戦姫絶唱シンフォギアE (茶々)
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第一話 暁

 

 

窓の外は、予報通りの大雨だった。

瞬く間に過ぎていく雨濡れの景観を、特に何をする訳でもなく、空はぼんやりと眺めていた。

 

「もうすぐ着きますよ」

 

運転席の慎次がそう言うと、空は呟く様に返事を返し、再び外の景色を眺めていた。

 

ガードレールで区切られた向こう側、草木の生い茂る丘陵のずっと下の方に広がる街並みは、この三カ月の間に随分と復興が進んだ様に感じられる。

最も、あの戦いの直後、崩れ落ちる様に意識を失い、以来病室の窓からしか外の景色を殆ど知りえなかった空にしてみれば、瓦礫の荒野が一瞬で市街地に様変わりした様にしか見えなかった。

 

「降りてから階段がありますし、よければ僕がつき添いますが……」

「……いえ。大丈夫です」

 

これもリハビリの一環ですから、と、小さく自虐的に笑みを浮かべながら空はやんわりと言った。

バックミラーを通して、レンズ越しに自分を見つめる双眸を前に、慎次はそれ以上の言葉を重ねなかった。

 

あの戦いから、三カ月。

神代の巫女にして原初の魔女たるフィーネとの死闘から、それだけの時間が過ぎて、今日。

 

漸く退院を許可された空は、郊外に建てられた墓所へ向かっていた。

 

 

 

 

 

車を降りると、空は降りしきる雨をまるで気にした様子もなく、少しおぼつかない足取りで階段を昇り始めた。片手に花束を持ち、空いた手で手摺を掴みながら、一段一段を確かめる様に踏みしめて行く。

この日の為にと、前々から頼んでいた純白のタキシードに身を包み、細部に意匠を施した指輪を二つ携えて―――その姿はまるで、これより神前にて誓いの言葉を交わす新郎の様ですらあった。

 

事実、そうなのだろう。

彼は―――大鳳空はこれから、誓いの言葉を交わしに往くのだ。

 

中身のない墓石。

三か月前に、夕焼けの中に消えていった少女―――天羽奏の元へ。

 

 

 

 

 

 

夕暮れを背に、空はゆっくりとした足取りで待ちわびる皆の元に帰ってきた。

学院の影も形も失った丘から望む街には深い傷跡が残り、戦いの壮絶さを雄弁に語っていた。

 

失ったモノは、決して少なくない。

それでもその手は、確かに多くのモノを守り抜いた。

 

だからなのだろうか。

見る影もなく傷ついて、歩くたびに欠片が零れ落ちる様な姿になりながら―――それでも尚、その姿は勇ましかった。

 

「空……ッ!」

 

彼の姿を見止め、真っ先に飛び出したのは翼だった。

限定解除したギアもそのままに駆け抜けて、飛び込む様に空を抱きしめた。

 

「空……そ、らぁ……ッ!!」

 

空の肩に顔をうずめた翼は、小さく身体を震わせていた。

そんな翼をあやす様に、空は翼の後頭部に手をやり、髪を梳く様に数回撫でた。

 

声にならない言葉が、涙と共にいくつも零れ出る。

これまでの戦いの中で―――そして、“防人”として生きてきた中で堪え続けてきた全てを押し流す様に、翼の目から止めどなく涙があふれ出た。

 

「……大丈夫だよ、翼」

 

自分の胸に翼の頭を押し当てながら、空は囁く様に言った。

 

「俺は、ちゃんと此処にいる。お前の傍で、生きている」

 

小さく、しかし確かに刻まれる鼓動を間近に感じて、翼はギュッと顔を空の胸に押し当てた。

震えが止まっているのだから、恐らくは泣き止んだのだろう。にも関わらず、どうして顔をあげないのか。

 

そんな事をぼんやり考えていると、ガシガシと頭を掻きながら奏が歩み寄ってきた。

 

「たくっ、何時までも見せつけるなっつーの」

 

言って、ぐいっと襟首を引っ張って翼を引き離した。途端、弾かれた様に翼は顔を俯かせて奏の影に身体を隠す。

余りにも早すぎてしっかりと見た訳ではないのだが、一瞬見えた翼の顔は、夕陽よりも遥かに赤かった様に思われた。

 

「……何やってんの?」

「アタシに聞くなよ。少しは自分で考えな」

 

呆れたように返されてしまい、空は憮然となりながらも口を噤んだ。

 

視線を向ければ、少し離れた所に居る響やクリス、それに二課の面々も様々な表情を浮かべていた。

或る者は純粋に空の帰還を喜び、或る者は目の前で突然始まったラブコメに呆れた様に頭を掻いている。

 

だが、皆に共通している事が一つだけあった。

それは、誰もが空の帰還を喜んでいるという事だ。

 

そんな衆目を余所に二人はどちらともなく無言になり、頬を撫でる様に一陣の風が舞う。

鼓膜を震わせて吹いたそれが止んだ時、それを合図にしたかの様に奏が再び歩き出した。

 

数歩しかなかった二人の距離は瞬く間に零になり、しかしそのまま止まる事無く奏は歩き続け、やがて背中越しに再び数歩の距離が開いた。

 

「―――まぁ、アレだ。そろそろ行くよ」

 

振り返る事もなく、奏が言った。

空の視界に、頬を赤らめていた翼が息を呑む姿があった。どういう事だと問い掛ける様な視線を前に、しかし空は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。

 

まるで、初めからこうなる事が分かっていたかの様に、空はただ無言で奏の言葉を聞いていた。

 

「嬉しかったよ。翼と……お前達と一緒にもう一度戦えて。アタシの手を取った時のお前の顔、結構イケてたぜ?」

 

茶化す様な奏の言葉が、空の鼓膜を震わせる。

 

振り返るまでもなく、空には彼女がどんな顔をしているのかが分かった。

きっとその顔は、何処までも清々しくて、呆れるくらいに晴れやかで――――――

 

「だか、ら……さ……」

「―――かなで」

 

―――きっと、大粒の涙を流しながら笑っているのだろう。

 

「ありがとう」

 

背中越しに、息を呑む音が聞こえた。

だが、やがて再び歩き出した音は、やがて駆ける様に早まった。

 

「―――空、これだけは言っとくけどさ!」

 

軽やかに弾んだ声音を聞いて、空は振り返る。

何時か、果てしなく続く砂の上で出会った時と同じ、夕陽色のワンピースを着て、奏は太陽の様に笑って、

 

「アタシは、これ以上ないくらいに幸せだったぜ!!」

 

世界中の誰よりも幸せを噛み締めた様な笑顔のまま、天羽奏は夕陽の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

雨が上がり、雲間から光が差し込みだした頃、空は手ぶらになって戻ってきた。

彼が車の傍まで歩いてくると、慎次は慣れた動作でドアを開けた。その行動に空は僅かに眉を顰めたが、人当たりの良い笑顔を浮かべる慎次の表情に諦めた様にため息を一つ零して、招かれるまま座席に腰を下ろす。

ややあって慎次も運転席に座り、やがてゆっくりと車は動き出した。

 

「報告は終わりましたか?」

「ええ、まぁ……」

 

運転席のミラー越しに少し不機嫌そうな空の姿を見止め、慎次は言葉を重ねた。

 

「どうかしたんですか?」

「……そこまで気を回さなくても、大丈夫ですよ」

「いけません」

 

空の言葉を遮って、慎次が言葉を強めて言った。

 

「ただでさえ病みあがりなのに……本当なら、今日だって退院したらそのまま二課に移って貰う予定だったんですよ?」

 

「ああ、今夜の翼さんのコンサートはちゃんと送迎しますけど」と付け足した慎次に、空は小さくため息を零した。

 

「………………すみません」

 

聞こえない様に呟いたそれは、果たして本当に聞こえなかったのだろうか。

それきり慎次は何も言わず、空もまたあえて沈黙を壊す事はなかった。

 

窓の外には雨上がりの街並みが広がっている。

だというのに、不思議と空の心は晴れなかった。

 

 




前作を読んで下さった方、お久しぶりです。
今回が初見の方、初めまして。

二次創作とか二次創作とか一次創作とかやっている茶々と申します。

今回は『戦姫絶唱シンフォギアG』の二次創作兼、前作『Eternal Blaze -永遠の輝き-』の続きとなる二次創作です。
なので前作読んでないと分からない事とか多いかもしれませんが予めご了承ください。

尚、今作から最低限「完結させる事」と「感想返しをちゃんとやる事」を大前提に投稿したいと思います。
只、ご存知の通りこの『戦姫絶唱シンフォギアG』はアニメ原作なので、アニメの流れが分からないと続きが書けないというジレンマを抱えています。なので更新そのものは結構遅めですので長い目で見てやって下さい。

その他、詳しい事は活動報告にて述べさせて頂きます。
それでは皆様、どうぞ最後までお付き合いの程、宜しくお願い致します。



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第二話 白檻の中で

 

無機質な廊下を進み、目当ての病室の扉を開けると、ベッドの上に上体を起こしたままでいた青年が僅かに表情を綻ばせた。

 

「おはよう、翼」

 

