学戦都市アスタリスク black trickster (白い鴉)
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序章

初めて書くオリ主小説ですので、見苦しい所が多々あるかと思いますが、楽しんで読んでもらえたら幸いです。


 明かりも無いレヴォルフ黒学院の懲罰教室の中に、一人の少女が閉じ込められていた。少女は天井を仰ぎながら、憎々し気に独り言を呟く。

「……ったく、いつまでこんな所に閉じ込めておくつもりだっての」

 少女は濃い茶色の髪の毛に、夏場だというのに首には長いマフラーをしていた。なのに着崩した制服の下にはアンダーを着用しておらず、なんともミスマッチな格好をしている。

 少女――――イレーネ・ウルサイスは壁から伸びた手枷に腕を繋がれており、制服姿のまま豪快に胡坐をかいていた。それから髪の毛をバリバリと豪快に掻いてからため息をつくと、不機嫌そうな表情から一転、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。

「……二人共、今のあたしの姿を見たらどんな顔すんのかな……」

 自分らしくない、と思いながらも今最も会いたい二人の人間の顔を思い出す。

 一人は、唯一血が繋がった家族であり、自分が何としても護りたい妹。

 そしてもう一人は、今まで妹以外の存在などどうでも良いと思っていた自分が初めて妹と同じぐらいに大切に思ったと同時に、自分が護る事ができなかった少年。

 彼の顔を思い出すと、胸がずぐんと音を立てて痛むのが分かる。

 今思えば、変な奴だったと思う。男なのにどこか頼りなくて。女のような顔立ちなのに一度これだと決めたらてこでも動かないような意志を持っていて。

 そして……この学園の中でもかなりの実力を持っているのに、呆れるぐらい優しかった。

 彼を失ってみて分かる。彼は、自分の『光』だったのだ。どんなに自分が闇に埋もれていても、最後には自分を引きずりあげてくれる、優しい光。彼と妹の存在は、自分の『希望』だったのだと。

 なのに……護れなかった。

 レヴォルフ黒学院序列三位という力を持ちながら、彼を悪意から護る事ができなかった。だからこそ自分は、今ここにいるのかもしれない。護るべきものを護る事ができなかった、自分の罪の証明として。

「………」

 ジャラ、と手枷の鎖の音を鳴らしながら、イレーネはある光景を思い出す。

 自分が住んでいるマンションの部屋で、三人で食卓を囲んでいたあの光景を。

 できる事ならば、またあの頃のように三人で一緒に過ごしたいと思う。

 だが、それはできない。そんな事は決してあり得ない。

 その景色も、未来も、全て自分に力が無かったせいで永遠に失われてしまったのだから。

 少女は俯いたまま、少年の名を呼ぶ。

 とても愛おしそうに。それでいて、ひどく悲しそうな声と表情で。

「……朱羅(しゅら)……」

 

 

 

 

 イレーネ・ウルサイスという少女がどうしてこんな暗闇に閉じ込められる事になったのか。

 少女が呼ぶ朱羅という少年に、一体何があったのか。

 全ての始まりは、少女と少年が出会った、二か月前に遡る。 

 



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第一話 出会い

主人公とイレーネの出会いの回です。


 ――――二十世紀、人類をある大災害が襲った。

 宇宙から世界中に三日三晩にわたって大量の隕石が降り注ぎ、多くの都市が壊滅状態に陥った。その結果、世界は否応なく変質させられる事になった。

 例えば、既存国家の衰退。 

 例えば、無数の企業が融合して誕生した、新たな経済主体である統合企業財体の台頭。

 例えば、それに伴う倫理観の変容。

 しかし、その災害が変化させたのは、それだけでは無かった。

 大量に降り注いだ隕石から、未知の元素が検出されたのだ。万応素と名付けられたその元素は科学技術を飛躍的に発展させると同時に、星脈世代(ジェネステラ)と呼ばれる、特異な力を持つ新人類を生み出した。

 このように、後に『落星雨(インベルティア)』と称されるようになるその大災害は、良くも悪くも人類の歴史を塗り替えたと言っても良いだろう。

 そしてその極め付けが、アスタリスクと呼ばれる学園の誕生である。

 正式名称は、水上学園都市『六花』。北関東のクレーター湖に浮かぶメガフロート築かれた学園都市であり、通称アスタリスク。統合企業財体によって六つの学園が設置されており、人口の大半を星脈世代が占めている。

 だが、アスタリスクに星脈世代が集まるのは、学業やクラブ活動のためなどではない。

 アスタリスクでは、統合企業財体が主催で学生同士で大規模な武闘大会が行われる。とは言っても、実際に命の奪い合いを行うわけではない。ルールに関しては星武憲章(ステラ・カルタ)と呼ばれる取り決めに定められているが、分かりやすく言えば相手の校章を破壊した方が勝ちとなるのだ。意図的な残虐行為は禁止されているものの、戦闘能力を削ぐ目的であれば校章以外への攻撃も認められているので、当然怪我人も出るし、時にはそれだけでは済まない場合もある。

 星武祭(フェスタ)と呼ばれるその大会は三年を一区切りとして行われており、その種類は三種類に分けられる。

 初年の夏に行われる、タッグ戦の『鳳凰星武祭(フェニクス)』。

 二年目の秋に行われる、チーム戦の『獅鷲星武祭(グリプス)』。

 三年目の冬に行われる個人戦、『王竜星武祭(リンドブルス)』。

 これら三つで行われる星武祭は非常に注目度が高く、開催中は戦いの様子が世界中にライブ放送される。そのため、世界最大の興行を誇る大会であるのだ。

 しかし学生達がこの大会に出場しているのはただ単なる娯楽のためではない。そんなもので喜ぶのは、生粋の戦闘狂(バトルジャンキー)達だけである。参加する学生達の半分は、その大会を勝ち抜いた先にあるものを目的としている。

 それは……自分が望む願いを叶える事。

 星武祭で優勝した者は、自分の望む願いを統合企業財体に叶えてもらう事が可能となる。無論死者を蘇らせるなど、飛躍的に発達した現代科学でも無理な事などは叶える事ができない。しかし、逆に言えば叶える事が可能な願いならば何でも叶えられるという事だ。

 自分達の願いのために星武祭に参加し、激戦を勝ち抜き優勝する事が、半分の学生達の目的なのだ。ちなみにもう半分の生徒達の目的は、はっきり言ってしまえば思う存分暴れるためである。自分の力を持て余している彼らにとっては、この都市は世界で唯一思う存分に暴れられる場所なのである。

 そして星武祭に参加し、アスタリスクを形成する学校は六校ある。

 生徒の自主性を重んじ校則も緩やかな、星導館(せいどうかん)学園。

 規律と忠誠を絶対とした厳格な校風を持つ、聖ガラードワース学園。

 六学園中最大の規模を誇り、星武祭でも常に安定した成績を残している、界龍(ジェロン)第七学院。

 世界でもトップクラスの落星工学の技術を誇り、徹底した成果主義を奉じるアルルカント・アカデミー。

 入学条件に学力や戦闘能力以外に『容姿』を請求する、明るくきらびやかな雰囲気を持つクインヴェール女学園。

 そして……校則は無いに等しく、好戦的な雰囲気が漂うレヴォルフ黒学院。基本的に素行不良な生徒達が多く、そのような生徒達はアスタリスクの再開発エリアと呼ばれる場所を根城にしている。

 物語は、レヴォルフ黒学院に所属する一人の少女と一人の少年の出会いで始まる事になる。

 

 

 

 

 時期は入学式が行われてから少し時間が経った四月の中旬。爽やかな青空の下で、物騒な光景が展開されていた。

 それは、アスタリスクの中央区の商業エリアで、六人ほどの不良達が一人の少女を囲んでいるというものだった。

「きょ、今日こそ逃がさねぇからな! 『吸血暴姫(ラミレクシア)』!!」

 モヒカンの髪形をした男が大声を張り上げながら、自分達が囲んでいる少女を睨み付ける。しかしその声はやや震えており、どちらかと言うと怯えているのはその不良のようにも見える。それは周りの男達も同様で、少女を睨みつけはするもののそれ以上近づくような真似はしない。

 それを見て、囲まれている当人の少女がはぁと呆れたようなため息をついた。

 伸ばしっぱなしで手入れのしていないように見える髪の毛に、首に長いマフラーを巻いている。着崩した制服の下にはアンダーを着用していないという、傍から見ると奇妙に見える服装。口元からは鋭い牙のような歯が覗いており、見る者に凶悪な印象を抱かせる。

 少女――――レヴォルフ黒学院序列三位、『吸血暴姫(ラミレクシア)』イレーネ・ウルサイスは目の前の少年達を逆に睨み付けると、男勝りと言った表現が良く似合う口調で言った。

「あたしは一度も逃げたつもりはねぇよ。大体、イカサマをしてたテメェらが悪いだけだろうが。自分達の責任をあたしに押し付けてんじゃねぇよ」

「う、うるせぇ!! それじゃあうちの面子が立たないんだよ! テメェら、一斉にやるぞ!!」

 男のその言葉を合図にしたかのように、男達がジリジリと距離を詰める。しかしイレーネはそれに臆する事もなく、ただ面倒そうに髪の毛を掻くと、次の瞬間凶悪な笑みを浮かべた。

「――――へぇ? あたしを倒すつもりか?」

 その瞬間、ぞくりと男達の背筋を寒気が襲った。イレーネは紫色の結晶体がはめ込まれた機械――――学生達が使う武器である『煌式武装(ルークス)』の中でも特に強い力を持つ純星煌式武装(オーガルクス)の発動体を取り出すと、笑みを浮かべたまま告げた。

「別に良いぜ? かかってこいよ。ただ……かかってくるからには、死ぬ気でな」

 そしてイレーネのその言葉を合図に、戦闘の火ぶたが切って……。

 落とされなかった。

「……っ! こっち!」

「え?」

 突然、男達の間を縫うかのように人影が突然飛び出し、イレーネの腕を掴んで走り出した。突然の事にイレーネは思わずそんな声を出し、腕を引かれるままに自分も走る。

「に、逃げたぞ! 追いかけろ!!」

 自分達の得物が突然この場から走り去ろうとした事を察知した男達が、怒声を上げながらイレーネと彼女の腕を掴んでいる何者かを追いかける。二人は裏路地に逃げ込むと、入り組んだ路地を減速無しで走り男達の追跡から免れることに成功する。

 やがて男達から完全に振り切った事を確認すると、それまでイレーネの腕を掴んでいた何者かが立ち止まって言った。

「はぁ……何とか逃げ切れた……大丈夫?」

 と、イレーネの顔を覗き込もうとした何者かは、次の瞬間イレーネに思いっきり胸倉を掴まれた。

「お前……何余計な事してんだぁぁああああああああっ!!」

「え、ええ!?」

 予想外の反応に驚いたのか、何者かが声を上げる。しかしそれに構わず、イレーネはぶんぶんと何者かの顔を前後に揺さぶった。

「折角これから暴れる予定だったっていうのに……テメェのせいで台無しじゃねぇか!! 台無しにした責任、持つ覚悟はあるんだろうな!!」

「ちょ、ちょっと待って……ぐるじい……」

 何者かの苦しそうな声を聞いて、イレーネはチッと舌打ちをしてから胸倉を放した。何者かはごほごほと咳をしながら、呼吸を整える。その間に、イレーネは自分をここまで連れて逃げてきたお節介な誰かの顔を観察する。

 その人物は少年だった。自分よりも小さく、男子高校生としては小柄な体格。男にしては珍しい亜麻色の柔らかそうな髪の毛に、女性にも見える中性的な顔立ち。ちなみにその顔立ちのせいで、イレーネは内心こいつ本当に男か? と本気で思った。いかにも弱そうだが、イレーネが注目したのはそこではない。

(こいつ……あたしと同じレヴォルフだと……?)

 少年が身に纏っているのは、レヴォルフ黒学院の男子用の制服だった。その胸にも、レヴォルフのシンボルである双剣の校章がしっかりと付けられている。ただ、レヴォルフの制服は見る者に威圧感を与えてしまうデザインなのだが、少年の場合は彼の持つ柔らかな雰囲気がそれを見事に打ち消している。

「お前……レヴォルフだったのか?」

「え? うん、そうだよ。って言っても、今年入学してきたばっかりだけど……」

 なるほど、とイレーネはその言葉に頷く。どうりで見た事もない顔だと思った。とは言っても、イレーネ自身自分の学校にどんな人物がいるか完全に把握しているわけではないのだが。

 ふー、と少年が一息つくとイレーネは少年にジト目を向けた。

「おい、お前」

「何?」

「何であたしを助けたんだ?」

「何でって……だって、あんな奴らに囲まれてたし、危なそうだったし……」

 それを聞いて、イレーネは呆れたような表情を浮かべながら言った。

「あのなぁ……お前、あたしの事知ってるか?」

「いや……」

「レヴォルフ黒学院序列三位、『吸血暴姫(ラミレクシア)』イレーネ・ウルサイスだ」

「序列三位……って事はもしかして、『冒頭の十二人(ページ・ワン)』?」

 少年が驚いたように言うと、やっと気づいたかと言わんばかりにイレーネはため息をつきながらコクリと頷いた。

 アスタリスクの学園には序列制度がある。各学園によって細かいルールは違うが、それぞれの学園が有する実力者を明確にするためのランキングリストのようなものが存在する。

 それが、『在名祭祀書(ネームド・カルツ)』。枠は全部で七十二名ほどあり、その中でも上位十二名はリストの一枚目に名前が連ねられている。よって、その十二名は『冒頭の十二人(ページ・ワン)』と呼ばれている。つまり、今少年の目の前のいるイレーネは、レヴォルフ黒学院の中で三番目の強さというわけだ。ちなみに、在名祭祀書に名を連ねた場合、二つ名を自分でつける事ができるが、大抵の場合は生徒会か統合企業財体が命名するのが一般的となっている。

 さらに、イレーネが純星煌式武装を持っているのもこれに理由がある。

 純星煌式武装は強力な力を持つ反面、それを持つ人間との適合率を測定して、八十パーセント以上にならなければ貸与されない。しかも希望すれば誰でも通るというわけではなく、序列上位者か『星武祭(フェスタ)』で活躍した人間、あるいは特待生でもなければまず無理なのだ。

 とは言っても、イレーネが純星煌式武装を持っているのはそれだけが理由ではないのだが、その理由を語るのはもう少し先になる。

「あんな奴ら、あたしにとっては雑魚に過ぎねぇんだよ。放っておけば勝手に片づけてたって言うのに、余計な事しやがって……」

 ガシガシと不機嫌そうに髪の毛を掻くイレーネだったが、そんなイレーネに少年は静かに言った。

「……それでも」

「あ?」

「それでも、放っておけないよ。君は、女の子なんだから」

 その言葉に、イレーネはぽかんとした表情を浮かべた。それから思わず人差し指を自分に向けて、

「女の子? あたしが?」

「うん。それ以外に、理由なんかないよ。女の子が困ってたら助けるものじゃないの?」

 そう言った少年の目はあまりにまっすぐで、見ていると吸い込まれそうな力を持っていた。

 女の子扱いなどほとんどされた事が無いイレーネはそれを聞くと、どこか気まずそうにぽりぽりと頬を掻く。

「……ったく、喧嘩腰の奴らならまだしも、こう来ると調子が狂うぜ、まったく……」

 それから少年の顔に視線を戻しながら、

「ま、理由がどうであれお前には借りができちまったな」

 すると少年は少し意外そうな表情を浮かべた。

「借りだなんて、僕は別にそんなつもりで君を助けたわけじゃないよ」

「お前にそういうつもりが無くても、結果的とはいえあたしがお前に助けられたのは事実だ。だから、あたしはお前に借りがある。借りはとっとと返すに限る。それだけだ。何か頼みがあるなら聞くぜ。ま、あまりにぶっ飛びすぎる願いはお断りだがな」

 ニヤリ、と笑いながらイレーネは脅しのつもりなのかバキバキと拳を鳴らした。しかし少年はそれをあはは、と笑いながら流した。恐らく信じていないわけではないだろうが、弱気そうな見かけによらず随分と度胸の据わった少年である。少年は顎に手をついて、うーんと唸ってから何か思いついたような表情を浮かべた。

「あ、じゃあさ。この街を案内してよ。僕、入学したばかりだから学院はともかく街の事はよく分からないから。本当なら友達に頼もうかと思ってたんだけど、君が案内してくれるならちょうど良いし」

「ああ? 何だ、そんなんで良いのか?」

 あまりに簡単すぎる借りの返し方にイレーネが拍子抜けした声を出すと、少年は苦笑しながら返す。

「ぶっ飛びすぎるお願いはお断りだって言われてからね。これぐらいなら別に良いでしょ?」

「……ま、確かにな」

 彼の言う通り、妥当と言えば妥当な頼み事である。それぐらいなら別に引き受けても構わないだろう。

「んじゃ、明日で良いか?」

「うん、良いよ。じゃあ待ち合わせは学校の校門で良い?」

「ああ、構わないぜ。……そう言えば、お前名前は?」

 さっきから会話して、イレーネは少年の名前を聞いていない事にようやく気付いた。少年もまだ自分が名乗っていない事に気づいたのか、そう言えばそうだねと呟いてから自分の名前を告げた。

朱羅(しゅら)有真(ありま)朱羅(しゅら)。有名の有に真実の真。で、朱色の朱に羅刹の羅で朱羅」

「朱羅……」

 口の中で小さく呟きながら、イレーネは少年……朱羅の顔をじっと見る。いきなり自分の顔を見つめられて戸惑っているのか、朱羅が軽く身を引く。彼の名前を聞くと、同じ響きである阿修羅が脳裏に浮かぶが、それを思い浮かべて思わずイレーネはこう言った。

「……似合わねぇな」

「……よく言われる」

 言葉の通りなのか、朱羅はやや落ち込んだように言った。そんな彼の様子が少し可愛らしくて、イレーネはクスリと笑ってしまう。それを見て、朱羅は今度は怒ったような表情を浮かべた。先ほどからよくころころと表情が変わるな、とイレーネはそれを見て思った。

「笑うなんてひどいと思うよ。僕だって、気にしてるんだから」

「悪い悪い。でも良いじゃねぇか。強そうな名前でよ」

「むぅ……」

 朱羅は未だ納得していない様子だったが、強そうと言われて悪い気はしないのか引き下がった。それを見てイレーネは彼に言った。

「んじゃ、そろそろ帰ろうぜ。いつまでもここにいるわけにはいかないしな」

「そうだね。じゃあまた明日ね。イレーネ」

「ああ。今日は大きなお世話だったといえ、助けてくれてありがとな、有真」

 言葉とは裏腹に、ニッと明るい笑みを浮かべるとイレーネは彼に背中を見せて手をひらひらと振りながら自分が住むマンションへと帰って行った。

 朱羅もぶんぶんと腕を勢いよく振りながら、そこから去って行った。それをちらりと見て、イレーネは子供みたいだなと思いながら再び小さく笑った。

 それから、ふと思った。

 そう言えば、妹以外とこんな会話をするのは初めてかもしれないなと。 

 

 

 

 

 

 イレーネの家は、居住区にあるマンションの一室だった。

 高級マンションというほどではないが、清潔で洒落た感じの小奇麗な建物だ。

 ただし家とは言っても、その部屋はイレーネが普段使っているというだけである。普段使っている、という表現をするのにも理由がある。

 アスタリスクの六学園は全て全寮制であり、学生が市街地に暮らす事は原則として許可されていない。

 なのに何故イレーネがここにいるのかというと、理由は簡単でレヴォルフの『冒頭の十二人(ページ・ワン)』にはそういう特典があるからである。とは言っても、そういう特典があるとは公表されていない。あくまで知る者のみが知る特典である。

 なお、イレーネがわざわざ外に部屋を借りているのは、この場所がカジノ等がある『歓楽街(ロートリヒト)』が近いからである。彼女はある目的から金を稼ぐために、カジノにちょくちょく行っているのだ。

 そしてその部屋で、イレーネはリビングのテーブルセットの椅子に座りながら俯いて考え事をしていた。しばらく黙っていたが、やがて顔を上げると台所で料理を作っている妹に声をかけた。

「なぁ、プリシラ」

「何? お姉ちゃん」

 プリシラと呼ばれた少女は一旦料理の手を止めると、イレーネの方を振り向いた。イレーネと同じ髪を三つ編みにしており、顔立ちもよく似ている。ただし纏う雰囲気は正反対で、プリシラは優しく温厚そうな雰囲気を纏っている。だがこう見えて芯は強く、イレーネが何か良くない事をするとその瞬間大きな声を上げてイレーネを叱る事ができる唯一の人物でもある。

「有真朱羅って奴知っているか? お前と同じ一年生らしいんだけど……」

 その名前を聞いて、プリシラは顎に手をついて考え込んだ表情を見せた。同じ一年生と言っても、その数は多い。やっぱり知らないかとイレーネが思った直後、名前に聞き覚えがあったのかあっと声を上げた。

「もしかして、有真君かな?」

「知ってるのか?」

「知っているって言うより、同じクラスだよ。話した事は無いけど」

「そうなのか……」

 今日知り合った少年と、自分の妹が同じクラスだとは、これまた妙な縁があったものである。そんな事を思いながらイレーネは続ける。

「どんな奴なんだ? その……性格とか」

 すると、プリシラは少し怪訝な表情を浮かべながら、

「どうしたの? お姉ちゃん。いつもは人の事を聞いたりあまりしないのに……。あ! もしかして有真君と喧嘩でもしたんじゃ……!」

 言葉と共に、何故かプリシラの体から炎が立ち上るようなイメージがイレーネには見えた。まずい、と思ったイレーネは両手を振りながら慌てて言う。

「ち、違う違う! 今日ちょっとした事で知り合ってな。で、少し気になったんだよ。喧嘩なんてしてないってば!」

「……本当に?」

「ほ、本当だ」

 相変わらず自分に疑惑の目を向けて来るプリシラの質問に、イレーネは心の底から正直に答えた。それでもプリシラは疑わしそうだったが、やがて姉の言っている事が本当だと思ったのか「なら良し!」と笑顔で言った。それを見て、イレーネはふうと息をつく。日頃の行いが原因とはいえ、やはりプリシラから疑惑の目を向けられるのは心臓に悪い。プリシラの言う通り、喧嘩を少し控えるか……とイレーネが思った直後、プリシラが朱羅について話し始めた。

「性格とかはあまり話した事が無いから分からないけど……ただ、あまりレヴォルフの人っぽくないなーって思う」

「……? どういう意味だ?」

 イレーネが問うと、プリシラはキッチンの火が消えているか確認すると、イレーネのすぐ後ろまで近づいてきながら話し始めた。

「ほら、レヴォルフの生徒って、皆……ちょっと怖いでしょ?」

「ああ、まぁそうだな」

 そう言いながら、イレーネは頷いた。レヴォルフ黒学院の特徴で言うべきか、レヴォルフには他の学園と比べて不良の数がかなり多い。そのため、レヴォルフに属している生徒=不良という色眼鏡で見られる事もたまにある。イレーネの知る限りでも、レヴォルフで不良ではないのは自分の妹であるプリシラ、今日知り合った朱羅、そしてレヴォルフ黒学院の生徒会長『悪辣の王(タイラント)』ディルク・エーベルヴァインの秘書である樫丸ころなぐらいのものだろう。イレーネが首肯すると、プリシラがさらに続ける。

「だけど有真君は毎回ちゃんと授業に出席してるし、喧嘩も全然しないし……。むしろ大人しい人って感じ。正直言って、レヴォルフにいるのがすごく不思議な人」

「ふーん……」

 相槌を打ちながら、確かにそんな印象だったなとイレーネは思う。どこか頼りなさそうな顔立ちもそうだったが、何よりも自分の事を心の底から心配したあの目からは彼の優しい性格がうかがえた。今考えると、プリシラの言う通りレヴォルフにいる事が自体が不思議な少年である。それなのに何故彼は、レヴォルフにいるのだろう。

 ただ単純に悪ぶっているのに憧れてレヴォルフに入学したか、素行があまりにも悪すぎてレヴォルフぐらいにしか入れなかったという事もあるかもしれないが、彼がそのようなタイプの人間だとはどうしても思えない。しかしだからこそ、彼がレヴォルフにいる理由が分からない。彼ならば星導館学園に入学した方がもっと有意義な生活を送れたかもしれないし、もしかしたら聖ガラードワース学園にも入れたかもしれない。まぁあそこは校則もかなり厳しいので、彼がそれに縛られるのが嫌いな人間だと言うのなら仕方ないかもしれないが……。

 そんな風にイレーネがじっと考え込んでいると、それを見たプリシラが言った。

「だけど、珍しいね。お姉ちゃんがそこまで人の事気にするの」

「……確かに、そうだな」

 その通りかもしれない、とイレーネは思う。今までは生徒会長のディルクにある理由から借りた金を返すのに必死で、他人の事を気にする余裕などなかった。そんな自分が不良達から助けられたぐらいでプリシラ以外の人間を気にするなど、案外単純な人間だなとイレーネは自分で思いながら苦笑する。その様子を見て、プリシラが尋ねた。

「もしかして、有真君と友達になったの?」

「はっ、まさか。ちょっとあいつに借りができただけだ。そんなの、作ってる暇ねぇよ」

 妹の言葉を、イレーネは笑って一蹴した。

 そう、そんな暇はない。自分にやらなければならない事があるのだ。今日借りを返したら、また赤の他人に戻る。それだけだ。友達など、作る暇も必要もない。

「そう……」

 プリシラがそう呟くと、少し残念そうな表情を浮かべて調理に戻る。その後ろ姿を見ながら、イレーネは椅子の背もたれに寄りかかった。



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第二話 放課後の学園都市

第二話目です。レヴォルフの教室などについては原作では触れられていないので、基本的に自分の想像で書いています。そのため、ご意見がありましたらぜひお願いします。


 翌日、有真朱羅はレヴォルフ黒学院の教室で教師の授業を受けていた。彼以外に授業を受けている生徒はかなり少数で、ギリギリ二桁に届くか届かないという所だろう。

 しかし生徒の数はかなり少ないものの、教室は荒れ果てておらず、他学園と同じぐらいの綺麗さを誇っている。

 それには、ある理由が存在している。

 誤解されがちではあるが、レヴォルフには無秩序な退廃感はあまりない。秩序と規律の学園であるガラードワースの対極に位置する学園として、あるいは不良学生や彼らが根城としている再開発エリアのイメージから、レヴォルフ自体が酷く荒れ果てた場所のような印象を持つ者は多いが、その実態はやや異なる。

 確かにレヴォルフでは校則は無いに等しく、外からは個人主義の巣窟と呼ばれている。だが、ここには唯一絶対のルールが深く広く根付いている。

 即ち、強者への絶対服従だ。

 レヴォルフにおいては力こそが全てであり、勝利こそが何よりも尊ばれる。だが同時にそれがある種のブレーキの役割を果たしているのだ。過度に野放図なふるまいは、より強い力の顰蹙(ひんしゅく)を招きかねない。

 それらの理由のため、レヴォルフはあまり荒れ果てておらず、朱羅達が勉強するこの教室も荒らされていないのだ。

 やがて授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が教室を出ていくと朱羅は教科書やノートをまとめ始めた。すると、そんな彼にある人物が近づいてきていた。イレーネの妹のプリシラだ。

 朱羅は自分に近づいてきたその少女に気が付くと、彼女に声をかける。

「えっと、確かプリシラさん……だったよね?」

「はい、プリシラ・ウルサイスと申します。昨日お姉……姉から有真さんの事を聞いて、少し気になって……」

「姉……? あ、もしかしてイレーネの事?」

 はい、とプリシラが頷くのを見て朱羅は納得した。確かに目の前のプリシラには、昨日出会った少女の面影がある。しかし今まで話さなかったからとは言え、イレーネとクラスメイトであるプリシラの繋がりに気づかなかったとは、自分も結構間抜けだなーと思う。これでは自分を『抜けている』と散々評している友人達を笑えないな、と朱羅は思った。

「姉は有真さんとは友達じゃないって言ってたんですけど、姉が他人の事を話すなんてすごく珍しい事だから……」

「そうだったんだ……」

 まぁ確かに友達とは呼ばないかもな、と朱羅は思う。昨日は自分が勝手に彼女を助けた事だし、実際に彼女からは余計な事をするなと怒られた。今日街を紹介してくれと言われたがそれもただ単に貸し借りの問題だし、あれだけでは友人関係はさすがに成立しないだろう。

「でも、それも仕方ないと思うよ。昨日の事だって僕が勝手に首を突っ込んだ事だし、イレーネからなんて思われても仕方ないって思ってる。ま、後悔はしてないけどね」

「そうですか……」

 それを聞くと、何故かプリシラは落ち込んでいるような表情を浮かべた。どうしたんだろう? と朱羅が思った直後、プリシラは顔を上げて真剣な表情で朱羅の顔をまっすぐ見つめた。

「あ、あの……こんな事、本当なら私から言うような事じゃないかもしれないんですけど……」

「え?」

 朱羅が戸惑いの声を上げるが、プリシラはそれを無視して言葉を続ける。

「姉はちょっと乱暴で、口が悪くて、私が知らない間に他の人とよく喧嘩をしちゃうんですけど、でも本当なすごく優しい人なんです。戦えない私を、子供の頃からずっと護ってくれて……。だからその……できればで良いですから、姉と仲良くしてあげてください」

 そう言って、プリシラはぺこりと頭を下げると教室から出ていった。彼女の後ろ姿を見届けた朱羅は、姉想いな人だなと思った。恐らく彼女にとって姉はとても大切な人なのだろう。そうでなければ、今まで話した事もない自分にあんな事を告げるはずもない。朱羅がそんな事を考えながら再び帰り支度を始めると、今度は廊下から自分を呼ぶ声が彼にかけられた。

「おい、有真!」

 その声は聞き覚えのある声だった。朱羅がその方向に視線を向けると、案の定と言うべきかそこにはイレーネが立っていた。彼女はつかつかと朱羅に近寄ると、彼を見下ろして言う。

「さっさと行こうぜ。早くしねぇと帰るのが遅くなるからな」

「何か用事でもあるの?」

「別にねぇけど……。って、あたしの事はどうでも良いだろ! 早く立て!」

 乱暴に言いながらイレーネは朱羅の腕を掴んで無理やり立たせる。それに朱羅は苦笑しながら、彼女と一緒に教室を出るのだった。

 教室を出た二人はそのまま校舎を出て、市街地へと向かった。

 アスタリスクの市街地は、主に外縁居住区と中央区に分けられる。

 外縁居住区にはモノレールの環状線が通っていて、縁の部分にあたる港湾ブロックと居住エリア、さらには六つの学園を繋いでいる。それに対しては中央区での移動は地下鉄が中心だ。これは学生同士に決闘などが交通機関に影響しないように配慮した結果らしい。中央区はさらに商業エリアと行政エリアに分けられ、その中にステージが点在する形になっている。

 そして現在、朱羅とイレーネは中央区の商業エリアを歩いていた。

「――――で、あれがアスタリスク最大の規模を誇るメインステージだ。『星武祭』の決勝戦は全部あそこで行われる」

「へぇ」

 イレーネが指差す方向にある、巨大なドーム状の建物を見ながら朱羅が感想を口にする。

「まるでローマのコロッセオみたいだね」

「みたいというよりは、それをモチーフにしてるみたいだぜ? ま、自分達の願いのために戦う奴らにとってはお似合いだろうがな」

 どこか自嘲しているようにも聞こえる彼女の言葉を聞きながら、朱羅は別の事を尋ねた。

「そう言えば、治療院は行政区だっけ?」

「ああ。あそこには治癒能力を持った『魔女(ストレガ)』や『魔術師(ダンテ)』がいるからな。もしも大怪我をした場合は、世話になるだろうな」

 『魔女(ストレガ)』と『魔術師(ダンテ)』というのは、特異な力を持つ『星脈世代(ジェネステラ)』の中でもさらに特別な存在だ。万能素とリンクする事によってこの世界の法則を捻じ曲げる力を持つ者達、それが『魔女』と『魔術師』である。一説によれば『星脈世代』の中でも魔女や魔術師とてしての才能を発現する者は数パーセントに過ぎないという。そもそも増加傾向にあるとはいえ、『星脈世代』自体がまだ希少種扱いなのである。そのリアリティは、推して知るべしである。

 朱羅自身、今まで実際に接した事がある『魔術師』は一人しかいないのだから。

「あれ、でも治癒能力の『魔術師』って事は……もしかして、骨折程度じゃ普通の治療に回されるの?」

 すると、それを聞いたイレーネは少し意外そうな顔をしてから、にっと犬歯を剝き出しにして笑った。

「へぇ、見かけによらず結構頭は回るんだな。その通りだ」

 治癒能力系の能力は極めて少ない。

 そのためどの学園の生徒でも平等に治療が受けられるよう、協定によってアスタリスク直轄の治療院に集められているらしい。ただし手が回りきらないので、命に関わったり後遺症が残ったりするような怪我出ない限りは、能力者の治療は受けられないのだとか。

「あとは、お前にはあんまり関係なけど再開発エリアだな。あのあたりは一部がスラム化してて治安には問題があるが、知らずに迷い込む方がやばい。お前のような奴が迷い込んだら、カツアゲされて終わりだぜ?」

 ニッと笑うイレーネに、朱羅は苦笑を浮かべるしかない。物騒な話だが、これだけの人が集まる場所ではどうしてもそういった影の部分が生まれてしまうのだろう。

「だけど、再開発エリアにもそれなりに楽しめる場所はあるんだぜ? 歓楽街(ロートリヒト)とかな」

歓楽街(ロートリヒト)?」

 アスタリスクに来てまだ数日しか経っていないとはいえ、そのような街の名前は聞いた事が無い。するとイレーネがそんな朱羅のために説明をしてくれた。

「再開発エリアの一部に、合法非合法の店が集まっている場所があるんだ。歓楽街はそこの通称なんだよ」

「へぇー……」

 今日何度目かの相槌の声を出すと、良い事を思いついたと言わんばかりにイレーネが楽しそうな口調で言った。

「そうだ。どうせならこれから行ってみるか?」

「え、良いの?」

「お前一人だけだったら考えるけど、あたしも一緒にいれば大丈夫だろ。折角だし、案内してやるよ」

 そう言ってイレーネは朱羅を連れて、歓楽街へと歩き出した。朱羅は少し慌てながらも、イレーネの後をしっかりとついていく。

 そして十分後、朱羅は自分の目の前に広がっている光景に思わず息を呑んでいた。

 正直言って、再開発エリア全体から見れば歓楽街の大きさはさほど大したものではない。精々五分の一程度と言ったところだろう。

 だがメインストリートには人が溢れ、その賑わいは商業エリアの一等地にも引けを取っていない。

 しかし、その雰囲気と景観はまるで違う。

 居並ぶ店と店の間には階層ごとに通路が通され、何層もの空中回廊が空を覆っている。それを支える柱があちこちに乱立し、そこには秩序だったものがまるで見当たらない。無論、こんな無秩序が許容されているのはアスタリスクだけだろう。

 店もクラブやバーなどの酒類の提供を主とする飲食店から、地下カジノや風俗店などの違法店舗まで様々で、行き交う人々の年齢層も幾分高めに見える。学生らしき年頃の者達も少ないはないのだが、校章をつけているものはほとんどいない。本来学生が学園外へ出る場合、校章を外す事は許されていないため、仮に彼らが学生だとしたら軽微ではあるが『星武憲章(ステラ・カルタ)』違反である。

