雪割草 (FARADON)
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1話

 久しぶりに入った父さんのアトリエ代わりの小さな部屋の中は、独特の絵の具の匂いが立ちこめていた。床に散らばった何枚ものスケッチ。イーゼルにかけられたキャンバスには、あと少しで完成を迎える富良野の自然が描かれている。

 ここ数日、一向に雪の止む気配がない為、さすがに外で描くことができなくなったのか、父さんはこの小部屋に籠もってふらのの風景画の最後の仕上げをしていたのだ。

 一面の銀世界の絵。

 それは、冬の絵なのに、何故かとても暖かな富良野の風景だった。

 

 父さんが冬の雪景色を描きたいと言って、この富良野の地にやって来たのは、かれこれ3ヶ月も前のことだ。

 いつものように不動産屋に立ち寄って、安いアパートを借りる。

 わざわざ真冬にこんな所に越してくるなんて、しかも子供連れじゃ大変だろうと、不動産屋の主人は父さんが肩に背負ってる絵の具やらキャンバスを物珍しそうに眺めてそう言った。

「いや、この子のおかげで随分助かってるんですよ」

 笑いながらそう言った父さんを見上げて、僕はとびっきりの笑顔をつくる。

 素直な良い子。親思いの優しい子。

 仲の良い親子の姿を見せつけると、不動産屋の主人が感心したように、ひとつ息を吐いた。

「いや、失礼しました。とても良いお子さんをお持ちですな、岬さん」

 僕達は照れたように笑いながら、案内されたアパートへと向かう。

 これが、いつものパターン。

 そう、僕はいつだって素直な良い子を演じている。

 僕の所為で父さんが後ろ指を指されることがないように。

 ただでさえ、離婚して、こんな子供をいいように引っ張り回して、全国を旅して回っているなどと、とんでもない父親だと親戚の人達が白い目で見ているのだ。

 片親しかいないからとか、父さんがあんな人だからとか、そんな陰口を少しでもなくす為の、これは手段。

 僕達親子が生きていくための手段だった。

 

「もうすぐ完成なんだね」

 父さんの背中に向かって僕がそう言うと、父さんは振り向いて少し笑った。

「ああ、もう少しで完成だ。今回の作品はかなりイメージ通りに描けそうだよ」

「うん」

「あと、1週間くらいだろう。そうしたら、今度はもっと暖かい所へ行こう」

「暖かい所?」

「ああ。南の春の風景を描こうと思っているんだ。九州か四国あたりで」

「ふーん」

「雪が止んで春が来たら、この寒い地方ともさよならだぞ、太郎」

「……うん……」

 雪が止んで、春が来たら。

 僕はわざと何でもないふうを装って、小部屋を出た。

 別にいつもの事だった。

 旅をしながら日本中の風景画を描く父さんとの生活に不満などない。

 いつだって、ひとつの所に半年も居たことなんかなくて、此処にはまだ長く居たほうで。

「…………」

 いつもと同じなのに。

 何で、こんな妙な気持ちになるんだろう。

 雪が止んで春が来たら。

 そう聞いた時、僕は泣きそうだったんだ。

 どうしてか解らないけど、今にも泣きそうに哀しかったんだ。

 めちゃくちゃにキャンバスを切り裂いてやりたいほど。



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2話

「あーあ。さっさと雪止まねえかな」

 ストレッチをしながら、僕の隣で小田がそうぼやいた。

「今日いっぱいは降り続くって、さっき天気予報で言ってたよ」

「ホントかよ、金田」

「ああ、ホント、ホント。それにこの感じじゃ、明日は止んでも雪かきだけで1日終わりそうだね」

「それじゃあ練習出来ねえじゃねえかー」

 金田の言葉に、悔しそうに舌打ちをして、小田が更に声を荒げる。

 雪は、見ている分には綺麗だけど、実際その中で生活するのは大変なんだと僕は此処に来て初めて知った。

 

 冬の最中、彼らのようなサッカー部や野球部は、グランドを使えない日、よく体育館の片隅をかりて基礎訓練やボール磨きを行っていた。それに、ようやく雪が止んで外にでられるようになっても、まずしなければならないのは雪かき。でも、時々雪かきが、いつの間にか雪合戦に代わり、おしくらまんじゅうに代わり、みんなで汗だくになって笑い転げることもあった。

