爆笑‼︎最強(凶)信長物語 (藤種沟)
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ちょっと本編の前に
信長の生涯
織田信長。
日本人なら誰でも聞いたことのある名前だと思います。
この小説は、そんな織田信長の「もしも」をえがいた小説ですが、本編をお読みいただく前に、「史実」の織田信長の生涯をざっとおさらいしたいと思います。
作者の自分が言うのもなんですが、この小説の売りは「史実の信長とのギャップ」だと思っています。ですから、ここで信長のおさらいをした方がよりギャップを楽しんでいただけるかな〜……と思い、前振りがわりにここで信長のおさらいをしようと思いました。
この章を読まなくても十分本編はお楽しみいただけると思いますが、ぜひこの章をお付き合いください。きっと、より本編が楽しく読めるようになると思います‼︎
1、幼少時代〜桶狭間の合戦(0歳〜27歳)
天文3年(1534)、信長は尾張(今の愛知県西部)の守護代の家来、織田信秀の3男として生まれた。彼は生まれてすぐに那古野城(今の名古屋城二の丸庭園)を父から譲られたが、父、母と離れ離れとなり(父信秀は古渡城という城に居を構えた)寂しい幼少時代を送った。
13歳で元服し、その翌年初陣。当時、信秀は駿河(今の静岡県東部)、遠江(今の静岡県東部)、三河(今の愛知県東部)を治める今川家、美濃(今の岐阜県南部)を治める斎藤家と争っており、初陣の時、信長は今川勢と戦った。
信長15歳の時、美濃の大名斎藤道三の娘、濃姫と結婚。これは信秀が斎藤家に敗退した折成立した和睦の証としての結婚、いわば政略結婚であった。ちなみに、この二人の間に子供はいない。
信長は16〜18歳の頃まではこれといった遊びにふけることはなかったが、しばしば奇妙な行動が目立った。ゆかたを袖脱ぎにして着、瓜をかじりながらいつも人の肩にぶらさがって歩いていたという。
仮にも尾張の中では格式の高い武家の嫡男(3男ではあったが、兄2人は側室の子であった為、正室の子である信長が嫡男として育てられた)で妻もいる男のこのような行動は、かなり見苦しいものであったであろう。
逆に、後に跡目争いを繰り広げることになる弟信行(信秀の4男)は折り目正しい男であったとされている。
信長19歳の時、父信秀が病死した。この信秀の葬儀に、信長はいつものだらしない格好で参列し、仏前に抹香を投げつけて帰ったという。ちなみに弟信行はきちんとした服装で礼にかなった方法であった(ちなみに、信秀の死後、信秀の居城は信行に譲られている)。
このような信長の行動に絶望した信長の守り役平手政秀がこの翌年自害した。
信長23歳の時、弟信行が信長に敵対した。いわゆる跡目争いである。この時、信行側には信長の筆頭家老であるはずの林秀貞も参加したという。この時、信長の兵約七百、信行の兵約三千。多くの者が信行側につき、信長に敵対したが、信長は戦の末勝利し、母親の仲介で和解した。
しかし翌年またもや信行は兵を挙げ、信長に敵対。結局、信長は実の弟を誅殺し、完全に織田家の家督を継いだ。
27歳の時、父の因縁の相手、駿河の今川家の当主、今川義元が尾張に侵攻してくる。目的は尾張の占領と上洛(京都にいくこと)であった。
織田軍3千に対し今川軍2万5千。今川軍は圧倒的な兵力で尾張の砦を次々と占領していった。
この時信長はろくに作戦会議もしなかったという。大変だと集まってきた家来たちには軽い世間話をしただけで、作戦のことは一切語らず、悠々と構えていたという。
しかし信長は今川軍が桶狭間(愛知県豊明市)で休息をとっているという情報を手に入れると、「敦盛」という舞をまい、すぐさま鎧をつけ、兜をかぶって出陣。この時信長に従ったのはたった6騎であったという。
桶狭間への道のりの途中でなんとか兵士たちは信長に追いついたが、どんなに頑張っても信長軍は3千。とても勝てるのは思えない状況であった。ちなみにこの時大雨が振り、今川軍に気づかれずに進軍ができたという。
雨があがったところを見て、信長は今川本陣に総攻撃をしかけた。信長自身も槍を振り戦ったという。信長は、義元を倒せば、あとの2万5千は混乱し、戦えなくなるだろうと踏み、わざと義元本陣に向けて正面突撃を敢行したのである。
諸将の奮闘もあり、信長は義元の首を挙げ、無事今川軍を撃退したのであった。
駿河、遠江、三河の3ヶ国の領主今川義元を、尾張の小大名が倒したということで、信長は全国にその名を轟かせたのであった。
2、美濃攻略と上洛(28歳〜37歳)
今川義元を倒した信長はすぐさま今川領三河を攻めたが、翌年、弱体化した今川家の隙を突き三河の領主となった徳川家康と結び、織田家の因縁の相手である斎藤家の所領、美濃を攻略することにした。
30歳の時、清洲城から、美濃に近い小牧山城に転居。美濃に近い方が、美濃での戦の指揮がとりやすいからである。
33歳の時に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に美濃攻略の拠点として墨俣城(岐阜県大垣市墨俣)を築かせた。
この墨俣という地は、尾張美濃の国境を流れる木曽川などの大河に囲まれ、しかも斎藤家の領内にあった。今まで木下藤吉郎の他にこの地に築城しようとした者はいたが、川の流れや斎藤軍の襲来でなかなか工事が思うように進まず、これまで織田家は拠点をつくれないでいた。
しかし木下藤吉郎は発想を変え、川の上流で拠点の材料を切り出し、それを筏にくんで川に流し、途中で組み立てながら墨俣に持ってきて、いっきに仕上げるという方法で拠点をつくりあげたという。木下藤吉郎は墨俣城をわずか1〜2ヶ月で完成させ、墨俣城は「一夜城」と呼ばれることとなった。
信長は墨俣城を拠点に斎藤家の居城稲葉山城を攻撃。これを陥落させ、信長は完全に美濃を手中におさめた。この時、信長は稲葉山城を岐阜城と改め、そこを居城とした。
信長は尾張、美濃の二ヶ国を治める大名として、「天下布武(天下を武力で統一する、という意)」というスローガンを掲げ、天下取りへの道を着々と歩んでいくことになるのである。ちなみに、教科書にもでてくる楽市楽座は、信長岐阜城入城の2ヶ月後、岐阜城下ではじめて実施された。
