磯野、野球しようぜ (草野球児)
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1話 晩夏のプレイボール

スコアボードの時計が12時を指した。

「集合!」

審判の一声に呼応し、グラウンドへと駆け出す。
甲子園球場を埋め尽くした大観衆が立ち上がり、決勝戦を戦う両校の選手に惜しみない拍手を送る。
8月25日。甲子園球場。全国高校野球選手権大会、決勝戦。

ホームベースを挟んで対戦校と向かい合う。奇しくも「あいつ」と正面で向き合う形になった。

「久しぶりだな、5年ぶりか」

「あいつ」は大一番の試合前だというのに、平然と話しかけてきた。
昔から変わらず、スポーツをするには明らかに不向きな丸縁のメガネ。その奥にある表情は読み取ることができない。

唯一無二永遠の親友、中島。
いや、高校野球史上最高のスラッガー、中島(なかじま)(ひろし)

「磯野、野球しようぜ」

決勝戦のサイレンが高々と鳴り響いた。


 俺達『あさひが丘高校』は先攻。

 挨拶を終えるとベンチへと切り返し、対する中島ら『横浜港洋学園』の選手は守備位置へと散っていった。

 

 それだけでも球場中から大きな歓声が起こった。

 中島の名前がアナウンスされると、その歓声は一段と大きくなった。

 

 この決勝戦にはこれまでに類を見ないほどの注目が集まっている。

 その理由としてまず、両校とも初出場でのいきなり決勝戦進出であるということ。「どちらが勝っても初出場初優勝の大快挙」。そのインパクトは大きい。

 

 そして、その両校の快進撃を率いたのは二人のヒーローの活躍によるものであるということ。

 まず、神奈川代表・横浜港洋学園。四番キャッチャー中島弘。

 天才的なバッティングセンスでホームランを量産。県内で中堅校としてくすぶっていた同校の甲子園出場を叶えた。甲子園でも決勝戦までに5本のアーチを描き「高校野球史上最強打者」との呼び声も高い。

 

 そして対する東東京代表・都立あさひが丘高校。この無名の公立校を激戦区東京から甲子園へと導いた原動力は、エースで四番の俺、磯野カツオ。

 150km/hを超える直球とスライダーで押し切る本格派。夏の甲子園史上初の完全試合を達成し、俺自身も「甲子園史上最高投手」との評価を受けている。

 

 つまり、この決勝は俺「磯野カツオ」対「中島弘」の対戦と言っても過言ではないのだ。

 

 

 規定の投球練習が終わり、あさひが丘高校の先頭打者が左打席に入ってバットを一度大きく回して構えた。

 球審の右手が挙がる。

 

「プレーボール!」

 

 高校最後の夏。最後の試合が始まった。

 

 キィン!

 

 初球から金属音が響き、痛烈な打球がセンター前へ。

 センター前ヒット。

 一塁側のアルプススタンドが湧き、ブラスバンドのファンファーレが奏でられる。

 

 横浜港洋学園は、中島を筆頭とした強力打線に比べれば投手陣は劣る。そこにつけ入ることができれば充分勝機はある。

 

 その勢いに乗り、出塁したばかりのランナーが完璧なスタートを切った。

 決まった。

 

 そう思った瞬間、セカンドへ矢なような送球が飛んだ。

「アウトー!」

 俊足の走者ではあったが余裕を持ってタッチアウト。

 守備も超一流の中島に、いきなりのカウンターパンチを食らわされた。

 

 中島はというと、ビッグプレーをしてみせたというのに冷静にアウトカウントを確認している。

 暫く会わないうちに可愛げのない奴になったものだ。

 

 続く二番打者はスライダーを引っかけてピッチャーゴロに打ち取られると、三番はスローカーブで三振に切って取られた。これでスリーアウト。

 緩急を巧みに使った頭脳的な配球にしてやられた形だ。

 

 まぁ、それでも気落ちすることはない。まだ一回表、高校最後の試合なんだ、しっかりと楽しもう。

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 0           0
横浜港洋             0


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2話 堀川くん

「磯野さん。今日もよろしくお願いします」

 相変わらずの丁寧な口調は、どこかよそよそしさが感じられる。キャッチャーの「堀川君」からボールを受け取った。

 

 今、自分はこのキャッチャーに「君」を付けて名前を呼んだが、堀川君はまだ一年生。自分の二つ下の後輩にあたる。

 堀川君は小学校の頃からの幼馴染。この呼び方は小学校からずっと続いているので自然と染みついてしまった。向こうもこの呼ばれ方に慣れきっているので今更変える必要はない。

 

「相変わらずだな、堀川君は」

「そうですかね。ボク、結構緊張屋なんで大変ですよ」

 

 「緊張屋」といいつつ屈託のない笑顔を見せる堀川君。そのメンタルの強さは計り知れない。

 

「頼むぞ、相棒」

「こちらこそ」

 なんとも丁寧に、ヘルメットを少し上げて会釈で返してきた。憎めない奴だ。

 

 一塁側、あさひが丘高校のアルプス席を望む。スクールカラーであるワインレッドのポロシャツで埋め尽くされ、左右にうごめいている。東京から駆けつけた大応援団の中には、磯野家の家族全員も含まれている。

 姉さんもお父さんも、タラちゃんも見に来ている。どこに座っているだろうか。

 俺と同じあさひが丘高校に入学し、吹奏楽に所属しているワカメは恐らくブラスバンドの一団のどこかにいるはずだ。

 ・・・マウンドから探しても見つかりっこないか。

 探すことを諦め、投球練習を始める。

 

 

 甲子園に来て6回目のマウンドを踏みしめる。

 神宮球場のマウンドの感触も好きだが、甲子園のマウンドが最高であることに間違いない。

 土とは思えない柔らかさ。足を踏み出した瞬間のしっくりくる感じはなんともいえない。まさに投手冥利に尽きる、というものである。

 

 今日はストレートがいつになく伸びやかだ。堀川君のミットに寸分の狂いもなく収まり、スライダーのキレも自分では制御が難しいほどに素晴らしい。

 最高の舞台に、最高のコンディションを合わせることができる自分の才能に驚く。

 

 両手をグッと広げて胸を張る。これも甲子園に来てから続けてきたひとつのルーティンだ。

「よし、いくか」

 

『一回の裏、横浜港洋高校の攻撃は・・・』

 アナウンスの声と共に三塁側アルプスで太鼓が連打され、力強い応援団の演奏が始まった。

 

 横浜港洋学園はチーム打率三割後半の強力打線。初回の先頭打者から最後まで気の抜けない戦いになるだろう。

 大きく振りかぶって第一球を投げた。

 

 ミットの音が響く。

「ストライクワン!」

 

 球場全体から「おぉ」という歓声があがる。バックネット方向のスピード表示を見ると

【151km/h】

と表示されていた。

 

「磯野さん!ナイスボール!」

 

 二球目は左打者の内角を抉るスライダー。

 バットの根本に当たり、力のない打球が三塁側スタンドに飛び込む。

 打者はスライダーのキレに驚いているようで、内角を意識した素振りを二度三度繰り返して打席に戻った。

 

 こうなれば抑えることは容易い。仕上げは、外のストレートを中途半端にスイングさせ空振り三振。ワンナウト。

 

 続く二番打者は甲子園でホームランも放っている強打者。それでも力勝負の152km/hのストレートでピッチャーフライに討ち取った。

 

 三番打者と対峙すると共に、ベンチから中島が出てきてネクストサークルへ向かう。

 威圧感は抜群。ジッとこちらを見つめて目を離さない。

 

 次打者の中島を意識しすぎたのか、スライダーが甘く入った。

 

 キィン!

