プリンセス・プリンシパル ~London Has Fallen~ (アルビオン王国ハドソン湾会社)
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プロローグ

 何かが焦げた香りがした――。

 

 

 

 多くのロンドン市民はその香りに安心を感じるだろう。なぜなら彼らがこの世に生を受けてから、今までずっと嗅ぎ続けてきた香りだからだ。

 

 焦げた匂い、煙の臭い、そして―――ロンドンのニオイ。

 

 

 

 今から10年前、ケイバーライト技術の独占によって世界の覇者となったアルビオン王国で革命が起こった。

貧富の差や腐敗した社会制度に怒った民衆の蜂起はアルビオン王国を二分する内戦となり、王国は東西に分裂する。

 

 革命軍によって本国領の大半を奪われた王国は、残った領土を維持すべく首都たるグレーター・ロンドンからテムズ川河口流域にかけてを囲む、巨大な『ロンドンの壁』を建設した。

 

 

 その壁を見上げるようにして、一人の少女が空き家の屋根に佇んでいた。闇と霧に潜んではいても、わずかにマスクと帽子の隙間から覗く眼光は、揺るぎ無い信念に支えられた強い光を放っていた。

 

 

 彼女は人を待っていた。同期で同僚、腐れ縁とも呼べる数少ない友人を。

 

 

「ドロシー、来たのね」

 

 

 背後から接近する人影に気付いたアンジェが、背中を向けたまま言った。

 

「3分遅刻よ」

 

「屋根の上で黄昏る誰かさんに見とれてたんだ、許してくれよ」

 

 特に反省した様子もなく、適当なことを言いながらドロシーはアンジェの隣に立った。

 

 彼女はアンジェより少し年上で、未熟な少女の清純さと成熟した女性の妖艶さ……世の女性が羨むであろう特徴を彼女は兼ね備えていた。通常であればスパイなどという暗く陰湿な裏方仕事より、スポットライトの下で眩しく輝くべき美だ。

 

 だが、それでも彼女はこの世界にいる。ハッキリと説明されたわけではないが、それでも彼女の過去に何があったのか、どんな世界を見てきたのかは容易に想像がつく。

 

「で、何を見てたんだ? 相棒」

 

 ドロシーが問うと、黒い手袋をつけたアンジェの左手が滑らかに動き、指の一本が暗いロンドン市街地の向こうを指した。

 

「あの『壁』よ」

 

 闇夜に視界が遮られてなお、その建造物の放つ絶大な存在感は消える事が無い。高さ50mを超える巨大な人工物がその威容を誇るかのように、ロンドンの四方をぐるりと囲んでいる。

 

 革命勃発と同時に、王国の心臓部たる首都ロンドンを防衛すべく建てられた壁は、休戦条約が結ばれてからも休むことなく工事が進められている。

改築に増築を繰り返し、10年の内に見る者を圧倒する難攻不落の要塞と化した。

 

「アルビオン王国、革命、ロンドンの壁……」

 

 共和国からの防衛が目的であったはずのこの『壁』であるが、今では別の意味も持っている。

それはアルビオン国民を分断する壁であり、とり残された国民を押しこめる鳥籠であり、旧態依然とした貴族階級の権威と権力の象徴であった。

 

 

 

 

 革命が起こってなお、生き延びた王国の支配階級は自らを省みることはなかった。

いや、むしろ以前にも増して労働者と植民地から苛烈な搾取を行うようになっていたというべきか。

 

 停戦合意後、内務卿のノルマンディー公を中心とした保守派は諜報・公安・警察という3つの鉄のトライアングルでもって、国内の革命運動を徹底的に弾圧した。

検閲と監視システムを駆使し、恐怖と暴力で瀕死のアルビオン王国を延命させようとした。

 

 幸か不幸かノルマンディー公の政策は功をなし、風前の灯であったアルビオン王国はここまでの復興を遂げることが出来た。

植民地同士を反目させることで独立を未然に防ぎ、古い貴族の血縁関係を利用した外交によって王国の正統性を確保している。

 

 

 だがその結果、アルビオン王国の民衆は共和国と王国とで長きにわたる分断の歴史を味わうことになった。

王国の存続と同時に、差別や偏見といった見えない壁もまた、その多くが残ったままだ。

 

 そしてアンジェの目の前では、あたかも分断の象徴であるかのように、今なお『ロンドンの壁』はその威容を誇っていた。

 

 

「私、あの壁は嫌い」

 

 

 アンジェがぽつりと呟く。

 

