臼井君が晴香部長に恋心を抱く話 (shin1)
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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話1

2期最終話、卒業式の場面です。


 その年、3月の宇治は雪が舞っていた。その雪は道端や花壇をうっすら白く染めていた。

 

 

 臼井ひとしは卒業式に参列していた。教頭先生の「全員起立」の号令と共にその場に立つ。続けて「校歌斉唱」と告げられたしばらくののち後方から聞こえてくるのは、かつて自分達が奏で続けた馴染み深い校歌の伴奏。ただしその中には、自身が担当していたバスクラの音色は無かった。

(やっぱりバスクラが無いと低音の芯がぼやける気がするな)

 僅かに苦笑し、しかし1年前の入学式からは比べ物にならない程の完成度となっている後輩たちが奏でる校歌は、卒業の寂しさも相俟って臼井の心を揺さぶるのだ。

 

 

 卒業式とクラスでのホームルームを終え中庭に出る。吹奏楽部で同じパートだった仲間たちと挨拶を交わす約束をしている。クラリネットパートはどこに集まっているかと辺りを見回す。

 中庭では、卒業式を終えた三年生とそれを見送る各部活の一・二年生でごった返していた。左手奥では、フルートパートだった三年生が晴れやかな表情で顧問の滝と何やら話をしている。

「先生、ありがとうございました。全国大会に行けたのは先生のお陰です」

「三原さん、あなたのフルートは、春の頃と比べて見違えるほど良くなりました。それはあなたが、向上心を持って、投げ出さず挫けずに、真摯に練習に励んだからです。この経験を、今後の人生の宝物にしていって下さい」

 部活の指導が非常に厳しい滝も、この時は穏やかな表情を浮かべていた。

 

右手側では、トランペットだった三年生が現部長である同じパートの後輩を優しく抱きしめている。

「もう部長でしょ、しっかりしなくちゃ」

 頭を撫でながら発せられるその声と表情は、慈愛に満ちている。バスクラは臼井を含めた三年生2人のみだったため、直属の後輩が居ない臼井には少し羨ましく思えた。

「まぁ、B♭クラの後輩は沢山居るから良いんだけど・・・」

 小声で囁きながら正面を見る。

 心臓がズキリと音を立てた。耳が少しずつ赤くなっていくのは寒さのせいではないのだろう。久しぶりにその顔を見ると、こんなにも胸が熱く感じるものなのか。かつては毎日のように顔を合わせていたというのに。

 臼井の視線の先には、サックスパートが集まっている。三年生が後輩たちに何やら述べている。中心には、臼井たちの代で部長を務めた三年生が、晴れやかな、しかしほんの少し寂しそうな笑顔で佇んでいる。肩まで伸びた綺麗な栗毛の髪が二つ結びのおさげになっている。細身の身体、決して垢抜けているとは言えないが綺麗で整った顔立ち、穏和で優し気な容姿は、彼女の温厚で涙もろく、それでいてこの1年で芯が強くなった彼女の性格を反映しているようだった。

 彼女の名は、小笠原晴香。臼井が所属していた北宇治高校吹奏楽部を、部長として10年ぶりにコンクールの全国大会へ率いた人物だ。

(やっぱり僕・・・)

「うーすーい!」

「おわぁ!」

 突然後ろから肩を掴まれた。驚いて振り返ると、越川純子がニコニコしながらこちらを見ている。純子は臼井と同じバスクラを担当していた。

「こんな所で何してんの?あっちでヒロネたちも一・二年生も集まってるよ」

「あ、ごめんごめん。今行くよ」

 純子が、先程まで臼井が視線を送っていた方に目をやると、何かを発見したように「なるほどぉ」と呟き、そして口角を片方だけ上げながら言う。

「何してるのかと思ったら・・・。愛しの晴香チャンに見とれてたって訳かぁ」

「ちょっ!何言い出すんだよ!」

「だって事実でしょ~?」

 悪戯な口調で臼井に絡みつく。

「べ、別に見とれてた訳じゃないって!あと声が大きいってば!」

「はいはい。でも本番は来週だからね~。今までず~っと先延ばしにしてきたんだから、来週こそは頑張りなさいよ!」

 来週は、吹奏楽部の三年生を全員集めて謝恩会が開かれる。もちろん、臼井も純子も、そして前部長の小笠原も出席する。

「分かってるよ。もう卒業しちゃうし、今度こそ腹をくくるさ」

「ホントやっとだよ。晴香も私もどれだけ待たされた事か」

「別に純子は待たせてないだろ」

 純子は冗談めかした、しかし少し拗ねた口調で言った。

「いやいや、私もすっごい待たされたってば。あの日約束してから何か月経ったと思ってんの」

 そう、あの日純子は臼井に約束をしたのだ。

『私が晴香との仲を取り持ってあげる。コクる決心がついたら私に連絡する事!分かったかい?臼井クン』

 それから何ヶ月経ったか。コンクールが終わってないから、受験があるから、そんなタイミングで告白するのは晴香部長に迷惑をかけてしまう。そう言い訳してここまで先延ばしにしてきたのだ。

「確かにあれから何か月も経ったけどさぁ・・・」

「ま、来週は私も協力するからさ。頑張りたまえよ、臼井クン」

 純子は変わらずニヤニヤしながら臼井の肩をポンと叩く。臼井の視線は重力に負けるかの如くゆっくり足元へと落とされる。

「純子ー!臼井ー!何してんのー!こっちこっちー!」

 遠くの方で声がする。目をやると、大口弓菜が大きな声で2人に呼びかけながら手を振っていた。

「あ、そうだった。ごめーん!今行くー!ほら、さっさと行きなさい」

 純子は臼井の背中をやや乱暴に押した。臼井は押された勢いを殺さぬまま、弓菜の方へ駆け寄って行った。

「全く、ホントどんだけ待たせるんだか・・・」

 純子の浮かべた、ごく僅かに負の感情が混じった微笑みを見た者は誰一人いなかった。そうして純子は、臼井の後を追うようにして同じく弓菜の元へ向かった。

 

 

(あれは、純子と臼井君・・・?バスクラの2人は引退してからも仲良しなんだなぁ)

「晴香、どうしたの?」

 岡本来夢に声を掛けられ、小笠原はふと我に返った。

「え?あ、いやいや何でもないよ」

 小笠原は後輩たちの方に向き直った。

「みんな今まで本当にありがとう。大変な事もあると思うけど、滝先生を信じて頑張って。定演とか見に行くからね」

 小笠原の声と表情もまた、慈愛に満ちたものだった。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話2

アニメ1期1話の少し前、
「暴れん坊将軍」を練習してる場面です。


 春の日差しが強さを増し始めた3月末。校庭の桜は既に満開間近の様相だった。

 

 

「頭が微妙に揃わないねぇ・・・」

 小笠原・臼井・純子の3人が楽器を抱えて集まっている。新入生歓迎兼部員勧誘の為に演奏する「暴れん坊将軍」の合奏を終え、指摘された所をもう一度合わせようという事でバスクラリネットとバリトンサックスの3人は音楽室内に残って練習をしていた。

 残りの部員の大半は、合奏が終わるなりそそくさと後片付けを終え帰路に付いていた。低音パートとトランペットパートが何人か別室で練習している他は、音楽室に残っているのは3人とパーカッションの数人のみであった。

「それにしても、あすかは凄いよねぇ」

 不意に純子が口を開く。

「あすかは凄すぎるよ。梨香子先生が産休で居なくなってから指揮全曲こなしてるし、部活運営もあすか中心に動いてるし、なのになんで私なんかが部長やってるんだろう・・・」

 小笠原は深くため息をついた。

「晴香ったらまたそのモード?去年色々あったけど、今こうして吹部が存続してるのは晴香が頑張ったからでしょ?自信持ちなよ~」

「それだって、私より何倍も香織や葵が頑張ってくれたからで、私そこまで何もしてないし・・・」

 純子のフォローも小笠原には焼け石に水のようだった。

「そ、そんな事ないよ!晴香部長は本当に頑張ってると思うよ!」

 臼井が意を決したように声を掛ける。

「え?あ、ありがとう・・・。何か臼井君に言われると素直に喜べるね」

「えー!それじゃあ私の褒め言葉は嘘っぽいって事~?」

「え?あ、いや、そういう意味じゃないって!」

 拗ねるように口を尖らせる純子を小笠原は何とかなだめる。

(だって・・・、晴香部長は本当に頑張ってたから・・・)

 臼井の思いは口から発せられる事は無かった。

 後ろで話を聞いていたパーカッションの田邊名来と加山沙希も話に加わってきた。

「でも、実際あの時は晴香部長含めてその3人のお陰でどうにか空中分解免れた感じだもんなぁ」

「私たちは自分のパートをどうにかするので精一杯で、晴香のサポート出来なかったから・・・」

「そんな!沙希だって頑張ってたじゃん!気にしないで」

 そう、去年のコンクール前、一年生が多数退部する騒ぎがあったのだった。

 

 

 

 ある日、一年生が三年生に意見を付けたのが事の発端だった。

 当時から北高吹奏楽部の空気は緩み切っていて、パート練習の時間にお菓子を開けながら談笑するような事がまかり通っていた。そんな状況に業を煮やした複数の一年生が、真面目に練習するように言い寄った。しかし、緩んだ雰囲気に浸かりきっていた三年生は聞く耳を持たない。挙句の果てに「部活の秩序を乱してるのはアンタ達だ」と言い放ち、一年生と三年生の対立は決定的なものになった。間で板挟みになる二年生。そのような状況の中、3年生優先でコンクールメンバーが選出された事をきっかけに、一年生が次々と退部していった。