 

 大きなフライがセンターへ。しまった「最後まで気が抜けない」と心に留めたはずなのに、いきなりやらかした。

 中堅手が後退すると共に歓声が大きくなり、後悔感が募る。

 

 失点の覚悟を決めた時、フェンスの手前でセンターの足が止まりグラブを構えた。そのままフェンス一杯でキャッチ。ものの数メートルという距離で間一髪難を逃れ、胸をなでおろす。

 

「磯野さん、ナイスです!」

 堀川君が親指を立てて俺を労う。

 センター最深部まで飛ばされて何がナイスだよ。と苦笑しながらも、親指を立てて返す。

 

 今、センター一杯にまで飛ばされたように、このチームは甘い球を確実に飛ばす「巧さ」がある。似非強力打線が陥りがちな「パワーだけで押し切る雑さ」はない、技術と力の共存したまごうことなき強力打線だ。

 そして、こういうチームが相手だと先取点が重要になる。

 2回表、あさひが丘の攻撃は俺から始まる。つまり、俺が打つしかないわけだ。

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 0           0
横浜港洋 0           0


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3話 5年前、キャッチボール部

 堀川くんに渡された水を飲み干し、ヘルメットを持ってグラウンドへ飛び出た。

 審判に注意されないうちに、せわしなくネクストサークルに向かう。

 

 グラウンドではまだ横浜港洋のボール回し、及び投球練習が続いている。

 勿論、中島はキャッチャーボックスでデンと構えて雰囲気を醸し出している。

 

 試合前には意識しなかったが、中島とは「あの時以来」になるか。

 

 

 

 

 

 中島とは小学生の頃から、よくキャッチボールをしていた。世間にサッカーブームが押し寄せる中、俺と中島は「野球」というスポーツに魅せられ、その虜になった。

 

 中学になって二人とも同じ学校に進むと、迷わず野球部に入部。

 希望に胸を膨らませて門戸を叩いたが、現実はそう甘くなかった。

 それまでは野球を遊びでしかやった事の無い俺達は、少年野球やリトルリーグで鳴らしていた同級生たちにあっという間に差を広げられ、レベルの一回り劣る俺達は邪魔者扱いされるようになった。

 見かねた監督から「特別メニュー」として言い渡されたのは、グラウンドの隅で毎日筋トレとストレッチ、それからキャッチボール。それが唯一許された練習だった。

 先輩はそんな落ちこぼれの俺達を可笑しく囃し立て

『お前ら2人は野球部じゃない。キャッチボール部だ』

と揶揄した。それが悔しくて不快で仕方なかった。

 

 それでも野球部を辞めることはなかった。どんな形であれ、野球に触れていることが幸せだったからだ。

 

 

 ある日のこと、同級生が先輩に交じってノックを受けているのを傍目に、中島はこんな事を聞いてきた。

「なぁ、磯野はどのポジションをやりたい?」

 試合はおろか通常の練習に参加することすらままならない自分にとって、どのポジションに就くかなんてことはまるで考えたことが無かった。

「そうだなあ・・・。やっぱりピッチャーかな」

「そうか」

 そう言うと中島はグラブを持って、距離を計るように歩数を数えながら大股で歩き出した。

「17、18っと。よし、磯野!投げてこい!」

 中島がキャッチャーさながらに座り、グラブをこちらに構える。

「いいのか?俺達キャッチボールしか許されてないだろう?」

「ボールを投げることに変わりはないんだから大丈夫だよ。それに監督は俺達の事なんか気にしちゃいないさ」

 グラウンドを気にする。誰一人こちらの事など気にしていない。蚊帳の外という言葉がピッタリな有様だ。

「それもそうだな。よし、行くぞ!」

 

 その日から、俺と中島でのピッチング練習が始まった。

「脚に開きが早いよ、それじゃあスピードは安定しない」

「踏み出した足跡を見れば、体重移動が出来てるかどうか分かるよ」

「磯野のスライダーは絶対高めに浮かないのが特徴だね。これは武器になるよ」

 どこで得たのか、中島は豊富な知識で俺を指導してくれた。その指摘もまた的確で、そこに運よく成長期が重なったこともあって日に日にボールの質は良くなっていった。

 結果が伴えば、ストレッチや筋トレといった単調な練習にも気合が入る。ついには自主的に毎晩のランニングをこなすまでになった。

 

 そんな生活が2週間ほど続いたある日。

「磯野、中島。お前らちょっと来い」

 練習後、監督に呼びつけられドキッとした。指示されたメニュー以外の練習をしていたことがついにバレてしまったようだ。どう言い訳するべきか。

「明日から皆の練習に参加しろ。磯野はピッチャー、中島はキャッチャーだ」

 

 叱られるとばかり思っていた俺は、監督のその言葉に目を丸くした。日ごろの努力が認められ、練習に参加することを許されたのだ。

 ついに普通に野球ができる、俺達はキャッチボール部から脱却したんだ!中島と言葉にならない喜びを分かち合い、胸いっぱいの希望を持って家路についた。

「じゃあな、中島!レギュラー取れるように頑張ろうな!」

「磯野、お前もエースになれよ!じゃあな!」

 

 それが中島との最後の会話になるとは思いもしなかった。

 

 次の日、登校するとそこに中島の姿は無かった。

 中島が転校した事を知ったのはその日の朝のホームルームのことであった。

 

 中島の身に、あるいは中島の周りに何があったのかは今でも知らない。

 新しい転校先も連絡先も分からず、情報といえば担任から伝えられた「神奈川へ転校した」ということのみ。

 

 転校が腹立たしかったわけではない、連絡先すら教えてくれなかったことに怒りを覚えたのでもない。忽然と姿を消したことが、単純に悲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 あの春からおよそ5年ぶり。まさか再会の舞台が甲子園の決勝となるなんて、当時からすれば全く想像できないだろう。

 

 昔話を思い出すのは切り上げ、バッターボックスへと向かう。右打席に入り、しっかりと足場を固める。

 ちらりと、中島を見る。

「久しぶり」

「よぉ」

 

 何が「よぉ」だ。人の気も知れないで。

 

 バットを一度大きく回してから構えに入る。横浜港洋のピッチャーがモーションを起こした。

 外角に外れるボール、余裕を持って見逃す。

 

「磯野は緩いボールを良く打ってるよな。じゃあチェンジアップは要注意だ」

 

 囁き戦術か、裏をかいて緩い変化球を投げてくるか。

 

 素早い腕の振りから繰り出される、縫い目が見えそうな見事なチェンジアップ。

 狙い通り。

 

カキィン!!

