異界見聞録  ~不定期更新~ (ぼんぼりーぬ)
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人魚 壱

皆様のお暇つぶしになれば幸いです。
カッコイイ薬売りさんを書いていければと思っています。





愛している 恋している

 

愛している 焦がれている

 

愛している この身体の その全てで

 

愛している 恋い慕う

 

愛している 求めている

 

愛している この心魂の その全てで

 

たとえ どんなに時を経て 貴女が俺のことを忘れても

 

たとえ 過ぎた時の果てで 貴女がどれだけ変わっても

 

愛している その心魂を

 

愛している 貴女と言う存在を

 

貴女に約束しよう 永遠の想いを捧げると

 

貴女に誓おう 永久の愛を

 

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別に現状に不満があったと言うわけではない。

確かに仕事が面倒くさいとか。

家事とか夫の相手が面倒だとか、そう言う些細なことはあった。

だけど、その程度、誰もが持っているものだと思う。

結婚年齢の上がっている昨今、この程度の悩みは珍しくないと思っているから。

私もご多分にもれず、一昔と言うかどうか。

所謂、嫁き遅れと言われて然るべき年齢になって、ようやく結婚できたクチである。

それでも恋愛結婚であったし、夫には些細な不満や苛立ちはあれども、

大きな問題はなかった。

傍から見れば、多分と言うか、確実に夫婦円満だったと思う。

それでも乙女心とでも言うのだろうか。

自分ではない何かに憧れる気持ちは、三十路になっても、恥ずかしながら持っていた。

たとえば、モテモテのお金持ちの令嬢である自分だとか。

ゲームで言えばチートですらあるような、選ばれしキャラの自分だとか。

シチュエーションこそ色々あったけれど、とにかく、自分でない自分に憧れてはいた。

今の自分が持っていない全てを持っている、理想の自分。

誰しもが憧れたことがあるのではないだろうか。

普通は中学生とか、それくらいには卒業しているはずの、理想に憧れている時代。

恋に恋している、青い少女と何ら変わりのないことだ。

良いか悪いかと言えば、きっと悪いことなのだろう。

現実逃避とあまり変わらないだろうから。

でも、憧れた。

働いても働いても、楽にはならない生活。

嫌な上司に、嫌いな同僚。

うだつの上がらない私。

出世する同僚に嫉妬して。

あるいは、結婚や出産をする、幸せそうな女友達に嫉妬して。

将来に希望の持てない、今の自分たち。

夢見るくらい、妄想するくらい、許されるだろうと思っていた。

現実は辛い。本当に辛い。

悲しかったり、キツかったり、苦しかったり。

幸せを実感することなんて、ゼロではないけど、数えるほど。

だから。

だから、夢見ては、いた。

とってもカッコイイ異性に恋焦がれて、愛されて。

束縛が重いと、幸せな愚痴を言えるくらいの、理想の自分。

他人が羨むほどの、美しい顔。

女性が妬まずにはいられないほどの、完璧なプロポーション。

憧れたことくらい、嫉妬したことくらい、きっと誰でもあるはず。

たとえばパラレルワールドとか。

もしくは、来世とかでも良い。

いつか、嫉妬と羨望の対象になってみたいと。

思ってはいた。

夢見ては、いた。

だって、絶対に叶わないと知っていたから。

絶対に『私』では叶う日は来ないと、理解していたから。

だから、無邪気に憧れていられた。

 

憧れていたの。

美しいと称される全てのモノに。

焦がれていたの。

求められる全てのモノに。

私は。

 

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「ああ 目が 覚めたよう ですね」

不思議な抑揚の声が聞こえた。

耳にしっとりと馴染む、とても心地の良い声。

このまま再度、目を閉じてしまいたい。

私はすう、とぼやける視界をそのままに、もう一度目を閉じることにした。

「起きて いる のでしょう?」

不思議な抑揚で、だけどどこか心地よい声に促されて、私は渋々目を開けた。

上手く焦点が合わない。

確かに視力は良くないが、どうしてこんなにもブレるのか。

重い頭を何とか回転させて、私は考える。

そもそも、ここはどこなのだろうか。

視界を動かして、周辺を見渡す。

見える限りでは、どこか立派な日本家屋のひと部屋に居るようだ。

どうやら私は寝かされているらしい。

何なんだ、いったい。

「具合は どう ですか…?」

少しは気遣いの色が見える声に、私はようやく声の主へと目を向けた。

何色と言えばピッタリと言い表せるのだろうか。

私の主観で言えば、亜麻色、とでも言えばいいのだろうか。

それも本当に、本当に淡く薄い色をしている。

そんな色素の薄い薄い長い髪を、紫の布で纏めて覆った頭。

本当に日本人かと疑うくらい、白い、だけど病的ではない透き通るような白い肌。

ようやくはっきりとしてきた視界が捉えたその顔に、私はギョッとした。

一時流行った、ヤマンバメイクとか、分かる人は居るだろうか。

いやいや、分からずとも、ギャルと言えば分かる人は居るはずだ。

そんな人を目の当たりしたような、そんな感覚だ。

私の視界が捉えた、一番近くに居る声の主と思しき人は、正直、そんな顔をしていた。

メイクなのか、はたまた刺青なのか、それは分からないが。

両方の目を隈取る朱色。唇は笑みの形に紫色。

鼻梁にも一筋の朱色が描かれている。

化粧なのか、それとも刺青なのか。まあ、私にはどちらでも構わない。

どちらにしろ、インパクト半端ない、と言うのが感想なのだから。

「まだ 熱が高い ですね」

す、と伸ばされた白い白い手が、私の額に触れた。

女の私より綺麗に伸ばされた爪も、顔に合わせているのか、美しい紫色をしていた。

冷んやりとした、その温度にホッとした。

けれど、明らかに男性だと思われる質感と大きさの手のひらに、思わず身体が固くなる。

白状しよう。

私は夫以外の男性に不慣れだ。

職業柄か、あまり自分を女だと意識しないようにしてきたせいもある。

いや、女性として扱って欲しいとか、まあ思うところは色々あるけれども。

けれども、それは一先ず置いておくとして。

同僚とか同期だとか、同級生とか同窓生とか。

そう言う男は平気だけれども。

そう言うフィルターの無い異性は、何と言うか、苦手だ。

どうしたら良いのか、分からなくなるから。

「話せ ますか?」

気遣っているのか、そうでないのか。

先程から変わらぬ、心落ち着かせるような、しっとりとした声と話し方。

声だけなら、一目惚れした。大好きである。

だがしかし。現状がよく分からないのは、依然として変わらないわけで。

再度、私は周辺に目をやった。

だけれど、分かったのは、ここが日本家屋の一室であるということと。

それから、どうやら私は熱が高くて、何故だかこの部屋で介抱されていると言うこと。

何故、こんな状況になっているのか。

私にはさっぱり理解出来ないが、とりあず会話は出来そうなので、私は頷いた。

それを見てとって、男性は微かに笑ったような気がした。

口紅が笑みの形を象っているから、本当に気がしただけなのだろうが。

「名前 を お伺い いたしたく」

名前。

そうだよな。名前無いと、色々不便だろうし。

良いのだろうか。私が覚えている名前を名乗っても。

何か違うような気がするんだよね。良いのかな、この名前で名乗っても。

どうしようかな、と迷っている間も、化粧の凄い美人さんは私をじっと見ている。

え、なに、何か目力凄いんですけど。

朱色の隈取のせいか、見つめられると迫力凄いんですけど。

なに、この状況。

多分、私、病人だと思うんだけど…え、怖いわ、この状況。

「え」

掠れた声が出た。

かなり長時間、寝たあとのような声だった。

これから察するに、私は結構熱が高くて、長い時間寝込んでいたと思われる。

「と」

それでも、美人さんの目力は変わらない。

怖いわ。なんて圧力。

三十年ほど生きてるけど、初めて見るよ、こんな人。

「あの」

喉が渇いた。何にか飲みたい。

でも、そんなこと言えるような雰囲気じゃ無いね。

この部屋には私と、あとは、目の前の怖い美人さんしか居ないのだから。

「あなたの、名前を」

ああ、喉が痛い。

口をつぐんで、私は舌で口の中と、届く限りの喉を舐めまわす。

喉が渇いているだけではなく、腫れてもいるのだろうと感じた。

「名乗るほどの 者じゃあ ありません 俺は」

す、と美人さんは少しだけ身体を引いた。

「ただの 薬売り ですよ」

それまで美人さん―薬売りさんか―の身体で隠れていた、薬箱が露わになった。

結構大きい。とても重そうだ。

と言うか、薬売り?

そんなもの、歴史の教科書の他では、聞いたことが無い。

「では 名乗って 頂けるんで ?」

独特な抑揚。

平坦な声、と言うのとは違う。

何か、語らずには居られなくなるような話し方だ。

単に私がお喋り好き、と言うだけの可能性もそれなりに高いけれども。

「私、は」

じ、と瞬間、薬売りさんと見つめ合う。

ああ、何か、とても不思議な、それでいて美しい。

光の加減で薄い紫にも見える、これまた儚い蒼色の強い瞳が私を見ている。

「蒼!!起きたのかい!!」

すぱん、と乱暴な音を立てて、薬売りさんのすぐ後ろにある襖が開いた。

ふんす、と息荒く仁王立ちする女性が、そこには居た。

誰だろうか、彼女は。初めて見る。

「何を呆けているんだい!?熱は下がったんだろう!!」

ヒステリーでも起こしているんだろう。

甲高い、それでいて濁った声で怒鳴りつける女性の言葉は、頭に響く。

薬売りさんが言っていたように、私の熱はまだ高いのだろう。

頭が痛い。

「女将さん 彼女は まだ」

それに気づいてか、薬売りさんが女性を制してくれた。

十人が十人とも美人と評するであろう男性に、しっとりと制されたのだ。

若干のバツの悪さと、恥じらうような表情を浮かべて、女将は少し息を落ち着けた。

「薬売りさんに免じて、今日は寝ていても構わないけどね!!

 自分の食い扶持分はきっちり働いてもらうからね!明日は働いてもらうよ!!