前に見舞いに来た時より幾分か調子の良さそうな声音で挨拶を口にした空の姿に、翼は僅かに強張っていた頬を解す様に、一言。

 

「……ええ、おはよう。時間的にはもうお昼だけど」

「ああそっか、じゃあ“こんにちは”の方がいいかな?」

 

冗談めかして言いながら、喉の奥を鳴らす様に笑う空の姿に、ズキリと胸の奥を抉られる様な痛みを覚えた。

顔の上半分―――正確に云えば目元を幾重にも覆う真っ白な包帯は、彼の視界を完全に覆い隠している。入院してから一度も手入れをしていないんだと苦笑交じりに言っていた髪は腰元まで乱雑に伸びているし、何よりも色素と言うものが抜け落ちてしまった様な白さを見せている。

患者用の衣服から覗く腕は至る所に傷跡が奔り、嘗て大剣を自在に振るっていた頃とは見違える程に痩せこけていた。

 

「さっきまで雪音が来ていたんだ。お土産にって林檎を持ってきてくれたんだけど、よかったら食べる?」

「うん。じゃあ私が剥いてあげる」

「手の皮を剥いたら駄目だよ?」

「剥かないわよっ!」

 

憮然となりつつも、翼は林檎を取った。

 

「足音が聞こえたんだ。立花や小日向さんは運動靴だし、雪音はもう来たから、ああきっと翼が来たんだなって直ぐに分かったんだ」

「そう?」

「うん……ああそうそう、そういえば昨日は立花と小日向さんが来てさ、延々漫才みたいに喋ってくれていたんだ。お好み焼きがどうした、学校はどうだった、って」

 

翼が林檎の皮を剥く傍らで、空は母親を慕う子どもの様に無邪気な声音で話し続けた。

 

まるで、無言の空間を嫌う様に。

まるで、翼の言葉を避ける様に。

 

「そこの机の上に花があるでしょ? 五日前……だったかな、慎次さんが持ってきてくれたんだ。“二課のみんなからです”って。でも造花だからかな、あんまり匂いとかしないから、どんな花なのか良く分からないんだよね」

「そう……」

「まぁ病院だからあんまり匂いがするのは勘弁して欲しいけど」

「そう……」

「かといって触る訳にもいかないし、うっかり花瓶を引っ繰り返しちゃったら大変だから……」

 

―――だから、治った時にこの目で見たいんだ。

 

続ける筈だった言葉を、しかし空は口にする事はなかった。

 

代わりに、幾ばくかの静寂が訪れた。

空が話している間に皮むきを終えたのか、翼も言葉を発する事はなく、ただ無言の空間が其処にあった。

 

それが、少しだけ続いて。

 

「…………空」

 

沈黙を破り、翼が口を開いた。

 

「―――治る、よね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「正直申し上げて、生きているのがおかしいくらいです」

 

フィーネを破り、奏を見送った直後。

まるで糸が切れた人形の様に、空は大地に崩れ落ちた。

 

慌てて病院に担ぎ込まれて、精密検査を受けた直後。翼や響達を空の病室に向かわせてから、弦十郎は医師の報告に耳を傾けていた。

 

「シンフォギア……完全聖遺物“アヴァロンの鞘”の治癒能力の恩恵があっても、現状では日常生活を送る事さえ困難です。全身の神経と五感……特に味覚と視覚の消耗が激しく、仮に回復したとしても、その二つは殆ど戻らない事を覚悟して下さい」

 

気づいていなかった、訳ではない。

むしろ気づいていながら、目を逸らしていたのだ。

 

「それに、筋肉の損傷も酷い。……ハッキリ申し上げれば、数カ月は絶対安静、その後も数年間は治療に専念して頂く方が賢明かと」

「……その事を、空には?」

 

弦十郎の言葉に、医師は頭を横に振った。

 

「……手術を終えた直後、意識を取り戻した彼が言ったんですよ」

 

『―――せ、んせい。お、れ……まだ、たたか、え、るかな……?』

 

命を削り、戦い続けても、尚。

未だ生まれる“ノイズ”の恐怖とその災厄を打ち払う為に、剣を手に取りたいと。

 

自分よりもずっと幼い少年が、そうあるのが当然であるかの様に問うてきたのだ。

 

「……これは、一人の医師として、一人の人間としての意見です」

「…………」

「―――もうこれ以上、彼を戦わせないで下さい」

 

大鳳空のシンフォギア適合係数は、翼のそれより遥かに低い。ひょっとしたら、自らを「時限式」と揶揄していた奏よりも下かもしれない。

 

それでも尚、彼が戦い続けた理由。戦い続ける事が、出来た理由。

 

大鳳理論。

彼の父母が、その生涯をかけて完成させた最初のシンフォギア実践方法。後にこれを前身として櫻井理論が生まれると、風鳴翼や天羽奏は後者の被験者となったが、空は唯一前者の被験者であった。

 

“Excalibur”、そして“Avalon”。

彼の両親が発見した番外聖遺物であり、騎士王の剣の刀身の破片と鞘そのものは、長い時間、彼の戦いを支えてきた。其処にあったのは、聖遺物としての力以上に強く、そして何よりも深い両親の想い。

 

その全ては、結果として彼の寿命を削り続け、そして戦わせ続けてきた。

「聖詠」の代わりに、自らの生涯に定められた心拍を特定振幅と共鳴させる事で、彼は強引にシンフォギアを展開してきた。

 

その道は余りにも生き急ぎ―――そして、死に急いでいる。

 

「彼が貴重な戦力である事は存じています。ですが……!」

「―――そんな事、言われんでも分かっているッ!!」

 

自らの膝を叩き、弦十郎は声を荒げた。

己の無力さに憤る様に、やり場のない怒りを白むまで強く握り締めた拳に込めて。噛み締めた口の中に、じわりと血の味が広がった。

 

「……すまない。だが、出来る限り手を尽くしてくれ」

 

やるせなく、力なく呟いて。

深く頭を垂れ、弦十郎は診察室を後にした。

 

 

 

 

 

それから病室を訪れた弦十郎に、空は二ヶ月の絶対安静を言い渡された。

幸い命に別状はないという報告に、翼や響は胸を撫で下ろして安堵した。同じ様に安堵したクリスはその直後に顔を赤らめて憎まれ口を叩いていたが、そんな彼女の調子がおかしくて空は笑声を零す。つられる様に響が、そして翼も静かに笑った。

 

声を荒げて怒鳴るクリスを尻目に、病室の空気が随分と弛緩する。ややあって落ち着くと、不意に響が欠伸を洩らした。

それを合図にした様に空が帰宅を促し、顔を赤くしていたクリスがこれ幸いとばかりに捨て台詞の様に何かを呟きながら部屋を出た。次いで「待合室に未来を置いてきたーッ!」と今更のように思い出したらしい響が挨拶もそこそこに慌てて飛び出し、最後に渋る翼を弦十郎が促して退室した。

 

病室の扉が完全に閉まり、翼の数歩前を歩いていた弦十郎の背に声がかかる。

 

「司令……」

 

不安そうな声音で、翼は問い掛けた。

 

「空は……ちゃんと治ります、よね?」

 

姪の――――――大鳳空に焦れる少女の言葉に、弦十郎は言葉を返す事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 

それから最初の一月は毎日の様に翼は空の元へ見舞いに訪れていた。響や未来も暇を見つけては顔を出していたし、空の話では時折クリスも訪れているらしい。

らしいというのは、弦十郎が来る時はおろか、翼や響ですらもクリスが何時来ているのかを知らなかったからだ。一度だけその事をクリスに尋ねてみると「はぁ? なんでアタシがあんな奴の心配なんかしなきゃいけねーんだよっ!」と声を荒げてそっぽを向いていたが、それからもちょくちょく空の口からクリスの話題は出ていた。

 

そして、翼が渋るのをどうにか説得して徐々に歌手としての仕事を再開する頃には弦十郎も空の違和感に気づき始めていた。

 

見舞いに訪れた二課の面々は口を揃えて「空は元気にしている」「今日も色んな事を喋りました」と言うのだ。

元々、空はそれほど饒舌という訳ではない。自分や翼、それに慎次といったよく顔を合わせる相手であれば話は別だが、そうでない相手に対しても空は人が訪れている間は殆ど喋り通しているのだという。

 

試しにと、空と余り面識のない二課の職員数名に「自分の代わり」という名目で見舞いに向かわせ、その様子を聞いてみた時、弦十郎は愕然とした。

 

初めこそ名前や声音の識別に手間取ったものの、慣れた頃には洒落も交えて様々な事を話したというのだ。二課の事や復興の事は勿論、最近の流行や新進気鋭の歌姫“マリア”の事など、病院にいながらにして様々な話題を“空の方から”振ってきたという。

 

この時点で弦十郎は、空の様子が明らかにおかしいと断定した。

 

そもそも空は奏や翼以外の歌手には――というより、二人が関わらない音楽には――微塵も興味を示さない。知識や傾向として学習や調査はしても、それ以上の関心を持つ事は一度たりともなかった。

 

無論「長期入院の暇を持て余している」という可能性も考えられなくはなかったが、だとしても自分からそういった話をするというのは、ましてや殆ど面識のない相手にそうした事を話すというのは十余年の付き合いとなる空の性格からして考えられない。