 

 完璧に捉えた、低弾道のライナーがレフト線を襲う。快音につられて歓声が起こる。

 

 二塁を狙うためベースの手前で膨らんだ走路を取る。二塁へ滑り込むタイミングはどうだろうか、打球の行方を見届けるためレフト方向を確認する。

 なんと、ライン際の打球にも関わらずレフトが既に落下地点に入っていた。会心の一撃は難なくグラブに収まる。アウト。

 どうやら、予め守備位置をシフトしていたようだ。

 

 俺が思慮を巡らせてチェンジアップを狙うことも、それを力一杯引っ張ることも、全て中島は読み切っていた。

 グラウンドに落ちる日差しが一層強くなる。野球の神様が俺に「甲子園は甘くねぇぞ」と訴えているようだった。

 

 



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4話 対決のとき

 2回の表、あさひが丘高校はツーアウトからヒットが出たものの、後続が続かず無得点。先制点を奪うことができなかった。

 そして、この回の3つ目のアウトが成立した瞬間から、スタンドがざわつき始めた。

 それもそうだ。なんたって今から、観客たちが最も待ち焦がれていた対決が実現するのだから。

 

『二回の裏、横浜港洋高校の攻撃は・・・四番、キャッチャー、中島くん』

 

 球場全体から拍手が巻き起こる。

 これはマウンド上の俺に向けたものなのか、それともバッターボックスの中島に向けられたものなのか。もしくはこの対決そのものへの拍手か。

 

 中島はこの対戦を勿体ぶるように、ゆっくりと打席で構えた。

 丸い眼鏡の奥の瞳は、真っすぐと俺を捉えている。相手を吞んでかかろうとする『スラッガー』の眼だ。

 

 

 堀川君が出したサインは外角低めのストレート。

 自信を持って頷く。まずい、今の表情で中島にバレたかもしれない。

 気持ちを引き締め、堀川君のミットを見据えた。

 

 胸の前に構えたグラブを大きく振りかぶる。

 

 5年越しのストレート。目一杯の力で投げ込んだ。

 

 

 バチン、とミットに収まる音がする。

「ストライク!」

 球場中から怒涛のようなどよめきが巻き起こった。スピード表示を見ればその理由はすぐに分かった。

 

【157km/h】

 

 自己最速。いや、それどころか甲子園最速記録。

 どよめきはまだ収まらない。それだけインパクトは強烈だ。

 

 この雰囲気のまま追い込んでしまおうと速いテンポで、外角へ逃げるスライダーを投げた。

 打者の手元で急激に変化する、中島は途中でバットを止めた。

「ストライク、ツー!」

 2球で追い込む、追い込まれるという圧倒的な展開に、拍手が巻き起こる。

 

 今のところ完璧。

 

 堀川君が内角への見せ球を要求する。バッティングの姿勢を崩す慎重な攻めだ。

 見せ球といえど手抜きはしない。内角高め、デッドボールになってもおかしくないギリギリを狙って腕を振りぬいた。

 

 そこからの信じられない出来事は、スローモーションのようにひとつひとつの動きが明確に見えた。

 

 中島は、デッドボールになろうかという際どいボールに対して、身体の軸を後方に流し、腕を器用に折りたたんだスイングで捉えた。俺の渾身のストレートを、しかも内角のボール球を、そんな余裕を持ったスイングで打つのか。

 それが認識できた瞬間、視界からボールが消えた。

 

 反射的にレフト方向を振り向く、打球が見えない。どこだ?

 

 探そうとした瞬間。遠く上空から轟音が聞こえた。

 レフトのポール最上部直撃。今大会6本目のホームラン。

 

【158km/h】

 

 最高のまっすぐ。

 それをあんな遠くまで飛ばされた。人生で最高のストレートを砕き、自信までをも完膚なきまでに叩く完璧なアーチ。

 じわり、と気持の悪い汗が流れる。

 

 審判からニューボールを受け取ったときに、やっと意識が戻った。

 俺が放心している間に、中島はベースを回ったようだ。打席には五番打者が入り、すぐさま球審がプレーを掛ける。

 試合の流れから、俺一人が取り残される。

 

 さっきまでの感覚の鋭さがない。まずい。

 

 間を取って落ち着こう。そう思ったはずなのに、気付けば投球モーションに入っていた。

 あれ、サインは何だっけ?俺は今どの球種を投げようとしてるんだ?投げるコースはどこだ?

 

 投げたボールは吸い込まれるように甘く入る。

 

 カキイイィィン

 

 打たれた瞬間、ボールの行方を確認することすら諦めた。

 打球はあっという間にライトスタンドへ消えた。

 

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 00          0
横浜港洋 02          2


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5話 お兄ちゃんの背中

 暑い。

 攻撃中に演奏してる時は暑さなんか気にならないのに、どうして守りの何もしてない時はこんなに日差しが気になるのかしら。

 帽子を深く被り直し、応援用のタオルで汗を拭った。甲子園出場を記念して作られた「第XX大会出場 あさひが丘高校」と印字されただけの安物で、ハッキリ言って吸水性はよくない。

 

 2回の裏、相手の横浜港洋学園の攻撃がずっと続いている。

 中島くんとその次のバッターに2者連続ホームランを打たれ、その後もヒットを立て続けに打たれた。なんとかツーアウトにはなってるけど、ランナーは一塁三塁の大ピンチ。

 

「ワカメちゃんのお兄さん、調子悪いみたいね」

「ホームランなんかあんまり打たれたことないから・・・ショックだったのかもね」

 

 右ピッチャーのお兄ちゃんの表情は、一塁側アルプスからは見えない。

 でも、なんとなくその背中が「あの時」の雰囲気によく似ていたから心配になった。 

 

 忘れもしない、5年前のあの日。

 中島くんが転校した日、その日からお兄ちゃんは何もかも無気力になって、野球からも離れてしまった。魂が抜けたみたいに覇気がなくて、泣くでもなく、怒るでもなく、ただボーッとしてた。

 いつもはダラダラしてるとカミナリを落とすお父さんも、その時だけは躊躇ってただ見守るだけだった。

 その時のお兄ちゃんに似た背中だったから心底心配になった。

 

 グラウンドの方で打撃音と歓声が沸く。

 

 地を這うような速いゴロが一二塁間へ、これが抜ければ3点目が入る。

 セカンドが回り込んで捕球し、なんとか一塁で3つめのアウトを取った。これでようやくチェンジ。

 

 ベンチに戻る選手に拍手を送る、お兄ちゃんが一足遅れてゆっくりと戻っていくのが見えた。

 相変わらず、重い雰囲気を引きずったままだ。

 

「バカモーン!下を向くな!前を見ろ!」

 

 アルプススタンド中段から発せられた、球場中に響き渡るようなその声に応援団が一瞬静まり返る。そして間をおいてから失笑が起こった。

 私には聞き慣れた声だったので、恥ずかしさで顔が真っ赤になりそうだった。

「なに今の?ワカメちゃん、今の人やばいよね」

「そ、そうね」

 話を区切るようにトランペットを構え、グラウンドの方を向けて演奏の準備をする。

 

 

 その時、2回裏まで終了したことを記すスコアボードを見て、不思議な感覚に陥った。

 あと7回しかない。

 逆転のチャンスが7回しかない。ということでなく『この試合があと7イニングしか残されていない』ということに、どこか虚しさを感じたのだ。

 

 折角、中島くんとお兄ちゃんが久々に会えたのに、その試合もいつか終わってしまうのだ。それならば、試合はずっと長いほうがいい。

 お兄ちゃんがまた元気を取り戻して、中島くんと、もっと野球できますように。

 