 わかったね、蒼!ただ飯食わせる余裕なんざ、ウチにはないんだよ!」

ふん、と息巻いて女将とやらは、ぴしゃりと襖を閉めて姿を消した。

すると途端に、静けさが戻ってくる。

「……蒼です。どうも」

ありがとうございます、と言いながら私は身体を起こした。

結構汗をかいている。相当熱が高いらしい。

状況は良く分からない。だが、しかし。

あの女将さんとやらの言い方からして、明日には働かねばならないようだ。

「ええと、薬売り、さん?」

「はい」

「どうして、ココに?」

「偶々 ですよ」

端的な説明過ぎて分かりにくい。

分かりにくかったが、纏めるとどうやら、こう言うことのようだ。

ここは海辺の町らしい。

商いの途中で立ち寄ったこの町で、本当に偶然、海を漂う私を見つけたのだそうだ。

取り敢えず拾い上げたのは良いものの、薬売りさんにとっては不運なことに、

私にとっては幸運なことに、私は息をしていた。

流石に生きている者を捨て置くのは気が引けると言うことで、

町の中にある、とある宿に宿泊を兼ねて運び込んだ。

そこでまた運が良いのか悪いのか、宿の女将と私は面識がある様子だったと言う。

まあ、先ほどの話しぶりからしても、私のことを女将は知っているのだろう。

とは言っても全く面倒を見る様子は無かったため、

とても面倒くさい思いをしたようだけれど、薬売りさんは私の看病をしてくれたとのこと。

淡々と話す薬売りさんからは微塵も感じ取れないが、凄く面倒くさかったのではなかろうか。

いや、物凄く面倒くさい事態に巻き込んでしまったのだろう。

意識が無かったのだから、不可抗力ではあるのだろうが、何ともはや、申し訳ない。

「どうもご面倒をおかけしまして」

「いえ いえ 勝手にやったこと ですから ね」

お気になさらず、とその白くて美しい手をかざして、私に言う。

さっきから思っているけども、この薬売りさん、美人過ぎないだろうか。

三十年ほどの私の人生でも、こんな美人は見たことが無い。

いやあ、何とも。眼福とはこのようなことを言うのだろう。

我が人生に悔いなし。

「ときに 蒼 さん」

「はい?」

蒼、と言う名前に覚えは無い。

無いが、しかし、私は蒼と言うらしい。

何ともあだ名のような、芸名のような名前である。

「何故 あのように荒れた海に ?」

荒れていたのか。

ふむ、と私は天井を仰いだ。

だが、答えは無い。当然である。あったら苦労も苦悩もあるまい。

見知らぬ場所。記憶に無い、海で溺れた事実。

耳慣れぬ、私を示す名前であるらしい“蒼”という単語。

私が、これが私の名前だと言える名前とは、全く違う。

ちらりと薬売りさんを振り返る。

じ、とあの不思議な色合いの、けれど美しい薄紫色の瞳で、やはり私を見ている。

美しいとは卑怯だ。有利だ。ずるい、と思う。

だって勝てないじゃないか。負けが決まってしまうじゃないか。

「……覚えていません」

「 つまり ?」

私は素直に、そして正直に述べることにした。

記憶と現状が大きく食い違うと言うのに、私にはあまり動揺が無かった。

単に熱が高くて頭が働いておらず、実感が沸かないだけなのだろうが。

これは落ち着いて来たら不安でたまらないだろうな、とぼんやり思う。

「覚えていません。海の中に居たと言うことも。

 もっと言うなら、私は蒼と言うらしいですが、その名前にも覚えが無いです」

結構長く話せた。声も掠れていない。

けれど喉は渇いているし、痛む。

風邪なんだろうなとか、今更どうでも良いことを考える。

「ほう それは それは」

物忘れの病ですかね、と薬売りさんは笑った。

本当であれば笑い事ではないと思うのだが。

だが、私は“蒼”の私は忘れても、そうではない私のことは覚えている。

三十年ほど生きた『私』であることを覚えている。

だからだろうか。薬売りさんに合わせるように、笑うことが出来た。

「そうかも、ですね。でもまあ」

忘れて良かったんじゃないですかね、と。

私はそう言って笑って。

薬売りさんは、笑う私の前で少しばかり。

目を見開いた気がした。

笑ったくせに、と私は皮肉な気持ちで、美しいその顔を見ていた。

 

 

 

今でも とても よく 覚えている 初対面

 

 

 

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高く、澄んだ音が空に響く。

響かせているのは、私の奏でる笛であるが。

ふ、と息をつくと同時に、私は演奏を止めた。

人生の中で初めて笛なんてものを演奏した、はずなのだが。

不思議なことに、私の手にこの笛はとても良く馴染んだ。

そして、考えずとも、奏でる方法を私の身体は知っていたようだ。

違和感も戸惑いもなく、難なく私はこの笛を奏でることが出来た。

目が覚めて、熱が下がって数日。私は気づいたことと、知ったことがある。

私の名前は蒼、と言うらしく、さらには町の人間ではなく旅人であるらしい。

旅芸人か何かであるようで、楽器全般、何でも出来る。

あとは唄やら舞やら、そう言う系統は何でも全般、ほぼ完璧にこなすようだ。

私の記憶は無いが、どうやら失くしているのは『思い出』と呼ばれるもののようである。

笛の吹き方、琴の奏で方、舞の舞い方。それから生活の仕方。

そう言うものは思い出そうとせずとも、覚えているらしく、こなすことが出来る。

それから、容貌が飛び切り良い。途轍もなく、良い。

サラサラと指通りの良い、真っ直ぐな長い髪。

真っ白い肌に、形の良い綺麗な爪に指。ふっくらと可愛らしい、色良い唇。

ぱっちりと大きく開いた、美しい眼。

普段着が和装なので分かりにくいけれども、完璧な体つき。

つまりは出るとこ出て、引っ込むところは引っ込んでいる身体と言うことである。

これが私なのだと言うのだから、最初のうちは夢だと思った。

と言うか、今でも夢だと思っている。

いつ覚めても不思議ではないが、だから、存分に楽しもうと思ってもいる。

ただ。

ちらり、と道の方へ目線を向けると、そそくさと視線を逸らす人々がいる。

反対側へも試しに目を向けると、サッと目を逸らし、何人かの人が逃げていく。

そう。ただ、私こと“蒼”にも難点のようなものがあった。

藍より深い青い色をした髪。蒼より冷たい青い瞳。

青髪青瞳。だから“蒼”。

まんまやんけ、と思った私は責められまい。

「蒼さん」

ぎこちなくなった周辺の雰囲気を破る、しっとりとした声に私は振り向く。

色素の薄い髪の毛に、私に負けず劣らずの真白い肌。

派手な着物に、刺青だか化粧だかで装った顔。

そうそう。

ここ最近で分かったことと言うか、知ったことの中のひとつ。

今、私が暮らしているここは、文明等的には、日本の江戸時代に酷似している。

本当に江戸時代かどうかは、正直なところ、相当怪しいけれども。

似通っているところが多々あるので、江戸時代なんだろうな、と結論することにした。

そんな江戸文化の中で、彼の風貌は決して親しみやすく無いと思うのだが。

何故だろうか。彼はよく人に囲まれている。

人柄もあるのかもしれないが、九割、彼の見た目の効果だと思う。

つくづく、美人は得だと思う。僻みだと言われても良いが、やっぱりそう思う。

まあ“蒼”みたいな例外も存在しますけどもね。

「もう 身体は すっかり ?」

「はい。もう全快と言っても良いですね」

私を助けあげて、看病までしてくれた薬売りさん。

本名は知らない。何度か聞いたけれども、教えてくれなかった。

まあ、私が“蒼”なんだから、別に薬売りさんが薬売りさんでも良いと思う。

もう聞き出すのが面倒くさいと言うことも、少しあるけれども。

「その節は大変お世話になりました」

「いえ いえ 俺は 大したことは してません ぜ」

相変わらず不思議な抑揚で話す人である。

それが不思議と耳に心地良いのも、事実なのであるが。

「薬売りさんは、まだ町を出ないんですか?」

「ええ まあ」

私の看病をしていた期間も入れると、短くない日数が経過している。

薬が売れているならば、彼が滞在していることも、おかしくはない。

だが、行商人っぽいのにも関わらず、この地に長期滞在しているのは、違和感がある。

ことりと首を傾げて、私は薬売りさんを見た。

「何か?」

「いえ。大したことじゃ無いんですけど」

私は正直に思っていることを話した。

何故、この町に滞在し続けているのかと、問いかけながら。

「蒼さんこそ まだ この町に?」

「ああ。それはまあ、成り行き、ですよ」

「成り行き」

「そう」

蒼であることや、蒼としての様々な知識や技術は、おおよそ飲み込めた。

相変わらず“蒼”と言う人間のドキュメンタリーを丸暗記したような、そんな感覚だったが。

だが、そこまで至れたけれども、“蒼”の次なる目的地だったり、やりたいこと等々。

そう言った類は全く、思いつかず、思い出せもせず。

目的も何もなく旅立っても良かったのだが、何となくそれも違う気がして。

ズルズルと今日までこの町に滞在するに至る、のである。

「では」

知らず俯いていたらしい。

耳に届いた薬売りの声に、私は顔を上げた。

今日も綺麗な顔をしている。男なのに、何とも羨ましい人間である。

「あの日 どうして 荒れたあの海に居たのか」

思い出せましたか。

再度問いかけてくる薬売りに、私は困惑した笑みで返す。

「それは」

「それは?」

言うべき、ではあるまい。

私が蒼であることに違いはなくても、“蒼”ではないのだから。

『私』を捨てられない限り。

あるいは“蒼”を思い出せない限りは。

たとえ恩人である薬売りであったとしても。

言うべきでは、あるまい。

「……忘れて、しまったようです」

「さようで」

表情ひとつ変えず、薬売りは引き下がった。

それに少しの不審感を抱いたけれど、藪蛇になってはたまらない。

私は沈黙を選んだ。これがいつでも、どこでも無難なのは変わらないのである。

「さて もう日も暮れた 蒼さん」

宿へ戻りましょう。

さも当然のように差し出された手に、私はさらに戸惑う。

意図が分からない。

「夜道は 危険 ですぜ」

ああ。そう言う意味か。

送ってくれるのだろう。私はひとつ笑うと、彼の手を取った。

あの日のように、心地良く冷んやりとした手だった。

滑らかな肌。心地良い体温。美しく整えられた紫の爪。

遠くから響く波の音と、それらだけが、私の脳裏にくっきりと刻まれたのが分かった。

やはり、綺麗な人はそれだけで有利だ。

ずるいし、妬ましい。

でも。

だけど。

 

 

美しいから 仕方ない のだろうとも 諦めた

 

 

 

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風が強く吹く。

視界いっぱいに広がる青い海には、白波が立っている。

大荒れと言うわけではないと思うが、穏やかとは言い難い波模様だ。

海に向かう私の背後には、小さな祠がある。

大きな木に隠れていて、うっかり見落としてしまいそうなほどの祠だ。

私は祠と木と、崖下には海が広がる場所で、今日は三味線を弾いている。

この三味線は、何故か宿に置いてあったものだ。

女将さんも、大将も楽器なんて弾けないのに不思議である。

貰い物だと大将は言っていたが、この三味線を見たときの、女将さんのあの表情。

今更だが、曰く憑きとかだったらどうしよう。

女の怨念とか、憤死した亡霊が取り憑いているとか。

やめよう。考えると怖くなるし、考えると幽霊が寄ってくるとか言うし。

はあ、と溜息を吐いて、三味線を抱え直した。

相変わらず風は強い。

びゅうびゅうと吹いているが、耳元では最早ごうごうと音がしている。

一つに束ねただけの髪の毛は荒ぶり過ぎて、ボサボサだ。

それでも私はここで三味線を弾く。弾かねばならない、と何故か思うからである。

多分、失くした“蒼”の記憶が、私にそうさせるのだろう。

思い出せないなら、考えても仕方がない。

だから私は、何も考えずにひたすら、ただひたすら時間の許す限り音楽を奏でる。

私は最近ずっと、仕事の無い時はここで楽器を弾いている。

今日は三味線だが、昨日は笛で、その前は何だったか。

仕事がある時は仕事終わりか、仕事前か。

芸事での仕事が多いから、大抵は仕事前に弾きに来るのだけども。

「やはり ここでしたか」

がさりと草を踏み分ける音がして、すっかり顔馴染みになった男が現れた。

名前は知らない。ただ薬売り、と私を含め、人は彼をそう呼んでいる。

「今日は仕事が無いもので」

日がな一日、練習を兼ねてここで曲を弾いていようと思っていた。

そう言う私に、彼は無言で風呂敷包みを差し出した。

うん?と首を傾げる私の前で、薬売りさんは包みをゆっくりと解いていく。

中からはおにぎりが出てきた。

「もう 昼時 ですよ」

「これは私に、ですか?」

「でなけりゃ 渡したりしません ぜ」

それもそうか。と言うか、昼時だったのか。

どかりと腰を下ろし、おにぎりを食べ始めた薬売りさんを見下ろして、

どうしようかと少し考えた。

しかし、ここから離れなかったと言うことは、一緒に食べると言うことなのだろう。

この段階で席を外す方が失礼だろう。

ひとつ息を吐いて、失礼しますと断って、私は薬売りさんの隣に腰を下ろした。

「……え、美味しい」

おにぎりを一口頬張れば、びっくりするくらい美味しかった。

まだほんのりと温かいから、出来立てなのだろう。

「そりゃあ 良かった」

「え?まさか」

まさか薬売りさんの手作り!?