35歳の時、信長のもとに前室町幕府将軍の弟足利義昭が訪れた。
義昭の兄義輝は室町幕府の13代将軍であったが、家臣の裏切りにあい絶命。その時義昭も命を狙われたがなんとか難を逃れ、室町幕府の再興を目指し、信長に協力を要請してきたのである。
信長はこの求めに応じ、上洛を決意(当時室町幕府の本拠は京都にあった)。美濃から京都までの道中の近江(今の滋賀県)の大名浅井長政に妹お市の方を嫁がせ、同盟を結び、京への道を確保した上で上洛。途中、南近江の大名六角氏を倒し、ついに入京。美濃攻略からわずか1年ちょっとでの出来事である。足利義昭を室町幕府第15代につけ、将軍をつくった男として信長の権威は急上昇した。
その後、信長は各地の大名に、新将軍義昭へあいさつに来るようにとふれをだした。これは自らの権威を知らしめるのが目的であったと言われている。
しかし、この信長の勢いを快く思わなかった越前(今の福井県北部)の大名朝倉義景はこのあいさつの命令を拒否。信長は、「将軍の命令に背いた」という理由で朝倉義景を攻撃した。
当初、信長は朝倉義景相手に快進撃を続けていたが、突如、近江から同盟相手であるはずの浅井長政の攻撃にあい、敗退。信長は木下藤吉郎を殿(しんがり、と読む。軍が総撤退するときに敵の追撃を防ぐ部隊)として配置し、信長は単騎京都目指して退却した。
ちなみに、浅井長政の裏切りの理由は、浅井朝倉間の同盟にある、と言われている。浅井家と朝倉家は古くからの盟友で、共に戦国乱世を乗り切ってきた仲であった。そもそも、浅井長政は信長と同盟を結ぶ際、「朝倉家を攻めない。」という条件を提示し、信長もそれを受諾していた。これは信長の約束違反であり、長政が裏切っても仕方のない行為であった。
余談だが、この時、信長は長政に嫁いだお市の方から両端をしばった小豆入りの袋を送られて長政の裏切りを察知したと言われている。この袋の意味は「袋の鼠」。朝倉と浅井の挟み撃ちにあう、というメッセージであった。
この時代、他国の大名に嫁ぐ姫はその嫁ぎ先の大名の情報を実家に伝える、スパイとしての役割を持っていた為、お市の方の行為は当然の行為であった。
退却の途中、信長は六角家の家臣杉谷善住坊に狙撃され、怪我をしている。それだけ、義理の弟長政の裏切りは信長にとって大変なものであった。
しかし、退却に成功した信長はすぐさま軍を立て直し、浅井家の居城小谷城を攻撃。浅井方には朝倉軍、織田方には盟友徳川家康が駆けつけ、合戦になった。信長狙撃の1ヶ月後、信長37歳の時のことであった。
当初、織田軍は浅井軍に圧倒的に押されていたが、徳川軍が朝倉軍を総崩れにし、ついには浅井軍も総崩れとなり信長の勝利となった。この合戦は後に「姉川の合戦」と呼ばれている。
3、信長包囲網(37歳〜42歳)
この頃、京都の将軍足利義昭と信長との間に亀裂が生じていた。信長は、自らの権威を高める為に義昭を利用したが、室町幕府を再興する気など毛頭なかった。自らが利用されているだけだと気づいた義昭は、室町幕府再興の為に動き出す。
義昭は各地の大名に手紙で信長追討の命令を出した。この求めに応じたのは信長と敵対している浅井長政、朝倉義景、六角義賢、そして甲斐(今の山梨県)の武田信玄、さらに全国の浄土真宗の総本山である石山本願寺(今の大阪城の位置にあった寺。現在は西本願寺、東本願寺に分裂)などであった。
とくに石山本願寺率いる一向門徒たちの働きはめざましく、長島(今の三重県桑名市)の一向門徒は信長の弟を自害に追い込むなど、信長を追い詰めていった。
信長38歳の時、近江に出陣し、比叡山延暦寺を焼き討ちにした。比叡山延暦寺は平安時代、最澄が開山し、天台宗の総本山、鎮護国家の大道場として皇室からの信仰も厚かった、当時日本一の格式を誇る寺であった(ちなみに現在比叡山延暦寺は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産となっている)。焼き討ちの理由は浅井、朝倉に味方した、というものであった。
この時比叡山には山下の住民がたくさん逃げ込んだが、織田軍は女子供にいたるまでそれを全て斬り、そして延暦寺の高僧たちも全て斬り捨てた。延暦寺の名だたる建物も全て焼き払い、後には数千もの死体が転がるのみとなってしまった。
この鎮護国家の大道場の焼き討ちは、信長の「逆らう者は誰であろうと容赦しない」という強固な意志を、敵対する大名たちに知らしめることとなった。
信長39歳の時、包囲網の呼びかけ人である将軍足利義昭に対して17ヶ条の意見書を提出した。これは将軍義昭の失敗を責める内容で、「諸国に御内書(将軍の私用文書)をだし、信長に無断で指示をだすのは良くない」とか「将軍が欲深で、世間では『悪御所』と呼ばれている。なぜそのように陰口をたたかれているか考えた方がいい」とかとても家臣(名目上は)が将軍にあてて出すものではない内容のものであり、信長と義昭の仲はますます険悪なものとなった。
同じ年に、義昭の信長追討に応じた武田信玄が上洛を理由に、信長の同盟相手、徳川家康の領地に攻めてきた。この時家康は完膚なきまでに叩きのめされ、家康はその時恐怖のあまり脱糞したという(余談だが、家康は脱糞した時「これは味噌だ」と言い張り、石川数正という家臣に食べさせたという。ちなみにこの石川数正は後に家康を裏切っている)。三河、遠江を領有していた家康が倒されたら、次は信長の本拠尾張である。この時が、信長の人生最大のピンチであった。
武田信玄は「甲斐の虎」とも称されるほどの大名で、彼の率いる騎馬隊は「戦国最強」とも謳われた。軍神とも恐れられた、戦での勝率90%以上の上杉謙信とも互角に渡り合い、義昭の信長包囲網の本命であった。
将軍義昭、浅井、朝倉、本願寺ら一向門徒など多数の敵との戦に明けくれ、それだけで手一杯であった信長は、武田信玄の侵攻を聞いて間違いなく自身の絶体絶命を感じたであろう。
しかし、実際、武田軍は尾張に進軍せずに甲斐に引き上げていった。
