アザミのような貴方へ【完】 (きょうの)
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本編
第1話
「皆さま、こんばんは。
今日皆様にお届けするのは、先の大戦の伝説、ターニャ・デグレチャフの新たな表情です。
先の大戦で、彼女は異例の幼さで少佐を拝命し優秀な航空魔導士として戦闘団を率いました。
彼女の勇ましくも悲劇的な生涯は多くの方がご存じかと思います。
このたび、そんな彼女の婚約証明書が発見されました」
そこには『白銀』の二つ名を持つ戦場の伝説ターニャ・フォン・デグレチャフと、恐るべきゼートゥーアの右腕として知られる若き先鋭エーリッヒ・フォン・レルゲンの名が並んでいた。
如何に戦時中とはいえ、如何にレルゲンがユンカーの血を汲むとはいえ、この年齢差の婚約は滅多なことでは組まれない。婚約証明書のレルゲンのサインが不要に揺れにじんでいるあたりに当人すら困惑していたのが見て取れる。
「当時何があったのか。そこに愛はあったのか。
戦後記念番組、今日はその謎を皆さんと共に追ってみようと思います」
* * * * *
その日、ターニャは首都に呼び出されていた。わざわざ呼び出すということはまたもや危ない作戦だろうかと頭を痛めながらも、呼び出した張本人の執務室へ向かう。
「第203航空魔導大隊少佐ターニャ・フォン・デグレチャフ、出頭いたしました」
入室許可が下り、中に入ると馴染みの顔が見えた。
「御苦労、デグレチャフ少佐」
「はっ、失礼いたします」
そう言って先客の隣に並ぶターニャ。ちらりとそちらを見ると、並び立つその人もこちらを見て渋い表情をしている。彼もターニャが呼ばれるとは思っていなかったようだ。
「さて、レルゲン中佐、デグレチャフ少佐。諸君らに頼みたいことがあってな」
その言い草にターニャは内心舌打ちをする。存在Xめ、どこまで私を追い詰めるつもりか!許されるなら今すぐ耳をふさいで立ち去りたい。
だが、そんなことは許されるはずもなく、ゼートゥーアは1枚の紙を差し出す。それをレルゲンが受け取った。
「……閣下、これは、いったい…」
内容を一瞥したレルゲンが思いっきり表情を強張らせる。知性と理性の人とも言われるレルゲンが上司の前ですることではない。が、確認したいターニャは背が届かず、背伸びまではせずともできるだけ体を伸ばして内容を見ようとする。
「レルゲン中佐、彼女にも見せてやりたまえ」
「…はっ」
渋々と、どうか冗談であってくれと言った気持ちが伝わる表情のまま、彼はターニャに紙を渡す。ターニャもまたそれを受け取り、ぴしっと固まった。
「婚約、証明書…?」
困惑しきった二人を、ゼートゥーアは満足げに眺めている。あの白銀が困惑しきった様を見るのはなかなか興味深い。ひとしきりそれを楽しむとゼートゥーアは表情を引き締める。
「突然のことで困惑したとは思うのだが、これは特命事項として受け取ってほしい」
その一言で余りの動揺に茫然としていたターニャとレルゲンも、普段の理性が戻ってくる。そんな二人の表情が険しくなる話をゼートゥーアの口から語られていった。
* * * * *
正式に帝国行政府から婚約の認定が下りるとレルゲンはこれまで以上の胃痛に苦しむようになっていた。胃薬だけでなく痛み止めも手放せない。
その報は彼が予想していたよりも遥かに早く、参謀本部を始めとして首都の各部署に広がったのだ。
それとあわせて様々な思惑を含んだ視線がレルゲンに向けられるようになった。困惑や忌避など視線から何故だか恨みがましい視線まで、彼には理解できないもの多数。あれは政略結婚だ、軍務だ、我慢だとわかっているにも関わらず、知性の人レルゲンをして耐えるのに精神を削っていた。そんな彼を知らぬまま、かの『白銀』は今日も最前線で戦っている。
「レルゲン中佐殿」
参謀本部で彼に声をかけたのは、ウーガ大尉だ。ターニャの同期であり、彼女の数少ない友人の一人としても知られる。彼の目に在らぬ思惑がないことに、心の内でレルゲンはほっとした。
「お忙しいところ申し訳ないのですが、勤務外でお時間をいただくことはできないでしょうか」
「なに?軍務とは関係ないのかね?」
「…はい、あくまで私事として受け取っていただければ」
一瞬言い淀んだがウーガはそう返答した。レルゲンはこの真面目で名が通るウーガがわざわざ勤務中に声をかけたことに疑問は覚えつつも、勤務終了後に会うことになった。
「お時間いただきありがとうございます、中佐殿」
勤務後、彼らはゾルゲ食堂に場所を移していた。二人の前にはそれぞれコーヒーが置かれている。
「構わない」
レルゲンはそう言うとコーヒーに口をつけた。
「旨いな」
「ええ。ここのは私も気に入っております」
さて、とウーガは一息置いた。
「ここからお話しするのはあくまで私事としてです。彼女の一友人としてお願いしたいのです」
その言葉でレルゲンは嫌な予感がした。彼女と言ったか。それは『白銀』を冠する彼女か。
「先日レルゲン中佐殿と、デグレチャフ少佐が婚約したと耳にしました」
やはりか。
レルゲンの表情が目に見えて強張る。今更になって、この真面目で名が通るウーガに呼び出されたことに内心恐怖すら感じていた。年齢だけでなく様々な問題を抱える婚約だ。まさか糾弾されるわけではなかろうか?
だが、彼は政略結婚だったとしても、と前置きをした。
「帝国の一軍人ではなく、マクシミリアン・ヨハン・フォン・ウーガという一個人として、あなたを見込んでお願いしたい。どうかどうか彼女をこの世へ繋ぎとめていただきたい」
「な、にを……」
思いもよらぬことにレルゲンは返答すら言い淀む。
私には彼女が生き急いでいるようにしか見えないのです、とウーガは続けた。
「……貴官はなぜそこまで?」
「彼女は苛烈な言動ばかり目に入りますが、それは愛国心のため。相手を思いやるがため。そのことを知っているからです」
そして彼は軍大学時代の話をレルゲンに聞かせた。
彼女がなぜ軍に入ったのか。彼女の語った生涯。
そして、娘が生まれた話を聞いて、ウーガに後方勤務を勧めたこと。
彼女の境遇についてはレルゲンも聞き及んでいた。というより、士官学校時代の一件があって調べさせたというのが正しい。
どうやら彼女は内に入った者に対しては彼女なりの愛情を示しているらしかった。
あれほど化け物や錆銀と呼ばれ大の大人すら恐怖する存在はいないというのに、その配下の者たちは彼女を敬愛し、彼女のためなら死をも厭わぬ精鋭と化している。
「しかし…恥を忍んで言うが、私は彼女の士官学校時代の行動が忘れられぬのだ」
レルゲンの告白を聞き、なぜかウーガは表情を和らげた。
「中佐殿ご存じですか。その時教育を受けた彼は、今、新人教導を志しているのですよ」
「…は?」
なんとウーガは先日彼と偶然会ったというのだ。視察に行った先で非常に規律正しい中尉に出会い、まるでかの大隊のようだと褒めたらしい。それが彼だったというのだ。
彼曰く。あの時は屈辱を通り越し、死の恐怖さえ感じた。だが、実際に現場に出て部下を率いる身になってみると、あれは苛烈ではあったが必要なことだったと実感した。あれは我々を思うが故のものだったのだ。悪化する戦況でも、どうにか生き延びられているのもあの教育を受けたおかげだ。今はただ、当時の自分を恥じる気持ちと彼女への感謝があるのみなのだ、と。
レルゲンは自分の耳を疑った。
なぜそうなる?まさか、ターニャ・フォン・デグレチャフの異常さを警戒し恐怖し、憎悪さえしているのは自分だけなのか…?
「中佐殿、彼女は愛情の示し方を知らないだけなのです」
正直、彼はその後どうやって帰途に就いたか覚えていない。それほどに衝撃が大きかったのだ。だが、感情こそ追いつかないものの、彼の理性は見極めねばならないと叫んでいた。
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第2話
彼女は何があって化け物となったのか。
レルゲンはそれを知るべく、ターニャ縁の場所へ赴くことを決めた。
* * * * *
ベルン郊外の教会付き孤児院。畑の中にぽつんと佇むそこでターニャ・デグレチャフは育ったらしい。
孤児院に向け車を進めながら、以前読んだ報告書をレルゲンは思い出していた。
ターニャ・フォン・デグレチャフの資金流用疑惑。
内偵の過程で偶然浮上したそれは、定期的に彼女の預金から引き出される大金の行方を追ったものだった。引きだされる度に増えるその異常な額と、孤児院で育ったというスパイを疑える出自の余地に、敵国への資金流出を考えたという。
結果はもちろん、白。
当時のレルゲンは、あの化け物がそんなわかりやすいミスをするものかと情報部に冷めた視線を送ると同時に、ターニャ本人が知れば担当官の二階級特進もあるだろうと同情したものだ。
そんなことを考えていたものだから、車を止めドアを開けた瞬間聞こえてきた言葉に面食らってしまった。
「この『白銀』デグレチャフに続けぇぇ」
「おおおお!」
この孤児院の子どもたちがごっこ遊びでもしているようだった。わぁ、わぁと声を上げながら帝国側と敵国側に分かれて銃を撃つふりをしている。時折「衛生兵!衛生兵!」という救援の声まで聞こえるのにレルゲンは笑ってしまった。
レルゲンがしばらく様子を見ていると、敵国役の子らが全員負けたようだった。次はどうすると騒いでいる内に、子どもの一人がレルゲンに気がつく。
「あっ!知らないやつがいる!」
「なんだと!ターニャお姉ちゃんの敵だ突撃ぃ!」
レルゲンは目を瞬かせた。彼には甥っ子も姪っ子もいるが、しばらく会っていないため、こういったごっこ遊びの相手は慣れていない。どうしたものかと思案していると、その様子をどこからか観とめたシスターが慌てたように飛び出してきた。
「あなたたち!何をしているの!お客様に失礼でしょう!!」
子どもたちも戦略的撤退だぁ!逃げろーっ!と蜘蛛の子を散らしたように駆けていく。
シスターは汗を流しながらレルゲンの下へやってくると深々と頭を下げた。
「子どもたちが大変失礼致しました。」
「いや、構いません。子どもが元気なのは良いことです」
ところで、とレルゲンは続ける。
「先ほどの彼らが話していたのは?」
「今や『白銀』と呼ばれているターニャ・デグレチャフのことですよ。彼女はここの孤児院出身なんです」
どうやらこの老シスターは、ターニャの育ちを知っていそうだとレルゲンは世間話のように会話を続ける。
「なんと、あの、『白銀』ですか。詳しく話を聞かせていただいても?」
人の良さそうなシスターは快諾してくれる。その表情は孫を思い出すかのように優しく、どこか誇らしげだ。
「子どもたちのあの様子だと随分と慕われていたのですね」
「それはもう。周りをよく見て世話を焼く賢い子でした」
シスターに連れられ、教会の中を見て回らせてもらう。
室内から外を眺めれば、先ほどの子たちがまた軍人ごっこをして遊んでいた。一人の帝国軍人としては祖国を思う次の世代が育っていることに嬉しくもあるが、参謀として若者が命を散らす現状を知る身としては何とも言えない気分になる。
「かわいらしい子たちでしょう」
「あぁ、ファリア神父」
振り返ると老神父が教会の奥からこちらに向かって来ていた。
彼がこの教会と孤児院の代表者らしい。彼と挨拶を交わすと、入れ替わりにシスターが礼をして立ち去っていく。それを見送ると同時だった。
「あの子は元気にしておりますかな」
動揺を悟られぬようにレルゲンが神父の方を振り向くと、彼を射抜くような眼差しが向けられていた。
これは隠しきれない。
別段隠していたわけでもないのだが、思わずそう感じてしまうような鋭さだ。
「失礼いたしました、私は」
「あぁ、そういうことではないのです。教会は様々な方が来る、開かれた場所。それぞれに理由があり、こちらもまた、その方一人一人を探るようなことは致しません」
私は彼女の様子を知ることができれば良いだけなのです、と神父は続けた。
その言い草にレルゲンは確信する。
「なるほど、貴方のような方のもとで育ったのならば、彼女の聡明さも理解できます」
神父は口元に笑みを浮かべて否定した。
「とんでもない。私が何をするまでも無く彼女は優秀でした。私にできたのは書斎への入室を許可したことくらいです」
本人がそう言おうと、レルゲンにはそんな風には見えなかった。恵まれた環境に生まれ得なかったターニャにとってこの神父の一助は価値あるものだったことだろう。
「どうやらあなたはターニャをよく知っておいでのようだ」
「…そうですね、士官学校時代から知っております」
それだけ答えるのに一瞬間があったのは例の事件が過るからだ。
その間を隠すようにレルゲンは今の彼女の様子を伝える。神父はその話を何か考え込むようにじっと聞いていた。
「いくつか伺ってもよろしいですかな?」
もちろん、とレルゲンは答える。
「彼女が望んで着いた航空魔導士という兵科ですが…それは危険な兵科なのでしょうか?」
「……ええ、魔導士官の数ある兵科の中でも、最も弾丸から逃れられない兵科でしょう」
「そうですか。国からいただくお金もその分多いのでしょうな?」
「その通りです。人数が少ないこともあり他に比べれば高待遇で受け入れられています。その危険性に照らし合わせれば僅かではありますが、飛行手当や危険手当なども出ているはずです」
この知的な神父がいきなり金銭の話をし出したことにレルゲンは疑問がないわけではなかった。それでも真摯にありのままを伝えたのは、神父の表情が険しく、ともすれば泣きそうにも見えたからだ。
誠実に答えたレルゲンに神父もまたそれを返してくれた。彼女の幼少期を語ってくれたのだ。
物心ついた時には聡明であったという彼女。幼いころより物言いは厳しかったが、それでも周りの子らには慕われていた。その聡明さは勉学にも表れ、その片鱗に気付いた神父が早いうちから書斎の本を読む許可を出したらしい。時間があれば書斎にこもりっきりだったと聞けば、軍大学図書館に入り浸るという今と何ら変わりないようにも思う。
そして健康診断があった、あの日。
彼女は軍による魔導適性結果を見て笑ったのだ。あの鬼才が運命づけられてしまったその道を分らぬはずもないというのに。
もっと早く、その意味に気がつけばよかった。
神父もシスターも彼女を取り巻く誰もが気付かぬうちに、彼女は入隊してしまった。
「見ての通り、ここは決して裕福ではない孤児院です」
神父によればそれでもこの戦中においてよく現状維持している方なのだという。
これまではどうにか寄付を募りながらやりくりしてきたが、戦線拡大に伴い、その金額は減る一方だ。今ではターニャから時折送られてくる寄付が命綱であった。
戦線の拡大はつまり、それだけ離散する家族を増やし、孤児の受け入れ数も増やさざるを得ない状況を生み出している。彼女の寄付額が毎度増えていなければ孤児院の経営は回らなかった。もっと早いうちに薬や食料も間に合わなくなっていただろう。
「私は当時を思い出し後悔することがあります」
もしも、あの聡明さがなければ、彼女がそれに気づくことも無かったのか。
もしも、気づきさえしなければ、彼女は自ら軍に飛び込むことも無く、徴兵されるまでの猶予をもっと子供らしく生活することもできたのか。
もしも、その間に戦争が終われば、彼女が弾雨の中で泥を啜って生きることもなかったのだろうか。
様々な形で彼女の現在を知る度、ありとあらゆる「もしも」が積み重なるのだ。
神はなんと残酷な運命を与え給うたのかと考えてしまう夜がある。
「神父失格ですな」
幼き日のターニャを知る老神父は、そう自嘲した。
レルゲンは何も言うことができなかった。言えるはずもない。そんな境遇を持って戦場へ向かう彼女を「化け物」などと称してしまう自分には。
それでも1つだけ聞きたいことがあった。
「入隊後、彼女はここへは戻って来ていないのですか」
「私もシスターたちも、先ほど遊んでいた子どもたちも、当時彼女と寝食をした者は皆待っておりますよ。それは間違いなく。
ただ、戦争孤児が増えた今、血と硝煙の匂いが染みついてしまった彼女がここを訪れれば、戦場の記憶を思い出す子が必ず出てくるでしょう。それがわからないあの子ではありますまい」
それに気付き、その考えのままに行動できる聡明さを持つからこそ、彼女は今ここにはいないのだから。
「彼女はまるでアザミのようです」
その言葉は神父の包み込むような親愛の情と深い哀しみとに彩られていた。
「アザミ?連合国の逸話ですか」
意味を受け取り損ねたレルゲンの様子に、神父は苦笑する。
「あぁ、あなたは非常に聡明だが、根っからの軍人気質のようだ」
神父は幼子に語るように穏やかにそれを告げた。
「花言葉ですよ。まるで彼女を表すかのような、ね」
その意味は「独立」「人格の高潔さ」「厳格」
神父に礼を尽くして孤児院を立ち去ったレルゲンは深い思考に身を浸していた。
身寄りも無く、入隊してからは帰る家も失った。
前には銃弾飛び交う戦場が待ち受け、後ろには勝利を求め、命を預けてくる部下たち。さらに後方には守るべき孤児院の人々。
幼い彼女の両肩にどれだけの重責がのしかかっているのか。その足元がどれだけおぼつかないか。レルゲンはこの日初めて理解した。
そして思いを馳せる。それを為すために彼女がどんなことを考えたのか、を。
彼女は誰よりも軍人であらねばなかったに違いない。孤児院の人々を支えるためにも駆け足で出世をしなければならなかったことだろう。背筋の凍るあの技術も、あの狂気的な合理主義も、人を資源と言えるその頭脳も。それが無ければ彼女はここまで来られなかったのだ。
そうやって手に入れたのが今の『白銀』の地位なのだ。
なんということだろう。
もしかしたら、あの化け物は、虚勢を張り続ける幼女に過ぎないのかもしれない―――。
そのことに思い至った時、エーリッヒ・フォン・レルゲンはこれまでの生涯の何よりも強く後悔した。
ようやく好感度プラスのレルゲンさん。
ちなみに、本作の後世において伝えられるターニャ・フォン・デグレチャフの栄光は、合理的すぎる彼女の努力と多数の「勘違い」から生まれています。
次回はデート(?)回のはず…
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第3話
形ばかりの婚約ではあるが、軍務であるからにはそれなりのポーズも見せねばなるまい。
互いの思惑は一致して、この日二人は世に言う「デート」なるものに出かけた。
とはいえ、常に質実剛健を旨とする帝国軍人の鏡とも言える、この二人が、である。
ヴィーシャが聞けばさぞ嘆いただろう。ゼートゥーアなら呆れたかもしれない。
これはそんなデートの話である。
* * * * *
約束の時刻30分前、レルゲンは軍宿舎の門の前に車をつけていた。何故か早く来すぎた自分に疑問を持ちつつ、車から降りて助手席側に立ち、煙草を燻らせる。
「………」
人の迎えに来たから待たせてもらうと門番は言い置いているが、視線が痛い。非常に痛い。
私が何をしたというんだ。貴官らの不満に感じるようなことは何もないはずだろう。
何本目かの吸い終わった煙草を地面に落とし、踏んで火を消していると声を掛けられた。
「若いな、中佐」
「…っ!ルーデルドルフ閣下!!」
レルゲンが慌てて敬礼しようとすると、そのままでよいと止められる。
「閣下、何故こちらに…」
「君が人を待っていると噂を聞きつけて、ちょっとな」
ルーデルドルフはカッカッと笑う。軍服ではあるが休憩中なのだろう。参謀本部にいるときの激しい気性はなりを潜めて豪放磊落な性格が前面に出ている。
だが、上官だ。レルゲンは返答に困るしかない。
「軍務の一環とはいえ、だ。しっかりエスコートしたまえよ?」
「…了解しました」
そうは言われても、正直、俊英と名高い彼でさえ、未だにどうエスコートしたものかイメージできていない。ターニャに対する偏見が無くなったとはいえ、戦場での前線に飛び込んでいく彼女の姿ばかり浮かんで、デートなど考えられずにいたのだ。
「それがよくないのだ、レルゲン中佐」
眉間のしわがどんどん深くなるレルゲンを見て、ルーデルドルフはそう諭す。
「その真面目さは貴官の美徳だが、使い方を間違えてはいかん。こういうときくらい肩の力を抜きたまえ」
ガハハと笑いながら、ルーデルドルフはレルゲンの背中をバンバンと叩いた。
「貴官の善戦を祈る!小さなレディによろしく伝えてくれたまえ」
「はっ、ありがとうございます」
それだけ言い置いて、宿舎とは逆側にルーデルドルフは立ち去っていった。
懇意にしている両将軍は普段より非常に忙しい身だ。その一人が休憩時間とは言えわざわざ声をかけてきたのだ。気にかけていただいているとプラスに受け取っておこう。
そう思ってその後ろ姿を見送る。
それから然程も経たないうちに、軍宿舎の敷地内から軍人としては非常に小柄な彼女が歩いてくるのが見えた。
普段はひとつに結われている髪を流し、シンプルな白いブラウスと彼女の瞳と同じ色のスカートを着ている。
飾り気のない服だが、なぜかレルゲンの目を惹いた。
そういえば彼女の軍服以外の姿は見たことが無かった。
「お待たせして申し訳ありません」
彼に遅れてレルゲンの姿を認めた彼女は小走りになり到着早々謝罪を述べた。
「いや、私が早く着きすぎただけだ」
それを軽く流し、彼は助手席側のドアを開けて彼女を促す。
ターニャは一瞬固まったがすぐに車に乗り込んだ。彼もそれを見てすぐに運転席に回る。
ほどなく車は動きだしたが、車内は気まずい空気に包まれていた。
互いに軍務以外で何を話していいかもわからないのだ。丸一日こんな中で過ごすのかと思えば、それも憂鬱で仕方がない。
ちらりと隣に座る少女の様子を伺う。
なんと彼女も居心地が悪そうだ。それもそうか。弱冠8歳で士官学校の門を叩いた彼女だ。軍人としての扱いならともかく、一人の女性としてエスコートされる状況に慣れているはずもない。
普段彼女が見せぬその様子にレルゲンの口元が緩む。
「何かございましたか」
目敏いターニャは彼の口元を忌々しげににらむ。
「なんでもない、気にするな。ところで、今日は階級で呼ぶのはやめたまえよ」
そう言うレルゲンとて呼ばない自信はないのだが。この時ばかりは二人でよかったと思う。無理に名前を呼ばなくてもどうにかなる。
「了解いたしました」
本音はその軍人口調もどうにかしたいのだが、こればかりはレルゲン自身にも染みついてしまっていてどうしようもない。それにこれの実態は軍務だ、軍務。
「きみは優秀だが潜入任務には向きそうにないな」
「いえ、ご命令とあらば遂行いたしますが」
できないと言われたことに不満なのか至極真面目にそう返されてしまった。
「そう気配を荒立てるな。そのつもりはない」
「左様ですか」
また車内に沈黙が降り積もる。
その間にも車窓の外の景色は流れていく。そろそろ首都のはずれに差し掛かる頃だ。それでも車は止まる気配がない。
「随分と遠くまで向かわれるのですね」
これも仕事に過ぎないと思っているターニャからすれば、ベルンのどこか適当な店にでも入って適当に時間を潰せばよいくらいにしか思っていなかった。要は婚約関係を周囲に認知させればよいのだと。
「せっかくの非番が潰されるのだ。娯楽も兼ねたとて両閣下は何も言うまい」
それに、と彼は続ける。
「この状況下、首都で事件を起こされては風聞が悪すぎる」
その言葉を告げる時ばかりはレルゲンに鋭利さが戻ってくる。俊英と称される帝国軍人の顔にターニャはいつもの自信溢れる笑みを閃かせた。
「エレニウム95式を持ってきて正解でした」
「くれぐれも一般人には傷をつけるな」
「承知しております」
戦場でよく見る彼女の表情に、心なしか胃が痛みだすのを感じてレルゲンは眉根を寄せる。理由あっての婚約であり、それゆえの今日ではあるのだが、せめて今日は何も起こらないでくれと天を仰ぎたくなってしまった。
しばらく車を走らせていると、森を越え、視界が開ける。ベルン近郊の湖だ。
湖畔に佇む店に入ると、レルゲンが予約をしていたようで、湖が見えるバルコニーの一等席に通される。ターニャもレルゲンもごくごく自然に周囲を観察し、何もないのを確認してから席に着いた。
「何か希望はあるかね?」
「いえ、特には」
ウェイターからメニューを渡されてもそんな調子なので、レルゲンが二人分の料理を注文する。
