ご愁傷様です、霊夢さん (亜嵐隅石)
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 ある朝、博麗神社で奇怪な事件が発生した。

 なんと、あの博麗神社の賽銭箱が大量の金で溢れ返っていたのだ。

 この異常事態を最初に目撃したのは、最早言わずもがなの人物である。

 

 次にそれを目撃したのは、偶々神社へ遊びに来た、霧雨魔理沙であった。

 魔理沙は金で溢れ返る賽銭箱を見て、次いで賽銭箱の側で泡を吹いて倒れている博麗霊夢を見た。慌てふためいた魔理沙が急ぎ霊夢の様子を窺うと、彼女は泡を吹いているだけでなく、完全に白目を剥いている状態であることが分かった。

 ――嗚呼、これまで山ほどの大金など一度も目にしたことがなかったから、霊夢の奴、賽銭箱の大金にショックを受けて、思わず卒倒してしまったのだな。

 魔理沙は霊夢を横目にしながら、彼女が倒れている原因をそう解釈した。しかし、霊夢のことはそれで説明が付いたとしても、そもそも――博麗神社の賽銭箱があれほどの大金で溢れ返っている原因については謎のまま。どれだけ考えても皆目見当が付かなかった。

 

 そうこうする内、今度は巫女の様子を窺いに来た、茨木華扇が神社に顔を出した。

 華扇は金で溢れ返る賽銭箱を見て、次いで賽銭箱の側で訝しげな顔をする魔理沙を見て、最後に魔理沙の足元で泡を吹いて倒れている霊夢を見た。一見した印象としては実に不可解で奇妙な光景であるの一言。はて、何が起こったのだろうか?――と華扇が甚だ疑問に思うのも無理はなかった。

 だが、暫くして、その疑問はとある疑惑へと変わり、最終的には確信へと結び付いた。

 まるで噴火寸前の火山のように華扇の肩がプルプルと震え始めた。と、そう思ったのも束の間――華扇は意を決したように大きく息を吸い込むと、見開いた目に怒りの炎をたぎらせながら「ばかものーーーっ!」と幻想郷全土に響き渡るかのような怒声を張り上げた。そして、鬼のような形相で直ぐさま霊夢のもとへ詰め寄ると、驚きのあまりに目を丸くしている魔理沙を余所に、霊夢の両肩を掴んで激しく揺さぶりながら「今度は何をやらかした!? 今度は何をやらかした!?」と壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返した。

 一方、その有り様を驚愕の眼差しで眺めていた魔理沙であったが、そこでふと何かに思い至ったのか――おもむろな動作で腕を組むと、そっと目を瞑り、眉間に深い皺を寄せながら得心したようにうんうんと頷き出した。

 ――ははあ、なるほど、茨華仙の言うことは尤もだ。こいつは霊夢の奴がまた善からぬことをやらかしたに違いない。それならこの奇妙な事態もいくらか納得出来るぞ。

 魔理沙は賽銭箱が大量の金で溢れ返っている原因を朧気ながらもそう解釈した。華扇も魔理沙も言いたい放題、思いたい放題である。正しく、霊夢にとっては死人に口なしといった状況。いや。泡を吹いて倒れているだけで死んではいないのだが。

 

 すると、今度はそこに東風谷早苗が現れた。

 早苗は金で溢れ返る賽銭箱を見て、次いで沈痛な面持ちで腕を組む魔理沙を見て、最後に泡を吹いて倒れている霊夢と、彼女の肩を掴んで激しく揺さぶっている、懸命な表情をした華扇の姿を見た。早苗の主観は神社の光景をそのように捉えた。そして、早苗は直感的にこう思った――これは何か事件の臭いがする――と。

 早苗は俄かに目を爛々と輝かせ、鼻息を荒くして三人のもとへ駆け寄ると――豊かな胸を大仰なまでに張りながら、不敵な笑みを浮かべて「私は名探偵、コティヤーヌ・サナエ。此度の博麗の巫女殺人事件、この私が必ずや解決に導いてみせましょう――守矢の名にかけて!」と芝居がかった口調で訳の分からぬことを嘯き出した。

 一方、魔理沙と華扇はこの突然の理解し難い言動を前にして大いに戸惑い、『ちょっと何言ってるか、よく分かんないです』とでも言いたげな面持ちで完全に呆気に取られ、次いで表情からはすっかりと色が抜け落ち、最終的には三百万匹の悪霊に取り憑かれたかのような重苦しい疲労感に襲われた。

 流石、みずから常識に囚われないと謳い、地獄の女神にさえも平然と暴言を吐き捨てるだけはある。守矢神社の風祝の言動は常人の斜め上をいく常軌を逸したものであった。

 

 早苗の不可解な言動により、状況は明後日の方向へと迷走を始めたが、そこへきて更に厄介な事態が舞い込んできた。伝統の幻想ブン屋こと射命丸文が現れたのだ。

 文は「これは毒殺ですね! きっと青酸カリに違いありません! 真実はいつもひとつです!」と興奮気味に喚き立てる早苗を見て、次いで心ここに在らずといった様子で茫然自失となっている魔理沙と華扇を見て、最後に泡を吹いて死んでいる霊夢を見た。文の主観は神社の光景をそのように捉えた。最早、賽銭箱の金など蚊帳の外である。そして、文は単刀直入にこう思った――これは特大スクープじゃないか!――と。

 文は一心不乱となってカメラのシャッターを何度も切った。それこそフィルムの限界までシャッターを切ると、今度は一目散に自宅までトンボ返りをし、一気呵成の勢いで記事を書き殴り始め、記事の作成を開始してから半刻が過ぎた頃には幻想郷中に号外をばら撒いていた。

 因みに号外の見出しはこうである。

 

 ――博麗霊夢死亡! 死因は毒殺……か!?

 

 この悲報は瞬く間に広まった。それこそ冥界や天界、果ては月の都や地底にまで。霊夢の突然の訃報を受けて、生前の彼女と親しかった人間や妖怪など、実に沢山の者達が急ぎ神社へと弔問に訪れた。無論、中には諸々の事情があって顔を出せない者も何名かいたが、それを差し引いても綺羅星の如く、錚々たる面子が集ったのには違いない。

 驚くべきことには――あのレミリア・スカーレットが、あの伊吹萃香が、そして、あの八雲紫までもが人目も憚らずに大粒の涙を零して嗚咽を漏らしていた。

 更には魔理沙と華扇を筆頭にして、当初こそ展開の流れに着いていけず、霊夢の死について懐疑的な立場を取っていた幾名かの人妖達も、次第にこの悲壮感で溢れた雰囲気に呑まれ始めたのか、あるいはこのどうにも逆らい難い空気に自棄を起こしたのか、最終的には他の皆と一緒になって「生前の故人は……」などとハンカチを片手にして語り出す始末に至った。

 と、そんな折である。誰かがふと、声高にある提案を掲げた。

 

 ――宴会……そうだ、宴会をやらないか? こんな湿っぽい空気、私達には似合わないぜ。ましてや、こういうしみったれたのが誰よりも嫌いな霊夢のことだ、私達があんまりメソメソしてたら、それこそ怒り狂って、地獄の底から化けて出てくるに違いないぞ。だから、今夜はみんなで宴会を開いて楽しく盛り上がろうじゃないか! そして……最後はみんな笑顔で霊夢の旅立ちを見送ってやるんだ! 霊夢が安心して、笑顔であの世に旅立てるようにさ!

 

 場は一瞬、凍ったように静まり返った。しかし、そこは元来がノリの良い連中ばかりである。故に直ぐさま、境内のあちらこちらから賛同の声が上がり、やがて、神社に集った人妖達の興奮のボルテージは最高潮に達した。勝鬨の声のような宴会コールが、湿った空気を天の彼方へと押しやるように轟く。

 

 ――よろしい、ならば宴会だ!

 

 幻想郷には実に様々な人間と妖怪がいて、生まれや育ちや種族などが違えば、当然ながら考え方も十人十色となってくる。従って、神社に集った者達は基本、互いに相容れない存在、それぞれが独立独歩な烏合の衆と言っても差し支えなかった。

 然るにそれらはいま――博麗霊夢の死という悲しみを共に背負い、宴会という目標に向かって、初めて心がひとつになろうとしていた。となれば、互いに考えることが似てくるのもまったくの自然な話である。

 

 誰もが口には出さずとも胸の内にこう思っていた。

 霊夢の旅立ちを笑顔で見送る為の宴会――それがただの宴会では最早足りない。

 大宴会を。一心不乱の大宴会を開かなければなるまい、と。

 

 すると、まるで示し合わせたかの如く、そこで皆の視線が一斉に金で溢れ返った賽銭箱へと注がれた。

 大宴会ともなれば当然、大量の酒と料理が必要となる。ましてや、随分な大所帯の宴会となる予定だ。その量たるや呆れるほど膨大なものとなるに違いない。しかし、そこは世の常というもの。膨大な量の酒と料理を用意するとなれば、無論、それ相応の先立つものを工面する必要が出てくるだろう。

 皆は賽銭箱の金をひとしきり凝視した後、暫くして、互いの気持ちを確認し合うようにアイコンタクトを取り、無言のままにゆっくりと一度だけ頷き合った。



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 それから宴会の準備は慌ただしく執り行われた。

 まず、酒と食糧の調達には魔理沙や早苗、上白沢慧音などの人里に馴染みのある者達が向かった。『今宵は博麗の巫女の為に特別な酒宴を執り行う』という言葉を、決まり文句のように方々で口にしながら、人里を東奔西走して大量の酒と食糧を買い漁る。

 

 やがて、調達班が神社へ戻ると今度は――待ってましたとばかりに調理班がその手腕を発揮し始めた。

 十六夜咲夜が全体の指揮を執り、補佐は魂魄妖夢が務め、その他、八雲藍や蘇我屠自古、意外な伏兵として水橋パルスィなど、幻想郷でも屈指の料理自慢達が神社の炊事場を占拠した。これだけの面子が揃えば、最早、極上の料理が確約されたようなものだ。西行寺幽々子や少名針妙丸を筆頭にした食い専達の期待が弥が上にも高まる。

 

 かたや境内の方へ目をやれば、プリズムリバー三姉妹をリーダーとして、鳥獣妓楽、堀川雷鼓と九十九姉妹らが車座となって、今宵の宴会で披露する特別ライブの打ち合わせをしていた。

 他にも――霍青娥、八意永琳、火焔猫燐らが霊夢を社務所に安置して、彼女に死装束やら死化粧などを施していたり――物部布都や赤蛮奇、多々良小傘などが宴会で披露する隠し芸の準備をしていたり――アリス・マーガトロイドと秦こころも同様に宴会で披露する見世物の準備をしていたり――案の定、寅丸星が神社で宝塔を紛失した為、呆れ顔のナズーリンを先頭にして、聖白蓮、村紗水蜜、雲居一輪と雲山らが付近の捜索にあたっていたり――風見幽香と蓬莱山輝夜、加えて、輝夜に強引に引っ張られて来た藤原妹紅の三人は、霊夢の旅路を華々しく飾るべく、神社のあちらこちらを四季折々の、色とりどりの花々でデコレーションして回ったりしていた。

 

 また、まだ料理が出来上がらない内から、早くも酒盛りを始め出した一団もあった。

 拝殿前のスペースを陣取り、鬼の萃香と星熊勇儀、そして、妙にバツの悪そうな顔をした華扇の三人が酒を酌み交わしていた。はて――何故、鬼同士の酒盛りに華扇が交じっているのだろうか。とても不思議な気がしてならない。