 しかしその事を朱羅が指摘すると、イレーネはこう説明してくれた。

「一応警備隊も巡回してるが、軽い違反なら取り締まりの対象にはならないんだよ。警備隊は常に人不足だし、キリが無いんだろうな。だから違法店舗への対応も同じだ。定期的な手入れをやってる以外はよほど悪質じゃない限り黙認って形になってる。でかい声じゃ言えないが、この辺りは歓楽街と都市議会の繋がりもあって、この都市の暗部の一つになってるんだよ」

「……なんだか、今日一日で別に知らなくても良い事をたくさん知ったような気がするよ……」

「はっ、違いないな」

 朱羅の言葉にイレーネが笑って肯定したが、それから何故かそれまでとは打って変わって真剣そのものの声音で言った。

「……だけど、真面目な話お前はここには一人で来ない方が良い。ここには、やばい奴らがいるからな」

「やばい奴ら?」

 ああ、とイレーネは頷いてから、

「元々再開発エリアは一部がスラム化してて、治安的に問題がある。色んな事情で学園にいられなくなった奴や、外から逃げ込んできた『星脈世代』の犯罪者とかがうろついてんのがその理由だな。ここは再開発エリアの外側に位置してるから治安は落ち着いてるが、その代わりここを取り仕切ってるマフィアみてぇな連中がいる。お前みたいな奴がこんな所を歩いてたら、連中の下っ端に目をつけられる可能性がある。一応奴らも堅気に手を出すほどじゃねえとは思うが、念のため気をつけろよ」

「うん、分かった。……ありがとう、イレーネ」

「はぁ? なんで礼なんか言うんだよ?」

 イレーネが怪訝な顔をして聞くと、朱羅は柔らかい笑顔で言った。

「だって、僕の事を心配してくれて言ってくれてるんだよね? 僕が一人で歩いてたら、襲われるかもしれないから」

「なっ……!」

 朱羅の言葉に、イレーネは思わず絶句した。それから慌てた口調で、彼の言葉を必死に否定する。

「そ、そんなわけねぇだろ! ただ単に、お前みたいな奴にここら辺をうろつかれたら邪魔なだけだ! 勘違いするんじゃねぇよ!」

「あはは、そういう事にしておくよ。……イレーネって、優しいんだね」

「………っ!」

 そんなとんでもなくくさい台詞を堂々と告げる朱羅に、イレーネは自分の顔が赤くなるのを感じた。今までそんな事を異性から言われた事が無かったイレーネはその顔を見られないように、必死に朱羅から顔を背ける。一方、イレーネをそんな行為に走らせた当の本人はきょとんとした表情を浮かべながら尋ねる。

「どうしたの? イレーネ」

「何でもねぇよ! そんな事より、こっちを見るなよ! もし見たらぶっ殺すからな!」

「……?」

 まったく意味が分からない、と言うかのように朱羅は首を傾げた。

 それから数分経ち、ようやく顔の赤みが引いてきたイレーネは朱羅を連れてある場所へ向かった。そこは、まるで警備隊の目を免れるかのように設置された場所……地下カジノの、その入り口だった。

「で、ここがカジノだ。カジノはここ以外にいくつかある。ここはその中でも、あたしがたまに来る店だな。ポーカーやルーレットとか、結構揃ってるぜ」

「へぇ。やっぱり、実際のお金が動いてるの?」

「そりゃあな。この街を取り仕切ってるマフィアみたいな連中がいるって事はついさっき話しただろ? 歓楽街のいくつかのカジノは、そいつらの重要な収入源になってるんだ。だからこそ実際の金を扱う必要があるんだよ。ま、あまりに違法な事をやり過ぎたらさすがに警備隊にかぎつけられる可能性があるから、そこの所は連中は慎重に行動してるみたいだがな」

「なるほどね……。ちなみに、このお店ってセーフ? アウト?」

「どちらかと言うとセーフだな。ってか、アウトだったらまず来ねえよ。そういう店は、イカサマとかを平気でしてくる連中が経営してるからな。さすがのあたしも、カモられに来る趣味は持ってねぇ。それ以前に、そんな店は叩き潰すしな」

「ふーん……って、もしかして君が昨日襲われてたのって……」」

 朱羅がジト目でイレーネを見ると、彼女はうっと気まずそうな声を出した。それからポリポリと頬を掻きながら、

「い、言っとくけど先にイカサマしてたのはあいつらだぞ。あたしはどっちかって言うと被害者だ。それに店だって叩き潰してはいねぇ。ただ、店員の奴らをちょっと痛めつけただけで……」

「いやもうそれアウトコースでしょ! 確かにイカサマをするのは僕もどうかとは思うけど、恨みを買うほど叩きのめしたの!?」

 イレーネがレヴォルフ黒学院で第三位の実力を持っているというのは、彼らも知っていたはずだ。しかしその恐怖を知ってもなお、彼らはイレーネを襲おうとしていた。一体、イレーネは彼らをどれほどボコボコにしたのか、朱羅はとても気になって仕方なかった。

 朱羅の言葉にイレーネは両耳を両手で塞ぎながら、まるで朱羅の言葉を遮るように大声で言った。

「い、今はそんな事どうでも良いだろ!? さっさと入ろうぜ! この店はイカサマもやってねぇし、喧嘩だってそうは起きねぇ! 上手くすりゃ一攫千金だ! 行くぞ!」

「ちょ、ちょっと待ってよイレーネ! 僕は別に一攫千金だなんて……!」

 だがそんな叫び声をあげる朱羅を無視して、イレーネはカジノの中へと入って行ってしまう。朱羅は深いため息をつくと、イレーネの後を追いかけるのだった。

 

 

 

  

 

 そして、日がすっかり暮れた二時間後。

「お前、何者だ?」

「え? 何が?」

 カジノから出てきた自分と一緒に出てきた朱羅を、イレーネが疑惑のこもった眼差しで見る。きょとんとした表情を朱羅が浮かべると、イレーネは叫ぶように言った。

「とぼけんな! スペードのロイヤルストレートフラッシュなんてあたしも見た事がねぇぞ!? イカサマ使ってるようには見えなかったし、どんなトリック使ったんだテメェ!?」 

 イレーネがここまで叫ぶのにはある理由がある。

 二時間前、カジノに入った朱羅とイレーネは最初はスロットなどを楽しんでいたのだが、イレーネに誘われてポーカーなどのカードゲームに参加した結果、思いもよらない事が起こった。

 何を仕掛けたのか、朱羅はポーカーで勝ちまくり、最後には滅多に見られないスペードのロイヤルストレートフラッシュをかましたのだ。どれぐらい凄まじいかと言われると、ロイヤルストレートフラッシュが出る確率が一般的に約六十五万分の一と言われている。それだけで、朱羅が何をやらかしたのか分かるだろう。

 その後もブラックジャックでは、ディーラーを相手に連勝していた。あの時の世界の崩壊を目の当たりにしたようなディーラーの顔を、恐らくイレーネは一生忘れる事ができないだろう。

 しかも恐ろしいのは、朱羅がイカサマなどを一切していない事である。イレーネ自身イカサマを何回か見破った事があるので分かるのだが、恐ろしい事にこの少年はただ単純に実力のみであれだけの事をやらかしたのである。これで気にならない方がおかしい。朱羅は歩きながらあははと笑い、

「別に良いじゃない。勝った分のお金だって、ほとんどはイレーネにあげたんだし」

 ポーカーやブラックジャックで勝利を重ねた結果、朱羅は結構な額の大金を得たが、本人はそれを独り占めするような事はせず、七割をイレーネに渡していた。だが、イレーネもそれで誤魔化す事ができるような性格の持ち主ではない。

「それとこれとは話が別だ! 良いから答えろよ!」

 それを聞くと、朱羅は渋々話し始めた。

「別に難しい事はしてないよ。ポーカーの場合は、相手がどんな手札を持っているかとかを論理的に考えて、単純に自分が不利な場合はチップを少なくしたり、逆に有利な時はチップを増やせば、案外簡単に勝てるよ。あとは自分が有利な手札を持っているように見せかけたり、相手の様子を見て自分の不利を悟ったりかなぁ……。あ、言っとくけど今日のスペードのロイヤルストレートフラッシュは完全にまぐれだよ。流石に僕でもあんな事は狙ってできないからね」

「そうなのか……。じゃあ、ブラックジャックは?」

「ブラックジャックはちょっと頭を捻るね。カウンティングって知ってる?」 

 突然出てきた単語に戸惑いながらも、イレーネは自分の記憶からそれに該当する知識を引っ張り出す。

「確か……すでに使ったカードを記憶して、まだ使っていないカードの山の中にどんなカードがどれほど残されているか読む技術……まさかお前、できるのか!?」

 そんな事ができるのであれば、もはやカジノでは敵なしである。イレーネは思わずく目を剥くが、朱羅は何故かあははと笑った。

「さすがに全部は覚えられないよ。僕にできるのは精々半分のカードを記憶する事。それ以上は難しいし」

「じゃあ、何で……」

「半分覚えられるって事は、まだ見てない半分のカードを予測する事はできるって事。ディーラーもやられっぱなしを阻止するためにシャッフルとかして防ぐんだけど、シャッフルにも個人の癖のようなものはあるんだよ。たくさんシャッフルする人もいるし、逆にそれほどしない人もいる。その癖のようなものが分かればどのカードがどの位置にあるかは何となく分かるんだ。イレーネも練習すればできるようになるよ」

「………そうかぁ?」

 朱羅が言うと簡単そうに聞こえるが、いくら何でも練習だけでそんな芸当ができるようになるとはとても思えない。自分としては、個人の才能とやはり運が関わってくるのではないかというのが正直な意見である。

 しかし、それにしてもやはり朱羅の強さは尋常ではない。それが少し気になって、イレーネは朱羅に尋ねた。

「だけど、そうだとしても随分ギャンブルの仕方を分かってるんだな。お前もしかして、一流のギャンブラーか何かか?」

「………別にそういうわけじゃないよ。ただ理由があって、それで色んな訓練をしたらそういう事が得意になっただけ。あれは副産物みたいなものだよ」

「……? じゃあその理由って、一体」

 何なんだよ、と言いかけたイレーネの言葉が途中で止まった。何故なら朱羅の顔に一瞬ではあるが、深い悲しみの表情が現れていたからだ。昨日知り合ったばかりとはいえ、彼のその表情を見てイレーネは、何故か自分の胸が強く締め付けられたように痛むのを感じて、彼への質問を止めていた。

「イレーネ? どうしたの?」

 朱羅が不思議そうな目で自分の顔を見つめているのを見て、イレーネは自分が道の真ん中で立ち止まっている事に気づいた。それから朱羅の顔を見ると、先ほどまでの表情はもうどこかへと消えてしまっていた。

「な、何でもねぇよ。それより早く帰ろうぜ」

「……?」

 すたすたと自分の前を素早く歩くイレーネを見て、朱羅は首を傾げた。

 それからしばらく歩き続け、さらに外縁居住区を通るモノレールに乗った二人はようやく居住区へとたどり着いた。二人は歩きながら他愛ない会話を交わしていたが、イレーネの住むマンションの前まで来るとそこで別れの挨拶を互いにする。

「じゃあまたねイレーネ。今日は楽しかったよ」

「ああ。これで、貸し借りは無しだな」

「あ、そっか……そうだよね」

 と、少し残念そうに朱羅は言った。今日彼女が自分に街案内をしてくれたのは、彼女が絡まれていた所を自分が助けた借りを返すためだ。今日の街案内で彼女の自分に対する借りは無くなったので、これで彼女と自分は赤の他人に戻るという事になる。すると、イレーネがそんな朱羅にこう言った。

「んな顔すんなよ。街ならまた案内してやる」

「え? どうして?」

 貸し借りはもう無くなったはずである。朱羅が尋ねると、イレーネは気まずげに目を逸らしながら、

「あー、それはあれだ……。認めるのは癪だけど、今日はあたしも久々に楽しめた。だから、暇だったらまたどこかに連れてってやるよ。お前がいれば、金も入ってくる事が分かったしな。それだけだ。他意はねぇよ」

「………」

 彼女の説明を聞いて朱羅はきょとんとしていたが、やがてくすりと笑った。

 何故なら、良かったと思ったからだ。

 これで彼女との縁が切れるわけではないと決まったわけではないのが。

「何がおかしいんだよ?」

「ううん、別に何でもないよ」

「ったく……。ま、良いか。じゃあな朱羅」

「うん、また……え?」

 突然奇妙な声を上げた朱羅に、イレーネは怪訝な瞳を向けながら尋ねた。

「今度は何だよ?」

「いや、だって今名前……」

 それにイレーネは、ああと彼の言っている事に気づくと、気軽な口調で告げる。

「別に良いだろ? 何か文句でもあんのか?」

「いや、無いけど……」

「じゃあ、それで良いじゃねぇか。……またな」

 そこでイレーネはポリポリとどこか恥ずかしそうに頬を掻きながら、最後の部分を小さい声で言った。

「………うん。またね、イレーネ」

 朱羅は一瞬驚いたように目を見開いていたが、やがて柔らかい笑みを浮かべるとイレーネに言う。その表情を見てイレーネも柔らかい笑みを浮かべると、彼に背を向けてマンションの中へと入っていく。そして朱羅も、自分が住む学生寮へと帰っていくのだった。

 

 

 

 

 

「――――ってわけでよ、すごいんだぜあいつ。ポーカーでロイヤルストレートフラッシュ出す奴なんて、あたしは初めて見たよ。あんな事、狙ってできるような事じゃないんだぜ?」

「へぇ、そうなんだ」

 夕食を準備して自分を待っててくれていたプリシラと一緒に食卓に着いていたイレーネは、今日の出来事を妹に楽しそうに話していた。プリシラもイレーネの話に耳を傾けながら、クスクスと楽し気に笑っている。

「……だけど、良かった。お姉ちゃん、朱羅さんと友達になったんだね」

「え? いや、そりゃあ一緒に街を歩いたりしたけど、友達ってわけじゃ……」 

 妹の言葉をイレーネが否定すると、プリシラは穏やかな笑みを浮かべたまま首をふるふると横に振る。

「ううん。もうお姉ちゃんと朱羅さんは、お友達だと思う。だって今のお姉ちゃん、すごく楽しそうに話をしてるもの。そんなお姉ちゃん、私すごく久しぶりに見たよ。きっと、お友達と一緒に歩いたからだって私は思う。だから、もう朱羅さんとお姉ちゃんはお友達なんじゃないのかな?」

「……あたしと、あいつが?」

 うん、とプリシラは頷いた。イレーネはしばらく考え込んでいたが、ふっと笑みを浮かべると呟いた。

「……そうか。あたしとあいつは、友達なのか……」

 今まで自分に友達などいなかった。持つ暇も、持つ余裕もないと思っていた。

 だが、これが本当に友達を持った結果抱く事の出来る感情だと言うのならば。

 それは、確かに悪くないかもしれないとイレーネは思った。

「……また」

「うん?」

「また明日、朱羅とどこかに行ってくる。悪いな、プリシラ。帰りが少し遅くなるかもしれない」

 しかしプリシラはにっこりと笑顔のまま、

「ううん。私は大丈夫だから気にしないで。それよりもお姉ちゃん、お友達は大切にしなきゃだめだよ? あと行く場所にも! 歓楽街は危ないし、せめて商業区に行く事! 朱羅さんが一緒なんだから、喧嘩なんてしない事! あとそれから……」

「ああもう分かってる! 分かってるから大丈夫だよプリシラ!」

 妹の注意にそう返しながら、イレーネは笑う。

 また会える少年の笑顔を、そして彼とこれから過ごすであろう日常を、思い描きながら。



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第三話 有真朱羅の過去

今回、朱羅の過去に触れます。


 イレーネが朱羅と知り合ってから十日ほど経った。

 その十日間の間に起きた変化を挙げるならば、まずイレーネ・ウルサイスの行動の変化だろう。

 今までは一人で行動していた彼女だが、朱羅と出会ってからは彼と行動を共にする事が多くなった。その分帰るのが少し遅くなってしまっていたが、妹のプリシラはそれに関しては何も言わず、それどころかニコニコしてイレーネの帰りを待っていた。

 一方イレーネの行動はと言うと、まず一番行く回数が多いのはやはり歓楽街のカジノだった。プリシラからは治安の問題から行くのを注意をされていたものの、自分にはどうしても金が必要なのである。だから妹には悪いと思いながら、彼女は朱羅を連れてカジノへちょくちょく足を運んでいた。それには朱羅も何も言わず、たまにポーカーやブラックジャックで大金を得てから分け前としてイレーネに渡していた。

 だが、イレーネもカジノばかりに行っているわけではない。たまに彼と一緒にゲームセンターでゲームなどに興じたり、また自分一人では滅多に行かないアパレル店へ一緒に向かったりと、自分には一生縁がないと思っていた高校生らしい生活を送っていた。前までは馬鹿馬鹿しいと思っていた生活だが……こうしてみると、案外楽しいものだなとイレーネは思う。

 さらに、まだ二人だけだが、時間ができたら自分と朱羅、そしてプリシラの三人でどこかへ行くのも悪くないかもしれないとも彼女は考えていた。

 前までは想像できなかった生活だが……これだけは胸を張って言えるとイレーネ・ウルサイスは確信していた。今の生活は……自分が過ごしてきた人生の中で、最も幸せな時期だと。

 

 

 

 

 そんな、ある日の事。

 授業が終わり、朱羅とイレーネが二人揃って校門を出た時だった。

「え、イレーネの家に?」

「ああ。良かったら、今日飯食いに来ないか? どうせ夜お前暇だろ?」

 驚いたような声を出す朱羅に、イレーネはそう言った。

 話のきっかけは、今日の放課後はどこに行こうかと朱羅が尋ねた事だった。近いうち彼にプリシラの事を紹介しておきたいと考えていたイレーネが、今日はうちに来ないかと誘ってきたのだ。

 基本的に放課後の予定は空いている朱羅だが、時々何らかの予定が入っている事がある。だが夜ならばさすがに彼の用事も終わっているだろうし、その時間帯ならば彼を夕食に誘う良い口実にもなる。

 だが朱羅は困ったように頬を掻きながら、

「だけど、僕が行って大丈夫? 突然押しかけるような事になったらプリシラさんにも失礼だし……」

「いや、それなら大丈夫だ。昨日あたしからプリシラに言っておいたからな」

 昨日、明日朱羅を夕食に誘いたいとイレーネがプリシラに相談すると、彼女は喜んで賛成してくれた。なんでも彼女の方も、イレーネの友達として付き合ってくれる朱羅と色々と話したかったらしい。今頃は朱羅が来るのを楽しみにしながら、三人分の夕食の具材を買い込んでいるだろう。

「そうなんだ……。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔しようかな」

「おう」

 そう返事をしながら、イレーネはほっとする自分に気が付いていた。

 これで朱羅に断られでもしたら、自分は恐らく落ち込みながら帰路につく事になっていただろう。何せ、朱羅が何らかの用事で自分と一緒に過ごせなかった日は、少し寂しい気分に陥ってたからだ。 

 彼と出会う前の自分ならば、そんな気分にならなかっただろう。むしろ、一人の方が気楽だと考えていたはずだ。だが最近は、彼と一緒にいないとどこか物足りなさを感じてしまう。まぁこんな事はあまりにも恥ずかしすぎて、朱羅はおろかプリシラにすら言えていないのだが……。

(………ったく、あたしもすっかり大人しくなったもんだな……)

 朱羅と出会って変わった自覚が無いと言えば噓になる。

 例えば、前と比べて喧嘩する回数が減った。

 例えば、前と比べて笑う回数が増えた。

 例えば、前まではつまらないと感じる事を楽しむ事ができるようになっていた。

 朱羅と出会って色んな事が新鮮に感じる。だがそれは、決して不快なものではない。それどころか、自分の知らない事にどんどん出会っていく楽しみを感じる事ができる。

 自分をそのように変えたのは、紛れもなく目の前を歩く少年なのだ。

(………朱羅)

 少年の背中を見つめながら、イレーネは心の中で彼の名前を呟く。

 有真朱羅。レヴォルフには似つかわしくない、誠実で心優しい少年。

 彼と出会って一緒に行動を共にするようになって様々な事を知ると同時に、彼の様々な一面もイレーネは知るようになっていた。こうして歩いているだけでも、それらを次々と思い出す事ができる。

 例えば、朱羅は基本的に制服でいる事が多いが、私服をまったく着ないわけではないらしい。前に聞いた限りでは、どうやらネクタイを用いたファッションを好んでいるようである。

 また、彼自身男子高校生にしては背が低い事を気にしており、様々な方法を試してみたが、どうしてもそれ以上伸びないらしい。ここが僕の身長の限界なのか……と真剣に悩んでいる彼を見て少し笑ったのは、イレーネだけの秘密である。

 そして、どうやら彼には高校に入学してからの付き合いである友人が二人ほどいるらしい。イレーネが同じレヴォルフなのかと聞いたところ、どうやらそのようである。どんな奴らなんだとイレーネが聞くと、彼は微妙な表情をしていた。その理由のわけを聞くと、どうやら一人はともかくもう一人がそこそこクセが強い性格らしい。しかし二人共悪い人間ではないので、会えばすぐに打ち解けられるかもしれないと彼は笑っていた。

 そう、この十日間でイレーネは本当に朱羅の様々な一面を知った。だが、だからこそ思う。

 なんで朱羅が、このアスタリスクにいるのだろうと。

 こうして見ている限り、朱羅には特に全てを投げ打ってでも叶えたい願いがある理由には見えない。彼は自分のような人間とは違い、日向の世界を歩くのがふさわしい人間である。誰かのために怒り、誰かのために笑う事のできる優しい人間だ。

 そのような人間が何故アスタリスクに……さらに言うのならば、レヴォルフなど不良達が集まる学園にいるのだろうか。

 そう考えて、イレーネは足を止めた。するとそのイレーネに気づいたのか、朱羅も足を止めて彼女の方に振り替える。

「どうしたの? イレーネ」

 だがイレーネは何も答えない。ただじっと、朱羅の顔をまっすぐ見つめている。

 今までイレーネは、その質問を朱羅にはしてこなかった。どんな理由があろうとも朱羅は朱羅だし、そもそも人の過去を無理やり尋ねるような真似を彼女自身したくなかったからだ。

 しかし、今の彼女はどうしても聞きたかった。朱羅がここにいる理由を。彼がどういう願いを持って、ここに来たのかを。例えその結果彼に嫌われるような事になったとしても……聞かなければならないと、イレーネは思った。

 ドクドクと自分の心臓がうるさいぐらいになるのを感じながら、イレーネは息を吸う。そして彼の何の悪意もない目を見て、口を開いた。

「なぁ、朱羅。お前は……」

 だが、その瞬間。

「いたぞ!」

 二人の耳に、そんな大声が響いた。それにイレーネがはっとして周囲を見回すと同時、二人の周囲を複数の少年達が取り囲んだ。イレーネは朱羅を背後に隠すように立ちながら、数を確認する。

 少年達の数は多く、もしかしたら二十人以上はいるかもしれない。彼らの手には煌式武装が握られており、さらに全員の胸元には朱羅やイレーネと同じレヴォルフの校章が着けられている。たったそれだけで、イレーネはこの少年達の目的に気づいた。

「くそ、目的はあたしか……!」

 イレーネが悪態を吐いた直後、少年達の中から一人の少年が出てきた。

「よく分かってんじゃねぇか、『吸血暴姫(ラミレクシア)』!」

 その少年には見覚えがあった。忘れもしない、朱羅と初めて出会ったあの日。自分を大勢で取り囲み、襲撃しようとした少年達のリーダー格だ。イレーネはチッと舌打ちすると、

「まだ諦めてなかったのかよ。うざってぇな」

「何とでも言いやがれ! 俺達には俺達の面子ってもんがあるんだよ! それを潰されて黙ってられるか! 言っとくが、この数相手に逃げられると思うなよ! 今日こそはテメェをぶっ潰してやる!」

 少年の怒号と共に、周りの少年達が煌式武装(ルークス)を起動する。彼らの手に握られた武器は剣、ナイフ、銃など様々だ。彼らを見てイレーネははぁ……とため息を吐くと、自らも純星煌式武装、『覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)』の発動体を取り出しながら後ろの朱羅に小さな声で言う。

「(……朱羅。ここはあたしが引き受ける。お前は連中の隙を見てさっさと逃げ……)」

 だが、そのイレーネの声を遮るように朱羅が口を開いた。

「一つ、聞いて良い?」

「ああ!?」

 朱羅の言葉に、リーダー格の少年が脅すように声を上げる。朱羅の突然の行動にイレーネは目を見開くが、朱羅

男の脅しにもまったく動じずに続けた。

「話を聞いている限りだと、悪いのはイレーネじゃなくてイカサマをした君達だよね。確かに暴れたイレーネも悪いかもしれないけど、こんな事するのはいくら何でも筋違いじゃないの? ここはよく話し合ってさ……」

「うるせぇ! 何も知らねぇ奴は黙ってろ! 口を出すって言うなら、テメェもぶっ潰すぞ!」

 すると。

 すっ……と、朱羅の目が細くなった。それから静かな口調で少年達に告げる。

「……僕、喧嘩は嫌いだけどさ、あんた達(・・・・)みたいな連中は一番嫌いだ」

「朱羅……?」

 空気が変わった朱羅にイレーネが声をかけるが、朱羅は何も返答せずに煌式武装(ルークス)を取り出し、展開させる。

 展開された朱羅の武器は剣だった。だが普通のブレード型の煌式武装とは違い、刀身が長い。恐らく彼専用に調節された武器なのだろう。朱羅が煌式武装を展開させるのを見て、少年達が殺気立つ。ナイフ形の煌式武装を強く握りながら、リーダー格の少年が言った。

「へっ、バカな奴だ。この数相手に勝てるとでも思ってんのか?」

「………」

「怖くて言葉も出ないってか。ま、助けてって泣き叫んでも容赦しねぇから覚悟し……」

 刹那。

 少年の体が、上方に勢いよく吹き飛ばされた。

『は?』

 その声を出したのは、吹き飛ばされた少年本人か、周りの少年達か、それともそれを見ていたイレーネか。

 だが、分かる事が一つだけある。

 朱羅が素早い動きで一気にリーダー格の少年に接近し、手にした剣で少年を思いっきり真上に吹き飛ばしたのだ。

 吹き飛ばされた少年は重力に従って落下し、地面に衝突する。それからピクリとも動かない所を見ると、恐らく気絶しているのだろう。呆然としている少年達を目の前にしながら、朱羅はくるりと剣を回しながら言う。

「先手必勝ってね。少し卑怯くさいけど、だらだらと喋ってるあんたも悪かったよ」

 その言葉でようやく我に返ったのか、周りの少年達が一斉に叫び声を上げた。

「テメェ、よくやりやがったな!!」

「不意打ちで一人潰したからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」

「かかれ! ぶっ殺してやる!!」

 そして、朱羅に約三十人ほどの少年達が一斉に襲い掛かった。

「朱……!」

 だが、叫びかけたイレーネの目に驚くべき光景が飛び込んできた。

 朱羅は少年達の攻撃を次々とかわしながら、少年達の体に的確に斬撃を叩きこんでいたのだ。

「なっ!?」

「速っ……!」

 そう言いかけた少年の腹部に斬撃を食らわせながら、朱羅はさらに戦場を駆け抜ける。

 斬撃の威力、速度、剣さばき、さらには戦場を駆け抜けるその速度。どれも戦いから離れている素人のものではない。どれも幾度もの戦闘を経験している、戦士のレベルだ。

「テメェ!」

 激昂した少年が朱羅にナイフを振り下ろすが、朱羅はその攻撃を避けるとカウンターと言わんばかりに顔面に剣の柄による強烈な打撃を食らわしてやる。少年は鼻から鼻血を盛大に出しながら、地面へと崩れ落ちた。さらに背後から別の少年が剣で朱羅を攻撃しようとするが、まるで背中に目でもついているかのように朱羅は素早く振り向くと腹に斬撃を叩きこむ。

 それから一人の少年に狙いを変えると、素早い動きで少年との距離を詰めて跳躍する。

「へっ馬鹿が! 空中ならかわせないだろ!」

 そう言いながら少年は銃を朱羅に向けて、引き金に指をかける。あれでは剣が相手に届かないし、何よりも空中では自由に身動きができない。魔女や魔術師ながら空中飛行も可能かもしれないが、朱羅は魔術師ではない。

「朱羅!」

 それにイレーネが叫び、空中で朱羅が剣を振るった直後。

 銃を向けていた少年の体が、勢いよく吹き飛ばされた。

「な、何だ!? 何が起きた!?」

 少年達の間に困惑が広まる中、朱羅はたん、と軽い音を立てながら地面に着地する。

 その手に握られた武器を見て、少年の一人が思わず叫んでいた。

「槍、だと!?」

 そう。いつの間にか朱羅の手に握られている武器が、剣から槍に変わっていたのだ。

 別に武器を戦闘中に交換するのは珍しい事ではない。だが、問題は朱羅がいつ武器を交換したのか分からないのだ。さっきまで剣を握っていたはずなのに、いつの間にか槍が握られていた。

 だが、そんな少年達の困惑を無視して朱羅が再び動き出す。朱羅は凄まじい速度の突きで目の前にいた少年達を三人ほど吹き飛ばすと、まるで棒高跳びのように槍の刃を地面につきたてると高く跳躍して体をくるんと勢いよく回転させる。

「はぁあああああっ!!」

 そして回転の勢いが加わった槍の一撃が、少年に叩き込まれる。その威力はかなりのもので、叩き込まれた少年は一撃で気絶し、地面にはクレーターが入っている。

「この野郎!!」

 着地した朱羅を少年の一人が剣で奇襲するが、朱羅は槍の柄を短めに持つと槍の柄で少年の剣の一撃を防御する。さらに剣を弾くと、槍を短く持った状態のまま腹に強烈な一撃を食らわしてやり、再び長めに持ってから今度は強烈な横殴りの一撃で複数人を一気に吹き飛ばす。

 それから朱羅は勢いよく走りだすと、少年達の群れに突っ込んで体を勢いよく回転させる。するとそれに合わせるようにして、少年達の体が勢いよく吹き飛んだ。吹き飛ばした当人の両手には、今度は槍ではなく双剣が逆手で握られている。

「こ、今度は双剣!?」

 少年が怯えた声を出すが、それがまずかった。朱羅はダンッ! と地面を力強く蹴ると少年目がけて走り出す。

「ひ、ひぃいいいっ!!」

 情けない声を出しながら少年が盾を展開して防ごうとするが、もう遅い。朱羅は高く跳躍すると、体を回転させながらあるものを振りかぶる。その両手にあるものを見て、少年は呟いた。

「……斧」

 朱羅の両手に握られた、持ち主の身長以上の長さを持つ戦斧は、盾もろとも少年を叩き潰した。

「な、何なんだよこいつはよぉ!!」

「一体いつ武器を変えたって言うんだ!? まさか、魔術師か!?」

 少年達が恐怖のあまりそんな事を言う。だが、戦況を見ていたイレーネはある事に気づいていた。

(……違う。魔術師の能力じゃねぇ。あれはただ単に、早く切替(スイッチ)してるだけだ!)」

 そう。 

 まるで魔法か何かのように朱羅の武器が次々と変わる理由は、とても単純明快。手にしている煌式武装を発動体に戻し、瞬時に別の発動体へと交換、再び起動しているだけだ。魔術師の能力でも何でもない。

 ただ、その交換速度が桁外れなのだ。レヴォルフでも序列三位の実力を持つイレーネが、朱羅が発動体を交換する際の動きがはっきりと見えないぐらいである。分かるのは、朱羅の手と武器が一瞬ぶれた次の瞬間には、別の武器に切り替わっているという事実だけである。イレーネでもそうなのだから、不良達の目にはもはや魔法のように武器が切り替わっているようにしか見えないだろう。

(……なんて奴だ)

 戦場で武器を交換しながら戦う朱羅を見て、イレーネは思わず生唾を飲みこんでいた。

 武器が交換するのが見えないと言われても、それがどうしたと考える人間が多いかもしれない。確かに交換速度が速いのは事実だが、それが戦いでどういう役に立つのかが分からないからだ。利用できるとすれば、手品ぐらいしかないだろうと多くの人間は思うだろう。

 しかし、考えてもみて欲しい。もしも自分が戦っていた相手が、突然剣から他の武器に切り替えたらどう思うだろう。それもまるで魔法のように一瞬の間に、だ。

 その結果が目の前の少年達だ。今まで戦っていた相手の武器である剣が当然槍に切り替わり、槍だと思っていたら双剣に、双剣だと思ったら戦斧に。例え一人の敵を相手に様々な戦闘パターンを考えていたとしても、それはあくまで相手が『剣』を使っていた場合の話だ。それ以外の武器を持ち出されてきたら、大抵の相手には必ず隙が生じる。その隙を、朱羅という少年は見事に突いてきている。

 しかもそれだけではない。ただ武器を変えるだけでは単なる奇策止まりだが、朱羅の場合はあらゆる武器を使いこなしている。普通剣を扱う者が槍を使ったとしても、やはり剣と比べると技量に差が出てきてしまう。

 が、朱羅にはそれが無い。あらゆる武器を交換したとしても、他の武器と比べてその差がまったく出ていない。そのせいで相手は朱羅の隙を突こうにもまったく突けないでいる。当然だろう。あらゆる武器を同じレベルで使いこなす戦士など、捜してもなかなかいないのだから。

 誤解が無いように言っておくと、朱羅自身の剣の腕は確かに良いが、一流というほどではない。剣術の腕ならば、星導館学園の序列一位『疾風迅雷』の刀藤綺凛や聖ガラードワース学園の序列一位『聖騎士(ペンドラゴン)』のアーネスト・フェアクロフに軍配が上がるだろう。

 だが、剣以外の武器を使いこなす朱羅の腕前が、それを見事にカバーしている。

 剣で駄目ならナイフ。

 ナイフで駄目なら銃。

 銃で駄目なら槍。

 槍でも駄目なら戦斧。

 あらゆる武器を使って相手の行動パターンと弱点を学び、それに合わせた武器と戦法で相手を倒す。

 戦況を変えるだけではなく、戦況を作り出す事すら可能にする。

 それは、悪く言えば器用貧乏だ。

 だが、器用貧乏だと侮る事なかれ。

 少しでも気を緩めれば、次の瞬間変幻自在の攻撃に体を貫かれる事になる。

(これが……朱羅の戦い方……!)

 朱羅の戦闘を見たイレーネは思う。 

(こんなの……在名祭祀書(ネームド・カルツ)……、いや、冒頭の十二人(ページ・ワン)クラスじゃねぇか……!)

