プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結) (ファルメール)
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第01話 メイフェア校の幽霊

プロフェッサー

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 クイーンズ・メイフェア校。

 

 アルビオン王国女王が進める教育開放政策によって設立された男女共学の寄宿学校で「多くの階級に開かれた学校」を目指しており、本国の上流階級だけでなく中産階層や世界各地の植民地からの留学生も受け入れられている。しかしそうした女王の理想とは裏腹に、王国内に色濃く残る階級制度の影響は未だ根強く残り、上流階級・門閥貴族の出身者が幅を利かせているのが現状である。

 

 何よりこの学校の最大の特徴は、女王の意向によって王族としてプリンセスが入学している点であろう。

 

 さて、このクイーンズ・メイフェア校には一つの噂がある。

 

 夜中には、幽霊が出るというものだ。

 

 別に珍しいものでは無い。いつの時代、どこの国の学校にも一つや二つ、あるいは七つぐらいはありそうな噂話だ。

 

 曰く、その幽霊は学園の地下、教師陣にも忘れ去れた一室に住んでいる。

 

 曰く、その幽霊は異様な呼吸音と共に現れる。

 

 曰く、その幽霊は紅い目を光らせてやって来る。

 

 曰く、その幽霊は触れずに物を動かしてしまう。

 

 そんな噂話に触発されて、好奇心豊かな男子生徒が何度か門限を破って事の真相を確かめようと校内を探検してはいるが、未だ幽霊に出会った者もその痕跡を確かめた者すら皆無。

 

 やはり噂話は噂話に過ぎないと、それが大多数の生徒の認識だった。

 

 ある日、蒸し暑くて寝苦しい夜。

 

 既に門限を過ぎて、見回りの教師に見つかったら厳重注意を受ける時間帯。

 

 静まり返った校内を小さな人影が二つ、おっかなびっくり歩いていた。

 

「ひ、姫様ぁ……やっぱり戻りませんか?」

 

「あら、怖いの? ベアト?」

 

 一人は輝くような金髪の、すれ違う者は男女問わず振り返るであろう美貌の少女。

 

 王位継承権第4位、プリンセス・シャーロット。

 

 容姿・才能・性格。全てに於いて秀でており、自由に出来る領地や財産などは大したものではなく、政治的な後ろ盾も無く空気姫などと揶揄されるものの、誰にでも分け隔てなく接する人柄から彼女を慕う者も多い。

 

 もう一人はプリンセスよりも一回りばかり背の低い、亜麻色の髪の少女。

 

 下級貴族出身のベアトリス。プリンセスの友人兼侍女。プリンセスが、学内で唯一懇意にしている女性でもある。

 

 本来であれば、いざという時にはその身を盾にしてでもプリンセスを守らねばならない立場のベアトリスだが、今日この日ばかりはプリンセスの後ろについて、しかもプリンセスの制服をつまんでいた。まるで親に連れられて知らない街にやって来た幼子のようである。

 

 そんなベアトリスを見て、プリンセスはくすっと笑う。

 

「怖いなら、先に戻ってる?」

 

「い、いえ、いいえ!! そんな!! 姫様をお守りするのが、私の役目ですから!!」

 

 少しだけ意地悪なその言葉を受けて一念発起した風なベアトは、ずんずんとプリンセスの前を進んでいく。

 

 しばらく進むと、行き止まりのしかも薄暗い区画にあって注意深く見ないと誰も気付かないであろう場所にある扉にぶつかった。

 

 プリンセスは躊躇った様子も無く、ドアノブに手を掛けて扉を開ける。

 

 長い間使われていないのだろう、ギギギ……と錆びた金属が軋む音を立ててドアが動いて、その先は下り階段になっていた。

 

「ひ、姫様……」

 

「さ、行くわよ」

 

 必要最低限の明かりすら無い階段を、二人は足を滑らせないよう注意しつつ下っていく。

 

 一分ほど、螺旋状になっている階段を降りていくと壁にぶつかった。

 

 行き止まり?

 

 ベアトリスはそう思ったが、暗闇に慣れてきた目が僅かな光を頼りに、眼前の物が壁ではなく扉であると理解した。

 

 プリンセスは少したどたどしい手付きでドアノブを探して、そして掴むと、そのドアを押し開けた。

 

 闇を抜けると、その先は……やはり闇だった。

 

 ここでは、もう月や星の僅かな明かりすら届いてはいなかった。猫科動物やフクロウですら見通す事の出来ない、完全な闇だ。

 

「姫様……ここは……」

 

 声はすれども姿は見えず。

 

 プリンセスはそんな自分の従者の、不安げな顔があるであろう場所へ向けて笑みを一つ。

 

 そして、闇へと向けて声を放った。

 

「教授(プロフェッサー)。居るのでしょう? 私です。姿を見せてもらえますか?」

 

 静かな夜である事も手伝って、どれほどの大きさがあるのか計り知れない室内に、プリンセスの声が山彦のように木霊していく。

 

 その木霊が、聞こえなくなるかならないかという時だった。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 音が、聞こえてきた。

 

 規則的に、繰り返し繰り返し。

 

 深呼吸の時の胸の音に似ていると、ベアトリスは感想を持った。

 

「ま、まさか……」

 

 噂話の一つにはこうあった。「幽霊は異様な呼吸音と共に現れる」と。

 

 まさか、実在したのだろうか?

 

 そう、彼女が思った瞬間だった。

 

 グォォォンン……

 

 怪物が唸り声を上げるとしたらこんな感じなのだろうか。

 

 異様に低い音が部屋中に鳴り響いて、そして闇が、光に変わった。

 

 それまでは黒一色でしかなかった部屋が、宝石箱かあるいは蛍籠のようになった。

 

 そうとしか表現出来ないような情景だった。

 

 色とりどり、大小無数の光が、壁にも床にも、部屋中に広がったのだ。

 

 しかしこんな光を、ベアトリスは見た事がなかった。

 

 彼女が知るどんな光よりも明るく、そして柔らかくて目に痛くない。そんな不思議な光だった。時間帯は夜なのに、この部屋だけが昼になったようだ。

 

 その光の中に、ずっとそこに居たのかあるいはいきなり出現したのか。二人のすぐ前に、人影が立っていた。

 

 身長は、プリンセスと同じか、少し高いぐらい。

 

 クイーンズ・メイフェア校の女子制服を着ていて、その上から白衣を羽織っている。

 

 しかし、全体的なビジュアルは異様の一言に尽きる。

 

 すらりとした足には黒タイツを履いていて、白衣の袖口から出ている手は黒手袋が嵌められている。

 

 何よりも目を引くのが、その頭部。

 

 バケツと兜の相の子のようなヘルメットを被っていて、顔にはこの呼吸音の発生源なのだろう、ガスマスクを装面している。

 

 全身の中で、露出して外気に触れている場所が少しも無かった。

 

 一目見て、不審者と断定出来た。

 

「!!」

 

 咄嗟に、ベアトリスがプリンセスを庇うべく前に出るがそんな彼女の肩に、プリンセスの手が置かれる。

 

「大丈夫よ、ベアト」

 

 プリンセスはそう言って、ガスマスクの……(着ている制服から恐らくは)女性へと向き直る。

 

「お久し振りね、プロフェッサー」

 

<ようこそいらっしゃいました、プリンセス>

 

 プロフェッサーと呼ばれたガスマスクが、返答する。マスク越しであるせいなのだろう、男とも女とも付かない、くぐもった声だ。

 

<こんな所で大したもてなしも出来ませんが、まぁ……お掛けください……>

 

 手を振って、ガスマスクはプリンセスに席を勧める。

 

 ベアトリスが周囲を見ると、この部屋にはあちこちに何に使うのか見当も付かない大小無数の機械が置かれていて、異様な音や光はこれらの機械が発しているものだと分かった。

 

 乱雑に置かれていた椅子に、腰掛ける二人。

 

<まぁ、こんなものしかありませんが……>

 

 紅茶を煎れたティーカップを二つ、ガスマスクは差し出してくる。

 

 ベアトリスは、少しだけ顔をしかめた。このガスマスクが好意でやっているのは分かるので強く咎める気にはならないが……しかし、このお茶は匂いですぐ安物と分かる物だった。こんなのをプリンセスに差し出すのは些か礼を欠くのではと思ったのだ。

 

 ガスマスクは、自分の側にもティーカップを置くと……吸気口にストローを差して、紅茶を飲み始めた。

 

「……」

 

 今まで見た事も無い紅茶の飲み方を見て、ベアトリスはあんぐりと口を開いたままになった。

 

<それで? 今日は、何のご用ですか?>

 

 空になったティーカップを置いて、ストローを抜いたガスマスクが尋ねてくる。

 

 プリンセスは一度口を付けたティーカップを置くと、ガスマスクを真っ直ぐに見据えた。

 

「単刀直入に言いますね、プロフェッサー。私は、あなたが欲しい」

 

「!?」

 

 プリンセスのその言葉を受けて、あらぬ想像を掻き立てられたのか、ベアトリスの顔が真っ赤になった。

 

 一方で……ガスマスク……プロフェッサーの表情は(当たり前だが)伺い知れない。

 

<お言葉の意味が、分かりかねますが?>

 

「駆け引きはやめましょう」

 

 プリンセスはそう言うと、持っていた鞄から数十ページぐらいだろう紙束を取り出して、机に置いた。一番上の表紙に当たるページには『ケイバーライトを応用した新型動力機関の開発と、その応用について』と記されている。

 

 プロフェッサーの、ガスマスクの強化ガラスから覗く目が鋭くなったようだった。

 

「私はあなたのこの論文を読みました。素晴らしいと……一目見て思いました。蒸気に代わる新しいエネルギー……『電気』。ケイバーライトを用いて極めて効率的にそのエネルギーを産生・抽出し、多岐に応用する……実現されれば、それは今の世界を一変させる力ね」

 

<……学者先生のお歴々には、お伽噺・夢物語と散々に酷評を受け、扱き下ろされました……凡人には、天才の発想は分からない……>

 

 やれやれと言わんばかりに、プロフェッサーは首を振った。気のせいか、ベアトリスは会話の最中も絶えず聞こえてくる呼吸音に溜息の音色が混ざって聞こえた気がした。

 

「あなたのその研究成果。私は、それが欲しいのです」

 

<プリンセス、あなたが私の論文に着目し、研究を評価していただいた事には感謝しましょう。しかし、幾つか答えていただきたい事があります>

 

「可能な範囲で、答えますよ」

 

<それは重畳……>

 

 恭しく一礼するプロフェッサー。そして、じっとプリンセスへと目線を動かす。

 

<では、プリンセス……あなたは、私の研究を得て……何をするおつもりで?>

 

「……」

 

 ぴくっと、プリンセスの眉が動いた。

 

<お答えください。世界を変える力と、評価されたその力を得て……あなたは何をするのですか?>

 

「女王に、なりたいの」

 

「!! ひ、姫様?」

 

<……ほう>

 

 感心したような吐息が、ガスマスクから漏れた。

 

<あなたの継承順位は第4位……要するに予備の予備の予備……そのあなたが、何の後ろ盾も無く……たった一人、徒手空拳で女王を目指すと?>

 

「姫様になんと無礼な!!」

 

 思わず立ち上がって叱責の声を上げる侍女を「良いのよ、ベアト」とプリンセスが制した。

 

「一人ではないわ。ここにいるベアトリスとあなたが加われば……私の派閥は2人になるわ。それに……私の株はいずれ暴騰するから、買うなら今をお勧めするわ」

 

<私には万馬券や宝くじを買う趣味は無いのですが?>

 

「賭けた者しか配当金は受け取れないわよ?」

 

<……ふむ>

 

 中々に当意即妙の答えを受けて、プロフェッサーの姿勢が少し前屈みになったようだった。興味を示している証左だ。

 

 一方でむすっとしたベアトリスは、所在なさげに室内を歩き回り始めた。

 

<では、もう一つお聞きしましょう。仮にあなたの継承順位が1位に繰り上がり、そして女王になったとして……その権力と立場を使って……あなたは何をなさるおつもりですか?>

 

「豊かな社会と、明るい未来の実現を」

 

 為政者の鑑と言えるような返答だが……しかしこのプリンセスの回答は、プロフェッサーの気に入るものではないようだった。姿勢を変えて椅子の背もたれに体を預ける。明らかに白けていた。

 

<……それでは、あなたに協力は出来ませんな>

 

「……」

 

<プリンセス、駆け引きは止めましょうと最初に仰ったのは貴女でしょう……私が聞きたいのはそんな通り一遍の用意された答えではないのですよ>

 

「私は本気よ?」

 

<……では、もう少し具体的にお答えください……あなたは、どうやって……>

 

 そう、プロフェッサーが言い掛けた瞬間だった。恐らく彼女の目の端に、看過出来ない光景が映った。

 

 部屋を歩き回っていたベアトリスが好奇心からだろう、棚の上に投げ出されていた妙な機械を手に取ったのだ。

 

 材質は金属、長さは30センチメートルぐらいの円筒状で、懐中電灯のようにも見えるが明かりを発する部位が無い。その外周部に、数個のスイッチや目盛りが付けられていた。ベアトリスの指が、そのスイッチの一つに動いて……

 

<触るな!!>

 

「えっ?」

 

 大声を上げてプロフェッサーが警告するが、一瞬遅かった。

 

 かちり。

 

 ベアトリスの親指が金属筒のスイッチに触れて……その片側の先端から、紅い光の滝が溢れ出した。

 

 鮮血のように鮮やかな光は、ベアトリスが持つ筒から一直線に放出されて1メートルほどの長さにまで伸びて、そこで止まった。目も眩むような光であるが、不思議とベアトリスは熱は感じなかった。

 

「これは……」

 

 プリンセスが目を見張って、思わず椅子から腰を浮かせた。

 

 光の剣とも形容すべきその形状。硬い岩であろうと砂糖菓子のように貫くだろう。無論、人を刺し殺す事など造作も無い。

 

「わっ、わっ……ひゃっ!?」

 

 驚いたベアトリスが思わず筒から手を放してしまって……光のラインはくるくる回りながらその軌跡に存在したテーブルを何の抵抗も無く断ち割ってしまった。切断された断面は、赤熱化していた。

 

<ちっ!!>

 

 舌打ちすると、プロフェッサーが手をかざす。

 

 すると(恐らく)彼女の全身が翠色の燐光に包まれ……そして重力に従って落ちていくばかりだった光刃とその柄は、いきなり目に見えない操り糸に引かれたように跳ね上がって、かざした掌中へと収まった。

 

「あ……」

 

 かちり。

 

 プロフェッサーがボタンを押すと、紅い光は柄の中へと収束した。

 

<……>

 

 プロフェッサーは無言のまま、つかつかとベアトリスの眼前にまで歩いてきて、今は柄だけの剣をすっと彼女の胸元に突き付けた。

 

<触るな。何にも、触るな。危ない>

 

「は、はい……すいません……」

 

 高圧的な言い方だったが、しかしベアトリスの視線が真っ二つになって床に転がっているテーブルへと動いた。

 

 もしあのテーブルが自分だったら……そう思うと、何も言い返せなかった。

 

「……」

 

 プリンセスは両断されたテーブルを見て、自分の首筋に手を当てると「ごくっ」と苦い唾を呑んだ。

 

「その、光の剣と……今の、柄を引き寄せた力……それも、あなたの研究成果の一つなんですか?」

 

 と、ベアトリス。

 

<ええ……この剣は電気エネルギーをケイバーライトを用いて収束し、プラズマの刃として固定して……さっきの柄を引き寄せたのは、ケイバーライトによる重量軽減と、電磁力の応用。精製した電気から、磁場を発生させ……それで金属を動かす事が出来る>

 

 光剣の柄を腰に付けると、<さて>と一言置いて仕切り直しとプロフェッサーはプリンセスに向き直った。

 

<これらは私の研究の、ほんの一端に過ぎません。プリンセス、あなたは女王になって、この力を使って、何を為されるのですか? どのようにして、豊かな社会と明るい未来を実現されるおつもりですか?>

 

「それは勿論、あの壁を壊して」

 

<……!!>

 

「ひ、姫様……!!」

 

 絶句するベアトリス。プロフェッサーは、やはりガスマスクで表情は伺い知れない。

 

 壁とは、ロンドンの壁の事だ。

 

 十年前の革命以来、アルビオン王国とアルビオン共和国に境界を作り、両国を隔てるもの。

 

 それを壊すなど、今は少なくとも水面上では争い無く過ごしている二つの国が再び一つに混ざり合い、巨大な混沌をもたらす大事業であり大凶行であろう。

 

<……成る程>

 

 感心したような響きが、プロフェッサーの言葉にはあった。

 

<だが、夢を語るだけなら口があれば足りる>

 

「夢ではないわ。決意……」

 

 そう言い掛けて、プリンセスは首を振った。

 

「いえ、志よ」

 

 決意は、とうに済ませたという言い回しだった。

 

「私は昔、誓ったんです。女王になって、この国を変えると」

 

<……成る程>

 

 着席したプロフェッサーが、ゆっくりと首肯する。

 

 再び、前屈みになって組んだ両手を机に置いた。

 

<では、最後の質問です。あなたは力を貸す見返りとして、私に何を与えてくれますか?>

 

 言外に、金や地位では自分は動かないぞと言っている。それを受け、プリンセスの答えは。

 

「……空、ではいかがしら?」

 

<……!!>

 

 この時、プロフェッサーが初めて大きな動揺を見せた。体を落ち着き無く揺する。ベアトリスは、今のやり取りの意味を図りかねているのだろう。当惑したように、両者を代わり番こに見やる。

 

「月が、霞まない夜……工場からの粉塵が青空と太陽を隠さない昼……私が女王になったら、あなたの研究を強力に後押しして実用化・普遍化を進め……必ずその空をもたらすと約束するわ。それで、いかがかしら?」

 

<女王になったあなたを信じろと?>

 

「いいえ」

 

<?>

 

「そうなった時の、この国を信じてほしいの」

 

<…………>

 

 沈黙が、降りた。

 

 プロフェッサーは動かない。プリンセスも、咳一つ発しない。

 

 ベアトリスは、今なら自分の心臓の音が聞こえる気がした。

 

 そうして、時が止まったような数分が過ぎて、先に動いたのはプロフェッサーであった。

 

<良いでしょう>

 

 その答えを聞いて一瞬、プリンセスとベアトリスは顔を見合わせる。そうして、喜色を浮かべたプリンセスはプロフェッサーに向き直った。

 

「では……」

 

<あなたは私との取引に勝たれました。それに私としても、この世から不要な物を消すのには、賛成です>

 

 不要な物とは即ち、ロンドンの壁だ。

 

<人間が歩くのに必要な靴を選ぶ基準は「王制の靴」だとか「共和制の靴」ではない……「良い靴」か「悪い靴」か、それだけの筈。情報を操作し、人に間違った基準を押し付けてくる物は……この世から消し去った方が良い……>

 

 プロフェッサーはそう言って立ち上がると、部屋中に置かれていた機械の幾つかを操作する。

 

 すると、ゴゴゴ……と空気を吸い込むような音を立てて機械が動き出した。

 

「な、何?」

 

<心配しなくて良い……只の、除塵装置だから……>

 

 怯えたベアトリスを安心させるように、プロフェッサーが言った。

 

 一分ほどその機械が動くと、プロフェッサーは頭部に装着したヘルメットに手を掛けた。

 

<私は生まれつき肺が悪くて、こうでもしないとこのマスクを外せないのでね……まぁ、天才にも弱みの一つはあるという事よ>

 

 冗談めかした言葉に続いてプシュっと空気が抜けるような音がして、ヘルメットが外されて色素が抜け掛かった金髪がさらりと肩に流れる。

 

 次に、マスクが外されて……長い間日に当たっていないのだろう、少しも痛んでおらずしかし病的に白い肌と、女性であろうと色を覚えるような美貌が露わになる。

 

 思わず、ベアトリスは息を呑んだ。プロフェッサーの両眼は紅く光っていて、キュイッと小さな機械音を立てて紅く光る部分が瞳孔のように大きくなったり小さくなったりした。

 

「その目は……」

 

「あぁ、昔……ケイバーライト障害でね……でもこの義眼は、メンテさえ怠らなければ、生身の目よりも調子が良いのよ」

 

 マスクを外したプロフェッサーの声は、想像よりもずっと幼くて高く、良く通る声だった。

 

 プロフェッサーはプリンセスのすぐ前まで移動すると、膝を折って傅き、忠義を示す騎士が如き姿勢を見せる。

 

「度重なる無礼を、お許しください。プリンセス・シャーロット。今日より御身が我が主人。何なりとご命令を」

 



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第02話 プロフェッサーの馬

 朝、プリンセスの部屋を訪ねて彼女の身支度を手伝うのは、ベアトリスの欠かせない日課だった。

 

 早起きのプリンセスは大抵ベアトリスが訪ねる時には起きている。着替えを手伝って、髪をとかすと朝の紅茶を煎れる。その後、同じテーブルに着いて一緒の一時を過ごせるのは、毎日繰り返しても決して飽く事の無い彼女の楽しみだった。

 

 しかし、今日はどうにもこの朝のお茶会を楽しむ気分にはなれなかった。

 

「どうしたの、ベアト? 浮かない顔をして……」

 

「あ、姫様……」

 

 理由は明白。数日前の一件である。

 

 女王になって壁を壊し、国を変えるというプリンセスの志にも驚いたが、それ以上にセンセーショナルだったのはプリンセスが自らの派閥に加えたのが、このメイフェア校の幽霊ことプロフェッサーであった事だ。

 

 派閥を作る事それ自体は不思議ではない。他の王族は、継承権第1位は自分の立場をより盤石のものとする為に、2位と3位はそれぞれ自分の順位を繰り上げる為に日々自派閥の拡張に勤しんでいる。プリンセスがいくら継承順位が低いからと言って、今まで後ろ盾を持たずに空気姫と呼ばれていた事の方が不思議なくらいだ。

 

 だから派閥を作ろうとする事、その為にまだ誰の手垢も付いていない人物に接触する事は何も不思議ではない。王族ならば寧ろ当然だ。

 

 しかしその派閥のメンバーに選んだのが、よりにもよってあのプロフェッサーであったとは……

 

 得体の知れない人物。

 

 ベアトリスがプロフェッサーに抱いた第一印象がそれだった。

 

 その異様な風体にも驚いたが、学校の地下室で研究を行っている所からして胡散臭さ全開である。

 

 更には、身に付けている制服からこの学校の生徒であると思われるのだが、彼女のような生徒をベアトリスは見た事も聞いた事も無かった。

 

 怪しい。怪しい。怪し過ぎる。

 

 そうした思いから、ベアトリスは独自にプロフェッサーについて調べていたのだが……

 

 調査の結果、思いの外に変わった経歴が明らかになった。

 

「彼女……プロフェッサーの事なんですが……」

 

 当然ながら、プロフェッサーというのは通称名だ。

 

 本名はシンディ。れっきとしたこの学校に在籍する生徒だった。

 

 侯爵家の一人娘で、幼い頃から多少体は弱いながらも文武両道、特に科学分野に高い才能を示し、将来を嘱望されていた。

 

 しかし今から2年前、保有していたケイバーライト採掘場を視察中に爆発事故が起こり、その時両親が死亡。彼女自身も右腕を失う重傷を負った上にケイバーライト障害を発症して両目を失明し、更には生来煩っていた肺病が悪化してマスク無しでは外を出歩く事すら出来なくなり、引きこもり生活を余儀なくされる。

 

 その後は、ケイバーライト採掘場の権利を後見人に委ね、自分は今も学校に籍を置き続けている。ベアトリスが彼女の事を知らなかった理由は単純だった。一度も授業に出席していなかったからだ。

 

 それ以降の経歴については、あまりはっきりとはしなかった。恐らくは地下室での引きこもり・研究生活を続けていたからであろう。

 

 と、おおよその経歴は調べる事は出来た。

 

 しかし、肝心のものが分からなかった。

 

 それは、行動の動機。ツジツマ。

 

 いくら両親が他界して自身も病弱で立場が弱まったとは言え侯爵家は侯爵家。保有している資産も莫大で、そのままでいれば何不自由無い生活が送れていただろう。

 

 だがプリンセスに協力して、仮に彼女が女王になって国を変えた結果ロンドンの壁が崩壊したとして……その時には、東西のロンドンが一つになってアルビオン全土はおろか世界の全てが巨大なカオスの坩堝に叩き込まれる事になる。そうなれば、彼女が今の地位に在り続けられるかどうか、怪しいものだ。最悪、この国から貴族制が無くなる可能性だって有り得るかも知れない。

 

 貴族としての特権や地位を棒に振るリスクを冒してまで、何故彼女はプリンセスに与する道を選んだのか。それが不明である以上、ベアトリスにはプロフェッサーがプリンセスの味方だと認める事は出来なかった。

 

『姫様は、私が守らなくちゃ……』

 

 

 

 

 

 

 

<……で、それを問いただす為に私の元に来た、と>

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 呼吸音が響く、学校地下の忘れ去られた一室。

 

 学校の幽霊こと、プロフェッサーの居室だ。

 

 プロフェッサーは、今は部屋の除塵装置を作動させていないのでガスマスクを装着している。彼女は、対面に座るベアトリスとは視線を合わせずに、机の上に置かれた機械を弄くる作業に精を出していた。

 

 機械弄りに使われている工具は独特の形状をしていて、機械に造詣の深いベアトリスをしてどのような用途に用いるのか、一見しただけでは分からないような代物だった。そして彼女の両手は、特に右手はそれが義手である事が信じられないぐらい精密に動いて機械の調整を進めている。

 

 机上に置かれているのは、大きめのビー玉ぐらいの球形をした機械だった。

 

 良く見ると、マスクから覗くプロフェッサーの目には、紅い光が左側にしか点っていなかった。彼女が弄っているのは、右目の義眼だ。

 

「……教えてください。あなたは、どうして姫様に協力するんですか?」

 

<……ふむ>

 

 椅子の背もたれに体を預けるプロフェッサー。高級そうな椅子が、ギシッと軋む音を立てる。

 

<お金が欲しいから>

 

「ふざけないでください!!」

 

 はぐらかされているのだと思ったベアトリスが、声を荒げた。

 

 奇貨置くべし。という東洋の諺もある。田畑の儲けは精々が投資した十倍、宝石ならば百倍ほど。しかし一国の王族をプロデュースするとなれば、その見返りは計り知れないものとなる。確かにプリンセスに投資すれば、将来彼女が女王になった時には信じられないぐらいのリターンが返ってくるだろう。リスクを承知の上でも、取り組む価値のある事業である事は間違いない。

 

 しかし金ならば、侯爵家の出身であるプロフェッサーは学校の地下に大規模な研究を行う施設を誰にも知られずに維持し続けている事から分かるように未だ巨大な財を保持し続けている。

 

 何より、数日前のプリンセスとの会話で明言こそはしなかったものの、金など要らないと言っていたようなものではないか。矛盾している。

 

 そんなベアトリスの胸中を読み取ったのだろう。ガスマスクに差したストローで紅茶を啜りながら、プロフェッサーが話し始める。

 

<お金が欲しいと言うのは、嘘ではないわ。ただし私のポケットに入るお金は要らない、というだけよ>

 

「……良く、分からないです。もう少し、分かりやすく言ってください」

 

<……ベアトリス、あなたはイーストエンドに行った事はある?>

 

「ごまかさないで……!!」

 

<答えて>

 

 少し、プロフェッサーの語気が強くなった。

 

「それは……行った事は、ありませんけど……」

 

<私は、行った事があるわ>

 

 そこはロンドンの最東端にある大貧民街。

 

 貧民・極貧民・ホームレス・他国からの密入国者・犯罪者が住んでおり、その総数は実に十万人を超えるとも言われている。

 

 昼に空を見上げても、そこに太陽は見えない。工場や家庭からの排煙が、雲を作っているからだ。同じように夜も、月の光は霞んでいる。

 

 大人達は職にあぶれ、暴力で他者から奪ってその日の糧を得るか、さもなければ残飯を漁って空腹を満たしている。

 

 子供達の顔に浮かんでいてしかるべき、否、浮かんでいなければならない筈の笑顔は無い。彼らはスリやかっぱらいに身をやつすか、さもなくば泥ひばりといって、テムズ川の冷たい泥に一日中まみれて、落ちている金目の物を拾い集めてどうにか生計を立てている。

 

 空気が悪く、必然、肺を病む者が多い。特に抵抗力の弱い子供や、免疫の衰えた老人は多く発症する。そして一度病んだが最後、快癒する可能性は殆ど無い。彼らには薬を買う金も、医者に掛かる金も、滋養のある食べ物を買う金も無いからだ。

 

「……どうして、プロフェッサーはそこに?」

 

<……私は、生まれつき肺が悪かったから……だから同じような境遇にある人がどんな暮らしをしているのか……見てみようと思ったのよ……そこに在った現実は、私が思い描いていたものよりも……ずっと深刻で、残酷だったけど……>

 

 マスク越しのくぐもった声は、どこか自嘲しているような響きがあった。

 

<ねぇ、ベアトリス……どうして、彼らのような人達が生まれると思う?>

 

「……それは、彼らが働かないから……」

 

<働けない、というのが正しいけど……でも、それよりもっと重大な問題があるのよ>

 

 プロフェッサーが首を振った。

 

<貧民街の子供達の殆どは、自分の名前すら書く事が出来ない。字を覚えようとすらしない……それどころか、彼らはいつかは私達のような暮らしを営みたいと……そう、妄想する事すらしないのよ。どうしてだと思う?>

 

 答えが分からずに、ベアトリスは首を振った。

 

<それは、彼らが知らないからなの>

 

「……知らない?」

 

<そう、彼らは魚が水の中しか知らないように……透き通った水を飲める事を知らない。隙間風の入らない家に住める事を知らない。人が70才まで生きられる事を知らない……何故なら彼らにとってはそれが当たり前であり、世界の全てだからなの>

 

 無知がもたらす悪は、想像を超えて根深い。

 

 「知らない」人達は、明日10シリングで売れる物を今日100ペンス(約1/8)で手放す事を少しも躊躇わないし惜しいとも思わない。

 

 貧困から這い上がる為にチャンスという蜘蛛の糸が垂らされていても、そもそもそれを昇ろうと思わない。それどころか蜘蛛の糸が何なのであるかさえ分からない。

 

<……昔、私はあの貧民街で……泥ひばりの子供と友達になったの……優しくて、良く笑う子だった……でも、その子は……病気になって……軽い風邪だったけど、貧民街の劣悪な環境ではそれが致命的で……そして、死んだわ>

 

「……」

 

<私達の生きる世界では、風邪ぐらい引いても誰も深刻には思わない。精々2、3日安静にして休んでいれば治る。それが当たり前であるべきなの。暖かい日溜まりの中で、幸せに笑っているべき子供達が……暗い泥だまりの中で、寒さに震えて明日の命を願う……そんな世界は間違っている>

 

「……だから、姫様に力を貸すと?」

 

 国を変え、壁を崩し、世界を壊す。その為の力となる為に。

 

 プロフェッサーは頷いた。

 

<蒸気機関に代わる電気技術……私の研究が実用化され、広く公表されれば……世界は必ず一変する。優れた技術、進んだ産業……世界の発展は、必ずやアルビオンに莫大な生産需要をもたらす……!!>

 

「資本主義、ですか?」

 

<うん>

 

 満足そうに、首肯するプロフェッサー。

 

<資本主義の側面には、果てしなく顧客に情報を提供し、交換するという美点があるわ……その、絶え間無く流動する金と情報は、必ずや東西の壁を取り払う。貧困が無知を育て、無知が悪の温床となるのなら……より多くのお客、より多くのお金をこの国が得る事で、その悪を潰す事が出来る。そして多くの知識を、あらゆる階層の人々に配給するのよ。誰もが、今の自分よりも良い暮らしをしている人が居る事を知るようになる。だから、自分も今よりもっと良い暮らしをしようと努力しようとするようになる。何かになりたいからこそ、人間は学ぶ……学ぶに足る夢を見れるような、そんな国、そんな世界になれば……!!>

 

 プロフェッサーの口調が、どんどん熱を帯びて早口になるのがベアトリスには分かった。

 

<より良い生活がしたい……そう思う、人間の欲望だけが世界を変えていくのよ。そうして変わった世界は……どこでもお日様が見えて、私のような病を持つ人だって、マスクをしなくても外を歩ける世界だと……私は信じている。その世界を、私は見たいのよ……!!>

 

「そう、ですか……」

 

 得心が行ったと、ベアトリスは頷く。

 

 ガスマスクに隠されて見えない筈のプロフェッサーの表情が、今ははっきり分かる気がした。

 

 きっと今のプロフェッサーは、少女のように目を輝かせているに違いない。

 

<プリンセスの壁を壊すという言葉を聞いた時……私は、馬が見つかったと思ったの>

 

 プロフェッサーはそう言って立ち上がると、部屋の除塵装置を作動させていく。

 

 一方でベアトリスは、

 

「馬……?」

 

 またしてもプロフェッサーがおかしな事を言い出したと、首を傾げた。

 

「そう、私が乗るべき勝ち馬が……!!」

 

 言いながら、プロフェッサーはマスクを外して右目の洞に義眼を嵌め込んだ。ベアトリスは、思わず目を逸らす。

 

「ベアトリス、プリンセスにお伝え願えるかしら?」

 

「え……? ええ、構いませんが……何と?」

 

「……最後まで、つまづかれぬように……と」

 

 

 

 

 

 

 

「……そう……プロフェッサーがそんな事を……」

 

「全く、失礼な人です!! よりにもよって姫様を馬呼ばわりするなんて!!」

 

 その日の夜。

 

 湯浴みを終えたプリンセスの髪を整えながら、背後に立つベアトリスはぷりぷりと不機嫌そうに言った。

 

「彼女は私の事を勝ち馬と言っていたんでしょう? つまり、私が女王になると信じてくれているのよ」

 

「はぁ……」

 

 そういう考え方もあるかと、ベアトリスは気の抜けた声を出した。

 

「まぁ……彼女が姫様に協力する理由は分かりました。信用は、出来そうですが……」

 

 背後の侍女の呟きを耳に入れつつ、プリンセスは全く別の事を考えていた。

 

『……勝ち馬、つまづくな……か……』

 

 アルビオンでは18世紀から競馬が盛んで、王室も馬を持っている。必然、プリンセスは競馬を見に行った事があるし、競走馬についてもある程度の知識を持っている。

 

 馬の生は過酷なものだ。ただ走り続ける事でしか、自分の価値を示す事が出来ない。

 

 そしてどんなに力強い馬であっても、レースの最中につまづいて、足を折ってしまったら……その後は……頭に一発、ズドン!! それで、全てが終わる。

 

 女王となる為の継承権争いと、共通点は意外と多いかも知れない。

 

「プロフェッサー、アドバイスをありがとう……」

 

 プリンセスは呟いて、鏡に映る自分自身を見て微笑した。

 

「でも、大丈夫よ……そんな事、とっくの昔に分かっているから……」

 



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第03話 外側から見たパーティー

 

「あぁ、シンディ。体の方は大丈夫なのかね?」

 

<お気遣いありがとうございます、おじさま。お陰様で……快調ですよ>

 

 市内のホール。今夜、ここではアルビオン王国外務卿主催の晩餐会が開かれていた。主催者が外交に携わる人物だけあって西側・共和国側からの来賓も多い。

 

 自動演奏装置が雅な音楽を奏で、昼より尚明るく夜を彩るシャンデリアの光、可能な限りの贅を凝らした料理、美しく着飾った人々。

 

 そうした華々しいダンスホールの喧噪から少し離れた一室では、

 

 シュコーッ……シュコーッ……コー、ホー……コー、ホー……

 

 僅かに届く音楽をかき消すように、耳障りな呼吸音が部屋に響いている。

 

 全身に真っ黒いローブを身に纏い、僅かに露出している顔の部分にはガスマスク、手には黒い手袋。まるで夜が形になったような存在が、タキシードを完璧に着こなした恰幅の良い紳士と握手を交わしていた。

 

 黒ローブはメイフェア校の幽霊こと、プロフェッサーだ。

 

<採掘場の方はいかがですか?>

 

「あぁ、採掘量も売り上げも前年度比を上回っている。良い調子だよ。お前は学費や研究費の事は、何も心配しなくて良い。不足があったらいつでも言ってくるようにな」

 

<……私の体がこんな為に、おじさまにご迷惑をお掛けして……申し訳ありません>

 

 すっと、プロフェッサーは頭を下げた。

 

 おじさまと彼女に呼ばれた紳士はそれを受けて「構わんよ」と肩を揺する。

 

「お前の父親には何度も世話になったからな。私の方こそ、こんな時でもなければ会いに来れない事を許してくれ。それに、お前の研究の有用性は、私も大いに認めている」

 

<天才である私の理論です。有用に決まっていますよ。それはそれとして、おじさまに私は感謝の念しか持っておりません>

 

 ちと不遜な物言いであるがおじさま、つまりプロフェッサーの後見人であるその紳士は気にした様子も見せなかった。

 

「だが……一つ、気を付ける事だ」

 

<は……>

 

「お前の研究は、今の世界を根底からひっくり返しうるものだ。下手に発表などしようものなら蒸気機関によって莫大な利益を得ている連中は、自分達の既得権益を守る為に躍起になるだろう。その為にはどんな手でも打ってくる。最悪、命を狙ってくるかも……」

 

<……承知しております>

 

「ならば良いが……慎重に、あくまで慎重にだ。良いな? 私としても、お前の後ろ盾になってくれる者を探してはいるが……下手にお前の研究の事を話す事も出来ないから、中々……ままならぬものだ……」

 

<いえ……おじさまには十分すぎるほどのものを既に受け取っております。これ以上は、望み過ぎというものでしょう>

 

「そう言ってくれると、私も気が楽になるよ」

 

 差し出された手を、プロフェッサーは握り返した。

 

「では、私はそろそろパーティーに戻らなくては……それではな、シンディ……また……」

 

 一礼して、プロフェッサーの叔父は部屋を退出する。

 

 プロフェッサーは入り口まで彼を送っていって、そうしてドアから離れようとした時だった。

 

 

 

「あら、グランベル侯……こんな所でお会いできるなんて……」

 

「おお、これはプリンセス……ご無沙汰しております」

 

 

 

<!>

 

 外から、話し声が聞こえてきた。

 

 こっそりと、ドアにほんの10センチばかり隙間を作って覗いてみる。右目の義眼がピントを合わせる為にキュイッ、と音を立てた。

 

 通路に居たのは勿論叔父と、その対面にパーティードレス姿のプリンセス。見ればプリンセスが着ている白のドレスは、胸元にワインだろうか? 赤いシミが広がってしまっていた。それに、プリンセスの背後にはこちらも可愛らしい黄色いドレス姿のベアトリス。それに後ろにもう二人、パーティードレス姿の少女が続いていた。学校の友人だろうか?

 

<……>

 

 別段おかしな所も無いので、それだけならプロフェッサーも何とも思わなかっただろうが……

 

<む?>

 

 プリンセスの背後、ブルーとブラックを基調としたドレスを着て、眼鏡を掛けている灰色の髪の少女に義眼のピントが合った瞬間、プロフェッサーは顔をこわばらせた。

 

 その少女の、骨格、輪郭、鼻の高さ、目の位置、口の大きさ、全体のバランス……他にも数限りない情報が義眼に搭載された演算装置によって洗い出され、処理されて、常人では全体の一割も読み取る事の出来ないだろう膨大なアルファベットと数字の羅列がプロフェッサーの脳に画像として送り込まれていく。

 

 プロフェッサーの視界に「MATCH」の文字が大写しで表示された。

 

 二秒の時間を要して解析が完了したデータは、既に義眼に登録されている”ある人物”のそれと、94パーセントの同一性を持っていた。

 

<……ふぅむ……>

 

 腕組みしたプロフェッサーは、唸り声を一つあげた。

 

 叔父とプリンセス達が挨拶を交わして別れたのを確かめると、扉から顔だけを出して廊下の様子を伺う。

 

 叔父はパーティー会場の方に歩いて行く背中が見えて、プリンセス達は隣の部屋に入っていく所だった。

 

<……>

 

 状況を整理してみる。

 

 プリンセスは、ドレスがワインで汚れていた。恐らくはパーティー会場で何か粗相があって、ドレスを着替える為に一時席を外したという所だろう。そのアクシデントの原因がプリンセスなら侍女のベアトリスは兎も角少女二人が付いてくる理由が弱いから、恐らくはあの二人の内どちらかがワインを引っかけるなどしてしまったのだろう。

 

 それだけなら、よくある事ではある。

 

 しかし、その一人が……彼女の顔が……

 

 偶然にしては、出来すぎている。

 

<……確かめる必要がある、か……>

 

 ドアにほんの僅かな隙間だけを開けて、息を潜めて廊下の様子を伺う。

 

 5分ほどの間を置いて、

 

「それでは、すぐに綺麗にしてきますから」

 

 そう、声が聞こえてきた。

 

 気付かれないよう最低限の隙間しか開けていないので良く見えなかったが、二つの足音が廊下を移動していくのは分かった。僅かに見えた服の色合いから、プリンセスに付いて来ていた二人の少女達だろう。

 

 彼女たちが角を曲がって完全に姿を消したのを確かめると、プロフェッサーはそっと部屋から体を出した。

 

 きらびやかな建物の中で顔も含めて全身黒ずくめの彼女は、雪原のカラス以上に浮き上がって見えていた。

 

<……>

 

 横断歩道を渡る時の要領で左右に視線を動かして、誰も居ない事を確認する。

 

 そうした所ですぐ隣の部屋の前に立つと、ドアをノックした。

 

「すいません、この部屋は今使用中で……!?」

 

 数秒して、そんな返事と共にベアトリスが顔を出して……そして、その顔を引きつらせた。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 そこに居たのは、一度見れば決して忘れられない強烈な外見をした怪人だったのだから。

 

<失礼いたします、プリンセス>

 

 ぬっと、ベアトリスを押し退け半ば割り込むようにして入室するプロフェッサー。

 

「あら……」

 

 穏やかな驚きの声を上げたのは、やはりプリンセスだった。

 

 今は下着姿で、椅子にちょこんと腰掛けている。

 

「驚いたわ、プロフェッサー。あなたがこのパーティーに来ているなんて」

 

<後見人である叔父に会いに来たのです。勿論、私はこの格好では表立って出歩けないので、こっそりと忍び込んだのですが>

 

「成る程……まぁ、お掛けになって」

 

「は……」

 

 勧められた席に腰掛けるプロフェッサー。ちょうど、プリンセスと正対する位置になる。

 

<プリンセス……失礼ですがその格好は……>

 

「あぁ……」

 

 プリンセスは困ったように苦笑いする。

 

「ちょっとドレスが汚れてしまって……」

 

「全く、困った人達です!! 姫様のドレスにワインを零すなんて!!」

 

 ぷんすかと肩をいからせて愚痴るベアトリスを、プリンセスは目で制する。

 

<あぁ……成る程……では、汚れたドレスの方は?>

 

 キョロキョロとプロフェッサーが視界を動かすが、室内に先ほどドアの隙間から見えた白いドレスは視界に入らない。

 

「アンジェ……あぁ、このパーティーに来ていた私のお友達だけど、彼女が綺麗にするって言ってくれたので預けたのよ」

 

「あんなにワインのシミが広がってしまったら、無理だと思うんですけどね……」

 

「まぁまぁベアト……アンジェには自信があるみたいだったし、ここは信じてみましょう」

 

<ふむ……?>

 

 プロフェッサーは、ガスマスクが邪魔で上手くは行かないが、顎に手をやって考える仕草を見せた。

 

 ただ単に、プリンセスのドレスが汚れただけならば何とも思わないが……

 

 しかし、そのドレスを汚して持っていったアンジェという少女が、プリンセスと顔の特徴が94パーセントまで一致。この数値は、一言で言って瓜二つ。親兄弟でもそうそう見分けが付かないレベルの一致度だ。

 

 ”たまたま”プリンセスにそっくりな学友が、”たまたま”このパーティーに出席していて、”たまたま”ワインでプリンセスのドレスを汚して、”たまたま”そのドレスを綺麗にする技術を持っていた?

 

<こんな偶然が……?>

 

 二つの偶然が重なる事は有り得ない。なのに、この時点で既に4つの”偶然”が折り重なって将棋倒しになっている。

 

<うーむ……まさか……?>

 

 思案していたプロフェッサーだが、案ずるより産むが易しという言葉もある。

 

 自分の考えの正しさを証明するには、行動あのるのみ。

 

 がたっと、椅子を蹴る勢いでプロフェッサーが立ち上がる。

 

「プロフェッサー……?」

 

<失礼します、プリンセス……少し気になる事があるので、一度席を外しますね>

 

 そう言って、勢い良く窓を開ける。涼しく心地良い夜の風が入ってきて、しかし下着姿のプリンセスは少し寒そうに体を震わせた。

 

<では、失礼>

 

 さっと軽やかに、開け放たれた窓から身を躍らせるプロフェッサー。

 

「!!」

 

 驚いたプリンセスが思わず口元に手をやる。

 

「3階ですよ、ここは……!!」

 

 同じぐらい驚いたベアトリスが窓から身を乗り出して下を見るが、そこから見える庭の何処にも、プロフェッサーの姿は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 プロフェッサーは、両手両足を屋敷の壁面に密着させて、守宮(ウォールリザード)のように壁から天井へと移動していた。

 

 彼女の右手は過去にケイバーライト採掘場採掘場で起こった爆発事故によって喪失しており、今は義手となっている。

 

 この義手は内部に仕込まれた高濃度ケイバーライトによってCボールと同じ重力制御を可能とする他に、プロフェッサーのオリジナル研究である電気テクノロジーと組み合わせる事によって電磁操作能力をも有する。そしてそれらの機能は、プロフェッサーの右腕接合部の筋肉の操作によって、自在に制御する事が可能であった。

 

 今のプロフェッサーは無重力化によって自分の体重をゼロにして、更に発生させた磁力を建物の建材に作用させて壁や天井に体をくっつけて移動していたのだ。

 

 するすると這うようにして建物の外周を移動し、ダンスホールの窓が見える位置へと移る。そのまま頭を下、足を上にして逆立ちしているような体勢のままで壁にへばり付き、窓の一番上の部分から顔だけを出して、中の様子を覗き込む。

 

<……!!>

 

 義眼へと入ってきた光景に、流石の彼女も動揺を隠せなかった。

 

 そこには、プリンセスが居たからだ。壮年の紳士とダンスを踊っている。

 

 だが有り得ない事だった。プリンセスは今さっきまで、控え室で汚れが落ちたドレスの到着を待っていた筈だ。それにたった今ホールで踊っている”プリンセス”が着ているのは、先ほどワインで汚れていた白いドレスだった。

 

 当然と言えば当然ながら、そのドレスには汚れなど少しも無かった。

 

<……>

 

 思考を回すプロフェッサー。

 

 プリンセスのダンスの相手は、プロフェッサーも知っていた。確か西側・アルビオン共和国のモーガン外務委員。

 

<……>

 

 今、モーガン委員と踊っているプリンセスは本人ではない。アンジェといったか、プリンセスとそっくりのご学友だ。それは間違いない。

 

 仮説を構築。

 

 アンジェは何らかの目的の為に、モーガン委員と接触する必要があった。しかし、一学生でしかない(少なくとも表向きは)彼女では確実には接触出来ない。護衛や取り巻きもわんさかと居るだろうし。

 

 そこで彼女はプリンセスの立場を借りる事にした。まさかプリンセスからのダンスの誘いに「ノー」とは言えまい。

 

 まず偶然を装ってワインをプリンセスのドレスにかける。そして上手く言いくるめて、ドレスを回収する。その後、ドレスに付着した汚れを漂白する(これはあらかじめ簡単に脱色出来たり、あるいは時間と共に色が消える塗料などを水に溶かしてワインに見せかけていたのかも知れない)。

 

 後はウィッグと胸パッドでもあれば、もう一人のプリンセスが完成する。

 

 つまりアンジェがプリンセスから借りたものはドレスではなく立場であった訳だ。

 

<……>

 

 証拠は何も無いし穴だらけの推理だが、一応全ての辻褄は合う。

 

 そこで、プロフェッサーの思考は更に先へと進む。

 

 何故、アンジェはそこまでの手間を掛けてリスクを冒してまでプリンセスに成り代わり、モーガン委員と接触する必要があったのか?

 

 まさか悪戯目的ではあるまい。それにしてはあまりにも手間が掛かりすぎているし、凝りすぎている。

 

<……何か、委員しか知らない情報を聞き出すか……あるいは品物を直に受け取るか渡すかする為?>

 

 だとすればアンジェの正体は只の学生などではなく……!!

 

<スパイか……!!>

 

 線は繋がった。

 

 すっと、プロフェッサーが窓から頭を引っ込めた。

 

 

 

 

 

 

 

「ん……?」

 

 踊っていた”プリンセス”が、ちらりと窓の一つに視線を動かした。

 

 しかしそこには、当然と言うべきか何もおかしなものは無い。

 

「? どうされましたか、プリンセス?」

 

「いえ……何でも……気のせいだったようですわ、議員」

 

 

 

 

 

 

 

 がちゃり。

 

 窓が外から開け放たれて、翼を広げた黒い怪鳥のようにプロフェッサーが部屋に飛び込んできた。

 

「ひっ!?」

 

 思わず、上擦った声を上げてベアトリスが体を竦ませる。プリンセスは泰然と椅子に腰掛けたままで視線を動かした。

 

「戻ってきたんですね、プロフェッサー」

 

 コ、ホ……コ、ホ……

 

 急いで来たのか、いつもよりプロフェッサーの呼吸音はペースが早い。

 

<……>

 

 プリンセスはまだ下着姿、ドレスも部屋の何処にも無い。

 

 どうやら、間に合ったようだ。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 呼吸を整えると、プロフェッサーはプリンセスに向き直った。

 

<プリンセス、落ち着いて……お聞き下さい>

 

「……? どうしたのかしら、プロフェッサー」

 

<あのアンジェという少女は、スパイです>

 

「え? 何を……」

 

「ベアト、静かに……プロフェッサー、続けて」

 

 慌てふためいたベアトリスを制すると、プリンセスがプロフェッサーに促してくる。

 

<プリンセスから預かったドレスを着て、プリンセスになりすましてパーティーに出席し、共和国のモーガン外務員と踊っていました。恐らくは何か情報を聞き出すなど目的があって、最初からその為にプリンセスに近付いたのでしょう>

 

「「……」」

 

 二人の少女は少しの間同じように沈黙していたが……先に動いたのは、ベアトリスだった。

 

「た、大変です姫様!! すぐに警備の者に伝えてあの二人を取り押さえるように……」

 

 自分が嘘を言っているとは考えないぐらいには信用されているのだと、少しだけプロフェッサーは胸がほっこりする気分になった。

 

「まぁまぁ、ベアト……これはチャンスと言えるかも知れないわよ?」

 

 意地悪そうに、プリンセスが笑った。

 

<……プリンセス?>

 

「……それにしてもプロフェッサー……良く、アンジェがスパイだと分かったわね?」

 

<……私の目は節穴ではありませんので>

 

 文字通り、節穴に義眼が入っているプロフェッサーは答えた。

 

<それよりプリンセス、チャンス、とは?>

 

「向こうは、こちらが彼女達がスパイと気付いた事に、まだ気付いていないわ。と、すれば……これは利用出来るかも知れないわよ?」

 

<……それはどういう……>

 

 プロフェッサーがそう言い掛けた瞬間だった、

 

 ドアがノックされて、その向こう側から声が聞こえてくる。

 

「プリンセス、よろしいですか? アンジェです。ドレスの漂白が終わりました」

 

「「<…………>」」

 

 室内の3人は、それぞれ顔を見合わせる。

 

 ドアの向こうには(恐らくは共和国側の)スパイが控えている。

 

 どうするか?

 

 アンジェともう一人、ドロシーというらしいが……彼女の素性を暴露するか? それとも今しばらくお芝居に付き合って、二人を利用するか?

 

 どちらの案にもメリットとデメリットがあり、プロフェッサーにもベアトリスにも決める事は出来ない。二人は決を求めて、プリンセスを見詰めた。

 

 そんな視線を感じ取った訳でもないだろうが……プリンセスが、絶妙のタイミングで口を開いた。

 

「二人とも、ここは私に任せてもらえないかしら?」

 

「……姫様が、そう仰られるのなら……」

 

<私に、拒む理由はありません……では、私はこれで失礼いたします>

 

 プロフェッサーはそう言い残すと、開けっ放しの窓から再び身を躍らせた。

 

「……? プリンセス? 居られないのですか?」

 

「ああ、アンジェ。開いてるわ。入って」

 

 

 

 

 

 

 

<……>

 

 壁に貼り付いたプロフェッサーはホールの様子を伺っていたが、どうやらほんの数分の間に、事態はかなり大きく動いたようだ。

 

 大使館へ戻ろうとしていたモーガン外務委員が狙撃され、ちょうど会場に到着したノルマンディー公がその場に居合わせた。委員は王立病院へと緊急搬送、ノルマンディー公が持つ内務卿権限で会場は封鎖され、現在はパーティーの出席者全員を対象としたボディーチェックが行われているらしい。

 

<……>

 

 再び、仮説を構築。

 

 ノルマンディー公が到着してすぐに、モーガン委員が狙撃された。あまりにもタイミングが良すぎる。

 

 ノルマンディー公が王国に所属するスパイの総元締めである事は、そのスジの人間からすれば常識。

 

 モーガン外務委員は、何かノルマンディー公と裏取引をしていた?

 

 仮にそうだとすれば亡命か、あるいは大金目当ての裏取引か……?

 

 しかし、ここへ来て何かの手違いがあったのかあるいは心変わりしたのかその取引を履行する事が出来なくなった。だからノルマンディー公はモーガン委員に死なない程度の怪我を負わせ、治外法権の大使館へと逃げ帰る事を出来なくした。

 

<そこで、ボディーチェックをするという事は……>

 

 プリンセスに扮したアンジェが委員と踊っていた時にも考えたが、モーガン委員はこのパーティーの席で、何か重要な情報か品物を王国の人間に話そうともしくは渡そうとしていた?

 

 共和国側としてはそれが為されては困るから、アンジェがプリンセスに変装してモーガン委員に接触して、先にそれを押さえに掛かった?

 

 そしてボディーチェック……

 

 もし委員が持つ重要なものが彼しか知らない情報なら、後から入院した委員に尋問でも拷問でもすれば良い。”狙撃”の実行犯はまず間違いなくノルマンディー公だからボディーチェックを行う必要は、形式上はあるかも知れないが絶対不可欠という訳では無い。

 

 では……何か機密文章か、金庫の鍵か、それとも国宝級の価値がある指輪か……そんな所か。恐らくはポケットに隠し持てるような、小さな物だろう。

 

 それがモーガン委員の体を調べても出てこない。ならば会場内の誰かが持っている筈。ノルマンディー公はそう考えてボディーチェックを行った?

 

<……>

 

 プロフェッサーはこちらの仮説の方が、真実に近いと思った。

 

 そしてもう一つ。

 

 会場内では今出席者のボディーチェックが行われているようだが、スパイが見付かったとか、そういった騒ぎになっている様子は無い。

 

 これだけ時間が経ってあの二人が共和国側のスパイだと告発されていないという事は、プリンセスにはそれをするつもりが無いという事だ。

 

 つまり……!!

 

<……プリンセスは、あの二人を通して共和国側と取引をする心算だという事か……>

 

 アンジェもドロシーも、所詮は現場に出る一実働員でしかない。実際的な力は乏しい筈だ。つまりプリンセスは彼女たちをパイプにする気なのだ。

 

<……ならば、私のするべき事は……>

 

 少しの間考えた後、プロフェッサーは義手に仕込まれたケイバーライトの機能を作動させると、電磁誘導と併用して夜の空へと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

 

「もう少しで王立病院に到着します」

 

 ロンドン市内の道路。

 

 パーティーホールで”狙撃された”モーガン議員を乗せた救急車は、彼を病院の”特別治療室”へと搬送すべく出せるだけのスピードを出して夜のロンドン市内を駆けていた。

 

 この分なら、後5分もあれば病院に着く。

 

 そうすれば、後は薬でも器具でもどんな方法でも使って、吐かせられるだけの情報を吐かせれば良い。最終的に死んでも、場所が病院で運び込まれた原因が狙撃なら何も不自然は無い。

 

 運転手は、少しだけ今は意識不明で後ろの寝台で眠っているモーガン委員の未来を想像して同情した。当然ながら彼も、病院の医師や救急車に同乗している医療スタッフも全てノルマンディー公の息が掛かっている。

 

 しかし頭を振ってそんな考えはすぐに振り払うと、運転に意識を集中する。

 

 その時だった。

 

 ガクン、と車に振動が走る。

 

 石畳の出っ張りにでも乗り上げたかと思ったが、すぐに何かがおかしい事に気付く。

 

 車窓から見える、町の景色が動かない。流れていかない。

 

 車が、動いていないのだ。

 

「? おかしいな?」

 

 アクセルを強く踏んでみるが、エンジン音が大きくなるだけで車はびくとも動かなかった。

 

 エンストかとも思ったが、エンジンは今も規則正しい駆動音を響かせている。

 

 もし、運転手が車から出ていれば気付いただろう。

 

 今の救急車は全体が道路から5センチほど浮遊していて、タイヤは文字通り空回りしているだけなのだと。まるで見えない巨人が居て、救急車をひょいと掴んで持ち上げているようだった。

 

 運転手の、胸ポケットに入っていた金属製の万年筆が見えない力に引っ張られるようにしてひとりでに動いて空間を飛び、窓ガラスにぶつかった。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 呼吸音が、夜の町に木霊していく。

 

 路地裏の闇から、わだかまったその闇よりも尚黒いローブを纏い、両眼を紅く光らせた人影が姿を現した。

 

 プロフェッサーだ。

 

 救急車を掴んでいる見えない巨人の正体は、彼女が操る電磁力だった。

 

 義手に仕込まれた電気機構と高濃度ケイバーライトを併用して電気を操る彼女はその応用で磁場を作り出し、金属を自在にコントロール出来るのだ。

 

<……>

 

 左手でローブの裾をまくる。

 

 ベルトに付けられていた金属筒が、くるくる回りながら空中を動いてぱしっと右手に握られた。

 

 かちり。

 

 プロフェッサーの義手、その親指が筒の側面のスイッチを押す。

 

 独特の駆動音を立てて夜闇を裂くような紅い光が噴き出して収束し、刃へと形を成した。

 

<援護射撃……させていただきますよ、プリンセス……>

 



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第04話 初任務 その1

 とある一室で、しかめっ面をした男女が顔を付き合わせている。

 

 彼らは「コントロール」と呼ばれる組織で、アルビオン王国へと潜入した共和国側スパイを統括する役割を担っていた。現在、コントロールではある作戦が進められている。作戦名はチェンジリング(取り替え子)、チェンジリング作戦。

 

 作戦概要はその名の通り、人間の入れ替えを行うというものだ。つまり王国側の要人であるプリンセス・シャーロットを共和国側のスパイであるアンジェ、通称「A」と入れ替えてしまって、情報収集を容易にするという狙いがある。

 

 その為にアンジェとドロシー、「A」と「D」がプリンセスと接触した、までは良かった。

 

 しかしそこで予想外の事態が起きた。

 

 どういう訳かプリンセスにアンジェ達の正体が露見し、しかしプリンセスは二人の素性を暴露せずに、代わりに取引を持ち掛けてきたのである。

 

 自分が共和国側に協力する見返りとして、共和国側は自分の継承順位を押し上げて女王になる為に力を貸す事。ギブアンドテイクである。

 

 プリンセスが取引してきた時点では、時間を掛けていてはアンジェとドロシーが捕まるだけでは収まらず、モーガン委員が持ち出した空中戦艦の設計図がノルマンディー公の手に渡って、下手をすれば世界大戦にまで発展する危険があった。選択の余地は無かった。

 

 そうして半ばなし崩し的にプリンセスの提案を受け入れる事になったコントロールだが、目下の所、問題は二つ。

 

 

 

 ① プリンセスは何故、スパイを発見出来たのか? 独力である可能性は考えにくいので、内通者が居るのではないか?

 

 ② そもそもプリンセスは信用出来るのか? あるいは二重スパイではないのか?

