Erlösung (まるあ)
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ep1

 いつかはその日が来るとわかっていた。

 儚い、短い命なのだと分かっていたのだから―。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが倒れたのは突然だった。弟であり兄である衛宮士郎の屋敷で、いつものように夕飯を食べていたとき、ふと目が眩んだかと思うと、気がついたらたたみの床に伏していたのであった。

 一緒に楽しくご飯を食べていた人たちが目を瞠り、一瞬だけ惚けた後、慌てて自身の身体を心配するように近くに寄って来るのを見ながら、彼女は意識を手放した。

 

 次に目を覚ましたのは、見慣れた自分の部屋だった。まず目に入ったのは、毎朝最初に目に入るベッドの天蓋だった。

「あ。イリヤ、起きたの」

 イリヤの侍女、リーゼリットがイリヤの顔を覗き込む。表情に乏しいが、彼女が少し安心していることを、長い付き合いのイリヤには分かった。

「リズ、心配かけたわね」

 起き上がろうとして、イリヤは力が入らないことに気づいた。

「まだ起きちゃダメ。あと1日寝たらだいじょぶ」

 リーゼリットは首を横に振る。

「イリヤは1週間も寝てたんだから。あと1日寝てもいい」

「…1週間も寝てたんだ」

 その事実は、イリヤの前には重くのしかかる。

 イリヤの寿命が短いことは、誰よりも自分がよく分かっていた。だから、ドイツのお城を出た後には後悔しないように精一杯生きてきたのだけど。

 目を閉じて、自分の身体に異常がないか探る。異常はなさそうだが、明らかに生命力が昔よりなくなってきている。

 これは、あと半年は持つだろうがそれ以降は未知数だ。ひょっとしたら五年くらい生き延びるかもしれないし、もしかしたら半年後の今頃は死の床に就いているかもしれない。

「…あとごめん。イリヤのこと、シロウに言っちゃった」

「お兄ちゃんに!?」

  一番知られたくない相手に、自分のことが知られてしまった。

「なんで?お兄ちゃんがこのあとわたしの顔を見るたびにどんな表情を浮かべるかと思うと…」

「何があったんだ、教えろって、見たこともない剣幕でシロウが言ったから…」

「それでも…!」

 文句を言おうとして、言っても仕方ないことにイリヤは気づいた。もう起きてしまったことだ。何を言おうと、もうかわらない。

「…それで?シロウはどこ?」

 知られてしまったのなら仕方ない。それならせめて、彼とたくさん会って、甘えて、今生に悔いのないようにしたい。

 もしかしたらそれは衛宮士郎という少年にとって、枷になってしまうかもしれないけれど。

「シロウはセイバーと一緒にドイツに行った」

「…は?」

「アハト翁を尋問するとか言ってた」

「第三魔法を顕現できなかった失敗作なんて、お爺様にとってはどうでもいいと思うわ」

「セラがそう言った。そしたらアインツベルンを滅ぼしその智識と智慧を手に入れるだけだって」

 あの士郎が殴り込みをかけるなんて、イリヤには想像ができなかった。それだけに、彼が自分のことを大切に思ってくれているのだということがわかる。

 希望を持ってしまう。魔術師未満の状態から聖杯戦争を生き抜くという奇跡を起こしたのだ。自分にも、あるいは奇跡をもたらしてくれるのではないかと。

 話したら疲れた、とイリヤは目を閉じて眠りにつこうとした時、ドアがノックされた。

「入りなさい」

 イリヤが言い終わらないうちにドアが勢いよく開いた。普段なら決してそのような礼節に欠くようなことはしないイリヤのもう一人の侍女が思いつめた表情でイリヤの顔を見つめていた。

「心配かけたわね、セラ。わたしは大丈夫よ。まだ起き上がれないけど、明日には戻るわ」

「お嬢様…良かった…」

 セラは安堵の溜息をつくと、次の瞬間にはいつもの、感情を排した侍女としての表情に戻っていた。

「お嬢様、衛宮士郎がお見舞いに来ました」

「シロウが…、通しなさい」

 セラが身体を避けて道を開ける。そこにはイリヤの兄の姿があった。

「よう、イリヤ。目が覚めて良かった」

 そう言うと、彼はリーゼリットの隣に腰掛けた。

「シロウ。あなたはリズにどこまで聞いたの?」

 単刀直入に、イリヤは尋ねる。彼女にとって、今いちばん知りたいのは、それだった。

「…イリヤの寿命のことは、多分聞いた。まぁ元からわかっていた話ではあるからな。期限が明確になっただけで」

 士郎の表情は少しばかり暗くなった。

 そう、イリヤはこの表情が見たくなかったのだ。士郎を自分のものにしたい。けれど、それには寿命の問題がつきまとう。自分が死んでしまうのは仕方ないが、後に残された士郎に暗い表情をさせたくない。その板挟みに懊悩していたのに、こうもあっさりと…。

「でも大丈夫だ、イリヤ。お前の爺さんからちゃんと助かる方法を聞いてきた」

「えっ…」

 そんなはずがない。第三魔法の成就という悲願を諦めたアインツベルンはもはや存続価値がない。ましてや、第三魔法を成就できなかった失敗作のために尽力するわけがなかった。

「なんだかんだ言ってあの爺さん、お前のことを大切に思ってるんだよ。ちゃんと2つも方法を用意してくれてる」

 もし、最高傑作以上の最高傑作を作る算段がついたとしたら。アインツベルンは再び第三魔法の成就のために動き始めるだろう。

 イリヤスフィールはアインツベルンの最高傑作だ。アインツベルンのホムンクルスとして、彼女は最も第三魔法に近いところにいた。その最高傑作でさえ第三魔法に届かないのであれば、アインツベルンは第三魔法を手にすることはないと、アインツベルンは悲願を諦めたはずだった。

 しかし、アインツベルンの魔術が頭打ちだったとしても、それに外からの魔術を組み合わせることでさらに高みを目指せると思ったのであれば。

 きっと目の前の少年は甘美な果実のごとく映っただろう。

 なにせ高度な魔術、最も魔法に近いとされる固有結界を彼は持っているのだから。しかも、この魔術は継承可能である。

 つまり―。イリヤはそこで思考を打ち切った。今大切なのはアハト翁の思惑ではない。

「それで、2つの方法って?」

「1つは簡単だ。イリヤの身体の複製を用意して意識をそちらに移す。けど、これは万一の事故の可能性もあるし、別の身体に入るのはイリヤも嫌だろう」

 それは嫌だ。魔術回路を失ってしまうかもしれないし、かといってまた身体を切り開かれるのはごめんだ。

「だからこれは緊急避難だ。最後の希望として残しておく。本命は2つ目だ」

 士郎はここで言葉を切った。思わず、イリヤは生唾を飲んで彼の言葉を待つ。

死者の書(ネクロノミコン)を手に入れる。その知識の中に必ずイリヤを救う方法があるだろうって、イリヤの爺さんは言ってた」

死者の書(ネクロノミコン)?」

 イリヤは思わず耳を疑った。

 ネクロノミコンといえば、おそらく最も有名な魔術書だろう。様々な禁断の知識を網羅し、見たものを破滅と狂気に誘うといういわくつきのものだ。しかし、禁書指定されていたこともあり、今となってはある程度まとまって残っているのは現在確認できるものが世界に五冊、それも完全版はこの世に存在しないともいう。

「ネクロノミコンなんて、手に入るはずがない。あれはすべて厳重に保管されている。いかにアインツベルンと言えども手に入れるどころか閲覧することさえ難しいわ」

「それが、お前の爺さんがいうにはこの冬木のどこかにあるらしい。それも、失われたはずの完全版が、な」

「…それが本当だとしたら、それだけで魔術師の戦争が起きてもおかしくない。聖杯戦争なんて比べ物にならないほどの、陰惨で悲惨な」

「そうだ。だから、冬木のネクロノミコンには管理者が必要だ。お前の爺さんはアインツベルン、遠坂、マキリ、それに衛宮の四家が共同管理することを提案するらしい」

 冬木の魔術師の均衡において、衛宮という存在は無視できなくなってきつつある。それを如実に表す提案だった。そうでなければアインツベルン、遠坂、マキリの御三家と共に語られるはずがない。

 アハト翁がそこまで具体的に提案したということは、冬木のネクロノミコンが実在する可能性がかなり高いということだ。そして、もし仮に完全版のネクロノミコンなどというものが本当に存在すれば、それは魔術師にとって聖杯にも比肩するような、全てを叶える願望機にも見えるだろう。

 禁断の知識。宇宙の真理。失われた魔術。そういったものが書き記されているのだ。その中には当然、ホムンクルスの延命を可能にするような知識が含まれているだろう。

 ネクロノミコンの完全版を手にするということは根源の渦(アカシックレコード)に限りなく近づくということであり、それが一個の魔法のようなものなのだから。

「お爺様は本気ね…」

 アハト翁の思惑としては、最善はネクロノミコンの知識の独占であろう。魔術の知識はそれを知る人が少なければ少ないほど力を持つ。だが、それでは他の魔術師の家門や魔術協会が良い顔をしないだろう。そこで、冬木に所縁のある魔術の家門で共同管理するということにすれば、まだ他の者たちも文句を言いづらい。

 そして、そのネクロノミコンが完全であれば完全であるほど、その知識を手に入れられる者は少なくなる。あれは狂気の本だ。生半可な魔術師ではあの書物を全て読み解く前に狂気の沼に沈んでしまうだろう。

「というわけで、俺は早速セイバーと調査に乗り出すから、良い知らせを待っててくれ」

 士郎はにかっと笑ってイリヤの頭を撫でた。

 魔術師としては封印指定をされてもおかしくない彼だけれど、魔術に対する知識は驚くほど少ない。仕方ないのだろう。彼の魔術の師は彼が魔術師になるのを望まなかった。

「駄目よ」

 イリヤは自分でも驚くほどきっぱりと、彼の意思を否定した。

「なんでさ」

「ネクロノミコンは危険すぎるの。シロウに扱える代物じゃないわ。いいえ、ほとんどの魔術師には不可能でしょう。この冬木であれを扱えるとすれば、聖杯の一部であるわたしか、サクラ、それに神代の魔術師であるキャスターくらいでしょうね」

「危険ってどういうことさ。それに遠坂でもだめなのか?」

「ネクロノミコンには禁断の知識が網羅されているの。それは本来人が知るべきではない知識。簡単に言うと、狂うのよ。狂気に陥るの。リンが完成すればそれに対抗できるくらいの魔術師になれるかもしれないけど、今じゃまだ無理ね」

「…そうなのか」

 士郎はしばらく何かを考えるかのように唸っていたが、やがてイリヤの顔を見て口を開いた。

「あれ、じゃあなんでイリヤや桜は大丈夫なんだ?いくら聖杯とつながっているからって気が狂うとかそういうのとは関係ないような…」

「忘れたの?冬木の聖杯は汚染されているのよ。この世全ての悪(アンリ・マユ)にね。その呪いは一個の狂気だわ。つまり」

 イリヤはそこでわざと言葉を切った。士郎、リーゼリット、セラの順番にその表情を見回す。

「わたしとサクラ、もう既に狂っているようなものだもの」



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ep2

「わたし、ふっかーつ!」

 士郎のお見舞いの翌日、目が覚めるなりイリヤはがばりと身を起こした。

 士郎とは今日から二人でネクロノミコンの探索をすると約束をしたのだ。これで気分が高揚しない方がおかしい。

「お兄ちゃんとふたりきり、うふふ…」

「…イリヤ、気持ち悪い」

「リズ、いたの!?」

「うん。あと、たぶん、シロウと二人きりにはなれないと思う。セイバーとバーサーカー、連れてくだろうし」

「あ」

 サーヴァントのことを失念していた。

 それに、よくよく考えれば、あの士郎のことだ。凛や桜にも連絡をして、彼女たちも探索に連れていくと言い出しかねない。

 確かに、どこにネクロノミコンがあるのか、という調査だけであれば、危険は少ない。彼女たちを投入しても問題はないうえ、凛に至っては冬木のセカンドオーナーだ。彼女の助力があれば調査のスピードは速まるに違いない。

「んー…、そうだ。リズ、着替えるから出てってくれない?」

「わかった」

 リーゼリットはこくんと頷くと、部屋を出た。

 イリヤは手早く着替えると、自分の着替え類をかばんに詰め込んだ。

 そして、かばんを肩にかけると、扉を開け放った。

「よし」

「よし、じゃありませんよ、お嬢様?」

「ふぇっ?」

 目の前にいるのは、腰に手を当てたセラだった。

「そのような荷物を持ってどこに行くつもりですか、お嬢様」

「ちょっとシロウのお家に。ほら、ネクロノミコンを探さなくちゃいけないし」

「いつも何も持たずに行っていますよね?」

「…免許証とか」

「お嬢様?」

 セラが眉間に皺を寄せてイリヤを睨む。

「とにかくセラ、留守は任せたわ」

「事態が事態です。エミヤシロウと会うなとは言いませんが、何時頃お戻りになるかははっきりしていただかないと」

「ネクロノミコンが手に入ったらは帰ってくるわよ」

「お嬢様!あのような男の家に泊まるというのですか!」

「あのような男とは失礼ね!お兄ちゃんはわたしの弟よ!」

 言った後に、我ながら意味が分からないことを口走ったな、とイリヤは思った。

「とにかくセラ、主人の命令よ。留守は任せたわ。大体、主人の生命が関わっているのよ?なんでそれなのにそんなに聞きわけがないのかしら」

「それは…!」

「多分だけど、セラ、それ以上わたしを止めることはわたしだけじゃなくてお爺様の意思にも背くことになるわ」

「アハト翁の?」

「ええ。あのお爺様が第三魔法に失敗したわたしの延命になぜ助力するようなことを行ったのか、一度考えてみなさい」

「…」

 セラが考え込んでいる間に、イリヤはそっとその場を抜け出した。

「バーサーカー?」

 イリヤが小声で声をかけると、近くでその気配を感じることができた。霊体化しているが、きちんとイリヤの側にいる。

「いるのならいいわ。ちゃんとついていらっしゃい」

 バーサーカーが頷いたような気がした。

 

「いらっしゃい、イリヤスフィール」

 衛宮邸を訪問して、真っ先に歓迎してくれたのはセイバーだった。

 逆に言うと、衛宮邸にはセイバーしかいなかった。

 居間に座ってきょろきょろした後、イリヤは口を開いた。

「…お兄ちゃんは?」

「シロウとリンとサクラは学校です。ライダーはバイトらしいですね」

「あら、そうなの」

 てっきり、士郎たちは学校を休んでネクロノミコンの探索に乗り出しているかと思っていたが、そうでもないらしい。

「シロウは昨日帰ってきてから早速探索に乗り出そうと主張したんですよ。でも、リンが許しませんでした。どのくらいかかるか分からないのだから、持久戦の構えで行くべきだって」

 それもそうか、とイリヤは納得する。ネクロノミコンがどのくらい探せば見つかるかなど誰にも分からない。ひょっとすると数か月以上かかるかもしれないのだ。それなのに、日常を中断してしまうわけにはいかない。

「リンやサクラも協力することを承知してくれましたが、間桐の家は臓硯がボケてしまったため、知識の大部分が失われてしまい、役に立てないだろうとサクラが言っていました」

「あの妖怪爺さんの手を借りるなんてぞっとしないからそれでいいのよ」

 間桐は元々魔術の家門としては衰退していたのだ。臓硯一人の力で辛うじて保っていたようなものだが、彼が急速に力を失った今、桜という養子の存在を除けば、魔術の家門としては価値がないものになってしまっている。

 ネクロノミコンの探索に必要な者は人手ではなく知識だ。冬木の地に古くから根付いている遠坂と間桐の家はその行方を知る可能性が高いという意味で、強力な味方のはずだった。しかし、遠坂の現当主は幼いころに先代を亡くしたため、重要な知識を完全には受け継いでいないだろうし、間桐に至っては臓硯という人物が全てを握っていただろうから、彼が呆けてしまった以上、その知識を失っているだろう。

 辛うじての希望は、間桐と異なり代替わりが存在する遠坂は文書の形で重要な情報を残している可能性があることだ。

 ネクロノミコンの在り処。魔術師としては重大な関心を払わざるを得ず、いつ死ぬか分からない彼らからすればその知識を確実に次代に伝えるためにも何らかの文書でそれを残している可能性が高い。

「…セイバーはさ、ネクロノミコンがあるとしたらどこだと思う?」

「さぁ?円蔵山あたりなら説得力がありますが」

「確かに」

 セイバーの直感スキルは高い。彼女自身からすればあてずっぽうで言ったことだろうが、一方で簡単に否定できるほどのものでもなかった。

 円蔵山といえば、その中腹には柳洞寺を擁す冬木一の霊脈だ。さらに、円蔵山にある鍾乳洞には大聖杯が眠っている。

 とはいえ、逆に言えばそれだけ注目され、人の手が入っている地だ。そこにあるとすれば、何らかのからくりが存在するだろう。

「…はやく帰ってこないかなぁ」

 頬杖をついて、イリヤは独り言ちる。

 ネクロノミコンの所在そのものにも心を奪われるあたり、自分は生粋の魔術師なのだなと思った。

 

 夕方ごろになって、士郎と凜がそろって帰ってきた。桜は弓道部があるらしく、帰りが遅くなるらしい。

「さて、イリヤ、古文は読めるかしら?」

 士郎と凜は一度遠坂邸に寄ったらしく、大量の書物を衛宮邸に持ち込んでいた。

 そのすべてが、冬木の管理人としてあるいはそれ以前から、遠坂家が代々残してきた記録らしい。

「馬鹿にしないで、リン。わたしは魔術師として一流よ」

 むっとしてイリヤは答えた。ドイツで生まれ育ったイリヤが現代日本語はともかく、古い日本語を読めるかどうかということは凛にとって当然の疑問だとは思うが、それはそれとしてできないと思われること自体、彼女のプライドを傷つけた。

「は?魔術師と古文、何の関係があるのよ」

「わたしが読めると望めば読めるのよ」

「…望めば理論をすっ飛ばして結果を具現する聖杯の器だったわね、あんた」

「そうよ。知らない言語を読む魔術理論なんて知るわけないけど、でも読めるわ。というわけで寄越しなさいな」

 ぐぬぬ、と凜は唸っていたが、ほっと息をついて表情を和らげると、書物の一冊をイリヤに渡した。

「丁寧に扱いなさいよ。これは我が遠坂家と冬木の歴史そのものなのだから」

「分かっているわよ」

 イリヤは書物を紐解いた。みみずがのたくったような文字は、当然イリヤがそのままで読めるようなものではない。だが、ほんの少しだけ魔力を乗せてやると、その意味が彼女の頭に吸い込まれるように浮かんでくる。

 何年前の記述かは判然としないが、冬木の霊脈についての記述だった。霊脈そのものには興味がないので、斜め読みで読み進めていく。

 ちらっと横にいる凜を見ると、彼女もみみずがのたくったような文字を読み進めていた。だが、彼女の読むスピードはイリヤほど早くない。

 しばらく読み進めていると、不意にチャイムが鳴った。時間的にきっと桜が帰ってきたのだろう。

「一応玄関に出ます」

 手持無沙汰だったセイバーが立ち上がって玄関に向かう。程なくして、桜と、さらにはライダー一緒に居間に戻ってきた。

「遅くなってごめんなさい。間桐の家に寄ってたから遅くなっちゃって」

「おかえり、桜。なんか収穫あった?」

 凛がひょこっと顔を上げて桜に尋ねた。

「いいえ。お爺様は相変わらずとりとめのないことをしゃべっているし、間桐の書物庫にはめぼしいものはありませんでした。当然兄さんもそんなものは知るわけないと」

「でしょうね…」

 桜は座りながらイリヤと凜が読んでいる書物に目を落として苦笑した。

「さすがに私ではこれは読めませんね…。ライダーは読める?」

「いえ、サクラ。管理人でもないのに読めるイリヤスフィールが異常かと」

「異常とは失礼ね」

 さすがに聞き捨てならずイリヤも本から顔を上げた。

「大丈夫よ、一応新しいのも持ってきているから、そっちを読んでちょうだい」

「うわ、こんなにあるんですか…」

 一瞬絶望めいた表情を浮かべた桜だが、ふるふると首を横に振ると、何かを決意するかのようにぐっと手を握った。

「イリヤさんのためですもんね。これくらい大丈夫です」

「決意はいいがその前に飯だ」

 士郎が台拭き片手にイリヤたちのいる居間にやってくる。

「おおシロウ、ご飯ができたのですね!」

 セイバーが目を輝かせている。いつものご飯でここまで幸せそうになれるセイバーは人生悩みなんてなさそうだなぁ、とイリヤは思う。もっとも、セイバーに尋ねたら失礼な、と言われそうであるが。