「あの『壁』を毎日見ていると、自分も同じになっていく気がするわ。色々なものが自分から切り離されて、新しい壁が出来ていくような……そんな錯覚」

 

 アンジェが呟くと、ドロシーは肩をすくめた。

 

「スパイから詩人にでも転職したのか? アンジェにしては珍しく饒舌じゃないか」

 

 茶化すようなドロシーの言葉に、アンジェはほんのわずかに唇を動かした。口元を覆うマスクで隠された微笑みは、自らの感情をも騙すようであった。

 

 

「私の職業は黒トカゲ星人よ。壁の無い星から来たの」

 

「そうかい。――で、その黒トカゲ星人は何しに遠路はるばるロンドンまで来たんだ?」

 

「決まっているわ。ロンドンを征服して、黒トカゲ星の一部にするの」

 

 アンジェの淡々とした返事に、ドロシーは口元を抑えてくっくっと笑った。

 

「いいアイデアじゃないか! そうなりゃ王国の人間も共和国の人間も、みんな仲良く黒トカゲ星人ってか」

 

「ええ。共和国のスパイ、アンジェは世を忍ぶ仮の姿……その真の姿はロンドン征服のために暗躍する、黒トカゲ星のスパイだったの」

 

「これはこれは! なんてこった、アンジェがそんな大それた陰謀を企てていたとは驚きだ。こりゃあ、明日にでもLに報告する必要があるな」

 

 

 ドロシーがおどけたように言うと、アンジェは眉根を寄せ、わざとらしく考え込むような仕草をする。

 

 

「それは困るわね。ちょっと買収されてくれないかしら?」

 

「ほう、何をくれるんだ? 言っておくが私は安い女じゃないぞ」

 

 挑発的な目でアンジェを見るドロシー。

 

 妙に凝ったアンジェの嘘は嫌いじゃない。次はどんな虚構が出てくるのか、値踏みするように目を細める。

 

 

「そうね、じゃあ――」

 

 

 アンジェは指を一本立てると、それを唇の前につけた。二人だけの内緒、という訳だ。

 

 

「ロンドン交響楽団の演奏を特等席で聞くチケットを1枚あげるわ。今度、知り合いから貰う約束になってるの」

 

 

「あの誉れ高き“女王陛下のオーケストラ”か。いいね、悪くない」

 

「じゃあチケットが手に入ったら後で渡すわ。ちなみに演目は『威風堂々』よ」

 

「そうかい。まぁ期待しないで待ってるよ」

 

 即興で無駄に凝った設定の嘘をつけるのもスパイの素質なのだろうか。相変わらずアンジェの真意は分からない。

 

 思えば、昔から何を考えているか分からない奴だった。ただ、不思議と不快感はなかった。むしろ彼女の嘘が真実であればいいのに、とすら思えた。

 

 

「壁の無い世界か……それはきっと、素晴らしい世界なんだろうな」

 

 

 知らず知らずの内にそんな言葉が口から漏れる。どこか驚いたように片眉を吊り上げたアンジェを見て、少しばかり気恥ずかしくなる。

 

 

「さっ、無駄話はここまでだ。今日の任務はパーティーでプリンセスと接触する事だ。行くぞ」

 

 

 ドロシーが言うと、アンジェは仕事用の真剣な表情になって頷いた。そのままCボール(個人携帯型ケイバーライト移動装置)を起動させると、下に待機させてある車にジャンプして乗り込む。

 

(『ロンドンの壁』か、……)

 

 最後に一度だけ分断の象徴たる巨大建造物を見やり、ドロシーもまた踵を返した。

 

 

 

 ――――それが、今から1年前の話。チェンジリング作戦が始まる前、アンジェとドロシーが組んだとあるミッションでの出来事だった。

 




 今年一番の個人的ダークホースだった「プリンセス・プリンシパル」、放送終了記念に投稿しました。 

 楽しんでいただければ幸いです。また、ご意見、ご指摘、ご感想などございましたらぜひ書き込み等よろしくお願いします!



 あと原作の2期はあると信じてる。


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陰謀編
case12.1:走れプリンセス


  

 

 その日の天気は曇りだった。霧が立ち込め、どんよりとした低気圧が市街地を覆う。ロンドンでは珍しい事でも無い。

 

 

 プリンセスはロンドンの裏通りを走っていた。彼女がプリンセス・シャーロットと入れ替わる前、アンジェと呼ばれたスリの少女だった時代に毎日使っていた道だ。

 

 

(とにかく急がないと……!)