 そうイレーネが思った直後、少年の一人が壁に叩きつけられた。見てみると、大勢いた少年達があと一人になってしまっている。倒れた少年達の中心には朱羅が剣を持って佇んでいた。

「…………」

「ひっ……!」

 朱羅が残った一人の少年を睨み付けると、少年はナイフを持ったまま怯えた声を出した。

 それも当然だろう。見た目は童顔の少年に、あっさりと自分の仲間達が倒されてしまったのだから。ざ……と朱羅が少年に一歩近づくと、少年が叫んだ。

「う、うわぁああああああああああああっ!!」

 少年は滅茶苦茶にナイフを振り回しながら朱羅に襲い掛かるが、そんなものが朱羅に通じるはずもない。朱羅はあっさりとナイフを避けると、剣の柄で少年の腹部を思いっきり殴った。すると口から胃液を吐き出しながら、少年は意識を失った。それを見て朱羅は無言で煌式武装の起動を解除すると、制服にしまいこんだ。

「……」

「お、おい。朱……」

 イレーネが、朱羅の名前を呼んだ直後。

 フラリ、と。

 朱羅の体が、突然前に倒れこみそうになった。

「朱羅!?」

 まさか先ほどの戦闘で怪我をしたのかと思ったイレーネは慌てて朱羅に駆け寄って体を支えるが、彼の顔を見て思わず表情を強張らせた。

 朱羅の顔は青白く変色しており、瞳は焦点が合っていない。しかも体が小刻みに震えている上に荒い息までつき、まるで何かの病気にかかってしまったかのように見える。

「おい朱羅! しっかりしろ! おい!」

 イレーネが必死に声をかけるが、朱羅からは何の言葉も帰ってこない。ただカタカタ、と体を震わせている。もしかしたら、イレーネの言葉すら今の彼の耳には入っていないのかもしれない。

「……くそ、少し待ってろよ!」

 何が原因かは分からないが、とりあえず休ませる必要がある。そう考えたイレーネは朱羅の体を背負い、急いでその場から走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――その日の事は、今でもはっきりと覚えてる。 

 自分の人生の中でもっとも残酷なのに、どうしても忘れる事ができない最悪の記憶。

 その記憶は、九年経った今でも夢として少年を苦しめる。

 母親が自分と父親に美味しい料理を作ってくれた台所。

 そこで倒れる見知らぬ女性。

 彼女の目は虚空を睨んでおり、彼女の命がもうこの世にはない事を何よりも証明していた。

 女性の腹から流れる大量の血。

 鉄くさい血の匂いと自分の頬と手にかかった血の生温かさ。

 そして、自分の手に握られた包丁の刃には、女性の血がべっとりと付着していた。

 それは、少年がその女性を殺した事を否応なしに突き付けている。

 どうしてこうなったのだろう、と少年は思う。

 自分はただ、平和な世界で生きていたかっただけなのに。

 ただ誰かを護りたかっただけなのに、と死体を目の前にしながら思った。

 だが、彼は知らない。

 この事件が、彼の運命を大きく狂わせるきっかけに過ぎないという事を。

 地獄は、これから始まるのだという事を。

 少年は。

 有真朱羅という少年は、何も知らずにいた。

 

 

 

 

 

 

 

「………」

 朱羅が最初に感じたのは、横たわった自分の体が何か柔らかいものに包まれているという事だ。最初は自分の部屋かと思ったが、自分の部屋に戻ってきた記憶がない。というよりも、頭が何かもやにかかっているような状態になっており、うまく物事を思い出す事ができないと言った方が正確だろう。

 とりあえず状況を確認するために朱羅が目を覚ますと、彼に声が掛けられた。

「朱羅……!」

 彼がその方向に目を向けると、イレーネ・ウルサイスが椅子に座りながらいつもの彼女らしくない心配そうな目を自分に向けていた。朱羅は起き上がると、周りに目を向ける。

 学生寮の自分の部屋ではない。部屋には今自分が寝ているベッドや本棚ぐらいしかなく、個人の私物らしきものがまったく無い。その本棚にすら、本は一冊も入ってなかった。朱羅は未だぼやけている頭を抑えながら、イレーネに尋ねる。

「ここは……?」

「あたしのマンションの部屋だ。お前、何があったか覚えてるか?」

 イレーネからそう言われて、朱羅はようやくここに来る前の事を思い出した。

 確か前にイレーネに因縁をつけていた不良達に囲まれて、それで自分が応戦して、戦闘が終わった後に体調が悪くなって……。

「……ああ。やっぱりこうなったのか……」

「やっぱり……?」

 イレーネが怪訝な顔をするがそれに朱羅は答えず、代わりにイレーネにこんな質問をした。

「僕、どれくらい寝てたの?」

「気を失ったお前を背負って、家に着いたのが大体四時ぐらいだったから……三時間半ってところだ」

 そっか……と朱羅は呟いてから、ベッドから立ち上がろうとする。しかしまだ体調が万全ではないのか、くらりとめまいを感じて体がふらついてしまう。

「お、おい!」

 慌てたイレーネが椅子から立ち上がって朱羅の体を支えると、怒ったような口調で言う。

「まだ寝てろ! あたしから見ても今のお前の顔、かなり悪いぞ! 動けるような状態じゃねぇだろ!」

「だけど、これ以上は君の迷惑に……」

「良いから寝てろって、言ってんだよ!!」

 最後には怒鳴るような大声になりながら、イレーネは力づくで朱羅をベッドに寝かした。不良達の戦いでは凄まじい実力を見せていた彼だが、やはり本調子ではないのか案外あっさりとベッドに横たわった。

「ほら見ろ。くだらねぇ意地張ってんじゃねぇよ。今プリシラが飯作ってるから、とりあえずそれまで寝てろ」

 ふん、とイレーネは椅子に座ると腕を組んだ。それを見ていた朱羅は、視線を彼女から天井へと変えた。

 しばらく二人の間に沈黙が流れていたが、やがてその空気を破るようにイレーネが口を開いた。

「朱羅。お前さっき、やっぱりこうなったのかって言ったよな」

「………うん」

「まさか、前にもぶっ倒れたのか?」

「数回ぐらいだけどね。運よく家に帰ってから倒れたぐらいだから、大騒ぎになった事は無いけど」

 それを聞いてイレーネは愕然とした。運よくなどと言うが、倒れた事に変わりはない。まさか、何かの病気か何かなのだろうか?

 しかしイレーネの考えを察したかのように、朱羅が小さく笑いながら言う。

「病気ではないよ。ある事が原因で、戦ったり喧嘩をするとこうなるだけ」

「……そのある事って、何だよ」

「…………」

 だが朱羅は何も言わない。その顔には、いつしか見た悲し気な表情が浮かんでいる。

 ずぐん、とイレーネの胸が痛んだ。まただ、と思う。彼のそんな表情を見るたびに、自分の胸が痛む。何故そうなるかは分からない。しかし、彼がそんな顔をしているのがイレーネにはどうしても耐えられなかった。

 気が付くとイレーネは、朱羅に向かってこんな事を言っていた。

「なぁ朱羅。お前のその様子から、どうしても言いたくないって事だけは分かる。あたしも、言いたくない事を無理やり言わせるような趣味は持ってない。……だけど、それでも聞きたいんだ。お前がどうして戦うたびにそうなっちまうのか、お前の過去に何があったのか。できれば、聞きたい」

「……どうしてそこまで聞きたいの?」

 朱羅は横たわったまま、イレーネに顔だけ向けて尋ねた。

 彼の目に不快感や嫌悪感といった負の感情はない。ただ純粋に、どうしてそこまで自分の事を気にしているのか気になるからだろう。

 イレーネは彼の目を純粋の目から逃れるように視線を逸らしながら言った。こういう場合は真正面から目を見て言った方が良いのかもしれないが、生憎と恥ずかしさが勝ってそういう事は今のイレーネにはまだできなかった。

「ま、まぁあれだ。お前風に言うなら……お前の事を、友達だと思ってるからだ」

「……友達?」

「あ、ああ。つっても、どんな奴が相手でも話せない事はあるだろうから、お前が本当に話したくないって言うなら話す必要はねぇ。……ただ、あたしにとってお前がどういう奴なのかって事を、知っておいてほしかっただけだ」

「………そう」

 朱羅はそう呟くと、彼女から目を逸らした。やはり、話してくれないか……とイレーネが少し残念そうな表情を浮かべた時だった。

「……少し長くなるけど、それでも良い?」

 見てみると、朱羅がゆっくりと体を起こしていた。ただしそれは先ほどのようにこの場から離れるためではなく、単純にその体勢の方が話しやすいからだろう。その質問にイレーネが頷くと、朱羅は自分の過去を話し始めた。

「僕の母さんと父さんは、星脈世代(ジェネステラ)でも何でもない、普通の人だった。だけど、父さんも母さんも星脈世代として生まれた僕の事を自分達の息子として愛してくれた。母さんはとても優しかったし、父さんは僕に力の使い方を教えてくれた」

「力の使い方?」

「うん。僕の力はとても大きいもので、使い方を間違えたら誰かを傷つけてしまう。だけど、正しい方向に使えば誰かを護る事だってできる。だから、その力で誰かを護れるような優しい人間になれって言われた。……僕が強くなりたいって思い始めたのも、強くなるために鍛錬を始めたのも、それがきっかけだったかな」

「……良い親だったんだな」

 うんと朱羅は笑みを浮かべながら頷いて肯定する。しかし、次の瞬間にはその笑みは曇っていた。

「だけど、そんな日常はいつまでも続かなかった。……僕が七歳の時に、家に知らない女性が突然やってきたんだ。……その人は玄関に向かった父さんを、玄関の扉を開けた次の瞬間持ってたバットで殴り殺した」

「………っ!」

 突然少年の口から出てきた言葉に、イレーネは思わず言葉を失った。朱羅は感情のこもっていない口調で、淡々と話を続ける。

「鈍い音と父さんが倒れた音を聞いた母さんが玄関に走って行って、その直後に母さんの悲鳴が聞こえた。そしてすぐ後にまた鈍い音がして、何かが倒れた音が聞こえた。何が起こったのか分からなかった僕が行ってみると、そこには頭からたくさんの血を流して倒れる父さんと母さん、そしてバットを持って僕を睨み付けてた女性がいたんだ」

 そこでイレーネは、ある事に気づいた。

 朱羅の声に感情がこもっていないのは、その日の事を何にも感じていないからではない。

 機械のように感情を込めずに話さなければ、自分の心がどうにかなってしまいそうだからだ。

「……彼女は僕も殺そうとしたのか、僕に向かってゆっくりと歩いてきてた。僕は逃げようとしたけど、腰が抜けて上手く逃げ出せなかった。それから彼女は一回僕に向かってバットを振り下ろしたけど、僕は必死に避けて台所に向かった。それからそこにあった包丁を掴んだけど、その時にはもう女性は僕のすぐ真後ろにまで迫っていた。……あの時のあの人の悪鬼のような顔は、たぶん一生忘れられないと思う。そして彼女が僕に向かってバットを振り下ろそうとした瞬間、無我夢中で包丁を勢いよく前に突き出した。……気が付いたら、彼女の腹に包丁が深く突き刺さってたよ」

「…………」

「……あの時の事はよく覚えてる。まるで噴水のように腹から血がたくさん出て、僕の手と顔にかかったんだ。……人の血ってこんなに暖かいんだって、馬鹿みたいな事を考えてたよ。それでようやく血が止まると、女性は僕の目の前に崩れ落ちた。彼女の目は見開いていて、もうそれだけで彼女が死んでた事が分かった。……僕は、人を殺して生き残ったんだ」

 そう言ってイレーネの方を向いた朱羅の顔には、乾いた笑みが張り付いてた。彼のそんな笑い顔が酷く悲し気に見えて、イレーネは唇を強く噛み締めた。

「僕が喧嘩の後とかに倒れるようになったのは、それが原因だよ。喧嘩や戦ったりすると、どうしても人を刺した時の感触を思い出しちゃうんだ。……情けないよね」

 そんな事は無い、とイレーネは口には出さずとも心の中でそう言った。幼少期の頃にそんなトラウマを刻み付けられれば、誰だってそのような目に遭っても不思議ではない。それほどまでに、人を殺すというのは心に重度の負担をかけるのだ。

「だけどよ、おかしくねぇか? なんでその女はお前とお前の家族を襲ったりしたんだよ」

 金目的かと一瞬思ったが、それではあまりにも行動が派手すぎる。金だけが欲しいならば、朱羅の家族が寝静まった後にこっそり忍び込み、金だけを持って逃げれば良いだけの話だ。金を盗むのに人まで殺しては、窃盗の罪に殺人罪まで加わり、警察に逮捕された時に罪が重くなってしまう。

「あとで警察の捜査で分かったんだけど、どうもその女性はその時期に会社をリストラされてたらしいんだ。しかもそれが原因で、当時上手くいっていた婚約者との結婚の話も無しになったらしい。それからしばらく無職だったんだけど、ある宗教にどっぷりとはまるようになったんだ」

「宗教?」

「うん。その宗教は星脈世代を悪魔の生まれ変わりだって説いてるらしくて、不幸な事は全て彼らが存在しているからだって教えを広めてたらしい」

 朱羅の話を聞いて、イレーネは反吐が出る話だと心の中で毒づく。確かに星脈世代に対する風当たりは強いが、それでも自分達が悪魔と呼ばれる筋合いはない。普通の人間より強い力を持っているが、それでもれっきとした人間なのだから。

「その宗教は、心が弱った女性に近づいてでたらめな事を吹き込んだ。リストラされたのも、婚約が破局になったのも、自分が不幸なのも、全て星脈世代のせいだってね」

「はっ、なんだそりゃ。その馬鹿は、そんなでたらめを信じたのか?」

「信じたんだろうね。でも、仕方ないよ。人間は、何か悪い事が起こると他人のせいにしたくなるものだしね。……それで、その嘘を信じた女性は宗教に入信し、心を宗教に捧げた。……人の事をあまり悪く言いたくないけど、立派な狂信家の出来上がりだよ」

「言われても仕方ねぇだろ。そいつはあたしから見ても、立派に狂ってやがる」

 イレーネは吐き捨てるように言った。いくら会社をリストラされ、無職に追い込まれた上に婚約が無くなったと言っても、それを自分達のせいにされるのはたまったものではない。

「……そして、女性はある日、近所に住む人達の話を聞いたんだ。星脈世代の息子がいる、一家の事を」

「……! おい、それってまさか……!」

「そう。僕の家だよ。会社をリストラされ、婚約も消え、約束されたはずの幸福を失い、星脈世代を悪魔と教える宗教に入信した彼女は、星脈世代に強い憎悪を持つようになっていた。そしてそんな時に、星脈世代の息子がいる一家がいる事を知った。……それで憎悪に駆られた彼女は僕の家に押し入り、僕の両親を殺した」

 ギリ……と部屋にイレーネの奥歯を噛み締める音が響いた。

 何だそれは、と思う。そんなくだらない事で、そんな妄想で、朱羅の両親は殺されたのか。

 イレーネは湧き上がる激情をこらえながら、静かな声で朱羅に尋ねる。

「……それから、どうなったんだ」

「ぼーっとした頭で警察を呼んだよ。警察が来た後は現場を調べたり、僕に対しての取り調べとかが行われた」

「取り調べ? ……ああ、そうか」

 まだ未成年、しかも殺されそうだった朱羅にそこまでするか? とイレーネは思ったが、次の瞬間顔をしかめた。

 自分達星脈世代がそれほど珍しくなくなった今でも、星脈世代に対する風当たりは強い。かなり露骨というわけではないが、それでも潜在的な差別意識を感じてこの街に来る星脈世代は少なくない。だからこそ、星脈世代を悪魔などとのたまう宗教もできたのだろう。

 それに法律では星脈世代が一般人に対して暴力を振るう事を厳しく禁じている。それは未成年でも例外はない。しかも朱羅の場合は、正当防衛とはいえ殺人を犯してしまっている。だからこそ、取り調べという普段ならあり得ない処置が施されたのだろう。

「刑事さん達は見かけは優しかったけど、口調は冷たかった。それからしばらくして、僕はどうにか何の罰も受けずに済んだ」

「……こう言っちゃあ悪いが、随分あっさりしてんな。最悪、何かの罰を受けてもおかしくなかったんじゃねぇのか?」

 総じてどの国でも星脈世代は立場が弱い。人権が制限されていると言っても良い場合すらある。ことに星脈世代が常人を傷つけた場合はそれが顕著に表れ、正当防衛さえ認められずに過剰防衛とされてしまう事も多かった。ましてや相手が亡くなったとすると、かなり厳しい判決が下りたとしても不思議ではない。

「その件で、かなり揉めたみたいだけどね。だけど最終的にはまだ幼かった事と、相手が両親を殺していた事、状況から見ると正当防衛だった事から、お咎めなしになったんだよ。それでもかなりギリギリだったみたいだけど。……それからは家にいられなくなって、親戚の間をたらい回しにされた」

「……どうしてだ?」

 そう言いながらも、イレーネ自身馬鹿げた問いだと分かっていた。

 そのイレーネの考えを分かっているのか分かっていないのか、朱羅は乾いた笑みを浮かべたまま言った。

「人殺しを家に置きたいなんて人は、そんなにはいないよ」

「人殺しって、お前は……」

「状況がどうであれ、僕が人を殺したって事に変わりはなかった。大半の人からは白い目で見られたし、学校でも距離を取られる事が多くなった。でもそれなんかは良い方で、中には『人殺し』って陰口を叩かれる事もあった。……星脈世代だからだろうね、あそこまで当たりが強かったのは。実際先生ですら、僕を怯えたような目で見てたし」

「……じゃあ、お前の親戚の家じゃあ……」

 学校でそんな扱いなのに、生活している親戚の家では彼はどんな扱いを受けていたというのだろうか。朱羅は笑いながら、

「無視されたり悪口を言われるのはまだ良い方で、中には殴られたり蹴られたりしたよ。一番酷かったのは、煙草の火を押し付けられた時だったなぁ……。参っちゃうよね、いくら僕が星脈世代で頑丈だからって……」

 ははは、と朱羅は笑ったがイレーネは笑わなかった。いや、それ以前に笑えない。彼が幼少期に味わったいくつもの痛みと苦しみを想像するだけで、はらわたが煮えくり返るような怒りが沸いてきていたからだ。イレーネは思わず自分の掌を、爪が食い込んで血が出るんじゃないかと思うほどに強く握りしめた。

 それなのに、朱羅は笑っていた。

 まるで、それは仕方ない事なのだと言うように。

 それが当然の事なのだと諦めているかのように。

「中には優しくしてくれる人もいた。だけど僕が人を殺した星脈世代だっていう噂が流れたせいで、その人の家に石が投げられた事とかがあってからはやっぱり暴力を振るわれた。僕を家庭に招き入れてせいで夫婦喧嘩になって、危うく家庭崩壊に繋がりかけた事だってあった。……ようやく一人になれたのは、僕が中学一年生になってからだった。その家の人は海外での仕事で、ほとんど家を空けてた。だから家に帰ってこなかったし、お金もちゃんと毎月送られてきたけど……僕がその人達と一緒に過ごした時間は、ほとんど無かった」

「……どうして、アスタリスクに来たんだ?」

「僕が中学三年生になった時、その人達が帰ってきてアスタリスクの事を紹介されたんだ。ここなら僕みたいな星脈世代がたくさんいるし、僕の過去も話さなければ誰にも分からないって言われたから。……今考えてみると、厄介払いだったんだろうね。やっぱり、好きでもない人間が自分達の家にいるっていうのは嫌だったんだと思う。それでアスタリスクに来て、レヴォルフに入学した。……これが、僕がここに来るまでの全てだよ」

「……そう、だったのか」

 全ての話を聞き終えたイレーネには、ただそれだけしか言えなかった。だがそれでもこれだけは言っておかねばならないと思い、朱羅に言う。

「ありがとな、朱羅。そして、悪い。そんな事を、お前に話させちまって」

 彼にとってはもはや思い出したくもない最悪の記憶のはずだ。彼から話してくれたとはいえ、自分が聞きたかったという事実に変わりはない。しかし朱羅は悲し気な笑みを浮かべたまま、

「別に良いよ。あまり気にしてないから」

 朱羅はそう言うが、イレーネにはそれがただの強がりに見えてしまう。イレーネは唇を噛むと、朱羅に言う。

「だけどよ……辛く、ないのか? そんな目に遭って。親まで失って。……お前は、本当に辛くないのか?」

 イレーネ自身過酷な過去を送ってきた身だが、それでも彼女のそばには妹のプリシラがいてくれた。彼女がいてくれたから、自分はここにいるのだと胸を張って言える。

 だが……彼のそばには誰もいなかった。両親を失い、正当防衛で人を殺した彼に待っていたのは、数えきれない悪意と暴力だけだった。彼を支えてくれる人間など誰もいなかった。もしも自分が彼の立場だったら……、もうとっくの昔に心が壊れていたかもしれない。

 すると何故か、朱羅は笑みを浮かべたまま、

「仕方がない事なんだよ、イレーネ」

「仕方ないって、何だよ……」

「僕は人殺しだから。誰も人殺しなんかと関わりたくないって普通思うよ。だから、仕方がないんだよ」

 違う、と思う。

 そんな事は、間違ってるとイレーネ・ウルサイスは思う。

「……仕方がないなんて、そんなわけねぇだろ」

 彼女の言葉に、え? と朱羅は今まで浮かべていた笑みを消してきょとんとした表情を浮かべた。彼がイレーネの顔を見ると、彼女は真剣な表情で朱羅の目をまっすぐ見つめている。

「そんな事、間違ってる」

「間違ってるって?」

「……朱羅。あたしはな、昔レヴォルフの生徒会長のディルクに莫大な金を借りて、ある望みを叶えてもらったんだ。そしてあいつの命令に従う事で、それを少しずつ清算してる。ま、つまりあいつの都合の良い手駒ってわけだ。」

「そんな……」

 話を聞いて、朱羅の顔が歪む。きっと、彼女を手駒として扱うディルクに怒りを抱いているのかもしれない。  たった今、自分の過酷な過去を話したばかりだと言うのに。

 それを見て、イレーネは思う。

 ああ。本当に。

 なんて馬鹿みたいに、優しすぎる奴なんだと。

「その命令の中には表には出せない汚いものもあった。だけど、その選択を後悔した事は一度もない。それで大切なものを護れたし、何よりもあたし自身が選んだ道だ。あたしがどんな目に遭おうと、それは自業自得。それこそお前の言う通り、『仕方のない事』なんだよ」

 そこで言葉を止めて一呼吸入れてから、話を続ける。

「……だけど、お前は違う。お前はただ巻き込まれただけだ。そのクソ女のふざけた逆恨みに巻き込まれて、親を失って、当たり前のようにあった未来を奪われただけだ。それなのに、お前みたいな優しい奴が人殺し呼ばわりされるなんて……絶対に間違ってる」

 イレーネが言い切ると、朱羅はひきつった笑みを浮かべた。彼がそんな表情をするのは珍しいと思ったが、それも仕方ないだろうと思う。彼は今まで、他人の悪意に晒され続けた。だから誰かにこんな事を言われるのは、あまり慣れていないのだろう。

「……僕は優しくなんてないよ。今日だって喧嘩をして、この有様だしね」

 と、そんな事をのたまう朱羅に、イレーネがばっさりと切り捨てる。

「何言ってんだ、馬鹿」

「ば、馬鹿って……」

「あの連中からはどっちみち戦わなきゃ逃げられなかったし、お前が戦ったのはあたしを護るためだったんだろ? お前が気にする事じゃねぇよ」

「……」

「それに、あの戦い方は、ずっと戦いから逃げてきた奴が身に着けられるものじゃない。……親を失ってからも、鍛えてきたんだろ? お前にとって大切な奴を、護れるように」

 イレーネが見た朱羅のあらゆる武器を扱うあの腕前に、あの武器の高速の切り替えは一朝一夕で身に着けられるようなものではない。

 血が滲むような鍛錬と、気が遠くなるような反復練習。

 その二つが無ければ、あのような芸当は決してできない。

 つまり、朱羅はイレーネの言う通り……ずっと努力してきたのだ。例え自分の大切なものがどれだけ失われてしまったとしても、どれだけ他人の悪意に晒されたとしても……いつの日か自分に大切なものができたときに、その大切なものを護れるように、ずっと、ずっと。

 それにイレーネが見た限り、朱羅にとっての戦闘は初めてではないだろう。きっと彼は自分と出会う前にも、この都市で困っている誰かのために戦っていたのだ。例えその後に待っているのが最悪の感覚と共に訪れる失神だとしても、悪意から誰かを護るために。

「そんな奴が優しくないわけがねぇし、そいつが救われないなんて間違ってる。だからよ……仕方ないなんて言うな。辛い時は辛いって言え。苦しい時は苦しいって言えよ。あたしにできる事なんてたかが知れてるかもしれないけど、それでもお前のそばにいて、お前の話を聞いてやる。……あたしは何があっても、お前のそばにいてやるよ。……あたしが言いたい事は、それだけだ」

 そこまで言い切ると、どうも照れ臭くなってイレーネは少し頬を赤らめて朱羅から顔を逸らした。朱羅はというと、呆然とした表情でイレーネを見つめている。

 と、そんな時だった。

「お姉ちゃん、入って良い?」

 こんこん、と部屋の扉がノックされたあとにプリシラの声が聞こえてきた。

「ああ、良いぞ」

 イレーネが返事をすると、扉がゆっくりと開かれた。扉の向こうには、エプロンを身に着けたプリシラが鍋つかみを両手に着け、大きめの茶碗を持って立っていた。それから部屋に入ってきたプリシラは朱羅の顔を見ると、ぱっと明るい表情を浮かべた。

「あっ、朱羅さん目を覚ましたんですね! 良かった……。お姉ちゃんから突然倒れたって聞いて、心配してたんです」

「そうだったんだ……。心配させてごめんね」

「いいえ、何事も無さそうで良かったです。それより朱羅さん、お腹空いてませんか? 卵粥を作ってみましたから、良かったら食べてみてください」

 そう言うとプリシラは朱羅に近づき、茶碗を朱羅に差し出した。

 茶碗の中に入っていたのは彼女の言う通り卵粥だった。ホカホカと湯気を上げる卵粥の上には梅干しが乗っており、香ばしい香りが朱羅の食欲を刺激する。するとそれを見て、イレーネがうらやましそうな声を上げた。

「美味そうだな……。なぁ朱羅、半分食って良いか?」

「駄目だよお姉ちゃん! これは朱羅さんのために作ったんだから! それにお姉ちゃんの分のご飯はちゃんとあるから、安心して」

「うう……分かったよ……」

 口ではそう言っても、イレーネは名残惜しそうな目で朱羅の卵粥を見ていた。プリシラはそんなイレーネに牽制するような視線を送ってから、朱羅におかゆスプーンを手渡した。朱羅はおかゆスプーンを手にして卵粥をすくって一口食べると、目を見開いた。

「……美味しい」

「だろ? そりゃそうだ。プリシラの料理は最高だからな」

「もう、お姉ちゃんったら……」

 姉の誉め言葉が照れ臭いのか、プリシラは困ったように笑った。すると、突然朱羅の粥を食べる手が止まった。

「……? どうした、朱羅」

「……いや、そう言えば、誰かと一緒に暖かいご飯を食べるのは本当に久しぶりだな……って……」

 そう言った、直後だった。

 朱羅の目から、涙が一筋こぼれた。

「あれ? どうして、僕、泣いて……」

 そう言う間にも、彼の涙は止まらない。両目から大粒の涙が、溢れるように流れていく。その涙は拭っても拭っても、変わらずに流れ続けた。イレーネはそれを見ても特に慌てるような様子は見せず、プリシラも少し驚いたような表情は見せていたが何かを言うような事はしなかった。もしかしたら朱羅の様子を見て、何かを感じ取ったのかもしれない。イレーネが朱羅の頭に優しく手を置くと、朱羅が涙を拭いながらかすれた声で言う。

「……ごめん……。泣いたりして………」

「構わねぇよ。今は泣いとけ。それで、落ち着いてからゆっくり食えよ。な?」

 うん、と朱羅は頷いてからくしゃくしゃになった顔で卵粥をゆっくりと噛み締めるように食べる。イレーネはそんな朱羅の頭を、彼が食べ終えるまで優しく撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 それから一時間後、卵粥を食べ終わり、体調も元に戻った朱羅は学生寮に戻る事にした。プリシラからはもうちょっとゆっくりしていけばいいと提案を受けていたが、イレーネにここまで運んでもらった事と卵粥を食べさせてもらった負い目があるのか、朱羅はそれについては丁寧に断っていた。

 三人がエントランスまで来ると、朱羅が見送りに来てくれたイレーネとプリシラに向かって口を開く。

「今日はありがとう二人共。迷惑かけちゃってごめんね」

「朱羅さんが謝る事なんてありませんよ。ね? お姉ちゃん」

 プリシラが横にいるイレーネにそう振るが、イレーネは何故か朱羅から目を逸らして「ああ……」と言っただけだった。それに朱羅とプリシラが二人揃ってきょとんとした表情を浮かべると、イレーネが言った。

「な、なぁ……朱羅……その……」

 それからイレーネは口の中で何やらもごもごと呟いていたが、当然朱羅の耳には入らない。すると、さすが姉妹と言うべきか、姉の言いたい事を察したプリシラがイレーネに告げる。

「お姉ちゃん。伝えたい事は、ちゃんと言葉にしないと伝わらないよ?」

「……わ、分かってるよ」

 そう言ってイレーネは、数回深呼吸をすると、

「……しゅ、朱羅。……良かったら、またうちに飯食いに来いよ」

「……え?」

「べ、別にあたしはお前がいても気にしねぇしな。つっても、料理をするのはプリシラだし、もしもプリシラが嫌だって言うならさすがにあたしも……」

「ううん、お姉ちゃん、私も大丈夫だよ? 誰かと一緒に食べるご飯はすごく美味しいから」

 この期に及んでも素直になれない姉の背中を押すかのように、プリシラはニコニコと一片の邪気も無い笑顔を浮かべる。

「そ、そうか………」

 妹の笑顔にイレーネは嬉しさと緊張が混じり合ったような複雑な笑みを浮かべると、目の前の戸惑った顔をしている少年に言う。

「ま、まぁそういうわけだ。聞いての通り、あたし達は別に迷惑とかじゃねぇから、気が向いたら飯食いに来いよ」

 だが、そこまで言っても朱羅の表情は晴れなかった。彼はただ何かに困ったような表情を浮かべると、恐る恐ると言った口調でイレーネに尋ねた。

「………本当に、良いの?」

 その顔を見て、イレーネは悟った。

 恐らく朱羅は戸惑っているのだろう。今まで他人の悪意に晒され続けた自分が、本当にこの二人の輪に入っても良いのか。本当に自分が誰かと一緒に幸せな時間を過ごしても良いのかと。そんな戸惑いを抱えた少年をまっすぐ見つめながら、イレーネはいつも浮かべる勝気な笑顔とは違う、柔らかい笑みを浮かべてはっきりと告げた。

「良いんだよ。さっきも言っただろ? あたしは何があってもお前のそばにいてやるって。だからお前は、うじうじ悩んでないでさっさと決めれば良いんだよ」

 そう言いながらイレーネは朱羅の額に軽くデコピンをした。あう、と朱羅が声を上げながら額を抑える。それから一瞬むっとした表情を浮かべるが、すぐに気を取り直すとイレーネとプリシラの二人に尋ねた。

「うん、わかった。じゃあ……また明日来ても良い?」

「ああ、構わねぇぜ」

「今日はあまり話せませんでしたから、明日こそはたくさんお話ししましょうね。美味しいものをたくさん作って、待ってますから!」

 朱羅の問いに、イレーネとプリシラは嬉しそうな笑顔で言う。その笑顔を見て、朱羅もつられるように笑った。

 そして朱羅はまた明日と最後に言ってから、マンションのエントランスから出て行った。彼の後ろ姿が見えなくなったのを確認すると、突然プリシラがイレーネに聞いた。

「ねえ、お姉ちゃん。さっき朱羅さんに何があってもそばにいるって言ってたよね?」

「ん? ああ、それがどうかしたのか?」

 するとプリシラは、何故かニコニコと笑いながら、とんでもない爆弾発言をかました。

「あれってもしかして、プロポーズ?」

「は、はぁっ!?」

 妹から放たれた発言に、イレーネは思わず素っ頓狂な叫び声を発してしまった。自分の顔が一気に赤くなるのを感じた彼女は、いつもの彼女らしくなくあわあわと手を左右に振りながら弁明をする。

「ち、違うからなプリシラ!? あたしは別にそういうつもりであんな事言ったわけじゃねぇし! 別にあいつの事そういう目で見てるわけじゃねぇからな!?」

「へぇー、そうなんだー。じゃあ、そういう事にしとくねー」

「信じてないよなプリシラ!? ちょ、ちょっと待て! 頼むから待ってくれぇぇえええええっ!」

 うふふふふふふふと非常に嬉しそうな笑い声を上げながら自分達の部屋に戻っていくプリシラを、イレーネは滅多に上げない叫び声を上げて慌てて追いかけて行った。

 

 

 

 

  

 

 




今回出てきた朱羅の戦い方の説明が分かりにくいかと思われた方のために補足しますと、インフィニット・ストラトスのシャルロット・デュノアの高速切替(ラピッド・スイッチ)を生身で行っているようなものと考えていただくと分かりやすいと思います。


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第四話 囚われた朱羅

思ったんですけど、プリシラのお弁当ってやっぱり洋食なんでしょうかね? パエリアが得意料理ですから洋食が得意なのかと思いましたが、最新巻では肉団子とかが入っているお弁当を作っているんですよね……。


 

 五月十五日。有真朱羅は一人でレヴォルフ黒学院の食堂へ小走りで向かっていた。彼の手には大きめの円柱サイズの水筒のような容器――――ご飯容器やおかず用の容器など、様々な容器が詰められているランチジャーが握られている。

 朱羅は食堂へ入ると、辺りのテーブルを見回す。テーブルにはいかにも不良といった外見の少年達が座っているが、その中に彼の捜している人物達はいない。朱羅が歩きながらきょろきょろと視線を巡らしていると、彼に声がかけられた。

「おい、こっちだ朱羅」

 朱羅がその方向に視線を向けると、そこにはひらひらと手を振っているイレーネと、朱羅にぺこりと軽く頭を下げて挨拶をするプリシラの姿があった。二人はすでにテーブルに座っており、彼女達の目の前にはそれぞれ弁当箱が置かれている。朱羅が近づいてくると、イレーネがやや怒っているような口調で言う。

「遅ぇよ、朱羅。こっちは腹が減って死にそうだったぜ」

「ごめんごめん。ちょっと先生の手伝いをしててね」

「そんなもん断ってこいよ、ったく……」

「お姉ちゃん!」

「う、ごめんプリシラ……」

 怒るプリシラがしゅんとなったイレーネが謝る光景を見て、朱羅はあははと笑った。口ではなんだかんだ言うものの、それがイレーネの本心ではない事は良く知っている。彼女と知り合ってから一か月経ち、朱羅もイレーネの性格がよく分かってきたのだ。

 朱羅が席に着くと、イレーネが嬉しそうに笑う。

「さてと、飯だ飯! さっさと食おうぜ!」

「もう、お姉ちゃんったら……」

 イレーネが自分の弁当箱を開けると、中に入っていたのは色とりどりの食材が詰め込まれたサンドイッチだった。サンドイッチの他にはミニトマトなどの野菜が入っている。

「んじゃ、いっただきまーす!」

 元気に言いながら、イレーネは中にあるサンドイッチをぱくつき始めた。それを見て苦笑していたプリシラも両手を合わせていただきます、と言うと自分もイレーネと同じサンドイッチを食べ始めた。朱羅もそれに合わせていただきますと言ってから、容器の中からご飯用の容器やおかず用の容器、さらにはスープ用の容器と箸セットを取り出していき、蓋を開けた。

 ご飯用の容器に入っていたのはほかほかと湯気を上げる白米と梅干。おかず用の容器の中にはミニトマトにキュウリ、卵焼きなど色とりどりのおかずが見る者の目を楽しませ、スープ用の容器には豆腐やネギといったオーソドックスな具が入れられた味噌汁が入っていた。ちなみに全て朱羅の手作りである。朱羅は箸を手に取ると、自分も昼食を口に運び始めた。