これは信長包囲網参加大名にとっては想定外のことであり、信長を大いに元気づけた。
実は武田信玄は尾張目がけて進軍中病に倒れ急死したのだ。享年53歳。彼の遺言「自分の死は今後3年間伏せるように」によって、彼の死は信長包囲網参加大名にはしばらく知らされなかった。しかし、信長は信玄の死の情報をいち早く掴み、信玄の死と同じ年に義昭を攻めたて、義昭を京都から追放した。これにより、室町幕府は滅亡した(しかし、義昭はこの後もしばらく将軍位に居座った。将軍位を返上したのは1588年のこと。信長が死んだのが1582年であるから、信長の死後も義昭はしばらく将軍位にあった)。
包囲網の呼びかけ人の追放により包囲網は各個撃破されてゆく。
義昭を追放して1ヶ月も経たないうちに、信長は越前へ出兵し、朝倉義景を攻撃。朝倉義景は家臣の裏切りにあい切腹。越前の雄、朝倉家は滅亡した。
次の月、信長は義理の弟浅井長政を攻撃した。長政の父久政、長政は切腹し、長政の嫡男万福丸は磔にされ、浅井家は滅亡した(長政の正室で、信長の妹お市の方は、茶々、お初、お江の三人の娘を連れて脱出。信長に保護された)。
信長は、信玄の死から一年足らずで信長包囲網を崩壊させたのである。この時信長40歳。
翌年の正月、信長は朝倉義景、浅井長政、その父久政の首を薄濃(漆で塗り固めてから金泥などで彩色したもの。ここでは、頭蓋骨にそのような彩色をした)にしたもので酒宴をしたと言われている。義理の弟に裏切られた恨みは浅いものではなかった、ということであろうか。
その年の7月、長島の一向一揆征伐の為に伊勢へ出陣。この一向一揆は信長の弟、信興を死に追いやった勢力である。
信長は一揆勢の拠点を取り囲み、兵糧攻めにした。一揆勢は3ヶ月の籠城で半数以上のものが餓死し、ついには降伏した。
しかし信長は、降伏し長島から退去する一揆勢を狙撃し、際限なく川中へ斬り捨てたと言われている。
さらに、その他の一揆勢2万が立て籠もっていた拠点には火をつけ、全てを焼き殺した。
こうして、本拠尾張の喉元、長島での一向一揆は鎮圧された。
信長42歳の時、先年死んだ武田信玄の後を継いだ武田勝頼が徳川家康領長篠城に攻めてきた。その兵数約1万5千。
勝頼は偉大な父に従ってきた老臣たちに、自分の力を認めさせ、家中をまとめようとして焦っていた。この長篠城攻めも、そんな勝頼の政策の一環であった。
対する家康は信長に援軍を要請。信長は約3万の軍勢を率いて長篠に出陣。即席の堀、土塁、そして柵を設けて、そこに強固な陣をつくりあげた。これは後世の人間が歴史を見て言えることだが、この時、織田信長、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉。この時信長に従軍している)徳川家康という、いわゆる三英傑が、偉大な父と比べられながら日々焦っていた29歳の若き勝頼に対峙していた、ということになる。
まず、信長は家康の家臣酒井忠次に命じて鉄砲隊500を含む4千の軍勢で武田軍を奇襲。見事長篠城を武田軍の包囲から解放した。
その後武田軍は織田徳川連合軍のいる、例の強固な陣に突撃。すかさず織田徳川連合軍は数千ともいわれる鉄砲で武田騎馬隊を迎え撃つ。この時使われた鉄砲の数は、一回の合戦で使われた鉄砲の数としては当時世界最大規模であったと言われる。
この数千の鉄砲隊に、戦国最強と謳われた武田騎馬隊は敵わなかった。ほぼ全滅に近い被害をだして、勝頼は退却した。この戦で武田家は百戦錬磨の武将の多くを失い、武田軍は衰退の一途を辿るのであった。
ちなみに、この年、信長は息子の信忠に家督を譲っている。
4、信長最盛期と、その死(43歳〜49歳)
信長43歳の時、近江安土山(滋賀県近江八幡市)に築城するよう命じた。この城は信長にとって、那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城に続く5つ目の城であった。生涯で、これほど本拠とする城を変えた戦国大名は珍しい。ちなみに、安土城が出来上がったのはこの5年後であった。
信長44歳の時、家臣の松永久秀が謀反を起こした。この男は将軍義昭の兄、13代将軍義輝を殺した張本人で、奈良の大仏をも焼き払った(現在の奈良の大仏は江戸時代に修理したもの)、戦国の大悪人である。信長上洛の折に信長に降伏。以後信長に従っていたが、武田信玄の上洛騒動の時謀反。しかし信玄の死で謀反は失敗。一旦は命は助けられていたが、再び謀反を起こしたのであった。
信長は久秀に、天下に名の知れわたった茶道具、「平蜘蛛茶釜」を差し出せば命は助けると交渉したが久秀はそれを拒否。久秀は信長の差し向けた軍勢に追い詰められ、その平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて、それに火をつけ自爆。日本で初めて爆死した男であると言われている。
信長46歳の時安土城の天主閣(普通は天守閣と書くが、安土城だけは「主」と書いた)が完成し、そこに移る。城の天主閣に住んだ大名は、後にも先にも信長ただ一人である(普通、城主は城の本丸御殿というところに住む)。
安土城の天主閣は地上6階地下1階の当時としては超高層建築(現存の天守閣でいうと姫路城とほぼ同じ高さ)で、その全ての階で、座敷の内部に絵を描いたところは全部金を用いたという。柱は1階から3階は黒漆塗り、5階は朱塗り、6階は金色で塗られていた。とにかくこの城は前代未聞の建造物であり、信長の世を象徴する建物となった。
信長47歳の時、ついに石山本願寺の顕如光佐が寺から退去。石山本願寺は焼失し、石山本願寺と信長との戦いに終止符がうたれた。
この年、信長は佐久間信盛信栄親子、林秀貞らを追放した。
佐久間信盛は信長が尾張の小大名だった頃からの譜代の家臣で、信長の弟信行が兵をあげた時も信長に味方し、石山本願寺との戦いの時は大将を務めるなど多くの武功をたてた男である。しかし、信長は佐久間信盛に自筆の手紙を書き、「信長の代になって30年仕えているが比類ない手柄をたてたことはあるまい」とか「その悪評は中国、朝鮮、南蛮にまで及んでいる」とか信盛に対しては非常に冷たい言葉を並べた挙句に高野山へ追放したのである。