食事が出てくる間、またもや二人の間を沈黙が覆う。店は他にも人がおり、こんな年の離れた男女が二人で黙り込んだままなのは異様なことだろう。仕方なく、レルゲンは目に見える情報に会話の糸口を求めた。
「そういえば、きみの私服は初めて見たな」
「そうですね。普段の非番も軍服で過ごすことが多いもので」
「軍服の暗い色の印象が強かったが、そのような明るい色もよく似合っている」
自然に言われたその感想にターニャがぴくりと反応する。どうしたのかとレルゲンは様子を伺っていると、彼女は絞りだしたように感謝の言葉を口にした。
「あなたもそういった服装がよく似合っておいでです」
ターニャから返された言葉に、彼の眉がピクリと動く。そうか、と一言口にするとまたもや会話が続かなくなってしまった。
ありがたいことにそのタイミングで食事が運ばれてきた。普段は決して食べられないその味が二人の間に漂う硬直した空気を和らげる。鳥の囀りを聞きながら楽しむ食事に、常在戦場食堂も味が向上すればいいのに、と期せずして同じことを考えながら舌鼓を打つ。
最後にコーヒーとケーゼトルテが出された。
「これは…」
ターニャは一口コーヒーに口をつけると、そう言って目を瞬かせた。そのままコーヒーを見つめ固まってしまう。
「どうした、口に合わなかったか」
「いえ、非常に美味しくて驚いてしまいまして」
その言葉に安心したようにレルゲンの頬が緩む。
「きみはコーヒーを好むと聞いていたからな」
「…まさか、そのためにわざわざ、こちらへ?」
「私が好きなだけだよ」
澄ました顔でレルゲンはコーヒーを口にする。
ターニャは余程その味が気に入ったようで、瞳をキラキラさせながら満足げにそれを楽しんでいる。普段自らを完璧に律している彼女をして、もう一杯飲めないものかと思案するくらいだから相当だったのだろう。
レルゲンは極自然な様子で自らの2杯目を注文し、彼女にも次はどうかと勧める。
2杯目のコーヒーを飲む彼女を見ながら、彼は先日の神父の言葉を考えていた。
まるで、アザミのよう、か。
そんなことを考えていたからだと思いたい。
「出身の孤児院に送金をしているそうだな」
気付いた時には遅かった。らしくも無く思わず口にしてしまったことに、レルゲンはほぞを噛む。最近の自分はどうかしているようだ。
案の定、ターニャはその双眸を細めて不穏な空気を漂わせ始めた。
「失礼ですが、どこでそれを?」
レルゲンは無言で返す。
その様子をターニャは半眼でじとっとねめつけていたが、諦めたように息を吐くとコーヒーに口をつけた。
「悲しいことです。帝国のため身を粉にしているのに、内偵でも入りましたか」
演技じみた言動ではあったが、思っていたよりもすんなりと彼女がそれを受け入れたことに、レルゲンは訝しげ表情を見せる。
「この婚約が組まれた時から想定はしておりました」
「やはりきみは優秀だな」
「過分な評価です」
レルゲンが暗に内偵があったことを認めると、ターニャはやれやれとその小さな頭を横に振った。
この参謀中佐殿が認めるということは、結果は問題なく白だったのだろう。もちろん彼女は疑われるようなことはしていないが、些細な傷も見逃せない立場だ。それが確認できただけでも良しとすべきだ。
「孤児院に顔は出さないのかね?」
「後ろを振り向くことに何の意味がありましょう。私の進むべき道は既に決しております」
至極真面目な顔で言いきると、ターニャはニヤッと笑った。険のない自信にあふれた笑みにあわせ、その蒼穹の如き瞳が煌めく。
そう、この幼女はどこまでも前を向いているのだ。その視線の先にどんな結末が見えていようとも。その中には帝国の敗北さえ含まれているに違いない。
それでも歩み続けるその意志こそ、彼女の根源であり美徳だ。
いつの間にかレルゲンはその瞳から目が離せなくなっていた。
結局、その後も軍務を思い出すようなことはなく時間が過ぎていった。
木々の囁きと煌めく湖面を渡る風を感じ、コーヒーを楽しむ。
ただそれだけの穏やかな時間。
互いに特に何を話すでもないがそれが不思議と心地よくて、二人は思ったよりも長居をしていた。気づいた時には太陽が橙色に染まり始めていたので、さすがにレルゲンが帰りを促す。
宿舎までの送る道すがら、今日一日でくるくると変わったターニャの表情が頭を過る。どれも彼の知らない、いや、見えていても知らぬ存ぜぬで通してきた表情ばかりだった。
「お疲れですか」
心ここに在らずと言った様子のレルゲンにターニャが声をかける。
「申し訳ありません。今日一日運転をお任せすることになってしまいました」
「いや、構わない。時には気分転換になる」
実際それは本当だった。普段軍務ばかりで碌に休みもしない彼からすると、今日は珍しく休日らしい休日なのだ。
だが、彼女はそうは思わなかったらしい。すっかり不機嫌そうな顔になってしまう。
これにはレルゲンも困ってしまった。今日は一応「デート」という形をとっているのだから素直にエスコートされて男の顔を立ててほしいものだ。というよりも、そもそも彼女は体格の問題で運転はできないだろう。
それをわかって気にしないでいられる彼女ではないとも知っているのだが。
そう考えると不機嫌そうな彼女がおかしくて、彼は笑みを隠せなくなってしまった。ターニャはそれを見て、ますます不機嫌さが増していく。そこまで来ると、拗ねて意地をはる子供にしか見えずレルゲンはついに笑い声が漏れてしまった。
彼女にもこんな年相応な部分があったとは以前の自分では認めることすらしなかったろう。錆銀と称する周囲の者は信じようともすまい。
レルゲンは、自分だけが知る秘密を手に入れたような気持ちになっているのを驚きつつも、それをすんなりと受け入れていた。
そうこうしているうちに車はあっという間に宿舎に辿り着いてしまう。
彼が車を降りて助手席側に回ろうとすると、ターニャがそれを留める。
「これで結構です。今日はありがとうございました、中佐」
彼女が階級で呼ぶ。その一言がこの時間の終わりを物語っていた。
それが無性に惜しい気がして、彼は早々に帰ろうとするターニャを呼びとめる。
「何か?」
車のドアを開け、体を半分だけこちらに向けたまま彼女が問う。何故自分が呼びとめたのかもわからずにいる彼を見て、不思議そうに小首を傾げた。
そして彼の口から出た言葉は本人も思いがけないものだった。
「次もコーヒーでいいかね?」
自分は何を口走っているのだとレルゲンは慌てる。彼女も驚いたように目を丸くする。
その時、一陣の風が吹いた。
風が鈴のような彼女の声を届けてくれる。
「ええ、楽しみにしております」
夕陽を影にした彼女は笑っているように見えた。
その顔に心奪われてレルゲンが息を飲む。頬がわずかに紅潮するのが自分でもわかった。
そんな彼を置いて、名残も無いようにターニャは軽やかに車を降りていく。ドアを閉め窓越しに敬礼をしてくる彼女が見えた。いつもの鉄面皮にもどった彼女に、レルゲンは動揺したまま答礼を返し、そのまま家に向け車を走らせ始める。
やがて車は首都のはずれにある彼の家に着いたが、その頃になっても彼女の頬笑みが頭を離れず、未だに頬の火照りも消えてはくれない。
何もわからなかった。何がどうしてこうなったのかも、それによりどうしてこんなにも惑っているのかも。
彼が今思うは、ひとつだけ。
頬の紅潮は夕陽のせいにしてくれるといい、とそう思った。
* * * * *
その夜、参謀本部の一室にて。
「昼間はわざわざすまなかったな」
「細かいことは気にするな」
食事をしているのは今の帝国の実質的な柱にして、この婚約を仕組んだ当本人、ルーデルドルフ准将とゼートゥーア准将だ。
「それでうまくいきそうかね?」
「昼間の感じでは難しいな。なんせあのレルゲン中佐だ」
ルーデルドルフの軽い返しに酒を飲んでいたゼートゥーアは渋い顔をする。
「それでは困る。いい加減デグレチャフに慣れてもらわねば」
「お前もよく考えるもんだ。例の件にかこつけて婚約まで組ませるとは」
「どんな形であれ彼女に首輪が付けられるなら仕方なかろうよ。それで首輪になるかは微妙だがね。レルゲン中佐も優秀ではあるのだが手綱までは握れまい」
さも自分は握れているかの言い草をルーデルドルフはガハハと笑い飛ばす。
彼女を理解し使いこなせる人間など、帝国にもまして敵国にも居はしまい。だからこそ彼女は化け物と呼ばれるのだから。自分たちのように餌を与えて言うことを聞かせられれば精々。それができる人間がもう少し増えてくれれば御の字だ。
「中佐はあの狂犬を随分と恐れているようじゃないか。どうにかなるのか」
「そうでなければ困る。勝つためには何でも使いこなす気概をそろそろ持ってもらわなくては。今後の戦況では役に立たん」
「そのために婚約者を最前線送りさせるとは、お前も狂気の住人になってしまったようだ」
「面白げに同意したお前が言うな、ルーデルドルフ」
彼らはデグレチャフの全面起用を決めた時からもう腹は括ってあるのだ。
悪魔、化け物と称される彼女のその双眸が何を見遥かしていようとも、その起用によって自分たちが後世どんな汚名を着せられようとも構いはしない。
「「我らがライヒに黄金の時代を」」
全ては彼らの願いのために。
ヴィーシャ「そんな少佐殿のお姿を見逃すなんて!」
ゼートゥーア「思っていた以上に純情なのだな」
今回は非常に難産でした。
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第4話
年齢や外聞などそんなくだらないものを飛び越えて、いつのまにか抱いていた想いに気がついた時にはもう遅かった。
言葉にできない想いは胸の中で育ち続ける。
* * * * *
帝国を取り巻く情勢が悪化した。
連合王国艦艇の撃沈に端を発したそれはラインを更なる地獄へと変えていった。
そして、先のアレーヌ市街戦。
私は間違いなくそれに恐怖した。
一人の帝国軍人として、それは必要であったと言わざるを得ない。選択肢は他になく、そうしなければ戦線は崩壊し帝国の危機を招いていたはずだ。
しかし一人の男としてみれば、彼女に悪逆を持って歴史に名を刻ませてしまったと嘆くしかない。たとえあの作戦の下になる論文が彼女の手によるものだとしてもだ。
正直言えばあの論文を見た時、戦慄した。その解釈を為せる彼女の才と、感性に。
先日見たあの微笑みの持ち主がそれを考えるなど信じられなかった。
だが、書かれた時期は軍大学時代。彼女がようやく軍上層部に上る端緒を掴んだ頃であり、他より自分は優秀であると示すためならば、あの論文が有効なのもまた理解している。
問題はそれを実行させてしまった我々帝国参謀なのだ。
それを為せるほど自らを律せる彼女の前に生贄を差し出してしまった。
従うほかない軍人に、与えたのは我々。
だから。
私は、その罪を彼女と共に背負おう。
一刻も早く戦争が終結できるよう知略を尽くそう。
そんな彼の後悔と誓いも知らぬというように、神は運命を指し示す。
より彼女を追い詰めるように。
ターニャ・フォン・デグレチャフが首都に帰還した。
レルゲンはその報を知り、安堵に胸を撫で下ろす。何はともあれ無事に帰って来てくれたことを喜べない彼ではない。
何故彼女が今回帰還したかを知っているだけに心苦しいのも確かだが。
そんなことを考えながら参謀本部の廊下を歩いていると、早速彼女と出会う。
「ご無沙汰しております、レルゲン中佐殿」
「先のアレーヌはご苦労だった、デグレチャフ少佐」
挨拶を交わすと二人は同じ方向へ歩き出す。どうせ向かう場所は同じだ。
「隊の士気はどうかね」
参謀として心配するのはまずそこだ。士気が下がった部隊にこれから協議する予定の物を任せられるほど生易しい世界ではない。
「副隊長の離脱は痛いですが、隊全体としては存外悪くはありません。今回の休養で立ち直れない者はそれまででしょうが」
「心当たりはどのくらいいる?」
「一人危ない者がおります」
レルゲンは隣を歩くターニャの顔をまじまじと見る。平然と言っているが、指揮をしながらもそれぞれをよく見ているからこその言葉だ。そしてそんな未だ彼女が切り捨てないのだ、その一人は立ち上がれるのだろう。
補充枠の関係でも頭を悩ませていたが、ひとまずどうにかなりそうだ。
「そうか。今後も頼むぞ」
「はっ。ありがとうございます」
彼らが揃って執務室に到着すると、下士官はすぐに二人を取り次ぐ。
執務室では様々な資料に囲まれたゼートゥーアが待ちかまえていた。
「アレーヌはご苦労だったな、少佐」
「はっ、命令に従ったまでであります。閣下」
「その件で今回は来てもらった」
ターニャは身構える。首都までの道中、ウーガから秘密裏に話を聞いていたものの、実際に聞いてみればそれは確かに予測困難で、この戦況を打開できる作戦に聞こえた。
「何か聞きたいことはあるかね?」
「いいえ」
彼女がそう答えると、ゼートゥーアはレルゲンとターニャ以外を退出させる。
何事かと彼女が思っている内に、彼は無言でターニャを手招きした。そして彼女が横に立つと、今回の作戦の実態を耳打ちする。その内容に彼女は驚愕を見せる。
「なんと。そんな作戦であったとは。考えもしませんでした」
「ほう。『白銀』がそう言うのなら成功率も上がろうというものだ」
にやっとゼートゥーアがレルゲンを見る。
「過分な評価であります」
普段の冷徹さを崩さないままそう答える彼に更に驚くターニャ。
参謀本部の若き俊英と聞いてはいたが、その能力を目の当たりにするのは初めてだった。なるほど、この准将閣下が重用するはずである。
「今回の件では貴官率いる第203航空魔導大隊にも甚大な被害が予想される。指揮系統の混乱が無いよう十分留意せよ」
「であれば、その後の補充についても滞りないと考えてよろしいのでしょうか」
「無論だ。それを打開するための武器開発も工廠に指示している。安心したまえ」
「承知いたしました」
それが203に代わるものでないといい、とターニャは内心で呟く。それが代替となるものであれば、今回の作戦でアレーヌの口封じとして使い捨てられる可能性すらでてきてしまう。
これから赴く戦場の劣悪さに暗澹たる思いを抱えながら協議を続けていたターニャ。ようやくそれが終わり退出しようとする間際で呼びとめられる。
「ああ、少佐。もうひとつ言い忘れていた」
「はっ!なんなりと」
「貴官ら、今夜二人で食事にでも行ってきたまえ」
二人は呆気にとられてしまった。至極真面目な顔で次はどんな難題を課せられるだろうと聞いていたのに、肩透かしを食らった気分だ。こんな状況でさえなければ軍務でお疲れなのだろうと軽く流してしまうところだ。いや、正しくお疲れなのだとは思うのだが。
「まさか貴官ら、揃って例の特命事項を忘れていたわけではなかろうな」
普段は閉じられたままのゼートゥーアの目が薄く開かれる。あ、これは本気だ。
「いいえ、閣下。とんでもないことであります」
「しかし、この状況で、でありますか」
「だからこそだろう。最前線に向かう婚約者がいるのに何もない方が訝しがられる」
言いたいことはわかるが、それは時と場合によると思うのだ。表向きは大規模攻勢と銘打っているのに、参謀本部の将校が時間をもてあましているわけがないだろう。
「閣下、私にはまだ作戦準備が残っております」
レルゲンが言い募るがゼートゥーアはそれを鼻で笑ってあしらう。
「副官にでもやらせておけ。抜けるための理由ならでっちあげてやる。どうしてもということだけ肩代わりしてやろう」
ゼートゥーアの言葉にレルゲンが顔を引きつらせる。さすがのターニャも同情の視線を送らざるを得ない。
「これも軍務だ。従いたまえ」
諦めたように顔を引き締め敬礼する二人。
その顔がどうにも似て見えて、ゼートゥーアは思わず目を疑ってしまった。
協議の後、二人してゼートゥーアの執務室を辞すると、彼らは揃ってため息をつく。
「閣下には困ったものだが……」
「ええ。命令されれば従うのが軍人ですので」
彼らは視線を交差させ、職務まっとうのため計画を立てる。
「私は副官に指示をしてくる。しばらくかかるが構わないか」
「もちろんです、中佐殿。私もその間に根回しを行おうと思います」
「よろしい。では、1800に参謀本部正門前で落ち合おう」
「了解いたしました」
そうして彼らは正反対の方向に、颯爽と歩いていった。
約束の18時。
時間通り、軍務に片をつけて待ち合わせられるのだから、さすが優秀である。
「では、行こうか」
レルゲンにエスコートされ、下士官の運転する車へ乗り込むターニャ。
彼に連れられて入ったのは参謀本部からそれほど離れていない高級店だ。
ウェイターはレルゲンの顔を見てすぐに奥へと案内する。彼も慣れたようにそれに続き、座るとすぐに「いつものを」と注文していく。
「最前線が長かった分、こういった食事は恋しいだろう」
「そうですね。航空魔導士は優遇していただけているので、戦地ではとても愚痴など申せませんが」
その後も軍用チョコレートや代用コーヒー、常在戦場食堂の愚痴などを交えながら談笑していると、次々と食事が運ばれてきた。
その見た目の豪華さもさることながら、その味にターニャは感嘆する。
「首都ではまだこれほどの物が食べられるのですね」
とんでもない、とレルゲンは苦笑する。彼だっていつぶりだろうかという味だ。
「料理人の腕だな。この状況でも味を維持できるのだから素晴らしいという他ない」
「良い店に連れてきていただけました」
聞けば、将校御用達の店なのだという。予約も無く入ったにも関わらず、個室へ通されことにも納得だ。
「この食事をすることも軍務とは。部下たちに知られれば恨まれてしまいますな」
「なに、諜報用の裏経費だ。気にせず存分に食べたまえ」
その一言に、もしやゼートゥーアは最後の晩餐の機会を与えたつもりだろうかと勘繰ってしまったのも責められないだろう。それほどの味だったのである。
食事を終えた後、彼らはしばらく情報交換をしていたが、レルゲンはふと口を閉ざした。
ゼートゥーアが立案し、彼がさらに提案したものを加味した結果できた今回の作戦は、彼女と彼女率いる大隊に死んでこいと言うも同然のことを命じている。帝国の為にはこの作戦が最善であると考えている。軍人としては迷いなくそう言いきれるし、その為に命じたことも間違っているとは欠片も思っていない。
だが、それが許されるかといえば別の問題だ。恨まれても仕方がない。
だから一言だけ、ひとりの人として彼女に言いたかった。
「ターニャ」
そんな思いだったからだろう。つい彼女の名前が口をついて出た。
「あんなこと立案しておいて、と思うかもしれないが……私はきみに生きていてほしいと思っている」
らしくない物言いに彼女は眉を上げ、わざとらしく驚いたようにしてみせる。
「てっきりアレーヌの口封じかと思っておりました」
自嘲するように嗤うターニャに慌てて否定する。
そんなわけないではないか、と。
同時に胸が苦しくなる。やはり彼女はあの一件の残虐性、そしてそれを立案したことそのものに対する責任を正しく理解しているのだ。
そのうち言葉が出てこなくなってしまったレルゲンに、彼女は呆れたように笑う。
動揺の具合で、自身の不安に対する真贋を確認したかったのだが、何てありさまだ。普段の冷徹さはどこへ行ったのやら。彼のこんなところを見ることになるとは思わなかった。
「ご安心を、レルゲン中佐。私はまだ死にたくなどありませんので」
たとえその先に困難があろうとも私には生きてすることがあるのだ。
ターニャは不敵な笑みで彼の心配を一蹴して見せる。
「生きて帰って御覧に入れましょう」
「と、言ったものの……くそっ存在Xめっっ!!!」
砲弾が降るラインの上空でターニャは激しく罵る。
ターニャの育て上げた大隊ですら半数近くが脱落していく恐るべき戦場。エレニウム95式を多用しなければ彼女も生き残れはしない。よりにもよって帝国の殿軍とは随分と評価されたものだ。彼女の隊員も彼女自身の魔力も底なしではない。この戦場だけで何度命の危機を感じたかわからない。
だが、その度にレルゲンの生真面目な顔が頭を過るのだ。
ここまで精神汚染が進んでいるのかとゾッとする。
私は男だ。こんな体に引きずられてどうするのだと声を涸らして叫びたい。
だのに、思い浮かぶのが彼の顔だということに悪い思いがしないのだ。なんて度し難い。本当に、まったくもって腹立たしい。やはり存在Xには私自身で死の鉄槌を食らわしてやらねば気が済まない。
「お前などに負けるものかっ!絶っっっ対に生きて帰ってやるっ!」
誤り無きよう申しておきますが、
筆者は心からデグ閣下の幸せを願っております。
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第5話
その夜。首都は重い雲に覆われ、打ちつけるような雨が降っていた。
ベルンが、いや、国中が歓喜に沸く中、レルゲンは軍宿舎を訪れていた。
数々の作戦の果てに『白銀』ターニャ・フォン・デグレチャフは勝利をもたらした英雄として首都へ帰還した。
それは非常に喜ばしい。あの死線を越えて生きて戻って来てくれた。
しかし上官に気が狂ったかのように嘆願した彼女は、あろうことか抗命まがいのことまでしてしまった。今は自室で待機を命じられているという。
彼女の部屋の前にはターニャの忠実な副官が控えていた。副官も眉根を寄せて青い顔をしている。レルゲンに気付いた彼女は縋るような目を向けてきた。それだけでどれだけターニャの状況が悪いかがわかる。
「私が変わろう」
その言葉に一瞬逡巡したものの副官は敬礼をして立ち去った。
「デグレチャフ少佐、いいかね?」
ノックをしても反応はない。ノブに手を掛けると、鍵がかかっていないようだ。彼女らしくもない。レルゲンは扉を開ける。
ターニャは表情がそげ落ちたまま青白い顔で椅子に座り、レルゲンを見ることも無い。
なんということだ。ここまでか。
レルゲンは愕然とするしかなかった。普段の彼女など見る影もない。
後ろ手で扉に鍵をかけ、レルゲンはターニャの前に膝をつき、彼女に視線を合わせようとする。しかし、彼を惹きつけてやまないあの双眸は曇り、誰が入ってきたかもわからぬようにぼんやりと空を彷徨ったままだ。
「ターニャ」
何となく、そう呼びかけるべきだと感じた。
「ターニャ」
何度呼びかけても彼女は反応を示さない。聞こえていないのか、聞いていても反応できないほどに憔悴しているのか。
レルゲンはターニャの両の手に自分の手を重ねる。
彼女が戻ってきたら伝えたいことがあったのだ。それが今の彼女に少しでも響いてくれはしないだろうか。
「ありがとう。生きて戻って来てくれて」
先日共にしたターニャ出撃前夜の食事の後も、レルゲンは自分の言葉が彼女を殺すのではないかと恐れ続けていたのだ。だから、生きて戻ったと聞いた時、その心は確かに歓喜で震えたのだ。それがもたらした結果よりも何よりも、彼女が戻って来てくれたことが嬉しかった。
彼の心からの言葉にターニャが僅かに身じろぎする。
レルゲンは息を飲み、彼女の姿を凝視する。思わず重ねた手に力が入った。
「も…いき………い…は、……りました」
ターニャは消えるようなかすかな声で何かを紡ぐ。
聞きとれなかったレルゲンが困惑した表情をみせると、彼女はもう一度同じ言葉を囁く。その言葉にレルゲンは耳を疑った。
「もう生きて戻った意味は無くなりました」
レルゲンは言葉を失くす。彼女の言葉が耳に木霊して、その度に心が冷えていく。
そんな言葉は聞きたくない。自分がこれほど待ち望んでいた彼女の帰還を願っていたのに。何故そんな事を言うのか。生きていてほしいと思うことすら自分は許されていないのか。どうしたら彼女の心に沿うことができるのか。
様々な感情が彼の脳裏で生まれては弾け、鈍い痛みをもたらす。吐き気を催すほどに強くなる痛みの中でも、彼女の言葉だけは幾度も響いて彼を縛り、熱を奪っていく。
そんなこと言わないでくれ、私はきみに生きていてほしいのだとレルゲンは懇願する。
それを聞いていたターニャの瞳が、烈火の如き怒りに染め上がった。
全身を震わせながら関を切ったように、彼女は自らの抱えた思いを彼にぶつける。
目の前で平和が逃げていく。何のために幾度となく死線を超えてきたのか。その機会を逃すと言うのに、誰に訴えてもわかってはくれない。
結局のところ私は理解などされない。私は一人なのだ。もうほっといてくれ!
