阿良々木暦は望まない (鹿手袋こはぜ)
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第一部 ちあきフレンド
001


 僕のクラスメイトである七海千秋(ナナミチアキ)は、クラスにおいていわゆる委員長という役職を与えられていた。

 

 委員長。

 

 それは世間一般の認識ではなかなかどうして損な役どころである。そしてそれ以上に、一般ではない個性の強いクラスメイトたちを委員長としてしっかりとまとめ上げるのは途方もない労力が必要であるということは目に見えて明らかだった。

 しかし七海はそれを平然とではないが当然のこととしてやってみせ、まとめてみせた。

 

 きっと彼女は委員長でなくても同じことをするだろうし、できていただろう。

 

 方向性の違いが四方八方で起こるようなこのクラスをまとめることのできる委員長としての適任者は彼女の他にそういないであるだろうから、やはり、必然的に、彼女はこの損な役になるべくしてなったのだろうし、また彼女自らから進んでなったようなものでもあった。

 

 というのも、彼女に対するクラスメイトの信頼はとても熱いからだ。

 彼女にどれほどの人望があるかは火を見るよりも明らかで、必ず、きっと、彼女は誰からも嫌われちゃいないのだろうと僕は思う。

 嫌う人がいればそれはきっと上辺だけで、ツンデレのツンなのだ。

 

 人から恨みを買わない。

 それどころか、好意的に思われるばかり。

 

 まるでラブコメの主人公のような彼女だが、これだけで、彼女の凄さが十分に伝わると思う。

 人間誰しも恨みを買わずに生きていくなんて不可能に近いというのに。

 彼女には嫌われる要素というものが、それこそ性別や生まれた地域だとか、そういう他人からの差別的偏見しか見当たらないし……それにしてもやはり、彼女が嫌われているというシーンを僕は未だかつて見たことがない。

 

 そんな彼女──七海千秋は、超高校級の委員長でなければ超高校級のリーダーなんかでもない。

 さらに言えば、彼女より委員長らしい人物はこのクラスにいるし、委員長という枠組みだけで見るのなら、様々なジャンルの委員長気質なやつがこのクラスには彼女を含めて四人もいる。

 内一人は不登校であるが、その生徒を抜いても三人いるのだ。

 

 しかし、そんな委員長の激戦区であるこのクラスの中で、彼女が委員長という立ち位置を与えられている一番大きな要因は──やはりその思いやりの心だろう。

 

 他人を想う気持ち──僕に欠けている、得難きものを、七海は持っていた。

 

 その思いやりの心で七海は人と接し、そして人望を得て行ったのだろうと考えると、まるで聖女のような立ち振る舞いだと思う。

 

 聖女と言えばだが、同じくクラスメイトである羽川翼(ハネカワツバサ)という女子にだって思いやりの心がないわけではなかった。

 なにせ僕自身がその思いやりの心を向けられたことがあった。僕に向けられたそれはまさしく慈愛と呼べるものであり、今の僕が僕であることの大きな理由の一つでもあった。

 それに羽川は委員長としての素質も十分で、おそらく希望ヶ峰に来る前も──そしてこれからもなんらかの委員長を務めていそうなものなのだが、しかし羽川は、七海千秋よりもクラスの委員長らしく立ち振る舞うことは出来ないだろうと同時に思う。

 

 むしろ好かれるどころか、人間として完璧すぎたが(ゆえ)()み嫌われるのかもしれないとも思った。

 どの時代もそうだった。

 

 魔女は特別な力である魔法を扱うがゆえに磔刑(たっけい)に処され、業火に焼かれ。

 神はただ崇められるだけで親愛なる友のように親しみを持たれるわけでなし。

 能の高いものは異形とみなされ社会の輪から追放される。

 

 きっと羽川は、上手く仕事をこなしはするものの、そして上手く人を纏めはするものの──それと同時に嫌われもする人間だろう。

 その無垢で博愛的な善意に嫉妬や憎悪を向けられかねない。

 ()()なんていう概念をなくしてしまうほどの善性を羽川は持っているはずだと言われてしまえば否定はできないが、しかしそれほどに羽川が善であるというのは、恐ろしい話でもある。

 

 いや、だからこそ、羽川は羽川であるのかもしれないが──結局のところ、僕も彼女もまともな人生を送れないことに違いない。良くも悪くも──もっぱら悪いのだが──怪異に出遭ってしまった以上は普遍的な生活など望めないのだから。

 

 話は逸れたが、要約すると少しくらい弱点のある方がキュートで親しみを持ちやすい、ということに尽きる。

 その点七海は成績は優秀であるものの頭が良すぎるわけでもなく、先生からの評価は高いがいつだって僕ら生徒の味方で、夜更かしのしすぎで眠気からか曖昧模糊なだらしない表情をしている彼女は、やはり、人から好かれやすいのかもしれない。

 みんなは気軽に親しみを持ちやすいのかもしれない。

 

 人生のレールをはみ出さずに、自分で敷いたレールの上を着実にみんなで進む。

 誰かが故障すれば立ち止まり、みんなで協力して修理をする。

 雪が降れば自分が無茶して先頭に立つわけでもなく、馬力のある仲間に頼る。

 彼女はそんな人間だった。

 人に頼られ、人に頼ることが出来る人間だった。

 

 真っ当な道を踏みはずしてしまった僕たちは──異形と関わり怪異を身に宿し、深淵(しんえん)を覗き覗かれ引き込まれてはそれら化物、魑魅魍魎(ちみもうりょう)(たわむ)れ、いくら死んでも癒えることのない致命傷を負った僕たちは──そんな純粋無垢な白いキャンパスに触れてはいけない。

 

 だから僕らは、彼女とは違う道を進まなくてはならない。道ならぬ道を。

 

 彼女を彼女たらしめるのはその周囲の人間であり、その中に僕らは含まれてはいけない。

 怪異と関わればその先の人生でも怪異に関わり続けなければならない呪いを受けてしまうのだから。

 白の絵の具に黒を少しでも混ぜれば、二度と純粋無垢な白には戻れなくなってしまうのだから。

 

 七海千秋。彼女と僕とは、何の関係もないただのクラスメイトで終わるはずだった。

 少なくとも、高校二年生の冬休みを迎えるまでは、そうだった。

 

 彼女の青春の一頁(いちページ)に、彼女の物語の登場人物欄に、僕の名前が刻まれることは一度ともない──はずだった。

 

 刻まれたそれは、きっと誤字だったのだろう。

 

 これは、僕と彼女の物語じゃないはずだった。

 

 僕らはいつも、過ちでしか始まれない。



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002

「……あの、七海さん?」

「……ふぇあっ? ……あ、ああ。ごめん」

 

 どうやら寝ていたらしい……。

 欠伸(あくび)をしていたり、(うつ)ろげな目をしていたりというのがさっきからずっと続いている。目を(こす)ったりしているのを見てみれば、彼女が眠たがっているのだということは一目瞭然であった。

 夢うつつ気分で鼻ちょうちんを膨らませていた彼女は、目を覚ましたとは言いがたい状況のまま曖昧な返事をする。そんな気怠(けだる)げな態度に戸惑い、ついつい敬語を使ってしまうという僕の情けない姿を見て笑いたければ笑えばいい。

「……ええっと、何の話……してたんだっけ」

 

 椅子に持たれかけていた上半身を、七海はテーブルの上に移動させる。二年間使用し少々くたびれた制服の袖に眠気を隠しきれていないその顔を擦り付けてだ。

 

「おいおい、覚えてないのか?」

「ごめんねえ、ちょっと眠くって……ふぁああ。昨日、徹夜したのがあからさまに響いちゃってるなあ、これ」

 

 七海は、はしたなく口を大きく開けあくびをし、背を勢いよく伸ばし、その眠気を取り払おうとする。がしかし、なかなかどうして眠気は凶悪らしい。表情からは依然として眠いという感情がうかがえる。

 ゲームと言っていたが──確か、七海のやつは超高校級のゲーマーなんだっけか。ゲーマーねえ。

 

 ──さて、今現在の状況を振り返ってみるとしよう。

 

 僕は今、クラスの委員長である七海千秋と共にとある喫茶店で丸いテーブルを二人で囲んでいる。なぜ、どうしてこうなったのだろうと僕は頭を悩ませたりもするが、自分が選んだ道だ。責めるなら自分を攻めよう……。

 やれやれ、彼女は欠伸だが、僕の方は溜め息が出るぜ。

 

 ともかく、時を(さかのぼ)れば昨日の放課後。

 

 僕は部活動に所属していないので、市内にあるアパートに帰ろうとしていた。この希望ヶ峰学園には一応学生寮があるんだけれど、同級生と触れ合いはしたくない、友達は作らないという信念にある僕は学生寮という場所をあまり好意的には思えず、その時点で寄宿舎を利用すると言う考えは放棄していた。そしてなにより、ある程度の生活費なら学園側が資金を支出してくれるというとても親切なシステムがあったので、僕は迷うことなく学園外部の賃貸アパートを借りることにしたのだ。

 

 ので、僕は学校の駐輪場から自転車に乗っておおよそ三十分ほどの距離にある古い骨董アパートに一人、宿泊している。

 

 家賃一万円。僕の知る限り一万円を切る賃貸など聞いたことがないのでかなり激安だ。

 

 アパートには老若男女問わず、自分と同い年ほどの人や年下、またおじいちゃんほどの年齢の方も住んでいる。まあ、ゴミ出しの時なんかに顔合わせをした程度なので、同じアパートの人の名前は詳しく覚えてないし、きっと彼らも僕のことを近所の人、隣の部屋の人くらいでしか認識していないだろうが。

 ご近所付き合いはした方が良いのだろうけれど、あまりしたいとは思わなかった。というより、出来なかった──というのが、正しいだろうか。

 

 そんな僕の帰るべき場所に帰ろうと、通学用のママチャリにまたがったところで七海に捕まった。

 

 なんでも、明日の放課後に少し話がしたいんだとか。

 

 僕としては委員長だなんて真面目キャラとは関わりたくないし、そもそも同級生とも関わりたくないと思っていたので、関わりたくない思いが二つで重なり、僕は彼女からの誘いを断ろうと、心の内で決心していた。

 だから、明日ちょっと時間あるかなと聞かれた際には、

 

 「あー、僕は明日、ちょっと予定があるんだ。バイトだよ、バイト」

 

 とぎこちない笑顔で嘘をついたんだけれども、

 

「……ねえ、阿良々木(アララギ)くん。阿良々木暦(アララギコヨミ)くん。君がバイトしてるなんて話聞いたことないよ? 希望ヶ峰ってバイトするなら学園に報告しないといけないけど、先生に聞いたら阿良々木くんバイトしてないみたいだし」

 

 といった風に即座に嘘を見破られてしまったのだ。

 

 あちゃあ。

 

 しかも、がっちりと裏を取られていたようで……というか、バイトをするには学園に報告しないといけないらしく、それに関すればそもそも知らなかった。入学時に聞いてはいるのだろうけれど、それも既に二年前だ。到底覚えちゃいなかった。

 

「いや、でもさ」

「なに? 嘘をついた言い訳なら聞かないよ、私」

 

 くっ、なんだろう……やっぱり嘘を付くのはいけないことなんだと、もう既に大人のようなものである高校二年生終盤、三年生前になって再度思い知らされることになった。

 

「ええっと……まず最初に、嘘をついたことは謝るよ」

「うん、そうだね。それが大人っていうものだと思うよ」

「……それで、僕とどんな話がしたいんだ? なんで話がしたいんだ? 僕としちゃ、別に今この場でもいいんだけどさ」

「うーんとね」

 

 七海は顎に手をやりながら、まるで僕なんかいないかのように、ぼおっと空を見つめる。

 この時期この時間帯になると、下校時刻にはそれなりに外は暗くなる。なのでいつもは夕陽──もしくは、それを少し過ぎてちょっと暗くなりくぐもった色に変わるのだけれども──

 ──どうやら、今日はカラスの群れが飛ぶ、真っ赤な夕陽のようだ。

 

「いや、ほら。私たちってそろそろ三年生でしょ? だから修学旅行もあるわけだし、どこか行きたいところないかなあって」

 のんびりとした口調で七海は言う。

 なるほど修学旅行か。確かに毎年三年生は南の島であったり海外であったり、高校生クイズのような旅行に出かけるのだが──そうかそうか、しかし……。

 

「でも、旅行とかについてはホームルームの時間で決めるって、先生が言ってなかったか?」

「あー……。そうだったね」

 

 そう言っては、やってしまったという顔をする。

 バイトの話は忘れていたが、これだけは覚えていた。面倒だなと思いながら聞いていたのだが。

 

 しかし……おいおい、なんだ? 僕は嘘をつかなければならないような内容の話を持ちかけられるというのか? ひょっとすれば、ひょっとすると、ひょっとしなくても、いやひょっとするかもしれないが、話をするということ自体は建前で、なにか裏があるのかもしれない……。

 

 僕の誕生日を祝おうとしているのかという考えが脳裏をよぎったが、誕生日はまだまだ先なわけだし、祝ってもらうような関係性は七海との間にない。ましてや明日だなんて、僕に予定があったら台無しじゃないか。

 無鉄砲にもほどがある。それに、僕みたいなやつなんかに予定なんてないだろう、どうせ暇なはずだという考えのもとに行動されていたなら(しゃく)にさわるけれども──流石にそれは考えすぎか?

 

「ま、さっき阿良々木くんも嘘ついてたんだし。おあいこさまってことで」

「……」

 

 やっぱり、嘘なんてつくものじゃない。

 

 このまま七海のやつを放っておいて家に帰るという手も無くはなかったが、しかし、いくらおあいこさまと言っても嘘を付いたことの罪悪感が完全に消えたわけじゃないし、なによりあの七海が嘘を付いてまで話したいこととはなんだろうかという好奇心が湧いてしまったのだ。

 

 なので、渋々仕方がないといった雰囲気をわざとらしく出しながら、

 

「分かったよ。で、話ってどんな内容なんだ?」

 

と尋ねる。

 

 すると、

 

「なんていったらいいのかな……。話したいことはないんだけど、話がしたいんだよ。阿良々木くんと」

 

 といった返事が返ってきた。

 

 僕はそれを聞いた時、ただただ頭の上にクエスチョンマークを出すだけで、ちゃんとした返事ができないままであった。

 キョトンとした目で、相手を見つめるだけであった。

 一体どれくらいの時間呆然としていたのかは分からないが、相手から不審がられてないところを見ると体感時間よりはるかに短い、ほんの一瞬だったのかもしれない。その一瞬を過ぎた後に僕は考える。

 

 話がしたい……けれども、話したいことがあるわけじゃない。

 パラドックスの話を聞かされている気分だったが、曖昧に返事をしながらその言葉の意味をなんとなく理解したつもりになる。つまり、ただ呼んでみただけみたいなことなのだろう。

 

 呼ぶ理由はなく、呼ぶという行動に意味がある──といった感じ。

 つまり、僕となんのとりとめもない雑談をしたいということら

しい。僕と話がしたいだなんて、酔狂なやつだなと迷惑に思った。

 

「……駄目、かな? やっぱり、話す理由とか必要だった?」

 

 身長の差は目測で大体五cmほどなので(僕の方が高い、ここはとても重要だ)上目遣いとはならなかったものの、こちらの目をしっかりと見て話してくる。純粋な目を向けてくる。

 昔英語の先生から、

 

 「女子から誘われたら男子は絶対にSureで答えるんだ」

 

 と言われたことがあったが──今回の場合にも適応されるのだろうか。話がしたい──ということは、お誘いなわけだし……。

 

 僕は考えさせてくれと答えようと思ったのだが、そう答えると僕は断ってしまうんじゃないかと思えた。それはそれで別に良いんだけれど、しかし。確か彼女は委員長だったはずだ。クラス委員。きっとクラスで孤立している僕に気をかけてくれたのだろう─だが、そんな気づかいは余計なお世話だ。僕には必要ない。

 

 よし、これも良い機会だ。僕が一緒に話してもなにも良いことがなく、利益もない。むしろ気を悪くするだけだということを思い知らせるのには、丁度いいかもしれないと思いその誘いを了承した。

 

 その際にメールアドレスと電話番号を交換することになった。女子というのはこうまでも打鍵スピードが速いものなのかと度肝を抜かれた。七海は超高校級のゲーマーだと聞くから、ただ単にゲームをするにあたっての高速連打というスキルを応用したに過ぎないかもしれないが。

 

 連絡を取る相手なんて親や妹、実家くらいしか存在せず、それらの電話番号はしっかりと頭に入っており、忘れても履歴を見ればいいという考えのために人の連絡先が登録されていない僕のアドレス帳と電話帳には、『七海千秋』という名前が新しく明記された。



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003

 そしてその夜。

 僕は物理的に狭い思いをしながら机の隣で寝そべっていた。狭い思いをする理由が物でごった返していて片付けを怠っているなどということでは断じてなく。理由としては、ただ単純に部屋面積が狭いからというものであった。しかしまあ、物が少なく整理整頓が行き届いているかと聞かれれば首を縦には振れないが。

 そんな狭い部屋で一人、僕は興味があるわけでもないテレビを心に寂しさを秘めつつ眺めていた。

 

 自分は物が多ければ整理したり捨てることができる人間だと思う。潔癖というわけではないけれども、それなりに日頃から掃除はするのだ。整理整頓はもちろん当然のこと、部屋の中はかなりあっさりもしている。あっさりとはしているが、綺麗とまではいかない。やはり生活をして行く中で物は多くなってしまうものだ。

 

 いくら狭いと言っても物でごった返しているわけではないので、それなりに寝ころぶことは出来るし、頑張れば前転や後転などのマット運動も可能である。……ま、そんな体育の授業でやるようなことをこのボロい骨董アパートでしてしまえば、建物全体に音が響いてしまい近所の方に迷惑をかけてしまうため、それは(はばか)られるのだが。

 近所付き合いはしないが、知らないところで嫌われるのは勘弁だ。

 

 ただ悪戯(いたずら)に時間をもてあそんでいると、「ピロリン」という軽快で安っぽい音とともに、卓袱台(ちゃぶだい)の上に置きっぱなしにしてあった携帯電話が明るく点滅した。

 

 はて、誰だろう。

 もしや、また僕の妹が何かをやらかしでもしてメールを寄越してきたのだろうか。そんな、面倒だなという気持ちと不安になる気持ちがまざりつつも、やはり面倒だなあと心に倦怠感を覚える。

 ま、電話ではなくメールということはそこまで切羽詰まってはいないらしい。

 

 というか、火憐(カレン)ちゃんってメール打てるんだな。

 いや、流石に打てるか。あれでもあいつは女子中学生なわけだし、メールの一つもロクに打てないようじゃ友達付き合いもままならないだろうからな。

 

 なんてことを思いながら上体を起こして携帯電話を手に取り、受信したメールを開く。

 予想通りというか、案の定というか。予測出来たことだろうけれども浮かんでこなかった人物からのメールだ。

 ……クラスメイトである七海からだった。そういえば放課後にメールアドレス交換したんだっけか、今日のことだというのにすっかり忘れていた。

 ……しかし、何の用だろう。

 

 七海と放課後、どのような内容の会話交わしたのかをまるっきり忘れてしまっていたのでどうしたものかと頭を悩ませたが、メールを読めば思い出すだろうと、それを開いた。

 

 内容はこうだ。

 

『阿良々木くんへ。

『こんばんは。夜分遅くにごめんね、明日の放課後の話なんだけど、よく考えたら阿良々木くんの事情とか聞いてなかったなって思ってさ。

『だから、何か不都合があれば都合は合わせるから教えて欲しいって思ったんだけど、予定とか大丈夫かな?

『何か不都合があれば教えてね』

 

 ……ああ、そうだったそうだった。今日の帰りしなに、明日話をしようどうこうの約束を七海に取り付けられたんだっけ。強要されたわけでもなく、弱みを握られていたわけでもなかったから、取り付けられたという言い方は、ただ口が悪いが。

 

 ああそうだ。それに同意をしたのは自分なわけで、自分の意思に基づいての約束なのだが──しかし、あの状況で断るということは並大抵の人間では不可能だろう。僕としてもやむなしという感じだったし。

 断れる人は、それこそとっても忙しくってスケジュールが空いていないか、さほど必要性を感じられないといけないだろう。

 

 ま、どうせ先生からの印象稼ぎだろうから、適当にあしらい、変な空気に持っていって、自然解散という形で明日は終わらせるとしようか。七海には悪いが、僕は別に友達なんていらないしクラスの輪に溶け込むつもりもないんだ。

 

 お仲間同士の馴れ合いは僕のいないところでしてほしい。

 孤独を愛し一人を好むこの僕を巻き込まないでほしい。

 

 しかし、そんな風に思ったところで僕の心にわだかまりが残る一方だった。果たして、本音はいったいどうなのだろうか。

 本音──そもそもそんなもの、存在するのか?

 

 天井を見ながらそんな事を考える。

 年季の入ったアパートの天井についたシミが、僕を嘲笑っているように見えた。

 

 携帯電話の人工的な明かりに目を差し向け、メールの返信を打ち込む。

 ──明日、なにかしらの予定はあったっけと、一応念のため、ToDoリストに目を通す。忘れっぽいところがたまにあるので、用心は重ねておきたい。なんでも杞憂に終われば良いのだ。

 ……想像通り、清々しいほどに真っ白であった。ここまで白いとこのままの白い状態を保っておきたいという気持ちがないわけではない。白いシーツは気分がいいし、また白いToDoリストも気分がいいだろう。……悲しいがな。

 

『こんばんは、七海。

『珍しいことに、明日は予定がないからなんら問題ないよ。

『だから明日の放課後で別に構やしないが、集合場所とかってもう決まっているか?』

 

 虚勢を含めた文章。

 無駄な意地。

 

 メールを打つのは得意じゃない。

 そもそも携帯電話だなんてたいして触らないし、使い道がせいぜい電話とメールだけという本来の携帯電話と手紙の根本的な機能しか使っていないのだ。……携帯電話の意味。

 いやっ、そもそも携帯電話のゲームだとか検索機能なんかはそっと添えてあるような機能であり、僕が利用している機能こそが本質的根本的な機能なのだ。

 携帯電話はゲーム機でなければカメラでもない。ましてや電子辞書でもなければ思ったことを書き連ねるものでもない。本来は連絡ツールとして開発されたものなのだから。

 

 ……いやしかし、メールだってそう頻繁にはしないし、電話だって自慢話、武勇伝をいやいや聞かされるくらいで自分から誰かにかけることは滅多にない。

 携帯電話を持つ意味がないんじゃないか、月額料金を払うだけで無駄なんじゃないかとすら思えてくる時がある。

 

 ……おいおい、駄目だな。連絡ツールとして開発された携帯電話の本質的根本的な機能すら使えてないぞ。僕。

 

 それでも携帯電話を解約しないのは現代人としての意地だろう。

 文明の利器を扱えない奴に携帯電話で張れる意地なんて存在しないし、よく考えれば張る意味も必要性もないのだが、期せずして今回はこの携帯電話が役に立つことになったので、少し嬉しかったりもする。役に立ったかどうかはまだ分からないが、とりあえず役に立ったということにしておきたい。

 

 ともかく、画面とにらめっこをしながら打ち込んだ文章を送信し、謎の達成感を感じては、風呂にでも入ろうかとお風呂セットを片手に持ち銭湯に向かわんと意気揚々、立ち上がる。すると、またもや携帯電話からピロリンという軽快な安っぽい着信音が鳴った。

 

「…………」

 

 返信のあまりの早さに、実は僕はどこからか監視されていて向こう側に返信のタイミングが筒抜けだったんじゃないかと、物が少ない──良い風に言うなら慎ましい純日本人の性格を体で表したような部屋。はっきりと言ってしまえば殺風景な──部屋を慌てて見回す。しかし、それらしい監視カメラだったり盗聴器であったり、覗き穴はなかった。……というか、そもそもこの部屋には誰も招き入れたことがないわけだし、その可能性はサラサラないわけで、返信が早いというのもたまたま七海が携帯電話をいじってる最中だったからだろう。

 

 一旦お風呂セットを置き、腰を落ち着かせる。

 機種変したばかりで傷ひとつないそれのロックを外しメールボックスを開く。

 

『よかった。阿良々木くん、もう寝てたらどうしようと思ってたよ。安心安心。

『そっか、珍しくね。ありがとう。

『えーっと、集合場所は玄関ホールでいいかな?変に知らないところより知ってるところの方がいいし。

『明日はよろしくね』

 

 素朴に了解という旨の返信を送ってから、僕は銭湯に向かった。

 

 外の寒さが身にしみるようだった。



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004

 放課後から昨晩にかけてそのようなことがあってから、僕はその次の日──つまり、今日の放課後。希望ヶ峰学園の玄関ホールで友達よろしくといった風に七海と待ち合わせ、彼女に連れられるがままに近くの喫茶店に入店する運びとなった(こんなところに喫茶店なんてものがあったのか……知らなかった)。喫茶店という場所に足を運ぶことは滅多にないので、少し心が落ち着かない。僕はきっと、妙によそよそしい雰囲気を出していることだろう。

 そして今は、店外のテラスにある机を二人で挟んでいる。

 

 ただお話がしたいという雑談が相手の目的であったため、僕としては特にこれといった話題があるわけではなく。また、七海も七海とてこれといった話題はないらしい。そのため、玄関ホールを出発し喫茶店にて適当に各々注文してから(とはいえども、僕は「彼女と同じものを」と言っただけなので、何が来るのかはあまりよく分かってない)お互いに軽い挨拶をしたくらいで、僕と七海の間には気不味く深い沈黙が続いていた。前日、僕はこの雑談の場を居心地の良くない雰囲気にでもして帰ろうと考えてはいたけれども、最初からこうも気まずい雰囲気だと、そんなことを考えていた僕の方が気を悪くしてしまう。しかしそれは七海とて同じことだろう。

 この沈黙を打破する何かがないかと不器用なりに模索している最中、注文の品が運ばれてきた。コーヒーとショートケーキがシンメトリーに机の上へと置かれる。

 あまりコーヒーは飲まないんだけど、一口飲んだ時に苦味を感じないほど、僕はこの雰囲気をどうにかしようということに意識を寄せていた。何必死になっているのやら。

 

「…………」

「…………」

 

 勇気を少し出して、少し質問をして見た。

 

「コーヒーとかって、良く飲むのか?」

「え? ……あー、うん。まあね。いっつも眠くなっちゃうからさ。ほら、眠気覚ましにはコーヒーが一番だなんて言うでしょ」

「なるほどな……」

 

 確かに、七海はいつも、良く眠たげな表情をし、虚ろげな瞳で微睡(まどろ)んでいた。

 しかしそこまで無理する必要はあるのだろうか。まあ、超高校級のゲーマーって言うくらいだしなあ。

 

「阿良々木くんは、コーヒー飲む?」

「僕か? 僕は、まあ、嗜む程度に」

「……本当かな」

「本当本当。マジと書いて本当と読んでもいいくらいだ。マジマジ(本当本当)

「それって逆な気がする。 普通、真剣と書いてマジと読む、みたいな……」

「細かいことは気にするな。卵が先か、鳥が先かみたいな話だろう」

 

 いや、そうじゃないんだろうけど。

 

「ところで七海」

「なにかな、阿良々木くん」

「七海はコーヒーを飲んで夜更かしをしてでも、ゲームをしたいっていう風に思えたんだが──そのゲーム、飽きたりとか、しないのか?」

「しないよ」

 

 即答だった。

 七海は迷いなく、そう答えたのだ。

 その純粋な「好き」という姿勢が、少しばかり羨ましく感じた。

 

「愚問だよね。阿良々木くんだって、なにか一つくらい、飽きないことがあるでしょ?」

「んー……いやなあ、なんせ僕。趣味がないものだからさ」

「嘘だあ」

 

 趣味がない──というのは、半分正解で半分ハズレだ。僕の趣味を挙げるなら、強いて言えばそれはサイクリングだろう。けれども最近、自分の好きなマウンテンバイクのサドルを跨ぐことはめっきりと無くなった。それに才能に関することだって──僕はもう、好きじゃあないのだろう。

 

 なにはともあれ、コーヒーの話を切り出すことで、それなりに話をすることが出来た。

 

 無難にお互いの超高校級の才能の話。

 無粋な僕の妹の話。

 無敵とも言えるチーターをどう倒すかの話。

 

 スーパーマリオの話は、そのゲームを少しやったことがあるのでなんとか付いて行けたが(それにしたって知識量で敵うはずがなく、驚かされるばかりであった)、そもそも幼少期からゲームをあまりしないでいた僕は、最近のゲームの話に差し掛かるにあたって、討論というよりただただ彼女が熱弁していることを聞いているだけ、相手の言葉に合わせて適当に相槌を打つだけになってしまっていた。

 スーパーマリオの話に至っても、結局のところ、そんな感じに相槌を打っていただけだったのかもしれない。

 それでもまあ七海の話すゲームの話は興味深いもので、「そうだな」とか「へえ、そうなんだな」と返事を返しているうちに、何気なくそのゲームを今度一緒にしようという約束を取り付けられてしまった。側から見れば僕が彼女の誘いに乗っただけなのだろうけれども、僕の中ではしてやられたという気持ちが強かった。

 ゲームをするその時には、僕の得意なゲームをしようかと言えば、「うーん、私は確かにゲーマーだけど。阿良々木くんの専門になっちゃうと勝てそうにないや」と言われた。

 

 それもまあ納得のいく話である。

 

 いくらなんでも、超高校級のゲーマーという肩書きを持つ彼女とて、全てのゲームが達人級というわけじゃないのだ。

 全てを難なくこなすというのは化物故の行動である。しかし七海は誰がどう見ても化物ではないし、凡人の皮を被っているようにも思えなかった。

 

 ──それでもいつしか。彼女は化物へと成り上がってしまうのだろう。

 

 でも、恋愛ゲームは苦手だとか。

 しかし苦手な物があったとしても、彼女は成長し、いつか全てを極め切ってしまうのだろう。

 この「いつか」は必ず起こる事象だ。

 新しい作品が生まれれば生まれるほど、それを極めるのだ。超高校級のゲーマーである七海千秋は。

 

 それが彼女の性というものなのだろう。

 

 七海の様々なゲームを極めるということに対し、僕はただ一筋の道を極めるだけなので──とは言えども、最近は極めるという行為すら疎かになってしまっていて、僕の超高校級の肩書きなんて無いのと同じ、ただの冠みたいになってしまっているから、こうも生き生きと才能関連について話をされちゃ、羨ましく思えてしまう。

 

 妬み嫉みではなく。

 

 羨み。

 強い羨望。

 

 自分の好きなことを熱く語れることが、とても羨ましく思えた。

 彼女が、眩しく見えた──なんて言ってみると、まるで僕が七海に惚れてしまったんじゃないかと勘違いされかねないが、それは大きな勘違いであり、七海とは親しくしたことがなければ、話なんて、記憶を遡るに、昨日が初めてというような関係なのである。しかし、それでも二年間一緒に過ごしたクラスメイトなのだ。二年間顔を突き合わせ、授業やら人との会話なんかの声も少なからず聞いている。

 

 今更惚れた腫れたの恋話に発展することなんていうのは、あまりにも定番過ぎて逆にあり得ないし、あり得たとしても、それは一時の気の迷いであると言える。

 僕は一目惚れというものを信じていない。だから、仲良くなって好きになるのが恋愛である……というのが僕の持論であるのだが、彼女──七海千秋とはそう言った間柄にならないと断言できる。

 根拠はないが、なんとなくそう思った。彼女は恋人というより、友達というポジションが一番似合う人間だな、と。

 

 友達というポジションにすらなれない僕がなにを言っているんだという話だが。

 

 そして、話は冒頭に遡る。

 

 過去編からの現代編だ。

 

 話し込んでいるうちに、いつのまにか空も十分に暗く落ち込んできたようで、右手首に巻いた腕時計の時間を読み取ってみると、もう既にあれから四時間も経過していた。そして、七海は七海で活動限界が来てしまったらしく、情けなくヨダレを垂らして机に突っ伏している。

 

 今回のおしゃべりは思いがけずに結構楽しいものだったので、不満げ仏頂面ではなく、久し振りに笑みを浮かべていたと思う。でも、友達としては首を傾げかねない。精々話し相手か知り合いぐらいの関係が丁度いいんじゃないかと判断した。

 

 そんな僕と相反し、七海のやつは目を擦る回数が時間が経つにつれ増えていき、欠伸(あくび)も増え、挙げ句の果てには眠ってしまった。さすがにテーブルに寝かしたまま店に置いていくということはいくらなんでも僕にはできないので、今日はこれくらいにしておこうと七海を起こすべきであると考える。家に送ってやってもいいのだが、住所は知らない。しかしこのような時間帯、女子一人は危ないだろうからせめて付き添いくらいはしてやろうと席を立ち、会計を済ませ、七海がうたた寝するテーブルに向かった。

 

「なあ、七海」

 

 反応なし。

 どうやら完全に熟睡してしまったらしい。……だからとは言え、起こすことを諦め、そのままにして置くわけにもいかないので、今度は肩を持って、強く揺らしながら、

 

「なーなーみー」

 

 と呼びかけた。

 しかしそれでも彼女は、

 

「むにゃむにゃ」

 

 という漫画の世界でしか聞いたことのないような寝言うわ言を発するだけで、目はとうとう最後まで開けやしなかった。本当は起きているんじゃないか、僕をからかっているんじゃないかという疑いを心の内に抱き、顔を覗き込んでみると、なんとも幸せそうな寝顔をしているのだ。

 

 これは、起こしてしまうことをなんらかの秘密機関、および秘密結社に咎められてしまうんじゃないかと錯覚するくらいに可愛い寝顔で、なんなら写真の一枚撮っておこうと思い携帯電話を開けるものの、すんでのところで罪悪感が芽生えてしまい写真を撮るのことは出来ず、携帯電話はズボンのポケットを出し入れさせられただけとなる。

 

 ……どうする? これ。

 

「ぐう」

 

 頭を悩ませるが、ただ悩ませるだけでなにも思いつかない。やっぱり起こした方がいいんじゃないかともう一度肩に手をかける。すると──

 

「あれれ、阿良々木くん……? それに、七海さんも。……ははあん。なるほどなるほど」

 

 ──そこには、同じクラスメイトである羽川翼の姿があった。

 

 なんで、ここに羽川がいるのだろう──そう思ったが、良く考えてみれば今まで誰とも会わなかったことの方が珍しい。

 ここは学園近くなわけだから、普通に同じ学校のやつがいてもおかしくないし、そもそも僕らは外のテラス席にいるんだ。歩道を歩いている人からは丸見えなのだから、見つかるのも当然だろう。

 それなりに希望ヶ峰学園の生徒というのは有名だったりするのだけれど、僕と七海はアイドルや科学者といった世間に大々的にアピールされている──それこそ、ニュースで流れたり芸能に携わっていてテレビを視聴していれば、一度くらいは見たことくらいはある──人達とは違い、幾分マイナーでプライベートを隠す必要もなく、こういう風に外に出れていてかつ今まで誰にも声をかけられなかったところを見ると、やはり僕らは有名人というわけではないが──さすがに、そうだとはいえ、同級生にはバレてしまう。

 なにもやましい思いはないわけだから、バレるという言い方は変だが。

 

 それに、それぞれの世界で闘っているわけであり、あくまで世間にはそう頻繁に出ていないのだから知名度なんて気にしちゃいけないもの──ま、七海はゲーマーだし、それなりにネットなんかで知名度はあるだろうが、僕は……な。

 

 ともかく、同級生はまだしも、同じ学校のやつに会うということはさほど珍しくはなく、むしろ今までなかったのが不思議なくらいなのだ。

 

 納得納得。

 超納得。

 

「ええっと、阿良々木くんと七海さん。どうしたの? こんな時間まで。そろそろ帰らないと門閉まっちゃうよ──ああ、でも、阿良々木くんは外でアパート借りてるんだっけ。いや、それでも七海さんは学生寮なわけだし急がないと」

 

 テラスの柵から身を乗り出し、委員長気質のあるお節介焼きの羽川はこちらを心配する。

 

「親切に今の状況を説明してくれたところ悪いが、ちょっと待ってくれ。なにか誤解されてないか?」

「誤解?」

 

 誤解もなにも──と、続ける。

 

「分かりきったことは言わなくても分かるでしょ、それより時間がないから──わわっ! 七海さん寝ちゃってる」

 

 わかりきったこと……? やっぱり、この委員長はなにか勘違いしてるぞ? しかし、話によると結構状態としてはヤバイらしい。優先順位としてはまずこっちだろう。

 羽川は羽川はでおっかなびっくりという表情をし、後ろでまとめられたおさげを揺らし若干後ろに下がる。そりゃそうか……もうすぐ門が閉まるっていうのに、七海自身は寝てるんだしさ。

 

 出来ることなら誤解どうこうの話を続けたいのだが、このままぐうたら話をしていると門が開いている間に校内に入れそうにないので、そこはまた今度聞くことにした。また今度の機会があればだが。

 

「七海は僕がおぶっていくからさ。羽川、お前は七海の部屋を教えてくれないか?」

「えー、でも、それだと七海さんの胸が阿良々木くんに当たっちゃうんじゃないかな。変態」

「僕のことを変態というなっ! そんなやましい気持ちは一切ない!」

 

 一欠片もないと言えば嘘になるし、むしろこの世代の男子高校生にそう言った感情を持つなというのは無理難題な訳である。

 しかし、自分の身の潔白を示すためだけに、女子高校生を冬の夜空の下に一人残して置くわけにはいかないので、なんとかして学園の寄宿舎まで送り届けなければならない。羽川に任せたところでキチンと時間までに運べるかどうかは不明だし。

 

 やはり、起こした方がいいのだろうか。

 

「うーん、でも、七海さん起きそうにないし、確かにおぶっていくしかなさそうだね……」

 

 羽川は七海の肩を揺らしたり背中を軽く叩いたり頰を指先でツンツンしたりして(羨ましい)、起きないという結論に至ったのかそう言って。

 

 今からなら歩いて学園に向かっても、僕が覚えている時間通りなら、門を閉める時間までには十二分に間に合うだろう。さらに、羽川だって門限には間に合うという計算の元、外を出歩いていたんだろうし。

 

 しかし、さすがに女子といっても体はもう大人である。男子の僕がおぶってもそれなりに重い。僕は地面を一歩一歩、踏み固めるようにして歩く。

 

 ……僕がおぶっていったとするなら多分時間はギリギリになってしまうだろう。しかし、羽川なら、まず、おぶることが出来るかどうかという時間依然の問題なのだ。

 となると、七海の身の心配をするなら僕がおぶってやらなければならないということは火を見るよりも明らかで、揺るぎない事実なのである。

 

 よし、これで明日バレても言い訳ができる。

 いやだから、バレるってなんだ。なにもやましい思いはないじゃないか。

 

「それじゃあ、阿良々木くん。変なことを考えないように」

 

 どう良いように捉えようとしても僕を疑っているようにしか思えない目線をこちらに向け、それからその視線を七海に落とす。

 僕も自然にその目線の先を追い、七海に視線を向ける。

 

 若干後ろめたさを覚えるものの、冬の夜空の下を歩く。

 人をおぶるということが滅多にない僕は、悪戦苦闘をしつつもどうにかこうにか七海を寄宿舎の部屋まで送り届け、「また明日」と羽川に別れ際の挨拶を交わしてから帰路に就いた。



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005

 翌日の朝。

 

 いつも通り通学用のママチャリを走らせて学園に登校した。今日は普段よりも冷え込んでいて、ほうっと息を吐けば、それはそのまま白い(もや)となり薄ら青い空へと溶け込んでいってしまう。

 こういうことをしていると、冬だなあと身に染みて感じる。

 乗ってきた自転車は例の如く校内にある駐輪場に止めるため自転車に乗ったまま、ゆったりとした動きで駐輪場に入り込むと(真似しちゃダメだぜ。自転車は歩いて押そう)、T字路の突き当たりに(たたず)む七海の姿が見えた。やはり、こんな真冬に外にいると寒いのだろう。それも早朝だ。お日様に照らされ暖かくなった昼とはまた違う。

 口元を覆いかぶせるようにして、およそ(かじか)んでいるだろう手に白い息を吐きかけ、両手を擦り合せていた。特にこれといった防寒具は身に付けているようには見えず、制服そのままという状態でもある。これで寒くないというほうが方がおかしいな……。いくら冬服でも、この時期は耳やらなんやら冷たくなってくる。カイロを持っていたにしろ、全身はカバーできないだろう。それに女子のスカートはガードが薄いうんぬん。

 

 しかし、一体全体どうしたのだろう。何かあったのだろうか──あんなところにいて。どうせなら購買でオニオンスープでも買ってきて差し入れたいところだけれども、彼女はお気に召してくれるだろうか。

 

 なんて安直かつ呑気なことを考えながら、自転車の速度を落としつつ、彼女のいる方向へ自転車の車輪を回した。ただ単に自転車を停める場所がそちらなだけであるが──でも、こんな寒い日に外で一体何をしているんだろうと、彼女へ近付くごとに益々奇妙に思えた。

 

 声をかけるべきだろうか。一応──昨日話したし、全く知らない仲というわけでもないのだから。そう思えば考えるより早いか、自転車を漕ぐ足を完全に止めた。空回りし(たる)んだチェーンがからりからりと鳴る。その音をキッカケにこちらに気付いたのか、七海は顔を上げて手を大きく振ってくれた。にこやかな笑顔を浮かべながらだ。

 

「よう、七海。おはよう」

「おはよう、阿良々木くん」

 

 一旦自転車をいつもの場所に停め、七海がいるところへ行った。

 まるで誰かを待っているかのように見受けられた彼女に話しかけるのはあまり得策ではないように思えたものの、しかし長いこと立ち話をするつもりはないから別に構わないかと思う。

 

 気軽に、手を振って。

 

「七海、どうしたんだ? こんな朝っぱらから。誰か人でも、待っているのか?」

「いや──まあ、待ってたって言えば待ってたけど、私は丁度今この駐輪場に来たところだから、待っていたっていうのはちょっと違うかな」

「ふうん……」

「あ、それでね。羽川さんから聞いたよ」

「おんぶのことかっ?! 僕は何もやましいことなんてだな……」

「やましいこと? ……阿良々木くん、見事に墓穴を掘ってるよ」

 

 呆れ顔で言われてしまった。

 

「まあその“やましい”とかいう話は、また後で聞くとして──」

 

 出来ればその話はもう二度出して欲しくないものだが──叶うならば、未来永劫記憶から消していただきたいものでもある。

 

 その後、彼女は申し訳なさそうにはにかみ、続けた。

 

「昨日は、お話の途中だったのに寝ちゃってごめんね。その上で部屋の方まで送ってもらっちゃったみたいで──謝罪しても、感謝しても、しきれないよ」

 

 七海はそう言った。きっと覚えちゃいないだろうことを、羽川から聞いたであろうことに対し、そう言った。

 ひょっとして、この事のためにこの駐輪場にいたのかもしれない。というのはあまりにもおかしな考えだと思えた。さすがに僕のためにそこまでしてくれるほど、七海も聖人君子ではないだろう。こんな寒い日の朝早くから駐輪場に立っているだなんて、物好きもいいところだろう。

 しかしそれでも──こうも面と向かって礼を言われる機会がなかった僕からすれば、照れ恥ずかしい気持ちにはなった。でもそれと同時に、自分が弱くなってしまっているのではないかという一抹の不安の雲も心を覆った。

 

「いいよ別に、僕は気にしちゃいないさ」

 

 と返す。

 

「いやでも、それでも本当にごめんね。今度何かしらの形で埋め合わせするよ」

「いや──」

 

 そんなことしなくてもいい。

 そう──言おうとは思ったんだけれども、すんでのところで思い悩む。この機会を逃せば、きっと七海とはもうこれまでだろう。

 このまま関係を途切れさせて──僕は後悔しないだろうか。果たして何も思わないなんてことがあるだろうか。関係といってもほんの数時間話しただけだけれども、それでも──僕は少しだけ、ほんの少しだけ、関係性を失うことを惜しいと思えてしまった。

 

 埋め合わせといっても所詮口約束なわけだし、もし後から考えて嫌になったらなら用事があるからまた今度とでもいって、流してやれば自然消滅する話だろう。だから──まだ、この繋がりはあってもいいかもしれない。ないがしろにできるのなら、反故にできるのならまだあっていいのかもしれない。

 

 しかし、けれども、たとえなにがあろうとも。人間強度が下がるから友達は作らない──というその気持ちは今もなお揺るがない。揺るぐことはない。揺るがせるわけにはいかない。

 友達はいらない。でも、七海はただの話し相手なわけだし、友達に発展してしまうというならそうなる前に関係を途切れさせればいいだけだろう。それは七海のためでもある──いや、所詮はただの自己防衛だろう。

 

「いや、埋め合わせなんて大それたことはしてもらわなくっていいさ。また今度、暇な時にでも話そう」

 

 「……うん。そうだね」

 

 その柔らかい笑顔に、心のわだかまりが解かされそうだった。

 なるほど、彼女に人望がある理由が今なんとなくわかった気がする。今なら心から言えるが、心の中で思ってるだけだからとはいえ良い子ぶってる奴みたいな評価を彼女に与えていたことについて自分がいかに酷い人間か思い知らされたと思うし、申し訳がないとも思う。

 

「ん、それじゃ」

「それじゃもなにも、あとから教室で会うんだけど」

 

 別れ際に軽く手を振り、渡り廊下へと入る。

 僕はお弁当を作ってこないので、基本購買部か食堂で済ませるのだけれども、今日は購買部のパンの気分だなと思いラインナップを見に行くため足を動かす。毎日品揃えが変わっているので当たり外れが激しいが、大抵自分の好みのパンはお昼休みにのんびりとした気持ちで購買に向かうといつも売り切れている。

 

 ま──人気だと朝のうちから無くなることも多いらしいし、きっともうそれに関しては手遅れの段階だけれど、昼に行くよりは今から行った方が格段にいいだろう。ほんの少しだけの可能性だが、残ってるかもしれないし。

 

 ちなみに購買人気ランキングというものがあり、三位が先輩である元超高校級のパン職人が作ったメロンパン、二位がこれまた先輩である元超高校級の酪農家が絞った牛乳で作られたパックのコーヒー牛乳。そして堂々の一位だが、それは予想してみて欲しい。

 

 まだ少し残る眠気を取り払うようにして大きな欠伸をしながら、玄関ホールから校舎へ入り、同じ校舎内にある購買部へと向かった。

 

 やはり廊下というのは異常なほどに寒さが(こも)る。床がそういう素材だからなのだろうけれど、壁側も壁側で一重のガラス窓だからだろう。身が引き締まると言えば聞こえがいいが。

 

 購買部にはどこか見覚えのある髪型をした後ろ姿があった。知り合いじゃないんだけれども──むむ、どこで見たんだっけ。なぜ記憶に残っているんだ。というか、こんな奇抜でギャルみたいな髪型髪色したやつが知り合いなら、僕は一体どんな顔をしてそいつと話していたのだろうか。分からない。

 

 思い出せそうで思い出せない。まるでクシャミが出そうで出ないような状況と酷似したなかなか気分が悪くなってしまう場面に出くわし悪循環に陥りながらも、なんとか思い出そうと口から声を漏らし必死こいて記憶を探るが、ヒットするものは一つとしてなかった。

 

 本当に、モヤモヤとする。

 

 顔を見たら分かるかもしれない──と、ただひたすらひたむきに購買のパンを見つめている奇抜な髪型の女子の顔を拝まんと、チラリ覗き込む。──否、覗き込もうとした。

 前屈姿勢を取ろうとした僕に対し、その女子は気配に察したのか──はたまた、ただの偶然なのか。ともかくこちらを振り返った。

 

「──なあんだ、阿良々木セーンパーイじゃん」

 

 

 パンを握る手元の爪は赤いネイルがべったりと塗られており、ラメというものだろうか──顔全体やら髪やらが少しキラキラと輝いていた。髪は日本人とは思えないほどの金髪で──アバンギャルドなギャルといった化粧を施した顔でニンマリと笑顔を作り、朝とは思えないようなほどのテンションの高い声で、僕の名前を言う。

 なんだ? ここはどこだ? そして誰だこの子? 全くもって記憶にない。

 

 僕の記憶の中にはこんなアバンギャルドで如何(いか)にもなギャルは片隅にすら存在していないし、彼女に先輩と呼ばれる筋合いも、もちろんのことないのだが──先輩、ということは、この子は一年生なのだろうか……?

 

 しかしなんだ。顔を見なければとそちらに注意を寄せ、そしてその結果メイクに目を取られていて他を見ていなかったが──少し落ち着いた今、彼女の服装を改めて見てみると、胸元が大きく開いてるし、スカート短いし、胸元が大きく開いてるし……。一年生には、あの羽川以上に(別に知り合いでもないから羽川に関しても詳しくはないけれど)風紀に厳しく規律正しい、まさしく校則をそのまま擬人化したようなちょっとやりすぎの超高校級の風紀委員がいるとかいないとか聞くが、これほどまでに風紀に多大なダメージを与えそうなギャルが、校内に野放しにされているのか……?

 

 よくよく見てみれば、右手にチョコマヨネーズパンと左手には黄色い包装紙に【シュールストレミング入り《要注意!!》】と赤い血文字で書かれたパンらしきものを持っている。後者はかなり危険な感じがほとばしる感じがしたので、本当にそれが存在しないということを願う。

 

 顔を覗き込もうと思っていた矢先に振り向かれた際、(しば)し彼女の顔を凝視した後に、ハッと我に帰り動揺を今になって感じ始めた僕は、傍目から見ても分かるほどに目線を右往左往とさせていた。

 

「えー、あー……」

 

 僕のあまりのテンパりようにビックリしたのだろうか。アバンギャルドなギャルの後輩(仮)は苦笑いを浮かべていた。しかしすぐさま表情を改め、テンパる僕に対し彼女の方から話しかけてきた。

 

「えーっと、阿良々木センパイですよねー? いやあ、この漂うようなぼっち感。阿良々木センパイ以外ありえないわ」

「初対面からぼっちとか言うな……」

「でも、友達いないじゃないですかー」

「ぐっ……そうだが、そうだけれどもだな──」

 

 そうだけれども──

 ──ダメだ。反論出来ない。

 確かに僕は、名前も知らないこのギャルの言う通り、友達のいないひとりぼっちなのだ。

 

 一人じゃなくて、独り。

 

 それは揺るぎない事実であり──まあ、揺らいで欲しいわけじゃないんだけど。

 

「──僕は、友達が出来ないんじゃないよ。自分からひとりぼっちの道を歩んでいるんだ」

「自分から──ねえ」

 

 僕は未だに名前も知らないような後輩を相手に何を話しているのだろうと、ようやく動揺から立ち直り正気を取り戻すが、語るなら最後まで──だ。毒を食らわば皿まで。皿を食らわば膳まで。膳を食らわら人まで。中途半端に打ち切られる物語ほど面白くないものはない。

 

「友達を作ると、人間強度が下がるからさ。僕は自ら進んで独りであり続けるんだよ」

「…………」

 

 かなり勇気を出して言った本音を聞いた彼女は目を丸にし、挙げ句の果てには、

 

「……ぷ、うぷぷっ」

 

 と、どう考えても人間の出さないような笑い方をした。えっ! 笑われてるっ?! 後輩にっ?!

 

「い、いっやあ。絶望的に痛い発言だわ」

 

 名前がわからないので、通称ギャルはわざとらしく腹を抱えながら、僕を指差し笑う。

 

「わ、笑うなっ。結構真面目に話してるんだぜ?」

「笑うなだなんて、それはいささか難しい注文ですよ。だって、絶望的に痛いんですから」

 

 急に冷静になったギャルは、どこから取り出したか分からない黒縁メガネを装着。書類を入れるファイルを脇に挟み、伸び縮みできる金属製の指示棒という小道具を持ってあの髪を後ろでまとめていた。からの眼鏡クイッ。

 

 早っ。

 

「……ともかく、誰だ? 君は、見ない顔だけどさ」

 

 そもそも後輩先輩、同級生と関わり合いのない僕が見る顔だなんてそれこそ廊下ですれ違ったり帰り道の駐輪場で鉢合わせる──いや、そういう機会があったとしても、人との出会いにあまり気に留めていないから覚えてないかもしれないけど、なにしろ芸能界には疎い僕だ、超高校級の生徒というのは芸能人も漏れなく含まれるのだが、たとえ彼女がそう言った類の人種であろうとも、ネットもあまり使わない僕は知りっこない。

 

 だから、もし彼女がなにかしらの有名人だとするなら下手すれば名前すら聞いたことがないという気まずい空気を生みかねないので、なんとかマイナーな才能が出てこないものかと願う。

 

「……もしかして、センパイ。私のこと知らない感じですか?」

「……」

 

 頷く。

 

「私様のことを知らないだとっ!!」

 

 テンション高いな。朝だっていうのに。もしかして徹夜してきたんじゃないか……?

 異様に元気なギャルは、

 

「私が知ってるのに相手が知らないなんて、えっ。一方的に知っているだけだなんて、えっ。……絶望的ぃ」

 

 と喚いていた。

 

「……はあ、残念なお姉ちゃん並みに、いやそれ以上に残念そうな残念な先輩のために、手取り足取り籠絡(ろうらく)しつつこの私様が教えて差しあげましょう」

「籠絡は余計だっ」

「じゃあ、手取り足取りで」

「……普通に教えてくれ」

「それが人に頼む態度ってものなのか? アアンッ!?」

 

 ……このギャル、情緒不安定の可能性があるぞ。もしくは二重人格者。私生活に支障が出かねないレベルだ。……まあ、それでも上手くやってるのかもしれないが。

 変な奴に絡まれ、(絡みに行ったと捉えることも出来る)不安感を嫌なことに1日の初めである朝から感じつつ、これ以上何か言うと一向にギャルの名前が知れなさそうなので、僕は口を(つぐ)んで黙る。

 

「……んー、ちょっとやりすぎちゃったか? 私様には関係のないことだけど──そう、私は超高校級のギャル。江ノ島盾子(えのしまじゅんこ)……だっ!」

「…………」

 

 やっべ、知らない。

 自己紹介の際に、見事キメ顔を決めたギャル──もとい、江ノ島に、あからさまで露骨すぎる“知らない”といった感情を持って、そのままの表情を向ける。

 

 しかし──本当に、聞いたことがない。

 江ノ島盾子。

 ……でも、どこかで見たことがあるような気がしなくもない──そんな、中途半端な記憶。まあ、人の記憶なんてこんなものか。でもまあ、髪型に見覚えがあるのだから、どこかで見たのは間違いないのだろう。

 

 名前を聞いても顔を正面から見ても声を聞いても会話を聞いても、超高校級のギャルという肩書きを持つ江ノ島盾子のことは、微塵(みじん)も思い出せなかった。記憶になかった。

 

 よくデジャブとかがあるが──そう言う類だろうか? 昔見たことがあると錯覚すると言うやつ。ああ、そうだな。きっとそうだ……いい加減な記憶だ。まったく。

 

「……え、うそ? 本当に知らない感じ? 冗談にしては質が悪すぎじゃない?」

「……すまないがな、江ノ島。僕は知らないよ。芸能関係にはとことん疎いんだ」

「……まあ、この希望ヶ峰学園にいる人ってさ、それなりに個性が強かったりするけど──センパイはあれですね。《宝クジで一等当選、ただし当選者は原始人》みたいなっ!」

「誰が原始人だっ!」

「でも、テレビ無いし携帯電話もうまく使いこなせないんですよね?」

 

 ぐぅ。な、なんでそれを。

 

「なんでも、通話とメールしか使わないだとか」

「確かにそうだが、でも、原始人っていうのはちょっと傷付くぜ?」

「傷付いているように思えないんですけど」

「傷付いてる傷付いてる。すごく傷付いていて今にも泣きそうだよ」

「え、泣くんですか? カメラで録画してSNSにあげよっ。拡散拡散」

 

 声を大にしてやめろと言ったし、実際頭を叩く勢いでやめろと言いにかかり腕も振り上げたが、頭頂部を的確に狙った僕の平手は空を切るだけだった。ギャルといえども身体能力は悪く無いらしく、僕の平手を身を逸らして避けた後そのままバネのように足を伸ばして後ろに飛び退き、それからその勢いを殺さずに女子らしからぬ笑い声をあげながらかなり早いスピードで廊下を走っていった。

 

 廊下を走ってはいけないという、下手したら憲法より有名なんじゃないかと思えるほどの校則がこの学校にもあるということを知らないのではないだろうか。

 

 何はともあれ、これが超高校級のギャルである江ノ島盾子との出会いであった。

 次の日の朝になったら忘れるような──購買部に行けば思い出す程度の記憶。

 

 そんな──変哲のあるただの出会いだった。



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006

 僕は希望ヶ峰学園七十七期生である。七十七というのはいわばゾロ目で。それ自体になんの意味もないのだが、ラッキーセブンという世間一般では比較的幸運とも取れる数字も相まってか、なかなかどうして運の良い番号に思えた。いや、まあ──ただのまぐれなんだけど。

 

 何はともあれ、僕が希望ヶ峰学園の生徒であることは確かなことであり──また、この学園に入学してからもう二年。この冬を越せば早くも三年生であるということも当然の如く確かなことなのだ。しかし──過去を振り返ってみると、その記憶の各所に散りばめられた思い出の場面の時間の流れがとても早く感じる。いや、思い出なんてなかったっけか。灰色の青春。灰春。

 これまでの二年間、色々あったといえばあったのだけれども──その色々がなんだったかまでは、よく覚えていない。こういうときほど人の記憶というものはいい加減なものだなあと痛感する。流石に一週間前の晩御飯までは覚えていないように、僕はこの学園生活を送るにあたり体験してきたことのほとんどを忘れてしまった──いや、正確には記憶の引き出しの隅っこに追いやってしまったのだ。

 思い出そうと思えば思い出せるが、かといって何かあったわけではないので感想を求められれば、やれ楽しかっただの、やれ嬉しかっただの。そんな、小学生の頃の夏に書いた絵日記のようなことしか述べることができない。

 過去のその時その時に起こった出来事を、一字一句述べるというのであれば、それこそ異常で類稀なる人並み外れた記憶力を有してなければならない。

 もしくは、金曜日はカレーを食べる。などという海上自衛隊のような生活をしていなければいけない。そうすれば去年の金曜日に何を食べたかと聞かれれば、カレーと答えることができるだろう。

 

 そういえば小学校の時に献立を完璧に把握しているやつがいたなあ。なんて。あれも異常で類稀なる人並み外れた記憶力故のものだろうか……?

 

 でも、まあ、二年間というのは僕の人生のおよそ九分の一な訳で。九分の一と数字に出してみると──少ないのか多いのか、曖昧なところでハッキリとしない。ともかく生来受けてきた体験などの時間のうちの九分の一なのだ。

 そしてまた一年ほどの時間をこの学園で過ごし、この学園で学び、この学園で暇を持て余す。無駄な時間だとは思わないが、かといってその時間が有益なものであるとは思わなかった。

 

 暇、というのはそのままの意味である。

 

 天才故の時間の空白──なら、とても良いんだけれども、僕の場合は──落ちこぼれ故、である。決して誇れやしない。

 

 入学するだけで将来が約束される学園──それが希望ヶ峰学園。しかし、その売り文句のようなものを僕が壊してしまいそうな感じだ。僕は大して頭がいいわけでもなく、また、才能の所以(ゆえん)となっている事も最近はからっきしである。

 友好関係はゼロ。

 人望ももちろんのこと。

 まさにクラスの空気として僕は存在しているし、僕はそれを嫌だとは思わない。

 むしろ、それでいい。

 それがいい。

 

 友達は作らない、人間強度が下がるから──

 

 今日の朝、江ノ島という後輩にそれを言ったところケラケラと笑われてしまったが、僕はそのことに関して至って真面目である。真剣である。誠にもってひたむきな姿勢を持ってそう思うのである。

 

 なんでそんな風に思うのか──というのは、野暮用だろう。語るべきものではない、そう軽々と人に言えるような話ではないのだから──それこそ、喋るようになってしまうということは僕の人間強度がだだ下がりしてしまっているということだ。

 そんな語られざる物語を──物語というにはあまりに醜い、灰色のお話は、まだ語るべきではないだろう。

 

 しかし突然だが、僕のような平々凡々月並み凡庸な人間に比べて、クラスメイトはあまりにも濃いキャラである。極道であったり、 幸運だったり──中には、王女様なんてのもいた。いくら超高校級といえども、王女様はあまりにも一般庶民である僕とは格が違いすぎるので、最初そう聞いた時はかなり恐れ多い気待ちであったし──今尚(いまなお)その気持ちが消えることはないのだけれども、そんな個性が強すぎるクラスメイトに埋もれるというのはなかなかいいものではある。

 超高校級の才能を持つ僕も、目立たずに済む。

 木を隠すなら森の中だというが、それこそ植物になりたい僕にとっては森の中に囲まれとても心地が良いものだ。

 

 ──ちなみに、僕を含めてクラスメイトは計十九人いる。そのうち四人が同じ地域から出ているというのだから、とても驚きだ。

 希望ヶ峰学園輩出率が異常に高いと、あるかどうかわからない不思議なご利益にあやかろうとする人の勢で、僕の故郷は受験シーズンになると観光客が良く来るようになった。

 特に巡るような場所もなく、名産も特にないだろう僕の故郷にだ。それは突然のことだったために宿泊施設が圧倒的に足りず、今はホテルを急速に建造していると風の噂で聞いたことがある。

 そんな我が故郷に対し、特殊な思い入れなんてものは持っちゃいない。街の風景がどう変わろうが僕には関係がないのだけれど、そんな故郷に住む無粋で生意気で僕と仲の良くない妹も、希望ヶ峰学園に入学するのではと噂されていたりする。“未来のオリンピック選手”といった感じで日曜朝に番組で取り上げられていたり、よく入学シーズンになると組まれる特番、“未来の超高校級の才能”で取り上げられていたりしていた(ちなみに僕は一度もテレビ出演をしたことがないはず。まあ、表立ったことじゃないから、仕方がないのだろうけれど)。だからどうしたという話だし、年の差が年の差だから妹と一つ屋根の校舎で過ごすことにはならないのだが(留年すればあり得るが、そうなるくらいなら退学することだろう)……そもそもまだ決まっちゃいないからな、アイツが入学するかどうかだなんて。決まってない話を自信満々に胸を張ってするほど僕は愚かじゃない。しかしされども愚鈍な人間かもしれないが。

 

 七十七期生もその十九人だけじゃなくって他にも何人かいるらしいんだけれども、後輩はおろかクラスメイトとも交流を持たない僕が他の奴らと──なんていうのは、まさに戯言だろう。バカバカしいにもほどがある。

 

 ともかく、その十九人。男子八人女子十一人という(いささ)かアンバランスなクラス組の中に、僕は属していた。十九は素数だから、いつも余るのは僕──と言いたいのだが、その十九人中一人は不登校なので十八人。さらに一人は病気気味なのでしばし十七人──やはり、結局素数になってしまう。素数は自分と一以外じゃ割り切れないから、必然的に班分けなんかをすると一人余ってしまう──なんていう話をよく小説なんかを読んでいると見かけるが、現実はそうはいかない。

 案外そういうシステムは上手くできていて、一人余ってもどこかのチームに組み込んだりするものだ。

 四人班が普通なら、どこかを五人班に。

 それは、生徒が各々自由に班を作る時も例外じゃない。だから、素数だからといって不便かと聞かれたら──大してそうじゃない。気にならない、と答える。

 ま、僕は結構授業をうっちゃらかしてサボってしまうこともあるから、結局十六人ということも多々あるのだが。

 

 しかし、その十九人──僕を除いて十八人か。その十八人の中に知り合いは一人もいない。名前は聞いたことがある、顔をテレビで見たことがある……というのは、そんなことあったかもしれないなあっていう程度であり、それこそ莫大的に有名で世界に名を轟かせているような人じゃないと、僕は知らぬ存ぜぬをナチュラルに演じてしまうのだ。今朝の江ノ島とのことが、良い例だろうか。素というのはさ、悪意がないから余計に厄介だよな──悪意があったらそれはそれでよくないが。

 

 そんな、希望ヶ峰学園七十七期生八九寺真宵(ハチクジマヨイ)先生担任の僕が所属するクラス。机が十九個、椅子が十九個並べられている。縦五、横四、廊下側の後ろの席を一つ取り除き、十九個。教卓に上がり見渡してみて、一番右奥の窓際にある席が僕の席だ。

 いつも僕はその席で、ぼんやりと外を眺めながら授業を受ける。受けるといっても、聞き流すことすらしないので馬に念仏のほうがまだマシといった感じだけれど、このクラスだと先生に怒られてしまう態度となるので、たまには前を向いたりもする。けれどもまあ──基本のスタイルはこれだ。サボらずに教室に留まっているなら、これ。

 

 その定位置とも言える僕の席に向かうため、教室棟の階段をいくつか上り、やがて自分の教室へと辿り着く。

 

 なんでも、この希望ヶ峰学園には予備学科というものがあるらしいが──そこと僕らの棟は隔離されているというか、全く別の場所にあるので、同じ学校とはいえ僕は予備学科という学科を構える学舎を見たことがない。案外存外、窓の外にある建物がそれだったりするかもしれない。二年間この学校に在籍していたからといって、この広い校舎内を把握しきれちゃいないのだ。迷路のようではないものの、それでも高層ビルのようなものなのだ。それでいて、横にも広い。

 

 ま、流石にそんな広大な場所であれども、二年生の間──つまり一年間も同じ道を通っていたら目をつぶっていても行けるんじゃないかというほどに道順は体に染み付いている。変に寄り道しなければ迷うことはない。

 

 時間も時間だし、少し小走りで(結局パンは買えずじまいだった。今日は適当に済ますとしよう)教室に向かい、扉を開き中入る。

 教室では、席に着いて本を広げる者、教室の後ろに適当に集まって談笑する者、やたら元気に取っ組み合いをする者、または今日の授業に向けて予習する者。様々な人種の人間がいて、みんな、それぞれのコロニーの中で生きていた。ちなみに僕は──どこにも所属しちゃいない。ただ、外を眺めてるだけのやつだ。意味もなく、目的もなく、ただただ空を眺めてるだけのやつ。

 果たして、そんな奴に意味はあるのだろうか……そう考えると悲しくなること請け合いなので、思考は一時シャットダウンだ。

 こういう時は本でも読んでいればいいんだろうけれど、生憎僕は本を読めるほど高尚(こうしょう)な奴じゃない。だから、教科書を開くわけでもなくただ外を眺めるのだ。

 

 意味なんてない。

 意味なんてあったところでだ。

 

 今日も例外漏れることなく外を眺めていようと、机の隣に学生鞄を引っ掛けて椅子に座り、体を全体的に左へと捻る。

 

 流石にもう、一年も見ていたら風景は見飽きる。もはや見ているというより取り留めもない記憶をふつふつと思い出しながら、無駄なことを考えているだけだし、また何も考えちゃいない時だってある。

 

「ねえ、阿良々木くん」

 

 ぼうっとしているということは、意識は希薄になり無防備になっているということ。つまりこの状態で声をかけられるというのはなかなか心臓に悪いものであり、結構大人げもなく男らしさもなく僕は驚いてしまった。声に出ない驚き、だけれども体には反応として現れるので、僕の体は電流が走ったかのようにピンと伸びる。

 

「くす」

 

 笑われてしまった、それもかなり控えめに。

 かけられた言葉とクスリとした控えめの笑い声が聞こえてきたのは後ろからだったので、うらめしく思いながらもそちらに向く。

 やっぱりか。

 七海がおかしそうに口元を緩めていて、僕の顔を見た矢先、

 

 「ごめんね、驚かしちゃった?そんなつもりはなかったんだけれども」

 

 と、薄ら笑いではなく笑みを浮かべながら言う。

 

 「別に、驚いちゃいないさ。ちょっと幽霊の友達にこしょばされてさ」

 

 と言うと、

 

「へえ、阿良々木くん。友達いたんだ」

「まず、幽霊がいるかどうかを確認しろっ!」

 

 確かに、友達はいないけれども。

 朝っぱらから怒鳴り声を上げるものの、クラスメイトはそれに御構い無し──というか、無関心であった。まともと騒がしいクラスだし、街の喧騒程度にしか思ってないのだろう。ハナっから耳に入っちゃいないんだ。

 

「じゃあ、幽霊っているのかな?」

「……さあ? いるんじゃないのか。知らないけどさ」

「知らない……なんだか無責任な言葉だよね」

「生憎様、僕は責任なんて取れない人間なんでね」

「私にはそうは見えないけど?」

「人は見かけによらないぜ」

「じゃあ阿良々木くんはとっても良い人なんだね」

「それはつまり、僕の見た目が全然良い人そうじゃないっていうことかっ?! そうなんだなっ!」

 

 閑話休題。

 

 どうやら七海は、僕に対して用事があるようだった。

 

「えっと、で、ちょっと話があるんだけど……いいかな?」

「ああ、構わないよ」

「そ、よかった」

 

 僕の前にある空いた席に七海は腰をかけ、こちらを向く。

 

「別にメールで伝えてもよかったかもしれないけれども──こればっかしはちゃんと面と向かって頼まないといけないかなと思ってさ」

 

 と、彼女は付け加える。「そこまで重要じゃないんだけど」とも言った。

 椅子が若干僕から離れていたからか、無理に体を力強くて動かして椅子ごとこちらに近付けば、こつり、と僕の机に椅子が当たる。止まる彼女の髪がかすかに揺れた。髪飾りは何かのゲームの戦闘機のようだけれども──いったいなんというゲームだろう。ドット絵だから昔のやつなんだろうけれど。

 

「えっとね、阿良々木くんに会って欲しい人がいるんだ」

「会って欲しい人?」

「うん」

 

 はて、誰だろうか……。

 会って欲しい人と言われ、すぐに人の顔や名前が思い浮かぶほど、僕の友好関係は幅広くなかった。誰かから恨まれるようなことしたつもりはないし、かといって誰かを手助けしたなんてことも全くもって心当たりがないわけだから、その会って欲しい人とやらについては皆目見当が付かないでいる。

 話を聞いてみないことには分からない。ので、会って欲しい人はどんな奴となのかと聞く。

 

「予備学科の生徒なんだけれどもね──同級生。私の友達なんだ」



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007

 僕は今、知らない喫茶店にいる。いや、見覚えがあるような気がする場所なので、もしかしたら過去に来たことがあるかもしれないのだけれども、しかしそれは思い出せない。そもそも喫茶店なんて生まれてこの方指で数えることができるほどしか入店したことがないし、そもそもどの店だって同じような雰囲気だったような気がする。まあ来たことがない店というのもあながち間違っちゃいないだろう。店名からして記憶になかった──けれども、店内の各所各所に懐かしとまでは行かずとも記憶の鱗片を感じることができたということは、それはやはりここに来たことがあるのだろうか? ひょっとすれば、チェーン店かもしれない。

 むしろかえってそんなオチだった時だ。チェーン店でした、なんてオチ。僕がもし僕自身の人生をつらつらと記された小説を読んでいたなら、きっとそのシーンで面白みを感じ無くなり、興味が失せて本を閉じることだろう。

 

 否、それ以上前の時点で既に閉じているかもしれない。(ページ)を閉じて、本棚にでも差し込んでいることだろう。やがてそれは埃を被り、長い間手をつけることを拒むかもしれない。読まれることがないというのは、本という立場になって考えてみるとかなり悲しい話だが、しかし、自分の人生を読まれるというのは不思議な気持ちでいい気分にはならない。自分の知らない人が自分のことを一方的に知っていると一度思ってしまえば、どうも心が落ち着かないのと一緒だ。その点で言えば──前の江ノ島なんて、良い例だろう。

 

 要は目立ちたくない、ということなのだ。期せずして目立ってしまった時は周囲の人やまたその人伝に様々なところへ噂が行き届く──かもしれない。なにかしらの失態を大勢の前で犯してしまったのなら、それなりに赤面するし、とても嫌な思いになる。

 そもそも目立つ機会がない僕にすれば、杞憂というものだけれど。

 

 ともかく僕はこの喫茶店の内装に見覚えがあり、学校が終わり次第この店に来店してからずっと、挙動不審に辺りを見回していた。キョロキョロと、落ち着きなくだ。その姿を見て不審に思ったのだろう、七海が僕に不思議そうな視線を向け、

 

「……? どうしたの。昨日来た時はそんな感じじゃ、なかったけど」

 

 と言った。

 昨日来た。……おい、嘘だろう。流石の僕も驚きだ。

 昨日──というのは、そりゃまあ文字通り昨日のことだよな。

 

 どうやら、この喫茶店はあの喫茶店らしい。

 らしい、なんて言っちゃってるけど、まあそう言われてみれば昨日の喫茶店だった。

 あの時はまさか喫茶店に入るとも思っていなかったから、店の名前や外装はまるで見ていなかったし、それに内装に関してだって、話に夢中で目に入って来てなかった。というか、よく考えてみれば僕らはテラス席にいたのだから、内装を知らないのは当たり前か。それはとっても言い訳がましいし、事実これは言い訳で、そしてそんなことをする必要はないのだけれど、それが人間というものなのかもしれない。人間語れるほど大層なことはしてないので聞き流してくれて構わないが。

 いやしかし、流石にそれでも昨日訪れた喫茶店を覚えていないというのは些か不自然であり、激しく自分を疑った。

 

「あ、ああ。いや、なんでもないよ。ただ、昨日はよく内装とか見てなかったからさ──今になって、こんなお店だったんだなって思ってて」

 

 なぜ僕が二日連続喫茶店に通っているのか、というと、それは全て七海の導きの元であった。

 導きの元。

 なんだか怪しげな雰囲気を感じるのは僕だけだろうが、ともかく七海から言い出したことがキッカケだ。

 一日目はただ話がしたいから。二日目──つまり今日は、会わせたい人がいるから。もしかしたら、昨日の他愛もない雑談は今日会わせたいと言っていた人と、会うに相応しい人間か否かの試験のようなものだったのかもしれない──いや、それはあまりにも考えすぎか?

 

 しかし、だ。もしそうだとして、そうでなくとも、こんな僕に紹介したい人──というのは、一体誰なのだろうか。事前情報として聞いた話だと、予備学科の生徒らしいのだが……。予備学科とはなんら関わり合いのない僕は、予備学科との始めての接触になるのだけれども、七海は一体何を考えて僕とその生徒とを会わせようとしているのだろうか。ただただ疑問符が頭の上に浮かぶだけで、今だに見当は付きそうになかった。

 

 まあ今現状をざっくり説明すれば、その予備学科の生徒、聞くところによると同級生らしい人物とここで待ち合わせてるから待っていよう──という感じだ。

 

 どうやら僕らが先に到着していたようなので、ひとまずお先にコーヒーを一杯注文させてもらい、椅子に腰をかけ外の景色を眺めながら待っていた。流石都心といったところだろうか。たくさんの車が広い道路を走り抜け、スーツ姿のサラリーマンやモダンな服を着た若い女性などが目の前を往来していた。

 街の喧騒は僕らの耳にも入ってきているのだが、しかし、僕と七海との間には沈黙が流れる。店内には聞いたことがないもののどこか懐かしい昔の洋楽が流れていて、そのメロディーがただ僕の思考を霞めるのであった。今日は店の外にあるテラス席でなく店の中なので、冬の厳しい風に晒されて寒いということはない。真冬なわけだし、また更に今日は冷え切っているために外は昨日と比べて格別に寒かった。昨日だって、風がなく陽も強かったとはいえ寒いことに変わりはなかったのだ。

 

 僕はコーヒーだけを注文していたのだが、七海はケーキも注文していたようで。タルトというのだろうか、サクサクとした生地の上にチーズケーキが乗っているものをコーヒーを飲みつつ小さなフォークを使い食べていた。待ち人を待たずに食べ出してしまって良いのだろうか……。良くも悪くも、自由だなと思った。

 そのケーキが大体半分ほど皿の上から消えた頃、店の扉が開き例の予備学科の生徒らしき人物が登場した。

 かなりガッチリとした体形で、僕よりも身長が高く、自然体が萎縮してしまう。彼に対し、勝手に緊張感を感じている。

 そいつはこちらでケーキを食べている七海に気付き、こちらに向かってくる。そして相席をしている僕の存在を知ってか、僕の方をジロジロと遠巻きに眺めていた。

 ゆったりとした動きでそいつは席へとたどり着き、座ろうとしながら挨拶を交える。

 

「よう、七海──ええっと、そこのやつが……例の阿良々木か」

「……あ、日向くん。うん、そうだよ。彼が例の阿良々木くん」

 

 日向くんと呼ばれた彼は、荷物を地面に置き、羽織っていたジャケットを一つの椅子の背もたれにかけてからその椅子に座る。コーヒーを注文した後こちらに体ごと向いて口を開いた。

 

「あー……、はじめまして。俺は日向創(ヒナタハジメ)。七海から聞いてるだろうし、制服を見れば分かると思うが──予備学科の生徒だ」

「話は聞いている──といっても、予備学科の生徒、ということくらいしか聞いてないんだがな。まあ、この際それは関係ない。僕の名前は阿良々木暦。本科の方の生徒だ、よろしく」

 

 日向が一瞬、顔をしかめたように思えた。

 その表情はどこかで見たことがあるような気がするが──忘れた。

 予備学科は本科に対し、劣等感だとか、良いイメージを持っていないと聞く。確かに、本科の生徒はあまりにも各々の個性が強いため、僕を含めてそうロクな奴がいない(江ノ島とかは一目でわかるタイプだろう。初対面であれば凄い)。だから(あなが)ち間違いではないのだけれども、だからとはいえ、それであっても良い思いはしない。

 

「──で。話があるって聞いたんだけどさ」

 

 僕は若干の間を開けて、日向に向かいそう言った。すると、日向はよく分からないと言った表情をしていて。

 男二人が頭の上に疑問符を浮かべている様はなかなか滑稽だが、そこに女子一人がハッと気付いたかのように言葉を入れる。

 

「あ、実は二人を呼んだのは私なんだよね。どっちかがどっちを──っていうわけじゃなくってさ。日向くんも、阿良々木くんも、二人とも、私が呼んだんだよ」

「そうなのか。──いや、でも、なんで俺なんかを本科の生徒と?」

「僕も似たような意見だよ。別に、予備学科を見下してるわけじゃないけどさ──ほら、全くもって関わり合いがないし、なんでだ?」

「それはね……ほら──」

 

 七海は言う。帰ってきた返答は意外なものというか、予想外というか、灯台下暗しだが、元からそれは存在しないみたいな答えであった。

 

「──日向くんと阿良々木くん。友達いないみたいだし、二人で友達になっちゃえばいいんじゃないかな──なんて」

 

 えへへ、とはにかむ。

 というかこの男、友達いないのか。人のことは言えないが。

 でと、予備学科は人数も多いと聞くし、一人くらいいそうなものだ。というよりか、それよりもっと気になるのは七海と出会うキッカケみたいなのは一体全体どのような事だったのだろうか? 少し、気になるところではあった。

 

 

「友達……? なあ七海、俺は別に本科のやつと友達なりたさでお前と仲良くしているんじゃないんだぜ? そんな利用するようなことなんて、するつもりはからっきしない」

「それくらい分かってるよ。日向くんが人を利用するなんて悪いことする勇気がないのも知ってる」

「確かにそんな勇気、俺には無いが……少し、心にくるな」

「まあ、それはいいとして──どうかな? 私としては、二人に仲良くなってもらえたら嬉しいんだ。──あわよくば、三人で仲良くさ」

 

 七海……こいつは、もしかしたら最初からこれが目的だったのだろうか。だとしたら──僕は、七海という人間を、少しばかり甘く見ていたのかもしれない。恐ろしい人間だ──まったく。この友達ができるという機会を甘んじて受け入れるべきなのだろうか、それとも、拒否するべきなのだろうか。

 

 答えは明白のように思えた。人とはあまり、関わりたくない。自分の弱点が増えるだけだ──

 

 僕は一年生の冬から、今現在にまでかけて──僕は、人との繋がりというものを、極力拒んできた。大型の休みに入れば実家に帰るくらいのことはしたが、それだっていつも自転車に乗っているくらいで家族のと時間なんてないに等しい。何故そのような行動をとるようになったのかは──覚えてない。けど、覚えていたくないものだったのだろう。

 

 人間関係、皆無。

 兄妹関係、険悪。

 親子関係、無関心。

 

 今更、その信念を捻じ曲げるというのは強い抵抗があり、その行為は自分の人生そのものを否定するように思えてしまう。

 これは、自衛行為だ。僕はこれ以上──弱くなることはできない。人間強度は、強くあらなければならない。そう思う根源は分からないが、しかし思うことで心が落ち着くのは確かであった。

 

 だから──

 

「……申し訳ないけど、用事を思い出した。急用だ。()()()()()()とのお茶を途中中断しなきゃいけないような、急用。ありがとうな、今日は楽しかったよ。本当に」

 

 僕はそう言い、ポケットに入れてあるお財布から千円札を二枚、机に置いて立ち上がった。コーヒー代は五百円だけれども、七海と日向の分を含めると税込でおよそ千八百円。つまり、今回は奢るからもう関わらないでくれ──という意味を、僕なりに表現してみたつもりだった。遠回りというか、回りくどいというか。ハッキリ迷惑だと言ってしまけば良かったものの、そんなことをする勇気は僕にはない。

 荷物は学生鞄しかなかったので、ひったくるようにして鞄を手に取り、店から出る。後ろの方から僕の名前を呼ぶような声が聞こえたが、きっと気のせいだろう。

 

 この二日間で覚えた感情も、きっと、気のせいなのだろう。気の迷い。

 

 人間は、気のせいと勘違いと空耳と錯覚と誤認と気の迷いと魔がさすことで生きているようなものだ。

 

 僕は二度と後ろを振り返ることはなかったために店内に残された二人がどんな表情をしているのかは見えなかったが、安易に予想出来た。

 きっと、困惑に満ち溢れた顔だ。

 

 二人の表情は想像できたが、しかし、今の自分の表情を想像することはとても難しく、そして結局のところ出来やしなかった。

 僕は一体、今どんな表情を浮かべているのだろうか。



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008

 感情の(おもむ)くままに喫茶店から立ち去った僕は、あの後何も考えずに希望ヶ峰学園の中をなんの気もなしに歩いていた。希望ヶ峰学園の敷地面積はとても大きく、本来の学校という施設だけで二つ以上ある上に、また更に才能研究のための棟がズラリと並んでいるのだ。その他にも色々な施設があるために、自然と学園を取り囲む塀の円は大きなものとなってしまう。希望ヶ峰学園の中だけで一つの街の人間が一年は暮らせるという噂がまことしやかに囁かれているが、流石にそこまでは広くない──けれど、地下施設もあると聞くし、また非常用の備蓄も沢山あるらしい。その噂によれば、核シェルターもあるとかないとか。まあ、もしそんなものが存在するならありそうな話ではある。

 現実味がないが、希望ヶ峰学園ならあり得る。あり得てしまう。

 ともかく、そんな希望ヶ峰学園を適当に僕は歩いており(下手すれば遭難するかもしれない──というのは、流石に言い過ぎか?)、どうしたものかと考えに(ふけ)っていた。いや、まあ、何も考えちゃいなかったようにも思える。

 

 陽の傾きが強くなってきた。そろそろ帰ろうかな──僕は、あの誰もいないアパートに帰ろうと思っていた。引くも孤独、進むも孤独、立ち止まるも孤独……僕らしい。ともかく帰るためには、自転車という移動手段が必要不可欠だ。

 なので希望ヶ峰本校舎近くにある駐輪場に向かっていると、生徒会で副会長を務める羽川翼の姿を見つける。なんでこんな時間帯まで──と思ったが、昨日も陽が落ちて空が暗くなるまで外にいたようだし、何よりここは校内だ。別に不自然に思うほど珍しいことじゃないだろう。──いや、でも、あいつは自転車なんて使ってなかったし、そもそも学園付属の寄宿舎を住まいとしていたはずだ。だから、駐輪所付近にいるのはなんだか変に思えた。僕の知る限り、どこからどこへの道の中間地点にあの駐輪所は存在しないのだから。

 少し疑問に思いながら、ポケットの中にある自転車の鍵を探りつつ歩みを進めた。

 

 何もなかったかのように──いや、何もなかったのだ。僕には、何もなかったのだ。そして何もない。羽川のことを意識するようなことも、ない。

 

 キーホルダーすら付いていない、良いように言えばシンプルイズベストを体で表したかのような銀色の鍵をちらつかせ、羽川の隣を通り過ぎようとする。流石に僕に気付いていないということはないだろうから、挨拶くらいしておくべきかと思う。すると。

 

「……あれ? 阿良々木くん。今帰り?」

「えっ……、ああ、まあな。ちょっと図書館で調べ物をしてたんだよ、早く家に帰って、お風呂にでも浸かろうかと考えていたところさ」

 

 彼女が僕に話しかけてきたときには、お互いに通り過ぎてしまったあとだったので、面と向かって話すことはなく、背と背を向けて話し合う形であった。流石に無視して通り過ぎても良かったのだけれども、そうする理由が見当たらないし聞こえてなかっただなんて言い訳は出来ないだろうから、僕は立ち止まった。

 理由なんて、必要ないだろうけど。

 いつから僕は、理由付けしなきゃいけないと思うようになってしまったのだろう。

 弱くなったものである。

 

「へえ……、いやでも、七海さんがね。阿良々木くんと予備学科の人を合わせるから、ちょっと今日は学園に戻るのに間に合うか分からないなあって言ってたから、実のところ外にいたんじゃないかって──例のあの喫茶店あたりで、仲良くお茶でもしてるんじゃないかって、思ってたんだけどさ」

「それは──あれだよ。破断? っていうか、まあ、合わなかったっていうか。会わなかったわけじゃなくって、合わなかった」

「ふうん」

 

 二人して振り返る。お互いの見えなかった顔を見ようとして。しかしお互いに背を向けていたわけだし、相手の顔を見ようというより、話し相手の姿を視界に捉えておくため──背中でも良いから姿を見るために、振り返ったのだ。いつまでも相手をどこ吹く風とちゃらんぽらんな方向を向いているわけにもいかないし。ま、結果としては目を合わせることになったんだけど。

 一瞬目が合ってしまい、なぜか罪悪感というものを感じてしまった僕は、反射的に目を逸らした。

 

「……」

「……」

「阿良々木くん。友達いないのに、無理しちゃって」

「友達がいないって言うな!」

 

 いないけど!

 というか、前にも誰かに同じようなこと言われたな……ええっと、誰だったっけか。確か──ああ、そうそう。江ノ島だ。江ノ島にもこうしてからかわれた記憶がある。しかし……別にいいだろう。友達がいないくらい。

 友達なんて、いてもいなくても同じだろう。同じか? 同じだな。

 

「……で」

「……で?」

「いや、ほら。断っちゃったんでしょ? 七海さん仲介による初めての男友達が出来るチャンス」

「僕に今まで男友達がいなかったみたいな言い方をするな。僕だって流石に、そこまで悲しい人生を送っちゃいないよ」

「あっそ。で?」

「……まあ、断ったけどさ。なんというか──そもそも、七海ともそこまで仲は良くないのに、その友達を紹介されてもって感じだった。友達の友達は都市伝説みたいなものだけど、僕の場合は、友達のいうポジション、立ち位置にいる七海が友達ですらないんだよ」

 

 そう、七海は友達ではないのだ。

 ただのクラスメイトである。ほんの少し話をしただけでは友達とは言わないだろう。例えばお互いの考えに強く共感し、なにか通じるようなものがあればまた別なのだろうが──しかし、そんなことはなかったし、仮にそのようなことがあったとしても、七海は僕の友達ではないだろうし、また僕の友達は誰でもないのだ。知人はまだしも、友達、親友なんていうのは僕には必要がない。

 必須品ではない。

 

「結構、阿良々木くんと七海さん。お似合いだと思うんだけどね」

「お似合い? そんなに仲良さげに見えたか?」

「うん、見えたよ」

 

 おんぶとか、普通出来っこないだろうし、と羽川。

 やめろ。

 

「……でも、仲良さそうに見られたとしても、見えたとしても、見えてしまったのだとしても──僕は友達なんて、いらないんだよ」

 

 (かたく)なに、直向(ひたむ)きに、ひたすらに、僕は友達を作ることを拒む。いつから僕はこうなってしまったのだろう──はたまた、昔からこうだったのかもしれない。案の定昔からという記憶が間違っていて、ここ最近そう思うようになっていたというのが正解なのかもしれない。結局この問いの答えが出ることは、この先ないのだろうけれど、自分を自分たらしめる起因がどこにあってどう働いたのかは少し気になるところでもあった。

 

「まあ、さすがに知らない人をいきなり紹介されたら気が引けちゃうよね……いくらクラスメイトからといっても、実質昨日今日会ったようなものみたいらしいし」

 

 私もだけど、と、羽川は前に両手で持っていた学生鞄を右手だけに持ち替え、(かかと)を軸にし、くるりとあちら側を向き僕に背を向けた。彼女の頭から垂れる二本のおさげが旋回し、やがて背中へと落ち着く。

 僕はそれを、黙って見ていた。

 

「阿良々木くん」

「……なんだ?」

「友達、作る気ないの?」

「無いな、人間強度が下がるから」

「なにそれ?」

「なにって……ほら、友達が困ってたら助けてやらないといけないし、悲しんでたら慰めないといけないだろう? でも、一人だったらそんなこと気にせずに済むじゃん。それに、例えば誰かと旅行に行くとする。そしたら相手に合わせなきゃいけないわけだし、色んな面倒が二倍になる。勝手に生きて、勝手に動いて、勝手に死にたい」

「でも、友達が喜んでたら自分も嬉しいし、自分だって何か困ることがあるわけだから、その時は助けてもらえるよ?」

「友達が喜んでたら妬ましいし、僕が困ってても助けてもらえないかもしれない」

「せこ。というか、後者に至っては阿良々木くんの日頃の態度によるんじゃないかな?」

 

 言われてしまった。

 

「まあとにかく、阿良々木くん。携帯電話貸してくれないかな? 別に私のことは助けてもらわなくってもいいし、存分に妬んでもらってもいいから、友達になろうよ。友達っていっても、そんなに深入りはしない。所詮肩書きだけ──」

 

 羽川はもう一度こちらを振り向き、手に持つ鞄から流れるように携帯電話を取り出し、慣れた手つきで電源を入れた。ぽっと彼女の顔が明かりで照らされる。

 どうやら、携帯番号だとか、メールアドレスだとか、そういうのを教えろということらしい──先のようにお金を置いて行くわけではないが、このまま無視して自転車を取りに行くという手もあった。しかし、実際にそうしようと視線を変えれば、さっき七海や日向とやらに対する態度を思い出してしまった。

 あれで良かったとは思う。ただ、本当に正しかったのかといった迷いが心に浮かんでいた。感情に赴くままというか、後先考えずにただしただけのような酷い態度を取ってしまったという罪悪感が、今更になって心に芽生え根を生やし、確実に巣食うようにして蝕んでいた。

 しかし、今からメールするなり喫茶店に向かうなりして謝ろうとするくらいなら、この関係は本当にもうなかったことにしてしまってもいいんじゃないかとすら思えてきてしまっているのも事実だけど、しかしそれでも罪悪感は残ったままなのだ。それに、心残りもある。だから七海のメールアドレス電話番号はいまだに消せずにいた。

 

 ああ、弱いなあ。

 

 罪悪感を償う──ということには、どう考えようともならないんだけれども、それに後押しされた形で、僕もポケットから携帯電話を取り出し、ロックを解除した。

 

「ん、えーっと、メールアドレスとか電話番号とか入力するから貸してくれないかな?」

「ああ」

 

 後少ししたら機種変しようと考えている二世代ほど前の薄型携帯電話を羽川に手渡す。やはり女子高生か、ものすごく早い打鍵で文字数字英数字を打ち込んでいき、手渡してから、ものの十秒ほどで僕の携帯電話は手の中に戻ってきた。

 

「これでよし。案外すんなりいけちゃったから、ちょっとビックリしてるんだけどね」

「頑なに拒否されるよりは、マシじゃないか?」

「それもそうだけど──んん、ま、よかったよかった」

 

 羽川は携帯電話を鞄にしまい、「じゃあ、また明日」と、今度は振り返ることなくそのまま校門の方へと向かった。追いかければ余裕で追いつくだろうけれども、追いかける理由はない。

 

 そろそろ帰ろうかな……。

 そう考えていた頃には既に、陽は完全に没していた。宵闇に包まれるような夜でも、希望ヶ峰校内は明るいものである。

 自転車にキーを指し、スタンドを上げサドルに跨った。

 よし、帰ろう。

 校門から出て行こうとそちら方面に最初は向かったのだが、よく考えたら校門を出るときに七海と鉢合わせる可能性はないわけじゃない。どうしたものか……。

 

 考えた末、僕は学園の中庭を自転車で走り、裏門から出ることにした。家に帰るには表からの方が近いし、断トツで信号機の数も少ないのだけれども、たまにはこういうのもいいだろうと自分に言い聞かせ、ペダルを漕ぐ。風の中を走っているという感覚がたまらなくいい。滑らかなコンクリートの上だとガタガタせずにすごく静かに走れるので、僕は舗装されてないオフロードよりかは完成したての周りと少し色の違う黒い道路を走る方が好きだ。

 

 ここ希望ヶ峰学園の中庭には、噴水、家庭菜園用のビニールハウスや散歩用の遊歩道。さらにはサイクリングコースまであるので、一応気を使ってサイクリングコースを通り裏門へと向かう。二年通っている学校どけれども、一度も入ったことのない初見の校舎をいくつも通り過ぎ、僕は家路に着いた。

 

 後悔先に立たずというが、あれから見れば後となる今の僕は、悔やんでいるのだろうか。



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009

 それから僕は五日ほど、学校を休んだ。休んだ、というか、現在進行形で休んでいて、絶賛不登校中である。

 わーい。

 …………。

 体の具合が悪いだとか怪我をしてしまったんだとか、別にそんなことは無いんだけど、僕は学校を休んでいた。そもそもいつも授業をうっちゃらかしていたり、早退なんて当たり前だった僕にとってはあまり変わりがないのだが(いや、流石に五日も休むと土日も含め一週間丸々だ。大型連休じゃあるまいし、さすがに変わりないというのは意地を張った)、しかしその行為が生んだ結果として、少し悩ましいところがないわけではなかった。日頃からの行いが祟ってか、下手すれば足りないかもしれない出席日数も悩ましいといえば大変悩ましいんだけど、一番の悩みは学校になかなか行けないということだった。

 いや、行けばいいじゃん。体はどこも悪くないんだろう? と、軽いノリで言われてしまうかもしれないけど、よく考えてもみてくれ。五日も休んでしまうと──土日も含めれば一週間も休んでしまうと、学校に行くという行為に照れが生じるというか、なんだか抵抗力が生まれないだろうか。

 上手く言葉で言い表せないのは僕の語彙力のせいでもあるけど、よく分からなければ、一度祝日のない週に丸々七日間休んでみてほしい。きっと、僕の気持ちがわかることだろう。なんだかいたたまれない気持ちになる。

 

 しかし、理由はそれだけじゃない。他にだって、理由は存在する。それこそ──ちっぽけな悩みというか、気にする必要がないというか。己が望んで招き入れた未来なのだから受け入れるべきなのだろうが……。いやあ、学校には、どうも行き辛い。そして家にも居づらい。

 自業自得であるということは重々承知であるものの、それでもやはり学校には行きたくはないのだ。無断で休んでいるというわけではなく、しっかりと先生には病気であるという旨を(仮病だけど)電話で伝えているので、一応正当な手続きを踏んで正式に休んでいる(しかしそれでも出席日数が加算されることは無い)。無断で学校を休むと何かあったんじゃないだろうかと心配されて家に先生が来てしまうのだが(経験済み)、病気の時も病気の時で、お見舞いという形をとって誰かしらが家に来るのだ。風邪という体をとっているために、マスクでもして暖かそうな格好で身を包み、咳き込んでさえいればお見舞いを乗り切ることはかなり容易いことだろうけれど、でも、お見舞いが問題、という意味ではなく、来る相手自身が問題の時だってある。

 

 この五日間。毎日のように生徒会副会長、学級委員長の二人……つまり、羽川翼と七海千秋がツーマンセールスの如くやって来たのだが、全てにおいて僕は居留守を使った。

 自転車を駐輪所に停めてあるので、居留守も何もないのだろうけど。

 ともかく、いつも十分から二十分程、彼女らは家の前にいる。その間はひっそりと息を潜める。気配を勘付かれないよう、空気に溶け込むようにして気配を殺す。

 

 メールなんかも二人からよく送られて来ていたのだけれども、一つも開けずにいた。どうしても見たいとはどうしても思えなかったのだ。しかしそのメールアドレスをブロックしたりしないあたり、何か思うものがあるのだろう。それとも、僕の人間強度がただ下がっただけか?