 

 今、僕の隣でぶつぶつ文句を言いながらストレッチをしているのは、このサッカー部の副キャプテン、小田和正。なんだかんだ言いながら、暖房の入った体育館の一番暖かい場所を陣取っている。

「おら、ちゃんとストレッチやれよ、お前ら。こういう地道な努力が、後で良いプレイに繋がっていくんだからな」

 必死で腹筋をしながら檄を飛ばしているのは、松山光。このサッカー部のキャプテンである。思いこんだら一直線の単純明快な性格と、何事にも物怖じしない度胸の良さ。少し喧嘩っ早いけど、みんなが認める立派なキャプテンだ。

 その松山の補佐(フォローとも言う)を一手に引き受けているのが、先程ラジオで天気予報を聞いていた金田春男。優しげな顔立ちと、柔らかな言葉遣いでみんなの気持ちを和らげてくれる。でも、奥にとても強いものを秘めているのが、その言動の節々からうかがえる。

 そうそう、小田はこの金田と同じ病院の同じベッドで生まれたんだそうだ。もちろん生まれ月は2ヶ月ほどずれてるけどね。

 あと、ゴールキーパーの加藤。

 それに、山室、若松、中川……。

 もともと、物覚えは悪い方ではなかったのは確かだが、僕はたった一日、彼らと一緒にサッカーをしただけで、このチーム全員の名前と顔を覚えてしまっていた。

 

 3ヶ月前、転校初日の放課後の事だ。

 僕は何の気無しにグランドで練習をしている彼らの楽しげな姿を見ていた。

 転校を繰り返す生活事情の為、僕は今まで正式に何処かのクラブやチームに所属した事はなかった。たまに助っ人として参加することはあっても、僕はいつもお客様だった。今回もきっとそうなるだろうと思いながら、それでもこうやってグランドに足を向けてしまうのは何故なんだろう。

 30分くらいもそうしていただろうか。金網に手をかけ、じっとグランドを見つめていた僕の姿に最初に気付いたのは松山だった。

 小雪のちらつく中、僕はきっと物欲しそうな目をしていたんだろう。いきなり、フェンスを乗り越え僕の所に走ってきた松山は、強引に僕をグランドの中に引っ張り込んだ。

「紅白戦兼ねたミニゲームやってるんだけどさ、メンバーが一人足んねえんだ。ちょっと手伝ってくれねえか? 岬」

「……えっ?」

 その時、素直に頷いたのは、松山が真っ直ぐに僕を見て岬と呼んでくれた所為だった。

 いつも、転校して最初の一週間ほど、僕のあだ名は“転校生”だった。ようやく覚えてもらって、名前を呼ばれるようになって、友達づきあいが始まった頃、僕は次の地方へ旅立った。

 いつも、いつも。

 それが当たり前で、その事に疑問なんか持ったことなかったのに。彼らは、みんな最初の日から、僕を岬と呼び、友達として扱ってくれた。

 もともとサッカーは好きだったけど、何だか、その時、僕は初めて本当のサッカーをしたような気がしたんだ。

 パスを受ける。パスを出す。

 ただ、それだけの事がこんなに嬉しかったのは初めてだった。

 そして、その日のうちに彼らは僕を、助っ人ではなく、正式な部員として迎え入れてくれた。

 僕が転校を繰り返している事情を説明しても無駄で、

「一ヶ月だろうが半年だろうが関係ないよ。岬はもうサッカー部の一員なんだ。お客様でも助っ人でもない」

 松山は笑ってそう言った。

 

 北海道のほぼ中央に位置するここ富良野は、ラベンダー畑などで有名な観光地である。

 富良野市内には小学校が11校。僕のはいった「ふらの小」は総生徒数が200人足らずの小さな学校だった。1学年が1クラスしかなく、体育などの合同授業では2学年一緒に授業を受けることもあるという。そのせいか、此処では学校中みんなが知り合いで、ほんの些細な出来事さえ、全校生徒が知るのにさほど時間はかからなかった。