彼女の慟哭が彼の胸を抉っていく。
「ターニャ違う、そんなことはない」
「では両閣下を説得して来てください!あなたなら参謀本部のあの宴席に入れるのでしょう!」
悲痛な彼女の叫びは止まらない。
ただ生き残りたかっただけなのだ。平穏な生活を望み、そのために戦ってきた。手に入れたはずだった。なのに、今この時、この機会を逃したがためにそれは遥か遠くに遠のいていく。願う先は同じはずなのに、どうして潰されなければならなかったのか。
小刻みに震える彼女の拳が、レルゲンの胸を叩く。
彼とて彼女の為に何もしなかったわけではない。あの後、ターニャの話を今一度聞いてほしい。冷静な状態なら互いに得るものがあるはずだ、と両将軍に願い出たのだ。それはこれまでの彼女の実績と見通してきたものに対する信頼があったからこそだ。
しかし、ここに来て、彼らの婚約者という関係が枷となる。両将軍は彼まで言い募ることに困惑を見せたものの、最終的には感化されたのかと耳を閉ざしてしまったのだ。
その結果、彼は何もできずにここにいる。
「すまない、ターニャ、すまない……」
レルゲンはそれをされるがままにしながら、彼女を痛ましげに見つめ続けた。
いつしかターニャはレルゲンの軍服にしがみつき、そのまま耐えるようにうずくまる。どれだけ叫ぼうと彼女は涙を流そうとはしなかった。心が壊れる最後の一線を踏み越えることの無いよう、自らを律し続けているのだ。
ターニャのような幼い身でなぜそれを為せるのだろう。
あぁ、そうか。
レルゲンの中に一つ、理解と納得が生まれる。
彼女はやはり化け物なのだ。
ゼートゥーアが、ルーデルドルフが、レルゲンが。聞いたとて誰もが理解できないものを彼女は一人見続けていた。平穏に生きたいという生き物なら当然持つその原始的な願いを叶えるためには、それに挑む他なく、それ故に誰にも理解されない道を歩むしかなかった。たとえそれが他人を数と捉え、殺し、自ら地獄を作り続けなければならなかったとしても。自分の思いを殺し、ひとときも気を抜くことができないとしても。
それができる人間がこの世にどれだけいることだろう。
人は理解できない物を恐れる。それを化け物、悪魔といわずにはいられない。
しかし、化け物であり続けなければターニャは生きられなかった。
ようやく彼女の正体を見つけたような気がした。彼の中の霧が瞬く間に晴れていく。
彼の胸にすとんと彼女への何かが嵌っていくのを感じる。
そうか、とレルゲンはもう一度呟く。
私は彼女の全てを守りたいのだ。
この幼くも恐ろしい化け物を、私は愛している。
「ターニャ」
レルゲンの中で覚悟が定まっていく。
「ターニャ、きみはひとりではない。私がいる」
その証のように、その腕で彼女を抱きしめる。
「きみが嫌がろうとも手放しはしない。ひとりになどするものか」
なぜ、と小さく声が聞こえた。そんな義理、あなたにはないだろう、と。
その声にレルゲンは柔らかく目を細め微笑と共に告げる。
「私がそうしたいんだ」
これまで聞いたどの言葉よりも強いその声に、ひと際大きく彼女が震えた。
彼の軍服を掴む力が強くなる。レルゲンも腕に力を入れる。彼女への宣言を実行するかのように、より強くその細く小さな体を包み込む。
それからどれだけの時が経っただろう。
喘ぐようになされる息の中で、それはどうにか形となった。
「……助けて、エーリッヒ…」
彼女の頬に一筋の涙が流れた。
あかい。
あつい。
いたい。
肌が、唇が、命が乾いていく――。
ベルンが燃えていた。
赤々と燃え盛る炎に照らされる見慣れた街並みは、無残にも焼け崩れている。
見知ったはずの街の空気がべたつき、怖気がするほどの肉が焼ける臭いがする。
その中をターニャは一人で走っていた。
片時も手放さないはずのエレニウムも無く、飛ぶこともままならない中、その小さな体で人を探して駆けまわる。
その最中にも見知った者たちが倒れているのが目に入ってきた。
ヴィーシャが倒れている。
ヴァイスが倒れている。
ウーガが。ゼートゥーアが。ルーデルドルフが。
半身が焼け焦げ、一目で死がわかるそれらに歯を食いしばりながらターニャは駆ける。
どうか。
どうかあの人だけでも。
切なる願いを抱えて彼女は一心不乱にそこを目指した。
表の階段を駆け上がり、中に入ってみれば参謀本部も煙で充満し、至る所に焼けて顔もわからない死体が倒れている。それでもターニャは走る。早く、早くと心ばかりが焦って、足は重く、ちっとも前へ進んでくれない。
ようやく辿り着いた見慣れた扉を開け放つ。部屋の中から黒い煙が噴き出してきて、彼女は大きく咳き込んだ。
腕をかざして目を凝らし、必死になって中を見れば、探していた彼がいた。
ターニャに背を向けたまま、ひとり燃え盛る部屋で立ち尽くしている。
やっと見つけた。まだ生きていてくれた。彼女は安堵する。
ターニャは急いで彼を連れ出すため室内に入ろうとするが、縫いとめられてしまったように足が動かない。
早くこちらへ、一緒に逃げましょうと彼女が声を涸らして叫ぶ。
叫ぶ度、息をする度に熱い空気が体に入って来て、のどが焼ける。このままではいつ声が出せなくなるかわからない。何故彼は気が付いてくれないのだ。
生きてくれ、どうか、お願いだから生きてくれと全霊で叫び続ける。
ようやく彼女の声が気付いたのか、彼が振り返った。驚きながらも嬉しそうに微笑んで。
「ターニャ」
いつのまにか耳に馴染んだ、低く甘く心地よい声で彼女の名を呼んでくれた。やっと応えてくれた。これで助けられる。そう思った、その瞬間。
彼の体が燃え上がった。
ターニャが戦慄に体を硬直させるそのわずかな間に、みるみる皮膚が溶け、肉が焼けていく。戦場で見慣れているはずのそれなのに、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛む。
そして。
からん、と乾いた音を立てて、骨が転がった。
「エーリッヒィ――――ッッッ」
はぁはぁと荒い息を肩でしながら目を開ければ、心配して顔面蒼白となったレルゲンに覗きこまれていた。
「大丈夫かターニャ。一体どうしたんだ」
彼の方がよほど切羽詰まった様子で問いかけてくれるお陰で、ターニャは自分が落ち着いていくのがわかった。目だけで周囲を見渡し、彼と共に自室の寝台の上にいるのだと理解する。
ああ、くそ、なんて夢を見せてくれるんだ。存在Xめ。
「ターニャ?」
「だい、じょう、ぶ、です」
叫びすぎたせいか声がうまく出てこない。
そんな自分さえ忌々しく思いながら、どうにか息を整える。
先ほどの悪夢が頭を離れない。
あれは間違いなく存在Xのせいだろう。
まるで、お前の行動次第ではこうなるのだとそう言われているかのようだ。
そんなことわかっている。だから、それを回避しようと奮闘しているのに。私の邪魔をしているのはお前だ。
青白い顔をして憎悪の表情を浮かべるターニャに彼は不安そうに言葉をかける。
「そんな顔をして大丈夫なわけないだろう」
普段以上に眉間に深いしわを刻みながら、レルゲンはターニャの頬に触れる。大人の大きな手がひんやりとして少し気持ちがいい。
……いや、待て。
そこまできて、彼女はようやく今の状況の異常さに頭が回る。
何故彼がここにいる?何故彼が私の頬に触れている?
頭の中を疑問符でいっぱいにしながら彼を見、そして自らの手が彼の軍服を掴んで離さないのを見つける。
そこまできてようやく昨夜の状況を思い出した。
「も、申しわけございません……っ!」
慌ててその手を引っ込めようとする。だが、それは叶わず、掠めるようにレルゲンの手に捕まってしまう。
「謝らなくていい」
「い、いえ!しかし!」
「ターニャ」
強い語調に彼女の反論が封じられる。
「ターニャ、少し話を聞いてほしい」
彼女の揺れる瞳をまっすぐとレルゲンは覗き込む。彼女の瞳に映る彼は、これまで見たことのあるどの表情とも違っていた。それにターニャは我知らず息を飲む。
「私はきみを恐れてきた。きみはあまりにも我々とは違う視野を持っていたから」
レルゲンの口から紡がれるのは懺悔の言葉。
「だから閣下から婚約という話が聞いた時は正直閣下を恨んだよ。軍務だから受け入れたが、きみを理解し共に歩もうとは夢にも思っていなかった」
それがいつの間にか仕組まれた関係を超えたものを抱くようになっていた。
「私はきみを理解しきれないだろう。情けないことに、同じ目線に立つことは私ではできない。でも、理解する努力を止めることはもうできない。それだけは無理なんだ」
無茶をするなとは決して言えないから、せめて、その心に寄り添いたい。
「きみを理解したい。誰よりも君のそばにいたいんだ、ターニャ。どうか私に、きみを支えさせてはくれないか」
思いもよらぬことにターニャは大きく顔を引きつらせ、そのままレルゲンの手を振り払う。すぐに言い返さなければと思うのにうまく言葉が出てこない。
ようやく出てきたのは「必要ありません」という弱弱しい拒絶の言葉だった。
「ターニャ。きみは昨日何と言ったか覚えているか?」
彼が何を指しているのかわからずに混乱しながら思い返し、ゆっくりとそれに思い至る。同時に激しく動揺した。この体に生まれて幾度も死線を超えて、それでもなお誰にも言わなかったその言葉を彼に向けて口にしたのかと。
そう、無意識だったのだ。では、私はそれを無意識に願っていたのだろうか。
エーリッヒ・フォン・レルゲンに助けてもらいたいと?