 

 ……しかし、いつまでも居留守を使っているわけにもいかないし、流石に風邪で五日以上休むというのは、いささかやり過ぎな気もするので、そろそろ学園には行かなければならない。この時はいつかは訪れるもので、それは分かりきっていたことだ。

 それに、先生にも今日は学園に行きますと言ってしまっているし、後には退けない。

 

 なので、別に風邪なんて引いているわけでもなく、健康体そのものといった大変元気な体を三日ぶりに動かし、冬の寒気に当てられすっかりと冷え切ってしまった制服に腕を通す。右手首に腕時計を巻くことも忘れない。

 

 今日は土日の通常休み明けな訳だから月曜日か。

 学校を休むと、曜日感覚がなくなる。

 

 教材は教室に置きっぱだし、そもそも授業なんてまともに受けるつもりはさらさらないから、曜日によって変わる学習教科についてはあまり気にしなくてもいいんだけど。

 

 気怠い体を引っ張るように動かし、部屋を出る。

 すると、意外というか予想の範囲というか、いややっぱり予想外の展開であった。

 

「……あ、やっほう。阿良々木くん」

「…………」

 

 クラスの委員長、七海千秋だった。後ろに見慣れない自転車があるところを見ると、どうやらそれに乗って来たらしい。いや、まあ……そもそも学園から自転車を漕いでも三十分かかる場所に歩いて向かうというのもおかしな話である。だから、自転車なり自動車なりに乗ってくるというのは当然だろう。

 突然の彼女の登場に対し、僕は呆気に取られるわけでもなく、ただ口を閉ざし黙っていた。

 絶句──ではなく、謎の罪悪感にかられての沈黙。

 彼女に不満があるわけじゃないのだけれども、やっほうと話しかけられてやっほうと返してもいいのかどうか、また、何か他の言葉を言うにしてもなんて言えばいいのかが分からなかったのだ。

 そもそも、そんなことをする資格があるのかどうかさえ、疑った。

 

「……おはよう」

 

 僕は白い吐息と共にそう呟くようにして言い、七海を置いて駐輪場にある自分の自転車を取りに行く。

 その間にも、自分はどうすればいいのだろうかと色々考えるものの、しかし具体的で素敵な案は全く浮かばなかった。くだらない案すらも、僕の頭には現れてこなかった。これだから──他人と関わるのは嫌なんだ。こんなことで悩むくらいなら、最初からあのお誘いに乗るべきではなかった。

 今回の件は、悔いるべきことだ。今後は頭ごなしに断っていくべきだろう。

 

「……あの、ごめんね。阿良々木くん。その、やっぱりダメだったよね。まだ私達二人の仲もそこまでなのに、それなのにまた、新しい人を紹介するだなんて──」

 

 ──私も、いくらクラスメイトだからと言っても出会ってまだ二日三日みたいなものだしね。

 と、彼女は悲しそうな声で言う。表情は見えないものの、きっと悲哀に満ちた表情で言っているのだろう。

 そんな言葉を、口にしないでくれ。

 そんな声色で、話さないでくれ。

 僕の中にまだ残っていた良心が、チクチクと痛む。

 僕が悪いと言うことは分かっているのだけれども、それを言葉にして口から出すことは出来なかった。したくなかった。

 

 弱い人間だよなあ……、僕は。

 

「……ああ、そうだな。僕とお前は、ほんの二日程度話しただけの仲だ。仲といえるほどでもない。やっぱりただのクラスメイトといった関係だ。それもなんの関わり合いもないような間柄で──それだから、お前は、なにも気に病まなくっていい、だから──だから、もう、僕には関わらないでくれ」

 

 弱いから、虚勢を張って、強がって、それで後悔するのだろう。後でこの行為を激しく後悔することは目に見えていたけれども、それも他人と関わって人間強度が下がってしまったが故だ。元にリセット出来るならと身を切る思いで、僕はそう言い残し、自転車を全力で漕いで逃げた。

 

 七海の目の前でメールや電話番号を消せば良かったんだろうと、今になって思うけれど、そうしなかったのは──僕がやっぱり、弱いやつだからだと思う。心残りがあって、消すのを躊躇ってしまっていて、結局消せずじまいに終わってしまったのだ。まあ、きっと七海のやつは、僕のメールアドレスなんて消しちゃうだろうから、問題はないか──いやそれでも、あの七海ならと、思うところは少なからず存在した。

 僕は信号のあたりで一度立ち止まり、学生鞄から取り出した携帯電話を開く。アドレス帳に記載されたメールアドレスはたったの二つだけ。僕はその片方に軽く触れ、そしてその情報を削除した。

 ……少しは、強くなれただろうか。

 そう思い見上げた空は、酷く哀しい色であった。

 

 およそ二十五分で、僕は学園についた。いつもはブラブラとゆっくり自転車を漕いでいたために三十分以上かかってしまっていたようで、かなり本気で息が切れるほどに漕いでみると五分も時間を短縮できた。この二年間で初めて気がついたことだ。

 

 学園に着き、そのまま教室へと向かう。教室では既に担任の先生がいて。

 

「ん、やあ、阿良々木くん。もう体の方は大丈夫なのかな?」

「ええ……、まあ、全快といった感じです」

 

 八九寺先生は、例のごとく大きなリュックサックを教卓の横に置いている。あのリュックサックには一体なにが入っているのだろうと入学当時から疑問に思っていたが、結局聞けずじまいであった。この学園を卒業するまでには聞いておきたいものだ。

 

「そりゃ良かった。生徒が健康だと、先生も嬉しいよ」

「はあ、さいですか」

「──そういえば、阿良々木くん。聞いておきたいことがあるんだけれども」

「…………」

 

 自分の席に向かい、いつもの通りに窓の外でも眺めていようと思っていたのだが、それは八九寺先生によって遮られる。

 僕に投げかけられた問いかけに対し、僕はやや鬱陶しそうな表情をしながら「なんですか」と言葉を返す。

 

 その言葉を聞けば、八九寺先生はわざとらしく、笑顔を悲しみの表情に変えた。

 

「いやあ、なに。最近七海さんが元気なさそうなんだけど……、何か知らないかな?」

「……いえ、なにも」

「そう、まあ何かわかったら教えて欲しいな。先生は。彼女、笑顔なのは笑顔なんだけど、どこか悲しげというかね……」

 

 ……悲しげ、ね。

 別に知ったこっちゃないから僕としてはスルーしていいことだし、今後のことを考えれば、スルーするべきことでもあった。

 心当たりはないわけではない。というか、その原因はきっと僕だろう。僕が彼女仲介の話をあんな風に断ってしまったのが理由であるだろうと簡単に推測できた。

 

 ……でも、彼女とていつまでもそのことを引きずるような人間じゃないはずだ。青春の一頁にすら刻まれないような、そんな出来事を、いつまでもいつまでも引きずるなんてことはきっとないはずである。

 

 僕は、今後七海に話しかけるつもりはなかったし、話しかけられても適当にあしらおうと心に決めたのだった。崩れかけていた人間強度を支えるものとして、心に強く強く、その思いは巻きつけた。

 暇つぶし程度にし外を眺めていると、窓から見た景色に、彼女は写り込んでいた。駐輪所を悲しそうな顔をしながら歩いている。

 

 いつしかその表情が僕のいないところで明るいものになることを、願っておこう。

 ただ、願うだけ。



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010

「あーららーぎせーんぱーい」

 

 ハイヒールの分厚く硬質な靴底が激しく地面に叩きつけられ廊下に響く軽快な音と共に彼女の女性特有の甲高い声が耳に入ったかと思えば、既に僕の右頬には彼女のライダーキックが見事なまでに決まっていた。

 ピンヒールなので、かなり痛い。

 

「ぐえっ」

 

 カエルの鳴き声のような呻き声を不格好ながらにも口から漏らし、その後僕は頭に引っ張られるようにして後方へと吹っ飛び、やがて地面に落下し(衝撃だけでみたら、墜落と言ってもいいと思う)地面を引きずり身を削りながら滑るようにスピードを落としながらも転がってゆき、やがて廊下の突き当たりにぶつかる前に完全停止する。廊下に誰もいないことが不幸中の幸いではあったが、僕の体はもろにキックを食らった上に何の抵抗もなく転げてしまっていたのでかなりの重傷、ボロボロな状態にある。制服もかなり汚れてしまい、ところどころ糸がほつれたり切れてたり、ひょっとすればボタンも外れているかもしれなかった。

 先ほど僕がいた座標からはこれまた甲高い笑い声が聞こえてくるのであった。

 

「ぷ、うぷぷぷぷ。キャハハハッ!」

「かはっ……江ノ島、なんだ? いくら温厚で知られている僕でも、流石にこれは許せる行為じゃないぜ?」

「あー……心が狭っ」

「よくアニメで出てくる隣の家の優しいおじいちゃんでも助走つけてフルスイングで殴った後に怒鳴り散らしてくるレベルだっ! これは」

「浮遊感与えちゃったかな」

 

 流石にピンヒールのハイヒールでライダーキックはないだろう……。口の中には鉄の味が広がっており、その苦さと全身の中で群を抜いて激しい痛みから鑑みるに頰に穴が空いているかもしれないと危惧して頰に手を当てる……穴は空いていないが、薄皮がめくれて血が出ていた。この様子じゃきっと、口の中も酷い有様だろう。同じクラスで超高校級の保健委員である罪木に見つかれば大変なことになるだろうし、下手すれば骨が折れているかもしれないので今すぐにでもこの場から逃げるという意味も含めて保健室に行きたいのだけれども、それよりも優先すべきは江ノ島との話だ。

 

「まーまー、そんな怖い顔しないでくださいよ。阿良々木センパイ」

「僕は人の顔面に出会い頭どころか出会ってすらいない完全なる不意打ちを決め込み、あろうことかピンヒールのハイヒールを装着したままかなり本気でライダーキックをしてくる後輩なんざ持った覚えはないな」

「やけに具体的……誰それ? 私様じゃないことだけは確かだけど……うむむ、迷宮入りか?」

「名探偵である僕が答えを教えてやろう。それはお前だ、江ノ島」

「それは違いますよ、阿良々木先輩。眼鏡クイッ」

「は? 違うことはないし、それに眼鏡をクイっと上げる効果音を自分で言うな」

 

 江ノ島は僕の体、主に頰のことと自分がしたことには御構い無しに軽口を叩く。この後輩は一体何を考え、どういう神経をしているのやら……親の顔が見て見たいものだ。親の顔を見たところで、この後輩の態度が変わるかといえばそうじゃないんだけれども……直接的にも間接的にも解決に繋がらないな。

 

 痛む体を動かす。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうだった。蹴られ転がったことが一因であることは確かであったが、しかし日頃の不規則な生活も関わってはいるのだろう。

 

「……あれま、結構本気で蹴っちゃったかな……」

「自覚してるじゃねえかよ……」

「あっ……ごめんごめん。こんなつもりはなかったっていうかー。ま、保健室まで肩貸すよ」

 

 流石にたった一人で一階にある保健室に行こうとすると、階段あたりでバナナも無いのに盛大にコケてしまいそうだったので、お言葉に甘えることにした。甘えるっつーか、当然の権利っていうか。しかし、自分の頰に蹴りをぶち込んだ相手にこうして力を貸してもらうというのはあまりいい気がしなかったけれども、ここでさらに意地を張って痛手を負うのはあまり良く思えない。

 

 意地を張って……。

 

 そういえば、七海に日向とかいうやつを紹介してもらった時も、変に意地を張ったんだっけか。今まで友達を作ろうとしなかったんだから、今回も作らない。人間強度を保持していく──意地なんて張るものじゃないな……後悔しかない。後悔しかないけれども、それでも謝ろうとは思えなかった。……こんなふうに悩んでいるってことは、人間強度が下がってしまっているからだろうか。

 なんというか、これはもう意地とかじゃなくって──ただ単に、もう手遅れだと感じた。そもそも僕と彼女の関係だなんて二日話した程度……いや、正確にはその内の一日はたいした話もせず僕は喫茶店を出たわけだからほんの一日なわけだし、もはやそのような短期間だと関係というジャンルにすら含まれないだろう。きっと七海も「失敗しちゃったな」くらいにしか思ってないだろう。それくらいしか心にダメージを負ってない……いや、むしろ一切ダメージを負って欲しくないし、所詮その程度ならば今から謝ったとしても相手にされないだろうと思う。相手にされたところで変なやつだと思われるのが関の山だろう。

 

 だから、悪いことをしたとは思うが謝ろうとは思えない……やっぱりただの言い訳なわけだし、醜い言い草には違いがないのだけれども、それでも僕は謝ろうとは思えなかった。もしかしたら意地を張っているのかもしれないが、それなら今すぐにでもやめておきたい。

 しかし言い訳をさせてもらえるのなら、前述の通り七海はなにも思っていないかもしれないという希望的観測が僕の心の中には小さいながらも確実に存在していた。

 

 保健室に着くと、案の定先生がいなかったので、

 

「困ったな……」

 

 と呟くと、

 

「私様が応急処置をしてさしあげよう、特別に。消毒とか、包帯巻いたりするのはお手の物よっ」

 

 と、言うより早いか消毒液が入った茶色いビンや包帯、綿などを戸棚から取り出し、僕の体を検分していく。口の中から、足のつま先まで、隅から隅までだ。あまりにも慣れた手つきで眼を見張るものがあったので、

 

「江ノ島、お前ってこんなことも出来るんだな」

 

 と言うと、

 

「まあねえ。伊達にギャルやってないよ」

 

 と意味のわからない返答を返してきた。ひょっとして今時のギャルは女子力が半端じゃないほどに高いのだろうかと思ったが、流石にそれはないだろう。きっと、江ノ島は江ノ島なりの過去がある……もしくは、ただ単に本当に最近のギャル業界はこう言うこともできないと生きていけないのかもしれない。いずれにしてもシビアな世界を江ノ島は生きているらしい。

 

 消毒液の匂いがするギャル。……想像できないな。

 

「よし、こんな感じかしら」

「……」

 

 鼻に絆創膏を貼られるのはまだしも、顔全体を包帯で巻かれた時はかなり焦ったが、なんやかんやふざけつつも江ノ島はしっかりと僕の体に然るべき対処をしてくれたようだ。おちゃらけてはいるものの彼女は彼女なりに責任は感じ、それなりの対処はしようとしてくれているようだった。口の中はどうしようもないが、口腔内は治りは早いと聞くので特に気にすることもないだろう。ご飯を食べるときに染みるくらいだ。

 全身を地面に打ち付け引きずったので、それなりに擦り傷もあったのだけれども、それでも精々顔と手くらいで、体は制服を着ていたことが幸いしてたいした傷はなかった……頰には多大なるダメージが入ったわけだが──なんせ流血だ、流血。テレビ放送ができない。

 江ノ島の蛮行を誰かが見ていて、咎めて欲しかったのだけれども反省はしているようだし厳重注意という形を取らざるを得なかった。次やったら先生に報告しよう。もしくはそれなりに然るべき罰を。そういえば江ノ島には姉がいるだとかなんとか、初対面の時に言ってたな……残念なお姉ちゃんだとか。姉妹がいるなら報告してやろうかと思ったが残念なお姉ちゃんなら当てにならなさそうだと考え、結局僕はこのことを誰にも言うことはないのだった。

 この怪我がなんだと聞かれたら、階段からコケただとか猫にひっかかれたとでも答えよう。

 

「……なあ、江ノ島」

「ん? なになに? 阿良々木センパイ。もしくは私が尊敬し敬っている阿良々木崇拝」

「露骨にご機嫌を取ろうとするな。僕は尊敬し敬われ崇拝されたとしても決して許さないぜ。根に持つタイプなんだ」

「うっわあー。陰湿ぅ」

「むしろあんなことをしてそう簡単に許してもらえると思っている精神を疑いたいな」

「へっ……で、なに? 阿良々木センパイ」

 

 白く清潔そうなシーツがかけられているベッドに大きな態度で座っている僕の後ろに、さらに江ノ島が座っている。もしくは立っているかも知らないし寝そべっていると言うのもあり得るけれども、ともかく位置関係は僕が前、江ノ島が後ろだ。

 

「いや、ほら。この前さ、お前に姉がいるって言ってたじゃん。どんな人なのかなってさ」

「あー……お姉ちゃんのことね。残念なお姉ちゃんだよ。略して残姉」

 

 ため息交じりの声で江ノ島は言う。

 

「なにか期待してるなら、そんなの取り払ったほうがいいよ。年上のおねーさんだとか……私と双子の姉だから、年齢で言えば阿良々木センパイの年下だし」

「ふうん……」

「いやまあ身長から察するにひょっとすると阿良々木センパイが年下の可能性もなくは無いんだけどね」

「うるさい」

 

 双子、ね。

 僕にも妹はいるが、もしあの妹が双子ならどんな姉──もしくは妹が誕生していたのだろうか。少し興味が湧かないでもなかったが、江ノ島という存在がいる以上ポジティブな期待は出来そうになかった。にしても双子か……江ノ島のやつに似てるなら、さぞかしトンデモナイ姉なんだろうな。

 

「ま、あんな地味で女の子らしからぬ姉はいらないね、いる?」

「いいのか?」

「うっわ、真に受けるとか」

「お前が言ったんだろ」

 

 江ノ島はそう言い捨てた後、「よっと」といいベッドから飛び降りる。どうやら立っていたらしい。それもハイヒールを履いたまま。

 

「それじゃ、お身体を大切にー」

 

 お前が原因だろと言ってやりたかったが、その言葉を伝える前に江ノ島は保健室の扉を閉め、廊下へと消えていく。

 

 ハイヒールが鳴らす甲高い靴音は聞こえてこなかった。



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011

 それから約一週間。日にちにして五日間。

 僕は毎日欠かさずしっかりと学校に通っていたし、そしてクラスで毎日のように学校を休んでいる一名を除き、遅刻早退はあったもののその五日間は全クラスメイトが揃っていた。珍しいことではなかったが、僕としては苦痛でもあった。

 もちろん、そのクラスメイトの中には七海のやつも含まれているわけであり。そして、毎日のように教室で顔を合わせているのだ。それも、笑顔で「おはよう」と話しかけてくるのだ。

 とても、キツかった。僕に良心が存在するのかは知らないが、そこらへんの感情神経が刺激されるようだった。

 

 それから日曜日を挟み週が明け、月曜日になっても、僕から声をかけることはなく、声をかけられても曖昧な返事をするだけであった。

 

 今までと変わらない関係……のはずだ。少なくとも、他の人たちからの目線ではそうだろうし、七海の心の中でもきっとそうだろう。いつものようにクラスメイトがクラスメイトに挨拶をしているだけで、いつものようにクラスメイトが挨拶を返すだけ──なのだろう。

 

 僕にも、そんなことが出来れば良いのだけれども、どうせいつも曖昧な返事なので変わったところはやはり傍目からしても無いのかもしれない。しかし、たまにこちらをニヤつきながら見てくる八九寺先生の様子を見ると、どうやら僕の悩みというものは大人にはバレてしまっているらしい。嫌な話だ。普通ニヤニヤとするか? 非難の目線を浴びせられた方がいくらかマシにも思える。

 一方的に名前を覚えられているのと同じで、一方的に心を見透かされるとどこか不平等さを感じざるを得ない。

 あなただけが僕の心の中を見るというのは、いささか傲慢では無いか──と。深淵を覗くものは、また深淵から覗かれているというわけだから。僕の心を覗かれるものは、また僕の心から覗かれていなければ割に合わない。

 

 そんな考えも、結局は戯言なわけで、極論思考を邪魔する思考でしかないのだ。

 

 ……どうしたものか。

 

 こんなことをいつまでもいつまでも引きずっているようじゃ、この先やっていけないぜ──と、自分の尻を叩いたりもするのだけれども、所詮自分に甘い僕の鞭なんて痛いわけがなく、ガラスのハートだというのにガラスの強度が勝ってしまっている。

 

 なんでも、ガラスは物理学でいうと液体だという話をなにかのクイズ番組で見たことがあるということを思い出したが、にわかに信じがたい話だ。

 

 また、明くる日。

 

 つまり、火曜日。

 

 僕がぼけっと自分の椅子の上でだらしなく呆けていると、勢いよく教室の後ろの扉が開いたかと思えば、また勢いよく閉まった。その音に驚き僕の体はビクリと震える。この横暴さは、同級生の男子だろう。

 

「あーららーぎせーんぱーい」

 

 後輩の女子だった。それも、かなり危険なやつ。

 

 おいおい、一体何度目だ? 本来ならあの購買部でのくだりで終了だというのに、何回登場したら気が済むんだ? こいつは。

 真っ赤な口紅を塗り、真っ赤なネイルをするという全身警戒色である彼女を恐る恐る見て見ると、その頰には先週までの僕と同じようにガーゼが貼ってあった。といっても、腫れた時用の湿布みたいなタイプのようだが。

 

 何かあったのだろうかとそれをマジマジと見ていると。

 

「え? なに? 私の顔をそんなに見て……私、別にセンパイのことは嫌いじゃないんだけどー。そのー、なんていうかー、ごめんなさい!」

「勘違いするな! 僕は別にお前に惚れたからジッと見てたわけじゃない! ……というか、なんで振られたんだっ?! 告白してもないのに振られるなんて前代未聞だなっ!」

「そりゃ阿良々木センパイが情けなくって頼りない人だからです」

「……はっきりと言うな……」

 

 ニカニカと笑いながら、他人に聞かれると誤解されかねない話をする彼女は、ようやく僕が目線を注いでいた場所が分かったらしく「ああ、これ? これはね……」と、ガーゼを上からさすりながら話す。

 

「ほんっと容赦ないんだよね。お姉ちゃんは。私モデルやってるって言うのにさ、この前──ほら、センパイをライダーキックしたことあったでしょ? あれ、他の人が見てたらしくってお姉ちゃんにその話聞かれたんだよ。で、叱られたって感じ」

 

 それはまあ、なんとも出来た姉だなと。僕はそう思った。どこが残念なんだ? 残念ならこっちの妹たちの方が比べるまでもなく残念なのだが。

 しかし、叱られた……か。腫れているようだし、きっとビンタでも食らったんだろう。身内に対しても手厳しい姉のようだ。

 

「……で、なんだ? 僕に許しを乞うっていうのか?」

「そういうこと、でも、ただで許してもらえるなんて思ってないし……」

 

 江ノ島はそう言い、おもむろに服を脱ごうとしだしたのでこの姿勢から加えられる限りの力を拳に込め、全力で振る。

 

「あがっ?! いっつつつつ……なにすんだ阿良々木てめぇ!」

「口調が荒いぞ、あと阿良々木センパイだ。呼び捨てにするな……というか、別に僕はそういうことをお前に求めちゃいないぞ!」

「えっ……もしかして、阿良々木センパイってあっち系の……」

「あっち系って言うな! 最近そういうのは人権侵害云々で規制が手厳しいんだ」

 

 ……ただひたすらに、ため息しか出なかった。

 

「……いや、嘘嘘! じょーだんだって! じょーだん。アメリカンジョーク!」

 

 半裸になった姿でグッドサインを天高々に挙げるが、全く良いジョークじゃないし、またしても人に見られたらヤバイ状況になってしまっている。

 色々と身の危険を感じたため、急いで江ノ島にはしっかりと服を着てもらい、一度僕の前にある席に座らせた。一年生の頃から休んでいるやつの席だ。

 

「……まあ、さっきのは冗談なんだけど」

「…………」

「いやいやっ、本当だって!」

「…………」

「……それじゃあ、本題に入るけど」

「ふむ」

「いや、ほら、そう簡単にお詫びなんて出来ないだろうし、流石に菓子折りなんて持って行っても阿良々木センパイって甘いものが好きだーって感じがしないから、他に何かあるかなあって考えたわけ」

「ほう」

「それで、なにかしてほしいことがあったら一回限りで電話でもしてもらおうかなと」

「ほうほう」

 

 ほうほう?

 どういうことだ、話があまりにも飛躍しすぎて頭が追いついていないぞ? そもそも僕は江ノ島の電話番号を知らないわけだし……。

 

「ああ、それで阿良々木センパイにはメルアドおよび電話番号を交換してもらうね」

 

 言うより早いか、コテコテにデコられもはやどんな機種なのかわからない携帯電話を江ノ島は小さなハンドバッグから取り出し、その画面を見ながら打鍵を打ちつつ僕の携帯電話を渡せと言わんばかりに右手を無言で差し出してきた。

 一瞬戸惑ったが、流石にここで変なことをするとまたその残念らしいお姉ちゃん(真偽不明)に叱られるだろうから、きっとそんなことはしないだろうと高を括り、パスワードを解除済みの携帯電話を江ノ島の手のひらに乗せる。

 

 打鍵スピードは羽川の数倍速かったように見えたが、江ノ島はおよそ五分にも及ぶ超打鍵の末に(超〇〇って死語っぽいな、なんかさ。超高校級の僕がいうのもなんだけど)僕の携帯電話を返してくれた。一体なにをしてたんだと急いで画面を開き、暗証番号を解除すると。

 

「……江ノ島さん? なにこれ?」

 

 あまりの驚きに、思わず年下に向かって──それも、江ノ島に向かって敬語になってしまう。まあ、冗談含めたものではあるものの。

 

「なにって……そりゃ、私が知ってるだけの役に立つだろう連絡先……?」

 

 なるほど、納得だ。

 いくら下にスクロールしても、その宛先の名前の限界が見えない。まるで湧き水のように画面の下からどんどんと出てくる……この量を、ほんの五分で……江ノ島盾子、恐ろしい後輩だ。

 しかし、役に立つ連絡先ってどんなのなんだ?

 そう疑問に思い、チラリと見て見たりすると“暗殺家”や“始末屋”、“警視庁”などの文字が目に入ったので、僕は目を閉じ静かに携帯電話を閉じた。

 

「……なんで、こんなに連絡先知ってるんだ?」

 

 というか、覚えてたのか?

 

 そう疑問を投げかけると、彼女はニヘヘと笑みを浮かべ。

 

「ま、ギャルやってたら色んなところと関係持って、その人繋がりで関係持ってんのよ。なんでも、世界中の誰でもおよそ八人の紹介で繋がれるっていうし」

 「はへえ」

 

 さすが超高校級……と言うべきか、同じ人間だとは、同じ学校の生徒だとは到底思えなかった。この後輩に、こんな力があったとは……今思えば、この笑顔からも末恐ろしいものを感じる。

 いや、流石に超高校級の一言では語りきれない何かがあったが、それを問いただすことは野暮というものだろうか……聞いても教えてくれなさそうだし。

 

 そのあと、駐輪所まで江ノ島が同行してきたのだけれども、流石に僕が自転車を漕ぎだした後は付いてこなかった。トンデモナイ奴がいたもんだと、心をただただ驚きで満たしながら帰宅した。



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012

 その日はただ、携帯電話のメールアドレス、電話帳を眺めて過ごしたような気がする。その他のことをあまり覚えていないのは、部屋に寝転びながら閲覧をしていたため、途中で眠くなってしまいそのまま寝てしまったからだろう。雑魚寝もいいところだが、その結果僕は遅刻寸前ギリギリというタイムで門をくぐり抜けることになり、挙げ句の果てには、結果的に、教室には間に合わず先生のゲンコツを一発食らった後、廊下で立たされる運びとなった。昔風に両手に水の入った鉄製のバケツを持って……だ。あの先生、今時の若者みたいな格好をして──いや、二十代半ばなわけだしまだまだ現役の若者なんだろうけれども、だとしてもやっていることがスポ根みたいだ……。そのうち、体育の筋トレに車のタイヤを引くだのウサギ跳びだの体にスプリングを巻くだのが追加されそうだと僕は密かに予想しているが、流石にそれはないか……。体罰もいいところだし、世に報じられてしまえばかなりの問題になるだろうからな。

 希望ヶ峰学園という大きな学校での事件なら、こぞってマスコミは取り上げることだろう。……まあ、そんなことにならないようにあらこれするのがあの先生ではあるが。

 

 かくして、この二年間、両手の指では足りないほどの回数げんこつを食らってきたこの頭をさする暇もなく、僕は両手で水入りバケツを持たされていたのだった。

 

 正直に言ってキツイ。

 

 たまに僕と一緒にバケツを持たされて廊下で並んで立つ奴がいるのだけれども、この廊下の静まり具合から察するに、いや察せずとも、どうやら今日は僕だけらしい。そもそも立たされる日が被ること自体珍しいわけであって、実際同じようにして立たされた事はこの二年間、片手の指で足りるほどしかない。

 

 そんなこんなで僕は廊下に立っているのだけれども、これは一時限目が終わるまで……つまり、ホームルーム途中に来た僕はまるまる一時間立ち続けなければいけないのだ。これからあと一時間。そのことを考えると、とても辛いものがあった。

 

 この廊下を通る人物といえばせいぜい先生か清掃の人くらいなので生徒に見られることはないし……見られたところでなんだが、こうも幾度となく立たされていると顔を覚えられてしまいそうなものである。廊下に立たされて顔を覚えられるって一体……。なんとも嫌な覚えられ方だ。

 まあ今日は誰も廊下を通る事はなく。この一時間をバケツを下すことなく耐え切り、僕はようやく教室に入ることが出来た。学生鞄も忘れずに、だ。うっかりミスして廊下に置き忘れると、また面倒なことになってしまうからな。もう思い出したくもない思い出だ。

 

 次は二時限目、確か──数学だったっけか。数学も八九寺先生が教鞭をとるので(というか、基本的にこのクラスの授業はあの人がチョークをとる。あの人はどこまで教師に徹すれば気がすむんだ……?)この教室なわけだから、およそ十分の休み時間、および次の授業に向けての準備期間丸々は多少なりともゆっくりと出来る。

 手が痺れてしまっていたので、このひと時の休息は不幸中の幸いだろうか? 不幸が招いた幸いは喜んでいいものか分からないけど。

 

 そんな、いつもの日常風景であったし、この情景が変わることなんてないはずだ。

 

 変わるとしたら、せいぜい卒業という大きな節目に向けて──そしてその後の未来について、考え始めなくっちゃあいけなくなってきたということくらいだろうか。

 

 はて、僕は大学に行くのだろうか……いや、そもそも卒業すら危ぶまれている身なわけだし、運良く卒業出来たとしても大学は無理だろう。それに、卒業したとしても就職できるかどうかも怪しいところだ。自分がどんな職についているのかだなんて生まれてこのかた考えたことがなかったために、自分がなにかしらの職について、その職場で働くというイメージはそうパッとは思い浮かんでこなかった。この一日中考えてみたけれども、そのイメージというものが思い浮かんでくる事は決してない。

 

 未来のことは誰にもわからない──だけれども、未来のことを考えないのは愚か者のすることだ。見えない先を見据え、何があるかわからない、得体の知れない未来というものに対策を打つ。打ち続ける。それが人生なのだろう。だったら僕は愚か者だなと、少し笑ってみよう。嘲笑ってもいいかもしれない。

 

 しかしそう考えると、人生というものはなんて面倒なものなのだと僕は諸手を上げてリタイアしたいが、しかしそれはすなわちイコールで死につながる。人生というラインから外れるわけなのだから、それは死だろう。

 

 馬鹿は死んでも治らないというが、未来から逃れることは死ななければ出来ないし、死してなおも自分が未来にどう影響を与えるのかはやはり死んでみないとわからないものではあるものの、しかし死んでしまうと分からない。堂々巡りで禅問答。変な話である。

 まあ、僕が未来になんらかの影響を起こすことはいいことでも悪いことでも決してありえないのだが。僕がこの先、生きるのなら、僕はきっと平凡に生きて平凡な人生を送り平凡に死ぬのだろう……平凡な生き方ができるかどうかは分かったものじゃないが。

 

 何はともあれ、僕は変に哲学的なことを考えてしまったんじゃないかと後々自転車に乗りながら恥ずかしくなり、赤面し前も見れないという状況であったが(流石に運転中なので前は見る)、家に帰ってからはテレビをつけることもなく、部屋の電気を消してただぼうっと天井を見つめていた。

 いや、何も見てはいなかった。確かに、視線を辿れば僕の目線は天井にこそあったが、意識は常にそこにあらず、と言った感じだ。

 ただ、何も考えないでぼうっとしていた。ただただ、時間を浪費していたのだ。見たいテレビ番組があるわけでもなし、また、しなければいけない課題もなし(あったところでやるかどうかは別だが)、放課後に一緒に遊ぶような友達もいないので、ただ呆然としていた。

 

 このアパートは壁がとても薄く、外の床を踏むだけでも近くの部屋にその音が届くほどのボロアパートなのだが、なぜかそのような一切聞こえては来なかった。足音やテレビの音はおろか──声や生活から生まれる音さえも、聞こえてはこなかった。……ああ、そういえば、なんでも、みんなで揃って温泉に行くどうこうの話を聞いていたな。僕も誘われたのだけれども、それは丁重にお断りしておいたので留守の間はよろしく頼むとみんなから留守番の役を受けていたのだった。ああ、そうだったそうだった。確か、今日帰ってくるんだっけか。仲のいいことだ。

 今からでも近所付き合いを始めればかなり仲の良いようになれるくらいに彼らはお人好しでかなりフレンドリーなのだろうけれども、それはやはり気が引けた。引っ越そうかと思ったりもしたのだが、ここより良い物件はそうそうないのでやはりここに住んでいる……ま、彼らが悪い人たちじゃないのは確かだ。

 

 しかし、声だとか生活の音が聞こえないから寂しい──というわけではなかったし、どの道その静寂は機械音による着信音によって途絶えられるのであった。

 ……どうやら、江ノ島からの電話らしい。バイブ機能で震える携帯電話を手に取り、出る。

 

「もしもし」

『もっしもーし、もしもし、もし、もしもしもし、もし、もしもし』

「もしを暗号みたいにするな。もしそれに意味があったとしても、僕は対応しきれないぜ」

「トントントン、ツーツーツー、トントントン」

「モールス信号で遊ぶな!」

 

 上体を起こし構える。一体何の用なのだろう。

 

『てやんでい、阿良々木センパイ。緊急事態』

「江戸っ子風になるんじゃない、違和感しかないぞ……というか、緊急事態? もし、お前が警察に補導されたとしても僕は身元引き取りに行かないぜ。そういうのはお前のお姉ちゃんに頼めば良いだろう」

『……私が補導されるような悪い子に見える? それに、まだ夕方ですらないから夜遊びとかじゃないし……』

「……見える。確かに今はまだ夕方だが、しかしその段階でお前を補導する警察官の方は非常に優秀だろう」

『ひど』

 

 でもまあ江ノ島の口調はいつもと変わらずとても明るく軽いものだったので、大したことじゃないんだろうな……と、後輩に何かあったのではと少なからずも心配していた自分が馬鹿らしく思えた。

 

「で、どうしたんだ? 緊急事態って」

『七海センパイと日向センパイが、今、予備学科の生徒に襲われてる』

 

 襲われてるっていうか、絡まれてるっていうか……いやでも、もうその段階は通り過ぎちゃってるかな。ともかく、二対複数人で殴る蹴るされてる、らしい。

 

「──それが、どうしたんだ? なにも僕に電話してくることじゃないだろう」

『いや、だから助けに行けばって話だよ。警察に連絡も考えたけど、こっちの方が良いでしょ。それに、あの時のお返し……? っていう意味合いも含めて』

 

 殴る蹴る、というのは、つまりイジメみたいなものなのだろうか……思い返してみれば、日向には友達がいないと聞いたが、もしかしたらそれは七海が関係しているのかもしれない。本科の生徒は、予備学科の生徒に嫌われている……少なくとも、好かれちゃいない。だからこそ、七海が日向と仲がいいと知った時はかなり驚いたものだが、もしかして日向は七海と──本科の生徒と仲良くしてた故に予備学科の生徒たちとの間に確執が生まれ、恨みを買っているのかもしれない……。

 

 だとしても、僕が行ったところでだし、助けるつもりなんて……ない。

 きっと、ないはずだ。

 

『行かないんですか? 阿良々木センパイ』

「江ノ島、お前はもう貸し借りなんて気にしなくっていい。許してやるし、あの時の話をどこかで出すこともない。だからどうか、助けに行かない僕に対して黙っていてくれ」

 

 こんなことを言えば相手から怒鳴られるかもしれない……もしくは、案外コロッと態度を変えて許しが貰えたことを喜ぶかも……と思っていたのだが、通話は相手の無言切りという形で終わることになった。

 

 …………。

 

 助けに行く気はないし、義理もないし、場所も分からない。

 助けに行く気は無いというのは、僕の本心だろうか?

 ああ、本心だろう。僕はいつだって、本心だ。気の向くままに行動し、思うがままに行動して、後先考えずに自分の正しいと思うことを行ってきた。

 ……本心だとして、これは正しい行為か?

 

 自分に対するその問いかけに、僕は唇を噛み締めることしか出来ない。

 

「……そもそも、場所を教えてくれていない時点でただの嘘だろう。あいつも悪趣味だ」

 

 僕はそう高をくくった言葉を吐き、再度床に寝転がった。

 

「……はあ」

 

 もしも、という気持ちがないわけではなかったものの、しかしやはり行く気にはなれなかった。僕が行く必要なんて……ない。きっと他の誰かが上手くやってくれるはずだ、と。他の誰かって、誰だ? 少なくとも自分ではないはず。

 

 また、電話が鳴る。

 また、江ノ島なのだろうか。

 

 面倒だなとため息をつき電話に出る。

 

『あ、阿良々木くん?』

「…………」

『そのっ、今、日向くんがっ、あのっ、私の代わりに、そのっ』

「…………場所は?」

『え、あ、ああっ、希望ヶ峰学園の、予備学科棟の、近くの路地裏……その、今──』

 

 電話を切った。電話の受話器の向こう側に涙目の彼女の姿が容易に想像出来た。あのように取り乱し滅茶苦茶な喋り方をしているあたりかなりの緊急事態のようだ。しかし──

 

 ──いや、後悔は後でするものだ。今から後悔することなんて考えている場合じゃない。本末転倒というものだ。

 

 ああもう、だから嫌なんだ。くそう、自分で自分が嫌になる。

 

 僕は電話をかけメールをしながら自転車を漕いで、初めて向かう希望ヶ峰学園予備学科棟の近くにある路地裏とやらに向かった。

 もうこれっきりだ。自分に嘘をつくのはやめよう。

 こんな単純に剥がれてしまうメッキなら、最初から貼らないでおこう。

 

 後悔は──してもいい。



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013

 希望ヶ峰学園予備学科棟近くにある路地裏──

 

 ──それは、場所の指定をする言葉としてはあまりにも曖昧なものであり、そしてなんとも粗雑で大雑把なものである。言うなれば、この地球上で月が見えるところ……というのはいささか規模が大きすぎるかもしれないが、今のでなんとなく伝わっただろうか? 希望ヶ峰学園の近く──と言っても、その概念は手の届く場所であると言う人もいれば足で歩いて行ける場所と言う人まで多様に存在している。人は一人ひとり違った、常識という名の偏見を持っているわけであり、つまりは近くといっても一概に語れないわけで。人によって近くという言葉の意味は変わってくるというわけだ。なにより、路地裏とて、たった一つしかないというわけじゃないのだ。そんな中から七海と日向がいる一つの路地裏を見つけ出すと言うのは、ここいらの地形にあまり詳しくない僕にとって、かなり困りものであった。

 

 実際、探してる途中には初めて見る場所がいくつかあった。迷うことこそなかったものの、しかし気の迷いは心に存在していた。

 

 早くしなければという焦りの気持ちを抑え、高鳴る鼓動を体で感じ、胸の内で確実に大きくなって行く不安を噛みしめる。

 

 自転車を全力で漕ぎ、時には信号も無視して希望ヶ峰学園裏、予備学科棟へと向かいながら、探していた。しかしとはいえ、なにも無限に路地裏があるわけではない──幸運か、それとも不運か。ふと横を見ると、そこは路地裏で、複数人の同年代ほどの男女複数人に囲まれている見知れた二人がいた。

 

 ああ、人間強度なんてどこ吹く風だ。

 今の僕の人間強度は、暴行を受けたと思われるその二人よりもボロボロだったことだろう。もはや無いに等しい。

 

 ──ともかく、二人とその他勢を見つけるやいなや、少し通り過ぎたものの右足を軸にし、百八十度プラス九十度回転し出来る限りのフルスピードでその集団に突っ込んで行く。ただ、突っ込むだけだと僕自身が怖くなってブレーキを踏んでしまうかもしれない。ので(むしろ踏むべきなのだが)僕は不恰好な跳躍を見せ、楕円形の弧を描きながら自転車から飛び降りた。

 運転手を失い、暴走した闘牛のように走り進む自転車はその集団をかすめるようにして逸れる。勢いそのままで自転車は進んで行き、結果、ママチャリは裏路地のコンクリート塀に派手な音を立てて衝突し、そして大破した。

 

 その音に気付いてか。また、大破してしまった僕の大切なママチャリの破片が当たったかで、二人を囲む奴らはこちらを勢をなして睨みつけてくる。

 

「阿良々木だ」

「超高校級の、阿良々木だ」

「本科の生徒だ」

 

 そんな言葉が聞こえてきたし、彼ら彼女らの目とその言葉にはひしひしと伝わってくる憎悪の感情が込められていた。人の目をあまり見ず、感情を汲み取ることが苦手な僕でもわかる。火を見るよりも明らかで、隠す気なんて全く無い、彼らが曝け出した心からの感情であった。

 

「──お、おい。なに、やってんだ? ……そんなところで」

「なにって……見ればわかるだろ。本科の生徒の、阿良々木暦」

 

 まさに生徒Bみたいなやつが、口を開いた。

 

 彼らの表情、身なり、態度など、どこを取ってもリーダー格の主犯者らしき人物は誰一人としていなかった。本当に、いなかった。全員が全員、同じようで、リーダーのように誰かに命令するものはいない──ただ、やけに統率が取れているというか……ともかく、不自然な光景であることには違いなかった。

 もしやどこか離れたところからリーダーのやつは高みの見物でもしているのではないかと考えたが、ここはそもそも死角が多く人通りが少ない上に、唯一の出入り口であるところからでも時間によっちゃあ陰で奥が見えないだろうと推測できてしまうほどに危険で、警官の方が巡回すべきような場所だ。

 それに、注意深く、居そうなところを探したって、そんなやつはいない。

 

 主犯が……いないのか? いや、そんなはずはないはずなのだが……。

 

 しかし、もし本当にいないのであればなかなかどうして厄介かもしれない。

 リーダー格である一人と愚かにも戦って、ギリギリ勝てるかもしれない──そんな希望的観測を実現させれば。今回の行動に至るための心の支柱であるだろう主犯を折れば。急に彼らは不安がって、蜘蛛の子を散らすように逃げるだろうという望みにかけていたが──その考え故に僕は行動しているのだが、これだとまた話が違ってくる──これだと、一対一ではなく一対群だ。

 わけが違う。

 そもそも護身術すら身に付けていない僕は……いや、たとえ身につけていたとしてもこの量相手じゃ無理だろうし、それこそ火憐ちゃんくらいじゃないとこの状況はとても打開できそうにないのだと考えずとも理解できた。

 

 奥には傷だらけで血を流している七海と日向の姿があった。どこかの不良を襲われた二人を介抱している同じ学校の生徒たち……という風には、どうにも思えない。やはり彼らが予備学科の生徒なのだろう。

 

 比較的七海の傷が少ないのは、やはり日向が守っていたからだろう……それに比べて僕は──なんて情けないんだろうか。自分で自分が嫌になった。

 

 ともかく僕は、彼らに向かって抵抗する意志のないことを示しながら、一歩一歩、ゆっくりと近付いていく。なんの真似だと言うより早いか、こちらに三人の男子が駆け寄ってきては体を拘束しようとしてきた。しかし──そう簡単に拘束されるわけにはいかない。

 僕は、二人をなんとかして助けなきゃいけないんだ。

 

 あの江ノ島ですら、謝って恩として返そうとしていたわけなのだから、僕も七海と日向に謝って恩として返さなければならないのだ。これは義務でもなんでもない、必須事項だ。

 

 人間強度はまた──その後で取り戻そう。

 

 護身術は身に付けちゃいないが、妹との喧嘩を含めても良いのであればかなりの場数を踏んでいると言えるだろう。未来の超高校級の生徒と噂される妹との殴り合いの喧嘩だ。それなりに経験値は高いと思う。

 

 とはいえ、流石に手を出したとしても勝てるようには思えない。そもそも勝つなんて考え自体おこがましいのではないか──とも思えてきた。

 あくまであれは一対一だっただけで、さっきより数は減ったものの今だって一対三なのだ。さらにその後にだって人がたくさんいるわけだし、条件が違う。

 体を捻るようにして彼らの隙間を縫い走り抜け、そしてその勢いを保ったまま七海日向のところにまで行く──が、そう上手くはいかない。やはり、そちら側にも人はいるわけで、ここは路地裏一本道。後ろに三人、前に複数人と完全に挟まれる形になってしまった……。

 

 窮鼠猫を噛む、となればいいのだが、その望みはあまりにも薄すぎた。

 

 結局僕はどうすることもできず、すんなりと彼らに捕らえられてしまうのだった。

 

 奥にも人がいるため具体的な人数は分からないのだが、およそ十五人ほどに囲まれている。かなり絶望的な状況といってもいいんじゃないだろうか。これから僕のことをどうしてやろうかと考えているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべる者がいれば、またこちらをギロリと視線に感情を乗せ睨みつける者もいた。

 

 二人に腕を掴まれ、抵抗むなしく強引に路地裏の奥へと投げ込まれた。後ろは壁、前は予備学科生徒。

 

「……僕たちを、どうするつもりだ……?」

「──それは、想像に任せるよ」

 

 拳を強く握りしめ、彼は言う。名前も知らない、彼は言う。

 

「……お前、阿良々木だよな。阿良々木暦。本科の生徒の」

「……知らない人間に名前を知られているって言うのは、あまり、いけ好かないな」

 

 僕は不敵に笑ってそう言った。疑問文に疑問文で答えてはいけないらしい──ので、思い切ってその質問を無視した。やはりその行為が逆鱗に触れてしまったのだろうか、彼は態度を急変させ僕に詰め寄っては鬼の形相で胸ぐらを掴み、怒鳴った。

 

「ああっ!? 舐めてるのかっ? そうやって、俺たちを、見下してるって言うのかっ! お前ら、本科の生徒は、俺たち、予備学科の生徒をっ」

 

 そう言い切れば、彼は深い息を吐く。

 

 彼の熱に対し、僕は至って冷たい態度であった。高温と低温を交互に繰り返すと脆くなり壊れてしまうと聞くが、そもそも僕と彼とは接触することなんてないのだ。壊れようがない。

 

「……見下してなんかない。ただ、眼中にはないし、そもそも誰なんだ? お前。僕の名前を知ってるなら、名前くらい名乗ってくれても構わないだろう」

 

 さらに──彼を挑発し、煽り、激昂させるようなことを言う。そして単純なことに彼は怒り心頭のようで、その感情に任せて僕のことを──殴った。

 

 ベキリという音とともに、口から硬いものが飛び出したのがわかった。白い残像が見えたため、きっとそれは歯だったのだろう。鉄の味が口の中を占めた。

 とても痛かったし、それがどうにかなるのかどうかといえば、それは決してそうでは無いのだろうけれども……しかし、どうやら、上手くいったらしい。僕としては、よくやった方だと思う。全然なっちゃいないけれども、しかしやれることはやれたんじゃないだろうか──。

 

 後ろから、バイクのマフラーの音が鳴り響く。僕はその音の方を、ゆっくりと首を上げて見た。幾人もの予備学科生との向こう側からライトの強い光がこちらを照らす。そのライトの光を背に立つ多数の人影があった。中央には──大きなリュックサックを背負った人が、仁王立ちで構えて立っている。あんなリュックサックを背負っているのは、我らがクラスの担任しかいない。

 

「──生徒がこんな目に遭っているっていうのに、気付いてあげられないだなんて……先生失格だな。私」

 

 八九寺先生は、相変わらず仁王立ちのまま言う。その後ろには、超高校級の暴走族。超高校級のマネージャー。超高校級の体操部。超高校級の──ともかく、僕のクラスメイト──元来不登校、病弱による通院により二人かけてはいるものの、僕と七海を除くのなら77期生八九寺真宵クラスプラスアルファが勢揃いしていた。中には戦力にならなさそうな者もいたが、それはあまり関係ない。

 その光景は、とても凄まじく。

 まさに圧巻。

 眩くって──瞬きすることも憚られるような、そんな景色。

 正真正銘、正義の味方の登場──である。

 

「あ、ああ……」

 

 僕の胸ぐらを掴む手の力はみるみると落ちていき、やがてその腕はだらんと脱力した。僕らを取り囲んでいた彼らは、ざわざわと騒ぎ始めた。なんせ、出口は塞がれてしまっているのだ。ここは裏路地、袋小路。今八九寺先生がいる場所以外に出口も入り口もない。もう逃げようがないのであった。

 

 あとは、彼らの仕事だ。

 僕は家に帰るため、ゆっくりと立ち上がった。




 ちあきフレンド、残すは後一話!


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014

 ちあきフレンド、最終話です。
 本編自体は前回で終了していますが、このお話の冒頭のように後日談としてお楽しみください。


 後日談。というか、今回のオチ。

 

 あれから数日後。例の一件でママチャリが大破してしまったので、あれ以降は通学用ではなく、休日暇を持て余した時なんかに乗りたいようなマウンテンバイクで街を駆け、僕は学園へと登校することにしていた。

 先週はあんなことがあったのだけれども、範囲を世界に広げてみれば所詮あんなことなわけで、流石に校内で噂が立つ程度である。

 またその噂によれば、七海、日向を集団でリンチしていた予備学科生徒たちは全員漏れなく退学処分になったらしい。警察沙汰表沙汰にはしたくないとの学園の方針のようで、新聞に載ったりニュースで報道されるようなことはなかった。どうやら、学園が事件を揉み消したらしい。

 そう聞くとあまりいいイメージが湧かず、本当のことなのだろうかと首を傾げるが、噂流行に疎い僕でも知っているようなほどに流布している噂話で、火がないところに煙は立たないというのだから、決して根も葉もない話ではないのだろう。

 

 まさしく正義が勝ち、悪が負ける──といった形になってしまってはいるが、いやはや果たして僕たちは正義なのだろうか、と、考えてしまう。考えさせられてしまう。

 自分が属し信じるものが正義であると定義するなら、もちろん僕らは正義なのだけれども、しかし、退学処分をくらった彼らにも必ず目的があったはずだ。己の何かを信じて、行動していたはずだ。

 あのように恨まれてしまい、憎悪の念がこもった視線で見られ睨まれる僕らは、彼らからすればやはり悪なわけで、また、その人たち自身が正義なのだ。

 

 正義の敵の正義というものは、やはりその敵自身。

 

 いかに自分を正当化できるか……そこに尽きるのだろう。

 やな話である。

 この世の中に、自分がしたことが絶対に良いことであると胸を張って言える人はそういない。もしかしたら皆無かもしれない。

 いるとしたら、そいつは相当な悪か本当の善かのどちらかだ。

 

 僕は胸が張って言えないにしても、もし声高らかに己の信念を掲げることができるときは、果たして善と悪のどちらに僕はいるのだろうか……。

 

 ともかく。兎にも角にも。その、事件というか、揉め事が起こった次の日の夜に七海から電話がかかってきた。なんでも、この前のことをしっかりと謝りたい──そして、今回のことでお礼が言いたいのだそうだ。丁重にお断りしたが。

 なんせ、この前の件については完全に僕が悪いわけだし、あの時のことだって僕が何かをしたわけじゃない。実際に何かをしたのは、予備学科の生徒を押さえ込んだのは八九寺先生率いる超高校級の生徒たちなのだ。だというのに礼を言われるというのはいささか筋が通っていないというものだろう。

 しかし、そうだとしても気が済まないとのことなので、僕にこの前の件を謝らさせてくれ。謝る機会を与えて欲しいとお願いをした。当然のようにそれは断られたのだが、その機会を与えることを僕へのお礼だと思って欲しいと説き、渋々と承諾を得た。

 そして、電話越しではあるものの、以前のわだかまりはほとんど消えて無くなってしまったといっていいだろう。また今度、日向とかいう奴にも謝らないとな。

 

 それから、僕にも友達というものができた。

 かけがえのない、友達だ。

 人間強度が下がるから、友達は作らない──その考えは、今もまだある。だけれども、人間強度が下がりきりもう既に無い物と同じになってしまっているのでそれを取り返そうという無謀なことに出ようとは思えなかったのだ。まあでも、そんな状況に陥ってしまった僕ねはあるが──なぜだか、嫌な気持ちにはならない。

 

 ともかく、友達ができた。

 

 学校に向かうためにアパートの駐輪場に行く。

 

 するとそこには、ロードレーサーに格好良く跨りながら携帯電話を弄っている江ノ島盾子の姿があった。

 

「……あっ、阿良々木センパイ。どうしたんですか? その怪我。ああ、七海センパイを助けに行ってたんだよねえ。ヒュー! 救世主ぅ!」

「ご近所さんの迷惑だぞ。それに、これももうすぐ取れる」

 

 そう言いながら僕は江ノ島の頭にげんこつを叩き込んだ。

 ポカン、とやけにコミカルな音が鳴ったような気がしたが、気のせいだろう。

 江ノ島は声を上げて頭を抑える。

 

「いてて……。いきなりなんなんでーすかぁ?」

「お前こそいきなりなんなんだ……? 確か、お前、こっちじゃないだろう? 家」

「まあそうですけどね、ちょっとお聞きしたいことがありまして」

 

 購買でパン買いたいんで早く行きましょーと、江ノ島は急かすようにしてベルを鳴らした。おいおい、罰金食らうぞ。

 僕はマウンテンバイクに二重でかけている鍵を外し、サドルに跨る。

 

「行くぞ」

「イエッサー」

 

 ゆっくりと走り出し、徐々にスピードを出す。

 僕の横にぴったりとくっつくようにして江ノ島は並走し、顔を覗くようにして話を始めた。

 

「で、どうやってあんな十五、六はいる予備学科生を?」

 

 にっこりとした笑顔を浮かべ、江ノ島は僕に尋ねた。

 おいおい、前を見ろ。危ないぞ。

 

 僕としてはあまり話したくないことであったが、この件に関しては江ノ島は一枚二枚噛んでいるので、話してやらないこともないかと口を開く。

 

「それは、あれだ。ほら、この前お前が色々と電話番号なりメールアドレスなんかを大量に教えてくれただろ?」

 

 そう、今僕の携帯電話の電話帳なんかには大量の人名組織名が登録されているのだ。それもかなり恐ろしいものからポピュラーなものまで。その中で、あまりにも意外なものが一つあったのだ。

 

「その中に、八九寺先生の電話番号があったから、そこに電話したんだよ。『七海とその友達が、予備学科の生徒に襲われている。僕一人じゃどうにもならないから、助けてほしい』──って。場所こそ伝えてなかったが、世の中GPSっていう便利なものがあるからな」

「ほう、そうきたか……」

 

 さして興味なさそうに頷いては、「で?」と返してきた。

 

「……それで、八九寺先生って人望があるから、一声かければみんな付いてくるんじゃないかと思ってさ──ほら、まだ放課後でみんな学校に残ってるだろうし」

 

 かなり少ない確率だが、もしかしたら誰もいないと言う可能性もあったのだ。やはりそこは賭けであったし、また、この電話番号が正しいものかどうかも分からなかったのでそこも勝負に出たところなのだけれども──でも。

 

「さすが、阿良々木先輩。少ない確率だといっても失敗する確率があるのにも関わらず挑戦するとは」

 

 やはり彼女はどこか僕をおだてるような言い方をしているような気がする。なんつーかな。

 

「江ノ島、これは某賭博漫画の言葉だが──そりゃ、百パーセントは素晴らしいし、それが一番好ましいけれどさ。でも、そんなのは不可能に近い。それこそゼロだ。時には現実を見なきゃいけない。だから、十割確実とは言わず七、八割確かな自信が出たら勝負に出る。それが基本だぜ。そこまでなら頑張ればなんとか持っていけるからな」

 

「ふーん……」

 

 ま、いい話聞かせてもらいました。センパイのこと少しは見直したりして、キララン。と、効果音を自分で言いながら、足早に僕を置いてけぼりにして先の方へと走り去っていった。

 

 先輩より購買のパンか……。少し悲しい気持ちになってしまう。

 それと同時に呆れたという感情も生まれ、自然と頰を掻いた。

 既に腫れや痛みといったものはなくなっているのだが、それでも未だに惰性でガーゼや絆創膏を貼っているのは、それが少し誇らしいと感じているからだろうか。

 

 いつも通りの通学路をいつも通りに登校する。

 

 教室に入ると、やはりというか、そこには八九寺先生がいた。待ってましたと言わんばかりの佇まい。フレンドリーな顔つきで、ボールのように弾む声で話しかけてくる。

 

「やあスメラギくん。おはよう」

「良い加減に名前を覚えてください……。僕の名前は阿良々木な訳であって、そんなにおい(スメル)みたい名前じゃありません。もしくは(スメラギ)でもありません。……おはようございます。先生」

「冷たいねえ。これは一種のコミュニケーションなんだよ? せせらぎくん」

「僕の名前を風流豊かな表現っぽくしないでください! 僕の名前は阿良々木です!」

「失礼、噛んでしまった」

「いや、わざとだ……」

「かみまみた!」

「わざとじゃない?!」

 

 閑話休題。

 

「──ともかく、先週はお疲れ様。君が教えてくれなかったら、今頃どうなっていたのやら……考えるだけでゾッとする」

 

 面白おかしく道化に先生は自分の体を抱きしめるようにして腕を己の体に絡め、怖い怖いという感情を表す。

 

「いえいえ、そんな。……結局僕は、なにも、出来てないですよ。こちらこそ、急なお願いに応じてくれてありがとうございました」

 

 そう言い残し、僕はそそくさと自分の机へと向かった。

 いつもの通りに自分の前の席は空いているはずだが──そこには、七海千秋の姿があった。どうやら眠いらしく、半開きになった虚ろな目でどこかを見つめ、かくんかくんと不安定に首を動かしている。これから学校だっていうのに、大丈夫だろうか。

 

 彼女を起こすべきか否かを判断するのに少し時間がかかったが、このままここにいたらいたで色々と困ることがあると考え肩を揺すって起こすことにした。

 ハッと意識を取り戻した彼女は、目をこすりながら曖昧に口を動かしあくびをする。なんて無防備なんだろう。こういう姿を見ると日本の平和さが伝わってくる。平和ボケ……と言えば聞こえが悪いが。

 

「おはよ。……阿良々木くん」

「……あ、ああ。おはよう。七海」

 

 簡単な挨拶をし、自分の席に着く。例のごとく学生鞄に教材は入っていないので鞄を机の横に引っかけるだけで朝の準備は終わる。

 僕が朝の準備とも言えないものを終わらせたのを見計らってか、未だに僕の一つ前の席に陣取っている七海は口を開いた。

 

「私、うれしいよ」

 

 七海は、僕に視線を向けるわけではなく空へと目線を移す。僕もそれにつられて空へと目線を上げるが、いつもとなにも変わらないただの空であった。一体なにを見ているのだろうと七海と空を交互に見比べたりしたが、やはり分からなかった。

 

「なにがだ?」

「阿良々木くんと、友達になれたこと。……すごく、うれしい」

 

 本当に嬉しそうに、言う。

 とても眩しいその笑顔に、僕は思わす目を逸らしもう一度空を見上げる。窓には七海の顔が反射して写っていて、また目を逸らし廊下側へと視線を落とす。

 

「僕なんかでよければ、何度でも友達になるよ」

「ええっ、それじゃあ何回も絶縁するってことでしょ? いやだよ。私」

「……言葉の綾ってやつだ。僕は人と絶縁できるほど偉いやつじゃないぜ」

「どうだか」

 

 静かに笑う声が、左から聞こえてきた。

 もうじき僕も三年生。この冬を越せば、三年生へと昇華するのだ。

 高校一年生の冬からおよそ一年間、僕は完全に人間関係を拒絶していた。それ以前だって人付き合いをとてもよくしていたわけじゃない。精々学校で話をしたりはするものの放課後遊んだりはしなかったのだから。

 はたして、僕は七海と、日向と、どんな友達になれるのだろうか。心なしか楽しみでもあった。

 

 来週からは春休み。

 親睦を深める──という、僕の人生で一度も出てこずまた出てくることもないだろうということを、春休みという二週間ばかりの休みにしてみようかなと考えてみたりもした。

 

 横目で彼女の顔を見る。

 七海千秋。僕はこの同級生のことを──




 二週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
 

 


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むくろシスター
001


 このお話の結末を決めていないという無計画性を発揮しておりますので、更新滞り途中放棄大幅改変必至です。


 戦刃(イクサバ)むくろは残念な女の子である。

 

 これは彼女の実妹である江ノ島盾子から聞いた情報に基づいた評価である。しかし、なにかしらいつもやらかしている江ノ島を毎度のごとく叱ったりなどしているところを見ると、普通にしっかりとしたお姉ちゃんなのではないだろうかと、僕はそう思っていた。

 

 悪いことをしたら叱責を浴びせ、良きことをすれば褒美を与える。そんなお姉ちゃん。

 

 妹に厳しく、またそれ以上に自分に厳しい。けれども時には優しさを見せる──まるでちびまる子ちゃんのお姉ちゃんみたいなイメージを僕は江ノ島盾子の姉に対して心密かに抱いていたのだけれども、しかし、実際会ってみるとそのイメージは一変覆り、やはり最初に聞いていた通りの残念なお姉ちゃんなのだなと首を縦に振るほかない。

 もしくは、予想通りではなかったよと両手を上げるほかないだろう。

 

 何を根拠に戦刃むくろという一人の人間が残念な姉であると決めつけるのかというと、それはやはり全てと言っていい。

 彼女の全てが──残念なのだ。

 

 彼女の全てが残念であるのだから、どこを取っても残念なのである。

 料理が残念だと言えばやはり料理が残念で。また、裁縫が残念だと言えば彼女の裁縫の技術はどうしたってやはり残念なのである。

 

 何もできない無器用な姉。

 別段、そういう意味で僕は彼女に残念というレッテルを貼っているわけではないのだけれども、案外それは的を得ているのかもしれなかった。

 

 一般人にできないことはできて、一般人にできることはできない。

 懇切丁寧に教えれば凄く上手いとは言わずともそれなりにできるだろう。がしかし、目玉焼きの黄身を焼き上がる前にフライパンの上で潰してしまうような残念さがそこにはある。

 とても難しい料理だけは非常に上手にできるが、とても簡単で小学生でも作れるようなものがどうしても作れない──みたいな。

 そんな不器用さ。

 

 それはそれで凄いなあと思えるかもしれないが、日常生活においてはその簡単なことができなきゃいけないのだ。家庭という戦場において、彼女が輝ける場面はきっとないだろう。

 戦刃は今まで目立った傷を受けたことがないと聞いたが、もしかすると最初の傷は(つたな)い包丁捌きによるものとなるのかもしれない。

 

 しかしそれでも、それほどまでに凄い彼女が特別難しい分野において万能であるというわけではない。彼女をゲームのキャラクターとするならオールマイティーなチートキャラではなくもっぱら戦闘キャラだ。戦闘に特化しすぎて、きようさなどの要素が欠けてしまっている。こうげき、ぼうぎょ、すばやさがずば抜けて高いようなものなのだ。

 凶戦士(バーサーカー)という言葉がちょっぴり似合う。

 

 また、超高校級の軍人である戦刃むくろは女の子らしさというものがない。決してガサツだとか、はしたないというわけではない──むしろ彼女は礼儀正しい部類に入る方だと思うのだけれども、女の子らしくしようとしてもそれは彼女にとって叶わないことなのだ。

 

 化物が人の皮を被っても皮に入りきれず禍々しいものが漏れ出てしまうように、また彼女も己の軍人としての力を隠しきれていないのだろう。

 きっと戦刃はそういう星の下に生まれたのだ。

 

 人に嫌われているというわけではないし、近寄りがたいイメージなんて皆無だが、しかしやはりどうしても、彼女は残念な女の子で残念な姉なのだ。

 

 残念残念。

 

 僕の後輩──江ノ島盾子の双子の姉である戦刃むくろ。

 名字が違うところや明らかな容姿の違いを見るとやはり家庭の複雑な事情が目に浮かんで見えるが、僕はこの二人の後輩に一体全体どのように接することが出来るのだろうか。

 どう接すれば良いのだろうか──。

 

 これは──この二人の姉妹と二人の妹を持つ僕の物語である。お互いに歩み寄る──物語だ。



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002

 地獄のような春休みが過ぎ、悪夢のようなゴールデンウィークすらも遠い昔の思い出かのように思えてきてしまう夏休み。僕は学園に敷設されている、国立図書館のように大きな図書室の一角にて受験勉強をしていた、外は唸るような蝉の鳴き声が輪唱を続けているが、図書室はそんなことを忘れさせてしまうほどに静かであった。

 僕ももう高校三年生である、今まで嫌よ嫌よと目を逸らし続けていた大学受験が間近に控えているのだ、半年前までは僕が大学に通うだなんて思いにも寄らなかったし、それ以前になにかしらの職に就いているという未来予想図すらも思い浮かんでいなかったのだけれども、今は明確に目標を立てているわけだから、五里霧中という言葉がお似合いであった先の見えない未来は、少しづつではあるものの確固たる輪郭を持ち始めていた。

 まあ受験に失敗してしまうと意味ないんだけど。

 

 ともかく、クーラーが効いていてとても心地が良いこの図書室で、僕は同級生である戦場ヶ原(センジョウガハラ)ひたぎに勉強を教えてもらっていた。苦手科目から得意科目までなんでもござれ、学年トップクラスの成績を誇る戦場ヶ原に教えてもらえるというのは、なかなかどうして僕みたいな底辺からすれば有難い話だ。勉強のできるやつが教えることも上手いとは限らないのだが、今回の場合に関してさえ言えば、戦場ヶ原は人にものを教えるのが上手い人間だ。さすが超高校級、いや、こいつは頭を使うような才能じゃないか。

 

 僕の家でもいいんじゃないかと最初は提案していたのだけれども、「彼氏でもない人の家に上がるのは抵抗があるし、何より阿良々木くんの部屋って狭いじゃない。聞いてるわよ、なんでも三畳半だとか」と言われ、それはキッパリと丁重にお断りされてしまった。

 

 確かに僕の部屋は狭い、狭いけれども──んん、言葉が出てこないな。ぐうの音も出ない。

 

 まるでどこかのジブリ映画かのようにフワリ空から降ってきて──体重が()()()()彼女も、毒にまみれ毒をもって毒を制した挙句どこぞのスタンドのように自分の毒の獰猛性ゆえに己の毒と毒が殺しあった結果、毒が消えてしまったという戦場ヶ原ひたぎは、今こうして僕の目の前に座っている、そこにいる。

 昔は深窓の令嬢とまで呼ばれた高嶺の花であり、また、線が細く今にも消えてしまいそうな儚さをまとっていた彼女は──戦場ヶ原は、今、僕の目の前にしっかりと存在している。

 彼女に対しては思うところがあるものの、しかし、そこにいるという事実が──そこにいるのだという実感が──そんな、日常にありふれている気にも留めない現実がそこにはあるというだけで、それだけで良いのかもしれない──そう思える時がある。

 

「──阿良々木くん。阿良々木くん?」

「……ああ悪い。聞いてなかった、なんの話だっけ」

 

 うつらうつらと首を揺らし、まぶたがとても重くやっとこさ開いているといった状態であった僕は、到底勉強ができるような状態ではなかった。戦場ヶ原はやれやれと首を横に振り、「今日はもう無理そうね。頭の悪い阿良々木くんにしてはよく頑張った方よ」と言って、長机の上に広げてあった教材を閉じる。

 今はもうホッチキスもカッターナイフも持たなくていい空っぽの両手を組み、高々と己の頭上に持って来ては大きく伸びをした。

 僕も同じように伸びをした。

 

 深い息を吐く、特に意味はない。

 

 目覚めからは程遠いが、しかし意識はこちらへと引き戻された。何か言おうと口を開くが、話の前後がよくわかっていないからだろうか、そうすんなりと言葉が出てこない、そんな様子を見かねてか、戦場ヶ原が言葉を口にした。

 

「最近どう?」

「どうって……なにが?」

「七海さんのことよ。それ以外に何があるっていうの、あなたの体調でも気にしてると思った? ……最近、どうなのよ、上手くいってる?」

「ん、七海か? あいつとは──まあ、上手くいってるんじゃないかな。僕としては珍しく、ちゃんと友達してる」

「ふうん」

 

 戦場ヶ原はどこか不満げだ。何か──こう、僕を疑っているような目で見つめてくる。そして意地悪な口調でこう言った。

 

「私のこと振ったくせして、友達が関の山とは……いったい私は、こんな男のどこを好きになったんでしょうね、死ねば良いのに」

「それは、今でも悪いと思ってる……。それより、だからといって死ねは酷いぜ? 死ねは」

「私自身に言ったのよ」

 

 どこかを見ながら、戦場ヶ原はそう言った。

 

「というか、別に阿良々木くんに対して言ったって良いじゃなあい? 所詮阿良々木くんなんだし。阿良々木、死ね」

 

 前言撤回、毒はまだ残っている。

 

 戦場ヶ原はため息をつきながら席を立ち、そしてそのまま図書室の出口に向かおうとする。その背に追いつこうと僕も急いで教材やら筆記用具やらを学生鞄に突っ込み、彼女の方へと駆けていく。図書室という場所は静かにしないといけないため、走ることなんていうのはもちろん厳禁なのだけれども、今は人っ子一人いないため対して問題はないだろう。

 部屋を出るギリギリのところで彼女の隣に並ぶことが出来て、今度は僕の方から口を開く。

 

「お前こそ上手くいってるのか? 神原(カンバル)のやつと」

「あの子は、まあ。今も昔もこれからも、私の従順な後輩だもの。上手くいくもなにもいつも通りよ、正常運転」

「そうかそうか、そりゃ良かった」

 

 神原駿河(カンバルスルガ)、彼女もまた、怪異に関わってしまった人間だ。左手に悪魔を宿すといういかにも中二病みたいな設定であるが、表向きではバスケットの練習中による事故で故障してしまったということになっている左手に巻かれた包帯の下には──その左手の形を隠すように巻かれたその包帯の下には──猿の手がある。女子高生の体躯に似つかわしくない猿の手が──。

 

 神原は後輩であるが、先の話に出て来た七海というのは僕の同級生である。

 七海千秋。

 怪異との関わり合いは全く無い、純粋無垢な人間で、純度百パーセントのただの人だ。その経歴に怪異なんて言葉が刻まれることは決してなく、いつだってそれら魑魅魍魎の類とは異なる道を違った方向に進み続けている。やはり綺麗な心を持つ人間に、怪異という非日常的であり日常に溶け込んでいる異形の存在はは近付かないのかもしれない、あまりにも綺麗な水の中では魚は生きることが困難であるように。僕のように捻くれたやつは、背筋が凍るほど綺麗な吸血鬼に恥ずかしながらも田舎街で襲われ、戦場ヶ原は家庭の事情があったがゆえに蟹に体重をかっさらわれて──ともかく、怪異に関わってきた人間には必ず心に深い何かが、赤の他人がおいそれと触れてしまってはいけない何かがあるのだが、きっとそのようなものを七海は保持していないのだろう。

 

 廊下に出たそのすぐそばに、僕の後輩である江ノ島盾子の姿があった。図書室にはいくつか出入口があるし、この扉から出たのは偶然のことなので、ここで鉢合わせたというのはまさに運命的なことだろう。偶然も偶然、きっと彼女は図書室に用でもあったのだろうけれども、待ってましたと言わんばかりの顔で江ノ島は言葉を発する。

 

「お、阿良々木センパイ。奇遇だね」

「先輩には敬語を使え、江ノ島」

「へぇい」

 

 江ノ島はどこか落ち着きがなく、キョロキョロと僕の後ろの方を見ている。なにがあるのだろうとふと気になり後ろを振り返ってみると、真顔で戦場ヶ原が棒立ちしていた。怖っ、ガハラさん怖っ。ひょっとして何か因縁めいたものがこの二人の間に存在しているのだろうか……? そういった噂は聞いたことがなかったが……いや、戦場ヶ原とて、いくら神原という後輩との繋がりがあるといっても七十八期生全員とは知り合いなわけじゃないし、僕とて関わり合いがあるのは片手の指で足りるほどなのだから、ただ単純に江ノ島とは初対面であるということなのかもしれなかった。

 それにしたって怖い表情だけれども、元々こいつは危なくって怖いやつだったから、あんまり意外とは思わない。

 

 何はともあれ、この場合は戦場ヶ原に江ノ島を、江ノ島に戦場ヶ原を紹介するのが良いだろうと思い、僕は一歩右側に逸れて仲介役に勤めようと考えた。

 

「戦場ヶ原、こいつは一つ下の学年である七十八期生の後輩、超高校級のギャルである江ノ島盾子だ」

「ご存知あげてるわ、よろしく、江ノ島さん」

「ほーら、阿良々木センパイ。知らない方がおかしいんだよー。よろしく、戦場ヶ原センパイ!」

「知ってるなら戦場ヶ原の紹介はいいか」

 

 キャルルンという効果音が出そうなほどにぶりっ子を演じている江ノ島を冷ややかな目線で見つめる戦場ヶ原……一触即発ありそうな雰囲気であると流石の僕でも察することが出来たので、江ノ島に軽く手を振って適当にあしらってから、戦場ヶ原の背後に回り肩を押して寄宿舎の方に向かおうとする。その間戦場ヶ原はずっと江ノ島の方をまばたき一つせずにガン見していた。それを見て背筋がブルリと震えたが、ともかくこの二人は遠ざけようと奮闘する。しかし、江ノ島の方から満面の笑みで近寄って来た。

 

「阿良々木セーンパーイ。ちょっと話があるんですけど、いいですかね」

「あ、ああ。僕は別に構わないが……」

「…………、はあ、私はもう帰るから、阿良々木くんは後輩ちゃんとお話になりなさいな。じゃ、また明日」

 

 ひらり、と、戦場ヶ原は手を振ってそのまま寄宿舎の個室へと帰っていった。追いかけようかと迷ったものの、しかしどうしても僕はたったの一歩を踏み出すことができなかった。

 

「…………、話ってなんだ? 江ノ島」

 

 江ノ島の方へと向き直り、面倒くさいという雰囲気を醸し出しつつ学生鞄をひっさげている手を肩にかけ訊いた。すると、満面の笑みを浮かべて江ノ島は話し始めた。

 

「えっと、ほら、私ってお姉ちゃんいるじゃん」

「初耳なんだけど」

「えー、話してませんでしたっけ? 残念なお姉ちゃんっていつも言ってた気がするんですけど」

「そうだっけか?」

「そうですよ、残念なお姉ちゃんなんです。略して残姉」

 

 やたら落ち込んだ雰囲気で、江ノ島は言った。

 

「で、確か阿良々木センパイって、妹さんいましたよね?」

「ああ、確かに僕には無粋な妹がいるよ、まったく、可愛げのない奴だが──僕の妹と君の姉が、関係あるのか?」

「まーそこらへんは知らないんだけど、詳しくはお姉ちゃんから聞いて」

 

 適当な返事だなあと不満に思いながら、分かった。とそれを承諾した。なに、かわいい後輩の頼みだ、僕に出来ることならなんでもしてやろうじゃないか。成り行きではあるが、連絡用にと江ノ島の姉のメールアドレスと携帯番号を僕は入手することとなった。名前の欄には『戦刃むくろ』とある。名字が違うところを見ると──かなり、複雑な家庭環境なのかもしれない。あまりそこには触れないようにして、僕は江ノ島と別れるのだった。

 

 家に帰り少ししたくらいに、一通のメールが届いた。

 江ノ島の姉からのメールだろうかと思い少し緊張しながらメールボックスを開けると、それは意外なことに戦場ヶ原からのメールだった。……僕は今日のことを咎められでもするのだろうか、確かに、少し対応が悪かったとは思うが……、今度はまた違う意味で緊張し、そして手が震えるものの勇気を振り絞りメールを開く。内容はこうだ。

 

『阿良々木くんへ

『あの、江ノ島盾子っていう子。あまり関わらない方がいいわよ。

『嫌な予感というか……変な感じというか、上手く言えないんだけど、会っていい気分がしなかった』

 

 おいおい、もしかして嫉妬しているのか?

 

 なんてお気楽に考えては、適当におやすみだなんてメールを返した。



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003

『阿良々木先輩へ。おはようございます

『いつも盾子ちゃんがお世話になってます、お初にかかりますが、江ノ島盾子の姉、戦刃むくろです

『今度お話がしたいんですけど、都合が良い日はありますか?』

 

 お昼休憩中、校舎外にある園庭のベンチで日向と一緒にああだこうだと言い合い、物議を醸しながらお弁当を食べていると、前述のメールが届いた。届いていた、というわけではなく、まさしく食事の真っ最中にピロリンと、僕のメールボックスに放り込まれたのだ。僕はそのメール読んでは同じ席に座る日向にそれを見せ、これをどう思うかとそれとなく訊いてみると「おはようございますって、けったいなやつだな。もう昼だぜ?」と彼は言い、薄ら寒そうに笑いながら白米をかきこんだ。

 はは、それもそうだな。と僕は僕で乾いた笑いで返した。

 

 戦刃むくろ。

 超高校級のギャルである江ノ島盾子の姉であり、また同時に超高校級の軍人としてこの高校に通う生徒。

 戦場ヶ原並みに物騒な名前をしているが、その実正体は不明──。

 彼女の話は以前より、その妹である江ノ島から重ね重ね多岐に渡り伝え聞いていたのだが、江ノ島が言っていた残念なお姉ちゃんというのは、つまり、挨拶を間違えちゃうような鈍臭いお姉ちゃんだということを示唆しているのだろうか。

 超高校級の軍人なんていう肩書きを聞く上で、鈍臭いだとか残念だなんていう言葉はまるで繋がりがなさそうな──それこそ縁のない表し方であるように思えるのだが、このメールだけで判断するのは少し躊躇われるものの、なんとなくこういう人もいるのかもしれないと思えてはいた。

 

 そういった考えは、二年前の僕なら、到底考えられない事だろう。

 天才には変人が多い──常識の枠に当てはめようとする事は愚行である──そんな思考回路を焼き付くように組み込まれた今だからこそ、超高校級の軍人たるもの周囲に常に注意を払い、なおかつミスなど許されないなどといった、いささか理想が高すぎて偏見とも捉えることができる考えをかなぐり捨てる事ができていた。

 

 食事中に携帯電話を触るという行為に対して一片の抵抗もないといえば嘘になるし、実際非常に行儀が悪いと僕は思うわけだけれども、しかしせっかく後輩がメールをしてくれたのだ、これは返さずにはいられないな、と、僕は箸を置いて返信を打つ。羽川や江ノ島などと比べると、蝿が止まりそうなほどにすっとろい打鍵であるが、それでもしっかり一字一句言葉を打ち込む。

 近年、既読スルーという言葉が流行っているように思えるが、LINEをしていない僕からすれば全くもって無縁の話だけれど──いくら相手に、自分がメールを読んだということが知られていないとはいえ、そのメールに対して返信せずに弁当を食べ進めるという行為に罪悪感がないわけではない。別に感じなくたって良い罪悪感なのだろうけれども、不思議と感じてしまったのだから仕方がない。

 これは後輩のためなのだと、そう心に言い聞かせ、僕は力が込もった指先をパネルに移動させ続けた。

 

『こんにちは、そして初めまして。戦刃後輩

『まあ世話してやっているというか、迷惑かけられてるって感じけどな

『話? メールとか電話じゃダメだっていうなら仕方ないけれど、そうだな。最近はもっぱら暇だし、明日以降ならいつでも大丈夫だぜ』

 

 送信。

 

 携帯電話をポケットにしまい、もう一度日向と話を始めた。先程の話題ではなく、一転変わって僕の交友関係の話になった。そんな話なんかして楽しいだろうかと思ったが、雑談なんて明日の朝起きたら覚えてないような──そんなくだらない話ばっかりなんだから、別に良いかと、そう思った。

 

「ん、そういやさ、阿良々木」

 

 日向はこちらに目線を向けず、園庭の奥に見える校庭を見ながらそう言った。この位置からだと校庭、体育館、校舎を同時に見ることができるのだ。だからどうしたってもんだが、なんか、お得感がある。

 

「なんだ? 日向」

「お前ってさ、結構交友範囲が広いようで狭くって、でも実は広いだろ?」

「なんだそれ。僕にはお前が一体何を言いたいのかがさっぱりだぜ?」

「だからよ。お前は色々な学年に知り合いはいるけど、でも知り合いが多いってわけじゃないじゃねえか。俺の知る限り、同級生でも俺を含めて片手で足りるくらいだろ? 俺、七海、戦場ヶ原、羽川──」

「やめろ、僕の交友関係の狭さを露呈させるな!」

「安心しろ、俺なんてお前と七海くらいしか友達がいない」

「安心できるかっ! これから先、僕はどんな顔をしてお前と付き合っていけば良いんだ!」

「笑えばいいんじゃないかな」

「それは違う主人公だろうが!」

 

 一作前の主人公のセリフを取ってやらないでくれ。

 厳密に言うなれば声の人なんだけど。

 

 日向の言う通り、確かに僕は決して知人が多いわけではない。むしろ少ない部類に入るだろうし(流石に日向を引き合いに出されると困ったものだけど)、片手で事足りることはないにしても、両手となればそれもまた現実味を帯びてくる話だった。

 ま、友達が少ない日向は日向で、色々と事情があるというか、問題があったというか……あいつは予備学科生徒であるにも関わらず、本科の生徒と友好関係をもってしまったがために、同じ学科の生徒とは友好関係が築けていないらしいのだ。予備学科生徒はどうやら本科の生徒を憎んでいるらしく、その憎悪を向けるべき矛先と仲良くしているというのは、それだけで、その憎悪を向けるべき対象になってしまうのだろう。

 行き場のない怒りの捌け口に、してしまうのだろう。

 そんな日向を可哀想に思って仲良くしてやれるほど、僕は深慮深くなければ良いやつでもない──ただ純粋に、僕は友達として接しているだけなのだ。

 本当に、友達として。

 こんな時ほど、友達という言葉は陳腐なものに変化してしまう。なんとも悩ましい。

 

「んで、それでもって──今度は後輩だろう? 一つ下の後輩」

「ああ、まあな……。江ノ島っつーやつから聞いたところによるとだな、なんでも、残念なお姉ちゃんだそうだ。それに双子らしくってさ、珍しいもんだよな」

「双子? 姉妹揃って超高校級か……」

 

 一瞬、神妙な面持ちになるが、すぐにいつも通りの笑みを日向は浮かべて「それは凄いな」と言った。やはり彼もまた──超高校級への劣等感というものがあるのだろうか。そういったものは、どうしたって、拭いきれないのかもしれない──しかしそれで何かしらやらかすというなら、殴ってでも止めるのが僕の役割と言えるだろう。友達として。

 

「まあかといって、仲良くしてるわけじゃないんだけれどさ──なんでも、少し話がしたいらしい。多分相談か何かだろ、ほら──僕って、花札とか強いだろ? で、そういう賭け事方面にめっぽう弱い後輩とかから、質問や相談を受けることがあるんだよ。別に僕はギャンブルなんて出来やしないのにさ──」

「ほらって言われても、俺は初耳だけどな」

 

 ちなみに、後輩というのは特定のある一人のことである。

 

 今になって思うが、過去に僕が抱えていない悩みというものは、極めて贅沢な思考だったのかもしれない。環境に甘え、他者から見れば既に普通の生活を送る以上の幸せを享受しているのにもかかわらず、更に何かを求めたり、それを嫌になったりするのは──。

 でも、贅沢極まりないが故に、それがかえって邪魔になってしまっている部分があるのだ。

 

「ふーん……大変だな、お前も」

「まあな」

 

 お互いの弁当箱は空になっており、僕はただパックに備え付けられていたストローを、惰性で口に咥えているだけであった。

 日向は特に何かをしているといったわけではなく、ただ空を見上げていた。今日は晴れ、快晴だ、まさに夏らしく、久しぶりに海にでもいってみたいなと思えるほどだ。

 

「……高校最後の夏休みだっていうのに、学校に来て男二人、むさ苦しくベンチに並んで弁当食べてる僕らって──一体なにやってるんだろうな」

「赤点の補習だろ」

「言うな」

 

 言われると、悲しくなる。

 ま、その補習も今日で終わりだ。あと午後の一時間を終わらせれば──無事、ようやく、夏休みがスタートする。といっても戦場ヶ原と羽川の交互に訪れる家庭教師から免れることは不可能であるからして、勉強から逃れる事は不可能に近いんだけど。

 まだまだ勉強か……受験生としての辛さを僕が噛み締めていると(噛んでいるのはストローだが)、日向は息を大きく吐いて立ち上がる。近くのゴミ箱に空のペットボトルとコンビニ弁当の入れ物を捨てて、大きく伸びをしてから。

 

「それじゃ、俺はそろそろ予備学科に戻るよ。またな」

「そうか、じゃ、また」

 

 と、この場を去っていった。本科と予備学科の棟はもはや別の学校ではないのかというほどに離れているため、わざわざこちらで食べさせてしまったことに罪悪感を感じた。

 

 僕もお弁当を片付け、最後の補習を受けるために本科の棟へと足をのばす。

 

 その日の夜。

 また、戦刃からメールが届いた。

 

『盾子ちゃんはあんな感じですから、よろしくお願いします

『そうですか、それなら明日でもよろしいでしょうか。場所はどこでもいいのですが、特に指定がなければ、希望ヶ峰学園近くにある緑乃公園で、午前十一時くらいに』

 

 僕は了解といった旨を返信した。

 

 しかし──戦刃むくろ。少しそそっかしいところがあるのかもしれないけれども、残念なお姉ちゃんというイメージは、未だにしっくりと来ない。しっかりとした礼儀正しい子、それが今現状戦刃むくろという後輩に対して抱いている印象なのだ。

 それにしたって、いったいどんなやつなんだろう。

 会ってみなくちゃ分からないことが多く、明日が心から楽しみに思える。

 

 一応、忍のやつに明日の予定を伝えておこうかと、自分の影に声をかけるが返事がない……この時間に寝ているということはまずないはずだが、念のためドーナツの話をほのめかしたりもした……しかしそれでも反応はなかった。……ああ、そういえば今、忍のやつは同じアパートの人のところでお泊まり会やってるんだっけか。

 元、とはいえ、伝説の吸血鬼、怪異の王であった彼女も──今となってはただの幼女だな。



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004

 江ノ島盾子の姉である戦刃むくろと、メール越しではあるが初の接触を行った次の日。今日も今日とて返って気分が悪くなりそうなほどの激しい快晴であった。

 

 僕はようやく、晴れて夏休みの補修から解放され、そしてやっとの思いで長期休暇を楽しみ満喫することができる。祝日や休日というものを嫌い、なによりも長い休みを良しとしない平日至上主義者の僕ではあるものの、しかし今回ばかりはそんな休みの日でさえ楽しみに思えている。

 実は今日から──というより、昨日学校に帰ってからすぐに向かう予定であったのだが、我が故郷である地方都市のその田舎、直江津市へと帰省することになっていたのだ。実家に対しては言葉にできないような嫌悪感を抱き、無意識下で遠ざけていたのだけれども、しかしこんなときくらいじゃないと帰れないというのも確かなことであった。どんなに嫌なものでも──それから長い間離れてしまえば、少しくらいは哀愁の感情が湧いてくるというものである。

 もっとも、後輩との用事ができたと親に話しそれは少し延期にすることになったけど、別に休みというのは幾らでもあるし(流石に、戦場ヶ原や羽川が親切で行ってくれている家庭学習をすっぽかす事はできないので限りはあるのだが)、一日くらいなら予定がズレたって問題ないはずだ。どんな話をするのかどうかはさておき、僕は戦刃との会話が終わり次第新幹線に乗るつもりである。

 妹からの反感がとても強く、幾度となくメールやら電話が届き着信音がうるさいがあまりに携帯電話の電源を切ってしまったのだけれども、さてはて、帰郷し面と向かって会敵したとき、僕の体はどうなっているのやら……。火憐ちゃん、怖いんだよなあ、あいつ、空手(という名の対人殺戮武道)習ってるし、悔しいことに体格差でも負けてるから勝てそうにないんだよ。

 五体満足で新学期を迎えられるかどうか、というのが、今のところの悩みだ。

 

 胃に穴があきそうなほどに、必ず起こりうる未来を苦しみながら味わいつつ、僕は希望ヶ峰学園付近にある緑乃公園へと向かった。

 

 緑乃公園。緑、なんて漢字を名前に付けているのも納得するほどに緑豊かな公園で、非常に大きな敷地面積を誇っている。ピクニックだなんてことをやってみても良いかもしれないな、なんていう風に思えた。

 十一時くらいに緑乃公園で──つっても、この公園はかなり広い、よく良く考えてみればもう少し厳密な待ち合わせ場所を決めた方が良かったなと、今更ながらに後悔する。

 戦刃の影を探すが、しかし、一度も会ったことがないやつを探すというのは、なんとも困難であるという事は言うまでもないだろう──。

 とりあえず自転車を止め、連絡を取ろうと近くのベンチに腰を下ろす。その矢先、隣の人に声をかけられた──()()()()()()()()()()()人間に声をかけられた。

 見た目はただの女子高生──至って普通の、可愛らしい女の子──であるはずなのに、まるで、恐れ慄くのに値する印象を僕は受け、思わず身を屈めてしまう。彼女の手にナイフが握られているわけではないのだけれども、なにかそういった危険性というものを、僕はヒシヒシと感じ取ってしまっていた。彼女の両膝の上に置かれたその右手甲にはオオカミか何かの刺青が入っていて、一際目を引いた。最近流行りのタトゥーシールというものなのだろうか、彼女の見た目に対する第一印象がその長身で(羨ましい)、スレンダーな体型、さっぱりとした艶やかな黒髪、また涼やかな顔立ちと、特徴だけをつらつらと列挙するならば、それは、ただの優等生のようにも見えるのだが──そう見えてしまうが故に、ファッションでだってタトゥーシールなんていうギャルがやりそうなことはしなさそうな人に見えた、そして、身長は僕よりも少し大きいようだ……。

 

「こんにちは、阿良々木先輩」

 

 と、その女子は笑みを浮かべる事なく言う。

 もしや、この子が江ノ島の姉である戦刃むくろなのだろうか。体型こそアレだが、顔立ちも少し、似ているような気がする。

 

 

「阿良々木先輩?」

「……あ、ああ。ひょっとして、お前が戦刃か?」

「ええ、まあ」

 

 やはり彼女が、江ノ島盾子の姉である戦刃むくろだったらしい──。

 しかし、なぜこうも早く彼女と僕は出会うことができたのだろうか、例えるならば、都心の駅で待ち合わせる──それこそ東口だとか西口などがあると言うのにもかかわらず、そういった所で細かな場所を決めずに待ち合わせをしていたにも関わらず、地下鉄から外に出たところで声をかけられるような──そんな、不思議な感覚に見舞われた。まさかずっと後ろをつけていたわけじゃあるまいし……なんとも、奇怪なこともあるものだ。

 

「僕の名前は──んん、知ってるか」

「はい、以前からお聞きしています」

「…………」

「…………」

 

 …………。

 話題が無くなった。

 無くなっちゃった!

 

 別に、話術に長けているつもりなんてサラサラ無かったけれど、まさか開始数秒で喋ることがなくなってしまうとは、予想だにしていなかった。

 

 妙に気まずさを感じ、僕は様々なところへ視線を巡らす。やがてそれは戦刃の右手の甲にあるオオカミのタトゥーへと移っていた。それに戦刃も気付いたのだろうか、(おもむろ)に右手を胸元まで持ち上げては、そのタトゥーを僕に見せるようにして語り始めた。

 

「気になりますか?」

「ああ……まあ、なんつーか、あんまりそういう刺青とかはしなさそうなイメージだったから、意外でさ」

「そうですか、でも最近流行ってるらしいですよ。盾子ちゃんもタトゥーシールなんていうものを貼ってる時がありますし──もっとも、これはシールでもペイントでも無い、ただのタトゥーですけど」

「そのただのタトゥーがだな……」

「些細なことですよ」

「そうか?」

「そうです」

 

 なんでも子供の頃からミリタリーに憧れていたらしく、中学校時代に欧州旅行の最中で家出をして……えっ?! 家出って! なんというか、やはり超高校級ともなる才能の持ち主はやることが違うというか……僕のようなただの一般人には思いもつかないようなことであるというか……戦刃という名前は、ひょっとすると海の向こう側で付けた名前なのかもしれない。だとすれば洋名なのかもしれないな、イクスァヴァみたいな……そんな地名なり神様が、ひょっとすれば海外には存在するやもしれない。

 ともかく、それで、伝説とまで言われる傭兵部隊、フェンリルに入隊。なんでも手の甲の刺青は──オオカミのタトゥーは、その傭兵部隊のシンボルらしい。軍人として実際に戦場に赴いていたようだが、夏服のため露出格好であるためよく肌が見えるのだけれども、その露見した部分からは筋肉質であるものの引き締まっているという素晴らしい肉体美がお淑やかに存在しているだけで、銃創はおろか、火傷の跡や擦り傷の跡すら垣間見えなかった。

 

「……? 変なとこ見てませんか」

「気のせいじゃないか?」

 

 そもそも女子高生が──活動自体は中学生の頃からのようだが、そんな年端もいかない女の子が戦場で生き抜き、今ここに五体満足で存在しているということが──彼女自身の実力を証明しているわけで、生きていること自体が強さの証、同い年の女子の中に混じっても傍目ではそう見分けが付かないことが彼女自身の凄さを表しているのだと──そう思った。

 

 しかし、そんな文武両道という道を月進月歩してそうな──まさしく超人という言葉をその体で示す彼女が、一体僕のような極一般人なんかに何の用があるというのだろうか。

 むしろ僕があれこれ聞くような立場であるとすら思える、人生経験も彼女の方が、きっと豊富だろう。

 僕は少しばかり背を伸ばしながら、何の用だと訊いた。

 

「その、お恥ずかしい話なんですけど。盾子ちゃん──妹と仲良くなれないっていうか、接し方がよく分からないといいますか……その、ほら、中学から今の今まで家を空けてたわけですし」

 

 今でも十分上手くいっているような気がするんですけど、ちょっと壁があるような気がして──と、彼女は幾分自信なさげに付け加えた。

 

「──そうか、それで、僕に江ノ島との付き合い方みたいなのを教えて欲しいってことなんだな?」

 

 僕と江ノ島はあくまで先輩後輩としてつるんでいるわけだから、そういった姉妹間の関係に口出しできるような立場じゃあないし、例えそんな立場に位置付けられていたとしても、僕はそれを万事解決万々歳で結果オーライには出来ないだろう。そういった旨を言おうと思ったのだが、それを制止するように彼女は話す。

 

「いえっ、そういうことじゃなくって、私は妹との接し方を教えていただきたいといいますか……」

 

 言葉を濁らせながらも、さらに切り込む。

 

「その、ほら、阿良々木先輩は妹さんがいらっしゃると聞きました。それなら、妹の扱いも上手なんじゃないかと……思いまして」

 

 ……ああ、そういうことか。なるほど、確かに僕には妹がひとりいるが──

 

「生憎だけど、僕は妹と仲良くなんてないぜ? むしろ嫌われてる」

 

 笑いながら、僕は言う。

 

「そう……ですか」

「そうだよ、目と目が合わなくてもリアルファイトって感じだ。罵倒よりも拳が先に飛んでくる」

「それは、なんとも」

 

 姉、か。

 妹、か。

 

 この後輩に何かできることがあるならばしてやりたいという気持ちはもちろんあったし、できないことでも全力を尽くして最善を尽くしてやろうとは思っていたけれども、今回の場合はどうにもならなそうだという結果を迎えてしまいそうだ。

 きっと、僕と妹との関係は修復のしようがないだろう。最低ではないものの、しかし良でもなければ可でもない。

 申し訳ないという気持ちで声をかけようとすると、戦刃はパッと顔を上げ、距離を詰めてくる。

 あまりに急なものであったため僕は無様にも驚き少し後退してしまった。

 

「ど、どうした?」

 

 とても明るい表情で、彼女は口を開いた。

 

「妹って、大抵理想の姉を思い浮かべるっていうじゃないですか、まあ体験談なんですけど。それも、姉がいなかったら特にそうでしょうし、阿良々木先輩の妹はどうやら一人のようですから──それに、仲が悪いというのであれば、何かしらの理想を抱いていてもおかしくないんじゃないかって」

 

 江ノ島、お前の姉は残念なんかじゃないんじゃないか?

 僕自身が残念な兄なので、他人の姉を評価する資格というものをきっと持ち合わせちゃいないだろうが、しかし、それでも残念なんかじゃないと思えるような名案だと思った。

 

「じゃあ、早速阿良々木先輩の家に向かいましょう。私、電話で聞くより生の声が聞きたいんですよね、電話はあまり慣れないというか……落ち着かないというか……、ほら、誰に盗聴されてるか分からないですし」

 

 なにが「ほら」なのか全く分からなかったが、しかし、僕の家にまで来る必要があるのだろうか──そう疑いを持つが、まあやぶさかでもない。彼女は軍人らしく、とても強いらしいのであの妹からも守ってもらえる……はずだ。それに丁度、今日家に帰省する予定だったんだから好都合極まりなかった。

 

 ので、かなりの急展開アップテンポながらも後輩とぶらり電車の二人旅、実家帰省ということになった。

 

 戦刃にも色々と話をし、僕も僕とて親に連絡を入れ、また、お互い旅の準備を終わらせてから(戦刃は大きめのリュックサック一つで、何が入ってるんだと聞くと「いつものやつです」、と言っていた)大きな駅へと向かい、新幹線に乗って僕の実家へと向かった。はてはて何年振りの帰省だろうか……いや、何年もなにも、僕は春休みやゴールデンウィークに帰省したじゃないか──もっとも、家に帰ったとはいえその(ほとん)どの時間を外で暮らしていたけれど、しかしあの地獄のような春休みと、悪夢のようなゴールデンウィークをあの街で過ごしていたじゃないか。

 

 忘れっぽいのも考えようだなと、僕は頭を撫でた。

 

 僕らは面と向かい合うタイプの席に座った。車窓からの眺めを視界の端で追いながら、僕は眠ってしまっていた。

 

 戦刃もいつのまにか寝てしまったようだが、寝息一つ立てずに、まるで死んでしまったかのように眠っていた。



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005

 電車に揺られて三時間。と言えば多少は風流があるかもしれないが、最近の電車というものは──特に新幹線というのは揺れがとても少ない。騒音なんてものもいじらしく控えめで、眠りから目を覚ました時なんて、あまりの揺れの少なさに電車が止まっているんじゃないかと思ったほどだ。

 ガタンゴトン。

 そんな言葉を、子供の頃は呪文のようによく唱えていたものだけれど、ひょっとすれば今頃の子供はもっと違う表現の仕方をするのかもしれない、すー、とか、しゃー、とか。……ホバー移動か何かか?

 ともかく僕は都心からは程遠い田舎街に──我が故郷へと帰ってきたのだ。帰ってきたのだが、しかし懐かしいや嬉しいといった感情よりも、長時間シートに座っていて体が痛いという思いの方がどうしたって強く表に現れており、今すぐにでも家に帰ってベッドに倒れ込んでしまいたい思いで僕はいっぱいだった。改札を出てすぐのあたりで一旦荷物を地面に降ろし、肩を降ろして息を吐く。あの公園で戦刃と話をし、そして急遽人数が二人となった帰省の支度に少し時間をかけてから三時間は新幹線に乗っていたのだ。右手首に巻いている腕時計を見ると、もう既に午後の四時である、おやつの時間過ぎてるじゃねえか畜生。別に三時になったらお菓子を食べるという習慣はないんだけど。

 午後の四時という昼でもなければ夕方とも言い難いなんとも曖昧な時間だけど、しかして僕の体は疲弊している。もとより、何かしら運動をするということは慣れちゃいないのだ。あの春休み以降吸血鬼としての能力(スキル)を手に入れた僕は常人と比べて()()()()()身体能力を保持しているが、けれども所詮それ止まりであるし、なんなら忍に血を吸わせてやらないと望むような力を発揮することはできない。最後に忍に血を吸わせてからだいぶ経っているもんだから、僕は身の丈にあった体力になっているのだ。

 ともかく。

 そんな僕と相反し、戦刃は新幹線に乗る前と変わらない面持ちであった。その上僕の顔色を伺っては「荷物を持ちましょうか」なんて言う始末だ。流石超高校級の軍人っつーか。

 しかし、だとしても、僕は先輩としての尊厳を守るべく後輩に頼るわけにもいかないので、丁重にお断りし、あるかないか分からないような力を出して電車を乗り換え、バスを乗り継ぐ。

 いつもは自転車で街を走っていたものだから、バスに乗ると否応無しに新鮮さを感じてしまう。こんなに高い目線で町を眺めるのはいつ以来だっけか。

 

「阿良々木先輩はこの街でお生まれになったとか」

「直江津市、これといった特徴もないただの田舎町だよ」

「……私の故郷も、こんな町でした」

 

 戦刃は水垢のついたガラス越しに町を眺めながらそう言う。鏡に映るようにして鏡面に映る戦刃の表情には、言い知れない哀愁があるように思えた。

 

「こんな町、って、まるで今は違うみたいな口ぶりだな」

「ええ、私が幼い頃に紛争が起きまして、ちょうど町は二大勢力に挟まれる形にあったので……今は焼け野原じゃないですかね」

 

 ……あまり聞いちゃいけない過去を聞いている気がする。それにしちゃあヤケにあっさりとした物言いだが。

 しかし、軍人になった理由はミリタリー好きが転じて──と聞いていたけど、実のところその紛争とやらに巻き込まれた際、助けてもらったから憧れを抱いた……なんていうベタなものなのかもしれない。

 

「いや、嘘ですよ。そんな悲しい顔しないでください。そもそも平和主義の日本で紛争なんて起きるわけないじゃないですか、私は生粋の日本人ですよ」

「そんなことだろうと思ったよ!」

 

 そして、帰宅。

 

「ほほう、ここが阿良々木先輩の実家ですか」

「神原とかには言うなよ、後が怖い」

 

 手押しで玄関扉を開ける。すると、廊下の奥の方からうるさい足音が聞こえて来た。よし、閉めよう。

 直感的に迫りくる危険を感じ、僕はタイミングを見計らうもなにも無く玄関扉を勢いよく閉める。その音に戦刃は一つも心の揺らぎを見せない。そして、獣皮で地面を叩きつけるような足音が消えたかと思えば玄関のガラス越しに一つ足跡が見えた。それと同時に、電流が痺れたかのように肌が震える。後一歩扉を閉めるのが遅れていたら……きっと扉に残るくっきりとした足跡は僕の顔に付着していたことだろう。向こう側から「ああ? にいちゃん! なにやってんだよ!」と罵声が飛んでくるが、それはこちらのセリフである。

 

 扉を開き、背負っていたリュックサックを投げつけては「お前こそなにやってんだ……」と溜息混じりに言う。

 

「なにって……そりゃにいちゃん、挨拶だよ挨拶!」

「挨拶で実兄の顔に飛び蹴りを食らわす文化があってたまるか! 短パン小僧だって目と目があってから勝負を申し込んでくるぞ!」

「うるさいなあ……」

「いやっ、もっと喜ぼうぜ? お前の愛してやまないお兄ちゃんが帰ってきたんだしさ」

「ん? ああ」

 

 火憐ちゃんは気だるそうに右足を抜き上げると、それをなんの躊躇いもなく敵意を持ってこちらへと振りかざしてきた。

 

「うわっ! なにすんだてめえ!」

「いやっ……だって兄ちゃん寝言()ってるから起こしてあげようかと思って」

「そんな気遣いいらねえよ!」

「っかしいなあ。師匠はこれでいいって言ってたのに」

「一度僕は親を交えてお前の師匠と話をしなきゃいけないようだ」

 

 客人に立たせたままというのもなんだ、火憐ちゃんの手厚い歓迎は無視して戦刃をリビングの方へと案内した。

 

 今更だが、彼女にはどこの部屋で寝て貰えばいいだろうか……両親に後輩が泊まりにくると伝えてはいたが、どこに泊めるかということを一切決めてなかった。無計画もいいところだなと自分の愚かさ加減に呆れ、とりあえず僕の部屋でいいだろうと荷物を置いてもらうために先に二階の部屋に行くことにした。

 

「元気な妹さんですね」

「元気なだけだよ、まったく、可愛げがあって欲しいもんだよ」

 

 長い間換気をしていなかったからだろうか、部屋の扉を開けると埃っぽい篭った臭いが顔を包んだ。少し表情をしかめながら、リュックサックをベッドの上におろし窓を開けて換気をする。

 やはり夏だからか、夕方の時間帯になっても外はだいぶ明るかった。扉を開けたせいで、蝉の声がうねるように聴こえてきた。

 

「ここは僕の部屋だけど他に部屋もないし、ここで寝てくれ」

「それじゃあ阿良々木先輩が寝れないんじゃないんですか?」

「大丈夫、詰めれば二人くらい寝れるから」

「そうですか」

「んじゃまあ、荷物はここに置いといて、これから僕の無粋で乱暴な妹を紹介させてくれ」

 

 一階にあるリビングでは、火憐ちゃんが大きなボウルに生卵を入れ、バニラエッセンスをかけてすすっていた。……いったいどこのストイックなボディービルダーだ、お前は空手家だろうとツッコミを入れたかったが、それをグッと抑え。

 

「よう、火憐ちゃん、久しぶり。元気にしてたか?」

「おうにいちゃん。彼女出来たんだな」」

 

 ……なんだか激しく勘違いをされてる気がする。

 きっと戦刃のことを言っているのだろうと思い、少し申し訳なさそうな顔で戦刃の顔を見ると、笑っているわけでもなく、また怒っているというわけでもないが無表情でもないという筆舌しがたい微妙な顔つきをしていた。……ともかく、誤解は誤解なので急いで訂正を加えると。

 

「なんだ、彼女じゃねえのかよ。あたしは彼氏いるってのに、にいちゃんはまだなのか。遅れてるなあ、今時小学生でも惚れた腫れたの付き合いしてるぜ」

「ちょっと待て、お前に彼氏がいる? はっ、笑わせるな。僕はその彼氏とやらに会ったこともないぜ?」

「にいちゃんが会いたがらねえだけじゃんか。なんなら今から呼ぼうか?」

「ああ呼べよ、呼べるもんならな。というか、もし本当にいるならそんなどこの馬の骨ともわからないやつ、ぶん殴ってやる」

「にいちゃんはあたしのお父さんか!」

 

 確かに、これは僕のすることではないような気がするので不意打ちを食らわせるくらいにしておく。ともかく今は戦刃の紹介だ。

 

「こちら、戦刃むくろさん。僕の後輩。おかしな話だけど、僕も今日初めて会ったからよく知らないんだけど、仲良くしてくれよ」

「戦刃むくろです。その、よろしくね」

 

 素っ気ないというか、少し緊張しているのだろうか。彼女はかなり極限までに削られた挨拶をする。

 

「で、こいつが僕の無粋な妹。なかなかでかい図体をしてるし、神経も図太いからこき使ってやってくれ」

 

 人前でちゃん付けするのには少し抵抗がある──それも、後輩の前だから尚更なのだが、よく考えれば帰ってきて早々ちゃん付けしてたなと思い出した。今更どう取り繕うと手遅れかなあ。

 

「どーもお姉さん。あたしは阿良々木火憐……って、にいちゃん! こき使うってなんだっ? こき使うって! にいちゃんにそんな権限ねえだろ!」

 

 なにはともあれ、双子の姉と年違いの兄妹の妹の方との初対面であった。この妹を見て、戦刃むくろはなにを思ったのだろうか。火憐ちゃんの姿に江ノ島を重ねたりしたのだろうか──

 

「戦刃、お前ってアレルギーとかあるか?」

「いえ」

「それじゃあ、火憐ちゃん。ご飯作ってくれよ」

「ええっ! 嫌だよあたし、めんどいもん。にいちゃんが作れよ!」

「火憐ちゃん、僕は長旅で疲れたよ……」

「名作のセリフを使うな! あたしは名犬じゃないぜ!」

 

 名妹だ! と火憐ちゃんは自信満々に言うが、名妹なんて言葉ないだろうとツッコミを入れたい。

 

「でも、お客さんに料理をさせるわけにはいかないだろ? それに、僕は僕で故郷に帰ってきたわけだから色々と地元の知り合いに話をしに行かないといけないわけだ。だから必然的に消去法でお前がやってくれ」

「にいちゃんに知り合いなんていたっけ」

「いる!」

 

 と言ってみたが、よく考えなくてもこっちに知り合いはほとんどいなかった。せいぜい千石くらいだろうし、それにしたって同級生ではなくたまたま出会った昔の通ってた中学の後輩という近いようで遠い感じの関係だ(それにしたって僕と千石は四年以上年が離れているわけだから、同じ時期に中学で勉学に励んだことはないんだけど)。

 

 ともかく、なんとか妹を丸め込んで料理を作ってもらうことになった。その間暇であるので、少し戦刃と街へ出向くことにした。僕はだいぶ疲れてるし火憐ちゃんと話してさらに疲労が筑西されたわけだけれども、まあ、別段する事もないわけだから適当にコンビニでも行ってお菓子を買おうという考えだった。

 

 夏休み中ということは、もちろん他の生徒達も帰省しているわけであり。もしかしたら羽川や神原、戦場ヶ原もこの街に戻ってきているかもしれないなと思うと、流石にコンビニで会うことはないだろうが、その道中ならひょっとしてがあり得る。いや──けれども、羽川は確か家に帰っちゃいないんだっけか。あいつはあいつで、事情があるからな。この地域にお土産らしいものはないが、羽川にはお世話になっているから学園に戻るときにはなにか買って帰ろう。

 

 特になにも考えはなく、後輩を連れぶらりと外へ出向いた。



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006

「ところで、阿良々木先輩」

 

 戦刃は──体格面から考えても僕より歩幅が大きいので、共に歩く以上は戦刃の方が先行しそうなものだがそこは彼女なりに気を使っているのだろうか──僕よりも一歩分後ろを歩いていた。

 そのため、後ろから声をかけられる形になった僕は後方に意識をやって、前を向きつつ大きめの声で、なんだ、と返事を返す。

 今の今まで僕が一方的に喋るばかりであったため(といっても、あんまり、おしゃべりな人間じゃないから二人揃って口を閉じていた時間の方が多かったと思うけど)、会話のキャッチボールではずっと受け身であった戦刃から話を振られたことに対し驚きを感じながらも、その言葉なりに興味に惹かれていた。

 なんたって、あの江ノ島盾子の姉だ。

 話の内容に興味を持たない方がおかしい。

 怪異関係でないと限定するのであれば数少ない後輩のうちの一人の姉が、一体どんな人間なのか……。その正体を解き明かすにあたり、大きな手がかりとなる会話という手段を戦刃の方から提供してきたのだから、最初に僕が驚いたのも無理がないと言えるだろう。

 

 双子の姉妹であり、そして人としての大切な何かを形成する時期を別々に過ごしたにも関わらず──それでも、お互いに超高校級の才能を獲得し、そして今では同じ高校に通う江ノ島と戦刃の二人に抱いた印象こそ──それこそ真反対であると言えるのであるが。

 その身体に流れる血筋は同じものなのだから、どこか似たようなところがあるんじゃないだろうか、と。

 育ちはバラバラでも、それでも、この二人の後輩には似てるところはあるはずだ、と。

 

 そんな思いには、そうであってほしいという身勝手な願いも込められていたと思う。

 二人からすれば迷惑な話かもしれないけれども、僕は超高校級の冠を被ることになった二人に一種の同情の心を抱いていたのだ。

 何年か会っていなかったため二人の仲が芳しくないと聞いたときだって、なんとかその間を取り持ってやりたい、と、どうしたら良いのかを時偶考えていた。

 結局手段という手段は思いつかなかったけど、だからこそ今回の出来事はチャンスだと思ったし、これから戦刃と関わっていくにあたり十分過ぎるほどに良いきっかけであった。

 

 それに、戦刃の気持ちが分からないでもなかった。

 妹との不仲という境遇が似ているから、ではない。

 江ノ島に対する感情の抱き方が少し似ているように思えたのだ。

 戦刃がアイツのことを「盾子ちゃん」と呼ぶように、そして不仲を不安に思うほどには家族愛を江ノ島に対して抱いている。

 僕だって、戦刃ほどではないだろうがアイツのことを後輩として好きだと思っている。そこに大きな差はない。

 ただ、江ノ島がその愛情をどう受け止めるかに、違いがあるんだと思う。

 

 そして、戦刃が僕なんかに相談してきたところを察するに、それなりにこいつも江ノ島盾子という一人の人間の掴み所のなさというものを感じているはずだ。

 

 江ノ島が姉を語るとき、愚痴を吐くことを楽しんでいる様子だった。

 けれどもアイツはそういうやつだから。なんでも楽しそうにする──少なくとも激怒したり、涙を流して号泣したりはしない──やつだから、いくら笑顔を浮かべていても、その裏に伏せられた真なる想いというものを僕は汲み取れていない。

 戦場ヶ原が以前言っていた、『江ノ島盾子はあまり関わらない方がいい。良い気分がしなかった』というのも、その実これが関わってきているのかもしれない。女の勘ってやつなのかは知らないが、戦場ヶ原はきっとそういう「本当の感情が表に出てこない得体の知れない何か」という江ノ島の(たち)に反応したんだろう。

 

 きっと江ノ島は、家族が死んだとしても、人に心配をかけまいと笑っていたり、愚痴を言ったり、死人を貶すような言葉を呟いたりするだろう。

 その行動に同情はするが、理解はできない。

 だからこそ指摘してやらなきゃいけないし。たかだか一年早く生まれただけだけれども、それでも僕は先輩という立場を利用して何かをしてやりたいと思っている。

 戦刃だってそう思っているからこそ不仲を解消したいんじゃないのかって、勝手だけれども想像する。

 

 そのためには、少なくとも二人には一般的な姉妹関係を築いてもらわなくっちゃいけないわけで。

 僕としては戦刃のことも知っておきたいわけで。

 結果だけ見ると後輩から女子高生を紹介してもらった男子高校生が日も置かずにその女子高生を実家に泊まらせるという、恋愛ゲームの主人公も真っ青な意味の分からない不埒な行動を取ってしまっているが……それはこの際気にしないでおこう。

 必要悪だ、必要悪。

 

 とにかく、だ。

 

 僕はそういった思いが孕んだ期待を密かに寄せて、戦刃が次に口に出す言葉がどんなものなのだろうかと、耳を傾けていた。

 

「あの──」

 

 と、言いかけたところで戦刃は、なにか他のものに意識を取られたようにして言葉を途切れさせた。

 

「ん、どうしたんだ? 財布を忘れたっていうんだったら心配いらないぜ。コンビニくらい、先輩である僕がお金を出すよ」

「いえ、そういうことではないんですけど……」

 

 と言い、戦刃は躊躇った様子を見せながら街にいる女子高生らしき数人組の女子を指差した。

 

「……ああ。あの制服だと……私立直江津高校っつーここら辺じゃ頭の良いところの生徒じゃないかな。時間的に考えて、大方部活帰りってとこだろ」

「流石です、阿良々木先輩、制服だけでどの高校の女子生徒かを当てるとは。これは先輩にしかできないことですね。……でもそうじゃなくって、ただちょっと、変というか……」

「待て、僕は別に女子生徒の制服を見てどこの高校かを判別できるようなスキルなんざ持っちゃいない」

「え? 持ってないんですか? 服の上からヒップのサイズを女児限定で言い当てると語り継がれていたあの阿良々木先輩が、持っていらっしゃらないと?」

「持ってねえよ! 服の上からヒップのサイズを女児限定で言い当てるあの阿良々木先輩は、制服を見ただけでその高校名を言い当てる技術なんざ持っていらっしゃらないよ! そして訂正してもらおう、正確にはヒップでなくスリーサイズを、だ」

 

 小中学生の制服ならまだしも、高校生はなあ。

 専門外っていうか。高校生だと流石に引くというか。

 

「あの制服を着ている子が通う高校に──私立直江津高校に、ちょっとばかし、思い入れがあるってだけだよ」

「思い入れ、ですか」

「ま、深い事情とかじゃないさ。単にその高校が、希望ヶ峰に入る前の僕の第一希望の高校だったってだけで」

 

 希望ヶ峰学園は完全なスカウト制で、高校生である者、または高校生としての資格を持つ者、高校生に進学する資格がある者の中から選ばれる。そのため、例えば一つ下の学年に所属してある石丸や桑田なんかは別の高校で一年以上在籍していて、そこで成果を挙げた結果超高校級の才能を持っているとしスカウトされたらしい。そのため僕と同い年、あるいは年上である。

 僕らの先輩の中にだって海外でエスカレーター制度を利用し幼くして高校生としての資格を得、そして超高校級として希望ヶ峰学園にやってきた人だっているのだから、僕より学年が上ではあるけど年齢で言えば年下である、ということも少なくはなかった。

 僕はというと、直江津高校に合格が決まった──つまるところ進学する資格を得た時点で、高校生と見なされ、スカウトが飛んできた。

 戦場ヶ原も、羽川も、そして老倉も。話を聞くところによると恐らくはきっとそうだろう。

 そういえば神原のやつも、直江津高校を受けてたんだっけか。希望ヶ峰に入れるかどうか分からなかったから、せめて戦場ヶ原が入学する予定であった直江津高校に入学したいと思っていたんだとかなんとか。そんな話を聞いたことがあったような気がする。

 超高校級の才能を持つ五人が五人ともに同じ高校を受験するということは……それはさぞかし歴史ある高校なのだろうと噂されることは多かったが、別にそういった、一線を画するような高校ではないのだ。

 羽川のような万能の天才が。

 戦場ヶ原のような文武両道の天才が。

 老倉のような異色の天才が。

 神原のような努力の天才が。

 少なくとも、そういう奴らが通うような高校ではない。

 地域で有数の進学校であっても、あくまで一般的な高校である。

 当時そこそこ頭が良かった僕が必死こいて勉強し、運が良ければ入れるような高校なのだ。

 そんな高校に天才が四人も──僕を含めて五人、入試に合格していたというのだから、その神秘性や奇跡というものをどうしたって人は感じてしまうものだ。

 

 ともかく、簡潔にまとめてしまうなら、私立直江津高校は僕からして『昔憧れを抱いていた学校』だ。

 あそこに通っていたら、僕はどうなっていたか──考えることはあるが、明確な答えを出せたことは一度もない。

 

「ふーん……いや、そういう話じゃないんです。高校に興味が湧いたわけじゃないんです。そうじゃなくってですね、なんだか彼女ら、様子が変じゃないですか? こっちを見ながらずうっと、なにやらコソコソと話をしていますよ」

「? 気にしすぎじゃあないか?」

「……私は人よりも視線に対して敏感なところがあると自覚してますが、それ抜きでも……んむむ」

 

 苦い表情で戦刃は言った。

 言われてみれば、確かに、あの女子高生の集団はこちらを見て、そして何かを話しているように見える。僕ら二人の後ろに何かあるのだろうかと振り向いては見たが、特に変わった様子は無い。

 僕も戦刃も、特段不審者めいた格好をしているわけでも無いし……。

 

「あれじゃないか? お前がなにかテレビで取材を受けたとかで、こんな地方でも有名なんじゃないのか? 昔っから、希望ヶ峰学園の生徒って憧れの的だろう」

 

 僕の言葉を聞き、戦刃は何かを思い出すように黙った後、もっともな考えを口に出した。

 

「いや……私はあんまり、そういった類は好ましく思っていないので、基本的に断ってます。──あるとしたら、阿良々木先輩、あなたじゃないですか? そもそもここって、先輩の地元じゃないですか」

「それもそうだが」

 

 確かにここは僕の地元であるが、しかしそう目立つようなことを過去にした憶えはないし……それに限って言うなれば、地域でヒーロー活動なんていう子供のようなことをしている火憐ちゃんが、僕のことを大きな声で触れ回っているという可能性しか考えられない。

 それに、僕の他にこの地域には希望ヶ峰学園関係者が多数存在しているのだ。わざわざ僕なんかのことを記憶に留めている物好きはいないだろう。

 

「あれじゃないか? 戦刃が見慣れない顔だから、物珍しがっているとか」

「そういうもの……なんですかね?」

「そういうものだ……って、割り切った方が楽だろう」

「それもそうですけど……」

 

 超高校級の軍人。

 海外の軍隊に籍を置き、幾度もの戦線を潜り抜けてきたにも関わらず、その身体に傷というものは一つとして存在していない。

 夏という季節によって晒された健康的な二の腕や太腿を見て思うが、普通の女子高生との違いは然程なく、運動部に所属している筋肉質な少女という触れ込みで紹介されたとしても疑問は湧かないはずだ。

 その瞳に込められた力強さというものは計り知れないものがあるけれど。しかしそれでも女の子なのだと思ってしまうような幼さを感じ取れる。

 そんな彼女を彼女足らしめる一因として、視線に敏感であることがきっとあるはずだ。人の気配にいち早く気付く、殺気を察する、妙な視線に気がつく。

 そういった無意識で働く自己防衛が、こうした日常の場面でも発揮してしまうのは職業病であるだろうし、日頃からそうやって自分の身を守らなければ生きていけない世界で生きてきた、という可憐な少女らしからぬ半生によるものでもあるのだろう。

 

 そんな彼女が人の視線をやたらと気にするのは至って普通で。

 非日常が日常である彼女にとってはいつものことなんだろうけど。

 なんだかそれは、とても悲しい。

 

「気にしすぎだぜ、別に悪いことをしたってわけじゃないんだからさ」

「それもそう、なん、ですかね」

 

 どうも煮え切らないようで、所々言葉を区切りながら戦刃はそう言った。けれども、もう気にしないことにしたのか、それ以降その女子高校生たちについて言及することはなかった。

 

 外を出歩いていて、誰か知人に出会う──という奇跡的展開に陥ることはなく、ごく普通にコンビニへ向かい、ごくごく普通に買い物を済ませ、ごくごくごく普通に帰宅した。なにか出会いに期待していたわけではないが、しかし少しガッカリとした思いであった。

 

 帰宅し、玄関の扉を開けると、リビングのキッチンから名状しがたい音が聞こえてきた。おかしいな……あいつ、今料理を作ってるんだよな? なにか得体の知れない冒涜的な何かと戦っていたりはしないよな?