 もしかすると、華扇ちゃんは仙人などではなく本当は――

 

 やがて、煌々とした月明かりが辺りを慎ましく照らす頃になって、ようやくと宴会の準備が全て整った。あとは宴会開始のゴーサインを満を持して待つばかりである。然るにその肝心のゴーサインが一向に出ない。境内を埋め尽くさんばかりの人妖達は、酒の入ったグラスを片手にして『宴会はまだ始まらんのか?』と、すっかりと地に足がつかない有り様となっていた。

 そんな皆の逸る気持ちを察したのか、霊夢の友人代表として魔理沙が颯爽と立ち上がった。そして、先を急ぐように挨拶もそこそこに済ませると、グラスを高々と掲げて献杯の音頭を取り、また、それに呼応して境内の方々からグラス同士のぶつかる音と歓声が上がった。

 魔理沙も含め、皆は明らかに献杯と乾杯を取り違えていたが――ともあれ、皆の歓声が皮切りとなって、空前絶後の大宴会が遂にその幕を開けたのである。

 

 しかし、いくら大宴会と言えども、最初からクライマックスとはいかず、始めの内は皆、静かにチビチビと酒を舐めつつ、出された料理に大人しく舌鼓を打つばかりであった。だが、誰かが不意に「まさか、あの霊夢がこうもあっさり逝ってしまうなんてなあ……」と呟いた途端、場は一転、皆は堰を切ったように我も我もと霊夢の話を嬉々として語り出した。

 皆は笑い合いながら、霊夢との思い出やら霊夢の悪口やら、いまだから話せる霊夢の秘密やらの話に花を咲かせ、それに伴って――酒と料理の消費量は増大の一途を辿り、宴会は正に大盛況の真っ只中へと突入しようとしていた。

 

 そこへきて、様々な人妖達による隠し芸の披露、プリズムリバー楽団プロデュースによる特別ライブが場を更に沸かせる。

 

 傘回しや皿回し、ジャグリングにタネなし手品など、次々と披露される隠し芸にフランドール・スカーレットは目を輝かせて喜び――チルノやら大妖精やら光の三妖精、その他、ルーミア、橙、リグル・ナイトバグ、メディスン・メランコリーといった面々と一緒になって大いにはしゃいだ。その光景にレミリアはご満悦な様子である。

 一方、ライブに於いては――熱狂した永江衣玖が服を脱ぎ捨てての大フィーバーを決め、そんな衣玖の周辺をリリーホワイトが「頭が春ですよー」と言いながら飛び回り、それを端で見ていた比那名居天子が腹を抱えて笑い転げた。

 更には同じく熱狂した霊烏路空がニュークリア的なフュージョンで大フィーバーを敢行しようとしていた。だが、必死な形相の古明地さとりが直ぐさま、フラれた彼氏に追い縋る女のような様相で空の腰にしがみ付き、『よく分からないけど楽しそう!』という理由で古明地こいしが姉と同様に空の肩にしがみ付き、最後はトドメとばかりに黒谷ヤマメがキスメを桶ごと振り回して空を捕縛した為、暴走した地獄鴉は神の火を見せることなく御用となった。

 また、ライブに意気揚々と乱入した豊聡耳神子であったが、実は大層な音痴であることが露見して皆の爆笑をさらっていた。聖に至っては一輪の背中をバシバシと叩いての大哄笑である。一輪は激しく咳き込みながらも心の中でこう思った――姐さんに酒を飲ませるのはこれっきりにしよう、この人あれだ……酒乱だ――と。

 

 尚、この時点で早苗は早々に宴会から脱落していた。拝殿の陰で沈んだようにうずくまり、八坂神奈子と洩矢諏訪子に介抱されながら猛烈な吐き気と戦っていた。下戸であるにも拘わらず、調子に乗って酒を煽り過ぎたのだ。

 それ故、心配になって様子を見に来た、鈴仙・優曇華院・イナバが慌てて水を差し入れたり、酔い止めの薬を飲ませて対処するものの、最早、焼け石に水といった惨状であった。

 早苗は激しい嘔吐感に苦しみながら、その目から涙を溢れさせて大泣きした。

 

 隠し芸とライブが終わると、今度は秋姉妹による即興漫才が披露された。披露されたのだが――当人達の名誉の為にも詳細は省くことにする。ただ、泣く子も黙るような出来だったと、あれこそ正にルナティックタイムであると、のちにこの宴会の参加者達は語っていた。また、レティ・ホワイトロックに至っては「寒気を操る私のお株が完璧に奪われてしまったわ」と冗談めかして語っていた。

 

「そんなに落ち込まないで下さい。むしろ、即興であれだけ出来るって凄いことですよ!」

「うんうん、流石は神様って感じだよねえ。私にはとても真似出来ないなあ」

「そうそう、私もそれが言いたかった!」

「私なんてそもそも、あんな大舞台に立った時点で緊張して、漫才どころじゃなくなりそうですもん」

「ええ、本当にそうですよね。その度胸、正にその意気や良しです!」

「そうそう、私もそれが言いたかった!」

 

 などと消沈する秋姉妹を鍵山雛の他、姫海棠はたて、紅美鈴、わかさぎ姫と今泉影狼らが苦し紛れのフォローを入れて慰める中、かたや喧騒の中心から離れた鳥居の側では魔理沙と紫が静かに酒を酌み交わしていた。

 

「本当に楽しい。こんなにも楽しい宴会は生まれて初めてよ。霊夢が死んだなんて……そんなの何か、質の悪い冗談にしか思えなくなってくるわ」

「死んだと思ったら、実は生きてました――なんてね。なんか霊夢らしいよなァ、あいつなら有り得そうな話だぜ、そういうのも」

「――いま頃、霊夢もどこかでコッソリ、この宴会を見ているのかしら?」

「ああ、そりゃあ勿論だとも。例え、死んで魂だけの存在になっても、あいつがこんな楽しい宴会を見逃す筈はないぜ――あいつ以上に宴会が好きな奴は他にいないからな!」

「そうね……きっとそうよね!」

「きっと、じゃないさ。霊夢はどこかでこの宴会を見てる。そんでいま頃、私達のことを見て、馬鹿な連中だ――なんて笑ってるに違いないぜ」

 

 境内の中央ではこころが得意の能楽を披露している。皆は酒を飲む手を一旦休め、これを食い入るように眺めていた。普段、酒の席では騒がずにいられない者達でさえも、いまだけは固唾を飲んで大人しくしている。

 皆、自分達が出来る限りの最善を尽くして宴会を盛り上げようとしていた。また、決して悔いが残らぬよう精一杯にこの宴を堪能しようともしていた。良き宿敵であり、良き友でもあった、博麗霊夢との最期の別れを――誰もが笑顔で迎えられるように。誰もが納得して迎えられるように。

 

 豪雨のような拍手喝采が沸き起こる中、こころは恭しく一礼をすると、全てを出し切ったような、どこか満足したような足取りで自分がもといた定位置に戻っていった。

 すると、今度はアリスがやにわに立ち上がり、ゆっくりと拝殿の前まで足を進めた。皆は何が始まるのかと期待の眼差しでアリスを見やる。いや。皆は薄々とこれから何が始まるのかを予見していた。人形使いのアリスが人形劇を披露する以外に何をするというのか。

 

 しかし、今宵、アリスが披露した人形劇は普段のそれとは趣向が大きく異なっていた。

 アリスが操る人形達は全て、どこかで見たことのある者達の姿を模しており、また、物語自体も紅白の衣装に身を包んだ少女を主人公にして、どこかで聞いたことのある、あるいはとても身に覚えのある話で構成されていた。

 

 劇が始まると同時に赤い霧状の空気がふと辺りに漂い出した。その赤い霧を見て何かを察知したのか、レミリアが嬉しそうに背中の羽根をピコピコと動かす。

 一方で他の皆も「こんなこともあったなァ」「思えば、この頃がお嬢様のカリスマの絶頂期だったなァ」「そーなのかー?」などと懐かしく過去を振り返りつつ、笑顔で語らいながら劇を眺めていた。

 ところが――赤い霧が晴れ、桜の花弁が舞い散り、と、そんな風に順繰りと劇が進行するにつれて、次第に皆の口数は減っていった。代わりに鼻を啜る音や咽び泣く声が増えていく。また、劇を進行する当のアリス自身も、目尻いっぱいに涙を溜め、指先は小刻みに震え、いまにも泣き崩れそうな状態になっていた。

 

 幻想郷で起きた数々の異変――それは正しく、その異変の当事者達からすれば、最も色濃いと言っても過言ではない、霊夢との輝かしい思い出のひとつである。そんな思い出を題材に選んだ、アリスの人形劇は皆の琴線を大いに震わせた。だが、同時にそれは――これまで皆が敢えて気付こうとしなかった、敢えて見ない振りをしてきた、如何ともし難い非情な現実を改めて再認識させる結果も招いた。

 そう……異変解決の為、幻想郷の空を元気に飛び回っていた巫女は。神社へ遊びに行った時、なんだかんだと悪態をつきながらも茶を振る舞ってくれた巫女は。宴会の時、互いにへべれけになりながらも肩を並べて笑い合った巫女は……もういないのだと。最早、彼女は思い出の中だけにしか存在しない人物になってしまったのだと。

 博麗霊夢の死――鋼の心臓すら穿つほどの衝撃と空が全て落ちてくるような圧倒的重圧を伴った、そのあまりにも非情過ぎる現実が皆の心に再度、筆舌に尽くし難い失望と空虚感をもたらしていた。

 

 皆は心にポッカリと空いた穴の痛みを必死で堪えるように拳を固く握り締めた。だが、遂には堪え切れず、ひとり、またひとりと人目も憚らずに慟哭の叫びを上げるに至った。それはまるで伝染病の如く、波及的に広がっていった。

 と、そんな有り様を離れた場所で傍観していた魔理沙が思わず、このさめざめとした状況に苦笑を漏らした。

 

「やれやれ……アリスの奴め、実に困ったことをしてくれたもんだ。霊夢の旅立ちを笑顔で見送ろうって話はどうなったんだよ。これじゃあ、完全に逆効果だろうに。……まったく、これだから都会派は空気が読めなくて困るぜ。紫もそう思うだろ?」

「霊夢……どうしてなの? 昨日まではあんなに元気だったのに」

「――おいおい、冗談はよしてくれよ。紫にまで泣かれたら、ひとり取り残された私はどうすりゃいいんだ?」

「そんなこと言ったって仕様がないじゃない! 大体――それを言うなら、貴女だって!」

「おい馬鹿やめろ! おかしなことを言うな! 私は泣いてない……私は泣いてないからな! 私は絶対に泣くもんか! 霊夢との最期の別れは笑顔でって――そう決めたんだからっ!」

 

 結局、みんな泣いた。霊夢の旅立ちを笑顔で見送ろう――そんな理想を掲げたことも忘れ、魂の咆哮のような、喉の奥から腹の底から絞り出したような声を上げて、皆はひたすらに泣き続けた。神社の境内には途端、噴き出したマグマのような、雷鳴が鳴り響く嵐のような悲痛な叫びがこだまする。

 先刻までの楽しい宴会の雰囲気から一転して、なんとも悲しき顛末を迎えてしまったものである。

 

 

 

 これで霊夢が本当に死んでいれば、この悲しき顛末は正しく、幻想郷史に語り継がれる、一大の悲劇と言っても過言ではないだろう。

 そう――霊夢が本当に死んでいれば。



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 野獣の咆哮を彷彿とさせるような、ビリビリと鼓膜を刺激する轟音が耳に障り、博麗霊夢は長い眠りからようやくと目を覚ました。その視界は一面が真っ白に染まっていた。