「わ、わたし、は……」
「すぐに受け入れてもらえるとは思っていない。これまでのことを許せとも言わない」
それでもいいと彼は考えていた。ターニャの心にそれが必要ならば、甘んじて受け入れよう。それらもすべて含めて彼は彼女の心を守りたいのだ。
「愛している、ターニャ」
ターニャは今度こそ言葉を失った。
彼らはしばらく見つめ合っていた。ターニャはレルゲンが正気かどうかを探るように。レルゲンはその覚悟を彼女に示すように。
やがてターニャから目を逸らす。
「……話は終わりですか」
とりあえず、もうこの話を終わりにしたかった。
これまで生きることに必死で、色恋など考えたことも無かった。それが必要だと思ったことも無い。そもそも外見は幼女だが中身は男だ。精神と体、どちらに殉じればいいというのか。
「あぁ、これで終わりだ」
彼からもそう言ってくれたので、ターニャはようやく一息つく。だが次の言葉で再び訝しげな顔になる。
「ありがとう」
「……何も言っていませんが」
「途中で遮ることも無く聴いてくれただろう。正直、伝えることすら許されないのではと思っていたくらいだからな」
普段の彼女なら早々に話を遮るか、言い負かそうとしただろう。仮に最後まで聞いたところで拒絶することもできたのだ。
暗にそれを指摘されて、彼女は自分自身にも驚愕する。その通りだったからだ。合理主義で生きてきたはずの自分にいつのまにか生まれた矛盾。自らの在り方を乱すものの正体を掴もうと彼女は自らの思考に埋没しようとする。
そこに、部屋のドアをノックする音が響いた。
ターニャとレルゲンは息を詰める。
「少佐殿」
扉越しに申し訳なさそうなヴィーシャの声が聞こえてくる。
「203大隊に招集命令です」
レルゲンは唇を噛みしめた。状況は彼女に休むことも許してはくれない。
それでもターニャは気丈に応える。
「すぐに行く。さきに大隊の招集、作戦準備に移れ」
ターニャは無理矢理にでも頭を切り替える。ここから先は僅かな綻びひとつが命取りになる地獄だ。
「お聞きの通りです、中佐殿」
彼女の表情、立ち居振る舞いそのすべてから先ほどまで見せていた揺らぎが拭いとられていく。そこにはいつもの、軍人の鑑とも言える彼女がいた。
そうなればレルゲンは何も声をかけることができない。
弱さを見せたくない。この状況でも立ち上がってみせる。
その思いもまた彼女のもの。それがどれだけ痛々しいものであろうとも。
凡人の彼には至ること叶わぬ、生を望む化け物の矜持だ。
「行ってまいります」
「あぁ、行ってきなさい」
止めることをしないレルゲンに彼女は僅かに目を見開く。彼をじっと見つめると、昨夜の夢が蘇ってくる。
生きていてほしいと、失いたくないと叫んだ、その想いの正体は。
拳をぎゅっと握りしめ、次の瞬間、ターニャは艶やかに笑ってみせた。
昨日の雨が嘘のような青空の下。大隊を前にターニャは誓いを新たにする。
「おお、神よ」
生きたい理由が増えた。
「今こそ神の仕事を肩代わりしてやろうではないか!」
存在Xを打ち滅ぼして。
「傲慢な神とやらを失業させてやれ!!!」
この手で、今度こそ未来を掴んでみせる。
「では戦友諸君……、戦争の時間だ!!」
この話でシリーズ折り返しです。
くわしい後書は活動報告にて。よろしければご覧ください。
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第6話
南方大陸への転戦、連邦首都襲撃を経て、ターニャは軍務のため久し振りに帝都へ戻ってきていた。
この期に及んで、広報局がプロパガンダ用の画像を撮るなどと言い出して、ふざけるなと罵ったのが数日前。前線でヴァイスとヴィーシャに慰められ、帝都に戻ってからはゼートゥーアとルーデルドルフに諌められ、結果、彼女は辟易としながら撮影に臨んでいた。
「はいっ!では笑顔でよろしくお願いしますね!!」
この日の為に新調されたドレスはまたしても紅色だ。どうやら広報局はこの色に、血を纏い帝国のために尽くす彼女の姿を重ねたらしかった。とは言え、ターニャからしてみれば否が応にも前回の撮影を思い出されて居たたまれなくなってしまう。
朝早くから撮影をして、午後は半休となったのがせめてもの慰めだろうか。
この撮影が終わりさえすれば彼と昼食をし、その後はコーヒータイムの予定だ。いつぶりだろうかという純粋なオフの時間。それを思えばこの屈辱的な時もどうにか耐えられる。
実はその時間が、広報局によって不機嫌となった白銀のご機嫌取りをするためのものであること。そしてそのために担当官が揃って両閣下に頭を下げた結果であることを彼女は知らない。
12時を少し回った頃、ようやく撮影が終わった。自分に似つかわしくない服から解放されターニャが大きく伸びをしていると、遠くから迎えに来た彼の姿が見えた。
「ご苦労、デグレチャフ少佐」
「お出迎え感謝いたします、中佐殿」
彼は私服姿ではあったが、表情は勤務中のそれで、広報官たちにいくつか確認と指示をしていく。私たちにはオフなどあったものではないのかと疑問を抱いてしまうその光景に、上官たちの顔が浮かんで少し恨めしい。
「ターニャ」
用事が終わったらしいレルゲンが、少し離れたところで様子をうかがっていた彼女を呼ぶ。ターニャはそれを受けて彼の横へと足を進めた。
レルゲンから想いを告げられたあの日。
あれから少し変わったことがあった。
ひとつは休みが重なるとふたりでコーヒーを楽しむ時間を作るようになったこと。
ひとつは彼がターニャと呼ぶことに人目を憚らなくなったこと。もちろん軍務との区別はきちんとしているが、オフともなればそれが彼女の部下の前だろうと気にしない。
一度、部下の前はさすがにやめてほしいと伝えた時、彼がさびしげな表情を隠しきれずに「わかった」というものだから、結局許してしまった。
ほだされてしまったのだろうな。
彼の車に乗り込みながら、彼女はそう分析し、内心ではそれを素直に認めていた。合理主義はどこにいったのだと思う自分も確かにいるが、決して悪い気分ではない。
ちらと横を見れば、車の振動に合わせて彼の黒髪が揺れている。
道の先を見続ける彼の眼差しがこちらを向けられないかと思うのだから、もはや手遅れだろう。
頭を小さく横に振って車窓の外を見れば、見知った街並みが流れていく。
今日の昼食はゾルゲ食堂だ。
初めてターニャが気に入りの店なのだと紹介した時、レルゲンは一度だけ来たことがあると言っていた。彼女が常のように頼んだコーヒーを彼が感慨深げに飲むので、なぜだかむず痒くなってしまったのを覚えている。
それ以後も、ふたりはここを利用していた。ここなら体によく馴染んだ空気の中で貴重なひと時を楽しむことが出来るので、レルゲンにとってもお気に入りとなっている。
このこともあれから変わったことのひとつだった。
店に入れば主人がいつもの席に通してくれた。
さほど経たないうちに、ふたりの目の前にはカリッと焼き上げられたシュニッツェルとサラダが並ぶ。今日も変わらず美味しい。
ここに日本米があれば乗せて食べるのになどと考えていると、テーブルに1枚の封筒が差し出された。見慣れた物が何を指し示すか知って、ご機嫌だった彼女の顔がみるみる曇っていく。
「……軍務とは無縁の時間だと思っていたのですが」
「閣下からの言伝だからな。逆らえんよ」
食事を中断し渋々と受け取った封書を開け、彼女は一瞬険しい顔を見せる。
「ようやくですね」
「あぁ。覚悟しておけとのことだ」
また便利屋扱いである。やれやれ、両閣下にも困ったものだ。
そのとき彼女の胸に小さな不安が浮かび上がる。
この作戦がうまくいった時、そのとき、彼はどうするのだろう。指示された婚約という関係が不要になったあと、あの日の言葉はどこまで生きてくれるのだろうか。
バカらしい。そもそもちゃんと答えてない私にはその資格もない、と彼女は内心で皮肉げに笑う。
生きる理由をもう一度くれた彼にこれ以上の何を望もうというのか。
そんな彼女を置いて、食事は進む。少食なターニャがゆっくりと食事を終え、一息ついた頃、レルゲンから提案を受けた。
「ところでターニャ、このあと少し移動したいが構わないか」
「それは構いませんが、どちらへ?」
そこでレルゲンは一呼吸置く。珍しい彼の様子に、ターニャは不思議そうに小首を傾げた。
「私の家だ」
「は?」
思わず素で聞き返した彼女に、レルゲンはしてやったりという表情だ。
「さぁ行こうか」
「え?いや…なぜ……?」
彼女に答えないまま彼は手早く会計を終わらせると、混乱の最中にある彼女を、これがチャンスだとばかりに半ば強引に車へ乗せる。
「気を遣う必要はない。私の家の使用人が焼く菓子が美味しいからきみに食べさせたいと思っただけだよ」
滑り出した車の中でそういう彼に、それなら初めからそういえばいいと憮然とした表情を見せる。脇目でそれを見たレルゲンは少し困ったような顔をした。
「そんなことをすればきみは来てくれなかっただろう?」
うっとターニャは言葉に詰まる。その通りだったからだ。
「もう車に乗ってしまったんだ。諦めたまえ」
「あなたが強引に乗せたんです!」
車はあっという間に首都のはずれにある住宅街へと入っていく。
その中に彼の家はあった。表に小さな庭のあるその家は外壁が明るい黄色に塗られた首都ではなかなか見ないデザインだ。確かこのあたりの区画は「絵具箱の住宅」として噂になっていたような。重厚そうな家に住んでそうな彼の印象とは対照的な、どちらかと言えば可愛らしいその家について聞いてみれば、ここは彼の実家の別邸で、先代の趣味なのだという。
普段は参謀本部からあてがわれた個室で寝泊まりし、休日だけ戻ってくると彼は言った。
そんな話をしながら彼が玄関の戸を開けようとすれば、内側から先に開いた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「あぁ帰った、マルガ」
出迎えてくれたのは白髪を蓄えた老女だ。おそらくこの家の使用人だろう。
いつもは冷徹な軍人としての姿に育ちの良さが垣間見えるのみだが、この人はユンカーだったのだと今更ながらに思い至る。
「ようこそ我が家へ」
「…は、……失礼致します」
覚悟を決めてその扉をくぐる。
老女に案内されて廊下を進んでいくと、奥から甘い香りがしているのに気がついた。
そういえば彼は焼き菓子を食べさせたいと言っていたか。まったくいつから今日を予定していたのやら。妙なところでも手際の良さを発揮する彼に彼女はおかしくなって、頬が緩まないように必死になる。
席に着いた彼らの前に、すばやく焼き菓子とコーヒーが出された。それが済むと女性がレルゲンの傍らに立ち、頭を下げる。
「紹介しよう。彼女はマルガ。私が軍務の間に、この家の管理をしてもらっている」
「初めまして、ターニャ様。マルガ・ブラウアーと申します。何でもお申し付けください」
「ターニャ・フォン・デグレチャフです。こちらこそよろしくお願い致します」
「こちらのシュトロイゼルクーヘンは私が焼いたものですわ。どうぞお召し上がりください」
なぜレルゲンは彼女を紹介するのだろう。
疑問を抱きつつも、勧められたターニャは口をつけた。口の中に香ばしさが広がる。
素朴だ。飾らない家庭の味。懐かしくなる味とはこういうものを言うのだろう。このような味を楽しめたのはいつ振りだろうか。この身に生まれ変わってからは覚えがない。孤児院では食べるものはぎりぎりで余裕はなく、軍人になった後は言わずもがな。
ターニャがふわりと微笑む。それを見てレルゲンも目を細めた。
「まぁまぁまぁ!本当に可愛らしいお嬢さんですわ!なんとお呼びいたしましょう?奥様?若奥様?あぁ、でもそれはご結婚まで取っておきたい気もいたしますわね」
そんな様子を見てテンション高く声を上げたのはマルガだ。またかといった視線を送るレルゲン。だが、彼女のそんな様子を止めるわけでもなく、その表情は穏やかだ。
「坊ちゃまがこんなに可愛らしいお方をお迎えになるなんて思ってもみませんでしたわ。あの映像を見た時にはこの方が婚約者になるとは考えもしませんでしたもの」
その一言にターニャはびくっとする。
「映像?」
しかもレルゲンは知らないだと!?
彼ならば、さらっと流してくれると期待していたターニャは顔が青ざめる。この世界においても黒歴史を掘り起こされる羽目に合うとは。
「まぁまぁご存じないのですか坊ちゃま?それは勿体ない。深紅のドレスを着た大層可愛らしいお姿でしたよ」
「そんなことが……?」
レルゲンが驚くような目を向けてくる。
やめてほしい、掘り返してくれるな。彼女は必死になって目でそれを訴えるが、彼は戸惑った顔をするばかりで気づいてはくれない。仕方なく、彼女は端的に説明する。
「………銀翼突撃章の受章にあわせて…プロパガンダで…」
言い淀むターニャに、納得してしまうレルゲン。同時に彼女の怒りをも汲み取る。道理で今日の撮影を嫌がっていたはずだ。
「…そうか。ああ、マルガ。君も座ってくれ」
「はい、失礼いたします」
そのあとはマルガを交えてのコーヒータイムとなった。話をしてわかったマルガという女性はレルゲンがよく信頼している、非常に朗らかな女性ということだった。話し過ぎるのが玉に瑕ではあるようだが、それにすらも優しさや温かさが溢れている。彼女の為人は記憶の彼方に辛うじて残る母という存在を想起させた。
幾度かコーヒーをおかわりした頃、マルガは空になったポットを持って裏へと下がる。
それを受けてレルゲンはまっすぐとターニャに向き合った。
「ターニャ」
レルゲンの声に真剣さが宿って、彼女もまた背筋を伸ばす。
「今日、君を家に呼んだのはこれを渡したかったからなんだ」
テーブルの上にコツと置かれたのは、鍵だった。
「この家の鍵だ」
驚いてターニャは視線を跳ね上げる。レルゲンと視線が合う。彼の目にはただただ真摯な光が浮かんでいる。ターニャは彼女にしては珍しく理解が及ばなくなり動揺を隠せない。
「この家をきみの家と考えてみないか」
「…は?」
「最初は軍務だと思うところからで構わない。我々が受けた特命事項は未だ続いているからな。だが、いずれはここをきみの帰る場所にしてみないか」
婚約だとか上官と部下だとか、そんなことを気にかける必要はまったくない。食事が出る下宿先に移り住んだくらいの気持ちでいいのだと彼は言う。
「いつ帰ってきても構わないんだ、ターニャ。私は軍務でいないことも多いかも知れんが……。だが、マルガはそんな時も君を待っている」
誰かが待つ家に帰る。
レルゲンからすれば彼女を守るための手段の一つ。人の温もりを感じられる場所で彼女に羽を休めてほしいと願っての事。
そして、その思いはターニャの胸に不思議と響いた。
彼女は孤児院をそんな風に思ったことも無く、入隊してからは軍の宿舎に帰って寝るのみの生活。そんなものに思いを抱く生き方とは無縁だと思っていたし、事実その通りだった。
「ターニャ」
それなのに。
彼が私の名を呼ぶその声があまりにも優しく、心を乱すものだから。
……胸に飛来していた不安が消えていくのを感じる。
「お預かりいたします」
彼女は自らの行動に呆れながらも、鈍く光るその鍵を受け取った。
* * * * *
レルゲンは2週間ぶりに我が家へと戻ってきていた。仮眠を僅かに取るばかりで、疲労困憊で家に辿り着くと真夜中になっていた。上着を脱いでリビングの椅子に座り、ふーっと深く息を吐く。明日1日休みなのが救いだ。
そんな中でもマルガは彼にコーヒーの準備をしてくれている。既に使用人室で休んでいた彼女を起こして申し訳ないとは思うが、誰かが迎えてくれる安心感もあった。この安心をターニャにも感じてほしくて、あの日家の鍵を渡したのだ。しかし、あれからも彼女は戦場を飛び回っており、首都に戻る余裕すらない。しばらく顔を見ることもできないだろう。
家に戻ってまず考えることがこれとは自分も随分と焼きが回ったものだ。その戦場に送りだしているのは自分たちだと言うのに。
そんなとき、レルゲンはふっと顔を上げた。
玄関に人の気配がある。日付も変わろうという、この時間に?
彼はゆっくりと廊下の方へ向かうと、様子を伺う。まだ気配は動かない。緊急の用件で来た下士官ならば、既にベルを鳴らしているだろう。あまりにも不審だ。レルゲンの眉間に深いしわが刻まれる。嫌な予感がし、銃をすぐ抜ける状態か確認する。そしてそのまま廊下を駆け抜け、扉を開け放つ――!
「――っ、!」
レルゲンはそれを見て絶句する。
彼の目の前には、ベルを鳴らそうと思って伸ばした手の行き場をなくした、土埃がついたままの軍服を纏った幼女の姿があった。
彼は肩の力を抜いた。銃を抜いていなくて良かったとホッとする。
どおりで玄関の前で気配が動かないはずである。きっと入ってもいいものかと逡巡していたのだろう。自らここに来るだけでも、誇り高い彼女にすれば迷い悩んだことだろう。彼女は本来雪のように白い頬を染め、怒ったような少し拗ねたような表情をしている。
何かを話そうと彼女は口を僅かに開き、しかし声は出ず、すぐに噤んだ。そして意を決したように、キッとレルゲンを見返してゆっくりと口を開いた。
「………ただいま、戻りました」
ようやく告げられたその一言がどんなに嬉しいか。
廊下の奥からも彼女の姿を見とめたマルガの嬉しそうな声が聞こえてくる。
「ああ。おかえり、ターニャ」
こうしてターニャ・フォン・デグレチャフは、待ち人がいるあたたかな家を手に入れたのだった。
日常回でした。
次回は番外編を投稿予定です
2017.10.29 文章の修正を行いました
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【幕間】愛すべき坊ちゃま
オリキャラが苦手なご注意ください。
帝国の首都にあるレルゲン家別邸には一人だけ使用人がいる。
彼女の名はマルガ・ブラウアー。
エーリッヒが生まれる前から、地方にあるレルゲン家本邸に夫婦で仕えていた。そのため領主の息子たちを自分の子ども同然に愛してきた。
次男のエーリッヒが軍人になり、しばらくすると彼は高級将校として首都の別邸の主となった。その頃には夫に先立たれてしまっていた彼女は、愛すべき坊ちゃまを支えようと首都に出て来たのであった。
* * * * *
あの『白銀』が婚約したらしい。相手は参謀本部に務めるレルゲン家の息子だと。
とある日、馴染みの店でその噂の真相を尋ねられた時、マルガは耳を疑ってしまった。
――私たちの坊ちゃまが婚約?
『白銀』と言うと、随分と前にテレビで見た少女のことだろうか。紅いドレスの似合う、金髪碧眼の麗しい少女。こんな少女が戦場に出て、銀翼突撃章を受章したのかと当時でさえ信じられない思いだった……。
マルガは表情を曇らせる。ユンカーに長く仕えていた彼女は政略結婚というものを身近に知っていた。とうとう坊ちゃままで…、というのが偽らざる彼女の本音だ。
だが、首都の様子を本邸に伝えると、驚きつつも喜びの声が返って来た。中でも奥様は涙するほどだと言う。
マルガはその気持ちも理解できてしまった。真面目が過ぎるエーリッヒの様子を本邸では「帝国を恋人にしてしまった息子」として誇りつつも揶揄していた。それはいつまでたっても女性の影が見えない次男坊に対する諦観でもある。エーリッヒの兄にいたっては「軍務をしながら結婚できるほど弟は器用じゃない」と語っていたとか。
相反する気持ちを抱えながら、マルガは重いため息を一つついた。
* * * * *
それから、さらに時が過ぎて。
その間、エーリッヒから婚約者に関することを聞かされることは一度も無く、マルガも触れられずに様子を伺っていた。だが、その素振りが全くないかというとそうでもなく、噂を聞いた頃から時折休日に出かけることが増えていた。
その日、マルガはいつものように夜遅く帰って来たエーリッヒに食事の準備をしていた。
「マルガ。すまないが一つ頼みがある」
エーリッヒから頼みごとをされるのは珍しいことであった。詳しく話を聞いていくと次の休みに来客を予定しているのだという。
「まぁまぁまぁ。珍しいことですね坊ちゃま。それではとびきりおいしいお茶菓子をご用意いたしましょう」
「いや、手間になると思うが手作りしてはもらえないだろうか」
思わず配膳する手が止まった。
「手作りでよろしいのですか?大したものは作れませんよ?」
彼女では店に並ぶような菓子は作れない。わざわざ自宅に招くほどの客だ。そんな相手に出すには物足りないのではないだろうかと心配する。
「それがいいんだ。…そうだな、シュトロイゼルクーヘンを作ってはくれないか」
「まぁまぁ懐かしゅうございますね。承知いたしました」
マルガはそこでふと気になったことを聞いてみる。
「ところで、どなたがお見えになられるのですか?」
そう聞くとエーリッヒの眉がピクリと動き、マルガから視線をずらして告げる。
「………ターニャ・フォン・デグレチャフを呼ぼうと思っている」
マルガは呆気にとられてしまった。
ターニャ・フォン・デグレチャフ?それは、つまり……。
「婚約者様がお見えになるのですか」
「マルガまで知っていたのか」
街の噂になっていることにエーリッヒは渋い反応だ。『白銀』のネームバリューに考え込んでいる様子だが、いや、そんなことはどうでもよい。
「婚約者様がお見えになられるというのに、私の作る菓子などでよろしいのですか?いえ、それよりもせめてレストランなど、もっとふさわしい場所があるでしょう、坊ちゃま」
我らが坊ちゃまはどこまで朴念仁に育ってしまったのだろうかと、頭痛がしてくる。いかに幼くとも女は女。婚約者として振舞うというのなら、女性の喜ぶようなレストランや演劇などに連れだせばよいものを。ご自宅に呼ぶにしろ、とびきりのお菓子とお茶を用意するだとか、プレゼントを買っておくだとか、戦況悪化で物が少なくなっているとは言え、もっと、こう、やりようがあるだろう。
「マルガ」
言い募る彼女を、エーリッヒが制止する。こういうときの彼は譲らない。
呆れと諦めを乗せて「承知いたしました」とマルガは返した。
約束の日。
夕方には戻ると言い置いて、エーリッヒは昼前に出かけて行った。
お気に入りのジャケットとタイをしていったので多少なりとも緊張はしているらしい。
そんなことを考えながらマルガはそれを見送ると、屋敷中の確認をして回る。今日の話を聞いた次の日からわずかな埃も許さぬと、常にも増して熱心に手入れをしてきた。
実はそれは本邸からの申しつけでもある。
(どんな形であろうとも、ようやく舞い込んだ縁談。この機会を逃すわけにはいかない…!)
レルゲン家のみならず、エーリッヒの幼い頃からを知る使用人すべての心の声である。
となれば、その分マルガへのプレッシャーも大きい。使用人のミスは主人のミスだ。些細な取りこぼしがないようにと言い含められている。彼女もそれを理解して、愛する坊ちゃまのためにできる限りのことをして用意を整えていた。
シュトロイゼルクーヘンが無事焼きあがった頃、家の前で車が止まる音がする。いよいよお越しのようだ。
マルガまで緊張しながら、出迎えに玄関へ向かう。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
「あぁ帰った、マルガ」
いつも通り出迎えたエーリッヒの影から夕陽に煌めく金の髪がこぼれおちる。
緊張しているのか顔を強ばらせながら彼に続いた少女は、噂に聞く軍人とはかけ離れたか細い印象を与えた。
(この方が、エーリッヒ坊ちゃまの……)
案内をしながら少女の様子を観察してしまう。わかっていたつもりだったが、随分と年の頃が離れている。親子という方がまだ納得できそうだ。
そうこうしながら挨拶を交わし、シュトロイゼルクーヘンを彼女に勧める。
それを口にした少女はようやく表情を和らげ、ふわりと微笑んだ。ちらとエーリッヒを見てみれば、嬉しげに目を細めている。長く仕えるマルガでさえ初めて見る顔だ。
(まぁまぁまぁ、これはもしかすると本気で……?)