 朱羅が気を失ってイレーネのマンションに運び込まれた日の後、朱羅はイレーネに言われた通りたびたび彼女達と一緒に夕食を取るようになった。またそれだけでなく、いくら何でも家事をプリシラだけに任せるのは悪いという理由で食事などのウルサイス家の家事も手伝うようになった結果、朱羅はすっかりイレーネとプリシラと打ち解けた。今ではもう三人で一緒に食事を取る事がすっかり当たり前になってしまっている。どれぐらい当たり前かというと、もう朱羅がいちいちプリシラにイレーネのマンションに行く事を伝えていない状態でマンションに行っても、すでに彼の分の夕食が出来上がっているぐらいである。今ではほぼ毎日イレーネの家に向かい、彼女達と一緒に夕飯を取っている。

 なお、三人分の食費はプリシラが払ってくれているのだが、いくらなんでもそれは悪いと思い朱羅が自分の分の食費ぐらいは出すとプリシラに言ったのだが、彼女は笑顔でそれをやんわりと断っていた。しかしさすがに朱羅も簡単には引かず、話し合った結果プリシラは朱羅の食費を受け取る事になった。そのため、現在では朱羅は安心してウルサイス家の食事に招かれている。

 だが、彼は知らない。

 プリシラが朱羅には内緒で、彼からもらった食費を貯めている事を。そして時が来たら、全額を朱羅に返そうとしている事も。

 朱羅もなかなか強情だが、プリシラはそれ以上に我慢強かったのだ。

 そんな事を露知らず、朱羅は味噌汁を飲んでいたが、そこである事を思い出した。

「そう言えば二人って、誕生日はいつなの?」

 突然の朱羅の質問にプリシラは思わずきょとんとした表情を浮かべ、イレーネは「はぁ?」と怪訝な表情を浮かべた。

「あたしは十二月六日で、プリシラは九月六日だけど、それがどうしたんだよ」

「いや、二人には世話になってるし、誕生日が近かったら何かプレゼントでも送ろうかなって……」 

 するとイレーネはサンドイッチを咀嚼しながらはっと笑った。

「別にそんなのいらねぇよ。プレゼントが欲しくて一緒に飯を食ってるわけじゃねぇしな。ま、どうしてもって言うなら、またカジノに付き合って………じょ、冗談だって!」

 隣で笑顔を浮かべているプリシラから放たれる怒気を素早く察知して、イレーネは慌てて謝った。プリシラはまったくもう……と言いながらため息をつくと、朱羅の方を向いて尋ねた。

「そう言えば、朱羅さんの誕生日はいつなんですか?」

「五月二十三日だよ」

「二十三って……来週じゃねぇか!」

 イレーネが驚いた声を上げ、そのせいで周りで食事を取っていた生徒達の視線が一気に三人に集まるが、朱羅とプリシラはともかくイレーネはまったく気にしていない。突然のイレーネの行動に朱羅は思わず飲んでいた味噌汁をこぼしかけたが、プリシラはそれにまったく動じておらずそれどころか両手を合わせてこんな提案をした。

「そうだ! なら朱羅さんのお誕生日会をやろうよ! 私、ご馳走作るね!」

「良いな、それ! あと定番だとケーキとかか……」

「あ、あのー……」

 朱羅が恐る恐るといった感じで言葉を発するが、ウルサイス姉妹は聞いていない様子で朱羅の誕生日会についての計画を楽しそうに練っていた。どうやら聞いてくれなさそうだと悟った朱羅は、ため息をついてから昼食を再び食べ始めた。

 

 

 

 

 

「まさか、誕生日の話で昼休みが無くなる事になるなんて思わなかったよ……」

「あはは……」

 授業終了後、学生寮へと向かう未知の途中でイレーネとプリシラと一緒に歩いていた朱羅が呟くと、プリシラは苦笑を浮かべた。結局あの後二人の話し合いはさらに続き、そのまま昼休みは終了したのだった。

 すると、イレーネが何故か気まずそうな表情を浮かべながら口を開いた。

「な、なぁ朱羅……。もしかして、迷惑だったか?」

「え?」

「いや、突然だったからあたし達だけで盛り上がっちまったけど、今考えたらお前にとっては迷惑だったかもしれねぇなって思ってな……。もしもお前が嫌だって言うなら、その……」

 歯切れが悪いイレーネを見て、朱羅はイレーネが何を思っているのかに気づくと、にっこりと明るく笑った。

「迷惑じゃないよ。ただ、少し意外だったから驚いただけだよ」

「……? 意外ってなんだよ」

「だって、イレーネってあまり人の誕生日を祝うような性格じゃないし。どっちかって言うと、面倒くさいって言いそうだったからさ。だからちょっと意外に思ったんだよ」

「ああ、そういう事か。そりゃああたしだって赤の他人の誕生日なんざ別になんとも思わねぇよ」

「え? じゃあどうして僕の誕生日会の話にあんなにノリノリだったの? プリシラのご馳走が食べられるから?」

「いや、だってそりゃあ、その……」

 するとイレーネは何か困ったような表情を見せながら、ポリポリと頬を掻く。

「?」

「あーもう! 別にんな事どうだって良いだろ!? そんな事より、来週は盛大に祝ってやるから予定空けとけよ!」

「あ、うん………」

 怒りのせいか、顔を赤らめているイレーネに頷きながらも、朱羅は彼女の意図がよく分からず思わず首を傾げた。そんな二人を見て、プリシラは何故かニコニコと笑っているが、どうしたのだろうか。今日の学校での生活はいつも通りの一日で、自分の誕生が判明した以外は特にこれといった出来事は起こらなかったはずなのだが。

 そうこうしているうちに、三人は朱羅の学生寮の前に辿り着いた。朱羅はいつもは学生寮に鞄などの荷物などを置いてから、イレーネのマンションに向かっているのだ。なお、プリシラもレヴォルフの女子の学生寮に住んでいるので、基本的にイレーネと二人はここで一旦お別れという形になっている。

「じゃあ、またあとでね。お姉ちゃん、朱羅さん」

「ああ」

「じゃあね、プリシラさん」

 そう言ってプリシラは女子の学生寮の方へと歩いて行き、やがてその姿を消した。朱羅はそれを確認してから自分も学生寮へと向かうために、イレーネの方に向き直る。

「じゃあ、僕も行くね。イレーネ」

「いや、ちょっと待ってくれ朱羅。お前には話しておきたい事がある」

「……話しておきたい事?」

 ああ、とイレーネは真剣な表情になってから頷いた。それを見て、朱羅は眉をひそめる。わざわざプリシラがここから立ち去った後に彼女がこんな表情になって自分に話を持ち掛けるという事は、恐らく彼女には話す事ができない話があるという事だ。朱羅が話を聞く態勢になった事を確認すると、イレーネが口を開く。

「この前、ディルクに呼び出された」

「ディルクって……レヴォルフの生徒会長?」

 朱羅が尋ねると、イレーネはコクリと頷いた。

 ディルク・エーベルヴァイン。非『星脈世代(ジェネステラ)』でありながら、レヴォルフ黒学院の生徒会長の座に就いた男だ。

 星脈世代ではないもののその知略は並大抵のものではなく、ついた二つ名は『悪辣の王(タイラント)』。

 朱羅も一度その姿を見た事があるが、その時の彼は常に不機嫌そうな表情を浮かべており、いかにも悪名高そうな外見をしていた。第一印象としては絶対に気を許す事ができない人間と言った所である。

「最近レヴォルフの一部の不良共の動きが妙だから、精々注意しておけだとよ」

「え、それだけ?」

 イレーネの話を聞いた朱羅は思わず拍子抜け、と言いたそうな表情を浮かべる。あのディルクがイレーネを直々に呼び出しているから、何やら大変な事が起こったのかと思ったが、話を聞いてみればあまり大した事のようには思えなかった。大体レヴォルフの不良の動きが奇妙な事とイレーネに、一体何の関係があるのだろうか。

 すると朱羅の考えを察したのか、イレーネは腕を組みながら続ける。

「確かにあいつがただの忠告で人を呼び出す事なんて普通はない。あいつがあたしを呼び出したのは、その不良と関係があるからだ。……あと、お前にもな」

「僕にも?」

 朱羅は驚きながら、思考を加速させる。自分はイレーネのようにディルクからの仕事を請け負っているわけではないし、裏世界に積極的に関わっているわけでもない。なのに彼女がその不良達が自分に関係があると言い切っているという事は、少なくとも自分とその不良達に過去に接点があるという事だ。その接点に心当たりがあるという不良達と言えば……。

 そこまで考えて、朱羅はあっと声を上げてからイレーネに確認するように聞く。

「……もしかして、前に僕が倒したグループ?」

 すると、イレーネは正解と言うように頷いた。

「前にお前が叩きのめしたから、ようやく諦めたってあたしも少し安心してたんだけどな。ディルクの話によると、どうも水面下でおかしな動きをしてみたいだぜ。こそこそと人を集めたり、あたしとお前の情報を集めてるような素振りを見せてるらしい。もしかしたら、お前やあたしを闇討ちするつもりかもしれない」

「そんな……」

 そう言った直後、朱羅はある事に気づいて表情を強張らせた。

「ちょっと待って! じゃあ、プリシラさんも危ないんじゃ……!」

 彼らが自分達を闇討ちするつもりという事は、自分達のそばにいるプリシラも危ないかもしれない。しかも彼女は自分やイレーネと違って、戦う術を持っていないのだ。もしも彼らがプリシラに狙いを定めたら、彼女のみにも危害が及ぶ可能性がある。

 が、イレーネは何故かそれを否定するように首を横に振った。

「その心配はねぇよ。プリシラには『猫』がついてる」

「『猫』?」

「お前は知らないかもしれねーけど、アスタリスクの六学園にはそれぞれの情報工作機関があるんだよ。クインヴェールのベネトナーシュや、六導館の影星って具合にな。で、レヴォルフの諜報工作機関は『黒猫機関(グルマルキン)』ってわけだ」

「なるほど、それで猫なんだ……」

 納得したように朱羅が呟くが、そこである疑問が浮かんで首を傾げる。

「あれ? でもどうして、その黒猫機関がプリシラさんを護ってるの?」

「ディルクとあたしの契約の一つでな、あたしがプリシラのそばにいない時は猫がプリシラを護ってるって事になってるんだ。そこら辺の奴じゃ猫には傷一つつけられないだろうから、プリシラの心配はしなくて良い」

「そっか、良かった……」

 ほっと朱羅は安心したように息をつくが、そんな彼に反してイレーネはまるで苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。

「……だけど、悪い事に情報を仕入れたのも猫の連中なんだよ。奴らの情報が間違っていた事は、あたしの知る限り一度も無い。前に叩きのめした連中があたし達を闇討ちするとは決まったわけじゃねぇが、一応頭に入れといてくれ。……下手したら、お前の弱点も知られてるかもしれねーしな」

「………」

 朱羅の弱点というのは、言わずもがな戦闘の最中にかつて人を殺してしまった感触が蘇り、気分を悪くして最悪倒れてしまうという事だ。この前の数ならばぎりぎり何とかなるかもしれないが、それ以上の数で来たらかなり危ない。その点は確かに、注意すべき点だろう。

 朱羅が頷くと、イレーネは安心したような笑みを浮かべながら言う。

「ま、そういうわけだ。何かあったら連絡をくれ。じゃあまたあとでな」

「うん、またねイレーネ」

 そう言って手を振ってから、朱羅はイレーネと別れて学生寮へ向かう。

 そして、二人を見つめる影が複数あった事も、当然知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 朱羅の誕生日である五月二十三日の前の二日前、五月二十一日。

 この日彼はいつも通りイレーネのマンションに向かったのだが、運悪く食材が足りなくなってしまったという事で朱羅がスーパーへと買い出しに行く事にした。何故彼がそんな事をしているかと言うと、いつもほとんどプリシラに調理を任せていたので、これぐらいは男の自分がしなければならないと自ら志願したからである。なお、少女にも見える顔立ちの朱羅のその言葉を聞いたイレーネは思わず笑ってしまっていたのだが、運良く朱羅には見えなかった。

 朱羅は買い物袋を手に持ちながら、一人商業エリアのスーパーへと小走りで向かっていた。向かっていると言っても、彼が通っているのはいつも通っている道ではない。少しでも近道をするために、薄暗い裏路地のような道を通っている。無論、周りに人の姿はない。

 しかし、今の朱羅にはそんな事を気にしていられるような心の余裕など無かった。急いで食材を買い、早くマンションに戻らなければならない。食材を買うのが遅れるという事はそれだけ料理が遅れるという事であり、そうなると妹の料理を楽しみにしているイレーネの怒りが自分に向けられるのははっきりしているからだ。しかも今の時間帯はちょうどタイムセールの時間だ。食材を少しでも安く買いたい学生達が食品コーナーに集まる。朱羅自身自炊しているためスーパーをよく利用しているのだが、その時間帯のコーナーはまさに戦場。弱肉強食が当たり前、食材を取れない方が悪いという過酷な世界。その世界で少しでも安い食材を手に入れるために、有真朱羅は少しでも早くスーパーに辿り着かなければならないのだ!

(かと言って、走っていくのも駄目なんだよねー。そうなったらまずコーナーでの体力が無くなっちゃうし……。相手も同じ星脈世代だから油断できないし……) 

 相手が一般人ならば少しは楽なのだが、そうなると相手を怪我させないように気を使わなければならない。やれやれとため息をつきながらさらに歩く速度を上げたその時だった。

「………!」

 突然、背後から自分に敵意を向けられるのを感じて、朱羅は思わず立ち止まった。彼は一流の剣士ではないが、それでもこれぐらいの敵意を感じ取れないほどのボンクラというわけではない。朱羅が振り返ると、そこにはレヴォルフの制服を着崩したガラの悪い三人ほどの少年達が立っていた。その少年達は、前にイレーネを襲おうとしていた少年達の内の三人に違いなかった。

 朱羅はため息を吐くと、少年達に向かって口を開く。

「何の用かな? 悪いけど用事があるから、手短に済ませて欲しいんだけど」

「んなもん、言わなくても分かるだろうが。この前の借り、返しに来たぜ」

 そう言うと少年達は懐からナイフを取り出した。

 参ったな……と朱羅は思う。

 周りに人の姿はなく、逃げようにもこの周辺は彼らの縄張りのはずだ。逃げようとしてもすぐに追いつかれる可能性の方が高い。とすると、残された道は一つだ。朱羅はちらりと少年達にバレないように、すぐ近くにあったビルの上に視線を向ける。

 幸いビルの高さはそれほどでもない。これならばどうにかビルの壁を一気に駆け上がって屋上に向かう事ができるだろう。とすると、まずは少年達から身を隠さなければならない。

 朱羅がそう考えていると、少年達が何故かにやにやと笑っている事に気づいた。それに朱羅が眉をひそめると、少年の一人が口を開いた。

「それより、良いのか? 俺達の方ばっか向いててよ」

「な――――」

 に? とは続かなかった。

 突然肩に激痛が走った直後、体中にまるで雷が直接落ちたような衝撃が走ったからだ。

「がっ………!?」

 突然の衝撃に朱羅の全身が震えると同時に、体から力が抜ける。地面に倒れる前に後ろを向くと、そこには銃のような物を持った少年が立っていた。

(しまった……彼らは囮だったのか……!)

 あれほど露骨な敵意も、これ見よがしにナイフを取り出したのも、全ては朱羅の目を自分達に向けるための囮。

 その囮に、自分はまんまと引っかかってしまったというわけだ。

(しかもあれはテーザー銃……。まさか、そんな物まで出すなんて……)

 テーザー銃というのは、簡単に言えば銃の形をしたスタンガンのようなものだ。ガス圧で二本のワイヤーが接続された電極を発射し、それを相手に突き刺す事で相手の体内に直接電流を流し込む。日本では基本的に流通されていないはずだが、こうして彼らが持っている所を見ると恐らく何らかのルートを通して手に入れたのだろう。しかも星脈世代の朱羅を昏倒させるほどの威力を持っている所を見ると、何らかの改造が施されている可能性が高い。

(ごめん……イレーネ。帰りが……遅くなり……そう……)

 自宅で自分を待っているはずの少女に心の中で謝りながら、朱羅の意識は闇に落ちて行った。

 

 

 

 

 

 

 朱羅がスーパーへ向かってから一時間後、イレーネのマンションではイレーネが椅子に座りながら、眉間にしわを寄せて何かを考え込んでいた。そんな姉を見て、同じように椅子に座って料理本を呼んでいたプリシラが口を開く。

「さっきから何を悩んでるの? お姉ちゃん」

 するとイレーネはため息をついて、先ほどから考えている事を言った。

「明後日朱羅の誕生日だろ? だから、何か贈ってやろうって思ってるんだけど……。中々思いつかなくてさ……」

 プリシラの誕生日ならばともかく、今まで他人の誕生日とは無縁だったイレーネには朱羅の喜ぶ贈り物というのが中々思いつかない。イレーネが悩んでいると、プリシラが本をテーブルに置いて困ったような表情を浮かべて、

「うーん。確かに難しいね。朱羅さんなら、よほど酷い物でも送らない限り何でもありがとうって言いそうだし」

「そうだよな……。だけど、できる事ならあいつが本当に喜ぶ物を送ってみてぇし………」

 イレーネがそう言うと、プリシラが少し驚いたような顔でイレーネを見つめた。

「……こんな事言うとお姉ちゃんに失礼だけど、ちょっと珍しいね。お姉ちゃん、今まで他の人にそんな事しなかったのに……」

「……そんなに意外か?」

 朱羅に似たような事を言われたのを思い出したイレーネが尋ねると、プリシラは少しためらいがちに頷いた。だがプリシラがそんな事を気にする必要など無いとイレーネは思う。実際自分はプリシラ以外の人間にあまり興味は無かったし、ましてや誕生日などどうでも良いと思っていた。だから、朱羅やプリシラがそう思うのも無理はないと思う。

 イレーネは椅子にもたれかかりながら、独り言のように話し始めた。

「まぁ、出会うきっかけがあいつのお節介だったとはいえ、こうして一緒に飯を食う仲になったし、何か物を送るのも悪くないって思ったのもそうだし……。あとは、そうだな……。あいつには、幸せになって欲しいって思ったんだ」

「………」

 イレーネの独白を、プリシラはとても真剣な表情で黙って聞いている。イレーネはどこか自嘲しているような笑みを浮かべながら、話を続けた。

「自慢するわけじゃないけど、あたし達もそれなりに過酷な過去を過ごしてきたわけだろ? だけどあたしのそばにはプリシラがいてくれた。それだけであたしは良かった。……でもあいつはずっと一人で過ごしてきたんだ。ずっと一人で誰にも弱音なんか吐かないで、ずっと走り続けてきたんだ。だからその分、あいつには幸せになって欲しいって思うんだよ。……笑っちまうよな、あたしは今まで誰かの事なんてどうでも良いって思ってたのに、こうして誰かの幸せを祈るなんざ……。ごめんな、プリシラ。くだらねぇ事話しちまって」

 しかし、プリシラはそれを否定するように首を振って、

「くだらなくなんて無いよ。誰かの幸せを祈る事がくだらない事だなんて、そんな事は無い。お姉ちゃんがそんなに朱羅さんの幸せを祈るって事は、それだけ朱羅さんの事を大切に思ってるからだよね? きっと朱羅さんも同じ気持ちだよ」

「あいつも?」

「うん。朱羅さんもきっとお姉ちゃんの幸せを祈ってる。……私は嬉しいよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんの事を大切に思ってくれる人が増えてくれたのも嬉しいし、お姉ちゃんが大切に思う人ができたのも嬉しい。だからそんな事言っちゃ駄目。それはお姉ちゃんを大切に思ってる朱羅さんにも、朱羅さんを大切に思ってるお姉ちゃん自身にも失礼な事だから。またそんな事言ったら、今度は怒るからね」

 そう言ってから、プクリと頬を膨らませた。その顔が可愛らしくて、イレーネは思わず苦笑を浮かべながらプリシラの柔らかい髪の毛を撫でてやる。

「そうだな……ごめん、プリシラ。もう二度と言わないからさ」

「うん!」

 彼女の髪の毛から手を離すと、イレーネは朱羅の誕生日プレゼントについて再び考え始める。

 そしてそれからすぐに、彼へ送るプレゼントが決定した。少し安上がりかもしれないが、恐らくこれならば彼もきっと喜んでくれるに違いない。プリシラの励ましを受けたイレーネには、そんな自信があった。

 と、ふと時計に目を向けたイレーネは眉をひそめてからプリシラに言う。

「……朱羅の奴、少し遅すぎないか?」

「そう言えばそうだね……。いつもなら、もう帰ってきてる頃なのに……」

 その直後、イレーネの携帯端末が電話の着信を鳴らし始めた。まさか朱羅か? と思いながらイレーネは携帯端末を取り出すと、空間ウィンドウを呼び出す。そして空間ウィンドウを見て、思わず眉間にしわを寄せた。

 いつもならば朱羅の顔が映し出されるウィンドウには、真っ暗な画面に『SOUND ONLY』とだけ表示されていた。そしてその直後、明らかに朱羅のものではない声がウィンドウから発せられた。

『……イレーネ・ウルサイスだな?』

「テメェは……」

 その声には聞き覚えがある。前に自分と朱羅を襲った不良達のリーダー格だ。

 だが、重要なのはそれではない。何故朱羅の携帯番号から、この少年の声が聞こえてくるのだろうか。

 いや、そんな事は分かり切っている。その答えを知りながらも、イレーネは自分でも驚くほどの静かな声でウィンドウに向かって声を発する。

「……朱羅はどうした?」

『安心しろ。命は奪っていない。ただちょっと眠ってもらってるだけだ』

 相手の声に嘲笑うような声音が混じる。それから少年は続けて、

『あいつの命が惜しかったら、この後に送る地図の場所に一人で来い。もしも来なかったり他の人間を連れてきたりしたら、あいつの命はないと思えよ。ああそれと、覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)を使った場合も同様だ』

 その直後、ウィンドウから笑いをかみ殺しているような気配が伝わってきた。人質を取っている上に、イレーネの強力な武器である覇潰の血鎌も使えなければイレーネに勝ち目はないと考えているのだろう。イレーネはふんと鼻を鳴らすと、ウィンドウの向こうの相手に言う。

「ずいぶんと調子に乗ってるじゃねぇか、雑魚が。不意打ちで朱羅をさらった奴が何を言ってやがんだ」

『な、何だと……!?』

 するとあっさりと相手はイレーネの挑発に引っかかった。馬鹿が、とイレーネは心の中で相手を笑いながら、さらに言葉を続ける。

「その場にいなくても分かるっての。朱羅がテメェらみてーな雑魚にやられるはずがないしな。どうせ雑魚らしくこそこそとくだらねぇ策でも考えたんだろ? はっ、真正面からやり合う度胸もねぇ腰抜け共がよくそんな口を利けるな」

『て、テメェ! 立場が分かってんのか!? こっちには人質がいるんだぞ! ちょっとでも俺達の機嫌を損ねたら、あいつの命なんざ……』

「……やってみろ。その瞬間、テメェら全員生まれて来た事を後悔する目に遭わせてやるよ」

 放たれた言葉には、絶対零度の怒りが込められていた。自分の声を聞きながら、人は本気で怒るとこんなに頭の中が冴えわたるんだなとイレーネは他人事のように思った。

 そんなイレーネの殺意が伝わったのだろう。ウィンドウの向こうの少年はひっと怯えた声を出すと、すぐに虚勢を張るかのように大声を出す。

『そ、そんな生意気な言葉を吐けるのも今の内だ! 今日こそは覚悟しておけよこのアバズレ女!』

「そっちこそそれが遺言って事で良いんだな? 精々首を洗って待ってろよクソ共が」

 そして、通話が途切れた。その直後、携帯端末に少年の言った通り地図が送信されてきた。場所を確認してみると、そこは少年達の根城である再開発エリアの一画だった。ここを指定してきたという事は、少しでも自分達の有利となる場所でイレーネを叩き潰したいのだろう。

 イレーネは身を焦がすような怒りに感じながらも、必死に感情を制御しながら横に視線を向ける。するとやはりそこには、心配そうな目で自分を見つめているプリシラの姿があった。

 プリシラは不安そうな表情を浮かべながらも、絞り出すような声でイレーネに尋ねる。

「お姉ちゃん、行くの?」

「……ああ。悪いプリシラ。少しの間だけ待っててくれ。すぐに朱羅を連れて帰ってくるから」

 そう言いながらイレーネは妹の頭を優しく撫でる。まさか、この自分が誰かのためにプリシラを置いて危険地帯へと赴くとは、と心の中で苦笑する。

 だが、イレーネに後悔はなかった。

 自分にとって、今囚われているはずの少年は決して失いたくない大切な存在なのだ。プリシラには本当に申し訳ないが、ここで行かなかったら自分は絶対に後悔するという確信がある。

 何故彼にそこまでの感情を持つに至ったのかは、正直分からない。彼の境遇に同情したのか、それともそれ以外に理由があるのか、今の自分には分からない。

 けれど……朱羅を失いたくないという感情だけは、紛れもなく自分の心の底からのものだった。自分の心に背くわけには決していかないのだ。

 一方のプリシラはまだ不安そうだったが、やがてその表情を消して真剣なまなざしをイレーネに向けると、力強い声で言った。

「うん、分かった。私待ってるから。食材を買って、お姉ちゃんと朱羅さんの好きな物を作って待ってるから。だからお姉ちゃん、絶対に朱羅さんと一緒に帰ってきてね」

「ああ。……だけど、別に料理は良いんじゃねぇのか?」

 イレーネが苦笑すると、プリシラは首を横に勢いよくぶんぶんと振った。

「ここで三人でご飯を食べる事は、もう私にとっての当たり前だから。だからそれをサボっちゃうわけにいかないよ。……帰ってきたら、また三人で一緒にご飯を食べよう。約束だよ、お姉ちゃん」

 そう言って、プリシラはイレーネの両手を握った。プリシラの顔を見つめながら、イレーネは力強く頷いた。

「ああ、約束だ。三人でまた一緒に飯を食おう。……行ってくる」

「……行ってらっしゃい」

 妹の言葉を受けて、イレーネはリビングを出て玄関の扉を開けると、勢いよく走り出す。

 エントランスを抜けて歩道に出ると、その場から高く跳躍して近場にあるビルの屋上に着地すると、そのまま屋上から別の建物の屋上へと次々に跳躍していく。この方が普通に歩道を走って行くよりもはるかに近道になるからだ。走る時に生じる風で、イレーネが着けているマフラーがなびく。

(……待ってろよ、朱羅)

 心の中でそう思いながら、イレーネは朱羅が囚われている場所へと急ぐのだった。

 

 

 



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第五話 護りたいモノ

 

 

 

 

 

 朱羅をさらったグループの一人から連絡を受けたイレーネは数十分後、再開発エリアの廃墟ビルの前にいた。

 再開発エリアはかつてアスタリスク市場でも他に類を見ない大事件『翡翠(ひすい)黄昏(たそがれ)』の舞台となった場所だ。事件は幕を下ろしたものの被害は甚大であり、事件の後始末と責任問題の追及から復旧予算の編成は遅々として進まず、そうこうしているうちにレヴォルフ黒学院を中心とした不良学生達がそのエリアを根城として占拠。警備隊との小競り合いを繰り返すようになると、やがて各学園の退学者や都市外の犯罪者なども集まりはじめ、今では立派な暗黒街となっている。

 とはいえ再開発エリアの全域が犯罪者の温床というわけではなく、外側に位置している歓楽街などは比較的治安も落ち着いており、スラム化している一帯に踏み込まなければそれほど危険というわけではない。実際イレーネがついていたのもあるとはいえ、朱羅が不良に絡まれた事は一度も無かった。

 また、一部の建造物は崩壊の危険もあるため近寄る者もなく、そういった廃墟があちこちに点在している。だからこそ、朱羅をさらったグループは、その場所に来るように指定したのだろう。

(それにあたし達も任務によっちゃここを使う事があるからな……。警備隊の見回りもあるから正直誘拐に向いてる場所じゃねぇが、今回の奴らの目的はあくまでもあたしだ。長居するつもりはねぇって事だろうな)

 少年達の意図について考えながら、イレーネはビルに足を踏み入れた。

 イレーネが足を踏み入れた場所はエントランスだった場所のようだが、あちこちに柱が立っているせいで死角が多い。放置された廃墟は崩壊の危険もあるため監禁には向かないのだが、このビルはしっかりと補強されている。これならば、ここで戦闘を行っても崩壊の恐れはまずないだろう。

 イレーネは足を止めると、暗闇に向かって声をかけた。

「お望み通り来てやったぜ。さっさと姿を現しな」

 ここに入った時から、すでに人の気配は感じていた。それも、一つや二つではない。

 するとイレーネの声に応じるように、柱の陰などから複数の少年達がぞろぞろと現れた。その数は、前に朱羅が相手した数を優に超えている。その数を見て、イレーネはチッと舌打ちした。

(思ったより多いな……。覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)無しだと少しきついが、泣き言は言ってられねぇ)

 ここで自分が負ければ、朱羅の命も危うい。イレーネが拳を強く握ると同時に、彼女の前に一人の少年が現れた。少年はにやにやと笑みを浮かべながら、

「よう、吸血暴姫(ラミレクシア)。ちゃんと来てくれて嬉しいぜ」

 そんな事を言う少年の声は、紛れもなくあのウィンドウから聞こえてきた声だった。イレーネはふんと鼻を鳴らすと、少年を睨み付けて低い声で聞く。

「んな事はどうでも良い。それより……朱羅はどこだ?」

 その声を聞いて少年は命の危険を感じたのか少し顔を引きつらせるが、この場では数で勝る自分達が遥かに有利だと思ったのか、無理やり強気な笑みを浮かべる。

「安心しな、あのガキは無事だ。ま、お前が覇潰の血鎌を使ったりすればどうなるかは保証しねぇけどな」

 はっきり言って、この少年の発言はハッタリだった。朱羅を閉じ込めているのは本当だが、イレーネが覇潰の血鎌を使ったからと言って朱羅の身に危険な事が起こる事は無い。というよりも、見張りに回る人間がいるならばイレーネを潰す方に回したいというのが少年の本音だった。何せ、相手はレヴォルフ黒学院で第三位の力を誇る実力者だ。下手に手を抜けば、逆にこちらが叩きのめされる可能性もゼロではない。

「……随分と余裕だな。腰抜けのテメェらの事だから、あたしが手を出せばあいつを殺すとか言うかと思ってたぜ」

 イレーネの減らず口に少年達がかすかに殺気立つが、少年が彼らを睨むとその殺気はすぐに収まった。少年はクックッと笑い、

「別にそれでも良かったんだがな。だがこっちには、お前に恨みを持ってる奴らがたくさんいるんだよ。無抵抗なお前をボコボコにするのはあまりにつまらねーし、どうせならあのガキを取り戻そうと必死になるお前をボコる方が面白いと思ってな。人質を取り返す事も出来ず、今まで自分が見下してきた奴らに散々殴られて唾を吐きかけられる方がテメェのプライドを滅茶苦茶にできる。どうだ、面白いだろ?」

 しかし、それにイレーネは何の反応も返さない。ただ俯いて、少年の言葉をじっと聞いている。

 それに少年は怪訝な表情を浮かべると、イレーネに近づく。するとその直後、イレーネがクックックと低い笑い声を漏らした。

「ああ、本当に面白れぇな。だけど、それよりも面白い事が一つあるぜ」

「なん……?」

 少年の言葉は最後まで続かなかった。

 顔を上げたイレーネの鉄拳が、少年の顔面に直撃したからだ。

 その速度はまさに一瞬で、少年の顔面に直撃したイレーネの拳には冗談抜きで彼の鼻の骨を砕いた感触が伝わってきた。少年は吹き飛ばされると、数メートル地面を転がってからようやく停止する。その鼻からは大量の鼻血が流れ、顔はぴくぴくと痙攣していた。

「……テメェら雑魚共が、あたしに勝てるって思ってる事だよ。良いぜ? かかって来いよ。テメェら如き、覇潰の血鎌抜きで十分だ」

 イレーネがそう言うと、仲間をさっそく一人潰された少年達は一気に怒りの表情を顔に浮かべると、それぞれ煌式武装を展開させる。それに対してイレーネは徒手空拳だが、イレーネ自身の体術のレベルはかなり高い。そうでなければ、覇潰の血鎌があるとはいえレヴォルフ黒学院の第三位などになれはしない。

「……ぶっ殺せ!!」

 少年達の一人がそう叫んだ瞬間、少年達が一気にイレーネに殺到する。

 イレーネは足を地面に叩きつけると、一気に加速して集団へと突っ込んでいった。

 

 

 

 

「……ん」

 何か大きな音を聞いたような気がして、有真朱羅は目を覚ました。

 目を開いて最初に気づいたのは、自分が何やら薄暗い部屋の中にいるという事だ。とりあえず立ち上がって周囲の様子を窺おうとしたが、そこで自分の体が妙に動かしづらい事に気づく。

「何だ……?」

 自分の手足に目を向けてみると、そこには縄で縛られて自由を奪われた自分の両手両足があった。どうしてそんな事になったのかを考えた朱羅が、そこでようやく自分がテーザー銃によって気絶させられた事を思い出す。

(って事は、ここは彼らのアジトって所かな……?)

 しかし、そうだとしたら少し奇妙である。アジトにしては、この部屋を見張るべきである見張りの気配がない。自分を誘拐した以上は見張りの一人ぐらいは配置しておくべきである。そうでなければ、人質である自分が逃げ出してしまう可能性があるのだから。朱羅は床に視線を落とすと、自分をさらった連中について考え始める。

(どうして彼らは僕をここに放置している? 僕がいつ逃げ出しても構わないって事か? って事は目的は僕じゃない。僕をここに閉じ込めて、彼らに何か得があるって事なのか? じゃあ、その目的は……)

 そこまで考えて、朱羅は頭の中が真っ白になった。

 彼らの目的は今の自分ではない。だが、もしも彼らが自分達が朱羅をさらった事を誰かに言ったとするなら?