同じく林秀貞も織田家の譜代の家臣で、信長の父信秀の代から使えていた織田家の宿老であったが、「信行との跡目争いの際、信行に味方した。」という、20年も前のことで追放された。
この事件は、信長が後世まで「冷酷」と言われる要因の一つである。
信長48歳の時、京都で「馬備え」を披露した。これはいわゆる軍事パレードのようなもので、信長の権力を誇示するものであった。このパレードには時の天皇も隣席し、とても華やかなものであったという。
信長は後ろに花を立てた唐冠をつけ、日本に3つしかないと言われる上等な小袖、そして天皇から頂戴した肩衣を着、さらに、その昔中国か天竺で帝王の為に織られたという金紗の織物を身につけた。
この馬備えと言い、前述の安土城と言い、この頃が信長の世の最盛期であったと言えるであろう。
信長49歳の時、ついに甲斐の武田氏を滅ぼす。武田氏は長篠の合戦の後みるみるうちに衰退していったが、あの戦いから7年後、信長はついに武田氏の領地に侵攻。当主武田勝頼は天目山というところで自害。ここに、武田氏は滅びたのであった。
同じ年、いわゆる天正10(1582)年、6月2日、その時信長は京都本能寺にいた。
6月2日の明け方、信長に中国地方に出陣するよう命じられた、織田家の重臣明智光秀が、突如として信長のいる本能寺を襲撃した。その数1万3千。一方信長のもとにはわずかな手勢しかおらず、多勢に無勢。自ら本能寺に火を放ち、燃え盛る本能寺で、信長は自害した。享年49。戦国の風雲児はこうしてあっけなく散ったのだった。
ちなみに、信長から家督を譲られた信長の長男信忠もこの時明智光秀に襲撃され自害している。
信長の世の象徴であった安土城もこの混乱の中何者かに火をつけられ炎上。灰燼に帰した。
謀反を起こした明智光秀は美濃出身の武将で、いつからか信長に仕えるようになった武将である。信長に仕える前は足利義昭に仕えていたとも、朝倉義景に仕えていたとも言われている。光秀は丹波(今の京都府、兵庫県の一部)攻略に尽力し、信長から織田家中一の手柄と称された男である。この男がなぜ謀反を起こしたかは定かではない。
こうして、信長の「天下布武」の時代は終わり、豊臣秀吉、徳川家康の時代へと移行していく。
信長の時代は、長くは続かなかったのだった。
ふぅ〜……これでひとまず信長の「おさらい」は終わりです‼︎
これから始まる本編はこの信長の生涯のパロディ(?)的な感じです‼︎
どうぞじっくりご堪能あれ‼︎
では、本編、最後までお付き合いください‼︎
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本編です(╹◡╹)
ヤバイぞ桶狭間
久々の投稿です‼︎
信長が本当にうつけだったら……ということで‼︎
新連載、どうぞご賞味あれ‼︎
時は戦国。応仁の乱によって混乱した当時の日本には、自らの実力で領土を広げ、戦を繰り広げた、いわゆる戦国大名が各地に存在した。
奥州の伊達、相模の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河の今川、美濃の斎藤、越前の朝倉、近江の浅井、安芸の毛利、土佐の長宗我部、豊後の大友、薩摩の島津……
彼らは自らの才覚のみを頼りに、果てしない戦を繰り広げ、生き延びていた……。
この話の、織田信長もその中の一人である。
しかし、彼は……そう……なんというか……キチガイ…いや個性的…ん〜アホ…いやいや……その……と、とにかくあれであった……。
私は山田善太郎。「とにかくあれ」な信長様を支える、いわば織田家の筆頭家老である。
しかし、「とにかくあれ」な信長様を支えるのは、並大抵なことじゃない。なぜかって?それは今にわかる。
「お〜い山田ちゃん‼︎こっち来てよ‼︎わしがすんばらしいものを見してやるぞ‼︎」
信長様の声。異様に甲高いその声は、まるでいとけない子供のようだ。
「早く来や〜て山田ちゃん‼︎」
あそこで叫んでるのが私の主君。
なーんか嫌な予感………
信長様のところへ行くと、信長様はなんか手をはっちゃかめっちゃかに振り回し、地面をだんだん踏み鳴らしていた。
「見よ山田ちゃん‼︎わしの考えた新しいダンスじゃ‼︎名付けて『敦盛』。どうじゃ?いけてるじゃろ?」
本人はダンスと言っているが、端からみるとただ暴れているようにしか見えない。
「ふふふ山田ちゃん、わしのダンスに見とれておったな?ははは‼︎かわゆいやつめ‼︎ははは‼︎」
いや、いい歳した、仮にも尾張の国主が、何をするでもなく手足をジタバタさせてる様子に、ただただ唖然としていただけである。
「わしはな、もう決めたんじゃ‼︎わしはこのダンスで生計を立てるんじゃ‼︎大スターになって帰ってくるど〜♪‼︎」
おい、尾張の国主、君は尾張の国主だぞ〜、本当はそんなキチガイダンスを踊っている場合じゃないぞ〜
「わしはな、さっき手紙を出したんじゃ。駿河(静岡県東部)の今川義元とかいうやつにな。ダンスで勝負しようとな。アハハハハ‼︎」
ヘェ〜今川義元にねぇ………全く尾張のリーダーとしての自覚が足りな…………え?今川義元?
今川義元は駿河、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)を支配し、今一番天下に近いと言われている大名である。
「殿が手紙を書いたんですか?」
「あたりまえやがな。」
何ぃ‼︎もしこのクソゴミ男が変な手紙を書いて今川義元の怒りを買ったら瞬く間に攻められて我々なんか終わり(尾張)だぞ‼︎
変な手紙じゃなければいいんだけど………
〜今川義元の館〜
「ぬううう馬鹿にしとる‼︎」
厚く化粧をし、歯を黒く塗っている男が手紙をクシャクシャにして投げすてる。
今川義元である。
「いかがしました義元様。」
今川家の家来たちは主君の怒り様に戸惑っている。
「これを見ろ‼︎」
一人の家来が、義元がクシャクシャにした手紙を広げて、見る。
「………」
───ども〜‼︎義元ちゃん元気?