 

 応援曲を指示する係の先輩が『タッチ』と書かれたボードを掲げる。

 力を込めてトランペットに息を送る。頑張れ、お兄ちゃんも、中島くんも。



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6話 忘れない

 ツーアウトランナー無し。それでも一塁側、あさひが丘高校アルプスから流れる演奏は衰えない。

 重厚感のある「ルパン」に乗ってバッターも揚々とし、いかにも『打ってやろう』という気概で溢れている。

 

 冷静に「チェンジアップ」のサインを出し、ミットを構える。

 

 そこへ投じられた一級品のチェンジアップ。打ち気の強いバッターは体が前に流れ、スイングが泳ぐ。スリーストライク目のボールがミットに収まった。

「ストライク!バッターアウト!」

 拍手が送られる。

 

関内(かんない)!ナイスピッチ!」

「中島もナイスリード!ホンマ今日の調子エグいわ俺!」

 ピッチャーの調子は上々。特にチェンジアップが抜群で、あさひが丘高校打線は悉く空を切っている。

 普段なら3人の投手による継投策がセオリーの横浜港洋学園だが、今日はもう少し先発に任せられるかもしれない。

 

 キャッチャーマスクを上げ、汗を拭う。今日は一段と湿度が高い。

 汗で送球に影響が出るかもしれない。アンダーシャツを長袖に変えるべきか。

 

 ふと、グラウンドに意識を移す。目線の先では、磯野がマウンドをスパイクで均していた。

 磯野には、絶対に負けるわけにはいかない。

 

 

 

 5年前、俺と磯野を引き裂いた、突然の「転校騒動」

 その理由は「父親の借金苦による夜逃げ」という、なんとも単純明快。ありがちで馬鹿らしい話だった。

 

 自分も転校は3日前に知らされた急転直下の出来事、遠い親戚のいる神奈川へと移ることが決まった。それでも、次の学校へ移るためには転校の手続きを済ませなければいけない。これも事務的に特に何の問題もなく受理され、俺はこの学校の者でなくなることが決定的になった。

 

 皆と別れて離れ離れになることは苦しかった。

 別れが感傷的になればなるほど、後々からの「悲しい思い出」として思い出してしまいそうで、それが嫌で仕方が無かった。

 ならば「突然いなくなれば、別れの悲しみも無いまま別れることができるんじゃないか」

 中学一年の小さな脳ミソで必死に考え、そう思い立った俺は、転校の事をクラスの誰にも伝えないように担任に泣きついて頼んだ。

 

 こうして俺は5年前のあの日、磯野の前から何の予告もなしに姿を消した。

 

 神奈川に移ってからすぐに両親は離婚し、自分は母親の方に引き取られた。

 勿論生活は楽ではない。母は朝から晩までパートで働きづめの生活で困窮を極めたが、自分をなんとか中学に通わせてくれて、野球まで続けさせてくれた。

 

 女手一つで育ててくれる母親に、まだ中学生の自分ができる恩返しとは何か。

 野球だ。

 野球推薦で特待生に選ばれれば、授業料は免除。全国的な注目選手になれば、道具もスポーツメーカーから無償で提供して貰える。

 

「母親に楽をさせたい」

 その一心でガムシャラに練習し、生活のために野球をやっているといっても過言ではなかった。あっという間に同級生を追い抜き、先輩を追い抜き、神奈川の中では右に出る者がいない程のキャッチャーになった。

 

 そして無事、高校への特別推薦を勝ち取った。

 選んだのは自宅から自転車で通える「横浜港洋学園」。1年生の秋にはレギュラー捕手の座を掴み、2年夏には4番に座った。俺の目論見どおり、その頃には大手スポーツメーカーから野球道具一式を無料で支給して貰え、高校生活をタダ同然で送ることが出来た。

 

 母親を楽にさせる、という目標を達成した俺は早い話、その時点で野球をする目的を見失ってしまった。

 我武者羅に練習して、練習して、わき目も振らずに階段を駆け上ったようなものだ。登り切った先で何をすればいいのか、それは誰も教えてくれない。

 

 目標を失って惰性で野球を続けていたある日。部室に放置されていた「報知高校野球」を何気なく手にし、その中でわずかなスペースに記載された記事が目に入った。

『下町のスーパーエース・磯野カツオ』

 「磯野カツオ」久々にその名前を聞いた。正直、忘れかけていたので少しだけ思い出すのに時間が掛かった。

 へぇ、アイツも元気にしてるんだな。なんて呑気に思いながら記事を読み流す。最後に書かれていた一文に俺は目を見開いた。

 

「今は離れ離れになってる親友に『エースになれ』って言われて。約束したんです。」

 

『エースになれ』

 それは俺が、磯野と最後の別れ際に言った言葉だ。

 信じられなかった。こんなにもバカ正直に俺の事を覚えて、しかも本当にエースになってみせるなんて。

 俺は離れる悲しみから「何もかも忘れよう」としていた、だがアイツは忘れるどころか、覚えてくれていたのだ。

 

 その日から、俺の新たな目標が決まった。

「磯野と再会する」

 ただ、会うだけじゃない。俺達を繋いだ「野球」の最高峰とも呼べる舞台、甲子園のグラウンドで再開することを目標に定めた。

 

 そして今日、甲子園決勝。

 焼きつけるような太陽の下、最高の舞台で再開。

 

 5年越しの対戦。第一打席は磯野の158km/hを打って特大、推定飛距離160m級ホームラン。これで調子を崩したのか、らしくない2点目まで失った。

 まだだ、磯野。お前はそんなことで参るヤツじゃないはずだ。

 

 頑張れ、磯野。

 

 そう言いたい気持ちを、グッと堪えて見守った。

 

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000         0
横浜港洋 02          2


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7話 望み、失望、怒り。

『3回の裏、横浜港洋学園の攻撃は。2番、ショート、鷺山くん』

 甲子園球場独特のアナウンス声が、バックネットの「銀傘」で反響する。

 

 磯野とは5年ぶりの対戦、第2ラウンド。できれば完璧な状態で戦いたいが・・・。

 

 そんな俺の期待とは裏腹に、磯野はまだどこかボールが全体的に浮ついていた。この回先頭バッターは高めに抜けたスライダーを打って痛烈なピッチャーライナー。

 ひとまずはアウトにホッとしていた様子だが、次の打者は意表を突いたセーフティバントを仕掛けた。磯野は反応が完全に遅れ一塁はセーフ。

 やはりまだ、いつのもの「鋭さ」というか「隙のなさ」のようなものが欠けている。不安定極まりない。

 

『四番、キャッチャー。中島くん』

 

 第二打席。

 右打席に入り、磯野と対峙する。

 

 頼むぞ磯野、俺は本調子のお前と戦いたいんだ。

 

 表情を窺う、目が落ち着いている。いや、落着きすぎている。

 少しだけ違和感がした。嫌な違和感が。

 

 大きく振りかぶって投じられた第1球。

 外角に外れるボール。

 

 早いテンポで、振りかぶって第2球。

 これも外角に外れた、ツーボール。

 

 『敬遠』。それが頭によぎった。

 嘘だろ、そんな愚直な作戦はないぜ。

 

 次の投球はややボール気味のアウトロー、見逃せばスリーボールになる。そんなことにはさせない。

 肩を開かないようにしながら、外角低めに向かって一直線にバットを出した。

 

 カキィン!!