 そしてその人物が自分を助けに来るとしよう。自分に関係があり、なおかつ少年達の目的となる人物。

 そんな人物は、自分の知る限り一人しかいない。

「………イレーネ……!」

 呻くように朱羅は少女の名前を口に出した。これはあくまでも推測でしかないが、少年達が自分を拉致した理由はおびき寄せるための餌だろう。そして彼らから自分を拉致したと聞いたイレーネは、自分を助けに来る。それを少年達全員で袋叩きにするというのが彼らの狙いだろう。イレーネが助けに来ているかは今の朱羅には分からないが、餌である自分が逃げないか見張る人間がいない所を見るときっとイレーネはすでに来ているはずだ。餌である自分に逃げられては、イレーネをおびき寄せるという目的を果たせないはずだからだ。

 とりあえず、一刻も早くここから逃げ出さなければならない。朱羅が部屋を見渡してみると、部屋の隅に飲み物のビンの破片のような物が散らばっているのが見えた。恐らくここでたむろしている少年達が、自分達が飲んでいたビンを不注意で割ってしまったのだろう。朱羅はずりずりと体を引きずるように破片に向かって進むと、自分の手を切らないように破片をそっと掴む。手首が拘束されてはいるが、戦闘中の瞬時とも言える武器の交換を得意とする朱羅にとっては苦ではなかった。

 破片を掴み取ると、切っ先で手首を拘束している縄をゆっくりと切断していく。カッターやナイフのような刃物ではないので切るのに少し時間がかかったが、それでも根気よく続けるとついに縄を切断するのに成功する。

 ここまで来るとあとは簡単だった。手に煌式武装のナイフを取り出すと、そのナイフで足首の縄も切断する。ようやく自由になった朱羅は扉にゆっくりと近づくと、ドアノブに手をかけて慎重に開ける。空いた隙間から外を観察してみるが、少年達の仲間らしき人物たちの姿はなかった。朱羅は扉を勢いよく開けると、廃墟の廊下を一気に走り抜ける。

 本当ならばすぐにでも脱出したいところだが、廃墟の廊下は結構入り組んでいる。ここから脱出するにはそれなりの時間が駆るだろう。それに、イレーネがここにいるかもしれない以上自分一人だけ脱出するわけにはいかない。

 やがてしばらく走り続けると、何やら人の怒号と人を殴り倒すような音が朱羅の鼓膜を揺らした。耳を澄ましてみると、どうやら音は下から聞こえているようだ。近くにあった階段を下りて聞こえてきた方向に走ってみると、音はだんだん近づいてくる。そして朱羅はついに、さび付いた扉の前に辿り着いた。扉の向こうからは、明らかに少年達の怒号が聞こえてきている。

「………」

 汗が額を流れるのを感じながら、朱羅は少しだけ扉を開けて隙間から向こう側を観察する。すると扉の向こうには、やはり怒号を上げる少年達とイレーネ・ウルサイスの姿があった。

「おらぁ!」

 バキィ、という音と共にイレーネのアッパーが少年の一人の顎を砕く。だが、それを見ても朱羅の胸の内は未だ不安で渦巻いていた。確かに彼女の体術のレベルはかなりのものだが、それでも少年達の数が多すぎる。イレーネから聞いた話の通り、彼女に恨みを持つ少年達をかき集めてきたのだろう。

 それに、イレーネは彼女が所有するという純星煌式武装を使っていない。恐らく使うと、自分の命がないとでも少年達に言われているのだ。彼女の体術が優れているとしても、この数相手ではあまりに不利すぎる。

 ならば、自分が参戦するしかない。そうすれば彼女の武器を使えるし、何よりも自分と彼女の二人ならばこの状況を打開できるかもしれない。

 そう思って朱羅が煌式武装を手にしたとき、彼の脳裏に過去の最悪の記憶がよぎった。

 自分にかかる生温かい血液。

 包丁の刃が人間の肉を貫くあの感触。

 それらを思い出した時、朱羅に吐き気が襲い掛かってきた。

「………っ!」

 口元を抑えて、朱羅はその場にうずくまる。

 これでは、戦えない。借りに戦ったとしてもすぐに倒れて、イレーネの足手まといになるのがオチだ。彼女はこうして、自分を助けに危険地帯へ駆けつけてきてくれたというのに。

 立ち上がろうとしても、足が震えて立ち上がれない。

 武器を握ろうとしても、手が震えて武器を握る事ができない。

 ギリッ、と朱羅は悔しさで奥歯を砕きかねない強さで噛み締める。

 情けない自分に、強烈な怒りを抱きながら。

 

 

 

 

 

「おらぁ!」 

 イレーネの拳が少年達の一人の顔面に突き刺さり、少年は後方へと思い切り吹き飛び床を転がる。

 しかしそうしても焼け石に水だ。イレーネが打ち倒すべき少年達はまだまだいる。

(くそっ、キリがねぇ……! マジでどんだけいるんだよこいつら……!)

 少年達を睨み付けながら、イレーネは内心舌打ちをする。

 今まで少年達には何回か囲まれた事のある彼女だが、今日の数はこれまでの比でない。下手をすれば五十人かそれ以上はいるかもしれない。一体自分はどれだけの人間に恨みを買っていたのかと、自分の事ながら呆れてしまう。

 だが、ここで諦めるわけにはいかない。こんな窮地、自分はいつだって一人で乗り越えてきたのだ。こんな烏合の衆ぐらい、余裕で乗り切って見せる。そう思ってイレーネが立ち上がった瞬間だった。

 彼女の肩に何かが突き刺さった直後、イレーネの全身を凄まじい電撃が襲い掛かった。

「が、がぁああああああああっ!!?」

 絶叫を上げながら、イレーネは地面へと倒れこんだ。激痛で浅く息をしながら後ろを見ると、そこにはテーザー銃を構えた少年が自分に向かって銃口を向けていた。

(なるほどな……! 朱羅もあれにやられたってわけか……!)

 いくら相手が大勢だったといえ、あの朱羅が逃げる事も出来ず連中に簡単に捕まってしまった事にイレーネは疑問を抱いていたが、テーザー銃を持っている少年の姿を見てその謎が解けた。しかも自分をも昏倒させるほどの威力を持っている所を見ると、銃自体に違法レベルの改造が施されているのだろう。イレーネはどうにかして体を動かそうとするが、あまりの痺れと激痛で体を少し震わせる事しかできなかった。

「はっ、良いザマだな。吸血暴姫」

 そう言いながら少年の一人が倒れているイレーネに近づくと、その顔面をまるでサッカーボールのように蹴り飛ばした。その蹴りを食らい、イレーネの口の中に鉄の味が広がる。それでも悲鳴を上げない彼女を見て、少年はさらに彼女の腹に蹴りを入れた。

「ぐっ……!」

 するとさすがに効いたのか、彼女の口から苦悶の声が吐き出される。その声を聞いて満足げな笑みを浮かべると、少年はイレーネの髪の毛を無造作に掴んで顔を無理やり上げさせた。

「しっかし、俺達をあんなに手こずらせた吸血暴姫も、人質を取られたらただの女か。つまんねぇ結末だなぁ、おい」

 だがイレーネは何も答えない。ただ殺意がこもった目で、少年の顔を睨み付けている。

「だけど分からねぇな。あの悪名高い吸血暴姫が、ガキ一人を助けるためにここまでボロボロになるなんざ。そんなにあのちんちくりんのガキが大切なのか? だったら驚きだなぁ! テメェにそんな特殊な性癖があったなんてな! テメェに恨みを持ってる他の連中が聞いたら、爆笑もんだぜ。なぁ!」

 少年が周りを囲んでる少年達に言うと、周りの少年達もそれに合わせるように笑い始める。それから少年は何か思いついたのか、残忍な笑みを浮かべながらイレーネに言った。

「なぁ、こういうのはどうだ? あのガキを俺達にくれよ。世の中にはそんなテメェを越える性癖持ちのくせに金を持ってる変態共がいてよ。そいつらにあのガキをくれてやったらきっと良い金になるぜ! あのガキを俺達に渡したらテメェのやった事はチャラにしてやるし、分け前もくれてやる。どうだ? テメェにとっても悪い話じゃねぇだろ?」

 そんな残忍な話を聞いたイレーネは、何故かぼうっとした目で少年を見つめながら口を開いた。

「――――」

「ああ? 何だって?」

 それに少年がイレーネの口元に耳を寄せたその時だった。

 ぺっ、と。

 イレーネは少年の顔面に血の混じった唾を吐き出した。突然の彼女の行動に呆然としている少年の顔を見て、イレーネはにやりと笑う。

「お断りだって言ったんだよ、ゴミ野郎」

 その直後、少年の表情が一気に怒りの色に染まり、イレーネの腹に強烈な拳を叩きつけた。

「がはっ……!」

 しかもその一発だけではなく、何回も彼女の腹を強く殴る。最後に彼女の腹に膝蹴りを食らわすと、イレーネの体は吹き飛び床を転がった。彼女に近づきながら、少年は怒りのこもった声で言う。

「そうかよ……なら交渉は決裂だ。ここで落とし前をつけてもらうぜ。……精々、死なないように頑張るんだな」

 心にもない事を言いながら、少年はゆっくりとイレーネに近づいてく。彼の姿を見ながら、イレーネはぼんやりと思った。

(……チッ、ここまでか……)

 前までの自分ならば、容赦なく朱羅を彼らに差し出していただろう。前の自分にとっては、プリシラだけが大切だったから。それ以外はどうでも良いと思っていたし、関わろうとも思わなかった。

 だが、イレーネは彼らに朱羅を差し出す事を拒んだ。

 理由は、とても単純だ。

 彼の事を、妹のプリシラ同様大切に思ってしまっていたからだ。

 自分がどんなにキツイ事を言っても、彼は笑顔で自分のそばにいてくれた。

 自分がどんな人間かを知っているのに、彼は自分の事を信頼してくれていた。

 だからこそイレーネ・ウルサイスは、有真朱羅の事を心の底から信頼し、大切に思うようになっていた。

 実際はそれ以外の感情もあるかもしれないが、今のイレーネにその事を考える余裕はない。

 目の前の少年がひとたび号令をすれば、周りの少年達は一斉にイレーネに群がり、彼女を袋叩きにするだろう。

 そうなればもう意識を保てる自信がない。それどころか、命の危険すらあり得る。

 しかし今のイレーネの思考に自分の事など微塵も存在しなかった。あるのは、自分の身近にいる二人の大切な存在についてだけ。

(……プリシラ。約束、守れなくて悪いな……。朱羅……。できればで良いから……早く逃げてくれ……)

 そしてイレーネがそう思った直後、少年が大声で周りの少年達に命令する。

「テメェら、こいつを……!」

 そう少年が言い切ろうとした、その時だった。

 どこからか飛んできたナイフ形の煌式武装が少年の肩に突き刺さり、少年の言葉を途中で止めた。

「があっ!?」

 予想外の一撃を食らった少年は肩を抑えながら尻餅をつき、地面をのたうち回る。それに少年達とイレーネがナイフの飛んできた方向を見て、そこにいる人物を見て目を見開く。

 そこには。

「朱……羅……?」

 ナイフを投げた体勢のまま少年達を睨み付けている、有真朱羅の姿があった。

「………」

 朱羅は自分に視線が向けられている事を察すると即座にその手に剣型の煌式武装を起動し、自分の眼前にいる少年達目がけて走り出す。それに反応した少年達はそれぞれの武器を手にして迎え撃とうとするが、一瞬の足止めにすらならず少年達は地面に斬り伏せられた。次々と少年達を斬り伏せた朱羅はようやくイレーネの下に辿り着くと、素早く彼女の背を向けてから二丁拳銃を持ち、周りの少年達に向けて銃弾を連射する。数発の弾丸が少年達に直撃し、銃弾を警戒した少年達は一斉に後ろへと下がった。

「……お待たせ、イレーネ」

「……はっ、おせぇよ馬鹿」

 銃弾を連射しながらも振り返ってイレーネに柔らかい笑みを向ける朱羅に、イレーネも笑みを返しながら言う。しかしイレーネがそう言うと、何故か朱羅の笑顔が曇った。

「……うん。遅れちゃって本当にごめんね、イレーネ。僕のせいで……」

 それにイレーネはふんと鼻を鳴らすと、

「別のテメェのせいじゃねぇよ。あたしが勝手にやった事だ。それより、テメェの方こそ大丈夫なのか? またぶっ倒れるんじゃねぇだろうな?」

 口調はぶっきらぼうだが、朱羅は前に戦闘直後に顔を青くして倒れてしまっている。今回もそうなるのではないかというイレーネなりの気遣いの言葉なのだが、それに朱羅はあっさりと頷く。

「うん、前ならもう気持ち悪くなってるんだけど、今は全然大丈夫だよ。……イレーネのおかげだよ」

「はっ? なんでそこであたしが出て来るんだよ」

 イレーネが怪訝な表情で言うと、朱羅は銃弾をすり抜けて襲い掛かってきた少年の一人を剣で叩き伏せてから言葉を続ける。

「だって、さっきイレーネはあんなにあいつらに殴られたのに、僕の事をあいつらに売らなかったでしょ?」

「……見てたのかよ」

 イレーネが気恥ずかしそうに呟くと、朱羅はあははと困ったように笑いながら、

「あれを見て思ったんだ。ここでトラウマを引きずってイレーネを見捨てたら、僕はこれから先ずっと後悔するって。そう思ったら、気持ち悪いのとか、人を殺した時の感触とかどっか行っちゃったんだよね」

 そこで一旦言葉を切ると、朱羅は再び口を開いた。

「それとね、イレーネ。僕、決めたんだ」

「……? 何をだ?」

「うん。イレーネは僕やプリシラさんを護るために今まで戦ってきたけど、肝心のイレーネはそうじゃないなーって。こんな事僕が言うのもあれだけど、今のような生き方をしてたらその内本当に死んじゃうよ。実際にたった今殺されかけてたしね」

「……まぁ、そうだな」

「だから決めたんだ。……僕が、イレーネを護るよ。例えどんな敵が来たとしても、それこそ統合企業財体みたいな敵が襲い掛かってきたとしても……僕がイレーネを護る。どんな目に遭っても、僕は君のそばにいて、君を護り続ける」

 それを聞いて、イレーネは思わず呆然とした表情で朱羅を見上げた。

 護るなど、今まで誰かに言ってもらった事は一度も無かった。プリシラ以外の人間から自分に向けられた感情は、敵意と悪意だけだった。

 だからだろうか。

 彼に自分を護ると言ってもらっただけで……、こんなにも胸が暖かくなったのは。

 しかしそれを朱羅に知られるのもなんとなく嫌なので、代わりにイレーネは呆れたような笑みを浮かべてこんな事を言う。

「ったく、前から思ってたが、お前って相当変わりもんだよな。こんなあたしを護るなんざ、どんだけ暇なんだよ。それにその言葉、前にあたしが言った言葉とほとんど同じじゃねぇか」

「あはは、バレた?」

 朱羅は笑いながら、武器を二丁拳銃からナイフに切替(スイッチ)する。しかもナイフの数は一本だけではなく、両手の指の間にナイフを握っているような状態なので、合計六本。それらを一斉に少年達に投げると、再び剣を構えながら苦虫を嚙み潰したような表情で言う。

「でも、さすがにこれだけの数は一人だとちょっときついかな……」

 少年達は今は朱羅達の周りを取り囲み、少人数ずつ襲い掛かってきているものの、それはあくまで様子を探っているだけだ。その気になれば、その人数で朱羅を一気に押しつぶす気だろう。

「……なら、二人だ」

 え? と朱羅が振り返ると、イレーネが朱羅の肩に手をかけて立ち上がる所だった。彼女はペッと血を地面に吐き出すと、覇潰の血鎌の発動体を取り出しながら凶暴な笑みを浮かべる。

「だ、大丈夫なの? もう動いて」

「序列三位を舐めんな。これぐらいで動けなくなるほどやわな体してねぇよ。……後ろは任せたぜ、朱羅。さっさとこいつらを片付けて帰るぞ。プリシラが飯を作って待ってるんだ」

「……なるほどね。だったら確かに、早く帰らなくちゃね」

 言いながら二人が背中を合わせて真正面の少年達を睨み付けると同時に、イレーネが純星煌式武装を起動させる。

 次の瞬間、イレーネの手にはその身長を超えるほどに長く巨大な鎌が顕現していた。

 紫色のその刃は禍々しく、不気味な雰囲気を纏っている。

 その大鎌の名こそ、覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)

 重力を操る力を持つ、悪名高いレヴォルフの純星煌式武装だ。

「さぁ……かかってこいよ雑魚共!!」

 イレーネが叫んだ直後、怒号を上げながら少年達が襲い掛かる。

 相手がどれだけ強くても、数はこっちの方が多い。戦闘というのは基本的に数が多い方が有利だ。ならば、自分達が一斉に襲い掛かれば相手はなすすべなく押しつぶされるだけ。

 そう、少年達は思っていた。

 しかし。

「はぁあああああああああっ!!」

「おらぁああああああああっ!!」

 朱羅とイレーネの二人の前に、少年達は一方的に蹴散らされていた。

 朱羅は派手ではないが堅実な剣筋で少年達の攻撃を防御しながら、的確に少年達を地面に斬り伏せていく。さらには武器を剣から戦斧に瞬時に切り替えると、両手で豪快に薙ぎ払って数人を一気に吹き飛ばす。そんな朱羅を背後から少年が不意打ちをしようとするが、当然朱羅には気づかれている。朱羅は片手に三本のナイフを持つと、背後の少年をナイフで攻撃し、さらに左手のナイフを少年達に向かって投擲する。放たれた三本のナイフは外れる事無く、少年達に直撃した。

 圧倒的な戦闘を繰り広げる朱羅だが、イレーネも負けてはいない。

 イレーネは大鎌で少年達を吹き飛ばしながら、自分の戦闘センスを生かした体術で少年達を次々と地面に叩き伏せていく。それからにやりと笑みを浮かべると、挑発するように叫んだ。

「おいおいどうした!? 威勢が良いのは最初だけかよ!!」

 そして大鎌を片手で振るうと、紫色のウルム=マナダイトが一際強く輝き、その輝きが自分の相手をしていた少年達が立っている地面に伝わっていく。

 するとその瞬間、少年達がまるで見えない手で上から押さえつけられたように地面に倒れこんだ。覇潰の血鎌の能力である重力操作で、少年達が立っている辺りの地面の重力を強めたのだろう。

「可愛がってくれた礼だ、受け取りな! 十重壊(ディアス・ファネガ)!」

 イレーネが大鎌を振るった直後、その周囲に濃い紫色をした球状の物体が出現した。大きさは一抱えほどはあり、それが全部で十個ほど、イレーネの周りを漂っている。

「――――行け!」

 掛け声と共に、重力球が少年達に向かい、倒れ伏している少年達を吹き飛ばす。

 朱羅とイレーネの攻撃は数で勝っていたはずの少年達の数をどんどん減らしていき、気が付けば五十を超えるほどいたはずの少年達の数はすでに半数を切っていた。

「な、何だよ……なんで俺達がこんなにおされてるんだよ!? 数はこっちの方が上なのに……!」

 少年の一人が狼狽したように言う。少年がこう言うのには、少年達の数が多い以外にもう一つあった。

 基本的にレヴォルフは個人主義が強い学院であり、生徒達の一種の特徴にもなっている。そのため王竜星武祭(リンドブルス)はともかく、チームプレイやコンビネーションが重要になる鳳凰星武祭(フェニクス)獅鷲星武祭(グリプス)では目立った成績を残した事が他の学園に比べて非常に少ない。

 だからこそ、少年達は例え朱羅とイレーネが二人で戦ったとしても簡単に叩き潰せると思っていた。コンビネーションができていない標的を叩き潰す事など、自分達にとっては赤子の手を捻るようなものだと、そう思っていた。

 だが、目の前で繰り広げられている光景は予想外のものだった。

 イレーネの背後から彼女を不意打ちしようとした少年を、それに気づいた朱羅が右手に持った拳銃で撃ち抜く。

「大丈夫!? イレーネ!」

「おう! サンキュ……おらぁ!」

 返事をしたイレーネが大鎌を振るった直後、重力球が一つ出現し朱羅に向かうが、朱羅は眉一つ動かさない。一方重力球は朱羅のわきを通り過ぎて、背後から彼に襲い掛かろうとしていた少年を吹き飛ばした。

「テメェも油断してんなよ!」

「ごめん!」

 互いに声を掛け合いながら目の前の少年達を倒し、さらには死角からパートナーを攻撃しようとする敵を一瞬で倒す

 その光景を見て、少年の一人がテーザー銃を出して銃口をイレーネに向けた。朱羅とイレーネを昏倒させたその銃を使えば、確実に敵が一人減る。そう確信した少年だったが、その前に朱羅が左手にナイフを持ちテーザー銃目がけて素早く投擲した。

「ひぃっ!?」

 ナイフは見事にテーザー銃の銃口に突き刺さり、テーザー銃をただのスクラップへと変えた。

「これでもその銃は使えないね」

 そう言って朱羅は少年との距離を詰めると、テーザー銃を切り裂くと鳩尾に拳を放ち少年を失神させた。

 少年達の予想に反して、朱羅もイレーネもレヴォルフの生徒でありながら、高いコンビネーションで少年達の数を着実に減らしている。このまま順当にいけば、間違いなく少年達を全滅させる事ができるだろう。

 しかし、

「ぐっ……!」

「イレーネ!?」

 突然イレーネがその場にうずくまり、朱羅は目の前の少年を蹴り飛ばしてからイレーネに駆け寄る。彼女は膝をつきながら、額に汗を浮かべて荒い息をついていた。

「くそ……! こんな時に……!」

「一体どうしたの!?」

「覇潰の血鎌の副作用だ。こいつは能力の代償として血液を要求してくるんだ。だけど燃費が悪くてな……、普通に使ってたんじゃすぐに干からびちまう。だから使い手の体を変質させて、外部からそれを摂取できるようにしてやがんだ。いつもなら再生能力者(リジェネレイティブ)のプリシラから血をもらってるんだが……。チッ、傷が響いたか……!」

 再生能力者とは『魔女』や『魔術師』の一種で、その名の通り自分の傷を回復する事ができる能力者の事だ。他人の傷を癒す事ができる治癒能力者ほどではないが、かなり珍しい部類の能力だとされている。

 しかもイレーネの口ぶりからすると、プリシラは恐らく傷の修復だけではなく失った血液まで再生できる最高クラスの再生能力者なのだろう。そうなると、欠損部位さえ再生できる可能性が高い。

 だが、今重要なのはそんな事ではない。今ここにいつもはイレーネのカバーをしているプリシラがいないという事は、イレーネの能力を十分に発揮できないという事だ。

 能力の燃費の悪さの上に、少年達に殴られたせいでイレーネは体内の血液を大分消費してしまっていた。覇潰の血鎌の副作用が早く表れてしまったのは、そのせいだろう。そんな状況でプリシラがいないというのは、絶体絶命の状況に逆戻りという事を意味している。

 荒い息をつくイレーネを見て、朱羅は尋ねた。

「要するに、血があれば良いんだね?」

「……? ああ」

「なら、僕の血を飲んで」

「なっ!?」

 イレーネは思わず目を見開いて、目の前の少年の顔を見る。悪い冗談かと思ったが、朱羅の目は真剣そのものだ。朱羅はその首を露にすると、焦った口調でイレーネに言う。

「早く! 彼らがすぐに襲い掛かってくる!」

 見てみると、確かに朱羅の言う通り少年達がじりじりと距離を詰めてきていた。その気になれば、朱羅とイレーネをあっという間に押しつぶすだろう。どうやら議論している暇はなさそうだ。

 イレーネは決心すると、朱羅を抱き寄せて言う。

「……悪い。できる限り、飲み過ぎないようにする」

「はは、お手柔らかにね」

 朱羅はイレーネの言葉に苦笑しながらも、イレーネを心の底から信頼していた。

 そんな彼の期待を、自分が裏切るわけにはいかない。

 イレーネはごくりと唾を飲んでから、朱羅の首に牙を突き立てた。

「くっ………!」

 イレーネの牙が自分の首の肉を突き破る痛みに、朱羅の口から苦悶の声が漏れる。その首から鮮血が滴り落ち、地面に赤い斑点を形作る。

 一方で、朱羅の生暖かい血の味が口の中に広がるのをイレーネは感じていた。

 今までプリシラの血液を飲んだ事はあるが、他人の血を飲むのは初めてだ。

 そして気のせいかもしれないが……彼の血の味は、とても甘く感じた。

「血を補給してやがる!」

「させるか! ぶっ潰せ!」

 怒号と共に、少年達が一斉に朱羅へと襲い掛かる。

 が。

 その瞬間朱羅とイレーネの周りに大量の重力球が出現し、襲い掛かってきた少年達を弾き飛ばす。イレーネは朱羅の首から牙を離すと、残った少年達を睨み付ける。

「テメェら……こいつに、手を出してんじゃねぇよ!!」

 大量の重力球が少年達に向かって飛んでいき、少年達を吹き飛ばす。

 朱羅は首筋を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。それを見て、イレーネはにっと笑う。

「わりぃな。飲み過ぎないつもりだったが、美味くてつい飲みすぎちまった」

「はは、勘弁してよもう……」

 軽口を叩きながら、朱羅とイレーネはある方向を睨み付ける。

 そこには、ついに一人だけ残ってしまった不幸な少年が残っていた。手と足はガタガタと震えている。額は汗で濡れ、派手な金色で染め上げられた髪の毛は見事に乱れてしまっている。

 朱羅とイレーネが剣と大鎌を構えると、それでついに恐怖が頂点に達したのか少年が叫び声を上げた。

「ひっ、うわぁあああああああああっ!!」

「……ったく、逃げんなよ。テメェらが売った喧嘩だろ?」

 叫びながら逃げる少年を見て呆れたようにぼやくと、イレーネは駆け出して少年の後を追いかける。朱羅もため息を吐くと、イレーネと一緒に少年の後を追いかける。

 そして少年が後ろを振り返ると、そこには剣を構えた少年と大鎌を構えた少女が自分に向かってそれぞれの武器を振りかぶろうとしていた。

 その光景を見た直後、少年の意識は暗闇へと落ちて行った。

 

 

 

 

 

 最後の少年を倒すと、朱羅は周囲を見回した。

 辺りには意識を失った少年達がゴロゴロ倒れている。イレーネが前もって倒しておいてくれたとはいえ、よくもまぁ二人だけでこれだけの数を相手にできたものだと、自分の事ながら呆れてしまう。

「なるようになるもんだねぇ……」

「ああ、そうだ、な……」

 そう言って、イレーネは尻餅をついた。どうやらさすがの彼女もこれだけの数が相手では、かなり疲れてしまったらしい。

「大丈夫? また血飲む?」

「要らねぇよ。大体これ以上飲んだらお前マジで死ぬぞ。んな事より、さっさと帰ろうぜ。………っ」

 しかし、立ち上がろうとしたイレーネは再び地面に座り込んでしまった。どうやら彼女の予想以上に体力を消耗してしまっていたらしい。イレーネが悔しそうに舌打ちをするのを見て、朱羅は苦笑を浮かべるとしゃがみこんで彼女に背を向けた。

「さっ、乗って」

「……乗れって、まさかお前……」

「背負って帰る。そうした方が良いでしょ?」

 当たり前でしょ? と言わんばかりの表情を浮かべている朱羅に、イレーネは慌てた表情で言う。

「ちょ、ちょっと待て! お前、あたしに背負われろってか!? 吸血暴姫(ラミレクシア)のあたしに、まるでガキみたいに背負われて帰ろと!?」

「そうだよ」

「やなこった!」

「イレーネ。我がまま言わないの」

「ぐ……。そ、それでもあたしは……」

「イレーネ」

「う……。……わ、分かったよ……」

 子供と母親のような会話の応酬の末、イレーネは渋々と朱羅の背に乗った。自分の膝の下の彼の腕が差し込まれるのを感じながら、プリシラがもう一人増えたみたいだとイレーネは心の中で思った。

「よいしょっと」

 朱羅は軽々と立ち上がると、廃ビルを出てイレーネが待つマンションへと向かう。頭上にはすでに月が出ており、自分が誘拐されてからかなり時間が経った事を朱羅に悟らせた。

 しばらく無言で歩いていると、後ろのイレーネが朱羅に言った。

「……なぁ。朱羅」

「何?」

「……さっきの、あたしを護るって話、本当か?」

「そうだけど……どうして?」

 そこで一度イレーネは躊躇うように言葉を区切ってから、静かに続ける。

「あたしは今まで散々汚い事をやってきた。全部が全部そうだってわけじゃねぇけど、人から軽蔑されてもおかしくねぇ事がほとんどだった。プリシラを護るためとはいえ、その道を選んだのは誰でもないあたしだ。……そんなあたしを、本当にお前は護るのか?」

 そんな事を言うイレーネに、朱羅は前を向いたまま返した。

「さっきも言ったよね? 僕は君を護るって。確かに僕は君が何をしてきたか知らないし、君がどんな過去を送ってきたかも知らない。……だけど、それでも君を護りたいって思ったんだ。だから、僕は君を絶対に護る。誰が相手になっても、君を絶対に護るから」

 朱羅がそう言うと、背後から吹き出したような声が聞こえてきた。

「ったく、お前って本当にお人好しだな」

「む、悪かったね」

「誉めてんだよ」

 イレーネが言った直後、朱羅の背中に何かが強く押し付けられた。どうやらイレーネが自分の顔を朱羅の背中に強く押し付けたらしい。朱羅が思わず振り返ろうとすると、その前にイレーネの声が朱羅の行動を押しとどめた。

「振り向くな。振り向いたら殺す」

 背後から聞こえて来た、かすかに涙混じりの声に、朱羅はうんと柔らかく微笑んで返事をしながら歩き続ける。

「……朱羅」

「何?」

「――――」

 聞こえて来た声はとても小さなものだったが、それでも朱羅の耳にははっきりと聞こえた。

 彼女の、とても嬉しそうな。

 ありがとう、という言葉は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間後の朱羅の誕生日。朱羅とイレーネ、プリシラの三人はアスタリスクの公園へと来ていた。

 一週間前に不良を撃退した朱羅とイレーネは無事にマンションへと帰り、涙を浮かべたプリシラの抱擁を受けた。翌日、二人の体を心配したプリシラに病院へと半ば強引に連れていかれたのだが、星脈世代である事が幸いして二人共軽い治療を受けただけで済んだ。そして朱羅の誕生日である本日、何故か公園へと朱羅は連れてこられた。

 空は快晴であり、足元には緑色の芝生が広がっている。その芝生の中央辺りで、プリシラが三脚を置いてその上にカメラを着けていた。

 その様子を眺めながら、朱羅が横にいるイレーネに尋ねる。

「ねぇイレーネ。どうして写真を撮るの?」

「決まってんだろ。お前への誕生日プレゼントだよ」

「僕の?」

 ああ、とイレーネは首肯してから、

「写真ならいつでも見れるし、ずっと残るだろ? そんなプレゼントの方がお前には良いかもしれねーなって思ったんだよ。……言っとくけど、文句があっても聞かねぇぞ」

 そんなイレーネの言葉を朱羅はきょとんとした表情で聞いていたが、ふっと柔らかい笑みを浮かべると言った。

「文句なんてないよ。誕生日プレゼントありがとう、イレーネ」

「はっ、どういたしまして」

 すると、カメラを三脚に着けていたプリシラが大声を上げた。

「撮るよー!」

「おう、早く来いプリシラ!」

「うん!」

 プリシラは急いでイレーネの横に来ると、カメラの方を向く。それに朱羅とイレーネもカメラの方を向くと、イレーネが何故かにやりと笑って、

「よっと!」

「うわっ!?」

「きゃっ!」

 突然イレーネがプリシラと朱羅を片腕で抱き寄せ、彼女の行動に朱羅とプリシラが驚いた声を上げた。

「笑え、お前ら!」

「まったく、イレーネったら……」

「あはは!」

 イレーネの言葉と同時に、朱羅とプリシラは言われた通りに笑顔を浮かべる。

 その直後、カメラのシャッターが自動的に切られた。

 映し出された写真には、嬉しそうな笑みを浮かべた、二人の少女と一人の少年が映っていた。

 

 

 

 

 

 この時三人は、こんな日常がこの後もずっと続くのだと信じて疑わなかった。

 だが、三人は知らない。

 この日常に潜む強烈な悪意を。

 その悪意が悲劇を起こし、イレーネ・ウルサイスという少女の心に深い傷を残すのだという事を。

 三人はまだ、何も知らないでいた。

  

 

 



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第六話 つかの間の日常

 朱羅の誕生日からさらに時間が経ち、季節は夏に入った。

 現在は六月であるが、梅雨にはまだ入っていない。その代わりと言わんばかりに熱気を放つ太陽が、アスタリスクの上空を占拠する日々がほぼ毎日続いていた。しかしニュースによるとあと数日ほどで梅雨に入るとの事なので、そうなったら太陽もしばらくの間はその姿を雲に隠すだろう。とは言っても、六月の夏特有の湿気が纏わりつく暑さは消えないだろうが。

 そしてそんな六月のある休日、レヴォルフ黒学院のトレーニングルームでは、太陽の熱に負けない熱気がその場を支配していた。

「おらぁっ!」

 イレーネ・ウルサイスの叫び声と共に、覇潰の血鎌の横薙ぎの一撃が有真朱羅の首を刈るように放たれる。

 しかし朱羅はその一撃を一歩後ろに下がってかわすと、逆にイレーネとの距離を詰めて剣撃を放つ。イレーネは大鎌の柄でその攻撃を防ぐと、反撃と言わんばかりに大鎌の鋭い一撃を放った。が、その一撃すらも朱羅はその場に屈みこんでかわすと一旦距離を取って体勢を立て直す。

(くそ、ちょこまかとやりづれぇ……!)

 剣を正眼に構えて自分を観察するように見つめる朱羅を睨みながら、イレーネは心の中で毒づく。

 男子高校生としては小柄な体格の朱羅だが、その分素早い上に小回りがかなり効く。しかもそこに彼独特の、派手ではないがその分堅実な剣術が噛み合うせいで、防御を突破する事がまったくできない。先ほどから攻撃しても、彼に一撃すら入れる事ができないのが良い証拠だ。

 一撃を入れる事ができていないのは彼も同じだが、それでも一撃を入れられそうになった場面は先ほどから何回かあった。もしも気を一瞬でも抜けば、その瞬間彼の一撃は自分の体を捕らえるだろう。

 さらに、厄介なのはそれだけではない。

 朱羅はこの戦闘で、彼が得意とする高速の武器の切り替え――――『瞬時切替(ソニックスイッチ)』と自分達は呼んでいる――――を一度も使っていない。それは自分を侮っているからなどでは決してないだろう。そんな理由で十八番を使わないほど、彼は馬鹿な人間ではない。

 つまり彼は、狙っているのだ。イレーネが決定的な隙を見せ、その隙を自分の瞬時切替が衝くのを。

 彼の瞬時切替は第三者から見たらただの手品に見えるかもしれないが、こうして相対してみると分かる。彼の瞬時切替はもはや手品のレベルではなく、神業の領域にある。冗談ではなく、自分が一瞬でも隙を見せようものならばそれが敗北に繋がりかねないのだ。

 だからこそイレーネは、彼の剣だけではなく彼の両手にも注意を向けなければならない。彼の瞬時切替は確かにすさまじいが、それは必ず両手を使って行われる。相変わらず武器を切替(スイッチ)する瞬間ははっきりとは見えないが、それでも予備動作ぐらいならばどうにか見る事ができる。予備動作を見切り、その際に生じる隙を逆に衝いてやれば、自分が勝つ可能性は十分にある。

 だがそれは朱羅自身もよく分かっている。現にさっきから彼は瞬時切替を一度も使っていない。自分の特技がイレーネに警戒されている事を彼も理解しているのだ。だからこそ、こうしてまだ決定打に至る事ができていない。

 そしてそんな状況で、勝つためにイレーネが打つ手はただ一つ。

(瞬時切替を出される前に、とっととケリをつける……!)