 アイスを買ったものだから冷凍庫に入れておきたかったんだけど、あの様子じゃあ部屋に入るだけで危険度マックスって感じがするし……。止めに行きたい気持ちはあったが、なによりもまずは客人である戦刃の安全を確保することが最優先であると判断し、リビングに向かうことはなく玄関から直接二階へと身を運んだ。

 

「大丈夫なんですか?」

「大丈夫だと言えば嘘になるな」

「じゃあダメじゃないですか」

 

 ひとまず僕の部屋に連れてくることで戦刃の安全を確保し、ホッと息をつく。

 

「ちょっと用事があるからさ、少し部屋を離れるけど、適当にお菓子でも食べておいてくれ」

「用事ですか?」

「ああ。こっちの友達と少し話をしてくる」

「別に嘘はつかなくっても良いんですよ、妹さんのことですよね?」

「嘘なんてついてねえよ!」

「友達がいるという嘘は、後で自分を苦しめますし、あんまりしないほうが」

「だから嘘じゃない」

「いいんですよ。私たち、出会ってから日は浅いですが、これでも後輩として尊敬の念はありますから。嘘なんてつかなくっても」

「安い同情の目で僕を見るな! 本当に友達と会うんだ!」

 

 友達って言っても、人間じゃないけど。

 そして童女だけど。

 別に嘘はついてない。

 

 軽い憤りを感じながらも「本当の本当に友達と話すんだ!」という子供染みた捨て台詞を残して、僕は部屋を出、隣にある火憐ちゃんの部屋へと入った。手土産に友達の好物であるカップアイスを携えて、だ。

 部屋に入るとすぐにその姿が目に入る。ベッドの隣に、グデン、と。まるで人形のように力無い表情で座り込む童女──もとい式神である斧乃木ちゃん。入ってすぐの場所に居るというのもあるが、なによりそのロリータドレスという洋風な格好がとても目立っていた。

 相変わらずなに一つ変わらないなあと懐かしみを覚えるが、それもそのはずである。彼女は式神──怪異なのだ。人でなく、怪異。

 魑魅魍魎、妖怪、異類異形、変怪、魔物、お化け──そういったものに(なぞら)えられる、正真正銘の非日常。もっとも彼女を形容するに、式神であるだとか付喪神であるだとか、神、なんて単語を使用しているためそういって有象無象と一緒にしていいのから分からないけど。

 今はいい大人である怪異専門家たちが大学のオカルト研究サークル時代に作成した死体人形──それが、斧乃木余接。

 だから斧乃木ちゃんは普通の人間には出来ないことができるし、その幼げな容姿からは想像がつかないほどの並外れたパワーと戦闘能力を有している。また、寿命もきっと半永久的なものなだろう。致命的な傷さえ負わなければ永遠に生きていられるはずだ。いや、もしかしたら術式に期限があるかもしれないので堂々胸を張って言えないことではあるが、既に死んでしまっている死体人形の彼女がもう一度死ぬことはないはずだ。

 

 そして、そんな斧乃木ちゃんには表情がない。なにかを愉快に思うことはあっても、悲しいと感じても、怒りを覚えたとしても、常に無表情なのだ。感情がないわけではない、ただそれが表に出てこない。それに──死体な訳だから体温があるわけでもなく、また汗もかかず生理現象もない。

 トイレに行かなくていいというのはなんだか楽そうな気がするが、汗をかかないというのは体温調節ができないということなので、夏はとても熱くなってしまうんじゃないだろうかと、どうしたって気になってしまう。

 斧乃木ちゃんは死体なわけだから、地球温暖化が進みつつある現代の夏の日射で、腐っちゃうんじゃないかと心配し僕はアイスクリームを毎日のように送っているのだが──実際は腐らないかもしれないが、石橋を叩いて渡る。というものだ。杞憂に終わればそれでいい──それでも、直接確認しておかないと不安であるし、なにより長い間会っていないと気持ち的に寂しい。

 

「斧乃木ちゃーん」

 

 声をかけるが、反応がない。『どうやら ただの しかばねのようだ』、というエフェクトが出てていてもおかしくない。

 さらに声をかけてはみたがやはり反応がなく、スカートの中身を覗いたりほっぺたを引っ張ってみたり目の前で手を振ってみたりしたのだが、やはり反応は皆無だった。

 あれ? 斧乃木ちゃん、もしかしてただの死体に戻っちゃったんじゃ……。

 妹の部屋にいることがバレると色々ややこしいことになるので、ひとまず部屋を出てから考えようかとドアノブに手をかけると。

 

「やあ、鬼のおにいちゃん。略して鬼いちゃん。どこに行くんだい、せっかく再会したっていうのにさ。……もっとも、その感動の再会でスカートの中身を見るというのは人間性を疑うけどね」

「生きてるならちゃんと最初から反応を示せ。死んだのかと本気で心配したぞ」

「おかしなことを言うんだね。心配もなにも、僕はとっくの昔に──百年前に死んでるっていうのにさ。死体なんだから」

 

 無表情から繰り出された自虐に、どう反応していいものか口をぱくぱくとさせていると、そんな僕の様子を見かねてか、まるで糸の切れた操り人形のように力を感じない佇まいであった斧乃木ちゃんは人間らしからぬ挙動で重力に反した起き上がりかたをし、僕の前にゆっくりと立った。

 日本の地方都市には相応しくない華美な洋服は、一つひとつの所作ごとに所狭しと(あし)らわれたフリルが木の葉のように揺れる。

 

 なんでもこの服は、暴力陰陽師と悪名高い影縫さんの趣味だとか。

 ひょっとすればあの影縫さんも、人前では見せないだけで家ではこういう服装をしていたりするのかもしれないと思うと、見てみたいという興味が心の中にふっと現れる。けれども、そんな影縫さんのプライベートを覗いてしまった日には二度とその目では何も見れなくなってしまいそうだと戦慄する。

 

「で、その手に持っている円柱形の冷たくて甘そうなものはなんだい。せっかくだし、乗り気じゃないけど、これも縁だよね。僕が味見するよ」

「アイスってわかってるじゃねえか」

「アイス? ああそれ、アイスだったんだ」

「醜いぞ」

「醜いのは鬼いちゃんの心だよね、アイスなんかでいたいけな童女の心を惹きつけようとしちゃってさ」

「生憎だが、童女なんかに興味はない。僕はおねーさんが好きなんだよ、包容力のある、おねーさんがさ」

「よく言うよ」

 

 真夏の密室は非常に熱がこもる。火憐ちゃんの部屋にいることがバレないようにと扉や窓を閉め切っていることが災いし、僕の体温は上がるばかりで、四肢には気怠さがまとわり始めた。

 帰省するための長時間の移動の疲れが溜まっていたというのもあってだろう。いい加減な態度で、押結露でふやけたカップアイスを押し付けるようにして斧乃木ちゃんに渡す。

 

 斧乃木ちゃんは、強引に手渡された手中のカップアイスを驚いたように見つめたあと、火憐ちゃんのベッドの上に座った。

 妹のベッドに腰を下ろすわけにもいかないため、床に転がっていた椅子を起こしてそこに座る。

 

「それで、夏休みはどういった調子かな? 友達の少なさに絶望したりしないのかな、鬼のおにいちゃんはさ」

「そこそこって感じだ。というか、夏休みもなにも補習ばっかりだったし」

「補習……、補習ってアレ? 定期考査で点数が芳しくなかった人が受ける、例のアレかな?」

「む……」

 

 斧乃木ちゃんは感情が表情に出ないのと同時に、声にも感情が乗らない。いつだって安い機械音声のような喋り方をしているのだが、どうも今の言葉には僕を嘲るような気持ちが込められているように感じた。

 

「……ねえ、このアイス溶けてない?」

 

 不満げな態度で、斧乃木ちゃんは液状化し始めたアイスの表面をスプーンを使って叩く。

 

「斧乃木ちゃんがすぐに起きなかったからだろう。僕に責められる謂れはないよ」

「そうやって人に責任を押し付ける癖をどうにかしないと、鬼いちゃん、友達なくすよ」

「現に今、こうして目の前に実例がいるもんだから首肯することしか僕にはできないな」

「まるで僕が、人に責任を押し付けていて、友達が一人もいないみたいな言い方をするんだね。今このワンカットしかこのSSでは書き表されていないからって、厚い人望を各所から集めるみんなのアイドル的存在な僕の人物像をデタラメにでっち上げるのはどうかと思うな」

「そう言ってるんだよ! つーか、でっち上げてるのはそっちじゃねえか! デタラメ言いやがって!」

「怖いよー、鬼いちゃんがロリかっけーみんなのアイドル斧乃木余接ちゃんを虐めてくるよー、画面の前のおにいちゃんおねえちゃん、助けてー」

 

 斧乃木ちゃんって、こんなキャラクターだっけ?

 また誰かに影響されたのだろうか……最初に会った時は、もっとこう……冷たいっていうか、クールで大人びていたような気がしなくもないのだが。

 

「人に理想を押し付けるのはやめてほしいね」

「だったらみんなのアイドルなんざ辞めちまえ。つーか、ナチュラルに僕の心を読むな」

「付喪神として人にできないことができたりするけど、人の心を読むのは、それは()()()のすることだよ。僕はエスパーじゃないんだからさ」

「まあ、エスパーっていうよりかはゴーストって感じだしな」

「うーん、まあ、かくとうに敵わないあたりゴーストタイプって感じはしないよね。もっとも──お姉ちゃんは、ゴーストタイプ相手でも“こうかはばつぐん”を決めてきそうだけど」

 

 ありえそうで怖い。というよりか、むしろそういったヴィジョンしか見えてこない。

 

 話すネタが尽きたわけではないのだが、何故だか黙ってしまう。よくあることだけれども、未だにこの感覚に慣れることはない。

 アイスを舐める斧乃木ちゃんを見て、味を感じたりするのだろうか──と気になったのだが、聞くだけ野暮だろうと好奇心を抑えた。そんな僕の視線に感づいたのか、斧乃木ちゃんの方から僕に話を振ってきた。

 

「ところで、夏休みはどうだい? 元気に補習やってる?」

「…………。補習自体は、つい先日終わったばっかりだよ、これから何して遊ぼうか胸がワクワクしてる」

「卒業できるか分からないっていうのに、呑気なもんだね」

「卒業くらいできる! ……多分」

「多分、おそらく、きっと……そうやって人は過ちを繰り返していくんだね」

 

 呆れたように、斧乃木ちゃんはアイスの乗っていないスプーンを口で咥えた。

 

「こっちの近況報告をするのなら、特になしって感じだよ。依然変わらず……かな」

「そうか、ご苦労様」

 

 斧乃木ちゃんは、僕と忍が無害認定を得た時から一緒にいる存在だ。

 名目上は僕が友達からもらった人形として希望ヶ峰の方にある僕のアパートに住んでいて、主な仕事は僕と忍の監視──のはずだったのだが、この夏休みは休暇ということで、今現在、この田舎町にある僕の実家に滞在している。自然の空気が吸いたいなんてほざいていたが、この街は決して緑が多いわけではないし、山だってそう近いところにはない。

 そして監視というのには、また訳がある。

 臥煙さんが元締のネットワーク下での無害認定を貰いはしたが、やはりそれでも不確定な要素が多いわけで。外部内部両方からの批判が殺到しているらしいのだ。

 しかしそれも、もっともな意見である。

 怪異を喰らう者であり、怪異の王と呼ばれ、長きに渡り脅威と猛威を振るってきた忍に対する“危険だ”という意識が、もう危険じゃないなんていう言葉一つでそう簡単に覆るはずもなく──事実、僕が死ねば、忍は全盛期であったあの頃の姿に返り咲くことができるのであるから、それは今にも発射しかねない全世界に照準が合わされた核弾頭のようなもので──そのため、今となってはただの小さくて可愛い幼女に成り果ててしまった忍に対し危険視する意見はそう少なくはない。

 そこで、斧乃木余接という式神を監視につけることにより何か異常事態があれば暴力陰陽師と呼ばれる、不死性の怪異専門家、影縫余弦さんに即連絡……また、最低限の対処が出来るように──ということらしいのだが、その連絡andストッパー役もこのザマである。

 なんだよ休暇って。

 君の代理なんていないぜ?

 

「んで、斧乃木ちゃん。特に用事はないんだけどさ」

「ないなら帰ってよ」

 

 冷たい童女だ。アイスに影響されて体はおろか、心まで冷たくひんやりしてしまったんじゃないか?

 

 悪態をつかれながらも、ふと、聞いてみようかと思った疑問を斧乃木ちゃんに尋ねてみる。

 

「斧乃木ちゃんは、姉が欲しいとかって思ったことはあるか?」

「……妹が、ならその質問はあってるかもしれないけど、姉? おいおい。養子をとるのかい? 鬼いちゃんは」

「とらないよ」

 

 つーか、それだとまるで斧乃木ちゃんが僕の娘みたいになってしまうじゃないか。十代で子供はちょっと早いよ。

 

「──そうだね、そんなこと、考えたことないね」

 

 斧乃木ちゃんは、アイスを半分ほど食べてから蓋の裏についたアイスをペロリとなめとる。

 

「姉も妹も兄も弟も父も母も叔父も叔母も従兄弟も従姉妹も甥も姪もお爺ちゃんもお婆ちゃんもいない僕に、もし家族が出来るなら──なんていう質問は意味をなさないよ。そんなの、人間に翼を使った空の飛び方の教えを乞うようなものだからね」

 

 あっでも、お姉ちゃんはいるけどね。

 それでも、家族ってわけじゃないんだけど。

 

 ──と、やはり無表情で答える。

 

「でもまあ、僕は翼なんか使わなくったって飛べるけど」

 

 そういって、斧乃木ちゃんはピンと一本伸ばした人差し指を瞬間的にバレーボール大のサイズに肥大化させた。

 例外の方が多い規則(アンリミテッドルールブック)

 半永久的に死なないというだけの斧乃木ちゃんがなぜ、弱体化してもなお危険だと嘯かれている旧キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード──現忍野忍の暴走時のストッパーを任されているのかという疑問に対しては、先述の力が大きく関わってくる。

 その力とは、斧乃木ちゃんの童女と違わないような小さき体躯からは到底想像がつかないような暴力的、破滅的な能力である。体の一部を瞬間的に肥大化させ、相手に打つける──至極シンプルな力ではあるが、こと破壊においてシンプルさというものは何事にも変えがたいものだ。

 その力を足で使うことにより、肥大化からくる多大な反動で斧乃木ちゃんは文字通り空を跳ぶのだ──飛ばされた、吹っ飛んだと形容した方が適切かもしれないけれど。

 

「飛ぶっつーか、跳ぶって感じがするけど」

「誤差だよ、誤差。翼なんて適当に見繕っておけば、見た目だけは飛んでいるように見えるんじゃないかな」

「その翼が、跳んだ瞬間に付け根からもげていく未来しか見えないんだけど」

「羽が舞うなら、それはそれでまた幻想的じゃない?」

 

 正体不明の童女が地面を破壊して空高くへと発射され、後には無残に千切れた羽しか残らない……というのは、幻想的っつーかトラウマになりそうなものだけど。

 

「そうか、ありがと。僕は帰省に来たわけだしもう少し滞在するんだけどさ。帰りは、一緒に帰るか?」

「良いね。ああいうカバンの中に入ってどこか施設に侵入するっていうやつ、一度でいいからやってみたかったんだよ」

「ちゃんと金を払って乗車しろ!」

「百歳は超えてるだろうから、シニア割引発生するかな……?」

「……子供割引でいけるんだから、わざわざシニアの方で行こうとするなよ」

「子供扱いしないで。僕だってもう大人なんだからさ」

「高校生からアイスを貰う大人とは」

「付喪神だからね、神饌みたいなものだよ。氷菓子の神饌」

「安上がりな神様だな!」

 

 別に神様ってわけでもないだろうに。

 いやまあ、八百万の神がいる──何かそこに置いてあれば神だと思った方が良いくらいに神様っていうのはいるわけだから(なんせ、米粒の中にだって七人もいるらしい)斧乃木ちゃんが神様でも不思議ではないんだけど。

 

「で、どうする? 自分で帰ってくるか?」

「うーん、そうしよっかな。鬼のおにいちゃんと後輩さんを邪魔する訳にもいかないし」

「……、勝手に言ってろ!」

 

 そう言って、僕は立ち上がった勢いで部屋の扉の方へと向かった。

 

「じゃあな、斧乃木ちゃん」

「うん、またね。鬼のおにいちゃん」

 

 家の中なので、こうして別れの言葉を告げるというのは違和感のあるものだったが、一応はそう言ってから自身の部屋に戻った。

 

 もしかしたら中で戦刃が服を着替えているかもしれないので(流石に先輩の部屋で着替えるほど無防備な女子ではないだろうが)、しっかりと紳士的にノックをし、そして声が帰ってきたのを確認し、どうやら大丈夫そうなので中に入ると、戦刃は武器の手入れをしていた。

 

 扉を閉じた。

 服を着替えていてくれた方が幾分マシな光景だった。

 

 頭が酷く混乱したが、きっとあれはモデルガンとかいうやつだろう。軍人というし、日頃から体を鍛えてはサバゲーで実力を発揮しているのかもしれない。うん、きっとそうだ。

 

 先鋭と煌めくサバイバルナイフが見えた気がしたが、きっとそういう練習用の素振りのやつなのだと、自分に説き聞かせるかのようにしてからもう一度部屋へと入る。

 

 いやあ、そういう趣味があったんだな。ま、ミリタリー好きとか言ってたし、あり得ない話でもないか。ようし、ここは先輩として、話でも聞いてやるとするか。

 

「よっ、戦刃。サバゲーか何かで使うモデルガンか? 結構金属っぽい重量感があるんだな」

「いえ、実銃ですよ。気になります? これはSIG SAUER(シグ ザウエル) P226っていって、ちょっとお高めなんですけど、長時間水や泥の中に浸けた後でも確実に作動するくらい耐久性が高くって。まあP226にも色々と種類があるんですが──」

「…………」

「…………」

 

 二人の間に流れる沈黙。

 今日一番に饒舌に語らっていた戦刃は豆鉄砲を食らった鳩のように目をパチクリとし、うまく状況を飲み込めていないようだった。

 

「戦刃……日本はだな」

「あっ! 違います違います! 普段扱ってるのが本物なものですから間違えたんです! モデルガンですよ、モデルガン! なんなら触ってみますか?」

 

 戦刃は見るに苦しい明らか様な言い訳を並べ、実弾と思しき薬莢、亀の甲羅のような模様をした無骨な手榴弾。また、レーションらしきものであったりを後ろに退けてから、先ほど説明のあった拳銃を前に出してきた。

 いくら後輩の好意とはいえ(好意と言えるのだろうか)こんなものを受け取るわけにもいかないので、 拒否のモーションをとって後ろに退く。

 

 しかし、ただの帰省で一般的な先輩の家にお邪魔するのにこんな法外なものを持ち出すとは……。

 江ノ島、お前の姉は残念っつーか、もっと上のなにかなんじゃ……。

 

「ま、まあ。別に実銃を見たことがないってわけじゃないから、駄目ってわけでもないんだけどさ」

 

 だからって良いってわけでもないんだけど。

 

「すっ、すみません。盾子ちゃんが『男は夜になると獣になる』なんて言うものですから、一応護身用に……別に素手でも大丈夫かと思ったんですけど、なんせ相手があの阿良々木先輩ですし……」

「僕だって銃弾が当たれば死ぬからな?! なんか僕のことを人間とは別のモノとして捉えてはいないか?!」

「当たらなければどうということはない、ってやつですよ」

「当たっちまえばそれまでよ、だ! というかそれ、撃たれる側のセリフだからな!」

 

 閑話休題。

 

 ともかくこの場から離れたいと思った僕は、「晩御飯ができたら呼ぶよ」と言い残し、逃げるようにして一階へと駆け降りた。

 

 夜は廊下で眠ったほうがいいかもしれない。




3/31 修正


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007

「火憐ちゃん、どうだ?」

 

 リビングと廊下を仕切る扉越しにそう問いかけると、火憐ちゃんは何やらくぐもった声でこう言った。

 

「順調順調、あと三時間もあればお味噌汁が完成するぜ!」

「お前は一体何を作ってるんだよ! お味噌汁じゃないのは確かだがな!」

 

 火憐ちゃんは今、晩御飯を作っているはずで……本当に料理をしているのかどうかは甚だ疑問だが(なにぶんさっきから金属の擦れる音であったり、何かが破裂するような音がリビングの方から聞こえてくるのである。声色を伺ってみる限り、火憐ちゃん自身は元気そうなんだけれど)、なんにせよ、こうもご近所迷惑になりかねないほどに大きな音を出して調理する料理なんてそうそうないだろうから、というか仮にもそのような料理が存在したところで、そんな調理方法を一般家庭のリビングで行なっていいはずがないのだから、やはり火憐ちゃんに晩御飯を任せたのは間違いであったと切に思う。

 別に料理が苦手なタイプのやつじゃなかったはずなのだが……空手の朝稽古とかいって、休みの日の朝なんかはいつもリビングに立っていたようなイメージがあるし。

 

 いったいどうしたんだろう、戦刃が来て、肩に力でも入っているのだろうか、と、僕は柄にもなく妹の心境を思案しながらリビングのソファーに腰掛け、テレビのチャンネルを適当な番号に合わせた。夏休みということもあってだろうか、連日続く猛暑についての対策などが取り上げられている。

 

 …………。

 

 ……阿良々木(アララギ)火憐(カレン)。不服だが僕の唯一無二、たった一人の妹である。

 ごく一般的な四人家族である阿良々木家の長女であり、またそれと同時に末っ子でもある。末っ子らしい甘えん坊なイメージこそないものの、生意気さだけで言えば妹として十分過ぎるほどで、とてもとても憎ったらしい妹だ。火憐ちゃんとの殴り合いの喧嘩を場数に入れていいものなら、僕はなかなかの修羅場を幼い頃から潜ってきたことになるだろう。

 私立栂の木第二中学校の三年生で、来年からは、エスカレーター式で私立の高校へと進学する予定だ。武闘派な彼女のことだから成績が心配だったりしたのだが、そこらへんは上手いことやっているらしい。要領が良いっつーか、なんつーか。努力するしかない僕からすると、それがまた憎ったらしい理由の一つでもある。

 随分と前から空手を習っていて(曰く対実戦用とか)、その腕前はなかなかのもの……らしい。あまり空手については詳しくないのでなんとも言えないが、黒帯を締めているところを見ると、それなり技やら型やらを習得しているらしかった。ひょっとすれば希望ヶ峰学園からの推薦状が届くのでは。またもや兄妹での超高校級が生まれるのではないだろうか。再度直江津市から超高校級の才能が排出されるのではないかと囁かれるほどには、実力を備えているらしいのだ。

 ……しかし、こうして思うと、やはり僕の故郷である直江津市からは超高校級の肩書きを得て希望ヶ峰へと排出されて行く人の量というものがいささか多すぎるような気がする。僕を含めて、今のところ確認してるだけでも六人、期待されている人物を含めれば、その数字はさらに数を増すことだろう。火憐ちゃん含め、僕の知人でもう一人、そういった見込みがある中学生がいるのだから。

 この土地と希望ヶ峰になんらかの因果関係はないはずだ……けれども、長いこと向こうにいたから気付かなかっただけで、今こうしてこの街に帰ってきたからこそ気付ける何かがあるかもしれない。一応、暇潰しを兼ねて希望ヶ峰学園についておさらいをしておこう。

 世界有数の、誰もが一度は憧れを抱いたといっても過言ではないほどに人々の羨望の的で。数十年も前から運営され続けていた「私立希望ヶ峰学園」。あらゆる分野の超高校級を集め、そして将来を担う希望の星として育て上げるために設立された政府公認の特権的な学園──

 その希望ヶ峰というブランドの価値は非常に高いもので、ここぞとばかりに直江津市市役所では超高校級の肩書きを利用した観光客を呼び込むための垂れ幕まで設置されているというのだから、否が応でもこの市に住む限りはその影響力を知らずにいることはできないだろう。市のホームページだって、それは例外ではない。それに、入学すれば未来が約束される──なんて謳い文句が流布されているほどに、希望ヶ峰学園出身の人物が業界の重要な役割を担う場合が多い。知らず知らずの内に希望ヶ峰学園関係者と直接的にではないにしろ、間接的にでも関わりを持つことになる──というのは、今の社会で生きる上でおかしなことではない。……といった風に、その実何にもない地方都市が観光名所に祭り上げられるほどに、そして現代社会に深く根差すほどに、希望ヶ峰学園の持つ影響力というものは強いのだ。

 そんな学園に、僕は今、通っているのだけれども──

 ──未だにその事実を、飲み込めていない自分がいる。

 もう、第三学年の夏であるというにもかかわらずだ。

 何の才能もない僕なんかが、どうして希望ヶ峰に通うことになったのか──一年生、二年生の頃はそんなことを毎日のように考えていた。今だって、そうでないというわけではない。どんな日であろうと、ふと思い出したかのように自分の才能について考える時がある。ただ、あの一件以降他にもっと考えなければならないことができただけで。

 ほんと、弱くなったなあ。と思う。

 けれども、その弱さを情けなく思うのでなく、僕は心から誇らしく感じていた。

 弱いってことは、一人で強くあろうとしていた頃に比べて、誰かに守ってもらえてるってことなんだろう。

 その事実に不思議と心地よさを覚えていることを、否定することはできなかった。

 

「なあ、火憐ちゃん」

「なんだ? 兄ちゃん」

 

 リビングに入ってからも、なかなか踏ん切りがつかなかったため見ないようにしていたのだけど、流石にこのままじゃ晩御飯が食べれそうにないので(テレビ番組は既に夕方のそれに変わっている)、勇気を出し、帰省した際の疲れが残る足を床に立ててキッチンを覗いてみた。

 

「……うわあ」

「うわあってなんだよ、うわあって。まるで、カラスに(ついば)まれて中身が散乱したゴミ袋を見た、みたいな目をしてるぜ」

「そっちの方がまだマシだったとさえ思えるよ」

 

 やっぱり火憐ちゃんに任せたのは間違いだったか……っていうか本当、何があったんだよ。僕が知る限り、火憐ちゃんは上手とまではいかないものの、普通に野菜を切ったり肉を焼いたりできるはずなんだけど……どうすればあのような形容しがたい異物を作り出せるのだろうか。……ったく、僕はもう少し可愛らしくって愛嬌のある妹が欲しいな。家庭力があって、包容力のある妹。その点で言えば、九頭龍なんかがとても羨ましい。あいつの妹と出会ってしまったからには、もうどうしたって火憐ちゃんを菜摘ちゃんと比べざるを得ない。

 

 僕と九頭龍も、同じ二人兄妹のはずなのにな──

 二人兄妹。

 

 原作作者の別シリーズでもいたな。あれは双子で、少々特殊な環境ではあったが──双子ねえ、戦刃むくろと、江ノ島盾子。あいつらも双子なんだっけか、とはいえこっちは兄妹でなく姉妹なんだけど。

 

 二人兄妹と、双子姉妹。

 

 二文字しか違わないが、結構意味が変わってくる。家族を系統を表すといった点で言えば同ジャンルであるものの。

 家庭ごとに様々な事情があるというが、九頭龍のところは家業が極道という危なげなものだから、案外肉親同士の繋がりというものは強いのかもしれない。

 対して僕の家は両親が共に警察官というだけで、一般的な家庭となんら変わりない──精々意地を張って主張しようというなれば、昔から鍵っ子だったということくらいだろう。鍵っ子だからこそ、その鍵で心の扉を閉ざしてしまった……というのはいくらなんでもやり過ぎな表現だけど、というか鍵っ子だなんて表現の仕方をするような年頃の時は、まだ火憐ちゃんとは仲が良かったはずだけど。そう思うといつから僕は唯一無二の妹と仲違いを起こしてしまったのだろうか──と、思い悩む。

 いつから自分が大人になったのかが分からないように──いつから自分が妹と不仲になっていたのかが分からない。

 もっとも、まだ僕は大人じゃないんだろうけど。

 かといって子供でもない。

 大人でなく子供でもないのであれば一体全体僕は何なのか──そんな雑念とも言える疑問も、同時に頭の瀬に浮かんできた。

 

 肉体的にも、精神的にも、定義的にも、概念的にも──高校生というのは、実に不安定な時期だ。

 そんな時期だからこそ──僕は、あの吸血鬼と出遭ってしまったのだろうか。

 

 いや、さすがに考えすぎか。こじつけもいいところだ。

 

 兎にも角にも。

 

 戦刃は妹と仲良くなりたいんだって、そう言っていたけれど、僕は妹と仲良くできているのだろうか。ただ一つ言えることは、先輩としてアレコレ言えるような立場でないということだけだ。

 

 はてさて──困ったものだ。勢いで戦刃を実家に連れてきてしまったが、このままじゃ本当に、昨日今日出会った女子を家に連れ込んだ軽薄な男でしかない。というか、今のところ反論の余地がないほどにその通りだ。

 

「……火憐ちゃん、もういいよ。お前に任せた僕が馬鹿だった」

「えー……じゃあ、夕飯どうするんだよ」

 

 火憐ちゃんは、態度悪く背を丸めながら、口をとがらせてそう言った。

 どうするも何もお前のせいだろう。という言葉をぐっと飲み込んで。

 

 「せっかく久し振りに、僕が帰ってきたんだし。それに客をもてなすって意味でも出前を取ろうぜ。お金なら出すし」

 

 流石に高すぎるのはあれだけど、夏休み中はずっと補修続きで碌に遊びに行けていなかったものだから、お金はまだまだ余裕があった。だからって、自分が実家に帰ってきたことに対する豪勢な食事を持ち金で用意するというのはかなり矛盾しているような気がするけど。

 

「おおっ、いいじゃん! それ!」

 

 言うより早いか、僕が自分の財布を開き取り出したお札を数枚奪うように僕から取り上げれば、火憐ちゃんはロケットダッシュで家を飛び出していった。

 さっきまでキッチンで格闘していただろうに、一体その元気はどこから湧いてくるのだろうか……。

 長年同じ家庭で暮らしていた僕でなければ見逃しちゃうほど、おそろしく速いダッシュに大分引いたが、小一時間ほどすると──その間僕はキッチンの掃除をしていた──火憐ちゃんは息を切らす様子なく帰ってきた。

 

「兄ちゃん、寿司買ってきたぜー! 寿司ー!」

 

 二階にいる戦刃を呼ぶ。

 両親は今日も仕事が忙しいらしく夜遅くまで帰ってこれないとのことなので、三人で食卓を囲むことにした。

 

 いただきますと手を合わせ、それぞれがテーブルの上にずらりと並べられた寿司に好きなように箸を伸ばす。

 口にものを入れながら喋るのは行儀が悪いと気を咎めながらも、寿司にがっつく火憐ちゃんを横目に戦刃に話しかけた。

 

「なあ、戦刃」

「……なんでしょうか、阿良々木先輩」

「うえっ、兄ちゃん、先輩って呼ばれてるのか? 似合わねー」

「似合わないってなんだ、似合わないって。何もおかしくはないだろう? 実際に僕は先輩なワケだし。似合わないっつーなら、僕はお前の体の年齢が心の年齢と比べて似合ってないんじゃあないかって思うけど」

「あたしの心が見た目に似合わず大人だって? 照れるなあ」

「逆だ馬鹿。心が幼いって言ってんだよ!」

「大人みてーに薄汚れちゃうくらいなら、あたし、子供のままでいいかな」

 

 …………。

 こいつは何を言っているのだろうか。

 

「安心しろ。久しぶりの再会を果たしたっていうのに、挨拶もなしに飛び蹴りを繰り出すようなやつの心はどう足掻こうとも薄汚れてるからさ」

「? やけに具体的だな。まるで実際に体験したみたいじゃん」

「火憐ちゃんにしちゃあやけに察しがいいな。そうだよ、実際に体験したんだよ。今日! この家の玄関でな!」

「なんだって?! 兄ちゃん、そういうことはもっと早く言えよ。くそう、その場にあたしさえいれば、そんな狼藉者コテンパンにしてやったっていうのに」

「……自分の顔でも殴ってれば、いいんじゃないか?」

「……?」

 

 僕の言っていることがまるでわかっていない様子で、キョトンと首を傾げている。その仕草に苛立ちが抑えられなくなりそうになるが、なんとか、戦刃が隣にいるのだという理性で抑圧することができた。

 

「……話はそれたが」

 

 恨めしそうに火憐ちゃんの方に視線を送ってから、戦刃に再度話しかける。

 

「で、戦刃。ほら、そろそろ本題に入ろう。さすがにこのまま寿司を食べてるだけだと、本当にただ付いてきただけになっちまうぜ」

 

 そう言われ、戦刃は意味が分かっていないように目を開けたり閉じたりしたが、やがて理解したのか、自分が昨日今日知り合ったような先輩の家まで付いてきたその起因となる事柄を果たすべく手に持つ箸を置き、寿司を食べるためではなく言葉を話すために口を開けた。

 

「ええっと、阿良々木先輩の、妹さん」

「ん、なんだなんだ? 戦刃さん。そんな畏まった言葉遣いで……あたしのことは火憐でいいぜ! あんまり、そういう堅苦しい風に話しかけるのは苦手でさあ……」

 

 戦刃は年上なんだから、お前がもっと丁寧な言葉を使うべきだろうと言ってやりたかったが、敬語を使って話す火憐ちゃんが到底想像できやしなかったので、冷たく目を細めるだけにしておいた。

 

「それじゃあ、火憐ちゃん」

「うん! その呼び方の方がしっくりくるなあ、それで、なにかご用で?」

「火憐ちゃんって、もしお姉ちゃんがいたとしたら、どんなお姉ちゃんが良い?」

「……えっ、兄ちゃん。やっぱ戦刃さんと付き合ってて、それで結婚するんじゃ……兄の嫁は、妹のあたしからすると義姉になるんだろ? 赤飯赤飯!」

「違えよ! そして今飯食べてるんだから赤飯炊こうとするなよ!」

「シャリに使えば良いじゃん」

「赤飯を酢飯にするとか前代未聞だな!? ……とにかく、違うものは違う!」

「ちぇっ、違うのかよ。……いやでもさ、あたしは最初、戦刃さんのことを彼女さんだって思ってたんだぜ? あれは誤解だって後から分かったけど、それでもそういう風に思うあたしがその人から『どんなお姉ちゃんが良い?』なんて聞かれたら、普通『ああ、結婚かあ』って思うだろ?」

「なら改めて否定しよう、僕と戦刃はそういう関係じゃないっ。断固否定するぜ! 決して僕らは、『婚約してるから彼氏彼女じゃない』とかいう『好きじゃない、大好き』みたいな良くある演出で否定してたんじゃあないんだ!」

「えっ……あれ、良くあるのか? あたし、すごく良い言い回しだと思って、彼氏にメールで何回か送ったことがあるんだけど……」

「そんな火憐ちゃん知りたくなかった! というか信じない!」

 

 ま、まあ? 火憐ちゃんに彼氏がいるわけないし、冗談だろうけど。……冗談だろうけど?

 

 ともかく。火憐ちゃんには、事の経緯を説明した。

 戦刃が妹と不仲であること、そして僕がそのことで相談されたこと、戦刃が妹と仲良くなりたがっていること。そして妹側の意見を参考にするため、僕の妹である火憐ちゃんにどんな姉がいいのかどうかを聞くため、わざわざ都心部からこの地方都市までやってきたということ。

 

 それを聞き、火憐ちゃんは寿司を食べる箸を止め、腕を組んでは悩み声を漏らす。

 

「そーだな、姉、ねえ」

 

 やはりそういう突飛な話をされても答えられないのかもしれないし、答えは既に出ていてもそれはとても言い辛いものだったりするのかもしれないが、どちらにしよ、火憐ちゃんはそれから言葉を繋げることを躊躇っているようだった。流石に火憐ちゃんでも人に対して気遣わないほど無神経じゃあるまい。

 

 しばしの間食卓を沈黙が占めていたが、その沈黙を破るようにして、火憐ちゃんは戦刃の質問に対する答えを出した。

 

「こうだったら最高! あれが一番! っていうのは、やっぱり、ないんだよなあ。これが良いあれが良いっていうのは結構思いつくんだけどさ、でも、それでも、実際にそんな理想的な人がいて、幸せになれるのかって思うと──仲良くなれるかって考えると──自信満々で頷けないしさ」

 

 また、悩むようにして背を丸めるが、今度は数秒もしないうちに話し始めた。

 

「何が良いかなんて分かんないし、何が悪いかなんて、誰も決めれねーよな。あたしは兄ちゃんと仲が悪い時期があったけど、それでも別に嫌いだったわけじゃねーし。むしろ好きだった、大好きだった。だからこそ言えるけど、絶対的に合わない人と長くは付き合えないけど、かといって絶対的に合う人といつまでも末長くお幸せな人生を送れるかっていうと、そうでもねーんじゃねえかなって。どれだけ仲が良くっても、衝突することはあるし、喧嘩だってする、でもその後また平気な顔して話ができるからこそ──仲がいいって言えるんだと思う。雨降って地固まるっていうけど、雨が降らないから、地面も固まらないし……いつまでも柔らかな土のままっていうかさ。もし喧嘩することがあったとしても一方的に罪悪感を感じちゃうだけで、雨降って地固まるって感じにはならないんじゃないかなって……雨が降っただけで、地面が泥濘(ぬかる)むだけで、かえって一緒に居づらくなって……」

 

 要は時間の問題なのだと、火憐ちゃんは言うのだ。

 

「兄ちゃんからなんとなく話聞いたけど、長い間会ってなかったっていうんだったらそりゃ少しは警戒してるだろうし……一人ぼっちにされたーって、恨まれることもひょっとしたらあるかもしれないけどさ。でもまあ、そういうのって、時間が解決してくれるものだぜ。だいたい時間が解決してくれるんだってば。人間関係だって、骨折だって、深い傷だって、放射能だって」

 

 時間が解決してくれる──それはあまりに楽観的な思考であるが、実に現実的な考えでもあった。人は記憶を失う──何でもかんでも、全て詳細に至るまで長らく覚えていられる人間など稀だろう。全ての記憶は美化され、磨りガラスのように曇った壁で覆われる。嫌な思い出も──良い思い出も──時間が経つにつれてその輪郭は失われ、抽象的なものになっていくのを僕は幾度となく経験してきた。

 小中の頃の思い出なんて朧月の如くボヤけてしまっているし、やや誇張され気味なところもあったりする。

 それに実際、ついこないだまで仲が悪くて口も聞かないような間柄であった僕と火憐ちゃんも、喧嘩した理由なんてお互いに忘れちゃって、こうして同じ席で寿司を食べているというのだから、人間関係も時間が解決してくれるという言葉は僕からすれば身に染みて感じるのだ。

 

「結局そういうのは本人に聞くのが一番いいんじゃね? どういうお姉ちゃんが良いとかじゃなくって、何かして欲しいこととか、欲しいものがあるかとかでも良いと思うからさ──とにかく衝突する機会を作らなきゃ。好きの反対は嫌いじゃないんだぜ? 雨が降っても良いから、とにかく土を固めないと。理想的にあろうとするのはアイドルとかの非現実的な存在だけで良いんだよ、あたしら一般人は、気兼ねない存在じゃないと。じゃないと、疲れちゃうしさ。星は遠くにあるから良いんだよ、隣にあったって眩しいだけじゃん?」

 

 一概に人を語れるほど、あたしは人格者じゃないけど。と火憐ちゃんは照れるように笑い、言った。

 

「……そう。ありがとう、火憐ちゃん」

 

 結果的に戦刃は、理想の姉像というものを得ることができなかったようだが──それでも、指針というものを手に入れられなかったわけでもないようで。

 彼女の火憐ちゃんに対する感謝の言葉には、決意めいた何かが込められているように、僕は思えた。

 

「戦刃。お前、いつくらいまでここにいられるんだ?」

「ここですか? ええっと……明後日までですかね。明々後日以降は、ちょっと頼まれごとがありまして」

「そうか、それじゃあ明日はまだ大丈夫なんだよな? ならちょっと付き合ってくれよ──ああ、恋してるから付き合ってくれとか、そういうんじゃなくって、ただ単に同伴を願ってるだけだぜ。……会いに行きたい人がいるんだ。火憐ちゃんと歳が近い女の子だから、一応参考にもなるだろうし」

「そうですか、分かりました」

 

 火憐ちゃん一人でも大分十分な成果を上げたといっても過言ではないだろうが、何分予想以上の結果を得てしまったものだから、少しばかりの不安……というか、本当に大丈夫か? という気持ちが心にあったのだ。そのため、一応あいつにも話を聞きにいった方が良いかなと思い、明日もまた外に出ようかと試みることにした。

 

 その日はご飯を食べ終えた後お風呂に入り、リビングのテレビで軽くお菓子を食べながらパーティーゲームをし、ボードゲームでも遊んだ。結構二人が打ち解けてくれたみたいで、ゲーム関係は大盛り上がりだった。

 そしてそれから床に就いた。隣からは人の暖かみが伝わってくるだけで、寝息はやはり聞こえてこなかった。まるで湯たんぽでも置いてあるようだと思った。

 

 翌日の朝。

 

 僕は朝食を軽く済ませたあと、今日会いに行こうかと思っている相手に都合を訪ねるため電話をした。本当ならもっと早い段階で聞いておくべきだったろうけど、なにせ彼女の家に行こうかと思い立ったのが昨日の新幹線の中でのことだったため、結局今日明日いつ電話しても同じことだろうと思ってしまっていたのだ。

 まあ夏休みだから家にいるかなという考えもなくはなかったが……僕の予想は珍しく予想は的中し、そして相変わらずワンコール目で電話電話のコール音は止んだ。ひょっとして、脇に固定電話でも抱えながら生活しているのではないかと疑いたくなるほどにその所作は素早い。

 

 当然のことながら、相手が電話に出たのであれば、受話器の向こう側から声が聞こえる。

 

『もっ、もしもひっ、暦お兄ちゃん……? ……ひっく』

『よう、千石。……どうしたんだ? なんだか様子がおかしい気がするけど』

『……ああっ! べべべ別に冷蔵庫に入ってるビールをちびちび飲んだりしてないよ! 未成年は飲酒禁止だしねえっ』

 

 時々聞こえてくる吃逆と、明らかにおかしな呂律、そして朝とは思えないおかしなテンション……電話越しでなければ酒の匂いが酷く漂って来そうに思う。

 

『……やけに具体的だが』

『飲んでない飲んでないっ、撫子は麒麟生なんて飲んでないよっ。……そ、それより、なにか用かなっ? 前に、夏休みになったら遊ぼうって話してくれたから、ずっとずっと楽しみにしてて……ひっく、してて、それでやっと電話かけてくれて、もしかしてそのこと? 撫子、嬉しいなあ……』

『ああ、まあそれはまた後日ってことになりそうなんだけどさ。ちょっと、お前に聞きたいことがあって、電話じゃ意味ないだろうから直接会って話がしたいんだけど……大丈夫か? 予定とか』

『うん、大丈夫だよ……! なんなら今から来ても良いくらい』

『いや……ああ、うん、それなら、ある程度準備してから向かわせてもらうよ、千石』

『うん、待ってるね』

 

 朝から飲酒……まともな意見が聞けるかどうか分からないが、今日予定が空いているというのであれば行くしかないだろうと思い、『じゃあ、また後で』と伝え電話を切った。

 人生の先輩として、彼女の飲酒は止めるべきなのだろうか……というかそもそも、そういうのは千石の両親がやるべきことなのだけれど……。

 酒も飲んでいないのに頭痛がするのを感じ、僕は水でも飲もうかとリビングの方へ足を運んだ。




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008

 朝食のあと、僕と戦刃は千石撫子(センゴクナデコ)という中学生の女の子の家を訪ねた。

 

 千石撫子。

 数ヶ月前、神原と共に山奥のとある廃れた神社へお使いとして出向いた際に、道中の石階段で出遭った人見知りな女子中学生である。

 当時巷で流行っていた「おまじない」の呪いによって全身を二匹の蛇に巻かれ、その華奢な体の隅から隅までを痛々しいまでに──それこそ、蛇の鱗が肌にくっきりと写ってしまうほどに締め付けられてしまっていた悲劇の少女。

 そして、怪異に関わってしまったが故に不幸にも人生の一本道から足を踏み外してしまった、こちら側の人間でもある。

 怪異に出遭った者はその後の人生でもまた怪異に出遭いやすくなるというが、「おまじない」の被害者である千石撫子はもう、これまで経験してきた人生よりも圧倒的に長い()()()()を怪異という非日常の存在と共に生きて行かねばならない。

 怪異に縛られた人生を、怪異の隣に立ちながら、歩んでいかなければならない。

 それは僕も同じで、また、戦場ヶ原や羽川も同様にそうである。

 もう僕たちは元の生活には戻れないのだ。

 どれだけ悔もうとも──それはどうしようもないものだから、どうにもならないものだから。僕らはそういう星の元に引きずり込まれたのだと──そう、折り合いをつけるしかない。

 けれども、千石はまだ中学生──僕ら高校生からすればまだまだ子供なわけで、そんな人生を諦めるような妥協をするにはあまりにも早すぎる。

 怪異のタチの悪いところは、その一件が解決したからといって、それで全てが丸く収まるわけじゃないといったところだろう──わかりやすく言えば磁石だ。自分に憑いた金属を一つ取り除いたところで、磁石としての金属を引き寄せる性質が完全になくなったわけじゃない。

 ……これからの人生に刻まれた傷跡は、どのようなものであれ隠しきれないほどに大きい。

 

 怪異に関わったからとはいえ傍目からすればなにも変わりはないのかもしれないが……そもそも怪異は人に見えないものなのだ──それこそ、病気のようなもので、千石のように全身に蛇の索条痕が症状として現れることがあるにしろ、それでも病原菌である蛇自体は人には見えないし、戦場ヶ原のように見た目からはてんで想像がつかないにも関わらず、物理的法則を凌駕した形で体重が半分以上も減少するなんていうこともある。

 ただ見えないだけで、怪異と触れ合った以上その禍根が消えることはないというのは非常に厄介なもので。そして怪異が見えたからといってそれがどうこうできる問題ではないというのが現実だ。

 なにか手立てがあったとしても、触ることができず障ることしかないので、そのため、後始末もつけられない。

 

 怪異に関わった者は被害者であるときもあれば加害者でもある。何かに巻き込まれた場合や、自分から巻き込まれに行った者もいるが──みんな、きっと後悔しているだろうし、いつだってその心には(かげ)りが差していることだろう。

 

 あの一件以降、千石が何かしらの怪異と接触したという話は聞いてないが、いつ、また怪異に関わってしまうかは未知数で──それはある日頭に隕石が落ちてくるようなことだけれども、でもゼロじゃない……限りなく可能性がゼロに近い定式であるから、気をつけなければならない──それに、気が付いていないだけで既に関与していたりするかもしれないのだから、今回は話を聞きに行くという意味もあるけれども、それと同時に定期検診みたいな意味合いも含まれていたりするのだ。

 僕は怪異は見えないし、気配を感じ取ることもできないので、そこは忍に任せきりだが。

 ……それに、千石はまだまだ子供なんだから。なんにもできない僕なりに、人生の先輩として、気遣いをしてやらなくっちゃならないと思う。

 悩みを打ち明ける話し相手とまではいかないにしても、頼り甲斐のあるお兄さんポジションあたりなら狙ってもいいんじゃないだろうか?

 

 千石宅のインターホンを押そうと手を伸ばすと、まるで僕が玄関前に到着したのをどこかから見ていたんじゃないかと思うほどにタイミングよく、勝手に扉が開き「お、おはよう。暦お兄ちゃん」と、千石が玄関扉から顔を覗かせた。

 よく顔が見えると思ったけど、どうやら、いつも視線を隠すようにして眼前に垂れ下がっている長い前髪をカチューシャであげているようだった。それに夏らしく涼しげな格好をしていて……やや露出が多いというか完全にオフな感じの格好だったけれど、まあ突然訪ねることになったのだからそれも無理はないだろうか。

 口調こそまともになってはいるものの、それでも顔は真っ赤で。長い黒髪の間から見える耳までもが赤で染まっていた。

 千石は、どこか嬉しそうにこちらを見る、彼女が中学生ということを知らなければ、完全に童顔の酔っ払いにしか見えないが……。ともかくそうすると、一瞬、驚いたように……そして訝しげな目をした後、先ほどとは一転悲しそうな表情をした。アルコールの類に情緒不安定の効用はなかったはずだが……気になって尋ねてみる。

 

「どうしたんだ? 千石」

「ううん。なんでもない、なんでもないんだよ。……でも、だけど──」

 

 迷ったように指をまごつかせて。そしてその指をゆっくりと戦刃の方へと向け、

 

「ええっと、暦お兄ちゃん。そちらのお姉さんって……誰、かな?」

 

 もしかして、彼女さん……? と千石。

 

「いやいや、違うよ。こいつは僕の後輩の──」

「戦刃むくろです。阿良々木先輩には向こうで……希望ヶ峰学園の方で色々とお世話になっています」

 

 一体、何度間違われるのだろう。……いや、何度っていうほどでもないんだけど、なんだか、この様子じゃあ両親にだって間違われかねない……この街に来てるかどうかは知らないけど、下手すれば影縫さんや臥煙さんあたりとかにも会ったら言われちゃうんじゃないのか?

 戦刃は僕より身長高いのに。……まあ身長が高いからといって彼女ではないというのはそれはそれでおかしな話だけど。……みんなして恋愛脳、ということだろうか。

 多感な時期なのだろうかと想像する。中学生だった頃の僕も、ちょっと優しくされるだけで「こいつ、僕のこと好きなんじゃないのか?」と勘違いするようなときがあったし(今もだけど)、そんな感じで、とにかく手当たり次第くっつけたがりな時期なのかもしれない。

 

「そう、なんだね。ふーん……後輩さん」

「ああ、後輩だ。つってもまあ最近知り合ったばっかりなんだけどさ──ああ、そうそう。話があるから来たんだけど、時間は……大丈夫なんだよな?」

 

 そうだ。もう一つ、先ほどの千石撫子についての所見に付け足すべき情報がある。

 千石撫子もまた、超高校級の才能を望まれている金の卵であるということだ。その点で言えば火憐ちゃんと近しい存在だが……まあ、ご覧の通り対極的と言っても良いほどに二人の性格は異なっているのだけど。

 

 少女漫画家。

 

 千石は今、少女漫画というジャンルにて才能を磨いている。さすがに、連載を掛け持ちする売れっ子漫画家なんていうような活躍っぷりを発揮しているわけではないにしても、その界隈ではそこそこ話題になっていると聞く。まあ要するに育成段階というところだろう。世間では未だ無名だし、読み切りだって雑誌には載ったことがないという話だ。

 まだまだ中学生、才能があるとはいえどもまだ中学生なのだ。それに漫画家は不安定な職でもあるし、才能があっても必ず成功するとも限らない。むしろかえって、幼い頃から持ち上げられたりすると大成しない場合もある。それに今のところ千石は才能があるだけの状態であるだろうから──しっかりとした実力をつけさせたいというのが、編集者であったりなどの本音なのだろう。

 

 いくら才能があるとはいえ、漫画ばかりに集中して小卒というのも、今時の学歴社会では良い顔できないだろうし。

 

 とにかく中学を経て希望ヶ峰学園に入学し、高校を卒業してから本格的に活動……と言った形になるのだろうと千石から話を聞いたことがある。今まで卒業していった先輩も、そういった人が多かった(大学に行く人も少なくはなかったから、ひょっとしたらそういう道に進む可能性も否めないが)から、おそらく千石も、何事もなければそのような軌跡を──まさしく希望に溢れた将来への道を辿っていくのだろう。

 

 ここ最近、ようやく大学生になろうという身近な将来しか決めることができていない僕からすると、将来の夢があるというのは──そして実現に向かって努力できているというのは、羨ましい限りだ。

 

 そんな学生と漫画家見習いという二足の草鞋を履く彼女だから大変な生活を送っているだろうし、僕のために割けるような時間も夏休みとはいえあるかどうか分からないので、電話をしてみるまで会えるかどうか不安だったのだが……今は今で、別の不安がある。飲酒って。飲酒って。

 いやまあ、電話のときに薄々気付いてはいたけど……こうもありありと臆面もなくその様を見せつけられてしまうと、やや気が引いてしまうのが本音である。

 

「千石、お前、またビール飲んでたのか……?」

「ひぇっ? しょんなこと、しょんなことなひよ!」

「恐ろしく呂律が回ってないぜ」

 

 ため息混じりにそう言っては、流石に今の彼女をご近所に見られるのはかなり危険なので、というか普通にスキャンダルなので急いで家に上がらせてもらった。夕方のニュースで知り合いの顔を見たくはない。

 

 覚束ない足取りで階段を上る千石に先導され、彼女の部屋へと招かれる。まだ準備ができていないから──と、千石は一階へと降りていった。さすがにその足取りじゃあ危険だろうから付いていこうとしたけれど、「お客さんに立たせるのは、悪いよ」と止められてしまった。

 

「千石さんって、いつもあんな感じなんですか? 聞いた感じだと、もっと大人しい子かと思ってましたけど」

 

 戦刃は少し憚られるように、小さな声でそう言った。

 

「さすがにいっつもビールやらお酒やらを飲んでるわけじゃあないけどさ……」

 

 そう言って、なんだか千石が酒乱のようなイメージを与えていないかと思い、慌てて訂正するように言葉を繋げる。

 

「今日のアレだって、多分、まだ一缶も飲みきってないだろうし──そもそも親のやつを盗み飲んでるんだろうから、ちびちびとやってるんだと思うけど」

「はあ……いずれにしても、結構大胆な人だったんですね」

「大胆……? ああ、あれは単に夏服だろ。千石は本当に大人しいやつだよ。最初に会った頃なんて、目も合わせてくれなかったし」

「そう聞くと、あの髪型も結構攻めてるような」

「人は変わるもんだと、つくづく思うよ。きっと心境を変えるなにかがあったんだろう。いやあ、一安心、一安心」

 

 そうこうしているうちに、千石が部屋に戻ってきた。

 スナック菓子やらコップやらで溢れかえったお盆を両手に──ペットボトル入りのジュースも脇に抱えていたからだろう、階段を登って部屋に到着したという安堵からか、それとも酩酊状態だったからだろうか──? ぐらりと姿勢を崩した千石を、戦刃は素早い動きで支え、同時にお盆やペットボトルも取りこぼすことなく腕に抱えた。

 

「大丈夫ですか」

「っ……、ありがとうございます」

 

 戦刃から離れた千石は、僕と戦刃の向こう側に座り、手慣れた感じでコップにジュースを注いだりしていた。

 それらをあらかた終えた頃、こちらの様子を伺うように見ていた千石は(前髪が長ければ気が付かないような視線だった)話のタイミングを見計らっていたようだけれど、結局空気に耐えきれなくなってか、雑談などを飛ばし最大の疑問とも言えるであろう事柄を訊いてきた。いや──単にやはり、スケジュール的に忙しかったから、早めに済ませておきたいという気持ちがあったのかもしれない。だとしたら悪いことをしたなと罪悪感を覚える。

 

「ええっと……それで、暦お兄ちゃんの後輩さんが、私にどんな用があって、わざわざ希望ヶ峰なんて遠いところから来たのかな……?」

 

 千石の言葉には、不安の色が見えた。

 人見知りをしている、というわけではなさそうで。いやそれもあるのだろうけど、それよりも希望ヶ峰学園なんていう遠い土地の人間がわざわざこんな地方都市なんかに来るくらいに、私自身に利用価値があるのだろうか──という不安めいたニュアンスがひしひしと伝わってきた。

 

 その点別に心配はいらないと、言った方がいいか否かを考えるが、その結論が出るよりも先に議題の結論が出そうだった。

 

「千石さん。千石さんに、理想の姉っていうのを教えて欲しくって」

「理想の姉……?」

 

 戦刃のどこか言葉足らずなところを僕が補足すると、千石はある程度こちらの事情を掴めたようで、なるほど、と考え始めた。

 千石は顎に手を当て俯き、うーむと声を漏らしながら悩んでいた。考えていた。

 やはり、こういう質問はとっさに答えられないものなのだろうか──それとも、既に答えは出ているものの、言葉の取捨選択に手間取っているのだろうか?

 実際僕がこのようなことを尋ねられたとき、きっと、そのとき思ったことをそのまま言ってしまいそうだけど。

 お陰で今まで冷たい目で見られることが多かった──あまり、僕の趣味趣向が理解されることがない。結構、一般的だと思うけど……まあ、女性相手に話すことが多かったし、性別的に価値観が違う点があったりしたのだろう。

 

 少しの間を置いた後、千石はコップに入ったジュースを半分ほど飲んでから話し始めた。

 

「私、一人っ子だから……よくお姉ちゃんがいたらーとか、お兄ちゃんがいたらーとか、考えるんだけど……、でもやっぱり、そのときそのときで理想像っていうのは違うんだ。本当に、私の求めてることを映す鏡みたいで」

 

 だから。

 と千石は繋げる。

 

「きっとその妹さんにも鏡があると思うんだけど、きっとその鏡にはその人の求める理想が映ってるだろうけど、それはその人だけしか見ることのできないことだから」

 

 鏡、というのは、言い得て妙だった。

 誰もが自分の心の中に鏡を持っている──男子とは違い、比較的鏡に向かうことが多いであろう女子だからこそ、出てきた言葉かもしれなかった。どちらかといえば男子寄りな、下手すれば近頃の男子中学生よりも男男している火憐ちゃんからは到底出てこないような話だろう。

 江ノ島も鏡を持っていて、そこに映るものこそ、文字通り理想の像──白雪姫の魔法の鏡でないにしろ、つまり千石の言いたいことは、人によって理想というものは違うのだから、実際に江ノ島に聞けばいいだろうというもののはずだ。

 ……江ノ島と直接話し合うというところを抜き出すのなら、奇妙にも千石と火憐ちゃんの意見は一致していて、そしてやはりそれが最善策のように思える。

 

「だから、私はどうにも……個人的な理想を言うなら、優しいお姉ちゃんが欲しいなあとか、そんな凡庸な答えしか出ないし……。何があったのかは知らないけど、私がどうこう出来る話じゃないかな、役に立てなくってごめんね」

「いえ、良いんですよ、千石さん。ありがとうございます。お陰で、今後どうするかが、はっきりしました」

 

 ですよね? と戦刃はこちらを向く。

 

「ああそうだ、ありがとうな、千石」

「んん、なら、良かったのかな……?」

 

 そのあとは適当な雑談を──ほんと、他愛のない、寝て起きれば忘れてしまうようなくだらない内容の話をしていた。

 そろそろお昼時だし帰ろうかと腰をあげると、お昼ご飯でも食べて行って──と引き止められたが、これ以上お世話になるのは気が引けたので、また数日後に遊ぶ約束をして家路に着いた。

 

 帰路の途中、ふとこんなことを、戦刃から訊かれた。

 

「阿良々木先輩は、盾子ちゃんのことを、どう思っているんですか?」

「……どんな姉が欲しいとか、そういうのじゃなくって──江ノ島のことを、どう思っているか?」

「はい。理想だとか、そういうボンヤリとした抽象的な像でなく、一人の人間についてです」

 

 てっきり僕に対しても理想の姉について訊いてくるかと思っていたから、少々拍子抜けといった感じが否めないけど、だからとはいえ適当に答えていい質問でもなさそうだったので、真剣に、誠実に考えてみる。

 不真面目な奴のことを誠実に考えるだなんてこの上なくおかしな話だけど、実際考え始めてみるとどう答えていいのかがまるで分からない。

 江ノ島のことを、どう思っているか?

 そんなこと意識したこともないし──することもなかったから、上手いこと言葉が出てこない。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「なにも、深く考えなくってもいいんです。本当に、思ったことを口にしていただければ」

 

 そう言う戦刃に、「良いのか? 本当に。結構酷いこと言うぜ?」と前置きし、僕は江ノ島に対する印象というか、アイツに抱いている感情を言葉にした。

 結構本音だと思う。話す相手が話す内容の人物の肉親なものだから、柔らかめな言葉を自然に選んでしまっているかもしれないが。

 

「底抜けて、憎ったらしいやつだなあと思うよ。でも、憎ったらしくても憎めないみたいな……矛盾してるんだけど、分からないか? 嫌だなあと思ってても、実際そこまで嫌じゃないみたいな」

「はあ」

 

 意味がよく分かっていない様子だったため、言葉を付け足す。

 

「だからさ、僕は江ノ島の顔を見たり声を聞いたりしたら陰鬱な気分になるんだけど……でも別に、アイツことが心の底から嫌いってわけでもないんだよ。むしろ仲良いくらいだし」

 

 実際どうなのだろうか? 僕は江ノ島と、仲は良いのだろうか?

 自分で言っていてそんなことが気にかかる。

 結構、自分が思っていることと相手が思っていることというのは違っている場合が多い。それが普通で、それが当たり前なんだけど、だとすれば僕と江ノ島の互いの認識には、どのような相違点があるのだろうか……?

 案の定、アイツは僕のことを学校の先輩のひとり、程度にしか思っていないかもしれない、むしろその可能性が高い。今僕の携帯電話に残る無数のアドレスから鑑みるに、アイツは交友関係がとてつもなく広いようだし。

 かくいう僕の交友関係は、それこそ両手の指で事足りるようなほど狭いものだから、やはりそういった明らかな面からして、相違点があるだろうというのは明白だった。

 そう思うと、寂しい気がしないでもないが、ま、江ノ島が誰か一人を尊敬し敬うようなことは──それこそ命の恩人だとか、人生を変えてくれた人だとかしかありえないだろうから(それだって、アイツのことだ、そんな人に対してだってふざけた態度をとりかねない)、やっぱり僕がその位置に座ることなんていうのは叶わないことだろう。

 別に、江ノ島にそんな丁寧な扱い、されたかないけど。

 はっきり言って気味が悪いと思う。

 

「好きと嫌いは紙一重ってことだよ。それより、もう僕にできることはなさそうなんだけど……、どうする? 今日も泊まっていくか?」

「そうですね……じゃあ、お言葉に甘えて。明日の朝にでも帰ろうかと思います」

 

 そして、次の日の朝。目を覚ますと、僕の隣から人の暖かみを感じるには感じるのだが、いささかそれは小さなもののように思えた。戦刃はもっと、大きいはずだが……そう思い、気になって布団を捲り覗き見てみると、見慣れた幼女が静かに寝息を立てていた。

 

「……なんだ、忍か」

「なんだとはなんじゃ、失敬な」

 

 起きてるならそう言えよ。

 しかし忍がいるっていうことは……じゃあ戦刃はどこにいったんだ?

 そう思い一度布団から出て部屋を見渡して見ると、戦刃のあのリュックサックは部屋から消えていて。また、僕の机の上に見慣れない一枚の手紙が置いてあるのを発見した。昨日はなかったものだから、おそらく戦刃が置いていったものだろう。

 

 再び眠ったのだろうか、寝たふりかもしれないが、小さな寝息を立てる金髪の幼女を横目に手紙を開き、読む。

 

『阿良々木先輩へ。少し急用ができたので、先に希望ヶ峰へと帰ることになりました。挨拶もなくすみません。今回色々とお世話になりましたけど、お礼に何か差し上げようにも持ち合わせがなかったので、また今度いつかの機会になんらかの形でお返しさせてもらいます。戦刃むくろより。追伸、家の鍵を持っておらず、玄関の鍵を開けたままにするのは気が引けたので部屋の窓から出させてもらいました』

 

 確かに、窓が開いていた。……ここ二階だぜ? それにあの荷物を背負って出て行ったというのだから、とてもじゃないが女子高生のするようなこととは思えない。いや、戦刃は並みの女子高生じゃあないんだけど。超高校級であるのだが。

 

 おそらく即席で用意したのだろう飾り気のないその手紙を机にしまい、僕はまた布団の中に身を沈めた。

 二度寝をするために目を瞑ると、

 

「お主」

 

 と、忍が僕を呼ぶ。

 鬱陶しげに首を振ってから、「なんだ? 忍」と訊くと、忍はいつにも増して低いトーンでこう言った。

 

「あの残念娘、確か、派手娘の姉と言ったな」

「ああ、そうだけど。それがどうかしたのか?」

「……気を付けるのじゃぞ」

「気をつけるって、何がだよ。まさかあいつらが怪異に関わってたりするっていうのか? そんな感じ、しなかったけどさ」

「あほう。……怪異関連なら、まだ、儂とうぬとのツーマンセールスでどうとでもできよう。それでも、どうにもならないときは……癪なことじゃが、あやつら専門家にでも頼れば良い。……じゃが、そうでないものに、怪異殺しの名は無力じゃぞ」

「……なあ忍、僕はお前が何を言いたいのかがよく分からないんだけどさ」

「はあ。……ま、いずれ分かるじゃろ」

 

 そう言い残し、忍は布団を掴んで奥へと入り込む。

 いったいどういう意味なのか、説明を訊こうと布団を捲るも、既に忍は影の中に沈んでいった後だった。

 

 ……気をつけるも、なにも。まあ確かに、戦刃のやつは先日の通り実銃を持っていたりしたから、危険なやつではあるが。

 

 忍がなにを思ってそんな意味のわからない注意書きのようなことを言ったのか──そのときの僕には分からなかったし、分かっているにしたってそれに気付かないようにしているだけだったのかもしれないけれど。ともかく、難しいことは考えないでおこうと──それ以上。忍から注意されたということ以上のなにかを考えることはなかった。



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009

 前回予告してませんでしたが、今回がむくろシスター最終話です。
 後日談ですね。


 後日談。というか、今回のオチ。

 

 戦刃が希望ヶ峰学園に戻ってから一週間。

 その一週間の間、千石の家に再度遊びに行ったり、火憐ちゃんの中学校へ視察へ行ったり、斧乃木ちゃんと遊園地に行ったりしたのだが、特にこれといった問題もなく、僕の帰省期間は終わりを告げた。

 これ以上長く家に滞在していると、ただただ鬱陶しがられるだけだし(経験則だ。知り合いの言葉を借りるなら、三連休のお父さん、である)、なにより僕は同級生との夏休みを謳歌しなければならないのだ。家でぐーたらと麦茶を飲むだけの灰色の夏は御免である(幼女童女のロリコンビと遊んでいられるというのであれば、むしろそっちを優先したいくらいなのだけど、残念なことに夏の予定は既に取り決められた約束事だったりする)。だから、ちょうど帰り時だろう──と。

 まあ、勉強も、しなきゃだし。

 勉強をする──だなんて、一丁前に受験生のようなことを言っている自分というのは、一年前の僕からすれば……厳密には、冬休み前の僕からすれば想像もつかなかった未来なのだけれど、そう思うと、この半年間で、僕は大分変わることができたと言えるだろう。

 半年前の僕なら、変わってしまったと言うのかも知れないが──今の僕なら、変わることができたのだと、言うことができる。

 

 人間としても──いや、そんな根本的な部分でさえ、変わってしまっているというのだから、人生何があるかは分からない。

 ひょっとすれば──ううん、何があるか分からないというのに、ひょっとすればから始まる予想なんていうのは、それだけであり得ないと、ひょっとしないのだと言っているようなものだろう。

 意外性というのは、いつだって人々の考えから逸脱しているものだ。

 

 ともかく、死体人形であり付喪神でもある童女、ロリかっけーの名を欲しいままにする斧乃木ちゃんと、二人で仲良く新幹線に乗り、僕が故郷を離れて暮らす第二の故郷へと戻ってきたのだった(故郷といっても、そのイメージから連想される暖かさからは縁遠い土地だが)。

 こういうとき、お土産のようなものを買っておくのが定石なのだろうけど、僕の土地にはこれといった名産があるわけでもないので(探せばあるのかもしれないが、探さなきゃいけないほどマイナーなものを贈ったところで微妙な反応をされることは明らかだ)、途中の駅で買った饅頭と回転焼きをお土産にすることにした。

 

 そんなこんなで、帰省するときよりも重みが増したリュックサックを背負い、やっとの思いで帰宅した僕は、家に着いた途端安堵感からかどっと疲れを感じてしまい、お風呂にも入ることなく眠ってしまった。

 

 深い深い眠りから眼を覚ますと窓の外は暗く、部屋の電気をつけて時計を見てみると夜の九時。よほど疲れていたからか、半日以上もの間寝てしまっていたらしかった。流石に今からじゃ迷惑だろうから、明日の朝にでもお土産を渡しに行こうかと思案しながら携帯電話を覗くと──どうやら眠っている間に着信があったらしく、おもむろに開いたメールボックスには、一通のメールが届いていた。

 from戦刃。

 to僕。

 内容としてはこうだった。

 

『阿良々木先輩へ。

『先日はお世話になりました。

『一度家に帰ってから盾子ちゃんと話をして、どんな姉が理想なのかを聞いてみたんですけど。

『私でも出来ることだったので、今は安心しています。

『理想の姉になれるよう精進するので、阿良々木先輩は阿良々木先輩で、妹さんともっと仲良くなってあげてください。

『たった一人の妹さん、火憐さんを、大切に。

『今度、機会があれば是非、私たちの家にも来てください。盾子ちゃんと一緒にお待ちしています』

 

 とのことだった。

 どうやら上手くいっているようで、今回役に立てたかどうかがはっきりいって不明瞭であった僕としては、安心しているの言葉だけでも報われたような気分になれた。大袈裟な話だけど、本当に、緊張した数日であったから、真の意味でホッとすることができた。

 ともかく、力になれたようならそれで良かった。

 ……まあ、十割十分火憐ちゃんと千石の功績だろうけど。

 僕と火憐ちゃんの関係性はともかく、戦刃と江ノ島──大切な、可愛い後輩が姉妹として仲良くやっていける未来が可能性として大きくなっているというのなら、それを喜ばずにはいられないというのが先輩としての素直な気持ちだ。

 

 良かった良かった。

 めでたしめでたし。

 珍しくハッピーエンドで終われたことに──いや、これからの、戦刃が築き上げる未来のお話なのだから、これはエンディングではなくオープニングと言うべきか。

 ともかく良い方向に進めたようで良かったと、僕は思う。

 そうだ。これから、あのちぐはぐな姉妹の止まった時間は動き出すのだ──僕はただそれを見守るだけであって、これ以上干渉することはない。

 

 一度眠っただけでは疲れは取れ切れなかったらしく、そのあとお風呂に入ってからもう一度眠りにつき、そして再び朝を迎えた。

 

 朝。

 ご近所さんにお土産を配り、そして今日は受験勉強もなくただただ暇なので、久しく自転車でそこいらを散策することにした。今となっては、僕が愛用している自転車もこのマウンテンバイクしかなく、毎朝毎夕通学時に乗っているからか多少飽きてはきているのだけれど、それでもやはり一度乗ってしまえば、頰に当たる風が心地よく気分が良い。

 

 戦刃と初めて会うことになった緑乃公園を抜け、その向こう側へと走って行く。こうしてみると、いつも何気なく通過している道も趣深いように見えた。

 特に行くあてもなく、風に乗ってただただ走る。

 それこそ時間を忘れて──。

 

 お昼頃になり、今から家に帰るよりは外でご飯を済ませたほうがいいだろうとチェーン店のジャンクフードを買い、近くにあった公園のベンチに腰を下ろし、空腹を満たしていた。

 

「……やけに暑いな、地球温暖化ってやつか」

 

 この一週間、室内にいることが多かった──というのもあるのだろうけれど、なにより地域的に僕の故郷の方が涼しかったのかもしれない。

 それにしても肌に照りつける太陽の日差しが、元吸血鬼ということもあってだろう──酷く痛む。そういえば忍も、外に出るときは大きな麦わら帽子を被っていたな──なんてことも思い出し、やはり今でこそその性質はほとんど失われてしまっているものの、後遺症がある以上は直射日光は浴びるべきではないのだろうと、重い腰を上げて家に帰ろうと自転車に手をかけようとする──すると、後ろから、誰かの声が聞こえた。

 

 後ろといっても、別に遠くの方から聞こえたと言うわけではなく……むしろ真後ろ、耳元で囁かれるようにして誰かに声をかけられた。人の気配を察知するのに長けているわけではないのだが、そのあまりの気配の無さに、僕は驚きで声を上げてしまう。なんせ、耳元で囁くように話しかけられたんだぜ? それも、いきなり、知らない人間に。

 吸血鬼といえば蝙蝠だけど──だからこそ、それなりに音に関しては人並み外れた空間把握能力を有しているはずなのだけど、例えば僕が単に気を抜いていただけ……という話であっても、それでも突然耳元で囁いてくるような仲の友達は、いなかったはずだ……。

 

 戦場ヶ原や江ノ島なら、あるいは、ありえたかもしれないが、残念なことに聞こえてきた声というのは若い男の声だった。

 

「あなたが、阿良々木暦……ですか」

 

 聞き覚えのある声。しかし、それが誰なのかは思い出せない。

 聞き覚えがあっても、身に覚えがない。しかしその声の主が話しかけているのは確実に自分であるため(阿良々木暦、と名前を呼ばれてしまった)、背後に立つ者が一体誰なのかという確認の意味も含め、恐る恐る首を回しその姿を目に入れんとする。

 同級生が声色を変えて話しかけてきた──とかなら笑って済んだ話であるだろうし、とても望ましく現実味溢れた話ではあるが、僕の人生において現実なんてものはそう上手くはいかないようだった。

 

 僕の背後には、異様な男が立っていた。

 僕より身長が高く、体格も良い。気になるところを挙げるとすれば、頭に巻かれた大量の白い包帯だろう。それはただただ異様で、ただただ気味の悪いものだった。怪我をしているというよりも、なにかを隠しているような印象を受けたからだ。

 しかし──同じ学校の生徒だろうか。

 そんな風に思ったのにはきちんとした理由がある。

 一つは声には聞き覚えがあるからだ、ひょっとすれば学校ですれ違ったりしていたのかもしれない。それ抜きにしたって、以前まで友達を作らないといった命題を掲げていた僕にとって、聞き覚えのある声など希望ヶ峰学園関係者くらいしかありえないからだった。

 そして二つ目は、その男が着用している服であった。これは決定的とも言えるもので、それは、僕が二年半通っている希望ヶ峰学園の夏服──であったのだ。少なくとも、本科か予備学科の生徒であることは、確かである。その長い包帯によって相手の顔がうかがえないため誰かは判別できないが──しかし、その顔が隠れているという状況が、より知り合いである可能性を引き立てる。

 少なくとも、全く知らない顔で、他人であるという判定はまだできないわけだ。

 

「──あ、ああ。そうだ、僕は、阿良々木暦だ」

「……僕の名前は、カムクライズルです」

 

 感情のない声──二度目の言葉で受けた印象はそれだ。

 相手が名乗ったのだから、自分名乗るべきだろう──そんな意図で発せられたような言葉だった。

 しかし、カムクライズル──聞いたことのない名前である。いや、どこかで聞いたことがあるような気も──しないわけじゃあ、ない。どこだっけ。確か、学校で──

 

 こういうときに、忍のように脳髄をかき混ぜでもすれば思い出せたりするのかもしれないけど、人前であるし、それに、そのような行動をとって無事でいられる保証はゼロなので実行に移すことはない。

 だけど、今思い出すべきことがあるはずなのだと、猛烈に僕のあてにならない本能が叫んでいた。

 

 その後、いくらかの沈黙が、僕と彼との間に重く漂っていた。

 周囲の芝生で駆け回る小学生の歓声は、遠い遠い場所から聞こえる音のように思え、車の排気音さえぼかしがかかったように聞こえる。

 

 いつまでも、いつまでも……そんな言葉を使うほど長い間彼と面を合わせていたわけではないけれど、苦々しい雰囲気というものは時間を長く感じさせてくるもので、僕にとってはその数分程度の時間が悠久の時のように思えた。

 

 そんな空気に耐えられなかった──というわけでもなく、ただ来るべくして来たのだというように、カムクライズルは、

 

「時間です」

 

 と言い、僕に背を向けた。

 時間といったが、カムクライズルはさして時計を見るようなそぶりはしていなかった。腕時計をしている様子もなかったし、この近くに設備時計があるようでもない。何を基準に時間を判断したのかは分からないが──それが、彼がこの場から去るための口実としてついた嘘ではないのだろうと、根拠はないがそう思えてしまう。

 

 その、「時間です」以外の何も言わずに、カムクライズルはこの場から去って行った。分からないことが多すぎるから、分かっていることが少なすぎるから、せめてもう少し話をするべきだと手を伸ばそうとしたけれども、どこかその行動を憚られるような圧迫感を彼の背中から感じてしまい、結局声の一つもかけられなかった。

 

 なにがなんやら──得体の知れなさがこうも人に不信感を与えるものなのだろうかと、思い知らされた気になる。

 希望ヶ峰学園のものと思われる制服に身を包んだ、同級生くらいの若い男……希望ヶ峰学園の生徒なら、男子であれば誰にだって当てはまりそうな条件だけど、でも何者でもないのだろうとも同時に思う。

 

「……怪異、か?」

 

 今後起こる一連の事件を想起して考えてみるのなら、その独り言はどうしようもなく愚かな間違えである。

 僕はこれからの短い人生で、世の中で一番恐ろしいものは怪異ではなく、人間なのだということをその身をもって思い知らされるのだから。

 

 そんなことはつゆ知らず、僕は呑気に考えるのであった。

 カムクライズル。そう名乗った彼の正体を。




 次回、ちあきトラップ。
 元々ちあきフレンドの時にする話でしたので、もしかしたら5話くらいで終わるかもしれません。分からないけど。


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ちあきトラップ
001


 歩物語。
 最終章です。


 これが、最後のお話だ。

 僕にとっても──みんなにとっても。

 僕が語ることの出来る、淡い青春の終わりを告げるお話。

 

 僕はこの物語を──七海千秋というかけがえのない親友と出会えたあの冬から始まるこの一年間を──語り終えなければならない。

 語り終え、そして片をつけなければならない。

 

 そういう義務をきっと僕は課せられているのだろうし、また、自分自身でもそうしなければならないのだと切に思う。

 強い意志を持って、義務を感じる。

 思えば、強い意志だなんてものを持ったことがない僕だけれど、今回ばかりは、そんな不慣れな心構えを持たなければならない──この事件は。この最悪の結末は。僕自身が招いてしまったのではないかと思うところがいくつもあるのだから──その責任を償うというわけではないし、償えるなんて到底思いはしないが──僕に出来ることならなんだってしたい。

 

 そういう気持ちが、この話を語らうのに強く強く影響しているように思えるし、案外そうでもないかもしれないとも思う。何か他の意思を隠すための隠れ(みの)として利用しているだけ──と言われれば否定はできないが、それを言ってしまえばキリがないように思えた。

 

 流石に一字一句間違わずとは言わないが、いくらなんでもたった一人、一個人である僕だけだと、この世界中を巻き込み混乱と絶望に突き落とした一連の事件、(いま)だに人々の心と体に遺恨を残し、人生へと影響を与え続け、一概に終わったとは言えないこのお話を語りきれやしないのだ。

 一人だけじゃ、無理がある。無謀極まりない。

 

 だから、僕はこのお話を語り終えれば彼女たちに引導を渡そうと思う。

 希望へと進み、また絶望への道を歩んだ彼女たちにだ。

 それならきっとこの物語を語り終えることができるはずだと僕は信じているし、僕が語ろうとしても語りきれなかった部分や、また偶発的に生じてしまった語弊などを補えあえるだろうから、やはり、彼女たちの視点を交えることは必要だ。

 僕が学生の頃──ついぞ最後までできなかった、助け合うという精神。

 もっと僕が大人になれていれば……あんな結末を迎えることはなかったのかもしれないと、思う夜は少なくない。

 

 だから、僕の仕事はこの物語を。

 一年間続いた平和を語り終える。

 この後に続く、絶望的で、希望の光なんて一切見えないお話の前置きを──語り終えるだけ。

 

 となると、これから僕がする話は本編に対する前置きなわけだから。

 前日譚であり前夜祭な訳だから。

 前提としてこのお話を通し、伝えないといけない。

 僕が知る限りの情報を、伝えねばなるまい。

 

 人の本質的な死というものは、肉体的なものが失われたことではなく人に忘れられてしまうことだという──既に死んでしまった彼らが誰からも忘れ去られてしまい、その人生を知られることなく本質そのものも死んでしまうというのはあまりにも悲しい。

 だから、どうか彼らのことは忘れないでほしい。

 

 ──これだと、僕が何を伝えたいのか少し混ぜこぜになってしまったように思えるけど、結局はこれ自体ただの前提なのだから、リラックスして聞いてもらっても構わない。

 

 ──僕が大学受験に挑戦するという事実を、いまだによく飲み込めていなかった頃の話だ。受験まであと一ヶ月。茶話会という予定をToDoリストに書き込み始めた、ちょうど二月のことだった。

 

 冬の終わり。

 ()しくもそれは、七海と始めて言葉を交わした時期と一致している。ちょうど一年、友達としての付き合いを初めて一年経ったということか……ともかく、そんな時期。

 僕らは絶望と邂逅することになる。

 

 苦い苦い、今にも吐き出したくなるような絶望の味を、知ってしまうのだ。



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002

 身が凍るように寒い冬。

 凍るようにっつーか、実際に凍ってしまったんじゃないかと疑ってしまいたくなるほど耳たぶが痛む。

 片手間に耳たぶをゴツい手袋越しで揉みながら、僕はいつもの通学路を颯爽とママチャリで駆けていた。

 

 わけあって今乗り回しているママチャリは数ヶ月前に購入した新車なのだが、だからとはいえ、いくら新しかろうともママチャリはママチャリである。

 颯爽となんていう形容詞で飾ったところで、変わり映えのない通学風景はどう足掻いたって変わり映えのない通学風景であることに変わりない。

 そんな飽き飽きとする通学の様子にも、この時期になると雪がちらほらと降り、華美な街並みに余白を作るようにして隅に残った残雪が目につくようになる。

 

 あいにくと季節を楽しむ感性は持ち合わせてはいないので、嗚呼よきかなと趣深さを楽しむことはできないが……それでも子供っぽく、楽しい気分にはなるのだった。

 受験前だからとあらゆる娯楽がご禁制の時期。

 童心に帰るのも無理はない。

 

 雪は太陽光を反射するので(雪で日焼けをすることもあるという。実際、冬休み中にスキーに行ったという左右田は季節外れの日焼けをしていた)吸血鬼からすれば天敵とも言える相手であるが──人間もどきである僕には、既に化物ではないこの僕にしてみれば、さして慄くべき相手でもない。

 とるにたらぬ雪どもよ!