 街中が知り合いだらけで、まるで巨大な家族のようなこの街は、ずっと他人の中で過ごしてきた僕にとってとても不思議な街に思えた。

「オレ達、みんな兄弟みたいなもんだから」

 松山がそう言った時、やけに羨ましかった。

 僕は永遠に言うことはないだろうその言葉を、何のてらいもなく発する松山が羨ましかった。

 でも、その次の言葉は、そんな僕の気持ちをひっくり返すのに充分値する言葉だった。

「岬、お前ももう、オレ達の兄弟だからな」

 雪の中で笑った松山の顔を、僕は一生忘れないと思った。

 それ以来、雪が好きになった。

 雪の中で肩を並べて歩くのが好きになった。

 初めて、雪を冷たいと思わなくなった。



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3話

「あー、思いっきりボール蹴りたいよう。何とかしろよキャプテン」

ひたすらボール磨きをしていた山室が、ついに根を上げて松山を見た。

「そうだ、そうだ、何とかしろよ、キャプテン。もう、ボール全部磨き終わったぜ」

「お前ら、そういう時だけ人をキャプテン扱いすんなよな」

腹筋の途中で首だけ振り返りながら、松山が言い返す。

「だって、ここ1週間まともにグランドで練習できてないんだよ。腐りもするよ」

ここ数日間、雪はずっと降ったり止んだりの繰り返しだ。

ようやく晴れ間が見えて、雪かきをして、グランド整備が終わった頃、再び雪がパラつきだす。

まるでイタチの追いかけっこだ。

「何が可笑しい。岬」

むすっとした顔で、加藤が僕の顔を覗き込んできた。

「岬、お前は初めてだから珍しいってだけで終わってるかもしんないけどさ、ホント毎年毎年これじゃ、さすがに嫌んなるんだぜ」

「そうそう、今年こそは大いなる野望を成就させる絶好のチャンス到来だってのに」

「野望?」

僕が磨き終わったボールを放り投げた山室に聞くと、待ってましたとばかりに、横から小田が身を乗り出してきた。

「ほら、オレ達、今度6年生になるだろ。ずっと言ってたんだ。6年生になったら本州へ殴り込みかけるぞって」

「……は?」

「バカかお前は。そんな言いかたしたって岬に解るわけないだろ」

ゴンっと派手な音をたてて小田の頭を小突き、金田が申し訳なさそうに笑った。

「今年の夏の全国大会、絶対行こうって決めてたんだ。オレ達」

「全国大会?」

「そう。7月の終わりから8月にかけて読売サッカーグランドで行われる全国少年サッカー大会。北海道代表の切符はオレ達で勝ち取ろうって」

「…………」

「オレ達、一度も北海道から出たことない奴、多いし。きっと全国には凄い奴がたくさんいるんだろうなあって、楽しみにしてんだ」

「へえ……」

「今年は狙えそうなんだよ」

「なんたって、去年めちゃくちゃ強かった室蘭大谷のゴールキーパー、卒業したしな」

「今年はオレ達の年になるぞって」

「なー」

楽しそうに頷きあうみんなを見て、ふと僕の心が重くなった。

今年の夏。

“雪が止んで春が来たら、この寒い地方ともさよならだぞ、太郎”

彼らが全国大会に行く頃、僕は此処にはいないんだ。

 

冬が終わって春がきたら、僕は此処からいなくなる。

春が終わって夏がきた頃、僕は何処にいるんだろう。

 

「だから、少しでも多く練習したいんだよ」

「あーあ。早く春が来ねえかなあ」

「せめて雪が止んでくれたらなあ」

悔しそうにつぶやきながら、みんなが窓の外を見上げた。

「なあなあ、松山。そろそろじゃねえか? 雪割草」

突然、小田がそう言った。

「そっか。もうそんな時期か」

「今週末なんかどうかな?」

「それはいくら何でも早いだろ。せめて来週か再来週になんねえと」

いきなり始まった2人の相談に、僕は戸惑ったように、金田を肘で小突いた。

「雪割草?」

「ああ、そっか。岬は知らないんだっけ。オレ達、毎年この時期になると雪割草探しに行くんだ」

笑いながら金田がそう言った。

「何の為に?」

「何って……別にたいした理由じゃないんだけどさ」

「…………」

「オレ達にとって雪割草は春の訪れを知らせてくれる花なんだ」

「……春の……?」

「そう。雪割草って、その名のとおり、春先、溶けかけた雪を割って花を咲かせるんだ。高山植物だから山の方へ行かなきゃならないんだけど。雪解けの谷川のほとりとかにさ、白い花がポッて咲いてるのを見ると、やっと春がきたんだなって気がする」