 霊夢は顔に掛かっていた謎の布切れを鬱陶しそうに剥ぎ取ると、子犬が威嚇するような唸り声を上げ、ふらりフラリと彷徨うようにぼんやりと周囲に目を配った。寝惚け眼のうっすらと白んだ視界に映るのは社務所の見慣れた和室である。

 次いで霊夢は壁に掛かっている時計に目をやった。時計の短針は天を指し示している。つまり、時刻は既に十二時を回っていた。

 

 ――ああ……もう昼過ぎなのね。

 いつの間に眠りこけてしまったのか、記憶が定かではないものの、波間をたゆたうように微睡む意識の中、霊夢の脳裏にそんな言葉が過った。そして、それから暫しの間をおいた後、霊夢はフッと湧いた焦燥感と共にハッと気付いた。

 ヤバい! 寝坊した!――と。

 

 霊夢は毎朝、神社の境内を掃き清めるのを日課としていた。また、それは神社を管理する巫女としての最低限の勤めでもあった。然るに現時刻はご覧の有り様。完全なる寝坊である。

 従って、普段ならば、昼時は縁側で日向ぼっこをしながら、暢気に茶をしばく時間に充てられていたのだが、ことがここに至ってはもう、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなってしまった。

 このまま日課である巫女の仕事をサボる訳にはいかない。直ぐにでも起きて、境内の掃除に向かわなければならなかった。何故ならば、寝坊した挙げ句に巫女の仕事をサボったのが紫やら華扇にバレた場合、その後でどんな説教を受けるか分かったものではないからだ。

 

 霊夢の中にある僅かばかりの巫女としての責務が。脳裏に浮かぶ、頭に角を生やした紫と華扇の顔が急き立てるように霊夢の迅速な行動を促す。また、不思議と頭に角を生やした華扇の姿は何故だか妙にしっくりきた。

 

 霊夢は急ぎ布団から跳ね起きると、部屋の箪笥から馴染みの巫女服を取り出し、真っ白な寝巻きから直ぐさま、それに着替え始めた。頭の中は完全にパニック状態である。

 それ故、巫女服に着替えている最中、ふと――社務所の外が尋常ではないレベルで騒がしいことに気付いたが、いまの霊夢にはそんな些事に構っていられる余裕はなかった。むしろ――昼時ならば、暇な人間やら暇な妖怪やら暇な魔理沙やらで神社が騒々しいのは日常茶飯事だ、いまさら気にするようなことじゃない、いつものことだ――などと思い、尚のこと、外の騒音を気に留めることはしなかった。

 

 そうして巫女服に着替え終えると、次に霊夢はリボンを結ぶ為、部屋の隅にある姿見の前に立った。櫛で髪の毛を念入りに梳かし、両手で髪を後頭部へと掬い上げ、それから手慣れた動作でリボンを結んでいく。急を要している、というのも手伝ってか、それは実に鮮やかな手際であった。

 だが、正にその時である。霊夢はふと、鏡に映った自分の顔がいつもと少し違うことに気付いた。今日は妙に顔色が良いなと。唇など燃えるように血色が良いじゃないかと。今日の私はなんだか普段よりも三割増しで美人じゃないかと。

 

 ――いまはそれどころじゃない! それどころじゃないのよ、博麗霊夢!

 霊夢は必死にそう自分に言い聞かせる。だが、鏡に映った、いつもより綺麗に見える自身の顔の、その御しがたい求心力はあまりにも強大であり、ひとりの年頃の少女がそれに抗える術などある訳がなかった。

 結果、霊夢はキラキラとした眼で顔の角度を何度も変えながら、暫しの間、姿見の前でナルシズムの世界へ浸ることを余儀なくされた。

 

 ――馬鹿! 私の馬鹿! いまはそれどころじゃないって言ったのに!

 ようやくとナルシズムの世界から我に返った霊夢は、恐る恐るといった様子で時計を一瞥した後、慌てふためきながら部屋の障子を開け放ち、吹き抜ける強風のようになって社務所の外へと飛び出した。その顔はすっかりと青ざめており、拝殿の方へと必死にひた走る、霊夢のパニック度はここにきて更なる強まりを見せる。

 脳裏に浮かぶ、頭に角を生やした紫や華扇の顔もいまでは、般若と金剛力士の合の子みたいな凄まじいものへと変貌を遂げていた。華扇に至ってはどう見ても鬼そのものな姿だ。

 霊夢の中で焦る気持ちばかりが無限に込み上げてくる。

 

 この時、霊夢はすっかりと冷静さを欠いていた。気持ちは一刻も早く拝殿に向かう、ただそれだけで占められており、周囲の状況に目をやる余裕などはひと欠片も存在しない。故に霊夢は気付けなかった。本来ならば、直ぐに気付けた筈のことに気付くことが出来なかった。

 そう――昼時にも拘わらず、辺りが妙に暗いことを。天を仰げば、丸い月が顔を覗かせていることを。とどのつまり、いまは昼の十二時ではなく、実際は夜中の十二時であることを。

 もっとも、仮に霊夢がそのことに気付いたとしても、それは最早、些細な問題にしかならなかったかも知れない。何故ならば、そんな些末なことなど、一瞬で吹き飛ばされてしまうような、実に驚愕すべき光景がいま正に霊夢へ襲いかかろうとしていたからだ。

 

 拝殿の方へと必死にひた走る霊夢の足が、まるで金縛りにあったかのようにピタリと止まる。否。眼前に広がる想像を絶する光景を前にして足を止めざるを得なかった。

 

 神社の境内には数え切れないほど沢山の人妖達がいた。それらは境内を埋め尽くさんばかりに犇めき合い、また、どういう訳なのか、彼女達は一様に頬を濡らし声を枯らせて大号泣をしていた。その様相はまるで誰かの葬式でもしているかのようである。

 

 ――なんだこれ?

 霊夢は瞠目して心中でそう呟いた。だが、そう呟いてみたところで眼前の光景を理解するには及ばず、霊夢はただただ唖然として、まるで案山子のように呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 

 そんな霊夢の姿を最初に目撃したのは、拝殿前で佇んでいたアリスであった。

 

 

 アリスは最初、我が目を疑った。いやいやそんな馬鹿な、霊夢は死んだ筈だとかぶりを振った。酒に酔って幻覚を見ているのだと思った。まさか、死んだ筈の霊夢があんなところにいる訳がない、きっとあれは私の見間違いか何かなのだ。

 と、そう考えたアリスは涙の溜まった目をゴシゴシと擦り、酔いで火照った頬を両手で張り、深呼吸を何度も繰り返した後、恐る恐るといった様子で再度、霊夢とおぼしき人物がいた方へ改めて目を向けた。

 だがやはり、そこにいたのは死んだ筈の霊夢であった。見間違いでもなければ幻覚でもない。眼前に佇むのは正真正銘、紛れもない、死んだ筈の博麗霊夢の姿であった。

 

 途端、雷に打たれたかのような衝撃が全身に走り、酷く驚愕したアリスは泣き腫らした目をこれでもかと見開いて、思わず「うぎゃぁぁぁっ!!!」という都会派にあるまじき悲鳴を上げた。

 この突然の悲鳴に皆は驚き、何事かとアリスの視線の先を追う。すると、皆もアリスと同様に泣き腫らした目をこれでもかと見開き、「うおーーーっ! ゾンビが出たーーーっ!」という宮古芳香の叫びを皮切りにして、思わず「あややややぁぁぁっ!!」「むきゅぅぅぅっ!!」「ひゅいぃぃぃっ!!」「こあぁぁぁっ!!」「ぎゃぁぁぁてぇぇぇっ!!」「くろまくぅぅぅっ!!」「なむさぁぁぁんっ!!」と輪唱のように次々と悲鳴を上げた。そして、そんな皆の悲鳴に驚いた霊夢もそれにつられるようにして思わず悲鳴を上げた。

 霊夢がつられて悲鳴を上げると、それに驚いたアリスがまたも悲鳴を上げ、アリスの悲鳴に驚いた皆もまた悲鳴を上げた。更には皆の悲鳴に驚いた霊夢がまたしても悲鳴を上げ、霊夢の悲鳴に驚いたアリスがまたしても――

 

 まるで無限に続くかのような悲鳴合戦であった。だが、いかに埒外の人間や妖怪と言えども、体力は決して無尽蔵ではない。無限に悲鳴を上げ続けるなど無理な話であった。

 多大な体力を無駄に消耗した結果、息切れや目眩や頭痛などの症状を伴った疲労感に襲われ、皆は肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返していた。霊夢もまた同様である。

 尚、驚きのエネルギーを食べ過ぎた小傘はこの時、妊婦のように腹を膨らませて白目を剥き、泡を吹いてその場に倒れてしまった。

 

 やたらと満足そうな顔をして倒れ付している小傘のことはさておき、その場にいた全員が疲労感に顔を歪めながらも、その胸の内では様々な疑念が急速に渦巻き始めていった。

 

 神社に集った人妖達はこう疑問に思った。

 霊夢は死んだ筈なのにこれはどうしたことか?

 あれは本当に霊夢なのか?

 もしや、マミゾウ辺りが悪戯で化けているのではないか?

 

 また、当の霊夢もこう疑問に思った。

 こんなに大勢の人妖達が大挙して神社に押し寄せて、これは一体、何事なのか?

 そもそも私の許可もなく、人様の神社でこいつらは何を勝手に騒いでいるのか?

 まさかこいつら、揃って何か異変を起こそうとしているのではないか?

 

 と、そんな疑念が各々の胸の内で噴出した。故に神社の境内には暫しの間、霊夢と人妖達の睨み合い、腹の底の探り合いといった、冷戦さながらな膠着状態が続いた。

 

 しかし、その膠着状態は長くは続かなかった。実にあっけなく終止符が打たれた。

 この場にいた全員が疑心暗鬼に囚われて押し黙る中、誰かが突如、境内中に響き渡るかのような大声を張り上げて「こいつは霊夢のオバケだ!」と叫んだのだ。

 

「ほーら見ろ! それ見たことか! 私の言った通りになったじゃないか! 霊夢の奴、私達があんまりメソメソするもんだから、それに怒り狂って、とうとう化けて出て来やがったんだよ! お前ら、私が死んだぐらいでピーピー泣くなってさ!」

 

 場は一瞬、凍ったように静まり返った。しかし、そこは良くも悪くもノリの良い連中ばかりである。ましてや、正常な思考力など疾うに失なった酔っ払い連中である。

 故に直ぐさま、境内のあちらこちらから「なるほど! そういうことだったのか!」といった驚きと喜びの入り雑じった納得の声が上がり、やがて、なんやかんやで神社に集った人妖達の興奮のボルテージは最高潮に達した。勝鬨の声のような霊夢コールが、月まで届けと言わんばかりに幻想郷の夜空に轟く。

 一方、霊夢の胸の内に浮かんだ疑念の色はより一層、その深みを増していった。

 

 誰かが発した天啓のような一言によって、すっかりと疑念が払拭された為か、皆は完全にもとの調子を取り戻していた。やがて、境内は再び多大なる盛り上がりに包まれ、次第にあちらこちらから。