 

それに、見舞いにいった時の態度もおかしかった。

『誰が行ったときでも』『常に笑顔で出迎えて』いるというのが、そもそも今の今まで異常だと気づかなかった自分を弦十郎は殴り飛ばしてやりたかった。

 

 

 

そして、入院から二ヶ月が経った頃だった。

 

絶対安静からリハビリへの移行が許され、酷く衰えた筋力の回復の為に簡単な運動を始めたその日の夜、病院から「雪音クリスが見舞いに来ている」と報せがあり急行した弦十郎は、空の部屋に備え付けられた監視カメラ越しに信じがたい光景を目にした。

 

『―――お前、何時までそうやっているつもりだよ』

 

月明かりが照らす病室の中で、空の上に馬乗りになったクリスは空の襟首を掴んで、鼻先が擦れる程間近に顔を近づけて言った。

 

『苦しいって、雪音……』

『だったら振り払ってみろよ。アタシに強引にキスしたテメェなら余裕だろ?』

 

挑発する様な物言いのクリスに対し、しかし空は力なくクリスの腕を掴むだけでそれ以上は何も出来なかった。

 

『今までは安静にっていうから我慢してた。けどなぁ、もう限界なんだよっ!!』

 

ぐっ、と更に襟首を締め上げるクリスの姿に拙いと思った弦十郎は病室に向かおうとした。

だが、隣にいた医師は弦十郎を押し留めて言う。

 

「―――以前から、同じ事があった」

 

最初の頃はこんな事はなかった。

だが、見舞いを重ねる度、徐々にクリスは空に暴言を吐く様になり、最近では首に手を添える事や身体を強く掴む事もあったという。

だというのに、空は抵抗らしい抵抗も見せず、基本的に彼女のしたい様にさせているのだという。

 

驚きに目を見開く弦十郎を余所に、クリスは更に言葉を続けた。

 

『いい加減、その嘘くせぇ顔を止めろ! 何でそんなヘラヘラ笑っていられるんだよっ!? いつもいつもいつも!! そうやって笑って! 喋って! 気づかれねぇとでも思ってたのか!? ふざけんなっ!!』

 

両手で空の襟首をつかみ、クリスは怒気を露わにして叫んだ。

 

『こっちはもう全部分かってんだよっ!! 治んねぇ事も――――――テメェがもう戦えねぇ事もっ!!!』

 



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第三話 戦う理由

 

黒の海に浮かぶ黄金がある。

星の光すら掻き消す程に大きな月の輝きが、ベッドの上の二人を照らす様に差し込んでいた。

世界中の音を取り去った様な静寂が支配するその空間は、いっそ幻想的ですらあった。

 

「っ……」

 

首を締めつけるその手を力なく掴み、僅かに空は顔を顰める。

だが、激情を隠さぬままにクリスは更に力を込めて空にのしかかった。

 

「まだすっとぼけるつもりかよ? アタシはな、そうやって自分ばっか傷つけばいいなんて考えてる野郎の面は見厭きてるんだよっ!」

 

嘗て、自分達を庇い続けた少年の顔が脳裏を過る。

世界さえも敵に回して、己が宿願の為に戦い続けた女の姿が蘇る。

 

平穏と戦争―――相反する世界に生きてきた二人は、しかしこの時確かにその影を重ねていた。

 

「何でそんな苦しい方ばっかり選ぶんだよ? 前はテメェと翼だけだったかもしれねぇ……だけど今はあの馬鹿や、アタシだっている。これ以上テメェが戦う必要なんか―――!」

 

言いかけて、しかしその言葉は遮られた。

唐突に振り抜かれた空の腕が、クリスの身体を吹き飛ばしたのだ。

 

「っ、痛ぇな……オイっ!」

「―――うるさい」

 

雷鳴の様に、腹の底に響く声音だった。

何時か、相対した時と同じ―――否、それ以上の激昂を強引に抑えつけた様な声で、空は視界が全く効かない中でクリスの方に顔を向けた。

 

その姿に、知らず、クリスの表情に笑みが浮かぶ。

 

「……ハッ! なら、無理やりにでも黙らせてみるかぁ?」

「黙れ。そして帰れ」

 

挑発する様に嘲るクリスとは対照的に、冷徹な声で空は返した。

 

「約束だか何だか知らねぇけど、んなモンに縛られてるテメェなんざ怖くもなんともねぇんだよ!」

 

吼えた瞬間、空気が音を立てて軋む。

“約束”を侮辱された事への苛立ちか、実力の劣る自分が見縊った事への怒りか。いずれにしても、クリスは空にとっての地雷を踏み抜いた事を確信した。

 

「殺されたいか……雪音!!」

「口ばっかり威勢がいいじゃねぇか!? おら、さっさとぶっ殺してでも黙らせてみろよ!!」

 

売り言葉に買い言葉。

最早我慢の限界とばかりに、空は首から下げたペンダント――手術時、ほぼ止まりかけていた心臓近くから摘出された聖剣の欠片――を、紐を引き千切る勢いで手に掴む。腕を振るった勢いで倒れた花瓶もお構いなしに、握ったペンダントが眩い閃光を放った。

対する様にクリスもペンダントを手に「聖詠」の準備を整えた、その時、

 

「いい加減にせんかっ!!!」

 

凡そ人間が出せるとは思えぬ程の轟音で自動ドアを蹴り飛ばし、弦十郎が怒鳴り込んだ。

驚く二人を余所に、勢いそのまま弦十郎は手刀を以てクリスと空のペンダントを叩き落とした。

 

乾いた音を立てて、二人の手からペンダントが零れ落ちる。

だが、最早怒りの抑えどころなどないと云わんばかりに空はベッドから弾かれた様に飛び出して弦十郎の直ぐ傍を抜け、クリスに飛びかかった。

 

「っ!?」

 

真正面からなら、クリスとてまだ幾らか反応出来たかもしれない。

だが、数瞬の声だけを頼りに飛び出した上に、長い入院生活の中で痩せ衰えた足を数歩で縺れさせ、空は倒れ込む様にその拳をクリスの肩にぶつけるだけだった。

 

咄嗟の事に、思わずクリスはたたらを踏んで後ろに退いて机に腰のあたりを打ちつける。目の前では無様に転がった空が、痛みに口元を歪ませていた。

 

「空っ!」

「放せっ……放しやがれっ!!」

 

駆け寄った弦十郎を意にも介さず、空は抑え込まれた手足を必死にばたつかせて尚もクリスを殴ろうと暴れる。

背中に鈍痛を覚えながらも空の方を向いたクリスに向けて、空の口から怒声が飛んだ。

 

「テメェが―――戦いしか知らないテメェが! 人と真剣に触れあった事もないテメェなんかがっ!! 知った風にぬかすんじゃねぇっ!!」

 

―――その一言を聞いた瞬間、クリスは心臓の奥底を抉られる様な痛みを覚えた。

 

弦十郎から大分遅れて駆け付けた職員達が必死に取り押さえる中、足元に花瓶を転がしたまま、虚ろになっていたクリスの耳朶に空の怒声だけがただ響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

鎮静剤を打ち込まれて泥の様に眠る空を見届けてから、弦十郎はクリスを連れて待合室の一角に腰を降ろした。

手に持った缶ジュースの一本を手渡し、拳二つ分程離れた場所に座る。

 

「全く……何だかんだと言いながら、随分と心配しているじゃないか」

 

呆れた様に、僅かに茶化した様な弦十郎の言葉に、しかしクリスの表情が晴れる事はなかった。

 

思いの他重症か、と、弦十郎は軽く頭を掻いてから缶ジュースを一気に飲み干した。

 

「……そう言えば、お前にはまだ話した事はなかったな」

「…………?」

「アイツの両親の事……それに、了子くんの事」

 

僅かに、クリスの肩が震えた。

少しだけ身体を自分の方に向けたクリスにあえて視線を向ける事無く、弦十郎は独り言の様に語り始めた。

 

大鳳空の―――そして、彼の両親たる櫻井好恵と大鳳遥、更に“家族”となった櫻井了子の物語。

 

それは、特別な誰かの物語ではない。

誰にでも起こり得る、ごく平凡で、当たり前の物語。

 

愛した人と結ばれて、その結晶たる赤子が生まれ―――そして、ただ一度の偶然に何もかもを奪い去られた少年の昔語り。

 

それは、幼くして戦禍に巻き込まれたクリスからすれば―――毎日を生きる事すら死に物狂いだった彼女からすれば、吐き気がする程に平和ボケした世界だっただろう。

 

だからこそ、クリスには分からなかった。

 

“戦争”という、恨み恨まれるモノとは違う。“ノイズ”は、どれだけ恨み辛みを積み重ねても、自分からのただ一方的なモノでしかない。それを知った時の理不尽さ。そして、そんなものに大切なモノを奪われたという、己自身の無力さが。

 

「……奏は、嘗て空や翼と共に戦っていた天羽奏も、最初は“ノイズを倒す事”が目的だった。それはやがて、“ノイズから人を守る事”へと変わっていった。だが、空にはそれが出来なかった」