 一歩間違えれば部活崩壊に突き進む可能性さえあったが、現部長の小笠原を始め、トランペットの中世古香織やサックスの斎藤葵等の二年生の尽力もあり、なんとか平穏を取り戻したのだった。

 この騒動により、クラリネット・パーカッション共に一年生が1人ずつしか残らなかった。特にクラリネットは二年生が8人に対して一年生が1人という極めて歪な人数構成となった。純子は、パートリーダの鳥塚ヒロネと共に一年生のフォローをしようとしたものの、先輩である三年生に相対するのは困難だった。

 沙希が口にしたように純子やヒロネもまた、この時フォローしきれず退部してしまった後輩や、パートに一年生でただ一人残った島りえ、そして自分がパートの事ばかりに気を向けたために全く力添えが出来なかった小笠原に対して自責の念を抱いていた。

対して臼井はというと、この件に関して善処したとは言い難かった。女子が大半を占める吹奏楽部において、特に女子同士のいざこざが発生すると男子部員は完全にではないにしろ蚊帳の外に置かれる事が多い。臼井もその御多分に漏れず、その渦中に足を踏み入れる事が出来なかった。時折、純子やヒロネから「相談」という名目で愚痴を聞いたり、他のパートの男子部員と情報交換をする程度の事しか出来なかった。臼井もまた、後輩や小笠原に対して後ろめたさを感じていた。

 

 

 臼井は、小笠原が部長に就任すると聞いた時

「あぁ、田中さんじゃないんだ」

という程度の感想だった。ユーフォニアムの田中あすかは、楽器の技量や音楽の知識に於いて他の部員と比べて抜きん出ており、統率力も兼ね備えているので、あすかが部長をやるのだと誰もが思っていた。ところが、あすかが部長就任を断ったため、小笠原にその役職が回ったのだった。一年生の退部騒動の時も、香織や葵の陰に隠れがちだったため、臼井はその時点での小笠原の印象はあまり強くはなかった。

 しかし臼井は、その後小笠原が部長として苦悩の連続でここまできたのを見ていた。部長就任直後から、退部した後輩を引き留められなかった自責の念や、部活運営でもうまくできない自分を尻目に何でもそつなくこなすあすかに対して抱くコンプレックスを、香織などの親しい二年生に吐露する姿を何度も目撃してきた。

 常にあすかと比較され、「もし部長があすかなら」という目に常に晒されながら、それでも必死に部長としての職務を全うしようとする小笠原の姿勢に敬意を感じるようになったのはいつ頃からだったのだろうか。練習熱心で、部員みんなに優しく接し、後輩の面倒見も良く、その柔らかい物腰で、極めて険悪だった部活の雰囲気を今の状態まで押し上げた彼女が、報われて欲しいと願うようになったのはいつ頃からだったのだろうか。

 臼井は確かに小笠原に対して尊敬の念を覚えるようになっていた。それと同時に、自分が香織のように近くで彼女を支える事が出来ないでいる自分にもどかしさも感じていた。自分は支えるどころか話を聞いてあげる事すらできない。自分はなんて無力なのだろうか。バスクラとバリサク、同じ木低仲間だというのに。

 

 

 

「今年は一年生沢山入れて、もう後輩たちに嫌な思いさせないように頑張ろうね」

小笠原は自戒を込めるように告げた。沙希は柔らかい笑みを浮かべながら答える。

「そのためにも、新歓演奏バッチリ決める為に練習しなきゃね」

「純子聞いた?パー練の時弓菜と遊んでばっかじゃダメだよ」

 臼井は少し困ったような笑顔を作りつつ、刺々しくならないよう配慮しながら純子を咎めた。

「いやぁ、ついつい雰囲気に飲まれちゃうんだよねぇ。でもこうやって木低で練習する時は真面目にやってるからいいじゃん」

「パー練でもヒロネやまいなはちゃんと練習してるんだから、そんなんじゃ一年生に笑われるよ」

「あーはいはい、臼井さんの忠告はしっかり胸に刻みますよー。じゃ、笑われないように練習しましょうかねー。さ、晴香さっきの所からもっかいやろ」

 純子は口うるさい親をあしらうかのように手をひらひらさせ、小笠原の方を向き直って練習の続きを催促した。

 

 

 

 午後四時。空はごく僅かに夕焼けの様相を呈しているが、もうずいぶんと日も長くなり外の明るさは昼間のそれとほとんど差異を感じる事ができない。

 音楽室に残って練習していた吹奏楽部員も、楽器を片付け終わり何となしに全員が纏まって下校していた。通学路の途中にある三叉路までは木管低音の3人とパーカッションの2人は同じ道のりで、今後の部活についての話をしながら歩を進めていた。

「新しい顧問の先生って、どういう人なんだろうねぇ」

「え?晴香は新しい顧問の先生について何にも聞いてないの?」

 純子は少し目を丸くしながら小笠原に問うた。部長なのに新しい部長についての情報が彼女に与えられないという事に驚いたようだった。

「いや、ある程度の事は松本先生から聞いてるけど、人となりとか、どういう指導方針かとか、そういうのは分からないからさ」

「あーそうかぁ、あんまり厳しくない人だといいなぁ」

「でも、梨香子先生みたいにユルユル過ぎて纏め切れないような人だと困るじゃん」

 沙希が口を挟んた。小笠原は少し困惑した表情を浮かべた。

「それもそうなんだけどさ。嫌な人じゃない事を祈っておこうかな。これ以上面倒事は勘弁して欲しいよ」

 臼井は田邊との雑談に相槌を打ちつつ、女子3人の会話をぼんやり耳に入れていた。この時、なぜか小笠原の声ばかりがやけに耳に入ってくる事に臼井の意識が向けられる事はなかった。

 あと数日で最終学年になる5人は、この新顧問就任によって北宇治高校吹奏楽部に劇的な変化が起こる事を、この時まだ知る由もなかった。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話3

1期のBD/DVDに収録されている「吹奏楽部の日常」の第3回「吹奏楽部男子の日常だボーン!」のあの場面です。



「ひとし君、あのね、・・・別れて欲しい」

「え・・・何で?僕なんかしちゃった・・・?」

「そうじゃないの。ひとし君凄く優しくて、思いやりがあって凄く良い人。でもね・・・、ひとし君と一緒に居ても・・・全然楽しくない・・・。だからきっと、私たち合わなかったんだと思う」

「・・・ごめん」

高校2年生の7月半ば。梅雨も明けて間もない、痛いほどの日差しが過度に降り注ぎ、辺りの気温を容赦なく釣り上げる真夏の日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 昼の日差しが強さを増し始めてはいたものの、日が傾くと「肌寒い」と形容されるまでに気温が下がる5月末。宇治川沿いの木々は、その夕陽から発せられる太陽光を取りこぼすまいと葉の悉くを青々と茂らせていた。

 

「みんなの分買ってきたよ~」

ドリンクとフライドポテトが所狭しと載せられたトレイを両手に持ちながら、席取りをしていたクラリネットパートの面々に向かって歩を進める。

「ありがとー!さすが臼井!」

「臼井君やっさし~」

3年生の面々は、張り付けたような満面の笑みを浮かべて臼井に謝辞を投げつける。

「臼井先輩、いつもすいません・・・」

2年生の島りえが少し申し訳なさそうに、でもやはり笑顔で臼井に礼を述べた。

「いいよいいよ~、こちらこそ場所取りしてくれてありがと」

嫌々やってる訳でもないし、場所取りして貰ったのは事実なので、そう返しておく。普段から男子部員の地位は一部の例外を除いては総じて低い。特に臼井はクラリネットパートで唯一の男子部員なので、圧倒的に肩身が狭い。ただ、女子のコミュニティに於いて本当に嫌われた場合に受ける所業は、その対象の性別を問わず「無視」である事を臼井始め男子部員は良く分かっている。だから、こうして多少小間使いのような扱いを受けたとしても、ちゃんと集まりに呼んで貰えてるという事が「仲間として認識されている」という事実を客観的に証明している事に他ならない。

 

 この日は「クラパ2・3年生会議」と題して、その名の通りクラリネットパートの2・3年生が日曜の練習後にハンバーガー屋へ来ていた。会議と称されてはいるが、堅苦しい話を

する訳ではなく、最近の部活に対してざっくばらんに話すだけの会である。そして最初は1年生のフォローアップをどうしていくかの話だったのが徐々に逸れていく。『女三人寄ればかしましい』とはよく言ったものだ。

  

 

 

「ねー見て見て~、新しいカエルのぬいぐるみ買っちゃったんだ~」

「えー!超かわいい!ねぇねぇ!触らせて!」

 鈴鹿咲子と萩原笙子は最近ハマっているというカエルグッズの話に花を咲かせている。

「ヒロネ先輩!こないだ教えてもらった幸富堂の栗饅頭食べました!すっごく美味しかったです!」

「ホント!?良かった~。あれおいしいよね~」

 りえはパートリーダーの鳥塚ヒロネにピタッと寄り添っている。りえがヒロネを尊敬してやまないというのはパート内では有名な話だった。

 臼井はそんな2人に挟まれ、会話に入るでもなくそんな仲の良いパート仲間を微笑ましく思いながら一人ポテトを口に運ぶ。去年の事を考えれば、顧問の滝の指導によって活気を取り戻し、しかもこうしてパート仲間と和気藹々と出来る事を本当に幸せな事だと感じていた。

 

