原作の裏側で。 (clp)
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それゆえに一色いろはは画策し、このように由比ヶ浜結衣は受け止める。

本話は原作12巻p.203〜p.206を、一人称・由比ヶ浜視点で見たお話です。
既刊の内容に加えて、「やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。続」付属のOVAネタもありますのでご注意下さい。



「……なぜ、そうまでしてプロムをやりたいの?」

 

 急に口を開いたゆきのんの声が、静かにしっかりと、部室の中に広がって消えた。尋ねられたいろはちゃんもビックリしたのか、すぐには答えられないみたい。驚いたのはあたしも、それからヒッキーも同じ。さっきまで、いろはちゃんを何て言って説得しようか考えてたはずのヒッキーは、それをすっかり忘れてゆきのんを見つめている。

 

 そこまで確認してから、あたしもゆきのんを見る。さっきの問いかけを聞いた時に、独り言みたいな口調だなって思ったのは、やっぱり間違いじゃなかったみたい。顔はいろはちゃんに向けてるけど、意識の半分ぐらいは他のことに向いてる気がする。

 

 

 あの時と同じだなってあたしは思う。バレンタインデーの夜、三人で修学旅行の話をしてた時。ゆきのんがぽそっとラーメンの話を出して、はっと気付いて黙り込んでる間に、ヒッキーがいつものように適当な話でごまかそうとしてた。

 

 同じクラスのあたしとじゃなくて、国際教養科のゆきのんと一緒にラーメンを食べに行くって、どんな成り行きだったんだろうなって思う。昼間はだいたい一緒にいたはずだし。けどたぶん、夜に二人だけでそんな話になるわけないし、平塚先生が関わっているんだろう。あたしでもすぐに答えが分かるくらい、二人には共通の知り合いがいないから。それが、少し羨ましい。

 

 

 繋がりが少なくても、偶然が味方になると強い。マラソン大会の後で、保健室で二人を見た時もそうだった。あの時、せめて二人に気付く前に保健室に入れたら良かったのに、あたしは入る前に気付いちゃった。だから、外から二人を眺めるしかなかった。でも、結局は同じなんだろうなって思う。あたしが来た時には既に二人きりだったんだから。

 

 どうしてだろう。あたしはこんなに頑張って自分から行動して、今日やっと教室から部室まで一緒に歩いて来られたばかりなのに。ゆきのんは何もしてないのに、ヒッキーとラーメンを食べたり保健室で二人きりになれたり。チョコを作ってた時も、床に落ちたボウルを同じタイミングで拾おうとして、二人で見つめ合ってた。あたしが知らないだけで、他に何があっても不思議じゃない。ゆきのんは……。

 

 ダメだ。これ以上は考えちゃダメだ。こんなことまでゆきのんのせいにしちゃダメだ。だって、あたしはもう……。

 

 

「……二年後の話よね?」

 

 いろはちゃんがプロムクイーンの話を持ち出して、苦し紛れに答えたものの、ゆきのんはすぐにそれを未来のことだと切り捨てる。いろはちゃんもそれは予想してたみたいで、時間稼ぎの言葉を続けながら、ゆきのんの真意を探ろうとしている。

 

 さっきいろはちゃんが「生徒会だけでやってみます」って言った時も思ったけど、いろはちゃんは本当に成長してるなって思う。こちらに仕事を丸投げすることもなくなったし、でも使えるなら使っちゃおうって感じで、こう言ったら失礼かもだけど生徒会長らしさが出て来た気がする。

 

 

「……あなたはクイーンに選ばれるわ」

 

 そんなことを考えていたら、いろはちゃんの「根回し」って言葉を聞いたゆきのんが、その必要はないって言い切った。いろはちゃんが二年後にクイーンに選ばれる可能性は確かに高いと思うけど、ゆきのんがここまで断言するのは少し意外だった。けど、あたしと同じようにゆきのんも、いろはちゃんの成長を認めてるんだなって確認できるのが、ちょっと嬉しい。

 

 でも、相変わらずゆきのんの意図が分からない。ゆきのんは何を知りたくて、こんな話を始めたんだろう。ヒッキーなら分かるかなって思って視線を動かしたら、俺にも分からんって顔をしたヒッキーと目が合った。少し安心して、みんなでゆきのんに「説明して」って視線を送る。

 

 

「今回必ずやらなければならない理由が……」

 

 ゆきのんは、それを説明して欲しいみたい。意識を完全にいろはちゃんに集中して、答えを待っている。いろはちゃんは、来年も「生徒会長をやってる保証はない」って言い訳を出して来たけど、それは通らないなってあたしでも思う。

 

 いろはちゃんは勘もいいし周りのことにはよく気が付くのに、自分のことには鈍いんだよね。自分をアピールするのはあんなにも上手いのに、他の人からどう思われてるのか分かってないなって時が多い。生徒会長に立候補させられた話を例に出すのは可哀想だけど、ゆきのんがちゃんと評価してるって、そろそろ気付いてもいいのに。でも意地悪みたいだけど、自分で気付いて欲しいから教えてはあげない。

 

 それに、自分のことに鈍いって言えばあたしも、それからヒッキーもゆきのんも同じだ。もしかしたらいろはちゃんより酷いかもしれない。そんなあたしたちが、いろはちゃんに何が言えるというのだろう。

 

 

「……能力も実績もあるあなたが勝つわ……」

 

 でも、いろはちゃんを褒めるゆきのんの鋭い口調を耳にして、あたしはやっとゆきのんの気持ちが分かった。

 

 たぶん、ゆきのんは悔しいんだ。いろはちゃんが順調に成長して、あたしたちに頼らなくても生徒会の仕事を自分でできるようになって。さっきもあたしたち奉仕部と、ヒッキーと対等な立場で話をして、協力を得られないって分かったら交渉の打ち切りを宣言した。そんないろはちゃんと自分を比較して、悔しがってるんだと思う。

 

 あたしもそうだけど、ゆきのんもヒッキーに引け目を感じている。でもどうしてもヒッキー抜きだと上手く行かなくて、結局はヒッキーを頼ってしまう。たぶん始まりは文化祭の時。そして決定的だったのが修学旅行の時。あの竹林で「ああいうの、やだ」って言ったあたしは、でも自分だけだと何もできなくて、全てが終わった後でヒッキーに「お疲れさま」って言ってあげることしかできない。

 

 あたしたちが同じ部活で停滞してる間に、いろはちゃんはこんなにも成長している。もちろん総合的に見たら、ゆきのんがいろはちゃんに劣ってるってことはないと思う。でもそんなことで勝ってもゆきのんは嬉しくないんだろうな。それよりも、ヒッキーと対等じゃないっていう、そこで劣っているのが悔しいんだと思う。それはあたしも同じだから。

 

 

「……来年以降でも」

「それはだめです」

 

 そう勧めようとしたゆきのんを遮って、いろはちゃんが迷いのない声で却下する。そっか、と思う。あたしは、いろはちゃんがゆきのんの真意を探ろうとしてるんだって思ってたけど、逆だ。ゆきのんが、いろはちゃんの真意を探ろうとしてたんだ。

 

 さっきまでのあたしたちは、いろはちゃんにどうやって諦めさせるかを考えてたし、ゆきのんが話し出してからはゆきのんの意図を探ろうとしてたけど。そもそもは、いろはちゃんのプロムへのこだわりがスタートだ。いろはちゃんにとっては、ゆきのんの意図を知るよりも、自分の意図を隠すほうが大事だったみたい。

 

 でも、ゆきのんにここまで追求されたら、いろはちゃんも話すしかないよね。どんな理由なのかなって、あたしも聞くのが楽しみだった。今日この場で、あの宣言を聞くことになるまでは。

 

 

「来年……たぶん無理……次の一手のための布石を……」

 

 ごまかすために返事をしていたさっきまでとは違って、いろはちゃんの言葉からは身を切るような覚悟が伝わって来る。でもあたしには、いろはちゃんが結局なにを言いたいのかが分からない。

 

 ゆきのんは静かにいろはちゃんを見据えている。ヒッキーは、いろはちゃんのために今にも口を挟みたそうにしている。ちくっと胸の奥が痛んだけど、たぶんいろはちゃんはヒッキーの気配を感じ取ったんだと思う。ヒッキーが口を開く前に、自分の意図をはっきりと口に出した。

 

 

「……今始めれば間に合うかもしれないから」

 

 もしかしたら、いろはちゃんは今回も、あたしたちの後押しをしようとしてるのかも。今の奉仕部は、あたしたちだけだとどうしようもない状態になっている。それを変えるために、外から協力しようとしてくれてるのかも。この時は、そう思った。

 

 だって、フリーペーパーを作った時がそうだったから。いろはちゃんがヒッキーを強引に連れ出して、でもその取材だけじゃ足りないからって、あたしたちも三人で出かけることになって。あの時は意味が分からなかったけど、いろはちゃんは確かにこう言ったんだ。「ちゃんと参考になったみたいで良かったです」って。あたしたちが撮ってきた写真を見ながら。

 

 マラソン大会の時も同じ。隼人くんになかなか声をかけられなかった優美子に見せつけるように、いろはちゃんは声援を送った。隼人くんと、それからヒッキーに。あれで優美子も声を出すことができたし、あたしたちも応援の声を届けられた。

 

 チョコの時もいろはちゃんは、優美子やあたしたちに張り合うような行動をしてた。いろはちゃんがいなかったら、あたしたちの行動はもっと控え目なものにしかならなかっただろうし、そもそもイベントになってなかったと思う。

 

 

 どうしていろはちゃんは、あたしたちの背中を押すような行動をするんだろうって、ずっと考えてた。いろはちゃんが隼人くんを狙ってるのはみんな知ってるし、ヒッキーにちょっかいをかけてるのも知ってる。でも本当は、どっちも本気じゃないのかなって、ほんの少し期待してた。

 

 優美子のためにもって気持ちは、正直に言うとあんまりない。だって、隼人くんがどうにかならない限りは、いろはちゃんが本気だろうが遊びだろうが、状況は変わらないと思うから。だからこれは、あたしの利己的な願望だった。いろはちゃんが、ヒッキーにも隼人くんにも本気ではありませんように、って。

 

 でも、ずっと前から、あたしたちは気付いてたんだと思う。あたしもゆきのんも、いろはちゃんが何を考えてこんな行動を取っているのか、その理由に。でも分からないふりをして、いろはちゃんが状況を動かしてくれることに甘えて、ここまで来た。だから、罰があたったんだと思う。

 

 

「……何のために、誰のためにやるの?」

「……わたしのためです!」

 

 ゆきのんが決定的な質問を口にすると、いろはちゃんは今度こそゆきのんの意図を確かめようと、その言葉を頭の中で繰り返しているみたいだった。でも、ゆきのんもあたしも、やっと覚悟が決まったんだ。やっと、いろはちゃんの意思をはっきりと、受け止める準備ができたから。罰を受け入れるための、心の支度ができたから。

 

 たぶん、あたしの気配も感じ取ってくれたんだと思う。いろはちゃんはこの部屋にいる全員に言い聞かせるように、全ては自分のためだと、そう宣言した。つまり、いろはちゃんの行動は決して、あたしたちのためでは、ない。

 

 

 ゆきのんが少し戸惑っているのは、何のために、って部分の答えがなかったからだと思う。でも感覚で分かるよね。いろはちゃんは全てに答えてるって。

 

 いろはちゃんは、全部欲しいんだ。隼人くんもヒッキーも、それから二人を取り巻く環境も全て。だから、優美子やあたしたちが諦めて、二人から遠ざかって行くのを許さないし、二人がいろはちゃん以外とくっつくのも許せない。

 

 確信を持って言えるのは、あたしもそうだったから。あたしも全部が欲しかった。ヒッキーもゆきのんも奉仕部も、全部をひっくるめて貰えたらどんなにいいかって思ってた。でも、あたしの願いはもう叶わないから。ヒッキーの依頼とかち合ってしまうから。

 

 欲を出しすぎたら、報いを受ける。全部を望んだあたしは、それを得られなかったあたしは、全部を失うことになる。でも、それでもよかった。ダメだったら全部失うって分かってても、それでも全部が欲しかったんだから。あたしが勝負するタイミングは、あの時しかなかったから。

 

 

 いろはちゃんは本当に凄い。ゆきのんが望んで果たせていない状態に、ヒッキーと仕事で対等に話せる状態にまで成長して。そして、あたしが欲しかったものも望める状態にある。それを目の前で見せつけられるのが、あたしたちが受ける罰だ。

 

 でも、このままだと近いうちに、奉仕部が決定的に損なわれてしまうから。それはいろはちゃんが望む形じゃないから。だからいろはちゃんは、今回に賭けてるんだ。だから来年じゃダメなんだ。

 

 ゆきのんは、あたしたちはやっと、動くって決めたから。ゆきのんが「せめて、これだけはちゃんと言葉にして」って言った時に何を諦めたのか、ヒッキーは気付いていないと思う。ゆきのんのためにも、これだけは気付かないままでいて欲しい。

 

 でも、もしも。もしもヒッキーの依頼と、ゆきのんの依頼がかち合ってしまったら。その時は、あたしはヒッキーの味方をしようと思う。だって、ゆきのんはいつか、ヒッキーと対等になれると思うから。でもあたしは、たぶんどんなに時間が経っても、ヒッキーを助けることはできないから。

 

 だから、ヒッキーには絶対に秘密にして欲しいってゆきのんが言っても、後でヒッキーが後悔するようなら、あたしはそれをヒッキーに伝える。それが、ヒッキーのためにあたしができる、最後のことだと思うから。

 

 

「……答えてくれてありがとう」

 

 いろはちゃんの意図を完璧に理解して、ゆきのんが心底からの笑みを浮かべている。プロムに賛成したゆきのんは、成長の機会を得たって考えてるのだろう。見届けるだけでいいって言ってた以上、あたしにもヒッキーにも、できることは何もない。

 

 このまま上手く企画が進んで、ヒッキーに頼らなくても仕事が済んでしまうのが一番いい。けどあたしは、どうしてもそうなるとは思えなかった。ゆきのんのことを誰よりも信じてるのに、それ以上にあたしは、二人を結びつける偶然を信じている。

 

 

 目の前では、プロムに賛成してくれたゆきのんにいろはちゃんが抱きついている。それを見ながらあたしは、さっき想像した未来が確実に来るのを予感して、そっとため息を吐いた。

 

 息を吐きながら、あたしの耳がヒッキーの息づかいを捉える。あたしの偶然は、こんな風にしか働いてくれない。同時に息を吐くような偶然なんて、何の慰めにもならない。改めてそれを思い知らされて、もう一度ため息を吐きたくなるのを堪えて、あたしは何も分かっていないヒッキーの呟きに一言、返事を返した。

 




本話は、最新巻を読んだ私の「いろはす凄い」「ガハマさん切ない」という感想を、作品という形にしたものです。
解釈に異論はあるかと思いますが、それも含め感想をお気軽に頂けると嬉しいです。

またいつか、本作を再利用できる機会があることを願いつつ。
長編も宜しくお願いします。


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悲しみは雪のように

本話では原作13巻終了後の雪ノ下の行動を書いてみました。
ネタバレ前提のお話になりますのでご注意下さい。



 部室にしっかりと鍵を掛けて。それを職員室に返却した私は、仕事の進捗を確認するために生徒会室に戻った。

 

 部屋に入るなり、こちらを見た一色さんが口を大きく開けて、身体ごと首を捻っていたけれど。すぐに「……あー」と呆れたような声を出して、その後は何も言わなかった。

 

 本牧くんと藤沢さんが何か言いたげな顔をしているのは、私の表情がさっきとは違って見えるからだろう。上目遣いでこちらを窺うのではなく、目を見開いている二人の様子から、私はきっと憑きものが落ちたかのような晴れやかな顔つきなのだろうなと思った。

 

 今日と明日は本牧くんの負担が大きいが、そこさえ乗り切れば一気に楽になる。バッファは多めに見積もっているので不測の事態にも対応できるし、保護者を説得する必要がなくなったので、私と一色さんは今日はもう仕事が無い。

 

 もっとも、それは予測していたことなのだけれど。

 

「プロムが実行できるようになったと、比企谷くんから報告があったわ」

「あ。それ、さっき先輩から聞きました。雪乃先輩がいないって知ったら、すぐに出て行っちゃって」

「そう。それなら詳しく話す必要はなさそうね」

 

 母が高校を訪れる。それを都築から聞いたのは出掛ける間際だった。表門の近くで車を洗いながら「今日の放課後です」と付け加えてくれて。母のことだから、きっと今日動くとは思っていたけれど、時間までは読めなかったので助かった。いつ来るかと一日中身構えるのは疲れるし、放課後なら段取りを調えられるからだ。