今度ぉ、わがはいとダンスの勝負しなイカ?君のブクブク太った腹で腹踊りなんかしてみたら(笑)?あ、義元ちゃんが尾張に来るための交通費は自腹ね☆じゃ、楽しみにしてるっちゃ‼︎
最近まめができてそれが潰れてしまった織田信長大王様閣下より。
「………こ、これは………ふ、ふざけていますな‼︎」
「そうじゃ‼︎今から尾張を攻めて世の中の為にこのクソゴミ大名織田信長を攻めてくれる‼︎」
今川義元は、尾張に侵攻した。その数二万五千。
名目上は京都への上洛。
しかし本当の目的は………
「な、なぬ‼︎今川義元が攻めてくるぅ⁉︎」
この知らせが来た時、織田家は騒然とした。
唯一、当主織田信長以外は。
「よし‼︎作戦会議だ‼︎」
織田家中皆城の大広間に集まる。
「今川は二万五千の兵で攻めてくるというではないか⁉︎我ら織田勢はたった五千。勝てる訳がない‼︎」
「籠城だ‼︎籠城して今川を迎え撃つぞ‼︎」
「いや、城に籠ったとしても食糧もじきに尽きる。ここは降伏しか………」
「何を臆病な‼︎打って出るべし‼︎」
カンカンガクガク………
しばらく意見がまとまらずにいると、信長様が一言。
「もう〜何をギャーギャー騒いどるか知らんがわしは明日義元ちゃんと大事なダンスの勝負があるのだ‼︎わしは明日に備えて徹夜でダンスの練習をする‼︎おまえらはとっとと寝ろ‼︎わしのすんばらしいダンスの練習が妨げられぬようにな♪」
信長様はそう言い放つと、さっきの敦盛とかいうダンス(はたから見るとただのキチガイ行動)をしながら部屋を出てった。
「……」
「……」
口をパクパクしながら固まる織田家中。
「……皆で裏切るか、」
「んだな」
私もこの時ばかりは織田家を裏切ろうかと思っちゃいました。
その夜……
「フンフンフフーン♪」
信長様は義元とのダンス勝負に向けて徹夜で特訓している。今の尾張の状況も知らないで呑気なものだ。
徹夜で付き合わされる家老の身にもなってみろってーの。本当に裏切ってやるからな、ったく……ブツブツ
「ハァハァ……これだけ練習すれば……明日は負けぬぞ‼︎」
はいはい、すごいね。
ため息をついてふと外を見ると、東の空がうっすらと明るくなっていた。徹夜でこのクソバカに付き合った自分を褒めてあげたい。
あぁ、もう寝そう……
重いまぶたをこすりながら夢の世界に入りかけたその時、
「申し上げます‼︎今川勢、着々と我が軍の砦を落とし、もうすぐそこまで迫っています‼︎」
と慌ただしく物見が入って来た。
「な、何ィ‼︎」
眠気は一瞬で消え去った。
「い、いま今川はどこに⁉︎」
「は、ただいま桶狭間にて休息中とのことですが……」
物見に気づいた信長様は妙に甲高い声で叫ぶ。
「何ィ⁉︎まだ夜も明けきってないのにもう義元ちゃん来ちゃったの⁉︎もう〜仕方ない‼︎夜中のダンス勝負というのも風流かもね☆」
もうお前脳みそに雑草生えて死ね。
「馬をひけぃ‼︎わし、ちょっくら義元ちゃんとこ行ってくるわ‼︎」
そうそうとっととどっかに消え……はぁ⁉︎
「と、殿、今なんと?」
「だから今から義元ちゃんのとこ行くの‼︎」
はぁ⁉︎脳みそがバオバブだらけになって腐ってんのかこのボケナス⁉︎
「殿‼︎お供は⁉︎」
「ただのダンスパーティだからお供はいらん‼︎でも見物したいやつは来ていいよ♪」
信長様はそういうと、ドタドタと駆けて行った。
「……」
「……」
私はしばらく物見と顔を見合わせていたが、すぐに城中の皆を起こした。
「と、殿が出陣されたぞ〜‼︎」
信長は、今川が尾張に侵攻して来た時、ろくに作戦会議もせず、今川軍の位置の情報を得た後、数騎で駆け出したといわれる。
「はぁ‼︎」
私は急いで織田家中を叩き起こし、鎧をつけ、馬にまたがり、信長様の後を追った。万が一あのクソボケが今川軍の中に行った場合、鎧もなしだと心細いからだ。
さらに万が一あのゴミクズタコの為に戦になってもなんとか応戦できるように兵は三千ほど連れて行った。むろん、信長様が今川軍に突撃(?)する前に救出するのがベストだが……
太陽がだんだん東の方の空を明るくする。徹夜した私にとっては眠くなるほど気持ちのいい朝日であったが、うとうとしている場合ではない。
先ほどの物見には先に信長様を追うように命じたが、その物見の姿もまだ見えない。やはり、三千の兵ではスピードも遅くなる。
私の脳裏を嫌な想像がよぎる。
もしかしたらもう信長様は今川に捕まって殺されてしまったのでは……
私は頭を横に振った。きっと、物見が信長様に追いついて、信長様を止めているはずである……。
私の頰になにか水のようなものを感じる。
何時間か駆けていたのだろう。先ほどの気持ちのいい朝日は黒い雲に覆われ、あたりは雨に包まれた。
どんなに走っても信長は見つからなかった。
「くそ〜信長様はどこじゃ‼︎」
私は焦った。このまま行くと私たちが今川軍に突撃してしまう。たかが三千の兵では、今川二万五千には到底勝てない。
しかし、雨で視界が悪いので、気づいたら目の前に今川軍、というのも十分にあり得ることである。
早く信長様を見つけねば……
「ご家老‼︎目の前に今川軍がいますけど⁉︎」
私はおもむろに馬を止めた。
恐れていた事態が起きてしまった。気がつくと、そこには今川の旗印がはためいていた。パッと見ただけでも、私たちより断然兵が多かった。
口の中はカラカラ。手は汗でぐっしょりしていた。
どうしよう。
「山田様、このまま信長様探しがてら突撃しましょう‼︎多分信長様バカだから今川に突撃しましたよ、後に続きましょう‼︎」
「むむむむ……」
確かに、今までの道中に信長様が居なかった、ってことは信長様は今川に突撃した可能性が高い。
雨が小雨になってきた。今川軍がさっきよりはっきり見えるようになった。心なしか、今川軍はなんかどよめいているようにも見えた。信長様は本当に単騎突撃したのかもしれない。
物見も、それに続いていった可能性がある。
最悪、あの尾張の害であるパッパラパーはどうでもいいとして、これでは物見がかわいそうである。
それに、三千の兵をここまで連れてきて、何もせずに帰ったのでは世の笑い者になるであろう。
「山田様‼︎ご決断を……」
私は深く息を吸い、またはいた。
もう、後にはひけない。
男の面子、物見の命の為……(え?信長?だれそれ?)