「…………」

「富良野の長い長い冬の終わりを知らせてくれて、オレ達に春をプレゼントしてくれる花なんだ。雪割草は」

「…………」

「5年くらい前にさ、オレと小田が偶然見つけて、それ以来、なんか毎年恒例行事になってるかな。みんなでワイワイ言いながら山登って探しに行くんだ。楽しいぜ」

金田は本当に楽しそうな顔でそう言った。

「白くて、小さくて、結構地味だけど・・・可愛い花だよ」

「……そう……」

必死で笑顔を作ろうとした僕の顔が微妙に歪んでいた。

「た……楽しそうだね」

「そういえば、岬ってなんか雪割草みたいだ」

突然僕の顔を覗き込んで、金田が言った。

とっさに表情を読まれないかと、僕はあわてて金田から顔をそむける。

「何……それ?」

「ほら、小さくって白くって、可愛いって……あれ? これじゃあ女の子の形容詞だ」

「何言ってんだよ、金田」

周りからすかさず、お前の方が女顔だろとの突っ込みがはいる。

 

春を呼ぶ雪割草。

僕は、ばれないように小さくため息をついた。

 

窓の外は静かに降り続く細雪。

雪を見上げるみんなの側で、僕は別の事を考えていた。

永遠に雪が止まなきゃいい。雪割草なんか咲かなきゃいい。

そしたら、春はこない。

 

春はこないのに……



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4話

「ただいま……」

結局その日も基礎体力作りに専念しただけで終わってしまった放課後の練習を終え、僕がアパートに帰ると、ちょうど父さんが奥のアトリエから出てきた。

「お帰り、太郎。ちょうど良かった。今日は少し奮発して外食をしようかと思うんだが、何が食べたい?」

「……えっ?」

一瞬、僕の胸がズキンと痛んだ。

いつも父さんは絵が完成した日、お祝いを兼ねて僕を外食へ連れ出そうとする。

「か……完成したの?」

「ああ」

嬉しそうに笑って、父さんは手に持ったパレットをかかげて見せた。

「お……おめでとう」

少し不自然な僕の笑顔に気付くふうもなく、父さんはそのまま流し台の方へと姿を消す。

 

完成……してしまった。

とうとう。

 

僕はそっと父さんのアトリエに入った。

イーゼルにかけられた大きなキャンバス。

真っ白な雪景色。

僕が、この3ヶ月過ごした暖かな富良野の風景がこの中にある。

降り積もっていく柔らかそうな雪。

小さな明かりの灯る家の窓。

北海道の冬はとても寒いが、一歩家の中に入るととても暖かい。

それは、冷たい冬の空気が入ってこないように窓が二重になっているからだと初めて知った。

毎日交代で運ばなくちゃならない灯油は重くて大変だったけど、教室の中央にある巨大なストーブの上で焼いたパンがあんなに美味しいものだということも初めて知った。

冷たいはずの雪の中。みんなでおしくらまんじゅうをしたり雪合戦をしたりすると、全然寒くなくなるのだと初めて知った。

 

どうして、絵が完成してしまったんだろう。

 

僕は無意識に、床に転がっていた赤い絵の具がついたままの絵筆を拾い上げた。

手の中の絵筆とキャンパスの雪景色を見比べる。

完成した雪景色。

 

「ああ、早く春が来ないかなあ」

みんなの声が、僕の頭の中に響く。

 

絵が完成する。

雪が止む。

雪割草が咲いて春が来る。

 

僕は春なんて嫌いだ。

僕は雪割草になんかなりたくない。

みんなに春を告げる役目なんかごめんだ。

僕は……

 

