携帯を取り出し、119を押した。

 

「その男性。容態はどうなんだ」

 

 コールの間、天地が訊ねる。

 

「既に体温はない。念のため、これから心肺蘇生を試みる。AEDも必要だ…だがクソ!なぜ誰も手助けをしないッ!」

 

 人混みに向かい、露伴が叫んだ。しかし、こちらへ視線を向けるものは一人として居なかった。

 

「さっきからずっとこうだ…誰も見向きもしない。反応しない――何なんだこいつらッ 面倒事には首を突っ込まないって判断か?人命の問題だぞ――ッ」

 

 露伴が三度叫ぶ。天地は電話が繋がるのを待った。

 

 

 

     *

 

 露伴の最も苦手とする絵の一つに、空の絵があった。

 

 場所、季節、時間帯、気温、風向きや大気状態など、様々な条件によって、空は無数の姿を見せる。全く同じ空が二度と現れることはない。だから露伴も、二度と同じ空を描くことを嫌った。

 

 その上、空の絵を描くとき、そこには無限の可能性が秘められる。雲の形一つ取っても、想像でいくらでも生み出すことができるのだが、露伴が求めるものは何よりもリアリティだ。適当に雲を描くことは、彼のポリシーに反する。

 自身の描く世界での法則に従って雲も形作られ、動かなければならない。恣意的に露伴の手が加えられたような空の絵は、露伴自身が一番許せなかった。

 

 そのため彼は空を描くとき、いつも本物の空を参考にした。外に出かけ、自然を肌で感じながら空をスケッチする。そうして、どこで、どんな条件のとき、どんな空模様が生まれるのか、それを実体験する。それをデフォルメしながら自身の漫画に落とし込むことで、露伴はリアリティある空を描いていた。

 

 露伴がその日、駅の向かいの公園に赴いたのも、空のスケッチという目的があってのものだった。敷地の一角に設けられたベンチの端に腰掛け、穏やかな春の空を写し描く。

 

 しかし露伴の胸中はというと、実はそれほど穏やかではなかった。原因の一つは花粉症だ。日本人のおよそ四割が悩まされているアレルギーだが、御多分に漏れず、露伴も苦労を強いられていた。漫画家というのは基本インドアな職業ではあったが、露伴に関して言えば外出の機会は多く、そのため花粉症の影響は辛いものがあった。

 

 そしてもう一つ、露伴はどうしてもあることが気になっていた。

 

 最近どうも、杜王町の空が変わってき「」ている。杜王町のあるM県S市は“杜の都”として知られ、空気も比較的キレイだ。そのはずれ、沿岸部に位置する杜王町は、ここしばらく都市化の計画が進行しているものの、空気がよ「s……ま…e…」く澄んだ町だった。

 それが最近徐々に、都心の空気に侵略されてきている。空を淀みを見せるようになり、空気が生ぬるくなった。  

 そういった都会感のある空気が、露伴はあまり好きではなかった。たからこそ、交通の不便さを「す…ませ…n」知った上で、この杜王町に暮らし続けている。だというのに

 

<これでは、まるで都市部と変わらないじゃあないか>

 

 心の中で、露伴は悪態をついた。

 

「あの、すんません」

 

 肩を叩かれて、露伴はやっと男の存在に気付いた。

 

「これ、あんたのスか?」

 

 男が露伴の足元を指さす。500mlの空のペットボトルが転がっている。

 

「いや。僕のじゃないな」

 

「じゃあ誰のスかね」

 

「さあな。少なくとも僕のものではない、ということだけは確かだ。それ以上の答えを求められても困る」

 

「あんたは気付かなかったんスか、このゴミの存在」

 

 短く刈り上げた頭に、どうも似合わない白無地のシャツの彼を露伴は見上げる。年齢は20代前半。

 

「気付かなかった、という答えではどうやら満足しなさそうだが…」

 

 顔をしかめた男を見て、露伴は眉をひそめる。

 

「初対面の君に難癖つけられるほどの行為を僕がしていたとは思えないがな。違うか?」

 

 彼は溜息を吐くとペットボトルを拾い上げた。それからポケットに手を突っ込む。取り出したクシャクシャのビニール袋の中に、乱雑にペットボトルを投げ込んだ。

 

「どうしてこう、人ってのはみんな周りの環境にすら興味を向けないんスかね」

 

 男が露伴の隣に腰を下ろす。

 

「例えばポイ捨てだって、どんな神経してたらゴミをそのへんに投げ捨てようって発想になるんだか」

 

「言っとくが、そのペットボトルを捨てたのは僕じゃないからな」

 

「それはさっき聞きました――この杜王町だって町の至る所にゴミ箱が設置されてるっていうのに、道端に捨てられるゴミは一向に減らない」

 

 何でですかね。彼は露伴の顔を覗き込んだ。怪訝な顔をしつつも、露伴は答えた。

 

「それこそ周りに興味がないから、だろうな。町中がゴミだらけになろうが知ったこっちゃないって奴がゴミを投げ捨てるし、周囲の人間も見て見ぬふりをしたり、そもそも気付かなかったりする」

 

「じゃあ、何ンで興味がないんスかね」

 

「僕も知りたいくらいだね。その根源は僕にも読めない――それよりも」

 

 露伴はスケッチブックを閉じ、男に顔を向ける。

 

「僕はむしろ、普通の人が興味を示さない、それに興味を持っている君のことの方が気になるね。何故君は人が周囲に興味を持たない、そのことに疑問を抱いているんだ。その動機は何だ」

 

 今度は露伴が、彼の目を覗き込んだ。

 

「別に。深い理由はありませんスよ。ただ何か、この町が汚れることに抵抗を感じない奴が気に入らないだけっス」

 

 男は露伴から目を逸らすと、いきなり立ち上がった。

 

「とにかく。ポイ捨て、あんたはしないで下さいよ。これからも」

 

 男が立ち去る。おかしな奴も居るもんだなと思いながら、露伴は再びスケッチブックを開いた。

 

 

 ぶどうヶ丘高校の放課を知らせるチャイムが聞こえて、露伴はスケッチの手を止めた。熱中するせいで、露伴はよく時間を忘れる。駅周辺で空のスケッチをするときは、いつもこの高校のチャイムが終了の合図だ。ペンを胸ポケットに仕舞い、スケッチブックを小脇に抱え立ち上がる。

 喉の乾きを覚えた露伴は、帰りに何か買っていこうかな等と考えながら帰路に着く。そして今日出会った彼のことを思い出した。

 

「“人は何故周囲に興味を示さないのか”だったか。少し僕も、視野を広げてみると面白いかもな」

 

 とはいえ露伴は職業や性格上、常に周囲に対しアンテナを張っている人間だった。本人にとっては既に無意識上での行為であったため、どれだけ帰り道の風景をじっくり眺めても別段新しい発見のないことに、露伴は首を捻った。

 

 駅の高架下を過ぎたあたり。露伴は初めて“発見”をした。個人商店などの小型家屋の建ち並ぶその間の路地。何者かが、こちらに背を向けてしゃがみこんでいる。

 

 何でもいい。とにかく発見だ。喜んだ露伴は、好奇心をもって近づいた。

 

「なあ、そこで何をしてるんだ」

 

 気分でも悪いのか。言いかけたところで、相手が振り向く。

 

「あんた、さっきの――」

 

 彼だった。

 

「君か。どうしたんだ、こんなところで」

 

「いや、ただ――」

 

 彼が自身の足元に視線を落とす。露伴は肩越しに覗き込んだ。

 

「猫――死んでるのか?」

 

 全身の毛が茶色の、成猫がピクリとも動かずに横たわっていた。

 

「ええ。野良なのか飼い猫なのかも分からないんで、どうしようもないんスけど――ただ、飼い猫であるなら飼い主を探してあげたいっスね」

 

「そうか」

 

 露伴はいっときの思案を挟んだ後、彼の肩に手をかけた。

 

「少し、いいかな」

 

 男にどいてもらい、しゃがみ込んで猫の毛にそっと触れる。

 

 ヘブンズドアー。猫の皮膚がめくれ、その記憶が現れる。

 

「飼い猫だな。品種は日本猫か。“タマ”と呼ばれてたみたいだな。飼い主は――この近くじゃないか」

 

 男にも聞こえないほどの小さな声で呟くと、露伴はすっと立ち上がった。

 

「飼い猫だな。この近くの住宅地をあたってみよう」

 

「猫は――」

 

 猫を放置したまま歩き出した露伴に、男が聞く。

 

「触らない方がいいぜ。飼い猫とはいえ、どれくらいそこに放置されてるかも分からないんだ」

 

 

 体裁上、露伴はなるべく多くの家を回った。飼い主が誰なのかは既に知っていたが、いきなり訪ねては、相手にも男にも不審がられる。六軒目で飼い主を訪問し案内を終えた二人は、飼い主の感謝を背に立ち去った。

 

「人の良さそうな飼い主さんしたね。良かったっス。報告できて」

 

 どうやら男の家は露伴と同じ方向らしい。すっかり暗くなった道を二人は並んで歩いた。

 

「あれも同じなのか?昼に言っていた“町が汚れることを気にしない人が嫌い”という動機か?」

 

 露伴がそう切り出した。

 

「猫の件スか?まあ――動機は同じっスね…それがどうかしたんスか」

 

「単なる好奇心だよ。つまり君は、猫の死体を“町を汚すゴミ”であると認識し、それが放置されていることに憤りを覚えたと、そういうことになるが」

 

「そうじゃあないっスよ。ただ…」

 

 男が足を止める。

 

「ただ?」

 

 露伴も立ち止まり、男の答えを待った。男は小さく深呼吸をした。

 

「そもそも、それは本当の動機じゃないんスよ。建前と言うか、何と言うか。違う人に会う度に毎回毎回、何度も同じ説明をするのが嫌で、それで簡潔な理由を適当に作ったんスよ」

 

「なら、本音は何なんだ」

 

「――俺、持病があるんスよ。急激に進行するタイプのものじゃないんで直ぐには死にませんし、今はまだ普通に生活してますけど、あと十五年も生きられるかどうか。十代のときはヤンチャしてたんすよね。周りに迷惑ばっかかけました。だからその分、残り少ない動ける時間で、何とか社会に恩返ししたいなと思ってて」

 

「それで、誰も気にも止めないような事を進んでやってるってことかい」

 

 男は頷く。

 

「今から何か大きなことをやるには、時間も足りないスから。そういう小さいことで、少しずつ返してこうかと」

 

「そうかい、どうもありがとう。これで納得した」

 

 さて、と露伴が踵を返す。

 

「僕はもう帰るよ。また縁があったら少し話そう」

 

 自分の死期を知った人間はどのように物事を感じ、考えるのか。露伴は男に興味を抱いた。

 

「俺も是非、ゆっくり話したいです。岸辺先生」

 

「知っていたのか」

 

 首だけを回し、露伴は彼を見据えた。

 

「ええ、勿論スよ」

 

「そうか――ちょっとこれを見てくれないか」

 

 露伴は胸ポケットからペンを取り出すと、男の顔の前にかざした。

 

「ペン、スか。これがどうか?」

 

「なに、ちょいと約束をしてもらうだけさ」

 

 

 

   *

 

 

 杜王駅に到着した電車の扉が開く。どっと車内から人が一斉に降りてきた。ちょうど会社や学校の終わる時間帯。車内もホームも、帰宅途中の人々で溢れかえっている。出掛け先の取材でインスピレーションを得て、創作意欲に掻き立てられていた露伴も、飛んで帰ってきたことに若干の後悔を感じた。予定通り一時間後の電車に乗っていれば、こんなごった煮の状況は避けられたはずだ。

 

 人の流れに身を任せ、階段を下ってホームを出る。そのまま改札を過ぎ、構内を外へ向かう。

 

 ドン

 

 何か重いものを蹴った。露伴は一瞬、前へつんのめった。体勢を立て直したところで、後ろを歩いていた人が露伴の背にぶつかる。

 

「これは――ッ」

 

 露伴を無言で睨み付け、その人が通り過ぎる。しかし露伴は、既にそれどころではなくなっていた。

 

「こいつは、この前の!」

 

 露伴の蹴った重い何か。それはこの間出会ったあの男だった。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 男は目を見開いたまま、仰向けに倒れていた。露伴は地面に片膝をつき、彼の耳元で叫んだ。しかし返事はない。すぐに首筋の動脈に指を当て、脈を確認する。

 

「冷たい――どういうことだ」

 

 男の体からは、既に体温が奪われていた。つまり、脈が止まってから数時間は経過していることになる。

 

「この人だかりの中だぞ。何時間も人が倒れたまま放置されるわけがないじゃあないか!」

 

 今も、駅は帰宅の人々で溢れている。これだけの人の中、何故騒ぎにならない。

 

「おい!誰か手伝ってくれ!」

 

 人混みに露伴は叫んだ。

 

「一人じゃあ手が回らない!――誰でもいい!反応しろぉッ!」

 

 だが振り向く者は居ない。それどころか、視線を寄越すことさえしない。 

 

「何なんだコイツら。僕達が見えていないのか?」

 

 いっそ、ヘブンズドアーで無理やり手伝わせるか。そう思った矢先、一人の男が、人の波を掻き分けて現れた。

 

「あれ、露伴先生じゃないか」

 

 聞き覚えのある声。見覚えのある顔。

 

「天地 世命――」

 

 露伴は天地のことが嫌いだ。普段見せる、誰にでも愛想がよく馴れ馴れしい性格はムカつくし、それでいて、何か得体のしれない“裏”を持っている。そして露伴は、その“裏”を不気味に感じていた。だが、今はそうも言っていられない。せっかく現れた、助けの舟。

 

「いい所に来てくれた。救急車を呼べ!今、直ぐに!」

 

 天地が携帯を取り出す。状況をすぐに察し、手際よく動いてくれる。このあたりは、むしろ天地でいてくれて助かったかもしれない。

 

「その男性。容態はどうなんだ」

 

「既に体温はない。念のため、これから心肺蘇生を試みる。AEDも必要だ…だがクソ!なぜ誰も手助けをしないッ!」

 

 再三、人混みに向かって叫ぶ。やはり、ほんの少しばかりの反応を示す者さえいない。

 

「さっきからずっとこうだ…誰も見向きもしない。反応しない――何なんだこいつらッ 面倒事には首を突っ込まないって判断か?人命の問題だぞ――ッ」

 

 駄目だ。これ以上は意味がない。露伴は男へと視線を戻す。

 

「天地 世命、それが終わったら駅員とAEDを持ってきてくれ」

 

「分かった」

 

 露伴は男に対しヘブンズドアーを使った。

 

<死 死 死 死 死 死 死 死 死 死 …>

 

 現れたのは、延々と綴られた“死”の一文字。ヘブンズドアーで読める情報がこれだけということは、つまり――

 

「手遅れ…か」

 

 それは、その肉体がただの物質になったことを意味する。精神の、魂の抜け殻。露伴のヘブンズドアーによる命令も、こうなると抗力を発揮しない。

 心肺蘇生は試みてみよう。だが、ほんの少しの希望すらも望めそうにはない。

 

 男は幸い仰向けの格好だ。露伴は両膝を床につくと、男の胸骨の中心に掌を置いた。両手を重ね、そこに体重を乗せる。三十回程度の圧迫を終えると、露伴は一旦手を止めた。

 人工呼吸をするべきか否か――死後、体温が完全に奪われるのには、数時間から数十時間を要する。胸骨圧迫は実施してみたものの、蘇生の望みはない。人工呼吸はむしろ、露伴が感染症などのリスクに晒される心配もある。

 

 露伴はもう一度男の記憶を読んだ。

 

<死 死 死 死 死 死 死 死 死 死 …>

 

 変化はない。一瞬の逡巡の後に、露伴は蘇生を断念した。天地はいつの間にか姿を消していた。救急車を呼び、駅員とAEDを取りに行ったのだろう。

 

 露伴は男を観察した。特に苦しんだりした形跡もなさそうだ。その場で、バタリと倒れたようだ。右手にはコンビニのビニール袋。中身は。何か物を買ったのか?それとも。露伴は内容物を確認する。

 

「やはりゴミか」

 

 出会ったあの日、露伴の前でもそうしていたように、袋の中には十数個のゴミが入っていた。ペットボトルや缶、タバコの吸い殻まである。

 

「残念だ。こんなことをできる人間が、今の社会に、いったいどれくらいいるのか」

 

 男へと視線を動かす。その目が、彼の顔で止まった。

 

 男の口の中から、ゾロゾロと何かが這い出て来た。

 

「虫、いや――蛙?」

 

 数えると、十匹は超える数がいる。体長が小指の先ほどの、黒色の小さな“蛙”。世界最小のカエルは8mm程度だが、それくらいの大きさだ。だが、カエルにしては形が歪だった。体長に対し胴の幅が細く、手足が体に比べ長かった。全体的に細長いシルエットは、カエルというよりも、ゴミムシやカミキリムシなどの甲虫に近かった。

 

「何だ、この生き物は――見たことがないぞ」

 

 好奇心の塊、知識魔である露伴といっても、各分野に深く精通しているわけではない。だから知らない生物がこの世に存在することは不思議でないし、むしろそのような存在について知りたいと、露伴は思っている。だがこの日本の、しかも地元に自分の知らない生物が存在する。露伴にとってそれは不思議だった。

 

「新種か?」

 

 本当にこれまで未発見の生物だったか、それとも外来種か。この二択だ。

 

 不自然に放置された男の遺体。その彼の口から出てきた、この“蛙”。

 

「何か、関連があるはずだ」

 

 露伴の血が騒がないはずがなかった。

 

「知りたい」

 

 こいつらは一体どんな生き物で、どのような生態なのか。何故、男の口から出てきた――

 

「ヘブンズドアー!」

 

 露伴は、一匹に能力を発動させた。“天国への扉(ヘブンズドアー)”が開かれる。

 

<食>

 

 そんな文字が飛び込んできた。

 

 ヘブンズドアーは、対象の体験や記憶を露伴の知る言語情報に変換させる。しかしそれは万物に有効というわけではない。勿論遺体には効かないし、相手の知能程度が低い場合もうまく発動しないときがある。つまり相手が“記憶”を持たない、持っていたとしてもごく少ない容量しかないとき、情報は非常に簡素なものになる。

 

 この“蛙”も、知能はほぼ持ち合わせていないようだ。読み取れる情報は“食”の一字のみ。

 

「こいつらの思考はつまり今、“食”一色というわけだ。こいつらは今――」

 

 十数匹の群れが、露伴に向かって男の上を這う。

 

「“餌”を欲している!そしてその“餌”とは!」

 

 男の胸のあたりまでやってきた“蛙”達が、露伴めがけ一斉に跳ねた。

 

「対象は今、僕に向いたッ‼」

 

十数匹に対し、ヘブンズドアーを発動させる。だが能力は発動したものの、一匹たりとも動きを止めることはなく、露伴の腕に飛び付いた。全ての“蛙”の、全ての文字が“食”だ。

 

 振り落とそうと、露伴が腕を挙げる。

 

「なっ」

 

 それだけで、あっさりと“蛙”の群れは床に落ちた。予想外の出来事に露伴は気の抜けた声を漏らした。露伴はしかし、直ぐに状況を理解する。“蛙”達は落とされたのではない。自ら落ちたのだ。

 

「既に用は果たした、というわけか」

 

 “食”の文字が次々と消えていく。そして消えた箇所に、新しく文字が現れた。

 

「“存在感”――こうもはっきり示してくれるとはな…」

 

 冷や汗が頬を伝う。

 

「露伴先生!」

 

 天地が駅員を連れて戻ってくる。露伴は二人を一瞥すると足元の“蛙”に視線を戻し、そして確証を得た。

 

「やはり、文字が“食”に戻ったな」

 

 “蛙”が一斉に天地達の方を向く。

 

「こいつらの“餌”は文字通り“存在感”だ。そして今の標的はおそらく二人。なら!」

 

 露伴は男の握っていたビニール袋をひったくるようにして取ると、中のゴミを全て床へ打ち捨てた。

 

「こいつらは、二人に向かって一斉に跳ねる!」

 

 “蛙”が天地達に向かって跳ねた。露伴は両手を使い袋の口を大きく開くと、跳ねた“蛙”を全て袋に包んだ。

 

「捕獲した」

 

「露伴先生――何を…」

 

 突然の露伴の行動に天地が戸惑う。それを尻目に、露伴は袋の口をキツく縛った。

 

 救急車のサイレンが聞こえた。駅員が対応のために駆けていく。突然の救急車に周囲は騒いだ。だがやはり、露伴達の様子に気付く者はいない。

 

「先生、その袋は――何があったんだ」

 

「少し黙っててくれ」

 

 露伴は考えを巡らせた。男の死因はおそらくこの“蛙”だ。“存在感”を食われた。食い尽くされて死んだ。だから駅で死んだまま長時間、誰にも見付からなかった。“存在感”がなかったからだ。では男は“存在感”を食われて死んだのに、何故同じように“存在感”を食われたはずの自分は無事なのか。

 

「おそらくだが、“蛙”が一度に食う“存在感”の量はそれほどではない。だから、僕からすぐに離れたし、僕は死んでもいない。彼はきっと長い間、何度も何度も食われていたに違いない。その原因はきっと――」

 

 床にぶちまけたゴミを、露伴は眺めた。

 

「“存在感”のない、町に捨てられたゴミ――気付く者は少ない。そして稀に現れる、それらのゴミに気付き、触れた者。その者達から“存在感”を得る」

 

 だから露伴もこの“蛙”の存在を知らなかった。彼らはひっそりと、食物連鎖の陰で生きているのだ。

 

「だから“餌”が“存在感”なんだ。住み処が分からなければ、外敵に認知されない。他の種と触れ合う機会も少ないから、生態系が崩れることもない」

 

 そうやってバランスを取っているのだ。

 

 だが彼は違った。男を見下ろす。

 

 彼は気付けてしまった。自然の隅にひっそりと住む、それらに。“蛙”達からしたら、彼のような人間は恰好の“餌”に違いない。

 

「なあ天地 世命」

 

 背中の天地に露伴は問いかける。

 

「真面目な奴が損をする、って言うことあるよな。あれ、どう思う」

 

「いきなりどうしたんだ」

 

 それには露伴は答えない。

 

「今の世の中のことを言いたいのか?そんな風刺めいたことを先生が言うとは思わなかったが――まあ、気持ちのいいものではないが。かといって、どうしようもないだろうな。それに」

 

 露伴の様子を窺いながらも、天地は続ける。

 

「真面目なだけで生きていけるほど、世界は甘くないんじゃないのか。狡猾さは持ち合わせておくべきだと、俺は思うぞ。自然界だってそうだろ」

 

 どうかしたのかと、再度天地が尋ね返す。

 

「何でもない。目の前でそれをされてムカついたってだけだ」

 

 露伴は何かを振り切るように、勢い良く立ち上がった。

 

 

 

 帰り道、道端に転がる空き缶を見つけると、露伴はその上で、ビニール袋を開いた。それをひっくり返し、中の“蛙”を道に逃がす。どのみち、この数を処分したところで意味はない。

 

 十数匹が、思い思いに散る。露伴は空き缶を拾おうと手を伸ばし、途中でその手を止めた。脳裏に、一つの違和感が浮かんだ。

 

「――何か見落としてないか」

 

 “蛙”については結論がついたはずだ。だが何か一つ、大きな違和感がある。

 

「あの“蛙”は“存在感”を食べる生物。彼は“存在感”を食われて死に、誰にも気付かれず、長時間――――そして僕が気付いた。それから――」

 

 何故

 

「何故誰も、僕の訴えに反応しなかった――?」

 

 反射的に、露伴は空き缶から手を引っ込めた。道に戻る。

 

「寒の戻りか?これじゃあ、カエルなんかもあとしばらくは冬眠してそうだな」

 

 背筋に寒さを感じ、露伴は肩を震わせた。

 

 

 冷たい夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 最後までお読みいただきありがとうございます。

 少し余裕ができてきたので、これからは活動報告とかTwitterとか、ちょっとずつ活発にしてこうかなと思ってます。

 で、ちょっと気になったんですが。この「後書き」、他にも「前書き」もあるんですが、物語を読む前に苦労話とか次の更新予定とか話されても困るかなと思って「後書き」で書いてるんですよ。ただ「後書き」も場合によっては物語の余韻を壊しかねないなぁと思ってて、結局どっちがいいのかなぁと。読者の皆さんはどっちがいいですか?「前書き」と「後書き」

 流石にこれだけ冗長に書くようなら「後書き」なのかなぁ。こういう話を活動報告の方でするって手もありかもですね。

 あと自分Twitterもやってるんですが、そっちとこのサイトとで名義が違うんですよね。詳しいことはこっちの活動報告に載せます。

  →https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=214117&uid=208952


とりあえず聞きたいのは、「前書き」と「後書き」どちらがいいですか?ということと、今使ってる「谷矢 双志郎」。変えてもいいですか?ということです。

 


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another:08 《夕景童戯》

 編集社東京本部の一室で、岸辺露伴と担当編集者 木村が向かい合って座っていた。木村の前には白紙のノートが広げられている。

 

「昨日はお疲れ様でした。先生はなかなかイベントやテレビなんかに出られませんですから。今回のイベントはかなり話題になってたみたいです」

 

「メディア出演、ね。過去に一度、収録に参加したが放送されなかったものならあるが」

 

「ええ⁉何ですかその話。詳しく聞かせてくださいよ」

 

 木村が身を乗り出す。露伴はそれを片手で制した。

 

「おっと、その話はまた今度だ。今は打ち合わせが先だぜ」

 

「そうですね、失礼しました」

 

 仕切り直すように咳払いをし、木村は椅子へ腰を戻す。

 

「それで、今度リリースされる本社の公式アプリに掲載される短編を描いていただきたい、という話なんですが」

 

「テーマは自由なのか?」

 

「基本は。ですが他の作家さんと被りすぎるのも避けたいので、先生には若干ホラー色ありで描いていただきたいというのが、こちらの要望です」

 

「ホラーか。ふむ。なあ、何か怖い話、持ってないのか?」

 

「え、俺ですか――そうですね。先生の筆の速さは、ある種ホラーですけどねぇ」

 

 ケラケラと木村が笑う。

 

「つまり持ってないってことだな」

 

「冗談ですよ、先生。一つくらいありますよ」

 

「それを話してくれよ。君のくだらない冗談に付き合うつもりはないぜ」

 

 木村は一瞬の間を置くと、笑みを引っ込め真面目な表情を作った。

 

「先生は“地獄”って信じますか?」

 

「“魂”や“あの世”の存在に関しては信じるところもあるが…“天国”や“地獄”の区別があるかどうかは、深く考えてみたこともないな。あろうがなかろうが、どっちでもいいと思っているからな」

 

「“地獄”に行ってきた、って話をしてくれた人が居るんです」

 

「そりゃまた、随分とオカルトチックな話題を持ってきたな」

 

 頭の後ろで腕を組む露伴。荒唐無稽な上に、ありきたりな話。既に半分ほど興味を失っている。

 

「これは僕の友人の友人が体験した話なんですが――」

 

「ちょっと待て」

 

 露伴がすぐさま遮る。

 

「友人の友人の話?おいおい、全くもって信憑性がないぜ、既に」

 

「大丈夫です。友人の友人ではありますが、話は本人から直接聞きました」

 

「まあ――いいさ。話してみてくれ」

 

 

 

   

   *

 

 

「最も重要なのは。いいですか、最も重要なのは“タイミング”です」

 

 町中で、友人の友人であると木村に声をかけてきたその男、相田 雅はそう切り出した。何故その話に及んだのか、今となって木村は、はっきりとは覚えていない。でも確か、最初にその話題に触れたのは彼だったような、そんな気がする。

 

「閏年の2月29日の逢魔時。それがタイミングです。“場所”は重要ではありません。行きたいと願えば必ず辿り着けます」

 

 “地獄”への行き方。彼はそう言った。

 

「昔ながらの団地公園で、土管が一つ置かれています。遊具はありません。公園では、数人の子ども達が遊んでいます。彼らは私達に気付くと話しかけてきます。“一緒に遊ばないか”と。承認すると“鬼ごっこ”が始まります。鬼に捕まると“地獄”へと連れて行かれます」

 

 相田は一息に説明を終えた。酒の入っていた木村は、考えもなく愛想笑いを浮かべた。

 

「それで“地獄”ってのは、実際どういうところなんですか?えーと、相田さん」

 

 誘われるがまま、フラフラと寄った酒の席。“私は地獄へ行ったことがある”と相田が言った。馬鹿げた話だとは思っていながらも、木村はいつしか、その話を聞き込んでいた。

 

「昔話やなんかでよく言われる“地獄”がありますよね。針の山だとか、大きな茹で釜だとかがあって、鬼がいるという。あんなものではありませんよ。あんなのは、まだ優しい」

 

「へえ。もっと凄惨な刑罰が?」

 

「“何もない”んですよ」

 

 相田は静かに言った。焦点の定まらない視線を前方に向けながらグラスを握る。

 

「針山や茹で釜もなければ、鬼も居ません。閻魔大王も。あるのは“空間”、それだけ。死者はそこを彷徨います。永遠に。ただ永い永い“時間”の感覚だけがあるんです。他には何もありません。何もできません。眠っているような、起きているような。それでいて微睡みとは違う状態で“永遠”を体験することになるのです」

 

「“永遠”か。想像もできません」

 

「想像以上ですよ。皆の想像する“永遠”は短い。何千年だとか何万年だとか。そういう、まだ理解の及ぶ範囲で想像しようとします。しかし本当の“永遠”は文字通り“永遠”です。何億年とか何兆年とか、そういう単位ですらないんです」

 

「でも“地獄”があるってことは“天国”があるってことですよね。何だか希望が持てるな」

 

「さあ」

 

 相田は首を横に振った。

 

「私は“天国”へは行ったことがありませんから」

 

「それで――肝心の“地獄”から帰ってくる方法は?」

 

 “地獄”へ行けたところで、帰ってこれないのであればそれはただの自殺だ。

 

「こちら側の人間が死なずに“地獄”へ行くというのは、要は“魂”が仮死の状態になるということなんです。その状態であれば、どうやらその“地獄”の中を自由に動けるようです」

 

 だから。相田が間を置く。木村は喉に絡まった唾を飲み込んだ。

 

「探すんです、出口を。だだっ広い、無数の死者の魂が浮遊する空間を360度、動き回って」

 

「どれくらいで見つかるんですか」

 

「さあ。人によるとしか。どこにあるかなんて、正確な位置は分かりませんよ…でも安心してください。あちらでの時間の経過は、こちらの世界とは全く別物ですから。仮にあちらに、感覚として一年居ようが百年居ようが、帰ってこれさえすれば、こちらの世界では一瞬の出来事です」

 

「でも…あんま行ってみたいとは思えなくなりますね」

 

 木村は苦笑いを浮かべた。

 

「どれだけの時間がかかっても出口を探し出せるだけの気力があるのなら大丈夫です。保証はしませんが」

 

 相田は、その話をそこで締めた。

 

 

 

    *

 

 

「――とまあ、こんな事があったんですが」

 

 一連の経緯を話し終えた木村は、そっと露伴の顔色をうかがった。

 

「“地獄”へ行った話、ね。確かに、膨らませれば短編一本くらいは描けそうだが。それにしたって君、“地獄”はホラーのジャンルに入るのか?“地獄”の実態の部分以外は、特に怖さもなかったぜ」

 

「そこは先生、何とか頑張ってもらうってことで…」

 

 露伴は溜息を吐いた。

 

「却下だ」

 

「ですよねぇ」

 

「君に聞いた僕も悪かった。ああ待て、今のは別にそういう意味じゃない。今回ばかりは、君の技量を見極めれずに質問をした僕が悪かった、と言いたいんだ」

 

「先生、そのフォロー逆効果です」

 

「どうでもいいさ――取り敢えず、ネタは僕が考えておく。電話になるが、また今度打ち合わせをしよう」

 

 荷物をまとめ始める露伴。

 

「先生因みになんですけど、今年って閏年なんですよ」

 

「そうだな。あと二週間もすれば2月29日だ」

 

「予定の方、空いてたりしません?」

 

 露伴が手を止める。

 

「まさかとは思うが…行こうとはしてないだろうな」

 

「ネタがないなら作りましょうよ、先生。“地獄旅行” 面白い体験になりそうじゃないですか」

 

「なあ待てよ。“本当に行ける”、まして“本当に帰ってこれる”と思ってるのか?」

 

「ものは試しです」

 

「嫌だね」

 

 きっぱりと露伴は断った。木村は露骨に不満そうな表情をもらした。

 

「そもそも怪しすぎる」

 

「“地獄”へ行ったって話がですか?」

 

「それもそうだが。だが仮にその話が本当だったとして、相田という男はどうして君に行き方を教える必要があったんだ。“地獄”だぞ。人が行くような場所じゃあない」

 

「珍しいですね、こういう話に先生がノらないなんて」

 

「帰り方が不明瞭すぎる。“出口を探せ”だと?どんな出口なんだ。それと一目で分かるものなのか?第一、入り口は4年に一度しか開かれないんだろ?出口が常時開かれている保証なんてどこにもない」

 

「でも先生、あちらとこちらとでは、時間の進みは違うと彼は言っていました」

 

 つい熱くなった木村が立ち上がる。

 

「時間の進みは違っても、時間感覚があるんじゃ意味がない。向こうで何万年を体験することになったとして、それでも君は出口を探し続けられるのか?」

 

「ええ出来ますよ。やってやろうじゃないですか」

 

「おい、マジで変な気を起こしてるんじゃないぞ。危険だ。行き方を教えられている時点で危ない匂いしかしないぞ」

 

 木村は黙り込んだ。

 

「いいか。僕だって興味がないわけじゃない。だが“帰ってこれない”のだけは避けなければならない。いくら向こうでいい体験ができても、それをマンガにして読んで貰えないんじゃあ意味がない。だから僕は“行かない”と言ってるんだ。行くのならせめて、その相田という男にもっと詳しく話を聞いてからだ」

 

「無理です。連絡先を知りません」

 

「友人経由で聞けばいいじゃないか」

 

「それが…彼が誰の友人なのかが分からないんです」

 

「何?」

 

 露伴は眉をひそめた。いよいよもって怪しいじゃないか。

 

「誰の友人か、彼は言わなかったのか」

 

「言ってたような気もするんですが…それで今、心当たりのありそうな全員に連絡を取ってるんですが、まだ見付かってなくて」

 

「おいおい、冗談じゃあないぜ。よくそれでその男の話を信じようと思えるな。何かおかしい。絶対に行かないほうがいい」

 

「ですかねぇ」

 

 納得のいかない表情のままも、木村は露伴の意見を受け入れたようだった。

 

「おっと、もうこんな時間か。先生、すみません。この後会議があるんで、僕はここで」

 

「そうか――なあ、ちょっと待ってくれ」

 

 部屋を出ようとしていた木村は足を止めると振り返った。露伴は木村に近付くと彼の肩に手を置き、耳元で言った。

 

「くれぐれも、行ってみようという気を起こすんじゃないぞ」

 

「ええ…大丈夫です」

 

 先に部屋を出る露伴の背中を見送りながら、木村は小さく答えた。

 

 

 

 

    *

 

 

 2月29日午後五時半頃。木村はカメラを首に下げ、都内の通りの外れを歩いていた。

 

「ああは言われたけど。でも、気になるよなぁ」

 

 日没も近い。

 

 大丈夫だ。木村は自身に言い聞かせる。向こうとこちらの時間の流れは別物だ。例え向こうで百年を過ごそうが、帰ってこれれば一瞬。何も問題ない。

 

 相田に教えられたように“地獄へ行きたい”と頭の中で反芻しながら、ひたすら練り歩く。

 

 五分が経過した。

 

 日はほとんど沈みかけている。辺りは薄暗くなり、まばらに街灯が灯り始めた。

 

 どこからともなく、子供のはしゃぐ声が聞こえた。木村は足を止め、耳を澄ませた。――間違いない、聞こえる。前方からだ。声の主を求め、木村は足早に道を進んだ。

 

『公園では数名の子ども達が遊んでいます』

 

 相田の言葉が思い浮かばれる。百メートルも進んだか。急に道の右手が開けた。

 

 二十メートル四方の空き地。確かに、コンクリート製の土管が一つ設置されている。まるで“ドラえもん”だ。

 

「“公園”…なのか?」

 

 光景は相田の言っていたものと一致する。

 

 公園の中を五人の子どもが走り回っていた。騒ぎの主たちだ。子ども達の格好には、統一性が全く無かった。ぜんらのこ。動物の毛皮のようなものを纏った子。和服の子。今時の私服を着た子。

 

 子ども達が木村に気付いた。

 

「お兄ちゃん!こっちで一緒に遊ぼーよ!」

 

 比較的現代風の服を着た女の子が一人、木村を手招きした。言われるがまま、木村は子ども達の中へと入っていった。公園に足を踏み入れた瞬間。空が真っ暗になった。

 

「これは…ッ!」

 

 危機を感じた木村は、急いで来た道の方向へ引き返した。が

 

「お兄ちゃん、どこに行くの?」

 

 さっきまで立っていたはずの道が消えていた。代わりに、公園の外には暗黒の空間が広がっていた。

 

「だめだよ。一緒に遊ぶんでしょ?」

 

 足元に子ども達が群がる。公園の境界に辿り着いた木村は、そっと闇に向かって手を伸ばす。手は空を掴むばかりだった。

 

「駄目だよ」

 

 少女の声の質が変わった。はっとして木村は子ども達を見下ろした。光のない十の瞳が、木村を射抜いていた。

 

「お兄ちゃんは私達と鬼ごっこをするんだよ。どこにも行っちゃ駄目だよ」

 

「あ…ああ分かった。そうするよ…」

 

 冷や汗が頬を伝う。付き合うしかないようだ。木村の返答を聞き、少女はにっこりと笑った。

 

「じゃあルールを言うね。制限時間は10分。逃げていいのはこの公園の中だけね。逃げる人全員がタッチされたら負けね。お兄ちゃん一人だから、頑張ってね。鬼は私達“五人”」

 

「――――え?」

 

「それじゃあ始めるね!」

 

「ま、待て待て待て待てッ」

 

 慌てて木村は少女の肩を掴んだ。しかし少女は木村を無視し、手で目を覆って20秒のカウントダウンを始めた。

 

 はめられた

 

 公園の広さは二十メートル四方。障害となりうるものは土管くらいしかない。この中を10分間、五人の子ども達に触られずに逃げ切れだって?不可能だ。いくら子どもと大人の体力に差があると言っても。そもそも一般的な成人男性の平均ほどの体力しか持ち合わせていない木村では、子供が相手でも10分も走り続けていられる自信もない。

 

 これは罠だ。木村は気付く。この勝負に、最初から勝ち目なんてない。

 

 

「…10…9…8…」

 

「クソッ!」

 

 木村は公園の中央に立った。とにかく、どこかに逃げ道を作り、それで逃げ回るしかない。体力との勝負。

 

 相田。あの男も、こいつらの仲間だったのか…

 彼は言っていた。“地獄”へ行ったら出口を探せ。

 どうやって?

 “地獄”を彷徨うのだ――そう、それは“地獄”に存在する死者の魂と同じこと。出口が見付からなければ“永遠”に“地獄”を彷徨わなければならない。

 

「…4…3…2…」

 

 ここにきて、木村は“地獄”に恐怖していた。情けない話だ。安易な判断をしたことを心底後悔した。

 露伴に散々否定され、頭にキていたのもある。だが――忠告は聞いておくべきだった。“あの露伴先生”が危険だと言ったのだ。これまで散々木村の静止を振り切り、変なものを食べてみたり、危険地帯に足を踏み入れてきた彼が“止めろ”と言ったのだ。その事を重く受け止めるべきだったのだ。

 

「…1…スタートッ!」

 

 少女が叫び、子ども達が一斉に木村を見る。五人はあの暗い目のまま笑みを浮かべて、木村の方へと駆けた。五人は互いに口を交わすことはしなかったが、しかし木村の逃げ道を塞ぐよう波状に広がって迫ってきた。慣れている。とにかく逃げるしかない。

 しばし同じ展開が繰り返された。

 

 何分経ったのか。木村の体力に限界が来ていた。とうとう、膝に手を付いて彼は立ち止まった。尋常ではない量の汗が溢れ出る。ここまで、ほぼ全力疾走だった。思ったよりも子ども達の足が速い。二十メートル四方の狭い空間を逃げ回るのは困難を極めた。

 

 もう無理だ。足が言うことを聞かない。背後から子ども達が迫ってきているのが分かる。ここまでだ。木村は強く目を瞑った。

 

「はい、お兄ちゃんの負け!タッチ――――――――あれ?」

 

 少女の手が木村の背中に触れる。あとは“こちらの世界”へ引き込むだけ。そう、それだけの簡単な作業。これまで“何人も”引き摺り込んできた。今回も、いつもと同じ。だが――彼の背中に確かに触れたその瞬間、目の前から彼が消えた。

 

「どこへ行った!」

 

 荒い口調で少女が叫ぶ。周りを見回すも、どこにも見当たらない。他の四人も彼を見失ったようだ。五人は公園の中を探し回った。土管の中にも居ない。子ども達は焦りを覚えた。何故だ。こんなことは初めてだ。公園の外に出ることはできない。一歩出れば体は闇の中を下へ落下し、そしてこの公園に“落ちてくる”。そういう空間。ゲームの間は逃げられない。

 

「何で…何で!」

 

 少女の叫びだけが虚しく響く。

 

 

 

 

 ――――10分が経過した。

 

「“僕達”の勝ちだ」

 

 子ども達の知らない声が、背後からした。子ども達は一斉に声のする、土管の方を振り向いた。

 

「ちょうど10分経ったぜ。君達は“全員”を捕まえることができなかった。この鬼ごっこのルールは“逃げる者全員がタッチされたら負け”なんだろ」

 

 背中を預けていた土管から露伴は離れた。

 

「だ、誰だお前は!いつからそこに居た!」

 

 露伴を指差し、少女が叫ぶ。

 

「いつから?最初から居たさ。そこの彼がここを見付けた時から、ずっとね」

 

 少女の背後を、露伴が指差す。子ども達が同時に振り返る。子ども達同様、状況を理解できていない木村の姿があった。

 

「露伴…先生?…これはどういう…」

 

「まず僕の姿を見えなくした。“何者にも認識されなくなる”と僕自身に書き込んでね」

 

「だから私達には捕まらないということか…見えないから捕まえられない…イカサマだッ!」

 

「イカサマは君たちの方だろう。最初から勝ち目のないゲームを受けさせているんだ。それに――」

 

 露伴が少女に近付き、目線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。ヘブンズドアーを発動させ、本のように展開した少女の1ページを摘んだ。

 

「君達が呑気に20秒を数えている間、君達の記録を読ませてもらった。どうやら君達自身は、この現象の正体ではないらしいじゃないか。つまり、君達が僕の存在を認識していなくても、この現象自体が僕を認識していればゲームは成立する。ルールには則っているぜ」

 

「ふざけるな…許されると思っているのか…」

 

 本の状態のまま、少女は露伴を睨んだ。露伴は鼻を鳴らした。

 

「それを決めるのは君じゃあないさ」

 

 露伴は少女をそのままに、今度は立ち尽くす木村の前に立った。同じようにヘブンズドアーを発動させる。

 

「あとは念の為、君に書き込んでおく。ほら、ここをよく読んでみな」

 

“誰かに触れられた時、しばらくの間全ての認識から存在が外れる”

 

 露伴の示すそこには、そう書かれていた。

 

「万が一、タッチをされた瞬間に向こうの世界に送りつけられちゃあ困るだろ。だから保険をかけておいた。これも認められたみたいだぜ。今になっても何も起こっていない。ゲームは終了。“全員”を捕まえられなかった君達の負けだ」

 

 子ども達が鬼のような形相で露伴を睨み付ける。

 

「さて、僕達が鬼ごっこに勝った場合だが。これも君のところに書かれてあったぜ。帰れるんだろ、元の場所に。出口はあっちでいいのか」

 

 元々道路と面していた方向を指差す。子ども達は更に表情を歪めた。

 

「先生…一体何が何だか…」

 

「君は何も知らなくていい。とっとと帰るぞ」

 

 子ども達の表情から、それを肯定と取った露伴は出口へと足を向ける。木村が慌ててその後を追う。

 

「“露伴”…覚えたからな…」

 

 少女が二人の背中に吐き出すように言葉を投げる。

 

「いつか迎えに行ってやる…二度と、テメェのことは忘れねぇ…」

 

「よく言うさ、出来もしないくせに。それとも何だ、閻魔様にでも頼み込むのか?」

 

 言い返せない少女を尻目に、二人は公園を出た。

 

 

 

 

 

 

 

「先生、最初から居たんですか…」

 

 日の沈みきった都心の外れ。並んで歩く露伴に木村は尋ねた。

 

「君が僕の忠告を真に受けていなかった事は知っていた」

 

 打ち合わせをしたあの日の帰り際に、露伴は木村の記憶を読んでいた。

 

「…知っていたなら、行く前に止めて欲しかったです」

 

 ピタリと、露伴は足を止めた。

 

「僕の引き止めに、君は応じたかい。どうせこの前同様、聞く耳も持たないだろ」

 

「それは…その…」

 

「どうやら君は一度、痛い目を見ないと分からないらしいからな。これで懲りただろ」

 

 木村は足元へ視線を落とした。露伴が歩き出す。木村も再びその隣に並んだ。

 

「先生、その――ありがとうございました」

 

「何がだ」

 

「今回の件に先生は関わりたがっていなかったじゃないですか。それなのに巻き込んでしまって…すみません」

 

「君が探究心に飢えていることは分かった。だが、有事の際に発揮できる対応力もなしに首を突っ込むものじゃあない。もし今度があっても、その時には二度と助けないからな」

 

「ええ…肝に銘じておきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで、短編のネタだが」

 

 しばらく続いた沈黙を露伴が破った。

 

 どこか早春を匂わせる空気が、二人を包んだ。




 最後まで読んでいただきありがとうございます


 しばらくぶりに一ヶ月以内の更新ができました…次はどうなるか…二ヶ月以内の更新を目指します


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another:09 《フルットプロイビート》

 杜王町のはずれの大型霊園。その霊園の入り口手前に、イタリアンレストラン“トラサルディー”は建っている。店内は非常に狭く、厨房の他に丸テーブルが二つのみ。テーブルも、五人も座れば一杯になるような小さなもの。全てがこじんまりとしている。来客はなかなかに少ない。しかし、それが店の人気を物語っているというわけでは決してない。霊園横という立地の性質上、お盆の時期には大繁盛する。そして来客の全てが、満腹と幸福に満たされて店を出る。だが、だからこそ季節外は客足が遠のいた。訪ねたところでどうせ満席だろう。テーブルの数も手伝って、地元の人間が日常的に通うことはなかった。結果的に一部の、常に空席であることを知っている常連ばかりが店に顔を出す。岸辺露伴も、そんな常連の一人だった。

 

「“万人が認める、この世で一番美味しい食べ物は何か”という質問に、貴方ならどう答える?」

 

 ブルーベリーの添えられたデザートのパンナコッタを運んできた店のシェフ トニオ・トラサルディーに露伴は尋ねた。

 

「一番美味しいもの、ですか」

 

 突然の質問にトニオは戸惑った。

 

「ああ。そのことで編集者と議論になってね」

 

 スプーンを拾い上げ、先端でパンナコッタをつつきながら事のいきさつを語る。

 

「“誰もが美味しいと感じるもの”はない、というのが僕の意見なんだが、彼は“その人に対しての愛情が込められた料理なら、誰が食べても美味しい”と言う」

 

 それで。露伴はスプーンを置くとトニオを見上げた。

 

「貴方の意見が聞きたい。世界中を旅し、料理を学んできた貴方ならどう答えるのか」

 

 

「味覚として、万人が美味しいと感じるものはあるかということでしたら“あります”」

 

 トニオは即答した。

 

「――あるのか」

 

「南アメリカ、アマゾンに隣接する小さな村を訪れたとき、その村の若者から秘密裏に聞いた話です。“アマゾンにはタブーが存在する”」

 

「タブー?“禁忌”って事か。それが何に関係するんだ?」

 

「“それ”が誰もが美味しいと認める食べ物です」

 

 露伴は目を細めた。

 

「だというのに“タブー”なのか?誰が美味しいと判別したんだ」

 

「美味しすぎるから“タブー”なのだそうです」

 

 一旦間を置く。露伴が口を開き書けたところを遮るようにしてトニオは続けた。

 

「村の言い伝えによれば、“それ”は木に成る果実だそうです」

 

「おいおいおいおいちょっと待つんだトニオさん。言い伝えだと?実際に見た人は?実際に食べた人は?」

 

 トニオは首を横に振った。

 

「一人もいません。それは人類が誕生するずっと前から“タブー”なのだと、彼はそう言いました。だから村の人間は誰も見に行かないし、そもそも近付こうともしない。私たちにとっての“殺人”以上に重いものだそうです」

 

「本当にあるのか...?実物なんて存在しないんじゃあないのか?」

 

「確かめに行ってみませんか?露伴先生」

 

「“タブー”だぜ?」

 

「では、止めておきますか?」

 

「いや」

 

 露伴は携帯を取り出すと、編集者へ電話をかけた。

 

「店は空けられるのか?」

 

 相手が出るまでの間に、露伴はトニオに尋ねた。

 

「ええ。いつでも大丈夫です」

 

「確かめてみよう。本当にその果実が存在するのか。それはトニオさん、貴方の作る料理よりも美味しいのか」

 

 

 

 

   *

 

 

「貴方のことは、私もよく覚えています。イタリアの料理人」

 

 アマゾンを流れる川を、露伴とトニオを乗せた舟が渡る。現地ガイドの男が、振り向いてトニオに言った。

 

「もう十年も前の事でしょうか。貴方が村を訪れたとき、私はまだ子供でした」

 

 ガイドを仕事にしているだけある。男の喋る英語は流暢だった。

 

「村長にはお会いになられましたか?」

 

 男の問いかけにトニオが肯く。

 

「まだまだご健在でしたね。十年前はお世話になったものです」

 

「喜ばれてたでしょう。貴方のことがお気に入りなようですから」

 

「ええ。今回の滞在は短いと伝えたら引き留められました。村を総じてもてなすから少しは滞在してくれとまで言われてしまって――困りました」

 

 二人は苦笑した。

 

「あのじいさんか。僕に対しては好意を抱いていないようだったがな」

 

 露伴が口を挟む。男はやはり苦笑いをした。

 

「私はこうしてガイドをしてますから外の人間への警戒心はあまりありませんが、村の者のほとんどはそうではないのです。むしろイタリアの料理人、貴方の連れであるだけまともな対応でしたよ」

 

「私が十年前にあの村を訪れたときも、最初はなかなか受け入れてもらえませんでした」

 

 トニオの言葉に男は頷く。

 

「しかし貴方には料理がありましたから」

 

「ええ、お陰様で」

 

「正直な話、私も貴方にはなるべく長く滞在してほしい」

 

 男は前方へ向き直る。

 

「貴方の作る料理はこの世で一番美味しい。客人の貴方に頼むことではありませんが出来ればもう一度、貴方の料理を味わいたい」

 

 男の言葉に、二人は顔を見合わせた。

 

「トニオさんの料理が一番、なのか?」

 

 露伴が尋ねる。

 

「ええ。トニオさんの料理は本当に美味しい。食べたことありませんか?」

 

 トニオに目配せしてから、露伴は口を開いた。

 

「“アマゾンにはタブーが存在する”そんな話があるらしいじゃあないか」

 

「いえ?聞いたことがありません」

 

「“それが世界で最も美味しいもの”だと聞きました。私たちはそれを探しに来たんです」

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなもの私は知りませんよ。誰から聞いたんですか?」

 

「十年前、村人の一人から聞きました。貴方の村に、そういう言い伝えがあると」

 

「からかわれたのでは?」

 

 男が怪訝そうにトニオの顔を覗く。

 

「本当に知りませんよ、そんな話」

 

「芝居はいい」

 

 露伴が男の言葉を遮るようにして言った。

 

「知ってるんだろ?隠そうとしたって無駄だ。ここに書いてあるぜ」

 

 男の二の腕を露伴が指さす。トニオの目には、ヘブンズドアーが発動し、本と化した男の腕が見えた。

 

「とは言っても、君には読めないだろうからな。僕が代わりに読んでやるよ」

 

 開かれたページの一枚をつまみ、露伴は読み上げる。

 

「“何故この二人が知っている?口外した犯人を必ず見つけ出し、罰しなくてはならない。しかしそれ以前に、どうこの場を切り抜けようか。ひとまずシラを切り通そう”――君の今の心境か?焦って隠そうとしてるってことは、話は本当みたいだな」

 

「ブラフのつもりですか?」

 

 男の表情にはしかし、焦りの色は見られなかった。

 

「あくまでもシラを切り通すつもりかい。それならそれで別に構わないぜ。君の記憶を読めば全部分かるんだからな」

 

 まあ、と露伴は男の顔を見上げる。

 

「君にそんなことを言っても。何のことだかさっぱりだろうがな」

 

 男の記憶を辿ると、露伴は一部を読み上げた。

 

「“アマゾンにはタブーが存在する。父が教えてくれた、この村に伝わる伝説だ。その果実を探してはならない。神の裁きが下る。決して、村の外の者に口外してはならない。神の裁きが下る。未来永劫伝えてゆく、しかし決して、安易に触れてはならない話”―すまないな。安易に触れてしまって」

 

 男の顔が険しくなった。

 

 こいつ、もしかすると本当に記憶を読めるのか?男の頭を不安がよぎった。

 

「気変わりしたかい?その“タブー”の在処まで君が案内してくれれば、僕の手間も省けるんだがな」

 

 男はしかし、首を横に振った。

 

「危険です」

 

 

「何がだい」

 

 露伴が男の顔を覗き込む。男が溜め息を吐く。

 

「はっきり言いましょう。その果実のある場所を、私は知っています。ですが、絶対にあなた方をそこには行かせません」

 

「君がそのつもりでも、僕たちにも手を引く気は毛頭ないぜ」

 

「本当に危険なんです」

 

「だから何がだい。何が危険なんだ」

 

  苛立った口調で露伴が尋ね返す。

 

「生きては帰れないのです」

 

「何?」

 

 二人は同時に声を上げた。

 

「過去に果実を探しに出た者は何人もいます。実際に私の知り合いにもいました。しかし彼らは誰一人として、生きては帰ってきませんでした。いつも、果実のあるその場所の手前で死んでいるのです」

 

「死因は」

 

「獣です」

 

「獣?」

 

 露伴は怪訝な顔をした。

 

「アマゾンは野生の猛獣で溢れています。彼らは皆、その獣に襲われて食い殺されました」

 