ギョッとして隣を見やれば、飄々と海を見ながらおにぎりを食している。

でも、よく考えればそうだろう。

私が逗留している宿の女将さんは、多分私のことが嫌いである。

嫌いと言うか、忌避していると言うか。

女将さんから見れば、私はゴキブリと同じようなものなのだろう。

いかん。考えたらちょっと気持ち悪くなった。

ともかく、そんな存在であるところの私におにぎりなんて、作らないだろう。

大将はそこまで気が回らない。

私が昼食を抜こうが忘れようが、そんなことは毛ほども気にしないはずだ。

そして私の知り合いは、この町には薬売りさんと女将さんと大将。

この三人しか居ない。いや、仕事で関わったりする人は居るが、それは別としておく。

これらを考えれば、自ずと答えは出るはずだ。

どうしておにぎりを見た瞬間に、解答にたどり着けなかったのか。

「ありがとうございます。頂いています」

遅まきながらお礼を述べると、微かに笑ったような気配があった。

本当にこの人は、気配で感情表現する人である。

もう少し、顔面の筋肉使っても良いと思うんだが。

いやでも、客商売であるし、仕事のときはもっと表情筋を使っているのだろう。

薬売りさんみたいな人は、微笑むくらいが一番美人に見えそうだ。

大笑いしてたりすると、せっかくの美貌が三割減くらいしそうな気がする。

ああ、でも、顔の装いが迫力あるから、怒ったら顔が怖そうだ。

美人の怒り顔は迫力あるってよく言うし。

見たくないな。絶対怖いから、怒らせないようにしよう。

「蒼さんは」

つらつらとくだらないことを考えながら、おにぎりを咀嚼していると、

隣に座る薬売りさんが、ぽつりと言葉を投げかけてきた。

薬売りさんの方を見るが、彼は海へと視線を向けたままだった。

なので私も前へと視線を戻し、海を見ながら何でしょうかと返す。

「いつまで この 町に ?」

「うーん」

私には、この町に拘る理由は無い。

ただそれは言い換えれば、わざわざ旅立つ理由も無いと言うことだ。

名の通りに青々しい私を忌避する人ばかりのこの町は、決して過ごしやすくはない。

しかし、それはおそらく、どこへ行っても変わらないだろう。

そんなことを考えていると、色々と面倒くさくなってしまうのである。

滞在し続けることもうざったいが、旅立つことも面倒くさい。

そもそも、男装してはいるが、女の一人旅である。

面倒事も多かったようだし、目的も理由も忘れている現状では、旅立ちの方が面倒だ。

もともと私は面倒くさがりなのだ。

しなくて良いなら、何事もしたくないし。

働かなくて良いならば、積極的に働こうとは思わない。

不労所得があればなあと、常々思っていたくらいなのだ。

多分、出て行けと言われるまでは出て行かないだろう。

たとえ居心地が良くなくとも、大きな変化よりは余程マシだと思うからである。

「決めてないですねえ。気が向くまでは、ここに居ますよ」

「気が向くまで ですか」

「ええ、気が向くまで、ですね」

旅立つ理由は無いし、積極的に旅立ちたくはない。

それも大きいが、もう一つ。

何となくだが、まだここに居なければならない気がするのだ。

“蒼”がそう思っている、ようなのである。

おにぎりを食べきって、お茶を飲むと、再び三味線を構えた。

薬売りさんがこちらを見るのが分かったが、気にすることなく三味線を弾き始める。

唄は入れない。

一人で唄っていても仕方ないからである。

今は薬売りさんが隣に居るが、仕事以外で唄うつもりはない。

“蒼”は唄もとても上手いが、私は人前で唄うのは恥ずかしいのだ。

だから結局、仕事以外では唄わないことになる。

「そいつは 困りました ね」

雨だれのように、ポツリと降ってきた言葉に、驚いて私は手が止まる。

何が、と思って隣を見れば、いつの間にか薬売りさんがこちらを見ていた。

あの不思議な光のある薄い蒼色の瞳で、こちらをじっと見ている。

負けじと見つめ返してみるが、多分五秒くらいで、私は目をそらした。

詳細は忘れたが人の瞳は長く見続けてはいけないのだと、何かで読んだことがある。

それを思い出したから。

「蒼さんが 旅立ってくれないと 俺は俺の」

すべきことが果たせない。

そう言う薬売りさんを、私は思わず眉根を寄せて見つめた。

薬売りさんは、やはりまだ私を見ている。

だから、程なくして私は再び、その視線を前に広がる海へと戻す。

びゅうびゅうと強く吹き付ける海風が、私と薬売りさんの髪を弄ぶ。

「すべきこと、とは?」

「モノノ怪をね 斬るんです」

こいつでね。

りん、と鈴のような音と共に、薬売りさんの手に剣が現れた。

柄の部分に鬼の頭のような装飾がしてある。

色とりどりの宝石か貴石か、美しい石が嵌め込んである美しい剣だ。

刀ではなくて剣だと思ったが、さて、実は刀かもしれない。

しかし、どこから取り出したんだろうか。

先ほどの風呂敷包みと言い、この剣と言い、

この人は四次元ポケットでも持っているのか。

と言うか、モノノ怪とな。

「モノノ怪、とは?アヤカシとか妖怪とか、そう言う?」

「あやかし とは 違う」

「どう違うんですか」

と言うか、違い云々以前に、アヤカシだのモノノ怪だのが、

通常運転で存在する世界なのか、ここは。

これが私の夢だとして、とびきりの美人になれたのは良かったが、

多分、ゲームのチート的な能力は持ってない。

そんなわけのわからない存在に出てこられたら、即死亡じゃないか。

「モノノ怪とは」

知らず嫌そうな表情をしていたようだ。

薬売りさんが、可笑しそうな顔をして、続きを話し始めた。

「人の因果と 縁が あやかしに憑き 形を為したもの」

うん。よく分からない。

理解していないのが分かっただろうに、薬売りさんはそれ以上、

説明をしようとしなかった。

まあ、説明されても理解出来たか、とても怪しいけれども。

「人とモノノ怪は 相容れぬもの」

ちりん、と剣が鳴る。

「人の世にある モノノ怪は 斬らねばならない」

「それが薬売りさんのすべきこと、ですか?」

「そう」

ただの薬売りとか言っていたが、薬売りは薬売りでも、

ただのと言う形容詞は外すべきだと、私は思った。

ただの薬売りの人は、モノノ怪を斬るとか言わないだろう、普通。

それはさて置き、何故私が旅立たねばならないのか。

モノノ怪でもあやかしでも、斬るのも斬らないのも、好きにすれば良い。

私は邪魔した覚えはないのだが。

女将さんに追い立てられて仕事をしたり、こうして楽器を弾いたり。

そんな生活をしているだけだ。

とてもじゃないが、あやかしだのモノノ怪だのとは関わっていないし、

ましてそれを斬り捨てるなんて物騒な事の邪魔も助けもした覚えはない。

「蒼さんが居ると どうも モノノ怪が出て来ない」

形が分からねば斬れぬ、と薬売りさんは言う。

そんなこと言われても。

「どうして形が分からないと斬れないんですか」

「こいつが 抜けない のでね」

こいつ、と言って薬売りさんは私に剣を向けた。

人に武器を向けないで欲しい。

たとえ鞘に収まっているとは言っても、剣は剣である。

分かりやすく嫌な顔をしたつもりだが、薬売りさんは意に介した風も無い。

気にして欲しい。

「こいつに モノノ怪の形と 真と 理を示さねば」

剣は抜けない。

そう薬売りさんは断言した。

本当かよ、と思った私は、未だに私の方を向いている剣をむんずと掴む。

掴み取って、めいっぱい力を込めて鞘から抜いてやろうと試みる。

「っ……っ……っ……っだめだぁ!これは抜けないですね」

はあ、と息を吐いて私は剣を薬売りさんへ返した。

そのままそっと、袖口に仕舞う。

しかし、あの剣、そもそも抜けないようになっているんじゃないのか。

溶接されているかと思うくらい、びくともしなかった。

まあ、『私』の時からそうだが、私の筋力は脆弱だから、

抜ける造りだったとしても、果たして抜けたかどうか怪しいが。

と言うか、剣の割りに軽かった。

いったい何から出来ているんだろう。あの剣。

「形は何となくわかりますが…真と理と言うのは?」

「真とは 事の有様 理とは 心の有様」

再び剣を取り出して指で撫でながら、薬売りさんは言う。

聞いておいて何だが、どちらにしてもよく分からなかった。

事の有様と言うのは事実で、心の有様と言うのが理由とかだろうか。

となると、つまり、モノノ怪の種類―河童とか化け狸とか―を当てると。

それでいて、仮にモノノ怪が何らかの事件を起こしていると言う前提で考えた時に、

そのモノノ怪が事件を起こした動機を探り、剣に示さなければならないと。

そこまでしないと、剣は使用できないと言うことだろうか。

「面倒くさくないですか?」

私だったらそんな仕事、放り出したい。

「さあ あまり そう思ったことは ない な」

それは凄いな。尊敬する。

「そもそも、それって危ないんじゃないですか?」

「まあ 安全じゃあ ない」

「ですよね」

危険手当とか、保険とかも無さそうだし。

ブラック企業の企業戦士みたいな仕事してるんですね、薬売りさんは。

薬売りかモノノ怪成敗か、どちらが本業か知らないけれども、

どちらか専業にしてしまえば良いのに。

「ここに」

薬売りさんは話を続けるようである。

そう言えば、もともとは何の話をしていたのだったか。

「モノノ怪が 居る それは分かっている だが」

淡く光るような蒼色の瞳を私の瞳に据えて、薬売りさんはさらに続ける。

「蒼さんが 居ると モノノ怪の形が 見えてこない」

そうそう、始めはそんな話だった。

しかし、私が居る居ないは、あんまり関係無いんじゃないだろうか。

「形が分からなければ 真も 理も 分からない」

最初は形から見つけるのか。

本当に面倒くさい仕事をしている人だな。大変そうだ。

私が旅立つことで、それが少しでも楽になるなら、まあ検討しないでもない。

だが。

「私の存在って関係なくないですか?」

いまいち実感が無い。

そもそもここで生活していること自体、実感が無いが。

確かに見てくれはずば抜けて居る私であるが、モノノ怪と言う、

何かこうよく分からない、お化けのようなものに影響するような人間だろうか。

むしろ、薬売りさんの存在こそ、お化けは避けて行きそうなものだが。

だって剣が抜けたら斬られてしまうわけだし。

「いや そんなことは ない ですぜ」

そこで薬売りさんは海を見た。つられて私も海を見る。

先ほどまでよりも、波は荒く、そして高くなっているようだ。

風の強さは変化ないのに、何故だろう。潮の関係だろうか。

「ああ でも 蒼さん」

にゅう、と薬売りさんの白く美しい手が私へと伸びる。

は、と口を半開きにして、思わずその手を見つめてしまう。

その白い手はそのまま私の手元へとたどり着き、三味線を奪い取っていく。

うっかり見惚れていて、防御を忘れてしまっていた。

顔だけじゃなくて、手も綺麗なんですよね、薬売りさん。

ええ、知っていましたとも。

美人め。憎たらしい。

今の私も確かに美人だけども。なんだろう。

薬売りさんって、動きがそもそもとても綺麗なんだな。

そのせいだろう。美人度が三割ほど増している。

「しばらく これらは 奏でないでいて もらえますか ね」

「は?」

「いえ ね」

ほら、と薬売りさんが海を指差す。

その指先を追って、私は海を見た。

台風のような海原になっていた。え、おかしい。

風は強いけど、台風ってほどではないのに。

「三味線も 笛も 楽のものは すべて」

しばらく禁止ですぜ。

笑いながら薬売りさんは言う。

もし弾きたいのであれば、旅立つしかない、と言うことか。

「俺が モノノ怪を斬る までは ね」

薬売りさんがモノノ怪を斬るまで。

それか、私が旅立つか。どちらかと言うことだろう。

「ああ もちろん 舞も唄も ね」

仕事出来ないじゃないか。

どうするんだ。女将さんにどやされるではないか。

恨みがましい目で見つめてやると、薬売りさんはにやりと笑って言った。

「俺が しばらく 養ってあげます よ」

扶養されるのって、そう言えば初めてだな。

凄くどうでも良いことをしみじみと思い出しつつも、私はこくりと頷いた。

 

 

 

不覚にも 少しだけ 嬉しい と感じてしまった でも 不本意ではなくて

 




続けたい気持ち

2017.10.1 


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人魚 弐

暴力表現ではないですが、人によってはグロいなあと思う表現があります。




 

 

 