 

それが出来る程に、空は自分の感情を割り切れなかった。

愛情を知るが故に、知りすぎたが故に溺れてしまい、気づけば底無しの水底に沈んでいた。

 

「アイツは守りたかったんだ。自分を、じゃない。自分の中にある、家族の全てを」

 

命を削る大鳳理論のシンフォギア。

騎士王の聖剣と、その鞘。

 

空の戦う力の全ては、両親から―――“家族”から残された、大切なモノだった。

 

幼稚だと、笑う事は出来ない。

無駄だと、謗る事は出来ない。

 

それが全てで―――その全てで、空は今まで戦ってきたのだ。

 

「……だとしても。そうだとしても、それでアイツが死んじまったら、どうしようもねぇだろ……っ!」

 

だからこそ、クリスにはそれが許せない。

自分の命を捨ててでも、等と言う空の在り方は、戦禍の中にいたクリスにはどうしても許容できなかった。

 

「……雪音」

 

震えるクリスの頭に、ポンと手を置いて弦十郎が口を開いた。

 

「そういう事を真正面から言える奴が、アイツには必要なんだ。俺達の様に、無理に納得なんかしなくていい。お前はお前の感じたまま、アイツと正面からぶつかってやれ」

「……うるせぇ」

 

弦十郎の手を軽く払いながら、クリスは背を向けて腰を上げた。

 

「言っとくが、アタシははじめっからあんな奴に使う気なんかこれっぽっちも持ち合わせていねぇ。何をしようがどうしようが、全部アタシの勝手だ」

 

その言葉に、暫し弦十郎は目を丸くして―――ややあって、それが彼女独特の照れ隠しなのだと思い至り、喉を震わせて小さく笑った。

 

そして、きっとそう遠くない将来、彼女は自分の姪っ子の最大のライバルになるのだろう、等と得体もない事を考えていた。

 

 



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第四話 重なる想い

 

 

 

   ―――世界を変えられる様な力なんて、いらない。

 

            ―――ただ、君を守れるだけの力があれば、

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日――空とクリスの取っ組み合いからの殴り合い未遂を弦十郎が止めた次の日――から、弦十郎は二課での仕事の合間を縫って、出来るだけ空の元に顔を見せる様にした。又、自分が行けない時は、空と気心の知れた慎次に気を配る様にと頼んだ。

 

アーティスト・風鳴翼が未だ復帰間もない事もあり、多忙と言う程多忙でもなかった慎次は――例え仕事や任務に忙殺されていたとしても、空に関わる事であれば承諾しただろうが――一も二もなくこれを引き受けた。

 

また、空とクリスの喧嘩の一件は、関係者が少数であった事や弦十郎が緘口令を敷いた事もあり、響や翼達に知られる事はなかった。

 

『テメェが―――戦いしか知らないテメェが! 人と真剣に触れあった事もないテメェなんかがっ!! 知った風にぬかすんじゃねぇっ!!』

 

二ヶ月と少し―――否、敵対していた時も含めれば半年にも満たない時間しか経っていない。

 

その短い時間の中で、確かに自分達は仲間となり、戦友となる事が出来た――――――出来たが、だ。

ではそれで全てが丸く収まるのかと言えばそう言う訳ではない。無論、響の様な少年漫画的思考の持ち主であれば話は別だが、基本的に空は不器用なのだ。空だけでなく、翼やクリスも。

 

―――いや、そういえば最近の翼は妙に色気づいたというか、男女の機敏的な意味で強くなった様な気がしないでもないが。

 

一瞬浮かんだ得体もない考えを切り捨て、弦十郎は黙考する。

 

早急に、という程急がなければならない訳ではないが、それでも決して後回しにしていい問題と言う訳でもない。

当人達の間で解決すべき問題とはいえ、万が一の場合は自分や慎次が介入する必要もあるだろう。

 

そんな事を考えながら、弦十郎はコーヒーを啜る。

何時ぞや空が隣で飲んでいた、シュガーマーチインブラック―――ではなく、一般的な無糖のコーヒーを。

 

だが、弦十郎は翌日早朝、うっかり空のオリジナルブレンドを飲んでしまった時の様にこのコーヒーを盛大に噴き出す事となる。

 

その顛末は、この日の夕方から語るとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――治る、よね?」

 

沈黙を破って問い掛けた翼の言葉に、しかし空は口元に柔らかく笑みを浮かべて返した。

 

「……当たり前だよ。何言っているの?」

 

幼子の純粋な問いかけに答える大人の様に、その声音は穏やかだった。

 

だが、翼は幼子ではなかった。こと、幼馴染であるこの自己犠牲馬鹿に関しては、ある種の慧眼を持っているといっても過言ではなかった。

 

問うてしまった自分に、答えた空に、胸の奥で何かが軋む音を上げた。

 

「まだリハビリは続くけど、来月辺りにはちゃんと戻れるよ」

 

「だから」と、空は続けた。

 

「心配しなくても大丈夫だよ、翼」

「―――ッ!!」

 

声にならない悲鳴が、翼の耳朶を打つ。

その言葉が、在り様が―――今の空を形作る全てが、水泡の様に消えてしまいそうで。

 

「つば、さっ……?」

 

だからだろうか。

気づけば翼は身を乗り出して、空を抱きしめていた。零れ落ちてしまいそうな存在を抱きとめる様に、強く。

彼が身を捩ろうとする事すら許さず、その存在を抱く様に。

 

「……翼」

 

名を呼ばれ、翼は自分が泣いている事に気づいた。

 

肩を震わせて、目から大粒の涙を零して。か細い空の指が、自分の髪を梳いている。

昔から、何かに躓いた自分をあやす為に空がよくしていた行為だ。

 

五体満足な自分が縋りつき、歩く事すら覚束ない空が優しく受け止める。

 

その姿は凡そ歪で、しかし何処か神聖ですらあった。

 

 

 

「…………ごめん」

 

長い沈黙の果てに紡いだ言葉は、謝罪だった。

抱きしめた翼の頭を優しく撫でながら、空は言葉を重ねる。

 

「ごめん」

 

どんな言葉を紡げばいいのだろうか。

どうすれば、翼を泣かせないで済んだのだろうか。

 

これから自分が言葉を紡ぐ度、心根の優しい彼女はきっと傷ついて、泣いてしまうのだろう。

それでも―――それでも、尚。自分は告げなければならないのだ。

 

長年の戦友として。何よりも、彼女を愛し抜きたいと願う一人の男として。

 

「……僕さ、もう戦えないんだって」

 

彼女にだけは、嘘はつきたくなかった。

 

「完治に後数カ月、其処からずっとリハビリを続けて……それでも、もう眼は殆ど見えなくなるし、味だって分からなくなる。もしかしたら、他の部分も壊れていくかもしれないんだ」

 

口を開こうとする翼を制し、空は更に言葉を重ねる。

 

「特に……シンフォギアは、身体への負荷が大き過ぎる。仮にリハビリが終わっても、もう使える事はない」

「そんな、事……っ!」

「自分の身体の事だよ? 言われなくたって、どうなのかくらいは分かるよ」

 

大鳳理論によるシンフォギアシステムの弊害は、着実に空の身体を蝕んできた。

味の殆ど分からないコーヒーを随分と飲んできた事がその良い証拠だ。傍目にも入れ過ぎと分かる砂糖を大量にぶち込んで漸く甘味を多少覚えるくらいにまで、空の味覚は壊れていた。

 

「……ごめんね、翼」

 

今まで隠してきて、ごめん。

嘘をついてきて、ごめん。

 

空の口からは、只、謝罪の言葉だけが零れ出た。

 

そんなものを、翼が求めている筈がないと知りながら。それでも尚、空は謝り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

西日が差し込む頃には、二人の間に言葉はなくなっていた。

 

どれだけ言葉を重ねようと、どれだけ取り繕おうと、もう戦う事は出来ないという事実だけは、覆る事はないのだから。

だから―――だからもう、これ以上は無意味なのだと、そう告げる様に。

 

「……翼も、これから色々忙しくなるんだからさ。今日は、もう帰ろう?」

 

そう促した空の言葉に、翼の肩が小さく震えた。

そして、空の胸元に顔をうずめたまま、首を横に振る。

 

「翼……」

 

空が再度呼びかけても、翼は空の服を掴んで放そうとしない。

 

この手を放したら、もう空に会えないのではないか。

あの日、夕陽の中に溶けていった奏の様に、手の届かない場所に行ってしまうのではないか。

 

そんな不安を押し殺す様に、翼は空から離れようとしない。

 

「……大丈夫だから」

 

駄々をこねる子をあやす様に、空は口を開く。

 

「僕なら、もう大丈夫だから」

 

違う。

違うのだ。

 

「前は、僕と翼だけだった。けど今は立花がいる……それに、雪音もいる」

 

欲しいのは、そんな言葉じゃない。

 

「翼だって、前よりずっと強くなった。奏がいなくなって……僕が戦えなくなっても、今の翼なら、安心して任せられる」

 

欲しいのは、そんな信頼じゃない。

 

「だから―――」

「空……ッ!!」

 