 

 

 

「現在、動けるチームを動員して内通者の洗い出しを行っていますが……今の所、疑わしい者は見付かっていません」

 

 分析官である妙齢の女性「7」が、手にした書類を読み上げる。机上には、情報部や軍の有力者は勿論、その親戚縁者に至るまで最近の動向や言動に不審な点は無かったか、行動に不透明な時間帯は無かったかなど、克明に調査された資料が広げられていた。

 

「もし裏切り者が居るとしたら、これからもこちらの動きは王国側に筒抜けということになるねぇ」

 

 小太りの男性、技術担当のドリーショップは他人事のように笑いながら言った。

 

「それより問題はプリンセスだろう!!」

 

 苛立った声を上げるのは情報部と不仲である軍から、調整役として派遣されている大佐だ。

 

 しかし彼の言葉も正論である。

 

 チェンジリング作戦は、開始してすぐのこの段階でプリンセスという特級の不確定要素を抱え込む事になってしまった。

 

 この場合、選択肢は大きく分けて二つ。

 

 多少強引ながらプリンセスを殺害してしまって、アンジェがより確実に彼女に成り代わるか。

 

 もう一つは、プリンセスをこのまま自陣に取り込んで、彼女の立場を利用して諜報活動を有利に進めるというものだ。

 

 どちらの選択肢にもメリットとデメリットがある。

 

 前者を選べばこの作戦が孕む最大の問題点である入れ替わりがバレるリスクを、ほぼゼロにする事が出来る。しかしその代わり、プリンセスと通じている組織の内通者を炙り出す事がほぼ不可能になってしまう。

 

 後者のメリットは、プリンセスの立場を使う事が出来るようになるという点だ。王位継承権第4位の空気姫と言えど王族は王族。彼女はその存在それ自体が、様々な場所に入る事が出来る「合い鍵」に等しい。これを得る事によって諜報活動がどれほど捗るかは想像に難くない。また、それと平行してプリンセスの動向をチェックして、内通者の捜索も進める事が出来る。

 

「現時点では、情報部としてはプリンセスの提案を受け入れても良いと判断しています」

 

 組織の長である壮年男性「L」は、手にしていた資料を机に投げ出した。

 

「こちらの工作員が救急車に乗り込んだ時、モーガン委員は既に殺されていて、同乗者は全員気絶させられていました。これは、プリンセスが手を回したと考えられます」

 

「売国奴を始末するのにこちらの手を煩わせない。協力関係を結ぶ為の手土産代わりって事かな」

 

「それに、後ろ盾を持たない空気姫などと揶揄される事もありましたが要人が乗った車両を襲撃し、委員を殺害した事からプリンセスはある程度の武力を保持している事が分かります。その点でも、こちら側に取り込む価値はあるかと」

 

「しかし、二重スパイの可能性も捨て切れまい? 確証はあるのか?」

 

 大佐の意見を受けて、「L」は吸っていた葉巻を灰皿に押し付けた。

 

「諜報活動に絶対の保証など有り得ません。ただ現段階で開示されている情報を総合的に判断して、プリンセスが我々を裏切るメリットは少ないと判断出来るという事です」

 

「それにしても……」

 

 モーガン委員の死の状況について書かれたレポートを「7」が手に取った。

 

「委員は一体、どうやって殺されたのでしょうか……」

 

 レポートには、モーガン委員の死因は胸部にコインぐらいの穴が開けられて、それによって心臓を破壊された事だとある。

 

 しかし、犯行現場である救急車の中には一滴の血も飛び散ってはいなかった。通常、硬貨ぐらいの大きさの穴が体に開いたのなら、部位に関わらず大量に出血する。それが無かった。傷口は、高熱で焼却処理を行われたようになっていたがしかし火傷があったのは胸に開けられた風穴の断面だけで、その周りには殆ど焦げ目も火傷も無かったとある。

 

 これらは「7」やドリーショップをして頭を抱える難問だった。

 

 まるで傷口の一点だけが、膨大な熱量によって焼き切られたようだ。

 

「刃物や爆発物ではない……一体、どんな武器を使えばこんな風に……」

 

 

 

 

 

 

 

 メイフェア校の地下室。

 

 幽霊と噂される怪人にしてこの学校の生徒であるプロフェッサーの住処。

 

 幾つもの機械が生み出す色とりどりの光によって地下でも昼のように明るくなるこの部屋には、今はたった一つの光しか点っていなかった。

 

 紅い光。

 

 部屋の主であるプロフェッサーが手にしている、電光剣の実体無き刀身が発する、長さ1メートルぐらいの血の色の光。それが今のこの部屋の、たった一つの光源となっていて、部屋に居る二人の姿を不気味に浮かび上がらせていた。

 

 一人は勿論プロフェッサー。彼女は今は、部屋の除塵装置を作動させてマスクを外し、不健康な美貌を露わにしていた。手にした機械の調子を確かめるように様々な角度から柄を眺めたり、軽く素振りしたりしている。振るわれる度、光刃は唸り声のような独特の音を立てる。

 

 もう一人は、プリンセスの侍女であるベアトリスだった。彼女は不安げな表情で、落ち着き無く勧められた席に座っている。

 

「……それで……」

 

 調整を終えたプロフェッサーは光刃を収納した。

 

 一瞬だけ部屋の中が真っ暗闇になって、すぐに機械が動き出していつも通り明るくなった。

 

 電光剣の柄を懐に仕舞うと、プロフェッサーはベアトリスの対面の席に腰掛けた。

 

「今日は、私にどんな用なのかしら?」

 

「えっと……」

 

 もじもじして、言いづらそうなベアトリスは体を揺すった。どうにも居心地が悪そうである。

 

「当ててみせようか? あの二人……アンジェとドロシーだったわね。彼女達……引いては共和国に、プリンセスが協力を申し出た事でしょう?」

 

「!」

 

 図星を言い当てられたからだろう。ベアトリスの表情が変わる。プロフェッサーは分かりやすいなと感想を持った。

 

 王位継承権を引き上げ、女王となる為に共和国の助力を取り付ける条件として、アンジェとドロシーに協力して共和国のスパイとして働く。プリンセスがそう言い出した時には、ベアトリスは思わず主の正気を疑ったものだ。

 

 プリンセスにはプリンセスの考えがあるとは信じているが……だが……

 

「私、あの人達の事は信用出来ません。だって、スパイなんですよ? 人を騙したり、欺いたりする人達で……」

 

「ふむ……」

 

 プロフェッサーは背もたれをギッ、と軋ませると軽く溜息を一つ。

 

 他にそれが出来る人が居ないというのもあるだろうが、ベアトリスがこうした相談を持ち掛けてくる程度には信用されていると分かって、彼女としては面映ゆい気分だった。

 

「私も、彼女たちを信用出来るかどうかと問われるのなら……答えは「ノー」ね」

 

「! 良かった、プロフェッサーもですか!!」

 

 プロフェッサーから同意を得られた事を受けて、ベアトリスは笑みを見せる。

 

「じゃあ、プロフェッサーからも一緒に姫様を説得してもらえませんか? 今からでも遅くないから、あの人達や共和国と手を組むのは止めるようにと……」

 

「それは、出来ないわ」

 

「!! どうして!!」

 

 味方だと思っていたプロフェッサーが、しかしプリンセスを説得してくれない事に抗議の声を上げるベアトリス。プロフェッサーは片手を上げて、彼女を制する動きを見せた。

 

「……理由は、二つあるわ」

 

「……二つ?」

 

「……一つには、こうでもしないとプリンセスが女王になれないという事」

 

「む……」

 

 これについては、ベアトリスも客観的に見て同意見らしい。見るからに渋々とではあるが頷く。

 

 プリンセスの王位継承権は第4位。要するに本命が第1位として、いつかプロフェッサーが言ったようにその予備の予備の予備というのが現状だ。

 

 継承権を押し上げるには派閥を作って発言力を高め、彼女が女王になる事にメリットがあると国内外に示さなければならない。しかしながらプリンセス・シャーロットはこれまで大した地位も財も後ろ盾も実績も持たない空気姫。

 

 今から新しく派閥を立ち上げようにも、既に王国内の有力者は殆ど1位から3位いずれかの息が掛かっている。彼らは誰もが、1位の地位を盤石にする為に、あるいは2位または3位の継承順位を押し上げる為に多額の投資を行っている。いずれ自分が担ぐ王族が、王位を継いだ時に甘い汁をすする為に。

 

 彼らに鞍替えさせるのはこれまでの投資をドブに捨てろと言うに等しく、現実的ではない。

 

 現状、プリンセスの派閥に属する者は幼い頃からの友人であるベアトリスを除けば、若輩者の分際でとんでもない論文をぶち上げて学会のお歴々からは爪弾き者にされたプロフェッサーたった一人という有様である。零細派閥にも程があるというものだ。

 

 要する国内には、プリンセスを担ぎ上げる事の出来る派閥は存在しない(民衆からの支持はあるが、彼らには実際的な力は無い)。

 

 それでも女王になりたいと欲するのなら、その為の力を国外に求めるしか道は無い。

 

「だから、共和国に協力を……話は分かりますが……でも、危険過ぎますよ。プロフェッサー、あなたが見抜かれたようにあのアンジェって人は姫様そっくりで……きっと、姫様と入れ替わるつもりなんですよ!! 実際に、パーティー会場では姫様になりすましていたっていうじゃないですか……」

 

「……確かに危険だけど。でも継承権4位のプリンセスが女王になろうと言うんだから、元より安全な道などある訳が無いでしょう? 堅実なだけでは未来は拓けない。危険を承知で、一歩踏み出す勇気を持たなければ」

 

「う……」

 

 ベアトリスは言葉に詰まる。

 

 確かに、プリンセスが女王に成れるなどとは侍女である彼女をして本気では思っていなかった。と、言うよりも現実的には不可能だろうと考えていた。

 

 それでも尚、女王になろうと言うのなら危険を冒さなければならないのは道理ではある。

 

「寧ろ、私としてはプリンセスには感心したのよ? あの方は、どんな手を使っても女王になろうとしている。壁を壊し、世界を変えると言ったあの言葉は青臭い理想論などではなく……必ず実現せねばならない重要な政策だと、認識して下さっている……つまり、本気だという事だからね……」

 

「う……うん……まぁ、その理由については納得は出来ないですが、理解は出来ました。じゃあ、二つ目の理由は?」

 

「……これが、一番問題なんだけどね……」

 

 プロフェッサーは、少し言いづらそうに言葉を濁した。ベアトリスは何か話をはぐらかした気配を感じて首を傾げる。

 

「どうしたんです??」

 

「既にノルマンディー公に、プリンセスが共和国に通じている事がバレてしまっているのよ」

 

「な!?」

 

 ベアトリスは思わず椅子から腰を浮かせて、プロフェッサーに詰め寄った。

 

「そ、それはどういう事ですか!?」

 

 信じられないという表情である。あのパーティー会場では、結局ノルマンディー公が行ったボディーチェックで会場の誰からも怪しい物は出なかったし、証拠は何も残っていない筈なのに。

 

 それにあの時、プリンセスがアンジェから預かった鍵は後で、確かにアンジェへと返却されている。物的証拠を押さえられる心配だって無い筈なのに。

 

 なのにどうして、プリンセスが共和国へ内通しているのがノルマンディー公にバレるのか。

 

 第一、バレているのならとっくの昔に彼女を取り押さえるなり告発して良い筈なのに。

 

 ベアトリスの疑問も、尤もではあった。

 

「ベアトリス……私には、探偵をやっている友人が居るのだけどね……」

 

「はぁ、探偵……ですか?」

 

「えぇ、それで彼から、こんな考え方を聞いた事があるのよ…………『考えつく可能性を一つずつ消していって、最後に残った答えがあったのなら、どんなに有り得ないと思えるようなものであったとしても、それが真実である』…………ってね」

 

「…………!! ま、まさか……!!」

 

 決して愚かではないベアトリスは、僅かな時間を要してプロフェッサーの言いたい事を悟った。

 

 共和国のモーガン委員が持っていた鍵は、ボディーチェックが行われなかったプリンセスによって持ち出され、会場からは見付からなかった。

 

 よってノルマンディー公の視点から見れば……

 

 ① モーガン委員の鍵は、本人が持っていなかった。ならば会場のどこかに隠されたか、会場の誰かの手に渡っている。

 

 ② 会場内を隈無く探し、殆どの参加者にボディーチェックをしたが鍵は見付からなかった。

 

 ③ ならば鍵は、ボディーチェックを行わなかったプリンセスが持っていて会場の外に持ち出した。

 

 このような論理が成り立つのだ。

 

「……私でも考えつく事だから、まず間違いなくノルマンディー公も同じ結論に至っている筈よ」

 

「……!!」

 

「ましてや、ノルマンディー公はこの国のスパイの元締め……プロだからね……プロは主観的な物の見方はしない。客観的事実を冷静に見る目だけしか持っていない……よって、もうこの時点でノルマンディー公の中でプリンセスは99パーセントクロ……漆黒……ブラック中のブラック……そう考えていると見て間違いは無い……少なくとも、私達はそう考えておく必要があるわ……」

 

「……!!」

 

 事態は既に想像を超えて深刻である事に今更ながら気付いて、ベアトリスは苦い唾を呑んだ。いつの間にか、口内がカラカラである事に気付いた。

 

「で、でもそんな状況証拠だけで姫様を害する事は……」

 

「確かに直接的には、出来ないでしょうね。空気姫とは言え王族は王族。国家に対する反逆を証明する物的証拠でも出ない限りは、ノルマンディー公であっても直接、プリンセスに危害を加える事は出来ない……けど、自分が手を下さずに、部下に命令を出す事さえもせずに相手を殺す方法なんて幾らでもあるのよ。スパイの元締めであるノルマンディー公は、そうした完全犯罪のやり方についても知り尽くしている筈よ」

 

「そ、そんな……」

 

「既に、プリンセスはルビコンを渡られてしまったのよ……そして今や、私達も。もはや、残された道は……反逆者として処断されるか、ポンペイウスを倒すかしかない」

 

 いずれノルマンディー公に亡き者にされるか、さもなければ女王となって彼の手出し出来ない立場を手に入れるか。二つに一つ。

 

 退路は、もう断たれているのだ。

 

 プロフェッサーは立ち上がると、机に置かれていたマスクを手に取った。

 

<……私達も、覚悟せねばならないわよ……心して、プリンセスに仕え、お守りせねば……>

 

「……!!」

 

 俯いたベアトリスが、ぐっとスカートの裾を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 メイフェア校の部室。

 

 今はどの部活にも使用されていない空き教室には、共和国側のスパイであるアンジェとドロシー、そしてプリンセスとベアトリスが集まっていた。

 

 このメンバーの集まりは、部活動ということになっている。何部なのかは、これから考えるという事だ。この辺は結構行き当たりばったりである。

 

「それで? こんな部屋に姫様を連れ込んであなた達は何を考えているんですか?」

 

 警戒心を隠そうとしない厳しい声で、ベアトリスがアンジェとドロシーに問う。

 

「コントロールから指令が届いた」

 

「指令は、空中戦艦グロスターから共和国紙幣の原版を回収する事」

 

「どうして、王国の空中戦艦に共和国紙幣の原版が?」

 

「盗まれたんだよ。ノルマンディー公は植民地で大量に印刷して、共和国ポンドの信用を落とすつもりだ」

 

「そこでプリンセスの出番……空中戦艦に乗り込んで、私達が潜入する隙を作ってもらう」

 

「初任務、という訳ですね」

 

 流石に緊張を隠せない面持ちながら、やる気を見せているプリンセスとは対照的にベアトリスは言語道断とでも言いたげな剣幕で怒鳴る。

 

「ダメです!! 姫様にそんな危険な事……!!」

 

「ベアト、良いのよ」

 

 そっと、プリンセスはベアトリスの肩に手を置いて彼女を制した。

 

「……二人とも、この場を借りて……もう一人、このチームに加えたい人が居るだけど」

 

「……もう一人?」

 

 アンジェが、ゆっくりと目を大きくして穏やかな驚きを見せる。

 

「……部活動とは言ったが、私達はスパイであって仲良しクラブじゃないんだ。そんな簡単に仲間を増やすというのは……」

 

 反対意見を出すドロシーに対して、プリンセスはくすっと笑う。

 

「ドロシーさん、あの時パーティー会場で聞かれましたよね。「どうして私達がスパイだと分かったんだ」って……その質問に答えるわ」

 

「「!!」」

 

 ぴくっと、二人のスパイは顔を見合わせる。

 

「答えは簡単、親切な友達が教えてくれたのよ」

 

「!!」

 

 ドロシーには死角となる位置で、アンジェが顔をこわばらせた。頬には、一筋だけだが汗が伝っている。

 

 ベアトリスは、今はそれどころではない。

 

 プリンセスだけが、アンジェの反応に気付いていた。

 

「良いわよ、入って」

 

 プリンセスが手を叩く。するとそれが合図だったのだろう。ドアが開き……

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 異様な呼吸音と共に入室してきた人物を見て、ドロシーとアンジェは思わず武器に手を伸ばして身構えた。

 

 メイフェア校の制服を着て、白衣を羽織り、頭にはヘルメットガスマスク。両眼を紅く輝かせた怪人。

 

「学校の幽霊……実在していたのか……!?」

 

 いつ幽霊……プロフェッサーが飛びかかってきても対応出来るぐらいの間合いを確保しながら、ドロシーが少し震えた声で絞り出すように言った。

 

「……この人……? が……?」

 

 アンジェが、戸惑ったようにプリンセスへと視線を動かす。

 

 プリンセスはくすっと悪戯が成功した子供のような笑みを見せた。

 

「えぇ……私の友達の、プロフェッサーよ。彼女が、私に知らせてくれたの。二人をスパイと見破った眼力……メンバーとして、申し分は無いと思うけど?」

 

 

 

 

 

 

 

 こうした一幕を経て、プロフェッサーを加えたアンジェ達の5人は空中戦艦が停泊している基地へと移動した。

 

 結論から言うと、作戦は首尾良く運んだ。

 

 まず、プリンセスが表敬訪問という形で戦艦を訪れ、乗員の注意を引く。その隙に潜入したドロシーが工作を行ってアンジェの潜入をサポートする。

 

 唯一の誤算としては、アンジェにベアトリスまでもがくっついて行ってしまった事だが……

 

「まぁ、想定外ではあるがアンジェなら上手くやるだろう」

 

 とはドロシーの弁である。

 

 楽観的に過ぎる気もするが、それだけアンジェの能力を高く評価しているという事だろう。

 

 ともあれ、ドロシーやプリンセスの仕事はこれで完了。今回はプロフェッサーの出番は無かった。後は、アンジェを信じて吉報を待つのみ……

 

 そう、考えていた。

 

 しかし空中戦艦が飛び立って30分後、事態は思わぬ動きを見せた。

 

「大変だ、コントロールから追加指令が届いた!!」

 

 プリンセスとプロフェッサーから少し離れていたドロシーが、一枚の手紙を片手に急ぎ足で戻ってきた。

 

「どうしたんです?」

 

「別のチームの追跡調査で、既に共和国ポンドの偽札は大量に印刷されていて、王国内に保管されている事が分かったんだ!!」

 

<「!!」>

 

 それだけで、プリンセスとプロフェッサーには事の重大さと事態が急を要する事が、すぐに分かった。

 

 アンジェが任務を成功させて原版を回収した事をノルマンディー公が知ったら、彼は早速温存していたその紙幣を世界中にバラ撒くだろう。そうなったら、共和国ポンドの信用は地に墜ちる。それではいくら原版を回収した所でこの任務は失敗だ。

 

<残された時間は、少ない……!!>

 

 アンジェが原版を回収して、それがノルマンディー公の耳に入るまでが勝負だ。

 

「他に動けるチームは?」

 

 プリンセスの問いに、ドロシーは首を振った。

 

「残念ながら居ない。動けるチームは今は全て、内通者の捜索で各方面に散らばっていて……」

 

 プリンセスは顔をしかめる。これについては、彼女やアンジェの策が仇になった形である。

 

「私達だけでやるしかない」

 

<……兎に角、現地へ向かわねば。話はそれからでしょう>

 

 プロフェッサーの言葉を受けて、ドロシーは頷く。

 

「そうだな。乗れ!! 目的地まで、ぶっ飛ばすよ!!」

 

 愛車の運転席に乗り込むと、キーを回してエンジンを掛けるドロシー。プリンセスとプロフェッサーもそれぞれ後部座席に乗り込み、ドロシーの愛車は見事なターンを決めると、風となって走り始めた。

 



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第05話 初任務 その2

 アルビオン王国空軍基地からメイフェア校への帰り道。ドロシーが運転するプリンセスとプロフェッサーを乗せた車は、その途中にあるレークサイドホテルへと立ち寄った。

 

 ここは、少し寂しい立地ではあるがその名前の通り面している湖の景色が美しく、常連客も多い老舗のホテルだった。

 

 表向きにはプリンセスが皇太子の見送りに出て、学校への帰り道に一休みする為にこのホテルに立ち寄ったという事になっている。

 

 無論、実際は違う。

 

「見ろ、あれが偽札を管理しているベルンハルト伯の屋敷だ」

 

 プリンセスという最上級の賓客の為に急遽用意されたスイートルーム。その窓を開けると、ドロシーが湖を挟んで対岸に建てられている屋敷を指差した。古ぼけてはいるが、立派な構えの大邸宅である。

 

「あそこに、既に印刷された共和国紙幣が保管されているんですね」

 

「あぁ、これを」

 

 ドロシーが、バッグから取り出した見取り図をテーブルに広げる。

 

<この図面は?>

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 車椅子から立ち上がったプロフェッサーが、図面を凝視しながら尋ねる。

 

 彼女は、闘病生活中のプリンセスの友人というカバー(役柄)で付いて来ていた。体や顔を覆う黒いローブやガスマスクは難病に伴う虚弱体質の為、あまり長時間直射日光に当たっていられず、粉塵の多い大気を吸い込む事が出来ないからという設定である。

 

「あの屋敷を作った設計士を買収して手に入れた設計図だ。ここを見てくれ」

 

 ドロシーが、指で図面の一点を突いた。テーブルをトントンと叩く乾いた音が鳴る。

 

 図面のそこには何に使うのか大きなスペースがあって、そして円形の大きな扉が据え付けられている。

 

「これは……金庫……ですか?」

 

「あぁ、ベルンハルト伯は元々芸術品の収集を趣味にしていて、集めた絵画や彫刻を安全に保管する為のスペースとして、屋敷に大金庫を造らせたんだ。金庫は物凄く頑丈で、外側からでは爆破不可能な代物らしい」

 

<……だから、偽札の保管場所としてノルマンディー公から白羽の矢が立ったという訳か……>

 

「そういう事。しかも、伯爵は用心深い性格なんだ。これを」

 

 言いながら、ドロシーが双眼鏡を差し出してきた。

 

 屋敷へ向けられた双眼鏡を覗きながらプリンセスが少し顔を動かす。これは何処を見れば良いのか、戸惑っている動きだ。

 

<二階のベランダです>

 

「!!」

 

 隣で腕組みしているプロフェッサーに指摘されて、プリンセスが視界を動かす。ドロシーは「へぇ」と驚いた顔になった。

 

「見えるんだ、双眼鏡も無しで」

 

 プロフェッサーは頷いて、ガスマスクの強化レンズを指先で突っついた。

 

<私の義眼にはズーム機能も付いているのでね>

 

 ヒョウ、っと女スパイが口笛を鳴らした。

 

「あれは……」

 

 お目当ての物を、プリンセスも見つけたようだ。

 

「あぁ、お花付きの2インチ機関砲だ」

 

 邸宅は古い屋敷なのであちこちの壁面にツタやコケが茂っていて、設置された機関砲にもツタが絡みついていた。

 

「他にも銃を持った見張りが10人以上……こいつは、ちょっとした城落としだぞ」

 

 口調こそ少しふざけてはいるが、神妙そのものという表情になったドロシーが話す。

 

「時間を掛けて準備を整えれば何とかなるだろうが……ぐずぐずしている暇は無いぞ」

 

 今頃は空中戦艦グロスターの内部で、アンジェが盗まれた原版の奪還作戦を進めているだろう。

 

 空中戦艦が墜ちるか、原版奪取の実行犯である少佐が奪還された事に気付いて連絡を入れるか、さもなくば少佐の死に気付いた戦艦の乗員が通報するか。過程はどうなるか分からないが、いずれにせよ結果は、山の水がどんな川に流れようと最後は海に行き着くように一つへと収斂する。

 

 即ちノルマンディー公に「共和国ポンドの原版が奪還された」と連絡が入るのだ。

 

 すると、その連絡を受けて次にノルマンディー公が取る行動など決まっている。

 

 ベルンハルト邸に保管されている偽のポンド紙幣をバラ撒いて、世界中に共和国ポンドの信用不安を発生させるのだ。

 

 どれほど時間が残されているかは不明だが……しかし、二日は決して掛らないだろう。

 

 つまり、決行は今夜。

 

「何か手を考えなくてはだが……道具はあるか?」

 

<急だったので多くは用意出来なかったけど……それなりには。研究成果の一部を持ってきているわ>

 

 プロフェッサーが、持ち込んだ金属製のアタッシュケースを開ける。

 

 ケースの中には、衝撃吸収用の緩衝材としてクローバーがみっちりと詰まっていて、更に透明なケースに入れられて数個の品物が入っていた。

 

「これは?」

 

 ドロシーが、何の変哲も無さそうな金属板を手に取った。どんな用途に使うものか測ろうと、様々な角度から見たり手触りを確認したりする。

 

<それは水素貯蔵合金。チタンと鉄の合金で、スポンジのように水素を吸収して……温めると水素を放出する>

 

「へえ……」

 

 ドロシーは感心した表情になった。クローバーの中に手を入れてまさぐり……そして指先に何か柔らかい感触が当たるのを感じ取って、それを取り出す。

 

 そしてクローバーの中から、蛇が顔を出した。

 

「うわわっ!?」

 

 驚いて腰を引き、その蛇を放り出すドロシー。

 

「きゃっ!?」

 

 思わず、プリンセスも身を引く。

 

<クッ、クッ、クッ……>

 

 そんな二人を見て肩を揺らすプロフェッサー。

 

 床に投げ出された蛇をひょいと掴む。

 

「……?」

 

 ドロシーは、この時点で少し違和感を感じていた。蛇は先ほどから、少しも動いていない。

 

<良く見て。作り物……オモチャよ>

 

 そう言って、ドロシーへと手渡してくる。ドロシーはおっかなびっくりという手付きで蛇を受け取った。

 

 良く見てみると、確かな質感や手触りは良く出来ているが皮膚のぬめりなどは無く、人工物であるのが分かる。

 

「こんな物もあるのか……」

 

<それと、これね>

 

 プロフェッサーは腰から柄だけの剣を手に取ると、スイッチを入れる。機械が唸り声を上げて、紅い光刃が起動した。

 

 以前、ベアトリスが誤って作動させてしまった光の剣である。

 

 何度か見慣れているプリンセスとは対照的に、ドロシーは思わず何歩か後ずさった。

 

「成る程……しかし、これだけあればどうにかなりそうだな。作戦を説明する、耳を貸してくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、ベルンハルト伯爵邸にプリンセスが来訪した。

 

 屋敷の主である伯爵が、慌てた様子で応対してくる。

 

「プリンセス、突然のお越し、恐縮であります」

 

「お気遣いは無用ですよ伯爵。ちょうど近くを通りかかったもので、ご挨拶に伺ったのです」

 

「そうですか。大したおもてなしも出来ませんが、食堂で紅茶でも……さぁ、どうぞ。ご学友の方もご一緒に」

 

 ドロシーと一緒に、プリンセスは廷内へと案内されていく。ドロシーは、ちらりと視線を上げた。

 

 そこには夜の闇に紛れて一見では分からないが、プロフェッサーがするりするりと壁を這い上っていく所が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 これが、今回の作戦だった。

 

 プリンセスが客人として屋敷を訪問して、注意をそちらに引きつける。ドロシーは運転手で、出来た隙を衝いて潜入するのはプロフェッサーの仕事だった。彼女は義手に内蔵された高濃度ケイバーライトと電気技術の併用によって磁場を発生させ、壁に貼り付く事が出来る。しかもCボールと同様の特性で自重をゼロにした状態でだ。こうした潜入工作にはうってつけだった。

 

 それにこの邸宅の外壁は、あちこちにツタが這い回っている。これらはロープとして使う事が出来た。そうして階段を上るに等しい調子で、プロフェッサーは壁面を移動していく。

 

 数分後、暗闇に両眼から漏れる紅い曳光を引きつつ、難無く屋根にまで上ったプロフェッサーは、頭に叩き込んでおいた図面を頼りに大金庫の真上にまで移動した。

 

 そこで電光の剣を起動。流れ出した紅い光が1メートルほどの刃へと収束する。

 

 岩であろうと難なく溶解して貫いてしまうエネルギーを有した電熱の刃である。屋根板などはひとたまりも無く白旗を揚げた。

 

 そうして開いた穴から天井裏に体を入れると、今度は足下にある金庫の外壁へと紅い刃を突き立てる。流石に鋼鉄製である金庫壁はそれなりの抵抗を示したが、それも長くは保たなかった。刃が触れた部分が赤熱化して、プロフェッサーはぐるりと円を描くように剣を動かす。

 

 やがて赤くどろどろになった円が完成した。プロフェッサーはそこへと手をかざし、義手に内蔵されたケイバーライトと電気ギミックを作動させる。彼女の全身が翠色の燐光に包まれて、焼き切られた部分が円形に浮揚した。

 

 電磁力を操るプロフェッサーは、金属を自在にコントロールする事が出来るのだ。

 

 くり抜いた部分を脇にどかせると、まだ熱を持っている切断面には触れないようにしながら穴へと体を入れる。

 

 非正規な手段で入った為に金庫内部に設置された照明は作動せずに真っ暗だったが、プロフェッサーには何の障害にもならない。周囲の光量の低下を検知した両目の義眼が暗視モードを作動させて、僅かな光量を増幅して解析した情報を映像化し、彼女の脳へと送り込む。

 

<なんと……>

 

 赤一色のコントラストで表示されたその光景はさしもの彼女をして、圧倒されるに十分なものがあった。

 

 そこは、金の部屋だった。

 

 うずたかく積まれた紙幣の部屋。

 

 部屋の三方、つまり大金庫の扉がある方向以外は、4メートルほどの高さがある部屋の床から天井まで、びっしりと隙間無く偽のポンド紙幣が敷き詰められている。

 

 ドロシーは、この金庫に保管されている偽札の推定額は5千万ポンド以上と言っていたが……共和国情報部の調査は、間違ってはいなかったらしい。

 

<……>

 

 プロフェッサーは試みに部屋の紙幣を一枚手に取ると、じっと見詰める。

 

 義眼に組み込まれた演算機能が作動し、同時に記録装置に焼き付けられた情報との照合を開始。

 

 数字とアルファベットの洪水が流れ、一秒と経たない間に解析処理が完了して「MATCH」の文字がプロフェッサーの視界に表示される。本物と特徴が合致。つまり彼女の義眼に組み込まれた電子脳は、この偽札を本物だと認識したという事だ。

 

 この偽札は恐ろしく精巧である。恐らくはプロの鑑定家であっても見分けは付かないだろう。

 

 これだけの量の偽札が市場に出回ったら、共和国のポンドの価値と信用は大暴落、経済市場は大混乱に陥るだろう。共和国側としては、何としても阻止せねばならない事態である。

 

<……>

 

 プロフェッサーは懐から水素貯蔵合金を取り出すと、偽札の山の上に置く。この金属板には事前に、たっぷりと水素を吸わせてある。後は、高熱に晒されればこの合金からは水素が放出される。問題はその熱をどのように用意するかだが……

 

 すうっと大きく息を吸うプロフェッサー。

 

 慣れた手つきでガスマスクを外して、素顔を露わにする。

 

 息を止めたまま、左手の指でぐっと左目を大きく見開かせて右手でそこに収められている義眼を摘まむ。

 

 きゅぽん、とワインの栓が抜けるような音がして、義眼が外れ落ちた。

 

 そうしてすぐにガスマスクを付け直す。この間、一分足らず。全ての作業は息を止めたまま行われた。

 

<……>

 

 掌中の義眼へと視線を落とすプロフェッサー。先ほどまで彼女の左眼窩に収まっていた人工眼球は、良く見ると上下に切れ込みが入っていた。そしてその境目に、とても小さな表記で目盛りが刻まれている。

 

 プロフェッサーは、左手で義眼の南半球を固定すると右手で北半球を90度時計回り、次に180度反時計回り、その次は45度時計回りに回転させる。

 

 ガチリ。

 

 歯車が噛み合ったような音がして、その次はチ、チ、チ……と時を刻む秒針のような音が聞こえてきた。プロフェッサーは、自分の持ち物の中で最も稀少かつ他者の手に渡ってはならない物は、自らの頭脳だと考えている。よってそれを防ぐ為、彼女の義眼にはいざという時に備えて自爆機能が搭載されていた。無論爆発はほんの小さなものだが、彼女の頭脳を破壊したり、水素貯蔵合金に熱を与える程度は十分な計算だ。

 

<……これで良し>

 

 義眼のこの機能を使うのは初めてだが、定期メンテも万全であったし問題無く作動する筈だ。

 

 水素貯蔵合金の上に、義眼を置く。

 

<天才である私が作った機械は、決してミスを犯さない……>

 

 自分に言い聞かせるように呟くと、隻眼となったプロフェッサーは再び全身に翠光を纏う。

 

 ケイバーライトの重力軽減によって大幅な減量を果たした彼女は、軽く膝を曲げただけでふわりと浮き上がって、天井の穴から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

「では、伯爵……急に伺ってしまって申し訳ありませんでした」

 

「いえいえ、このような所でよろしければいつでもお越し下さい。プリンセスに来ていただけるなど……光栄の至りであります」

 

 型通りの挨拶を済ませた後、プリンセスはベルンハルト伯と握手を交わし、そうしてドロシーの車に乗り込んだ。

 

 ドロシーの発車は、心なしか急であったように思える。

 

 屋敷から1キロばかり離れた所で、ドロシーは懐中時計を開いた。

 

「計画通りなら……そろそろ金庫の中身が爆破される筈だけど……」

 

 そう言った瞬間、

 

 ドォォン!!

 

 背後から爆音が聞こえてきて一拍遅れて衝撃波が襲ってくる。

 

「「!!」」

 

 ドロシーは咄嗟に車を路肩に止めると、後部座席のプリンセスと一緒に背後を振り返った。

 

 ほんの数分前まで自分達がいた豪邸から、今は炎が上がっていた。

 

 しかもその燃え方は、普通ではない。まるで爆発でもしたかのようだ。

 

「時間通りだな」

 

「プロフェッサーが、やったのね……」

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 呼吸音が、聞こえてくる。

 

<……任務完了……先輩スパイとして、私の仕事をどう評価する?>

 

 横合いからくぐもった声が聞こえてきて、ダークゾーンから這い出してきたかのような黒いローブの人影が進み出てきた。勿論、プロフェッサーだ。ただし普段の彼女の姿とは少しだけ相違点がある。目だった。闇の中で妖しく光る義眼の紅い輝きは、今は右側だけに点っていた。

 

「手筈通り事が運び、時間もぴたり……コントロールがどう評価するかは分からないけど……私の採点では、満点だな」

 

「ご苦労様、プロフェッサー」

 

「さ、乗って。さっきアンジェからも連絡が入った。原版の奪還は、上手く行ったらしい。二人を迎えに行く」

 

<了解>

 

 プリンセスが体をドア側に寄せて、スペースを作る。プロフェッサーはそこへと乗り込んだ。

 

「シートベルトをお締め下さい」

 

 冗談めかしてそう言うと、ドロシーはアクセルを踏み締める。

 

 炎上する邸宅を背後に、湖畔の道路をスパイを乗せた車は走り去っていった。

 



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第06話 車上の決闘

 アルビオン王国の長閑な田園風景を、見事な装飾が施された列車が走り抜けていく。

 

 ロンドンへと向かう、王室専用列車だ。

 

 その貴賓室には勿論王族であるプリンセスが。そして賓客として、和装に身を包んだ一団が乗り込んでいた。

 

 この度、日本から先の太政大臣である堀川公が外交特使として両国の条約改定の為に渡英してきており、プリンセスはその迎えの役目を仰せつかっていた。

 

「極東の島国相手なら、ウチらの空気姫で十分って事か……」

 

 これは、ドロシーのコメントである。

 

「リスクも考えた上で、でしょうね。暗殺者の件は、王室の耳にも入っている筈だから」

 

 共和国側でも堀川公暗殺の為に日本からの刺客が、既に英国内に入り込んできているという情報を掴んでいた。

 

 やってくる暗殺者の名前は、藤堂十兵衛。先のボシン・ウォーでは単身装甲艦に乗り込み、百人以上を斬り捨て艦を撃沈せしめたという凄腕中の凄腕である。

 

 アルビオン王室としては万一暗殺騒ぎに巻き込まれた場合、王位継承権は第4位で派閥も持たず、失っても痛くないプリンセス・シャーロットを選んだのだろう。

 

 と、これがアンジェの意見だった。

 

<……違う。暗殺のターゲットになっているのは……寧ろプリンセス>

 

 プロフェッサーの見解は違っていた。

 

「どういう事?」

 

 じっ、と警戒するような視線を向けてアンジェが尋ねてくる。プロフェッサーは少し居心地が悪そうに体を揺すった。

 

 プリンセスの推薦によって同じチームとして活動するようになってからも、アンジェとはまだ共同でミッションを遂行した事も無いし殆ど会話もしていない。未だ信用されてはいないのだろうと、プロフェッサーは話しにくさを我慢しつつ説明を続けていく。

 

<ベアトリスから聞いているかも知れないけど……ノルマンディー公は、プリンセスが共和国と通じていると考えている>

 

 推論ではあるが、しかしスパイとして常に最悪の状況を想定して行動すべしと訓練されているアンジェやドロシーは「まさか」「考え過ぎだろう」などと一笑に付すような事はしなかった。二人とも真剣な顔になって「続きを」と促してくる。

 

<……だが、いくら内務卿のノルマンディー公とは言え、王族相手に直接手を下す事など出来ない。自分の子飼いの部下を動かす事も難しい。千里の堤も蟻の一穴という言葉もある。人間の犯行は、全く証拠を残さずに行う事は現実的に不可能。そして僅かな証拠から足が付けば、彼の地位が一夜にして吹っ飛ぶ事も考えられる。それは無視出来ないリスクだから……>

 

「確かに……」

 

<……では、どうする? 自分がノルマンディー公だとして……自分が関わったという証拠は一つも残さずに、プリンセスを始末したい。ならば、どうする?>

 

 プロフェッサーの謎かけ(リドル)に、3人はそれぞれ考える。

 

 まず口を開いたのはベアトリスだった。

 

「犯人と自分との間に何人も人を仲介させる……ですか?」

 

<完全とは言えない。実行犯や連絡人が捕まったらそこから芋ヅル式に自分に辿り着かれる可能性もある>

 

「じゃあ、実行犯の口封じをする?」

 

<良い手ではあるが、やはり完全ではない。それに口封じした事がバレたら、具体的に何をしたとは分からなくても何か後ろ暗い事があると感づかれて怪しまれる>

 

 正解を導き出したのは、アンジェだった。

 

「ん……確実には成功しなくても良い計画を立てる」

 

 プロフェッサーは頷いた。

 

<正解。必然である必要は無い……蓋然(がいぜん)でさえあれば良い>

 

「蓋然、って言うと……」

 

「絶対ではないがある程度の確率でその事象が、起こるべくして起こるという意味だな」

 

 ベアトリスの疑問には、ドロシーが答えた。

 

 亡き者にしたい要人が居るとする。しかし自分が疑われる事は万一にも避けたい。

 

 だから例えばその要人の側近を無能で揃えるとか、護衛の兵士に高齢で動きが鈍い者を多く選ぶとかするのだ。そうすれば暗殺が成功する確率は高まるが、絶対確実ではない。だが不確実さの見返りとして、自分は暗殺者とは何の関わりも無いのだから疑いの目からは逃れられる。

 

<成功すればそれで良し。失敗しても自分には疑いが掛らないから同じ事を何度も繰り返して、いつか暗殺が成功すればそれで良い。これはプロバビリティーの完全犯罪……謀殺の手法の一つ……>

 

「今回も、そのパターンだと?」

 

 ドロシーの問いに、プロフェッサーが頷く。

 

<暗殺者、藤堂十兵衛はやって来ないかも知れない。やって来たとしても護衛に阻まれて、堀川公を討つ事は出来ないかも知れない。でも、逆に堀川公を殺す事が出来るかも知れない。あわよくばプリンセスがその騒ぎに巻き込まれるかも>

 

 仮に暗殺が失敗に終わってプリンセスが今回助かったとしても、ノルマンディー公には問題にならない。その時は機会を見付けてはまた同じような事を繰り返せば良いだけだからだ。そうして続けていれば、いつか起こる事はいずれ起こる。いずれはプリンセスを葬れる。

 

 証拠は何一つとして無い。

 

 考え過ぎ、心配性かも知れない。

 

 だが……

 

「私達はそうだと決め付けて、心して任務に当たらなければならないという事ね……」

 

 懐のCボールの感触を確かめながらのアンジェの言葉に、プロフェッサーは深く首肯した。

 

 

 

 

 

 

 

 アンジェ、ドロシー、ベアトリスの3名は今回は、プリンセスお付きのメイドという役柄(カバー)でプリンセスと同じ車両に乗り込んでいた。

 

 紅茶を飲み交わすプリンセスと堀川公からはいくらか離れた位置で、しかしいつ襲撃があっても即応出来るよう緊張を解かずにいるアンジェ達(ただし訓練を受けていないベアトリスだけは完全ではないのでどうにもぎこちない)。その雰囲気が伝わってしまっていて、車両内には異様な空気が漂っていた。

 

「そうですか……堀川公の熱意は伝わりました」

 

 少し空気を変えようと、カップを置いたプリンセスが切り出した。

 

「私には何の決定権もありませんが……必ずお祖母様にお引き合わせすると、約束しましょう」

 

「おお……かたじけのうござる」

 

 感動した様子の堀川公は席を立つと、両膝を付いて土下座する。

 

 これは日本では最上級の「礼」に当たる動作らしい。しかし些か仰々しすぎて、プリンセスの笑顔が引きつった。

 

「や、やめてください……そんな……」

 

「それでは……」

 

 元通り着席した堀川公が、視線を動かす。

 

「しかし、驚きました。我が国と同じでアルビオン王国でも、鎧を飾る習慣があるのですな」

 

「鎧?」

 

 プリンセスは首を傾げる。

 

 確かに大貴族の屋敷や王城では甲冑を飾っているのも珍しくはないが……この列車の中にそんな物は積み込んでいなかった筈だが……?

 

 戸惑いつつもプリンセスは堀川公の視線を追っていって……「ああ」と得心が行った表情になる。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 プリンセスの後ろに置かれた車椅子の上で、腕組みした姿勢のまま不動でいるプロフェッサー。

 

 確かにヘルメットやマスクといったパーツから、動かなければちょっと風変わりな鎧に見えるかも知れない。

 

 プリンセスは思わず吹き出してしまった。

 

「彼女は鎧ではありません。私の大切なお友達です。この姿は……少し、持病がありまして……」

 

 これは先の任務で、レークサイドホテルに入った時と同じカバーだ。

 

<プロ……いや、シンディと申します。私は生まれつき肺が悪く、埃や塵を吸う事が出来ないので……面を被って顔を見せない非礼は、お許し下さい堀川公>

 

 そんな会話が交わされて少しだけ場の空気がほぐれたように思えた時だった。

 

 一瞬、窓から差し込んでいた陽光が陰る。列車が水道橋をくぐったのだ。

 

「!!」

 

 アンジェが、顔を上げて天井を睨む。

 

「誰か来た」

 

「走っている列車ですよ? そんな筈……」

 

<いや、アンジェの言う通り。私の電界にも、侵入者が掛った>

 

 プロフェッサーが、車椅子から立ち上がった。

 

 プロフェッサーの武器である「電気」。天才を自負する彼女の叡智の結晶たる異端の先端技術だが、しかし自然界には、生まれながらにしてこの力を使いこなす者達が居る。それはデンキウナギやシビレエイといった発電魚である。

 

 彼らは獲物を殺傷したり威嚇目的の他に、自らの周囲に微弱な電場を展開して周囲の様子を知る為にも電気を用いる。例えばデンキウナギは目が小さく、しかも視界が利かない濁った泥水の中に生息しているがこの能力によって、自分が置かれた状況を完璧に把握する。

 

 同じエレキ使いであるプロフェッサーにも、似た芸当が出来るのだ。

 

「私は前から行く」

 

<では、私とドロシーは後ろから。挟み撃ちにしよう>

 

 

 

 

 

 

 

 果たしてアンジェとプロフェッサーの言葉通り、侵入者は居た。

 

 車両の屋根、その中程に泰然と腰掛けて、望遠鏡で周囲の様子を探っている。

 

「誰なの?」

 

 背後から、見事なバランス感覚で揺れを物ともせずに屋根に立つアンジェが声を掛けた。

 

「西洋の女は無礼だな。人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るものだ」

 

 すくっと、侵入者は立ち上がった。

 

 小柄ながら、こちらもアンジェと同じく少しも体幹がブレていない。走行中の列車の、しかも激しく揺れる屋根に立っているにも関わらずだ。良く訓練されているのが一目で伺い知れる。

 

「……拳銃が二挺、懐と、腰の後ろか。それに左の靴、何か仕込んでいるな。微かに金属の音がする」

 

「!」

 

 ぴくっとアンジェが片眉を上げてゆったりと目を大きくする。これは穏やかな驚きの動作だった。

 

 恐らくは僅かな重心のズレや着衣の不自然さを見て取ったのだろう。しかしこの侵入者が自分の装備を完璧に看破した事を受け、彼女は警戒を強くする。百人斬りをやってのけたという評判は、誇張ではないらしい。眼前敵への警戒値を引き上げる。

 

<お前が、藤堂十兵衛か……男だと思っていた>

 

 くぐもった声が聞こえる。独特の呼吸音も。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 侵入者の背後にいつの間にかプロフェッサーが立っていた。

 

「……傾き者か? 面妖な……腰の辺りに、何か持っているな。それにその右手……籠手……いや、義手か」

 

 侵入者はプロフェッサーの装備についても一目で完全に把握してしまった。

 

<ほう……>

 

 ガスマスクのレンズから漏れる紅い光が、少し太くなったようだった。これはアンジェと同じくプロフェッサーが目を見張った動作だった。

 

<これがクロオビ、というヤツか>

 

 感心したという声色だった。

 

 アンジェと同じく、眼前敵の脅威評価を上向きに修正するプロフェッサー。

 

 しかし、彼女も同じように侵入者の戦力を推し量っていた。

 

 敵の武器は、腰に差している刀だ。

 

 他に武器を隠し持っているかも知れないが、しかしこれがメインウェポンであるのは確実だろう。取り上げてしまえば敵戦力は激減。

 

 プロフェッサーはそう考え、電磁力を侵入者の刀へと作用させて取り上げる。

 

<!!>

 

 ギィン!!

 

 ……よりも早く。

 

 侵入者は空間に着衣の色である黒い影が帯を引くような速さで彼女に接近してくると、同時に抜刀。斬りかかってきた。

 

 プロフェッサーは咄嗟に、斬撃を義手で受けた。耳鳴りするような金属音が響き渡る。

 

<……!!>

 

 マスクの下で、プロフェッサーの顔が強張った。

 

 今のは、ひやりとした。磁力を発動させる暇も無かった。

 

「お主今、何かしようとしたな? 急に『気』が変わったぞ。銃を撃とうとする瞬間のように……」

 

<……!!>

 

 偶然ではなかった。

 

 この侵入者は、プロフェッサーが刀に磁力を作用させようとするのを、それとは知らないだろうがその意図を感じ取って技の発動を潰してきたのだ。

 

「ふっ、はっ!!」

 

 続けざま、侵入者は鋭い斬撃を繰り出してくる。

 

 横薙ぎ、袈裟斬り、突き。

 

 しかし今度は侵入者の方が驚く番だった。

 

 プロフェッサーはスウェイ、半身逸らし、斜に構え。

 

 殆ど上体の動きだけで、その場を動かずに三連続攻撃をかわし切ったのだ。

 

「!!」

 

<良い攻撃だが、私に速い動きは通じない。目は、良いのでね>

 

 プロフェッサーの両目に嵌められた義眼は、内蔵された電子脳によって最初に義手で受け止めた一撃でこの侵入者の太刀筋を解析し、二撃目以降はその攻撃パターンを不完全ながら予測して、しかも生身の人間がどんなに訓練しても到達出来ない恐るべき動態視力で攻撃を見切って、最小の動作で回避してしまったのだ。

 

 侵入者は続いて三段突きを繰り出したが、プロフェッサーはメトロノームのように体を振って刺突を全て避けきった。

 

「出来るな……!!」

 

 畏敬の念が込められているかのような呟きを、侵入者が漏らす。

 

 パン、パン!! ギィン、ギィン!!」

 

 乾いた音、そして一瞬遅れて金属音が響く。

 

 最初の乾いた音はアンジェの援護射撃の銃声だった。しかしこの侵入者は、飛来する弾丸を刀で弾いてしまったのだ。

 

「!!」

 

 アンジェは、目を見張る。

 

 侮っていたつもりは無いが、銃弾が通用しないとは。まだ自分の戦力想定が甘かったと、思い知らされた。

 

「では、これはどうだ?」

 

 侵入者は懐からCボールより一回り小さいぐらいの球体を取り出すと、自分達が立つ屋根に叩き付けた。

 

 ちゅどっ!!

 

 破裂するような爆音。同時に閃光と、煙が一帯を包む。

 

<!!>

 

 侵入者に最も近いプロフェッサーは、僅かな時間だが完全に視界を奪われた形になる。

 

 ここは走行中の車両の上なので、風に流されて煙は一秒と経たずに晴れる。しかしその半分の時間でも、白兵戦では命取りだ。

 

 ギィン!!

 

 しかし、再び金属音。

 

 煙に紛れ左に回った侵入者の斬撃を、プロフェッサーは義手の掌で防いでいた。

 

「驚いたな」

 

 侵入者の声には、その言葉通り驚愕の響きがあった。

 

「目に頼り過ぎだと思っていたが……見えなくても見えるとは」

 

<クロオビではないが……私には電気の力がある。素晴らしいだろう?>

 

 と、プロフェッサー。視界を防がれても侵入者の位置を把握して攻撃を防いだのは、この侵入者の来襲を察知したのと同じ電位の結界だった。

 

「……」

 

 仕切り直しとばかり、侵入者は数歩の間合いを取った。

 

 一方でプロフェッサーは背後にドロシーが追い付いてきて銃を構えている。侵入者を挟んで反対側でも、アンジェが油断無く銃口を侵入者に向けていた。

 

 しかし二人とも、これまでの攻防でこの侵入者が只者ではない事は十分分かっていたので迂闊に銃を弾く事が出来ない。

 

 僅かな時間、膠着状態が生まれる。

 

<……二人とも、下がっていて>

 

 それを破ったのはプロフェッサーだった。

 

<どうやら、飛び道具でこの敵を倒すのは難しそうだ>

 

 前進しつつ、すっと右手を上げるプロフェッサー。その掌に、腰のベルトに掛けられていた「柄」が浮き上がって収まった。

 

<剣で、勝負を付けよう>

 

 唸り声のような音が鳴って、柄の先端から光が滝の如く迸って、光刃を結んだ。

 

 光の剣。初めて見る武器であろうが、侵入者は慌てた素振りを見せずに刀を構え直す。

 

 プロフェッサーは光刃をくるくる回すと、「礼」をするように垂直に立てた刃を自分の眼前に置いて、それから野球でバットを構えるような、東洋の剣術で言う八双の構えを取った。

 

<きえぃっ!!>

 

 奇声を上げながら、先に仕掛けたのはプロフェッサーだった。

 

 手首をコネるように使って紅い刃を回しながら侵入者へ接近する。

 

 ジッ、ジッ、ジッ!!

 

 光刃の切っ先が金属製の屋根に触れて、その部分が赤熱化して紅い線が走る。

 

 これは威嚇の動作だった。

 

 見た事の無い武器に、物体を斬るのではなく溶断する攻撃。

 

 普通の者なら怯み、威圧される。

 

 しかしこの侵入者は普通ではなかった。

 

 刃が電光によって形成され柄の重さしか無いが故に、常軌を逸して速く紅い壁が迫ってくるかと錯覚する程の連続攻撃。しかし侵入者は繰り出される斬撃の中で自分の体に当たる軌道のものだけを取捨選択して完全に見切り、しかも触れるだけで屋根を溶かした事から刀で受けるのは危険と悟って、攻撃を避けて身をかわしていく。

 

<……!!>

 

「無駄が多いぞ」

 

 フェイントも含めて一秒間に12回の攻撃を繰り出したが、全てかわされてしまった。

 

 これはプロフェッサーにとっても驚きだったが、しかしすぐに気を取り直して次の攻撃に移る。

 

 プロフェッサーは斬撃を低くして侵入者の足を刈ろうとする。だが失敗に終わった。侵入者の動きは速く、足は常に宙に浮かんでいるようであったからだ。

 

 今度は侵入者が攻撃に転じた。先ほどのプロフェッサーに負けないぐらいの高速斬撃・連続攻撃を繰り出してきたが、プロフェッサーの義眼は既にほんの僅かなクセや予備動作、筋肉の流れや視線などこの侵入者の動きのパターンを完全に解析しており、全ての攻撃を完璧に捌き切った。

 

 プロフェッサーは再び攻勢に転じたが、先ほどの焼き直しのようにすべて避けられた。しかし焼き直しなのは侵入者の攻撃も同じで、プロフェッサーは全て回避しきってしまう。

 

 神速の攻防の中で二人の立ち位置は目まぐるしく入れ替わり、時には転落さえ危ぶまれるが絶妙のバランス感覚で体勢を整えて姿勢を制御する。

 

 アンジェとドロシーがプロフェッサーを援護しようとするが、しかしあまりに二人の動きが速く0.5秒前に侵入者が居た位置にプロフェッサーが入るので、迂闊に銃撃する事も出来ない。

 

 ならば勝敗を決するのはやはり二人の得物、光の刃と鉄の刃。そのいずれか以外では有り得ない。

 

 侵入者の刀がプロフェッサーの心の臓を断ち割るのが先か。

 

 プロフェッサーの光刃が侵入者の首を飛ばすのが先か。

 

 しかしこれまでの攻防を見る限り互いの攻撃力を、互いの防御力が上回ってしまっている。プロフェッサーの攻撃は侵入者の訓練された五感と鍛え上げられた体術によってかわされてしまい、侵入者の攻撃はプロフェッサーが装備する最新テクノロジーによって捌き切られる。

 

 どちらも、相手に攻撃を当てられない。

 

 ならば、手は二つしか無い。

 

 一つは長期戦・持久戦に持ち込んで、相手が疲れて集中力が僅かに落ちて、ミスを犯すまで辛抱強く待つか。

 

 もう一つは捨て身、相打ち覚悟で乾坤一擲の一撃を仕掛けるか。

 

「ふっ……世界は広い。こんな術は、今まで見た事が無いぞ」

 

<……それは、当然。私は天才だから。しかし天才的なのは、何も頭脳だけではない。本物の天才は、体の使い方も天才なのよ>

 

「確かに」

 

 不遜にも聞こえるプロフェッサーの物言いだが、侵入者は素直に認めた。

 

「天稟は凄い。自惚れて良いだけの力はある」

 

<当然>

 

「だが……」

 

 チャキッ、と鍔鳴りの音がする。

 

「感服したが、お前一人に長々と時間を費やせない」

 

 侵入者は、両手で剣を把持して大上段に振りかぶった。

 

「次で終わりにしよう」

 

 フェイントも何も無く次の攻撃が振り下ろしの一刀だと教えるような構えだ。これはつまり、読まれても見切られても関係無いという事。次の一撃は、プロフェッサーの体捌きや見切りを超える速さで繰り出すという意思表示・挑戦であり宣戦布告だ。最大のパワーと最速のスピードと最高の技で、防御も回避も不能の一撃を叩き込むつもりだ。

 

 侵入者は、捨て身の一撃を繰り出してくる。

 

<……>

 

 プロフェッサーもそれを悟って、斜に構えて剣を持つ右手を後ろ、左手を前方に、弓を引き絞るような独特の構えを見せた。

 

 先制攻撃かカウンターか。いずれにせよ、プロフェッサーも次の一撃で決着を付ける所存である事は疑いようが無い。

 

 生か死か、あるいは相打ちか。

 

 恐らくは後数秒の間に、その結果が出る。

 

「……っ」

 

 アンジェは、頬を冷たい汗が一筋伝っているのを自覚した。

 

 僅かに、侵入者の重心が前に傾く。

 

 動く!!

 

 誰もがそう思った、その瞬間だった。

 

「待たれい!!」

 

 車両の走行音と風の音に負けないぐらいに張り上げられた大声が響いた。

 

 堀川公の従者の一人だった。名前は、大島と言ったか。窓から体を乗り出して、大声で叫んでいる。侵入者もプロフェッサーも、アンジェもドロシーも、全員の視線が彼に集中した。

 

「その者は暗殺者にあらず!! しばし待たれよ!!」

 

 四人の動きが止まった。大島は、侵入者に向けて更に大声を張り上げた。

 

「ちせ殿!! 何故ここに!!」

 

「知れた事、藤堂十兵衛を討ち果たす為じゃ!!」

 

 侵入者は、そう言って顔半分を覆っていた布を外す。

 

 露わになったのは、アンジェやプリンセスとそう変わらないだろう、しかし東洋人の特徴だろうかなり幼く見える少女の顔だった。

 

「私はその為に、はるばるこの異国の地まで来た」

 

<……>

 

「……」

 

 アンジェとプロフェッサーは、視線を交わし合う。

 

 完全に味方だと確定した訳では無いが……しかし今、侵入者……ちせは剣を下ろしている。

 

 ひとまずは、危険は去ったと見て良いだろう。プロフェッサーは光刃を消した。

 

 コ、ホ……コ、ホ……

 

<……久し振りに、良い運動になった>

 

「あなた、息切れしてるわよ」

 



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第07話 暗殺者を討て

 

「御免、少しよろしいか?」

 

<む……>

 

 車両の最後尾にて、簡単な点検も兼ねて電光剣を軽く素振りしていたプロフェッサーに侵入者ことちせが声を掛けてきた。プロフェッサーは剣の光刃を収納するとちせへと向き直る。

 

 あの後、堀川公の取りなしもあってちせはロンドンまでの同道を許され、アンジェとバディを組んで公の警護に当たるよう命じられていた。

 

 ちせの視線は、プロフェッサーの腰に吊り下げられた剣の柄に向いている。

 

「私は修練の一環として古今東西の刀剣を見てきたが……貴公が使うような剣はついぞ見た事が無い。実に興味深く……後学の為にも少し、拝見させてはくれぬか?」

 

<……>

 

 プロフェッサーの視線が、ちせの肩越しにすぐ後ろに居るアンジェへと動いた。アンジェは言葉を交わさずとも意図を察して、頷きを一つ。これは怪しい動きを見せたらすぐ銃を弾くという意味だ。

 

<分かった。丁寧に扱うように>

 

 プロフェッサーは今は柄だけの剣を、ちせへと差し出す。

 

 この行動を受けてちせは「ふむ」と鼻を鳴らした。

 

 先程の屋根の上での立ち合いで、プロフェッサーは非常に高い実力を持ってはいるものの戦闘のプロではないように感じていたがこれで確信した。プロは、自分の得物を今日会ったばかりの相手に預けるような真似は決してしない。

 

 この考察は当たっていた。実際にプロフェッサーはアンジェやドロシーのように養成所で射撃や諜報など、専門的な訓練を受けた訳ではなくタイプとしては寧ろベアトリスに近い。ベアトリスがどんな人間の声でも模倣出来る人工声帯と機械の知識という一芸を武器としているように、プロフェッサーはその頭脳や研究成果で以てアンジェ達と肩を並べているのだ。

 

 しかし逆に言うと、プロフェッサーは基礎鍛錬と後は天性の才覚だけで、長年剣術の鍛練を積んできた自分と五分に渡り合ったという事になる。

 

「惜しいな」

 

<……?>

 

 ちせの呟きに、プロフェッサーが首を傾げた。

 

 これはちせの賞賛である。

 

 プロフェッサーは自分の剣を全て避けてみせたのは、クセや攻撃パターンを完全に見切る事が出来る目を持っているが故だと語っていた。しかしいくら相手の攻撃が見えていても、体がその反応に追従出来るかどうかは別の問題だ。

 

 体を思い通りに動かすというのは、一般的に想像されているよりもずっと難しい。故にスポーツでも武術でも、一流の域に達するまでには長い反復練習を必要とする。無論、ちせとてそれは例外ではない。それを格闘の訓練など受けていないプロフェッサーは、純粋な才能だけでやってのけたのだ。

 

「もし貴殿が私の国に生まれていて、そして武の道を志していたのなら、確実に武術の歴史を塗り替えていただろう。素晴らしい天稟だ」

 

<それは褒め言葉なのか?>

 

「無論じゃ」

 

<では、喜んで……おっと!!>

 

 プロフェッサーは慌てて手を伸ばし、ちせが持っていた柄の先端の向きを、自分の体からずらした。

 

<危ない。先っぽを私に向けないで>

 

 注意するとちせの脇に回り込んで、柄の中程を指差した。

 

<このボタンを押すと刃がオンオフになる>

 

「うむ……む?」

 

 ちせが示された赤いボタンを親指で押そうとするが、上手く行かなかった。

 

<誤作動を防ぐ為に、スイッチはかなり固くしてある。強く押し込んで>

 

「分かった……おっと!!」

 

 独特の唸るような駆動音が鳴って、紅い光刃が起動した。

 

 アンジェは、二歩ばかりちせから距離を取った。

 

「うーむ……」

 

 ちせは光の剣を何度か試し振りしてみるが、どうにも戸惑っているようだった。

 

<普通の刀剣とは感覚が違うだろう?>

 

「うむ……柄の重さしか無いのに、振ると刀身の反動が伝わってくる……不思議だ」

 

<ジャイロスコープ効果。こうした独特のクセがあるから、この剣は専門に十分な訓練を積まないと、使いこなせない>

 

「そのようだ。私には使えそうにないな。かたじけない、勉強になった。返すぞ」

 

 刀と電光剣は用途こそ似てはいるがその実全く違う武器だ。特に刀を自らの手足と変わらぬ域にまで操れるよう修練を積んでいるちせにとって、電光剣の感覚を体に覚え込ませる事は無益を通り越して有害だ。

 

 刀身を消して、再び柄だけになった剣を差し出すちせ。プロフェッサーはそれをベルトに付け直した。

 

「黒蜥蜴星とやらでは、皆がこの武器を使っているのか?」

 

「いいえ、最近の黒蜥蜴星では銃が主流になっていて、この剣は滅多に見られなくなっているわ」

 

<……急造にしては、良いコンビのようね>

 

 アンジェとちせのやり取りを見たプロフェッサーはそうコメントすると、車内へと戻っていく。

 

 護衛が乗っているこの車両には銃で武装した王国軍の兵士が50人から詰め掛けている。生半可な襲撃ではプリンセスや堀川公に危害を加える事は出来ないだろう。

 

 しかしちせは言っていた。藤堂十兵衛は生半可ではないと。

 

 ロンドンまでの停車駅は、30分程前に停まったメイドストン駅一つだけ。故に襲撃があるのならここだと思われていたが……しかし結局、そこで襲撃は行われなかった。

 

 しかしちせはこうも言っていた。

 

 十兵衛は必ず来ると。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 油断無く周囲を見渡しながら、車内を練り歩くプロフェッサー。

 

 と、その時だった。

 

 パン!!

 

 乾いた音が聞こえてくる。

 

 銃声。前方から。

 

<!!>

 

 プロフェッサーは駆け出すと、車両前部の入り口を開けて連結部に出る。

 

 そこでは銃を構えたドロシーと、肩から血を流してうずくまっている男がいた。

 

「プロフェッサーか」

 

<敵か?>

 

 この光景を見て、何が起こったかを推測するのは難しくない。この男が藤堂十兵衛かあるいはその手先の者で、車両に何かしようとしていた所をドロシーが取り押さえたのだろう。

 

「くそっ!!」

 

 プロフェッサーが現れて僅かにドロシーの集中が乱れた一瞬、それを狙って王国軍兵士の制服を着た男は、ズボンの裾から伸びていた紐を引いて足首に付けられていたギミックを作動させた。

 

 

 

 

 

 

 

 ズガン!!