 

 ……それこそ春休みの僕であればかなり手強い相手だったかもしれないが(写真のフィルムのごとく真っ黒に感光してしまうことだろう)、今の僕には吸血鬼としてのスキルはほとんど残っておらず、精々体力が高かったり新陳代謝が高いくらいだから、むしろ日焼けなんて、皮膚が燃えるどころかその日の晩には皮がめくれてすっかり新しい肌に生まれ変わっていたりするかもしれないのだ。

 

 もっとも、忍に血をやった直後は吸血鬼性がいくばくか戻ってしまうので(それでも、春休みの頃と比べれば微々たるものだけど)治癒能力をあげるどころか、かえって手痛い火傷を負ってしまうこともあるだろう──そこら辺は、曖昧なラインである。

 少なくともあの頃のように火達磨になることはないだろうけれど。

 

 治癒能力なんてあってないようなもの。

 後遺症は決して頼るべきものではない。

 ……なんていう言葉は、後遺症による高い体力をもってして日夜徹夜による受験勉強を可能にするという恩恵を得ている僕の口からは、とてもじゃないが言えたものではないだろうが。

 

 とにもかくにも、そんな冬。

 前述の通り、僕はやはり受験生らしく、さほど勉強ができないなりにも受験勉強に追われていた。

 

 クリスマスや正月といった大きなイベントは過ぎ、時は既に二月の初旬。

 暦の上では冬もそろそろ終わるだろうが、あいにくの寒さに喜んではいられない。

 昔と今では気温も違ったのだというけれど、地球温暖化防止を叫ばれる現代社会において、昔よりも寒い冬というのはどこか矛盾しているような気がしてならないかった──

 

 ──けど、それもまあいいかと。そう思えるほどに、僕は昔と比べて寛容的になっていた。

 一年前の僕であれば、そう、きっとこんな異常気象に対してだって捻くれた考えを持っていたに違いない。別に暑くないだろう、寒くないだろうと強がるに違いなかった。

 けれども今の僕は捻くれてなんかいないはずだ──相変わらず、腕時計は右腕に巻いているものの。

 

 卒業まで、あと一ヶ月と少し──

 

 ──悔いはあるだろうか。

 

 部活動に身をやつしていなかった僕にとって、自分がいなくなることが心配になるような部室はないわけで。大学だって、なりたい将来のために必要なスキルを磨くわけではなく、ただ単に友達と同じところに行きたいというためだけに行くのだから(これも、一年前の僕には浮かびもしなかった感情だろう)、同級生との別れ──というのも、実に薄い。

 

 ソニアなんかは国に帰るだろうから会う機会は限りなく限られるだろうし(そも一国の王女であるのだから、今までこうして教室という一つの密室空間の中で机を並べていたこと自体が異常なのだ)、花村や西園寺なんかも仕事で忙しくなって会えなくなるだろうけど──いや、それも要らない心配か。

 

 卒業してからもどこかに集まって遊ぶような仲を築けたと言える人物は、ただでさえ少ない同級生の中でも数限られているのだから。

 

 会える会えない以前に、まず会う必要もない。

 

 これもまた、友達を作らなかったがための結果といえるだろう。

 

 ちなみにこのことに関しては、後悔はしていない。

 むしろ少なくて良かったのだと、折り合いをつけていたりする。

 

 怪異と出遭ったものは、その先の人生においても怪異と出遭い続ける──僕が半端な存在であれども、それが適用されないといった法はない。だから出遭うわけにはいかなかった。

 希望ヶ峰本科生徒という、将来の希望とも言える彼らを傷物にしてしまうわけにはいかないのだから。

 

 ……まあ、だからって、七海や江ノ島と出会えたことが失敗だったとは言わないけれど。

 

 ともあれ、改心? 羽川に言わせれば更生だが(羽川は、なぜだか僕を不良のように思っている節がある)、『友達はいらない、人間強度が下がるから』主義を辞めて一年──その間にできた友達の一人に、戦場ヶ原ひたぎという危ない女子がいた。

 

 蟹と出遭い、重さを根こそぎ奪われた少女。

 

 儚げで、深窓の令嬢とも囁かれていた彼女は、現役の頃ほどではないものの今はとても元気な姿で陸上に励んでいる。天体関係も盛んに活動しているらしく、またそれと同時に学業にも励んでいるという文字通りの才色兼備、性格さえ良ければ完璧に近い人間だ──そんなやつと同じ大学を、僕は受験するのだから、不安は雪のように積もる。

 

 もっとも、戦場ヶ原のやつは既に推薦をもらっているらしい……。

 

 下手すれば僕は受かることなく、彼女だけ大学に通うという可能性もあるかもしれない。いや、その可能性が一番高い。

 

 そんな不安を以前から抱いていた僕は、さすがに戦場ヶ原に言うのもアレなので一度だけ八九寺先生に相談した際。

 八九寺先生に少し渋い顔をされた後、とびっきりの笑顔で「大丈夫、阿良々木くんなら行けるって! ねっ! ケ・セラ・セラ!」と言われてしまったことがあった。

 それはもう、ダメだと言っているようなものじゃないか。

 

 ……しかし、戦場ヶ原と希望ヶ峰三大才女の一人である羽川に勉強を教えてもらっているのだから、特に羽川の顔に泥を塗らないためにも、必ず受からなければならない。

 

 ちなみに希望ヶ峰学園三大才女というのは、我らが羽川さんと後輩である霧切。そして残る一人は謎の美少女枠として残してある……の三人のことを言う。

 ちなみに、彼女ら三人をそう呼んでいるのは僕だけである。

 

 卒業まで残すところ後一ヶ月という中で。

 何か思い残すことがあるだろうかとどうにか記憶を探ってみると、青春らしい甘酸っぱいものこそなけれども、やはりそういうものは存在していた。

 

 そういえば……では片付けられない、不穏な雰囲気が漂う未解決の事柄が。

 叩けば叩くほど埃がでるような記憶力をしているので、他にもあるかもしれないが……今ある三つというのは、一つに月火ちゃんのこと。二つに日向のこと。三つに臥煙さんら専門家たちのことだ。

 

 一つ目の疑問。

 

 月火ちゃんは、去年の夏、突然我が家にやってきた。

 

 別に養子というわけではない。

 正真正銘、血の繋がった兄妹姉妹であり、また腹違いというわけでもないというのだからなんとも奇妙な話である。

 

 父母から聞いた話だと、生まれて間もなく死んでしまったはずの子供、らしい。

 僕は一度しか母のお腹が大きく膨らんでいた姿というのを見たことがないのだけれども、もしかしたらそれが月火ちゃんだったのだろうか。

 てっきり火憐ちゃんとばかり思っていたが、しかしその大きなお腹の中にいたのが月火ちゃんであると一旦思ってしまえば確信に近付いていくものだ。

 

 火憐ちゃんは実は川の下から拾われてきたのかもしれない。森で狼に育てられた少女と言われても違和感はない。

 むしろその方が妥当とも言える、が。

 

 出産したがその日のうちに死んでしまったのだ──というけれど、そんなの初耳だし、僕と火憐ちゃんは戸惑いを隠せず、なぜそのことを黙っていたのかと両親に問い詰めたりもした。

 結局詳しいことは何も聞けないまま──というか、両親もよく覚えていないようで、ぬかに釘を刺すような問い詰めであったので、すぐに辞めた。

 

 でもまあ、こうして我が家に帰って来たわけだし良いじゃないかと、その小さな妹、月火ちゃんは今では我が家の一員で、今では火憐ちゃんと仲良くファイヤーシスターズなんていうコンビを組んだりして仲良くしているらしいから、なによりだ。

 

 しかし、謎が残る。

 

 なぜ、月火ちゃんは今我が家へと帰って来たのだろうか。

 なぜ、死んだはずの月火ちゃんは生きていたのだろうか。

 なぜ、今まで月火ちゃんの存在を隠していたのだろうか。

 

 二つ目の疑問。

 日向が明らかにおかしな様子に成り始めたのは、成り果ててしまったのは、夏休みの時だったと記憶している。

 

 日向は、カムクライズルと名乗っていた。

 最初はあれが日向だということに気がつかなかったが──どこかで聞いたことがある声、そして日向が消えたタイミングとカムクライズルが現れたタイミングの一致から。いくらなんでも僕だって、カムクライズルが日向創なのだということに気がつく。

 

 しかしそのことを七海に伝えられるほど僕には勇気がなかった。

 日向と最も仲が良い。僕が知り合う前から知り合いだった二人の仲を思えば、どうしても伝えられない。

 

 いくらなんでも僕だって気がつく、と言ったが、しかしまだカムクライズルが日向ではないという可能性というものを僕は探っていたのだ。

 世の中には自分と同じ顔をした人間が三人いるというが、もしかしたらその類なのではないか──と思ったからだ。

 そう、思いたかったからだ。

 

 なぜなら、あまりにも雰囲気が違いすぎる。いつもの明るい、気兼ねなく絡みやすい男友達としての日向創とは到底かけ離れたもの──それも、真反対のものだ。

 僕の知る日向とは対極的な存在。

 だから、カムクライズルが日向だとしても、カムクライズルは日向ではない。

 

 そこにあいつはいないのだ。

 

 それに、聞くところによるとカムクライズルは超高校級の才能を持っていると言う。

 何があったのかは知らないけれども、あのとき出会った頭に大量の包帯を巻いた男はカムクライズルで……そして、きっと日向に何かがあったのだ。

 

 なんとか、しなければ。

 なにをどうするか具体的な案は思いつかないが──

 

 僕の恩人である七海に、恩返ししなければならない。

 僕の友人である日向を、正気に戻さないといけない。

 

 それはまるで使命にも思えた。

 

 三つ目の問題。

 専門家達との音信不通。

 

 専門家達と連絡が取れなくなったのだ。

 いつを境に途絶えたのかは定かではないが、最初に異変に気がついたのは斧乃木ちゃんだった。

 暴力陰陽師と悪名高いあの影縫さんと連絡が取れないのだという。

 

 まあ、影縫さんと連絡が取れないということはよくあることらしく、斧乃木ちゃんは臥煙さんや他の専門家にも連絡を取ったとのことなのだが……どうにも、繋がらないのだという。

 

 なんとも分かりやすい異常事態だ。

 

 街からいなくなるのはまだわかる。

 忍野のときがそうだったからだ──けれど、だからといって誰とも連絡がつかないというのは異様だ。

 サイズがふたまわりほど大きそうな服の中にマジシャンのようにして大量の端末機器を所持していた臥煙さんとさえ、連絡がつかない。

 教えてもらっていた電話番号やメールアドレスは複数あるのだが、その全てがダメだった。

 

 なにか起きたのだろう、というのは間違いない。

 そして、怪異の専門家である彼らに何か起きたというのなら、次に狙われるのはきっと僕らだろう。

 彼ら大人の共通点が怪異であるのなら、それは僕ら──戦場ヶ原や羽川──にも共通する事象だ。

 

 あの大人たちの消息を途絶えさせるまでの力を持つ矛先が、僕らに向いたっておかしくないし──そうなると、太刀打ちするのは極めて難しいと言えるだろう。

 

 単に、彼らがなんらかの大掛かりな仕事に取り組んでいる最中で、やむなく僕らとは連絡が取れない、なんていう可能性もなくはないが……それはあまりにも楽観視ししすぎているだろう。

 

 ──この一年間で色々なことが起きた。

 否、僕がのうのうとなにも知ろうとしないで生きていた間も、また生まれる前からも。この世界ではこういうことは起き続けていたのかもしれない。

 僕がその世界に不運にも足を踏み外してしまっただけで、こんなことは日常茶飯事だったのだろうけど──しかしそれでも、僕という一人の人間の価値観を大きく変えるほどに、様々なことが起きた。

 

 そしてその様々なことは、僕以外の誰かがいつだって解決してきた。

 僕一人でなにかを終わらせることができたことは一度だってないのだ──いつだって、何かが終わる時は誰かがそばにいた。

 

 僕は無力だ──正義であれ悪であれ力あるものが人を傷つけるのなら……それはそれで、無力も悪くないのかもしれないけれど。

 でもそれじゃあ、誰かを守ることはできないだろう。

 実際そうだった。

 僕はなにも、守れちゃいない。

 

 ……全てが杞憂に終わるという結末が、それが一番いい。

 物語に必要な意外性なんて。

 劇的な展開や、ドラマチックなストーリーはいらないんだ。

 

 ……最近は後輩との付き合いも悪いし、どこかに遊びにでも行こうかな。

 さすがに受験前は厳しいだろうけど、それ以降なら構わないだろう。

 戦場ヶ原とか、神原とか、江ノ島や戦刃を誘って。

 どこか遊びに行こう。

 約束していた蟹もまだ、食べに行ってないんだし。

 ……そうだ、北海道に行こう。

 

 そんな呑気なことを考えながら、僕は自転車を漕ぐ。

 その行き先は、きっと良いものだ。

 先は見えず、一寸先は闇だけど──そんな闇の中でも、ここ一年で光が見えたような気がした。

 

 楽しげな光景を脳裏に浮かべながら、あいつはこれが苦手だからダメだなとか、こうしたらあいつも楽しんでくれるかなとか、そういう昔には出来なかった気配りを不器用ながらにもやってみせようとするのは……少しくらいは進歩したんじゃないか? 僕だってさ。

 

 卒業まであと一ヶ月。

 

 子供からの卒業まで、あと一ヶ月。

 

 高校生という今を楽しもう、このきらめく瞬きの中で。



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003

 窓から夕焼けの暖かい色が見えた。

 もうそんな時間かと思ったけれど、冬であることを鑑みればさして不思議がるような時間帯でもなかった。

 

 どうしてだかその夕陽から目を離すことができずに窓から空を眺めていると、対面に座る七海から、

 

「……阿良々木くん。ひょっとして、話聞いてない?」

 

 と、お叱りを受けてしまった。

 

「っあ、ああ、いや聞いてるよ」

「そうは見えなかったよ? さっきからぼうっとしちゃってさ。……やっぱり受験勉強で疲れてるんじゃないかな、しっかり休んだ方がいいよ? ゲームとかして」

「ゲームで休めるのはお前くらいだよ、七海……」

 

 そもそも電子ゲームに縁のない僕だ。

 慣れてないことをしようとして、余計に疲れてしまうだろう。ボタンが多いんだ、ボタンが。

 ……戦場ヶ原あたりにこういう話をすると原始人のような男だと揶揄されかねないな。

 

 茶話会という学年末最終行事の企画について、僕は学級委員長の七海千秋と二人で机を挟み話し合っていた。

 生徒会会長である羽川も顔を出すということで本来はこの場にいるはずだったのだけれど、彼女は彼女で急な用事ができてしまったのだと、スケジュール管理に定評のある羽川にしては珍しく欠席してしまっている。

 そのために今この教室には学級副委員長の僕と学級委員長である七海の二人しかおらず、普段は賑やかな(騒がしいの間違いかもしれない)教室がこうも静かで人気がないと、なんだか落ち着かない。

 静かで落ち着かない、というのはおかしな話だが。

 

 ……まあ、二人きりとはいっても、決して甘酸っぱい青春らしいことなんていうのは起きやしないのだけど。あくまで七海とは、友人という距離感が一番良い。

 放課後に男女が教室で二人きり、なにも起きないはずもなく……という見出しがこの話に付けられているとするならば、起きるならきっとそう、茶話会について頭を抱えることくらいだろう。

 

 別にそういうテンプレートな展開に期待してるわけじゃないし、たとえなにかの手違いや過ちがあったとしても、七海のことはきっとそういう目で見れないだろうというのが事実な訳だから、もし、限りなくあり得ない話ではあるが、そんなありきたりなお約束が起きたとしても、ただでさえ幼女と遊んでいるだけだというのに社会的な立場が危ぶまれている僕としては丁重に辞退させてもらいたいものである。

 

 ちなみに今日は三度目の集まりだ。

 放課後にこうやって教室でぐうたらと意味もなく残っていることはこの一年間でよくあることで。委員会関係だったりだとか、ただ単におしゃべりをしているだけであったりだとか、……補習受けたりとか。ともかくなにかとこの教室に居残っていることは多かった。

 今回は最初に言った委員会活動を務めていて、卒業式を除けば今回のこの仕事が僕らにとって最後の大仕事となるのだろう。

 およそ一年にわたって続いた学級委員としての最後の仕事、それが学校生活を締めくくる学期末の大イベントというのだから、なかなかどうしておあつらえむきな文化行事だとは思わないだろうか。

 そして、そんな大層なものに僕なんかが参加してしまっても良いものなのだろうかと考えてしまう。

 

 人と関わりたくない。友達は作らない、人間強度が下がるから──なんていう、今思い返せば穴があるなら入りたくなるような若気の至り全開だったあの頃の僕であれば運営に携わるどころか、きっと行事に参加すらしていなかっただろうに。

 変にひねくれて、適当に学園から抜け出しては近くの公園で一人ぼうっとしていたに違いない。

 というか実際、一年生、二年生の頃の僕がそうだった。

 

 先が見えないことに対する不安というのもあったのかもしれない。だから、高校を卒業するという未知へのスタートを切る三年生の先輩の姿を見るのを辛く感じていたりしたのかもしれない。

 あの頃の僕には、そういう未来の予想図は漠然としたものでさえ、イメージできてはいなかった。大学に行くのか、就職するのか──分からない。希望ヶ峰学園は入学するだけで人生の成功が約束されるとまで言われている超が何個もつくような名門であるけど、学園始まって以来初の落ちこぼれになるんじゃないかとすら考えていたし、あの頃の僕じゃきっとそうなっていたに違いない。

 

 ありえない話じゃなかったし。

 むしろあり得る可能性が高い話でもあった。

 

 あの頃の僕、なんてまるで一年前が既に通過点であるかのように語っているけど、今の僕とそう変わりはない。

 あるとすればそう、周りの環境が変わったのだ。

 僕は僕のままだ、いつだって変わらないし、変われない。

 

 羽川はきっと「阿良々木くんは変わったよ」と言ってくれるのだろうけれど、いくらあの羽川がそう言ったって、僕としては首肯するに難い話である。

 

 ともかく、僕は授業を終え早々に家に帰るということはなく、教室の窓側に位置する机を挟んで七海と卒業前に行う茶話会について話し合っていた。

 話し合うといっても、僕ら二人が誰が何もすると決めてしまうのではない。そういったことは事前に済ませており、今はその選定作業に差し掛かっているのである。

 みんながやりたいといっている出し物から、危険なものや予算的に無理があるものなどを却下し、大丈夫だろうというものを許可する仕事だ。

 それに学期末に行う茶話会には他の学年も参加するので、みんながみんな出し物をしようとすると一日では終わらずに二日か三日ほどかかってしまうから──学校生活の最後を締めくくるのだからそれはそれで良いのかもしれないけれど──流石に僕ら三年生は受験生なわけで、また超高校級ともなると芸能関係の人間は仕事で参加できない場合があるということもあるから、惜しくはあるもののこうして一日で終わる量にまで絞り込まないといけないのだ。

 サプライズ性を重視するといったことで他学年の出し物を事前に知ることはできないという性質上、今はこうして同級生の出し物を僕らは審査していた。

 

 ちなみに生徒会長である羽川は、最終的に許可が出された書類の全てに目を通した上で先生と審査をしなければならないらしく……他にも色々と仕事を掛け持ちしているという話だから(今日だってその類だろう)ぶっ倒れてしまわないか心配になってしまう。

 羽川が倒れてしまったときクッションになるための準備くらいはもちろんしているけれど、せいぜい今の僕ができるお手伝いといえば、羽川の胸を支えるか何らかの不祥事があった際に土下座をしに行くくらいである。

 土下座の綺麗さには定評がある僕だ。自信はある。

 

「それでね、澪田さんのリサイタル……なんだけどさあ」

 

 困ったように、七海はボールペンを指先で回した。

 そのボールペンは記念品かなにかのようで、ビットで形成された戦闘機のような柄がプリントされていた。

 

「澪田のリサイタル……昔、あいつの歌声を聞いたことがあるんだけどさ、その、なんて言ったらいいんだろう」

「言っちゃ悪いけど、良くない意味で凄い歌だよね。オブラートに包むと個性的」

「あいつの歌もオブラートに包めることができたら良いんだけどな」

「それはそれで、また別のなにかが生まれそうだなあ、うん」

 

 歌といえば、そう、二年生にもそういうのが得意な奴がいたような気がする。

 

「舞園さんじゃないかな? 超高校級のアイドルの、舞園さん」

「ああ、そうそう。……いやあ、あんまりテレビとか観ないからさ、芸能界には疎くって」

「言ってることがおじいちゃんのそれと変わらないね……阿良々木くんは」

「例えばの話だけど、舞園の歌声で澪田の歌声を打ち消すっていうのはどうだろう。オブラートに包むとまではいかないが、プラマイゼロくらいにはできると思うんだけど」

「んー……どうかなあ? 澪田さんが一人で活動するようになった理由って音楽性の違いとかだったような気もするし……合うかなあ?」

「音楽性の違いっていうか、澪田はあれで独自のジャンルを形成しているような気がするけど」

 

 本人がこの話を聞いていたらうるさくなりそうだなと思いつつ、とりあえず澪田のリサイタルは保留にすることにした。保留、と言ってはいるが、おそらくはボツになる可能性が高めの保留である。

 

 しかし──みんな大切な時期だろうに積極的に出し物の案を出してくれている気がする。詐欺師の才能を持つやつは詐欺に引っかからないための講座(矛盾を感じる)、花村や一部の女子は観客への料理のおもてなし。花村が料理を作るというのに不安を感じないわけでもなかったが、昨年、一昨年と評判が良かったと聞くから、おそらくは今年も大丈夫だろうと信じたいところだせど。

 そして小泉が茶話会の記念写真と年間行事や日常での写真をムービーにして流したり──これも、昨年、一昨年と評判が良く、今年もやるだろう。

 

 才能に関わる出し物が多い中で、才能とはまた関係のないことで出し物をする人も多く。

 ソニアを中心とした劇団が組まれていたり(主に左右田が中心になって人集めをしているのを見かけた、劇の内容は言わずもがな)、なぜか罪木が一人で一発芸を行うなんていう企画もあり(もちろん却下)、良い意味でも悪い意味でも学生らしい部分もあった。

 

 そんな風に、一部例外を除いてほとんどの生徒がこの茶話会に参加しようとして意気込んでおり、そしてそれは僕と七海も例外ではなかった。

 七海は昔のゲームのRTA(アトランチスのなんとかというゲーム)、僕は一つ下の学年にいる超高校級のギャンブラーであるセレスティア・ルーデンベルクとのエキシビジョンマッチを行う予定である。話し合った結果、僕の得意分野である花札でゲームをするということになっている。

 なんでも、餞別だとか。

 舐められたものだなと思いながらも、嬉しい気持ちが少しあったのは否めない。僕の得意分野だからというわけではなく、ただ単純に、後輩とこうして仲良く出来ていることに少し喜びを覚えているのだろう。

 認めたくはないけれど。

 

「えーっと、とりあえず毎年やってて好評なやつとか安定したものは許可を出しても大丈夫かな……それより、うーん、狛枝くんのロシアンルーレットって……なんだか、いや絶対に危険そうなんだよね。危険が危ないかんじ」

「ロシアンルーレット? わさび入りシュークリームとかか? それなら結構楽しそうじゃないか」

「違うよ。なんか、ガスガン使うんだって……魔改造した」

「ガスガン!? 魔改造!?」

「そう……。狛枝くんのことだから、普通に危ないやつなんじゃないかな……?」

「アウトだろ、それ」

 

 狛枝が提出した出し物の内容をまとめたカラフルでポップ(色だけ)なレポート用紙を二人無言で却下の書類を入れるケースに置いた。『DOKI DOKI ! RUSSIAN ROULETTE !!』と謳われたイベント。タイトルのサイドにいる風船を持ったピエロがやけに怖い。

 

 その後も選定作業を行い、最終的には十ほどに絞った。

 あとはこれを生徒会に届けるだけである。

 

 こうして誰がなにをやるのかという企画書に目を通しはしたものの、茶話会には参加したことがなかったので、一体どんなふうに彼らが活躍するのだろうと既に期待で胸がいっぱいだった。

 それも、ただの学芸会ではないのだ。超高校級が行う、それこそプロと遜色違わないような出し物だって多くあるのだろうから、いつもは馬鹿やっている彼らの真面目な姿を見ることができるというのも、なかなかにどうして楽しみだ。

 惜しむべくは、西園寺がもう少し小さかった頃の日本舞踊を見ることができなかったというところなのだけれど。

 

 しかしこうして学級委員最後の仕事をしていても、この学園で三年間を過ごしたのだと──後一ヶ月もすれば卒業し、希望ヶ峰学園の生徒ではなくなってしまうのだということに、僕はまるで実感が持てないでいた。

 学園を卒業したからとはいえ、まだまだ人生というものは続く──そこに終わりはない。

 自分が高校生であるのなんて、自分が高校生ではなくなってしまうのなんて、ほんの通過点でしかないというのに──きっとそれは、重要なことなのだろうけれども、どうしたって僕は他人事のようにしか思えないでいるのだった。

 

 時間が経つのはあっという間。

 ちゃらんぽらんに生きていた僕からすれば、最初の二年間はまるでスポンジのように中身のない過去だった。無理に押し込めばとても記憶としては小さいものになる。

 打って変わって今年の一年間はとても濃密なもので──濃密であるがゆえに一年というひと時が圧縮されていて、それはそれでまた小さなものだった。

 

 楽しいことも、辛いことも、色々あったけれど──そんな感情を抱くことができる思い出の数々を心から良かったと思える。胸を張って楽しかったと言うことができる。

 みんなと過ごせて僕は楽しかったんだろうなと──だが、こういうことを思ったり、言い合ったりするのはもう少し後だと相場が決まっているから、まだその感情はぐっと心に抑えている。

 

 この学園生活が終わってしまうのは悲しいけれど。

 でも、その先にだって人生は続いているのだから。

 きっと、未来が──

 

「? どうかしたかな? 阿良々木くん」

「いや、なんでもないよ。なんでもない。……、それよりさ、そろそろ帰ろうぜ」

「それもそうだね、眠くなってきちゃったよ」

 

 教室の電気を消すと、窓から差し込む夕陽で教室の中が紅く染まった。

 今日という一日の終わりを、否が応でも感じてしまう。

 

「あっという間だったね、一年間」

「ああ、そうだな──本当に、あっという間だったな」

 

 過ぎていく時間はいつも速く、未来はいつも待ち遠しいほどにゆっくりだ。

 七海はぼんやりと空を眺める。斜陽に顔を照らされてはいるが、陽の強さが弱いからだろうか、その明るさによって目を閉じることはなかった。

 七海は空を見ながら、僕に語りかける。

 

「私はこの一年間、阿良々木くんと一緒に居れて楽しかったよ」

「なんだよ、そんな急に改まってさ。気味が悪いぜ?」

 

 茶化すように僕は言った。

 けれども、七海は言葉を返さない。

 

「……まあ僕も、七海と出会えて良かった。良かったよ。楽しかったぜ、この一年間」

「あはは。そんなこと言う阿良々木くんが、一番気味が悪いよ」

 

 意地悪な口調で、七海は言った。

 なにを、と言い返そうかと思ったけれど、そんな怒りはすぐに消えて、口元に笑みを含ませながら、僕も空を見た。

 

 綺麗だと思う。

 奥に見える黒い雲が、より、夕陽を引き立たせているようにも見えた。

 

「じゃあ僕、こっちだから」

 

 そう言って自転車置き場の方へと行こうとすると、少し大きな声で七海に引き止められる。

 

「日向くんの件なんだけど」

 

 どきり、と胸が高鳴るのを感じた。

 

「私、やっぱり諦められないし……卒業までになんとかできないか、頑張ってみようと思う。具体的にどうするのかはまだ決まってないけど、でも、なんとかできないか、足掻いてみたいんだ」

 

 七海はあれから何度も日向と──いや、カムクライズルの接触を図ってきたらしい。

 策を弄し、また時には誰かの力を借りて、道を探ってきた──むろん僕もそれを応援して、日向の友達として出来る限りのことはやってきた──しかし、全てが全て失敗に終わっていた。

 けれどもそれでも、七海は無理だと言わなかったし、諦めるとも言わなかった。

 

「無理は禁物だぜ。何か困ったら僕に連絡してくれよ。きっと、なんとかするさ」

「なんとかするって、阿良々木くんは万能じゃないでしょ──それに、阿良々木くんこそ困ったら連絡しなよー。いつも一人で抱え込んじゃってさー、たまには私にも恩返しくらいさせてよね」

 

 友達でしょ。

 

 七海は笑ってそう言う。

 

 友達だからこそ、迷惑かけられないんだ。

 大切な、友達だからこそ、僕のせいで失いたくないだ。

 それに、恩返しだなんていうけれども、僕は七海にまだあのときの恩を返せていない──今の僕が僕であれたのは、半分以上は七海のおかげだというのに。

 

 その言葉を言うことはできずに、僕は七海の笑顔に返すようにして笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、また」

「そうだな、また明日」

 

 空の奥に見える黒い雲が、さっきよりも大きくなっているような気がする。

 太陽もだんだんと沈み、空も暗くなってきた。

 今夜は雨が降りそうだなと、そんなことを考えながら僕は七海と分かれた。



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004

歩物語が終盤で驚き。


 知ってのとおり、僕が通っている私立希望ヶ峰学園は日本だけでなく世界をリードする政府公認の特権的な高等教育機関だ。

 

 入学するだけで将来の成功が約束される……なんていう、まるで冗談みたいな謳い文句が世間で囁かれているほどに名門で──そして卒業生の多くは各業界で成功を収めているというのだから、その謳い文句に偽りはない。

 ただ本科生徒は毎年十数人ほどしか選ばれておらず、また志願制ではなく完全推薦制のためこの学園に入学できる者は極めて限られている──

 

 ──そんな学校にどうして僕が入学できたのかは今でもまるで見当がつかないが、当時まだ純粋だったころの僕は希望ヶ峰に入学できることをとても喜んでいた。

 学歴に固執していたわけじゃなくって、かといって望んでいた未来があったわけでもなくって──単に希望ヶ峰に憧れていたんだろうなと、今になって思う。

 その憧れは一年次の冬に砕けてしまったけれど。

 

 あの冬は、忘れられるはずがない──ただ、考えたことは、一度もなかった。

 なにも解決しないままに、ただ時だけが過ぎている。

 あれは終わった話なのだ──僕の中ではもう、いろんな意味で終わった話だった。

 

 そんな冬から二年と少しの二月。

 茶話会開催まで残すところあと十数日となり、茶話会の準備のため放課後暗くなっても本科校舎は賑わっていた。

 

 僕はというと、そんな準備をしている彼らのもとを訪れては、進行具合をチェックしたりだとか、あれが足りないだのなんだのと注文をつけられたりしていた。

 これもまた、学級委員長の仕事である。

 ちなみに七海とは別行動だ。

 

 なので、今はチェック用紙が挟まれたバインダーを片手に三年生の進み具合をチェックしていたところである。

 

 本校舎、仮校舎、研究棟、体育館、校庭などなど。いろんな場所でいろんな奴がいろんな練習をしているから、いくら二人で分担しているとはいえ骨が折れる。しかし弱音は吐けない。

 僕と七海は三年生の分だけだからまだしも、羽川や先生たちの苦労は計り知れないのだから。

 

 慣れないながらもこの役割に落ち着いているところがあるので、とりあえずは歩を進める。

 

 まずは調理室から。

 

「よう、うまくやってるか?」

「もちろんだよ! なんなら一口、味見していくかい? 僕お手製の娼婦風スパゲッティを!」

「おい花村。何か勘違いしているようだから一つ言っておくが、そのスパゲッティにはお前の思っているほどの深い意味……いや、浅はかな意味はきっと無いぞ」

「ンフフ、夢のないことを言うね、阿良々木くん。きっとあれだろう、君はナイチンゲールの伝記本で遊んでいる小学生を見ると無性に腹が立つタイプなんじゃないかな?」

「うるさい! 進捗はどうなんだっ?」

「そんなにせっかちだとモテないよ」

「うるせえ!」

「まあそうだね、創作料理は満足いくのができたから、それはまた明日にでもレシピにして渡すよ。だからまあ、食材さえあれば大丈夫かな」

「……最初からそう言えば良かったのに」

「ところで阿良々木くん、食事の時間中になんだけど、『にんげんっていいな』っていう曲を流したいんだ」

「? どうしてだ?」

「歌詞が好きなんだよ。特にあの『おしりを出した子一等賞』っていうところがさ。……あっ! どうだろう、みんなでおしりを──」

「却下! 曲もおしりも却下だ!」

 

 これだから花村は。

 どういうものを食べれば、『にんげんっていいな』からそんな発想ができるんだろう。

 ……ああ、あいつは自分が作った料理を食べてるんだな。それなら仕方ない。

 

「なんつーか、ブレないよな、お前は」

「そういう君はだいぶ変わったよね」

「……まあ、色々あったんだよ」

「ずるいなあ! ずるいなあ! きっと、大人なおねーさんとかと色々あったんだろうなあ!」

「ない! 断じてない! だからなんでそういう方向にしか話を持っていけないんだお前は!」

 

 人には良いところと悪いところがあるというけれど、花村のこれは悪いところに違いない。

 悪癖であり、性癖でもあるのだろう。

 

「あ、そうだ。ちょうど良かった、阿良々木くん、この試作した料理僕一人じゃ食べ切れないからさ、君も食べてよ! ね! ね!」

 

 そう言って花村は、大皿に乗せられた肉料理をずいっと僕の方に寄せてきた。

 焼けたてというには程遠い冷たさであったけれど、それでも肉特有の食欲をそそる野性的な匂いが鼻腔に広がる。

 ぐっ……! こいつの料理はとにかく美味そうなんだ、そして味も期待を裏切らないほどに美味しい!

 ……けれども十中八九なにかしら怪しげな薬が入っているので、迂闊に食べられないのが残念なところだったりする。

 

 花村が作った料理をクラスの女子が食べたがらないのも(また毒味させるのも)こいつの普段の行動が災いしていることは明らかだ。

 そして花村はストライクゾーンが驚くほど広い……これがなにを意味しているかというと、つまり、僕だってそういった目で見ることかできるのが花村なのだ。

 

 つまりまずい! いろんな意味でまずい!

 これだと深夜帯の放送だったとしてもアニメ化できなくなってしまう!

 

「おっと、すまない。時間がもうないみたいだ!」

「ええ?」

 

 言うが早いか、かなり無理をした姿勢で肉の乗った大皿を避け、勢いそのままに調理室から脱出する。

 

 後ろの方から声が聞こえてきたが、その音に追いつかれないほど速く走るようなイメージで廊下を抜け、階段を駆け下りた。

 

 一階から外に出て、後ろに花村の姿がないことを確認してからほっと息をつく。

 

 撒いたか?

 

 ……と言ってしまうと撒けてないことが多いというのは知り合いから聞いたことがある。その言葉を飲み込んでから、またもう一度息をついた。

 とにかくこの棟からは離れよう。もう用だってないんだし、早く立ち去ろう。

 

 ……それから一時間ほどして、ようやく仕事にひと段落がついた僕は、校内にある自販機で飲み物を買った後に中庭にあるベンチに腰を落とした。

 ここはよく昼食をとる場所だ。一人の時もあれば二人や三人でベンチに詰めて並ぶこともあったけど──うむ、もうここに来ることもないんだなと思うと、いつもは視界に入れてすらいなかった風景がどうも愛おしく見えて仕方がない。

 

 愛着なんてものはないだろうが、代わりに思い出のような何かが、ふと、心の中で湧いてきた。

 らしくないなと思う。

 こう思えるようになったのもまた、七海のおかげなんだろう。

 

 ──そういえば、最後に日向に分かれたのはここだったような気がする。あの夏、戦刃との帰省を終えた後に出会ったのが日向じゃないとするのなら、ここで一緒に昼食を食べたのが日向との最後の思い出だったはずだ。

 

 ……七海はああ言っていたけれど、本当に、あの得体の知れない男──カムクライズルから日向を取り返すことはできるのだろうか。

 

 僕からすれば、到底できそうにない夢物語のように感じてしまう。

 努力だとか、勇気だとか──そんなものじゃどうにもできないような。言うなれば、既にあれは手遅れなのだと、誰かが叫んでいるように感じて仕方がない。

 けれども七海なら──それもまたどうにかして、解決してしまうのだろうか。

 

 七海には特別な力があるわけではなく、また怪異に憑かれているわけでもない──けれども、彼女は今まで不可能を可能にしてきた。

 それは七海が自分だけの力ではなく他の誰かの力に頼って共に困難へと立ち向かっているからこその結果だろう。

 個の力ではなく、群の力を七海は持っている。

 孤独な僕からすれば、それは吸血鬼としての異常性と比べるまでもなく手に入れがたい力であった。

 

 今となっては吸血鬼としてのスキルも失い、せいぜい残っているのは後遺症ともいえるような微々たるものだけれど。

 

 今回ばかりは七海にもどうしようもないんじゃないのか。

 

 ──でも、七海が誰かの力に頼って立ち向かうのなら、僕は頼られたいと思う。

 七海の隣に立って、共に困難へと歩んでいきたい。

 

 ……しかしそんな思いとは裏腹に、僕は七海に頼られちゃいけない人物なのかもしれないとも思う。

 人が怪異と交わることにより、その後の人生において怪異と共に生きる人生を送らなければならなくなってしまうように。

 七海にもそんな咎を負わせ、深い傷を負わせてしまうのではないかと懸念しているからだ。

 

 今更何を言う、もう既に一年間友達として付き合ってきたじゃないか──と言われてしまえばそれまでなのだが、ただ一緒に日常を過ごしているうちは問題はないんじゃないかと思う。

 ただ、同じクラスで学んでいる分には。

 ただ、共に放課後を過ごしている分には。

 問題はないのではないか。

 

 ただ、七海と出会ったばかりの頃、日向と共に二人は予備学科の生徒に襲われた──

 そのことから、僕は誰かにとってのターニングポイントに僕が関わることで、その分岐先の未来を壊してしまっているのではないかと思うようになった。

 

 この一年間、良かったことはたくさんあったけど、悪いこともたくさんあった。

 色んな人を助けようとしたが、それだって満足にできた試しがない。

 助ける人間が自分じゃなくったって良かったはずだ──あれはきっと、僕以外の人間でもできたはずなのだ。

 きっと、あの場にいたのが僕ではなく七海ならきっと、全てうまくやっただろう。

 助けようとしたのに、彼らが報われないのはきっと、僕のせいだ。

 きっと七海なら、ハッピーエンドを迎えることができたはずだ。

 

 自販機で買った缶ジュースはプルタブを開けたままで、飲もうという気にはなれなかった。

 

 手から伝わる冷たい感覚をぼうっとした意識で味わっていると、急に頰にも同じ感情を覚えた。

 驚きで缶の中身をこぼしかける。

 考え事をしていたからか、頬に何かを当てられるまで気がつかなかったようだ──、一体誰がこんなことを、と後ろを振り返ってみると、どうやら下校途中らしかった戦場ヶ原と羽川の二人が立っていた。

 

「驚かせちゃったかしら」

「こんばんは……って言うには、ちょっとまだ早いかな? 阿良々木くん」

 

 戦場ヶ原は両手にペットボトルを、それと相なすように羽川は両手に学生鞄を持っていた。

 

「羽川は、もう仕事は片付いたのか?」

「ううん。まだ残ってるけどもう暗いからね、部屋に戻ってからやろうかなって」

「ふうん、無理するんじゃないぜ」

「この男、少しも手伝おうという気を見せないわね……」

「僕だってさっきまで仕事だったんだよ!」

「仕事……? まるでリストラされたことを家族に打ち明けられずに悩んでいるお父さんのようにベンチでうなだれていることが?」

「違う!」

「ああ、そうよね。あなたには悩みを打ち明けるような家族はいなかったわよね、生涯独身だもの」

「なっ……! いやっ、できるかもしれないだろうっ。僕だって結婚できるはずだ!」

「できないわよ。私見てきたもの」

「見てきた!? 未来を!?」

「は? なに言ってるの? 未来なんて分かるわけないじゃない」

 

 なんだこの女は……。

 多重人格者か……?

 一時期は毒が抜けたようだったけれど、そんなことまるでなかったかのように罵詈雑言を吐いてくるぞ……。

 

 

「ところで阿良々木くん、こんなところでどうしたの? 軽犯罪の帰り?」

「どこをどう見たら僕が軽犯罪を犯した帰りに見えるんだよ」

「……服装?」

「今僕が着てるのは制服だよ! 希望ヶ峰の!」

 

 それも特に着崩したりしていない、普通の着こなしだ。

 首筋にある傷跡を隠すために襟足が伸びてはいるけれど、でもだからといって、それで軽犯罪を犯した帰りには見えないだろう。

 

 っつーかなんだよ、軽犯罪を犯した帰りに見える服装って。

 ペイントボールが服に着いてるとか、頭に下着を被っているとかか?

 

 さすがに見ていられなかったのか、羽川はあくまで中立的な立場で僕と戦場ヶ原の間に入った。

 

「まあまあ。立ち話もなんだし移動しようよ、ね?」

 

 行き先を知らされないままに、僕は戦場ヶ原と羽川の二人組に着いて行くことになった。どうやら僕の登場は予想外だったらしく、羽川と二人で……というシチュエーションを邪魔されたと戦場ヶ原がぼやいていたが、僕としては悲しいことにそういった言葉はもはや聞き慣れていた。

 

 ……先にちょっかいを出してきたのは戦場ヶ原だというのに。自業自得だと、思わないでもない。

 しかし、冷たいペットボトルを頬に当てるというのは……なんつーか、季節外れっていうか。

 

「そういえば行き先を聞いてなかったな。どこに行くんだ?」

「喫茶店だよ、喫茶店。阿良々木くんも一回くらいは行ったことがあるんじゃないかな……? ほら、希望ヶ峰学園の近くにあるお店」

「……? あったっけか、喫茶店なんて」

「あったよ? それも結構前から」

「ふうん……いやでも僕、喫茶店って柄じゃないからなあ」

「行かないの? いや、来なさいよ」

 

 さっきまで愚痴を言っていた人間の言葉とは思えない強引な誘い方だ。

 

「どうせ仕事だって、もう終わってるんでしょう? 付き合いなさいよ」

「いやいや、戦場ヶ原さん? さっき僕がいなければいいだの死ねばいいだのと言っていませんでしたか?」

「死ねとは言ったわね」

「聞きたくなかった!」

「もういいのよ、もういいの。羽川さんとはまた今度喫茶店よりも素敵なところに行くもの、その口実ができたと思えば万々歳だわ。感謝感激雨あられ」

「棒読みで言われてもな……」

「棒読み? あらあなた、ただの文字列から感情が入っているかいないかを区別できるというの?」

「いや、できないけど、お前が感情を込めて誰かに感謝の言葉を伝える場面がどうしても想像できないもんでさ」

「私だって感謝するときはあるわよ、それも毎朝。ああ、今日一日を生きることができるのは羽川さんあなたのおかげです、って」

「そんなことしてたの!? やめてくれない戦場ヶ原さん!」

「おっと羽川、いたんだな」

「いたよ。さっきからいたよ? 私。なんだか会話に入れてなくって疎外感は感じていたけれど、それでも私はいたよ?」

 

 うっ! 羽川は表情こそ笑顔のそれだが、しかし言葉を喋る勢いというものに怒りが篭っていることがよく分かる。

 その様子を察知したのか、戦場ヶ原は慌て気味に言った。

 

「それで阿良々木くん、行くの? 行かないの?」

 

 そう言いながら、戦場ヶ原は手に持つペットボトルの中身を一気に飲み干し、それを近くにあったゴミ箱に投げ入れようとする。……がしかしそれは入らず、需要があるかどうか分からないようなお茶目機能を発動させていた。

 しかしそれでも冷静な面持ちで「行くの?」と聞いてくるあたり、戦場ヶ原らしいなと変な懐古心を抱いてしまった。意味が分からない。分かりたいとは思わない。

 

「行くよ、行く行く」

 

 プルタブを開けたまま置いてあった缶ジュースを飲み干して、それをくしゃりと握り潰してから僕も戦場ヶ原に(なら)ってゴミ箱に投げ入れた。

 

「ねえ知ってる阿良々木くん? 缶って潰さないほうがいいらしいわよ」

「それ、潰す前に言ってくれよ」

 

 羽川はどうやら飲みきれなかったらしく、ペットボトルを鞄の中にしまっていた。

 

 その喫茶店とやらがある場所を僕は知らないので、先頭を戦場ヶ原の羽川の二人が歩き、その後ろについていくようにして僕が歩いていた。

 不幸にも僕の背は彼女たちと同じくらいだったので、歩幅も相応に同じくらいであった。

 こうして一緒に歩くのには便利だけれども、背が高いことに越したことはないのだから、あと十センチくらいは伸びたっていいはずなんだ。

 まだ、まだそれくらいは伸びるはず……僕の成長期は終わっていない……!

 

 希望ヶ峰学園の校門を出たあたりで、ふと思ったことを口に出す。

 

「そういえばさ、希望ヶ峰学園って門限とかなかったっけ。羽川は大丈夫なのか? 時間的にそろそろだろう?」

「あー、門限はね。ほら、生徒会長の特権ってやつ?」

「それただの悪用だよ、悪用」

「人聞きが悪いな阿良々木くん。一応、名目上は学園周りの治安調査……っていうことになってるんだから。そういった意味でも、うん、男性の阿良々木くんと一緒に行動するっていうのは報告書にも書きやすいし、結果的には良かったのかな?」

「学園周りの治安か……別にそこまで悪いようにも思わないけどな。スラム街じゃあるまいし」

「だとしてもだよ。確かにいつもなにかが起きてるってわけじゃないにしても、それでも毎年一件か二件は大きな事件が起きてるんだから」

「……そうだったっけか?」

「阿良々木くんは世間話に疎いからね……いやでも、去年の三月にあったアレ、阿良々木くんも大きく関わってたんじゃなかったっけ……? ほら、七海さんと日向くんが予備学科生徒に襲われたやつだよ」

「……ああ、そんなこともあったな。結局あれはどうなったんだっけか」

「……まあ、希望ヶ峰学園は大きな学校だからねー……怖い怖い、私も変なことしないようにしないと」

「それなら今行っている学園周りの治安調査とやらもやめておいたほうがいいんじゃないのか?」

「それはそれ、これはこれ」

 

 そういえば、最初に七海とまともな会話をしたのも喫茶店だったような気がする。

 あのときは喫茶店というものをよく分かっていなかったから、何かを注文するときは七海の言葉を九官鳥のように繰り返していたけれど、今ならあの喫茶店特有の雰囲気に飲まれることもなくまともにメニュー表を見ることができるような気がする。

 

「七海さんと言えば……ああいや、なんでもないなんでもない」

「? どうしたんだよ、七海がどうかしたか?」

「いや、えっとね。……そう、今から行く喫茶店って、前に阿良々木くんと七海さんが一緒に行っていた場所だったんじゃないかな? そのとき確か七海さんが寝ちゃってて、阿良々木くんがおんぶして寄宿舎の方まで届けてくれたんだよねー……いやあ、あのときは危なかった」

「そんなこともあったな。……って、そうなのか、あのときの喫茶店か。そう考えるとなんだか懐かしく感じてくる」

「まだ店についてもいないのに? ……というか、おんぶって。あなたなにか下心があってやったんじゃないの? 色情狂」

「もっとオブラートに包んで呼べよ! せめてムララギとかさ! あったろう? そういうの!」

「なかったわよ、あいにく私は八九寺先生とは違うのよ。そんなに噛まないの」

 

 そういえばあの先生、生徒のことをムララギとかありゃりゃぎなんていう風に呼んで、コンプライアンス的に問題はないのだろうか?

 

「ねえ阿良々木くん、コンプライアンスっていう言葉の意味、ちゃあんと知ってて使ってる?」

「なんだよ突然」

「あなたって、マーケティングとかエビデンスとかコミットとか、意味も知らないのに使ってそうだから」

「ひどい偏見だな……それを言うなら、ほら、神原のことを心配してやれよ。あいつ結構最近までブレスレットのことを深呼吸っていう意味の言葉だと勘違いしてたんだろ?」

「うわっ……私他人の失敗を楽しそうに話す人、嫌いなのよ。引くわ、ドン引き」

「心配してやってんだよ! っつーか、それならお前はどうなんだ? 戦場ヶ原。お前だって僕が失敗したとき楽しそうにアレコレ文句を言ってくるじゃないか」

「愛の鞭よ」

「愛の鞭!? あれが!?」

「けれど愛はない」

「ただの鞭だよ! それ!」

 

 校門を抜けるとすぐに大通りへと出る。都内の更にど真ん中に希望ヶ峰学園が位置しているということもあり、交通の便はとても良い。

 周りには高層ビルが鬱蒼と生い茂っていて、近くには新幹線が通るような大きな駅も存在している。ちなみに駅まで走るバスの路線も希望ヶ峰学園前には通っていて、校門の隣にはバス停も存在しているから驚きだ。そもそもバスに乗る機会があまりない僕だから(移動手段は大体自転車を使っていた)このバスが駅以外のどこに止まるのかは知っていない。

 

 今向かっている喫茶店は徒歩で行ける範囲内なので、バスには乗らなかった。

 

「なあ羽川」

「んん、なにかな?」

「いや、今更なんだけど、お前らってなにやってるんだ? 羽川は生徒会長の仕事だっていうのは知ってたけど、戦場ヶ原は違うだろう?」

「あー……内緒だね」

「そうね、内緒よ。茶話会までのお楽しみ」

 

 しかいそれでも気になってしまうのが人間のサガというもので、内緒のことについて詳しく聞き出そうとすると、男なら荷物くらい持ちなさいと二人の学生鞄を押しつけられた。羽川は持たなくていいと言うのだが、戦場ヶ原の鞄はともかく羽川の荷物を持たない選択肢はなかったため──というか、むしろ持ちたかったので戦場ヶ原の鞄も持たなければならないのは不服極まりなかったが、それを上回る幸福を得た気がした。

 

 それにしても喫茶店か……さっきの中庭にあったベンチといい、喫茶店といい。偶然ではあるが先ほどから懐かしい場所を訪れているような気がする。

 懐かしいと言うにはまだ早い時期かもしれないし、お涙頂戴な思い出があったわけでもなかったが、それでもなんだか懐かしく感じてしまうのだった。

 三年生が始まる前の一、二年間は空虚な生活を送っていたから、そのぶん濃い記憶になっているのだろうか。

 

 ただ、そんな記憶も、いずれは忘れてしまうのだろうか──

 いや、きっと忘れないだろう。

 

 三人でこうして隣り合って歩くのは、いったいいつぶりだろう──そして、次はいつになるのだろう。

 ともかく僕らは喫茶店へと向かった。

 

 実に学生らしい放課後の過ごし方だと、不似合いながらも思う。



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005

 その喫茶店は、やはり僕が一年前にも七海と来たところらしかった。

 このような都心ともなると、オシャレな喫茶店なんてものはゴロゴロとあるわけで、ただ単に外見や雰囲気が似ているだけという可能性も捨てきれないわけだから、直感だけでここが一年前に来たところだ、と断定するのは証拠不足極まりなかったのだけれども、羽川が「ここ、一年くらい前に七海さんと阿良々木くんがいたんだよね。七海さん寝ちゃってて……大変だったなあ」、なんて、懐かしそうに過去を振り返って言っていたため、おそらく僕の記憶に残っているあの店であると思われる。

 

 特に思い入れもないし、入店したのはあれっきり一度もなかったため、特に何も考えず適当に店内を見渡した後にコーヒーとケーキを注文し三人でテーブルを囲んだ。やはり女子はスイーツが好きなのだろうか。二人はかなり真剣な顔つきでメニュー表を見ていたと思う。値段か名前、どちらとにらめっこをしていたのかは露知らずだが。

 

「で、戦場ヶ原と羽川は、一体何やってるんだよ」

 

 やや身を乗り出す形でそう切り出す。

 すると戦場ヶ原が鬱陶しそうに眉を細めながら言葉を発した。

 

「内緒って言ってるじゃない。しつこい男は嫌われるわよ」

「そうだよ。嫌う原因には個人差があって、時と場合によるからみんながみんな嫌うかっていうと一概にそうとは言えないけど、でもしつこいよ、阿良々木くん」

「……ちぇっ、いいじゃねえか。教えてくれてもさ、僕とお前らの仲だろ?」

「雲と泥じゃない」

「僕らの間には雲泥の差があるってのか!」

 

 こいつ何様なんだ?

 

「戦場ヶ原ひたぎ様、です。崇め敬い崇拝して私のために命を賭して働いてくれてもいいのよ。ちなみに、あなたに拒否権はないわ」

「心の中を読むな! お前はエスパーか何かか? つうか、自分で自分のことを様付けで呼ぶって……かなり痛いというか、目を当てられないっていうか。それと! 拒否権どうこうは僕が拒否してからいうもんだろ!」

 

 僕が拒否しても言って欲しくはないのだが。

 

「まあまあ。阿良々木くんに、戦場ヶ原さん。ケーキ来たし食べようよ」

 

 やや慌て気味に僕らの間に入って来た羽川は、ずいっとケーキが乗った白い皿をこちらに押し出してくる。ちなみに、僕が頼んだのはチーズケーキだ。それを口に運びながら、話を続ける。

 

「お前らって、いっつもこんなことしてるのか?」

「こんなことって、なに? 阿良々木くんの悪口のことなら、まさしくその通りだけど」

「聞きたくなかった……。いや、いつも喫茶店とか来てるのかなって思ってさ」

「ああ、そういうこと」

 

 戦場ヶ原は少しだけ紅茶を口に含み、いちごのタルトを食べる。羽川は羽川で、話を聞きながらショートケーキのイチゴを食べていた。

 

「まあそうね。この喫茶店自体は来るのが初めてだけど、羽川さんとは休日に色々と出かけたりするわ。今日みたいに、放課後二人でっていうのは、休日と比べたら珍しいんだけど」

「ふーん」

 

 コーヒーに大量の砂糖とミルクを投入しそれを飲むと、羽川から体に悪いよとのご指摘を受けてしまった。飲むのに少しためらいを覚えたが、入れてしまったものは仕方がないと心配そうな羽川を横目に甘いコーヒーを飲む。

 

「そういう阿良々木くんは、なにやってるの? 休日」

「僕か? 僕はだな……」

 

 休日はなにをしてたっけか。特に記憶に残らないようなことをしていたような気がするし、なにもしてなかったような気もする。斧乃木ちゃんと踊ったり、忍とおしゃべりしたり……あれ? なんか僕って小さい女の子としか遊んでないか? 最近江ノ島や戦刃は何故だか付き合いが悪いし、神原は神原とてなんかやってるみたいだし、日向は日向であんな状態で、七海も学級委員長としてみんなのために奮闘しているわけで……ありゃりゃ、僕は一体、なにをやっているのやら。

 

 自分が暇していることに、少しばかり嫌気がさした。みんな頑張ってるっていうのにさ。

 

「僕は特になにもしちゃいないよ。暇暇、受験を控えてるっていうのに、暇してる」

「ふうん、怠慢ね」

「言うな。僕が一番分かってる」

 

 口に広がる甘みが、自分自信に対しての甘えのように思えた。

 砂糖とミルクで甘々なわけで、ブラックのような人生の苦さから逃れてしまっている。そのせいで、知らず知らずのうちに身を切っているのだろう。砂糖が骨を蝕み溶かすように、その甘えがいつしか僕に大きな影響を与えるのかもしれない──。

 

「まあ、阿良々木くんは今までずっと頑張ってたわけだし。人生プラスマイナスゼロになるとは思わないけど少しくらい休んでもいいんじゃないかな?」

 

 そうじゃないと救われない、とまでは言わないけど、少し可哀想だよ。休むのは当然の権利だし。

 

 羽川は優しい声でそう言ってくれたが、別に僕は大それたことをしたわけでもないし、頑張っただけじゃ意味がないんだ──と言いたくなったが、気が引けた。

 僕もトゲがなくなったものである。

 

「ところで阿良々木くん。最近、七海さんとはどう?」

「……七海か? まあ、どうっていうか、あいつはいつも通り頑張ってるよ、ほんと、僕と比べるのがおこがましいくらいにさ。何かあいつにしてやれることがあればいいんだけど、変に手を出したら余計な手間を増やしなしまいそうなくらいだ」

 

 僕がそう言うと、戦場ヶ原は細い目でこちらを見て「ほーん」と、声を漏らす。なんだなんだ? なにか不満があるって言うのか?

 僕がそう思い眉をひそめると、ため息混じりにこう言われた。

 

「……阿良々木くん、そういう意味じゃないわよ」

「そうだね、そういう意味じゃないね」

「……おいおい、羽川まで、なんだなんだ?」

 

 僕のことを二人して白い目で見る彼女たちに、僕は困惑の目線を向ける。

 それを見て、二人共仲良く同時にため息をついていた。

 

「……阿良々木くん、ほんと鈍感よねえ。後から知ったけど、羽川さんがあなたのこと好きだったっていうのに、言われるまで気付かなかったって話じゃない」

「ぐう」

「しかも? 私と羽川さんの告白を両方とも断ってるって聞くし」

「そうだよね……鈍感だよねえ」

 

 今更だが、僕は今目の前にいるこの女子二人から去年の一年間の間に告白されたことがあったんだった。僕のような落ちこぼれとは縁がないように思えた優等生である羽川は意外だったし、戦場ヶ原なんてもっと意外だったが……ともかく、結果から言えば僕はこの二人からの告白をキッパリと断ったのだった。好きじゃないからとか、嫌いだからという理由ではなく。また、なんとなく断っただとかそういう曖昧な答えでもないのだけれども、なぜ断ったかと言う理由について僕はまだ答えてないし、きっと僕はいつまでも答えられないのだろう。

 

「言うな言うな……。あれは本当に、申し訳がないと思ってる」

「申し訳ない思ってる、ねえ」

「ねえ」

「……結局、なにが言いたいんだ? お前らは。鈍感な僕には何一つ分からないぜ?」

「阿良々木くん、鈍感なんだからヤドラギくんに名前を変えなさいよ」

「ヤドンか? 僕の名前をヤドン風にしたいって言うのか? 伝わりづれえな! おい!」

「酷いわね。畜生野郎じゃない」

「誰が畜生野郎だ。ヤドラギくんなんて言うやつに言われたくないな」

「やだ、照れちゃう」

「照れるな!」

「冗談はここまでにして……」

 

 やれやれ、と首を横に振っては、戦場ヶ原は口を開く。

 冗談とかやめろよ。

 

「阿良々木くん、七海さんのこと好きなんじゃないの?」

「……は?」

 

 そう言う意味の言動がこの会話で出てきたことが少し驚きだったし、また、七海という人物名が出てきたことは一番驚きであった。なんでそう思い至ったのやら……見当違いも(はなは)だしいし、あの戦場ヶ原がこうも勘違いをしていると思うと少し笑えてくる。

 

「違う違う、そんなことはないよ。僕は七海のことを恋愛的な目で見ちゃあいないし、きっとこれからの人生でもそう言う目で七海を見ることは出来ねえよ」

「ふーん、じゃあ、私と七海さんだったら、どっちがいい?」

「七海」

「即答しないで」

 

 理不尽なことに、僕はテーブルの上に置いてあるストローで戦場ヶ原により目を刺されかけた。ギリギリ間一ミリといったところであり、ふとした拍子に刺さりかねなかったが、羽川の必死の制止により僕の眼球はまだ光を映すことが出来る。

 

 しかし、僕が七海のことを、ねえ。

 

 なにをどう見てどう感じればそういう風になるのか。聞いてみたいところではあったけれども、これ以上聞くと僕の心に傷がついてしまいそうで、体の方にも一生背負わなければならない傷を負いかねなかったため、やめにした。

 

 もし、僕が七海のことを好きなら──と、考えては見たけれども、恩人に対して恋愛視できるほど僕の身分は高くなかったようだ。



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006

「で、うぬはアホ面でぬけぬけと帰って来おったと」

「アホ面ってなんだ、ぬけぬけも。やめろ」

 

 今僕は、ドーナツではなくサンドイッチを頬張りながらこの狭い部屋のかなりの面積を図々しくも占領している金髪金眼の幼女と対面しているわけで、今日会ったことを問いただされている途中だ。特に何か僕が悪いことをしたというわけじゃないのだが、まるで尋問をするかのような寛大なる威圧をその幼女はかけてくる。

 

 伝説の吸血鬼の成れの果て。

 鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの搾りかす。

 怪異の王とまで呼ばれた彼女も、今となってはこの通りである。長くすらりとした脚も、小さくて柔らかみのあるものへと変わっており、芯が強かった線も今となってはか細いものへと変わってしまっている。スレンダーであった当時の体型からは到底想像できないほどのロリータ体型になってしまっており、力強く抱きしめてしまえばそれだけで体が潰れてしまいそうなイメージがある。

 

 そんな彼女とは──幼女とは、去年の春休み。僕が高校二年生から三年生に上がる節目に出会ったのだ。

 地獄のような春休み。

 否、まさしく地獄だったのだろう。あの廃塾跡は、僕が憧れていた私立直江津高校のグラウンドは地獄と呼ぶにふさわしかった。

 

 忍野忍。

 それが、彼女の名前である。

 

「はん、それならドーナツくらい買ってこれたろうに……まったく、我が主人様はなにを考えていたのやら」

「悪かったって言ってるだろ……機嫌を損ねるなって」

 

 先の春休みの一件からおよそ数ヶ月間、忍とは口を開かない対抗状態が続いていたのだが、一度こうして仲良くなっておしゃべりをするような間柄になってしまえば、また断交状態になってしまうことはなんとしても避けたいことなのだ。

 心にくる。

 

「ま。このサンドウィッチはなかなか美味であったし、今回はお咎めなしとしておいてやるかの」

 

 指についたマヨネーズを舐めながら、彼女は言う。

 もう眠いのだろうか。目は半開きで時折大きなあくびをする。

 

「むにゃむにゃ」

「寝るな。まだ話は終わってないぜ」

 

 つうか、まだ夜だぜ? やっと夜だぜ?

 いくら吸血鬼から成れ果てたとはいえ、さすがにこうなってしまえば吸血鬼の面影なんて口元で光る鋭く尖った歯くらいしかない。

 

「儂は寝ることすら許されぬというのか……」

「悲劇のヒロインみたいに嘆くな。サンドウィッチやったんだからそれなりの働きをしろ」

「ドーナツじゃないというのにかの?」

「食ったろ、サンドウィッチ」

「ぐう」

 

 わざとらしく媚びるような態度を忍はする。しかし、それに惑わされ騙されるほど僕もやわな男じゃないのだ。

 

「そんな目をしても僕は見逃さないぜ」

「けちけち、そんなんじゃからうぬは身長が低い」

「関係ないだろ!」

 

 気にしてるんだよ! 低身長は! コンプレックスなんだ!

 やれやれ、と仕方がないといった風体を醸しながら忍は立ち上がる。

 ん、そういえば今日は斧乃木ちゃんいないみたいだな。珍しい。どうりで忍がこうも大胆に外に居られるわけだ。──いや、忍がこうして外に出ているから、斧乃木ちゃんはいないのか?

 

 忍と斧乃木ちゃんは仲が悪いと言うか、決していい方ではない関係性なのだけれども、忍がこうして外に出ている際。斧乃木ちゃんは大抵近くの公園で遊ぶなり散歩するなりして時間を潰している。この前なんかも学校の用事で帰りが遅くなってしまった時に近くの公園で一人寂しくシーソーで遊んでいる斧乃木ちゃんを見かけたものだ(その後めちゃくちゃ一緒に遊んだ)

 

「で、儂はなにをすれば良い?」

「ええっとだな。ほら、僕って後1ヶ月もしたら高校卒業だろ?」

「ふうん、もうそのような歳になったのか……ふぁああ。時の流れも、早いものじゃのう」

「まあ、な。そこでだ、僕は今度茶話会ってやつに参加するんだけど、忍。ちょっとお前も手伝ってくれないか?」

「ほおう、手伝う。この儂がか」

「ああ」

 

 それからおよそ30分に渡って、忍が茶話会でなにをすればいいのかの説明をした。事細かなことは無理なので、大まかな予定を[忍にしか出来ないこと]という言葉を用いてだ。

 

 その間忍はうたた寝することなく真面目に聞いてくれた。やはり僕の卒業というのを少しでも考慮してくれているらしく、そこはそこで僕思いなところもあるんだなと少し可愛く思えた。

 

「うむ、承諾した。その──茶話会とやらはいつじゃ?」

「あと、一週間くらいかな」

「結構近いのう……もう少し早う言ってくれても良かったじゃろうに」

「ぐ、仕方ないだろ。さっき思いついたんだ」

「さっき……突発的にもほどがあるじゃろ」

 

 そんなことを言いつつ、なんやかんやで承諾してくれる忍はやっぱり忍だな。不思議とそう思えた。

 

「それじゃあ、よろしく頼むぜ」

「うむ、了解した」

 

 話にひと段落がつき、忍も眠いと僕の影に入ろうとした瞬間。部屋のドアが大きく開いた。

 

「あ」

 

 その扉の間から垣間見えたのは斧乃木ちゃんであったが、その視線を辿ってみると忍と目があってしまったらしく、アパート全体に響き渡るほど力強く扉を閉めていった。

 

 やはりこの骨董アパートとも老朽化が進んでしまっているのだろうか、どうも不気味な嫌な音がしたが──目をつむるというか、耳を閉じておこう。

 

 僕はなにも見てないし、なにも知らない。

 

「…………」

「…………」

 

 イレギュラーな介入によってしばし沈黙が生まれたものの、もう寝ると言い残し忍は影の中へと消えていった。あいつ、いっつも寝てるけど……大丈夫か?一抹の不安を抱えながらも忍が影の中に入ったことを確認してから僕は立ち上がり玄関の扉に手をかける。

 

「……斧乃木ちゃーん……」

 

 案の定、斧乃木ちゃんは部屋の前で体育座りをして待機中だった。最初の頃、追いかけようと僕が外に出た時は柵を飛び越え遥か彼方まで走っていっていたものだけれども、最近はこうして人形のように座っている。汚れてしまうだろうから洗濯してあげると言っているのだけれども、いつも頑なに断られてしまうが──やはり、思春期なのだろうか。ちゃんと洗ってるっぽいからいいんだけど。

 

「やあ、鬼のお兄ちゃん。略して鬼いちゃん」

「略すな」

「かのキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードさんはお休み中かな」

 

 斧乃木ちゃんは無表情かつ無感情な声のため、今彼女が恐怖に打ちひしがれているのか、それともふざけているのかは不明だが、やけに丁寧な物言いであった。

 

「寝てるよ、多分。さっき影の中に入ったし」

「多分ってなんだい。多分って、もっと確定的な情報が欲しいな」

「知るかよ……」

 

 とりあえず入れ、と部屋に招き入れる。

 斧乃木ちゃんは死体人形な訳で、死体なわけで、寒い環境の方が腐りにくくっていいかもしれないと考えてはいたのだが──どうやらそうではないらしかった。まあ、アイスの差し入れは今もなお続いているのだが。

 

 斧乃木ちゃんは器用にふりふりのスカートの裾をたくし上げ正座で座り込む。ご飯は必要ないと思うのだけれども、図々しくも戸棚からお茶碗とお箸を取り出しては行儀が悪いことにお茶碗にお箸を当てた音を鳴らし始めた。

 

「鬼いちゃん。ごはん」

「飯を食おうとするな。ねえよ」

「えー、白米白米」

「そんな洋風の服着といてご飯って……サンドウィッチ食えサンドウィッチ」

 

 さっき忍が食べていたサンドウィッチのあまりを斧乃木ちゃんに押し付ける。残念そうにため息をついては食器棚にお茶碗とお箸をなおしてから小さくサンドウィッチを頬張り始めた。

 

「で、鬼いちゃん。僕になにか言うことはないのかい?」

「……言うこと?」

 

 何か悪いことしたっけか。

 心当たりがない。

 

「いや、ほら。さっき忍姉さんに茶話会のオファーを出してたじゃないか。僕にはないのかって聞いてるんだよ」

「お前いつから聞いてた!」

「忍姉さんがこのサンドウィッチ食べてたところから」

「最初からじゃねえかよ!」

 

 はあ、とため息を一つついてから、僕が口を開く。

 

「まあ、どうしてもって言うならないわけじゃないが……忍に頼らねえといけないぜ?」

「む、忍姉さんにかい?」

「ああ、斧乃木ちゃんが忍に」

「えー。鬼いちゃんが頼んでよー」

 

 面倒くさそうに斧乃木ちゃんは言うが、さすがにそこまで面倒は見きれないので結果的に斧乃木ちゃんが忍に頼み込むということで話はついた。

 二人は仲が悪いが、まあドーナツでも差し入れればなんとかなるだろうと助言しておいたから、失敗することがあればそれはきっと斧乃木ちゃん側の失態が原因だろう。

 

 今日は久しぶりに斧乃木ちゃんと一緒の布団で寝た。

 とても、冷たかった。

 

 

 



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007

「兄ちゃん!」

「お兄ちゃん!」

「よう、火憐ちゃんに、月火ちゃん」

 

 茶話会まで、あと2日と迫った今日。故郷からは家族である二人の妹と両親が僕の通う希望ヶ峰高校がある都会まではるばるやってきた。目的はもちろん、茶話会を見るためだ。

 

 茶話会は前にも話したとおりに超高校級の生徒たちが出し物をする。その生徒たちの中にはもちろん超高校級の料理人であったり、アイドルだったり、ともかく一流の人材がいるのだ。高校生だからとはいえ、まだ子供だからとはいえ、それでも一人前でとても凄い出し物なわけであり、それを目当てに訪れる野次馬も少なからずいる。

 

 まあ、混乱を避けるため参加できるのは生徒とその親族、及びに友達くらいなのだが。

 

 故郷に友達がいない僕が呼べるのは精々家族くらいなわけだが──今年からは一人、その家族が増えた。

 

 それはペットだとかじゃなくって、れっきとした人間である。

 否、人の形をした化物という心の冷たいものもいるのだが──例え、化物だろうと人外だろうと、僕の妹は僕の妹なわけであって、僕は愛情をたっぷりと注いでいくつもりだ。

 僕の妹は阿良々木火憐と阿良々木月火であり、その二人は僕の妹以外の何者でもない。

 

「んで、観光とかするのか? 一応都心なわけだしさ、電車に乗りでもしたらそれなりの有名どころは行けるだろ?」

「いや、今日は長旅で疲れたし、やめておくよ。行くとしてもまた明日だな」

 

 茶色く光るスーツケースにもたれ掛かりながら、僕の父親はため息がちにそう言う。その横で、母親が小さく笑っている。

 

 タクシーを手配できるようなお金は持ってないし、かといって歩かせるわけにもいかないので希望ヶ峰学園前で止まるバスを利用することにした。

 

 ──今更だけど、こうして家族全員が揃うのはいつぶりだろうか──月火ちゃんの件を抜きにしても数年ぶりだろうし、月火ちゃん込みでも揃って話すのはいつだって月火ちゃんの問題についてだったから、いつぶりと言うか初めてなのかもしれない。

 僕自身の反抗期、思春期によったものもあったが、やはりこの共働きの二人が仕事で同じ日に休みを連続して取れたというのは──とても、珍しく思えた。

 

「うおっしゃぁ! 兄ちゃん! 希望ヶ峰に着いたら知り合い紹介しろよ!」

「しろよ!」

 

 疲れるどころか逆にテンションが上がりに上がっていて、まるでジェットコースターに乗り終わった高校生みたいなアガリ方であった。月火ちゃんに至っては、「しろよ!」なんてはしたない言葉を使ってるし。……火憐ちゃんの影響か?

 

「……はあ、みんなの邪魔にならねえようにだぜ?」

「ラジャー!」

「イエッサー!」

 

 あまりに声が大きいので、一度妹たちの頭を強く叩いて黙らせる。そんなこんなをしているうちに、どうやら着いたらしい。

 

 希望ヶ峰学園の敷地はとても広く、その中に所狭しと建てられている棟の中には住宅用のものがある。先生が泊まったり、生徒が泊まるような──いわゆる寄宿舎だ。

 希望ヶ峰学園の生徒なら、申請さえすれば卒業までの3年間無償でここに宿泊することが出来る。例外として、今回のように客人が来る場合はそれらの方に貸し出されるのだ。

 

 学園の門付近には、秘密の園である校内を一葉でも撮ろうとカメラを構えたメディア関係者と思しき人が十数人いたが、それを押し分けて中に入る。なお、校内に入るには生徒手帳が必要となるわけであり、同伴者は入園許可証と生徒からの確認が必要となっている。厳重な警備だな……過去に何かあったのだろうか。

 

 僕からしたら見慣れた光景なわけだけれども、妹たちはワイワイとまるで子供のようにはしゃいでいる。(ひょっとしたら子供なのかもしれない。中学生にもなって、子供なのかもしれない。……いや、僕も中学生の頃はあんなんだったっけ? 三年も前のことは覚えてないな)明日観光に行こうという話をしていたのに、体力が持つのだろうか……少し心配になるが、まあ大丈夫だろう。

 

 寄宿舎の部屋は基本一人用なのだが、こういう時は最大二人用にまで拡張できる。拡張といってもベッド数を増やすだけなのだが、そのために両親二人のペア。妹たち二人のペアの二組に分かれる部屋割りに決まった。

 

「じゃあじゃあ兄ちゃん! 紹介してくれよ、超高校級の人!」

「凄そうだねー、超高校級の人」

「……あのな、お前ら。一応僕も超高校級の肩書きがあるんだぜ?」

「……え、そうなの?」

 

 月火ちゃんはその言葉を聞いて、キョトンとした表情をする。おいおい嘘だろ? というか、火憐ちゃんに至っては僕の言葉なんかに耳を貸さずにただただテンションを上げているだけだった。

 

「……はあ、もういい」

 

 諦め切れないが、諦めをつけないといけないので気分を切り替えて携帯電話を取り出し電話をする。相手は神原だ。

 ワンコール目で神原は電話に出る。早っ。

 

『もしもし。阿良々木先輩のエロ奴隷である、神原駿河だ! 得意技は二段ジャンプ!』

『嘘をつくな! それと、二段ジャンプは人間技じゃねえよ!』

『その声は阿良々木先輩か、失敬失敬。では訂正する。阿良々木先輩の愛人の神原駿河だ! 特技は籠絡!』

「お前もしかして誰に対してもこの挨拶してるのか? 嘘だろ? 嘘だと言ってくれ! ……愛人っ?! というか健全な高校生が籠絡なんて特技にするな!』

 

 愉快な笑い声が電話の向こうから聞こえて来る。その他にも同級生らしき人達が騒いでいる声が聞こえるので、きっと何かの作業中なのだろう。つーか、同級生の前でこんなことを恥ずかしげもなく話しているというのか……なんというか、呆れを通り越して別の感情が湧き上がってくる。

 

『ところで神原。少し頼みがあるんだけど、いいか?』

『ああ、もちろん良いぞ。早速準備をする。私は阿良々木先輩のために何をすればいい?』

 

 ……カッコいいよな、こいつ。

 後輩とは思えないほど、女とは思えないほどにかっこいい生き様をしている。いつか僕も相手の要件を聞かずにそれをまるで当然のことかのように受け入れてみたい……。もし僕が女で神原が男なら惚れてしまいそうだ。

 

『……まあなんてんだ。今、僕の妹たちがこっちに来てるんだけどな』

『ほうほう』

『そいつらに、超高校級の生徒たちを見せてやりたいんだけど、僕だと友好関係が狭いから神原に紹介してもらえないかと思ってよ』

 

 神原はそれをゆっくりと吟味することなく、即答で「了解した。教室に知る限りの知り合いをかき集めるから二年生の教室に来てくれ」と言われ、そのまま切られてしまった。「了解した」のあたりから、靴が廊下を強く踏みしめる音が聞こえていたのを見ると(聴くと)もう既に動いているらしい……。

 

 流石にすぐ集まるということはないだろうから、少し外で時間を潰してから二年生の教室に向かうことにした。時間を潰す、といっても、特に話すこともなくただただ外を歩いているだけなんだけれども。

 

「……兄ちゃんは、上手くやってるのか? 学校」

 

 僕の身長をとうの昔に越し、今となっては下手すれば見下される立場になりつつある僕に向かって火憐ちゃんはそう尋ねる。

 

「ああ、まあ、それなりに──ま、上手くいってても、いってなかったとしても、あと一ヶ月もしないうちに卒業するんだけどな」

 

 強い風で厳しく揺れる木の枝が、哀愁を誘う。

 春は桜の花で艶やかな景色になるが、その前はこんな風に寂しい風景なのだ。枯れ木、なんてのも悲しいニュアンスである。

 

「……火憐ちゃんは、上手くやってるのか? 月火ちゃんもさ」

 

 月火ちゃんは突然話を振られて飛び上がるかのように驚くが、すぐに平常心に戻って口を開いた。

 

「私は上手くやってるよ。友達も出来たし、みんな良くしてくれるし。彼氏も出来たし」

「彼氏? 嘘もほどほどにしとけ」

 

 嘘じゃない、と声を張り上げて言うがどう考えても嘘だしいたところで僕が許さないので無視をした。

 

「で、火憐ちゃんは?」

「あたしか? あたしはまあ──それなりにだ。空手の方もちゃんとやってるし、勉強は──ま、なあなあって感じかな。彼氏もできたし」

「唐突に彼氏の話をぶち込んでくるな! 流れがあまりにも急だぞ!」

「ひゅーっひゅーひゅっひゅっー」

「露骨に口笛を吹くな」

 

 そんな兄と妹との話は、新鮮に感じれたし、とても楽しかった。

 センチメンタルになってるだけかもしれないけれども、暖かみを感じれたようになった。

 やっぱり僕の妹はこいつらしかいないとも思えた。



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008

 両手に花といった感じで、僕と妹二人は学園外周をふらついていたのだが。

 やはり冬。

 道半ばで風も強くなってきたため、近くの校舎内に入り風を防ぐことにした。廊下は廊下でまた一段と冷え込んでいるのだが、風が吹く外と比べれば幾分かマシに思えた。それに、神原が言う二年生の教室というのもこの校舎の近くにあるため、どのみち中には入ることになるわけだから、ほんの誤差のようなものなのだ。

 

 妹はこんなに寒いというのに、カラ元気か、馬鹿みたいにテンションを上げてはしゃいでいる。もう少し幼ければ分不相応な反応なのかもしれないが、もうこいつらも中学三年生と中学二年生である。小学生三年生、二年生ではないのだ。

 もう少し大人の雰囲気をまとってほしいものだが……。まあ、高望みってやつだろうか。儚い夢を思い浮かべながら、横目で二人を見る。

 とても、楽しそうだった。

 

「なあ。火憐ちゃんに、月火ちゃん。そろそろ行くか」

「おっ。やっと超高校級の人と会えるのか。緊張するなー!」

「緊張するねー」

「……」

 

 もう何言っても意味ないと思ったので、僕は口をつぐんだ。

 しかし、ふむ。神原はこの短時間で、一体どれほどの人数を集めることが出来たのだろうか。あいつはとてもフレンドリーな性格で、友好関係が学年問わず広いわけだから、いったいどんな顔ぶれが揃っているのか、日頃から超高校級の生徒と顔を合わせている僕も、内心ワクワクしていた。

 

 確か集合場所は二年生の教室。ちょうどこの棟にあるな。

 

 僕は妹二人を連れ、教室の前まで赴く。

 外から感じ取れる雰囲気は静寂そのもので、中に誰かいるのだろうかと、少し疑いを入れたくなるほどだった。もしかして、教室を間違えてしまったのだろうか。なんて勘違いするほどに。

 恐る恐る引き戸を開き、中に入ると。

 

「ハァァッピィィッブゥアァッスゥデ……」

 

 勢いよく扉を閉め、「火憐ちゃん、月火ちゃん。どうやらお取り込み中だったらしい。すまないがまた明日だ」と、困惑する二人の背中を押して部屋に戻る。

 

「待ってくれ! 阿良々木先輩!」

 

 跳ねるように扉は開けられ、暖かい空気、煌びやかな電飾の明かりとともに、一人の後輩が僕の肩を掴んだ。

 その異質なる形を隠すように包帯が巻かれた左手でだ。

 その手を払いのけ、ため息をつきながら後ろを振り向く。前より少し髪が伸びたのだろうか、なんてことを思う。

 

「ふう、危ない危ない。今日の主役を取り逃がすところだった」

「まさかこのバースデーパーティーは僕のために開いたってのか! 僕が主役ってことはよ!」

「当たり前だろう? 先輩の誕生日を祝わない後輩がどこにいる」

「誕生日もろくに調査しないで、勝手にサプライズパーティーを開いて爆死した後輩よりはいると思うがな」

「爆死とは、人聞きが悪いな。どう見ても大成功だろう」

「これが成功したように見えるなら、眼科に行くことを勧めるよ」

 

 そう言い、訝しげな表情で、一応教室の中に入った。ハッピーバースデーなんて言っているが特に飾り付けもなく、それらしい要素としてはケーキと、とんがり帽子くらいだった。

 

「……ええっとだな、神原。もしかしてだが、あれからずっとケーキ買ったりとんがり帽作ったりしていたのか?」

「ああ、そうだが……いやっ、しっかりとついでに人も集めておいた! すれ違う人すれ違う人に声をかけておいたから、もうじき来るはずなのだが……ふむ、遅いな」

 

 ついでって……まあ、頼んでる立場だから文句は言いづらいが、しかしそれでも僕は神原に対して怒ったところで、咎められやしないのではないだろうか。

 まあ、妹たちは超高校級のバスケットボール選手という肩書きを持つ神原に会えただけでも、かなり興奮しているからこれで良かったのかもしれないが……。特に、火憐ちゃんは神原のことを先生と慕うほどに好いているからな。ま、いいか……。

 僕の気持ちを露知らずといった風に、キョロキョロと神原は廊下や窓の外をしきりに覗く。しかし、人影は見えない。

 

「ふーむ、まあいい。そろそろ誕生日会をだな」

「するか。さっさと二日後の茶話会の準備でもしとけ」

「冷たいな、阿良々木先輩は。さてさて、ケーキでも食べよう」

 

 そう言って、神原はおよそコンビニのものと思えるビニール袋から複数種類のケーキを取り出し、机に並べる。それにつられて火憐ちゃんと月火ちゃんはそちらへと小走りで向かって、椅子に座った。

 

「えーっと、火憐ちゃんに月火ちゃんだっけ? 阿良々木先輩から色々と話は聞いてるよ」

 

 神原は、火憐ちゃん月火ちゃんの前の席に座り、ケーキのプラスチックケースを開けながら二人に話しかける。二人は緊張しているのだろうか、いつにも増して背筋を伸ばし、ひしと相手の目を見ていた。

 せっかく後輩が用意してくれたわけだし、不満をたれ流したままじゃなくってお礼を少しでも言おうかなと僕も三人の元へと歩いて近づく。

 

「うちの兄が、お世話になってます」

 

 火憐ちゃんは少し喋れてないようだったが、月火ちゃんは丁寧な言葉遣いでそう言う。

 

「どちらかといえば、僕がお世話してる立場なんだがな」

 

 と軽口を叩いてみれば、二人からの集中砲火を食らったので、僕は潔く口をつぐむことにした。

 四人で机を囲み、神原が買ってきてくれたケーキを各々食べながら、ちょっとした世間話をすることになった。

 

「改めて、自己紹介をさせてもらうよ。最近は活動休止しているから、もしかしたら忘れられてしまっているかもしれないし」と、神原は懐かしむように自分の左腕を眺める。猿の手、怪異に憑かれ。否、怪異に願いを望んだがゆえの結果、負の遺産である包帯が巻かれたその左腕を。

 

「私は希望ヶ峰学園二年生。超高校級のバスケットボール選手の神原駿河だ。よろしく頼むぞ、火憐ちゃんに──月火ちゃん」

「は、はい! 神原先生!」

「こちらこそ、よろしくお願いしまーす」

 

 月火ちゃんは相変わらずだが、火憐ちゃんは口元にクリームをつけたままガタリと勢いよく立ち上がった。

 それを見て、神原は朗らかに笑う。

 僕はそんな三人を遠巻きに眺めながら、一言。

 

「火憐ちゃんと月火ちゃんも、自己紹介しとくか? お前らのことを神原に話したことがあるって言っても、そこまでだし、やっぱり直接自己紹介しといたほうがいいだろう」

 

 僕がそう言うと、跳ねるように扉が開き「WRYYYYYY!!!」とどう考えても危ない奴が教室に飛び込んできた。

 

「アタシは人間をやめるぞ! 阿良々木ーーッ! 私は人間を超越するッ! 阿良々木 おまえの血でだァーッ!!」

 

 彼女はそう言い、おおよそケーキと思えるものを僕の顔に目掛けて振りかぶった。僕はあまりの驚きで椅子から仰け反っていたのだが、それも計算のうちと言わんばかりの的確さで、そのケーキは僕の顔面に命中し、白いクリームが後方のガラス窓に四散し、まるで血しぶきのように広がった。

 

「ごふっ」

 

 僕は口に入ったクリームを吐き出すが、一部が宙に舞っただけで口の中はまだ無味なクリームだらけであり、急いでブレザーを脱いでは顔を拭って。

 

「江ノ島! この野郎! 一応僕はお前の先輩だぞっ?」

「えー、阿良々木センパイはもう卒業するんですし、無礼講ってことで」

「無礼講にしちゃあやりすぎな気がするが……」

 

 ちょっと洗ってくると、僕は手洗い場に向かって顔を水で洗い、神原から借りたスポーツタオルで水滴を吸い取った。教室に戻ると窓の汚れを江ノ島がしっかりと拭いていた。その側で戦刃のやつも一緒に手伝っているところを見ると、どうやら戦刃に言われてやっているらしい。ため息をこぼしながら教室内へ。

 

「阿良々木先輩。大丈夫だったか?」

「いやまあ、うん。クリームが当たっただけだから、怪我とかは特にないよ」

 

 ありがとうと言う言葉を添えて、スポーツタオルを神原に返す。

 

「あ。阿良々木先輩。さっきは盾子ちゃんが……すいません。まさか投げるとは思ってなくって……」

「戦刃が謝ることじゃないさ。怪我もないし、あまり服も汚れてなかったから気にしなくってもいいよ」

 

 そう気にかけるように言うが、それでも戦刃は申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「で、江ノ島。僕に言うことがあると思うんだけれども」

 

 ちょうど掃除をし終えたようで、スカートの汚れを払いながら江ノ島は立ち上がり、こちらを振り返ってこう言った。

 

「ハッピーバースデー。阿良々木センパイ」



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009

 あけましておめでとうございます。
 今年は伊勢神宮へ初詣に行って参りました。
 僕は毎日自然とは触れ合いがない生活を送っていますので、木が多い山の中を通り、こう言うところもいいかなと思いました。
 いざ住むとなると音を上げるのでしょうが。


 両親、そして妹達が希望ヶ峰学園に訪ねて来て、そして江ノ島にパイをぶつけられた翌日。

 つまり、茶話会前日。

 僕は明日に迫った大イベント、茶話会の最終確認、およびその準備や始末に追われていた。それは羽川や七海といった生徒会会長、学級委員長もまた例外ではなく、みんな共々練習やらで一部を除いて家族と話をする間も無く忙しい思いをしていた。

 その一部というのは、茶話会にあまり乗り気でない人たちのことだ。主に、江ノ島や──日向。準備中にあいつらの姿を見たことはとても少ない。

 まだ江ノ島は呼べば来る方なのだけれども(それでも面倒くさそうにしている)日向が来ることは絶対にないのだ。

 

 昔はあんなやつじゃなかったのに……と、僕は心の中で思うことがあるが、しかし、彼とはまだ一年も付き合いがない。僕が彼と出会う前は、ああいう性格だったのかもしれないし、やはり人というのは戦場ヶ原を良い例に時とともに変わるものなのだ。

 本来の日向がああなのかもしれないし、何か理由があってあんな風に様変わりしてしまっているのかもしれない。

 

 なんにせよ、僕みたいな部外者が口出しできるような事ではないし、また口出しできる立場であったとしても、したところで彼が元に戻ることを僕は望んでいないようにも思えた。

 

 なぜだろうか。

 理由は分からない。

 

 さて、本題に戻ろう。

 僕らの話をしよう。

 

 準備を終えた僕らは明日の本番を待つだけとなった。ので、今日は前夜祭的なものをしようと、急遽購買でパンを買ったり、ジュースを用意したり、花村が下準備で不覚にも余らせてしまった食材を使って簡単な料理を作ってくれたりしたのだ。

 

 そしてそれを77期生、78期生の生徒のみで集まり、ワイワイと明日に響かない程度騒ごうということだった。

 

 きっとみんな、明日の茶話会が今からでも待ち遠しく、もう既に興奮している胸の高鳴りを抑えられないのだろう。普段協調生がないやつも、仕方なしという風に参加していた。

 

 一番驚いたのは、老倉がいたということだろうか……一応気を使って、というか自分の身を守るために、老倉の姿が見えた時点で気付かれないように僕は会場を抜け出したのだが……見つかってないよな?

 

 そんな不安感を抑えるために、僕は家族の元へ向かうわけでもなく、また家に帰るわけでもなく、ちゃらんぽらんに外を歩いていた。

 

 やはり、熱が収まらない。

 

 僕自身も、昔は人間強度が下がるから……なんて理由で頑なに友達を作ろうとしなかったが、やはり明日の茶話会が楽しみなのだろう。一体僕は、なぜこうも変わってしまったのだろうか──しかし、悪い気分はしない。

 

 どうやら学校内をもう一周してしまったようで、前方には前夜祭が開かれている会場が見えた。まずいまずい、人に見つかったら連れ戻されちゃうかもな……と思い、向きを変えて今までとは逆方向へ歩いて行こうと足を踏み出せば、後方から僕を呼ぶ声が聞こえた。

 

 やれやれ、見つかってしまったのだろうか。そう思い、その声は聞こえなかったというフリをして、少しばかり早めに歩みを進める。

 すると今度は足音がドンドンと近づいて来た。僕に向かってかけられる声に悪意があれば、僕はそのまま走って逃げていただろう。

 しかし、聞き慣れたその声を聞いて僕はピタリと歩みを止め、「なんだ?」と面倒臭そうな表情で振り返る。

 

「──阿良々木くん、こんなところにいたんだね。良かったあ、最初はいたのに探したらいなかったからさ」

 

 彼女は右手に輪ゴムで止められた発泡スチロールの入れ物、割り箸。右手に缶ジュースとそれぞれ2人分持っていた。それを餌という風に前に差し出して、こちらのベンチに座ろうという仕草で僕を誘う。

  まあいいかと、快くその誘いに乗り、僕はベンチに腰をかけた。その後に七海も座り、僕に一人分の缶ジュースなどを寄越してくれた。

 

「七海、いいのか? お前は茶話会を仕切ったりして、主役みたいなものだったろうに」

「それを言うなら阿良々木くんもだよ? 何を言っているのやら」

 

 ささ、早く食べようと、七海は膝の上で発泡スチロールにかけられた輪ゴムを解き、それを開ける。すると寒い冬の外気にさらされて、暖かい湯気が濃い白となって立ち上った。

 どうやら、たこ焼きらしい。

 

「阿良々木くんは、タコ食べられる人だよね?」

「ああ、僕は食べれるよ」

「良かった」

 

 七海はそう言ってから、割り箸を使い熱々のたこ焼きを食べ始めた。やはり冷まさないと熱いのだろう、はふはふと忙しない動きをし始めた。その光景を微笑ましく見ながら、僕もたこ焼きを口に運ぶ。

 

「熱っ」

「あはは、ちゃんと冷まさないと」

 

 お前に言われたくないなと口出しをしようと思ったが、すんでのところで思いとどまり、モゴモゴとたこ焼きを食べた。

 

「……阿良々木くんは、明日の茶話会、出るんだっけ」

「ああ……うん、まあな。お前も、出るんだろう?」

「まあね」

 

 七海は僕が茶話会に出るということを知っていたはずだが、唐突にどうしたのだろうかと不思議に思い、ちらりと彼女の方を向く。すると、七海もこちらを向き、目が合った。

 それを何もなかったかのようにし、七海は再び前を向いた。

 

「……阿良々木くんはさ、変わったよね」

「……なんだ? どうした? 藪から棒に」

「いや、どうもしないよ。本当に、変わったなあって。だって、昔の阿良々木くんだったら茶話会なんて出席しなかったでしょ?」

 

 酷ければドタキャンするだろうし。と七海。

 

「おいおい、酷いな。流石にドタキャンはしないよ」

「あはは、そうだよね。昔の阿良々木くんでも、それはないか」

「……ったく、お前の中で僕のイメージは一体どうなっているのやら」

 

 少し不機嫌になり、僕は姿勢を少し崩して勢いよく缶ジュースを開ければ、それを一気に喉へと流し込んだ。それはとても冷たく、身に染みるようであった。

 

「あーごめんね。もっとオブラートに包むべきだったよ」

「いや……いいんだよ。よく考えてみたら、ありえない話でもなかったし」

 

 そして、お互い無言になった。けれども、今のこの雰囲気を苦しいとは思わなかった。むしろ、幸せだと思えた。

 

「……七海、お前は変わらないよ。僕が初めてあった時から」

「初めてって……いつから?」

 

 七海はジュースを一口飲み、僕にそう尋ねた。

 

「そりゃ、二年の終わりからだよ」

 

 二年の終わり。つまり、今から一年前──今思えば、あれが僕の人生の分岐路だったのだろう。彼女と出会わずとも、忍野メメやキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードといった“あちら側”に僕は足を一歩踏み込んでいたのだろうし、きっと戦場ヶ原ひたぎや神原駿河といった怪異に巻き込まれ、巻き込まれに行った一般人にも出会うことになっていたのだ。

 

 けれども、今の自分は七海が居てこそなわけであり、彼女が居ない自分というのは、今の僕に比べればツマラナイ人間なのだろう。

 

 そう考えてみれば、彼女には感謝するべきであるのだな。

 

「ふうん……私は、成長できてないのかな。阿良々木くんは、進歩してるのに」

 

 足をぶらりと揺らし、空になった発泡スチロールの入れ物を物寂しい目で七海は見つめる。彼女の横顔からは、哀愁の色が伺えた。

 

「そんなことは……ないだろう。お前は変わってないけど、成長はしてるさ。身体的にも、精神的にも」

 

 少し無責任な物言いであったと僕は喋りながら思ったが、けれども嘘をついているとは思わなかったため、変に訂正は入れなかった。

 

「……いいや、私は成長してないよ。まだまだ子供。私だって、ワガママは言うし、嫉妬だってするし、サボりたいって思うことはあるんだよ? ただ……それを、発散する方法を知らないだけで、抑え込んで、溜め込んじゃってるだけ」

 

 ……七海は、なにかを悩んでいるのだろうか。

 これは、僕が七海になにかをしてやるべきなのだろうか。僕ごときが、なにかをしてやれるのだろうか。

 

 いつもとは少し様子の違う七海を見て、僕は少し戸惑い、目をパチクリとする。呆けた表情を見て、七海はハッと目が覚めたかのようにし、慌てたようにして喋り出した。

 

「ご、ごめんね。ちょっと、疲れちゃってたみたいだよ。変なこと言っちゃってさ、私らしくないよね」

「いや、いいんだよ。七海。疲れているなら、僕を頼ってくれ。みんなを頼ってくれ。僕らはお前にいつも助けられてばかりだから、お前の力になることを快く受け入れるぜ──だから、一人で抱え込まないでくれよ。僕らのことも、頼りにしてくれ」

 

 いや──七海は、こんなことを言わなくっても、僕らのことを頼ってくれるか。でも少し、それさえも彼女が無理して人に頼っているのではないかと思えた。

 誰かに、役割を与えるために必死に奔走しているのではないかと、思えた。

 

 ともかく、僕はそう言い、腰を立ち上げる。彼女の顔を見ることは何故だか躊躇いが生まれたので、頭の上にポンと手を置いた。

 

「……うん、ありがとうね。阿良々木くん。じゃあ、とりあえず明日の茶話会を成功させよう」

 

 力強い声で七海は言い、僕の背中を強く、ポンと叩いた。こんなにも力があるものなのかと前へよろめいたが、コケると言うことはない。

 

「ははっ」

「へへ」

 

 青春のようだと思えた。

 実際、これが青春なのだろう。

 体は寒かったが、心はとても、ポカポカとした。

 

 

 

 



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010

 待ちに待った茶話会が、いよいよ今日開催する。

 みんな朝早くから最終確認のリハーサルを行い、また会場となる体育館の飾り付けに欠損がないか、来客者の席に不備がないかの点検なども行い、とうとう本番を迎えることとなった。

 

「にいちゃん。確か、にいちゃんも出るんだよな? 茶話会!」

 

 火憐ちゃんはどうやら朝早くから起きていたらしく、ついさっきまでランニングをしていたせいか(なぜか神原と一緒に)若干汗ばんでいて正直なところ近寄りたくないのだが、家族を会場まで連れていかなければならないという決まりのために、僕はぎこちない表情で先導していた。

 

「ああ……まあな、期待はしないでくれ」

「へー、おにいちゃんも出るんだね」

 

 月火ちゃんは月火ちゃんで……まあ、相変わらず浴衣を着ている。西園寺なんかと趣味が合いそうだなと思ったりしたが、二人が揃えばなんだかとんでもないことになりそうな気がしたので、八九寺と月火ちゃんが出会わないように裏で働かなければならないな。

 

 僕が四人を会場へ案内したころには既に会場内にはたくさんの人が到着しており、中には同級生の面影がある人物などもチラホラと見えた。そういった人たちにも軽く会釈をしつつ、僕はみんなが揃っている舞台裏の方へと回る。

 

 今日丸一日をかけて行われる茶話会では、超高校級の生徒たちが各々の才能を発揮し色々な催し物をするのだ。目的は人によって様々であり、一年頑張った成果を見せようとする者もいれば、卒業する三年生を見送るための場として活用する者もいる。僕もその茶話会に出席するのだが……特に目的はない。ただ、楽しもうと昨日からワクワクしていただけだ。

 

 舞台裏の楽屋の方では見慣れた顔ぶれが待機しており、各々晴れ着に着替えて興奮した表情をしていた。中には今にも吐きそうなほどに緊張している奴もいるが、まあそれもひっくるめて楽しい雰囲気であった。

 

 僕は近くにある丸椅子に座り、生徒用に配られた今日の茶話会のプログラムに目を通す。最初は生徒会会長、羽川翼によるちょっとしたお話があるようで、彼女を崇拝し神に選ばれた委員長であると信じてやまない彼女の信仰者である僕は、かなり真面目に聞かなければならない。

 

 まだ茶話会が始まるまでは十分ほどあるため、一応羽川に声かけでもしておこうかなと彼女の姿を楽屋の中で探すが、どこにもその姿は見られなかった。はて、どこにいるのだろうか。

 

 そう、首を傾げていると後ろから肩を叩かれた。

 

「阿良々木くん、どう? 調子は。私としてはあなたが大きな失敗をして赤っ恥でもかくんじゃないかと昨日から楽しみで楽しみで……」

「人の不幸を楽しみにするな! 戦場ヶ原! ……つうか、僕はただ後輩とエキシビションマッチってことで勝負するだけだから、失敗なんて、それこそ大変なことがなければしねえよ!」

「あら、本当にそうかしら? あなたの椅子が座った瞬間に壊れるよう細工されてるかもしれないわよ?」と戦場ヶ原は意地悪な顔で言う。それに対して僕が顔を歪め、少し言い返そうと口を開けば。「……ああ、阿良々木くん。羽川さんを探しているなら、彼女はもう既に舞台の幕裏にいるわよ」と戦場ヶ原は言った。

「……そうなのか?」と僕。

「ええ、私が嘘をつくと思う? 早く行きなさい」

 

 戦場ヶ原はそう言い、僕の背中を押し、また蹴って無理やり楽屋から追い出す形で僕を外に出す。

 

「じゃ、頑張ってねー」

 

 無表情でそう言えば、戦場ヶ原は楽屋の扉を閉めた。

 ……やれやれ、なにを頑張ればいいのやら。

 羽川に対して特に用事もないと言うのに、これから大きな仕事が待っていて集中しているであろう羽川に話しかけていいものかと迷いながら、僕は舞台の幕裏へと歩みを進めた。

 

 その迷いが歩み方にも現れ、少しばかり足を進める速度が遅いように思えた。腕時計の時間を見てみると開始まであと五分。それを見れば、急がなければと言う気持ちに駆られ、僕は話す内容も考えずに幕裏へと到着し、そして羽川の姿を探すのであった。

 

「……あっ、羽川」

 

 裏幕の方で、これから読むのであろう挨拶の台本を目に通し、それを呟いている羽川は僕の声でこちらに気付き、視線を僕に移し、にこやかな笑顔をこちらへと向ける。僕は出来るだけ自然体を装ってそちらへと歩いて行く。

 

「よう、羽川。どうだ? 気分の方はさ」

「まあ、程よく緊張できていて、ちょうどいいよ」

 

 幕の向こう側からは僕ら生徒の家族親戚達の話し声が聞こえてきていて、彼らに僕らの話し声が聞こえないよう、少し控えめの声量で話す。

 

「そうか、それは良かった。てっきりガクガクに緊張して呂律も回らないくらいになってしまっているんじゃないかと心配してたんだよ」

「嘘ばっかり。流石の私でも呂律が回らなくなるくらい緊張しないよ。まあ──どうなるかは数分後に分かるんだけどね」

 

 と、羽川は自分の腕時計を確認しながら言った。

 あと数分で大勢の人の前で挨拶をしなければならないと言うのに、羽川からは良い意味で緊張というものが感じ取れず、とてもリラックスしているようだった。流石超高校級というべきなのだろうか……僕とは大違いだな。

 

「流石だな、羽川」

 

 僕が彼女に対し素直に感心し、本音を述べると、羽川は少し困惑したような表情で言った。

 

「えっ?! な、なに? 突然……。流石って、私は何も凄くないよ?」

「いいや、凄いぜ? ……頑張ってくれ」

「……そんなことないよ!」

 

 ムキになり頑なに否定する羽川の頭を少し撫で、困惑し続ける羽川をよそに逃げるようにして楽屋の方へと戻った。

 

 楽屋には大きなモニターが設置されており、そこから体育館の壇上で行われていることが見えるため、羽川の挨拶を楽屋でちゃんとみることができるのだ。そのため、見逃すことがないように僕は走って楽屋へと向かう。

 

 すると、楽屋の扉の前に江ノ島が立っており。足音で僕に気付いたのか、こちらに満面の笑みを浮かべて大きく手を振ってきた。

 

「よう、江ノ島」

 

 僕はそう言い、扉のドアノブに手をかけようとすれば江ノ島が扉を開けた。何も僕に話しかけることなく、言葉の一つ発することなく、ただほのかに笑みを浮かべ、部屋の中でも僕の後ろへとついてくる。僕が椅子に腰をかければその隣へと座るのだ。

 

 それを不思議に思い、江ノ島の顔を覗き込むようにして見ると、こちらをまた向いてニカリと笑った。

 

「……江ノ島、気味が悪いぞ」

 

 僕はもう少し江ノ島のことを探りたかったが、羽川の挨拶が始まってしまったためそれは憚られた。

 

 そうすれば、江ノ島は口を開くのであった。その時の彼女の表情を僕は知らない。

 

「……阿良々木センパイ。人生においての絶望と希望の起伏っていうのは、幸運と不運の起伏と重なっていると思いますか?」と江ノ島は言った。

「……なんだ? それは。生憎、僕は哲学の話をされてもよく分からないぜ」

 

 今は羽川の挨拶中なのだからという憤りを少しばかり乗せた声色で僕はそう答えた。

 

「分からないならいいんですけどね。もうすぐ分かりますよ……」

「……おい、江ノ島。どうしたんだ? 今日はなんだか変だぜ? 緊張のしすぎじゃないか?」

 

 彼女の態度に少し、妙に思えた。

 どこかおかしい、と。

 

「いやいや、そんなことないですよー。んじゃ、アタシはしないといけないことがあるんで」

 

 江ノ島はそう言って、楽屋を出ていった。プログラムを見る限り……江ノ島の出番はまだまだ先のはずなのだが。はて、野暮用だろうか?

 

 僕はそれについて不可解に思いながらも、羽川の挨拶を聞かねばとモニターに目線を向ける。すると……もう既に終わってしまっていた。

 

「……やっちまった!」

 

 情けない声を出して、僕は肩を落とした。

 

 

 

 



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011

 僕が出演する演目は午後の部にて行われるため、午前の部の時間帯では、僕はみんなの活躍をモニター越しで見守るしかなかった。それも一人で、である。

 羽川は挨拶を終えて戻ってきたかと思えば「みんなに声かけしてくるね、緊張してるだろうし」と、舞台の暗幕裏の方へと足早に向かってしまい。戦場ヶ原は戦場ヶ原で、神原と先輩後輩水入らずといった具合に楽しく会話に花を咲かせていたため、なんだかその輪に入りづらかった。

 言えばその輪に僕を入れてくれるのだろうけれど、しかし、どうしたって躊躇いが生じた。

 

 忍や斧乃木ちゃんをここに呼ぶというのはいささか人の目が気になるし、かといってわざわざ楽屋の外に出てまで話すこともないだろう。──それに、江ノ島みたいに外にいるやつが少なからずともいるようだから、外だって安全とは限らない。

 見られることに何かやましさを感じているわけではないものの、しかし周囲からの目線が明らかにおかしなものになってしまうことは理解していたため、なるべく避けたいという思いがあった。

 僕は一人で退屈を噛み締めつつ、ぼんやりと大きなモニターを眺める。その画面の向こう側では、超高校級のメカニックである左右田和一が自分で作成したというロボットを披露していた。爆発しなければいいがと思った。一度あいつに触らせてもらった機械が爆発したのは、今となってはある意味良い思い出である。

 

 午前の部は十二時半に終わり、そこから花村の料理がおよそ一時間ほど振舞われる。その間も超高校級の才能を持つ生徒たちがちょっとした特技であったり隠し芸など、一発芸大会のようなものを壇上の上で催しており、その際には会場が沸くこともあれば静まり返ることもあった。後者の方についてはあまり深く言及しないでおくことにしよう。

 そして、そのあと一時半からは午後の部が始まる。ちなみに僕は午後の部でも後半の方が出番であり、それは午後五時半と日が暮れ始める時間帯なのだ。夏頃であればまだ明るい時間帯ではあるものの、しかし冬ともなれば簡単に日は没する。

 

 それから、七時以降のディナーショーを挟んで会場に超高校級の生徒全員を呼び込み、各々が挨拶をした後に三年生に向けて一、二年生からの歌や言葉、ムービーなどを贈る時間が訪れる。

 僕は毎年、茶話会というものに参加してこなかったため、それらがどのようなものかというのは少し楽しみだったりする。神原がなにかやらかしてしまわないだろうかと、既にもう胃が痛いが……。

 

 腕時計の時間を見ると今は十時。昼までまだ二時間半以上あると思うとやっぱり──「……一人か」

 

 ガヤガヤと賑わう楽屋の中で、ポツンと椅子に座りながらそう呟いた。

 いやまあ、あれだぜ? 僕という人間は元々元来一人を好むような人間なわけだし、一年前は友達を作ると人間強度が下がるだなんて呪文のように心の中で唱え誰かと一緒にいるなんてことは無かったわけだから、孤独というものには既にほとほと慣れきっているし、別に寂しいとかは思わないのだけれどもさ。いや、なんだ? なんて言ったらいいんだろう。うーむ、謎だな。きっとこれはなんらかのSCPによる影響を受けている可能性が……。

 

「寂しい時は寂しいと言った方がいいんじゃないですか? 阿良々木先輩。自分を騙すということは、あまり良くないですよ。それに──自分を騙すことは人を騙すより難しいんですから、人を騙すことすらできないあなたに自分を騙すなんて大それたことは出来ませんよ」

 

 ぱさり、と僕の胸元に女子生徒の制服の裾が落ちる。そして、僕に向けられた侮辱とも取れる意味合いを含められているであろう人を嘲笑うような声とともに、自分の背中に人の体温、体重を感じた。

 どうやら僕は、彼女に後ろから抱きつかれているという形になっているらしい。

 

 彼女の姿を視界に捉えるため首を曲げて後ろを振り向こうとすると「先輩たちが頑張って壇上に立ってるんですから。いくら大好きな後輩の顔を見たいとはいえ、今はモニターに目線を向けてください。阿良々木先輩」と、無理やり顔の向きを前へと向けさせられてしまった。

 

「……どういうつもりだ? 扇ちゃん」

「どうもこうも、どうもしませんよ、阿良々木先輩。私はこうしたいからこうしてるだけです。それともどうにかして欲しいですか?」

 

 きっと扇ちゃんは笑みを浮かべているのだろうなと安易に想像できた。

 

 忍野扇。希望ヶ峰学園七十九期生であり、僕の後輩、一年生だ。

 本人曰く超高校級のフィールドワーカー。

 本人曰く忍野メメの姪。

 本人曰くほどよい胸。

 

 扇ちゃんの瞳は光と闇を吸収し無にすら帰させないような黒く底知れない色をしていて、その瞳で見つめられると僕は不思議な気持ちになる。何故だろうか、分からない。けどその理由は別に大したことじゃないのだろう。

 気のせいだとか、たまたまだとか、そんなどうでもいい理由なのだろう。

 

 ともかく、彼女は僕にとってそれだけで、彼女も僕に対して出す情報はそれだけであった。

 

「……扇ちゃん。君はなにかするのかい?」

 

 僕は前を向きながら言った。

 

「そうですねえ、超高校級のフィールドワーカーという才能を生かして人の手伝いをしましたよー。私は主役を張れるほど派手な才能ではないので、表舞台には出たくても出れません。……それに比べて、阿良々木先輩は主役じゃないですか。凄いですねえ。かの有名なあの超高校級のギャンブラーとのエキシビションマッチなんでしょう?」

 

 扇ちゃんはいつものお気楽な口調でそう言った。

 

「フィールドワーカーってのがなにかよく知らないが、扇ちゃんもやればできると思うんだがな……。いや、たいして凄くはないよ。それに、勝てるかどうかも分からないしさ……」

 

 僕がそう言うと、すると、扇ちゃんが少し黙ってしまった。フィールドワーカーについてあまりよく知らないと言ったことで気分に害してしまったのだろうかと思い。「そ、そうだ。今度フィールドワークってやつに連れて行ってくれよ。百聞は一見にしかずっていうしさ、僕は話を聞くより直接行った方がよく分かる気がする」と、早口で取り繕ったような言葉を並べた。

 

「そうですか? 阿良々木先輩ができるとは到底思えませんが……まあ、私やあなたとでフィールドワークができるような未来が来ればいいんですけどねえ」

 

 世の中そう上手くいかないものです、と扇ちゃん。

 

「……それは、どういう意味だ? 扇ちゃん」

「意味もなにもないですよ。もう何にもありませんし、どうでもないです。ちょっと話し過ぎちゃいましたかね……、ま、今更どうもできないですし。あなたには関係のないことですよ、阿良々木先輩。女の子のじじょーに男子が口を突っ込むのは無粋ですよ」

 

 そう言われてもと、僕は言葉を続けようとするが、すんでのところで唇を扇ちゃんの指で押さえられた。優しく、ピトリと。

 

「うわっ」

 

 驚きのあまり飛び退きそうになり、反射的に扇ちゃんの手を払いのける。

 

「酷いですねえ」

 

 全くもって悲壮感を感じられない口調で扇ちゃんは言った。そしてこう続ける。

 

「ささ、早くモニターに映る先輩たちの姿を見ましょう。阿良々木先輩は今まで茶話会に参加したことがないと聞きましたよ? だったら、楽しまないと損じゃないですか?」

「あれ、扇ちゃんにそのこと言ったっけ。僕が一、二年生の頃、茶話会に参加してないって話」

「言ってましたよ。ええ、あなたはその口で言っていましたとも。いつのことだったかはさておき、私に話してくれたじゃないですか」

 

 そうか、扇ちゃんが言うならきっと、そうなんだろう。

 

 扇ちゃんの顔を拝むということはもう半ば諦めに入っていて、僕はされるがままに彼女に身を任されていた。

 

 しかしそれで自分の心の寂しさが埋まるというわけではなく、扇ちゃんが来る前とあまり変わりがないように思えた。扇ちゃんじゃ満足できないとか、そういうことじゃないんだけれども──なぜだろうか。とんと不思議だ。まるで独り言を呟いているような──。

 

「そういえば阿良々木先輩」

「なんだい? 扇ちゃん」

「例の札、千石撫子に預けていると聞きましたが──大丈夫なんですか?」

「……なんで知ってるんだ? 流石にそのことを君に言った覚えはないぞ」

 

 僕は首を傾げ、不審に思う感情を露骨に表情に出した。すると扇ちゃんは、「やだなあ、阿良々木先輩。前に言ってたじゃないですか。忘れちゃったんですか? 悲しいなあ、私との会話内容を忘れちゃうだなんて」と、これまたお気楽な口調で言う。

 

「そうだったっけか……、まあ君がそう言うならそうなんだろう。変に疑って悪かったよ。──ああ、あの札は千石に預けている。僕は今凄く狭いアパートに住んでるから収納するところが無くってな。仮に金庫があったとしても、ボロアパートだから金庫ごと人に盗られかねない。それなら、千石とか、僕からとても遠い場所にいるやつに預けた方が逆に安全なんじゃないかと思ってさ」

「ふうん……そうなんですか」

 

 あまり興味がないご様子で、その話に関しての言葉のまぐわいはそれっきりだった。

 

「いやまあそれはそれでいいんですけど、本題に入るとですね。さっきから私の胸が阿良々木先輩の背中に当たってるんですけどツッコミ無しですか?」

 

 と扇ちゃんは言う。

 

 ……えっ、胸が当たってるのかっ?!