「では、その遺体はどうやって発見したのですか?今の話では、その場所にはまるで近付けなさそうですが」

 

 トニオが尋ねた。男は再び首を振る。

 

「捜索隊は何故か、襲われたことがほとんどありません」

 

「集団だからか?だが、そうだとしたら集団で果実を取りに行けば問題ないじゃないか」

 

「そうでもないのです。かつてナチスが、果実を求めて遠征してきたことがあるそうです」

 

「ナチスが―ね」

 

 露伴は目を細めた。

 

「一気にうさんくさくなったな」

 

「三回、規模を変えて訪れたそうです。結果は三度とも全滅」

 

「悪いが、そんな作り話じみたものを聞かされたところで諦めることはないぜ」

 

「露伴先生、彼が嘘をついているようには見えませんが」

 

「分かっている」

 

 露伴は男を見据え続ける。

 

「埒が明かないようだな」

 

 溜め息を一つ吐く。

 

「分かったよ、折れよう。だがせめて、近くまでは行かせてくれ。それならいいだろう。危険は冒さないと約束しよう」

 

「本当ですか?」

 

「ああ、約束するよ」

 

「分かりました。案内しましょう」

 

 これまでの抵抗がまるで嘘であったかのように、男はあっさりと承諾した。前方へ向き直り、オールを手に取る。

 

「露伴先生...」

 

トニオは不満そうな表情を漏らした。露伴は悪びれる様子もなく、澄ました顔のまま前方を見詰めた。

 

 ”岸辺露伴を信用する”

 

 今しがた、新しく書き込まれたその文字が、湿気を多分に含んだ熱い風にたなびいた。

 

 

   

   *

 

 

 数時間が優に経過した。熱帯の気候に慣れていない二人の体は、既に疲れ果てていた。

 

「なあ、まだ着かないのか」

 

 露伴が音を上げた。

 

「もう少しです。辛抱してください」

 

「二時間前からずっとそれじゃあないか。一向に着く気配がないぞ」

 

「本当にもう少しです。この先を行けば―」

 

 舟が本流を外れ、密林の中へとその先を向ける。木々の間をぬいながら舟が進む。

 

「あそこです。見えますか」

 

 しばらくと経たないうちに、男が前方を指さした。

 

「どこだ?」

 

 二人にはしかし、男の示すものが見付けられない。前方には広大なジャングルが広がるばかりだ。

 

「まだ見えませんか...あと十分もすればはっきり見えるようになるかと思います。到着までは――三十分程度でしょうか。もう少しです」

 

 もう少しです。男は何度か繰り返した。

 

「そろそろ見えるんじゃないでしょうか」

 

 おおよそ十分が経ち、再度男が前方を示す。

 

「どうですか」

 

「あの石造りっぽいやつか―?」

 

「そうです、それです」

 

 露伴の言ったように、それは巨大な石から出来ていた。

 

「人工物――ではなさそうだが」

 

 石造りと言ってしまっていいのだろうか。遠目からで細部までは見えないものの、どうも一つの、巨大な石を削っただけであるように見えた。

 

「ええ、人の手は一切加えられていません。最初からあの形でした」

 

「ですが―あの形が自然にできるとは思えません」

 

 近付くにつれ、徐々にその全容が露わになる。それはやはり、一つの巨大な石―岩からなっていた。いくつもの石を積み上げたような繋ぎ目が存在しない。岩肌は全体にわたって滑らかだ。誰かが表面を削り、中をくり抜いて造ったようにしか見えない。自然界が造り上げたものだとは、到底信じられなかった。

 

「神が造りし御殿であると、そう言い伝えられています」

 

「確かに、あれを見ればそうも思ってしまうかもしれませんね」

 

 トニオが一人頷いた。

 

「ここから入り口までは徒歩になります」

 

 建物の目前は陸地になっている。男はそこへ舟を乗り上げさせると陸へ降りた。露伴とトニオもそれに続く。

 

「ちょうど建物の入り口付近が、いつも遺体の見つかる場所です。危険ですのでこれ以上は近付かないように」

 

「特に動物は見当たらないな」

 

 周辺は比較的開けており、状況は把握しやすい。見たところ、危惧するべき獣の気配はない。

 

「先生、どうするんですか」

 

 トニオが不安な面持ちで尋ねた。

 

「勿論行くさ」

 

 逡巡する間も見せず、露伴は一歩を踏み出した。ガイドの男が慌てる。

 

「何を――約束と違います!!」

 

「約束?ああ、したっけな。だがまあいいじゃないか。ここまで来たら進むも進まないも一緒だ」

 

 男の制止には耳を貸さず、露伴はどんどんと歩を進める。

 

「ごめんなさい。ああなると彼、余程のことがない限り引かなくなるんです」

 

 トニオが代わりに頭を下げる。

 

「ンなこたどうでもいいですよ!!早くあの鳥よりも脳ミソの小さいクソ野郎を止めろ!!!」

 

「もう一度謝ります。ごめんなさい。私も果実が見たい。彼が行くのであれば、私も行きます」

 

 露伴の後をトニオは追った。男は愕然とし、少しして我を取り戻してから二人を追った。

 

「ふざけるなよ!!!“タブー”だつってんだろうが!!それとも英語も分からねえのかサルども!!!」

 

 二人は既に、建物の入り口付近まで進んでいる。男は駆け足で二人に追いつくと、露伴の肩に手をかけた。

 

「てめえら止まれや!!」

 

 露伴が立ち止まる。

 

「入り口らしきところまで来たわけだが」

 

 振り返り、男を見据える。

 

「何事も起きてないぜ。その辺りだったんだろ、よく遺体が見付かってたってのは」

 

 後方を指さす。獣の気配はまだない。

 

「当面の危機は去ったと考えても良さそうなものだが。それとも、果実目前にしてすごすごと引き返すかい」

 

「タブーです...」

 

「ああ、知ってるさ」

 

 ヘブンズドアーが発動する。

 

「だがそんなことを言っていても、本音じゃあ“見てみたい”と思ってるんだろ。だったら、君にだって悪い選択じゃないはずだぜ」

 

 本と化した男の頬、その一枚をつまみ、露伴は男に問いかける。

 

「そもそも“果実”が本当に存在するかも疑問だが。どうする?ここには君が掟を破ったとしてもそれを咎める者はいないんだぜ」

 

 男は歯を食いしばり、露伴を睨め付ける。

 

「そう、アマゾンの掟。私は掟は破らない」

 

「そうかい。なら僕たちだけで行ってこよう」

 

 露伴は踵を返す。岩の正面に、1メートル半径程度の穴がぽっかりと口を開けている。おそらくはそれが入り口だろう。見当を付け、二人は足を踏み出す。

 

「掟を破ったのはあんたらだ。私はそれを止めようとしただけだ」

 

 その二人の後ろに、男は並んだ。

 

「私の意思ではない。私はむしろ、異国の無法者からアマゾンの秩序を守ろうとしたのだ。称えられたことでこそなけれども、責められる筋合いはない」

 

 トニオは驚いた顔で男を見た。

 

「いいのですか?」

 

「もう一度言う。掟を破ったのはあんたらだ」

 

「それで?」

 

 露伴は前方の空洞を指さした。

 

「入り口はこれでいいのか?」

 

「そこが入り口だろうと言われていることを貴方たちは知らないはずです。貴方たちは運良く入り口を見付けた。私は何も言っていない」

 

 露伴は顔をしかめながらトニオに目配せをする。トニオは肩をすくめてそれに応えた。

 

 そっと穴に近付くと露伴は中を覗いた。陽はまだ頭上にあるにも関わらず、内部は真っ暗で何も見えない。

 

「中は相当広いみたいですね」

 

 トニオが隣から覗き込む。そっと中に手を伸ばした。瞬間、二人の視界が真っ白になった。

 

「なにッ!?」

 

 二人は咄嗟に退いた。

 

「トニオさん!見えるか!何が起きた!」

 

「私にも分かりません!ですが気を付けてください!何かの攻撃かもしれません」

 

 露伴はヘブンズドアーを出現させると身構えた。視界は白いままだ。

 

「違います。灯りがついたんです」

 

 ガイドの男が答えた。

 

「一時的に目がやられただけです。すぐ治ります。―ですが」

 

 男が息をのむ。

 

「これは―信じられない...」

 

 男が言ったように、二人の視界が徐々に回復する。視界を取り戻した二人の目に、口を開いて愕然とする男が映った。その視線の先、洞穴の中へと二人も目を戻す。

 

「灯りが―」

 

 トニオが呟く。先程まで真っ暗だった穴の中が光に照らされていた。奥行きや幅は思いのほか狭い。しかし、入り口入ってすぐに床は階段になっており、深く下まで続いていた。明かりが届いていなかったのは恐らくそのせいであろう。

 

「人の手が加えられていない自然物だと...?やっぱり嘘だったじゃないか」

 

 露伴は再び内部を覗いた。

 

「感応式になってたのか?ハイテクだな」

 

「先生、やっぱりおかしいです...」

 

 同じように覗き込んだトニオはしかし、驚いたままだ。冷や汗まで浮かべている。

 

()()()()()()()()()()。この光はどこから出ているんですか―?」

 

「そう言われれば――異常だ」

 

 露伴もそれに気付く。階段の奥は見えないが、その他は全てこの入り口から一望できる。そのどこを見渡しても光の出所となりそうなものはなかった。

 

「見たところ危険になりそうなものはないが...どうする、トニオさん」

 

「罠がないという可能性は薄そうですが...この様子では、奥には確実に“何か”がありそうですね」

 

「ああ。あんたも知らないんだろ?」

 

 男に尋ねる。男は頷いた。

 

「知りません。知っていたらこんなに驚けませんよ」

 

「さて」

 

 露伴が視点を戻す。

 

「トニオさん、貴方がどんな選択をするのかは貴方に任せる。だが僕は行かせてもらう」

 

「ここまで来たんです。私も行きます」

 

 気概を示すトニオを一瞥すると、露伴は内部へ足を踏み入れた。慎重に歩みを進める。階段はかなり長い。十メートル近く下まで続いていそうだ。

 

 三人は時間をかけて進んだ。何事もないまま底に辿り着く。降りきると、真っ直ぐ通路が続いていた。正面奥に小さな扉が見える。扉に到達するまでも、何も起きない。

 

「順調ですね」

 

 三人は扉の前で立ち止まった。

 

「順調すぎて、むしろ不安です」

 

 トニオが呟く。

 

 扉は両開きのものだった。鍵などはない。取っ手に露伴が指をかける。

 

「気を付けてください」

 

 トニオが声をかける。露伴はゆっくりと扉を引いた。

 

「これは―」

 

 隙間から見える先の光景に露伴は目を見開いた。トニオが不安そうに露伴を見守る。露伴は後方の二人を見た。二人が固唾をのむ。ゆっくりと、露伴は扉を開ききった。

 

「ッな―!!」

 

 ガイドの男が叫ぶ。トニオも言葉を失った。

 

「正直、夢なんじゃないかと疑うぜ。はっきり言って“ありえない”」

 

 扉の先には“オアシス”が広がっていた。八方は壁だ。外界とは完全に隔絶されている。だというのに、中は陽が照らしているかのように明るかった。空間の中央には泉がある。地面は草花で覆われ、木々が生い茂る。

 

「“ユートピア”...」

 

トニオが呟いた。その感想が全てを表していた。野生の獣たちにとっても、それは同じようである。ナマケモノやカピバラ、数種類のサル等の比較的穏やかな哺乳類、オウムなどの鳥類の他に、ジャガーやアナコンダ、ワニといった捕食者が共存している。この空間には、食物連鎖すらも存在しないのだろうか。穏やかでどこまでも平和なその空気は、まるで空間から時間の概念が失われたかのように錯覚させた。

 

 

「あそこ、何かありそうですね」

 

 ガイドの男が泉の奥を指さす。ひらけた場所に、石製の台座らしきものが鎮座している。

 

 三人は泉を迂回し、その台座へ近付いた。獣たちは三人に興味がないのか。逃げることも襲ってくることもない。台座に近付くのに障害はなかった。

 

 近付くと、台の上に何かが乗っているのが見えた。ソフトボールほどの、小さい球体のようだ。

 

「梨―いや違うな。だが」

 

 トニオは頷くと、露伴に続けた。

 

「“果実”です。しかも、私も見たことのないものです」

 

「あれが“タブー”ってことでいいのか?」

 

 露伴は男に確認を取った。男も知らない果実であればいよいよ、本物かもしれない。

 

「分かりません。知らない果物であることだけは確かですが」

 

 台座の前に三人は並ぶ。置かれていた果物の色はおおよそ梨に近かった。若干、梨よりも明るい黄色をしている。

 

「やはり知らないものですね」

 

 トニオは細部を凝視すると、首を横に振った。ガイドの男もそれに同意を示す。

 

「これが“タブー”の正体であると言ってしまっていいのではないでしょうか」

 

 トニオの言葉に露伴は頷いた。

 

「それで、ここからどうする」

 

「先生が何か考えていたんじゃないんですか?」

 

「僕は一口食べてみたいとは思っているけどな。というか、食えるのか?そもそも」

 

 流石にそれは分からない。トニオもガイドも首を振る。

 

「質感はどんなものだろう」

 

 露伴は果実を手に取った。重い。1㎏は超えそうだ。露伴はトニオの目を覗いた。

 

「どうしますか?」

 

「これを持って帰ったらどうなると思う?」

 

「え!?本気ですか?」

 

 男は慌てた。

 

「それだけは駄目です!何を考えているんですか!」

 

「この果実の存在は誰かが定期的に確認していたりするのか?」

 

「いえ。村長であってもこの場所に近付きません。それこそ、掟を破った者を捜索する時くらいのものです。例え大統領に命令されたとしても、絶対にここへは案内しません」

 

 露伴は何度か頷く動作をした。自分が露伴たちをここへ連れてきたことの矛盾には気付いていないようだ。ヘブンズドアーの術中にあることの現れだ。

 

「なら果実がなくなったことにも誰も気付かない。そもそも“タブー”なんて存在しなかった、となるかもしれないな」

 

「先生、食べられるかは分かりませんよ」

 

「構わない。いずれにしろ、ここで解決できることじゃあない」

 

 露伴は果実を手にしたまま来た道を戻ろうと振り返る。その先の光景に、一瞬思考が停止した。

 

「先生?」

 

 固まった露伴をトニオは訝しむ。怪訝そうにその視線を追ったふたりも、同じ光景を目にすると体を硬直させた。

 

 クモザル。ホエザル。バク。オオハシ。オセロット。コウモリ。ジャガー。アナコンダ。クロカイマンetc.

 

 そこにいる限りの全ての野生動物の瞳が、一斉に三人を射貫いていた。

 

「これは...」

 

 トニオが辛うじて声を絞り出す。

 

「ガイドさん、こうなったらどうするんだ」

 

 露伴は前方から目を逸らさないままに後方のガイドに尋ねた。

 

「どうって――仮に襲われたらどうしようもないですよ」

 

 即答が返ってきた。泉は迂回する必要がある。そうなると、入り口までは100mと少しある。もし襲われようものなら、逃げ切れる可能性は低い。

 

「ゆっくりです。彼らを刺激しないよう、ゆっくり外へ向かいましょう」

 

 ガイドが先頭に立ち、元来た道を引き返す。動物たちの視線が三人を追う。

 

「トニオさん、貴方がこれを持っていてくれ」

 

 露伴は果実をトニオに預けた。

 

「ヘブンズドアー、ですか」

 

 トニオの問いかけに頷く。もしもの時のために両手は空いていた方が心強い。

 

 獣たちからの圧を感じながらも、三人は何とか扉まで辿り着いた。

 

「カイマンの横を通るときは焦りましたが...無事に済んで良かった」

 

 ほっと男が溜め息を吐く。安堵から、二人に微笑みかけながら男は扉を押した。扉が開ききったその瞬間。獣たちが、けたたましく鳴き声をあげ始めた。

 

 三人の表情が引き攣る。

 

「行きましょう」

 

 男が外へ出る。獣たちは鳴き続けている。露伴とトニオもガイドに続いた。

 

 トニオの足が扉との境界を越えたその刹那。獣が一斉に、三人の方へ駆け出した。

 

「ッ来たぞ!!扉を閉めろぉぉぉぉッ!!!」

 

 露伴とガイドが二人がかりで扉を閉める。

 

「登れ!急ぐんだッ!!」

 

 露伴が叫ぶ。三人は階段を全速力で駆け上がった。後方から、勢いよく扉が開かれた音がした。振り返って確認するような余裕はない。

 

「舟の準備をします!先に行ってます!」

 

 ガイドの男が抜け出し、加速した。足腰が鍛えられているのだろう。速い。露伴にもトニオにも、それに反応している暇はなかった。

 

「トニオさん、前へ!」

 

 並走するトニオを、露伴は前方へ押し出す。今にも追い付かれそうだ。

 

 駆け上がる二人の横に、数匹のサルが躍り出た。背後にはジャガーも迫っている。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 周囲の獣に対し、端からヘブンズドアーを発動させる。発動させるだけで充分だ。獣の足は止まる。だが数が多い。

 

「うおおおおおおおおッ」

 

 露伴が雄叫びをあげる。ガイドの男は既に脱出したようだ。出口は近い。

 

「二人とも、急いで!」

 

 ガイドが外から顔を覗かせながら叫ぶ。露伴はヘブンズドアーで獣を捌き続ける。

 数は一向に減らない。能力の効果範囲外に出た獣が復帰するせいだ。

 何とか階段を登りきる。外へ飛び出すと、三人は舟へ駆けた。しかし、

 

「ッ!止まれ!」

 

 露伴が二人を引き留める。

 

「駄目だ。舟は使えない」

 

 川辺にワニが集まっていた。

 

「何で――さっきまではいなかったのに―」

 

 男が唖然とする。背後からも獣が迫る。露伴がそれを凌ぐ。

 

 だが物量に押し負ける。一匹のサルが、露伴の脇を抜けてトニオに飛び付いた。

 

「トニオさんッ!!」

 

「いえ、先生...これは―」

 

 しかしサルは、トニオ自身を標的としていなかった。トニオが右手に握る果実。それが目的のようであった。其の目は果実だけを捉えている。

 

「まさか」

 

 トニオは果実を左手に持ち替えると、頭上に掲げた。前方、川辺のワニたちの目が果実の動きを追ったのを見て、トニオは確信を持った。

 

「露伴先生!!果実です!この動物たちの狙いは果実です!!私たちの排除が目的ではありません!」

 

 何故。疑問の目を露伴が投げかける。トニオは、躊躇いなく果実を放り投げた。サルはトニオを離れ、果実を追った。同時に、その場にいた全ての獣が進路を変えた。向かう先は地をはねる果実だ。

 

 我先にと獣たちは果実へ殺到する。最初のサルが果実を手にした。サルは果実を頭上に吠えた。そこへジャガーが飛びかかる。果実はサルの手を離れ、再び地面を転がった。

 

「何が起きている...」

 

「果実の奪い合いでしょう」

 

 露伴の呟きにトニオが答える。

 

「あの空間から持ち出された果実を護ろうとしているのかとばかり思っていましたが、違うみたいです。おそらくは、果実の所有権をかけた種族間の奪い合い」

 

 トニオは果実に群がり争う獣たちを指さした。

 

「見て下さい、彼ら。一匹として同じ種族、仲間には襲いかかっていない。むしろ連携して、他の種族が果実を手中にすることを阻止しようとしています」

 

「確かにな。だが、終わるのか?あの争いは」

 

 トニオは首をかしげる。獣たちの熾烈な争いに、果実が宙を舞う。

 

「分かりません。もしかしたら終わらないのかも。だから“タブー”だったのかもしれません」

 

「いえ、そうでもないみたいです―」

 

 二人の横に男が並ぶ。男は未だ空中にある果実を指した。

 

「何かが伸びています」

 

 二人は果実を凝視した。緑色をした蔦が地上から、まるで意思があるかのように果実に向かって伸びた。蔦は果実に触れると、それを包み込んだ。

 

「なんだ、ありゃ」

 

 三人は蔦を目で辿った。それは三人の後方、階段の方から伸びていた。蔦が縮み、果実が穴の中へと戻されていく。三人は互いに顔を見合わせると、それを追って再び穴の中へ入った。

 

「成る程な。“タブー”か」

 

 蔦は、果実を元あった台座の上に戻した。その前に立った露伴が頷く。

 

「ここにある限りは、争いは起こらない。“誰のものでもない”からな」

 

「ですが、一度その均衡が破られれば、その所有権を巡って種族間に争いが起こる」

 

 露伴の言葉にトニオが続く。

 

「所有権を手にしたときに何が起こるのかは分からないが――きっと今の自然界のバランスは崩れるだろうな」

 

 何にせよ。露伴は果実に背を向ける。

 

「放っておけば無害って事か。気にくわないがな」

 

 

 

 

   *

 

 

「俺よお、いっつも思うんだぜ」

 

 日曜日の正午過ぎ、露伴がトラサルディーの扉を開けると、聞き知った声が耳に入ってきた。声の主を視認する前にして、露伴は顔をしかめた。

 

「トニオさんの料理ってよお、世界で一番美味いってなぁ」

 

 三人の男がテーブルを囲んでいる。休日だというのに、三人は杜王町の私立高校“ぶどうヶ丘高校”の制服を着ていた。二人はがっちりとした体型であるものの、その間に挟まれた一人はかなり小柄だ。

 

「この飯を食って美味いなんて言わない奴はいねーと思うんだよな、絶対」

 

 大柄な二人のうちの一人が延々喋り続けている。

 

「おろ?よお、露伴センセーじゃないっすか」

 

 その男が露伴に気付き、手を挙げた。

 

「センセーもどうっすか。ここ座ります?」

 

 男は立ち上がると、壁際に置かれた椅子を同じ机に並べた。

 

「口の中のものを飲み込んでから立ったらどうだい。行儀が成ってないぞ」

 

 露伴はしかし、手前の無人のテーブルに腰をかけた。

 

「そうかよぉ。残念だぜ」

 

 男は若干落ち込んだ様子で席に戻った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 厨房からトニオが顔を出す。

 

「トニオさん、次の料理はまだすか?このサラダ、ウマすぎてもう全部食っちまったぜ。待ちきれねえっすよぉ」

 

「グラッツェ。ですが、もう少しお待ちください。今パスタを茹でていますので」

 

 トニオは男を軽く受け流すと、露伴のもとへ来た。

 

「トニオさんの料理は世界で一番美味しいらしいぜ」

 

 口角を少しつ吊り上げながら、露伴はトニオを見上げる。

 

「“食える”ものの中じゃあ、トニオさんの料理が一番って事だ」

 

「先生、両手を見せてください」

 

 トニオが微笑む。露伴は両の掌をトニオに向けた。

 

「寝不足ですね。原稿ですか」

 

 露伴が頷く。

 

「結局この世で一番美味しいものは食べれなかったが、面白い体験は出来た。一晩中、アイデアが溢れて止まなかったよ」

 

「それは良かったです。ですが、健康には気を付けてください、露伴先生。貴方は“この世で一番のfumettista”だ」

 

 トニオは立ち上がると、少々お待ち下さいと付け加え、そして厨房へと戻った。




 お待たせしました。前回更新時に既に構想はあったものの、それからなかなかなか更新まで漕ぎ着けられず。やっと完成しました。

 最後のトニオさんのセリフにある“fumettista”ですがあれはイタリア語で“漫画家”の意味です。(本当は注釈機能使いたかったのですが分からず。最後の最後のセリフだったのでここで補完を)

 これからまた期末で忙しくなるので次回更新は8月下旬頃を見込んでいます。

 いつもより少しだけ長い回になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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another:10 《偏愛サクセサー》

「最近()()()()()()()んです」

 

 杜王駅前の、行きつけの喫茶店、カフェ・ドゥ・マゴ。店内はクーラーが効いており、長居をすれば肌寒さも感じるようになる。しかし文句も言ってられまい。ひとたび外へ出れば、そこは35度を超える猛暑。高い湿度も相まって、服や肌にしつこく熱気が絡みついてくる。多少寒くても、冷えた飲み物を片手に店内に居る方が圧倒的にいい。

 

()()()()()()()?」

 

 対面に座る、学校指定のセーラー服を着た女性、山岸由花子に露伴は尋ね返した。

 

 二人が居合わせたのは偶然だ。露伴が気晴らしにこの店を訪れたところ由花子とすれ違い、流れで相席をすることになった。

 

 その由花子は、露伴に返答を返す代わりに頷いてみせた。

 

「自意識過剰なだけなんじゃあないのか?つけられてると思った理由は何なんだい」

 

「自意識過剰でも、勘違いでもありません。決して。最初は私もそう思ったわ。間違いがあるのは私の方なんじゃないかって。でもありえない。あいつ、どこにでもついてくるのよ!この前は学校の中までついてきたわ!そのときは先生を呼んで追い出して貰ったけど」

 

「そう怒るなよ。落ち着けって」

 

 今にも立ち上がるかのような勢いで机に身を乗り出してくる由花子を尻目に、露伴はアイスティーを口元に運ぶ。

 

「君の妄言じゃないことは分かった。だが、それなら僕なんかよりも然るべき相手に相談しなよ。警察とかさ」

 

「もうとっくにしてるわ。それに、それですんなり解決していたならわざわざ先生にも話すことでもない」

 

「まだ続きがあるのか」

 

 由花子が指を一本、顔の前で立てる。

 

「一つ。そのストーカー野郎が警察に捕まった後に、問題が発覚したの」

 

 露伴は眉を潜めた。

 

 

「留置所に入れられたあのクソ野郎、二日としないうちに脱走したのよ。ニュースにもなってたでしょ?」

 

 ああ、と露伴は頷く。何せ小さな町だ。昨日の夜からちょっとした騒ぎになっている。

 

「確かに大変な問題だな。だが放っておいてもすぐ捕まるさ」

 

 気にするな。言いかけた露伴だったが、由花子は首を横に振った。

 

「いいえ、違うわ。本当に問題なのは――そいつが今も私をつけて、この店の中にいるって事よ、先生」

 

「何だって?」

 

 露伴は咄嗟に店内を見渡した。暑さを逃れてやって来た客で店内はごった返している。

 

「私の三つ後ろの席に座ってるわ。あのベースボールキャップみたいなのを被っている奴よ」

 

 由花子の肩越しに、露伴は相手の存在を視認する。男は由花子の背中をじっと見詰めている。露伴と目が合うと、男は慌てた様子で視線を外した。

 

「なるほどな。通報はしたのか?」

 

「してないわ。感づいて逃げられたら厄介だもの」

 

「なら」

 

 露伴が立ち上がる。

 

「僕が話をつけてくるとしよう。君は安心して警察を呼ぶといい」

 

「あら。いつになく優しいのね、先生」

 

 席を離れた露伴の背中に、由花子が意地悪く語りかける。

 

「ああ、僕は優しいからな。ストーカー行為に至るまでの人間の思考過程を知りたい、てのはついでだぜ」

 

 露伴は由花子との間に割って入るように、男の対面に腰を下ろした。

 

「ああ、アンタの名前とか、そういうのには興味ない。僕が何者であるかを教える必要も無い。アンタは何も喋らなくていい」

 

「なッ」

 

 口を開きかけた男に、露伴がヘブンズドアーを発動する。男は椅子にもたれるようにして気を失った。

 

「さてと。“大西 孝司”、こいつの名前はどうでもいい。ストーキングについてだ―これだな」

 

<彼女――名前は山岸由香子という。彼女の友達が、彼女をどう呼ぶかを聞いて知った――は、本当に美しい人だ。あのつり上がった目に、端正な顔立ち。艶だった佇まい。何より、美しく輝く黒の髪。一目見たとき、一瞬で心を奪われた>

 

「まあ、何というか」

 

 出来の悪い私小説でも読んでいる気分だ。しかし当然ではあるが、露伴は読むことを止めない。

 

<彼女の交友関係を見るに、彼女にはどうやら既にボーイフレンドがいるようだ。コウイチ君、というらしい。まるで高校生とは思えない、小さな体をしている。あの子は彼女を幸せに出来るのだろうか。彼女はどうやら、えらくあの男に惚れているようだ。だがあの二人もまだ高校生。そのうち別れることになるだろう。そうなったとき、彼女の生涯を幸せなものにするのはきっと俺の役目>

 

「それがこじれてストーカー化したわけか」

 

 露伴は溜め息を漏らす。

 

「分かってはいたが―独善的だな。異常に」

 

 しかしまあ、ストーカーの心情を普通の人間が理解できるはずもない。露伴も、それらを理解することは端から念頭にない。その思考のプロセスが知れれば充分だ。

 

「さてと。思考に飛躍がある以上、ロジカルに理解しようとしても無理がありそうだな。()()()()()()として知る他にない」

 

 そうとなれば、もうこの男に用はない。露伴は振り返ると由花子に声をかけた。

 

「資料が手に入ったんだ。僕としては礼の一つくらいしてやってもいいって気分だが、どうする?」

 

「そう。じゃあ素直に戴いておくわ。そいつを痛めつけることは簡単だけど、危ないことはするなって言われてるし」

 

 露伴は鼻を鳴らす。

 

「康一君にかい」

 

 露伴は男に向き直ると“山岸由花子を視界に入れることはできない”と書き込んだ。

 

「先生、何て書いたの」

 

 露伴が戻ると由花子は尋ねた。

 

「君を視界に入れられないようにした。君のことは忘れてはいない。ただし、永遠に君の姿を見ることは出来ない。これから長い間、叶わない恋を抱き続けることになるさ」

 

「そう...いっそ私のことを忘れさせた方が清々しかったのだけど」

 

「それじゃあ面白みがないだろ?心配しなくても、あの男が君に危害を加えることは二度と無い」

 

「そうね。タダでやって貰ったことに文句を言うつもりはないわ」

 

 由花子はグラスを手に取ると、店に面する通りの人波を眺めた。

 

「それはそうと、警察は呼んだのかい」

 

「ええ。そのうち来るわよ。そしたらアイツを突き出して終わり」

 

 視線をそのままに、由花子が答える。露伴は肩をすくめた。

 

 

 

 

    *

 

 

 それから三日が経った。19時、露伴が二階の自室でアンディ・ウォーホルの画集を眺めていると、チャイムが鳴った。訪問者の予定はないはずだ。大方、宅配か近所のガキのイタズラだろう。露伴はブラインドカーテンの隙間から玄関前の様子を覗いた。

 

「あれは――山岸由花子。何の用だ?」

 

 連れは居なさそうだ。彼女が一人で露伴宅を訪れることなど初めてだ。由花子はしきりに首を回している。周囲を気にしているかのようだ。予定外の訪問者には居留守を使うことも多い露伴だったが、どうも彼女には事情がありそうだ。部屋を出て玄関へ向かう。

 

「後で全部話すわ。とにかく中へ入れて頂戴」

 

 玄関を開くと、露伴が用事を尋ねるよりも早く由花子が口を開いた。口調に怒気を感じ取った露伴は、しかしあえて、挑戦的に出た。

 

「おっと、いきなり押し入ろうとするんじゃあない。順序があるはずだぜ、山岸由花子。それに態度もだ」

 

 由花子が表情を歪める。

 

「ふざけてる場合じゃないのよ。ちゃんと説明するから、今は早く中に入れさせて」

 

「“親しき仲にも礼儀あり”だぜ。せめて挨拶の一つくらいしたらどうだい」

 

「いい加減にしろォッ!岸部露伴!!だいたい、元を言えばアンタの責任だろ―――ッ!!!」

 

 由花子は露伴を指さし叫んだ。

 

「何だって?」

 

 一体何の話をしているのか、露伴には心当たりがなかった。由花子は興奮した状態にある。これ以上玄関先で話しても不毛だ。露伴が先に折れる。()()()()、露伴は由花子を室内に招き入れた。

 

「茶は要るのか?まあ、僕が用意するつもりは毛頭ないがな」

 

 客間に通し、由花子を座らせる。

 

「ごめんなさい、先生。少し興奮しすぎたわ」

 

 由花子は額に片手を当て、うつむき加減で露伴に謝った。

 

「どうでもいいさ。そんなことよりも詳しく聞きたいな。僕の責任、とは何の話だ」

 

「ええ、そうね。まずはそれを確認しなくちゃならないわね」

 

「それ、ね。僕には皆目見当が付いてないけどな」

 

 由花子の対面に、露伴が腰掛ける。

 

「この間カフェで会ったときのことだけど、本当にヘブンズドアーで書き込んだの?それを確認したいの」

 

「書き込んだ――?ああ、ストーカー男の話か。何だい、僕を信用しないってのかい」

 

 由花子は首を横に振る。

 

「そうじゃないわ。でも疑わざるを得ない」

 

「心外だな」

 

 露伴の表情が険しくなる。由花子はしかし怯まない。

 

「あのストーカー野郎、まだ私のことをつけてるのよ」

 

「何?」

 

 あり得ない。露伴は由花子のそれを否定した。

 

「気が立ってるだけじゃあないのか?カウンセリングをおすすめするぜ。マジに」

 

「だったらあれは何」

 

 由花子は自身の後方、窓の外を指さした。窓の外にあの男が立っていた。男は以前よりも深く帽子を被っており、その視線がどこを捉えているのか明らかではない。しかし予想は付く。おそらく......露伴の背中を悪寒が走る。

 

「馬鹿な。ヘブンズドアーは確かに書き込んだ――」

 

「確認―するしかないんじゃないのかしら。危険な香りもするけど」

 

「ヘブンズドアーが効かない――是が非でも原因を究明したいものだな」

 

 露伴は呟くと窓まで行き、開いた。男は微動だにしない。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 衝撃で男は倒れ込む。“山岸由花子を視界に入れることはできない”。インクで記されたその文字が露伴の目に入る。

 

「いいや、ヘブンズドアーは有効だ――――どういうことだ」

 

 露伴が振り返る。目が合った由花子は頭を左右に振る。

 

「もう少し、調べる必要がある」

 

 露伴は部屋を回り、家の外へ出た。庭先で倒れる男の前で膝をつき、ヘブンズドアーで展開されたページを捲る。

 

「この間と変わった記述はなさそうだが...ん、これは新しいぞ」

 

<彼女がいなくなった>

 

 この間読んだときにはなかった記述を発見する。露伴のヘブンズドアー発動後のものだ。

 

<学校にも、家にも居ない。世界は何も変わっていないのに、彼女だけが消えてしまった。どうしてしまったのだろうか。どうなってしまうのだろうか。彼女の居ない世界――俺は何を頼りに生きていけばいいのだ>

 

「理解できないな」

 

 つまんだページから指を離し、露伴は立ち上がる。

 

「ストーカーってのは、どいつもこいつもこんな思考してんのか?」

 

 しかし、と露伴は腕を組む。ヘブンズドアーが確実に発動しているのにも関わらず、この男が由花子をつけることができた、その原因は分からないままだ。

 

「ヘブンズドアーに隠し事は出来ない。この男はその原因を知らない――外部から何かが働いているということか」

 

 どうやら少し、話がややこしくなってきた。開いた窓を介し、露伴は由花子に話しかける。

 

「応急的ではあるが、当面の対処はヘブンズドアーで可能だ――どうする。僕はまだ、それに見合うだけの対価を得てない」

 

「別に構わないわ。今度そいつがつけてきたら病院送りにしてやるだけだから。まあ、その後で康一くんには事情を話すでしょうけど」

 

「おいおい、冗談だって。勘弁してくれよ」

 

 露伴は引き攣った笑みを浮かべると、男に書き込んだ。

 

<山岸由花子に関する全てを忘れる。二度と思い出すことはない。存在を知ることさえない>

 

「これでいいだろう。恐らく根本の解決には至っていない。だが現状ではこれが限界だ。何も分からない」

 

 露伴は家の中に戻ると、椅子に座った。

 

「警察を呼ぶといいさ。今度ばかりは、しばらくは出てこれなくはなるんじゃあないのか」

 

「そうね。先生、ありがとう。お礼はまたするわ」

 

「マジで勘弁してくれ。無償で手伝わなかったと康一君に思われたら怒られる。それはご免だ」

 

 

 

 

 *

 

 

 その日の真夜中のことだった。固定電話の着信で、露伴は目を覚ました。壁掛けの時計に目をやる。時刻は午前三時。誰だか知らないが非常識な奴だ。露伴は寝返りを打つと、枕元のクーラーのリモコンを手に取り、設定温度を一度上げた。それから布団に戻ると、そのまま無視を決め込むことにした。

 

 十数秒。留守電のメッセージ録音に切り替わる。

 

『露伴先生!居ませんかッ!!!出てください!!!』

 

 聞き覚えのある声――露伴は飛び起きた。受話器を手にする。

 

「康一君かッ!どうした!!」

 

『先生!!説明は後でします!!とにかく今すぐ外に出てきてくださいッ!!』

 

「分かった!少しだけ待っててくれ!すぐ行く!!」

 

 露伴は即答すると通話を切り、寝間着から普段着に着替えた。階段を駆け下り、玄関を飛び出る。

 

「先生ッ!」

 

 玄関先で、スマホを片手に康一が立っていた。露伴が駆け寄る。

 

「康一君、どうした!」

 

「移動しながら説明します!とにかく急ぎましょう!!」

 

 康一が一人夜道を走り出す。

 

「急ぐって、どこへ行くんだ!!」

 

 康一を追いかけながら露伴が尋ねる。

 

「由花子さんの家です!!僕もまだ完全に理解したわけじゃないんですけど、“ストーカーを捉えた。露伴先生を連れて早く来て”って電話で」

 

「“ストーカー”だと!?」

 

「おかしいですよね」

 

 康一の隣に露伴が並ぶ。

 

「僕も少しだけ話は聞いてます。さっきなんですよね、捕まったの」

 

 露伴は頷く。康一はそれを見ると首を傾げた。

 

「同一人物、じゃないのかもなあ。短期間に三回も留置所から脱走するなんて、そんなの不可能だよ」

 

 ()()()()使()()ならあるいは。しかし、それもあり得ない。ヘブンズドアーで開示した際に、そんな情報は一切無かった。

 

 康一の携帯が鳴った。

 

「由花子さんからだ!」

 

 携帯を取り出し、康一が通話口に出る。

 

『康一くんッ!?お願い急いで!こいつ、鼻から何か――キャァァッッ!!!』

 

 電話の向こう側で由花子が叫んだ。

 

「由花子さん!?大丈夫!!?」

 

『何よこいつッ!!気持ち悪いわ!!――――わたしの髪に落ちてるんじゃねえェェェェェッ!!』

 

 康一は思わず耳から携帯を遠ざけた。

 

「待ってて由花子さん!!もう君の家が見えてる!!今行くよ!」

 

 由花子はそれに答えない。怒号が、風に乗って二人の元まで届いた。

 

「あの家です!」

 

 康一が前方の住宅街を指さす。

 

「あの、二階に電気が点いてる家!ちょうど由花子さんの部屋もあそこです」

 

 康一の指している家を露伴は見付ける。カーテンは閉められているが窓は開いている様子だ。声もそこから漏れてきている。

 

「由花子さん、どこから家に入ればいい!?」

 

『玄関が開いてるわ!勝手に入ってきて!』

 

「わかった!入る!!」

 

 由花子の家に到着する。康一は躊躇なく玄関を開けると、靴を脱ぎ捨てて家に侵入した。露伴も続く。階段を駆け上がり、二階の廊下左手のドアを叩く。

 

「由花子さん!?」

 

 康一が呼びかける。ドアが内側から開かれる。二人は部屋の中に飛び込んだ。

 

「康一君!!」

 

 扉に背を向けていた由花子が振り返る。額に汗がにじんでいる。

 

「そいつだね、ストーカーって」

 

 康一は部屋の中央、()()()()()()()()()()()()()()男を見上げ、臆することなく男に近付いた。男に意識はなさそうだ。口を半開きにしたまま目を閉じている。

 

「康一くん、待って!近付かないで!!」

 

 由花子がしかし、その行く手を遮る。

 

「こいつ、さっき虫を吐き出したッ―――!!」

 

「虫?」

 

 由花子の髪の毛が触手のように動き、細長い“何か”を二人に見えるように持ち上げる。

 

「こいつよ!気色悪いわ!!このストーカー野郎の鼻から出てきて、わたしに飛び付こうとした!!咄嗟に髪で拘束するしかなかったわ!!チクショオォォォォッッ!!!!どうしてくれるのよ!!触れた部分の髪、後で全部切らなくちゃあならないじゃないッ!!!!!」

 

 “虫”は全身をくねらせ、由花子の髪から逃れようとしている。

 

「うげえええ」

 

 康一はそれを目にすると、口を押さえて思わずえずいた。

 

「なんだあ?こいつ。回虫みたいな見た目だな」

 

 康一の背後から露伴が顔を覗かせ、その虫を詳細に観察する。虫の全長は15㎝ほど。少しくすんだ白色をしており、露伴が言った通り回虫に似ている。

 

「無害な虫じゃあないわ!明らかに!わたしを襲おうとしたッ!!」

 

「それは聞いた。問題はこいつが何か、ってことだ」

 

 露伴がヘブンズドアーを発動させる。白紙だ。理性も、記憶も無い。本能だけの生き物。

 

「露伴先生......?」

 

 康一が不安そうな面持ちで露伴を覗く。

 

 回虫に似ている。男の口から出てきた。由花子を襲おうとした。手がかりとなり得るのは、この三つの情報だけ。

 

「お手上げだな」

 

 露伴は肩をすくめる。

 

「僕が引き取ろう。色々、図鑑やらをあたって調べてみたい」

 

「それはいいけれど――このクソ野郎はどうしようかしら...今度見かけたときは容赦しないと、そう決めてたのよねぇ――ッ!!」

 

「由花子さん!!」

 

 青筋を立て、男をきつく締め付けようとした由花子の腕を、康一が握る。

 

「由花子さん、落ち着いて。何か対策を立てよう。この男がまた脱走してこないように」

 

「ヘブンズドアーは効力をなさないぜ、康一君」

 

 露伴がヘブンズドアーを発動し、男に書き込まれた文字を見せる。

 

「ヘブンズドアーは依然発動している。こいつは今、山岸由花子の存在を知らない。二度とストーキングはできないはず、だった」

 

「それじゃあ、なんで―」

 

「さあな」

 

 露伴は首を横に振る。

 

「案外、その虫が原因だったりするかもな――冗談だよ、康一君。そんなに真に受けるな」

 

 外から風に乗って、パトカーのサイレンが聞こえた。

 

「手際がいいな」

 

 露伴が感心した風に由花子に言う。

 

「何回も同じ目に遭って慣れたかい?」

 

 冗談だよ。二人に睨まれ、露伴は顔を逸らした。

 

 

 

   *

 

 

「康一君、こっちだ」

 

 カフェ・ドゥ・マゴの店内、入店した康一と由花子を見付けた露伴は、大きく手を振った。露伴に面して、二人は並び座った。

 

「先生、話ってなんですか」

 

 露伴に呼ばれた理由を、二人はまだ知らない。とは言っても、何のことだか察しは付いている。

 

「例の回虫似の虫のことだが――」

 

 二人の前に数枚の写真を出しながら、露伴は話し出す。

 

「現物は...原型を留めていないからな。持ってこなかった」

 

 一枚目の写真を二人に示す。二人が見たものと、様子に変わりはない。

 

「“愛虫(あいむし)”と呼ばれる寄生虫だそうだ。学名は“ユニレータル・ラバー・ワーム”。人間にのみ寄生し、どんな環境でも、たった一つの条件を満たしていれば繁殖可能。その条件が――」

 

 露伴が人差し指を立てる。

 

「宿主が“恋”をしていることだ」

 

「「恋......?」」

 

 二人は声をそろえた。

 

「詳しい説明の前に一つ確認させてくれ。あの夜以来、ストーカー男は現れなくなったんだな?」

 

 由花子が頷く。

 

「だから、そういうことなのさ」

 

 露伴は話を中断すると、通りかかった店員を呼び止めた。

 

「アイスティーを一つ。君たちも何か頼むかい?」

 

 康一と由花子が、それぞれコーラと紅茶を注文する。店員が下がると、露伴は話を戻す。

 

「ハリガネムシっているだろ。カマキリなんかの宿主を操って、水に飛び込ませるんだ。自分が体外に出るためにね。目的は違うが、愛虫も同じように宿主を操る」

 

 別の写真を二人に示す。

 

「これは海外の論文からとってきた写真だ。愛虫が宿主の頭の中に寄生しているのが見えるだろ。この白いのだ。こいつは宿主の脳内にとあるタンパク質を流し込み、それで思考を乗っ取る。乗っ取られた人間は、特定の行動だけを繰り返すようになる。“意中の人物に近付く”。それだけを繰り返す」

 

 飲み物が運ばれてくる。三人は同時に、飲み物を喉に流し込んだ。

 

「それだけだ。それだけしかしない。だが逆に、それだけは()()()()()()()()()()んだ。宿主は」

 

 康一が、合点がいったようで手を打つ。

 

「だからどれだけ警察に捕まっても、由花子さんのところまで来たのか」

 

「そう、そういうことだ。物分かりがいいぞ!康一君!」

 

「でも、おかしくありませんか?」

 

 由花子はしかし、納得がいっていない様子だ。

 

「今のは、ヘブンズドアーが効かなかった理由にはなっていない。あの男がわたしのことを記憶から失った以上、わたしは“意中の人物”ではなくなるんじゃあないんです?」

 

「これを見てくれ」

 

 三枚目の写真を露伴が提示する。真っ白な背景に“山岸由花子”という文字と、由花子の顔写真だけが浮かんでいる。

 

「あのとき捕まえた愛虫にもう一度ヘブンズドアーを使ってみた。そのときに見付けて、顕微鏡で拡大したものだ。小さすぎて見逃していたよ」

 

 これが何を示しているのか。

 

「まさか――」

 

 二人とも気付いたようだ。

 

「山岸由花子。君のことを、あの男は確かに忘れていた。ヘブンズドアーは発動していたんだよ。間違いなく」

 

 だが。

 

「記憶してたのは、愛虫の方」

 

 露伴に代わって由花子が答えた。露伴は頷く。

 

「対策の施しようがなかった、ということらしい。そして最後のピース」

 

 コーラの中の氷が溶け、カランと音が鳴る。

 

「愛虫は人間にしか寄生しない。ただし、中間宿主と終宿主は存在する。まあ、ここまで話せば大体分かるだろ。中間宿主は恋をしている人間。今回の場合で言うストーカー男。そして終宿主はその恋の相手。山岸由花子、君だ」

 

 露伴は由花子を指さした。由花子が眉間にしわを寄せる。指をさされたことが気にくわなかったらしい。

 

「もっとも、本来そうなるはずだった、と言うべきだな。今回の場合は。現に君への寄生は失敗しているからな」

 

 指を畳む。

 

「中間宿主から終宿主へ移動するには、その二つの個体が接触する必要がある。二人が接触したことを愛虫が認識すると、愛虫は中間宿主の体を脱出し終宿主に移動。終宿主の生殖器の中、精巣や卵巣に寄生し、体内の養分を吸いながら生殖を行う。生まれた幼体は精子や卵子に寄生し、宿主が生殖を行って誕生した子が次世代の中間宿主となる。幼体は中間宿主の体内で長い期間をかけて成長し、およそ20年後に成体となり、そして次の終宿主を探す。危ないところだったんだぜ、二人とも」

 

「接触......記憶にないのだけれど」

 

「触れてたじゃあないか、髪の毛が。あの男は何より君の黒髪に惚れてたんだぜ」

 

「そう...」

 

 由花子は自身の髪を指に巻き付け、くるくると回した。

 

「どうしてあんな状況になってたの?由花子さん」

 

 しばらくぶりに、康一が口を開く。

 

「気配がして、目が覚めたのよ。夜中のこと。部屋のドアの前にアイツが立っていた。どうやったのか分からない。玄関から堂々と侵入していた。だから咄嗟に締め上げた。不可抗力よ」

 

「由花子さんのことは責めてないよ――そっか。そんなことが」

 

「ま、その辺の謎は君達で解いてくれよ。邪魔者は早々に消えておくぜ」

 

 伝票を片手に露伴が立ち上がる。由花子がそれを止めた。

 

「露伴先生、待って。その代金、わたしが払います。今回の件で沢山お世話になったし」

 

 露伴は一瞬由花子を見詰め、それから伝票を机に戻した。

 

「そうかい。じゃあそうしてもらうよ。ま、君達の分を奢るつもりは最初からなかったけどな」

 

 ひらひらと手を振りながら、露伴は店を後にした。

 

 愛虫。人間に寄生する寄生虫で、その繁殖方法は少しばかり残酷である。しかし繁殖が成功する例は非常に稀であり、世界中のどこにでも生息しうるにも関わらず個体数は1000匹程度と言われている。人類の脅威となり得ることはないと判断されており、そのため一般には全くその存在を知られていない。

 

「しかし、何より怖いのは」

 

 人通りのない脇道にそれる。

 

「愛虫に寄生されているわけでもないのに、ストーカーとなる人間が存在するってことだ。それも、愛虫の個体数よりも圧倒的に多く」

 

 露伴はふと足を止め、振り返る。

 

「それで?君はどっちなんだい?」

 

 後方を歩く細身の若い女性に、露伴は尋ねた。




 ご無沙汰です。

 最近の荒木先生の台詞回しは本当に独特のリズムがあって、真似しようとしても真似できるものではなさそうです。しかし、今回はできるだけそれに寄せることを意識して書きました。いかがだったでしょうか。

 次回更新は9月中を目指しています


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another:11 《麻積村》

 無意味なことだとは百も承知だったが、それでも木村は腕時計に何度も目をやった。願わくば時間よ止まってくれ。遅刻だけは絶対に避けなければならない。仮に遅刻でもしようものなら、また次回会うときまで皮肉の嵐が続く。

 

 電車が止まってから30分が経つ。木村は溜息を吐くと天井を見上げた。S市の駅の近くに宿を取った選択が失敗だった。だがまさか、平日の日中にこうなるとは予想もできまい。そもそもこんな過密なスケジュールになったのは上司の無茶ぶりが――いや。責任の所在を求めたところで無駄だ。木村はそれ以上考えることを辞めた。どのみち、遅刻をするのは自分なのだ。“彼”にとって重要なのはそこだ。木村の事情など“彼”には関係ない。

 

 停止後四度目のアナウンスが車内に流れる。復旧までもうしばらくかかるらしい。遅刻は確定だ。

 

「申し訳ありません、露伴先生」

 

 いつもの打ち合わせ場所、杜王駅前のカフェ・ドゥ・マゴに駆け込んだ木村を、露伴は冷ややかな目で迎えた。木村が頭を下げる。

 

「電車か?」

 

「ええ。人身事故があったみたいでして」

 

 露伴は目を瞑り、既に冷め切ったコーヒーを口に運ぶ。

 

「遅刻の責任を君に問うことはしない。まあ昨日のうちに杜王町に来ておくとか、対策はいくらでもできたんだけどな」

 

 簡単に許された。木村はほっと胸を撫で下ろした。安堵の表情を確認した露伴は、そのまま腕時計に目をやる。

 

「一時間と十五分。何をきょとんとしているんだ。君が遅れた時間だよ」

 

 文字盤を人差し指で叩く。

 

「何の咎めもなしに僕が許すとでも思ったのかい?君もつくづくだな。僕の担当になってそろそろ一年だろ?」

 

「といいますと...」

 

決まっている。どうせこの負い目をダシに無茶ぶりをされるのだ。

 

「何か面白そうなネタを提供してくれよ。この一時間と十五分の遅刻を埋められるくらいの面白いネタをさ」

 

 木村は今日二度目の安堵をした。何という幸運だろうか。木村には奇跡的に、露伴を満足させられるであろう面白い話が一つあった。

 

「“鬼”って、先生は信じますか?」

 

 表情にこそ出さなかったが、特に困った様子もなく木村の口からあっさりと話題が出てきたことに、露伴は内心驚いた。

 

「“鬼”?ってのは、どういう鬼を言ってるんだい」

 

「――?とは?」

 

「“鬼”だなんていう定義の広い単語を出されて、信じますか?なんて聞かれても回答に困るんだよ。君の言っている“鬼”はどの“鬼”なんだ?」

 

 木村は困惑する。

 

「種類と言われましても...俺は“鬼”という名詞しか知りませんよ。“鬼”に種類なんてあるんですか」

 

 あるよ。木村は露伴に対し感心して見せた。木村にとって“鬼”といえば、桃太郎に登場するような悪さをする怪物としてのイメージしかない。

 

「まあ、今そんな話をしたところで話題の脱線だ。ほら、話すのは君だろ」

 

 木村は本来の話の流れを思い出し、はっとする。露伴の向かいの椅子に座り、咳払いを一つした。

 

「その、“鬼”についてなんですけどね。“鬼”の住む村っていうのがあるらしいんですよ。N県の方なんですけど」

 

「待て、知ってるぞ。麻積(おづみ)村だろ」

 

「え、ええ。ご存じでしたか?」

 

「鬼信仰の根強い村だろ?その信仰の方針ゆえ、今でも村外の者は歓迎されない。ロケに訪れたテレビ局に暴行を加えることだってある」

 

「なんですか、それ。事件じゃないですか」

 

 木村は露伴の言葉を怪しんだ。自分の知っている限りでは、麻積村にそんな話が合った覚えはない。

 

「先生、適当なこと言ってないですよね。それって割と話題になりそうですけど」

 

「当たり前じゃないか。そんな()()()()()()、わざわざ自分から世間に晒してどうする。少し寝かせてから作品のネタにしようとするだろ」

 

 木村が首を傾げる。露伴の言葉が理解できないのだ。

 

「じゃあ、先生はどこでその話を知ったんですか?」

 

「知るも何も、僕は当事者さ」

 

「は?」

 

 木村は呆けた声を漏らした。

 

「おっと、期待するなよ。これは僕だけが知っているものだ。例え担当の君であろうと、作品にならない限り教えるつもりはない」

 

「冗談でしょ、露伴先生。これじゃあまりにも蛇の生殺しだ!」

 

「おいおい、そんなに怒るなよ。僕だってこれで生活してるんだぜ。君の好奇心を満たすためのネタじゃあない」

 

 というよりそもそも、露伴の好奇心を刺激するような話題の提供が話の本筋だ。しかし、木村は止まらない。

 

「なるほど。じゃあ先生、こうしましょう。そのネタを次週に、もしくは次の短編に使う。これで解決です!」

 

「なあなあなあなあ。だから落ち着けよ。勝手に話を進めようとするな」

 

「普段の先生だって同じようなものじゃないですか」

 

 露伴はしかめ顔をとる。

 

「君がそこまで言うならいいだろう――余計教えようと思わなくなったよ」

 