 

 爆音。

 

 車両が揺れる。

 

 爆発で連結部が破壊され、護衛が乗っている後部車両とプリンセスや堀川公が乗っている前部車両が切り離されて、車間距離がどんどん開いていく。

 

 しかも時を同じくして、防犯目的の為に運行が中止されている筈の下り車線を逆走して黒塗りの機関車が並走してきた。

 

 敵だ。間違いない。

 

「何があったの?」

 

「敵襲か!?」

 

 アンジェとちせが、爆発が起きた連結部に駆け込んできた。

 

<……見ての通り>

 

「どうやら藤堂十兵衛は、最初からここで襲撃を掛ける計画だったらしいな」

 

 爆発に最も近い位置にいたプロフェッサーとドロシーだったが、二人とも傷一つ負っていなかった。着衣に焦げ目すら付いてはいない。

 

 プロフェッサーが右手をかざしていて、空間に時々ばちっと火花が走っている。

 

 良く見ると、プロフェッサーの周囲の空間には細かな金属片がいくつも重力に逆らって浮遊しているのが見えた。

 

「助かったよ、プロフェッサー。この壁も、電気の力なのかい?」

 

<その通り、これは電磁バリア。爆圧や熱はローレンツ力でシャットアウトし、飛び散る破片は磁場で止めた>

 

 頷いたプロフェッサーがかざしていた右手を下ろすと、破片を止めていた磁場が切られたのだろう。その動きに連動するようにして金属片はぱらぱらと落ちた。

 

「プリンセスは?」

 

「御料車だ」

 

<……!!>

 

 プロフェッサーが体を震わせる。これは動揺の所作だった。

 

 先頭車両は今も走り続けているから、こうしている間にもプリンセスと自分達との距離はどんどんと離れている。

 

「行け、アンジェ!! Cボールなら、まだ追いつける!!」

 

 ロンドンまでのコースは、ここからは丘陵地帯の高低差の関係でS字を描いて走行するようになっている。故に重量をゼロにして、S字の始点から終点へドルマークの縦線のように直線で移動出来るCボールなら追いつく事も可能だった。

 

「では……私も連れて行け。あそこには、十兵衛が居る。ヤツと戦えるのは、私だけだ……頼む」

 

「……戦力は、多い方が良い」

 

 土下座して懇願するちせ。これを受けて、アンジェも了承した。今何より惜しまれるのは時間。長々と問答している暇は無かった。

 

<よし……では、アンジェとちせは上から。私とドロシーは、下から攻めよう。同時攻撃だ>

 

「……それは構わないが……どうやって追い付く? 確かにプロフェッサー、あんたもケイバーライトを使った重力制御は出来るだろうが……」

 

 と、ドロシー。彼女の言葉通り、プロフェッサーも義手に仕込まれている高濃度ケイバーライトによって無重力を発生させる事は出来るが、しかし彼女が専門なのはあくまでも電磁力の扱い。Cボールを使った無重力機動に於いてはアンジェには及ばない。通常時ならまだしもこのような状況では、制御を誤って飛び移り損ねるのがオチだ。

 

<私達は線路に沿って走って行く。いや、正確には走らないが……>

 

「……? 大丈夫なの?」

 

 プロフェッサーの言葉の意味を図りかねて、少し不安そうにアンジェが尋ねてくる。プロフェッサーは<勿論>と頷いて返した。

 

<……それに>

 

「?」

 

<……私はプリンセスに賭けている。研究成果、頭脳……いや……私という存在そのものをチップにしての一点買い……プリンセスが死……いや、何かあった時には……私もお終い。だから、行く>

 

 そう言ってプロフェッサーはおもむろに頭に手をやると、マスクに手を掛けた。

 

 プシュッと空気の抜ける音を立てて、二重構造になっているヘルメットとマスクが外れ、青白い顔と色素の抜けかけている髪、プロフェッサーの不健康な美貌が露わになった。

 

「……アンジェ、あなたは今ひとつ私を信じられないようだけど……そういう事なら少しは信じられるんじゃないかしら? 私があなた達に協力するのは、プリンセスを守る為で……ひいては自分の為。一蓮托生ほど、この世界で比較的信用出来るものもそうは無いと思うけど……? せめて今この時だけは、チームとして……私を信じてもらえないかしら?」

 

「……」

 

 キュイッと義眼が動いて、自分にピントを合わせている音がアンジェに聞こえた。

 

「向こうで会いましょう」

 

 アンジェはそれだけ言い残すと、先頭車両に飛び移るべく屋根に上っていく。ちせもそれに続いた。

 

 残されたのはプロフェッサーとドロシーだ。プロフェッサーは、外していたマスクとヘルメットを急いで付け直した。だが、付け終わった時、

 

<グ……ゴホッ、ゴホッ……!!>

 

 咳き込むような音がマスクの内側から聞こえてきて、掻き毟るように胸を押さえてうずくまった。

 

「だ、大丈夫か?」

 

 慌てたドロシーが、プロフェッサーの背中をさする。

 

<あぁ、あぁ……大丈夫……少し、肺に煙が入っただけだから……>

 

 よろよろと立ち上がるプロフェッサー。ドロシーは二重の意味で不安そうな視線を送っている。

 

<大丈夫だ。では、ドロシー。私の体に掴まって>

 

「こうか?」

 

 おんぶするように、ドロシーがプロフェッサーの両肩に手を置く。

 

<結構……>

 

 プロフェッサーはそう言うと、右手をかざす。

 

 エレクトロギミックが施された義手、その指先から電光が走って線路に敷かれたレールに落ちた。

 

 鼻を突くような匂いがして、レールに稲光のような火花が走って帯電しているのが見えた。

 

<では、行こう>

 

 プロフェッサーはそう言うと、ふわりと線路への一歩を階段を降りるように踏み出した。

 

 ドロシーは当然、すぐに線路に着地する事になるだろうと考える。

 

 しかし違っていた。

 

 プロフェッサーとドロシーの体は、線路の上10センチくらいの空間に、浮遊していたのだ。

 

「これは……ケイバーライトの重力制御か?」

 

 プロフェッサーは首を振った。

 

<いや、根本的に違う。これは磁気浮上>

 

「磁気浮上……?」

 

<同じ極の磁石を近づけると、反発するのは知っているでしょう? あれと同じ。さっきの電気で、私は一時的にレールを磁石に変えた。その上で私達の周囲にもレールと同極の磁場を発生させて、その反発で浮かんでいる>

 

「……何と……」

 

<そしてもう一つ……違う極の磁石は……引き合う>

 

 プロフェッサーは再び、右手から電撃を発射してレールへと落とす。

 

 するとそれまでは空中に浮いていた二人の体が、前方へと滑るようにして動き始めた。

 

 しかもその加速はドライバーで荒っぽい運転も日常茶飯事なドロシーをして驚く程に速い。二人はあっという間に風圧で肌が痛くなる程の速度にまで到達した。

 

<……私達の前方の磁力を違う極に。足下の磁力を同じ極に。これによって、私達はこのレールの上を滑空している。これも天才たる私の発明の一つ。どうだ素晴らしいだろう、電気の力は>

 

「いや……凄いな。あんたには勝てないよ」

 

 ドロシーは、付けていたカチューシャを外すと銃を取り出し、装弾数を確認する。

 

 上体を斜め45度に前傾させたままで足も動かさず電磁誘導で浮遊移動するプロフェッサーの速度は速く、ものの数分で先頭車両に追い付いた。

 

「な、何だあれは!?」

 

「人間か?」

 

「バカな、速すぎるぞ!!」

 

「それよりも上の敵だ!!」

 

 追い付いた先頭車両では藤堂十兵衛の手のものだろう和装の一団が二人の姿を見付けて、攻撃するよりも動揺している。まぁこれは当然の反応と言える。走る列車に生身で追随してくる人間など想像の埒外の存在。衝撃を受けて当然だ。

 

 しかもちょうど良いタイミングで、アンジェとちせも屋根に飛び移って攻勢を仕掛けていたのだろう。そちらに注意が分散していたのも幸いだった。

 

 パン!! パン!! パン!!

 

「ぎゃっ!!」

 

「ぐわっ!!」

 

「うわっ!!」

 

 プロフェッサーの背中でドロシーが発砲する。彼女の射撃の腕は超一流、それに磁気浮上による走行は振動が殆ど無いのも手伝って全ての銃弾が、狙いを過たず襲撃者達の急所に命中した。

 

 追い付いたプロフェッサーとドロシーは、爆発によって開いた風穴から先頭車両へと乗り込んだ。

 

「く、くそっ……!! お前達一体どうやって……!!」

 

 車両内にはまだ何人かの襲撃者が居て、彼等は二人の姿を認めるとそれぞれ腰の刀を抜刀したり拳銃をドロウする。

 

 しかし。

 

<ふん!!>

 

 プロフェッサーが右手をかざして電磁力のツタを伸ばす。

 

 見えない力の先端が襲撃者達が持つ刀や銃に接続されると、プロフェッサーはそれを自分の手元に引き戻す。

 

 すると金属製である刀や銃は全て襲撃者の手からもぎ取られて、空中を滑ってプロフェッサーの手に収まった。

 

<……こいつらは、シロオビだな>

 

 ちせならば、プロフェッサーが磁場を発生させる意図を感じ取って発動を潰してきただろう。鍛錬が足りないようだ。

 

 プロフェッサーが、光刃を起動する。室内が照り返しによって、刃と同じ紅い色に染め上げられた。

 

「く、くそっ……!!」

 

 武器を取り上げられた襲撃者は破れかぶれとばかり飛びかかってくるが、プロフェッサーは一刀の下に斬り捨ててしまった。

 

 すぐ後ろにいた二人がひるまず突進しようとしたが、後ろから飛んできた銃弾によって倒された。

 

<ありがとうドロシー>

 

「いいって事さ」

 

 まだ数名の襲撃者が残っていたが、3名が簡単に倒された事もあって反応が鈍い。

 

 プロフェッサーは再び、右手から磁力線を放つ。

 

 すると、一番彼女に近い位置に居た男の体が宙に浮いて天井に叩き付けられた。

 

「う、うわっ!!」

 

「な、何だこいつは!?」

 

「妖術か!?」

 

 無論、妖術などではない。

 

 堀川公の護衛は、刀を装備している。襲撃者達はそれと対決する事を想定して鎖帷子を着込んでいたのだが、金属を自由にコントロール出来るプロフェッサー相手ではそれが仇になった。プロフェッサーは電磁力を鎖帷子に作用させて、男の体を持ち上げたのだ。

 

 そのまま前進しつつ、腕を回して光の剣を振るうと天井に貼付けられている男の腰を焼き切った。

 

 そうして電磁力を切ると、上半身と下半身が泣き別れになった男の死体が、しかし傷口が電熱によって焼却されているので出血などはまるでせずに床に転がった。

 

 ドロシーが援護射撃の構えを崩さぬままで、死体の傷口に目を落とす。

 

 見事なまでにバッサリ切断されているのに、一滴の血も流れていない死体。これと同じ手口の殺しを、彼女は最近レポートで見た事があった。

 

『……モーガン委員の死因も、心臓付近だけを高熱で焼き切られたような風穴を開けられた事だったな……その時も、救急車の中には一滴の血も飛び散ってはいなかった……』

 

 コントロールの分析でも、刃物でも爆発物でもない全く別の武器によってなされた犯行だということだった。

 

『刃物でも、爆発物でもない武器……!!』

 

 ドロシーの視線が、プロフェッサーの背中と……彼女が手にする紅光の剣へと動いた。

 

 キキキーーーッ!! ガガガーーーッ!!

 

 甲高い金属音が鳴り響いて、震動が襲ってくる。

 

 一拍遅れて、慣性によってプロフェッサーとドロシーは体が前方に投げ出されそうになったが、シートに掴まって難を逃れた。

 

「これは……」

 

<列車が止まったのよ……!!>

 

 先頭車両、それも最先頭の機関部で何かがあったのだ。

 

 そしてこの先の車両には、プリンセスが居る。

 

<……!!>

 

 プロフェッサーはもう剣を交えるのも面倒とばかり、車内に残っている二人の襲撃者に手をかざす。

 

<そこを、退け!!>

 

 義手の指先から青白い電光が迸って、二人の体に襲いかかった。

 

「ぐわっ!!」

 

「ぎゃああっ!!」

 

 全身に高圧電流を投射された二人は体を引き攣らせて、プロフェッサーが電流を止めるとぴんと手足を伸び切らせた姿勢のままで失禁しつつ床に倒れた。

 

 プロフェッサーは侵入者達にはもう目もくれずに車内を横切ると、御料車へと通じるドアの前でさっと手を振る。電磁力が作用して、金属製のドアはまるで「開けゴマ」と唱えられた千夜一夜物語の扉のように手も触れずにスライドして開いた。

 

 そのまま、歩みを止めずに御料車へと踏み込むプロフェッサー。

 

<うっ!!>

 

 御料車の中では、床にも壁にも天井にもあちこち刀傷が走っていて、高価であろう家具も悉くバラバラに解体されていた。王族が乗る事を想定して調整された豪奢さなど見る影も無い。

 

 そんな散々な有様の室内の、ちょうど中程では……

 

 男女二人が、至近距離で立ち尽くしたまま動きを止めていた。

 

 自分に背中を向けている一方には、プロフェッサーは見覚えがあった。

 

「強くなったな……ちせ……」

 

 男の方……藤堂十兵衛の手が、ちせの頭を撫でて……そして彼の体から全ての力が失せてずるりと倒れた。

 

 十兵衛の胸は紅く染まっていた。そしてちせが手にした刀の刀身には、血が伝っている。恐らくは紙一重のタイミングであったのだろうが彼女の刃は、藤堂十兵衛に致命傷を与えていたのだ。

 

<……終わっているようね>

 

 危険が排除されている事を確認して、プロフェッサーは刃を消した。

 

「ちせ、貴公は……」

 

 声に振り返ると、壁際にはぐったりとして壁に背中を預けているベアトリスと、堀川公がへたり込むように座っていた。

 

 刀を納めたちせは堀川公のすぐ前までやって来ると、跪いて忠を示す姿勢を取った。

 

「ご安心を、堀川公……逆賊・藤堂十兵衛は討ち果たしました」

 

<……>

 

 プロフェッサーは無言で彼女に目をやっていたが……不意に背後に気配を感じて振り返る。

 

 そこにはアンジェが立っていた。

 

<アンジェ、プリンセスは!?>

 

 掴みかかるような勢いで、プロフェッサーが詰め寄る。目下の所彼女には、それが一番の心配事だった。

 

「大丈夫、無事よ」

 

<おお……>

 

 その一言が聞けただけで、随分気分が良くなった。

 

 コー、ホー…………コー、ホー…………

 

 心なしか、呼吸音もいつもより穏やかでゆっくりとしたペースである気がする。

 

<!>

 

 アンジェが、そっと差し出している手にプロフェッサーは気付いた。

 

「ありがとう。あなたやドロシーが来てくれたお陰で、敵の注意も分散して制圧もスムーズに運んだわ」

 

<……>

 

「だから……その……」

 

<……>

 

「……これからもよろしく。プロフェッサー」

 

<こちらこそ、アンジェ>

 

 プロフェッサーの義手が、アンジェの手を握り返した。

 



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第08話 プロフェッサーの研究

 ガチャ、ガチャ……キュッ……キュッ……ギッ、ギッ……

 

 クイーンズ・メイフェア校のガレージで、金属音が断続的に聞こえてくる。

 

 そこでは、自動車の整備が行われていた。

 

 深夜にこんな作業を行う者は限られている。それはよほど納期が差し迫っているか、さもなければ人目に触れては困る事情を持つ者だ。

 

 後者は……例えば、スパイなど。

 

「どうだ? 調子は」

 

 ガレージの中に人影は一つだけ。愛車の傍らで椅子に腰掛けたドロシーだった。彼女は、誰かに語り掛けるようにそう言った。

 

 すると彼女の声に応じて車と床の隙間からぬるりと、人が這い出してきた。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 聞こえてくるのはトレードマークと言える呼吸音。

 

 プロフェッサーだった。彼女は、今は汚れても良いよう作業服姿でいる。

 

<……部品があちこち歪んでいるし、足回りもイカレている。随分、無茶な運転をしたわね?>

 

 天才を自負するプロフェッサーの指摘を受け、ドロシーは「ほう」という表情になった。

 

「分かるんだ、見ただけで」

 

<無論。私は天才だから>

 

「あぁ……実は前の任務で、コイツで階段を下ってね……」

 

<!! 階段を……道理で>

 

 得心が行ったと、プロフェッサーは頷く。

 

<どんな荒れ地をぶっ飛ばしてもこうはならないと思っていたけど……成る程>

 

「直りそうか?」

 

<そういう質問は、失敗するかも知れない相手にだけするものよ>

 

 自信、いや確信を漲らせた声で返答するプロフェッサーは、作業を行う手を止めずに会話を続けていく。

 

<大丈夫。完璧に……いや、完璧以上に直してみせるわ。壊れる前より素晴らしい物にしてね。あぁ、そこのレンチを取って>

 

「……頼もしいな」

 

 ドロシーは言われた通りの工具を取ると、車と床の隙間に再び滑り込んで手だけを伸ばしているプロフェッサーへと渡す。工具を受け取ったプロフェッサーは手を引っ込めると、車体の隙間からは再び金属音が聞こえ始めた。

 

「……」

 

 ドロシーはしばらくは何も言わずにその音色に耳を傾けていたが……

 

 少しだけ躊躇ったように間を置いた後で、話し始めた。

 

「なぁ、プロフェッサー」

 

<……何?>

 

 プロフェッサーは今度は姿を現さずに、床と車の隙間から声だけで応答する。

 

「このチェンジリング作戦が成功したら、共和国に亡命する気はないか?」

 

<……>

 

 プロフェッサーからの返事は無い。ドロシーは、構わずに話を続けていく。

 

「あんたなら予想しているとは思うが……今までの任務の中で見せたあんたの研究成果は全て私達の上役……つまりコントロールに報告してある。王国にも共和国にも無い独自の発想で、しかも現在実用化されている両国のあらゆる技術を凌駕する『電気』の力……共和国は、高く評価している。もし、共和国に来て研究を続けるなら、最高の待遇で迎える事を約束すると」

 

<……その質問についてなら、答えは一つ>

 

 姿は現さずに、声だけが即答で返ってきた。

 

<私のボスはプリンセスだ。女王でもなければ王国でも、勿論共和国でもない>

 

「……そう、か……」

 

 ドロシーは、どこか残念そうに呟くと椅子から立ち上がって……足音を殺して愛車に近付いていくと、車体を持ち上げているジャッキへと歩み寄った。

 

 このジャッキが外れたら、車体が落下してプロフェッサーの体は押し潰される。いくら金属をコントロール出来るプロフェッサーといえども、磁場を使って車体を持ち上げる暇も無く、圧死するだろう。

 

『懐柔出来ないのなら殺せ』

 

 それがコントロールからの指令だった。

 

 ドロシーはスパイとして、任務を遂行しなければならない。

 

 短い間とは言え、共に危ない橋を渡って命を助けられた事もあるプロフェッサーを殺すような真似はしたくないが……

 

 ジャッキを蹴飛ばそうとドロシーの足にぐっと力が入って……

 

<ただし>

 

 プロフェッサーの声を受けて、足の動きが止まった。

 

<プリンセスがこの国の実権を握られ、両国の友好と発展の為に私が共和国へと出向するという形なら……やぶさかではない>

 

「!! ……そうか」

 

 返事をするドロシーの声には残念な気持ちが半分、安心が半分といった響きがあった。しかし心なしか弾んでもいるようだった。

 

「じゃあ上には、プリンセスをこちら側に取り込めばあんたも一緒に付いてくると報告するよ」

 

 そう言い残して、ドロシーはガレージから退出していった。

 

 足音が遠ざかって、完全に彼女がここから離れたのを確認するとプロフェッサーは再びぞるっと隙間から這い出てきた。

 

<日本も共和国も、考える事は同じか……>

 

 くぐもった声で、ぼそりと呟く。

 

 実は同じような申し出は、この日の昼にちせからもあった。

 

 

 

『本日は堀川公の名代として参った。単刀直入に言うプロフェッサー、日本に来る気は無いか? 先の暗殺者から公を守った際に見せた技術を、我々としては高く評価しており……もし、日本に来るのなら研究費用や設備・人員など全て貴公の望みのままを用意すると』

 

 

 プロフェッサーの返事も同じだった。自分はあくまでプリンセスにしか仕えないが、もしボスであるプリンセスが自分を日本に出向させる意向であれば、それに従うと。そしてちせの対応もほぼドロシーと同じ。ひとまずは堀川公にそう報告するとの事だった。

 

<……天才である私には当然の評価だが……しかし、思った以上に上手く行った……>

 

 現状、プリンセスが女王となる為の武器として使えるものは一つ。それは自分だと、プロフェッサーは考えている。正確には自分の研究成果。

 

 『電気』は現在の世界では類を見ないプロフェッサーのオリジナル、唯一無二の技術体系であるが故に、プロフェッサーを殺して研究成果を奪取するという方法を採る事は躊躇われる。仮にそれをやったとしたら、現在以上にこの技術を発展させる事が難しくなるからだ。

 

 可能であれば、自陣営にプロフェッサーを取り込んでそこで研究を続けてもらうのが望ましい。

 

 そしてそれが出来ないのなら……『電気』が他の勢力の手に渡るぐらいならと共和国でも日本でも自分を消しに来る可能性も勿論プロフェッサーは想定している……その対策として、自分の研究が失ってしまうにはあまりにも魅力的であると示すのが一つ。

 

 もう一つには、プリンセスを籠絡・懐柔すれば自分の研究が手に入ると示す事だった。

 

<これで共和国はそう簡単にプリンセスを殺せなくなり……日本としても、共和国側、ひいてはプリンセスに肩入れする理由が強くなる……>

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、プロフェッサーの地下室。

 

 色とりどりの光が闇を彩るその空間で、部屋の中央の寝台ではベアトリスが横になっている。

 

 その傍らで、執刀を行う主治医のように立つのはプロフェッサーだった。その手には、見た事も無いような形状の器具が握られている。

 

 ガチャ、ガチャ……チキ、チキ……

 

 ドロシーの車を整備する時よりはよほど精密な機械音が、部屋に響いていく。

 

 同じように、空気を吸い込むような音も部屋に木霊していた。これは室内に据え付けられた除塵装置の駆動音だ。プロフェッサーは、今はマスクを外していて美しいがしかし不健康な素顔を晒していた。

 

 プロフェッサーは今、手にした器具でベアトリスの喉を弄っていた。

 

 僅かな震えも無く、機械以上に正確に彼女の手は動いていき……やがて全ての行程を終えて、プロフェッサーは器具を置くとベアトの喉に付けられた蓋を閉じた。

 

「終わったわ。もう起きて良いわよ」

 

「ありがとうございます、プロフェッサー」

 

 起き上がったベアトリスは上体を起こすと、ぺこりと頭を下げる。

 

「喉に違和感は無いかしら?」

 

「あー、あー、あー……うん。大丈夫です」

 

「自分の手で整備を行うのにも限界があるでしょう? あなたの喉は、発声の他にも嚥下や呼吸といった様々な機能を行う事が出来るよう造られた精密機械だから……時々は、フルメンテを行う必要があるのよ」

 

 と、プロフェッサー。

 

 今回の彼女は、ベアトリスの喉に本格的なメンテナンスを行っていた。

 

 今し方プロフェッサーが口にした通り、ベアトリスの機械の喉は生身の喉が行っているのと同じ機能を持つよう造られている非常に精巧な機械仕掛けである。それ故に、機能を維持する為には定期的なメンテナンスが絶対に必要だった。

 

 勿論、ベアトリスは機械の知識を持ち合わせており自分でメンテナンスを行えるが、やはり自分で自分の体を施術するにも限界がある。しかも先日の堀川公暗殺未遂事件に巻き込まれた折、藤堂十兵衛の斬撃を受けて生身であれば首と胴が永久の別れを告げる所だった。

 

 機械化した喉のお陰で命拾いはしたが、その時の衝撃で内部構造に大分ガタが来てしまっていた。

 

 それでもベアトリスは自身のメンテでだましだまし保たせてきたが、先日いよいよ喉に違和感を感じてきたのでプロフェッサーに相談し、彼女は快くフルメンテを引き受けてくれたのだ。

 

「ありがとうございます、プロフェッサー……今まで、こんな事頼める人は居なくて……」

 

「それは当然ね。あなたの喉を機械化した……父親だったかしら、は、私には及ばないけど中々の才能よ。少なくとも凡人には、メンテする事も出来ないでしょうね。天才である私だから、壊れる前より素晴らしい物に出来るのよ」

 

「……」

 

 父親の話は、ベアトリスにとって楽しい話題ではないのだろう。彼女は目を伏せる。プロフェッサーは失言してしまったかと、気まずそうな顔になって何か話題を切り替えようと視線を動かすが……その時だった。部屋のドアがノックされて、アンジェとプリンセスが入ってきた。

 

「あぁ、ようこそ二人とも……」

 

 二人の来客の内、先に口を開いたのはアンジェだった。

 

「プロフェッサー、Cボールの整備は?」

 

「終わっているわよ」

 

 プロフェッサーはそう言って脇の机に置かれていたCボールを手に取ると、アンジェに投げ渡した。パシッと気持ちの良い音を立ててキャッチするアンジェ。

 

「試してみると良い。問題は無い筈よ」

 

「……ん」

 

 アンジェが頷くのと、彼女の体が燐光に包まれて宙に浮くのはほぼ同時だった。

 

 そのまま、重力の方向を切り替えつつ壁から天井、壁、そして床と部屋をぐるり一周する。

 

「どうかしら?」

 

「問題無いわね。全く違和感が無いわ」

 

 ふふんと、プロフェッサーが鼻を鳴らす。

 

「当然ね。天才である私の仕事なのだから。摩耗したり熱疲労したりしている部品を全て交換し、しかも交換した部品は歯車の一つからネジの一本に至るまで、私の目で吟味して精度の高い物を厳選したから……整備前より調子が良くなっている筈よ」

 

「流石ね、プロフェッサー……」

 

 拍手の音がした方に目を向けると、その音の主はプリンセスだった。

 

「それで、プロフェッサー……私に、見せたい物があるとの事だったけど……?」

 

「はい、プリンセス……こちらを、ご覧下さい」

 

 プロフェッサーは机に置かれていた箱を手に取ると蓋を開けて、プリンセスへと差し出してくる。

 

 箱の中は緩衝材としてクローバーがぎっしり詰まっていて、ほぼ中央に二つの球体が埋まっていた。材質は金属のようで、Cボールとビー玉の中間くらいの大きさだ。

 

「これは……プロフェッサー……?」

 

「義眼ですよ。私の、これと同じ」

 

 左手の指で、自分の眼球をつつくプロフェッサー。

 

「私がケイバーライト障害を発症したのが二年前……この義眼は、それから完全に失明するまでの半年間で製造して、それから一年半、改良を加えつつ使ってきました……その間、私の体に変調などは確認されていません。これで、この義眼の安全性は確認されました」

 

「では、これは……!!」

 

 プロフェッサーの言いたい事を察したプリンセスの視線に、義眼の開発者は頷く。

 

「医療用の義眼です。勿論、私の物のような演算や解析機能、ズーム機能や熱源視覚化機能などは取り除いて、生身の目と同じ機能だけを持たせた……量産を前提とした廉価版ではありますが」

 

「じゃあ、これを使えば……ケイバーライト障害で苦しむ沢山の人達を、救う事が出来る……?」

 

 目を輝かせて尋ねてくるベアトリスに、プロフェッサーは深く頷いた。

 

「そう、その通り……!! これはその試作品第一号です。あなたの物です。お納め下さい、プリンセス……」

 

「これが……!!」

 

「素晴らしいわ……プロフェッサー……!!」

 

 アンジェもプリンセスも、知らず目を輝かせていた。

 

 何の飾り気も無い無骨な箱は、今の二人の目には光り輝いているように映っていた。

 

 アルビオン王国が世界中に植民地を保有する今日の隆盛を持つに至ったのは、一にも二にもロンドンの地下から発掘されたケイバーライト、それを用いた重力制御技術によって実現した空中艦隊の威力によるものだが……しかしその繁栄の裏側では、多くのケイバーライト障害に苦しむ人々という弊害も生まれている。

 

 プロフェッサーのこの研究成果は、そんな人達を救えるものだ。

 

 これは単に人道的に素晴らしいというだけでなく、功績によってプリンセスの継承順位を押し上げる為の大変な武器になる。

 

 あらゆる意味で利用価値は無限大と……そう考えた時だった。

 

 ノックの音が響く。

 

 いつの間にか、部屋の入り口にはドロシーが立っていた。彼女は開けっ放しのドアを、コンコンと叩いている。

 

「取り込み中の所悪いが、コントロールから指令が入った」

 

「……仕事?」

 

 アンジェの言葉に、頷くドロシー。

 

「あぁ、共和国への亡命希望者を、私達の手で保護しろとの事だ」

 



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第09話 世界の変革が始まる日 その1

「よし、出発しよう」

 

 メイフェア校のガレージにてドロシー、アンジェ、ちせ、プロフェッサー。今回の任務に参加する4名がスパイ服に着替えて集まっていた。プリンセスとベアトリスは、今回はお留守番だ。6人はチームであるが、二人は今回の任務には不向きであると判断されたのだ。

 

 愛車を前に立って、ドロシーはじっとプロフェッサーを見詰めた。

 

「整備は大丈夫か?」

 

<完璧以上に。我ながら会心の仕上がりよ>

 

 プロフェッサーはそう答えると、キーを投げ渡した。ドロシーは腕だけを軽く振るように動かしてそれをキャッチする。

 

 プロフェッサーはドロシーの隣、助手席へとどっかり腰を下ろした。

 

<いくつか、新しい機能を組み込んである。目的地に着くまでに、走りながら説明する>

 

「……大丈夫なんだろうな?」

 

 少しだけ、ドロシーの視線が疑わしげなものに変わった。

 

 アンジェにCボール、ちせに刀、ベアトリスの声に、プリンセスの立場にプロフェッサーの電気。チームの面々はそれぞれが『得物』を持っている。それは彼女たち一人一人のストロングポイントであり、命を預けるものだ。

 

 ドロシーにとってのそれは車。それに、妙なギミックを組み込まれるのは良い気分ではないだろう。

 

 プロフェッサーは、居心地が悪そうに体を動かした。ガスマスクに覆われていて顔は見えないが、不愉快そうに思っているのが仕草から見て取れる。

 

<私は科学者であると同時に技術屋でもあり、プライドがある。納得の行かない作品を、ユーザーに提供したりはしない>

 

「……分かった。信じよう」

 

 ドロシーは頷くと、ドライバーシートに腰を下ろした。アンジェとちせも、後部座席にそれぞれ乗り込む。

 

 ドロシーは、差し込んだキーを回した。

 

 エンジンがかかる。しかし、この一連の動作だけでもドロシーが今まで乗ったどんな車よりもずっと滑らかだった。名ドライバーであるドロシーは、音を聞けばエンジンの善し悪しが分かる。エンジン音を聞いただけで、プロフェッサーが愛車を今までよりずっと素晴らしい物に仕上げた事を認めざるを得なかった。

 

「じゃ、行くぞ」

 

<待った>

 

 横合いからプロフェッサーの声が掛った。

 

「何だ?」

 

 折角、良い車を思うさま乗り回そうと思っていた所で腰を折られる形になって、ドロシーはあからさまに不機嫌な表情になった。

 

<シートベルトをしっかり締めて>

 

「シートベルト?」

 

 プロフェッサーは頷いて、助手席に付けられたシートベルトを使って体を固定した。

 

「任務では、すぐに車に乗り降り出来る方が良い」

 

 これはアンジェのコメントだった。

 

 ドロシーもちせも、ベルトを締める気配は見えない。

 

<……>

 

 プロフェッサーは肩を竦めた。諦めたように手を振って、ドロシーに「出して良いぞ」と合図する。

 

 ドロシーは今度こそ機嫌を良くして、アクセルを思い切り踏み込んだ。

 

「ウオ!?」

 

 愛車は信じられない程の加速を見せて、ドロシーの体はシートに押し潰されそうになった。アンジェもちせも同じだった。

 

 反射的にブレーキを踏む。するとドロシーの体は前に投げ出されて、フロントガラスにおでこを強打する憂き目に遭った。アンジェとちせは車から放り出されそうになって、必死で車体を掴んで辛うじて体を固定した。シートベルトを締めているプロフェッサーだけが(マスクで見えないが恐らくは)平気な顔をしている。

 

 3人は顔を見合わせて、いそいそとシートベルトを締めた。

 

 その上でドロシーは今度は、恐る恐るアクセルを踏む。

 

 軽く踏んだだけだが、しかしそれでも愛車は今まで経験した事が無いスピードを発揮して景色が流れていく。

 

「プロフェッサー!! あんたエンジンにどんな改造をしたんだ!?」

 

<凡人には分からないレベルで、とだけ答えておく>

 

「聞くんじゃなかった」

 

 ドロシーはそう吐き捨てたが、しかし車を転がし始めて2分も過ぎる頃になると、初めて自転車に乗れた子供のような興奮が不満に取って代わったようだった。

 

「こ、こいつは凄いじゃじゃ馬だな!!」

 

<そうだろうそうだろう>

 

 速度メーターは、あっという間に時速130キロを差した。プロフェッサーは、くぐもった声に悦びの感情が滲んでいる。

 

「煙が出ないな?」

 

「それに、エンジン音も静かね」

 

 後部座席の二人のコメントを受けてプロフェッサーは<良い着眼点ね>と振り返った。

 

<エンジンをこれまでの蒸気機関から、私が開発した水素エンジンに交換している>

 

「水素エンジン?」

 

 聞き慣れないキーワードを、ドロシーが鸚鵡返しする。

 

<……この前、ドロシーに水素貯蔵合金を見せただろう? あれは、このエンジンを開発する為の部品だったのよ>

 

「あぁ」

 

 ドロシーは初任務で、プロフェッサーが見せてくれた研究成果を思い出した。

 

<……簡単に言うと、エンジンタンクには燃料ではなく水を入れる。これは海水でも可。それを電気分解して水素と酸素を抽出し……その水素を内蔵された水素貯蔵合金に蓄積し、燃料に必要な分だけをその都度抽出する。水素は燃料としてそのまま使うには危険すぎるが、これによって爆発のリスクを回避する>

 

「……?」

 

「……?」

 

 ドロシーとちせは、知らない国の言葉かさもなければインチキ宗教の呪文を聞いているように首を傾げる。

 

「水素と酸素の混合気体は、引火しやすいんじゃないの? バックファイアの危険は?」

 

<あぁ、とても良い質問だ。アンジェ>

 

 上機嫌に、プロフェッサーが答えた。

 

<確かに、その点は天才である私をして難問だった。しかし、それも解決済み。気体水素を80気圧に加圧して一気にシリンダー内に送り込む事で、バックファイアを完全に封じ込める事に成功した。流石は私>

 

「なら、安心ね」

 

<だが、水素エンジンの素晴らしさ・完璧さはそれだけではない。この車は、他の車や機関車のように二酸化炭素や排煙を撒き散らさない。水素を燃やして走るこの車が出すのは……>

 

 プロフェッサーはそう言って、シートの下に手を入れるとボトルを取り出した。中には、無色透明な液体が詰められている。

 

<これだ>

 

 ぽいと投げ渡されたボトルをちせが受け取った。

 

 蓋を開けて、油断無く匂いを嗅いだりしてみるが……刺激臭や腐敗臭などはしない。

 

「……」

 

 意を決して、ぺろりと舐めてみる。

 

「水、じゃな……これは」

 

「……それも、信じられないぐらいに綺麗ね」

 

 これにはアンジェも、目を丸くする。

 

<どうかな、ドロシー? 今の気分は?>

 

 と、プロフェッサー。

 

「え?」

 

<最高時速260キロ、最大出力280馬力。燃料は海水を使えるから無限大。そしてこれが一番重要だが……ゼロ・エミッション(排ガスゼロ)。つまり……>

 

 プロフェッサーは空を見上げた。空には煙と雲がかかっていて、星は見えない。ぼんやりと霞んだ月の光がうっすら見えるだけだ。

 

<ロンドンの空をこんな風にしている煙を出さないという事だ>

 

「……この車一台だけでも、共和国は豪邸と一生豪遊して暮らせるだけの金を払ってでも買い取るでしょうね」

 

<まぁ、当然の評価だな>

 

 これはアンジェとプロフェッサーのやり取りである。

 

「……」

 

 一方でちせは、別の所に目が向いているようだった。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 いつもプロフェッサーが発している呼吸音が耳に届いて、彼女ははっとした顔になった。

 

「そうか、お主は……このエンジンは……だからか?」

 

 要領を得ない言葉だったが、プロフェッサーには伝わっているようだった。彼女は深く頷く。

 

<あぁ……私は生まれつき肺が悪いから、マスク無しでは外を歩けない……私だけではなく、今のロンドンでは肺を病む者は多く、そして空にはいつも煙が雲を作っている……だが、このエンジンが実用化されればどうなる? エネルギー問題も環境問題も、一気に解決する>

 

 そう言った後でプロフェッサーは<私は天才だから、私の理論では解析出来ない粒子が撒き散らされて十年も経つと一気に大気中の酸素と結合して無酸素状態を作り出すなんてオチも無いぞ>と付け加えた。

 

<いずれ蒸気機関は駆逐されて、何万いや……何百万という水素自動車が世界中を走り回る日が来る……澄んだ空の下を……分かるか、ドロシー? この車の後を、無数の水素自動車が走るんだ。あなたは今、変革の魁……変わる時代の最先端に立っている。その感想はいかがかな?>

 

「……う、だ」

 

<?>

 

「最高だよ、プロフェッサー!!」

 

<他にも組み込んだ機能は色々あるが……それは追々、解説していこうか>

 

 興奮したドロシーが、アクセルを思い切り踏み締める。

 

 プロフェッサーに改造された車は、風を撒いてロンドンの夜を駆けていった。

 



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第10話 世界の変革が始まる日 その2

<……サスペンションを交換し、ショックアブソーバーも私特製の最高の物に交換してある>

 

「あぁ、だから走っていても殆ど揺れなかったのか」

 

 ロンドンの一角に停車した車。その前部座席で、ドロシーはプロフェッサーからメンテと同時に組み込まれた追加装備の説明を受けていた。

 

<……まだあるぞ>

 

 プロフェッサーは、運転席の一角にあったツマミを引っ張った。するとかぽっと開いて、小物入れぐらいのスペースが顔を出した。

 

「これは?」

 

<コイン入れだ>

 

「?」

 

<だから、コイン入れ>

 

「??」

 

 プロフェッサーが何を言っているのか分からないと言いたげに、首を傾げるドロシー。

 

<車にコイン入れを付けるなんて、まさに天才の発想と言えるだろう>

 

「……う、うーむ……?」

 

 唸り声を上げるドロシー。

 

 まぁ、プロフェッサー自身も<天才の発想は凡人には分からない>などと常々公言しているし、ならば逆に「凡人の発想が天才に分からない」事だってあるだろう。感性が合わない部分だってある筈だと自分に言い聞かせる。そうして運転席をよくよく見ていくと、ハンドルのすぐ脇に赤と青のボタンがあるのに気付いた。こんなのはメンテ前には無かった。と、いう事はプロフェッサーが新しく組み込んだのだ。

 

「このボタンは何だ?」

 

<まずは、青いボタンを押してみるといい>

 

 カチッ。

 

 プロフェッサーの許可を受けて、ドロシーは言われた通り青いボタンを押した。

 

『♪~ゴリラを挟んで揉み洗い~♪』

 

 車から、陽気な歌が流れ始めた。

 

「……」

 

 じっ、とプロフェッサーを見るドロシー。

 

 カチッ。

 

 流れていた歌が止まった。

 

「……」

 

 微妙に、気まずい沈黙が降りる。

 

 カチッ。

 

『♪~ゴリラを挟んで~♪』

 

 再び、音楽が流れ始める。

 

 カチッ。

 

 止まった。

 

「……」

 

 説明を求める視線を向けるドロシー。プロフェッサーは<うむっ>と頷いた。

 

<運転中に音楽が流れるなど、素晴らしいだろう。まさに天才の発想……>

 

「分かった、もういい……じゃあ、この赤いボタンは?」

 

<ストップ、それは押さないように>

 

 ドロシーの指が赤いボタンへと動くが、横合いから凄い速さでプロフェッサーの手が伸びてきてそれを止めた。

 

「プロフェッサー?」

 

<ドロシー、そのボタンには私が良いと言った時以外は、決して触るな。間違った状況下で押してしまうと……その……色々と、面倒な事になる>

 

「……具体的には、これは何のボタンなんだ?」

 

 忠告に従ってドロシーが手を引っ込めたのを見たプロフェッサーはどかっとシートに背中を預けて、そして答えた。

 

<シートベルトをしっかり締めているか確認する為のボタンさ>

 

 こんなやり取りのすぐ後、アンジェとちせが連れてきた青年を車に乗り込ませて、追っ手を振り切った彼女達はメイフェア校への帰路に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 アンジェ達が連れてきた青年の名はエリック。ケイバーライトの研究者で、自身の研究成果と引き替えに共和国への亡命を希望しているとの事だった。

 

<……あなたを壁の向こうに連れて行く日は調整中。それまではこの部屋で隠れていてもらう事になる>

 

「あ、ああ……」

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 一夜明け、学園の一室では。

 

 エリックは、現れた怪人に目を奪われているようだった。

 

<これを>

 

 サラダとスープ、トーストにオムレツ。典型的な朝食のメニューがテーブルに置かれた。

 

「えっと……き、君? が、作ったのか?」

 

 プロフェッサーは頷いた。

 

<味は保証する、冷めない内にどうぞ>

 

「う、うん……」

 

 おっかなびっくりの手付きで運ばれてきた料理を口にするエリック。しかし一口食べると、顔色が変わった。

 

「うん、美味いよ!!」

 

<当然だ、私は天才だからな>

 

 機嫌良さそうに顔を上下に振りながらそう答えると、エリックの対面の席に同じメニューが置かれて、プロフェッサーも着席する。

 

<食べながら聞いて>

 

 自分の眼前に置かれた料理を、プロフェッサーはビールジョッキのような形状をした器具の中に全てぶち込む。そうした上でその器具の蓋を閉めると、下部にあるスイッチを押した。するとゴゴゴーッという音と共に入れた料理が全てかき回されて、一分もすると全て混ざり合ってクリーム状になった。

 

 プロフェッサーは蓋を開けるとストローを取り出して、先端をマスクの吸気口に接続すると……

 

 ズズズ……

 

 ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶になった料理だった物を、吸い始めた。

 

「…………」

 

 見た事も無い食事方法に、エリックは圧倒されているようだった。ナイフとフォークを持つ手が止まって、あんぐりと口を開いている。

 

<見苦しくて失礼。事情があって私はこのマスクを外せないのでね。食事は、こうやって摂る事になる>

 

 プロフェッサーはそう言うと、料理と一緒に運んできた書類を手に取った。

 

<聞いているとは思うが……もう一度確認する。研究所から持ち出した研究成果と引き替えに、共和国はあなたを亡命させると共に約束の金を支払う……よろしいな?>

 

「ああ……その通りだ」

 

<一応、確認する。その研究資料を見せてもらえるか?>

 

「それなら……これだ」

 

 エリックは机の傍らに置かれていたバッグから分厚い紙束を取り出すと、プロフェッサーに渡した。ジョッキ片手のプロフェッサーは食事を続けながら、内容に目を通していく。

 

<……ケイバーライトの製錬技術……共和国には無い、王国独自の研究……成る程、素晴らしい。どうやらあなたは、年は若いがかなり優秀な研究者のようだ。これは、お返しする。あなたの命綱だ、絶対に無くさないように>

 

 プロフェッサーから研究資料を返却されたエリックは、意外そうな顔になった。

 

「分かるのか? この内容が」

 

 自惚れでなく、彼は自分の研究がかなり高度なものであると客観的に評価している。そうであるからこそ共和国はこの研究に目を付けて、自分に亡命を持ち掛けて来たのだろう。それを、眼前のこの……少女? は、理解しているというのだろうか。

 

 エリックの疑問を、プロフェッサーは読み取ったようだった。

 

<当然だ。私は天才だからな>

 

 プロフェッサーは空になったジョッキを置くと、席から立ち上がった。

 

<必要な物があれば言って。可能な範囲で用意する>

 

 そう言って、プロフェッサーは退室しようとするが……すぐに立ち止まった。

 

「人間でも?」

 

<?>

 

「人間でも、良いのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 エリックが求めた人間とは、彼の妹だった。

 

 名前はエイミー。現在、ロンドン市内の病院に入院中らしい。エリックは妹と一緒でなければ亡命しないと言い出した。

 

 どのように対応するかについては、チーム内でも意見が割れた。ベアトリスは二人で亡命させようと言ったし、アンジェは薬で眠らせてエリックだけ連れ出そうと提案した。

 

 結局、プリンセスの鶴の一声でエイミーも一緒に亡命させようという方針に決まったが……しかしその前に、調査を兼ねて一度会っておこうという話になった。

 

 アンジェとベアトリスが、黒いローブに身を包んだプロフェッサーの座った車椅子を押していく。これはいつも通りのカバーだ。プロフェッサーは汚れた空気を吸い込めず直射日光を浴びる事の出来ない闘病中の患者で、アンジェ達はその家族という設定だった。

 

 エイミーが入院しているのは、あまり設備が整っているとは言いがたく入院費用もそれなり……つまり、低所得層が利用する病院だった。

 

 病室に、車椅子を押した二人が入室する。エイミーのベッドは、一番奥の窓際にあった。

 

「……」

 

 ちらりと、アンジェが病室を見渡す。

 

 この部屋にいる入院患者は8名。アンジェの視線の動きが、エイミーの隣のベッドで止まった。

 

 他の入院患者のベッドには着替えやタオルなど日用品が置かれているのに、このベッドの患者だけそうした物が一つも無くて、生活感が無い。空いたベッドに、荷物も持たずに入院の準備もしていない患者だけがぽんと入り込んだようだった。

 

 昨日、エリックを追跡してきた王国側のスパイをアンジェ達は撃退している。アンジェはその事から病院にも敵が居るかも知れないと予想していたが……的中した。家族は人質になる。エリックもしくは彼を亡命させようと手引きしている連中が次に接触するのならエイミーの所であろうと、王国側が網を張っていたのだ。

 

 アンジェは素早くこの病室に来るまでにくすねてきた注射器で睡眠薬を打って、ニセ患者を眠らせた。

 

「……」

 

<……>

 

 ベアトリスとプロフェッサーはこの手際の良さにぽかんとしていたが……気を取り直して、エイミーのベッドに向き直った。

 

「お兄ちゃん? どうして昨日は来なかったの?」

 

 足音を聞きつけたのだろう。毛布を頭から被ったエイミーが、体を起こさずに聞いてくる。

 

「あの、エイミーさん、ですよね?」

 

「……誰?」

 

「エリック・アンダーソンさんからお花のお届けです」

 

「……花?」

 

「あ、はい、綺麗ですよ。ご家族の方ですか?」

 

「あはっ……あははははっ!! 何のつもり?」

 

「えっ?」

 

 ベアトリスの言葉は、唐突にエイミーが上げた笑い声に遮られた。

 

「嘘でしょ!? お兄ちゃんからなんて!!」

 

 エイミーが顔をこちらに向けて……ベアトリスははっと息を呑んだ。

 

<…………>

 

 ぶるっと、プロフェッサーが体を揺すった。

 

 エイミーの両瞳は、翠色の光を帯びていた。ケイバーライトの光。アンジェがCボールを使った時に、全身に纏うのと同じものだ。

 

<ケイバーライト障害……!!>

 

 これは発展を遂げたアルビオン王国が内包する、負の側面である。

 

 ケイバーライト障害は、ロンドン地下に広がるケイバーライトの採掘場や精製場で働く者を中心として発症する視野異常で、軽度のものは視野の歪み程度だが、重篤になると失明に至る。

 

 原因には諸説あるが、ケイバーライトの粉末粒子やガスが体内に取り込まれて視神経に付着する事で発症するという説が現在では一般的である。

 

<…………>

 

 プロフェッサーは、義手の指先でガスマスクのレンズを何度かつついた。彼女自身もケイバーライト障害によって両目を失明しており、現在は自ら開発した義眼によって視力を補っている。またこの右腕は、ケイバーライト採掘場で起きた爆発事故によって失ったものだ。

 

「あんた一体誰!? お兄ちゃんの名前なんか使って最低!! 私にはもう、お兄ちゃんしか居ないのに!!」

 

 エイミーが枕を投げつけてくるが、彼女は視力が無いので全く見当外れの方向に飛んでいった。

 

 毛布がまくれた時、少しだけエイミーの足が見える。

 

「!」

 

<……>

 

 バレエ足だった。アンジェとプロフェッサーの目は、それを見逃していなかった。

 

「帰ってよ!! 帰れ!!」

 

 こうしてエイミーに追い出されるようにして、3人は病院を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

「エイミーさん、ケイバーライトの事故に巻き込まれたんだそうです。手術するには、かなりのお金が必要になるって……」

 

 プロフェッサーの車椅子を押すアンジェの背後を歩きつつ、ベアトリスが話す。

 

「……」

 

<……>

 

 しかし、アンジェもプロフェッサーも一言も発さないのでベアトリスは気まずそうに目を伏せた。何とか話題を変えようと考えて……そして「あ!!」と声を上げた。

 

「そうだ、プロフェッサー!! あの義眼ですよ」

 

 ベアトリスが思い浮かべたのは、先日プロフェッサーがプリンセスに研究成果として提出した義眼だった。これがあればケイバーライト障害に苦しむ多くの人を救えると彼女が力説し、プリンセスが目を輝かせていたあれだ。

 

「あれを使えば、エイミーさんを治せます!! そしたら二人揃って共和国に亡命出来ますよ!!」

 

 素晴らしいアイディアだとベアトリスは笑顔になったが、プロフェッサーは首を縦に振らなかった。

 

<それで、私に何のメリットがある?>

 

「え……」

 

<確かに、私なら治せる。私は天才だし、私の義眼の安全性は、既に私自身の体で実証済み。そして私の研究は、多くのケイバーライト障害で苦しむ人を救う為のもの>

 

 そう言ってプロフェッサーは、ガスマスクのレンズを叩く。

 

「じゃあ……」

 

<だが、私も慈善事業でやっている訳ではない。それなりの費用は必要になる>

 

「具体的には、どれぐらい?」

 

 問いを投げたアンジェに、プロフェッサーは車椅子の上で体を捻り、顔を向けた。

 

<……まだ、医療用義眼は試作段階だから……エリックの給料のおよそ2年分が必要になる。量産体制が確立すれば、もっと安くなるとは思うけど……>

 

「……」

 

<言っておくが、今の時点でも相当に格安だという事は断っておく。普通の病院で手術を受けようとすれば、およそ5倍の金額が必要になる。しかも手術を行える医者が限られているから、数ヶ月からあるいは年単位での順番待ちになる……付け加えると手術では取りあえず見えるようになるだけで視力の低下は避けられないが……私の義眼なら、完全に視力を回復させて、生身の目より良く見えるようにだって出来る……>

 

 淡々と、報告事項でも読み上げているかのような事務的な口調でプロフェッサーが語る。

 

 アンジェは、急にぴたりと立ち止まった。

 

「どうしたんです?」

 

「ちょっと用事が出来た。二人は先に帰っていて」

 

「用事? 黒蜥蜴星に帰るんですか?」

 

 冗談めかして語るベアトリスだが、アンジェはにこりともしなかった。

 

「保険よ。万が一に備えての……」

 

 そう言ったアンジェが、歩き去ってしまう。ベアトリスが彼女の向かう方向にある建物を見やると……

 

「あれは……保険屋さん、でしょうか……」

 

<そう、ね>

 

 ベアトリスが、アンジェの代わりにプロフェッサーの後ろに回って車椅子のグリップを握った。

 

「どうして、あんな所に?」

 

<……優しいな、アンジェは……>

 

 いつも通りのくぐもった声で、プロフェッサーが呟いた。

 

「え?」

 

 聞き返すベアトリスには構わずに、立ち上がるプロフェッサー。

 

<私は、優しくはない>

 

「プロフェッサー?」

 

<すまないがベアトリス、私にも用事が出来た。あなた一人で、先に戻っていて>

 

「え? ちょっと……プロフェッサー……」

 

 呼び止めるベアトリスには構わずに、プロフェッサーもアンジェとは別の方向へと去っていった。

 

 残されたベアトリスは、空になってしまった車椅子を見て困ったように首を傾げたが……やがて諦めたように、学校へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 きらびやかな町並みがロンドンの表の顔だとすれば、裏の顔も当然存在する。

 

 通称幽霊通りと呼ばれる一角も、そんなロンドンの裏の顔の一つだった。

 

 風向きの関係で工場や家庭の排煙が流れてきて太陽を隠し、昼尚暗いこの一帯は治安が悪く、人通りが少なく鬱蒼とした通りでは、夜中で人目が無ければ強盗や刃傷沙汰も日常茶飯事という有様で、警察もその筋の者から賄賂を受け取って彼等の蛮行を黙認し、まともに対応しないという惨状である。

 

 路地裏には浮浪者が溢れていて、柄の悪い連中が幅を利かせているこの場所では、全身を真っ黒いローブで包んだプロフェッサーも、そこまで目立つ存在ではなかった。

 

 この幽霊通りを通った者は、半分が帰ってこないと言われている。理由は簡単、この通りが死体置き場(モルグ)に通じているからだ。この道を通る人間は、半分が死者という訳だ。

 

 プロフェッサーは迷いの無い足取りでモルグに辿り着くと、躊躇いも無くドアを開けて中に入り、地下の死体安置所へと通じる階段を降りていく。

 

 そうして、広い通路に出た時だった。

 

「おい、お前!! ここで何してる?」

 

 背後から、声が掛けられた。酒焼けした、しわがれた声だ。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

<はぁ……>

 

 いつも通りの呼吸音に溜息を混ぜて吐き出すと、プロフェッサーは振り返る。

 

「うおっ?」

 

 初対面の人間のご多分に漏れず、その男もプロフェッサーの姿を見て驚いたようだ。

 

 中年太りをしていて腹が出ている。額は後退していて、顔には無精ヒゲがびっしり生えている。前歯は一本が欠けていた。昨日飲んだ酒が抜けていないのだろう、顔がまだ赤く良く見れば足下がふらついている。

 

 その男の右手には、プロフェッサーの物よりもずっと簡素な作りの義手が付けられていた。

 



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第11話 世界の変革が始まる日 その3

「お、お前は一体……!?」

 

 義手の中年男は、プロフェッサーの異様な風体を目の当たりにして(当たり前の事だが)かなり警戒している。何歩か後ずさって、しかもにへっぴり腰になっていた。いつプロフェッサーが飛びかかってきてもすぐに逃げ出せるような構えだ。

 

<……心配要らない。怪しい者ではない……と、いうのは通じないか>

 

 プロフェッサーはやれやれと首を振った。

 

 真っ黒いローブに全身を包み、顔にはガスマスク。これが不審者でなければ誰が不審者だという出で立ちである。怪し過ぎる。

 

<では、こう言い替えよう。あなたに迷惑は掛けない>

 

 プロフェッサーはそう言うと懐に手を入れて、厚い封筒を取り出した。

 

「おっ」

 

 男の目の色が変わったのを、プロフェッサーの義眼は見逃していなかった。

 

 マスクの内側で、プロフェッサーはにやっと笑った。もっと潔癖な相手だったら面倒だったが、これぐらい俗な相手は御しやすい。

 

 手渡そうとして近付くと、男はまだプロフェッサーに対する警戒を解いていないのだろう。近寄ったのと同じだけ遠ざかった。

 

<……>

 

 ぽいっと、封筒を投げ渡す。

 

 床に落ちた封筒を、男は丸々とした体型からは信じられないくらい素早い動きで拾い上げると、封を開いて中身を確認する。想像した通り、そこには札束がぎっしりと入っていた。

 

「お、おほっ……」

 

 喜色を隠そうともせずに、男は満面の笑みを見せる。

 

<……少し、聞きたい事がある>

 

「い、良いぜ。何でも聞いてくれ」

 

 首肯を一つするプロフェッサー。

 

<最近、このモルグに運び込まれてきた死体で……若い男の物はあるか? 身長170センチ前後、体型は中肉中背……身寄りが無く、引き取り手が現れなさそうであったのなら、ベストだが……>

 

「そ、そんなものを一体何の為に……」

 

<……迷惑は、掛けないと言った>

 

 懐から、プロフェッサーは先程と同じぐらいの厚みを持った封筒を投げ渡した。

 

 男の顔から懐疑心が消えて、歓喜が取って代わった。

 

「そ、それなら……ちょうど昨日、そんな死体が運び込まれてきたが……」

 

<ほう?>

 

 プロフェッサーは穏やかな驚きの声を上げた。

 

 こうも完璧なタイミングで、都合良く事が運ぶとは。

 

 何らかの作為が働いている可能性は考えたが……しかし、様々なケースを考慮したがこの時点で王国や他国の諜報機関が自分をマークする意味は薄いし、仮にそうしていたとしても自分の意図がここまで深く読める訳がない。これは完全に偶然だろう。

 

 つまりは、追い風が吹いているのだ。

 

<いいだろう。では、その死体を夜中の内にこっそりと運び出してくれ>

 

「で、でも……」

 

<これで、やる気になったかな?>

 

 またしても封筒を取り出して、男に見せびらかすプロフェッサー。

 

「よ、よし。分かった!! 任せてくれ!! その代わりと言っちゃなんだが……」

 

<分かっている。無理を言っているのはこちら。報酬は加増する>

 

 プロフェッサーは分厚い封筒をもう一つ取り出して、二つを男に手渡した。今回はもう男の方も、プロフェッサーが自分に危害を加えたりはしないだろうと見切っていたらしい。左手でそれを受け取った。

 

<む……?>

 

「どうした?」

 

 封筒を手渡す際に、プロフェッサーの手が男の左手に触れた。

 

 ごつごつとしていて火傷や傷だらけで、掌の皮は何度も剥がれたのだろう分厚く変形している。

 

<……あなた、良い手をしている。技術屋だな>

 

「……!!」」

 

 プロフェッサーのその言葉を聞いた瞬間、恐らくは昨晩痛飲したのであろう酒がまだ抜けきっていない赤ら顔が、もっと赤くなった。

 

「それを言うんじゃねぇ!!」

 

 逆上して、右手の義手を振り回してくる。

 

 しかしプロフェッサーは無駄の無い動きで簡単に左手の関節を決めると、男の動きを封じてしまった。

 

「痛でででっ!! 痛っ!!」

 

<……落ち着いて>

 

 プロフェッサーは関節を決める力を強めた。

 

「痛い痛い痛い!!」

 

<落ち着いた? 乱暴をしない?>

 

 マスク越しの男とも女ともつかないくぐもった声と抑揚の無い口調で、プロフェッサーが尋ねる。

 

「分かった、分かったよ!! 乱暴はしない!! 誓うよ!!」

 

<……>

 

 プロフェッサーは手を放して、男を解放した。

 

 男は、痛みを振り払うように左腕を振って調子を確かめる。プロフェッサーはそんな様子には頓着せずに、話を切り出した。

 

<……技術屋がこんな所で働いているという事は……>

 

 義眼のピントが、男の右手の義手に合った。

 

<何かの事故で右手を失い……働けなくなったということか……>

 

「ぐっ……」

 

 触れられたくない話題ではあるのだろう。男の顔が歪んだ。

 

<……もし>

 

「え?」

 

<もし、もう一度技術屋として働く機会が与えられるとしたら、どうか?>

 

「そ、それはどういう……」

 

 先程、大金を目の当たりにした時とは違った輝きが男の目に宿った。

 

 右腕を失い、モルグで働いて久しいだろう彼は苔むした岩のようなものだが、しかしまだ脈は残っているらしい。プロフェッサーは男に気付かれないぐらいに小さく頷いた。

 

<……取り敢えず、男の死体をここに運び出して>

 

 指定場所が書かれたメモを、プロフェッサーは男の胸ポケットに差し入れた。

 

<そしてもし、先程の話に興味があるのなら……ここに連絡を>

 

 もう一枚のメモを、再び男のポケットに入れる。そうして、プロフェッサーはもうこの場での用は済んだので立ち去ろうとして……外に通じる階段に足を掛けた所で振り返った。

 

<そう言えば……名乗るのを、忘れていた。私は、プロフェッサー。あなたは?>

 

「あ、あぁ……俺の名は、ダニー・マクビーンだ」

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオン王国の中でも有数の大貴族であるグランベル侯爵家。

 

 その権勢を示すが如き豪邸の一室にて、男女が向かい合っている。

 

 一人は、現在この家の当主であるグランベル侯。

 

 そしてもう一方は、

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 彼の姪に当たるプロフェッサーであった。

 

「シンディ、急に訪ねてくるとは……何かあったのか?」

 

<おじさま、折り入ってお願いがあります>

 

「お願い……? 何かな?」

 

 プロフェッサーは、一枚の紙を差し出した。グランベル侯はそれを受け取って「ふむ」と一息。

 

「エイミー・アンダーソン? これは……?」

 

<現在、市内のとある病院にて入院中の、ケイバーライト障害の患者です。彼女の身柄をおじさまの手で引き受け、この屋敷にかくまっていただきたいのです>

 

「ふぅむ」

 

 グランベル侯は吸っていた葉巻を手に取って、灰皿に置くとじっとプロフェッサーを見据えた。

 

「確かに、人一人の身柄を引き受けるぐらい私にはどうという事もないが……理由を、聞かせてくれるか?」

 

 これは当然の申し出である。プロフェッサーにも異論は無かった。

 

<……この世界に変革をもたらす、その第一歩を踏み締める時が来ました>

 

「!!」

 

 抽象的な言い回しであるが、グランベル侯はその意図を察したのだろう。「それでは」と、姿勢が前のめりになる。プロフェッサーは頷いた。

 

 両目の義眼が、キュイッと独特の音を立てる。

 

<エイミー・アンダーソン……彼女には、新しい世界に一番乗りした栄誉を与えたいと思います。彼女が望もうと、望むまいとね。それはもう、私が決めました>

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも、エリックには最初から不審な点があった。

 

 彼は自らのケイバーライト研究の資料を引き渡す見返りとして、共和国への亡命と多額の報酬を要求しており、アンジェ達のスパイチーム、通称チーム白鳩は壁越えの準備が整うまで彼を保護し身柄を匿うのが任務だった。

 

 しかしいざ匿われて後は壁越えチームの準備が整うのを待つだけという段になって、妹と一緒でなければ亡命しないと言い出したのだ。

 

 共和国からの亡命話は昨日今日切り出されたものではない。

 

 そもそもアンジェがエリックから聞き出した話によると、エイミーが事故に遭ってケイバーライト障害を患う。そして手術費用はエリックの給料のざっと十年分。払える訳がないと途方に暮れていた時、知らない男が訪ねてきて亡命話を持ち掛けて来たとの事だった。

 

 偶然にしてはタイミングが良すぎる。

 

 アンジェは明言こそしなかったが、共和国側の作為があって妹の手術台を捻出する為、エリックに亡命せざるを得ない状況を整えたと考えるのが自然だ。早い話がマッチポンプ。事故ではなくて事件だったのだ。

 

 と、そうした事情はさておきエリックが亡命を決心したきっかけは妹の為だ。

 

 なのに何故、最初から二人で亡命しなかったのか?

 

 どうして後から妹の話を出してきたのか?