「この際、オバケでもゾンビでもなんでも良いわ! だって、こうしてまた、元気な姿の霊夢に会えたんですもの!」

「あのう、霊夢さんは怒ると化けて出て来るんですよね? そういうシステムなんですよね? ということはつまり、これから先、もしも霊夢さんにまた会いたくなったら、その度に神社に悪戯か何かをして、霊夢さんを怒らせれば良いってことになりませんか?」

「ほう……なるほどな! 妖精にしてはなかなか聡いではないか、お主! それならばいっそのこと、これから毎日神社を焼き討ちにして、霊夢殿を盛大に怒らせていこうではないか! わははっ! 我にお任せをーっ!」

「そこまでよ! 発想が飛躍し過ぎて、ただの放火魔になってるわ! 大体、そんな面倒なことをしなくても、霊夢のことだから、賽銭箱にお金を投げ込むだけでホイホイ化けて出て来るわよ!」

 といった歓喜に彩られた声が聞こえ始めた。

 

 また、そうした歓喜の声が上がる水面下では。

「いままで敢えて黙っていたのだけど――霊夢が死んでも私は別に困らないのよねえ、実際。だってほら、霊夢の魂を冥界に引き留めて、そのまま彼女を白玉楼に定住させてしまえば、私はいつでも霊夢に会えるんですもの」

「――はあ? 何それ、意味分かんないんだけど! 飽食が過ぎて、脳まで脂肪まみれになってるんじゃないのー? ハッキリ言って、霊夢みたいにぐうたらで暢気な奴は、天界の暮らしの方が断然合ってるし! 絶対に! 衣玖もそう思うわよねー?」

「ははっ……冗談はその胸だけにしておいて下さいよ。霊夢さんのような、欲深い方が天界に行ける道理はありません。彼女の死後はきっと、現世での未練が祟って、怨霊になると決まっているのです。となれば、霊夢さんの管理は旧地獄――もとい地霊殿が一任することになるでしょうねえ」

 といった冥界と天界と旧地獄の不毛な争いが繰り広げられていた。

 

 対して、そんな皆のやり取りを当初は困惑としながらも呆然と眺めていた霊夢であったが――自分をまるで化け物扱いするかのような、故人扱いするかのような皆の態度と口振りに段々と腹が立ってきたのか――次第にその口はへの字に曲がり、顔はみるみる真っ赤に染まっていき、眉尻が鬼のように吊り上がっていった。

 

「アンタら、さっきから黙って聞いていれば――」

 

 怒気の籠った低い声でそう口にすると、霊夢は巫女服の袖に手を突っ込み、怒りに震える指先で袖の中をモゾモゾと探り始めた。この動作が見られたら、それは危険信号である。霊夢が相当に怒っていることの表れであり、すなわち、いまの状況はかなり危ういと言えた。

 故に常ならば、霊夢がこのような仕種を見せた時点で、それに対峙した者は嫌な予感に怖じ気が走り、瞬時に警戒体制を取るか、脱兎の如く駆け出して遁走するかの二択を迫られるところである。

 だが、猫も杓子もすっかりと他事に気を取られていた為か、霊夢のそんな静かな怒りを察知出来た者はこの場に誰ひとりとしていなかった。四次元ポジトロン爆弾に匹敵するほどの脅威が、着実に我が身へと迫りつつあることに気付いた者は誰ひとりとしていなかったのだ。

 

 そうこうする内、霊夢は袖の中に目的の物を発見して口角をニヤリと吊り上げた。お馴染み――夢想封印のスペルカードである。これからこのスペルカードを用いて、眼前のふざけた連中を駆逐しようという算段であった。

 霊夢は怒りに燃える瞳で真っ直ぐに標的達を捉えると、早速と袖口からスペルカードを取り出して頭上に掲げ、スペルカード宣言をする為、その口をゆっくりと開いた。

 しかし――いま正に霊夢が夢想封印を放たんとする、その矢先に突如として、そこへ待ったをかける者が現れた。

 

「霊夢ざん……っ!」

 

 東風谷早苗である。その背後には早苗を心配そうに見守る二柱の姿もあった。

 

 数多の人妖が群れをなす、その先に早苗の姿はあり、それを視界の中に認めた瞬間――霊夢は手にしていたスペルカードをハラリと地面へ落として、口を開けたまま絶句した。皆も先程までの騒ぎが嘘のように押し黙り、見てはいけないモノを見てしまったかのような、ギョッとした視線を早苗に送っている。

 早苗の躰は全身から鈍色に染まった嫌なオーラを発しており、風に吹かれた柳のように左右へユラユラと不気味に揺れていた。緑色の髪はメデューサのように酷く乱れ、顔は死人のように青白くて見るも無惨なまでにやつれ、涙と鼻水によってグシャグシャに崩れていた。また、その目は赤く充血していて、メッセ顔を彷彿とさせるように据わっていた。

 

 あれはもう早苗さんじゃねえっス! あれはサナエさんっス!――河城にとりが些か錯乱気味の様子で心の中でそう叫んだ。だが、そう叫ばざるを得ないほどの――正に奇跡のような危険人物がそこにはいた。小兎姫さん、こいつです。

 

 途端、耳鳴りのするような静寂と圧倒的な緊迫感が一気に場を包む。最早、そこに言葉を発する者は誰ひとりとしていなかった。そんな中、早苗は不意に操り糸が切れたようにガックリと肩を落とすと、オロオロとする二柱に見守られながらも一歩、また一歩とその足を前へと進めていった。

 泥沼を進むような早苗の足取りは一直線に霊夢を目指していた。それ故、その直線上に屯していた人妖達にはたちまち戦慄が走り、「触らぬ神に祟りなし!」とでも言わんばかりの様相で慌てふためき、まるでモーゼの奇跡のような様相を呈して、そそくさと早苗に道を譲り渡す羽目になった。

 また、そんな光景をただ凝然と眺めていることしか出来なかった霊夢はこの時――生まれて初めて恐怖というモノを覚えていた。一流の妖怪退治屋として、歴代でも最強にして最高の誉れが高い博麗の巫女と後世に語り継がれる、あの博麗霊夢が額から多量の脂汗を流して、膝をガクガクと言わせて恐怖していた。本能は『逃げろにゲろニゲロ逃ゲロにゲロニゲロ――!』と喧しく騒ぎ立てる。然るにじっくりといたぶるようににじり寄って来る恐怖の根源に対して、霊夢の足はいまや完全に怯えて竦み上がっていた。

 

 やがて、早苗の足が霊夢の前でピタリと止まり、霊夢は短い悲鳴を上げて背を仰け反らせた。深く耳を澄ませば、辺りからは恐怖と不安をゴクリと嚥下する音がいくつも聞こえる。

 

「あの……その……さ、早苗さん?」

「ううっ……霊夢ざん……霊夢ざぁぁぁん!!」

 

 目の前でピクリとも動く気配のない早苗に底知れぬ闇を感じ、激しい動悸に襲われた霊夢であったが、それでも恐る恐るといった様子で早苗に呼び掛けた。すると、途端に早苗はじわりジワリと涙を溢れさせ、飛び付くような勢いで霊夢に抱き付いてきた。それは背骨が折れるのではないかと思うほどの力強い抱擁であった。

 霊夢は唐突な早苗の行動と自身の骨が軋む音によって恐怖が極まり、思わず、断末魔のような悲鳴を上げた。かたや、他の皆は右往左往して酷い狼狽を見せながらも、ただただ、この状況を静観することしか出来なかった。そもそも、誰しもがいまの早苗には極力関わりたくなかった。

 

「ちょっ痛い! 早苗、痛いから離して! 離しなさいってば! 背骨が折れちゃう! 私の背骨が折れちゃうからぁぁぁっ!」

「霊夢ざん……ううっ……どうじて死んじゃったんでずか……ひっく……霊夢ざんは殺じても死なないような人だと思っでたのに……おえっ」

「ひっ……! 殺す!? いま殺すって言った!? ちょっと早苗――いえ東風谷さん! 取り敢えず落ち着きましょう! 話せば分かる! 話せば分かるわ!!」

 

 我が身の危険を瞬時に感じ取った霊夢は、早苗の拘束から逃れるべく必死になってもがいた。身を左右に大きく激しく捻ってみたり、早苗の肩を掴んで強引に引き剥がそうとしてみたり、早苗の無防備な腋へとくすぐりを仕掛けてみたり、秘蔵の高級羊羮を交渉材料にして早苗の懐柔を試みようとしてみたりした。

 ここまで必死な姿の霊夢は未だかつて誰も見たことがない。だが、それでも早苗の拘束が外れることは決してなかった。

 

 身体能力的に両者は互角――いやむしろ、体術に秀でている霊夢にやや分があると言っても良く、とどのつまり、単純な力比べにおいて霊夢が早苗より劣ることなどはまず有り得なかった。

 ただ――今宵の早苗は一味違っていた。霊夢に対する熱い思いでその力は通常の二倍、酒の力で脳の箍が外れたことによって更に二倍、そして、早苗を見守る二柱の神通力が加わって更に三倍と――そのような奇跡的な理論によって、早苗の力はいまや恐ろしいまでに膨れ上がっていた。故にこの引力と斥力がせめぎ合う力比べ勝負、順当にいけば、早苗の方へと軍配が上がるだろう。

 とは言え、このまま早苗の成すがままにされる気など霊夢には更々なかった。圧倒的な力量差を感じても尚、霊夢の瞳には抵抗の意思が灯っていた。その瞳は正に異変解決へと赴く時のそれと同じ。異変を解決する為に最も必要なものは決して諦めない心なのだ。諦めたらそこで試合終了である。

 そう。無様な敗北を積み重ねながらも、それでも尚、艱難辛苦を乗り越えて果敢に奮闘し続けた結果――二時間前に出直してきな!――と無下に吐き捨てられても絶望してはいけない、膝を折って泣いてはいけないのだ。エンディングまで泣くんじゃない。

 

 しかし、霊夢の必死な抵抗も空しく、事態はなんの変化もないまま、無為な時ばかりを刻んでいった。いや。変化は霊夢の知らぬところで確かにあった。

 先刻まで静観を決め込んでいた筈の人妖達が、いまではすっかりと観戦モードへと切り替わっている。博麗霊夢と東風谷早苗、このふたりによる力比べ勝負、果たして勝利を手にするのはどちらか?――狡猾な地上兎の因幡てゐが胴元を務め、ふと気付けば、神社の境内は賭博場へと変貌を遂げていた。

 

 この勝負、早苗の拘束を外せば霊夢の勝利。

 霊夢の心か背骨が折れた時点で早苗の勝利である。

 

 霊夢がんばれ!

 早苗がんばれ!

 がんばれ! がんばれ!