 僕は全くもってそんな感触を感じなかった背中に意識を集中させる。そして慌てふためく僕を見て扇ちゃんは声を押し殺すように笑った。

 

「……あー、僕をからかったんだな」

 

 僕は少し怒りを込めた口調で言う。すると扇ちゃんは。

 

「……いえ、本当ですけどね。あーあ、やっぱり阿良々木先輩は巨乳派なんだー。変態なんだー。私のこのほどよい胸なんて興味がないんだー」

 

 と、他のみんなに聞こえかねない大きさの声で言った。

 別にやらしい気持ちはなかったのだが、これはマズイと僕は扇ちゃんの口を急いで抑える。その手を彼女はゆっくりと腕でどかし、ニンマリと深みのある笑みを浮かべて「愚かですねえ」と僕を嘲った。

 

                                                                                                                                                                                                                                                 



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012

「……じゃあ、その、頑張ろう。忍に──斧乃木ちゃん」

 

 忍の物質創造能力はとても便利で、その能力を用いて創り出したドレスは極めて高貴さ溢れるものであった。忍自身のセンスというものが大きく影響しているのだろうけれども、それにしたって大変美しく、また可愛らしく、幼い彼女たちの良さというものを最大限に引き出しているように思えた。物質創造能力により創り出したドレスを着用している二人の少女の肩に手をのせる。さっと撫でて見るだけでも触り心地の良いそのドレスは、フリルがふんだんに使われており、スカートは女性的な膨らみを持っていて、黒い生地の上を所狭しと走るフリルとレースは二人の可愛らしさを大人っぽいものに変えているように思える。

 大人可愛いとは。最強か?

 

 普段なら、このような格好をしている二人を見かけたならばすぐにでも抱きしめて、キャッキャウフフ仲良しこよし、青い空が映える草原を駆けて遊びたいところなのだが、今は本番前。緊張のあまりに震える手で、二人の肩を触る程度が僕にとっての精一杯であった。

 

「鬼のおにいちゃん、略して鬼いちゃん。どうしたんだい。まさか、緊張しているのかな?」

 

 相変わらず無表情を貫く斧乃木ちゃんは、僕をからかうように小さな声でそう言った。

 

「ふむ、緊張よのう……儂らがせっかくこのような格好をしてやっておるというのに、緊張のしすぎなんぞで失敗されてしもうたら、うぬのことをどう懲らしめてやろうか……」

 

 かかっ。

 忍は尖った八重歯を見せながらそう笑った。笑い事じゃねえよ。

 僕に対して緊張をねぎらうような言葉をかけるどころか、むしろ煽るように喋る二人にツッコミを入れる元気すら無く、ただ僕は深呼吸にもなっていない溜息を吐くだけであった。

 

 暗幕に遮られ、とても暗いこの舞台裏で二人の格好がよく見えているあたり、僕にはまだ吸血鬼としての後遺症が残っているわけだ。つまりはある程度の人間離れした能力を少しばかり、ほんのちょっぴり所持しているのだから、この緊張を(ほぐ)すような能力(スキル)を保有してはいないものだろうか……。

 

 高鳴る心臓の鼓動を頰に感じる。

 

 さて、心を落ち着かせるために、今一度今日の出来事を振り返ってみようか。

 

 まず、僕は後輩である扇ちゃんと午前中を一緒に過ごしていたのだけれども、いつのまにか彼女はどこかへと消えてしまい不思議に思ったことを曖昧に覚えている。もしかしたら普通にどこかへと行ってしまったのかもしれないから、忽然と消えたというわけではないと思う。

 流石に扇ちゃんも人間なわけだから、そんな怪奇現象みたいなことはありえない。他にも楽屋には生徒がいたわけだし、誰一人として消えた瞬間を見ていないわけだから、やはり普通に出て行ったのだろうか。

 覚えていないなら──所詮はその程度の理由だったということだろう。

 

 ほんの些細なことである。気に留めることでもないだろう。

 

 そしてそのあとは午前中を気ままに一人で過ごし、午後を迎えた。お昼ご飯は超高校級の料理人(本人曰くシェフ)である花村輝々のディナーが振る舞われ、そしてようやく午後の部がスタートした。

 

 僕は午後の部に出番があるのだけれども、しかしそれは後半の方であるため、やはり数時間ほどを一人で過ごすこととなった。不思議と緊張してきてしまったため、暇を持て余すということはなかったのだけれども……。

 

 特に問題もなく茶話会はスムーズに進んで行き、そして今は僕の出番となったのだ。今は、というか、次なのだけれども。ちなみに今舞台に出ているのは澪田(ミオダ)舞園(マイゾノ)で、ヘヴィメタと国民的アイドルの劇的な組み合わせ……だとか。天才のすることはよく分からない、いつだって前衛的だ。

 舞台裏にいる今も、面の方からは阿鼻叫喚地獄のような音と、まさに今時というようなアイドルらしい(実際アイドル)音が交互に流れて来ていて、なかなかどうして混沌とした光景が繰り広げられているのだろうということが容易く想像できた。

 この後に出なきゃいけないのか……なんかやだなあ。

 

「……はあ、大丈夫かな」

 

 と、僕は悩ましく口を歪め俯きながら言った。

 すると忍は、ふてぶてしい態度をとりながら「何を今更弱気になっておる。お主らしくないぞ、しっかりと自信を持て」と言った。

 

「ああ、分かってはいるんだがな……緊張するときはどうしたってきんちょうしてしまうものだぜ?」

「ほおう、緊張よのう……さっき儂らに頑張ろうなどと声をかけておったのは、一体誰か? これじゃと、逆にうぬが頑張れと言われる立場ではないか」

 

 忍は溜息がちにそう言えば、カツリと靴音を鳴らし、着慣れていないドレスのスカートの裾を指でつまみながらこちらへとおぼつかない足取りで歩いてくる。昔はよくこういった衣装を着ていたのだろうが(春休みなんかは特に)、あれから一年以上はワンピースなどのラフな格好をしていたものだから忘れてしまったのだろうか。体が覚えていそうなものだけど、忍は案外そういうところが抜けている。

 しかしはてなんだろうと、首を傾げている僕を横目に、おもむろに僕の腰元へと手を持ってきたかと思えば。強く激しく、表に聞こえてしまいかねないほど大きな音が出るほどに、強く僕の尻を叩いた。

 

「い……っ! なにすんだ!」

 

 根性で声を抑えながらも、その突然の出来事に僕は目を白黒とさせる。小さく忍に叱責を飛ばすと「緊張には痛みが良いと聞いてのう、どうじゃ? 緊張は解けたかの?」と、僕を叩いたことなど、どこ吹く風と言いたげなすました顔で忍は言った。

 

「大して変わらねえよ、緊張しっぱなしだ……っ!」

 

 僕はそう言い返したが、忍は何も言うことなく斧乃木ちゃんの方へと戻り、椅子に腰をかけた。少しイラっときたため、そちらに寄って話を続けようかと思い足を一歩踏み出す。しかしその時気付かされた。

 

「……」

 

 さっきよか緊張が解けたような──緊張感を忘れたと言うわけではないし、今も僕は心臓が強く鼓動を繰り返しているのだけれども、だけどもそれでもさっきと比べれば幾分かマシになっている気がした。いつものようなテンションで、忍と話したからだろうか──。

 ふと忍の顔を見ると、こちらをドヤ顔で見つめていた。

 

 くそう、なんだかまたイライラしてきたぞ。

 

 しかし、緊張が少しとは言えども解けたのは事実であり、忍のことはこれ以上叱るに叱れない。どうしたものかと頭の中で考える。そしてその結論が出る前に、僕は誰かからか声をかけられた。

 

「……阿良々木くん、あなたのそういう趣味について今はなにも話さないとして、どう? 調子はいかが?」

 

 戦場ヶ原が僕のことを冷たい目で見ながらそう言った。

 なぜ冷たい目で見られているのか──戦場ヶ原がチラチラと見る目線の先を辿ってみれば、そこにはドレスを着た忍と斧乃木ちゃんがいるわけで、あらぬ誤解を生んでいるのだろうということは火を見るよりも明らかであった。

 

「戦場ヶ原、これは誤解だからなにも心配しなくっていいよ」

「隠さなくってもいいのに、まあ今更どうこう言おうったって、ツイッターで拡散済みだけどね」

「なんだとっ!」

「阿良々木くん、(わら)

「消せっ、すぐに消せ!」

 

 僕が必死になっている姿を見て、戦場ヶ原は笑った。

 

「嘘に決まっているじゃない。私がツイッターなんてやってると思う?」

「ああ……、まあ、それならいいんだ」

「インスタグラムはしてるけどね」

「消せっ!」

 

 閑話休題。

 

「で、どうなの?」

「……まあ、緊張はしているが、これからの出番に支障が出るようなものじゃないさ」

「そう、なら良いんだけど。それならせいぜい、袖から出てくる際に何もないところで(つまず)いて失笑を買うだけね」

「嫌な予想をするな、案外当たりそうで怖い」

「期待してるわ」

 

 そう素っ気なく言えば、戦場ヶ原はくるりと後ろを向いて出口の方へと向かっていった。曲がり角の付近で一度こちらをくるりと振り返り、一言僕に言葉を伝える。

 

「頑張ってね」

「ああ、任せてくれ」

 

 角を曲がった先に戦場ヶ原は消えていった。僕はそれを見届けた後、後方にいる忍の斧乃木ちゃんの方へと向き、彼女たちに近寄る。

 

 そのあと二人の間に割り込んで、頭を撫でた。とても柔らかな感触強く手のひらに焼きついた。そして同時に、勇気が湧いてきた。

 

「……」

「──かかっ」

「……ふは」

 

 口元が少しほころんだところで、突如開かれた暗幕の隙間から激しい光が差し込む。眩しさにその光を手で遮れば、その手のひらの向こう側から澪田と舞園の声が聞こえた。

 

「ちーっす! こよみん、頑張るっすよーっ!」

「あ。阿良々木先輩、頑張ってくださいね!」

 

 手を退けてそちらをみれば、若干汗ばんで火照っている二人が興奮気味にそう言っていた。

 

「ああ、頑張るよ。セレスのやつにも声をかけてやってくれ」

 

 微笑みながら彼女らに伝えると、二人は分かったという旨を言ったのちに奥の方へと消えていった。

 

 舞台は一度照明が落ち、次のイベントの準備に差し掛かる。

 いよいよ僕の出番だ。

 

 僕は固唾をのんで、その時を待った。



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013

こういうのを書くのは苦手だなと思いました……
なんとか克服せねば


「行こう」

 

 そう言って、二人の手を引き表舞台へと身を運ぶ。

 ただでさえ強く燦々と天に位置する太陽のようなスポットライトが──暗がりから出てきたということもあってだろう──より一層、眩く、僕の眼を刺した。その閃光とも言える衝撃に僕は衝動的に手のひらで視線を遮ったが、会場から降って湧いた激流のように僕らへと注がれる視線や拍手喝采らに応えなければという無意識の義務感から、自ずと目の上にやった手を彼らに向かって軽く振る。しかしそれで眩さが収まるわけもなく、半ば前屈姿勢で歩くという間抜けな格好で登場することになってしまった。

 

「おーい、兄ちゃーん! もっと背筋伸ばして、シャキッと歩けよー!」

 

 うるせえ。

 スポットライトの逆光であまり見えないのだが、やたらと真っ赤な奴が大きく身を振っているのが遠目からでも視認できた。

 我が妹ながらにして、なかなかどうして声が大きい……父さんや母さんは一体何をしているのだろうかと嘆息をつくが、月火ちゃんの姿がうかがえないところを見ると、おそらくそっちの方に手を焼いているのだと思える。月火ちゃんは月火ちゃんで、火憐ちゃんとはまた違った危うさがあるからなあ……。

 むしろかえって、火憐ちゃんのように大きな声を出すだけで済んだと思った方が良かったのだろうか。

 

 しかして。

 気を取り直そう。

 

 取り繕ったようなそれっぽい雰囲気を醸し出しながら、静かに、かつ大人ぶって、僕は中央に構えられたテーブルの席に着く。

 僕の座る椅子の他にも二つ、小さな椅子が用意されていた。少々不機嫌気味ではあるものの、忍と斧乃木ちゃんは黙ってそれにちょこんと座った。その非日常感が溢れる高貴なドレス姿もあってか、遠目から見ると、可愛らしい人形のように映ってもおかしくないなと思える。その可愛らしさに思わず手を伸ばしたが、おっといけないとすんでのところで手を引っ込める。

 

「なにが『すんでのところで手を引っ込める』じゃ。思いっきり触っておるじゃろ」

 

 不満げに言う忍。しかして彼女はきっと喜んでいるはずだ。これはきっと、緊張からくる照れ隠し的なもののはずだ。

 

「うつつを抜かすな、たわけが。早う儂から手を離せ、後からどう言われようと知らぬぞ」

「怖いこと言うなよ、忍。なにも肋骨を触っているわけじゃあるまいし」

「鎖骨ならセーフみたいな言い方をするでない」

 

 そう言い、忍は気だるく蝿を払うように僕の手を鎖骨から払いのけた。

 ケチだなあ、斧乃木ちゃんならパンツ見せてくれるのに。

 

「鬼いちゃん、まるで僕がパンツを見せたがってる痴女──もとい痴童女みたいに言わないでくれるかな、別に僕は見せたがってるわけじゃないんだよ。ただ鬼いちゃんが見てくるだけで、もしもあの行為が鬼いちゃんの言うところの『見せてくれる』っていう言葉の意の通りなら、世の中性犯罪者なんて生まれてこないと思うんだ」

「まるで僕のやってることが性犯罪だとでも言わんばかりの発言だな。まあ確かに、深夜アニメでもギリギリ、都条例に引っかかるかもしれないくらいのグレーな感じだけど」

「グレー? ああ、純白のパンツと鬼いちゃんの漆黒の罪歴を混ぜてみたんだ。流石だね、いやあ、一本取られたよ」

「そんな自虐ネタで笑いを取ろうとするほど僕は落ちぶれちゃいない」

「ところで、漆黒ってなんだか厨二病っぽくないかな」

「漆黒のパンツ? なんだか蠱惑的な感じがするけど」

 

 僕がそういったところで、この会話は羽川の進行によって中断された。

 

 一度起立し、そして眼前に立つセレスと握手を交わす。その際に一言、

 

「元気な妹さんですこと」

 

 と、痛い言葉をいただいてしまった……。ふとまた火憐ちゃんらの方に視線を向ける、そこではさっき見た光景と然程(さほど)変わらないことが繰り広げられていて、兄としての責任感とともに羞恥心を感じ、

 

「兄としては恥ずかしいばかりだよ」

 

 と、恥じらいから背を丸め言った。

 

 そういった、他愛もない社交辞令を交わし、再度席に着く。

 それと同時に、厳粛で、かつ重たい空気が会場中へ一斉に広がったような気がした(火憐ちゃんもある程度空気を読んだのだろうか、周りを少し見ては、一際大きな声で『頑張れ兄ちゃん!』と檄を飛ばした後に席へ大人しく? 着席していた。)。

 

 なんだかそれっぽいBGMが流れる。聞いたことのない曲であったが、しかし自然と落ち着く曲調であった。おそらく、僕ら希望ヶ峰学園の生徒たちの先輩にあたる元超高校級の誰かが作曲したものだろう──大抵、こういった行事の際、元在校生からの贈与物のようなものでなにかしら楽曲や食材が提供されることがあるのだ。花村が料理に使用している食材も、元超高校級の漁師であったり野菜農家などの才能を持つ方々から提供してもらったのだと先生から聞いたことがある。

 そういうことを思い出し、僕は、後輩たちに何かを残してやれるような人間だろうか──と、途端に不安になった。けれども、そんな気持ちも白い吐息のようにスッと消えていった。

 

 なんにせよ、僕と超高校級のギャンブラーであるセレスとのエキシビションマッチが始まりを告げようとしているのだから。

 僕としちゃあ、そっちに気合を入れなきゃならない。

 

 今回の趣旨について、羽川が説明を始める。

 

「今回、卒業生である阿良々木暦くんと、超高校級のギャンブラーであるセレスティア・ルーデンベルクさんは、皆さんも一度は聞いたことがあるでしょう花札で勝負をいたします。ルールは簡単。ざっくり説明しますと、手札、場、山札、それぞれの札を用いて猪鹿蝶や五光などの役を作り、総合の文数が多い方が勝ち、というものです。ちなみに文というのはいわゆる点数のことで──」

 

 昔から花札に慣れ親しんできた僕にとって、今更ルールなんて確認するまでもないため(といっても、地域によって決まりごとが異なるゲームなので、自分の知っている花札と違うところはないか片耳で聞きながらだけれども)、暇を持て余していた僕はテーブルの向かい側に座るセレスにちょっかいを出すようにして声をかけた。

 

「なあ、セレス。お前花札とかってしたことあるのか?」

 

 超高校級のギャンブラーの彼女にとって、それは愚問とも言える問いかけであっただろう。麻雀、ポーカー、ブラックジャック、スロット──果ては丁半博打まで、おそらく、ありとあらゆる賭け事に興じてきたであろうセレスが、日本に昔から伝わる娯楽の一つ花札を今の今まで遊んだことがないということは決してあり得ないだろうからだ。

 というか少なくとも、賭け事以外であっても何らかのきっかけで花札のことを知り、そして興味を持ち、一度くらいは遊んでいそうなものである。僕のような人間であれ、家庭的な遊びとして昔から花札と触れ合ってきたのだから。古き良き風習が失われつつある昨今においてもこの法則が通用するかどうかは怪しなところではあるが、しかしてそれでも僕らの世代はギリギリ大丈夫なはずだ。

 心の中では知っているだろうと思っている。だというのに、なぜ僕はこのような質問をしたのか。それは、お互いの緊張を解すための簡単なコミュニケーションの一部であると言えばそうであるし、単に疑問に思ったと言えばそうでもある。その僕の頭の中にふつと浮かんできた疑問というものは彼女のその格好によるものなのだが……なんたって、俗に言うゴスロリという洋風な衣装に身を包んだセレスに対し、花札という和風な遊びはあまり似合わないように思えたのだ。

 洋的な人物が、和的な遊びに身を投じるはずがない。それが偏見であることに間違いはない、がしかし違和感を感じてしまうのだから仕方がない。けれども僕はマリー・アントワネットが音を立てて味噌汁を啜るような──清少納言がいとをかしとサンドウィッチを頬張るような、そんな違和感を意識下で感じてしまっている。

 味噌汁に限っては近似の類が存在していそうなものの、それでもそこに意外性や奇妙さといったものを感じずにはいられない。

 そんな、単なる妄想と片付けることができる、偏見による質問を僕は投げかけた。

 

 羽川の説明に熱中していたのだろうか、僕の声に一瞬間身を震わせたセレスは、数秒思い出すような手振りを見せてから、いつもの妖しげな笑みでこう答えた。

 

「ええ、まあ、そうですね、思い返してみればこの十数年……花札は、してこなかったかもしれません」

「……なっ!? 一度もないのか、本当に?」

「ええ、本当ですよ。私、勝負以外では嘘は付かない真面目主義なので。……まあ、嘘かどうかはあなたに判断を委ねますが」

 

 そう言って、セレスは緩慢な動きで頬杖をつき、再度羽川の説明に耳を傾け初め。

 

 ……おいおい、嘘だろう?

 まさかの花札初体験と聞いて、僕は困惑したが、……しかし、もしかしてこれは僕を混乱させるための軽い揺さぶりのようなものだったりするのだろうか……? さすが超高校級のギャンブラー……戦いは既にもう始まっていたってわけか……。そういやあいつ、「勝負以外では」なんて言っていたし、今のこの段階がすでに勝負であるというのなら、それはやはり嘘と言えるかもしれない。

 しかし、彼女の態度や姿勢から鑑みるに、どうやら本当に今の今まで花札というもので遊んだことがないように見受けられる。はて大丈夫なのだろうかと、途中からグダグダとした泥仕合になりやしないかと、そう、不穏な雰囲気を案じ始めた僕は、ただ座っているだけの忍と斧乃木ちゃんに助けを求めようと後ろを振り向く。

 けれども忍は僕を冷たく突き放すように睨みを利かせ、斧乃木ちゃんは感情無さげに虚空を見つめている。

 

 くそう、ロリコンビに助けを乞おうとした僕が間違っていた!

 アレはあくまで愛でる対象であり、僕を慰めたり奮起させてくれるような存在ではないのだった!

 

 ううむ、ええい、ままよっ!

 

 

 ひょっとしたら相手は初心者かもしれない、僕はいったいどうすればいいものかと、そう考えてセレスの表情をチラと伺っては見るものの、アイツはただ笑みを浮かべるばかりであった。

 その笑みは揺さぶりに成功したという達成感から来る笑みなのか、それとも適当に返事してたらなんだか相手がたじたじとしていてラッキー! から来ている笑みなのか……。

 僕としては、前者であって欲しいのだけど。

 というか、企画的にも前者であって欲しいのだけど! 初心者相手に勝っても後ろ指さされるだけだし、負けても戦場ヶ原やらなんやらに嘲笑われるだけだから!

 

 深く考えるだけ無駄だと分かってはいるが、しかし分かることと出来ることには違いがある。これは勝負なのだから、事前に練習やらリサーチをしていなかった相手が悪いと割り切ることができない。

 

 んむむ。

 

 とにかく、だ。

 既に羽川による説明も終わっており、じきに勝負が始まるようだ。

 なお僕らの会話はマイクで拾われているわけではないため、変に大きな声を出さない限り観客には聞こえない(そもそもそんなに多くをプレイヤーが語るようなゲームじゃない)。そのため、僕ら以外の人間はみな机の上で繰り広げられる戦いを上部に垂らされたスクリーン見るだけだ。

 その大画面に映るのは僕らではなく、もちろん台の上だけなので若干迫力に欠けるかもしれないが、まあそう間延びするようなものでもないので飽きはしないはずだ。絵柄だって綺麗だし、人によっちゃその目には新鮮に映るかもしれない。

 

 羽川が僕とセレスに交互に札を配る。

 

 ……いつも思うが、こいつ、働きすぎじゃないか?

 何か手伝ってやれることがあるならしてやりたいのだが、どれもこれも僕には出来そうにないものばかりなので僕は手伝えずにいて……僕、情けないなあ。

 

 ……おほん。

 

 よし、勝負の始まりだ。

 

 僕は手元に配られた八枚の札を重厚な手つきで手に取った。しかとその札に記される意味を捉える。

 手札、そして場に並ぶ色彩豊かな季節と景色が描かれた札を眺めながら、僕はどうしたものかと眉間を指で小突く。軽い衝撃が脳に伝わった。

 いくらルールをついさっきまで知らなかった……いや、それは嘘なのかもしれないが、しかし例えその話が本当だとしても相手は超高校級のギャンブラーなのだ。勝負のプロ。戦略もさることながら……きっと彼女の持つツキというものは常人レベルではないはずだ。聞けば麻雀という実質的運ゲーでビギナーズラックだけで猛る猛者どもを組み伏せたという。下手に手を抜いてしまえば手痛いしっぺ返しを食らうだということが分からないほど僕も間抜けじゃない。そのため、今回は防衛に回ろうかと考える。

 札の乾いた音がやけに響く。

 山札を一枚めくり、場におく。

 そんな一連の動作を真似るようにして、セレスは場に札を置き、山札から場に一枚を置く──という、いたって普通の、キチンとしたプレイスタイルを反復した。

 

 その行動から読み取れるものなど僕にはなかったが、未知の可能性というものを感じないわけではなかった。そんな気がするだけかもしれないけど、そんな気はするのだ。

 力を秘めているようでいて──けれども、普通の一手。

 妙に緊張を感じるためか、若干強張ってきた指先を軽く動かし、ゆっくりと場と手札やらを見合わせて値踏みする。

 

 ──結局その後、大きな変化がないまま睦月戦は終わり、文の変化はないままであった。

 

 月日は巡り、やや終盤。

 取ったり取られたりという攻防戦はあり、魅せるプレイもあったが、結果的には二人の文数に大きな差が生まれることはなかった。

 

 そして僕が山札から札をめくり、それを場の札と共に自分の持ち札に加えた際、ふとセレスが口を開いた。

 

「阿良々木先輩。一つ、質問があるのですけど」

 

 勝負が始まってからというものの、彼女から僕に対して何か話題を持ちかけるといったことはなかったので、僕は少し驚いてセレスの方に意識を向ける。

 セレスは、目線を僕に向けるでなく、場札の方に寄せていた。

 

「なんだ? 質問って」

「大したことではないのですが……」

 

 表情一つ変えず、セレスは僕に問いを投げかけた。

 

「その、今更、なんですけど……、後ろの幼女は一体……」

「……あっ、ち、違うんだよっ!」

「違う、なんて言われると、余計に勘繰ってしまうのが人間というものですが」

「いやっ、あのだな。コイツらは親戚の子供っていうかさ」

「へえ、金髪の。海外の方か何かで?」

「そう、らしいんだよ。国際化が進んだ現代じゃあ、あんまり珍しいことじゃないぜ?」

「ふうん……まあ、そういうことにしておきましょう」

 

 僕は心を大いに乱し、冷や汗を流しながら冷静な判断をすることが出来ぬまま曖昧な決断で札を取った。

 

「……ま、それが嘘であれ本当であれ、私には関係ないのですけど」

 

 落ちてきた横の髪をかきあげて、セレスは言葉を続けた。

 

「ただ、夕方や深夜零時前付近でよくあるニュースで……貴方の名前と顔は見たくないなと」

「妙にリアルな話をするなっ」

「想像しても見てくださいよ、仮にもそれなりに慣れ親しんだ人を学校で見るでなく、児女誘拐及び監禁で逮捕……なんて銘打った報道でニュースで再び顔を見ることになるなんて……」

「ははっ、冗談が上手いんだな、お前は。普段そういった話を聞かないもんだから、だから僕は少し驚いたよ。でも、僕がそんなことをするような人間に見えるかい?」

「見えます」

 

 即答だった。

 瞬答とも言えるかもしれない。

 

 まだ質問が、とセレス。

 僕はかいた冷汗を手で拭い、そしてなんだと尋ねる。

 今思えば、これは、彼女なりの──いや、なんでもない。

 なんでも、ないんだ。

 

「あなたは、困っている人がいればどんなに無理をしても、どんなに無茶をしてもその人を助ける──と聞きましたが、もし自分の大切な人に酷いことをした人に対しても、助けを求められれば同じことができますか?」

 

 僕は少し、考えたフリをした。

 そして、山札から一枚札をめくりながらこう答えた。

 

「さあ、どうだろうな。僕はそこまで善に貪欲であり続けることはできないと思う。そんなことができるのはきっと……聖母マリアとか、キリストとか、そういう人さ。それに僕は助けることなんてしようとしただけで、できたことがない」

 

 でも。

 

「被害者のことを大切に思っていたやつに、助けを求めるような加害者なら、そいつはきっと弱いやつなんだろうし、それに僕も馬鹿だから、何も考えずに助けたいと思ったりするんだろうなあ……」

 

 ただ善でありたいだけなんだよ、と、自嘲の言葉をつぶやいた。

 

「確かにそれは。馬鹿ですわね」

 

 セレスはそう言ったのち、笑顔で場に『柳に蛙』の札を置いた。

 

「餞別です、受け取ってくださいな」

 

 場に置かれた一枚の札。

 その『柳に蛙』を僕が取ったことが決め手となり、僕には多くの得点が入った。

 

 結果、僕とセレスの文数には大きくの差が生まれてしまい、その差は埋まることなく試合は決した。

 セレスが手を抜いたというわけではなく、その『柳に蛙』からはあいつだって本気でやっていたと思う。

 

 多くの拍手とともに、僕には花束を贈られ。

 そして、対戦相手である超高校級のギャンブラー、セレスティア・ルーデンベルクと握手を交わす。

 

「お金に困ったら私のところに。どうぞお越しになられてください」

「はは……嫌な予感しかしないな」

「いやですねえ、もう付き合いも二年だというのに、信頼性に欠けるのでしょうか。安心安全ですのに」

 

 僕は、その冗談に軽く笑った。セレスもそれにつられるようにし、ふふ、と笑う。

 また今度、機会があれば、花札以外でもいいから遊んでみたいなって。僕は再戦を望むのだった。




※2/24 修正


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014

 出番を終えた僕は、背で拍手を受け暗幕の奥へと消える。

 舞台裏には次に発表を行う生徒がいたが、どうやら一年生らしく、名前も知らないようなやつだったので、頑張れとだけ告げ僕は外に出た。

 

 先の花札で僕は少し興奮していたため、熱を冷ます意味合いを込めて外を少し歩くことにした。熱気に包まれた体育館内とは違い、涼しい風が柔らかく頬を撫でる外はとても心地が良く、たまにはこういうのもいいなだなんて思ってしまった。すると、背中に誰かの手で叩かれた感触がある。

 誰だろうと振り返れば、彼女らの姿が目に入るだろう。

 

「これこれ、儂らのことを忘れるでない」

 

 ドレスの裾を地に引きずりながら歩く、忍と斧乃木ちゃんの二人がいた。あ、やべ、忘れていた。

 

「その表情を見ると、どうやら僕たちのことを忘れていたみたいだね。鬼いちゃん。さすがの僕も落胆の色を隠せないよ」

 

 と、両手で残念だという意思表示をしながらも斧乃木ちゃんは真顔で言った。落胆の色なんて見えないのだが、そこにツッコミを入れるのは野暮というものだろうか?

 忍は嘆くように息を吐き、言った。

 

「……儂らが出た意味はあるのか?」

「そうだね、意味なんてないよね」

「少なくとも、斧乃木ちゃんは自分から立候補したんだけどな」

 

 嘲笑うように僕はそう言った。そして、

 

「……ま、ありがとうな。お前らの言う通り、意味は無くは無いんだけど、私情だし」

 

 僕のその言葉を聞いてすぐ、忍は眠くなったと言い影へと身を潜めた。よく考えてみれば、忍はもうとっくに眠っていてもおかしくない時間だったし、無理させてしまっていたのだろうかと申し訳ない気持ちに襲われたが、同時に、いろんな意味で変わったなと思った。

 僕はそろそろ楽屋に戻ろうかと考え、斧乃木ちゃんにこれからどうするのかと尋ねる。

 

「そうだね、どうしようかな。アイスでも買ってくれれば、終わるまで待ってられると思うんだけど」

 

 アイスを買ってくれということらしい。

 斧乃木ちゃんの手を引いて、僕は学園内にあるアイスの自販機のところまで向かった。この姿を誰か知人に見られてしまえば、彼らの目にはどのように映るのだろうか。あまり良いイメージが浮かんでこなかったため、半ば急ぎ足で向かう。

 てっきり一つと思っていたのだが、お札を入れたせいか数本買われてしまった……。僕は残ったお釣りを財布に入れ、両手でアイスを抱える斧乃木ちゃんの方をちらと見た。

 

「……なんだい、そんなに見たって、アイスはあげないよ」

「一本くらい、いいだろ」

「一本だけ、あと一つ、これが最後って言って、結局人は辞められないんだよ」

 

 立てた人差し指を横に振り、斧乃木ちゃんは教えを説くようにした。

 

「そこまでアイスに依存性があるとは思えないがな」

「うるさい」

 

 斧乃木ちゃんは複数ある中から一つのアイスを選び、悠々と(悠々と?)包装紙をめくる。

 僕はその様子の眺めながら、近くのベンチに腰をかけた。背もたれに両腕を乗せ、空を見上げる。

 まだ明るいが、少しづつ、空が暗くなっていく。太陽が地平線に吸い込まれるようにして、高度を失って行く。もうすぐ夕方か、茶話会もあと少しで終わるなと、僕は謎の虚無感を感じていた。味わったことのない気持ちだ。

 

 斧乃木ちゃんはチラリとこちらを見て、

 

「……やりきったって感じの表情だね、鬼のお兄ちゃん」

 

 と、ボソリと呟くようにして言う。

 

「……なんたって、一仕事やり終えたわけだからな。そりゃ、やりきったって感じの表情にもなるさ」

「そう」

 

 興味なさげに返事を返せば、斧乃木ちゃんは再びアイスを舐め始めた。本当にアイスが好きなんだなと、僕はその姿を見ている。ただ、見ている。

 斧乃木ちゃんと初めてあったのはいつの日のことだったか──なんて、少し感傷的な姿勢で思い出を振り返ったりもした。あっと驚くような劇的な出会いだった気もするし、別段大して記憶にとどまらないような取り留めもない出会いだったような感じもする。まあなんにせよ、あの春休み──背筋が凍るように美しい鬼と出会ったあの春休みと、まさしく生き地獄であり、僕の人生を決定的に変えてしまったあの春休みと比べてしまえば、全ての出会いが劣ってしまうというものだけれども。

 今となっては、その鬼もただの幼女である──少し、平和だなあだなんて呑気な考えが頭に浮かんだ。

 

「──そろそろ戻るかな」

「そうかい。茶話会が終わるまで僕はここで待ってるから、終わったらキチンと迎えに来てね」

「ああ、分かった。じゃ、変な人に付いていかないようにな、斧乃木ちゃん」

「それはつまり、鬼いちゃんに付いて行くなってこと?」

「誰が変な人だ」

 

 コツンと頭に拳を食らわせてやる。混乱している童女をよそに、僕は楽屋の方へと足を向かわせた。茶話会も既に終盤であるし、最後を見届けなければならないという謎の使命感に駆られたのである。

 そして、その道中、七海とすれ違った。

 

「──ん、よっ、七海」

「あ。阿良々木くん。お疲れ様、見たよ、花札の試合。勝ててよかったね」

「ああ。──ま、僕一人の功績じゃないんだけどさ」

 

 その言葉に七海は首を傾げるが、特に深い意味はないと僕は言う。

 

「ところで七海、どこに行くんだ? 特にお前は出番もなかったろう」

「えーっと……、ちょっと、外の風が吸いたくって」

 

 えへへ、と、七海ははにかむ。この笑顔は、久しぶりに見た気がした。最後に見たのはいつだったっけか──ま、覚えてないんだけど。

 そうか、と僕は言い、そろそろ終わるから遅れるんじゃないぞと告げ、僕は軽く手を振りながら、あと少しの間しか通うことのない校舎を背に、七海と別れた。



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015

昨晩、せっかく最終話まで近いんだし一気に書いてしまえと、最後まで書き進めました。
この話と例の後日談を含め、全4話あります。
ちあきトラップ15〜18ですね。16は18時、17は21時。18は0時に投稿予定です。では、良い休日を。


 楽屋の前に立てば、壁一枚隔てているというにもかかわらず同級生、また後輩たちの賑わう声が聞こえ、熱量が伝わってくる。

 きっと僕が中に入れば、さっきの舞台はよく頑張ったなだなんてさらに賑わうことだろうけれど、その場面を一度想像してしまうと既に照れが表情に浮かんできてしまい、なかなか部屋に入ることができずにいた。しかしあまりに遅すぎるというのも、何かあったのではないかと心配されることだろう。僕は意を決して、扉のドアノブに手を伸ばす。

 すると、ドアノブは僕の手を避けるようにして回転し、勝手に扉が開いた。

 僕は勢いそのまま姿勢を崩して前面につんのめってしまい、一歩前へと踏み出す。そして僕の目の前に、一人物の靴が見えた。

 体制を整え顔を上げると、まるで親の仇を見るかのように怒りを浮かべた表情をしている老倉が立っていた。

 

「──や、やあ、老倉。覚えてるか? 僕だよ僕、一年の時同じクラスだった、阿良々木だよ。出席番号一番の」

「ええ、覚えてる。それこそ嫌なくらいに──お前のことを忘れたことなんて、一度だってない」

 

 僕はどうしてか、とんでもないタイミングで扉を開けてしまったらしい。正確には、開けようとしてしまったらしい。

 

 一歩踏み込んだことで距離を詰めてしまった形になっているため、僕は二歩下がる。その様子を見て、老倉は深く息を吐いた。

 

「嫌なものね。何もかもが嫌」

「……それは、僕と会ってしまったことだろうか」

「それもだけど、いや、それが一番の要因だけど、茶話会自体が嫌」

 

 老倉は本当に嫌そうな表情をして、そう言った。

 

「入んなさいよ。いつまでも出入り口で突っ立ってるっていうのは、他の人に迷惑でしょ」

「ああ……、それもそうだな」

 

 老倉は僕に背を向けて、部屋の奥へと向かった。閉まりつつある扉を押さえつつ、僕は老倉の背中を追うようにして中に入る。そして、老倉が座る椅子の隣に座った。

 

「……なんでお前は隣に座るんだ。もっと別の席があるでしょうが」

「……いや、なんとなく」

 

 微妙な──というか、ぎこちない空気が流れた。それはとても重々しいものであり、僕はそういったときの対処が苦手らしい。どうしてか、下手に出てしまうのである。

 

「──老倉、なんで部屋の中に入ったんだ? どうにもこうにもよく分からないのだが。だって、お前は外に出ようとしてドアノブを捻ったわけだろう?」

「気分が少し悪くなったから外の空気でも吸おうと思ったら、お前に会って、外の空気を吸ったくらいじゃどうにもならないくらいに気分が悪くなった。だから部屋に戻ったんだ」

 

 これで十分? と、老倉は嫌味ったらしく言った。

 

「……で、どうよ?」

「どうって……なにがだ? 老倉」

「そりゃ、学校生活に決まってるじゃない」

 

 決まっているのか……、てっきり嫌味を言われると思って身構えていたのだが、老倉がそんなことを聞いてきたので少し困惑してしまう。てっきり、顔面に拳を叩き込んでくるかと思ったが、それは杞憂に終わったらしい。

 

「学校生活、か……」

 

 ここで僕は、少し悩む。

 老倉が喜びそうな話をすればいいのか、それとも普通に話せばいいのか──というわけではなく、僕は人に語れるような学校生活を、怪異という人ならざる者と関わってしまったがために、送れていないのだ。

 全てが全て怪異だらけというわけではないのだけれども、しかし元を辿ったり結末へと向かっていけば、必ず怪異が絡んでくる。

 怪異無くして僕の学生生活を語れば、それはただの嘘になるだろう。

 そしてその嘘を、老倉はいとも容易く見抜いてしまうことだろう。はて、なにを話すべきか──

 

「そうだな、なにを話そうか」

 

 露骨な時間稼ぎの言葉。

 

「もったいぶらないで、早く話しなさい」

「分かった分かった。まあ、人に語れるほどのお話なんて持ち合わせてないわけだが、お前のいない2年、色んなことがあったし、今思い返してみれば大したことはなかったよ」

「ふーん、それで?」

 

 つまらなそうに、老倉はどこかから取り出した飲み物を口に含む。

 

「それでも、一番印象に残っているのは、お前がいなくなった原因ともなる、あの事件のことだよ」

 

 そう──あの一件以来、老倉は来なくなった。

 そして僕は、それに少なからず関わっている。

 

「……そ、でもそれは、話さなくっていい。先生からよおうく聞いているし」

「そうか……」

 

 あの件に関して、僕にあらぬ疑いを老倉からかけられているのは事実だった。そのことを弾糾することは僕にとって正当な権利であったし、それにしようと思えばできた。

 しかし──僕はその時も、そして今も、それをするつもりはない。

 それは優しさゆえというものではなく、ただ単に自己満足なんだろう。

 愚かなものだ。

 

「他にないの?」

「ないな。いたって普通の学園生活だった」

「その“普通の学園生活”とやらが聞きたいの」

「……いいのか? そんなもので」

「いいのよ、そんなので」

 

 カラリコロリと、コップの中で氷が揺れるのが横目で見えた。

 

 僕は、老倉に対しくだらない日常の話をした。二年生の末、予備学科の生徒に同級生が襲われたことや、実は妹がもう一人いたこと。他にも、赤点で夏休みに補習を受けていたことなど──本当に、くだらない、自分でも記憶に残っていて不思議だったことを、つらつらと語った。語り尽くした。まるで──旧友に会ったとき、お酒の肴にするようにして、僕は語るのであった。それこそ、怪異の話は掻い摘んだが。

 

「──ふうん、愚かなこと。戦場ヶ原さんとくっついちゃえば、良かったのに」

「それは少し──抵抗があったんだ。なんだか弱みに付け込んでる感じがするっつーか、本当にそれでいいのかって思えてさ」

「……そ、お前らしいと言えば、お前らしい、か」

 

 頭の後ろに手を回し、天井を見上げた。普通に、そこには天井があった。

 

「──で、他にはないの?」

「もう語り尽くした。僕の青春はこれで終わりさ──後残るイベントと言えば、茶話会の打ち上げと、卒業式、さらにその打ち上げくらいか……老倉、お前は参加するのか?」

「打ち上げは分からないけど、何も問題がなければ、卒業式くらい顔を出す予定」

「そうか」

 

 卒業式に、参加するのか。

 僕は老倉から親の仇のように嫌われているというのに──今思えば、こうして話せていること自体、奇跡のように感じた。

 もしかしたら、老倉は僕のことをもう嫌っちゃいないのかもしれない──そんな戯言さえ、僕には考えられた。

 

 チラリと気付かれぬように老倉を見る。相変わらずの仏頂面であったが、それを怖いとは感じなかった。元々だが。

 

 喉も渇いたし何か飲もうかと、楽屋に備え付けのドリンクバーへ飲み物を取りに行くため立ち上がる。すると、楽屋には僕ら以外誰一人としていなかった。

 誰一人、である。

 

「……あれ? みんな……どこに、行ったんだ?」

「……気付いてなかった? 夢中になっていたのかしら……みんな、茶話会最後とかで舞台の方に行ったけど」

 

 老倉は僕に、嘲笑を含んだ目線を送ってきた。

 

 くっ、気付いてたなら言えよ!

 というか、気付かない僕も僕だが……。

 右手首に巻かれている腕時計に視線を移す。──まだ、間に合うはずだ。みんなは本番の十分前に移動している、そして今は、本来開始予定である時間の一分前──走れば、十分間に合う時間だった。

 

「行くぞ、老倉」

「嫌よ。お前と同じ舞台に出ないといけないなんて、絶対に嫌」

 

 僕は時間もないため、やたらと急ぎ気味に説得するが、老倉は頑なに椅子から離れようとしなかった。

 残り四十五秒を切ったため、僕は老倉を無理やり引っ張ってでも連れて行かんとしたが、「お前と一緒の舞台に出て、挙げ句の果てに、一緒に写真に写るなんて死んでも嫌。今ここで舌を噛み切って死ぬ」と言い出したため、渋々僕は一人で楽屋を出ることにした。




本日18時、21時、24時にちあきトラップ016、017、018を投稿予定です。
読んでみてください。


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016

連続投稿のため、本日2話目です。まだ1話目を読んでない方は、ちあきトラップ15をお先にお読みください。


 大急ぎで、僕は体育館外へと向かう。やっとの思いでたどり着くと、みんなは学年ごとに縦一列で並んでいた。前列が一年生、二列目が二年生、最後の列に三年生だった。体育館に入ると舞台の上にあるひな壇に立つが、その際は一年生が一段目、二年生が二段目、そして三年生が最後の三段目に立つことになっている。

 

 足音を消すほど余裕がなかったため、かなり大きめに足音を僕は鳴らしていて。

 それがキッカケでか、同級生のやつらが「遅いぞ」「どこに行ってたんだ?」と、やたら興奮したノリで言ってくる。

 僕は軽く手を挙げながら、悪い悪いと軽く返し、自分の立つべき場所に立つ。本来、こういった場合は出席番号順なのだが、茶話会くらい自由にしようと、ひな壇にたった際、各々が仲の良い人物の隣に立つように並んでいる。

 

 そして僕の両隣には、友達が立つ。

 一年前では、考えられないことだった。

 

「あら、阿良々木くん。遅かったじゃない」

「阿良々木くん、ダメだよ。こんなに遅れちゃ。基本15分前行動じゃないと」

 

 戦場ヶ原はやたらと挑発的に、羽川は僕を叱るような態度で、階段を上る僕を出迎えてくれた。

 

「悪い悪い、少し老倉と話をしててな。寸前まで説得してたんだが──ま、それが遅れた原因ってわけじゃない」

「そう……てっきり、七海さんと一緒にいたのかと思っていたけれど──老倉さんといたの」

「……七海? もしかして、七海はまだ来てないのか?」

「そうなのよ、七海さん、どっかいっちゃったみたいで──七海さんに限って、時間を忘れて……なんていうのはないと思うんだけどね」

 

 急用でもあったのかな──と、羽川は心配の色を見せる。

 

 僕自身も、七海がまだ来ていないということに驚きを感じており、どうかしたのだろうかと不審な思いが心に浮かんだ。少し外の風が吸いたいと言っていたが──そのまま、心地よくなって眠ってしまったのだろうか?

 

 何はともあれ、あの七海が遅れるなんてのは考えにくいことだし、きっとなにかサプライズでも仕掛けているのだろう。

 自分にそう言い聞かせ、僕は開きつつある体育館の扉の向こう側を見つめた。

 

「──生徒たちの、入場です!」

 

 八九寺先生の、声が聞こえた。きっと、羽川に代わって司会をしているんだろう。そして、三年生の列が動き出す。一歩遅れて僕も動き出し、体育館の扉をくぐった。

 その先で僕らを出迎えてくれたのは、沢山の歓声と、耳を痛めるほどの甲高い拍手であった。少し、心地が良かった。体育館の中は薄暗く、僕らが通るところがピンポイントでライトアップされていた。

 

 観客の間に設けられた花道を通り、舞台の方へと列をなして進む。ひな壇を上り、僕らは着々と位置につく。全員揃ったことを確認すれば、花道を照らす光は消え、転じて舞台が酷いほどに明るく照らされるのであった。

 

 僕はその眩しさに、少し目を細める。

 もし僕が吸血鬼なら、一瞬にして灰になってしまいそうだと、少しにやけた。

 

 そして、生徒会長である羽川翼が、マイクを片手に声を出す。

 

「今日の茶話会、楽しんでいただけたでしょうか。私たち生徒の一年の成果を──そして、学年が終わる……私たちに三年生にとっては、高校生活が終わってしまう……。そういった悲しみを抱きつつ、最高の思い出を作るべく、ただ単純に楽しみたいというだけで行ったこのパフォーマンスの数々、楽しんでいただけたでしょうか!」

 

 観客の席からは、楽しかった……、応援する……、成長したな……、とても良かった……、見直した……、といった、保護者たちからの数々の声が溢れんばかりに発せられた。その中には、泣く者もいた。

 

「これからも、私たちの活動は続きます──希望ヶ峰学園という枠にとらわれることなく、続きます。どうか、盛大なる拍手で私たちを応援してください!」

 

 わあっと、割れんばかりと歓声と拍手が起こる。

 

 僕は少し微笑んで、肘で羽川の腕を小突いた。羽川も、少し笑って僕を小突き返した。

 そして、薄暗い観客席には、僕の父と母と、そして火憐ちゃんに月火ちゃんの笑顔が見えた──

 

 とても、幸せだと感じた。

 この時が永遠に続くことはないが、しかしそうであるように願いもした。

 本当に、これが最高の幸せであると思った。

 心から、不安などを忘れられた。

 そして、心の隅で、この時がいずれ終わってしまうという絶望を感じた。

 

 なにごとにも終わりが来る──ふと、江ノ島の顔が頭によぎった。なぜだろう。少しばかり疑問を感じたが、それをどうでもよくさせるほど、僕は気分が良かった。

 

 そして、この流れで行くと、次は一、二年生による三年生へ向けてのビデオレターだ。僕たち三年生はひな壇を降り、観客席の方へと回った。

 

「さ、三年生の皆さんっ。茶話会も終わりということで、僕たちからのサプライズメッセージ──もとい、茶話会をさらに楽しんでいただこうという、動画を作りましたのでっ、是非ご覧ください!」

 

 あれは──確か、生徒会副会長の石丸だっけか。やたら緊張しているが、真面目な彼らしいといえば彼らしかった。

 

 途端に舞台は暗闇と化し、スクリーンの降りる音がする。そして、一、二年生も観客席の方へと降りてきた。

 

 明るくなったかと思えば、『三年生の皆さんへ』と丁寧な字で書かれた(およそ察するに、副会長の石丸が書いた字だ)タイトルが浮かんできた。

 まるで卒業式みたいだなと思ったが、内容はそういった堅苦しいものとは違うようであり、一年生から出席番号で順当に、一発ギャグやショートコントなどのお笑いから始まった。やはり素人なためにお寒いものでもあったけれども、身内ネタなため、それぞれの知り合いはゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。特に、十神がかませメガネといじられていたところは、あいつも少しは丸くなったんじゃないかと思わせてくれた。無論笑ったし、当の本人はどんな表情をしているのかと少し表情を見てみれば、無表情でじっとスクリーンを見つめていたため、さらに笑いがこみ上げてきたのは言うまでもない。

 

 そして、最後に、何かあるらしい。

 一瞬画面が点滅し、ポップな感じのテロップで、『一方その頃…』と出た。

 

 僕ら三年生と、保護者たちはさらなる期待を感じていたのだが、どうも様子がおかしく、先生たちと一、二年生が少しざわつき出した。

 

「──どうか、したんだろうか?」

 

 両隣の、二人に尋ねる。

 

「さあ?」

「私もちょっと、分からないかな……。でもちょっと、用意した側の反応がおかしいよね……」

 

 僕は眉をひそめる。

 

 そして、そのテロップが映る画面も変わり、とある教室の風景が映し出された。夕陽に照らされてか、赤く、紅く、染まっていた。

 

 ガタリという音とともに、画面が動いた。その挙動や画質、音質などから察するに、どうやらホームビデオか何かで撮影しているらしい。

 

『ジャーン、アタシ様からのサップルァァイズッ! いやー、手がかかっちゃったけど、ほんっと、アタシって優しいんだからっ。飽き性だってのによくやったと思うわーほんと、ね? お姉ちゃん』

『うん……、そうだね、盾子ちゃん』

 

 ガラス窓を背景に──というか、僕らが今いる体育館を背景に、江ノ島は喋る。どうやらその隣に戦刃がいるらしく、画面の端に少し、手が見えた。

 

『ちょおっとお姉ちゃん、これ持ってて』

 

 江ノ島は戦刃にカメラを渡したらしく、使い方がわからないよだなんて気弱な声が聞こえてくる。しかしカメラは一切ブレていないところは恐れ入る。

 

『だいじょーぶだいじょーぶ、持ってるだけでいいの! ……さて、本題に入るけど』

 

 江ノ島は、グイッとカメラに顔を近づけ、こう喋った。

 

『あ、ちなみにこれ録画だから、この映像をみんなが見る頃には、アタシはこの教室にいないんだけど──』

 

 お姉ちゃん、カメラこっちに向けて。と、小声で江ノ島が言う。こうして姉妹で何かをしている場面を見ると、少し和んだ。戦刃の可愛さと言うものが映えるように思えた。

 

 しかし、そんな和みすら──可愛さすら、吹き飛ばすような衝撃が──絶望が、画面の先に写っていた。

 

『ねえっ? どう? 女子高生誘拐してみた、なんつって!』

 

 そこには、拘束状態にある七海が写っていた。

 足は手錠のようなもので身動きが取れないようになっていて、後ろに回っている両腕も、おそらくそれと同じ状態であり──口はガムテープで防がれ、そして、さらに追い打ちをかけるように、日向が──カムクライズルが、包丁を片手に七海の首根っこを掴んでいたのだ。

 

『こうなったらもう……やるしかないっしょ、女子高生殺してみたっ』

 

 キャルルンとした江ノ島の態度を疑うと同時に、これがサプライズであると──ただのタチの悪い、学生ゆえの若気の至りというドッキリであるはずだと、心から祈った。祈るだけだった。

 

 祈るだけではいけないと、僕は硬直した筋肉を動かし、立ち上がった。

 他のみんなの様子を見てみると、恐れに飲まれ、驚きや、七海が危険な状態にあるという恐怖に打ちひしがれているように見えた。

 

 先生たちは大きな声をあげ、今すぐ映像を中止しろ、今すぐに教室に迎えなどを叫ぶように言うが──なっ?!

 

 いつの間にか、体育館内に見知らぬ集団が現れ、それらの行く先を塞いでいた。どこかで見たことがあるような──白と黒の、クマのお面を被ってだ。こんな状況で僕は七海の元へと行けるのだろうか──考えても無駄だと、僕は舞台の方へと駆ける。その瞬間、スクリーンは暗転した。否、ところどころ見えるところが残っており、さらにほんのりとその奥には赤い色が見える。──これ以上は、考えたくなかった。

 

 舞台裏へと滑り込み、とにかく、走った。どうやら奴らは舞台裏の方まではいなかったらしく──否、まだ来ていなかったらしく、なんとか僕は体育館を抜け出すことができた。

 

 あっちには影縫先生がいるし、羽川もいる。きっと──安心していいはずだ。

 

 そうして僕は、全力で走るのだった。ただ、ひたすら、夕日を背に、七海がいるであろう校舎へ走った。

 最悪のサプライズだった。




本日21時、0時にちあきトラップ017、018を投稿予定です。
最終話と例の後日談ですので、読んで見てください。


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017

連投のため、本日3話目です。
まだ一つ目、二つ目を読んでない方は、ちあきトラップ15、16をお先にお読みください。
ちなみに、お察しの方もいらっしゃるかもですが、後日談を除けば最終話です。


 僕はあの映像の舞台となっていた教室に、見覚えがあった。七海の後ろに写っていた黒板──それに、妙な落書きがあったからだ。

 確かあれは、ある日に江ノ島が悪ふざけで書いていたものと同じものだ。とある四字熟語をもじったものだから、誰かが真似して書いたりしない限りはきっとあの教室のものだろう。まだあれが残っていただなんて思わなかったが──しかし、こうして役に立つと思うと、落書きとは言え一概には案外侮れないものである。

 

 走りながらも、僕は七海に電話をかける──しかし、やはり出ない。そして、江ノ島、戦刃、日向にも電話をかけたが、一向に通じることはなかった。

 

 ともかく、僕は朧げな記憶を辿りに、おおよその階へと到着した。その後はただひたすら教室の扉を開けては閉め、開けては閉めの繰り返しである。

 

 そのうちすぐに見つかると思っていたが、なかなかどうして、七海のいる教室は見つからなかった。違う階だったんじゃないかと記憶を疑う頃、ようやく、七海を姿を発見することができた──しかしそれは、とてもとても──無惨な姿だった。

 

 七海以外の姿は見当たらず、ホームビデオは部屋に打ち捨てられていた。

 

「七海!」

 

 僕は急いで駆け寄り、意識はまだあるのか、傷の具合はどうなのかを急いで確認した。傷はとても深いようで、首元に付けられた切り傷から、血は今もなお、どくどく勢いを止めることなく流れ出ている。

 動脈は傷ついてないらしい──その辺り、カムクライズルが計算してやったことなのか、それともただの偶然なのかは不明である。しかしそれでも、危険な状態には変わりないだろうということは明らかである。

 ガムテープやら手錠なんかは外されていたが──単純にもう動けないと判断してのことだろう。助かることはないと、彼女たちは判断したのだろう。しかしあいつらにも知らないことはある。

 ともかく、何も知らない僕でも、この傷が、この流血具合が非常にマズイっていうことくらい、すぐに分かった。どうするべきか──ふと閃いたことが、一つだけあった。

 

「忍! 助けてくれ、緊急事態だ! 七海が、七海が死にそうなんだ!」

 

 僕は自分の影に向かって、声を張り上げた。いくら眠っているからとはいえ、僕の声は届いているはずだ。不死身の吸血鬼──圧倒的な治癒能力を保持していた、伝説の吸血鬼の成れの果てである忍野忍の血液は、今もなお、傷を塞ぐ程度の治癒性を持っている。僕の血液も少しは治癒力はあるだろうが、しかしそれでも忍と比べれば劣るものだ。

 僕はそれしか方法がないと考え、忍を呼んだ。すると忍は案外すんなりと出て来た。しかし、急ぐ様子は見られなかった。

 

「見ての通り、七海が大変なんだ! だから──」

「血か? この小娘のために、儂の血を分け与えよと」

「──あ、ああ。そうだ。分かってるなら話は早い。ドーナツならいくらでもやるから、早く──」

「嫌じゃ」

 

 忍はそう答え、影に戻るわけでもなく、かといって七海に近づくわけでもなく、教室の隅の方へと行き、いじけたようにして三角座りで腰を下ろす。

 

「な、なんでだ? なんで、嫌なんだ……? ドーナツが足りないなら、本当に、いくらでも出す。店ごとでも──それこそ、一生をかけてでも、お前にドーナツを──」

「ドーナツを積まれても、儂は助けたりなどせぬ。その娘は今死ぬべき存在じゃ。怪異の力などを使って死を免れたとて、その小娘に未来があると思うか? 怪異に出遭えば、怪異に出遭いやすくなる──それは、うぬ自身が体験したことじゃろう。のう、我が主人よ」

 

 その娘に、一生残る(とが)を負わせるつもりか?

 

 忍は、呆れてものも言えないといった表情で、そう言った。

 言いたいことは山ほどあったが、しかし、こうなってしまえば忍はなにもしてくれないだろう──くそう、僕が一人で、どうにかするしかないのか……?

 

 僕は、未だ意識の戻らない七海の肩を揺らす。ただ、強く、揺らした。……すると、薄っすらと、七海は目を開いた。

 まだ意識はあるのだと、僕の心に希望の光が差し込んだ。

 

「──な、七海! 待ってろ、喋るんじゃないぜ。今僕が傷を塞いでやるから」

 

 僕はそう言って、自分のポケットをまさぐった。中にはボールペンが入っており、それを急いで取り出せば、強く強く握った。

 

「うぬの血液で、その小娘の血液を塞ごうというのか……無駄なことを。血を最後に吸ったのはいつかのう……直後ならともかく、今のうぬは、もはやただの人間と同じ」

 

 後ろで忍がそう、呟くようにして言った。

 しかし、そんなの構いっこない。

 

 僕だって、それくらい、分かってはいた。

 

 ただ、少しでも──ほんの少しだけ、治癒力はあるのだ。ちょっとでも七海の傷が癒えるなら、苦しみが消えるなら──それでよかった。

 僕はボールペンのペン先を出し、自分の左腕の袖をまくる。露出した肌をまじまじと見つめる。今からペン先で抉るように傷をつけると思うと、手が震えた。

 しかし、最悪僕は腕だけで済むが、七海は命がかかっているのだ。こんなことで震えてどうすると、自分を鼓舞した。

 再度気合いを入れ、僕はボールペンを握る拳を振りかざす。すると、

 

「……やめてよ、あららぎくん」

 

 今にも消えてしまいそうな小さな声で、七海は言った。

 僕の意思は、とても弱く、ボールペンを止めてしまった。

 

「……大丈夫だよ、七海。安心しろ。僕に任せとけ」

 

 僕は、出来るだけ優しい声を出して、七海に言った。

 でも七海は、僕の期待通りに黙っていてくれちゃいなかった。

 

「どうせまた、私のために……傷つくんでしょ? もう、目も、見えなくなっちゃって、あららぎくんの顔も……見えない、けど……分かるよ? 私。……あららぎくんは、困ってるひとがいたら、誰だって、自分をないがしろにしてまで……助けちゃうもんね」

 

 七海は、微笑むようにしてそう言った。

 目元に大粒の涙を溜め、僕のすることを制止しようと震える手を空中で動かしながら、微笑むのだった。

 

「……助けてなんかない、僕は、恩返しをしてるだけだ……っ」

 

 そう言って、僕は自分の腕にボールペンを突き刺した。

 鋭い痛みが腕を襲う。筋肉が強張るような感情を味わい、一瞬手を止めるが、しかしもう後戻りはできないと、強く皮膚を引き裂いた。

 鮮血が飛び散り、血飛沫が七海に振りかかる。左腕は見るも無残に一つの赤い線が走っており、なみなみと血液が流れ出る。僕はそれを七海の傷口にかけるように、腕を傾ける。七海の首元に深く深く付けられた、傷口にだ。

 少し動かすだけで、痛い。血管が脈動するだけで、痛みが生じるほどであった。

 七海が見えないと言っていたことをいいことに、僕は苦悶の表情を浮かべていた。しかしこれを悟られてはいけないと、声だけはなんとか優しくあろうと、努力に勤めた。

 

 すると、廊下の方から誰かが走ってくる音がした。

 この姿を見られてしまってはマズイと思ったが──時既に遅し。その足音の正体は、老倉育であった。

 

「──なっ、なにをしてっ。阿良々木! お前、ついに気が狂ったか!」

「違う! これには訳があるんだ! ……ただ、お前には教えられない、けど! それはお前のことを考えて──」

「知らない! お前の事情なんて、知ったことか! 説明して、この状況を、全部説明して、その腕を早く止血して! じゃないと──下手すれば、お前が死ぬ!」

 

 老倉はこちらに駆け寄ろうとするが、僕が大きな声でそれを制止する。やめろ、と。

 

「僕が死ぬなら、お前にとって満足じゃねえか! 老倉! お前は僕のことが大っ嫌いなんだろう? それこそ、親の仇みたいにさっ。だからほっといてくれよ!」

 

 僕はきっと、この時凄い剣幕で老倉に怒号を飛ばしていたのだろう。老倉は圧倒されてか、少し後ずさりをし、扉に背をぶつけた。

 

「あららぎ、くん。大きな声だしちゃ……おいくらさんが、かわいそうだよ。仲よく、しなきゃ……」

 

 七海は、とても力のない声で言うのだ。あくまでこいつは、自分が死ぬ間際であろうとも──自分の生死を考えず、僕らのことを考えるのだ。

 

 改めて、七海の優しさを──度が過ぎた優しさを感じた。

 

「元々仲が悪いんだ……どうってことはない。それより、どうだ? ちょっとは気分がマシになったか?」

 

 僕は半ば焦り気味に言う。なぜなら、七海の傷は徐々に塞がってきているとはいえ、意識が確かなものにならないからだ。自分の腕の傷の痛みもあり、僕はもう既にまともな判断ができていなかった。

 

 七海はゆっくりと、そして小さく、こくりと頷く。

 僕はなぜか──安堵した。

 

 傷口が消えることはなかったが、それでも徐々に、出血は収まっていく。傷口も──元の大きさの半分以下となっていた。元々切り傷だし、くっつけるような感覚だったのだ。

 

「もう、だいじょうぶ……あららぎくん、なにか、自分を傷つけるようなこと、したんでしょ? 私はもう、大丈夫だから、治しなよ……」

 

 七海は、微睡んでいるかのような目で、僕を見て、言った。

 そして、力のない手で、僕の手をそっと触ってきた。

 

「……あ、ああ。分かった。でも僕は自分を傷つけちゃいないさ。少し老倉と話をしてくる」

 

 僕は、自分の手を触った七海に返すように、そっと、頭を撫でてやった。僕なんかと比べて、とても、柔らかい髪だった。

 七海は再度微笑んだ。斜陽に照らされ、紅く染まったその顔は、とても脳に焼き付いた。僕はそれを見てから、未だに出血が止まらない腕を隠すことなく、老倉の元へと向かった。もはや隠す意味もないだろう。

 

「……なに?」

 

 老倉は、僕のことを指すように、鋭い目線を向けてくる。

 僕は、さっき怒鳴ったせいで少し怒らせてしまったかと、下手に出てしまう。

 

「……さっきのことは、悪かったよ……僕は僕で、少し切羽詰まってたんだ……本当に、悪かった……」

「……知らない。謝らないで。私は、ますます、お前のことが、嫌いになった」

「……ああ、当然のことだ」

 

 老倉は、僕のことを決して見ようとはしなかった。

 僕はしばらく老倉の前から動けなかったが、やがて忍のところに行き、突然無理を言ってすまなかったと、謝罪の言葉を述べた。

 

「……我が主人よ、その小娘を儂が助けなかったことについては詫びをする。しかし、今後一切、儂は誰かを助けることはせん。たとえそれがうぬの命の恩人であれ──家族であれ──誰でもじゃ」

 

 そう言えば、忍はおもむろに僕の元へと寄り、そして首元へ口を運べば、牙を刺し、血を吸った。

 傷口こそ消えなかったが、僕の腕からの出血は無くなった。そして、まるでプラモデルのように忍は己の腕をもぎ、噴水のように溢れ出る鮮血を、僕の左腕へ浴びせるのだ。

 

「儂のことを──許してくれ。しかし、超えてはいけぬ一線というものが存在する。儂は、うぬのためを思って──それを守りたいのじゃよ」

 

 忍はそう言いながら腕を取り付け、僕の影へと消えていった。とても悲しい、表情をしていた。

 この非常に奇妙な状況に、老倉が口を出すことはなかった。ただ黙って、じっと、見ているだけだった。

 

 今更ながらに、体に疲労が押し寄せてきた。しかしそれでもまだ仕事は残っている。七海は完治したわけではないのだから、これから病院に運ばなければならない。僕は七海の様子を見ようと、疲れ切った筋肉を動かして、振り返る。

 

「──なあ、七海」

 

 まるで、眠っているようだった。

 しかし、一目で分かるほど、七海からは何かが抜けていた。

 脱力しきった手足は放り投げられていて、身体中から生気が見て取れない。

 眠っているだけ──と言われても、僕には直感的にソレを感じることができた。そして老倉も、ソレは感じているようであった。振り返る途中に見た老倉の表情は、とても暗かったからだ。

 

 七海は死んでいる。

 もう既に、死んでしまっている。

 

 僕の心は、絶望色に染まった。




本日0時にちあきトラップ018を投稿予定です。そちらもご覧になってください。


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018

最終話です。
本日連投していますので、これは四つ目です。まだちあきトラップ15、16、17をご覧になってない方は、先にそちらをご覧ください。


 後日談、というか今回のオチ。

 

 いや、本当は、オチなんかじゃないのかもしれない。

 オチなんてご丁寧なものは用意されちゃいないのかもしれない。

 いきなり否定から入ってしまうが、しかし僕にはそう思えた。そう思わずにはいられなかった。

 人間として落ちぶれてしまい、化け物としても──文字通り地の底である地獄にまで落ちに落ちたことのある、この僕は。人生なんて、未来なんて、そんな将来に抱く希望なんてものをあの春休みにうっかりと落としてしまった僕は、既にオチに辿り着いてしまっているのかもしれないし、実のところまだこのお話には続きがあって、これはオチなんかじゃないのかもしれない。

 

 こんなにも消化不良な結末で──オチなんて、来ないのかもしれない。

 

 そもそもオチがあるなんて高望みを、僕はしちゃいけないのだろう。

 

 絶望が絡みに絡み、やがては主軸となってしまったこの一連の物語は、まだ序章に過ぎないのかもしれないし、あるいはまだ始まってすらいないのかもしれない。世界規模の絶望的な事件の幕開けは、まだ日の目を浴びていないのかもしれない。未だに前日譚の域を超えていないんじゃないか──なんて、嫌な考えが頭をよぎる。

 そのまた逆も然り。もしかしたら、僕の気付かぬところで、このお話は始まっていたと言われれば、そうなのかと納得できるし、あの春休みが本当の起点だったと言われても、僕として異存はない。ひょっとして、実はもう終わっていて、今はまた違うお話がスタートしてしまっているのかもしれない──そんな可能性だって、ないわけじゃなかった。

 

 ──違う。

 これはただの、現実逃避だ。

 

 なんていうことを言われてしまえば、まさしくその通りであると、僕は首を縦に振るしかないだろう。軽々とではないが、しかし容易く頷くことが出来るだろう。

 

 ともかく、物語はここで終わる。

 

 幕を下ろすのではなく、劇場が崩壊するといった形で、物語は終わる。

 誰が何と言おうとも、たとえ神が口を出そうとも、終わるのだ。

 

 さよなら、僕の青春。

 もう行くこともないだろう、僕の母校──

  たった一瞬のうちに──いや、準備自体は随分と前から行われていたのだろうが、それでも瞬きをする一つの間に起こってしまったのだ。血に塗れ血を血で洗い、血が血を読んでしまうような凄惨劇が、僕の母校である希望ヶ峰学園で。

 僕はそれを止めることができなかった──防ぎようもなかった。

 いったい僕は、どうしたらいいんだ?

 どうすれば、よかったんだ?

 陽が落ち、斜陽が差し込んでいた教室はすっかりと暗くなってしまい、夕陽とは打って変わって月の(ほの)かな明かりが僕ら三人を照らしていた。真紅の心臓からなみなみと流れ出た血液は、今だに液状を保っており、彼女に近付こうと一歩足を踏み込めば、床に広がった血液を踏みピシャリピシャリと音が鳴る。

 制服が汚れることを躊躇うことなく、僕は七海のそばに立ち寄り、膝をついた。

 

 赤い波紋が、僕と七海を包み込むようにして広がった。

 

 改めて──七海の顔をじっくりと見てみる。暗いからよく見えないが、それを引いても、とても美しい顔立ちだと思えた。到底、死人の顔とは思えない──

 そっと七海の体を抱き寄せ、強く抱擁をする。その体は既に動かぬ死体であるため暖かさというものは失われてしまっているのだが、まだ柔らかく、そして軽かったため、安易に僕の胸元へ引き寄せることができた。そして強く強く、七海の体を抱き締めた。もう魂が抜けてしまい、ただの屍であることは百も承知であるが、手放したくないという気持ちがとても強かった。

 

「……なあ、七海」

 

 僕は問いかける。

 喋ることのない死体に、問いかける。

 

「僕は一体、どうしたらよかったんだろうな……」

 

 自然と目元から涙が流れ、頬を伝った。

 

 恩人を救えなかった悲しみ。

 友人を救えなかった悲しみ。

 そして──好きだった人を救えなかった悲しみが、僕を襲った。

 今になって、自分が七海に抱いていた感情を、理解した気がする。

 

 そして、僕の流した涙が吸血鬼が故の血の涙なのか、それとも純粋な人間としての透明な涙なのかは、僕にとってどうでもよかった。

 

 どうせどちらも成分は同じであるし、感情論で言っても、大差はなかったからだ。

 

 涙を拭うことなく、僕は七海の顔を再度見つめる。そして、溢れる涙を更に流しながら、何を思ってか、僕は七海に唇を重ねた。

 

 その姿を見て、老倉はどう思ったのだろうか。視界の端に映る老倉は、ギュッとスカートの裾を握り、視線を逸らしている。

 

 ──僕のファーストキスは冷たいものであり、決して甘酸っぱい恋の味などではなく、鈍い血の味がした。




『阿良々木暦は望まない《歩物語》』はいかがだったでしょうか。
一応、少し憧れていたあとがきのようなものを、気付いた頃に後から書きますので、また思い出した頃に活動報告の方で見てやってください。まだこのお話は──阿良々木くんの、この物語はまだ終わらないので、どうぞ見てやってください。


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第二部 Prologue ようこそ絶望学園
001


始まりました。第2部。
と言っても、相変わらずのナメクジ更新ですがね。三竦みでナメクジはカエルに負けますし、誰かカエルの怪異を宿した人間でも来ないですかね


 私は今、初めて訪れるこの街を──いわば新天地を、バスの車窓から眺めていた。まさしくコンクリートジャングルと称するに相応しいほどビルが立ち並ぶこの街。田舎からいわば上京してきた私にとって、見るという行為だけで既にとても新鮮なことで、自然と視線があちらこちらへと動いてしまう。

 こんなにも都心へと近づいたことがあるのは、全国大会があった時くらいだろうか。

 

 今朝五時に始発に乗り込み、新幹線やら電車やらを経由し約2時間。私はついにやってきたのだ。この学園──憧れの先輩が通う、希望ヶ峰学園へ。

 

 

 中学生の頃。とはいえ今年から高校生になるのだから、懐かしき過去を振り返るように言うにはあまりも時の感覚が狭すぎるが、ともかく中学生の頃。密かに思いを馳せていた一人の先輩がいた。所属している陸上部では記録を残していくような人で、私はその先輩に憧れと恋愛感情を、強く強く、向けていた。先輩は当初、地元で名のある私立の高校へ通う予定だったのだが──しかし、どういうわけか、いや、先輩の才能を妥当に評価してのことだろうが、希望ヶ峰学園から招待状が届いたのだ。

 私はそれを激しく祝った。まるで自分のことのように、喜んだ。そしてそんな自分に、先輩は優しい笑顔を向けてくれた──

 

 しかし、同時に問題が発生した。

 希望ヶ峰学園は完全な推薦制。

 つまり、何か特筆した才能がなければ入ることができないのだ。

 私は必死に悩んだ──予備学科という手も無いではなかった。しかしけれども、はたしてそれでいいのだろうか? 聞くところによると、本科と予備学科は見た目こそ同じようだが、中身の系統は全く違うらしく、学校にいたとしても出会い頭に顔を合わせるなんてことは滅多にないとのこと。

 それは私の望む未来とは程遠いものである。

 私の望む、先輩と一緒という未来とは。

 

 だから私は、今まで以上にバスケットボールの練習に打ち込んだ。部活が終わってもなお、放課後家でコソ練を続け、そしてその結果──見事、希望ヶ峰学園本科へと入学するための才能を勝ち取ったのだ。

 とても嬉しかったし、このことはきっと、先輩も喜んでくれるはずだ。

 今まで忙しかったがために連絡を取れていなかったものの、きっと先輩は──

 

 今からもう既に、ニヤニヤが止まらない。

 私は大きな荷物を抱えながら、小さくクスリと笑った。

 

 すると、バスが止まり排気ガスを放出する音ともに扉が開く音が聞こえる。どうやら到着したらしい。

 私は素早く生活用品やらなんやらが入ったリュックサックを背負い、そしてステップを踏むようにしてバスを駆け下りた。

 

 希望ヶ峰学園。

 一年間、ずっと目標にしていた学園。

 私はそれを下から見上げるだけで、もう胸がいっぱいであった。

 左右を確認し、道路を渡る。厳重にそびえ立つ門の奥には、迫力がある希望ヶ峰学園の校舎が建っていた。私は、今日から、この学園に通うんだ。

 

 リュックサックの肩紐をぐっと握る。ソワソワする足はもう我慢できないようで、走るようにして私は希望への一歩を踏み出すのであった。

 

 ──やはり、走るのは気持ちがいい。

 

 学園内部にはとても美しい桜が道沿いに咲き誇っており、私のことを歓迎するかのように花開いていた。

 

「……綺麗だな」

 

 思わず呟いてしまうほどに綺麗であったのだ、桜の花は。その光景は。

 私は、桜がひらひらと落ちていく様を見るのが好きである。

 花びらが散っていく姿形が美しいから好きなのか、その落ちる際のヒラヒラとした動きが好きなのか……何かの本で読んだことがあるのだが、生き物が1番輝ける瞬間は死に際であると書かれていた。植物であれ、動物であれ──それこそ人間であれ。

 例えば、生き物ではないにしても、花火なんかが分かりやすい例えだろう。 空に放たれて、閃光の光を散らしながら花のように輝いた後はゆっくりと光を失っていって消えていく──光を失った花火は観客に見られることがないのであるから、それは悪い言い方だろうけれども死んだと言えるはずだ。

 動物も美しいかどうかは分からないけれど、命を賭して闘うことを美しいものであると言ってしまえば、動物は死に際になると命を賭けて闘うらしいし、文字通り必死に戦う姿は美しいと言えるのだ。きっと。

 今回の場合は桜の木自体は死んでいないし、来年も何か大惨事や大掛かりな工事がなければ、この場所で、このように心から美しいと思える桜を花開かせ咲かせているのだろうけれど、今だけしか咲かないこの桜の花は、散ってしまえば地面に落ちてしまう訳であり。またそれでも桜の花びらが落ちている道は風情があって良いかもしれないが、花びらが踏みにじられてしまえばそれは美しいとは言いにくい。

 それは死んだと言っても良いのでは無いのだろうか。

 だから、私は花びらが落ちていくその様子が好きなのだろう。

 

 とても美しいと思えているのだろう。

 桜の死に際に、見惚れているのだろう。

 

 狂ったように咲いた桜の間を私は走る。ヒラヒラと舞う花びらを肩で切り、推薦状と共に送られてきた手紙に書かれてあった玄関ホールへと一直線に向かうのであった。

 時間的には十分な余裕があるけれど、どうにもこうにもいてもいられなくなってしまったのだから仕方がないだろう。

 荷物の重さなんて、感じない。私は全力で走り、息が切れる前に玄関ホールへと辿り着いた。

 

「ここが玄関ホールか。ふむ、なかなかいいところだな!」

 

 急ブレーキをかけ、止まる。

 そして玄関ホールの中へと入れば、あたりを伺うようにしてやたらキョロキョロと周りを見渡すのだった。やはりまだ誰も来ていないようで、がらんどうといった雰囲気がした。

 

 そんな玄関ホールを一歩、また一歩と進んでいく。

 

 そして、さらにもう一歩──進もうとすると、視界が急にぐにゃりと曲がった。

 徐々に視界はとろけてゆき、やがては全てが、全ての色が混ざり合い、灰色になった。そして私は──超高校級のバスケットボールプレイヤーという肩書きを与えられた私、神原駿河は──夢の中へと。否、悪夢の中へと、落ちてしまうのだった。



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002

 意識が、ハッキリとしない。そしてどっとした疲れと共に、手足の筋肉から強く倦怠感を感じる。体も自由に動かすことができず、力を込めれば激しい痛みが体を襲った。そしてどうやら私は地面に寝そべっているらしく、とても硬い床に長時間横になっていたのだろうか、体の節々がとても痛んだ。

 決して快適とはいえないその状況から脱するべく、まずはまぶたを開けて視界をクリアにする。どうやら今──私は、廊下で寝そべっているらしい。どうにもこうにも、見慣れない廊下であった。

 

「……う、ん」

 

 腕を立て、壁に背を合わせるようにして徐々に立ち上がる。

 そしてそこで異変に気付いた。なぜだか──私の左腕には、グルグルと包帯が巻かれていたのだ。とても厳重に、強く強く、乱暴に──包帯が巻かれていた。こんなものを巻いた覚えはないし、また巻かなければならない原因も、思い当たる節がない。しかし、この巻き方……どう考えても、私が巻いたとしか思えないような癖のある巻き方であった。しかし、いくら私の巻き方とはいえ、こんなにも乱暴に巻くだろうか……?

 怪我とかそんな感じじゃなくって、まるで何かを隠すようにして巻かれていたように思える。

 それこそ、封印するように。……なんだか厨二病みたいでやだな。

 

 左腕に巻かれた包帯を不思議に思いながらも、私は軽いストレッチを行なった後に行動を開始した。

 まず、目に入った扉を開け、中に入ってみることにした。

 黒板に、沢山の机と椅子──ここだけを見れば、私はきっとこの部屋を教室であると判断したはずだ。現にここは教室なのだろう。綺麗に整列した机と椅子の前方には教卓があり、黒板の下方部分にはチョークと黒板消しが置いてあったからだ。

 しかし、一つ……いや、いくつもの異常と言える点が見つかった。

 

 普通教室には無いであろう、隠す気なんて感じ取れないほどに、そこにあるのが当たり前かのように存在している監視カメラ。そして、窓を塞ぐようにして異様な存在感を持つ鉄板。それを見て、私は一瞬立ち止まった。しかし、流石にこの鉄板はあり得ないだろうと。よくあるトリックアート的なものであるはずだと考え窓に近寄り、包帯が巻かれていない右手でそっと触れて見た。

 とても冷たく、コンと叩けば、まさしく鉄と形容するにふさわしい厳重な響きがした。

 

「そんな……」

 

 思わず口からそう漏れた。

 私は後ずさり、その鉄板から逃げるようにしてその教室から出た。そして、自分がなにかを握っているということに気が付く。それはなにかが書かれた紙で、握り締められた拳の中でしわくちゃになっていた。しわを戻すようにして開くと、稚拙な文章がそこには書かれているのである。

 はてなんだろうと、それを読んだ。

 

 ……ふむふむ、なるほど。

 

 簡潔に内容をまとめると、私は希望ヶ峰学園に入学し、入学式を執り行うためにまずは玄関ホールに集まって欲しい……ということだった。

 

 ……そうだ、そうなんだった。私は、憧れの先輩がいる希望ヶ峰学園に入学できることになって、それから、それから──

 

 ──ダメだ。どうしても、過去に記憶を遡ったところで希望ヶ峰学園の玄関ホールに到着してからの記憶がない。あそこで私の意思は途絶えてしまっている。思い出そうとすれば、定番とも言えるような頭痛が私の頭を襲うのだ。

 

「……やれやれ、どうしたものか」

 

 痛む頭を労わりながらも、これからどうするべきかを考える。この手紙に沿ってホイホイと玄関ホールに行くのは、なんだかとっても危険なように思えた。何が待っているのか、分かったものじゃない。

 それに、動きに支障であったり痛みなどはないにしても、私はどうやら左腕を怪我してしまっているようなのだから、何者かに襲われたときに抵抗しようにも、それはきっとままならないものになってしまうことだろう。まあ、バスケは右手だけでも出来ないことはないので問題ないが(両腕共々怪我をしていたら、流石に困ったものだ。脚を使うわけにはいかないし)

 

 はてどうしたものかと、さらに迷う。

 行こうかどうかに迷い、行くにしても、きっと道に迷う。

 

 身に覚えのない怪我、見に覚えのない場所。

 不安は積もるばかりであった。

 

 ……しかし、怪我とはいったいどの程度の具合なのだろうか?

 ふと気になったというか、現実逃避というか。己の左腕をキツく締め付ける包帯を見ながら、私はそう思った。

 そして、一度包帯を解いてみようかと、それに手をかける。

 

 ぐるぐると、ぐるぐると、まるで蛇のように巻きつくそれを解き始めた。

 大した怪我ではなければ良いのだが、とスポーツ選手らしい考えが頭をよぎった。

 

 しかし、私の左腕──いや、私の左腕なのか定かではないのだが、ともかく私の左腕に位置する場所には、怪我なんだ甘っちょろいものではなく、とても異様で、異形で、異常な光景が、包帯の隙間から現れたのである。

 

「……なっ?!」

 

 目を丸くした。本当に、丸くなっていたと思う。

 驚きとか、恐怖とか、そんな感情を飛ばして、もはや笑ってしまってもいいんじゃないかというほどに、私の左腕はおかしな状況になっていたのだ。

 

 猿の腕。

 

 まさしくそれが今の私の左腕の状況を形容するのに、最もふさわしい単語であるだろう。

 飾り物なんじゃないかと指を動かせば、その猿の腕は私の意思の通りに動き、また触ってみれば人肌ほどの体温を持ち、なおかつ血液が通っていることを確認できた。

 触覚が私にも通じていることから、どうやらこの腕はタチの悪いイタズラで被せられた、パーティーグッズなどではなく、本当の猿の腕らしい。

 ひょっとしたら、最新鋭の技術を使った特殊メイクの類かもしれないが、しかしどうしても、自分にはこれが本物のようにしか思えなかった。真実味がそこにはあったのである。

 

 いやでも、今自分が見て体験していることは、もしかすれば夢なんじゃないか──という、希望的観測があった。

 まずこんな変な場所に自分がいること自体おかしいし、なによりこの腕が現実離れしていることを物語っている。

 実は夢でしたー、目が覚めれば、そこはベッドの中──なんて夢オチこそ、今の自分にとって最適な終わり方なんじゃないか。

 

 しかしもしも、これが現実だとしたら──

 

 私はふと現実に戻り、今どうするべきなのかを考えるのだった。考えることは苦手じゃないが、決して得意ではない。ましてや今私は酷い倦怠感に襲われている。さっきから色々と考えづくしなので、脳はキチンとした判断が出来そうになかった。

 

 ……さて、この腕をどうにかするのが先か、玄関ホールに行くのが先か。

 

 そもそも、この腕はどうにかなるものなのだろうか?

 

 自然と、左腕に力がこもる。

 

 とにかく今はこの腕を人に見られないことが優先するべきことであるのだろうと、一度解いた包帯を腕に巻き直した。

 ぐるぐると、ぐるぐると、だ。

 

 全く知らない場所に自分がいるということと──左腕が異形のものに変化してしまっているということ──これが夢であるという説は、とても濃厚なものになってきた。

 

 しかし、だからとはいえ、このままボーッとしていれば目が覚めるようには、どうしてか、とても思えなかった。

 なにか行動を起こさねば、と直感的に感じそのための行動を起こし始める。

 

「……行こう、かな」

 

 口を使ってキュッと包帯の端を結び、この施設内のどこかにある玄関ホールを探すために警戒心を強く保ちつつ、この廊下を進んだ。



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003

 この施設がどれほどの規模なのか全貌は明らかにはなっていないものの、その道中で見かけた教室や保健室や視聴覚室、購買部。中には扉が開かないものもあったけれど、なんだかとっても学校のような設備が揃っているように思えた。そうして考えてみると、あの教室だって1-Aなんていう標識が出ていたし、机の並びや黒板など、窓に打ち付けられている分厚い鉄板や監視カメラなどを除けば、完全に学校の教室だろう。

 ともすれば、この施設はもしや学校のような場所なのだろうか……? 学校……。そう考えて一番先に思い浮かんだのは、希望ヶ峰学園であった。

 しかし、こんなところが希望ヶ峰学園ではないと、その考えをいとも簡単に放棄した。

 

 そして、玄関ホールは私が最初にいた場所からは案外近かったようで、少し歩けばすぐに見つかった。

 私はここに来いと言われているわけだから……玄関ホールで何かが起こることは確かなのだ。その何かが何かと考えることは野暮なことだが、しかし心構えをすることは野暮ではない。深く息を吸い、そして吐く。深呼吸を数度繰り返すが、気持ちはなかなか落ち着かなかった。

 緊張からか、若干汗ばんだ手を扉にかける。そして、重々しいそれを力を込めて開けた。

 

「……やっと来たか、遅いぞ」

 

 目の前には自分と同じくらいの年頃である男女が、15人いた。その中にはどこかで見たことがあるような顔も混じっているが、共通点というものがてんで分からない。

 いきなりこれほどの人数と出くわすというのはとても驚きであり、息を飲んだ。

 

「あ、ああ……。もうしわけない」

 

 後ろ手で扉を閉めながら、ゆっくりと中に入る。

 

「十六人ですか……。キリがいいし、これで揃いましたかね……」

「多分ね……」

 

 十六人。バスケットボールは入れ替えメンバーも含めて全部で十五人までだし、そういうチームのメンバーだったりはしないのだろう。そもそも彼らのことは知らないわけだが。

 

「ええっと、キミは、なんていう名前なのかな?」

 

 と、私よりも身長が低い、パーカーを着た男子が話しかけてきた。

 

「……ああっ、まずはボクから名乗るべきだよね。ボクの名前は、苗木誠(なえぎまこと)。超高校級の幸運……なんだけど、ただ単に一般人の中から選ばれただけなんだよね……あはは」

 

 苦笑いをしながらそう名乗る彼は、キミは? と再度聞いてくる。

 それにしても、さっき超高校級……と言ったのだろうか。

 超高校級の幸運。

 もしかしたらと思うところがあった。

 

「私の名前は神原駿河(かんばるするが)だ。神社の神に焼け野原の原、駿河問いの駿河で、神原駿河。超高校級の……バスケットボール選手だなんて、自分で名乗るのは少し歯がゆい肩書きを持っているぞ」

 

 にこやかな笑顔を浮かべて、私はそう名乗った。

 

「よろしくね、神原さん。見たことあるなって思ったんだけど、超高校級のバスケットボール選手なんだね。TVで、試合とかインタビューとか見たことあるよ」

「あはは、そうなのか。まあ私がバスケットボール選手なんて肩書きを貰えることに少し驚きなのだが」

「いやいやっ、そんなことないよ! あまりバスケットボールに詳しくないボクも知ってるんだしさ」

 

 そして苗木は、小さな声で凄いなあと呟いた。

 すると、一人の女子がそろりと顔を覗かせるようにして現れた。あれ、確かこの子……。といった具合に、見覚えのある顔の女子であった。

 

「えーっと、私も自己紹介いいですかね? 苗木くんに、神原さん」

「ああ、うん。ボクはいいよ」

「私も構わない」

「じゃあ、自己紹介を……。私は舞園(まいぞの)さやかって言います、超高校級のアイドル……なんですけど、知ってますかね?」

 

 若干不安そうに名乗りながらも、やはりアイドルだからか、可愛らしさが残る。

 

「ああ、どこかで見たことがあると思ったら」

「そうですか? 少しでも知ってくれていたようで光栄です」

 

 まるで天使のように可愛らしい笑顔を私に向けて、またさらに可愛らしい声で舞園は言った。

 

「いやしかし、もう少しテレビなんかを見ていれば詳しく知っていたんだろうけど……。幾分部活動の練習が大変で、その素晴らしい活躍を拝見することはできていないんだ」

「いえいえっ、いいんですよ」

 

 とはいえ、超高校級のアイドル……。もしかして、ここにいるみんなは超高校級のなにかなのだろうか。となると、自然私の同級生ということになる。

 

 なら、これはもしや希望ヶ峰学園が一枚噛んでいるんじゃないだろうか? しかし今の段階で状況を決めつけるのは危ないと思い、その考えは一旦保留にした。

 

「あ、そうそう! 実は私と苗木くんって、中学校が同じなんですよ!」

「へえ、そうなのか! 同じ学校から超高校級が二人とは、なかなかどうして驚きだ」

「あはは……。まさか舞園さんがボクのことを知ってたなんて、思いもしなかったよ」

 

 適当な雑談を始めて数分ほどしてから、玄関ホールにあるメガホンから耳障りな雑音とハウリング音が漏れ出した。

 玄関ホールにいる人皆の注意がそちらへと集中し、しんと静まり返った。

 

『──えー、マイクテスッ、マイクテスッ』

 

 気の抜けるような錆びれたダミ声が、玄関ホールに響く。

 

『オマエラッ、やーっと揃ったかっ。……それじゃ、体育館の方まで来てねー!』

 

 それきりプツンと放送は途切れた。

 唐突のことで少し戸惑ってはいたが、体育館に行かなければならないのだろう。

 

「えーっと……。いった方が、いいのかな?」

 

 どうする? といった目線を苗木が私に向ける。

 

「そう、だな……いった方が、いいと思うぞ」

 

 にしても、体育館なんてどこにあるのやら……。今自分が置かれている状況とともに、心配に思う。

 

 しかしまあ、あの声。古びたスピーカー越しだからそう聞こえるだけなのかもしれないけれど、機械音声という感じがした。ボイスチェンジャーを使ったような声? とでもいえば良いのだろうか。

 ともかく。兎にも角にも。不思議な感じがするのであった。

 

 もう既に何人かが移動を始めた。体育館の場所がわかるのだろうか? と少し不思議に思う。……どうやらこの玄関ホールに施設内のマップが置いてあるようであった。

 マップというか、パンフレットというか。

 

「あ、それって地図?」

「っぽいぞ」

 

 私もそれを手に取り、その内容に沿って私と舞園と苗木は体育館へと向かった。



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004

 体育館に入る。

 最初の方に玄関ホールを出た者は既に到着しており、私たちより後に出発した者は続々と体育館に現れた。

 

 少し変なことを言うが、体育館は思っていたよりも体育館だった。

 壇上の両サイドには深い藍色の暗幕が垂れており、また隅の方には錆び付いた金属製の棚にたくさんのバスケットボールが置かれていたり、バスケのゴールが四方に設置されていたりと......。

 

 パイプ椅子が人数分並べられているところを見る限り、きっとここに座るのだろうけれど──皆、警戒をしていて座ろうとするそぶりを見せなかった。

 集団心理というものが日本では強く蔓延(まんえん)していて。その実、私も例外無くそれから強い影響を受けている。そのため、この場にいる彼らが座らないのなら、立っているのなら私も立っていようかと、なんともなしにパイプ椅子には座らずにいた。

 

 最後の一人が出入り口の扉を閉めたときだろうか。その鉄と鉄がぶつかる鈍い音と示し合わせたかのように、先ほどのようにスピーカーから錆びた金属が(きし)むような音が聞こえた後、ポップな音が流れてきた。突如鳴り出したドラムロールは、壇上からけたたましく響く。自然と意識がそちらに引き付けられ、思わず目線を向けてしまう。

 

 私たちの間に、緊張が走った。

 

 ある者は音源である壇上をただ見つめ、ある者は少し驚いたような態度をとる。私はというと、半々といったところだろうか。驚いてはいたのだが、それを表に出すことはなかった。

 

 スパッと切るようにドラムロールが止まると同時に、壇上の奥から何か白黒の物体が飛び出してくるのが見えた。思わず身構えたが、それがこちらに飛んでくることはなく、上に高く飛べばそのまま下に垂直落下した。最初から用意されてあった椅子に踏ん反り返るそれは、左半身が黒、右半身が白という、どこぞの平成仮面ライダーを思い出させる(あれは黒と緑だけど)カラーリングだが、本体はまるでヌイグルミのような熊であった。

 

「オマエラッ! 全員集まってるな? それではっ、入学式を行いたいと思います!」

 

 やたらと元気に、かつ上から目線でものを言うなと思いつつ、私はその様子を見ていた。

 

「えー。まず始めに、この学園の理念として、オマエラ超高校級の生徒──つまり、希望の象徴は、大切に大切に守らなければなりません! そこで、オマエラにはこの学園で暮らしてもらいます! 期限は一生! 異論は認めませんし、この学園から出すつもりもありません!」

 

 当然の事ながら、私達の間でどよめきが起きる。事実私も何かを呟いていたと思う。無意識に、かつ自然に漏れ出した言葉であるために──また、彼らの声に掻き消されたがために、それを私が認識することはなかったのだが。

 

 しかし、これは一体……。

 

「しかし、ゆとりだのなんだの言われているオマエらが、外の世界に出たいと言う気持ちを強く強く、抱いているということをボクは、強く強く理解しています……。そこでっ、“卒業”という形をもって、この学園の外に出ることが出来るようにしましたっ!」

 

 そこまで言うと、そのヌイグルミは小さく咳をして(どういう仕組みなのだろう)「そういえば、まだ自己紹介してなかったね」と言った後に、モノクマという名前と、この学園の学園長である──という、なんとも馬鹿げたことを述べた。

 

 そして、私の中に一つ、考えが浮かんだ。考えというか、なんとなく思ったことだけれども、これって実はドッキリなんじゃないかって──希望ヶ峰学園が新入生歓迎会みたいな感じで大掛かりな仕掛けを施していたんじゃないだろうか──と、思った。

 

 だって、おかしいじゃないか。ヌイグルミが喋ったりなんて──まるで緊張感がない。

 

「そして、その卒業の条件ですが……“秩序を乱すこと”です!」

 

 秩序を乱す……か。あまりそう言ったことはしたことがないが、そういう類の人間を生で見たことはある。あんな田舎で見られるような類の秩序の乱し方であれば、私にもできそうなものだな──と思うが、これから新入生として高校生活を歩む私たちに、そんなことをさせて学園側は大丈夫なのだろうか?

 

 私達の中には、札付きのワルのようなやつだっている。下手すれば、謝って済む、警察がいらないといった事態程度では済まない可能性がある──いや、それは考えすぎというものだろうか? それともやはり、何かしらのルールが決められたりするのだろうか?

 あるにしたって、おかしな事態であることに変わりはないのだが……。

 

 それとも、私たちは試されているのだろうか? いかなる状況であろうとも、正常さを保つ者のみが希望ヶ峰学園に入学できる──みたいな。

 

「その秩序を乱すという行為は、とどのつまり人を殺すこと! 殴殺刺殺撲殺斬殺焼殺圧殺絞殺惨殺呪殺……殺し方は問いません。殺し殺され血で血を洗い死への恐怖を死で拭う……。今、この瞬間からスタートです!」

 

 得意げに、モノクマは言った。

 

 は……? コロシアイ……?

 物を盗むだとか……。暴力を振るうだとか……。そんなのなら、いやそれだとしてもかなりの行為ではあるものの、まだ取り返しのつけようがある。──しかし、殺す。という行為は、たとえどんな人がいたとしても──取り返しがつかない。取り返しのつきようのない。

 

 道徳的にも、人道的にも、信じがたい話であった。……いや、信じるのも馬鹿馬鹿しい話、か。

 

 そう思い、私は他の者たちの表情を伺うようにして辺りを見回す。すると、彼らの顔色は人それぞれではあるものの──総じて、良くないものではあった。決して楽しそうだとか、そんな表情は一つ足りともなく、余裕ぶった表情をしているものは一人を除いて誰一人いなかった。

 みんな、不安そうだった。きっと私も、心の中ではこんな風に考えてはいるものの──しかし、とはいえ表情に不安の色は濃く浮かんでいるのだろう。

 

「コラァ! ふざけるんじゃねえ。コロシアイだぁ? そんなことしてたまるかっ」

 

 と、いかにも不良の格好をとり、今では漫画界でさえ絶滅してしまったのではないかというようなほどのリーゼントを携えた彼が、モノクマに向かって叫ぶのであった。

 

 ズンズンと緊迫した空気を切り裂き前へと進み、やがてモノクマを鷲掴みした。彼は手中に収まったそれに向け、睨みを効かす。ヌイグルミ──いや、あんな動きをしているのだからロボットと形容するが相応しいのだろうが──を睨むなんていうのは、はて効果があるのだろうか? と、私は首を傾げかけた。

 

 突如としてモノクマは黙りこくり、変わって謎の安っぽい機械音声がけたたましく鳴り始めた。それは確実に大きく鳴りつつあり、音も音との間隔もだんだん狭まってくる。

 

 それはまるで警戒音のようで──

 

「──早くそれを投げて!」

 

 凛とし、かつ芯のある声が体育館に響いた。

 

 リーゼントの彼は戸惑いながらも、モノクマを元々あった場所の方へと力強く投げる。

 

 刹那。鼓膜を引っ掻くような爆発音とともに、私の体を爆煙と熱風が包んだ。髪は激しく揺れ、目も開けられない。一体何が──頭の中では未だに爆音が残響しており、ビリビリとした感覚が脚へと届く。

 

 鼻をツン付くような火薬の臭いを感じながら、私は恐る恐る爆音の元へと目をやった。

 

 床は黒く煤けており、また、体育館の隅の方にはモノクマらしき破片が転がっている。これはこれは……。

 

 リーゼントの彼は驚いたと言わんばかりに目を丸め、立ち竦んでいた。私たちも似たような反応を取っており、あまりの衝撃に悲鳴すら出なかった。

 

 そして、私は呟くように言った。実際、それは自然に口から漏れた言葉である。

 

「もし、少しでも投げるのが遅かったら……。それ以前に、投げてなかったら……」

 

 彼は死んでいた。

 

 急激に、コロシアイという言葉のリアリティさが加速する。良くテレビのバラエティ番組で見るようなドッキリでも、火薬は使われる──しかし、あんな至近距離で……さらに、あれはいくらなんでもドッキリで済ませられるような火薬量ではないように思えた。

 

 それを他のみんなも悟ったのだろう。明らかに、空気が変わったように思える。

 

 そんな緊迫感をぶち壊しにするような声が聞こえた。

 

「……ちえっ、せっかく爆発したのに、怪我ひとつないなんて……ま、ボクが殺したいってわけじゃないから、いいんだけどさ。学園長に対する暴力行為は校則違反だよ!」

「わっ、また出てきたべ」

「そりゃあボクは、一人であり複数体だからねっ。どこぞの世界に一人で十人分の体を駆使するような殺し名の人間がいるように、ボクもまた色々な体を持っているんだよ。あんなボクやこんなボクも……あっ! ここから先は有料コンテンツだよ!」

 

 気味悪く頰を赤らめ、体を奇妙にくねらせながら(セクシーだとでも思っているのだろうか)モノクマは言った。それに対し発言していた男子──葉隠とか言ったやつは、血の気が引いたような顔で遠慮するような言葉を放つ。

 

「ともかく! 期限は無期限! 外に出たけりゃ人を殺せ! ……ってことだよ。流石のオマエラでも理解はしたよねっ?」

 

 そう言って、モノクマは、私たちに液晶のパネル? を配った。

 恐る恐るそれの画面を触れてみると、ほのかな明かりが灯る。希望ヶ峰学園の校章が画面に映った後、私の名前が浮かび上がった。

 

「それはオマエラの電子手帳だよ。携帯電話なんて便利な機械が当たり前のように流通しているこの世の中ではお世辞にも便利とは言えない代物だけど、この学園に関することだったり、校則とかが載っているから、目は通しておいた方がいいかもねっ。命を無駄にしたくないならさ……」

 

 それじゃ。と、モノクマは急に姿を消した。

 音もなく現れ、そしてまた消える。だというのにも関わらず、モノクマは私たちの心の中に確かなものを残していったのだ。

 己の将来に対しての不安。

 更には、その将来が果たして明日あるのだろうか──突如として見知らぬ場所に縁も繋がりもない人々と閉じ込められ、更にはコロシアイ──まるで冗談みたいな話だし、事実冗談であってほしい話でもある。

 

 嫌なものだ。

 そもそもこんな話、真に受けるのは馬鹿馬鹿しい──と、割り切れたらどれだけ楽だろうか。どれほど幸せだろうか。

 

 体育館には、暫しの静寂が訪れた。

 確実に、時間は経って行く。

 しかし私たちの関係は膠着したままであった。

 

 そんな中、先程リーゼントの彼に対しモノクマを投げるようにと指示を出した女子が言うのである。

 

「……まずは、校則を確認することが一番よ。無闇やたらに行動して、校則を破り、さっきみたいなことになったら──堪らないもの」

「……ああ? 俺のことを言ってるのかっ?」

 

 リーゼントの彼が言う。すると、いかにも文学少女といった風体をした女子が、

 

「アンタ以外に誰がいるのよ……」

 

 と呟く。しかしこの静かな体育館では、それはとてもよく聞こえるためにリーゼントの彼にも聞こえたのだろう。

 

「うるせぇ!」

 

 と、一喝されていた。

 

「まあ、そうですわよね。わたくしも命が大切ですし、変なことをされてそれを失うなんてことがあったら、笑い話にもなりませんわ」

「あぁ?!」

「……はあ、なんで突っかかってくるのか分かりかねますが。なにか異論があるならお一人で勝手に行動して、危険な目に会えばよろしくって? 馬鹿は死んでも治らない──と言いますが、それなら治るでしょう」

 

 挑発的な態度をとるゴスロリ服の女子に対し、リーゼントの彼は今すぐにでも殴りかからんと拳を握り締める。しかしすんでのところで留まり、その拳を見つめながらリーゼントの彼は言うのであった。

 

「……俺は、男の約束をしたんだ。だから、まだ死ねねえ……」

「ということは、静かに黙って校則を確認する、ということですわね?」

 

 ゴスロリ服の彼女からの問いかけに、リーゼントの彼は黙って頷いた。

 

 ──校則の内容は、ある一点を除けば安易に想像できるような内容であった。ただ引っかかったのが、六つ目の校則だった。

 

『仲間の誰かを殺したクロは"卒業"となりますが、自分がクロだと他の生徒に知られてはいけません。』

 

 いや、別に、私は誰かを殺そうだなんて考えちゃいないのだけど、知られてはいけない──というのは、どういうことだろうか。てっきりバトルロワイヤルみたいなことを予想していたのだが、こうなってくるとまた違うように思えた──知られてはいけない。このような閉鎖空間で、そのようなことが可能なのだろうか?