 

 答えは、簡単だった。

 

<……>

 

 プロフェッサーの腕の中には、一匹の鳩が抱かれている。

 

 この鳩はエリックの荷物の中に忍ばされていた伝書鳩で、数時間前にエリックが部屋の窓から飛ばしたものだ。伝書鳩ならば当然、その足には手紙を入れる金属筒が付けられていた。中に入っていた紙には、エリックに開示された範囲での王国から共和国への亡命ルートが記されていた。

 

 病院で見たエイミーの足は、バレエ足だった。相当な練習を積まなければ、ああはならない程の。

 

 そしてエリックの荷物の中には、エイミー宛ての王立バレエ団への合格通知があった。

 

 これで線が繋がった。当たり前の事だが、共和国に亡命してしまえば王立バレエ団への合格通知など紙切れと化す。

 

 結論、エリックには最初から妹を亡命させるつもりなど無かったのだ。

 

 彼は共和国側から亡命を持ち掛けられた時点で王国側、つまりノルマンディー公と接触していたのだ。

 

 そしてノルマンディー公から命令が下った。亡命するフリをして、共和国側の亡命ルートを探り出せと。

 

 エリックが妹を治す為のスポンサーに選んだのは共和国ではなく、ノルマンディー公だったのだ。

 

 これを受けて、アンジェ達にはコントロールから既に指令が下っている。

 

 ドロシー、ちせ、ベアトリスはエリックのバックにいた王国側スパイを強襲して現場指揮官であるキンブル公安部長を確保せよと。

 

 そしてアンジェには、エリックを始末せよと。

 

 プリンセスとプロフェッサーは、今回は待機との事だった。

 

<……素晴らしい>

 

 悦びが隠しきれない声を、プロフェッサーが上げた。

 

 これでエリックは研究所にも戻れないし、共和国に亡命する事も出来ない。アルビオンと名前の付く二つの国の何処にも、彼の居場所は無くなったのだ。

 

<こんなあつらえたようなタイミングで、都合の良い手駒が手に入るなんて>

 

 そう呟いて、プロフェッサーは窓から伝書鳩を放してやった。

 

 

 

 

 

 

 

「ここが終点よ」

 

 アンジェとエリックが乗った車は、ロンドン郊外の人気の無い広場に停まった。

 

 ここで自分を始末するつもりだ!!

 

 そう直感したエリックはバッグに忍ばせておいた拳銃をアンジェに向ける。

 

「弾は抜いてあるわ」

 

 ばらばらと、開いたアンジェの掌から拳銃弾がこぼれ落ちた。

 

「……!! は、はは……」

 

 疲れた笑みを浮かべて、全てを諦めたエリックは銃を下ろした。

 

「あなたはスパイに向いてない」

 

「これで僕は研究所にも戻れないし、共和国にも亡命出来ない」

 

「あなたの妹も、一生あのまま」

 

 アンジェは冷たくそう告げると、一枚の書類を取り出した。

 

「黒蜥蜴星では、殺す相手にはサインを貰う事になっているの」

 

 生命保険の書類だった。被保険者の項目は、空欄となっている。

 

 エリックは、すぐにピンと来た。

 

 ここに彼が名前を書き込めば、彼の死亡によって保険金が下りて、その金はエイミーの手術費用に充てる事が出来るだろう。

 

 これは裏切った自分への、アンジェの最後の慈悲なのだろう。

 

 車のボンネットを机代わりにして、粛々と名前を書き込むエリック。

 

 そうして書き終えた所で、後ろに回っていたアンジェへと振り返る。

 

「殺すのか? 僕を」

 

 無意味な問いと、彼自身分かっていた。ここまでの事をやらかしてしまった以上、共和国が自分を生かしておく訳が無い。

 

「いいえ」

 

 パン!!

 

 背を向けていたアンジェが、振り返りざま銃を弾いた。

 

 エリックは、びくっと身を竦ませて目を瞑る。

 

「…………?」

 

 しかし、覚悟していた痛みも熱さも、いつまで経っても襲ってはこなかった。

 

 恐る恐る目を開ける。

 

 すると、奇妙な光景が目に入ってきた。

 

 アンジェの銃から放たれたであろう弾丸は、目に見えない力によって縫い付けられたように、彼女とエリックの中程の空間に静止していたのだ。

 

「……プロフェッサー、何故邪魔を?」

 

 アンジェがわだかまった夜闇に声を掛けた。

 

 するとその闇の中に、紅い光点が二つ浮かんだ。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 ややあって闇の中から呼吸音が聞こえてきて、その闇が固まって形になったように黒いローブを纏った人影が姿を現した。最初に闇に浮かんだ光は、彼女の義眼が放つものだったのだ。

 

 電磁力を操るプロフェッサーは、金属を自在にコントロール出来る。彼女はその力を使って、発射された銃弾を止めたのだ。

 

<少し、待って欲しい……アンジェ>

 

「……」

 

 アンジェは無言で、銃は構えたままでいるが……しかし同時に、すぐに弾く気配も無い。これはひとまず話をするだけの時間は保証してくれるという意思表示だと、無言の内にプロフェッサーは理解した。

 

<ありがとう、アンジェ>

 

 プロフェッサーはそう言って、エリックに向き直った。

 

<エリック・アンダーソン。あなたと取引がしたい>

 

「と、取引だって……?」

 

<そう>

 

 さっと手を振るプロフェッサー。

 

 すると彼女が出てきた闇の中から金属製の大型ケースが滑り出してきた。

 

 ぱちんとプロフェッサーが指を鳴らす。ケースの留め金が外れて、熱せられたハマグリのように開いた。

 

「うっ!!」

 

「これは……!!」

 

 中に入っていたものは、エリックは勿論の事アンジェをして仰天させるに十分なインパクトを持つ物だった。

 

 エリックだった。

 

 ケースの中には、エリックが、正確には人形だろうかそれとも死体だろうか? 兎も角彼と瓜二つの顔をしたヒトガタが折り畳むようにして詰め込まれていたのだ。それが、地面に投げ出された。

 

「……こんなものを、どうやって?」

 

<モルグで調達した。彼と同じぐらいの背格好の、男の死体を。まぁ、今日までに条件に合った死体が手に入るかどうかは正直、賭けだったが……ツキはあった>

 

「顔は、どうやって?」

 

 体格や背格好は兎も角として、まさか顔までそっくりの死体がこうも都合良く手に入る訳はあるまい。

 

<何度でも言うが私は天才だ、アンジェ>

 

 プロフェッサーの袖口から仕込み銃のようにメスや鉗子が飛び出して、彼女の手に握られた。

 

<顔を変えるぐらいの手術は、私には容易い。流石に急だったから、完全ではないがね……>

 

 言われてアンジェが目を凝らすと、確かにケースに入っていたエリックの顔にはところどころ縫合痕が見て取れた。

 

<だが、これで十分……どうせ殺した後はテムズ川にでも沈める予定だったのだろう? ならば発見されるまでにあちこち痛むから、この程度のキズは気にならなくなるだろうさ>

 

「……そう」

 

 納得が行ったと、アンジェは肩を竦めた。

 

<付け加えるなら、わざわざ顔を変えた理由は……探偵をやっている友人から聞いた話なのだけど、顔が潰されているのに衣服や品物などその人物だと特定出来るような物を身に付けている死体……つまり、身元を明らかにしたいのか隠したいのか分からないような死体は十中八九、その人物とは別の人間の死体を入れ替えたフェイクと断定出来るらしい……当然、ノルマンディー公もその報告を聞いたら、同じ結論に至るだろうから……それを避ける為だな>

 

 そう言って<さて>と再びプロフェッサーはエリックを見た。

 

<ここまで言えば大体私が何をしようとしてるのか察しが付くだろう>

 

 さっとプロフェッサーが手を振る。するとアンジェの手から拳銃が離れて空中を動き、彼女の掌中に収まった。

 

「あ……」

 

 拳銃を奪い取ったプロフェッサーは、それを地面に転がっているエリックもどきに向けて、無造作に引き金を引く。

 

 パン!! パン!! パン!!

 

 銃声が三つ鳴って、エリックもどきの胸に風穴が三つ空いた。

 

<返す>

 

 ぽいっと、拳銃を放り出すプロフェッサー。

 

 拳銃は、アンジェのすぐ手前の空間に浮いたまま停まった。アンジェが手に取るとタイミングを合わせてプロフェッサーが電磁力を切ったのだろう、抵抗無く彼女の手に戻った。

 

<さて、エリック。これで『あなたは死んだ』>

 

 このエリックもどきが、彼の身代わりとなるのだ。

 

 アンジェが始末したとしてコントロールに報告する為に、またそれ以上、王国側がエリックやエイミーを追わない為に。

 

 とは言えこれでも依然、エリックが王国にも共和国にも居場所が無い事に変わりは無い。

 

 それがプロフェッサーには、たまらなく都合が良かった。

 

 もう『彼には選択肢が無い』のだから。

 

<そこで取引だ。私はあなたから、命以外の全てを貰い受けたい>

 

「い、命以外の全て……?」

 

<もっと分かり易く言うのなら……私はあなたの研究者としての能力を高く評価している。この先一生、私の助手として無給で働けと言っている。その代わりに、私はあなたに二つのものを与えよう>

 

 プロフェッサーの右手がウィン、と音を立てて二本指を立てた。

 

「二つ、だって……?」

 

<一つは、妹……エイミー・アンダーソンの未来。彼女の目を、晴眼者と遜色ないまでに治し……そして生活に不自由しないだけの金銭的な保障を行う事を、約束しよう>

 

 プロフェッサーの、人差し指が折られた。

 

 エリックの顔色が変わる。絶望の中に、僅かに希望が差した。ケイバーライト障害に冒されたエイミーの目が治って、輝かしい未来を取り戻す。それは彼が望んで止まなかったものであるからだ。

 

 これはプロフェッサーの望んでいた反応だった。マスクに隠された唇が、三日月型に歪んだ。

 

 この取引だが、エイミーの目の治療はエリックの答えがイエスだろうがノーであろうが、ウィもノンも無く行う事は既にプロフェッサーの中では決定事項であった。イエスならばエリックとの契約を履行する事になるし、ノーであれば勝手に手術を行うつもりだった。エイミーは「私にはもうお兄ちゃんしか居ないのに」と言っていた。つまり身寄りが無いという事。色々と、都合が良い。

 

 尤も、そんな事はエリックには話さない。彼が知る必要の無い情報であるし、問われてもいない情報をベラベラ喋る趣味はプロフェッサーには無い。

 

「……二つ目は?」

 

<……労働の、本当の悦び>

 

「……?」

 

<給料がいくら上がるとか、休日が何日増えるとか、そんな些末なものではない……自分の仕事が、世界を地球儀のように回し、時代を変えていくその実感……これだけは保証する。どんな天上の美食も美酒も絶世の美女も、麻薬を使ってさえ決して得る事が出来ない極上の快感を、あなたに与えよう>

 

 プロフェッサーの、中指が折られた。

 

 そうして彼女は腰のベルトに付けられていた『柄』を手に取ると、紅い光刃を起動した。

 

<……言うまでもない事だが、断れば殺す。さぁ、どうする? 返答や如何に?>

 



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第12話 世界の変革が始まる日 その4

 扉を勢い良く開け、プロフェッサーが大股で入室してきた。

 

 室内に居たアンジェとプリンセスは、ノックも無しの非礼を咎めようとしたが……しかし、言葉に詰まった。

 

 異装のプロフェッサーは全身に肌が露出している部分が僅かにも無いので表情や仕草など言葉以外の部分で感情を読み取る事が難しいが……しかし本日の彼女は、いつもと雰囲気が違っていたのがすぐに分かった。

 

 鬼気、とでも表現するのだろうか。ともかくそうしたオーラが、全身から漲っているのが肌で感じ取れた。

 

「……プロフェッサー、どうしたのかしら?」

 

 微妙に間を置いて、プリンセスが尋ねる。

 

<プリンセス、大事な話があります。人払いを>

 

 単刀直入に、プロフェッサーが切り出した。それを聞いたアンジェが、不愉快そうに片眉を動かした。

 

「ここには、私とアンジェしか居ないわよ?」

 

<アンジェが居る>

 

「……」

 

 今度はアンジェがはっきりと不快な表情を見せた。しかし何か言い掛けた所を、プリンセスは目で制した。

 

「プロフェッサー……私達は、既にスパイという秘密を共有している間柄でしょう? それに、たとえ私だけに話したとしても、その後で私がアンジェに話せば同じ事だと思うけど?」

 

 プリンセスが正論で穏やかに諭すように語るが、プロフェッサーは気にした様子も無かった。

 

<それは無論、ご自由に。アンジェでもベアトでもプリンセスご自身の判断でお話し下さい。ですが私が話をする相手は、プリンセスお一人である事をはっきりと指定するという事です>

 

「……」

 

 譲らないプロフェッサーの態度に、プリンセスは諦めたように首を振ってアンジェを見る。アンジェは視線の意味を感じ取って椅子から立った。

 

「じゃあプリンセス、また後で……」

 

 退室しようとする時、アンジェはプロフェッサーとすれ違った際にじっと彼女を見据えた。

 

 決して睨んだりするような鋭いものではないが……しかし真剣な視線だった。

 

 アンジェとて、今更プロフェッサーがプリンセスに危害を加えようとするなどとは考えていない。もしそうしようとするなら、これまでにも絶好の機会はいくらでもあった。その時に何もしなかったのに、今更何かするなどとは考えられない。

 

 つまりこれは、純粋に感情から出たものだった。

 

 自分を差し置いて、プリンセスが二人だけで内緒の話をするのは……面白くない。天才的なスパイとは言え、彼女もまだ十代の少女なのだ。

 

 アンジェが部屋を出て二人だけとなった所で「さて」と前置きしてプリンセスは空いていたカップに紅茶を満たすと対面の席に置いてプロフェッサーに勧めた。

 

<失礼いたします>

 

 プロフェッサーは、どっかりと対席に着いた。

 

「それでプロフェッサー、話とは?」

 

<……三ヶ月程後に、王国内の有力者を集めて……バレエの鑑賞会を開いていただきたいのです。そしてその出演者に、一人……あなたのお力でねじ込んでいただきたい……>

 

「……ふむ」

 

 空気姫とは言え王族は王族。その程度の事はプリンセスの力でも出来る事ではある。しかし、出来るかどうかとやるかやらないかは別問題である。

 

 聞いておかねばならない事があった。

 

「誰を推薦すれば良いのかしら? 何の目的で? 今の今まで、あなたにそんな趣味があるとは知らなかったけど?」

 

<勿論、私はバレエに関しては門外漢です……しかし……>

 

 持っていた鞄から出した書類を、プロフェッサーは机上に放り出した。受け取ったプリンセスはそれを読み上げる。

 

 どうやらこの書類は、医療用のカルテのようだった。

 

 読み進めていくごとに……プリンセスの顔色が真剣なものへと変わっていく。

 

「エイミー・アンダーソン……ケイバーライト障害を発症しているのね……」

 

 添付されていた経歴書には、王立バレエ団の試験に合格した矢先に事故に遭ってケイバーライト障害を発症したと書かれていた。それによって彼女はバレエ奏者の夢を絶たれた形になる。

 

 そんな彼女を、バレエ鑑賞会の出演者に推薦しろとはどういう事か?

 

 プリンセスの疑問には、プロフェッサーがすぐに答えた。

 

 ただし、言葉ではなかったが。

 

 机に、ほぼ球形の結晶体が転がされる。先日、プロフェッサーが自分の研究成果として披露した義眼だ。

 

 ケイバーライト障害を患った、バレエ奏者を志す少女。

 

 ケイバーライト障害に対応する為の義眼。

 

 そしてその少女が、国内の有力者が出席するバレエ鑑賞会に出演できるようねじ込めというプロフェッサーの申し出。

 

 ポーカーで、4枚のカードが開かれていてそれらがキング・クイーン・ジャック・10であったのなら伏せられた一枚がエースである事を予想するように、開かれたカードからプロフェッサーの手を予想する事に大した推理力は必要ではなかった。

 

「……時が来た、という事かしら?」

 

 全てを察したプリンセスの言葉に、プロフェッサーは頷いて返した。

 

<三ヶ月という時間は、手術とリハビリに当てる為のものです>

 

「……成る程」

 

 大きく息を吐いたプリンセスは、天を仰ぐ。

 

 一分程もそうしていた後で、彼女は視線だけをプロフェッサーに向けた。

 

「……プロフェッサー、あなたに最初に会ってから、どれぐらいになるかしら?」

 

<およそ、一年となります。私が、素晴らしい教え子を持ってから>

 

「そう、そうだったわね」

 

 

 

 

 

 

 

 一年前のその日、プリンセスが忘れ去られたその地下室へと足を踏み入れたのは全くの偶然だった。

 

 部屋の主が閉め忘れたのか、あるいはドアの部品が老朽化していたのか。原因は不明であるが、ともかく地下室へと通じるドアが少しだけ開いていたのだ。

 

 好奇心から、プリンセスは扉をくぐって螺旋階段を降り……そして、暗闇の壁を押して闇の黒一色に塗りつぶされた部屋へと辿り着いた。

 

 その時、プリンセスは明かりになる物を持っていなかったので手探りで周囲をまさぐって、そして指に当たったボタンを反射的に押した。

 

 するとどうだろう、唸り声のような音が部屋全体に響き渡って、部屋全体に赤青翠、宝石箱か蛍籠か。鮮やかな光が広がったのである。

 

「これは……!!」

 

 その光は、プリンセスが知っているどんな光とも違っていた。

 

 太陽の光程に眩しくはなく目に痛くもない。

 

 蝋燭ほどに暗くはなくゆらめきも無い。

 

 ガスの匂いも無い。

 

 蛍のような瞬きも無い。

 

「この光は……一体?」

 

<ここで何をしている?>

 

 きょろきょろと動かしたプリンセスの首筋に、いきなり紅い光刃が突き付けられた。

 

「……っ!?」

 

<……答えろ、ここで何をしている?>

 

 男とも女ともつかない、くぐもった声が聞こえてくる。

 

「……少し、話を聞いてくれると……嬉しい……のだけど……」

 

<……>

 

 背後に立つ人物がそれを受け入れたかどうかは分からなかったが……しかしすぐに光刃を滑らせて自分の首を刎ねる気配は無い。プリンセスはそれを見て取るとゆっくり、努めてゆっくりに体を回して背後に立つ人物と対峙する。

 

 その動きに連動するようにして紅い刃も動いて、切っ先がプリンセスの喉を一突きに出来る位置で止まった。

 

 背後に居た人物に、プリンセスの顔が見えるようになる。

 

<……!!>

 

「……!!」

 

 すると、二人が同時に息を呑んだ音が聞こえた。

 

 背後に居た人物は、自分が刃を向けていたのがこの国の王女である事に驚いて……そしてプリンセスは、背後に居たその人物、プロフェッサーの異様な風貌に圧倒された。

 

<あ、あなた様は……!!>

 

 プロフェッサーは光刃を収納すると、その場に傅いて非礼を詫びる姿勢を見せた。

 

<ご無礼を……!!>

 

「いえ、良いのですよ。ドアが開いていたからと言って、許可も無く入ってきたのは私ですから」

 

<は……>

 

「どうか、立ち上がってください」

 

<……それでは……>

 

 立ち上がったプロフェッサーは、身長の関係からほんの僅かだけプリンセスを見下ろす形になった。

 

「あなたは……」

 

<申し遅れました、私の名はシンディ……もしくはプロフェッサーとお呼び下さい>

 

「では、プロフェッサー……この光は……」

 

<電気、です>

 

「電気……?」

 

 あまり聞き覚えの無い言葉を受け、プリンセスが鸚鵡返しする。プロフェッサーのガスマスクが上下に振れた。これは首肯の動きだった。

 

<電荷の移動や相互作用によって……ん……>

 

 そこまで言い掛けた所で、プロフェッサーは説明を中止した。一呼吸で言い切れるような短い言葉だけだったが、プリンセスが理解できていない事がすぐに分かったからだ。

 

「こんな光は、私は今まで見た事が無いわ……一体どんな原理で……?」

 

<……極々簡単に言えば、空の雷と同じエネルギーです>

 

「……でも、雷みたいにピカピカとはしていませんよ、この光は……」

 

<……む>

 

 マスクを着用している関係上、プロフェッサーは顎に手をやる事が出来ないがそれに当たるであろう仕草を見せた。

 

<……プリンセス、この電気について……学ばれる気はありますか?>

 

「学ぶ……ですか?」

 

<は……>

 

 胸に手を置いて、プロフェッサーは一礼する。

 

<電気の性質やこれで動く機械の原理や機能について専門的に学ばれるとなれば……それが出来るのは、王国広しと言えど私一人でしょう。何しろ、この電気は私独自のテクノロジーなのですから。もし、あなたが望まれるのでしたら……僭越ながらこの私が、先達となりましょう>

 

 差し出されたその手を、プリンセスは握り返して……そしてこの日から、プロフェッサーとプリンセスの師弟関係が始まった。

 

 週に一度、秘密の地下室で2時間の講義が行われ、そしてその終わりには膨大な宿題が出される。

 

 その宿題を、プリンセスはほぼ完璧にこなしてみせた。出題者であるプロフェッサーが、舌を巻く程に。

 

 そうしてプロフェッサーが、プリンセスに教えるようになってから半年程が過ぎたぐらいの頃だった。

 

 プロフェッサーは、一つの問いをプリンセスへと投げかけた。

 

<……プリンセス、一つ……質問を許していただけますか?>

 

「何かしら? プロフェッサー……」

 

<あなたは、どうしてここまで学ばれるのですか?>

 

 王族の暮らしは、端で考える程に悠々自適なものでは断じてない。学問に芸事……高貴なる身分であるプリンセスに、時間はいくらあっても足りないぐらいであろう。なのにこうして、言い方は悪いが自分のようなはぐれ学者に教えを請うているのか。

 

 この講義を受けたり宿題をこなす時間とて、文字通り寝る時間を削って捻出しているに違いない。何故、そこまでするのか。

 

「……それは、言えません。少なくとも今はまだ」

 

<……そうですか>

 

 プロフェッサーは、一応の納得を示す。今はまだという言い回しは、いずれ時が来れば話しても良いという事だ。ならばひとまずはそれで良しとすべきだろうと理解したのだ。

 

「私からも良いかしら、プロフェッサー?」

 

<何でしょうか、プリンセス?>

 

「……あなたは、どうしてここまでの技術を作る事が出来たのですか?」

 

 自分達を囲む電気の輝きを見回しながら、プリンセスが問うた。

 

<……私は>

 

 私は、天才だから。

 

 事実ではあるが、しかしそんな皮相な言葉だけでプリンセスが納得しないのは、彼女の表情からプロフェッサーは読み取っていた。

 

 ガスマスクから、深い吐息が漏れる。

 

<……プリンセスには、平民のお友達が居られますか? もしくは、居られましたか?>

 

「……えぇ」

 

 少しだけ戸惑ったように、どこか歯切れの悪い答えをプリンセスは返した。

 

<それでは……これは失礼かと存じますが……その友達と、二度と会えなくなったご経験は?>

 

「!! い、いいえ……」

 

 今度は、はっきりと僅かながらの動揺を見せてプリンセスが応答した。

 

<立ち入った問いを、お許し下さい>

 

 プロフェッサーはそう言って頭を下げた。

 

<私は、会えなくなった経験があります>

 

 プロフェッサー、いや、当時はトレードマークであるマスクを被らねばならない程に肺病も悪化していなかったシンディという少女には平民の友達が居た。

 

<その友達の少女は、泥ひばりで……あ、プリンセス、泥ひばりというのは……>

 

「テムズ川の泥の中から、落ちている金目の物を拾い集めて生計を立てる人の事よね」

 

<……意外です。お詳しいのですね>

 

 感嘆の声を漏らすプロフェッサー。プリンセスは「続けて」と手を振って促す。

 

<でも、私の友達は……死にました。只の風邪でしたが、医者も居なければ薬も無い貧民街ではそれが命取りになった……彼女は、優しい子だった……>

 

 すっと掲げたプロフェッサーの右手が、チキチキと音を立てた。

 

<あんな子が、夜毎寒さに震えて明日の目覚めを祈るような、そんな世界は、間違っている……>

 

「だから、世界を変える為に、あなたはこの研究を?」

 

<はい……電気は蒸気技術に代わって、次代の世界を導くエネルギーであると……私は確信しております>

 

「そう……」

 

 納得したようにプリンセスは頷いたが……しかし、その目はプロフェッサーを観察するように動いていた。

 

 こうして言葉を交わす中で、プリンセスはプロフェッサーの心臓を見た気がした。

 

 先程プロフェッサーが語った「世界は間違っている」という言葉。プロフェッサーはそこで終わらせたが、その先に続く言葉が聞こえてくるように思った。

 

 

 

<そんな世界など壊れてしまえ>

 

 

 

 と。

 

 プロフェッサーが友達だけでなく、両親や右手、両目の視力を失ったのも元を正せば蒸気機関による環境汚染やケイバーライトによるものだ。

 

 それでピンと来た。

 

 プロフェッサーは、彼女は本当は、この世界が憎いのだ。

 

 人間の感情の中で、最も強いのは憎しみや恨みといった負の感情だ。

 

 プロフェッサーは恨み、憎悪しているのだ。自分からあらゆるものを奪っていくだけでは飽き足らず、息を吸う事さえ許さない、今の世界を。

 

 だからその世界を壊す為に、執念……などと生温いものではない。妄執・怨念によって十代の若さでありながらここまでの研究を完成させたのだろう。

 

 偉業と言って差し支えないほどに凄い事であり、同時に哀しい事でもある。

 

『……彼女のような人が出ない為にも……私は、必ずこの国を変えてみせるわ……シャーロット……』

 

 祈るように、プリンセスは胸中で呟いた。

 



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第13話 チャイナタウンの戦い その1

 

 世界中に植民地を持つアルビオン王国内には、各国の特徴をとらえた市街地が多く存在する。

 

 現在、日本からの外交特使である堀川公が滞在している日本大使館の周囲にも日本風の庭園や建築物が多くあり、まるでその一角だけが日本という空間それ自体を切り取って持ってきたかのようである。

 

 同じように、中国大使館の近くにはチャイナタウンが存在する。

 

 その片隅にある茶屋の二階席では、ちせとプロフェッサーが向き合っていた。今は二人とも普段着姿だが、しかしスパイとしての任務中である。

 

 とは言え今回、既にチーム白鳩の任務は八割方が完了している。

 

「後は、アンジェ達との合流を待つだけか……」

 

 ちせが、すぐ傍らに置かれている風呂敷包みを叩いた。

 

 今回の任務は、大使館からこの品物を回収する事が目的だった。これは中国にいるアルビオン王国の大使を通して、本国へと持ち込まれた物という事だった。

 

 任務自体は至ってシンプルだった。

 

 近くを通りかかったプリンセスが慰労に来たという名目で大使館を訪問し、職員や大使の目を引きつける。その隙を衝いてちせとプロフェッサーが大使館に潜入してこの品物を持ち出したのだ。プリンセスの立場を利用しての潜入工作、チーム白鳩の黄金パターンである。

 

 後は、合流場所となっているこの茶屋でアンジェ達に小包を渡すだけだ。プリンセスは、今も中国大使館で歓待を受けているだろう。

 

「それにしても、これは一体何なのだ?」

 

 布を暴いて中身を見てみたいという衝動にも駆られるが、スパイの鉄則はニードトゥノウ。余計な事を知る必要は無いし、知ってはならない。加えてちせの不手際は彼女自身だけで完結するものではなく、そのまま彼女の上司である堀川公の立場や日本の外交戦略にも影響する。出来る訳が無かった。

 

<何かは分かるがね>

 

 と、対面の席に座ったプロフェッサーが言った。

 

 空気清浄機など無いここでは当然彼女はトレードマークのマスクを付けたままで、テーブルに並べられている料理にも一切手を付けていない。

 

「ほう」

 

 興味深そうなちせが、身を乗り出した。

 

「では、お聞かせ願いたいプロフェッサー。この小包の中身は?」

 

<伝国の玉璽だ>

 

「玉璽……と言うと、中国皇帝の証であるあれの事か?」

 

 プロフェッサーが頷く。

 

<私の友人の探偵から仕入れた話だが……最近、中国のアルビオン王国大使が多額の金をはたいて、それを買い付けたらしい。勿論、裏取引でな>

 

「ふむ……」

 

 ちせの目は興味津々で爛々と光っている。彼女は続けて、と目で合図してくる。

 

<玉璽は中国王朝の象徴。だから中国としては何としてでも取り戻したい。一方で共和国は、先に自分達が玉璽を確保して引き渡す事で中国に『貸し』を一つ作ろうという魂胆なのだ>

 

「成る程……だが、中国では歴代の皇帝は十数名居た筈。一つぐらい持ち出されても……」

 

<そうは行かないのだよ、ちせ>

 

 プロフェッサーはガスマスクの吸気口にストローを挿すと、お茶を啜り始めた。

 

<一つでも許せば、二つ目三つ目と持ち出されてしまう。やがて中国の歴史的遺産は大英やルーブル、故宮にメトロポリタンなど……外国に行かなければ見られなくなってしまうだろう。あの国の最も価値のある宝は、四千年間も積み重ねられた歴史そのもの、その重み。それが他国に持ち出されれば、文化も国民性も二流化してしまう。そうなったら百年や二百年では取り戻せないだろう>

 

「むう……」

 

<今、アルビオンだけでなく諸外国の軍が北京に入っているのは聞いているな? それは中国全土を占領する為だ。それをさせない為に、中国としては常に毅然とした態度でいなければならない。自信も誇りも持たぬ者など、誰も尊敬してくれる筈が無いからな……>

 

「ううむ、それについては我が国も大いに学ぶ所があるな……」

 

<中国もそれを分かっている。だが玉璽を外国に持ち出されたなどと、表沙汰には出来る訳が無い。国の面目丸潰れだ。だから秘密裏に取り戻したいので、既に何人ものスパイがロンドンに入ってきているだろう。一方で共和国側は、もう中国の諜報機関とも渡りを付けている筈だ。そうして、私達が先んじて確保したこの玉璽を渡すつもりなのさ>

 

 つまりプリンセス、ちせ、プロフェッサーのチームは潜入・奪取が目的で、アンジェ・ドロシー・ベアトリスのチームは中国側に品物を引き渡すのが目的だったのだ。

 

「成る程、流石はプロフェッサー……勉強になる。今後ともご指導ご鞭撻をよろしく頼みたい」

 

<こちらこそ。プリンセスと言いお前と言い……素晴らしい生徒に講義する事が出来て、光栄に思うよ>

 

 乾杯の要領で、湯飲みを打ち合わせる二人。

 

 と、その時だった。

 

「む……」

 

<……これは……>

 

 先程までは人でごった返していた筈の茶屋の中が、いつの間にか二人を除いては誰も居なくなっていた。

 

 顔を見合わせるちせとプロフェッサー。

 

 おかしい。

 

 不穏な空気が、急速に立ち込めてきた。

 

「アンジェ達との合流時刻は?」

 

<後5分だが……>

 

 手にした懐中時計を閉じつつプロフェッサーが立ち上がって、窓から外の様子を伺う。

 

 見れば、外にも人影が見当たらなかった。

 

 と、その時!!

 

<む!!>

 

 二階の屋根に立っていた男達が、手斧を振り下ろしてきた。

 

 咄嗟に、プロフェッサーは窓を閉じて攻撃を防ぐ。

 

 斧の刃が窓枠に食い込んで、ガラスが砕け散った。

 

「!!」

 

 椅子を蹴飛ばす勢いで、ちせが立ち上がる。

 

「敵襲か!!」

 

 乗っていた料理ごと投げ飛ばした机が男達に当たって、彼等は悲鳴を上げながら地面に向けて落ちていった。

 

「「「ぶっ殺せ!!」」」

 

<!!>

 

「プロフェッサー、見ろ!!」

 

 外から掛け声が聞こえて、二人は階下を覗き見る。それを合図に店の入り口から黒い中国服に身を包んだ男達が、軽く50人は侵入してきた。どう見ても友好的な一団には見えない。全員が、手斧で武装している。

 

「王国側の追手か」

 

<玉璽が盗まれたのが、バレたようだな>

 

 しかし王国側とて、まだおおっぴらに警察や軍を動かす訳には行かないのでこうして現地の華僑を雇ってきたのだろう。

 

「大勢来たぞ!!」

 

 店の床が見えなくなる程の男達が、さほど広くも大きくもない階段を上って次々二階へと上がってくる。

 

 プロフェッサーは、二階への昇り際に机を滑らせるように動かして数名の男達を壁とサンドイッチにすると、一人ずつ顔面にパンチを食らわせた。

 

「よし、私は下へ行く!!」

 

 ちせは階下へと身を躍らせると、一階のテーブルの上に着地する。

 

 そこから更に跳躍して男の顔面に着地、そのままジャンプ、別の男の顔面から更に別の男の顔面へ。まるで源平時代の義経八艘飛びの如く次々に顔を踏み台代わりにして飛び移っていく。

 

 そのまま床に降り立つと、今度は手近な椅子を掴む。

 

「ふん!! ふん!!」

 

 剣士であるちせだが、しかし真剣は竹刀や木刀のように軽くはない。

 

 それを神速にて自在に操る剣士の腕は、手にしたあらゆる物を凶器に変える。彼女は両手に持った椅子を、掴んでいる脚を中心にくるくると回転させて、琉球古武術のトンファーの様に振り回して当たるを幸いの勢いで、次々に男達を打ち据えていく。

 

<……これでも食らえ>

 

「ぐわっ!!」

 

「ぎゃあっ!!」

 

 二階では、プロフェッサーの指先から迸った青白い稲光が男達に襲い掛かって、人工の雷に打たれた者は全員が体をピーンと引き攣らせて、そのまま泡を吹いて失禁し、倒れてしまった。

 

 それでも怯まずに次から次と襲い掛かってくるが、しかし彼等が手にしている手斧には金属が使われている。ならばそれは、電磁力を操るプロフェッサーにとっては格好の餌食。彼女がさっと手をかざしただけで、見えない巨人に掴まれたように凄い力で手斧が奪い取られて、プロフェッサーの右手にくっついた。

 

 そうして武装解除した男達に、プロフェッサーは一人一人電気ショックをお見舞いしていく。

 

 ひとまず周りの敵が居なくなったのを確認すると、彼女は手摺りから身を乗り出して階下の戦いの様子を見てみる。

 

 数十人を相手にちせが孤軍奮闘して頑張っているが、流石に数の不利は如何ともしがたいものがあるようだ。徐々に後退して、追い詰められつつある。

 

<……>

 

 何か周りに武器になる物は無いかと探して、プロフェッサーの高性能義眼は飾りに使われている身の丈程もある竹棒をロックオンした。

 

「……おっと!!」

 

 間一髪の所で、ちせは振り下ろされた斧の一撃をかわした。

 

 ひやっと、冷たい汗が背筋を伝う。父・藤堂十兵衛は先の戊辰戦争では単身巡洋艦に乗り込んで百人斬りをやってのけたという。一人ずつ、次々に倒していって最終的に百人を斬るのなら自分にも同じ事をやってのける自信はある。

 

 しかし流石にこの大人数を一度に相手にするのでは、動きが完全には読み切れない。

 

 今の所は上手くかわせているが、このままではいつか致命打を受けるだろう。

 

「むっ!!」

 

 前から、3名の男が手斧を振りかぶって接近してきている。

 

 しかしその時、視界の上から棒状の物が伸びてきて男達を薙ぎ払った。

 

「プロフェッサー、かたじけない!!」

 

 二階の梁の上に立ったプロフェッサーが、竹棒を振り回していた。

 

<ちせ、掴まって>

 

「よし!!」

 

 竹棒に掴まったちせは、木登りの要領でするすると棒を上ると梁まで上って、二人はそこで次々と襲ってくる男達を迎撃していく。

 

<む>

 

 見れば、店の窓という窓から次々に斧を持った男達が侵入してきている。

 

 既に敵は梯子を用意していて、それを屋根に立てかけて二階からも入ってきていた。

 

<ちせ、これを!!>

 

 プロフェッサーが、竹棒をちせに投げ渡す。

 

「ようし!!」

 

 ちせは腰を支点にして棒術の要領で竹棒を操ると、突き、払い、薙ぎ、それらを複合させた連続攻撃で次々男達を倒していく。

 

<ふん!!>

 

 プロフェッサーが投げつけたどんぶり茶碗が、男の顔面にぶつかって気持ちの良い音を立てた。

 

<ちせ、ここはもう危ない。脱出しよう>

 

「あいわかった、プロフェッサー」

 

 窓から入ろうとしてきていた男達を蹴散らすと、二人はそのまま屋根を蹴って跳躍、地面へと降り立つ。

 

 下にも手斧を持った男達がぞろぞろと居た。今の二人はちょうど、敵の海原のど真ん中に降り立った形になる。

 

「よし、包囲の一角を切り崩すぞ」

 

<わかった>

 

 ちせが振り回す竹棒と、プロフェッサーの電撃が次々男達を倒していって、とうとう包囲網が破られた。

 

 すると、

 

「あっ!!」

 

「ちせ、プロフェッサー……これは一体……」

 

「何が起こっているんだ?」

 

 ベアトリス、アンジェ、ドロシー。

 

 この茶屋で合流する予定だった3名だった。全員、この状況は何が起こっているのか分かりかねているようだが……

 

 しかし、説明している時間は無い。まだ何十人と居る敵が、手斧を振り回して襲ってくる。

 

<ドロシー、これを!!>

 

 プロフェッサーが小包を投げる。ドロシーは見事にそれをキャッチした。

 

「私とプロフェッサーは、ここで敵を食い止める。後で落ち合おう!!」

 

 ちせが、先端がささらになって凶悪な武器に姿を変えた竹棒を振るって、触れる敵を全てズタズタにしていく。背中合わせに立つプロフェッサーは、電磁力で周囲の金属という金属を次々引き寄せると、それをぶつけて敵を倒していく。何しろここは町中、彼女の武器になる金属はいくらでもあった。

 

「な、何かは分からないですけど……」

 

「とにかく、ここは逃げましょう」

 

 猛戦する二人に背を向けると、3人は町中へと走り出した。

 

「しかしどうする? 逃げるにしても、この狭い路地では私の車は走れないぞ」

 

「でも、足で逃げてちゃいずれは追い付かれますよ」

 

「……良い物がある」

 

 アンジェが指差した先には、止めっぱなしになっている自転車があった。

 



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第14話 チャイナタウンの戦い その2

 中国の香港でもそうだが、人口の多さに比例するように建物が乱立するチャイナタウンは道幅が狭く、車は通れない。

 

 プロフェッサーが殆どガワが同じだけの別物と言える程に改良を加えたドロシーの愛車も、ここではその自慢の機動力を発揮出来ない。代わりの「足」を調達する必要があった。

 

「良い物があるわ」

 

 路地を走りつつ、アンジェが差した指の先には自転車が止まっていた。

 

 勿論、誰かの物なのだろうが持ち主は傍に居ないようだ。残念ながら探し出して交渉して居る暇は無い。後ろではプロフェッサーとちせが頑張って足止めしてくれているが、二人に対して敵は軽く数十人。完全には防ぎきれなかったのだろう。二人の防衛線をすり抜けた何人かが近付いてきている。

 

 しからばと、アンジェは黙って借りる事にした。

 

 ポケットから取り出した針金で鍵を外しに掛かる。要した時間は僅かに2秒。オープンセサミと唱えられた千夜一夜物語のドアのように、滑らかに鍵が外れた。

 

「ドロシー、これはあなたが持って」

 

 プロフェッサー達から渡された包みをドロシーに手渡して、ベアトリスに振り返った。

 

「ドロシーはあっちに、私達はこっちへ行くわよ」

 

「あ、そうか。追手を分散させるんですね」

 

「分かった、合流地点で落ち合おう!!」

 

 ベアトリスを抱えたアンジェはCボールの燐光を纏い、壁から壁を蹴って建物の陰に消えていく。

 

 ドロシーは自転車に跨がると、チェーンが火花を上げる猛烈なケイデンスを叩き出して狭い路地を駆けていく。

 

「うっ!!」

 

 すぐ前方から、自転車に乗った追手が向かってきた。

 

 狭い路地の道幅はちょうど自転車一台分しかない。横にかわしたりは出来ないし、方向転換も出来ない。

 

 ドロシーはすぐ傍らにあった洗濯物がかかったままの物干し竿を掴むと、騎兵が手にする突撃槍のように構えてそのまま前進する。

 

「わ、うわっ、だめえっ!!」

 

 それを見た追手は悲鳴を上げるが、しかし条件は彼も同じ。横への退避も出来ないし、後ろにも下がれない。

 

 そのまま物干し竿の先端が、男の鳩尾に突き刺さった。

 

「ぐええっ」

 

 悶絶して転げ回る男を尻目に、ドロシーは自転車を走らせていく。

 

 後ろを見ると、またしても追手が走ってきていた。

 

 今度はそのまま前進して、すれ違いざまにすぐ横に見えた窓を叩いた。

 

 ドロシーの自転車はそのまま走り去る。

 

「なんだい?」

 

 僅かな時差を置いて家の住人がドロシーのノックに反応して窓を開ける。

 

 チャイナタウンの路地に面した窓はドアのような形状になっていて、ちょうど追手の眼前に壁が現れる形となった。

 

「うげっ!!」

 

 男は顔面を窓にぶつけて、後方へとぶっ飛んだ。自転車だけが乗り手がいなくなった後も、少しだけ惰性と慣性で走った後で倒れた。

 

 再び、前方から追手が現れる。

 

 しかしここでドロシーは、鍛え抜かれた身体能力を発揮した。

 

 狭い路地の地形を活かして、大きく開脚すると両側の壁に足を突いてつっかえ棒のようにして体を持ち上げ、そのまま振り子の要領で自転車を振り回して前輪を男の顔面にぶつけた。

 

 そうして着地すると、自転車を思い切り回して方向転換。路地を数分も走るとやや広い空間へと出た。

 

 すると、背後からまたしても追手が現れた。

 

「それっ」

 

 ドロシーは自転車の前輪を器用に使って地面に置かれていた缶を飛ばす。

 

 狙いは過たず、飛んだ缶は追手の顔面に直撃した。

 

 敵が怯んだのを確認すると、再びドロシーは自転車を走らせる。

 

 すると今度は十字路に出た。ちょうど、ドロシーから見て左右の路地から追手が向かってくる。

 

「ようし……」

 

 ドロシーは自転車を1メートルばかりバックさせると、素早く傍らにあった物干し竿を取る。

 

 そのまま体勢を低くして、タイミングを合わせて物干し竿を突き出す。

 

 すると左側から走ってきた自転車の前輪に竿が噛んで、自転車と共に男は転倒。そのまま右側から来た男の自転車も巻き込んですっ転んだ。

 

 作戦が成功した事を確認すると、ドロシーは自転車を持ち上げて反対方向へと走り去った。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく走ると、ようやく建物が林立する隙間道から、ある程度視界が開けた通りへと出た。

 

「アンジェ達は……」

 

 きょろきょろと辺りを見渡して、別の路地からアンジェとベアトリスが出てくるのを見付ける。向こうもドロシーに気付いたようだ。

 

 合流すべく駆け寄るが、追手の方もまだ諦めていないようだった。

 

「ちっ!!」

 

 ドロシーは一番近い男の鼻っ面にパンチをお見舞いしてひるませると、足払いを掛けてすっ転ばせる。

 

 アンジェもすぐ後ろから伸ばされていた手を掴むと、捻りを加えた投げで背中から叩き付けた。叩き付けられた追手の男は、空気が漏れるような声を上げて、意識を失った。

 

「まだ来るぞ」

 

「キリが無いわね……」

 

 背中合わせになって次々と追手をやっつけていくアンジェとドロシーだが、7人まで倒した後、まだやって来るのを見て追手を全て倒すのは諦めた。プロフェッサーとちせが茶屋で相手していた人数も尋常ではなかったが、玉璽を王国内に持ち込んだ連中及びその黒幕は、是が非でもそれを中国に取り戻してほしくはないようだ。

 

 それよりもまずは玉璽を連中の手の届かない所へと運んで、奴らが自分達を追い回す理由を消滅させてしまう事こそ肝要だろう。

 

「ベアト、これを」

 

「は、はい? わっ、とっ……」

 

 ドロシーから投げ渡された包みを、ベアトリスは一度取り落としそうになったが危なっかしい手付きで何とかキャッチした。

 

「これを持って先に逃げろ。私達はここで連中を足止めする」

 

「でも、アンジェさんやドロシーさんは……」

 

「早く。あなたがここに居ると、私達も逃げられない」

 

 腕を極めた男の首筋に手刀を入れて気絶させたアンジェにそう言われて、ようやくベアトリスも決心したようだった。

 

 戸惑いや困惑を排除した引き締まった表情に変わると、戦っている二人に背を向けて走り出す。

 

「行ったか」

 

 振り回した男を壁に叩き付けて、ドロシーが肩越しにアンジェを振り返った。

 

「アンジェ、まだ行けるか?」

 

「あと3人ぐらいなら……」

 

 10人目の男の喉を踏み潰して気絶させたアンジェが額に浮かんでいた汗を拭った。

 

「……じゃあ、拙いな……」

 

「え?」

 

「見ろ」

 

 ドロシーの視線をアンジェが追うと、またしても新手の追手が現れた。

 

 しかもその人数は、6人。更には全員が懐に手を入れていて、そこには服の上からでも分かるいかにも重そうな膨らみがある。銃を持っている。

 

 逃げられる状況ではないが、戦うにしても圧倒的に不利。が、じっとしていてもやられるだけだ。ならば不利を承知で打って出るしかないか。

 

 せめて機先を制しようと、アンジェが飛び出そうとしたその瞬間だった。

 

「うわっ!?」

 

「な、何だ?」

 

「銃が、勝手に!?」

 

「「!?」」

 

 男達が懐中に忍ばせていた銃が、見えない力に引き寄せられて彼等の手からもぎ取られ、空中を滑ったのだ。

 

「これは……」

 

 同じ光景を、ドロシーは見た事があった。

 

 堀川公を狙ってきた暗殺者から、公とプリンセスを救出する為に御料車に乗り込んだ時だ。

 

「プロフェッサーか」

 

 空中を飛んだ銃の行方を目で追うと、やはりと言うべきかその先には思い描いたのと同じ姿があった。

 

 全身を黒いローブで包み、顔にはガスマスクを装面したプロフェッサーの異様が。

 

 傍らにはちせも居る。

 

 肌が1センチ四方も露出していないプロフェッサーは良く分からないが、ちせは汗みずくになって体中あちこちに返り血を浴びていて死闘を演じてきたのであろう凄味があった。

 

 男達の手から離れた銃は、プロフェッサーの右手に全て吸い付けられていた。

 

 電気を操るプロフェッサーは、副次的に磁力を操って金属をコントロールする事が出来る。それの力で、彼女は男達から銃を奪い取ったのだ。彼女が磁力を切ったのだろう、銃は見えない力の軛から解放されて、石畳に落ちて気持ちいい音を立てた。

 

「なっ……お前は……」

 

<……ふん>

 

 プロフェッサーがさっと手を振ると、男達は6人全員が見えない巨人に体を持ち上げられたようにいきなりその場で宙返りを打って、着地を失敗して背中から地面に叩き付けられて昏倒した。

 

「プロフェッサー、今のは?」

 

<電波投げだ>

 

 プロフェッサーが事も無げにそう言い放つと、二人はつかつかと歩み寄ってきた。

 

「こっちの追手は全て片付けた。玉璽は?」

 

「ベアトリスが持って逃げている」

 

<では、彼女はどこに?>

 

「それは……」

 

 アンジェが言い掛けた、その時だった。

 

 

 

 ゴーン、ゴーン、ゴーン……!!

 

 

 

 まだ先程15時を知らせる鐘が鳴り響いてからものの10分も経過してはいない筈なのに、時計塔の鐘が鳴り響いた。

 

<「「「?」」」>

 

 4人全員の視線が、時計塔へと向く。

 

 見れば、時計の針が5秒で一回転する程のありえない早さでぐるぐると回っていた。

 

 17時を知らせる鐘が鳴って、ものの数秒で18時の鐘が鳴った。

 

 アンジェが答える必要は無かった。ベアトリスが今どこに居るのか、一目瞭然ならぬ一耳瞭然というものだ。

 

 恐らく彼女は追いかけ回されて、時計塔の中へと逃げ込んだのだろう。

 

 ……という、アンジェ達の予想はその数秒後に立証された。

 

 時計塔の文字盤が開いて、その中からベアトリスが出てきたのだ。おっかなびっくりとした動きで、屋根の上を歩いて行く。

 

 だが、時計塔の中から文字盤が蹴破られて追手の一人が姿を現した。

 

「きゃああっ!!」

 

 バランスを崩して落下しそうになったベアトリスは、悲鳴を上げながら時計の長針を掴んだ。

 

 落ちたら助からない。

 

 その恐怖から、ベアトリスは恐らくは彼女の人生の中で最大の力を発揮して、脳内の筋力リミッターも全て外して手が白くなってその後は鬱血する程に強く、全身の体重を預ける長針を握り締める。

 

 だが掴んだり引っ掛けたりする所の無い時計の針である。努力も空しく、彼女の体は少しずつずるずると下がっていく。

 

 しかし幸か不幸か、今のベアトリスは落下して地面に激突する心配はしなくて済みそうだった。

 

 文字盤が嵌まっていた穴から体を出している男が、懐から取り出した拳銃を、彼女の眉間に照準したからだ。

 

 銃口からベアトリスの眉間までの距離は、僅かに数センチ。目を瞑っていても外しようの無い至近である。

 

「……っ!!」

 

 ベアトリスはきつく眼を瞑った。

 

 心中で、プリンセスに詫びる。死ぬのが怖くないと言うのは嘘になるが、それ以上にこの先、姫様のお役に立てなくなる事。それが心残りだった。

 

 1秒のタイムラグがあって……

 

 

 

 ズキューン……!!

 

 

 

 銃声。

 

 撃たれた経験が無いのではっきりと分からないが、覚悟していた痛みや熱さはいつまで経っても襲ってこなかった。

 

「……?」

 

 恐る恐る眼を開けると……眉間に穴を開けた男が、ぐらりと崩れ落ちる所だった。

 

 下へと視線を向けると、ドロシーがこちらへ銃口を向けているのが目に入った。銃は、たった今プロフェッサーが倒した男から奪った物だった。指紋が付かないようにハンカチーフ越しに握っている。

 

 かなりの距離や高低差があるが、しかしドロシーは初めて使う銃を一発でしかも的の小さい頭に命中させたのだ。超一流と言われる彼女の腕は、やはり伊達ではなかったのだ。

 

「ちせ、毛布でも何でも良い、クッションになる物を集めるんだ」

 

「承知!!」

 

 ドロシーとちせが慌てて無造作に干してある布団などを掻き集めていく。

 

 確かにベアトリスが力尽きる前に入り組んだ時計塔を駆け上って彼女を助けるよりは短時間で済むだろうが、どうやらそれも間に合いそうになかった。

 

 長針に掴まっているベアトリスの体が、徐々に下がり始めている。恐らくは後、10秒とは保つまい。

 

「も……もうダメ……!!」

 

 顔を汗だくにしたベアトリスだが、その時、握り締めていた鉄棒の感覚が手から急に失せた。

 

 時計の針が、彼女の掌から無くなっていた。

 

 つまりは、体がずり落ちて手から針が離れてしまったのだ。

 

 一瞬、襲ってくる浮遊感。

 

 すぐに、風が下から吹き付けてくる感覚に見舞われた。落下しているのだ。

 

 数秒とはしない内に、彼女の体は石畳に衝突して赤い華を咲かせるだろう。ベアトリスは、少しでも気休めになるのか今度こそ固く瞼を閉じて全身の筋肉を硬直させる。

 

 若干のタイムラグを経て体に伝わってきたのは、思い描いていたよりはずっと柔らかな、抱き留められるような感覚だった。

 

「大丈夫?」

 

 頭のすぐ上から降ってきた声に恐る恐る目を開けてみると……そこには、アンジェの掴み所の無い無表情があった。

 

 ベアトリスが落ちると見た瞬間、アンジェはCボールの重力制御で飛び、空中で彼女を掴まえたのだ。

 

「ア……アンジェさん……」

 

「包みは?」

 

「こ、ここに……」

 

 ベアトリスは、懐から玉璽が入った包みを取り出した。それを見て、アンジェも満足そうに頷く。

 

「お疲れ様」

 

 ここでベアトリスは、ふうっと大きく深い溜息を吐いて肺胞内の二酸化炭素濃度を下げた。

 

 覚悟はしていたつもりだが、一分以内に二回も「死」を実感するのは貴重な経験だった。二度としたいとは思わないが。

 

「アンジェさん、今回の事で私は一つ、大事な事を学びました」

 

「……何?」

 

「地球には、間違いなく引力がありますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 この後、伝国の玉爾は壁を通って共和国へと移送されて、共和国内の大使館を通じ中国へと返還された。

 

 これで共和国は当初の目論見通り、中国に外交上の「貸し」を一つ作った事になった。

 



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第15話 プロフェッサーの駒

 

「う、うお……これは……っ」

 

 ダニー・マクビーンはとある屋敷の門前で、呆然と立ち尽くしていた。

 

 しばらく前に幽霊通りの死体置き場(モルグ)を訪ねてきたガスマスクの男(?)は、目当ての死体を引き渡す見返りとして多額の金を自分に渡すと同時にこう言い放った。

 

 技術屋としてもう一度働く気があるのなら、この住所を訪ねろと。

 

 正直、あまりにも何もかもが突飛すぎて、前日は随分と痛飲したものだし真っ昼間から夢でも見たのかと後になって思ったが……

 

 しかし封筒が直立する程の厚みを持った札束と、ポケットにねじ込まれたメモがあれが現実であった事を彼に教えていた。

 

 しばらくの間考えたが、「自分の技能を活かした職場で働ける」という欲求は、とうの昔に消え去ったと思っていたが実際には火種のようにくすぶって彼の中で残っていた。二度とは出来ないと諦めた所に垂らされた蜘蛛の糸。縋りたくなるのは当然だ。

 

 正直眉唾物だが……取り敢えず話だけでも。様子を見に行こう。

 

 そんな風に自分に言い聞かせて、二十数年振りの就職活動の気持ちで、クローゼットの中でかび臭くなっていた上着を引っ張り出して、精一杯の正装をして出掛けたのだが……

 

 目的地に近付くにつれ段々と、周囲の建築物が四十年以上も生きてきた中で見た事も無い程に壮麗な物へと変わってきて……

 

 そしてメモに書かれた住所に建っていた屋敷はそれらの中でも抜きんでて豪奢であり、目が眩む程の輝きを放っているようだった。ここはアルビオン王国の中でも有数の大貴族であるグランベル侯爵家の屋敷であった。

 

 尻込みしてしまう。

 

 まるで「お前なんかが来る所じゃねーよ」と、建物の門構えが言っているかのようだ。

 

「う……うむむ……」

 

 躊躇いがちに呼び鈴を鳴らすと……

 

 僅かな時間を置いてシワ一つ無い執事服を完璧に着こなした初老の家令が姿を見せた。

 

「何か、御用でしょうか?」

 

「あ、あぁ……じ、実は働く気があるならここに来いと言われたんだが……」

 

 圧倒されて、すっかり萎縮したダニーは相手の顔色を伺いつつ、ポケットに入っていたメモを手渡した。

 

 家令は「拝見致します」と前置きして受け取ったメモを見て……ぴくっと片眉が動いた。

 

「こちらへどうぞ。お嬢様がお待ちになられております」

 

 さっと手を振って、屋敷の中に通される。

 

 壁に掛けられた絵や、並んでいる壺、置かれている彫像。

 

 美術品に関する造詣などダニーは持ち合わせていないが、しかしそれでもこれらは名画や高価な芸術品である事が直感的に分かる。

 

 そうして応接室へと通される。

 

 この一室だけでも、ダニーの家の部屋全てを合わせたよりも広そうだった。金はある所にはあるのだと、労働意欲が吹き飛びそうだ。

 

「しばらくお待ちください。お嬢様はすぐに参られます」

 

「え、えぇ……どうもご苦労様です」

 

 畏まって応答するとメイドが運んできた紅茶を口に運ぶ。

 

 これも、こんな気取った飲み物はずっと口にしていないダニーをして高級品と分かる、口から脳に抜けるような味わいだった。

 

 数分すると、いくつもある扉の一つが開いて黒いローブに身を包んでガスマスクを身に付けた人物が姿を見せた。

 

 あの時、モルグに姿を見せた怪人、プロフェッサーだった。

 

 ダニーは、思わず起立して姿勢を正した。

 

<良く来てくれた、マクビーン技師。歓迎致します>

 

 男とも女ともつかないくぐもった声だが、しかし家令やメイドの発言から彼女は女性であるらしい。

 

「お、おう……」

 

 右手が義手である自分に配慮されて差し出されたプロフェッサーの左手を握り返すと、ダニーは勧められた席に座り直した。

 

 プロフェッサーも同じく、対面の席に着いた。

 

<さて、この家を訪ねてくれたという事は、私の下でもう一度技術者として働く事を決めてくれたと考えて良いのかな?>

 

「あ、あぁ……だが、その前に聞いておきたい事があるんだが……」

 

<伺おう>

 

 ガスマスクの吸気口にストローを挿すと、プロフェッサーは自分も紅茶を啜りつつ手を振ってダニーに発言を許可した。

 

「俺を技術屋として雇いたいって話だが……俺はこれだぜ?」

 

 粗末な義手を殊更強調するように掲げて、ダニーは自棄気味に笑いつつ言った。

 

 こんな手の自分が、今更どうして技術屋として働けるのかと。

 

 そうは思いつつも、しかしやはり一縷の期待があったからこそ此処を訪ねた訳だが……これは人間の矛盾した心理の一部分である。

 

<……ふ>

 

 少しだけ笑ったように、プロフェッサーの喉が鳴った。

 

 彼女は立ち上がると、右手の手袋をそっと外した。

 

「うっ……!!」

 

 ダニーは、思わず息を呑んだ。

 

 手袋の下から現れたのは柔らかな人肌ではなく、硬く冷たい輝きを放つ金属の光沢だったのだ。

 

 義手だ。ただし、自分の物とは比べものにならない程の精度で造られた最新技術の塊だと技術畑出身のダニーには一目で理解出来た。

 

 ウィン、ウィンと、手袋を外した事で防音効果が無くなって義手の駆動音が良く聞こえるようになった。

 

 五指の全ての関節があらゆる方向に曲がって、手首が360度時計回りに回って、また反時計回りに回転した。

 

「お……おおおおっ……!!」

 

 目を見開いたダニーの口がポカンと開いて、涎が垂れた。

 

 自分に、この義手があれば。

 

 何も言わずとも、彼の目と顔がこれ以上は無く雄弁に語っていた。

 

 釣れた。

 

 ガスマスクの下にある自分の口端が上がったのを、プロフェッサーは自覚した。

 

<この義手も、私が開発した物……私の下で働く気があるなら、あなたにもこれを付けてあげるわ>

 

 プロフェッサーはそう言って、暖炉の上に飾られていたゴルフボールをひょいと手に取る。

 

 義手がウィン、と音を立てて手の中にゴルフボールを隠した。

 

 パァン!!