 

 おかげで時間を見計らってあの教室に移動して、あの場所で終わらせることができた。予想以上に早かったので、部室に直行したのかと思っていたが。ここに寄ってから来たのなら、逆算すると母との対話を短時間で切り抜けたということだ。大したものだと心から思う。それに。

 

「思った通りには動いてくれないわね」

 

 続く言葉が、思わず口から漏れていた。

 

「えっ、と……。先輩がどうにかするんじゃないかって、考えてたんじゃないんですか?」

「ええ、そうよ。でも具体的な行動までは読めないから。上手く事が収まって助かったわ」

 

 こちらでも保護者対策を怠っていたつもりはない。なのに一色さんがそれに言及しなかったのは、きっと彼が決着をつけると信頼していたからだろう。私と同じように。

 

 

 でも申し訳ないのだけれど、私が思い描いている行動はそれではない。

 

 一緒に過ごす時間が居心地いいって思える、そんな相手との関係を終わらせる。それは私にとって初めてでわからないことだらけで。だから私はかつての再現を図った。

 

 あれは去年の六月、由比ヶ浜さんの誕生日のこと。久しぶりに部室に来てくれたのに、事故のことで彼と意見が合わなくて。諦めようとして無理に明るい声を出す彼女と、諦めることで肩の荷を下ろそうとした彼に向かって、私は声を掛けた。

 

 開け放たれた窓から潮風が吹き込むのを感じながら、夕陽を背にして。

 

 つい今しがた私が背負った斜陽を、彼は覚えていてくれるだろうか。海の果てに消える直前、ほんのひと時だけ、陽の満ちるあの部屋で。一緒に何度も目にしたはずのあの夕陽、あの夕景、あの夕暮れを。

 

 あのまま話を続けられれば良かったのだけれど、彼は椅子を勧めてきた。せっかく六月と同じように、肩にかかった髪を払ってから話し始めたのに。「二人は等しく被害者で、すべての原因は加害者に求められるべき」と言って見えない線を引いた、あの日の再現を目論んでいたのに。

 

 でも、無事に事が済んで本当に良かった。

 

 今もなお面と向かって事故の話ができていない。文化祭の最後に、「今はあなたを知っている」と言って曖昧な形で済ませただけ。そんな紛い物でしかない私とは違って、あの二人は本物だと思うから。

 

「今日の仕事が無くなってしまったので、私は先に帰らせて貰うわね。仕事の割り振りの修正だけはしておくから、本牧くんも安心してくれて良いわよ」

 

 私の意図が読めなくて困惑しているのが伝わってきたので、そう告げた。曖昧に頷いている三人の間を抜けて、ホワイトボードに仕事の分担を書き終えて。

 

「では、お先に失礼するわね」

 

 おそらく私は、今までよりもずっと元気そうで、やる気いっぱいって感じで、どこか楽しそうにすら見えるのだろう。

 

 人前で泣いてしまわないようにと、ひそかに身構えていたのに。

 私はぜんぜん、泣くような気分ではなかった。

 

 

***

 

 

 自宅に戻ると、母はまだ帰っていなかった。「一緒に車で帰るように」という連絡が来なかったので、他にも用事があるのだろうとは思っていたけれど。何となく「出迎えられるのではないか」という予感があったので、不在と聞いて首を傾げてしまった。

 

 自室で手早く私服に着替えて、私は逃げるようにリビングに戻った。お手伝いさんに温かいお茶をお願いして席に着く。

 

 言い訳がましく「帰り道で思ったよりも冷えたので」と口にしたものの、理由は分かっている。マンションから自宅に戻って以来、開けたことのない段ボール箱。ウォークインクローゼットの奥に仕舞い込んだそれと同じ空間には、居たくないと思ってしまったからだ。

 

 あの中には、記念写真とぬいぐるみが入っている。写真はアトラクションの最後に貰ったもの。ぬいぐるみは彼に貰ったもの。何度も行ったディスティニィーランドも、初めて行ったららぽーとも、今となっては彼と過ごした記憶だけが大きくなり過ぎて、でも不思議とつらくはない。ただ距離を置きたいだけというのが正直なところだ。

 

 もしも、あの写真を由比ヶ浜さんに見られていたら。

 

 三人で過ごしたバレンタインデーの夜に、由比ヶ浜さんが荷物の片づけを手伝ってくれた。急にそんな話になったので、ぬいぐるみの裏に写真を隠すぐらいしかできなかったのだけれど。私が段ボール箱やゴミ袋の用意をしている間に、由比ヶ浜さんに見られていないという保証は無い。

 

 でも何も言われなかったから、きっと見られてはいないのだろう。

 

 たとえ冗談っぽくからかわれても。もしも応援の言葉を伝えられても。彼女の気持ちを知っている私は、上手く反応できなかっただろう。たぶん否定するしかできなくて、その話を続けることを拒絶して、それっきりで終わっていたのだろう。

 

 自分に都合のいい仮定をどれほど重ねても、結論は同じ。私が偽物である以上は、この現状以外に行き着く先は無い。それなのに頭の中では由比ヶ浜さんを便利に動かして、今とは違う未来が無かったのかと考えてしまう。ずるいのも、捻くれているのも、私のほうだ。

 

 

「今日はお父様が会合で、陽乃ちゃんはマンションに帰るみたいですね。お母様と二人分を用意していますよ」

 

 お茶を運んできたお手伝いさんにそう言われて、母の用事を悟った。

 

 年明けに母が彼と顔を合わせた時に、姉からこっそり「比企谷くんの名前は出してないからねー」と耳打ちされた。さすがに今日は名乗らざるを得なかっただろうから、その件で姉にお灸を据えに行ったのだろう。自宅に連行しないのは、せめてもの情けということか。

 

 二人の会話を想像すると、思わずくすっと笑いが出て。

 

「おや、何か良いことでもありましたか。雪乃ちゃんが楽しそうな顔を見せてくれると、おばちゃんも若い頃を思い出して元気が出ますよ」

「おばさんはまだまだ若いじゃない。それにもう高校生なのだから、そろそろ雪乃ちゃんはやめて欲しいのだけれど」

「おばちゃんから見れば、雪乃ちゃんも陽乃ちゃんもまだまだ子供ですよ」

 

 私が幼かった頃からずっとここで働いているので、そう言われると反論しにくい。ちょっとむくれてみたものの、ニコニコとした顔を向けられるとそれも長くは続かない。ふっと息を吐いて、普段どおりに過ごせている自分に胸をなで下ろす。

 

「姉さんなんて、私と一緒にいただけの男の子を威嚇するんだから。困ったものよね」

「それだけ雪乃ちゃんを大事に想ってるんですよ」

 

 あれも確か、ららぽーとでの出来事だった。彼の苗字を聞いて、事故を理由に私に付きまとっているのではないかと危惧したのだろう。彼の爪先からてっぺんまでを観察して軽く殺気を放った姉さんは、その後も言葉の端々で警告を伝えていた。

 

 あの時の彼は何も知らなかったので、まるで通じていなかったのだけれど。今になって思い返すと可笑しくなってくる。

 

 私が頬を緩めていると、お手伝いさんのスマートフォンが音をたてた。

 

「あ、都築からですね。……あと十五分ほどで戻られるそうですよ。おばちゃんは料理の支度に戻りますが、雪乃ちゃんはどうしますか?」

「中途半端な時間だし、ここで本でも読んでいるわ。棚の上に出ている文庫本は……今日はサガンを読んでいたのね?」

「あれを十八歳で書けるなんて、凄いですよねえ」

 

 そう言い残してキッチンに消えるお手伝いさんを見送って、私は話題の本を手に取った。

 

 

***

 

 

 都築が伝えたとおり、きっちり十五分後に母が帰ってきた。

 

 リビングに現れた母は、本を置いて立ち上がろうとした私を制すると「すぐに着替えて戻って来るから、そのまま本を読んでいなさい」と言って出て行った。私に「おかえり」を言わせないほどの早業だ。相当に機嫌が良いと見て間違いないだろう。

 

 本に集中できないでいると、母の足音が聞こえたので文庫を書棚に戻した。

 

「面白い男の子だったわ」

「ええ、そうね」

 

 夕食の準備を命じた母は私の向かいの席に腰を落ち着けて、開口一番そう告げた。苦笑しながらそれに応じると。

 

「陽乃もあなたも、私には秘密にしていたのね。害のない性格だから良かったものの……でもそうね。あなたたちも、そろそろ人の見極めができ始める頃かもしれないわね」

「まだまだ子供だと自覚しているから大丈夫よ。それで、彼は何と言って母さんを説得したの?」

 

 お手伝いさんとの会話を思い出しながら私がそう言うと、母は「あらあら」とでも言いたげに手で口を覆って。

 

「私に保護者の皆さんを説得して欲しいと言って、名前を口にしただけよ」

「そう。……なるほど、彼らしいやり方ね」

 

 その時の光景が目に浮かぶようだ。

 

 やはり彼は最後まで自分のやり方を貫いたのだと。そう考えながら一つ頷いて、私は過去の発言を振り返った。あんなにも「嫌い」だと思ったあの日の彼のやり方も、今は何故だか気にならない。あの時の彼の気持ちが、そして私の気持ちが、今ようやく理解できた気がした。

 

「損な性格をしているのね。うちの会社に入らせて、物言わぬ歯車として使い潰すのも良いかもしれないわね」

「その扱いが似合いすぎて、反論する気が起きないのだけれど」

 

 思わずふっと息を漏らした私に向かって、母は。

 

「……大した胆力だこと」

「残念ながら、今日の一件は私の差し金ではないのよ。その言葉は彼に言ってあげて」

「もう言ったわよ。そう……、彼が……」

「でも、そうね。彼にはもう特別な存在がいるのだから。変なちょっかいを掛けないで欲しいのだけれど」

 

 彼の評価を見直している母に、一つ釘を刺しておく。私にはこれぐらいしかできないけれど、少しは効果があるだろう。

 

「ああ、そういうこと。たぶんあの娘ね。残念だわ、せっかく『また会いましょう』と伝えたのに」

「彼はきっと、母さんとは二度と会いたくないと思っているはずよ」

 

 心底から面倒くさそうな表情を浮かべる彼の姿を連想して、変な声が出そうになった。なんとか堪えて、今の私は昨日までと同じ私だと、そう実感する。

 

「ところで、雪乃。今日の勉強は?」

「プロムが実施と決まって仕事が無くなったので、先に済ませてしまったわ。今晩はゆっくり過ごそうと思っているのだけれど?」

 

 嘘ではないけれど、正確には少し違う。今日の展開を見越して、昨日のうちに片づけておいたのだ。今日は勉強なんて手につかないだろうと、そう思っていたから。こんなに平然としていられるとは、思ってもいなかったから。

 

 痛ければ痛いほど、選んだ答えが本物だと信じることができる。そう思っていたけれど、現実は逆。痛みを感じていない私は、やはり偽物だったということだ。

 

 そこまで考えて意識を戻すと、慈しむような視線と出くわした。お手伝いさんが料理を並べながら、いたわるような表情で私に頷きかけてくれていた。さっき「元気が出る」と言ってくれた表情でそれに応えたいと思った私は、くすっと小さく笑った。

 

「では、温かいうちに頂きましょう。雪乃、食べ終わったらオーディオルームを使っても良いわよ。十一時まではあなたに鍵を預けるから、好きになさい」

「母さんがそんなことを言うなんて珍しいわね。じゃあ、おやすみの挨拶の時に鍵を返すわ」

 

 なんだか普通の母娘みたいな会話だなと。そう思ってまた小さく笑った私は、湯気を上げている料理に向かって軽く手を合わせた。そしてお箸を手にとって、食事に意識を集中する。

 

 

***

 

 

 父が設計したこの家には防音の部屋が二つある。一つはプレイルームと呼ばれていて、リビングに隣接している。もう一つはオーディオルームと呼ばれていて、リビングや私たちの部屋からは離れた位置にある。

 

 プレイルームとリビングを隔てる壁には大きなガラスが取り付けられていて、中の様子が一目で分かる。その名のとおり楽器を演奏するために作られた部屋で、かつて私もバイオリンやサックス、ギターやドラムスの練習をしたものだった。ドアを開ければリビングにも音が伝わるので、友人を招いてパーティーをするのに便利だと父が誇らしげに語っていたのを覚えている。

 

 私が文化祭で由比ヶ浜さんと一緒に演奏できたのは、この部屋で過ごした時間のおかげだ。

 

 一方のオーディオルームは純粋に音楽を聴くためだけの部屋だ。壁の位置や素材からコンセントの種類に至るまで父が徹底的に拘って作ったので確かに音は良いのだけれど、レコードやCDの収納部屋に行くにはいったん廊下に出る必要があるなど利便性に問題がある。各部屋で気軽に音楽が聴ける今となっては、少し持て余し気味なのが正直なところだ。

 

 とはいえ楽曲に集中したい時には重宝するのも確かだし、実際に聴き始めると「この部屋に来たかいがあった」と実感させられる。それに手持ちのコレクションを全て、お弁当箱のような形をした小さなPCに取り込んでからは、音源を取りに部屋を出る必要もなくなった。子供の頃にレコードやCDの取り扱いを教えて貰ってわくわくしたのを覚えているが、便利な世の中になったものだ。

 

「でも……久しぶりにCDで聴こうかしら」

 

 今日は妙に昔を懐かしむ気持ちが強い。だからオーディオルームに入った私はそう呟いて、まずはL社のプリメインアンプの電源を入れた。まだ小さかった頃に「38」という文字の形を面白く感じて、それを指差して何度も笑い声を上げていたのを思い出す。この記憶をいつもは恥ずかしいと感じるのに、微笑ましいと思えてしまうのが我ながら不思議だ。

 

 ひととおり機器の電源を入れ終えて。少し悩んだ末に、真空管が温まるまではスマートフォンから音を飛ばすことにした。せっかくCDをかけるのだから最初から良い音で聴きたいと考えたのだ。

 

 選曲がてら適当に流してみようと考えて、ふと悪戯心が湧いた。こんな日には「悲しい曲」に浸るべきかもしれないと、そう思い付いて。この調子だと涙は一滴も出ないと思うのだけれど、人並みに泣けるものなら泣いてみたいものだと。この時の私はそう考えていた。

 

「じゃあ『悲しい曲』のプレイリストを探して……曲名に『悲し』が含まれている作品を集めたと書いてあるし、これで良いわね」

 

 

 思い付きで始めたことが意外と楽しかった。歌詞に茶々を入れながら、私は部屋に備え付けられたソファに深く腰を下ろして選曲を進める。

 

「今日のことなのに、あまり悲しいとは思えないのが不思議なものね。やりきれないとも思えないし。やるせないモヤモヤはあるけれど、限りないむなしさや、もえたぎる苦しさも私には無いわね。どちらかと言えば空疎な感があるのだけれど」

 

 一曲、また一曲と。

 

「悲しみの果てに何があるか、それを知らないと言えるのが良いわね。だって今の私も、そんなものを知らないで済むのなら知りたくもないと思うもの」

 

 スマートフォンで歌詞を眺めながら。

 

「思ったよりもポップな曲調が多いわね。それに愛や恋と言われても私にはわからない。断言できるのは、彼に彼女を会わせたことを私は今でも悔やんでいない。あのクッキーの依頼の時に彼女の気持ちを知ってから、二人の邪魔をしたいと考えたことは一度も無いわ。ただ、寂しいという気持ちがとまらないのは、理解できる気がするのだけれど」

 

 良いと思った何曲かをCDで聴き直そうと考えつつ。

 

「私には、『泣かないでひとりで』と言ってくれる人も『そばにいるから』と言ってくれる人もいなかった。それは小学生の時から分かっていたことだし、仕方がないわ。あの時に私が望んでいたのはもっと些細なことだったのに。私が一歩を踏み出す勇気さえ貰えれば、彼の目が誰を向いていても構わなかったのに。私を選ばず姉との仲を深めてくれたらそれで良かったのに。どうして男の子は、時に物事をものすごく大袈裟に捉えてしまうのだろう。彼が葛藤する姿なんて、私は見たくなかったのに」

 

 いつもと変わらぬ精神状態だと信じて疑わなかった。

 

「ずいぶんと明るい曲調ね。先程の曲と作曲者が同じなのが面白いわね。でももしも、涙が乾いた跡に夢への扉があるのだとしたら……涙が出ない私には無縁のことね」

 

 だから、気が付くのが遅れてしまった。

 

 不意に悲しみはやってくるのだと。

 