「腹が減っては戦はできぬ。ほらほら遠坂もイリヤもその本を片付けて」

「はーい」

 楽しい夕餉の時間の始まりだ。



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ep3

「…さて、今後の方針について考えよう」

 士郎がいつになく真剣な顔で口を開く。

 食卓を囲む面々の前には先ほど桜が淹れた、湯気がたつ湯呑があった。

「ネクロノミコンの探索にはここにいる面々が参加するんでいいな?」

「ここにはいないけど私のアーチャーも参加するわ。本人の了承済みで、すでに動いてもらってるわ」

「あ、わたしのバーサーカーも。霊体化してここにいるけど」

 凛とイリヤが軽く手を挙げて発言する。

「アーチャーが動いてる?何をしてるんだ?」

「図書館で文献調査」

 ぶふぉっと士郎が噴出した。

 確かに、あのアーチャーが図書館でおとなしく本を読んでいる姿は想像できない。

「あー、分かった。確かに図書館は盲点だったな。郷土史のコーナーとかに手掛かりがあるかもしれないし」

 ふぅ、と士郎は息を吐くと、再びまじめな表情を浮かべる。

「さて、まずは事態を整理しよう。手掛かりとして考えられるのは遠坂家の蔵書、図書館の郷土史、他に何かあるか?」

「教会や柳洞寺はどうでしょうか。何かヒントがあるかもしれません」

 ライダーの提案は現実的だ。教会が禁書指定されているネクロノミコンの行方に重大な関心を払っていることは間違いないだろうし、そうだとすれば、なにがしかの手掛かりを持っている可能性がある。また、柳洞寺はこの冬木の地で最大の霊脈に位置する。遠坂家が冬木の裏向きの管理人であるとすれば、柳洞寺は表向きの宗教的な冬木の管理者だ。重要な情報が眠っていてもおかしくはない。

「正直、ネクロノミコンレベルの問題なら必ず遠坂のどこかに情報はあると思うけど、このルートだと時間がかかりそうだし、他を当ってみるのもいいと思うわ」

 凜が人差し指を立てて言う。

「桜はどう思う?」

 凜に促されて、桜はおずおずと口を開いた。

「…ちょっと思いついたんですけど、ギルガメッシュさんに聞いてみたらどうでしょうか。あの人何でも持ってますよね。冬木のネクロノミコンを手に入れなくても、ネクロノミコンが手に入るような」

「それはたぶん意味がないわ」

「どうしてですか、イリヤさん」

「ネクロノミコンはね、ウマイヤ朝時代に成立した文献なの。ギルガメッシュが生きた時代よりもずっと後。それに、書物は原型がどうのっていうものでもないでしょ?だから、彼はネクロノミコンを持っていない」

「なるほど」

 正確に言うと、ネクロノミコンの原型となった蟲の聲(アル=アジフ)がウマイヤ朝時代に成立したわけであるが、そこまで詳しいことは今大切ではない。

「セイバーは?なんか心当たりあるか?」

 士郎が自身のサーヴァントに尋ねる。

「心当たり、というほどではありませんが、第四次聖杯戦争の時のキャスターなら何か知っていたかもしれないな、と」

「へぇ、どうしてそう思うんだ?」

「彼は螺湮城教本…ルルイエ異本を持っていましたから」

「ルルイエ異本!?」

 思わずイリヤは声を上げた。

「知っているのかイリヤ」

「知ってるわよお兄ちゃん。人類以前この地球を支配していた旧支配者、グレート・オールド・ワンの一柱について書かれた魔導書よ。いーなー、欲しいなー」

「私はいらないわ、そんな薄気味悪いもの…」

 ぼそっと凜がつぶやいた。

「そりゃ、リンには扱えないものね。そんな特A級の魔導書なんて」

「うっさいわね。あんたとは違うのよ」

「そうね、リンはわたしとは違う。リンには無限の未来があるのにわたしはあなたたちにすがらないとお先真っ暗どころが先がない」

 よよよ、と泣き崩れたフリをするイリヤを見て、凛は何か言いたそうに口を開閉させていたが、何を言っても仕方がないと観念したのか、ため息をついた。

「さて、ここで確認しておきたいことがあるわ。ネクロノミコンが見つかった際の管理権よ。冬木の管理人たる遠坂家としては、ネクロノミコンを我が家門が管理するべきだと思うのだけど」

「異議あり!そもそも情報を持ってきたのはわたしのお爺様だわ。したがって、アインツベルンにも管理権が存在するわよ」

 イリヤはきっと凛をにらむ。まったく油断も隙も無い。しれっとネクロノミコンを私有しようとしてくる。

 大体、万年貧乏人の凛に預けたら最終的には借金のカタに競売にでもかけられかねない。

「いえ、サクラも探索に参加する以上サクラの家にも管理権が存在するはずです。そうでしょう、サクラ?」

「えっ、あ、まぁライダーの言う通り、かな?」

 魔術師としての常識には欠けている桜は、ネクロノミコンの管理権などと言われてもあまりしっくりこないのだろう。その知識を独占できることが魔術師としてどれだけ幸運なことかも。

「ん?その理論だと俺にも管理権があるのか?」

 士郎が苦笑いしながら口をはさむ。彼はネクロノミコンのことを、イリヤの身体を良くするためのアーティファクトくらいの気持ちでしか考えていないのだろう。

「あら、シロウは別に管理権を主張しなくてもいいのよ?いずれエミヤとアインツベルンは一つになるのだから、その程度の誤差はどうでもいいでしょう?」

 ふふふ、と笑いながらイリヤは言う。

「は?ちょっとイリヤ、それどういうことよ」

「んー?べつにぃ?いいのよ、リン、エミヤに管理権を与えなくても。その際に均衡を保つためにアインツベルンがどのような動きをするのか気にしないのならね」

「…この悪魔っ娘め」

「うふ」

 なるほど、アハト翁がアインツベルン、遠坂、マキリだけではなくそれに衛宮を加えた四家で管理するべきだと主張するわけだ。現在間桐の家は事実上桜の支配下にある。そして、桜は遠坂家からの養子だ。つまり、内実としては遠坂の分家のようにふるまうだろう。少なくとも、間桐は遠坂寄りの動きをする。そのような中でたった三家だけで管理することは危険だ。本拠地が遠い異国にあることも相まって、アインツベルンの発言力は低いものになってしまう。それを緩和する一つの手段が衛宮という新しい、遠坂や間桐が反対できないような家門を追加することだ。

「…いいわよ。ネクロノミコンを発見した暁には遠坂、間桐、衛宮、アインツベルンの四家の共同管理。各家の当主及び当主代行が閲覧できることにしましょうか」

 凛がため息をつきながら言った。

「ええ。それでいいでしょう。アインツベルンは反対しません」

 イリヤは頷く。

「…あんたの生命がかかわっている話なのに、呑気ね」

「別にネクロノミコンが見つからなくても最終手段は用意してあるしね」

 身体を移し替えるなんて、あまり気乗りのしない解決方法だが、それはそれで一つの手段である。

「…ふん、まぁいいわ。それじゃ、明日の予定を立てましょう。私は先祖が残したこの紙束の解読ね」

 凛は自分が持ってきた書物の束を一瞥した。

「私は教会を当った後、姉さんに合流します。ライダーもそれでいいよね?」

 桜の問いかけに、ライダーはうなずいた。

 この面々の中で、最も教会に遺恨がないのは桜とライダーの主従だろう。士郎やセイバーは前任の神父に対して良い思いは抱いていないだろうし、凛に至っては前任の神父に父親を殺されている。

 イリヤとしても、あの空間はあまり好きではない。

「じゃあわたしは柳洞寺に行こうかしら。シロウ、着いてきてくれない?」

「は?行くなら一人で行きなさいよ」

 士郎が答える前に、凛が口をはさむ。見れば、桜もぎゅっとこぶしを握っているところからして、凛と同意見だろう。

「あら、簡単よ。柳洞寺がある円蔵山って冬木の中でいちばんネクロノミコンがありそうじゃない。その痕跡をかぎ分けられるとしたらわたしくらいしかいないわ。一方で、わたしだけだと柳洞寺の人たちからは話を聞けないわ。そこでシロウが必要なわけ。わかる?」

「…抜け駆けは許さないわよ?」

「抜け駆けもなにも、シロウはわたしのものよ」

 イリヤと凜はしばらくにらみ合ったが、やがてどちらからというわけでもなく、視線をそらした。

「…結局、俺はイリヤと柳洞寺に行けばいいんだな」

「ええ、そうね。ついでにセイバーも護衛で行ってちょうだい」

「もちろんです、凛。シロウを守るのはサーヴァントたる私の役目です」

 もちろん、セイバーがついてくることも織り込んでいる。何も、士郎と二人きりになりたかったわけではない。

 士郎とセイバーと三人で柳洞寺に行くのであれば、行ってみたいところがあったのだ。自分が第五次聖杯戦争以前と比べて、どれくらい変わったのかを測るために。

「あ、そうだ、最後に」

 イリヤは立ち上がると、自分のスカートの両端を軽く摘み上げて、優雅にお辞儀をする。

「この度はわたしのために力を貸してくださり、感謝いたします。このイリヤスフィール・フォン・アインツベルン、このご恩は決して忘れません。願わくば、我が家と貴家の友好が千載に渡りますよう」

 それは紛れもない、彼女の本心であった。



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ep4

 秋めく空の下、ひたすらに階段を昇る。柳洞寺に至る石の階段はただただ長く、身体が丈夫ではないイリヤにとっては拷問だった。

 イリヤは運動ができない。身体が激しい運動を果たせるほど強くないのだ。彼女が生まれ落ち、強大な魔力を背負った代償の1つだった。

「大丈夫か、イリヤ。おぶってやろうか?」

よっぽどひどい表情をしてたのか、士郎が尋ねた。

「…ううん、大丈夫よ」

 士郎におぶってもらうというのはとても魅力的な提案だったが、セイバーもいるし、何より柳洞寺には彼がいる。士郎の姉として、弟におぶってもらっているという格好の悪いところは見せられない。

「ほう、セイバーとそのマスターよ、何用かな」

 山門から見下ろしているのは、長髪の青年だった。よく見ると、生身の日本刀を手に持っているところから、只者ではないことがわかる。

 彼もきっとサーヴァントだろう。噂に聞くアサシンのクラスのサーヴァントだろうと思った。

「いや、ちょっと野暮用でな」

「ふむ。セイバーのマスターだけであれば分かるがセイバー自身と見慣れぬお嬢さん、それに霊体化したサーヴァントまでいるとなると流石に私としても警戒せざるを得ないな」

 アサシンはそう言いながら、しかし特別に何か戦闘の準備をする様子もない。

「申し遅れました。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。そこにいるエミヤシロウの姉にあたります。以後お見知り置きを」

 イリヤは優雅に一礼する。

「姉君…?」

 アサシンは不思議そうに士郎の顔を見たが、ふっと鼻で笑うと、やれやれと首を振った。

「おいアサシン、お前今何を思った」

 士郎は明らかに不機嫌そうだ。

「ふむ。セイバーのマスターがそれを望むのであればまた一興か。通るが良い」

 そう言うとアサシンは幻のように消え去った。大方、霊体化してしまったのだろう。

「あいつ絶対勘違いしてる」

「わたし嘘は言ってないわよ。むしろ妹って紹介した方が年齢的に嘘だし」

「日本には嘘も方便っていうことわざがあってだな…」

「ウソモホーベン?知ってる?セイバー」

「いえ、知りません。ウソモホーベン、ドイツ語ですか?」

 イリヤは思わず噴き出してしまった。確かに、ウソモホーベンという響きのドイツ語があってもおかしくない。

 ちらりと士郎の顔を盗み見ると、彼は既にあきらめ顔であった。

 

 山門をくぐると、境内の中を箒で掃いてる人物が目に止まった。彼は士郎と同年齢くらいで、眼鏡をかけているせいか、真面目一徹という印象を受ける。

「お、一成、朝から精が出るな」

「む。その声は衛宮か」

 一成と呼ばれた少年は顔を上げた。

「セイバーさんと…そちらの女性は何者だ」

「ああ、こいつは…」

「衛宮士郎の姉のイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと申します。以後お見知り置きを」

 一成はきょとんとした後、イリヤと士郎の顔を見比べた。

 彼は何度か一人で頷いた後、大きく息を吸って

「喝!」

 境内に響き渡るような大声をあげた。

「おお、衛宮よ、なんと嘆かわしい。まさかいたいけない少女に弟扱いされることを愉しむような軟弱な男だったとは」

「いや、待て、誤解だ!おいイリヤ、なんとかしてくれ」

 士郎のもはや哀願にも達した言葉に、さすがにイリヤはかわいそうに思えてきた。

 そも、士郎をいじめたくて自ら姉と名乗っているわけではない。例えば、商店街で同じ問いをされたら妹と答える確率のほうが高いだろう。そのほうが都合がいいし、士郎もそれを望んでいる節がある。

 だが、この場だけは。イリヤは士郎の姉でなければならない。

 んー、とうなると、イリヤはごそごそとポケットを探った。念のため、いつも財布を入れていたのは正しかった。まさかこんな理由で使うことがあるとは思わなかったけど。

「これを見て」

 イリヤが財布から取り出したのは、小さな四角いプラスチック製のカードだった。確かこの国では運転免許証と呼ばれているはずだ。

「…む?」

 一成は眼鏡をかけなおしながら、運転免許証をまじまじと見つめる。

「わたしの父は日本人なの。名前はエミヤキリツグ。シロウのお父さんよ。母はドイツ貴族の末裔で、名跡はそちらを継いでいる」

「なるほど」

「先天的に発育不全だから誤解されちゃうけど、もう18歳なの。だからシロウのお姉さんなのよ」

 イリヤが18歳以上であることを、目の前の少年は否定することはできないだろう。なにせ、日本の国家権力がそれを認めてしまっているのだ。それに、いくら彼が猜疑心が強くイリヤが嘘をついていたらそれを見破ろうとしても、決して見破ることはできないだろう。何せ、イリヤはうそをついていない。イリヤの父親は確かに切嗣だし、切嗣は士郎の父親だし、確かに18歳であることには間違いないし、ゆえに士郎の姉であることに間違いはない。

 当然、手にした運転免許証だって本物だ。ただ、入手経緯を聞かれれば、うそをつかざるを得ないが。

「…これは失礼した、衛宮の姉君。私の無礼を許してくれ」

「いいえ、疑念は尤もだわ」

 イリヤは淑女たる笑みを浮かべた。横で士郎の顔が引きつっているのは、おおかた外面で彼の友人をだましていることが気に食わないからに違いない。あとで士郎のことを蹴飛ばそうと心に誓った。

「ふむ、ということは父君のお参りか?」

「うん、そういうことになる」

「それでは墓地はあっちだ。衛宮が道を分かるはずだから連れて行ってもらうといい」

「ええ、そうするわ。親切にどうも」

「なに、ご先祖様を祭るのは良いことだ。お参りが済んだら寺によってくれ。わびと言ってはなんではあるが、お茶くらいはもてなそう」

「ありがとう」

 優雅に一礼すると、イリヤは歩き始めた。

「おいイリヤ」

 小声で士郎が話しかけてきた。

「なに?」

「墓参りなんて聞いてないぞ」

「言ってないもの」

「もとから行く気だったのか?」

「ええ」

 はぁ、とため息をついて士郎はセイバーを見る。彼女には特に意見はなさそうだ。ただ、イリヤと士郎を見つめている。

 士郎とセイバーと切嗣の墓参りをしたいとは前々から思っていた。果たして自分がどれくらい成長したか、ということを、それで測ってみたかったのだ。

 今となっては、切嗣が迎えに来なかったのではなく、迎えにこれなかったことを知っている。けれど、それでも、彼のせいでアインツベルンの妄執から自分が解放されることもなく、つらい思いに耐えなければならなかったという憎しみもある。そもそも、彼が聖杯を手にしていれば、イリヤは父親とともにただの子供として生きていく道もあったかもしれない。

 彼を許せるのか許せないのか。それが自分の成長を測る一つの物差しになると信じていた。

 一人で行かずに士郎とセイバーとともに行こうと思ったのでは、自分一人では怒りが抑えられなかったとしても、この二人ならそれをなだめてくれるという確信があったからだ。それに、士郎はもとより、セイバーにも、切嗣との浅からぬ縁がある。彼らとであれば、切嗣に会いに行ってもいいかな、と思ってしまったのだ。

 

 士郎に先導され、三人は雑木林の小道を進んだ。

 しかし、道半ばで、ふと、セイバーが足を止める。

「どうした、セイバー」

 士郎が振り返って自身のサーヴァントに尋ねた。

「…私はここに残ります」

 有無を言わさぬほどきっぱりとした口調で、セイバーはそう告げる。

「なんでだよ。セイバーは親父のサーヴァントでもあったんだろ?墓参りくらいいいじゃないか」

「だからこそです。キリツグは士郎とイリヤスフィールと三人になりたいでしょう…。私は、そうですね、士郎たちがお寺に行っている間にお参りをしましょう」

 第四次聖杯戦争のことは、イリヤも一通りは知っている。アインツベルンが用意したマスターがそのサーヴァントと不和であったことも。

 切嗣という人間のことを、イリヤはあまり覚えていない。わずかに思い出せるのは幼いころに一緒に遊んでもらった時のこと。今の次に人生で楽しかった時期のことだ。あの時には母がいて、父がいた。今はどちらもいないが、弟がいて、サーヴァントがいて、メイドがいる。

「セイバー」

 イリヤが口を開く。

「なんでしょうか、イリヤスフィール」

「エミヤキリツグという人間が実際はどんな人間だったのか、ということは、きっと私より共に戦ったあなたのほうがよく知っているのでしょうね。でも―」

 イリヤは瞳を閉じて、何かを抱くように手を胸にあてた。

「彼は私の前では優しいお父様(ファーター)だったわ」

「…知っています」

「そう。それならいいの」

 イリヤは士郎の手を取ると、引っ張った。

「それじゃシロウ、早く行こ。キリツグに子供二人が立派になったことを教えてあげなくちゃ」

「…ああ。じゃあセイバー、悪いがちょっと待っててくれ」

「はい。我が侭を聞いてくれてありがとうございます」

 

 墓地の中にひっそりと、「衛宮家の墓」と書かれた墓石があった。

 ここに切嗣が眠っている。自分が十年間に怨み続けてきた男。アインツベルンの裏切者。

 イリヤの実の父で士郎の義理の父。

「悪いな爺さん。急な話だったから花も線香も用意してない」

 士郎が墓石に話しかける。当然のことながら、お墓は何も答えない。

 士郎が墓石から目を離し、イリヤに向き直る。彼は穏やかな瞳をしていたが、一転して、すぐに表情を曇らせる。

「イリヤ、手…」

 言われて初めて気づいた。イリヤは両の手をぎゅっと強く握っていた。あまりにも強すぎて、皮膚を破り、毛細血管を傷つけてしまったらしい。じわりと血がにじんでいた。

 ぱっと手を広げる。そして、何でもないというように手を振った。

「大丈夫、わたしは大丈夫よ、シロウ。さ、お参りをしましょう」

「そうだな」

 士郎は静かに手を合わせた。それをまねして、イリヤも両の手を合わせて目を閉じる。

 結局、許せるのか許せないのか。

 もしかしたら、人には人を赦すということはできないのかもしれない。彼自身の心中はどうであれ、切嗣はイリヤの母を裏切りイリヤ自身も裏切った。アインツベルンを裏切るということはそういうことだ。

 人類の救済。切嗣という人間が望んだことは、人の身には余ることだった。ゆえに、聖杯に願ったのだろう。だが、その聖杯は汚染されていた。

 何もアインツベルンを裏切らなくてもよかったのだ。他愛のないことを願えばよかったのだ。魔法のようなことを願うから、人々が苦しむ。等価交換だ。それならば、汚染された願望機が、代償としてちっぽけなものしか奪えないようなものを願えばよかったのだ。

 しかし、切嗣は願望機の破壊を望んだ。きっとそれは正しい選択だったのだろう。天の杯(ヘブンズフィール)をあと一歩で完成させられなかったアインツベルンと、あとに残されたイリヤスフィールを除けば。