 そう考え大鎌を自分の腰のあたりで止めると、強力な一撃を加えるために両腕に力を込める。そして次の瞬間、地面を蹴り朱羅目がけてまるで弾丸のように突進した。

 その速度に朱羅はかすかに目を見開くが、あまり動揺しているようには見えない。確かに速い事は速いが、いくら何でも馬鹿正直すぎる。これならどれほど強力な横薙ぎの一撃を放たれたとしても、先ほどのように体全体をかがめるか、後ろに一歩下がるだけで攻撃をかわす事もできる。

 しかし朱羅は、その攻撃を体全体を屈めてかわす事にした。あの速度ならばイレーネも急には止まれないだろうし、イレーネとの距離を急速に詰めてしまえば自分が遥かに有利だからだ。そう考えて朱羅が攻撃を待ち構えようとしたその時。

 イレーネの口角が、にやりと凶悪に吊り上がった。

「甘ぇよ、朱羅」

 そう告げた直後、大鎌が横薙ぎの態勢から急に地面へと下げられた。重力を操る大鎌の刃がガリガリガリ!! とけたたましい音を立てて床とこすれ、オレンジ色の火花を散らす。

 イレーネの狙いに気づき、朱羅は今度こそ目を大きく見開いた。彼女が狙っていたのは横薙ぎの強烈な一撃なのではない。それを予測して待ち構えた自分を逆に倒すための、まったく予想外の方向からの一撃。

「おおおおおおおおおっ!!」

 叫びと共にイレーネが下段に構えた大鎌を一気に振り上げ、大鎌の刃が唸りを上げながら朱羅の校章へと放たれる。しかし顔をしかめた朱羅は間一髪後ろに軽く跳ぶ。そのおかげというべきか、トレーニングウェアを軽く切り裂かれはしたものの攻撃をどうにかかわす事に成功する。

 だが、ここで終わるようならばイレーネ・ウルサイスという少女は、アスタリスクの中でも最も序列争いが激しいと言われているレヴォルフ黒学院の序列三位の座についていない。

 イレーネは鎌の刃を完全に振り上げると、くるりと手首を返して刃の切っ先を下に向ける。刃の切っ先には無論、朱羅の体があった。

「これで終わりだ!!」

 自らの勝利を確信したイレーネが叫びながら覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)を勢いよく振り下ろす。鋭い勢いをつけられた刃は、そのまま朱羅の胸にある校章を切り裂く。

 そう思われた、次の瞬間だった。

「……甘いよ、イレーネ」

 朱羅は小声で告げた直後、腕を思いっきり伸ばして剣の柄の部分を勢いよく大鎌の刃の根元の部分に叩きつけた。ギィン! という金属音が響き、大鎌の刃の切っ先は朱羅の校章の数センチ手前で止まる。

「何っ!?」

「はぁっ!」

 イレーネが驚愕の声を上げると、朱羅が気合の声と共に大鎌を上方に弾く。その結果大鎌が上に跳ね上げられ、大鎌を持っていたイレーネの体もバランスを崩して後ろにのけ反ってしまう。

「くそっ!」

 悔し気な声を上げながら、イレーネがすぐさま体勢を立て直そうとする。

 だが。

「……僕の勝ちだよ、イレーネ」

 ようやく体勢を立て直した彼女に向かって、朱羅が笑みを浮かべて言った。彼の剣を握る右手とは反対の左手には、瞬時切替(ソニックスイッチ)で起動した大剣が握られていた。大剣の刃はイレーネの首の数センチ手前で止められており、もしも朱羅がその気になればイレーネの首の薄皮を切り裂く事もできるだろう。つまり、完全なチェックメイトの状態だった。

「……チッ」

 舌打ちをすると、イレーネは覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)の起動を解除し、降参の意を示すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「だー! また敗けた! これで五敗目かよ!」

「そんなに悔しがる事は無いと思うよ? 最後の攻撃には、僕も焦ったし」

「はっ、何だそりゃ? 勝者の余裕か? 生憎、そういうのが一番ムカつくんだよ!」

「い、痛たた! やめてよイレーネ!」

 朱羅の首に右腕を回して強く締めると、彼から苦しそうな声が漏れた。

 言葉だけ聞いてみると機嫌が悪そうに聞こえるが、言葉に反してイレーネの顔には笑みが浮かんでいる。彼女も本気で怒っているわけではなく、悪ふざけのつもりなのだろう。朱羅もよく見てみると、苦しそうではあるもののどこか困ったような笑みを浮かべている。

 そんなじゃれ合いをする二人に、トレーニングルームの端で二人の戦闘を見ていたプリシラが声をかけた。

「お姉ちゃん! 朱羅さん! そろそろ休憩にしよう!」

「っと、確かにそうだな。少し休もうぜ、朱羅」

「うん」

 そう言うとイレーネと朱羅は、二人揃ってプリシラの方に向かって歩いて行った。

 二人がプリシラの前に辿り着くと、プリシラはスポーツ飲料の入ったボトルを二人に手渡した。イレーネは飲み口に口をつけてスポーツ飲料を飲むと、ふーと一息つく。

「だけど、このあたしが覇潰の血鎌の能力を使っていないとはいえ、こうまで負けが続くとはな……。やっぱ体術ももっと鍛えておいた方が良さそうだな……」

「でも、イレーネは体術のセンスが元々高いから、そのままでもそこら辺の相手には負けないと思うよ?」

「へっ、嫌味にしか聞こえねぇっての。大体、体術を鍛えてねぇからこうしてお前に負けてるんだろうが」

 イレーネはそう言ってから、ボトルの飲み口に再び口をつけた。

 二人が訓練をしているのはレヴォルフ黒学院のトレーニングルームだった。いや、正確にはイレーネ専用のトレーニングルームといった所だろう。そのため、三人以外には誰もいない。ちょっとした体育館ぐらいの広さがあるが、無論誰にでもこのような空間が与えられているというわけではない。学園の中でも指折りの強者である、『冒頭の十二人(ページ・ワン)』の持つ特権の一つだ。

 では何故、休日の朝から二人がこんな場所で戦っているかというと、簡単に言えば今よりもさらに強くなるためだ。

 先月朱羅がイレーネを敵対視するレヴォルフのグループに拉致された際に、覇潰の血鎌を使っていなかった事に加え相手がテーザー銃という武器を持っていたとはいえ、一時イレーネは地面に倒れ伏せ、危うく少年達に半殺しにされかねない所だった。自分のトラウマを克服した朱羅が加勢してくれたから良かったものの、また同じような事にならない保証はどこにも無い。そのため、今よりももっと強くなるために二人はたびたびここで訓練をするようになった。ちなみに模擬戦闘の際は二人共いつものレヴォルフの制服ではなく、トレーニングウェアである。

 ただし、訓練を行う上で二人は条件を付けて戦っていた。イレーネは覇潰の血鎌の能力は使わず、朱羅は自らの得意とする瞬時切替(ソニックスイッチ)を三回までしか使わないという条件だ。

 イレーネの場合は、いくら訓練とはいえ能力の燃費が悪い覇潰の血鎌を使うわけにはいかなかったからだ。再生能力者のプリシラがいない訓練では圧倒的に朱羅の方が有利だし、いくら何でも訓練で妹のプリシラを傷つけるわけにはいかないといった理由からだった。

 イレーネはその事を朱羅に伝えると、彼はその条件を快く承諾してくれたものの自分も一つの条件を出した。それは、訓練中の瞬時切替の使用を三回までに限定するという事だった。

 瞬時切替は確かに朱羅の得意技だが、戦闘では何が起こるか分からない。何かのアクシデントで、瞬時切替が使えなくなる事だって充分に考えられる。朱羅はイレーネの提案を承諾する条件として、その事をイレーネに言ったのだ。

 最初イレーネは渋っていたが、こういう場面では朱羅は結構頑固な一面を持っている。そしてこういった事も自分とイレーネのために必ずなるという朱羅の言葉を受けて、イレーネは渋々その提案を承諾したのだった。

 それから二人はこれまでに五回ほど訓練をしていたのだが、イレーネは朱羅には一度も勝てなかった。

 剣術の腕や体術が卓越しているわけではない。確かにそれらの腕はかなりのものだが、彼よりも高いレベルの剣士などは、この学園都市にはかなりいる。

 にも関わらず、イレーネはこの童顔の少年に勝つ事が一度もできずにいた。その実力の高さはもちろん、何か奇妙なやりにくさがあって、どれほど戦闘で優勢だったとしても最後には必ず自分が負けているのだ。

 イレーネは飲み口から唇を離すと、プリシラから受け取ったタオルで汗を拭いていた朱羅に尋ねた。

「だけどよ朱羅。真面目な話、どうやってお前はあたしに勝ってんだ? お前と戦ってると、どうもやりにくく感じるし……。何かタネがあるのか?」

 すると朱羅は、タオルで汗をぬぐいながらあっさりと言った。

「そりゃああるよ。そうじゃなかったら僕はとっくの昔にイレーネに負けてる」

「じゃあ、それは一体なんだってんだよ」

「関節」

「関節?」

 イレーネが怪訝な声を出すと、朱羅はうんと頷いてから、

「僕達星脈世代(ジェネステラ)は確かに普通の人より高い身体能力を持ってる。だけど、関節の動きは普通の人とまったく変わらない。動ける範囲には限りがあるし、関節の駆動域を分かってればおおよその攻撃の軌道は読む事ができる。……それと、これはちょっと言いにくい事なんだけど……。イレーネのその覇潰の血鎌の武器の特性っていうのもあるかな……」

「こいつの?」

 イレーネは覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)の発動体を取り出しながら言った。

「そもそも大鎌っていうのは剣や斧に比べると、使いやすい武器とは言えないんだ。元々鎌は草を刈り取るために使われてた武器だし……。突き刺したりするなら話は別だけど、それは鎌の場合だからね。覇潰の血鎌のような大鎌の場合だと振り回したりするのに力がいるから、相手に突き刺すだけでも一苦労なんだ。もちろん使いこなしたりした人なら大鎌でも十分に戦えるけど、それでも剣の達人とかが相手だと少し分が悪いかもね」

「……じゃあ、あたしがお前に勝てないのは、武器の相性のせいだって言うのか?」

「負けてる原因が全部それだとは言わないけど、近距離での戦いとなるとやっぱり大鎌を使ってるイレーネの方が不利になりがちなのは確かだね」

 ふーん、とイレーネは覇潰の血鎌の発動体を見ながら相槌を打つ。今まではそういった事を気にした事は無かったが、確かに朱羅の言う通りなのかもしれないと思う。実際に朱羅との白兵戦では、かなりやりづらい気がしてならない。彼の言う関節以外に要因があるならば、それは間違いなく自分の大鎌と彼の剣との相性のせいだろう。

「相性の差を埋める何か良い手とかはねぇのか?」

「単純だけど、今よりも大鎌を操る腕を磨く事ぐらいかな? あとは仮に実戦で能力を使うなら、覇潰の血鎌の能力を今よりうまく使ったり、能力を使わないなら自分の得意な間合いを取り続けたりとか……」

「だけどよ朱羅。お前だって槍を使ってるとき、近距離になったら柄を短く持って対応してるじゃねぇか」

「あれは一時しのぎみたいなものだよ。あのまま戦っても、剣の達人とかが相手じゃすぐに破られる。だから一応の対応策とかは必要だけど、それでもやっぱり自分の得意な間合いを取り続けた方が勝つ可能性は高くなる。だからイレーネも、そういう風に戦った方が良いんじゃないのかな?」

 話を締めるように、朱羅は言った。つまりは訓練あるのみと言った所だろう。

 上等だ、と話を聞いてイレーネは思う。今回の戦いで自分の課題がいくつか見つかったが、それは要するにまだまだ自分は強くなる事ができると言われているのと同じ事だ。自分にできる事は全て行い、誰にも負けないぐらいの強さを身に着けなければならない。

 イレーネは心の中で強く思うと、ドリンクをがばりとあおってから朱羅に言う。

「だけど、お前も相当強いよな。いくら覇潰の血鎌の能力を使ってないとはいえ、あたしに五回も勝つなんざそうそうできる事じゃねぇぜ? どうやったらそんぐらいまで強くなるんだ?」

 今日改めて模擬戦闘を行って改めて分かったが、朱羅の戦闘能力の高さの秘密は瞬時切替だけではない。相手の攻撃を的確にさばく堅実な剣術。そして相手の行動を予測し、その隙を素早く衝く高い洞察力。どれもこれも、一朝一夕でできるような芸当ではない。一体どのような事をしたら、そこまで強くなる事ができるのだろうか。

 しかし朱羅は自分の強さを誇るような態度を見せず、あっさりと返した。

「別に大した事はしてないよ。何回も剣を振ったり、走りこんだり、あとは瞬時切替の練習。それだけを繰り返しただけだよ」

「……たったそれだけで、あそこまで強くなる事ができるのか?」

 イレーネは怪訝な表情で彼に尋ねる。何か特別な訓練などせず、ただの反復練習であそこまでできるようになるものなのだろうか。すると朱羅は、どこか悲しそうな笑みを見せた。

「たったそれだけしかできなかったんだよ、イレーネ。僕と戦って分かったと思うけど、僕の剣術や槍術は、この学園にいる一流達と比べたら遥かに見劣りしちゃうんだ。真正面から戦ったら、間違いなく彼らが勝つよ」

「………」

「どれだけ鍛えても、僕は凡人だからね。一生懸命頑張っても彼らの領域には到達できない。だから、色んな事を必死に学んだんだ。一つの事を極める事ができないなら、せめてたくさんの事を覚えて鍛えようって。で、その結果できた僕なりの戦術が、こんな器用貧乏な戦い方だって事。結構大変だけどね」

 そう言って朱羅は、あははと笑った。 

 だが、イレーネは笑う事ができなかった。

 朱羅は器用貧乏だと笑っていたが、あれほどの武器を自由自在に操る様はとても器用貧乏などというレベルではない。しかもそこに瞬時切替という、戦況を変えるだけではなく戦況を作り出す事すら可能にする朱羅特有の技術(スキル)が加わってしまったら、大抵の敵にはもう手が付けられない事になる。並大抵の相手ならば、朱羅の攻撃パターンに対応する事ができず、なすすべもなく地面に這いつくばる事になるだろう。

 それは、彼の言う一つの事を極めた人間からすれば節操が無いと言われる戦術かもしれない。

 だがそんな事は、朱羅には関係なかった。

 全ては、自分が護りたいと思う人を助けるために。そのために彼はひたすら自分にできる事を反復練習し、その結果あらゆる武器を操る力と高い洞察力、そして瞬時切替という技術(スキル)を手に入れた。 

 それは紛れもなく、あらゆる事を貪欲に吸収し、鍛錬し続けた朱羅だからこそ身に着ける事ができた力だ。他の誰にも笑われる筋合いなど無い。

 だから、イレーネは朱羅に言った。

「……良いじゃねぇか」

「え?」

「……お姉ちゃん?」

 突然そんな事を言ったイレーネに、朱羅と話を聞いていたプリシラが目を若干見開いてイレーネの方を向く。イレーネは真剣な表情で、朱羅に言った。

「別に器用貧乏だって良いじゃねぇか。どんな戦い方だろうと、戦闘で勝ったらそいつの戦い方の方が強かったって事だ。現にさっきからの模擬戦闘だって、お前のその戦い方の方が強いからあたしは五回も負けたんだ。馬鹿にされる理由なんてどこにもありゃしねぇよ。もしそんな奴がいるとしたら、あたしがぶっ潰してやる」

 そう言ってイレーネは再び飲料を飲んだ。朱羅は少し驚いたような表情でイレーネを見ていたが、やがておずおずと彼女に尋ねた。

「それって……誉めてくれたの? フォローしてくれたの?」

「両方だ馬鹿。少なくとも、お前のその器用貧乏な戦い方は、十分に強いってあたしは言ってんだよ」

「そっか……。ありがとう、イレーネ」

 イレーネの励ましの言葉を聞いて、朱羅が柔らかい笑みを浮かべる。不意打ちとも言えるその笑顔に、イレーネは自分の笑顔が真っ赤になるのを感じて慌てて顔を背ける。

 朱羅の厄介な所が、こんな風に真っすぐに感謝の言葉を伝える事ができる所だとイレーネは考えている。彼の柔らかい笑顔と優し気な声を聞くだけで、自分の心臓が狂ったようにバクバクと高鳴るのだ。朱羅と知り合ってからそういった事はたまにあったが、この前朱羅と一緒に窮地を切り抜けてからはこう言った事が多くなったように思う。まったくこれは一体何なんだ、とイレーネは自分の胸に手を抑えた。

 ちなみに、自分から顔を背けたイレーネの事を朱羅は不思議そうな表情で見ており、一方のプリシラは何故かとても嬉しそうな表情でイレーネを見つめていた。

「ん、んな事より朱羅! 覇潰の血鎌の能力を今よりもっとうまく使うってなんだよ」

「あ、うん。イレーネの覇潰の血鎌の重力制御の能力を見て考えたんだけど……。ただ相手を押しつぶしたり、重力球を生み出すだけっていうのは、ちょっともったいない気がしてね」

「一応相手を浮かす事もできるぜ?」

「あ、そうなんだ。だけど僕の言いたい事はそういう事じゃなくて……」

「……?」

 それからイレーネは朱羅の助言に耳を傾けてから、それを早速実践してみる事にした。

 まずは覇潰の血鎌の発動体を起動。すると瞬時に大鎌が形成され、血の色の刃が妖しく輝く。

 それからイレーネが大鎌を軽く振るうと、彼女の腰の辺りに大きめの重力球が出現した。それを確認してから、イレーネは朱羅に視線を戻す。

「おい、これで良いのか?」

「うん。じゃあとりあえずやってみてよ」

「ああ」

 そう言うと、イレーネは軽く跳躍して重力球の上に飛び乗る。重力球はその場で弾ける事無くイレーネの体を支えるが、重力球に乗っているイレーネの体は見るからに不安定そうにふらふらしていた。

「っと、やべ、結構むずいぞこれ……!」

「ど、どうにか耐えて! 君の体のバランスの良さを考えると、コツを掴めば簡単にできるようになるはずだから……!」

「そ、そうは言っても……おうわぁ!!」

 悲鳴の直後、バランスを崩したイレーネの体が床に投げ出され、ドスンという痛そうな音を響かせる。その音に、朱羅と姉の様子を見守っていたプリシラは思わず両目を瞑った。

 一方、背中を強く打ち付けたイレーネは顔をしかめながら、体をゆっくりと起こした。

「いてて……」

「だ、大丈夫?」

「ああ、なんとかな……。だけど、お前の言う事ができるようになるには、少し慣れが必要だぜこれは……」

「みたいだね……」

 イレーネの感想を聞いた朱羅は少し残念そうな声音で言った。

 朱羅が提案した事とは、イレーネが攻撃の際に生み出す重力球をうまくコントロールすれば、空中を駆ける事も可能なのではないかという事だった。空中を駆ける事ができるようになれば空中を飛ぶ事ができる魔女や魔術師に対抗する事ができるようになるし、何よりも空中に逃げる事ができるようになればすぐに体勢を立て直す事も可能になるかもしれない、という事だった。

 それを聞いてイレーネは確かに戦闘の助けになるかもしれないなという考えと、面白そうというほんの少しの好奇心で、それに挑む事にした。しかし通常生み出している重力球では、使い手であるイレーネにダメージを与えかねない。空を駆けるようにするためには、重力球そのものの力を少し変えてやる必要があった。

 そう考えイレーネが重力球の力を少し調節した結果、元々の重力球ほどの威力は持たないものの、使い手であるイレーネが乗ってもダメージを負わない重力球が完成した。これならば空中を駆ける事ができるかもしれないと思われたが、別の問題が生じた。

 そもそもこの重力球に乗るのが難しく、少しでもバランスを崩せば今のように地面に投げ出されてしまうのだ。これでは実戦ではまったく使う事ができない。仕方がないので、完全に使いこなす事ができるようになるまでは練習を繰り返す事となった。

 一方、ふと現在の時刻が気になって持ってきた時計を見たプリシラが、あっと声を上げた。

「朱羅さん、お姉ちゃん。そろそろお昼時だよ。今日の所はここで切り上げて、お昼ご飯食べない?

「そうだね……。あ、そうだ。いつもプリシラさんに作ってもらってばっかりは悪いから、今日は僕が作るよ。プリシラさん、良い?」

 するとその言葉に、プリシラがえ? と驚いたような顔で朱羅を見つめる。

「私は別に大丈夫ですけど……良いんですか?」

「うん。それにプリシラさん、食事だけじゃなくて家事もほとんど一人でやってるんでしょ? 今日のお昼ご飯ぐらい、誰かに任せてもバチは当たらないと思うよ?」

 朱羅の言葉にプリシラはしばらくうーんと深く考え込んでいたが、やがて結論が出たのか朱羅に言った。

「じゃあ、折角ですし、お言葉に甘えても良いですか?」

「うん、任せてよ。プリシラさんほど美味しいご飯ができるかは分からないけど、頑張るからさ」

「おいおい。あたしもお前が作った飯を食うんだぜ? 今からそんな事を言うのはやめてくれよ」

「あ、ごめんごめん!」

 そんな風に軽口を叩き、笑いあいながら三人はトレーニングルームを出た。

 それから三人は一旦分かれるとそれぞれの控え室に備え付けられているシャワールームで汗を流し、トレーニングウェア姿からいつものレヴォルフの制服を着た姿に戻ると、学園を出て昼食の食材を買うために地下鉄に乗り、商業エリアへと向かった。

 商業エリアに辿り着き、朱羅とプリシラ行きつけのスーパーへと向かっていると、イレーネが忌々し気に呟く。

「くそ、暑いな。まだ六月に入ったばっかりだっていうのに、この暑さはマジで冗談じゃねぇな」

「確かにね。だけどあと数日したら梅雨に入るから、そしたら少しはマシには……ならないか。どっちみち、ジメジメっとした暑さが続くだけだね……」

「それに梅雨に入ったら雨が多くなるから、洗濯物も乾きにくくなっちゃいますしね」

「だけど無かったら無かったで、雨量不足で野菜の値段が高くなっちゃうかもしれないんだよね。僕は六月はそれが一番怖いよ……」

「あ、それ何となく分かります」

 朱羅とプリシラは二人共料理を作る身のため、そういった事に関しては二人共思考が似通っていた。実際に料理の事となると二人共結構話が合い、長い間話し込んでしまう事も多い。ちなみにその間食べる専門のイレーネは話に入る事ができないので、仲間外れにされた気分を味わいながら二人の会話が終了するのを待つだけである。

 しかし今回は珍しく話はそこまで長くはならなかった。話をしていた朱羅が、何かを思い出したのか唐突に料理に関する話題を打ち切ったからだ。

「あ。そう言えば、八月って確かあれだよね?」

「ん? ああ、鳳凰星武祭(フェニクス)か」

 朱羅が何を言いたいのか察したのか、イレーネがその単語を口にした。

 鳳凰星武祭(フェニクス)。今シーズン開かれる星武祭(フェスタ)の一つであり、最初に開かれる星武祭だ。

 その特徴は、同じ学園に所属する者同士がペアを組み戦うタッグ戦。

 ペアの間の相性や戦術が勝利の鍵となる戦いである。

 この星武祭を最も得意としているのは六導館学園だが、近年はあまり成績が振るわず、前年の成績は総合五位。最下位であるクインヴェールは総合順位を度外視しているので、実質上最下位と言える順位である。

「レヴォルフでも誰か出るのかな?」

「出ると思うぜ? 有力な奴を挙げるなら、序列十二位『螺旋の魔術師(セプテントリオ)』のモーリッツ・ネスラーと、その相方のゲルト・シーレだな。この二人は前回の鳳凰星武祭じゃあ本選出場を果たしてるから、今回の大会の組み合わせ次第じゃ結構良いとこまで行くんじゃねぇのか?」

「へぇ……。あれ? レヴォルフの有力選手って、それだけなの?」

「あー、どうだろうな。だけどそいつら以外に鳳凰星武祭で良い成績を残した奴らってのはあまり聞いた事がねぇしな。今回はそいつらぐらいじゃねぇの?」

「ふぅん。あんまり力を入れてないんだね」

「そりゃあまぁな。うちが力を入れてるのはただ一つ、王竜星武祭(リンドブルス)だけだ。なんたってあれには、うちの絶対王者が出るからな。他に力を入れる必要が無いんだろうよ」

「絶対王者?」

「おいおい、さすがに名前ぐらいは知ってるだろ? ……『孤毒の魔女(エレンシュキーガル)』、オーフェリア・ランドルーフェンだよ」

「ああ、そうだそうだ。そんな名前だった」

 呆れ混じりに放たれた名前に、朱羅はポン、と掌を打った。

 オーフェリア・ランドルーフェン。星武祭が世界から注目を集めるこの世界で、知らないものはほとんどいないとされる人物だ。

 レヴォルフ黒学院が誇る、史上最強とも言える『魔女(ストレガ)』。史上二人目の『王竜星武祭』連覇者にして、前人未到の三連覇すらほぼ確実とされる少女。それが、オーフェリア・ランドルーフェンだ。

「お姉ちゃんは、オーフェリアさんに会った事があるの?」

 話を聞いていたプリシラがイレーネに尋ねた。戦闘に参加する機会がないとはいえ、オーフェリアは最強の魔女だ。同じ星脈世代として、プリシラも気にある所があるのだろう。

 しかし、イレーネは何故か苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、

「見た事はある。……だけど、ありゃあ別格だ」

「別格って?」

「文字通りだ。星脈世代は普通の人間とは違うが、その中でもあいつは別格なんだよ。同じ星脈世代でも、あたし達とは根本的に違う。……忠告しとくが、あいつとは関わらない方が良い」

 イレーネの言葉に、朱羅は思わず唾を飲みこんだ。

 レヴォルフ黒学院序列三位の実力を持つイレーネに、そこまで言わせるほどの実力の持ち主。一体、どんな人物なのだろうか? 

 朱羅がイレーネの話を聞いて考え込んでいると、何故かイレーネがふっと笑って朱羅の頭をくしゃっと撫でた。

「ま、普通に生きてたらあいつと関わる事なんて無いだろ。今はそんな事より、さっさと飯にしようぜ! で、何を作ってくれるんだよ朱羅」

「あはは……。それはできてからのお楽しみだよ、イレーネ」

 朱羅は笑いながら、食いしん坊な少女にそう返した。

 

 

 

 

 

 

 

 それから一時間後、デパートで買い物を終えた三人はイレーネの住むマンションへと戻ってきていた。イレーネとプリシラはリビングでテレビを見ており、朱羅は台所を借りて昼食を作っていた。

 イレーネが頬杖をついてテレビを見ていると、隣に座っていたプリシラがイレーネに尋ねた。

「何作ってくれるんだろうね、朱羅さん」

「さぁな。ま、美味いものって事だけは確かだな」

 朱羅は謙遜しているが、彼の料理の腕は男子高校生としてはかなり高く、プリシラに勝るとも劣らないほどである。前に朱羅が作ったという弁当のおかずを食べさせてもらったのだが、その味は普段二人分の料理を作っているプリシラと彼女の美味しい料理で舌が肥えているイレーネが太鼓判を押すほどである。不味いという事はあり得ないだろう。

 なお、その時にあまりに美味しくてイレーネが朱羅のおかずの半分を食べてしまい、彼女はプリシラから怒られる事となった。

 二人がテレビを見ながら静かに待っていると、台所の方から待ちに待っていた声が聞こえて来た。

「できたよー」

「おっ! 待ってたぜ!」

 イレーネが嬉しそうな声を上げると同時、エプロンを身に着けた朱羅が茶碗を両手に持ってリビングに歩いていてきた。そして茶碗を一度テーブルに置き、再び台所に戻ってからもう一つの茶碗や皿などをテーブルに並べていく。

 やがて全ての料理を並べ終えると、三人共テーブルに着く。茶碗の中にある料理を見て、イレーネが言った。

「なぁ朱羅。これって……」

「うん。冷やし茶漬け」

 朱羅の言う通り、茶碗の中に入っていたのは冷やし茶漬けだった。冷ましたご飯に出汁がかけられており、さらに刻み海苔、白ごま、ほぐした鮭、キュウリが入っている。

 そう言えば、とイレーネが改めて見てみると、テーブルの上のさらにはどれもみょうが、トマト、大根おろし、梅干しなど様々な具材が入っている。どうやらこれらはお茶漬けに入れる用の具材らしい。

「今日は暑いし、これなら食べやすいかなって思って作ったんだ。本当は氷を入れようかなって思ったんだけど、これぐらいで十分かなって思って入れなかったんだ。必要なら入れるけど……」

「いいや、あたしはこれで良いぜ」

「私もです。わぁ、お茶漬けなんて初めて……」

「え、作った事無いの?」

「はい。こういったものはあまり作った事が無くて……」

「そうなんだ……」

 料理好きなプリシラがお茶漬けを作った事が無いという言葉は朱羅にとっては意外だったが、考えてみればイレーネとプリシラは元々外国で生まれた姉妹だ。それにプリシラが作る料理もどちらかと言うと洋食が中心なので、お茶漬けを作った事がないというのもなんら不思議ではない。

「じゃあ二人にとっては初めてのお茶漬けだし、そろそろ食べようか」

「ああ、そうだな。いただきますっと」

「「いただきます」」

 三人はそれぞれ手を合わせて言うと、茶碗の前に置かれているスプーンに手を伸ばした。箸にするかスプーンにするか迷ったが、食べやすい方が良いだろうという理由で朱羅がスプーンを選んだのだ。

 イレーネはスプーンを持つと、さっそくご飯をすくって口に運び、もぐもぐと噛む。

「む………」

 イレーネは少し目を見開いてご飯を飲みこむと、ポツリと呟いた。

「美味い……」

「そう? それは良かった」

 そう言う朱羅も、自分の分のスプーンで自分が作ったお茶漬けを美味しそうに口に運ぶ。どうやら作った彼が食べてみてもお茶漬けは会心の出来だったらしい。

 また、それはプリシラも同様だったようで、美味しそうに笑いながら言う。

「この出汁、すごく美味しいです。今度作り方を教えてもらっても良いですか?」

「うん、良いよ。でも、自分で言うのもなんだけどやっぱり美味しいなぁ。夏は食欲が湧かない時もあるからお茶漬けを作る事は多いんだけど、不思議な事にお茶漬けだと結構食べられるんだよね」

「本当ですね。すぐにお代わりできちゃいそう」

 二人がそんな会話をしていると、イレーネが空の茶碗を朱羅に差し出した。

「お代わりくれ」

「もう食べちゃったの?」

「別に良いだろ? あれだけ動き回ったんだし、腹減ってるんだよ」

 仕方ないなぁ、というように苦笑しながら朱羅はご飯を茶碗によそってイレーネに渡してやる。そのやりとりがどこか微笑ましくてプリシラは思わずくすりと笑ったが、二人はそれに気が付いていないようだった。

 一方のイレーネは出汁をご飯にかけると、その上に皿に入っていた具材を入れて食べる。まず手始めに入れたのはトマトだった。トマトと茶漬けを食べながら、イレーネは嬉しそうに言う。

「中々合うんだな、トマトと茶漬けって。さっぱりして食べやすい」

「梅干しも美味しいよ、お姉ちゃん。ちょっと酸っぱいけど……」

 様々な具材を入れてお茶漬けを楽しむ二人を見て、朱羅は喜んでもらえて良かったと思いながら自分の茶漬けの上にきゅうりを入れて食べ続ける。

 そして、それから三十分後。

「ごちそうさまでした、と。はぁ、美味(うま)かったー!」

「あはは、喜んでもらえて良かったよ」

 食事を終えて体を伸ばすイレーネに、朱羅は笑顔で言った。

 この暑い日に朱羅の作ったお茶漬けは非常に食べやすく、プリシラは一杯、朱羅とイレーネは二杯ご飯をお代わりする結果となった。朱羅とプリシラは空になった茶碗などを台所に運び、それから朱羅が食器を洗おうとすると、それを見たプリシラが言った。

「あ、朱羅さん。私も手伝います」

「え、いいよ。今日は僕が作ったんだし……」

「美味しいご飯を食べさせてもらったんですし、これぐらいは大丈夫です。さ、早く終わらせちゃいましょう!」

 プリシラはいつもは基本的に穏やかなのだが、一度決めると動かない意思の強さを持っている。そしてそういった人間の意見を翻させる事は非常に難しい事だと、朱羅は知っていた。何せ、自分もそういった種類の人間だからである。

 プリシラのその言葉に負けて、朱羅はプリシラと一緒に食器を洗い始めた。食器は三人前だが横にプリシラがいてくれるので、この速さならすぐに終わるだろう。食器を洗う手を動かしながら、そういえばイレーネは何をしているんだろうと思いふと彼女の方向に目をやる。

 すると、

(………?」

 イレーネは椅子に座ってテレビを見ながらも、ちらちらと朱羅とプリシラを見ていた。しかし朱羅がその視線に気が付くと、イレーネは慌てて二人からテレビに視線を戻し、何事も無かったかのように装う。その行為に変なのとは思いはしたが、後で彼女に聞いてもきっと何も答えないだろうなと朱羅は思い、そのまま洗い物を続ける。

 ちなみに、イレーネが二人の事をちらちらと見ていたのは、洗い物をしている二人がまるで夫婦のように見えてしまったからである。その光景を一瞬ではあるが羨ましく思ったのと、二人だけに家事を任せて自分だけテレビを見ている事に罪悪感を覚え、イレーネは心の中で家事を覚えようと密かに誓った。

 その後二人は洗い物を終えると、椅子に座ってイレーネと一緒にテレビを見る事にした。こういった事も、最近のウルサイス姉妹と朱羅の日常となっている。朝から訓練に励み、昼はこうして三人一緒に食事をし、夕食を済ませて時間が経ったら自分の学生寮へと朱羅が帰る。朱羅と二人が知り合って二か月経ち、これが三人にとっての当たり前となっていた。平凡かもしれないが、三人にとっては幸せな日常。

 朱羅がテレビをぼんやりと眺めていると、不意にイレーネが尋ねた。

「そう言えばよ、朱羅。お前、鳳凰星武祭に参加する気はないのか?」

「へっ?」

 その言葉に朱羅は呆気に取られたような表情を浮かべてから、

「無いけど……どうして?」

「どうして、じゃねぇだろ? ここに来る奴らの大半はそれが目的だろうが。そりゃあお前の場合は事情が事情だし、そういった事にはあまり興味はないかもしれねぇけどよ。それでも、叶えたい願いの一つや二つぐらい、あるんじゃねぇの?」

 朱羅がここに来たのは、自分の意思というよりも厄介払いという形に近い。だがそれでも、彼ほどの実力者ならば星武祭で優勝して、願いを叶えてもらうというのも決して夢ではないはずだ。

 一方、朱羅は少し考え込んでから

「……だめだ、やっぱり無いや。特に欲しい物も無いし、お金も十分にあるし、これと言った目標も無い。うわ、僕って無欲な人間だったんだ……」

「自分で言うかよ、それ」

 朱羅の言葉に、イレーネとプリシラは思わず苦笑する。無欲と言われると、確かにそのような感じはするが、それを朱羅自身が言うとどこかおかしく感じてしまう。

「イレーネは参加しないの? 鳳凰星武祭で優勝すれば、結構な量のお金が手に入るんじゃない? それを借金にあてれば……」

「あー、そりゃ無理だ」

 と、イレーネは何故かひらひらと手を振ってから答えた。何故かと朱羅が尋ねようとすると、イレーネは顔をしかめながら答えた。

「ディルクとの契約なんだよ。そのせいであたしは星武祭への参加は制限されているし、仮に優勝したとしてもその賞金を返済に充てる事は出来ない事になっているのさ。まあ、できるだけ長くあたしを手駒として使いたいんだろうな」