「どうして……急に涙が出るのかしら。どうして、悲しみと仲良くなってみせるだなんて、そんなことが言えるのかしら。私には、わからない。私にはできない。だって、こんなに痛いのに。胸だけじゃない。心だけじゃない。私の全部が、痛いくらいに悲鳴を上げてるのに。もういいって思っても、痛みがぜんぜん引いてくれないのに。どうして、どうしてそんなことができてしまうの?」

 

 ひとたび流れ始めた涙はもう止まらなかった。無意識にせき止めていた感情も溢れ出てきた。私はそれらを押しとどめることができなくて、何度もしゃくり上げながら曲が終わるのを待つしかなかった。選んだ答えが本物かどうかなんて、もうどうでも良かった。ただ、身体中に痛みだけがあった。

 

 そして、次の曲が始まる。

 

 最初は歌が頭に入って来なかった。名前を呼ばれた気がしたので、楽曲に意識を向けようとしたものの。愛と言われても私にはわからないから小さく首を振って、さっきの曲の歌詞を思い返していた。

 

 そうして一番と二番を聞き流して、いつの間にか大サビに入っていた。英語のコーラスが耳についたのは単なる偶然。でも後から思えば必然だった気がする。私はあなたのために泣き、あなたは彼のために、彼は彼女のために、そして彼女は私のために泣く。それはきっと私たちと同じだと思ったから。

 

 

 少し冷静さが戻った頭で、大半を聞き流したこの曲と一つ前の曲とをCDで聴き直そうと決めた。泣き顔を誰にも見られたくなかったので、少しだけ扉を開いてこっそり廊下を窺って。新たな涙が出て来ないことに安堵しながら、ミュージシャン別にあいうえお順に整理された収納棚から浜田省吾のベストアルバムを、コンピレーション盤を集めた棚から1986年の歌年鑑というアルバムを持ち出した。

 

 オーディオルームに戻って、まずはCDプレイヤーのトレイを開けてそれを手で触れた。塗料が加水分解を起こしてベトベトになっていないか、CDを載せる前に確認するのが習慣になっている。定期的にしっかり清掃しているので大丈夫だとは思うのだけれど、古い機種なので気は抜かない。

 

 音の良さという点ではすぐ横にある最新の機種に到底及ばないのだが、父が大事に使ってきたこのS社のプレイヤーが私は好きだった。右下に小さく「CDP-R3」と書かれているのをちらちらと眺めながら、この部屋で父に昔話をせがんでいた頃を思い出す。

 

 今はもう絶えて久しいけれど、家族そろってここで音楽を聴いていた時期があった。その頃の私は、じっと座って曲を聴くよりも他にしたいことがたくさんあったので、あまり楽しいとは思わなかったのだけれど。そうした集まりがなくなった今になって初めて、その価値が分かるというのも変な話だ。

 

 充分に温まった真空管アンプにそっと触れて、T社のスピーカーに視線を移した。どうしてStirlingと書いてスターリングと読むのか、納得できないでいた小さな私に「そう読むと決まっているからだ」の一点張りで応じた若き母の姿が目に浮かんで、思わず苦笑が漏れた。たとえ子供に対してでも、正面から挑まれると真っ向から相手をするのだから大したものだ。

 

 私に欠けていたのは、おそらくそうした部分なのだろう。もっと早くに正面から向き合っていれば、結果は変わらずとも気の持ちようが少しは違っていたのではないかと。今頃になってそう考えても詮無きことだ。

 

 

 コンピ盤のCDをケースから取り出して機械に呑み込ませた。食事の前に読んだ小説と同じタイトルの曲が何曲目なのかを確認して、それを指定してからソファに移動した。

 

 さっきは大丈夫だったのに、どうしてのっけから涙が出て来るのだろう。これでは先が思い遣られると、そう考えていたら、今度は急に涙が止まってしまった。歌詞を聴きながら、生徒会室で話をしていた時の私はおろしたての笑顔を身に付けていただけなのだと、そう納得できたのが原因だろうか。我がことながらよく分からない。

 

 前向きなはずのサビの歌詞を聴いて、再び涙が浮かんでくる。どうしてこの歌い手は、ここまでポジティブになれるのだろう。どうすれば悲しみを友達のように迎えられるのだろう。この心境に至るまでに、どれほどの時間が必要なのだろうか。

 

 でも、この別れはあなたのせいじゃないと考えるのは同感だ。彼との想い出があふれだして、それをどれほど悲しく感じても。いつか元気にそれと向き合える日まで、そっと大事に仕舞い込んでおこうと私は思った。

 

 そして曲は二番のサビに。この歌詞を聴くと反射的に涙が流れる。きっとこれは一生を通して変わらない、そんな予感がした。不意にやってくる悲しみと仲良くするなんて、どうしてそんな言葉を明るく口にできるのだろうか。あまつさえ約束とまで言い切るなんて。

 

 最後のサビの繰り返しは、何も考えずにただ聴くしかできなかった。私が生まれるずっと前の曲なので、今まで存在すら知らなかったのに。それが今日を境に、私にとって特別な作品へと変貌するのだから不思議なものだ。

 

 

 演奏を止めて涙も拭わずに立ち上がると、CDを丁寧に回収した。浜田省吾のアルバムをトレイに置いて、ソファに戻ってからリモコンを操作する。程なくして、先程はほとんど聞き逃してしまった曲が流れ始めた。

 

 私にはやっぱり愛というものが理解できないのだけれど。悲しみを知ることで誰かを愛せるようになるとは、確かにそのとおりかもしれない。でも、愛したいと想う人はもういない。孤独は駄目だと歌われても、じゃあ私は誰を愛すれば良いのだろう。

 

 友達を作るべきだとは思っていた。恋をする必要があるのも知っていた。そうした経験が私には絶対的に不足しているということも。でも「誰を?」という段階でいつも立ち止まりを余儀なくされて、そこから先には進めたためしがなかった。あの部活にあの二人が入ってくれるまでは。

 

 楽しかった。初めてだった。嬉しかった。でも私は、誰かに頼ってもいいってことすら知らなかったから。だから、どこかでまちがえてしまった。気が付けば私たちは、自分以外の誰かのために泣いているのに、その涙を人には見せないような関係を築いていた。この歌と同じだ。

 

 私が由比ヶ浜さんのために泣いて、由比ヶ浜さんが彼のために泣いて。だからこそ彼を私のために泣かせるわけにはいかない。そこで三角形が成立すると依存が確定してしまう。けれども彼が由比ヶ浜さんのために泣けば、健全な二人の関係が始まる。

 

 もしも由比ヶ浜さんが私のためにも泣いてくれるのなら、私たちは健全な関係を築けるだろう。彼女が彼を手伝っていると教えられたあの時に、勢いよく抱き付かれて「一緒にいる」と言ってくれたから。だから私は大丈夫。彼に助けて貰えたし、終わりにもできた。きっと私は大丈夫だ。

 

 でも、身近には大丈夫じゃない人もいる。怒りの中で子供の頃を生きてきて、今も誰一人として許せないでいる人が。その原因は私にあるのだから、姉さんは必ず、私が救わなければならない。

 

 たぶん彼もずっと気にしているのだろう。過去を悔いて、何かを妬んで。そしておそらく、彼は姉さんのためにずっと泣いてくれていた。

 

 姉さんが彼のために泣けるようになるかは私にも予測ができないのだけれど。できれば私以外の誰かのために、少なくとも自分のために泣けるようにはなって欲しい。独りで泣くのは恥ずべきことではないと、それを分かって貰えるだけでも状況は変わると思うから。

 

 二番のサビが終わってブリッジに入った。一番では私に、二番では姉さんに、サビでは私たちに呼びかけているように感じられたこの曲だが、ここの部分は彼のために歌っているのだという気がした。

 

 彼が望んだ本物は、もしかすると幻想(ゆめ)かもしれない。その実在を証明する方法はただ一つ、過ぎゆく時の中で審判を待つしかない。ついに偽物だと証明できなかったものだけに本物たる資格がある。なればこそ彼には、彼女を壊れるまで抱きしめて欲しい。きっと由比ヶ浜さんなら壊れないと思うから。彼女は偽物ではないと、死が二人を分かつまで証明し続けてくれるだろうから。

 

 だから私は、愛する人の前を意図的に通り過ぎていく。

 振り返ることは、もうしない。

 




明けましておめでとうございます。なぜか新年最初の更新がこの作品になりました。

13巻を読み終えた時から「誰もが他の誰かのためにって曲が昔あったよなあ」と、ずっともどかしく思っていたのですが。新年会でこの曲を耳にして「ああ、これだ」とスッキリしたので、その気持ちのままに書きました。

前話は「もしこうだったら切ないなあ」というお話でしたが、本話は原作そのままでも切ないですね。

では、また本作を再利用する機会がありましたら宜しくお願いします。


最後に、作中に登場した曲は以下の通りです。
 ザ・フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」(1968年)
 エレファントカシマシ「悲しみの果て」(1996年)
 杏里「悲しみがとまらない」(1983年)
 安全地帯「悲しみにさよなら」(1985年)
 斉藤由貴「悲しみよこんにちは」(1986年)
 浜田省吾「悲しみは雪のように」(1992年)


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ごちそうさまでした。

14巻の内容を前提とした5つの小話の詰め合わせです。
前話までとは少しノリが違いますが、完結祝いということで軽い気持ちで読み流して下さいませ。



1.○○雪

 

 気がつけば高校生活ももう残りわずか。

 色んなことがあったわねと感慨に耽りながら昇降口で靴を履き替えている雪ノ下の耳に、先に外に出た二人の声が聞こえてきた。

 

「わあーっ、雪っ。ゆきのん、雪っ。積もってる!」

「足跡とかぜんぜん無いですね~。これって何か名前とかついてませんでしたっけ?」

 

 由比ヶ浜は今にも校庭を駆け回りそうな口調で喜んでいて。

 一色はこてんと首を傾けながら、背後の二人に話題を振ってきた。

 

「あー、えっと……なんか言いにくいな」

「変なことを考えるからよ。一色さん、これは『処女雪』と言うのよ。誰も足を踏み入れていないという意味なのだけれど」

 

 微妙に顔を赤らめて口ごもっている八幡のすぐ横で、雪ノ下がやや得意げに答えると。

 

「処……わわわわわ」

「結衣先輩、ちょっと過剰反応じゃないですか?」

 

 後輩にすら呆れられるほど由比ヶ浜が動揺していた。

 くすっと笑みを浮かべて、気持ちを落ち着かせてあげようと考えながら口を開く。

 

「由比ヶ浜さん。そんなに慌てることはないでしょう?」

「だ、だって……」

「私たちの歳でヴァージンなのも、ヴァージンじゃ無いのも、特に珍しくはないと思うのだけれど?」

「そりゃそうかもしれないけどさ……えっ?」

「……へっ?」

「お、おい……」

 

 四人の間に何とも言えない空気が立ち込める。

 

「ね、ねえ。もしかして、ヒッキーとゆきのん……?」

「お二人は、もう……?」

「いや、その……」

「比企谷くん。誤解を与えるようなことは口にしないで欲しいのだけれど」

 

 自分のことは棚に上げて、隣の男が変なことを口走らぬように手の甲を思いっきり抓りあげる。

 たちまちすぐ横から絶叫が聞こえてきた。

 

「痛い痛い痛い。ちょっと。お願い。無理。これ絶対に無理。お願い、離して。痛いから。駄目、離して!」

「ななな……なんでそれを言っちゃうのよっ!?」

「……はー」

「……ほー」

 

 感情が死んでしまったかのように、二人の口から言葉にならないつぶやきが漏れる。

 とても目を合わせられないので、頬を染めた雪ノ下が遠くの空を眺めていると。

 

「あ、ママ。……うん。今日ゆきのんちでお泊まりになったから。……うん。何かあったらゆきのんの家に……うん、わかった。じゃあね」

 

 スマホを鞄にしまった由比ヶ浜が、満面の笑みを浮かべているのが目に入った。

 

「さ、ゆきのん。じゃあ行こっか。言っとくけど、ぜんぶ話してもらうまで帰らないからね」

「ひ、比企谷くん……?」

「すまん、俺にも無理だ。お前が何を喋っても不問にするから、あれだ。まあ、頑張れ」

「ほら、いろはちゃんも一緒に行くよ?」

「なんでわたしも……いえ、なんでもないです……」

 

 一面の銀世界に一人の足跡と二筋の線が描かれる。

 由比ヶ浜にずるずると引きずられながら、雪ノ下と一色は出荷される仔牛のような目で八幡を見ていた。

 いつまでも、いつまでも。

 

 

***

 

 

2.理由

 

「ども、川崎大志っす。受験が終わったから姉ちゃんと交替でけーちゃんのお迎えに行ってるっす!」

「大志、あんた誰に向かって喋ってんだい?」

 

 帰って来るなり飛びついてきた妹の京華をしっかりと抱き留めながら、かすかに首を傾げた川崎沙希が弟に問いかけると。

 

「あ、こっちの話。でさ、明日も俺が迎えに行くから……」

「だから受験って言っても一年先だし、あんたは遊んでればいいのに」

 

 このところ毎日、このやり取りを繰り返している。

 弟が気を使ってくれるのは嬉しいんだけどね、と心の中でつぶやきながら。はぁと大袈裟に息を吐いて、そのまま言葉を続けた。

 

「それにさ、最近って入学前からSNSとかで連絡を取りあうって聞いたよ。せっかくの高校生活なんだし、大志にはあたしみたいになって欲しくないからさ。だから明日のお迎えはあたしが行くよ」

 

 でも明後日は大志が行くって言い張るんだろうなと思いつつ、ひとまず話を切り上げようとしたところで弟と目が合った。

 

「姉ちゃんさ。その、あんまり他の人と過ごさなかったのを……後悔、してる?」

 

 神妙な顔つきで変なことを言い始めたので、ふっと笑い飛ばしてあげた。

 

「そんなわけないよ。たしかに大勢と過ごしたわけじゃないけどさ。数は少なくても一緒にいた連中とは付きあってて楽しかったし、あたしはそれでいいんだよ。でも大志はあたしより社交性があるでしょ。だから言ってんの。スタートで出遅れたら、三年なんてあっという間に過ぎちゃうよ」

 

 言い終えると同時に、靴も脱がないで玄関口で突っ立っている弟の頭をわしゃわしゃしてやった。また子供扱いして、とでも言いたげな膨れっ面を見せてくるので頬がほころぶ。

 

「ほら、早く上がって手を洗っておいで。それにしても、三年前って言えばけーちゃんがさ……」

「あー、三年前だと片足立ちとかできるようになって、姉ちゃんが……」

 

 妹の話を振るとすぐに乗ってくれるのでお互いに助かっている。そう考えながら話題を更に重ねようとしたところで、ふと気になったので。

 

「あれっ。三年前ってたしか、けーちゃんがチョコを作って……じゃないや。あれってもう四年以上前になるんだね」

「ぷっ。姉ちゃんやっぱり疲れてるんじゃないか。あれは今年の二月だろ?」

「えっ。そういえば、でも……あれっ?」

 

 川崎は不都合な真実に気がついた。

 ……川崎姉弟の出番が減った。

 

 

***

 

 

3.はひ腐腐腐

 

 体育祭を目前に控えた三年生の教室では、話し合いが白熱していた。

 

「最後のリレーだけどさ。アンカーに比企谷なんて意外と適任だと思うんだよね」

「あのなあ。そういう目立つ役回りはお前のほうが合ってるだろ?」

 

 進級してからは呼ばれ方も変わって、当初はむず痒い気持ちでいたのだけれど今やすっかり慣れてしまった。

 とはいえクラスも同じなら体育祭の組まで同じなんて、腐れ縁っぽくて嫌だなあと八幡が考えていると。

 

「でもさ。去年のマラソン大会でも折り返し地点までは俺と競ってただろ?」

「リレーと長距離は違うんじゃね?」

 

 こんなのを混同するとは葉山らしくないなと思いながら軽く返したその瞬間、猛烈に嫌な予感がした。

 

「たしかに競技は違うけどさ。比企谷がたまに見せる根性っていうか……()()()()ってやつは侮れないからさ」

「げほっ、げふっ……。お前、あれだよな。喧嘩売ってるよな。なら表に出ろ。走って勝負して俺が負けるからお前がアンカーな」

「俺は誰かさんとは違って、そんな()()()()には乗らないよ?」

「げはっ……。なあ、誰かからなんか聞いたのか?」

「さあね」

 

 もはや話し合いのことなどすっかり忘れて、冷ややかな目つきの男と腐った目をした男が仲良くいがみ合っている。

 そんな二人に向かって常人が口を挟めるわけもなく。

 つまり、口を挟めるとすればそれは常人では無いわけで。

 