 皆はふたりに熱い声援を送りながら、『霊夢』『早苗』と書かれた紙片を固く握り締めていた。また、それとは別の意味で熱狂して、「いたいけな少女同士が密接に絡み合って戯れておる!」などと興奮気味に口走りながら、ふたりをカメラで激写する鴉天狗の姿も中にはあった。

 

 ところがそれから間もなくのことである。熱いパトスが迸ったシャッター音が激しく鳴り響く中、皆が酒をグイグイと煽りながら、ふたりの勝負の行く末を見守っていた、正にその時――突如として事態にある変化が訪れた。

 不意に早苗の肩がビクリと跳ね上がったのだ。

 

「れ……霊夢ざん……」

「ひぃぃぃっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 私が何かしたのなら謝るから! それにもう絶対に意地悪なこともしないから! 下戸の早苗を面白がって、無理に酒を飲ませようとしないから! だからもう許して下さい! お願いしますぅぅぅっ!」

「霊夢ざんっ……! ううっ……わだじ……なんだかまた、ぎぼぢわるぐなっできまじた……うっぷ……吐きぞう……おええっ!」

「………………はい?」

 

 場を一瞬、凍ったように静まり返った。だが、次の瞬間には阿鼻叫喚の叫びがこだました。

 ふたりを取り囲んでいた人妖達は蜘蛛の子を散らすように方々へと逃げ惑った。

 血の気が引いて青ざめた顔をした霊夢は、早苗に拘束されたまま、声にならない悲鳴を上げて嫌々と激しくかぶりを振った。

 早苗は何度も嘔吐きながらその度に肩をびくりビクリと跳ね上がらせた。

 

 その光景は正しく壮絶であり、思わず、目を覆いたくなるほど凄惨なものであった。

 故にここは暫しの間、幻想郷でも随一のスリル満点な観光スポット、太陽の畑にて、悪戯好きな三妖精と風見幽香さんが仲良く鬼ごっこに興じる微笑ましい映像をお楽しみ頂きたい。

 

 

 

 ――暫くお待ち下さい。



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4/4

 現在、博麗神社の境内は先刻までの騒乱が嘘のようにシンと静まり返っていた。

 というより、まるでお通夜のように重く息苦しい様相を呈していた。

 

 霊夢は拝殿へと続く階段に座り込み、一枚のスペルカードを握り締めながら、肩を落として荒い呼吸を繰り返していた。

 かたや、神社に集った人妖達は悪鬼羅刹と遭遇したかのように怯えた様子で顔を俯かせ、悪戯を叱られた子供のように境内の石畳の上で正座させられていた。

 また、その両者の中間点では、口の端から涎を垂れ流しながら倒れ付している小傘と並ぶ格好で――ボロ雑巾のように無惨な姿となった早苗が倒れていた。

 

 ――ひとりの修羅が現れた。

 この不可解な状況を端的に説明するとそういうことになる。

 

 とどのつまり、霊夢の堪忍袋の緒が遂に切れてしまい、その後、悪鬼羅刹の如き、世にもおぞましい怪物が博麗神社の境内に解き放たれたのである。

 その暴虐っぷりは地獄の女神でさえも「これは酷い……」と呟くほどの地獄絵図であったが――不幸中の幸いにして、件の怪物は直ぐ近くにいた早苗をほふるのみで去って行き、被害は意外にも最小限の域に留められた。

 これも夢想天生が耐久スペルであったお陰である。もしも、夢想天生のスペルカードに時間制限が設けられていなければ、いま頃、幻想郷は壊滅的な打撃を受けていたに違いない。怒り狂った博麗の巫女によって。

 

「――で、アンタ達は一体、私の許可もなく、人様の神社で何を勝手に騒いでいたのかしら? これは一体全体、何事なの? 誰か詳しく説明して頂戴な。ことと次第によっては、アンタら全員、この場でしばき倒すから」

 

 心底疲れたといった風に溜め息を吐いた後、ニコリとした笑みを顔に張り付かせながら、こめかみに青筋を立てながら霊夢は皆にそう質した。その背後には七方向へと延びる歪なオーラが見える――と、そんな錯覚を起こしてしまうほど、霊夢の怒りは静かな狂気を湛えていた。

 だが、そんな霊夢の問いに答える者は皆無だった。皆、下手なことを口にして霊夢の不興を買いたくなかったからだ。いまの霊夢は言わば、ニトログリセリンのようなもの。取り扱い注意であり、些細な刺激が大惨事を招き兼ねない。

 故に皆はただただ、項垂れたまま沈黙を守り続け、ひたすらに時の流れに身を任せ、この重苦しい空気が――あるいは緋色の悪夢と称するのが相応しい、この恐ろしい禍事が一刻も早く過ぎ去るのを切実に願うことしか出来なかった。

 酔いなど最早、疾うの昔に醒めている。

 

「ふーん、黙秘ってわけ。へーそういう態度を取るんだァ。それじゃあ仕方ないわね。アンタ達が少しでも喋りやすくなるよう、特別に私が便宜を図って上げるわ。――という訳でこれからアンタ達を使った射的ゲームを開始しまーす! 目玉に当たったら百点満点だから……そのつもりで」

 

 始めこそは至極穏やかそうな口調であったが、次第に心臓を鷲掴みにするかのような、おどろおどろしい声音へと変貌していった霊夢の言葉に背筋が凍り付き、皆は反射的に項垂れていた顔をスッと持ち上げた。

 見ると、いつの間に取り出したのか、霊夢の両手には数本の封魔針が。指の隙間から鋭く延びるそれの尖端は、まるで獲物を狙う肉食獣の目のようにギラついた光を放っていた。

 

 覚妖怪でなくとも、心など読めなくとも分かる。霊夢は本気である。本気で殺しに掛かってきている。肌をジリジリと焦がすような、有無を言わさぬ、霊夢の純化した怒りの圧倒的な威圧感がそれを確信させる。

 それと同時に皆は瞬時にこう悟った。これは私達に対する脅しであると。鳴かぬなら殺してしまおうホトトギスと霊夢は言外にそう語っているのだと。すなわち、このままだんまりを決め込むのはすこぶる不味いと。

 

「もう駄目だ! この船はもう沈むんだ! 船が沈んで私達はもうおしまいなんだ!」

 遂には恐怖に耐えきれず、ナズーリンが泣きながら発狂して、幻覚でも見ているかのようによく分からないことを喚き出した。それを寅丸が必死で落ち着かせようと宥めるが、直後にまた宝塔をなくしたことに気付き、どこか照れ臭そうな困り顔でナズーリンに宝塔の捜索を依頼した。途端にナズーリンは絶句して、なんかもう色々と限界だと思った。

 

 そんなふたりのやり取りなどは尻目にして、皆は恐怖に染まった瞳で霊夢をひとしきり凝視すると、暫くして、互いの気持ちを確認し合うようにアイコンタクトを取り、無言のままにゆっくりと一度だけ頷き合った。

 そして、まるで示し合わせたかの如く、そこで皆の視線が一斉に白黒の魔法使いへと注がれた。

 

 何も口には出さずとも皆の目は如実にこう語っていた。『このまま黙秘を続ければ、私達は怒り狂った霊夢によって射的のマトにされてしまうわ。だから、ここはひとつ貴女が代表して、霊夢の望むようにこうなった経緯を説明して差し上げるのよ』と。

 すると、魔理沙は身震いして嫌々とかぶりを振り、皆を恨めしそうに睨み付けるとこう反駁した。『ふざけんな! 私に人柱になれってのか!? 冗談じゃない、なんで私が!?』と。

 皆は慈悲のあるドヤ顔を浮かべ、魔理沙の反論にやれやれといった風に肩を竦めると、優しく目を細めて諭すように更にこう語った。『貴女以上の適任者は他にいないのよ。だってほら、確か貴女、霊夢の友人代表だった筈でしょう? となれば、ここは友人代表の貴女から霊夢に説明するのが筋であり、自然な流れであり、それは至極当然の摂理なのですわ。はい論破!』と。

 魔理沙はぐぬぬと一瞬だけ怯んだ様子を見せたが、直ぐさま目を見開いて尚もこう反駁した。『いやその理屈はおかしい! 罠だ! これは罠だ! 大体、霊夢は死んだ筈なのに生きているというのはおかしいじゃないか!?』と。

 

 結局、この双方のアイコンタクトのみで繰り広げられた静かな論争は、最終的に涙目の魔理沙が全面的に折れる形で決着がついた。金髪の子かわいそう。

 

 魔理沙は苦々しく小さな舌打ちをすると、諦観の念と共に重い腰を上げ、震えそうになる膝をなんとか抑えながら、断頭台へと赴くような足取りで霊夢のもとへゆっくりと進み出た。その時、霊夢の底知れない、深淵を思わせる黒々とした瞳が魔理沙をジッと捉える。

 途端、胃が捩じ切られるような痛みに襲われた魔理沙は苦悶の表情を浮かべ、傍らで無惨に倒れ伏している早苗をチラリと窺った後、助けを乞うような目をして皆の方へと振り返った。

 

 だが――次の瞬間。皆は一様に申し訳なさそうな、気不味そうな顔をして、無情にも魔理沙からそっと目を逸らした。誰も魔理沙と目を合わせようとしない。

 また、パチュリー・ノーレッジに至っては『魔理沙がどうなろうと知ったことか』と言わんばかりに平素通りの澄まし顔で手元の書物に目を落としている。また、その隣にいる小悪魔も主人に倣ってか、魔理沙のことなどアウトオブ眼中――といった様相でしきりに髪の枝毛を気にしていた。

 これも日頃の行いが災いした結果であろうか。

 

 紅魔館爆発しろ!――魔理沙は心の中でそんな悪態をつきつつ、またも小さく舌打ちをして、嫌々ながらも再び霊夢の方へと向き直った。

 

「わ、わた、私がみんなを代表して、こうなった経緯をお前に説明してやるよ。だ、だからその……そんな物騒なもんはあっちへポイしよう、な?」

 

 魔理沙が上擦った声で阿るように宥めるように懇願した。すると果たして、魔理沙の願いが晴れて受理されたのか、霊夢は一拍の間をおいた後、よろしいとばかりにゆっくりと首肯して、手にしていた封魔針をそっと袖の中へと収めた。

 

 皆は最悪の事態を免れたことに安堵の胸を撫で下ろしたが、その反面――これは所詮、仮初めの平和に過ぎないことを理解していた。

 何故ならば、地獄のような審議の時間はまだ終わってはいないからだ。霊夢がことの真相を全て知った後、果たして、どのような態度に打って出るのか、現状、まったくと予想がつかないのである。

 従って、なんの因果か、矢面に立たされてしまった魔理沙にとって、ここは正しく正念場、危険地帯の最前線――つまりは地獄の一丁目と言っても過言ではなかった。

 魔理沙の心はいまや、すっかりと鉛色に染まっていた。最早、紺魔理沙状態である。

 

「それでは魔理沙、アンタに改めて問うわ。この騒ぎは一体、何事なのかしら? キチンと筋道を立てて詳しく説明して頂戴な」

 

 霊夢にそう問われた魔理沙はグッと息を飲み込んだ。口の中が急速に酷く渇き始め、握り締めた拳にはじんわりと汗が滲み、不安と恐怖で動悸が早鐘を打ち始める。

 魔理沙の本音としてはいま直ぐにでもこの場から逃げ出したかった。だがしかし、衆目に晒されている、この現状に於いて、逃走の機会などは疾うに失われていた。最早、一歩たりとも後には引けない状況である。

 

 魔理沙は心を落ち着けようと深い呼吸を何度も繰り返した。それからやがて、覚悟を決めたように真っ直ぐと霊夢の顔を目で捉えると、おもむろに重い口を開き、今朝から現在へ至るまでの一連の出来事を訥々と語り始めた。

 

 今朝方、博麗神社へ遊びに来たら、大量の金で溢れ返っていた賽銭箱の側で霊夢が泡を吹いて倒れているのを発見したこと。

 それから華扇や早苗、文が次々と神社に顔を出してきて――ふと気が付けば、霊夢が死亡したという内容が書かれた、文々。新聞の号外が幻想郷中にばら撒かれていたこと。

 霊夢の突然の訃報を受けて、大勢の人妖達が博麗神社へ弔問に訪れ――なんやかんやの末、霊夢の為にみんなで宴会を開こうという話になったこと。

 そうしたら、宴会の最中に感極まって、みんながわんわんと泣き始めてしまい、更にはそこへ死んだ筈の霊夢が現れて、いまに至ることなどを――魔理沙は噺家さながらに表情をコロコロと変えながら、身振り手振りを交えて語った。それにしてもこの魔法使い、ノリノリである。