 

「ところで、なんだけど」

 

 凛とした声の女子が言った。

 

「この施設──あのヌイグルミが学園長って言うくらいだから、学校を基にした場所なんだろうけど……探索、するべきなんじゃないかって思うのよ」

「確かに、その通りだ」

 

 私は頷いた。

 するとゴスロリ服の少女が言う。

 

「──面倒臭い。わたくしはそんなこと、しませんわ。皆さんでお好きなように」

「いや、なんでだよ」

 

 リーゼントの彼が突っ掛かる。

 

 一触即発か──緊張感が、私たちの間に走る。

 それを割って入るようにして、苗木が間に入った。

 

「や、やめなよ」

「ああっ?! うるせぇ!」

 

 次の瞬間見えたのは、リーゼントの彼に殴られ宙を舞う苗木の体だった。

 

 ああ。



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Chapter1 イキキル
001 (非)日常編


 軽く、目の前にある扉を叩いた。

 その扉には、この部屋の主である彼を模したドット絵のプレートが飾られている。よく似てるなあ、なんて間抜けなことを、彼が出てくるまで考えていた。ちなみに、私の部屋の扉にも同じプレートが存在し、それには私が(ドット絵で)描かれていた。しかしそれに存在する私の左腕には包帯は巻かれておらず、左右対称的なものであったのだ。

 となると、そのプレートが作られた後に──私の腕がこうなってしまったのだろうか。

 

 猿の手と──化してしまったのだろうか。

 

 まるで、化物みたいじゃないか。こんな腕。

 

 忘れたくても脳裏にこびりついて離れないそれを抑えるように、私は左腕を包帯の上から強く握った。鈍い痛みがした。

 

 そうこうしているうちに、扉が開く。

 

「……あ、神原さん」

「ん、意識は戻ったみたいだな。苗木。あの後は大変だったんだぞ? 君が気絶しちゃったから」

「ああ……。そっか、僕、気絶しちゃってたんだね」

 

 申し訳なさそうに姿勢を丸めた苗木は、苦笑いを浮かべながら頭をかいた。ただでさえ私より身長が低いのに、その姿はさらに縮こまって見えた。

 

 そんな苗木の肩に手を置く。

 

「大した怪我をしてないみたいだし──いや、気絶こそしたが。ま、いいじゃないか。それより、そろそろみんなが食堂に集まる時間だろうから、一緒に行こう。舞園もきっと待っている」

「食堂……? あ、そっか。もうそんな時間……」

 

 あまり元気がなさそうな苗木の前に立ち、私は誘導するようにして食堂へと向かった。

 

 そして、体育館でのモノクマとの初対面があったり、コロシアイ云々(うんぬん)の話があり、そして苗木が大和田に吹っ飛ばされた後にはこのようなことがあったということを苗木に聞かせた。

 

 まず、苗木が気絶したということ。

 そして、この施設をみんなで探索しようということになり、いくつかのグループを作って施設を探索し、出口を探したこと。

 

 まあ、私と舞園、それから大和田に関しては、苗木を部屋まで運ぶ必要があったため途中から探索を始めたし、一部の人たちは探索を行っていなかったようだが(食堂でくつろいでいるのを見かけた。単に休んでいただけかもしれないけれど)。

 

 それを聞いていた苗木は、申し訳ないことをしたなあ、迷惑かけちゃったなあと言った表情になっていたため、

 

「そう、気にすることはないぞ。苗木はなにも悪くないんだし」

 

 と私は言うのだった。

 

 私はこれといった手柄が無かったが、他の誰かが何かしら成果を出してくれているだろうと、自分にしては珍しく安直で他人任せな考えをその時は持っていた。

 食堂へと向かう道中に誰ともすれ違わなかったところを見ると、もう既に食堂に集まっているのだろうか? それとも、まだ探索の最中なのかもしれない。

 なにはともあれ、何事もなく食堂に到着したため、私は観音開きの扉をゆっくりと開けた。

 

「──あ。苗木くんに、神原さん。体の調子は大丈夫でしたか? あんなことがありましたけど……」

 

 ちょうど厨房から出てくる舞園がそこにはいた。まあ、食堂が集合場所なのだから何ら不思議なことは無いのだが──しかし、食堂を見渡して見る限り、他には誰もいないようだった。

 食堂の時計を見上げてみると、集合時間までまだ少し余裕があることに気がついた。なるほど。どうりで食堂付近にも関わらず人がいないわけだ。

 

「うん。ボクは大丈夫だよ、それよりありがとうね。お世話になっちゃったみたいで……はは、情けないなあ」

「いえいえ、いいんですよ。助け合いです、助け合い! それに、苗木くんは情けなくなんかないですよ。私、ちゃんと知ってます」

「そうだぞ。苗木は気にすることなんてない」

 

 しかしどうしたものか。大和田はカッとなって苗木を殴り飛ばした──そりゃ、いきなりコロシアイなんて単語を聞かされたり、危うく自分が死ぬかもしれなかったわけだから混乱していたのだろうけど。これからの生活、いつまで続くか分からない、終わりの見えない今の状態が続いていると、やはり、再度混乱することもあるだろう……。

 それは、大和田に関わらず他のみんなにも適用される。例外もれなく私もだ。

 うろ覚えだが、密閉空間に人を閉じ込めた際、十七日ほどで気が狂い始めたなんてことを聞いたことがあるような気がする。

 十七日。

 不確かな記憶なために、それが確かな数字かどうかは自信を持てないが、約半月。

 約二週間。

 うーん。どうなんだろう。

 現実逃避が故なのか、それともただ私が呑気なのかのどちらかなのだが、私はただ単純に、素朴に、食料が足りるのかどうかと思い悩んでいた。

 なんせ、十六人いるのだ。いくらなんでもずっと食料を供給できまい。となると、私の死因は餓死になってしまいそうなものだ。いや、それよりも前に誰かが助けに来てくれるだろう。自意識過剰気味だが、一応私はあの有名な希望ヶ峰学園の生徒なのだ──それに、私だけじゃ無い。御曹司とか、アイドルとか、各界で有名な人がたくさんいる。

 そんな人間が姿を消すのだから、どんな些細なことでも取り上げるようなマスコミが取り上げないはずがない。騒がないはずがない──

 

 まあ、誰かが誰かを殺すようなことなんて、流石に起きやしないだろし、大丈夫かな。

 

 そう、楽観視するのであった。

 

 そういえば、そろそろか。

 集合する時間も近付いてきたなだなんて、チラと扉を見た。

 すると、扉が開いて。

 

「……む。苗木くんに、舞園くんに、神原くん。」

 

 後ろ手で扉を閉めながら、石丸が入ってくる。

 

「てっきり僕が一番乗りかと思っていたが……ぐぐぬ、先着がいたか。次は僕が一番を取らせてもらうぞッ。はっはっはっ!」

「あはは……」

 

 苗木が困惑してるじゃないか。まあ私も少し苦笑い気味なのだが、それでも笑顔を浮かべる舞園はさすがというか、なんというか。

 

「ところで苗木くん。さっきは体育館であんなことがあったが──特に異常はないか?」

「う、うん。ちょっと倦怠感が残ってるけど、疲れてただけだと思う。痛いとかはもうないよ」

「そうかそうか、それは良かったっ」

 

 時間となる頃には、大半の人間が体育館へと集まっていた。半分ほどが時間の前に余裕を持って到着し、後はポツポツと食堂へと来るのだった。

 

 一分や二分、五分十分。更に時間が経過するものの、一向に姿を現さない人物がいた。あまりみんなに対して協力的ではない人間でさえ(時間に遅れてはいるが)来ているというのにもかかわらず、こうまでも遅いと何かあったのではと心配になる。

 眠っていたり、食堂の場所が分からないなんていう可愛らしいことが原因であればいいのだが──

 

「ぐむむ、遅いな……一体何をやっているんだ」

 

 流石にもう待っていられないとのことで、第一回目の報告会は一人欠席という形で幕を開けた。

 

「ではまず! 僕から行かせてもらおう」

 

 そう、意気込んだ声で名乗りを上げたのは石丸であった。

 

「大発見だ! 大発見。なんと、寄宿舎を発見したっ。それも人数分だ!」

「あー……うん、知ってる」

「な、なんだとっ?!」

 

 さっきの元気はどこへやら。石丸は肩を落とし、徐々に小さくなる声で次誰かいないかどうかと発表を促す。なんか、ドンマイって思った。

 

 その次に発表するというのは、雰囲気が雰囲気だしなかなかどうしてキツイものがある。しかしまあ、いつまでも黙っていちゃ始まらないと悟ったのだろうか。健康な褐色肌の女子──確か、朝日奈といったか。彼女が口を開いた。

 

「あのね。教室とか、いろんなところの窓に設置されてる鉄板があるでしょ? あれを外せないかなってさくらちゃんと叩いたりして回ったんだけど、ビクともしなかったんだ……」

 

 さくら……ちゃん? そんな子いたっけ──

 私の言葉を代弁するように、ド派手な格好をしている桑田が言った(あれでも野球をしているらしい。あれでもというのは、彼は髪型が坊主ではなくチャラ男風なのだ。……いやまあ、野球少年がカツオくんよろしく皆共々坊主なわけじゃないんだろうけど)。

 

「さくらちゃん……? そんなやつ、いたか?」

「……我だが」

 

 一瞬、場が凍りついた。いや、結構長い時間その緊張感は続いていたように思える。気まずいというか、「アイツ死んだな」感というか。

 

「は、はっはっは! ま、まあ名前なんてどうでもいいじゃないか! しかしそうか、大神くんの力を持ってしても開かないとなると……」

「ちょっとっ、さくらちゃんも女子なんだよ! やめてよねっ」

「完全にあれはオーガだべ……」

「むう……」

 

 閑話休題。

 

 ともかく、その後は各々が調べていたことについて話し合った。中には何もしていなかった──と言う人もいたが、しかし、誰の情報を取っても有力なものは一つとしてなかった。

 残ったのは、どうしようもないと言うやるせない気持ち。

 外に出られるかもしれない──と言う希望を潰し、私たちは外に出られないと言う結果を得たのだ。

 中に入ったのだから、必ず出入口があるはずなのだが──それはきっと、あの厳重な鉄の塊のような扉がある玄関ホールなのだろう。

 

「これで全部……か」

 

 収穫なし。

 それが、第一回報告会の結果だ。

 

 食堂には、暗い空気が流れていた。それはとてもどんよりとしている。息が詰まりそうだった。

 

 そんな中、遅れたことに対し悪びれることもなく食堂に入って来た者がいた。

 

「……なにも見つからなかった、といった感じかしら。この雰囲気を見た感じだと」

 

 霧切であった。なにかを手に持っているように見えたが、彼女は食堂へと入る動きそのままで空席へと向かう。

 

「私も、特にこれといったものはなかったんだけど──」

 

 その手に持つ何かは、どうやらパンフレットらしかった。今いるこの施設のパンフレット──希望ヶ峰学園と、それには銘打たれていた。

 ああ、そういえばこれ、私も持ってるなと。体育館の場所が分からなかったから使った覚えがある。

 

「この施設の……校内、と言えばいいのか分からないけど、地図が載ってた。電子生徒手帳のものと酷似していたから、このパンフレットがもしも本物なら──」

 

 ここは希望ヶ峰学園なのかもしれない。

 

 非常に落ち着いた声で、霧切はそう言った。



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002 (非)日常編

 二日目。

 

 その響きは、良くも悪くも私の心を酷く掻き乱した。私は一つの夜を、生き延びたのだ──という、生の実感と、昨日のアレが夢ではなかったのだという理解したくもないような現実によってだ。

 出来ることなら……叶うのなら、悪夢であって欲しかった。おじいちゃんにおばあちゃんがいる実家の一室で、悪夢に(うな)され冷や汗で肌着を濡らす、目覚めの悪い朝を迎えたかった。

 だけれども、そうは問屋が(おろ)さない。

 

 結局私は、朝早くに目を覚ましてしまうのだ。

 悪夢の中で、目が覚めるのだ。

 

 ──とはいえこの施設内……認めたくはないが、希望ヶ峰学園かもしれないこの場所に太陽の光が差し込みところはない。探せばあるかもしれないが、今のところ見つかっていない。そのために、モノクマが定めた朝時間と夜時間を除いてしまうのなら、今この時を刻む本当の時刻なんてものは分かりっこないのだ。

 

 体内時計というものが世の中にはあるが、このように日常とはかけ離れた劣悪な環境でそれが遺憾なく発揮されるとも思えない。

 私は一応、スポーツマンらしく朝はいつも同じ時間帯に目を覚ますようにしているのだが、時計を見る限りそれには少しばかり差が生じていた。

 一時間ほど、起きる時間が早かったのだ。

 

 ……ま、昨日あんなことがあったし、快眠という訳でもなかったのだから当然と言えば当然なのだが。結局、食堂に集まった後私は部屋に帰って寝てしまっていた。

 

 何はともあれ。

 

 私は朝時間がくる二時間前──夜時間が終わるまであと二時間と言った時間帯に目を覚ました。

 今は夜時間。つまりシャワーを浴びることは出来ないし、食堂で昼食をとることもままならない。部屋に置いてあるものといえば、精々昨日持ち込んだペットボトルの水くらいだ。

 ……何にもない部屋だなあ、殺風景というか。少し恥ずかしい話なのだが、実家にある私の部屋は()()()()()()()。まあ、()()()()()()()()()()()()()()()()。そのため、あまり物が置いていない部屋というのは新鮮といった感じがする。この部屋もいつしかは散らかってしまうのだろうと思うと、少し心が病んでしまうが。

 

 ……しかし、どうしようか。

 

 いつもの生活通り行動を行うなら、まずはシャワーを浴びてランニングを始める。そしてその後汗を洗い流すために再度シャワーを浴びた後に朝食を摂り、意気揚々と学校へ向かうのだ。

 しかしまあ、今の環境でランニングが行えるかと思うと、肯定しにくいものがあった。

 仮にもし、寄宿舎を囲うようにしてグルグルと走っていれば、それは完全に不審者だ。怪しいやつだと、この施設内にいるみんなから後ろ指を指されることだろう。

 それこそ魔女裁判にかけられる魔女のように。

 この生活で何が大切なのかは未だに分からないが──怪しいと思われることは、どんな状況であれ、まず避けなければならないことだろう。

 大抵人というものは、グループという輪の中に押し込まれた際、誰か一人ほどが何らかの捌け口になってしまうものなのだ。

 イジメなんかが、悪い例。クラスのお調子者で、いじられっこなんかが良い例だろうか。

 ともかく、怪しまれないようにしなければならない。

 友達を作るにしろ──人を騙すにしろ。

 

 けれども、どうしたって私の体は運動を求める。まるで時間を知らせる作り物の鳥のように、来るべくして訪れるそれに抗えないのだ。

 

 私は悩んだ。

 

 走るべきか、走らざるべきか──答えは明白ではあるものの、判断は難しかった。

 

 こんなくだらないことを考えているのは──きっと、現実逃避なのだろう。昨日のコロシアイというキーワードが──あの、手加減というものを感じなかった命を奪うための爆発が、私の心の中に深い傷跡を残し、尾を引いているのだ。

 

 嫌な話だ。

 モノクマ! おまえのくだらない爆発は、これを狙っていたのなら予想以上の効果をあげたぞッ!

 

 ともかく私は、一旦落ち着きを取り戻すためにペットボトルの水を口に含んだ。

 冷蔵庫に入れてなかったからか、とても生温い。その生温さがまた、私の心に染みる。

 

 …………。

 

 時計の針が時を刻む。その音が、はらわたの奥まで浸透した。

 

 …………。

 

 乱暴に冷蔵庫の扉を開き、そこにペットボトルを突っ込む。そして、勢いそのまま、ぼうっとした意識そのままに、私は(うつぶ)せでベッドに倒れこんだ。体が鈍ってしまうことは良くないと分かってはいながらも、枕に顔を(うず)めるのだ。

 

 それから考えた。

 自分が一体どうなってしまうのか──

 ドッキリという希望的観測が事実であってくれないだろうか──

 

 こんなことを考えるなんて、私らしくないな。と、ほくそ笑んだりもした。

 

 そうこうしているうちに、私はまた眠りについてしまうのだ。眠りに着く寸前、二度寝というのはいつ以来だろうとか、そんなことを考えていたような気もする。

 

 ともかく、私が再度朝を迎えるきっかけとなったのは、耳をつん付くような不気味な放送によるものだった。

 どうやら、朝が来たらしい。希望の朝ならぬ絶望の朝だ。

 

 酷く倦怠感に襲われる体を起こし、ベタつく汗を洗い流すためにシャワールームを使用することにした。ここのシャワールームを使用するのは初めてだけれども、部活なんかでよく使うし、別に使っていなくなって利用方法くらいは分かるものだろう。ガスなどを付ける機械が無いのを見ると、勝手にしてくれるのだろうか。

 

「……ああ」

 

 服を脱ぐ最中、私はそれを認識しなければならなかった。必然的に、認識せざるを得なかった。

 恐る恐る、巻きつく包帯を解けば、コロシアイなんて優しく思えて来るほどの(それでも非常に非現実的な話であり、恐ろしい事実だ。)悪夢が、私の左腕に残されていた。

 まるで猿の腕を移植したかのようなそれは、鏡に映る私の裸と比べてみると、明らか様に異色を放っている。隠しようのない存在感。隠そうと思えども、溢れて来る異質なオーラ。

 ……昨日は本当に、散々な一日だ。

 

 私はそう嘆く。

 

 包帯を解き終え、私は軽くシャワーのノズルを回した。ゴムが擦れる音と共に、冷たい水がヘッドから流れ出る。

 私はその冷水を、そっと、泥だらけの犬を洗うようにして左腕にかけた。……暑いだの、冷たいだのの、温度を感知することは出来るらしい。ギュッと筋肉が引き締まる感覚がする。

 

 次第に水は熱を持ち、温水へと変化する。それを頭から被り、私は目を瞑った──

 

 ──私はふと、もう一度鏡を見た。

 ……ん、また胸が大きくなったか? それも、とてもとても大きく育っているような気がする。よくよく見てみれば、体が全体的に成長しているような気がした──いや、確実に、成長していた。

 身長も、筋肉も、肉のつき方一つ取ったって──鏡に映るその体は、私の知っている私ではなかった。

 またこいつは、おかしなことを言い出したなんていう風に思うかもしれない。けれども、確かに変わっているのだ──髪型こそ、同じだけど。

 ここが見知らぬ場所が故に距離感がつかめず身長が伸びたことに気が付かなかった。泥のような倦怠感が故に体が重くなっていることに気が付かなかった──それに、昨日は先に述べた理由の通り強く強く、混乱していたのだ。気付かないのも無理はない……のだろうか。

 

 この体の異常な成長と、私のものではない左腕は、関係しているのだろうか……? なにはともあれ、不思議であることに違いは無かった。

 

 さっきとは逆の方向にノズルを回し、シャワーを止める。近くに掛けてあったタオル(次からは自分で用意しないといけない。幸い、この施設にはランドリーがあるようだから後で行くとしよう。)を手に取り、水を吸わせるようにして髪に当てた。

 

 火照る体は湯気を発する。

 体に残る水滴をある程度タオルで拭えば、適当に部屋着を見繕い着用した。タンクトップである。肌着だな。これで外に出れば痴女と疑われても仕方がない。

 

 タオルで拭いたものの、それでも濡れている私の左腕は、どうやらまだ包帯を巻くことができそうになかった。そういえば、この包帯はいつから巻いているのだろうか。後で換えとかないとな。

 

 冷蔵庫を開ければ、二度寝する前に入れておいたペットボトルの水がとてもよく冷えていて。それを悪戯心そのままに頰に当ててみると、思わず思いもしないような声を上げてしまう。

 そんな声が出てしまったことに驚き、私は一人で笑っていた。

 笑えていた、と思う。



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003 (非)日常編

 朝時間が来たからとはいえ、私にとっては特にこれといった特筆すべき予定がないため、何も考えることもなく部屋でのんびりとしていた。いや、何も考えていなかったというのは、よくよく考えてみれば、またよくよく考えてみなくたって間違っているはずだ。私は無我の境地に立つことができるほどの徳深い修行や行為を行ったことはないのだから──だから、きっと、なにかしらのことを考えていただろと思う。しかし私はそれを覚えちゃいない。ま、覚えていたところでだからどうしたという話なのだろうが。

 

 なんて考えを、頭の中で巡らせられる程度には、私の精神衛生状況は回復していた。良い調子では無いが、悪い調子からは脱却できたぞ。

 とりあえず、人が来たら大変だと、自分の左腕に包帯を巻き始める。

 

 いやしかし暇である。私の今後の予定ToDoリストなるものが存在するのならば、きっとそれは真っ白だろう。それこそまるで、今彼らとの間に存在する関係性のように──いや、生きるという目標はあるのだった。

 でもそんな予定は今日一日行動して叶うような程簡単なものじゃあないだろう。ローマは一日にして成らず。私の平穏も一日にして成らず、なのだ。

 

 閑話休題。

 

 ともかく、結論から言ってしまえば私は特に今日、する事がないのだ。何事も起きない──というのならとても幸せな一日になるのだろうがこの生活環境に置かれている以上、多少なりとも変哲のある生活を幾日か送らなければならないだろう。その数日をただ暇を持て余して暮らす──というのは、どこか心に引っかかるものがあった。

 それを解消するべく、施設を探索するも良し、私と同様にこの施設へと攫われた(のだろうか?)彼らと親睦を深めるも良し。なんならその両方でも良いのだが、それにはどうしたって相手が必要だった。そう考えて真っ先に頭に思い浮かんだのは、苗木と舞園である。彼ら彼女なら、(ある)いは──

 

 ええい。考えていたって仕方がない。私は物事を深く考えるより、体を動かす方が格段に得意なのだから。

 

 そうと決まれば早速行動に移そう。

 

 そう思い、私は部屋の扉を元気良く開けた。強風に煽られ膨らんだカーテンのように扉は外向きに広がる。しかしよくよく考えてみれば他人のことを考えちゃいない行動だったと、後から反省させられることとなる。

 ちょうど扉の前には舞園がいて。

 それは、あわやあと一寸近ければ鼻先を擦りかねないほどの近さであった。そこに人がいたことに私は驚いたが(まあ、当然といえば当然かもしれないけど)、そんな私よりも驚いていたのは舞園だった。

 勢いに押され廊下の床に尻餅をついてしまった舞園を見て、私は驚き慌てたが、無意識的に彼女に対し手を差し伸べることができた。

 

「す、すまない。舞園。まさかいるとは思わなかった」

「いえいえ、まあ──ちょっと、ビックリしちゃいましたけど」

 

 私が差し伸べた左腕──包帯が巻かれた、左腕を、舞園はその小さな手で掴んだ。しっかりとしたリアルな感触がする度に、不思議な気持ちに陥ってしまうのはこれからも付きまとってくる事なのだろう。不自然な痛みもなければ、痛覚が全くないというわけでもない。自由に動くそれは、まさしく私の腕だ。けれども、私の腕ではない。

 

「ところで、神原さん。朝ご飯って、もう食べましたか?」

「いや……まだだが」

「それは良かったです。苗木くんと神原さんを誘って、食堂で朝ご飯でも食べようかなーって、思ってたんですよ」

 

 それなら、まあ、問題ない。

 私はそのお誘いを快く受けることにした。

 

「ところで、苗木はまだ誘っていないのだろうか……? 姿が見えないあたり、きっとそうなのだろうけど」

「そうなんですよね。苗木くんはまだで──私の部屋の隣ですから、最初に苗木くんでも良かったんですけど。ほら、苗木くんってあれでも……いや、あれでもっていうのは失礼なんですけど。男の子ですし。時間を少しでも置いといたほうがいいかなって思いまして」

 

 それで、神原さんを先に。

 

 まあ──あれでもっていうのは苗木に伝えないでおくとして。確かにそれもそうだなと、私は小さく頷いた。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 こっちです、と、私は舞園に先導されて苗木の部屋へと歩いていった。寄宿舎はここにいるみんなが寝泊まりする場所のため、やはり何人かすれ違ったり姿を見かけたりした。暗い顔をする者もいれば、何事もないように平然とした表情のものもいたが、まあそれは人それぞれだ。舞園はというと、心こそ穏やかではないだろうが屈託のない笑顔を浮かべている。

 

 やはり他のみんなの部屋の扉の前にもプレートが付けられており、それぞれに各々を象られたようなドット絵があった。よく作ったものだな。

 

「ここです」

 

 確かに、ここだ。よくよく考えてみれば、私は昨日、二度この部屋を訪れているのだ──気絶した苗木を運び入れた時と、目を覚ました苗木を食堂へと連れて行く時。

 

 ともかく私は、苗木の部屋の扉を軽くノックした。

 少しの間をおいて、扉が開く。

 

「──ん、ああ。神原さんに、舞園さん。おはよう」

「おはよう」

「おはようございます、苗木くん」

「あれれー? 朝っぱらから女の子が来るなんて、いやあ苗木くんもやるなぁ」

 

 若干疲れた様子を見受けられた苗木の肩から、ひょっこりと、それが当然かのようにモノクマが顔を出した。

 

「うわっ」

「やだな、神原さん。人をまるで森で出会ったクマのように……クマだけどねっ!」

 

 そこは幽霊なんじゃないかと言ってやりたかったが、なんだかそれは相手の思うツボのように思えたのでやめにした。

 

「まま、廊下で立ち話もなんだし、入りなよ。ボクの部屋じゃないんだけどねっ! アーハッハッハッ!」

 

 私達のことも、つゆ知らず。モノクマは強引に私と舞園を苗木の部屋へと押し込んだ(なんだか手が伸びていた。ハッキリ言ってとても怖いビジュアルだ。想像して見てくれ、黒と白のモノトーン色のぬいぐるみ風熊が両手をぐんと伸ばして部屋に引き込んで来るんだぞ?)。中央に寄せられる形になったため、苗木や舞園と部屋の玄関に倒れこんでしまいそうになった。

 

「いてて……」

 

 ゆらりと立ちたがると、モノクマは小さな歩幅でおよそシャワールームがあるだろう場所へと向かった。

 

「じゃ、苗木くん。それと──ついでに舞園さんと神原さんも」

 

 強引に部屋に入れられたことに不満を強く感じつつも、モノクマのいる方へと向かった。

 舞園と苗木の表情を伺ってみると、二人とも同じような苦笑いを浮かべている。

 

「で、シャワールームの扉が開かないってことだけど──実はね、苗木くんの部屋だけ、シャワールームの建て付けが悪いんだよね。いやあ、ほんと、参っちゃうよね。欠陥住宅だよ」

 

 そう言いながら、モノクマはシャワールームのドアノブへ文字通り手を伸ばす。こう、ぐにょーんって、さっきのように手が伸びていた。……一体どういう仕組みなのだろうか。機械工学? とかはあまり詳しくない私にとって、それはさっぱり見当がつかないものだ。

 

「超高校級の幸運である苗木くんの部屋だけ、欠陥がある──うぷぷ、才能が泣いちゃうね」

「あはは……」

「じゃあ、開け方だけど──こう、上にドアノブを上げながら捻るんだよ」

 

 そう言ってモノクマはドアノブを回す。すると、なんの問題もないように扉は開き、シャワールームに部屋の光が差し込んだ。

 

「ほらね!」

 

 そうしてモノクマは扉を閉め、苗木に一度やってみるようにと催促をする。渋々とそれを受け、苗木はドアノブを捻り上げた。

 すると、これまた簡単に扉が開く。

 

「あ。開いた」

 

 その言葉を聞いてか、モノクマは満足げな表情で(ロボットに表情なんてあってたまるかと言いたいが、実際に満足げな表情で)、「じゃあね〜」と言いながらどこかへと去って行くのだった。

 

 後に残された私達。暫しの静寂が流れたが、すぐにそれは打ち砕かれた。

 

「えーっと……そういえば、聞いてなかったんだけど、どうしたの?」

 

 と、苗木は首を少し傾けながら尋ねる。

 それに対し、和かな笑顔を見せながら舞園が、

 

「えっとですね、朝ご飯でも一緒にどうかなって思いまして!」

 

 と言った。

 それに付け足すように私が、

 

「一緒に食堂で食べよう」

 

 と言う。

 

「うん、いいよ。お誘いありがとうね。さっきは迷惑かけちゃったし、ボクがなにか作るよ」

「いえいえ、いいんですよっ」

「ああ、別に気にしなくったっていい」

「いや──それじゃあ、ボクの気が収まらないよ」

 

 なんて話を交わしながら、私達三人は食堂の厨房へと向かうのだった。




 ダンガンロンパのコロシアイ生活を書くにあたり、やっぱり他の作者さんがお書きになられているダンガンロンパSSも読むべきかなと思うのですが、なかなか手が出せない毎日です。戯言戯言。


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004 (非)日常編

「やっぱり、不安なんですよね」

 

 舞園は、口に含んでいた水を飲み込んでからそう言った。

 食堂には私たち以外に人がおらず静かであったからか、舞園の不安が直に伝わってくるようだった。

 

 あの後私達は食堂の長机に面を合わせる形で座り、朝食を食べていた。三人分の料理を三人で作り始めたのだが、如何(いかん)せん何を作るか決めていなかったために少し混乱を起こし、結局、ざっくばらんに切り刻まれた野菜炒めを完成させたのは十時を回る頃であった。

 野菜炒めを作るのに三人も必要がないのは火を見るよりも明らかで、人が多いために余計に時間がかかってしまったように思えて仕方がないが──まあ、私はそこまで時間にシビアな人間ではないし、こんな生活なら尚更だった。

 それに、たとえ私が時間を無駄にしたくないという人間であったとしても、二人と賑やかに料理を作っていた時間というのはこの環境下においては実に有意義なものであったと私は思うだろう。

 

 ともかく、私と舞園と苗木の三人で朝食というには少し遅く、また昼飯というにはあまりに早いご飯を食べることになったのだ。

 食堂には誰かがいた形跡が残ってはいたものの、既にその人物の姿はなく、厨房含め食堂には私たち以外の誰もいやしなかった。

 

 紆余曲折、トラブルはあったもののなんとか野菜炒めは完成したのだが、しかしそこには計算ミスが一つあった。

 私は左利きであるのだが、その左腕が人ならざるものに変質しているせいか、まともに箸を持つことができなかったのである。せいぜいスプーンをくくりつければどうにかなるだろうといったところであり、野菜炒めを食べるにはあまりにも適していない。

 右の手で箸を動かそうにも、そういう経験は皆無であったため、結局私はフォークで苦戦しながらもキャベツなりモヤシなりを口に運んでいた。

 野菜炒めを作りながら、可能であればお味噌汁も作りたいと思っていたのだが、そこまでしているとお昼になってしまいそうな気がしたし、そもそも作れたからといってまともに食べられそうにもなかったので、時間もほどほどに切り上げたのは正解だったように思える。

 

 利き手がこんなふうになってしまっている以上、しばらくの間はパンをちぎって食べるとしよう。

 

 そしてご飯も平らげ、片付けも終わってようやく落ち着き、私が席に着いた時ごろに、舞園が冒頭の台詞を私と苗木に告げたのだ。

 

「舞園さん……不安って、やっぱり、コロシアイのこと……?」

「……はい。やっぱり、なにがあるか、分からないじゃないですか……。苗木くんや、神原さんとは簡単に打ち解けられましたけど、みんながみんなそういう人じゃないですし」

 

 少し暗い雰囲気を出しながら、舞園は続けた。

 

「アイドルですから、それなりに鍛えてはいるんですよ。ステージで歌いながら飛んで跳ねて踊るっていうのも、結構体力使いますしね。でも──それでも、やっぱり男性の腕力には到底敵わないですし。疑うようで悪いんですけど──もしも襲われでもしたら、それこそ、抵抗できないうちに殺されちゃうんじゃないかって」

 

 それはまあ、もっともな意見だったと思う。

 きっと私も非力であれば同じような考えに至っているだろうし、それに私だって喧嘩は強くない。まあ鍛えてはいるから、抵抗くらいはできそうなものだが──護身術なんて覚えちゃいない、本気で殺そうなんて血迷った考えを、鬼気迫った人間の一振りを食い止められるほど、私は強くはないのだ。だから、舞園の不安は、とても共感し得るものであった。

 自然と首を縦に振る事が、できるのだ。

 

「だから、護身用になにか持っておきたいんですけど、一緒に探すのを手伝ってくれませんか……? 状況が状況ですし、危ないものを持っている場面を見られて、変に誤解されるのもアレですし……」

「協力するよ。ね、神原さん」

「ああ、もちろんだ。けれど──」

 

 使い方を、見誤っちゃいけない。

 それは大切なことだろう。

 

 私はそう行った類のことを、やんわりとオブラートに包んだ物言いで、舞園に伝えた。

 それはもちろんなことだと、彼女は頷いてくれた。

 

「でも、護身用の道具なんて、どこにあるんだろう?」

「それこそ、探索を兼ねて探せばいいんじゃないか?」

「三人で探索、ですか。なんだか私、ワクワクします!」

 

 半ばピクニック気分というか、内容こそアレだが和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気がどことも知れずこの場に流れているような感じがする。これでいいのか? おい危機感。

 

 食堂にある厨房にも、それなりに護身となるようは道具はチラホラと見受けられたのだが、それはあまりにも殺傷性が高く、まかり間違えて相手を殺しかねないと判断し、とりあえずは食堂以外の場所を探してみようかと外に出た。

 

「ところで舞園。参考までに聞きたいのだが、なにか護身術とか経験はないのか? 合気道とか、柔道とか、空手とか」

「特には無いですかね。ほんと、歌って踊るための練習ばっかりでしたから──強いて言うなら、筋力トレーニングとかはしましたけど、それは護身術というにはあまりに心許ないものですよね」

「まあ……それだと、護身用の道具があっても抵抗は難しいかも知れない──それこそ、スタンガンだって、当たらなければただのハンディサイズの箱だ。もしくは棒」

「そう、ですよね」

「でも、夜時間は部屋にいればいいし──それこそ、日常的な生活を送る分には私たちと行動を共にしていれば、結構、安全と言えば安全だと思うぞ。護身用の道具だって、持っているだけで心の支えになる──それに、使う機会なんて、本来訪れるべきじゃないのだから」

「うん、ボクもそう思うよ」

 

 と、苗木が言ったところで、まずは購買部の方に到着した。

 なぜここに来たのか──というと、まあ、物が多いから、というのが正しいか。

 特にアテもなく来たと言われてしまえば、私はぐうの音も出ない──いや、ぐうの音くらいしか出す事ができなくなってしまうけれど、しまうのだけれど。そもそもこの施設(希望ヶ峰学園と認めるにはまだ私の心が追いついていないため、現状この場所は総括して『施設』と呼んでいる)に存在する教室であったり特別教室については、あまり深く知れていない。それに探索も兼ねているのだから、しらみ潰しを行うようにして色んな教室を回ってみようじゃないかという事で、結構近くにあり、聞くところによると物が多いという購買部へ向かうことにしたのだ。

 

 しかし、護身用の道具があるのだろうか……?

 それは購買部に対する不安ではなく、この施設全体に対する不安でもあった。このコロシアイの首謀者であるモノクマが、なにを思ってこんなことをさせているのかは知らないが──単に殺し合いをさせたいというのであれば、身を守らせるような道具をわざわざ用意するだろうか。

 それこそ、人を殺めることのできる道具は幾らでもある。包丁だって、なんだって。それこそ椅子も上手く使えば殺傷性が生まれるし、水だって人を殺すには十分すぎるほどに有名なアイテムだ。素手でも、人の命を奪うことは、安易と言えるだろう。

 

 人を殺したこともないような人間がなにを言う、と言われてしまえば、私は渋々とその通りであると頭を下げざるを得ない。私は人を殺したことなど、一度だってないのだから──あったら大問題である。

 それこそ、人の倫理に関わることだ。少年法だとかがあるが、しかしそれでも殺人は許されざる行為だ。

 

「んー……、やっぱり、購買部だしね。パンとか、お菓子とか。そればっかりだね……、いや、それが普通なんだけどさ」

 

 と、苗木が溜息交じりに言う。

 それに反応するようにして、舞園が「そうですね」と相槌を打った。

 行動の内容もあってか、出発した際はピクニック気分だったというのに、出鼻を挫かれたかのように最初からこれである。いや、まあ、これが普通だろうけど。

 そんな雰囲気を察してか、もしくはただ単に自然にか。苗木はおもむろに突っ込んだポケットから、光り輝く銅色のコインを三枚取り出した。

 

「そう言えばさ、この学園の至る所に、こういう『モノクマメダル』っていうのが落ちてるらしいんだ」

 

 そう言って苗木が見せてくれたコインの表には、趣味の悪いことに、やけに忠実に再現されたあのモノクマの顔が図々しくも刻印されていた。

 

「で、そのコインでこのモノモノマシーンってガチャが引けるらしいからさ。──丁度ピッタリ、三枚あるし、一人一回引いてみようよ。軽い運試しってことで」

「運試し、ですか」

 

 まあ、こういうのは嫌いじゃない。

 中学校でもよく後輩を連れて、近くのスーパーにあるガチャガチャを馬鹿みたいに回したものだ。なぜだかいつも欲しいものだけが当たらなかったが。

 

 苗木は私たちにメダルを一枚ずつ渡した。

 それを私はぎゅっと(てのひら)で握りながら、良いものが引けるようにと念を込める。そんなものをこのメダルに込めたところで、なにか良いことが起こるわけでもないのだが、しかし、気持ちが大切だ。

 なにごとも、気の持ちようなんだ。

 

「じゃあ、私から」

 

 そう言い舞園は、モノモノマシーンと呼ばれるそれにコインを一枚入れる。チャリンといった金属音が、購買部に響く。そして、ガチャガチャ特有のプラスチックを石臼で挽くような音。

 軽快な音とともに、カプセルが飛び出した。市販されているカプセルと比べ、ふた回りほど大きかった。

 

「結構、大きめなんですね」

「そう、だね。これは期待大だよ」

 

 じゃあ、と。次は苗木、そして私と順番に回した。

 どうやら各々色が違うらしく、舞園が黄色、苗木が紫、私は緑色であった。レアリティだとかが関係あるのだろうか? もしあるなら、金とかがやっぱり高いんだろうけど──モンハンで言うのなら、今のところ苗木が一番レアだな。紫。

 

「結構、普通のガチャガチャと比べると重ためだね」

「ああ……、なにが入っているんだろうな」

 

 いっせーのーで。

 

 そんな気の抜ける掛け声とともに、ぽんとカプセルを同時に開ける。中にはビニール梱包をされた何かが入っていた。

 

 恐る恐るそれを取り出してみると……。

 

 ん、んんんー?

 

 他の二人の表情を伺ってみると、双方共に微妙な顔をしていた。やはり、ロクなものは入っていないらしい……。まあ、てっきり危険なものが入っているのではないかと心なしか警戒していたから、良い意味で気が抜けた。

 

「私はなんだか、らしいものが当たりました」

 

 そう言って舞園が取り出したのは、『希望ヶ峰の指輪』というものであった。

 

「確かに。そんなものも、当たるんだな。このガチャガチャ」

「へえ……、よかったね、舞園さん」

 

 じゃあ次は私が、と、半ば急ぎ気味に当たったものを前に出した。

 

「『動くこけし』、だ」

「うわぁ……」

 

 うわぁってなんだ。うわぁって。

 つくづく運が無いと昔から思ってはいたけど、これはまた別の意味で運が悪かった。嫌がらせか? 嫌がらせなのか?

 電源を入れると電動マッサージばりの振動を起こすこけし。私は即座に電源を切り、購買部の籠のところへ突っ込んだ。卑猥な意味ではなく正確には放り込んだのだが、勢いが勢いなため突っ込んだという方が正しいように思える。

 

「じゃあ、最後はボクか……」

 

 なぜか出したく無さそうな顔をしている苗木。やはり彼も、ロクでも無いようなものが当たってしまったようだ。

 

「……引かないでね?」

 

 そう、年を押すようにして苗木は言った。私たち二人はそれに対し、勿論だと答える。

 

 恐る恐る、仰々しくも、苗木はそれを取り出した。

 

「……『手ブラ』」

「苗木くん……」

「苗木、私は理解できるぞ。ああ、良いとも。健全な証拠だし、私もそういう類のものは嫌いじゃない」

「神原サンっ! それはフォローになってないよ!」

 

 論破!

 とはならないか?

 

「別に僕は、引きたくってこれを……『手ブラ』を引いたわけじゃないんだよ……」

「超高校級の幸運が何を言う。流石だ」

「それは違うよ!」

 

 論破!

 となったかもしれない。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 謎の沈黙が流れる。

 おじいちゃんおばあちゃんと一緒に洋画を見ているときに、ちょっとえっちなシーンが流れた時と同じような雰囲気だった。

 気不味い。

 舞園の指輪はまだ良かった。というか普通だったんだが、私と苗木のツーコンボが非常に不味いものであったことは言うまでもないだろう。

 

「……次、行こうか」

「うん、そうだね」

「そうですね」

 

 逃げ出すようにして購買部を出た私たちは、その足で体育館の方へと向かっていった。

 すごく今更だけど、学校には刺又という防犯用のアイテムが置かれている。なんでも消火の際にも使われたらしい(延焼を防ぐために家屋を破壊したいなど)。その歴史は長く、なんでも江戸時代からだとか。まあ信頼と実績のそれを護身用具として用いるのは、なかなかどうして真っ当な考えだと思ったのだが──なにぶん、置いてある場所が分からなかった。

 普段は警備室とか職員室に置いてあると聞いたが、それらしい部屋は未だ見つかっていない。それこそ購買部に似たようなものがあったような気がするが(あれは完全な棒だったけど)、しかしもう戻れないだろう。雰囲気的に。

 

 そこで、なんとなく体育館の倉庫にでもありそうだな──なんていう思いも心の片隅にありつつ、そちらに向かっているのだ。

 

 もしかしたら、走り高跳びの棒と勘違いしていた──というオチかもしれないが(そんなのだと落ちる物も落ちないだろう)。

 

 ともかく、体育館前のところには到着した──

 

 すると、目が止まるものがあった。

 

「──ん」

「……どうかした? 神原さん」

「いや、なんか、こんなものもあるんだななんてさ」

 

 その一室は──体育館と廊下の中間に位置するその部屋には、所狭しとトロフィーや盾、写真などが並べられたガラスのショーケースであったりなどが立ち並んでいた。

 探せば私の名前もありそうなくらいに、たくさんあった。

 見てみれば、見らほらと聞いたこと見たことがあるような名前があったため、そこそこ有名な人たちのものらしい──

 

「あ、これとか、元プロサッカー選手の人のやつじゃないかな? へー、高校生の時……でも、なんでこんなものがあるんだろう。もう三十年くらい前だと思うんだけど」

 

 そう苗木が指差したのは、今はタレントとして活躍している元サッカー選手の名前が彫られた金のトロフィーだった。

 確かその選手は、希望ヶ峰学園出身だったような──

 

「こんなのもありますよ」

 

 と、舞園が見ていたのは金の模擬刀だった。

 それに興味を示したのか、苗木が(おもむろ)に模擬刀を持ち上げた。

 

「わあ、重たい。本物かなあ」

 

 そう言えば、情けなくもすぐに元の位置へと模擬刀を戻した。

 金の刀なんて、切れ味が悪そうなものだな。だなんて思っていれば、

 

「……あっ、苗木くん。これ金箔ですよ。剥がれちゃってます」

 

 と舞園。

 

「あ……、本当だ。手に付いてる」

「ふむ、金箔か」

 

 既に剥がれてしまった所を(なんだかマダラ模様になっていて、不恰好だ)持ち、鞘を抜いてみた。すると、どうやら刃は潰してあったようで、

 すっと刃の方を撫でてみても、手が切れるといった流血沙汰には発展しない。

 

「少々重たいし、手が汚れてしまうかもしれないが──これでも、いいんじゃないか? 護身用の道具。下手に軽いものよりは、重たい方が扱いやすいかもしれない──それに、殺傷性も低いだろう」

 

 舞園も鍛えているというし、ロクに持てないということもないだろう。

 金色に光り輝く刃を鞘に収めると、独特の金属音が鳴った。鼓膜をツン付くようなその音は、よく響いた。



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005 (非)日常編

 三日目の朝。

 私は、溜め込んでしまっていた大量の洗濯物を抱え、ランドリーを幾度か往復し、運び込んだ衣類を複数台の洗濯機にかけ、フル稼働させていた。

 洗濯機特有の轟音がいくつも重なり、ランドリーの中央に設置されているベンチに座っていても骨の髄にまで振動が伝わってくる。ごごごごご。

 

 もしくはごうんごうん。

 

 地鳴りにも近い印象を持つそれは、なかなかどうして体の芯にまで刺激を与えるものである。軽いマッサージのように取れないこともなかったが、そう考えるとあまりにも軽過ぎる。

 

 今朝は、いつものように、いつもの三人で朝食を食べていた。

 朝食、といっても一口には語れないだろう。世の中にはきのこ派たけのこ派という、第三次世界大戦が勃発しかねない論争が繰り広げられているように、またそれと同列に語られる、朝はパン派かご飯派かという論争が存在する。私はどちらかといえば「ご飯な気分!」になる時が多いような気がするけど(あくまで気がするだけだ。パンも好きだから論争には巻き込まないでくれ。争い事はエロいことだけでいいのだ。ブルマーは不潔だと言う人がいれば私を呼んでくれ、真っ向から戦うぞ)、でも、まあ、今朝はどちらでもなかった。

 

 おいおい、ご飯とパン。それ以外に食べるものなんてあるのか? ラー油でも食べるのか? と、お思いの方も少なからずいらっしゃるだろう。まあ、回りくどい言い方をせずに今朝のご飯を言ってしまうなら、ラーメンである。

 おいおい、麺派が出てきてしまったぞ……。三つ巴だな、三つ巴。スクール水着、ブルマーに次ぎ、胸空きセーターが登場したようなものだ。

 これが、第四次世界大戦勃発の時である。

 

 ともかく今朝は、平和を願いながらラーメンを食べた。パンでもなくご飯でもなく、ましてやスクール水着、ブルマー、胸空きセーターでもない。食べたものはラーメンだ。ラーメンといえば味噌派、とんこつ派、醤油派、塩派が存在する。……第五次世界大戦勃発か……? 流石にこうも簡単に世界大戦を起こし続けるというのは、平和主義者の私としてはいかがなものかと首を傾げざるを得ないので、良い加減にここら辺にしたいと思う。

 食後は少しの間彼らと会話を楽しんで、今日は何をしようかといった話題に差し掛かったあたりで、私は、「溜め込んだ洗濯物を洗わなきゃいけないんだ」と思い出したように言い、彼らとは別行動をとる事にした。

 

 洗濯なんて借りてきた猫の手で(わら)にすがりたくなるほど忙しいわけでもない。むしろ仕事の内容がほとんど「待機」という行為だけだから、洗濯機を稼働させてから舞園と苗木のところに向かうということは、至極簡単なことではある。

 現に今だって、私は、とても暇をしている。だから今からでも二人の元に向かっても良かったのだが──なんだかあの二人は、二人でいた方がいいように思えるところがあった。お似合いというか、なんというか。

 あの年頃の男女二人がなにもないわけもなく、またなんの感情も抱いていないということもないだろうから、私は一歩身を引いて、同世代のそう言った事情を後ろから見守る事にする。

 頑張れ苗木。

 良い報告、待ってるぞ。

 吊り橋効果で差をつけろ。

 

 ので、絶賛暇中である。

 なんともご親切なことに、ランドリーには暇つぶし用の雑誌があるのだけれど、どれもファッション誌やら世俗のことについて書かれたものしかなく、興味をそそられるようなジャンルではなかった。

 

 あー、暇だなー。

 空から女の子でも降ってこないだろうか。

 そんなことを願いながら(我ながら馬鹿な願いだ。叶うなら叶ってほしいものだけど)ふと頭上を見上げてみれば、あるのは無機質なタイルで覆われた天井であった。これじゃあ降ってくるものも降ってこないな……。

 

「……ふぅ」

 

 笑みとも取れる溜息を、口から漏らす。

 

 それから小一時間ほど経ってからだろうか。

 ひとまず洗濯が終了し、次いでは乾燥機にかける。

 最近は人に親切な設計らしく、先の洗濯機も含めて初めて使う型であったものの、容易(たやす)く扱うことが出来た。過去に、やたら滅多にボタンやらスイッチやらが付けられていた機器を扱う機会があったのだが、その時ばかりは頭を悩ませた思い出がある。まあ、その時の話を洗濯機との引き合いに出すのはナンセンスかな。部屋の電気をオンオフするのに、飛行機の操縦席に付属されてあるような無数の計器、スイッチが不必要なように。また洗濯機に対してその話をするのはおかしなことだ。釣り合いが取れない。

 

 でも、偏りというものも、人生必要だろうか──

 

 洗濯機で人生を悟りかけていると(軽い人生だ)、視界の端に大きな布の塊が現れた。最初は見間違いかと思ったので見逃したのだが、見間違えるようなものはこの部屋にないと記憶していたので、今度はしっかりと視界にそれを捉える。

 ランドリーの出入り口から現れた、小山のように盛られたそれは大型動物の背中のように揺れていて、今にも崩れそうだと、警戒心以前に心慌ただしくなるものであった。

 

 おいおい。

 

 その衣類の山に隠れている人間は、よっぽど横着なのだろう。今にも溢れそうなほどに服やらなんやらを抱えているのだから。小分けにして持って来ればいいものを。

 

 しかしまあ、その行為は分からない話でもなかった。実のところ、私も最初はそうしようかと思っていたものだ。だけれども持ちきれず、廊下に足跡を残すようにして落としてしまっていたので(ヘンゼルとグレーテル歩行法)、結局何度か小分けして持ち運んだ。

 

「だ、大丈夫か?」

「んっ、んー!」

 

 山の向こう側から情けのない非力な声が聞こえる。一度にそれだけの量の衣類を運ぶことが大変であるということを知っているがために、思わず立ち上がり、そちらの方へと駆け寄った。

 私の存在に気付いたのか、ゆらゆらとした足取りで、私を避けるようにしランドリーの中へと入ってきた。

 私のことを考えての行動なんだろうけど、その行為のせいで衣類の山は安定さを失うことになる。

 

「──わぁっ」

 

 段ボール箱などであれば、また籠に入っているのなら、支えるという行為は確かな効果を発揮しただろう。しかし、そもそも衣類の山を両の腕だけで持ち運ぶのは無理があるのだ。

 バスケットボールと比べるには、あまりに大きすぎで、また数も果てしない。まあ──不可能では、ないのだけど。

 

「…………」

 

 甲斐無く床に散らばってしまった衣類を見て、それを運んできていた本人は「あっひゃぁ……」といった悲鳴が、今にもそのぽっかりと開かれた口から聞こえてきそうなほどに悲哀に満ちた表情をしていた。

 

「まっまだ、洗濯してなかったから……セーフっ」

 

 確か……、朝日奈葵(アサヒナアオイ)といったか……。

 どことなく、この褐色肌には見覚えがあった。面識こそないが、しかし、聞いたことはある。中学時代に私はバスケットボール部で大変な活躍を見せていたのだが(自分でこう言うのは、少々恥ずかしい。照れるものがある)、そのころ付き合いがあった先輩から聞いたことがあるのだ。なんでも、水泳部員でありながらバレーボール部や陸上部などを七つも掛け持ちしている人が存在し、以前参加した大会に出た時に会った、と。

 私と同級生であると言う風に聞いていたので、その話自体がおよそ一年と少し前の出来事であったものの、一応頭の片隅に置いてはいたが……。

 

 別に親の仇があるわけでもないし、ここで会ったが百年目、なんて決め台詞を出会い頭に吐くような仲でもない、ただただ初見なので、変にこちらが一方的に知ってしまっている分、少し硬い態度で接してしまうことになった。

 

「ああ。……えっと、朝日奈、だったっけ?」

「うんっ、そうだよ。朝日奈葵。超高校級のスイマーなんだ!」

 

 いやあ、明るいなあ。

 スイマーということは、水着に着替えてプールで泳ぐということなのだろうけど、そのように扇情的なボディはいかがなものかと教育委員会とか、PTAとかから何か言われないのだろうか? というか、私もそれなりに肉付きの良い体をしていると思うのだが(顧問の先生曰く、男好きのする体だそうだ。ふふん)、同等、いや、火を見るよりも明らかか、私を上回るプロポーションである。

 水泳大会で軽い暴動が起こってもおかしくないかもしれない。

 

 いや、流石にそれは言い過ぎか。

 

 しかし、そう思えるような印象を、私は第一に見受けた。

 

 私も軽い自己紹介を彼女に対して行い、手が空いていたので床に散らばった衣類を洗濯機に入れる手伝いをした。人の洗濯物をまじまじと見るのは配慮に欠けるというものなので、あまり直視はしないように、だ。

 

「ありがとうねー! 神原さん」

「いいんだ、別に」

 

 陽の光が差さないこの施設内で太陽のような笑顔を見せる朝日奈は、お礼にと、どこから取り出したか分からないドーナツを元気よく膝元においた。お店で買った時にドーナツを入れておくような入れ物いっぱいに入れられたドーナツは、見るだけでお腹いっぱいになってしまいそうである。

 その見た目が全て均等で整っていたため、手作りのようにはどうしても見えない。あの厨房にはこんなものまで置いてあるのかと、少しばかり驚きを感じる。

 

「これ一緒に食べよ! 私好きなんだ、ドーナツ!」

 

 これぞ人生において、最高に幸せな時である。といった顔で、朝日奈はドーナツを頬張り始めた。もともと彼女一人で食べる用だったのだろうというスピードで食べ進む(そう考えると、一人用にしちゃあ、わりかし量は多いように思えた。でもスポーツ選手な訳だし、そう考えるとむしろ少ないくらいか)。

 まあ、お言葉に甘えて。

 

 私もドーナツを手に取り、朝日奈の食べっぷりに若干の気の引けを感じつつも、ドーナツを口に入れる。

 

「ん、おいしい」

「でしょ?」

 

 少々脂っこいが、それがまたドーナツといった感じを引き立てている。甘ったるいわけでもなく、また味が薄いわけでもない。味の方は、申し分ない。ただ……、

 

「……少し、喉が乾くな」

 

 これも揚げ物の宿命か。

 ドーナツのパサつきが口腔内の水分をごっそりと持っていったことに、後から気がついた。

 

「あー、そうだねっ。あとで食堂に飲み物を取りに行こうかな?」

 

 そう言いながらも、朝日奈は口にドーナツを運ぶ作業をやめることはなく、パクパクと楽しげに食べ進む。目に見えるようにして数を減らすドーナツ。ここまで食いっぷりが良いと、見ているこっちがなんだか気持ちよくなって来る。フードファイターなどのテレビ番組が昔は流行っていたらしいが(最近そういうのをあまり見ないのは、食べ物を粗末に云々というクレームがあったりするからなのだろうか?)、なんとなく、その理由がわかった気がする。やがて箱の底が見え始めた辺りで朝日奈は悲鳴をあげた。

 

「あー! ……また食べ過ぎちゃった。太っちゃうなあ」

 

 手に持つ食べかけのドーナツをもぐもぐと食べきれば、残り少ないドーナツが入った箱を、少し自分から遠ざけた。あくまで食欲に対する抵抗のつもりらしい。

 んん……、見たところ太ってもないようだし、日頃運動をしているのなら、食べていても大丈夫そうなものだけど……。やっぱり、水泳という水の抵抗をモロに受けてしまうスポーツは、体付きなどをミリ単位で気にしてしまうものなのだろうか? 私なんかはただ鍛えてただ練習して汗をかいてるだけみたいなところがあるから(流石にそれは言い過ぎた。もっと苦労している)あれなんだけれど、やはり一口に運動といっても、競技によってこういった違いが生まれるのだな……。

 よし、ここはバスケットボールの道を歩む者として、一つ良い運動プランを朝日奈に伝授することにしよう。

 

「朝日奈。食べても太らない……、むしろ食べなきゃどんどん痩せてしまう運動プランを伝授したい」

「えっ?! そんな、まるで夢のようなものが存在するの?!」

「ああ、存在するとも。まずは朝、10kmランニング二本から始まる」

「……ま、まず? それで終わりじゃなくって?」

「ああ。その後軽い朝食を取ってからだな……」

「わーわー! ストップ! ごめんねっ、私できそうにないやっ」

 

 楽して良い思いはできないんだね……。そう言っていた彼女の横顔は、どこか寂しいものがあった。

 食べるのをやめればいいのに、と私は思う。

 

「……あっ! 今、それなら食べなきゃいいのに……みたいなこと、思ったでしょ!」

「いやっ、思っていない」

「いいやっ、絶対に思った!」

 

 頬を膨らませて怒る朝日奈。

 

「食べないでいられていたら、どんだけ楽か……、はあ、辛いよ。ドーナツが美味しすぎて辛いよ……」

 

 幸せな悩みだなと、私は柔らかな苦笑いをした。




サブタイトルに『(非)日常編』入れてみたら、もういっぱいいっぱい。


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006 (非)日常編

 四日目。

 

 何だか今日は、嫌なことが起きるような気がした。

 それはもはや直感に限りなく近く──いや、そのものであり、確証や根拠というものは一欠片も持ち合わせちゃいなかった。女の勘──というよりかは、虫の知らせ、といった感じだ。

 ──正確に言うなれば特別嫌なことが起こる気がした、かもしれないな。

 実のところ、嫌な予感というもの自体は四日前から全身を通じてひしひしと感じている。この学園で目を覚まして以来、こういった感情に襲われない日はなかったのだから。

 

 いつだって、予感はしていたのだ。

 いつだって、嫌な気分ではあったのだ。

 

 けれども、だけれども、今日だけは特別に嫌なことが起きるような気がしたのだ──予感が、現実のものになってしまいそうに思えて仕方がなかったのだ。なんだろう、嫌なことに、朝から心がざわつく。なにかが慌ただしく、私の奥深くを騒ぎ立てる。

 

 冷や汗がふつふつと浮かぶ皮膚を軽くタオルで拭えば、私は外に出る支度をし始めた。

 

 別に今日は予定もないし、部屋でゆっくりするというのもアリなのだが……と普段なら言えただろう。しかしそう言えないわけがある。なぜ支度をしているのかといえば、それは、今しがたスピーカーから流れた校内放送が関係している。

 

 体育館に集合しろ──

 

 そういった趣旨を含む、いつもとどこか様子の違ったモノクマの目覚ましはなんとも気分が悪いものである。

 今日という一日において最も強く感じる嫌な予感が、妙な現実味を帯び始めた。

 

 陰鬱な雲に心を覆われながらも、私は体育館へと向かいつつあった。食堂で朝食を取ってからでも良かったのだけれども、既に何人かが体育館の方へと歩いて行くのを通りすがりに見てしまったため、その考えはやめにした。モノクマからの招集に遅れた時に何があるか分かったものじゃないからな。

 

 怖い怖い。

 

 ちなみに、道中舞園と苗木の部屋にも立ち寄ったのだけれど、二人とも支度中で「先に行っておいてほしい」との意見があり、今、私は一人である。苗木の部屋の前に石丸がいたりしたけれど、一体どうかしたのだろうか? 殺人鬼うんぬんと言っていたから物騒なことに違いはないのだが……。

 

 体育館の扉を開けば中には既に何人かの人がいた。数にしておよそ十人くらいだろうか──舞園、苗木を含めて、まだ五人ほど来ていないようだ。扉の開く音に反応してか、到着していた者たちからの視線が一度はこちらに集中するものの、すぐにそれは散らばった。

 朝のアナウンスで唐突に呼び出され、みんな警戒しているのだろう。注意力がいつもより増しているということが感じ取れた。

 

 んー。

 

 五分ほどすると、まだ来ていなかった人物たちも体育館に現れ始める。その中には舞園や苗木も含まれており、ようやく全員が揃ったようだ。

 それを何処(どこ)かから見計らってか、三日前に行われた入学式と同じようにしてモノクマが教壇へと登場する。

 飛び跳ねるようにして壇上へと降り立ったモノクマは、どこか怒り気味だ。

 

 機械が怒り気味というのはどこかおかしいような?

 

 ともかく、モノクマは何かに対して怒っているようであった。

 触らぬ熊に祟りなし。私たちは目の前に存在する機械の態度が悪いということに気がつきつつも、しかしそれに対して口を出すことはない。

 すると、そんな様子を物ともしないようにモノクマは話を始めた。

 

「もうっ! 今何日目だと思う? 四日目だよ! 四日目!」

 

 必死に教壇を叩く姿がどこか愛くるしいな……。そういう趣味はないのだが。

 

「……はあ、正直ボクはガッカリだよ。ちゃっちゃとコロシアイをしてくれればいいものの……。どこかのピンク髪の高校生なら、四日もあれば世界の半分以上は壊滅させてるよ? ったく……、最近の若者は勢いが足りない! ってよく聞くけど、こういうことなのかな? 勢いに任せて、殺しちゃったりしないのかな?」

「しねえよ!」

 

 と、桑田(クワタ)(げき)が飛ぶ。

 それを鬱陶しそうにしながらも、モノクマは続けた。

 

「ともかく! 兎にも角にも熊にも辺にもっ、コロシアイをしてもらわないと困るんだよね! ……でも、ゆとり教育を受けてきた生粋のゆとり世代であるオマエラが、そう簡単にコロシアイをするはずもないか……そこでね、ボク、考えたんだよぉ!」

 

 いやあ、いい先生だねえ、ボクは。なんて的外れな自画自賛を意気揚々と述べつつ、モノクマか提示した案は──案というか、企画というか。ともかくその考えは、コロシアイをさせるには確かに欠かせないなと納得出来るものであった。

 ……いや、納得しちゃ、いけないんだけどな。

 

「動機だよ、動機! そうっ、オマエラには動機という殺しに重要な要素が欠けていたんだよ!」

 

 というわけで、用意したよー。

 

 そんな軽いノリでモノクマが暗幕の裏から取り出したものは、段ボール箱であった。なんだか色んなシールが貼られているそれを私達の前まで運んできたかと思えば(モノクマが運べるということは、中身は軽いのだろうか? それともモノクマが力強いのか)、それを鋭く尖った爪で開封する。

 

 ……ん。

 あれは……DVD、か?

 CDと酷似しているそれをDVDと見分けられたのには理由がある。それは段ボール箱にマジックペンでデカデカと「でーぶいでー」と書いてあったからだ。

 ……一つ一つはよくあるコピー用の白いDVDなのだが、それらが入れられているケースには各々名前が書かれていた。もちろんその中には舞園や苗木、そして私の名前も存在していた。

 

「ジャジャジャジャーン、テーマはズバリ、人間関係! 君たちの親しい仲にある人たちが映ってるだろうから、是非是非見てみてね! あっ、視聴覚室でだよーっ」

 

 そう言い残し、モノクマはいつの間にか、どこかへと姿を消していた。いつも私たちは置いてけぼりだなと、なんとなく思う。いやまあ仲良しといった雰囲気で話し合っていたりするのはあれだけどな。

 学園長と、生徒。

 まあ、想像してみると和みが生まれないことも……ない、のか?

 

 そんな他愛もない妄想よりも、今は動機と呼ばれたDVDである。動機……、それはつまり、コロシアイを起こさせるための火種ということだろう。この学園から出たいと思わせるような、そんな内容があのDVDには焼き付けられているはずだ。そんな内容のDVDを見るべきかどうか……、その選択に、他のみんなも悩んでいるようであった。一部を除いて、だが。

 何人かは一切の躊躇いを見せずに段ボール箱から自分の名前が書かれたDVDケースを取り出し、颯爽と体育館を去っていった。

 私はというと、そんな彼らを見守るばかりである。

 

 ふむ……、なんだか、格の違いというものを見せられた気がする。さすが超高校級というか……なんというか。こういったときに真っ先に行動できる人間が何かを果たすのだろうなと思う。

 

「……どうする?」

 

 と、若干の迷いを含ませた声で、苗木は私たち二人に問いかけた。

 

「そう、ですね……、出来ることなら見たくはないんですけど、見なかったら見なかったらで、何があるか分からないですし……」

 

 舞園が俯きがちになりながらもそう言った。まあその意見には概ね賛成である。DVDの内容がどんなものであれ、それは見なければならないものだろう。私個人としても、見猿聞か猿言わ猿と現実から目を背けるような真似はあまり好きじゃない──とはいえ、コロシアイの動機とやらを見たり聞いたりするような心構えが出来ているのかと言えば、そうではないのだが。

 

「ま、見てみよう。案外えろえろなビデオの可能性だってあるんだ」

「そんな可能性、いりませんっ」

 

 愛想笑いを漏らしながら、私は自分の名前が書かれたDVDを手に取る。それに続いて舞園、苗木もDVDを段ボール箱から取り出した。同調圧力、だったっけ。したくなくって躊躇っていることも、誰かがすれば自ずとするものなのだなと今思う。

 

 視聴覚室というのは案外近かったらしく、玄関ホールの近くに位置していた。

 

「んー」

 

 こういうのはあんまり勝手が分からないのだけれど、ともかく席に着くことにした。動機ビデオと言うからには、内容はそれなりのものであると言うことは確かである。きっとそれは、他人に見られては困るものもあるかもしれない。そういった考えの元、私たちは離れた席に着いてDVDを閲覧することにした。

 

 しかし技術も進歩したものだ。こんな薄っぺらいディスク一枚に、何時間もの映像が収められていると言うのだから──いやなに、私は別にフィルムを使って映画が上映されていたりだとか、マグネシウムが燃焼する際の光をフラッシュにして写真を撮るような時代を生きた人間ではないのだが、しかし生まれながらに身の近くに置かれているDVDでも、素晴らしい現代の技術というものを感じるのだ。それに、最近は小指ほどの大きさのメモリーにより多くの情報が詰め込めると聞くから、今しがた私が例として出したフィルムだとかの例えに打って変わり、DVDが使われる時代が来るかもしれない。

 

 未だ見ることができていないDVDの内容を見るべく、ケースからディスクを取り出し、ひとまず手の上に乗せる。辺りを見回してみれば既に苗木と舞園はヘッドホンをつけており、映像を見始めているようであった。こういう時の速さを見ると、やはり現代っ子だなと思わさせられる。

 

 それに急かされるようにして私はデッキにDVDを挿入し、ヘッドホンを装着した。

 

 電源オン。

 

 しばらくの間砂嵐が画面に映し出されていたかと思うと、見覚えのある風景が広がった。

 

「確か……、ここは……」

 

 見覚えがあるのも当然だろう。むしろ咄嗟に名前が出てこなかったことがおかしい。そこは私がかつて通っていた中学校の校門であり、なおかつその場所には私の親友たちが立っていた。おじいちゃんとおばあちゃんもいた。

 

 一瞬、どうしてこんなところに……? と疑問に感じたが、この様子から察するに、どうやらこれは見送りのメッセージのようだ。希望ヶ峰学園に入学する事になった私に対する、メッセージ。

 私が今置かれている状況をこの映像に映っている中でどれほどの人が理解しているのだろうかと考えると、なんだか不思議な気持ちになった。

 

『やっほー! るがー、元気にしってるー?』

 

 この四日間笑みを浮かべることはあれども安息を得ることがなかった私は、友の声を聞き、自然と心を緩ませ弛ませ、強張りが解けていったように思えた。。手を振ったりだとか、変に飛び跳ねたりだとかをしている友を見ると、なんだか和む。

 スパッツが見えてるぞ、よし、いいぞもっとやれ。

 

 その動機ビデオの内容はあまりに日常的で、動機と名を付けるにはあまりにおざなりなように感じる。もしかしてモノクマはビデオの内容を間違えたのかな? このうっかり熊め。

 

 モノクマに対し茶目っ気を感じていたのもつかの間、突然映像の雰囲気が変わったかと思えば、唐突に画面がプツリと暗転した。電源が落ちてしまったのだろうかとデッキを見るが、再生時間は未だに止まらず秒を刻み続けている。

 

「……不良品か?」

 

 溜息がちにそう言い、頬を膨らませた自分が映り込んでいる黒い画面に目を落とす。そうしていると、再度明かりが付いた。むむ、やはり不良品なのだろうか……。

 一度、違う席に移って見直そうかと思いはしたものの、始まり出したので──続きが始まったので、それは辞めにした。……が、

 

「……なっ!」

 

 続き──と言うには、繋がりがないと言うか、おかしなものであった。先程飛んだり跳ねたりしていた友の姿は何処(いずこ)へ。背景として存在していた我が母校は、ガラスが割れていたり、門に有刺鉄線が絡ませてあったりと、何かあったのではないだろうかと心配にさせられるような雰囲気を帯びている。端の方に見える赤いものが、私の想像し得るものでないことを祈るばかりだ。

 そして、まるでテレビのコメディ番組を彷彿とさせるような演出により促されるコロシアイ──

 そこで、映像は途切れた──

 

 この時点で、心に一つとして不安がないというのは嘘になるだろう。しかし、どこかに大丈夫だろうという彼女たちに対する謎の信頼が存在した。何を根拠にそう思ったのか──それは不明だ。

 

 深く、そして嘆くような息を吐き、私はヘッドセットを外す。……その瞬間だ。

 

 不安と恐怖が入り混じったような悲鳴が聞こえたかと思えば、私の隣を舞園が走り抜け、そして視聴覚室を飛び出していったのだ。それに困惑し視聴覚室全体を見渡せば、舞園を追いかけるようにして走る苗木がいた。

 

「……っ、舞園さんが、ビデオを見て、ああなっちゃって!」

 

 そう言い、苗木は視聴覚室の扉を開けた。

 

「それは大変だ! 手分けして探そうっ」

 

 私は寄宿舎の方を。苗木は視聴覚室のある方を探すことになった。

 しかし、悲鳴を上げてしまうほどの内容……。私の動機ビデオはそうさせるまでの効力はなかったが、しかし、舞園に対しては動機ビデオとしての効力を遺憾なく発揮していたようだ。あのような彼女の取り乱した姿を見るのは、初めてである。……とっても、心配に思えてきた。

 

 コロシアイの引き金として用意されたDVDな訳だから、舞園がなにか不審な行動を起こしてもおかしくない──そう考えると、苗木の身に何かが起こってしまうのではないかという焦りを心に覚えさせられるが、しかしあいつも男だ。舞園もいくらか鍛えているとは言え女子なわけだし、いざ殺さんと襲いかかられたと言えども大丈夫だろう……大丈夫か?

 ともかく、寄宿舎がある方の棟に舞園はいなかった。鍵のかかった個室にいる可能性も少なくないため絶対にいないとは断言しきれないのだが、焼却炉や食堂、寄宿舎の廊下などに舞園の姿は見えなかった。

 

 となると、苗木の方か──

 

 私はそう思い、早めの駆け足で向かう。しかしどこにいるのかは分からないため、私は片っ端から教室やらを開けることになるのだが──

 かなり序盤で彼らを発見することとなった。しかし、ただ、なんとも声をかけづらい雰囲気である。

 

 泣きじゃくる舞園に、それを慰める苗木。

 私が教室の扉を開け中に入ったときには、既にそうなっていた。大体なにがあったのかを想像するのはあまりに容易いことである。

 

「…………」

 

 私はその二人を抱えるようにして、後ろから手を回してやる。

 二人の鼓動と、肩で息をする様子が腕を通じて伝わってきた。

 

「大丈夫だよ、ボクたちが付いてるさ」

 

 そう、舞園に語りかける苗木の言葉に、私はただ頷くばかりであった。




同級生からのメッセージというときに、私は日傘星雨のことを思い出したのですが、宵物語にて日傘星雨のルビが(せいう)ではなく(ほしあめ)となっていたりしました。結構この話は有名?で、物語シリーズ好きなネットの友達からも「なんかルビ違うかったね!」と言われたりしました。

元から存在する(せいう)のルビが正しい!だったり、後から出てきたため最新版である(ほしあめ)が正しい!という意見もあるのですが、個人的にはどちらも語感としては好きですし、どちらでも好きなことには変わりないので、日傘星雨名前のルビによって人格が変わる二重人格者説を推していきたいと思います。


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007 (非)日常編

 命が燃え尽きる色は青色だとどこかで聞いたことがある。青色というと、信号機の青色ではなく空色の青色なのである。まさしくブルーな感じという言葉が死に関して益々お似合いになってしまうのだが、「灯滅せんとして光を増す」──という昔からの言葉が、科学的な裏付けをされたことに、私としては驚きを感じつつもあった。なんでも、その青色の光は死ぬ直前に勢いを増すらしい──まあこれは話を聞いた時の受け売りだが。その聞いた話というのが、夕方によくやっているようなニュースか、それともインターネットニュースか、もしくは部活の後輩が話しているのを耳にしただけなのかはハッキリと覚えていないのだが……どういった経由でその情報を知ろうとも、死の間際に、最後の力振り絞るようにして細胞が発する色は青色なのだ。新聞で聞いたから黄色、漫画で知ったから緑色──というわけではなく、どんな理由があれ必ず青色。

 それは当然のことであり、また同時にそうでなければならないことでもあるのだ。

 情報源によって話が変わって来ると、混乱するだろう?

 一々情報が変わってちゃあ、面倒なことになる。それこそ、今日も世界を駆け巡り異常存在を確保、収容、保護している財団になんとかされてしまいそうなのだが……今のところ、その問題はない。むしろ問題があるとすればこの左腕か。なんとかなるなら、なんとかして欲しいものではあるが。

 

 今日も今日とて、私は起床するとまず左腕に包帯を巻いていた。その巻くという動作こそ手馴れたものではあるが、しかし自分の左腕にこのような異形の存在があることに慣れることが出来るわけがなかった。慣れることはなかったが、見慣れることはできていた。不思議なものだ。私の前世は左腕がこんな感じだったりしたのだろうか?

 朝起きるとこの左腕を目にするのが当然のように感じるので、私はついに頭がどうにかしたんじゃないかと疑いたくなったが、真偽をはっきりしてくれる人間はこの施設内に居なさそうだ。超高校級のカウンセラーなんていないもんな……あるいはあの彼女なら、可能性も捨てきれないわけのだけれど。

 

 軽いストレッチをしていると、朝時間を迎えるアナウンスが流れた。なんだか様子が変な気がしたが、ま、いつもの事だ。

 

 身支度を済ませ、私は駆けるようにして部屋を飛び出す。すると、丁度同じタイミングに部屋から出てきた苗木がいたため、私は急ブレーキをかけて彼の前へと勢いよく飛び出した。

 

「っと、やあ、おはよう! 神原駿河。得意技はスーパースライドだ!」

TA(タイムアタック)の技を使わないで……」

「得意技はフォワードエンドレススーパースライドだ!」

「なんだか名前が長いよ!」

「得意技はZスラ……」

「それはもう人間技じゃないよ!」

 

 閑話休題。

 

「ともかくおはよう、苗木」

「う、うん。おはよう神原さん」

「得意技はアナロ……」

「もういいよっ、もういいっ」

 

 苗木は焦り気味にそう言った。あまり興味がないのだろうか……。

 まあ無理に押し付ける意味もない。人に嫌がらせをするほど、私は性格を複雑かつややこしい方向には拗らせちゃいないのだ。これでも昔は部活で先輩をしていたのだし、そこら辺の「わきまえ」というものはしっかりしてあると自負している。

 そういえば小学生の頃、責任や負い目を感じているということを自負していると言うのだと勘違いしてしまっていた時期があって、悪いことをしてしまい先生からお叱りを受けた際、悪いことをしてしまったことを反省していますか? と尋ねられた時に胸を張って「自負している!」と言ってしまったことがあった。

 凄く叱られた。

 

「そういえば、神原さん。舞園さんはまだ来てないみたいだね」

「ああ、そういえばそうだな。きっとまだ部屋にいるのだろう。女の子というものは支度に時間をかけるものだぞ」

「へえ……神原さんも、朝は支度に時間をかける方?」

 

 そう尋ねる苗木に、私は少し悩むような様子を見せながらこう答えた。

 

「そうだな……、まあ、かける方だとは思うぞ。まず朝は入念なストレッチから始まる」

「へえ、なんだかスポーツ選手って感じだね……、ああ、バスケットボール選手なんだよね、神原さんは」

「ああ。まあな。そういう苗木こそ、幸運、だったっけか」

 

 私がそう言うと、苗木は表情を曇らせた。

 幸運という才能に負い目でもあるのだろうか。

 自負すればいいのに。

 

「いやあ……ボクなんてたまたま偶然希望ヶ峰学園に入学できただけで、もうそれだけで一生分の運を使い果たしちゃって……それで、こんな目に合ってるんだから、幸運というより、不幸だよ」

「アンラッキーボーイか、なんだか可愛らしいな」

「どこが?!」

「ボーイというところが凄く良い」

「アンラッキーなところは違うんだね」

 

 呆れたような物言いをする苗木に対し、そんなことはないぞ、と私は強めの口調で言った。

 

「不幸だって、超高校級並みに不幸なら、それは才能だ。それに苗木だってきっと、才能を持っているはず」

「例えば……?」

「んむむ……まだ私は苗木と出会ってから一週間も経っていないんだ。だから、まだ分からない。でもきっと、必ず、これから見つける。──誰だって、どこか秀でた部分を持っているものなのだ」

「そっか……いやでも、神原サンは凄いよ。ボクなんかとは全然違う」

「いいや、そんなに違わないぞ。今の私と苗木の違いは、自分のできることを見つけているか否かだと思う」

 

 私はバスケットボールを見つけた──苗木は、なにを見つけるんだろうな。

 

 そうは言っても、苗木は影の差したような表情を変えることはなかった。しかし、頑張ってみるよという言葉を口にしてくれた。

 

「ああ、頑張ってくれ。何事もまず行動だ!」

 

 そう言い力強く苗木の背中を叩いてやる。苗木は前屈に倒れそうになりながらも体勢を保ち、苦笑いを浮かべていた。

 

「よし、とりあえず舞園……って、そういえば。お前はさっき、舞園の部屋から出て来てなかったか……?」

 

 私の部屋は廊下のちょうど突き当たりにあるため、確かなことは言えないのだが、よく考えてみれば苗木は奥から二番目ではなく、三番目の部屋から出て来たように見えた。今まで気に留めていなかったが、しかし一度気になると収まりがつかない。

 不審そうな顔をしている私を見てか、慌てて弁解するようにして苗木はこう言った。

 

「どうも舞園さんの部屋に不審者が来たらしくってね──来たっていうより、扉を乱暴に叩いたらしいんだけど。で、今夜限りで部屋を交換して欲しいって言われてさ」

 

 ふうん……そんなことが。

 もともと知り合いだったということもあってか、私と二人。彼ら二人の関係性の違いは明らかなものになっている。それを寂しいと思うことはあれども、しかし悲しいと思うことはない。お前は何様だと言われかねないが、舞園が誰かを必要としているとき、苗木が側に立ってやれるという関係性が生まれていることに、私はほっとしている。

 昨日だってあんなことがあったし。それにこんな状況だ。舞園にとっては非常に心強いことだろう。

 

「じゃあ、苗木の部屋に舞園がいるわけか」

 

 頷く苗木を尻目に、私は無機質なインターホンのボタンを押そうとする。しかし、そこで気付くことがあった。

 

「ん? 苗木、ネームプレートが入れ替わってやしないか?」

「あ……本当だ、せっかく部屋を交換したのに、ネームプレートが入れ替わってる……」

 

 不思議に思いつつ、インターホンを押せば安っぽい音だけが廊下を木霊(こだま)する。少し待ったものの反応がないため、ノックをしてみたがそれでも反応はない。

 

「……んー?」

「いない、のかな? もしかしたらもう食堂に行ってるのかも」

「そうかもしれない」

 

 気紛れにインターホンをもう一度押すが、先ほどと同じように、廊下に残響するだけだった。

 

「…………」

「行こっか」

「いや、ちょっと待て」

 

 私はそう言い、ドアノブに手をかける。すると抵抗なくそれは下がり、いとも容易(たやす)く扉は開いた。どんよりとした重苦しい雰囲気が頬を撫でる。自然と、体が強張って行くのが分かった。それは苗木も同様であり、空気の線がピンと張っている。

 

 (りき)む手で扉を開ける。すると──

 

 ──刀傷だらけの朽ち果てた部屋が、そこには存在していた。

 

「っ!」

 

 つい先日、苗木を運び入れた際はなんら変わりのなかった部屋が、今はこうして荒れ果てた姿へと変貌している……。その異様な変貌ぶりに驚きを隠し得なかった。

 刀傷を一つ一つ眺めるようにしながら部屋の中へと入って行く。壁紙は(めく)れ、床には深い傷が付いている。ベッドも見るも無残な姿と化していて──異様な光景ではあるものの、しかし幸いなことに血溜まりであったり血飛沫といった決定的なものは見当たらなかった。

 

「神原さん、これって……いやっ、そんなわけがないっ!」

 

 そう言い、苗木は駆け足で部屋の奥へと入っていく。

 無理もないだろう。昨日まで自分が暮らしていた部屋が、こんなにも荒れ果てた様子に様変わりしてしまっているのだから──舞園が寝泊まりしていたというのなら、それはなおさらだ。

 ともかく、奥へと向かった苗木の背を追うようにして、私は部屋の様子を静かに伺った。

 

 見事までに荒れ果てていて、さらにその荒れ方が部屋自体が老化しているわけではなく人為的なものであるというのだから、何か一つ異様な感覚を覚えさせられる。新品のジーンズにダメージ加工を施すような、そんな感じ。もしくは生まれたての赤子の背中に古傷が残っているのを見た──といった感じだ。

 そんな違和感を疑わしく感じていると、シャワールームの方で苗木の足音が止まった。何かあったのだろうか──何かというのは、それこそ最悪な場合を除いた何かであってほしいのだが、しかしそんな願望が実現するほど、私と苗木の運は強くなかったらしい。

 ちょっと開け方が特殊なシャワールームの扉を開けた苗木が、非力な声を口から漏らす。

 

「……っっ!」

「どうした!」

 

 苗木の肩越しにシャワールームの中を覗く。私と、苗木の、二つの視線が交わりひしと見つめるその先には──

 ──あんまり、見たくない光景が広がっていた。

 

『ピンポンパンポーン! 死体が発見されました! オマエラ、体育館に集合してください!』




夏も終わりですね、コンビニでおでんが売られてたらしいです。


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008 非日常編

 人間の死体を見たことがない、と言えば嘘になるだろうか。

 それは不幸な事故だった。なんとも不憫(ふびん)で不運な終わり方だった。詳しいことは覚えていない──一体、何年前の話だろう。幼いながらにして両親を失うという経験をした私ではあるが、しかしその時よりも、バスルームで冷たくなっていた舞園の死の方が、今は衝撃的に思えていた。そう思う自分の心の内を俯瞰(ふかん)から見てみて、いくら衝撃的で、人生に深く関わっているものであっても、記憶というものは風化し色()せることがあるのだと改めて実感させられる。

 赤の他人とはいえ、昨日まで机を囲み話をしていた人が死んでいるというのだから──しかもさらにそれに付け加えてその亡骸を発見してしまったというのだから……複雑に、心の中で泥のように渦巻きスパークする感情は、両親の死を経て感じたものをも軽く凌駕している。顔もよく覚えていないような血の繋がった人間と、昨日まで笑い合っていた赤の他人。後者の方がより衝撃的だという感想を述べることは、薄情というものだろうか?

 

 まあ、あの頃の私の精神年齢があまりにも幼かったということも関与しているだろうが。

 

 両親をおじいちゃんおばあちゃんに置き換えてみるとどうだろうか。想像してみると、それはそれはなんとも泣きたくなるような心境になった。

 

 不謹慎不謹慎。

 世の中言葉狩りだのなんだの言われているが、個人的には震災があった日でもあえて明るく振舞って行きたいものだ。明るく、尊み、偲ぶことが必要だと思う。

 

 私はそこそこ図太い人間だと思う。精神的に強いというか、タフネスというか。並大抵のグロ画像を突然見せられたとしても、女々しい悲鳴なんて上げやしないんじゃないかって、思うのだ。そりゃまあ驚きはするけれど、一般常識的にいう(たくま)しい部類に入るのではないだろうか。先輩は淡白でもいい、わくましく育ってくれればとおばあちゃんによく言われたらしいが、私は逞しく生きる。

 その点、苗木は小動物のようなか弱さであった(体格的にも)。苗木は舞園の死体を見たその時から、精神的に参っているというか、グロッキーな雰囲気をどんよりと吐き出すようにして全身から醸し出していた。

 

 こういう時に慰めてやるのが、友達っていうものだろう。

 私はそう思いはしたけれど、しかし死に直面した人間に対してどう接すれば良いのかは、私の理解に及ぶ範囲内ではない。

 

 ……とりあえず、やってみるだけやってみよう。何事も挑戦なのだ。当たって砕けろ!

 

「……苗木、その、なんだ。きっと、次がある。その時頑張ればいい」

「次なんてないよ……」

 

 そうだった!

 

「ブ、ブレスレット! ブレスレットだぞ、苗木!」

「ブレスレット?」

「ああそうだ、ブレスレットだ! 色々辛いかもしれないが、ここで終わりってわけじゃないんだぞ。この先も、モノクマが体育館に呼び出したってことはまだ何かがあるんだ。それを乗り越えるためにもまずはブレスレットだ!」

 

 何が言いたいのか分からないといった目線を、苗木はこちらに向ける。えっ、なにか変なことを言っただろうか? ブレスレットって、深呼吸っていう意味じゃないのか?

 私がそう悩んでいる合間に全員が体育館に揃ったらしく、満を持して、覚束ない足取りでモノクマが舞台袖から登場した。

 

「いやぁ、デスクワークっていうのも辛いもんだね。腰のオイルが切れちゃって……」

 

 あのまん丸な寸胴ボディのどこらへんが腰なのかはよく分からないけど、知ったところでどうとでもないような情報である。

 

「さて! いやあもう、やっと始まったね……。ボクもう、このままコロシアイが始まらないんじゃないかって、PTAや教育委員会とかに教師失格とかなんとか言われて解雇されるんじゃないかって、 こんなんじゃ学級崩壊もあり得ちゃいそうだなあって、もう夜も眠れなかったから、殺人が起きて今夜はぐっすり眠れそうだよ」

 

 満足げな表情でそう言うと、モノクマは教壇に置かれた大きな椅子に悠然と腰を下ろす(下ろす腰がどこにあるのかは前述の通り知らないが)。

 そんな明るいロボットの態度とは対照的に、私たち人間の間に流れている雰囲気というものはとてもとても緊張に満ちていた。咳をすることすらも憚られるような、そんな静寂に満ちている。

 そんな重苦しい雰囲気を鋭利なナイフで切り裂くようにして発言したのは、私の隣にいる苗木であった。

 

「……お前が、舞園さんを、殺したんだろ──モノクマッ!」

 

 怒りからか、苗木の小さく華奢な肩は震えていた。声色も普段とは違っている。

 

「やだなあ、苗木クン。ボクが可愛い可愛いオマエラを殺すわけないじゃん。舞園さんを殺したのは、オマエラ十五人の中の誰かだよ」

 

 私たちの誰か──そんな言葉がモノクマの口から飛び出したとき、皆一様にお互いの顔を見合わせていた。不安な表情を浮かべる者もいれば、冷然とした態度をとる者もいる。全体的に見てみれば、まさに疑心暗鬼と形容するにふさわしい状態だ。

 

「ふざけるなッ!」

「やめろ苗木!」

 

 苗木は、今にもモノクマに飛びかかり喉笛をかっ切らんといった剣幕で足を一歩前へと踏み込んだ。それを食い止めるべく私は苗木のパーカーのフードを引っ張り力付くで彼の行進を止めた。

 後方からの急な衝撃で我を取り戻したのか、苗木はふとこちらを向いて、申し訳なさそうに目を下に落とした後、再度モノクマの方へと顔を向けた。そんな私達のやり取りから何も生まれやしなかったことを残念に思ったからだろうか、モノクマは嘆くように息を吐いてから、再度話を始める。

 

「今頃舞園さんを殺したクロは、やったやった! 卒業だ! って、ホッとしてるんじゃないかってボクは思うんだけど。流石に殺して終わり、殺されて終わりってだけじゃあ、色々とツマンナイよね! 格闘漫画なら始まりのゴングが鳴って終了、ラブコメなら目と目が合いトキめいたところで終了! 打ち切り漫画じゃないんだしさぁ」

 

 不快な笑い声を声高らかに叫びながら、モノクマは話を続ける。

 

「……と、いうことで。オマエラも同級生を殺される──ってだけじゃあ消化不良だろうから、生徒のことを第一に考える学園長の鑑であるボクが、犯人を糾弾する場を設けてあげようじゃない! その名も、学級裁判! まあ詳しいことは新しく追加された校則を見たら分かるんだけど、簡単に口頭で説明するとね、よくある推理ゲームと同じだよ。一定時間の間証拠を集めて──」

 

 モノクマの話なんてどうせロクでもないだろう。そう思った私は、懐から取り出した電子生徒手帳を開く。校則の所を確認してみると、確かに新たな校則が追加されていた。

 

『生徒内で殺人が起きた場合は、その一定時間後に、生徒全員参加が義務付けられる学級裁判が行われます。 』

『学級裁判で正しいクロを指摘した場合は、クロだけが処刑されます。』

『学級裁判で正しいクロを指摘できなかった場合は、クロだけが卒業となり、残りの生徒は全員処刑です。』

 

「なあ、モノクマ。この処刑っていうのは……」

「なに? 神原さん……ああ、それはね、そのまんまの意味だよ。最近はちょおっと手を出しただけで、やれ体罰だ、やれセクハラだなんてPTAとか保護者がうーるさいけど、モノクマ先生は熱血教師だから容赦はしないんだ」

 

 要は人を殺したのなら、死で償ってもらうってことだよ。

 

 そんなことを、モノクマは言った。

 ということは、残りの生徒は全員処刑ということは──それはつまり、そういうことなのだろう。考えてみなくても分かる話だが(なんせ処刑なんて言い方をしている。マリー・アントワネットよろしく十三階段を登った先にそそり立つギロチンが瞼の裏に浮かぶというものだ)、人というのは現実から目を背ける生き物のようで、見るからにわかるであろうその言葉の意味を理解してか──はたまたそのおどろおどろしさからか、騒めきの波紋が広がった。

 そして今更ではあるが──これが一つの嘘もない、ドッキリなんてそんなに甘くないコロシアイなのだと、心で思い知ったように感じる。初日の爆発(しか)り、今朝の舞園然り──どれもこれも、人の命に関わる問題ではあるが、頭でそれらを理解しているつもりであっても、幾日かの些細な平凡な日常要素が脳内を掻き乱し今自分が置かれている状況を必死にへいこらと誤魔化そうとしていたのではないだろうかと思う。

 愚かにも、目の前の事実から逃避する。一体私はいつから逃げるなんて手段を使う人間になってしまったのだろうか。自然と左拳に力がこもった。

 

「ともかく、御託を並べるのもいい加減にして──」

「待ってよ!」

 

 そう発言したのは、江ノ島盾子だった(ふふん、覚えてる覚えてる)。アバンギャルドな格好をしている彼女は、大きな膨らみを持つツインテールを後ろで揺らしながら、ズカズカと砂利道を進むようにモノクマの方へと一歩一歩近づいて行った。やがて目と鼻の先とも言える距離にまで近付くと、江ノ島はブレーン・クローをモノクマに決め込み、丁度水平に目線が届く位置まで持ち上げてから(握力あるなあ)、食い入るようにモノクマを睨み付け、言葉を繋げた。

 

「アタシさ、関係なくない? コロシアイとか、学級裁判とか、そんなかったるいことはもう飽き飽きだし、ウンザリなんだけど」

「ええ……でもね、江ノ島サンも大切な生徒の一人だから、参加してもらわないと」

「嫌だって、言ってんの」

「……、そうだねえ。じゃあ──」

 

 モノクマは若干口角を上げ、身を大きく動かし江ノ島の腕を振りほどく。地面へ足をつけるのと同時に、くわっと目を細めたかと思えば、両の腕を大きく広げてこう叫んだ。

 

「だったらボクを倒してからにするんだね!」

 

 幼稚園児のように拙い歩みで江ノ島に向かって行くモノクマに対し、呆れて物も言えないと言った風に溜息を吐く江ノ島。モノクマの動きはハエが止まってしまうのではないかと思えるほどに鈍く、そして捉えやすいものだった。

 

「これでいい?」

「ぎゃふん!」

 

 ハイヒールで地面に張り付けられたモノクマは、取っ組み合いで組み伏せられた小学生のように両手足をジタバタと動かしていた。いやまあ、そうなるだろうな……。と、今の私は思っていた。きっとその場にいる誰もが、そう思っていただろうが、しかし同時に、それだけで終わるはずがないとも思っていた。

 

「……江ノ島さん、確かにボクは倒されちゃったかもしれないけどね、世の中には暴力よりも強いものがあるんだよ。ペンは剣よりも強し、しかり、ね」

「は?」

「君を引き裂くのは簡単だが、ケバいギャルの血でみんなの体育館を汚すこともあるまいと思ってね」

「……はあ?」

「学園長に対する暴力行為は校則違反だよ! トラップカード発動! 『落とし穴』!」

 

 言うより早いか。唐突にモノクマが反応を示さなくなったかと思いきや、音もなく江ノ島が立っている位置の床が消え失せる。

 人という生き物は、大抵の場合、重力に縛られて生きている。己の自重を支えるものがなければそのまま下に落ちて行くもの。それは超高校級という肩書きを与えられている江ノ島盾子も例外ではない。

 江ノ島は、前触れもなく唐突に、ひゅうすとんといった軽快な擬音がつきそうなほどに脱力した雰囲気で、底知れぬ何処かへと落とされて行った。

 

「……っ!」

 

 彼女のものと思える悲鳴も段々と遠ざかって行き、落とし穴が素早く閉じられる頃にはなにも聞こえることはなかった。

 そんな様子を目の当たりにして、なんの感情も抱かないわけもなく、一部の女子からは恐怖に震えているような声が漏れ出していた。無理もない……私だって、それなりに性格の図太さを自負している私だって、絶句したのだから。

 

「ふう……」

 

 達成感を感じているのだろうか。モノクマはどこからともなく取り出した手ぬぐいでさっと額を拭うと、何事もなかったかのように話を続けた。

 

「えーっと……、なんだっけ? 昨年度の鮭の漁獲量の話だっけ?」



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009 非日常編

「えっと、神原さん、その……」

「皆まで言うな。それより苗木、今朝は色々とあってまだご飯を食べていないだろう。腹が減っては戦はできぬ──戦というにはいささか頭脳的ではあるし、それに楽しくご飯を食べている場合じゃないっていうのもよく分かってはいるのだが、しかし脳という器官は大量に栄養を消費するんだ。何か物を食べなくっちゃあ、推理もなにもできないぞ」

「はあ……」

 

 私はそう言いながら、多少困惑した態度を見せる苗木を横目に、厨房の戸棚や冷蔵庫やらから様々な食材をトレーに盛っていた。同じ部活の後輩や友だちが言うに、私は所謂(いわゆる)大食いの部類に入るらしく、よく「そんなに食べて太らないの?」と聞かれていたものだ。苗木も同じような内容を尋ねたそうにしてはいたが、しかし女子に対して大食らいだねとか体重を尋ねるなどの話をするのはデリカシーがないと判断したのだろうか、物言いたげに口を開けはしたものの、何も言うことは無かった。

 

「……これから他にも誰か来るの? 神原さん」

「さあ? どうかしたのか?」

 

 多少栄養バランスに偏りがあるのが否めないが(パン等)、しかしまあ背に腹は変えられない。腹を膨らませるためにはやはり食べなければならないだろう。

 トレーいっぱいの食材を前に、キチンと箸を持ち「いただきます」と食べ物に対し一礼をしてから食事を始めた。

 

 もぐもぐ。

 グルメ漫画ではないので味の感想は割愛。

 

「ささ、苗木も食べろ」

「うん……、いや、でもさ」

 

 苗木は、どこか気まずそうな表情をしている。無理もない──今朝、友達が死んでいて、さらに在ろう事か、苗木は舞園を殺した犯人なのではないかと疑われているのだ。

 自分が犯人なのではないかと、疑われる。

 ただでさえ、第一発見者という一番心身的なダメージを負いやすい立場であるというのに、にも関わらず、更にあろうことか犯人としての疑いをかけられてしまっているというのだから、苗木の精神的な疲労というものは計り知れなかった。

 第一発見者はいつもドラマなんかで犯人ではないかと疑われているのを観てはいたが──。

 こうなってしまった経緯をカップ麺よりも簡単に説明してしまうと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()が大きな原因らしい。というより、それだけが決め手と言えるだろう。モノクマが用意したモノクマファイルなるものによると、死亡時刻は午前一時半ごろ……夜時間ということもあり、苗木はアリバイを証明することが出来ていない。アリバイがないのは私たちも同じなのだけれども──しかし、そんなことが気にならないほどに、彼の疑わしさというものは鋼鉄よりも強固なものだった。

 

 私は苗木を信じている。

 そんな言葉ですら。いや──そんな言葉だからこそ、安っぽく聞こえるのだろう。

 

 そんな彼に対し、どのような言葉をかけるべきか。はたまた、かけないでおくことが最も最良の選択なのか。私は手をこまねき、食事という楽しむべき時間ですらも思い悩んでいた。

 

 ともかく、時間を過ごし巻き戻して考える。歯型のついたクロワッサンの歪な螺旋に視線を落とし、今朝の事を振り返る。

 

 超高校級のギャルという肩書きを持つ江ノ島盾子が、底知れぬ黒洞々とした穴に落下したのち、私たちはモノクマから『モノクマファイル』なるものをそれぞれ手渡された。なんでも、こういうことに不慣れな素人である私たちに対する最低限の配慮──ということらしいのだが、どうせならコロシアイ自体を無くすくらいの寛大な心を持っていてほしいものである。

 兎にも角にも、そのモノクマファイルには今回の事件におけるある程度の情報が記載されていた。文字通り、ある程度。私のようなズブの素人から見ても、あまり重要そうではない情報ばかりであった。

 それだけを見たところで、私には犯人が誰だとか、どういった経緯で舞園が殺害されたかなんて分かりっこなかったのだが、しかし苗木が犯人ではないということだけは、確かにこの心で感じることができた。

 

 アヤフヤで、オカルトチックな確信ではあるものの、私はそう感じつつあった。いや、そう思いたかったのかもしれない。そう思う自分で、あって欲しかったのかもしれない。

 

 ともかくそういう気持ちを、私は感じていた。

 

 トランプやら花札なんかをしていると自分の直感というものが疑わしくなってくるが、しかしこればかりはなんとも言えないほどに確信が持てた。

 証拠があるわけでもないし、苗木と夜中に一緒にいたというアリバイ証明ができるわけでもない。がしかし、苗木が人を殺すような人間ではないと──はっきりと言ってしまえば、人を殺すことができるような度胸も力もないのだと、私は思うのだ。苗木には失礼だけれども、しかし私はそう思っているのだ。

 

 けれども、いくら私が何かを思ったところでそれを皆が共感してくれるかといえば、それはNOだ。

 みんながみんな、苗木を疑心を抱いた目で見る。それを咎めるつもりはない──私だって、その立場だったかも知れない人間なのだ。一度だって苗木を疑わなかったかと、最初から一貫して信じ続けていたかと言われると、私はそれにYESと胸を張って答えることは出来ないだろう。

 でも、だからこそ、私は今の役が務まるのかも知れない。

 現在私たちが、捜査をしている他のみんなと別行動を取り、食堂で呑気に食事を摂っているのには訳があった。

 

 それはもちろん栄養補給という面もあるにはあるのだが、もう一つの大きな要因として、犯行現場からの苗木の隔離にあった。

 犯人は必ず現場に戻る──という言葉しかり、犯行現場に何かしらの証拠があった場合、それを最も疑わしい苗木が隠蔽する事を恐れての行動と言えるだろう。

 そのため、今苗木の部屋──犯行現場では、幾人かが捜査を行なっている。直接見に言ったわけではないのでよく分からないのだけれど、監視をつけた状態で部屋の調査をしているらしい。ある程度それを終えると私たちも調査することができるのだが……そこから何かを得ることができるのかどうかは、正直言って不安であった。

 

「神原さんは──」

 

 苗木は言う。

 

「神原さんは、舞園さんが死んでいるのを見て、どう思った?」

「どう、思った……か」

 

 私は口に入ったものを飲み込み、言葉を続けた。

 

「そう、だな。やっぱり見たときは衝撃的だったし、とてもとても、残念なことではあったけど、けど──」

「けど?」

「──いや、なにもない。なんにも、ないんだ。ただただその二つの気持ちが心の中で膨張するように、他の感情を圧迫するかのように存在していただけだ」

「……そっか。ちなみにボクはね、信じられないと思ったよ。そりゃあボクだって神原サンと同じように衝撃的だったし、残念だった。そして同時に思ってたんだよ──こんなのあっていいはずがないって、あの舞園さんが、死んでいいはずがないって──なにかの、悪い夢なんだって」

 

 小さくちぎったままのパンを指でつまんだまま、苗木は独り言のように言う。

 

「良い人はみんなすぐに死んでしまうっていうけど、こういうことを言うのかな」

 

 …………。

 

「そうなのかも、しれないな」

 

 良い人か。

 私が幼い頃に死んでしまった父と母は、はたして良い人だったのだろうか。良い人であったが(ゆえ)に、ああも早くに死んでしまったのだろうか。

 

 私はそんなことを思いながら、コップになみなみと注がれた牛乳を無理に胃へと流し込んだ。

 

「食事っていう気分ではないか」

「うん、まあね」

 

 皿の上に残る食材を強引にかき集めるようにして手元へと引き寄せ、それを口に放り込んでいく。

 やがて全てが胃の中に入った。満足感と同時に、やる気というものが少しだけ満ちた気がする。

 

「ごちそうさまだ。──よし、じゃあ苗木。私たちもそろそろ捜査を開始しよう。悲しんでばかりでは、落ち込んでばかりでは、舞園が一向に報われない」

 

 少し考え込むようにして(うつむ)いた後、苗木は前を見据えて「分かった、行こう。舞園さんのところへ」と言い、椅子から立ち上がる。

 

 食堂から舞園の部屋は目と鼻の先というほどに近いため、また既に校内はある程度探索していたため、道に迷うだなんていう初歩的なミスを犯すことはなかった。

 

 犯行現場の前へと到着すると、見計らったようにタイミングよく苗木の部屋から桑田が出てきた。

 

「おっ、苗木と神原か。ちょうど今、呼びに行くとこだったんだぜ。捜査してもいいってよ」

 

 そう言う桑田に軽く礼を言った後に、私たちは部屋へと入った。

 捜査の始まりだ。



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010 非日常編(捜査編)

 部屋に入ると、今朝とは違った雰囲気が感じ取れた。

 あの時はチャイムを鳴らしても返事がこないといった少しばかりの不安と、扉を開けたときには予想だにしていなかった部屋中に刻まれた刀傷に驚かされ、また気圧されていたのだが。今は既に舞園が死んでしまったという事実と大体の部屋の様子を知っていたため多少の心構えを持って部屋に入れた。そのおかげか、部屋に入り怯えてしまうということはさほどなかった。

 また大神や大和田といった複数人の人間が部屋にいるため、先ほども言った通り大きく雰囲気が違っている。

 しかし、だけれども、妙なおどろおどろしさを感じずにはいられない。いくら知っていようと、いくら人がいようと、非日常的な異様な光景に変わりはない。

 

 既に部屋にいた人たちは扉を開ける音で私たちに気付いたらしく、一番手前側にいた大和田が話しかけてきた。

 

「おう、早かったな。桑田の奴走って行ったのか? いや、だとしても早えな」

「丁度今、そこで会ったんだ」

「そうか、そりゃ早えわけだ。ナイスタイミングって感じだ」

 

 そう言うと、大和田は私たちから視線を外し──いや、監視という名目上警戒心自体は怠っていないだろう。視線を外すというよりかは、会話の矛先を私たちからずらしたと言うべきだ──おもむろにその筋肉質な腕を組んだ。

 

 苗木はその様子を見て若干怯えたように背を曲げつつ(殴られたことを思い出しているのだろうか)部屋の奥の方へと向かった。

 

 部屋の中央においても傷は存在しており、相当激しい争いがあったということが安易に想像された。そして何よりも目を引くものは、見覚えがある金色に光る模擬刀であった。

 

「これは……」

 

 そう、あれは三日ほど前。舞園が謎のノックに怯えていたため、護身のために何かしらの防衛手段が欲しいとのことで校内を探し回った結果見つかった代物がこれである。模擬刀ということで刃はつぶされているため実際に何かが切れるというわけではなく、また金箔を全体的に満遍(まんべん)なく塗られていたため素手で持ってしまうと手が汚れてしまうといった見た目だけのものではあるが、まあ、ただの棒切れよりかは重さもあるし、一応は刀の形を取っているのだから、無いよりはマシという気安め程度での存在であった。