「そういえば、私も聞いたことあるなー。比企谷くんってさ、意外と走るのが……()()()()()()()()()()()、って」

「ぐはあっ!」

「でも、自分からは()()()()がなかなか言えないんだよねー?」

「ぐふぅっ!」

「じゃ、アンカーは比企谷くんで決まりってことで。あ、みんな心配しなくてもさ。誰かさんが()()()()()だから、比企谷くんも頑張って()()を取ってくれると思うよ」

「ぐほぉっ!」

 

 腐った話題を出されるまでもなく、そしてどこから情報を得たのかと疑問に思う余裕もなく八幡は力尽きた。

 そんな感じで進級後は、葉山・比企谷・腐女子の三人がクラスの話題の中心になっているそうな。

 

 

***

 

 

4.ははははは

 

 母と並んで応接室を出て、静ちゃんに見送られて車の中に腰を下ろすと、知りたかったことを単刀直入に尋ねてみた。

 

「お母さんは、あれで良かったの?」

「ええ。あれで良いのよ」

「でもさ。合同プロムはどうでも良いけど、雪乃ちゃんの問題って……」

「都築。近くの海浜公園に行って頂戴」

「かしこまりました。ヨットハーバーの駐車場でお待ちしています」

「陽乃。話はそこで聞きますよ」

 

 出鼻を挫かれたと感じてしまった。

 でも、たしかに運転手に聞かせる話ではないけれど、都築は口が堅いし信頼できる。外で話すよりもよっぽど……などと考えていると。

 

「木を隠すなら森の中と言うでしょう。騒がしい場所のほうが内緒話には都合が良いのよ」

「うーん。気のせいか言い訳みたいに聞こえるんだけどなー」

 

 ここまで来たついでに、お気に入りのお店に寄り道したかっただけだなこれはと陽乃は思った。言っても無駄なので口に出す気は無いのだけれど。

 

 

 駐車場を出た母は迷いなくオーシャンテラスに足を向けると、一階のベーカリーカフェの前で立ち止まった。少しだけ辺りを検分して、海にいちばん近いソファー席にすいっと腰を落ち着ける。まだ少し肌寒さがあるものの、風が吹き抜けていくのが心地よい。

 

「じゃあ、適当に買ってくるね」

 

 母が自分から動かないのはいつものことなので、返事を待たずにカウンターに向かった。

 新商品のタピオカミルクティーとタピオカつぶつぶいちごミルクを両手に持って戻って来ると、閉じた扇子の先端を顎の辺りに触れさせながら所在なさげにお店の周りを窺っている母の姿が目に入った。

 

「どっちにする?」

「んー。……まいっか」

 

 ざっくばらんな口調でそうつぶやくと、母はミルクティーに手を伸ばした。

 そういえば、雪乃ちゃんが野菜生活100いちごヨーグルトミックスにご執心だった時期があったなと思い出しながら、わたしもいちごミルクを口に含んだ。

 

「雪乃はあれで良いのよ。相手の男の子は、陽乃が()()くれたのよね?」

「まあ、比企谷くんなら馬鹿な真似はしないと思うけどさ」

「そう。それ以外には問題がなかったのだし、なら良いじゃない」

「んーと……ああ、事故の時に調べたってことね?」

 

 母からの返事がないのは「何を今更」と言いたいからだろう。

 比企谷くんが入学式の直前にうちの車の前に飛び出して来たのは、もう二年近く前の話だ。その時に、変な言い掛かりをつけてくる親戚がいないか等の調査は完璧に済ませてあるというわけだ。

 

「真面目な仕事人間が多い家系ね。面白みは少ないけれど、そこの部分は彼のキャラクタで補って余りあるんじゃない?」

「そこはわたしも異論は無いなー。雪乃ちゃんには勿体ないかもね」

 

 仮に比企谷くんと親戚になったとして、雪ノ下家にとってはプラスにはならないけれどもマイナスにもならない。

 そして、家業を拡大させ政治の分野にも進出している今のわたしたちには、前者よりも後者の方が圧倒的に重要なのだ。

 そこで確証が得られているからこそ、先程の応接室でも母は成り行きを見守るだけで強いて動かなかったのだろう。

 

「強いて言えば、小町さんと言ったかしら。妹さんの相手が気になるところではあるのだけど……。ねえ陽乃。戸塚くんなんてどうかしら?」

「げほっ……。ちょ、ちょっと待って。お母さんもしかして比企谷くんの友人関係まで把握しきってない?」

 

 こちらが納得できるだけの時間を与えて、その上で隙を突いて来ているとしか思えないタイミングだ。行儀悪く飲物をこぼしてしまうのだけは避けられたけど、話に頭が追いつかない。

 

「把握しきるという程ではないわ。でも彼は交友関係が狭いみたいだし、妹の相手として許せるのは戸塚くんぐらいだと思うのだけど?」

「いや、だから待ってって。隼人とか、あと同じクラスの腐女子ちゃんに聞いたんだけどさ。妹ちゃんがこうと決めたら、比企谷くんに拒否権はなさそうだったよ?」

「あら。それは頼もしいわね」

 

 扇子で隠したその向こうでは、ころころと機嫌良さそうに喉を振るわせているのだろう。

 何だか無性に一矢を報いてやりたくなったので、母の背中の向こうに視線を送った陽乃は目を大きく見開くと。

 

「あれっ、お父さん?」

「えっ。……いえ、その、これは違うの。あなたと一緒に飲みたいと言っていたのに陽乃が買って来たから仕方なく……でも写真は撮っていないから……あ、そうだわ。あなたのタピオカミルクティーを真ん中にして二人で並んで座ったところを陽乃に撮って貰いましょうよ。久しぶりに腕なんか絡めてみても良いじゃない。ねえ、あなた、何か言って…………居ないじゃないの」

 

 背後を振り返ることもできずにタピオカミルクティーをぎゅっと握りしめたまま、しどろもどろに言い訳を並べ立てていた母だったが、ようやく変だと気が付いたのか後ろを確認して真顔に戻った。

 なんだろう。綺麗に反撃が決まったはずなのに、わたしのほうがダメージを受けている気がするんだけど。

 

「というか、わたしの気のせいだと良いんだけどさ。雪乃ちゃんたちも同じようなことをしそうだなーって。……やっぱり、お母さんそっくり」

 

 会長選挙の時期に妹に告げた言葉を思い出してしまった。この感情を胸の中に収めておくのは面白くなくて、でもお母さんに聞かれたくもなかったから、小さな小さな声でつぶやいたつもりだったのに。

 

「あら、勘が良いわね」

 

 地獄耳を発揮した母は、そのまま言葉を続けた。

 

「雪乃が誰かと付き合ったら、絶対にデレデレになるわよ?」

「……デレデレ?」

「見ている方が恥ずかしくなるような感じよきっと。賭けても良いわ」

「……賭けても?」

 

 あの可愛い可愛い妹なら間違いなくそうなるのだろうと自分でも確信しながら、びっくりするほど虚ろな声で相鎚を打っていると。

 

「雪乃も、陽乃も、好きになった人の前だと性格が変わるはずよ。早く見てみたいものね」

「ちょ、ちょっと待ってお母さん。わたしは……」

 

 わたしはきっと、酔えない。

 バレンタインの時期だったかに比企谷くんに伝えたように、わたしはきっと酔えない。

 たとえ周り全員が酔っていても、上辺では楽しそうな姿を偽れても、わたしは酔えない。

 

 それはおそらく彼も同じ。

 例えばカラオケで、遊び慣れた面々は勿論のこと、そういうノリに慣れていないオタク寄りの面々までが盛り上がっていたとしても、おそらく彼は最後まで酔えない。

 

 それにそもそも、わたしにはそんな相手なんて……。

 

「だから陽乃。早くあの、平塚先生と言ったかしら。あの人を早く連れて行きなさい」

「えっ、だって静ちゃんを家に連れて来ても……あれっ。今もしかして『連れて行きなさい』って言わなかった?」

 

 最初は性別を誤解しているのかと思ったものの、それ以上に不穏な表現に気が付いたので問い返すと。

 

「ええ、言ったわよ。早くモロッコに連れて行きなさい」

「モロッ……ごほっ。ちょっとお母さん、最近はモロッコよりもタイのほうが有名らしいよ?」

「あら、そうなのね。ちゃんと調べが付いているなんて、さすがは陽乃ね」

「そんなことで褒められても嬉しくないんだけどさ。……っていうか、静ちゃんの性転換を前提にしてるのがまちがってると思うんだけど?」

 

 我が母ながら何を考えているのかと胡乱げな視線をすぐ横に送ると、すぐに返事が返って来た。ぐうの音も出ないお返事が。

 

「あのね、陽乃。雪乃もだけど、あなたたちのような面倒くさい娘を心から好きになってくれる人なんて、日本中を探してもそうは居ないわよ。それを自覚なさい」

「いや、まあ、それはそうかもしれないけどさ……。雪乃ちゃんの問題がなんにも解決してないのにお母さんが乗り気な理由も理解したけどさ。でも、わたしの相手が静ちゃんって……」

「仕方がないじゃない。他に誰かいるのなら、早くうちまで連れていらっしゃい」

 

 そう言い終えると、話は終わったとばかりに母は席を立った。

 聞こえよがしに盛大な溜息を吐いてから、わたしはトレイを片付けて駐車場に向かう母の後を追う。はははっと乾いた笑いしか出て来ないし、何というのか母は母だなという感想しか浮かんでこない。

 

 

 その翌々日、初々しい高校生カップルが同じ席に座ることになるのだが、それはまた別のお話。

 

 

***

 

 

5.雪ノ下は正(以下略)

 

 ホームルームが終わってからも机に突っ伏していた八幡は、同級生の大半がクラスを去った頃になってようやく立ち上がると、走り疲れた身体を引きずって部室に向かった。

 

 体育祭の余韻が残っているせいか校内はざわざわと騒がしかったけれど、特別棟はしんと静まり返っている。今日はみんなが気を利かせてくれたので、待ち人は彼女だけのはずだ。

 

「悪い、遅くなった」

「リレーで頑張ってるのを見ていたから、気にしなくても大丈夫よ」

 

 そう言って、つと立ち上がった雪ノ下はお茶の用意を始めた。

 その間に八幡は、二つ並んで置かれた椅子の片側にどさっと腰を下ろす。

 

 雪ノ下が俺だけの為に淹れてくれた紅茶を飲む。

 一位でゴールテープを切ったのだから、それぐらいのご褒美は許されるだろう。

 

 

「あ、そういえば……」

 

 しばらくは二人だけの静かな時間を満喫して過ごした。

 けれどもこんな機会はそうそう無いので、八幡はわざとらしさを極力抑えてそう口にすると、鞄の中から紙とペンを取りだした。

 

 今こそ、練習の成果を見せる時だ。

 さすがに一度ぐらいは、伝えておきたい言葉がある。

 

「走りながら思い浮かべる感情って、色々あるんだよな。苦しいとか、早く終われとか、でも負けたくないとか……」

 

 口に出した感情を紙に書き留めながら、八幡は話を続ける。

 

「負けたくないのは、戦犯になりたくないとか悪目立ちしたくないとか、その手のマイナスの感情もあるんだけどな。それと同時に、少しは良いところを見せたいとか、そういうのも、まあ、あるっちゃあって」

 

 小さな紙の中で文字が重なっても気に留めず、八幡は感情を書き連ねていく。

 

「初芝とか堀とかサブローとか……」

 

 途中からは何の話をしているのか自分でも分からなくなったけど、手の動きは決して止めない。ひたすらに紙を黒く塗りつぶしていく。

 今から伝えようとしている言葉を待ってくれているのか、すぐ横に座る雪ノ下も小さな紙をじっと見つめたまま身動きをしない。

 

「面倒とか迷惑とか頑固とか可愛げがないとか……って書くところが無くなって来たな」

 

 震えそうになる指先を必死に落ち着けながら、両手で紙を持ち上げた。真っ黒に埋まった紙の中から白抜きの文字が浮かび上がる。

 それを雪ノ下に見せつけながら、ごくっと唾を飲み込んだ八幡が口を開こうとした瞬間。

 

「で、それって誰のパクリ?」

「ぐふぉぅっ……」

 

 思わず紙を手放してしまった八幡は、たまらず机の上に突っ伏した。こんな醜態を晒してしまったからにはもう起き上がれない。

 材木座の小説を部室で批評した日のことを昨日のことのように思い出しながら、もうちょっとかっこつけたかったけど俺にはやっぱり無理でしたと未来の義母に向かって心の中で謝りを入れていると。

 

「こんな行動が似合うのは、平塚先生ぐらいのものよ。貴方には貴方のやり方があるでしょう?」

 

 八幡が見ていないのをこれ幸いと、ひらひらと宙を舞っていた紙を回収して丁寧に折り畳んでから懐にしまい込んだ雪ノ下が口を開いた。

 そして、それに続けて。

 

「でも私は、失敗が目に見えていてもかっこつけようとしてくれる貴方のことが、好きよ」

 

 それを耳にした八幡が思わずがばっと起き上がると、柔らかい笑顔を浮かべた雪ノ下が視界に映った。ちょっと可愛すぎて死ねる。

 

「なんか、俺が手を出して良いのか自問したくなるレベルで可愛いな」

「ちょ、ちょっと比企谷くん。か、可愛いと言われるのは最近では珍しくないのでまだ良いのだけれど、手を出すって、貴方まさか……!?」

「あっ、いや、あの……違う違う違う。そ、そうじゃなくてだな」

「……違うのね」

 

 八幡には聞こえないように小さな声でぼそっとつぶやくと、雪ノ下は八幡の耳に指を伸ばして。

 

「痛い痛い痛い。ちょっと。お願い。無理。これ絶対に無理。お願い、離して。痛いから。駄目、離して!」

「本当に、仕方のない人ね」

 

 八幡の悲鳴を聞き届けた雪ノ下はくすっと笑うと、指の力を抜いて今度は優しく撫でてあげた。たちまち目の前の男の子の頬に朱色が差す。

 と、そんな八幡がおもむろに居住まいを正して、雪ノ下と目線を合わせると。

 

「お、俺も、お前のことが……す、す、素晴らしいパートナーだなと、はい……」

 

 往生際の悪さに思わず吹き出してしまった。

 この調子だと、ほんとうに手を出されるのはいつになる事やらと考えながら、雪ノ下は形の良い唇をそっと動かして。

 

「そんな貴方のことも好きよ、比企谷くん」

 

 

 雪ノ下、正正(以下略)。

 八幡、いまだゼロ。

 




ごちそうさまでしたっ!!