「それにしても、葵も色々大変だったのかな・・・」

 会話が落ち着いたころ、萩原笙子がおもむろにそう口にした。少ししんみりした空気になる。

 先日、サックスパートの3年生である斎藤葵が、合奏中突然受験を理由に退部を申し出た。部長の小笠原晴香が引き留めたものの、結局葵は退部してしまった。小笠原は、翌日学校を欠席していた。体調不良という事ではあったが、葵の退部騒動による精神的なダメージによるものだろうと推測されていた。小笠原は翌日無事に復帰し、部活開始時には小笠原に拍手が送られていた。小笠原の人柄を表す出来事である。

 クラリネットの3年生が代わる代わる言葉を発する。

「葵はこの所ずっと悩んでたみたいだしね。晴香は葵と仲良かったから、ショックもでかかったみたいだよ」

「でもさ、葵が辞めたのって受験が理由でしょ?今までも塾でちょくちょく部活早退してたじゃん。晴香がそんなに悩む必要無くない?」

「いや、確かに受験もあるだろうけど、去年辞めた子たちを止められなかったのをずっと気にしてたから、それもあるのかな」

「顧問変わって急にみんなやる気出したから引け目感じてたって事?」

「葵は真面目すぎるというか、考えすぎる所あるんだよねぇ」

「葵の気持ちも凄く分かるけど・・・。でも、これだけ部活の雰囲気がガラッと変わったのは、やっぱ滝先生のお陰かな」

「あれぇ?ヒロネったら一番最初『サンフェスを人質に取るなんて酷い!』って言ってたのに、もう心変わり~?」

 田中須加実が、ニヤニヤしながらヒロネに言葉を投げる。

「あ、あれはあくまで『そういうやり方が良くない』って言っただけだし!それに、確かに指導は悪魔かってくらいキツいけど、滝先生来てから部活の雰囲気変わったのは間違いないし・・・」

 ヒロネは少しバツの悪そうな顔をしながら答える。

「というか、滝先生って乗せるの上手だよね。だって、あのホルンとかボーンがあれだけ練習するようになったんだよ?」

「分かる!あれだけ文句言ってた樹里も愛衣も、最近は素直に練習してるもんねぇ」

「このまま頑張れば、関西大会行けちゃったりして!」

「なんたって、粘着イケメン悪魔の指導に耐えてるんだし」

「ウケる!ホントそうだよね!」

「その分、晴香も大変そうだけどね。あすかのバックアップでどうにかなってるけど・・・」

「でも、晴香先輩は凄く頑張ってると思います!」

「まぁ晴香は頑張ってるけど、どうしてもあすかと比較されちゃうのがカワイソーだよね」

「どっちかというとあすかが凄すぎるんだよ。あすかはホント特別だからさ~」

「でもさぁ、男からはあすかみたいな完璧超人より晴香みたいな子の方がモテるんじゃない?」

「あー分かる!あすかくらい完璧だと男って返って引くよね。晴香みたいに隙がある方が男にモテるよね~」

「臼井どう?あすかより晴香の方が好き?」

「ぐほっ」

 急な問いかけに、臼井は思わず咳き込んだ。そんな臼井を見て3年生の女子たちはケラケラと愉快そうに笑った。

「ちょっと臼井ったら慌てすぎ~」

「え、何!?臼井ホントに晴香の事好きなの?」

 大口弓菜が意地悪な笑みを浮かべながら臼井の顔を覗き込む。

「そ、そうじゃないって!二人とも良い人だし楽器も上手いし、こう、人として尊敬できるって感じで・・・」

「うわー、優等生コメントだわぁ。そういうの要らないわぁ」

「だいたい、臼井には純子という掛け替えのない相手が居るでしょ~」

 弓菜が純子に振ると、純子はわざとらしく腰をくねらせながら口を尖らせた。

「もう!臼井君ったら~、私という存在がありながら!臼井君の浮気者~!」

 ドッと笑いが起こる。臼井はただその場で狼狽えるばかりだった。

 滝がコンクールメンバーをオーディションで決めると言った時は、また部内の空気がおかしくなるのではないかと心配していたが、クラパートは部内では比較的練習熱心な部員が多かった事もあり、滝の指導も相俟って皆でオーディション頑張ろうという空気が生まれていた。男子部員の立場の低さ故に、周りに上手く練習を促すことが出来ずに一人黙々と練習する事が多かった臼井は、この状況を非常に好意的に捉えていた。全国は無理でも、もしかしたら関西大会は行けるかもしれない。去年までは夢のまた夢だったそれが、今はっきりと実感出来ている。自分のバスクラがそれを支える事が出来る。高校最後の夏に、こんな経験ができるかもしれない。背中の奥がムズムズした。

 

 

 

 

 会もお開きになり、家の方向が同じである純子と弓菜と共に臼井は家路につく。

「じゃ、また明日ね~」

 途中で弓菜が別の道を進む。ここからは弓菜の家は右に曲がってすぐの所。純子と臼井は直進してしばらく進む。

「臼井!もう遅いんだから、ちゃんと純子を家まで送り届けるんだよ!」

「分かってるよ~、また明日~」

「弓菜またね~」

 弓菜は笑顔で手を振り右の道へ進み、すぐに「大口」と書かれた表札が掲げられている門の中へ吸い込まれていった。

「もうすぐオーディションだね」

「何?臼井は不安なの~?」

「だって、滝先生の事だから、もしダメだと思われたら3年生でも容赦なく落とされるよ・・・?」

「臼井はきっと大丈夫だよ~。いや、絶対大丈夫。前からずっと真面目に練習してたじゃん」

「部活の時間内ではね。でも、前は部活が休みの日も多かったし、やっぱり不安・・・」

「もう臼井は昔から弱気だよね~。臼井がやばかったら、私なんてどうすんのさ。私の方が絶対ヤバいし。あ~あ、こんな事ならもっと前からちゃんと練習しとけば良かったなぁ」

「でも、純子最近凄く上手になったよね。指が滑らなくなってきてるし、音程も安定してきたよ!」

「そう?ありがと!・・・、ねぇ臼井」

「ん?」

「私、頑張るから・・・、オーディション絶対受かろうね。最後のコンクール、絶対2人でバスクラ吹くよ」

「・・・もちろん。やっぱり北宇治のバスクラは2本無いとね!」

 住宅街をうっすらと照らす月と、決して多くは無い数の星々が、所々に雲を携え、宇治の夏の夜空に幕を張ったように薄く引き伸ばされながら広がっていた。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話4

アニメ1期9・10話、
オーディション結果発表からです。


梅雨明けを間近に控え、日光が激しく降り注ぐ7月初め。その日差しは、盛夏のそれに劣らない程の強さで地面を照り付けていた。

 

 

 

 

 

副顧問の松本美知恵が、部員の集合する音楽室のドアを開ける。数日前に行われた、コンクール出場メンバーを決めるオーディションの結果発表が行われる。教室内は、呼吸をするのも憚られるほどの緊張感で満ち溢れていた。

「それでは、合格者を読み上げる。呼ばれた者は返事をするように」

「「はい」」

「まずパーカッション」

・・・

・・・

 

 

「続いてクラリネット」

緊張が最高潮に達し、全身が硬直する。

「鳥塚ヒロネ」

「はい!」

「大口弓菜」

「はい!」

「加瀬まいな」

「は、はい!」

「鈴鹿咲子」

「はい!」

「田中須加実」

「はい!」

「萩原笙子」

「はい!」

「越川純子」

「はい!」

まずい!もしかしたらバスクラは1本だけかもしれない!

「臼井ひとし」

そう思うとほぼ同時に自分の名前が呼ばれた事実を臼井の耳が正確に捉えた。

「…はい!」

「島りえ」

するすると体中を支配していた緊張感が抜けていく。

「はい!」

この感情は、喜びではなく安堵に近いものであろうと推測された。

「植田日和子」

感覚が元に戻って行く。背中が汗で濡れている事に初めて気付く。

「はい!」

良かった。最後のコンクールに出られるんだ。

「松崎洋子」

純子と二人で、バスクラでコンクールに出られる。

「はい!」

しかも今年は去年のように、ただ決まったルーティーンとして出る訳じゃない。

「高久ちえり」

一生懸命練習して、関西大会を目指すんだ!

「はい!」

もしうまく行けば、全国大会も見えてくるかもしれない!