 結果から言ってしまうと舞園はあえなく死んでしまったし、それにこうまでも金箔が剥がれてしまえば、美術品としての価値も無くなっていることだろうから、わざわざこの模擬刀を選ぶことはあまり意味がなかったのかもしれないが……。

 でもまあ、心の支えになるという点では役目を果たしたと言えよう。あくまでも、そういうことにしておこう。

 

 しかし──。

 

「……苗木、ここはお前の部屋だろう? なぜ、舞園が持っていたはずの模擬刀がお前の部屋にあるんだ?」

「ああ……、それはね、ほら。今朝話したと思うんだけど、僕と舞園さんは部屋を交換してたんだよ。その時に、護身用だからって、舞園さん。模擬刀を僕の部屋に持って行ってたんだ」

「ふうん……、そういえば、そんなことを言っていた気がする」

「気がするって……。こんな話もしたじゃないか、ネームプレートがなぜだか入れ替わってるっていう話」

「あー、確かに。していたな」

 

 少し部屋を見渡してみると、苗木の名前が彫り込まれているキーホルダー付きの鍵が落ちていた。あれを調べて舞園の指紋が出てくれば良いのだが、しかしそんな事ができるほど私は器用じゃない。もはや指紋云々は器用不器用どうこうではなく知識の問題な気がしなくもないが、生憎この場面で活用できる知識など持ち合わせていない。

 苗木の部屋を入れ替えていたという話の真偽は不明であるものの、しかしそのうち分かることだろう。何でもかんでも鵜呑みにするのは良くないので、今は仮定という立ち位置に置いておく。

 

「こっちに(さや)が落ちてるよ」

 

 そう言う苗木の方に視線を向けると、確かにそこには模擬刀の鞘だけが抜き身とは別に落ちていた。

 

「部屋の壁や床と同様に、切り傷が付いているな」

 

 鞘にはなにかしらの刃物を斬りつけたような跡が残っていた。モノクマファイルによると舞園の体には刃物が刺さっていると記載されていたため、きっとそれによって付けられたものだろう。もし模擬刀で誰かに襲いかかるというのであればこのような傷はきっと抜き身の方につくことだろうから、鞘の方にこの傷がつけられている状況から鑑みるに、やはりこの模擬刀は舞園が自分を守るために使用したのだという考えが、より、強固なものとなった。

 

 それと同時に、なにもしてやれなかったという自責の念がどろりとした液体のようにして心に(まと)わり付く。舞園がこの部屋で犯人と鉢合わせてしまっているとき、私は部屋で呑気に眠ってしまっていたのだから。情けないったらありゃしない。

 何かしてやれることがなかっただろうかと考えるが、時すでに遅しであった。

 

 私が鞘を眺めている間、先に苗木は舞園の様子を見にいったらしく、シャワールームの方から彼の話し声が聞こえた。独り言、というわけではなく、誰かと話しているようだった──この声は、確か霧切という女子のものだろう。

 

 三人でシャワールームというのは少し窮屈なため、彼らの肩の間から覗くようにして舞園の様子を伺う。

 今朝はあまりよく見てなかったのだけど、確かに腹部に何かが刺さっているようだ。あれは……包丁だろうか。

 

「あっ、神原サン」

「んむ。どうだ、舞園の様子は」

 

 私がそう問いかけると、苗木は舞園の傍で屈み込み、拙い言葉遣いで今分かっていることを話してくれた。

 

「え……っと、まず、モノクマファイルにもあったとおり腹部に刺さっている刃物が死因みたいだね。それと、右手首が骨折していて、その箇所だけキラキラと光る塗料みたいなものが付着していたよ。あとは……左手の人差し指にだけ、血がついてたんだ」

 

 ほら、と、苗木は先ほど説明した点を端的に述べながらそれらの位置を指で示した。

 

「そうそう、最後に言った人差し指の血痕なんだけど……」

 

 そう言って苗木が指差したのは、舞園の後ろの方だ。舞園の影に隠れてよく見えなかったため覗き込んでみると、そこには血で書かれたと思われる数字があった。どうやら壁にもたれた体勢で書かれたようだ。

 

「11037。多分、ダイイングメッセージなんじゃないかって──全部、霧切さんの受け売りなんだけどさ」

 

 ダイイングメッセージ……。ドラマや漫画なんかで目にする機会こそ多いものの、こうして実際に目の当たりにしてみると、凄まじい何かを感じる。死を間際にした人間の思いが込められているからというか、命の瀬戸際に残した最後の言葉だからというか。ただ単に血文字であることに畏怖の感情を覚えているだけなのかもしれないのだけど。

 

 壁にもたれかかりながら舞園を眺めていた霧切は、ふと我に返ったかのようにこちらを向く。そして死体を目の前にしていながらも物怖じせず、淡々とした口調でこう言った。

 

「あなた達に聞いておきたいことと、話しておきたいことがあるんだけど……良いかしら?」

 

 そう尋ねると霧切は、是非を聞く前にシャワールームを出た。その背を追うようにし苗木、そして私の順番で外に出る。その時、後ろ手でシャワールームの扉を閉めようとした時に気付いた。入るときは開いたままだったため気付かなかった、ある点に。

 

「ん? 苗木、ドアノブが外れかかっているぞ」

「えっ? うそ……あ、ホントだ、ネジが外れちゃってる」

 

 先日、苗木の部屋に入った時には特に違和感を覚えなかったためその時は恐らく正常だったと思われる扉のネジが、片側だけ不自然に外れていた。ネジが緩んで──ということにしちゃあ、そのもう片方にあるネジは全く緩んだ様子はない。

 ということは、何か意図的な目的でネジが外されたというのだろうか。

 

「このドア建て付けが悪いから、無理やり開けようとしたのかな……」

「建て付けが悪い?」

「うん、超高校級の幸運なんていう肩書きを持ってるのに、なんでか知らないけどボクの部屋だけシャワールームの建て付けが最初から悪くってね。ね、神原さん」

「そうだったな。私と苗木、そして舞園の三人でいた時にその話をしたのを覚えているぞ」

「……ドアの建て付けが、ねえ」

 

 霧切は口元へと手を持って行き、考え込むようにしてドアノブを少し見ると、「苗木君、工具セットとかって持ってるの?」と尋ねた。どうやら苗木はそれを持っていたらしく、私の部屋でいうと裁縫セットが入ってあった引き出しを開け、まだ封がされてある未使用の工具セットを取り出しこちらへ持ってきた。

 

「あるけど、これがどうかしたの?」

「いえ……ちょっとね。それより、聞きたいことがあるから、こっちに来て」

 

 そう言い、霧切は言葉を続ける。

 

「苗木君、部屋はマメに掃除する方?」

「え、掃除? あんまり、しないかな……全くっていうわけじゃないけど、でも日に何回とかは流石に。多くても一日一回、整理整頓するくらい」

「そう……、これを見て欲しいんだけど」

 

 そう言い霧切は、苗木の部屋に備え付けられていた粘着テープクリーナーを取り出した。粘着テープクリーナー、コロコロという愛称がとても馴染み深い。幼い頃、あれに髪の毛を絡ませてしまったことがあるのを思い出した……ひょっとして私が短髪なのはあれが原因……? 絡まってしまった際に取るのが困難で髪を大胆に切った結果、そのままその髪型が定着したとか……? いや、流石にそれは違うか。

 

「テープクリーナーがどうかしたの?」

「あなた、これを使ったことはある?」

「まあ家にいたときはあるけど……ここに来てから使ったことはない、かな」

「それはおかしいはずよ。だって、明らかに大きくテープの部分が減っているもの」

「あっ、本当だ」

 

 苗木の部屋に備え付けてあったそれは、量が一回りか二回りほどロールの部分が細くなっていた。見ただけで、減っているということがはっきりと分かるほどに。ちょっとやそっと使った程度でああはならないだろう。

 

「それに、あなた達が来る前に調べたんだけど、この部屋にはほとんど髪が落ちていなかったわ」

「えっ、調べたの?」

「ええ。床やベッドの上にも、毛髪はほとんど見つからなかった。普通に生活しているなら──それにもう一週間近く暮らしているというのに、毛がほとんど落ちていないなんて変だと思わない?」

「それもそうだな。舞園が酷く潔癖ならまだ頷けるが、そんな様子は今まで見たことがない」

 

 流石に地を這ってまで毛を探す気にはなれなかったが、つまりはコロコロが何か証拠を隠蔽するために使用されたのではないかということだろう。犯人がなにかパラパラとしたようなものものを振りまいてしまっただとか……それこそ犯人は、毛の色や生来生まれ持った髪質が特徴的で、一目見ただけで誰だかわかってしまうような、そんな人間なのかもしれない。

 

「そ、ありがとう。私はもう少しこの部屋を捜査するつもりだけど、あなた達は他のところも捜査した方がいいんじゃない?」

「それもそうだな。苗木、一緒に行くか?」

「うん、お願いするよ」

 

 部屋を出る際、私は舞園をもう一度この目で見ておこうとはとても思えなかった。むしろ、避けていたように思う。

 怖かったのだろうか。

 分からない。

 後ろめたい気持ちがあったのかもしれない。



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011 非日常編(捜査編)

 少し長くなってしまったので二つに分けています。
 先ほど投稿した一つ前の話から切り離して投稿しているため、そちらを先にお読みください。


 ひとまず私たちは犯行に使われた凶器の出所を調べることにした。包丁だというのだから、それはきっと厨房だろう。さっきまで私たちがいたところではあるものの、しかし包丁を使用するような料理は作らなかったため(料理と呼んでいいものなのかどうか分からないものばかり食べていた)無くなってしまっていることに気がつかなかったが、道中思い返してみれば確かに、私はあの舞園の腹部に深々と突き刺さっていた包丁を使用した記憶が微かながらに残っていた。

 料理はあまり得意とは言えないのだが、しかしそれでも希望ヶ峰学園がある都心部へと上京するにあたりある程度のスキルは身につけて来た。それなりに、不恰好ではあるものの、簡単な料理なら出来る程度に成長したつもりだ。そのため私はこの学園に来てからも拙い料理の腕が鈍らないようにと出来る限りは手料理を口にするようにしていたのだが、これから先殺人に使われた包丁で料理することがあるかもしれないと考えると、気が引けてしまう。

 使わなければいい話なのだが、うっかりというのもあり得ないことではない。

 

 食堂に着けば、真っ先に厨房の方へと向かった。食堂の方には先客がいたが、特に用はない。包丁があったと記憶している場所を覗いてみると……やはり、包丁が一本不自然に無くなっていた。誰かが使用中というわけでも、また台所に放置しっぱなしというわけでもないようであったため、やはり舞園の腹部に刺さっていた包丁はこの食堂から持ち出されたものらしい。

 

 しかし、とはいえ。

 

 包丁が食堂から持ち出されたということが分かったところで、それが犯人の正体につながるかと問われれば、首を横に振るしかない。何かを期待していたわけではないが、しかし特にこれといったものが見つからなかったというのは、残念に思えてしまうものである。

 

 少し肩を落としつつも、私たちは厨房を出た。すると食堂で一人、黙々と食事をしている一人の女子がいた。まるで今発見したかのような表現しているが、彼女の存在は先程から知ってはいた。ただ話しかけなかったし話しかけられなかっただけ。

 私たちがここに到着する前からいたのだろう、面前に置かれた皿半分ほどしか食べ物は乗っておらず、食べたと考えられる。口に食べ物を運ぶ勢いは凄まじく、すぐにでも食べ尽くしてしまいそうなほどだ。それに私たちが食堂を後にして間もないのだから、なかなかどうしていい食べっぷりである。

 

 確かあいつは──朝日奈か、先日ランドリーで会った記憶が真新しい。

 

 食べることに集中していてこちらに気がついていないらしく、後ろから声をかけることによりようやく私たちに気がついたようで、驚きからか食べていたものを喉に詰まらせ慌てている。

 

「えほっ、あっくほっ。……あ、危なかったー!」

 

 元気よく声を出した朝日奈は、コップを机に置き、「何か用かな?」と後ろを振り返りながら言った。

 

 朝日奈は苗木を見たとき、少しだけ口元を歪ませた。

 彼女もきっと、苗木が犯人ではないだろうかと少なからず疑いをかけているのだろう。

 そのことについて私は別に口を出そうとは思わない、責めるつもりもない。しかしもし朝日奈のその些細な仕草に苗木が気付いていたらと思うと──何様かと思われるかもしれないが、彼の心境が心配になった。

 友を亡くし、あろうことかその殺人事件の犯人ではないかと疑われる──。

 あまりにも耐え難い苦痛だろう。

 

 ともかく、上から見下すように質問するものなんだかなと思い、席に腰を落ち着かせて話すことにした。その際一緒に食べるかと勧められたのだが、既にご飯を食べていたため丁重にお断りさせていただく。

 

「厨房の包丁が一本無くなっていたんだけど、何か知らないか?」

 

 そう疑問を投げかけられ、朝日奈は咀嚼をしながら何かを思い出すように指でこめかみの辺りを押さえ、そして考えている。

 ふと表情が明るくなったかと思えば、口に含んでいたものを飲み込み語り出した。

 

「そういえば昨日、食堂に来た時には全部あったんだけどね。包丁。でも、お皿とか片付ける時に見てみたら一本だけ無かったような……」

「それは本当か?」

「うん、そうだね、絶対に無くなってた! 不自然に歯抜けみたいな感じで無くなってたから印象的だったんだ。その時はさくらちゃんも一緒にいたから、なんなら聞いてみたらどうかな?」

 

 さくらちゃん……? ひょっとして、大神のことだろうか。確かに、下の名前はさくらだった気がするが……さくらちゃん。

 

「あっ、なんか今変な顔したでしょ! 良いじゃん! さくらちゃんはさくらちゃんだよっ」

「あはは……」

「まあ、確かに、さくらちゃんであるのに間違いはないのだがな……、その、ギャップというか」

「ギャップ? ああ……さくらちゃん、ガタイいいからね」

 

 ガタイがいいどころの話じゃないような気がするが……。

 あの大神にも、幼い頃というものが存在していたのだろうか。少女と呼ばれるような時期が存在したのだろうか。……言っちゃあ悪いが、想像がつかない。

 

「その、包丁があった時から無くなったと気付いた時まで。えっと、大神と一緒に食堂にいたのか?」

「……うん、まあね。今は一人だけど、こんな感じにおしゃべりしながらオヤツ食べてたかなあ」

「じゃあその時食堂に誰か来たりしなかったか?」

「誰か……、うーん。確か、舞園ちゃんが一度だけ来たような」

「舞園さんが?」

「そうだよ、さやかちゃん。あとは誰も来なかったかな──うん」

「……じゃあ、舞園さんが包丁を?」

 

 苗木は眉を寄せ、渋ったような顔をした。無理もないだろう──私たちは、てっきり犯人の名前が出てくるものだと予想していたのだ。

 被害者である舞園さやかを殺害するために用いる凶器をこの食堂から持ち出した、犯人の名を。

 だというのにも関わらず、朝日奈の口から飛び出したのは被害者である舞園の名前──。

 一体全体、どういうことなのだろうか。私たち二人は、ただ呻き声を口元から漏らすほかなかった。

 

 謎が解ければ解けるほどさらに謎が増えてしまう脳のように。包丁を持ち出した者が誰か分かったというのにも関わらず、謎は増えてしまっている。

 

「ありがとう、じゃあ、私たちはもう少し捜査をしてくるよ」

「そっか、頑張ってね」

 

 朝日奈は、ぎこちない笑顔でそう言った。

 その不自然な笑みを浮かべてしまったのには、人が死んだ──ということもあるのだろう。

 朝日奈のように明るい人だからこそ、こういうときに周囲の雰囲気から強く煽りを受けてしまう。

 どうしたって考えてしまう。

 きっと不安だって感じるだろうし、実際に感じているのだろう。それは私だって例外ではない。その不安を打ち消すために朝日奈はなにかを食べ、そして私はなにかを考え続ける。

 どちらも思考から嫌なことを追い出すための防衛手段であると言ってもいいだろう。言ってしまえば逃げだが、しかしそれを責めるつもりはないし、責める人もいないはずだ。

 

「……うーん、一回部屋に戻ってみる?」

「いや、部屋は霧切が捜査中だし、他をあたってみよう」

 

 と言ったは良いものの、しかし、どこをどう捜査すれば良いのだろうか。こういうことに慣れていない私は、その段階で悩み始めていた。

 ドアが壊されていたというのだから、工具の代用品となりそうな物がある場所を探すべきか?

 それとも、返り血を浴びただろう服を洗濯することができるランドリーか……。

 

 どこに証拠があるか分からない今、とにかく(しらみ)潰しに様々な所へと向かうべきである。だが時間制限が存在する今、悠長にしていられないのも事実であった。

 

 もたもたしていられないので、とりあえずは行先がはっきりとしている後者のランドリーに向かうことにした。こちらも食堂同様に先客がおり、なにかを探しているようだった。

 

「ない……っ、ないべ!」

 

 洗濯機に顔を突っ込んだり、またその裏側に手を差し込んだりと、忙しなくランドリーを駆け巡り何かを探す葉隠の姿がそこにはあった。

 

「どうしたの? 葉隠クン」

 

 一心不乱に何かを探している葉隠に若干の気の引きを感じつつ、緊張した面持ちで苗木は声をかけた。すると葉隠は危機一髪! みたいな表情でこちらに駆け寄り言葉をまくし立てる。

 

「おおっ、苗木っちに神原っち! 俺の水晶玉知らねえか? なくなっちまってて!」

 

 水晶玉……。ああそういえば、葉隠はいつも大きなガラス玉を持ち歩いているなとほとほと思っていたのだが、そうか、あれは水晶玉だったのか。

 

「ああ、あのガラス玉? ボクは見てないなあ」

「ガラス玉じゃねえべ! あれはれっきときた霊験あらたかな水晶から削らりとられたっつー触れ込みの、一億円もするものなんだべ!」

「ええっ、一億円?!」

「そう、一億! いやあ、あの頃は苦労したべ……って、そうじゃない! その水晶玉が無くなっちまって──いや、きっと盗まれたんだべ!」

「盗むかなあ……」

「盗むべ!」

 

 騒ぐ葉隠を横目に、ランドリーになにか無いだろうかと洗濯機の裏を覗くなどして探ったが、しかしそれらしいものは落ちていなかった。それっぽいニオイもしなかったし、血痕らしきものも見当たらなかった。

 

 見当違いだったのだろうか? でも、これで一つの可能性を潰すことができたと考えると、前向きに捉えることはできるだろう。これ以上ここに居座っていると厄介ごとに巻き込まれそうな気がしてならなかったので、足早に立ち去り外に出た。

 

「あ、危なかった……、変な勧誘の(はなし)し始めたくらいから変だと思ったんだ」

 

 疲弊した様子の苗木を庇いつつ、私は電子生徒手帳に備え付けられている校内マップに目を通していた。行くあても無いため、ふと目についたトラッシュルームに向かうことにした。

 トラッシュルームに着くと、やはりここにも先客がいた。

 

「苗木誠殿に神原駿河殿。こうして同じ場所に捜査をしに来るとは、奇遇ですな」

「そうだね、山田クン」

 

 軽く会釈をし、部屋を見渡す。今思えば、トラッシュルームに来るのは今日が初めてかもしれない。

 床に突き刺さる堅牢な鉄格子に、さらにその奥で隙間からから赤い光を小さく漏らす熱気を帯びた焼却炉。装飾も大してされておらず嗜好品なども見当たらない、机や椅子も一つないこの部屋は、まさしくゴミを捨て燃やすだけの場所としてここに存在していた。

 今まさにそれは稼働しているらしく、轟々とした炎の音がこちらまで伝わってきた。

 

「やはりあれは、稼働してますよねえ……」

 

 面倒臭そうに山田は言った。

 

「あのですね。トラッシュルームは見ての通り、あのような鉄の格子で囲われ焼却炉には近付けないようになっているのですよ」

 

 その言葉の通り、鉄格子があるため焼却炉には近付けない。例えその合間から腕を伸ばそうとも格子から焼却炉まではおよそ十メートルほどの距離があるため、ダルシムもビックリするほど腕が伸びでもしない限り届きやしないだろう。

 ゴム人間ならあるいは。

 いや、それはそれで熱で溶けてしまいそうで少し怖い。

 ともかく、私たちのような一人間がちょいと腕を伸ばしたところで、まるで星を掴もうと手を動かす赤子のごとく届きやしない。

 

 しかし全面に鉄格子が設置されてしまっているならば、それは大きな欠陥設備だ。出入りする場所がなければゴミだって捨てれないし、なにより、見たところによると焼却炉を稼働させる──または停止させるためのボタンは私たちから見て向こう側に存在しているのだから。

 そのため、やはりもちろんのこと、その鉄格子には人が入れるほどの大きさの扉が備え付けられていた。それもやはり厳重な作りになっており、ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうな扉であった。

 

「それで焼却炉を稼働させようとするなら内側にあるスイッチを押さなければならないのですけど、そのためにはあの扉をどうしたってくぐらなければなりません。ちなみに扉には鍵がかかっていて、僕がその鍵を持っています」

 

 山田は、今にも張り裂けてしまいそうなほどに膨張したズボンのポケットから取り出した鍵をチラつかせる。そして扉へと近づき、鍵穴へと差し込み回転させると、確かに施錠が解ける音がした。

 

「ええっと……、なんで山田クンはその鍵を持ってるの?」

 

 そんな素朴な疑問に、山田は扉を開けつつ答えた。

 

「モノクマに頼まれた──と言いますか、トラッシュルームの管理は一週間ごとの交代制でして、たまたまこの山田一二三が最初の当番を務めることになったのです。なので、僕が預かり知れないうちに焼却炉を稼働させることは不可能なはず……なんですけど」

 

 山田は気味悪そうに焼却炉の方を一瞥(いちべつ)した。

 

「ああ……、ひょっとして、自分の知らないところで焼却炉が稼働されていたってことか?」

「その通り! 最後に確認した時には確かに切ったんはずなのですが、いざ捜査となった時に見に来てみれば稼働中。モノクマに聞いてみたのですが、自分は何もしてないと言うばかりでして……いやはや、困ったものです」

「ううむ。そうだな、とりあえず捜査してみても構わないだろうか? 何か見えてくるかもしれない」

「ええ、どうぞ」

 

 焼却炉の周りには何かが落ちているように見えた。ひとまずそれをこの目で確認してみたい。少し焼け焦げていて、遠目から見ると何かの布切れのように見えた。

 熱気が凄かったため、近付くとまず焼却炉の電源を切った。

 

「これは、シャツの袖口だろうか……一部焦げてしまっているところを見ると、残りは全て燃えてしまっているようだが」

「そうだね……それに、血痕がついてる。もしかしたら犯人が着ていた服かもしれないよ」

 

 これを犯人が……。

 しかし、どうやってこのシャツを燃やしたというのだろうか。だって鉄格子からこの焼却炉は十メートル以上も離れている。

 山田が犯人だというのであれば合点が行くというものだけれど、失礼な話だが、しかしどうしたってあの部屋で起きたような乱闘を。部屋の壁や床などに刀傷が切り刻まれるほどの激しい争いを、彼のような体型の人間が行えるとは思えない。

 だから、どうやって犯人は焼却炉を稼働させ、そして証拠隠滅を図ったのだろうか。

 

 そんな難しいことを慣れない頭で考え苦悩していると、苗木が何かを見つけたらしく私を呼んだ。どうしたと確認に向かうと、そこにはおかしなものが落ちていた。

 

「これって、葉隠クンのガラス……水晶玉だよね」

「ああ、恐らくな」

 

 葉隠が一億円で購入したと言っていた水晶玉は、無残にも焼却炉の脇で粉々になってしまっていた。……うわあ、やだなあ、これを葉隠に伝えないといけないって思うと、なんだか胃もたれがする。あいつが自然に発見することを祈るしかない……。

 

「あちゃあ、接着剤でくっつけても直りそうにないね」

「むしろ接着剤でくっつければ直すことができる割れ方なんて稀だろう」

 

 そんな会話を交わしていると、唐突に、放送が鳴った。少しばかり驚いてしまったものの、互いに口を閉じそのアナウンスに耳を傾ける。一間の静寂の後、あの忌まわしきダミ声が聞こえてきた。

 

『えー、校内放送です。もう捜査のほうも充分かと思いますので。至急、一階エリアにある赤い扉の前までお越しください。来なかったら無理やり連れてくるかんな!』

 

 そこで音声は途切れた。

 もう、終わり……。

 そんな思いが強かった。

 まだ私はこの事件の真相というものに、一本たりとも指をかけることができずにいる。それはジグソーパズルのカケラを二つか三つだけ貰ったようなものであり、果たしてそれがどのような絵柄を表しているのか──また、全体から見てどの部分を象っているのかなどは、全くもって分かり得ない。

 

 苗木もこの事件について分かったことが数少ないらしく、困ったような顔を互いに見せ合っていた。

 しかしこのまま硬直してばかりではいられない。砕けた水晶玉からは目をそらし、ゆっくりと歩みを進め始める。

 

「えーっと、赤い扉だっけ」

「そういえばあったような、なかったような」

 

 ともかく今は、私たちとはまた別で捜査に取り組んでいる彼らに期待するしかない。もう少し捜査をしていたいという気持ちが強く心の中にあったが、しかしその少しの時間、あれこれ探し回ったところでなにかが見つかるのかと尋ねられても、私は良い返事を心地よく返すことなんて出来ないだろう。

 

 赤い扉の前にはすでに全員が揃っており、私たちが最後だった。そして私たちが到着すると同時に、どこからともなく──まるで最初からそこにいたかのように、モノクマは現れた。

 

「いやあ、最初の学級裁判、緊張するねえ」

 

 これから起きることが楽しみで仕方がない。そんなテンションでモノクマは言った。

 その言葉に誰も反応することはなく、嫌な空気が流れた。

 

「みんなテンション低いねっ、まるでお通夜みたいだ!」

 

 笑えない冗談である。

 どうやら場の雰囲気をようやく察したらしく、モノクマは若干肩を落としながら説明を始めた。

 

「えっとね、その赤い扉の先にはエレベーターがあるからそれに乗ってもらうよ。裁判場は地下にあるんだ」

 

 そう言いモノクマは赤い扉を開けた、それと同時に、地下へと続くと言うエレベーターの扉も開いた。

 デパートなどでよくあるこじんまりとしたものとは違い、まるで一つの部屋のような広さを誇っている。

 

「じゃあ、裁判場でね~」

 

 そう言い、モノクマはどこかへと姿を消した。

 一体どういう仕組みなのだろうか、ひょっとすればペットドアのようなものがどこかに取り付けてあるのかもしれない。そこから出てきたり入って行ったりする姿を想像してみると、少しは可愛く思えるだろうか……いや、流石に無理があるな。

 

 不安を胸に抱きつつ、私はエレベーターに一歩、足を踏み入れた。

 

 ヒンヤリとした空気が頬を撫でる。埃っぽい感じが酷く鼻についた。



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012 非日常編(学級裁判編)

「それでは、学級裁判を開廷します」

 

 なにかをぐるりと囲むようにして設置された台の一端に──もっとも、円に端があるのかどうかは分からないが──私はその要素として存在していた。

 時が過ぎれば凡的とも捉えられるであろう私の一生涯において、こんな状況が訪れるであろうとは思いもしておらず、このような異端な場面に、私は恐怖する。

 私はいつだって、何かに怯えていたのではないだろうか。

 そんな気すらしてきた。

 

 息を吸い、息を吐く。

 そんな行為ですらも、煩わしい。

 そう思えるほどに、今は何かに怯えている。

 その何かが分かれば楽なものだけれど、神様っていうのはそう楽にしてくれないらしい。

 

 畏怖するものに抗うようにして前を向けども、目を背けたくなるような現実から逃避するため左右に目線を逃せども、そこには人がいる。どうしたって、彼らの影が私を指す。それがなんだか、私に対して逃げ場はないんだぞと言っているように見えてしまう。

 地下、という閉鎖空間にいるのも原因かもしれない。

 十六人も人がいるのにも関わらず、どこからも笑い声や話し声が聞こえてこないのが原因かもしれない。

 けれども確かに、事実として、私はこの場の雰囲気に気圧されていた。

 

 はっきり言って今のような状況は苦手だ。それはいつだって母の顔が頭によぎるからだ。

 

「アンタの人生はきっと人より面倒くさい。だけどそれはアンタが優れているからでなく、アンタが弱いからだ」

 

 そのあと、なにか言葉が続いていた気がする──だが、どうしてだか思い出せない、その言葉はポッカリと頭の中から抜け落ちてしまっている──

 しかし、忘れていようとそれは関係ない。

 どうであれ母はそんな言葉を幼い私に言ったのだ。幼い私に、である。

 普通、親というものは子に対し希望を抱くものだろう。この子はきっと強く育つだろう、とか、賢い子になるだろう、とか。そんな想いを胸に秘め、愛でるはずなのに──なのに、母が私に与えた言葉は──そんな、否定的な言葉。

 今思えばそれが不器用な母なりの愛情表現であると捉えることもできなくはないが、けれどもそう考えてしまうとあの幼き日に見た母の姿がふっと私の心から消えてしまう。そのように思う行為が母を否定してしまうように思えて仕方がないからだ。

 母を否定する、というのは思春期の娘にしては遅い反抗期のようなものかもしれないけど、そんな時期に突入したからとはいえ、私が若いが故の怒りや憤りを母にぶつけることはできない。既に母は死んでしまったのだから──叶うはずもない。

 

 もし母が生きているのなら、今の私を見て「アンタがそれでいいなら弱いままで構わない。弱いことは悪いことじゃないからだ。ただ、良いこともない」とでも言うのだろうか。

 

 確かに、良いことじゃないさ。

 でも、私はどうしたって弱いんだ。

 

 いずれにしても──

 

「神原さん、……神原さん?」

「──あ、ああ。ん。どうかしたか?」

「いや、ぼーっとしていたから。大丈夫?」

「んむう、だいじょぶ」

 

 ともかく今は学級裁判だ……舞園の事件について話し合わなければならない。だから、して、遠き日に死んだ母のことなど思い出している暇はない。

 後があるならそのときゆっくりと、思い出に浸ろう。

 気を緩めてはいけない。裁判はもう、始まっているのだ。

 

 といっても。

 スターターピストルが白煙を上げたところで、誰も議論の場に足を踏み入れることはなかった。皆が皆、沈黙を守る。この沈黙はきっと、初めての出来事ゆえの戸惑いであったり、何から話し始めたら分からないといった混乱、言葉を発すると自身に疑いが向くのでは無いかという恐れでは決してない。そう、これは──

 

「……なあ、議論なんてする必要ねえんじゃねえのか。だってよ、舞園は苗木の部屋で死んでたんだろ? じゃあもう犯人は一人しかいねえだろ」

 

 桑田の言葉に、張り詰められた空気が殊更に強調された気がした。きっとこの場にいる大方の人物が思っていた──だけど口にすることを憚られていた言葉を、彼が言ってしまった、と。

 それを裏付けるように、この場にいる誰もが直ぐに反論しようとしなかった。

 この場合の沈黙は同意を示す。

 つまるところ、今この場で静寂が鎮座している状況というのは、そういうことなのだ。

 疑心暗鬼に包まれた雰囲気は一気に気まずさと疑いのものに移り変わる。

 

「そ、そうよ。苗木、アンタが舞園を殺したんじゃないのっ? 小動物みたいな見た目をして……夜になった途端、獣のように、こうっ」

「ちっ違うよ! そんなことない!」

「否定することは、だだ誰にだってできるんだから!」

 

 苗木の部屋で舞園が死んでいたのだから、苗木が疑われるのは当然とも言える事象だ。割れた窓ガラスの側に野球ボールが落ちていれば近くでキャッチボールをしていた人間を疑うように、それは起こるべくして起きた現象なのだ。

 して、苗木が裁判で疑われることは安易に想像ができた──捜査中にだって、みんなの対応は妙によそよそしかったし、結局は苗木が犯人なんだろうという空気が確かに存在していた。

 そう、この自体は予想できて当たり前の事柄であり、予定調和とも言えるのだ。

 しかしそんな事態に対し、私はそう素早く働きかけることができなかった。

 

「待って。苗木くんを今の段階で犯人を決めつけるのは早すぎないかしら」

 

 きっと私も、苗木のことを疑っているのだろう。

 心の底から信じてやることができていないのだろう。

 だから、苗木が犯人でないと思っていても、霧切のようにこの場を制止するため発言することができない。

 できずにいる。

 心の隙にある何かが──邪魔をする。

 あるいはそれが私の本心かもしれない。

 いずれにせよ、明らかにしたくないことだ。

 

「確かに苗木くんの部屋で舞園さんが死んでいたのだから彼を疑うのも当然のように思えるけど、でもまだ不可解なことは多いし、なにより苗木くんが舞園さんを殺したっていう決定的な証拠はまだ無いのよ?」

「……ああ、その通りだ。それにまだ始まったばっかりじゃないか、考えて確実性を上げることに越したことはない」

 

 ようやく私は、霧切の発言に乗っかる形ではあるものの、自身の言葉を発した。

 

 私と霧切の言葉に、反論する者はいなかった。

 沈黙は同意を示す。

 さっきと同じだが、今回ばかりは意味が違った。

 

 十神が、邪険そうに鼻を鳴らす。

 そんな彼を横目に、苗木は硬い苦笑いを顔に映し出しながら自身の疑いを晴らすための議論を開始する。

 

「……えっと、じゃあまずは凶器から」

 

 疑いの矛先を一旦苗木から離し、議論を始めるということに不満を持つ者がいるからだろうか、苗木のその問いかけに反応を示すものは少なかった。

 こういう感じが良いものではないということはよく分かっているのだけれども、私は解決方法というものをてんで何も知らない。取り敢えずの、苦し紛れの返答を苗木に返す。

 

「モノクマファイルによると、外傷は腹部の刺し傷と右手首の骨折だったはずだ。さすがに手首の骨折で死亡──なんていうことはないだろう。だからきっとその刺し傷を生み出したものこそが直接舞園の命を奪った凶器のはずだ」

「……んじゃあ、それだと……包丁か、包丁! そういや血も大量に出てたし、当然っちゃ当然だな」

「多分そうだろうね。そして、おそらくだけどその包丁の出どころも分かると思うんだ。そうだよね、朝日奈さん」

 

 突如自分の名前が出てきたからか、朝日奈は驚いたようにしてピョコンと背筋を伸ばし、戸惑いを隠すことなく慌てた様子で言葉を連ねる。

 

「ほ、包丁……? ああ、包丁、だね。うん、厨房に備え付けてある包丁が一本だけなくなってたんだよね」

「そう、そのことだよ」

「ん、それ本当に信じていいのか? だって朝日奈だぜ」

 

 と、桑田が朝日奈を煽るように小馬鹿にした。

 

「それってどういう意味?! 私はちゃんと見たよ!」

 

 大変ご立腹らしく、卓に手を突き、体を半分以上乗り出して朝日奈は反論した。

 それを見かねてか、大神が証言する。

 

「我が保障しよう。確かに、包丁は無くなっていた。それも不自然な形で一つ、欠けていたのだ。あれを見間違うほど我の目は節穴ではない」

「そうそう」

 

 確かに、包丁は無くなっていた。

 それは私と苗木も確認している事実であった。それは別に構わないのだ、包丁の出どころが厨房だと分かることは悪いことではないし、なにより朝日奈と大神がその包丁を持ち出したと思われる人物を見かけているというのだから、むしろその発見は大きな進展をもたらしたといっても過言ではない──ただ、ただ一つ大きな気がかりがある。あまりにも大きすぎて、それしか見えなくなってしまいそうになるほどの気がかりが。

 最初、朝日奈から話を聞いた時、その時耳にする人物名というのは加害者のものであるだろうと……そう、覚悟して聞いていた。あるいはこの場で事件を究明する手がかりを得るという望みなんてものもあったかもしれないが……ともかく、そんな思いで話を聞いていた。

 するとどうだろう。

 朝日奈の口から出てきたのは、まず加害者の候補から除外されるべき舞園さやかという名前──

 自分で自分の心臓を貫いたというわけではないだろうし(仮にそうだとしても、不可解な点が多すぎるし、なにより彼女にはそんなことをする理由がない)、かといって誰かに自分を殺すことを嘆願するようなやつでもないだろうと私は思うから見間違えではないのだろうかと思ったのだけれども、でもこの事件に全く関連性が見受けられない誰かならいざ知らず、被害者というこの事件の一人目の登場人物の名前が挙がったのだから一概に誤った情報だと決めつけることもできない。

 密かながら朝日奈が嘘をついているのではないだろうか──と思いもしたが、それだっておかしな話である。

 

「包丁、最初は全部あったんだけどね、片付けしてる時に見てみたら一本だけなくなってて。そのときは探したんだけど見つからなかったんだ」

「じゃあ、そんときに苗木が包丁を持ち出したってことか?」

「それは違うよ……! 違うん、だけ、ど」

 

 歯切れが悪そうに苗木は言った。

 朝日奈は伏し目がちに大神の顔をチラチラと伺いながらこう言う。

 

「……その、ね? そのとき、一人だけ食堂に来た人がいたんだ」

「誰だ? ひょっとして苗木じゃねえっていうのかよ」

「うん……。食堂に来たのは苗木じゃなくって、さやかちゃん」

 

 その名前に、裁判場全体がどよめく。

 無理もない。なんたってその証言は、被害者が自身の命を奪うことになる包丁という凶器を厨房から持ち出していたということを主張するものなのだから。

 あまりにも矛盾した証言。信じがたい話。

 これがどう真相に関わっているのかは、未だ明らかではない。

 

「……と、いうことはですよ。朝日奈葵殿の証言が正しければ、舞園さやか殿は自分が用意した包丁で自分の腹をぐさり! と刺したということになりますが」

「そんな……っ、舞園さんは自殺するような人じゃない!」

「そう言われましても……。見間違い、という可能性はないのですか?」

「ううん、それは無いと思う。……確かにあれはさやかちゃんだったよ、ね? さくらちゃん」

「ああ」

 

 ひょっとして超高校級のコスプレイヤー的な人物が舞園に変装して……と思い、それに近しい人物に視線を向けるが。

 

「ん? どうかしましたかな、神原駿河殿」

 

 いや、さすがにないか。

 体型からして違いすぎる。もしそうだとしても、これには皇帝(アンプルール)もびっくりだ。

 

「話をまとめると、あなたたちは食堂にいて、最初に厨房に向かったときは包丁はあった。でも食事を終わらせて片付けを始めた頃には既に包丁が無かった──そしてその間に食堂に来たのは舞園さやかただ一人……」

 

 霧切は続ける。

 

「きっとこのことについて、みんな不思議に思ってるでしょう。なにかを不思議に思うのは、それを分かりきったつもりになっているから。まだ分からない部分が他にもあるんだから、一旦この話は置いといて……そうね、事件現場でもある苗木くんの部屋について話をしましょう」

 

 霧切はこのような状況に慣れているように見えた。妙に冷静というか、こういう場面においての話の進め方に長けているというか。

 彼女についての謎は多い。彼女については一つとして分からないから、私は霧切に対し不思議というよりも冷酷な印象を受けることが多かった。きっと人としての心の触れ合いが無かったからそういった風に思えてしまうのだろうが、直接話したことがないため──また彼女が誰かと世間話をしているのを見たことがあるということがないため、そう思えてしまったのだろう。ともかく私は彼女に対してそんな冷たい印象を抱いていた。

 

 残酷。

 ではなく。

 冷酷。

 

 この二つは似ているようでいて、しかし意味は異なる。

 霧切は残酷な人間ではない、きっと冷酷な人間だ。

 

 つっけんどんな霧切の、その謎について例を挙げるとすると、この場に居合わせる人間すべてがすべからくして所持している超高校級の才能を例外なく霧切も肩書きとして持っているのだろうが、しかしそれについての話を聞いたことは、ここ数日間の記憶を思い返してみればてんでないということだ。

 親しく話すこともないため素性も不明。

 霧切が誰かと歓談を楽しんでいるといった光景を未だかつて見たことがないし、あの様子だときっとこれからも見ることは出来なさそうな感じがする(そもそもこんな状況下で笑っていられる方がおかしいし、むしろこの場における霧切の生活態度というものは、コロシアイという枠組みに当てはめるのであれば正当なものであると言えるだろう)。

 

 探索の時だって一人だったように思う。

 ただ単に孤独を好む人間なのかもしれない、ひょっとしたら引っ込み思案の人見知りという属性を所持している可能性も無くはない。

 いやはや、こうしてアレコレ考えてみると、勝手な話だけれど親近感が湧くというものだ。

 

「まず、苗木くんの部屋は他の部屋とは違うところがいくつかあるのよ」

 

 一つは、舞園の部屋と入れ替わっていたネームプレート。

 二つは、シャワールームのドアノブ。

 三つは、大量に消費されたテープクリーナー。

 

 霧切が挙げたのはこの三つだった。

 どれも既に知っている情報ではあるが、なかなかピンとこない。

 

「ドアノブ? ドアノブがどうしたんだ? なんの変哲も無かったように見えたけどな」

「そう思うのも当然……というか、犯人もきっとそう思ったでしょうね。そうよね? 苗木くん」

「えっ……ああ、もしかしてあれかな」

 

 苗木は辿々(たどたど)しくもハッキリとした口調で話しだす。

 

「僕の部屋のシャワールームのドアだけ、建て付けが最初から悪かったんだ。だからちょっと特殊な開け方をしないと扉が開かなくってさ」

「女子の部屋のシャワールームのドアノブにだけ、鍵がついているの──きっと犯人は、捻っても開かないドアを見て、鍵がかかっていると勘違いしたんじゃないのかしら?」

「で、でも、あの部屋は苗木くんの部屋だったんだよね? だったら、舞園さんが部屋の中にいたとしても、それが苗木くんの部屋だってネームプレートで分かる──あっ、そっか」

「そう、ネームプレートは入れ替えられていたのよ。だから犯人は苗木誠の部屋を()()()()()()()()()といった風に勘違いしたの」

 

 だから、シャワールームのドアは鍵がかかっているものだと思った。

 でも、だとしたらどうしてだろうか?

 私は、疑問をぶつける。

 

「……直接舞園から聞いた話だが、あいつは夜誰かが部屋のドアを叩くんだって怯えていた。だからこそ苗木と舞園が部屋を交換したというのはなかなかどうして道理が通っているものだと私は思うんだが──だが、なんでネームプレードまで交換してあったんだ? そんなの、誰も得しないじゃないか」

「そうだよ……舞園さんがわざわざ変えるわけもないし、僕だってネームプレードを変えてない。それに、イタズラにしたって意図が読めない」

「本当にそう?」

 

 霧切は苗木を見据え、言葉を続ける。

 

「本当に、舞園さんは怯えていた? 部屋を変える目的が、本当にそれだけだったと?」

「……どういう意味?」

 

 苗木は、霧切のその言葉を睨みつける。

 霧切もそれに応えるように、じっと苗木の瞳を見据えた。

 

「話を変えましょう」

 

 霧切は落ち着いた様子でそう言った。

 これは雰囲気を変えるため──ではなく、ただ単純に議論を進めるためのもののようだが、しかし先の話がもう済んだ話であるとは言い難いため、実際進んでいるのかどうかと尋ねられると「保留にして前に進んだだけ」としか答えられない。

 でもこれにも、彼女なりの理由があるのだろう。

 不思議と、私は確信を持ってそう思えた。

 

「部屋に落ちてあった模擬刀、あれの鞘について、苗木くんは覚えているかしら?」

「鞘……?」

 

 苗木はさっきのことを引きずっているのか、少々不貞腐れた物言いで答えを出す。

 

「確か、切り傷が付いていた気がする……あと、人の手形だね。といっても、たくさん付いてるものだから誰か一人を特定することは難しそうだけど」

「その切り傷が重要よ」

「切り傷が……」

 

 苗木は長考する。

 

 にしても、切り傷……か。あの模擬刀は舞園が使用したものとばかり思っていたが、朝日奈から聞くに舞園自身が包丁を持ち出した──つまりは所持したというから、きっと真に護身のために用いられたのはその包丁だったはずだ。となると、部屋に置いてあった模擬刀で襲いかかってきた犯人の攻撃を防いで──

 ? あれ、少し、違うような──

 

「……あ、え、あ、いやでも」

 

 苗木は何かに気が付いたらしく、混乱したように顔を俯き、何かを呟き始め──そして、恐る恐る前を向いてから一言、

 

「そんなはずがない……だって……だって、舞園サンは……」

 

 と、今にも消えてしまいそうな声で言った。

 

「苗木くん。あなたは言わなければならないわ。その義務がある」

「でも、舞園さんはあんなに怯えて……ッ」

 

 苗木のその動揺の仕方から、私は全てとはいかないものの、ある程度察することができた。

 それは私の推理力とか、洞察力とか、そういったものじゃない──(げん)に、犯人に対する予測というものは一つだって浮かんできゃしない。だが──苗木の心をこうまで掻き乱す事柄というものは、一つしかないだろう。

 

 そうそれはきっと──舞園のことについてだ。

 

 なぜ、被害者であるはずの舞園が、包丁を持ち出していたのか。

 なぜ、部屋のネームプレートが入れ替わっていたのか。

 なぜ、模擬刀の鞘に傷が付いていたのか。

 

 その原因を、苗木は、気が付いたのだ。

 

「……最初に、ボクが言っておきたいのは」

 

 苗木は私の方を見た。

 その瞳は何かを覚悟しているようでいて、半分悲しみに暮れているようだった。

 

「舞園さんが、憔悴仕切っていたことだ」

 

 この裁判場にいる全員に語りかけるように、話し続ける。

 

「動機ビデオ、っていうのがあったよね? みんな、内容は人それぞれだと思うんだけど──ボクは舞園さんの動機ビデオを見たんだ。そうしたら、舞園さんが所属しているアイドルグループのメンバーが不穏な形で消えていく様が映し出されていた──」

 

 私を標的にした動機ビデオも存在していた。内容は親代わりのおじいちゃんやおばあちゃん、それと学校の友達が舞園同様不穏な形で消えてしまったというものだが──それを見て感じ取る恐怖の度合いや衝撃をぶつけられるメンタルの強さというものは、私と舞園では違うのだろう。

 私は、まだ、ビデオを見ても心を保っていられた。

 けれども舞園は、ビデオを見ている途中で叫び声をあげて泣きじゃくるほどだった。

 

 ただ一言にメンバーが消えたといっても、その重大さは私には計り知れないものだろう。

 彼女の悲しみや不安を、知ったような口では語れない。

 

「そして、それに対して舞園サンは酷く心を乱していたっていうことだ」



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013 非日常編(学級裁判編)

 先に学級裁判の前編にあたる部分を投稿しています。未読の場合はそちらをお先にお読みください。


 どう考えたって有り得ないと思えることでも、他のあらゆる可能性が否定出来たなら、最後に残ったその有り得ないと思えるものこそが真実だ──そんな言葉を、昔読んだ本で見た気がする。

 私としては、その『あらゆる可能性』ってやつ以外にも、存外、道っていうものはあるんじゃないのかって思うんだ。それこそノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則に反してるけど、そんなドラマ的な展開は現実じゃあそう上手くいくわけがないだろう。

 現実は小説よりも奇なり、きっとそう、誰も望まない思わぬ展開が待ち構えていたりするはずなのだ──

 

 ──そんな、邪推とも言える考えが浮かぶ。

 でも実際そうなのだろう。

 そういうものなのだろう。

 机から落ちた消しゴムが、必ず自分の近くに落ちているわけじゃあない。ひょっとすれば思わぬところへ運悪く長々と転がってしまったかもしれないし、誰かに蹴られて廊下の方へ飛んで行ってしまったかもしれない。

 どこか遠くに飛んで行った野球ボールが、自分の家の窓ガラスを貫いてる可能性だってゼロじゃない。

 

 何が言いたいのかというと、可能性というものはいつだって未知なのだ。

 未だ来ずと書いて未来と読むが、これに限って言えば未だ知らずと書いて未知。

 

 私は何も知らない。

 だから、私のように何も知らない人間は──何かを決めつけるということしかできない。

 真実でなく、常識という名の偏見でしかものを語ることができないのだ。

 

「まず、舞園さんは食堂の厨房に包丁を取りに行った。

「これは朝日奈さんと大神さんが証言してくれたよね。それに実際、ボクと神原さんも一本欠けている包丁を見ている。

「そして夜になってから、舞園さんはボクの部屋と舞園さんの部屋のネームプレートを入れ替えた。

「で、舞園さんは扉の鍵を開けたまま、部屋で包丁を持って待っていたんだ。

「厨房から持ってきた包丁を持ってね。

「それで、これは舞園さん本人から聞いた話なんだけど、夜、彼女の部屋に誰かがやってきたことがあるらしいんだ。そのときは鍵は鍵をかけていたから入ってくることはなかったって聞いたけど、それでも舞園さんにとっては恐怖だったに違いない。

「それで、その扉を叩いた人──つまり今回の犯人が舞園さんの部屋の扉を開けて、中に入ってきた。

「そう、舞園さんは鍵をかけなかったんだ。うっかりじゃなく、ワザと明けたままにしたんだ。

「そして部屋に入ってきた犯人を舞園さんは包丁で襲って──襲って、殺そうとしたんだ。

「けど、部屋にあった模擬刀を見つけた犯人は、咄嗟にそれを掴んで包丁による一撃を防ぐ。鞘にあった切り傷はその時のものじゃないかな?

「だって普通人を殺そうとするなら、鞘なんて重い物を付きっぱなしで攻撃しようとはしないはずだしさ。

「それに、舞園さんのあの骨折していた手首に付着していたキラキラとしたものは、おそらく模擬刀の金箔だ。少し触るだけで取れてしまう金箔が腕に叩きつけられたっていうんだから、付着してないわけがない。

「そして、舞園さんと犯人は部屋で激闘を繰り広げ──その結果、舞園さんは包丁を落としてしまい、シャワールームに逃げ込んだ。

「ドアの立て付けが悪いことを鍵がかかっていると勘違いした犯人は、男子の部屋にしかない工具セットのドライバーを使用してドアノブを壊したんだ。

「ボクの部屋にも──つまりは犯行現場にもドライバーはあったんだけど、犯人はその部屋を舞園さんの部屋だと勘違いしていたからね。だから使わなかったというより使えなかったんじゃないかな。証拠に、ボクの部屋にはまだ封も切られていない工具箱が置いてあるよ。

「そして、ドアノブを壊しシャワールームに侵入した犯人は──拾った包丁を使って、舞園さんを、刺殺した。

「今のボクに分かるのは……これだけだよ」

 

 深い息を吐き出すとともに、苗木は言い終えた。

 語り終えた。

 彼が想像しうる限りの、今回の事件の顛末というものを。

 

「……それが、あなたが見つけ出した全て?」

 

 霧切は真剣な眼差しを持ってそう言った。

 その言葉を聞いた苗木は、「え?」と呆けた声を口から漏らし、驚いたように口をぱくぱくと開き、それから溜飲を下げて慌て気味にこう尋ねる。

 

「ど、どういうこと? 確かに、犯人は見つけ出せてないけど──」

「そうじゃなくって……、んむ、これはいずれ分かることね」

 

 じゃあ、犯人を見つけましょう。

 

 霧切はその“裁判を終わらせる”とほとんど意味が同じである言葉をあっさりと言いのけた。さっきの言葉もそうだけれど、彼女はこの事件の誰が犯人で、そして何があったのかということを分かっているような物の言い方をしている。あるいはもう分かっているのかもしれないが、なぜそれを早く言おうとしないのかは私には理解できないものだった。天才の考えていることは分からないと暫し語られているが、彼女もまたその部類に当てはまる人間なのかもしれない。

 となると、彼女の才能は頭を使うものなのだろうか?

 超高校級の……んむむ、まだ、推測はできない。

 

「犯人に繋がる手がかりは、ダイイングメッセージよ。彼女──舞園さやかはダイイングメッセージを、後ろにある壁に()()()()()()()()()()()の。ここまで言えば分かるわね苗木くん」

「後ろの壁……背を……」

 

 後ろの壁に背を向けて……。何かを想像することが得意な私は(妄想と言った方が良いかもしれない)、後ろに壁があると考え、密かに背にやった左手で『11037』と宙に描いてみる。実際にペンで質量あるものに描いたわけではないので、その数字がどんな形で現れているのかは分からないが、しかしそれでもやってみて分かったことが一つあった。

 

「……あっ、後ろ手で書くと、ちゃんと書けないね。こう、百八十度反対になっちゃうっていうか──」

 

 そこまで言いかけて、苗木は急に慌てて電子生徒手帳を取り出しタッチ画面を操作する。

 そしてそれを()()()()()()()()()私たちに見せてきた。

 

「もしかして、これって……!」

「そう。11037──それ本来、上下逆さまにして読むべきものなの」

 

 L、E、O、N。

 1と1の間にある掠れたような線は、Nの中央にある一つの線だったのか。

 

「LEON……レオン」

 

 それって、ひょっとして……。

 

 そう言いかけたとき、桑田が大きな声で自らを主張する。

 

「違う! 俺じゃない! そんなのただのこじつけだろ、偶然それが俺の下の名前と同じになったってだけで──」

「それは違うよ、桑田クン」

 

 そう言って、苗木はトラッシュルームについて話し始める。

 

「山田クンから聞いたんだけど、トラッシュルームって当番の人しか焼却炉に近付けないらしいね、鍵が必要だからさ」

「それが……どうかしたか? っつーか当番のやつって山田だろ? 俺とは関係ねーじゃねえか」

「違うよ。だって君なら、鍵がなくったって焼却炉を起動させることができたはずなんだ」

「……はあ?」

「焼却炉の近くに、ガラスの破片が砕け落ちていたよ、あれはきっと葉隠クンが無くしたって言っていた水晶玉だよね? 君はそれを格子の間から投げて──そして、焼却炉のスイッチを押したんだ」

 

 そうだよね、超高校級の野球選手の、桑田怜恩クン。

 

「君ならきっと、離れたところからでも水晶玉をスイッチへ的確に投げ当てることができたはずだ」

 

 ぐさり。

 そんな音が桑田の方から聞こえてきた気がする。

 言葉が、心に刺さる音というものは、非常に生々しい。それは桑田の芯を砕くことはなかったが、しかし大きな傷をつけ、肉を削いだことに違いなかった。

 桑田は苦しみに悶え酷く歪んだ表情で言葉を返す。

 

「……ありえねえ! ありえねえ、ありえねえ!」

「言い訳になってないぞ、もう少しマシな言葉を思いつかないのか」

「うるせえ!」

 

 桑田は頭を抱え、小さく呻き声を上げながら何かを考える。そして考え付いたのだろう、酷く歪んだ表情のまま切り返していった。

 

「そもそも、それだけじゃなんの証拠にもなりゃしねえんじゃないのかっ? 確かに俺は野球選手で、そしてあの距離でもきっとガラス玉をスイッチに命中させることはできただろう」

 

 でも。

 

 台を両手で力強く叩き張って、大きな声で叫ぶように言う。

 

「大神や大和田だって、ガラス玉を投げる力はあったはずだ! もしかしたら何かの道具を使ってスイッチを入れたのかもしれないし、焼却炉の鍵を盗んだなんてこともあるかもしれねえ! それに、それに──」

 

 もしもの話を続ける桑田に、苗木が言葉を投げかける。

 

「じゃあ桑田クン。工具セットを見せてよ」

「……工具セット?」

「ドアノブのことは、覚えてるよね? あれは工具セットのドライバーを使ってネジを外したんだと思うんだけど──もし、君が犯人じゃないんだったら、工具セットを見せてよ。きっと封がされているはずだ」

 

 桑田の体から、力が抜けていくのが目で見えて分かった。罵声の言葉を飛ばすも、その声量はツマミを捻られたように小さくなっていき、先ほどまで力一杯台を張っていた両腕は柳のように垂れている。

 工具セットなんて、犯行以外にも使う機会はあっただろう。それこそ気になったから封を開けてみただけで、使ってない。なんて言い訳もできたはずだ。

 しかし桑田はそれ以上反論を続けることはなく、彼のその落ち込みようからして犯人は特定されたようなものだった。

 

「……桑田クン、君が、舞園さんを殺した犯人だったんだね」

 

 苗木は、悲しみに満ちた目で桑田を見、そう言った。

 それに対し、力のない声で桑田は返す。

 

「正当防衛だよ……そうだ、正当防衛だ! 舞園のやつがイキナリ襲っていたから、俺は自分の身を守るために止むを得ず──」

「止むを得ず、と言う割には、殺す気満々ではないですか」

「んだよっ、どこがだ?」

「だってあなたは舞園さんを殺す前に、()()()()()()()()工具セットを手に取り、そこからまた彼女がいる部屋へとわざわざ殺すために戻ったのでしょう? その間、いくらでも思い直す時間はあったと思うのですが」

 

 冷たく突き放すように言ったのはセレスだった。

 確かにその言葉は的を得ていた。

 的を得ていたからこそ、桑田はなにも言い返すことが出来ず、ただただ拳を固く握り締め俯いている。

 彼は今、なにを考えているのだろうか。

 

「おやおや、もう終わり? それじゃあ、投票タイムに行っちゃおうかな?」

 

 お気楽な調子でモノクマは言う。

 誰も裁判の延長を求める人間はいなかった。

 

「……テンション低いねえ、まあいっか。それじゃあお手元のボタンをポチッと!」

 

 台の上に現れたパネルを見て、私は思う。

 本当に桑田の名前を押してしまってもいいのだろうかと。

 それは、彼が犯人じゃないのではないだろうかと言う一抹の不安から来たものではない。私の中では、彼は既に犯人として決定しているのだから。

 ただ、思うのだ。

 きっとこの投票で桑田は最も多くの票数を獲得するだろう。それはすなわち、多数決による犯人の断定だ。そしてそれは間違っていない。おそらく真実だろう。

 そして、皆に選ばれたクロは、裁判終了後にオシオキを受ける──それはきっと、死だ。

 倫理的な問題として、私は彼に死を与えるに相応しい人間なのだろうかと思うのだ。死刑囚の死刑執行のためのボタンは、執行人の精神的負担を和らげるために複数個ボタンが用意されていると聞く。今回の場合においても、それぞれみんなが──計十四個のボタンがあるが、けれどもそれは意味が違ってくる。死刑のボタンは、押したとき自分が命を奪うきっかけになったのかどうかは闇のままだ。ただ、この学級裁判の投票ボタンはそれと異なる。

 直接、人の命を奪う。

 十四分の一ではあるが、しかし確実に十四分の一、私に責任が負わされる。

 それを逃れたいと願うのは、いけないことだろうか?

 

 結局私は、桑田の顔をデフォルメしイラスト化されたものを選択し、押した。

 

 この行為を、後、何度行うことになるのだろうか。

 

 数秒の後、モノクマは実に愉快と言わんばかりの活発さで投票の結果を発表した。

 

「パンパカパーン! だーいせーいかーい! 超高校級のアイドルの舞園さやかさんを殺害したのは、超高校級の野球選手である桑田怜恩クンでしたー!」

 

 破裂音とともに、辺りに紙吹雪とテープが舞う。

 どう考えても私には、この行為が私たちを侮辱しているようにしか捉えることができなかった。

 

「いやぁ、みんな初めての学級裁判だっていうのに、上手いことやっちゃうんだから。ボク驚いちゃったよ──安心したっていうのも、あるのかな」

 

 ともかく、と。

 モノクマは今まで座していた椅子から飛ぶように降り、私たちと同じ目線に立つ。

 そして、待ってましたと言わんばかりに、両腕を広げる。

 

「ではではっ、桑田クンには超高校級に相応しい、スペシャルなオシオキを用意しましたー!」

 

 そして、モノクマは下から出てきた赤いボタンを、どこからか取り出した槌で叩き付ける。

 それと同時に裁判場の奥の扉が開き、拘束具のようなものが飛んできた。それは桑田の首を的確に掴み、そして時間を巻き戻すかのようにして桑田を捕まえたまま奥へと消えて行く。

 この場にいる全員が、それを黙って見ていた──それはみんなが冷たい人間だからという意味ではなく、口出しや手を出す暇もなく、ほんの一瞬間で桑田が連れ去られたからだ──そして、桑田が消えて行った先へ自然と集められた視線を遮るように大型のスクリーンが現れた。

 

 そこには、着々と準備が整いつつある処刑場があった。

 一目見て処刑場と判断したのには理由がある。

 あれはきっと、野球場を模しているのだろう。地面があって、金網があって、そして点数を記録する板も用意されている。後ろには大層なことに子供の落書きのような青空もあった。

 そしてただただそれが、おどろおどろしく、異形で、嫌悪感を抱いてしまうような印象を私に与えてしまうのだ。

 

 そう時間も経たないうちに、桑田の姿が現れた。そして、処刑は執行される──

 はっきり言って、それから目を離さずにじっと見ていられるほど、私は強い人間ではない。自分の立場がただの人間ならば、すぐにでもこの場を立ち去っていただろうし、少なくとも目線を手で遮ったり視線をどこか端の方に逃がしたりしただろう。

 ただ、彼のこの処刑には、私も関わっているのだ。

 彼自身の罪とはいえ、私にだって罪はあるはずなのだ。

 それから逃れたいと思えども、しかし現実で逃げてしまうほど、私はヘタレじゃない。

 

 彼の死に様を見届け、そして、心の中で叫んだ。

 

 モノクマ、私は弱いかもしれない、と。

 けれどもモノクマ、私は悪には負けない、と。

 

「モノクマ! これがお前の望んだことか! こんなこと、誰も望まないっていうのに!」

 

 苗木は胸が張り裂けんばかりに叫ぶ。

 無機質な悪は、私たちをそのガラス玉の目でただ見つめるだけだった。




 せめて一月中には投稿したかった。
 神原の考えに重きを置いて書いてみたつもり。


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Chapter2 週刊少年ゼツボウマガジン
001 (非)日常編


 学級裁判の後。

 私は地上に上がると、その足で食堂へと訪れていた。その道中、先刻まで地下で行われていた学級裁判のことを思い出す──

 

 疑いの矛先を互いに向けあう、誰一人として望まない不安と恐怖に(まみ)れた議論。

 オシオキとは名ばかりの、惨忍で、悪逆な、それでいて悪意に満ちていた非人道的な死処刑。

 そして裁判中に響き渡る不愉快なクマの笑い声……。

 こんなシチュエーション、こんな体験、私は今生において経験したことがない。おそらくあの場にいる誰もが、今の今まで、この先の人生においてこのような場面に自分の身が置かれるであろうということを予想していなかったはずだ。そもそも予想だなんて出来っこない。予想を覆すというよりも、予想を破壊した結果がこの未来であるのだから、未だ来ない破滅的な最果てを予め想うことなど──そんなこと、誰だってできなかったはずだ。もしそれが叶ったとしても、この生活で味わう暴力的な衝撃から受け身を取れるほど屈強な精神を持つ者はいないはずだ。

 

 超高校級とはいえ。

 所詮はまだ、高校級なのだ。

 他と比べて格段と飛び抜けた才覚を表し、将来が有望であると期待されているだけで──まだまだ、子供なのだ。

 

 中にはオシオキを見てもなお冷静な態度を然としてとる者もいた。きっと彼らは、私よりかは大人なのだろう。地獄を味わってきた人間なのかもしれない。だが、そんな風に気取った彼らよりも圧倒的に多数派であったのは庶民派である私たちの方だ。悪夢のような悲劇奇劇に慣れてはいない。ともかくそれらの事柄は平和ボケした多数派である私たちにとって脳髄膜を焼き焦がすような思い出となる。

 初日、コロシアイの始まりを宣言されたあの時はまだ、実際に誰かが死ぬなんて思っちゃいなかった。ドッキリとさえ思案していた。だから心の中ではどこかで安心していたし、歓談を楽しむ余裕だってあるにはあった。むしろ毎夜毎夜死に怯え、神に願い、祈りを捧げるといった行為、信仰を行わなかったのは、被虐的な妄想をしていなかったからだろう。

 

 私が人の死に触れたのは舞園や桑田の死が最初じゃない、江ノ島だって、私たちの目の前で死んでしまった──が、彼女の心臓が槍で貫かれたのを見たわけでもなければ、首を刎ね落とされるというそれだけで死を意味するような光景を目撃したわけでもない。江ノ島の死に対しては、死という人が生きるにおいて必ず訪れる現象の結果である遺留物──つまりは遺体を目にしていなかったため、悲鳴を上げはすれどもピンと来ない部分があったからだろう。

 それだから、まだ安心していたいという気持ちが真実に気付きかけていた恐怖心に勝っていた。

 だからこそ、こうして間近で、恐怖という人間の本能に触れる感情を叩きつけられると……どうしても、打ちひしがれてしまう。血溜まりをこの目に映し、人がただの肉塊に成り果ててしまうところを見てしまったのだから、どうしたって網膜に焼き付いたその惨劇を(ないがし)ろにすることは不可能であった。

 私たちはただそこに立っていることしかできなかったのだ。

 ただ、見ていることしかできなかったのだ。

 頭の中が何かで強く圧迫され、なにかを考える余裕なんてなかったのだから。

 ただ、本能的に、そこにあろうとしていた。

 なにかをするのが怖かったのかもしれない。そこから移動するという、何処かへ向かって進むという前向きな姿勢が死にゆく彼らへの冒涜につながるのではないかと罪悪感を感じていたのかもしれない。

 または、一人になるのが怖かったのかもしれない。誰かと一緒にいるという状況こそが、彼らの今にも叫びそうになっている心を抑制し、繋ぎ止めていたのかもしれない。裁判場にいることが、そこに立ち止まっていることが、自身の本能から下された存在証明に繋がっていたのだ。

 

 だからこそ、私は、真っ先に体が動いたのだろう。

 

 動いていないときの方が少ないと言われても不思議とは思えないほどに駆動させてきたこの肉体は、私の脳から送られる伝達を待つことなく、彼等と同様に本能に従いその場から走り去ったのだ。ただその本能が下した存在証明が、彼等とは違っただけで。していること自体は……違いはない。

 いや、走り去った、なんて言い方は少しばかり表現を曖昧模糊なものにしてしまっている。

 私は逃げたのだ。

 どうしようもなくなって。

 この場の雰囲気にいたたまれなくなって。

 あの場所から逃げ出したんだ。

 私が本能で行なった逃避という行為について責め立てる人間は誰もいないだろう。誰だってあの恐怖から逃げ出したかったはずなのだから──ただ、私にとっての恐怖からの自己防衛の手段がその場所から逃げるということであって。そして頭よりも体が働く私が、たまたま足を動かすことができて、たまたま、逃げたいと体も感じていて……それだから逃避することができた。

 誇れることではないが、しかし良くやったと思いはする。

 しかして同時に、罪悪感と自責の念に駆られる。

 罪悪感を感じるだなんてただの自己満足に過ぎないのだと分かってはいるのだが、どうしてもそれは私の心を締め付けてやまない。

 

 責める者がいないなら、自身が私を責める。或いは幻聴となって現れる母が、私に言葉を聞かせる。

 

「逃げるのは悪い事じゃない。ただ、悪くないだけ」

「そんな、こと。言われなくったって、分かっている」

「いいや、駿河。アンタはなにも分かっちゃいない、アンタはただ、分かった気になっている道化だ。──そいつはきっと、無知よりタチが悪い」

 

 鈍痛が、脳の奥を襲った。

 気分なんて、良いわけがない。

 

 丁度タイミングよく扉が開いたエレベーターへ駆け込む。

 

 私は死というものに怯えていた。

 間近で触れた人の終わり。

 命を奪ったが故に奪われた命。

 殺人という罪に対する報復とはいえ、あまりに(むご)いその仕打ちに、私は嘔吐感さえ感じていただろう。

 目には目を、死には死を。ハンムラビ法典じゃあるまいし。

 吐くことができたなら、その場で吐いてしまいたかったとさえ思える。

 思えてしまう。

 行き過ぎた罰に、嫌悪の情を全身で感じてしまう。

 

 そうやって、ゲロインになりかけていた私は冒頭の通り食堂に向かっていたのだ。腹が減っていたわけではない。何か口に入れておきたいという食いしん坊な願望でもない。ただ、事実を確認したかった。

 バスケットコートの中を走るように厨房へ乗り込むと、()の一番に包丁が収められている戸棚を開けた。

 苗木の無実を証明するため調査していたときには一本欠けていた包丁セット……今、確認すると、それは全て揃っていた。過不足なく、何事もなかったかのように太々しい顔をして、包丁はフックに掛けられていたのだ。

 

 それを見るなり、厨房を飛び出し、食堂を抜け、寄宿舎の方にあるトラッシュルームへと向かう。

 そこもまた、先ほど見た景色と似たようなものであった。焼却炉が厨房に似ているという意味ではない。状況が、それが意味する日常という普遍的なシチュエーションこそが似ているのだ。

 普通に考えて日常的にガラス玉の破片なんて落ちているわけがない。

 血が滲み、焼け焦げたワイシャツの袖なんて論外だ。

 きっとこれだと苗木の部屋もそうなのだろう、と、私は壁に身を預け、ずるずるとそのまま床に尻餅をつくように座り込む。

 

 私たちが学級裁判をしている最中、モノクマはここいらで殺人の痕跡を血の一滴残さず消してしまったのだ。文字通り、血の一滴も残さずに。

 感傷に浸る間もなく、悲しみに暮れる暇もなく、まるで今回のこの事件が空想であったとでも言いたげな焼却炉を視界から排斥し、小さく唸る。

 怒りを覚えずにはいられなかった。

 日常とも言えない今の私の日常が憎いとさえ思えた。

 遣る瀬無い気持ちが心臓を満たす。

 

「これじゃまるで、なにも、起きてなかったみたいじゃないか……」

 

 誰にも聞かれることのないような声で、誰にも向けていない言葉を言った。

 そこにあるようにしてある()()が、憎かった。

 

 暫くそのままの状態でいたかったが……やけに重たく感じるこの体を起こし、そして硬く握った拳で焼却炉の鉄格子を怒りに任せ力の限り乱暴に殴りつけた。物に当たることはあまり無いため、この暴力的な行動に自分でもビックリしている。

 自然と、利き手である左手──すなわち、猿の腕と化してしまった左腕で、鉄格子を殴ってしまっていて。

 けれども、それでも、怒りの捌け口となった鉄格子は、ただ私の左腕に呼応し揺れる程度だろうと……そう、殴りつけたときには思っていた。けれども、現実はそうではなかった。

 どうしてか鉄格子は、バキン、という甲高い金属音を発しながら、折れてしまったのである。

 私の腕の骨が、ではない。

 鉄格子が、折れたのだ。

 それにこのタイプの鉄格子だと一本折れるだけなんていう器用な真似はできない。その周りにも波紋が広がるようにして、まるで化物(バケモノ)が行なった破壊行為のように捻じ曲がり、硬い金属でできた格子は波を打った。

 

「……っ!?」

 

 まるで車が突撃したかのように轟音を立てながら形を変えていったそれを見て、思わず後退りしてしまう。目と鼻の先で発生した瓦解的な変化に理解が追いつけなかった。

 この非日常的な現状を目の当たりにしてか、頭の中は思考回路を絵の具で塗りつぶされたかのようなってしまい、なにも考えることができず、そのときは一種のパニック症状に陥っていた。けれどもそんな中であっても理解が出来たのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()ということである。

 私の腕力はそれなりに力強い方だとは思うが、それでもあくまで一般の範疇に収まる程度なのだ。だからこんな一般的とは思えない自体になるはずがない。まず考えてあり得やしない。

 だが、明らかに普遍的ではないこの猿の腕が、非普遍的な結果を招く……それ自体は然程不思議ではなかった。

 それ(左腕)それ(猿の左腕)であることは非日常的だ。けど、それ(猿の左腕)がこのような非日常を招くということ自体は、それは極自然的なものであると言えるだろう。

 あまりにも謎に満ちた異質なものであるから。

 それがどんな結果を生み出そうとも不思議ではない。

 近所の中学生がボールを投げて一四〇km/hを出そうものならメディアが騒ぎそうなものだが、プロの野球選手の投球速度が一四〇km/hで球界が震えることはないだろう。

 だから私はこの猿の左腕が鉄格子をこのような形状に変化させてしまうほどの力を持っているのだという事実をすんなりと飲み込むことができた。漫画の読み過ぎだ、中二病(高校生)だと嘲られても文句は言えないが、しかしこの漫画のような状況と漫画のような腕を前にして、それでもなお、私に文句が言える人はいないはずだ。

 

 慣れだ。きっと感覚が麻痺してしまっているのだ。だから私は、この異常が異常を呼ぶ状況に疑問や恐怖を感じない。

 夢であってほしいと願えるこの環境下で、悪夢のような左腕が、白昼夢のような出来事を起こしたというのだから。

 更におかしなことが起きても不思議じゃない──そうやって考えることを放棄し、それはそういうものなのだと腹の中に飲み込んでしまった私は、もはや手遅れであると言えるだろう。

 

 けれども。

 それは、()()()()から生まれたが故の論理であり、私自身が平々凡々な一人間の規格に収まる人間である以上は、どうしたってそこに軋轢が発生し、然るべくして溝も生まれる。

 その溝は並大抵の努力で──また、この刹那的な時間で──埋められるほど浅いものではなかったようだ。

 さっき腹の中に飲み込んでしまった──と表現したが、例えば魑魅魍魎の類を飲み込んだところで、ただの人間である私はそれを消化することもできずにただ腹わたを貪られて死んでしまうだけだろう。

 だからこそ私は驚いたわけだし、この左腕に驚きを隠せずにいた。

 でもその驚きも、表面に色濃く出ていたものではない。少し退いてしまっただけなのだから。

 つまり私は──異常に染まり始めてしまったとでもいうのだろうか。

 ともかくこの異常的な生活で麻痺していた感覚というものを、改めて異常な事柄をぶつけられることにより少しは取り戻すことができた気がする。

 こういうときにするべきことは落ち着くことだ。

 監視カメラがある以上、この行為がモノクマに露呈してしまっていることは明白だろう。だが、このことをみんなに知られるわけにはいかないと察する。

 この鉄格子の有様と私を関連付ける者はいないだろうが、猿の腕が関わってくるとそれもまた別だ。

 

 とにかく私はこの場から離れようと寄宿舎へ繋がる扉に手を掛けようとした。がしかし、ドアノブに伸ばされた手は思わぬ形で空を切ることになってしまった。

 

「なにか、大きな音がしたけど」

 

 突然姿を現した霧切を前に、不可抗力とはいえ物を壊してしまった後ろめたさからか、思わず左腕を後ろに隠してしまう。

 私より早く扉を開けた霧切は私の背後を気にするような仕草をした後、トラッシュルームの中に入ろうとした。それを遮ろうと腕を出すが、左側を通る彼女に対し左腕を使って制止を行うというのは──さっきのことをどうしたって思い出してしまい、彼女を傷つけてしまいそうで怖かったからだろうか──躊躇ってしまう。結果左腕と比べて遠くにある右腕を伸ばすことになり、結局それは意味をなさず霧切が部屋の中に入るということを止めることはできなかった。

 

「あっ、ちょっと」

「これは……」

 

 既に中に入ってしまった霧切は、裁判前と比べると大きく変わり果ててしまった鉄格子を目にしてしまっていた。見られてしまった、という思いとともに、私はこの状況に対する言い訳を考えつつあった。

 

「何かあったの?」

「いや……そう、私が来たときからこうだったんだ。なにか、あったのかもしれない」

「…………」

 

 霧切は間を置いた後、「そう」と一言、言って私の方に振り返る。

 

「ねえ、話があるんだけど。いいかしら?」

 

 ツンとした冷たい表情で霧切は言う。表情だけでなく、態度にもその冷たさは顕著に現れていた。

 ちなみに彼女は裁判でも冷静であった少数派である。過去になにがあったのかは知らないが、記憶が無いと言っている以上、なにやら深い事情があることは明らかだ。

 そんな相手に訝しんだ思いを抱くことは自然的であったが、それを表に出すことは良くないと考え、あくまで私は友好的な態度を示した。

 

「別に構わないが」

「そう。あまり人に聞かれたくないことなんだけど……まあ、まだみんな裁判場に居るでしょうから今ここで話すわね」

 

 ああ、と答えを返そうとするが、それを待たずに霧切は話し始めた。

 相談というわけでもないらしく、またなにか私に警告をしたいというわけでもないようで。彼女と接点を持ったことがないため、そして彼女自身が誰かと会話をしているという状況をあまり見たことがないからか、いったいその口からどんな言葉が飛び出してくるのかは未知数だ。

 

「薄々気付いていたかもしれないけれど、今回の事件の真相は、裁判で明かされたものとは違うわ。結果的に桑田くんがクロだって分かったから、モノクマは何も言わなかったみたいだけど……」

「苗木の推理に間違いがあったっていうことか?」

「そうなるわね。クロを特定する、という点においては正しいものだったけど。事件を明らかにするという目的で推理を行なっているのなら、あれは……間違っていることになる」

「…………」

「別に苗木くんが間違えていることを責めるつもりはないんだけど」

 

 霧切は少し、曇ったような表情をする。

 なにか思うところがあるのだろう。

 

「まず今回の事件では桑田くんが舞園さんを襲った……ということが事件の真相の一部として語られていたけど、それは違う。舞園さんが、桑田くんを殺害するために部屋に招いたのよ」

「……それはそうだろう? だって、舞園は自分の命を狙う輩を返り討ちにしようと──」

「違うわ。舞園さんは自分の身を守るために人殺しを決意したわけじゃない……いいえ、自分のためという点では同じかもしれないけれど、でも別に恐怖に怯えて殺害を企てたっていうわけじゃあないのよ。舞園さんは結果こそああなっちゃったけど、あくまで加害者……だって、不思議に思わない? 部屋のネームプレートが入れ替わっていて……怯えていたはずの舞園さんが夜時間に人を部屋に入れて……包丁まで、用意していたのよ」

「……まるで舞園が人殺しをするために苗木に嘘をついたみたいに言うんだな」

「そう言ってるのよ」

 

 溜め息をつくように霧切は言葉を吐いた。

 少し不服に思うところはあったが、それをぐっと抑え、話を聞く。

 

「結論から言うと、舞園さんは苗木くんに罪を被せようとした。部屋を交換したのだって、夜、部屋の前に来た誰かに怯えていたからじゃない。苗木くんの部屋で桑田くんを殺害することで、彼にその罪の全てを擦りつけるため」

「聞き捨てならないな。それはあまりにも酷いんじゃないか? 舞園は死んでしまったが、死者に対する侮辱の言葉を見過ごすほど、私は腐っちゃいない!」

「……これを見て」

 

 そう言って霧切が私に渡したのは、一面が黒く塗りつぶされた一枚のメモ用紙だった。

 おそらく、筆跡を探していたのだろう。古典的なやり方だが、しかしその効果はしっかりとした痕跡を残してその紙に刻まれている。白く浮かび上がった文字は、誰かが誰かに対し部屋に来るようにと呼び出しをしている文章を象っていた。

 

「これは……」

「苗木くんの部屋──つまりは現場から見つかったものよ。部屋に備え付けられているメモ用紙なんだけど、あの夜に部屋にいた人物が舞園さんだったという状況から察するに、きっと彼女が書いたものね。そして恐らく宛先は──」

「……桑田、か」

「そうなるわね。まあこれが私が書いたものかどうか疑っているのなら、苗木くんの部屋に行って残っているメモの束と切れ目を合わせてきたら良いんじゃないかしら?」

 

 もしこれが本物だというのなら、そして霧切の言うことが真実だとでもいうのであれば、確かに、あの不思議と入れ替わってしまっていたネームプレートにも合点が行く。

 このメモに書かれた『ネームプレートをよく見て部屋に来てくださいね』というのは、つまりは電子生徒手帳ではその時舞園がいた部屋と実際の舞園の部屋は違っていたため間違えられないようにするための対策だったのだろう。

 けれども、そうだとしても信じられない。

 あの弱々しい一人の女の子であった舞園が、自分から桑田を部屋に呼び、そして殺害しようとしていたなんてことは、私にとって到底考えにくい話であった。

 

「信じられないかと思うけど、でも、人間っていうのはそういうものよ。私は知っている。人は状況さえ揃ってしまえば簡単に人を殺してしまうんだから」

 

 それは、桑田にだって当てはまる話であると言えるだろう。彼には別に、動機なんてなかったはずだ。誰か人を殺そうと、その好機を虎視眈々と狙っていたわけではない。外に出たいと、この悪趣味なゲームから離れたいと願うことはあれども、されども人殺しを行うほど彼の心は悪色に染まってはいなかったはずだ。

 けれども舞園に襲われるということで、そしてそれを返り討ちにしてしまったことで。昂ぶってしまった気持ちを抑えられずに殺意の篭った包丁を突き出してしまったのだろう。

 舞園だって、例外じゃない。

 私だって、同じなんだ。ただ状況が揃わなかっただけで──

 けれどもそれを認めてしまうことは、苗木が裏切られたということを認めてしまうことにも繋がってしまう。

 

「……彼は知っておく必要があるの、これから起こるであろう裁判を乗り越えていくためにも……この事実を知っておく必要が。なんでかは分からないけど、そう、思うの」

 

 珍しく感情のこもった声で霧切は力強く言った。

 握られた革製の手袋は、闇のように深い皺を作っている。

 

「なんでそんな話を私にするんだ……? それは、苗木本人にするべきことじゃあないのか?」

「私は彼とそう仲は良くないけど、あなたはそうじゃない。他人から冷たく突き出された真実よりも──身内から送られた言葉の方が、心に響くときだってある。それにきっと、彼は少しだけれどもこの事実に気がついてしまっている。だからあなたに……その輪郭が蕩けた考えを確かなものに変えてあげて欲しいの」

 

 真実の皮を被った偽物を破壊し──その影に隠れた本当の出来事を、苗木に伝える。

 いくら苗木が薄々勘付いているとはいえ、それはなかなかにどうして酷な役回りだ。

 

「厳しいな」

「でも、やるべきことよ」

 

 私はどうしても、自分でやれば良いじゃないかという一言が出せないでいた。

 霧切の善意を踏みにじる気がしたからではない。

 苗木の哀しそうな顔を見たいからでもない。

 ただ、責任感や義務感を感じたのだ。

 これは私がしなければいけないのだ、するべきことなのだという思いが強くなり始めたのだ。

 

「……分かった。頃合いを見て、話してみる」

 

 それがいつになるかはまだ分からないけれど、その責任を背中に背負いはした。

 霧切から、私へ。

 その責務は受け渡された。

 

「──そうそう、後で食堂に集合することになっているんだけど」

 

 立ち去ろうと私の横を通った霧切は(良い匂いがした!)、思い出したようにそう言った。

 

「今日は、少し疲れた」

 

 朝起きて、舞園の死体を見つけて、休む暇もなく捜査が始まり、そして学級裁判──今思い返せば、心が休まった瞬間なんてほとんどなかった。

 今日はもう、寝てしまいたい。

 布団でぐっすりと、惰眠を貪りたい。

 なにもかも忘れて、夢の中に堕ちてしまたい。

 そんな私の様子を察してだろうか、霧切は私の方を振り返ることなくそのまま食堂の方へ歩いて行きながら「分かった。私からみんなに説明しておくわ」と言ってそのまま角を曲がっていった。

 

 再び一人になることで、安堵感というものが堰を切ったように溢れ出てきた。

 その幸福感は、背徳的なもので。

 冬の日の温もりのように、決して離したくないものだった。

 

 部屋に戻った私は扉をくぐってからすぐ足跡を残すように服を脱ぎ、布一枚纏わぬ姿でベッドに飛び込んだ。

 左腕を縛る包帯も、取っ払う。

 布団に顔を埋め、強く強く握り締め、壊れてしまいそうなくらいに抱き締めて、そして、不甲斐なさを感じた。



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002 (非)日常編

 翌朝、私は不本意ながらも朝時間を知らせるアナウンスで目を覚ますこととなった。

 普段常日頃から走り込みやストレッチなどの軽い運動を行うため朝は早くに起きるようにしていたのだが、今朝ばかりはどうにも体が起き上がらず、いかんせん精神面での疲労もあってのことだろう、いつもなら早くに目を覚ますところをそれよりも大分後の──つまるところ朝時間が始まる時間帯に、私は目を覚ましたのであった。

 普段通りであればきっと、私は生活習慣により朝時間を知らせるアナウンスよりも早い時間帯にその日の活動を開始していただろうに。

 早朝の起床が私の日常であり、その日一日を生きるにおいての肝心なスタートダッシュだと言えるのだが……その習慣が乱されたことに憤りとまでは行かずとも、出鼻を挫かれたようで不快感を感じずにはいられなかった。

 朝時間を迎えるまで眠ってしまっていたのは太陽の光が届かないこの劣悪な生活環境のせいであると言えるのだろうし、ここ最近、走り込みを行わずバスケの練習ばかりしていたからか生活のサイクルそのものが乱れ始めていたのかもしれないが(バスケの練習といっても、履物が専用のシューズではないので十分に満足のいく練習というのは出来ていない。今履いている靴は結構お高めの運動靴なので、別に運動に適していない靴というわけでもないんだけど──新学期にあたり新調したばかりのはずなのに、何故だかもう靴底がすり減ってしまっているので期待通りの動きができるとは言うまい。ハッキリ言って既に買い替え時である。結構な頻度で靴を新しくする私ではあるけど、今回ばかりはあまりにも早すぎると不思議で仕方がない。この左腕より不思議なことはないにしても)、しかし、なによりも最大の原因であるのは、火を見るよりも明らかに昨日の出来事だった。夜かどうかは分からない。ひょっとすれば昼の出来事だったのかもしれないが、それを明確に判断する基準はこの学園には存在しないため、仮に夜であると定めておきたいと思う。

 もしこの閉鎖空間に時計があったとして、極論それが合っているのかは分からないし──案外、私たちが朝だと思っている今は、外では深夜の時間帯なのかもしれないけれど。今日まである程度いつも通りの時間帯に起きていたであろうから、生活リズムがその際に正常に働いていたというのであれば時計の時間が合っているのだろうという推測は出来なくもないのだが……。

 疑心暗鬼の泥で浸されたような今の状況で唯一の味方である自分自身を疑い始めてしまうと何を信じていいのか分からなくなってしまいそうだから、あまりそこら辺の時間帯は考えないでおくことにしようと思う。生活リズムまで疑いだしたら、ほんと、キリが無くなる。

 本当にキリがない。

 

 ともかく、昨日の出来事だった。

 昨日あったことだった。

 涙無しでは語れない──なんていう安い口上を述べられるような出来事ではない。たった一日で三人もの人間が死んでしまったというのだから、どうしたって言葉は選ばなければならないと自然に意識してしまう。十六人という人数の中で三人というのは、なかなかにして多い。およそ五分の一、──人類人口がとうとう七十億人を突破した昨今の人口事情であるが、そのうち十四億人が死んでしまったのだと言われるとことの大きさが感じやすいと思う──この閉鎖的な世界における総人口十六人のうち三人が死んでしまった。

 それもただ死んだわけでなく(ただ死んでも大問題だけど)コロシアイという非日常的な妄想めいたシチュエーションに巻き込まれての死だ。現実は小説よりも奇なり、というけど、それになぞらえていうのなら、現実は小説よりも非情である。いつだってそれは残酷で、どうしようもない現実を打ち寄せる波のようにして私たちに迫ってくる。現実に対して傷心中の私たちを少しは気遣えというのはあまりにも荒唐無稽な話だけど、土台無理な要求をしたくもなるほど──胸の内から叫んでしまいたくなるようなほどには、私の心は乱されていたりする。

 結構辛い。

 

 こんなとき、走りにでも行けたらいいんだけど。

 どこまでも走って行きたい。明後日の方向でもいいから、不安も恐怖もない地平線の彼方まで──

 

 しかしつくづく現実っていうものは、私を追い詰める。

 いつかは逆に、追いかけ回してやりたいものだ。

 そういうときの私は大人気ないぞう。

 今時擬人化されていないものの方が少ないであろう昨今のインターネット社会において、きっと現実ってやつもその魔の手から逃れられず毒牙にかけられていることだろうから、現実がとびっきりの美少年か美少女に変わっていることを想像してみれば、そうすればなんだかやる気が出てきた気がする。美少年や美少女に追い詰められる人生というのは、なかなかにアリかもしれない。

 

 走れない理由として、思い切り走れる場所がないというのもあるが……それを除いたって、今朝ばかりはどうもそうはいかないらしかったのだ。

 

『オマエラ、体育館にお集まりください』

 

 そういったアナウンスが朝時間を知らせるそれと同時に流れてきたというのだから、満足にできやしないであろう朝の運動よりもそちらを優先させるべきであることは明白であった。

 それでもまあ。

 心なしかは、走るような感じで。

 私は体育館に向かったのだ。

 

 アナウンスが流れてから目を覚ましたため、他のみんなと比べて移動を始めた時間帯はだいぶ遅く、道中を駆け抜けたとはいえ既に彼らは体育館に集まっていた。……人数がいつもより少ないからだろうか、これで全員なのだということに実感がなかなか湧かない。それでもその現実を無理矢理にでも飲み込んで、彼らの群れに混ざる。

 

 無意識に探していた彼の影を見つけ、そちらにゆったりとした歩幅で近付いた。

 

「苗木、なんだか石丸がいつにもまして元気じゃないか……? とても血色が良いというか」

「ああ……、モノクマがさ。モノクマラジオ体操っていう朝のラジオ体操みたいなものをやっててね。……石丸クンだけ参加していたものだから、多分、彼だけ体が暖まってるんじゃないかな?」

「なるほど……モノクマラジオ体操?」

 

 こうもド直球に自分の名前を入れるとは……ツッコミを入れずにはいられなかった。ひょっとすればモノクマは、自己主張が激しいタイプの人間(熊?)なのかもしれない。

 

「モノクマラジオ体そ……ラジオ体操は、まあ、毎朝やるわけじゃあないだろうけどさ……。体育会系の神原さんが『血色が良さそう』って、見た感じ気付く程度に効果はあるのかな? ……モノクマってさ、変なところで手が込んでるよね」

 

 『モノクマラジオ体操』をわざわざ『ラジオ体操』に言い換えるあたり、苗木はモノクマの名前を言うのに少し抵抗があるようだった。

 魔法界よろしく名前を呼んではいけないあの人ほどではないものの、温厚な彼でも少なからず嫌悪感というものは抱いているらしい。

 

 モノクマラジオ体操、もといラジオ体操でかいた汗を拭いながら、モノクマは(機械が汗をかくなどあり得ないので──排熱用の液体と考えればまだ無理はないが──全く無駄な動きにしか見えない)肩にスポーツタオルをかけて壇上へと登壇した。

 

「ふう~。全くオマエラったら、すっかりインドアな生活になっちゃって、運動不足で生活習慣病になりかねないからね。こうやってラジオ体操をするのも、たまには悪くないよね」

 

 どこか機嫌の良いモノクマは、肩を反らせ真っ直ぐと立っていた。

 このときの私たち生徒側の気持ちを総じて述べるのであればそれはきっと、嫌悪や憎悪、または呆れというものだろう。ただでさえモノクマが関わってきた事象で私たちは希望やら幸福なんかを見出せたり感じることができたことはなかったというのに──むしろかえって、平穏を乱すものばかりであったのだから、こうして体育館に……モノクマという、今現状この施設内で敷かれている殺人ゲームの首謀者と一緒の空間にいるというのは、シンプルに言ってストレスだった。呼び出されたということは、もちろんその呼び出した本人がその場に現れることは火を見るよりも明らかであったのだが、それでも嫌気というものは嫌々でも差してしまうものなのだ。

 (いか)ることが出来る理由があって。

 そのフラストレーションを放つ対象は目の前にいて。

 ──復讐や仇討ちをするには十分すぎるほどにお膳立てされた構図のそれは、私たちの首を真綿で絞めるかのように苦しめるのだ。超高校級のギャル、江ノ島盾子がモノクマに反抗した結果ああなってしまったことを目にしてしまった以上──怒りに身を任せようにも、感情に揺さぶられようにも、無謀としか形容することのできない行為に身を躍らせることはできない(実際、そういう屈辱の感情を私たちに抱かせることがモノクマの狙いだったりするのだろう)。

 自身の命を守る自制心というものは更に、昨日の出来事で強まってしまっていた。自制どころか、半ば諦めの心が生まれ始めていたというのが実際のところだろう。完全に諦めたわけではないが、けれども、そんな言葉だってただの強がりのようにしか聞こえない……。

 昨日、あの裁判後に漂っていた暗澹たる雰囲気からして、そこはかとなく私たちは絶望を味わい……心の拠り所であった微かな希望も、暗闇の向こう側に見える六等星も、あの夜彼らの命とともに砕け散ったのだろうと安易に想像がつく。

 砕けて、粉々になって、風に飛ばされて。

 反抗心やら自尊心なんかが一気に折られて。

 

 現実逃避に夢中で目に入らなかった──入れないようにしていた現実を、心のドアに叩きつけられた。

 

 それが多数派であったはずだ。

 もちろん、多数があれば少数もある。コインに表があれば裏があるように──メビウスの輪やクラインの壷は例外として──そうでない人物も何人か居ることにはいるのだが、そいつらだって、私たちが抱いているような希望とはまた違う種類の何かを抱えているように思えて仕方がない。むしろそうだからこそ、多数派と違ってさほどダメージを受けた様子はみせないのだろうけど……ただ、違うにしたって、そのベクトルが非常に危ういと私は感じている。

 特に十神なんかは、この狂気満ち溢れるイカれた監禁生活をゲームとして楽しんでいる節がある。彼にどんな過去があったのか、私には預かりしれないが、その危険思想と言える危うい考えを個々人の個性として看過することは決してできない。関わるべきではないのだろうが、しかしこれから先、必ず衝突する場面は訪れるのだろうと思うと気が重い。

 霧切は……あいつは、私からはよく分からないといった所見しか述べることができないが、得体の知れないというのはいつの時代だって畏怖の対象である。悪いやつじゃないんだろうけど、かといってそれで良いやつなのだと心置きなく接することは自身の破滅につながるということは知っている。

 人と親しく話しただけで破滅につながるだなんて、良い歳して中二病でも拗らせたんじゃないかと嘲笑の的になりかねないが、こんなコロシアイなんていうそれこそ中二病の白昼夢みたいな状況に身を置いている以上、私は苦笑いだってできやしない。

 

 誰にだってフレンドリーで、明るく話せるというのが中学校時代の私の強みだったような気がするけど、そんな、面接でみんなが潤滑油の次に決まって言いそうな特徴はすっかりなりを潜めてしまっている。

 

 ……ダメだな。どうにも、考えが悪い方悪い方へと向かっている気がする。

 バスケでも経験したことだけど、負けを意識するということは──すなわち死を意識するというのは、その最悪の結果を自身に招きかねない。最悪を想定して、最悪より少し良いなんていう結果を迎え、「ああ、良かった。()()ならなくって」と安堵するのは……今までは最悪の結果というのがまだ試合での敗北であったりしたから良かったものの、「死」という最悪極まった結果から少し良いだけの結末なんていうのはどう足掻こうとあまりに残酷な未来でしかないだろうから、「ああ、良かった」だなんて安堵は出来やしない。それこそさっきの表と裏の話のように、最悪の反対は最高なんていう単純な話であれば良いのだが──この場合、表が出るよりも、裏が出るよりも、コインが立つという有り得ない状況がもっとも出やすいことだろう。

 なにせ既に場は異常なのだから、実際無重量下でコイン落としをするようなものである。鬼と蛇がいっぺんに出てくるようなことになりかねない。

 

 故に、弱いままに最悪だけを回避するなんていう思想は、その考えこそが最悪のそれなのだ。

 強くなくったって良いから──せめて、そうあろうとする姿勢だけは持たなくては。

 姿勢さえ良ければ、中身だって誤魔化せる。

 人の考えてることなんて、他人からすれば分かりっこないのだから──

 

「苗木クンなんかは、ちゃんと運動した方がいいんじゃない? 身長伸びないよ」

「なっ……! 余計なお世話だよッ」

「とてもとても、ボクは心配なのです……高学歴、高収入、高身長……所謂『サンケー』が重視されるこの世の中で、苗木くんは生きていけるのだろうかと……」

「…………ッッ」

 

 将来を案ずるだなんて……コロシアイを強要しているやつの言葉とは到底思えないけれど。

 しかしどうやら苗木はとても深いダメージを負ったらしく、さっきまでモノクマの白黒ボディを鋭く刺していた眼光は、その小さな肩が下がるのと同時に目の奥へと引っ込んでいた。

 

「苗木、気にすることはないぞ。確かにお前は身長が低いが、高収入くらいならなんとかなるんじゃないのか……? ほら、宝クジとか」

「宝クジとか、そんなのもう、無理って言ってるようなものじゃないか……っ」

「いやいやっ、も、もし収入がないとしてもだ。希望ヶ峰学園に入学した時点でほぼ頂点と言っても良いくらいの高学歴だろう?」

「その希望ヶ峰学園に通う前に死んじゃいそうなんだけど……」

 

 生気のない、今にも消え入りそうな声で苗木は言った。

 むぐぐ、恐るべし、「サンケー」。

 

「えーまず、昨夜の学級裁判、大変良く頑張りました。コロシアイなんて初めてだろう平成生まれのオマエラにしては、初々しくも醜い殺人ができたと思います。そこで、ね。これからも伸び伸びと健やかなる殺人をしてもらうために、グラブジャムンより甘いオマエラにご褒美を与えたいと思いますッ! ま、言うなれば達成報酬のようなものだよ、一つの学級裁判を乗り越えた、達成報酬」

 

 アーッハッハッハ、と、体育館中に広く響く三段笑いを見せたあと、モノクマは目の奥を怪しく光らせ、その達成報酬と称した新要素の内容をつぶさに語った。

 

「要はね、二階の開放だよ」

 

 二階。二次元的な今の状況に現れた縦軸の新たな三次元的概念の環境に、思わず息を飲んだ。

 私自身、シャッターが閉まった階段があるなと二階を意識してはいたのだけれど、それはそれで、閉まっているものなのだと──つまり、その上には見られて困るものがあるから閉ざしているのだと解釈していたものだから、だから、二階に行くことができるというのに内心驚いていた。

 

「RPGみたいで分かりやすいでしょ? 一つの学級裁判を終える度に、その都度一つづつ新しいエリアが解放される──学園内でのマンネリ化を防ぐっていうのもあるけど、僕は残酷なだけであって冷酷ではないからさ。どっかの財団とは逆なんだよ、逆。だからちゃあんと娯楽だったりリフレッシュする要素は与えるんだよ」

 

 残酷も冷酷も似たような言葉だとは思うが……どこにどう相違点があるにしろ、モノクマが私たちにコロシアイ生活を強要していることに違いはないし、既に犠牲者が三人出てしまっている事実も変わりない。

 彼らとは短い付き合いだったとはいえ──私はその事実に悔しさを感じずにはいられない。だが、その雪辱を晴らすことは、今の私には到底出来ない。

 

「うん、うん。とにかくだよ、新しいステージでバシバシ殺人のインスピレーションを燃やして欲しいんだ! 新しい環境は脳に良い影響を与えるって、ばっちゃが言ってたからね!」

 

 そう言って、モノクマは暗幕の奥へと消えて行った。

 

 新たな生活の場が増えるというのは喜ばしいことだったが……しかし、人が死んでしまっていることを考えると、素直に喜ぶことはできない。それでも悔しいことに好奇心というものはいつだって人の心に住み着いているもので、気分こそ落ち込み気味であるものの行ってみたいという思いはどうしても湧いてきてしまう……。

 体育館に残された私たちは逸る気持ちを抑えつつ、なるべく冷静な態度で話し合った。話し合うといってもいつもの通り「探索後、食堂で報告し合おう」といった約束が結ばれただけだったが。

 コロシアイ生活初日、みんなでこの施設内を探索したことを思い出さないでもなかったが(苗木は気絶していたけど)、あの時とは違って、少し手慣れた感じも生まれてきたような気がする。初めて施設を見回ったときと事件を捜査したとき、二度も探索という行動を行なったのだから、否が応でも慣れてしまうというのは当然といえば当然であるのだが……そのことが、私は怖くもあった。

 慣れとは、本来怖いものなのだ。

 友人曰く、コンタクトレンズを初めてつけるときは、眼球という人間にとっての急所にレンズという異物を取り付けるわけだから、そりゃ当然のように最初の頃は抵抗心があったのだという。コンタクトレンズを付けるのに鏡と睨めっこをし、痛みを覚えながらもなんとか両目にレンズを付けていたのだとその苦悩を聞いた。けれども今ではすっかり()()()、最初の頃と比べれば素早く取り付けが可能になったと言う──慣れというものは、体に備え付けられていない機能を持つ道具をたくさん使う現代社会において、もはや必須ともいえるスキルだ。慣れているからこそ自転車に乗ることができ、慣れているからこそ毎日のように仕事をこなすことができる。()()という必須スキルを身につけていないと、まともな生活はまず送れないことだろう。パソコンのタイピングはおろか、下手すれば交通手段すら使えない。

 生活に慣れるというのもまた大切なことだ。その点私は生活に慣れるということに過去、失敗しているのだが──けれども、このような異様な生活に慣れてしまうのは──大変危険だ。ゆくゆくはみんなから危機感が失われてしまうことだろう。

 疑心暗鬼のままの状態を良しとしているわけではない、かといって、みんな仲良くという幼稚園で習うような倫理を彼らに要求しているわけでもない……ただ、争いが起きなければ良いと思っているのだが、危機感という感情が心を占めているうちはともかく、そのうちそれに慣れてしまい、心に余裕が生まれたら──次に心を占めるのは、不満であったり怒りといった不平不満だろう。

 その矛先がモノクマにでなく、お互い味方であるべき人物に向けてしまうことこそが恐ろしい……。モノクマに刃向かうことが自滅に繋がるということを江ノ島の死で知ってしまった以上、そうなってしまうことはもはや必然的であると言える。

 訪れるべくして訪れる、決定的な未来だ。

 

 ……皮肉だが、人が死ぬということで恐怖心が高まったのは確かなことだ。いつもなら顔を合わせていただけで揉め事だって起きていただろうに、昨夜あのようなことがあったからだろうか、いつもあれこれ言い合っていたイメージがある十神や大和田、朝日奈なんかは今朝ばかりは言い争いをしていなかった。私は体育館に行くのが遅れていたため、それまでの間に喧嘩が勃発していた可能性もあるけれど、私が到着したときにはそういうピリピリした雰囲気ではなかったように思う。感情が表に出やすい大和田と朝日奈は、特に苛ついた様子もなく、不安そうな……または、いじけたような態度であったし。

 たまたま今朝、何も衝突することがなかっただけ──そう解釈することもできなくないが、それよりもずっと考えられるのは先述した恐怖による抑圧である。

 しかしそれすらも慣れてしまえば……また、殺人が起こりかねない。

 それで一時的に恐怖を与えられたとしても、それでも一時的……。麻薬と同じで、一時的な平穏しか訪れない。どんどん恐怖に対する抵抗力が生まれてしまう。こうなってしまえばそれはもはや慣れではなく、麻痺だろう。

 今はそのようなことになってはいないけど……けど、いずれそうなる。

 もう二度と殺人が起こさないなんていう戯言を言う口は、私にはついていない。

 殺人を起こさないのではなく──殺人が起きる前に、なんとかしなければ。

 そのなんとかができれば苦労しない。

 

「神原さん、一緒に探索しようよ。実は探索って今回が初めてで」

「ああ、別に構わないぞ。そういえば苗木は最初の探索のときは気絶していたからな、探索のいろはを教えてやろう」

「や、やけに自信たっぷりだね。もしかしてこの生活が始まる前にも、似たようなことしたりしたの?」

「まあ、似たようなことはな。物はよく探すんだ」

「忘れっぽいんだね」

「いや、別に物を失くしてるってわけじゃないんだ。ただ、本当によく探すだけで。ちょっとばかし部屋に荷物が多いものだから」

「? あんまり変わらない気がするんだけど」

「一緒に探索するんだろう? これは私の経験則だが、目は多い方が良い。今まで一人でどれだけ苦労してきたことか。爪切りなんて何度新しいものを買ったか覚えていない」

 

 ひとまず私は、電子生徒手帳のマップを確認した。一定のロード時間ののち、マップが更新されているのを認めて、どこから探索しようかと牧歌的な思考で考える。

 

「水連場に、図書室、か……朝日奈や、腐川なんかが喜びそうなラインナップだな」

「そうだね……はは、でもどうしてだろ、腐川サンが喜んでるところ、想像できないや」

「言われてみれば、うむ、確かに私も想像がつかない……一口に本といっても様々なジャンルがあるからな、あいつが好きなジャンルばかりというわけにもいかないだろうし──案外、朝日奈あたりが文学少女だったり」

「それはないんじゃないかな」

 

 やけに否定が早い苗木とそんなことを話しつつ、私たちは二階へと赴いた。二人共々、水連場と図書室のどちらにも強い興味を示さなかったため、先に階段から近い位置にある水連場へ行くことにした。



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003 (非)日常編

 同時に二話投稿しています。「002」がまだの方は、お先にそちらをお読みください。


 水連場と銘打たれたネームプレートの下にある扉を開けると、朝日奈、セレス、不二咲の三人がいて、どうやらプールが解放されたことに喜んでいる朝日奈の話を二人が聞いている……という構図らしいかった。珍しい組み合わせだなと思いつつ、話を聞いてみる。

 

「すごいんだよ! いっぱいトレーニング器具があってね、プールがあってね! んもう、ずっと狭い思いだったから、ようやく羽が伸ばせるよっ」

「まさに水を得た魚、ですわね。羽を伸ばすのなら鳥ですが……それにしてもプール。わたくし、水泳の授業は日陰に座ってレポートを書く人種なので、こういう場所はとにかく縁がないといいますか……」

「えーっ、もったいない! せっかくなんだから、一緒に泳ごうよ! 不二咲ちゃんも、神原ちゃんもさ。苗木は……泳げる?」

「泳げるよッ!」

 

 苗木は先の「サンケー」を未だに引きずっているらしく、柄にもなく声を荒げて言葉を返していた。

 突然の大きな声に不二咲が背筋を硬直させていたのを見逃す私ではなかったが、朝日奈は特に気にした様子もなく話を続けた。

 

「とにかく泳ごうよ! ね、ね? きっと楽しいよ!」

「ぼ、僕は……水着、着たくないかなあ……」

 

 朝日奈から目をそらすように後ろめたい表情で遠回しに誘いを断る不二咲に、便乗するようにしてセレスも自身の意見を述べる。

 

「わたくしもこの服を脱ぐのはあまり好ましく思えませんので、せっかくお誘いいただきましたが……プールサイドから見ているくらいなら構わないのですけどね」

「それじゃあ意味ないよ! 一緒に泳がないと! 泳げないなら私が教えるしさっ」

 

 と、食い下がる朝日奈。

 苗木ならまだしも、二人は別に泳げないというわけでも……いや、セレスはプールの授業に参加していなかったというし、練習すれば泳げるかもしれないが、今のところは泳げないのかもしれない。

 それにしたって、朝日奈の熱というものはなかなかに勢いを衰えさせなかった。それを見かねて私は、

 

「私と苗木と、朝日奈の三人でも十分じゃないか? 無理に誘うのは良くないぞ」

 

 と窘めるように言った。

 朝日奈はどこか物言いだけな表情で、残念そうに肩を揺らしていたが、「まあこんな状況だしね。こんな状況だからこそ……っていうのもあるけど、人によりけりだもんね」と、自身の中で諦めがついたようだった。

 

 朝日奈は朝日奈なりで、みんなに元気になってほしいとプールに誘っていたようだったけれど、その頑張りが空回りしているのを見ると超高校級だからってなんでも上手く行くわけではないのだと思わされる。

 超高校級とはいえたかだか高校級、万能超人のは行くまい、高校生の範囲が関の山なのだ。

 そんな無力な私たちはやはり子供で、そして同時にどうしようもなく()弱である。

 背伸びをしたい年頃というのはまさしくその通りで、精一杯爪先立ちをしていると、ちょっとした衝撃で姿勢を崩してしまうといった危うさが私たちにはあるのだ。

 地にかかとまでつけて歩きたいものだが──それまでに死んでいないことを、私は祈っておこう。

 背伸びをした結果、地に足付かぬ幽霊になってしまったなどと……笑い話にもならないじゃないか。

 

「じゃあ泳ごう……って、そういえば、水着がないんだよね……私、探してくるね!」

 

 そう言い朝日奈は、どこかへと向かって行ったのだった。

 

「明るい人ですわね……ただ単純なだけなのか、それとも馬鹿なのか」

 

 呆れたというよりも不安そうに溜息をつくセレス。そのニュアンスからは朝日奈を心配するというよりも、自身の平穏が乱されかねないと身の上を案じているような含みが見られた。

 完全に空気だった不二咲は(結構気圧され気味だった)どうしたら良いか分からないようだったが、辺りを一回りしてから「と、図書室の方見てくるねっ」と言い、水連場を出て行った。

 

 朝日奈がいなくなってからは静かなものだったが、まあ探索なのだから、静かな方が集中できるというものだろう。そう思って、ようやく、この場所に来た目的を果たすため水連場の調査を始めた。

 

 あまりに殺風景な部屋で、おそらく更衣室に繋がると思われる扉が二つあり、さらに天井にはガトリングガンが……ガトリングガン?!