 

 

 あまりの急展開に、プリンセスは動揺を隠せない。なんとか平常心を保とうと、自分の身体を両腕で抱きしめる。

 

 

 つい数日前まで自分は王国のプリンセスでありながら、共和国のスパイとして暗躍していた。

 この国の女王となって願いを叶える為に、共和国の計画した『チェンジリング作戦』に自ら志願したのだ。そして自分と瓜二つの顔を持つアンジェと入れ替わる事で、王国の情報を共和国に流していた……。

 

 

 しかし共和国諜報部のトップが変わったことで、チェンジリング作戦もその内容を大きく変更されてしまう。

 新たに『コントロール』へ着任したジェネラルら軍部によって、本物のプリンセスをスパイに仕立てるよりも、彼女を暗殺して顔がそっくりなアンジェと入れ替える方が良いと判断されたのだ。

 

 

 その指令を受けたアンジェは追手を振り払い、二人でカサブランカへ逃避しようと提案する。

 

 

 

 だが、その手を取ることは出来なかった。

 

 

 

(私には、やらなければいけない事がある……この国から逃げ出すわけにはいかない……!)

 

 

 この国にはまだ引き裂かれた人が大勢いる。彼らを分断する有形無形の壁を壊すと、自分は革命が起きたその日にそう誓ったのだから――。

 

 

 **

 

 

 行き交う人々を押しのけ、あるいは合間をぬって全速力で駆け抜ける。時おり悲鳴や罵声が聞こえたが、そんなものに構っている余裕はなかった。

 

 

(此処もあの時から、何も変わっていないのね……10年前と同じ)

 

 

 表通りからさほど離れていない道でさえ、ゴミや浮浪者がそこらじゅうに散らかっている。ボロボロになった布きれや、いくつもの生死不明な乞食たちの横を通り過ぎる。

 

 

 見たところ、追手は付いてきていない。あるいは待ち伏せているのか――。

 

 

 プリンセスが向かっている場所は、クイーンズ・メイフェア校にある「博物クラブ」の部室だった。

 

 ドロシーとチセがチームから外されたとはいえ、まだベアトリスが学校には残っている。自分の身に危険が及ぶような事態となれば、彼女の身にも危険が迫っている可能性が高い。

 

 

(最悪、ノルマンディー公との取引も考えないと……)

 

 

 共和国のスパイを監視するために、ノルマンディー公がクイーンズ・メイフェア校に部下を多数放っていることは知っていた。

 しかし今のところ、彼らがチェンジリング作戦に気付いた様子はない。

 

 

 それならば、まだ自分にも利用価値はあるはずだ。

 

 たしか採掘場で行われた式典で、ノルマンディー公は自分を政略結婚の道具として、ロシア皇室に嫁がせることを画作していた。

 であるなら、利用できる駒が減る事は避けたいはずだ。

 

 

(ノルマンディー公のスパイには、王国でも指折りの精鋭が選ばれている。彼らの目の届く場所にいれば、いかに共和国の暗殺者として容易には手を出せないはず……)

 

 

 アンジェは飛行船に閉じ込め、ドロシーとチセも去った今、クイーンズ・メイフェア校でチェンジリング作戦の実体を知る者は自分とベアトリスしかいない。

 彼女と口裏を揃えて黙っていれば、自分が共和国のスパイであった事も隠し通せるだろう。

 

 

 そこまで考えながら、プリンセスはふっと自嘲する。

 

(共和国のスパイと通じておきながら、今さらそれを無かったことにしてノルマンディー公に助けを求めるなんてね……やっぱり私、悪い女だったみたい)

 

 

 だが、自分が生き残るにはそれしかない。死んでしまえば全ての努力が無駄になってしまう。

 

 

 ――とにかく、今は走らねば。一刻も早く学校に辿り着いて、共和国側に気付かれる前に手を打つ必要があった。

 

  




 タイトル詐欺、本当は下のようになるはずだった(大嘘)

 プリンセス=アンジェは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の内務卿を除かなければならぬと決意した。アンジェには政治がわからぬ。アンジェは街のスリである。人から物を盗み、シャーロットと遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった――


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case12.2:偽りの王女

 『壁』にほど近い橋の上に作られた道路を、数台の車が走っていた。プリンセス・シャーロットと彼女を護送する兵士たちの乗った車列だった。

 

 

「プリンセスが我々の決起に参画したとなれば結束も強まるでしょう。本日は新王室寺院で戦勝祈願式が行われます」

 

 

 向かい側に座っていた、壮年男性がプリンセスに語りかける。アルビオン王国伝統の赤い制服に身を包んだ男、イングウェイ少佐は植民地出身の将校で今回の革命の中心人物でもある。

 