マルガは嬉しくなって、ついつい彼女の悪い癖が出る。来客中のそれに、普段であれば厳しく咎められるはずだった。しかし今日はまるでそんな素振りがない。
どころか少女の仕草の一つ一つにさえ目を離せない様子だ。
(坊ちゃまは気づいておられるのかしら)
その後もマルガも交えて雑談をしていく。焼き菓子とコーヒーがなくなった頃、エーリッヒからアイコンタクトを受けマルガはさり気なく立ち上がった。片付けを理由にして客間から出ていくと、エーリッヒの真剣な声が聞こえてきた。
漏れ聞こえる会話に、申し訳なく思いながらも耳をそばだてていたマルガは、頬に温かいものが伝うのに気付いて我に帰る。
(あぁ…坊ちゃま…あなたは何という…)
旦那様、奥様。私たちの坊ちゃまはこんなにもお優しくお育ちになりましたよ。ターニャ様の境遇を受けてここまでのことをなさるなんて。
あぁ、そして神よ。本当にありがとうございます。坊ちゃま自らが家に迎えたいと望むお方が、安らかな時を与えてくれるお方がようやく現れました。この縁を与えてくださった神に心から感謝いたします。
敬虔なる信徒であるマルガは涙をぬぐうこともできずに、天へ感謝を捧げたのだった。
この一件でさえ、それほどだったので、ターニャがレルゲン邸に帰るようになったとき、またもや彼女の悪い癖が出てしまったのは仕方ないことかもしれない。本家が歓喜にざわついてしまうことも、また。その様子はマルガの想像を大きく超えていて、結婚の段取りはどのように考えているのかとせっついてくる程だ。
「まぁまぁまぁ、おしゃべりが過ぎたかしら」
でもね、私たちはそれだけその時を待っているのですよ。
私ももう年なのだから、旅立つまでにお願いします。
ね? 私たちの愛しいエーリッヒ坊ちゃま。
いくつか幕間のストックがあるので、最終話までのプロットをもう一度調整する間に順次放出しようと思います。
2017/10/30 誤字報告ありがとうございます
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【幕間】しあわせのひととき
その日、珍しく丸1日の非番を与えられたレルゲンは自分の書斎で本を読んでいた。
時折家の奥、具体的には浴室のあたりから「やめてください!」「お願いですから」という悲鳴にも似た懇願が聞こえてくるのだが、それは心を鬼にして耳を閉ざすことに決めている。
というよりも、そうせざるを得なかった。
当初、あまりにもその声が困惑しきっていたので止めようと声をかけたのだが、「女性の秘密に立ち入るとは何事ですか」とマルガに叱られてしまったのだ。それ以後も幾度か彼女を助けようと試みたが、その度に激しさを増す鬼の形相で追い出され、今に至る。
力になれず申し訳ないとは思うのだが、女性の秘密という彼にはどうしようもない言葉を持ちだされては諦める他ない。
そうして彼は一人寂しく本をめくっている。
本来であれば彼女とコーヒーでも飲みつつ、様々なことを語らおうと思っていたのだが、何故かそうなってはくれない。これではいつもの休みと変わりないなと、窓の外を眺めてしまう。
「まぁまぁまぁ!さすがですわ!お嬢様!!」
奥からマルガの楽しげな声が聞こえてきた。ようやく終わったらしい。
「坊ちゃま!坊ちゃま!」
バタバタと彼女が走ってくる音が聞こえる。
「なんだマルガ、騒がしいぞ」
呆れた声で彼女を諫めながら書斎を出る。そこでレルゲンは固まった。
そこには下した髪を半分だけ編みこみ、赤いワンピースを着たターニャがいた。
「いかがですお美しいでしょう!」
きゃっきゃっとはしゃぐマルガだが、レルゲンはまったく耳に入らなかった。
その小さな唇にわずかに紅をさしたターニャは困惑しきった顔でワンピースの裾を引っ張っては匂いを嗅いでいる。そういえば、なんとなく薔薇の香りがするような気もする。
ターニャから目を離せず棒立ちになってしまったレルゲンを見て、マルガは満足げに、というよりも自慢げに満面の笑みを浮かべている。坊ちゃまのこんな様子を見られるとは。頑張った甲斐がございました。
その様子をひとしきり楽しんだ後、彼女は固まっている二人の真ん中でパンッと大きな音を立てて手を叩いた。二人がハッと現実に戻ってくる。
「さて、私、夕食の買い出しに行かせていただきます。時間がかかりそうなので帰りは日が沈む頃になるかと思います。その間、お二人はゆっくりとお過ごしくださいね」
そこで一呼吸置いて、ギロリとふたりに厳しく視線を向けて釘をさす。
「今日は軍務を考えてはなりませんよ?」
そして、バタバタと彼女は出掛けていった。
残された二人は嵐が過ぎ去ったように呆然と立ち尽くす。
先に立ち直ったのはターニャだった。
「とりあえず、コーヒーでも飲みませんか」
「……あぁ、そうしようか」
それからしばらくして。
馥郁たる香りに包まれながら彼らは向かい合って座り黙り込んでいた。
どうにも居心地が悪くて、彼はらしくもないと自覚しつつその言葉を零す。
「……よく似合っている」
「……ありがとうございます」
互いに目を見ることも出来ずにする会話はどこかぎこちない。
「その服は以前から持っていたのか?」
そうレルゲンが尋ねると彼女は素っ頓狂な声を上げた。そして、そのまま固まってしまう。彼が名前で呼びかけることで持ち直すと、眉根を寄せて忌々しげに教えてくれた。
「……マルガさんが持ってきてくださいましたよ、あなたからのプレゼントだと言って」
今度はレルゲンが固まる番だった。まったく、勝手に何をしているのだ。
ターニャはそれを見てため息をつく。
「どおりで紅いワンピースなはずです」
「何か心当たりが?……あぁ、以前言っていたプロパガンダ映像か」
だが、そこでひとつのことに思い当たる。
彼女なら拒否することもできただろうにしなかったその理由は。
「だから嫌がりながらも着てくれたのか」
ターニャはふいと顔を背ける。
「『婚約者』の贈り物を無下にするわけにもいかないでしょう」
まったくもってその通り。彼女の行動のそれが軍務故なのかどうかはこの際置いておこう。この関係が意味を持っていることが嬉しいのだ。
「きみには申し訳ないとは思うが、マルガは孫でもできたようで嬉しいのだろう。私がずっと一人身だったせいで、彼女は常にこの屋敷を一人で守り続けていた。母親同然に見守ってくれていたから正直心苦しさはあったのだ」
軍人として国のため勤めるあげることばかりを考えて、身近な彼女には何もすることが出来なかった。それもターニャが来てくれたことで徐々にだが変わりつつある。
「ありがとう」
レルゲンがそう言うと、彼女は眼を瞬かせた。
帰って来てくれるようになったこと。レルゲンのために嫌な思いをしてまでドレスを着てくれたこと。それ以外にも彼女への感謝は尽きない。
彼女は気づいているだろうか。
彼らが多少なりとも親しい関係になったこのわずかな間にも、ゆっくりと彼女が本来持つ表情が花開いていく。
「私は幸せ者だな」
今になって、婚約が周囲に広まった当初向けられた嫉妬の視線の意味を知る。知ったら知ったで、これまで持ち得なかった暗い感情が頭をもたげても来るのだが……。
残念なのは、今この瞬間に彼女が分からないという表情をしていることだろうか。
その表情が彼女のこれまでの生き様を物語るようで、胸が苦しい。しかし、今の彼ではどうすることもできずにいる。いつの日かそれを知ってくれる日が来ることをただ願うのみだ。
「……エーリッヒ」
彼女に名を呼ばれて、彼の思考が切り替わる。
「私は相手をやり負かすことは好きですが、やられるのは好きではありません」
「知っているとも」
「今回の、このドレスのことはせめておいしい食事でも無ければ割に合いません」
拗ねたように言うものだから何を言われるかと緊張していたレルゲンはその程度でいいのかと破顔した。何とも可愛らしい照れ隠しだ。
「問題ない。あの様子では今日は腕を奮うだろうさ」
「そうであればいいのですが」
前言撤回。それなりには根に持っているようだ。普段から舌鼓を打つあの食事に対してこの反応では随分と不興を買っている。
「そのときは私が首都一の店へ連れていこう」
彼女の瞳がきらりと光る。
「本当ですか」
あまりの食いつきにレルゲンは苦笑する。
今更ながら思うが、彼女は驚くほどの美食家だ。食への追及は彼女の生まれがそうさせるのだろうか。時折作ってくれる料理は彼もマルガも知らないレシピで、帝国では食べられない不思議な味がする。
「その程度でいいなら喜んで連れていくとも。その代わり一つ良いかね?」
「何です?」
「その時はもう一度その服を着てくれないか」
見る見る彼女の表情が不満げに歪んでいく。
「私への埋め合わせのはずですが」
「何を言うんだ。私はあくまでマルガがきみの願いが叶えられなかったときの保険であり、彼女の肩代わりだ。そのくらいは許されるだろう?」
澄ましてそう告げる。小さく舌打ちが聞こえたような気もしたが、空耳ということにしておこう。
「……考えておきます」
渋々だが、そう答えてくれた。すぐに拒否されなかっただけでも前進だ。
「きみがどちらを選ぶか楽しみにしておくことにするよ」
レルゲンの楽しそうな声に、ターニャもやれやれと肩を竦めた。
その後、首都ベルンの超高級レストランにおいて、3ピースを着たエーリッヒ・フォン・レルゲンと紅いワンピースを身に纏ったターニャ・フォン・デグレチャフ、そして老婦人という3人の姿が目撃された。
その親しげな雰囲気が母親に婚約者を紹介するように見え、いよいよ結婚するのかと軍部がざわめくことになるのだが、それはまた別のお話。
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第7話 Operation Distel Ⅰ
帝国と戦争状態にある周辺国にとって、『おそるべきゼートゥーア』と『ラインの悪魔』は極めて邪魔な存在である。信じたくはないが、神でも味方したのだろうかと思うほどの偶然が重なり、つぶされた作戦は両の手では足りない。
それは大戦の趨勢が確定しつつある現在でも変わりなく、どころかそれを確定づけるための策において彼らをどう対処するかは各国共通の難題であった。
故に、それをどうにか排除しようと策が張り巡らされるのはごく自然なことと言えた。
さらに、その中にあって連邦は少し変わった状況にあった。
連邦首都強襲を機に、権力者ロリヤが『ラインの悪魔』に執心しており、そのことが軍の末端に至るまで知れ渡っていたのである。一時、魔導士の人権が剥奪されていたこの国において、対象を連れて来れば戦後も命が繋がるかもしれない。そう思わせる空気が連邦軍内部では培われていった。
かくして、無謀なる『ラインの悪魔』争奪作戦が行われることとなる。
* * * * *
その日、夜深い時間に彼らはふたりきりで向き合っていた。
「きみは今後の戦況をどう読むかね」
「私は一介の前線将校に過ぎません。それを口にする立場にはないかと」
ターニャの脳裏をよぎるのは勝利を失ったあの日のことだ。当然ゼートゥーアもそれは承知の上で問うている。
「あれは我々の誤りだった。互いに祖国を思う身として、きみの忌憚なき意見を聞きたい」
それを聞いて彼女の目に火が灯る。続いて出てきた想定に、ゼートゥーアは黙り込んだ。
おおよそ彼の想定と変わらない。どころか、その一歩も二歩も先を行っていた。未だ己ではこの化け物に届かないのだと彼は自分を戒める。
「では、それを理解した上でこの作戦についてどう思う」
渡されたものをターニャはじっくりと読み込んでいく。ゼートゥーアはその様すらつぶさに観察していた。
読み進めていく彼女は険しい顔をするものの否とは言わなかった。おそるべき幼女。その内容を命じられれば、大人ですら動揺の一つも見せるだろうに、彼女はそれすら律しきる。
「私はこれが最善だと判断した。何か不足があるかね」
「いいえ、私もこれが最善だと判断いたします」
言い切る彼女を前に、彼は腹を括るしかない。子どもを戦地に送るは軍人の恥。それをわかって彼は命じるしかない。
「閣下、私からもひとつよろしいでしょうか」
苦い思いで告げようとしたとき、彼女が彼の言葉を遮る。一介の将校としてはあり得ないことだが、彼女にはその資格があった。
「聞こう」
それは互いに先を見通すことが出来る者だということ確信した上での話だ。
「この作戦が成功すれば、決断の日は近いと存じます」
そう、これはあくまでも前段階。その先が既にこの娘の頭の中には鮮やかに描かれているのだろう。
「そのときは私の作戦をご検討くださいますか」
否と答えることは最早できはしない。
だからこそ、ゼートゥーアはひとつだけ尋ねたいことがあった。
「貴官はその先に何を望む?」
「ライヒに黄金の時代を。ただそれのみであります」
それは完璧すぎる軍人の答えだ。だが、彼が聞きたいのはそんな言葉ではなかった。
「今回の作戦、その先の作戦。それを理解して、貴様個人は何を思う」
珍しくターニャは困った表情を見せた。
「それは小官の愛国心を疑われているという事でしょうか」
「そうではない。貴様とて自らの死を前に何も思わないわけではないだろう」
作戦内容はもとより先に見える帝国の未来は、この大戦で活躍した者たちを待つ、死の運命を指し示しつつあった。
ゼートゥーアのもとにはもちろん、彼女と例の将校とが軍務を超えた関係となっていることが伝わってきている。正直言えば幾度となくその真偽を確認させたが、それは揺るがなかった。
「どういう形たちであれ、手放すのを惜しいとは思わないのかね」
彼女はようやく『彼』のことを聞かれているのだと気づいたらしい。
「惜しくないとは決して申せませんが、その感情は生者の特権でしょう」
淡々とそう返されてはもう何も言えない。ああ、くそ。私よりこの子どもの方がよほど理解しているではないか。この化け物め。
ゼートゥーアは一度目を閉じ呼吸を整える。
「……よろしい。では、予定通り貴官に任せる」
「はっ、成し遂げて見せましょう!」
目の前で完璧な敬礼を返す彼女に、ゼートゥーアは苦い思いで見送るしかなかった。
ターニャが新たなる戦地に飛んで数日が経った。
ゼートゥーアから秘密裏に告げられた作戦「オペーレーション・ディステル」を受け、明日からはレルゲンも同じ司令部へ一時赴任することになっていた。彼は慌ただしくその用意に追われている。
そんな中、彼の執務室をノックする音がした。入室許可を出せば、ターニャの副官である。彼は途端に訝しげな表情を見せる。
「サラマンダー戦闘団大隊長副官、ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレヴリャコーフ中尉であります」
「貴官はデグレチャフ中佐に同行していたはずだろう」
「はっ。レルゲン准将閣下に至急お渡しせよとのことで、こちらをお持ちいたしました」
何やら固いものが入った封筒を受け取り、レルゲンはそれをすぐさま開封する。そこには黄色と黒色のリボンを付けられたレルゲン邸の鍵が入っていた。
「……中佐は何か言っていたか」
「はい、いいえ。ご覧いただければわかるとのことで、他は何も預かっておりません」
ヴィーシャは何が入っているかも聞いていなかったようで、鍵にちらちらと視線を送っては戸惑いの表情を見せている。
レルゲンは彼女にもう下がってよいと伝えて、彼はひとり考え込む。
そして、何かに思い当たったように新たな指示を出した。
レルゲンが方面軍司令部へ赴任した日の夜、マルガはひとりレルゲン邸で刺繍をしていた。ふたりともにしばらく帰れないと聞いていたので、秘密のこの手仕事をするには良い機会だ。
いつか完成品を見せたら、喜んでくださるかしら。
ふふふと楽しげに微笑みながら、彼女の手が銀糸の花を咲かせていく。
古い置時計が日が変わったことを告げる頃、突然玄関が乱暴に叩かれた。闇夜に紛れるように訪れた軍人らの雰囲気に、出迎えたマルガは顔をひきつらせた。
押し入られるように中へ招き入れ、扉を閉めた途端、彼らは邸内をそこに敵がいるかのように視線を巡らせる。
「……あの、いったい何の御用で…?」
困惑する彼女を置いてバタバタと人が散っていく。それを制止しようと声をかけると先頭で入ってきた軍人の冷たい声音が彼女を捉えた。
「マルガ・ブラウアーさん。これより我らの指示に従っていただきます」
何が起こっているのかまったく理解が出来ない。誰か、と声を上げかけて、愛すべきふたりの姿が浮かぶ。今なお戦地で戦い続ける彼女の主たち。年老いて先の知れた人間ひとりがために助けを求めようなどとは到底許されない。
胸元でぎゅっと手を組み、彼女はただ嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
さて、場所は変わって連邦軍と向かい合う帝国軍拠点。
ターニャはサラマンダー戦闘団に即応体制で待機命令を出し、管制室でそのときをじっと待っていた。
ゼートゥーア閣下の策に奴らがひっかかれば、そろそろ動きあってもいいはずだ。
ふと、それに伴ってレルゲンに言づてたものの存在を思い出す。
彼はあの鍵の意味に気付いてくれただろうか。
危ういものを嗅ぎ取って、少しでも敵に察せられぬようにと考えた結果、ああいう形でしか表すことが出来なかった。彼なら大丈夫だという確信にも似たものを抱きはするが、やはり万が一を思えば不安がよぎる。
ままならないものだな。
ターニャがそう思っている所にノイズ交じりの報告が上がってきた。
それを受けてターニャが即座に命令を飛ばす。
「無粋なお客さんのお出ましだ。サラマンダー準備したまえ」
しばらく飛行すると予定ポイントに敵航空魔導士が陣取っていた。彼女はヴァイスに指揮権を移譲し、予定通り先頭に立って敵をひっかき回す。
状況は時間が経つにつれゼートゥーアの想定したものへと変化していく。
ということはやはり、私自ら陽動をしなければならないのだな。
わざと防御膜を薄くし、攻撃を受ける。
ああ、くそ、痛いじゃないか。まったくもう一度こんなことをするとは。
だが必要なことは終えた。
そう思って、ヴァイスやヴィーシャの側に下がろうとした。そのとき。エレニウム95にノイズが走った。
「はぁっ!?こんなときにかっ!」
どうにか制御下に置こうともがくが、攻防戦の中でそんなにうまくいくはずもない。
最近出て来ないと思えば!狙ってやがった!くそっ、存在Xに災いあれっ!
割れた防御膜が煌めく中、彼女はスローモーションの世界の中を落ちていく。
「中佐殿―――っ」
砲弾に燻る空で、部下たちの叫ぶ声がやけに耳についた。
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第8話 Operation Distel Ⅱ
ターニャが撃墜されたという報を受けて、司令部は蜂の巣をつついたような喧騒の中にあった。
その中でレルゲンはひとり動揺する自分を噛み殺して、必死に頭を巡らせていく。
ゼートゥーアからの指示。彼女から渡された鍵。
彼に与えられた情報を組み立て得た結果に、彼は悔恨の念に駆られる。
おそらくこの状況はゼートゥーアとターニャの間で、レルゲンに知られぬよう秘密裏に予定されていたもの。連邦相手に危険な陽動を行う計画があり、彼女がその任を負ったのだ。それが捕えられる状況までに行くかは別にしても。
彼女の事だ。それを回避する策は張り巡らせていたのだろう。
だが、それでは足りなかったのだ。これまで彼女を英雄たらしめていた様々な運が、今になってそっぽを向いてしまった。
ギリッと彼は歯を食いしばる。
何故知らされなかったのか。自分は彼女にこれほどに信用されていなかったのか。
震える体を抑えるため、意図して大きく呼吸をした。目の前が真っ赤に燃え上がったかのようにくらくらする。
だが、彼は知っているはずだった。気づく機会は与えられていた。
今回の作戦名ディステル。帝国語でそれは「アザミ」を意味する。
かつて自分は言ったではないか。なぜそれを忘れていた。なぜ気が付かなかった。
軍人にとって思い浮かぶ話、それは連合王国の逸話だ。
むかし、連合王国の王城が敵国軍勢に包囲されたときのこと。物音を立てないため裸足で進軍していた軍勢が、王城の周りに咲いていたアザミの花を踏んでしまった。敵兵は棘の痛さに悲鳴を上げてしまう。その声に気づいた王城側は反撃に転じ、無事敵を追い払うことが出来た。以後、アザミは救国の花とされている。
敵に踏まれることによって危険を告げる花。
身を挺した警告。
瞬間、敬愛する閣下を罵りたい気持ちに駆られる。
だが彼女は決してそれを許してくれはしないだろう。同じように自分自身も許すことは出来ない。
我らは帝国軍人なのだ。ともに祖国に黄金の時代をもたらすためここまできた。
ならば我々は命令に沿って為すべきことをするのみ。そして、今回の件が計画的だったというのであれば、現状では少なくとも、軍令に沿うことが彼女を助ける一番の近道だ。
「准将閣下、いかがされますか…!」
あのネームドが落ちた。その事実に動揺しきった士官たちが次々と彼のもとに指示を求めてやってくる。