「クラリネットは以上の12名」

横でハッとすすり泣く声が聞こえた。1年生の高野久恵だった。クラリネットは彼女だけが落選した。彼女は高校から吹奏楽を始めたので厳しいだろうと、先日の「クラパ2・3年生会議」でも言われていて、その時のフォローアップについても話し合われていた。それでも、とても熱心に、そしてひたむきに練習に取り組む彼女の姿を見ているだけに、心に細かな棘が刺さる。指はまだ回らない事も多いが、始めて数か月とは思えないほど彼女の音色は豊かだ。この子は間違いなく上手くなる。何とかモチベーションを維持させてあげなければならない。臼井は心の中で思いを巡らせていた。

 

「ソロパートは高坂麗奈に担当してもらう」

 

 美知恵の発表に教室内がどよめく。自由曲である「三日月の舞」にトランペットのソロパートがある。ソロパートもオーディションで決める事になっていたのだが、その担当に1年生の高坂麗奈に決まったと発表された。

 

 

 

 

 

 

 

トランペットには3年生が2人在籍している。そのうちの1人、パートリーダー中世古香織は、高校生としては十分な技量を持ち、それでいて練習熱心で、去年の大量退部騒動の時にも部の存続の為に奔走した事もあり、部内でも非常に人望が厚い。その香織を差し置いて1年生がソロを吹く事になった。3年生の香織にとって、当然今年が高校最後のコンクールである。部内は騒然となった。特に、同じパートの2年生である吉川優子は自分の事のように落胆していた。優子は、自他共に「信者」と称する程熱狂的に香りを慕っていた。

(変な事が起こらないといいけど・・・。)

 臼井の脳裏に一抹の不安がよぎる。

 

 

 

 

 

 

 学校が夏休みに入った。その初日、練習の準備を終え滝が練習の開始を指示した直後、優子が滝を呼び止めた。

「先生!一つ質問があるんですけど、いいですか・・・?」

「なんでしょう?」

「滝先生は、高坂麗奈さんと以前から知り合いだったって本当ですか?」

 教室内の時間が一瞬止まったように感じた。優子は滝に詰め寄りながら、オーディションに贔屓があったという噂が立ってる事への回答を求めた。滝は、麗奈と知り合いであった事を認めた。教室中に騒めきの渦が出来る。滝は、至極冷静に贔屓や特別な計らいをした事をはっきり否定した。それでも優子は食い下がる。

「何故黙ってたんですか」

「言う必要を感じませんでした。それによって指導が変わる事はありません」

「だったら・・・」

「だったら何だっていうの。先生を侮辱するのはやめて下さい」

 突然、教室の隅から麗奈の怒気を孕んだ静かな言葉が割り込んだ。空気が次第に凍っていく様を、臼井ははっきりと観測した。

「なぜ私が選ばれたか、そんなの分かってるでしょ。香織先輩より、私の方が上手いからです!」

 堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がした。

「アンタね!自惚れるのもいい加減にしなさいよ!!」

 叫びながら優子が麗奈に詰め寄る。香織は必死に優子を引き留めるが聞く耳を持たない。

「香織先輩がアンタにどれだけ気ぃ遣ってたと思ってんのよ!!それを!!」

「やめなよ!」

 横に居たユーフォニウムの中川夏紀が止めに入る

「うるさい!!」

「やめて!!!」

 正に悲痛と呼ぶに相応しい叫び声と共に、教室内に静寂が広がる。叫び声を上げた香織は、顔を上げることができない。

「やめて・・・」

 その声は震えていた。こらえていたものが弾けたように彼女の瞳から涙があふれた。それは頬を伝い、彼女の滑らかな肌をゆっくりと滑り落ちていく。

「ケチつけるなら、アタシより上手くなってからにしてください」

 吐き棄てるようにそう言って、麗奈は音楽室をあとにした。

「麗奈!」

ユーフォニウム1年の黄前久美子が慌てて後を追う。教室内は夥しいほどの沈黙。臼井は、体が硬直して身動きが取れない。

「準備の手を止めないでください。練習を始めましょう」

 沈黙を打ち破るように滝が指示を出す。その表情は、どこか悲しげにも見えた。

「「はい・・・」」

 疎らな返事がこだまする。部員たちは、我に返りおずおずと準備を再開した。香織と優子を除いて。

 臼井は、純子が音楽室を出ようとしているのを目撃した。

「どこ行くの?」

「教室に忘れ物したから取り行くだけ」

 明らかに苛立った口調でそう告げ、純子も音楽室をあとにした。

 教室内では未だ香織と優子はその場から動けないでいる。小笠原が2人の元へ行こうと足を踏み出した。直後、トランペット3年の笠野沙菜が小笠原の肩に優しく手を置いた。

「晴香ごめん、あの2人のフォロー、私にやらせて。晴香は、他の部員たちをフォローしてあげて。今回の事は、パート内で何とかしてみるから。その代わり、今日部活が終わったら香織の事、お願いね」

 小笠原は、沙菜の顔を数秒見つめたあと、黙って頷いた。沙菜は、優子と香織の元へ赴き、何か言葉を掛けた。沙菜が香織の肩を優しくさする。そのまま3人は隣の教室へ消えていった。小笠原の、困惑と悲壮を綯い交ぜにしたような表情を、臼井はただ横で眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 忘れ物をした教室に向かう純子。一歩一歩足を踏み出す度に、歩幅と同じ量のイライラが胸中に加算されていくのがはっきり分かる。確かに優子ちゃんのアレは良くなかった。だからって香織にあんなセリフ投げ付ける必要がどこにあったの?香織が高坂さんに何をしたっていうの?大体、前々から思ってたけどあの子の音、技量はあるかもしんないけど全然

「んあああああああ!!!」

 突然廊下の曲がり角の先から叫び声が聞こえた。

「ウザい!ウザい!鬱陶しい!何なのあれ!ロクに吹けもしないくせに何言ってんの!そう思わない!?」

 純子は柱の陰に身を隠した。2人の姿は見えない。会話・衣擦れの音・足音だけが純子の耳に届き、曲がり角の先で何が起こっているのかをぼんやりと捉える事が出来る。髪が逆立っていく感触が、こんなにもはっきり感じる。

「ふ、ふふふ」

「・・・何で笑うの・・・?」

「ゴメン。てっきり落ち込んでるとおもうぁ・・」

「・・・久美子、私間違ってると思う?」

「・・・思わない」

「・・・ちょっとさ、アタシの話聞いてくれる?」

「拒否権はあるの?」

「ないけど」

「やっぱり・・・」

「一緒に校庭来て」

 二人がそのまま階段を降りて行く音が聞こえた。胸中に溜まった、褐色でドロドロとした感情が不安定に攪拌され、一定の形状を保つ事ができないでいた。

「聞きたくなかった」

 純子は、廊下の埃が日光に照らされパチパチと反射しているのを数秒目視し、忘れ物を取るという本来の目的を遂行すべく教室へと再び歩を進めた。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話5

1期10話のBパート前半の部分らへんです。


 朝の騒動が表面上終息し、午後には音楽室で滝の指導の下、課題曲の合奏練習が行われていた。

 

「ホルン、音の入りが全く合ってません。集中して下さい」

 朝の騒動によって、部内の空気は完全におかしくなった。

「今の所、バスクラとバリトン一人ずつお願いします。臼井君から」

 部内が全体的に集中力を欠いているようだった。昨日以前と比べて明らかに音が合っていない。各楽器から発せられる音が交じり合わず、油膜のように音楽室の表面に浮かび上がる。

「越川さん、音の処理が雑になってますよ」

 人間関係のゴタゴタに巻き込まれるのはとても大変だ。変に首を突っ込んでしまっては練習もままならなくなる。臼井は、今の部の空気に焦りを感じつつ、しかし何も出来ずに居る。こういう状況の時は、黙々と自分の練習をするしかない。自分が人間関係の縺れをどうにか出来るわけでもないのだから。

「越川さん、いつも言っていますが、バスクラは低音の要となる楽器です。つまりバンド全体の要という事です。そんな不安定な音ではバンド全体が安定した音になりません。メロディのクラやペットがちゃんと上に乗れるようなしっかりした音を出してもらわないと困ります」

 ペットという言葉が滝の口から発せられた瞬間、純子の左人差し指がピクリと動いた。

「『バスクラは2本あるから』とか『チューバやコンバスがあるから』などと思ってはいけません。ホール練習までに必ず立て直して下さい」

 純子は返事をしない。

「ちょっと純子・・・?」

 小声で臼井が問いかける。純子はただ真っ直ぐ滝を見つめている。無表情の彼女の顔からは感情が読み取れない。

「・・・越川さん、返事はどうしました」

 滝もまた純子から目線を外さずに、静かに硬い空気を孕んだ言葉を投げかける。

「・・・はい」

 ようやく純子が返事を返す。滝は小さくため息を付き、すぐに正面を向き直った。

「ではトリオから全員で下さい」

「「はい」」

 この日の合奏は、滝が苛立っているのが伝わってきた。自分の音が思うように前に飛ばない事に気付きながら、臼井は最後まで修正できずに終わってしまった。

 

 

 

 

 

 合奏が終わり、臼井は滝に曲の事で質問をしようと職員室へ向かった。

「失礼します」

 ドアを開けると、デスクの前で紙パックのカフェオレを啜っている滝の姿が目に入った。いつもなら、合奏後には同じく曲について質問しようと滝の前に列が出来上がっていたのだが、この日は臼井のみ。心に苦い何かが頭上から降り注いでくるのを感じた。

「先生、課題曲なんですけどいいですか?」

「あ、少し待って下さい。今スコアを出しますので」

 

・・・

 

「では、その部分はバスクラとバリトンで良く合わせておいて下さい」

「分かりました。ありがとうございました」

「合奏でも言いましたが、バスクラはバンド全体にとって最も芯になる楽器です。音程や指回しに関しても、まずは安定させる事を意識して下さい」

「はい」

「それと・・・」

 滝は少し溜めを付けてから続きの言葉を発した。

「臼井君には、越川さんを上手く引っ張ってあげて欲しいのです。今日は少々厳しい事を言いましたが、越川さんのポテンシャルを考えれば、もっといい演奏が出来るはずです。そのためには、バスクラの2人がお互い協力し高め合う事が重要です。バスクラの演奏レベルが更に上がれば、全国大会も夢ではありません」

「え、は、はい!頑張ります!」

「いい返事ですね」

 滝はようやく優しい笑みを浮かべながら紙パックに残っていたカフェオレを啜り切った。

 

 

 

 

 