 なぜ。彼はなぜ自分を選んでくれなかったのだろう。すべてを救うために、一番大切なものを犠牲にする。そのような修羅の道に、なぜ彼は足を踏み入れてしまったのだろう。

 彼の願いは息子が継ぎ、彼の義務は娘が継いだ。人類を救済する正義の味方への祈りは士郎が受け継ぎ、アインツベルンのマスターとして第三魔法を完成させるという営みはイリヤが受け継いだ。

 その差は何だったのだろう。

 なぜ自分が父の願いを継げなかったのだろう。

 その理不尽さは、彼の真の思いが奈辺にあるかを問わず、彼を赦すことなかれとイリヤに告げる。

 結局、切嗣という人間は、自分の娘よりも大切なものがあったのだ。

 人知れず世界を救った切嗣は、結局誰にも称えられることはなく。

 捨てられたイリヤは憎しみと誇りだけを胸に過酷な日々を送り。

 最期まで会うことはできなかった。

 やっぱり、赦すことはできない。赦せるはずがない。

 捨てたくて捨てたわけではないのだろう。それは、イリヤにも理解ができる。

 それでも―捨てたという事実は厳然と、重くのしかかる。

「キリツグ、わたしはあなたを赦さない」

 イリヤは心の中で小さくつぶやく。

 結局、その想いがイリヤを形作っているのだ。死ぬその瞬間まで、イリヤは彼を赦すことはないだろう。

 ゆっくりと、イリヤは目を開ける。横を見ると、士郎はまだ手を合わせていた。

 きっと報告することが山ほどあるのだろう。けれど、それにしては必要以上にまじめで必死な顔をしていた。

 人生に一度しかない、しかし人生で最も高い山を乗り越えようとしているみたいに。

「シロウ?」

 イリヤに呼びかけられて、士郎ははっと目を開ける。

「どうした、イリヤ?」

「…そうだ、シロウのお墓はここなの?」

 なんとなく、彼が何を思って切嗣の墓に手を合わせたのか、直接的に尋ねるのは避けてしまった。あまりにもその表情が必死だったから、尋ねてみていいものか迷ってしまったのだ。

「…それは遠回しに俺を殺すと言っているのか」

 びくっと士郎の肩が震える。実際にかれを殺そうとしたことがあるイリヤとしては、困ってしまう問いかけだ。

 確かに、士郎が凛に奪われるくらいなら殺しちゃうのも一つの手ではあるのだが。

「シロウがさ、大人になって結婚して、子供ができて、老いていって、そして死んだときの話」

「そういうことならここだろうな。爺さんを一人にしっぱなしというのも悪いし」

「…そっか」

「イリヤもここにするか?百年後くらいにさ、親父とまた一緒に眠るのも悪くはないだろ」

「…遠慮しとくよ、悪いもん」

 ここはあくまでも衛宮家の墓だ。アインツベルンの墓ではない。

 士郎は自分のものだ。イリヤにはその確信がある。でもそれはイリヤの兄としてという意味であり、弟としてという意味であった。彼が生涯の伴侶を選ぶとき、きっとイリヤは候補にも挙がっていないだろう。イリヤの外見はあまりにも幼すぎる。

 それなのに、衛宮家の人間でさえないイリヤがこの墓に入ることは、士郎の未来の花嫁に悪かろう。

 この胸に抱く想いはただの兄弟への愛情だけではないのだから。

「なぁイリヤ」

 そう呼びかける士郎の表情は寂しげだった。

「なに、シロウ?」

「…ずっと一緒にいてくれるか?」

 士郎の真意がわからない。ずっと一緒のずっとというのはどれくらいの時間の長さを指しているのか。

 士郎がアハト翁の助けを借りたとき、必ずなにがしかの代償を差し出しているはずだ。それが何かわかるまで、彼の言動を縛ってしまうような約束をしてはいけない。

 ずっと一緒にいるなどという約束をしてはいけないのだ。

 姉である自分が士郎を縛り付けてはならない。イリヤはそう思っていた。

「…もう、雨に濡れた子犬みたいな表情をしちゃって。シロウは可愛いなぁ」

 にこにこしながらイリヤが言うと、士郎は憮然とした表情を浮かべた。

「…ったく、人の気持ちも知らないで」

 士郎の独り言は、しかししっかりとイリヤの耳に届いた。



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ep5

 墓地からの帰り道、イリヤはつらつらと考え事をしながら歩いていた。

 そういえば、なぜ士郎はドイツまで行ってくれたのだろうか、とか。ドイツに行くのは新都まで行くのとはわけが違う。まず何よりもお金が必要なのだ。そのお金はどこから出たのだろうか。

お金を持っていそうな人がいないか、頭に色々な人を思い浮かべてみる。

 まず、士郎その人。ダメだ。広いお屋敷はあってもそれしかない。切嗣が死んで以来真っ当な収入源がなさそうだ。

 でも。もしかしたら切嗣が遺した遺産みたいなものがあるかもしれない。普段は手をつけないけどいざという時に使うための。しかし、アインツベルを追い出された後の切嗣が儲かりそうなことをやっているイメージがない。

次、セイバー。お話にならない。

 続いて、凛。宝石に金を使っているから余裕はなさそうだ。しかし、お金を貸すくらいには応じてくれそうだ。

 桜。彼女であれば間桐の財産をある程度自由に処分できそうだが、彼女自身は兄のことを気にしてあまりお金を使おうとするイメージがない。士郎もそのことがわかっているから、金銭のことを相談するのはするとしても最後にするだろう。

 本命は大河だろう。彼女自身の財産ではなく、彼女の祖父の財産だ。簡単に用立てできるに違いない。

「そういえばシロウ。どうやってドイツに行ったの?そもそもなんでアインツベルンを訪ねようと思ったの?」

 さて、答え合わせと洒落込もう。

「え、ああ、そういやまだ話してなかったか」

士郎はほんの少しだけ、声を潜めた。その態度にただならぬ気配を感じて、イリヤも思わず心構えをしてしまう。

「…英雄王だ」

「…ふぇ?」

「英雄王がな、アインツベルンに行けば解決策があるやもしれぬし行けって言ったのと、あと金塊を一つくれた」

「…」

 ギルガメッシュといえば傲岸不遜、邪智暴虐、まさか人助けをするはずがない。いや、彼自身の利益になるようなことであればするのか。

 それでは、英雄王の利益とはなんだろう。それを考えたら、すぐに見つかった。

 英雄王ギルガメッシュはセイバーに懸想している。そうすると、潜在的な恋敵は士郎となる。つまり、士郎が他の人物、例えばイリヤとくっつけば。

 彼としては恋路の最大の障壁がなくなるのだ。

 イリヤ個人としては、あの金ピカサーヴァントは嫌いだ。天敵といってもいい。あの赤い瞳に睨まれれば、蛇に飲まれる蛙のような気持ちになってしまう。なんというか物理的にハートキャッチされてしまうような、そんな気持ちになる。

「そうそう、だからシャクだとは思うが、あいつに会ったら礼くらい言っておけ」

 士郎の言う通り、この件に関しては恩人である。あるいは借りを一番作りたくない人物に借りを作ってしまったのかもしれない。

「わたし、あの金ピカ苦手よ」

「ははは、それは俺もだ」

 士郎は不意に手を振る。律儀に待っていたセイバーを見つけたからだろう。セイバーも、イリヤと士郎に気づくと、歩み寄ってきた。

「士郎たちはこの後寺に行くのですよね」

「ああ、セイバーは墓参りするのか?」

「…ええ。あれでも、元マスターですから」

 セイバーの心の中にどのような思いがあるのか、イリヤには分からない。第四次聖杯戦争の時には、イリヤはまだ何も分からない子どもで、切嗣と母親の帰還を素直に信じるあどけなき幼子だった。

 当然、切嗣が魔術師殺しとして恐れられていたことも知らないし、彼がどれほどあくどいことをやっていたかも知らない。

 彼の理想も。絶望も。何も知らなかった。

「…イリヤスフィール」

墓場に向かおうとして、セイバーは何か思い立ったかのように振り返る。

「何かしら」

「キリツグが聖杯に何を問われ、何を思い、その消滅を願ったのかはわかりません。ですが、彼の選択がアインツベルンを裏切り、ひいては当時彼に残された最後の家族である貴女を裏切ることにつながることは分かっていたでしょう。ですが」

 セイバーは真摯な瞳でイリヤを見つめる。

「キリツグはきっと、最後まで貴女のことを愛していたと思います」

不和であったとはいえ、かつて最後まで共に戦ったマスター。セイバーと切嗣の絆は、やはり強固としてあるのだろう。

「知ってる」

 無感動に、イリヤは返す。切嗣が自分を愛していようがいなかろうが、彼を赦せないという結論には変わりはない。

「…出過ぎたことを言いました」

 ぺこりとお辞儀をすると、セイバーは再び墓場へと向かった。

 

「よく来たな、衛宮。それに衛宮の姉君。茶を淹れたからゆっくりしてくれ」

 一成がにこにこしながら湯飲みに入れた緑茶をイリヤと士郎の横に置く。

 通されたのはただ広い畳の部屋だった。そこの縁側に座って、お喋りをしようという魂胆らしい。

「悪いな」

 士郎はそう言うと緑茶に口をつける。

 うむ、と頷くと、一成は士郎の隣に腰をかけた。

「ところで、セイバーさんは?」

「セイバーは今墓参りしてる。なんでも、俺やイリヤの墓参りを邪魔しちゃ悪かったそうだ」

「父と子の三人にしてあげようというその心遣い、流石はセイバーさんだ」

 感心したように一成は何度も頷く。

 それからしばらく、とりとめのない話が続いた。イリヤの自己紹介や、士郎の学校のこと。お墓参りをしたということで、切嗣との思い出についても聞かれた。

 世間話も尽きたところで、士郎が口を開いた。

「なぁ、一成。ところで今探し物をしてるんだ」

「探し物?」

「ああ、古い本なんだけどさ、心当たりないか?」

「古書の類いならたくさんあるぞ。経典やらかつての高僧の教えやら」

「あー、ちょっと違うかもなぁ。曰く付きの本なんだが…」

「ふうむ。しばし待て」

 一成は立ち上がると、どこぞへと行ってしまった。きっと心当たりがないか、家人に聞きに行ってくれたのだろう。

「ちょっとシロウ、さすがに直接的すぎない?」

 イリヤは文句を言う。探す対象があまりにも化物級だから、聞くにしてももっと自然に聞きたい。

「別にいいだろ。一成は信頼できるし」

「この寺にはキャスターもいること忘れたの。彼女に知られたらどうするの」

「あー、確かに」

 キャスターは古代ギリシアの英霊だ。ゆえに、ネクロノミコンという魔術書の存在を知らないかもしれないが、用心に越したことはない。

 十分ほどして、一成は戻ってきた。

「ちょっと聞いてみたが、曰く付きの本の封印だの滅殺だのは我が寺にはよくあることでいまいち分からない、というのが正確な話らしい。役に立てずすまぬな」

 一成は眉根を下げて謝る。

「いいっていいって。いや突然訊いて悪いな」

「何か手伝えることがあれば訊いてくれ。年代が特定できれば古書を紐解くことも出来よう」

「ああ、その時は頼む」

 士郎は頷いて、一成の厚意を受け入れた。

 

 寺を辞し、境内を出たところで、ふと、セイバーは今どこで何をしてるのだろう、と疑問に思った。しかし、その疑問はものの数秒で氷解する。

 きゃいきゃいと、荘厳な寺には似つかわしくない声がする。見れば、キャスターとセイバーが何やら話している、というよりもキャスターがセイバーに何やら詰め寄っているようだった。おおかた、なにがしかのコスチュームを着せたいとか、そんな話であろう。

「あ、シロウ」

 セイバーはあからさまに安堵した表情を浮かべて、士郎の方に駆け寄る。

「あら、坊や。それにアインツベルンのお嬢ちゃんも」

「よ、キャスター。元気そうで何よりだ」

 キャスターはほんの少しだけ微笑む。それは、どちらかというと何か企んでいる笑みだった。

「…お嬢ちゃんを助けたい?」

 不意に、キャスターが尋ねる。

 一陣の風が通り抜け、イリヤの髪がなぶられる。

「…なぜ、それを」

「この冬木で私に隠し事ができるとは思わないことね、と言いたいところだけど、これは金ピカサーヴァントからの情報」

「くそっ、あいつ…」

「あら、彼は良かれと思ってやっているみたいよ。英雄王は子供好きというのは本当みたいね。セイバーのマスターが来たら協力してやれ、との仰せよ。そして、貴方たちには運のいいことに、私は坊やの役に立ってもいいと思っている。なにせ、料理の先生ですからね」

 くつくつとキャスターは笑う。

 なるほど、英雄王は本気らしい。きっと、士郎が本国のアインツベルン城まで赴けば、彼に何が課せられるかということを見越していたのだ。つまり、士郎をアインツベルンにまで行かせれば、あとはイリヤの延命を現実のものにするだけ。それだけで、ギルガメッシュは自らの恋路の最大の障壁を突破することになる。

 傲岸不遜な英雄王らしからぬ企みだが、そうと考えなければ納得ができない。

「…キャスター。わたしたちはネクロノミコンを探してるの。何か知ってる?」

 イリヤは問いかけると同時に、覚悟を決める。もしこれで何か変な動きをして来たら殺す。バーサーカーをすぐに呼んで殺しちゃう。こと、ネクロノミコンに関しては、自分よりも実力が上の魔術師が近くにいるのはよろしくない。最後の最後で横取りされるかもしれないのだ。

「ネクロノミコン…?さすがにそれは知らないわね。大英博物館にでも行ったら?」

 イリヤは臨戦態勢を解いた。知らないというのであれば知らないのだろう。

「そう…」

「でもね、お嬢ちゃん。この冬木の地に、そんな狂気が潜んでるとしたら、どこだと思う?」

 キャスターは妖艶に微笑む。

「大聖杯の眠る、龍洞…」

「ええ。そうでしょうね。あそここそ魔法が存在するにふさわしい。この世の真理と宇宙の恐怖。冬木で最もふさわしいのはあの場所でしょう」

 魔女は舌舐めずりするように、あるいは歌うように、とうとうと話す。

「お嬢ちゃん、万全を整え臨みなさい。さすがにそこまでは手伝ってあげられないけどね」

 稀代の魔女はそういうと、本堂の方へ歩いて行った。

「龍洞…」

イリヤの呟きは、誰に聞こえることもなく、風の中に消えた。



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ep6

 ネクロノミコンは円蔵山の鍾乳洞、龍洞の中にあるというキャスターの予言は、凛や桜を納得させるに十分なものであった。

「決まりね。それならちゃきちゃき調査に乗り出しましょう」

 凛の言葉に、桜も頷く。この姉妹はどちらかというと好戦的な部類に入るとイリヤは思っている。凛はもとより、桜も戦い自体は好きではないだろうが、いざという時の行動力はあるいは突出しているかもしれない。

 しかし、イリヤは今は慎重派だった。ネクロノミコンの完全版。実在するかも定かでないような魔術書が、こんなに簡単に見つかって良いのだろうか。何がしかの罠や、あるいは途方も無いトリックがあるのでは無いだろうか。

 そもそも、今まで話にさえ上がらなかったネクロノミコンが急に焦点になるのは妙だ。あのネクロノミコンである。いくら極東とはいえ、冬木のように霊脈がある土地に、そのような大魔導書が存在すれば、魔術協会の目に留まること間違いなしなのに。

「用心するべきよ、リン。甘く見ると痛い目に会うわ」

 イリヤは静かに言った。

 ネクロノミコンが今まで話題にもあがらなかった事実は重く見るべきだろう。第二魔法と第三魔法の所縁の土地、冬木は極東にあるとはいえ決して魔術協会から見て未開の土地というわけでもなく、敵対勢力が跋扈し調査研究ができないというわけでもない。そして、冬木の土地にネクロノミコンの、それも完全版があると分かれば、魔術協会は必ずなにがしかのアクションを取る。

 それがなされていないということは、隠蔽されていたのか、そもそも簡単には手に届かないところにあるのか。どちらにせよ、用心するべき理由になる。

「用心?こっちにはサーヴァント四体と魔術師四人もいるのよ?何を用心するのよ」

「いかにサーヴァントといえども、人の子よ。例えばグレート・オールド・ワンがいたらどうするの」

「はん、そんなものが冬木にいてたまるものですか」

 凛は鼻で笑った。冬木の管理人として、そのような宇宙的存在はいないという確信を持っているのかもしれない。

「甘いわよ、リン。この地はゼルレッチ、第二魔法の所縁の地。何かの拍子に変な世界につながった結果、ネクロノミコンがあるのかもしれないし」

「む、確かに…」

 むぅ、と凛は黙り込む。

「なぁ、イリヤ、一つ聞いてもいいか?」

 士郎がおずおずと話しかけてきた。

「なぁに、シロウ。つまらない質問だったら怒るからね」

「グレート・オールド・ワンってなんだ?」

 イリヤはきょとんとした後、思わず笑いだしてしまった。まさか、グレート・オールド・ワンを知らない魔術師がいるなんて。

 しかし、見れば桜も知らない様子であるし、セイバーもあまり分かっていない様子だ。説明する必要があるだろう。

「いい?グレート・オールド・ワンというのは神に近しい存在、しかし決して神ではない存在よ。例えばギリシア神話ってあるじゃない。わたしのバーサーカー、ヘラクレスはギリシア神話の英雄で、そこにいるライダーは、言い方は悪いけど怪物ね。でも、これはしょせん地球規模の話でしかない。グレート・オールド・ワンというのは宇宙的な神話の存在。わたしたち魔術師は、その神話のことを、地球に棲むグレート・オールド・ワンの名前を取ってクトゥルフ神話と読んでいるわ」

 士郎と桜、そしてセイバーは熱心に話を聞いている。しかし、それとは対照的に、凛やライダーは話を聞くことにあまり乗り気ではないようだ。それも当然だろう。これからイリヤが話すのは、狂気の世界の一端なのだから。

「クトゥルフ神話における神の存在を、私たちは外なる神と呼んでいるわ。彼らは宇宙の体現者であり、大いなる存在よ。そして、彼らほどの力はないけれど、惑星レベルで見ればやはり神にも等しい大いなる力を持っているのがグレート・オールド・ワンと呼ばれる存在。決して人が関わってはいけないものだわ。外なる神も、グレート・オールド・ワンも、狂気と破壊しかもたらさない存在であるのが一般的だから。だから、わたしたちは畏敬を込めて、彼らのことを邪神と呼んだりもするわ」

「つまり、おっかないから近づかないほうがいいというわけだな?」

 士郎の質問に、イリヤはうなずく。

「いくらサーヴァント、英霊が強かろうと、あくまでそれは地球規模の話。宇宙規模はスケールが違うもの。退散させることはできるかもしれないけど、そもそも出遭うべきではないのよ。そして、わたしたちが探しているネクロノミコンという本には、そういった知識がたくさん書かれているとされているわ。本来知るべきではない知識ね。普通に生きていれば、たとえ魔術師でも、地球レベルの話をしていれば済むもの」

 根源の渦という概念は宇宙規模のものかもしれないが、これに到達しようという試みはあくまでも地球規模の話にしかならない。魔法という概念も、その時代の文明では到達できない結果を残すというものでしかなく、地球規模の話に限定されている。

 かくいうイリヤも、クトゥルフ神話について、詳しいわけではない。詳しく知れば知るほど狂気もまた深くなる。いわば、深淵を覗き込んで、深淵に覗き込まれ返されているようなものだ。

「…つまり、本来は触れるべきではないものに、俺たちは触れようとしているんだな?」

「そうよ。怖気づいたかしら」

「冗談。イリヤを助けるためだったら、どんなことだってする。これくらいのことじゃ怖気づいたりしない」

 士郎は頼もしいことを言ってくれる。

 自分はなんと妹想いの兄を持ったのだろう。けれど、それは破滅へと続く道なのかもしれない。

 ネクロノミコン。狂気に彩られた魔導書。あらゆる魔術師が羨望し、忌避する至高の品。

 未熟ゆえに士郎は、躊躇なく、そして必要な準備も知らず、それに触れようとしているのだ。

 思案顔だった凛が口を開いた。

「グレート・オールド・ワンがいたところで逃げるだけの時間は稼げるでしょ。問題は…」

「発狂者が出る可能性があることね」

 イリヤは彼女の言葉を受け継いだ。

 宇宙的存在を見た人間は、それを理解しようとし、しかし理解できず、脳の容量がパンクし発狂することがあるという。イリヤ含め、ここにいる人間全員がアンリ・マユという一個の狂気に多かれ少なかれ関係したことがあるか、現在進行形でしているし、英霊はすでに生者ではないのだから、発狂という概念からは遠いところにあるだろう。しかし、クトゥルフ神話にはそのような常識は通用しない。