その言葉を遮る様に、翼は空の上体をベッドに押し倒した。

 

突然の事に言葉を失った空の頬に、冷たい雫が零れ落ちた。

 

「私は、そんな事を言いたいんじゃない……ッ! 私は、私は……ッ!」

 

―――ただ、寄り添って欲しかったのだ。

彼に手を引かれるのではない。隣に立って、傍に居て、一緒に歩いて行きたかった。

 

その言葉が、どれ程の重荷になるのかを知りながら、それでも翼は言葉を重ねようとした。

 

「空……そら、ぁ……ッ!」

 

感情の様に溢れ出る涙を幾つも零し、言葉にならない想いが途切れ途切れに口をついて出る。

これまでの―――ただ寄りかかるだけの一方的な関係ではない。寄り添って、心を預け合える様な、そんな形で傍に居たいのだと、気持ちばかりが逸る。

 

だが、口からはうわ言の様に空の名ばかりが零れ落ちた。

 

彼を困らせたいのではない。

彼に甘えたいのではない。

 

だから止まってと、翼はきつく瞼を閉じて、涙を止めようとした。

これ以上、弱い部分を曝けだしたくなどない。彼の隣に寄り添って、今度は自分が支えるのだから。

 

だから、もう泣かないで。

奥歯を強く噛み締めて、肩を震わせて、翼は必死に涙を止めようとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――翼」

 

白みが差した頬に、少し硬い掌が触れる。

見える筈のない空の瞳は、しかしその時、確かに自分を捉えていた。

 

添えられた掌から伝わる温もりを確かめる様に、翼は自分の手を空の手に重ねた。

彼の親指が翼の目元を拭うと、不思議と翼の身体から震えは消えていた。

 

「ごめん」

 

小さな、囁く様な声で紡がれたのは、謝罪。

 

「それと―――ありがとう」

 

そして、感謝だった。

 

「そ、ら……?」

「少しだけ、時間はかかるけど……」

 

空いていたもう片方の頬に、空は掌を添える。

そのまま少しだけ、空は翼の顔を自分の方に引き寄せた。

 

「絶対に、翼の所まで辿りつくから」

 

待っていて欲しい、とは云わない。

自分が縛り付けるのではない。彼女が縋りつくのではない。

 

お互いに寄り添って、支え合える様に。

 

「だから、泣かないで? ちゃんと治った時には、翼の笑顔が見たいから」

 

今はまだ見えなくとも、何時かきっとこの眼で見るから。

怒った顔も、泣いた顔も、驚いた顔も、笑った顔も。自分の目で、しっかりと見たいから。

 

だから、と空は優しく微笑んだ。

お互いの顔は、静かな吐息さえ感じられる程に近づいている。ほんの少し身じろげば、幼い日のあの時の様に―――互いの唇が、触れてしまう程に、近い。

 

しかし、空は動かない。翼も、まるで金縛りにあったかの様に動けなかった。

肌に触れる吐息が、まるで焼け付く様に熱い。喉がカラカラに乾いて、心臓が早鐘を打つ様に煩く鼓動を刻む。このままでは自分の中の何かが壊れてしまうのではないかと思いながら、それも悪くないと思う自分が何処かに居る事を、翼は他人事の様に漠然と感じていた。

 

あと五ミリ動けば、あと三ミリ近づけば―――彼に触れた瞬間、自分は溶けてしまうのではないか。そんな錯覚さえ覚えた。

 

永遠にも感じられる静寂が続いた、その時、

 

「こーんにちわーっ! 空さーん、この間話した“ふらわー”のお好み焼、き……」

「もう響っ! そんなに走ったら大鳳さんに迷惑が……」

 

昨日の師匠ばりの勢いで自動ドアを手動で開け、響が現れた。続けざまに未来が駆けてきたのは、恐らく親友の粗相を詫びようとしたからだろう。

 

「………………」

 

誰のものか分からない沈黙が、暫し。

やがて――なんでこんな時ばかり早いのか――意識が復活したのか、響が口を大きく開けて声を張り上げた。

 

「つ、翼さんが空さんを押し倒してるぅっ!?」

「ち、違っ!? これは誤解だ立花ッ!!」

「すすすすみませんすみません!! まさかこの間初めてデートしたばっかりのお二人がもうそこまで進んでいたとは知りもしないでああもうほんとに私も響もお邪魔でしたよね本当にすみません今すぐ出て行きますので心配しないで下さい私も響も誰にも言いませんからほんとにお邪魔しましたーっ!!」

「ちょ、待て小日向!? 色々誤解したまま行くなっ!!」

「あ、あのこれお土産にって持ってきたお好み焼きですっ! 出来れば冷めない内に食べて頂きたかったんですけどお気になさらずお好きな時にどうぞーっ!」

 

翼の弁解を全く聞かず、響と未来は弾かれた様に病室から駆けて出ていく。

空の腰の辺りに馬乗りになっていた翼の手は、伸ばされたまま虚しく中空を彷徨い、やがて自分がどんな体勢でいたのかを漸く思い出した様で、慌てて空の上から飛び退いた。

 

「す、すまないっ! そ、それとあの二人の誤解を解いてくるっ!!」

 

そのまま矢も楯もたまらずといった勢いで病室から遠ざかる翼の足音を聞いて、空は喉の奥を鳴らして笑みを零した。

 

目が見えなくても分かる。

今の彼女は、きっと夕陽よりもずっと赤くて―――それはそれは、とても可愛らしい顔をしているのだろうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

その後、病院内外を駆け巡った挙句二人を捕えた翼の懇切丁寧な釈明も虚しく「ちゃんと分かっていますから!」と二人揃ってとても良い笑顔で返された翼は、兎に角今日の事は黙っておくようにきつく言い含めた。

 

にも関わらず、何故か翌日には二課の面々の妙に生温かい笑顔に包まれながら、弦十郎から「ほどほどにしておく様に。それから、度が過ぎた交際は禁止」と厳命された。

実は混乱を極めた響と未来が、当てもなく駆けている間に「翼が空を押し倒した」という事を喧伝していたらしく、後日訓練で蒼い流星群から必死の形相で逃げ惑う響と、観戦を強要され、凄まじい勢いで震え上がる未来の姿が確認されたらしいが真相は不明。

 

更に同日夜、病室に殴り込み宜しく飛び込んできたクリスに「この変態すけこまし野郎!!」と罵声を浴びせられ、空が頬に立派な紅葉をこさえたのはどうでもいい余談である。

 

ともあれその頃から、空は医師に頼み込み、許容範囲ギリギリの過酷なリハビリを毎日の様に続け、翼は翼でアーティストとして本格的に復帰して多忙な日々を送る様になった。

会える時間はかなり減ったにも関わらず、その姿は何故か以前より生き生きとしている様だったと、慎次は首を傾げながら弦十郎に報告した。

 

 

 

 

 

それから二ヶ月余り。

“ノイズ”の災厄と、それを打ち破る“シンフォギア・システム”は、空達の回りのみならず、世界情勢すらも揺り動かしていた。

 

先の激戦を経て、日本政府が保有する“シンフォギア・システム”は、認定特異災害“ノイズ”に対抗する有効な戦力としてその機密の一部が開示されたものの、肝心要の装者に関しては、徹底してその情報は秘匿された。

 

翼も、クリスも、響も、日米が共同するシンフォギア研究に参加する傍ら、それぞれの日常に戻りつつあった。

 

そんな中―――アーティスト風鳴翼と、新進気鋭の歌姫マリア・カデンツァヴナ・イヴによる共同ライブを間近に控えたある日、一つの指令が下された。

 

『特異災害対策機動部と米国連邦聖遺物研究機関が最優先調査対象としている完全聖遺物サクリストS―――“ソロモンの杖”を、米軍の岩国ベースまで搬送せよ』

 

折しも退院を間近に控えながら未だ許可が下りなかった空と、ライブを直前に控えていた翼はこの任務から外れ、響とクリスが担当する事となったこの作戦。

 

――――――この時はまだ、二課の人間の中に知る者は誰もいなかった。

 

僅か三カ月。

たったそれだけのインターバルを置いて、世界の命運を賭けた激闘が再び始まる事になろうとは。

 

 



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第五話 開幕の声

 

ラジオの向こうから響く女性の声に耳を傾ける。

激流の様なBGMに全く引けを取らぬ、聞く者を惹きつけて止まない流暢な歌声。

 

教養の一つとして主要な外国語を修めているが、仮に英語の知識がそれ程ない人間が聞いても苦になる事はないだろう。

音楽は耳で聞くものではない。脳髄に叩き込み、心で楽しむものだ。

 

だからこそ、たった数カ月の間に全く無名だった彼女は―――新進気鋭の歌姫“マリア”は、全米トップチャートに躍り出る事が出来たのだ。

 

「珍しいですね」

 

慣れたハンドルさばきで会場へと向かう慎次が、独り言の様に呟いた。

 

「翼さんや奏さん以外の人の歌でも、興味が湧きましたか?」

「…………いいえ。先週のヒットチャートで、まんまと担当歌手がトップを奪われたマネージャーさんに変わって、原因の一つでも探ってあげようかと思いまして」

 