仕事を差し止められて三日ほど経った。

女将さんにどれだけ、何を言われるかと危惧したけれど、

どうやら事前に薬売りさんが、何か言っておいてくれたらしい。

何事も言われず―まあ、相変わらず視線は厳しいが―過ごすことが出来ている。

本当にモノノ怪なんて居るのだろうか。

本当にこの町に、モノノ怪なんて言う、未知の何かが存在するのだろうか。

仕事が出来ないし、やることもなくて暇すぎるので、

そんな答えの出ない事柄を、つらつらと考え続ける日々が続く。

まあ、つまり暇だった。

なにせ仕事が取り上げられていて。

ちょっとした楽しみにしていた楽器弾きも取り上げられたのだ。

時間を持て余して当然だと思う。

そもそも、外見はこの時代の人間だろうが、

中身は平成の人間なのだ。スマホも無ければネットも無い。

そんな時代で退屈するなと言う方が無理だ。

暇を持て余しまくっているが、余暇を潰す工夫も出来ない。

初めのうちは、間借りしている部屋で、引きこもって過ごしていた。

意外なのかそうでもないのか。

縫い物などが得意なくらい、私は手先が器用だったらしい。

小物入れだの、手ぬぐいだの、様々な小物を作っていた。

後々、売り物にでもなれば良いなあとは思っていたが、これがなかなかの出来栄えで。

現代だったら、結構良い値段で売れたのではないかと思われる。

とは言え、それにも限度と言うものが存在した。

早い話、三日ほどで飽きたのである。当然だろう。

繰り返すが、中身は平成の世を生きた三十路の女である。

ネットもスマホのアプリゲームも無いこの時代で、暇を潰す術など持たない。

私が私として存在するこの身体が縫い物が得意だったおかげで、

幾ばくかの暇は潰せたが、そこはそれ。別の話と言うやつだ。

自分が居ない間にこっそり弾かれては敵わないと、楽器の類は全て取り上げられた。

誰にかって?もちろん、薬売りさんにである。

何の権限があって、と思わないでもなかったが、そこで引かなければ、

きっとあの男は私をこの町から容赦なく追い出しただろうと思う。

漠然とだが、薬売りと言う男性は、性格面で色々面倒くさい男性なんだと思われる。

少なくとも私はそう思う。

まず、腹黒い。

基本的に会話を曖昧にする傾向があるし、自分のことは徹底的に隠す。

次に執着心だ。責任感と一緒になってるから始末に悪い。

薬売りさんは多分、モノノ怪とやらを斬ることが使命なのだろう。

まあ、それの真偽は置いておくとしても。

薬売りさんが、モノノ怪を斬ると言うことに、凄まじい責任感を持っている。

それが問題だ。

いや、それ自体は良いことだと思う。

やらなければならないことに、しっかりと責任感を持っている。

とても良いことだ。だが、それが執着心と一体化しているようなところがある。

それがよろしくない。

そもそも、興味関心好奇心、等々。

感情や心が動く事象自体が少なさそうなのだ、薬売りさんは。

そんな感情の動きに乏しい、彼に興味や関心、好奇心。

あるいは、考えるのも恐ろしいが恋や愛情。

そんなものを抱かれた対象は、きっと逃げられないだろうと思う。

薬売りさんが逃がすとは思えない。

何しろ対象が少ないから、感情が分散しない。

その分、対象に注がれる感情の量は多くなるだろう。

愛情はまだ良い。

見た目ではかなり分かりにくいが、多分、薬売りさんはかなり優しい。

何しろ身元不明の私を助けて、看病までしてくれたくらいなのだから。

情が深い人なのだろう。

愛情だけでもかなり重そうだが、まだそれならば良い。

問題は恋だ。良く言うだろう。恋は盲目と。

恋に落ちた人間は、全てに近視眼的、猪突猛進になる。

もちろん、その程度に個人差はあるだろうが。

薬売りさんのように頭の回転が早くて、基本的に腹黒くて、

腹に一物もニ物も持っているような人に恋われた人は、きっと逃げられないだろう。

地の果て、時の果てまで追いかけられそうだ。

ああ、そうか。

端的に言うとだ。薬売りさんはストーカー気質なのだ。

はあ、スッキリした。

薬売りさんはストーカーになりやすい人なのだろうな、と結論づける。

甚だ失礼な結論だと自覚はしているが、一番私に理解しやすくて、

すとんと納得した言葉がこれなのだ。本人には言わないから、まあ許されるだろう。

そんな、しょうもない考察をするくらいには暇なのである。

どうか察して欲しい。

「暇だ」

これまで私は、外出することは出来るだけ避けてきた。

平成だろうが三十路だろうが、中身は女である。

街中の散策に興味が無いわけではない。しかし、それを出来るだけ避けてきた。

理由は簡単。私の現在の見た目のためである。

確かに容姿端麗。楽器も引きこなし、そこそこ知識もある才媛である。

だがしかし、唯一最大の欠点が、日本人とかけ離れた外見である。

この時代からすれば高めな身長に、何よりも青い髪と青い瞳だ。

人目を引くくらいならばまだ良いが、変な噂を立てられてはかなわない。

だから、私は意識して外出を避けていた。それくらいの分別はある。

だがしかし、退屈は人を殺せると言う。

なるほど。私はここ数日で、その可能性を実感していた。

何もしない時間が欲しかった前世(?)ではあるが、こうも暇だと、

忙しかったあの頃が懐かしいくらいだ。私は天井を見上げながら、溜息を吐いた。

「うん、出かけよう」

何もしないと言うのもストレスを伴う。

私はヒソヒソ悪口を囁かれるのを覚悟で、出かけることにした。

幸い、薬売りさんにも、外出は禁止されていない。

そう言えば、この時代の町並みと言うか、お店というのはどんな感じなのだろう。

そんなことに考えが及べば、俄然出かけたくなってきた。

一応お世話になっているし、女将さんと大将に一言、出かける旨を伝える。

大将は興味なさそうに頷く。女将さんは不満そうだ。

まあ、そうだろう。何しろ働いていないのだから。

その分の金銭は薬売りさんが払っているらしいが。あの人も何を考えているんだか。

私に構って得られる利益とは何だろうか。懐かせて見世物小屋に売るとか?