 発狂を完璧に抑える方法は存在しない。宇宙的存在の前ではどのような対策も無意味かもしれない。だが、準備できることは準備しておく必要がある。

「サクラ」

 イリヤの呼びかけに、桜の肩はぴくりと震える。

「何でしょう?」

「貴女、今でも聖杯とのパスはつながっているのよね?」

「…はい」

 桜の力は、もしかしたらいちばん厄介かもしれない。というか、桜そのものがもはや邪神だったとしても驚かない。

「サクラが発狂したら全滅ね。魔術師もサーヴァントもみんな仲良く虚数空間に取り込まれておしまいだもの」

 桜個人の魔力や術式だけであれば、イリヤがいればどうにか抑えが利くと思うが、聖杯とつながっているのであれば話は別だ。その膨大な魔力を背景にした力は、汚染の影響が濃い分、イリヤよりも莫大な力を発揮する。しかも、桜が持つ”虚数”属性と間桐の吸収の魔術との相性が良いのだ、あの汚染は。

「…そのあたりは大丈夫だと思います。間桐も傍から見たら狂った家系ですし」

 間桐の家の魔術は同じ魔術師から見ても、あまり快いものとは言えない。

「…そうね。サクラが発狂するような存在を目撃したら多分シロウもリンも発狂するか」

 そうしたらどうせ全滅だ。そのリスクはもはや受容するしかない。

 さて、誰がネクロノミコンの探索に行くべきか、とイリヤが考え始めたところで、凛が口を開く。

「桜とイリヤが行くことは決定ね。イリヤが行かないとお話にならないし、最悪、桜の力が必要になるかもしれないし」

 マキリの杯。間桐桜という人物はアンリ・マユと同一化できてしまう。イリヤは聖杯の器として完成されているから汚染の影響はないが、桜は不完全な聖杯だから、汚染の影響が濃いのだ。しかし、それゆえの膨大な力を行使すれば、難敵を退けることができるかもしれない。

「あと、私は絶対行くわよ」

 凛の強い言葉は、反駁を許さないものだった。

 冬木の管理人として、このような重大案件にはかかわらざるを得ない、という判断なのかもしれないし、単純に魔術師としての矜持なのかもしれない。いかに優秀な魔術師とはいえ、ただの人間である凛が行くことには気乗りしないが、しかし、彼女ほど自我が強ければ無残に狂うこともないという確信が持てる。

 あとは…。

「士郎。あんたは残りなさい」

 ぴしゃりとした凛の物言いに、士郎はむすっとした表情を浮かべた。

「なんでさ。俺だっていないよりはましだろう」

「あのね、話聞いてた?あんたはいちばん魔術師としての経験は浅い。つまり、狂う可能性が一番高いの」

「いや、俺だって…」

「その心配には及ばん、凛」

 今まで霊体化していたのか、忽然と現れたアーチャーが話に割り込んだ。

「どういうことよ」

「そこの未熟者は、しかし私という英霊がいるように、英霊になる可能性も秘めた器だ。正直、グレート・オールド・ワンごときでは狂うこともあるまい」

 じとっとした目で凛はアーチャーを見つめた。

「何を企んでいるのかしら」

「なに、客観的評価を下したまでだ」

 そういうと、アーチャーはまた霊体化する。

「とにかく、俺は誰が何と言おうと行くからな」

「はいはい、わかったわかった」

 凛はあきらめ顔だ。

「ところで、セイバーやライダーには何か意見ない?」

 凛が、先ほどから黙りこくっているサーヴァントに声をかける。

「いえ、私にはありません。シロウの剣となり、盾となるだけです」

「サクラが行くのであれば、私もお供します」

 殊勝なサーヴァントたちである。バーサーカーもきっと同じ思いでいてくれているだろうから、殊勝ではないのはきっと凛のアーチャーだけであろう。そのアーチャーだって、口では皮肉めいたことを言いつつも、きちんと付き合ってくれるのだから、いいサーヴァントに恵まれているといえる。

 ちなみに、バーサーカーはイリヤが死ねと命令すれば死んでくれるという確信がイリヤにはあった。もちろん、そんなひどいことはしないけれど、それだけバーサーカーのことを信頼している証である。

「出立はいつにしますか?」

「んー、いつにしよっか」

 桜の質問に、イリヤは唸る。

 龍洞にネクロノミコンがあるという話は、あくまでもキャスターの直感と、それがいちばん確率が高い、というだけのものだ。したがって、そこにない可能性も当然あり得るわけで、そうするとなると、あまり時間をかけるのもよろしくない。

「明日にしましょ。明日は日曜日だし。宝石を準備する時間も欲しいし。士郎たちもそれでいいでしょ?」

 イリヤを含め、並み居る面々は軽くうなずいた。



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ep7

 龍洞の中は光苔が生えているためか、視界を失うことはない。うすぼんやりとした緑色の光に包まれている。

 いや、これは本物の光苔ではないのだろうとイリヤは思いなおす。確か、セラが以前、光苔は自ら発光しているわけではないと話していたことを思い出したのだ。

 魔術で作り出された、光苔の亜種といったところだろう。人造人間(ホムンクルス)を作り出せるアインツベルンがこの奥にある大聖杯を作り出したのだ。道しるべとしてこれくらいの灯りを用意すること造作もないことだっただろう。

 四人の魔術師と四騎のサーヴァントは無言だった。ただ、神経を尖らせて歩みを進める。

 イリヤはもっぱら、空間にひずみがないかを精査しながら歩いていた、龍洞には大聖杯がある関係で、第五次聖杯戦争以降も何度か訪れたことがある。しかし、その時にはネクロノミコンなど、影も形もなかったのだ。だから、あるとすれば、それは魔術で巧妙に隠されているか、別の空間に魔術でつながっているか、そのくらいしか思いつかない。

「…そろそろ最深部、大聖杯に出るわ」

 凛のつぶやきは、小さな声だったのにも関わらず、洞の中を反響する。

 やはりネクロノミコンがあるとすれば最深部、大聖杯の眠る場所か―。イリヤはそう結論付けた。道中、何ら怪しいものを感じなかった。そもそも、そのような重要なアイテムの手掛かりが道中に転がっていては興醒めする。

 そもそも、キャスターの予言が的外れである可能性も十分に存在するが。

 ―視界が開けた。龍洞最深部、大聖杯の眠る地。

 大聖杯が起動していないときのこの場所は、静かなものであった。禍々しい感覚は全く存在せず、ただただうすぼんやりとした光に包まれた、空洞だった。

 からん、という音がした。杖のつく音だと認識するのには、一秒ほど時間が必要だった。

 誰かがいる。先客がいる。イリヤたちが身構え、空洞の奥へと視線をこらす。

 先客を認識したとき、桜が息をのむ気配が聞こえた。そう、そんなはずはない。彼がこんなところにいるはずがないのだ。

「若人たちよ、よく来たな…。儂らの思い出の土地へ。歓迎というよりも遺憾の気持ちのほうが強いがな」

 くつくつと笑うその老人は、間桐家の当主、間桐臓硯だった。

「お爺様…」

 桜は困惑しているようだった。しかし、きっとこの場を収められるのは彼女を置いて他にいないだろう。

「なんじゃ、桜」

「失礼ですが、お爺様はボケていたはずです」

 孫娘だとしても、失礼極まりない言葉すぎる。

「ほっほっほ。なんじゃ、そのことか。確かに儂は呆けておった。そのことに誤りはない。じゃが、それはあくまでも家庭円満のためじゃ」

 自分の末裔を容赦なく蟲蔵に放り込むような妖怪翁が家庭円満など言っても信用ないことこの上ないとイリヤは思う。それならば、アハト翁が家庭円満を言ったほうが、まだ説得力があるというものだ。

 まったく、魔術師というものは親としてはロクでもない者が多い。アハト翁は厳密には魔術師といえるのかは知らないけれど。

「間桐のパワーバランスは桜に傾いておる。慎二なんぞは小物じゃ。あいつはいてもいなくても桜の覇権を邪魔することはない。じゃが、儂は違う。儂が元気に間桐の中を指図していたら、いずれ桜と戦争していたかもしれん。ゆえに、家庭円満として、儂が呆けることにしたのじゃ。こうすることで、桜は間桐の実質的な当主としての地位を手に入れ、儂は安楽な地位を手にするはずじゃった」

 臓硯はぎろりとイリヤを睨んだ。

「アインツベルンの小娘がネクロノミコンの話題を持ち込まなければな」

 別にネクロノミコンがあろうがなかろうが、臓硯には関係ないだろうとイリヤは思う。というよりも、あればあったで、間桐にも管理権が存在するのだから、閲覧したければ閲覧すればいいし、興味がないのであれば関わらなければいいのだ。なぜそこで非難がましくにらまれなければならないのかがわからない。

「儂の精神が大切な時にも呆けていては困るからの。もとに戻るための方法を用意しておいたのじゃ。ネクロノミコンという単語は、自動的にそれを起動し、儂はこうして痴呆から帰還したのじゃよ」

「なによ、それでわたしに文句言うのは筋違いでしょ。呆けたければまた呆ければいいじゃない。これ以上なんか言うならバーサーカーけしかけちゃうよ?」

「ふん、アインツベルンの小娘よ。貴様は何もわかっとらん」

 馬鹿にするような口調に、イリヤは思わずバーサーカーで目の前の老人をひねりつぶした衝動にかられたが、目前にいる老人を攻撃したところで何ら意味がないから、ぐっと我慢した。

「儂はな、忠告しに来たのじゃ。桜、それに遠坂の小娘も、お主らがこの先に進むのはやめよ」

「…はい?」

 臓硯の言葉に反応したのは凛だった。

「何よそれ。百歩譲って桜に関しては孫娘可愛さに忠告しているとしましょう。なんで私も入ってんのよ」

「簡単じゃ。遠坂の血を引く者が見てはならぬものがこの奥の奥の奥底に、あるからじゃ。悪いことは言わん。お主ら二人は帰れ。アインツベルンと衛宮だけでも戦力としては十分じゃろうて」

 くつくつと臓硯は笑う。本当に充分だと思っているのか、単に揶揄しているのか、きっと揶揄しているのだろう。

 だが、それにしても、遠坂の地を引く者は足を踏み入れてはならない、ということがイリヤにはきにかかった。確かに、遠坂は古くからこの地に根付いた家系だ。それゆえになにがしかの制約でもあるのだろうか。

「…マキリ」

 イリヤが老人の名前を呼ぶ。

「なんじゃ」

「マキリはネクロノミコンを望まないの?」

「いいや、望むとも。アレは禁忌の魔術書。この冬木では聖杯の次に根源に近い存在じゃろう。アレを望まぬ魔術師などどこにおる」

「それならば、なぜ」

「簡単じゃ。桜が発狂すれば冬木全てが飲まれる。それは儂として望むことではない。そして、お主らがこの先を進み、ネクロノミコンへと到達しようとしたとき、必ずや桜が、そして遠坂の小娘も、発狂するじゃろう」

「詳しいことは言えないの?」

「言えぬ。古き約定でな。交わした者はすでに儂以外この世におらぬが、しかし約定は約定じゃ」

「そう」

 イリヤは凛と桜のほうを向き直った。

「二人は残りなさい。あのお爺さんは嘘はついていないはず。彼はここに大聖杯を作り上げた人物の一人で、彼の言葉は重い。そして、彼の中には確かにリンとサクラが発狂するという確信があって、同時に、わたしとシロウだけでもネクロノミコンを取ってこれるという希望があるんだと思う」

「そんな…ッ」

「うるさいわね、トオサカ。これはもとよりアインツベルンとエミヤの問題。トオサカとマキリの両家のご尽力には感謝するけど、これ以上は首を突っ込むなって言ってるの。安心なさい、無事ネクロノミコンを見つけた際には、約定通り四家で共同管理となすわ」

「そんなのだめです!」

 叫んだのは、桜だった。

「先輩も、イリヤさんも、危ないことをするんですよね?もう置いてけぼりは嫌なんです。私だって魔術師なんだから…」

「桜」

 たしなめるように名前を呼んだのは、臓硯だった。

「お主や遠坂の小娘にやるべきことがないとは誰も言っておらん。もとより、部外の―教会や魔術協会の介入を防ぐためにはここで二手に分かれる必要があるのじゃ」

「どういうことよ」

「遠坂の小娘は威勢がいいのう…。これから儂はネクロノミコンへと至る道を教えて進ぜよう。だが、それは道を開くということ。それは一方通行ではなく、当然双方向に行き来ができる。お主らがその道に入れるように、その奥に住まう化け物も道を通れるのじゃ。お主らは冬木に戻って、出てきた化け物を掃討しなければならぬ」

「それはつまり、サーヴァントだけを送り込むということもできないということね」

「そうじゃな。いかに魔術師といえど人間だけではさすがに荷が勝ちすぎるじゃろうて」

「…わかった」

 凛はうなずくと、桜に向き直る。

「そういうことらしいから、今回は妖怪爺の言うことを聞いておきましょう。私たちが行くと発狂するという真偽はともかく、どうせだれかこっちで動かなくちゃいけないみたいだし」

「姉さん…」

 桜はちらりとイリヤと士郎に視線を送ったが、やがて表情を引き締めてうなずいた。

「分かりました。お爺様に従います」

「それで安心じゃ。さて、それでは道の開け方を教えてやろう」

 かくしゃくとした動きで、臓硯は大聖杯の術式の、その真ん中に向かった。イリヤと士郎、それに二人のサーヴァントは、彼についていく。そして、二人の魔術師と二騎のサーヴァントが大聖杯の中央にたどり着いたところで、臓硯はその外見とは裏腹に、朗々とした声を上げた。

「汝門にして鍵。我は汝の扉を開かん。我は銀の鍵を持つもの。我は久遠の知識を探求せしもの。我は神々の副王の玉座へと至らんとするもの。汝我が道を開け。その理を此処に現せ。我はこの世の理を手に入れんとするものなり…!」

 ぼうっという音がして、空間に亀裂が走ったかと思うと、それが徐々に開いていく。そして、それは人一人が通れる大きさになった。

「元々は大聖杯を降臨させる儀式の際に、第二魔法の使い手、宝石翁ゼルレッチが間違ってつないでしまった空間よ。そのままパスを消すももったいないということで、つないだままにしておるのじゃ」

 詠唱を終えた臓硯は少し声を荒げながら、親切にも説明してくれた。

「さあ行け。あの世界にこちらの人間がいる限り、その亀裂は閉じん。退路は確保されておる。狂気と破壊の世界へと行くがよい」

 イリヤは士郎の顔を見た。彼はとっくに決意を固めており、ゆるぎない瞳で、一回だけ頷いた。彼の決意に安心して、イリヤはその亀裂に足を踏み入れた。

 -吸い込まれるようだった。

 



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ep8

 …気づけば、仄かに灯りがついている洞の中にいた。炎が揺らめくように影が揺らめくけれど、しかし、どこに松明が掲げられているというわけでもない。士郎とセイバー、それにバーサーカーも、突然放り込まれた空間の認識がまだ完全に追いついていないらしく、きょろきょろと辺りを見回していた。

「ここは…」

「…厄介な場所ね」

 イリヤは士郎の言葉を受け継いだ。

 禍々しいまでの生命の気配に充ちている。まるで聖杯が開きかけた時のよう。

 ここは平行世界などというなまやさしいものではない。ここは異世界だ。どこでもあり、どこでもない場所。冬木と繋がったのは、偶然であり、しかし必然だったのだろう。

 イリヤは目をこらえて視覚的に自分たちのいる空間を観察するとともに、魔術的に何かおかしなところがないかを探った。正体不明の仄かなあかりがあるほかは、大したことのない洞窟のようであった。ただ、一方向に道が伸びているようで、その先はいくつかに分岐しているらしい。

 魔術的に何かおかしなところがあるかというと、ないわけがない。そもそも龍洞の中よりもマナが満ち満ちている。あまりにもその濃度が濃いせいで、十分な探知はできそうにない。

「進みましょう、イリヤスフィール。もとより退路は見当たりませんし」

 そう、それこそが問題なのだ。

 セイバーの言う通り、冬木に戻るための空間の断絶が見当たらない。しかし、臓硯はあれを双方向の通路だと言っていた。彼が嘘をついているわけではなければ、別のところに帰るための道ができているのだろう。

「そうね。セイバー、一番前を歩いてくれないかしら?バーサーカー、あなたは一番後ろを守りなさい。それでいいかしら、シロウ?」

 これから何がいるのかわからない洞窟を歩くのだ。用心に越したことはない。

 バーサーカーであれば後ろから不意打ちされても一撃で死ぬことはない。正確に言うと彼の法具の影響で蘇ることができる。一方で、一番前を歩くのはやはり生粋の剣士であるセイバーであることが望ましい。

「セイバーに危険なことをやらせるのか…?」

 士郎は難色を示す。きっと、セイバーを危険な目に合わせるくらいなら自分も同じくらい危険に身をさらすとでもいうのだろう。彼の自己犠牲を顧みない精神は時に人を救うだろうが、今ここでは邪魔なだけだ。

「シロウ、わたしたちはネクロノミコンを手に入れたうえで全員が生きて帰る必要があるの。今アヴァロンを士郎が持っているのかセイバーが持っているのか、それをわたしは知らないわ。けれどね、いくら蘇生能力が強くても即死は死ぬの。それなら、シロウやわたしよりも危機回避に優れているセイバーに前を歩いてもらったほうが良いでしょ?」

「…すまん、イリヤの言う通りだ。つまらない意地を張るべきではないよな」

「まったくもう、しっかりしてよね、お兄ちゃん」

 これできっと大丈夫だ。士郎もむやみやたらと死地に飛び込んだりはしないだろう。

 何せ、彼はセイバーを守るためにバーサーカーの攻撃をその身に受けるような人物だ。目を離せばすぐに死地に飛び込みに行くと思われても仕方はあるまい。

 イリヤは自分の髪を一本だけ抜いて、地面に落とした。迷わないように、魔力の痕跡を残しておくためだ。ヘンゼルとグレーテルの童話にあるパンくずのようなものである。

「じゃ、進みましょう。進まないと、何も始まらないんだから」

 

 道は複雑に入り組んでいた。分岐したり合流したりということを繰り返し、何度か同じところに出てしまったこともある。

 不思議なほどに何にも遭わない。きっと何かがいるはずなのに。どこかで彼らのことを監視し、探っているのだろうか。

「一体この洞窟はどうなってんだ」

 士郎も変わり映えがしなく、しかし複雑で先が見通せない迷路のような洞窟に、少しいら立っているようだった。

 迷路。迷路?