管制室からはターニャ救出を請うサラマンダーの絶叫が飛び交っていた。
その声すら煩わしい。救いに行けるのならば今すぐ自分が飛び出したいくらいだというのに。
その気持ちを無理やりにでも押さえつけ彼は告げる。
「サラマンダーは全員帰還せよ」
握りしめ白くなりつつある拳が痛い。爪が食い込み血が滲む感覚があるが、その程度なんだというのか。今も死地で彼女は戦い続けているのに、後方の私が軍人であることから逃げるわけにはいかないのだ。
レルゲンの瞳には狂気的ともいえる焔が燃え上がっていた。
* * * * *
あのターニャ・フォン・デグレチャフが捕えられた。
その一報は中央の参謀本部にも激震をもたらした。
ゼートゥーア、ルーデルドルフ両将軍は即座に特級軍令として管轄司令部から現地にいるレルゲンに指揮権を移譲。彼もそれを受けてすぐさま指示を飛ばす。
「生死は問わん。連れ戻せ。何としてもだ」
撃墜されたターニャを救うこと叶わず、必ず取り戻すから許可が欲しいと現地で叫び続けたサラマンダー戦闘団。命令で嫌々ながら戻ってきた彼らを、刃の如き声音が出迎えた。
「当拠点で許される、ありとあらゆる手段を用いることを許可する。万が一、現着時に既に死亡していた場合、または帝国軍への復帰を拒否した場合は死体を引っ張ってこい」
異常ともいえる苛烈さを孕んだレルゲンの姿勢に、ターニャに鍛えられたサラマンダーの中核、元203大隊一同でさえ恐怖する。
彼は今、婚約者の射殺許可を平然と告げたのである。
「可能であればエレニウムも回収しろ。
生死に関わらず中佐の体、及びエレニウム95式、97式を解析されることは軍事機密の流出と同等の事態だ。帝国の敗北に繋がる。それだけは何としても許すわけはいかん。肝に銘じて作戦を遂行せよ」
その気迫に飲まれるように戦闘団総員が見事な敬礼を見せる。
次席指揮官ヴァイスの号令の下、追撃用へ換装して彼らは航空機へと乗り込んでいく。
「現状を共有する」
航空機で運ばれている間に、サラマンダー戦闘団の航空魔導士部隊は体を休めつつ状況の確認を行う。
管制によれば、彼らと入れ替わるように追撃戦を敢行していた航空一個大隊が既に手荒い出迎えを受けているとのことだった。予想されていたことだが、これまで連邦を苦しめていた『ラインの悪魔』を捕えたことで士気が上がっているらしい。連邦側としても彼女を取り返され、更なる状況悪化を招くことは許し難いはずだ。
「我々はこのまま航空機にて敵拠点上空に潜入し、降下強襲をかける」
戦闘団員がきらりと目を輝かせる。
「どこかで聞いたような作戦ですね、副隊長殿?」
「連邦にラインの悪夢を経験させてやりましょう」
「生きて連れて帰らんと婚約者殿に俺らが殺されちまいますよ」
先ほどのレルゲンの様子を茶化すノルマンにひときわ大きな笑い声が上がる。
こんなときでも冗談を言い合う面々をヴァイスは苦笑しながら眺めていた。ここにいる誰一人、敬愛する戦闘団長殿の無事を疑う者はいないのだ。
「いいじゃないか。戦闘団長殿を救うのは我々だと見せつけてやろう」
彼のその一言で戦闘団に気迫がみなぎった。
その頃、ターニャは連邦軍の暴虐の中でひとり耐えていた。
「魔導士とは便利なものだな『ラインの悪魔』殿。傷の具合さえ理解していれば、治癒魔術であっという間に拷問の証拠を消せるのだから」
そういわれながら幾度も幾度も蹴りあげられる。感情のままに振るわれる悪意の中で、呻き声一つあげることなくターニャは嵐が過ぎるのをただ待っていた。どころか、なるほど今度から私も利用しよう、などと考える余裕すらあった。
彼女は信頼しているのだ。
ターニャ自身が育て上げたサラマンダー戦闘団を。
最善策を模索し続ける尊敬するゼートゥーアを。
なにより、親愛なる理性の君を。
早く来いとターニャは内心で呟く。最悪、どうもにもならない段階と判断すれば魔導暴走でこの拠点ごと爆破する心づもりではあるのが、まだその手は取りたくない。
襲いくる悪意の中で耳を澄ませば、連邦軍将校と管制官のやり取りが微かに聞こえてくる。連邦首都、ロリヤ長官、移送、ベルン、看護師、レルゲン邸……。
どうにか拾い上げるその言葉から、これが連邦軍中枢からの指令でないことを知る。通りでずさんな計画なはずだ。それを利用しようとした結果、今自分はこうなのだから世話ないのだが。
存在Xめ、嫌がらせが過ぎる。捕えられた先がよりにもよってコミーとは。
術式で痛みの中和と思考の分割こそしているものの、体への負担は間違いなく積み重なっていく。幾度か視界が白く飛びかけて、その中でも彼女は状況収集をし続ける。
どれだけ時間が経ったのか分からなくなってきた頃。
連邦軍の拠点がにわかに混乱の声を上げ始める。遠くから砲弾の音も聞こえてきた。
あぁ、ようやくだ。
慌てたようにターニャを別の場所に移送しようとする連邦軍兵士を前に、彼女は魔導反応を大きく膨らませる。
「中佐殿っ!」
それ目がけて腹心の部下たちが飛び込んできた。
救出をさせまいと立ちふさぐ兵士を第一中隊は軽くいなし、ヴィーシャがターニャの小さな体を抱き上げるのを守るように円陣を組む。これまでにない憎悪のまなざしで周囲を睨む部下たちに彼女は早く引き揚げろと掠れた声で命じる。
ヴィーシャはすぐさまそれに応じた。
「03より02、第一目標を保護。これより離脱します」
<04より02、第二目標を確保。同じく離脱する>
<02了解。手筈通りに離脱せよ。全軍遅れるな!>
強襲部隊が上空へと離脱を図ると同時に、ヴァイスが信号弾を放つ。
それに呼応し、連邦拠点に、帝国軍砲兵隊の長距離砲撃が襲いかかった。
<敵拠点への命中を確認。武器庫に命中し、現在延焼中>
ザッ…ザッ……とノイズの向こうから攻撃の成功が届けられる。サラマンダーを追おうとする動きもこれでいくらか和らぐだろう。
「CP了解。サラマンダーは後方偵察を行いつつ帰還せよ」
報告を受けて司令部に安堵の息が漏れる。その報はすぐに広まり、どうにか『白銀』を取り戻せたことで至る所で歓喜の声が聞こえていた。ネームドの精神的支柱としての役割がいかに大事かが分かろうという光景だ。
だが、ターニャの怪我の状態が相当にひどいという報告ももちろん伝えられており、レルゲンは険しい顔を崩せずにいた。
「レルゲン准将閣下」
そんな中、管制官から困惑しきった声で名前を呼ばれて、彼は視線を向ける。
「救出された中佐殿からなのですが……」
「なんだ」
「……コミーと遊ぶ時間を頂戴し感謝いたします、と届いております」
暗に遅いと嫌味を言ってきた。
ちゃんと待っていたんだぞと言わんばかりの彼女の言葉に、さすがのレルゲンも鉄面皮を崩す。まったく大したものだ。
同時に嫌味を吐けるくらいには無事なのだと知れて、彼もようやく安堵の息をついた。
* * * * *
その夜、デグレチャフが無事救出され一時後方の病院に下がるという情報は首都にも伝わっていた。
レルゲン邸でひとり待つマルガもそれを聞いてほうと胸を撫で下ろす。
だが、それもつかの間、先日のように玄関の扉がノックされる。マルガは目を眇め、ゆっくりと玄関へ向かう。すぐには扉を開けず、玄関の前でしばらく様子を見る。
もう一度ノックの音が家に響いた。
マルガは扉のチェーンは掛けたまま、隙間から外を伺う。
「……こんな夜分に、どなた様でございましょうか」
「参謀本部より参りました。中に入れて頂いても?」
マルガは声の主の頭の上からつま先までひととおり観察して、渋々といった表情で一度扉を閉めた。チェーンを外す音が聞こえて、彼は中に招かれる。
「何かございましたか?」
廊下を歩き、客間へと案内をしながら彼女はそう尋ねる。
「実はデグレチャフ中佐殿が負傷をしまして……その看護に貴殿をお呼びなのです」
「まぁ、それは大変ですわ」
前を歩いていたマルガが振り向きざまにそう言った。ええ、そうなのです、と彼も答えようとして、そこで視界が回転した。何が起きたかわからぬまま地面に体をしたたか打ち付けて呻き、ようやく組み敷かれたことに気がつく。
男が目を剥いて彼女を見れば、光学迷彩術式が剥がれたレルゲンの副官が銃を突き付けていた。さらに周囲を見渡せば、幾人かの帝国軍人が同じように銃口を向けている。
嵌められた――。
気づいた時には既に遅く、掴まれた頭を床にたたきつけられ彼は意識を失う。
「まったく、錆銀が人質程度で揺らぐと考えるなんて愚かですねぇ」
婚約という形でわざわざ弱みに見えるものを作り上げたものの、まさかこんなにうまく釣れるとは。
副官は呆れたように、足元に転がる連邦魔導士を見る。
婚約者たるレルゲンが殺されたとて、内心はどうあろうとも、あの中佐殿はいつものように戦場を飛び回るだろうと副官は考えていた。そんな柔な人間が化け物などと呼ばれるはずもない。
「……連邦内部での矛盾が生んだ焦り、ですかね」
これはきちんと報告せねばなりません。
レルゲンの優秀な部下たちはさっそく次の任務へと取り掛かる。
同時刻、首都の高級住宅街。
「……おふたりはご無事でしょうか」
真白な生地に細かな刺繍を施しながらマルガは呟いた。
あの日、ターニャの警告を受けたレルゲンは、ゼートゥーアにマルガを保護してもらえるよう許可を願い出ていた。その結果、身代わりとなる魔導士官と入れ替わりに、彼女は作戦が終了するまでこの屋敷で匿われることになったのである。
心配そうな彼女に、鷹揚な女性が安心させるように声をかける。
「必要以上の心配をしない事ですよ、ブラウアーさん」
マルガが声の方に顔を向ければ、この家の女主人であるゼートゥーア夫人がどっしりと構えた様子で、彼女もまた刺繍を続けていた。
「あなたの主たちは強い方々でしょう?今は信じて待ちましょう」
その言葉にマルガは瞳を潤ませながらも、はい、と力強く答えた。
彼らが帰ってきたら何を言おう。
まずは何も説明がなかったことを叱って。次は怖かったと嘆いて。
そして、抱きしめて感謝を伝えよう。
マルガは手元の刺繍に目を落とす。
お嬢様はまた嫌がるかもしれないが、これだけは着てもらわなければ。
そうして彼女はふたたび作業に没頭し始めた。
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第9話 Operation Distel Ⅲ
「なぜ!なぜだっ!」
重厚なオークの机に、感情のままに拳が振り下ろされた。
連邦首都で激昂しているのは長官ロリヤである。
彼の下に、彼が恋い焦がれる女神こと『ラインの悪魔』を捕虜にしたという報が届けられたのが昨日の昼過ぎのこと。信じられない思いで幾度となく情報の真贋を確認させ、踊り出さんばかりの喜びを讃えたまま最高のサプライズを受け取ったはずだった。
しかし、その日の夕方には一転して、彼の掌から彼女がすり抜けてしまったという許され難い報告が上がってきたのだ。
報告はそれだけにとどまらず、前線将校たちがかの少女をしたたか甚振っていたことや、彼女を帝国へ連れ戻したのが婚約者とされる青年将校の指揮によるものだということまで伝わっていた。
おかげで彼の心情は暴風のように荒れ果てている。
その怒気に中てられた部下たちは自らの些細な言動ひとつも彼の更なる勘気に触れぬように委縮しきっていた。今、何かあれば収容所では収まらない。
だが、それは杞憂に終わる。
ロリヤが“愛”と称するそれは傍目には狂っていた。故に彼は考える。
彼女はきっと私とまだ遊びたいのだ、と。
そう考えて、彼は自分の背筋がぞくぞくと甘く震えるのを自覚した。
素晴らしい。彼女は私の事をよく理解してくれている。
彼女が望むなら喜んで付きあおう。ついでに婚約者などとほざく男も消してしまえば、後顧の憂いも払えるというものだ。
そこまで考えてしまえば、彼の行動は早かった。
早急に同志書記長と会議を設定するよう部下に申し付けて、彼はひとりほくそ笑む。
「『ラインの悪魔』の捕獲に失敗したようだな」
モスコーの地底に同志ヨセフの冷ややかな声が響いた。急遽集められた面々は会議開始早々に、今、最も触れてはならない話題にやすやすと触れられて顔面が蒼白となる。対して責められている筈のロリヤはニコニコと笑って否定する。
「同志ヨセフ、まだ作戦は完全に失敗したわけではありません」
あろうことか作戦の失敗を否定し、まだ続けられると述べる。書記長ヨセフが胡乱げな顔をし、それを見た多くの者が固唾を飲んで状況を見守る。
「同志書記長、お考えください。かの将校を我が軍は追い詰めたのです。今やあれは傷だらけで身動きが出来ないと聞いております。今なら、帝国に潜り込ませている奴らの手でそれを奪うことが出来るでしょう」
失敗した前線将校たちの粛清や処分が行われると思っていただけに、列席者面々は違和感を覚える。同志ロリヤは何を考えている?
「そこまでする必要があるのかね。これ以上の踏込は、帝国中枢にようやく忍び込ませた者にまで類が及ぶだろう。それは痛い」
この国では兵士が畑で採れるとは言え、潜入捜査ができるまで教育をするのには時間がかかる。不要なことをするなと諌めるヨセフに、ロリヤはさらに否定を重ねた。
「いいえ同志書記長。今しかないのです。今、この時を逃せばあの悪魔を捕える機会はもう二度と訪れないでしょう」
未だニコニコと笑いながら、躊躇いもなくそれを語るロリヤに場が凍りついていく。彼の考えていることがまったく理解できなかった。
「各国に先立ち、あの悪魔を我々連邦が手に入れる。首都襲撃による外交の傷を癒す機会です」
そう言われて同志ヨセフの心が揺れる。偉大なる独裁者の面子を蹴り飛ばしたあの首都襲撃の一件は決して許せないものなのだ。
「周辺国との戦闘も分析させておりますが、戦線の鍵は常に彼女です。今、それをこの手にすれば、必ずや帝国へのとどめとなりましょう」
それに、と彼は続ける。
「失敗した愚か者を我々の手で処分すれば弾の無駄です。兵士は畑で採れても、銃弾には多くの資源が使われているのは周知のとおり。帝国に処分させればよいではないですか」
その結果、彼女が手に入るならば奴らの命など数に入らない。
ごくり、と誰かが息を飲む音が響いた。
やはり彼らは処分される運命なのだと知りたくもないことを知ってしまった。連邦の収容所と帝国の尋問ではどちらを選べば苦しみは少ないだろう。
「同志ヨセフ書記長、よろしければ皆の意見も聞きたく思います」
それはダメ押しの一言だ。水を向けられた側が恐怖に固まる。もし、ヨセフがそれを望まなかった場合、どちらにつけば生き残れるのか。
「……よかろう、同志。帝国の息の根を止めるためだ」
誰かがヨセフのその言を聞いて安堵の息を零す。これで賛成さえすれば良くなった。
そして、全会一致を以て作戦は続行されることとなる。
無事に許可を得られたことで、ロリヤは有頂天になっていた。
傷だらけのまま帝国へと逃げ延びたというロリヤの女神。
聞いた時にはそれを為した将校らをどうしようかと思っていたが、もう一度彼女を手に入れる機会を得た今となれば些細な事であった。
どころか、彼女の傷を思い、ロリヤは歓喜に満たされていた。
白い肌についたその傷を愛撫すれば、きみはどんな風に啼いてくれるだろうか。目の前で婚約者とされる男を殺して見せれば、その端正なお顔を歪ませてくれることだろう。
それを思い浮かべただけで笑いが止まらなくなってくる。
麗しのわが女神よ。今、迎えに行こう。
真理省がアップを始めました。筆者のシベリア送りが近いようです。
その時はみなさん、どうか探さずお祈りくださいませ……
2017/11/5 誤字報告ありがとうございます
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第10話 Operation Distel Ⅳ
やはり帝国は悪魔だ。
帝国中枢への潜入任務を担当するその男は眠れぬ日々の中でそう考える。
『ラインの悪魔』奪取作戦を機に仲間が次々と捕えられていた。次は自分かと怯えるようになって早数日。失敗として早々に切り上げればいいものを、祖国がなお継続を押し通したがためにこの状況だ。守りたいものを守るために戦ってきたのに、なぜこんなに追い詰められているのか。
逃げられるものならば逃げてしまいたい。早くこの状況に変化が欲しい。
だが。
成功以外に彼にはもはや道はない。彼の後ろで権力者ロリヤが嗤っている――。
* * * * *
ターニャが後方の病院に下がって数日後、人々が寝静まった時間になってレルゲンは彼女の病室を訪れていた。未だ作戦が終わらないために彼は多忙を極める中、やっと抜け出せたのは日付が変わろうかという時刻になってからだった。
訪れてみれば、将官用に与えられた個室で、彼女は穏やかに眠っている。
「ターニャ……」
彼は愛おしげにその頬を撫ぜて、彼女の体温を確かめる。
包帯こそ巻かれているものの彼女は静かに寝息を立てており、傷が癒えつつあるのを知って安堵する。この目で彼女を確認できるまではと思い続けていたのだ。信じてはいたが、体の芯が冷えていくあの感覚は今も忘れられない。
「……無茶をするなと言えればいいのにな」
彼女が起きていれば絶対に言えない言葉を彼は口にする。この戦況では彼女と共に歩むためにも生きていくためにも避けては通れないことだが、恨み言のひとつも言いたくなってしまう。
そうしながら彼女の金糸の髪を梳いていると、彼は自分から漂う紫煙の香りに気がついた。ターニャがレルゲン邸に帰るようになってから意識して煙草の量を減らしていたのだが、この作戦でまた香りが染み付くほどになっていたようだ。
何事も冷静に為す彼女と違って、この身はやはり凡人なのだと思い知らされる。
それでも、こうして触れることを許してくれている事実が堪らなく彼の情を掻き立てていた。彼は目を細めたまま幾度も幾度も彼女の髪を梳く。
どのくらいそうしていただろうか。
情けなくも、気がついた時には背中に冷たく固いものが当てられていた。抗う間もなく手をあげるように指示をされ、レルゲンは素直に従う。
「こんなところにまで入り込んでいたとは。熱心なことだ」
先ほどまでの男の表情を消し去って、普段の冷徹な顔で嫌味を言えば、ぐっと銃口が背中に強くあてられた。軍人ならば、自分をさっさと殺して彼女も始末すればよいのに。冷静にそう考えてしまう自分が少し腹立たしい。
「連邦にとっても最も邪魔になるのは彼女だろう。それを置いて私から始末しようとは、何が目的かね?」
彼は今まさに死が迫っているとは思えないほど冷静に問うた。背後の男は当然答えないが、レルゲンはそのまま問いを重ね続ける。
「まさか私が人質になるとでも思っているのか」
本人でさえそんなことにはなり得ないと考えている。ターニャならば切り捨てて前に進むだろう。彼自身もまた、彼女の枷になるくらいなら退場することを選ぶ。
そこまで言って、ふと思い当る。
「それとも連邦内部で彼女に執心している人物がいる噂は本当だったのかね?」
突きつけられた銃口に微かに揺れ、力が籠る。
その動揺を感じ取った瞬間、レルゲンはターニャに覆い被さるように自ら体勢を崩し、右足を後ろへ流して背後の男を足払いにかかった。流れの中で男に向き合い、ターニャを背にかばうと、レルゲンは懐の銃に手を伸ばす。男は人質にすることを諦めて発砲しようとして、信じられないものを見たように目を大きく見開く。眠っているはずのターニャが鬼の形相でこちらを睨み付けていた。そして、レルゲン越しに彼女は先んじて弾を放つ。
空に赤い花が咲いた。
銃を撃ち落とされ体制を崩したその隙にレルゲンにねじり上げられると侵入者は呻き声を上げる。
「デグレチャフ…貴様……薬を飲んでいたはず……‼」
レルゲンはそれを聞いて大いに顔を顰める。だがターニャはいっそ蠱惑的とも言えるほどに壮絶な笑みを見せる。
「あの程度の対処もできずに対尋問訓練の教官などできんよ」
彼からすれば対処されることも想定した上で相当に強い薬を盛っていたはずなのだ。愕然とした敵士官を見て、追い打ちをかけるようにターニャは鼻でせせら笑う。
今回、ゼートゥーアの策が見事に嵌った。連邦の思惑どおりに彼女が攻撃を受けることで、帝国内部に巣食うモグラどもの情報網を観察。ターニャを捕えようという動きは随分と前からわかっていたので、帝国中心部にまで入り込むそれらを活性化し、最後に一網打尽にしようとしていたのだ。
「とはいえ、まさか中枢に潜り込んだきみたちまでもが本当に出てきてくれるとは。うれしい悲鳴だよ」
おかげで綺麗に掃除が出来るというものだ。忌々しいコミーには違いないが、今だけは愚かなる連邦司令部に感謝を告げてやってもいい。
「楽しんでいただけたかね?」
人の悪い笑みを浮かべたまま、銃を向けていた彼女は「さて」と一呼吸置き、レルゲンにちらと目線を向けた。それを受けてレルゲンが言葉を継ぐ。
「貴官についてはゼートゥーア閣下とルーデルドルフ閣下が直接『お喋り』したいと仰せだ。いい機会だろう、存分に話したまえ」
怯えを隠せないまま逃げようとする敵魔導士を、ターニャは優しく撫ぜる。