ありえそうだが、まあ、あの人はそう言うことはしないだろう。

情が深そうな人、だからね。

草履を履いて、私は表に出る。久方ぶりの陽射しが眩しい。

ざわざわ

ザワザワ

ここは思っていたよりも、ずっと大きい町のようだ。

人が行き交う様が賑やかで、見ているだけでも楽しい。

いや、懐かしいのか。

生前(?)私は、いわゆる大都市に住んでいた。

夜通し点いている灯り。時間を問わず、忙しなく行き交う人々。

自分もその中の一人だった。だからだろう。

町を行き交う人を見るだけで、それだけでもかなり、楽しかった。

しかし、せっかく部屋を出たのだ。出かけなければ勿体なかろう。

私はてくてくと、往来を歩き始めた。

もちろん、見た目が目立つので―薬売りさんとは別の意味でだ、もちろん―

少なからずヒソヒソされた。けれど、そこまで気にならなかった。

予想していたよりも、ずっとソフトだったからかもしれない。

咎める者も、止める者も居なくて。遮る者も、何も障害はなくて。

私は予想していたよりかなり、いや、相当上機嫌で町中を歩き回っていた。

私の生きていた場所よりも、彩が鮮やかだ。コントラストがきついのだろうか。

でも、嫌いではない。慣れない私には目が眩むけれど、これはこれで良い。

よく昔の人たちは、楽しみらしいものもなく、過ごしていたのだろうと言う人が居る。

確かに、現代を知る私がここに居ることは、強い退屈を覚える。

だが。

最初からこの時代に生きている人は、決して鬱々と過ごしているようには見えない。

彼ら彼女らは、彼ら彼女らしく、この時代と言う今を生きている。

それは、私たち未来を生きる者と何ら変わることはないのだ。

悩み、苦しみ、傷つき、痛みを抱え、そして恋して、愛して、幸せを感じ。

過去を踏みしめ、未来を描き、そして現在を懸命に生きている。

ああ。人はこうも変化の無い、そして目まぐるしく生きる種族なのだろう。

自分もただの人間なのに、何故かそんなことを感じた。

―………―

「…?」

ふと、何か、呼ばれた気がして振り向いた。

しかし、そこには誰もいないし、何もない。

橋へと続く道があるばかりだ。まあ、現代と違って舗装されてないけれど。

そんな差異など、私くらいしか気づかないし、思いもしないだろうし。

では何だろうか。何に呼ばれたのだろう。絶対に呼ばれたと思ったのだが。

はて、と首をかしげていると、あまり平穏とは言えない会話が耳に入ってくる。

「おいおい。見てみろよ」

「ああ、噂には聞いていたが……」

「実際に目にすると」

「ああ、やはり違うな」

会話に耳をそばだててみると、どうやら、橋のあたりで交わされているようだ。

つつつ、と私はせずともよいのに、こっそりと橋へと近付いた。

「今回は誰だ?男か女か」

「男のようだぞ」

「どこの誰だ?」

「おやおや。あいつは葵屋の坊だ」

「おお、おお。可哀想になあ」

今回は?どう言うことだろう。

徐々に徐々に人だかりが出来ていく橋へ、思い切って駆け寄った。

瞬間、私の視界は真っ白に染まった。

同時に感じる、滑らかで冷やりとした、温かな人肌のぬくもり。

「女 子供の 見るようなもんじゃあ ありませんぜ」

しっとりとした低い声が、耳朶を打つ。

知らず耳に馴染んでしまった声音に、私は視界を覆われたまま、振り返る。

「薬売りさんですね」

「はい」

視界を封じたままで、薬売りさんは言う。

せめて目から手を退かしてくれても良いのに、と思いはする。

が、しかし、何となくそれを言葉に出来ないでいた。

薬売りさんのされるがまま、私は視界を封じられたまま、

橋があると思しき方へ顔を向け、交わされる会話に耳をそばだてた。

「しかし毎回毎回、酷いことだ」

「ああ。今まで一度も下手人が捕まったことも無い」

「恐ろしい恐ろしい」

「ほら、見てごらんよ、あの顔を」

「ああ、ああ。苦しかったのだろうな」

「目をあんなに開いて」

「口もあんなに大きく」

「ああ、恐ろしい」

「おお、嫌な臭いだこと」

今までどうして気付かなかったのか。

辺りにはムッとするほどの血の臭いが立ち込めていた。

海辺の町なのに、今日は風ひとつ吹いておらず、血の臭いは漂ったままだ。

「 蒼さん 」

ぐい、と私の顔を覆った手はそのままに、

薬売りさんは逆の手で、私の身体を少しだけ引く。

この場から離れよう、と言うのだろう。その意図は私にも伝わった。

だが、私の野次馬的好奇心は、それをよしとしなかった。

後から悔いるから後悔と言うのだと、人はよく言う。

だがしかし、やらずに後悔するなら、やって後悔しろとも皆言うじゃないか。

ぐい、と視界を覆う薬売りさんの手を外し、私は橋の下を見た。

私が見ようとするのが予想外だったのか、

思ったよりもあっさりと薬売りさんの手は外れた。

驚いたような気配が伝わってきたが、そんなことより、私は橋の下に釘付けだった。

ゆらゆらと緩やかに流れる、浅い川。

そこに広がる、赤い紅い色。

ああ、血だ。この臭いの元、の。

ゆらゆらと水に揺れる、人の上半身。

そう。浮かぶ死体は身体の上半分しかなかったのだ。

下半身のあるべき場所からは、ちょっと言葉に出来ないものが漂っている。

グロテスクって、ここでは何と言えば伝わるのだろうか。

平成のニュースだったら、モザイクかけてないと、放送事故ものの場面だ。

「うぇ」

「言わんことじゃない 行きますよ」

目にした途端に、漂う血の臭いが体中に染み渡ったと言うか。

口の中にまで侵食してきたような気がして、思わず口元を覆った。

死体と目が合わなくて本当に良かった。

そんな私を見て、薬売りさんは呆れたように溜息を吐いた。

そして、私の手を掴むと、今度は強めの力で私を引いた。

私も抵抗するつもりは無かったので、大人しく薬売りさんの後ろをついていく。

手を繋いだ格好のままなのが、少し不思議だったが。

「薬売りさん。あの、あの人」

「あの男の 残りの部分は もはや見つかるまい」

残り部分て。いや、そうだけど。

薬売りさんが言っているのは、無くなっていた下半身のことだろう。

ちらっと見ただけなので、私には分からなかったが、薬売りさんの説明によれば、

あの死体の下半身は何かに喰いちぎられたかのようなのだと言う。

何かって何だ。某ホラー映画の人喰いサメでも居るのか、あの川は。

たしか淡水でも生きられるサメが居ると、聞いたことあるような気もするが。

「モノノ怪に やられたのだろう 人間にあれは ちょいと難しい」

薬売りさんはモノノ怪だと断言したが、サメか何かの可能性は無いのだろうか。

と言うか、人間にはちょっとどころか、絶対に無理だと思う。

真っ二つならともかく、喰いちぎるって無理だよ。

「私も人間には無理だと思いますけどね。魚じゃ無理なんですかね」

サメと言おうとして止めた。

川にサメなんか居る訳ないと馬鹿にされそうで嫌だったので。

平成だと外来種とか色々で、可能性はありそうだけども。

ここは一応、江戸時代っぽいから、居ない可能性の方が高そうだし。

「人間を喰いちぎるほどだ さぞかし大きな 魚なんだろう だが」

「あ」

そう言えば、さっきの川はかなり浅かった。

仮にサメや何かの仕業だとして、そんな魚が潜れるほどの水深は無かった。

「ま 魚は魚 なんだろうが ね」

薬売りさんは半身で私を振り返ると、私と手を繋いでいない方の手を差し出す。

そこには何やら白い布の包みがあった。小さいが。

「?」

意図が分からず、私は薬売りさんを見上げた。

薬売りさんて、ここが平成だったとしても、かなり背が高い方だと思う。

そんな男性が高い下駄履いているのだから、そりゃあもう顔がかなり高い位置へいく。

だから私が薬売りさんと会話するときは、大抵見上げることになる。

「手を 出して」

完全に私へと振り向いた薬売りさんは、そう言って私の手を掴む。

出せって言った意味はあったのだろうか。

ぽかんとしている私を置いて、薬売りさんは私の手のひらの上に包みを置く。

「見なさい」

薬売りさんの白い手が、ゆっくり白い布包みを開いていく。

雪のように真白な布の上にある、綺麗な鱗。

多分、魚の鱗なんだと思うが。随分と大きい。

包みそのものは、私の手のひらにちょうどぴったり乗る程度の大きさだった。

そして、この魚のものと思われる鱗も、ちょうど私の手のひらぴったり。

「さて これは 人面魚か」

人面魚。人面魚って、結構不気味でしたよね、たしか。

ネットとかで絵を見たことあるけども、妙に顔が美人と言うか。

でも首から下は全部魚なのが、妙に気味悪かったような。

「それとも」

す、と薬売りさんが紫色の爪で鱗をなぞる。

その仕草すら、そこはかとない色気が漂っている。

二十代の美青年に見えるのだけど、江戸時代の青年って、

皆こんなふうに色事に慣れてる風情が出るものなんだろうか。

「これは モノノ怪」

薬売りさんが触れた鱗同士が少しだけぶつかりあって、

何とも言えない澄んだ音を立てる。

まるで硝子細工のように綺麗な鱗で、不気味さなど欠片も感じない。

肌触りだって、それこそ硝子細工を触っているようだ。

「人魚 か」

かちん。

薬売りさんの持っている剣が、その歯を噛み合わせて大きな音を立てた。

「形を 得たり」

 

 

初めて見た モノノ怪を追う姿は 不思議と

 

 

 

■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ 

 

 

わたしが彼に出会ったのは、運命だったのか。

それとも、わたしが持つ業ゆえ、だったのか。

今となってはもはや知る由もないが、それでもわたしたちは出会った。

出会いは平穏とは言い難かった。

荒れに荒れた海原から、わたしは命からがら浜辺へと打ち上げられたのだから。

わたしが乗っていた船の姿はもう見えない。

強く荒れ狂う波と吹き付ける風。それから、眩い朝日が見えるばかりだ。

海へと投げ出された瞬間に、船が波に飲まれるのが見えた。

だからきっと、わたしの乗っていた船はもう、海の藻屑となっていることだろう。

わたしがこうして生きて浜辺にたどり着いたことは、奇跡と言って良い。

だが、とわたしはこみ上げる涙を抑えることが出来なかった。

砂浜に倒れ伏し、指先一つ、動かす気力も体力も無い。

周囲には人気もなく、人っ子一人、居なかった。

もちろん、共に船に乗ってきた人たちも居ない。誰も居ない。

ここがどこかも分からない。

消耗したこの身体で、人が住むところへ向かって歩くことも出来ない。

生き延びたとは言え、ただただ死を待つだけの、わたし。

どうして涙をこらえることが出来るだろうか。

故郷に残してきた家族や友人。

まだやりたいことも、やり残したことも、未練なんてたくさんある。

どうしてこんな、見知らぬ土地で、一人ぼっちで。

死ななくてはならないのだろうか。

どうして、こんな。

どうして。

 

 

「おい、生きているか?」

 

 

照りつける朝日が、突然翳った。

それと同時に掛けられた言葉に、わたしはぼんやりと目線だけ動かす。

見たことのない服装に、見慣れぬ容貌の、男が一人。

わたしを覗き込んでいた。

それが出会い、だった。

死にかけていたわたしを拾い上げ、手当てをしてくれた、男。

介抱され、男の用意してくれた小屋で過ごすうちに、わたしは知った。

ここがわたしが目指していた、異国の地であると言うことを。

男の言うことをわたしは理解出来たが、男にわたしの言葉は通じなかった。

この国の言葉を自在に操ることは、わたしも未だ出来なかった。

だから、会話にはたいそう不自由をした。

しかしそんなことは、わたしにとっては些細なことであった。

優しい男の声。

そっと触れる男の手。

何もかもが愛しかった。恋しかった。

「お前はとても器量が良いな。綺麗だ」

男は事あるごとに、わたしの容姿を誉めそやした。

わたしのような見た目の娘など、わたしの故郷には腐るほど居る。

だが、この国では珍しい見た目のようだった。

緩く波打つ金色の髪。

雪のように白い肌。

海のように碧い瞳。

「特にこの髪。まるで絹糸のようだな」

そう言って、何度も何度も髪の毛を梳かしてくれた。

わたしに合うはずだ、と言って持ってきてくれた、美しい紅色の櫛で。

日に何度も何度も。男に髪を梳かされるのが、わたしはとても好きだった。

恋しい男が、わたしを綺麗だと褒めてくれる。

愛しい男が、優しく何度もわたしに触れてくれる。

わたしは幸せだった。

確かに船は難破し、海に投げ出され、死にかけたけれども。

だからこそ、男と出会えたのだから。

たとえ男の用意してくれた、この小屋から出ることが出来なくても。

男が足繁く通ってくれるのだ。何の不満があるだろうか。

短くはない時間を共にしても、男との会話に不自由していることに変化はなかった。

だが、それが何だと言うのか。

会話こそ不自由していても、わたしは男を想っている。

外へ出られなくても、故郷に帰ることが叶わなくても。

わたしは男を愛している。男もわたしを愛してくれている。

そう思っていた。そう、信じていた。

だからわたしは、幸せだった。

わたしが男と出会ったことが運命だったと、言えるなら。

だとするなら、あの結末は、きっと避けられなかったのだろう。

もし、わたしが男と出会ったことが、わたしの業ゆえだったと言うのなら。

やはり、この終わりは避けられないもの、であったのだろう。

ある時、わたしが過ごす小屋へ、一人の女がやって来た。

やって来たその時から、彼女は何かに物凄く怒っていたように見えた。

それが何か、今に至ってもさっぱり分からない。

ただただ怒っていると言うことは、よく分かった。

それに加えて、その女がわたしに悪意か敵意か。

とにかく、あまり良くない感情を持っていると言うことも。

とてもよく、分かった。

そして。

わたしは。

わたし、は。

わ た し は

 

 

 

 

 