 

 流し打った大きなフライは、猛烈なスピンと共にライトスタンドへと向かう。飛距離としては充分、一応走り出す。

 猛烈にスライスしファールゾーンへと曲がる。いや、スタンドに届くのが先か?

 打球の行方に大観衆が注目する。

 ライトの真横にまで走ってボールの行方を確認した一塁審判が、両手を開いた。

「ファールボール!!」

 おぉ、というどよめきに近いざわめきが起こる。

 

 ファールになってしまったが、不思議と口惜しさは浮かばない。ホームランを打つに越したことはないが、できれば「渾身の一球」それを打ち返したい。

 

 打席に戻る途中、マウンドの磯野を見た。

 両手を膝に突いたまま肩を落とし、まだ打球の飛び込んだライトの方を見て目を見開いている。

 ゆっくりと顔を落とし、その表情は見えなくなった。

 

 なんだその仕草は、まるで「負けた投手」のようじゃないか。

 さっきからの有様に、怒り、憤怒に近い感情が込み上がる。

 

 もういい、腑抜けた磯野と勝負したって楽しくない。

 なら俺が目を覚まさせてやる。いや、トドメを刺してやる。

 

 試合前は希望に満ちていたはずだが、今では単純な怒りに変わっている。俺が高校生活を賭けて目指した「磯野と最高の舞台での再会する」。その結果がこれか。物足りない、足りない。こんな薄っぺらい勝負のために必死になっていたかと思うと馬鹿らしい。

 

 カウント2-1、ランナー一塁。磯野がゆったりとモーションを起こし、第4球を投げた。

 再び外角のストレート。馬鹿の一つ覚えのような相変わらずの「弱気」なピッチングだ。

 

 怒りをぶつけ、ボールを粉砕するような気持ちでバットを振り出した。これで終わりだ。

 スイングを始め、ボールのインパクトがイメージできたその時。ボールがこちらに向かって曲がって来た。

 シュートした!?

 

 ガキィン!!

 

 シュート。この決勝まで、今の今まで、磯野はそんなボールを投げなかった。「付け焼刃」「誤魔化し」などという精度ではない、実践で打者を討ち取るための、ウイニングショット。まさか、この場面のために隠してしたのか。

 

 マウンドへ向けてふわりと飛ぶハーフライナー。そのボールと、ニヤリと笑みを零してグラブを構える磯野が重なった。

 

 パシッ!

「アウト!」

「磯野さん!ファースト!」

 モーションに合わせてスタートを切っていたランナーが、一二塁間で砂塵を立てて止まる。

 磯野は遊撃手のような軽快な切り返しで一塁転送。

 ダブルプレー。スリーアウト。

 

 一瞬の出来事だった。

 逃げの外角球に怒り狂ったこと。一級品のシュートで詰まらされたこと。ダブルプレーになったこと。

 ガッツポーズを繰り返してベンチに戻る磯野の背中を見ながら、俺はどこか満足感で一杯になっていた。

 

 さすがだ、それでこそ磯野カツオだ。

 「キャッチボール部」だった頃、嫉妬すら忘れてしまう程のセンスの持ち主だった。俺がちょっと教えただけで何でもこなしてしまう天才。

 ここぞで何かをやってくれる、本当の天才。

 

 ホームランを打った時よりも気分がいい。楽しい。最高だ。

 第一打席のホームランよりも、今の方が楽しい。

 

 次の打席への希望を膨らませ、胸を張ってゆっくりとベンチへ引き下がった。

 

「中島、残念だったな。完全に詰まらされたな」

 腕組をして憮然とする監督から、労いの言葉を掛けられる。

 「最高ですよ」と言い返すことは堪えられたが、思わず口元が緩んだ。

 

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000         0
横浜港洋 020         2


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8話 渾振

「堀川くーん!練習どおりにー!!リラックスー!!」

 

 ネクストサークルから声援を飛ばす。

 

 一塁を見ると、四球で出塁した俊足ランナーが身を屈めて投手を凝視している。

 4回表、ノーアウト一塁。初回から防戦一方だったあさひが丘がやっと掴んだ反撃のチャンスだ。

 

 打席には三番の堀川くん。

 監督からのサインにアンサーを出して応え、バットを横に寝かせる。送りバントの構えだ。

 

 ピッチャーがモーションを起こすのと同調して、内野手が更に前進する。

 まずい、内野のチャージが良い。これじゃあバントを成功させることは難しい。

 

 察知した堀川くんはバットを起こし、コンパクトに振り抜いた。バスターだ。

 

キィン!

 

 強いゴロが三塁手を襲う。

 胸に当て、鈍い音を立ててボールを止めた。すぐさま拾い上げたが、一瞬「二塁に投げるか」を迷ったせいでファーストへの送球が遅れた。

 送球を受けるファーストが身を乗りだす。堀川くんが頭から滑り込む。ほぼ同時だ。

 

「セーフ!セーフ!」

 

 一塁側アルプスがわっと盛り上がる。ヒットテーマが流れ、メガホンを打ち鳴らす音で一杯になった。

 送りバントでワンナウト二塁になれば上出来の場面、堀川くんの機転によって、ノーアウト一塁二塁にまでチャンスが広がった。

 

「磯野さん、繋ぎましたよ!あとは頼みます!」

 ヘッドスラディングで真っ黒になったユニフォームのまま、白い歯を見せて堀川くんは力強く拳を上げた。

 ナイス。カッコイイぞ堀川くん。

 任せろ、俺がかっ飛ばしてホームに還してやる。

 

『四番、ピッチャー。磯野くん』

 

 

 右打席に入り、足元を均す。

 試合も中盤に差し掛かり、打席の土も荒れている。その中でも、異常なほど深く抉られた足跡があることに気付いた。

 さっきの回の中島の打席。俺の秘密兵器である高速シュートに咄嗟に反応し左足を引いた跡だ。初見の変化球でありながら、コンマ数秒の時間で対応しようとしていたというのか。

 信じられない。

 

「・・・中島、お前やっぱり凄いわ」

「あの場面で突然シュートを披露するお前の方が凄いよ」

 

 いや、想定されてない初見の変化球をライナーで打ち返す方が可笑しいだろ。

 可笑しさから思わず頬が歪む。

 

 中島という男の怪物ぶりを誇示するようなその足跡をかき消し、ようやく構えに入った。

 

 

 スッと息を吐き、心を落ち着かせる。

 

 冷静に見積もって、このピッチャーの力量自体はハッキリいって大したことない。中島の絶妙な頭脳的リードによって俺達は苦しめられている。

 

 そして案の定、ストレートを打つのが得意な俺に対して、意地悪く徹底して変化球で攻めてきた。

 チェンジアップ、スライダー、フォークが内外角に食い込む、落ちる。厳しいコースに立て続けに投げられ、その度に何とかファールで逃げた。

 

 2-2からの7球目。外角低めへのスライダー。

 ボールゾーンへ逃げていく軌道だ。そう見切ってスイングを留める。

 

 まずい、思ったほど曲がらない(・・・・・)

 『ストライクになる』そう後悔したときには既にミットに収まっていた。

 

 冷や汗が滴り落ちる。審判が判定を下すまでの時間がいつもより永く感じられた。

 

「・・・ボール!!スリーボール、ツーストライク!」

 

 間一髪助かった。

 瞬間的な緊張から放たれ、息を吐いて天を見上げる。

 

 だがこれでスリーボール、光明は見えた。

 次がボールになれば四球でノーアウト満塁。投手はコントロールし易いストレートを投げたいはず。次こそはストレートのはずだ。

 

 投手が前に屈みこんで、次の8球目のサインを覗いている。その後のサインへの頷き方が、さっきまでより強かった気がした。

 自信を持った表情。『ストレートが来る』同じピッチャーという人種として直感した。

 

 8球目、ピッチャーが力強く踏み込んで腕を振り抜く。

 

 内角、ストレート。

 

 違う!チェンジアップだ!