 そう、まさしく迷路というのにふさわしい。行ったり来たりを繰り返しながら、だんだんと奥へ進むことができる。イリヤが来た道がわかるように痕跡を残していなければ、延々と同じところをさまよい続けていたかもしれない。

「何もいない。ですが、常に何か出てきそうで油断ができませんね」

 セイバーも若干気疲れのようなものが見える。気を張り続けるというのは困難なことなのである。

「じゃあちょっと休憩しましょうか。その間に使い魔にでも近くを探らせるわ」

 イリヤは適当な岩場に腰を掛けると、髪を二本抜いて使い魔の鳥を作った。

天使の詩(Engel Lied)。お行きなさい」

 白い鳥は羽ばたいて、闇に消えていく。

「…というか、最初からそれを使って道を確認すればよかったかもな」

「あらシロウ、この程度で疲れたの?」

「俺が、というよりもイリヤが、だよ」

 それに対してイリヤは反論できなかった。確かに、身体は丈夫ではないのだから。

 五分ほど休憩しただろうか、不意に使い魔からの連絡が途絶えた。

「…何かいる」

 顔をこわばらせて、イリヤは闇を見据える。

「…禍々しい気配を感じます」

 セイバーが見えない剣を構え、バーサーカーはイリヤを守るように前に出る。

投影開始(トレース・オン)

 士郎は干将・莫耶を投影する。

 何かが地を踏む音がする。それは地響きを立てるほど重たい音だった。

 闇の中からぬらりと姿を現したのは、青白く醜い、楕円形をした塊であった。その塊はバーサーカーよりもはるかに大きい。それに肉のない足が無数に生えている。赤く濁った瞳が無数に身体から浮き出ており、それが瞬きもせずイリヤたちを見つめる。

 背筋がぞっとする。あのような存在を見るべきではないと脳が警告する。しかし、その存在から目を離すことはできない。本能的に、あの巨大な蟲のような存在に恐怖を抱くと同時にそれから目を離すことが危険なことだとわかってしまう。

「あ、あ…」

 しかし、イリヤはそれに留まらない。彼の巨大なる蟲が何者か、わかってしまったのだ。

 本国のアインツベルンの城において、イリヤはクトゥルフ神話について少しばかり勉強したこともある。その時に、目の前の存在についての記述も読んだことがあったのだ。

 あれはグレート・オールド・ワン。苗床を探し回る迷路の神。

「犯される…」

 震えが止まらない。アレに出遭ってしまった人の末路を知っているから。

 脳内に何かが反響する。それは重苦しい声だった。イリヤの知らない言語で話されているはずなのに、その意味が分かってしまう。

 反射的にうなずきそうになる。もうこれ以上アレを見ていたくない。しかし、それに頷いたが最後、悲惨な末路を辿ってしまうのだ。

 轟音がする。怒声が聞こえる。きっと士郎たちが戦い始めたのだろう。参加しなければ。けれど、身体が動かない。まるで人形の中に意識を入れられてしまったみたいに動かない。

 あれは。あれは。アレは。

 到底人間では叶わないような恐ろしい存在なのだから。



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interlude1

 衛宮士郎はその存在を見てしまった。この世のものとは思えない醜悪な存在。原始的な恐怖を呼び起こしてくるような奇怪な存在。

 若干の吐き気を覚えたが、それは我慢できる程度のことだった。

「イリヤ…イリヤ?」

 隣の少女がかたかたと震えていることに気づいた。彼女はその存在をしっかりと見つめているが、しかし、震えているばかりで何もできないようだった。

 イリヤは何やらぶつぶつとつぶやいているようだった。小声で、しかも早口だから何を言っているのか聞き取れない。ありていに言えば錯乱しているようだった。

 あの恐ろしい存在を見て、身がすくんでしまったのだろう。それも仕方ないと思う。

「俺が守らなくちゃな」

 士郎は小さく決意を口にして、一歩前に出る。

 その時だった。

『汝我が下僕となれ。ならぬのであれば死ね』

 脳に反響するような重苦しい声。きっと目の前にいる存在から発せられているのだろう。

「お断りだ」

 士郎ははっきりと口にして返す。イリヤをここまで怯えさせている相手の言うことを聞くことなんてできない。

 途端、怪物がものすごい勢いで突進してくる。士郎たちを守るように、それを押しとどめたのはバーサーカーだった。

 バーサーカーは低い唸り声をあげる。さしもの巨漢も、それ以上の巨体の突進を防ぐのに、無傷というわけにはいかなかったのだろう。その表情は若干苦悶に歪んでいるようだった。

「シロウ!あなたは下がって!アレの攻撃を受けたら貴方ではひとたまりもありません!」

 セイバーは言うなり剣を構え怪物に飛び掛かる。彼女はその巨体を易々と切り裂くことに成功したように見えた。

「!?」

 セイバーは唖然としている。

 怪物の身体は弾力に富んでいた。セイバーの剣は怪物の身体を傷つけることなく跳ね返される。

 物理攻撃が効かないのか…?士郎はぞっとした。セイバーも、バーサーカーも、魔術師としての衛宮士郎も、皆物理的な攻撃が得意な面々だ。唯一魔術師らしい魔術師であるイリヤが錯乱している以上、希望はセイバーの約束された勝利の剣(エクスカリバー)以外にない。

 士郎は舌打ちをすると、偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)と弓を投影する。明鏡止水の心持でそれを構え、放つ。

 弓道場の的に当てるよりも簡単だ。相手は巨体で、決して外すことなどない。きっと弓道部の新入生でも百発百中だろう。

 確かにあたった。怪物の無数にある目の一つに刺さった。しかし、数秒ののち、放たれた剣は地に落ちて、怪物は委託も痒くもなさそうに、そして嘲笑うように士郎を見る。

 ああ、やはりこいつには物理攻撃は効かないのだ。士郎はそう確信した。

「セイバー」

 士郎の呼びかけに、セイバーは頷く。かつて、第四次聖杯戦争の折に大海魔をも一撃で打ち破ったとされるセイバーの宝具。あれをぶつけるしかないだろう。

 セイバーは無言で頷いた。彼女もやるべきことが分かっているようだった。

 あれを使うのは本当は最終手段だ。魔力の消費が激しいのだ。だが、出し惜しみして死んでしまったらどうしようもない。

 セイバーの持つ剣の刀身が徐々に顕わになる。彼女がそれを振り上げようとした、その時だった。

「Cthulhu mglw'nafh」

 地の底から聞こえてきたかのような不気味な声がしたかと思うと、漆黒の触手のようなものが無数に闇から生えて、怪物に襲い掛かる。触手は怪物の全身を巻き取ると、闇に引きずり込もうとした。怪物は抵抗しつつもずるずると闇の中に引っ張られていき、やがて見えなくなった。

「…あれは」

 バーサーカーを含め、三人がぽかんとしているところへ、かつかつと、人の歩く音が近づいてきた。

 再び戦闘の構えをしたところで、足音の正体が姿を現した。

「貴様は…」

 セイバーが呆然とする。

「可愛い深きもの(ディープ・ワン)かと思いましたか?しかし残念。第四次聖杯戦争のキャスター、ジル・ド・レェでございます」

 ぎょろりとした眼、魚のように平たい顔を持った、奇妙な男がニィと笑って、そこには立っていた。



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ep9

 …目が覚めると、目の前には心配そうにイリヤの顔をのぞき込む士郎の姿があった。士郎に膝枕をされているというか、あぐらをかいた士郎の膝の上に頭を乗せているような状態だった。

 混乱する頭をなんとか整理しながら身を起こす。グレート・オールド・ワンを目撃したところまでは覚えているのだが、それ以降のことはあまり覚えていない。

「お目覚めですかな?お嬢さん」

 聞き慣れぬ声がして、ビクッとイリヤははね起きる。

 半魚人のような人間がそこに立っていた。

「あなたは…」

 彼に見覚えがあった。正確に言うと、イリヤスフィールには見覚えがない。あのような奇怪な顔かたち、一度見たら忘れないだろう。

 だが、確かに既視感を覚える。なぜだろう、と首を傾げたとき、一つの答えが思い浮かんだ。

 これはイリヤ自身の記憶ではない。母親(アイリスフィール)の記憶だ。共に第三魔法の顕現者(ユスティーツァ)の後継として、その記憶を受け継いでいるのだ。

「第四次聖杯戦争のキャスターね」

「おや、私のことをご存じで。さすがは小聖杯といったところですかな」

 にたりと笑うキャスタージル・ド・レェにイリヤはぞくりとした。

 ジル・ド・レェは聖杯戦争史上最悪のサーヴァントだ。それは神秘の隠匿という魔術に関わる者の第一義を軽々と無視し、冬木に凶悪な邪神を呼んだからである。

 だが、彼は魔術師としての素質は低く、つまるところ聖杯戦争のカラクリを看破できるほどの力はない。魔女とまで謳われるキャスター、王女メディアとは違うのだ。

 それが、なぜ、イリヤが小聖杯だということがわかる?

「イリヤ、あいつはな、あの怪物から俺たちを助けてくれたんだ…、まぁどんな奴かということはセイバーから聞いてるけど」

 見れば、セイバーは見えない剣を構えたまま、ジル・ド・レェに対して警戒を解いていない。

「神話を破るには神話を用意しなければなりません」

 突然、ジル・ド・レェは歌うように語りだす。

「迷宮の神たるアイホートを退けるのも、神話が必要なのです。ジャンヌからは神話にも匹敵するような力を感じましたが、天にまします我らが主では、決して、決して、この洞窟の闇に巣くう神話には勝てないのです。ゆえに、私が少しだけ、クトゥルフの眷属を呼び出し助けた次第」

「だからセイバーはジャンヌ・ダルクじゃないって」

 あきれ果てたように士郎は口をはさむが、ジル・ド・レェにはまるで届いていない。

 彼と完全に意思疎通をするのはきっと無理なのだ。第四次聖杯戦争の裏側で行われていた連続殺人事件、その犯人はこのサーヴァントとそのマスターの仕業なのである。常人では計り知れない精神を抱いているのだろう。

「おおジャンヌ。あなたは気高く何度も裏切られてもなお神を信じる。しかし!我らが神は決して我らを愛さない。我らを罰しない。不条理こそが神であり、絶望こそが神の愛である。あなたはなぜそれをわかろうともせず、神々しいまでの力を使おうとするのか?」

 ジル・ド・レェは段々と早口になってくる。興奮していることが、傍目からもわかる。

「我らが聖処女よ、アイホートという邪神はあなたを汚すに相応しい。傲岸なる神はあなたから純潔をも奪おうとしたのです。それでもなおあなたは神を信じる。なぜ目を醒まさないのです。神は我ら人間を愚弄するのみで、導くことも、罰することもしないというのに」

 グレート・オールド・ワンの一柱、アイホート。さきほどまでイリヤたちが対面していた怪物はそう呼ばれている。

 あれは、下僕となることを了承した人間に、雛を植えるのだ。生殖行為の一環である。あのような身の毛がよだつような恐ろしい怪物の雛を孕まされると想像するだけで、イリヤは身震いしてしまう。

「外道、私はお前の高説を聞きたいわけではない」

「ええジャンヌ。大丈夫ですとも。いかにこの洞窟が禍々しい神の悪意に満ちていようとも、不肖ジル・ド・レェ、あなたをお守りすることが私の役目です」

「ちっ…」

 セイバーがいらいらしていることが手に取るようにわかる。まったく話が通じていないのだ。いらいらもしよう。

「…ところで、キャスター。あなたは何者なのかしら」

 イリヤは静かに問いかけた。

 ジル・ド・レェというサーヴァントは、何があってもここにいては、第四次聖杯戦争から十年たった冬木にはいてはならない存在なのだ。

 たとえ数多の平行世界を見ようとも。彼はこの場にいてはならない。

「と申しますと?」

「キャスタージル・ド・レェはね。第四次聖杯戦争で死ぬべき運命を背負っているの。聖杯を手にすることがなければ、当然のこと。聖杯を手にしこの世に受肉したとしても、あなたの存在を魔術協会と聖堂教会は決して許さないから。だから、アインツベルンの聖杯が再度問います。あなたは何者ですか?」

 ジル・ド・レェの肩が震え始める。くつくと笑っているようだった。

「何者!私は神を愛し、奇跡を目の当たりにし!そして奇跡をほかならぬ神の名によって汚された一個の篤信家であり瀆神家であるに過ぎません」

「聞き方を変えるわ。なぜここにいるのかしら」

「ふふふふふ、はははははは」

 ジル・ド・レェは狂ったように笑い始めた。傍から見ていて、狂気じみたその笑いは、精神を逆撫でする。見ていて不安になるような笑い声だ。

「さすがは小聖杯!よろしい。答えてあげましょう」

 先ほどの、躁鬱のような、感情の起伏の激しい声音ではなく、どちらかというと理知的で、落ち着いた声音であった。

「私自身はジャンヌにお目にかかりその蒙昧を啓くことがその目的ですが、ここにいられる理由はひとえにあなたを導くためです、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 イリヤは目線だけで、続けるように促した。

「根源はあなたが到達することを望んでいる。あなたがネクロノミコンを手にし、根源へ到達することを。英霊の座は根源の中にあります。その意味で、英霊は根源の僕でしかない。ゆえに、あなたがたを導くために、私が顕現したのです」

「そう。それなら話が早いわ。そんなものいらない。わたしは根源に到達するつもりはないし、ネクロノミコンもわたしとお兄ちゃんで手に入れるから」

 ジル・ド・レェは一瞬だけ寂しそうな顔をした。

「なぜ他人の助力を拒むのでしょうか」

「決まってる。わたしの幸せは、わたしとシロウで手に入れるべきものだから」

 きっぱりとイリヤは告げた。

 そう。イリヤの幸せはイリヤ自身と、イリヤにとって大切な人たちで掴むべきものだ。それは士郎であり、バーサーカーであり、セイバーであり、凛であり、桜であった。突然現れたサーヴァントや、根源の渦などといった、得体の知れないものの助けを借りる謂れはない。

「我が助力を拒むとおっしゃるのですね」

「ええ。それでもわたしは必ずネクロノミコンを手に入れるわ」

 そもそも、一度助けてもらったからといって、得体の知れないサーヴァントと道中一緒に行けるほどイリヤの肝は太くない。

「賢明な判断です。イリヤスフィール」

 セイバーは少し安心したように言った。キャスタージル・ド・レェと最も因縁があるのがセイバーだ。そして、彼女が外道と呼ぶような人物と行動を共にしたがるとは思えない。

「ふむ。それでは宜しい。邪神たちの巣食うこの洞窟を、どのように踏破するか、見物させて貰いましょう」

 ジル・ド・レェは霊体化しながらそう告げる。

「結局、あいつは何なんだ…」

士郎は疲れていそうだった。イリヤが気を失っている間にも、きっと彼はあのキャスターの相手をしていたのだろう。精神を消耗してしまうのも仕方ない。

「英霊化したシロウみたいなものでしょ」

「どういう意味だよイリヤ。アーチャーは気に食わないけどあいつほどへんてこじゃないぞ?」

「理想を抱き理想に裏切られひねくれた人という意味では同じよ」

 英霊エミヤは人類の救済という途方もない理想を抱き、死後もなおその理想を追い求め、それゆえに絶望したなれのはてだ。ジル・ド・レェという人物も、神という理想を抱き、戦場の少女にそれを見出し、神の名でその少女が殺され、絶望したのだ。その意味で、この2人は似ている。

「しかしシロウとキャスターではひねくれ方が違います。アーチャーは子供の虐殺のような外道をしていません」

「そうね、セイバー。でも、それは外から見た時の話であって、内面は変わらないわ。絶望をどう表現するかの問題でしかないのだから」

 悪行の限りを尽くし瀆神という形で絶望を示すか、世界の歯車となって奇跡のような瞬間…自身の殺害の可能性を待ち続けるか。

 キャスタージル・ド・レェの思惑というよりも、その後ろにあるものの方が重要だろう。彼は根源が彼を送ったと言った。根源というものに意志があるのかはイリヤにはわからないが、仮に根源が動くとして、イリヤの想定とは逆に動いていることが気にかかる。

 歴史には修正力がある。あまりに人類史、あるいは地球の歴史がおかしな方向にいかないように時に歴史は修正されるのだ。それは人類の滅亡を食い止めることであったり、根源への到達を邪魔することである。

 ネクロノミコンの入手は、あるいはそのレベルのことかもしれないと危惧していたが、むしろ逆にネクロノミコンを手に入れることを手伝い、あまつさえ、イリヤが根源に到達することを望むと言っている。ジル・ド・レェの狂言の可能性もあるが、それならば彼がなぜこの場にいるのかということが説明つかない。

深く考えるだけ無駄なのかもしれない。ひょっとすると、何者かの気まぐれの可能性もあるし。

「さて、進みましょう。ここにいても仕方ないし、またアイホートが帰ってきてこられても困るしね」



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ep10

 探索を再開したイリヤたちの前には相変わらず退屈な行路が待っていた。時折現れる、地上では見かけないような奇怪な蟲であるとか、人面鼠であるとか、あるいは二足歩行する蛇のようなものはいたが、それらは全てバーサーカーが捻り潰した。グレート・オールド・ワンレベルの化け物でも出てこない限り、サーヴァント二騎と魔術師二人という組み合わせはそうそう遅れをとることはない。

 初戦からアイホートなどというグレート・オールド・ワンが出てきてしまったのが良くなかったのだ。純潔を奪われる恐怖が先行してしまうため、イリヤからすれば苦手な存在であるし、物理的な攻撃はほとんど効かない。あれに対抗できるのはセイバーの宝具かマキリの杯としての桜くらいなものだろう。凛の魔力では少々分が悪いだろうし、彼女は彼女でイリヤと同じような状況に陥る可能性がある。

「しかし、妙なものばかり出てくるよな…」

 士郎は若干疲れた様子だった。常人であれば発狂してもおかしくないものを何度も立て続けに目撃しているわけで、げんなりしてしまうのも仕方がない。

「宇宙的なもの、超自然的なものが巣くう場所みたいだからね。シロウ、大丈夫?」

「大丈夫だ。俺だって魔術師だしな」

 きっとイリヤが心配しないように、内心の疲労を押し隠して士郎はにっと笑う。

 なんと妹想いの兄を持ったのだろう、と思う。あるいは、彼にとって、自分とは何の価値もないものなのかもしれないけれど。

 不意に、前を歩くセイバーが止まった。

「どうしたの、セイバー」

「いえ…、こちらに」

 士郎とイリヤが並んで、その後ろをバーサーカーが歩いて、セイバーの見た光景を目撃する。

 いつまでも続くかと思われた単調な洞窟は突然途切れた。開けた空間は、洞窟の中だというのに、あまりにも広い。薄緑色のぼんやりとした光に覆われ、奇怪な石の塊がにょきにょきといくつも生え林立している。

 あれは建物なのだろう、とイリヤは認識した。今も何か住んでいるのか、あるいはかつて栄華を誇った何者かが住んでいたのか、きっと後者だろう。何か高度な文明を持ったであろう存在が住んでいるにしては、静寂に包まれている。

「なんか看板みたいなものがあるぞ…なんだか分からないけど」

 士郎が石に書かれた何かを読み取ろうとして失敗する。

「見せて」

 イリヤは士郎の隣に立ってその石板を見る。見たことのない文字だった。現在の人類が使っている文字では決してないだろう。一瞬だけ躊躇したが、イリヤは魔力を乗せてその石板を読む。

「ハイパーボリア…」

 ほとんどがイリヤにとって意味が分からない音の羅列であった。しかし、たった一つだけ分かった音節は、イリヤにとって禍々しく聞こえる。

「ハイパーボリア?」

 士郎が首をかしげる。聞いたこともないのが当然だろう。魔術師の中でもその音節の意味を知っている者は少ない。あるいは、考古学者と呼ばれる人たちのほうが知っているかもしれない。

 知っているような考古学者はきっと、まっとうな考古学者ではないと思うけど。

「この石板はきっと地名を現しているわ。偉大なるハイパーボリアの都市、ナントカみたいなことが書いてある」

「地下都市ですか。しかし、ハイパーボリアとは一体…」

「世の中知らないほうがいいこともあるのよ、セイバー。まぁ簡単に説明すると、ハイパーボリアは人類以前に何個かの種が繁栄し滅びた大陸の名前ね」

 そして、クトゥルフ神話と密接に絡む大陸。多くの邪神が崇拝されていたという。中には、外なる神も巣くっていたという記述を見たことがある。

「…せっかくだからエイボンの書を探してもいいのだけど」

 必死で探せばエイボンの書の完全版も見つかるかもしれない。ネクロノミコンの完全版とともにハイパーボリアの言葉で書かれたエイボンの書を持ち帰って翻訳すれば、魔術協会は丁重にアインツベルンが協会に加わることを要請するだろう。おそらく、新たなロードとして遇するに違いない。それくらい価値のある本だった。

 もっとも、イリヤにはそのようなことは全く興味がないのだけれども。

 イリヤは名声欲といったものには無縁だった。根本的な行動原理は極めて単純で、快か不快かというところにある。それを、魔術師として、貴族の姫としてふさわしいように、理性で飾りつけたのだ。

「で、どうするんだ、イリヤ?しらみつぶしに探すか?」

「いえ。ネクロノミコンの成立は人類史上のもの。ハイパーボリアみたいな超古代文明の遺跡を探しても仕方ないわ」

 これが魔術書全般や魔術礼装としてつかえそうなものを探すということであれば、目の前に広がるのは宝の山だ。だが、同時にどのような危険が潜んでいるかも分からない遺跡である。寄り道は避けるべきだろう。

「調査するとしたら、また後日ね」

 イリヤは言うなり髪を四本抜いて、銀色に輝く小鳥を四羽生み出す。

「道を探してちょうだい」

 銀色の小鳥は四方へと飛び去って行く。

「便利だよなぁ、その魔術」

「あら、シロウも修行すればすぐに使えるようになるわよ。お姉ちゃんが教えてあげようかしら」

「はは、戻ったら頼む」

「そういえば、イリヤスフィールは誰に習ったのですか?」

 セイバーが尋ねる。

「アイリスフィールも同じような魔術を使っていたと記憶しています」

「そっか。セイバーはお母様を知ってるのよね…」

 イリヤはふと遠い目をする。母親そのものは遠い日の記憶にしか存在していない。けれど、そのあとも母親という概念は常に自分の傍にいてくれた。本国のアインツベルンの城を出るその時まで。