 小笠原は、明日の練習計画を確認するために職員室に向かっていた。女子トイレの前を通り過ぎると、中から滝がオーディションの際に贔屓したのではないかという噂が囁かれているのが耳に入った。明日パーリー会議で釘をささなければ。沙菜がああ言ってくれたんだから、何とかみんなのフォローをしなければ。2階に降りて左に曲がる。職員室はまだ少し先にある。

「沙菜先輩は、香織先輩にソロ吹いて欲しいと思わないんですか!」

 廊下の奥から叫び声が聞こえた。朝に音楽室で麗奈に向かって放たれた叫び声と同質のものであった。柱の陰から覗くと、廊下の端で向こう向きの優子と此方向きの沙菜が対峙していた。沙菜は困惑した表情を浮かべながら優子をなだめようとしている。

「沙菜先輩だって、去年香織先輩がどんな扱い受けたか知ってますよね!」

「で、でも、麗奈ちゃんが無理矢理ソロを奪い取った訳じゃないし、香織だってこんな形でソロ譲って欲しいなんて思わないと思うの・・・」

「沙菜先輩だって、今年が最後のコンクールなんですよ!!あんな風に言われて悔しくないんですか!?」

「優子ちゃんの気持ちも分かるよ。でも、コンクール前にゴタゴタするのは良くないんじゃないかなって・・・」

「もういいです!失礼します!」

 優子は踵を返し、肩をいからせながらこちらに歩いてくる。慌てて柱の更に奥へと身を潜める。優子が横を過ぎ去っていく。こちらには全く気付いていないようで、そのまま階段を上がっていった。先程まで2人が居た廊下の端を恐る恐る覗くと、沙菜は今にも泣きだすのではないかというほど、悲壮感に満ち溢れた表情を浮かべその場で立ち尽くしていた。トランペットパートの内部分裂は深刻なようだった。

 

 

 

 

 

 あの騒動から、部内では滝への疑念は大きく膨れ上がった。滝が麗奈と以前から知り合いだったという事自体は事実であったため、噂にはどんどん尾ひれが付いていった。『オーディションそのものが麗奈をソロにする為に行われた』『麗奈の父が有名なトランペット奏者だったので先生は断り切れなかった』。当然、滝に直接聞くものは無く、しかし噂が大きくなり滝の耳にも入るようになったが、滝は無言を貫いた。それが返って滝に疑念を持つ部員の不信感を増幅させた。『先生はこの問題に蓋をしている』。噂を信じる者、信じない者。加えて、香織に同情する者、麗奈を擁護する者。この二つの立場の違いによって部内の亀裂が複雑に広がっていった。小笠原がパートリーダー会議で収めるように促しても効果は無く、とうとう合奏もままならない状態になり、3日続けてパート練習のみ。特にクラリネットパートは完全に集中力が切れてしまった。パート内全体が滝への不信感でいっぱいになっている。

 

 

 

 そんな中臼井は、純子に声を掛け小笠原を呼んで木管低音で練習していた。滝に合わせておくように言われていた箇所を練習する為ではあるが、集中力の切れてしまったパート内から連れ出す目的もあった。なんとか純子を引っ張り上げなくては。

 

 

 この日も昨日に引き続きバスクラとバリサクの3人、木管低音でパート練習をしようと1-6の教室に集まっていた。椅子と譜面台を3つずつ教室の後ろに寄せ、練習の準備を整える。口数は少ない。昨日3人で合わせた時には、音が全く飛んでいなかった。もっと響かせる事を意識しなければ。

「あのさ・・・、晴香と臼井はどう思う?」

「え?」

 純子の唐突な問いかけに、臼井は上ずった声を上げてしまった。

「ソロの件、2人はどう思う?」

「えっと・・・」

 臼井と小笠原は突然の事態に固まってしまった。

「晴香には悪いけど、私は納得いかない」

「純子・・・?」

 小笠原は純子の顔を恐る恐る覗き込む。教室内に密度の高い沈黙が充満する。

「初めに言っとくけど、私は先生が贔屓したとは思ってない。あの人が音楽に対してそんな事するとは思えない。個人的な上手さなら、香織より高坂さんの方が上手いのは私でも分かる」

 でも、と、それまで10m先にある机の脚に向けられていた視線が教室の黒板へ向きを変えた。

「私は、高坂さんの演奏は北高の演奏に合ってると思えない。合奏してても、周りの音全然聞いてない。合わせようとしてない。周りの音を聞き合って合わせるっていう事なら香織の方が絶対上」

 実は、同じような事を臼井も感じる事があった。複数で音楽を演奏する場合に欠かせない『周りの音を聞き合って調和させる』という事を、麗奈の音色からは感じ取ることが出来なかった。ただ、麗奈の技量が香織のそれよりも上である事は臼井にも良く分かった。

「ソロなんだからいいじゃんとか、そういう事じゃない。私、廊下で聞いちゃったの。あの子『ロクに吹けもしないくせに』って言ってたの。あの子きっと香織と優子ちゃんの事見下してる。というか私たちみんな見下してると思う。だから周りの音に合わせようとしないんだと思う。それがバスクラとして悔しい。吹奏楽って一人だけじゃ音楽が成り立たないのに、自分だけ特別だと思ってる気がする。被害妄想かもしれないけど、それが許せない。そんな人、下支えしたいと思わない。それに、そんな人を個人の技量が上だからってソロに指名した滝先生にも不満がある。そんなんで府大会突破しても嬉しくない」

 純子は一気に捲し立てた。臼井と小笠原はただ黙って聞いている。臼井の右手に握られているバスクラリネット。体温が掌から、洋白銀メッキが施されたキイと、深い黒を纏ったグラナディラ製の管体にじわりと伝わっている。

「個人練行ってくる」

 純子はそう言って、3人で一度も合わせないまま、楽器と譜面台を持って教室を静かに出て行ってしまった。教室には、普通の椅子が1脚と、2つ重ねて高くセッティングされた椅子が2脚。譜面台が2本。重苦しい空気。そして、部長と一男子部員。グラウンドから放たれる野球部員のかけ声がこだまし、教室内の空気を鈍重に揺り動かしていた。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話6

1期10話後半らへんです。

遠くの方から聞こえるトランペットの音が、
誰の音なのかは皆さんのご想像通りです。



 小笠原は静かに椅子へと腰かけた。両手に大事そうに握られているバリトンサックス。ベル付近の管体には手彫りの彫刻が施されている。臼井はおずおずと小笠原に話しかける。沈黙が耐えられない。

「あの・・・、ごめんね。純子も思う所があるんだよきっと、ね?」

「ねぇ、臼井君はどう思う?」

 小笠原の視点は、腰かけた椅子の少し先に整然と並べられた机の脚に向けられている。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない、全くの無表情で臼井に質問を投げかけた。

「え、えっと・・・、うん。正直、純子の言ってる事も分からなくもないかなぁ。なんかね、高坂さんの音って周りからちょっと浮いてる気がしてて…。上手過ぎるからなのかな。ははは」

 痛い程重々しい空気を少しでも軽くしようと、カラ笑いを含めながら答える。

「あ、でも、高坂さんは間違いなく上手だから、滝先生が贔屓したとは僕も思わないかな。滝先生は、本気で全国大会目指してるよ。だから、3年生を優先しなかったのかなって」

「そう・・・」

「なんて言うか、中世古さんに同情する人の言い分も高坂さんを擁護する人の言い分も分かるっていうか・・・。なんかどっちつかずだよね。ごめんね。ははは・・・は・・・」

 臼井は相変わらずカラ笑いを浮かべたままだ。こんなに一生懸命空気を軽くしようとしているというのに、一向にその兆しが無い。

「私さ、この前葵が退部した時に部活休んじゃったでしょ?」

「えっ・・?」

 思わず声が出た。臼井は小笠原の横顔を見る。肩を流れる栗色の髪の隙間から、彼女のほっそりとした白い首筋がのぞく。虫にでも刺されたのだろうか。滑らかなその表面に、ぷっくりと膨らむ赤い痕。表情は相変わらず無のままだ。

「あの時、体調不良って事で休んだんだけど、本当は葵の退部を止められなかったのがショックで休んじゃったの」

 小笠原は訥々と話し始めた。臼井は、放たれる言葉を僅かでも聞き洩らさないように細心の注意を払いながら耳を傾ける。

「あすかが部長なら、葵は辞めなかったのにって。私は、部長を務められるような有能な人間じゃないんだって、ふさぎ込んでた」

 正確なリズムで淡々と紡ぎ出される言葉。まるでエチュードのようなそのフレーズは、しかし臼井の心を掴んで離さない。

「でもその日、香織がうちにお見舞いに来てくれて。その時香織は、私には勇気があるって言ってくれたんだ。部内の人間関係がボロボロになってたあの頃の部活で、晴香が部長を引き受けてくれたから今の部活があるんだって。少なくとも、上級生はみんな分かってるって、言ってくれた。だから、葵ともちゃんと話して、気持ち切り替えて、部活に戻れた。だから、あすかや香織に頼りっきりにならないように頑張ろうって思った。でも、今部活がこんな事になって・・・。私、何も変わってない。あすかや香織が居ないと何にもできない。やっぱり私ダメなのかな・・・」