「寺院建設に関わる労働者には我々の同志が大勢おります。植民地支配されこの国の労働力の大半を占めながら最低限の権利しか認められていない。彼らの怒りは必然なのです」

 

 王国軍はその多くが植民地出身の兵士であり、共和国との戦闘にも植民地兵が多く投入されている。

本国人と同等かそれ以上の献身を求められながら、二等国民として軽く扱われる彼らの境遇を思えば、革命への参加は当然の結果であった。

 

「移民、貧困、格差……それがあなた達の理由なのですね」

 

 物憂げに溜息をつくプリンセス。完璧な演技だ――民を慈しみ、国を憂うその姿を見て心を動かされない者はいないだろう。

 

「ご安心ください、プリンセス・シャーロット。革命は必ず成功でしょう――否、我らが必ず成功させてみせます」

 

 事情を何も知らないイングウェイ少佐らが心打たれたように敬礼するのを横目で見ながら、共和国スパイのゼルダは満足げに薄笑いを浮かべた。

 

(さすがは養成所を1位で卒業した優等生、王国軍の馬鹿どもが騙されるのも無理はないか)

 

 目の前にいるプリンセスはコントロールのスパイ、アンジェが変装した姿だ。本人かと見まがうほど瓜二つの完璧な変装は、ベテランのゼルダですら危うく間違えそうになるほど。

 

 

(この世界にシロは無い。あるのはクロとグレーだけ…………今のところアンジェはグレーだと、ジェネラルには報告しておこう)

 

 二人で追っ手を撒いた時は裏切りかと思ったが、どうやら思い過ごしだったらしい。

プリンセスの信用を得るための演技で、プリンセスは最後までアンジェが味方だと思ったまま死んだ………そうアンジェからは聞いている。

 

 

 とはいえ肝心の死体を確認していない以上、まだアンジェが裏切ったという疑惑が晴れた訳ではない。

 アンジェは服とバッグを回収した後、暗殺の証拠が残らないよう死体を焼却炉に捨てたと言っていたが、嘘をついている可能性もある。

 

 しばらくはアンジェの動向に目を光らせる必要があるだろう。

 

 

 

 もっとも――。

 

 

 

 ゼルダが窓の外を見やると、大勢の群衆が集まっているのが見えた。旗やプラカードを持って、口々に現政権への不満を叫んでいる。

 

 

(本物のプリンセスが生きていようが、歯車は既に動き出した。今さら誰にも止められはしないさ――)

 

 

 王国は何年も前から腐っている。本来ならばとっくに崩壊しているはずの死体が、『壁』のおかげで辛うじて延命しているだけのゾンビに過ぎない。僅かなきっかけさえあれば、すぐに朽ち果てるだろう。

 

 

(賽は投げられたのだ。“ティーパーティー”作戦は既に始まっている……)

 

 

 もうまもなく、戦争が始まる。

 

 開戦の号砲と共に、アルビオン王国は音を立てて崩れ落ちる。

 

 

 

 それに必要なのはきっかけ。

 

 

 

 ほんの小さなきっかけさえあれば十分なのだ――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 王国の中央省庁や政府機関が数多く立ち並ぶホワイトホール、その一角にノルマンディー公の邸宅は佇んでいた。

ヴィクトリア朝風の優雅な調度品で囲まれた部屋の奥で、ノルマンディー公爵は部下のガゼルから報告を受けていた。

 

 

「暴動の兆行だと?」

 

 

「まだ流血沙汰には発展しておりませんが、各地で反政府運動が活発化しております。恐らく、例の一団が裏で糸を引いているのではないかと……」

 

「ふむ……」

 

 ガゼルから渡された報告書に素早く目を通す。今のところ頻発しているのはせいぜい噂話や、無政府主義スローガンを壁に落書きしたり、女王の肖像画を燃やしたりといった程度の反乱である。

 

 だが、これは危険な兆候であった。

 

イーストエンドの貧民街では民衆が交番に火炎瓶が投げ込まれ、ドックランズの廃墟街では犯罪が増加し、カナリー・ワーフを拠点とするギャングによる組織的な犯行が急増しているという。

 

 

「ルーアンから呼び戻した内務省軍は?」

 

 

「つい先ほど、2個連隊がグリニッジ王室特別区に到着したそうです。――動かしますか?」

 

 ガゼルの問いに、ノルマンディー公は首を横に振った。

 

 あまり事態を大きくすれば、それこそ共和国の叛徒やテロリストの思う壺だ。王国が弱体化しているとの、間違ったメッセージを与えかねない。

 