「太郎、何してるんだ。出かけるぞ」

アトリエからなかなか出てこない僕にしびれをきらせて父さんがドアを開けた。

とたんに振り向いた僕の手から絵筆がこぼれ落ち、完成したばかりの絵の上にトンっと当たって床に転がる。

「……あっ!!」

真っ白な雪景色の中央に赤い点が散らばった。

父さんが大きく息を呑むのが解る。

カラカラと床を転がって赤い線を描いた筆がようやく止まった時、初めて父さんが少し動いた。

雪の上の赤い染みは、まるで血のように見えた。

「……太郎……おまえ……」

「…………」

僕は、その時どんな表情をしていたのだろう。

「太郎……」

「……僕……謝らないからね」

「……!?」

「こんな絵、ちっとも良くない。何がイメージ通りに描けた、だよ。全然良くないじゃないか」

「…………」

「こんな最低の絵、駄目になって良かったんだよ!」

「太郎!!」

父さんが思わず拳を振り上げたのが見え、僕は恐怖に目をつぶった。

殴られる!!

間違いなくそう思ったのに、その後来るはずの衝撃も痛みもなくて、僕は戸惑いながらそっと目を開けた。

父さんは怒ってなかった。

父さんはとてもとても哀しそうだった。

「…………」

僕はギュッと唇を噛みしめて父さんの横をすり抜け、アパートを飛びだした。

外は身を切るような冷たい風と共に、また細雪が降り出している。

ふと振り返ると、僕のつけた足跡だけが白い雪の上に点々と続いていた。

 

僕は悪い子だ。

父さんを哀しませて謝りもしない。

僕は本当は少しも良い子じゃない。

必死で良い子になろうとしても、こうやってボロをだす。

僕は、内心喜んでいたのだ。

絵が台無しになって。

きっと、心の底で笑っていたのだ。

最低だ。

最低だよ。



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5話

かじかむ手を握りしめ、僕はアパートを背に駆けだした。

頬にあたる雪が冷たくて、僕の瞳から涙がこぼれ落ちる。

街の大通りを抜け、学校の横を曲がり、僕は走り続けた。右手にちらりと松山の家が見えたけど、僕は見ないふりをして走り続けた。

やがて、建物がまばらになり、僕はようやくすっかり町外れまで来てしまった事に気付き、走るのをやめた。立ち止まると、手と顔が凍える程、冷え切っているのが解る。

いつの間にか雪は止んでおり、僕はふと頭上に重くのしかかっている雲を見上げた。

 

ポツンと独り。

誰もいない。

何故だろう。笑いがこみあげてきた。

僕は、何を惜しがっていたのだろう。

いつだって僕はこんなふうにずっと独りだったのに。

少しだけ、此処の人たちがいつもより優しかったからといって、それが何だっていうんだ。

此処を離れて数ヶ月もすれば、彼らだって僕のことなんか忘れてしまう。

いつだってそうだ。

当たり前だ。連絡先だって解らないんだから。手紙も書けない。電話も出来ない。逢うこともない。

僕は通りすがりの誰かさんと同じで。

同じで。

 

「岬! どうしたんだ、おまえ」

「…………!」

顔をあげると、目の前に金田が立っていた。

「か……金田!? なんで……こんな所で……」

「その台詞、そっくりそのままお前に返すよ」

呆れた顔でそう言うと、金田は腕に抱えていたマフラーを僕の首にかけた。

「いくら春が近いったって、まだまだ夜は寒いんだ。マフラーも無しでこんな所に来て、お前、凍死したって知らないぞ」

「…………」

金田がかけてくれたマフラーがやけに暖かくて、僕はその時初めて金田が自分の首にもきちんとマフラーを巻いているのに気付いた。

「……あれ? このマフラー……」

「服の中入れてずっと抱えてたから暖かいだろ。お前、マフラーも手袋もなしで走っていったって松山が言ってたからさ」

「……えっ?」

「お前、さっき松山ん家の前、すごいスピードで駆け抜けてったんだってな。様子が変だったから、そっちに行ったら気を付けておいてくれって電話もらったんだ。ほら、ちょうどこの近くだから、オレん家。そろそろ来る頃かなあと思って様子見てたんだ」