 

「ねえ神原さん、あれって……本物かな?」

「モノクマのことだ、偽物だとしても……それでも、危険なものに違いはないだろう」

 

 最近はエアガンだって、人を傷つけるに十分な威力を持つというし、本物にしろそうでないにしろ、この重機関銃が殺風景な部屋に独特な雰囲気を与えていることは確かであった。

 そしてその銃口が向く先には更衣室があり、扉の隣にはカードリーダーのようなものが備え付けられていた。

 

「ひょっとして」

 

 そう言って、私は、自分に近いところにあった男子更衣室の方のカードリーダーに電子生徒手帳をかざそうとする──とその時、

 

「まったまったまあーった!」

 

 と、上から降ってきたのはモノクマだった。

 

 反射的に私はそれを受け取ってしまった。職業病だというのなら、このまま地面に叩きつけた後跳ね続けていたいが(モノクマはどうにも反発性が少なそうだから、バウンドするかはいざ知らず)、そうもいかず。

 ……うっ、結構重い。

 ぬいぐるみのようだと思ったりしたけど、やっぱりロボットはロボットなのだと、謎に幻想を打ち砕かれた気がした。

 

「ふう、間に合ったー! ねえ神原さん、そこは男子更衣室だよっ」

「え? ……あ、ああ」

 

 まさかそのことを注意するためだけに、モノクマはわざわざ私たちの前にこうして現れたのだろうか……だとしたら、どれだけ暇なんだろう。そう思ったのもつかの間、かなり自体は重大のようだった。

 

「……なんだかよく分かってない様子だね。あのね、異性の更衣室に入ろうとしたら……つまり、強引に誰かの後ろについて入ろうとしたり、自分の電子生徒手帳を異性の更衣室のカードリーダーにかざしたりした場合、上に付いてるガトリングガンが火を噴くってえ寸法よ! 不純異性交遊は健全な青春にはご法度だからね!」

 

 もうちょっとで蜂の巣になるところだったね、とモノクマ。

 

「まったく世話がやけるよ。ボクもまだまだ気が抜けないね」

 

 まるで他人事である。このガトリングガンを設置したのは、他ならぬモノクマであるだろうに。

 そのような態度に指摘を加えようかと思ったが、それよりも自身の命が脅かされていたという事実の方が強く印象的だった。

 人に殺されるかもしれない……という恐怖に怯えるだけでなく、モノクマ側による無機質かつやり過ぎなオシオキにも気を払わなければならないとは……。やはり、この生活は想像を絶するほどに過酷なものなのだろう。

 四国ゲームほど初見殺しに溢れていない分、まだマシだろうか……? どちらにせよ、経験したくない体験であるに違いない。

 

「電子生徒手帳、ですか。でしたら、例えばわたくしと苗木君が電子生徒手帳を交換した場合、それはどうなるのでしょうか?」

「いいや、ダメだよ! ダメダメ! 監視カメラでバッチシ見てるからね、推定無罪でも……ガトリングガンの『射程』に入ったなら、即! 始末しちゃうよ……」

 

 どちらにせよ、異性の更衣室には入れない、ということか。まあ、生き死に抜きにしたって、別に男子更衣室に入りたいとは思はないので問題はないのだけど。

 でもまあ何か違いがあるかもしれないし、入れない男子更衣室は苗木に調べてもらうことになった。

 

 一応保険だと言い、モノクマは新たな校則として「電子生徒手帳」の貸し借りの禁止を追加すると私たちに告げた後、なにか裏があるのではないかと疑わしく思えるほどやけに念押しに注意をしてから去っていった。

 

 その後、苗木と一旦別れ更衣室を見てみると、中はトレーニングルームのような仕様になっていることが分かった。ルームランナーもあったため、走り込みなんかもできるかなと期待が募る。特に水連場に関しては夜時間がどうこうと言っていなかった気がするし、夜時間である朝方に来ても問題はないだろうと、機体が募る。

 

 プールはかなり広く、朝日奈があのように興奮していたのも無理はないなと小さく頷いた。

 

 それから最初のガトリングガンがあった場所に戻ってから、二階にある、水連場とは違ったもう一つの施設、図書室の方へと向かった。

 

「苗木って、運動はどれくらいできるんだ?」

「うーん……並くらいかなあ。ボクと同年代の全国平均を見たら分かるんじゃないかな? ボクって、大体平均と同じなんだよ」

「へえ……すごいな、それは。超高校級の平凡とかでもいいんじゃないのか?」

「やだよ! それならまだ超高校級の幸運の方がマシだよ! っていうか、超高校級の平凡って才能なの?」

「今何人かの人を敵に回したぞ」

「ま……ボクは超高校級の幸運じゃなくって、不運なんだけどね。……ボクなんかが何かの間違いで希望ヶ峰学園に入学するなんていういつ死んでもおかしくない幸運に見舞われたせいで、こうしていつ死んでもおかしくない不運に出遭ってしまったんだよ、きっと。塞翁が馬だよね」

「それだったら、また幸運が来るだろう。これがどうして福とならないことがあろうか? いいや、きっとなるだろう」

「でもそのあとは、これがどうして禍とならないことがあるだろうか? いいや、きっとなるだろう。だよ」

「無限ループだな」

「無限に続くってことは、少なくとも生きてるってことだから、それはそれで幸せなのかもしれないけどね」

 

 そう語る苗木の目には、どこか言い知れない感情があるように思えた。生きることのない、もう、その輝かしい人生の物語が続くことのない、死んでしまった舞園のことを考えているのだろうか。

 そのことについて尋ねることができるほど、私はぶっきらぼうな人間ではない。

 そして同時に思い出す。昨日霧切に頼まれていたことを。

 今、言うべきだろうか──舞園が、苗木に罪を被せるために動いていたということを。舞園はただの被害者なのでなく、元を辿れば加害者であるのだということを。

 今はまだそのときじゃない。けれども、そのときというのがいつ訪れるのか──想像というものがつかなかった。

 

「終わりがないのが終わり、だなんていう結末だったら、さすがに幸せじゃないだろうけど」

「中の人ネタか?」

「中の人ネタじゃないよ!」

「でも、ほら、他の二次創作で……」

「ああもう、ひとつも読んでないくせになにも言わないでよ!」

 

 図書室には十神と腐川、山田に霧切と、まあ予想通りといえば予想通りなメンバーが揃っていた。水連場にいた三人があまりに意外だったものだから、ここには大和田なんかがいそうだなと思っていたけれど、どうやら超高校級の暴走族は図書室にはいないらしい。

 

 やけに埃っぽく、照明も暗いため、どちらかといえば書庫のような感じで……図書室であるというにもかかわらず、読書には向かない環境だ。換気する窓もないようで、梅雨の時期などは本が腐ってしまいそうだ。……もっとも、この施設がどこにあるのか分からないため(ひょっとしたら海外かも、なんていう嫌な想像が浮かんだ)梅雨が来るかどうかは定かではないが。

 

 本も一時代前の古めかしいものばかりで、あまり見たことのないものばかり置いてある。……本について詳しいわけではないので、実際には有名なものもあるのだろうけど、精々山本周五郎先生の名前を認めることができた程度である。

 苗木も文学方面はさっぱりなのか、さっきから本の背表紙を流すように見ては、天井やら屋上やらを眺めたりしていた。

 

「ん、ああ、霧切さん」

 

 どうしても本に興味を持つことができなかったらしく、苗木は本棚に背を向け霧切の方へと向かっていった。私もそれを追うようにし、霧切の元へと身を運ぶ。

 

「あら、苗木くん。それに神原さん」

 

 いつものどうにも感情が読み取れない表情。石仮面でも被ってるんじゃあないかっていうくらいに、顔の筋肉が動くことがない。目はそうではないのだけれども、表情はとても冷ややかだ。

 あまりみんなと会話をすることがないという点で言えば十神も非干渉的な人間だけど、十神とは違って霧切は、その胸の内を晒すようなことはしない。意見を言うというよりも、どうしてもといった必要最低限のやり取りしかしていないような気がする。

 よく朝日奈やらと口論を交わす十神とは違い、霧切はそこのところ結構ドライである。

 それなりにフレンドリーに人と接することができると思う私だって、霧切と一対一で会話をしたのなんて、昨日の夜くらいだったように思うし……。それだって、向こう側から話しかけてきて──それで世間話ではないというのだから、数に入れていいものかも疑わしい。

 ……霧切は、何かを隠しているのではないだろうか? そんな疑問は必然的に頭に浮かぶ。

 人間誰だって、なにかを隠そうとしていても小さなボロは出てしまうもの。そのことを知っているからこそ──秘密が発露する危険性を限りなく減らすために、人との会話を極端に減らしているのではないだろうか?

 頭の良さそうな──現に昨日の学級裁判では、私達よりも早く事件の真相に辿り着いていたであろう彼女なら、それもありえない話ではないかもしれない。

 だとしたら、話しかけるというのは、霧切の意に沿わないことかもしれなかった。

 

「二人が図書室に来るだなんて意外ね。本、読んだりするの?」

「ボクは……あんまり。話題になってたやつなんかは、読んだことあるんだけどね」

「私もさっぱりだな、BLなんかは結構読んだりするのだが、一般文学となると……太宰治の『女生徒』や夢野久作の『少女地獄』……あとは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』とか──」

「ちょ、ちょっとまって。情報量が多すぎてついてけないや」

「なんだ? 知らないのか? 特に山本周五郎先生の『美少女一番乗り』は──」

「悪意があるよね?! 神原さんはタイトルだけで本を読んでるんじゃないかって、ボク思うんだけどさ」

「失礼な! そんなことなくはないが、なくはないぞっ」

「否定するなら最後まで否定し切ってよッ!」

「山本周五郎先生は……」

「霧切さんまで?!」

 

 苗木はあまりにも多感になっているようで、明らかに真面目な返事を返そうとしていた霧切にも噛み付いた。

 

「苗木くん、あなた疲れてるのよ」

 

 そうした会話の最中、ふと、腰ほどの長さの本棚の上に置かれた茶封筒が目についた。普段なら見逃すようなものだけれど、“探索”という“何か”を探している今、明らかに怪しげなそれを見過ごすことはできない。

 二人と会話を交わしながら、その封筒に手を取り外見を見聞する。随分と埃をかぶっていたところから察するに、かなり前からここに置かれていたらしかった。

 ただでさえ空気の悪い環境下なものだから、通常よりも格段に早く埃が積もってしまっている可能性も否めないけど。それにしたって、ここ最近数週間の間に置かれたものではないようだ。

 

「? なにそれ」

 

 興味深そうに、私の手元を覗き込む苗木。

 何かが書いてあるようなので軽く埃を払うと、封筒に印刷された希望ヶ峰学園事務局という文字が見えた。

 

「さあ……? 事務局っていうんだから、事務的な手紙かなにかじゃないのか? こんなところに置いてあるっていうことは、さほど重要なものでもないのだろうけど」

 

 既に封は開いているようで、封筒から手紙を取り出す。内容としては、要約するとこうだった。

 希望ヶ峰学園は深刻な問題の発生により、一時的に活動を終了させる……というものだ。一時的に? 活動を終了?

 そんな話、聞いたことがない……いや、普通に考えて希望ヶ峰ともあろう超有名教育機関が活動を停止するなんていう情報を、そうそう簡単に公式が公表することは考えにくいから一般人が知らなくってもおかしな話ではないのだが……けれども、私は既に希望ヶ峰学園生徒という立派な関係者になっているのだから、いくら新入生とはいえなにも知らされていないというのはおかしいような……。

 それに今私たちがいる希望ヶ峰学園(仮)に、私たち十六人の他に人がいないのは……それこそ、希望ヶ峰学園が閉鎖されてしまった結果なのだろうか? だからこそ人がおらず……無人の校舎に人がいるわけがないと思われているからこそ、誰も助けに来ないとか。

 いずれにせよ、あの希望ヶ峰が活動停止にまで追い込まれるほどの一大事件をその生徒である私が知らないわけがないので、この手紙が不可思議であることに違いはなかった。

 

「モノクマが用意した偽物かもしれないのだから、鵜呑みにするのもあれだけど……まあ、頭の片隅に留めておく程度にしておきましょう」

 

 その言葉に異論はなく、手紙の話についてはここで終わった。

 もう少し追求しても良かったかもしれないけれど、かといって何も知らない私たちがどうこうできる話でもなかったため、やはり知識として備えておく程度でいい。

 

 そしてタイミングを見計らったかのように、遠くの方から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。図書室の前がやや空間があるからだろうか、やけに音が響いているような気がする。

 

「……! ああ、いたいた! 水着、あったよ!」

 

 音の主は朝日奈だったようで、走ってきたからか若干肩で息をしていた。

 おそらくこれから水着があったという場所に向かうのだろう……そう思い、そして思い付いた。

 

「そうだ、霧切。一緒に泳がないか?」

 

 思い付きでそう提案したけれど、今となっては軽率な発言だったと思う。かといって、思い付きで重大な話をするのもなんだけど──霧切は、いつも着けている手袋を撫でるようにして「誘ってもらって悪いけど、辞めておくわ」と、珍しく感情のこもった言葉で言った。

 霧切が感情を表に出すというのはとても貴重な出来事だ──そのとき垣間見た感情が、哀愁であったことはともかく。



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004 (非)日常編

「神原ちゃーん、苗木ぃー。行っくよー!」

 

 水の中なのだから、それなりに抵抗はあるはずなのに。それを感じさせない軽やかな動きで、朝日奈はボールを上に上げ──そして、見事な身のこなしでこちらのコートへと、叩きつけるようにしてボールを打った。

 

 元々の体力や筋力もあってだろうか。苗木は、自分の側にきたボールを自陣の水面に落とさせまいと、必死に食らいつくようにして腕を伸ばしたが、どうしてもそこに存在している水の抵抗力に負けてしまい、相手──つまり、朝日奈と大神のチームに一点取られてしまう。

 

「ごめん! 神原さん」

「今のは相手が上手かった、次から頑張ろう! 深呼吸だぞ、深呼吸!」

 

 ブレスレットの正しい意味を教えてもらった私は(今となっては、なぜあの様な間違いをしていたのかが甚だ疑問であるけど)、肩で息をしながら精一杯の声かけを苗木にする。

 こういうのは、ある種の懐かしさを感じないでもなかった──なにを懐かしんでいるのかというと、それはやはり私の超高校級のバスケットボールという肩書きにも起因する部活動についてだろう。後輩や同級生、ときには他校の対戦相手に囲まれてコートを縦横無尽に駆け回った日々──けど、それは、懐かしむにしてはあまりに近しい記憶である。

 年数にするまでもなく、およそ半年ほど前の話で──コソ練こそしていたものの──こうした激しい運動は懐かしくはあるのだが、先述の通り懐かしむには結構最近の出来事だ。

 だというのに懐かしさを覚えたというのは、やはりこの非日常空間に置かれることで、過去の日常が恋しく思えてしまっているのだろうか?

 戻れるなら戻りたい。

 そんな、ある意味懐古的な思いに駆られる私であった。

 

 二階が解放されてから、一夜明けた日の昼前、私たち四人はプールで遊んでいた。

 泳ぎの速さを競ったり、浮き輪に身を任せてプカプカと浮いていたり、鬼ごっこなんかをしたりして──今はプールの一角を使い、二対二のビーチバレーをしている。

 初めて水連場に来た日も、つまりは昨日だが、そのときも同じように遊んでいた──飽きもせず、二日も続けてよく遊ぶなと思われるかもしれないが、娯楽の少ないこの施設において、まさしくオアシスと言えるプールは、遊び盛りの思春期である私たちにとってはとても貴重でありがたいものであったのだ。

 本当は、もっと違うこともしたいんだけど。

 わがままは言ってられないし、これはこれで十分楽しい。

 ウォータースライダーがあるわけでもなく、また流れるプール、波打つプールでもないただの長方形型の五十メートルプールだけど、それでもこうして楽しめているのは、若さゆえというものだろう。

 

 そして今、体育会系二人に対し、文武混ざった私たち二人のチームは端的に言って劣勢に立たされている。もともと私は、こういったボールを扱う競技を主に行ってきたために、それなりに動き方などは心得ているつもりだが……どうやら苗木はこういうことが不慣れなようで、精一杯動いてはいるものの空回りで終わっていることが多い。

 それだけでなく、相手チームもまた強力で。

 朝日奈は運動部をいくつも掛け持ちしている生粋のアスリートだし、大神はその大きな体を生かし、普通なら手が届かないようなところに飛んでいったボールをも拾ってくる。幸いなのは、あくまでも大神が朝日奈のサポート役に徹しているという点であるけれど、それでも極稀に大神自身が打つこともあるのでそれがまた恐ろしい。

 苗木は、むしろ筋がいい方だと思うのだ。よく動くし。諦めない心というものがヒシヒシと伝わってくる。

 実際、私たち二人のチームは決して弱くはないはずだ。

 

 そんな私たちにとって不幸であることは相手が朝日奈と大神だったということで。

 そして私個人にとっての不幸は本調子が出せないということだった。

 

 体調が悪いわけではない。

 これは、おそらく恒久的な問題だろう。

 私の左腕が()()()()()()()()()に変化していたために、左右の重量比がアンシンメトリーなものになってしまっていて──未だその偏重心に適応できていないため満足ならない動きしかできないのだ。

 人の腕は、その人間の体重の十六分の一を占めるという。私くらいだとおよそ五十キロ周辺であろうから、そこから計算すると、通常の状態である腕一本の重さは三キログラムと少し。

 この腕の大きさから考えて、明らかに重さは増えているだろう──毛量が多いので、なんともいえないけど、二、三倍近くは増えているのではないだろうか……? ともすれば、左腕に三から六キロ近い重りをつけて生活しているようなものなので、とてもじゃないがろくな生活は送れない。

 実際、最初の方は、歩くことすらままならなかった──あのときは、目覚めたばかりで寝ぼけているのかもしれないと思っていたけれど、今思えばそんな偏重心によるふらつきだったのかもしれない。

 ……もちろん、そんな状態で泳ぐことなど困難であり(クロールしようものなら、左半身がマッハで沈んでいく)、ビーチバレーも結構大変で、左腕を上げるのはどうしても難しいので、自然と何も変化のない右腕で──利き手でない右腕で、生半可では勝てないであろう二人に挑まなければならなかった。

 勝つことは目的ではないのだけど、そう分かってはいても、歯痒い思いが消えることはない。

 

 しかし、猿の左腕。

 この学園で目覚めたときには既に、私の左腕はそのような異質なものへと変化していた。

 人らしからぬ肌色に、女子高生らしからぬゴツゴツとした指、獣のように茂る体毛もそうだし、そもそも私の本来の腕とは骨格からして違うようであった。

 まるで腕を丸ごと取り替えられたような──いや、そうとしか考えられないような()()

 あまりに不可解で、あまりに不明瞭なこの腕は、一体どのような生き物の腕なのだろうか──?

 あるいは、私の腕がなんらかの奇病でこうなってしまったとでも言うのだろうか……? だとしたら、ブラック・ジャックにしか直さなさそうだな、と密かに思う。確か、動物関連でこう言う話がなかったっけか? 腕が、ではないけれど、全身に蛇の鱗が現れるという。

 さすがに全身の皮を剥ぎこそしないだろうが、本来の姿に戻すにあたり、腕を切り落としたりするのだろうか? そこまでして、実は腕自体に問題はなく、私の体に問題があって、腕を取り替えたところでまた変化する……なんていうオチはあまりにも酷い結末だろうが。

 ……医学関連で思ったけれど、同じ人間同士であっても皮膚やらを移植したところで、適合しなければなんらかの不具合が出るというのに──こんな、どこからどうみたって遺伝子単位で異なるだろう異形の腕をくっつけていて、私の体になにかしらの症状や弊害というものは現れないものだろうか?

 今のところそういう兆候は見られないけれど、ろくな医療設備も揃っていないこの閉ざされた施設で何らかの不具合が起きたときは、そのときは死を覚悟した方がいいのだろうか……? あるいは、誰かを殺してここから出る覚悟をか。

 

 いいや、馬鹿なことは考えないでおこう。

 例え外に出たとしても、人を殺したんじゃあ……戦場ヶ原先輩や、おじいちゃん、おばあちゃんに合わせる顔がない。

 母は幼い頃の私に、「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ」と言ったけれど、悪い影響を与える毒になるくらいなら、一層のこと、このプールの塩素水のように希薄な存在になってしまった方が、私としては気が楽でいいと思う。

 戦場ヶ原先輩がプールに入ることを考えると、なお良い。

 むしろなりたい。先輩が泳ぐプールの塩素水になりたい。

 

 ……ともかく、話を戻すと、猿の腕と私の体との結合部分なんかは真っ先に炎症やら解離を起こしそうなものだが……変な表現になるけど、その問題の結合部分らしき部分はやけに自然な感じで、まるで最初からそうであったような──ほんと、違和感を感じさせない違和感で。

 縫合跡らしいものも見当たらず、一体どうなっているのだろうかと学のない私は考えるだけ考えてみるのだが、結局納得できる答えは出せていないというのがオチだ。

 謎は謎のまま、究明されることがない……非常にモヤモヤする。推理小説でいうなら、トリックは明かされたし犯人は捕まったけど、肝心の動機やらがすっかり抜け落ちてしまっているかのような腑抜けた感触が否めない。

 

 しかし、謎というのならあのクマも謎だけど、バッタの仮面ライダーよろしく、モノクマが私の体になにかしらの改造を施したのだろうか──?

 そう思ったりしたけれど、そうではないらしく。その根拠として昨夜モノクマが私の部屋に訪れた際に交わしたこんな会話が挙げられる。

 モノクマが無実を主張したのであれば怪しい限りだけれど、この場合はモノクマがボロを出したというか、状況証拠のようなものなのでそれなりに信憑性は高い。

 

 ともかく昨夜のこと。夜時間が近いため、倉庫を離れてそろそろ寝ようかと部屋に戻ったときのことだ。

 

「ねえ、神原さん」

「うわっ、モノクマ?!」

「うわってなにさ、うわって」

「いや……マットレスの下から出てきたら、誰だって何だって驚くだろう。というか、どういうことなんだ? ひょっとして、いやひょっとしなくても、各部屋のマットレスの下にはモノクマが格納されでもしているのか?」

「そんなわけないジャン! 今の世界情勢を考えても、ボクのような高性能ロボットを作るのは困難なわけだから、こんな意味のわからない使い所が不明な場所に機数を割けるわけがないんだよね」

「……? ということは、モノクマは私の部屋のベッドのマットレスの下に、わざわざこうして潜んでいたということか? 潜んで、私の帰りを待っていた。ということはもはや夜ば──」

「言わせないし、そんなシチュエーションはあり得ないよッ!」

「カンモノは存在しないのか……」

「なんだよそのカップリング! 誰得だよ! というか、なんでボクが受けなのさ!」

「クマもネコも似たようなものだろう」

「問題発言! 問題発言だよ!」

「若いときは無茶やるものだと聞くし、私ももう少し放送コードギリギリなことをしたいなあって」

「若いときに無茶やって、その先の人生真っ暗になっちゃったらお終いだけどね……ところで神原さん」

「なんだ? モノクマ。スリーサイズ以外なら答えないぞ」

「なんでさ! 普通逆じゃない?」

「なに? 普通(きゃく)じゃない? だと? なんだか変な言葉遣いだな……まあクマだし仕方がないといえば仕方がない」

「クマじゃないよ、いやクマだけど! でもただのクマと違って高性能なの!」

「私は別に構わないぞ。にしても脚のサイズ……、太腿からか? それとも土踏まずからか?」

「どっちでもいいよ……いや、どっちでもないよッ」

「なに?! どちらでもないということは、ひょっとして、モノクマは足は鼠蹊部から始まる派なのか? ……話が合うのは癪だが……仕方あるまい、それじゃあ鼠蹊部のサイズから」

「鼠蹊部のサイズってなにさ?! っていやいや、そろそろボク夜時間のアナウンスしなきゃだからさあ、早めに話を終わらせたいんだけど」

「早いも遅いもあるものだろうか? いいや、私はないと思う。幼くったって、歳を重ねていたって、足というのは実に素晴らしい部位であると私は思うぞ!」

「聞きたくなかったです……同級生の性癖だなんて……聞きたくありませんでした……」

「ん? なにか言ったか?」

「な、なんでもないよッ」

「私は眠いんだ、するならするで、さっさと話をしてくれないか」

「酷い! なにさなにさ、妨害してたのは神原サンじゃん!」

「酷くて醜くて、愚かなのが人間だぞ」

「自覚してるんならやめてほしいんだけどね」

「そんな醜い人間だからこそ、そんな愚かな人間だからこそ、何かできることがあるんじゃないだろうか──とふと思ったのだが、一体何ができるのだろう」

「ボクに聞かないでよ。知らないよそんなこと」

「そういえばつい先日、『こどもなんでも相談』という名前のコールセンターに『人は死んだらどうなるの?』と訊いてみたのだが、微妙な対応をされたことを思い出した」

「それはキミが高校生だったからじゃないの?」

「それじゃあおやすみだ。明日は……明日の風が吹く!」

「なにか言おうとしたけど良いのが思いつかなかったからって、そんな適当な言葉を繋げないでよ! この施設窓がないから風なんて吹かないし! っていうか、さらっと寝ないでよ!」

 

 という会話だったのだが……ん? だからどうした感をそこはかとなく感じる。

 ああそうそう、もう少し続いていたような……なにせ寝入る前の話だから、記憶が曖昧なのだ。

 続きは確かこうだ。

 

「で、どういう話なんだ?」

「……えっとね、神原さん。学級裁判の後、神原サンはトラッシュルームにいたよね……?」

「トラッシュルーム……? ああ、確かに、いるにはいたけれど」

「でね、初めて見たとき驚いたんだけど、トラッシュルームの鉄格子が『破壊』されてたんだよね。『傷ついてる』とか『曲がっている』とか、そういうんじゃあなくってさ。それこそ、まるで折り鶴をクシャって手のひらの中で小さく押し潰したみたいに『破壊』されてたんだよ」

「…………」

「学級裁判の直後のことだったから、ちょっと気を抜いて休んでいたらコレだもん……監視カメラの録画を見返してみたら神原さんがその左腕で──怪我をしているはずの左腕で、鉄格子を殴って、破壊しちゃってるんだから」

「…………」

「ああ、咎めてるわけじゃないんだよ? いや、しちゃあいけないんだけど、でも校則にそう書いてはなかったからね。……監視カメラを破壊しちゃダメってだけで、鉄格子を破壊しちゃダメって書いてなかったし」

「……確かにあの鉄格子は私が壊した、申し訳なく思ってる」

「咎められないと知った途端白状するあたり、四国の魔法少女みたいだね! ……まあ、申し訳なく思うんなら、その腕見せてくれないかな? もし怪我してるなら、学園長としても心配しないわけにはいかないんだよね。それに気になるんだ……大神さんならまだしも、キミがその細腕であんなことができるだなんて、あまりにも不思議すぎるんだ」

「それは……できない相談だな」

「んー、まあ話せないなら話せないでいいんだけど。実のところ、神原さんも詳しくは知らないんじゃない?」

「……ッ!」

「図星みたいだねッ! ああ、なんだかスッキリした! さっきまで振り回されっぱなしだったからスッキリした!」

「っ……性格が悪いんだな」

「人、もといクマの話を聞かない神原さんには何も言われたくないよ!」

 

 ──ということが、昨日の夜にあったのだ。

 わざわざ聞きに来たということは、モノクマは、私のこの左腕のことについて詳しくは知らなかったということだろうし、そしてまた私と同じようにこの左腕のことに関しては『得体が知れない』状態なのだろう。

 様子見を決め込んでいるというか、触らぬ神に祟りなしではないが、腫れ物を扱うかのような振る舞いだ。

 それに、よく分からないものをよく分からないままにしておいたのは──知ることを諦めたのでなく、敢えて知らないことでこのコロシアイ生活に波乱がもたらされることを期待しての行為だとも思われる。

 その放置する行動が、良い結果であれ、悪い結果であれ、どう転ぶのか──モノクマにとっての良い結果というのは、すなわち私たちにとっては悪い結果なのだけど、どちらにせよ、モノクマの思惑通りになるというのは無性に腹がたつ。

 できることなら、叶うことなら──この左腕のことは秘匿のままに、なるたけ触れずに、この悪夢のようなコロシアイ生活を終えたいと思っている。

 

 秘匿と言えばそうだが、私はそういえば、まだ苗木にあのことを話していないのだった。

 霧切から頼まれた、舞園のことについて──この話を聞いたとき、彼はどう思うのだろうか?

 どういう表情をするのだろうか?

 話さなければならない。その義務感に気付いてからというものの、私の心には、話すべきか否かの迷いが、さながら洗濯機のように渦巻き始めていた(ここで言う洗濯機はランドリーにあるそれではなく、プールでよくやる淵をみんなで回ってプールの水を渦巻かせる例のアレである)。

 

 ──ともかく、そんな人ならざる左腕を隠すため、日頃巻いてある包帯を防水性の包帯に巻き替え、私は溌剌(はつらつ)とビーチバレーに興じていた。

 体の重大な部分が異常をきたしているのに溌剌というのも、なんだかおかしな感じがするけど。

 

「神原さんッ!」

 

 苗木が上げたボールは、これまでになく良い位置に飛んできた。

 普段の癖でそのボールを受け取ってしまいそうになるけれど、すんでのところで身をよじっては右腕を掲げ、体勢が崩れる前に素早く腕を振り抜く。

 やはり、利き手でない腕では──加えて身体の比重が左右違うのだから、どうしても体重が乗っていない脆弱なスマッシュしか打つことができない。

 易々とではないものの、しかしボールは水面に着く前に拾われてしまった。

 

「いくよっ、さくらちゃん!」

「むぅ」

 

 朝日奈の放った、とても高くて普通なら落ちてくるのを待つようなトスを、大神は難なく最高高度の地点にまで飛びつき、そして上から叩きつけるようなボールを──実際、隕石か何かかと錯誤してしまいそうな威力のボールを──こちらのコートに打ち込んできた。

 そしてそれと同時に……大きな体をした大神が高く跳躍したからだろう、その際に発生した波が苗木をさらい、不自然な方向へと姿勢を崩させた。

 苗木にとって幸か不幸か、その波によって運ばれて行く先は大神が放ったボールの着水地点で──痛々しい破裂音を上げながら、ボールは弾け飛んだ(サッカーアニメよろしく、ボールは破裂しなかった)。

 大神の力が強いからだろう、回転もだいぶ加わっていたらしく、苗木の顔面にクリーンヒットしたボールは弾けるようにして予想もつかないような方向へと勢いそのままにすっ飛んでいった。

 大神は高く飛んだために未だ宙にいて。朝日奈はボールが跳ねて(跳ねると形容して良い域は既に超えているが)行った先とは反対の位置にいて。

 ──それは一瞬の出来事で、苗木が水面に沈んで行くのと、朝日奈、大神チームの陣地にボールが着水したのはほぼ同じタイミングだった──。

 

 ──それから、ビーチバレーは中断し一旦休憩を取ることになった。

 だいぶ疲れてしまっていた私と苗木は、休憩中であってもプールではしゃぐ朝日奈を視界にうちに捉えながら、プールサイドにあるベンチに腰をかけて肩の力を抜いた。

 

 そして、食堂から持参していた飲料水を飲みながら、私は考えていた。

 ビーチバレーの最中に考えていたことを再度、検討していたのだ。

 

 やっぱり、今話すべきだろうか……?

 今はまだそのときではないと言われれば納得してしまいそうだが、しかしだとしたら、いったいいつそのときが来るのかが分からない。

 不穏な話だけど、気付けば何もかもが終わっていた──なんてオチには辿り着きたくない。であるのならば、今話すべきなのだろう──けど。

 けど、当たって砕けようにも、砕けちゃいけない問題だしな……。

 最良の選択なんてできるはずはないが、しかしなるべく近い結果を求める。苗木に先日の事件の真相なるものを伝え、そして彼を傷つけることのないような結果を──そんな高望みができるほど徳を積んだ覚えはないが、そんな幸せを望んでもいいほどに不幸な生活環境であるとも思う。

 もっとも、今私が望む幸せの原因は、その前に起きた不幸であるというのだから、マッチポンプもいいとこだけど。

 

 柄にもなく深刻そうな表情で考えていたからだろうか。

 苗木は私を労うように、

 

「お、惜しかったよね! それにしてもあの二人、凄いよね。目が追いつかなかったよ」

 

 と、声をかけてくれた。

 ああ、気を遣わせてしまったんだな、と、申し訳ない気持ちで胸が痛む。

 気を遣おうとしていて、気を遣われるというのは、情けないの一言に尽きるからだ。

 

 ──ああ、こんな気持ちになってちゃ、話すことも話せない。

 ええい。

 私は(あお)るように水を飲んで、話を切り出すために彼の名前を呼んだ。

 

「なあ苗木」

「なにかな? 神原さん」

 

 疲れもあってか、苗木は少し背を丸めた姿勢でそう訊き返してきた。

 

「その、舞園のことなんだが──」

 

 そこまで言って、言葉に詰まる。

 話そう話そうと考えていただけで──こうやっていざ話し始めてみると、なにをどう話せば良いのかてんで分からなくなってしまったのだ。

 頭が真っ白というわけではないのだが、浮かんでくる言葉一つ一つがどこかダメなような気がして──苗木を傷つけてしまう気がして、仕方がない。

 だから、言葉が出ない。

 出せる言葉がない。

 いきなり本題に入るでなく、もう少し、なにか話を挟めば良かったか──しかし、後悔先に立たずである。

 今となってはなにをどう考えようと、先ほど発言した舞園の名前を取り消すことはできない。

 これが普通の会話なら、前言撤回もできただろうが──なんせ、話題は故人だ。

 そう簡単に、取り消すことのできる話でないことは明らかだった。

 現に苗木は、

 

「舞園さん? 舞園さんがどうかしたの?」

 

 と、私の発言を息を詰めて追求してきた。

 

 どう、返したものか。

 一度、深く肩で息をして──それから、緩慢な動きで水を飲む。

 醜い時間稼ぎで、そして結局上手い言葉選びはできなかったのだが、それでも、心を落ち着かせることはできた。

 相手に不安を与えかねないような、たどたどしい口調で私は話し出す。

 うまく言葉が出てこないのと同時に、うまく口が開かないのだ。

 

「その、舞園の事件が、二日前に……あっただろう? あれから私なりに、考えてみたんだ。それで、いくつか引っかかることが、あってだな」

 

 これは嘘だ。

 舞園が苗木に罪を被せようと画策していたことに気付いたのは私ではない。

 であるからして、私なりに考えてみた──という行為自体は嘘ではないにしても、しかし『いくつか引っかかることがあった』というのは虚偽の事実だ。

 元々この話は霧切から聞いたことだし、気が付いたのも当然霧切なわけで。

 ……だけど、その点を言うべきかを迷う。

 また、迷う。

 私は、こんなに優柔不断な性格だったっけか。そんな風に思わないでもなかったが、なにぶん今自分が置かれている環境というものがいささか特殊すぎるため、いかんせん仕方がないようにも思えた。

 

 だが、どうしたものだろう。

 あなたの口から──と、霧切に言われていたため、ここで霧切の名前を出すのは少し違うんじゃないかと思ったりする。

 霧切から聞いたと言えば、苗木は私以外の人が思ったことなのだと──とどのつまり、壁を感じかねないだろう。

 苗木が真実を受け入れやすくするために、と、霧切はわざわざこの件を私に依頼してきたのだから……ここで霧切の名前を出してしまうと、そんな彼女の気遣いも無駄になってしまいかねない。

 

 あるいは、むしろあえて壁を感じさせることで、緩衝材の役割を果たさせるというのも有効な手立てのように思えたが、それはあくまで壊れる壁、乗り越えられる壁の場合だ。

 人の死に関わる話題で、そんなに脆く、頼りない壁は生まれないだろう。

 

 散々迷った挙句(喋りながらなので、そこまで深く考えれてないけど)、そこの辺はぼかして話そうかと決定付けて、言葉を続ける。

 

「なんでも、舞園がいた部屋──つまり苗木、お前の部屋だが、そこに置いてあったメモにどうやら使用された形跡があったらしいんだ。それで、調べてみたところ、どうやら舞園が誰かを部屋に呼ぶような内容が書かれていたんじゃないかと推測できたんだ」

「…………」

「積もるところ、桑田のやつは殺意を持って舞園がいた部屋に行ったわけではないのではないか──桑田のやつが、舞園を襲ったわけでなく──」

「──逆だった……っていうこと?」

「……そういうことになる」

 

 その言葉を聞いて、苗木はシンと口を閉ざしてしまった。

 私からはもう、出せる言葉がないので、お互いに黙ってしまい、自然と重苦しい空気が──体に染みるように痛む沈黙が、重く体にのしかかってくるように場を支配する。

 まるで、海底にでもいるかのような──そんな重さが、今の私の気持ちを表すに適した表現だと思えた。

 そんな気持ちを私が感じる必要はまずないのだろうけれど、ここで微笑みを浮かべていられるほど、私は無情な人間ではない。

 もっとも、この左腕の件がある限り、私は真っ当な人間らしさという概念からは少々脱線してしまっているようにも思えるが。

 

 苗木は、「逆だった」ということの意味を深く考えるように身を屈める。

 やがて鬱々とした動きで顔を上げて、

 

「……そっか、そうだよね。うん」

 

 と、誰に向けるでもない言葉で頷いた。

 

 霧切が言うに、苗木は薄々気付いているかもしれないと言う事だったから、元々あった考えに裏付けがされたのだろう。

 彼の横顔を見てみると、負の感情とともに、満足そうな思いが、前を向いた彼の表情に混じっていた。

 

「ありがとう。お陰でスッキリしたよ。実はさ、ボク、なんとなく気付いてたんだ……だけど、違うんじゃないかって、思ったりもしたんだ。でもこうして神原さんに言われて、やっぱりそうなんだって思ったよ。そうだよね、やっぱり舞園さんは、ボクのことなんか──」

「それは……違う。それは違うと、私は思う!」

 

 否定的な苗木の言葉に、思わず立ち上がる。

 さながら脊椎反射のように──口から出た言葉も、言ってしまえば脊椎反射だけど、だからこそ嘘偽りのない本当の思いであった。

 本音は時に人を傷つける──そのことを知っていながらも、だがそれでもこの言葉は今言うべき言葉なのだと信じて、私は苗木に訴えかける。

 

 強張った視線が苗木の瞳を深々と刺す。

 それは、釘でも刺したかのように離れない。

 

「舞園がどんなやつなのかは、苗木自身がよく知っているはずだ。今まで舞園のことをそうやって信じていたのだって──そんなことするはずがないって、そう思い、信じていたからなんだろう」

 

 力が籠る余りに声は震え気味で、お世辞にも聞こえやすい声量ではなかったが、それでも苗木はしっかりと聞いてくれているようだった──それに、応えなくては。

 より一層力を込めて、心を込めて、訴える。

 怒りにも似た、けれども決してそうではない複雑な気持ちで、訴える。

 

「──信じていたのなら……その気持ちは、きっと間違ってない──間違っていて良いはずがないんだ……!」

 

 そこまで言って、私の体からはすっと力が抜けるようだった。

 反射的に伸ばされた足は、胴体の自由落下により曲げられる。崩れるようにし、さっきとは打って変わって、私はうなだれるような姿勢で、しゃがれた唸り声のようなものを出していた。

 

 感情が表に出過ぎたせいか──はたまた、舞園を話題に上げたせいか──彼女が死んでしまったことに対する遣る瀬無さや、自責の思いが、堰を切ったように溢れてくる。

 そした意図せず感情が、口から漏れ出る。

 

「悪いのは、モノクマなんだ……舞園を苦しめた、モノクマが悪いんだ……」

「……らしくないよ神原サン。元気出してよっ」

 

 励ますはずの私が、こうして苗木に励まされている……どうしてこうも、私は弱いのだろうか。

 私の体は一つだって傷ついていないというのに、苦しいのは、死んでしまった彼ら彼女らだというのに──禍根は消えず、心に付けられた負の爪痕からは、感情が溢れでていた。

 

 のうのうの生きてしまっていることを、何もできなかったことを責める、今は亡き母の苛む声は聞こえてはこなかった。

 けど、だからこそ、こうして何の遮りもなく聞こえる苗木の励ましが、やけに聞こえやすかった。

 

 もしも苗木に何かあったとして──私は、きっと、何もできないままなのだろう。

 それは嫌だと思う。

 友達が死ぬのは、一度だって嫌だと言うのに──二度目は、きっと、耐えられない。

 けど、嫌がるばかりで。

 今の私には、その避けたい運命に抗う術がなかった。



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005 (非)日常編

 八日目。

 

 私は朝食会の後から昼間にかけて、シンと静まった体育館でひとり、バスケットボールの練習をしていた。

 普段使いしている靴が運動をするのに適していなかったため(少しお高めの運動靴ではあるのだが、どういうわけか、入学に際して新調しておいたはずのそれは靴底が随分と擦り減っていたのだ)この学園に来てからというもののボールに触れてコートの中を駆けるという私にとっての日常風景がこの非日常の中では叶わなかったのだが、しかし先日、解放されたばかりの倉庫の中で運動靴を見つけ、ようやく腰を入れてバスケットボールの練習ができるようになったのだ。

 弘法筆を選ばずと言うが、駄目なものを使って怪我でもしたら目も当てられない。残念ながら私はまだ弘法と呼ばれるほどの達人でもないのだから、倉庫に置いてあった運動靴がとても良いものであったのにはただひたすらに幸運であったとしか言えないだろう。

 もっとも、それ自体は不幸中の幸運というか……今の生活を送ることになったそもそもの原因でもあるコロシアイ生活なんてものに巻き込まれさえしなければ、いつだって自由に新しい靴を買うことができたというのはあまり考えたくないうんざりとする現実だが。

 ……ちなみに服も動きやすい格好に着替えてある。

 古き良きブルマーは置いていなかったので、今時の通気性が高いポリエステル多めな体操着を着用し練習に励んでいた。

 

 この学園に監禁されている最中であってもバスケットボールの練習をするのは体の使い方を忘れないためというのがあるけれど、実はそれとはまた別の異なる理由が存在していたりする。

 それは、この左腕と大きく関わることだ。

 私の左腕はなぜだか獣のように毛むくじゃらになり、骨や筋肉の形、触れたときの筋肉の硬さなども異形のものへと変貌してしまっている。

 そうなってくると、もちろん左腕の重さも異なるわけで、それはつまり私の身体において左半身と右半身の重さの比重が大きく異なっていることを示しているのだ。

 少し重さが違うだけでもバランスを取るのが難しくなるというのに、左右で重さの違いが随分とできてしまっている今は、気を張っていないと立ち上がることすら難しいほどにバランスの悪い状態なのだ。

 感覚としては、教科書がこれでもかと詰まったリュックサックを左手だけで持ちながら走っているような感じだ。体幹には自信がある方だけど、それでもどうしたってふらついてしまうのだから、実に不安定な状態だと言えるだろう。

 

 そんな不自由なままだと、もし誰かに襲われたとき──きっと私は自分の身を守ることができないだろう。

 それにきっと、自分以外の誰かを守ることだってできないだろう。

 出会って一週間程度の赤の他人を守る必要はないかもしれないが、しかし救えるはずの命を救えなかったという事実は、一度でも起こってしまえば心に深い禍根を残すだろうことは明らかだ。

 現に、舞園のことがそうだ──私は彼女のことをきっと忘れることができないだろう。

 忘れることはできないし、忘れるわけにはいかない。

 それは苗木も同じだろうし──そんな苗木だって、私からすれば守るべき対象なのかもしれなかった。

 何か恩義があるわけでもないのだから、ましてや命を救われたというわけでもないが──それでもみすみす彼らを殺されるわけにはいかない。

 なぜだか分からないが、私はそういうなんの利益にもならないようなことをする人を知っているような気がするのだ。

 だから私も、そうするべきなのだろうと思うのだ。

 

 ともかく、練習をすることは昔からよくやっていた。

 だから私は少しでも早くこのアンバランスな身体に慣れるために、いつも行っているバスケットボールの練習をしながらも不均衡な身体の重さに慣れようとしていたのだ。

 バランスもそうだが、もともと私は右利きなのだから、箸を持ったり物を書くことなんかも練習をしなくっちゃならないだろう。

 

 ……そんな練習も早二時間、休憩を挟みながら続けていてもさすがに疲れが見えてくる。水分補給でもしようかと考えながら一人でドリブルをしていると、体育館の扉が開く音がした。

 

 ボールを弾ませるのを止め、流れる汗を拭いながらそちらを振り返ってみる。すると、ジャージ姿の不二咲が、おどおどとした様子でこちらを見ているのを目で捉えることができた。

 私の視線に気付いてだろう、不二咲は慌てた動きで扉を閉めようとするが、それよりも速く扉の方へと駆け寄り不二咲へ声をかけた。

 

「どうしたんだ? 不二咲」

「えぇ……あぁ、ボクは……えっとぉ、その」

 

 まるで小動物のように不二咲は惑う。

 かわいい!

 かわいいなあ!

 それも不二咲はボクっ子であるのだ!

 

 思わず抱きしめたくなるほどの可愛さだが、自分の体が汗で(まみ)れていたことを思い出し、半ば開きかけていた両腕を元の位置に戻す。

 

「すまないすまない。ついうっかりな」

「……なにが?」

「いや、気付いてないならそれでいいんだ。それで」

 

 よく見てみると、不二咲は青のジャージを着ていた。

 別に青が男、赤は女という決まりはないのだが、しかし彼女は青というイメージではなかったので少し驚く(赤というイメージもない。そもそも不二咲のジャージ姿というものは想像しにくいものだった)。

 

「ところで、やはり不二咲も運動をしに体育館に来たのか?」

「う、うん……」

「声に元気がないな。どうしたんだ? 朝食はしっかりと食べてきたか?」

「朝はきちんと食べたよ、目玉焼きとヨーグルト」

「そうか、じゃあ睡眠は?」

「あんまり、眠れてないかも……やっぱりちょっと、怖くって」

「そうなのか……まあなに、身体を動かせば、疲れて夜もぐっすりと眠れる。きちんと準備体操もしておけば、筋肉痛だって随分と和らぐだろう」

「うーん、そうかもしれないけど、やっぱり今日はやめとこうかなって……」

「んん、そうなのか。いやもったいないな。やる気なんてものは、存外、後からいくらでもついてくるものだぞ?」

「そういうものかな?」

「そういうものだ。私だって練習をするのが面倒な日くらいある。それでも結局は毎日楽しく練習をしている。不二咲だってそういう日はあるんじゃないか? プログラミング……というものはあまりよく分からないけれど」

「ボクもそういう日はあるかも。調子が良いかどうか分からないけど、ちょっと面倒だなぁってときあるもん」

「そうだろうそうだろう、きっと今がその面倒なときなんだ。とりあえず体を動かしてみれば調子が良いか悪いかが分かる、悪ければ悪いなりの練習をすれば良い」

 

 そう言って、不二咲の返事を待たずに私は彼女の胸元にボールを放り投げた。

 随分と驚いたらしく、不二咲は慌てたようにボールを手元で無作為に跳ねさせてからキャッチした。

 

「わわっ、か、神原さん」

「バスケットボールは好きか? バスケットボールはいいぞ。ドッジボールとは違って、顔に当てられることもないしな」

 

 少々強引な誘いではあったが、問題はないだろう。

 そもそも体育館にジャージ姿で来ているのだから、不二咲は運動をするつもりだったはずだ。できるできないに関係なく、しようとする意思を自主的に立ち上げていたことは確かだった。

 それに、まだ彼女のことはなにも知らないから憶測でものを言うのは気がひけるが、こうやって強引に引き込みでもしなければ、不二咲は体育館に入ることすらせずに帰ってしまいそうだった。

 それが私のせいだというのなら気の毒だ。……つまりは、不二咲を体育館に引き入れたのは私のエゴでもあるのだろうが。

 

 だが体を動かすことはいいことなわけで、それに既に一週間もの長期間に渡り狭い閉鎖空間に囚われているのだから、より一層体は動かしたほうがいいのだと思えた。

 人は太陽光を浴びないと気が狂ってしまうというが、それにもう一つ付け足すのなら、人は身体を動かさないと死んでしまうという事柄を加えたい。

 私たちの年頃であれば学校への登下校の際には必ず足腰を使うわけだし、体育で軽めの運動をすることもある。だというのにこの施設では食堂への行き来と探索くらいでしか身体を使う場面が見られない。

 そんな環境下じゃあ、いくら若くても不健康になりかねない。健全なる精神は健全なる肉体に宿るのだ。ただでさえ疑心暗鬼でギスギスとした雰囲気が流れるこの場所で正気を保つには、やはり、運動しかないだろう。

 身体を動かす他あるまい。

 

 ……そんな中で、特に不二咲は運動をすることを避けているようだったから(以前探索の最中に出会ったときは、プールに入りたがっていない様子だったし)、自主的にやろうとしているのならなおのこと運動をすることに意味がある。

 

 ただ、彼女を体育館に引き入れたのは随分と押し付けがましい親切心だと自分でも思う──私は、一人で練習をするのに少し飽き始めてしまっていたのかもしれなかった。

 コソ練はいつもやっていたし、一人で練習をすることはよくあるのだが……コロシアイ生活という環境下に身を置かされるようになって、私は以前よりも人恋しい性格になってしまっていたのかもしれない。

 

 ともかく、不二咲が迷惑そうな顔をしていないのを確認してから、彼女の小さな手(本当に小さい。超高校級のプログラマーだというけれど、こんなに小さいとタイピングをするときにキーボードの端の方には指が届かないんじゃないだろうか?)を取って、体育館の中へと引き込む。

 

「……ええっと、神原さん」

「? どうかしたか?」

「あ、あのねぇ? ボク、力が弱いから、運動とかもできなくってぇ……」

 

 不安そうに不二咲は言う。

 確かに彼女の体の線は細く、小動物のようなか弱さであった。

 

「なあに、体を動かすのに力の強さは関係ないぞ。なくったって、力とか運動神経なんかは後から付いてくる」

「そ、そうかな……?」

「力が……欲しいか……」

「やめてよっ、ボクは中二病じゃないよぉ」

「そうだったのか、てっきりそうなのかと」

「どこが中二病っぽく見えたの……?」

「後ろ髪がツンツンしているところとかか?」

「えぇ? 天然だよ。それに疑問形で答えられても……」

「そうだ。実際私がそうだった」

「髪型が!? それとも中二病が!?」

「いや、力とか運動神経が後から付いてきたってところだ」

「話が戻りすぎだよぉ……」

 

 今でこそ私は超高校級のバスケットボールプレイヤーなんてこそばゆい肩書きをもらってはいるが、昔の頃の私は──特に、小学生の頃の私は、今とは比べものにならないほどに体が弱かった。

 足も遅かったし、体力はまるでない。

 運動会で活躍できた試しはなかったし、持久走なんていうのは地獄のそれだった。

 だけれど練習に練習を重ねて、努力に努力を重ねて……私はそれなりによく運動ができるようになったのだ。

 今の自分は努力の積み重ねでできているのだということだけは、胸を張って言うことができるほどに……それほどに努力をし、努力し続けている。

 それは桑田や舞園だって変わりなかっただろう。

 

「不二咲は力が強くなりたいのか? ランボーとか、コマンドーみたいに」

「うん、ボクも機関銃とか乱射してみたいなあ……。いやそうじゃなくって? いや、ううん、そうなんだけど。でも、もっと強くなりたいっていうか……こう、誰かに頼ってばかりじゃなくって……頼られるような人になりたいんだよねぇ……」

「頼られるような人、か」

 

 その言葉で思い出したのは、戦場ヶ原先輩のことだった。

 同じ中学にいた、一つ歳が上の先輩。

 私はバスケットボール部で戦場ヶ原先輩は陸上部と部活は違ったけれど、そんな私に対しても大切な後輩として接してくれた先輩で──

 

 きっとあの人は、頼られる人に違いない。

 頼りがいのあるその後ろ姿に、私は憧れは抱いていた。その背を追って、希望ヶ峰学園にまで来たのだ。

 だから頼られる人に憧れているという不二咲の願いは、なんだかとっても分かるような気がしたのだった。

 

 不二咲もまた、誰かの背中を追っているのだろうか。

 

「頼られる人になれるかどうかは不二咲自身だろうけれど、男らしく……つまりは強くなるための手伝いくらいは私にできると思うぞ」

「そう?」

「ああ、きっとできる。実はだな、私も昔は運動ができなかったんだ。バスケットボールのことで昔からできていたことなんて一つもない。体力もなかったし、力も弱かった」

 

 新しく手に取ったバスケットボールを力強く弾ませて、ゆっくりと駆け始める。

 

「行動を起こさなきゃ、才能があるかないかも分からない。まずは何が得意で何が不得意か。不得意でも何が好きで何が嫌いなのかを見つけるべきだと、私は思うぞ」

 

 両手でボールを持ち、走ってきた勢いをキープしながら真上にジャンプして──シュート。

 手から離れたボールは、綺麗な放物線を描きながらゴールネットの中心へ落ちていった。

 

 よし。ようやくこの偏重心に身体が慣れてきたような気がする。

 

「ボクにできるかな……?」

「できないなんて法はない。できるに決まってる」

 

 できなかったとしても、それでなにも得ることがないなんてことはあり得ない。良いものであれ、悪いものであれ──多くの場合は良いものを得るはずだ。

 

「じゃあまずは準備体操から始めよう。どんなプロ選手だって必ずやっていることだぞ」

「うん」

 

 取り損ねていた水分を補給してから、私は不二咲に付き添う形でもう一度準備体操を行い、筋肉トレーニングも行なった。この時点で不二咲はどうにもバテ気味であったものの、走り込みをして(外でできないのが口惜しい)ようやくボールを手に取った。

 

「え、えぇ? もう終わりじゃないの……?」

「だって……まだ……準備体操だろう」

 

 体育館の床で両の腕と足を放り投げるようにし大の字になって横たわっている不二咲の顔には汗が滲み、そして苦しくあえぐように胸を激しく上下させていた。

 いわゆる“バテ”というものだろう。

 天を仰ぐ不二咲の口元に経口補水液を持っていってやりながら、ぼそりと呟くように私は言う。

 

「それなりに覚悟はしていたが……まさかこれほどとは」

「あぁ……明日絶対筋肉痛だよぉ……」

「むう」

 

 こんな状態になってしまうような準備体操はした覚えがないのだが……はたしてこれは私が行なった準備体操があまりにもハード過ぎたのか、不二咲が予想できないほど体力がないのか、それともその両方か──

 

「多分両方じゃないかなぁ……マイナスプラスマイナスで……カケルじゃなくって」

「でもゼロよりかはマシだろう」

「それは一とか二とかの少ない数字の時に言っていい言葉なわけで、マイナスな時点でアウトだよぉ……?」

 

 ダメじゃないか。

 もっとこう、格闘漫画でありがちな物理法則を無視しがちの方程式は適用されないのだろうか……。

 

「格闘漫画じゃなくて推理ゲームだからね……大神さんは、格闘漫画の世界の住人っぽいけど……すごいよねぇ」

 

 大神……ひょっとして不二咲は、大神のように筋骨隆々で、鎧袖一触という四字熟語を羽織っているようなボディを目指していたりするのだろうか?

 

「不二咲は、ムキムキになりたいのか?」

「なりたいなぁ、いいよねぇ。ムキムキ。フライパンとか曲げてみたい」

「なっ……不二咲、お前はてっきり『ほほう……ですが、力が全てではありませんよ』とか言いながら、フライパンを効率的に曲げる機械を開発して主人公に立ち塞がる効率重視の科学者ポジションかとばかり……!」

「長いよっ、設定とシチュエーションが長い……! それに、フライパンを曲げるためだけに機械を作るなんて、明らかに効率的じゃないよっ」

 

 そうつっこんでから、不二咲はホッと息を吐き、心配そうにこう言うのだった。

 

「ねぇ神原さん……ボク、やっぱり向いてないのかなぁ」

 

 そう聞いて、私は言葉に悩んだ。

 とあることができる人間の言葉というものは、そのことができない人間からすれば、例え自分に向けられた感謝の言葉でさえも攻撃に見えてしまうことがあるからだ。

 だからこそ、できるだけフランクに──でも、伝えたいことは伝えられるような、そんな言葉が必要だ。

 少し言葉選びに迷いながらも、それを悟られることのないようにし、言った。

 

「なあに、なんだって初めてやるときはこんなものだ。古びた水道管に勢いよく水を流しているようなものなのだから、痛いのも当然なんだ──少し休憩をしてから、軽くボールで遊ぼう。身体が動かなくても、慣れようとすることはできる」

「……ごめんねぇ」

「なにを謝ることがある。別に不二咲は悪くないんだ、むしろよくやった方だと思うぞ」

「いや、そうじゃなくってね。神原さんもしたい練習があったと思うから、こうやってボクに付き合わせちゃって、悪いなぁって」

 

 ギシギシと錆びついたロボットのような動きで上体を起こした不二咲は、やや俯き加減で、申し訳なさそうに口をぼそぼそと動かしていた。

 

「そんなことはない。……ほら、よく、教えることは勉強にもなるっていうだろう? 私も別に、今日の練習で……準備体操ではあるが、それでなにも得ていないというわけじゃないんだ」

「そう……?」

「そうだ。なにより朝のお前の様子を見る限りだと、どうやら一人きりでやろうとしていたからな──実際、私が無理にでも誘わなきゃ一人で身体を鍛えようとしていただろう。だからこうして一緒に体を動かすことができて、私は嬉しいんだ」

 

 誰かと体を動かすことはとても楽しい。

 先の話になるだろうが、いつかその感情を不二咲と共有したい。

 

「……大和田クンも、一緒に鍛えようって言ったら、楽しんでくれるかなぁ……。それとも迷惑がるかなぁ」

「楽しんでくれるに違いない。彼は運動とか、嫌いじゃないタイプのはずだ」

 

 なんの根拠もない返しだが、不二咲は嬉しそうに頬に笑窪(えくぼ)を作った。

 その表情を見て、私も自然と笑みを返した。

 

「やっぱりボールに触るのはまた今度にしよう。どうにも汗で左腕に巻いてある包帯が蒸れてるんだ。……どうだ? 不二咲、一緒にお風呂にでも入るか?」

「それは遠慮しようかなぁ……っ」




夏なんてなかった。

あと副音声を書きました。おそらくこのURLからなら飛べるかと。作者作品覧、チラシ裏からでも。
→https://syosetu.org/novel/206385/

ちなみに八日目というのは、大和田くんと不二咲さんが男の約束を交わした日ですね。深夜には大和田くんと石丸くんとがサウナで対決したりします。


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006 (非)日常編

 今朝の食堂では大和田と石丸の二人が和気藹々とした空気を作り出していた。あの大和田と石丸が。

 つい昨日まで対立し合っていた二人が肩を組んで、そして打ち解けあっているというのは──疑心暗鬼の視線を向け合うばかりのコロシアイ生活という環境下において一つの懸念が取り外されたということなのだから、良いことではあるんだろうけれど──しかしどうしてもその不自然さが気になってしまうのが人のサガというもので、なぜ、どうして彼らが打ち解けあったのかという不可思議さに対する疑問や興味が絶えなかった。

 

 彼らの異様な様相に(あるいは、正常な男子高校生とも言える様相に)好奇心を抱き尋ねてみはしたものの、二人の口から出てくる言葉は『男同士の濃密な繋がり』だとか『女同士とは違う』という言葉ばかりで……昨夜何かがあったに違いないが、しかしそれが一体何なのかはてんで分からないままだった。

 

 きっと目覚めたに違いない! BL的な何かに! ……と、いうのはさすがに妄想の度が過ぎているものの、それに近しい絆のようなものが彼らの間に芽生えていたことは誰の目から見ても確かなことだった。

 

 話は変わらないが、説明しておくと、私は俗にいうところの腐女子という人種である。簡単に言えば男同士の恋愛を好む性癖を持っている。

 よく例としてあげられるようなボルトとナットで妄想するといったことよりも、どちらかと言えば私は嗜好品として売り出されているBL官能小説を購入し楽しむようなタイプの人間であった(とはいえ、ナマモノで妄想しないということもない)。

 なのでそういう趣味趣向の息がかかった色眼鏡で見た、つまり性癖のフィルターを通した視界で男同士の友情を映し出し、己の劣情を介入させるということは実に愚かな行為であるのだということは重々承知の上なのだが……。

 しかしどうにも、苗木から詳しい話を聞いてみると、大和田と石丸の二人はサウナという完全な密室で昨晩遅くから二人きりで閉じこもっていたと言うじゃないか。

 

 男二人、密室で……なにも起きなかったという方が不自然な状況で、現に二人はこうして仲良さげに兄弟だなんて呼び合っているわけで……ふ、不純()()交遊でなければいいということなのかっ!?

 つまり、私は、女の子とイチャイチャしても問題はないのだろうかっ!

 

 素行不良のヤンキーと品性方向を貫く風紀委員長というのはありがちな設定でもあり、察しの良い私は二人の邪魔をすることのないよう、不二咲を交えて苗木と三人で朝食を取るのだった。

 杞憂であったとしても、そうでなかったとしても、そもそも私と彼ら──大和田と石丸──との間に接点はないに等しいため、例え距離を取らずとも共に朝食を取るようなことはなかっただろうが。

 

 苦手というわけではないのだが、どうにもコロシアイという言葉がチラついて、なかなか人と仲良くなれないのが今の私の心情だった。

 不二咲の場合はたまたま私が運動中で、なかば興奮状態にあったこともあってか話しかけれたし。苗木や……舞園とはコロシアイ生活なんてものが始まる少し前の時間に知り合ったから気軽に接せられた。

 朝日奈や大神は同好の士でもあったから関われたけど……そう考えると、やはり石丸や大和田と良好な関係を築くきっかけのようなものは見当たらないように感じられた。

 きっかけがあったとして、こんな生活の中では死んでしまうのではないかと考えてしまうと気が進まない。

 たとえ短い期間の触れ合いであっても、情というものは湧くものだ。

 なにより仲良くしていた人の死体を目にしてしまうということは、まだ精神的にも未熟である私にとっては心を病んでもおかしくないようなできごとだった。

 

 セレスや葉隠なんかもそうだ、関係性が非常に薄いように感じる。特に、十神あたりとは性格的な面で仲良くなれそうにない。

 

 ……ともかく朝食。やはり私は利腕の右腕がろくに使えない状態だったのでコッペパンをちぎり食べていた。

 その際、不二咲に筋肉痛のことを聞いてみたところ、まだ特有のあの痛みは来ていないということらしかった。ただ疲労だけは溜まっていたとのことなので、不二咲は朝食を取り終えてすぐに、そそくさと部屋に戻っていった。

 

 午前中に予定のなかった苗木と私は惰性で食堂に残り、態度が急変した大和田と石丸について話をしていた。

 噂の渦中にある大和田と石丸の二人は既に食堂を去っていた。

 

「いや……多分だけれど、神原サンが想像しているようなものじゃないと思うよ……? そういう愛の形があるのは知ってるけどさ。うん、あれはやっぱり紛れもない友情だと思うよ」

「……そうだろうか? だとしたら私の胸の中にあるドキドキは一体!」

「それは神原サンの趣味だと思うよ?」

 

 と、バッサリ斬られてしまったところで食堂に現れた腐川が苗木をどこかへ連れていってしまい(さっきの話を腐川に聞かれないで本当に良かったと思う。彼女はこういうジャンルを毛嫌いしているようだったから)私はひとりになってしまった。とはいえさほどそれは苦痛ではなく、昼食は少し早めの時間にとり、それから夜時間の二時間前までバスケットボールの練習をしてから私は部屋に戻った。

 

 シャワーを浴びながら思う。

 今日のように、何事もない日が続けばいいのに──と。

 このコロシアイ生活も既に一週間以上経過しており、死者も既に二人出てしまっている。

 

 明日は我が身か──それとも、他の誰かか。

 

 なにもないという平穏の大切さは、その平穏の中にいるときには分からないのだと──身を危険に晒して、初めて理解することができていた。

 人は大切なものがなにかを失ってから初めて気が付くとよく言うけれど、こういうことなのだと思ってしまう。

 

 そして、私が望む平穏をモノクマは望んではいないのだろうと……憎たらしい白黒のボディを脳裏に浮かべながら想像していた。

 

 その矢先、まるで私の心を見透かした上で狙ったかのように、放送が流れた。

 夜時間を知らせるものでないことだけは確かだ──なにせ、水が出ない夜時間までに時間の余裕を持たせるため、バスケットボールの練習を早い時間帯に終えたのだから。

 現に、夜時間には出ない水がまだ出ている。

 では、一体──

 

 未だ慣れないメロディーの後、いつもと様子を変えないモノクマの声が聞こえた。

 

『えー、校内放送、校内放送。まもなく夜時間となりますが……その前に、オマエラ生徒諸君は、至急、体育館までお集まりくださーい』

 

 ブツリ。と、そこで放送は途切れた。

 体育館……行かないという選択肢は、元から与えられていないだろう。

 急いで体についた水滴をタオルで吸い取り、服を着て、包帯を巻き、私は体育館へ急いだ。

 火照りじわりと湿った肌に張り付くシャツが、酷く不愉快だった。

 

 既に私以外の全員が集まっていたようだが、駆け足気味で体育館に現れた私に視線を向ける者は少なかった。なぜなら多くの者が、壇上に立つモノクマを警戒して強く見つめていたからだ。

 

「爆弾かも? それともマシンガンとか……? どっちにしたって、オマエラには関係のない話でしょ? でもまあ、どうしても気になるっていうんなら……卒業して確認するしかないよねっ!」

 

 爆弾? マシンガン?

 どうやら既に話が進んでいたらしくまるで概要が掴めないでいると、その様子を察してくれたのか、苗木が忍ぶようにして話の前後を教えてくれた。

 どうやら葉隠が、玄関ホールで工事現場のようなよくわからない音を聞いたというのだ。

 その話をしていたタイミングでモノクマが登場し、そして今に至る……ということらしい。

 

「……っと、話し込んでるうちに、みんな揃ったみたいだね」

 

 モノクマはそう言って、私たちの方へと体を向き直す。

 緊張で体が強張るのを感じる。

 その白黒半々のボディは、私の中ではもはや不吉な柄としてインプットされつつあった。

 

「あのさあ……次のクロがなかなか出てこなくってツマラナイんだよね。刺激がないっていうかさ……カラシ抜きのロシアンルーレットみたいでさあ」

 

 モノクマが刺激と呼ぶものは一つしかない──カラシ入りのシュークリームではなく、それはきっと殺人についてのことだろう。

 わざわざみんなを集めてまで、刺激が足りないと……つまりは殺人の頻度に対して物足りないと文句を言うということは、つまりはモノクマが何かを企んでいるだろうということでもあった。

 

「刺激がないんだよ刺激がさ! ボクはもっとエキサイティングなコロシアイを望んでいるのです! というわけで、こんな動機を用意しましたー!」

 

 そう言ってモノクマはどこから用意したのか、封筒の束を取り出した。

 それぞれに名前が書かれてあるようで、確認したわけではないがおそらくは私の名前が書かれた封筒もその中には含まれてあるだろう。

 

「今回の動機はズバリ“恥ずかしい思い出”や“知られたくない過去”。この封筒にはオマエラのそんなマル秘情報が入っているのです!」

 

 そう言ってモノクマは、多くの封筒を私たちの足元へとばら撒くように放り投げた。

 動機というのは……つまりは、そう、以前に配布されたビデオと同系統のものだろう。

 人に人を殺めさせるためのキッカケ──見るわけにはいかないが、しかし、殺人という人として最大の過ちを犯さざるをえないようなことが書いてあるというのなら、それを見ずにはいられないという背反的な思いがどうしたって存在していた。

 

 言い知れぬ恐怖と緊張で鼓動が高まるのを感じながら、床に散乱した封筒の中から自分の名前が書かれたものを探し出し、封を開けた。

 …………。

 

 封筒の中身を見る者、見ない者に別れてはいるけれど、皆一様に封筒を手に取っていた。

 私はというと、それは前者であった。

 未だに慣れない右手で覗いた内容は、正直、ぞっとさせられるような私の過去であった。

 

「制限時間は丸一日。二十四時間経ってもクロが現れなかった場合は、この秘密を外の世界に公開するからね~!」

 

 いつもは憎たらしく思えるモノクマの表情が、今は恐怖の象徴であるかのように思えてしまった。

 少し、勘違いをしていたのかもしれない。

 モノクマは、ただ、頭がおかしいというだけのやつではないのかもしれない。

 

「こんなことでボクらは人を殺したりなんかしない」

 

 隣にいた苗木が力強い声でモノクマに対し反感の意を見せる。

 

「そうだ、実にくだらない! この程度のことで殺人など起こるはずがない!」

 

 これは石丸の弁だった。

 その二人の強い意志にあてられてか、朝日奈や不二咲たちも声を上げていた。私はというと、そんな彼らとは対照的な態度だったと思う。

 彼らの言葉を聞いて、モノクマは愉快だとでも言いたげな調子の良い声で疑いを投げかける。

 

「ホントかなぁ……うぷぷ……、知られたくない秘密っていうのは、人によりけりだからね。度合いがあるものだよ」

 

 そう言いながら、モノクマがこちらの方を見たような気がした。それは錯覚に違いなかったが、そう勘違いしてしまうほどに、視線を意識してしまうほどに、私の秘密というものは心を急かすものであった。

 

「じゃあ、もう夜時間だしボクは先に失礼するね。夜更かしは毛並みに悪いから」

 

 後に残された私たちは、手に封筒を握ったまま話を始める。

 モノクマは人によって秘密の度合いが違うといった──恐らくはくだらない秘密から、人としての価値観が決定されかねないような秘密まであるのだろう。

 殺人を犯さなければならないほどの秘密が書かれた封筒は、この場には一体いくつあるのだろう。そのうちの一つに私の秘密は含まれているのだろうか。

 

「秘密を秘密のままにしておくから、これは動機たりえるのだ。今ここで、お互いに自身の秘密を公開し合うというのはどうだろう」

 

 神妙な面持ちで、しかし自信ありげに石丸がそう提案した。

 確かにそれは事態を解決することができるだろうが、同時に大変難しい策でもあった。

 

 石丸の言うように秘密が秘密で無くなったのなら、秘密を秘密のままにするために誰かがクロになる必要はない。

 ただそれは、あくまで皆の協力が必要なことであった──どうしても、知られたくないことがある人からすれば、協力したくてもできない策に違いない。

 

 事実、私がそうだ。

 知られる、知られない以前に──理解もされないであろう話なのだから。

 そしてさらに疑問が深まる──なぜモノクマは、私の過去を知っていたのだろうか?

 誰にも、言ったことは、なかったはずなのに。

 

「石丸、多分だがそれは不可能だ。いや、絶対にできないと断言できる。モノクマの言っていた通り、この秘密の重要度は人によって異なるようだからな──それこそピンからキリまであるだろう」

 

 石丸は封筒が握られた手を自身のこめかみあたりに当てながら深く思案し、そして唸るようにこう答えた。

 

「……むう、確かにそうでなければ、モノクマも動機にはしない……か」

 

 それからはみんな、しんと静まり黙ってしまった。

 言いたくない秘密を抱えている人が、あまりにも多すぎた。

 

 石丸の秘密は彼にとっていかほどの重要性があるのかは知らないけれど、彼もまた苦しそうな表情で私たちに告げた。

 

「ただ、僕らは味方同士なのだ。確かに秘密とは色々あるのだろうが……皆で解決できるような秘密ならば、打ち明けてほしいと僕はおもう。もちろん、二十四時間が経ったあとでもだ。取り返しのつかないことであっても、人は償えるのだから」

 

 その言葉を最後に、モノクマが新たに打ち出した動機に対し具体的な解決策も出ないまま、その日は解散することになった。

 個人の秘密というだけに手の出しづらい動機であり、悔しいことだが私はモノクマの企てを阻止できなかった。

 

 体育館を出ようとすると、後ろから誰かに声をかけられた。

 この声は、不二咲だ。

 

「あ、あのぅ、神原さん」

「……ん、どうかしたか? 不二咲」

 

 身構えてしまう。秘密について聞かれてしまうのではと、つい思ってしまったのだ。

 現に不二咲は私と目を合わせようとせずに、自身の持つ封筒と地面を交互に見交わしていた。

 

 私は不二咲が話し出すのを待っていた。

 

 私の受け身な姿勢に気付いてもなお口籠っていた不二咲だが、そう長くない余白の後に、周囲を気にするように口元に手を当てながら、ただでさえか細い声を小さくして言った。

 

「あ、あのね? 神原さん……、えっと、その。夜時間になった後、体育館で、会えないかな? ……動機の秘密で、僕、話したいことがあるんだ」

「体育館……それは構わないが」

 

 構わないけれど、ただ、夜時間というのがどうしても気になった。

 

「夜時間じゃないとダメなのか? 夜は、危険だろう」

「……うん、そうなんだけどねぇ……。でも、朝時間だと誰かに聞かれちゃうかもだし、夜時間のほうが良いかなって」

 

 ダメかなあ? と、不二咲は上目遣いで言った。その行為に故意的な意図はないのだろうけれども、そんな目で見られてしまっては断れるものも断れないというものだ。

 こういうのに、私は弱い。

 

「ああ分かった。夜時間に体育館だな? うむ。待ち合わせだ」

「うんっ」

 

 その日の夜時間、私は誰もいなくなった体育館で不二咲を待ちながら動機について考えていた。

 

 封筒の中身を見る前に、みんなのものを集めて処分してしまうという方法はなかなかに良いものであるかもしれないと思ったが、おそらく十神あたりは非協力的な姿勢を取るだろうし、なにより既にあの場で封が切られてしまっている以上それは手遅れとしか評することのできない策であった。

 

 そしてそれとはまた別の意味で、動機への対策などもはや手遅れだということにも気付かずに、私は来ることのない不二咲を待ち続けていた。

 

 翌朝はいつにも増して気分の優れない朝を迎えた。

 心なしか体も重いような気がしてならない。

 不二咲に待ち合わせをすっぽかされたのもそうだが、夜になり寒くなっていた体育館で一時間以上も薄着でいたことがまた、影響しているのだろう。

 

 風邪をひいていなければいいのだが。

 なにせこの閉鎖空間ではまともな医療も受けられないだろう。

 

 唸るように首を傾けて枕元の目覚まし時計を見ると、まだ朝時間まで数時間ほど余裕があった。こんな環境にあっても早寝早起きが染みついてしまっていることが、なんだか恨めしく思えた。

 夜時間は食堂が空いていないので、朝早くから体育館で運動をするときは昨晩のうちから水やら朝食やらを用意しておかないといけないなと考えながら、私は柔軟体操に軽い筋トレを部屋の中で行うことにした。

 夜時間は出歩かないというルールが私たちの間で決められたこともあるが、なにより外に出る目的がなかったというのもある。食堂は夜時間の間、閉鎖されているのだし。

 

 一通りの自主練をやりきったところで、朝時間まであと少しという時間帯だった。

 滝のように肌の上を流れる汗をシャワーで流すことができないのが惜しいところだったが、あと十数分で朝時間だということを考えるとそれも苦ではなかった。

 

 時間に余裕がないわけでもなかったため、左腕に巻いた包帯を解きながら昨晩に配られた封筒の内容について考えた。

 

 私にとって、秘密というものはそう多くない。

 なぜなら私は人生の大半を運動に注ぎ込んできたため、そう誰かに隠さなければならないことは少ないからだ。プライベートな時間は大抵部活の仲間たちと過ごしてきたし、一人の時はいつもコソ練をしていた。

 秘密と言える秘密はなかった──練習方法だって、普段走っているジョギングのコースだって、私は人に快く教えるだろうから秘密たりえない──ただ、そう、私が運動を始めたきっかけとなる出来事は、簡単に人に教えられるものではなかった。

 

 しかし不思議なのは、どうしてこのことをモノクマは知っていたのだろうか──?

 なんせ秘密だ。私はこのことを誰にも打ち明けたことがない。

 誰にも知られることのなかった話だ。

 いや、結果だけならば調べれば知ることができたかもしれない──しかしなぜあの封筒の中に入っていた手紙には()()()()()()()()()()()()書かれていたのだろうか?

 

 言い逃れようのない恐怖が囁くようだった。

 罪を償うべきだということか?

 幼心(おさなごころ)に願いを告げてしまった罪を?

 時効だなんて言い訳をするつもりはさらさらないものの、しかしその贖罪としてこのコロシアイ生活に巻き込まれてしまったのだというのなら、なんて遠まわしな誅罰なのだろうと思わざるを得ない。

 

 自然と包帯を解く手に力が入った。

 思えば、あのとき私が願った木乃伊の手もまた左手だったということを思い出した。

 願いを、悲しみを生むことでしか叶えることのできない、猿の手──猿の、手?

 

 なにかに気が付きそうになったところで、玄関の方から鳴り響く忙しないチャイムの音が私の気付きを遮った。

 

 扉を開けると、そこには朝日奈がいた。

 包帯を解いてしまっていたために、毛むくじゃらの左腕を隠すようにして半身だけを扉から出し彼女に挨拶をする。

 

「おはよう朝日奈。……朝から騒がしいぞ」

「おはようじゃないよっ! もうっ、心配したんだから!」

「……心配? どういう、ことだ。……またなにかあったのか!?」

 

 朝日奈の様子がどうにもおかしいことが見て取れた。

 おそらくは寄宿舎の端からチャイムを押して行っていたのだろうか、そして手分けしていたのだろう、向こうの方からは誰かの部屋のチャイムの音が遠く聞こえていた。

 

「どうもこうもじゃないよ! どうして食堂に来なかったの!?」

「食堂……? いやだって、まだ朝時間じゃないだろう」

 

 朝時間であることを知らせるチャイムはまだ鳴っていなかったはずだ。私が起きたときに目覚まし時計を見たときはまだ七時前だったし、二度寝をしていた間にということでもないだろうに。

 私がそう答えると、朝日奈は困惑気味に「モノクマは来なかったの?」とだけ言った。

 

 その答えは「来なかった」なのだが、それを口にする前にまたアナウンスが流れたのだ。

 今度は朝時間を知らせる放送ではなく、また別の意味を含んだものが流れた。

 

『ピンポンパンポーン。死体が発見されました──』

「っ!」

「……!」

 

 その放送を聞くのは二度目だった。

 一度目は、舞園の死体を見つけたとき。

 あのときと違って私の目の前にいるのは生きた人間だけれど──しかしあの日のシャワールームの光景がフラッシュバックするようで、一気に息が苦しくなった。

 

「朝日奈……!」

「た、確か、上の階に苗木たちが探しに行ってたはずっ」

 

 その言葉を聞いた途端、私は駆け出していた。少なくとも朝日奈の言葉から察するに、苗木はまだ生きているらしいかった。

 それだけが唯一の救いであったように思う。

 いや、救いなんてものはないのだろう──誰かが死んでしまった以上、最悪の結末を迎えることしかできないのだから。

 ただどうしてか、彼を死なせてはならないのだと警鐘が鳴らされているような気がして仕方がないのだ。舞園のことを引きずっているのだろうか──

 

 左腕に包帯を巻く時間はなかったためベッドのシーツを左腕にさっと被せて、苗木たちが向かったという二階へと駆けて行った。

 

 二階に上がった途端、妙に騒がしくなるのを感じた。

 どうやら更衣室の方から聞こえてくるようだったが、自分の心臓の鼓動も相まってより騒がしいように感じられた。

 女子更衣室の扉が開いていて、中で十神と苗木の後ろ姿が見えた。

 

 変質した左腕のため左右の重さが違うからかふらつく足を押さえながら、倒れるように部屋に入り込む。

 ただ、例えこの左腕がまともな状態であったとしても、私は倒れ込んでいたかもしれない。

 目に入ってきた凄惨たる光景はまさしく猟奇的なものであり──そして、その被害者の有様というものがあまりにも酷たらしいものだったからだ。

 

「…………」

「……か、神原サン」

 

 物言わぬ死体は不二咲だった。

 彼女はどうしようもなく死んでいた。




活動報告の方でもちょっと話してたんですけど、化物語の方を読んで思い出したことがありまして、神原さんは左手の関係で左右バランスがが異なってるんですね……そのため本編中いくつかそういった描写を書き加えたりしてます。あと利き手うんぬんとかも。

別にそれほど本編では重要な話でもないので、再度読む必要はないです。


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007 非日常編

「不二咲っ、不二咲!」

 

 力なく弛緩した不二咲の体は休まることを許されていなかった。

 まるで十字架にかけられるようにハリツケにされた彼女の表情は沈痛なもので、そこに安らぎは存在していない。

 不二咲が人の恨みを買うようなことをしたとは到底思えなかったから、彼女が殺されてしまった理由というものが見つからなかったし、人畜無害という言葉をそのまま体で表したような彼女がこのような冒涜的な様相で殺されていることに、私は強い憤りを感じた。

 不二咲が一体なにをしたというのだ。

 力がないから殺されたのだろうか。不二咲は弱いと思われたのだろうか。だから、標的にされたのか──?

 それは不二咲にとって一番の侮辱だろう。

 

「……くそっ!」

 

 血が出てしまいそうなほどに強く固められた右手の拳を床に叩きつけ、その勢いを利用するように立ち上がり、私は不二咲の元へと覚束ない足取りで進んだ。

 

 不二咲の死顔はとても苦しそうだった。

 せめて楽にしてやらないと。

 

 ……だが、同じく更衣室にいた苗木に抑えるようにして止められてしまった。

 

「なぜ止めるんだっ。……不二咲を、降ろしてやらないとっ!」

「ダメだよ……ッ! ダメだよ、神原サン……ッ!」

 

 悲しみを堪えるような……そんな声で苗木は私を押さえつけた。

 私の体の重心が偏っていて、そして人に見せるわけにはいかない左腕をかばいながらということもあってだろう。私は苗木よりも力があったが、しかしその力の指向性を見失い態勢を崩して尻餅をついた。

 

「どうして……どうして、不二咲が……」

 

 悔しさや憤りという感情が、涙となって溢れそうだった。

 どうして不二咲は死ななければならなかったのか……どうして不二咲の遺体はこのように弄ばれているのか……それだけが、ただただ疑問で。

 不二咲を殺した犯人が、とても憎かった。

 

「……ごめんね、神原サン。……クロを見つけるためにも、現場の保存はしなくちゃいけないんだ」

「ああ……分かってる。分かっては、いるんだ」

 

 頭では理解しているつもりでも、感情的になってしまえばそれも意味はないようだった。

 この学園に来てからというものの、精神が参ってしまっていたのだろう。今は明るく振る舞うことが難しいように感じた。

 

「……苗木。私は少し、部屋で休む……」

 

 そう言い残して、私は部屋へと戻った。その足取りはとても重く、気を抜けばその場で崩れ落ちてしまいそうなほどだった。

 

 部屋に戻ったからといってそれでなにかが良い方向へ進むというわけでもない──むしろ私は後退したといってもいい。

 逃げることは罪ではないが、ただそれは愚行である。

 

 私は愚かにも、憎しみや悲しみと共にあの場から逃げ出したのだ。

 ……行き場を失った感情が心の中で渦巻き、吹き荒んだ。

 

 彼女の死に立ち向かえる気力は今の私には残っていなかった。

 今の私にできることなどなにもないと、自分が自分を責める。

 強い無力感、これは、舞園が死んでしまったときとよく似ていた。

 

 ……辛い、辛くて仕方がない。

 

 不二咲と関わりを持った時間は少ない。それこそ、中学の頃の部活の友らと比べれば初対面とそうかわりないほどに。

 ただ、彼女と過ごした時間は決して無駄なものではなく、浅からぬ関係を心で築けたと私は思っている。

 少なくとも、あの瞬きのような時間の中で、私と彼女は友達だった。

 しかし私はなにもできないまま、また友達を死なせてしまったのだ。

 

 ……私は、無力だ。

 きっとまた誰かを失う。

 確信にも似たその負の感情は、強く私の心を締め付けた。

 

 失う誰かとは誰のことだろう?

 ……苗木や、朝日奈や、大神のことだろうか。

 それとも──戦場ヶ原先輩?

 

 それは嫌だ。

 けれど、それを防ぐ力を私は持っていない。

 自分の身だって守れそうにない私が、誰かを守ることなんてできるわけがなかった。

 現に昨夜のことだってそうだ。いくら待っても不二咲がやってこなかったのは、私がぼうっと馬鹿みたいに体育館で待っている間に、不二咲が殺されてしまったからじゃないのか?

 

「結局、なにも守れない、ままじゃないか……ッ!」

 

 悔し涙が頬を伝った。

 言葉にならない叫びが、呻き声となって口から漏れた。

 

 そんなとき、部屋のチャイムが鳴るのを聞いたが、チャイムを鳴らす誰かを出迎えるような気力は今の私には残っていなかった。

 

 ……どうやら閉め忘れていたらしく、鍵は空いていたのだろう。ガチャリと扉が開く音と共に、霧切の声が聞こえてきた。

 

「入るわよ、神原さん……神原さん?」

 

 こんなときでも、咄嗟に左腕を隠してしまう自分が愚かしく思えた。

 

「ノックくらいしろよ……それとも霧切は、女の子の部屋に入るときはガツガツいく派なのか……?」

「いや……チャイム鳴らしたけど、反応がなかったものだから」

 

 平坦な声で霧切は言った。死体発見アナウンスを聴いていないわけじゃないだろうに、彼女は私と違って随分と冷静に見える。

 足音が近づいてくるのを感じ、うっすら開いた目で彼女の影をとらえた。だが、そうやってこっそり覗き見ていることが罪なように感じて、私は再び目線を逸らした。

 話す意志はないのだと示すように枕に顔を埋めて、霧切の反応を窺った。

 

「大丈夫……じゃなさそうね」

 

 霧切は呟くようにそう言った。

 言葉を返すことはなかった。

 

「鍵は閉めたほうがいいわよ。……物騒な生活環境だからというのもあるけれど、もちろん日常的にも」

「余計なお世話だ……」

 

 たとえどのような言葉であれ、今自分に向けられる言葉は全て疎ましく感じてしまうのだった。そしてつい霧切にあたってしまう。

 謝ろうという気はすぐには起きなかった。

 今はただ、自分に対する呵責の念や、不二咲を殺した者に対する憎悪の感情が強かったのだ。そんな怒りは私の中で燻り、関係のない霧切にも火の粉が飛んでしまいかねないほどだった。

 早く出ていけよ。そんな辛い言葉も、ちょっとした拍子で飛び出てしまいそうなほどに。

 

 霧切はいったいどうして私の部屋に来たのだろうか。

 言っちゃ悪いが、彼女は人を慰めるようなタイプの人間だとは思えない。

 

 空白を嫌ってか、霧切はさして間も置かずにこう切り出した。

 

「……神原さんは、嫌なことがあったときは、どんなことをするの」

「…………」

「なんだか全てが上手くいかない日は、どんなことをするのかしら」

「どんなこと……?」

 

 予期せぬ質問に戸惑いながら、私はそう聞き返した。

 聞き返されるとは予想していなかったのか、霧切は言葉に詰まりながらも答えを出す。

 

「……た、例えば、好きなものをいっぱい食べるとか。たくさん買い物をするとか。……私はよく、好きなものを食べたりするのだけれど」

「それは……ふふ、なんだか微笑ましいな。食いしん坊響子ちゃん」

「変なあだ名つけないで」

 

 ふと考えた。

 部活の友達と話をすることができたなら、私はいったいどれほど救われただろうと。……おばあちゃんやおじいちゃんの顔を見ることができたなら、どれほど安心することができただろうと。──しかしそれは、彼女たちをモノクマの支配下に置くということでもあり、大切な彼女らを危険に晒すような真似はしてはいけないと本能が叫んでいた。

 

 ならば私達は、同じ境遇の者同士で傷を舐め合うことしかできないのだろうか。そこに救いや希望はあるのだろうか。

 不意に、今自分が置かれている環境の寂しさというものを知ったような気がする。

 本当に辛いのは死んでしまった不二咲のはずなのに、酷く心が締め付けられるようだった。

 

「……私は、体を動かす。先のことは考えずに、倒れるまで走り続けたり、自主トレに励んだりする」

「そう……あなたらしいわ」

「らしいってなんだ、らしいって。……馬鹿にしているのか? 私を脳筋だと」

「そういうわけじゃないのだけれど……」

 

 霧切は少し、動揺したように淀んだ口振りでそう言った。

 私のしかめっ面を見ていれば、それはもっと揺れ動いたものになっていただろうと心の中で思い、少し和んだ。

 

 加虐よりかは被虐に興奮を覚えるが、それとは別に、霧切のあまり見ない表情を見ることができて嬉しかったのだ。

 ……嬉しい? ……やっぱり今の私は、どこかおかしいと思う。

 性癖がおかしい……という意味ではなく。もっとこう、心理的な意味でだ。今の私は情緒不安定というものなのではないだろうかと、客観的に見て思った。

 話なんてしたくもないと思っていたはずなのにこうして口を開いていることが、なによりの証拠だ。

 

「霧切は、運動とか苦手そうだからな」

「……そういうのとは無縁な人生だったわ。いえ、記憶がない以上確かなことは言えないのだけれどね。ただ、私の体はあまり肉付きが良くないようだから、おそらく文系の才能なんでしょうけど」

 

 霧切は部屋の中央にある椅子に腰掛けた。どうやら長居するつもりらしい。……出て行けとは、言えなかった。

 ただ、彼女の顔を見ることはできそうになかった。

 だから私は顔を伏せたまま話を続けた。

 

「記憶がない……。なあ霧切、憶えているだろうか? 君と私はここに来る前は恋人関係にあったんだ」

「私が記憶を失っているのをいいことに、思い出を捏造しないで」

「そんな……! ……無理もないか、あのとき霧切は思い出の力を代償に……くそっ!」

「なによ、思い出の力って……ファンタジーじゃないんだから」

「いっけな~い! 遅刻遅刻! 私、響子。ミステリアスな雰囲気を纏った女の子! 目が覚めると、そこは見知らぬ施設で……? えぇ~! コロシアイ生活?! 私、これからどうなっちゃうの~! 次回、『死』」

「……大丈夫?」

 

 心配しないでくれ……純粋な気持ちが、今は一番痛い……。

 

「大丈夫だ、これでも私は羞恥に寛容的なんだ」

「そう。気でも触れたのかと思ったけど。……だとしても、無理はないのかもしれないけれどね」

 

 悲しげな物言いだった。死んでしまった誰かのことを考えているようだった。あるいは、誰かのことを案じているようにも聞こえた。

 ……顔を隠したまま話すのはやめにしようと、布団に埋めた顔をおもむろに上げた。左腕はまだ、影の中に隠したままだ。

 

「……霧切は、捜査に向かわないのか?」

「これも捜査の一環よ」

「私の部屋には証拠になるようなものなどなにひとつないように思うがな。……はっ! ひょっとして、私の下着を……!」

「なにが『はっ!』なのよ。そんなことじゃないわ……ただ、あなたにも捜査に参加してほしいと思って来たの」

「私が……? 私なんかよりも、君が捜査した方がよっぽどいいだろう」

 

 実際にそうだった。

 霧切の推理力には光るものがあったし、なにより彼女がいなければ前回の学級裁判は乗り越えられなかったと言っても過言ではない。

 苗木がクロとして吊し上げられ、私達全員が死んでしまったという未来があってもおかしくはないのだから。

 

「私なんかじゃ気付かないような細かいところに気付いていたし、君の洞察力や注意深さはこの施設にいる誰よりも群を抜いているだろう」

「それだけじゃダメなのよ」

 

 霧切は語勢を強くして言った。

 

「……私がなにを知っているのかは、私自身にも分からない。だってなにも憶えていないから──だけれど、私の中の何かが囁いているの。……あなたの力はこの先きっと必要になる。あなたには力があるもの」

「力……?」

「あなたは推理をする探偵ではないかもしれないけれど、でも、事件を解決する力を持っているわ」

 

 訴えかけるような目で見つめられて、私は言葉が出ずにただ話を聞いていた。

 

「……事件を解き明かすことと解決することは違うもの。真実を明らかにすることは簡単よ。事実を読み取り、述べればいいのだから──だけど解決することはそうじゃない。それは誰にだって、できることじゃない。だって、それには答えがないんだもの」

「ならなおさら、私には難しいように感じるがな」

 

 せっかく顔をあげたというのに、不貞腐れたように私は目をそらした。

 霧切がなにか悪いことを言ったわけではない。

 ただ、自分のことを良いように言われて、照れ臭さよりも嫌悪の感情が起こったのだ。

 

 私はそんなんじゃないと。

 そう言ってやりたかった。

 

 横目でちらりと霧切の方を見る。

 私は目を逸らしてしまったというのに、霧切は目を合わせようともしない私の方を真っ直ぐな瞳で見つめていた。

 

「うっ……で、でも霧切。私にはなにもできなかった。私は無力なやつなんだっ。たとえなにかを解決できる力があったとして、それはただ責任から逃れようとした結果なんだ」

「素晴らしいことじゃないの。……悔やみ、後悔して、そして償うことができるのだから」

「美徳のように語らないでほしい……!」

 

 声を張り上げ、そう主張した。

 それは良くない傾向だった。怒りの矛先が霧切に向き始めていた。

 

「……私には問題を解決することができる力があると言ったな。だがそれは違う、私はなにもできなかったんだっ! ……今回もそうだ。不二咲は死んだ!」

「ならその後始末をつけるべきじゃないの? あなたのせいで彼女が死んだと思うのなら……そう思うのなら、あなたは彼女に報いなければならない」

「……っ! でも、私は、私は──!」

 

 感情が高まり、考えもなしに不安定なベッドの上で立ち上がった。

 だからだろう、体の重心が偏っているということもあってか、上手く立ち上がることができずに私は前へと倒れてしまった。

 霧切がいる、前へと。

 

 私は左腕に包帯を巻いておらず。

 また布を被せることもしていなかった。

 

「──っ」

 

 霧切を押し倒すような形で私は前へと倒れ込んだ。霧切は反応しきれなかったようで、私共に地面へと伏せる。……そのとき私は、両腕で自分の体を支えていた。

 ちょうど霧切の顔の側面を掠めるように、二本の腕は地面を穿った。

 人の腕と、獣の腕。

 露わになったそれを隠し切ることは到底不可能だった。

 

「……! 神原さん、その腕……っ」

「っ! 見るなっ! ……出ていけっ、早く部屋から出て行ってくれ……!」

 

 見られてしまった。

 左腕を。人ならざる獣の腕を、見られてしまった。

 失敗した──

 

 彼女を押し飛ばして、私はその場から飛び退き、部屋の隅の方で(うずくま)るように震えた。

 この獣の腕について何かを言われることが怖かったのだ。

 霧切が人を貶すようなことを言うとは思えないけれど、そんなことを考えていられるような余裕はその時の私にはなかった。

 私には見られてしまったという後悔の気持ちしかなかったのだから。

 

 そして、思い出される。

 周囲と違う言葉遣いだったからといじめられていたあの頃を。

 トラウマと言えるほどにその思い出が今の自分を蝕んでいるわけではなかったが、しかし精神の状態が不安定な私を追い込むための種火としては十分だった。

 やがて恐怖の火は燃え広がり、いつ、どんなことを言われるのだろうかと震えた手で耳を塞いだ。

 

 しかし霧切は、いくら経っても私にはなにも言ってこなかった。

 私の有様を嘲笑うのではなく、また私の左腕を見て化け物と罵りもしない……そして慰みの言葉をかけてくることもなかった。

 まるでそこにいることが自分の義務なのだとでも言いたげな雰囲気を彼女は纏っていた。

 

 ただそれも、私にとっては辛かった──いつ鉛玉を吐くか分からない銃口を向けられているような気分だったからだ。

 

 霧切、どうか私に、構わないでくれ──君がいるべき場所はここじゃないんだ。

 彼女を突き放せば取り返しはつかないだろうことは直感的に分かっていた。

 ……だから、その一歩を踏み出す勇気はどうしても出せなかった。

 

 震える私はみっともないほどに小さく、惨めだった。

 消えてしまえたらどれほど楽だろう。……なぜ私ではなく、不二咲が死んでしまったのだ。

 

 “私が死ねば良かったのに”

 

 呪詛にも似たそれは、確実に私の心を絶望の色に染め始めていた。もはやそれを止めることなど、私にはできそうにもない。

 しかし、私以外の誰からか光が差し込まれた。

 

 恐れから身を硬くして縮こまっていた私を包み込むように、霧切は私を抱擁した。

 それから、ぽんぽんと、私の背中を撫でたのだ。

 

「……!」

 

 霧切もまた恐怖しているのだということに気が付いた。私の背中を撫でる手が、わずかに震えていた。

 霧切は独り言を呟くように、小さな声で──けれども、確かな意思のこもった声でこう言った。

 

「……失うことは怖くない。だって、なんとかできるかもしれないから。……けれど、失ってしまったことに私は怖いと感じる。だってそれは……取り返しがつかないもの」

 

 涙が目元に溜まり、視界が悪くなっていく。ついに耐えきれず、漏れ出した嗚咽が部屋に響いた。

 そこからは、堰を切ったように泣き出してしまった。

 

「私は……私はっ、また、助けられなかったっ。……けど、償うことはできるのだろうか……っ」

 

 子供のように泣いて、上ずった声で言った。

 霧切はそれを受け止めてくれた。

 

 ……それ以降、私と霧切の間に言葉はなかった。

 けれどそれで十分だった。




【解説】
独自解釈が混じっているので解説をば。
まず霧切さんはそんなにデレないし、気にかけてくれはしても絶対抱擁してくれたりはしない(断言)
……時系列としては、『神原を心配して追いかけようとする苗木』→『苗木には調査をさせたい霧切』→『霧切さん苗木の代わりに神原の個室へ向かう』といった感じ。結構無理やりな感じがあるけれど、霧切さんは神原に借りがあったので……(チャプター2、001参照)
ちなみに、初めは苗木が部屋に行く筋書きで書いてたんですけれど、途中からなんだか違うなってなって霧切さんにシフトチェンジ。

さっきも言いましたが、霧切さんは誰かが落ち込んでいたとして、気にかけはしても同情はしない人なんですよね。人を慰めるための言葉や同情する感性を持っていないわけではないけれど、コロシアイ生活という環境下において他人に情を持たないようにしているからあまり深く関わってこないんです。
ならどうして霧切さんは神原にあんなことを?
霧切さんは過去の事件で手を酷く火傷してしまい手袋でそれを隠しているんですけれど、神原が隠し続けていた猿の左腕を見てつい自分に重ねてしまったのではないかと考えています。
だからあくまで神原の左腕を見るまでは『事件を解決する力を持つ神原に脱落されては困るから、なんとかして調査に参加してもらいたい』という思いで動いていたんです。
一時的に感情に突き動かされてしまっただけなので、今後似たような対応を取る可能性は薄いですね。


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