 机の上に広がったノートやペンを纏め始めた露伴を、木村は慌てて引き留めた。

 

「ごめんなさいって!待ってください露伴先生!まだ来週の連載の打ち合わせが!」

 

「そこの紙に全部書いてあるよ。打ち合わせって言ったって、これまで一度も修正が入った試しはないんだ」

 

 露伴は後ろ手にテーブルの上を指さした。ノートから切り離された紙が一枚置かれている。木村はそれを拾い上げた。次週の連載の構成が纏められている。自分は何のためにここまで来たんだ?露伴は既に店を出ている。

 

「クソが」

 

 思わず木村は悪態をついた。

 

 

 一方で、店を後にした露伴もまた不機嫌だった。麻積村。正直思い出したくもない記憶だ。木村にした説明もほとんど嘘だ。作品にするつもりなど毛頭ない。あまりにおぞましい。この岸辺露伴でさえ、どうにも胃がムカムカとしてくるような事件だった。早々に話題を切り上げたかったのだが、そのために彼の事件のことを口にしたのは失敗だった。墓穴を掘ったにも等しい。

 

 もう四年も経つというのに。露伴は自分の弱さを感じたように思えて、少し呆れた顔をした。

 

 

 そう、それは四年間の出来事。露伴がとあるテレビ番組の出演依頼を受けたことに始まる。メディア露出には積極的でない露伴だったが、番組の内容を聞くと途端に目の色を変えた。

 

 鬼信仰の色濃く残る、俗世から隔離された村へのロケ。N県の山間にぽつりと存在する麻積村の名前を聞いたのはそのときが初めてだった。曰く、現代社会から完全に外れた世界。曰く、本物の“鬼”が住んでいる。

 

 如何にも、な謂れ。胡散臭さがぷんぷんと漂ってくる。しかしその村へ赴けるとなれば、露伴が食いつかないはずもなかった。俗世から隔離された村。その一文だけでも十分な動機となる。番組を知った露伴は出演を飲んだ。

 

 

 杜王町を出で、S市から新幹線に乗り都内へ。都内で番組スタッフや共演者と合流すると、ロケバスで現地へと向かった。バスに揺られること四時間、麻積村に到着する。

 

「ああ、やっと着いたのか?」

 

 露伴の三列後方に座っていた男が、欠伸をかきながら目を覚ます。大嶋という、多くの番組に顔を見せるようになってきたばかりの芸人だ。年齢は四十。露伴とは一回り以上離れている。

 

「いやはや、自分ではまだまだ若いつもりでいるんだがな。長時間座っていると腰が痛くてかなわねえ。な、――えっと。漫画家の岸辺さんよ」

 

 大嶋は座席から立ち上がると、通路から露伴の肩に手をかけた。

 

「こんな山奥だしさ。下道でバスが揺れるのなんの。体に悪いぜ」

 

「そうだな。正直疲れたよ。漫画に活かせる良い体験というわけでもなかったしな」

 

 へえ。大嶋が二度ほど頷いてみせる。

 

「なるほどな。今一番売れている漫画家――えっと、岸辺露伴。あんた、プロフェッショナルだな」

 

 クククと低く笑いながら、大嶋はバスを降りた。

 

「何だ?あいつ」

 

 露伴もバスを降りる。

 

のどかな田園地帯だった。刈り時が近いであろう麦や、レタスやキャベツをはじめとする高原野菜が栽培されている。田園の各地に古民家が点在しており、集落としてまとまっている様子はない。日本アルプスの山あいにい位置するだけあって、気候は冷涼だ。六月の頭だというのに薄手の長袖では寒さを感じる。

 

「なかなかどーして、寒いじゃない」

 

 大嶋は両の二の腕を擦りながら、露伴とはまた別の共演者に話しかけた。出演者は全部で三人。露伴と大嶋の他に静宮という若手女優が出演する。大嶋に対し彼女は愛想笑いで対応した。

 

 集合がかけられ、三人は手始めに最寄りの民家へと連れて行かれた。田園の端に、ひときわ目立つ大きな建物がある。元々の地主の屋敷だろうか。屋敷周りは高い塀によって囲われており正面に構える大門には守衛らしき人影もある。

 

「おいおい、ホントにここは21世紀の日本か?」

 

 大嶋が笑う。あまりに時代錯誤が激しい。守衛が露伴たちに気付き門を叩くと、内側から門が開かれた。門の奥には古風な庭園が広がっている。松の木が石畳の遊歩道を覆うように植え付けられ、蛇行しながら玄関まで続いている。門の先に男が一人立った。服装は屋敷の雰囲気と合った和服だ。男は一行に深々と頭を下げ、それから踵を返した。門の中へと促すように、守衛が手で案内をする。プロデューサーが先頭に立って門を潜った。和服姿の男に続き玄関を通り、屋敷の奥へと進む。大広間へと一行は案内された。

 

 大広間には大勢の男が集っていた。おそらく村の人間なのだろう。ほとんどは着物ではなく、比較的カジュアルな服装だ。彼らは広間の中央を空けるように、壁際に規則正しく並んでいた。広間最奥に一人、際だって豪華な着物を着た男が鎮座している。30代にも見える、短く髪を纏めたその男が、この場で一番の権力者であることは間違いない。一行は部屋の中央、その男の目前に座るよう促される。

 

 一行、正確な数字を言えば四人のスタッフを合わせた七人が座ると、正面の男が会釈をした。おそるおそる、一行も会釈を返す。露伴だけは異様に堂々としている。その上、睨む勢いで男のいでたちを観察した。

 

「このようなへんぴな地へ、ようこそおいで下さいました。私、この村を取り纏めております森上(もりがみ)家主人、森上 幸之助と申します」

 

 露伴の視線に気付いていたのか、露伴に対しニッコリと笑顔を向け、男は口を開く。

 

「事前にお話は伺っております。この村を世の皆様に紹介していただけるとのこと。つきましては、村の者総出で皆様を歓迎させていただきたく存じます。なにぶん皆様お疲れのことでしょうし、明日まで日程は余裕があるとのこと。本日はご馳走や宿をご用意いたしますので、是非ごゆるりとおくつろぎ下さい」

 

 森上が手を叩く。大広間の両脇の襖が一斉に開かれ、十五人程度の女性が現れた。七人の前に女性達が御膳や酒を運ぶ。

 

「この村で採れた食材のみを使用した料理でございます。栽培から調理に至るまで、山の雪解け水が染み込んだ湧き水をふんだんに使用していることも自慢です。是非ともご堪能下さい」

 

「おお...これはすげえ」

 

 大嶋が感嘆する。料理も勿論見栄えからして素晴らしいのだが、それ以上に食器に目が奪われる。全体に金箔がちりばめられた漆器や陶器の数々は圧巻だ。

 

「さ、どうぞお食べ下さい」

 

 森上が一行を促す。露伴達三人は顔を見合わせた。

 

「いただきましょう」

 

 プロデューサーが箸を手に取った。それを見た他のスタッフも料理をつつきだす。

 

「そーゆー流れみたいだな。俺も腹減ってきてるしな。いただくとしよう」

 

 大嶋も手をつける。露伴と静宮も続いた。

 

 

 

 

 

 はっと、露伴は目を覚ました。

 

 ほんの数メートル先で燃えさかる、二本の大きな篝火。その炎が天井のゴツゴツとした岩肌をなめる。篝火の向こうから聞こえてくる読経のような声。声の方向へと首を回す。男が一人、座禅のような姿勢で目を瞑り何かを唱えている。森上だ。森上の後方では大勢の人間が頭を地に擦りつけるように平伏している。洞窟か何かの開かれた場所のようだ。

 

 夢か?脳が追い付かない。上体を起こした露伴は、四肢に鎖が結びつけられていることに気付く。

 

「何だと...」

 

 状況は未だに理解できない。が、その身に危機が迫っていることは確かだ。露伴の脳は急激に活動を開始した。

 

 露伴の周りには六人が同じように鎖に繋がれていた。彼らも目を覚ましたものの、突然の光景に混乱している様子だ。拘束されていることに気付いた静宮が悲鳴を上げる。森上が唱えるのを止め、立ち上がった。静宮の元へ歩み寄り、そして顔面を殴打する。衝撃で床に叩きつけられる。

 

「おい!!!!」

 

 大嶋が叫んだ。森上は、今度はその大嶋を殴った。

 

「下劣な奇声を発するな。“小角(おづみ)”様のお気に障るだろう」

 

「何が目的だ」

 

 露伴が問う。森上は踵を返した。

 

「お前達には“小角様”の贄となってもらう」

 

「贄だと?」

 

「そうだ贄だ。“小角様”は活きのいい人間が大の好物であられてな」

 

 露伴の額に汗がにじむ。人間が好物だと?

 

「何なんだ!そいつは!」

 

 大嶋が叫ぶ。と、森上が勢いよく大嶋に詰め寄った。

 

「大声を上げるんじゃあない...!次はその舌を切り落とすぞ」

 

 大嶋の頬を鷲掴みにし、額同士がぶつかり合いそうな距離で睨み付ける。気圧された大嶋がコクコクと頷くと、森上はその手を離した。

 

「“小角様”はこの村の守り神であらせられる。数百年の昔から、我々に安定と、平和と、繁栄をもたらしてくださった。数多の災害や、外部の人間の好奇の目を払いのけてくださった。だが一つだけ難点があってな。“小角様”は我々に、見返りとして生け贄を要求してくるのだ。年に一度、数人を貢がなければならない」

 

 森上が台を離れ、元の位置に座る。

 

「毎年毎年、何人も村の人間を生け贄としていては限界があるだろう?だからこの村を訪れた部外者に、仕方なく身代わりになってもらう他にないのだ。古くからのしきたりだ」

 

 静宮が嗚咽する。

 

「い、嫌なら生け贄そのものを廃止すればいいのでは――」

 

 プロデューサーが口を開く。

 

「廃止だと?できるものならとっくのとうにしている。だがそういうわけにもいかないのだ。“小角様”なしにしてこの村は生きてはいけない」

 

 森上が俯く。

 

「この村に来る時に分かっただろう。ここは現代社会から取り残された地なのだ。地理的にも、文明的にも。“小角様”の加護がなくなれば、この村は一代と持たずに滅びる」

 

 そこまで言わせる“小角様”とは一体何者なのだ?森上の様子からするに、ただの虚像ではないのかもしれない。

 

「お前達はこれまで現代社会で何不自由なく生きてきたのだろう?もう充分だろう?大人しく我々の糧となってくれ」

 

 森上が右手を挙げる。後方に控えていた村人たちがそそくさと退場する。

 

「さよならだ」

 

 最後に森上が去る。閑散とした空間に七人だけが取り残された。

 

「待てゴラアアァァァァァァァァァッ!!!」

 

 大嶋のその叫びを皮切りに、露伴を除く六人は喚いた。だが返答はない。空間の中で空しく反響するだけだ。

 

 ゴトンと、背後で大きな音がした。六人は口を閉じた。続いて、何かを引き摺っているような音が響く。恐る恐る、露伴達は音のする方へ首を回す。洞窟の奥、壁だったはずの所にぽっかりと穴が空いていた。その奥から音はする。穴の中は暗くて見えない。

 

炎に照らされ、音の主の姿が浮かび上がる。人?いや、それにしてはそのフォルムは歪で、しかし獣と呼ぶにはあまりにも人に近い姿をしていた。静宮が叫ぶ。

 

「何だ...こいつは...」

 

 足を引き摺るように二足歩行をする“それ”の姿を一言で形容するならば、“化け物”と呼ぶのが正しいように思える。全身に瘤のような突起があり、ゴツゴツとした岩のような印象がある。筋肉が異様に発達しているのか、体型は横に広く太い。身には布の一枚も纏っていない。皮膚の表面は爛れているようで、全体的に下に垂れ下がっている。下の筋組織が露出しているのにも関わらず、全身黒ずくんでいる。長い間汚れを洗い落としていない証拠だ。顔面は酷く腫れ上がっており、その腫れが眼孔すらも覆い隠している。額の両側には特に発達した瘤があり、それが目に付いた。

 

 七人が縛り付けられた台に“それ”が近付く。鎖を外そうともがくも、簡単に外れるほどやわなものではない。そうこうしているうちに、“それ”が台の前までやって来た。

 デカい。見上げた露伴の額から汗がしたたる。背丈は三メートルをゆうに超えそうだ。

 

「お前は――人間なのか?そもそも」

 

 “それ”は答えない。一旦露伴に視線を投げるも、興味を失ったのか直ぐに視界から外した。ヘブンズドアーを発動させたいところだった。だが距離がまだ遠い。射程外だ。“それ”は露伴以外の六人をじっくり眺め渡すと、一番手近に居た大嶋にその手を伸ばした。

 

「止めろ!来るな!触るなアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 大嶋は必死に抵抗した。しかし、甲斐なく“それ”に足を捕まれる。“それ”は片手で大嶋の体を持ち上げた。鎖が伸びきり、手足が引っ張られる。大嶋は吠えた。“それ”は力を緩めない。大嶋の右足を両手で掴むと、鎖に繋がれた足首を()()()()()。声にならない叫びをあげる。

 

「何だと!?」

 

 どれだけの怪力なんだ。マズい、殺される。

 

 静宮やスタッフが嘔吐する。阿鼻叫喚、まるで地獄だ。大嶋は更に、残りの手足も引き千切られた。“それ”は大嶋を担ぎ上げると、穴の中へと戻っていった。しばらく聞こえていた大嶋の叫びも、やがて途絶えた。

 

 広場にはスタッフや静宮の嘔吐く音だけが残る。突然の非現実に誰もが衝撃を受けている。それは露伴も例外ではない。だが、ただ呆けているわけにもいくまい。露伴は思考を働かせる。あの巨大な生物は何者なのか。見当は付いている。

 

「“小角様”――」

 

 森上が言っていたその存在が奴なのだろう。だが“小角様”とは一体何なのだ?あの見た目、人間ではない。

 

「何なのよもおぉぉぉッ」

 

 静宮が叫んだ。もはやその形相は正気のものではない。だが無理もない。あんなものを目の当たりにして正気で居られる方が異常だ。

 

 穴の奥から再度足音が聞こえた。五人の表情が悲壮に染まる。この重い何かを引き摺るような音。間違いなく、大嶋を攫っていった“それ”だ。露伴を除いた五人は必死で拘束から逃れようとのたうつ。しかして、“それ”が姿を見せる。ゾクゾクと、露伴の背中を悪寒が走った。

 

 赤、赤、赤――

 

 “それ”の両手や顔周り、胸元が赤黒く染まっていた。間違いなく血である。それもまだ新しい――――誰の血だ?炎の反射で怪しく光彩を放つ様子が余計に生々しかった。静宮が一際大きな叫び声を上げて失神した。スタッフ達男衆の顔からも血の気が失せている。

 

「“鬼”だ...」

 

 プロデューサーが震えた声を発する。そういえば。露伴は気付く。

 

「“麻積村”。鬼信仰の根強い村、“鬼”が棲み着く村――」

 

 単なる俗信だと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

 

 “それ”が台の前に立ち、残りの六人を吟味するかのように眺め回す。その目が、気を失った静宮で止まる。露伴と静宮との距離は二メートルとない。やるなら今だ。“それ”が静宮に手を伸ばしたその瞬間、露伴は叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 “それ”の手の甲から上腕にかけての皮が捲れ、ヘブンズドアーによる“ページ”が出現する。“それ”の動きが停止した。露伴は即座に書き込む。

 

《何者にも危害を加えられない。そして動けなくなる》

 

「さて」

 

 スクリと立ち上がり、鎖の伸びきる限界まで“それ”に近付く。突然動きを止めた“それ”の様子に、スタッフ達の思考は追い付けていないようだった。ヘブンズドアーによって露わにされた“それ”の記憶を読む。

 

《朕は“小角様”である。他に名前があった気もするが、長らく呼ばれぬうちに記憶から失われた》

 

 やはりこの化け物が“小角様”だったようだ。この化け物の他に何者かが存在する可能性は薄い。だからそれさえ分かれば脱出には十分だった。しかし露伴は止まることなく読み進める。“小角様”とは何なのか。露伴は既に好奇心に捕らわれていた。

 

《朕が何者だったのか、それも今となっては覚えていない。ただ暗闇の中、朕は一人だった。時に空腹を感じると、どこからともなく人間の声が聞こえてきた。その方向へ向かうと“食料”が置いてあった。一人は侘しいものだが、食料が絶えないのは悪いことではない》

 

「岸辺先生...?」

 

 プロデューサーがおそるおそる露伴の名を呼ぶ。露伴はハッと我に返った。彼らは自由になりたいはずだ。露伴としても鎖に繋がれてばかりだと動きが制限される。

 

《全員の鎖を破壊しろ》

 

 露伴が書き込んだ。小角様は先ず、露伴の手に繋がれた鎖を握り引き千切った。しばらくの間もなく四肢の鎖から解放される。スタッフ達が目を丸くした。小角様が露伴の隣のスタッフに向く。男は恐怖した。

 

「落ち着けよ。もう害は加えない。僕を見てたら分かるだろ」

 

 そうはいっても、だ。しかし鎖のせいで逃げるにも逃げられない。小角様が男の鎖を掴む。男が絶叫するのを尻目に鎖を破壊する。四つを破壊し終えると、小角様は次の男に取りかかった。三人も鎖が外れると、スタッフ達も小角様が既に無害なことを理解した。静宮を含む六人全員が拘束から解かれる。全てが終わったところで、露伴は再び小角様の記憶を探った。大嶋がどうなったのかも確認する必要がある。再度動きを止めた小角様に近付く。

 

《活きのいい食料が七個も置かれていた》

 

 最新の記述を見付け、目を通す。間違いなく露伴達のことだ。

 

《最初に一匹の雄を食した。どうもあまり肉付きは良くなかったが、あと六個も残っている。問題ない》

 

「喰った...のか。やはり」

 

 人の死に目には何度か直面したことのある露伴だったが、そんな彼でさえその事実には衝撃を受けた。露伴とは言え人の子だった。“人を食らう”ことには本能的な嫌悪感、恐怖を感じた。

 

「岸辺先生、逃げましょう!今のうちに!」

 

 プロデューサーが出口に向かう。気絶した静宮をカメラマンが背負う。露伴は一瞬の逡巡の後に小角様の元を離れた。

 

 小角様をどうするのが正解だったのか。露伴にはどうも分からなかった。小角様の記憶を読んだ露伴は一つの仮説を立てていた。麻積村が小角様の被害者なのではなく、小角様が麻積村の被害者だったのではないのだろうか。小角様の記憶を読んだ限り、小角様は決して、自ら生け贄を求めてはいなかった。というよりもむしろ、小角様はあの暗い洞窟の中に幽閉されているような、そんな気がした。かつて己が何者であったのか、小角様はそれすらも忘れていたのだ。そして暗闇の中で一人だと嘆いていた。

 

 森上の言っていたことは嘘ではないのか。麻積村は小角様の加護がなければ存続できないのではなく、小角様がいる限り現代社会と接触する必要がないだけなのではないのか。小角様がいれば、自然の驚異も、人間の脅威も被ることはない。それだけの話。

 

 もっとも露伴の推測だ。森上やその他村人の記憶を読んだわけではない。真相は謎だ。しかしどちらが真実だったにせよ、あの村には底知れぬ闇が広がっていそうだ。

 

 その後何事もなく、どうにかして市街地に辿り着いた後で、露伴は六人の記憶を書き換えた。麻積村の横には麻積山という山がある。世間では、大嶋はその山中で遭難死したということになっている。

 

 後で知ったことだが、麻積山は“日本で最も登頂が困難な山”として、登山家の間で有名な山だった。決して標高が高いわけでもなければ、斜面が険しいわけでもない。ただ行方不明者が多いのだ。日本アルプスの間に位置するという地理的条件のために天候の変化が激しいのだろう。研究者による見解だ。だが真実は違っているのかも知れない。

 

「麻積――鬼棲み。なるほどな」

 

 単純が過ぎる言葉遊びのようではあるが、その実本質を捉えているようで露伴は納得していた。

 

 四年の歳月が過ぎたが、以来今日まで麻積村は一度も話題に上ったことはなかった。木村の口からしばらくぶりにその単語を聞き、少なからず露伴は動揺していた。ふとスマホを取り出し、ここ数年の麻積山での遭難者の数を調べる。行方不明者20人。今も小角様への献上は行われているらしい。

 

 木村からの着信があった。顔をしかめながらも露伴は応答する。もし件の話題だったら速攻で切ってやる。

 

『先生!修正箇所がありましたよ!』

 

 露伴が通話口に出るや否や、木村が叫んだ。露伴は携帯を耳から遠ざけた。

 

「うるさいなぁ。いきなり叫ばなくても聞こえるぜ」

 

『修正ですよ、修正!先生の纏めた短編の構成に穴があったんですよ!』

 

「だから聞こえてるって言ってるじゃあないか。どうして君はそう、いちいち僕の神経を逆撫でしようとするんだい」

 

 とにかく、早く本題に入ってくれ。黙り込んだ木村に詳細を尋ねる。大した修正ではなさそうだ。露伴は口頭で指示を出した。

 

 気が付けば、空は日の入りを迎えようとしていた。秋の黄色がかった夕日に照らされた町影が、露伴の行く手に広がった。




 





 お久しぶりです。お待たせしました。

 











 書くことがなくて困っています。次の投稿予定だけ報告してお終いにしましょう。


 次話の投稿予定は未定です()


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another:12 《6/26―Admonition》

 岸辺露伴は子供が嫌いだ。厳密に言えば、自分勝手で全く思うように動いてくれないクソガキみたいな人間が嫌いだ。そういう相手には常に気を配っておく必要がある。なんせ逐一の行動が予測できない。奴らは大抵、露伴のやって欲しいことと正反対の行動を取る。それが彼にとってはこの上なくストレスになるのだ。逆を言えば、例え相手が五歳の幼子であろうと“弁えた人間”であれば、相手をそれなりに扱った。

 

 トーマは“弁えた”子供であった。二人で行動するようになってかれこれ丸二日が経つが、彼が露伴をイラつかせたことは一回もなかった。

 

 彼はドイツにいる露伴の友人の息子だ。日本人とのハーフで、幼少からドイツに住んでいるため日本語は話せない。露伴がドイツ語を喋ればいいのだから問題はないのだが。

 

「頼むキシベ、この通りだ。四日だけでいい。うちの息子を預かってくれ!」

 

 トーマの父、アベルが手を合わせて懇願する。二日前の事だ。休暇を兼ねた取材旅行にドイツを訪れた露伴とアベルが空港で鉢合わせたのは、全くの偶然だった。

 

「君にとっては“四日だけ”かもしれないが、僕からすれば“四日も”だぜ?」

 

 露伴は困り顔をする。

 

「頼む!どうしてもトーマの面倒を見てくれる人が必要なんだ!」

 

「そう言われてもな――」

 

 アベルは現在、出張中の身である。妻も別件で国を留守にしており、一人残されたトーマは祖母に面倒を見てもらっていた。しかしつい先日祖母が倒れ入院。アベルは一時的に帰宅できたが、直ぐに現場に戻り、もう数日勤める必要があった。その間トーマの世話をしてくれる人間がいない。途方に暮れていたところ、たまたま露伴と出会ったらしい。滞在期間や行程から考えれば、露伴がトーマを預かることは十分に可能だ。だというのに露伴が難色を示す理由は、トーマが子供だからということに他ならなかった。

 

「そうだキシベ。代わりと言ってはなんだが、何か一つ、君が欲しいものをプレゼントするよ。それでどうか手打ちにしてはくれないか」

 

「違う、見返りが欲しいって訳じゃない。はっきり言うぞ。僕は子供が嫌いだ。言葉が通じないからな、あいつら」

 

「そういうことなら安心してくれ。親の俺が言うのもなんだが、トーマは利口な子だ」

 

 頼む。アベルは再度、手を合わせて頼み込んだ。

 

「どうしたものか――」

 

 言ってしまえば、露伴の気分の問題だ。何か大きな損失が生まれるわけでもない。であるのなら引き受けるべきなのでは?露伴は思慮を巡らせる。

 

「わかった、引き受けよう」

 

 アベルの表情が明るくなる。

 

「ただし、僕の本来の予定を変更するつもりはない。数日は国内の観光に連れ回すが、いいな。特別何かしてやるつもりもないぜ」

 

「大丈夫だ。だだをこねるような子じゃない。ご飯を与えて休憩を適度に取ってくれれば十分だ」

 

「まあ、疲れて動けなくなられたときに困るのは僕だからな。その辺りはちゃんと見るさ」

 

「本当にありがとう。お礼はどうすればいい」

 

「そんなものは要らないさ――と一旦断るのが正しいんだろうが、僕は貰えるものは貰っておこうって考えでね。とはいえまあ君に一任するよ」

 

 “面白い物”を持ってきてくれることを期待してね。露伴は悪戯な笑みを浮かべた。

 

 そんな経緯あって、露伴は今もトーマと行動を共にしていた。トーマの大人しさに露伴は驚いていた。お腹がすいた、疲れたとぐずることもなく、両親が恋しくなって泣くこともない。露伴でさえちょっと心配になってしまうほど従順だ。大人に恐怖心を持っている様子でもない。ただただ“いい子”なのだ。露伴の取材も順調。この二日の間に計六ヶ所の観光地を回れた。気分もすこぶるいい。

 

 マリエンブルク城を訪れた後、二人は宿のあるハーメルン市街へと戻った。地元の伝統的なレストランに足を運ぶ。有名な店だ。

 

 ここハーメルンを舞台にした伝説“ハーメルンの笛吹き”。物語の主格となるのは笛吹き男だが、露伴達の訪れたレストランは、その男が泊まった建物とされていた。石造りの、歴史を感じさせる外観。入り口横の吊り看板には笛吹き男のシルエットが描かれている。現実に笛吹き男が泊まったかはさておき、店内のあちらこちらに、伝承にちなんだものが並べられている。最も目を引くのは壁画だ。騒動の一連の流れを示した壁画が大きく描かれている。

 

 二人の通されたテーブルは入ってすぐにある丸テーブルだ。レストラン名物の“ネズミの尻尾”を一先ず注文する。料理名にはカルチャーショックを受けそうになるが、材料にネズミの尻尾が使われているというわけではない。豚肉を細く切り、ネズミの尻尾に見立てているだけの料理だ。

 

 スタッフがテーブルの横までワゴンを引いてきた。だが、ワゴンの上にそれらしき料理は乗っていない。代わりに空の皿や、具材やら調味料やらの入った皿が並べられている。露伴が首を傾げていると、具材を使ってスタッフが料理を始めた。目の前で調理するサービスらしい。トーマが目を輝かせ、食い入るように眺める。最後にフランベで焼き上げ完成。トーマが歓声を上げた。

 

 その後注文した料理が続々と運ばれる。大した量ではなかったが、トーマの箸の進みは遅かった。

 

「不味いか?」

 

 気になった露伴が尋ねる。トーマは首を振って否定した。

 

「ならいいんだがな」

 

 露伴は卓上のワインを喉に流し込んだ。二日間連れ回してるのだ。疲れてるんだろう。気長に待ってやることにした。

 

 二人が食事にいそしんでいると、突然スタッフが声をかけてきた。

 

「お客様、本日はお帰り下さいませ」

 

「なに?」

 

 虚を突かれた露伴は思わず聞き返す。まだ皿に料理が残っている。

 

「何かマナー違反でもあったか?それとも長居しすぎたか?」

 

 スタッフが首を横に振る。

 

「本日はこの時間をもってしてお子様の入店をお断りとさせていただいているのです」

 

「聞いてないぞ」

 

「一時間ほど前から入店いらしているお客様には説明申し上げているのですが――」

 

 露伴は店内の時計に目をやる。来店から二時間近く経っている。露伴は長い溜息を吐くと、荷物を纏めて立ち上がった。店の決まりなら仕方がない。会計を済ませ、不満げな表情を隠さずにいるトーマの手を引き店を出る。店の先で、見送りに来たスタッフが二人を呼び止めた。

 

「お客様、一つだけお願いがございます」

 

 露伴は振り返る。スタッフが真剣な面持ちで立っている。

 

「本日の日没は21時47分頃。それまでにホテルにお戻り下さい。それから夜が明けるまで決してお子様を建物の外に出さぬよう」

 

 露伴は腕時計でもう一度時間を確認した。既に21時を少し過ぎている。ホテルには余裕を持って到着できるが、寄り道している時間はないだろう。

 

「何でだ?」

 

 露伴は尋ねる。

 

「店の方針なのか?だとしたら大層厚意的なサービスだな」

 

 トーマはまだ五歳だ。言われなくても、その時間までにはホテルに帰るつもりでいた。

 

「なあ。これは僕の好奇心なんだが、何故“日没”なんだ?一切外に出しちゃいけないってのも引っかかるな。治安の問題か?」

 

 スタッフは首を横に振る。

 

「詳しくはホテルのスタッフにお聞き下さい。この地域の人間は皆知っています。それよりも日没が迫っています。なるべく早いご帰宅を」

 

 露伴は肩をすくめた。答えになっていない。スタッフが再度、二人に帰るよう促す。露伴は諦めると踵を返した。トーマの手を引きホテルへの道を行く。道中露伴は、すれ違う人々が不安げな眼差しを送ってくることに気付いた。空模様が怪しい。陽は雲の向こうに隠れており、日没まではまだ時間があったものの街頭には既に明りが灯り始めていた。やはり日没までにホテルに戻らなければならないようだ。“街”全体が促してきているかのようだ。

 

「“子供”がいけないのか」

 

 二人が歩いているのは街の中心地だ。人の気も多い。だがすれ違う人々の中には“子供”の姿が一つも見当たらなかった。地元民はともかく、他の観光客でさえ子連れは居ない。かなり徹底されているようだ。

 

「だが聞いたことがないぞ」

 

 街全体の規模の独特なルールだ。ガイドブックや何かに紹介されていてもよさそうなものだが。書けない理由でもあるのか?とんと見当が付かない。

 

「もし」

 

 露伴が思考を巡らせていたところを老婆が呼び止めた。六十――いや七十代か。

 

「アジアのお方、今日は何の日かご存じか」

 

「知らないな」

 

 “何かの日”であることは間違いなさそうだが、それが何なのかは露伴の考えの及ぶところではない。

 

「今日は日没以降子供が外へ出てはならない日なのです。日没まであと二十分といったところです。早くホテルへお帰り下さい」

 

「それは知っている。何故なのかは知らないがな」

 

「ご存じでしたら良いのです。失敬失敬」

 

 踵を返しその場を去ろうとする老婆を、今度は露伴が呼び止める。

 

「なあ、ちょっと待て。どうしてなんだ?理由を教えてくれ」

 

 老婆はレストランのスタッフと同じように首を振った。

 

「ホテルの人間が説明してくれるはずです。わざわざここで立ち止まって話す意味はありません」

 

 なあ。露伴の視線が老婆を射る。

 

「“知ってる”とは言ったが“従う”と言った覚えはないぜ」

 

 老婆は目を見開いた。露伴に正対し、溜息を一つ吐く。

 

「お若いの。年の盛りに乗って世に反抗するのは結構。貴方の好きなようにするがよろしい。だが従った方が良いものは存在する。若気の至りで大切な命を奪うことはあってはならない。今すぐ、ホテルへ戻りなさい。さもなければその子の命はないと思って戴きたい」

 

 老婆はトーマを指さした。

 

「そういう脅しもいらない。老化で耳が遠くなってるのならもう一度聞くぞ。何故日没後に子供を外に出してはならないのか。その理由を教えてくれ」

 

 二人は互いに睨み合った。老婆が再度溜息を吐く。

 

「今夜は何処にお泊まりの予定で」

 

「答える必要はない」

 

「何もそこまで敵意を剥き出しにせんくとも――そこまで歩きながら話そうというだけのことだに」

 

 露伴は無言のまま歩き出した。老婆がその隣を歩く。

 

「今日は――六月二十六日じゃが――何の日か知っとるか?」

 

「いいや」

 

「なら“ハーメルンの笛吹き男”の物語は知っておるか」

 

「知っているが。それが?」

 

「笛吹き男が子供達を連れて消えた日付が六月二十六日。今日と同じ日付でね」

 

 へえ。露伴は生返事を返す。それがどう繋がるのか。

 

「“奴”は未だに根に持っとるのだよ」

 

「“奴”?」

 

「笛吹き男じゃよ。あの事件から数百年経った今でも奴はこの日、この街に現れ子供達を攫ってゆく」

 

「“日没後”にか?」

 

 老婆が肯く。

 

 気になるな――見てみたい。相手は伝説の中の登場人物だ。だがトーマを危険に晒すわけにもいかない。露伴は煩悶する。

 

 突如、空に鐘の音が鳴り響いた。

 

「何の鐘だ?」

 

 空を見上げて露伴は尋ねる。老婆からの返答はない。

 

「なあ聞いて――どうした」

 

 老婆の顔から血の気が失せていた。

 

「日没はまだのはずだ――なぜ――」

 

「おい大丈夫か。何が起きた」

 

 露伴に揺すられ、老婆は正気を取り戻す。

 

「連れの子が危ない!」

 

 老婆が露伴に訴える。

 

「早く追うのじゃ!手遅れになるぞ!」

 

「何を言って――」

 

 そこで初めて、左手に握っていたトーマの手の感触が消えていることに露伴は気付いた。

 

「なにッ」

 

 周囲にトーマの姿を探す。だがその影はどこにも見当たらない。

 

「トーマッ!」

 

 返事もない。露伴は焦りを覚えた。道行く人々の視線に哀れみを感じるのは気のせいではないだろう。

 

「中央広場じゃ!“奴”と子供はそこにおる!急げ!」

 

 老婆の叫びを耳にした露伴は反射的に駆け出した。

 

 中央広場に近付くにつれ、人の通りは減っているようだった。彼らは明らかに広場の周りを避けている。

 

 広場の手前でとうとう、露伴の視界から人が消えた。規則的に並ぶ街灯の、温もりを感じさせないくすんだ黄色の光が寂寥感を助長する。だが、その空気を気にかけている余裕は露伴にはなかった。大通りから広場に侵入する。

 

 広場の中央、レストランや出店のために設けられたテラステーブルの群れの前。一人踊る道化師(ピエロ)

 

 露伴は足を止め、目を細めてピエロを眺める。先端に赤い毛玉の付いた、三角のピエロハットを頭にかぶり、両手両足を軽快に振り回しながら一体の操り人形を踊らせる。静寂というバックサウンドの中で、まるで音楽に合わせて踊っているかのようなその姿は滑稽だ。タカッタカタカタと、靴底がタイルの上でリズムを刻む。開放された空間に響くその音は、どこか不快な印象を露伴に与えた。

 

 こいつが老婆の言っていた“奴”か?広場一面を見渡しても、二人の他には誰も居ない。

 

「“笛吹き”と“ピエロ”じゃあ余りにものが違うが...」

 

 ピエロに向け足を踏み出す。ピエロは露伴に気付いていないのか、はたまた職人気質なのか演技を中断しない。露伴はあと数メートルというところまで近付いた。

 

「トーマはどこだ」

 

 踊り続けるピエロに業を煮やした露伴は自ら尋ねた。ピエロは答えない。口角を吊り上げたまま、視線を明後日の方向に向けて人形を操る。そのときになって初めて、露伴は人形を注視した。その目が大きく見開かれる。

 

「まさか――貴様ッ」

 

 人形の服装に見覚えがあった。どこかで見ていた?思い出すまでもない。さっきまで見ていた。トーマの服だ。

 

 ピエロが動きを止める。露伴は身構えた。ピエロはトーマの格好をした人形と一緒に深々とお辞儀をした。顔を上げ、それからピエロは口を開いた。

 

「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」

 

 息を継ぐ間もなくピエロは言い切った。ピエロの目を睨む。ピエロの視線こそ露伴の方向を向いていたが、焦点はやはり定まっていなかった。笑みを浮かべつつも一切の柔らかさも光もないそれに、露伴の背筋は粟立った。

 

「――何者だ。“笛吹き男”の話はデマだったようだが」

 

 露伴は慎重にピエロとの間合いをはかる。少しでも不審な動きをすれば即座にヘブンズドアーを叩き込んでやる。

 

「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」

 

 ピエロはしかし、全く同じ文面を繰り返したのみだった。

 

「答える気はないってか?」

 

 間合いをそのままに、露伴はピエロの背後に回る。ピエロは正面を向いたまま。隙だらけだ。

 

 露伴は別の可能性を考える。このピエロが老婆の言っていた“奴”でない可能性は?操り人形の格好も、偶然トーマの服装と似ていただけという場合はないのか?

 

「チャンスをもう一度やろう。もしお前が一般人だというのなら今すぐ答えろ。さっきと同じ言葉を喋ってみろ。安全は保証しないぜ。――トーマはどこだ」

 

「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」

 

 まるでそう答えるようにプログラミングされた機械であるかのように、ピエロは再三同じものを繰り返した。

 

「なるほどな。なら僕も、それなりの対応というものを取らせてもらおう」

 

 露伴は苛立った様子で頭を掻くとピエロの後頭部を見据え、それから間髪入れずに“ヘブンズドアー”を発動させた。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 ピエロは背後の露伴に向かって仰向けに倒れ込んだ。露伴はその体を支えながら、ヘブンズドアーによって露わになったピエロの記憶を読む。

 

〈ようこそおいで下さいました〉

 

 書き出しに違和感を覚えた。ヘブンズドアーは対象の記憶や思考などを読み解くものだ。この文章はピエロの記憶か?思考か?なぜ先頭に“挨拶”の、しかもその文面が書かれている。続きに目をやる。

 

〈我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり〉

 

 そこまで読んだ時点で露伴は気付いた。同じだ。ピエロが何度も繰り返したあの言葉と一字一句違わない。その後も同じだ。

 

〈世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか〉

 

 だが異常なのはそれだけではなかった。次の文章に目をやった露伴は一瞬、己の目を疑った。

 

〈ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか〉

 

 まるっきり同じ文章が繰り返されている。しかも――全面。ページの隅から隅まで、全て同じ文章で埋め尽くされている。

 

「どういうことだ...」

 

 次のページへ捲っても、やはり一面が〈ようこそ――〉から始まる文章で覆い尽くされている。次のページも、その次のページも。露伴は困惑する。

 

「記憶が書き換えられた?...いや、最初からこうだったと見るべきか」

 

 判別のしようがない。そもそも、このピエロはこの世の者なのか?今一度、文章を目で追う。

 

「“我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり”...」

 

 “泥梨”。平たく言えば地獄の最下層のことだ。つまりこのピエロは、地獄の使者を名乗っている。飛躍した話ではあるが否定しきれない。何せヘブンズドアーの法則性を完全に無視しているのだ。思考と記憶が一つの短い文章のみで形成された人間など存在するわけがない。露伴は試しに書き込みをした。

 

〈トーマを連れ戻せ。今直ぐ〉

 

 ヘブンズドアーによる命令は強力だ。普通の人間や生命相手であれば、その効果は絶対と言い切ってしまってもいい。神のような超次元な存在でもない限り抗うことは出来ないだろう。だが

 

「何だ――これは」

 

 ピエロに現れた反応はそのどちらでもなかった。

 

〈断る〉

 

 何もなかった空白に、くっきりとその文字が浮かび上がった。露伴は動揺した。

 

「どういうことだ。記憶が追加された?」

 

 それは間違いなく、露伴の書き込んだ命令に対してのアンサーだった。誰からの返答か。おおよその推察を、露伴は既に終えていた。

 

「“泥梨の使者”――」

 

 その一節に答えが詰まっている。このピエロが地獄よりの使者なのだとすれば、回答者とは。彼の主とは。余白に露伴は書き込む。

 

〈トーマはどこに居る〉

 

 程なくして回答が浮かび上がる。

 

〈そこにいる〉

 

 周囲に人影はない。

 

〈人形のことか。貴様らの目的は何だ〉

 

 返答まで、今度は少しの間があった。

 

〈一介の人間に答える必要はない〉

 

「そうかい」

 

 露伴の目が据わる。

 

「それで僕が手を引くと思ったのか。この岸辺露伴、“約束”は果たす」

 

 露伴は怒っていた。トーマの子守は仕事ではない。友人からのプライベートな頼み事だ。それは金銭で保証された仕事以上に、露伴という人間の信頼あってこそ成立するものだ。その信頼を今、露伴は裏切ろうとしている。相手が人を超えた何か?知ったことではない。露伴にとってそれは言い訳にすらならない。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 露伴は再びヘブンズドアーを発動させる。今度は操り人形に向かって。

 

「どういう理屈か知らんが、トーマがそこに閉じ込められていると言うのなら――――ヘブンズドアーで無理にでもこじ開ける」

 

 ヘブンズドアーの有効範囲は露伴でさえ把握しきっていない。ただこれまでの経験から確実に言えることは“魂を持つ相手であれば作用する”ということ。相手が幽霊や、人間以外の生物であっても魂あるものには効力を発揮する。トーマの“魂”が操り人形に閉じ込められているというのなら、ヘブンズドアーは間違いなく効く。

 

「的中だ」

 

 果たしてヘブンズドアーは作用した。人形の胴部表面が剥がれるようにして、トーマの記憶が現れる。

 

〈パパの友達と何日か一緒に暮らすことになった。いつも怒ったような顔をして怖い人だけど、色々なところに連れて行ってくれて楽しい〉

 

 記憶がある。トーマはまだ生きている。露伴と過ごした際の記述を漁る。現在の出来事についてのものはない。ピエロも、操り人形も登場しない。意識はないようだ。幸いと言うべきか、怖い思いはさせずに済んでいる。

 

「多少強引な手にはなるが...」

 

〈自分の体は十分前の状態に戻る〉

 

 この書き込みが効果を成すのかは分からない。だが露伴は信じる。魂ある相手なら“ヘブンズドアーは絶対”だ。

 

 溶けるようにして人形から服が消え失せた。木造の肌が露わになる。デッサンに使うモデル人形と酷似している。露伴は人形を見詰めると、仰向けに倒れるピエロの腹にそれを放った。

 

〈天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理ぞ。汝、それに違背するか〉

 

 ピエロの記憶のページに、新しく文字が刻まれる。露伴は鼻を鳴らすと踵を返した。知ったことではない。アベルとの約束を守ることの方が重要だ。

 

 再びトーマが捕らわれる前に保護しなくては。露伴は広場を後にした。

 

 老婆と別れた場所へ戻るも、トーマの姿はなかった。露伴は激しく動揺した。まさかすれ違いになったか!?再び広場に戻ろうと駆け出した露伴に、頭上から声がかけられた。

 

「あんた!こっちだ!」

 

 足を止め、声のした方を見上げる。通りに面した民家の二階の窓から、見知らぬ男が顔を覗かせていた。

 

「ばあさんから話は聞いてる。子供は保護した。上がってくれ」

 

 玄関を潜ると、リビングで見知らぬ子供と遊ぶトーマの姿が目に入った。その様子を眺めながら大人の女性と談笑していた老婆が露伴に気付き、トーマに声をかける。

 

「良かった。貴方が探しに行って少しした後に、急にこの子が帰ってきての」

 

 トーマが俯き加減で露伴の元にやって来た。

 

「元気か?」

 

 頷くトーマの頭を撫でる。

 

「日没も過ぎてたからこの家で保護してもらったわ」

 

 老婆の言葉に、隣の女性が頷く。

 

「今日はここに泊まっていってください」

 

 二階から先程の男が降りてくる。家主だろう。

 

「遠慮は結構です。今日はそういう日ですから。事情を知らない観光客の方はよく日没後まで子連れで出歩いてしまうんです。街全体でそれを保護しようと言うことになっていて」

 

「ホテルも今日だけは当日キャンセルを無料で受け付けておる。一本電話を入れれば十分じゃ。ここにお世話になりなさい」

 

 老婆と男の二人が露伴を説得する。露伴はそれをすんなり受け入れた。外が危険なことはもう理解した。トーマの安全が第一だ。ホテルに電話で日没のためキャンセルの旨を伝えると、露伴は家主にもてなされるがままリビングの椅子に腰を下ろした。家の子供がトーマを再び遊びに誘う。退屈もしないだろう。

 

「それにしても。お上手ですね、ドイツ語」

 

 どこかで習ったのか?どこの出身?職業は?その後家主らに質問攻めされる露伴だった。

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

 約束の四日はその後何事もなく過ぎた。トーマをアベルに引き渡した露伴は、その足でイタリア行きの飛行機に乗った。窓際に座る露伴は、遠ざかるハノーファーの景観を眺めた。六月二十六日の、あの夜の出来事を回顧する。あの日抱いた違和感は未だ拭えない。

 

 ピエロは日没の際に現れた。だが伝説では、“笛吹き男”が街に現れ子供を攫っていったのは朝の出来事だ。あのピエロは老婆の言っていた“笛吹き男”なのか?子供を攫うという点では確かに類似しているが、イメージも出没時間もかけ離れている。そもそも“奴”が現れるのは日没後ではなかったのか?なぜあの日は日没の際に現れた?

 

「“奴”は奴ではなかったのか」

 

 だとしたらあのピエロは何者だ。“奴”はなぜ現れなかった。全部が噛み合わない。おかしいのは誰だ?

 

「“泥梨の使者”、か」

 

 そういうことにしておこう。“笛吹き男”とは別の存在だったのだと。“奴”よりも上位の存在だったのだと。目的は不明だ。“笛吹き男”と同じように子供を攫うだけなのか。それとももっと高次元な何かが絡んだ、人間の抑制機能か。はたまたただの現象か。

 

「...空調が寒いな」

 

 考えるのは止そう。これ以上首を突っ込む必要も意味もない。好奇心を満たすことと無謀とは違う。ヘブンズドアーの効かない、勝ち目のない相手の懐に自ら飛び込んでどうする。流石の露伴もその見分けはついた。

 

 空調のつまみを回し、風を弱める。

 

 ハーメルンには“日没後子供を外に出してはならない日”がある。郷に入っては郷に従え。それだけの話。本来の目的を見失ってはならない。これは休暇兼取材旅行だ。次の目的地イタリアに、露伴は思いを馳せた。




 お待たせしました。

 前回質についてのご意見を戴いたので、今回はなるべく意識して丁寧に書いてみました。出来はまあまあ、と言ったところ。まあ満足するまで書き続けたら一生書き終わりませんし、このくらい余力を残しておくのがちょうどいい、ということにしておきましょう。しておいて下さい。

 年内になんとか投稿することが出来て良かった。来年も宜しくお願いします。


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another:13 《五重塔》

 国内には仏教や神道の祭殿ともなる木造寺社が数多く現存する。京都や奈良、鎌倉には広く名を知られた建築物も多く、また各地域にも有名所が点在している。だが、それらを除く殆どは無名だ。無論、岸辺露伴の在住するM県S市にも多くの寺社が存在するが、地元民にさえその全てを把握している者は一握りと居ない。立派に社が建ち、住職など管理者が敷地内に常駐していれば世間に名前が知られていなくてもまだマシだ。人目につかない民家と民家の間に存在する小さな稲荷神社などがあれば、近隣住民やその道の研究者でなければ認知すらされないだろう。露伴が目の前にしている五重塔も、そんな無名ものの一つだった。

 

 その日、露伴は盆の墓参りに市内の寺院を訪れていた。埋葬されているのは親族ではなかったが、露伴は毎年の墓参りを欠かさなかった。墓の前に供え物を置き手を合わせていると、顔馴染みの住職が露伴を見かけて寄ってきた。小柄で温厚な、糸目の彼は露伴のことをえらく気に入っているらしく、この寺を露伴が訪れる度に彼を茶の間に誘うのだった。

 

「最近はどうかね」

 

 弟子の僧侶が和菓子と湯飲みを二人の前に運ぶ。住職は露伴に近況を尋ねた。例年のことだった。特に変わりありません、と露伴はさしあたりのない返答を返した。これもまた毎年の流れだった。それでも住職は笑顔を絶やすことなく、そうかそうかと嬉しそうに頷くのだった。まるで、久々の孫の帰省に喜ぶ実家の祖父だ。露伴はどうも居心地の悪さを感じていた。この肩身の狭さはまるで実家そのものだ。―久しく実家には顔を覗かせていないが―露伴の憂慮にも住職は気付いていない様子だ。もしくは気付かぬふりをしているのか。どちらにせよ。露伴はまだ冷め切らぬ緑茶を一気に飲み干す。見透かされているようでどうも落ち着かない。気分転換に外の空気を吸おうと思い立った露伴は裏庭へと出た。その背中を住職が不思議そうな顔で眺めた。

 

「どうしたかの?」

 

 無言という答えを送る露伴に、住職は小さな吐息を一つ残して部屋を出た。露伴が一人になりたいのだろうと思ったのだ。それは見当違いではあったのだが、結果として露伴の、閉塞的気分からの開放には一役買ったのだった。

 

 裏庭から続く林を露伴は一心に眺めた。庭の石畳を、八月の強い日差しがジリジリと焼く。林の中からけたたましく響いてくる蝉の音が、一層その季節感を強めた。風通し良く作られた建物だったが、それでも露伴周辺の気温は30℃を超えている。庇の下で、露伴の意識は少しずつ溶けていった。

 

 蝉の声が遠のいたかと思うと、突然正面の林が視界いっぱいに広がった。そのまま露伴の全身を包み込む。と同時に、激しい目眩が露伴を襲った。全身から力が抜けてゆき、何かを考える間も与えられず、露伴の意識は闇の中へ落ちた。三秒も経っただろうか。ごく短い闇を体感したかと思うと、露伴の視界は一気に開けた。意識を刺激する冷たい林風。ひんやりと足の裏を伝わる土の感触。相変わらず鼓膜に響く蝉の合唱。気付くと、目の前にその塔があった。

 

 振り返った背後に先程まで居たはずの寺院の建物はなかった。視界の続く限り林が広がっている。状況がよく呑み込めない露伴は、周囲を一通り見渡した後に困惑した。杜王町内であれば、一通りの場所は知っているはずだ。しかしここは全く覚えのない土地だ。例の寺院の周りにこんな木造建築物があったという話も聞かない。とりあえず塔の周りを一周してみる。手入れが行き届いているのか、状態は非常に綺麗だ。林の中にあって湿気は酷そうだが、壁の木に腐敗した様子も見られない。頭上を見上げる。高さは10階建てのマンションくらいか。ざっと30メートルといったところだろう。国内の有名な五重塔と比べても遜色ない規模だ。この規模のものが市内にあれば記憶には残りそうなものだが。

 

 正面に戻る。入り口の扉がぽっかりと口を開けている。露伴は少し考え込む。五重塔は本来、お釈迦さまの遺骨―仏舎利―を祀る目的の建物だ。その宗教的性質上、普通であれば一般人が上層階に立ち入ることはできない。これにしたってその決まりは例外ではないだろう。監視の目は周囲にはなさそうだが、これだけ管理が行き届いていそうなところを見れば、人がやって来てもおかしくない。

 この場合、ルールや風習は露伴にとってさほど問題ではない。滅多に見られない五重塔の内部。危険を冒してまで見学するほど露伴の好奇心をくすぐったかどうか。それが重要だ。答えは勿論

 

「Yesだ」

 

 自然と口をついた。一瞬躊躇いはしたものの、露伴は塔の中へ侵入することを選択した。内部には冷え込んだ空気が充満していた。半袖では肌寒い。壁に一切の隙間がないのか、塔の中を照らす明りは露伴の背後、入り口から射し込む心元のない木漏れ日だけだ。影の部分が多く、全容はうまく掴めない。露伴はスマホを取り出すと、そのライトを頼りにした。内部の装飾は非常に簡素だった。中心に櫓を組むように立てられた四本の支柱。本来であればその中心の台座に本尊の姿があるはずだったが、光は真っ直ぐと反対の壁ばかりを照らした。壁も柱も全く塗装されていない。全てが同色の、わずかに木目の筋合いや影ばかりが光景に強弱を付けるだけの、どこか圧迫感さえある空間だ。

 壁伝いに四方を照らす。その光が、上層へと伸びる階段を捉えた。旧来の木造建築によく見られる、勾配の急な階段だ。手摺りなしで昇るには困難を極めそうだ。まるで梯子だ。その階段に直角な壁の床にもぽっかりと口が開いている。地下が存在するみたいだ。下を覗き込む。五重塔に地下が存在するというのは聞いたことがない。新しい発見だ。露伴は心躍らせた。

 

 さて、と一旦落ち着きを取り戻した露伴は、上へと続く階段の方へ視線を動かす。先に上階から見学するとしよう。足をかけ、階段の傾斜に沿って体を這わせるようにして上へと登る。上階に頭だけ出すと、頭上に光を掲げて室内の様子を探った。天井までは3メートルばかり。数本の柱が縦横無尽に交差している。1階層と同様、何かが安置されていることもない。正面に見える壁の奥手にはやはり階段が。螺旋を描くように階段は設置されているらしい。蝉の声が急に遠くなった。どうも防音のような効果が壁にあるのか。

 様子を伺い終えた露伴は階段を登りきり、思い出したように部屋の様子を写真に収めた。1階と地下の様子も帰りに取り忘れないようにしなければ。次の階層へ向かう。3階も4階も、全く同じ構造をしていた。相変わらず何もない。露伴にとっては期待外れな結果だった。もっと何か、仏像やレリーフなんかが保存されているとばかり考えていた。だがまあ、1階に本尊がなかったことを考えればその結果も妥当なものなのかもしれない。ここには何もないと考えておいた方が良さそうだ。埃ひとつない床の様子なんかが、特にこの建物が大事にされているように錯覚させていただけなのだろう。4階の写真も撮り終え、5階層へと向かう。階段の1段目に足をかけたその瞬間、バタンと何かの閉まる音が下から響いた。露伴は一度階段から足を外すと、階下を見下ろした。

 

「まさか、入り口が閉まった訳じゃあないだろうな」

 

 1階に射し込んでいる光はここまでは届いてこない。事の詳細は不明だったが、しかし露伴は物怖じするような性格ではなかった。どうせ後ではっきりする。気を取り直し、再び上へと向け階段を上がった。登りきり、5階の床上に立つ。と同時に、ぼっと火のたつ音がした。突然室内が明るく照らされた。露伴はスマホを構えていない方の腕で目を覆った。顔の直ぐそばで、ちりちりと何かが焼けるような音がする。恐る恐る目を開けると、壁伝いに取り付けられた松明が確認できた。部屋の中は炎の明りで満たされている。露伴の他に人影はない。誰が灯したんだ?それとも何か仕掛けでもあるのだろうか。不要になったスマホのライトを消し、一番身近な松明をじっくり観察する。何の変哲もない、油を染み込ませて燃やしただけのものだ。更に視線を横にずらす。上階へ続く階段があった。もう一つ?てっきりここが最上階だとばかり考えていた露伴は虚を突かれ驚きを露わにした。ここが戦を想定した天守なら、隠し階を含め6階層目が存在しても納得できる。だが仏教的建造物にその性質が必要なのか?どうも不思議だ。興味本位で、露伴はその階段を登った。やはり松明の明りが煌々としている。だがそれ以上に、もっと奇妙な点がその6階層にはあった。部屋の中心に正方形を作るように立てられた四本の柱。その奥の観音開きの扉。構造の何もかもが1階にそっくりなのだ。そして露伴は、更に上階へと続く階段を見付ける。流石におかしい。塔の高さと天井の高さを加味すれば8階層くらいまであってもおかしくはない。だが、外見が5階層であるのに対して7階以上が存在する意味が掴めない。何に対するカモフラージュなのだ?