 無表情のままの瞳は、ごく僅かに潤んでいるように見えた。独白の終わった空間には、やはり沈黙。臼井はおもむろに口を開き、その沈黙を強引に引き裂いた。

「で、でもさ!誰かに頼る事って、悪い事じゃないと思う!」

 やや下に向けられていた小笠原の顔が、少し上がり臼井の顔を覗いた。

「僕だって、純子やヒロネや、クラパの皆が居ないと何もできない。ナックル君や千円君が居ないと部活続けられてないと思う」

 脳内での言葉の整理がままならないまま、ただ感情によって口から言葉が放たれ、緩い放物線を描き教室内に飲み込まれていく。

「純子も言ったけど、吹奏楽って一人じゃできないじゃない?それは演奏だけじゃなくて部活運営もきっとそうだよ。田中さんも中世古さんも、確かに何でも出来るし楽器も上手だし凄いなって思うけど、きっと2人も晴香部長が居ないとダメな事あると思う。だから、晴香部長はダメじゃないよ!」

 小笠原はじっと臼井の目を見つめている。その瞳にはキラキラと輝く水の膜が張られている。

「中世古さんの言う通り、去年晴香部長がこの部活を引き受けてくれたから、今僕たちはこうして吹奏楽やれてると思う。だから、少なくとも上級生はきっと、最後にはみんな晴香部長に付いて行くよ!」

 ごちゃごちゃとした感情の塊を、臼井は無理矢理言葉に変換して何とか紡ぎきった。

「ありがとう・・・」

 小笠原の声は震えていた。

「私、頑張ってみる」

 そしてすぐ、元気にそう言った。穏やかで、しかし芯のある声に、臼井は安堵の表情を浮かべた。不器用な言葉の羅列でも、なんとか小笠原にこの感情は届いたようだ。

「取り敢えず、練習しよ。純子居ないけど、合わせられる所を今のうちにやっとこうよ」

 臼井は譜面台に置いたファイルをめくり、課題曲がファイリングされている箇所を開いた。あちこちになされた書き込みは、去年の比ではないほどびっしり書かれている。

「そうだね!まずは演奏をちゃんとしないと」

 小笠原はハキハキと返答しながら譜面をめくる。角のない穏やかな筆跡で書かれた書き込みが、楽譜の上に所狭しと並べられていた。

 

・・・

 

「あ、もうこんな時間だ。臼井君ゴメン、これからちょっとあすかと話しないとだから抜けるね」

 小笠原は教室の時計に目を向け、申し訳なさそうにそう言った。

「あ、そうなんだね。・・・ソロの件?」

「あ、ううん、今度のホール練の事でちょっとね」

「そうなんだ。大丈夫だよ。じゃあまた合奏でね」

 臼井はいつもと変わらない挨拶を小笠原に差し出した。

「臼井君、さっきはありがとう」

「いや・・・、なんか纏まんない言い方しちゃってごめんね。とにかく、無理しないで」

「ありがとう。やれる所までやってみるよ」

 小笠原はそう言い残し、バリトンサックスを持ち、畳んだ譜面台と楽譜を片手に教室を出た。合奏まではもう少し時間がある。臼井は改めて課題曲の譜面に目を通す。ここだけ少しやっておこうかな。3の厚さのリードが、銀色に光るリガチャによってマウスピースに固定されている。

「いた!ちょっと臼井聞いてよ~!」

 突然教室のドアが開き。同時に眉を吊り上げながらクラパートの3年生部員が教室内に入って来た。彼女は先程まで小笠原の座っていた椅子に腰かけ、滝や麗奈への不満を上げ連ねる。臼井は、苦笑いを浮かべながら彼女の言葉に耳を傾ける。男子部員にとって、内容の如何を問わず女子部員の愚痴を聞くというのは、極めて重要な役割なのだ。

 遠くの方から微かに、自由曲のトランペットソロのフレーズが聞こえてきた。外から聞こえてくるので、麗奈が外で練習しているのだろうか。その音色は伸びやかで、鮮やかで、こんなにも僅かな音量しかこの教室には届いていないというのに、ソロに相応しい音色だと思わせるだけのものであった。愚痴を言い続ける3年生部員の耳にも、この音色が届いているはずではあったが、反応を示す事はなかった。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話7

アニメ1期10話の最期の場面、実はこんなシーンがありまして、
https://twitter.com/mumimushu17/status/867728065937330176
そこから膨らませてみました。

そして、9/9・10に行われた西関東吹奏楽コンクールの高校Aの部後半と大学の部を聞いて来ました。とても良かったです。
審査員をされていた上野耕平先生が所感を述べられているので、是非見て頂きたいです。
https://twitter.com/i/moments/906859161270468608

原作の新刊も読みました。こんな感じでまとめてみたので、お暇ならぜひ。
http://ch.nicovideo.jp/mumip/blomaga/ar1329694


 小笠原はあすかを探しながら校舎内を歩いている。ひとまず低音パートが練習している3-3の教室に向かってみようか。2-6の教室の前を通り過ぎる手前、ふと足が止まる。教室内から聞き覚えのある2人の会話が聞こえてくる。

「香織先輩にソロを譲れって言うんですか?」

「ち、違うの。そ、そうじゃないの。私も上手く言えないんだけど、何て言うか、香織もソロを吹きたかったはずだから、その気持ちを忘れないで欲しいっていうか・・・」

 その2人が誰なのかがはっきりと認識できる声色。トランペットパート1年の高坂麗奈と3年の笠野沙菜だ。

「私は別に、香織先輩から無理矢理ソロを奪い取ったつもりはありませんが」

「そ、それはもちろんそう。私も麗奈ちゃんが間違ってるとは思ってないの。でもね、コンクール前の大事な時期だし、ゴタゴタするのは演奏にも悪い影響があるんじゃないかなって・・・」

「その大事なコンクール前に顧問の先生を侮辱したのは優子先輩ですよ。私にはそっちの方が信じられません」

「うん、えっと・・・、確かに優子ちゃんのあれは良くなかったと思うけど・・・。でも・・・」

 沙菜の言葉が完全に途切れた。沙菜は説得材料が完全に枯渇してしまった。教室と廊下に沈黙が揺らめく。

「そろそろ練習しなくちゃいけないんで、失礼します」

 無機質な言葉が反響した数秒後、教室の後ろ側のドアが開き、麗奈が廊下へと姿を現した。小笠原と目が合う。麗奈は一瞬ハッとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの端麗な無表情へと戻る。

「お疲れ様です」

 彼女はそう言って小笠原の横をすり抜けて行く。

「お、お疲れ様・・・」

 小笠原がようやく返事を返した頃には、麗奈はすでに階段を下りる寸前だった。颯爽とした後ろ姿は、まるで部内の騒動を意に介していないようだ。が、一段目に足をかけた瞬間に見せた憂いの滲む表情を、小笠原はハッキリと確認した。

「あっ、晴香・・・」

 しばらく麗奈の去った後の階段を眺めていると、後ろから教室のドアが開く音と同時に沙菜の声が聞こえた。

「沙菜・・・、大丈夫?」

「え?あ、だ、大丈夫!ほら、パート内でどうにかしてみるって言ったでしょ?今まで香織に頼ってばっかりだったから、今度は私が頑張らないと!だから晴香は部長の仕事に専念して。じゃ、また後でね」

 にこやかな表情を張り付けながら、トランペットを片手に階段を昇って行った。踊り場から声が聞こえる。

「あ、沙菜~、晴香見なかった?」

「晴香?あぁ、そこに居るよ」

「ありがと~」

 すぐのちに、声の主が階段を下りてきた。アルトサックス3年の岡本来夢だ。

「あ、いたいた。晴香探したよ。ちょっとサックスで合わせたい所があるからパート練させてくんない?」

「あ、ごめん、これからあすかとホール練の事で話し合いしないといけないんだ」

「そうなんだ、じゃあそれ終わってからでいいから、2-1の教室来てよ。パート練してるからさ」

 小笠原のバリトンサックスを握る右手の力が僅かに強くなる。去年まで『サックスはファッションとして吹いてるから~』とか『音楽って楽しむものでしょ?キツい練習は嫌』などと言っていた来夢の口から、こんな台詞が出るなんて。確かに滝が顧問に就任して以来、彼女は真面目に練習に取り組んでいたが、部活内の空気が極端に悪くなっている現状においてもなお、彼女からこんなにも練習に前向きな台詞が放たれるほど、彼女の中で大きな心情の変化があったのか。

「・・・わ、分かった。後から行くから、先行ってて」

「あ、ちょっと待って」

 踵を返そうとした小笠原に、来夢はそう言って手を差し出した。

「楽器と譜面台持ってってあげる。重いでしょ?」

「あ、ありがと。じゃあお願いするね」

「ねぇ晴香」

 小笠原から楽器と譜面台を受け取った来夢は、ほんのりと笑顔を浮かべた表情のまま小笠原の目を真っ直ぐに見つめた。

「みんながどう言うか分からないけど、私は晴香に付いて行くから」

 それじゃ、と言って来夢はすぐに2-1に向かって歩を進めた。その左手には小笠原の畳まれた譜面台、右手にはバリトンサックスがしっかりと保持されている。心がググッと上昇し、暖まりながらゆっくりと元の位置へと降りてくる。数秒経ったのち、小笠原は一定の速度で上の階に向けて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 階段を昇り切り左へ曲がる。突き当りには、部室に入りきらない楽器や備品を置くために吹奏楽部が借りている部屋がある。その部屋から、肩を落としトボトボと歩くユーフォ担当の1年生部員の姿を視界に捉えた。

「黄前さん」

「部長」

 声を掛けられた久美子は顔を上げた。

「あすかは?」

「あぁ、あすか先輩なら、多分戻ったんだと思います」

 久美子が言葉を発する間、校舎の外からBGMのようにトランペットの音色が響いている。

「そっか、ありがと」

 小笠原は久美子の横をすり抜け、彼女がたった今出てきた部屋に入っていく。久美子の足音が遠ざかって行くのが背後から聞こえる。外から聞こえるトランペットの音色は、校舎内に侵入し任意の角度で乱反射したのち濁りの無いまま小笠原の鼓膜を震わせる。