「えぇーいこーなりゃやけだ‼︎狙うは義元の首のみ‼︎ひたすら突っ込むべし‼︎おらぁ〜‼︎」
私は全軍に突撃命令をくだした。
私は今川の陣に突撃して、まずは物見を探した。
今川は私たちの突撃で思ったより混乱したらしく、容易に陣の奥まで入れた。
今川の兵の中から「うわっ‼︎またきた‼︎」とか「信長め‼︎単騎できたと思えばやはり伏兵か‼︎」とかの声が聞こえるところを見ると、やはり単騎突撃したらしい。物見の安否も心配だ。
「ご家老‼︎」
私が今川の陣に突撃して一時間ほどした後、物見の声が聞こえた。
その方向を見ると、自分の後ろに信長様を乗せ、馬で駆けていた物見の姿があった。
「おぉ‼︎大丈夫か⁉︎」
「はい‼︎案の定捕まっていた信長様をなんとか助けて…ハァハァ……なんとか陣の中を逃げ回っておりました。」
「そうか‼︎でももう大丈夫だ‼︎とにかく君も信長様も見つかったことだし、早く城に退却しよう‼︎」
「えぇ〜義元ちゃんにまだダンス見してないぃ‼︎」
黙れこの脳内お花畑め‼︎と思いながら信長様を無視し、退却命令を出そうとしたその時であった。
「今川義元、討ち取ったり〜‼︎」
一瞬、何が起こったか分からなかった。
ただ言えるのは、周りの今川軍の兵が逃げ出し始めた、ということと、我が織田軍から歓声が上がっている、ということであった。
「ご家老‼︎やりました‼︎義元を討ち取りました‼︎」
ある一人の兵士が首を一つ抱えて私のところに持ってきた。
貴族風の化粧にお歯黒、そして眉剃ってかいているところを見ると、どうやら本当に今川義元の首らしかった。
「ほ、本物?」
「はい‼︎正真正銘、駿河の雄今川義元の首でござる‼︎」
どうやら、本当にこの戦、勝ったらしい。
「勝どきじゃあ‼︎エイエイ、」
「オー‼︎」
今回迷惑しかかけていない信長様が勝手に勝どきをあげる。
勝った。どんな形であれ、尾張の弱小大名織田家が、駿河、遠江、三河を治める今川義元を、三千の兵で二万五千を倒したのだ。
なんか、もうすごかった。
「わしのダンスを披露できなかったのが残念だ」
帰り道、信長様がなんかほざいた。
「信長様、いい加減に……」
「まあまあいいじゃないですか」
信長様を怒鳴りかけた私を物見が止めた。
「そういえばおぬしの名をまだ聞いていなかったな。」
「は、私の名は木下藤吉郎と申します。昔、尾張の中村という村で百姓をしておりました。」
「ほう……木下藤吉郎、か……覚えておこう。」
「いや、顔が猿みたいだからおぬしは猿じゃ‼︎」
信長様が藤吉郎の後ろで叫ぶ。
「信長様、彼は命の恩人ですぞ?」
「まあまあ、気にしませんよ。」
「さぁる♪」
私は、一発信長様を殴りたい衝動にかられながら、藤吉郎と馬を進めた。
お楽しみいただけたでしょうか?
次回お楽しみに〜♪
(僕の他の投稿小説もぜひどうぞ‼︎)
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飛べ‼︎美濃まで‼︎
私事なんですが昨日部活(剣道)の試合で同級生みんな勝ち進むなか一人だけ初戦敗退してしまいました……。゚(゚´Д`゚)゚。
この小説も素振りの後投稿しました。
部活も小説も頑張るぞ‼︎
「スズメちゃ〜ん‼︎この織田上総介が遊んでやるど〜‼︎」
信長様が、城の庭でスズメを追っている。
「あぁ、待ってよ、飛んでかないでよスズメちゃ〜ん‼︎」
あの桶狭間での激戦から数年。織田家は本拠を清洲城から小牧山城に移していた。
なぜかって?それは……
「山田ちゃん、城を空飛ぶ鳥に近い山の上に建てたけどやっぱり小鳥ちゃんは遠いかな〜」
そう、ある日信長様がいきなり「朱に交われば赤くなるというし小鳥ちゃんと遊べば空飛べるようになるかな〜♪」とか意味不明なこと言いだして標高の低い清洲から標高の高い小牧山の頂上に拠点を移したのだ。
「はい、まあ山の上と言っても鳥はさらにその上を飛びますからね〜」
私がなんかテキトーなことを言うと、信長様は庭の真ん中で駄々をこねだした。
「あぁんもう‼︎なぜ小鳥ちゃんはこの上総介から逃げるのじゃ‼︎」
いい歳した尾張の国主が城の庭の真ん中でジタバタ……これじゃあ信長様に討たれた今川義元がうかばれないかもね……
信長様は、しばらくジタバタしていた。しかし、いきなりピタリとジタバタするのをやめ、大きな声で叫びだした。
「猿‼︎猿‼︎こっちゃ来い‼︎」
「はい‼︎ただいま‼︎」
藤吉郎が足早に庭に入ってきた。桶狭間の時は物見であった藤吉郎も、その後順調に手柄を立てて、今では信長様お気に入りの家来となっている。
「美濃攻めの支度をせい‼︎稲葉山城を奪うと他の家来どもに伝えよ‼︎」
「え?」
「聞こえなかったか?小牧山は低い‼︎稲葉山城は小牧山よりも標高が高いから小鳥ちゃんとも遊べる‼︎分かったらとっとと美濃攻めの支度をせんか‼︎」
その言葉に、私も藤吉郎も唖然とした。
稲葉山城というのは、美濃(現在の岐阜県南部)の国主、斎藤龍興の居城である。確かに、標高は小牧山よりも稲葉山の方が高い。
美濃の斎藤家とは、信長様の父、信秀公の代から争いを続けていた。信秀公も稲葉山城を攻め落し、美濃を織田家のものにするという野望を持っていた。
しかし見たところ信長様は信秀公の意思を継いで美濃を攻略しようとしている訳ではなさそうだ。
「はっはっは‼︎空の上でわしを笑っちょる鳥ども‼︎待っておれ‼︎わしが稲葉山城に入ったらみんな捕まえてやるからな‼︎がっはっは‼︎」
私たちは、とりあえず織田家中の面々に、美濃攻めを報告することにした。
ま、しかし攻めてみたはいいものの、「小鳥ちゃん」という、意味不明な動機で美濃がそう簡単に落ちる訳はない。
「むき〜‼︎なぜ勝てんのじゃ〜‼︎」
織田軍は屈強な斎藤軍により、敗北を繰り返していた。
「もうやだ‼︎小牧山で小鳥を獲る方法を考えた方が早いかもしれん‼︎」
信長様は、無責任なことをほざき、暴れまわる。
「まあまあ、信長様、戦は辛抱ですよ。」
私はこの脳みそがかにみそ疑惑のくそ男を殴りたい気持ちを抑えながらなだめる。