 何か嫌な予感がする。露伴は階下へと引き返した。そのまま一気に1階まで下る。1階の扉はやはり閉め切られていた。松明も上階と同様に存在する。駆け寄って扉を開けようと試みるも、押しても引いてもビクともしない。閉じ込められたようだ。

 

「まずいぞ」

 

 露伴はぼやく。助けを呼ぶしかなさそうだ。だがそれには問題があった。露伴は自分が居る場所の正確な位置を知らないのだ。気付けばこの場所に来ていた。あの寺院とはどれくらい離れているのか。―いや。露伴は閃く。スマホには位置情報取得機能があるじゃないか。便利な時代になったものだ。地図アプリを開き、位置情報を得ようとする。が

 

「参ったな」

 

 スマホの現在地を示すポイントは先程まで居た寺院の中だった。それはあり得ない。露伴が幻覚を見ていない限り、ここは寺院とは全く別の空間だ。

 

「そもそも助けを呼ぼうにも圏外か。どうやらただ事じゃなくなってきたな」

 

 電波強度は圏外を示すそれだ。まるでホラー映画のお決まりのような展開だ。足掻いても仕方ない。露伴は地下へと続く階段に足を向けた。身動きが取れないのであればせめて、己の好奇心を満たすことにしよう。それに、地下には脱出経路があるかもしれない。一縷の望みを抱え、階段を下る。

 

「...」

 

 2階以上とやはり同じ構造の空間が広がっていた。多分に漏れず階下へ伸びる階段も見られる。流石の不審を感じつつも、露伴は更に下へ降りることを決心する。こうなれば、とことん下まで行ってやろうじゃないか。B2階、B3階...無心に下を目指す。木造建築でこれほど地下へ掘り下げられている異常性は露伴の危機感を煽るには十分だった。B5階層に降り立つ。そこは地上1階と全く同じ間取りだった。部屋の中央の四本の柱。観音開きの扉。

 

「馬鹿な...」

 

 階段はまだ下へと続いている。露伴は地上1階目指して階段を駆け上った。何かがおかしい。露伴は一度、部屋中央の台座の縁に腰を下ろした。一旦整理したい。もしかすれば、露伴は今パラドクスな空間に閉じ込められているのかもしれない。情報も少なくあくまで憶測の域を出ないが、仮に1階から5階までがループしていたとすれば?

 

「ペンローズの階段...」

 

 だまし絵なんかに見られるそれだ。登っても降りても永遠に同じ位置に戻される階段。その不可能図形はそう呼ばれる。

 

「お困りかな」

 

 突然の背後からの声に露伴は飛び上がった。台座の中心に男が一人立っていた。外見は40代から50代。背丈は160㎝程度。

 

「ヘブンズドアーッッ!!」

 

 露伴は反射的に能力を発動させた。普通の人間ではないことは、状況からしてほぼ明らかだ。男の顔の表皮が本のように捲れ、仰向けに気絶する。露伴は警戒を解くことなく男に近付くと、曝け出された情報を読んだ。

 

 男の名前は(あくた) 祥司(しょうじ)。建築家らしい。生まれは1846年――1846年?思わず露伴は二度見した。1946年の間違いではなく?指で文字をなぞりながら何度も確認する。間違いないようだ。ヘブンズドアーに嘘はつけない。ならばこの男、ゆうに100歳を超えているはずだ。だが外見はどう見ても50前半に見るのが限界だ。若作りにもほどがある。だが、この空間が仮説立てたようにパラドクス空間であれば。何かそれと関係があるのかもしれない。露伴は疑問を無理に頭の隅に追いやると、続きの記述へと意識を向けた。

 

「なるほど。この塔の制作者か」

 

 であれば何か重要な情報を握っていそうだ。とりあえずの危害はないことが確認できた。念のため“安全装置(セーフティーロック)”をかけた上で、芥を解放する。

 

「お困りかな」

 

 直前の記憶がない芥は同じ質問を繰り返す。露伴は芥に対し探りを入れた。

 

「出口が開かなくなってね。閉じ込められて困っている」

 

 芥は大きく頷いた。

 

「だろうな。ここを訪れた者は皆そうなる」

 

「何か知っているのか」

 

 やはりこの男、秘密を握っていそうだ。無意識のうちに露伴の表情は険しくなっていた。

 

「閉じ込められれば最後。自力で脱出することは不可能だ」

 

「何だと?」

 

 脱出不可能の言葉を聞いた露伴の顔色が変わった。考えている以上にまずい状況かも知れない。どういうことだと芥に詰め寄り、詳しい説明を求める。

 

「最上階までは登ってみたかな?もしくは一番下まで降りたか」

 

 露伴は首を横に振る。そもそも。露伴は直近の疑問をぶつけた。

 

「終わりはあるのか?上にも下にも」

 

「ない」

 

 帰ってきたのは期待とは真逆の、しかし予想通りの返答だった。

 

「その様子だと、ある程度は理解しているみたいだな。そうだ。5階の上はここ1階だ。同様に地下4階の下もここ1階になっている」

 

 露伴の推測通り、ペンローズの階段構造の空間らしい。つまり、どれだけ登っても、どれだけ下っても、永遠にこの1階層に戻され続ける。

 

「ああ、理解した。だがそれ以上に僕が知りたいのはここからの脱出方法だ」

 

 芥は“自力での脱出は不可能”と言った。芥の助けがあれば出られるのか。

 

「そうか」

 

 芥は後ろ手を組むと扉の前に立った。

 

「この塔は私が建てた」

 

「何が目的だ」

 

 なかなか核心を突かない芥の態度に業を煮やした露伴は敵意を剥き出しにした。芥は怯まない。

 

「目的か―そうだな。誤解されたまま話を進めても双方に良くない。ここではっきりさせておくことにしよう。この塔を建てたのは確かに私だが。だが私が建てたのは5階層の、最上階が存在する塔だ」

 

 ここにはそれが存在しない。芥はあくまでこの現象が己の意思の元にあるものではないと言い切った。

 

「だったらこれは何だ。何やら知ってるんじゃあないのか。無理矢理口を割らせることだってできるんだぜ」

 

「まあはやるな。誰も教えないとは言ってないだろうに」

 

 芥は露伴に向き合った。

 

「君は仏を信じるか?」

 

 質問に質問で返された露伴は顔を歪めた。露伴は明らかな嫌悪感を表に出していたが、意にも介さぬ様子で芥は言葉を続けた。

 

「お釈迦さまの説いた“末法思想”というものがある。仏教の正しい教えが伝えられなくなり、滅び行く時代がやがて訪れるというものだ。この国では既に平安時代には末法の世に突入したと言われている。動乱の始まりの時代だな。それからおよそ千年近くが過ぎる。神仏習合を乗り越え、仏教はあるべき姿に戻ったかに思われた」

 

 芥が何やら説き始めた。露伴は早々に呆れ顔だ。

 

「だが実態は違った。国家は神道を国教とし、仏教は形こそ残ったもののかつての勢力を失った。人々の心は今、仏教から離れつつある。今の世が正に、お釈迦さまが危惧した末法にあるのだ」

 

 心酔した様子を見せる芥に露伴は後じさった。仏教を否定するわけではないが、ここまで宗教に入れ込んだ相手の言い出すことに良い予感はしない。独善的な思想を見せなければいいが。

 

「この塔は、そんな現世を救うべく遣わされたものなのだ」

 

 悪い予感は的中しそうだ。芥の意識に既に露伴は居ない。

 

「仏教を失った今、人々は、現世は煩悩に溢れている。煩悩に縛られる限り、人々は生と死を繰り返す輪廻に捕らわれ続ける。人々は永遠に苦しまなければならないのだ。そう、まさにこの塔に閉じ込められるように。出口のない、永遠のサイクルに封じられてしまうのだ」

 

「なあ、まだ続くのか?それ。僕が聞いてるのは脱出方法だ。くだらない説法を聞きたいんじゃない」

 

 露伴は痺れを切らした。芥に詰問する。しかしそれでも芥は持論を説くことを止めない。

 

「煩悩を捨て去り輪廻から解脱したとき、人々は初めて救われる。現世には今、解脱が必要なのだ。この塔に備わる不可思議な力はそのために与えられたものなのだ」

 

 突然、芥が露伴を見据えた。

 

「煩悩を捨てるのです。それが、それこそがこの空間から脱出し、末法の現世において輪廻から抜け出せるただひとつの方法だ」

 

 どうやら残念な方だったらしい。露伴の嫌っていた独善の状態だ。露伴は大きく溜息を吐いた。

 

「他にはないのか?」

 

 煩悩を捨てろ、などと抽象的な情報を教えられても露伴としては困惑が増すばかりだ。

 

「ない」

 

 芥はばっさり切り捨てた。

 

「私がこれまで何人の迷い人を救ってきたと思っている。2175人だぞ。私は脱出方法を知っている。誰に教えられたわけでもなく、私が決めたものでもなく。最初からそうであったことを、初めてここへ誘われた瞬間に私は理解した。だからこそ私は救世主なのだ。現世の、末法の世の浄化が私の使命なのだ」

 

「ヘブンズドアー」

 

 芥は再び気を失って倒れる。これ以上の会話は無駄だ。露伴は芥の記憶から直接脱出の手を探ることにした。

 

〈煩悩を捨て去れ。完全に捨て去った後、基点階層から上階へ、数えて階段を358段登れ。一切の煩悩が再び生じなければ、それは解脱の時だ。現世への帰路が開かれる〉

 

 芥が言っていた方法についての記述を発見する。煩悩を捨て去るだけでなく、もうワンステップが必要らしい。露伴は部屋の隅にひっそりと佇む階段を見やった。358段。骨が折れそうな数字だ。

 

 再度芥に目を戻し、別の方法を探す。記載はない。この男が他のものを知らないか、そもそも存在しないかのどちらかだ。自力で別の方法を探すか?どれだけの時間を要するかも分からない。素直に芥の示す方法に従うしかないのか。だが露伴には気がかりなことがあった。煩悩とは何だ?勿論言葉の意味は知っている。だが具体的に煩悩を捨てろと言われたとき、どこまでがその煩悩に当てはまるのかが分からない。三大欲求を捨て去るだけなら簡単だ。ヘブンズドアーでそう書き込めばいい。だがもし、己のマンガに対する情熱をも捨てなければいけないのであれば?捨てられないことはない。同様に自分に書き込めばいいだけだ。だがそれを露伴のプライドが簡単に許すはずがなかった。それは敗北の選択だ。

 芥を解放する。

 

「煩悩とは何なのだ?」

 

 回答が得られない。露伴は尋ねた。

 

「簡単に言えば“欲”のことだ」

 

 芥が答える。

 

「自己中心的な考え、物事への執着―現世に生きて何かを成そうとするときにその妨げとなりうる心身の働き。それを煩悩と呼ぶ」

 

 つまり。噛み砕いた上で質問を重ねる。

 

「例えば、マンガ家が自分のマンガを多くの人に読んで楽しんでもらいたいと思うのは煩悩なのか?」

 

「マンガ家なのか?君は」

 

「なあ、僕の話はどうでもいいんだよ。今質問をしているのは僕だ」

 

「そうだな。それも煩悩のひとつと言えよう。そのひとつの欲求に執着して他の要素を見失うようであれば、それは立派な煩悩だ」

 

 君がどうかは知らないがね。露伴は素知らぬ顔で受け流す。

 

「その“煩悩を取り除く”ってのは、具体的に何をするんだ。まさかお経を唱えろって訳じゃないだろうな」

 

「解脱とは即ち悟りだ」

 

 芥は露伴の茶化しを一蹴した。

 

「長い時間をかけて悟りを開くのだ。こんな空間ではできることも限られているからな。瞑想によって悟りを得た者が最も多い」

 

「どれくらいかかるんだ?その悟りを開くのには」

 

「恐らく数十億年か―長ければ百億年ほどだろう」

 

「おいおいおい。冗談だろ」

 

 思わず失笑する露伴。

 

「冗談ではない。現世の僧侶達がどれほどの修行を積んでると思っている。何十年の歳月をかけて悟りを目指したところで、あの弘法大師でさえ一生のうちに悟りを開くことはできない。弥勒菩薩が悟りを開くのに56億7千万年かかるのだぞ。現世での肉体の寿命の範疇で解脱が完成すると思ってはならない」

 

「それじゃあ、解脱を果たしたところでまるで人間じゃあないぜ。第一なんだ。何十億年もこの空間で過ごせって言うのか」

 

 言われてみれば、解脱を果たすことは仏に近付くということだ。事の重大さに気付く。

 

「時間こそかかれど、ここを出られなかった者は居ない。安心していい。煩悩を捨て去ることのできた暁には脱出できる」

 

「安心しろだと?無理だね」

 

 露伴の心は既に決まっていた。

 

「僕は“誰かに読んでもらう”ためだけにマンガを描く。それが煩悩だと言うのなら、その心が邪だと言うのなら、それを捨てて高尚な存在になっても僕には何も残らない。マンガに向き合うこの気持ちを捨てることは僕にとって“死”だ!マンガ家として死ぬくらいなら、僕は“敗北”の道を選ぶ!!」

 

 このパラドクス空間には恐らく時間の概念はない。何千人もの人間を、数十億年かけて見届けてきたという芥の外見は50代。生まれもほんの二百年ほど昔。つまり、この空間で無限にも等しい時間をかけても、現世での時間の進みは相対していない。煩悩を捨てて元に帰る選択も出来る。だがそれは露伴にとって敗北以上の、その後の人生に致命傷となる選択だ。

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 露伴は叫ぶ。発動するのは自分自身に向かってだ。ヘブンズドアーのヴィジョンが、露伴に向かってペンを振る。

 

<日光を浴びるまで、全ての“煩悩”を失う>

 

 露伴の目から光が消える。続いて一文が書き足される。

 

<階段を登れ。358段>

 

 煩悩を失ったことによって、ここから脱出しようという意欲も消え去るかもしれない。そう考えての保険だ。どうやらその保険は正解らしかった。煩悩を失った今、露伴の思考はほとんど停止していた。帰りたいという思いそのものが煩悩であれば、それは当然とも言えた。

 

 一段、また一段。まるで階段を登るだけのからくり人形であるかのように、露伴は無心に足を進めた。突然叫んだかと思えば大人しく階段を登り始めた露伴に芥は困惑気味だった。それでも嬉しそうな笑みを浮かべている。

 

 疲労は感じないものの、肉体に乳酸は蓄積される。後半の露伴の足取りはかなりぎこちなかった。およそ70周。358段目でちょうど1階層に辿り着く。階数が5の倍数ではないのだから妙な話ではあるのだが、露伴はそれにさえ気付かなかった。

 

 露伴の両足が最後の段差を登りきる。同時に、壁に掛かった松明の火が全て消えた。一切の闇が露伴と芥の二人を包む。

 

 ギギギと重い音がした。徐々に扉が開き、外からの光が隙間を通して射し込む。その光が、直線上に立つ芥の唖然とした顔を照らした。

 

「馬鹿な―」

 

 あり得ない。早すぎる。

 

 扉が全開になる。日光が部屋全体を明るく照らした。露伴の瞳に光が灯る。日光を浴び、ヘブンズドアーの効果が切れた露伴は即座にその状況を理解する。

 

「成功したみたいだな」

 

 重い足を引き摺りながら露伴は外に出る。けたたましい蝉の声。絡みつくような熱気を纏った大気。大きく深呼吸をし空を見上げてから、露伴は振り返った。

 

「認めよう。僕の負けだ」

 

 いっときでもマンガに対する情熱を捨ててしまった。異論を唱える余地もない。露伴は精神的に敗北した。

 

「だが脱出はできた」

 

 依然理解が追い付いておらず、目と口を大きく開いた芥を中に残したまま、勢いよく扉が閉まる。同時に蝉の声が遠くなり、露伴は平衡感覚を失った。意識が遠のく。来たときと同じだ。露伴はそれに身を委ねた。

 

 意識が覚醒する。背中に重力を感じた露伴は、自分が仰向けに転がっていることを理解した。視界一面に天井が広がっている。露伴は状態を起き上がらせた。頭がクラクラする。

 

「おお、起きたか」

 

 枕元に住職が座っていた。目覚めた露伴に気付き腰を浮かせる。

 

「まだ無理せんほうがええじゃろう。体に良くない」

 

「何があったんです?」

 

 露伴は敷き布団の上に寝かされていた。見慣れない部屋だ。普段は立ち入らない場所なのだろう。

 

「覚えてないかの?裏庭の前の縁側でぐったりしておったんじゃよ。おおかた日射病じゃろう。とりあえず水を摂りなさい」

 

 住職が横に控えていた水を手渡す。露伴は一気にそれを飲み干した。

 

「僕はどのくらい寝て?」

 

「儂が気付いてからは20分ほどかな。君が庭に向かってから10分ほどで様子を見に行ったらもう倒れておっての。びっくりしたわい」

 

 そうか。露伴は頷くと住職に礼を言った。

 

「帰る」

 

 まだ頭痛も残っていたが、露伴は無理をして立ち上がろうとした。が、足にうまく力が入らず膝をつく。住職が慌てて露伴の体を支えた。

 

「無理はいかん。まだ休んでいなさい」

 

「いや―これは...」

 

 どちらかといえば足の疲労だ。どっちだ?露伴は困惑した。あの体験はもしや夢ではなかったのかと思い始めていたのだ。だがこの疲れは本物だ。

 

<だが、どちらにしろ>

 

 夢であれ現実であれ、マンガへの熱意を捨てるという選択をしたことには変わりない。

 

 露伴は住職の制止を無視して立ち上がると、足を引き摺りながら寺院を後にした。

 

 

 後日露伴は芥 祥司についての情報を探して図書館に通い詰めていた。生まれがはっきりしているため活躍していた時期は絞りやすい。だが、なかなかその名前を見付けることは出来なかった。そこまで有名な人物ではなかったらしい。結局、その名前を見付けたのはS市の地方新聞だった。日付は1898年2月15日。芥 祥司という市内の建築家が行方不明と描かれている。地域情報の端に僅かに載っているばかりで、情報はほとんど得られなかった。

 

<しかしまあ>

 

 彼が実在した人物だったことの裏付けは取れたと言っていいだろう。あの出来事はやはり現実だったのだろう。露伴はそう受け止めることにした。しかし一方で、どこか懐疑的でもあった。芥は3000人近くの人間を送り出したと言っていた。だがそんな、“悟りを開いた人物”は誰一人見たことがない。一人でもそんな聖人がいれば話題になりそうなものなのに、それが3000人ほど居るにも関わらず、その存在が明るみに出た例はない。もしや解脱を果たしてあの塔を出た先には別世界が待っていたのではないのだろうか。露伴はそう考えるようになっていた。例えば仏の世界とか。

 

 目的を果たした露伴は帰路についた。考えるだけ無駄だ。こうしてまた、誰かのためにマンガを描くことが出来ている。一度マンガに対する思いを捨てたその罪を、こうして贖っていこう。

 

 八月終わりの日暮れ時。空にはキジバトの声がこだました。蝉もそろそろお休みの時間らしい。

 

 

 

 

 

 






 四ヶ月と少しぶりですか。皆さんお久しぶりです。サボりまくってごめんなさい。

 最近はコロナコロナで大変な情勢ですね。そろそろ外出自粛にも飽きてくる頃合いでしょう。GWを豊かなひとときに飾る、その一助になれれば嬉しい限りです。

『五重塔』といえば、幸田露伴の作品にもそんなタイトルのものがあるらしいですね。特に意識せず書いたので全然知らなかったのですが、いい機会だし今度読んでみようかな。

 また新しいネタを思いつき次第ボチボチ書いていきます。


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another:14 《棄生賛歌》

「“聴いたら死ぬ曲”て知ってますか?」

 

 木村がふと思い立ったように尋ねた。それまで表通りの雑踏を無心に眺めていた岸辺露伴は木村に一瞥をくれると椅子に座り直した。

 

「“暗い日曜日”のことか?ハンガリーだったかの歌手の“聴いたら自殺する歌”」

 

「いえ、歌じゃなくて曲です。その歌なら俺も知ってますよ。ネットで見ました。そうじゃあないんですよ。俺の言ってる“聴いたら死ぬ曲”は、聴いたことがある人がこの世に一人も存在しないんです。“聴いたら死ぬ”から」

 

「おいおい。矛盾してるじゃないか」

 

 露伴は木村を嘲った。

 

「“誰も聴いたことがない”のに、どうして存在するって分かるんだい。宇宙人や幽霊だってもっと信憑性があるぜ」

 

 木村が二度三度と頷いた。

 

「それがですね、俺の友人がその曲の楽譜を入手したっていうんですよ」

 

「へえ。そりゃまた出来た偶然だな」

 

 猜疑の目を木村に向ける。トントン拍子に話が進む時は必ず何かがある。こと木村に関しては一度“地獄”に落とされかけたことがあるのだ。信用が足らない。

 

「どこまで本気なのかは分かりませんけどね。ともかく、そういう謂れ付きで渡ってきたらしいんですよ。その譜面」

 

 露伴の興味は急速に失われた。

 

「それってつまり“呪いの人形”みたいなものじゃないのか?過去の持ち主が全員不審死した、みたいな噂がついたさ。曲自体の話題性を高めるためのプロモーションとかじゃあないのか」

 

 もしくは、ちょっとした不思議話に尾ひれが付いて誇張されたか。どちらにせよ、それが“本物”である可能性は低い。ドイツに住む友人のアベルが持ち込んだ話であれば露伴の反応も変わったかも知れないが、その点目の前のこの男のする話はどうもきな臭い。

 

「細かい話はどうでもいいんです。俺が言いたいのはですね、聴いてみませんかってことですよ」

 

 露伴の眉がピクリと動く。

 

「あのなぁ……解ってるのか?」

 

「その友人、音楽家なんです。演奏してもらえば大丈夫ですから」

 

「なあおい。やっぱり解ってないじゃあないか」

 

 本当に呆れた男だ。露伴は冷たい視線を木村に投げた。木村の方は話の意図が掴めていないようでキョトンとしている。

 

「もういいさ。君みたいな奴はどうせ何度言っても学習しないだろうからな」

 

「日程は調整するんで心配しないでください。先生なら締切の心配も要りませんし。どうですか?」

 

 露伴は少し考える素振りをする。

 

「もう演奏したのかい、その彼は」

 

「さあ、そこまでは。まさかとは思いますけど先生、彼で実験してみようとか言い出しませんよね」

 

「そんなに慌てるなよ。僕がそんな薄情な人間に見えるのかい」

 

 見えるから慌ててるんですよ、とは思っても口に出せたものではない。木村の表情が微かに歪んだのを、露伴は見逃さなかった。小さく鼻を鳴らし、表の人通りへと目を戻す。

 

「じゃあ任せたよ。僕は原稿を早めに仕上げればいいんだな」

 

「関東まで出てきてもらうことになると思いますけど、大丈夫ですか」

 

「何でもいいさ。決まったら連絡してくれ」

 

「人任せだなあ」

 

 小さく溜息を吐く木村の表情はしかし満更でもない模様だった。

 

 

 

   *

 

 関東地区内のとある都市部。市内最大の駅で新幹線を降りた露伴は木村から伝えられた通りに在来線に乗り換えた。ビル群から離れ、落ち着いた風景の広がる都市郊外の小さな駅で降りる。駅前のロータリーを見渡してタクシー乗り場を探す。付近に木村がいるはずだ。正面左奥の駐車場出口付近にタクシーが四台ほど並んで停車している。その脇で、こちらにむかって大きく手を振る人影があった。木村だ。

 

「時間通りですね。いきましょう」

 

 合流した二人はタクシーに乗り込んだ。木村が運転手に行き先を告げる。

 

「俺の友人――滝 謙三って言うんですけど、聞いてみたら一昨日辺りに一度演奏してみたそうです」

 

「そうか」

 

 露伴は生返事を返し、後方へ流れていく路傍の景色を眺めた。

 

「――よかったんですか?」

 

「何がだい」

 

「ちょっと前に言ってたじゃないですか。何かあったときに対処できるだけの力もないのに下手な道に首を突っ込むなって。今回はいいのかなって思って」

 

「いいわけがないじゃあないか。だからこの前に聞いただろ。“解ってるのか”てな。どうやら理解していなかったみたいだが。今更気付いても遅いが、まあ一応褒めてやるよ」

 

 一切木村に顔を向けることなく露伴は言った。心にも思っていない様子だ。気まずくなった木村は露伴とは反対の窓から外を眺めた。

 

 ビルやアパートが散立する市街地を走ること十五分。一軒の民家の前でタクシーが停車した。二階建ての、これといった特徴のないごく普通の一般住宅だ。ベランダを見上げると、男が煙草をふかしながら二人を見下ろしていた。タクシーを降りた木村が手を振ると男は微笑み返した。タクシーが立ち去る。ベランダの男は煙草の火を揉み消すと室内に戻った。木村の後について露伴は玄関先まで進んだ。ほどなくして扉が開かれる。

 

「どうもどうも。何もないとこまでよくいらしてくださいました」

 

 丸眼鏡に伸びた顎髭。浮世離れないでたちの男だ。

 

「すまないね、いきなり連絡して。こちらマンガ家の岸辺露伴さん」

 

 木村に紹介され、露伴は軽く頭を下げた。

 

「滝 謙三です。音楽で食わせてもらってるしがない人間ですがよろしく」

 

 滝は露伴に握手を求めた。露伴が握り返すと滝ははにかんだ。人当たりのいい男だ。

 

「作品を拝見したことはありませんが、よく岸辺さんの名前は耳にします。同じクリエイターを名乗るのも厚かましいくらいですが、多くの人を魅了する貴方の腕は尊敬している」

 

「それはどうも」

 

 僕は貴方のことを知りません、と素直に言うのはどうも失礼だ。露伴はあえて世辞さえも口に出さないことにした。滝が二人を家の中へ招いた。

 

「例の曲ですがね」

 

 先頭を歩く滝が振り返りざまに言う。

 

「ここまで来てもらってなんだけれど、あまり期待しすぎない方がいいですよ。面白いものではありません。むしろ退屈だ。――やけに耳には残りますけどね。だからといっていい曲ではない」

 

 まあ、そっち側の知識を持った人間の考えでしかありませんから。滝は家の奥の一室に二人を案内した。部屋には窓がなかった。横ボーダー状に溝の刻まれた壁が特徴的だ。その壁際には数本の弦楽器が掛けられている。他にもグランドピアノやドラムなど、一通りの楽器が揃えられていた。まるで小さな楽器店だ。

 

「防音室か。凄いな」

 

 個人所有の規模ではない。二人は驚きに目を見開いた。

 

「全部でいくらするんだ?数百万でもきかないだろ」

 

「現代音楽家、って言って伝わりますかね。そんなに儲けてもいませんよ。ここにある大半は中古だ」

 

 それにしたって数が凄い。特に弦楽器。露伴もそこまで詳しくはないが、ヴァイオリンにヴィオラ、チェロやコントラバスも全て揃っている。ギターも弦の数が異なるものが置いてある。二人は部屋を一周見て回った。最後にグランドピアノの前に立ち、譜面台の上に広げられた楽譜を覗き込む。

 

「H、Y、M、N……何て読むんですか、これ」

 

 楽譜の上部に書かれたタイトルを見て木村は首を捻った。

 

「Hymn(ヒィム)。直訳すると賛美歌。“例の曲”ですよ」

 

 滝が答えた。露伴は譜面全体をざっと眺めた。音楽理論はさっぱりだ。譜面を読むことさえ困難する。

 

「失礼」

 

 二人の間を割り、滝がピアノに腰掛けた。滝の行動を察した二人はピアノから少し離れた。滝が大きく息を吸い、そして弾き始める。静かな曲だった。なるほど滝の言うとおり、確かに面白みに欠けている。

 滝が鍵盤から指を離す。一切の盛り上がりをみせないまま曲は終わった。体を二人の方へ向ける。

 

「どうでしたか」

 

「まあ、何て言うか……悪くはなかったんじゃないかな?ですよね」

 

 木村は無言の露伴に助けを求めた。露伴はわざとらしく目を逸らした。こっちにふるんじゃあないとでも言いたげな表情だ。

 

「無理しなくていいさ。つまらない曲だよ。起伏もない、定番の進行も使われない。劇的な仕掛けがあるわけでもないし」

 

「おまけに死にもしない」

 

 露伴の呟きに滝は頷く。

 

「そう、死んでない。最初に演奏したのはもう何日も前の話なのに。この曲を売り込む目的の作り話じゃないのかな。それぐらいこの曲には魅力がないよ」

 

 同じ意見を持つ滝に露伴は頷いた。木村は失望を隠しきれない様子でいたが、最初からとんでもなくつまらない展開を予測していた露伴にとってはさほどショックではなかった。むしろ本物では困る。

 

 その日はそれでお開きだった。わざわざ関東まで出てきたのに、とは微塵も思わない露伴であった。これで木村の早とちりな性格も少しは治るだろう。それに都会の喧噪は好きではない。早く杜王町に帰りたいというのが露伴の本音だった。折角久しぶりに会ったのだからと昔話に興じる二人をおいて露伴は帰路についた。

 

 

  *

 

  

 滝の家を訪れてから三日が経った。露伴は悩みを抱えていた。あの“聴いたら死ぬ曲”が頭から離れない。食事中も、湯船に浸かっているときも、あまつさえ仕事中も、ふと気が付くと頭の中にあの曲が流れた。仕事の妨げになって敵わない。聴いたのはたった一度きりだというのに、露伴の脳は曲を完全に記憶していた。何度も何度も、脳内で一つの曲やフレーズの一部がリピートされるその現象は俗に“イヤーワーム”と呼ばれるらしい。それ自体は露伴も経験がある。だが彼の一生において、曲が丸々繰り返されるというのは体験したことも聞いたこともなかった。あれだけこき下ろしといてなんだが、意外と良作だったのかもしれない。“Hymn”への露伴の認識は変わりつつあった。

 滝の訃報が届いたのはそんな時分だった。

 

『滝 謙三がですね――覚えてますか。“聴いたら死ぬ曲”を弾いてもらった彼。昨日俺のところに連絡が来て。亡くなったそうです』

 

 自室で西洋建築の資料を眺めていた露伴はその動きをピタリと止めた。

 

「“死んだ”のか?」

 

『ええ。詳しいことは俺も分かってないんですが、どうしても例の曲の存在が引っかかって。それで一応先生にも連絡しました』

 

 木村の言葉の端が微かに震えているのを露伴は通話越しに感じた。

 

『もう一度聴きたかったんですけどね。残念です』

 

 そうだな。露伴は頷いた。周辺がごたついているようで、木村は早急に電話を切った。もう少し時間をおかないことには詳細を聞き出すことは出来ないだろう。しかしそれにしても

 

「“聴いたら死ぬ”か」

 

 偶然にしてもタイミングが良すぎる。何か因果があるように思えてならない。杞憂で終わればいいが、しばらくは不意の事故なんかに気を付けるとしよう。気分は浮かばなかったが、露伴は手元の資料に意識を戻した。

 

 

 

   *

 

 

 それからまた日が経つ。“Hymn”が脳内で流れ続けることで、露伴は安眠することすら久しくなっていた。四六時中、露伴に意識のある限りその曲が流れて止まない。睡眠不足に陥った露伴は些細なことにもストレスを感じるようになっていた。仕事にも手が付かない。異常なことだ。疲弊した露伴の脳はそれが非常事態であることも認識しなかった。

 

 その日は都内での打ち合わせだった。滝の家を訪れたのはほんの一週間前の事だ。彼はもうこの世には居ない。一度会ったきりの他人ではあったが、露伴の気分がノることはなかった。編集部本社の一室で担当の木村を待つ。しかし時間になって現れたのは別の編集者だった。

 

「岸辺露伴先生で間違えありませんか。編集の大谷といいます」

 

「何か用かい。くだらないパイプ繋ぎを企てているならとっとと消えてくれ」

 

 普段よりきつめの対応を返した露伴に怖じけた様子を見せつつも、しかし大谷はその場を去ることなく逆に露伴の向かいの椅子に座った。何を考えているんだ。露伴は不審の目を向けた。

 

「既に本人から聞いていることとは思いますが改めまして。本日木村の代わりを担当させていただく大谷です」

 

 大谷と名乗るその男は胸部のポケットに挟んだネームプレートを掲げた。

 

「代わり?何の話だ」

 

「あれ?木村から連絡ありませんでしたか?」

 

 露伴が肯くと、大谷はあちゃーと声をあげながら額に手を当てた。ギャグマンガみたいな挙動をする男だ。

 

「彼、しばらく仕事を休むことになりまして。いや失礼しました。てっきり彼から話が伝わっているとばかり」

 

「仕事には情熱のある男だと思っていたが……僕の過大評価だったか。ていうかさぁ、どうなってんだ?おたくの会社。彼一人に責任押しつけて自分たちからは連絡しないってのもさあ。なんか違うだろ」

 

 身を乗り出して愚痴る露伴を前に、大谷は身を縮め込んだ。聞こえるか聞こえないかの小さな声でスミマセン…と謝罪した。

 

「ふん。それでなんだい――理由だよ!理由!キョトンとしてるんじゃあない。英語で道を尋ねられた小学生じゃないんだ。僕の言葉くらい理解できるだろ」

 

「理由とは……木村の休暇の理由ですか?」

 

「なあなあなあ。僕だって暇じゃないんだ。君とくだらない無駄話をするためにこっちまで来たわけじゃあないんだぜ。一分一秒だって無駄にしたくないんだ。分かるよな?僕はマンガ家で、毎週締切に追われてるんだ。僕が三日で原稿を仕上げられるからって余裕があると思ったら大間違いだぜ。いいか。分かったら言葉を一つひとつ選んで発言することだな。僕は今すこぶる機嫌が悪い。今すぐ来週分のプロットをつきだして帰ることだってできるんだぜ。どうせ修正なんてないプロットをな。それをしないのは打ち合わせが礼儀だからだ。僕は君達の仕事に十分な敬意を払ってここに座っているんだ。なら君も敬意を持って、礼儀を持って僕と向き合うべきだ。違うかい」

 

 大谷に一切口を挟ませる余地なく捲したてる。いよいよ萎縮した大谷は首を下にもたげて鼻をすすり上げた。尚も苛立ちが収まらない露伴は乱暴に椅子に座り直す。打ち合わせも締切も、今の露伴にとっては全くもって“どうでもいい”ことなのだ。露伴の本来のマンガに対する情熱が、かろうじて理性をもって彼をここに留めさていた。

 

「ここ最近、どうも上の空なんです」

 

 俯いたまま、視線だけを露伴に向けながら大谷は言葉を紡いだ。

 

「何か考え事をしてばかりで、全然仕事にならない様子なんです。話しかけても反応が鈍いし、電話対応もしない。挙げ句の果てには別の作家さんとの打ち合わせをすっぽかす始末で」

 

 その状態に露伴は心当たりがあった。仕事に手が付かず、常に上の空。それはまるっきり、今の自分と同じじゃあないか。

 

「あまりに酷いんで休ませることにしたんです。今のままじゃ居ても仕事にならない」

 

「彼は何か言ってなかったのか?自分のその状態について」

 

 もしや滝が死んだことに相当なショックを受けているのではあるまいか。

 

「そういえば、時折我々に“聴いたら死ぬ曲”を知らないかって聞いてきました。何て曲名だったかな」

 

「“Hymn”かい」

 

 大谷が頷く。

 

「そうそう、それです。それなりに音楽に明るい人間も社内にはいるんですが、誰も知りませんでしたね」

 

「だんだん腹が立ってきたぞ」

 

 一度でも彼を案じた自分が馬鹿だった。今日は木村に裏切られてばかりだ。露伴の怒りはいよいよ限界だった。手前に広げたノートを乱雑に鞄にしまうと露伴は立ち上がった。

 

「大谷君、だったか。木村の家を知ってるかい」

 

「家ですか。知ってはいますけど……どうするつもりなんですか」

 

 まどろっこしい。露伴はヘブンズドアーを発動させた。

 

<岸辺露伴を木村の家まで案内する。早急に!>

 

 二人は揃って編集社を出た。大谷と並んで通りを歩く。駅に向かうと思いきや、大谷は道の途中を左折した。

 

「おいおい、どこへ行くつもりだ」

 

「どこって、木村の家ですよ。もうすぐ着きます」

 

 まだ歩き始めて五分も経っていない。露伴は面食らった。てっきり電車に乗って別の区まで移動するものだと思っていた。まさかこんなに近いとは。なかなか良い暮らしをしているらしい。

 

 十階建ての、比較的小ぶりなマンションの正面で大谷は立ち止まった。エントランスはオートロックだ。大谷が木村を呼び出すも、応答はない。

 

「出かけてるのかな」

 

「体調不良で休みをもらっといてか?」

 

 露伴は大谷を見やった。

 

「知らないのか?暗証番号」

 

「知っていますけど……流石にマズいでしょう」

 

「いいから開けなよ。失礼だとか失礼じゃないとか、そういう道徳観念は仕事を抜け出してきた時点で今更だ」

 

「わかりましたよぉ。もし怒られたら先生が説明してくださいよ」

 

 嫌々な態度をいよいよ隠しもしなくなった大谷にキレかけた露伴だったが、その行動が何の意味もなさないことを判断すると黙り込んで感情を抑えた。露伴の情緒は間違いなく不安定だった。“Hymn”は尚も脳内から離れない。“壊れたテープレコード”のように延々リピートされるその曲を、露伴は煩わしいとさえ思わなくなっていた。無意識まで完全に曲が刷り込まれているのだ。

 

 大谷の解錠によってエントランスを攻略し、突き当たりのエレベーターに乗り込む。ポン、という軽快な到着音が響くまでエレベーター内部の空気は凍りきっていた。玄関前でインターホンを鳴らす。しばらく待っても反応はない。

 

「病院かなぁ」

 

「寝てるんじゃあないのか」

 

 露伴はドアノブに手をかけた。開かないでしょうという大谷の声を無視して扉を引く。果たして扉は開いた。意外、という顔をする大谷を一瞥して、無言で室内に踏み入る。家に入るとまずキッチンがあった。一人暮らしの1Kといったところか。風呂場やトイレが隣接されたその廊下を抜け、奥のドアを激しく開く。なるほど男の一人暮らしだ。一方の壁際には本や雑誌が乱雑に積まれている。その脇の栄養ドリンクの空き瓶は彼のハードな仕事内容を物語っていた。その反対の壁際には、何故か多くの家具が並べられていた。いや、並べたと言うより“どかした”と言った方が正しそうだ。テレビ、丸机、座椅子、ベッド……本来部屋に備えられるべき全ての家具が部屋の片隅に押し込められるようにして集まっている。ではそれらがもとあった場所には何が?

 部屋の奥、窓際のひらけたスペースには電子ピアノが一台。部屋の景観の中でそのピアノの存在感は浮いていた。明らかに不釣り合いだ。

 露伴の後から部屋に入ってきた大谷は、ピアノの下に転がる人影を見てヒエッと声をあげた。露伴はその人影――木村に近付いた。目をカッと見開いたまま倒れ込んだ木村には脈がなかった。足下には椅子が転がっている。倒れる直前までその椅子に座っていたであろうことがその配置から見てとれた。

 

「きゅきゅきゅっ!救急車をッ!!!」

 

 大谷が叫ぶ。腰を抜かしたのか、尻餅をついたままその場から動けずにいた。

 

「いいや。呼ぶなら警察だな」

 

 まさかこんなベタベタな台詞を言うことがあるとは思いもしなかったが、今の露伴にそれを気にしている余裕はない。木村の周辺を観察する。“死因”はなんだ?服の下の様子は判別できないが、見る限りに外傷はない。違和感は一つ。木村の顔だ。目の下に深いクマができており、心なしか頬がこけている。肌のハリは三十代のそれではないほどに皺よれていた。人相こそ木村を保っているが、もう少し頬のくぼみが深ければ木村とは気付かなかっただろう。断定は出来ないが、露伴の知識の尽くす限りで木村を診断するならば、その死因はおそらくは“栄養失調”。

 

 露伴は廊下に出るとキッチンのそばの冷蔵庫を開けた。栄養ドリンク数本と袋入りの焼きそばが一つ。続いて開けた冷凍室には冷凍食品がたっぷりと詰まっていた。顔を上げてコンロに火を点す。ガスも止まっていない。いつでも食事は摂れたということだ。じゃあなぜ彼は死んだのだ?部屋に戻り、動揺が抜けきれず尚も座り込んだままの大谷に尋ねた。

 

「なあ、木村の友人が最近亡くなったという話は聞いたか」

 

「え、ええ。先週辺りでしたか。酷く落ち込んでいましたから――まさか!後追いをしたんじゃあッ!」

 

 露伴はその可能性を否定した。自殺の痕跡はない。

 

「その友人の死因について何か聞かなかったか。なんでもいい。ささいなことでもいいんだ」

 

 大谷はコクコクと肯いた。

 

「“怪事件”だったそうです。自宅のピアノに突っ伏して死んでいたんだとか。自殺でも他殺でもない。持病もなかったそうで。死因は確か――栄養失調」

 

「やはり」

 

 露伴は一人頷いた。短期間に連続して起きた二人の死。共通するワードは“ピアノ”“栄養失調”、そして“聴いたら死ぬ曲”。正気を取り戻した大谷が警察へ通報する中、露伴は木村の元へと戻った。

 

 ずっと、どこか不思議に思っていた。曲が丸々再生され続ける“イヤーワーム現象”は存在するのか?それも一度聞聴いたきりの、何の印象にも残らなかった曲が。

 

「そう、冷静に考えたらありえない」

 

 普段、来客の訪問にさえ気付かないほど作業に没頭する露伴が、仕事に手をつけられなくなるほど集中力を削られる。そんな事態があるわけないのだ。目の前のことに熱中しすぎて真横の火事にさえ気付かなかったことがあるというのに。露伴は木村の遺体を部屋の隅へ追いやった。

 

「まるで悪魔の曲だ」

 

 一度でも聴くと脳裏にこびりついて離れなくなる。そうして何度も何度もリピートされるうちに、もう一度その曲を耳で聴いてみたくなる。そういう“魔性”とでもいうような魅力があるのだ。転がった椅子を電子ピアノの前に立て直す。

 

「はッ!」

 

 露伴は初めて、無意識に動く体の異変に気付いた。

 

「マズいぞ―実にマズい」

 

 木村の遺体を動かしたのも、椅子を直したのも、全て露伴の意思によるものではなかった。まるでそうあるべきかのように、露伴の体が勝手に動いていたのだ。だがその行動が何を意味しているのかは解る。露伴の症状も既にステージ4というわけだ。椅子に腰掛ける。

 

「おい!大谷だったか?僕をこの椅子から引き摺り下ろせッ!!」

 

 呼ばれた大谷は不思議そうな顔をした。たった今自分から椅子に座った男が引き摺り下ろしてくれと叫んできているのだ。大谷からすれば気でも触れたのかと思うだろう。

 

「早くしろッ!君も死ぬぞ!!!」

 

 もはや脅迫だ。気圧された大谷はおそるおそる露伴に近付くと、背後から脇の下に腕を回して露伴を立ち上がらせようとした。しかし露伴の体はビクとも動かない。足に根っこでも生えたように踏ん張っている。露伴は焦りから怒鳴る。

 

「何やってるんだァァァァァァァァァァァッッ!!!早くしろォォォォォッッッ!!!!!!」

 

「やってますって!!なんで踏ん張ってンスかぁッ!」

 

 露伴としては踏ん張っている気などないのだから、大谷が貧弱なように見えているのだ。そうこうしているうちに、露伴の指が鍵盤へと伸びていく。弾き始めたらおしまいだ。無関係な大谷まで巻き込むわけにはいかない。一つでも音を奏でれば最後。露伴の演奏は終わることを知らないだろう。その先に待つものは木村や滝と同じ結末――死だ。

 

 大谷は露伴を動かせそうにない。こうなればもうやるしかない。露伴は叫んだ。

 

「おおおおおおおおッッッ!!ヘブンズドアーッッッッ!!!!」

 

<“Hymn”に関する全ての記憶を失う。永遠に>

 

 曲を知らなければ弾くことは出来ない。この先また脳内で繰り返され、魅了されることもない。

 

 一週間の記憶が全て洗われていく――――

 

 

 

   *

 

 カメユーデパート三階の書店で、露伴は音楽入門書を物色していた。つい最近、急に音楽への興味が湧いたのだ。理由は不明だが、好奇心とはそういうものだ。元から人並み程度には音楽を嗜む露伴であったが、その学問的な領域にまでは手を伸ばしたことがなかった。そんなこんなで、己の知識欲を満たすために近場の本屋まで足を運んだ次第であった。

 

「だけどよぉ。あるかもしれねえだろ?」

 

 無駄に大きな声が店内に響く。露伴は開いていた本を棚にしまうと大きく溜息を吐いた。マナーを知らないバカはどこにでも生息してるものだ。

 

「“ない”とは言ってないけど、“誰も知らない”曲を探すのに本屋の楽譜本はナシだと思うなあ」

 

「“都市伝説”の本を調べるんだぜ。ああいうのには普通じゃねえ情報が載ってたりするからな」

 

「でもよお、普通図書館から調べねえか?そーゆーの。何でったって本屋なんだよ」

 

 聞き覚えのある三人の声がして露伴は顔をしかめた。どこのバカかと思ったら、あのバカか。声の方向から遠ざかるようにして露伴は店の出口を目指した。が、どうも今日はツイてないらしい。

 

「おいあれ。露伴センセーじゃねえか?」

 

 店の中央を貫く一本の突き抜けた通路で、露伴が“バカ”と形容した声の主に指をさされた。

 

「うげ!マジかよ!やっぱり図書館に行くべきだったぜ」

 

 連れの派手なリーゼント頭の男は露伴との邂逅を好ましく思っていない様子であったが、露伴を指さした“バカ”はずんずんとこちらまでやって来た。

 

「こんなとこで会うとは思わなかったぜセンセー。それでよお、ちと聞きたいことがあってよぉ」

 

「断る」

 

 目を合わせることもなく露伴は拒絶を示した。

 

「そこをなんとかよ!頼むぜ露伴センセー」

 

 食い下がる男を気にもとめずその場を立ち去ろうとした露伴だったが、3人目の男に呼び止められて思わず出しかけた足を止めた。

 

「露伴先生、ちょっとだけ話を聞いてくれませんか」

 

 低身長の、露伴が友人と呼ぶ広瀬康一だ。手前の大男のニヤついた表情に顔を歪めながら、露伴は“仕方なく”話を聞くことにする。

 

「センセーはよ。“聴いたら死ぬ曲”って知ってるっスか」

 

 露伴は首を傾げた。

 

「“暗い日曜日”のことか?だがあれは“聴いたら自殺する歌”だったような」

 

「それじゃあないみたいなんです。“聴いたら死ぬ”から、誰も聴いたことがないんだとか」

 

「そんなものを躍起になって探しているのかい」

 

 真面目な表情を浮かべる大男を見て露伴は嘲笑した。

 

「“誰も聴いたことがない”のに、どうしてその存在を知ってるんだい。宇宙人や幽霊だって目撃談は腐るほどあるんだぜ」

 

「宇宙人と幽霊なら俺も会ったことがあるぜ」

 

 露伴は大袈裟な溜息を吐いた。

 

「そんな話はしてないだろ、今。もうちょっと頭を使えよ。鳥だってもっとマシな思考してるぜ」

 

「それじゃあセンセーも知らないんだな、その曲」

 

「知らないな」

 

「そうか。助かったぜセンセー。悪かったな。邪魔したぜえ」

 

 切り上げると大男は、遠巻きにこちらを眺めるリーゼント男の方へと戻った。

 

「ごめんなさい先生。急に変なこと聞いちゃって」

 

「全くだ。僕の皮肉も全く伝わってないようだしな」

 

 康一と一言二言を交わして別れる。

 

「“聴いたら死ぬ曲”か」

 

 面白そうな響きだ。あいつらはまだ図書館まで行ってない様子だったな。先回りして調べてもいいかもしれない。曲が存在しようがそうでなかろうが、どちらに転んでも露伴にとってはおいしい。そんなことを考えながら、露伴は店を出た。




今年の夏も暑いですね。冷夏になるなんて言われてたりもしたんですが、どうもあてが外れたみたいです。外出時はマスクが必須なのですが、生まれてこの方風の日以外マスクをしたことがなかったので息苦しくて仕方ありません。いつになればおさまるのやら。

次話構想既にあるので、次の更新は普段より早めにできそうです。


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another:15 《サイノカミ》

 “聴いたら死ぬ曲”なんてものは結局、一ヶ月経った今でも見付かっていないのだが、しかし露伴はどうも図書館という施設の面白さに気付いてしまったのだった。図書館は知識の宝庫だ。資料を読めば読むほど、次々と新しい知識への興味が湧いて止まない。元々図書館のその性質には気付いていたし、だからこそ必要なとき以外はこの施設を使ってこなかったのだが、どうもその()()が外れてしまったみたいだ。原稿に割く時間を除いて、一日のほとんどを露伴は町立図書館の中で過ごしていた。小説などを除く一般書架は二ヶ月で読破した。現在は裏の書庫にある資料を順次読みこんでいるところだった。岸辺露伴は図書館に魅了されていた。

 

 二ヶ月もの間通い続けていれば、司書らスタッフとは顔馴染みになる。彼女らとは他に、露伴と同じように図書館にあしげく通う女性が一人いた。彼女とは頭を下げて挨拶を交わす程度には知り合っていた。平日の日中であってもかなりの頻度で見かけることから、彼女が大学生であろうことが推察できた。はじめは卒論にでも取り組んでいるのだろうかと思っていたのだが、どうもそんな様子ではないらしかった。紙もペンも持たず、露伴と同じように棚の端から手当たり次第に本を読む奴が卒論を書いているのだとしたら、そいつはとんでもない記憶力を持った天才か、とんでもないバカかのどちらかだ。全て郷土コーナーにある資料ということの他に、彼女の読む本に共通点はなかった。郷土資料と言ってもその分野は行政から歴史・民俗まで多岐にわたる。何かを調べている、という感は彼女にはないように見えた。

 

 いよいよ彼女の目的が気になった露伴は、あるとき思いきって声を掛けてみることにした。彼女が棚に本を戻すタイミングを見計らい、その隣にさりげなく並ぶ。

 

「なあ、ちょっとした好奇心なんだが」

 

 棚のタイトルを眺める仕草をしながら露伴は尋ねた。

 

「いつも何を調べているんだい」

 

 不審なものを見る目が露伴に向けられた。

 

「図書館でナンパですか。斬新ですね」

 

「そういうナリにも見えるか。まあ確かに、学者や真面目な社会人には見えないな」

 

 そういう人を世間は“不審者”と呼ぶ。露伴は<M県の葬制>というタイトルの本を手に取って適当なページを開いた。前にも読んだものだ。

 

「ここ二ヶ月、毎日のように君を見かける。二ヶ月ずっとだぜ。何をしているのか気になっても不思議じゃあないだろ」

 

「それはお互い様なのでは?」

 

 露伴は顔を上げると初めて彼女と目を合わせた。露伴よりも背が低いせいで、露伴が見下ろす形になる。肩まで伸びない長さの髪や口角が気怠そうに垂れ下がっている。

 

「貴方こそ、平日の昼間から何をされているのですか」

 

「僕はただ知識をつけているだけさ。勉強だよ、勉強」

 

「暇そうで何よりです」

 

 女は棚に手を伸ばすと本を一冊引っ張り出した。

 

「半分仕事みたいなものだからな。ところで君はどうなんだい。僕は答えたんだぜ」

 

「別に。郷土資料を調べているだけですよ」

 

「卒論かい」

 

「そういうわけではありませんが――貴方には関係のないことです。それとも“私も知識をつけているだけです”とでも言えば納得しますか?」

 

 吐き捨てるように言うと、露伴が引き留める間もなく彼女は閲覧席へと戻ってしまった。取り残された露伴は手元の本を棚に戻すと小さく肩をすくめた。

 

 

 翌日以降も彼女は図書館に現れた。挨拶こそ欠かさなかったが、二人の間には妙な緊張感が生まれていた。次に二人が言葉を交わしたのは三日ほど後のこと。声をかけたのは露伴からではなかった。

 

「岸辺さんて有名なマンガ家さんだったんですね」

 

 町中で突然名前を呼ばれることはよくある。どうせサインをねだる輩だろうと思って顔を上げた露伴は、彼女が声の主であったことに少しの戸惑いを覚えた。

 

「この間は失礼しました」

 

「随分な掌返しじゃあないか」

 

「当たり前じゃないですか。年中ニートのヤバい人にしか見えませんでしたよ。服装も奇抜ですし」

 

 掌を天井側に向け、人差し指で露伴の服装を示す。

 

「岸辺さんの正体を知った今でも、この前のアレはキモチワルイと思いますけどね」

 

「君の生意気なものの言い方はどうでもいいとしてだ。話しかけてきたってことは僕の問いには答えてくれるんだろうな。僕はまだ、君が何を調べているのか気になっているんだぜ」

 

「そんなことより岸辺さん。日中からこんな場所で読書に耽ってていいんですか?マンガ家って締切に追われてどうしようもないものだと思っていましたけど」

 

「なあおい、君は簡単なQ&Aもできないのか。いまどきの大学はテストに答えられないマヌケでも入れるのか?」

 

「確かに。これは私が悪うございました」

 

 ちょこんと頭を下げる。どうもリズムが掴めない。

 

「じゃあ言い換えましょう。Q&Aではなくギブアンドテイクです。一つを与え、一つを得る。等価交換といったところでしょうか――違うか。まあいいや。さ、岸辺さんからどうぞ。締切は大丈夫なんですか?」

 

「なあなあなあなあ。やっぱりおかしいぜ。最初に質問したのは僕だ。なぜ僕が先に答える!」

 

「欲しいものがあるのならそれ相応の対価を支払うべきでは?私たちの社会の基本は資本主義です」

 

 最近の学生はこうもひん曲がった性格ばかりなのか?露伴は顔を大きく歪ませた。

 