 窓の外に目を遣ると香織が自由曲のソロパートを練習していた。楽譜は風に飛ばされないように布団ばさみで譜面台に据え付けられている。香織の斜め後ろから、あすかが彼女の元へ歩いて行くのが目に入った。あすかに声を掛けられ、笑顔で応じる香織。仲睦まじい2人の姿は、夏の午後の気怠い日差しにキラキラと照らされている。

 小笠原はゆっくりと視線を2人から外す。

 

 

『そんなんで府大会突破しても嬉しくない』

 

 

『誰かに頼る事って、悪い事じゃないと思う!』

 

 

『今まで香織に頼ってばっかりだったから』

 

 

『みんながどう言うか分からないけど』

『私は晴香に付いて行くから』

 

 小笠原は校舎から見える裏山に視線を移す。小さく息をして、自身の両頬を両手でパチンと挟み込む。自分に言い聞かせるように、小さく強く呟く。

「こりゃ一人でやるしかねぇぞ!晴香!」

 

 

 

 

 

 

 

 音楽室に並べられた椅子に、部員たちは自身の担当楽器を携え所定の位置に着席している。小笠原は、音楽室の最前列にある指揮台の上に立ち、両手を2度打ち鳴らした。部員の視線が小笠原に集まる。

「はい。えっと、もう少ししたら先生が来ると思うけど、その前にみんなに話があります」

 教室の窓際では、コンクールメンバーから落選してしまった部員が、サポートの為にファイルだけを持って立っている。ホルン1年の瞳ララが、トロンボーン1年の福井さやかにヒソヒソと雑談を持ちかけている。

「・・・だから、ララ思ったんです」

「瞳さん聞いて」

 小笠原は、やや被せ気味に諭すように言った。

「・・・、はい・・・」

 ララの視線が足元に落ちる。小笠原は正面を向き直す。

「最近先生について根も葉もない噂をあちこちで聞きます。そのせいで集中力が切れてる。コンクール前なのに、ここままじゃ金はおろか、銀だって怪しいと私は思ってます。一部の生徒と知り合いだったからと言って、オーディションに不正があった事にはなりません」

 部員の多くは、バツの悪い顔を浮かべている。視線を下に下げる者。顔を見合わせる者。来夢は、真摯な面持ちで部員たちに自身の言葉を伝える小笠原の姿を、真っ直ぐ見つめている。

「それでも不満があるなら、裏でコソコソ話さず、ここで手を挙げて下さい。私が先生に伝えます」

 何人かが顔を上げた。

「オーディションに不満がある人」

 小笠原が挙手を促す。少し間をおいて、優子の手が静かに挙がった。それに呼応するようにあちこちから手が挙がる。教室内は極めて静かで、全員が一言も言葉を発さずに、手を挙げる部員の衣擦れの音だけが鼓膜を揺らす。

 純子は、少しためらったのち、ゆっくりと右手を挙げた。肘は伸び切らない。顔はごく僅かに下を向いているが表情は崩れない。臼井はそんな純子の顔を一瞬見遣り、すぐに前を向き直した。

 小笠原は、結果を目視したのち、確認した事を部員たちに伝えるために

「はい」

 と小さく返事をした。

 次の瞬間教室のドアが開いた。開いた先で滝が静かに佇んでいる。表情は極めて穏和であった。

「先生」

「今日はまた、ずいぶん静かですね。・・・この手は?」

「オーディションの結果に不満がある人です!」

 優子が突き刺すような物言いで滝に回答する。優子ちゃん!と香織が困惑した表情を浮かべながら諫めるが、優子の吊り上がった目は降りない。

「なるほど」

 ドアを閉めながら滝がつぶやいた。

「今日は最初にお知らせがあります。来週ホールを借りて練習する事は、皆さんに伝えてますよね」

 部員に話をしながら黒板の前まで歩みを進める。小笠原が僅かに横にずれて場所を譲った指揮台の前で滝は立ち止まり、部員の方を向いた。

「そこで時間を取って、希望者には再オーディションを行いたいと考えています」

 教室内が一気にざわめく。

「前回のオーディションの結果に不満があり、もう一度やり直して欲しい人は、ここで挙手して下さい。来週全員の前で演奏し、全員の挙手によって合格を決定します。全員で聞いて決定する。これなら異論は無いでしょう。いいですね」

 滝の口調はとても穏和なものだった。挙手をした部員の目から、徐々に滝への敵対的な感情が薄まっていく。

「では、聞きます。再オーディションを希望する人」

 滝の表情が引き締まり、教室内をゆっくり見回す。

 カタン

 後列から物音がした。部員の視線がその物音のした方へ向けられる。視線の先には、立ち上がり、右手を高く挙げた香織の姿があった。

「ソロパートのオーディションを、もう一度やらせて下さい」

「香織・・・」

 小笠原が、再オーディションを希望した友人の名前を小さく呟いた。

「分かりました。では、今ソロパートに決定している高坂さんと二人、どちらがソロに相応しいか、再オーディションを行います」

 香織は決意に満ちた表情で滝に視線を向ける。優子は涙を浮かべ香織の姿を仰ぎ見た。嗚咽を漏れるのを必死にこらえる。麗奈は視線を変えない。真っ直ぐに黒板に刻まれた五線譜を見つめる。そんな三人を、沙菜はただ黙って見ている。トランペットパートのそれぞれの視線が、複雑に交差し、離反し、直線的に突き進む。

 相変わらず教室内はとても静かで、窓から差し込む橙色の日差しが、僅かに舞い上がった埃によってパチパチと輝きながら教室の床に舞い降りていた。



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話8

まさかの1年以上ぶりの投稿になりました。
アニメ1期11話、再オーディション直前のシーンまでの部分です。

この1年で、第二楽章とホントの話が刊行され、「リズと青い鳥」が公開され、来年の「誓いのフォナーレ」の詳細が徐々に明らかになるなど、ユーフォ界隈も動きが多くありましたね。
何とか動きを追ったり、第二楽章とホントの話の感想ブログ(http://ch.nicovideo.jp/mumip/blomaga/ar1467346)を書いてるうちに、気付けば1年以上放置してしまったこの話。果たして読んで下さる方がいらっしゃるのか心配ですが、1人でも読んで下さる方がいるならば、なんとか完結させられるように頑張ろうと思います。

それから、ずーっと気になっていたんですが、臼井君の一人称を全話共通で「僕」に変えてみました。こっちの方が臼井君のキャラに合ってるかなぁと。


小さい頃から目立つのが苦手だった。

中学生になって吹奏楽部に入ったのも、タンバリンとかトライアングルとか、そういう脇役みたいな楽器をやりたいと思ったからで、サックスとかトランペットみたいな花形の楽器には全然興味が無かった。

なのに、いざ吹奏楽部に入ってみたら打楽器は人数が一杯だからって理由で入れなくて、顧問の先生に「あなたはこの楽器が向いてる」って言われて入れられたのがクラリネットパートだった。

クラリネットなんて、名前くらいしか聞いた事なかった。クラリネットは、細かい音符がいっぱいあるし、メロディもたくさんあるし、音も高いから凄く目立つ。下唇の裏が切れて血が出て痛いし、練習もきついし、練習も合奏も楽しくない。部活辞めちゃおうかな。コンクールの頃までそんな風に思ってた。

コンクールが終わって、1年生のバスクラの部員が辞めてしまい、バスクラは3年生1人だけになった。3年生は秋の文化祭で引退だから、このままではバスクラが居なくなってしまう。そこでクラリネットの1年生から1人バスクラに転向する事になった。僕は、今の自分の状況を変えたいと思ってバスクラ転向に名乗りを上げた。元々B♭クラを吹きたくてクラリネットパートに入った部員ばかりだったので誰も転向したがらなかったから、すんなり転向が決まった。

バスクラは、音量があまり出ないから埋もれがちで、メロディも多くないし、その数少ないメロディもバスクラ単独はほとんどない。当然ソロもほとんどない。知名度もB♭クラよりずっと低い。でも、実際吹いてみて、バスクラの良さ・重要性が良く分かるようになった。バスクラの音が芯となり、他の低音楽器がそれを包み込み、安定した土台となる。中高音がその土台の上に折り重なり曲が形成されていく。

この何十人もが奏でる音楽の中心に自分が居るんだ。トランペットの華麗なソロも、サックスの重厚なハーモニーも、聴衆が気を向ける事が少ないこのバスクラが芯になって支えてるんだ。

バスクラは自分にとって運命の楽器だと思えるほど、自分はバスクラを深く愛するようになった。

バスクラはとても高価な楽器で、社会人になったらきっと続けることは出来ないだろうと思って、だから、高校でも大学でも吹奏楽部に入って、出来るだけ長くバスクラを吹き続けたい。出来るだけ長く吹奏楽をやりたい。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

中学校の時はB♭クラの担当だった。

B♭クラは、音色が豊かで、メロディもソロも多くて、吹奏楽では花形楽器の一つ。コンクールではそこまで目立った成績は残せなかったけど、それでもメロディを吹いたり、クラパートで綺麗な和音を奏でたり、ソロを吹きこなしたりするのが楽しかった。