あんまりと言えばあんまりな空の言葉に、しかし慎次は小さく苦笑いを浮かべるだけだった。

むしろ、来日を直前に控えた凄まじい売り込みを相手に、アーティスト“風鳴翼”は良く善戦したと言える。他の歌手など、目も当てられない燦々たる結果だったのだ。

 

だが、それも仕方ないと言える。

 

マリア・カデンツァヴナ・イヴ。

その歌声はミステリアスでありながら力強く、デビューから僅か二ヶ月で米国のヒットチャートを席捲した歌姫。

世界中にファンを獲得するだけあり、歌声のみならず容貌も美しく、特に謎に包まれた私生活を暴こうと現地のゴシップが躍起になっている様だが、今も尚その辺りは一切が不明。

 

時折週刊誌の記事で取り上げられるが、その九分九厘が記者の妄想を並べ立てた様な稚拙な内容であり、情報収集の段階で一笑に伏したのは記憶に新しい。

 

そんな彼女が来日する理由は至極単純。

日米の―――否、世界の二大歌姫が共演する音楽の祭典「QUEENS of MUSIC」の為である。

 

世界各国に生中継されるこの祭典は、前売り券の段階で即日完売御礼、当日券など買おうと試みようものなら、三日前から行列を形成するのも当たり前という程の注目度を誇る。

翼のマネージャーである慎次ですら、空の為にと持ち得るコネをフル活用しても、満足のいく特等席を確保する事は出来なかった程である。

 

「……けど、まぁ」

 

呟く様に、空が口を開く。

 

「楽しみでは、ありますけどね」

 

空の言葉に、慎次は柔らかく笑みを浮かべた。

きっと今日という日は、世界最高の一日になるだろうという確信と共に。

 

 

 

―――そして、

 

世界で 最高/最後 のステージは、

あと、数時間で幕を開ける。

 

 

ステージ上では、係員が忙しなく準備を進めている。

そんな光景を眼下に望みながら、彼女は吐息混じりに小さな歌を口ずさんでいた。

 

牧歌の様な、童謡の様な独特のリズム。

優しく穏やかなそれは、彼女がぼんやりと考え込んでいたりする時、よく口ずさんでいた。

 

―――彼女が何を思い、何を感じて歌っているのか。

―――其処に、どの様な想いが込められているのか。

 

「―――こんにちは」

 

呼びかけられて振り返る。

彼女の目に真っ先に飛び込んできたのは、観客席に備え付けられているスロープを手に掴み、色素が抜け落ちた様な、病的な白さをたたえた髪の青年だった。

眼鏡のレンズ越しに、柔らかな色合いを浮かべた双眸に自分の姿を映しながら、彼は笑みを浮かべた。

 

見知らぬ相手に、こんな風に“優しそうな”笑みを浮かべる人間を、しかし彼女は吐き捨てる程に知っていた。

 

「―――sorry, I`m busy one now」

 

捲し立てる様にそれだけ言って、彼女は視線を虚空に戻した。

 

大方、ライブを直前に控えての心境辺りを聞きに来た日本の三文記者であろう。

来日してから、連日の様に自分を取り囲み、片言の会話しか出来ない記者の類は、彼女の冷徹な声音に思わず引き下がるか、拙く汚い英語を並べ立てるかのどちらかだった。

 

いずれにしても、後ろの青年に対する彼女の興味は微塵も残ってはいなかった。

 

――――――少なくとも、こんな連中に察せる様なものではない。

 

彼の気配はまだ後ろにあるが、最早彼女が自ら振り返る事はない。

あとはその辺りの雰囲気を察する事が出来る知能があるか否か、その程度の問題だ。

 

「today's live—I`m looking forward to it」

 

滑らかな言葉に思わず振り返った。

日本人特有の拙い言葉でなく、聞き慣れた米国的な言葉であったから―――ではない。流れる様な発音が、幼い頃に聞いた欧州のそれに限りなく近かったからだ。

 

軽く目を見開く自分に真っ直ぐ視線を向けたまま、青年は小さく笑みを浮かべて会釈する。そのまま踵を返すと、ゆっくりとした足取りで通路の方へと消えて行った。

 

その背中をずっと見つめながら、彼女―――マリアは、驚いていた。

 

あんな風に笑える人を、自分は知らない。

見知らぬ相手に、あんなにも“柔らかく”笑える人を、マリアは知らなかった。

 

――――――もし、

――――――もし、見も知らぬ人間の中で、僅かでも自分の気持ちを掬う事が出来る人がいるとするのなら。

 

その時、ポケットの中で着信音と共に携帯が震える。

 

瞬間、先程まで浮かべていた考えを斬って捨て、マリアは表情を引き締めた。

決然たる意思を秘めたその瞳は、戦場に向かう防人の様であった。

 

 

「―――状況は分かりました」

 

響とクリスが同道している岩国ベースへの“サクリストS”輸送中に、統制された“ノイズ”による襲撃があったという報せが慎次の元に届いたのは、マリアによるスペシャル・ステージ中―――翼の出番を間近に控えた時だった。

 

今日退院したばかりの空が未だ病みあがりである事を考慮すれば、増援として送れるのは翼のみ。

だがその翼とて、ステージを直前に控えた身。

 

「それでは翼さんを……」

『無用だ。“ノイズ”の襲撃と聞けば、今日のステージを放りだしかねん』

 

連絡だけでも、と考えていた慎次の言葉に、しかし弦十郎は不要だと答えた。

 

姪の性質を考えれば、本当にやりかねない行動であるだけにその声音は厳しい。

慎次もそれが分かっているからか、あえて反論はしなかった。

 

「……そうですね。では、そちらにお任せします」

 

携帯を切ると、折りたたみ式のチェアに腰かけていた翼が顔を上げて問い掛けた。

 

「司令からは一体何を?」

「『今日のステージを全うして欲しい』と……」

 

眼鏡を外しながら答えた慎次の言葉に、しかし翼はため息を一つ零して立ち上がった。

そのまま慎次の元に歩み寄ると、指摘する様に慎次の顔に指を指した。

 

「眼鏡を外したと云う事は、マネージャーモードの緒川さんではないという事です」

 

翼の指摘に、慌てた様に慎次は眼鏡を仕舞った胸ポケットに手をやった。

呆れたように腕を組みながら、翼は普段空にやる様な声音で小言を洩らす。

 

「自分の癖くらい覚えておかないと、敵に足元をすくわれますよ」

 

あはは、と苦笑を洩らす慎次の姿に、益々柳眉を顰めた翼は言葉を重ねようとしたが、

 

「―――お時間そろそろです。お願いします」

「っ、はい! 今行きます」

 

スタッフの声にアーティストモードで答えてしまい、つい言葉が途切れる。

軽く言葉を詰まらせた翼の代わりに、慎次が口を開いた。

 

「傷ついた人の心を癒すのも、“風鳴翼”の大切な務めです。頑張って下さい」

 

言って、人好きのする笑顔を浮かべる慎次の姿に、不承不承といった感じで翼は言葉を呑み込んだ。

 

「詳しい話は、また後で聞かせて貰いますよ」

「はい。僕も空くんも、ステージを楽しみにしていますよ」

 

思わず―――本当に意図せず、慎次が口にしたその言葉に、翼はビクリと肩を震わせて硬直した。

しかしそれも一瞬の事で、慎次の言葉やら先日の病院の事やらを必死に脳内から追い出す様に頭をブンブンと振った翼は、早足に控室へと向かって行った。

 

―――あれは事故!! 突発的なアクシデントなのっ!! 断じて、断じて狙ってやった訳じゃないっ!!

 

“あの日”以来、思い返してみると殆ど顔を合わせていない想い人の顔が脳裏をよぎり、翼は顔が熱くなるのを感じた。

そんな風に、翼の脳内が沸騰しているとは夢にも思わない慎次はその背中を暫く見つめて、空に連絡を取る為に携帯に手を伸ばす。

 

―――慎次さんも急がないと、翼のステージを見逃してしまいますよ。

 

不意に、会場での別れ際に言っていた彼の顔が蘇る。

何かに気づいて―――いや、奇妙な予感を覚えながらも、その幻影を振り払いたいかの様な、微妙に硬い笑みを湛えていた表情が、妙に鮮明に慎次の脳裏を過った。

 

 

―――岩国ベースに“ノイズ”の襲撃があった。

 

その報告を慎次から受け、二言三言言葉を交わして連絡を終えた空は、やはりか、とでも言いたげに眉を顰めた。

 

別段、響やクリスが間に合わなくなった事が予想外だった訳ではない。むしろそちらは予想の範疇だった。

 

歩くトラブルメイカー、とは云わないが、それに近い事を常にやらかす響と、何かにつけて喧嘩っ早いというか言動が刺々しいクリス。

空にしてみれば――恐らくは弦十郎や二課の面々もそうだろうが――この二人が組んで、何も起こらず平穏無事に任務が終わるなどと、楽観視出来る訳がなかった。

 

会場は興奮と熱気の渦に包まれ、その渦中には華やかな装いの女性―――マリアの姿があった。

歌い終わっても尚途切れぬ観客のコールに応える様に手を振る彼女は、成程僅か数カ月にして“歌姫”の名を冠するに相応しいと言える実力の持ち主だった。

 