「僕は描き上げるのが早いんだよ。だから時間もできる」

 

「へえ。あのインタビュー本当だったんだ」

 

 彼女がどのインタビュー記事を言っているかは不明だ。速筆に関してはよく聞かれる事項である。

 

「それじゃ私も答えましょう。私が郷土史を調べている理由は“西村”です。西に村と書いて“さいむら”と読みます」

 

「西村?知らないな」

 

「市内外れにある小さな村です。特産品とかもありませんし、知っている人の方が少ないかと」

 

「なるほどな。ところで僕の疑問は全然尽きないわけだがどうする?まだギブアンドテイクやらを続けるかい」

 

 女はしばらくの思案を挟んだ。

 

「でしたら近くの喫茶店に移動しませんか。私は“あの岸辺露伴”とお茶をしたという対価を得られる」

 

 露伴は彼女の提案に同意した。図書館そばのこぢんまりとした個人喫茶に場所を移す。

 

「それでだ。なぜ町立図書館なんだ?君は大学生だろう」

 

 注文もそこそこに露伴は疑問を投げかけた。

 

「大学図書館の郷土資料は論文含めて全部に目を通しました。けれど西村に関する詳細な記述はみられなかった。だからこっちに通っているんです。郷土史・民俗史は大学のものよりコーナーが充実しています」

 

「お探しのものは見付かったのかい」

 

 彼女は首を横に振る。

 

「名前は出てきても、やはり細かく言及されたものはありません」

 

 二人の前に飲み物が運ばれてきた。

 

「西村の何を調べようとしているんだ」

 

「西村()()()()です」

 

「卒論でもないのにか。その異常な執着の理由はなんだ。ただごとじゃあないぜ」

 

「身の上話なんで言いたくありません」

 

 女は手元のスムージーに口をつけた。

 

「全く教えてくれないのか?小指の先ほどもか」

 

 食い下がる露伴に女性は折れた。小さな吐息の後に語る。

 

「西村は私の生まれ故郷らしいんです」

 

()()()?」

 

 しまった。彼女は慌てて口を両手で覆った。余計な情報まで喋ったみたいだ。

 

「図書館なんかより村役場やお寺の方が詳しいんじゃないのか」

 

「できません」

 

「火事で焼失したとか?」

 

 それならまだ納得がいく。

 

「親から“行くな”と言われているんです」

 

「勝手に行けばいいじゃないか。君のご両親はそんなに厳しい人なのかい」

 

「駄目です。私の育ちは西村の隣、宵村という場所なんですが、子供の頃から西村への立ち入りは厳しく禁じられていました」

 

「面白くなってきたじゃないか」

 

 なにやら変な匂いがする。露伴の興味は西村に真っ直ぐ向いていた。

 

「案内してくれないか。その西村まで」

 

 

「正気ですか?岸辺さん、私の話ちゃんと聞いてましたか?行ってはいけないんです」

 

「だからこそだろ。禁じられてるからこそ行くことに価値があるんだ。かく言う君も気になっているんだろう。こんなに躍起になって調べているんだ」

 

 口をつぐんだ彼女を見て露伴は押しを強めた。

 

「それじゃあこんなストーリーはどうだい。君が――えーと。君の名前を聞いてなかったな」

 

田向花 小夜(たむけ さや)です」

 

「田向花 小夜。君が僕に無理矢理案内させられたというストーリーだ。君は被害者。僕が悪者だ」

 

 小夜の返答が何であろうと、露伴は彼女に案内をさせるつもりでいた。胸ポケットのペンに手が伸びる。しかし小夜の答えは賛同だった。

 

「八割事実ですよね、それ」

 

 

   *

 

 後日、宵村の最寄り駅で二人は待ち合わせた。非常に小さな無人駅だった。自動改札機など存在しない。代わりにポストのような見た目をした切符回収ボックスが設けられていた。電車を降りてホームで待つ小夜と合流する。小夜は切符をそのボックスに入れるよう露伴に指示した。

 

「無賃乗車し放題にも見えるが。大丈夫なのか」

 

「そんなことをしたら駅が潰れます」

 

 それも違いない。露伴は駅の外に広がる風景を眺めて頷いた。周辺一帯は田園に囲まれている。道路も整備が行き届いているようには見えない。この路線は周辺に住む人々にとって生命線にも等しいに違いない。

 

 小夜は線路と垂直に交叉する一本道に出るとその先を指さした。

 

「この先、直線上に宵村と西村があります。宵村の奥に西村。一本道で続いているんです」

 

「民家も見えないが。どれくらい歩くんだ」

 

 露伴は道の奥を凝視した。どこまでも田畑が続いている。

 

「三十分くらいです」

 

 表情一つ変えずに小夜は答えた。

 

「おいおい、冗談だろ」

 

 露伴のテンションは目に見えて下がった。いくらジムに通っているからといっても、体力的に余裕があるわけではない。歩くのが嫌というわけではないが、まさかそんなに歩かされるとは思ってもいなかっただけに露伴は面食らったのだった。

 

「私の両親の話なんですが」

 

 しばらく黙って歩いていた二人だったが、小夜が先に口を開いた。

 

「今の両親と私は血が繋がっていないんです」

 

「養子か?」

 

 小夜は小首を傾げた。

 

「難しいですね。戸籍上は今の両親が実の親ということになっていますが、本当の産みの親が別に居るんです」

 

「複雑だな」

 

 小夜の話し方から悲壮感は見られなかったものの、話題が話題なだけに露伴の反応も慎重だった。

 

「私が宵村に住んでいるという話はしましたよね。私が産まれた、実の親が現在暮らしている場所が何を隠そう西村なんです」

 

「それで西村を調べてたのか」

 

「私が生まれたのは冬でした。生まれてすぐ、実の両親は義父母に私を預けたそうです。雪の降る夜だったそうですよ」

 

 神秘的ですね。小夜がはにかむ。

 

「物心ついたときから“西村には行くな”と耳にたこができるほど言われてきました。それが村の掟だと」

 

「実の両親と会ったことは?」

 

 小夜は頷く。

 

「西村の人間が宵村に来ることは禁じられていません。でないとどこにも行けませんからね。この一本道しかないし。だからあっちの村人と会う機会は意外と多いんです」

 

「実の両親に会ってはいけないとか、そういうわけではないのか。益々解らなくなってきたな」

 

「私もそこは疑問です。村人同士も仲が悪いわけじゃないし、子供達は村を跨いで遊びます。ただ“西村に行ってはいけない”」

 

 次第に道の先に民家が見え始めた。畑仕事をする人影もある。

 

「小夜ちゃん!どうしたんだいその人!」

 

 その中の一人が道行く二人を見付けて声をあげた。その声に周囲の人も反応する。

 

「なんだい。大学のボーイフレンドかい」

 

 最初に声をあげたその老婦人が額の汗を拭いながら二人に近付いた。

 

「そうなのよ」

 

 ニコニコ顔で頷く小夜を見て露伴はあっけにとられた。

 

「おいおい、どういうことだ。聞いてないぞ」

 

「いいから話に合わせてください」

 

 耳打ちする露伴に小夜は忠告した。露伴は困り顔になった。老婦人と小夜が言葉を交わす。急いでるのでと小夜は早々に会話を切り上げた。

 

「悪い人たちじゃないんですけどね。話が止まないのは困ります」

 

「そんなことはどうでもいいんだ。さっきの返答はどういうことだ」

 

「我慢してください。西村に案内してるなんて言ったら追い返されますよ。私が貴方を連れて歩ける妥当な理由は他にないんです」

 

 露伴は渋々了承した。だがどうも、その言い訳は悪手なように思われてならなかった。事実、村に帰った二人は質問の嵐に苦労することになる。

 

 小夜の実家に荷物を置き、義父母と少しだけ談話し、それから露伴に村の中を案内すると言って二人は外に出た。玄関先で義父母が小夜に耳打ちする。

 

「何て言われたんだ」

 

 村に繰り出すと露伴は尋ねた。

 

「“西村には行くな”と念押しされました。まあこれから行くんですけどね」

 

 駅とは反対方向に、村の中央を縦断する一本道を進む。陽が傾き始めていた。道には街灯もなければ、明りを持参してきたわけでもない。今が秋時であることと遠くに見える西村の民家までの距離を考えれば、帰りは何も見えなくなりそうだ。小夜は澄ました顔をしているがその点の心配はないのだろうか。

 

 四人の子供がはしゃぎながら西村の方面から駆けてきた。道の向こうでは別の子供達が手を振っていた。

 

「西村の子たちです。宵村の子はあっちへ行けないから、いつも彼らが遊びに来るんです」

 

 前方で手を振る三人を見据えながら小夜はそう言った。なるほど。二つの村の関係はやはり良好なようだ。道沿いの畑が途切れ、前方に草原が広がる。西村の民家にポツポツと光が灯り始めた。

 

<まるで隔離されてるみたいだな>

 

 西村へ至る道はこの一本の他にないと聞いた。四方を山に囲まれたその村は、どこか俗世から切り離されたような印象を露伴に与えた。

 

「アレは何だ」

 

 二人の前方、道の両脇に朱色をした一対の柱が出現した。高さは二メートル半。上部からは注連が下げられている。門や鳥居を模したような、そんな注連柱だ。

 

「さあ――私も初めて来ましたから」

 

 小夜も不思議そうにそれを眺める。二人は得体の知れないそれに接近した。右の柱の手前に人の背丈ほどの祠が建っていた。四本の支柱で屋根を支えているだけの簡単な構造だ。壁も存在していない。露伴はその祠に目的を変更した。幅の広いその祠には、大きさも形も別々の三つの石が置かれていた。中央、上下左右に最も大きい石には“佐倍乃加美”と刻印がされている。露伴のへその高さまであるその石の左右には、二回り以上小さな石が座していた。左には30センチほどの丸石が、右にはそれより幅はちいさく少し高さのある石が、それぞれ中央の石から等間隔の距離に置かれていた。露伴は小夜に目線で尋ねた。小夜は首を振る。

 

「“佐倍乃加美”……どう読むんだ?」

 

 何のために設置されているのかも皆目見当が付かない。その先の注連柱と併せて考えれば、ここが宵村と西村の境界のような役割なのだろうか。その柱に向かって露伴が歩もうと足を踏み出す。同時にどこからともなく“声”がした。

 

『わりいの。わりいの』

 

 露伴は咄嗟に足を止めて周囲を見回した。しかし人の姿はない。

 

「聞こえたか?」

 

 小夜の方を振り返る。小夜も肯いた。

 

「幻聴じゃありませんよね」

 

「お化けかもしれないな」

 

 夕日が射し込む今の情景的には妖怪の方が出てきそうな雰囲気ではあるが。どちらにせよ薄気味悪い。

 

「行きませんか?」

 

「先に行っているといい。僕はもう少し観察してから行くよ」

 

 一本道だから迷う心配もない。小夜が祠の横を通り過ぎる。

 

『わりいの。わりいの』

 

 再び声がした。小夜が足を止める。やはり人影はない。小夜は足早にその場を去ろうとした。柱の間を踏み越えたその瞬間。小夜は地面に崩れ落ちた。

 

「なにぃッ!」

 

 小夜から血が流れ出る。かなりの出血だ。露伴は警戒心を最大限まで高めた。()()かが彼女を攻撃している。数秒を待ち露伴自身に攻撃が及ばないことを確認すると、小夜に近寄った。

 

「止まれ!!動くんじゃあないッ!!」

 

 その露伴を後方からの怒号が制した。露伴は勢いよく振り返った。男が二人。中年の男と、露伴と年の近そうな男が一人だ。

 

「それ以上進むな。彼女と同じ目に遭うぞ」

 

 中年の男が凄む。露伴は臨戦態勢をとった。

 

「彼女に何をした!」

 

「落ち着け。俺らの仕業ではない」

 

 信用できない。露伴は警戒を続けた。

 

「福間さんのとこの子だ。村長も呼んできてくれ」

 

 中年の男に指示を受けて若者が西村に走る。

 

『いいの。いいの』

 

 またしても声がする。先ほどの二回とは言葉が異なっていたが、その意味するところは不明だ。

 

「説明願おうか。それとも強硬手段がお望みか?」

 

「落ち着けって言ってるんだ。彼女は死にはしない。安心しろ」

 

 露伴は小夜の容態を目で確認した。並の出血量ではない。

 

「死にはしないだと?あんたがここで僕の足止めを続ける限り、彼女の死期は迫ってくるんだぜ」

 

「断言しよう。君が何かをするまでもなく、彼女は死なない」

 

「あんた何者だ」

 

「俺も宵村の人間だ。君ら二人が西村の方面に歩いて行ったと子供らから聞いて飛んできた。西村には行くなと言われなかったのか?」

 

 やはり信用するには足らない。だが攻撃の正体が判明しない以上迂闊に動かないのが正解というのは露伴も理解していた。

 

 西村から明りを持った集団がやって来た。先頭を歩くのはさっき駆けていった若い男だ。後方には高齢な男が一人、中年の男女一組、そして別の若者が続く。六人は倒れ込む小夜の前で立ち止まると、彼女の様子を覗き込んだ。

 

「田向花さんのところだ。運びなさい」

 

 老人の言葉で、若者二人が担架に小夜を乗せて宵村へと運んでいった。彼らに敵意がないことをすれ違いざまに確認し、安堵の息を吐く。西村からやって来た三人は祠の前に跪くと合掌した。

 

「奴ら、何をやってるんだ」

 

 訝しむ露伴の横に宵村の男が並ぶ。彼にも敵意がないことを露伴はそっと確認した。三人が合掌を解いて露伴と向き合う。

 

「はて――どこまで理解しているのかね」

 

 老人が露伴に尋ねた。

 

「どこ、とは。西村に行くなとは聞いた」

 

「その理由がアレだ」

 

 老人は宵村へ運ばれる小夜を指さした。

 

「西村に“来てはいけない”のではない。“入れない”のだよ」

 

「彼女は掟を破ったからああなったのではないというわけだな」

 

「ここに祀られているのは“サイノカミ”という神様だ」

 

 老人が祠の屋根を軽く叩く。

 

「“サイノカミ”」

 

 露伴は復唱した。なるほど、石に刻まれた“佐倍乃加美”も無理をすればそう読めないこともない。

 

「西村はこの“サイノカミ”によって守られている。“サイノカミ”はこの西村にとって害となる存在を弾くのだ。来なさい」

 

 老人に招かれ、露伴は祠の前に立つ。

 

『わりいの、わりいの』

 

 声が聞こえる。

 

「これが“サイノカミ”による判決だ。“サイノカミ”はこの境界を越えようとする対象の過去から現在、そして未来までの全てを見通す。そしてその対象が西村に害を与える可能性があるとき、“サイノカミ”はこれを拒絶する」

 

 “わりいの”とは“悪いの”が訛ったものだろう。

 

「拒絶されたものが無理に境界を侵そうとすれば、“サイノカミ”は彼らを半生半殺にする」

 

「“塞の神”か――」

 

 外敵から集落を守護する神。老人は一度祠から遠ざかると再びその前に立った。

 

『いいの。いいの』

 

「この返答が返ってきた者だけが西村に立ち入ることが出来る。宵村は、西村で産まれたものの“サイノカミ”によって害をなす存在と判定され、村の領域に存在することが出来なくなった者たちの集まりだ」

 

 隔離されているのは宵村の方だ。ならさっきの若い男は?もしものための連絡役だと老人は説明する。

 

「なぜ彼女には真実を伝えなかった」

 

「彼女は今――21か?」

 

 老人が隣の男女に確認をとる。二人は肯いた。

 

「あと数年もすれば伝える予定だったよ。それも決まりだ。子供に伝えても理解されないからな」

 

 老人は男女に露伴の前に立つよう促した。

 

「彼女の実の両親だ」

 

 老人の紹介で小夜の実父が握手を求める。しかし露伴はその手を握り返さなかった。

 

「疑問に思わないのか。実の子供なんだぞ。得体の知れないカミサマとやらの一言で産まれたばかりの我が子を他人に預けられるものなのか?西村を出て三人で暮らすという選択肢はなかったのか?」

 

 両親はキョトンとした。

 

「何故?“サイノカミ”によって西村は永きにわたって繁栄している。必要のない()()()()()を追放したまでだ」

 

 開きかけた口を、露伴はつぐんだ。

 

「帰る」

 

 吐き捨てるように言い残し、宵村へと道を戻る。“サイノカミ”だか何だか知らないが、それ以上に村人が腐っているようでは駄目だ。太陽は完全に沈み、月明かりが道を照らした。

 

 田向花家に戻ると、慌ただしく田向花夫婦が出迎えた。露伴は二人に頭を下げた。自分の我が儘が彼女を危険に晒した。彼女にもその気があったとはいえ、露伴が唆さなければ、少なくとも彼女が今夜西村に向かうことはなかった。田向花夫妻はしかし、そんな露伴を温かく迎えた。

 

「せめて君に怪我がなくてよかった。安心してくれ。明日の朝には彼女も完治するよ。“サイノカミ”の目的は西村に外敵を侵入させないこと。殺すことが目的じゃない」

 

 小夜の眠る床の間に通される。布団にはまだ少し血が染みていたが、小夜の息は安定していた。半生半殺。死にはしない。両親が部屋を去る。

 

「今回ばかりは僕も反省しなくてはならない。全くその気なく、だが間違いなく僕の好奇心が君を傷付けた」

 

 彼女の動機の一部は露伴への善意でもあった。あと数年もすれば村から真実が語られていた。今夜の事態は小夜にとっては不要だったもののはずだ。露伴は胸元のペンを取り出した。

 

 

 

  *

 

 

「悪かったな。いらないことに巻き込んだ」

 

 翌日の昼過ぎ。二人は駅のホームで1時間に一本の電車が来るのを待っていた。

 

「いえ、岸辺さんに言われなくてもそのうち私一人で行っていたでしょうから。結果的には村のことを知れましたし、岸辺さんが謝ることではありません」

 

 早朝に完治して目覚めた小夜は、露伴や田向花夫婦から昨夜の出来事と“サイノカミ”についての説明を受けた。衝撃こそ受けた小夜だったが、決して露伴を非難することはなかった。

 

「君の産みの両親のことだが――君は彼らをどう思っている?」

 

「どう、ですか。特に頻繁に会うわけでもないのでなんとも。遠い親戚みたいな感じですかね」

 

「そうか。今のご両親を大切にするといい」

 

 昨夜の対応で田向花夫婦の人柄の良さを感じていた露伴はそうとだけ伝えた。電車が到着する。小夜とはここでお別れだ。

 

「そうだ」

 

 電車に乗り込もうとしたところで露伴は思い出す。

 

「今回の埋め合わせと言ってはなんだが。“おまじない”をかけておいた」

 

 露伴は胸ポケットのペンを取り出し、ヘブンズドアーを発動させた。

 

<幸せになる>

 

 本のように開かれた小夜の右頬にはそう書き込まれていた。小夜が昨晩眠っている間に書いたものだ。

 

「ギブアンドテイクだ。君には大きな借りを作ったからな。対価とまではいかないが」

 

 意味が掴めない小夜は目を丸くする。

 

「まあ効果は保証できないがな」

 

 露伴は電車に乗り込んだ。




更新が早いですね!!僕は天才です!!!

でもまあネタ切れしてるんで次の更新の目処は立っていないんですが。この短期更新に読者が満足して一年くらい休んでも大丈夫なのでは――

時間はあるんでおいおい書くとは思います。待たせてごめんなさい。でも待っててください。


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another:16 《耽美》

 S市市街地の喧騒を抜けて走ること1時間。小高い丘の上に立つ一軒家に露伴を乗せた車は向かっていた。

 

「不便そうだな。市内には引っ越さないのか?」

 

 窓の外を流れる景色を眺めながら、助手席の露伴は尋ねた。ずっと遠方まで広がる田園の合間に民家がポツポツと並ぶ。コンビニや大型商業施設を見なくなってしばらくが経った。日常の買い物も一苦労だろう。

 

「家からの景色がいいんです。あれを見たらビルの隣に住みたいなんて気は起きません」

 

 運転をする男はそう答えた。織山繁定(しげさだ)。S市大学病院勤務の外科医だ。彼と露伴が出会ったのは“地獄門”遭遇直後のこと。()()()()()()()露伴が外傷と勘違いされて最初に運び込まれた先がこの繁定だった。

 この男、どうも積極的に露伴に絡んでくるきらいがあった。露伴が有名人だと知ってすり寄ってくる輩は多い。だから繁定が露伴を自宅に誘ってきたとき、露伴は考えるまでもなくそれを断った。打算的な連中とプライベートで付き合っても碌な事はない。しかし彼の家に手塚治虫の『新寶島(しんたからじま)』初版があると聞いて露伴の気は変わった。再版を含めても100冊も存在するかどうかの作品。初版ともなるとこれまでに確認されたものは3冊しかない。まさに伝説の作品だ。出す所に出せば数100万の値だって付く。漫画家として、いやそれ以上に日本人として、そんな驚くほど貴重なものを目にする機会を逃すわけにはいかなかった。

 そうして結局誘われるがまま、露伴は繁定の車に乗せられたのだった。

 

 丘に建つ、モダンな空気を匂わせる洋風建築の前に車は止まった。大した趣味だ。露伴は目を細めた。3階建ての大型な住宅だ。中世のヨーロッパ貴族の邸宅のようなプロトタイプを想起すれば、まさに目の前にあるような建物が浮かぶ。

 

“16個”

 

 横に連なる窓の数を露伴は数えた。正面だけで50個近い窓が存在する計算になる。玄関に横付けるように停められた車を降りると、繁定の案内で中に足を踏み入れた。その先の光景に、露伴は思わず息を飲んだ。

 ちょっと値の張るホテルのフロントに居るようだ。3階まで吹き抜けた天井、そこから吊された煌びやかな照明。正面に始まる階段は左右二手に分かれ、外向きに弧を描くようにして上階まで続いている。足下のカーペットは靴底が沈み込むほど柔らかく、しかも埃ひとつ見当たらない。

 

「凄いな。本当に貴族みたいだ」

 

「大したものではありませんよ。一部に手を加えてはいますが、もとは中古物件です」

 

 だがこれほどの空間を清潔に維持するのは並の労力ではない。そのことを尋ねると、繁定は驚くことを口にした。

 

「全て家内一人の仕事です」

 

「この広さをか?冗談じゃないぜ」

 

 相当な重労働なはずだ。妻はよほどの綺麗好きなのか。あるいはこの男の人使いが異様に荒いのか。

 

「素晴しい妻ですよ。家の家事を全部そつなくこなす」

 

 そんな露伴の思慮を知ってか知らずか、繁定はそう補足した。

 

「妻は――どこに居るんでしょうね。おい!お客様だぞ!」

 

 繁定が声を張り上げた。ほどなくして、2階から妻が姿を現した。二人の正面の階段を降りる彼女を見た露伴は口をあんぐりと開けた。

 

「紹介します。妻の春江です」

 

 露伴はまるで我を失った。

 

“美しい”

 

 露伴の思考をその感情が奪い取った。骨格、顔立ち、肌の色合い、髪質...彼女を構成する全てが完璧だった。“モナ・リザ”や“ダビデ像”といった、誰もが美しいと認める造形。彼女はそれらとも引けをとらなかった。整形をしたかのような非現実な違和感こそ合ったが、もはやそんなものはどうでもよかった。種や性別を超越した、全能的な“美”がそこにはあった。そのことに露伴の思考は一次機能を停止した。見た感じ年齢も若い。40代近い繁定とはどうしても釣り合いが取れていないように見えた。

 

 唖然とする露伴を見て満足げに頷いた後、繁定は彼を現実へと引き戻した。

 

「さ、岸辺さん。ディナーにしましょう。妻が用意してくれています」

 

 春江が深々と頭を下げた。その顔に表情が見えないことだけが、唯一露伴にひっかかりを覚えさせた。

 

 1階のダイニングに通されると、テーブルの上には既に三人分の食器が揃えられていた。繁定が露伴を上座に案内し、春江が料理を運んだ。メニューは至って家庭的だ。白米、味噌汁の他に揚げ物や野菜類などのおかずが数点。もっとも、そこに使われている材料は都内の上物料理店が試用するような高級なものばかりだと繁定は自慢げに露伴に説明した。

 

 しかし、それにしてはもったいない味をしていた。不味くはない。十分に箸は進むし、味が濃すぎたり薄すぎたりということもない。ただただ平凡なのだ。レシピ通り、材料の分量をきっちり量って作ったような、何一つ間違いや工夫のない“普通の味”。繁定はそれを美味い美味いと口に運ぶ。露伴から言わせれば食材を生かしきれていない微妙な評価なのだが。これが“愛の味”とでもいうやつだろうか。ご飯を美味しそうに食べる男は好かれると言うが、それが二人の結婚理由にあるのだろうか。繁定も顔立ちは決して悪くはないし、収入も安定しているだろう。だがそれでも釣り合わない感覚は拭えない。ちょっとばかし嫉妬心も抱いている露伴なのだが、彼がそんなくだらない感情を認めるはずもなかった。

 

 しかし一体何だろうか。露伴は春江の方に目を移した。笑顔の繁定とは対照的に、春江はやはり無表情だ。冷徹だとか無関心だとか、そういう類いのものではなかった。そもそも感情というものが読み取れないのだ。機械的で、どこまでも淡泊。精巧に作られた人型のロボットを見ているようで不気味だ。料理を取り口へ運び、咀嚼。そして飲み込む。日常的で普段気にも止めないその自然な動作も、彼女が行うとどこかおぞましささえ感じられた。

 

“彼女――何を考えている?”

 

 思考が読めない。というよりも、思考がないように見える。一体どんな人生を送ればあんな人間が出来上がるんだ?

 

「一段落着いたことですし。例の本、お見せしましょう。先生はここで。あまり褒められた管理状態でないことを自覚してましてね。現場をお見せするのは恥ずかしい」

 

 卓上の料理があらあた片付き三人の箸も止まった頃、繁定が席を立った。春江も食器を下げ始め、露伴は食後のコーヒーを片手に一人暇を持て余した。

 

「酷く失礼なことを尋ねるが」

 

 露伴はふと春江に声を掛けた。春江は露伴に一瞥もくれない。

 

「どういう成り行きだったんだ?言っちゃあ悪いが、あの男が君を手にするヴィジョンが見えない」

 

 玉の輿、というわけでもないだろう。医者とはいえ片田舎の無名医だ。春江ほどの容姿であればもっと好条件な男なんていくらでも捕まえられたはずだ。かといって、それを蹴ってこんな不便な土地での暮らしを愛しているといった感じも受けない。入れ込んでいるのは繁定の方だ。考えれば考えるほど、彼女がここに留まっている理由が分からなかった。

 露伴はかつて出会った、歪んだ愛の上に成り立った夫婦を思い出した。この二人もまた、普通ではない愛の形に取り憑かれているのだろうか。

 

 春江は尚も反応を示さなかった。やはり質問がマズかったか。やれやれ、と露伴は小さく吐息した。

 

「悪かった。忘れてくれ。ところでお手洗いに行きたいんだが、この部屋を出て右か?左か?」

 

 春江は答えなかった。

 

「なあ、聞こえてるか?」

 

 無視にしても相当だ。そこまで嫌われたか?春江に近付き、彼女の肩を掴む。と同時にヘブンズドアーを発動させた。春江は気を失い倒れ込んだ。頭を打たないようそれを支え、彼女の記憶を読もうとする露伴。そこへ繁定が帰ってきた。

 

「何をしたッ!!」

 

「ちょうど良かった。彼女が急に倒れた」

 

 露伴は躊躇いなく嘘をついた。ヘブンズドアーはどうせ見えない。

 

「何だって?」

 

 それを聞いた繁定は血相を変えて駆けつけた。露伴は春江を繁定に引き渡すと二人から離れた。ヘブンズドアーを解除する直前、そっと適当なページを覗き見た。その目に飛び込んできた文字に露伴は戦慄した。

 

「まさか...」

 

 そんなことはあるはずがない。冷や汗がしたたり落ちる。何かの間違いだろう。緊迫した空気の中、春江が目を覚ました。繁定と露伴はほっと胸を撫で下ろした。

 

「大丈夫か?具合の悪い箇所はないか?」

 

 案じる繁定に春江は頷いた。

 

 <気のせいだろう>

 

 露伴は尚も動転する気を落ち着かせた。彼女が目を覚ました今、それはあり得ないことなのだ。

 

 そう、あり得ないこと。きっと見間違いだ。

 

 生きている人間に“死”の文字列が書かれることなどあり得ないのだ。

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

「トイレは右の4つ目の扉です。私たちの寝室は階段を挟んで反対の突き当たりに。何かあったらそこの内線で呼んで下さい」

 

 夜、2階の一部屋に露伴を通した繁定は部屋の説明をした。部屋の一角に備えられた固定電話を指さしながら繁定は続けた。

 

「あれが内線です。私たちの寝室の番号は201です。後はいいかな。多分使うことはありませんので」

 

 露伴が案内された部屋は12畳ほどのフローリング。ベッドの他にテレビや冷蔵庫なども完備されている。下手なビジネスホテルよりも快適かもしれない。

 

「それと――基本的に建物の中は自由にしてもらって構いませんが、私たちの寝室の真下、1階の書斎にだけは入らないで下さい。散らかっていてね。見られたくないんです」

 

 ごゆっくり。言い残すと繁定は扉を閉めた。足音が遠ざかったのを聞くと、露伴は内鍵を締めてベッドに身を投げた。

 

「......」

 

 行くなと言われれば行きたくなるのが(さが)だ。露伴は二人が寝静まるのをじっと待った。

 

 午前2時。そっと部屋を抜け出した。廊下に灯りは点されておらず、月光を取り込む窓もほとんどない。携帯のライトが頼りだ。最近、何かとライトを使う機会が多い。ペンライトなんかを忍ばせておくといいかもしれないな。そんなことを考えているうちに、建物中央に位置する階段へと到着した。踊り場から下を覗くと、1階もやはり灯りに乏しかった。人気のないことを確認すると露伴は1階に降り立った。左手に伸びる廊下へと爪先を向けた。繁定らの寝室の真下であれば、部屋番号は101。しかし前方に灯りを認め、露伴は踏み出しかけた足を止めた。それは書斎と思われる、一番奥の部屋から漏れた光だった。扉が半開きになっている。何故?足音を立てぬよう注意を払いながら露伴はそっと近付いた。扉の横につけ、そっと耳をそばだてた。中からの物音はない。露伴はそっと室内を覗き込んだ。

 

 広い。露伴の案内された部屋の面積の二倍はある。窓際を覗いた全ての席が本棚で埋め尽くされていた。まるで図書館の一角にでも立ったような気分だ。その量の多さに露伴は感嘆した。部屋の中央にどんと据えられた机にも繁定の姿がないことを確認すると、露伴は書斎の中に足を踏み入れた。

 廊下側の壁にもズラリと本が並ぶ。天井までおおよそ3メートル。1つの本棚に100冊以上の本が収められているだろう。相当な読書家らしい。ジャンルも豊富だ。小説、図解、医学書、雑誌etc. 棚ごとにきっちりと分別されている。マンガやライトノベルが並べられた本棚を認めて露伴は驚いた。読書家のイメージとサブカルとが全く結びつかない。露伴の作品『ピンクダークの少年』も納められている。同じ棚の中に『新寶島』の文字を見付けて露伴は思わず飛び上がった。

 

「数百万だぞ?」

 

 心の声が漏れた。この棚にある他の全てのマンガを売り払っても到底届くことのない数字だ。そのなものが無造作に押し込まれている。露伴は他の棚を食い入るように眺めた。もしや、他にも貴重なものが眠っているのでは。

 

「おいおい!『吾輩は猫である』の初版じゃあないか!!」

 

 『新寶島』には劣るものの、珍しいものには変わりない。

 

「こっちは『七人の侍』のフィルム!?冗談じゃあないぜ!なんでこんなものがあるんだッ!」

 

 それだけじゃない。市場に出せば数十万円は下らないものがゴロゴロしている。あの男が価値を知らないとは考えにくい。露伴に『新寶島』を見せてきたときも、表の態度にこそ出さなかったが自慢げな空気が滲み出ていた。彼の逐一の言動やこの屋敷を見てもそうだが、価値あるものを粗雑に扱うことで自身の財力を誇示しようとしているふうに見えた。

 

 全ての棚を一通り見て回ったところで、露伴は中央に構える机に目を移した。深みがかった趣ある深茶色をしたその大きな机の上は整然と片付けられていた。露伴は机の正面に回ると椅子に腰掛けようとした。壁際に追いやられた回転椅子を机の側まで引っ張ってきたところで、露伴はその“穴”に気付いた。

 

 “穴”は机下のカーペットにぽっかり空いていた。幅は約1メートル。床下に向かって階段が続いていた。

 

「これは...」

 

 隠し扉だ。露伴は直感した。今時スパイ映画でしか見ない。階段に灯りは設けられていなかったが、下に広がっているであろうスペースからの光が漏れていた。露伴は書斎内を見渡すと、何の躊躇いもなく階段に足を掛けた。

 

 15段、一般的な1階分の高さを降りると地下室に繋がった。広さは8畳ほど。時代にそぐわない、天井から吊り下げられた白熱灯の光がコンクリートの壁に反射して不気味な空気を演出した。部屋の中央にはパイプベッドが一台。その上に春江が横たわっていた。

 露伴は静かに春江に接近した。繁定の姿はない。春江はまるで死んでいるかのようだった。やはりその容貌は美しい。露伴は我を忘れてしばらくの間魅入られていた。

 

「何をしている」

 

 不意の声が露伴の意識を引き戻した。

 

「少し席を離した隙に――やはり施錠しておくべきだったか」

 

 いつの間にか繁定が戻っていた。すっかり春江に気をとられて足音にも気付かなかったようだ。

 

「書斎には入るなとお伝えしたはずですが。聞いてなかったかな」

 

 繁定は露伴と向き合うようにベッドの反対に回った。

 

「ここがそうだとは思わなかったよ」

 

 露伴は白々しく言い返した。

 

「で?どこまで理解した?」

 

 春江の額を撫でながら繁定が尋ねた。春江はピクリとも動かない。

 

「生きてるのか?彼女」

 

 寝息も心音も聞こえない。本当に人形のようだ。繁定は大きく息を吐いた。

 

「患者にもよく居るよ。覚えておくといい。質問に質問で返すのはテストで点数の取れないバカがやることだ。話が成立しない愚か者はいっそ死んだ方が健全だよ。きみはどっちだ?何の生産性も持たない愚者か、それとも会話の出来る“人間”か」

 

「それで?」

 

 露伴の返答に繁定のこめかみがピクリと動いた。

 

「彼女は生きてるのか?それとも死んでるのかい」

 

「頭の中カビてんのか!このボンクラがぁ!死にたいならそう言え!今すぐその喉かっさばいてやろうかぁッッ!!」

 

 繁定が弾けたように身を乗り出し露伴の胸ぐらを掴んだ。荒い息を立て、今にも額と額がぶつかりそうな距離で睨み付ける繁定を、露伴は酷く冷めた目で見詰めた。

 

「美しい女性をものにしたいというのは男の“(さが)”だ」

 

 繁定は露伴から手を離すと後方の壁へ向かった。壁には棚が打ち付けられていた。棚には無数のガラス瓶が。その中身を視認した露伴は目を細めた。

 

「だが顔立ちも完璧で、かつ性格まで“できた”人間など存在しなかった。身も心も清らかな、優れた女性など居ない。どちらかが備わっていてもどちらか一方が醜い。どいつもこいつも下水に棲むドブネズミ以下の意地汚い奴らだ」

 

 心臓、肺、腎臓、眼球、指...あらゆる人間の器官が、人間の一部が液体漬けで並んでいた。露伴は突然噴き出した汗を拭った。

 

「私は幸い外科医だった。最も難しい問題をクリアできた」

 

 それらの瓶を繁定は愛おしげに撫でて回った。

 

「時間はかかったが――彼女の出来には満足しているよ」

 

「整形、という簡単な話ではなさそうだな」

 

 露伴は春江の正体に薄々感づいてきた。おぞましい。

 

「美しいでしょう?彼女」

 

「人――じゃあないのか」

 

「つくづくとまあ貴方は...」

 

 繁定は天井を仰ぐと露伴に詰め寄った。

 

「まず俺の質問に答えるのが先決だろうがぁぁぁッ!!耳がねえなら縫い付けてやろうかあ!?素材ならあるんだぜぇぇッ!!!」

 

「分かったよ。落ち着けよ。答えるよ。確かに美しい。正直見とれたぜ。ほら、これで満足だろ」

 

 ふぅう~と繁定は大きく息を吐いた。

 

「分かればぁいいんだよ。それで、質問は何だっけ?ああ、春江が“人”かどうかだっけ」

 

 さあね。繁定は首を横に振った。

 

「形態的には()()()()()ヒトと言えるだろう。だが“織山春江”と言う人間はこの世界には存在しない。戸籍上にも、他の誰の記憶にもね」

 

 繁定は再び春江の額に手を当てた。

 

「春江は――言うなれば“フランケンシュタインの怪物”ですよ」

 

 露伴はそっと春江にヘブンズドアーを発動させた。

 

<死死死死死...>

 

 やはり食後のあれは見間違いなどではなかった。春江は既に死んでいる。

 

「作ったのか...人間を」

 

 繁定は露伴を見上げた。

 

「『長谷雄草紙(はせおぞうし)』をご存じですか?平安時代の貴族、紀長谷雄(きのはせお)の物語を描いた絵巻物です」

 

「知らないな。何の話だ」

 

「その中に“鬼が死体から絶世の美女を作る”というエピソードがあるんです。日本版『フランケンシュタイン』――いや、編年を考えれば『フランケンシュタイン』が海外版『長谷雄草紙』か」

 

 どっちでもいいな。繁定は背後の瓶のひとつ、眼球が入った瓶を手に取った。

 

「私の場合は“死体”からではなかったけどね。鮮度が良いぶん、こっちの方がより“生きてる”」

 

「それで外科医か――」

 

「察しが良いね。正確には逆の順序だが――それでも“パーツ”集めには骨を折りましたよ。派手にやるわけにもいかない」

 

 繁定は持っていた瓶を春江の隣に置いた。

 

「これはストックですけどね。ここまで揃えるのには時間がかかった。ただ美しいパーツを集めるだけでは駄目なんですよ。分かりますか?」

 

「分かりたくもないね」

 

 吐き捨てるように露伴は答えた。

 

「美しいパーツを集めて組み合わせるだけじゃ、歪なものしか出来上がらないんです。黄金比ってあるでしょう?この世で最も調和の取れた形。それが生まれるように組み合わせないといけない。嵌めてみるまでピースの形が分からないパズル。途方もない作業です」

 

 繁定は恍惚の表情で春江を見詰めた。

 

「本当に素晴しい完成度です。紀長谷雄に送られた絶世の美女でさえ、春江の足下にも及ばないでしょう。モナ・リザをも凌駕する“美”の造形が、ダビデ像をも凌駕する“美”の体現が、私の手中にあるのです。地球の全史を探しても()()()に勝る“美”は存在しないでしょう」

 

「狂ってる――」

 

「狂っている?まさか。“美”とは世界の根源であり頂点です。宇宙構造、DNAの二重螺旋、雪の結晶、花...世界は黄金比に基づく“美”によって構成されている。そして我々人類はその“美”の創造に挑戦し続けてきた。モナ・リザ、ダビデ像、ミロのヴィーナス、ピラミッドetc. 私が追い求めたのもその“美”だ。何が悪い。どこが狂っている。先人に倣ったまでです」

 

 露伴は閉口した。よもやまともな対話が期待できる相手ではない。

 

「言ったじゃあありませんか。美しい妻を娶りたいというのは男の(さが)だ」

 

「君のその考えはどこまでも醜いがな」

 

 もういい。露伴は踵を返した。

 

「君とは意見が合わない。悪いが帰らせてもらう」

 

「おっと。勘違いしないで下さいよ。その足で警察に行かれたら困る。貴方を帰すつもりはありません」

 

「これでも僕は名が知れていてね。行方不明ともなればちょっとした騒ぎになるぜ」

 

「ひとまず殺しはしませんよ。貴方は強盗に襲われて私の病院に運ばれるんです。その後は精神的に不安定にでもなってもらいましょう。そっちの方に懇意の医師が居ましてね。一人くらい施設に入れるのは造作もない。いいと思いませんか?」

 

「僕が抵抗しないとでも?」

 

 プツン、と何かがキレた音がした。繁定が露伴に飛び付き、その耳を引っ張って叫んだ。

 

「何度も何度もいわせんじゃねえぞッッ!俺の質問に答えろ!テメェの質問はその次だ!!物わかりの悪い頭だな!バカにゃつける薬もねえんだよォォォォォッッッ!!!」

 

「ヘブンズドアーッ!!」

 

 繁定は糸が切れたかのように急激に力を失って倒れ込んだ。力任せに引っ張られた左耳をさすりながら、露伴は繁定の上に跨がった。

 

「君の方が精神科医に診てもらった方がいいんじゃないのか。情緒不安定にも程度があるぜ」

 

 ぼやきながら繁定の記憶のページを探った。

 

<17歳 高校の進路選択で何となく医学部を目指す。昔から大して勉強せずとも点が取れた。日本で一番の大学に入っておけばステータスになるだろう。

 18歳 難なく合格。日本一もたかが知れているらしい。知人友人からはべた褒めされて気分が良い。大して勉強していないと伝えるとみんな仰天する。優越感に浸れて至上の心地がした>

 

 逆の順序とはそういうことか。究極の“美”を求めることが医者になった動機ではないらしい。この頃から身の回りの全てを自身のステータスを飾る一部と捉え、それをひけらかす性格は変わっていないようではある。邪悪さの片鱗もない。露伴は続きを読み進めた。

 

<27歳 患者の女にプロポーズされた。これまで何人もの女と交際してきたが、それらに比べてこの女の容姿は平凡だ。そろそろ落ち着くことも考えるが断る。恥ずかしくてこの女とは並んで歩けない

 28歳 何度も通う女に折れる。条件付きでプロポーズを承諾。交際開始と同時に改造を開始する>

 

 医者として順調にやってきたようであったが、不穏な空気が流れだした。“改造”というおよそ人間に対してポジティブな場面で使われることのない単語に露伴は肌を震わせた。28歳の記述はもうしばらく続いた。

 

<   顔立ちを整えるために何度か手術を受けさせる。隣に立たせても恥ずかしくない美人にはなったが、どうも気に入らない。やはり他人の手に弄らせるのはよくないらしい。

 29歳 整形の勉強を開始。同時に郊外で売りに出されていた豪邸を購入、リフォーム。夢の書斎を持ち、書籍等の収集も開始。知識と道具を揃え、女の顔を仕上げる。

 

――30歳>

 

 露伴がページを捲ると、文字が酷く荒れた様子へと変貌した。繁定の中で何かが変わったのだ。

 

<30歳 度重なる整形に女の顔が耐えきれなくなる。まだだ。私の理想とはほど遠い。女が私を恨み始めたようだ。身も心も醜くなってしまった。

 31歳 患者の一人に勧められ、岸辺露伴 作『ピンクダークの少年』を購読。作中に登場した“黄金比”に衝撃が走る。これだ。私が求めていた“美”のあるべき姿を知る>

 

「なんだって?」

 

 この男に黄金比という“美”を教えたのは、他の誰でもなく露伴の作品だったというのだ。文字の荒れ具合は変わらない。

 

<   再び女の整形を試みる。今度は黄金比を意識して。しかし失敗。女が私を拒絶し始める。そんな折、『長谷雄草紙』と出会う。――死体から美女を作る。最後の1ピースが嵌まった!>

 

 徐々に狂い始めた繁定の軌跡が克明に記されていた。生きた人間では限界のある、究極に美しい骨格の造形。死体であればその創造も可能だと気付いた繁定は、ついに禁忌に手を出した。

 

<32歳 死体の入手は困難であるが、患者の肉体からであれば比較的容易に“パーツ”を手に入れられる。患者の体に美しい“パーツ”を見付けるたびに、偽の診断を下しパーツを入手した>

 

 繁定はそうして患者の体から完璧な“パーツ”を集めることに躍起になった。

 

<33歳 身も心も壊れた元妻を施設に放り込み離婚。思うように“パーツ”が集まらず焦る。脳や心臓は摘出のリスクが高いが、なんとしてでも手に入れる>

 

 しばらくの間“パーツ”集めに奔走する繁定の記憶が記された。そして昨年、8年の歳月をかけて“春江”が完成する。その間繁定が死に至らしめた人数は8人。そのほとんどは病気や怪我が死因というように改竄されていた。

 

「こいつが何をしようと僕には関係がない。僕に危害を加えたわけじゃないんだ。その罪を裁く権利も義務もない。だが」

 

 露伴は胸ポケットのペンを取り出した。

 

「僕も人の子だ。自己の利益のために、己の欲望のために人の命を手に掛けるような“悪”を放っておけるほど、僕は人の心を捨ててる訳じゃあないんだ」

 

 ()()()()なんて芸当がそう簡単にできるはずもなく、その手段も不明だ。だがヘブンズドアーに嘘はつけない。繁定が患者をだまして健康な部位を切り離し“春江”という人造人間を作ったという記憶は事実なのだ。そして春江の記憶が“死”の文字で埋め尽くされていたのも事実。春江は間違いなく死した人間だ。

 

 繁定は疑いようもない悪人だ。そして。

 

「この男は“美”を、自身を着飾るステータスとして考えている。こいつにあるのはあくまで自分をよりよく見せたいという欲望。それが気に入らないね!」

 

 この男はものの価値を知っている。知っている上でそれを利用する姿勢が露伴の癪に障った。

 

<自分の姿が醜く見える>

 

 露伴は新しくそう書き込んだ。

 

「君の持つその過剰な“美意識”に、君自身が追い詰められるといい」

 

 どれだけ身の回りを美しい、価値あるもので固めても、それに囲われた自分はいつまでも醜く見える。今後彼はどうするのだろうか。露伴の当てつけだった。

 

「しかしまあ、僕の作品がきっかけなのはビビったよ。健全な青少年のためのマンガだというのに」

 

 露伴は立ち上がると今度は春江に向き合った。

 

<あるべき場所へ還る>

 

 善意ではない。春江に抱く自身の感情や、繁定が彼女を妻帯することにムカついたからだった。春江の体はぽろぽろと崩れだした。

 

「そういう事例があるって事は知れたが――対策のしようがないぜ」

 

 どんな表現も結局、読者の解釈に委ねるしかないのだ。些細な演出が繁定のような狂った人間を生み出す可能性など、いちいち考慮していられるわけがない。手を離れた作品に対して作者はどうしようもなく無力だ。

 

 露伴は二人に背を向けた。

 

「ところで」

 

 荷物を纏めて部屋を出た露伴はふと立ち止まった。深夜3時。辺りには何もない。

 

「来てくれるのかな。タクシーは」

 

 歩いて帰るのには無理があった。途方に暮れて、露伴は空を見上げた。

 

「綺麗だな」

 

 ほどよく澄んだ空気と、街灯のない空間が星を際立たせていた。杜王町でもなかなか見ることの叶わない星空だ。

 

「景色が綺麗、って言ってたな。その感性だけは褒めてやるよ」

 

 露伴はタクシーを呼ぶことも忘れて、しばらく夜空に魅了された。




 1年以上前から書いてはボツ、書いてはボツを繰り返したアイデアが、ようやく形になりました。感無量です。
 お久しぶりです。2020年内に投稿しようと粘ったのですがどうも間に合いませんでした。どうも怠けた1年になってしまったので、2021年は頑張って5回以上の更新を目指したい所存。
 けれども別の作品のアイデアが良い感じに固まり出したりと、前途多難になりそうな予感。今年もこの怠惰遅筆マンにどうぞお付き合いください。


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another:17 《極楽温泉》

 眠気覚ましのコーヒーを啜りながら、露伴は朝刊に目を通していた。一面は、もっぱら世界を席巻させている新型肺炎の話題でもちきりだ。もとよりインドアでリモートワークが主な露伴の仕事ではあったが、そんな彼の生活にも大自粛の影響は波及していた。外食や買い物をするときまで感染対策を徹底しなければならないのがとにかく面倒だし、何よりマスクのせいで人々の()()()表情を観察できないことが痛手だった。露伴の創作のスタイルからして、リアルな街の息遣いが感じられないことは死活問題にすら発展しかねない。マスクという、化粧以上に真実を覆い隠すツールの存在は邪魔でならなかった。

 

 おもむろにテレビの電源を入れ、ニュースを流したまま新聞を読む。そうしていると、玄関のチャイムが鳴った。来客の予定はなかったはずだ。露伴は新聞を手にしたまま窓際に立つと、玄関先の様子を覗いた。まだ陽が昇りきってからしばらくも経っていない。宗教勧誘や押し売りなら居留守を使おうなどと考えながら覗いてみれば、立っていたのはセールスマンらよりも都合の悪い相手だった。客人が再度呼び鈴を鳴らす。露伴は無視を決め込んだ。部屋の中へ戻り、再び新聞に目を通す。程なくして、今度は携帯が鳴った。玄関先の客人からの着信だ。露伴は束の間の思案の後、携帯を手に取った。

 

「おはよう露伴先生。起きたかい」

 

「寝ていると思った上で電話をかけてきたのなら君は大した奴だよ。褒めてやるから今すぐUターンして家に帰るんだな」

 

「やっぱり家にいるんだな。とりあえず入れてくれないか。寒いんだ」

 

 押しかけてきておいて自分勝手な奴だ。露伴は舌打ちをしつつも玄関へ向かった。通話を切断して扉を開けると、携帯を片手に立つ天地世命を中へ迎え入れた。

 

「それで?」

 

 勝手知ったる様子で客間のソファに座り込んだ天地を露伴は睨み付けた。

 

「久しぶりだな先生。元気してたか?」

 

「いつも言ってるが、僕は君と違って忙しいんだ。雑談するためだけに来たのなら帰ってくれ。迷惑だ」

 

「おいおい、一年近く会ってないんだぜ。少しくらい相手してくれたっていいじゃないか」

 

「できれば二度と会いたくなかったね」

 

 露伴は突っぱねた。

 

「変わらないな。まあいいさ。俺はさ、ウンザリしてるんだ。分かるだろ先生」

 

「なあ人の話聞いてたか?暇じゃないんだ僕は。君が回りくどい表現が好きな人種なのは知ってるが、要点だけ簡潔に話さないか。それができないなら帰ってくれ」

 

 露伴は苛立った口調で天地を催促した。そもそも何の連絡もなく朝方に訪れてくる時点で非常識極まりない。たまたま知り合いだったから家に上げたまでで、わざわざこの時分に無駄に接触する利点は露伴の方にはひとつもないのだ。

 

「例の新型肺炎のせいでこの一年ろくに外出できちゃいない。取材はおろか、近所を散歩するだけでも白い目で見られる。家の中に籠もりっきりでクリエイティブな活動が捗るかよ」

 

「それには同意するがね。それと僕に何の関係があるんだ。愚痴なら僕以外の奴に言ってくれ」

 

「先生も嫌気が差してる頃合いだろ?それでちと相談に来た」

 

 天地は足を組み直した。

 

「息抜きに日帰り旅行に行かないか」

 

「断る。僕は健全な青少年の読む雑誌の漫画家だぞ。世間様が我慢している中で僕だけが抜け駆けするなんてことは許されない」

 

「面白い秘湯を見付けたんだ。野外だし人も来ない。問題ないだろ?」

 

「大ありだね。家族ならまだしも、君は赤の他人だ。世間が騒がないわけがない」

 

 困ったな。天地は頭を掻いた。

 

「いつからそんなつまらない人間になったんだ?」

 

「漫画家だって人気商売だ。作者と作品を切り離してはくれないんだよ。特に今の時代はな」

 

「て言ったって秘湯だぞ?地元の人間でさえ少数しか認知してない。取材って体にしておけば多少は許してくれるだろ」

 

 露伴は溜息を吐いた。

 

「そんな単純な問題じゃないのさ。第一、高いリスクを背負ってまで強行するメリットがないだろ」

 

「ところがあるんだな」

 

 天地が不敵な笑みを浮かべる。

 

「通称“極楽温泉”。○○県の山中にある秘湯だ。天にも昇るような心地よさに、神様や死者までもが訪れるっていう噂だ」

 

「くだらないね」

 

「と思うだろ?極楽温泉には面白い()()()があるんだ」

 

「ルール?」

 

 天地は再び足を組み替えると、一本指を立てた。

 

「“他の来訪者に声をかけてはならない”」

 

 露伴は一笑に付した。

 

「ルールと言うよりマナーだな。おおかた、入浴中に気分を害さないように、とかだろう」

 

「それが違うのさ。どうやら“本物”が出るらしいのさ」

 

「何の本物さ」

 

「神様や死者だよ」

 

「君のその手の話題は信用できない。前科があるからな」

 

「冗談キツいぜ先生」

 

「この目が冗談を言ってる目に見えるのかい。君は人生楽しそうだな」

 

 天地は肩をすくめた。

 

「“声をかけてはいけない”ルールだってそのためにあるんだぜ。この世の者でない存在に話しかけると、向こうの世界に連れて行かれるんだ。実際、何人も行方不明になっているような土地らしい」

 

「おいおい。そんな危険な場所に誘おうってのかい。冗談がキツいのは君の方じゃあないか」

 

 露伴は部屋の扉を開けた。

 

「帰るんだな。君の戯れ言には付き合ってられない」

 

「待ってくれよ露伴先生」

 

 天地は慌てた。

 

「地理的に危ない場所ってわけじゃあないんだ。ルールさえ守っていれば何も問題はない」

 

「どうして言い切れる」

 

 露伴は天地を信用していない。過去に嵌められたような経験があることもそうだが、それ以上に話すこと全てがきな臭い。その打ち明けた性格や風貌も含め、ネズミ講の勧誘だとか悪徳商売人のような、詐欺師の匂いがしてならない。

 

「番台さんからそう聞いた」

 

「番台?秘湯じゃないのか」

 

「どちらかというと“見張り人”だな。訪れた人が向こうの世界に連れて行かれないように監視する」

 

「で?その人とはどこで会ったんだ。その人だって十分に怪しいぜ」

 

「一回行ったときに会ってるよ」

 

「行ったことがあるのか?」

 

 露伴は顔をしかめた。

 

「そういう情報は先に出せよ。だから君は信用ならないんだ」

 

「悪かったよ。気を付ける。で、行くのか行かないのか。本物の神様や幽霊を拝めるチャンスなんてそうないぜ」

 

「生憎どっちも会ったことがあってね。間違っても君とは行かない。言っただろう。情勢が情勢だ」

 

「分かったよ」

 

 大きく肩を落とす天地。露伴は部屋のドアを開けると彼を玄関へと促した。

 