では、短編が出た時にまた再利用できそうなら宜しくお願いします。


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斯くして、彼の前に最初の敵が現れる。

本話は、原作者が執筆した「アンソロ1」最終話から妄想を膨らませて書きました。
微妙にネタバレがあるのでご注意下さい。



 もくもくとタバコの煙が立ち込める店内で、黙々と雀卓に向かう男がいた。

 

 昨日からずっと打ち続けているので髪はぼさぼさだし、無精髭もうっすらと生えている。だが徹夜をしても肌に皺ができないのは若さの証だろう。他三人の手牌や捨て牌を眺めるその眼はどす黒く濁っていて、しかし同時に爛々と輝いていた。

 

 上家(カミチャ)が手番を終えるのを待ちかねたとでも言うように、せかせかと牌の山に手を伸ばした男は、それを戻す途中でぴくりと動作を止める。

 親指が、牌の表面をぬるりと動いた。

 

 何とか間に合った。

 そう心の中で呟いた男は、そのまま牌を表向きに置くと手牌を倒した。

 

「悪いな。(ハク)自摸(ツモ)のみでラストだ」

 

 清算を終えて、少なからぬ額を受け取った男は、それらの紙幣を無造作にズボンのポケットにねじ込んだ。

 尻をずるずると動かして身体を椅子に沈み込ませながら、大きく安堵の息を一つ。

 

「じゃあ俺は、午後の授業に行くから……」

 

 そう断りを入れて立ち上がろうとしたところで。

 

「貴方はこんなところで何をしているのかしら?」

 

 すっかり聞き覚えてしまった声が耳に届いた。

 

 

 やれやれと思いながら、わざとのろのろした動作で椅子から立ち上がった。

 そしてゆっくりと、店の入り口のほうへと身体を向ける。

 

 掃き溜めに鶴という言葉を地で行くように、そこには凛として立つ見目麗しい女性がいた。

 少女と呼べるほど幼くはないけれど、両腕を組んで仁王立ちしている彼女からは瑞々しいまでの若さと生命力が感じられる。

 

 この二ヶ月弱でとうに見慣れたはずなのに、気を抜けば思わず息が漏れそうになるほどに、その顔はとても……。

 

「忌々しい奴だな、毎回毎回。いくら授業のお供が欲しいからって、俺を探して回るのは外聞的にどうなんですかね?」

「あら。私はお昼をゆっくりと頂いてから、この雀荘までのんびりと歩いて来ただけよ?」

「ちょっと待て。俺の行動が筒抜けすぎるだろ。つーか、ここに来るって誰にも言ってなかったぞ俺は?」

「貴方って、行動がとても読みやすいのよね……」

 

 ほら、とっても忌々しい。

 それって俺が単純だって言いたいんですよね流石に才女は違うなーと、そんな軽口を叩いた日には倍率ドン更に倍で逆襲されるに決まっているので口には出さないけどな。

 

「んで、人の心を読むのに長けた雪ノ下家の御令嬢が、俺に何の用ですかね?」

 

 ざわっと店内が沸いたのに、目の前の美女は眉一つ動かさない。

 自分に害を及ぼせるはずもない虫けらが何を騒ごうとも、彼女は気にも留めないのだろう。

 俺も一緒に虫けら扱いしてくれたら良かったのだが、今更それを言っても始まるまい。

 

「貴方が言った通りよ。午後から教授の授業があるのだから、早く仕度を済ませなさい」

「へいへい。んじゃトイレに行ってくるから、先に外に出てろ」

「……トイレの窓から逃げないでしょうね?」

「どこの借金取りの発想だよ……。つーか今すぐ行ったら時間が余るし、トイレぐらいゆっくりさせてくれ」

 

 ふむ、と納得顔で頷く様は年相応に可愛らしいのに、頭の中ではろくでもない事を考えているに違いない。

 

「いいわ。どうせ貴方の行き先なんて、考えればすぐに分かるもの。階段を下りた所で待って……」

「もう十二月だからな。三軒先の本屋に入って待っててくれ」

 

 言葉を遮ってそう告げると、返事も待たずに便所に向かった。

 わざとらしく息を吐いてから踵を返す彼女の気配を感じ取りながら、俺は後ろ手に扉を閉めると鍵をしっかりかける。

 

 ポケットから札束を取り出して、音が外に漏れないように静かに数えた。うん、確かに。

 ゆるゆるのジャケットの内ポケットから封筒を取り出して、今日の稼ぎをそこに加えてから元に戻す。

 そして両手を上に向けて大きく伸びをした。

 

「ふーっ、さすがに疲れたな。……ついでに用を足して行くか」

 

 じょぼじょぼと生理現象を済ませながら、俺は全ての発端となった二ヶ月前の出来事を思い出していた。

 

 

***

 

 

「ぬくぬくだにゃー」

 

 可愛い女の子のつぶやきだと思った?

 残念、俺でしたー。

 

 そんな馬鹿げたセリフを思い浮かべながら、教室の机に突っ伏した俺は今まさに微睡みの世界に旅立とうとしていた。

 

 まだ十月だというのに今日は何だか肌寒い。

 こんな日に外で時間を潰すのは愚の骨頂、午後の授業が突然休校になったのをこれ幸いと、俺は使われる予定だった大教室に来ていた。

 

「せっかくの暖房を無駄にするよりは、俺が有効活用してやろうってなもんだよな」

 

 今からなら一時間半は眠れるなと。そう思いながら全身の力を抜いたところで。

 

「あら。誰もいないなんて珍しいわね」

 

 泰平の眠りを覚ます声が聞こえた。

 

 

「……今日は休講だぞ?」

 

 俺の存在には気付いていないような口ぶりだったので無視しても良かったのだけど、下手に居座られると貴重な睡眠時間が削られてしまう。

 そう考えた俺は仕方なく上半身をむくっと起こして、面倒くさそうにそう告げた。

 

「っ……吃驚(びっくり)ね。気配がまるで感じ取れなかったのだけど、貴方ってゾンビか何かなの?」

「さあな。ま、もし俺がゾンビでも、お前を仲間にしたら口うるさくて面倒そうだから襲わずにいてやるし、だからとっととどっかに行ってくれ」

「なるほど。いま流行りのキョンシーなのね?」

「人の話を聞いてねーな。違うっつーの」

「じゃあチャンスー?」

「おい。広東語読みを普通話読みにしただけだろ?」

 

 よくできました、とでも言いたげに頷く彼女はとてもチャーミングで、つい今しがた毒舌を披露してくれた女と同一人物とは、にわかには信じがたい。

 

 けれどもこの外見は世を偽る仮の姿。

 この大学に入学以来、告白という名の玉砕行為に出た連中の怨嗟の声を数多(あまた)耳にしてきた俺にとって、こいつの真の姿を見通すなど容易いことだ。

 

「念のために言っておくのだけれど。この程度の会話すらなく告白されても、きっぱりと断る以外に何ができるのかしら?」

「あー、まあ……それはそうかもな」

 

 彼女の言い分に納得してしまったので、俺は素直にそう返した。

 それよりも……今この子、俺の思考を完璧に読んでなかったか?

 

「完璧に読むのはまだ無理ね。母の域まで早く到達したいとは思っているのだけれど」

「だからお前、さっきから完璧に読んでるだろがー!!」

 

 頬にかすかに手を当てて「そうかしら?」なんて口にしながら、すっとぼけた表情を浮かべる彼女からは小悪魔じみた魅力が伝わって来るのだが。

 今は思わず声を荒げてしまったけど、そんなのに引っ掛かるほど俺の人間強度は低くはない。

 

「貴方は完璧と言うけれど、分かることしか分からないし、分からないことは分からないわ。それはそうと、貴方が間接的に耳にした怨嗟の声は、随分と誇張されている気がするのだけれど?」

「だからなんで間接的に聞いたって分かるんだよおかしいだろ!?」

 

 訂正。こいつは俺程度の人間強度でどうにかできるレベルじゃない。

 だからいっそ感情的に応対して、早くこの場を去って貰おうと考えていると。

 

「ところで、休講の理由は何なのかしら?」

 

 はい、分かってましたよ。

 俺の浅知恵なんてお見通しですよねーと、内心で悪態をつきながら口を開く。

 

「ほら、あの教授って関西出身だろ。んで昨日、タイガースが二十年ぶりだかで優勝したから……」

「ああ、これだから関西人は……。きっと吊り橋を渡りに行ったのね」

 

 額に手を当てて呆れ顔を浮かべる時すら絵になるのだから、やはり素材の良さは半端ない。

 先程からの(主に俺への)毒舌とは少しだけ響きが違って、むしろ「関西人」という言葉に親しみの感情すら乗せている気がしたので首を傾げていると。

 

「ほら、いつだったか前期の授業中に宣言してたじゃない。高所恐怖症のくせして、タイガースが優勝したら日本最長の吊り橋を渡ってやるって」

「マジか……。つーか、本業が優秀な教授ほど変な性格してるよな。篠沢教授とか」

 

 さっきの自己申告にあったように、こいつでも分からないことはあるんだなと思いながら。

 俺にまで親しげな口調になっているのに、どうやら自分では気付いていないようなので、却ってこちらがドキドキしてしまう。

 なので、お嬢様には通じないであろう話題を振って煙に巻こうとしたところ。

 

「と言っても、篠沢教授に全部の責任を負わせるのは違うと思うのだけれど?」

「ははっ、確かにな。てか、お前もクイズダァビィとか見るんだな」

 

 やばい。裏目に出たかもしれない。

 てっきり、はてと首を傾げられて話が終わると思っていたのに。

 

 少し悪戯っぽい目つきで「篠沢教授に全部」なんて言い出したり。

 俺の指摘を受けて、心なしか照れたような仕草を見せられたり。

 そうした意外な姿を目の当たりにして、胸がどくんと跳ねるのを感じていると。

 

 いつの間にか目の前にまで近づいていた彼女は、少しだけ距離を開けてわざとらしく溜息をついてから。

 

「女性に向かって『お前』と言うのは失礼ではないかしら。私は……」

「知ってる。雪ノ下のお嬢さんだろ?」

 

 慌てて食い気味に答えたのに、今回は()()完璧に読まれていたみたいで。

 

「ええ。でも貴方のことだから、名前までは知らないのでしょう?」

「まあ……な」

「いくら興味が無いからって、それを露骨に態度に出すのは良くないわよ。では改めて、私は雪ノ下──よ。よろしくね、──くん」

「はあ……まあ、お手柔らかに」

 

 心臓がばくばくと音を立てている。

 幸い向こうはその理由には気付いていない様子なので、首の皮一枚で助かったと胸をなで下ろしていたのだけど。

 

 いずれにせよ、俺はその後の人生で何度となく呼ぶことになる彼女の名前を、こんなふうにして知ったのだった。

 

 

***

 

 

 手を洗うついでに顔も洗って、手櫛と水で少しだけでも髪を整える。髭を諦めるかわりにシャツの着こなしを改めてズボンのベルトを締め直して、それから俺はトイレを後にした。

 そのまま店の出口まで足を運んで、マスターに一礼してから外に出る。

 

 階段を下りながら身だしなみを再度点検してみたのだが、普通のお店に入っても追い出されるということはないだろう。ましてや大学の授業なら何の問題もない。

 けどヤニ臭いのは自分でも気になるなと袖口をくんくんしながら、俺は視線を遠くに向けて書店の中をのぞき見た。こう見えて俺は視力が良いのだ。

 

 そして俺は、その場に呆然として立ち尽くす。

 

「……あれって、虎の図鑑だよな。きらっきらの目つきで写真を凝視してるんだが、どうせならもうちょい可愛い動物をだな。つっても虎ってパンダと同じでネコ目(食肉目)だから、可愛い猫を見てああなってるんだと考えれば、何とか、うん、いや、無理だな。虎に憧れる女とか普通に怖いわ」

 

 娘ができたら可愛い動物が好きになるように英才教育を施そう。

 虎とかを愛でるようになってしまえば手遅れだし、パンダとかもあれ熊だろって感じでやっぱり怖い。

 だから娘には普通に犬とか猫を好きになって欲しいなと考えながら、俺はわざと大きな音をたてて書店内へと入っていった。

 

「あら、早かったわね」

 

 流れるような動作で図鑑を書棚に収めてからこちらに向き直った彼女は、俺をその先に立ち入らせる事なく、目の動きで出口を指し示した。

 犯行の現場をばっちり目撃したとも言い出せず、俺は大人しく回れ右をして外に出る。

 そのすぐ後ろから彼女が続いた。

 

「あの関西人の授業には出るって分かってるだろ。いいかげん信頼っつーか、徹マンぐらい大目に見てくれない?」

 

 歩道を並んで歩きながら、三年目の浮気を詫びる亭主のようなセリフを口にしてみると。

 

「そのかわりに、貴方はどれだけの授業をサボっているのかしら?」

「事前通告はしただろが。つか取ってない授業に参加してくるお前が……」

「いいじゃない。ちゃんと予習をしてレポートも出した上で欠席しているのだから。それ以上の何かを授業できない講師に価値など無いと思うのだけど」

 

 うわー、辛辣ぅー!

 

 一瞬だけ講師に同情しそうになったけど、よくよく考えたら無能なそいつのせいで俺が付きまとわれる羽目になってんだよなあ。俺が取ってるのは単位だけが目的の楽勝科目がほとんどだから内容には期待すんなって言ってるのに聞く耳を持たねーし。

 

 挙げ句の果てには俺の出席率が悪すぎるって下宿にまで迎えに来やがったからな。

 こちとらお嬢様に出す座布団どころか足の踏み場も無いって言ってるのに強引に上がり込むし、そのくせ今日は休講になったから俺を連れ出すのは勘弁してやるとか言い出すし。だったら来るなっつーの。

 

 まあ部屋があっという間に片付いたし、冷蔵庫の残り物だけで作ってくれた料理は絶品だったし、こいつって何でもできるよなあと、あの時はさすがに感心したけどな。

 あのあと駅まで送った時に、本音では二度とうちに来んなって言ってやりたかったのに、結局言いそびれたせいで何度こいつに叩き起こされた事か。

 

 サボる科目を宣言したおかげで、この一ヶ月は平穏だったけどな。

 そろそろ寂しくなって来たなんて、そんなこと俺は微塵も思ってねーぞ。

 

「ねえ、聞いてるの?」

「ああ……いや、すまん。ちょっと考え事してたわ」

「もう。大学の授業が一コマいくらか一度計算してみなさい、って言ったのよ」

 

 辛辣な口ぶりを耳にして顔を上げると、冷ややかな眼差しが出迎えてくれた。そのまま彼女はちくちくと何やら言い募っている。

 

 もちろん理は彼女にあるし、サボる理由を明かしていない俺が悪いとしか言い様がないのだけど。裏を返せば、こいつに明かせない理由があるのだからどうにもならない。

 

 信号の前で立ち止まった俺は、すぐ隣からの糾弾の声に心地よさすら感じながら。さっきの続きとばかりに、こいつと一緒に過ごしたこの二ヶ月を思い返していた。

 

 

***

 

 

 一週間後の教授の授業で、俺と彼女は再び相(まみ)えた。

 

「今の説明では、特定の条件下での反応をカバーできないと思うのですが?」

「なるほど。雪ノ下くんの指摘を、他の諸君はどう思うかね?」

「私に遠慮せず、みんな思った通りに発言してくれて良いわよ。そうね……そこの彼の意見を聞いてみましょうか」

 

 嫌な予感はしたんだよなあ。

 だから急病になりたくて、昨夜は醤油の量を倍にして卵かけご飯を食べたのに。途中からは念を入れて、のりたまもたっぷり追加したのに。

 ぷち贅沢って感じで、あれは旨かったなぁ……と現実逃避をしていると。

 

「予習をしていない君には答えられないだろうね」

「貴方……そうなの?」

「理解度も高いしテストの点も良いんだけど、やる気の問題だけは本人次第だからね」

 

 助け船を出されたのか一刀両断にされたのかは意見が分かれるところだが、教授のお口添えのお陰でこの日はそれで済んだ。

 

 とはいえ、これにて一件落着と片付けるのは俺のプライドが許さなかった。

 こう見えて俺は意外と負けず嫌いなのだ。

 

「仕方ねーな。俺の本気を……見せてやるか!」

 

 下宿に戻ってトイレできばっていると妙にテンションが上がってきたので、俺は決め台詞と排泄物を後に残して大学の図書館へと赴いた。

 

 

 そこからの一週間は、まるで世界ふしぎ八犬伝に臨む白柳さんのように、あるいはクイズ面白セミナーに臨む鈴本さんのように、関連書籍をとにかく読み漁った。……嘘。ごめん。あの二人の勉強量は異常すぎて俺には無理ですごめんなさい。

 

 ま、まあ比較対象が悪かっただけで、俺なりに労力を費やしたのは間違いない。

 その証拠に、次の授業では堂々と自分から手を挙げた。

 

「やればできるのに、貴方ってやる気をお母さんのお腹の中に置き忘れて来たんじゃないの?」

「ああ、それは知らなかったな。じゃあ取りに行ってくるから、今から実家に帰らせて頂きます」

「君たちの会話は関西人顔負けだね。専門の話が中途半端になったけど、どうせ他の子は理解できないからさ。来週じゃなくて今から僕の家で続きをするのはどうかな?」

 

 授業が終わってからも二人でやりあっていると、教授が思いがけない提案をしてきたので。

 

「いえ、とても大事な忘れ物が実家にあぎゃあああ」

「もちろん、喜んで」

 

 奥様の手料理をご馳走になりながら、この一週間で得た知識が頭の中で有機的に結びついていく楽しさを体験した。

 あとついでに、耳がひりひりと痛むのも体験した。

 

「家の者に迎えに来させるから、駅まで送って欲しいのだけど?」

 

 六甲おろしを歌い始めた教授を、奥様が慣れた様子で寝室に連れ去って。

 その際に電話を貸して欲しいと言って席を外した彼女は、戻って来るなりそう言った。

 

「まあ、夜も更けて来たからな」

 

 面倒くさそうにそう言ったものの、こいつは俺に襲われる可能性を考えないのだろうかとふと思った。

 あからさまに警戒されるのは嫌だけど、全く警戒されないのも何だか癪に障る。

 

 つまるところ俺は、常に上から目線で接してくるのを業腹に思っていたのだろう。

 だからこいつと対等に渡り合うためなら一週間を図書館で過ごしても平気だったし、突ける隙があるのなら何とかして見付けてやろうと思っていた。

 

 

 教授の家を辞して駅までの道をぶらぶら歩いていると、シャッターの下りた入り口の横に明かりが灯っていた。

 