 

 そんな魔理沙の話に霊夢は始め、氷のような無表情を貫きながら耳を傾けていた。だが、魔理沙が話し始めて数分が経過した頃、その表情はにわかに雲行きがあやしくなり始めた。

 話のくだりで言えば、射命丸文が登場した辺りからである。霊夢の表情が突如、ムッとしたような険しいものへと変わった。しかし、それも束の間の話。そこから更に魔理沙の話が進んでいくと、今度は徐々に複雑そうな表情へと移り変わり、終いには困り果てたように頭を抱えて項垂れるまでに至った。

 その様相はあたかも、トイレで用を足したら紙がないことに気付いた時のそれに近い。霊夢は魔理沙の話をどう処理すれば良いのか思い悩んだ。

 

「――以上で私の話は終わりだ。後はもう、霊夢の判断で私達を煮るなり焼くなり好きにしてくれ……」

 

 フッと息を漏らした後、魔理沙は自暴自棄とも自殺志願とも取れる発言を残して、話の最後をそう締め括った。

 すると、それまで頭を抱えて項垂れていた霊夢がハッとしたように面を上げて口を開いた。

 

「ちょ、ちょっと待って……話がまだよく呑み込めない! はっ? えっ? そ、それじゃあ何、アンタ達はつまり――私が死んじゃったと思って、それでその……こんな騒ぎを起こしたって言うの?」

「――そうだ。みんなで楽しく宴会を開いて、霊夢の旅立ちを笑顔で見送ってやろうと――霊夢が安心して、笑顔であの世に旅立てるようにしてやろうと、そう思ってな」

「ここにいる奴ら全員が? そんなことの為にわざわざ?」

「まあな。みんな、幻想郷の住人らしく、ノリの良い連中ばかりなんでね」

 

 霊夢は信じられないといった様子で目を見開く。

 現在、博麗神社は境内を埋め尽くさんばかりの人妖達で犇めき合っている。その顔触れたるや錚々たるものであった。これから先、どのような有事があったとしても、これほどの面子が一堂に会することはないのではないかと、そう思えるほどの顔触れだった。

 

 ――こいつら全員が私の為に集まった? いやいや、そんなまさか!?

 霊夢の死を悲しんでこれだけ沢山の人妖達が集まった――魔理沙の話を要約すれば、そういうことになる。だが、霊夢はとても、そんな話はにわかに信じることが出来なかった。それだけ霊夢にとって、この事実は衝撃的で意外過ぎたからだ。

 しかし、その話を裏付けるかの如く、辺りには何やら宴会の残滓らしき物が散見される上、これまでの皆の奇妙な言動と照らし合わせてみても、色々と腑に落ちる部分があったのもまた確かな事実であった。つまり、否定し難いほどに魔理沙の話は辻褄が合っていたのだ。

 

 途端、霊夢は身体の芯が急速に熱くなっていくのを感じた。するとたちまち、皆からの視線が妙にこそばゆく感じ始め、霊夢は思わず、皆の視線から逃れるように顔を明後日の方向へと背けてしまった。そして、次の瞬間には不意な夜風が熱くなった頬を撫でていった。

 霊夢の心はまだ、この嘘みたいな現実を受け止めきれずにいた。

 

「な、何よそれ。全然、意味分かんないし。そんなことぐらいで大騒ぎしちゃって……。まったく、揃いも揃って大袈裟なのよ。大体、アンタらなんて普段、顔を会わせれば、憎まれ口しか叩かない癖に。それがなんでこんな……」

「みんなにとって、それだけ霊夢の死がショックだった。みんなにとって、それだけ霊夢の存在はかけがいのないものだった。――つまりはそういうことだろ?」

 

 魔理沙がそう言うと、その言葉を肯定するように皆は一斉にうんうんと頷いた。

 そんな皆の様子を横目でチラリと窺った霊夢は言葉にならない呻き声を上げる。

 

「――んもう! なんなのよ、アンタらはホント! 大体、私は死んでないし! いまもこうして、ピンピンして生きてるっつうの! 勝手に人を殺すな!」

 

 様々な感情が複雑に絡み合い、身悶えしそうになる衝動に駆られて、どうにも居ても立ってもいられなくなった霊夢は堪らず、敢然と立ち上がり、皆に向かって吠えるように捲し立てた。

 その顔が見事なほど真っ赤に染まっているのは果たして、怒りによるものなのか――はたまた別の要因によるものなのか。それは霊夢自身にも分からない。全ては神のみぞ知るである。神社なだけに。

 

「そう。そうだわ――射命丸文よ! そもそもがあいつの早とちり、あいつの流したデマがこうなった元凶なんでしょ!?」

「……有り体に言えば、そうなるかもな。まあ、デマに踊らされた私達も悪い気がするけど」

「まったく! 相変わらず、ろくでもない奴ね、あいつは! で――その文の馬鹿はどこにいるのかしら? どうせ大方、あいつもこのふざけた集まりに参加してるんでしょ!? ほら、隠れてないで出て来なさい!」

 

 霊夢の推察通り、確かに文も今回の宴会に参加していた。そもそも、常に幻想郷の少女達に対して興味津々な、あの射命丸文なのだ。何はなくとも、これほど沢山の少女達が集まる、こんな絶好の機会を逃す筈はない。

 ところが――待てど暮らせど当の鴉天狗は一向に姿を現さなかった。それどころか、境内のどこを見渡してもその姿を見付けることは出来なかった。

 

 皆はまるで狐に摘ままれたような心境となり、互いに顔を見合わせて怪訝な表情を浮かべている。霊夢も不思議そうにする皆の様子に眉根を寄せて小首を傾げた。

 終いには「おい誰か、スカートをたくし上げて、ドロワを見せるんだ! 良いか、目に涙を溜めて恥ずかしそうにスカートをたくし上げるんだぞ! 奴がどこかに隠れ潜んでいるのなら、それで誘き出すことが出来る筈だ!」、「いやいや。そんなものではあいつは釣られたりしないわ。ちょっとチルノ、それに大妖精! 貴女達、いま直ぐここで抱き合ってキスしなさい! キースーするのよ! キースー!」と、そんな言葉が飛び交う始末である。

 しかし、そこまでしてもまるで神隠しにでもあったかのように忽然と姿を消してしまった鴉天狗は姿を現さなかった。果たして、射命丸文はどこに消えてしまったのだろうか?――それは最早、誰にも分からないことである。結局のところ、大妖精が妙にご満悦の表情を浮かべて、チルノが赤面したまま地面に倒れ付した、という結果だけが残った。

 と、そんな折のことである――誰かが不意に恐々と手を挙げ、申し訳なさそうな声を上げた。

 

「あ、あのう、文さんでしたら先程、何やら特ダネの匂いがするとか言って、三途の川方面へと飛び去って行きました……けど」

「なん……だと……?」

 

 絞り出すような霊夢の呟きと共に皆の視線が一斉に犬走椛へと集まる。文と同じ鴉天狗のはたてに至っては「裏切ったってマジですか!?」とでも言いたげな鋭い視線を送っていた。

 一方、四方八方からの刺すような視線に晒されて恐縮したのか、椛は主人に叱られた犬のようにシュンとしてしまい、そんな椛の様子に心を痛めた、将棋仲間のにとりが慌てて椛のフォローに回った。

 また、周囲から聞こえる、「あいつ逃げやがった」「私達を裏切って逃げた」「ひとりだけ逃げた」という囁き声によって古傷が刺激され、鈴仙が錯乱状態に陥り、アラーの神に祈るかの如く、月に向かってブツブツと謝罪をし続ける場面もあった。

 

「ははっ……。流石は幻想郷最速。逃げ足の速さも最速ってことか」

 

 魔理沙が苦々しく笑い、そんな冗談めかした言葉を零すと、やがて、霊夢は渋面を浮かべながら、こめかみに指先を押し当て、疲れ果てたように溜息を吐いた。

 

「なんだかもう、怒る気力もなくなってきたわ……あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて」

「ゴメンな、霊夢。でも決して、みんな悪気があって、こんなことをした訳じゃないんだ。それだけは分かってくれよ」

「……もういいわよ、別に」

 

 霊夢が呆れたようにそう言うと、先程まで張り詰めていた緊張感はどこへやら、境内には途端に弛緩した空気が流れ始めた。魔理沙は苦笑いを浮かべて皆の方へ振り返る。見ると、皆も魔理沙と同様に苦笑いを浮かべていた。

 

 東風谷早苗という尊い犠牲はあったものの、諸悪の根源である射命丸文は取り逃がしたものの、なんだかんだでようやくと全てが丸く収まろうとしている――いま、この場を取り巻く弛緩した雰囲気から、皆はそんな希望に満ち溢れた気配の訪れを予感していた。

 我々は許されたのだ――皆の目にうっすらと安堵の光が灯った。

 

 だが、ここまでの騒動を起こして、ことがそう簡単に丸く収まる訳がなかった。

 地獄のような審議の時間はまだ終わってはいない。

 そう――皆はまだ完全には許されてはいなかったのだ。

 

「ところで魔理沙――アンタにひとつ訊きたいことがあるんだけど」

「――ん?」

「ほら、さっきアンタ、言ってたじゃない。神社の賽銭箱が大金で溢れ返ってたって」

 

 その時、魔理沙を含めた、皆の肩がビクリと跳ね上がった。

 その様はまるで悪戯がバレた子供、そのものだった。

 

「でね、確かにそう言われてみれば、私もぼんやりとだけど、そんなような記憶が微かにあるのよ。ねえ魔理沙――あのお金は一体、どこに消えちゃったのかしら?」

 

 霊夢は空の賽銭箱をチラリと一瞥した後、悪戯をした子供を叱る母親のような、穏やかさの中に僅かな冷たさを含んだ声音で魔理沙にそう尋ねた。

 魔理沙の額からドッと脂汗が流れ始める。

 

 誰もが言葉を発することが出来なかった。いや。そもそも発する言葉が見付からなかった。

 まさか――宴会費用の為に全部使ってしまいましたん!!――とはとてもではないが言えない。例え、口が裂けたとしてもそればかりは言えそうにない。そんなことを言えば、常に参拝客と賽銭に飢えていることでお馴染みの博麗霊夢が怒り狂わない訳がなかった。今度こそ本気で殺しに掛かってくるに違いない。すなわち、全世界ナイトメアの開幕である。

 それ故、神社に集った人妖達の心には激しい動揺が走り、その視線は焦点が定まらないように覚束なくなり始めた。魔理沙に至っては白目を剥き、膝がガクガクと震え始め、いまにも卒倒してしまいそうな有り様だった。

 

 そして、そんな皆の動揺ぶりとは相反して、霊夢は冷静にことを眺めながらも内心でほくそ笑んでいた。と言うのも、霊夢は元来、とても勘の鋭い女の子であり――空の酒瓶やら料理の残りカスやらで散らかった境内の惨状を見て、賽銭箱の大金がどこへ消えたのか、端からおおよその察しはついていたのだ。

 

「あ、あのな。いまから話すのは凄く言いにくいことで。……霊夢にはどうか落ち着いて、本当に落ち着いて聞いて欲しいんだが。実のところ、あの賽銭箱の大金は全部――」

「宴会の費用に使ってしまった――そうでしょう? そりゃあそうよねえ、なんだか随分と大掛かりな宴会を開いてたようだし。その費用も馬鹿にはならないわよねえ」

「――誠にすんませんしたっ!!」

 