 

 気持ちの良い音を立てて、硬質なゴルフボールが爆ぜた。

 

<そして……私の下で働くなら、契約金としてあなたの借金は全て私が支払う。新しい住居も用意しよう。無論、給料も十分に支払う>

 

 プロフェッサーは破裂したゴルフボールを捨てて、開いた掌をダニーへと差し出した。

 

<さて、ダニー・マクビーン技師。返答や如何に?>

 

 

 

 

 

 

 

 ダニーの返事は、聞かずとも分かっていた。

 

 借金から解放されて、もう一度技術者として働く機会が与えられるのだ。乗らない訳がなかった。

 

 この日はひとまず当座の金を受け取って、ダニーは帰っていった。

 

 プロフェッサーは応接室の椅子に腰掛けたまま紅茶を堪能していたが……先程彼女が入室してきた物とは別の扉が開いて、一人の女性が入ってきた。

 

「上手くやったわね」

 

 年齢は恐らく二十歳になるかならないかという所であろう。少女と大人の、ちょうど中間ぐらいに見える。

 

 黒髪で、眼鏡を掛けた理知的な印象を受ける女性だった。

 

<……? 何の事かしら?>

 

 カップの紅茶が空になって、プロフェッサーは吸気口からストローを引き抜いた。「とぼけなくても良いわよ」と女性が肩を竦める。

 

「あなた、彼の『借金を支払う』とは言ったけど義手については『進呈する』とか『あげる』とかは一言も言わなかったわね?」

 

<……>

 

 沈黙を肯定として受け取った女性が、話を続けていく。

 

「あの義手だけど、どれぐらいの値段になるのかしら?」

 

<私の下で真面目に働けば、15年もあれば完済できるぐらいの価格よ>

 

「呆れた」

 

 やれやれと首を振った女性が、溜息を吐いた。

 

「街金の借金から解放してやると言って自分の会社に雇って、そうしたら自分に借金させて囲い込んでしまおうって訳ね……借金取りより貴女の方がタチ悪いんじゃないの?」

 

<私は別にお金に困っている訳ではないから、担保や利子は付けないわよ>

 

 しれっと、プロフェッサーが答えた。

 

「では、もし彼が逃げた場合は?」

 

<殺すわ>

 

 これも、何でもない事のようにプロフェッサーは言った。

 

「……あなた、人からよく嫌な奴だと言われるでしょう」

 

<しょっちゅうよ、そんな事は>

 

 皮肉で言っているのだが、プロフェッサーは些かも堪えた様子は無かった。

 

「私や……この前の彼、エリックって言ったっけ……同じような手口で確保した手駒が、後何人居るのかしら?」

 

 じっと、女性がプロフェッサーを睨んだ。眼鏡越しの目が、キュイッと音を立てた。

 

<……一人だけではない、とだけ答えておくわ。それに>

 

 プロフェッサーは座り直して、女性と正対した。

 

<他の人は兎も角、あなたは取引の上で私の所に来た筈だと、記憶しているが?>

 

「……!!」

 

 女性が、プロフェッサーを見る目が鋭くなった。

 

「良く言うわね……!! 一年前……私のスパイとしての証拠をちらつかせて、自分に従わなければノルマンディー公に引き渡すと脅したくせに……!!」

 

<それは見解の相違だ>

 

 と、プロフェッサー。悪びれたり、慌てた様子は少しも無い。

 

<私は、黙ってノルマンディー公にあの書類を提出してあなたを共和国のスパイとして告発し、突き出す事も出来た。だけど私は、あなたにそれを知らせた上で選ぶ機会を与えた。全ての証拠を消す代わりに私に協力するか、それともノルマンディー公に引き渡されるか。これは真っ当な取引だ。実際に、あなたがスパイである証拠は全て抹消したわ。他に写しがあるなんていうオチも無いから、それは安心してくれて良い。これは対等な契約なのだから。そこに嘘は無いわ。あなた達スパイと違ってね>

 

「真っ当な取引、対等な契約……それ、まさか本気で言ってる訳じゃないわよね?」

 

<本気よ? 私は人体実験の為に、死んでしまっても問題の無い実験体が欲しかった。まぁ、天才である私にそんなミスは有り得ないが。そしてあなたはスパイとしての証拠を消したかった。これは双方にメリットのある話だったろう? それに、私にだってリスクはあった。あなたがスパイである証拠を消すという事は、それを他人に見られたら私だって共犯者になるのだから>

 

 とぼけたようにプロフェッサーは言う。

 

 だが実際にはこれは二択に見せかけた一択、選ばざるを得ない選択肢と言うのだ。最悪と最悪の一歩手前、どちらを選ぶかと問われて前者を選ぶ者は少数派だろう。

 

<それに、実験は成功したのだから契約は履行された。あなたはもう好きにしてくれて構わない。実際にこの一年、三ヶ月に一度この家に来る以外にはあなたの自由を阻害する何の干渉もしてはいない筈だが>

 

 プロフェッサーが続けた。

 

「……良く言うわね……!!」

 

 ドスを利かせた声で女性は言うとおもむろに眼鏡を外して、右目に手をやる。

 

 数秒してその手が下ろされると顔の一部、右目があった位置に異様な黒い空洞が発生していた。

 

 差し出された右掌には、小さな球形の結晶体が乗っていた。プロフェッサーの両眼に嵌められている物と同じ義眼だった。

 

「私の両目を抉り出して、代わりにこんな物を入れたくせに……!!」

 

<素晴らしいでしょう? 寿命が短い以外は、生身の目よりも調子が良い筈だが>

 

 ぎりっと、女性が奥歯を鳴らした。

 

<不満なら、もうここに此処に来る必要は無い……ただしその場合は義眼の寿命が切れて、あなたはまたあの暗闇の世界の住人になるだけの話だ>

 

「……スパイである私が言うのもなんだけど……あなた性格悪いわね」

 

 何かの事故や病気で失明したというのなら、諦められる。生来目が不自由であったというなら納得も出来る。

 

 だが一度失明して、それを晴眼者と変わらないほどに回復させられて、そこからもう一度光の無い世界に戻る事など……出来る訳が無い。プロフェッサーはそれを承知の上で言っているのだ。

 

 更に言うなら義眼は王国にも共和国にも無い独自の技術である為、プロフェッサーしか造ったりメンテしたりは出来ない。これでは女性は、実際にはプロフェッサーに首輪を付けられたも同然だった。

 

<自覚してるわ>

 

 ガスマスクを付けているプロフェッサーは、当たり前だが表情が全く伺い知れない。宇宙人を相手にしているかのようだ。どうにも調子が狂う。女性は肩を落とした。

 

<しかしこれは、見方を変えればより多くの人が幸せになったとも言えるわ>

 

「……どういう意味かしら?」

 

<もしあなたが私との取引を蹴っていた場合、あなたはノルマンディー公に引き渡されて殺されるか、良くて薬漬けにされて二重スパイに仕立て上げられていたでしょう。そして使われるだけ使われて始末される……その場合、ノルマンディー公しか幸せにならない。しかしあなたが私との取引に応じたお陰で、私は人体実験が出来て幸せ、あなたはスパイがバレなくて幸せ、そしてあなたから貰った目は、私が手術で、我が家の息が掛かった病院に入院しているケイバーライト障害で苦しむ患者に移植した。片目ずつで二人が視力が回復して幸せ。つまり合計で4人の人間が幸せになった計算になる。4マイナス1で3人も多くの人間が幸せになっているのよ? 素晴らしいじゃないの>

 

「…………」

 

 女性の目や表情から、怒気が消えた。

 

 怒りを通り越して呆れが先に立ったのだ。

 

「その言葉、最低の冗談ね」

 

<本気だった場合は?>

 

「もっと最低よ」

 

 女性が吐き捨てた。

 

<では、これが次の義眼だ>

 

 話を切るように、プロフェッサーは懐から取り出した木箱を差し出す。中には緩衝剤としてクローバーが敷き詰められていて、二つの義眼が納められていた。

 

 女性スパイは一つずつ新しい義眼を眼窩に嵌め込むと、古い義眼をプロフェッサーに提出した。

 

 これで用は済んだと、養成所では『委員長』と呼ばれていたその女性スパイは退室しようとしたが、その背中にプロフェッサーの声が掛けられた。

 

<もし何かあったら、この家に来なさい。知らない仲ではないし……匿ってあげるから>

 

「……!!」

 

 少しだけ意外そうに、委員長は手をドアノブに掛けたまま振り返った。この怪人にもそんな情があったとは。

 

 実際には違っている。

 

 プロフェッサーにとって、義眼の技術が流出するリスクは可能な限り低く抑えたいが、しかし実用化の為には自分以外の人間で人体実験もしなくてはならない二律背反。その為に、もし被験者がノルマンディー公や共和国の手に落ちて自分の技術が他に渡る事は避けたかった。よって「何かあったら自分の所に来るように」と言っておいて、逃げ込んできたらそこで委員長を殺して義眼を摘出・回収する心算なのだ。

 

 とは言えそんなプロフェッサーの心中など委員長には分からない。完全に気を許している訳ではないが、少しだけ視線が柔らかくなった。

 

<それじゃあ次はまた三ヶ月後に……それとどう? 今夜は一緒に食事でも……>

 

 言い掛けたその言葉は、委員長がドアが勢い良く閉じる音で遮られた。

 

<……嫌われたものね>

 

 自嘲するようにプロフェッサーはそう言うと、持っていた鞄から板のような機械を取り出し、提出された古い義眼から伸びている端子をそこに繋ぐ。

 

 すると黒く塗り潰されていた板の表面に光が点って、映像が表示される。

 

 どこかのホテルか屋敷の一室のようだ。

 

 そこには壮年の男と妙齢の女性、小太りの男に軍服を着た神経質そうな男が集まっている。

 

<これがコントロール……王国に潜入している共和国側スパイの統括か……>

 

 委員長は、プロフェッサーが義眼を移植する実験台として自分を選んだのだと思っていた。

 

 それは間違いではないが、言っていない事もあった。

 

 医療用に生身の目と同じ機能だけを持たせているタイプのそれと違って、プロフェッサー自身や委員長に移植している義眼は装着者が見聞きした情報を記録保存する機能がある。プロフェッサーはそれらの記録を専用の機械を使って、自由に再生・閲覧する事が出来るのだ。

 

 つまり、この三ヶ月の間で委員長がスパイとして潜入して見聞きした機密情報も、コントロールとのやり取りも全てがプロフェッサーの知る所となる。

 

 スパイは機密を漏らさない為にメモを取らない。養成所でも座学をノートに写す事は許されず、全て暗記しなければならないそうだ。しかしそうした機密保持も、プロフェッサーには役に立たない。委員長が見聞きしたものが全て、ダイレクトに伝わるのだから。

 

 付け加えるなら今の委員長は、ある意味では最高のスパイだと言える。

 

『最もスパイに適した人物とはどんな人間だろう?』

 

 プロフェッサーは一度、アンジェとドロシーにそれを尋ねた事がある。ドロシーはこう答えた。

 

「そりゃあ、誰からもスパイだと思われないような人間だろう」

 

 と。

 

 一方で、アンジェの答えは違っていた。

 

「本人も自分がスパイだと思っていない人間が、一番スパイに向いているわ」

 

 プロフェッサーもアンジェの意見に同調した。ドロシーの答えは二番目にスパイに向いている人物像だ。スパイは嘘を吐く生き物だが、どんな天才サギ師も稀代のペテン師にも、絶対に騙せない人間が一人居る。それは自分自身だ。他人はどれだけ上手に騙せても、自分だけは騙せない。

 

 ならば自分がスパイだと思いもしない、気付いていない人間が最もスパイに向いているのは自明の理だろう。

 

 委員長はまさかこんな方法でプロフェッサーが情報を抜いているとは絶対に気付けない。何故なら王国にも共和国にも、義眼の技術は無いからだ。情報が無ければ推理は出来ない。まさしく、理想的な潜入工作員だった。

 

 嘘を吐いていた訳ではない。科学者であるプロフェッサーはアンジェやドロシーといったスパイとは違う。嘘は吐かない。ただ『聞かれなかったから言わなかった』『だけ』だ。言う義務も無い。委員長とプロフェッサーの間で交わされた契約は、スパイとしての証拠を全て消す代わりに彼女がプロフェッサーの実験体となる事。その契約は間違いなく履行されている。それ以外についてはプロフェッサーが認知する所では無かった。

 

 他人には真似出来ない独自の技術を持つプロフェッサーだが弱点もある。

 

 彼女の風体は異様に過ぎ、空気清浄機の無い場所ではマスクを外せないので行動には制限があって立ち入れない場所も多い。その為に、自分の代わりに「目」や「耳」になる人間が必要だった。が、浮浪者や孤児にこの手術を施すのも考えものだった。この義眼が流出する危険が大きいからだ。人体実験の被検体としては、ある程度自分の身を守れる心得があって、尚且つ殺しても問題無い人間が適切だった。

 

 共和国側のスパイである委員長は、見事にその条件を満たしていたのだ。

 

<……この情報は、王国相手にも共和国相手にも、プリンセスを女王にする為の大変な武器になる……有効に使わせてもらおう……>

 



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第16話 シンディ・グランベル

 グランベル侯爵家は、アルビオン王国でも有数の名家である。いや「名家であった」という表現が適切かも知れない。

 

 現在は二年前にケイバーライト採掘場で発生した爆発事故によって当主とその妻が死亡し、病弱な一人娘しか残っておらず、彼女の叔父が後見人として家を切り盛りしている。

 

 そのような状況なので没落の未来が待ち受けているとしか思えないお家だが、しかしそこは腐っても鯛、アルビオン王国の歴史ある名門の家柄である。未だ訪れる客は多く、その層も幅広い。……少しずつ、減りつつはあるが。

 

 貴族・政治家・商人……そして、軍人も。

 

 この日、花束を抱えてグランベル侯爵邸を訪問したのは王国軍の制服を着た精悍な青年将校だった。家令に事前に交わしていた約束を伝えると、彼はまずは用意された一室にてブーツの泥を落として、ブラシで入念に着衣に付着した埃を落とす。それらの工程を三度繰り返した所で、漸く屋敷の奥に通された。

 

 屋敷の主は、生まれながら体が弱かったが二年前の爆発事故によって生来患っていた肺病が悪化して埃や煙を吸い込む事が出来ない。この処置は当然の事だった。

 

 そうして通された寝室には軽く3人は入れそうな天蓋付きのベッドが置かれていて、一人の少女が横たわっていた。

 

 顔色は青白くて血色が悪く、さらりとした金砂の髪は色素が抜けかけている。もう長い間、日の光に当たっていないのだろう。

 

「あぁ、イングウェイ少佐……よくいらしてくれました」

 

「ミス・グランベル……ご面会を許してくださり、光栄であります」

 

 ベッドの上の少女、シンディ・グランベルは左手を差し出して握手を求めた。

 

 これはいささか無礼とも取られかねない振る舞いだが少佐は気にした様子も無く左手を差し出して握手に応じた。軍隊でも右手を怪我している場合などでは、左手を使って敬礼する事が認められている。シンディが過去の事故で右手を喪失しているのを少佐は知っていた。

 

「さぁ、お掛けになって……」

 

 少佐は持参した花をテーブルに置くと、勧められた席に腰掛ける。

 

 そうしてしばらくの間は両者共に他愛の無い世間話などで談笑していたが……メイドが持ってきた紅茶のカップがほぼ空になると、そろそろ頃合い良しと見たのかどちらからともなく真剣な目つきになった。

 

「ミス・グランベル。これを……」

 

 ベッドの上のシンディはイングウェイ少佐が懐中より出した一枚の紙を受け取ると、折り畳まれたそれを広げた。

 

 そこには十数名の軍人の名前が記されていた。署名の下には、拇印が押されている。

 

「……これは、血判ですね」

 

「はい、私と志を同じくする中で尉官以上の者が集まって、何があろうとこの国を変えるという意志を誓い合ったものです」

 

 誇らしげに、イングウェイ少佐が語る。一方でシンディは、すうっと目を細めて彼を観察するような態度になった。

 

「……決起の日や、具体的な作戦については、まだ決まっていませんでしたよね?」

 

 シンディのその言葉には確認する響きがあった。

 

「はい、今回はあくまで同志の結束を強めるという意味の集まりでしたので」

 

「ふむ」

 

 少佐は気付かなかったが少しシンディの声の響きが冷たくなった。

 

「……少佐、ここには12名の名前が書かれていますが、あなたが声を掛けて集まったのはこの12人で全員だったのですか?」

 

 そこを尋ねられたイングウェイは、少しだけ恥じるような申し訳なさそうな表情を見せた。

 

「いえ……集まったのは私を除いて15人。3名は、それぞれ理由を付けて判は押しませんでした」

 

「それは……自分にも部下や家族が居る、勝算もプランも明確でないのにそんな危険は犯せないとか……そんな所でしょうか?」

 

「えぇ……全くその通りです」

 

「そうですか、それは良かった」

 

「は?」

 

 シンディは言い捨てると、少佐から提出された血判状を真っ二つに引き破って、くしゃくしゃに丸めて床に捨ててしまった。

 

「ミス・グランベル……何を……?!」

 

 思わず、イングウェイがソファーから腰を浮かせた。顔には些かの憤りが浮かんでいる。対してシンディは少しも動ぜずに、静かな目で少佐を見据えていた。

 

「信頼出来る人が少なくとも3名は居たのですから」

 

「は……」

 

「……少佐、もう一度確認しますがあなたはこの血判を促す時に、具体的な行動計画や決起が成功後のプランなどは何も語らなかったのですよね?」

 

「え、えぇ……」

 

「では、あそこに名前を連ねている人達は信用出来ません」

 

 床に転がっている紙玉に目をやりつつ、シンディが言った。

 

「……?」

 

「家族や部下を持つ責任ある立場にありながら、何一つプランも立たず先の見えない決起に安易に参加しようなどと考えるような者は、自分の決断に責任を持たずにいざとなれば仲間を売って保身に走るものです。少佐、あなたの同志の中で本当に信頼出来るのは逆にその血判を押さなかった3名だけです。あなたは今後、彼等をこそ粘り強く説得して、信頼を得るように動いてください」

 

「……成る程、そういう事ですか」

 

 納得したイングウェイは、再びソファーに座り直して話を続ける態勢になった。

 

「若さに見合わぬあなたの見識に、私は感服致しました。あなたの聡明さは、お父上のそれを受け継いでおられるようですね」

 

「……そう、でしょうか?」

 

 これは予想外の反応であったらしい。少しだけ、シンディの片眉が意外そうに動いた。

 

「えぇ、昔……今よりも植民地出身者への風当たりがずっと強かった頃に、あなたのお父上……前グランベル侯は声高らかに訴えられました。『植民地の出身者も王国と女王陛下に忠誠を誓う我が国の臣民であり、ただ本国の出身でないというだけである。不安無く我がグランベル領に来たれ』と。その頃、私はまだ少年でしたが……その言葉がどれほど暖かく、そして心強く響いたか……今でも、覚えております。我々の後援者であるあなたの中にも、その志が生きているのですね」

 

「……私は別に、生まれた場所を拠り所にせねば他者から優越を感じられない者とは違うというだけですよ。それに……ごほっ、ごほっ」

 

 僅かに咳き込んだ後に、シンディは話を続ける。

 

「私は貴族だから」

 

「……」

 

 イングウェイは何も言わず、病弱な令嬢の言葉の続きを待った。

 

「貴族とは何であるか? 平民と、女王陛下が流す筈だった涙を、自らの血と引き替えにする事を躊躇わない者の事を言うのだと、私は信じています。ですが………私はこの通り病床の身で義務を果たす事もままならず、それにこの体では婿を取る事も出来ないからグランベル侯爵家は私の代で終わる……恐らくは、後10年ほどでね……ならばせめて、私は自分の財をこの国を良くする為に使いたいというだけですよ……私が居なくなった後も、少しでもこの国の人々の暮らしが豊かに、社会が明るくなるように……」

 

「……この国の貴族が皆あなたのような方ばかりであったのなら……我々も決起などという道は選びませんでした。あなた方の下で、理想を実現する為に精励したでしょう……」

 

 イングウェイは、これについては心底残念そうに首を振った。

 

「……ですが少佐、必ず成功する革命でなければ、やる意味はありません」

 

 シンディはそう言うと、ベッドの傍らに置いてあった頑丈そうなケースを指差した。少佐がそれを手に取って、目線で「開けても良い」と了解を得た上で蓋を開く。

 

「……!!」

 

 思わず、ごくりと唾を呑んだ。

 

 ケースの中にはポンド紙幣がぎっしりと詰め込まれていた。

 

 少佐という階級からイングウェイもそれなりに高給取りではあるが……しかしそれでも彼の年棒の何年か分に相当する額だった。

 

「確かに、それはその通りでしょうが……」

 

「今は下手に動かず耐えて、力を蓄えるべき時です」

 

「しかし……」

 

「実際に、信頼出来る人が3人しかいない状況なのですから。結束を固め、より多くの同志を募らなければ」

 

「……確かに……」

 

 説得を受け、イングウェイは一応ながら納得を示した。頷いて、ケースの蓋を閉じる。

 

「そのお金は、革命の資金として役立てて下さい。いちいち使途を報告して貰う必要もありません。少佐の事は、信用していますから」

 

 イングウェイは立ち上がると、ベッドのすぐ傍まで歩み寄ってきて再び左手を差し出した。シンディも彼に再度の握手で応じる。

 

「その信頼に応えねばなりませんね、ミス・グランベル……必ずや、我々はこの国を変えると誓います……隔てなき世界の為に」

 

「はい、少佐。隔てなき世界の為に」

 

 

 

 

 

 

 

 イングウェイが退室した後に、後に残されたシンディはシーツの下をまさぐって硬い感触が指に当たるのを確かめるとそれを掴んで取り出す。

 

 ベッドの中から出てきたのは、ケイバーライト採掘場などで使用されているガスマスクだった。それを装面するシンディ。

 

 シュコー……シュコー……

 

 ほどなくして、寝室に規則正しい呼吸音が響き始めた。

 

<その通りだよ、少佐……この国は変わらなければならない……>

 

 ベッドから起き上がったシンディ=プロフェッサーは、窓際にまで歩み寄ると閉ざしていたカーテンを開いて庭先の様子を見る。

 

 ちょうど、渡したケースを持ったイングウェイが正門を出る所だった。

 

 イングウェイ少佐とは、彼女は浅からぬ付き合いがあってその人となりも知っている。軍人としての能力は確かで植民地の出身者でありながら若くして少佐にまでなり、部下にも優しく人望がある。総合的な評価としては尊敬に値する人物であると言える。同じ未来を望んでいるという点に於いても。

 

 少佐は王国軍内に於ける植民地出身者の中でも出世頭であり、同時に植民地出の軍人からの王国への不満を一身に受け止める立場でもある。

 

 昔から程度の差こそあれ何処の国でも絶えた事の無い問題だが、植民地の出身者は軍でも内地でも総数に占める割合が最も多く、危険の矢面に立たされて労働力・生産の大半を占めながらも、本国の出身者に比べて権利には大幅な制限が課されている。不満が溜まるのは必然であった。勿論、少佐自身にもこの現状を憂い、国を変えようという志がある。

 

 そうした事情と立場からイングウェイ少佐は半ば本人が望み、半ば担ぎ上げられる形で革命を画策するメンバーのリーダーとなっているのだ。

 

 プロフェッサーはシンディ・グランベルという表の顔が少佐と個人的親交があった事からこの計画を知るに至り、現在では家の財産を使って彼等のスポンサーとなっている。

 

 つまり金を出す立場であるから、ある程度は組織の方針に口も出せるのだ。

 

<でも少佐、あなたは大切な事が分かっていない>

 

 少佐は自分達がこの国を変えてみせると言った。

 

 それこそが最大の問題点なのだ。

 

<少佐……あなた達には、この国を変える力など無い>

 

 プロフェッサーはそう言い切った。

 

 後援者という立場ながら、しかしプロフェッサーは彼等の決起が成功するとは思っていなかった。現状ではどう贔屓目に見ても、成功率は一割を割るだろう。

 

 いや失敗するだけならまだ良い。失敗して彼等と自分が処刑されるのにはプロフェッサーは耐えられる。

 

 だが現実には失敗して、その後どうなるか……王国内の混乱は瞬く間に共和国の知る所となり、彼等はそれを口実として何かしらの理由を付けて軍を王国内に侵攻させるだろう。……と、恐らくはこうなる。

 

 だから、プロフェッサーとしては軍内の不満分子に撃発されては困るのだ。

 

 少佐に依頼したのはその為の意見調整だ。渡した資金の使途も明言こそは避けたがその為のものだし、そして血判状を破り捨てて信頼出来る人間が3人しか居ないと言ったのも、言葉それ自体には嘘は無い。安易に後戻りの出来ない冒険に踏み出すような者は信用出来ない。が、しかしこの発言には言外に時期尚早である事を伝えて、急な決起を思い留まらせるという狙いがあった。

 

<そして、私にも……そんな力は無い>

 

 プロフェッサーは天才を自負してこそいるがどれほど優れていても科学者でしかない。銃に弾を込める事は出来ても、引き金を引く事は出来ない。

 

 そして少佐は、革命でこの国を変えようとしている時点でプロフェッサーの中では落第だった。

 

<革命などで、世界は変わらない>

 

 何故なら戦争、平和、革命。この三拍子は何百年も前から繰り返されてきた事だからだ。仮に少佐達の革命が成功したとしても、それは同じ事の繰り返しでしかない。

 

<よりよい世界に生きたい。もっと良い暮らしがしたい。そう願う人間の欲望だけが世界を変えていくのよ……>

 

 キュイッ、と義眼の瞳孔がピントを調整する為に動いた。

 

<私達に出来るのはそんな風に世界を変えてくれる人の登場に協力するか、もしくはその人が立った後に働く事だけ>

 

 プロフェッサーは前者で、彼女が少佐に期待する役割は後者だった。

 

 イングウェイに語った言葉には一つも嘘は無い。スパイではないプロフェッサーは、嘘は吐かない。

 

 どれほど来客の着衣の埃に気を付けても、空気清浄機を働かせても、ガスマスクを被っても、肺が吸い込む埃や煙を完全にシャットダウンする事は出来ない。今でもプロフェッサーの体は、次第次第に蝕まれている。恐らく自分は30までは生きられないだろう。それがプロフェッサーの自己診断だった。

 

 少佐や彼の部下には、プリンセスがこの国の女王になった後に、彼女の下で働いてもらわねばならない。今の王位継承権第1位から3位までの王族と違って、プリンセスだけはこの国を変えようと本気で思ってまたその為に彼女自身体を張って動いているし、だから必ず少佐達も彼女に同調する。プロフェッサーにはその確信があった。故に、成功する見込みが無いような決起に踏み切って無駄にその命を浪費するような愚挙は思い留まってもらわねばならなかった。

 

<む?>

 

 キュッ、キュッ……

 

 視界の隅に「妙なもの」を捉えて、再び義眼に内蔵された機械が稼働した。

 

 少佐が乗っていった車を追うように、邸宅の外れに停まっていた車が走り出したのだ。

 

<はぁ>

 

 規則正しい呼吸音に混じって、溜息が漏れた。

 

<少佐も些か、脇が甘いようだ>

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオン王国のスパイを統括するノルマンディー公は、国内の有力者の邸宅にも常にスパイを配置している。

 

 今、イングウェイ少佐が乗った車と付かず離れずの距離を保ちつつ走行している車を運転するカールもそんな一人で、彼はグランベル家を監視する役目を負ったスパイだった。

 

 この家を訪れる客人はそれなりに多いが、その中でイングウェイ少佐は彼の目に留まった。

 

 彼は植民地の出身ながら優秀であり若くして少佐となり、しかし現在のアルビオン王国に不満を持っているグループのリーダーであるとの噂もある。

 

 だが優秀な軍人をただの疑惑で切り捨てるのは惜しいし、確実な反逆の証拠もまだ掴めていない。あるいは彼のバックにはもっと大物が居るかも知れず、上手く行けば芋蔓式でそいつを引きずり出せるかも知れない。そうした思惑から尻尾を出すのを期待して泳がされているというのが今のイングウェイ少佐の現状だった。

 

 そのイングウェイ少佐がグランベル家を訪れて、そして出てきた時には入った時には持っていなかったケースを大事そうに抱えていた。

 

 家の中で何かあった。そう考えるのは必然の流れだった。

 

 ここで少佐が何処へ行くのかを突き止めて、それを上役に報告すれば大きな手柄となる。

 

 昇進か、あるいはボーナスの支給も期待出来るというものだ。

 

 ……と、浮つきかけた彼は「いかんいかん」と気を引き締め直すと、ハンドルを握る手に力を入れた。

 

 少し車が左に寄ったようなので、やや右寄りにハンドルを切って車の軌道を修正しようとする。

 

「……?」

 

 そうした時に、彼は違和感に気付いた。

 

「ハンドルが……?」

 

 手にしたハンドルが、動かなかった。右へ回そうと力を込めているのに、ぴくりとも回らない。

 

 反射的に左側に回そうとするが、それもならなかった。ハンドルは万力で固定されたように、左右のどちらにも動かなかった。

 

 そうしている間にも、車はどんどんと左へと寄っていく。

 

 このままではテムズ川に突っ込んでしまう!!

 

 背中に氷柱を入れられた心地になって、カールは咄嗟にブレーキを踏む。だが、それも無駄だった。

 

「なっ!?」

 

 ブレーキペダルは足の踏み込みを押し返すように固くなっていて、車は少しもスピードを落とさなかったのである。

 

「い、一体何が……!?」

 

 考えるよりも先に、車は減速しないままいきなり左に90度カーブしてテムズ川に真っ直ぐ突っ込んでいくコースに入る。

 

 咄嗟にドアを開けて飛び降りようとするが、それもならなかった。ドアもドアノブも、見えない巨人の手で押さえ付けられているかのように動かせなかったからだ。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 悲鳴を上げるカールの視界が、フロントガラスから見えるテムズ川の河面で一杯になる。

 

 そして、地震のような衝撃が襲い掛かってきて割れたガラスから入ってきた水が車中に充満した。

 

 シートベルトを外す事もままならず、水で肺腑を満たしながら彼は秋には帰るからと約束した故郷の恋人の顔を思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 車がテムズ川に突っ込んで、野次馬が集まってきている。

 

 そこからやや離れた高台に設置された街灯の上に立って、その喧噪を睥睨している一つの影があった。

 

 つば広の羽根付き帽子を被って、顔には17世紀のペスト医師を思わせるマスクを装着している。体には黒いマントを羽織っていて、夜から生まれた生き物のようだ。

 

 シュコー……シュコー……

 

 独特の呼吸音が、夜闇に吸い込まれていく。

 

 鴉を思わせるこの怪人こそ、スパイ服を纏ったプロフェッサーだった。

 

 自分の家から出た少佐が尾行されている事を察知したプロフェッサーは、すぐに尾行車の後を追っていた。

 

 そしてテムズ川の近くにさしかかった所で、行動に出た。

 

 電磁気操作能力を持つプロフェッサーは、金属を自由にコントロール出来る。自動車などは格好の餌食であった。彼女は磁力で車を操って、テムズ川に落としたのだ。

 

 ノルマンディー公の手の者をただ殺害したり、行方不明にしたりする事は出来ない。グランベル家を監視していた者が始末されたり失踪したりしたら、当然ながら「この家に何かあるな」と疑いが掛かってくるからだ。

 

 その点『事故死』ならば少なくとも10の疑いを6や7に抑える効果はあるだろう。

 

<……彼の代わりが居れば、ノルマンディー公とてすぐにでもこれで暗殺するのだけどね……>

 

 少しだけ残念そうに、プロフェッサーはひとりごちた。

 

 遠距離から磁場によって対象が乗り込んだ車を操り、川に落としたり壁にぶつけたりする。これは、ほぼ確実に事故死を装える理想的な暗殺の手段と言える。暗殺に限らずあらゆる犯罪の理想型は追手に捕まらない事ではなく、そもそも犯罪があったという事実それ自体が発覚せず、事件に発展もせずに追手自体が掛からないというものだ。

 

 プロフェッサーはこの手段を使えばほぼ確実にノルマンディー公を、今日にでも殺害出来る。しかも事故死という事で捜査は打ち切りとなり、彼女を含めて誰にも容疑は掛からない。

 

 だが、殺してしまったとしてその後どうするのか。

 

 ノルマンディー公はやり方の是非はさて置くとして、国に二人とは居ない当代一流の人物である事には間違いない。革命から現在に至るまで、壁によって東西に分かたれた今のロンドンは世界中のスパイが暗躍する影の戦争の舞台と化している。そんな中で世界各国のスパイを寄せ付けず、王国の機密を守り通して覇権国家たらしめている一助を担っているのがノルマンディー公と彼が率いる内務省保安隊公安部の功績である事には、疑いを挟む余地は無い。

 

 スパイの仕事は潜入して情報を得るのもそうだが、防諜も同等かそれ以上に重要な役目だと言える。

 

 ノルマンディー公が死亡し、その後でプリンセスが女王になったとする。だがその時、各国のスパイに水を注いだザルのように情報がボロボロと抜かれてしまっていては、国や世界を変えるどころの騒ぎではない。

 

 そうした事情からプロフェッサーは、恐らくプリンセスが共和国に内通しているという確信を持っているであろうノルマンディー公を殺してその口を永遠に閉ざしてやりたいとは思いつつも、それが出来ないというジレンマを抱えていた。芸は身を助けるという言葉があるが、ノルマンディー公の優秀さが、そのまま彼を守る武器として機能していた。

 

<……やはり、当初の予定通りレースを続けるしかないか……>

 

 プリンセスが女王となって、ノルマンディー公が手出し出来ない立場を手に入れるのが早いか。

 

 ノルマンディー公が内通の証拠を掴んで、プリンセスを国家反逆の大逆人として告発するのが早いか。

 

 あのパーティーの時からずっと、これはスピードの戦いなのだ。

 

<……あまり、時間をかける事は出来ないか……>

 

 そう呟くと、プロフェッサーは黒いマントを翼のように広げ、月をバックにロンドンの町並みへと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様、お電話が……」

 

 自宅に戻って寝間着に着替えベッドに潜り込むと、ほぼぴったりのタイミングで家令が電話を抱えて入室してきた。

 

「どなたから?」

 

「それが……」

 

「?」

 

 いつもは打てば響く早さで明瞭な答えを返してくる執事が、今日はどうにも言葉を濁している。

 

 この反応から、電話の相手が何者なのか。プロフェッサーことシンディには既におおよその想像が付いた。

 

「はい、もしもし。シンディです」

 

<あぁ、プロフェッサー。お体は大丈夫かしら?>

 

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、予想通りの声だった。

 

「これは……プリンセス。ええ、お陰様で。お心遣い、痛み入ります」

 

 形式通りの挨拶を交わしつつ、シンディはさっさと手を振って退室するよう家令に合図した。一礼して、執事は部屋を出て行く。

 

 そうして余計な耳が無くなった事を確認すると、シンディはガスマスクこそ付けていないが、既にプロフェッサーとなっていた。

 

「何かありましたか? 現在の任務で、問題でも?」

 

<ええ……実はプロフェッサー、あなたに工場を一つ、買ってもらいたいんです>

 

「はっ?」

 



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第17話 プロフェッサー暗躍

 

 ロンドン町中の寂れた洗濯工場。

 

 夜中で人気の無くなったそこに、チーム白鳩のメンバーが集まっていた。勿論、プロフェッサーも居る。

 

 現在、チーム白鳩は昨今のタブロイド紙を騒がせている怪人『毒ガスジャック』を捕獲もしくは暗殺する任務に従事していた。毒ガスジャックは共和国寄りの要人ばかりを狙う神出鬼没の殺人犯で、しかし背後関係は無く単独犯と見られている。

 

 ちせなどは、

 

「そいつを退治すれば良いのだな? 任せろ、毒ガス使いなど物の数では無い」

 

 と、息巻いていた。

 

<……見付けさえすれば、殺すなり捕らえるなりは難しくないが>

 

 プロフェッサーも同意する。そもそも肺病によってマスクを外す事が出来ない彼女にとっては、あらゆる場所の大気が「死」に等しく、彼女はいつもその中で暮らしているのだ。今更毒ガス程度でびくともするものではない。しかし彼女の言葉にはもう一つの意味があった。見付けさえすれば。つまり……

 

 どうやって見付けるか?

 

 その問題がクローズアップされた。

 

「ぐぬぬ……」

 

 しかし手がかりはあった。

 

 奴に殺された死体の状態から見て、毒ガスジャックが使うのは神経ガス。ジュネーブ条約で製造禁止となった御禁制の品である。

 

 現在では生産もされていないそれを、下手人はどうやって手に入れたのか。

 

 答えは簡単だった。王国広しと言えど、そんな危なげなものを保管しておく場所はそう多くない。

 

 ロンドンの壁の内部にある、軍の貯蔵庫。そこに、条約以前に製造されたガスが眠っている。

 

 そして壁の構造上、貯蔵庫に行くには兵舎を通らねばならないので、犯人はそこを通っても怪しまれない人物、つまりその兵舎の人間である可能性が高い。

 

 そこまでは絞り込めたが、しかしそこからまた新たな問題が浮上してきた。

 

 兵舎の人数はおよそ1200人、しかも男ばかり。構成員全員が女性の彼女達はチーム名は白鳩なのに雪山の鴉以上に目立ちすぎる。

 

 しかしそこでアンジェが発言した。

 

「男は洗濯しない」

 

 この一言で、作戦は決まった。

 

 兵舎の軍服は全てまとめて、外の洗濯工場に出している。検査薬を使ってその中から神経ガスが付着した軍服を見付ければ良いのだ。

 

 こうした経緯から、プリンセスも含めたチーム白鳩のメンバー5人は従業員として洗濯工場に潜入したのだ。

 

 プロフェッサーは今回は待機だった。ガスマスクを装着せねば出歩けない彼女は、どんな設定のカバーを使っても町工場の従業員として働くには無理がありすぎる。

 

 これは至極納得の行く理由であったし、だからこそプロフェッサーはその時間を利用してダニー・マクビーンの面接を行ったりイングウェイ少佐と接触したりもしていたのだ。

 

 そうして潜入から数日が経った日の夜に、グランベル家にプリンセスから「工場を買ってほしい」と電話があったのだ。

 

 取り敢えず話を聞いてからという事で、連絡を受けたプロフェッサーはすぐに件の工場へと向かった。当然かも知れないがそこには、チームが全員揃っていて彼女は一番最後だった。

 

「夜遅くに呼び立ててごめんなさいね、プロフェッサー」

 

<いえ、お呼びとあらばいつ何時であろうと>

 

 一礼した後で、プロフェッサーは任務の進捗状況を確認するが……

 

 どうにも捗っているとは言い難いようだった。

 

 と、言うのもこの洗濯工場の作業効率は著しく付きで悪く、このままでは全ての服をチェックするのに一ヶ月は掛かってしまうペースであるらしい。その原因は、この工場の機械はガタがきており定期的に休ませつつ使わねばならないからだった。

 

<……それで、私がこの工場を買い取ってしまって作業効率の上昇を図れ、という事ですか>

 

「ええ……借金もあるようだけど……それも含めて、お願い出来るかしら?」

 

<お望みとあらば>

 

 少し申し訳なさそうな素振りを見せるプリンセス。一方でプロフェッサーにしてみれば、彼女が自分に対してそのような態度を見せる事自体が心外だった。

 

 プリンセスはもっとそうするのが当然であるように、「そうせよ」と命じてくれれば良いのだ。自分は「そうあれかし」と。その命令を忠実かつ確実に遂行するだろう。ましてプロフェッサーは、プリンセスに対して己という存在そのものを一枚のチップとして賭けているのだ。必要とあらば命さえ差し出す気でいるのに、たかが金如きで何をか言わんやである。グランベル家の財産を丸ごとよこせと言われたとしても、彼女は拒まなかったろう。

 

<…………>

 

 まぁ、それでも自由になる金があまり多くないプリンセスが自腹を切らずに自分を使ってくれる程度には頼りにされているのだと自己完結したプロフェッサーは頭を切り換えて、早速機械を調べる事にした。

 

<……さて……>

 

 すっと、人差し指と中指を立てた右手を内から外へと動かす。

 

 するとプロフェッサーの指先と見えない糸で繋がっているように機械の蓋が開いて中の構造が見えるようになった。

 

 プロフェッサーは手招きしてベアトリスを呼び寄せると、二人で内部を覗き込む。そして、

 

<……うわぁ>

 

「えぇ……」

 

 二人は揃って、呆れ声を上げた。

 

<何だ、これは……>

 

 頭痛を感じているように、プロフェッサーはマスクの額を義手の指で叩く。カンカン、と冷たい音が鳴った。

 

「どうなっているのだ?」

 

 機械については門外漢のちせが、少し戸惑ったように尋ねてくる。

 

 プロフェッサーは紅い光を放つ視線を向けてベアトリスに説明するように促した。

 

「グリスの差し過ぎで、しかもそのグリスが埃と絡まって固まってしまってるんです。これじゃあ、まともに動かないのは当たり前ですよ」

 

<この分では……>

 

 プロフェッサーは手を伸ばすと、磁場を使って備え付けのアイロンを引き寄せた。

 

 宙を飛んで彼女の手に収まったアイロンは、そのまま磁力によってバラバラに分解されて部品の一つ一つが空間に浮遊する。プロフェッサーはそれらの部品を順番に自分の目の前に動かして吟味していたが十数秒もすると、

 

<やはりか>

 

 予想通りという風に、吸気口から呼吸音とは別に溜息が漏れた。

 

「どうなっているのだ?」

 

<掃除が一度も行われていないのだろうな。あちこちに埃が溜まってしまっている。ここまで酷いと、埃に引火して発火したりする危険があるが……火事などは無かったの?>

 

「う……うむ……」

 

 どこか歯切れ悪く、応答するちせ。プロフェッサーはこの反応で、おおよその内情を察した。

 

<まぁ、火傷のけが人は出ても工場が丸焼けにならなかったのは、不幸中の幸いと言えるか……>

 

「事故は無くなるのか?」

 

「はい、古くなった部品を取り替えれば大丈夫です」

 

<分解清掃も必要になるが、問題無い。全て、天才である私に任せて>

 

「そうか……」

 

 ちせが、安心したように大きく息を吐いた。

 

「機械の配置も良くない。導線が複雑すぎる。作業の順番に並べれば、無駄な移動を省ける」

 

「多分、買った順番に入れていったんでしょうね……」

 

「重そうですしね……」

 

「重さならゼロに出来る」

 

「ようし、ならついでに道具の配置も変えるか!!」

 

「字が読めない人も居るから、機械の扱いは絵を使って説明しよう」

 

 アンジェやドロシーも、それぞれの意見で作業効率の改善案を打ち出している。

 

<では、工場を買い取る金は明日にでも用意するので……アンジェ、ドロシー、効率化計画の打ち合せをしよう。ベアトは必要と思う器具をリストアップして。こちらもすぐに用意させる>

 

 

 

 

 

 

 

 次の日。

 

「そこの有象無象、誰でも良いわ。社長を呼んで頂戴。フランキーが来たって言えば分かるわ」

 

 折良くと言うべきか借金取りがやって来た。

 

「分かってるでしょ社長、返済期限の事」

 

「え、えぇまぁ……」

 

「払えないって言うならこんな場末工場ぶっ潰しちゃうから覚悟しなさい」

 

 今ひとつ頼りない社長は、押し出しの強い(借金取りとは常にそういうものだが)フランキーに押されっぱなしである。ここで社長も開き直って「今月の仕事が終われば金が入ってきて利息は返せる」とでも言い返せればまだ良かったのだが、残念ながらそこまでの器量は彼に無いようだった。

 

「この工場、なくなっちゃうの?」

 

「だからあの社長に経営は無理だって言ったのよ」

 

 社長室の前に詰め掛けた従業員の少女達も、それぞれ不安を口にしている。

 

 と、プリンセスが社長室に入室した。

 

「お取り込み中失礼します」

 

「何よあんた」

 

「この工場、私が買い取ります」

 

 いきなり出たその言葉に、社長もフランキーも一瞬目が点になった。

 

 しかし、すぐにフランキーが調子を取り戻して詰め寄ってくる。

 

「何よあんた、こっちは真面目な話をしているのよ。娘っ子は引っ込んで……」

 

 フランキーがそう言い掛けた所で、プリンセスはにっこり笑うと軽く拍手を二度打った。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 独特の呼吸音が響いてきて……

 

 プロフェッサーが部屋に入ってきた。

 

 今度は先程以上に全員が固まった。

 

 今のプロフェッサーの姿は、真っ黒いローブに全身を包んで顔にはガスマスクという普段着と言うにはあまりの異装。ぶっちゃけ怪人である。

 

 通路を歩いてきた所を見た少女達も、あんぐりと口を開けて固まってしまっている。

 

<……>

 

 プロフェッサーは何も言わず、手にしていたケースを中身が社長やフランキーに見えるように開く。

 

 思わず、息を呑む音が部屋に響いた。

 

 ケースの中には、ポンド紙幣がぎっしりと詰まっていたからである。この工場の借金がどれほどあるかは不明だが、それでも工場を買い取って借金も丸ごと返済して余りあるだろう。

 

「ほ、本当に工場を買い取ってくれるんですか?」

 

 縋るような口調と目線で、社長が尋ねてくる。プリンセスはもう一度、にっこりと笑って頷いた。

 

「はい、買い取ります。借金もこちら持ちで返済します」

 

「ちょっとあんた、でまかせ言うんじゃ無いわよ、女のくせに何様のつもりいたーい、痛いの!!」

 

 苛立ち紛れに手を伸ばしたフランキーだったが、途中からは悲鳴が取って代わった。いつの間にかプリンセスのすぐ隣まで来ていたアンジェに、手首を掴まれて腕を捻り上げられたからだ。

 

「女に手ぇ上げてんじゃねぇぞクソが!!」

 

 アンジェはそのまま、東洋のブジュツ・合気道を彷彿とさせる投げでフランキーを背中から床に叩き落とした。

 

<……>

 

 プロフェッサーはそれを見て、誰にも気付かれないよう腰のベルトにぶら下げている電光剣に伸ばしていた手を引っ込めた。

 

「ケツの穴の小せぇ事言ってんじゃねぇよ!! この女が買うって言ってんだ!! 黙って売りやがれ!!」

 

「やだもう……」

 

<……>

 

 少しだけ戸惑ったように、プロフェッサーはアンジェに顔を向けた。

 

<アンジェ、そのカバーは一体何だ?>

 

「先日母親が病気で倒れた為、心を入れ替えて働く事にしたが素行は隠せない不良娘……今回の任務には最適なカバーよ」

 

<あ、そう……>

 

 プロフェッサーはそれ以上問い詰める事はせずにしゃがみ込むと、未だに床に転がっているままのフランキーと目線を合わせた。

 

<では、金額などの交渉事は私に任されている……場所を変えて、話をしよう>

 

 そう言ったプロフェッサーは、背後のプリンセスを振り返る。プリンセスは頷いて返した。これは「任せます」という意味だ。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、フランキーの事務所に通されたプロフェッサー。

 

 来客用のソファーにどっかりと腰を下ろすと、手にしていたケースをフランキーのデスクに置いた。

 

「お、おほっ……」

 

 金を出さない相手にはとことん高圧的に、逆に金を出してくれる相手にはとことん下手に出るのが金貸しである。プリンセスが借金まみれで倒産寸前の工場を買い取るという意志が本気で、プロフェッサーが金を出してくれる事が分かると、もう彼女を邪険に扱う理由は存在しなかった。

 

 それに工場を潰すというのは社長をもっと追い込む為の脅し文句で、実際には今回は利息分だけでも搾り取れれば上出来と思っていた(勿論、それでも支払いが滞るようなら本当に潰していただろうが)だけに、元金纏めて一括払いでポンと支払ってくれるなど考えてみれば棚からぼた餅である。

 

 フランキーは喜色を顔全面に出して、ケースの中の札束を確認していく。

 

 10分後、抵当に入っていた工場の代金と借金を合計した金額を受け取って、領収書をプロフェッサーに手渡した。

 

「今後ともご贔屓に……融資の際は是非弊社にご相談を……」

 

<……>

 

 プロフェッサーは無言で受け取った領収書を懐に仕舞うと、そっと手を差し出した。

 

「……?」

 

 この動作の意図をフランキーは掴みかねたが、契約が完了された事を確かめる握手のつもりなのだろうと彼も手を差し出す。

 

 だが、違っていた。

 

 じゃららららっ……

 

 プロフェッサーのローブの袖口から、光り輝くきらびやかなネックレスやブレスレットがこぼれ落ちたのだ。

 

「!! う、うおおおおおっ……!!」

 

 一瞬見ただけで、フランキーにはこれが宝石店では数十万ポンド単位で取引される代物であると見抜いた。

 

 落として傷でも付けたら一大事と、彼は今までの人生の中で初めてと思う程に素早く動いて、落下するアクセサリーを空中でキャッチした。

 

「ふ、ふうーーーーっ……」

 

 どれ一つとして床にぶつからなかったのを確かめると、大きく息を吐いたフランキーの全身からどぼっと脂汗が噴き出てきた。

 

 安心した所で、ともすればこんな超高級品を傷物にしかねなかった暴挙に及んだプロフェッサーを睨み付けた。

 

「ちょ、ちょっとあんた何考えてんのよ!! こんなの落として傷でも付けたら……!!」

 

<融資……と言うのは違うわね。寧ろその逆。私はこの会社……いや、あなた達丸ごと買い取りたい。そのアクセサリーは前金よ>

 

 プロフェッサーは、抗議はバッサリと無視して話を進め始める。

 

「買う? 私達を……?」

 

<えぇ>

 

 プロフェッサーは頷くと、窓枠にそっと指を這わせる。

 

 埃が溜まっていて、指の動いた軌跡だけに線が引かれた。

 

<これは双方にメリットのある話なのよ。もし私の話に乗るなら、こんな薄汚い事務所でしがない金貸しなどでくすぶっている必要は無い。ゆくゆくはこの町の顔役に上り詰めて、もっと贅沢な暮らしを送れる身分になれる事を約束するわ>

 

「……ほ、本気で言ってるの?」

 

<勿論、本気よ>

 

 フランキーとて、現状に不満を抱いていなかった訳ではないのだろう。プロフェッサーの言葉は、確実に彼の欲望や野心をくすぐったようだ。

 

「わ、分かったわ。それで、私は何をすれば良いの?」

 

<……>

 

 ソファーに腰掛けたプロフェッサーは一拍置くと、足を組んだ。

 

 そして次に彼女の口から出た言葉に、フランキーはバック転しながらひっくり返る事になった。

 

<『楊貴妃』を『殺し』たいの>

 

「ひ、ひぃぃいやぁあぁぁぁっ!?」

 

 悲鳴を上げ、青ざめて冷や汗だらけになったフランキーは、がたがた震えながら正気を疑うような目でプロフェッサーを見てくる。

 

「あ、あんたそれ……本気で言ってるの?!」

 

<勿論、本気よ>

 

 『楊貴妃』。それが意味する所は。

 



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第18話 プロフェッサーの戦争

 

「本当に信じているの? 世界を変えられるって」

 

 メイフェア校の食堂。

 

 深夜という時間帯もあって誰も居ないそこで、アンジェとプリンセスが向かい合って座っていた。

 

 プリンセスは、ふっと微笑する。

 

「私ね、シャーロットと堂々と一緒に居たいの」

 

 シャーロット。

 

 自分の名前で、プリンセスはアンジェを呼んだ。

 

「私だって」

 

 アンジェはそれに違和感を覚えた様子も無く、応じる。

 

「でも、そういう気持ちは私達だけじゃないわ。壁によって離ればなれになった人達が大勢居る。いつか、彼等の声が揃う時が来るわ……大きく、波のように」

 

「それを待つつもり?」

 

 どこか試すような響きを持ったアンジェの言葉に、プリンセスは緩やかに首を振った。

 

「もう十年待ったわ。それにこれからは、今までの十年と同じじゃない」

 

 それに続く言葉を、アンジェは知っていた。そこからは彼女が引き継ぐ。

 

「もう一人じゃない」

 

 いつものアンジェよりもずっと快活なその声を受けて、プリンセスは再び微笑んだ。

 

「えぇ……シャーロット、あなたやベアト……プロフェッサーも居てくれるわ」

 

「……プロフェッサー……」

 

 少しだけ、アンジェの表情が曇った。プリンセスはその変化を、敏感に読み取っていた。

 

「……シャーロット、プロフェッサーが信じられない?」

 

 この時は少しだけ自分の方が年上になったように、聞き分けの無い妹を諭すような口調でプリンセスは尋ねた。

 

「……」

 

 アンジェはしばらく黙考して、そして頷いた。

 

「そうね。私はプロフェッサーは信じられない」

 

「そう……」

 

 残念そうに、プリンセスは目を伏せた。しかし、

 

「でも」

 

 アンジェの言葉には続きがあった。

 

「プロフェッサーがあなたの為に命を懸けて働く事は、信じられる」

 

 以前に堀川公が襲撃に遭った際、プリンセスが取り残された御料車へ向かおうとする時、プロフェッサーはマスクを外してみせた。そうする事は彼女にとっては、一歩間違えれば死に直結する行動であるにも関わらずだ。彼女はアンジェの信用を勝ち取る為にそれを躊躇わずに遂行した。プロフェッサーはプリンセスの為には掛け値無しに命を懸ける。それは信じられる。

 

「ふふっ……」

 

 これは気に入る答えだったらしい。プリンセスはにっこり笑った。

 

 僅かに、アンジェはむすっとした顔になった。少しだけ、胸にもやもやとした感覚がする。

 

「……プリンセス。さっきの言葉だけど……少し訂正する」

 

「え?」

 

「プロフェッサーは信じられないと言うよりも……どこか、空恐ろしい所がある」

 

 これはプリンセスとしても同意見だったらしい。首肯する。

 

「そうね……彼女が私に忠誠を誓ってくれるのは信じられるけど、私でも彼女を完全に制御する事は出来ないわ……」

 

「プロフェッサー、彼女は放っておいたら……そのうち、たった一人で戦争でも始めてしまいそうな……そんな気がするのよ。彼女ならやりかねないと、そんな予感があるの」

 

 

 

 

 

 

 

「よ、よ、よ…………『楊貴妃』を『殺す』ですって……!?」

 

 フランキーは、目の前のガスマスクを被った怪人が正気か理性のどちらかあるいは両方を喪失している事を確信していた。顔中を冷や汗でびっしょりにして尋ね返してくる。

 

<えぇ>

 

 プロフェッサーは、鷹揚に頷いた。

 

「あなた、分かってるの? それは、この国……アルビオン王国に戦争を吹っ掛けるのと同じなのよ!?」

 

 遡る事、およそ半世紀。

 

 当時、アルビオン王国は海運大国として世界中の国々と貿易を行っていた。

 

 特に中国との貿易は盛んで、中国産の茶が暑いインド洋を渡る際に発酵して出来た紅茶はアルビオン人の口に合って、大量に輸入される事となった。

 

 しかし、問題が発生した。

 

 中国から茶を買う為には銀で支払いをせねばならなかったのだが、すると当然ながらアルビオン国内の銀はどんどんと中国に流れていって、赤字貿易となってしまったのだ。事態を重く見たアルビオン王国側は、毛織物・時計・望遠鏡などを輸出しようと試みたが、これは失敗に終わった。それらは中国側では僅かな富裕層のみが購入する代物で、需要に乏しかったのである。

 

 こうした経緯で貿易摩擦が起こり、一方的な黒字と赤字が発生した。

 

 ここで、アルビオン王国は考えた。中国へ輸出して赤字を取り戻す新しい商品が必要だと。

 

 それは『花』だった。

 

 学名・ソムニヘルム。

 

 開花後数日で子房から白色のオピウムと呼ばれる乳液を分泌する。乳液は20分ほど経過すると黒褐色に変色して凝固する。

 

 それを乾燥させたものを煙管に入れて吸引すると、その人間は得も言われぬ多幸感に包まれる。

 

 しかしそれには強い常習性があり、使い続ける内にその人間の体をボロボロに壊して廃人化させてしまう。

 

 傾国の美女『楊貴妃』とはその『花』を指す隠語である。

 

<50年前……あの、恥ずべき戦争を引き起こしたものよ……>

 

「……」

 

 フランキーは思わずゴクリと固くさえなった唾を呑んだ。いつの間にか喉がカラカラになっているのに、今まで気付かなかった。

 

<……私はね、昔……革命が起こる前に一度だけ、グラッドストン卿とお話しした事があるの>

 

「えっ!!」

 

 フランキーが目を見張る。しがない街金の彼でも、その名前は知っている。今、プロフェッサーが口にしたその名前はアルビオン王国の首相にまでなった政治家のものだった。そんな人と話せるという事は、目の前のこの少女はとんでもない大物なのかも知れないと、今更ながらに思った。

 

<あの方は、後にも先にも名誉あるアルビオン王国の一員として、あの時ほど恥ずかしい思いをした事は無いと……戦争を止められなかった事をとても悔やまれていたわ……革命の後、あの方は共和国側に行かれてしまったけど……もう一度、会いたいわね……>

 

 少しだけ、プロフェッサーの語調が優しくなった。フランキーは、ガスマスクで見えないが今のプロフェッサーは遠い目をしているような気がした。

 

<……もし、当時の議会に後9人……いや、5人で十分か。良識ある方が居たのなら……あの戦争は起こらなかったかも知れない>

 

 そうすれば開戦に賛成271・反対262が、賛成266・反対267になってギリギリではあるが開戦にはならなかったのにと、プロフェッサーはひとりごちる。

 

 麻薬は、売る側はそれを吸わないものだ。

 

 現在のアルビオン王国では麻薬の使用・売買は第一級の犯罪とされている。

 

 そう、アルビオン王国の『本国』では。

 

 逆に王国が世界中に持っている植民地では違法薬物の製造・販売は『高貴薬工作』と呼ばれる立派な国家事業となっている。

 

 そういった工作を請け負う特務機関などの謀略費・維持費は当然の事、植民地支配に必要となる戦費・占領地維持費の捻出は殆どその違法薬物の密作・密売によって成されている。

 

 つまり……そうした違法薬物を造ったり売り捌いたりする組織の最大の顧客はアルビオン王国そのものなのだ。

 

 麻薬は、生産地の組織とのコネクションや密輸のノウハウなど様々な要素が複雑に絡み合っており、それらはあまりにも完璧に構築された組織となって頭蓋骨の内側にへばり付いた軟体動物のように、この国の社会全てに密接に寄生してしまっている。『楊貴妃』を『殺す』。つまり、違法薬物を撲滅するという事が、王国相手に戦争を仕掛けるのと同義であるとフランキーが言ったのはそういう事情からだった。

 

<だが……やらねばならない>

 

 プロフェッサーは断じた。

 

<既に麻薬の問題は植民地だけに留まらない……この王国本土ですら、冒され始めている>

 

「えっ……」

 

<ここ数年……王国内の犯罪の統計は急激に伸びており……特に少年少女の麻薬犯罪とそれに伴う死者数は、警察の調べによると数年前の20倍以上にまで増加していると報告が上がっている……このままでは、やがて国全体にまで麻薬は蔓延し、その利益で全体の0.1パーセントにも満たない富裕層だけが肥え太るような歪な国が生まれてしまう……>

 

 ギュイッ……

 

 握り締めた義手が、硬質な音を立てた。

 

<私の女王が治める国が……そのようなもので、あってはならないのよ……>

 

「だ……だから、裏世界から麻薬を撲滅するって事……?」

 

<そうよ>

 

 何でもないかのように、プロフェッサーは言った。

 

「で、でも……無理よそんなの!! 相手はこの国の闇を支配するような……正真正銘の化け物なのよ。私も少しは裏に首を突っ込んでるから知ってるわ。あいつらは、人間じゃない。あんな奴らとやり合うなんて、私はごめんよ!! 殺される!!」

 

<計画書があるわ。この通りにやれば……必ず成功する>

 

 プロフェッサーはそう言って、鞄から取り出した書類を机の上に放り出した。

 

「……」

 

 フランキーは最初は話半分という様子でその書類を読んでいたが……しかし数分もすると、食い入るような姿勢になって次々にページをめくり始めた。それほどに、そこに記載されていた計画は綿密かつ成功を確信させる実現性に富んだものであったからだ。

 

 だが、それでも不安は残っているようだった。

 

「で、でも……やっぱり無理よそんなの。失敗したら、私は殺されるわ!!」

 

<……では、死ぬ事ね>

 

 プロフェッサーはあまりにもあっさりと、そう言い放った。

 

<例えばあなたが明日死んだとしても、誰も困らない。精々、三流タブロット紙の片隅にそのニュースが載るぐらいよ。だが……もし、私の計画に乗って成功した場合にはこの国、いや……世界の裏社会を清浄化した伝説のボスとして、あなたの名前は未来永劫語り継がれ、書籍や映画になったりもするでしょう。人生を賭けるギャンブルに打って出る価値は、十分にあると思うけど>

 

「うっ……」

 

 その言葉には、フランキーの中にある承認欲求や名誉欲を刺激した。

 

 もう十年以上も高利貸しの小悪党として生きてきて染み付いた目の濁りは消しようも無かったが、しかしその奥には薄暗い炎が蠢いていた。

 

「そ、そうね……それも男の生き甲斐かも知れない……一か八か……やりましょう」

 

<結構>

 

 満足そうに頷いたプロフェッサーは立ち上がると、ぱんと手を叩いた。

 

<では、取り敢えずこれから一週間であなたには、この街を牛耳るドンになってもらう>

 

「えっ?」

 

 フランキーの内側に生まれた熱に冷や水をぶっかけるには、プロフェッサーのこの言葉は十分過ぎた。

 

「ちょ……それはいくらなんでも……」

 

 どんな手品や魔術を使えば、掃いて捨てる程居る金貸しの一人でしかない自分が、街一つを支配する組織のボスに成れるというのか。

 

 フランキーはプロフェッサーが酩酊しているのではないかと疑ったが、彼女は素面だった。プロフェッサーにしてみればこれから王国全土はおろか世界中の植民地にまで根を張っている組織そのものを解体・刷新しようというのに、その程度の事が出来ないようでどうするのかという考えだった。

 

<勘違いしないよう言っておくけど……私にとって必要なのはあなたのような人であって、あなたである必要は何処にも無い。たまたま目に付いたのが、あなたであっただけに過ぎない。だから、あなたが私を裏切ったり……あるいは、一週間後に街のボスに成れていなかったなら、私はあなたを殺す。それを忘れないように>

 

 一方的にそう告げると、プロフェッサーは話は終わりだという風にフランキーに背を向けて退室しようとする。

 

 フランキーは、口の中がカラカラになってもう唾液も出なくなっていた。

 

 プロフェッサーは、まだ二十歳にもならない少女ながら嘘は言っていない。やると言ったら彼女は絶対にやるだろう。遂(や)らなければ、殺(や)られる。

 

『いっそのこと……』

 

 フランキーは、はっと気付いた。

 

 今なら、まだ引き返せる。

 

 プロフェッサーは今、部屋から出る為にスキだらけの背中を見せている。

 

 殺られる前に、殺る。

 

 それしかない。

 

 フランキーの指先が、懐の銃の感触を確かめた、その時だった。

 

「あぐっ……?」

 

 いきなり、喉が締め付けられる感触が襲ってきた。

 

 身に付けている金属製のネックレスが、誰の手も触れていないのにひとりでに動いて、彼の首をねじ切らんばかりに締め上げていたのだ。

 

「こっ……くっ……うああああ」

 

 空気を求めて口を金魚のようにパクパクさせて、何とかネックレスを外そうと両手を首にやるが、ぎしっと食い込んだネックレスは隙間が無く、指一本も差し入れる事は出来なかった。

 

 フランキーはがっくりと両膝を付いてうずくまって、懐に忍ばせていた拳銃が床に落ちて転がった。

 

 彼のズボンの前と後ろが汚れて、目が裏返りかけた所で……

 

 プロフェッサーはいつの間にか掲げていた右手をそっと下ろす。するとその動きに連動するようにして、ネックレスに掛かっていた力が失せてフランキーの喉が解放される。

 

「ハッ、ハッ、ハッ……はぁーーーっ、はぁーーーーっ!!」

 

 犬のようにうずくまったままのフランキーは、しかし新しい発見を一つしていた。生まれてこの方、空気がこれほど美味いものだとは思わなかった。

 

 空気の味を確かめている彼を振り返り、プロフェッサーが言い放つ。

 

<体には気を付けてね。途中で息切れなど起こさないように>

 

 彼女は労るように優しい口調でそれだけを言い残すと、もう振り返らずに去っていった。

 

 残されたフランキーは、十分も経過してようやく息が整うと……しかし今度は顔と言わず全身の汗腺がフル回転して冷や汗を流し始めた。

 

 思い知らされた。

 

 彼は麻薬組織の人間は化け物だと言ったが……プロフェッサーも同類だと思った。

 

 人間が相手なら、出し抜こうとか暗殺しようとかいう考えも生まれるだろう。それはある意味でその対象が『対等』の相手だからだ。プロフェッサーは違う。別の生き物だと思った。彼女が『上』で自分が『下』だと、完膚無きまでに思い知らされた心地だった。

 

 もう、自分に道は二つしか無い。

 

 プロフェッサーに、最後まで付いて行き……破滅するか絶頂に至るか。いずれかしか。

 

 その事実を、彼は本能にまで刻み込まれた。

 



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第19話 救世の為の暗殺

 

 王国内のとある港。

 

 ケイバーライトによる重力制御技術が確立された現在にあっても、未だ海運がアルビオン王国の政治・経済に占める割合は大きい。

 

 そもそもケイバーライトが未だロンドンの地下からしか発掘されない稀少鉱物である事も手伝って、覇権国家であるアルビオン王国はその配備・流通は軍が優先される。また、当然ながら他国からはケイバーライトが採掘されないし空中艦も保有してはいない。

 

 こうした事情から、やはり王国の外交・輸出入に於いて海運は重要な役割を担っていた。

 

 昼間はひっきりなしに大小無数の船が行き交うこの港も、日付が変わろうかというこの時刻では流石に人通りも無く静かなものだ。

 

 そんな港に山積みされたコンテナの上に立って、全景を睥睨している人影があった。

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 落ち着いた夜の空気に、規則正しい呼吸音が響いていく。

 

 黒いマントを羽織り、つば広の羽根付き帽子を被って、顔には鴉を思わせるペスト医師のようなマスク。

 

 両眼が、紅い光を発して輝いている。

 

 プロフェッサーだった。

 

<…………>

 

 彼女の視線の先には、一隻の木造船が停泊している。

 

 

 

 

 

 

 

 数日前。

 

「お、おほっ……!!」

 

 机の表面が見えなくなる程に敷き詰められた貴金属や札束の山を前にして、フランキーは心拍数が信じられないぐらい早くなるのを自覚した。

 

 プロフェッサーから渡された計画書。

 

 最初はそうしなければ殺されると思って嫌々ながら行動した彼であったが、一日が過ぎて二日が過ぎる頃には自発的に動くようになっていた。

 

 全てが計画書に記された通りに動いていく。まるでプロフェッサーにはこうなる事が最初から分かっていたかのように。

 

 そうして一週間が過ぎた時には、プロフェッサーがそう言った通りフランキーはもう二十年もその地位に在ったこの街の裏社会を牛耳るドンを追い落とし、その座に取って代わっていた。

 

 そうなって、彼の懐には今まで想像した事すらも無かった程の大金が転がり込んでくる事となった。

 

 ホテル、港の運送会社、建築会社、葬儀屋、レストラン……エトセトラエトセトラ。

 

 未だにこうした商売は裏との繋がりを切り離す事は不可能であり、賭博及びスポーツ賭博の営利権、高利貸しの支配権、港の密輸品の管理、レストランやホテルの支配権などそれらの利権は、何万枚もの札束や信じられない程に高級なアクセサリーに姿を変えて彼の懐へと滑り落ちてくる。

 

 ほんの一週間前までは、フランキー自身が半ば自覚が無いままにそうした高利貸しの一人でしかなかったが、しかしこうした絡繰りを経て金は集まるべき者の所へと集まるのかと、彼はこの世の真理を少しだけ理解したような気にさえなった。

 

 同時に、プロフェッサーへの畏怖の心も強くなる。

 

 最初にそれを聞いた時にはたった一週間でこの街のドンに成り代わるなど何を夢物語をと思ったものだが、彼女の言う通り動いたら本当にそうなった。

 

 恐ろしい人だ。

 

 彼はプロフェッサーの事を本当に、心からそう思ったが……しかし別の気持ちも強くなっていた。

 

 一つには、彼女ならばこの国の闇と本当に戦争して、麻薬の撲滅ですらもやってのけるかも知れないという期待。

 

 そしてもう一つは、たった一つの街を支配するだけのボスですら、これほどの大金を手中に出来るのだ。ならば仮にこの国の裏社会全てを牛耳るドンに上り詰めたとしたのならば、どれほどの金・女・権力。それを自由に出来るのだろうかと。それを、自分のものとしたいという欲望の黒い情熱が、胸中でムンムンと燃え盛り始めたのだ。

 

<楽しいかしら?>

 

「ひっ!?」

 

 出し抜けに掛けられたその声に、彼は竦み上がった。

 

 特徴的なガスマスクに、紅く光る両眼。

 

 プロフェッサーの表情の無い顔が、自分を覗き込んでいたのだ。

 

<……私の言った通りになったでしょう? これで、少しは信用する気になったかしら?>

 

 くっくっくっと、くぐもった声がマスク越しに聞こえてプロフェッサーは肩を揺らした。

 

「え、えぇ……」

 

<私はまぎれもなく天才だが……しかし凡人は中々それを理解出来ない……ならば自分の才能を示すのに口ではなく実績を以てすべきだとは思っているわ>

 

 これは道理ではある。

 

 実際に、彼女の計画書通りに動いた事で、只のしがない金貸しでしかなかったフランキーは、たった一週間でこの街のドンに成り代わった。

 

 同じような計画を、どれほどの人が考えつけるだろうか。少なくとも自分には出来ないだろうとフランキーは思った。

 

『彼女に付いて行けば、私はもっと甘い汁が啜れる……』

 

 そんな内心が肉体にも反映されて、開けっ放しの唇の端から涎が垂れる。

 

 そのままでフランキーは膝を折ると、プロフェッサーに臣従の姿勢を取った。

 

「私は貴女に付いて行くわ……ボス。地獄の底まで」

 

<……結構>

 

 プロフェッサーは頷きを一つする。

 

 そして、一枚の写真を差し出した。

 

「……これは?」

 

<早速、あなたに一仕事頼みたいのよ>

 

 写真を見るフランキー。

 

 解像度が荒く写真写りも悪いが……どうやら船の舳先のようだ。

 

<今日から恐らく数日以内に、その船が港に来港する筈……どこの港に入るのか? あなたに調べて欲しいの>

 

「……わ、分かったわ……」

 

 そう言われたフランキーは、理由は聞かなかった。

 

 余計な事は聞かない、知ろうとしないのが、この世界で長生きする為の秘訣であると彼は知っていた。

 

 頭を切り換えてもう一度写真を良く見てみる。

 

 見えにくいが……船の名前が、船体に書かれているのが辛うじて見えた。

 

「……D……E……デミトリ号……?」

 

 

 

 

 

 

 

 現在。

 

 深夜で人通りの無い港を進んで、電磁力で体を浮遊させたプロフェッサーはその船……デミトリ号の甲板へと降り立った。

 

 そうして、船内へと侵入していく。

 

 用心の為に扉が施錠されてはいたが、しかしそれらはプロフェッサーにとっては何の障害にもならない。

 

 電気によって磁場を操る彼女は、金属を自由にコントロールする事ができる。

 

 彼女が手をかざしただけで「開けゴマ」と唱えられた千夜一夜物語のドアのように、全ての鍵は開いて「どうぞいらっしゃいませ」と言っているかのようにプロフェッサーを受け入れた。

 

 船内を歩くプロフェッサーは、やがて目的地へと辿り着く。

 

 さほど多くはない客室の中でも、特に奥まった所にある貴賓室だった。一目で、この船の乗客の中で最も位の高い者の為の部屋だと分かる。

 

 この部屋の鍵も、プロフェッサーの前には役に立たない。

 

<……>

 

 彼女がすっと指をかざすと、ガチリと鍵の外れた音が鳴って……そしてドアノブが回って、ドアが開いた。

 

 この船室は異様な部屋だった。

 

 家具や調度品は全て一級品が使われているが、しかし部屋の窓という窓は全て板が打ち付けられていて、僅かな光すらも入らないようになっていた。

 

 部屋の中央には巨大なベッドがあったが、このベッドにも天蓋からは劇場の舞台で使われる暗幕のような分厚い真っ黒な布が降りていて、本当に一筋の光からもベッドで眠る主を遮断するようになっていた。

 

 プロフェッサーは無言で、暗幕をめくる。

 

 ベッドで横になっていたのは、肌触りの良さそうな高級品の寝間着を纏った壮年の紳士だった。

 

 恐らく年齢は50に届かないように見えるが、髪は混じりけの無い雪のように白い。

 

 顔色もプロフェッサーのそれと同じように病的に青白く、彼は今まで日に当たった事が無いのではなかろうかとさえ思えた。

 

「う……うむ……?」

 

 人の気配を察してか、その紳士は目を開けて……そして両眼を飛び出さんばかりに見開いて、表情を凍り付かせた。

 

 紅い目を光らせて、ペスト医師の仮面を付けた怪人が自分を見下ろしていたのだから。

 

「だ……」

 

 「誰だ」とプロフェッサーに問おうとしたのだろうか。

 

 あるいは「誰か来てくれ」と叫ぼうとしたのだろうか。

 

 どちらにせよ、それよりも早くプロフェッサーが手にした電光剣の柄から紅い光の滝が落ちて、彼の心臓に突き立てられた。

 

「ひゅうっ……」

 

 口から空気が抜けるような音を立てて、その紳士は絶命した。

 

 プロフェッサーは首筋に手を当てて脈が止まっている事を確認すると、念の為に男の首を切断した。ゴロリと、頭が床に転がる。

 

 電光の刃を消して柄をベルトに付けたプロフェッサーは、切断面が焼却されて血も出ていない首無し死体を見下ろす。

 

<……すまないわね、伯爵……あなた自身には何の罪も無いのだけど……私の女王が治める王国……そしてこの先の世界に、あなたが居てくれては困るのよ>

 

 それだけを言い残して、プロフェッサーは融けるように闇へと消えた。

 

 翌日、その船、デミトリ号の貴賓室では近くロンドンに移住する予定であったトランシルヴァニア貴族・ドラキュラ伯爵の死体が発見されて大騒ぎになった。

 

 

 

 

 

 

 

 ドラキュラ伯爵暗殺さる!!