 近寄ってみるとそこは宝飾店で、きらきらと輝くネックレスがいくつかガラスの向こうに飾られている。値段的にはお手軽な品々だと言えるのだろうが、もちろん大学生がぽんと出せる額ではない。

 

「こういうの、お前なら何でも似合うんだろうな」

 

 見栄えという意味で口にしたのだけど、彼女ならこの程度の額は簡単に出せるのだろうと僻むような気持ちがあったことも否定はできない。

 

「どんなに似合っても、着ける機会がなければ無意味だわ。貴方も少し考えれば分かるでしょう。特別なパーティーの席でもないのに私がこんなのを着けていたら、他の人になんて言われるのかを」

 

 言わんとしている事は即座に理解できた。

 要するに「女を武器にしている」と、男女を問わず非難されるのだろう。

 彼女の美貌には、才能には、出自にはとても敵わないから。

 だからこそ男も女も、彼女の足を引っ張れる機会は決して見逃さない。

 

「そういうのって、大人の世界だけかと思ってたんだがな」

「学校なんて社会の縮図そのものよ。もっとも、大学はさすがに違うのではないかと、これでも少しだけ期待していたのだけれど」

 

 綺麗なアクセサリーを美人が身に着けるという、そんな当たり前で簡単な事こそが、彼女にとっては一番難しい。

 ならば彼女はこれまでの人生で、どれほどの我慢を、諦めを重ねて来たのだろうか。

 

 ショーウィンドウからそっと目を逸らして、駅に向かって歩みを進める彼女。

 思っていた以上に小さなその背中に追いつこうと、俺は決意を秘めて足を踏み出した。

 

 

***

 

 

 意識を現在に戻した俺は、信号を渡って少し歩いた先で、大学とは違う方向に足を向けた。

 

「あの教授の授業はサボらないと、思っていたのだけれど?」

「そんなに時間は掛からないから大丈夫だ。俺を信じて先に行ってて良いぞ?」

 

 ここからは一つ一つの会話が勝負になる。

 別行動を選ぶことが、俺を信じているという証になる……なんて詭弁にこいつが惑わされるわけもなく。

 

「徹底的に授業をサボって雀荘通いをしていた貴方を、誰が信じると言うのかしら?」

「まあ、正論だな。できれば気楽に単独行動をしたいんだが?」

「授業は今日でお終いだし、その後はいくらでも解放してあげるわよ」

 

 ははっと溜息を吐いてから先を急ぐ。

 こいつの勘の良さとか頭の働きを決して侮ってはいけない。

 俺の目的に気付かれる前に、逃げ道を全て潰さなければ。

 

 程なくして、いつか見た宝飾店の姿が俺たちの視界に映り込んできた。

 今は営業中なのでシャッターも下りていない。

 

「貴方、もしかして……でも、理由が……?」

「そのな。少し前から、俺はちょっと面倒な女と付き合っててな」

「……そう。初耳ね」

「どう話せばいいのか分からなくてな。それに、別にそういうのを報告し合うような仲じゃないだろ、俺とお前って?」

 

 不意に消え去ってしまいそうな、そんな儚げな姿を見せたのはほんの一瞬だけ。

 それの意味するところが分からなくて、意識がそちらに引き摺られそうになるのを必死で堪えた。

 それよりも今の俺には、果たすべき行動がある。

 

「そうね。でも、そう言ってくれれば、無理に付いて来ることも無かったのだけど……」

「いや、それでな。ここまで来たんだから、選ぶのを手伝ってくれると助かるんだが?」

 

 なんという詭弁を弄しているのだろう。

 

 俺の財力などとっくに把握済みの彼女は、そんな(俺にとっては)高額なプレゼントを自分が貰う理由など無いと考えるはずだ。

 それに、俺の心の奥底に宿る()()感情だけは決して知られまいと、それだけは死ぬ気で隠し続けて来たので、俺の話を素直に受け取るはずだ。

 

 もしも()()を知られていたら、俺はピエロとしか言い様がないのだけど。

 意外にまっすぐなその心根と、もしバレていたなら何かを仕掛けて来るはずだという謎の信頼感と。そんな曖昧な根拠に俺の全部を懸けながら、彼女の眼をしっかと見据える。

 

 こいつ以上に面倒な女なんて、この世に二人といないに決まっているのに。

 

「ごめんなさい。私には……っ!?」

 

 今にも走り出しそうな気配を感じて、思わず彼女の手首を掴んでいた。

 こんなにも強い拒絶反応を示されるとは予想外だったけど、もとよりチャンスは今日の一度だけ。

 

 それに、別に俺は大それた事を考えているわけではないのだ。

 住む世界が違うのは分かっているし、だからこそ彼女の心に、ほんの小さなものでも良いから爪痕を残しておきたいだけだ。

 

 何かを諦めてほしくない。

 その気持ちさえ伝われば、後のことなんてどうでも良いのだ。

 

 だから俺は腕力に訴えてでも、彼女の逃げ道を塞ぐ。

 彼女を連れて店内に入って、そして事を成し遂げる。

 

「頼む。これを頼めるのはお前だけなんだ。俺にはお前しかいないんだわ」

「っ……分かったから。だから手を離してくれるかしら?」

「離した途端に逃げたりしないよな?」

「貴方じゃないんだし、約束は守るわよ。私は逃げないわ」

「トイレの窓からも?」

「ええ、トイレの窓からも」

 

 ふっと笑いあってから、そっと手を離した。

 それから俺は彼女を先導するようにして、宝飾店の中へと入っていく。

 

 

「そちらの女性……に似た女性に似合う、アクセサリーですね?」

 

 お店の人はさすがにプロだからか、俺の企みなど一瞬で見破られてしまった。というかそれが普通だろう。

 

 むしろこの期に及んで、「嘘っぽいと思うかもしれないのだけど本当に私じゃないのよ」と恥ずかしそうに、しかしそれを口に出せるわけもないので控え目にアピールしている彼女が、とても愛おしい。もとい。痛ましくて心底から申し訳ないという気持ちになる。

 

 それに、こんなにチョロい側面があったとは、ますます愛おしさが、じゃなくて、い、い、(いとけな)い一面も最高、じゃなくて変な奴に付け込まれないように立ち居振る舞いを再考して貰わないといけないぞって自分でも何を言ってるのかさっぱりだな。まあいい。

 

「表に出ていた商品と似たものですと、この辺りかと」

「そうね。でもこれだと……」

 

 お店の人も彼女も、しっかりと俺の予算まで読み取ってくれたみたいで。だから飾られていたネックレスと奥から出してきて最後まで残った二品にさほどの差はなかった。

 品物よりも先に金額を見てしまう、美的センスに欠けているどうも俺です。

 

「手伝うとは言ったものの、この先は貴方が選ぶべきだと思うのだけど?」

「まあ、三つまで絞り込んでくれたわけだしな」

 

 上から見たり横から見たりと散々首を動かしたものの決め手が見付からなくて。

 だから俺は、ずるい手かもしれないけれど、ネックレスを見ているふりをしながら彼女の視線をこっそり追った。そして。

 

「やっぱり、最初のやつにします」

「表に出ていた、こちらの商品ですね?」

「それです。支払いは現金一括で、これでちょうどだと思うのですが……お札を数えて貰えますか?」

「はい。ではこちらの封筒はお返しします……ええ、確かに。お包みはどうなさいますか?」

「ええと、あ、その前にちょっと彼女に着けて貰って良いですかね?」

 

 役目は終わったと思って気を抜いていたのだろう。

 珍しくぼーっとしていた彼女が目を見開いて、気のせいか「これ以上は勘弁して」と言っている気がしたのだけど、今日だけはとことんまで行かせて貰う。

 

 店員さんと二人がかりで煽てて宥めて賺して拝んで泣き付いて土下座して……って最後の二つはさすがの店員さんも付き合ってくれなかったんだけど、ようやく彼女が件のネックレスを着けてくれた。

 

「本当に良くお似合いですよ」

 

 そう言って手鏡を俺に渡した店員さんはそのまま椅子から立ち上がると、「あ、そういえば」とか呟きながら店の奥へと引っ込んでしまった。

 

「ほら、鏡で見てみろよ。派手にきらきら光ってるけど、お前の存在を更に輝かせてると俺は思うぞ。つーか天地がひっくり返ってもお前には及ばないような連中が何を言って来たところで、お前が気にする必要は無いだろが。せっかくの美人なのに、似合いのアクセすら着けられないなんて、どうかと思うぞ」

 

 徹夜明けの謎テンションで一気に言い切ると、何だか暑いなと手で顔を扇ぎながらそっぽを向いた。

 すぐに隣から、始めはぼそぼそと、やがて力強い声が聞こえて来る。

 

「でも……いえ、そうね。これからは私も、着けたいと思った時には遠慮なんてしないわ。だから貴方も、このネックレスをちゃんと彼女さんに渡し……」

「それな、お前にやる」

 

 言葉を遮って端的に伝えると。

 

「……は?」

 

 理解が追いつかず二の句を継げない彼女の表情をなんとしてでも見たいと思ったので、少し照れくさかったけど首を戻して目線を送る。

 ぱっと目が合った瞬間に企みが全てバレたみたいだけど、ここまで粘れたら万々歳だ。

 

「俺には彼女なんていないし、お前ほど面倒な女なんて……まあ、付き合ってるって言っても単なる同級生だし、別に分不相応なことを言い出す気も無いんだが、その、なんだ。この二ヶ月は割と楽しかったしな。ちょい早いけど来週には馬小屋で生まれたどっかの誰かの誕生日があるし、飽きたら売るなり捨てるなり好きにしてくれて良いから、あれだ。とりあえず、貰ってくれると助かる」

 

「貴方は……私に何が言いたいの?」

「何って、別に俺は」

「それを聞けないのなら、これを受け取るわけにはいかないわ」

「何って……ちっ」

 

 頭をがしがしと掻いてから、頬が少し熱くなっているのを自覚しつつ口を開く。

 

「さっきもちらっと言ったけどな。俺はお前に、何かを諦めてほしくないんだわ。特に、意味の分からない同調圧力とか、その類いにはな。だから、何なら俺を理由にしてくれても良い。着けてくれないと死ぬとか言われたから仕方なく、みたいな……」

「私がそんな事を言うわけないでしょう。貴方は……他の人とは違った見方をしてくれると、思っていたのだけれど。結局は、私を見ていないという点では同じなの……」

「違うっつーの。お前の暗黒面まで含めて、俺ほどしっかり見てる奴なんて他にいてたまるかっつーの。だから俺が言いたいのは、やる気になればお前はどんなふうにでも出来るだろって。理由をでっち上げても正面から論破しても何でも良いけどお前なら、お前が普通に本気を出せば、つまらない連中に押し潰されずに自分を主張できるはずだろ?」

 

 お互いに相手の言葉を遮って自分の主張を押し付ける。

 それはやっぱり、ごく普通の男女の付き合いには程遠いように感じられて、なのにこの上なく楽しくて。

 

「じゃあ、貴方に貰ったから、貴方が着けて欲しいとせがむから着けていると……そう言っても良いの?」

「ああ、それぐらい別に……えっと、あれ、えっ、それって?」

「貴方が煽てて宥めて賺して拝んで泣き付いて土下座までするから情に絆されて着けていると、そう言っても良いのね?」

「ちくしょう、ついさっき自分から進んで実行したことだから反論できない……」

 

 あれっ。こんな筋書きじゃ無かったはずなのに、何だかとっても雲行きが怪しくなってきたぞ。

 

「なら仕方が無いわね。今日はこれを着けたまま授業に出るとして、最後にもう一つだけ確認しておきたいのだけれど?」

「このまま授業に……うぐっ。俺に止める手立ては、無い、な。ちっ」

 

 せめてもの抵抗とばかりに、わざとらしく現状確認をしたり舌打ちを繰り返して時間を稼いでみたものの。どうせ引き延ばしたところで誤魔化せる相手ではないのだから、さっさとゲロってしまうに限るな。

 

「確認ってどうせ金の話だろ。お前の推測どおり、これを買う金を調達するために授業をサボりまくって雀荘に通ってた、が正解だ。一ヶ月ちょいであの金額を稼ぐ方法を、他には思い付かなくてな。ついさっき希望額に届いたから、お前が雀荘まで来てくれて助かったわ」

 

「何か狙いがあるのだとは、薄々勘付いていたのだけど。まさか私の為とは思いもしなかったわ。貴方って、私が思っていた以上に私の事が……」

「ちょっと待て。雀荘に来たり下宿まで押しかけたり、お前って俺が思っていた以上に俺の事が……」

「そんなわけ無いでしょう?」

「そんなわけ無いよなあ?」

 

 他に誰もいない店内で睨み合っていると、彼女の胸元からきらきらした光が差してくる。

 彼女が少し身動きをするたびに、それは控え目になる時もあれば強烈に存在を主張する時もあり。優しい光を出すかと思えば眼を刺すような強い光を出すこともあり。

 それでいて、もう既に彼女の一部となり果てている。

 

「じゃあ、そろそろ授業に行くわよ。……すいません、これ着けて行きたいので包装はいりません。また寄せて貰いますね」

「あ、色々とありがとうございました。助かりました」

 

 彼女が声をかけると、店員さんが奥から出て来た。

 気のせいなら良かったのだけど明らかにニマニマしているので、とても居心地が悪い。

 

「はい。じゃあ、お幸せに」

「そんなのじゃないですよ」

「そんなのじゃないわ」

 

 はからずも声が重なってしまったせいで、俺たちは頬が熱を帯びているのを感じながら慌てて店の外に出る。

 

 そして、どちらからともなく顔を合わせて頷き合って。

 それから俺たちは二人並んで大教室へと移動した。

 

 

***

 

 

 あと数分で授業が始まるからか、既に多くの席は埋まっていた。

 それでも最前列は空いていたので窓際の席を目指して歩いて行くと、普段は最前列中央に陣取るはずの彼女がなぜか俺の後を着いてくる。

 

 今までとは違って、当たり前のように俺の隣に座る彼女に戸惑っていると。

 こちらを向いて「何かしら?」とでも言いたげにちょこんと首を傾けて。

 

「何か……あ、大事なことを伝え忘れていたわ」

「ほーん。それって、お前にしては珍しいな」

 

 話がまるで読めないので頭を捻っていると。

 

「十月末に、教授の家にお呼ばれしたでしょう。それのお礼に、今度は私たちが教授をお招きする形で食事をしたいと思うのだけど」

「それって、今日の夜って事か?」

「ええ。雀荘に通う意味もなくなったのだし、なら貴方に予定なんてないでしょう?」

 

 何か反論したいところだけど、実際その通りなんだよなあ。

 

「まあ良いけどな。ただ、あんま高い店は勘弁してくれよ」

「それなら大丈夫よ。私の家にお招きする予定だから」

「ああ、それなら……って、はい?」

 

 さらっと凄いことを言われたので理解が追いつかず二の句を継げないでいると。

 

「教授は私の両親と付き合いが長いから、お招きの話をしたら二つ返事だったわよ」

「えっと、いやそれ初耳なんだけど?」

 

 未知の情報が倍率ドン更に倍で増えてるんだけど、どういうこと?

 

「とはいえ貴方の参加は嬉しいのだけど、その服装は……スーツとか持ってる?」

「おいこらそれぐらい持ってる……けど、ちょっと待て」

 

 おっかしいなー。

 ついさっきまでは俺がこいつの逃げ道を潰しまくっていたはずなのに、今度は俺が逃げ道を潰されまくってない?

 

「なら良かったわ。いざとなれば買い揃えてあげても良いとは思っていたのだけれど。ちょうど来週には大工の息子の誕生日があるのだし、私はそれでも良いわよ?」

「いや、待て。待って下さい。とりあえずスーツは自前ので、っていうか、そもそもの話として、欠席ってわけには……」

「却っ下」

「ですよねー」

 

 ちょっとだけ働き出した頭で情報を整理すると……。

 こいつは最初から、今日の予定に俺を嵌め込むために行動してたって事だよな。

 まあ、見事にしてやられたのは確かだけど、でも。

 

「でも、お前にしてはなんか回りくどいやり方だよな」

「だって、こうでもしないと貴方、逃げるから。先手を打っておかないとね」

 

 そう口にする彼女は、まるで恋する乙女のように瞳をきらきらと輝かせていて。

 けれどもそれは純粋無垢なものとは程遠く、可愛らしい打算をふんだんに滲ませているのは蠱惑的なその微笑みからも明らかだ。

 

 というか、教授と両親が顔見知りって事は……まさか?