 魔理沙が即座に土下座して謝辞を述べる。他の皆も魔理沙につられる格好で額を地面に擦り付け、思い思いに霊夢へ謝罪の言葉を述べ始めた。その反応に霊夢は思わず、口の端を引きつらせた。

 私は一体、こいつらからどんな人間だと思われてるんだろう?――そんな疑問がふと脳裏を過る。

 

「ちょっとアンタ達、土下座とか止めて頂戴! そんなのこっちが恥ずかしいだけだから本当に止めて! 別にお金のことなら、そんなに気にしてないから!」

「気にしてないって……そりゃあどういうことだ?」

「……だって、もう過ぎたことだし。それに――どういう経緯であんな大金が転がり込んできたのかは知らないけど、所詮は泡銭みたいなものでしょう? そういうのはパーっと派手に使ってしまうに限るわ」

「――えっ? 霊夢……もしかして、お前……まさかとは思うけど、怒ってないのか? 私達、博麗神社の賽銭を勝手に使っちまったんだぜ?」

 

 地面から顔を上げ、魔理沙が恐る恐る尋ねる。

 霊夢はそんな魔理沙からそっと視線を逸らすと、照れ臭そうに頬をポリポリと掻き始めた。

 

「怒ってないわよ。まあ、普段の私だったら、メチャメチャ怒ってるでしょうけど」

 

 霊夢がそう言うと神社に集った人妖達の間に別の意味で動揺が走った。

 あの常に参拝客と賽銭に飢えていることでお馴染みの博麗霊夢が、神社の賽銭を無断で使われて怒らないとかあり得ない。あれは本当に霊夢なのか。もしかすると、あれはやはり、マミゾウ辺りが悪戯で化けた、偽物の霊夢なのではなかろうか。

 ――皆は霊夢の不可解な態度を大いに訝しんだ。

 

 その一方で霊夢の心はかつてないほど温かいもので満たされていた。

 

 この場にいるのは人間や妖怪だけではない。それこそ妖精から神様まで。実に多種多様な人妖達が――例え、結果的に大きな勘違いであったことが判明したにせよ――博麗霊夢の死を嘆き悲しんでこうして神社に集っている。そして、それはとどのつまり――それだけ博麗霊夢という少女が実に沢山の人妖達から愛されていた――という何よりの証左と言っても良かった。

 

 賽銭箱から溢れるほどの大金が一夜にして失われてしまった。霊夢がそのことをまったくと悔やんでないと言えば、それは嘘になるだろう。事実、普段の霊夢ならば、ショックのあまりに数日間は寝込んでいてもおかしくはない。

 だが今宵、霊夢は賽銭箱の大金以上に価値のあるモノを得た、お金では決して手に入らない何か大事なモノを得たのだと強く感じていた。故に賽銭箱の大金が夢に消えても、不思議と怒りや悲しみといった負の感情は湧かなかった。むしろ、既に温かい感情で満たされた、いまの霊夢の心にそんな感情が入り込む余地などある筈もなかった。

 

「なんて言うか、その……よく分からんけど、霊夢が怒ってないなら良かったよ。いやはや、霊夢の寛大な心には感謝だな。それでこそ楽園の素敵な巫女様だぜ!」

「言っておくけど、今回は特別なんだからね。次、同じことしたら、今度は問答無用でしばき倒すわよ? 特に魔理沙、アンタは手癖が悪いんだから、よく肝に命じておきなさい」

 

 霊夢はそう言って魔理沙に睨みを利かせ、続けざまにこう語った。

 

「それと――アンタ達に忠告しておくけど。今回の件に関して、私がまったく怒ってないとか思ったら、それは大間違いなんだからね。現に私はいま、アンタ達に対して、ひとつだけ――どうにも腹が立って仕方ないことがあるわ!」

「――腹が立つこと? 腹が立つことってのはなんだ? すまん……生憎と身に覚えがあり過ぎて、もうどれのことを言ってるのか、さっぱり分からん」

「はっ! そんなの決まってるでしょ! 私を除け者にして、アンタ達だけで宴会を楽しんでたことよ! ちょっと魔理沙、私の分の料理とお酒、当然、まだ残ってるんでしょうねえ!? まさか、私を除け者にしたまま宴会を終わろうだなんて、そんな横暴が許されると思ってるんじゃないでしょうねえ!?」

 

 眉尻を吊り上げて、怒涛の勢いで霊夢が捲し立てる。

 すると魔理沙は暫しの間、何を言われてるのか分からぬ様子で口をポカンと開けて呆けていたが、やがて――口角をニヤリと吊り上げると急ぎ皆の方を振り返った。

 

「おい咲夜! まだ料理の材料は残ってるか? まさか……全部使っちまったとか言わないよな?」

「貴女、誰に向かって口を利いているのか分かっているのかしら? 日頃、我儘放題なお嬢様にお仕えし、お嬢様のどんな無茶な要求にもきちんと応えてきた、この私がいまさら――そんな不備をやらかすとでも思って? ありとあらゆる場面を想定して、常に備えや余力は残しておく――それが瀟洒なメイドの在り方というものですわ」

「ね、ねえ咲夜。その我儘放題なお嬢様って言うのは誰のことかしら?」

「まあ、種明かしをすれば――頃合いを見て、みんなにお夜食を振る舞おうと思ってたから、その為の材料がまだ残っているのよ。だから、こっちの方は心配いらないわ」

「咲夜、私の質問に答えて。さっきの我儘放題なお嬢様って誰のこと? もしかして――フラン? それってフランのことなんでしょう? ねえ、そうだと言って!」

 

 レミリアが咲夜に掴み掛かって、懇願するようにそう尋ねるが、当の咲夜はニコニコとした笑みを浮かべたまま、生暖かい眼差しでレミリアを見つめるばかりである。

 

「よし! 取り敢えず、料理の方は確保出来そうだな。次は肝心の酒だけど……」

「その点に関しては安心しなよ、魔理沙。今夜の為にと思って、私が持ってきた酒がまだまだ沢山ある。しかも、どいつもこいつも上玉の一級品さ」

「鬼のお墨付きってわけか。萃香がそう言うなら、確かにそれは良い酒に違いないな!」

 

 魔理沙の声音が少しずつ明るいものへと調子づく。

 そして、それと比例する格好で境内も少しずつ活気が戻りつつあった。

 

「よーしみんな! ここはひとつ、霊夢の為に宴会の仕切り直しといこうじゃないか! そして……今度こそ本当にただ楽しいだけの、この場にいる全員が笑い会える、そんな宴会にしようじゃないか!」

 

 魔理沙の号令が全ての合図だった。停滞していた時がゆるりと動き出したように、皆は嬉々として本日二度目となる宴会の準備に勤しみ出した。

 

 咲夜を筆頭にした調理班が再び神社の炊事場を占拠した。

 鬼の萃香や勇儀、華扇などの腕力に自慢がある者達は、どこにそんな隠し持っていたのか分からない、大量の酒をいそいそと宴会場に運び込み始めた。

 その他、手の空いている者達は宴会を仕切り直す為、食べ残しや空の酒瓶で散らかっていた境内を片付けたり、未だに倒れ付している小傘や早苗やチルノの介抱に向かったりした。

 

 また、境内の中央ではプリズムリバー楽団を中心にした演奏組、蛮奇や布都などの隠し芸組、アリスやこころなどの見世物組が大規模な円陣を組み、互いに檄を飛ばし合っていた。

「やっぱり、ライブにはアンコールがつきものだよね!」と、そんな台詞を合言葉にして。

 

 一方、そんな慌ただしくも賑やかな境内の、その熱気と活気で溢れる様相に霊夢は気圧されていた。だが、それから暫くすると、やれやれといった風に肩を竦めて、そっと静かに口を開いた。

 

「まったく。普段はのんびりとしてるクセして、みんな、こういう時だけは無駄に張り切るんだから。ホントこいつら、揃いも揃って、どうしようもない連中だわ。ええ。本当に――どうしようもないほど馬鹿な連中だわ」

 

 霊夢は誰に聞かれることもない小さな声でそうひとりごちると、夜空に浮かぶ丸い月を見上げて嬉しそうにその口元を綻ばせた。



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5/4 後日談という名の蛇足

「なンじゃこりゃあああああっ!!」

 

 昼下がりの博麗神社に霊夢の絶叫がこだました。

 そのプルプルと小刻みに震える手元に握られているのは文々。新聞。

 霊夢の視線はその新聞に書かれた、とある記事に釘付けになっていた。

 

 紙面にはデカデカとこんな見出しが躍っている。

『上司と部下のいけない密会!? 深夜の三途の川で記者は見た!

 今宵は白黒はっきりつけるまで寝かせませんよ?

 四季映姫女史の意味深発言の真相はいかに!?』

 

 そして、そんな見出しと一緒に紙面を飾るのは、仲良くオセロに興じる四季映姫と小野塚小町の写真である。ふたりは実に仲睦まじそうであるが、しかし、この記事はどう見ても黒判定だろう。JARO的に考えて。

 だが、そんな記事のことはどうでも良い。こまえーき派としては詳細を希望したいところかも知れないが、少なくとも霊夢にとってはどうでも良かった。それよりも目下、問題視しなければならないのは、申し訳程度に紙面の片隅に小さく書かれた、このとある記事である。

 

『博麗霊夢氏、奇跡の復活!』

 先日、当新聞の号外にて死亡が報道された博麗霊夢氏であるが、奇跡的に一命を取り留めていたことがその後の記者の調べで判明した。この奇跡の生還劇に関して、訳知り顔の鬼人正邪氏はこう語る。

「こいつは私の力のお陰だ。私の反転する能力で、あのクソ巫女様の生と死を引っくり返したのさ。つまり、私はあのクソ巫女様の命の恩人、ひいては幻想郷の救世主ってことだ。幻想郷で偉そうにふんぞり返ってる、クソ賢者の皆様におかれましては、精々、私に平伏して大いに感謝するこったな! ギャハハハハッ!!」

 真偽は定かではないものの、そう語ると鬼人正邪氏は勝ち誇ったように高笑いを上げた。それにしてもこの天邪鬼、ノリノリである。その後、この憐れな天邪鬼はスキマから現れた妖怪の賢者によって、あえなく御用となった。これには思わず、鴉天狗もガッツポーズ。

 

 ――あのバカ鴉! 真偽も何も結局、アンタの早とちりが全ての元凶じゃないの!