「とりあえず軍議を開き、これからのこと考えましょう。」
織田家の家来一同が軍議の部屋に集まる。柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、林秀貞などの重臣から木下藤吉郎などの身分の低い者までそうそうたるメンバーだ。
どの家来も個性の強いものばかりだ。
私は筆頭家老だからこの中でも一番上座の方に座った。ここから見ると、皆不安な面持ちでざわめいている。確かに、先の桶狭間の時信長様はろくに軍議も開かず単騎突撃(笑)を敢行したのだから、今回はどうなることかと不安になるのも無理はない。
私は、信長様が部屋に来るまで、これでもかというほど質問や文句、愚痴などを聞かされた。
「そもそもなんでいきなり美濃攻めしたんだ。」
「全くだ。いきなり山田殿から美濃攻めを聞かされたが、理由とかをきちんと説明していただきたい。戦はむやみにするものではないですからな。」
佐久間信盛、林秀貞なんかは部屋に入ってくるなり私に文句を言ってきた。
(「小鳥ちゃん」なんて言ったらブチギレられるだろうなぁ)
とか思いつつ私は反論した。
「美濃攻略は先代信秀公の悲願。信長様はこの志を継ぎ、戦を決意されたのだ。決して小鳥ちゃんが理由ではない‼︎」
「小鳥……?」
「あ、いや、なんでもない。」
「もうそんなごちゃごちゃ言ってないで屈強な我ら織田軍がなりふり構わず稲葉山城めがけて突進すれば良いのじゃ‼︎あの今川義元をも倒した我らなら斎藤なぞボコボコじゃ‼︎」
そうわめくのは柴田勝家ら織田家の中でも武闘派の面々である。
こういう人間は言い方を気をつけないとすぐ頭に血がのぼってもはや軍議どころではなくなる。
「確かに我らは東海道一の弓取りと称された今川義元を討ち果たした。しかしそれは過去の話だ。問題は今だ。あの頃と今では状況が違う。桶狭間での戦は『守り』の戦であったが今回は『攻め』の戦だ。きちんと家中の間で議論し、これからのことを決めねばならん。」
「しかし桶狭間では信長様はろくに軍議も開かずに今川勢めがけて突進していかれた。攻めは最大の防御という。信長様は気迫の突進こそが最強の戦術だということがわかってらっしゃるのだ‼︎」
「だが今まで我らは斎藤軍に勝ててはいない。」
「気迫が足らんのだ‼︎根性が足らんのだ‼︎
元気があればなんでもできる‼︎ダー‼︎」
柴田勝家はなんかどこぞのプロレスラーみたいなことを言っている。
「まあまあ柴田様、戦の前はきちんと作戦を立たねば。我々は悔しいですが斎藤方に押され……」
藤吉郎が柴田勝家をなだめようとした。しかし
「黙れこの猿‼︎いつからわしと対等に話せるようになったのだ、この兵卒上がりめ‼︎身分をわきまえよ‼︎」
と怒鳴られていた。
さすがは鬼柴田と恐れられる男である。私は彼の気迫に吹き飛ばされそうであった。
だが私はここで負ける訳にはいかない。私は筆頭家老として、織田家の為(その織田家の当主があのバカアホクソカスゴミダコなんだが……)にもこの個性派集団をまとめあげねばならないのだ‼︎
「柴田殿、落ち着いてくだされ。ここは軍議の場、一旦落ち着いて作戦を考えるだけ考えましょうぞ。そこで良き案が出なければ突撃を軸にした行動をすればいい。この軍議は信長様の意思でござるぞ。」
「むむむむ……あいわかった。」
この柴田勝家という男は織田家への忠義なら負けない、という男だから、信長様の意思と言えば黙らざるを得ない。
「ところでなぜ戦の前に開かれるはずの作戦会議を、戦が始まった後にやるのでござる。今我々は斎藤軍に押されているがあまりにも軍議を開くのが遅くはあるまいか。」
織田家中では比較的冷静な丹羽長秀が正論を吐いた。
全くである。しかし、今までまるで作戦がないかのように美濃に攻めていたが、実は信長様がいろいろ(今考えれば余計なことを)考えていたのである。
「よっしゃあ‼︎美濃攻めじゃあ‼︎」
信長様は、美濃攻めを家中に発表してからしばらくの間、珍しくいろいろ考え、行動していた。
「よし‼︎美濃について詳しそうな人間を家来として召しかかえよう‼︎」
とか
「美濃についての情報を集めるぞ‼︎」
とか、なんかいつものバカっぷりはどうしたといわんばかりの行動力で着々と美濃攻略にむけて張り切っていたのだ。
しばらくして、信長様は美濃について詳しいという美濃出身の武将、明智光秀なる男を連れてきた。
「はじめまして、明智光秀です。」
明智光秀に初めて会ったとき、なんて行儀の良い人なんだろうと感心したのをよく覚えている。
(こんな素晴らしい人が、よくあのキチガイボケナス男の要請に応じたな……)
(この人もパッと見まともでも本当はキチガイなのか、それともよっぽどお心が広いのか……)
そんなことを考えながら私は、日々軍の編成や、武器の調達などをしていた。
そんなある日、信長様が急に兵五百と明智光秀を連れてとある原っぱに出かけた。
私も信長様について来いと言われて、なんだろう?と思いながらついていった。
原っぱに到着し、兵五百がそこに全員到着すると、信長様は明智光秀にこんなことを懇願した。
私は、それを聞いて卒倒しそうになったのをよく覚えている。
「光秀‼︎空の飛び方教えて‼︎」
私は、それを聞いて唖然とした。明智光秀も、口を開けたまま動かないでいた。
「ほら、敵、斎藤龍興は小鳥ちゃんたちに近い稲葉山城に住んでいる。だから毎日小鳥ちゃんたちと戯れてきっとすでに空を飛べるようになっているはずだ‼︎
この度光秀に来てもらったのは他でもない‼︎美濃に伝わる飛行の術を我が手勢五百とわしに教えて欲しいのだ‼︎」
信長様の目はマジであった。マジであったからこそ唖然とした。そして心の底から思った。
(コイツ……もうだめだ……)
光秀も同じことを考えたらしい。
「ひ、飛行の……術、ですか?」
光秀は目を丸くし、呆れている。
「そうじゃ‼︎飛行の術じゃ‼︎」
「すみません、信長様……まことに申し上げにくいのですが……人間は空を飛べません。」