「……酷いなぁ」

「ホントだぜ。あいつには関わらない方が良いぜ、ロクな目に遭わねぇよ」

 朱羅が顔をしかめて言うと、イレーネは頷いて肯定した。それから何故かにやりと笑って、

「でも、お前がどうしても参加したいっていうなら、お前のパートナーになってやってもいいぜ? ま、その分レンタル料は高くつくけどな」

「あはは。その言葉は嬉しいけど、お金が無いからやめとくよ」

「なんだ、つまんねぇの」

 頭の後ろで手を組みながらイレーネがつまらなそうに呟くが、その直後何故か勢いよく身を乗り出してから言った。

「そうだ。なぁ朱羅、来週の日曜日またカジノに行こうぜ! 最近行ってなかったし、また大金稼ぎといこうじゃねぇか!」

「こらこら、お姉ちゃん。いくらお金が必要だからって言っても、日曜日にカジノに行くのはどうかと思うよ? 折角の日曜日なんだから、カジノよりも別の場所に行った方が楽しいんじゃないかな?」

 さすがのイレーネもプリシラの言葉には逆らえなかったようだが、その代わり困ったような表情で髪の毛をくしゃくしゃと掻く。

「別の場所って言われてもな……。ここら辺の店は大体行き尽くしちまったし……」

「そうなんだよね……。……あ!」

 突然プリシラはパン! と両手を合わせて音を鳴らすと、椅子から立ち上がってリビングから出て行った。それに朱羅とイレーネが一瞬顔を見合わせるが、トテトテという音と共にプリシラがすぐに戻ってきた。彼女の両手には一枚のチラシが握られている。プリシラは再び椅子に座ると、持っていたチラシをテーブルに広げた。

「何だ? こりゃ」

「商業エリアに新しいデパートが開くんだって。結構色んなお店が入ってて面白そうだよ。デパートの中のお店で使える割引券もあるし、二人で行ってみたら?」

「ふーん……。確かに色々あるみてぇだな……。だけど、こんなでかいデパート建てる必要あんのかよ? ただでさえ商業エリアには店がかなりあるってのに……」

 チラシを見ながら、イレーネが呆れたような声を出す。朱羅もチラシを見てみたが、確かにデパートの規模そのものは商業エリアの中でもかなりのものだ。さらに展開される店舗の数も多数あり、下手をしたら全ての店を見回るだけで一日かかってしまうかもしれない。だが、その分時間を潰すには中々良さそうではある。

「でも確かに結構面白そうだね。ちょっと行ってみようよ、イレーネ」

「ああ? ……まぁ、お前が言うなら別に良いけどよ……」

「良し、決まりだね。あ、プリシラさんもどう? 一緒に行かない?」

 するとプリシラは何故か困ったような笑みを浮かべながら、残念そうな口調で言う。

「申し訳ないんですけど、その日ちょっと都合があって、私は一緒には行けないんです。ごめんなさい」

「そうなんだ……。じゃあ、また今度三人でどこかに行こうか」

「はい、そうしましょう。ですから、日曜日はお姉ちゃんと二人で楽しんできてくださいね」

「うん、そうするよ」

 何故か二人でという箇所を強調していたが、朱羅がそれに気づく事は無かった。一方イレーネはチラシをじっと見て、どこか暇を潰せるような場所はないかと観察していた。するとこれといった店舗を見つけたのか、イレーネがチラシのある部分を指差しながら朱羅に言う。

「おい、朱羅。ここなんてどうだ?」

「え、どこどこ?」

 そんな風に楽しそうにチラシを見て相談する二人を、プリシラはニコニコと嬉しそうに眺めていた。

 

 

 

 

 それから数時間後、日がすっかり暮れ、夕食を済ませた朱羅が帰った後、イレーネは未だにチラシを見続けていた。その顔には、どこか家族と一緒に遊園地に行くのを楽しみにしている子供のような笑みがあった。イレーネのそんなあどけない笑みが非常に珍しくて、それを見ていたプリシラは思わずくすりと笑ってしまう。

「ん? どうした? プリシラ」

「ううん。何でもないよ。それよりお姉ちゃん、来週は朱羅さんとのお買い物、楽しんできてね」

「ああ、分かってるよ。でも、なんか悪いな。あたし達だけで行くような事になっちまって……」

 気まずげにイレーネが謝ると、プリシラは首を横に振った。

「私なら大丈夫だよ、お姉ちゃん。また三人でどこかに行こう、ね?」

「……そうだな」

 どうやらプリシラは本当に気にしていないらしく、それどころか朱羅とイレーネが二人で出掛ける事が本当に嬉しそうな笑顔である。プリシラがこんな笑顔をしているのに、自分達がいつまでも悩んでいたら逆に彼女の笑顔を曇らせてしまう。そう考えてイレーネは、来週は朱羅と一緒に思いっきり楽しむ事にした。

 と、イレーネがそんな事を考えていた時、プリシラが笑顔のままこんな事を言い放った。

「じゃあ、明日の放課後は一緒に服を見に行こうよ、お姉ちゃん」

「……は?」

 突然放たれたその言葉の意味が分からず、イレーネは思わず怪訝な声を上げてしまう。それから妹の意図を知るために、彼女に向かってこんな質問を放った。

「え、どうして服を買いに行く必要があるんだ?」

「だって、折角のデートなんだし、お洒落した方が良いでしょ?」

 あっさりと返されたその答えにイレーネは思わず呆然とした表情になったが、ようやくプリシラの言葉の意味を理解すると、顔を真っ赤にして叫んだ。

「で、でででデートとかそんなんじゃねぇよ!! ただ二人で色々と見て回るだけだろうが!!」

「……お姉ちゃん。世間一般ではね、そういうのをデートって言うんだよ?」

「ち、違ぇし! あたしと朱羅はそういう仲じゃねぇし! た、ただの腐れ縁だ腐れ縁!!」

「ふぅん。じゃあそれ、朱羅さんに言っても良いの?」

 プリシラの冷静な言葉に、イレーネは思わずぐっと言葉に詰まった。勢いでそう言ってしまったが、イレーネ自身腐れ縁だとは思っていない。では何かと言われると、まず一番に先に浮かび上がってくるのは血の繋がらない家族という単語だ。しかしイレーネ自身、何故かその考えにはもやっとしてしまう。家族とは少し違うと言うか、できればもっと違う関係の方が好ましいと言うか……。まぁ、その違う関係とは何かと言われると困ってしまうのだが……。

 そんな姉の様子を見て、プリシラはふぅとため息をついた。

(お姉ちゃんったら、まだ自分の気持ちに気づいてないんだ。今までの環境を考えると、それも仕方ない事だけど……。でも私としては、お節介かもしれないけど二人の関係を進めたいんだよね。朱羅さんなら、お姉ちゃんの事を大切にしてくれるだろうし)

 朱羅が心優しい人間だという事はもうとっくに知っている。彼ならば、イレーネを幸せにしてくれるという確信もある。あとは、二人の仲を少しでも進展させるだけである。例えそれが自分のお節介だとしても、やはり自分を今まで護ってくれた姉には幸せになって欲しい。そのためならば、自分にできる事はどんな事でも全力で行おう。

 プリシラはイレーネに背を向けると、むん、と胸の前で両手で拳を握り心の中で固く誓う。それから振り返ると、明るい笑顔でイレーネに言った。

「とりあえず、明日の放課後は一緒に洋服を見に行こうよ! もしかしたら、朱羅さんが可愛いって言ってくれるかもしれないよ?」

「か、可愛い!? いや、まさかあいつが……でも……」

 プリシラから顔を背けてブツブツと何やら呟いていたが、やがて心が決まったのかゆっくりと振り返る。その顔には、嬉しいのを必死に誤魔化そうとしている笑みが浮かんでいた。

「ま、まぁあれだ。別にあいつになんて思われても構わねぇけど? あ、あいつの間抜けな顔を見るのも面白そうだしな。と、とりあえず見るだけ見る事にする。それで良いだろ?」

「うん、良いよ」

 素直じゃないなぁ、と心の中で思いながらプリシラは笑顔で姉に言う。

 朱羅とイレーネにとっては買い物、プリシラにとっては二人のデートとなる日は一週間後。

 成功して欲しいなぁ、とプリシラはその日の事を想像して思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

「くそっ! なんで俺がこんな目に遭わなくちゃ……」

 再開発エリアの道を、一人の少年が歩いていた。だがその姿は見るにボロボロだった。口元からは血が滲んでおり、金色の染め上げられた髪の毛と服はすっかり乱れてしまっている。少年は口元の血を乱暴に拭うと、ちくしょうと呟いてからゆっくりとした足取りで歩く。

 この少年は先月、朱羅を拉致しイレーネを襲ったグループの一人だった。しかし今では、そのグループは存在していない。先月トラウマを克服した朱羅と彼に助けられたイレーネによってグループが壊滅状態になり、しかもあとで通報されたのかグループのメンバーが気絶している所を、アスタリスクの警察に殉じる組織である星猟警備隊《シャーナガルム》に見つかり、ほとんどのメンバーが捕まってしまった。捕まらないでいるのは、自分を含めて二、三人だけである。

 捕まった少年達は時間が経てば帰ってくるだろうが、グループとしての再起はもう不可能かもしれないと少年は思っていた。自分達をこうまでした朱羅とイレーネに復讐をするために少年は捕まらなかった少数の仲間達に襲撃の案を出したが、誰からも賛成の言葉は出てこなかった。それどころか、もう彼らには関わりたくないというのが彼らの意見だった。それほどまでに、朱羅とイレーネの強さは彼らの脳裏に強く刻み付けられていたのだ。

 しかし、このままでいられないというのが少年の正直な気持ちだった。たった二人にグループが壊滅させられたという噂はすでにレヴォルフの不良達に伝わっている。そのせいでグループの一員だった少年は、不良達からは腰抜けや負け犬と言った陰口を叩かれていた。

 少年が怪我をしているのもそのせいだ。ついさっき同じような陰口を叩いていた三人ほどの不良達を見つけ、その一人に掴みかかったものの、序列入りするほどの実力を持っているわけでもない少年は三人にあっという間に叩きのめされてしまった。悔しさと怒りで奥歯を噛み締めながら、少年は一人呟く。

「これも全部あいつらのせいだ……! 今に覚えてろよ、吸血暴姫にあのクソガキが……!!」

 その言葉には、聞くものが背筋に寒気を覚えるほどの憎悪が込められていた。

 そして、一週間後。

 この少年の憎悪が引き金となり、ある事件が起こる事になる。

 しかしその事を、まだ誰も知らなかった。




食事の時の描写が結構難しいです……。


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第七話 壊れた日常

朱羅とイレーネのデート回、そして急展開です。


  

 

 

 

 

 

「はぁ………」

 自分と妹が住んでいるマンションの前で、イレーネ・ウルサイスはため息をついた。

 今日は一緒に新しくできたデパートに一緒に行くと朱羅と約束した日曜日。天気は晴れではあるものの、天気予報では午後に天気が崩れて雨になる可能性があるという。まぁ屋内にいれば雨に濡れる可能性は低いし、いざとなれば傘を買ってさせばいいだけの話である。

「はぁ………」

 青空を見上げながら、イレーネはまたため息をついた。今日朱羅と出掛けるのが憂鬱というわけではない。それどころか、今日のデート(そう言葉にするのは恥ずかしいのでイレーネは認めていないが)にガラでもなく緊張してしまって、昨日の夜中々寝付けなかったほどである。

 では何故ため息をしているのか。その理由は、イレーネが着ている服にあった。

 イレーネは自分の服装を見ながら、落ち込むように呟いた。

「こんな服、あたしに似合うわけがねぇだろうが……」

 彼女が着ているのは、白を基調としたトップスにロング丈のレースガウン、さらにデニムワイドパンツに黒いストラップサンダルと、普段の彼女ならば絶対に着ないような服だった。

 これらの服はもちろんイレーネが選んだものではない。今日という日に備えてプリシラと一緒にデパートに向かい、そして彼女が選んで買ってくれた物だった。イレーネ自身は最後の最後まで着るのに反対したのだが、プリシラはきっと似合うと最後まで断言していた。なので彼女の言葉を信じて、気合を入れてこの服を着て朱羅との待ち合わせ場所であるマンションの前に数分前からいるのだが……、今になってイレーネはこの服を着たのを後悔していた。

 似合っていないというわけではない。イレーネが生来持っていたすらっとしてしなやかな身体に、プリシラが選んでくれた服が見事にマッチし、清楚な大人の女性という雰囲気を漂わせている。

 しかし、それがイレーネが悩んでいた事だった。

 確かにそのような雰囲気があるのは良い事かもしれないが、その雰囲気を纏っているのは悪名高いレヴォルフ黒学院の序列三位、『吸血暴姫(ラミレクシア)』イレーネ・ウルサイスである。そのため、先ほどからイレーネに目を奪われる男性が少なからずいるのだが、その視線はすぐに好意じみたものから恐怖を滲ませたものに変わる。しかもそれはまだ良い方で、まるで信じられないものを見たと言うように、首がねじ切れんばかりに二度見をしてくる輩もいる。

 そのような事があったので、イレーネはすっかり不安に駆られてしまっていた。もしも朱羅にこの姿を見られて、笑われたりしたらと考えたらこの姿を見せるのが怖くて仕方がない。プリシラは『朱羅さんなら、きっと可愛いって言ってくれるよ!』と太鼓判を押してくれたが、今まで自分を見てきた男達の反応を見て自信が無くなってきてしまった。

「いや、あいつの事だからさすがに笑わないとは思うけどよ……」

「あいつって誰?」

「おうわぁっ!?」

 突然背後から掛けられた声にイレーネは心底驚き、思わず叫びながらその人物から飛びのいた。そこにいたのは、不思議そうな顔をする有真朱羅だった。

「と、突然声かけんな! 驚いただろうが!」

 イレーネが朱羅に叫ぶと、朱羅はたははと苦笑しながら、

「ごめんごめん。なんか悩んでそうな感じだったからさ、ちょっと声かけるの悩んでたんだ」

「ったく、別に悩み事なんて……。って、なんかお前何気に気合入ってねぇか?」

 今日の朱羅の服装は七分袖のデニムジャケットにロング丈Tシャツ、黒スキニーという少し大人びた服装だった。イレーネの言葉を聞いて朱羅はああと言いながら、

「昔母さんから言われてたんだよ。将来女の子と出掛ける時は、服に気合を入れなさいってね。それより、イレーネも今日は少し雰囲気違うね。その服、プリシラさんに選んでもらったの?」

「あ? ああ、まぁな……」

 朱羅の言葉に、イレーネは歯切れ悪そうに言った。ついさっきまで、その事で頭を悩ませていたからである。だから、イレーネは朱羅についこんな意地悪を言ってしまった。

「……おかしいなら、おかしいって言えよ」

「え、どうして?」

「当たり前だろ。あたしがガラにも無くこんな格好してんだからよ。どうせお前も馬子にも衣装だとか思ってんだろ。……笑いたきゃ笑えよ」

 そう言った後、イレーネは心の中でこんな事を言った事を後悔した。いくら今まで自分を見てきた男達の反応が失礼だったからとはいえ、それで朱羅に当たるのはおかしい。それにこんな言い方では、この服を選んでくれたプリシラにもあまりに失礼である。イレーネが悪態を吐いた自分を恥じながら、朱羅に謝ろうとしたその時だった。

「別に僕は笑わないよ?」

 と、変わらずに不思議そうな顔をしていた朱羅が言った。まるで、イレーネがそんな事を言うのかまったく分からないと言いたそうな口調で。

「馬子にも衣装だなんて思わないよ。イレーネは怒るかもしれないけど、僕はほとんど制服姿のイレーネしか見た事が無かったからむしろ新鮮だし、可愛くて綺麗だって思うよ」

 可愛くて綺麗。その言葉を聞いた瞬間、イレーネは何故か自分の思考が止まるのを感じた。それから全身の血液が沸騰したかのように熱くなったように感じながら、自分でも驚くぐらいかすれた声で朱羅に尋ねる。

「か、可愛くて綺麗って……。あたしが?」

「うん。可愛くて綺麗だよ、イレーネ」

 と、言われた瞬間。

 ボン! と小さな爆発音でもなりそうな感じでイレーネの顔が赤くなった。それを見た朱羅は目を丸くして、

「ど、どうしたのイレーネ? 顔が真っ赤だけど……熱でもあるの?」

「あ、ああ? んなわけねーだろボケ! それよりさっさと行くぞほら行くぞ! モタモタしたらぶっ殺す!」

「何でそんなに怒ってるのさぁ?」

「うるせぇ!」

 と、照れ隠しに怒りながらイレーネは朱羅の手を握ってさっさと歩き始め、朱羅も困惑しながら一緒に歩き始めた。なお、数分後に手を繋いでいる事に気づいたイレーネが再び顔を真っ赤にするのを当然ながら二人はまだ知らない。

 

 

 

 

 そしてそんな二人を、数メートル離れた所から見る一人の男がいた。先日朱羅とイレーネに壊滅されたグループの一人であり、星猟警備隊(シャーナガルム)に捕まらずに済んだ男である。

「くそ、いい気なもんだぜ……! 人の人生を滅茶苦茶にしておいて……!!」

 髪を金色に染め上げたその男は、憎しみのこもった声で街を歩く朱羅とイレーネを睨み付けていた。男が朱羅とイレーネを見つけ出したのはまったくの偶然だった。たまたま街を歩いていたら朱羅を待っていたイレーネを見つけ、何をしているのかと訝しんだ男は物陰に隠れるとイレーネを観察し始めた。そしてその数分後に朱羅が来たというわけだ。

 それを見て、男はチャンスだと思った。自分が所属していたグループを滅茶苦茶にし、自分の生活を滅茶苦茶にしたあの二人に復讐をするチャンスだと。その復讐をうまく行えば、自分の気も少しは紛れるだろうし、あの二人の顔を今後見る事も無くなるだろう。

「見てろよ……! 俺の生活を台無しにしてくれたお前らに、この俺が直々に礼をしてやるよ……!!」

 それはどうしようもない逆恨みだった。男がそこまで落ちぶれてしまったのは誰でもなく男のせいだし、何よりも朱羅とイレーネが彼のグループを壊滅したのだってイレーネを狙ったグループが朱羅を誘拐し、彼女を痛めつけようとしたからだ。自業自得、身から出た錆と誰がどう見てもそう言うだろう。

 だが、このような輩はそんな事すら理解しない。自分の不幸は全て誰かのせいだと決めつけ、正統性のない復讐を行おうとする。そして悪い事に、そういった復讐はいつだって誰かを傷つける。

 男はニィ……と怒りと狂気の混じった笑みを浮かべながら、朱羅とイレーネの後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、地下鉄に乗って商業エリアに向かった朱羅とイレーネは、新しくできた件のデパートの前に立っていた。笑顔を浮かべながらチラシを配っているデパートの店員を横目に見ながら、イレーネは少し驚いたように言った。

「しっかしチラシで見るのと、こうして実際に見てみるのとじゃあやっぱり全然違うな……。思ってたよりデカいし、店もかなり揃ってんじゃねぇかこれ?」

「お客さんも結構いるし、本当に全部のお店を見るのは一日かかりそうだね」

 朱羅達の周りには彼らと同じように新しくオープンしたこのデパートがどんなものかを見に来た学生や、この施設をデート場所に選んだカップルなどがいる。カップルの姿を見て、まさか自分達も周りに同じように見られているのかと少し顔を赤くした。ちなみに朱羅はと言うと、そんなイレーネの様子に気づかずデパートの内装に目を奪われていた。

 デパート内を歩きながら、朱羅がイレーネに尋ねる。

「まずはどこを見て回る?」

「別にどこでも構わねぇよ。お前が行きたいとこなら、どこでもついていくさ」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 そして朱羅とイレーネは、デパート内にあるあちこちの店に足を運び始めた。

 デパート内には、チラシの通りかなり多くの店が出店していた。ファッション店だといつも朱羅とイレーネが行っているような服の値段がリーズナブルな店もあれば、少し値段が高めの店まで種類豊富にある。それらの店の服を見た後、二人は趣向を変えて書店に向かう事にした。

 書店も品ぞろえが良く、コミックや文庫などといったものから、中々手に入らない専門書まであった。

 と、二人が書店を物色している最中、朱羅が店頭に並んでいる本を見て声を上げた。

「あ、この本……」

「ん?」

 イレーネが朱羅の見ている本に視線を向けてみると、そこには『落星工学に関する研究成果』というタイトルの分厚い書籍が丁寧に置かれていた。少し顔をしかめながら、イレーネが朱羅に尋ねる。

「何だ? あんな小難しそうな本が欲しいのか?」

「違うよ。僕の友達が欲しがってたんだ。そうか、今日が発売日だったんだ……。あいつの事だから、予約してるんだろうな……」

 朱羅の言葉を聞いて、イレーネは朱羅が『あいつ』という言葉を使う事を少し意外に思った。朱羅は基本的に誰に対しても丁寧な言葉を使う。とは言っても前に戦った不良達に対してはやや荒っぽい口調になっていたし、朱羅だって人間なのだからそう言った言葉を使ったとしても不思議はないが、それでも彼がそのような言葉を口にするのは珍しかった。

「そのあいつっていうのは、前に言ってたお前の友達の事か?」

「うん。前に二人友達がいるって事は話したと思うけど、一人が女子で一人が男で、そのうちの男の方だね」

「ふぅん……。そいつって、どんな奴なんだ?」

 思い返してみればその友人の事を朱羅があまり話していなかった事もあり、少し好奇心が沸いてイレーネが尋ねた。レヴォルフには基本的に不良が多いが、朱羅がそのような人間と友人関係を作る事はどうも想像する事ができない。なので、もしかしたら朱羅やプリシラと同じような真面目な人間なのか、それとも大穴でとびきりの変人なのか。そんな事を考えながらのイレーネの質問に、朱羅はあっさりと答えた。

「良い人だよ。それに煌式武装のカスタマイズもやっててね、僕の煌式武装の調整もやってくれるんだ。数が多すぎるって苦情を言われる事もあるけど、腕はすごく良いから学園に預けるより彼にやってもらう事が多いかな」

「へぇ、お前がそこまで言うほどか」

 学園にも一応煌式武装のカスタマイズを請け負う装備局があるが、それよりも彼の友人に預ける事が多いという事は、それだけ朱羅から信頼されるほど腕が良いという事だろう。何せ朱羅は戦闘スタイルの関係上、かなりの量の煌式武装の調整に気を使わなければならない。一つでも調整に気を抜いたりしたら、即戦闘に支障が出てしまう。そんな彼に信頼されるという事は、朱羅の言う通り煌式武装のカスタマイズの腕は確かだと考えて間違いない。と、そこでイレーネはある事が気になってこんな質問をした。

「でもよ、どうしてそいつアルルカントに行かなかったんだ? それだけの腕がありゃ、アルルカントにいた方が十分に力を発揮できるんじゃねぇの?」

 アルルカントは世界でもトップクラスの落星工学技術を有している他、学生が操る煌式武装の性能は平均値で見ても他学園を凌駕している。イレーネの言う通り、それほどの腕があるのならばアルルカントに入学した方がレヴォルフにいるよりも遥かに力を発揮できるはずである。

 と、朱羅は何故かうーんと悩んでいるような声を出してから、

「それは僕も気になって前に尋ねた事があるんだけど、はぐらかされちゃったんだ。だから、何か理由があるんじゃない? アルルカントじゃなくて、レヴォルフじゃなきゃいけない理由とかさ」

「んな理由、あたしには思いつかねぇけどな……」 

 はっきり言って、アルルカントよりレヴォルフの方が良いなんて理由はイレーネにはさっぱり分からなかった。よほどの個人主義者などならば分からないでもないが、朱羅の話から推測するとそういうタイプでもなさそうだ。一体何を考えて、その友人はレヴォルフに入学したのだろうか?

 だが、今そんな事を考えても理由が分かるわけもない。イレーネは気を取り直して、朱羅とのショッピングを再開する事にした。

 その後、色んな店舗を物色した二人は、そろそろ昼食の時間だという事でデパート内の喫茶店に入る事にした。

 喫茶店のウェイトレスに案内された二人はメニューを手に取り、何を頼むかをそれぞれ考え始める。値段はさすがと言うべきか学生をターゲットにしているためか、そんなに高いというわけではない。イレーネがメニューを眺めていると、正面の朱羅がこんな事を言った。

「あ、イレーネ。こんなのとか良いんじゃない?」

「ん?」

 そう言ってイレーネがメニューから朱羅に視線を移すと、彼はメニューをテーブルに広げて写真を指差していた。イレーネがその写真を見た瞬間、その体がビシリと固まった。

 朱羅の指の先には、いちご色のジュースが入ったやや大きめのグラスが写っていた。

 問題は、そのグラスに二本のストローが挿さっているという事だった。

 まるで、カップルが一つのグラスに入ったジュースを仲良く飲む事を前提としているかのように。

「………」

 イレーネはいつもは絶対に浮かべないような、非常に優し気な笑顔を浮かべた。しかし逆に朱羅は、頬を引きつらせて軽くテーブルから体を遠ざける。

 すると朱羅の予想通りと言うべきか、イレーネはメニューを高く掲げると、

「――――テメェは馬鹿かぁああああああああああああっ!!」

 スパァン!! というすさまじい音を立てて、メニューがテーブルに叩きつけられた。しかしそれでもちゃんと力加減はされていたらしく、テーブルとメニューは無事だった。もしも彼女が全力だったら、今頃メニューとテーブルは見るも無残な姿を晒していた事だろう。一方、イレーネの叫び声を食らった朱羅は顔をしかめながら両耳を抑え、店内の客達も驚いた表情でイレーネを見ていた。

「テメェの!! 脳みそは!! 一体!! どうなってるんだ!!」

「お、落ち着いてよイレーネ。からかったのは謝るよ。だから少し冷静になって……」

「こうなったのはテメェのせいだろうが!!」

 朱羅のなだめるような声にもイレーネはまったく冷静にならなかった。まぁ確かに朱羅がからかったのが原因なので、それも仕方のない事ではあるのだが……。

 その後朱羅が必死に謝罪を繰り返してイレーネをなだめた事で、ようやくイレーネは少し冷静になった。それから少し怯えた様子で自分達のテーブルに近づいてきたウェイトレスに、朱羅はアイスコーヒーを二つとサンドイッチ、ホットドッグを頼んだ。注文を聞いて早足で遠ざかっていくウェイトレスを眺めながら、朱羅はイレーネをからかうのはもうやめようと心の中で固く誓った。

 約十分後、自分達の元にアイスコーヒーと卵やハムなどが挟まれたサンドイッチ、ホットドッグが運ばれてきた。ちなみにホットドッグはイレーネ、サンドイッチは朱羅である。

 それぞれ頼んだ注文が届くなり、イレーネはホットドッグを素早く掴んでまるで食いちぎるようにホットドッグを食べ始めた。どうやら、先ほどの事をまだ根に持っているらしい。朱羅はサンドイッチを持つと、イレーネに尋ねた。

「あ、あの、イレーネ」

 するとイレーネは、まるで獲物を食い殺すような獣の目つきで朱羅を睨んだ。その目に怯みながらも、朱羅はサンドイッチをイレーネに差し出す。

「ひ、一つ上げるよ」

「…………」

 イレーネは無言で口を大きくと開けると、朱羅のサンドイッチを食べた。傍から見ると彼氏が彼女にパンを食べさせてあげているというシーンに映るかもしれないが、残念ながらそんなロマンチックな雰囲気はこの場にはない。それどころか、朱羅はその瞬間自分の手ごとイレーネに食われるのではないかと危惧したほどである。

 朱羅のサンドイッチを咀嚼し、ごくんと飲みこんでからイレーネが口を開いた。

「………あんまり美味くねぇな、このサンドイッチ」

「そ、そう? 僕はすごく美味しいと思うけど……」

 朱羅がそう言うと、イレーネは先ほどよりもやや険のとれた目で朱羅を見つめた。

「お前、サンドイッチ作れるか?」

「え? まぁ、時々作るけど」

「今度、これより美味いサンドイッチを作るって約束しろよ。そうすりゃ、さっきの事はチャラにしておいてやる」

 それを聞いて朱羅は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐさまイレーネの真意を悟り、笑いながら言った。

「うん、分かった。すごく美味しいのを作るよ。約束する」

「……へ。もしできなかったら、ぶん殴ってやるからな」

「はいはい」

 どうやら今の約束で、イレーネの機嫌はようやく直ったようだ。先ほどとは打って変わって笑顔になると、再びホットドッグに手を伸ばして嬉しそうに食べ始めた。それを見る限りでは、やはり先ほどの発言も、朱羅を許そうと思って考えた発言だったらしい。イレーネを見ながら、朱羅もまたサンドイッチを食べ始めた。

 そしてデザートのパフェを食べ終えた二人は、ようやく喫茶店から出てきた。ぐーっと伸びをして、イレーネは楽しそうに言う。

「いやー、食った食った! プリシラの料理ほどじゃないけど、中々美味かったな!」

「そうだね……。でも、イレーネ少し食べ過ぎじゃない? あんなに大きいパフェを食べて……。いや、デザートは別腹とは言うけどさ……」

 デザートには二人共パフェを頼んだのだが、朱羅が一般的なサイズだったのに対し、イレーネが頼んだのは朱羅が頼んだ物の倍ほどはあるパフェだったのだ。最初は食べきれるか心配した朱羅だったが、それをぺろりと食べてしまったイレーネを見て、彼女が食べ終えた頃には呆れた表情を浮かべてしまっていた。

「そう言えば、デザートは別腹って本当なのかあれ?」

「うーん……確か前に、友達から一応本当であるとは説明された事があるけど……理由とかは忘れちゃったなぁ……」

「ふーん。ま、そんな事よりさっさと次に行こうぜ。次はどこにする?」

「そうだなぁ……」

 呟きながら、朱羅とイレーネはまた歩き始める。

 そんな彼らをじっと敵意のこもった目で睨み付ける第三者の存在に、朱羅はおろかイレーネでさえついに気づく事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていくとはよく言ったものだと、イレーネは思う。午前中に朱羅と待ち合わせをしてからデパートで色々と見て回った結果、気が付けば時刻はもう五時になっていた。空は天気予報通り午前中の青空はどこかへ消え、かわりにどんよりとした曇り空になっている。雨が降る前に帰ろうとしているのか、早足で帰路に就く学生の姿がちらほらと見え始めている。逆に帰路につかず、これから遊びに行こうとしているグループの姿もある。恐らく遊びに行った先で雨をしのごうと思っているのだろうが、彼らは少数派だろう。

 そんな学生達を眺めながら、デパートを出た朱羅とイレーネは歩道を歩いていた。朱羅はイレーネの方を向いて、明るい声音で言った。

「今日は楽しかったね、イレーネ」

「………ああ、そうだな」

 だが朱羅の声音とは反対に、イレーネの声はやや暗かった。朱羅もそれが気になったのか、心配そうな表情をイレーネに向けながら彼女に尋ねる。

「どうしたの? イレーネ。具合でも悪いの?」

「いや、そういうわけじゃねぇよ。ただ……」

「ただ?」

 朱羅が聞き返すと、イレーネは言って良いのか少し悩んだ後、自分の想いを正直に口にした。目の前の少年ならば、自分がその想いを口にしたとしても決して笑わないで聞いてくれるという確信があったからだ。 

「少し寂しいって………思ったんだ」

「………寂しい?」

 ああ、とイレーネは頷きながら心の中で吹き出しそうになる。よりにもよって自分が寂しいとは。本当に今日の自分は、どこか調子が狂っているように思える。

「あんだけ楽しい時間が続いたっていうのに、まだお前と色々と見て回ってみたかったっていうのに、もう終わっちまうんだ。それがなんか妙に寂しくてな。……悪い、変な事言っちまったな。忘れてくれ」

 ガシガシと髪の毛を掻きながら、イレーネは少し照れ臭そうに言う。しかし朱羅は穏やかな表情を浮かべて、イレーネに言った。

「じゃあ、また来ようよ」

「……え?」

「楽しい時間が終わるのが寂しいって言うなら、またここに来て何回でも楽しい時間を過ごそうよ。今度はプリシラさんも一緒にさ」

 そこで一旦言葉を区切ってから、朱羅は再び話を続けた。

「僕も同じだよ。父さんと母さんが死んでから、こんなに楽しい時間を過ごした事なんて一度も無かったからさ。だからこの楽しい時間が終わるのが寂しくないって言ったら嘘になる。……だけど、今の僕には友達やプリシラさん、何よりイレーネがそばにいてくれる。だから良いんだ。今日って日が終わっても、また明日がある。来月がある。来年がある。そこでイレーネと一緒に過ごす事ができたら……僕は幸せなんだ」

「朱羅……」

「だからさ、また来ようよ。ね?」

 そう言って笑った朱羅の笑顔に、イレーネは心を強く引き付けられた。もう何度も見たはずの彼の笑顔。なのに、こうして笑顔を向けられるだけで自分の心拍数が急激に上がるのが自分でも分かる。

 いつもの自分ならばその理由が分からず、悪態をついているだろう。

 だが、今の自分にはそんな必要はない。

 ただ、自分の心からの笑顔を浮かべて、こう言えば良い。

「……そうだな。また来るか。今度はプリシラと一緒に、な」

「うん!」

 そして、朱羅が歩き出そうとする。そんな彼の背中に、イレーネは声をかけた。

「なぁ、朱羅?」

「ん? 何?」

 そう言って、朱羅が振り向く。そのきょとんとした顔が愛しくて、イレーネは自分の口元が綻ぶのを感じた。

「お前はさ、これからもあたしと過ごす事ができたら幸せだって、言ったよな?」

「……? うん。そうだけど……」

 不思議そうな表情を浮かべる彼に向かって、イレーネが口を開く。

 いつもの自分ならばあまりにも照れくさくて言えないが、今ならば言える。

「あたしもさ、これからもプリシラだけじゃなくて、お前と過ごす事ができたら――――」

 幸せだ、と言おうとした。

 だが、その瞬間イレーネは見た。

 何かに気づいた朱羅が表情をこわばらせて、横の方を見たのを。

 そして朱羅が必死の形相で自分に向かって走り出し、その右手で自分の体を強く突き飛ばしたのを。

 ――――それからの事は、イレーネ・ウルサイスにとっては忘れたくても忘れられない、最悪の記憶である。

 歩道に突っ込むだけでなく、自分達のすぐ横にあった壁に突っ込んだトラック。

 ぐしゃぐしゃになった歩道と崩れた壁、そして全面が潰れたトラック。

 トラックと壁に挟まれて体は見えないが、その代わりにわずかに見えている血まみれの腕。

 そして……事故を呆然と眺めている、しゃがみこんだ自分。

 叫ぶ誰かの声を聞きながら、イレーネは思い出していた。

 それは、今まで決して忘れるはずがなかった、彼女の信条。

 何かを護るためには強い力が必要で、何かを手に入れるためにはより強い力が必要となる。

 力が無ければ失うしかない。

 そして失ったものを取り戻すためには、さらに強い力が必要となる。

 ――――何故、忘れていたのだろう。

 例え朱羅と出会って自分が丸くなったとしても、それだけは絶対に忘れてはならない事だったはずなのに。

 もしもそれを忘れたら、今目の前で起きているような惨劇が必ず起こるはずだったのに。

 その信条をイレーネがようやく思い出した直後、冷たい雫がイレーネの肩に降ってきた。

 雫はだんだん数を増していき、やがて大粒の雨になって辺り一帯としゃがみこんだイレーネの体を濡らしていく。

 雨の冷たさを感じながらも、今のイレーネには動く気力すらなかった。ただ、決して起こって欲しくなかった現実を前に、呆然とするしかできなかった。

 

 