 

 アルビオン王国のとある屋敷の一室で、ベッドに横たわった老婦人がそのニュースが載った新聞を広げていた。

 

 彼女の年輪のように皺を刻んだ顔には、悲しみとも苦悩ともいえない表情が浮かび上がっている。

 

 老婦人が新聞を閉じたその時だった。部屋のドアが4回、規則正しくノックされる。

 

「どうぞ」

 

 しわがれた声で返事をして、一拍置いてドアが開く。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 呼吸音が、部屋に響く。

 

 入室してきたのは黒いローブを纏ってガスマスクを被った怪人。プロフェッサーだった。

 

「あぁ、良く来てくれましたね……シンディ」

 

 老婦人はプロフェッサーの異装に驚いた様子も無く、手を振って席を勧める。

 

<婦長……お体の方は如何ですか?>

 

 マスク越しの声ながら、プロフェッサーの声には老婦人を気遣う響きがあった。

 

 その言葉を受けて、老婦人は柔和に微笑む。

 

「私はもう婦長ではないわよ……今日は、とても調子が良いの。お陰様でね……」

 

<……失礼致します>

 

 プロフェッサーは、ベッドの傍らの席に着いた。

 

 義眼がキュイッと鳴ってピントを合わせて、ベッドの傍らの新聞へと動く。

 

<見ての通り、婦長……あなたからの依頼は完遂しました……>

 

「……ごめんなさいね、シンディ……あなたに、こんな事をさせて……」

 

<お気になさらず。それに、このような話を理解出来て依頼を遂行出来るのは、王国広しと言えど天才である私ぐらいしかいないというのは、分かっています>

 

「……しかし、それにしてもこれは我ながら突拍子も無い話でした。私があなたを騙そうとしているとは、考えなかったの?」

 

<はい>

 

 プロフェッサーは即答した。

 

<こと、『命を救う』……その一点に於いて、貴女が虚言を弄する人ではない事は、私は知っております。仮に貴女がそのような人物なら……そもそも看護婦としてクリミアに行かれたりはされないでしょう。貴女の言葉を、私は信じています>

 

「……ありがとうございます、シンディ。これで恐ろしい病原菌は、この世界から消えました……」

 

 老婦人は天を仰ぐと、ふうっと深く息を吐いた。

 

 トランシルヴァニア貴族・ドラキュラ伯爵の家系は代々特殊な病に冒されていた。

 

 それは一言で言うのなら、変種の狂犬病である。

 

 通常の狂犬病と同じくこの病に罹った者は、あらゆる感覚が鋭敏になる。

 

 視覚が鋭くなるので、太陽光やそれを反射する流水や鏡を嫌がるようになる。

 

 嗅覚が鋭くなるので、ニンニクのような匂いが強い食べ物を受け付けなくなる。

 

 恐ろしいのは、この狂犬病には先年パスツールによって発見されたワクチンが効果を発揮しないという点であった。

 

 そしてこの病は宿主をすぐ殺すものではなく共生するタイプではあるが、宿主の性質を凶暴化させて近付く者に噛み付きや引っ掻きなどを行うよう攻撃的にさせる特徴がある。そして、その噛み付いたり引っ掻いたりする傷からも病は感染する。そうして感染した被害者も同じように凶暴・攻撃的になって他人を襲い……そうしてその襲われた者も同じように……と、倍々ゲーム・ネズミ算の速さで罹患者を増やしていく。

 

 1が2に。2が4に。4が8に。8が16に。16が32に。32が64に。64が128に。128が256に。256が512に。512が1024に。

 

 増える。増え続ける。

 

 それでもトランシルヴァニアの山奥ならばまだ被害の拡散は抑えられていたが、人口の坩堝でしかも島国であるアルビオンにこの病が持ち込まれたら……

 

 恐らく一週間とは必要とはせずに、ロンドンどころか王国全土が死都と化すだろう。

 

 この老婦人は医療関係については各方面にコネクションがあり、集まった情報を分析してこの結論に至り、何とかドラキュラ伯爵が王国に移住するのを止めようとしたのだが……

 

 そのような突拍子も無い荒唐無稽としか言い様が無い話を。そんな恐ろしい病が存在する事を。一人を除いて誰も信じなかった。

 

 そして伯爵の移住を、彼女は止められなかった。

 

 もう手段は選んでいられない。

 

 どうにかしてこの病気の蔓延を防がなければ手始めに王国が。そして然程の時を置かずして被害は輸出入を行う船に乗って地上全土に広がるだろう。そうなっては全てが終わる。

 

 その前に、何とかしてこの病を撲滅せねばならない。

 

 方法は一つ。

 

 宿主が死ねば、その体を宿としている病原菌もまた死滅する。

 

 しかしここで次の問題が持ち上がった。

 

 誰がそれをやるのか?

 

 本当なら老婦人が自らやるのが筋だが、彼女は37才の時に心臓発作で倒れて以来、虚脱症状に悩まされて殆どベッドの上での生活でありとてもそれが出来る体ではなかった。

 

 ヤクザやマフィアなど論外。それをネタに脅されたり、もしかしたらその病を利用して金を儲けようと画策するかも知れない。

 

 信用出来る者は、一人だけだった。突拍子も無い自分の話をたった一人だけ信じてくれた者。

 

 グランベル侯爵家令嬢シンディ・グランベル。つまりプロフェッサーだ。

 

 老婦人はプロフェッサーに全てを打ち明け。

 

 そしてプロフェッサーはそれを信じ、依頼を受諾した。ちょうどこの街を掌握していたフランキーに情報を調べさせ、伯爵の乗った船が寄港する港を特定し、そしてドラキュラ伯爵を殺害したのである。

 

「……命を救う為に命を奪う……矛盾していますね……」

 

<仕方の無い事でしょう。この場合、選択肢は無かった。抜き差しならない状況だった。遅きに失していれば王国はおろか世界が終わっていたかも知れない一大事であったのです。選択の余地は無かった。私は婦長、あなたの決断が間違いでなかったと信じています。今の医学の、それが限界点なのでしょう>

 

「……ありがとうございます、シンディ。そう言ってくれると、私も救われています」

 

<……は>

 

 プロフェッサーはそう言うと、話は終わりだと立ち上がって退室しようとする。

 

 そうしてドアから出ようとして、

 

「シンディ」

 

 背中に掛けられた声に、振り返った。

 

<はい、婦長>

 

「確かにあなたの言う通りです。今の医学は、これが限界……でも、いつか……いつか医学は進歩して病気は根絶され、怪我人の出ない世界が来ます。いつか、いつか……きっとね。あなたの体も、未来には治せるようになるかも知れない。それが、十年後か百年後かは……私にも分からないけど」

 

<……>

 

「だから」

 

 そう言って、一度老婦人は言葉を切って。そして孫娘に言うように優しい目と表情と声で語り掛けた。

 

「未来に、希望を持ちなさい」

 

<……はい、では、婦長。お元気で>

 

「私はもう、婦長ではありません」

 

 そのやり取りを経て、プロフェッサーは退室した。

 

 この老婦人と、プロフェッサーが会ったのは、これが最後だった。

 

 後に、この老婦人の名前を冠した看護学校にグランベル家から多額の寄付が行われる事となるのだが……それはまた、別の物語である。

 



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第20話 最後の幸運

 

 ロンドンの一角、通称『幽霊通り』と呼ばれる区画。

 

 ここを通った者はその半分が生きて帰っては来ないと言われている。それも必然、幽霊通りの名前の由来はこの先がモルグ(死体置き場)に通じているからである。

 

 工場からの排煙が雲を作っているようで昼尚暗いロンドンであるが、それにしてもこの幽霊通りは一層暗い。それは実際に日当たりが悪いというだけではなく、何が起こっても不思議ではないとでも表現すべきか、そんなおどろおどろしい空気がこの一角にはわだかまっているように思えて、ここを通る者には実際よりもっと暗く見えていた。

 

 そしてそうした印象は、決して偏見とは言えない。

 

 類は友を呼ぶと言おうか朱に交われば赤くなると言うのか。

 

 どこか後ろ暗い側面を持っていたり脛に傷のある者が集まって、法に触れるような行為もごく日常的に行われており、更に治安の悪い一角にあっては人目が無ければ強盗や刃傷沙汰も日常茶飯事であったりする。とどめにそうした行為を取り締まるべき警官達も賄賂を受け取って彼等の行為を半ば黙認するような、末法としか言い様の無い状態であったりする。

 

 流石にそういう最危険地帯からは外れてはいるものの、それでも二番目か三番目かぐらいに治安の悪いエリアにフランキーの事務所はあった。

 

 ここはまだほんの一月も経ない過去に彼がしがない高利貸しであった時に使っていたもので、立ち並ぶ古いビルの一角の、ゴキブリがもれなく同居人として付いてくる優良物件であった。

 

 表向きとは言えこの街を支配するボスの座に就いたからにはもっと一戸建ての豪華な屋敷に引っ越して、執事やメイドを15人ぐらい、運転手は3人ぐらい雇いたいと思って彼はプロフェッサーに申し出たが、にべもなく却下された。

 

<目立つ事は暗殺に繋がる>

 

 この一言で、全て済まされた。

 

 しかしこれはフランキーとしても納得の出来る正論であったので、押し黙るしかなかった。

 

 彼も裏社会に首を突っ込んでいる身であるが故、暗殺がどれほど恐ろしいものかは身に染みている。そしてそれを避けるには目立たない事こそ肝要であるという事も知っている。マフィアに追われる身でありながら、行きつけのレストランに子牛の煮込みを食べに行って殺された男の話も聞いた事がある。いくらロンドンの闇を支配するボスに上り詰めても、その後すぐに殺されてしまったのでは意味が無い。

 

 フランキーがプロフェッサーに従うのは半分は逆らえば即座に殺されるという恐怖があるが、もう半分はその物欲故だ。

 

 彼は一瞬の伝説・逸話を遺すのではなく長く裏世界のボスの座に君臨して、栄耀栄華を極めたいと欲望している。

 

 その為には、この程度の我慢は必要経費であろうとフランキーは自分自身を納得させた。

 

 この日、事務所にプロフェッサーが姿を見せた。

 

 フランキーも彼の部下も、弾かれたように反射的に起立し、ぴんと背筋を伸ばす。

 

<挨拶は良いわ>

 

 そっと義手を動かして「座って良い」と合図すると、プロフェッサーはあちこちが破けて中の綿が見えてしまっている来客用のソファーに腰を沈めた。

 

<ダニー・マクビーンの借金の一本化は終わったの?>

 

「ええ、ボス。詳しくはこれを」

 

 証文などを取り纏めて百科事典のように分厚くなったファイルを、フランキーが差し出してきた。受け取ったプロフェッサーがそれに目を通していくと……

 

<……うわぁ>

 

 酒・女・ギャンブル……さしもの彼女も思わず頓狂な声を出してしまう程の、酷いとしか形容の出来ない金の流れの状況がそこには記載されていた。

 

 この反応はさもありなんと、フランキーは肩を竦める。

 

「あいつ、私達以外にもあちこちから借金してたみたいね。それでコゲ付いて、首が回らなくなっていたみたいよ」

 

<……事故で蒸気技師を続けられなくなって、酒に逃げて、女を抱いて、ギャンブルにも手を出して……お決まりと言えばお決まりのパターンね……薬に手を出していない事だけが、唯一の救いか>

 

 そう、口では呟きながらプロフェッサーは脳内では別の事を考える。

 

『……だから、ノルマンディー公の誘いに乗ったのか……』

 

 数日前より、コントロールからチーム白鳩の中でドロシーだけに(正確には連絡員としてベアトリスも随行)別任務が言い渡されている。

 

 王国外務省の暗号表が、死亡した連絡員の体に埋め込まれている。その連絡員の死体はモルグに運び込まれてくる筈なので、それを回収してこいというものだ。

 

 この任務がチーム白鳩の中でドロシーにだけ下されたのは、連絡員の死体を見分けられるのがモルグで働いているノルマンディー公の協力者で、その協力者がダニー・マクビーン、ドロシーの父親であったからだ。

 

『……存外、世の中は狭い……』

 

 これを聞いた時には、ガスマスクの下でプロフェッサーは驚きに顔を歪めたものだ。

 

 自分が目を付けて雇い入れよう(囲い込むとも言う)としていた彼が、まさかドロシーの父親であったとは。

 

『逆に、借金苦で金で動くからノルマンディー公に目を付けられたのか……』

 

 人情や義理よりも、やはり金や利害で動く者の方がその行動を御しやすくもあり予測しやすくもある。

 

 そして……現在のダニーのような昔が忘れられず見栄っ張りでそこからの逃避で遊び好きな……一言で形容するならクズは、世の中から消えた所で全く問題無いし誰も困らない。実娘であるドロシーだって、この任務を受けるまでは何処で何をしているか全く知らなかったのだ。つまり、面倒な事になれば始末する事も簡単だという判断である。

 

 多分、ノルマンディー公の配下の誰か(多分秘書官であるガゼル)は「依頼を完遂すれば金をやる」とでもダニーに言っているのだろうが、支払われるのが金は金でも金属、特に鉛である可能性も往々にして有り得る。ちせの国に伝わる小咄では、札束を出せと言ったらイモの束を出すというオチもあったらしい。

 

『さて、どうするか』

 

 プロフェッサーとてダニーはいよいよとなったら切り捨てて構わない存在でしかないが……しかし替えが効かない事もないが、さりとて腕の良い技術屋は鉄砲玉にしかならないチンピラと違ってそこまで補充が容易という訳でもない。結論は、無理をしない範囲で彼をフォローするかという所に落ち着く。

 

 それにドロシーの手前もある。少なくとも自分に火の粉が降りかからない範囲内で、彼女の力になる事はやぶさかではない。

 

<彼の借金は私が払う。お金は今日にでも振り込ませるわ>

 

「分かったわ。ところで、ボス。面白い話を聞いたのだけど」

 

<ほう?>

 

 足を組み直したプロフェッサーの義眼が動いて、キュイッと音を立ててフランキーにピントを合わせた。

 

「この街の阿片窟で、変わった客が居るって話なんだけどね……」

 

<……>

 

 阿片窟。

 

 その単語を聞いて、表情は見えないがプロフェッサーは体を揺すって、明確に不機嫌な仕草を見せた。

 

 阿片窟とは読んで字の如く、阿片を売ったりそこで阿片を吸引させたりする店の事だ。この国の裏社会を清浄化して阿片を根絶しようとしている彼女にとっては、耳障りの良い単語ではないだろう。

 

<……それで、その珍しい客というのは?>

 

「いや、一人の放蕩貴族なんだけどね……」

 

<ふむ?>

 

 それだけなら珍しい話でも何でもない。

 

 親から多額の遺産を相続したは良いが使途が思い付かずに、酒や女に注ぎ込んだあげく今度は薬……貧困層であるダニーとは別パターンの、富裕層にお決まりの転落パターンではある。

 

「ただその男……本当ならもう40才をとうに超えている筈なのだけど……どう見ても外見が20才になったばかりにしか見えないぐらい若くて美しいって評判なのよ」

 

<ほほう?>

 

 今まではソファーの背もたれに体を預けていたプロフェッサーが、身を乗り出した。スパイであるチーム白鳩に所属していても、プロフェッサーの本職はやはり科学者である。好奇心を刺激してくれる対象には興味を惹かれるのだ。

 

<……名前は分かる?>

 

「ボスならそう言われると思って、分かる限りの略歴も既に調べてあるわ。こちらを」

 

 差し出された別の書類を受け取ったプロフェッサーは、手元の文章に義眼のピントを合わせた。

 

<……ドリアン・グレイ……?>

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あんたは?」

 

<あら……>

 

 百聞は一見に如かずという言葉もある。

 

 やはり実際にその貴族を見ない事には何も始まらない。若さを保っているのが単なる若作りなのか、それとも何かのトリックがあるのか。

 

 若作りという線も大いに有り得る話ではある。勿論個人差はあるが、女は化粧で外見と実年齢に相当サバを読む事が出来るし、少なくはあるが20年経っても変わらない人だって男女問わず居るには居る。一世紀が過ぎるくらいには、全然老けなくて吸血鬼疑惑が持ち上がるような作家だって現れたりするかも知れない。

 

 可能性は五分五分。だからこそ自分の目で確認するのだ。

 

 そう考えたプロフェッサーはフランキーの事務所を出ると件の阿片窟へと足を向けたのだが……その道中でダニーと出くわした。この幽霊通りでは顔を隠したり全身をローブで包んでいるような者も珍しくはなく、プロフェッサーの異様な風体もそこまで目立つものではなかった。

 

<立ち話もなんだ。どこかの店に入ろうか>

 

 そう言ってプロフェッサーは、すぐに目に付いたあまり店先の掃除が行き届いていない酒場へと入る。ダニーもそれに続いた。

 

 ストローが無いのでプロフェッサーは何も注文しないが、一方でダニーはまだ日も高いと言うのにさも当然のようにアルコールを注文した。

 

<……>

 

 少しばかり沈黙するプロフェッサー。

 

 しかし気を取り直して話を続ける。

 

<少し時間が掛かってしまったが、あなたの借金の取り纏めは終わった。約束通りそのお金は私が支払って、あなたを技師として雇いたいと思う>

 

「その事なんだがよ」

 

 やや言い辛そうな雰囲気で、ダニーが切り出した。

 

<何か?>

 

「娘と会えたんだ」

 

<……娘>

 

 ガスマスク越しでダニーには分からなかったが、プロフェッサーの片眉がぴくりと動いた。

 

「奇跡なんだよ。すっかり諦めてたんだ。その娘と会えて……だから俺たちにはやり直す為の金が要るんだ」

 

<……だから、契約金を更に加増しろと?>

 

 どこか呆れたように、プロフェッサーが言った。

 

 契約金として借金を全て清算して、十分な給料を支払い住居を用意するというのは破格の条件である。その上で更に金を上乗せしろとは。面の皮が厚いとはまさにこの事だ。

 

 とは言え、流石にダニーにも恥という概念は残っていたらしい。だから先程は言い出しにくそうにしていたのだろう。

 

「あいつ綺麗だからよ。服でも買ってやって一緒に街を歩くんだ。『どうだ、俺の娘は綺麗だろ』って言ってさ。こんなクソみたいな人生からオサラバして、今度こそ俺は生まれ変わるんだ!!」

 

<……>

 

 一瞬だけ、プロフェッサーの脳裏にそんな光景がよぎった。

 

 今よりもう少しはパリッとした紳士服に身を包んだダニーと、たまの外出にちょっとおしゃれした町娘のようなドロシーが並んで街を歩いていて……

 

 それが難しいであろう事を、プロフェッサーは知っている。

 

 10年前のあの革命から現在に至るまで、多くの事が変わってしまった。

 

 マクロは世界情勢から、ミクロは家族関係に至るまで。

 

 ダニーは知らないが今のドロシー(彼の話によると本名はデイジーというらしい)は、共和国のスパイ。今更足抜けなど出来る訳がないし、頻繁にダニーと会ったりも出来ないだろう。無知とは幸福であり、同時に不幸だ。

 

『だが……その程度の希望は持たせてやっても良いか。彼にも、ドロシーにも……飴と鞭は、使い分けなくてはね』

 

 自身の判断に多少は情が絡んでいて不合理・不効率である事は自覚しつつ、だがそれは最終的な結果には影響しない『ゆらぎ』の範疇でしかないと結論付けて、プロフェッサーは決断する。

 

 それに、ダニーにはまだ運があるようだ。もし金の加増を申し込んだのがノルマンディー公の手の者だったのなら、彼は確実に消されていただろう。

 

 契約を履行してキッチリ約束の報酬だけを受け取る相手なら信用して今後の仕事も任せられるだろうが、土壇場になって報酬の追加を要求してくるような……とどのつまり金で動くのではなく金に汚い奴は信用されない。つまりそれは、より多額の報酬を提示されたらあっさりと自分達を裏切るからだ。そんな不確定要素は、排除するのが鉄則。

 

 話を持ち掛けてきたのが金以外にもダニーの行動を制御出来るカードを持っていて、そして彼の話が真実であると知っているプロフェッサーである分、彼は幸運だった。

 

 だがその幸運もいつまでも続きはすまい。恐らくはこれが最後だろう。

 

<……いいだろう>

 

「えっ!!」

 

 もっと渋られると思っていたのだろうか。ダニーが意外そうな反応を見せる。

 

<借金の完済に加えて、給料半年分を契約金に加算する>

 

「あ、ありがてえ!! あんたは神様だよ!!」

 

 興奮したダニーが席を立って、プロフェッサーのすぐそばに跪くと彼女の手を取って頬ずりを始めた。プロフェッサーは彼の手を振り払うでもなくされるがままにしていたが……

 

<ただし、条件が二つ>

 

 ウィンと、手袋越しでも分かる駆動音を鳴らしてプロフェッサーの、ダニーの右手の物とは比べものにならない程に高精度の義手が動いた。

 

 ここから話す内容は、プロフェッサーに言わせれば慈悲であり忠告だった。彼女はダニーに釘を刺しておく事にしたのだ。

 

<一つには、これ以上欲を掻かない事……あまり図に乗らないようにね……>

 

 ガスマスクを経由しての合成音のような声だが、そこに先程までは無かった底冷えするような寒さが宿っているのは、鈍いダニーにも感じ取れた。

 

「あ、あぁ……流石の俺も、そこまで強突く張りじゃねぇ……」

 

<結構、そしてもう一つの条件は……>

 

 僅かに間を置いて、そうして続けられたプロフェッサーの声はオクターブが一段低くなっていた。

 

<今、あなたが引き受けている仕事からはすぐ手を引くのだ>

 

「え……そりゃあ、あんたの所で働くからには死体漁りは……」

 

<違う>

 

 とぼけているのか、それともプロフェッサーの言葉の意を掴み切れなかったのか。

 

 少なくともプロフェッサーは前者だと受け取った。

 

<ノルマンディー公とは手を切れと言っているの>

 

 事も無げにそう言われて、ダニーは明確に動揺を見せた。

 

「な、何でそれを……」

 

<この街で起こる事で、私に知らない事は無い>

 

 ずいっと、ダニーの眼前に顔を出して額を付き合わせるようにしてプロフェッサーは凄んでみせる。

 

<良いか? ノルマンディー公の捜し物は探せなかった事にして、もう彼等とは縁を切るのだ。それが約束出来ないなら……>

 

 プロフェッサーはそう言って、テーブルに置かれていた金属製のスプーンを手に取ると義手のパワーで先端を二つに引き裂いて、先割れスプーンに改造してしまった。そうして尖った二つの切っ先をダニーの眼前に突き付ける。思わず「ひっ……」と上擦った声が彼の喉から漏れる。

 

 もし自分がプロフェッサーの言う通りにしなかったならどうなるか……その未来を想像して、体中を伝う不快な感覚から冷や汗を掻くとはこういうものかと、ダニーは漠然と思った。

 

<言っておくが、これは脅しではない。私は殺ると言ったら手間も経費も度外視して絶対に殺る。世界中何処へ逃げても地の果てまであなたを追い詰めて確実に暗殺する>

 

 この言葉には一切の誇張も虚偽も無い、単なる通告である事がダニーは直感的に理解出来た。さっきまでプロフェッサーは人間だった。でも今は違う。人の形をした、別の生き物のように思える。ライオンの前の兎と言うか、被食者が捕食者を前にして抱く感情とはこんなものかと、ダニーは理解した気がした。

 

<……よろしいな?>

 

「あぁ、分かった。分かったよ」

 

<結構>

 

 先程までの威圧感を消して人間に戻ったプロフェッサーは立ち上がると、懐から何枚かのポンド札を出してテーブルに置いた。

 

<では……私はこれで行くので……後はあなた一人で楽しんで>

 

「あ、あぁ……」

 

 そうしてプロフェッサーが退店すると、ダニーも置かれた札束を握り締めてすぐに酒場を飛び出すと別のパブへと駆け込んでいった。この幽霊通りでは、一際繁盛している店だ。

 

 そんな彼の姿を、ビルとビルの狭間からプロフェッサーが見送っていた。

 

 パブの曇りガラス越しだが……彼が語り合っている人影は、ドロシーのものであることを彼女の義眼は判別する。

 

 仲直り出来るか、これからも上手くやっていけるかどうかは天才であるプロフェッサーの頭脳をして計り知れないが……

 

<まぁ、たまにはこういうのも良いだろうさ……>

 

 プロフェッサーはそう呟いて、ロンドンの闇に消えていった。

 



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第21話 アンジェVSプロフェッサー

 

 アルビオン王国軍の兵舎。

 

 沈痛な表情で整列する兵士達の前には、いくつもの棺が並んでいた。

 

 世界中に植民地を持つアルビオン王国は当然ながら多種多様な人種の坩堝であるが、そこには明確な区分が存在する。極めて簡単に言えば、アルビオン王国本国の出身者とそれ以外の2つだ。政治や軍事の中枢は当然ながら前者がその殆どを占めており、逆に後者は工場やケイバーライト採掘場での労働力や、軍であれば銃弾の矢面に立つ前線へと配属される。

 

 10年前の革命で壁によってロンドンが東西に隔てられてからも、王国と共和国の間では慢性的に小規模な戦闘が頻発している。そしてつい先日にもそれがあった。

 

 そして戦闘が発生する以上、負傷者や死者が出るのは必然であり、その死者が植民地の出身者である事もまた必然であった。

 

 略式ながら葬儀が終了して殆どの者がその部屋から退出した後も、一人だけ並んだ棺の前で立ち尽くしている軍人がいた。

 

 軍服の階級章から、佐官クラスであると分かる。

 

 以前、グランベル家を訪ねていたイングウェイ少佐であった。

 

 棺の中で眠っているのは、全て彼の部下だった。

 

 彼等の顔も家族構成も、イングウェイは全て覚えている。

 

 次の休暇を楽しみにしていた者も居た。

 

 家族に会いたいと口癖のように言っている者も居た。

 

 恋人の為に、手柄を立てたいと語っていた者も居た。

 

 今はその誰も、もう話さないし動かない。

 

 イングウェイは自問する。上官である自分は部下達の家族や恋人に、彼等の銃を持って会いに行かねばならないだろう。

 

 その時、自分は何と言えば良いのか。

 

 「息子さんは女王陛下の為に立派に戦って死にました」?

 

 「殺したのは国泥棒の共和国の兵士です。私のせいではありません」?

 

 「彼等の死は指揮官である私の責任です。それで気が済むなら、好きなだけ私を殴って下さい」?

 

 答えは出ない。

 

 彼等の帰りを待っていた人達に自分は、どう言えば? 何と答えれば?

 

 移民、貧困、格差……

 

 持てる者は何もせずともより多くの物を得て、持たざる者はどれほど働いても報われない。

 

 この国は腐っている。

 

 誰かが先頭に立って、この国を変えなければならない。

 

「ミス・グランベル……」

 

 シンディは言っていた。今は待って力を蓄え、信頼出来る同志を募れと。

 

 だがそれはいつの話になるのだ?

 

 一年後か? それとも十年後か?

 

 それまでの間に何度こんな戦いがあって、自分は何度こうして部下や戦友を見送らねばならないのだ。

 

 それまでの間に、どれほどの民が困窮に喘ぐのだ?

 

「……!!」

 

 噛み締めた歯がぎりっと鳴って、彼は心中で一つの事を決めた。

 

 もしシンディがこの場に居たのなら……彼女は「早まった事はやめてください」と自分を止めたろうとイングウェイは思う。一方で彼自身の見解は違っていた。

 

 自分達が立つのは、遅過ぎたぐらいだと。

 

 その時だった。

 

「あぁ……イングウェイ少佐は、ここにおられましたか」

 

「!」

 

 背後からの声に、警戒しつつイングウェイは振り返る。

 

 そこには、一人の女性が立っていた。

 

 すらりとした長身で、ハシビロコウのように鋭い瞳をした女性が。

 

「私はゼルダ。この国の今後について……是非、お話ししたいと思いまして。あなたを探していました」

 

 

 

 

 

 

 

「う……うむ……?」

 

 後先考えずに思い切り酒を飲んだ次の日の目覚めのような頭の重さを感じつつ、その男は目を開けた。

 

 目に入ってきたのは寝室の天井ではなく、どこかの病院のような無影灯の眩しさだった。

 

「ほほはほほは?」

 

 此処は何処だ? そう言おうとして、口が動かずに舌が回らないのに気付いた。

 

 見えないが、猿ぐつわかギャグのようなものが口に噛ませられている感覚があった。

 

「ひゃ、ひゃにひゃひゃった?」

 

 混乱しつつも起き上がろうとして……しかし体がベッドに縛り付けて固定されているのが分かった。

 

 頭、首、肩、肘、手首、腰、膝、足首……

 

 関節という関節がベルトで縛り付けられて、雁字搦めにされていた。

 

 一体全体何が起きたのか……?

 

 彼は体の中で唯一自由になる頭を使って、覚えている限りの記憶を辿ってみる。

 

 昨日は確か、行きつけの阿片窟へ行って……そしてたっぷりと楽しんで、その帰り道で……

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 そこまで思考が動いた所で、それまで無音だった部屋に、呼吸音が響き始めた。

 

 目の筋肉を限界まで使って眼球を動かした彼の視界に入ってきたのは……全身を真っ黒いローブに包んで、顔にはガスマスクを装面した怪人だった。プロフェッサーだ。

 

<あぁ、ようやくお目覚めですか。ドリアンさん>

 

 男とも女ともつかないくぐもった声で、プロフェッサーはその男、ドリアン・グレイを真上から覗き込みながら言った。

 

「ほはへははへは!?」

 

<私が何者かなど、どうでも良い事でしょう? どのみち、あなたが知った所で、誰に語る事も出来ないのだし>

 

「ははひほほうふふふほりは!?」

 

<うん? まぁ、自分がこれからどうなるのかぐらいは、知っておいても良いか>

 

 プロフェッサーはそう言うと、ドリアンが拘束されているベッドのすぐ傍らの台に置いてあった一枚の肖像画を手に取ると、彼に見えるようにかざす。

 

 ドリアンの顔がさっと青ざめた。

 

 肖像画に描かれていたのは、品性の下劣さが滲み出たように醜悪な笑みを浮かべた、醜い容貌の男だった。

 

 顔にはシミや皺があちこちに刻まれていて、真っ白になった髪は抜け落ちて薄くなって、中途半端に残っているのが余計に見苦しさを強調していた。

 

 幽霊通りやスラムの浮浪者と言われても少しの違和感も無いような男だったが、しかし身に付けている衣装はパリッとした一点物である事が絵でありながも分かって、ミスマッチさを感じさせた。

 

<この絵は、今から20年以上前……あなたが本当に二十歳ぐらいの頃に描かれたものらしいわね?>

 

 そう言ったプロフェッサーが視線を落とす。ベッドに括り付けられているドリアンは、どう見ても二十歳そこそこ、どんなに若作りであろうと三十路には至っていない絶頂の美しさを持つ青年にしか見えない。

 

<そしてあなたは『自分の代わりにこの肖像画が年を取れば良いのに』と願い……何の偶然か作為か……本当にあなたは年を取らなくなって、代わりにこの肖像画の方が老いるようになった……>

 

「はんへほへほ!?」

 

<意志によらず口を割らせる方法など、いくらでもある>

 

 プロフェッサーはそう言って、既に使用した注射器をドリアンに見せた。先端から出た薬液が、針をつうと伝った。

 

<……まだまだ世界には、科学では説明の付かない事が多くある……実に興味深い……>

 

 プロフェッサーは注射器をメスに持ち替えると、ドリアンの頬に研がれた刃を走らせた。

 

 本来ならすっぱりと切られたそこから傷が開いて血が流れ出る筈なのだが……

 

 しかし付けられた傷は時間が逆行しているかのように塞がって、ものの数秒で痕すらも残らずに消失した。

 

<……>

 

 プロフェッサーが肖像画を振り返ると、ちょうど肖像画の中のドリアンの頬の、同じ部位に傷が描かれていた。この空間にはプロフェッサー以外は身動き出来ないドリアンしかおらず、誰も肖像画に触ってなどいない筈なのにだ。

 

<……不思議だ……是非、このメカニズムを解明したい……解明出来ぬまでも、これは……ギミックが分かれば暗殺にも……>

 

 ターゲットへ立派な肖像画を送りつけて、その後ターゲットと肖像画を褒めちぎって「私の代わりにこの絵が年を取れば良いのに」と祈らせて、そうした後で、絵の胸にナイフを突き刺せば好きなタイミングで、ターゲットがどこに居ても暗殺出来る。

 

 最初は良いアイディアかとも思ったが、いくらなんでも手間が掛かりすぎだし確実性に欠け過ぎるかとプロフェッサーは思い直した。

 

「はへへふへ!! ほへはいは、ほほはらはひへふへ!! はへはらひふはへも!!!!」

 

 涙を流し、失禁しながら訴えかけるドリアンにプロフェッサーはやっと気付いたように振り返った。

 

<止めてくれなんて……おかしな事を言う。こうなる事はあなただって望む所の筈だが?>

 

「へ?」

 

 プロフェッサーの言葉の意味を掴みかねて、ドリアンは間の抜けた声を上げた。

 

<あなたは言っていたよ? 自分の悪徳を償う為に、これからは人の役に立ちたいと。その機会が遂に訪れたのよ>

 

「ひ、ひはい!?」

 

<そう……あなたはこれから、どれほど立派に私の役に立つ事か……この、肖像画に老いや傷を肩代わりさせるギミックが明らかになれば、医療や諜報で無限大の応用が可能になるし……仮にそうでなくとも、生きた健康な肉体を好きなだけ刻んで好きなだけ弄って、好きなだけ打てるなんて……今までやりたくても出来なかった人体実験が沢山あるのでね。この機会に、それを一気にさせてもらおうと思っているのよ>

 

 プロフェッサーの声には、隠しきれない喜色が滲み出ていた。声も明らかに弾んでいる。

 

 この男? いや女かも知れないが……プロフェッサーが自分に何をするつもりかを悟って、半狂乱になったドリアンは体をばたつかせてベッドから逃げようとするが、拘束ベルトはどの一本も軋みすら上げなかった。

 

「はふへへ!! はふへへ!! はふへへ!!」

 

<往生際が悪いな? 大体、あなたはそんな事言える立場じゃないでしょうに。この肖像画を描いた友人を殺すだけでは飽き足らず、悪徳を共有した仲間を使ってその死体を酸で溶かして証拠を隠滅したわね? スパイだって、中々そこまでは……>

 

 くっくっと肩を揺らすと、プロフェッサーは壁に掛けられていたノコギリを手に取った。

 

 ドリアンの目が、飛び出さんばかりに見開かれた。

 

<手始めにこれから始めようか……これから長い付き合いになるのだから。これぐらいで泣いていたら大変よ?>

 

 そっと、ギザギザの刃がドリアンの肩に当てられて……プロフェッサーが思いきり曳こうとして力を込めた、その時だった。

 

 ビーッ、ビーッ!!

 

 チャイムのような音が、部屋に響き渡った。

 

<!>

 

 顔を上げたプロフェッサーは<ちっ>と舌打ちを一つすると、ノコギリを手近の台に置いた。

 

<残念だが、来客のようだ……続きは、また今度に>

 

 プロフェッサーはそう言って、ドリアンに背を向けるとこの部屋から退出していった。

 

「はっへ!! はふへへ!! ほほはらはひへ!! ほへほはふひへ!! ほへはいは!!」

 

 

 

 

 

 

 

 メイフェア校地下の、プロフェッサーのラボ。

 

 本日この部屋を訪ねてきたアンジェは、慣れた手つきで照明器具のスイッチを押した。

 

 怪物の唸り声のような音が鳴って、部屋が色とりどりの光に満たされる。

 

 きょろきょろと辺りを見渡したアンジェは、程なくして探し人の姿を見付けた。

 

<どうかしたの? アンジェ>

 

 この部屋には所狭しと用途不明の機械が置かれていて、物陰や死角も多い。

 

 無数の影の中から這い出してきたように、真っ黒いローブ姿のプロフェッサーが姿を見せた。

 

<あなた達は、今日は海軍卿の居城から機密書類を盗み出してくる任務に就いていたと聞いていたけど……>

 

「それなら、もう済んだわ」

 

<それは良かった>

 

 プロフェッサーはそう言うと、煎れた紅茶をアンジェに勧める。

 

 アンジェはそれには手を付けようとする素振りも見せなかった。

 

「今回の任務にはもう一つ、別の目的があったの」

 

<ふむ?>

 

 先をどうぞ、と手を振ってプロフェッサーが促す。

 

「海軍卿の下に、先に潜入していた共和国側のスパイの内偵……これも仕事の一つなの。裏切って二重スパイになったりしているリスクは常にあるから」

 

<……では、我々チーム白鳩の動きも、定期的に別のスパイチームに探られている?>

 

「恐らくはね」

 

<へえ……それで?>

 

「結論から言うと、潜入先のスパイ……委員長が王国に通じている証拠は見付からなかったわ。敢えて彼女の下宿の侵入者発見用のトラップに痕跡を残してみたけど、彼女は動かなかった。後ろ暗い所は無かったと、私達は判断してコントロールにもそう報告したわ」

 

<それは良かったわね。お友達が二重スパイでなくて>

 

「違うわ、彼女は友達じゃない」

 

<……>

 

「でも、一つ別の事が分かった」

 

 アンジェはポケットからスリングショットを取り出して、思い切りゴムを引っ張った。

 

 これは要するにパチンコだが、材質に金属は使われておらず弾も石。金属でないからプロフェッサーには操れない。そして狙いは、彼女の眉間にぴったり合っている。

 

「プロフェッサー、あなた委員長と繋がっているわね」

 

<どうして気付いたの?>

 

 反射的な早さで、プロフェッサーが尋ねた。この反応には、アンジェが少し意外そうに目を見開く動きを見せた。

 

 少し意外だった。こういう場合、最初は「何を言っているか分からない」ととぼけるものだと思っていたが。

 

<あなたがここへ来て、そんな質問をする時点で確信を得ているのでしょう? 無駄な会話は好きではないわ>

 

「……眼鏡よ」

 

<眼鏡?>

 

 鸚鵡返ししたプロフェッサーに、スリングショットを構えたままでアンジェは頷いた。

 

「委員長は昔からかなり重度の近視で、眼鏡が手放せなかった。けど昨日会った委員長の眼鏡は、輪郭が少しも凹んでいなかった」

 

 近視用の眼鏡は凹レンズが使われていて、レンズ越しに見る輪郭が凹んで見える。だが輪郭に凹みが無かったという事は、そのレンズに度が入っていなかった、つまりはアンジェが普段から使っているような伊達眼鏡であったという事だ。この時代にもコンタクトレンズは発明されているが、しかしそれは度が入っていない物で、視力矯正の為に使われる物はまだどこの諜報機関でも実用化されていない。

 

 にも関わらず、委員長は度が入っていない眼鏡を掛けていてしかし動作や作業に不自由が生じている様子は少しも無かった。つまり視力は人並み以上のものになっているという事になる。

 

 成人している委員長の視力が、ここまで劇的に回復するとは考えにくい。残された可能性は……

 

「人間の視力を回復させるような技術……それを持っているのは一人だけ」

 

<……>

 

 キュイッ、と音を立ててプロフェッサーの両目の義眼がピントを合わせようと動いた。

 

「プロフェッサー、あなたは委員長と接触していたのね……恐らくは私達やプリンセスと接触するよりも前に」

 

<……中途半端な品物をユーザーに提供するのは私の科学者としてのプライドが許さなかったが……それが仇になったか>

 

 しかしそんな僅かな違和感から、そこまで思考を進ませて真実ににじり寄って来るとは。

 

 アンジェの優秀さに感心したように、あるいは観念したようにふう、と息を吐くような動作を見せるとプロフェッサーは天井を仰いだ。

 

<えぇ、その通りよ。彼女と取引してね。彼女のスパイとしての証拠を闇に葬る代わりに私の義眼の安全性を実証する為の、検体になってもらったのよ>

 

 あまりにもあっさりと、プロフェッサーは認めた。

 

<それで? お友達のスパイ……委員長は二重スパイではなかった。そして彼女は私と繋がりがあった。事実はそこまで。それでアンジェ、あなたはどうしてそんな物騒な物を私に向けているのかしら?>

 

「あなたの本心が聞きたいの」

 

<本心? それは前に話した筈。プリンセスにお仕えし、彼女に女王になってもらって、この国を変える……その言葉に偽りは無いわ>

 

「……それは信じても良いけど……でも、あなたは危険過ぎる。例え暴発する可能性が1パーセントだとしても、いつ弾けるか分からない爆弾を手元に置いておく習慣は、黒蜥蜴星には無いの」

 

<だから? 私を殺そうと? ふむ……>

 

 空気清浄機を作動させて、プロフェッサーはガスマスクを外した。

 

 血色が悪い肌が露わになって、色素が抜けかけた髪がさらりと流れる。

 

「困ったわね。どうしたら信用してもらえるのかしら? 二足の草鞋を履いてはいるが私の本分はスパイでなく科学者……あなた達と違って嘘は吐かないわ」

 

「その代わり、本当の事も言わない?」

 

「……!!」

 

 心中で呟いていたのと同じ台詞がアンジェの口から出て、僅かにプロフェッサーが口ごもった。

 

「私も、遊びや冗談でこんな事をしている訳じゃないわ。プロフェッサー、あなたは侯爵家の令嬢。今のままでも十分に裕福な暮らしが営める筈。それがどうして、プリンセスに協力してこの国と、この世界を変えたいと願うのか……納得した理由が聞きたいの」

 

「で……納得が行かなかったら、私を殺すと……」

 

 腰掛けていた椅子から立ち上がってプロフェッサーはふらふらと歩き出す。アンジェが手にするスリングショットの照準は、プロフェッサーの胸にぴったりと合って動いていた。

 

「……プリンセスには一度お話しした事があるけど……そうねアンジェ、あなたになら話しても良いわ」

 

「……」

 

「ただし」

 

 プロフェッサーの口角の左端が、アンバランスに吊り上がった。

 

「あなたとプリンセスの秘密を教えてくれたのなら」

 

「……!!」

 

 アンジェの表情は動かなかったが、スリングショットの石を握る手に力が入って強くゴムを引き絞ったのが分かった。

 

「何を……」

 

「とぼけなくても良いわ。前のオライリー卿の張り込みの時もそうだったけど……あなた、プリンセスのお願いだけは聞いてしまうわね。他の人の頼みは、嘘を吐いて飄々とかわしてしまうのに。あなたの台詞じゃないけど……あなたの本心が聞きたいの。ただ同じ顔で頼まれると断りづらいとか……そんな理由ではイマイチ納得出来ないのでね」

 

「……」

 

 アンジェは無言で、しかしすぐにスリングショットを発射する気配は無い。

 

 気まずい沈黙の時間が続いて……先に発言したのはプロフェッサーだった。

 

「……アンジェ。私が信用出来ないのは仕方が無いでしょうね。でも……ここはプリンセスの為という事で了承してもらえないかしら?」

 

「……プリンセスの?」

 

「今、プリンセスが参加しているのは自分の立場も命も全てベットした一点賭けのレース。このレース、負ければ後も次も無い。勝つしかない」

 

 それはアンジェも認める所である。

 

 王国のプリンセスが共和国のスパイだなどと、バレたらあらゆる意味でプリンセスは終わる。そしてスパイなど長生き出来る仕事でない事は、アンジェも知っている。

 

 つまりは勝って女王になるか負けて破滅するか。プリンセスにはその二つしか無いのだ。

 

「そしてプリンセスが勝つ為には、私の力が必要だと思うけど?」

 

「……」

 

 それはアンジェも認める所だった。プロフェッサーの科学技術は、王国にも共和国にも無い独自のもの。これは特定の派閥を持たないプリンセスにとって、大変な武器になる。共和国側からの支援を抜きにすれば、プリンセスにとってプロフェッサーは懐刀。唯一にして最大の切り札と言えるだろう。

 

 いよいよ追い詰められた時にも、それを交換条件として助命ぐらいは受け入れられるかも知れない。

 

 明晰な頭脳で様々な要素を秤に掛けて、そしてアンジェは。

 

「……」

 

 構えを解くと、スリングショットをポケットに仕舞った。

 

 どうやら、ひとまずは敵意が無くなったようだ。勝ち誇ったように、プロフェッサーはにやっと笑った。

 

「今回は、判断は保留としておくわ。でも忘れないで。もしあなたがプリンセスの為にならないと思ったのなら、その時は」

 

「恐ろしいわね。ならば精々、私も普段の行動には気を付けるとしましょう」

 

 そう言ってプロフェッサーは、再びガスマスクを装着すると影の中に消えていった。

 

 アンジェもまた、地上へと続く出口からラボを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 三日後、Lの後任としてコントロールのリーダーに就任したジェネラルからアンジェとドロシーに、プリンセスの抹殺命令が出された。

 



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第22話 プランAとプランB

 

 メイフェア校地下、忘れられた空間に存在するプロフェッサーのラボ。

 

 この研究室の主は、今は落ち着き無く室内を行ったり来たりうろうろと歩き回っていた。

 

 天才とは言っても彼女もまだ十代の少女には違いない。時には内心の焦りを隠し切れない事もあるのだろう。

 

<……拙いな。かなり拙い>

 

 それは彼女の中に既に確信としてあった。

 

 数日前にコントロールから新しいスパイ・ゼルダがプリンセスの護衛として派遣されてきた。

 

 ゼルダの言によればこれからチェンジリング作戦は要員を再編し、プリンセスを含め工作員は8名体制となり、新しい指揮官には彼女が就くという事だった。

 

 そしてその言葉を裏付けるように、ドロシーが学園から姿を消した。

 

 更に昨日、委員長が義眼を交換する為にグランベル家を訪れたのだが……

 

 提出された古い義眼に記録されていた映像には、無視出来ないシーンがあった。

 

 委員長も共和国側のスパイとして、コントロールに出頭する事はあるのだが……以前にLという初老の男が座っていた席に、今は共和国軍の軍服を着た恰幅の良い男が座っていた。身に付けている勲章から判断して……恐らくは将官クラス。

 

 Lは、着ている服が正装ではあったが私服であったから共和国政府情報委員会の人間であったのだろう。

 

 そのLの代わりに、軍からの出向者がコントロールのリーダーになった。

 

 これが意味する所は。

 

<……スパイ活動を主導するのが、政府から軍部になった>

 

 頭の中の相関図に、新しい関係性を書き足したり古い関係性を消したりしながら、ぶつぶつと室内を徘徊するプロフェッサー。

 

<……当然、方針も変わる>

 

 チェンジリング作戦には、プランAとプランBが存在している。

 

 プランAは当初予定されていた作戦パターンであり、アンジェが発案してコントロールに提出した案だ。

 

 これの概要は単純だ。一言で言えば成り代わり。

 

 つまり、瓜二つの外見であるアンジェがプリンセスを抹殺してその座に入れ替わってしまい、諜報活動を優位に進めようという物だ。

 

 ところがいざパーティーの場で入れ替わろうとした時に、プリンセスがどういう訳かAとD、つまりアンジェとドロシーの存在を把握していたが為にこの作戦を実行するのに待ったが掛かってしまった。

 

 代わりにプリンセスが持ち掛けて来たのがプランB。こちらは現在実行されているチェンジリング作戦である。

 

 自分が女王になるのに共和国が協力する代わりに、自分もスパイとして諜報活動に尽力するという交換条件。

 

 こちらは急遽・なし崩し的に可決されたプランであるが、しかし現在のチーム白鳩の活動実績は目覚ましいものがあり、半ばコントロールから黙認される形で今までやってこれたのだ。

 

 だが、コントロールのトップが代わって、それと前後する形でチェンジリング作戦の構成員も代わった。

 

<……と、いう事は……作戦のプランも変わる……?>

 

 どんな風に変わるのか?