 霊夢は激怒した。必ず、あの捏造記者の鴉天狗をしばき倒さなければならぬと決意した。霊夢は大きく振りかぶると、手にした新聞を地面に全力投球で投げ捨て、死体蹴りをするかの如く、怒りと憎しみを込めて何度もそれを足蹴にする。

 

 すると、そんな霊夢の所行を偶然にも目に留めてしまい、戦慄して身を震わせる妖怪がふたり。そのふたりの顔からは完全に血の気が引いていた。

 

「……あら? アンタ達は」

 

 鳥居の方から何者かの視線を感じ、霊夢は訝しげにそちらへ振り向いた。彼女の視線の先には見知った妖怪がふたり、引きつった笑みを浮かべて凝然と佇んでいた。

 

「ふぉっふぉっふぉ。儂じゃよ」

 

 そう言って二ツ岩マミゾウは愛想笑いを浮かべながら、まるで地雷原を歩くかの如く、恐る恐るといった慎重な足取りで霊夢のもとへ歩み寄ってきた。その背後には、マミゾウの背に隠れるようにしてチラチラと霊夢を窺う、封獣ぬえの姿もあった。

 

「これはまた、随分と珍しい顔が来たわね。今日は一体、どうしたの? もしかして私に何か用事かしら? それとも妖怪寺に飽きて、神道に改宗する気にでもなった? 因みに素敵な賽銭箱ならあそこよ」

 

 霊夢が冗談めかして、気さくな感じにそう話し掛ける。すると途端にマミゾウとぬえはビクッと肩を跳ね上がらせた。その普段の彼女達らしからぬ、妙におどおどした態度に霊夢は眉間に皺を寄せて不審な思いをあらわにした。

 

「実は……先の騒動に関して、儂なりにけじめをつけようと思ってじゃな。これ、こうして馳せ参じた次第なのじゃよ」

「先の騒動……? それってもしかして、先日のあれのことかしら? そう言えば、あの時、アンタ達の姿を見掛けなかったわね」

「う、うむ、あの時は諸々の事情があってな、顔を出せなかったんじゃよ。まあ、それはさておき――今日はお前さんに謝罪をする為に来たのじゃ」

 

 謝罪――その言葉に霊夢は怪訝そうに小首を傾げた。と言うのも、マミゾウから謝罪をされる謂れなど、霊夢にはとんと見当がつかなかったからだ。

 だが、マミゾウはそんな霊夢の心情などはお構いなしである。足元に転がっていた小石をそっと拾い上げ、不思議そうな顔をする霊夢に目配せをすると、やがて、ぎこちない笑みを浮かべて重い口を開いた。

 

「まずは論より証拠じゃな。ほれ、ここに小石があるじゃろ? こいつに儂の化かす能力でちょちょいと細工を加えると――あら不思議、ただの小石が金子に早変わりという訳じゃ。お前さん、こいつを見てどう思う?」

 

 霊夢はマミゾウの掌に乗った金――もとい、元はただの小石だった物を『――だから何?』とでも言わんばかりの目付きで眺めた。マミゾウが何を言わんとしてるのか、その意図がよく分からなかったからだ。

 

「ふむ……これだけでは分からぬか。今代の博麗の巫女は勘が異様に鋭いと、そう聞き及んでおったのじゃがな」

「流石にそれだけを見せられて、全てを察しろってのは、傲慢な言い分じゃないかしら?」

「……そうじゃな。うむ。いまのは儂が悪かった。ならば、もう少し踏み込んだ話をするぞい。……お前さん。身近で最近、金に纏わることで何か異常があったりはしなかったかのう?」

 

 マミゾウからそう問われ、霊夢は怪訝な表情を浮かべて考え込んだ。

 金に纏わる異常と訊かれて直ぐに思い至るのは、先日、一夜にして夢のように儚く消え失せてしまった賽銭箱の大金のことである。魔理沙の弁によると、あのお金は全て、大量の酒と食料に変わってしまったという。しかし、そのことがマミゾウとなんの関係があるのだろうか。

 と、そんなようなことを考えながら、霊夢はマミゾウの顔と掌を何度も交互に見やった。そして――ようやくとハッとあることに気付き、神妙な顔付きで喉をゴクリと鳴らした。

 

「あ、アンタ……まさかとは思うけど、あの賽銭箱の大金は自分の仕業だった、とか言うんじゃないでしょうねえ?」

 

 霊夢が震えそうになる声でそう訊くと――マミゾウは光の速さで土下座を敢行した。更には。普段はふてぶてしいまでにその存在を主張するマミゾウの大きな尻尾も、主の態度に倣ってか、シュンとしたように地べたに平伏した。

 

「すまぬ! ちょっとした悪戯心だったんじゃ! それがよもや、あんな騒動に発展するとは儂も思わなんだ……。これ、この通り、誠心誠意謝罪するぞい! だから平に! 平にご容赦を!」

 

 霊夢は驚愕のあまりに目を丸くして、目の前の光景にすっかりと言葉をなくした。

 あの佐渡の団三郎狸として高名であるマミゾウが。二ツ岩大明神との別称がある、あの大妖怪のマミゾウが平身低頭して許しを乞いている。有り体に言って、これは異様な光景と言っても過言ではない。

 私は本当、周囲の連中からどんな人間だと思われてるんだろう?――再度、そんな疑問が脳裏を過り、周りから受けている自分の印象について、若干の不安を覚えた霊夢は思わず、その口を苦々しく引きつらせた。

 

 すると、それまで一言も発していなかったぬえが、霊夢とマミゾウの間に突如として割って入り、マミゾウを庇うようにその両手を広げて、必死な形相で声を荒げた。

 

「霊夢、これは違うんだ! 私がマミゾウを唆したんだよ! 博麗神社の賽銭箱に悪戯をしようって……そしたら、あの貧乏巫女のことだから、さぞかし最高のリアクションをしてくれるだろうって。だから、マミゾウは何も悪くない、悪いのは全部、マミゾウを唆した私なんだよ。だから……だから、マミゾウのことはどうか許してやってよ!」

「おいちょっと待て。その貧乏巫女ってのは誰のことよ!?」

「……ぬえ、お前さんの気持ちは嬉しいが。実際に行動に移したのは飽くまでも儂の意思じゃよ。じゃから例え、儂が霊夢に惨たらしく殺されようとも、それは当然の報いなのじゃ」

 

 ぬえは酷く歪んだ悲しそうな顔をして、地面に平伏しているマミゾウにすがり付くと「ごめんなさい……ごめんなさい」と何度も謝罪の言葉を口にして、子供のようにわんわんと泣き始めた。マミゾウはそんなぬえの背中を子供をあやすように優しくさすった。

 

 一方、この状況に霊夢はすっかりと困り果てていた。普通ならば、賽銭箱に悪戯をされたのだから、ここは神社を管理する巫女として怒るべき場面である。だが、霊夢はどうにも怒る気になれなかった。

 確かにマミゾウ達の悪戯から、あのような騒動に発展して、霊夢が迷惑を被ったのは事実である。しかし、あの騒動がなければ、決して気付くことが出来なかった、決して得ることが出来なかった、大事な何かがあったのもまた事実であった。

 故にそう考えると霊夢はマミゾウ達のしたことを怒ろうにも怒る気にはなれなかった。

 

「ふたりとも、顔……上げなさいよ。アンタ達にそんな態度を取られたんじゃあ、気味が悪くて仕方ないわ。というか、私のことをなんだと思ってるのよ、アンタら」

 

 霊夢からそう促されて、ふたりは怖じ気と共に重々しくその顔を上げた。

 見ると、霊夢は腰に両手を添え、仕方ない奴らだ――と言わんばかりに呆れ果てた顔で苦笑を浮かべていた。そこから怒りの色は微塵も感じ取れない。

 

「まったく、どいつもこいつも。どうして私の周りにいる連中ってのは、こうも馬鹿な奴ばかりなのかしらね。ホント、どうしようもない連中だわ」

「すまぬ! 儂の口からはもう、ただただ、それしか言えぬが――とにかく、お前さんにはすまぬことをした!」

「別に……もう良いわよ。アンタ達も随分と反省してるようだし、今回だけは特別に許して上げるわ。これに懲りたら、もう安易に神社に悪戯なんてしないことね」

 

 霊夢からそう言われた途端、ふたりの顔がパーっと明るくなる。

 ぬえは思わずマミゾウの手を取り、「良かった……良かった!」と嬉しさと安堵の混じった声を上げ、すっかりと涙で充血した目を細めて笑みを浮かべた。

 一方でマミゾウは『本当に許してくれるのか?』といった意味を込めた瞳で霊夢を見やる。それに対して霊夢が肯定を意味する頷きで応答すると、ようやくとマミゾウも心底安堵したのか、腹の底に溜まった悪い物を吐き出すように深く長い溜息を吐いた。

 

「ふぉっふぉっふぉ。お前さんには感謝するぞい。まさか、こうもあっさりと許しを得るとは思わなんだ。うむ。これはひとつ、儂の借りじゃな。なんぞ、お前さんに困りごとがあったら、儂のところを訪ねるが良いぞ」

「ありがとう霊夢! いやー悪戯をした相手が霊夢で助かった! これがもしも聖が相手だったら、私達はいま頃、命蓮寺の庭を彩る、愉快なオブジェになってたところだよ!」

 

 そうして霊夢の許しを得たマミゾウとぬえのふたりは、感謝と謝罪の言葉を何度も口にしながら博麗神社を去って行き、神社には再び、霊夢ひとりだけとなった。

 そんな霊夢の手には、先刻までは確かに金であった、一粒の小石が握り締められている。なんとはなく記念にと思って、帰り際のマミゾウから譲り受けたのだ。

 

「やれやれ。なんだかんだ色々とあったけど、これでようやく、今回の一件も本当にめでたしメデタシってところかしらね」

 

 霊夢は溜息混じりにそう口にすると、不意に先日の騒動を思い返して、フフっと笑いを零した。今回の騒動は決して、一生涯忘れることはないだろうと霊夢は確信した。いや。忘れようとも忘れられないのが実際だ。それだけ、かけがえのないモノを得た事件であった。

 やがて、霊夢は手にした小石を眺めながら――これからは前よりも少しだけ、魔理沙達に優しく接して上げよう――と、満面の笑みを浮かべてそんなことを思った。

 

 

 

 こうしてマミゾウ達の悪戯から端を発した騒動は一応の終結を迎えた。

 ふと冷静に先の騒動を振り返ってみれば、馬鹿馬鹿しいの一言ではあるものの、それでも最終的には全てが丸く収まったのだから、正に終わり良ければ全て良しと言えるだろう。

 霊夢が言うように――これでようやく、めでたしメデタシである。

 

 

 

 と、そう思っていたら大きな間違いだ。

 実のところ、先の騒動はまだ完全に終わりを迎えていなかった。

 

 

 

 先日の騒動に絡んだ、最後の訪問者達がぞろぞろと博麗神社に結集した。

 霊夢は彼等の顔に見覚えがあった。彼等はそう――人里で商いを営んでいる者達である。それも厳密に言えば、主に酒と食料を取り扱っている商人達であった。

 見ると、彼等の表情は一様に険しく、その目には怒りの炎がたぎっていた。また、奇妙なことに彼等は全員、大量の小石を両手で懐に抱え込んでいた。

 

 霊夢は何事かと不思議に思った。彼等は何をそんなに怒っているのだろうと。何故、彼等は小石なんぞを後生大事そうに抱え込んでいるのだろうと。

 だが、元来より勘の鋭い霊夢は彼等が懐に抱えた小石を見て、直ぐさま、全てを理解して悟り――そういうことかと暢気に頷いた。しかし、頷いた後で今度はことの重大性を認識するに至り、嫌な予感と怖じ気によって背筋が凍りつき、額から大量の脂汗を流し始めた。

 

「や、やっぱり……あいつら全員、後で絶対にしばき倒す……!」

 

 霊夢は膝をガクガクと震わせながら、そんな怨嗟のこもった呟きを発すると、人里の商人達が怒り心頭にして詰め寄ってくる中――また泡を吹いて倒れてしまったそうな。

 

 

 

 ご愁傷様です、霊夢さん(完)。




ここまで読んで頂き、誠にありがとう御座います。
評価やお気に入りをしてくれた方々も本当にありがとう御座います。
これにて本作は無事に完結を迎えました。

それではまた。
ご縁が有りましたら、次回作でお会いしましょう。
……ちなみに作者はレイサナ派です。


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