「この魔術はユスティーツァ様から続くアインツベルンの魔術なの。髪は女の命って言うでしょ?髪には魔力が宿る。わたしたちアインツベルンの娘はそれを自在に使えるの」

 ふぅ、とイリヤはため息をつく。アインツベルンの歴史を考えるたびに、その重みを感じてしまう。妄執じみたアインツベルンの悲願、第三魔法の顕現という祈りはイリヤには少し重いものだった。

 そういえば、アインツベルンといえば。イリヤは聞こうと思っていて、まだ聞いていないことがあることを思い出した。

「質問されたついでに質問を返すんだけど、シロウはどうやってお爺様の協力を引き出したの?ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンに情を求めるのは不可能だと思うのだけど」

 士郎は考えるように押し黙った。そして、やがて、ぽつりと口を開く。

「それをイリヤに話すと、イリヤを縛り付けてしまうことになる」

 それで、悟った。アハト翁は士郎に対して、何らかの情報の対価を要求したのだ。

「話して、シロウ。弟だけに何かを背負わせるのはお姉ちゃん失格なんだから」

 士郎は唇をかんだ。本来話すべきではないと彼は考えているのだろう。だが、一方で、イリヤはその話を聞くことを渇望しているのだ。

「…シロウ。差し出がましいですが、どのみちイリヤスフィールも知ることになるのです。それならば、もう話してしまってもよいのでは?」

「…そうだな、セイバーの言う通りだ」

 士郎は深く息を吐く。

「イリヤ、これから話すことはイリヤが眠っている間のこと。ギルガメッシュに言われてドイツに旅立った後の話だ」

 そして、彼はぽつりぽつりと話し始めた。



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interlude2

 ドイツ本国のアインツベルン城は常冬だった。吹雪に閉ざされた、おとぎ話の中のお城みたいで、そう思えばロマンチックを感じる。

 アインツベルンの森を歩いているのは、衛宮士郎という未熟な魔術師と、そのサーヴァント、セイバーである。常冬の城へ向かうのは、姫君を助けるためだと言えばまさにおとぎ話であるが、実態としては、人間と呼べるか怪しい老翁に殴り込みにいくのだ。あまりにも華がない話である。

 遠坂凛や間桐桜といった魔術師たちはドイツに来ることは叶わなかった。冬木の聖杯戦争の御三家が戦争を起こすわけにはいかない、という凛の判断だった。遠坂や間桐、アインツベルンが問題を起こした場合、冬木に対して魔術協会が介入してくるだろう。それを凛は避けたかったのだ。

 凛のサーヴァントであるアーチャーはドイツに行きたがっている節があったが、凛がそれを押しとどめた。なぜなら、凛の使い魔は外から見れば凛と同じ。彼がどのような想いを抱いていたとしても、アインツベルンの城に殴り込みに行くことはできないのだ。

「代わりと言ってはなんだが」

 旅立ちの前に、アーチャーはそう言って、士郎の左腕を撫でたかと思うと、人差し指と中指を突き立てる。

「ッ…。何するんだよ」

「なに、魔術回路をより効率的に使えるようにチューニングしてやっただけだ」

 そっとアーチャーは目を閉じた。

「…イリヤを頼む」

「任せておけ」

 アーチャーがイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという存在をどのように思っているのか、士郎にはわからない。けれど、士郎にとっても、あるいはきっとかつてのアーチャーにとっても、妖精のようなあの少女は、家族というのにふさわしい存在だった。それは、大河や桜を家族と呼ぶのとはまた少しニュアンスが異なる。出会いが殺戮だったとしても、イリヤは士郎の姉妹なのだ。

 …そのようなことを思い出しながら、士郎は目の前の巨大な西洋の城に相対する。あれがアインツベルン城。千年以上を閲する魔術の貴族の本拠地で、今なお第三魔法を通じて影響力を保持する、錬金術の大家。

「行くか、セイバー」

 干将・莫耶の宝剣を両手に持って、士郎は自らのサーヴァントに声をかける。

「行きましょう、シロウ。孫娘の危機です。あの翁にも手を貸してもらいましょう」

 不敵に笑って、セイバーは魔力を鎧う。

 一歩一歩、踏みしめるように雪の上を歩いた。足跡は、すぐに降り注ぐ雪にかき消されていく。

「待ってろよ、イリヤ…」

 士郎は口の中で、大切な人の名前を呼んだ。

 

「エミヤシロウ様、そしてその従者のセイバー様でございますね?お待ちしておりました」

 アインツベルンの城にたどり着いた士郎たちは、きっと魔術の攻撃を受けるだろうと思っていたのに、事態は真逆に進んでおり、あっけに取られていた。

 セラによく似た、しかし、彼女と比べて目が虚ろなホムンクルスが丁重に士郎たちを出迎えた。

「アハト翁がお待ちです。どうぞこちらへ」

 士郎はセイバーと顔を合わせる。まったく予想もしていなかった展開だ。

「罠だと思うか?」

 士郎は小声でセイバーに尋ねる。

「罠だとしてもついていくしかないでしょう」

 セイバーの言葉に、士郎は頷いた。彼女の言う通りで、向こうに敵対心が見えない以上、ここで暴れるわけにもいかないのだ。別に暴れるために来たわけではなく、話し合いで済むのであればそれでよい。

 連れていかれたのは礼拝堂のようなところであった。扉を閉じると、士郎たちを連れてきたホムンクルスのメイドはどこぞへといなくなってしまった。

 礼拝堂の中央、神父が説教するところには、真っ白な衣に身を包んだ老翁が立っていた。その雰囲気は神々しいとまで言えるほどで、ただならぬ気配を感じる。

「よくぞ参られた。エミヤキリツグの息子、エミヤシロウ、及びセイバーアルトリア・ペンドラゴンよ」

 老翁は厳かに言葉を紡ぐ。士郎は思わず気を飲まれそうになる。

「私がアインツベルンの当主、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。現在いるすべてのアインツベルンの父にして祖。第三魔法を求めるものだ」

 目の間にいる翁は決して人ではない。魔術で作られた、いわばゴーレムのようなものだと言われている。彼はその八代目で、ゆえにドイツ語で八を意味するアハト翁と呼ばれている。彼の目的は単純で、アインツベルンの彼岸、すなわち第三魔法を達成することだ。

 しかし、それを踏まえてなお、士郎は思わず物怖じしてしまいそうになる。アハト翁は長い時を閲してきた威厳のようなものをまとっている。それは、若輩の士郎には決して抗しやすいものではない。

「俺が何者かわかっているなら、俺たちが何で来たかもわかっているな」

「無論。我が娘、イリヤスフィールの件であろう。アインツベルンの最高傑作、しかし、同時に失敗作…」

 士郎は腹が立った。イリヤは一人の少女で、士郎の家族だ。それを失敗作と決めつける目の前の翁に対して、言ってやりたいことはごまんとある。しかし、今は交渉の場だ。感情に任せて行動すべきではないと自らに言い聞かせる。

「分かっているなら教えてくれ。どうやったらイリヤは長生きできるんだ?」

「そもそも設計思想として、彼女は長生きできるようには作られていない。それは肉体の構造の問題だ。多すぎる魔力は肉体を滅ぼす」

 アハト翁は無感動に言葉をつなぐ。

「このままではアインツベルンの悲願は達成されえぬ。なれば私も、イリヤスフィールも、すべてのアインツベルンは存在価値を失う。なれば、長生きなどどうして必要だろうか?アインツベルンは滅びの時を迎えるのだ」

 淡々と言うアハト翁に、いい加減腹が立って、士郎が何か言い返そうとしたその時だった。

「翁よ!あなたは間違っている!」

 大声でそう告げたのは、騎士王だった。彼女は高らかに、咆哮するように、言葉を紡ぎだす。

「私の知っているアインツベルンは第三魔法のための道具ではない!アイリスフィールはその短い人生を、愛する人共に必死に生きた!そして、その人のために彼女の持てる全てを奉げた!素晴らしい生命の讃歌だ!イリヤスフィールも、その生命の瞬きは燃え上がる炎のようで、今を必死に楽しく生きている。それを、それを、たかが第三魔法ごときで否定するのか!?」

「たかがとは痴れ者が。思い上がるな騎士王」

 激昂するせいばーとは対照的に、アハト翁は静かだった。

「我らアインツベルンは二千年もの間、第三魔法を再現することにすべてを注いできた。我らの思想が正しいことを証明するため、遠い過去にいたアインツベルンの師を慕うがために、我らはこの営為を続けてきたのだ。我らにはもうこれしか残されていない。すべてのアインツベルンは第三魔法のために生まれ、そして死んでいった。我らのその営為をたかが、だと?驕りも甚だしい。アインツベルンの存在意義はただ一つ。第三魔法の再現のみだ」

 静かな中に、アハト翁は怒りを潜めていた。セイバーの言葉は、二千年にもわたるアインツベルンの営為を丸々と否定するものだった。そして、それはアハト翁は決して許せなかったに違いない。

「多くの魔術師が第三魔法の再現という悲願の前に死んだ。多くのホムンクルスがそのための犠牲になった。それを軽々しく否定するな。我らの生きざまは我らが決める。王といえど口をはさんでよいことではない」

「そうだとしても!それをイリヤスフィールに押し付けるなと言っているのだ、翁よ。第三魔法を追い求めるにせよ、諦めるにせよ、それは私の預かり知るところではない。だが、どちらにせよ、イリヤスフィールが生きる道くらいは示してよいのではないか。彼女から父と母を奪い、生きる楽しみの代わりに人を憎むことを教えた、せめてもの贖罪を行うべきではないのか」

「ふん、実直な騎士王と話しても話にならん」

 小ばかにするようにアハト翁は鼻を鳴らすと、士郎の方に向き直る。

「エミヤシロウよ、お前の父親は冷徹であるが道理を弁えたな男であった。お主はどうかな」

「…イリヤを助けたい。そのための代償はなんだ」

「騎士王とは異なり道理を弁えておるようだ。覚えておけ、ブリテンの王よ。高説を語り理想を示すだけでは人はついてこない。何かを要求するときには、等価交換が世の原則なのだ」

 セイバーは何も答えない。経過はどうであれ、アハト翁がやっとイリヤを助ける気になったと思ったのだろう。下手に何か言ってアハト翁の機嫌を損ねるよりは、礼儀正しく沈黙を通したほうが良いと思ったに違いない。

「我らアインツベルンがお主に臨むのはただ一つ。エミヤシロウよ、イリヤスフィールとともに第三魔法を目指すがよい」

「第三魔法を目指す…?」

「そうだ。共に第三魔法を手にすべく歩め。イリヤスフィールの代で叶わぬことなのであれば、その祈りを次代へ繋げ。それがアインツベルンの望み。我らが悲願を達成するとしたら、固有結界を持ち、英霊となる可能性をも秘めたお主がイリヤスフィールと共に歩む以外他にない」

 感情が浮かばない、能面のような翁の顔に、ほんの少しだけ、何らかの感情が浮かんだような気がした。それは、いったい何だったのだろう、と士郎は思う。

 彼は本当に第三魔法だけを望んでいるのだろうか。そんな疑問がふと士郎の頭に浮かぶ。

「拒否したくば拒否すればよい。その時にはたとえここでアインツベルンが滅びるとしても、決してイリヤスフィールの救済の方法は教えぬ。元より、お主がそのような生半可な覚悟でここに来たのだとしたら…あれは何があろうと救済されぬ」

 イリヤスフィールの救済。そうだ、士郎はそのために、わざわざこの雪深い城にまでたどり着いたのだ。

「…わかった。約束しよう。俺はイリヤと共に第三魔法を目指そう」

「その言葉は血よりも重い。盟約を違えることは決して許さぬ。それでも良いな?」

 士郎はこくりと頷く。

 アハト翁は満足げに両腕を広げた。

「アインツベルンの悲願への望みはここにつながれた。我らもその誠意に対し、誠意をもって答えよう。イリヤスフィールの救済の鍵は冬木にある」

「冬木に?」

「そうだ。冬木のいずくかに眠る死者の書(ネクロノミコン)。そのオリジナルに限りなく近い完全版。それを手に入れることがイリヤスフィールの真の救済につながる…。だが、イリヤスフィールの身体がそれを手に入れるのに間に合わぬその時は、我らアインツベルンは仮初めの救済を用意しよう」

 老翁はそこで言葉を区切る。

「新たな身体を用意しておく。そこに意識を移し替えれば、いったんは問題を先送りすることができよう」

「ネクロノミコン…」

 士郎は小さな声でつぶやく。聞いたことのないその音の並びは、どこか禍々しいものに感じた。

「道は険しいだろう。だが、受難が厳しければ厳しいほど、その祈りは大きく花開くのだ」

 アハト翁の声は託宣のように礼拝堂の中に響き渡った。



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ep11

 第三魔法の再現という、アインツベルンの二千年にも渡る奇跡への祈り。その重い鎖は衛宮士郎という、アインツベルンとはほとんど何も関係のない少年に託されてしまったのだ。

 イリヤにとって、それは重い代償だった。魔法を求めるなんて、基本的にはろくでもないものだ。衛宮士郎という人物はどこにでもいるというと語弊があるが、本来平凡な魔術師未満の存在だ。それが聖杯戦争に巻き込まれてしまうという不幸と、養父からの悪縁によって、たまたま自身の完成形である英霊エミヤに出遭ってしまった。それゆえに、平凡から大きくかけ離れた魔術師になってしまったことが、最終的に彼の運の尽きなのだろう。

 いくらアインツベルンと衛宮が一時的にとはいえ姻戚関係にあり、イリヤスフィールはその証だったとはいえ、士郎はアインツベルンとは本来全く関係のない少年に過ぎないのだから。二千年にも渡る、怨嗟のような願いを引き継ぐのは、酷というものだった。

 それなのに。

「そんな顔するなって、イリヤ。俺はとっくに覚悟はできているから」

 そんな笑顔で頭を撫でないでほしい。

「シロウは何もわかってない。第三魔法の再現なんて、いくらシロウが固有結界を持っていても、そんなのどだい無理なのよ。それこそ根源に到達するような奇跡でもないとだめなの」

「イリヤ。奇跡を願うのは俺のためでもあるんだ。誰もが幸せになれる世界、それにはきっと、奇跡が必要なんだと思う」

 そう言った士郎の表情に、微妙な揺らぎがあったことを、イリヤは見逃さなかった。彼はきっと何かを隠している。確かに、彼の言う通り、奇跡を追い求めるのは自身のためでもあるのだろう。ユスティーツァが聖杯戦争にかけた祈りは、士郎のそれと酷似している。人の身でありながら、人の分際を超えた祈り。士郎がその祈りに自分の祈りを重ねるのは当然のことなのかもしれない。

 だが、士郎が心に抱いているものは、それだけではなさそうだ。

「シロウ」

 イリヤは士郎の手を取り、両手で包んだ。

「なんだ?」

「ありがとう、わたしのために」

 今更何を言っても、過去は覆らない。士郎は自分の選択で、イリヤスフィールとアインツベルンのためにその身を捧げると誓ったのだ。今のイリヤにできることはそれを否定することではなくて、それに感謝を捧げることだった。

 なんと無力なのだろう。自分の弟が道を踏み外そうとしているのに、それを止めることができないなんて。

「俺はイリヤの兄貴だからな、当然だ」

 士郎は優しく微笑んだ。

 

 ハイパーボリアという超古代の廃墟は静寂を保っていた。かつてどのような人たちが―人であるのかは分からないが―住んでいたのだろうとイリヤは考える。超古代の文明のことを記述した魔術書というのはあまり多くはない。だが、その多くは、彼らが高度な文明を持っていたことや、魔術、なかんずくクトゥルフ神話の造詣が深かったことを示している。

 ゆえに、ハイパーボリアなどの超古代の文明に潜るという幸運に接したのであれば、宝漁り(スカベンジャー)をするのが普通だといえた。古代の叡智や魔術礼装のようなものを手に入れることができれば、魔術師としてより高みを目指せるかもしれないし、自分の魔術系統に応用できない類のものでも、他の魔術師との良い交渉材料になりうる。

 だが、今のイリヤにはそのようなことをする余裕はない。使い魔のうちの一羽がついに洞窟の続きを見つけたようで、そちらに向かう必要があるのだ。

 そもそも、グレート・オールド・ワンがさまよっているようなところだ。ひとところに長居するのはあまり得策ではない。

「しかし、不気味なほど生命の気配がしませんね」

 セイバーが歩きながらぽつりと呟く。

 彼女の言う通り、この遺跡からは鼠一匹現れない。洞窟の中には人面鼠やら蛇人間やら、猟奇的な存在が湧くように出てきたというのに。

「多分、空間がちぐはぐにつながっているのだと思う。迷宮の神アイホートもハイパーボリアにいたなんてことは聞いたことないし。冬木とこの洞窟が不思議とつながっていたように、位置座標的には不連続なものが連続してるのよ」

 要は何でもありの空間になってしまっているということだ。それこそ、いきなり宇宙に放り出されるということもあるかもしれない。

「しっかし、どんな人が住んでたんだろうな」

 一方で、士郎は能天気な声を出していた。あるいは、わざとそのようにふるまっているのかもしれない。真面目なだけでは疲れてしまうのはその通りで、ガス抜きは必要である。

「ハイパーボリアに最後に住んでいたハイパーボリア人って人たちは魔術に優れていたそうよ」

「へぇ」

 科学全盛の今の世の中では魔術はどうしても廃れてきてしまう。だが、ハイパーボリア人と呼ばれる人たちは、魔術のみならず、科学にも優れていたという。あるいは、神秘の隠匿に基づくいまの魔術とはまた異なる思想体系であったのかもしれない。

 ネクロノミコンが無事手に入ったら、この廃墟を探索するのも面白いかもしれない、とイリヤは思った。きっと珍しいものが手に入ることだろう。

 

 …しばらくして、ハイパーボリアの都市を抜けた。洞窟を奥へ、奥へと潜っていく。いくつかの分岐を超え、たどり着いた先は。

 

 燦々と煌く太陽、美しく透き通った青い海。

 まるで天国のような場所だった。



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ep12

 イリヤは言葉を失っていた。陰鬱な洞窟から地上に上がってもいないのに燦々たる太陽、それに煌き輝く海が目の前に広がっている。

 これは偽りの天国だ。イリヤはそう直感を抱いた。これが本物のわけがない。なぜならば、あまりにも目の前の光景が美しすぎる。現実のはずがなかった。

「これは一体…」

 呻くように士郎がつぶやく。見れば、ふらふらと、海に近づいているようだった。あのおぼつかない足取りを見れば、それはきっと無意識にやっていることだということが分かる。

「シロウ、動いちゃダメ」

 イリヤは鋭く士郎を制止した。それで、彼もはっと意識が戻ったらしい。ぴたりと足が止まる。

「この空間が何なのか見定める必要があるわ。バーサーカー!」

 イリヤの呼びかけに応じて、バーサーカーは咆哮を上げる。どすんどすんと、地を震わしながら一行の前に出て、大きく石斧を振り上げた。

 地響きと共に地面が揺れる。勢いよく、バーサーカーが石斧を地面に叩きつけたのだ。舞い上がる砂ぼこりは一時的にイリヤたちの視界を奪った。

「けほっけほっ」

 舞い上がる砂ぼこりが晴れる。そこには、陰鬱な洞窟が広がっていた。燦々とした太陽も、煌く海も、全て偽りのように消え去っていた。

「あれは一体何だったのでしょうか。幻覚なんて生易しいものではない。もっとひどいもののように思えます」

「一種の精神汚染ね。偽りの天国を撒き餌に狩りでもしているものがいるのかしら」

 進むべきか、退くべきか、イリヤが判断を躊躇していると。

「…なんか悲鳴が聞こえないか」

 士郎の言葉に、イリヤは耳を澄ませた。確かに、この奥から悲鳴のようなものが木霊している。

「助けに行こう」

 士郎は今にも走り出していきそうだ。

 イリヤは舌打ちをすると、髪の毛を数本抜いて、横に払う。銀色の細い糸が士郎の身体にぐるぐると巻き付いた。

「何するんだ、イリヤ」

「予防よ予防。勝手に行かれたら困るもの。まったく、わたしがはげちゃったらどうしてくれるのよ」

「シロウ、この洞窟に普通の人間がいるとは思えません。この奥にいるものが何者であれ、それは迂闊に近づいてよい存在ではない」

「…セイバーの言う通りだ。イリヤ、勝手に行かないからほどいてくれないか?」

 イリヤはため息をつくと、手に持った銀色の細い糸を軽く振った。それで、士郎の拘束も解かれていく。

「さて、それじゃあお決まりの偵察でもしましょうか」

 イリヤは銀色の小鳥を二羽作り出して洞窟の奥へと放った。

「ちょっと使い魔と視覚を共有するから静かにしててね」

 イリヤは目を閉じて、二羽の小鳥が見ているものを直接見る。

 仄かな灯りが延々と続く洞窟を滑空していく。奥にうすぼんやりと、鈍く銀に光るどろどろとした物体がぼんやりと見えた。そこから、小さなモンスターのようなものが生まれたかと思うと、本体から離れる前に銀色の物体から出た触手に絡めとられて捕食されていく。それを延々と続けていく物体だった。