 身体を素早く回転させ、ゆっくりと落下するボールの下にバットを差し出す。全てのパワーを持ってバットを強く振り抜いた。

 

 カキイィン!!

 

 大観衆と共に、打球が上がった青空を見上げた。高く高く打球は舞い上がる。

 

 

 

 

 

 

 大空から白球が落ちてくる。

 

 

 サードがグラブを掲げた。

 

「アウトー!!」

 サードフライ。どこからともなく溜息がなだれ込む。

 声にならない唸り声を上げ、俺は天を見上げた。

 

 討ち取られた打者に、グラウンド上に居場所はない。ベンチに下がり、グラウンドから遠い奥の方に腰掛けた。

 

「磯野さん、ドンマイです!」

「切り替えろ!次は頼むぞ!」

 口々に掛けられる慰めも、耳に入らない。

 

 燃え尽きたように全身の力が抜け、ヘルメットを脱ごうとした手が途中で止まる。

 これが『甲子園決勝』で凡退する。ということの重圧なのだろうか。

 

 冷静に思い返して、今の打席。完全に裏をかかれた。

 いや、いつもならあの程度の変化は反射的に打てる。しかし今の場面ではストレートが来ると「決めつけすぎ」てしまった。その結果、ボールを捉えるタイミングがほんの一瞬だけズレてしまった。

 だってそうだろう。

 

 『四番打者相手にフルカウント。四球も出せない』その状況で出たチェンジアップのサインに、あの投手はなぜあんなに自信を持って頷くことができたのか。

 それが中島の持つ、絶対的信頼から成せる技なのだろうか。

 マウンドの方を見る。横浜港洋のピッチャーは相変わらず自信満々に頷き、投じたボールはアウトロー一杯に決まった。

 

 それだけの信頼を得るために、中島はどれだけ努力して、失敗して、ぶつかって、負けてきたんだろうか。

 

 本当に、凄いヤツだよ、お前は。

 

 

 

 カキィィン!!

 

 グラウンドから押し寄せる声援に反応し、顔を上げる。

 

 打球がセンターの前で弾み、二塁ランナーがホームへと突入するところだった。ホームに近づくにつれて歓声が大きくなる。

 俊足のセカンドランナーが快足を飛ばし、クロスプレーになるまでもなくホームを駆け抜けた。あさひが丘高校がついに1点を返した。

 ベンチから飛び出しそうな勢いで盛り上がり、両手を挙げて歓喜する。

 

「ナイスラン!行こう、この回で追いつこう!」

 四番の俺だけが足を引っ張っていることに心苦しさを感じつつも、気力を出して盛り立てる。

 

 

 

「タイム!」

 一度試合を止め、中島がマウンドに駆け寄った。

 二、三言交わすと、投手は深く頷いてマウンドから降りた。

『横浜港洋高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、関内くんに代わりまして、桜木くん。ピッチャー、桜木くん』

 

 始まった。横浜港洋の必勝パターン、継投策だ。

 捉え始めた、というタイミングで投手を交代する。この見極めはキャッチャーの中島に一任されているそうだが、この変え時が絶妙なのだ。その証拠にこの夏、横浜港洋の投手陣が集中打を浴びたイニングは数えるほどしかない。

 「打たれる前に代える」当たり前なようで、一番難しいのである。

 

 マウンドに上がったのは、背番号10を付けた長身の左投手。豪快なフォームの先発投手に比べ、若干クセのあるユッタリとした投げ方。

 

 この交代劇が、あさひが丘高校打線に「悪い意味で」ピタリとハマった。

 

 続く六番打者はうって変わっての全球ストレート勝負に三振。次の打者もあえなくライトフライに抑えられ、反撃は1点に留まった。

 

 だが、反撃の糸口を一度は掴めた。また掴めばいい。

 「行ける」「勝てる」。確かな自信を持って、この点差を保つため4回裏のマウンドへと駆け出した。

 

 

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000 1       1
横浜港洋 020         2


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9話 負けません

 5回裏、磯野さんがこの回の2つ目のアウトを三振で奪うと、球場全体が異常な雰囲気に包まれた。

 それもそうだ。だっておかしい。甲子園決勝、しかも強打の横浜港洋学園を相手にしてだ。

 

 ホームベースの前に勇み出て、抑えられない武者震いを振り払うように大声を出した。

「ツーアウトー!外野前!」

 

 それでも若干声が震えていることに気付く。

 だがそんなことは誰も気にかけないだろう。グラウンド上の先輩たちも気付いていないかもしれない。

 それほどまでに今この瞬間、この球場の全員が磯野さんの一挙手一投足に心酔している。

 

 6者連続三振。それも誰一人バットに当てることすら許さない完璧なピッチング。

 

 超高校級投手の本領を目の当たりにした観客が、磯野さんのピッチングを後押ししている。マウンドから遠く離れたキャッチャーボックスからでも分かった。

 始めは拍手が起こる程度だったものが、三振を重ねるごとに空気は変わっていった。

 ストライクひとつで割れんばかりの声援で盛り立てられ、甲子園の雰囲気は熱狂に包まれた。

 

 キャッチャーボックスにしゃがみ込み、一塁にいる走者を横目で覗き見る。

 一死から振り逃げで出してしまった走者だが、磯野さんは見事なクイックで走者を塁に留め、まともなリードすら許していない。

 

 そうしている間に、迎えた打者を縦に割れるカーブと鋭い高速シュートでツーストライクに追い込んだ。

 

 場内の雰囲気がさらにヒートアップする。連続三振を望む声で溢れる。

 普段ならボール球で間をとるところだが、震える手で思わず「外角・ストレート・ストライク」のサインを出してしまった、自分がそれに気づいたと同時に磯野さんが頷く。

 こうなれば仕方がない、ミットを叩いて自らを奮起させた。

 

 素早いクイックで、右腕から放たれたボールがこちらに迫る。

 外角低め一杯、ホームベースと白球の軌道が僅かに重なって見える。ストライクゾーンをギリギリ掠める絶妙なボールに、バッターはスイングすることすらできない。

 パチン、と甲高い音を立ててミット収まり、手のひら全体に鈍い痛みが走った。

 

「ストライク!バッターアウト!!スリーアウト!」

「ナイスボール!」

 完璧なボールに思わず出た声も、グラウンドになだれ込んだ歓呼の叫びにかき消された。

 

 圧巻の7者連続三振。

 超高校級の奪三振ショーに、完全に流れはあさひが丘高校のものとなった。

 