「…………」

小学校の大通りの側にある松山の家から、少し先の町外れにある金田の家。

連絡をもらってすぐ、金田はマフラーを抱えて外へ飛びだしたのだ、きっと。

「何? どうしたんだ? 岬」

「……父さんと」

「…………」

「ちょっと……父さんとやりあっちゃって…………」

小さく僕が言うと、金田は意外そうに目を丸くして僕を見つめた。

「珍しいな。なんかお前が喧嘩するとか、想像できない。いつも優等生の良い子なのに……」

「僕は良い子なんかじゃない!!」

自分でも驚くほどのきつい口調で、僕は金田の言葉を遮った。

「僕は良い子じゃない。良い子を演じようとしてきただけで、本当はちっとも良い子じゃない」

「……岬?」

「僕が本当はどれだけ悪い奴か、みんな知らないだけだよ」

「…………」

 

本当は、いつだって言いたかった。

旅も嫌いだし、貧乏な生活も大嫌いだった。

お母さんにも甘えられず、友達も作れず。転校を繰り返すのも、もうウンザリだった。

寒い地方も暑い地方も、炊事も洗濯もゴミ出しも何もかも。

大嫌いだった。

明日の保証のない生活も、物珍しそうに僕を見る不動産屋の主人もアパートの管理人も。みんないなくなればいいと思った。

荷物になるからいけないと、必要最低限の物しか持てず、遊び道具はサッカーボールひとつだけで。

他の楽しみなんか何一つ与えられなくて。

僕は……

 

「やっぱり、お前、雪割草みたいだ」

ぽつりと金田が言った。

「知ってるか? 雪割草の花言葉」

「……?」

「雪割草の花言葉はね……」

「忍耐だろ」

突然の後ろからの声に、僕達は驚いて振り返った。

「松山!?」

「お前、結構足早いのな。急いで追いかけたのに、こんなに引き離されちまった」

そう言って笑いながら、松山は僕に手袋を投げてよこした。

「ほら、これで完全防備。寒くなくなったろ」

「…………」

僕は松山の言葉に従い、おとなしく手袋をはめた。

凍えた手にじんわりと奥から暖かさが戻ってくる。

「……雪の下でさ、ずっと寒さに堪え忍んで、ようやく春先に花を咲かせるんだ。雪割草は」

金田が言った。

「辛いこといっぱい抱えて、でも、それをじっと我慢して、オレ達に春をプレゼントしてくれるんだ」

「…………」

「岬、実はさ、オレ達が全国大会にいける自信を持てるようになったのって、ここ2ヶ月くらいなんだよ」

「…………?」

「お前が此処に来て、いろいろ教えてくれたろ。ゲームの組立から、センタリングのあげ方のコツ。ドリブル、パス。オレ、同じMFとして、お前のサッカーセンスってすごいなって思ってた。お前にもらった沢山の技術がオレ達に全国大会の夢をくれたんだ」

「…………」

「オレ、雪割草、好きだよ」

「…………」

「すごく、好きだよ」

金田の言葉を聞いていると、なんだか涙が溢れてきた。

マフラーも手袋も暖かくって、涙がとまらなかった。



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6話

「おーい! 岬!!」

しばらく後、アパートへ戻ろうと、僕達が歩き出した時、通りの向こうから小田が何か大きな包みを大事そうに抱えて走ってきた。

真っ白な布で包まれた四角い板のようなもの。

「……!!」

僕は、はっとなって駆けだした。

あれ、小田が持っているのはキャンバスだ。

間違いない。僕がさっき汚してしまった富良野の風景だ。

「……小田!」

「良かった……岬、こんな所にいたのか。親父さん、探してるぜ」

「……父さんが?」

「ああ、これ持って大通りをうろうろしてたから、どうしたんですかって声かけたら、お前がいなくなったって言うもんだから、オレびっくりしてさ」

そう言って、小田は持っていたキャンバスを再び抱え上げた。

「それ……」

「そうそう、オレ、事情よく知らないないんだけど、親父さん、なんかこれをお前に早く見せたいって言ってたから。とりあえず預かって代わりに探しに来たんだ。オレの方がこの街詳しいし、足早いし、すぐ見付けてみせるからって」