歌声、ステージの出来栄え―――そのどれをとっても、一流止まりのスターでは及ぶ所ではない。

尋常ならざる者――――――超一流、トップスター故に為せる業、とでも言うべきか。

 

だが何処か―――本当に、未だ病みあがりの身ゆえに覚える齟齬とでも言うべき何かが引っ掛かる。

確かに素晴らしい。手放しで称賛出来る程に、マリアの歌は完成されている。

 

だが、違うのだ。

言葉に出来ない何かが、訴えかける様に空の胸中を突く。

 

それに気づくより早く、会場の照明が落ちる。

 

本日のメインイベント。

風鳴翼とマリア・カデンツァヴナ・イヴによる特別ユニット。

 

“Queens of Music”のステージが始まった。

 

 

 

ステージが始まって間もなく、空は漸く齟齬の正体に気づいた。

否、それは齟齬と言うよりは、ほぼ個人の好みとか、感じ方によるものだ。

 

長い間、翼と奏―――“ツヴァイウィング”の、計算すら上回る完全なユニゾンを聞き続けてきたからこその違和感。奇妙な心地の悪さ。

 

あの二人が“調和”であるならば、この二人は“闘争”。

その歌声は美しくも、或いは、間近で剣戟を交わす宿敵の様な力強さを以てぶつかり合っていた。

 

会場の演出が、或いは選曲がそれに近いが故に観客は心を震わせ、躍らせ、弾ませる。

それは多くの人にとって違和感なく受け入れられるもので――――――だからこそ、空は自身の嗜好の偏りに辟易とした。

 

この二人の歌に文句を付ける筋合いなど何処にもない。

当事者も、関係者も、オーディエンスも、誰もが喜びと興奮を以て迎えているこの状況で、自分一人が声高に叫んだ所で詮無き事。

 

むしろこれを機と捉え、新しいジャンルを発掘するのも――――――面倒だ。興味がない。止めておこう。

 

終曲と共に大歓声に包まれる会場の中で、空は一人ため息を零した。

翼の言葉、そしてマリアの言葉の一つ一つに興奮のボルテージを上げていく会場の中で、ふと―――本当にふと、空は鈍痛を覚えた。

 

マリアが言う。

 

「私達が伝えていかなきゃね。歌には力があるって事を」

 

予兆。

 

翼が言う。

 

「それは、世界を変えていける力だ」

 

虫の知らせ。

 

マリアが言う。

 

「――――――そして、もう一つ」

 

或いは―――警鐘。

 

「ッ!?」

 

マリアがスカートを翻す―――途端、鈍い閃光と共に“それ”は現れた。

 

認定特異災害―――“ノイズ”の襲来に、観客達は一瞬にしてパニックに陥った。

我先にと逃げ出そうとする観客に鞭を振るう様に、マリアの声が会場に響く。

 

「うろたえるなっ!!!」

 

怒声、一喝。

ただその一言を以て会場は沈黙し、そして統制された“ノイズ”によって観客達は逃げ道を塞がれたまま誘導され、そのまま人質として会場のあちこちに固められる。

 

状況は、ハッキリ言って最悪だった。

このまま“ノイズ”を見逃す事などあってはならない。だが、全世界に今も尚生中継されているこの場で“シンフォギア・システム”を起動すれば、秘匿すべき奏者の正体が―――風鳴翼が防人である事が、知られてしまう。

それもまた、あってはならない事だ。

 

ステージ上で、翼とマリアが何か言葉を交わしている。

一見冷静そうに見えて、その実喧嘩っ早さと強情さでは幼馴染三人の中で一、二を争う翼の事だ。正体がばれても構わない、とでも言っているのかもしれない。

 

ならば、どうするのか。

幼馴染として、戦友として、同僚として。今、何をすべきか。

 

首から下げたペンダントに、手をやる。

心臓から取り出された聖剣の欠片。その結晶を、今ここで振るうべきなのか。

 

それとも、何らかの目的を持った彼女達がこのまま時間を浪費してくれるのを―――此方に急行している響とクリスを、待つべきなのか。

 

僅かに躊躇ったその時、空の耳朶にクリスの声が届いた。

 

「私達は、ノイズを操る力を以てして、この星の全ての国家に要求する!!」

 

世界の全てを敵に回すかの様な口上。

それはまるで―――いや、間違いなく。

 

「宣戦、布告……」

 

呟いたその時、マリアが天高く剣を放り投げ―――詠が響いた。

大地を震わせ、天より鳴り響く雷鳴の如きそれに、空は己の全てを疑った。

 

間違えよう筈が無い。

空が、翼が、弦十郎が―――二課にいる者の中で、凡そそれを知らぬ者は、間違える者はいない。

 

後に続く者へと受け継がれた力――――――血に塗れ、命を削り、在りし日に少女が手にした力。

 

「ガン、グ……ニール……ッ!?」

 

息を呑む。

認識した瞬間、呼吸が、鼓動が止まるのではないかという程に、身体の感覚が凍りついた。

 

シンフォギアシステム3号“ガングニール”。

天羽奏が、そして立花響が持つそれと同じ聖遺物の名を冠したそれは―――しかし、二人と決定的なまでに違う“ナニカ”だった。

 

「私は―――私達はフィーネ」

 

続く言葉に、今度こそ空は思考の全てを凍りつかせた。

 

あの日―――三カ月前の決戦において、確かにこの手で断ち切った存在の名を、彼女は口にした。

 

そして、確かな敵意を込めてマリアは叫んだ。

 

「終わりの名を持つ者だ!!」

 

 

 



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第六話 怒れる瞳

 

人間にも、逆鱗というものがある。

そこは、親類縁者と言えども他人が軽々しく触れていいものではなく、もしその鱗を突こうというのなら、命をかける覚悟が必要になるだろう。

 

少なくとも、余りにも非現実的な要求を各国政府に突き付けるあの少女に、それがあるとは到底思えない。

否、恐らく彼女は、何が誰にとっての逆鱗なのかもそもそも理解していないだろう。

 

斯波田事務次官との通信を終えた弦十郎は、続けざまに空に通信を繋いだ。

 

「空、相手の真意が分からない以上、くれぐれも独断専行は慎め。もうじき二人も到着する。いいな」

『…………ええ、分かっていますよ。“風鳴司令”』

 

自分の言葉に少しの間をおいて、空は自分自身に言い聞かせる様に答えた。

 

『少なくとも、観客達があれだけ密集している以上、此方から下手に手出しはしません』

 

一両日中の国土割譲。

自らが敷く王道楽土。

 

―――最早、分かっていてやっているのではあるまいな。

 

切迫した状況下にあって、弦十郎の脳裏を思わずそんな考えが過る。

“ガングニール”を纏い、“フィーネ”を名乗り、“ノイズ”を従えて、ああも無茶苦茶な要求を並べ立てる。

 

流石に無力な観客がいる以上、空が“荒れる”事はないだろうが―――

 

『会場のオーディエンス諸君を解放する!』

 

また一つ、時限爆弾のカウントがゼロへと近づく幻聴が弦十郎の耳朶を打った気がした。

 

 

 

 

 

 

人質とされていた観客達が、次々と会場から外に避難していく。

既に会場近辺には非常線が張り巡らされ、報道局の記者達が群れをなして緊急中継をしている。

 

その様子は、会場のあちこちに備え付けられたカメラから流れるステージの映像―――翼とマリアが相対している姿と共にリアルタイムで放映されていた。

 

世界中の視線に晒されたままでは、風鳴翼がその正体を晒す事は出来ない。

 

―――というより、本人がやろうとしても周囲がそれを許さない。

 

空は一つ、ため息を零す。

気づけば、何時の間にか力んでいたらしい右手の掌から、血が滴っている。深々と掌を抉った爪に残る血を舐め取り、空は“遥か眼下に望む”ステージに視線を映した。

 

観客を退避させた以上、翼が“シンフォギア”を展開しないのは保身の為という理由しか残らない。

そして、そんな事を指摘され、屈辱に打ち震えながらも黙っていられる等と、空は彼女の堪忍袋を信用出来ないし、するつもりもないし、させるつもりもない。

 

何より――――――観客がいなくなり、無辜の被害が出る確率が極限まで減った以上、あんな連中が一秒でも長く生命活動をしている事を許容できる程、空は生温くなった覚えは欠片もなかった。

 

「……大鳳空、参ります」

『ッ! 待て、空ッ!!』

 

脳内で時限爆弾が見事に大爆発をかました弦十郎の必死の制止にも耳を貸さず、空は天高く“それ”を放り投げた。

満天の空に浮かぶ月の光を浴びて輝くそれに、ステージ上の二人が――誰かの指示を受けたのだろう“ノイズ”達も――視線を向ける。

 

刹那、空は中継塔から虚空に躍り出た。

 

「―――支配(うば)え、“アヴァロン”」

 

天空から飛来した完全聖遺物(アヴァロン)が、会場中央に深々と突き刺さったその瞬間、黄金の輝きが瞬く間に会場全体を埋め尽くす。

高性能カメラさえも輝きに映像を埋め尽くされ―――次の瞬間、マリアの鼓膜に何かの爆発音が響く。

 