「気が変わったら連絡してくれ」

 

 天地が玄関先で振り返る。

 

「後でその秘湯の住所を送ってくれ。だが勘違いするなよ。決して君とは行かない」

 

 天地が家の外へ出ると、露伴は勢いよく扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

  *

 

 

 

 ○○県××市の西部に位置する山脈郡。その麓にある集落にほど近い蕎麦畑の外れを露伴は訪れた。天地から教えられた情報を頼りに目的の社を探し当てる。

 赤鳥居の用意されたその小さな社は、早秋の朱い大自然に不自然ほど溶け込んでいた。一辺は三メートル程度。境内と呼ぶにはあまりにもお粗末な石畳を通り抜けて裏手へ回ると、山中に向けて細い山道が一本伸びていた。天地の言っていたものと一致する。舗装は一切なされておらず、とても人が歩くことを想定したとは思えない。獣道と言った方が妥当にも見えるそんな道に、露伴は迷いなく足を踏み入れた。

 

 まだ秋の早い時期だというのに、山に入った露伴を冷気が包んだ。露伴は襟を立てると小さく肩を震わせた。山の冬はもうそこまで来ているようだ。

 山中は静かだった。露伴の足音の他には、木々の擦れ合う音や川のせせらぎが僅かに聞こえるばかりだ。露伴はどこか、自分の心が洗われていくような感覚を覚えた。

 

 二十分も歩いただろうか。硫黄の刺激が露伴の鼻孔をついた。それと同時に、視界いっぱいに白い靄のようなものが立ちこめた。目的地は近そうだ。心なしか、露伴の歩幅が大きくなった。

 道の先に突然、真っ白な空間が現れた。温かな、湿った空気が露伴の肌を撫でる。ここが目的地であることを露伴は理解した。膨大な量の湯煙で全容は見えなかったが、そこには確かに温泉があった。

 

「“極楽温泉”へようこそ」

 

 煙の中からしゃがれた声と共に老人が現れた。露伴の腰丈にも及ばない、小さな老人だ。

 

「貴方が番台?」

 

「左様でございます。当温泉には入浴に際して注意事項がございます。ここに訪れる全てのお客様にお楽しみいただけますよう、注意事項をお守り戴けるお客様にのみ入浴を許可しております」

 

「話しかけてはいけない、ってやつかい」

 

「前にもいらしたことが?」

 

 番台は怪訝な表情で露伴を覗いた。

 

「いいや。知人から聞いた」

 

「左様ですか」

 

 欲場から少し離れた岩場を見付けた露伴は、そこに荷を下ろした。

 

「何かご用がございましたらお申し付け下さい」

 

 番台は言い残して煙の中へと消えていった。

 

 服を脱ぎ、タオルを手にしたところで別の足音がした。

 

「早かったな。先生」

 

 天地の到着だった。

 

()()だな。天地世命」

 

「ああ、そうだったな」

 

 天地は苦笑して

 

「今から入るのか」

 

「見ての通りだよ」

 

 露伴の格好に天地は頷いた。

 

「お客様」

 

 再びどこからともなく番台が現れる。天地が仰天した。

 

「他のお客様へ声を掛けることはお控え下さい。注意事項をお忘れなきよう」

 

「それは知ってるが、知り合い同士でも駄目か?」

 

「万が一ということがございます」

 

「妙に含みを持たせた言い方だな。何が言いたい」

 

「おい先生、落ち着けよ」

 

 挑戦的に打って出る露伴を天地が諫めた。

 

「お二方に特に異常が見られませんので今回は不問と致しますが、以降は気を付けるように。くれぐれも双方と私以外の者に声を掛けないよう」

 

 番台が引く。露伴は鼻を鳴らすと温泉へ向かった。爪先をそっと湯面に触れさせる。適温だ。それを確認すると、露伴は一気に肩まで浸かった。大きく息を吐く。

 

 芯から体を温めてくれる水温。全身に絡みつくような、若干の粘性を含んだ湯質。鼻をつく硫黄臭の奥に微かに感じ取れる甘い香り。それらが一同に合わさって露伴の精神を落ち着かせた。それは形容するとするならば“羊水”だった。何故記憶にあるはずもない感触を思い出したのか、露伴自身も分からない。

 

 なるほど、これが“極楽温泉”。露伴の全身から力が抜けた。心が落ち着く。いつになく穏やかな気持ちだった。

 

「どうだい、湯加減は」

 

 くつろぐ露伴に天地が尋ねる。

 

「正直驚いている。これほどまでに心地良いとは思わなかった」

 

 天地は露伴の隣に腰掛けると、両手で湯を掬って顔にかけた。

 

「来て良かっただろ。籠もりっぱなしでなまった体もほどいてくれる」

 

 湯の中の成分が体中に染み込んでくるようだ。天地も露伴と同じように大きく息を吐いた。

 

 二人はしばらく無言で至福の時を過ごした。

 

 最初にその第三者の気配に気付いたのは露伴だった。視界の全面を覆う膨大な煙の向こう、二人から二メートルほど離れた場所に、突如としてその影は現れた。

 

「なあ、アレ」

 

 露伴は声を細めると、顎使いで天地に示した。

 

「人か?」

 

「いつから居た。全く気付かなかったぞ」

 

 この距離感であれば、影の正体が起こした波紋も二人まで届くはずだ。二人ともそれに気付かなかったなんてことがあるだろうか。

 

「悪いな。ずっと目を瞑ってたから分からない」

 

 天地が首を横に振る。露伴は何やら考え込む様子を見せた。それに気付いた天地は慌てた。

 

「まてまて!早まるな。ルールを忘れたのか?」

 

「それについて考えてるのさ。なあ天地世命。君は幽霊や神の存在を信じるか?」

 

「半分信じてるし、半分信じてない。だがそれとこれとは別だ。考えてもみてくれ先生。仮にアレが人だったとして、こんなに素晴しい空間で癒やされているのを邪魔されるのは不快だろう」

 

「声を荒げて言われても説得力がないぞ」

 

 露伴が立ち上がる。天地は更に慌てた。

 

「だが“声を掛けてはならない”だろ?声を掛けずに正体を見破る方法もある」

 

 追うように腰を上げた天地を制すると、露伴はその影に近付いた。立ち上がって初めて分かったことだったが、影の背丈はかなり低かった。小学生か。いや、それよりも一回りは小さい。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 距離にして一メートル。露伴はそれを発動させた。

 

「目視で確認するつもりか?先生!マナー的にそれはもっとマズいって!」

 

 天地は露伴の側へ駆け寄った。露伴は影の記憶を読もうと、天地に構わずめくれたページを掴んだ。

 

「ん?」

 

 不思議な感触があった。毛だ。

 

「おい!露伴先生!」

 

 天地が露伴の肩に手をかける。だが露伴は笑っていた。

 

「フフフ ハハハハハハ!」

 

 笑いながら天地を手招く。

 

「なあ、君も見てみろよ。傑作だぜ」

 

 露伴に促され、天地は恐る恐る小柄なそれに触れた。

 

「なッ!」

 

 驚きのあまり口を開く。指の腹を包んでくる体毛、のぼせてるのかと見紛うほどに真っ赤な顔。

 

「サルだよ。よく動物園で見かける顔だからニホンザルかな」

 

 ヘブンズドアーが解除される。サルはパッチリ目を開けると、一目散に山の中へと逃げていった。天地は呆気に取られたままその様を見送った。

 

「幽霊でも神でもない、まして人間でもない野生のサルだよ。あんなものにビビらされてたってわけだ」

 

 つられて天地も笑った。

 

「やられたよ。まさかサルだとは思わなかった。そうかそうか」

 

 二人は元いた場所に戻った。天地はしばらく笑っていた。

 

 他愛もない会話を交えながら十分も浸かっていると、天地が湯から上がった。

 

「少しのぼせた。ちょっと体を冷やしてくるよ」

 

 露伴が生返事を返すと、天地はさっさと浴場から離れた。一人残された露伴は静かに楽しむことにした。目を閉じ、大自然の中に身を委ねる。しばらくそうしていると先程まで聞こえなかった音が耳に届くようになった。鳥のせせらぎ、秋風の吹く音。遠くで何かが蠢く気配もある。さっきのサルだろうか。それらを全身に浴びているうち、露伴はつい微睡んだ。

 

 隣に人の気配がした。

 

「うっかり寝ていたようだ」

 

 どれくらい経った?露伴は目を開けると隣に座った天地と思しき人影に尋ねた。しかし返事がない。

 

「君はもう大丈夫なのか?」

 

「……」

 

 やはり返答はない。露伴はハッとした。天地だと思い込んでいたその気配は、天地ではないのかもしれない。

 

“決して声を掛けてはならない”

 

 そのルールを破るつもりはなかった。神とも幽霊とも遭遇したことのある露伴にとって、それは明確な引き際だ。自ら積極的に踏み込むにはリスクの大きい領域。しかし、仮にこの気配が天地のものでなかったとしたら、とうに手遅れだ。露伴は意を決すると隣の人物に目をやった。

 

「君は……バカな――ッ!!」

 

 茶色がかった、肩までかからない髪。毛先は重力に逆らって上に跳ねていて、掻き上げられた前髪はベージュのカチューシャで留められている。()()を露伴は知っていた。そこに居たのはあり得ない人物だった。

 

「杉本鈴美!!なぜここにッ!!」

 

 笑顔とも真顔ともつかない表情で、彼女は露伴の横に佇んでいた。

 ここは神や死者も訪れる温泉。天地のその話が本当だとするなら、十五年以上も前に死んだはずの彼女が現れたことも不可解ではない。だが、それでも事態を飲み込めきれない程度に露伴は衝撃を受けていた。

 

 杉本鈴美が首を回し、露伴を見詰める。露伴の困惑した頭はなんとか状況の整理のために働いた。とにかくヘブンズドアーだ。目の前に居る彼女が偽物で、露伴に敵意を向けていないとも限らない。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 いつものように、右手を前方に伸ばして叫ぶ。そうしたつもりだった。

 

「これはッ」

 

 しかし、露伴の右腕はピクリとも動かなかった。いや、右腕だけでない。全身が金縛りに遭ったかのように動かない。

 

「マズい――正体は分からないがマズいぞ。既に攻撃を受けている!!」

 

 ヘブンズドアーも発動していなかった。異常だ。手の動作はあくまで心的なトリガーに過ぎない。今の露伴であれば仮に両手が塞がっていようとも能力を発動させることは可能なはずだった。しかし現に目の前の彼女には影響が見られない。ヘブンズドアーが取り上げられた以上、露伴は無力に等しい。頭をフルに回転させて現状からの脱出を図る。が、既に手遅れだった。

 

 杉本鈴美が微笑む。同時に露伴は意識を失った。

 

 

 

 

「おい先生!!しっかりしろ!」

 

 天地の声で露伴は目覚めた。天地と番台の二人が露伴を見下ろしている。

 

「起きたか!?」

 

「頭に響く。もう少し声量を下げられないのか」

 

「憎まれ口を叩く余裕はあるみたいだな。安心したよ」

 

 露伴は指先に力が入ることを確認すると、ゆっくりと上体を起こした。温泉から少し離れた場所に運ばれたようだ。地面には用意していたかのようにマットレスが敷かれている。

 

「危ないところだったらしいぜ。番台さん曰く“連れて行かれるところだった”てさ」

 

 露伴は左に立つ番台の顔を見た。露伴は地面に座り込んでいるというのに、それでも顔が同じ高さにある。

 

「私と連れのご友人以外には話しかけてはならない、と申したつもりでしたが」

 

「不手際だ。わざとじゃあなかった」

 

「どちらにしろ同じ事です。今回は運良くご友人によって発見されましたが、もう少し遅れていれば死んでいた」

 

「ビビったぜ。戻ってみたら気絶して沈んでるんだ」

 

「気絶する直前に故人の姿を見たが」

 

 天地のことは無視して露伴は尋ねた。

 

「死者や神様まで訪れるというのは本当だったのか?」

 

 番台は首を振ってそれを否定した。

 

「確かに“極楽温泉”は神をも虜にするほどの快楽。ですがその正体は恐ろしいものです」

 

「恐ろしい?」

 

 露伴と天地は声を揃えた。

 

「貴方が目撃したと言う故人は幽霊などではありません。幻覚です」

 

「つまり僕はのぼせて幻をみったっていうことかい」

 

「そうではありません。貴方はこの“極楽温泉”によって幻覚を()()()()()()()のです」

 

 何者かの攻撃だという露伴の判断は間違ってはいなかったようだ。しかし温泉が攻撃?

 

「“極楽温泉”は名前の通り、入浴した者に極楽を体験させてくれます。ですがそれは一種の催眠効果。長く浸かれば浸かるほど湯の成分が体内に溶け込み、効果は強力になります」

 

「それで催眠状態に陥った僕は幻覚を見た、と」

 

 番台が頷く。

 

「幻覚は“その人にとって大切な人物”であることが殆どです。時に故郷に暮らす両親。時に故人。また時に、心から信奉する神。それらの幻覚に反応することで現実との境界が曖昧になり、一層症状は進行します」

 

「そんな話を信じろと?」

 

 天地が疑いの目を番台に向けた。

 

「老いぼれの戯言と聞き流して戴いても結構。大切なのはルールを守ること」

 

「幽霊や神様なんかよりは信じれるけどね」

 

 番台は露伴に目を戻す。

 

「厳密に言えば、これらの特性は“極楽温泉”のみによるものではありません。温泉を含んだこの山の環境全てが関与しています。この山は、自然は、動物を食らって栄養を得るのです。食虫植物というものがあるでしょう。あれと似たようなものです」

 

「つまり、温泉に含まれた催眠成分によって浸かった者を弱らせて養分にしているってことか」

 

「話が早くて助かります」

 

 確かに信じがたい内容だ。杉本鈴美が露伴の幻覚だったのなら、ヘブンズドアーが効かなかったことの説明もつく。実体も魂もないものにヘブンズドアーが機能するわけがない。それよりも信用できないのは……

 

「帰るぞ」

 

 露伴は立ち上がると岩場に置いた着替えを取りに向かった。

 

「やぱり信じられないよな、こんな話」

 

「ああ。きみはやはり信用ならない」

 

「俺か?」

 

 面食らう天地に冷ややかな目で答えながら、露伴は早急に着替えを済ませた。荷物を乱暴に担ぎ、番台の横に戻る。

 

「このご老人の言っていることは本当だ。“極楽温泉及びその周辺環境は動物を温泉で溺死させて養分を得る習性がある”」

 

 露伴は番台の記憶を覗いた。番台は立ったまま気絶した。露伴がその軽い体を支える。

 

「“非常に危険な性質を持つため、地元の人間もごく一部しか温泉の存在を知らず、世間にもその存在を知られないよう徹底しているが、それにも関わらずこの秘湯を求めて入山する者が稀に居る”」

 

 そんな者達の安全を守るために番台は存在する。そう書かれてあった。

 

「で、君はどこからこの秘湯の存在を聞きつけたんだ?」

 

「誤解だぜ先生。俺だって又聞きだ」

 

「その割には住所を知ってたりと細かい情報を持っていたな。大本は一体どこなんだ?」

 

「勘弁してくれよ」

 

 天地は呆れた様子で溜息を吐いた。

 

「この手の情報の出所は言えない。そういうもんだろ。こういうものを活用して飯食ってるんだよ俺は。それに俺から言わせれば露伴先生、あんたも大概だ」

 

「本当にそうかな。君は一度ここに来たことがあると言っていたな。だがこの番台さんは君のことを知らないぞ」

 

「忘れたんだろう。何年も前だ」

 

「この秘湯を訪れるのは平均して年間に三,四人だ。この老人は全ての来訪者の特徴を覚えている。数十年前の客のこともな。どうして君に関する記憶だけ抜け落ちる?」

 

 天地は言葉を詰まらせた。

 

「それから君、()()()るな?僕の右肩がそんなに気になるかい」

 

 天地が咄嗟にその()()()()()ものから目を逸らしたことを、露伴は見逃さなかった。

 

「君が一度来たことがあろうがなかろうが、それはどうでもいい。どちらにしろ、君が何かを企ててることに変わりはないんだからな」

 

 来たことが嘘なら、情報の出元がやはり怪しい。本当だとしたのなら、彼が番台に何らかの細工をした可能性がある。思い返すと天地の言動はどうも怪しく見えてくるのだ。あのタイミングで席を外したのも偶然なのか?天地は“のぼせた”と言っていたが、彼には幻覚が見えていなかったのだろうか。

 

「一度なら気のせいで片付けたかもしれないが、これで二度目だ」

 

 露伴は番台の体をマットレスに寝かせると、天地に歩み寄った。

 

「お前一体――何者だ?」

 

 目的が見えなかった。単純な殺意というわけではなさそうだ。殺したいのなら、溺れているところを助ける必要はない。

 

 天地はしかし、露伴が近付いた分だけ距離を取るように後退した。

 

「好奇心旺盛なのは知っているが先生、世の中には知らなくていいものや、知ってはならないものがあるってことを覚えておいた方が良い」

 

 天地はそのまま、湯煙の充満する中へと進んだ。

 

「待てッ!ヘブンズドアーッ!」

 

 露伴は煙の中の天地へ飛びかかった。が、手応えを感じない。辺りを見渡すも、気配すらなくなっていた。

 

「天地世命――次は逃がさない」

 

 今度町中で見かけたら、出会い頭にヘブンズドアーを叩き込む。そう心に決めた。

 

 

 少し細工をしてから番台を解放した露伴は、そのまま帰路についた。

 

「いい湯だった」

 

 天地のことは気になったが、温泉のことを思い返せばそれすらどうでも良くなってしまいそうだった。体に染み込んだ“極楽温泉”の成分はまだ抜け落ちていないようだ。神や死者をも魅了してしまいそうなその快楽の正体は、栄養分を捕食するための“罠”。山が生きている、などはまるで御伽話のようだ。

 

 社まで降り戻った露伴は振り返って山を眺めた。標高千五百メートル級、山として大きいわけではない。だがそれでも、地球上のどの有機生物でも太刀打ちできないほどの大きなエネルギーがある。

 

「自然を敵にするのはご免だね」

 

 露伴は踵を返す。どうにも消化しきれない、複雑な心持ちのまま山を後にした。




 天地世命のキャラが迷子になりました。ストーリー性を持たせたいわけじゃないのでどう回収しようか困り果てています。またしばらく登場させません。


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another:18 《むかさり》

 タクシーを降りた俺の身体を38℃の炎天が焼いた。クーラーのがんがん効いた車内との気温差に辟易とする。走り去るタクシーの車両音さえかき消してしまいそうな、あまりにもうるさい蝉の大合唱が、いっそう俺の気を滅入らせた。

 前方にそびえる塀の格子の隙間から、蝉が大量に潜んでいるであろう木々のその奥に佇む洋館を見上げる。戦前日本の面影を残す和洋織り交ざった近代的な二階建建築だ。

 半開きになった門を押し込み、敷地内へと足を踏み入れる。木陰は気休め程度の涼しさを与えてくれた。玄関先まで石タイルの上を歩く。普段のように、家主に何の断りもなく玄関の引き戸に手をかけた。鍵はかかっていなかった。この家の主はいつも鍵を開け放している。夜間は流石に戸締まりするらしいが、それにしても防犯上いかがなものかとは常々思う。東京都はいえ郊外の寂れた町の一角だ。塀に囲われていて見通しも悪いし、何かしらの凶悪犯罪にはもってこいな立地にも見える。

 だがどうも、この家の主はそういったアングラな出来事をむしろ心待ちにしているきらいがあった。

 

 玄関には靴が二つあった。年季の入った茶色い革靴は見慣れたこの家の主人のものだ。だがもうひとつの、白基調のGUCCIのスニーカーには見覚えがなかった。先客がいるようだ。

 

「久土さーん。いるかい」

 

 玄関先で俺は主人の名を呼んだ。少し待ってみたが返事はない。となると、いつもの自室だろう。俺は二つの高級そうな靴の横に、二年ほど前に彼女から貰ったナイキのスニーカーを並べた。どうも見劣りするが、愛着においては負ける気がしない。

 

 ……いや。張り合うだけ空しくなる。俺の年収ではかなりの無理をしなければ買えない代物だ。結局俺は羨ましいだけなのだ。

 

 正面に見える急勾配の階段を昇る。二階に到達すると右に方向転換し、その先の扉をノックする。

 

「久土さん、いるかい」

 

「入りたまえ」

 

 扉の向こうから返事が返ってくると、俺はドアを開けた。冷えた空気とキツい煙草の臭いが廊下に漏れ出した。

 畳のあちこちに、何の規則性もなく本が平積みされた八畳間の窓際に、男が二人座っていた。

 

「遅かったじゃないか」

 

 この家の主、久土悟草(くどごそう)は、書生羽織に身を包んだ、時代錯誤も甚だしい風貌で煙草の煙を吐き出した。

 

「彼が例のかい」

 

 久土さんと向かい合うその男には見覚えがあった。いや、見覚えどころの話じゃあない。俺はあんぐりと口を開けて廊下に立ち呆けるしかなかった。

 

 ギザギザに尖った、やけにデカいヘアーバンド。真っ白で、上下の繋ぎ目が不明瞭な謎の服。古風な久土さんとは対称の、奇抜で前衛的な格好の、一度見れば忘れないであろうその男。

 

「早く入りたまえ。折角の涼しい空気が逃げるじゃないか」

 

 久土さんに急かされ、慌てて部屋に入る。扉が閉まってから再び俺は立ち尽くす。久土さんが煙草を深く吸う。その間しばらく、室内は静寂に包まれた。

 

「彼が俵屋宗次だよ」

 

 久土さんがそう俺を紹介する。もう一人の客人ーー岸辺露伴は、俺の全身を舐めるように眺めた。

 

「君のファンらしい」

 

 俺は生唾を飲み込んだ。彼の作品に出会って15年。当時思春期だった俺は、彼の「ピンクダークの少年」に多分に影響を受けて成長した。彼の作品から受けた“リアリティ”という信念は、夢の俳優になった今でも最も大事にしているものだ。本人を前に自称するのは気が引けるが、俺は彼の生粋のファンである。頬をつねりたくなる衝動に駆られながら、俺はぎこちない会釈をした。

 

「座りなよ。座布団はーーまあそのへんにあるだろう」

 

 久土さんはへラっと笑いながら煙草で床を指した。雑多に積み上げられた本のタワーの奥から座布団を引っ張り出し二人の前に座る。また沈黙が訪れた。予想外の客人に興奮が収まらない。室内は冷房が効いて寒いくらいだというのに、俺の背中にはうっすら汗が滲んだ。どうすればいいんだ。久土さんに視線で訴えかけるが、彼は俺のサインには気付かない様子だった。いや、わざと楽しんでいるのかもしれない。彼ならそれもありえる。

 

 久土悟草ーー俺の敬愛する岸辺露伴と同じ漫画家である。同じと言っても、出版元も作風も二人は全く異なっている。岸辺露伴が少年誌で異能力バトル物を描いているのに対し、久土悟草の作品はどちらかといえば大人向けな内容だった。岸辺露伴の人気は言わずもがなであるが、久土悟草は“知る人ぞ知る”天才、というような評価らしい。俺自身、彼のことを知ったのは彼の作品の実写ドラマに出演することになってからだった。そっちの業界に詳しい知人曰く“業界では一目置かれた存在”であり、繊細で、それでいて印象派を思わせるようなタッチの絵や、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る言葉選びから“漫画界の川端康成”と呼ばれているらしかった。

 

「さっき岸辺君とも話していたんだがね、クーラーってのは実に便利だね」

 

 煙草を吸い終えた久土さんが口を開く。

 

「これなしの生活にはもう戻れないよ」

 

 この家には昨年までクーラーがなかった。昔の人間はこれで生きてきたんだ、と彼は扇風機1台で夏を乗り越えていたのだ。しかし昨年の晩夏に熱中症で倒れ、編集者に説得されて今年からクーラーを導入したという。

 

「君が一方的に喋っていただけだろ。僕は同意した覚えはないぜ」

 

「おや、君はクーラー否定派かい。たしかに地球温暖化には良くないとか言われるが、体調を崩すよりはマシだよ」

 

「おいおい、それは去年の君に言ってやれよ。体調管理は社会人の基本だ。それでなくとも、勝手なプライドで体調崩すようなヤツは一流の漫画家とは言えないぜ」

 

 久土さんはおどけてみせた。宗次はどうなんだい、と俺に矛先を変える。

 

「体調管理は大事だよ」

 

「んだい。君も僕を叱るのかい」

 

 久土さんはふてくされた表情で、床の上に無造作に放り投げられたシガーケースに手を伸ばした。今時、相当な愛煙家でもないと見るのも珍しいアイテムだ。

 

「俵屋宗次です」

 

 俺は岸辺露伴と向き合った。彼はじっと俺の目を見据えた。15年待ち侘びた邂逅だった。いつぞやの正月特集号で見た写真よりも、実物は少しだけ大人びて見えた。そして誌面からは感じることのできない“オーラ”があった。彼の好奇に溢れた眼に、俺のすべてを見透かされているように感じた。

 彼が俺をじっと眺めているあいだ、俺は指の先ほども動かすことができなかった。デッサンのモデルを演じているわけでもないのに何故だ。彼が次に口を開くまでのほんの3,4秒は驚くほど長く感じられた。

 

「最近、変なものが見えるらしいじゃないか」

 

 ドキッとした。まさか本当に心まで読まれたんじゃないだろうな。そこまで考えて、俺はその話の出所に気付く。出所の主は、煙草の煙をくゆらせながら楽しそうにこちらを見ていた。

 

「久土さん、これは一体どういうーー」

 

 “あの話”は他言無用と釘を刺したはずだ。心を許した久土さんだから打ち明けたのであって、いくら敬愛する岸辺露伴相手といえども知られたくないことはある。

 

「宗次君、彼は信用のおける相手だよ。問題解決という点に関して言えば、俺よりも彼の方が適任だ」

 

 岸辺露伴に目を戻す。彼の、何もかもを見透かしたような目はやはり俺を貫いた。

 

「久土さんから何と?」

 

「変なものが見えるらしいという、それだけだよ。君に直接話をさせたいのかしらないが、それ以上のことは何も言いやしない」

 

 最低限のプライバシーは守ったとでも言うつもりだろうか。俺は久土さんを睨み付けた。久土さんに悪びれる様子はない。

 

「それで、何が見えるんだい?この男が“面白い話がある”と言うからこっちまで出向いてきたんだ。もったいぶらすようなことは好きじゃない」

 

 岸辺露伴は久土さんを顎で指しながらそう言った。観念するほかないようだ。

 

「“花嫁”が見えるんです」

 

 岸辺露伴は面食らったようだった。それもそうだ。彼が期待していたのは、きっと幽霊や妖怪といったオカルトの類いだろう。拍子抜けもいいところだ。大別すればこれもその部類かもしれないが、それにしたって予想外の角度だろう。

 

「久土悟草、話が違うぞ。“花嫁が見える”だと?こいつただの精神疾患じゃないのか?」

 

「岸辺君、話はまだ()()()だよ。君はまだ核心を何も聞いちゃいないじゃないか」

 

 岸辺露伴は懐疑的な目を俺に向ける。そう思われても仕方ないだろう。だいいち、俺自身その可能性を疑っている。不定期に、俺の視界に突然現われる“花嫁”の姿は、俺の創り出した幻覚ではないのか?

 

「まあ聞くだけ聞いてやるよ」

 

 岸辺露伴は俺と正対するように身体を傾けた。彼の目は至って真剣である。だがそれは、目の前に居る精神錯乱者の狂言をどう説き伏せてやろうかと企てている風にしか俺には感じられなかった。漫画家岸辺露伴への尊敬と、個人としての岸辺露伴への信用はイコールではなかった。

 

「不安も不満ももっともだがね」

 

 しばらく沈黙を貫いていると、久土さんが口を開いた。

 

「僕は自分自身より、岸辺君の方が君の悩みの解決の助けになると思って彼を呼んだんだ。“花嫁”が怪異でも、君が気狂いでも、どっちにしたって岸辺君は助けになる」

 

「久土悟草はこう言ってるが、僕は助けるなんて一言も言ってない。そこは勘違いしないでくれよ。無償の善意で赤の他人を助けるほど、僕はお人好しじゃあないんだ。君の話を聞いてその気になったらアドバイスくらいはしてやるかもしれないがね」

 

 二人して勝手な事を言ってくれる。だが久土さんが“怪異”と口にしたときも、岸辺露伴は眉一つ動かさなかった。この男はそういう話に耐性があるのかもしれない。そう思うと、全て話してしまおうという気になった。精神科に通ったところで根本的な解決には繋がっていない。今更誰に話そうが同じだ。

 

 初めてそれに邂逅した、二か月ほど前のあの日まで、俺は記憶を遡らせた。

 

 

 

 

    *

 

 

 近場の飲み屋で高校時代の級友と呑んだ帰りの話だった。売れない役者の俺は、前日に入った久土さんの作品の実写ドラマの仕事に舞い上がっていた。主役級への配役ではなかったが、それでも複数話にまたがって登場するそこそこの役回りだった。当時は久土さんのことなんて知らなかったから作品に対する思い入れはなかった。それでも地上波で放映される予定だし、超売れっ子の若手が主役に抜擢されたことで話題性もあり、俺はもう有頂天になっていた。そんなわけで、学生時代から俺の夢を応援してくれていた友人と盛大に呑み交わした。

 

 夜も更けたところでお開きとなった。友人とは店の前で分かれ、駅と反対方向の自宅へと歩いた。

 店から家までは徒歩十五分程度。夜は飲み屋で賑わう表通りを外れ、住宅街の方へと向かう。件のためにすっかり調子に乗った俺はひどく酔っ払っており、足下もおぼつかなくなっていた。

 正直、当時の鮮明な記憶はほとんどない。確かに自分の足で帰宅した事は覚えているが、それもいつも歩く道を帰ってきたのだろうという予測半分で成り立った記憶だ。だが確かに、その日の俺は()()を見た。

 

 多分、自宅手前の交差点で信号を待っているときだったと思う。対面の歩行者信号の根元に、真っ白な“花嫁”がいた。

 

 柄のない純白の和装の花嫁衣装に身を包んだそいつは、両方の口角を上げて、少し俯き加減で突っ立ていた。綿帽子のかさで目元は見えなかったが俺はどうしてか「目が合った」と感じた。

 

 ()()が普通の人間でない事は一目で分かった。あまりにはっきり見えすぎたんだ。夜だっていったって街灯なんかがあるから当然だと思われるかもしれないが、そうじゃあないんだ。衣装の皺の一つ一つや、指の関節部分の皺、綿帽子の奥に覗く後ろ髪の一本一本、それらが全部鮮明に認識できるんだ。道路の幅は少なく見積もっても五メートル。その距離ではっきりと見えたんだ。それにそもそも、()()は夜の中で浮いていた。花嫁の見える感じが、街灯の明りを受けてという風ではなかったのだ。夜景の写真の上に、別の写真を載せた感じ。この空間に居るという感じではなかった。

 

 そのときの俺は酔いすぎでどうかしてたんだろう。青信号に変わっても動かないそいつの横を、「珍しい奴がいたもんだ」なんて思いながら通り過ぎた。

 

 俺は幽霊とか妖怪とか、そういう非科学的な存在は信じない人間だ。世の中の全ての出来事には科学的な原理があって、幽霊とか妖怪も近代以前の人間が非科学的な根拠をもとに存在を認識していただけだと考える。だからその花嫁も、多少の違和感はあったがすべて気のせいで片付けた。そもそも酔っ払っていた状態での記憶は信用できない。花嫁は、些細な記憶として記憶の隅へと追いやられた。

 

 それから数日後に“花嫁”は再び現われた。今度は昼間の、都内の雑踏の中。仕事場へタクシーで向かうその途中、やはり信号待ちで停車しているときだった。この間とは変わって大きな交差点だった。

 信号待ちの人混みの中に“花嫁”の姿があった。“花嫁”はやはり景色の中で浮いていた。人々の肩越しに見えるその“花嫁”と、やはり「目が合った」。俺はあの夜の、それに出会ったときの記憶だけを鮮明に思い出した。気味が悪かった。何時に帰宅したのかさえ曖昧な記憶の中でも、“花嫁”の記憶は浮いているのだ。

 俺は視線を逸らすと、運転手に頼んで冷房を切ってもらった。ただ寒かった。

 

 “花嫁”はそれから、ことあるごとに俺の視界に現われるようになった。時も場所も問わず、いつでも、どこにでも、気付けば“花嫁”が居た。

 最初にストーカーを疑った。売れないといっても一応俳優だ。一人くらい、そんなファンもいるかもしれない。気味悪がる反面で、俺はどこかそんな人間の存在を期待していた。だが、“それ”は普通の存在ではなかった。あれだけ目立つ格好をしておきながら、周囲の人間は誰も“花嫁”に反応しないのだ。それに景色の中で()()()見える事も謎だ。だから次に幻覚を疑った。俺の気が触れたのか、疲労が溜まっているのか。原因は不明だが、いずれにしろ幽霊や怪異というよりは合理的だった。

 

 “それ”の現われる頻度は日に日に増えていった。玄関先、現場、果ては夢の中まで。そのうち脳裏にあの白い花嫁衣装がこびりついて離れなくなった。

 

 初めての遭遇から一か月も経っただろうか。“花嫁”が二人同時に現われた。現場での出来事だった。撮影した映像を確認していると、画面の中に“花嫁”が二人映っていた。やはり、合成でもしたかのようにそれの存在は浮いていた。画面に現われる事も、それに誰も気付かない事も慣れていたが、二人という初めての出来事にそのときばかりは叫んだ。服の皺も、指の関節の形も全く一緒。やはり細部まで見えるそれらが同一のものだと気付いていよいよ暴れた。

 

「何なんだ!!お前ら一体何者なんだ!!!」

 

 いきなり叫んだ俺に周囲は困惑したようで、その日の俺の撮影はそこで中断した。

 

 周囲は俺が狂ったのではないかと噂した。事務所側は薬物か精神病かでイカれたと考えたに違いない。関係者に箝口令を敷いた上で俺はしばらくの休暇を貰った。翌日には半ば強制的に病院で検査を受けたが、結局原因は分からずじまいだった。

 とってつけたような休養と睡眠導入剤のみを与えられて放り出された俺の精神は限界に近かった。休んだところで、やつらは執拗に俺の視界に現われる。更にその数は日を追うごとに増加した。二人が三人に、三人が四人に。

 

 つい二週間も前のこと。町中に買い物に出かけた帰りに“花嫁”が現われた。その日は真夏日だったことも手伝って俺はイライラしていた。その上でそれに遭遇したもんだから、プッツンきてしまった。

 

「いい加減にしろ!!お前らのせいで仕事まで潰れそうだ!!何が目的なんだ!!!俺につきまとうのは止めろ!!!」

 

 怒鳴ったところで何の意味も無い事は十分理解していたが、それでも人の目も気にせずに吠えた。吠えずにはいられなかった。周りの人間はさっと俺から距離を取って、皆遠巻きに俺が暴れるのを眺めた。カメラを向けられるのはマズい。これでは事務所の大人達の苦心も水の泡だ。しかし当時の俺にそんな理性が働くはずもなかった。

 

「誰に怒ってるんだい?」

 

 そんな俺に声を掛けてきたのが久土悟草だった。大概彼もイカれている。町中で虚空に向かって叫び散らす人間が正常なはずがない。だというのに彼はコミュニケーションを図ってきたのだった。

 

 久土悟草という男は本当に不思議だった。彼に話しかけられた途端、俺の心はすっかり落ち着いた。正体不明の“花嫁”の姿は依然はっきりと見えていたが、何だか大したことじゃないように思えた。

 

「君知ってるぞ。俳優の俵屋宗次だろう」

 

「知ってるのか?珍しいな」

 

「ああ。俺のマンガの実写作品に出演するんだろう?」

 

()()()()()……もしかして貴方が作者?」

 

「久土悟草。よろしく」

 

 久土さんは楽しげな表情で俺に握手を求めた。何だか決まりが悪かった。今は休養を貰って撮影には不参加。降板の可能性だってある。

 

「ひとまずどこか落ち着ける場所に行こうか。君もここでは何かと不便だろう」

 

 俺は初めて周囲を見渡した。無数のカメラが俺と久土さんを取り巻いていた。自分の失態に気付き青ざめた。

 

「安心したまえ。スキャンダルにはならないよ」

 

 パチン

 

久土さんが指を鳴らすと,群衆は急に冷めたように散開した。催眠でもかけたみたいに、人々は完全に俺らから興味を失ったようだった。

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

「それが今から二週間くらい前の話です。久土さんに俺の悩みを打ち明け、久土さんはそれを馬鹿にすることなく親身になって聞いてくれた」

 

「尤も、根本的な“花嫁”の解決には至っていないがね」

 

 久土さんが補足を入れる。足下の灰皿には吸い殻がたまっていた。思った以上に長く話し込んでいたみたいだ。

 

「それで僕にどうしてほしいんだい。まさか“治してくれ”なんて言うわけじゃないだろうな」

 

 僕は医者でもカウンセラーでもないんだぜ。岸辺露伴は不機嫌そうに言った。

 

「俺じゃあ原因の特定がどうも難しくてね。内面的な情報収集が必要なんだ」

 

()()と?」

 

「端的に言えばそうだ」

 

「断る。僕に何のメリットがあるんだ」

 

「頼むよ岸辺君。見るだけだ。それ以上は求めない」

 

 二人の間では、俺の知らざる駆け引きが行なわれているようだった。

 

「まあ――君が頼ってきたんだ。それだけ面白くて、それだけお手上げってことなんだろ」

 

「助かるよ」

 

 どうやら岸辺露伴が協力することで話が纏まったようである。しかし俺は疑心暗鬼を捨てられずにいた。本人も言っていたが、彼は医者でもカウンセラーでもなくマンガ家だ。言っちゃあ悪いが、彼に何ができるというのだろうか。そんな俺の不安を見抜いてか、久土さんは俺に煙草を差し出した。つまるところ“落ち着け”のサインである。そういう趣向が好きなのだ。久土さんから煙草とジッポを受け取り火を点けると、大きく一吸いした。強烈なニコチンの味に頭がクラクラする。

 岸辺露伴が膝を一歩前に出した。ペンを胸元から取り出し、俺の眼前にそれを添える。

 

「何を……」

 

「ちょっとした催眠みたいなものだよ」

 

 久土さんが答えた。岸辺露伴は真剣な表情で俺の顔をジーッと眺めた。その目に動揺が走ったのを、俺は見逃さなかった。

 

「おい久土悟草。こいつは断じて精神病や疲労じゃあないぞ」

 

「何が見えた?」

 

 状況を理解できない俺を尻目に二人が言葉を交わす。

 

「“絵馬”だ。この男と“花嫁”の二人が描かれている。結婚か?」

 

「その“花嫁”が幻覚の正体か」

 

「既に八割ほどが()()()()()()()()()。待て。端に文字が書かれているぞ。“202X年6月26日 俵屋宗次、朱実 ○×神社”。この名前に覚えは?」

 

 俺は首を横に振った。聞いたこともない。だが“花嫁”の幻覚が始まったのも6月末からだ。

 

「○×神社は?」

 

「知らない。そもそも俺は未婚です」

 

「おい久土悟草」

 

「今調べてるよ」

 

 久土さんは部屋の隅に積まれた本の山を一つ崩した。無造作に置かれているように見えるが、彼は大体の場所を把握しているらしい。

 

「あった。Y県だ――もしやムカサリ絵馬か?」

 

「「むかさりえま?」」

 

 俺と岸辺露伴は同時に尋ね返した。

 

「Y県に伝わる風習だよ。詳しくは知らないが、確か未婚で亡くなった若者を供養するための絵馬だ」

 

「それが“花嫁”の正体?」

 

「分からないよ。ただ無関係ではなさそうだろ」

 

 岸辺露伴は持ち前のノートを取り出すと、何やら筆を走らせた。ものの数秒で描き上げ、そのページをちぎると俺に差し出した。紙には今し方話題に上った“絵馬”が描かれていた。

 

「○×神社に行ってこれと同じものを探すんだ。もし奉納されていれば、それが原因だろう」

 

「もし同じものがあったらどうすれば?」

 

「さあな。壊せば終わるんじゃないのか」

 

 適当なことを言う。久土さんは何故この男を信用しているのだろう。岸辺露伴の言動には突飛な宗教勧誘にも近い不信感がある。この男は何を見て絵馬を描いたんだ?俺は科学主義者だ。透視や預言のような戯言も信じない。

 

「君が僕を信用しようがしまいがどうでもいい。そんなのは勝手にすればいいんだからな。僕は頼まれたとおり、()()()だけだからな。後は好きにすればいい」

 

「宗次君、君がどう思うかは問題じゃない。だが君の身のためにも忠告しておくよ。神社には行った方がいい」

 

「神頼みは好きじゃないんですけどね」

 

 だがどうも、二人の忠告は本気のようだった。

 

「宗次君、俺らも非科学主義者ではないよ。ただ科学の及ばない物事がこの世にあることを知っているんだ」

 

「放っておいたって好転しないんだ。行きますよ」

 

 もうどうにでもなれ。俺は煙草の火を揉み消した。

 

 

 

 

 

   *

 

 

 ひどく寂れた境内だった。

 

 元はそれなりの勢力を持っていたのだろう。敷地面積はなかなかに広く、鳥居から拝殿までの参道は無駄に長く、道中には小さな社や物産販売所と思われる建物がちらほら見えた。しかし無人とあって、それらはまるで機能していなかった。周辺は雑草で荒れ、至る所に蜘蛛の巣なんかがひっついていた。神様というよりもお化けの方が棲み着いていそうだ。

 

 辛うじて拝殿は整備されているようだった。他と違って建物の色がくすんでいない。ただ正面の障子戸には小さな穴が開いていたりと、どこか杜撰だ。

 

 拝殿で参拝を済ませると、俺は周辺の散策をはじめた。参拝はオマケだ。形式に従わないのはバッドマナーだからな。

 

 拝殿の側に立つ、比較的小規模なお堂が目に入った。他にも建物は幾つかあったが、そのお堂が特別なことは一目で分かった。拝殿よりも綺麗なのだ。俺はそれに近付くと、そっと木製の引き戸を開いた。

 

 白い頭飾り。

 

 俺は咄嗟に戸を閉めた。またあの“花嫁”が?――いや。 はやる動悸を抑え、深呼吸する。

 

 アレとは違う。アレはもっと異質だ。お堂の中のそれは空間に溶け込んでいた。この世のものだ。“花嫁”はもっと違和感のある――

 

 もう一度、戸を開く。お堂の中には人間大の人形が並んでいた。造形はお粗末なもので、どれも素人が作ったようなクオリティだ。こんなものをあの“花嫁”と見間違えるとは。

 

 そうと分かれば怖くない。一気に扉を開ける。日光が入り込んで、堂内が照らされた。

 

 男女混淆の人形が八体。どれも着物や袴で着飾っている。“花嫁”“花婿”姿だ。陳腐な出来だったが、気味悪かった。全部が正面を向いているため、どうしても見られている気がしてならない。目を逸らすようにして壁面を見る。床から天井ギリギリまで、一面に絵が飾られていた。絵にはやはり“花嫁と花婿”の姿が。その配置には見覚えがあった。岸辺露伴に渡されたあの絵とそっくりだ。どうやらこれらが“ムカサリ絵馬”のようだ。絵馬と聞いて木製の小さなものを想像していたが違ったらしい。

 

 僅かに確保された堂内のスペースに侵入する。何十枚と飾られた絵馬の中から、岸辺露伴が描いたものと同じ絵柄を探した。

 

 数分間探し続け、やっとそれを見付けた。お堂の右隅、俺の背よりも少し高い、天井から20㎝ほど下がったところにその絵馬は飾られていた。邪魔な人形を押しのけ、その絵馬に手を伸ばす。

 

 “202X年6月26日 俵屋宗次、朱実 ○×神社”

 

 絵馬の隅にそう書かれていた。これで間違いない。ホッと一息つき、さてどうしたものかと絵馬に目を落とす。

 

 ()()()()()

 

 ゾクゾクと背中に悪寒が走った。浮世絵みたいな絵柄で描かれていたはずの絵馬の中の花嫁は、いつものあの“花嫁”に変貌していた。

 

 思わず絵馬を取り落とす。

  

 違う。違う違う違う。これは幻覚だ。幽霊や怪異なんてものはこの世には存在しない。この世界は法則で動いているんだ。不条理なんてものは存在しないんだ。“花嫁”も、俺の心が創り出したまやかしだ。

 

 ()()()()

 

 一つじゃない。十……いや、もっとだ。

 

 堂内の花嫁人形が、花婿人形が、絵馬の中の花嫁や花婿が、全てあの“花嫁”に変わって、少しだけ俯いて、少しだけ微笑んで、綿帽子の向こうから俺を見詰めた。

 

 本当に恐怖を感じたとき、どうやら人は叫ばないみたいだ。声をあげたつもりだったが、俺の喉からは途切れ途切れの不完全な呼気が漏れただけだった。

 

 過呼吸になりながらも、何とか足下の絵馬を拾い上げる。絵馬の中の俺の隣で“花嫁”が笑う。とにかく怖い。素性の知れないこいつが怖い。

 壊さなくては。額に入ったそれを頭上に掲げ、床に向かって振り下ろす。その腕を誰かが掴んだ。“花嫁”だ! あいつが俺の腕を掴んだんだ! 絵馬の破壊を妨害しようとしているに違いな!

 

「おい! 落ち着け! 俺だよ宗次君!」

 

 その声にハッと我に返る。“花嫁”ではない。久土さんだ。俺はおそるおそる顔を上げた。堂内はまだ“花嫁”でいっぱいだ。だが側に立つ久土さんを見ると、心が落ち着いた。

 

「落ち着いたかい」

 

「どうして久土さんが?」

 

「気になって少し調べた。“ムカサリ絵馬”っていうのはお寺に奉納されている例が多い。なのにここは神社だからな」

 

「でも――」

 

 まるで答えになっていない。久土さんは続ける。

 

「さっき住職さんに話を聞いた。神仏習合の名残で今もこの神社は絵馬を取り扱ってるらしいよ」

 

 そんなことじゃなくてだなと、久土さんは俺の手から絵馬を取り上げる。

 

「“ムカサリ絵馬”には実在する人物を伴侶として描いてはならないんだよ。これは独り身で亡くなった若者を供養するために、あの世で結婚させてやるという意を込めたものだ。だからこの絵馬に実在する人物を描くと、その人物はあの世に連れて行かれるのさ。むこうで供養された若者と一緒になるためにね」

 

 久土さんの話は今なお信じられるものではなかった。だが仮に俺が精神的にイカれてないとすれば、他に科学的な説明が付かないのは事実だ。自分がイカれてると思うか、幽霊の存在を信じるか。久土さんの話を信じざるを得ない。少なくとも、自分のことを精神病と思うよりは希望のある話だ。

 

「テレビやネットなんかの普及で有名人の顔を無断で描く奴も増えているらしくてね。そういうのは依頼の段階で断るようにしてはいるんだが、その効果を知ってか知らずか、たまに勝手に描いて勝手に奉納するような輩もいるらしい。君もその例なんじゃないかって話だったよ」

 

「そう……ですか」

 

「で、どうするか。君がこの呪いから逃れる方法は二つ。“絵馬を破壊する”か“身代わりの人形を奉納する”か。ここに並んでる人形は身代わりのものらしいよ。高くつくらしいがね。それに対して破壊するのは無料(タダ)だ。その代わり、絵馬が破壊されれば供養された魂は地獄に落ちる」

 

「久土さん、俺は――」

 

 久土さんは手で俺の言葉を制する。

 

「地獄はあるよ。まあ俺らの想像しているようなものではないだろうけどね」

 

 久土さんはどこか遠くを見た。

 

「この“花嫁”のことは許してやってはくれないか。事の原因は絵馬を奉納した遺族にある。彼女は生前、君のファンだったのだろう。あるのはひとつの尊い魂だよ」

 

 依然、俺の周りを“花嫁”が囲んでいる。だが先ほどと違って恐怖は感じなかった。彼女は報われない魂なのだ。

 

 彼女と向き合う。

 

 いい顔で笑っている。彼女はあの世で幸せを手にするのだ。それを壊す権利は俺にはない。

 

「許す許さないは閻魔様が決めてくれるでしょう。俺の決めることじゃない。人形は住職さんに頼めば?」

 

「助かるよ」

 

 久土さんもまた笑った。

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 人形の奉納を終え、憑き物が落ちた顔をした宗次を見送った悟草は、境内を出ると近所の食事処へと向かった。郷土料理を提供する、小さな個人経営の店だ。店内では扇風機が回っていた。

 

「助かったよ岸辺君。礼を言う」

 

 店内で席に着く露伴を探し当てた悟草は、その向かいに相席した。

 

「あの住職はどうしたんだい」

 

「放っておいたよ」

 

「本気かい?」

 

 悟草が目を細める。

 

「彼は“ムカサリ絵馬”の危険性を理解しててやっていたんだろう」

 

「ここの神社は穴場らしいからな。絵馬の存在も殆ど知られてない。それで良い商売になると思ったんだろう」

 

 定食をつつきながら露伴は答える。

 

「君にだって被害が及ぶ可能性はあるんだぞ」

 

「むしろ大歓迎だね。面白い体験ができそうだ」

 

 悟草は頭を抱える他なかった。

 

「君はお人好しが過ぎる」

 

「どうだかね。岸辺君だってお人好しな一面はあるじゃないか」

 

 露伴の箸を動かす手は止まらない。

 

「何の話だ」

 

「話によれば、あの絵馬に描かれた者の寿命はせいぜい二ヶ月ってところなんだろう。君が相談を受けたあの日で二ヶ月は近かったはずだ。君が何かしてくれたんじゃないのかい」

 

「知らないね」

 

 露伴は興味なさそうに返した。

 

「僕に何ができるって言うんだい。人の寿命を延ばせるほど、僕は万能じゃあないんだよ」

 

「まあ、君がそう言うならそうなんだろう」

 

 世の中には知覚しえない物事が無数にあるのだ。

 

「しかし暑いな。クーラーはないのかい」

 

 襟元を扇ぐと、悟草は悪態をついた。

 

 

 

 

 




 ほんと夏は暑いですね。マスクして外出すると死にそうになります。みなさんはちゃんとクーラーつけましょう。


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another:19 《Elet》

 新谷はその日何度目かの大きな溜息を吐いた。

 

「まだ本調子ではありませんか。肉体的な疲労ではないみたいですね」

 

 トニオ・トラサルディーが心配そうに新谷の様子を見る。手前の食器にもまだ料理は半分以上残っていた。

 

「ずっとこんな調子なのさ。その皿は下げてくれて構わない。申し訳ないが、ツレはもう食べれそうにない」

 

「かしこまりました」

 

 トニオがテーブル上を片付けるのを尻目に、露伴は新谷を眺めた。

 

「なあ、君の身に何か重大な事案が降りかかっているんだろうことはもう十分理解した。だがそろそろいい加減にしてくれないか。僕も好きで君をここに連れてきたわけじゃあないんだ。君がそうだと仕事にならないからわざわざ奢ったんだぜ」

 

「ハァ……すみません」

 

 新谷は手元を見詰めたまま気力のない返事をした。露伴の人差し指が机の上で跳ねる。

 

「僕を怒らせたいのか?そんなに思い詰めてることがあるなら相談のひとつでもしなよ。それもせず、かといって仕事に身が入るわけでもなく。失礼にもほどがあるだろ」

 

「いえ、その……おっしゃるとおりなんですが。ハイ。すみません」

 

「だからその中途半端な態度を止めろと言ってるんだ。困ってる事があるなら話せ。金銭面の工面なら少しくらいはしてやるさ」

 

「わざわざ先生にお聞かせするような話でもありませんし――」

 

「それは君が決める事じゃない。仕事にならないから言ってるんだ」

 

「その……」

 

 新谷はおそるおそる露伴の顔を覗いた。いつになく不機嫌な表情だ。その二人の前にコーヒーカップが置かれた。

 

「エスプレッソです。一旦心を落ち着けてください」

 

 二人は同時にコーヒーを流し込んだ。胸の奥がスン、と軽くなる感じがした。

 

「さ、話してみてはいかがですか?」

 

 トニオに促され、新谷は小さく頷いた。露伴も幾分か落ち着いた表情で新谷の言葉を待つ。

 

「その――俺達夫婦、子供に恵まれなくて……不妊症が発覚したんです」

 

 短く言い終えると、新谷は再びカップに口をつけた。

 

「いや……すまなかった。僕のデリカシーが欠けていた」

 

 露伴は素直に謝った。新谷がなかなか話したがらなかったのも無理はない。互いに見知った仲とはいえ、所詮は仕事相手。新谷が露伴の担当になってから一年近く経つが、プライベートでの交流は薄い。

 

「いえ。先生のおっしゃるとおり、仕事に私情を持ち込んでいる俺が悪いのです。先生が怒るのも当然です」

 

「しかし――」

 

 露伴はトニオに視線を送った。トニオは首を横に振る。

 

「私ができるのは、基本的には身体の不調を整える事です。病気となると、“食材”そのものの力を借りる必要があります」

 

 トニオの作る料理は、身体の代謝に作用し体の調子を整える効果を持つ。しかし、普通に手に入る食材を使っては、病気等の複雑な要因には対処が困難であるということらしかった。

 

「ですが――思い出しました。ひとつ心当たりがあります」

 

「不妊治療のか?」

 

「ヨーロッパの僻地に、子供に恵まれなかった夫婦が最後に行き着く“村”があるという話を聞いた事があります。その村の、地中海と北アジアに挟まれたその気候の、その村の土壌でのみ自生可能な植物がある。その果実は不妊治療に効果があり、子供を授かれなかったヨーロッパの夫婦はかつて、皆その村へ流れ着いたとか」

 

「その果実を料理すればできるのかい」

 

「ですが重大な問題があります」

 

 露伴はコーヒーを口に運ぶ。まだ湯気も収まっていないのに、ほとんど飲み終えていた。

 

「何だい、問題ってのは」

 

「村の存在そのものが非常に怪しいのです。記録にも載っていますし、当然地図にも描かれています。しかし、肝心の“村人”が見付からない」

 

「と言うと?廃村か何かなのか」

 

「No. 正確には“出身者”が居ません。その村――“エレット”と言います――に住んでいたという人がいないのです。地図にさえある村なのに」

 

「怪しいな。あるのか?そんな村」

 

「ええ。ですからあまりお薦めはしません。現代の医学は優秀ですから、そんな不確定な情報に頼らなくても希望はまだあります」

 

「そうじゃないんです」

 