「…………」

「ほら、受け取れよ」

小田が包んでいた布を取りながら、僕の目の前にキャンバスを掲げた。

「…………」

とたんに目の前に広がる富良野の銀世界。

「うわー!! すげえ」

隣で松山と金田が感嘆の声をあげた。

広大な富良野の風景画。一面の雪景色。

そして、その中央に、赤いマフラーを巻いた小さな男の子の姿があった。

「……これ……」

小さくて、顔もよく解らなかったけど、赤いマフラーに赤い手袋をして立っている少し明るい茶色の髪をした少年は、なんだかとても幸せそうだった。

優しい富良野の風景の中で、少年は幸せそうに笑っていた。

 

「岬の親父さんの絵って、初めてみたけど、こんな絵を描くんだ」

松山がしげしげと父さんの絵を覗き込んで言った。

「風景専門って聞いたけど、人物も描き込むんだ」

「……初めてだよ。父さんが絵の中に人物を描いたの」

「そうなのか?」

「……うん。そう」

初めての人物。

父さんは僕を富良野の風景の中に住まわせてくれたんだ。きっと。

絵の中で、僕はずっと、この暖かな富良野の地に居られるんだ。

永遠に。

 

「僕ね、また転校するんだ」

「…………」

松山と金田と小田が同時に僕を見た。

「たぶん、2、3日中には、此処から離れる」

「そ……そっか。じゃあ、一緒に雪割草探しに行けないんだ」

小田が残念そうに言った。

「うん。ごめんね」

「何処へ行くんだ?」

金田が聞いてきた。

「わかんない。南の方だってだけ、父さんが言ってた」

「…………」

「僕ね、みんなと一緒に全国大会行きたかった。そんな先まで居られないの解ってたから無理なのは承知だったんだけど、本当に、みんなと一緒に読売ランドのグランドに立ちたかったな」

「立てるじゃねえか」

突然、松山が言った。

「……?」

「行こうぜ。全国大会」

「松山? お前、何言ってんだよ。今の岬の話聞いてなかったのか?」

「聞いたよ」

「だったら……」

「別に味方同士じゃなきゃ、一緒に行ったことにならねえのか?」

「…………え?」

その場にいる全員があんぐりと口を開けた。

「岬、お前、これから何処へ行くのか知らねえが、夏には絶対サッカーの強い学校に転入しろよ」

「…………」

「そんで、その学校が全国大会に出場してきたら、オレ達、また一緒にサッカーできる」

「…………」

「敵と味方に別れちまうけど、ひとつのボールを追って同じグランドに立って、一緒にサッカー出来ることには変わんねえだろ」

「…………」

「ずっと一緒にサッカーをしようぜ」

「松山」

 

ずっと一緒に。

今まで、どんな場所も通り過ぎるとそのまま忘れ去られていた僕に、松山は未来の約束をくれた。

ずっと。

ずっと一緒にサッカーをしよう。

時には味方同士で。時には敵同士で。

それでも、たったひとつのボールを追って、ずっと一緒にサッカーをしよう。

僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、力強く松山に向かって頷いた。

「うん。ずっと一緒にサッカーをしよう」

 

その後、僕らはそろってアパートまで戻った。

父さんに絵を返し、謝ると、父さんは小さな声で、お前のおかげで一段と良い絵になったろう、と笑ってくれた。

 

それから3日後、僕達は四国に向けて旅立った。

向こうに着いたら絶対に住所を教えろとしつこく金田が言うので、僕は四国に着いた最初の晩、借りたアパートのそばの公衆電話から金田に電話した。

今度の学校にはサッカー部がないそうなので、隣町のサッカークラブを覗きに行こうと思ってると言ったら、金田は頑張れよって、でも、あんまりオレ達のライバル増やすなよって、笑いながら小さな声で言った。

 

そして、それから2週間後。

金田から僕の所に一通の手紙が届いた。

中身は小さな押し花と、みんなの寄せ書き。

花はもちろん、白い雪割草だった。

 

                FIN.



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