いやああああああああああああ。

耳をつんざく、甲高い悲鳴で、私はハッとなった。

こう、うつらうつらと舟を漕いでいるところを、たたき起こされたような感覚だ。

そして何故か、とても気分が悪い。

体の具合は別に悪くないとは思うのだが、胸がむかつく。

イライラしているだけのようでも、あるが。

しかし、だとしても、何故こんなにもイライラとしているのだろうか。

そもそも、ここは、いったいどこなのか。

「おや 蒼さん ですね」

しっとりとした、ここ数日ですっかり耳慣れた声が、私の耳朶を打つ。

そちらにふっと頭ごと目線を向ければ、何とも言葉を失う光景があった。

「……何で卓の上に立ってるんですか」

あの煌びやかな剣を構えて、テーブルの上に立つ美青年こと、

薬売りさんの姿がそこにあった。

別にどこに居ても良いと思うのだが、それにしても卓の上とは。

ここがどこだか分からないが、そこそこ広さのある和室なのだ。

あえてテーブルの上に立たずとも良かろうに、と思ってしまう。

それにしても堂々と立っていることだ。

「それで、薬売りさんは、一体全体、そこで何を?」

「お二人から お話を ね」

聞いていますと言う薬売りさんの言葉に、私は再度、視線を動かす。

薬売りさんの正面に居たのは、女将さんと大将だ。

とすると、ここは私の滞在している宿の、どこかの一室なのだろう。

はて。どうやってここまで来たのか。さっぱりである。

おおん、おおん。

何かが唸るような、風が吹き抜けていくような、低い音が響く。

思わずびくりと身体を震わせて、私は二人から視線を外し、辺りを伺う。

まるで海の底に居るかのようだ。

こんな部屋は宿には無かったと思うのだが、さて、あったのやもしれない。

碧い光が辺りを満たす。本当に、海底に居るかのようだ。

薄らと寒い気すら、してくる。

「それにしても」

いきなり声を掛けてくるものだから、びっくりした。

驚いて薬売りさんの方を見れば、こちらも薄らと微笑んでいるようだ。

何か面白いこと、したり、言ったりしただろうか。覚えがないが。

「気がついて 良かったです」

気絶でもしていたのか、私は。

だからここまで来た記憶がないのだろう。

薬売りさんが運んでくれたのだろうか。

だとすれば、再びご迷惑をかけたと言うことに他ならない。

「すみません。何かまた、ご迷惑をおかけしたようで……」

「          いえ」

何か凄い、間が長かったな。

私が何かしたのかもしれないが、問いただす勇気はない。

おかしいな。飲酒しても記憶を失くしたことなんて無いし、

気絶するような虚弱で可愛らしい体質もしていなかったのに。

もしや、“蒼”の身体は弱いのかもしれない。だとすれば気を付けねば。

まあ、それは今後気をつけるとして、だ。

「何で二人から話を?今更?」

「まあ 今更 と言えば そうなのですが ね」

険しい表情を向ける薬売りさんの視線を追って、私もそちらへ視線を向ける。

狂ったかのように、頭を掻き毟りながら叫ぶ女将さん。

私の意識を取り戻させた悲鳴は、どうやら女将さんのもののようだ。

隣には、オロオロと慌てふためく大将の姿がある。

あまりにも取り乱した女将さんに、どうしたら良いのか分からなくなっているようだ。

「あんたが!!!」

ぐわ、と女将さんが私を見る。

ああ、親の仇を見るようなとは、ああ言う視線なのかもしれない。

「あんたが悪いんだ!!あんたが!この町に!!来なければ」

だ、と女将さんが私の元へ走り寄る。

「不吉な娘が!!あやかしの娘が!来るから!!!!」

あやかしの娘。

俄かに、私の中に沈む、“蒼”の心が甦る。

あやかしの娘。

死神の花嫁。

死に魅入られた娘。

不吉を運ぶ女。

青い花の女。

全て全て、不吉や不運。忌み嫌われるモノの代名詞だ。

ああ。

ああ。

どうして私は此処に居るのか。

どうして私は、こんなところへ来てしまったのか。

私の望むものは、確かにほぼ全て揃っているけれども。

“蒼”が呼んだのか。

ならば私は、不吉なのか。不運なのか。

それとも。

「今は それではない 話を お聞き いたしたく」

「うるさい!!黙れ!!ただの、薬売り風情が!!口を出さないで!!」

きいあああああああああああああああああ。

再び、耳をつんざく悲鳴が響き渡る。

悲鳴と言うか。雄叫びと言うべきなのではなかろうか。

困惑した顔をしていれば、ふと、視線を感じて首を動かす。

すると、薬売りさんと目があった。

表情は全く変化の無いものであったが、薬売りさんのことだ。

もしかすると、私を気遣ってくれたのかもしれない。

私は“蒼”としての記憶をほとんどなくしている。

生活の上で、あるいは生きていく上で必要な記憶以外は、

大抵思い出と共にある。それらの尽くを失っている形になるのだ。

傍から見れば気遣われて然るべき者であるが、私に限ってそれは不要だ。

そう伝えたくて、私は薬売りさんに笑いかけた。

薬売りさんが、息を飲んだ気がした。

「大将 殿 女将のこの有様の理由 何か 心当たりは」

あまりに話にならない女将を一旦置いておくことにしたのか。

私にとっては意味不明な言葉を並べ立てる女将を放置し、

薬売りさんは、オロオロとふためくばかりの大将に、その矛先を変えた。

いきなり呼ばれた大将は、予想もしていなかったのだろう。

可哀想に見えるほど、その身体を震わせて、恐る恐る薬売りさんに目を向けていた。

「あの 娘に 心当たり は?」

娘。

私の脳裏に浮かんだのは、あの金髪の少女だった。

白磁の肌に、金髪碧眼。

白人の見本のような、美しい容姿をした、夢の中の少女。

健気にも男の愛を一途に信じた、無垢な少女。

まさかその少女では無かろうが、私が思い浮かべたのは、彼女だった。

「お、お、おれは!おれは何もしていない!!」

大将の怒鳴り声なんて、初めて聞いた気がする。

狼狽した様相はそのままに、薬売りさんに全力で全てを否定する。

「おれは何もしてない!!」

「おや これは心外 俺はただ 心当たりを」

聞いているだけだと嘯く姿は、私には詐欺師に見えた。

詳しいことは知らないが、モノノ怪とやらを斬るために必要なことは三つ。

形、真、理。

この三つが必要だと言う。まあ、真実か偽りかは知らないが。

そのうち形はすぐ知れようが、真と理はそうも行くまい。

となれば、必然的に弁が立つようになる、ものなのだろう。

詐欺師と思ってしまったのは、

私が現代を生きた経験があるゆえだと勘弁していただくほかない。

「おれは何もしていない!おれは、おれは、ただ」

「ただ?」

「女を」

「女を?」

大将の言葉を、薬売りさんは復唱しているだけだ。

だが、それが大将をこの上なく追い詰める言葉となるらしい。

一言一言重ねていくたび、大将の形相は、凄まじいものになっていく。

過去を暴くとは。

知られたくないものを掘り起こすと言うのは、何とも。

何とも凄まじいものであることか。

そして、何とも。

「女を、おれは」

そして、何とも。

何とも。

「女を 捨てただけ だ」

何とも言えぬ愉しさを得られること、よな。

 

 

 

それは別段、特別な日でも何でも無かった。

まだまだ見習いに過ぎないおれは、より良い魚を仕入れるため、

浜辺の町に足を運ぶことなど、しょっちゅうだった。

その日は嵐の翌日と言うことで、大して期待はしていなかった。

それでも、二日か三日に一度は町に行くと決めていたし、

足繁く通い、漁師たちに顔を覚えてもらうことも大事だと思えばこそ、

その日もおれは町へと足を運んだ。

その日は予想していた通り、大した仕入れは出来なかった。

それ自体は予想していたことだったから、落胆も何も無かった。

それでも、足繁く通った甲斐があったようで、懇意にしている漁師の何人からか、

少しばかり活きの良い魚を貰い受けることが出来た。

それからすぐに帰っても良かったのだが、漁師の一人が、

夜明けを見て行ってはどうかと勧めてくれた。もちろん、おれは興味なんてない。

だが、懇意にしている漁師が言うのだ。行かなくてはならないだろう。

そう思って、おれは浜へと足を向けた。町からは遠くなんてない。

すぐたどり着いた。

見えた景色は、見事の一言に尽きた。

漁師が他人に勧めたくなるのも、よく分かる。そんな風景だった。

視界に広がる、その全てが、金色に染まっているのではないかと。

そんな風に見えるほどに、その旭光は見事だった。

漁師曰く、嵐の明けだからこそ見えるものであると。

だから足を運ぶ価値もあろうものだと勧められたのだが。

なるほどと、そう思えるものだった。

さくさくと砂を踏みしめ歩き進めば。

「!…あれ、は…」

朝日の差す砂浜の向こうに見える、何かの影。

ちょうど逆光になっているためか、はっきりは見えない。

ただ、人影の、ような、気がした。

「こいつ、は」

注ぐ朝日に照らされて、彼女は、それはそれは美しかった。

金色に波打つ髪の毛は、豊かで、それでいて儚げで。

真っ白の肌は、雪にも負けない白さであった。

それでいて、病人や死人のそれとはまるで違っていて。

おれは一目で彼女に身も心も奪われていた。

彼女から目を逸らすことも出来ず、彼女が目を覚ますまでひたすら待った。

朝日が中天に昇るかと思うほどに、おれは待った。

どれくらいの時が経ったのかは、今も分からないままだ。

ただ、ただ。長かったような気がするだけである。

ふるりと美しい睫毛が震えて、その瞼に隠された眼が顕になる。

それはまさに。

それは。とても。

 

 

「おい、生きているか?」

 

 

感動した心とは裏腹に、口から出た言葉は平凡なものであった。

身体のあちこちに、細かい傷やらを負った人間に対しての言葉としては、

決して間違いでは無かっただろうと今でも思う。

しかし、一瞬のうちにおれの心を奪い去った娘に対しての言葉としては、

甚だ相応しく無いものであろうとも、そう思える言葉であった。

娘は異国の者のようであった。さもありなん。

金色に波打つ髪の毛。明らかになった眼は、海を思わせる碧。

作り物めいた白い肌。明らかに、この地で見る何者とも違っていた。

だからかもしれない。おれの心を、こんなにも掻き乱したのは。

おれは娘を助け、拾い上げ、朽ちかけた小屋を直して彼女に与えた。

この地に住まう者とは、一線を画すその容姿に、おれは彼女の外出を禁じた。

そんなやり取りでさえ、並々ならぬ苦労を要した。

彼女はどうやら、おれの言うことは理解しているようだった。

だが、おれはには彼女の言うことが、どうしても理解出来なかった。

それは些細なことに過ぎなかった。だが、大事でもあった。

おれは彼女を、女としては愛せなかった。

ただただ、細工の良い人形を愛でるかのように、愛し恋した。

「お前のこの髪。まるで絹糸のようだな」

おれは特に、彼女の髪の毛が好きだった。

まるで金の絹糸のようで。手触りも良くて、美しくて。

何時間梳いていても飽きないほど、おれは彼女の髪の毛が、殊のほか好きだった。

おれはおれなりに、彼女を大切にしていたと思う。

町を訪う際には必ず、彼女の居る小屋を訪ねた。

外に出してやれないことは、申し訳なかった。

しかし、彼女の容姿は、この国では鬼とも人妖とも蔑まれてしまいかねない。

おれの愛でるモノが、そんな風に蔑まれる様を見るのは嫌だった。

だから、おれは彼女を閉じ込めた。

彼女もそれに抵抗する風はなく、甘んじて受け入れているように見えた。

見えただけかもしれないが、それでも。

おれが通い、それを待つ彼女との日々。それは確かに。

確かに、幸せで、愛に満ちた日々であった。

そんな日々が壊れたのは、誰のせいかと問われれば、きっとおれのせいなのだろう。

ある日。おれの嫁になりたいと言う女が、この町を訪れたと聞いた。

おれはいつものように魚の買い付けに来ていて、漁師から又聞きで聞いただけだから。

だから、らしいとしか言えなかった。

自称嫁候補は、おれの知らぬところで知らぬ間に、彼女の所へ行ったらしい。

そして、そのあと訪った彼女は。

あの輝かんばかりの美しさを、失っていた。

朝日にも負けぬ輝く美しさはくすんで、見るも無残なものになっていた。

何があったのかは知らぬ。知らぬが、きっと嫁候補が何かしたのだろう。

予想は出来た。出来たが、おれはただ苛立つばかりであった。

何故、美しくない。

何故、いつもと違う。

何故、おれに涙を見せる。

そんなものは、おれには不要だ。

おれが彼女に求めたのは、ただ美しさ。

心癒される微笑みと、心和む温もり。そして、心沸く美しさ。

それらが無いならば価値など無い。

「要らん」

美しくない女など。

おれを癒さぬ女など。

女を囲えるほどの余裕など、無い。

それでも、彼女を世話していたのは、彼女に価値があったから。

だがしかし、今はそれも色褪せ、消えいくのを待つばかり。

ならば。

「おれはもう、ここへは来ない。だから」

どこへなりと、好きなところへ行くと良い。

おれは止めない。そして、二度と女を訪ねることもない。

「お別れ、だ」

そう。おれは、ただ。

 

 

「おれはあいつを、捨てただけ だ!!!!」

 

 

 

―真を 得たり―

 

 

 

薬売りさんの声が聞こえた。

ひどく、それはひどく遠いものに聞こえたけれども。

 

 

 

■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■

 

 

おおん、おおんと何かが鳴く。

薬売りさん曰く、それはモノノ怪だと言う。

おおん、おおんとモノノ怪が啼いている。

泣いて居る。

「あ、あたしは」

悪く無い、と女将が叫んだ。

髪の毛をボサボサに振り乱し、般若の如き形相で。

「あ、あの女が悪いんだ!!あの女が」

あの人に手を出したりするから。

あの女とは、人魚となった女性のことだろう。

今もこの部屋を、ぐるぐると泳ぎ回っているようだ。

正確には、この部屋の周囲を泳ぎ回っているようだが。

いつの間にか、薬売りさんが張り巡らした御札のおかげだろう。

海の底のような雰囲気こそ変化はなく、響き渡る鳴き声もそのままだが。

それでも部屋に入ってこないのは、薬売りさんのおかげなのだろう。

しかし、それもいつまで保つのか。

真っ赤に光る御札と、揺れる部屋。響き渡る鳴き声。

どちらが先に限界を迎えるのかなど、少し考えれば想像できる。

「く、薬売り!!お、お前、剣を持ってるなら」

さっさとあれを斬り捨てておくれ。

女将と大将。言葉こそ違えど、同じようなことを希う。

薬売りさんに、斬って捨ててくれと。

目の前を泳ぎ回る、異形の何かを、早くどこかへ追いやってくれと。

「それは まだ 出来ん」

「なんだって!?」

「この 退魔の剣は 形 真 理 この三つを示さなければ」

抜けぬ。

重ねて薬売りさんは、そう言った。

何度も、根気よく話してあげることだ。感心する。

「剣を抜くには 理 あと ひとつ」

りん。薬売りさんが構える、剣が音を立てる。

モノノ怪とあやかしの違いも、私はよく、分からないのだが。

人間の強い想いにあやかしがとり憑いた時、形を成すもの、であるのだそうだ。

形は人魚。

真は、聞く限りでは、大将と女将に裏切られた異国の女。

では、理は?