高校でもクラリネットが吹きたくて吹奏楽部に入った。でも、編成の都合でバスクラに回されてしまった。中学でずっと吹奏楽部だったから、バスクラが重要な楽器なのはもちろん知ってる。けど、バスクラはやっぱりB♭クラに比べるとどうしても地味。3年間B♭クラを吹いてた自負もあったから、最初バスクラに回るように言われた時は正直ショックだった。

「なんであの娘はB♭クラなのに、私はバスクラなんだろ・・・」

当時の北高吹奏楽部は、だらけた雰囲気が蔓延ってて、とても良い空気とは言えなかった。その空気にも影響されて、そんな風に思う事もあった。

バスクラには、同じ学年に臼井という男子部員が居た。臼井はバスクラが大好きなやつだった。バスクラはB♭クラと吹き方が違ってて、戸惑ってる私にアドバイスをくれたりした。そのお陰なのか、夏ころにはバスクラにもだいぶ慣れてきて、思うような音が少しずつ出せるようになってきた。その頃から、バスクラを吹くのが段々楽しくなっていった。

やっぱりB♭クラのみんなが羨ましく思う事もあるけど、バスクラも・・・低音楽器も、悪くないな。中高音を下支えするのも、割と良いもんだな。そう思うようになった。

 

 

 

 

 

 

宇治文化会館、大ホール。

ステージ上には、合奏体系に並べられた打楽器と複数の円弧上に並べられた椅子。そして譜面台。その上には各々の楽譜。椅子と譜面台の列に取り囲まれる位置に、指揮台と指揮者用の譜面台。

それらを背にして、ステージ最前、すなわち最も客席側に立つ、2人のトランペッター。中世古香織と高坂麗奈。2人の視線の先は、滝を中心に部員が集まっている客席中央部。

 

 

「では、これよりトランペットソロパートのオーディションを行います」



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臼井君が晴香部長に恋心を抱く話9

気付けば、ほぼ1年半ぶりの投稿です。
アニメ1期11話、再オーディションからホール練終了後までを書いてみました。
未だにちらほら読んで頂ける方がいらっしゃるようで、ありがたいやら申し訳ないやら・・・。

うだうだやっているうちに原作は完結してしまいました。
最終楽章の感想ブログも何とか書いております。
https://ch.nicovideo.jp/mumip/blomaga/ar1778872
お暇でしたらぜひご一読下さい。

一応、府大会くらいまでの展開は考えてるんですが、これまたいつになるやら・・・。今年中を目標に頑張ります!


滝が座席に揃った部員に告げる。

「両者が吹き終わった後、全員の拍手によって決めましょう」

滝の視線が舞台上に移る。

「いいですね、中世古さん」

「はい」

「高坂さん」

「はい」

舞台上に立つ2人のトランペッターは、顧問からの問いかけに淡々と返事をする。

「ではまず、中世古さん。お願いします」

「はい」

香織は返答し、トランペットを構えた。

 

ブレスののち、香織の繊細で柔らかな音楽が、ホールいっぱいに広がった。高音部分も、滑らかに吹くのが難しい音と音とのつなぎ目部分も、すべてが完璧な演奏だった。欠点が何ひとつ見当たらない。キラキラとまばゆい彼女の音色。目を閉じて彼女の音楽に耳を委ねれば、独奏の後ろから伴奏が脳内で独りでに再生される。それでいて伴奏に埋もれる事が絶対に無いと確証が持てるハキハキとした音。

「ありがとうございました」

演奏が終わったのち、彼女はそう言って頭を下げた。多くの部員が柔らかな笑顔と共に彼女に拍手を送った。

 

「では次に、高坂さん。お願いします」

「はい」

麗奈は返答し、トランペットを構えた。

 

麗奈は大きく息を吸い込む。

最初の一音目がラッパから飛び出た瞬間、臼井の耳は明確に先ほどとの差異を感じ取った。高音が空気を揺らし、臼井の耳へと突き刺さる。迫力のある音色は、しかし美しい響きを保ったまま、まっすぐにホールを駆け抜けていく。そのしびれるような音に、臼井は思わず唾を呑んだ。継ぎ目を感じさせない滑らかなメロディ。その音にまとわりつく、熱をはらんだ余韻。麗奈はこの一週間で、明確かつ圧倒的な成長を遂げている。臼井はそれを明瞭に感じ取った。

「ありがとうございました」

演奏が終わり、麗奈は謝礼と同時に頭を下げる。ホールはしんと静まり返っていた。

 

「では、これよりソロを決定したいと思います」

滝が部員達に告げた。臼井は目を泳がせた。決められない。演奏技量は圧倒的に麗奈の方が上なのは明らかだ。技術も表現力も、麗奈の方が完全に優れている。こんなにも優れた奏者の、こんなにも優れた演奏を、コンクールという場において発表する事が出来ないなんて事があって良い訳が無い。ならば、香織のあの包み込むような優しい音色を、間違いなくこれ以上ないほど伴奏と調和する事が容易く想像される演奏を、"技量が劣っていた"という理由で"不合格"の烙印を捺すのか。音楽に優劣を付けるというのは、それによってどちらか一方の奏者を選定するというのは、こんなにも残酷で不条理な事なのか。

「中世古さんが良いと思う人」

滝の無情な一言が、部員達に選定を促す。体が動かない。こんなの、こんなの選べない。どちらかを選ぶなんて。

すると、視界の右斜め前の人物がすくっと立ち上がり拍手を送った。優子だ。それを見た香織の表情が悲し気にほころぶ。どこからか、もう一人の拍手も聞こえる。選択肢が2つの問いに対して、香織への投票数は2票。つまり・・・。

「では、高坂さんが良いと思う人」

今度は、視界の左斜め前の人物が立ち上がり拍手を送った。あれは、ユーフォ1年の黄前さんか。それを見た麗奈は、微笑みながら静かに目を閉じる。僅かにもう一人の拍手も聞こえる。

「はい」

滝の声で投票が締め切られる。麗奈への投票数も2票。つまり、4人以外はどちらにも投票していない。香織への拍手が2人だった時点で、雌雄が決したはずだったのに、結果多くの部員が投票を棄権した。臼井もその中の一人。嫌な汗が胸元を流れる。これ以上ないほど居心地が悪い。目の前に座っている純子を見やる。俯き加減の頭は微動だにしない。重い重い重い空気が客席に充満する。

「中世古さん」

「はい」

「あなたがソロを吹きますか?」

その瞬間、臼井の心臓は熱湯をかけられたような心地を覚えた。客席がごく僅かにどよめく。何人かが振り返り、部員達の後方に立つ滝に視線を移す。ステージ上の2人は、どちらも硬く沈んだ表情を浮かべている。名指しされた香織も、名指しされなかった麗奈も。

「・・・吹かないです」

数秒の沈黙を破り、香織は呟くように意思表明をした。

「吹けないです。ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」

ハッキリと、言い聞かせるようにそう言って、麗奈に顔を向けた。応じるように麗奈も顔を合わせる。二人の目線がスルスルと交じり合い、そして香織は、先ほどまでの硬い表情を崩し穏やかな笑顔を浮かべた。

「・・・せんぱい・・・、うぅ・・・、わああああああ!」

耳をつんざく号泣が、客席から会場全体に放たれる。優子は人目を憚ることなく、堰を切ったように大声を上げて泣き叫ぶ。

「高坂さん」

「はい」

「あなたがソロです。"中世古さんではなく"、あなたがソロを吹く。いいですか」

「はい!」

 

 

 

 

 

 

ホール練習を終えて学校に戻る。

トラックから楽器を楽器室に運ぶ。パーカス等の大型楽器は男子部員が率先して運ぶ。

音楽室でのミーティングを終え、荷物を纏める。

臼井は、純子と弓菜と共に3人で帰路に着く。

自転車を漕ぎながら3人で他愛のない話をする。

「じゃ、また明日ね~」

「お疲れ様~」

大口宅の前に着き、臼井と純子が弓菜に手を振り別れを告げる。

「また明日~。純子!臼井に襲われないように気を付けてね!」

「ちょ、ちょっと!変な事言うなよ」

「大丈夫~、襲ってきたら強くパンチするから!」

「あはは、じゃあ安心だ。じゃ、明日ね~」

後ろ手に手を振りながら、大口家の敷地内に入って行った。

「まったく弓菜は・・・」

「ま、臼井が私を襲うなんて絶対無いってのは、私がよーく知ってるから。あはは」

「純子まで変な事言うなよ~」

「ははは、ウケる」

お互いの自宅に向けて再び進み始める。数秒会話が途切れる。

「今日は疲れたね~」

純子がおもむろに話し始める。

「一日中ホールで練習してたからね」

「なんかさ、私、香織と高坂さんがちょっと羨ましかったな」

「え?」

臼井が思わず純子の方に顔を向ける。

「だってさ、ソロを争うなんてバスクラじゃ有り得ないじゃん。なんかいかにも『青・春!』って感じだったなって」

「まぁ、バスクラはソロなんて滅多に無いもんね。でも僕は、ソロは吹きたいと思った事ないな…。ソロの伴奏なら喜んでやるけどね」

「あはは、臼井らしい」

空には今日も、住宅街をうっすらと照らす月と、決して多くは無い数の星々。静寂を背景にしてそこにある音は、どこかの住宅から微かに漏れ出るテレビの音声と、2人のバスクラ奏者の会話。

 

帰宅し、一先ず自室に荷物を置き、遅い夕食を摂る。

風呂に浸かったのち、ジャージに着替える。

荷物の整理もそこそこに、床に就く。

明日はチューバ・弦バスと一緒に自由曲のあの所を練習しようかな。

臼井はそんな事を考えながら、気付かぬうちに眠りに就いた。



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