「磯野さん!ナイスピッチングです!最高です!」

「堀川くんのリードも良かったよ!ナイスリード!」

 

 屈託のない爽やかな笑顔で讃えられる。

 単純な嬉しさがこみ上げ、それを噛み締めながらベンチへと戻る。

 

 それにしても「甲子園」「決勝」「超高校級」「圧巻の奪三振」この状況が生み出す熱狂・狂騒の雰囲気は凄まじい。準決勝までとは比べ物にならない威圧感に、圧倒されそうになった。

 異空間。非日常。そんな言葉がまさにピッタリの甲子園決勝。

 

 ほんの数ヶ月前。あさひが丘高校に入学するまでは、この舞台に立てるなんて思いもしなかった。

 

 

 

 中島さんは、高校入学の時点で神奈川でも有数の天才プレーヤーだった。しかし、磯野さんはそうではなかった。

 

 磯野さんとボクは、同じ中学校の野球部に在籍。ボクが一年生の時に、磯野さんは三年生でエース。

 ただ、何度かピッチングを見かけたが特段「天才」という感じはしなかった。良くも悪くも普通のエース。中学最後の大会は、強豪中学に程々に打たれて負けていた。

 

 あさひが丘高校に入ってからも特に大化けするということはなく「公立校のピッチャーにしては良いほう」。というレベルで留まっていたそうだ。

 それが一変したのは、ボクが入学するちょうど前、磯野さんが高校2年の冬。

 3年生の夏に標準を合わせたかのように、この一冬でスピードがグンと伸びた。スライダーのキレは前と比べものにならないほどになり、コントロールも「精密機械」と呼ばれるまでに格段に向上した。

 まさに神がかりな成長を遂げ、一躍『超高校級ピッチャー』となったのだ。

 

 その冬の間に磯野さんは何をしたのか、何があったのか。

 何度か聞いてみたが、その秘訣を明かしてはくれなかった。

 

「磯野さん、ナイスでした。7連続三振は痺れました」

「たまたま上手くいっただけだよ。堀川くんのキャッチングで何球か助けられたし」

「いえいえ、最後のボールはコントロール凄かったです。やっぱり冬場の練習が実を結んだんですかね」

「そうかもしれないな」

「冬にトレーニング何してたんですか」

「神頼みだよ」

 

 毎回こんな感じではぐらかされる。

 

 

 

 グラウンドが整備され、プレーボールの時と同じように綺麗な黒土が蘇った。激闘で荒れたバッターボックスやマウンドもしっかり均され、引き直された白線がまぶしい。

 そこへ横浜港洋学園の選手が散っていく。

 

 6回表、決勝戦の後半が始まる。

 反撃に向けてまずは幸先よく行きたいところ。だったが、先頭の二番打者は初球攻撃でピッチャーゴロ。ワンナウト。

 

『三番、キャッチャー。堀川くん』

 

「堀川くん!楽にね!」

 次打者の磯野さんにネクストサークルから激を飛ばされる。

 

 絶対に塁に出る。チャンスで磯野さんに繋げる。

 

 『好球必打』

 それ以外は何も考えず、がむしゃらにバットを振った。

 

カキン!

 

 打った瞬間、わっ、と歓声があがった。

 レフト線に高く上がるポール際の打球。スタンドまで届くかどうかはギリギリだ、ホームランなら同点になる。

 入れ、入れ。入れ!

 

 ガシャン!

 

 フェンスに当たりグラウンドに跳ね返った。ホームランとはならなかったが、確実に長打になるコース。

 

 アルプスの応援団からの声に後押しされ、二塁へ向かう。グングン近づき、あっという間に目の前に迫った。

 視界の中で、二塁キャンバスと、広い広い左中間でボールに追いついたレフトの姿が重なる。

 今やっとボールに追いついたのか。

 

 鼓動が速くなり、興奮状態にあったボクの頭にひとつの考えがよぎった。

 

 三塁まで行けるかもしれない?

 

 二塁ベースが目前に迫る。サードへ向かうなら、ここから更に加速しなければならない。

 もしもボクがアウトになればツーアウトランナー無し、セーフになれば1アウト三塁。大博打であることは間違いない。

 

 膨らんだ走路を取り、力強くベースを蹴った。

 球場全体からどよめきが起こる。なにかとんでもないことをやっているように思えて、少しだけ不安がよぎる。

 

 三塁ベースが近づく。横浜港洋学園側のスタンドから押し返すように悲鳴、怒号が押し寄せる。

 

 視界を三塁ベースに絞る。その上にサードが入り送球を待つ。

 頼む、ボールよ来ないでくれ。そのままベースを開けて「送球が来ない」とジェスチャーしてくれ。

  

「堀川!ボール来た!スライディング!」

 最悪だ、間に合わないかもしれない。

 

 コーチャーの指示を受け、反射的に地面を蹴って三塁へ飛び込んだ。

 無様に倒れ込むようになり、口の中で土の味がする。

 必死に手を伸ばす。指先で微かにベースの感触がした。

 

 グラブでタッチされた様子はなかった。

「セーフ!セーフ!!」

 怒涛のような歓声がグラウンドになだれ込む。

 拳を握りしめ、喜びのあまりベースを何度も叩いた。

 

 やったぞ、やってやったぞ。

 

「磯野さーん!今度こそ、頼みます!!」

 

 汗と土でまみれた口元を拭う。土の味は取れない。だがそんなことはどうでもいい。

 頭の中にはホームベースを踏むことしかない。ボクが、あのホームに触れれば、それで追いつけるんだ。

 スクイズでも、捕逸でもなんでもいい。

 ホームを踏んで、追いつくんだ。

 

 三塁を離れてジリジリとリードを広げる。

 まっさらな三本間の黒土に次々と足跡を残す。三塁ベースを離れる怖さは微塵も感じなかった。

 

 

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000 10      1
横浜港洋 020 00      2


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10話 激突

 ネクストサークルから立ち上がる。日射に照らされ、その熱気で一瞬意識がぼやけた。

 ぐっと丹田に力を込め、気合で立ち上がる。

 

 朦朧とする中スコアボードを眺め、スコアが「1-2」のビハインドであることを再確認した。

 

 ワンナウト、ランナー三塁。

 

 外野まで打球が飛べば、ヒットか犠牲フライになって1点。打ち損じてゴロになっても、ピッチャーゴロ以外ならほぼ1点入る。

 そうすれば同点。序盤から防戦一方だった俺達が、ついに追いつける。

 

 中盤の大一番を迎え、それに合わせてアルプスから『We will rock you』が掛かる。ブラスバンドの全ての音が、内野席を覆う「銀傘」で反響し、上空から音が降ってくるような錯覚に陥った。

 太鼓の音が地面をビリビリと揺らす。

 

 万全の状態で迎え撃つあさひが丘に対し、横浜港洋学園側は明らかに焦っているのが傍目に見ても分かった。

 マウンドには内野手が集まり、ベンチから伝令を走らせ、マウンド上で作戦を打ち合わせがずっと続いている。長い。かなりモメているようだ。

 一人がしきりに俺と一塁を交互に指さしたかと思えば、中島がそれを手で制し、その様子に大柄な三塁手は不満げに首を傾げる。

 ずっとこんな調子だ。

 やっとのことで輪が解け。中島が戻ってきた。

 