 

「なあ。教授の家に行った時、なんで家まで迎えに来て貰わなかったんだ?」

「そんなの、決まってるじゃない」

 

 俺に駅まで送らせるために。

 それを確信した瞬間に、総毛立つような思いがした。

 

 俺は、もしかしたら、とんでもない女と関わってしまったのかもしれない。

 必死に小知恵を働かせて、こいつから一本取ったと得意がっている間に。

 俺の逃げ道は密かに少しずつ潰されていたのだ。

 

 なんて恐ろしい、なんて怖い女なのだろう。

 けれどそんな彼女のことが、とても可愛くて心底から愛おしいと思えるのだから、俺にはもう逃げ道なんて無いのだろう。

 

「じゃあ、今後ともよろしくね」

「ああ……よろしく」

 

 どうして俺なんかのために、こいつがこんなに面倒くさい事をするのかは正直よく分からない。

 けれど……死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。

 




こちそうさまでしたっ!

最初は六月の話を書こうと思っていたのですが、もう誰かが書いてるだろうなーと思いつつプロットを練っていたら、なぜかこんなものが出来上がりました。

また何か思い付いたら再利用したいと考えていますので、その時は宜しくお願いします。


追記。
脱字を二つ修正して改行を二つ加えました。(3/28)
それと本話を更新前に、短編→連載中に変更しました(5話までは行きそうに思えたので)。とはいえ中身は以前と変わらず更新激遅(というか原作の刊行に連動した)短編集です。
誤字(意外→以外、二の句を告げない→二の句を継げない)を修正しました。(12/31)


さて、注意点を二点ほど。

まず、お互いに「相手の逃げ道を潰しているうちに自分の逃げ道を潰されていた」という構成なのですが、「してやったり」とは違って「してやられる」展開は正直あまり評判がよくありません。けれども原作の八幡もこの人も「してやられる」喜びに目覚めている様子が窺えますので、ちょっとその点が気に入らないなって方も大目に見て下さると嬉しいです。

それから、本作に出てくる80年代ネタは時代考証を詰めきれていません。例えばタイガースの優勝(1985年)とキョンシーを有名にした「霊幻道士」(日本公開は1986年)とか、その他のネタも時代が前後しているかもですが、こちらも大目に見て下さると助かります。


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謹啓、夢と魔法の国より、彼と彼女の隣から。

本話は俺ガイル新のネタバレが少しあるのと、さらっと捏造を加えているのでご注意下さい。

なお、本話の語り手である富岡美緒さんは、八幡・葉山・海老名と同じクラスの女の子で学級委員をしています。また、クラス会や遠足の話は円盤の公式サイトにあらすじが載っていますので、気になる方は先にそちらをご覧下さい。



 バスを降りてクラスごとに集まって、先生の注意事項をしっかりと頭に入れて。

 じゃあ思う存分に楽しんでこいと言われると同時に、同級生たちはすごい勢いで入園ゲートへと向かっていった。

 

 それを呆然と見送っていると、すぐ隣から聞き慣れた声が耳に届く。

 

「ほら。美緒もぼーっとしてないで、早く行こっ」

「うん。じゃあ行こっか」

 

 私たちは今日、遠足でディスティニィーランドに来ている。

 受験を控えていることもあり、行事が少なめの私たち三年生はこの日を心待ちにしていた。

 それは友人たちも同じだったみたいで。

 

「せっかくのディスティニィーなのに、富岡ちゃんはマイペースだねー」

 

 だから、逸る気持ちは分かるのだけど。

 からかうような口調が引っ掛かったので、あえてむっとした顔を向けてみると。

 

「あー、もう。富岡ちゃんってこう、愛玩動物みたいっていうか、構ってあげたくなるのよねー」

「美緒って、むすっとしてても放っておけない雰囲気を醸し出してるのがうらやまし……ごめんごめん。気にしてるのは知ってるんだけど、でも、ね?」

 

 もう高校三年生だし、大人な雰囲気を出したいなって思ってはいるんだけど……。

 先日も、二年の生徒会長さんには年下と思われたし、一年の部長さんにはタメ口で話されそうになったし。

 今年の春に離任したあの国語の先生みたいに、私もいつか「大人の女っ!」って感じになれる日が来るのかなぁ。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、今度は妙に弾んだ声で。

 

「それで、入園してからどうするの?」

「あ、うん……。できれば、最初はみんなで周りたいかなって」

 

 あの部室でのやり取りを思い出して、その流れでクラス会での会話も思い出しそうになって。

 それを何とか頑張って、意識を別にそらしてたのに……もう。

 

「うんうん。最初から二人っきりって緊張しちゃうからねー」

「美緒の性格だとびくびくぷるぷるしちゃうよね。ほんとにもう、愛い奴め」

 

 好き放題に言っている友人たちからぷいっと視線をそらして、目の前に迫った入園ゲートを眺める。

 それからふうっと息をはいて、どんどん大きくなってきた胸の鼓動を落ち着けようと試みながら、私は事の発端を思い出していた。

 

 

***

 

 

「雪ノ下さんと付き合ってるんですか?」

 

 クラス会のことを海老名ちゃんに相談したら、奉仕部に手伝ってもらえばいいって教えてくれて。

 おかげで上手くいったのだけど、そのかわりに「この人たちって、どんな関係なの?」という大きな疑問が私の中に残ってしまった。

 

 雪ノ下さんと、ゆいちゃんと。それに会長さんとも妙に距離が近いし、部長さんも妹にしては仲が良すぎるというか、高校生の兄妹ってこんな感じだったっけ、と首を傾げてしまった。

 

 だから、クラス会が無事に済んでお疲れさまの乾杯をした時に直接、尋ねてみたのだ。

 あの日「監督責任が」とか言いながら部室から一緒に去って行った雪ノ下さんと、比企谷くんが付き合っているのかと。

 なのに──。

 

「良かった。……二人で周る気でいたから」

 

 遠足は班行動なのかと、はぐらかすような質問が返って来たのでそれを否定して。

 そのままきょとんとしていたら、こんな言葉で()()()()()()()()()()()()()()()

 

 女の子の誘い方がとても自然で堂に入っているので、思わず小さく拍手をしてしまって。そのまま雰囲気に乗せられるようにして頷いてしまったのだけれど。

 

 それってつまり、私と比企谷くんが二人っきりでディスティニィーを周るんだよねと。その意味にようやく気付いた時には、比企谷くんの姿はもうどこにもなくて。

 二次会へと向かう同級生を送り出しながら、私の心臓は痛いくらいにドキドキ動いていた。

 

 

***

 

 

 結局あれから何も言われないまま当日を迎えてしまった。

 

 そのことに一抹の不安と安堵を覚えながら、バスの中でも比企谷くんを何度もちらちらと目で追ってしまった私は悪くないと思うのだけど。

 

 そのたびに友人たちからネタにされると、恥ずかしいという気持ちとともに、私が深く考えずに頷いちゃったのが悪かったのかなって思えてきて。でもじゃあどんなふうにお返事をすれば良かったのかなって考え始めると、頭の中で色んなことがぐるぐると回ったまま、どこにも辿り着けなくなってしまう。

 

 比企谷くんみたいに経験豊富な人とは違って、私は見た目も中身も実年齢より幼く見られることがほとんどで。だから少しくらいは気を配ってくれても良いのに、なんて。私をせっかく誘ってくれた比企谷くんに責任を転嫁するような思考に陥りそうになって、ようやく我に返るという繰り返しだった。

 

 

「あ、葉山くんと海老名さんだ」

 

 その声を耳にして顔を上げると、クラスの中でもひときわ目立つ二人が入園ゲートを過ぎたところで立っていた。それと、そんな二人を遠巻きにして、あわよくば一緒に周りたいと画策する同級生がちらほらと。

 

 二人はたぶん、どう対処しようか悩んでるんだろうな。

 

「あっ。美緒、あっち。比企谷くん」

 

 どきんと心臓が跳ねるような心地がしたものの、当の比企谷くんが所在なさげにどうしたものかと佇んでいるのを見てしまうと、なぜだかふふっと小さな笑いが漏れてしまった。

 

 本当は経験豊富な男の子なのに、妙な親近感が湧いてきて。いけないいけないと両手を握りしめて、感情が傾かないように心の備えを確認してから、ててっと彼の前へと走り寄る。

 

「比企谷くん。よかったら、二人で周る前にみんなで一緒にどうですか?」

「え、あ、おう。……すまん、助かる」

 

 ますます比企谷くんが女の子の扱いに慣れていないウブな男の子に思えてきて、なるほどこのギャップが大勢の女の子を虜にしてきた秘訣なのだなと、うむうむふんふんと頷いていると。

 

「富岡ちゃん、ちょっと……」

「あ。呼ばれてるので、一緒に来てもらっても良いですか?」

 

 友人が手招きしてきたので入園ゲートの近くに戻ると、葉山くんが私に話し掛けてきた。

 

「俺と姫菜も良かったら一緒にって誘われたんだけど、迷惑じゃないかな?」

「げ。せっかく助かったと思ったのに……」

 

 すぐ後ろから絶望に満ちた声が聞こえてきたので振り返ってみると、比企谷くんがいつもの達観したような斜に構えたような大人な佇まいで遠くを眺めていて。

 

 顔を戻して葉山くんを見ると、いたずらを成功させた子供のように口元が少しだけ持ち上がっているようにも見えたのだけど、落ち着いた大人な雰囲気はこちらも普段と同じ。

 

「じゃあ、このメンバーで今日はよろしくお願いします!」

 

 だから、あんまり気にしすぎないようにしようと考えながら、私は続けて行動開始を宣言した。

 

 

***

 

 

 急造の組み合わせだったけど、葉山くんや海老名ちゃんが上手い具合に気を配ってくれたので、午前中は予想以上に楽しい時間を過ごせた。

 

 というか学級委員なんだから、私が二人みたいな役割を果たさないといけないのに……こんなだから年相応に見てもらえないんだよねと、我が身を省みてため息を一つ。

 

 それでも、むんとお腹に力を入れて顔を上げて。

 さて次はどこに行こうかと考えたところで、視界の端に比企谷くんの姿が映った。

 

 クラス会でも奉仕部の部室でも、それほど長く喋ったわけじゃないので、比企谷くんの性格はまだ掴みきれないところがあるのだけど。

 何となく、今の比企谷くんは楽しそうだなって思って。

 

 気がつけば私は、ふふっと笑みを浮かべていた。

 比企谷くんを優しい目で眺めながら。

 

 ……これってやっぱり、情がわいてるんだよね?

 

 そりゃあ、二人で周ろうなんて誘われたら意識して見ちゃうし。

 こそこそと比企谷くんを見ていると、さりげなく周囲に気を回してたりとか、嫌なことは手早く済ませようとしている様子とか。ものすごく悩みながら、それでも一言一言をていねいに打ち込んで誰かに返事を書いていたり。

 

 今まで知らなかった側面を見つけるたびに、もてるのも当然だなって思えてきて。

 

 雪ノ下さんと、ゆいちゃんと。会長さんと、妹さん。

 そんな四者四様の素敵な女の子に囲まれている時が本物の比企谷くんで、教室にいるのは偽物……は少しちがうか。抜け殻というか、仮の姿というか、適切な表現が出てこないけど何かちがうなって感じがしてたんだけど、今日の比企谷くんはいいなって──と、あぶないあぶない。

 

 で、でも、お昼を過ぎても比企谷くんは何も言ってこないんだよね。

 それなら私から、二人きりになろうって誘ったほうがいいのかなぁ。

 けど、友達の前で誘うのは難易度が高いなぁ……あれっ?

 

「誰っ……?」

 

 もんもんと考えごとに耽っていたら、急に背中の辺りに視線を感じて。

 ぐりんと思わず振り返ってみたものの、怪しげな人はいないし、見られている気配もすっかり失せてしまった。

 だからその場で立ち止まったまま首をひねっていると。

 

「ん。どしたの、富岡ちゃん?」

「あっ、えっと……。うん、気のせいだと思う」

「さては美緒、緊張してるなー。もう、いちいち可愛いんだから、もう!」

「ちょっと。あんまり大きな声で言わないで!」

「ごめんごめん」

「つーん。聞こえませーん」

「ごめんってばー。美緒〜っ、無視しないでよー」

「たぶんだけど、葉山くんと一緒にいるからか、時々じーっと見られてる気がするよね。富岡ちゃんはそれが気になったんじゃない?」

「あ、そっか。うん。原因が分かって、ほっとしたかも」

 

 なるほど。言われてみれば納得だ。

 だから私は再び前を向いてひょこんと首を伸ばして、すぐ近くまで迫っていた白亜の城を目に存分に焼き付ける。

 

 穏やかな青空のむこうでは白い雲が細く長くたなびいていて、そういえば入園してから初めて見たかもしれないなと、緊張がほぐれているのを実感していると。

 

 

「……あー。俺、この後ちょっと」

 

 思わずびくんとなってしまった私だけど、来るものが来たおかげで肩の荷が軽くなったような心地もする。

 

「二人で周るんですよね?」

 

 なので比企谷くんの目の前にぴょこんと飛び出して、何でもないような落ち着いた口調を心掛けた。

 ……心臓がばくばくしてるんだけど、誰にも聞こえてないよね?

 

 小さく頷いた比企谷くんに、こちらは大きく頷きを返して。

 知らず知らずのうちに笑顔になっている自分に気が付いて、私ってこんなに楽しみにしてたんだなぁと呆れるような気恥ずかしいような、それでもやっぱり嬉しい気持ちも確かにある。

 

 比企谷くんにしてみれば気まぐれで誘っただけかもしれないけど、男の子と二人きりでディスティニィーなんて私にとっては一大イベントだ。

 

 女の子の扱いに慣れている経験豊富な比企谷くんなら私が嫌がるようなことはしないだろうし、安心して身を委ね……ねねねって別に変な意味じゃなくてエスコートを任せるってだけで身を寄せ合ったりとかそんなのはもちろん考えてないしましてや身も心もなんて……ぷしゅう。な、なんだか暑くなってきちゃったかも。

 

「美緒、暴走しちゃわないようにね」

「富岡ちゃんは可愛いなぁー」

 

 にやにや笑いをやめない悪友たちのせいで、頬のあたりの熱がとんでもないことになっている気がするんだけど。

 今の私は本当にいっぱいいっぱいだから、お願いだから勘弁してって涙目になりながら訴えたら、うんうん皆まで言うなって感じの生暖かい視線が返ってきた。

 

 ……いっそのこと、今から私、家に帰ろうかな?

 そんなふうに現実逃避に走りつつあった私の耳に、二人の男の子の声が届く。

 

「今日は『何から乗る?』って訊かれても、京葉線には目をやらなかったな」

「は。誰だよそんな失礼なことをしでかす奴は?」

「家に帰る気まんまんだった昔の君だろ?」

「花火の時に何かしでかした奴のことしか記憶にねーな」

「へえ。君でもそういうことは覚えてるんだね」

「おかげで荷物持ちにまで身を落としたからな」

「ああ。あの時は助かったよ、雑用係」

「マスコットに比べりゃ楽なもんだわ」

 

 えっと、二人の間に割って入れる気がしないんだけど……。

 で、でも海老名ちゃんが笑って見てるから止めなくても大丈夫、だよね?

 

 どうやら、すがるような目つきになってたみたいで。

 仕方がないなーって顔をした海老名ちゃんが、てこてこと二人に近付いていく。

 やっぱり頼りになるなぁ。

 

 海老名ちゃんって、いつも冷静なイメージだけど、取り乱すことってあるのかな?