 

 そんなのは考えるまでもない。

 

 チェンジリング作戦にはAとBの2プランしかないのだ。

 

 今まで遂行されてきたのがプランBだったのだから、ここから変わるとしたらプランAでしか有り得ない。

 

 プリンセスを利用して王国の情報を吸い出すプランから、プリンセスを抹殺して共和国側のスパイをその座にすげ替えるものへと。

 

<……どうするか……?>

 

 頭脳をフル回転させ、あらゆる情報を並列分析するプロフェッサー。その時だった。部屋のドアがノックされる。

 

<誰か?>

 

「私だ、プロフェッサー。扉を開けてもらいたい」

 

<あぁ、ちせか。どうぞ>

 

 ドアが開いて、ちせが入室してきた。しかし彼女の姿を見て、マスクの強化レンズ越しに見えるプロフェッサーの瞳がぴくりと動く。

 

 今のちせは、片手にどう見てもちょっとそこまで出掛けてくるというレベルではない大きさのバッグを持っている。

 

「プロフェッサー、実は私は転校する事になった。主命じゃ。短い間であったが貴殿にも世話になった。それで挨拶をと思ってな」

 

<……主命……>

 

 ちせはコントロールから派遣されてきた生粋のスパイではなく、日本の堀川公の意向で出向してきている立場である。情勢が変わって堀川公から別命令が出たのなら、ここを去るのは必然であった。

 

「プロフェッサー、貴殿からはまだ教わりたい事が多くあったが……残念じゃ。我が国には一宿一飯の恩義というものがある。何か困っている事は無いか?」

 

<……無いと言えば嘘になるが。残念ながらちせ、あなたでは力になれないだろう。気持ちだけ、いただいておく>

 

「そうか……」

 

 あっさりとそう言い切ったプロフェッサーだが、ちせは格段不快に思った様子も見せなかった。この二人はどちらも本分はスパイではない。プロフェッサーは科学者でちせは剣士。得手も不得手も全く違うのだ。そしてプロフェッサーは嘘や曖昧な事は言わない。そのプロフェッサーが無理と言うのだから、本当にちせには向いていないのだろう。

 

 逆にもし、ちせの力が必要な局面であったのならプロフェッサーは迷い無く彼女に助けを求めただろう。彼女はそういう女だ。

 

「では、プロフェッサー……達者でな」

 

<……貴女も>

 

 このやりとりを最後に、ラボのドアが閉じられて今度は備え付けの電話が鳴った。

 

<私だが>

 

『あ、ボス……フランキーです。ちょっとお耳に入れておきたい情報がありまして……』

 

 ぽっと出の成り上がりとは言え、今のフランキーはこのロンドンの裏社会を牛耳るボスである。欲しい情報は大抵入ってくる。そしてプロフェッサーはそのフランキーの上役だ。彼を通して、キャッチされた情報は素通しでプロフェッサーへと流れている。

 

<……何か?>

 

『実は、昨日の夜からロンドン市内に陸軍の一部部隊が集結しているみたいなのよ。軍の作戦にしては、何か様子がおかしいらしくて……』

 

<その行動を統括しているリーダーが誰かは分かる?>

 

『いえ、そこまでは。ただ、その部隊は海外植民地出身の兵士が中心になっているらしいわ』

 

<海外……植民地……>

 

 そのキーワードを耳にしたプロフェッサーの脳裏に、少し前に自宅を訪ねてきてシンディとして応対したイングウェイ少佐の顔がよぎった。

 

 彼も植民地出身者として現在の王国には不満を持っていて、同じ気持ちの部下や同僚を集めてクーデターを画策していたが……

 

<だが、少佐には性急に動くなと釘を刺している……問題は、無い筈……>

 

 そこで思考を打ち切ってしまう辺り、今はプロフェッサーも冷静ではなかった。普段の彼女であれば、もしかしたらイングウェイが心変わりした、あるいはその切っ掛けになる事件でもあったのではないかと、そうした事実の洗い出しを行っただろう。それをしなかったのは、明らかに彼女の思考の隙だった。

 

 すると再び、ラボのドアがノックされた。

 

<……どなた?>

 

「プロフェッサー、ベアトリスです。何か用ですか?」

 

<あぁ、もうそんな時間か。入って>

 

 彼女を呼び出していたのを思い出して、プロフェッサーはラボのドアを開いた。

 

 ベアトリスが、何度入ってもこの部屋には慣れないのかおっかなびっくりな様子で入室してくる。

 

 入ってきたベアトリスに掴み掛るように、プロフェッサーは詰め寄った。彼女も焦っているのだ。

 

<ベアトリス、聞きたい。ここ数日の、プリンセスのご予定の中で……アンジェと二人で外出するようなものはある?>

 

 前置きする時間も惜しいと、プロフェッサーは単刀直入に本題に入った。

 

 ベアトリスは決して声を荒げたりするような激しいものではないが、しかしプロフェッサーが醸し出す無言の迫力に圧されたように踵に体重を掛けながら応答する。

 

「そ、それでしたら……明日、姫様とアンジェさんが一緒に買い物に行かれます」

 

<明日……?>

 

 くぐもったマスク越しの声が、どこか上擦っていたのはベアトリスの気のせいではないだろう。

 

<……まさか、その予定……アンジェが自分で申し出たりしていないわよね……?>

 

「え、は、はい……それなら……本当は私がご一緒する筈だったんですが……アンジェさんが是非自分がって言われて。勿論、遠巻きの護衛は沢山付けられる事になりますけど……」

 

<……それだ>

 

「え? プロフェッサー……?」

 

 明後日の方向を向いて、何やら繰り言を呟き始めたプロフェッサーは、もうベアトリスの話を聞いていないようだった。

 

 そのままベアトリスは数分も突っ立っていて、やっとプロフェッサーがぎょろりと彼女を振り返った。

 

<ベアトリス……あなたは、事態が動くまで下手には動かないように。跳ね上がってはいけない……>

 

 プロフェッサーは、思い切りベアトリスの眼前に詰め寄ってどアップで凄んだ。

 

 これはお願いではなく命令だと、言外に彼女は語っていた。そしてそれはベアトリスにもしっかりと伝わっていたようだ。がくがくと、首を縦に振る。

 

<跳ね上がって池から出たら……干上がって……死ぬわよ>

 

 

 

 

 

 

 

「……プリンセス……」

 

 寮の自室で、アンジェは炸薬を信管に込めるなどして、ハンドメイド武器の準備を入念に行っていた。

 

 化学反応で爆発したり煙が出たりする物質は、雑貨屋や食品店などで安価で取り揃えられる。スパイであるアンジェ達は養成所時代に、即席で調達出来る品物で武器を自作するテクニックも訓練されている。この程度は彼女にとって難しい作業ではなかった。

 

 トップが代わったコントロールから、プリンセスを抹殺しろという命令が出た瞬間からこの展開は彼女の脳内で絵図面が引かれていた。

 

 自分達のセーフハウスは、カサブランカに白い家を用意してある。

 

 ベアトリスを説得して、ショッピングモールでプリンセスのアテンドは、自分が務めるよう変わってもらった。

 

 そしてゼルダにはプリンセスを抹殺する役目は、チェンジリング作戦の発案者として自分がやると言っている。

 

 ゼルダも、それは認めると言った。彼女やコントロールは自分の事を完全に信用している訳ではないだろうが……逆にこれは踏み絵だろう。プリンセスを抹殺するようなら、スパイとしてアンジェは信用出来る。逆に妙な真似をするようならプリンセス諸共……と、言う訳だ。

 

 いわばこれは任務を利用した実地でのテスト。

 

 ゼルダ、引いてはコントロールは自分を試すつもりでいる。

 

「……それが、隙となる……」

 

 逆に言うならこれは「プリンセスを殺す事に本腰を入れていない」という事でもある。明らかな手抜かり、隙。

 

 もしゼルダが「指揮官として抹殺役は自分がやる」と言い出したり、理由を付けてアンジェを遠距離からの護衛役に回したりしたら、アンジェは手も足も出なかっただろう。

 

 これは最後のチャンスでもある。

 

 アンジェは、パンフレットを開いて明日の飛行客船の運航スケジュールを確認した。その中の一つに、彼女の視線が集中する。

 

『……ショッピングモールで騒ぎを起こして護衛役を撒いて、プリンセスと一緒にカサブランカ行きの飛行客船グッドホープで逃げる……これしかない……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻、プロフェッサーのラボ。

 

 この部屋の主は、専用の椅子に足組みして腰掛けつつ壁を睨んでいた。

 

 その手は閉じられた扇のように、電光剣の柄を弄んでいる。

 

<アンジェが動くとしたら、明日……ショッピングモールで騒ぎを起こして護衛を撒いて、プリンセスと一緒に飛行客船で国外へ逃亡する……>

 

 問題は、どの飛行客船に乗船するかだが……それは、アンジェがそう動くと知っていれば騒ぎを起こした時間から逆算出来る。

 

<……事態がここまで動いた以上、プリンセスをお救いする道は唯一つ……チェンジリング作戦に、乗る事……>

 

 チェンジリング作戦プランAは、プリンセスを抹殺してアンジェがそれに成り代わる事。プロフェッサーはそれを逆用する。

 

 そう、本来の作戦の逆を行く。

 

<アンジェを殺し……彼女の死体をプリンセスだと偽って共和国に差し出し……プリンセスを『プリンセスと入れ替わったアンジェ』にする……これしかない……!!>

 

 

 

 

 

 

 

 アンジェとプロフェッサー。二人が眠れぬ夜を過ごし。

 

 そして、夜が明ける。

 

 アルビオン王国の最も長い一日が、幕を開ける。

 



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第23話 ロンドンの一番長い日 その1

 

「……そうか。やはり戦勝祈願の式典か」

 

<……ええ。ゼルダが王国軍の不満分子と接触を持った事が分かっているから……このタイミングで彼等がクーデターを実行しようとするなら、主立った王族や諸侯が出席するようなイベントはそこしかない。動くとしたらその式典を狙うでしょうね>

 

 ロンドン市街のとあるレストランの電話スペース。そこでドロシーは、スパイ任務中でもそうそう見れないような真剣な面持ちで会話していた。

 

 電話先の相手にも、声色から真剣さが伝わっているらしい。どことなく言葉を一つ一つ選んでいるような慎重さが感じ取れた。

 

<……兎に角。私が探れるのはここまでよ。後は、あなた達に頑張ってもらうしかないわ>

 

「……ああ、十分だ。ありがとう、委員長」

 

<上手くやりなさい、ドロシー>

 

「そっちもな」

 

 最後だけは軽口のように返すと、ドロシーは受話器を置いた。

 

 両手で顔を揉みほぐすようにすると険を取って、そしてまだ料理が置かれている席に戻る。

 

 彼女のテーブルには、同席者がいた。

 

「遅かったな、デイジー。折角の料理が冷めちまうぜ」

 

「ごめん、父さん。大事な仕事の電話でさ」

 

 対面の席に着いていたのは彼女の父親、ダニーだった。

 

 彼は今ではとある工場に就職が決まったとの事で、その契約金を使って就職祝いの食事にドロシーを招いていたのだ。

 

 以前は簡素な義手が付けられていた彼の右手には、今は手袋で隠されているが五指があって、まだ慣熟していないせいだろうか油が切れているように動きがぎこちないが、しかしほぼ生身のそれと変わらずに作動する義手が取って代わっていた。

 

「それにしても、契約金をポンと出してくれるなんて……この不景気でも気前の良い会社は探せばあるんだね」

 

 チラリと、ドロシーは傍らの椅子に置かれている買い物袋へと視線を動かした。中にはそれなりに値が張る流行のデザインのドレスが入っている。ダニーが娘にプレゼントとして贈ったものだ。

 

「オウよ。そこの社長が俺じゃなきゃって言ってきてな。無理を聞いてくれたんだ」

 

 既にかなりアルコールが入っていて顔の赤いダニーは、本日何本目かのワインをグラスに注いだ。

 

「ほどほどにしときなよ」

 

 呆れたように苦笑いしつつ、ドロシーは首を振ってしかし彼女もワインが注がれたグラスを差し出して、この一席だけでも何回目になるかも分からない(間違いなく10回は超えている)乾杯を交わした。

 

 上機嫌にワインをあおるダニー。

 

 ドロシーは、くすっと笑って父親を見詰める。大声を上げるなどして周りに迷惑を掛けていないにせよ、ちと羽目を外し過ぎにも思えるが……

 

 事故で右腕を失ってからこっち、自暴自棄になって家族にさえ暴力を振るうようになって、革命が起きてからはその日の糊口を凌ぐ事ばかり考えて職を転々として最後は死体置き場で働くようになって、でも昔が忘れられずに自分も他人も傷付けるような毎日。

 

 そんな糞のような日々にオサラバしたい、変わりたい、やり直したいと思っていたのは誰よりもダニーであったろう。そこに降って湧いた機会。浮かれるのを誰が責められようか。

 

『運が向いてきたんだよ、父さん……辛かった昔の事は忘れて……これからは、頑張りなよ』

 

 心中でエールを送って、ドロシーは立ち上がった。

 

「デイジー?」

 

 ダニーがきょとんとした表情を見せた。

 

 こんな席の祝福ムードに水を差すようで、ドロシーの中の人間的な部分が咎める。

 

 だが、そろそろ行かねばならない。

 

 後ろ髪引かれる思いだったが、そこは折り合いを付けて割り切ると、彼女は決断した。

 

「ごめん、父さん。緊急の用事が入ったんだ。私は行かなきゃ。後は一人で楽しんで」

 

「え、そんな……」

 

 戸惑ったようなダニーだったが……数秒程の間を置いて急に物分かりの良さそうな表情に変わった。

 

「そっか。じゃあ、仕方無いな……」

 

「ごめん、埋め合わせはまた次の機会に」

 

 次の機会。そんなものがあるかどうかはドロシー自身ですらも半信半疑であったが、でも彼女は敢えてそれを言った。言わずにはいられなかった。

 

 レストランを出ようとダニーに背を向けた、その時だった。

 

「デイジー」

 

 後ろからの声に、ドロシーは振り返った。

 

 ダニーが、乾杯するようにグラスを掲げていた。

 

「気を付けてな」

 

「…………」

 

 ドロシーはしばらく目を丸くしていたが……やがてくすっと微笑んだ。

 

「……うん、分かってる。ありがとう、父さん」

 

 このやり取りを最後に、ドロシーはもう振り返らずにレストランを出て行った。そんな娘の背中を見送ると、ダニーはグラスに半分程あったワインを一息で空にした。

 

「……さて」

 

 レストランから出たドロシーは、ぱんと両頬を叩く。

 

 既に今の彼女は、浮かれた町娘のデイジーではなかった。共和国の優秀なスパイであるドロシーに戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ショッピングモールでは、アンジェとプリンセスが二人で買い物に出ていた。

 

 勿論、プリンセスはお忍びという事で簡単な変装で正体を隠している。

 

 しかしこの買い物は完全に二人だけという訳では勿論ない。アンジェやドロシーなどその道の心得がある者ならばすぐに分かる。あちこちに護衛が付いていた。

 

 これらは実際には、ゼルダの麾下にある共和国側の人員である。そして護衛とは名ばかりで、実際には監視という意味合いが強い。

 

 そして監視の対象になっているのは、プリンセスだけではない。アンジェもそうだった。

 

 これは踏み絵だった。ターゲットを暗殺する為に近づいて、一緒に行動する内に情が移って任務を遂行出来なくなったスパイの話は、アンジェも時々耳にした事があった。そして今は、彼女がその疑いを掛けられているのだ。情に流されずに、任務を遂行出来るかどうか。それが問われている。

 

 任務に忠実にプリンセスを暗殺するならそれで良し。もし、妙な動きをするようなら……!! と、いう訳だ。

 

 そしてアンジェとプリンセスを中心に、円を描くように配置された監視網よりも離れた所。円の外側から、彼女達を観察する目が合った。

 

 建物と建物の狭間から、その影に溶け込むような黒い衣装を纏って紅い両眼を光らせた影。

 

 プロフェッサーだ。

 

 彼女は共和国側の狙いがプリンセスの懐柔から暗殺にシフトしたと考えて、それを逆用してアンジェを暗殺して彼女の死体をプリンセスだと偽って共和国側に差し出す為にやって来たのだ。

 

<……しかし……>

 

 ここまで人の目が多い場所で、事に及ぶなど愚行中の愚行。

 

 入れ替わりはそれがカードでも人間でも、誰も見ていないタイミングや場所でこっそりと行われる事が望ましい。

 

<まぁ、焦る事はないか>

 

 自分の考えが正しければ、アンジェは必ず護衛を撒いてプリンセスと二人で逃げる行動に出る筈。狙いはその時、そこしかない。

 

<……>

 

 プロフェッサーがそう考えた、その時だった。

 

 監視の中に加わっているゼルダが不意に振り向いて、自分の方を見た。

 

<……!!>

 

 一瞬だけひやりとしたが、しかしすぐに距離もあるし物陰に潜んでいる自分の姿が見える筈はないと思い直す。

 

 今のゼルダの動きは、アンジェ達を監視している自分達を更に監視している者の可能性に思い至ったのだ。

 

<優秀だな>

 

 感嘆の言葉が、思わず口を突いて出た。

 

 このショッピングモールにアンジェとプリンセスが入った時からプロフェッサーは義眼の機能を使って観察していたが、あの女……ゼルダは隙が全く無い。

 

 自分は頭脳も体の使い方も天才だと自負するプロフェッサーであるが、しかし敵が手ぐすね引いて待ち構えている所に突っ込むのは愚策。

 

 やはり当初の予定通りアンジェが監視を撒いてプリンセスと二人だけになった時が勝負。

 

 それが出来る程に優秀であると、プロフェッサーはアンジェの技量を信用している。

 

<……後は、騒ぎが起きる時間から逆算して……高飛びする飛行客船に先回りするか……>

 

 プロフェッサーはそう呟き、影の中に姿を隠した。

 

 ショッピングモールで煙幕騒ぎが起きるのは、この5分後の事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 王国内の、日本大使館。

 

 この一角だけ日本という土地を切り取って持ってきたような純和風の建物の中で、ちせと彼女の主である堀川公が対面していた。

 

「内偵ご苦労であった。実はある筋からキナ臭い話を聞いてな。故あってお前を呼び戻したのだ」

 

「と、申しますと?」

 

「王国軍の兵士はその大半が海外の植民地出身である事は知っているな」

 

「はい、先の共和国との戦いでも、その植民地兵が投入されたとか」

 

 以前は剣術一筋で政治の事はとんと分からなかったし興味も無かったちせであるが、堀川公引いては日本国が共和国側に渡りを付ける為、チーム白鳩に加わってからはそうも言っていられないと一念発起し、短期間で英語も勉強して新聞にも毎日目を通すようになって、その程度の情報は把握出来るようになっていた。

 

「その植民地兵の一部……王国に不満を持つ一部の者達に、不穏な動きがあるらしい」

 

「……」

 

 不穏な動き、つまりは反乱か暗殺か。

 

 日本でも前例の無い事ではないだけに、良くない想像がちせの脳裏をよぎる。

 

「情報が確かなら、その中心に、お前の友人がいる」

 

「……!!」

 

 軍の中心に居るもしくは『居させられる』ような人間で、自分の友人と呼ばれるような人物。

 

 ちせが知る限りその条件に該当するのは、一人。

 

 

 

 

 

 

 

 カサブランカ行きの飛行客船グッドホープ号。

 

 その貨物室で、アンジェはうずくまっていた。

 

 ショッピングモールで騒ぎを起こして護衛(監視)を撒いて、プリンセスと一緒に高飛びしてカサブランカに用意したセーフハウスに逃げる。

 

 それが彼女の計画であり、プリンセスを守る為にはもうこれしかないと思い詰めてもいた。

 

 だがそれを説明した時、プリンセスは言ったのだ。

 

 

 

『そうやって逃げ出すくらいなら最初から私を巻き込まないで!! 私の人生はあなたの玩具じゃない!!』

 

 

 

『チェンジリング作戦でどちらかが消えなきゃいけないのならあなたが一人で消えて頂戴!!』

 

 

 

『怖がりで、泣き虫で、トラブルを起こすのはいつもあなただった。後始末をするのはいつも私……あなたのそういう所、初めて会った時から大嫌いだった』

 

 

 

『さよならアンジェ。二度と姿を見せないで』

 

 

 

 そう言って、プリンセスはアンジェを貨物室に閉じ込めて。

 

 アンジェはドアを何度も叩いてプリンセスを呼んだが、もう返事は返ってこなかった。

 

 その時……アンジェは自分の中で何かが折れた、もしくは切れたのを自覚した。

 

 十年前に革命が起きて、身一つで知っている人が誰も居ない所へ放り出されても、それでも生きる事を諦めなかった心の支え。

 

 あのパーティーで再会して。

 

 そしてプリンセスも同じような想いを抱いて今まで生きてきた事が分かった。

 

 だからアンジェは彼女の望みを叶えよう、その為の力になろうと今までやって来たのだ。

 

 だが、そんな自分の意志など矮小なものですらないと嘲笑うかのように、世の中は思い通りにはならない。

 

 上層部が軍主導に変わって、チェンジリング作戦の内容も変わった。プリンセスを懐柔するプランBから、彼女を抹殺するプランAへと。いやこれは本来の流れに立ち戻ったと言うべきか。

 

 プリンセス……いや、アンジェを助ける為には他に手は無い。彼女を連れて逃げるしか。

 

 あるいは最初からこうすべきだったのかも知れない。

 

 プリンセスがどういう訳かスパイがいる事を知っていて、コントロールが内通者の洗い出しに躍起になっている間に、彼女が何と言おうが無理矢理にでも連れ出してしまって、その後は時間を掛けてゆっくりと説得するとか……

 

 それともあの時、ああしていれば……

 

 様々なIF(もしも)が泡のように浮かび上がっては、消えていく。

 

 やがてそれも無くなって、うずくまった彼女が顔を伏せた、その時だった。

 

 ジュッ……

 

「!?」

 

 熱したフライパンに落とした水滴が蒸発する時のような音が金属製のドアから鳴って、アンジェの耳を掠めるような位置から赤い光刃が飛び出した。

 

「ひっ!?」

 

 思わず飛び退って、転がるように扉から離れるアンジェ。

 

 扉から突き出ている赤い刃はそこが通った後が融解して赤熱化し、そのラインが楕円形を描くように動いていく。

 

 そして数秒して、赤い線が繋がって円になると、刃は扉の向こう側へと引っ込んでいった。

 

「こ、これは……」

 

 尻餅付いた姿勢のアンジェが、怯えたようにそのまま更に後退する。

 

 やがて、赤い円の内側がすっぽりと抜けて倒れて、重い音を立てた。

 

「あなたは……」

 

 シュコーッ……シュコーッ……

 

 今となっては、耳慣れた呼吸音が響いていく。

 

 扉に空いた穴をくぐって貨物室に入ってきたのは、赤い光剣を手にした影。

 

 闇で作ったような黒いローブを身に纏い、顔にはガスマスク、手には手袋など体に露出して外気に触れている部分は一切無い。

 

 ケイバーライト症候群を発症した肉眼に代わって義眼が嵌め込まれた両眼には、紅い光が灯っている。

 

 現れたその怪人、プロフェッサーは五歩の距離にまで近付くと、忠誠を示す騎士の如くアンジェの前に傅いた。

 

<遅ればせながら、お助けに上がりました……プリンセス……>

 



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第24話 ロンドンの一番長い日 その2

<プリンセス……ひとまずここは……む?>

 

 扉を破壊して現れたプロフェッサーは、アンジェの前に臣下の礼を取って傅いたが……すぐに何かいぶかしむように、まじまじとアンジェを覗き込んだ。

 

 彼女の両の義眼に搭載された自作の電子脳が、自動的に目の大きさや耳の形、顔を構成する各パーツの比率などを計算して一致率を弾き出す。

 

 プロフェッサーの視界に表示された一致率は94パーセント。

 

 これは親兄弟でもちょっとやそっとでは気付かない程の同一性ではあるが……逆に言えば6パーセントだけ『本物』とは違っているという事でもある。

 

 つまり目の前のこの『プリンセス』の風貌は『プロフェッサーの主であるプリンセス』とは6パーセント違う。

 

<アンジェか……>

 

 未だ光刃を起動させたままの電光剣の柄を握る義手に、気取られないよう力を入れるプロフェッサー。元々ここへは彼女を殺す為に来たのだし、こちらから探す手間が省けたというものだ。

 

 だが、アンジェを殺す前に確認しておかなければならない事が一つ。

 

<……プリンセスは、何処に?>

 

 実はこの時、プロフェッサーの胸中に不安がくすぶっていた。

 

 悪い予感と言い替えても良い。

 

 それを払拭してスッキリする為にも、アンジェから確認を取っておく事は必要だった。

 

「この船には……居ないわ」

 

 普段の飄々としていて、嘘ばかり吐いて尻尾を掴ませない彼女からは想像出来ないぐらい弱々しい声で、アンジェが答えた。

 

<……やはり……>

 

 胸中で舌を打つプロフェッサー。

 

 往々にしてそういうものだが、嫌な予感ほど良く当たるものだ。

 

 悪い予想が的中した。

 

 この船にアンジェが乗り込んだのは、コントロールから暗殺命令が出たプリンセスと一緒に海外に逃げる為だ。

 

 その、今のアンジェにとって護衛対象であるプリンセスがここに居ないという事は……他に彼女が所在する可能性のある場所は、一つ。

 

 まだ、プリンセスはロンドンに居る。

 

<……拙い。拙い拙い拙い拙い>

 

 プロフェッサーはぶつぶつとそう呟いて、爪を噛もうとして右手を口元に持っていくがガスマスクに義手が当たるだけだった。

 

 だが、動揺していたのはここまでだった。彼女はすぐに頭を切り換える。

 

 アンジェがスモークグレネードで騒ぎを起こしてプリンセスと一緒に逃げ出したショッピングモールには、ゼルダを初めとして護衛と監視を兼ねた共和国のスパイがずらりと詰め掛けていたのだ。

 

 プリンセスがこの飛行客船に乗っていないという事は、自分の意志で残ったにせよ逃げ遅れたにせよ遠くへは逃げられないから、既に共和国側の人間と合流していると考えるのが自然だ。

 

 プロフェッサーとしてはアンジェを始末した後は、プリンセスを『プリンセスと入れ替わったアンジェ』として共和国側に差し出すつもりであったのだが……その予定が前倒しされてしまった形になる。だが……それは自分が常に傍に在って両者の細かな違和感についてはフォロー出来る事を前提にしてのものだ。

 

<<……あのゼルダという女は優秀……僅かな仕草や様子の違いから、看破される可能性がある……>>

 

 そうなった場合、プリンセスはゼルダに殺されるか……良くても雁字搦めに縛られて国を変える所の騒ぎではなくなる。

 

 いや、もうゼルダには真贋を看破されている事を前提に動くべきだろうとプロフェッサーの冷静な部分が警告する。最悪の事態は、常に想定しておくべきだ。

 

 そして事がここまで進んでしまった以上、もうプロフェッサーがアンジェを殺す理由も消滅した。彼女は電光剣の光刃を収束させると、柄をベルトに装着する。

 

 今すぐにでもこの船から脱出してプリンセスを救出に向かわねばならないが……どう動くか?

 

 その算段をプロフェッサーが考え始めた、その時だった。

 

「ダメ!!」

 

 甲高い声が、響いた。

 

<!>

 

 プロフェッサーの視線が動く。

 

 アンジェが、床に落ちていたバッグに寄っていたネズミを追い払っていた。

 

 このバッグは、プロフェッサーも見覚えがあった。ショッピングモールで、プリンセスが身に付けていた物だ。

 

 恐る恐るという手付きで、アンジェがバッグを開く。

 

 そこには、すっかり包み紙の色褪せた石鹸や、子供用の帽子が入っていた。

 

「これは……」

 

 帽子などはアンジェにとって、彼女とプリンセスの間でとりわけ特別な意味を持つ品物であったが……

 

<…………>

 

 一方でプロフェッサーが注目していたのは別の品物、石鹸の方だった。

 

 これは、どこにでもある石鹸で簡単に手に入る品物ではあるのだが……

 

 プロフェッサーの頭脳は、僅かな手がかりから一つの推理を打ち立てる。

 

<<……今まで、どうしてアンジェがいつもプリンセスを特別扱いするのか? それが疑問だったが……>>

 

 理由が何なのか?

 

<<……それが、分かり掛けてきたぞ……>>

 

 そもそも今までは、アプローチの仕方が間違っていたのだ。それでは真実に迫れないのは当たり前であった。

 

<<発想を『逆』にしなくてはいけないんだ……>>

 

 気が付けば簡単な事ではあるが、プロフェッサーとしてもここに来なくてはその発想には思い至れなかった。

 

 その切っ掛けを与えてくれたのは、プリンセスのバッグに入っていた石鹸だった。

 

 この石鹸は、アルビオン王国王室御用達のブランドの品物だ。当然ながら、王族であるプリンセスならばいつでもいくらでも手に入る消耗品でしかない。

 

 しかも、バッグに入っていたのは昨日今日卸された新品ではない。包み紙に付いたシワや褪色度合いからしても……少なく見積もっても数年は経過しているように思えた。

 

 プリンセスがバッグにそれを入れていたのは、日用品として使う為ではない。何かのお守りや験担ぎ、彼女にとっての宝物だから肌身離さず持っているという線が、フィーリングとして近い。

 

 いつでも手に入る石鹸を、お守りとして持ち歩く……そんな習慣があるとは、プロフェッサーは知らなかったしベアトリスからも聞いた事がなかった。

 

 これはつまり……どういう事か?

 

 数年前から十年前のプリンセスにとって、この石鹸は宝物に成り得る物……イコールいつでも手に入るものではなかった? 仮に『誰か』から贈られたプレゼントだとして……プリンセスに王宮のどこにでもある石鹸を贈るというのは妙だ。その『誰か』、仮に貴族や王族の親兄弟だとしても、石鹸をプリンセスに渡すなど、おかしな話だ。

 

 そこからプロフェッサーは思考を先へと進める。

 

<<……当時のプリンセスは、こうした石鹸が簡単に手に入らないような立場だった?>>

 

 確かにこの石鹸は日用品としては高価な品物ではあるが……それでも王宮に行けば浴室や洗面所にいくらでもある。王族であるプリンセスがそれを手に出来ないとは、一体どういう状況だ?

 

 更に、そこから一つの仮説を構築。

 

<<数年から十年前……プリンセスはプリンセスではなかった? プリンセスは王族ではなかった?>>

 

 とんでもない推論が脳梁から弾き出されたが……しかしだとするならば、説明が付く。

 

 他にも色々考えてみたが、どれもしっくり来ない。正解ではない、事実と違うのが直感で分かる。友人の探偵も言っていた。『考えられる可能性を一つずつ消していって、最後に残った結論があったのなら、どんなに信じられないと思うような内容であっても、それが真実である』と。

 

 だがそれだとおかしな事が一つ。

 

 『プリンセス・シャーロット』が十数年前に生まれている事は、アルビオン王室の記録にも残っているし成長を記録した写真や絵画も多くある。

 

 少なくとも『シャーロット』はある日突然に現れた存在ではない。でも今の『シャーロット』は、かつて王族でなかった者が今は王族になっている。

 

 どういう事か?

 

<<……つまりいつの間にか別の人間が……それまで居た『王族のシャーロット』と『王族ではなかったシャーロット』が入れ替わってしまった……?>>

 

 そこまで思考が進んだ所で、プロフェッサーは<はっ>と息を呑んだ。

 

<入れ替わった……だと……?>

 

 呆然と、呟く。

 

 入れ替わり。

 

 そんな事が出来る者が……居た、否、居る。

 

<……ま、まさか……アンジェ、あなたは……>

 

 プロフェッサーがそう呟きかけた時だった。

 

 今までうずくまっていたアンジェがいきなり立ち上がって、プロフェッサーがここに入ってくる為に開けた扉の穴から外へと出た。

 

<アンジェ、待って……>

 

 プロフェッサーも後を追って移動する。

 

 アンジェが足を止めたのは、非常脱出用のパラシュート置き場であった。ケイバーライトの重力制御技術、それに伴う飛行船が実用化されて以来、万一の時の為にこうした設備は軍・民間問わずあらゆる船に設置されている。アンジェの視線は、置かれているパラシュートの一つに注がれていた。

 

 プロフェッサーも、義眼のピントを調整してそのパラシュートの袋を見た。口紅で、何か文字が書かれている。

 

 書かれていたのは急いでいたのだろう、短い内容だった。

 

 

 

 My turtledove,(私の白鳩)

 

 Run and live(逃げて、そして生きて)

 

 as Ange!(アンジェとして)

 

 

 

 プリンセスの筆跡だった。

 

「……馬鹿!!」

 

 泣きそうな顔になるアンジェ。

 

 今の彼女は、すぐ背後にプロフェッサーが控えている事すら忘れているようだった。

 

 一方でプロフェッサーは、自分の推理をより強く確信していた。

 

 今のシャーロットは元々王族ではない。じゃあ、元々王族だったシャーロットは何処へ行ったのか? 彼女の中でその疑問についても答えは出ていたが……この短い文面を見て、裏付けが取れた思いだった。

 

 自分の仮説と、アンジェに『アンジェとして生きろ』とプリンセスが書き残すという事実を合わせて考えると……

 

<<アンジェが本物の『プリンセス・シャーロット』……そしていつからか『今のプリンセス』と入れ替わった……恐らくは、十年前の、あの革命の混乱の中で?>>

 

 二人が旧知の仲だったとすれば、アンジェがプリンセスを特別扱いする事もそれで説明出来る。

 

 そして必然、入れ替わりが行われれば……プリンセス・シャーロットは『誰か』に。『誰か』はプリンセス・シャーロットに成り代わる。

 

<<その『誰か』が、アンジェ……!!>>

 

 つまり『今のプリンセス』は『かつてアンジェだった少女』で『今のアンジェ』は『かつてのプリンセス・シャーロット』なのだ。

 

 結論は出た。

 

 考えるのは此処までだった。

 

 プロフェッサーがこれからどう動くのか? それは決まっていた。

 

 アンジェが、彼女を振り返った。

 

「プロフェッサー!!」

 

<アンジェ>

 

 二人の声が、揃う。

 

<「プリンセスを助けに行くわ。力を貸して」>

 

 全く同じタイミングで、同じ内容を二人は口にしたが、その後のリアクションは違っていた。

 

「えっ……?」

 

<…………>

 

 アンジェはかなり驚いたようであった一方、プロフェッサーはそれが当然であるかのように平然としていた。

 

<……では、善は急げね。すぐ、降りるわよ>

 

「え、降りるって……」

 

 アンジェの問いに答えるより早く、プロフェッサーはベルトに挿していた柄を掴むと光刃を起動させ、床に深々と突き刺す。

 

「プロフェッサー……何を……!!」

 

<……>

 

 プロフェッサーは何も言わずに、そのまま半径数十センチ程の円を描くように光刃を床に刺したまま回転する。

 

 ちょうど二人を中心として、溶断された赤い円が床に描かれた。

 

「……」

 

 数秒後に何が起こるか想像が付いて、アンジェは身を引こうとしたがそれより早くプロフェッサーの手が伸びて、彼女を捕らえた。

 

「何を……!!」

 

<しっかり私に掴まっていて>

 

 プロフェッサーが静かにそう言って……

 

 そして、溶断された床が二人分の体重が掛かった事で下に落ちて、同時に高空を飛ぶ飛行客船の内と外の気圧差によって、船内の空気が便所のネズミのように外へと吐き出される。その気流に乗るようにして、アンジェとプロフェッサーは空中に飛び出した。

 

 高々度からのノーパラシュートバンジー。飛び降り自殺と同じ行為であるが、しかしプロフェッサーは少しも慌てず、磁場を使って二人分の体の動きをコントロールしながら、吹き荒ぶ風の音に負けないように声を張り上げて叫んだ。

 

<アンジェ。一つ言っておく>

 

「?」

 

<……私が忠を尽くし、お守りするのは。今のプリンセスだ>

 



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第25話 ロンドンの一番長い日 その3

 

 ロンドンの一角に存在する新王室寺院。

 

 本日、王族や主立った諸侯が列席して戦勝祈願の式典が行われるそこに、ロンドンの近代的な町並みにはまるでマッチしない乗り物がやってきた。

 

 自動車や馬車よりは、ずっとゆっくりとしたスピードでのんびりと動く乗り物。

 

 牛車である。

 

 座乗するのはアルビオン王国ではあまり見ない扁平な顔つきをした壮年の男。ちせの直属の主である堀川公であった。

 

「東方の瀛州より先の太政大臣にして特命全権大使堀川昌康公。貴国の戦勝祈願式にご臨席賜りたく候」

 

 堂に入った態度で朗々と謳い上げるのは、牛車の傍らに立つちせであった。

 

 王国兵は思わぬ来客に戸惑いがちであったもののそこは一国の大使、VIPである。特に断る理由も無く、堀川公一行は簡単な手続きの後に寺院の中へと通された。

 

 

 

 

 

 

 

 ほぼ同時刻、メイフェア校では。

 

<それでアンジェ、まずはどう動くべきかしら?>

 

「まずは、プリンセスの居所を突き止めないと……」

 

 つかつかと敷地内を進んでいくプロフェッサーとアンジェ。

 

 今は夜で、ゼルダ達も出払ってしまっているので学園内の雰囲気はひっそりとしたものだ。

 

「どうするか……」

 

 時間が無いので、流石の天才スパイの顔にも焦りが見える。

 

 プロフェッサーが、あるいはゼルダ麾下のスパイが留守番に残っているかも知れないので警戒しつつ窓から部室を覗き込んでみると……

 

<アンジェ、どうやら探す必要は無さそうよ>

 

「?」

 

 すっと動かしたプロフェッサーの指が「覗いてみろ」と部室の窓を指差す。アンジェも、プロフェッサーの反対側に立って部屋の中を覗き込む。

 

 すると……

 

「はい。女王暗殺にプリンセスが関わってると国民が知れば王国内は混乱に陥ります」

 

 恐らく、連絡役にゼルダが残していった人員なのだろう。

 

 物騒な内容を、無警戒に電話している男が居た。

 

「作戦後は用済みという事ですな。哀れな事で……」

 

 彼はその言葉を最後まで言い切る事が出来なかった。

 

 ゴツン!!

 

 鈍い音が、部室に響いた。

 

 アンジェが部室に置かれていたアンモナイトの化石を即席の鈍器にして、その男を殴りつけたのだ。

 

『どうした? 何があった? 何の音だ? おい……』

 

 何かあった事は電話越しの相手にも伝わったようだが、しかしそれ以上の言葉を聞く前に、プロフェッサーが受話器を置いた。

 

 見ればアンジェが、倒れた男に拳銃を突き付けていた。

 

<……アンジェ、そいつの尋問は任せる。私は、少し確認したい事があるのでね……>

 

 プロフェッサーはそう言うと、もうアンジェにも連絡員の男にも興味を無くしたようだった。記憶している番号へと電話を掛ける。

 

『……出ろ。出なさいよ……』

 

 内心では、そう祈るように呟くプロフェッサー。しかし得てしてこういう時の祈りは裏切られるものだ。

 

 いくら待っても、呼び出し音が繰り返し繰り返し鳴るだけで向こう側の受話器が取られる気配が無い。

 

『ぬうっ……!!』

 

 思わず、心の中で舌を打つ。

 

 今、彼女が電話を掛けているのはアルビオン王国軍の兵舎だ。それもイングウェイ少佐が統括している部隊が駐屯している部署へ。

 

『出ないって事があるか……っ!!』

 

 いざという時は国家を守る為に即応せねばならない彼等が、電話に出ないなど有り得ない。掛かってきた電話が、国家の存亡を告げる火急の報かも知れないのだから。特にイングウェイ少佐は規律正しく部隊を纏めている優秀な軍人だ。彼の部隊に怠慢などもまた有り得ない。

 

 それが有り得るとすれば……考えられるケースはそう多くない。

 

 それは……!!

 

 国家を守るべき彼等が電話に出ない場合は……!!

 

『守るべき国家を自分達の手でひっくり返そうとしている時だけだ!!』

 

 嫌な予感が当たった。

 

 昨日、フランキーとの会話でロンドン市内に陸軍の一部部隊が集結していて、その部隊は海外植民地出身の兵士が中心となっていると聞いた事が、今になって脳裏に蘇る。

 

 あの時は、イングウェイ少佐には短兵急に動くなと釘を刺していたから大丈夫だろうと深く追求はしなかったが……

 

 しかし今にして考えてみれば迂闊であった。

 

『……会いに行く時間は無いにせよ、せめて確認の電話の一つでも入れるべきだった……!!』

 

 プリンセスの身に危険が迫っていると考えていた焦りもあったがこれは自分の失策だったと、プロフェッサーは歯噛みする。

 

 だが、後悔も反省も後回しだとすぐに頭を切り換えた。

 

 今は今の最善を考えねばならない。

 

『少佐達はクーデターを起こすつもりだ……と、すればその場所は……戦勝祈願式典が行われる、新王室寺院……!! そこしかない!!』

 

 今日、そこには女王や諸侯が一堂に会する。そこに爆弾でも放り込めば、この国の支配層を一網打尽に出来る。少佐はそれをやるつもりだ。

 

 と、プロフェッサーの頭脳が結論を弾き出した時だった。

 

「プロフェッサー、分かったわ。プリンセスとゼルダは、新王室寺院に居る」

 

『……!!』

 

 アンジェの告げた情報は、プロフェッサーにとっては悪い(バッド)……否、最悪の(ワースト)ニュースであった。

 

 イングウェイ少佐の部隊はクーデターの為に新王室寺院に向かっていると推測され、そしてプリンセスとゼルダもそこに居る。こんな偶然は無い。

 

<プリンセスを女王暗殺の黒幕に仕立て上げて、革命軍を扇動するつもりね……かなり……かなり拙い>

 

 本当に、時間も人手も無い。

 

 今のプロフェッサーは態度や表情には出ないよう極力心掛けるが、内心ではかなり焦燥している。

 

「お、お前達!! こんな事をしてただで済むと思っているのか!!」

 

 アンジェに縛り上げられた連絡員が、唾を飛ばしながら喚いた。

 

「別に。あなたが喋らなければ済む話よ」

 

<アンジェ、あまり血が出ないようにね。これからも使う部室が汚れるのは、その、困る>

 

 頷いたアンジェが、持っていた拳銃を無造作に男の頭に照準した。

 

 がちりと、撃鉄を起こす。そうして引き金に指がかかって……

 

「待……!!」

 

 引き金を絞ろうとした所で、ぐっと横合いから伸びてきた手がアンジェの腕を引っ張って射線を逸らせた。咄嗟に、アンジェは引き金から指を外した。

 

「このバカ……折角慎重に事を進めていたのに」

 

 すんでのタイミングで現れたのは、異動になって学園から姿を消していたドロシーだった。

 

「ドロシー、どうして……」

 

 アンジェにしては珍しく、今日の彼女は明らかな動揺の色を見せた。

 

「政府からの命令でゼルダの作戦内容を探ってた。うちらは政府と軍部の椅子取りゲームに巻き込まれたのさ」

 

<……やはり、そんな事だったのか>

 

 委員長から受け取った義眼に記録されていた映像には、コントロールのリーダー席に軍の制服を着た男が座っていた。それを見た時から、プロフェッサーはバックにあるのがおおよそそんなシナリオであろうとアタリを付けていたが、予想が当たった。

 

 ドロシーは連絡員の男の頭にアンモナイトの化石をもう一度ぶつけて気絶させると、プロフェッサーから受話器を受け取って掛け直した。

 

「今は共和国内もピリピリしてる。ベアト、こっちに来な。アンジェとプロフェッサーだった。お陰で作戦が台無しだ」

 

<ベアトリスも居るのか……>

 

 プロフェッサーは前に目立った行動はしないようにと忠告しておいたが、どうやらそれが功を奏したようだった。

 

「ドロシー、プリンセスを助けに行かないと」

 

「私が受けたミッションにプリンセスの救出は含まれていない。私達はスパイだ。任務外の事に手は貸せない」

 

「そう……」

 

 スパイとしての正論を突き付けられて、アンジェは肩を落としてしまう。一方でプロフェッサーは、動揺した様子も見せなかった。

 

<……気にする事ではない、アンジェ。誰がやらなくても、私達でやれば良いだけの事だ>

 

「まぁ待てよ。プロフェッサー」

 

 すっと、ドロシーが手を差し出した。

 

「確かにスパイとして任務外の事に手は貸せないが。だけど、友達としてお願いするって事なら。全力で手を貸してやるよ」

 

<「……」>

 

 アンジェとプロフェッサーはしばらく顔を見合わせて、そしてそれぞれドロシーの手に自分達の手を重ねた。

 

「ありがとう……」

 

<感謝する、ドロシー……>

 

「アンジェさん、プロフェッサー!! 戻ってたんですか!? こっちはずっと準備して待ってたんですよ!?」

 

 すると今度は、泡食った顔のベアトリスが駆け込んできた。

 

「待ってた……?」

 

「あ……」

 

 尋ねられて、ドロシーはちょっとばつの悪そうな顔になった。サプライズパーティーを開く予定が、主賓にバレてしまった企画者のようだ。

 

「そうですよ!! 姫様の居場所を突き止めたのにアンジェさん達が戻るまで待つってドロシーさんが!!」

 

「……嘘つき」

 

「いいだろこれぐらいは。大体、アンジェが最初から素直に話してくれればもっと簡単に済んだんだ」

 

「……ごめん」

 

「二人とも、そんなの良いですから早くしないと姫様が~!!」

 

<それは、同感だな。勿論、私も同行する>

 

 と、プロフェッサー。彼女にしてみればやる事が増えた形となる。

 

 ここへ戻るまではプリンセスを助ける事だけが目的だったが、今はもう一つ。イングウェイ少佐を殺して彼の口を封じねばならなくなった。

 

 軽々に動かないようあれほど言ったのに、性急に事に及んだ時点でプロフェッサーの中でイングウェイ少佐の認識は既に同志から邪魔者へと変わっている。

 

 プロフェッサーの見立てでは、どんな手段を用いるにせよこのタイミングでクーデターなど行って成功する確率は一割を切る。しかも仮に成功したとして、少佐達はその後どうするつもりなのか。女王も諸侯も、要するに実質的にこのアルビオン王国を動かしている人間が丸ごと居なくなってしまったら、王国は言わば脳死状態に陥る。仮にそうならなかったにせよ、政治・軍事・外交あらゆる面で大きなダメージを受ける事は疑いない。そうなったら虎視眈々と侵攻の機会を伺う共和国は元より列強諸国から食い荒らされる形となって、この国は崩壊する。

 

 プロフェッサーが、殺そうと思えばいつでも殺せるがそれでもノルマンディー公を殺せない理由がそれだ。恐らくプリンセスを黒、つまりは共和国への内通者であると見抜いているノルマンディー公は目障りだが、彼が当代一流の人物でこの国の防諜に大きな役割を果たしているのはプロフェッサーも認める所である。後任も決まらないままに彼を殺してしまったら、王国の機密情報はザルのように諸外国に筒抜けになる。

 

 そうした見通しが、イングウェイには出来ていない。だからこんな迂闊に動けるのだ。

 

 ……と、なるとクーデターに失敗して捕縛されたイングウェイの口から自分の存在が漏れるという事態はプロフェッサーにとっては絶対に避けたい事態だった。意志に依らず口を割らせる方法など、ノルマンディー公ならダース単位で用意出来るだろう。

 

 それでも、自分の言う通りに動いてくれていたのならば同志としてプロフェッサーは彼を助けようと動いたであろうが、勝手な行動を取った今では始末するという方向に思考が向いている。

 

<……一つの目的が二つになったが……まぁ、向かう場所は同じだ>

 

 

 

 

 

 

 

 雪のちらつくロンドンの町中を、プロフェッサーの改造した自動車が滑るように進んでいく。

 

 乗っているのは当然運転席にドロシー、助手席にはプロフェッサー。後部座席にはそれぞれアンジェとベアトリス。

 

「式典は19時から。普通のルートじゃ遅刻だな」

 

「間に合いますか?」

 

<問題無い。ドロシー、近道をしよう>

 

 そう言ったプロフェッサーの行動は早かった。

 

 横から手を伸ばしてハンドルを掴むと、思い切り左に切る。

 

「ちょ!! 何するんだプロフェッサー!!」「な、何やってるんですか!?」「プロフェッサー!?」

 

 同乗している3人が、一斉に悲鳴を上げた。

 

 車は車道から歩道に乗り上げて、更にはその先にあったサブウェイの入り口に突っ込んだ。

 

 スピードに乗ったまま階段を降りていく衝撃はプロフェッサー謹製の最高のショックアブソーバーでさえも完全には吸収出来ずに、4人は上下左右に揺さぶられる。

 

「うおおっ!?」

 

 悲鳴を上げながら、ドロシーは車をコントロールする。反射的にブレーキを踏んだが車がスピードを落とす気配は無かった。

 

「ブ、ブレーキが利かない!?」

 

<この車を改造したのは誰だと思っている? あなたにも教えていない隠し機能の二つや三つは組み込んであるさ>

 

 しれっと、助手席のプロフェッサーに言われてドロシーは涙目になりながら彼女を睨んだ。いつの間に取り出したのか、彼女の手には板状のリモコンが握られている。

 

「ひ、ひらはんら~!!」

 

 ベアトリスが赤くなった舌を出した。

 

「ま、待って!? 止まれ!!」

 

 駅員が、地下鉄の構内に自動車が飛び込んでくるというこれは夢か幻かと疑いたくなるような事態にあっても、職務を果たそうと体を張って制止しようとするが、無駄だった。そもそも運転しているドロシーですら止められない。駅員は悲鳴を上げながら飛び退いて、車は改札を牧場の柵のようにぶち破ってホームに突入すると、そのまま線路に下りてレールの上を走り始めた。

 

「プ、プロフェッサー!! あんた何をやっているのか分かっているのか!?」

 

 フルスロットルで線路内を疾走する車を、壁に激突しないよう必死にハンドルを切りつつ、ドロシーは反響するエンジン音に負けないよう声を張り上げた。

 

<勿論だ。ここを通っていけば、地上を走るよりずっと早く寺院に着く>

 

「で、でもプロフェッサー!! いくらなんでも地下鉄を走るなんて……!!」

 

 涙目になったベアトリスが、必死にプロフェッサーの肩を掴んで揺さぶる。

 

「……プロフェッサー……この線路は下り車線で、私達はロンドンの中心部の寺院へと向かっている訳だから……」

 

「えっ……ア、アンジェさん。それはまさか……!!」

 

 アンジェの言葉の意味を悟って、ベアトリスの顔がさあっと蒼くなった。

 

 そして彼女の中の不安を裏付けるように、前方からライトの光が見えてくる。

 

 前方から、列車が走ってきているのだ。

 

「プロフェッサー、今すぐ車のコントロールを戻すんだ!!」

 

「その機械を渡して」

 

 このままでは正面衝突で木っ端微塵、4人とも死ぬ。

 

 懐の拳銃に手を掛けるドロシー。アンジェも既に、プロフェッサーの背中に銃を突き付けている。だが、プロフェッサーは落ち着いたものだ。

 

<どのみち今からでは間に合わない。それよりドロシー、赤いボタンを覚えているか?>

 

「な、何!?」

 

<だから赤いボタンだよ。私が良いと言った時以外は触るなと言ったヤツだ>

 

「あ、あぁ!! それは覚えてるけど……!!」

 

 ハンドル脇に設置された赤と青のボタンに、ドロシーの視線が動く。

 

<今なら押していい。いや、押すんだ>

 

「何言ってるんだこんな時に!! それより……」

 

<良いからつべこべ言わずに、ボタンを押すんだ>

 

「く、くそ、分かったよ。もう!! こうなったら化けて出てやるからな……!!」

 

 恨み節を口にしつつ、ドロシーは赤いボタンを強く押し込んだ。その後で、やけっぱちになって叫ぶ。

 

「あぁ畜生!! スパイだから長生きなんて出来ないと思ってたけど、まさかこんな死に方するなんて!! 恨むからなプロフェッサー!!」

 

 その言葉が終わらない内に、異変は起こった。

 

 まずエンジン音が変化して、これまでよりもずっと心地良い響きに変わった。

 

「プロフェッサー!! これは一体何のボタンなんだ!?」

 

<前に言ったろう? ちゃんとシートベルトを付けているかどうか、確認する為のボタンだ。では皆様、シートベルトをお締め下さい>

 

 プロフェッサーに言われて、アンジェもベアトリスもそれぞれ反射的な速さでシートベルトを付けた。二人ともそうしなければヤバイと、本能で理解したのだ。

 

 そうしている間にも、変化は続いている。

 

 車の車幅が広がり、車体後部が伸びて車のラインそれ自体が流線型のものへと変化し始めた。

 

 そして加速・最高速共に、今までドロシーが経験した事もない程のスピードが出ている。

 

 車体全体が、翠色の燐光を纏い始めた。

 

「こ、これは……っ!!」

 

 度肝を抜かれたドロシーであったが、驚いてばかりではいられなかった。

 

 既に、列車が視界一杯に広がっている。車掌もこちらに気付いたようでブレーキを掛けているようだがとても停止には間に合わないだろう。しかもこっちは止まれないから、どっちみち激突する。

 

「プロフェッサー、車を止めてくれ!! いやバックだ!! 本当に死ぬぞ!!」

 

<……>

 

 プロフェッサーは何も言わず、先程地下鉄に突入した時のように思い切り横からハンドルを切った。

 

 その時、名ドライバーのドロシーには不思議な感覚が走っていた。

 

 全速で車を飛ばしている時、風圧で車体が地面に押し付けられるように、車体が下へと吸い付けられているのを感じる。

 

 ぶつかる!!

 

 ドロシーがそう思った時に、視界が傾いた。

 

 車体が線路に対して水平から直角になって、その後でまた水平になった。

 

 ドロシー、アンジェ、ベアトリス、プロフェッサー。

 

 今や4人の視界は逆しまになっていた。

 

 この車は地下鉄のトンネルの天井にくっついて、それでも尚走り続けていた。

 

「まさか……プロフェッサー、この車にはケイバーライトが……!!」

 

<そう、ケイバーライトの重量軽減による加速と、磁場によって車体を壁に押し付けて、壁面・天井を走っている>

 

 プロフェッサーが赤いボタンはシートベルトを締めているかどうか確認するボタンだと言った意味が、アンジェ達にも分かった。もし付けていなかったら、今頃外へと放り出されていただろう。

 

 上下反転した視界の上には、既に列車の天井が見えていた。

 

 反重力走行しつつ時速300キロオーバーで走るこの車は、トンネル内で列車の上をすれ違うように走っているのだ。

 

<どうだ、素晴らしいだろう>

 

「ひ、ひぃぃぃいいいっ!!」

 

 ベアトリスが泣きながら、ひっきりなしに悲鳴を上げる。

 

 ドロシーの髪の一房が、列車の天井に掠った。

 

「みんな頭を引っ込めろ!! 首が飛んでしまうぞ!!」

 

「ひいい、怖い!!」

 

 アンジェがベアトリスの頭を、ぐっと下げさせた。

 

<肩の力を抜いてリラックスしたらどうかな、ドロシー。楽しんで仕事しなくては……音楽を掛けよう>

 

 カチッ。

 

 プロフェッサーが席から体を乗り出して、青いボタンを押した。

 

『♪~魚肉そぼろ~♪』

 

 地下鉄のトンネルに、場違いなミュージックが反響する。

 

 しかしドロシーもベアトリスも、音楽に興じている場合ではなかった。二人とも目が点になっている。

 

「そ、それより……ドロシー、前を」

 

 アンジェが、前方を指差す。

 

 暗いトンネルの先に、光が見えてくる。

 

 次の駅のホームだ。

 

<ではドロシー、あそこで地上に出よう。今度はあなたがやるんだ。出来る筈だ>

 

「あ、ああ……」

 

 ドロシーがハンドルを回して、4人の視界がぐるんと反転して衝撃が襲ってくる。

 

 トンネルの天井からホームに、車が着地したのだ。

 

 そのまま呆気に取られている駅員を尻目に、地下鉄に入った時と同じように改札をぶち破る。

 

 プロフェッサーはぽいと札束を投げ出した。あれで修理代の足しにはなるだろう。

 

 モーセの奇蹟によって割れた紅海のように左右に飛び退く乗客とすれ違いつつ車はそのまま階段を駆け上ると、一気に地上へと飛び出した。そうして歩道から車道に入る。

 

 ようやく慣れ親しんだ感覚が戻ってきて、地に足ならぬ地に車輪が着いたドロシーが恨めしげな視線をプロフェッサーに向けた。

 

「あんたどうかしてるぞプロフェッサー!!」

 

<そうかも知れないが。だがドロシー。これで地上を行くよりも5分は時間が縮まったぞ。さぁ、急ごう>

 

 プロフェッサーの視界に、義眼に搭載された電子脳が『死傷者ゼロ』を表示した。

 

「急ぐってこれ以上どう急ぐんですか!? さっきほどじゃないにせよ今だって時速150キロは出ているのに!!」

 

 泣きながらベアトリスが訴えてくる。

 

<まだまだ速くなるわ。水素エンジンとケイバーライトの組み合わせはこんなものじゃない>

 

「聞きたくなかった!!」

 

「……でも、これで確実に間に合うわね」

 

 アンジェが、懐中時計を見ながら呟いた。想定していた時間よりはずっと良いペースで来ている。後はこのまま壁に向かって進んで、壁中の通路を進めば式典が始まるより早く寺院に到着出来る。

 

「それはそうだが……プロフェッサー、生きて帰れたらこの車の機能を全部教えてもらうぞ!! 自爆装置でも付けられていたらたまらないからな!!」

 

 呆れと怒りの入り交じった顔と声で、ドロシーが言った。

 

<……何故知っているの?>

 

「「「えっ!?」」」

 

<……冗談だよ>

 



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第26話 ロンドンの一番長い日 その4

 

「プリンセスが我々の決起に参画したとあれば、結束も強まります。本日は新王室寺院で戦勝祈願の式典が行われます。式典には主立った王族や諸侯の方々が参列されます。勿論女王もです。我々は恐れ多くも女王陛下を討つ所存であります。あなたに新しい女王になっていただきたいのです」

 

「……」

 

 何事も無ければ、プリンセスもまた式典に参加していた筈だった。その予定を、今朝ベアトリスから聞かされていた。まだほんの半日くらいしか経っていない筈だが、もう何年か前の出来事のように錯覚してしまう。それほど、濃密な時間が急激に流れている。

 

 アンジェを飛行客船の貨物室に閉じ込めて彼女と入れ替わったプリンセスは、ショッピングモールでゼルダ達に「アンジェ」として姿を見せた。

 

 ゼルダ達にはアンジェが起こしたスモークグレネード騒ぎは「プリンセス」に自分を信用させる為だと説明した。「プリンセス」は、二人きりになった時に始末したとも。

 

 そうしてそのまま、ゼルダに連れられてクーデターを画策するイングウェイ少佐の部隊に合流した。

 

「我々は式典の開始を待ち、寺院の天井を落とします。寺院建設に関わる労働者には我々の同志が大勢おります。植民地支配されこの国の労働力の大半を占めながら、最低限の権利しか認められていない。彼等の怒りは必然なのです」

 

 あるいは戦いが起こった時には常に最前線で危険の矢面に立たされるのに、とイングウェイは言い掛けて言葉を呑み込んだ。それは彼自身の私怨・私憤が多分に含まれるものだったからだ。

 

「そう、ですか……」

 

 プリンセスは驚く一方で、どこか納得している自分も居る事を自覚していた。それはあの十年前の革命で運命が変わる迄の間、彼女自身が嫌と言う程に味わってきたものであったからだ。

 

「プリンセス・シャーロット。革命は必ず成功します」

 

「移民、貧困、格差……それがあなた達の理由なのですね……」

 

 これは起こるべくして起こる流れだった。

 

 努力家であるプリンセスは、当然ながら歴史についても勉強している。国家の興亡の歴史は詰まる所、一つのループを繰り返していると言える。戦争、平和、革命。その三拍子がぐるぐると回っていつまでもいつまでも続いているのだ。

 

 まして今のアルビオン王国は、少佐の語ったような植民地支配や移民の問題は勿論の事、国内の貧富の差は広がるばかりで腐敗は臨界に達しつつあり社会の自浄作用が働かなくなっている。そろそろ、平和から革命に移り変わる時期なのだ。いや、この表現は正確ではないだろう。

 

 十年前、この国が割れてから今迄ずっと「革命」は続いているのだ。一度も終わっていない。

 

『でも……止めなくちゃ……クーデターなんて……』

 

 二十世紀を迎えようとしている今、いい加減にそんな不毛な連鎖は終わらせなければならない。

 

 世直しをする者は、別の世直しをしようとする者に討たれる。それもまた歴史の必然だ。

 

 仮にこのクーデターが成功して自分が王位に就いたとしても、それでは何も変わらない。それは所詮、ケージの中で車輪を回すハツカネズミのように既存の歴史のシステムの範疇で踊っているに過ぎないからだ。一歩とて前に進んでいない。

 

 それでは世界は変わらない。何一つも。

 

 この国を変えようと志し、その為の力を求めて多くを学ぶ中で、彼女は嫌でもその結論に辿り着く事となった。

 

 だからこそ、プリンセスは世界の在り方そのものをぶち壊すような力を求めていた。

 

 そして見付けた。

 

 この世界の構造そのものを一度壊して、然る後に次の階梯にまで再構築してしまうような才能と技術を。そしてそれを支え裏付ける執念と憎悪を。

 

 プロフェッサー、シンディ・グランベル。

 

 彼女こそが探していた鍵だった。未来への扉を、強引にこじ開ける為の。

 

 彼女に初めて会った時の、その困惑をどう表現したものだろうか。否、プリンセスにとってそれは困惑などではなく、感動だった。プリンセスは基本的に無神論者だ。世界を動かすのは神の慈悲でも気まぐれでもなく、人の意志と力だと思っている。しかしその時だけは、神の存在を信じて良いかもとさえ思った。

 

 他にも幾重にも準備を重ねてきた。再会したアンジェことシャーロットを通じて共和国にパイプを作ったのもその一環だ。

 

 今こそ、不毛な三拍子から王国も共和国も、いや世界そのものが脱却しなくてはならない時なのに。

 

「……」

 

 ちらりと、すぐ横の席に着いたゼルダを見る。

 

 アンジェより熟練であろうスパイは何も言わず、意味深な視線を向けてくるだけだ。

 

 まだ、アンジェと自分が入れ替わっている事には気付かれていないと思うが……しかし僅かな立ち振る舞いやクセの違いから、いつ看破されても不思議は無い。さながらタイムリミットがいつなのか分からない時限爆弾を懐に入れている気分だ。弾けるのは一分後か一時間後か。

 

 いずれにせよ、あまり時間を掛ける事は出来ない。

 

 入れ替わりがバレる危険の他にも、人があまり多くなってくれば動きが取れなくなる。

 

『……その前に、何とかしなくちゃ……』

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンの壁。

 

 その内部へと通じる通路に、一台の車が走り込んできた。

 

「おい、止まれ止まれ。ここは今日は通行禁止だ」

 

 封鎖されている通路の前に立っていた兵士が両手を広げて車を制止する。

 

 乗客を確かめようと近付いていくと……

 

「すみません。急いでいたものですから。式典に遅れてしまいそうなの。壁の通路を使わせていただけませんか?」

 

 後部座席から出てきたのは、この国の人間なら知らぬ者の居ない顔だった。

 

 プリンセス・シャーロット。

 

「おお、そういう事情でしたか。今門を……」

 

「いや待て。プリンセスは既に王室寺院にお入りになったと聞いています」

 

 後ろに控えていた兵士が、開門しようとしていた相棒を制止する。

 

「「「…………」」」

 

 ドロシー、ベアトリス、アンジェの眉や口角がぴくりと動いて、表情が強張った。

 

<…………>

 

 ガスマスクを装面しているプロフェッサーの表情は分からない。

 

 ピッ。

 

 彼女は無言で、懐から取り出したリモコンのスイッチを押す。

 

 プシューッ……!!

 

「な、何だ!? ゲホッ、ゴホッ……」

 

「し、染みる、目が……!!」

 

 車体の前部から白い煙が出て、兵士達に吹き付けられた。途端に門衛達は咳き込み、涙目になりながら右往左往し始める。催涙性のガスだ。

 

<突破して、ドロシー。しばらく、息は止めているように。アンジェとベアトは目を塞いでいて>

 

「よし!!」

 

 ドライバーとして風・粉塵避けのゴーグルを付けているドロシーは、目を瞑る必要は無かった。そのまま思い切りアクセルを踏み込む。

 

 抜群の加速力を発揮した車は閉じられた門をぶち破って、壁内へと滑り込んだ。

 

「侵入者だ!! ゲホッ、ゴホッ……」

 

「連絡だ、警備本部に……ノルマンディー公に……ハクション!!」

 

 

 

 

 

 

 

 王室寺院。

 

 アルビオン王国の重鎮として、当然ノルマンディー公も式典に参加する為にここに居た。

 

 そこに、秘書であるガゼルが緊張した面持ちでやって来る。

 

「侵入者だと?」

 

「はい、シャーロット殿下に変装していたと」

 

 報告を受けて、この国の諜報・防諜を司る男の決断は早かった。

 

「見付け次第処分しろ」

 

 

 

 

 

 

 

 壁内通路。

 

 ロンドンを東西に分かつこの壁が建造されていた時期には、この通路を使い列車にて物資の移送が行われていた。地面に敷かれているレールは、その時の名残だ。

 

 レール上を走っているので当然車は揺れるが、しかしついさっきまで地下鉄線路を走ってきたのでそれに比べればと、ベアトリスは自分の感覚が麻痺してきているのを自覚した。

 

「あっ!!」

 

 背後を振り返ると、ライトがこちらへと向かってきているのが見えた。

 

「追ってきました!!」

 

 軍用車両が数台と、それに装甲列車が走ってきている。

 

「撃て!!」

 

 車の後部座席や列車の荷台に鈴なりに乗った兵士達が一斉に発砲した。

 

 パン、パン!!

 

 狭い通路に銃声が反響する。

 

 何発かが車体に当たって、火花が散った。

 

 貫通しないのは、プロフェッサーが事前に車体のカウルを積層構造の防弾仕様に交換していた為だ。スパイが使う車だから、銃撃戦に巻き込まれる事態も彼女は想定していたのだ。

 

<流石は私>

 

 銃撃に晒されているとは思えない程に落ち着いた様子で、頬杖付きつつプロフェッサーがひとりごちた。

 

「頭を低くして」

 

 アンジェが、ベアトリスの頭を思い切り下げさせた。

 

「自画自賛している場合か!! 何とかしろ、プロフェッサー!! どうせあんたの事だ、まだこの車には私らに見せていないギミックの2つや3つは仕込んであるんだろ!!」

 

<……>

 

 プロフェッサーは、ぐるりと首を動かしてドロシーを見やった。

 

<ドロシー、あなたは私に言えばどんな逆境でも逆転出来る隠し玉がポンポン出てくると思っていないか?>

 

「……」

 

<どんなピンチになっても、まるで私が最初からその事態を想定していたかのようなご都合主義に「こんなこともあろうかと」と、あつらえたように状況を打開出来る奇想天外な新兵器を出してくると?>

 

「……」

 

<その通りだ。こんなこともあろうかと、な>

 

「プロフェッサー、テストは?」

 

<そんな暇あるか>

 

 ピッ。

 

 プロフェッサーがリモコンのスイッチを入れる。

 

 パカッ。じゃらららっ……

 

 車体の後部で蓋が開いたような音が鳴って、その後で小さな何かが沢山こぼれるような感触が走りそんな音が聞こえてきた。

 

「うわっ!?」

 

「タイヤが……!?」

 

 後方から悲鳴が聞こえてきて、追跡してきていた車両がスピンしてその後転倒し、横倒しになったりクラッシュした。兵士達の悲鳴が重なって聞こえてくる。

 

「プロフェッサー、今のは……」

 

<ちせから聞いた話から新しく組み込んだギミックだ。日本ではマキビシというらしいが……>

 

 今のギミックで、この車は後方にマキビシをバラ撒いて、追跡してくる車のタイヤを破裂させて追跡不能にしたのだ。

 

 これで自動車は撒けた。しかしまだ、装甲列車が残っている。列車には、マキビシも通用しない。

 

「ちっ!!」

 

 ドロシーは片手でハンドルを握りつつ、空いた手に拳銃を持って引き金を引いた。

 

 パン、パン、パン。

 

 銃声。

 

 しかし列車の装甲は自動車よりも分厚く、浅めの弾痕を穿つのが精々だった。

 

<……しつこい奴らだ>

 

 はぁ、とガスマスクから聞こえてくる呼吸音に溜息が混じった。

 

<仕方無い、奥の手を使おう>

 

「今度は何をする気だ?」

 

<連中をぶっ飛ばしてやるのさ>

 

 プロフェッサーはそう言って、胸の内ポケットから先程車のギミックを操っていたのとは別のリモコンを取り出した。

 

 ピッ。

 

 スイッチを押して……

 

「え? 何、これは……」

 

 戸惑った声を上げたのはベアトリスだった。

 

 彼女の喉の機械が、触ってもいないのにキリキリと音を立てて動き出したのだ。

 

<……ベアトリス。今から目一杯息を吸い込むんだ>

 

「え? ちょ、プロフェッサー!?」

 

<良いから、大きく息を吸って>

 

「な、何をいきなり……」

 

 中々決断しないベアトリスに、プロフェッサーは少し苛立ったようだった。次の言葉は語調が強くなった。

 

<吸えと言ってるんだ!! 大きく息を吸う!!>

 

「は、はい……!!」

 

 反射的に命令に従って、すうっと胸を仰け反らせて空気を肺腑に取り込むベアトリス。心なしか、彼女の胸が大きくなったようだった。

 

 この時点で、次に何が起こるか? アンジェもドロシーも、大体察しが付いたらしい。ドロシーは運転で文字通りハンドルから手が離せないが、アンジェは両手で耳を塞いで、ぱくっと口を開けた。

 

 プロフェッサーは、助手席から体を乗り出してドロシーの耳を塞いだ。

 

 準備は、これで完了した。

 

<では……ベアトリス。叫んで。思い切り>

 

「ふぇ?」

 

 吸い込んだ空気を漏らさないように、口を塞いだままベアトリスがくぐもった声を上げた。

 

<叫ぶの!! 思い切り!!>

 

「ふぁ、ふぁい!!」

 

 がくがくと首を縦に振ると、ベアトリスは胸に溜めていた空気を喉へと逆流させて……そして……

 

 壁内通路のあちこちに配置されていたランプや車のライトが、一斉に割れて砕け散った。

 

 装甲列車に乗っていた兵士達は、いきなり頭を揺さぶられたような衝撃を受けて悲鳴を上げながら耳を覆った。運転手にも同じ事が起こったのだろう。装甲列車が停車する。

 

 事前に「来る」と分かっていたアンジェ達は影響を比較的軽微に抑えられたが、それでも完全にシャットダウンする事はできなかった。棒で思い切り殴られたような頭痛に顔をしかめている。

 

 これらの現象を引き起こしたのは「音」だった。

 

 ただし、誰もそれが分からなかった。

 

 あまりの音量と衝撃で、人間の耳の可聴域では逆に聞こえている事に気が付かなかったのだ。

 

 それほどの大音響が、ベアトリスの喉から迸ったのだ。

 

「な、何で……?」

 

 ベアトリスは蒼い顔で喉へ手をやる。父親が自分に組み込んだ中には、こんな機能は備わっていなかった筈なのに。彼女自身に影響が無いのは、フグが自分の毒で死なないのと同じ理屈である。

 

<私があなたの喉をメンテしたのを忘れたの?>

 

 と、プロフェッサー。

 

「あ……」

 

 以前、藤堂十兵衛の襲撃があった時、ベアトリスは首を狙った斬撃を受けて危うく首と胴が泣き別れになる所だった。

 

 機械化した喉のお陰で命拾いはしたが、その時の衝撃で内部構造にはガタが来てしまっていた。以後は自分でだましだまし整備して保たせていたベアトリスだったが、しかしそれにも限界が来ていたのでプロフェッサーに本格的なメンテを依頼して、彼女はそれを快諾してくれたが……

 

「あの時か……」

 

<私が喉を改造したのよ>

 

「そんな事するんじゃない!!」

 

 怒り心頭のドロシーが抗議の声を上げる。

 

「……」

 

 アンジェは、Cボールを取り出してじっと見詰めた。

 

 そう言えばあの時、自分もCボールのメンテナンスをプロフェッサーに頼んでいた。当時は入念な分解清掃や部品を精度の高い厳選した物に交換したとプロフェッサーは言っていて、実際にアンジェは今まで使った事も無い程に重力を自由に制御出来た。あの時は流石は天才を自称するだけあって完璧以上に仕上げてくれたと尊敬の念を抱いていたものだが……ここへ来て急に不安になってきた。

 

 ドロシーの車、ベアトリスの喉……プロフェッサーが触った機械には、必ず独自のギミックが組み込まれていた。

 

 と、言う事は……!!