その瞬間、絶叫が響き渡った。
ターニャが対拷問訓練の時からよく使っていた、神経に直接作用し痛みを引き起こす術式だ。一撫でで死をもかくやというほどの痛みを与えられて、連邦魔導士は悶絶する。
「死なれては困るからな」
床に転がした犯人の軍服をまさぐり演算宝珠を奪い取る。帝国製と連邦製の2つを所持しているのを確認して、この作戦後を思って暗澹たる思いを抱える。
とはいえ、それはまずこれが終わってから考えるべきことだ。
痛みにうずくまる間に男は魔術により拘束され、ターニャは足元のそれを見下ろす。
「安心したまえ。義務さえ果たせば、条約に則り相応の待遇は約束しようではないか」
拘束された魔導士官は歯ぎしりをしながらターニャを睨む。
各地の戦線で名を馳せる203大隊に拷問といってもいい過酷なまでの対尋問訓練を課したのはまぎれもないこの幼女。それはつまり、条約に抵触しない尋問の仕方について精通しているということでもある。
自分の身にこれから訪れる未来を考え、敵魔導士官は憎悪の視線をターニャに向けることでそれに立ち向かおうとする。が、まったくもってそれは逆効果だ。
彼女はつま先でくいっと彼の頤を持ち上げ、冷ややかに見返す。
「まだそんな目を向けられるとは、連邦士官殿はずいぶん気骨があるではないか」
向けられた瞳の奥が青白く輝いたのに気がつき、敵魔導士官が目に見えて震えた。
「中佐」
「あぁ、これは失礼いたしました」
さすがに苦言を呈される。ターニャはおとなしくそれに従った。
「ご無事ですね!?レルゲン准将、デグレチャフ中佐っ」
そこへレルゲンの副官を先頭に憲兵たちがなだれ込んでくる。「突入が遅い」などと幾つかの苦言を受けながらも彼らは命令の下、手際良く侵入者を移送していった。
出ていく間際までレルゲンは男をじっと見つめる。ついに諦めた彼に浮かんだ、絶望と終わったことへの安堵がない交ぜになった表情。負けた者の顔が焼き付いていた。
彼は一度眉根のしわを解し、そしてターニャに声をかける。
「いつから起きていたんだ」
「あなたに銃が突き付けられたくらいでしょうか。殺気で起こされましたよ」
レルゲンはそっと胸を撫で下ろす。だが、それをうまく押し隠して、彼は言葉に怒りを含ませる。
「今回は肝が冷えたぞ」
「仕方ないではありませんか。これも軍務です」
「ならば閣下ときみだけが抱える必要もあるまい」
病室にふたりきりになったからか、彼は軍人らしさが薄れて言葉の端々に感情が乗っていた。彼につられるように、ターニャも軍人の仮面が剥がれていく。
「これが一番手っ取り早かったんですよ」
ターニャは嘆息する。それに恨みがましい視線を向けられて、観念したように彼女は告白した。
「……私ひとりのためにあなたやマルガさんに害が及ぶのは許せなかったもので」
彼が目を剥いて彼女を注視する。詰めた息を吐き出し、ようよう声を掛けようとした瞬間、ゆらりと彼女の小さな体が傾いだ。
「タ、…中佐っ」
レルゲンがターニャを抱きとめる。レルゲンが覗きこめば、彼女の顔は血の気が引いて真っ白だ。病院衣ごしに、じわりと血が広がるのを手に感じて急ぎ彼女を横たえる。それを見て室の外から彼らの様子を伺っていた部下が医師を呼ぼうと走っていく。
「傷が……っ」
レルゲンの切羽詰まった声に彼女は弱弱しく笑い返す。
「銀翼突撃章受勲の時に比べれば、この程度何ほどのこともございません」
傷が開いてしまったのに呻き声一つ上げない彼女が痛々しく、彼の眉間のしわが深くなる。
痛みに脂汗をかきながらもターニャがゆっくりと腕を伸ばした。
何事かとレルゲンが屈んで顔を近づけると、彼女の小さな手のひらが彼の眉間に触れる。
「また、しわが、深くなっています、よ」
自分の状態も気にせずそんな事を言うものだから、レルゲンは泣きたくなって顔をくしゃりと歪めた。
今はそんな事を言っている場合ではないだろう。誰を思ってこうなっていると思っているのか。
あぁ、このまま抱きしめていられればどんなにいいだろう――。
「さぁ…もう、行って、ください…あなた、には、あなたの、やく、め、が……」
それでも彼女は息が上がり掠れていく声でそう言うのだ。
哀しいことに、彼はそんな彼女も愛してしまった。
ぐっと唇を噛みしめると、睦言のひとつも囁かずに、彼は病室を後にする。
霞ゆく視界の中で、ターニャはふふと微笑んだ。
あんなに泣きそうに全てを放り出したいという顔をしながら、それでも、こんな状態の自分を放り出して軍務に戻れる理性の人。
そんな彼だから、愛されてもいいかと思ったのだ。前世との矛盾さえ乗り越えて。
傲慢な考えだとは自分でも思う。
しかし、前世より合理主義で通してきた彼女には愛だの恋だの浮ついたその感情はいまだによくわからない。自分の中にそんなものがあるとは信じられずにいる。
ターニャの中にあるとすれば、執着。
あの人を手放したくないという、胸の中に巣食うドロドロとした何か。
それを恋だというのなら、世界が狂気に覆われるのも仕方あるまい。
そんな事を遠くに思いながらターニャは意識を手放した。
* * * * *
その後、連邦の間者とそれに協力していた帝国内部の癌の切除は、俊英と名高いその男が真価を発揮したことによって瞬く間に収束していった。これまでの彼とは別人のような指揮に驚愕の声も聞こえたが、多くはさすが『恐るべきゼートゥーア』の右腕だとして、その鋭すぎる手腕は帝国内部でも高い評価を受けることとなる。
各部署からの報告が出揃った頃、参謀本部ではゼートゥーアとルーデルドルフは紫煙の中で顔を合わせていた。
「どうにかうまくいったな」
「ギリギリすぎる。中佐が捕えられた時は随分肝を冷やしたぞ」
夜中の一件があって以降、集中して治療を受けたことでターニャは早い段階で容体が安定している。それでも幼い身には無理を強いたとあって、彼女が血を流して気を失った事実は司令部に衝撃を与えていた。
「……だが、それ以外は予定通りだ」
まぁな、とルーデルドルフは渋い顔をする。
「彼女はよくやってくれた。准将がここまで化けたのも嬉しい報せだな」
ふたりは生真面目な顔の将校の顔を思い浮かべる。
優秀ではあったが繊細すぎる部分が玉に瑕だった。しかし今回、彼は自らの感情を理解し飲み込んだ上で、あの指揮が取れるようになった。随分とたくましくなったものだ。
我々の後を任せられる者たちが育ちつつある。
それを思えば、彼女には感謝してもしきれない。
「とはいえ無理難題を命じたのも事実だ。詫びの印に褒美でも用意しようか」
「褒美どころか祝いの品かも知らんぞ?」
ルーデルドルフが茶化して見せれば、ゼートゥーアは思っていたよりもそれを真摯に受け取った。
「なるほど。では特注品を用意しよう」
ゼートゥーアがそこまでするとは。ルーデルドルフは楽しげに考え出す。
「ふむ、彼らの瞳は何色だったかな」
そんな彼にゼートゥーアは呆れたように鼻を鳴らした。
「お前は変なところでロマンチストだな」
「これくらいは許せ」
もうそれくらいしか彼らに報いることが出来ない。
苦笑と共に告げられたルーデルドルフのその言に、ゼートゥーアも顔を引き締める。
ふたりの脳裏に少女の姿が過った。
彼女は言った。この作戦が終われば決断の日は近い、と。
その決断の結果は後世売国奴と罵られても仕方のない所業だが、それでも、祖国に光をもたらすためなら我々の涙など安いものだ。
ふたりはそれぞれ気に入りの葉巻に火をつける。
口に馴染んだはずのその味は、どうにも苦かった。
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第11話
この話以降、Web原作の後半を示唆する内容が含まれます。未読の方はご注意ください。
手離したくないと願う心は間違いなく自分のもので、それはきっと永遠に胸の中でくすぶり続ける。
それによっていつの日か後悔する日が来るかもしれない。
それでも、そのために生を諦めるなどできはしないのだ。
* * * * *
オペーレーション・ディステルを受けてか連邦の動きが一時衰えた。帝国の諜報部隊によれば、白銀奪取が叶わなかったことで制裁が降りたらしい。
帝国はその隙を逃すまいと、次の手に打ってでる。
「来てしまったな」
ゼートゥーアがひとりごちる。とうとうその日が来てしまった。それを示唆されてから回避する方法を考え続けたが、どれだけ考えてもその未来が見えない。紫煙を燻らせながら感情を抑える彼の目の前で、ターニャはその決断を待っていた。
「どうかご決断を、閣下」
ターニャの強い語気に促され、横で聞いていたルーデルドルフは一縷の望みがないかを探す。
「……もう覆せんかね?」
「その段階は過ぎたと確信いたします」
彼女の言うとおりだ。わかっていて、それでもと願うのは愚かな感傷に過ぎない。
だが、それにしても、なぜこの幼女はそれをこんなにも冷静に話せるのか。少しは躊躇いや悔しさを滲ませてくれれば人間味もあるのだが、彼女にそれを望むのは間違いなのだろう。
「我々は責務を果たせるかね」
「果たしましょう。我々に残された道はそこにしかありません」
断言した彼女にゼートゥーアとルーデルドルフは視線を交わす。
ゼートゥーアはもう決断をしたらしい。旧友の覚悟を見てとってルーデルドルフは最後に聞きたいことがあった。それは本来ならするべきでないが、この祖国を任せてもいいのかという故に出た質問だった。
「彼は知っているのか」
「閣下が決断されれば知ることになるでしょう」
「それでいいのか、貴様は」
「何を迷うことがありましょう。私は帝国軍人です」
揺らぐことなく当然のようにのたまうターニャを見ればゼートゥーアやルーデルドルフですら恐怖を抱く。こんな彼女に、なぜレルゲンが沿う決心をしたのかが彼らには理解できなかった。この化け物と縁を結ばせたときに多少なりとも申し訳なさがあったはずだが、それが杞憂となって久しく、今や彼らは帝国の双璧ともいえる存在感を示している。
サラマンダー戦闘団といい、レルゲン准将といい、この化け物に感化された者はみな狂気に飲まれてしまうらしい。
そう思ってふたりは自嘲する。彼女を戦場に送り続ける自分たちが何を言うのだ。そうだ、狂わなければ生き残れない時代ではないか。ならば、狂気のこの作戦に乗るのも一興だろう。とうの昔に腹は括ってある。
「貴様の案でいこう、デグレチャフ中佐」
「貴様らになら後を任せられる」
二人の決断に、ターニャはできる限りの礼を尽くした。
その後、秘密裏に集められた会議にて、レルゲンはその案を初めて目にした。
作戦への驚愕や懸念さまざまな思いが渦巻く中、いくつかの視線が彼を気遣わしげに伺っている。表面上は普段通りなのが余計に不安を煽った。
その視線とは別に、レルゲンはただひたすらに作戦内容を精査していた。今ここにあるべきはライヒの未来を担う帝国軍人であって、彼女を想う男ではないのだ。なればこそ、僅かばかりの瑕疵も許さぬようにあらゆる状況を想定し他の手を模索し続ける。
けれど、彼の目には瑕疵は見つからなかった。
さすがは愛すべき化け物。この期に及んでミス一つもしようものがない。
彼は会議の場であるにもかかわらず、口の端を釣り上げる。それを見た幾人かが動揺するのがわかった。対照的にゼートゥーアとルーデルドルフは誇らしさすら交えながら様子を見ている。
作戦を見て笑う彼を見て、彼女が知らせなかったのがようやく理解できた。言わずとも己がなすべきを理解するならば彼女も安心して戦地へ立てるだろう。
なるほど、自分たちが口にした「後を任せる」という言葉が身にしみる。何十年がかりとなるであろうライヒ再興を担える人物がここに揃っている。ならば、我々は後進の道を整え、あるべきところへ向かうのみ。
「諸君」
ゼートゥーアの声に皆が姿勢を正し、注視する。
これまでのライヒを支えてきた者の重みが、その声には宿っていた。
「諸君らがライヒを救うのだ。頼んだぞ」
* * * * *
要らないと言ったはずなのに、上官たちの計らいで作戦前に時間が与えられた。余計な感傷を得たくはなかったが、命じられては仕方がない。その時間を扱いあぐねた結果、ふたりはいつものようにコーヒーを飲むことにした。しかし普段ならテーブルを挟んで向い合せに座るはずが、今日ばかりは長椅子に横並びに腰かける。
ヴィーシャの淹れたコーヒーを飲みながらターニャが懐かしい話を持ち出した。
「以前、あなたに潜入任務は向かないと言われたのですが…、覚えていらっしゃいますか」
レルゲンは柳眉を寄せて考えるが思い出せない。
「いや、すまないが……」
「初めて二人で出かけた時のことです。言われた時は随分と腹を立てたものですよ」
彼は驚いたように目を瞬かせた。
「湖畔の店に行ったときか?あの時のことを覚えていてくれたのか」
「あなたは私を何だと思っているのですか 」
呆れたように責めるターニャにレルゲンは謝るしかない。作戦前に何て体たらくだ。
軍人としての顔がすっかり抜け落ちた彼に肩を竦めて、ターニャは意地悪をしてみる。
「あの時そんな風に称された私が、潜入任務を任されるとは思いませんでしたよ」
「きみはいつだって私の想像を超えてくるからな」
自分が立案したくせに冗談めかしてそう言うターニャに、レルゲンも口の端を吊り上げさせて同じように返す 。
「今回だって成し遂げて見せますよ」
ターニャはいつもの自信に溢れた凶悪な笑みを見せる。脇目に彼女のその顔を見て、レルゲンは苦しそうな顔に変わり、絞り出すように本音を吐露する。
「……すまない。止めない私を許してくれ… 」
それは命令を絶対とする帝国軍人としてであり、彼女を愛するひとりの男としての言葉だ。
ターニャはその言葉を受けて、まっすぐと空を見たまま微笑む。
「いいのです。そんなあなたを私は愛しているのですから」
常に冷静なはずの彼がその言葉に体を大きく震わせた。ぎこちない動きでターニャの方を向いたレルゲンは顔をくしゃくしゃにしながら泣き笑いをする。
「初めて、言ってくれたな」
震える声でそう告げて彼は、細いターニャの体をかき抱く。
「タ、ーニャ…ターニャ、ターニャ、ターニャ…っ、愛している…愛している……っ!」
切なる声が彼女の心に沁み込んでいく。なんと甘い声か。蜂蜜のようにとろける声に、せっかくの覚悟まで絆されてしまいそうだ。ターニャの声も普段の険がとれ、甘く濡れ出す。
「ええ、エーリッヒ。愛しています」
この時が永遠であればいい。このふたりをしてそう思わせた。もう2度と離れたくない、と。
しかし、無情にもドアを叩く音がした。この蜜時の終わりを告げられる。
「エーリッヒ」
ゆっくりとそのわずかな隙間さえ惜しむように彼らはその腕を緩ませる。
「必ずあなたの下に戻りますよ。私は生きるために行くのですから」
ターニャの誓いが胸を打つ。そう言いきられては、もう止める術はない。
レルゲンは覚悟を決め、代わりに覚悟の証ともいえるものをひとつ差し出した。
「待っている」
彼の掌の中で鈍く光るそれは、アザミ作戦のときに彼女が返したあの鍵だ。
ターニャはこの段になってようやくその端正な顔をゆがませた。
自身の内からそんなものは受け取るなと声が聞こえる。それは自分を縛る呪いだ、この関係は切り捨てて新たな地で生を望めと声高に騒ぎ立てる。
以前の彼女ならそうしただろう。合理的に生きようと思えばそれは間違いなく正しい。
しかし。
「……お預かりいたします」
その感情を封殺して、彼女はその鍵を握りしめる。
前世と合理性、その他様々な矛盾を殺して得たものを彼女はもう諦めようなどとは思っていなかった。前世に引きずられていない、この世に生を受けた『ターニャ・フォン・デグレチャフ』という一個人だから持ちうる感情。今となればむしろそれは心地がいい。
そして、ふたりは全ての感情を拭い去って、軍人の仮面を被った。
「ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐。任務の遂行を願う」
「はっ、行ってまいります」
「「ライヒに黄金の時代を」」
かくして妖精は異国の地へ舞い降りる。
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【幕間】テレビ
かの大戦からしばらく経った。
ゆっくりとだが街は復興を始め、戦争を知らない新たな世代が生まれている。最早日常になっていた争いが、徐々に歴史として遠い認識へと変わっていく。
そんな時勢の中で、大戦末期の白黒写真や映像がテレビで流れていた。
国際チャンネルで流れるその番組に、今この時、国境を越えて多くの者が見入っている。
しばらくするとアナウンサーと解説者の対談へと場面が切り替わった。
「今ご覧いただいていた作戦。ここで彼女の足跡は途切れたんですね」
「ええ、公式記録ではデグレチャフ中佐の率いていたサラマンダー戦闘団は壊滅。彼女もそこで戦死したとされています」
「ではふたりは結ばれることはなかったと」
「そうです。
さらにその後。敗戦が決まり条約が締結された後ですが、婚約者のレルゲン少将が亡くなっています。公式では自殺とされていますね」
公式記録の中では帝国に黄金時代をもたらせなかったことに責任を感じてのことだろうとされている。ゼートゥーアが処刑された日に自殺したと記録されているため、その記述が信用されていたのだ。
「ですが面白いことに、旧帝国軍人の中ではデグレチャフ中佐の後追いだったと噂されていたそうですね?」
解説者は頷いてそれに同意する。
「一般人が歴史を振り返ると、非常に冷徹な軍人というイメージがあるのですが、どこからそんな噂が?」
現在一般に知られる人物像では女を追って後追いするような軟弱な男には見えず、どちらかと言えばゼートゥーアと共に狂気的な軍略を為した軍人という方が強い。しかしそれが実際に彼と会ったことがある者たちと共通のものとは限らない。彼らはレルゲンを人情ある人だったとも称している。
「占領に関わっていた軍人や旧帝国軍人の何人かに話を聞く機会がありました。彼らは口を合わせて、少将が軟禁されていた室から泣き声が聞こえていたと言います。ですが、あまりに人物像とかけ離れていたため、祖国を思っての慟哭であり、彼女とのことは戦後の混乱の中で生まれたデマ、あるいはイメージ操作のための美談だろうとされてきました」
「なるほど。それが今回の婚約証明書の発見で真実味を増したのですね」
解説者は同意して、さらに多くの資料を提示しながら彼らの人物像に迫っていく。
「先の大戦の敗者となった帝国は今まで悪とされてきました。確かに残虐な作戦を多く為してきたのは紛れもない事実で、それは今後も人類に対する罪として憎まれるべきことです」
ですが、と解説者の言葉に熱が宿る。
「その裏には祖国を想い戦った少女と、それを守らんとする青年将校の愛があった事もまた忘れてはならないでしょう」
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第12話
今回もweb原作ネタバレ注意です。
その男は胃痛を抱えながら椅子に腰かけていた。
疲労の濃い表情ではあったが、そこに安堵もあったのは、人類が初めて目の当たりにした大戦の結末が見えていたからだ。巻き込まれた国々のここまでの道のりに思いを馳せれば、大陸が違うとはいえ、我々は非常に幸運であったと言えるだろう。
その中でもとりわけ印象に残っているのは、連邦で最も相手にしたくないと考えていたロリヤの末路だ。白銀奪取作戦の失敗を受け中枢から遠のいた彼は、復権を賭け、単独ルートで合衆国の新型爆弾へ手を出したのだ。うまくいけば帝国東部戦線を崩壊させ、連邦が帝国を呑みこむこともできたかもしれない。だが、そうなる前に、ロリヤが勝手に動いたことがヨセフをとうとう怒らせた。『病気療養』などと言われてはいるが、ほぼ間違いなくこの世にはもういないだろう。
なぜ印象に残っているのかと言えば、それが合衆国としてもタイミングが良かったからだ。ちょうど帝国の使者、ウーガによってもたらされた情報を精査し終わったときだったのだ。おかげで、ロリヤの思惑に乗り、先走って新型爆弾を使用しようとする一派を適切に処分することができた。あの爆弾が使用されていれば、この後迎えようとする軍人らは素直に従わなかっただろう。
どうしようもないその一派を思い出し、薄いコーヒーを飲みながら男はトントンと神経質そうに指で机を叩く。
この後を考えれば、あれが実行し得たという事実が重く横たわる。なにせ我が国が得たそれが世界に広がれば次なる大戦も避けられそうにないので。
同時にかつて袂を分かった連合王国首脳部にはあきれ果てるしかない。早々に帝国を占領すれば合衆国に旨みを持っていかれることも無かっただろうに。
とはいえ、おかげで、我が国があの狂犬を確保できる。確定された戦争裁判の判決を考えれば、その意味は大きい。再軍備を恐れる声が上がるのは避けられないので、その要を抑えられるかどうかは政治的にも役立つ。
そんなことを考えていれば、かの日のウーガの言葉が浮かび上がってくる。
――白銀の首輪、興味ありませんか?