彼女は何を想って人魚になどなったのか。

何を想い、人々を殺して、今ここに現れたのか。

「お前の 理は いったい 何だ?」

さっぱり分からん。

私だったら、裏切った男と女を殺して、それで終わりである。

だが、そう簡単には終わらぬ程、深く複雑な思いだからこそ。

「モノノ怪って本当に」

モノノ怪などと言うものに、なるのだろう。

私には到底、たどり着くことの出来ない領域だ。

まあ、なりたいわけでは無いのだが。

おおん、おおんとモノノ怪が泣く。

何かを伝えたいのか。それとも、悲しいから、ただ泣いているのか。

ふと、夢で見た、異国の女性を思い出した。

人魚と彼女が同一とは限らない。

もはや人魚に、彼女の面影を見ることは出来ないからだ。

ただ、それでも。

もし、彼女が人魚ならば。

もし、人魚が彼女であるならば。

 

 

 

「愛していた。それだけ、なのかね」

 

 

 

おおおおお、と一際高く人魚が泣いた。

そして。

「そうか それが お前の 理」

一瞬の驚愕のあと、薬売りさんがぽつり、とそう言った。

どおん、と部屋が揺れる。

それとほぼ同時に、部屋中に貼られた札が赤黒く染まり、消えていく。

もう悲鳴すら出ないのだろう。

がたがたと震えるばかりの女将と大将を見て、次いで薬売りさんを見る。

険しい表情こそしているが、先ほどの驚愕など、もう欠片も見られない。

平静そのものの瞳で、部屋中を泳ぎ回る人魚を追っている。

薬売りさんに動揺が見られないためだろうか。

それとも、事ここに至ってもなお、現実感が薄いせいだろうか。

私自身、驚くくらい落ち着いていた。

局地的地震にでも襲われているのでは、と思うほど部屋は揺れているし、

部屋の床と言わず天井と言わず、よく分からない化物が泳ぎ回っている。

どう言う理屈なのか不明だが、部屋は青く、海の底に居るかのように冷たい。

過去の私であれば、パニックになっていてもおかしくないのだが。

何故だろうか。精神的に強化でもされているのか。

それとも、“蒼”が精神的に強かったのか。いや、それはないな。

もし精神的に強ければ、海で溺れる羽目には陥っていないだろう。

どおおおん。

「!?」

「ぎゃあああああああ」

「いやあああああああ」

凄まじい圧力を持って、どこからか大量の海水が降り注いだ。

津波のようなものだろうか。

冷たい。苦しい。痛い。苦しい。痛い。冷たい。

ぐるぐると波の中でもみくちゃにされて、私は上も下も分からなくなる。

何とか呼吸しようと上を目指すが、それが果たして上かどうかも分からない。

悲しい。哀しい。愛しい。恋しい。愛しい。悲しい。寂しい。

ああ。せっかく溺死を免れたと言うのに。

海の上ではなく、部屋の中で溺れ死ぬことになろうとは。

胸を満たす感情は、そんな私の無念さと。

それから、私の感情であるかのような、でもきっと私のものではない感情。

悲しい。哀しい。愛しい。恋しい。愛しい。悲しい。寂しい。

波を伝って。あるいは、夢を伝って私の胸の内を満たす、気持ち。

私のものになってしまった、私の経験し得ない経験を経て生じた、感情。

私のものではない、しかしもはや私のものとなってしまった、ココロ。

「人魚よ」

海水で満たされているはずの、部屋だったはずのどこかに、声が響く。

ごぼごぼと水が渦巻く音と、私の肺から漏れ出る空気の音を貫いて、

その声は耳に心地よく響く。言葉まではっきりと聞き取れる。

「お前の 真と 理によって」

何とか目を開けると、遠くに薬売りさんの姿が見えた。

海水が目に染みて痛い。視界があっさりとぼやける。

海の底の青い世界で、しかし、薬売りさんの碧い着物はよく分かった。

薬売りさんは水の流れに負けることなく、優雅な仕草で剣を掲げた。

「剣を 解き 放つ!!」

 

 

 

 

―トキハナツ―

 

 

 

 

剣が喋ったような気がした。

貴方の剣は、会話も出来るんですか。そうですか。

どこまでも規格外の男性だなあ、と。

私はそこまで考えて目を閉じると、意識を手放した。

 

 

 

■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■

 

 

 