 ずっと黙っていた新谷が割って入った。

 

「簡単な問題ならどれほど良かったことか――今の医学では諦めるしかないんです」

 

「ならトニオさんの話に乗るかい。これも賭けだが」

 

「露伴先生…」

 

 トニオは物言いたげに露伴を見詰めた。

 

「分かってる。勿論僕の興味最優先の提案だ。“出身者”の存在しない村。面白そうじゃあないか」

 

 どうだい?俯いたままの新谷に露伴は尋ねる。

 

「養子をとる、で解決するような簡単な悩みでもないだろう。ゼロに等しくても可能性があるのなら乗ってみるのもひとつの手だ」

 

「悪魔にだって魂を売ってやりたい気分ですよ」

 

「気に入った。トニオさん、案内してくれるかい」

 

「私が始めた話ですから…ですが。参りましたね」

 

トニオが頭を抱えて吐息する。露伴は残り少しのコーヒーを飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 のどかな自然が広がっていた。寓話に描かれる、まるで牧歌的な世界そのものだ。目的の村は山麓から山中へとなだらかに続いているらしい。飛行機を乗り継ぎ到着した主要都市で一泊。そこからトニオの運転するレンタカーでおよそ3時間。まだ東の空にある太陽がが山裾まで続く畑を照らす。後部座席には新谷夫妻が乗っていた。

 

「ムーミンでも出て来そうですね」

 

 現地に到着した夫人の第一声だった。

 

「バカ言えお前。ムーミンはフィンランドだろ。ありゃ北欧だ」

 

 新谷が夫人を小突く。道路沿いの畑で仕事をする人影をみとめ、トニオは車を停めた。助手席側の窓を開け、露伴が身を乗り出す。

 

「ご老人。少しお尋ねしたいんだが、“エレット”という村はここで合ってるかい」

 

「あんたたち、なに。観光者かい」

 

「そうだ。それで“エレット”という村に用事があって来た」

 

「今日は止めときなさい。今日は葬儀だ。村のほとんどが出払ってる。誰も歓迎しちゃくれないよ」

 

 露伴は一度車内に身を引っ込めるとトニオと一言二言交わし、また外の老人に尋ねた。

 

「この村に“不妊を治せる”植物があると聞いた。僕たちはそれを探している」

 

「あんたたち学者か何かかい」

 

 老人の目つきが変わった。車内の四人の顔を品定めするかのようにじろじろと眺める。

 

「後ろの二人は夫婦だ。今日は彼らのために日本から来た」

 

「……少しお待ちなさい」

 

 老人は車から少し離れるとどこかに電話をかけた。

 

「先生、よく話せますね」

 

 後部座席の新谷は驚きの表情を浮かべていた。老人との会話を現地語でそつなくこなす露伴に度肝を抜かれたのだ。

 

「僕はマンガ家だからな」

 

 答えにならない答えを返す。しかし新谷は納得したようだった。

 

「この道を真っ直ぐ行くと村の中心にある教会に着く。その前で人が待ってるから、その人に話を聞きなさい」

 

 老人が道の先を指さした。露伴は礼を言うと窓を閉めた。

 

 村の空気は暗かった。つい先日、村人が一名亡くなったようだ。小さな村だから村人同士はみんな知り合いなのだろう。

 教会の前には黒服の人だかりがあった。葬儀の参列者だろう。これでは誰が老人の言っていた人間なのか見当が付かない。が、相手の方から来客に気付いた。人だかりをかき分け、若い男が一人小走りにやって来た。

 

「すみませんねドタバタしてて。後ろの二人が問題の?」

 

 男が運転席のトニオに握手を求めた。男は片腕だった。左手が肘の先からない。

 

「ええ、そうです。お話を伺いたいのですが」

 

 トニオが応対する。

 

「そうですか。ご夫婦はお預かりします。近くにレストランがあるのでそこでお待ち下さい」

 

「話が出来るのは二人だけか?通訳が必要だ」

 

 露伴が横から口を挟む。男は困ったという風な顔をした。

 

「英語もダメですか」

 

 男は後部座席に向けて英語で話しかけた。

 

「多少なら」

 

 婦人が答える。男は笑顔になると、後部座席のドアに手をかけた。

 

「なあおい、ちょっと待ってくれ。どうして二人だけなんだ」

 

 露伴は食い下がった。男は再び困った顔をした。

 

「どうして、と言われましても。困っているのはこの二人なんでしょう。ならこの二人と話をするのが筋ではありませんか」

 

「別件で僕らもこの村に用事があるんだ。例の“植物”とやらについて」

 

 男は溜め息を吐いた。

 

「一度ご夫婦を案内してから戻ります。少しお待ち下さい」

 

 男は新谷夫婦を車から連れ出すと、集落へ向かった。二人残された露伴とトニオは顔を見合わせた。

 

「何かおかしくないか?」

 

 どうして二人だけなのだ?何か聞かれてはマズいことでもあるんじゃなかろうか。疑念が拭えない。

 

「やはり当事者と直接話すのが手っ取り早いという好意的な解釈も出来ますが」

 

「通訳を断る意味がまるでないじゃないか?お互い母語以外で会話すれば、どうしたって齟齬が生じるだろ」

 

「この様子だと、食材提供は難しいかもしれませんね」

 

「だが面白くなってきたな。少なくともあの男がこの村のコミュニティに何かしら特別な感情を抱いていそうなことは見えた」

 

 出身者が一人も外部に居ない話といい、どこかこの村は信用ならない。

 

「お待たせしました」

 

 男が戻ってくる。二人は車を降りると男の案内で近場の建物に向かった。

 

「言葉、お上手ですね。この国にはもう何度か?」

 

 道中、男が話しかけてくる。まあな。露伴は適当な返事をした。小さなバーのような建物に案内される。カウンターの奥に男が一人。店主だろうか。客の姿はない。

 

「アレ持ってきてくれないか」

 

 二人を店の奥の席に座らせ、男は店主にそう指示した。

 

「二個でいいですかい」

 

 店主は露伴とトニオを交互に眺めて尋ねた。若い男はそれに頷く。店主は店の裏へ消えた。男はそれを見届けると二人の前に座った。

 

「申し遅れました。アルベルトです。農作物に関しては比較的詳しいので、その手の話については一任されています」

 

 男は二人に握手を求めた。

 

「トニオ・トラサルディーと申します。こちらは岸辺露伴。今日は“不妊”に効果がある植物があった、という昔話を聞いてこの村にやって来ました」

 

「貴方はそのような昔話が事実であると信じているのですか?」

 

 アルベルトは微笑む。トニオはしかし譲らなかった。

 

「私は日本でレストランを開いています。私の料理人としての矜持は“お客様に快適になってもらう”こと。“不妊”に悩む方は沢山居ます。私は料理を通して、少しでもそのような方の心の重みを和らげてあげたいのです」

 

 トニオの言葉に力が入る。

 

「そのためにその“不妊”に効果があると言われている果実が実在するのなら、その提供をお願いしたいのです。実際に効果がなくても構いません。昔話の中でそう語られていたという事実があるということは、その植物にはそう言わせるだけの“パワー”があったということ。私はその力をお借りしたいのです」

 

 アルベルトは唸った。

 

「感動しました。俺はあくまで生産者の立場であり、料理について語れる事はありません。しかし作物を育てる身として、貴方のような料理人に食材を活用されることは喜ばしい」

 

 店主が皿を二つ持ってきた。二人の前に置く。皿の上には生の果実が乗っていた。ゴツゴツと突起が突き出した、カメの甲羅のような模様の黄緑色の果実だ。大きさは掌で簡単に包み込めてしまう程度。

 

「これは……」

 

 トニオがまじまじと観察する。

 

「それがこの村に伝わる“不妊治療効果”を持つ果実、“キタラツィオ”です」

 

 露伴はそれを手に取った。見た目通りに硬い表面をしている。

 

「果実を半分に割り、それを夫婦で分けて食べます。そうするとあら不思議。それまで全く恵まれなかった子供を授かる。ですから料理にする際も分けてはいけません。この果実が食材として難しいのはそこです。例えば子供が“キタラツィオ”を使った料理を食べ、余す。その余りを親が食べようものなら――分かりますね?」

 

「しかし、これは――」

 

 トニオは物言いたげにアルベルトを見詰めた。その目には困惑の色が見える。

 

「それと保存がきかない。旬が短いのです。輸送している最中に実が熟し、崩れてしまう」

 

 店主が露伴の手から果実を取り上げ、ナイフで半分に切る。白色の実が現われた。

 

「スプーンで掻き出して食べるんです。種は取り除いてください。食べると有害です」

 

 露伴は言われたとおり、スプーンで実を掻き出して口に運んだ。ナシのような、水気を多く含んだ食感だ。甘い。トニオは懐から持参のペティナイフを取り出し、それで“キタラツィオ”を切った。

 

「なかなか美味しいな」

 

 クリーミーな風味だ。二人が味を確かめていると、村人が一人やって来てアルベルトに耳打ちした。アルベルトが立ち上がる。

 

「すみません、この後葬儀があるものですから席を外させていただきますご予定は?話の続きは夜にお願いしたいのですが」

 

「大丈夫だ」

 

 露伴は頷いた。ごゆっくりと立ち去る三人の姿を見送ると、露伴はまた一口食べた。

 

「トニオさん、どうだい」

 

 先程から話さなくなったトニオを露伴は気遣った。トニオはじっと皿の上の“キタラツィオ”を見詰めている。

 

「?トニオさん……?」

 

「露伴先生、何も感じませんでしたか?」

 

 皿から目を動かさずにトニオは口を開いた。

 

「私たち、おそらく嘘をつかれています」

 

「分かるのか?」

 

 トニオは“キタラツィオ”を指差した。

 

「“バンレイシ”。東南アジアの果物です。知名度がイマイチなのでバレないと思ったんでしょうか」

 

「バン……なんたらって品目だが、この土地で産出されるものには“不妊”に効果があるという可能性はないのか」

 

「確かに否定はできません。ですが、ここの気候で育つはずがない。それに提供を渋る理由も滅茶苦茶です」

 

「そうか?僕は納得しているぞ」

 

 トニオは首を横に振る。

 

「果実の熟成に関しては何も問題ありません。マイナス50℃以下の温度で急速に冷凍する事で鮮度を保ったまま輸送する技術が確立されていて、既に一般的です」

 

「だが扱いに難しいのは事実だろう。子供なんかが料理を残すことは十分考えられる」

 

「先生、私が提供するのは“不妊”に悩む夫婦ですよ」

 

「あっ!」

 

 確かにトニオは“不妊に悩む夫婦を助けたい”とアルベルトにも説明した。既に子供が居る夫婦が不妊になることもおかしいことではない。そのことを考えればアルベルトの説明も一見筋が通っているようにも思える。しかしトニオが料理を提供するのはあくまで“夫婦”だ。それ以外の人間に提供する前提はない。どちらか一方がアルベルトの難色を示すポイントであればここまでトニオも懐疑的にならなかっただろう。しかしアルベルトの言葉には二つの矛盾があった。

 

「ですからこの“キタラツィオ”は何の変哲もない、ただの“バンレイシ”だと思うのです。村の管轄にあればどうにか取り繕うことができても、一旦その手を離れればそうもいかない」

 

「即座に真偽の判明しない“不妊治療”を謳っているからこそ成立するわけだ」

 

 トニオは立ち上がると店先を扉の隙間からそっと窺った。

 

「新谷夫妻と我々をわざわざ別けて話をしたり、適当な果物で誤魔化そうとしたり。“不妊治療”を認める割にはどうも手が込んでいると思いませんか」

 

「同意だな。確実に何かある」

 

 外に人が居ない事を確認すると、二人は店を抜け出した。教会にはおそらく多くの村人が集まって、葬儀を執り行っているだろう。ならば今が絶好の機会だ。

 

「といったって、どこをどう探す」

 

 村が隠したがる事だ。土地の権利書ならばまだしも、それ以上に手がかりを得るのは難しいだろう。

 

「誰かを“読む”しかないのではないでしょうか」

 

「その誰かが全員あの教会に行ってる可能性だってあるんだぜ」

 

「――覗いてみますか?教会。一人くらいなら呼び出せるかもしれませんよ」

 

「おいおいおい、流石にマズいんじゃあないのかぁ?」

 

 口ではそう言いながらも、露伴の足は既に教会に向いていた。トニオがその後に続く。

 

「とは言っても覗くだけだぞ」

 

「ええ。冗談ですよ」

 

 音を立てないよう細心の注意を払いながら、木製のドアを少し押して隙間を空ける。中を覗いた露伴はしばらく固まった。

 

「露伴先生?」

 

 トニオの声で、露伴は教会の扉を勢いよく開いた。突然の行動にトニオは驚いた。

 

「露伴先生!?何をしているんですか!!」

 

「中を見なよトニオさん」

 

 当然葬儀が行なわれていて、村人で埋め尽くされているはずだ。トニオは無数の視線に刺される覚悟で中を見た。が、予想に反して教会はもぬけの殻だった。

 

「これは――」

 

「僕はキリスト教の葬儀に参列した経験がない。だからトニオさん、貴方に聞きたい。こんなに早く出棺されるものなのか?」

 

 アルベルトらが店を出てからまだ十分と経っていない。

 

「いいえ。そんなはずがありません。ですがもしかしたら、私たちが告別式だと思い込んでいただけで、最初から彼らは埋葬に向かっていた可能性もあります」

 

「午前中に済むものなのかい」

 

 時間帯はまだ昼前だ。絶対に無理とは言えないタイムスケジュールだが、かなり押した進行をしなければこの時間にはなるまい。

 

「というかそもそも、納棺には村人全員が赴くものなのか?」

 

「小さな共同体ですからそれもあり得ますが……ですが、一連の事象を考えるとどちらも疑わしい」

 

 露伴は入り口から少し離れると、村に続く道路沿いに広がっていた畑と、教会の裏手の山とを交互に見た。村を通る主要道路は一本道。畑の方面へ人々が向かったのであればその姿は見えるはずだ。そこに居ないとすれば――教会の裏の山、もとい森を見上げた。舗装された山道が伸びている。二人はその道へ歩いた。

 

 

 

 

 

 男たちが穴を掘っている。

 頭上高くに太陽が昇る時間帯であったが、森の中は薄暗かった。僅かな木漏れ日が、風に靡く葉と共に時々揺れる。穴の前には一際太い幹を持つ、大きな木が構えていた。男たちのサイズと比較すると、直径2メートルは優に超えそうだ。そんな巨木と、作業する6人の男たちの周りを囲むように大勢の村人が立っていた。

 

「樹木葬か?」

 

 その様子を、露伴とトニオは離れた場所から見ていた。

 

「立派な木ですね。あの木の下になら埋葬されたいと思うのも理解できます」

 

「デカすぎないか?穴」

 

 穴の中に三人が入って作業している。シャベルを振り回すスペースを考えれば相当な大きさの穴だ。それに深い。男たちは胸元まですっぽり穴の中だ。

 

「なぜ今掘っているのでしょうか。ああいうのは事前に掘っておくものでは?」

 

「やっぱりカツカツのスケジュールだったんじゃないのか?昨日亡くなって、朝に葬儀。で、今が埋葬」

 

 昨日の夜に亡くなっていれば、穴を掘っていられる時間は今日の朝からだ。だとすれば穴のサイズ的にも納得だ。

 

「やはり不自然では?葬儀の時間をずらせばいいだけの話です」

 

 そうこうしているうち、男たちが穴から離れる。

 

「完成したようだな」

 

 二人が見詰める中、大木を囲む人々の中から青年と老女が歩み出た。二人はそれぞれシャベルを受け取ると、穴の中へ入った。

 

「まだ掘るのか?」

 

「何をしているんでしょう。私にも見当が付きません」

 

 キリスト教の文化ではない。この村独特の風習のようだ。更に人々の後方から棺が運ばれてくる。棺が穴の前で降ろされ、作業していた六人がその蓋を持ち上げる。中に横たわっていた老人の遺体を、穴の中の二人に手渡した。

 

「一体何をしてるんだ?」

 

 露伴とトニオは混乱する。火葬せずにそのまま土葬であることにも驚かされる。空になった棺は撤収された。人の輪の中からまた別の人影が一人。服装からしておそらく司祭だ。彼は穴の前に立つと、巨木を見上げながら何やら唱え始めた。それと同時に、先の六人の男が穴に土を戻し始めた。

 

「なッ……!」

 

 二人は言葉を失った。まだ青年と老女は穴の中だ。しかし誰もそれを止めようとしない。彼らの中で、その儀式は当然のことであるようだ。

 

「“生き埋め”だぞ!イカれてるッ!」

 

 穴はみるみる埋まっていく。司祭の祝福(?)がいっそう声高に響く。

 

 数分の後、穴は完全に埋められた。司祭に合わせ、その場の全員が十字を切る。その後、人々は村に戻った。閑散とした空間に露伴とトニオは取り残された。

 

「これがこの村の出身者が外に出ない理由か?」

 

 露伴は大木に向かって歩いた。

 

「恵まれなかった子供を授かったことは自然のおかげ。その自然の元に死に、そして帰る。そんな自然信仰の中に生きるのか?」

 

 “生き埋め”の意味が分からない。巨木の前に立つ。穴の跡は目立った。

 

「埋められた若者と老人はおそらく親子ではないでしょうか」

 

 トニオは露伴の横に並ぶと足下を見詰めた。

 

「亡くなったのは彼女の夫。ですが、それならどうやってこの村は維持されるのでしょう」

 

「トニオさん、真実はもっとおぞましいものかもしれない」

 

 露伴が頭上を指差す。その先にあるのは巨木の枝葉、その先端の小さな“果実”――

 

「“果物”じゃあない――ッ!人間の“胎児”だッッ!!」

 

 巨木には、薄い膜に包まれた“胎児”が生っていた。遠目では気づけない高さに、りんごくらいの大きさで。

 

「こ、これは……ッ」

 

 トニオは思わず口を覆う。“胎児”が生るその光景はおぞましいものに見えた。二人の身体は怖気に震える。

 

「まさかとは思うが“不妊治療”の果実、アレのことじゃあないだろうな」

 

 アレを食べると考えただけで悪寒が背中を駆け巡る。露伴は穴を越えて更に大木に近付いた。

 

「この木は何だ。植物か?動物か?」

 

 露伴は右の掌で幹の表面に触れた。その瞬間、肩や腰に何か重たい物がのしかかったような感覚に襲われた。慌てて木から離れようとする。しかし遅かった。

 

「これはッ!」

 

 幹に触れた掌がべったり張り付いて離れない。足で幹を押さえつけ、無理矢理引き離そうとするが、氷にひっついたように皮膚が引っ張られるばかりだ。トニオが異常に気付いて駆け寄る。

 

「トニオさん!木に触るな!」

 

「先生!一体何があったんです」

 

「分からない。だが何か“吸われている”実感がある」

 

 トニオが露伴の腰を掴み、大きなかぶ方式で引っ張る。だが木に触れた手はまるで離れる気配がない。

 

「ヘブンズドアーッ!」

 

 露伴は巨木に対しその能力を行使する。もし相手が知能を持った動物なら通用する。だが、巨木はあくまで植物だった。ヘブンズドアーで命令は書き込めない。

 

「マズい。何が起こるか分からないが、このままだと絶対にマズいッ!!」

 

 ろくな結末が思い浮かばない。あれこれ策を考えるも、有効そうなものはなにもない。

 

「露伴先生!!」

 

 森の向こうから新谷の声がした。二人は振り返る。アルベルトと新谷が走って向かってきていた。

 

「一足遅かったか」

 

 アルベルトは露伴の状況を見て呟いた。

 

「二人とも姿が見えないからもしやと思って来てみましたが――」

 

「どうにかならないか!」

 

 露伴が叫ぶ。アルベルトは腰の後ろから簡易的な斧を取り出した。

 

「接着面を介して木に養分を吸われています。掌は完全に癒着しているので、腕を切断するしかありません」

 

 アルベルトは躊躇なく斧を振りかぶった。露伴は慌てる。

 

「待てッ!!待つんだ!!」

 

 右手は生命線だ。切られてしまってはマンガも描けなくなる。

 

「気持ちは分かりますが、全ての養分を持って行かれます。死ぬか、片手を失うか」

 

 どちらの選択肢も最悪だ。マンガが描けなくなるなら死んだも同然。露伴の手首目がけ、勢いよく斧が降ろされる。

 

「やめろおおおぉぉぉぉッ!」

 

 アルベルトに対しヘブンズドアーを発動した。アルベルトは気を失い、斧が地面に落ちる。他に方法はないのか。露伴はアルベルトの記憶を探る。アルベルトも数年前に同じような事故で片手を失っている。それでは、やはり切り落とすしかないのか。

 

「皮膚だけでは」

 

 トニオが呟いた。

 

「木とくっついた皮膚をそぎ落とすだけではダメなのでしょうか」

 

 懐からペティナイフを取り出す。露伴はアルベルトを起こすと尋ねた。

 

「あるいは」

 

 アルベルトは頷く。トニオは露伴にペティナイフを差し出した。

 

「ですが神経を傷つけてしまえば腕を落とすのと結果は同じです。できますか、露伴先生」

 

「この僕を誰だと思っている」

 

 露伴はナイフを受け取ると、ためらうことなく掌と木の間に刃をあてた。

 

 

 

 

 

 村の民家で応急手当をうけた露伴は、トニオらの待つバーへ向かった。店の机には新谷夫婦とアルベルトが座っていた。

 

「トニオさんはどこだ?」

 

 同じテーブルに座ると露伴は店内を見渡した。どこにも姿がない。

 

「厨房を借りて料理を作っています。あの人の料理をまた食べれるなんて」

 

 新谷が答えた。

 

「へえ。この前食べたときは心ここに非ずだったじゃないか。味だけは覚えてるのかい」

 

「お待たせ致しました」

 

 四人の前に皿が運ばれる。

 

「“グヤーシュ”です。この国の郷土料理」

 

 深い皿の中に、カレーのような、シチューのような料理がたっぷり入っている。それを見たアルベルトは感嘆した。

 

「今この場にある材料で作ったので明瞭な効果は期待できませんが、傷のケアや感染症予防には十分です」

 

 露伴は慣れない左手でスプーンを握った。

 

「デザートに“キタラツィオ”も用意してありますよ」

 

 トニオが微笑む。露伴はアルベルトを見た。

 

「“不妊治療”じゃなかったのか?」

 

「フェイクですよ。あれを出せばみんな納得して帰ります。昔話は販促のための作り話だったんだって」

 

「僕らには教えていいのかい」

 

「アレを見られたからには……それに俺はトニオさんを信用しています。料理の味をみれば彼の人は明らかだ」

 

 露伴はスプーンを置くと右肘をテーブルの上でついた。包帯に巻かれた右手を見せる。

 

「アレは一体何だったんだ?“養分を吸われる”とか言ってたな」

 

「アレは“ヒト”の生る木です。といっても、厳密な分類を言えばあの果実は“ヒト”ではありませんが、ともかく習性や特徴は“ヒト”である果実を生らせます」

 

「ああ、それが“不妊治療”の物語の正体か」

 

 彼が村に伝わる“不妊治療”の昔話を否定しなかった理由はそこにあったわけだ。昔話は事実として存在する。そして本当に困っている夫婦が現われたとき、この村を頼れるように。

 

「果実は植物ではありますが、“ヒト”とほとんど同等の生物です。心もあります。唯一持たないものが、動物的な生殖機能です。彼らはあくまで植物で、あの木の一部に過ぎません」

 

「僕らはいいかも知れないが、この二人にも聞かせて大丈夫なのか?」

 

 露伴は新谷夫婦の存在を気遣った。

 

「二人には既にお話ししました」

 

 新谷夫婦がアルベルトの言葉に頷く。一旦厨房に戻っていたトニオがテーブルに着いた。

 

「あの木が“ヒト”の果実を実らせるには養分が必要です。それも常識的な量じゃない。最低でも人間一人以上の養分が必要になります」

 

「それがあの埋められた三人の役目だったわけですか」

 

トニオが相槌を打つ。

 

「だから果実は母の元へ養分となる人間を連れて帰るのです。この村で子供を授かり、生きるとはそういうこと。両親の片方が亡くなれば、三人で木の養分となり、次に村を訪れるパートナーへ希望を受け継ぐのです」

 

 アルベルトは立ち上がると、四人を店の外に招いた。露伴らが外に出ると、通りに村人がずらりと並んでいた。年齢こそばらついていたが、彼らは皆、夫婦子供で幸せな顔をしていた。

アルベルトの元に小さい女の子が駆け寄ってくる。アルベルトはその子を抱き上げた。

 

「俺の子です。勿論、あの木から生まれた。でも、本当の俺たちの子のように愛している。この村は――」

 

 愛おしそうに、アルベルトは娘の頭を撫でた。

 

「この村は、子供に恵まれなかった夫婦の最後の桃源郷。夢の代償は人生の終りに己の身を捧げる事。でも誰もその選択を後悔していません。そうしてあの木と我々の人生は成り立っているのだから」

 

 正午を知らせる鐘が鳴る。四人は村を去った。

 

 

 

 

「先生、俺らはあの村でお世話になる事を決めました」

 

 帰りの道中、新谷は露伴に報告した。

 

「手続も大変そうですし、文化の壁もどうかは分かりませんが、あそこの住民はみんな幸せそうでした」

 

「そうか。好きにするといい」

 

露伴は振り向かなかった。あの木の話は本来、村に移住を検討している人間にだけ伝えられるものだそうだ。終りにアルベルトからそう聞いたときから、新谷夫婦の決断は想像がついていた。

 

「でもトニオさんの料理を食べるのが難しくなるのが残念です。日本に居れば比較的行きやすいんですけど」

 

「お子さんが出来たら是非一緒にいらしてください。サービスしますよ」

 

「お、それもいいですね。露伴先生もどうです?」

 

 露伴は鼻を鳴らした。

 

「それよりも君は、この前奢った分のお代を返せよ。慈善事業じゃないんだぜ」

 

「そのときに奢りますよ。ね」

 

 新谷は夫人に問いかけた。夫人も頷く。

 

「そのときは岸辺先生のご家族ともご一緒できたらいいですね」

 

 婦人は笑顔で言った。

 

「僕が結婚すると思うかい?」

 

 露伴は不機嫌な表情で外の景色を眺めた。

 

 “エレット”村の住民は“普通”の家庭を求め、“普通”な人生を送りたかった者たちだ。彼らは家族に対する純粋な愛に生きている。自分はどうだろうか。露伴は想像する。“普通”の家庭、“普通”の人生…… 

 

 何より、誰かを愛すること。

 

 車窓を開けると、風に乗って葡萄の香りがした。

 

 いずれマンガのために、誰かと恋愛をする事があるだろうか。マンガのためを抜きに、誰かを好きになる経験ができるだろうか。マンガを捨て、愛のために生きる事があるだろうか。

 

 露伴はちょっぴり、エレット村の住人が羨ましくなった。



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another:20 《萬洧記》

 露伴はその日、S市市立図書館にいた。調べ物をするとき、露伴はよく図書館に足を運ぶ。勿論家にも膨大な量の資料が揃っているし、所有してないものでも手に入りやすいものはなるべく買うようにしている。しかしそれにも限界がある。そもそも流通が少ないもの、高価なもの、絶版しているもの。いくら露伴に自由な金があるからといって、そういったものを含めて全て買いそろえるのは無謀でしかない。

 

 だから露伴はよく図書館に繰り出す。普段は近所の町立図書館なんかで用が済むのだが、そうもいかないときもある。今回彼が探しているものも、そういったものだった。もっとも、市立図書館で用が済むだけマシだ。ここにもなければ県立図書館、あるいは他県にまで足を伸ばさなければならない。

 

 露伴は一般書架を眺めていた。

 

「ちょっとした好奇心なんですが」

 

 そんな彼の隣に並ぶ女性が一人。

 

「こんなところまでいらして、何をお探しですか?岸辺露伴先生」

 

 露伴は横目にちらっとその女性を眺めると、本棚に手を伸ばした。

 

「君の方こそ、平日の昼間にこんな所をふらついてていいのかい」

 

 露伴は適当な冊子を手に取ると、パラパラとページを捲った。

 

「文系学生って、意外と暇なんですよ」

 

 人にもよりますけどね。彼女はそう付け加えた。

 

「それで、今日は何をお探しで?今度は貴方が答える番ですよ」

 

「ギブアンドテイクってやつかい?」

 

 露伴は小さく吐息を吐くと田向花 小夜(たむけ さや)に顔を向けた。

 

「ええ。ギブアンドテイクです」

 

 少し髪の伸びた彼女は、相変わらず気怠そうな表情で露伴を見上げながら両方の口角を小さく吊り上げた。

 

「仕事だよ。君と違って僕は忙しいんだ」

 

 あっちへ行け、と露伴は彼女を手で追いやる。

 

「ム。いいんですか?こんな可愛い女子大生をそんな無下に扱って」

 

「可愛い?」

 

 露伴は鼻を鳴らした。

 

「とりあえずその目にかかってる前髪をどうにかしたらどうだい。目が出るだけでも少しはマシな表情になるだろ」

 

「岸辺さんも、その性格さえ直せば完璧なんですけどね」

 

「完璧な人間なんて居るものか」

 

 手にしていた本を棚へ押し戻す。

 

「岸辺さん、この後時間ありますか?」

 

「君は人の話を聞けないのか?それとも3つ数えたら記憶が吹っ飛んじまう鳥頭なのか?僕はさっき()()()と言ったんだぜ」

 

「私、今日は友達と来ているんですけどね」

 

 露伴の嫌味をまるで聞いていないかのように聞き流し、強引に話を進める。

 

「その子が“変な話”を持ってるんです。そういうの、岸辺さん好きでしょう」

 

「へえ。その“変な話”とやらを簡潔に書いた紙を持ってきたのなら目を通すくらいはしてやるよ」

 

 小夜の話に興味を示す様子もなく、露伴は目の前の本棚ばかり眺めていた。しかし小夜は怖じ気づかない。

 

「先生、お昼まだですよね。近くに美味しいフレンチのレストランがあるんですよ」

 

「おおっとぉ。そろそろ電車の時間だ。折角誘ってもらって悪いが、僕はここらで失礼するよ」

 

 わざとらしく腕時計を覗き込むと、小夜の返答も聞かずに露伴は踵を返した。

 

「じゃあ杜王駅前のファミレスにしましょう」

 

 露伴は彼女を無視して出口に向かった。

 

 

 

 

「私と同じゼミの鈴木(あおい)ちゃん。こっちはマンガ家の岸辺露伴さん」

 

 小夜の紹介で葵は頭を下げた。

 

「ああ、うん。よろしく」

 

 露伴はテーブルに肘をつきながら無愛想な返事を返した。

 

「あの、先生のマンガは全巻持ってます。その――できればサインを……」

 

 葵はそっと手帳を差し出した。

 

「あおいってのは、どう書くんだい」

 

 ポケットからペンを取り出し、慣れた手つきで手帳にサインを書き込む、ファンサービスは忘れない。葵は嬉しそうに手帳を眺めると、鞄の奥に大事にしまった。

 

「一応聞いてやるよ。君の“変な話”とは何だい」

 

 家まで付いてきそうな勢いだった二人のためにしぶしぶ杜王駅前のファミレスに足を運んだ露伴は少しばかり機嫌を損ねていた。

 

「そんなに面白い話でもないと思うんですが――」

 

 露伴は小夜を睨んだ。本当に面白くなかったら時間の無駄にもほどがある。

 

「私は面白いと思うんですけどね」

 

「まあいい。話してくれ」

 

「少し前に父方の祖母が亡くなって、実家の整理をしたんです。武士の末裔だったので、敷地の蔵から古い物がたくさん出てきまして。その中に箱が――長持(ながもち)?って言うんですかね。棺桶みたいなサイズの木箱なんですが。それが出てきたんです」

 

「長持、ね」

 

 露伴は頷いた。簡単に言えば収納具だ。露伴の記憶が確かであれば、衣服なんかを入れたと読んだ記憶がある。

 

「その箱が問題で。開かないんです。いえ、正確に言えば開けることは不可能ではありません。ただ紐で縛られた上に、全面に釘が打たれているんです」

 

「開けて中身を確認した方がいいんじゃないのか?」

 

 それだけ頑丈に封じられているなら、高価な物が仕舞われていると考えることもできる。

 

「何て言うか――“開けてはいけない”って警告されているように感じるんです。別に私、霊感とかがあるわけじゃあないんですが。何かその箱に対して、強い嫌悪感を覚えてしまって。家族みんなそんな感じなので、ずっと放置してあるんです」

 

 沈黙の空気が流れる。店内に流れる音楽がどこか場違いな空気を演出した。

 

「それだけなのか?」

 

 露伴は拍子抜けした声を発した。思っていたより本当に“面白くない話”だった。

 

「わくわくしませんか?」

 

 露伴とは対照的に、小夜は楽しそうだ。

 

「旧家の蔵から見付かった“開かずの箱”。絶対、曰く付きのヤバいやつですよ」

 

「下らないな。本当にヤバい物なら“開けてはいけない”という謂れがあるとか、そういう尾ひれが付くもんだろ。そう言われてる物が全てヤバいとも限らないが、ただ開けにくいだけの箱なら、貴重な物が入ってるってオチじゃあないのか」

 

 そんな謂れもないだろう。葵は頷く。

 

「それに所有者が開けたがらない物を、他人の僕が開けてどうする」

 

「いえ。開けたくないわけではないんです。むしろみんなも中身を知りたい。ただ――その」

 

 葵が言葉尻を濁す。

 

「ただ?」

 

 露伴はその一言を逃さない。続きを促す。

 

「この地域のものではないんですが、棺を白い紐で十字に結ぶという風習が存在して……それに酷似しているんです」

 

「おいおい、死体でも入ってるって言うのかい?」

 

 露伴の言葉に周囲の視線が集まる。露伴は咳払いを一つした。

 

「制作者が開けてほしくないと思っていたのは確かそうだな。でなければ釘打ちなんかしない」

 

「それも含めて“何か”を閉じ込めているような――そう。封印しているような気がしてならないんです」

 

「――で、それは他人が開けてもいい代物なのか?」

 

「開けれるものなら開けたい、というのが一家の総意です」

 

「岸辺さん、開けてみましょうよ」

 

 小夜はテーブルの上に身を乗り出して露伴に迫った。

 

「君の実家、ここから近いのか?」

 

「遠くはありません」

 

「現物を見たい。どうするかはそれから決める」

 

 

 

 

 

 

 駅を囲む中心地の喧騒から少し離れた内陸側で、鈴木家は静かに佇んでいた。なるほど旧家である。土地の四方を囲う塀、木造で一階建ての母屋、それに離れ。屋敷周辺の環境もそうだったが、塀の中は一層静寂だった。祖父も既に亡くなっており、現在は誰も住んでいないという。葵の父は一人っ子であったが、葵一家は現在市街地に家を持っており、この屋敷をどうするかはまだ決まっていない。

 蔵は離れの更に奥にあった。二階建ての高さの立派なものだ。白塗りの扉にかかった閂を葵が外す。

 

「みんなこの家を意図的に避けるんです。鍵も私に押し付けられてて」

 

 葵が両開きの扉を開ける。

 

 蔵の内部は整然としていた。遺品整理があったのだから当然といえば当然だろう。仕舞われているのは主に使われなくなった家具類だった。火鉢や和箪笥、蓄音機なんかまである。ぱっと見ただけでも、そこそこ値が付きそうな物がごろごろしている。他にも、用途の分からない1メートルくらいの木箱や農具類なんかが壁際に並べられている。

 蔵の上部には明かりを取り入れるための窓があって、そこから外の光りが斜めに射し込んでくる。しかし全体を照らすには不十分な光量で、かなり薄暗い。

 

 葵は先に中に入って二人を招いた。左奥の角に向かって指をさす。

 

「あれです」

 

 葵のさす先には棺を思わせる大きな木箱があった。露伴と小夜がその箱に近付く。なるほど、確かに異様な雰囲気だ。

 

 目測で幅180センチ、奥行・高さ80センチ。外装に装飾はなく、全面が漆で塗られていて赤黒く発色している。接地面は足が四本伸びていて、上面の板の縁は曲線に削られている。そして葵の説明通り、紐で縛られた上に全面の四つ角に釘が打ち付けてある。

 

「ほんとに死体でも入ってそう」

 

 小夜が呟く。露伴は箱を掌で撫でた。冷たい。

 

「引っ張り出せないか?」

 

 箱は蔵の隅に収まっている。作業をするには窮屈だ。

 

「簡単に運べます。思いのほか軽いので」

 

 葵が箱に手をかけた。片手で簡単に持ち上がる。露伴と小夜も手を貸し、三人でひらけたスペースまで運び出した。

 

「さて。開けましょうか」

 

 小夜が早速紐の結び目に手をかける。紐は簡単にほどけた。

 

「あれ、拍子抜けですね。てっきり頑丈な縛りかと」

 

「あんまり期待しない方がいいんじゃあないのか?」

 

 露伴は葵に視線を向けた。

 

「なんでもなければそれでいいんです。開けましょう」

 

 とは言いつつも、葵自身が箱を開けようとはしない。

 

「壊していいのか?この箱」

 

 釘は深くまで刺されており、引き抜くことはできない。箱を開けるには蓋の破壊は免れないだろう。

 

「お願いします」

 

 返答を聞くと露伴は箱の正面に立った。さて、どう開けようか。

 

「岸辺さん、はい」

 

 小夜がバールを差し出した。

 

「どこから持っていたんだこんなもの」

 

「そのへんに落ちてましたよ。さ、早く」

 

 彼女どうしてはこんなに浮かれているのだろう。露伴はバールを受け取ると、少しだけ蓋の浮いた部分に差し込んだ。てこの原理で力点に体重をかける。メキメキと大きな音がして蓋が少しずつ持ち上がる。数カ所で隙間を作ると、釘の刺された四方が外れた。蓋が勢いよく地面に落ちる。

 

「死体は――入ってませんね」

 

 真っ先に小夜が覗き込む。箱の底部に紙が詰め込まれていた。二人で紙を掻き出す。真ん中に四方20センチほどの小さな木箱が収められていた。今度は紐で結ばれてもいない。小夜がひょい、とそれを取り上げる。

 

「君には警戒心とかないのかい?」

 

「まあ虫とかいたら嫌ですけど。これ自体はただの箱ですよ」

 

 重さはほとんどないようで、小夜は片手で抱えてぶんぶん振り回す。

 

「これだけ厳重に保管されてた物だぜ。いいから一旦置けよ」

 

 小夜は長持の中に箱を戻す。葵が興味を持って長持を覗き込んだ。

 

「何だと思う」

 

 露伴は尋ねた。葵は首を振る。

 

「見当もつきません」

 

 それもそうだろう。露伴は箱に手をかけ、躊躇なく開いた。

 

「本……」

 

 中に収まっていたのは古本だった。露伴と小夜は思わず目を合わせる。

 

「ま、まあ死体じゃなかっただけよかったじゃないですか」

 

 葵が本を取り上げた。深い紺の表紙で装丁されている。背表紙側は紐で纏められており、その本が古い時代に作られたことを示している。

 

「これ…なんて読むんでしょう」

 

 葵は表紙に墨で書かれた題目を二人に見せた。

 

「達筆ですねぇ」

 

「達筆なのか?というよりも」

 

 旧字体や中国語の繁体字であれば、多少崩れていても所々判読は可能だ。しかしその本に書かれた文字には一切心当たりがなかった。そもそも知らない言語だ。

 

 露伴は本を半ば奪うように受け取ると開いた。保存状態は非常に良く、中で紙同士がくっついているようなこともない。

 

「どこの文字でしょう」

 

 小夜が横から覗き込む。表紙と違って、中の文字は比較的形が分かりやすかった。しかし読むことはできない。古代文字か?いや見たことがない。露伴の知る限りの、この世のどの言語ともその形は一致しなかった。

 文字は直線の組み合わせでできている。構成はかなり複雑だ。ハングルや漢字のような雰囲気ではあるが、しかしそれらよりも何倍も線が多い。文字と文字の間隔は縦にも横にも等しく、縦読みなのか横読みなのかさえ判断が付かない。

 

「何を意味しているんでしょう」

 

「さあな。皆目見当もつかない」

 

「誰かのイタズラでしょうか」

 

 葵は懐疑的であった。大事に保管されていたものとはいえ、目的が分からない。

 

「どうだろうな。作りはしっかりしている」

 

 見る感じ、四つ目綴じという綴じ方をされている。使われている紙は和紙だ。

 

「書かれている文字も何か意味がありそうだ。これが所謂“偽書”であるなら、架空の文字で書く必要性もない」

 

 “竹内文書”だとか“外津軽三郡誌”だとか、日本にも偽書と呼ばれる書物は沢山ある。しかしそのどれも、誰かが読むことを前提に書かれる。一方この本はどうだろうか。まるで読ませる気がないようにさえ思える。

 

 だからつまり、この本は“本物”の可能性が高いのだ。書かれた背景や意図はおろか内容さえも分からないが、しかし明確な意思でもって書かれたものである可能性は高いわけだ。

 

「“ヴォイニッチ手稿”みたいですね」

 

 小夜は露伴の手から本を取るとパラパラとページを捲った。

 

 “ヴォイニッチ手稿”は20世紀にイタリアで発見された手書きの写本の事を言う。同書は現存するどの言語とも異なる文字で書かれており、また各所に挿入されている挿絵が奇妙で不気味なことから何かと取り沙汰されることのある奇書である。

 

「あれが本物かどうかにも通ずるところがあるな。少なくとも僕は本物だと思っているよ。架空の言語であろうとなんであろうと、言語学的な規則性の上に成立しているのであればそれはもう立派なひとつの言葉だ」

 

 近年の研究ではAIの解析によって古代トルコ語ではないかとも言われている。法則性をもった文章であるということが発見されたのである。

 

「その本の内容に規則性があるかは分からないがな」

 

 小夜が葵に本を手渡す。露伴は長持の中を再度覗いた。底面にはまだ紙が敷き詰められている。何の気なしにそれをどけてみると、底にもう一冊本が眠っているのを発見した。今度は雑な装丁であった。表紙もなく、紙を束ねる紐の結びも適当だ。しかしその本に書かれているのは見慣れた日本語だった。

 

「岸辺さん――これは」

 

 小夜も興味を抱く。一枚目から文字がびっしり書き込まれている。露伴はそれに目を通した。

 

『これは鈴木家の一大事業であった。』

 

 書き出しはこうであった。古本の由緒書きのようなものだろうか。露伴は続きを読み進める。

 

『これが読まれているということは、写本は既に取り出された後であろう。手遅れでないことを願いつつ警告する。写本に書かれたものを文字として認識してはならない。すぐさまその本を閉じよ。』

 

「ごめんなさい。何だか気分が悪い」

 

 露伴が警告の一文を目にしたのと葵がそう訴えたのはほぼ同時のことだった。確信的ではなかったが、露伴は即座に事態を察知した。葵は手に古本を握っている。

 

「その本を手放せ!すぐにだッ!」

 

 葵がその場に座り込む。

 

「葵ちゃん!岸辺さん、これは――」

 

 葵はそのままうつ伏せに崩れた。手から本が転がり落ちる。

 

「葵ちゃん!?」

 

 駆け寄ろうとする小夜を制し、手元の本を彼女に押し付けるように渡すと露伴は葵の側に屈んだ。冷静に彼女の容態を観察し、呼吸が正常であることを確認してからヘブンズドアーを発動する。パラパラパラと彼女の心の扉が開かれる。

 露伴は絶句した。見たことがない。どんな知識人や学者でも、ここまでの分量にはならない。膨大な記憶・経験。まるで辞書のような――

 

「いや、()()()()はありえない。どういうことだ……何が起きている」

 

 ヘブンズドアーによって晒された鈴木葵という人物のデータは、大型の辞書と見紛うほどの厚みを持っていた。重みでページの端が床に垂れている。それは彼女の記憶が、経験が尋常でない量にのぼることを示していた。これまで露伴の読んできた誰よりも、彼女の記憶は重い。何かおかしい。外見からは彼女の異常性は見えない。言動も所作も、ごくごく一般的な学生のそれだ。

 露伴は足下に転がる、紺の古本に視線を降ろす。

 

「何が――」

 

 一体何が書かれているというのだ。気になる。あの由緒書きが警告しているのもこの本のことだろう。葵が倒れた原因がこの本である可能性はかなり高い。しかしだからこそ、露伴はその中身を確認したいという衝動に駆られた。古本に手を伸ばし、表紙を開く。

 解読不能な文字列。法則性を見いだそうと文字を凝視する。

 

「岸辺さん!」

 

「少し待ってくれ――どう読むんだ。いや、読んだのか?」

 

 冒頭の一字に集中する。焦点をぼやかし、俯瞰で捉えたその瞬間だった。

 

<a priori. 伝統的な形而上学では、すべての人間に生得的、 したがって本性的であること。 「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたカントおよびカント以後では、すべての経験に、 時間的に先立つというよりも、論理的に先立つこと。「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」 認識論において用いられ――>*1

 

 露伴は本を投げた。小夜の側に転がる。

 

「今のは――」

 

 露伴の脳内に押し寄せたのは、“”概念の全て。文字通り全て、一つの疑念も残すことなく露伴は哲学的“a priori”の概念を瞬間的に理解した。

 

 小夜が古本を拾い上げる。露伴は叫んだ。

 

「読むんじゃあない!!」

 

 ツカツカと小夜に歩み寄り、まず由緒書きを受け取る。

 

「間違っても開くなよ」

 

 露伴は警告に続く文章を読む。

 

「“文字には()()が詰め込まれている。あれは神の文字だ。あの本にはこの世の全てが記されている。吾々鈴木家は、その全てを書き写す作業に一族を捧げた”」

 

 “アカシックレコード”と呼ばれるものがある。そこには世界の始まりから終りまでのありとあらゆる全ての事象・概念が記録されていて、この宇宙のどこかに存在するとされるSF的な代物だ。

 一字目には“a priori”という概念についての情報が記されていた。文章ではない。一文字につきひとつの事象が記録されているのだ。由緒書きをそのまま信じるのであれば、写本にはこの世に関する全ての情報が詰まっている。つまり目の前に存在するこれは、“アカシックレコード”の写本ということになる。

 写本に目を移す。と、小夜がページを開いているではないか。

 

「おい!!何をしている!」

 

 小夜から写本をひったくる。

 

「この世の全て……」

 

 小夜は既に神の文字に()()()()()()()。視線は露伴の握る写本に注がれている。

 

「馬鹿な真似を」

 

 露伴としても読みたい。勿論、世の中の全てを理解したからといって完璧なマンガが描けるようになるわけではない。知識だけでなく経験がなければ“良い”作品は生まれない。しかし知識は前提だ。心を、人生を豊かにする土壌だ。いい土からはいいものが生まれるように、豊富な知識は経験に彩りを与える。この世の全てを知るというのはどんな感覚なのだろう。その先には、どんな体験が待っているのだろう。だが現実を見なければならない。この本を読むのは危険だ。少なくとも今は。

 

「おい田向花小夜。まだ正気なら僕の話をよく聞け」

 

 小夜の視線が一瞬露伴に動く。

 

「この本のことは金輪際忘れるんだ。内容も忘れろ。覚えてる必要もなければ、読む必要もない」

 

「岸辺さんは知りたくないんですか?返してください。私は読みたい」

 

 小夜が手を伸ばす。露伴は彼女から極力写本を遠ざけた。

 

「何の真似ですか岸辺さん。貴方は“バカ”なんですか?世の中の全てを知り得る機会なんて、誰もが得られるものじゃあないんです」

 

「“バカ”だと?僕に言わせれば君らの方が随分と“バカ”だぜ。僕だって読みたいに決まっている。今すぐ読めるなら何だって犠牲に出来る自身があるさ」

 

「貴方が読まないというならそれでいい。でも私の機会を奪う理由にはならないでしょう」

 

 小夜は少し興奮していた。言葉の端に苛立ちが読み取れる。

 

「死にたいのか?」

 

「死ぬ?何を言ってるんですか岸辺さん」

 

「僕は弁えた話をしてるんだ。好奇心は時に破滅を導くと、身をもって知っているからな」

 

「その本と私の生死が、どうして関係するんですか」

 

「容量の概念だよ。君は自分の容量が無制限だと思ってるのか?」

 

「御託はいりません」

 

 頑なだ。彼女は既に“好奇心”という魔に捕らわれてしまったらしい。目つきもどことなく凶暴なものへと豹変している。

 

「君の持ってるスマホだって容量に限界があるだろ。それと一緒だ。僕ら個人の記憶力には限界がある。世の中の全ての情報を一度に記憶できるほど僕らのキャパは広くはない」

 

「岸辺さん、その本を返してください」

 

「容量を超えればPCだってクラッシュする。紙を入れすぎたファイルは壊れる。彼女だって壊れかけている」

 

 露伴は葵を指差した。ヘブンズドアーによって公にされた彼女の膨大な記憶。それらは全て、おそらくこの写本によって瞬間的に与えられたもの。おそらく彼女の脳がその処理に追いつけなくなり、オーバーヒートを起こして倒れたのだろう。

 

「私と葵ちゃんとでは容量が違う!」

 

 まるで聞き分けの悪い子どもだ。露伴は露骨に溜め息を吐いた。

 

「アダムとイヴが楽園から追放された理由を知ってるか」

 

「禁断の果実を食べたからでしょう。バカにしないでください」

 

「ああそうだ。禁断の果実もとい“知恵の実”を食したことでヤハウェの怒りに触れた。だがなぜヤハウェは“知恵の実”を食した人間を追放する必要があったんだ?“知恵”を得た人間を怖れたから?」

 

「もう一度言います。その本を返して」

 

「本質は()()じゃあない。“知恵”なんてのは別にどうだっていいんだ。ヤハウェはいつか人間が“生命の樹”にまで手を付け、永遠の命を得るのではないかと怖れたのさ。ヤハウェが怖れたのは、人間のその貪欲なまでの“好奇心”だよ」

 

「返せ!!」

 

 小夜が露伴に飛びかかる。

 

「君は()に誑かされてるんだ!」

 

 彼女の手先が写本に届く寸前、露伴はヘブンズドアーで彼女を制圧する。露伴は小夜が床に激突しないよう支えると、静かに寝かせた。

 幸い彼女はまだほとんど本を読んでいなかったらしい。露伴は早々に写本の存在ごと忘れるよう彼女に書き込んだ。

 

 しかし、彼女が写本から得た記憶が消えなかった。

 

「馬鹿な!!」

 

 露伴は叫んだ。葵にも同じように書き込む。写本の存在こそ記憶から消えるが、しかし溢れ出すほどの膨大な情報は残ったままだ。

 

「まだ何かあるっていうのか!!」

 

 由緒書きを手繰り寄せる。

 

『神の文字は吾々を魅了した。而し作業は混迷を極めた。吾々は“それ”を文字として認識しないよう意識する必要があった。それでも作業を続ける内に思いも依らず文字を識別してしまう。有り余る情報に歴代家人は(たお)れてきた』

 

 そんなことは分かっている。どうでもいい。“神の文字”の本質を知りたいのだ。

 

『今、手元に先祖の手記がある。とても公にできる内容ではないが、私が未だ写本に携わっていないにも関わらず多くを知り得たのはこの手記の為である。この手記から判る神の文字の性質を次に傳える。

 一 神の文字には1字につき1つの事柄の全てが記されている

 一 神の文字は人を魅了する

 一 文字を文字と認識すると、文字に含まれる情報の全てを読み取ることができる

 一 情報を多く得すぎると、人は死ぬ

 一 写本にも同じ事が言える

 一 文字によって得られた記憶は永遠に忘れない』

 

「“永遠に忘れない”」

 

 露伴は復唱した。それは“神の文字”によって得られる記憶の異常性を示していた。ヘブンズドアーによる命令でも削除できない。その記憶は単なる精神的な“記憶”という概念を外れた、より実体的な、肉体的なものだ。そうとしか考えられない。ヘブンズドアーの命令で書き込んでも肉体の一部が物理的に消失することはない。“右手を失う”と書き込めば右手は即座に消失するのではなく、代謝的な作用の果てに朽ちる。だがどうすればいい?