光秀が至極真っ当なことを言う。
だが信長様は引き下がらない。
「そんなこと言って‼︎尾張人のわしには美濃の飛行の術を教えれないと申すのか⁉︎」
「いや、そういうことじゃなくて……その……ですから……人間は……」
「ええい黙れ‼︎おぬしわしに逆らうというのか⁉︎せっかく雇ってやったのにこの裏切りものめ‼︎いいもん‼︎だったらこの手勢五百はわしが、今まで小鳥ちゃんと戯れてつちかってきた経験で立派な飛行部隊にしてみせる‼︎」
そういって信長様はそれから約半日、ずうっと手と腕の振り方を延々と手勢五百に教えていた。忠実な手勢五百人は戸惑いの表情を浮かべながら夜遅くなるまで腕を振っていた。
その様子を原っぱの端で見ていた私に、光秀がこっそり
「謀反起こした方が尾張の為になるのでは?」
と言ってきた。とっさに、
「いやいや、我が主にはきちんとお考えがあってああやって無益な……いやためになる腕の振り方を教えているのです。」
と反論した。もちろん、本心とはまるで逆であったが、こうでも言わないと尾張の面子が保てなかった。
夜の原っぱ、いい大人が五百人で腕をバタバタ振っている、非常にシュールで滑稽な様子は、とても目が当てられなかった。
その後、自分たちが攻められる前に織田を叩こう、と思った斎藤軍が何度も攻めてきて、何度も応戦したが、織田家の大将が毎日ずうっと腕を振る練習をするもんだから兵の士気も上がらず、連敗記録を更新し続けたという訳だ。
そして私が、どこに勝機があるのか全く分からない作戦を自慢に思っている信長様をなんとか説得して、今こうして軍議を開いているのだ。
丹羽長秀が言うように、あのアホたわけゴミクズが変な作戦を思いつく前にこうして軍議を開くべきであった。
「信長様の、おな〜り〜‼︎」
信長様が「おな〜ら〜‼︎」とかくだらないこと言いながら軍議の部屋に入ってきた。本当に殴りたい。
「では、信長様もいらっしゃったところで軍議を始めましょう。何か良い意見のある人はどんどん出してください。」
私は、「飛行部隊養成戦法、うまくいくと思うのにな、」とか言ってるアホをほっといて軍議を始めた。
「……そもそも我々は美濃を攻略する為の拠点がない……」
最初に口を開いたのは佐久間信盛であった。
「左様、稲葉山城に突撃するにも突撃の為の拠点がないと話にならん‼︎」
あくまでも突撃にこだわる柴田勝家も同調した。
確かに、これまで織田軍は尾張小牧山から軍を出していたが、それでは少し美濃からは遠すぎた。美濃を本気で攻め落としたいのなら、敵の本拠、稲葉山城に近い場所に軍の駐屯地がある方が良い。
「しかし、問題はどうやって拠点をつくるか、でござる。」
丹羽長秀がそこに口を挟んできた。
「と、いうと?」
「まず稲葉山の近くに拠点をつくるとなると、尾張と美濃を隔てる木曽川、長良川、揖斐川などの大河を渡らねばなりません。さらに拠点となる砦をつくるとなると時間が少なからずかかりますがあまりにも時間をかけると我らの動きを察知した斎藤軍に攻撃され、拠点づくりを阻まれてしまう。」
「ふむふむ」
「要はいかに早く、斎藤軍にやられずに、大河の流れにめげずに強固な拠点をつくれるか、ということでござる。」
丹羽長秀はそう話をまとめた。
「むむむむむ……」
「難しい問題じゃ……」
「ふむ……斎藤軍は我々が拠点をつくるのを黙ってみている訳がない。」
「斎藤の来襲を防ぎながら拠点づくりなど……できる訳がない……」
議論は完全に止まってしまった。
「お腹空いたぞい☆」
険しい顔で必死に思案している我々の横でなんか信長様がほざきだした。蹴りたい殴りたい叩きたい。
「おぉ〜い、あれの用意をせい‼︎」
信長様が叫ぶとなにやら小者たちが慌ただしく動き始めた。何やら竹を半分に割ったようなものを長く繋いで、それを組んでいる。どうやら、それを台所まで繋げているようだ。
「よぉし水を流せ‼︎」
信長様が指示すると、長い竹の管に水が流れ出し、それにそうめんが流れてきた。
「やった‼︎成功じゃ‼︎室内流しそうめん成功じゃ‼︎」
私たちは、呆然とその光景を眺めていた。
「台所からそうめんを運ぶよりも流す方がはやいからのぉ‼︎」
(アホや……)
私がそう思ったその時、後ろの方で叫び声がした。
「それだ‼︎」
声の主は、部屋の隅の方に座っていた、木下藤吉郎。なみいる重臣たちの間をすり抜け、私のところへやってきた。
「ご家老‼︎運ぶよりも流す方がはやいでござる‼︎」
「は?」
私は、藤吉郎までもが壊れてしまったかと一瞬不安に思った。
「美濃と尾張の間の大河の近くに拠点をつくるのなら川を利用すれば良いのです‼︎」
「と、いうと?」
「まず川の上流で拠点となる砦の材木をきりだします。そしてそれを川に流し、途中で組み立てながら拠点をつくる地点まで持っていきます。そして流されてきた、途中まで組み立ててある材木で砦をつくります。そうすれば普通に砦をつくるよりもはやく砦をつくることができます‼︎早くすれば一夜にして砦をつくることができます‼︎」
一同静まり返った。
「……藤吉郎の意見に反論のある者は?」
「……」
「では藤吉郎に砦づくりを任す‼︎見事斎藤軍を防ぎながら見事一夜にしてつくってみせよ‼︎」
「ははっ‼︎」
その後、藤吉郎によって砦は異様なスピードで完成し、それを拠点に、織田軍は美濃を攻撃した。
あまりにも織田軍がはやく砦をつくってしまったことに驚いた斎藤軍の中には織田軍に寝返る者も続出し、永禄10年(1567年)、ついに美濃稲葉山城は陥落した。これにより織田家は尾張、美濃の二カ国を治める戦国大名となり、信長は天下布武への道を歩みだした。
しかし、その天下布武のきっかけがまさか「小鳥ちゃん」だったとは、後の世の人間は、知る由もない。
お楽しみいただけましたでしょうか?
次話もお楽しみに〜♪
(僕の小説の評価、感想、お気に入りなど待ってま〜す☆
どうぞ僕の投稿した他の小説もどうぞ‼︎)
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