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第八話 序章の終わり

 どしゃぶりの雨が降り注ぐ中、プリシラ・ウルサイスは傘を差して全速力で走っていた。

 星脈世代とはいえ、姉と姉の友人と比べると彼女は戦闘などをあまり得意としていないせいか、体力が二人に比べて低く、そのせいで先ほどから息切れを起こしている。

 しかし、彼女が足を止める事は無い。

 今は一刻も早く、ある場所に辿り着かなければならなかったからだ。

 そして息を切らしながらも走り続けて十分後、彼女はその場所に辿り着いた。

 そこは、アスタリスクにおける医療拠点……治療院だった。

 彼女がここに駆けつけたのは、数十分前にかかってきた電話が原因だった。

 電話の相手はプリシラの姉であるイレーネだった。しかしその電話がかかってきた時、プリシラは最初彼女から電話がかかってきた事に疑問を感じた。何故ならばイレーネは今日、彼女の友人である朱羅と新しくできたデパートに出かけていたはずだからである。それなのに何故、イレーネは自分に電話をかけてきたのだろうか。

 そんなプリシラの疑問はイレーネの話の内容で、跡形もなく吹っ飛んでしまった。

 イレーネの話によると、自分と朱羅が帰る途中に、一台のトラックが自分達目がけて突っ込んできたらしい。イレーネは朱羅に突き飛ばされる形で助かったため怪我などは無いものの、朱羅はトラックに巻き込まれ、意識不明の状態でアスタリスクの治療院に運ばれたという事だ。

 そう話すイレーネの声音は、まるで別人のように静かだった。

 それを聞いたプリシラは通話を切ると、急いでマンションを飛び出して治療院に向かったというわけだ。

 治療院に向かう途中で、プリシラは何度もこれが性質(タチ)の悪い夢だと思いたかった。

 今日は、姉と姉が大切に思っている人の楽しいデートだったはずだ。彼らにとって宝物となる、大切な一日だったはずだ。それが、そんな悲劇で終わるはずがない。

 そう思いながらようやく治療院に辿り着いたプリシラは施設に入ると、朱羅が運び込まれた部屋へと向かう。部屋番号はイレーネから聞いていたので、迷う心配はない。

 やがて部屋に辿り着くと、部屋のすぐ近くで誰かが項垂れるように床に直接座っているのが見えた。

 長い髪の毛で表情を伺う事は出来ないが、プリシラには分かる。

 その人物は。

「………お姉ちゃん」

 プリシラの実姉である、イレーネ・ウルサイスだった。

 妹の声に反応したのか、イレーネがゆっくりと顔を上げてプリシラの顔を見る。

「………っ!」

 顔を上げた姉の顔を見て、プリシラは思わず息を呑んだ。

 いつもは快活な表情を見せるイレーネの顔は、悲しみと絶望が入り交じった表情で彩られていた。その瞳は、どこか虚ろである。この様子では、プリシラをきちんと見れているのかすら怪しくなってしまう。

 今まで見た事もない姉の様子にプリシラが絶句していると、部屋から老人が出てきた。かなり低い身長に鉤鼻、頭はほとんど禿げ上がってしまっているが口元には真っ白な髭が豊かに蓄えられている。

 プリシラはその老人を見て、それが誰かが即座に分かった。

 ヤン・コルベル院長。アスタリスク治療院の最高責任者にして世界最高の医師と呼ばれる人物である。落星工学の医療技術への転用を積極的に推し進め、そのモットーは『死にたてだったら連れ戻す』だ。

 だが、彼が現れた事にプリシラは顔を青くした。彼は普段はより重篤な患者にかかりっきりのはずだ。その彼が、この場にいるという事は、まさか朱羅は……。

 コルベル院長はプリシラをじろりと見ると、不機嫌そうな声音で言った。

「患者の容体について説明をする。ついてこい」

「あっ、はい……」

 プリシラが返事をすると、それに反応するようにイレーネが立ち上がった。彼女はそのまま言葉を発する事もなく、プリシラの横を静かに過ぎるとどこかへ歩き去ろうとする。そんな姉の背中に向かってプリシラが声を掛けようとすると、コルベル院長が言う。

「放っておけ。今は何を言っても無駄だ」

 その言葉は聞いてみるだけではぶっきらぼうだったが、どこかイレーネをそっとさせておきたいという気遣いがこもっているように、プリシラには感じられた。それだけ言うと、コルベル院長は部屋の中に入る。プリシラもその後を追うように、病室の中に入った。

 病室は白色で統一された個室だった。中は当然ながらシンプルで、ベッドや医療機器の他には何もない。ベッドには、一人の少年が横たわっていた。

「……朱羅さん……」

 プリシラが声をかけるが、朱羅は目覚めない。着ている服は今日デートで着ていたであろう私服ではなく、病院の寝間着だ。口元には酸素マスクが取り付けられ、腕には点滴の針が刺さっている。横にある機械には心電図が表示され、ピッピッピッと規則正しい音を鳴らしている。

「トラックとの衝突の際に星辰力(プラーナ)で体を護ったのか、幸い命に関わる外傷はない。ただ頭を強く打ったようで意識が戻らん。……できる限りの手は尽くしたんだがな」

「……意識がいつ戻るか、分かりませんか?」

 プリシラがかすれた声で言う。しかし、プリシラ自身その答えは分かっているはずだった。コルベル院長がここにいるという事は、暗にそういう事だと言っているようなものだからだ。

 案の定、コルベル院長はガリガリと頭を掻きながら、

「現時点では分からん。明日か、来月か、来年か……。最悪の場合、一生このままという事だって考えられる」

「………っ!」

 告げられた最悪の事実に、プリシラは唇を噛み締めた。昨日まで一緒にご飯を食べていた少年が、もしかしたら一生目覚めないかもしれない。そんな残酷な現実に耐えきれなくて、今にも崩れ落ちそうになる。それなのに必死に耐えようとしているのは、自分の大切な姉の事を考えての事だろう。彼女は朱羅が傷つくその瞬間を、目の当たりにしているのだ。もしも自分が先に折れてしまったら、姉まで折れてしまうかもしれない。

 すると、プリシラの様子を見ていたコルベル院長が息をつきながら言った。

「……だが、はっきり言って重傷なのはあの娘も同じだ」

「えっ……?」

 プリシラは思わず、振り返ってコルベル院長の顔を見た。あの娘というのは、間違いなくイレーネの事だろう。しかし一見、イレーネには外傷は無さそうに見えた。だがそこでプリシラは、つい先ほど見たイレーネの目を思い出した。

 悲しみと絶望を混じり合った、何の希望も映していない眼。今にも崩れ落ちてしまいそうな弱々しい姿。そう、確かに目に見える傷はないかもしれない。だが、悲劇を目の当たりにしたイレーネの心は一体どうだろうか。その心がまったく傷ついてないと、誰が言えるだろうか。

 するとプリシラの考えを察したかのように、コルベル院長が言った。

「あの娘は患者とは逆に、心に傷を負っている。お前さんが来る前にあの娘にも患者の容体について説明をしようとしたが、上の空状態だった。だからお前さんを呼んだんだ。お前さんなら、患者の容体について冷静に聞く事ができると思ってな」

「じゃあ、お姉ちゃんは朱羅さんの容体の事は知らないんですか?」

「いや。説明は聞いていないが、それでも容体については察しがついているんだろう。何せ人一人がトラックの突進に巻き込まれたんだ。いくら星脈世代で体が少しは頑丈とは言っても、その身が人間である事に変わりはない。必ず何らかのダメージが体に残る。この小僧の場合は、いつ目覚めるか分からない意識喪失だったという話だ」

 コルベル院長の言葉に、プリシラは再び朱羅の顔を見た。こうして見ているだけならば、ただ気持ちよさそうに眠っているだけの表情。しかし実際はいつ起きるか分からない、下手をすれば二度と目覚めないかもしれない眠り。彼のために何かしようとしても、ただ彼を目の前にして無力感を噛み締める事しかできない。

 プリシラはその事実に、強く唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

 病院を出たプリシラは雨が降りしきる中、傘を差して一人マンションへと向かっていた。あちこちに水たまりができている歩道を歩きながら、空を見る。今日の朝は綺麗に晴れていたのに、今では雨雲のせいで青空がまったく見えない。まるで、今日の自分の心をそっくりそのまま映しているようだ。いや、正確にはもう一人の心も映しているのかもしれない。

 ようやくマンションに辿り着いたプリシラは自分達の部屋の前に着くと、鍵を差し込んで施錠を解除しようとする。しかし鍵を回した時、施錠が解除されている事に気づいた。きっとイレーネが先に戻ってきているのだ。

 プリシラは扉を開けると、中は真っ暗だった。だが玄関にはちゃんとイレーネが今朝履いて行った靴が置かれているので、もしかしたらリビングにいるのかもしれない。プリシラが靴を脱いでリビングに向かうと、そこにはやはりイレーネが明かりもつけずに一人座っていた。着ている服は今日着ていった服ではなく、普段来ているラフな私服を着ている。

「お姉ちゃん、ちゃんとシャワー浴びた? 着替えただけじゃ、風邪引いちゃうよ?」

 プリシラが心の底から心配した声でイレーネに言うが、イレーネは何の反応も見せない。縁起でもない言い方だが、まるで悪魔のような得体のしれない存在に魂を抜かれてしまったようである。プリシラはそんな姉の姿を見て心を痛めながらも、ぐっと拳を握って話を続ける。

「お姉ちゃん、朱羅さんなら大丈夫だよ。きっと良くなる。また三人でご飯が食べられるよ」

 根拠など無かった。コルベルでさえ、朱羅がいつ目覚めるか分からないと言っていたのだ。生きている事は生きているが、いつ目覚めるか分からない永遠の眠りに陥っている。それが今の朱羅の状態だった。

 すると朱羅という単語に反応したのか、イレーネの肩がピクリと動く。それにプリシラが気づくと同時に、イレーネがかすれた声でこんな事を言った。

「………今日、あたし達に突っ込んできたトラックの運転手、朱羅をさらったグループの一員だったんだ」

「え……」

「あとで星猟警備隊(シャーナガルム)に聞いた話だと、あいつはグループをぶっ壊された恨みで、ずっとあたし達に復讐するチャンスをうかがってたらしい。それで今日あたし達が一緒に買い物している姿を見て、近くにあったトラックのロックを解除してあたし達を襲ったんだとよ」

「そんな………」

 プリシラはイレーネの話を聞いて、あまりに理不尽すぎると思った。だって彼女の話が本当ならば、それは逆恨み以外の何物でもないからだ。そんな理由で朱羅とイレーネが傷つくなんて間違っている。

 だが、イレーネは何故か組んだ両手を自分の額に当てると、苦しそうな声で言う。

「……あたしの、せいだ」

「……そんな事、ないよ」

 イレーネの言葉にプリシラが反論するが、イレーネは力なく首を横に振ると、まるで自分を傷つけるようにさらに言葉を続ける。

「あたしがあいつと出会わなければ、あいつはあんな目に遭わずに済んだんだ。あたしがもっと早くあいつとの繋がりを切っていれば、あいつは今も平和に過ごしていたはずなんだ。……あいつの幸せも生活も、全部あたしが奪ったんだ」

「違うよ。朱羅さんもお姉ちゃんも全然悪くない。だから、それ以上自分を責めるのはやめようよ、ね? そんなな事聞いたら、朱羅さんもきっと悲しむよ」

「……あたしのせいで、悲しむ事もできなくなっちまったけどな」

「お姉ちゃん!!」

 何を言っても自分を責めるのをやめないイレーネに、プリシラは思わず大声を上げた。それで問題が解決するわけでもなく、しかも下手をすればさらにイレーネの心を傷つけてしまうかもしれないという事はプリシラにだって分かっている。だけど、それでも今のイレーネを放っておいてしまったら、取り返しのつかない事態になってしまうかもしれないという不安が今のプリシラにはあった。

 イレーネは妹の叫び声を聞いてビクリと体を震わせると、ギリッ、と奥歯を噛み締めてから言う。

「……ごめん、プリシラ。だけど、今回の事件だって本当なら防げたはずなんだよ。前のあたしだったら、付けている奴にとっとと気づいて朱羅を護れたかもしれない。それが、このざまだ。……お前とあいつとの生活が幸せ過ぎて、いつの間にかあたしは人の悪意を感じ取る能力が鈍っちまってたんだ。……どうして、忘れてたんだろうな。力が無ければ、大切な物を護る事なんてできやしないって。そんな事、とっくの昔から分かってたはずなのに……」

 その顔を悲し気に歪めながらも、イレーネは涙を流さない。いや、流せない。涙の流し方など、とっくの昔に忘れてしまったのだから。

「何がレヴォルフ黒学院序列三位だ……。何が吸血暴姫(ラミレクシア)だ! そんな無駄な肩書があっても、あたしはあいつ一人護れてねぇじゃねぇかよ!!」

 まるで血を吐くように、イレーネは叫ぶ。そんな姉の姿をプリシラはただ黙って見つめている事しかできない。 コルベルの言う通りだった。今の彼女に何を言っても、その言葉を心にまで響かせる事は出来ない。そんな事ができるとすれば、つい最近まで自分達と一緒に過ごしていたあの少年だけだろうが、彼は昏睡状態に陥っていしまっている。つまりは、完全な八方塞がりの状態だった。

 その後、イレーネとプリシラは一緒に夕食を取った。だが、何故かその料理の味を二人は感じる事ができない。

 調理法を間違えたわけではない。食材もプリシラが厳選したものを使っている。それなのに何故か、今日の料理は味が無くつまらないものだった。今までは、こんな事は一度も無かったのに。

 いや、原因など分かり切っている。

 最近は朱羅と三人で食事を取っていた。だからこそ最近の食事は楽しかったし、料理も美味しかった。だがその朱羅がいなくなった事であの楽しかった雰囲気も共に消え去り、料理も味気ないものになってしまった。

 朱羅がいなくなったという事は、状況だけ見れば朱羅と出会う前の生活に戻っただけだ。言ってしまえばそれだけなのに、今の二人には料理がとても味気ないものになってしまっている。つまりは、それだけ有真朱羅という少年が彼女達にとってかけがえのない存在に変わっていたという証明だった。

 だが、彼が昏睡状態に陥ってしまった以上、また三人でこの食卓で食事をする事ができるという保障はどこにも無い。それがさらにこの場の雰囲気を重くしてしまっている。

 二人はそんな雰囲気の中、何かを話す事もなく、ただ味のない料理を口に運び続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから二人の生活は、朱羅と出会う前の生活に戻った。朱羅と出会ってから作っていた三人分の料理は二人分に戻り、学校の放課後朱羅と一緒にショッピングなどに出かけていたイレーネは一人でカジノに向かうようになった。

 だが生活が戻ったと言っても、二人の心や行動なども一緒に戻ったわけではない。

 その証拠にプリシラはたまに三人分の料理を作ってしまうし、イレーネは来る事のない待ち人を待つかのように校門の前で黙って立つ事が多くなった。さらに前まではカジノによく通っていたイレーネが、滅多に使わない寮の自分の部屋で一人でぼーっとする事も多くなった。

 そしてプリシラは、学校の放課後に治療院で眠る朱羅の見舞いにたびたび訪れるようになった。しかし朱羅の部屋に向かったとしても、朱羅が短い間だけ目覚めるなどという甘い現実は待っていない。そこにあるのは、穏やかな表情で永遠かもしれない眠りにつく一人の少年の姿だけだ。

 だがそれでもプリシラは朱羅の病室に通い続け、眠る朱羅に学校であった事などを明るく話し続けた。そうすれば、いつかは朱羅が本当に目覚めてくれるかもしれないという一縷の望みを懸けて。

 しかし一方で、イレーネは一度も朱羅の病室に足を運ばなかった。プリシラが学校の授業が終わった後に彼女のクラスに彼女を迎えに行っても、教室に彼女の姿は無かった。まるで、プリシラと一緒に朱羅への見舞いに行くのを避けているかのように。

 それでもマンションで夕食などを一緒に食べる時に、プリシラは何回かお見舞いに行こうとは言っているのだがそのたびにはぐらかされてしまい、結局一緒に病室に行く事は一度も無かった。だからお見舞いに行くのは、決まってプリシラ一人だけとなった。

 それでもプリシラは諦めなかった。今は一人でも、近いうちに絶対にイレーネを説得させて一緒に朱羅のお見舞いへ行こう。そうすれば朱羅も目覚め、また三人であの食卓でご飯を食べられるかもしれない。淡い希望かもしれなかったが、それでもプリシラにとっては確かな希望だった。

 だが、そんなプリシラとイレーネを嘲笑うように、更なる事件が起こった。

 きっかけは朱羅が昏睡状態に陥ってから一ヵ月後の七月の半ば、イレーネがカジノへ向かった時だった。

 彼女はそこでいつも通りカードゲームをしていたが、その日は運が悪くまったくイレーネの勘が当たらなかった。そのため持ってきた金がほとんど無くなってしまい、イレーネは思わずチッと舌打ちしながら椅子に座ったままガッとポーカーテーブルを蹴飛ばした。そのせいでディーラーが怯えた表情でビクリと体を震わせたが、イレーネにディーラーをどうこうしようとする気はない。流石の彼女も、自分の負けを相手のせいにするほど短慮ではないからだ。

 イレーネは髪をくしゃくしゃを掻きながら、かつて別のカジノでカードゲームをした時に大勝ちをした時の少年の笑顔を思い出す。その笑顔を思い出すとどうも胸が苦しくなってしまい、さらに髪をくしゃくしゃと掻く。

 正直言って、こんなに苦しい想いをするぐらいならば忘れてしまう方が良いのではないかと思う。

 こんなに苦しい思いをするぐらいならば、始めからあの少年と出会わなければ良かったのではないかと思う。

 が、

(……んな事、できるわけねぇだろ)

 確かに有真朱羅と出会ったから苦しい思いを味わっているのかもしれない。

 だがあの少年と出会った事で、自分はそれ以上にたくさんのものをあの少年からもらう事ができた。

 あの少年との出会いを否定するという事は、それらをも否定するという事だ。そんな事は絶対にできない。自分がどれだけ苦しい思いをしようとも、それだけは絶対にしてはいけない事なのだ。

「………くそ」

 一人呟きながらイレーネが立ち上がろうとした時、彼女に声が掛けられた。

「よぉ、吸血暴姫」

 彼女に声をかけてきたのは、にやにやと笑みを浮かべる、明らかに第三者から不良と思われる格好をした少年だった。少年のそばには彼と同じような笑みを浮かべている少年二人が立っている。そして三人の胸には、レヴォルフ黒学院の校章が着けられていた。イレーネには見覚えが無かったが、彼らが自分に声をかけて来た事にあまり驚きはない。自分はレヴォルフの序列三位だからアスタリスクではどちらかと言うと有名人だし、それに彼らのような人種を何回もぶちのめしてきた事だってある。有名人だから知っているのか、それとも過去に自分に倒されたから知っていたのかは定かではないが、正直言ってどちらでも良い。今のイレーネに、彼らに対するそこまでの興味はなかった。

 少年が隣に腰かけると、イレーネが低い声で少年に言う。

「……何の用だ」

「なぁに、あの吸血暴姫がどうも寂しそうな顔をしてたからよ。気になって声をかけてみたのさ」

 それから少年がイレーネに近寄って耳に口を近づけると、小さな声でイレーネに言う。

「……聞いたぜ? 連れの男がトラックに突っ込まれて意識が戻んないだろ? しかも犯人は俺達と同じレヴォルフの学生だってな。お前がそんな寂しそーな顔をしてんのも、その男が戻ってこないからか?」

「……テメェには、関係ねぇだろ」

「まぁそう言わずによ。なぁ吸血暴姫。男に飢えてるんなら、俺と組まないか?」

 ピクリ、とイレーネの肩が動く。それに気づかず、少年は下卑た笑みを浮かべながらさらに言葉を続ける。

「あんなガキみてぇな奴と一緒に歩いてたって事は、よっぽど男に飢えてたんだろ? あんな奴と切ってよ、俺と付き合っちまおうぜ。あいつと夜過ごすよりも良い想いをさせてやる。どうせ夜も満足させる事ができなかったんだろ? まぁそうだよな。あんなガキにそんな事できるわけねぇよな。お前も内心じゃ、あいつが事故に遭って良かったって思ってるんじゃねぇの?」

 彼の言葉に、彼の付き添いの少年二人も一緒に下卑た笑い声を上げる。どうやら小さい声ではあるものの、彼らには聞こえていたらしい。だがそんな彼らとは対照的に、イレーネはまったく何の反応も見せなかった。

「なぁ、どうだ? テメェは手が先に出るって有名だが、それを除いたらかなり良い女だ。これでも前から目をかけてたんだぜ? どうだ? 俺の女になるって言うなら、その分良い思いだって十分にさせてやるよ。だから……俺の女にならないか?」

 そう言いながら、少年はイレーネの体にゆっくりと手を伸ばす。

 するとその瞬間、イレーネはゆっくりと立ち上がって少年と真正面から向かい合った。ただしその顔は髪に隠されて、表情を伺う事ができない。しかし何を勘違いしたのか少年は満足そうな笑みを浮かべると、立ち上がってさらに言葉を紡ぐ。

「そうか! なら早速よ、良いホテルがあるんだよ。そこで朝まで……」

「………ぞ」

「え?」

 イレーネが何を言ったのか、彼女に顔を近づけたその時だった。

 

 

 

「殺すぞ」

 

 

 

 次の瞬間、少年の顔面にイレーネの拳がめり込んでいた。

 イレーネの拳に少年の鼻の骨が折れる感触が伝わってきて、さらにそのまま吹き飛ばされた少年は台に派手に激突する。鼻が折れたせいで鼻血が盛大に流れ出している少年は、誰がどう見ても気絶していた。

「このアバズレが!」

「ぶっころ……」

 仲間を潰された少年二人が激昂してイレーネに襲い掛かろうとするが、それよりもイレーネの方が早い。彼女は即座に一人の少年との距離を詰めると、拳を握って少年二人を殺意のこもった目で睨み付ける。

「死ぬのは」

 そして渾身のアッパーカットが一人の少年の喉仏に炸裂する。少年は喉を抑えながら白目を剥いて地面に倒れ伏し、もう一人の少年はイレーネに殴りかかろうとするものの、すでに遅い。

「テメェらだよ」

 ぱぁん! という音と共にイレーネの回し蹴りが少年の側頭部に炸裂し、その少年ももう一人と同じように白目を剥いて地面に倒れた。その直後、どたどたという音と共にイレーネを黒服の男達が取り囲む。恐らくこのカジノのガードマン達だろう。それぞれが隙のない構えで、イレーネを取り押さえようとしている。

 だがイレーネはこきり、と首を鳴らすと黒服の男達を睨み付けた。

「良いぜ。むしゃくしゃしてんだ。……全員、ぶちのめしてやる」

 この後自分がどうなるかなど、今のイレーネにはどうでも良かった。

 ただ、朱羅を侮辱されたこの怒りを何かで晴らしたいというどす黒い感情だけが彼女を支配していた。

 犬歯を剥き出しにしてイレーネは目の前の黒服の連中を殺意のこもった目で睨み付けると、イレーネは床を強く蹴って目の前の黒服の男達に襲い掛かった。

 ――――数分後、散々暴れたイレーネは駆けつけてきた星猟警備隊によって捕まる事になる。

 だがその代わりと言うべきか、暴れたカジノは全壊状態でそれ以後の営業は不可という末路を迎える事になった。

 

 

 

 

 

 カジノを壊滅させたイレーネはその後、レヴォルフにある懲罰教室に入る事になった。

 懲罰教室は目に余るような行為に及んだ生徒が、制裁のために入れられるいわば牢獄のような場所である。つまり、レヴォルフの中でも凶悪凶暴な学生ばかりが集められている場所というわけだ。

 カジノを壊滅させたにしては少し軽く思われるような処分だが、裏で何らかの手回しがあったのだろうとイレーネは思う。自分はレヴォルフの生徒会長であるディルクの駒だ。あまり罪が重すぎると、いざという時の行動に支障をきたすと考えて彼が手を回したのだろう。非星脈世代でありながら生徒会長の座についただけあって、そのような手回しが彼は恐ろしいほどに上手い。

 現在イレーネがいる部屋は三畳程度の広さの室内だ。部屋の中には明かりが無く、部屋の中にあるのは壁から伸びた手枷ぐらいである。その手枷に、イレーネの両腕は繋がれていた。

 イレーネは壁に寄りかかりながら、暗い天井を見上げていた。

 あのカジノで暴れまわった事に特に後悔は抱いていなかった。だが、爽快感なども無かった。残ったのは、言いようのない虚しさだけである。どれだけ黒服の男達を叩きのめしても、物を壊しても、彼女の中のどす黒い感情が消える事は無かった。ただその感情が、虚しさに変わっただけである。

「………チッ」

 苛立ち混じりに舌打ちをすると、どこからか足音が聞こえてきた。足音が自分のいる部屋の前で止まると、突然イレーネの目の前の壁が透き通るようにして消えていく。ナンバープレート自体は消えずに宙に浮いたままになっているので、どうやら壁そのものが消えたわけではなく、あくまで透過機構が働いただけのようだ。

 壁の向こう側に立つ人物を見て、イレーネは不機嫌そうな声を出した。

「……あんたがこんな所に何の用だ、ディルク」

 壁の向こう側にいるのは、レヴォルフの制服を着た青年だった。

 色のくすんだ赤髪に、背が低く小太りの体型。いかにも不機嫌そうに顔を歪めているが、これはいつもの事だ。イレーネですら彼が笑った所は見た事が無いし、もしかしたら学園の誰も彼の笑顔など見た事が無いのかもしれない。

 ディルク・エーベルヴァイン。レヴォルフの生徒会長であり、『悪辣の王(タイラント)』という二つ名を持つ青年。いくつもの陰謀を巡らせ、人を盤上の駒のように動かす事を何よりの得意としている男。

 そして……イレーネとある契約をし、彼女とプリシラがこの街に来るきっかけを作った男でもある。 

 ディルクは不機嫌そうな目をイレーネに向けると、低い声で彼女に言った。

「ずいぶんとつまらねぇ事をしでかしたな。一体どういうつもりだ?」

「どういうつもりもねぇよ。あっちが腹の立つ事をやってきたからな。売られた喧嘩を買ったまでだ。悪いか?」

 肩をすくめながらそう言うのと同時に、イレーネはディルクの顔を鋭く睨み付ける。しかしさすがはこのレヴォルフの生徒会長と言うべきか、その視線をディルクは軽く受け流すとふんと鼻を鳴らし、

「テメェが好き勝手やってこんな掃き溜めにぶち込まれるのは一向にかまわねぇけどな、俺が扱える人間が少なくなるのは気に食わねぇんだよ。契約の事を忘れたわけじゃねぇだろ」

「ああ、忘れちゃいないさ。ただ、あんたには使える駒なんざいくらでもいるだろ。あたしがここにぶち込まれてる間は、そいつらを使えば良い。どうせここから出たら、またふざけた事を命令する気だろうしな」

 実際にこの青年はそれをするという確信があった。イレーネとディルクはある契約の下に成り立っている関係だ。どんな事があったとしても、自分はその命令を遂行しなければならない。いつかその契約を完遂させる、その日までは。

 だからイレーネがこんな場所にいたとしても、ディルクには正直どうでも良い話だろう。ここから出た後にまた新たな命令を下せばいいし、その気になれば任務のためにここから出す事だって可能なはずだ。それなのにこんな所まで来てわざわざ話をするのは、彼にとっては嫌がらせのようなものだ。本当に、嫌な男である。

「言いたい事がそれだけなら帰れ。あたしはこれから寝るからな」

 そう言ってイレーネがこれ見よがしにディルクに背を向けて寝転がろうとする。

 だが、そんな時だった。

「……そんなに、あの有真朱羅(・・・・)とかいうガキが大事か?」

 ガバッ! という音と共にイレーネが素早く起き上がり、ディルクの顔を目を見開いて見つめた。

「テメェ……どうして……」

「忘れたのか? こっちには『猫』がいるんだぞ。その気になりゃ、情報なんざすぐに手に入る。『餌代』はかかるがな」

 ギリ……とイレーネは思わず歯を噛み締めた。猫とはレヴォルフ黒学院の諜報機関である『黒猫機関(グルマルキン)』の事だ。確かにディルクの命令であらゆる任務を遂行する彼らならば、朱羅の情報を集める事など簡単だろう。そして、カジノでイレーネが暴れた理由を調べる事も。ディルクは鼻を鳴らして、

「ったく、あのガキ一人に何をそこまで気にしてやがんだ。そもそも、あいつがああなったのはあいつの単なる自業自得(・・・・)だろうが。馬鹿が馬鹿やって病院送りになっただけの話……」

 ディルクの言葉は最後まで届かなかった。

 ガンッ!! という音と共に、ディルクの目の前にある透明な壁が殴られたからだ。

 透明な壁に叩きつけられたイレーネの拳からはポタポタと鮮血が床に落ちて行き、その拳を放った本人であるイレーネはディルクを殺すような目つきで睨んでいた。しかしその目つきにもディルクはまったく動じていない。実際に、拳がディルクに向かって放たれた時も、壁があったとはいえ彼は眉一つすら動かなかった。

「……どうやら、根本的に勘違いしてるみたいだな、テメェは」

「……何だと?」 

 ディルクの口から放たれた予想外の言葉に、イレーネは拳を引くとディルクの顔を見つめた。ディルクは相変わらずつまらなさそうな顔で、

「有真朱羅が病院に送りになった原因には、テメェも含まれてるって事だ」

 その言葉を聞いて、ビシリ、とイレーネの動きが止まる。まるで、言われたくない言葉を正面から言われてしまったかのように。

「……その様子からすると、どうやら薄々気づいてたみてぇだな。イレーネ。俺とテメェは陰の側の人間だ。そしてあいつは陽のあたる側の人間。本来ならば異なる側にいる人間同士は干渉しあうもんじゃねぇんだよ」

 ディルクはイレーネを睨み付けながら、笑みすら浮かべず冷徹に続ける。

「その結果がこれだ。互いに踏み入れてはならない領域に干渉した結果、有真朱羅は二度と目覚めないかもしれない世界に叩き込まれ、テメェはこんな薄汚ぇ場所に叩き込まれる羽目になった。……そもそも、テメェがさっさとあのガキとの繋がりを切ってりゃ、こんな事にはならなかったんじゃねぇのか?」

「………テメェに、何が分かるんだ……!」

 ディルクの冷たい眼光に怯む事無く、イレーネは怒りを露わにして言った。しかし、やはりディルクの表情は変わらない。ただつまらない物を見るような目でイレーネを見つめている。

 いや、実際に彼にとってはつまらない事なのだろう。彼は有真朱羅の事など何も知らないし、イレーネについても自分の命令通りに動かせる手駒ぐらいにしか思っていない可能性が高い。だから今回の件は彼の言葉を借りるならば、『馬鹿が馬鹿をやっただけの話』なのだ。それがイレーネには、無性に腹立たしかった。

「分からねぇし、分かりたくもねぇよ。馬鹿のやる事なんざな。……しばらくはこの掃き溜めで頭を冷やしておけ。そして、これに懲りたらあんなガキの事なんざとっとと忘れるんだな」

 そう言ってディルクがイレーネから視線を外すと、透明になっていた壁が元に戻りディルクの姿が見えなくなる。それからコッコッコッ、という足音が部屋の前から遠ざかって行った。イレーネは奥歯を噛み締めると、再び目の前の壁を力任せに殴りつける。拳に激痛が走り血が流れるが、この程度の傷ならば星脈世代の自分ならばすぐに治るだろう。

 イレーネは壁に背中をつけてどっかりと座り込むと、苛立たしげに呟いた。

「そんな事、できるわけがねぇだろうが……!」

 朱羅の事を忘れる事などできるはずがない。自分は彼からたくさんのものをもらった。

 彼がいてくれたから、今まではつまらなかった放課後が楽しくなった。

 彼がいてくれたから、三人で囲む食卓が楽しくなった。

 彼がいてくれたから、誰かに護られるという事を嬉しく思う事ができた。

 本当に朱羅からもらったものは多い。だからこそ、そんな簡単に忘れる事などできるはずがない。

 だが、その一方でイレーネの中の冷静な部分がこんな事を彼女に告げていた。

 その幸せを朱羅から奪ったのは誰だ?

 その生活を失ったのはどうしてだ? 

「うるせぇよ……!」

 両手で頭を強く抱えながらイレーネは憎々し気に呻く。

 しかし、それでも彼女の頭の中の声は止まらない。

 その幸せを奪ったのはお前だ。

 生活を失ったのはお前に力が無かったからだ。

 全部、お前のせいだ。

 お前がいたから、朱羅は全てを失ったんだ。

 ゼンブオマエノセイデ。

「うるっせぇええええええええええええええええええええええっ!!!」

 ガンッ!! という音と共にイレーネは自分の額を壁に叩きつけた。文字通り割れるような痛みが額を襲うと同時に、鮮血が額から流れる。が、それでも彼女の頭の中の声は止まらなかった。

「……うるせぇよ。全部、分かってんだよ……! あいつが眠ったのが、全部あたしのせいだって事ぐらい……分かってんだよ……!」

 ずるずると床に崩れ落ちながら、イレーネは呟く。

 まるで、罪人が聖職者の前で行う懺悔のように。

「だけど、結果的にそうなっちまうって分かってても……。あたしはあいつと一緒にいたかったんだ……! あいつがいれば、どんな事だって乗り越えられるって思ったから……! あいつと一緒にいる事が本当に楽しいって思えたから……! だから、例え異なる側にいる人間だとしても、あいつとずっと一緒にいたいって思ったんだよ……!」

 しかし、その自分の考えがきっかけで、楽しかった生活は崩壊した。全て、自分のせいで。

「……ごめん、朱羅。あたしが……あたしみたいな人間が、お前に関わって良いはずが無かったんだ……!」

 暗闇の中で、イレーネは今にも泣きだしてしまいそうな顔で言う。

 だがその言葉は、誰にも届かないで暗闇の中へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 ちょうど同じ頃。プリシラは治療院の朱羅の病室で座っていた。その表情は沈んでいるものの、視線だけはまっすぐベッドに横たわっている朱羅に向けられている。

「……朱羅さん。お姉ちゃんが、カジノで大暴れして、レヴォルフの懲罰教室に入れられてしまったんです。でもお姉ちゃんが何の理由もなくそんな事をするなんて思えないから、きっと理由があると思うんです。だから、きっと早く出られると思います」

 そこまで言うとプリシラは、膝の上で拳を握って唇を噛み締めた。その目は、今にも涙をこぼしそうに潤んでいる。

「……だけど、やっぱり寂しいです。朱羅さんが入院して、お姉ちゃんまで懲罰教室に入っちゃって……。私一人で食べるご飯なんて美味しくないです。本当なら、また元のように三人でご飯を食べたいです。……でも、私には何もできない……!」

 そしてついに、今まで耐えてきたプリシラに目から涙がこぼれ落ちた。涙がプリシラの手に落ちると、それに続いて涙が次々と手に落ちて行く。かすれた声で、プリシラは再び眠る少年に語り掛けた。

「朱羅さん……。私は、どうしたら……」

 が、その声にも朱羅は答える事は無い。

 重い沈黙を破るのは、静かに泣く少女の涙の音だけだった。

 

 

 

 

 少年は眠り、一人の少女は暗闇に閉じ込められ、一人の少女は深い悲しみに陥った。

 だが、まだこの三人の物語は終わらない。

 ここで終わったのは、三人の物語の序章(プロローグ)に過ぎないのだから。

 物語の続きは一ヵ月後。

 鳳凰星武祭(フェニクス)が始まる八月に、三人の物語は再び始まる。

 

 

 

 




次回から、本格的に本編に入ります。


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