 

 と、葵の容態が急変する。さっきまで安定していた呼気は荒れ、額から汗が粒となって噴き出す。全身は小刻みに痙攣し、指先が硬直を見せた。

 

「マズい!!」

 

 どうにかして溢れる記憶を取り除かなければならない。だがどうやって?――思いつく手段は一つある。

 

「この先の影響を考えれば余りやりたくはないが――」

 

 時間がない。葵が口から泡を吹く。

 

「やるしかないッ!」

 

 露伴は葵に飛び付くと、彼女から溢れる記憶、その無数のページを破り割いた。消せないのなら、永遠に記憶を奪うほかない。

 

 果たして葵は再び落ち着きを取り戻した。記憶の強奪は、体重の減少など何かしらの影響を及ぼすが仕方あるまい。それに露伴にとっては悪いことばかりでもない。

 

「念のため彼女のも破いておこう」

 

 露伴は小夜を見やった。

 

 

 

 

 

「何か拍子抜けでしたね」

 

 門の前に立って大きく手を振る葵から目を離すと、小夜は前を歩く露伴の側まで小走りに向かった。午後の日差しが二人に降り注ぐ。

 

「そんなものだろうとは思ったよ。君が期待しすぎていただけだ」

 

 露伴は二人の記憶を書き換えていた。長持の中には高価な漆器類が入っていたことになっている。

 

「だがまあ、あの家にとっては重要なものだろうな。嫁入り道具と見た」

 

 適当な内容を嘯く。

 角を曲がると、正面に太陽が躍り出た。掌で熱戦を遮る。写本はそのまま長持の中へ戻した。釘も再度打ち付け、蓋の一部が破損しているもののほぼ元通りである。

 

 本音を言えば、あの本は手元に欲しかった。読解を諦める気はさらさらなかった。しかし所有権は鈴木家にある。あの一族の遺産だ。簡単に他人が持ち出していいものでもない。それに――

 

「あの家族、何か抱えてそうだ」

 

「何か言いました?」

 

「いや」

 

 露伴は口を噤んだ。葵の両親は本当に長持の中身を知らなかったのだろうか。彼女の記憶を破った際、少しだけ彼女の心の中を覗いた。両親とは上手くいっていないらしい。それも大分話は込み入っている。祖母の死と彼女も、どうやら無関係ではないみたいだ。それに――

 

 露伴は立ち止まった。小夜が不思議そうな顔で振り返る。

 

 問題はそれだけではない。写本の大本が鈴木家に渡ったルートも、現在の所在も不明だ。おそらく根本的なことは何ひとつ解決していない。

 

 空を見上げ、雲の向こうの世界に思いを馳せる。思うに、答えは我々の内側に最初から存在するのだ。“神の文字”は身体に刻まれている記録を明らかにしているに過ぎない。だからあれは肉体の一部と同じなのだ。露伴の出した答えはそんなものだった。人間は普段、脳の10%しか使っていないなんて話もある。だからそういう風に、心の奥に眠っているものがあっても不思議はない。

 

 当面の問題は――露伴は歩き出す。まず他人の記憶を媒介すれば“神の文字”は機能しないのか試そう。危険だからといって諦めるほど、露伴は()()()人間ではなかった。だが一方で、全てを知るということに抵抗も感じていた。好奇心は知らないからこそ生まれる。何もかも知ってしまえばその原動力は失われてしまう。尤も、仮に“神の文字”を介せずとも世の中の全てを知ることは不可能なのだから、今のところそれは杞憂でしかないのだが。

 

「ところでだが、田向花小夜」

 

 小夜は露伴が追い付くまで待って隣を歩いた。

 

「僕は君のお昼代を払ったよな」

 

「ええ。ごちそうさまでした」

 

「ギブアンドテイクが君の信条じゃあなかったのか?」

 

「岸辺さん、“面白い話”を教えたのは私ですよ」

 

「それは彼女()の分だぜ。君のはチャラじゃない」

 

 小夜は少し考える素振りをした。

 

「じゃあ岸辺さん、これからお茶しましょう」

 

「断る。僕に何のメリットがあるんだ」

 

「いいじゃあないですか。私が出しますから」

 

「面白い話の一つや二つないのか?」

 

「だからしたじゃないですか。長持の話」

 

「それなくてだなあ」

 

 露伴は再び立ち止まる。

 

「岸辺さん、さっきからどうしたんですか?」

 

「“家で空き巣と遭遇した”話――ふうん。いいじゃあないか。今日のところはこれで手打ちにしてやるよ」

 

「? 何の話をしてるんですか?」

 

「じゃあな。僕はこれから仕事だ」

 

 立ち呆ける小夜を置いて露伴は勝手に歩き出した。二人から破り取った“記憶”を片手に、ひらひらと手を振って。

 

 

 

 








年末が楽しみ


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another:21 《乳白色の海》

「先生知ってましたか。クジラって歌うらしいですよ」

 

 他愛もない雑談は編集者の旭 蓬莱(ほうらい)の方から始まった。露伴は原稿の上で走らせていた手を止めると、テーブル脇に雑に放り投げてある携帯の液晶を凝視した。画面の向こうから、年齢にしてはやけに落ち着いた蓬莱の声が響いてくる。

 

「当然知ってるよ。それがどうかしたかい」

 

「いえ、雑談です。先生の発想の助けになればと思って。何か凄く神秘的じゃありませんか」

 

 露伴は原稿に目を戻すと再びペンを動かした。

 

「確かに神秘的だな。その()と呼ばれる、いわば発声によってコミュニケーションを取ってるとされている。まるで人間的な営みだ」

 

「よくご存じですね」

 

「昔ホエールウォッチングに行ったことがある。その時に調べた」

 

 へえ、と愛想ない返事が返ってくる。

 

「今調べました。特にザトウクジラなんかのそれが()と呼ばれるらしいです。目的ははっきりとは分かっていませんが、一種の求愛行動のようなものと考えられてるみたいですね」

 

「ただクジラに限らず、海というのはそれ全体が神秘的だ。現代の科学力をもってしてもその9割が未解明と言われるくらいだからな」

 

 露伴は再度ペンを置いた。海の神秘を、身をもって感じたことは何度かある。それでもなお、そこに秘匿された未知には露伴も好奇心の疼きを隠せない。

 

「またどこか出掛けてみるのもありかもしれないな」

 

 露伴はぼやいた。

 

「何か言いましたか?」

 

 蓬莱が聞き返す。なんでもない、と露伴は答えた。

 

「打ち合わせはもう終わりでいいか。仕事に戻りたい」

 

 通話が切れると、露伴は椅子にもたれて窓の外を眺めた。

 

「クジラの歌、ね」

 

 指先でペンを遊ばせる。思い出すのは、“海の神秘”に触れた数年前の夏の記憶だった。

 

「どこだったかな。確かここの――」

 

 机の引き出しを開けてファイルを取り出す。名刺をファイリングしているものだ。その中から特徴的なクローバーの描かれた名刺を取り出す。

 

「いや――“神秘”は海にも限らないな」

 

 露伴は立ち上がると、東に面した窓を開けた。風に乗って独特な磯の匂いが流れ込む。その匂いを感じながら、露伴は数年前のあの日を想起した。

 小笠原諸島に取材で向かったときの、海上での出来事――

 

 

 

 

 小笠原諸島の父島と本土を結ぶ連絡船「おがさわら丸」の上で、露伴は太平洋を眺望していた。目的はホエールウォッチング。小笠原諸島海域は国内でマッコウクジラが見られる、数少ない場所だった。小笠原諸島へのアクセスは父島へ向かうこの「おがさわら丸」に乗るほかない。片道24時間で、本土へ戻る船が島を出るのは最短でも上陸から2日後。往復で計2日をまるまる船上で過ごすことを考えれば、最低でも5日は拘束される計算になる。国内だというのに下手な海外よりも遠い。なかなかの大旅行だ。

 

 昼前に出港した船は、2時間ほどで東京湾を抜けて太平洋へと進出。外洋に出てじき3時間になる。

 船はかなりの大型である。デッキは7層にも分かれており、客室もランク付けがされ様々だ。船内設備も売店やレストランなど充実している。乗客の数は400に近かった。1週間に1便程度だから人が集中しやすいのもそうだが、特に今はマッコウクジラがよく目撃される季節ということも関係しているだろう。

 

 最初は人々で溢れかえっていた外デッキも今は閑散としていた。現在はぽつぽつと、まばらに乗客が点在しているばかりである。親子連れであったり、カップルであったり、また露伴同様一人旅であったり。彼らは思い思いに船上でのひとときを過ごそうとしていた。陸地から離れて電波も届かず、誰もが暇を持て余していた。船の上というイレギュラーな状況に対しての興奮も既に冷め切っている。

 

「お一人ですか?」

 

 柵に体をもたれて海を見る露伴の横に女性が立った。横目に彼女を見やる。小柄な若い女性だ。彼女は返答を待たずに露伴の隣で同じように柵に体を預けた。

 

 

「海ってホント広いですよね。地球は7割海でしたっけ。3割に70億人がひしめいてるんだ」

 

「可住地面積はもっと狭い。地球全体での数字は知らないが、日本におけるそれは国土の3割程度だ。そこに1億2000万人が住んでる」

 

「へえ。物知りなんですね」

 

「君が知らないことを知っているだけで物知りとは言わない」

 

「確かにそうですね。その理論では貴方が知らないことを私が知っていれば、私も物知りになってしまう」

 

 例えば、と言って女性は手に提げたバックから名刺を取り出した。

 

「こういうのはご存じですか」

 

「“傘山 十葉”読めないな。なんと?」

 

「“とよ”です。ですが聞きたいのはそこではありません。こっちです」

 

 十葉は差し出した名刺の右下を指さした。植物の絵がプリントされている。

 

「まず何の植物かお判りになりますか?」

 

 名刺を受け取り、そのイラストを観察する。緑色の葉が10枚。1枚1枚はハートのような形をしている。

 

「判らないな。何の植物かな」

 

「クローバーです」

 

「クローバー?それにしては枚数が多くないかい」

 

 まさか初見でクローバーだとは思うまい。三つ葉や四つ葉のイメージが強い。

 

「クローバーは葉の枚数によってその意味が変わるんです。ご存じでしたか?」

 

「いや、そうなのか。知らなかったな」

 

「10枚は“完成”や“成就”を意味するそうです」

 

 意外にも興味深い話だ。電波が通るようになったら調べてみよう。

 

「君の名前もそこからかい」

 

 露伴は名刺から顔を上げた。十葉は首を横に振る。

 

「両親がそれを知っていたかは分かりません。教えてくれたのはある人なんです」

 

 十葉はバックから手帳を取り出すと、そこから押し花状態のクローバーを取り出した。露伴は目測で葉の数を数えた。7枚だ。

 

「今は海の向こう側に居るんですけどね。もともとあっちの人ですから」

 

 十葉は水平線の遙か向こうに思いを馳せた。

 

「7枚は何を意味するんだい」

 

 しかし露伴にとってそんな十葉の思いなど知ったことではない。そんなことよりも七つ葉のクローバーに含まれる意味が知りたかった。

 

「“無限の幸福”です」 

 

 十葉はクローバーを鼻に押し当て、深く息を吸い込んだ。満足そうに息を吐き出す。

 

「彼との別れ際に貰いました。約束したんです。いつか私を迎えに来ると」

 

「そうかい。それはよかったな」

 

 名刺を仕舞い込む。

 

「それじゃ他にもあるのか?例えば8枚や9枚」

 

「8枚は“家内安全”を、9枚は“神の運”を意味していると言われています」

 

 そうだ。思い出したように、十葉はバックに手を突っ込んだ。

 

「どうぞ。四つ葉のクローバーです」

 

 彼女が差し出したのは、やはり押し花のようになった四つ葉だった。露伴は礼を言ってそれを受け取る。

 

「四つ葉は“幸運”だったか?」

 

「はい。幸運を運んでくれるんです。みなさんにお裾分けできるよう、なるべく持ち歩いているんです」

 

「それはどうも」

 

 受け取ったクローバーを空にかざす。

 

「しかしこう言ってはなんだが、9枚の意味を知った後だとどうしても思えるな」

 

「確かに“神の運”には劣るかもしれませんが……でもきっと幸運を運んできてくれますよ」

 

 露伴はクローバーを名刺と同じ胸ポケットにしまうと、手摺りを離れた。

 

「どうもありがとう。長旅の暇潰しにはなったよ」

 

 その背中を十葉が引き留める。

 

「これも何かの縁ですし、お名前を教えていただけませんか」

 

「失礼。貰いぱなしだったな」

 

 露伴は自分の名刺を取り出した。白地に岸辺露伴の文字と、ピンクダークの少年が印刷されている。元々は名前だけのシンプルなものを利用していたが、代表作くらい描いておいたほうが分かりやすいと担当編集者が作ったものだった。貰っておいて損もないし、仕事上人と会うことも多いためしばらくこれを利用していた。

 

「岸辺露伴――あれ、もしかしてマンガ家の」

 

 名前を見て初めて気付いたようだった。もっともそれが一般的な反応だ。むしろ名前を聞いてすぐ分かるのは露伴のことを比較的知っている方だ。メディア露出も多くないため顔で気付く人間は一握りだ。

 

「独特なオーラがあるなとは思いましたけど。気付けませんでした」

 

 有名ですよね。十葉に驚いた様子はなかった。あまり関心はなさそうだ。あくまで“名前は知っている有名な人”くらいの認識なのだろう。

 

「ということはお仕事の取材か何かですか」

 

「ホエールウォッチングだ。クジラを見に来た」

 

「なるほど。クジラの取材ですか」

 

 露伴は肯く。

 

「今の時期だと……マッコウクジラですか」

 

「もう少し前の季節ならザトウクジラも見れたんだが、すっかりシーズンを逃してしまった」

 

「ザトウクジラならこの船から見れるかもしれませんよ」

 

「そうなのか?」

 

「ええ。あと1時間くらいでしょうか、八丈島付近を通過します」

 

 十葉が腕時計に目を落とす。

 

「八丈島近海はよく目撃されるそうです。運が良ければ遭遇できるかも」

 

 予定通りの順調な航行であれば、日の入り前後に八丈島付近を通過するはずだ。陸地が近付けば少し電波も拾えるかもしれない。陽は海面に向かって少しずつ傾いていた。

 

 日没は近い。

 

 露伴は潮風に当たりながら、ザトウクジラを求めて海原を見渡した。陽が水平線に近付き、船体が深い影を落とす。そろそろ諦めて船内に戻ろうか。そう考え始めた頃、デッキの前方がにわかに騒がしくなった。人々が寄り集まり、何やら海上を指さして騒いでいる。露伴は騒ぎの渦中に身を投じた。誰かに聞くまでもなく、彼らの目撃している異常は簡単に判明した。

 

 太陽が沈みかけ、薄暗くなりつつある空間で、()()はいやというほど目についた。距離は測れなかったが、船の進行上のほど遠くない海面が青白く輝いていた。

 

「なんだありゃあ」

 

 誰かが言う。

 

「イルミネーションにしては季節が早いぞ」

 

「岸辺さん、何ですかあれは」

 

 十葉が露伴の側に立つ。周りの大半がそうしているように、十葉も携帯を取り出して構えた。

 

「僕もさっぱりだ。ヤコウチュウやウミホタルなんかの類いかもしれない」

 

 どれくらいの確率で遭遇できるものなのかは知らないが、船の通過や波の刺激などで海面のプランクトンが発光する現象がある。海岸で見られる場所は観光資源にもなったりする。

 

「陽が落ちきったらもっと綺麗でしょうね」

 

 日没前には通過してしまいそうだ。話を聞きつけたのか、船内から乗客が次々と出てくる。

 徐々に空が暗さを増す。発光している海域の周辺は相対して明るくなっていった。光を目印に遠方から数匹の鳥が群れをなして飛んできた。彼らは戯れに海面をつついてみたり、光る“海”の上空を旋回したりした。船上の大勢が動画を回す。露伴らもその様子を静かに眺めた。

 

 さらなる異変はその直後に起こった。

 

 光る“海”が突如、上空へ向けて隆起を見せた。人々から歓声とも悲鳴ともつかぬ声があがった。

 “海”はまるで巨大な触手を伸ばすかのように、慌てて高度を上げようとする複数匹の鳥に襲いかかった。自然発生的な波とは全く様子が異なっていた。巨大なタコが海中から触手を伸ばしたかのような、細長い隆起だった。そして露伴には、その隆起は()()()()鳥を呑み込んだように見えた。

 

「ウミホタルでもヤコウチュウでもないみたいだな」

 

 露伴の目つきが険しいものへ変わる。自然界では見たこともない挙動だ。

 

 露伴は人々をかき分けて進んだ。手摺りからできるだけ身を乗り出し、その“海”を睨んだ。

 船が“海”へと接近する。何が起るか分からない。露伴は好奇心に駆られながらも身構えた。

 

 船の先端が“海”へとさしかかる。露伴は再び船上を移動し、海面が見おろしやすい位置を陣取った。

 

「確かにイルミネーションみたいですね」

 

 十葉がその横から覗き込む。船体が“海”を裂くように進む。海面は沈黙している。

 

 “海”は広かった。全長100mを超える船体がすっぽり入る。周りからすれば、イカ釣り漁船のように船が輝いて見えるだろう。神秘的な光景だ。乗客だけでなく、船員まで外デッキに出てきてその光景に見とれていた。

 

 誰もが気を抜いていた。しかし異変は、やはり突如として起こった。鳥を呑み込んだとき同様、海面が隆起した。しかし今度は触手のように細長いものではない。壁だ。巨大な壁が船を囲むようにして、“海”が盛り上がった。誰かが絶叫した。

 

「これはッ!!!!」

 

 大型の船を“海”は軽々と包み込んだ。上空10数mか、それ以上の高さまで“海”の壁が隆起する。船上は阿鼻叫喚となった。人々が一目散に船内へと通ずる扉へ走る。しかし全員が一斉に駆け込んだために扉周辺は飽和した。

 

 空が“海”に包まれた。露伴はしかし、その場から動かなかった。

 

「岸辺さん!!」

 

 十葉が叫ぶ。

 

「船内に逃げ込んだところで、呑み込まれたら一緒じゃあないか」

 

 むしろ閉鎖空間に逃げる方が危険にも思える。

 

「自然の海が発光し、鳥や人に襲いかかるってのはどういう理屈なんだ。巨大な怪物って方が納得いくぜ」

 

 クラーケンとかいう巨大なタコのような怪物の伝承があったな。他にも巨大生物や未確認生物の話は各地で聞く。海はそれだけ神秘の空間である。

 

「こいつが怪物だろうと災害だろうと、どうも逃げるってのは気にくわないな」

 

 “海”が上空から船に降り注ぐ。人々が叫ぶ。どちらにしろ一か八かだ。ギリギリまで“海”の接近を待って、露伴は叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 手応えがあった。露伴はほくそ笑んだ。

 

「生き物だ」

 

 それならば勝機もある。

 

<船に危害を加えない>

 

 これで安泰だ。そんな露伴の余裕も束の間だった。“海”は止まらない。

 

「なにぃ!!??」

 

 “海”が船を、露伴を呑み込んだ。激流に攫われる。世界がひっくり返る。

 

 全身が青白く光る世界に包まれた。身体の上を何かが這うような感触がした。露伴は水中で目を開けた。そうして初めて、発光する“海”の正体が分かった。

 

(こいつら――群体か!!)

 

 海中には無数の、極小の生物が浮遊していた。エビのような見た目に、長い触手が頭部から一対伸びている。体長5mmにも満たないそれらは全身を青白く光らせながら露伴の全身にまとわりつくように群がった。おそらくプランクトンに分類されるだろう。

 

(光る海――確かそんな現象があったな。あれはバクテリアだったが)

 

 露伴はいつだったか本で知った“乳白色の海(milky sea)”を思い出した。それは船乗りの間で古から語り継がれる幻の海。現代においては人工衛星から観測されることもある、海の一部が乳白色に発光する現象。しかしその正体は未だ解明されておらず、もっとも有力な説としては発光する性質を持つバクテリアの大量発生が原因ではないかと言われている。だが既知のバクテリアが発光するには、自然には発生しえないほど異常なまでに高濃度に密集する必要がある。さらに“乳白色の海(milky sea)”は非常に広大な範囲にかけて発生する。渡りきるのに6時間ほどかかったという記録もある。神秘の海による、謎多き現象の一つである。

 

 どうりでヘブンズドアーで襲撃が止められないわけである。一度に書き込めるのは一体まで。数匹に書き込んだところで、この数を前にしてはまるで意味をなさない。

 

(どうする。一匹一匹ではキリがないぞ)

 

 “海”が生物群体だと判明したところで、現状打破の手段は見えてこない。そもそもこいつらの目的は何なのだ?

 

(捕食か?そうでもなければ僕らや鳥を襲う動機がない)

 

 生きた大型生物を補食するプランクトンなど聞いたことはない。しかしその最悪のパターンを想定しておくべきだ。海面が高く隆起した段階で、すでにこの生物は既存の生物の能力を逸脱している。

 

 露伴は海面を目指そうと足掻いた。しかし海中において平衡感覚は失われ、海面がどの方向なのかわからない。

 

(このままでは溺れる――ッ!!)

 

 どうにかこの“海”から逃れなくては。露伴は無酸素状態の中で思考を巡らした。

 目を開ければ、不鮮明ながらも海中の様子は観測できた。船はその全身を蛍光色に浸らせ、人々は皆放り出されて漂っている。中には露伴同様もがいている影も見えたが、ほとんどは気を失っているようだった。

 

(プランクトン――()()がいればあるいは)

 

 水中で身体を捻らせながら露伴は可能性を探す。それとほぼタイミングを同じくして、その()()()は姿を見せた。

 

 露伴の眼前を、深く大きな影がゆっくりと横切った。全長約14m、全身黒色で腹部に白い線の入ったその、文字通り巨大な()()()は、斑状の白いコブを持った口を大きく開けて光る“海”を呑み込んだ。

 

(どうやら僕はとことんツイているみたいだ)

 

 まさにこれを待っていた。“海”に沈む前からずっと。

 

(どこかにいるとは思っていたよ――ザトウクジラ)

 

 八丈島近海で目撃数の増加している世界最大級の生物種。クジラ類の中でも特に活発なことから“はしゃぎクジラ”の異名を持つその大きな生き物は、ときに大型のプランクトンを補食した。

 

(ヘブンズドアー。食らえ!跡形もなくなるまで!!)

 

 周辺のプランクトンを食い尽くす。ヘブンズドアーを発動し書き込む。ザトウクジラは少し遊泳スピードを上げ、露伴の回りを旋回するようにして“海”を食らった。

 露伴の背丈の何倍もある巨大な空洞の中に“海”が吸い込まれる。しかしあまりにも“海”は広い。露伴の周辺からはある程度発光生物は取り除かれたが、しかし全てを呑み込むには及ばない。捕食ペースも早々に落ちているように見える。やはり一個体では限界がある。

 

(それに、こいつ自体が“海”の捕食対象である可能性もある。マズいぞ――)

 

 確かにこのクジラはプランクトンを補食するが、しかし相手は100mを超える大型船をも襲う。せいぜいその1/10程度の大きさのクジラが攻撃対象でもおかしくはない。

 

(息が!!!……)

 

 口から気泡が溢れる。限界が近い。

 “海”はなおも青白い輝きを放つ。露伴は徐々に視界が狭まるのを感じた。どうにか気力を振り絞り、意識をつなぐ。広大な“海”を前に、露伴はどうしようもなく無力であった。露伴はしかし、それを認めようとはしない。

 

 切り抜けなくては。僕は決して少年マンガの主人公ではない。友情だの努力だのとは無縁だ。ときには無情な現実に押し潰されそうにもなる。誰かはそれを“運命”と呼ぶ。だがそんな、まるで最初から決められていた展開に沿うような人生はまっぴらごめんだ。

 

 露伴はヘブンズドアーをクジラへ向ける。

 

(僕は今、最高の体験をしている!!)

 

 ここで死んではならない。この体験がより“面白いマンガ”を描くための原動力になるのだ。まだ僕は成長できる。もっと“面白いマンガ”を描ける!!

 

(ヘブンズドアーッッ!僕の体を海面まで押し上げろ!!!)

 

 周りを回遊していたザトウクジラが背部に露伴を乗せて海面へと上昇する。5秒としないうちに、露伴は“海”から解放された。新鮮な空気に頭がクラクラする。

 

 やっとの思いで海面まで浮上できた露伴だったが、しかし“海”は彼を逃そうとしなかった。再び海面付近の“海”が迫り上がり、露伴を襲う。鳥を襲ったとき同様、細長い触手が露伴の首元を覆う。

 “海”には質量があった。首が絞まる。“海”は露伴を再度海中へ引き摺り込もうとした。露伴はそれに抵抗する。

 

「こいつらのこの執念!!マズい――このままでは――ッ!」

 

 抵抗空しく露伴は再び海中へと引き戻された。訓練もない露伴では二度目の長期潜水には耐えられない。

 

(だめだ。強すぎる!)

 

 意識が遠のく――――

 

 そのとき、低い地響きのような音が震動となって伝わってきた。露伴の意識がほんの少し取り戻される。音は小刻みながらリズミカルに繰り返されている。

 

 音の発生源は露伴の足下に居た。クジラだ。クジラが鳴いている。

 

 クジラがくぐもった、短い鳴き声を発するたびに、それに合わせて“海”全体が震える。全長14mの巨躯から生み出されるその音色は、確かに生き物の鳴き声でありながら、何かしらの電子機器の警告音にも似たような不思議なものだった。

 彼が何をしているのかは露伴には分からなかった。しかしその音に、露伴はどこか安心感を覚えた。

 

 視界が黒に覆われる――――

 

 

 

 ――――――――意識を取り戻すと、露伴は海上を滑らかに進んでいた。

 

 体の下に固い感触を認め、上体を起こす。潮風が濡れた顔に吹き付けた。陽は水平線の向こうにほとんど隠れている。

 露伴は自分がクジラの背中に乗っていることを認識した。先刻の彼だろうか。再び海面まで持ち上げてくれたようだ。

 

 助かった。ほっと一息吐く。

 

 それから露伴はあたりを見渡そうと姿勢を変えた。足に何かがぶつかる。後ろに目を向けると、十葉が倒れていた。その後ろにも2人ほど乗っている。

 

「おい、大丈夫か」

 

 十葉の体をそっと揺らす。目は覚まさなかったがまだ息をしていた。それからあたりを見渡す。その光景に露伴はえもいわれぬ感情を覚えた。

 

 何十頭というザトウクジラが人々を背中に乗せ、露伴らと並走していた。

 

「あるのか……こんなことが」

 

 イルカが人を助けるという話は聞いたこともある。クジラも同じ哺乳類であることを考えれば、人を助けるというのはあり得ないことではなかったが、しかし何百人という人間を助けるために、クジラが群れをなして協力するというその光景は信じがたいものだった。

 

「僕は何もしていないぞ」

 

 ヘブンズドアーによる命令ではない。彼らが自ら、“海”に溺れる人々を助けたのだ。露伴は自身を運ぶクジラに目を落とす。

 

「助けてくれたのか。君が」

 

 露伴が気絶する直前に彼が発していたのは、きっと仲間を呼ぶ声だったのだろう。確信はない。しかしそうでもなければ、この()()と呼ぶにも相応しい彼らの行動を説明できるものはなかった。

 

 十葉が唸る。ふと、露伴は彼女の顔にクローバーが張り付いていることに気付いた。剥がしてみると、四つ葉のクローバーだった。露伴は自分の胸ポケットを探る。入っていたのはぐしゃぐしゃになった名刺だけだった。露伴はそれを、ほとんど隠れた太陽の僅かな光に晒す。

 

「“幸せを運ぶ”、か」

 

 そういう解釈もありかもしれないな。何も神秘は海だけのものではない。

 

 前方をカモメが飛んだ。陸が近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 平らな紙の上に印字された“傘山 十葉”の文字列から露伴は目を上げた。ふと思い立って、本棚から小笠原諸島のパンフレットを引っ張り出す。机の上でそれを開き、中に挟まった四つ葉のクローバーを取り出す。あの時、クジラの背の上で手にしたものだ。

 

「海の神秘――」

 

 “海”が何だったのかも、クジラが人々を助けた行動原理も未だに分からない。

 

「これだから面白い」

 

 口角が吊り上がる。この世界はまだまだ謎で満ち溢れている。“日常”から少し離れるだけで、そこには多くの未体験が待っている。

 

「つくづく僕は懲りないみたいだ」

 

 何度命が危うくなろうと、その体験をマンガのネタに昇華したときのあの高揚に変えられるものはない。最高の作品を読者に提供し続けられるのなら、命ある限りなんでも首を突っ込むだろう。

 

 彼女は元気にしているだろうか。クローバーを頭上にかざし、十葉を思い出す。また彼女らに会いに行ってやろう。どうせなら船旅で、()()()()を期待しながら。そのためにも計画を練ろう。前回以上の休暇が必要だ。いま何ヶ月分の原稿が描けるだろうか。全てを海路で行くのは不可能だが、それでも1ヶ月は最低欲しい。そうと決まれば早速仕事に取りかかろう。いや、その前に――

 

 露伴はクローバーをパンフレットに戻すと、開けていた窓を閉めた。

 部屋の中は潮の香りで満ちていた。

 

 

 

 




あけましておめでとうございます。

雪ヤベーすね

今年はまだ始まったばかりですが、1年間諸々の私情によりあまり執筆に時間を割けないと思われます。遅筆なのは毎度のことで、常々更新を待たれている皆様には大変申し訳ないのですが、そんなわけで今年は年内にもう1本更新されたら万々歳くらいの気持ちでいてください。お願いします。

一段落着いたらまたお知らせします。3月には原作も新作書き下ろしが発表されますし、おそらくまた年末に某地上波様がやってくださるんじゃねーかとは思いますので、公式成分を沢山堪能してください。そのたびにこの作品を思い出してもらえたら僕としては最高に嬉しいです。








1本――――――年内にもう1本は頑張ります


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another:22 《片袖机》

古老傳曰 近江國伊香郡 與胡鄕 伊香小江 在鄕南也 天之八女 倶爲白鳥 自天而降 浴於江之南津 于時 伊香刀美 在於西山 遙見白鳥 其形奇異 因疑若是神人乎 往見之 實是神人也 於是 伊香刀美 卽生感愛 不得還去 竊遣白犬 盗取天羽衣 得隱弟衣 天女乃知 其兄七人 飛昇天上 其弟一人 不得飛去 天路永塞 卽爲地民 天女浴浦 今謂神浦是也 伊香刀美 與天女弟女 共爲室家 居於此處 遂生男女 男二女二 兄名意美志留 弟名那志登美 女伊是理比咩 次名奈是理比賣 此伊香連等之先祖是也 後 母卽捜天羽衣 着而昇天 伊香刀美 獨守空床 唫詠不斷

                                      — 帝皇編年記

  

 

 

   *

 

 

 読めない女だ。露伴はそう思った。

 

 眼前に座る彼女は、露伴の出したミネラルウォーターを上品な動作で口にした。初夏の暑さの中で汗ひとつかいていない。先程までの取り乱していた姿とはまるで別人である。

 

「それで、名前もまだ聞いていないわけだが」

 

 彼女がコップを置いてから一拍の後、露伴は尋ねた。

 

「上野桜実と申します。桜に果実と書いて“おうみ”。突然伺ってしまって大変申し訳ありません」

 

 桜実と名乗る彼女は露伴に対し深々と頭を下げた。

 彼女の来訪は本当に突然だった。はじめ、インターホンのカメラの向こうに立っていた彼女は半狂乱で叫んでいた。警察へ電話しようかとも一瞬考えたが、露伴は彼女の様子に違和感を覚え、一度落ち着かせて話を聞いてみることにした。

 

「お互いあまり時間もないでしょう。無礼は承知ですが、単刀直入にお尋ね致します。今年の2/16に、机を買われましたね。それを見せていただきたいのです」

 

 彼女の主張は最初から一貫してこうだった。つい4ヶ月ほど前に買った机を見せろ。それだけである。

 

「机を見せるのは構わない。だが気になるのは、どうして僕が買ったかを知っているかってことだ。あんた()()所有者か?」

 

 彼女の言う“机”とは、寝室の窓際に置いたあれのことだろう。年のはじめの時期、散歩をしている最中に偶然見付けた骨董品店で何の気なしに購入した、小さな木製の片袖机である。最近は仕事で詰まった時によく座っていて、なんだかんだ愛着が湧いてきていたところだ。

 

「主人の持ち物でした」

 

「どうなってるんだ?あの店主」

 

 郵送を頼んだために住所まで書いたことは記憶しているが、前所有者とはいえ教えて良い情報ではない。露伴はあの、いかにも偏屈そうなじじい店主の顔を思い出した。クレームの一本でも入れてやらないと気が済まない。場合によっては出るとこに出たっていい。

 

「申し訳ありません」

 

 まあ、この女の暴れっぷりを見れば教えたくもなるのかもしれないなどと考えつつ、露伴は徐に立ち上がる。

 

「今更あんたに当たっても意味ない。見たいんなら見せてやる。だが見せたらすぐに帰るんだな。それから今後は一切関わらないようにしてくれ」

 

 桜実は顔を輝かせると、ありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げた。

 

 二人は寝室へ向かう。部屋の角、腰高窓の側に机が配置されている。縁に1つ、右側に5つの計6つの引き出しがある。露伴の腰ほどの高さと、スケールこそ大きくはないが、分厚い天板や二の腕の倍近くある太さの脚など、重厚感は抜群である。

 

「開けても?」

 

 桜実は小走りで机に向かうと、引き出しに手をかけながら尋ねた。

 

「私物しか入っていないぞ」

 

 露伴は許可する。仕事関係のものや大事なものの保管場所は書斎だ。桜実は一つずつ、引き出しの中を奥まで丁寧に調べた。入っているのはノートや文房具、あとはせいぜいマンガに使う資料が散見されるくらいだ。全ての引き出しを見終えると、彼女は目に見えて青ざめた。露伴に迫る。

 

「購入された際、この中に薄い半透明な布は入っていませんでしたか?」

 

 露伴は否定した。

 

「いいや。見たことがないな。何かを新しく入れたことはあっても、出したことはない」

 

「よく思い出して下さい。絶対机の中にあるはずなんです!」

 

 そう言われても、知らないものは知らない。生憎だが、と露伴は首を振る。

 

「神に誓っていい」

 

 桜実は大きく肩を落とした。

 

「分かりました… すみませんでした。突然押しかけて」

 

 絶望した表情で桜実は部屋を出る。二人はそのまま玄関へ向かった。再度桜実が頭を下げる。

 

「あんたが何を探しているのかはよく分からんが、見付かることを祈ってるよ。だからもう僕には迷惑かけないでくれ」

 

 桜実は無言のまま俯いた。小さくお辞儀し、背を向ける。

 露伴は壁にもたれて、とぼとぼと歩く彼女を見送った。また厄介事に巻き込まれそうだ。そんな予感がした。

 

 

 露伴の予感はすぐに的中した。

 桜実が訪ね来てから数日後、朝食のコーヒーを啜っていると客人が訪れた。スーツ姿の男である。もう若くもないが、落ち着いた大人という感じでもない。とってつけたような作り笑いがどうも気にくわなかった。

 朝の7時頃の訪問であったため、訝しみながら対応した露伴であったが、彼の名乗りで事情を察した。

 

「おはようございます。岸辺露伴さんですね。私、上野“こうずけ”と申します」

 

 男が名刺を差し出す。やけに肩書きの多い男だ。中央にはでかでかと“上野上野”と書かれてあった。迷惑かけるなと言ったんだがな、と露伴は上野に聞こえないよう小さく呟いた。

 

上野国(こうずけのくに)の上野か。珍しい名前だな」

 

「親からいただいた大切な名前です。で、ですね岸辺さん。おたく、2/16に机買ったでしょ?」

 

 食い気味に本題を切り出す上野に、やはり露伴は良い印象を抱かなかった。

 

「あんたもあれを見たいのか?」

 

 彼が桜実の関係者であることは予想がついた。この男が桜実の夫、つまり机の前の所有者だろうか。

 

「おや、以前どなたかにお見せしたことが?」

 

 上野が怪訝な表情をする。

 

「……いや、こっちの話だ」

 

「そうですか。私はあれを返していただきたいんです」

 

「正気か?」

 

 露伴はこらえきれず小さく笑った。上野は愛想笑いのまま言葉を続けた。

 

「あれ、以前は私の物でしてね。一度売ったはいいものの、どうしても取り返したくなりまして」

 

「ああ、分かるよ。一般的な机に比べれば多少小さいが、それがむしろいい。僕も気に入っていてね。だから返すことはできない」

 

「困りましたね。元を言えば私が買った物ですから、返していただくのが妥当かと」

 

「妥当だって?」

 

 困惑せずにはいられなかった。上野の主張がまったく理解できない。

 

「立ち話も疲れるだけですから、あがらせていただきますね」

 

 上野はまるで自然な振る舞いで家の中へ立ち入ろうとした。露伴はそれを体で遮る。上野の表情が露骨に歪んだ。理屈の通用する相手ではなさそうだ。

 

「僕の家に入ることは()()()()()。机も譲る気はない」

 

「それは困ります。こんな立派な家に住んでるんだ。あんな机の一つや二つ、なくなったって困らないでしょう」

 

 暑さも相まって、露伴のフラストレーションは徐々に溜まっていた。

 

「そういう問題じゃあない。そもそも君、人に物を頼むってのにそういう態度はどうなんだ」

 

「金ですか?金が欲しいなら買いましょうか」

 

 結局金だろ、と上野は見下したような態度を見せた。露伴の眉間に皺が寄る。

 

「今の態度で決めたよ。君には絶対に譲らない。たとえ幾ら金を積まれようとも決して、だ」

 

 金は重要ではない。重要なのは物事の筋だ。上野の態度の逐一に、頼み事をする人間としての筋が通っていない。少なくとも露伴はそう感じていた。

 

「帰ってくれ。仕事があるんだ」

 

「おい待てよ。まだ話はついてないぞ」

 

 露伴は半ば無理矢理に扉を閉めた。扉の向こうで上野が舌打ちをしたのを露伴は聞き逃さなかった。

 

 上野が敷地を立ち去るのを寝室の窓から見届けると、露伴は件の机に落ち着いた。先日の桜実とのやりとりを思い出す。

 

「“薄い半透明な布”と言っていたな」

 

 しかし腑に落ちないのは、桜実とは異なり上野が要求してきたのが机その物の譲渡である点だ。上野と桜実の目的は同じではない?

 

「この机――」

 

 まったく何の変哲もない、普通の机に見える。二人があそこまで執着する目的はなんだ?露伴は桜実がしていたように引き出しを開けてみた。5ある引き出しの中身をすべて取り出し、奥まで覗き込むが、やはりそれらしいものは見当たらない。では側面は?机のあちこちを掌で探るも、特に変わった様子は見られない。

 

「やはりただの机だ」

 

 首を傾げるしかなかった。だとすれば“薄い半透明な布”はむこうの思い違いか。もしくはあの骨董品屋の店主が見付けて取り出したかだが、露伴の住所を店主から聞き出したと仮定すればその可能性は低そうだ。露伴は気を取り直すと、背面を確認すべく机を壁から離した。見た目から十分な気合いと力を込めていざ持ち上げてみると、机は想像以上に軽かった。え?と思わず声が漏れる。勢い余って後ろによろける。

 

 軽すぎる。

 

 バランスを取り直し、机を着地させた。搬入時は業者に頼んだため自分で動かすのは初めてだった。軽く30㎏はあると考えていたが、持ち上げた感じどうも10㎏そこらである。露伴は天板に手を添えた。厚みは10㎝ほど。中の詰まった木ならこんなに軽いはずがない。試しに中指の第二関節で天板をノックしてみた。一見厚み通りの響きのようにも聞こえるが――

 

「空洞だ」

 

 間違いない。微妙に響きが良い。なるほど隠し収納かと露伴は感心した。桜実はおそらくこの存在を知らないのだろう。そして問題はこれをどう開けるかである。露伴は回り込んで背面を確認した。それらしきものは見当たらない。露伴はもう一度、引き出しの中を覗いた。今度は引き出しの奥ではなく、天井に注目する。見た目にはわからない。露伴は手を差し込むと、内側から天板をノックした。明らかに軽い音がする。

 

 「ヘブンズドアー」

 

 露伴はそのヴィジョンを引き出しの中に潜り込ませた。

 

「仕掛けらしいものは特にないが……」

 

 内側から天板を探る。思い立って掌を当てて手前に引いてみた。

 

「ビンゴだ」

 

 板が外れ、天板の中の空間が現れる。できた空洞へ、さらにヴィジョンを滑り込ませた。空間の奥に物体を確認する。露伴はそれを、ヘブンズドアーのヴィジョンに運び出させた。出てきたものを見て露伴は確信した。薄い半透明な布。桜実の探していたそれである。引き出しを元に戻すと、布をそっと机の上に広げた。絹製だろうか、滑らかな肌触りだ。布は非常に薄く、そして細長かった。とても机の上では広げきれない。いっぱいいっぱいに広げた状態で、露伴は腕を組んだ。これは桜実にとっての何なのだろうか。美しさこそ感じないこともないが、人を惹き付けて止まない何かがあるとは思えない。それとも思い入れのあるものなのだろうか。ともかく、特別な何かがあるようには見えない。

 

「とりあえず保管しておこう」

 

 釘を刺したからにはもう一度があるかは分からないが、また彼女が訪ねてきたら今度は返してやろう。それまでは、もうすこし環境の良い場所に置いておこう。露伴は布を抱えて寝室を出た。

 

 

 

 

 翌日、いつものように“カフェ・ドゥ・マゴ”で打ち合わせをしている露伴の元に、上野は再び姿を現わした。偶然だ、と声をかけてきた上野であったが、露伴の家からそう遠くない場所である。偶然であるはずがない。

 

「知り合いの方ですか?」

 

 居合わせた編集の旭蓬莱(ほうらい)の問いに、露伴は答えなかった。ただじっと上野を見上げる。意に介した様子もなく、上野は二人のテーブルにさも自然に腰かけた。ワイシャツのボタンを緩めつつ、側を通りかけたウエイトレスを呼び止め、なんか冷たい物ちょうだい、と注文する。

 

「アイスコーヒーでよろしいですか?」

 

「なんでもいいよ。面倒くさい」

 

 ウエイトレスを追いやり、暑いですねえと二人に笑顔を向けた。蓬莱が愛想笑いを返す。

 

「考えていただけました?岸辺露伴さん」

 

「言っただろう。譲る気はない」

 

「そこまで言うなら言い値で払いましょうか」

 

「断る」

 

 露伴は目もくれずに答えた。ただならぬ空気を察したか、蓬莱の笑顔が引っ込んだ。

 

「ここまで譲歩したのにですか。あんたも我儘だ」

 

 露伴は紅茶を飲みながら静かに上野の言葉を聞いた。カップを置き、それから一言。

 

「分からないな」

 

 その間も露伴は上野に目もくれない。

 

「あの……露伴先生、この方は――」

 

 いまいち状況を理解しきれない蓬莱が、おずおずと尋ねる。その言葉尻を遮るように、ドン!と上野がテーブルを叩いた。

 

「こっちが下手に出りゃいい気になりやがって……あんた何がしたいんだ」

 

 初めて露伴は上野に目を向けた。

 

「それはこっちのセリフだ。あんたが欲しいのは本当に“机”なのか?」

 

 上野の表情が変わった。驚きとも怒りとも取れるような、険しい顔つきだ。

 

「お前――何を知ってるんだ」

 

 露伴は答えない。ただ上野の目を見詰め続けた。ウエイトレスが上野の飲み物を持ってきた。

 

「長い間妻と喧嘩していたんだ」

 

 上野は飲み物に目を落としながらそう語った。

 

「妻には一目惚れでね。互いの家には反対されたんだが、駆け落ち同然で一緒になった」

 

 上野の声は震えている。蓬莱はやはりさっぱりとの状態で、露伴と上野とを交互に見ていた。

 

「二人ともほとんど身一つな状態だったが、妻にはどうしても持っていきたいものがあった。それがあの机でね」

 

 露伴の様子を窺うように、上野は上目遣いで露伴を見上げた。露伴はいたって冷静に彼の目を見詰め返した。上野はすぐに目を逸らす。

 

「祖父の形見だとかで、とても大切にしていた。最初は二人ともうまくやれていた。だが生活を重ねるうちに、どうしてもうまくいかなくなった。当然でしょうね。無計画な駆け落ちだったんだから。家計が苦しくなって、妻とは喧嘩が絶えなくなった」

 

 上野が鼻をすする。蓬莱があわててポケットティッシュを取り出した。それを手で遮り、上野は話を続ける。

 

「ある日大きな喧嘩をしてね。私は腹いせにあの机を売り飛ばした。ほんとにちょこっとだが、値が付いたのは覚えている。私がどうかしてたんだ。当然、それを知った妻は出ていった」

 

「あの……鼻かんだほうがいいですよ」

 

 蓬莱が再びティッシュを差し出す。今度はそれを受け取った上野は、大きな音を出して鼻をかんだ。

 

「失礼。妻が今どこで、何をしているのかは知らない。あれっきり音沙汰なしだ。勿論私が全面的に悪いことは分かっている。だがどうしても諦めきれない。あの机を取り戻せば彼女が戻ってくる。もう一度やり直せると思ったんだ」

 

「露伴先生、話がよく見えないんですが、この方の言う“机”を露伴先生が買われて、それを返して欲しいという、そういう話ですか?」

 

「そうだ。古物商を通してな」

 

「あの――余計なお世話だなとは思うんですが、今の話を聞いてお返ししてもいいんじゃないかなと思ったんですが」

 

 蓬莱の言葉に上野は顔を上げた。露伴はそれを鼻で笑った。

 

「どんな理由があろうが僕には関係ないね。今は僕の所有物だ」

 

 ところで、と露伴は上野に尋ねる。

 

「あんたの奥さん、名前は何て言うんだ」

 

「桜実だ。桜の果実で桜実。それがどうした」

 

 なるほど。露伴は合点した。

 

「やっぱり譲れないな」

 

 それだけ言うと、露伴は荷物を片付け始めた。それを見た蓬莱が慌てる。

 

「え!先生!打ち合わせは!?」

 

「この状況でどう打ち合わせするんだい。仕切り直しだ」

 

 伝票を片手に露伴は席を立つ。上野が睨み付けてくる視線を他所に、露伴は颯爽と会計へ向かった。蓬莱も上野へ簡単な挨拶をして後を追う。

 

「岸辺露伴さん!またお邪魔しますから!」

 

 叫ぶ上野を、露伴は一瞥した。笑顔の上野の目は笑っていなかった。

 

「先生!あれじゃああんまりでしょう!1」

 

 店を出たところで蓬莱が抗議する。露伴は立ち止まることなく、駅の方面へ足を向けた。

 

「上野桜実だ。君は彼女を調べてくれ」

 

「調べるって――何を調べるんですか?」

 

「県警のホームページに行方不明者の一覧が載ってるはずだ。できれば全部の都道府県を調べて欲しい」

 

「先生、まったく意味が分かりません」

 

 とにかく説明不足が過ぎます、と蓬莱は露伴を責めたてた。

 

「今は何も聞かなくていい。とにかく君は上野桜実が行方不明かどうかを調べるんだ」

 

「ですが――」

 

 露伴は足を速めた。蓬莱は既に小走りだ。

 

「僕は別の用事がある。そっちは君に任せたよ」

 

「用事って。打ち合わせの続きはしないんですか??」

 

「続きってのは、君が1週間考えてきたネタを披露するあれのことかい?いらないよ」

 

 腕時計に目をやりながら、露伴は手を振る。

 

「解散だ。あとで結果を送ってくれ」

 

 こうなった露伴はもうダメだ。蓬莱は立ち止まり、駅へ向かう彼を見送った。

 

 

 

 

 

 家に空き巣が入ったとの報が入ったのは、それから2時間も経たないうちだった。出先で既に目的を果たしていた露伴は、帰路につく途中でそれを知った。

 ホームセキュリティを導入していたためすぐに警察が駆けつけたものの、犯人は逃走したとのことだった。被害状況はリビングの窓ガラスの破損と、寝室のクローゼットが荒らされていたのみ。上野の他に居ないだろう。報告を聞いてすぐに思い至った。

 露伴の進行方向の先には太陽があった。夏にさしかかった杜王町は異様に蒸し暑い。家に帰るまでの道で蓬莱に電話をかけると、彼は既に上野桜実の名前をA県の行方不明者リストに見付けているようだった。露伴はそれから、自宅に空き巣が入ったことを報告した。

 

 蓬莱との電話を切った頃には、家のすぐ側まで来ていた。曲がり角にさしかかる。

 

 と、目の前に人影が飛び出してきた。露伴と正面から衝突する。突然の事態に、露伴は受け身も取れず尻餅をついた。

 

「僕の家を随分と荒らしてくれたようじゃあないか」

 

 相手は他でもない上野だった。露伴は胸元のペンに手を伸ばした。

 

「あんた、あの()をどこにやった」

 

 あの布のことだろう。書斎の方に移していたが、露伴はそれを教えることはしなかった。

 

「さあな。何のことだかわからない」

 

 警戒しながら、露伴は片膝立ちの姿勢をとって上野を見上げた。太陽を背に立つ上野が右手に刃物を握っていることに気付いた。刃先から液体が滴る。そのときになって、露伴は脇腹の違和感に気付いた。熱い。発熱部分を確認する。真っ白なシャツの1ヵ所に、赤黒いシミが広がっていた。

 

「ぅおおおおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 腹を抱えるように蹲りながら露伴は叫んだ。その顔面を上野が蹴り上げる。脳が揺れた。

 

「るせえなあ。その程度で痛がんじゃねえよ」

 

 上野は正面にしゃがみ込むと、露伴の顔を覗き込んだ。

 

「店のじじいも服のことは知らなかった。あそこに入ってるって知ってたのは俺だけだ。取り出したってんならテメェしかいねーんだよ!」

 

 上野の顔つきはこれまでとはまるで別人だ。イカレてる。露伴は焦った。ヘブンズドアーは奇襲には弱い。このままでは反撃もままならない。刺された腹部からの出血が多いのか、意識もはっきりしなくなってきている。非常にマズい。殺される。

 

 とにかくヘブンズドアーを。うまく動かない体を鞭打ち、ペンを握った右手を上野に向ける。露伴の不審な動きを察知したか、上野は露伴の髪を掴むと顔を地面に叩きつけた。

 

「ゴフッ!」

 

 一瞬意識が飛ぶ。声も出ない。

 

「なあ岸辺露伴さんよお。あんたマンガ家なんだってなあ。手、大事だろう?」

 

 少しの気絶の間に露伴は組み敷かれていた。上野は露伴の右手に対しこれ見よがしに刃物をあてた。

 

「止めろぉぉッ!!」

 

 叫んだつもりだった。だが喉から漏れるのは空気ばかりだ。

 

「どいつもこいつも俺から大切な物を奪いやがって!吐け!!今なら指の一本で許してやる!!!!」

 

 かつて一度だけ、“レッドライン”を越えたことがある。あの時は全治4週間のケガで済んだ。露伴はそのことを振り返った。利き手は命よりも大切だ。上野の温情があるうちに答えて、解放して貰うのが何よりだ。交渉次第では傷ひとつなく許してもらえるかもしれない。この先のキャリアを考えれば、その選択が最善択だ。

 露伴の中にある恐怖心が心の中から語りかけてくる。さあ声を出せ岸辺露伴。泣いて許しを請えば、目の前のこの男は最低な行為だけはしないでくれるだろう。上野もそれを待っている。だが――――

 

 

 だが断る。

 

 

 声が出なくとも、上野にもはっきりと分かるように口を動かした。

 

「殺してやる!!」

 

 上野が吠えた。ざまあみろと露伴は笑った。自分も死ぬかもしれないが、この男の言いなりはもっとごめんだ。

 

 露伴が覚えているのはここまでである。

 

 

 

 

 

 

   *

 

 

「思ってたより元気そうで何よりです」

 

 “亀友”と書かれた紙袋を枕元の床頭台に乗せる蓬莱は嬉しそうに露伴の顔を覗いた。

 

()()()()だって?冗談じゃあない」

 

 顔面のほとんどを包帯に覆われ、左目と口だけを覗かせた露伴は、リクライニングベットの上で半身を起こしてノートの上にペンを走らせていた。

 

「そんなこと言いながらめちゃくちゃ描いてるじゃないですか。仕事も手につかなくなるくらいショック受けてたらどうしようかと思ってました」

 

「暇なんだよ。本当は原稿を描きたいが、インクがシーツに移ったら困ると怒られた」

 

「仕事熱心ですねえ」

 

 蓬莱は紙袋から“ごま密団子”の箱を取り出した。

 

「それ持ってくるかぁ~?普通」

 

 それを見た露伴は顔をしかめた。有名な和菓子ではあるが、見舞い品にチョイスするものでもない。

 

「ダメでしたかあ。美味しいって聞いたんでつい」

 

「固形物すらしばらく口にしてないんだぜ?そーゆーのさあ、気遣うもんじゃあないか」

 

「やあすみません」

 

 悲しそうに床頭台の上に戻す。二人は無言になった。

 

「ともかく生きてて良かったですよ」

 

 不幸中の幸いだった。空き巣の件で警察が警戒していたこともあり、叫び声を聞いた警察がすんでの所で駆けつけたらしい。またしても上野は取り逃がしたようだが、右手は傷なく済んだ。上野は今も逃走を続けているようだ。

 

「上野桜実のこと、教えてくれませんか。ずっと気になってて」

 

 蓬莱はごま密団子の箱に再び手をかけた。

 

「どうして彼女を調べたんですか?」

 

「カフェで会ったあの男――上野上野は彼女の夫で、一度売った机を取り戻したがっている。ここまでは君もなんとなく知っているだろう」

 

「二人の会話で何となくは」

 

「あの後君と別れてから、件の机を買った骨董品店を訪ねた。上野が売りに出した店とおそらく同一だ」

 

 身をよじって蓬莱に体を向ける。刺された脇腹はまだ痛んだ。

 

「店は休業していた。近所の住人に話を聞くと、店の主人が突然いなくなったらしい。行方不明だ」

 

 おかしいですねと呟きながらごま密団子の箱を開ける蓬莱を睨み、露伴はノートを指さした。

 

「ここで食べるつもりじゃあないよな。僕の仕事道具を汚したらただじゃあおかないぞ」

 

「上野上野に上野桜実、それにその店主。みんなどこに居るか分からない」

 

 蓬莱は露伴の言葉を無視して一人思考を整理した。

 

「先生を襲ったのは上野上野なんでしょう。なら他の二人も――」

 

「それが君の結論かい」

 

 でも、と蓬莱は呟く。

 

「それじゃあ話が見えてこない。上野上野は出て行った桜実さんに戻ってきて欲しくて、原因の机を取り戻そうとしたんでしょう?先生を襲ったのだって、先生の態度に感情的になった結果の行動とも言えなくはないでしょうし」

 

 ひとつ取り出したごま密団子を片手にしばらく考え込んだ後、蓬莱は両手を挙げた。

 

「お手上げです。奇跡的な偶然だとしか」

 

「それじゃあ答え合わせをしよう。そもそも上野が取り返したかったのは机じゃあない」

 

 上野の言動からしても、取り返したかったのは彼が“服”と呼んだ、あの長い布だ。蓬莱はへえ、と生返事を返した。煮え切らない蓬莱の態度に露伴は苛立ちを覚えた。どうにか心を鎮める。

 

「……上野桜実と会ったことがある」

 

「知り合いだったんですか?」

 

「いや。ほんの数日前だ」

 

 蓬莱が両手をあげたまま後ろにふんぞり返った。

 

「じゃあ行方不明でもなんでもないじゃないですか!」

 

「そうでもないさ。彼女は()()()()()()

 

 ()()はこの世の存在じゃあない。

 

 寝相を正した露伴を、蓬莱は不思議そうな表情で見詰めた。

 

「上野上野が本当に愛していたのは、上野桜実じゃあない」

 

 彼があれだけ狂うほど取り返したかったものは机でも、妻の上野桜実でもなく、あの布である。

 

「人って複雑ですね」

 

 やはり蓬莱はどこか興味が薄いようであった。

 

「彼女に会ったんなら、警察に言っておいたほうがいいんじゃないです?」

 

「君さあ、人の話聞いてるぅ?」

 

 顔をしかめる露伴を他所に、蓬莱はごま密団子をひとつ口に放り投げた。露伴は咄嗟に叫んだ。

 

「おいそれ、絶対前歯で嚙むなよ!嚙むときは奥歯だ!!」

 

 だが時すでに遅し。

 

 ヴッチュウンンー!!

 

 蓬莱の口から液状にされたごまが盛大に噴き出した。

 

「ンマイなああッ!!」

 

 黒い蜜が弧を描いて露伴のノートに降り注ぐ。

 

「ふざけるなぁぁぁぁぁーッ!!!」

 

 露伴のこれ以上ない叫びが病棟全体に響いた。

 

 

 

 

 

 

 






京極夏彦がやりたくなりました。

次回更新は3月目指して頑張ります。マジ。


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