 あれは…。

 不意に吐き気を覚えて、イリヤは使い魔との視覚共有を遮断する。

「大丈夫か、イリヤ」

 突然うずくまったイリヤの背中を士郎がさすった。

「この奥に行ってもいいことはないわ…引き返しましょう」

 よろよろとしながら立ち上がると、来た道を引き返そうとした。

「イリヤスフィール、いったい何を見たのですか…?」

 セイバーが心配そうに尋ねた。

「…アブホース。外なる神。決して人間が触れてはならない存在よ。捕食されるか精神が汚染されるか、碌でもない未来が待っていることには変わりないのだから」

 

 外なる神との邂逅という事象について、イリヤは想定をしていなかった。今回は幸いにして、邂逅未満で離脱することができたが、あのままふらふらと洞窟の奥へ進んでいたら、どうなっていたか分からない。

 グレート・オールド・ワンレベルの怪物であれば、遭遇することも視野に入っていた。それくらいであれば、狂気に取りつかれなければ、どうにか生き残れる自信はイリヤにはあったのだ。しかし、外なる神のレベルになると、人間の手に負えるレベルではない。

 とはいえ、ネクロノミコン、その完全版を手に入れようという試みこそが無謀なものだ。それに対する試練には、それ相応のものが必要になるだろう。

「しっかし、どこまで進んだか、どれくらい進んだか、ということが分からないのはきついな。地理的にも、時間的にも」

 士郎はため息をついた。ため息をつきたくなる気持ちも十分わかる。

 この洞窟に潜ってからというもの、当然洞窟の構造が分からないから地理的に自分たちがどこにいるのか、ということも分からないし、それどころか時間感覚もくるってきている。体内時計が機能していないのだ。だから、お腹が空くといった生理的な欲求も遮断されている。

「いくら気に食わないとはいえ、キャスターに道案内を頼むべきだったかもしれませんね…」

 セイバーさえも、弱音を吐き始めている。人は終わりの見えない営為こそ最も精神的にきつく感じてしまうのだ。

「大丈夫、大丈夫よ。確かにわたしたちはネクロノミコンに近づいてる…と思う」

 イリヤはしかし、妙な確信を抱いていた。自分たちが通っている道に誤りはない。否、どの道を通っても行き着く先は同じだという。どの分岐をどのように進んでも、展開は同じなのではないかという疑念があった。

 この洞窟は自然にできてものでは到底ないであろう。自然にできたものが都合よくハイパーボリアの遺跡につながっているはずがない。何者かが悪意を持って作り上げたダンジョンなのだ。

 そうすると、行き着く先であるところのネクロノミコンには、どのようなルートを辿ってもたどり着くことができるし、ひょっとするとどこをどう行っても同じ光景を目撃するかもしれない。

 …そのまましばらく歩き続けると、大きな断崖が行く手を阻んだ。恐る恐る下をのぞき込んでみたが、到底底が見えるようなものではない。

「どうやって下りればいいんだ…」

 士郎は辟易としたように呟いた。

「あら、簡単よ」

 イリヤは髪の毛を二本抜いた。

「これをこう組み合わせてっと…」

 しゅるしゅると銀色の二本の糸が組み合わさっていき、大きな一羽の鳥になった。銀色の鳥は、優に三人は乗ることができるだろう。

「バーサーカー」

 バーサーカーは低く唸ると、霊体化していく。さすがに、あの巨体をこの鳥に乗せるというのは酷な話である。

「さ、乗ってお兄ちゃん、それにセイバー。この子が連れてってくれるよ」

 

 大きな銀色の鳥に乗って、底へ底へと沈んでいく。歌うような鳥の鳴き声は、洞窟内に反響し響き渡る。天への祈りに似たその鳴き声は、この地に住まう良からぬものを遠ざけてくれるようにも思える。

「イリヤはすごいな」

 士郎がイリヤの頭を撫でる。

「そんなことないよ」

 イリヤはえへへ、と笑いながらも士郎の言葉を否定した。

 聖杯の器として生まれたイリヤにとって、この程度のことはすごいことでもなんでもない。もし、彼女が自分のことをすごいと思えるとすれば、それは第三魔法の再現に成功したときであろう。

 これが大空を旅しているのであればよいのに、とイリヤは思う。セイバーは邪魔だが、士郎と二人きりで銀色の鳥に乗って大空を旅することができればどんなに良いであろう。

 …五分もしない内に、大鳥は谷底へとたどり着いた。三人が鳥から降りると、しゅるしゅると元の銀色の糸へと戻っていく。

「あれは…」

 セイバーが指さした先には、鉄の扉があった。殺風景な鉄の扉。だが、今まで見てきたものと比べると、明らかに異様である。

「あの扉を、開けましょう」

 イリヤの言葉に、セイバーは頷いた。

「バーサーカー」

 イリヤが声をかけると、バーサーカーが顕界する。それを見届けて、セイバーはそっとその扉に手をかけた。

 ぎぎぎぎ、という音がして、ゆっくりと扉が開かれていった。



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ep13

 開かれた扉の先には、玉座に座るヒキガエルがいた。正確に言うと、顔がまるでヒキガエルのようだった、ぎょろぎょろとした目からは燐光が漏れ出ているかのようで、不気味である。胴体は毛深く、でっぷりと太っていた。

 あれは、イリヤの記憶が正しければグレート・オールド・ワンの一柱。グレート・オールド・ワンの中ではまだましな部類であるといわれる。

 イリヤはつかつかとその化け物の前に歩み出ると、スカートの両端を掴んで、優雅にお辞儀をした。

「お初にお目にかかります。グレート・オールド・ワン、ツァトゥグァ様」

「我を知っているのか、小娘」

 くつくつと笑いながら、怪物は答える。

 軽く後ろに手を振ることで、手出しは無用ということを士郎たちに伝える。士郎もバーサーカーもセイバーも、ツァトゥグァに注意を向けながらも、一見して平静を装っているようだった。

「汝らにとって幸いなことに、我は今腹が空いていない。もっとも、空いていたところで手出しはできんのだがなぁ」

 ツァトゥグァと邂逅したときに重要なのは、彼の神の腹具合である。腹が減っていれば、容赦なく喰われてしまうが、腹が満ち足りていれば、比較的話が通じる相手として知れ渡っていた。

 さて、どのようにこの神と対峙すれば情報を引き出せるだろうか。同時に、この神を怒らせないように細心の注意を払わなければいけない。今の戦力であれば、戦って負けることはないだろうが、退散させるまでにかなり消耗することは間違いない。

「わたくしどもに手出しができない、とは?」

「汝らがこの洞窟に侵入してしばらくしてから、お触れが回ったのだ。汝らに手を出してはならん、というな。本能で動いている迷宮の神やそういうことに頓着しない外なる神は無視したようであるがなぁ」

 くっくっくっとツァトゥグァは嗤う。

 グレート・オールド・ワンをも従わざるを得ない相手というのはそう多くはない。ひょっとすると、片手で足りてしまうかもしれない。そのような者の庇護を、イリヤは受けた覚えはないし、士郎にしても同様だろう。

 それと同時に、道中に目立った敵は迷宮の神アイホートくらいしかいなかった理由に納得した。アブホースはたまたま遭遇しただけで、運が悪かったとしか言えないだろう。

 そういえば、とイリヤは思い出す。ツァトゥグァといえば、信者に対してはそれなりに気前よく助けたり、魔術の知識を分け与えたりするということを聞いたことがあった。イリヤはツァトゥグァの信者ではないが、彼女たちの庇護命令がどこからか出ている状況を考えると、簡単な情報を教えてくれるかもしれない。

「…わたくしどもはネクロノミコンという魔術書を探しております。神よ、あなたは何かご存じではないでしょうか」

「ふん。先ほど根源の渦(アカシックレコード)からの使者を名乗る目がぎょろぎょろした奴が来てな、何でも根源は汝らがそのなんちゃらという書物を手に入れることをお望みらしい。忌々しいことながら、協力しなければならないのだ」

 キャスタージル・ド・レェがここに既に来たということか。イリヤは嘆息する。結局、イリヤたちがここまで来られたのも、裏で彼が何らかの動きをしていたからなのかもしれない。

「汝らは道を間違えてはおらぬ。この先を進み、亡者の群れを突破せよ。その先に、その書物は存在する」

「ありがとうございます。ツァトゥグァ様」

 イリヤはうやうやしく頭を下げる。こういった手合いには、敬意を表明することこそが肝要なのである。

「進むが良い、小娘よ。汝は大いなる存在の庇護を受けているゆえな」

 そう言うと、ツァトゥグァはゆっくりと瞼を閉じた。

 顔を上げると、イリヤは士郎たちの方に向き直る。

「さ、聞いてのとおりよ。進むわ。きっと、目的のものはすぐ近くにある」

 イリヤはそう言うと、歩き始めた。終着点はもうすぐだということを信じて。

 

 ツァトゥグァから指し示された道は延々とした一本道であった。仄かな灯りは段々と、暗緑色のそれに代わっていく。この灯りの色は、大聖杯の眠る龍洞のそれと酷似していた。

 ついにこの洞窟の最深部にたどり着いたのだという直感があった。ついに目的のものが手に入るのだという高揚感が。

 しかし、それと同時に、だからこそ気を引き締める必要があるとイリヤは自身を戒める。財宝には守護者が不可欠で、その何者かを倒さない限りは財宝を手に入れられることはないのだと。

 一行は無言のまま突き進んでいく。

 一本道の終わりは唐突だ。大きな空洞に出たのだった。よく見れば、大空洞の反対側に、同じくまた道が見える。

「慎重に進みましょう」

 セイバーが見えない剣を構えながら、警戒して歩む。その後ろを、イリヤと士郎、さらにその後ろを守るようにバーサーカーが歩む。

 …大空洞の中央部に差し掛かった時だった。大空洞の四方から、ずずずと、影のようなものが滲み出てくる。それらは地面に降り立つと、人型を形作った。

 影のように掴みどころがないそれは。

「なるほど、ツァトゥグァが言っていた亡者の群れというのはこれね」

 イリヤは一人で得心する。

 あの影一体一体の力はさして強くない。だが、問題なのはその数だ。目算するだけでもすでに五十体ほどはいるし、さらにその数は増えていく。

「わたしたちが道を開きます!シロウとイリヤスフィールは先に進んでください!」

 あるいはあの影は無限増殖すると思ったのか、セイバーはそのように提案する。

 きっとそれが最善であろう。

「バーサーカー、あなたも道を開いた後はここに残りなさい。わたしがネクロノミコンを手に戻ってくるまで、ここを守りなさい」

 バーサーカーは低く唸ると頷いた。最優のサーヴァント、セイバーと、最凶のサーヴァント、バーサーカーが組めば、どのような雑魚がどのくらい湧いて出ようと、防ぎきることができるに違いない。

「俺も…」

「あらシロウ。お姫様にたった一人でこの先を進ませる気?せめて騎士(ナイト)の一人でもいないと格好がつかないのだけど」

 どうせ士郎は危なそうなところにいたがるのだ。しかし、この先が安全であるとは限らない。なにより、臓硯が予言した、遠坂の血を引く者が必ず発狂する仕掛けというものをまだ見てはいないではないか。

 士郎は少しの間だけきょとんとすると、ふっと息を抜いた。さしずめ、イリヤが言及した騎士という言葉が誰を指すのか分からなかったに違いない。

「心得た。それでいいか、セイバー」

「ええ、もとよりそのつもりです。私とバーサーカーが共に戦えばこの程度の敵、かすり傷も負いません」

 不敵に笑うセイバーに、士郎は一回頷くと、干将・莫耶の夫婦剣を投影する。

「さて、姫君を届けるのは騎士の役目。見事敵中突破してみせましょう」

 セイバーがそう言うとともに、イリヤの身体がふわりと持ち上がった。バーサーカーが抱きかかえて肩に乗せたのだ。

突撃(ロース)!」

 イリヤの掛け声と共に三人は脱兎のごとく走り始める。

 セイバーの剣技は洗練されていた。全く無駄のない動きで目前の敵を薙ぎ払い、道を切り開いていく。なるほど、剣の英霊にふさわしい芸術のような動きだ。

 バーサーカーは切り払うというよりも、叩きつける、ねじ伏せるという表現がふさわしい。圧倒的な力の差で、相手をつぶしていくのだ。純粋な暴力とはかくも荒々しいものかと目を瞠る。

 士郎はまるで剣舞を踊るかのよう。二本の剣の動きは滑らかな曲線を描き、見る者が息をするのも忘れるだろう。彼一代の剣術であり、彼以外に使えるものがいない殺人術だ。それは決して優雅なものとは言えないが、彼の一本気を反映するような、熱を帯びた剣舞だった。

 …始まりがあれば終わりがある。英霊二騎と英霊未満一人が踏破するのにかかった時間はものの十秒。バーサーカーはそっとイリヤをさらに続く道の入り口に下ろすと、くるりと彼女に背を向け、いまだに増殖し続ける黒い影に対峙する。

「シロウ、イリヤスフィール。ここは何人たりとも通しません。安心して先を進んでください」

 セイバーの背中が頼もしい。

「それじゃ、あとでね。武運を」

 まるで遠足で別行動をする友人にかけるような気軽さで、イリヤはサーヴァントたちに声をかけた。



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ep14

 暗緑色に照らされた道をただひたすら歩く。セイバーたちの剣戟は段々と遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 イリヤと士郎は無言でひたすら歩みを進める。気を張っているというよりも、この奥におそらくあると思われるネクロノミコンを前に、何を話せばいいのかイリヤには分からなかったからだ。

 それでも、せっかく二人きりなのに、無言というのも悲しい話だ。何か話題はないかと、イリヤは必死に頭の中を探す。

「そういえばさ、お兄ちゃんはなんでイリヤのためにここまでしてくれるの?」

 その結果口をついて出た言葉がこれだった。

 言い出した瞬間から、自分は馬鹿だと思った。士郎の人助けに理由なんてない。ただ、彼は自分のことを顧みずに、人助けをする存在なのだから。それこそが衛宮士郎という人物なのだから。

「それは…」

 けれど、なぜか士郎は言いよどむ。普段なら、人助けに理由はいらない、とかイリヤが大切だから、とかそんなことを言うはずなのに、彼は何も言わない。

「お兄ちゃん…?」

「なんというか、うまく説明できないけど、イリヤと一緒にいたいから、かな…」

 イリヤの想定していない答えだった。ずっと一緒にいたいというのは、言ってみれば普通の願望だ。それゆえに、イリヤは違和感を感じた。一緒にいたいというのは、あくまでもいたいと思う本人に深く根差した欲求であって、士郎のようなひたすら利他的というか、自分を差し置いて他の人を助けるような人間が真っ先に言及する感情ではない。

 そう、彼にとって、ネクロノミコンの探索は、いや、イリヤを助けるという行為は、イリヤのためではなく、自分のために行っていることだということだ。

 その事実は、イリヤにはたまらなく愛おしい。士郎はついに、自分のためという欲求が芽生え、しかもその対象がイリヤなのだ。自分のためにイリヤを助けてくれる。そんな士郎がたまらなく愛おしかった。

 思わず士郎の腰に抱き着きたくなったけれど、ここは危険なダンジョンなのだ。そのような乱痴気騒ぎを起こすわけにはいかない。

 だから、代わりにイリヤは士郎の手を握る。

「大丈夫。お姉ちゃんがずっとずぅっとシロウの傍にいてあげるからね。嫌って言っても一生傍にいてあげる」

 士郎がイリヤの手を握り返した。ごつごつした男の人の手だ、とイリヤは思う。ちっちゃくて細い自分の手とは全然違う。

 この手で。彼は聖杯戦争を生き抜くという奇跡をなしたのだ。

「あのさ、イリヤ」

「なぁに、シロウ」

「俺、お前のことが好きだ」

「ほぇ?」

 びっくりして、変な声が出た。

 好き、と言ってもいろんな好きがある。友達として好き、家族として好き、恋人として好き。いろんな好きがあるけれど、このような状況で紡がれる好きという言葉は、たった一つの意味だろう。

「わたし、人間じゃないよ」

「そんなわけあるか。イリヤは人間だよ、俺が保証する」

 士郎の、イリヤの手を握る手が強くなった。

 聖杯の器として生まれて。父には裏切れて。戦うこと、憎むこと、そういったことしか教わらなかった人生だけど。今この瞬間は、そういったことを忘れることができる。

 たった一人の少女として、今この瞬間に幸せだと言うことができるだろう。

「わたしも好きだよ。だから心配しないで。シロウはわたしのもの。絶対手放さないんだから」

 今この光景を切嗣が見たらどう思うだろう。きっと複雑な表情をすることだろう。

 多分、切嗣はイリヤと士郎、それにイリヤの母親であるアイリスフィールをこの世の何よりも大切だと感じてくれているだろう。だから、士郎とイリヤが幸せになること、それ自体には喜んでくれるはずだ。ただ、自分の息子と娘がお互いを、となると親としては微妙な気持ちになるかもしれない。

「さて、そろそろ気を引き締めていかなきゃね」

 イリヤはそっと手を放す。

 少女としての時間はもうおしまい。魔術師としての自分に切り替える。

 士郎も、穏やかで、少しだけ気恥ずかしそうだった表情を改めて、真剣な表情を作っていた。

 この先にあるのが何かは分からない。けれど、立ちはだかるものはなんであれ、倒して、ネクロノミコンを手に入れなければならない。

 …死にたくない理由がまた一つ、増えてしまったのだから。

 

 洞窟を奥へ奥へと進んでいく。最深部は少し開けており、巨大な石組のアーチが奥へとつながる門のようだ。

 どこからともなく漂う香りに、イリヤは神経を尖らせる。まるで薔薇の香りのよう。

 …薔薇?

 イリヤが奇妙に思ったその時に、カタカタという音を鳴らして、現れた存在があった。

 窪んだ眼窩に目玉はなく、とこしえの闇を湛えているかのよう。赤い派手なスーツはおそらく彼にとってオシャレであるに違いない。左手に持つステッキには赤い大きな宝石が埋め込まれ、豊かな顎鬚は当然汚らしさではなく、むしろ高貴さを感じさせる。

「あれは…」

 イリヤは言葉を失った。

 なんと冒瀆的な光景だろう。あれは死者の魂だ。死者の魂を無理やり使役しているのだ。

 イリヤはあの魂と直接面識はない。だが、間違いなくイリヤは彼を知っている。それは知識として知っていた。

「なるほど、マキリがトオサカの娘を連れて行くのを拒んだわけだわ…」

 凛にせよ、桜にせよ、この光景を見たら色を失うだろう。高確率で気が狂ってしまうにちがいない。

「イリヤ、あれがなんだか分かるのか」

「分かるわ。第四次聖杯戦争についての資料の中に彼の写真もあったもの」

 彼は生前、第四次聖杯戦争のときにアーチャーのクラスのマスターであった。彼には娘が二人いて、一人は養子に出されたはずだ。

 宝石魔術の使い手で、火属性の魔術師。彼の全盛期であれば、聖杯の力が最も影響を及ぼす冬木においてのイリヤでさえも、遅れをとったかもしれない。

 あの躯の名前は遠坂時臣。遠坂凛と間桐桜の実の父親である。



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ep15

 なぜ遠坂家の先代があのような冒瀆的な形になってこの場所にいるのか、ということを考えるのはとりあえず後回しにしなければならない。今必要なのは、どうすればこの死者を倒し、その奥に眠るであろうネクロノミコンを手にできるか、ということだった。

 サーヴァントがいればきっと簡単だっただろう。どういう原理で時臣の魂がここにいるにせよ、しょせんはただの魔術師だ。当然、英霊に、しかもギリシャ神話最大の英雄と偉大な騎士王にかなうわけがない。

 だが、今彼らはここにいない。イリヤと士郎の二人で対処しなければならないのだ。

 イリヤは髪を四本抜いて、四羽の小鳥を召還した。士郎はその手に干将・莫耶の宝剣を持っている。

 ぎぎぎ、と軋む音がして、時臣は杖を構える。極大のルビーから、炎が現れ、時臣の盾となる。

 それが魔術戦の合図だった。

 四羽の小鳥が時臣に向けて魔術の光線を撃ち放つ。だが、それらは時臣の盾を突き破ることはできない。

 士郎が切りかかろうと肉薄する。だが、時臣は炎の球を士郎に向けて放った。

 かろうじて、士郎はそれをよけた。ほとんど紙一重の差だった。

投影、開始(トレース・オン)!」

 士郎は剣を五本、投影してそれを時臣に向けて放った。

 時臣は胡乱げに杖をくるりと回す。二枚目の炎の盾が形作られ、士郎の剣を迎撃せんと放たれる。

 灼熱の炎は、剣をどろどろに溶かしていく。

「なっ…」

 錬鉄の魔術師は言葉を失った。時臣の前には、どのような剣も無駄なのではないか。

「さすがはトオサカトキオミ。死してなおその力は健在ということ…!」

 とはいえ、イリヤは願えば叶う聖杯の器。戦闘向きの魔術はあまり勝手を知らないとはいえ、これでも大魔導士(ユスティーツァ)の後継なのだ。

「冬の魔術師の力、見せてあげる。Schneestrum!]