「目が 覚めました かね」

既視感、と言う言葉を真っ先に思い出した。

薬売りさんとの初対面も、こんな感じだったような気がする。

一瞬、これまでの全てが夢だったような気がした。

しかし、視界に映る部屋の細かい違いだったり、

私を覗き込む薬売りさんの分かりにくい表情から、

今までの出来事が夢ではないと、察せられてしまった。

「ここ、は」

「俺が滞在している 宿の 俺の部屋 ですよ」

へえ。薬売りさんの部屋ですか。そうですか。

「!……っ」

脳にその情報が染み渡った瞬間。

私は反射的に、上半身を勢い良く起こした。

見知らぬ―わけではないが―男性の部屋で、ゆったりと眠っていられるほど、

私の神経は図太くないし、常識知らずではないからである。

しかしそこそこ長時間眠っていたようで、起き上がった瞬間に強い目眩に襲われた。

「急に起きると 辛い ですぜ」

「……その発言は、もう少し早く欲しかったです、ね」

ズキズキと痛む頭を抑えながら薬売りさんを見れば、

ほんの少し唇の端を持ち上げて笑っていた。見た目は優しげな微笑である。

しかし、これは絶対に面白がっていると思う。

そうでなければ、目が覚めたときにでも、忠告してくれるはずだからだ。

優しいことは優しいのだが、結構意地悪い男である。

「…それで、どうして私はこんなところに居るんですか?」

「こんなところ とは 心外 ですね」

「いや、そう言う意味ではなく」

分かっている、と言いたげに、薬売りさんは少し目を細めた。

そして私は居住まいを正して、薬売りさんに向き直る。

事の顛末と言うか、後日談と言うか。

それを教えてもらうまでは引き下がるまい、と言う意思を込めて薬売りさんを見る。

それが伝わったのだろう。

話さなくて良いなら、出来れば話したくなかったのだろう。

若干嫌そうではあったが、薬売りさんは口を開いてくれた。

「人魚 は 斬りました よ」

どう言う力が働いたのかは不明だが、私が滞在していた女将さんの宿は、

大破してしまったらしい。さながら、津波に押しつぶされたように。

瓦礫を撤去したところ、女将さんと大将の遺体が発見されたのだとか。

瓦礫に押しつぶされて、かなり悪い状態の遺体だったそうだ。

大将はこれまでの被害者と同じく、下半身が何かに喰いちぎられており、

女将さんは喉元を喰いちぎられて命を落としたようだったという。

薬売りさんも、この時初めて知ったようだが、

この町での連続殺人事件では、男女で死因が異なっていたのだそうだ。

男性は下半身を喰いちぎられて。

女性は喉元を喰いちぎられて、殺されていたのだと言う。

「……良く生きていましたね、私」

「そう ですね」

瓦礫から私を発見したとき、殆どの人は死んでいると思ったそうだ。

ちょうど俯せで、喉元がすぐには見えない状態だったから、余計らしい。

しかし、拾い上げてみると息をしている。

撤去と捜索を手伝ってくれた町の人々は、生きている私を見て、

それはそれは驚いたのだと薬売りさんは言った。

多分、薬売りさんも驚いたんだろうなあ、と私は思う。

モノノ怪とやらに殺されなかったのだとしても、

瓦礫に押しつぶされて死んでしまう可能性だって高かったはずなのだが。

何とも運の良いことである。

「さて これで この町での仕事は 終わり ました」

ああ。そう言えば、やるべきことがあるとか言っていた。

そのやるべきことが、モノノ怪と斬ると言うものであると言うことも。

そのために楽器類を始め、仕事を禁止されたわけでもあるし。

「良かったですね」

お互いに。口には出さないが、そう思う。

これで私は仕事が出来る。

だが、拠点だった女将さんの宿は無くなってしまったし、

町の真ん中で津波に襲われ大破した宿から、唯一生還してしまったし。

見た目もそうだが、かなりのエピソードを作り上げてしまったわけだ。

流石にこのまま、この町に滞在するわけにはいかないだろう。

とても面倒くさいが、次なる町を目指して、旅に出ることにするか。

『私』になる前の“蒼”がそうしていたように。

「ええ ですが」

体調が落ち着き、事の顛末も聞いたところで、

私が今後のことを考え始めたところで、私の思考を邪魔するように、

薬売りさんが私に声をかけた。

「蒼さん 貴女は」

りん。

鈴を鳴らして、退魔の剣を私に向ける。

「薬売りさん?」

私がモノノ怪だとでも言いたいのだろうか。

探るように薬売りさんを見れば、モノノ怪を見るような目でこそないが、

何かを見極めようとしているかのような、真剣な表情をしていた。

「貴女は モノノ怪では無い ようだが」

りん。

重ねて鈴を鳴らしながら、退魔の剣で私に触れる。

特に何も感じない。痛みも無いし、不快感もない。

ただ、剣が触れていると言うだけである。

「だが 何処かのモノノ怪と 深い関わりが ある ようだ」

「…………なるほど?」

納得しない点がないわけでもない。

心当たりが全くないわけでもない。

何より、これだけ確信的に薬売りさんが言うのだから、そうなのだろう。

自分のことであるが、全く知らないし、分からないが。

何処かの何かのモノノ怪とやらと、何らかの関わりがあるのだろう。

しかも結構深い関わりが。

「それから」

す、と薬売りさんはどこかから笛を取り出した。

見覚えがある笛だ。と言うか、あれは私が持っていたものである。

どうして薬売りさんが持っているのか。今更等問うまい。

しかし、笛がどうしたのか。

困惑しながら笛を受け取ると、私は薬売りさんを見つめる。

「貴女の 楽は モノノ怪を 慰めることが出来る ようだ」

慰める、と。

鎮めるわけではない。清め払うわけではない。

ただその心に寄り添うように。

荒ぶる心を一時忘れられるように。

そんな効果が、私の奏でる音楽にはあるのだと。

薬売りさんはそう言う。

「………なるほど」

それに気がついたから、人魚の時、私から音楽を取り上げたのか。

慰められ、落ち着いていた人魚が出てこないから。

どうしてそう思ったのか分からないし、納得出来る点は無い。

だが、薬売りさんが言うのならば、そう言う効果があるのだろう。

まあ確かに、実際に音楽を止めたら、割とすぐに人魚が暴れだしたわけだし。

根拠がないわけでもないから、否定は出来ない。

否定出来る材料がこちらにはないのだから。

「ですから」

退魔の剣を仕舞うと、薬売りさんは真剣な表情を少し和らげて、

囁くように続けた。

「俺と一緒に 旅を しませんか」

私は目を見開いた。

「貴女と一緒に居れば 貴女と関わりのある モノノ怪を 探せる」

それに、と薬売りさんは私が持ったままの笛を見る。

「モノノ怪を慰めることが出来る と言うことは おそらく」

モノノ怪を引き寄せることになる。

あるいは、モノノ怪に引き寄せられることになる。

どちらかは断定出来ないし、両方起こりうる可能性もある。

どちらにせよ、この先、モノノ怪と関わらずに生きていくことは難しい。

そう薬売りさんは言った。

「だから 俺と 一緒に行かないか」

こんな人と共に居られたら。

かなり魅力的な提案だ。

結構意地悪いし、腹黒いし、自分のことは徹底的に隠す。

人付き合いもそんなに好きそうではない。

さらに言えば、優先順位第一位は、多分モノノ怪だ。

しかし、いざと言う時はこの上なく頼りになるし、何より。

何より、モノノ怪最優先でありながら、極力犠牲を出したくないと思っている。

情が深く、優しい人だ。

それでいて見た目も良い。頭も良い。

そんな人から旅のお供にと誘われて、目的が自分自身で無かったとしても、

魅力を感じない人は少ないだろう。少なくとも、私は魅力を感じている。

強く心惹かれている。

だが。

「お誘いは嬉しいですが、お断りします」

薬売りさんに驚きは見られなかった。

多分、予想していたのだろう。

本当に頭の回転が早い人だ。精神面も鋼のように強い人である。

私は笑う。

「私がモノノ怪と関わりがあったとしても、

 そのモノノ怪を探す理由が、私にはないですし」

「自分の縁に 関心がない と?」

「無いわけじゃないですが、わざわざ探すほどではないですね」

「貴女の モノノ怪を寄せる 体質は」

「それは、本当に寄せると決まったわけじゃあないですしね」

「だが」

意外だ。薬売りさんが引かない。

まあ、モノノ怪を斬ることが使命であるらしいこの人に取って、

モノノ怪に寄せられるのだろうが、モノノ怪を寄せるのだろうが、

とっても都合の良い体質だと言えるだろう。

さらには私自身、何処かのモノノ怪と関わりがあると、薬売りさんは踏んでいる。

あっさりと手放してしまうには、なかなか惜しい人材、なのだろう。

分からなくはないが、私としてはもっとさらっと引くと思っていた。

だからかなり意外だったのである。

「じゃあ、こうしましょうか」

提案を否定するならば、代案を出さなくてはなるまい。

ぴ、と私は人差し指を立てて、薬売りさんに説明を始める。

「私もこの町から旅立つつもりです。ですが、一緒には行きません。

 ここから別々に旅立って、またどこかでお会いできたら」

薬売りさんと再会する時は、確実にモノノ怪がセットで付いてくると思う。

「そこでモノノ怪とも遭遇したら。そうしたら」

「一緒に行動する と?」

「いやいや。それは早いですよ。そうしたら、

 薬売りさんの提案を検討します、と言うことでどうですか?」

「ふむ」

つまり、次に薬売りさんと再会出来て、

かつ、そこでモノノ怪と遭遇することになってしまったとしたら。

そこで改めて、薬売りさんと行動を共にするか、検討を始めると言う提案だ。

その場で一緒に行動しても良い。

しかし、私としては、そこでさらに時間を設けて、

私の体質とモノノ怪を慰めると言うスキルの確認をしたいと考えている。

検討を始める、と逃げ道を残しているのはそのためだ。

二度あることは三度あると言うが、本当に三度薬売りさんと遭遇し、

モノノ怪とも遭遇したならば、私の体質とスキルは本物だろうと確信出来る。

そうしたら、薬売りさんの提案に乗ることも出来るだろう。

と言うか、乗るしかないような気もする。

「どう、ですかね?」

ずい、と私は身を乗り出して、薬売りさんに同意を求める。

口元に手を当てて思案している風だった薬売りさんが、

少しばかり困ったように眉を下げて、仕方ないと言わんばかりに息を吐いた。

「では そう しましょうか」

「はい!」

いやいや。良かった。これで安心である。

薬売りさんみたいな人とこれでお別れと言うのは、確かに残念至極だ。

だがしかし、モノノ怪ホイホイになんてなりたくはないし、

モノノ怪を慰める才能があるとか言われても、俄かには信じがたい。

そんな簡単に頷いて、実は違いましたとか言われたら、落胆なんてもので済まない。

だいぶドン底に落ちるような気がする。

保身と言うべきか、安全策を取らざるを得ないと言うものである。

勢いだけでは進めないのが、三十路の人間であるのだ。

「では これを」

「?」

ひょーい、と効果音が付きそうな動きで、何か綺麗なものが出てきた。

飾りにも玩具にも見えるが、どうやら天秤のようである。

「お守り ですよ」

モノノ怪避けの効果でもある、のだろうか。

それとも、縁結びのお守りであるのだろうか。よくわからない。

しかし、せっかくの贈り物だ。ありがたく頂戴しておこう。

何より、綺麗だし、持っていて邪魔にもならない。問題ないだろう。

「ありがとうございます」

「喜んでいただけて 何より です」

「大事にしますね」

「大事にして あげてください ね」

にっこりと笑顔満点で笑った私に対して、

にんまりと言うような顔で笑った薬売りさんに、少しばかり警戒したのは、

致し方なかったと言えるだろう。そして、それが間違って居なかったことも。

それを知ったのは、薬売りさんと再会したときになるのだが。

未だそれを知らないこの時の私は、貰い物にテンションを上げつつ、

未知の世界を旅するのだと言う期待に、年甲斐もなく、

ただただ無邪気に胸を躍らせていたのだった。

 

 

 

■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■

 

 

 

かん。

から。

ころん。

高く、心地良い音を立てて、男は歩いていた。

浅葱色の派手な着物。

背負う箱は大きく、とても重たそうだ。

紫色の布で頭を覆い隠し、その顔には鮮やかな朱色の装いがある。

真っ白の肌にその朱色はよく映えて。

道行く若い娘達が頬を染めてしまうのもよくわかるほどの、美青年。

「さて」

良く晴れた空を仰ぎ見て、男はぽつりと呟いた。

「振られてしまいました ね」

く、と笑いながら男は背後を振り返る。

そこには、彼が今あとにしたばかりの宿屋があった。

彼があの宿屋に残してきた、青い娘が出てくるまで、あとどのくらいだろうか。

「まあ 焦ることは ない か」

かん。

から。

ころり。

高い下駄を鳴らしながら、男は歩いて行く。

「どうせ すぐ 会える」

かん。

から。

「逃げられない だろう」

りん。

小さく鈴が鳴る音がした。

そして男は穏やかに。

しかし、和やかとは言えぬ微笑みを浮かべて歩き去って行った。

りん。

りん。

下駄の音と、鈴の音を響かせながら。

 

 

 

 

― 人魚  完 ―

 




2017.10.9

第一章終わり。続けたい気持ちを維持したい。
それよりも、カッコイイ薬売りさんを目指したい。


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桂男 壱

自分を追い立てるために投稿。頑張る。


美しくなければ 生きている価値がない

 

誰が何と言おうと 僕はそう 信じている

 

美しくなければ 生きている意味がない

 

誰がなんと言おうと 僕はそう 信じている

 

美しくなければ 何も手に入れられない

 

美しくなければ 全て奪われるばかりだ

 

だから 美しく なければ

 

美しくなければ 死ななければ ならないのだ

 

 

 

2. 異界見聞録―桂男―

 

 

 

賑やかに行き交う人々を眺め、私は少しだけ視線を高くする。

すると、人々だけではなく、その後ろにある風景も視界へ入れることが出来る。

少しばかり前まで滞在していた町と比べて、今居るここは規模が小さい。

町と言うよりは、村と言う方がしっくりと来る。

しかし、規模こそ小さいながらも、それなりに人口は多く、賑やかだ。

「あのぉ」

「あ、はい。すみません」

声を掛けられて、遠くを見ていた目線を声の主へと向けた。

少しばかり内気そうな男性が、迷うように地面に広げた品物を見ている。

声を掛けたからには、買いたいものは決まっているのだろう。

それでも、ついつい迷ってしまっている、と言うところだろうか。

「この手拭いを…そうだなあ。二つ頂けるかい?」

「もちろんです。ありがとうございます」

安心させるつもりで算盤を弾き、お会計を伝える。

品物の割には安価だとでも思ったのか、男性は少し驚いたようだった。

原価分は取っているから、私に損は無い。

にっこり笑って再度伝えれば、男性も文句など無いのだろう。

私の伝えた分のお金を出して、手拭いを受け取ると、

随分と足取り軽やかに立ち去っていった。

男性が使うには、かなり華やかと言うか。

色合いもデザインも女性向けだから、好い人にでもあげるのかもしれない。

何となく胸がほっこりする。

こう言う妄想は、何歳になっても好きだし、面白いし、楽しい。

「今日は結構売れるなあ」

人魚の出た町を旅立ったあと、私は芸事の他に、小物売りを合わせて始めた。

芸事だけだと、仕事の依頼はあまり多くないし、

当分は一つ所に居続ける予定の無い私には、芸事関係のコネが無かった。

当然、アテも無い。つまり、芸事のみで食べ続けるのは厳しかったのだ。

食べるのが難しいと言うことは、当然、旅することも難しいと言うこと。

何故か私の頭には、一箇所に居続けると言うことはなく、

旅を続けるためにも、何より食べていくためにも、

何か手段を講じなくてはならなかった。

そこで思いついたのが、人魚の居た町で作った小物を売る、と言うこと。

専門ではないし、販売関係の勉強をしたわけでもない。

現代でよく開かれていた、フリーマーケットみたいに上手くいかなくても、

少しでも足しになればと思ったのである。

ところが、これが意外と上手くいった。

現代の知識のある私が作るものは、何と言うか、

洋風であり、かつ和のテイストを持った小物となっていたようある。

まだ一般的ではないデザインの刺繍をしてみたり、縫い物をしてみたり。

これがかなり、当たったのである。

綺麗なものや可愛いものが好き、と言うのは不変のものであるようだった。

資本が手に入れば、少し発展させてみたいと欲が出ても仕方ないだろう。

色々と仕入れてみて、今は編み物なんかも作って売っている。

あまり得意ではないが、算盤も購入した。

きちんと計算しているところを見せると、客は安心するようだった。

電卓が欲しいと思ってしまうのは、現代の人間であれば、

当然であると声を大にして私は主張したい。

中身は平成の知識を持っているのだから、タイムスリップしたようなものなのだから。

色々作っているが編み物は時間が掛かるので、あまりたくさんは作れない。

だからだろうか。その分、売りに出せばよく売れた。

今は手編みのレースもどき―レースと断言する自信はないからである―なんかも、

作っては売っている。なので、今は旅芸人と言うより、行商人だ。

いや、兼業商人かな。本業は芸人だろうし。

「天気が良いからかねー」

お客が居ない時は、次の売り物を作ったり、

客引きになればと笛や三味線なんかを弾いたりしている。

ちなみに、この客引き目当ての演奏も、結構効果がある。

適当に楽器を演奏しているだけだが、こちらも現代知識があるせいだろう。

現代風だったり、西洋風だったりにアレンジされることがしばしばあるようで、

足を止めて耳を傾けてくれる人が存外居るのである。

足を止めてくれた彼ら彼女らが、事のついでと品物を見ていってくれるのだ。

なので最近はもっぱら、客が切れたら演奏するようにしている。

もちろん、品物を作ることもある。

だが、物作りするときは宿に引きこもってる方が、出来が良い。

なので最近は、客が切れたら演奏しているようにしているのだが。

「お腹すいたな……」

昼ご飯時を迎えたからだろう。

先ほどの男性客を最後に、ようやくお客の入りが途絶えた。

普段であれば笛の一つも吹くところだが、ようやく時間が出来たことだ。

お腹もすいたことであるし、良い時間なのだ。

お昼を食べることとしよう。今日のお昼は握り飯と沢庵である。

拠点とさせてもらっている宿で作って持ってきているのだ。

気候が良いからだろうか。まだほんのり温かい気がする。

もぐもぐと握り飯を咀嚼しつつ、私は再び周囲を観察した。

この村に滞在して、はや数日。

村の規模と比べ賑やかなこの村は、大変緑の美しいところだ。

そもそも、現代と比べ、どこでも自然は美しい。

しかし、こちらで過ごした短い時間の中でも、この村は群を抜いて緑豊かだ。

それでいて、放ったらかしにされていると言う印象も無い。

全て綺麗に整えられていて、大切にされていると言うことが伝わる。

特に見事だと思うのが、私の滞在している宿のすぐ側にある大きな樹だ。

この木何の木ではないが、何の樹なのかは知らない。

樹齢何年なのかも分からないが、それはそれは大きく、見事な樹である。

その樹の根元のすぐ近くに、誰が作ったのか、小さな祠がある。

これを見たとき、何となく人魚の町を思い出したのはご愛嬌と言うやつだ。

まあ、江戸時代であれば、とりあえず何かあれば祠とかなのかもしれないし。

毎日宿の人が手入れでもしているのか、とても綺麗に整備されている。

その上、毎日毎日、必ず季節の花と食べ物が供えられている。

だから、まさに幽霊でも出そうと言う雰囲気でもないから、

あまり人魚の町の祠のことは思い出さないようにしている。

神様でも祀っているのかと宿の人に聞いたのだが、そう言うわけではないらしい。

強いて言うなら験担ぎだ、と宿の人は言っていた。

暫く滞在することだから、と私も毎日、音楽を供えさせてもらっている。

「もし」

掛けられた声にハッとなって、私は急いで握り飯を飲み込む。

最後の沢庵を放り込んで咀嚼しつつ、お茶でそれらを流し込む。

口の中に残っていないかを確かめつつ、口の周りのチェックもする。

「はい。どちらがよろしい……で、しょう……か」

尻すぼみになったのは仕方のないことであった。

柔らかな、それでいて明るい陽射しの中、ひらりと舞う鮮やかな碧い着物。

そこに描かれた文様は独特で、派手である。

にも関わらず、優美にも見えるから不思議だ。

着ている人間が、そう見えるように錯覚させているのかとすら、思う。

「こちらの 手拭を ひとつ」

沁み入るように耳へ届く、低くて柔らかく、色気のある声。

すう、と並べた品物に伸びる美しい白い手。

整えられた紫の、形良い爪。

その手が取ったのは、小さめの手拭。

現代でのハンカチをイメージして作ったものだ。

白地に紅と藍の糸で、目のような模様を刺繍した。

モデルが居ることは否定できない、そのデザインの手拭。

それをこの客は、迷いもせずに手に取った。

「いただきたく」

これでもか、と整った貌は、相変わらず透き通るかのように白く美しい。

不思議な彩を帯びた蒼い瞳を、朱色の化粧か何かで鮮やかに隈取り。

す、と通った鼻梁も、同じく鮮やかな朱色で彩られている。

形良く薄い唇には、淡い紫色で微笑みの形を描いてある。

色素の薄い淡い髪は、紫色の布で覆われている。

しかし、わざとかやむを得ずなのか。

布から溢れた髪が、輪郭を暈かすように流されている。

けれどぼさぼさにされているわけではない。

それなりに整えられた髪の、その左側は髪留めのようなもので纏めてある。

「く、薬売り、さん」

「お久しぶり ですね」

ねえ 蒼さん

にたり、と舌舐めずりしたかのように笑ったように見えた。

それは気のせいだったと、私は心底、思いたかった。

 

 

 

幸せか はたまた 不運なのか 思った以上に 再会は 早くて





カッコイイ薬売りさんを目指して。


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