お世辞にも交渉に慣れていなさそうな軍人から出たその比喩に、聞いた時にはなんのことかと思ったものだ。だが、あの情報があるかないかで我々のとるべき行動が変化した。
あとは、そのための任務を自分が担いさえしなければどれだけよかったことか。
ため息をつき、腹を押さえながら呻いていると、己の右腕が入室してきた。
「局長、お時間です」
わかったと応えて彼はその部屋を出る。迎えに行く先を考えて胃が再び悲鳴を上げ出すが、これも平和のためだ。仕方が無い。
* * * * *
帝国は敗北した。
受け入れがたいそれを、祖国が焼かれるという過ちによって目の当たりにし、ゼートゥーアが震える手で調印したのももう数週間も前の事だ。あれ以来、帝国は戦勝国の管理下に置かれ、両将軍もレルゲンもそれぞれ個室が与えられた上で軟禁されている。他のものが聞けば驚くだろう。その対応は敗戦国の中枢にいた将校に対するものとしてはありえないほどに優遇されている。正直この後何が待ちかまえているのかと勘繰るレベルだ。
そんな中、レルゲンは椅子に深くからだを預けて、自らの家の鍵を手のひらで転がしていた。いつもと変わることなく鈍く光るそれを、ここのところ毎日眺めている。
彼女は今何をしているのだろう。この情けない姿を見たら失望されてしまうだろうか。
鍵を見るたびにあの家で過ごした幸せのひと時を思い出し、その瞳は愁いを帯びる。
その目は決して窓の外を見ることはない。部屋の規模に比して大きな窓の、その外には焼けた帝都が広がっている。この部屋の窓からはどれだけの範囲が焼け野原になっているのかがよくわかる。まるでお前たちは守れなかったのだと見せつけるように与えられた部屋だ。帝国の未来を支えるべき青少年は命を散らし、辛うじて生きながらえた市民は家を失い寒さを凌ぐ場所を探しているのだから。
それなのに、自分はこうして一定のものを与えられている。
世界はこれほどに不公平で残酷なのだ。その中で我々は本当に最善を尽くせただろうか。
愛すべき化け物のその在り方が、今更になって突き刺さる。彼女と同じように考え、行動できていれば。あの視線の先と同じものをもっと早くから見ていれば、もっと違った姿があったのではないか。
自らの無力さと後悔に苛まれ、どうやって罪を償えばいいのか考える日々。
目指す先を失い、何かが欠け落ちたかのようにぼんやりと過ごす彼の頭を過るのは、情けないことに、やはりあの少女の姿だった。
彼の掌から望んで飛び立った妖精。
それを思えば息が出来なくなるほど辛く、失ったあたたかさが彼の身を苛む。それでも彼女が生きていてくれるなら、手放したこの判断は間違っているとは思わなかった。共に地獄への道行きを歩んでほしいなどとは一片たりとも考えておらず、むしろターニャを少しでも光見える場所へ送り届けられたことに自画自賛している。
それは化け物を愛した男の矜持だ。最後に抱える想いとしてこれくらいは許されるだろう。
ふっと自嘲気に笑っているとコンコンと部屋の扉が叩かれる。
からだを起こし、鍵をズボンのポケットに仕舞い込んで彼はその扉を注視する。
食事が運ばれる時間にしては早い。先日裁判のためベルンを後にした閣下たちのように、自分もどこかへ移送されるのだろうか。……ようやくこの国に殉じることが許されたのか。
そして、ゆっくりと開かれた扉から、するりと入ってきたその影にレルゲンは瞠目する。
「エーリッヒ」
次いで記憶と違わぬその声を聞き、背筋が甘く震えた。あらゆるものに優先して彼に届く、何よりも愛しい、彼女の声。
「たー、にゃ?」
茫然とした自分の声が遠くに聞こえる。体が鉛になったかのように重くて動かない。
夢を見ているようだった。
もう会えないだろうと思っていた彼女がそこにいた。
「本当に、きみなのか。ターニャ……」
おぼつかない足取りで彼女の目の前に立つ。ターニャはそれをそっと待っていた。逃げない彼女に、わずかに腰を曲げその瞳を覗き込む。さらに震える手が彼女の輪郭を確かめるように頬を撫でる。
「どうしたのですかエーリッヒ。いつもの理性はどこへ行ったのです?」
そう問うてくる彼女の声音が本当に優しくて。
その見つめてくる彼女の双眸が本当に美しくて。
レルゲンは未だ夢の中にいるような気がしていた。
「言ったではありませんか。必ずあなたの下に戻ると」
「…あぁ…ああ、そうだったな……いつだって、きみは私の想像を超えてくる」
彼女が望んで戻ってきてくれた。その事実にもう耐えられなかった。
あの日と同じように顔をくしゃくしゃにしてあたたかな涙を流す彼を、ターニャは愛しげに見つめる。そしてふっと笑って、彼女の手が眉間に触れようと手を伸ばす。
「またしわが寄っていますよ」
以前からときどきターニャがしてくれたその仕草は、不器用な彼女が自ら示してくれる数少ない愛情表現のひとつ。そして、彼が最も愛している仕草のひとつでもあった。
ターニャが本当に戻って来てくれたのだと、ここにきてレルゲンはようやく飲みこめる。
彼は膝から崩れ落ち、そのままターニャを強く掻き抱いた。彼女もレルゲンの背に手を回し、同じように抱きしめてくる。
部屋に男の泣き声がこだました。
しばらくして、ターニャがあやすようにぽんぽんとレルゲンの背を軽く叩く。全く、これではどちらが大人かわからない。
「そろそろよろしいかな」
蜜時への闖入者にレルゲンは柳眉をひそめるが、ターニャは途端に軍人の顔になる。それを見てレルゲンも立ち上がり、右腕で彼女の肩を抱えたまま、その顔から一切の感情を拭い去った。
「紹介します、エーリッヒ。彼は合衆国のカンパニー局長、ジョン・ドゥ氏です」
「初めてお目にかかる。あなたとは良い関係を築けると確信しておりますよ、エーリッヒ・フォン・レルゲン“大将”閣下」
眼鏡の奥でレルゲンの目が鋭く光る。ちらりとターニャの様子を伺えば、彼女は彼を見て泰然と微笑んでいた。それを見て理解する。
「……なるほど、長い付き合いになりそうですな」
同日、ゼートゥーアとルーデルドルフはその身に全ての戦争責任を引き受け、処刑された。彼らが一身に負ったことで幾人かの軍人は公的な戦争責任という枷から放たれることになる。
恐るべきゼートゥーア。そしてその盟友たるルーデルドルフ。
その死によってライヒが得た小さくも輝かしい勝利。それに気づいた者たちは、その胸に祖国再興への誓いを新たにする。
こうしてライヒは辛うじてその生命線を未来へ繋ぐことに成功したのである。
明日、エピローグを投稿いたします。
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Epilog
それは初夏のある日。誰も知らぬ、黒い森の隠し館。
先の大戦後、彼らは取引により合衆国へ渡った。
政治制約が常に付きまとい、ダミーの経歴で生きる日々。故に彼らはもう2度と祖国には戻れない。
そのはずだった。
しかし今、彼らはライヒを再び踏みしめている。
故郷に生きて戻れることのなんと幸せなことか。
ライヒに感謝を。
我が道は黄金の時代に続いている。
* * * * *
この日の主役であるターニャは頭の上からつま先まで真っ白な衣装で、その時を待っていた。中でも目を惹くのは銀糸の花が咲き乱れる白いショートドレスだ。
贈り物のひとつだと言って合衆国のお目付役伝手に渡されたそれは、戦後、国の管理に置かれたゼートゥーア邸の整理の際に見つかったものだという。残されたメモからゼートゥーア夫人とブラウアー女史がこっそりと用意していたらしいと聞いて、レルゲン邸で過ごしたひと時が思い出された。
「マルガさんには見せたかったですよ」
傍らに立つ新郎にそう告げれば、彼もすこし哀しげに応えた。
「きみがそう言うだけでも彼女は喜ぶだろう」
ふたりの脳裏に浮かぶのは、見守るように彼らを待ち続けたマルガの姿だ。大戦末期、ろくに家に帰る事も出来なくなった後も彼女は変わらずベルンの別邸で生活を送っていた。幾度か手紙で本邸に戻るように促したが、それを玩として拒否し、彼らの家を守り続けていた。どうにか戦火を逃れたと聞いてはいたが、敗戦後、レルゲンらは挨拶をする間もなく祖国を離れ、結局マルガのそれに何一つ報いることが出来なかった。風の噂で天寿を全うしたらしいと聞いた時は、静かに涙したものだ。
「よく似合っている」
そう言ってレルゲンは幸せを噛みしめる。このドレスはターニャが戻る場所を得て、あたたかな関係を結ぶことができた故のもの。彼女にそれを渡せたことが誇らしい。
「あなたもよくお似合いです」
シンプルな白い衣装が似合う美丈夫をターニャは見上げる。戦時中の眉根を寄せ続けるあの神経質そうな表情はここのところ鳴りを潜めており、これが本来の彼かとようやく慣れてきたところだった。
そんなふたりを周りの者は温かく見守っている。
とはいっても参列しているのはターニャに従って合衆国へ渡った第203航空魔道大隊の一部と合衆国のお目付役たちのごく僅か。ウーガは現在帝国の再軍備に関わっており、その立場上、ターニャたちと会うことが許されてはいない。サラマンダー戦闘団の内、帝国側に残った者も同じくだ。それでも今日、この式の為に特別に帰還が許されたことは知っているらしく、目付け役経由で祝いの言葉が舞い込んでいた。
「ターニャ、そろそろ」
「はい」
手を取って、ふたりは館の最も大きい部屋で向かい合う。
その場には特別なものは何もなかった。
合衆国からは神父も用意しよう等と提案を受けたが、ターニャが断固として拒否し、レルゲンも肩を竦めてそれを受け入れた。
既にここまでの道を共にしてきたふたりは、実は式そのものへの思いは薄い。今回極めて異例の高待遇で、祖国にもう一度踏み入れるという機会を得たので、今まで世話になってきた人たちへの祈りを込めてささやかなものをしてみようか。その程度だ。
故に、形だけの式。一応それに相応しいよう白を基調とした服を纏い、親しき者数人に囲まれるだけ。親も仲人も神父もいない。
ふたりは向かい合ってただ誓いの言葉を交わす。
ターニャの蒼穹の瞳と、レルゲンの灰青色の瞳が絡み合った。
そして、静かに口づける。
ゆっくりと影が離れると、周囲から拍手が沸き起こる。その中心であるふたりは照れたようにぎこちなく笑った。レルゲンは困ったようにまた眉根を寄せ、ターニャは照れをうまく隠せずに拗ねたようにも見える。それが可愛らしくて、彼がいつものように頬を撫でれば、彼女はくすぐったそうに表情を和らげた。
レルゲンは心が震えるのを確かに感じていた。
なんと幸せなひととき。
アザミのように触れないでくれと言わんばかりの威圧で以って生きてきたこの少女が、今こんな表情を見せてくれている。ひとり立ち続けた彼女に、寄り添える幸せ。これからも共に歩める幸せ。
「ターニャ、愛している」
これ以上ないほどに歓喜を含んだレルゲンの低く優しい声が彼女に沁み渡る。
「はい、エーリッヒ、愛しております」
ようやく得た平穏に、ターニャはこの世に生まれ初めて心からの幸せに満たされていた。
その後、彼らは元大隊メンバーへ促され、外へ出た。
見上げれば空はターニャの瞳の如き色で高く澄んでいた。欧州には珍しい快晴に、天すらも祝福しているかのようだった。
眩しいその空を見ていると、幾筋かの飛行跡が横切った。
ターニャは瞠目する。
今の魔導反応は。まさか。なぜこの場所が知られている?いや、それよりも。
「あいつら……っ」
喜ぶどころか、地の底を這うような声で怒りを示すターニャに、事前に知っていた元203のメンバーが震えあがる。
実は祖国に残った者たちからどうにか祝いたいと相談され、飛行訓練という名目でこの館の上空を飛行することになっていたのだ。ウーガも噛んでいるとかいないとか。とはいえ、政治配慮が必要なターニャとレルゲンだ。さすがに、やりすぎただろうか……?
「やめなさい、ターニャ」
「止めないでください、エーリッヒ。状況の把握もできないあいつらには、もう一度教練をし直す必要があります」
胸元のエレニウムに手を伸ばし始めている彼女を、レルゲンが宥める。この事態にそれまで静観していた合衆国の目付け役たちも色めき始めた。
だが、それは杞憂だ。
「ターニャ?」
「………仕方ありません」
その言葉を聞いて目付け役たちもほっと胸を撫で下ろす。普段からこうして彼女を宥めてくれるレルゲンには彼らも感謝してもしきれないのだ。実は今回、これだけ特例続きなのもこれまでの彼の行動があってこそだ。
だが、それだけで収まったわけではなかった。ターニャが鋭く列席している大隊メンバーを見渡す。思わず元203全員が整列して敬礼をする。
「その分、貴官らに詳しく聴かせてもらうぞ」
そんな殺生な。祝いを贈るくらい許してください、と顔面真っ青になる面々。一応、彼女を御し得る唯一の人、レルゲンに目で助けを求めるが、それをわかっていて彼は止めてくれない。それどころか、その目は諦めろ、止めなかった貴官らも反省したまえと語ってくる。
あ。俺たち死んだかも。
恐怖に顔を歪ませた彼らのその様子に合衆国のお目付け役たちからも同情の眼差しが注がれていた。
もちろんそのひとりであるジョン・ドゥ氏だが、彼にはやらなければいけないことがある。自らの役回りの悪さを嘆きつつ、不穏な空気を隠さないターニャに近寄ると祝いを述べた。
「おめでとう。これで晴れて、レルゲン夫妻と呼ばせていただけますな」
そう言って彼らにライヒからの贈り物を手渡した。
「ウーガ氏からです」
それに二人は目を大きく見開いた。
「申し訳ないが、いつものように検閲をさせていただきました。それだけはご理解いただきたい」
ターニャたちもそれはよくよく理解している。どちらかと言えば、ライヒの長老として祖国に残るウーガと私的な贈り物が許されたこの状況に驚いているくらいだ。
「ご配慮感謝いたします」
レルゲンはそう言いながら、それらを大事そうに受け取った。
ウーガからだという贈り物は小さな箱と、2通の手紙。
箱の中身はペアデザインの万年筆で、2粒の小さな宝石が装飾されている。いつから用意していたのだろうか、レルゲンとターニャの瞳と同じ色の宝石だ。
そして1通目の手紙はよく見知った筆跡による「結婚おめでとう」の文字。
「本当にあの方々は、どこまで見通されていたのだろうな」
ライヒを離れ異国へ渡る私を閣下たちはお叱りになるだろうか。祖国と運命を共にせず、彼女の手を取ってしまった自分は、きっと帝国軍人として許されはしないのだろう。
そんなことを考えながらレルゲンは2通目の手紙を開ける。その内容を読んで、彼は目を細め唇をかむ。
…… 両閣下がヴァルハラに向かわれる前日に命じられた言葉をお伝えいたします。ゼートゥーア閣下からは“ レルゲンは外、ウーガは内からライヒの両翼を任せる”とのこと。ルーデルドルフ閣下からは“妖精の翼を手折ることの無いように”とのことです。
追伸 私からも今一度、彼女のことをお願い申し上げます。 ……
まったく恐ろしいお方たちだ。
レルゲンは泣き笑いをした。新たな道行きにこれ以上ない餞をいただけるとは。
不思議そうにこちらを振り向くターニャの肩を抱き、涙が零れないように空を見上げる。
ターニャ。
きみはこれだけ多くの人に、こんなにも愛されている。
いつの日か、きみがそれを素直に受け止められる日が来るだろうか。
そうであればいいと彼は願う。
そして、ふたりのこれからを想った。
二度と祖国の地を踏めないとしても、
それは在り方が変わるだけ。
あの日の誓いを胸に刻み、
罪を背負い、命を背負い、我らは行く。
きみと歩めるならば、
この狂気の世界さえ恐ろしくはないだろう――。
以上で本編終了です。
ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。
しっかりとしたご挨拶は活動報告の方でさせていただきますので、よろしければご覧ください。
では、またご縁がありますよう。
2017.11.14 きょうの
【2018.1.2 追記】
本編再録本、本編その後書き下ろし2編を納めた本を作りました。お手にとっていただければ幸いです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=184373071
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番外
日常の変化
11月22日は、いい夫婦の日らしいので。
最終話投稿後もお気に入り登録や閲覧してくださる皆様に感謝を込めて、レルゲン夫妻のその後です
ぱちり、とその青い瞳が開かれる。
『白銀』ターニャ・デグレチャフあらため、ターニャ・フォン・レルゲンの朝は早い。妻となっても軍人生活は抜けず、毎朝同じ時間に目が覚める。
ぐーっと背伸びをした。彼女の艶やかな髪がそれにあわせてさらりと流れる。
隣では夫がまだ心地良さそうに寝息をたてている。その腕をどかして、彼女は寝台を出た。
今日もまた1日が始まる。
素早く身支度を整えると、彼女は朝食の準備に取りかかる。
そのうち、たん、たんと音がして2階から彼が降りてくるのに気がついた。今日も彼女が起きてからきっちり30分後のお目覚めだ。
「おはよう、ターニャ」
「おはようございます、エーリッヒ」
キッチンを覗いて挨拶だけ交わすと彼は洗面台へと向かう。彼もまた素早く身支度を整え、玄関に新聞を取りに行く。
彼がダイニングにつく頃には、卓の上に朝食が並んでいた。彼はテレビをニュースにあわせて、席につく。
「いただきます」
「いただきます」
ターニャのくせにならって、エーリッヒも手を合わせる。一緒に住み始めた頃から移った癖はすでに二人の習慣になっていた。
「今日も寒くなりそうだ」
テレビでは冬物で出掛けるようにと天気予報士が話している。
「上空の寒さに比べればまだまだですよ」
「私にはわからない世界だな」
そんな雑談をしながら朝食を終えると、ターニャがコーヒーの準備を始める。その間にエーリッヒは新聞を広げた。
毎朝レルゲン邸に届く新聞は全部で3紙。テレビと共に情報を比較して、時勢を読み取っていく。
ふたり分のコーヒーを用意し終えたターニャもそこへ合流する。
「おや、また上がりましたね」
コーヒーを片手に株価のページをめくっていたターニャが手を止めた。その言葉にエーリッヒは複雑な顔をする。
「またか。そろそろ局長から疑われているのだが」
「私はなにもしていないですよ」
「それは知っている」
嬉しいはずなのに苦々しいという、どうしようもない顔のエーリッヒを、ターニャは肩を竦めて笑ってやる。
「優秀な妻ではありませんか」
そのとき、ゴーンと柱時計が時間を告げた。
パッと冗談を止め、ふたりはそそくさと新聞を片付ける。そして、そのままコートを羽織って家を出た。
彼らは今、ある軍事会社を営んでいる。その部下は元サラマンダー戦闘団の部下たちなので、帝国の外部組織と言ってもいいくらいだ。そういった影響もあってか、職場での彼らの呼び名は昔とあまり変わりがない。
「おはようございます、隊長殿、参謀殿」
事務所につくとすでに揃っている部下の面々に迎えられた。
「おはよう、戦友諸君」
職場に入ると同時に、ふたりの振る舞いは軍人のそれに切り替わる。
ターニャにとって、その日は非常に穏やかな日だった。先日終わった作戦の事務処理にさえ集中すればよい。
代わりに大変そうなのはエーリッヒである。渉外を一手に引き受ける彼は、今日も電話でカンパニーとの連絡が続いている。
その周りではヴィーシャも細々と書類を片付けている。
実はヴィーシャは今、エーリッヒの秘書をしているのである。ターニャのやり方をよく知っている彼女のおかげで、ターニャが各国を飛び回るときも齟齬が生じることなく合衆国とのやり取りが行われていた。また、社内で唯一魔導師でないエーリッヒを万が一のとき守ってくれる者としても、彼女の力量はターニャが任せられるものだった。
昼過ぎ、ターニャが昼食休憩から戻ると、エーリッヒがちょうど外出するところだった。訳を聞けば、カンパニーから厄介事が舞い込み、直接打ち合わせが必要なのだという。
「すまない。今日は共に帰れると思っていたんだが」
「構いません、仕事ですから。お帰りはどのくらいに?」
「そう遅くはならないはずだ」
「では夕食はお待ちしております」
ターニャの言葉に微笑んで、エーリッヒは事務所を出ていった。彼女がそれだけ見送って再び自分の席につくと、からかいの声が飛んでくる。
「あの隊長殿もすっかり奥方ですねぇ」
「参謀殿が羨ましいですよ」
いつものように茶化すのはケーニッヒとノイマンだ。途端に事務所内がわっと盛り上がる。
普段なら叱り飛ばすところだが、今日は作戦終わりで通常業務の他は特別やることもない。今日くらいは許してやるか、とターニャもそれに参加する。
「貴様ら、揃って雪中マラソンを希望かね?」
「勘弁してください。隊長殿と違って、俺たちは毎日が寒いんです」
独り身組がそれに大きく頷いた。
「あんなに熱々なら少しは分けていただきたいです」
「・・・・・・そんなに言われるほどだろうか」
あまりの言われようにターニャが半眼になると、周りから悲鳴が上がった。「無意識だったんすか?!」から「許すまじレルゲン野郎」までてんやわんやである。
その惨事にターニャがあきれ返っていると、いつのまにか隣に来ていたヴィーシャがクスクスと笑う。
「お気になさらず、隊長殿。男どもにはわからないかと。私は微笑ましくていいと思います」
「ひどい言い草だなヴィーシャ」
さすがにヴァイスが苦言を呈す。だが、それさえもヴィーシャは笑って流した。
「ヴァイス大尉はお酒癖を治してから仰ってください」
う・・・っ、とヴァイスが詰まる。
「こ、これでも酒の量は減ったんだが」
「減ってあれですか?!」
「自覚無さすぎですよ副隊長殿~」
次はヴァイスが槍玉にあげられて事務所は更にざわめいていく。
いい加減ついていけなくなって、ターニャはぼんやりとそれを眺めていた。
今日の夕飯はどうしようか。
そんなことを考えながら。
街が宵闇に包まれた頃、エーリッヒは足早に自宅への帰り道を急いでいた。その顔は不満に歪んでいる。
思った以上に遅くなってしまった。
律儀に待っているだろうターニャを考えその足は駆け足になっていく。
「帰った。遅くなってすまない」
ばたばたと玄関の戸を開けると、夕食のいい香りがしてきた。
「お疲れ様です」
奥からターニャが出迎えた。
エーリッヒはそれに再度謝りながら、手土産を差し出した。彼女は驚きながら受けとる。
「珍しいことをなさいますね」
「嫌いかね?」
「とんでもない。ありがとうございます」
彼女が笑みを見せたので、エーリッヒもようやく表情がほころんだ。
待ちかねた夕食を楽しみ、からだが温まった頃。ターニャがいつもどおり食後のコーヒーを淹れようとするのを、エーリッヒが留めた。
「今日は私が淹れよう」
「え?」
座っていなさいと言われて、ターニャはおとなしくそれに従う。
今日はずいぶん珍しいことをする、と思っていると、背中を向けたままエーリッヒが独り言のようにそれを口に出す。
「知っているかね?極東の国では11月22日をいい夫婦の日というらしいぞ」
「はぁ」
確かに遠い心の故国はそんなことを言っていたような気がする。なんでもかんでも取り入れるのはこの世界でも変わらないらしい。
ことり、と音をたて、彼女の目の前にコーヒーが置かれる。
「ターニャ、日頃の感謝をきみへ」
彼の差し出したコーヒーから、ゆるやかに香りが広がる。それを感じて、ターニャは眩しそうに目を細める。
「こちらこそ。ありがとうございます、エーリッヒ」
こくりと口にすれば、そのコーヒーは普段と少し違う風味がした。彼もそれに気づいて困ったように眉根を寄せる。
「やはりきみが淹れた方がうまいな」
「当然です」
ターニャがふふ、と自慢げに笑う。
「あなたと飲むコーヒーは、私の何よりの楽しみですから」
「・・・・・・そうか」
彼女がここまではっきり言ってくれることは珍しい。聞いてるこちらが恥ずかしくなってしまう。耳を赤く染めながら、感謝を伝えてよかったと、エーリッヒは彼女を見つめていた。
時間とは不思議なもので、穏やかな時間ほど、あっという間にすぎていく。
彼らのそのときも終わりが近づいていた。ふと時計をみれば、もう寝る時間である。こんなときでもからだに染み付いた時間厳守は直らない。ふたりはパタパタと寝仕度を整える。
そして、いつも通り日が変わる前に寝台に入った。
今日も1日が終わる。
「おやすみ、ターニャ」
「お休みなさい、エーリッヒ」
そう言ってターニャは彼に背を向けて寝に入る。エーリッヒはそんな彼女を嬉しそうに包み込んだ。塹壕暮らしが抜けないターニャにとって、無防備な背を預けるのは相応の覚悟が必要になる。それを預けてくれたのはまさに信頼の証だと、そう気づいたのは、実はここ最近のこと。
寝つきのいい彼女は差ほど経たずに寝息を響かせる。
とくん、とくん。
彼の腕の中であたたかな鼓動がリズムを刻む。幸せを刻むその音に誘われ、エーリッヒも眠りについた。
とくん、とくん。
ふたりの眠ったあとも、その音は、しかし確かに脈打っていく。寄り添うように軽やかなリズムを刻み続ける。
とくん、とくん。
ふたりの鼓動に新たなリズムが重なった。
変化を告げるその鼓動。
彼らがそれを知るのは、まだしばらくあとになる。
こんな感じの書き下ろしを入れた再録本を作ろうとしています。
鋭意執筆中なので、興味のある方は引き続きよろしくお願いいたします。
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