 

「ま、まさか……」

 

<……心配しなくても、アンジェ。あなたの命を守る為の機能を組み込みこそすれ、命を危険に晒すようなギミックを付けたりはしない。天才であり、科学者でもある私のプライドに懸けて、ね……>

 

「……」

 

 嘘ではないのだろう。プロフェッサーは自他共に認める天才だし、科学者としての自分に誇りを持っている事はこの車に乗っている全員が知っている。プロフェッサーとて人間である以上ミスを犯す事はあるが、彼女の機械はミスを犯さない。それも信用出来る。

 

 だが……それはそれとして「ギミックを組み込んでいない」とは言っていないので、アンジェは逆に不安が増した思いだった。

 

<……まぁ……あなた達からは不評らしいがそう捨てたものではないさ……>

 

「……と、言うと……?」

 

<今のベアトリスの大蛮声……ただ、追手を振り切る為だけのものではないという事よ>

 

 

 

 

 

 

 

「む……」

 

 パラパラと、天井から埃が舞い落ちてきたのをちせは目敏く見て取った。

 

「これは……」

 

 そう口で呟くのと、頭が結論を出すのとはほぼ同時だった。

 

 恐らくは起こるであろうと予測していた事態が、どうやら本当に起こったようだ。

 

 ちせは彼女の主人である堀川公の前に、進み出る。

 

「お願いが。火急の儀にてお側を離れるお許しを」

 

「役目を投げ打つか?」

 

 咎めるように言う堀川公だが、言葉程に顔や目、声に厳しさや剣呑さは無かった。

 

 これはあくまで確認だ。ちせが、自分の立場や役目を弁えているのかを、彼女に問うものだった。

 

 ちせは堀川公の供回りとしてこの寺院に来ている。剣達者である彼女はいざという時の護衛も兼ねて主の傍に控えており、それが離れるなど本来あってはならない事だ。

 

 まだ二十歳にもならないちせであるが、子供の年齢だからと言って、子供でいて良いとは限らない。当然、彼女はその事も務めの大事も、全て分かっている。

 

 それら一切全てを承知の上で、ちせは申し出ていた。

 

「何卒」

 



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第27話 ロンドンの一番長い日 その5

 

「どうぞプリンセス」

 

「ありがとう」

 

「いえ……よろしければ……」

 

 そう言ってスコーンが乗った皿を差し出したのは、まだ若い、いや幼いという表現が適切であろう少年兵であった。恐らくはプリンセスよりも年下であろう。

 

 まだ新しい王国軍の軍服は、少しばかり彼の体より大きくて着こなせていない感がある。顔は、自分が王族とこんなに近付ける事など昨日までは想像もしていなかったのだろう。興奮と緊張で紅潮していた。

 

 こんな子供までクーデターに参加している。つまりはそれほどまでに今の王国がそこまで植民地出身者を追い詰めてしまっているという事実を突き付けられているようで、プリンセスは胸が苦しくなった。

 

 そうして僅かに彼女の顔色が陰ったのを、自分が何か無礼を働いてしまったからだと受け取ったらしい。その少年兵は姿勢を正す。

 

「し、失礼しました」

 

 彼の反応を見たプリンセスは僅かにポーカーフェイスが崩れてしまった事を読み取り、すぐに修正していつもの笑顔に戻した。

 

「気にしないで。そうだ、一緒に食べましょう。皆さんもご一緒に」

 

 プリンセスが視線を向けた先に立っていた数名の兵士はそれぞれ顔を見合わせる。

 

 全員、年の頃はスコーンを持ってきた少年兵とさして変わらないようだ。少なくとも成人はしていないだろう。

 

 このクーデターの構成員の平均年齢は、思いの外に低いらしい。

 

「プリンセス、お気遣い無用です」

 

 ずいと進み出て話を切ったのはゼルダだった。

 

「たかが数人の空腹を満たした所で……」

 

 これは正論である。

 

 万人が飢えないようにする事こそ為政者の責務であり、この場でプリンセスが行っているのは要するに自己満足でしかない。

 

 そしてこれから自分達が行おうとする事こそ、王国をそのように変える為のクーデター、聖戦なのだから。

 

「……」

 

 ほんの僅かに、プリンセスが答えを返す迄に間があった。

 

 視線を動かして、ゼルダの挙動を観察する。

 

 今の時点でゼルダは『目の前のこのプリンセスがアンジェだと思っている』のだろうか?

 

 それとも『プリンセスと入れ替わったアンジェの振りをしているプリンセスで、それを知った上で見て見ぬ振りして目的の為に利用している』のだろうか?

 

 ゼルダ、引いては共和国側からすればこのクーデターの成否それ自体は、表裏のどちらが出ても構わないコイントスでしかない。(まず失敗するだろうが)どちらにしても王国内の混乱は共和国軍が壁を越えて侵攻する為の口実となるからだ。

 

 同じ理由で、プリンセスが必ずしも生きている必要も無い。生きているなら傀儡として動かせば良いし、死んでしまったならそれはそれでクーデターは弔い合戦という名目に差し替えれば良いだけの話だ。要するに必要なのは神輿であって、大勢の民衆の歓声に応えて手を振るだけの存在がいればそれで良しなのだ。

 

 だから目の前にいるのが結局『アンジェ』であろうが『プリンセス』であろうが、究極的にはどちらでも構わないのだ。

 

 付け加えるなら、アンジェの方も飛行客船で聞いた話では、彼女もあのショッピングモールでプリンセスを殺す任に就いていたという。

 

 ……つまりあれは踏み絵だったのだろう。もし情に流されてプリンセスを殺せないようならば、ゼルダはアンジェも諸共に始末するつもりであったのだ。

 

 よってゼルダは殺す相手がアンジェでもプリンセスでも構わない。

 

 もし、まだゼルダが自分を『プリンセスと入れ替わったアンジェ』だと思ってくれているとしても、それで殺されないだろうと思うのは楽観が過ぎるというもの。

 

 いずれにせよ、何とか隙を見付けて彼女やイングウェイ少佐を出し抜かねばならない。

 

「いいえ、これは私の為です。みんなで食べた方が、楽しいでしょう?」

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

<……図面が正しければ、そろそろ開けた空間に出る筈だけど……>

 

 猛スピードで爆走する車の助手席では、壁内部の構造が描かれた図面を広げてまるでバカンスの目的地の話でもしているかのようにのんびりとプロフェッサーが言った。

 

「ああ、そこからは車では行けないから歩きで……」

 

 ドロシーが、言い掛けたその時だった。

 

「みんな、掴まれ!!」

 

 思い切り、ブレーキを踏み込む。

 

 加速が付いていた所からの急停止にベアトリスは吹き飛ばされそうになったが、締めていたシートベルトとアンジェが支えてくれたお陰で何とかシートに留まる事が出来た。

 

 ピカッ!!

 

 薄暗かった壁内空間が、無数のライトに照らされてアンジェ達は思わず目を細めた。プロフェッサーだけは、義眼がオートで採り入れる光量を調節した。

 

「撃て!!」

 

 逆光の中で、指揮官としてガゼルが立っていて彼女の周りには大勢の王国軍の兵士が、ライフルをこちらに向けている。

 

 数十の銃口が一斉に火を噴いて、しかしアンジェ達は間一髪の所で車体の陰に隠れて銃撃をやり過ごした。

 

 プロフェッサー謹製の積層防弾装甲に改造された車は即席のバリケードとなって弾丸を防いでくれたが、しかしそれとて絶対の強度を持つ訳ではない。いつまでもこうしてはいられない。

 

「万事休すか……!!」

 

 愛銃を手に応戦しようとするドロシーだが、しかし向こうは兵士が数十人でほぼ同数のライフル。こっちは4人で拳銃ぐらいしか持っていない。

 

 頭数でも火力でも話にならない。

 

 進むもならず、さりとて引き返す事も出来ない。今頃は出口は王国軍の兵士がびっしり詰め掛けて塞いでいるだろう。

 

 このままでは殺されるか捕縛されるか。悪い結果にしかならないに決まっている。

 

「捕らえますか?」

 

「いや、死体の方が都合が良い」

 

 ガゼルが部下にそう指示した時、この広場に配置していた装甲車両が、突然爆発した。

 

「何っ!?」

 

 驚いたのも束の間、数個の煙幕弾が空間に投げ入れられて、煙で視界が利かなくなる。

 

<これは……>

 

 今この場には、アンジェ達とガゼル率いる王国軍の他に、もう一人闖入者が居る。

 

 その闖入者は、すぐに姿を見せた。

 

 小さな影が、アンジェ達の前に降り立った。

 

「ちせ!!」

 

「一宿一飯の恩義じゃ」

 

「みんな、私に掴まって。上に行くわ」

 

 既に付き合いの長いチーム白鳩の面々は、多くのやり取りは必要とせずにアンジェの意志を読み取った。全員が自分に掴まったのを確認すると、アンジェはCボールの機能を作動させる。翠色の燐光に包まれて、彼女達は重力の軛から解き放たれて空中へと浮き上がった。そのまま、天井の梁に着地してそこを走り始めた。

 

 走りながら、アンジェはちせに自分が知る限りの情報を伝えていく。

 

「女王暗殺か。穏やかではないな……」

 

「プリンセスがゼルダと一緒に寺院に居るらしいんだけど……」

 

「ゼルダなら吹き抜けの部屋の上に居るのを見たぞ」

 

「本当か?」

 

「嘘は言わん。礼拝堂から見えた」

 

<……チームを二つに分けるべきね。プリンセスを助けに行くのと、暗殺を阻止するチームに>

 

「よし、じゃあアンジェ、お前はプリンセスの所へ行け。暗殺の阻止は私とベアトで行く」

 

 ドロシーの提案にアンジェは頷くと、再びCボールに手を掛ける。

 

「私も連れて行け」

 

 ちせが、再びアンジェに掴まった。

 

<私も同行する……と、その前に……>

 

 プロフェッサーもアンジェに掴まろうとして、しかし不意に何かを思い出したように足を止めた。

 

 例によって懐から取り出したリモコンを、先程まで自分達が居た方向にかざすとスイッチを押した。すると……

 

 ズガン!!

 

 空間全体が震えるような衝撃が走ってきて、後方から爆炎が見えた。

 

 爆発の元は、間違いなく自分達が乗ってきた車だろう。

 

「「…………」」

 

 ドロシーとベアトリスは蒼白になった顔を見合わせて、その後でプロフェッサーに向き直った。

 

「プロフェッサー……自爆装置は積んでなかったんじゃないのか?」

 

 じろりと、ドロシーがプロフェッサーを睨む。

 

<そうよ>

 

 動揺した様子も無く、プロフェッサーは応じる。

 

<そもそも、そんな物を積み込む必要それ自体が無いのよ。忘れたの? あの車の主動力は水素エンジン。通常時は気体水素を加圧してシリンダー内に送り込む事でバックファイアを封じ込めてあるけど、そのギミックを外してしまえば引火しやすい水素と酸素の混合気体が燃焼しているエンジンの近くに撒き散らされる事になる。そうすれば後は、見ての通り……ドカン!! という訳よ。まぁ、機密保持の為にやむを得ず、という事で、ね>

 

「「「……」」」

 

 ドロシーもベアトリスも、アンジェですらもが呆れ果てた顔になった。

 

 確かに自爆装置を積んでいないというのは嘘ではなかった。何故なら操作一つで、車それ自体が走る爆弾に早変わりするのだから。わざわざ爆薬など積み込んで余計なスペースやウェイトを生じさせる必然性が無かったのだ。

 

「……このペテン師め……!!」

 

<褒め言葉と受け取っておこう>

 

 いやはや参ったという視線を向けるドロシー。プロフェッサーはこの反応を柳に風とばかり受け流すと、「付き合ってられない」と言わんばかりに飛んでいってしまったアンジェとちせを追って、義手に仕込まれたエレクトロギミックとケイバーライトの機能を作動させて飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「いよいよなのですね……」

 

「ご安心下さい、手筈は万全です」

 

 階下から女王が寺院に到着したという報告が来て、クーデターの実行は秒読み段階に入りつつある。

 

「イングウェイ少佐、天井を落とすとはどのようにするのですか?」

 

「鍵を使い私が仕掛けを……」

 

「少佐、心中をお察ししろ。プリンセスにとって女王は身内なのだ」

 

 イングウェイの言葉は、ゼルダの鋭い声によって遮られた。

 

 プリンセスは心中で舌打ちすると同時に、肌から吹き出そうになる冷や汗を抑えた。あるいは掻いていたとしても気取られないように振る舞った。

 

 先程からゼルダは、的確にこちらの手を潰してくる。

 

 やはり、仮に自分が『アンジェ』だとしても、アンジェをそもそも信用していないのだ。誰も信用しないのは、ある意味ではスパイとして非常に優れた適性と言える。タイプこそ違えど優秀なスパイであるアンジェが味方の時は頼もしかったが、それを敵に回すとこれほどまでに恐ろしいものかと、改めて思い知らされた気分だった。

 

 そしてこうなると……もう事実がどうあれ自分が『本物のプリンセスである事がバレている』と思って動いた方が良いだろうと結論が出た。

 

 その上で、次に採るべき行動は……そう多くない。

 

「確かに……とんだご無礼を」

 

「いえ、女王になる為に話に乗ったのは私の方です。なのに自分だけ手を汚さずにいるなんて許されませんわ。鍵を、私に任せてくださいませんか?」

 

「いや、それは……」

 

 言い淀んだイングウェイの左手が、彼自身意識しての動きではなかったのだろうがベルトに付けられたケースに動いたのをプリンセスは目敏く見て取った。

 

 鍵はそこだ。後は……

 

「プリンセス、個室を用意させます」

 

 再び、ゼルダのインターセプトが入った。

 

「私は別に……」

 

「お下がり下さい」

 

 口調こそ穏やかではあるが、有無を言わせない強さがあった。

 

「……」

 

 これ以上、ここで押し問答をしても埒が開かない。

 

「では、お言葉に甘えて。スコーン、美味しかったわ」

 

「光栄です」

 

 この時、プリンセスの手は音も無く動いて、気取られずにイングウェイの腰へと伸びていた。

 

 そのまま、この部屋を退室しようとするプリンセス。背中越しに、声が聞こえてくる。

 

「少佐、鍵は私が預かる」

 

「はい……む? 鍵が無い?」

 

 それを受けて、プリンセスは自分の歩調が早くなったのを自覚した。

 

『早く、人目に付かない所で鍵を始末しなくちゃ……』

 

 右手に握り込んだ鍵が、手汗に濡れる感覚が伝わってきた。

 

 そうして後何歩かで、部屋から出ようというその時だった。

 

「プリンセス、お待ちを」

 

 呼び止めるゼルダの声を受けて、プリンセスは奥歯を噛み締めた。

 

「お下がりになる前に、荷物を調べさせていただきたい」

 

「……」

 

 ひやりとした感覚が背筋を走る。

 

 ゼルダが極めて優秀なスパイである事は分かっていたが、まだ過小評価していたかも知れないとプリンセスは思った。ほんの数秒の時間だけで『鍵をプリンセスがスリ取ったかも知れない』という可能性に思い至るとは。しかもそれは、事実と合致している。

 

『こうなったら……!!』

 

 事ここに至ってはもう、選択出来るオプションは一つしか無かった。

 

 プリンセスは先程までの優雅な振る舞いから一転、弾かれたように機敏な動きで窓へと走り出す。

 

「プリンセス!?」

 

 兵士の一人が、驚きの声を上げたのが耳の端に聞こえてきた。

 

 プリンセスは鍵を握ったままの右拳を思い切り叩き付けて、窓ガラスを割った。後はこの穴から、鍵を外に投棄すれば……

 

「あうっ!!」

 

 そうしようとした刹那、ぐいっと後ろに強い力で引っ張られる感覚があって、プリンセスの視界が揺れる。

 

 衝撃が襲ってくる。床に叩き付けられたのだとプリンセスが理解するのに数秒の時間が必要だった。ゼルダだ。鍵を棄てる為には、窓を開ける割るなどして何らかの一挙動が必要となる。そのタイムラグを衝いて、彼女はプリンセスを組み伏せたのだ。

 

 チリンと、乾いた音が鳴る。倒れた拍子に、プリンセスの手から鍵が落ちて床に転がった。

 

 ゼルダはそのまま、うつ伏せになったプリンセスの背中に膝を落とすと体重を掛けて、起き上がれないように動きを封じる。

 

「ゼルダ殿、これは……」

 

「気にするな、女王暗殺の件は伏せていたのでな」

 

 そう言うと、ゼルダの手が床に落ちている鍵へと伸びる。

 

「少佐、やはり貴様が天井を落とせ。自分のやるべき事を……」

 

 拾おうとした指から、鍵が逃げた。

 

「?」

 

 いぶかしみつつ、もう一度手を伸ばすゼルダ。だが、鍵は床の上を滑るように動いて彼女の手から逃げてしまう。

 

 異常は、それだけではなかった。

 

 兵士達が被っていたヘルメットが、ひとりでに脱げて床に転がった。

 

 先程までプリンセス達が使っていたフォークが、誰も触れていないのにテーブルから落ちて、床を動いていく。

 

「これは……」

 

 この部屋にある小さな金属勢品が、見えない力に引きずられるようにして部屋の一点へと集まっていく。

 

 自然に、ゼルダも含めて全員の視線も同じようにそちらへと集まっていった。

 

 この部屋の、入り口へと。

 

 パリン!! パリン!! パリン!!

 

 今度は、部屋中のランプが砕け散って突然の暗闇が視界を覆った。

 

「な、何だ?」

 

「明かりが……」

 

「うろたえるな!!」

 

 動揺してざわめき出す部下達を、イングウェイはぴしゃりと叱咤して統制する。

 

「……」

 

 暗闇で視界が封じられても、それに紛れてプリンセスが逃げ出さないようにゼルダは彼女の背中を押さえ付ける膝に力を込めた。

 

 周りは見えないがこの時、プリンセスも含めこの部屋の全員の視線は入り口の方向へと集中していた。

 

 コー、ホー……コー、ホー……

 

 気付けば、どこからか規則的な呼吸音が部屋に木霊していた。

 

 僅かな時間を置いて赤い光のラインが、わだかまった闇を切り裂いた。

 

 血の色をした光に照らし出されたのは、夜から生み出されたような黒いローブを纏い、ガスマスクを装面した怪人の姿。

 

 その異様に、この場の全員が。ゼルダですら一瞬は目を奪われた。倒れ組み伏せられたままのプリンセスだけが、辛うじてその名を呟く事が出来た。

 

「!! ……プロフェッサー……」

 



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第28話 ロンドンの一番長い日 その6

 

 黒いローブに身を包み、顔にはガスマスクを装面。手には赤い光刃を持った怪人。

 

 明かりが消えてしまった室内では、怪人の持つ光剣の照り返しだけが光源となっている。部屋が紅く染まって、暗さと相まって火事かさもなければ血を一面にぶちまけたような印象を抱く者も居た。

 

 そんな異様極まりない状況下で誰もが言葉を失う中で、流石にゼルダとイングウェイはいち早く我に返った。

 

「少佐!!」

 

「はっ!!」

 

 目の前に立つこの男? あるいは女かも知れないが、ともかく友好的な相手にはとても見えない。

 

 顔どころか全身に外気が触れている部分が1センチ四方も無いので生物感が希薄で、まるで王宮の通路に飾られている飾り物の鎧を連想するが……しかし、この怪人はそんな案山子とは全く違うという事が直感的に理解出来る。それは全身からじわじわと漏れ出すような殺気。この人物は明確に自分達を殺傷する目的でこの場にやって来ているのだと、何の説明も必要とはせずに正確に理解出来る。

 

 手にした紅い光はこの場に居る人間でプリンセス以外は初めて見るものであったが、だがその用途など一目瞭然だった。松明やライトの代用品などでは有り得ない。熱は感じないが、固い岩盤であろうが容易く貫通し、鉄板であろうが融断してしまうだろう。勿論、人間を斬殺する事など訳もない。

 

 怪人、プロフェッサーが動き出すよりも僅かに、イングウェイの指示が早かった。

 

「怯むな撃てっ!! プリンセスをお守りしろ!!」

 

 指揮官の命を受けた兵士達が、一斉に拳銃をドロウする。

 

「待って……!!」

 

 プリンセスの制止の声は、銃声に掻き消された。

 

 十数発の発砲音は、長い一発のように聞こえた。

 

 拳銃とは言えそれだけの一斉射撃は人間一人を殺害・無力化するには十分な火力と言える。

 

 だがプロフェッサーは止まらなかった。

 

 紳士のステッキのように赤い光刃をくるくると回し、悠然と前進を始める。

 

 銃弾が、飛来する軌道に配置された光刃に触れ、バチッと火花を散らして嫌な匂いを立てた。

 

 乱射される弾丸の中を、プロフェッサーは何の恐怖も脅威も感じてはいないかのように、散歩するような歩調で進んでくる。

 

 一発の弾丸も彼女に命中しないのには、当然ながら理由がある。

 

 人間の視力では、当然ながら飛んでくる銃弾を視認する事は不可能。よしんば見えたとして飛んでくる銃弾をかわす事も人間の動きでは不可能。

 

 だからプロフェッサーは、それらを見てはいなかった。彼女の義眼が捉えているのは、銃口だった。その角度。

 

 銃口の向いている先に銃弾が飛んでいくのは道理。それで銃弾の軌道を完璧に把握して、まず自分に命中しない軌道のものは無視。

 

 命中する軌道のものだけ、その銃弾が辿るであろう予測軌道に電光の刃を置いて、防ぐ。数が多く防ぎ切れないようなら、右の義手に仕込まれた電磁気操作能力によって発生させた磁気フィールドによって飛来するコースを逸らす。

 

 だがこうしたトリックなど、対峙している兵士達には分からない。彼等にしてみれば、何十発も放たれる銃弾が一発も当たらないようにしか映らない。実際にそうなのだが、弾丸の方がプロフェッサーを避けているようにさえ見えていた。

 

 プロフェッサーが前進する速度は速くも遅くもならず、一定のままだ。しかし彼女とて、ただ攻撃を防いでいるだけではなかった。

 

 ばっと、プロフェッサーが義手をかざす。

 

「うっ……ぐっ………?」

 

 最もプロフェッサーに近い位置に居た数名が、異常に気付いた。

 

 彼等は銃を手から取り落としてしまって、代わりに頭に手をやる。正確には頭に被った金属製のヘルメットへと。

 

 銃弾が当たる事も想定して頑丈な造りのヘルメットは、今はベコリベコリと、誰の手も触れていないのに凹み始めている。

 

「い、痛っ、いだああっ……!!」

 

 圧迫感を受けた彼等はヘルメットを脱ぎ捨てようとするが、しかしそれも叶わなかった。ベルトで固定されている訳でもないのに、ヘルメットはまるで彼等の頭から固定されたように動かなかった。

 

 べきっ……ごきっ……

 

 頭蓋骨が粉砕される嫌な音が鳴って、一本の棒のようになったヘルメットの隙間から鮮血が絞り出された。

 

 王国軍の赤い制服が更に真っ赤に染まって、兵士達の両手がだらりと脱力し下に落ちて、体が操り糸を切られた木偶のように倒れた。

 

 次にプロフェッサーが別の者を指差すと、磁力が彼が身に付けている金属類に作用して体が空中に浮遊した。

 

「なっ……あっ……」

 

 身動きが取れない空中でジタバタと足掻くその兵士の腰に、赤い刃が走った。

 

 上半身と下半身が両断されると同時にプロフェッサーは磁力を切って、切り離されて二つになった体が床に転がった。彼は、プリンセスにスコーンを差し出した少年兵だった。

 

「……!!」

 

 この光景を、プリンセスは目を皿のように見開いて、瞬きもせずに見ていた。

 

 次にプロフェッサーの近くに居た兵士は、首に懸けていた認識票のチェーンが首吊りロープのように絞まって、窒息を待たずして首の骨がへし折られた。

 

 既にイングウェイとゼルダ以外の兵士の内、半数は戦意を喪失して逃げ腰になっていた。

 

 まだ戦意を維持していたもう半数がリロードを終えた銃を構えるが、プロフェッサーの方が早かった。

 

 再び手をかざすと、発生した磁力の見えない蔓が彼等の手にした銃に接続され、プロフェッサーはそれを巻き取った。

 

 不可視の巨人がそこに居るかのように凄い力でもぎ取られて、彼等の手から銃が離れる。そうして丸腰となった所にプロフェッサーが近付いてきて、振り回される光刃が彼等の体を薙ぎ払い、焼き切って、出血は無かったが肉が焼け焦げる悪臭が立ち込めた。

 

 逃げ出そうとした者達は、プロフェッサーが磁力を作用させて落下させたシャンデリアの下敷きになった。

 

 ほんの一分足らずの間に、この部屋に居るのはプロフェッサーを除いてイングウェイ、ゼルダ、プリンセスの3名だけとなった。

 

「ゼルダ殿、プリンセスを安全な所へ……」

 

 イングウェイがそう言って自身も銃を手にした瞬間だった。

 

「プリンセス!!」

 

 プロフェッサーが入ってきたのとは別の扉が蹴破られて、アンジェとちせが駆け込んできた。

 

「「!!」」

 

 それぞれバラバラに動く人間が3人入ってきて、一瞬だが誰を標的にするかの迷いでゼルダとイングウェイに隙が生じた。

 

 一方で、アンジェ達は目的がはっきりとしている。

 

 アンジェとちせはプリンセスを助ける為。

 

 プロフェッサーの狙いは、プリンセスの救出は二人に任せてイングウェイを殺害する事だった。彼女にしてみれば自分つまりシンディ・グランベルがクーデター派と繋がっている事は誰にも、特にプリンセスには知られてはならない。彼の口を封じねばならなかった。

 

 ゼルダの銃撃。しかしアンジェはCボールの重量軽減を利用した高く速い跳躍でかわす。そのまま反撃の銃撃。ゼルダも後方に跳んで回避しつつ、ちせに牽制の銃撃。ちせは刀で銃弾を弾く。

 

 接近したちせが足を払おうとするが、しかしゼルダも明らかに鍛錬によって到達する域を遙かに超えた跳躍を見せてこれを回避した。

 

「これは……」

 

 アンジェと同じCボールの重力制御。ゼルダも装備していたのだ。

 

 一方で、プロフェッサーは真っ直ぐにイングウェイに向かっていく。

 

 パン、パン、パン、パン

 

 イングウェイは正確に頭部と腹部を狙って二発ずつ銃弾を発射したが、プロフェッサーには一発も当たらなかった。彼女は淀みなく光刃を動かして、全ての弾丸を蒸発させてしまう。

 

 そして5発目の引き金を引く前に、プロフェッサーが振るった刃がイングウェイの手首に走って、銃を持ったままの手を切り落とした。

 

 傷口が一瞬で焼却され出血は無い。

 

 だが、イングウェイが痛みに声を上げたり顔を歪めたりする事は無かった。

 

 体が感じた痛みが伝わって、頭がそれを痛いと思う前に。

 

 プロフェッサーは逃げられないように彼の胸ぐらを掴んで体を固定すると、突き出された赤い刃が正確に彼の心臓を刺し貫いた。

 

「かふっ……」

 

 空気が漏れるような音を立て、息が吐き出される。

 

 飛び出す程に目を見開いて、力を失った体がプロフェッサーに預けられた。プロフェッサーは、彼の体を抱き留める。

 

<……少佐……どうして、私を待ってくれなかったの……>

 

 誰にも気付かれないようにそう呟くと、プロフェッサーはイングウェイの遺体を静かに床に横たえる。これは袂を分かったとは言え、かつての同志へのせめてもの情けであったかも知れなかった。

 

 だが、僅かな感傷に浸っていたのはここまでだった。

 

 すぐ傍ではアンジェとちせが、まだ戦っているのだ。

 

 ちせが前衛、アンジェはプリンセスを庇うような位置取りで銃撃し、ちせを援護する。

 

「そろそろ……潮時か」

 

 ゼルダもアンジェと同等かそれ以上の技量を持った凄腕のスパイであるが、2対1。いやプロフェッサーを合わせれば3対1になるという数的不利。更に、スパイは勿論格闘術や射撃の心得はあるがその本分はあくまで諜報活動であり、戦う事よりも確実に逃げる事やそもそも戦わずに済ませる事にこそ重点を置いて訓練されている。寧ろ戦うような展開は下の下とも言えるだろう。

 

 そこへ行くと今は、戦う事こそ本分である純粋な戦闘員であるちせが居る。この一点を鑑みても、かなり状況は自分に不利であるとゼルダは断じた。

 

 クーデター部隊が全滅した今、ここでこれ以上戦闘を続ける意味は無い。

 

 後方へ大きく跳ぶと、そのままガラスを突き破って空中へと離脱。空間に浮遊したまま、銃を照準する。

 

「!!」

 

「うっ!!」

 

<!!>

 

 アンジェ、ちせ、プロフェッサーはほぼ同時に、ゼルダの狙いに気が付いた。自分達の誰か一人を負傷させて、他の者を救助に動かせる事で隙を作り、自分の撤退をより確実にするつもりだ。

 

 プロフェッサーが磁力を作用させて銃弾を止めようとするが、出来なかった。

 

 ゼルダ自身は既に磁力が作用する射程の外。銃を取り上げる事は出来ない。そしてゼルダが発射した銃弾は、金属ではなかった。

 

 ドロシーの報告から、プロフェッサーが磁場を作り出して金属を操る事を共和国側は知っている。その為、ゼルダにはプロフェッサーと対決する事態も想定して、彼女が操れない非金属製の銃弾が渡されていたのだ。

 

 だが、銃弾それ自体を操れなくとも、プロフェッサーは義眼で銃口の角度を読み切って、光刃を使って弾丸を防ぐ事が可能である。

 

 ちせも、こちらは純粋な武の技量によって、気を張って面と向かい合った状況下なら銃弾を弾く事が出来る。

 

 だからこの二人には撃っても無駄弾になる。

 

 つまり、ゼルダの狙いは撃っても無駄弾にならない者……そしてアンジェは、ピンピンと動き回っているから一発では当たらないだろう。ならば、狙いは……

 

 先程、ゼルダに引き倒されたダメージがまだ抜けておらず動きの鈍いプリンセスだ。

 

「いかん……!!」

 

<……!!>

 

 咄嗟に、ちせもプロフェッサーも走り出すが、指が引き金を絞る動きに先んじる事は出来なかった。

 

 パン!!

 

「……っ!!」

 

 銃声。襲ってくる痛みを覚悟して、プリンセスは目を瞑って体を硬くする。

 

「……?」

 

 だが、熱さも痛みも、いつまで経ってもやってこなかった。

 

 代わりに、

 

 どさり。

 

 何かが倒れるような音が聞こえてきた。

 

 プリンセスが顔を上げると……

 

「……アンジェ!!」

 

 アンジェが、ちょうどプリンセスのすぐ前に倒れていた。

 

 ゼルダが銃を弾く寸前、最もプリンセスに近い位置に居た彼女が、咄嗟に自分の体を盾として、射線を遮ったのだ。

 

<アンジェ……!!>

 

 プロフェッサーがゼルダが飛び出していった窓を警戒しつつ、じりじりと後退りするようにプリンセスとアンジェの傍へと移動していく。

 

「おのれっ!!」

 

 ちせが窓から身を乗り出して見ると、ちょうどゼルダが夜の闇に消える所だった。敵ながら見事な引き際と言える。もう、追っても無駄だろう。

 

 しばらく窓から見える闇を睨んでいたちせは、背後からの声にはっと振り返った。

 

 プリンセスが、倒れたアンジェを抱き起こしていた。撃たれたアンジェは、ぐったりとして動かない。

 

「アンジェ、しっかりして……アンジェ!!」

 



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第29話 ロンドンの一番長い日 その7

 

「始まったな」

 

 新王室寺院の大広間を一望出来るブースから、ドロシーとベアトリスはひょっこり顔を出して様子を伺っていた。

 

 既に、他より一段高い場所に設置された玉座に鎮座した女王の前には、王国の高位文武官が整然と列を成して並んでいる。

 

 戦勝祈願の式典はたった今のドロシーの言葉通り、予定通りの時間に開始された。

 

「どうするんですか?」

 

 暗殺計画を阻止する為にここへ来ている二人であるが、まさか共和国側のスパイである自分達が「女王陛下の暗殺計画が進んでいます、すぐに避難して下さい」と訴える訳にも行かないだろう。

 

 と、なれば……やはり力尽くで、アグレッシブにやるのが良いだろう。また、それしか無い。

 

「式典自体をぶっ壊せば、暗殺計画もおじゃんだろ」

 

 にやっと、意地の悪い笑みを見せたドロシーは懐をまさぐって、掌大の金属球体を取り出した。

 

「それは……」

 

 ベアトリスにも見覚えがあった。

 

 部室に隠されていたスパイ道具の一つで、煙幕弾だ。

 

「それっ」

 

 ぽい、と大広間にスモークグレネードを投げ入れるドロシー。と、同時に二人はもうここには用は無いとばかり離脱にかかった。

 

 手榴弾が大理石の床に当たる硬質な音が聞こえるとほぼ同時に、煙が噴き出して大広間のあちこちから悲鳴が上がるのを、二人は背中越しに聞いていた。

 

 客観的には女王が列席する式典でテロ行為が行われたのだ。これで式典は確実に中止。女王を最優先にして、順次避難誘導が開始されるだろう。

 

 任務達成せり。

 

 ドロシー達が出来る事は、これで全てだった。

 

 少なくとも、暗殺計画の阻止はこれで成った。

 

 後は、プリンセスを助けられるか、どうか。

 

 これはもう、ドロシーにもベアトリスにもどうにもならない。それに今から向かった所で、もう間に合わないだろう。

 

 そちらに向かった3人を、信じるしか無い。

 

「ちせ……プロフェッサー……アンジェ……頼んだぞ」

 

 

 

 

 

 

 

「アンジェ……しっかりして……アンジェ!!」

 

 プリンセスは、自分を庇って撃たれ倒れたアンジェを抱き起こして、悲愴な声でかつて自分のものだったその名前を叫び続けていた。

 

 プリンセスの腕の中で、アンジェはぐったりとしたまま、まだ動いていない。

 

「落ち着け、あまり動かすでない。どこを撃たれた?」

 

 ぶち破って出て行った窓から、またゼルダが戻ってくるかも知れないと警戒を緩めずに、刀を構えたままじりじりとちせが近付いてくる。

 

 逆にプロフェッサーはちせが警戒してくれている限りは大丈夫だと確信を持っているのだろう。大胆な足取りでつかつかと歩み寄ってくる。

 

 そして、ぐいっとアンジェの胸ぐらを掴んで上体を起こすと、ばしばしと往復ビンタを数発お見舞いした。

 

「お、おいプロフェッサー?」

 

「何を……」

 

<……問題無い、アンジェ。いつまで寝ている?>

 

 そう、プロフェッサーが言った時だった。

 

「う……うん……」

 

 アンジェがうめき声を上げて、そうして閉ざしていた目を開けた。

 

「アンジェ……良かった、大丈夫なの?」

 

 プリンセスが、感極まってアンジェを抱き締める。

 

「しかし……撃たれたのでは……」

 

 ちせがまだ警戒を緩めずに、しかしこちらも気遣わしげな視線を送ってくる。

 

 そして当のアンジェ自身をして、狐につままれたような顔を見せた。

 

「私は、撃たれた筈なのに……どこも痛くない?」

 

 腹部をさすりつつ、怪訝な表情を見せる。

 

 あのタイミング、ゼルダほどの腕のスパイなら絶対に外さない距離だった。

 

 そして確かに、何かが当たってくるような感覚が左下腹部にあって……

 

 そうしてその感覚があった辺りに手をやった時だった。

 

 かちん、と冷たい音を立てて何か小さな物が床に落ちた。

 

「これは……」

 

 ちせがそれを摘まみ上げて調べてみると、発射された拳銃弾ということが分かった。

 

 これはつまりアンジェに当たった銃弾は、しかし彼女の体を貫通せずに殆ど衝撃も与える事も無く、服で止まってしまったという事になる。

 

 無論、防弾加工もしていない服でそんな事は通常起こりえない。

 

 起こり得る可能性があるとすれば、それは……

 

「「「…………」」」

 

 アンジェ、プリンセス、ちせ。

 

 3名の視線が、誰からともなくある一人へと集まっていく。

 

 何かをやらかした者。そんな可能性があるヤツとなれば、一人だけ。

 

「プロフェッサー……あなた、Cボールに何かしたの?」

 

<特注のギミックを組み込んだ>

 

 あっさりと、プロフェッサーは認めた。ドロシーの車やベアトリスの喉のように、プロフェッサーは自分が手がけた機械には独自の改造を加えていた。調整を行ったアンジェのCボールとて、例外では無かったのだ。

 

<Cボールに組み込んだ仕掛けは、防弾ギミックだ>

 

「防弾……」

 

 確かにそれなら、拳銃の弾が通らなかったのにも説明は付くが……しかし防弾繊維で出来た服を着ていても、着弾時の衝撃までは殺せないので内出血や骨折などはする筈なのだが、しかしアンジェにはそうした負傷はおろか痛みすらも殆ど無いようだった。

 

<物体の破壊力を決めるのは、大雑把に言えば重量とスピード。ならばどれだけ凄い速さで飛んできた弾丸でも、重量が軽いなら殺傷能力は低下する。アンジェのCボールには、一定以上の衝撃を感知すると瞬間的にケイバーライト重力軽減機能を作動させ、ぶつかってきた物体の重量をゼロにするよう、ギミックを組み込んだのよ>

 

「なんと……」

 

 ちせが瞠目する。これは尊敬の念も込められた眼差しだった。

 

 重力を遮断し重量を軽減するのはケイバーライトの基本特性。アルビオン王国ではこれを空中艦隊や、共和国でもスパイに持たせたCボールによる3次元運動など『移動』に用いられているが、プロフェッサーは全くそこから発想を変えて『防御』の為にこの技術を応用したのだ。使用者であるアンジェに何の違和感も覚えさせないほど、Cボールの大きさや重量に殆ど何の変化も与えずにそれだけの機能を追加搭載する技術力も素晴らしいが、その発想の転換もまた天才を自称するに恥じないものだと言えるだろう。

 

<問題無く、作動したようね>

 

 うむっと、プロフェッサーが頷く。

 

<まぁ、つまりは私は天才だという事よ>

 

「…………」

 

「アンジェ?」

 

 アンジェはプリンセスの腕の中から立ち上がるとプロフェッサーの前までつかつかと歩いて行って……

 

 そして、見事なボディーブローを炸裂させた。

 

<うぐっ……>

 

 プロフェッサーはうずくまってしまう。

 

「これでチャラにしてあげるわ」

 

 ふう、とアンジェは溜息を吐いて、プリンセスに向き直った。

 

「兎に角……プリンセス。ここは危険よ。急いで離脱しましょう」

 

「えぇ……そうね、アンジェ」

 

 プリンセスも立ち上がって頷くと、プロフェッサーの前にまで歩み寄ってきた。

 

<……プリンセス?>

 

「……」

 

 プロフェッサーがプリンセスの視線を追うと、正確にはプリンセスは彼女ではなく、彼女のすぐ傍で倒れているイングウェイに近付いてきたのだと分かった。

 

「イングウェイ少佐……あなたを、あなた達を死なせてしまったのは……私のせいですね」

 

<……>

 

 直接、彼らを手に掛けたのはプロフェッサーだ。しかし、プリンセスはそれを自分の責任だと捉えていた。

 

 プロフェッサーからしてみればこのプリンセス救出劇には、イングウェイと自分つまりシンディ・グランベルとの関係性が露呈しないように彼の口を封じる意図があった。一方でプリンセスの視点から見れば、クーデター部隊が皆殺しにされたのはプロフェッサーが自分を助けに来た際に起こった事なのだ。

 

 プリンセスからすればプロフェッサーを咎める理由など何も無く、寧ろ彼女を賞賛し感謝すべき状況だと言える。

 

 倒れている骸の中には、プリンセスにスコーンを差し出してきた少年兵もいた。

 

「皆さん……私は、あなた方に約束します。あなた達の意志は、私が継ぐ。必ず、私がこの国を変えてみせます。だから、安心して眠って下さい」

 

 祈りの言葉が紡がれて、プリンセスは閉じていた目を見開いた。

 

 祈り。だがそれは自分の力では叶いもしない事が他力にて実現してくれと願うような虫の良いワガママではない。必ずや実現させると他者に、そして自分自身に誓う決意。プリンセスはその意味を誰よりも、強く理解していた。

 

 ここまで来る事でさえ、多くの者を誰にも語らぬ自分の理想に巻き込んで、犠牲にしてきた。そしてこれからも更に多くの人間を、あるいは国でさえ巻き添えにして、戦いの渦中に引き込むのだろう。

 

 それでも、成し遂げなければならない事がある。

 

 プリンセスは以前に、日本語を学んだ時の事を思い出していた。

 

 大きな事を成し遂げるという事を、東洋では「大業を成す」というらしい。大業、それは大きな業と書く。この国を、そして世界を変えようという大事業なのだ。その対価に見合うだけの業、カルマを、誰かが背負わなければならない。その役目を果たすのが、きっと自分なのだ。

 

「プリンセス……」

 

 目の錯覚なのだろうが、アンジェは今のプリンセスに重なるようにして、王冠が見えた気がした。荘厳で、侵しがたい気高さ。プリンセスの周りだけが、静かでひんやりと落ち着いていくようだった。

 

 完成された芸術品を目の前にした時のように、いつまでもそれを見ていたいという欲求にも駆られたが……しかし、そうも言っていられない。ここへもいつ、王国軍の兵士が詰め掛けてくるか分からないのだ。

 

「安全な所に退避しなくちゃ……」

 

「ええ、アンジェ。行きましょう」

 

 プリンセスはアンジェに抱えられるようにして、Cボールの重力軽減によって飛び出していった。

 

「プロフェッサー、私達も」

 

<あぁ、分かっている。ちせ……すぐに追い付く。先に行っていて>

 

「……? あぁ、分かった。遅れるなよ」

 

 少しばかりいぶかしんだ様子も見せたが、ちせもそこはプロフェッサーを信頼しているのだろう。それ以上追求する事もなく、この場から離脱していった。

 

 残ったプロフェッサーは、先程プリンセスがそうしたように倒れてもう動かないイングウェイの前にまで来ると、膝を折った。

 

<……少佐、私があなたを殺した事には、悪意も無いし謝意も無い>

 

 それはプロフェッサーの本心だった。そもそも釘を刺していたのに暴走したのはイングウェイの方なのだから。

 

 それにこれは必要な犠牲で許されるとも思っている。彼等を皆殺した事はプロフェッサーが自分の信念に基づいてやった事。より良き未来の為に。ならばその為に死んだ者は自分の全てを許すと、彼女自身は心から信じている。

 

 だが、悪意も謝意も後悔も無くても、残念に思う気持ちはあった。

 

<……何故、待ってくれなかった? あなたには、私が居なくなった後にもプリンセスにお仕えして、あの方を守ってもらいたかったのに>

 

 いや、それも詮無き事なのだろうと、プロフェッサーは分かっていた。

 

 イングウェイにはイングウェイなりに、性急に事に及ばねばならない事情があったのだ。それが何なのかは自分には計り知れないが、そうなのだと理解していた。

 

 もう、彼等とは言葉を交わす事も出来なければ、触れ合う事も出来ない。

 

 生者は死者には何もしてやれない。死者はそもそも生者に何も出来ない。

 

 唯一つだけ、あるとすれば。

 

<私も、あなた達に約束するわ。プリンセスが理想を棄てない限り……この国の夢や希望、愛や信念が死に絶えない限り……私もまた、力の限り生きて、戦い続けると>

 

 それが手向けであり、餞だった。

 

 長く生きられないだろうこの体だから、やれるだけの事はやって、後は次代の者に託すつもりだったが……どうやら、自分にはそんな楽は許されないらしい。

 

 生きて、生きて、生き抜く事。払ってしまった犠牲に見合うだけの未来を創る為に、自分の力を尽くし続ける事。

 

 それこそが、彼女の祈りだった。

 

 別れの言葉を済ませたプロフェッサーは立ち上がると、アンジェ達がそうしたように義手に仕込んだケイバーライトの機能を作動させて、窓から部屋を飛び出した。

 

 散らばっている死体以外は、誰も居なくなった部屋。王国軍の兵士がここに来たのは、この1分後の事だった。

 



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最終話 終わりの始まり

 

「はじめまして。私はシンディ。怖がらないで。私達、友達になりましょう」

 

 始まりは、好奇心から訪れたイーストエンドの貧民街だった。

 

 昼尚暗い街の、更に吹きだまりのような場所でうずくまって寒さに震えていた少女、リリィが助けを求めるように伸ばした血と泥に汚れた手を、そこには似つかわしくない清潔な装いをしたその少女、シンディ・グランベルは躊躇いなく握り返した。

 

 侯爵家に生まれ、優しい両親と親切な使用人達に囲まれ、病弱ながら何不自由無い暮らしを送ってきて幸せしか知らなかったシンディは、その時初めて、世界には不幸がある事を知った。

 

 夜の寒さに震える人が居る事を知った。

 

 飢えに苦しむ人が居る事を知った。

 

 眠りに落ちて、明日に目覚める事を祈らねばならない人が居る事を知った。

 

 何よりそうした人達の中に、自分と年の変わらない少女がいる事を知った。

 

 幼心に、それはショックだった。そして思った。

 

『こんな世の中は、間違っている』

 

 この時はまだ、だからと言って何かをしようというつもりは無く、漠然とした気持ちでしかなかった。

 

 それからというものシンディは、両親や使用人達の目を盗んで食べ物や玩具を、こっそりとリリィや他の泥ひばりの子供達へと持っていくようになった。

 

 子供達はシンディが自分達とは違った世界の住人だという事を、あるいは気付いていたのかも知れない。だが深く追求する事はせずに、友達として受け入れてくれた。

 

 大事に育てられているとは言え甘やかされている訳ではなく、侯爵家令嬢として学ばねばならない事は多く、息の詰まるような暮らしだったシンディにとってその時間は安らぎであったし、リリィ達だって彼女がやって来るのを心待ちにしていた。

 

 だがその日々は、ある日唐突に終わりを告げてしまう。

 

 リリィが暮らしている掘っ立て小屋を訪れたシンディは、しかし声を掛けても中から返事が無い事を訝しみつつも隙間だらけの扉を開けて中に入る。

 

 家の中では、ボロボロの毛布に包まってリリィが横たわっていた。

 

「なんだ、待ちくたびれて眠ってしまったのか……ほら、リリィ、起きて」

 

 揺すって声を掛けたが、親友は何の反応も返さなかった。

 

 この時、物凄く嫌な感覚が、シンディの背筋を駆け抜けた。

 

「リリィ……」

 

 シンディの指先がリリィの肌に触れて……心地の良い冷たさが伝わってくる。だがそれは残酷な感覚だった。

 

 幼いながらに聡明であるシンディは、一つの事を否応無しに理解した。してしまった。

 

 トモダチはもう、この世には居ないのだと。

 

 後で泥ひばりの子供達に聞いた話では、数日前からリリィは風邪を引いていたらしかった。

 

 風邪で人が死ぬ。

 

 シンディには信じられなかった。

 

 彼女とて風邪を引いた事は何度かある。だがそれで、死ぬかも知れないと思った事など一度も無い。それどころか外へ遊びに行けなくなる事を残念に思ったりしたぐらいだ。

 

 薬もあって、医者がいて、暖かい寝床があって、栄養の付く食べ物を食べられる自分と、それらのどれ一つとして持っていないリリィ。自分達の間にある差が、最悪の形で表出したのだとシンディは思い知らされた。

 

『こんな世の中は、間違っている』

 

 ドス黒い気持ちが、自分の中に生まれ始めている事を、この時のシンディは自覚していた。

 

 その後、シンディは他の泥ひばりの子供達は学校や信頼の置ける孤児院へと送った。これは彼女のなりの、リリィへの罪滅ぼしであったかも知れなかった。

 

 そしてそれからは外へと遊びに行く事は無くなって、侯爵家の当主としての勉強に熱を入れるようになっていく。

 

 この時のシンディは、侯爵家の生まれという立場を利用して、やがてはこの国を変えられるような立場に上り詰め、そして改革に乗り出す事を考えていた。

 

 実家が所有するケイバーライト採掘場の経営に力を入れ始めたのも、その一環である。リリィ達のような貧しい者を貧しいままにしているのは、彼女達が働けないからだ。ならば働く場を用意しよう。シンディにとってこれは雇用の創出、改革の一環であった。

 

 勿論、低賃金で扱き使うなどという事はしない。適切に労働時間を決めて、休日もしっかりと設ける。その為、労働従事者達の士気は高く、シンディや両親達は彼等から慕われていた。

 

 だがある日、家族揃って採掘場の視察に出掛けた時だった。

 

 閃光、爆煙、轟音。

 

 いきなり襲ってきたそれらに飛ばされた意識を取り戻した時、倒れていたシンディは体を起こそうとして、だが右手が自由にならなかった。

 

「…………」

 

 彼女の右手は、瓦礫に押し潰されていて抜けなかった。

 

「……仕方無いか」

 

 はぁ、と溜息を吐くと、シンディは左手で手頃な大きさの石を拾って。

 

 グシャ、グシャ、ぐちゃり。

 

 何度も何度も、自分の右腕に叩き付けて、腕を潰していく。

 

 そうして瓦礫との境目の部分の肉が削ぎ取れて、骨が見えるまでになったのを確認すると、思い切り引き抜いた。

 

 ぶちっ、ぶちっ……

 

 嫌な音を立てて、肉が千切れて……そうして、右腕を棄てて、シンディはこの場から逃れた。

 

 痛みはあるが、それを気にしたりへこたれたりしている間など無い。彼女は意識と痛覚を切り離した。

 

 父や母を探さねばならない。その一念が、シンディを動かしていた。

 

 しかし。

 

「うあっ……」

 

 小さな悲鳴を上げて、シンディは倒れてしまう。小石に蹴躓いたのだ。

 

 右腕を失った事による重心のバランスの変化や、出血多量によるものではない。足下はしっかり見ていた。なのに足下にあった小石が見えなかった。

 

 見えている筈の物が、見えなくなっている。

 

「……ケイバーライト障害……!!」

 

 アルビオン王国の負の側面。それが、自分にも降り掛かってきたのだと彼女は理解する。

 

 それでも立ち上がって、両親を探しに行こうとするが……出来なかった。

 

「がっ……ぐっ……ごほっ……ごほっ……!!」

 

 急激に襲ってきた痛みに、胸を掻き毟るように押さえると、その場にうずくまってしまう。

 

 生まれつきシンディは肺が弱かったが、それでもここまでの症状が出た事は無かった。意識が戻るまでの間に吸引したであろう大量の粉塵が、彼女の体を蝕んでいたのだ。

 

 結局、動けなくなったシンディはこのすぐ後に救助にやって来た労働者に助けられて病院に搬送される。

 

 一命は取り留めたものの、シンディは右腕を喪ってケイバーライト障害を発症し、肺の持病も悪化した。

 

 両親の死に目にも会えなかった。叔父から聞いた話によると、二人の遺体はあまりにも酷い状態だったので、シンディには見せずに弔ったという事だった。

 

 病院のベッドの上で、考える時間だけは潤沢にあったシンディの胸中に去来したのは、一つの想いだった。

 

『憎い……憎い、憎い』

 

 何故、リリィのような子供が死ななければならない?

 

 何故、両親のような立派な人達が死ななければならない?

 

 何故、私にばかりこんな事が起こる?

 

『憎い。憎い』

 

 アルビオン王国も、この世界も、全てが憎い。

 

『こんな世界など、壊れてしまえ』

 

 傷が治ったシンディは、しかしこれ以降は外へ出る為には常にガスマスクを装面する事が必要になった。

 

 メイフェア校の幽霊、怪人プロフェッサーは、この時に生まれたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 カサブランカ。

 

 現在、チーム白鳩のメンバーはコントロール内部に於ける軍と政府の椅子取りゲームのゴタゴタから離れるようにして、この地に休養に来ていた。煙や霧でいつも薄ぼんやりとしているロンドンに慣れている彼女達にとって、この地の海と空の鮮やかさは感動的ですらあった。

 

 とは言え、人間は良くも悪くも順応する生き物。そろそろ、この空と海にも彼女達が慣れてきたある日の事だった。

 

「さっき白い花を持った男から口説かれたわ」

 

 砂浜に設けられた一席。

 

 広げた新聞を読みながら、アンジェが無感動に言った。

 

「何?」

 

「ほ、本当ですか?」

 

 ちせとベアトリスは、興味津々とばかりに身を乗り出して尋ねてくる。一方でアンジェの事だからと大体の察しが付いているドロシーは落ち着いたものだ。

 

「新しい指令だったわ。潜伏中のアルカーディル将軍の動向を探れって」

 

 果たして、語られたのは予想を全く裏切らない言葉だった。

 

「ま、うちらの男運なんてその程度って事だな」

 

 さばさばと、ドロシーが肩を竦める。

 

「アンジェに色恋というのがそもそも想像出来んのだ」

 

「好き勝手言わないで。それより……」

 

 アンジェは持っていた新聞を、隣の椅子でくつろいでいるプリンセスへと渡した。

 

「?」

 

「プリンセス、プロフェッサーがやったわよ」

 

「!」

 

 それを聞いたプリンセスは、むしり取る勢いでアンジェから新聞紙を受け取ると、記事に目を走らせる。

 

「何だ何だ?」

 

 ドロシーも興味深そうにプリンセスの後ろに回って、記事を覗き込もうとする。

 

 そしてすぐに、表情が強張った。

 

「これは……」

 

「……始まったのね。プロフェッサー……」

 

 一面記事には、舞台の上で踊るクラシックチュチュを着た少女の写真が大きく載せられている。

 

 そして、記事には『若きバレリーナ、エイミー・アンダーソン、ケイバーライト障害から奇跡の復活。プリンセス・シャーロット推進の研究、今後の医療の進歩に一石を投じる』とデカデカと書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 二日前、アルビオン王国王立劇場。

 

 一つの演目が終了して万雷の拍手が巻き起こる中、貴賓席の一角には異様な集団が陣取っていた。

 

 その中央の席にふんぞり返っているのは、黒いローブにガスマスクを装面した異装の怪人。プロフェッサーであった。チーム白鳩の中で彼女だけは、カサブランカに行かずにロンドンに残っていた。

 

 拍手をするでもなく、頬杖を突いたプロフェッサーはすぐ後ろに立ち尽くす青年を見やった。

 

<どう? エリック……今の気持ちは>

 

 プロフェッサーの後ろに立っていたのはエリック・アンダーソン。かつてノルマンディー公の手先として共和国への亡命ルートを探る為に、偽装亡命を試みた男だ。

 

 その目論見が露見してアンジェによって殺されかけた彼であったが、プロフェッサーが死体に整形手術を施した替え玉を用意する事によって難を逃れ……る、事は出来なかった。死んだ事になった彼には、当然ながら王国にも共和国にも行き場所は無く、生きられる場所はプロフェッサーの庇護下だけだった。

 

 この時、プロフェッサーはエリックにある取引を持ち掛けた。

 

 エリックが命以外の全てをプロフェッサーに差し出す代わりに、プロフェッサーは彼に二つのものを与える。

 

 一つは妹、エイミーの未来。彼女の目を晴眼者と遜色無いまでに治し、生活に不自由しないだけの金銭的な保障を行う事。

 

 エリックはその約束が履行されたのを、たった今自分の目で確認した。

 

 憧れの舞台で踊るエイミー。

 

 ケイバーライト障害の発症を宣告されたあの日に、奪われて永遠に喪われてしまった筈の、妹の未来。それが今、目の前に顕れている。

 

 滂沱として流れる涙を拭おうともせずに、しかし笑いしながら、エリックは舞台の上で一礼する妹を見詰めていた。被っていた帽子を脱いで、胸に当てる。

 

「僕はもう一度……もう一度、バレエを踊るエイミーを見たかったんだ。プロフェッサー、あなたには……感謝してもしきれない……」

 

 彼の願いは、確かに叶えられたのだ。

 

 一方でプロフェッサーにとってもこれは慈善事業という訳ではなく、彼女にもメリットがある話だった。

 

 プロフェッサーが開発した医療用義眼。エイミーはその移植第一号被験者だった。こうして拒絶反応も起きずバレエが踊れている事を見ても、エイミーによって義眼の安全性は証明されたのだ。

 

<……満足してくれたなら、私も嬉しいよ>

 

 プロフェッサーはそう言って<もっとも、天才である私がこれ以上無く完璧に助けているんだ、満足しないなど有り得ないが>と付け加えた。

 

<さて、フランキー、根回しは手筈通り進んでいるか?>

 

 傍らに立っていたフランキーは「ええ、ボス」と、プロフェッサーの前で膝を折った。

 

「既に、彼女……エイミー・アンダーソンがケイバーライト障害を発症していた事実と、そのカルテはコピーを取って王国中の新聞社に送りつける手筈が出来ているわ。後はボス、あなたのゴーサイン一つでいつでも行けるわ」

 

<結構>

 

 頷いたプロフェッサーは隣に座るアルコール太りの中年男性を見やった。

 

<ダニー、どうかしら? 医療用義眼の設計図は>

 

「うむむ……」

 

 難しい顔で、ダニー・マクビーンは生身の左手と、プロフェッサーが付けた右手の義手で把持した設計図を睨み付けていた。

 

 そこには門外漢のフランキーにはさっぱり分からない、精緻な図面や複雑な計算式がびっしりと書き込まれている。

 

「こりゃ、中々難しいなぁ……よくこんな精巧なギミックを……」

 

 難しい顔で、頬を掻くダニー。

 

<おや、自信が無いのかしら?>

 

 この言葉は、プロフェッサーの計略だった。

 

 彼女自身も科学者であり技術屋であるから、知っているのだ。

 

 技術者が「出来ないのか」と聞かれた時、次に来る言葉は決まっている。

 

「出来らぁ」

 

 そう、それ一つしかない。

 

「嘗めんなっての。俺だって右手を無くすまでは、名の通った蒸気技術者だったんだぜ。あんたからもらったこの手は、油を差すのさえ忘れなきゃ生身の手よりも調子が良いんだ。大船に乗ったつもりでいなよ」

 

<……結構>

 

 心中で『あげてはいないけどね』と呟きつつ、首肯するプロフェッサー。

 

 次に彼女は、逆隣に座る女性を振り返った。

 

<委員長、共和国へは当然、あなたはこの事を報告するのでしょうね?>

 

 共和国側のスパイである委員長は、今は度が入っていない眼鏡を掛け直しただけで何も言わなかった。

 

 この沈黙は即ちイエスである。

 

 プロフェッサーは再び満足そうに頷いてみせる。

 

 委員長からコントロール、即ち共和国へと医療用義眼がプロフェッサーが開発したものだと伝われば、共和国側もますますプロフェッサーの重要性を認めるようになる。そしてプロフェッサーがプリンセスの臣下である事は、アンジェやドロシーから既に伝わっているだろう。

 

 プリンセスを懐柔・籠絡できれば臣下であるプロフェッサーもそのまま付いてくる。

 

 それを知れば、共和国は今回のように簡単にプリンセスを害する事は出来なくなる。手に入らなければ消せという方針は変わらないだろうが、手に入れられる可能性があるのなら軽々にその権利を放棄するのは惜しくなってくる。プロフェッサーはそこまで読んでいた。

 

<さて……>

 

 プロフェッサーは、椅子から立ち上がる。

 

 エリックに約束した二つの内の、もう一つ。彼女はそれをこれから、この場に集まった者達に与えるのだ。

 

 それは労働の、本当の悦び。

 

 給料がいくら上がるとか、休日が何日増えるとか、そんな些末なものでは無い。

 

 自分の仕事が世界を地球儀のように回し、時代を変えていく実感。

 

 どんな天上の美食も美酒も絶世の美女も、麻薬を使っても決して得る事が出来ない、極上の快感。

 

<今日、この日より……私の居る場所こそが世界の中心になる。今日より私の為に世界は回り始め、時代は私と、私の女王が望んだ形へと変わり始める>

 

 大仰に振り返ったプロフェッサーは、エリック、フランキー、ダニー、委員長。

 

 それぞれへと順番に視線を送った上で、謳い上げる。

 

<あなた達には私の傍らの、特等席を用意しよう。世界が変わりゆく様を、間近で目の当たりに出来る>

 

 もう一度、大きく振り返ったプロフェッサーの眼前には自分達よりも目上の席。

 

 即ち現アルビオン王国女王やノルマンディー公が列席する貴賓席があった。今の旧き世界を、旧きままにしておく者達が。

 

 これはプロフェッサーの、宣戦布告であった。

 

<さぁ……世界よ、我が前に跪け!! 時代よ、我が女王の為に動き出すのだ!! はははははははははははははは!!!!>

 



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