 短く鋭くイリヤは叫んだ。

 ちらちらと、白いものが洞窟の天井から降ってくる。その量と密度は段々と大きくなり、やがてすさまじい風を伴い始めた。

「錬金術というのはね、物質の転換をテーマとする魔術形態なの。わたしくらいになると、大気の状態を転換させることくらい容易いのよ」

 敵味方容赦なく吹雪が吹き荒れる。涼しい顔をして立っているのはイリヤくらいなもので、味方であるはずの士郎も目を開けることすらできずにいた。

 アインツベルンが修める錬金術をもとに、聖杯の器としての力を足しただけでの簡単な魔術である。大気というのは不安定なもので、吹雪を生み出し固定化するというような天候操作の魔術は、普通の錬金術と比べると多大な魔力を消費する。

 正直、非効率なのだ。攻撃で使うには使う魔力量が無駄すぎる。一方で、例えば農作物を育てるために使うとなると、直接的に農作物に働きかける魔術を使うなど、もっと効率のいい方法がある。

 ゆえに、天候操作の魔術はほとんど使われない。

 それを、易々と使い続けるイリヤの持つ魔力量が尋常ではないということだ。

 とはいえ、この吹雪で時臣をしとめられると思うほど、イリヤは甘くはなかった。そもそも、それだけの膨大な力を叩きつけてしまっては、士郎もただではすまない。

 必要なのは相手を消耗させること。

 この程度で一度様子を見るか。イリヤは魔術の行使をやめた。

 徐々に視界が晴れていく。急速に下がった気温が元に戻っていく。

 イリヤは思わず目を瞠った。時臣は、自らの身体に炎をまとっていた。あの酷寒の中、そうすることにより彼はほぼ無傷で、吹雪をやり過ごしたのだ。

「イリヤ、ああいうことをやるんなら先に言ってくれ…」

 士郎はいまだに震えながら文句を言う。その文句も尤もだと思うが、そんな余裕はなかった。

 時臣が、お返しとばかりに火球を放った。四羽の小鳥が合わさって一つの大きな壁となり、その球を防ぐ。

「イリヤ!俺が固有結界を作る。その間耐えられるか?」

「任せて」

 士郎が詠唱を始める。あの詠唱には多分一分か二分ほどかかるはずだ。

 イリヤはさらに髪を四本抜いた。

「女の髪をこれだけ消費させてるんだからね。ただじゃ済まさないわよ」

 四本の髪は四本の剣となる。それは一斉に時臣を目指して撃ち放たれる。

 時臣は迎撃のための火球を放った。火の玉と銀色の剣はぶつかり合い、二つとも雲散霧消する。

「まだよ」

 イリヤは銀色の盾を再び四羽の小鳥に戻した。それらは糸を引き始め、時臣の周りを周回する。

 ぐるぐると時臣が縛り上げられる。彼は炎でその糸を焼き切ろうとするが、イリヤは魔力を供給することで、それを防いだ。

「"unlimited blade works"」

 …詠唱が間に合った。

 炎が走る。炎は外界と内界を隔離する。そして。

 後に現れたのは漠々たる荒野。そして無限に剣のささる丘だった。

 

 …本来の士郎の魔力量であれば固有結界を呼び出すことは不可能に近い。これが可能になっているのは、きっとアーチャーのおかげであろう。

 アーチャーが、士郎がドイツへ旅立つ前に施した魔術回路のチューニング。それが、ここで初めて活かされたのだ。

「…シロウの内面世界、初めて見たけど」

 イリヤはアーチャーの固有結界も見たことがないため、無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)を見るのは初めてだった。

 剣以外何もない寂しい大地。これが士郎の心象風景だと言うのか。

 士郎は何も答えず、手近にあった剣を抜く。剣は士郎を使用者と認めたかのように、簡単に抜けた。

「さて、遠坂と桜の親父さん。二人に成り代わって、俺があの世にきちんと送ってやる」

 周囲にある剣が次々と抜けた。それは数にして数千。その膨大な数がただ一人、遠坂時臣に向けられる。

 軋んだ音をたてて、時臣は杖を構える。巨大な灼熱の炎の壁を展開した。

 宙に浮かび上がった無数の剣が一斉に時臣を目掛けて振り刺さる。溶かしても溶かしても溶かしきれない量の剣が時臣を襲う。

 これでは彼の遺骸は骨一片も残るまい。いや、彼の身体は既に墓地で眠っているのか。

 しばらくは数の暴力に耐えていた時臣の炎の壁は、やがて最初の一本を通してしまう。それは、彼の脚に突き刺さった。

 それが最初だった。やがて降り注ぐ無数の剣は時臣の身体を串刺しにする。串刺しにされてなお、降り注ぐ剣の雨は、時臣の身体を際限なく分割していった。

 ぐちゃぐちゃの、どろどろ。もう固形を保てず、血液なのか肉片なのか、骨片なのか、まるで判断がつかない。

 士郎の表情は痛切だった。あそらくアンデットの類とはいえ、知り合いの父親をここまで殺しつくさなければならないことは、彼にはつらかろう。だが、アンデットとしての機能を失わせるためには、これくらい殺しつくさなければ安心できない。

「…残酷ね」

 イリヤはたった一言、その最期に手向けた。



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ep16

  …巨大な石組のアーチを潜り抜け、到達したのおは小さな部屋だった。

 暗緑色の光に包まれたその小さな部屋には特筆すべきことは何もない・

 見渡しても特に何もない、岩屋である。ただ一転、台座の上に一冊の本が置いてあるのを除いて。

「シロウ。念のため言っておくけど、触っちゃだめよ」

「ああ、心得ている」

 最後の最後に士郎が興味本位でこの本を触り、発狂してしまうことをイリヤは恐れたのだった。ここまできて、すべてを失うことには耐えられない。

 その本は真黒な表紙に金色の文字で「Necronomicon」と書かれていた。

 確かに存在したのだ。冬木のネクロノミコンは。

 イリヤははやる気持ちを抑えて、そっとその本を手にする。ずっしりとした重みに思わずくらりとした。

 …ああ、この本は持つだけで呪われるのだ。

 それだけで、この本が本物だと、禁呪、禁忌、宇宙の真理、そういったもので満ち満ちている恐ろしい本だということが分かる。

「シロウ…、ついに手に入れたわ」

 感動のあまり声が震える。今わが手に真理があるのだ。これに感動しない魔術師などどこにいよう。

「おめでとう」

 士郎は優しく微笑んでいる。

 あとは冬木に持ち帰って、この本を読み解くだけである。それで、きっと、イリヤの寿命の問題は解決するのだ。ただの少女のように、生を謳歌することができる。

 イリヤはネクロノミコンの表紙をめくった。前書きはラテン語で書かれていた。

 これでもイリヤはドイツ貴族の家系で、しかも錬金術を生業としているのだ。ラテン語くらい、魔術に頼らずとも読むことができる。

 イリヤは食い入るように前書きを読み始めた。

 

 …この本の成立は既に蟲の聲(アル=アジフ)の内容が散逸し、各地に残るネクロノミコンも、すべてを残しているとは言い難くなった時のことである。

 プラハの優れた魔導士である■■がこの本を残す。これは彼が命と引き換えにアカシック・レコードからネクロノミコンの記録を読み取ったものである。

 彼は魔法使いではなく、また、銀の鍵を用いることもなくアカシック・レコードにたどり着いた稀有の人物である。彼の業績は偉大である。プラハの錬金術は彼によって一世代早く進化した。しかし、魔法の域にたどり着くことなくアカシック・レコードに至ってしまったのはこの世の理を曲げることであり、銀の鍵を用いずにアカシック・レコードに至ったのは彼の副王の怒りを買う行為であった。

 ここでは詳しくはそこに言及しない。

 彼はこの記録を残してこの世を去った。往来で突然頭から見えない怪物に喰われてしまったのだ!私は彼の遺志をついで、記録を本の体裁にまとめ、ここにネクロノミコンの完全版として後世に伝える。

 そもそも、ネクロノミコンとは何か。異教の地、ウマイヤ朝時代、アラビアの狂える詩人、アブドゥル・アルハザードによって書き記されたアル=アジフという書物がキリスト教の地に渡ることによって成立した書物である。古今の魔術書の中で最も質が高く、狂気に満ち、それゆえに様々な魔術師の道しるべとなった。当然、その道の行き着く先は狂気、地獄であることは言を俟たない。

 しかし、東ローマ帝国の総主教によって禁書指定を受け、その後、ローマ教皇によっても禁書処分を受けることになる。この東西キリスト教世界による禁書処分により、ネクロノミコンはほとんどが失われてしまった。

 現在、この本以外で残るネクロノミコンは、公式で確認されているもので五冊。それも、すべて質が悪く完全に知識を伝えているとは言い難い。ここに、■■と私は完全なるネクロノミコンを残すことにする。これにより、狂える知識を、宇宙の真理を、いつの日か多くの魔術師が手にし、根源への道への第一歩とせんことを。

 そして遥か遠いいつの日か、全人類の救済という不可能を、魔法の形で成就する狂人が現れんことを。

 1725年、キエフにて。マキリ・ゾォルケンがこれを記す

 …追記。この本は人類にはまだ早すぎたようである。封印するのが適当であろう。カエサルのものはカエサルに。

 

「あんのクソ蟲ジジイ…」

 思わずイリヤは毒づいてしまった。あの蟲爺さんはまるで他人事のように語りながら、しかし、このネクロノミコンの当事者だったのである。

「どうしたイリヤ?」

「どうしたもこうしたもないわ。早く地上に帰ってマキリのジジイをとっちめてやらないと気が済まない」

 封印するなら封印するで、せめて間桐の家の地下深くに封印してくれればついでに蟲蔵に火を放ってあのいけ好かない蟲どもも一掃できて一石二鳥だったのに。

 ぱたんとネクロノミコンを閉じて士郎の方を振り返ろうとしたその時だった。ネクロノミコンが一人でに光りだしたのだ。

「なっ…」

 イリヤの視界は白に包まれた。

 

 …閃光が収まったころには、イリヤは見慣れた部屋にいた。

「これは…」

 ドイツ本国のイリヤの寝室だ。窓の外は吹雪が吹いていて何も見えない。天蓋付きのベッド以外何があるわけでもない、ぬくもりもない、殺風景な部屋だった。

「やぁイリヤ、久しぶりだね」

 それなのに。たった一人だけ、この世界にイリヤ以外の人間がいる。

 彼の目は虚ろで、でも慈愛に満ちていて、聖人のよう。ぼさぼさの髪、無精ひげ、よれよれの黒いコートは煙草と硝煙の匂いが染みついている。

「そん、な…」

 十年間、片時も忘れることがなかった相手。 十年間、ずっと怨み続けてきた相手。

 母を、イリヤを、わたしたち(ユスティーツァ)を裏切った、アインツベルン最大の戦犯。

「イリヤがどう思うか、僕には分からない。けれど、お父さんはイリヤにまた会えて嬉しいよ」

 イリヤの父、士郎の義父、衛宮切嗣がそこには立っていた。



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ep17

 目の前にいる切嗣は、イリヤの記憶よりもやつれていた。それが、聖杯の泥のせいだということを、イリヤは知っていた。それはイリヤの記憶ではなく小聖杯としての記憶だった。

 恋焦がれるほどの殺意。イリヤの、切嗣に対して思う気持ちを一言でいうと、そうなるだろう。

 口では賢しげに気持ちの区切りがついたといくらでも言えよう。だが、当然そんなものはついているはずがない。切嗣の墓石を目の前にして湧き上がった、赦せないという感情は、あの時の何倍もの濃度で湧き上がってくる。

「…今更何よ。十年、遅いわ」

 それでも。問答無用で殺すのではなく。少しだけ、話してもいいかな、と思うあたり、自分は甘い。

 話してから殺すことはできるが、殺してからでは話せない。

「…僕は君を取り返したかった。でも、何を言っても言い訳にしかならないね」

 ごめん、と彼は小さく呟く。

 当然、それでイリヤの気持ちが晴れるわけがない。

「なんでわたしたちを選んでくれなかったの。なんで、わたしたちより、見ず知らずの人の方が大切だったの。なんで…」

 静かにイリヤは問いかけた。

 衛宮切嗣という人物は、五十億の人類を救うために、たった二人を犠牲にした英雄、正義の味方である。その二人というのが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと、その母アイリスフィール・フォン・アインツベルンである。

「なんで!わたしは痛い目に遭わなきゃいけなかったの!何が聖杯の器よ。わたしはそんなものいらなかった。ただ、キリツグと、お母様がいれば良かったのに…!」

 いつの間にか、イリヤの言葉は熱を帯びていた。幼い日の絶望がよみがえる。アハト翁に、キリツグはアインツベルンを、お前を裏切ったと冷酷に告げられた日のことを。

「…ごめん」

 切嗣は目を伏せて、謝罪の言葉を口にする。

「わたしは絶対キリツグを赦さない。絶対、ぜーったい赦してあげないんだから!だから、謝っても無駄よ」

 そう、今切嗣を責めても、もう堂々巡りにしかならない。もう彼は死んでいるのだから。

 目の前にいる切嗣が幻覚なのか、幽霊なのか、はたまた平行世界の切嗣なのか、そんなことはイリヤには分からない。けれど、それでも、堂々巡りではなくて、別のことを話したかった。

 そのあとで、殺すか否かを決めよう。

「…そうだね、僕に対する焦がれるような殺意。それこそが今の君を形作っている。それを簡単に否定することは、自己否定に他ならない」

 切嗣は諦観の言葉を口にする。きっと、彼は娘に愛されることを、とうに諦めてしまったのだろう。そして、それに足ることを、彼はイリヤにしてしまっている。

「キリツグはさ、わたしたちを裏切った後、何をしてたの?」

「子供を一人、養子にしてね。育児…といっても何をしたわけでもないけどね。それと、ドイツに娘に会いに。会わせてもらえなかったけど」

「正義の味方はやめちゃったの?」

「…ああ。正義の味方は期間限定。大人はもうなれないんだ」

「そ」

 沈黙が続く。沈黙に耐えきれなくなったのか、切嗣は懐から煙草を取り出した。

「吸っても?」

「どうぞ」

 切嗣は煙草を口にくわえると、ライターを取り出して火をつけた。しばらく煙草を吸った後、ゆったりと長く煙を吐く。

「…イリヤに会えたら、いろいろ話したいことがあったんだが、実際に会ったら忘れてしまったな」

「わたしも、キリツグに会えたらどんな方法で殺してやろうかずっと考えてたのに、どうやって殺すのがいいと思ったか、忘れちゃった」

 首だけにしてしばらくお城のエントランスに飾ったり、ぬいぐるみに精神を映してばらばらにしたり、ハラキリとカイシャクを実演させてみたり、いろいろ考えたのだ。でも、その方法がいちばん楽しそうか、ということは忘れてしまった。

 もともと、イリヤには願いはない。聖杯戦争に参加した理由も、冬木にいるはずの切嗣とその養子の士郎を殺すためだ。自分を助けてくれなかった父親と、自分から父親を奪った子供。どうやって殺すのがいちばん楽しいか、考えない日はなかった。

 けれど、それをとうに忘れてしまっていた。きっと、士郎との日々が楽しかったからだろう。

 士郎。そういえば、切嗣がアインツベルンを裏切らなければ、彼と会うことはなかった。

「そうだ、忘れないうちに、一つだけ、野暮用を済ませなくちゃいけない」

 切嗣は煙草をもみ消した。

「僕はあくまで根源の中に書かれている記録から再構成された、衛宮切嗣という幻影にすぎない。僕の存在意義は根源のメッセンジャーであり、根源、すなわち偉大なる神、全にして一、一にして全、神々の副王、アカシック・レコードそのものからの伝言を伝えるためだけに生まれた存在にすぎない」

 …ああ。きっとこの世界は根源に限りなく近いところにあるのだ。きっと、窓の外の吹雪の向こう側に、根源の渦が揺蕩うのだろう。

「根源は君がいずれ自身に到達し、第六法を習得することを望んでいる。その日こそ、人類が一段階上の存在へと滅亡していく日だと」

「…わたしはそんなものには興味ないわ。根源への道は、全てわたしが閉じてあげる」

 天意(ヘブンズフィール)は人類が手にするには早すぎる。人類のことを考えるのは、イリヤのような魔術師ではなくて、正義の味方の仕事だろう。

「…賢明な判断だよ、イリヤ」

「何よりわたしは今幸せなの。なのに、人類に滅亡されても困るわ」

 それは、イリヤの本音だった。せっかく、士郎に好きと言ってもらえたのに、それをむざむざと手放すようなことはしない。

「幸せ…か。良かった…」

 切嗣の声が震える。はっとして、イリヤは彼の顔を見る。心なしか、目が潤んでいるようだった。

 ああそうか。この切嗣が例え根源の渦によって生み出された紛いものだったとしても。きっと、ここにいる切嗣は本物なのだ。その人に関するすべての記録から再構成された偽物は、しかし、どこが本物と異なるのだろう。

 そして、切嗣は、きっと、死の直前まで、イリヤのことを大切に想っていてくれていたに違いない。自身が置いてきてしまった娘を。何よりもその人生に、どんなに可能性が低くても、幸あれと。

「…ねぇキリツグ」

「なんだい、イリヤ」

「わたしね、大切な人ができたの」

 切嗣が息をのむ。だが、穏やかな表情を浮かべて、笑った。

「そうか。どんな人だい」

「まっすぐで、誰よりも人のために生きる人。正義の味方なんて、見果てぬ夢を抱いて、ずっと努力できる人。イリヤのことを、かけがえのない存在だって、思ってくれる人」

「…そうか。僕は果報者だ。子供が二人ともいっぺんに幸せになるなんて」

「そうよ。見てなさい、キリツグ。誰よりも、キリツグよりも、シロウを幸せにしてみせるのだから。あなたが彼に与えた枷を、わたしが取り払ってあげるのだから」

 イリヤはいたずらっぽく笑う。

 イリヤの心の中に、温かなものが流れた。家族のことを話すのが、こんなにも幸せなことだなんて。

「…そろそろお別れの時間だ。会えて嬉しかったよ、イリヤ」

「わたしも、キリツグ」

「…君が強く望めば、悠久の時の向こうで、また僕と会うこともあるかもしれないね。君は…魔法使いになるのだから」

 一体何を根拠に、イリヤが魔法使いになるというのだろう。けれど、切嗣の言葉は、どうしようもない真実なのかもしれない、とイリヤは思う。

 だから。さよならではなく。

「それじゃあ、またね…お父様」

 切嗣は驚いたように目を瞠ったが、すぐに穏やかな表情に戻って、そっと両腕を広げた。

 その胸に、イリヤは飛び込んだ。

 煙草と硝煙の匂いが鼻を刺激する。これが、イリヤの父の匂いだった。

「愛してるよ、イリヤ。これだけは、お父さんの本当の気持ちだ」

「わたしも、愛してる」

 来た時と同じように、白色の閃光がイリヤの視界を閉ざした。

 その中で、一瞬だけ、玉虫色の球体の集積を見たような気がした。それは、ほんの少しだけ、自らに到達しないと誓ったイリヤを責めつつ、しかし、ネクロノミコンを手に入れたことを祝福するように蠕動していた。

 ああそうか。あれが根源の渦の正体か…。イリヤは束の間の夢を見せてくれたことをそれに感謝しつつ、意識を手放した。



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