「ッ!?」

 

一つ、二つ―――次から次へと、まるで連鎖する様に、“ガングニール”を纏う自分ですら視界の全く聞かない世界の中で、その爆発音が次々と響く。

 

―――ボン、とステージの上の方で何かが爆発した時、マリアはそれが中継用のカメラを破壊した音だと漸く気づいた。

 

「小癪な真似をッ!!」

「―――小刀術」

 

僅かな空気の振動から相手の位置を探り当てたマリアの一撃は、しかし軽やかにかわされたばかりか、

 

「“影縫い”」

 

身体をすり抜ける様に自身の影へと打ち込まれた数本の小刀によって、原理不明のまま身体の動きの一切が封じられた。

 

「なっ……!?」

「ラァッ!!」

 

突然の事態に驚く間もなく、マリアの顔面を鋭い回し蹴りが急襲する。

急速落下に加え、回転まで加わったその一撃をガードも出来ないままで耐えられよう筈もなく、ステージ後方へ吹っ飛ぶマリアを尻目に、“それ”は両手に小刀を構えると、一切の迷いなく投擲した。

 

正確無比にカメラを捉えた小刀は直後にカメラ諸共爆発し、遂には会場の中にあった画面の全てに雑音と共に砂嵐が現れる。

 

そうして光が治まった時、翼の視界に飛び込んできたのは、先程まであちこちにいた筈の“ノイズ”達が消えた無人の会場と、久方ぶりに見る幼馴染の姿だった。

 

「そ、空……?」

「ん。いいステージだったよ、翼」

 

振り返った空の目元に掛けている眼鏡のグラスは遮光タイプだったのか、黒く染まっていたのが徐々に薄れている。その奥から覗く瞳は、しかし普段翼が知るそれとは明らかに違っていた。

 

「―――じゃ、最後の仕上げといこうか」

 

―――何と言うか、その、完全にキレていらっしゃる。

 

 

 

 

 

 

もう随分と昔、まだ自分や空が“防人”として数回の出撃をしたばかりの頃、翼は彼を本気で怒らせた事がある。

それまでの出撃で大した怪我を負った事がなかった事もあり、今思えば聊か増長していたのかもしれないその出撃で、翼は単身敵深くまで進み、窮地に追いやられた。

 

その時、“ノイズ”の大軍を切り裂いて助けに来てくれた空は、自分を見つけるなり容赦ない拳骨を脳天に叩き込み、続けざまに凄まじい剣幕で怒鳴ったのだ。

 

『死にてぇのかバカ野郎ッ!!!』

 

あれは怖かった。

冗談抜きで、泣くかと思った。

 

後で報告を受けた弦十郎が、思わず怒るのを躊躇って、戻った後も怒り狂う空から自分を庇うくらいに怖かった。

普段、あまり怒らない人が怒ると本気で怖いというが、アレは最早そういう次元の話ではなかった。

 

自分の事を本気で心配してくれているからこそ、その言葉が胸に突き刺さったし、彼の境遇を思えば、それが彼にとってどれ程辛くて、怖い事なのかも十二分に理解出来た。

 

後に奏が加わり、その行動からしばしば空と本気の殴り合いにまで発展する様になってからは、あれ程の怒気が翼に向く事はほぼなくなった。

奏を失ってからは、響やクリスの世話に忙殺され、頭を抱えたり呆れたりする姿を見る事はあっても、本気で怒る彼を見なくなって随分と久しかった。

 

―――だから、という事でもないだろうが。

 

「……………………」

 

自分に向けられている訳ではないにしても、間近にいるだけでも、尋常でない圧迫感が肌を突き刺す。

 

「荒唐無稽な要求、机上にのせるのもおこがましい理想論……さて、手足をへし折られる理由は、何がいい?」

 

一歩、空がマリアへ近づく。

その足音が、やたら大きく翼の鼓膜を震わせた。

 

「“フィーネ”を名乗った事、“ノイズ”を操った事……ああ、あと“ガングニール”を使った事もあったね」

 

空の声音は、何処までも平淡だ。

平淡で、冷静で、いつも通りで――――――だからこそ、背筋が凍りつく様に感じるのは、きっと気のせいだ。気のせいだと思う。そうだと思いたい。思わなければならない。

 

「目的とかその他諸々は、心臓と脳みそと口だけ残っていれば喋れるよね?」

 

僅かに覗いた空の顔は、笑っている。

無邪気な子供の様に、無垢な少年の様に、嗤っている。

 

それらを真正面から受け止めざるを得ないマリアの内心は、どうなっているだろうか。

 

想像しかけて、翼は思考を無理やり振り払う。

危うく、トラウマになりかけていた記憶が蘇る所だった。

 

「―――じゃあ聞くよ、マリア・カデンツァヴナ・イヴさん」

「……ッ!」

 

相対するマリアが、息を呑んで表情を凍りつかせる。

一瞬でも思い返してしまったが故に、嘗て自分に向けられた、あの般若もかくやと言わんばかりの凄まじい表情が、耳朶を打つ声と共に翼の脳裏に蘇った。蘇ってしまった。

 

「五体満足で黙って連行されるのと、芋虫状態の虫の息で連行されるのと、どっちがいい? 三秒以内に答えろ」

 

―――最早、一切の疑い様もなく。

 

空の怒りは、完全無欠に天元突破していた。

 

 

 

 

 

 

ライブ会場の様子を眺めながら、ナスターシャは努めて落ち着き払った声音で呟いた。

 

「あれが完全聖遺物“アヴァロンの鞘”と、その奏者、大鳳空……よもやあれ程の数の“ノイズ”を相手に、40%足らずのフォニックゲインで殲滅せしめるとは……」

『―――40%“足らず”ではない。40%“しか”扱えなかったんだ』

 

凛然とした声音が、通信機越しにナスターシャの鼓膜を震わせる。

 

「……貴方には待機を命じた筈ですよ」

『“アレ”が出てきた場合は別だ、と言った筈だが』

「間もなく調と切歌が到着します。この上貴方まで出て、此方の手札を曝け出す必要はありません」

『心配せずとも“剣”は使わん。あの場所を焦土に変える必要は、“今は”ないのだからな』

「―――“フォルテ”!」

 

言う事を聞こうとしない彼を相手に、ナスターシャは声音を荒げた。

だが、既に通信は途絶え、次いでライブ会場の方を見やれば、マリアと空の間にバイザーとローブを付けた男―――フォルテが悠然と立っていた。

 

「あの子は……ッ!!」

 

怒りに顔を歪ませ、しかしこのままでは彼を含め、残る奏者達がギアを展開しても、フォニックゲインの伸び率はそれ程大きくは見込めない。

 

―――かくなる上は、最後の手段を用いる他ない。

 

齢を感じさせない鋭い眼光で会場を睨みながら、ナスターシャはキーボードに指を奔らせた。

 

 

 

 

 

突然の乱入者を前に、しかし空は冷静だった。

 

「誰だよ……って、聞いても答える訳はないよな」

「…………」

 

空の声音は、冷徹だった。

 

「―――とりあえず、その後ろに庇ってる奴の味方、って事でいいんだな?」

「大鳳空、だな」

「ああそうだよ。だからどうした」

 

相対する男は、噛み締める様に空の名を問うた。

それに答えた空が、僅かに後ろに退く。

 

「―――ッ!?」

 

刹那、男の傍らに控える様に二人の少女が現れた。

その姿を見て、翼は目を見開いて驚きを露わにした。

 

「奏者が、三人……!?」

「いや、恐らくあの男も奏者だから、四人だ」

 

何時の間にか自分の傍らにまで下がっていた空の言葉に、今度こそ翼は言葉を失う。

奏者の希少性は、二課に属して今日まで“防人”として戦い続けてきた翼には身に染みて分かっている。

 

それが今、目の前に知りもしなかった奏者が四人も現れて、驚くなという方が無理な話である。

 

「危機一髪……」

「ギアも展開していない相手に、なーに苦戦してんですか」

 

黒髪の少女が言い、金髪の少女が呆れた様に呟く。

両名共に、見た事もないギアに身を包んで、戦闘態勢を整えている。

 

「苦戦など……貴方達の助けがなくても、“あの程度”の相手は乗り越えられたわ」

「ギアも展開していない、手負いの“紛いモノ”相手に苦戦した奴が言う台詞ではないな」

 

―――ブツン、と、切れてはならない緒が引き千切られる幻聴が翼の耳朶を打った。

 

「へぇ……?」

「…………」

 

怖い。

傍らに立つ幼馴染が、尋常でないくらいに怖かった。

 

この身は一振りの剣、“ノイズ”を駆逐する“防人”―――そう言って無理やり心を奮い立たせても、昔染みついた恐怖というものは中々どうして紛れるものでもなく。

 

「―――翼さん!! 空さん!!」

「待たせたなっ!!」

 

正に絶妙とも言えるタイミングで急行したヘリから、ノーパラシュートスカイダイビングで響とクリスが現れて、翼は驚きと共に安堵のため息を漏らした。

 



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