「タイム長いなぁ」

 

「こんなピンチで磯野を迎えちゃったからね。大パニックさ」

 

 中島はそう軽口を叩いてみせたが、表情に笑みはなかった。

 ここまで余裕の無い中島を見るのは初めてかもしれない。小学、中学を通しても。

 

 バットを投手の方へ向けて呼吸を置くのと同時に、三塁を見る。

 堀川くんが顔を真っ黒に汚したまま、虎視眈々とこちらを睨みつけていた。

 流石にそんな目で見られたら怖いって。

 その気迫に弾かれるように目線を外し、ピッチャーの方へ向けた。

 ピッチャーの顔も中島と同じように、何かを決めかねているような困惑の色を浮かべていた。

 

 初球から振ろう。迷っている相手にこっちも中途半端に迷って、ストライクをポンと取られるのは避けたい。

 

 第1球。

 投手がボールを放つタイミングに合わせて、上体に力を込めた。

 投げられた球種が何かもわからないまま、ひとまず振り出す。

 

 緩いボール。

 外角へ逃げるように外れていくカーブ。いや、スピードを抜いた「超スローカーブ」だ。

 「振る」と意識しすぎていたせいで振り出したバットが止まらず、無様に力の抜けたスイングで空振りした。

 

 しまった。ワンストライクだ。

 

 投手はニヤリと笑ってみせ、「ワンストライク」という意味合いで人差し指を立てて嘲笑ってきた。

 クソっ、冷静になれ、状況はどう考えたって俺が有利だ。

 

 打ち損じでも1点は入る。

 点が入らないパターンなんてのは「内野フライ」「ピッチャーゴロ」「三振」くらいしかないんだ。

 

 2球目、今度もカーブ。だがもう惑わされない。

 ボールの軌道をよく見極め、バットを振りだす。カーブの軌道にバットを滑り込ませシンで捉えた。

 ただ、惜しくもタイミングがズレて三塁アルプスにライナーで飛び込むファール。

 火の出るような弾丸ライナーに、場内からどよめきが起こった。

 

 打ちあぐねた変化球を、完璧に捉えた。

 ツーストライクではあるが、追い込まれたような気はしない。

 

 今だにどよめき止まない。凄まじい打球を目の当たりにしたバッテリーは、ここで攻め方を変えて来た。

 

 3球目は高めに明らかなボール。

 4球目も速球を高めに外して、2ボール。

 明らかに「ストレート」を意識させようとした意図が感じられた。

 

 セオリーなら「ストレート」を意識させて、カーブやチェンジアップでタイミングを外してくる。

 はたまたその裏をかいて「またまたストレート」なんてこともよくあるが。

 …いや、今の俺なら「ストレートでもカーブでも」当てれる。

 

 2ストライク2ボール、ピッチャー振りかぶって第5球。

 ストレートだ!

 内角高めの厳しいボール、ファールにして逃げよう。

 反射的に左手に力を込め、ミートを優先したスイングでバットを振り切る。

 

 キィン!

 後方に緩い打球が上がった。ファールだ。

 

 ファールになる打球を追った視界の隅で、猛然と何かが動いたのが見えた。

 中島がキャッチャーマスクを脱ぎ捨て、打球を追っていた。

 

 そんな、間に合うはずがない。

 

 落下地点はバックネット際。なのにも関わらず中島は加速し続けた。

 バックネット付近の観客からも「危険」を察知したどよめきが起こる。

 

 フェンスが間近に迫る。

「中島!危ない!!」

 思わず声が出た。

 

 中島が飛んだのはそれと同時だった。

 フェンスなんか見えていないようで、ボールだけを凝視したまま飛びついた。

 中島のミットの中にボールが消えたのと、激突したのはほぼ同時だった。

 

 ドスッ!

 

 鈍い激突音が響き、大きく跳ね返えされた。

 痛々しく転びながらもミットを高々と掲げ、白球を確かに収めていることをアピールした。

「アウト!アウトー!」

 

「磯野さん!どいて!」

 声に反応し振り返ると、三塁から堀川くんがタッチアップのスタートを切っていた。

 反射的に慌てて走路を開ける。

 

「桜木!ホーム入れ!」

 激突したばかりの中島は立ち上がれず、送球の体勢に移れない。上半身だけを起こし、ホームに返球する。

 

 マウンドから駆けつけたピッチャーが送球を受け、ホームを目指す堀川くんにタッグを試みる。

 堀川くんはそれをかわすように、地を這う低いヘッドスライディングでホームベースを捉えた。

 タッチの勢い余って体勢を崩したピッチャーはスライディングに巻き込まれ転倒。クロスプレーは一瞬のうちに黒土の砂塵で覆われた。

 

 タッチが先か。

 ホームインが先か。

 

 大観衆の全ての注目がこの一点に集まる。

 球審は毅然とコールした。

「アウトー!!スリーアウト!」

 

 爆発のような歓声が沸いた。

 観衆は立ちあがって好守備を讃え、あさひが丘高校アルプスは落胆の溜息で溢れた。

 堀川くんは地面に顔をうずめた。

 大勲章となるタッチアウトを奪ったピッチャーは、ガッツポーズを何度も繰り返して叫んだ。

 

 アウトか。惜しかった・・・。

 中島、中島はどうだ。

 

 バックネット間際。中島が居るはずの場所へ振り向くと、手を突いてゆっくり立ち上がる最中だった。一瞬苦い顔を見せたものの、すぐさま歓声に頭を下げて応える余裕を見せる。

 

 そんな、本当に無事なのか。

 

 クロスプレーで蹴り散らされたキャッチャーマスクを拾い上げ、わざわざ中島の元へ駆けつけた。

 

 中島はそれに気づいたが、避けるように顔を逸らした。それを気にせずマスクを差し出すと、こちらに目もくれず素早く受け取った。

 

「中島、大丈夫か」

「あぁ、平気さ」

 マスクの汚れをはたき落としながら、淡々と答える。

「本当に大丈夫なのか?頭打ったみたいだったし、脳震盪とか…」

 そこまで言ったところで突如顔を上げ、こちらをキッと睨みつけた。

 

「磯野、お前は人の心配をしてる場合か?」

 どういう意味か分からなかった。

「磯野はいま負けてるんだろ?それなのにボクの心配なんかしてどうする!」

 

「勝ちたいんだろ?本気で勝ちに来い!ボクは本気で勝とうとする磯野に勝ちたいんだ!」

 マウンドで投手を勇気づけるときのように、胸をミットで強く叩いてきた。 

 それ以上は何も言わず、颯爽と引き上げていった。

 

 同じ高校生だというのに、中島のその背中はどこまでも雄大に見えた。

 

 ベンチに戻る中島。ヒーローの帰還を、チームメイトは嬉々として迎え入れようとする。

 観客は惜しみない拍手で讃え、それは伝搬するように広がって行った。

 その風景に思わず、見とれていた。

 

 

 

 その背中が、ゆっくりと傾いた。

 体勢を立て直すこともなく、重力に従って地面に崩れた。

 陽炎のなかで地面に突っ伏したまま、動かなくなった。

 

 甲子園から、全ての音が消えた。

 




◇甲子園決勝
     一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000 100     1
横浜港洋 020 00      2


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