 なんて変なことを考えていると。

 

「そろそろ優美子たちと合流しよっか」

「そうだな……」

 

 ちらっと時計を確認して、葉山くんは静かに頷きを返した。

 その仕草を、つい最近どこかで見たような気がして。

 むむっと首をひねっていると、その間に友人たちも別行動の予定が立ったみたいだ。

 

 ……今さらだけど、なんだか心細いよぉ。

 

「んじゃ、おとみとヒキタニくんもまたね」

 

 目だけで友人たちを引き留めていると、海老名ちゃんと葉山くんは先にさっさと離れていった。

 

 頼れる二人がいなくなって。

 ますます潤んでくる視界の向こうで、からかうでも茶化すでもなく穏やかに頷く友人たち。

 

 彼女らが私にエールを送ってくれたのが分かったので。

 ぎゅっと目をつむってから大きく見開いて、私もしっかりと頷きを返した。

 

 

***

 

 

「さて。どういうことなのか説明して欲しいのだけれど?」

 

 二人きりになっても、すぐに移動しようとは言われなかったので。

 心を落ち着ける時間をもらえるのは嬉しいなって。ほんとうに女の子の扱いを心得てるんだなぁ、なんてほんわかとした想いを抱いていると、雪ノ下さんがやって来た。

 

 そっか、今日の監督役は雪ノ下さんかぁ……。

 ゆいちゃんなら話しやすいし気楽に過ごせるなって、そう思わなくもなかったけど。雪ノ下さんとも仲良くなりたかったから、チャンスだと前向きに捉えよう。

 

「クラス会の時に比企谷くんが、私と二人で周る気だからって誘ってくれたんです。私、雪ノ下さんとも仲良くなりたくて。だから雪ノ下さんも監督責任とか考えないで、みんなで楽しく過ごせたらいいなって」

 

 私の説明を聞きながら、こてんと頭を傾ける雪ノ下さんが可愛すぎて、内心できゃーとか叫んでいると。

 

「さて。どういうことなのか説明して欲しいのだけれど」

「いや、俺も……あ、いや。うん、なんか分かったかもしれん」

 

 比企谷くんをじろっと睨み付ける雪ノ下さんは、抜け駆けを怖れているとかそんな感じなんだろうなぁ。

 こんなに美人で頭もすっごく良くて、そんな雪ノ下さんが惚れちゃうくらい比企谷くんもすごいってことなんだよね。

 

「その、二人で周るって言えば、通じると思ってたんだがな」

「もっと詳しく説明すれば良かったじゃない。どうして貴方は」

「いや、詳しくっつってもだな。てか、お前も監督責任とか」

「それはだって、貴方が……」

 

 比企谷くんが何だかはっきりしない口調なのは、関係を白黒つけちゃうと哀しむ子がいっぱいいるからなんだよね。

 うん。なんだか私、比企谷くんのことが理解できてきた気がする!

 

「大丈夫ですよ。二人で周る気だからって言われたのは確かですけど、比企谷くんと二人きりにはならないんだろうなって。誰か監督役も一緒なんだろうなって思ってましたから」

 

 ほんの数分前までのドキドキを棚に上げて、二人の仲裁を買って出たのだけど。

 二人とも微妙な顔つきなのはどうしてだろ?

 

「そう言ったのが確かなら、貴方が何とかしなさい」

「あいったぁ……」

 

 あ。雪ノ下さん、こっそり比企谷くんの脇のあたりをぽすんって。

 なにをやっても可愛く見えちゃうんだから、美人って得だよね。

 

「あー……えっと、その」

「はい。なんですか、比企谷くん?」

 

 平然と応じたつもりだけど、私はいつの間にドキドキを棚から下ろしちゃったんだろ?

 きっと、今から言われる言葉が予想できちゃったからだよね。

 

 私は本当に気にしてないのに、監督役が加わるのは気の毒だって比企谷くんは考えてくれてるんだよね。だからたぶん、二人で周りたかったって気持ちは本物だから、なんて女の子を蕩けさせるようなことを言われちゃうんだろうなぁ。

 

 知らず知らずのうちに両手を握りしめていたのだと、気付いた時には視界までぼやけてきて……。

 

「あの……。えっと、三人で周ってもいい?」

「比企谷くん、貴方ね……」

「仕方ねーだろ。あの潤んだ目を見てもお前は……」

「いえ、そうね。確かに庇護欲をそそられるというか、一色さんに甘い貴方なら仕方がないとは思うのだけど」

「余罪をさらっと追及してくるの、やめてくれない?」

「罪の意識はあるのよね?」

「じゃあお前が、泣かせる覚悟で説明してみるか?」

「うっ……。はあ、仕方がないわね。もう」

「あいったぁ……」

 

 うるうるしている私を見て、きっと比企谷くんは刺激が強すぎると判断して言葉を取り下げてくれたんだよね。

 雪ノ下さんもたぶん、ライバルが多い現状を説明してくれようとして、でも私にその手の経験が全くないのを見抜いて勘弁してくれたんだよね。

 

「富岡さん。……もしもし、大丈夫ですか?」

 

 雪ノ下さんが名前を呼んでくれたのに、うまく返事ができなくて。

 でも続けて優しい口調で尋ねてくれたので、うんと大きく頷いてからめいっぱい息を吸って。

 

「じゃあ今日は、よろしくお願いします!」

 

 袖口でそっと涙を拭ってから、私はふふっと頬を緩ませながら頭を上げた。

 どこか困ったような顔つきだったのに、すっと目尻を下げる二人を見て、いい人たちだなって私は思った。

 

 

***

 

 

 それからは思いがけない展開の連続だった。

 

「とりあえずパンさん行くか」

「いいの?」

「さっきはショップに行く時間がなかったですからね」

「いや、二回目な」

「四回目でも五回目でも楽しめるわよ。それと、乗っている間は静かにね」

 

 てっきりお店に行くものだと思っていたのに、比企谷くんは二回目でも普通に楽しめるみたいで。

 それに雪ノ下さんがアトラクションを堪能している姿を見ていると、エモいってこういうことなんだなって。

 途中からは私、雪ノ下さんをじっと見つめたままで……へ、変に思われてないよね?

 

 

「ふははははっ。来たな八幡よ待ちわびたぞ。我はもう既にレアポケ大量、貴様との勝負は見えたな!」

「はあ。ちょっと見せてみ……せいぜい中レアじゃねーか」

「ざ、ざい、財津……くん。この園内の果ての果てに、なんとかGOの巣があるって比企谷くんが言ってたわよ?」

「むむっ。貴重な情報に感謝する。さらだばー!」

 

 ショップに向かう途中で変な人と出くわしたり。

 

 

「その、妹のお土産を選んでてさ」

「けーちゃんの希望とか聞いてないのか?」

「訊いてはみたんだけど、その……」

「なら希望どおりのものを買えば良いじゃない」

「それが、その……夜のうなぎパイ」

「は?」

「だから、夜のうなぎパイがいいって、けーちゃんが」

「そう……。その、私で良ければ見繕ってあげても構わないのだけれど?」

 

 ショップであれこれ悩んでいた川崎さんは、体育祭でチバセンの大将を務めた頃からだったかな。女子の間で密かな人気を誇ってるんだけど、まさか比企谷くんとこんなに仲がいいなんて知らなかったなぁ。

 

 

「八幡っ!」

「おおっ、戸塚は今日もかわ……ぐへっ」

「戸塚くんも買い物に来たのかしら?」

「うん。みんなでパンさんの耳を着けようって話になって」

「パン耳……いい。似合う。マストバイ」

「貴方は黙ってなさい」

 

 え……戸塚くんって、一部の女子の間では王子様あつかいされてるんだけど。

 一緒に行動して初めて分かることが色々あるんだろうなって思ってはいたんだけど、比企谷くんって交友関係広すぎない?

 

 

「気のせいか遭遇率があれだな。ちょっとベンチで休んで行くか?」

「そうね……ごめんなさい、助かるわ。あら?」

「あっ、八幡?」

「んんっ、と。ああ、ルミルミか」

「ルミルミっていうの、キモい」

「一緒にここに来る友達ができたんだな」

「……うん」

 

 あの……中学生か、もしかしたら小学生の女の子なんですけど?

 それも雪ノ下さんに匹敵するくらいの美少女なんですけど!

 どこで知り合って声を掛けてメロメロにするんですか比企谷くんは!?

 

 

『千葉の名物……って、おーい。雪ノ下さんと比企谷くーん!』

「ふむ。東京を名乗るこの園内で、千葉を強く主張するのはいったい?」

「貴方わざと言ってるのよね。城廻先輩がバイトを始めたという話は聞いていたのだけれど、ちょっと恥ずかしいわね」

 

 前の会長さんとは、たしか文化祭でバンドをやってたもんね。

 仲がいいのは知ってたつもりだけど、あんなに嬉しそうに声かけてくれる先輩っていいよね。マイク越しじゃなかったらもっと良かったんだろうけど、うん。私も恥ずかしいよぉ。

 

 

「つまり園内を効率的に周回するにはクリアなビジョンがコモディティ化する前にイノベーションにフルコミットしてファクトベースのマインドアップでパラダイムシフトに備えるべきなんだよね」

「それあるー!」

「……見付かる前に逃げるぞ」

「私にも異存はないわ」

 

 その、あの人たちとも知り合いなんでしょうか?

 

 

「お、いたいた。ちょーっす!」

「ゆきのーん。ヒッキーも。……あれ?」

「富岡さんも一緒だったんだな。さっき城廻先輩が呼びかけてたからさ」

「愚腐腐っ。急いで駆け付ける隼人くん、それを待ちきれないヒキタニくん。二人の熱い抱擁が……キマシタワー!」

「はいはい。ちーんってして、ちゃんと擬態するし」

 

 そもそも、葉山くんと戸部くんと三浦さんとゆいちゃんと海老名ちゃんのこのグループと仲がいいって時点で、比企谷くんがただ者じゃないのは解ってたつもりだけど。

 

 海老名ちゃんがあんなふうに取り乱してる姿も初めてだし、三浦さんはすっごく慣れた手つきで優しく介抱してるし、近くで見ないと分かんないことって本当にたくさんあるんだなぁ……あ。

 

「この面々だと、見られても仕方がないよね」

 

 また視線を感じたので後ろを振り返ってみたんだけど、気にしてもしょうがないなって思えてきたかも。

 こんなふうに大勢に注目されながら過ごすのって、やっぱり大変なんだろうな。

 

 

 そんなことを考えながら、みんなの方へと視線を戻すと、戸部くんがどこかに電話を掛けていて。

 どうしたのかなって見ていると、スマホをひょいっと比企谷くんに。

 

『久しぶりのディスティニィーを楽しんでますか〜、先輩?』

「なに。お前ひまなの?」

『そんなに荷物が持ちたいなら、今度は家までお願いしますね〜』

「いや、それはまずいだろ」

『じゃあ、お米ちゃんに代わりますね〜』

「おう。でかした一色」

『ちょろいな〜この人。ほい』

『そこが兄のいいところなのですよ。今の小町的にもポイントかたい!」

「なあ。そこは高いじゃねーのか?」

『小町は安売りをしないことにしたのです』

「わけがわからないよ……」

 

 うん。会話が漏れてきたんだけど、本当にわけがわからないのが正直なところかも。

 比企谷くんがスマホを雪ノ下さんに渡して、それから順番に一言ずつ喋ってるけど、みんな妹さんとも仲がいいんだなぁ……え、私?

 

「ど、どうも……」

『お姉ちゃん候補が増えるのは小町的には大歓迎なので、不束者の兄ですがよろしくお願いします!』

「は、はぁ」

 

 びくびくおどおどすっかり萎縮しちゃったのが丸分かりで、情けないなぁ私。

 そう思ってしゅんとしていると。

 

「じゃあそろそろ、別行動にしましょうか」

「うん。ゆきのんまたね!」

 

 

 そう言い残して、ゆいちゃんは葉山くんたちと一緒に去って行った。

 他には誰も別れの挨拶をしてなかったのが逆に、絆の深さというか関係性の強さを感じさせて、よけいに自分が場違いな感じがして。

 だから──。

 

「あの、私そろそろ別行動に……」

 

 スプライドマウンテンが見えてきた頃から、二人がちらちらと私を窺っているのには気付いていた。

 

 そもそも比企谷くんが気まぐれで誘ってくれただけで、もともと私は今日だけのお付き合いなのだから、二人の間に割って入るのはやっぱり良くないことなんだって思えて来て。

 

 でも、夕暮れが近付いてくる中で、この広い園内に独りだけで放り出されるのは……けど、うん。ちゃんと自分から断らないと!

 

 そう考えて、私が言葉を続けようとしたところで──。

 

「きゃっ?」

「誰っ……かと思えば、お久しぶりですね」

 

 急に走り寄ってきた誰かが私と雪ノ下さんの肩を抱いて、比企谷くんから引き離そうとしたのかな?

 突然の事態に頭がついていけない私とは違って、雪ノ下さんは顔を見なくてもそれが誰だか判ったみたいで。

 

「悪いな比企谷。スプライドマウンテンは三人用なんだ」

「いや、なに言ってるんですか。というかスネ夫が相手なら玉の輿ですよね?」

「ぐはあっ……」

 

 振り返ると、去年まで国語を担当していた平塚先生が血の涙を流していた。

 

「結婚式の二次会で、また当てたんですね?」

「いや、それは違うぞ比企谷。今日のこれは教育委員会のお墨付きだからな!」

 

 比企谷くんと仲のいい女の子は今日だけでもたくさん見てきたけど、平塚先生との距離感は独特だなって思いながら、私も一緒に事情を聞くことに。

 

 どうやら、三年生になって国語の担当が変わったことを不安に思う生徒が少なからずいるみたい。だって総武は進学校を謳ってるわけだし、保護者も教育熱心な人が多いみたいだし、そういう声が出るのも当然といえば当然なのだろう。

 新しい先生は大学を出たばかりで、なんだか頼りない印象なんだよね。

 

「けど相互訪問授業って、普通は海外の姉妹校とかじゃないんですか?」

「二週間や三週間という短期の訪問授業よりも、月に数度という形にして長期的に実績を積み上げていくほうが良いんじゃないかって話は以前から出ていたのよ。だから、平塚先生はたまたま条件に合って……まさか!?」

 

 平塚先生の代わりに説明していた雪ノ下さんが急に顔色を変えて、どこかに電話を掛け始めた。それを見た比企谷くんは何かを察したみたいで急に遠い目をして……なんだか疲れて見えるんだけど大丈夫かな?

 

「姉さん、説明して」

『えー、めんどくさいなぁ。どうせそこに静ちゃんがいるんでしょ?』

「つまり、そういうことなのよね?」

『さあ。雪乃ちゃんがそう思うのなら、そうなんじゃないの?』

「……分かったわ。でも、そうね……ありがとう」

『ふふっ、雪乃ちゃんは可愛いなあ。じゃあ比企谷くんに代わってくれる?』

「いやよ。だって姉さんぜったい」

『比企谷くーん。あのねー、雪乃ちゃんのネイ』

「黙りなさい」

 

 うわ、容赦なく通話を切っちゃった。しかも抜かりなく電源を落として、って比企谷くんにも平塚先生にも同じようにしろって……うん、雪ノ下さんには逆らわないようにしよう。

 

 一連の騒動が終わって、付近には微妙な空気が漂っている。

 少しだけ口元を気にした平塚先生は、すぐにそれを諦めて、苦笑を浮かべながら雪ノ下さんだけを比企谷くんの方へと押しやった。

 

「ほら。富岡は私が引き受けるから、君たちの口から伝えたまえ」

 

 肩に再び温かい手が添えられる。

 これから起きることが何となく理解できて、それでも私はさっきほど寂しいとは思わなかった。

 ……そっか。私さっき寂しいって思ってたんだ。

 

「富岡さん。今日は三人で周れて予想以上に楽しかったわ。でも……」

「あのスプライドマウンテンだけは二人用なんだ。その、悪いな」

 

 涙は、流れなかった。

 きっとそうだと、心のどこかでとっくに理解していたから。

 それよりも──。

 

「私も、今日は朝から比企谷くんと、途中からは雪ノ下さんとも一緒に周れて楽しかったです。だから……比企谷くんや雪ノ下さん()()と、もっと仲良くなりたいなって。三年になってからなのが残念ですけど、お願いできますか?」

 

 私の提案が耳に届いた瞬間の二人の表情を見てしまえば、育つどころか芽が出ることさえなかった想いもきっと報われるというものだ。

 

 

 遠ざかって行く二人の影のほんの一部分が、静かに重なったように見えた。

 それを並んで見届けてから、私は先生に質問の山を浴びせた。

 

 比企谷くんと雪ノ下さんと、それから園内で出会った人たちが、去年どんなことをして来たのか。

 朝からずっと私たちを陰ながら見守ってくれていた先生が、あの二人をどんなふうに想っているのか。

 

 長い長い話を聴き終えて、ゲートの近くで先生と別れて友人たちと合流した私は、家に着くなり部屋に飛び込んで日記帳を開いた。そして今日あった全てを書き記していく。

 

 今日の出来事なんて、長い人生と比べるとほんの一瞬に過ぎないのだろう。

 けれど、かけがえのないその一瞬は、なんてことない未来のためにあるんだって。

 

 そう思えた私は、今日で少しだけ大人に近付けた気がした。

 




こうして役者が揃って、物語はいよいよ──
新プロジェクト『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結』
Coming Soon!


なお、本作のどの部分が原作準拠でどこが捏造かを知りたい方は、円盤を買って下さい(ダイマ)。

またこの作品を再利用できる日が来ることを願いつつ。
最新話が難航していますが、長編も宜しくお願いします。

ではまたいずれ。


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