「非番の警官と首都警備隊を動員して、24時間体制で警戒に当たらせる。イーストエンドは全域を封鎖し、夜間外出禁止令を出せ。それから近衛歩兵連隊にも協力を要請するんだ」

 

「了解しました。ですが……果たして暴徒たちが大人しく従うでしょうか」

 

「命令を破った者は容赦なく逮捕しろ。最悪、射殺も止むを得まい」

          




本作でゼルダさんの前に現れたのはプリンセスに変装した本物のアンジェです

ちなみに原作で本物のプリンセスに入れ替わってた事に気づいたゼルダさんなんですが、あれって上層部に報告しなくて良かったんですかね? 本物のプリンセスって事はその時点で裏切ったアンジェも何処かにいるという事は明白ですしが完全に放置してたし...

いや、ゼルダさんそれだけの裁量権は持ってそうでしたけど


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case12.3:まずは姫様が落ち着いてください!

    

 

「ひ、ひ、姫さま!?」

 

 

 

 プリンセスの侍女で友人でもあるベアトリスは、予想外の人物の訪問に驚くばかりであった。

 つい先日、彼女の主人はアンジェと出かけたきり、連絡の一つも無かったからだ。

 

 

「よくぞご無事で! わたし、てっきり姫様が何か危ない目にあってしまったのかと――」

 

 

「ベアト、少し声が大きいわ」

 

「す、すみませんっ!」

 

 彼女は慌てて口を塞ぐと、ドアを大きく開けてプリンセスを博物クラブの部室へと通す。

 

「っ………!」

 

 再会の喜びも束の間、憔悴しきったプリンセスの姿にただならぬ雰囲気を感じ取った。一流のメーカーが仕立てた上質なプリンセスの私服は何故か、傷つき、汚れ、所々にほつれが見えている。

 

「姫様、外でいったい何があったのでしょうか? 一緒にいたアンジェさんはどこへ……?」

 

「アンジェは――」

 

 

 言いかけて、ふとプリンセスの視線がある一点で止まった。つられてベアトリスが視線の先を負うと、机の上に置かれた新聞の夕刊紙面が目に留まる。

 

 

「ベアト、これって――」

 

 

 プリンセスの碧い瞳が、驚きで見開かれた。

 

 新聞には、19時から行われる戦勝祈願式典の事が書かれていた。だが、プリンセスの目を引いたのは記事に掲載されている小さな写真―――――そこには、会場へ入る自分そっくりの姿があった。

 

 

 

「シャーロット!?」

 

 

 

 見間違うはずもない。この姿は間違いなく自分に変装したシャーロット………アンジェの姿だ。

 

(どうして戻ってきちゃったの!? 貴女はいつもそう。また一人で無茶ばかりして……!)

 

 目じりに涙を浮かべ、小さく体を震わすプリンセス。

 

 その只ならぬ様子に、ベアトリスはあっけにとられる。どうにか落ち着いてもらおうと紅茶を差し出すが、それもあっという間に一気に飲み干されてしまう。

 

 珍しく平常心を失っている主人に、ベアトリスはおずおずと話しかけた。

 

「あの……姫さま? ひょっとして写真に写っている姫様って、その、アンジェさんなんじゃ……?」

 

「ええ、その通りよ。チェンジリング作戦が変更になって、私はゼルダさん達に暗殺されかけたの」

 

 プリンセスの言葉はどこか投げやりだった。長年取り繕ってきた“プリンセス”の仮面を被ることも忘れて本音をぶちまける。

 

「あ、暗殺!?」

 

「でもアンジェがうまく追っ手を撒いてくれた。二人で飛行客船に乗って、そのままカサブランカまで脱出する計画だったみたい――」

 

 言葉が溢れだし、制御が効かない。自分でも予想外の激しさで、プリンセスは早口にまくしたてた。

 

「でも此処まで来て逃げるなんてイヤ! もし最終的にどちらかが消えなきゃいけないなら、それは私の方よ。アンジェには……アンジェには生きて欲しかった!だから――」

 

「姫様――」

 

 ベアトリスが声を挟むが、プリンセスは止まらない。

 

「だからあんな嘘までついて閉じ込めたのに! 貴女が傷つくような言葉をわざと言って、嫌われようとしたのに――!」

 

 

 

「姫さま!!!」

 

 

 

 いつになく強い響きを込めて叫ぶと、ベアトリスは使えるべく主の手を握った。そして残った自由な方の手で紅茶の入ったティーカップを掴むと、有無を言わさずプリンセスの別の手に押し付けた。

 

「べ、ベアト……?」

 

「まずは姫さまが落ち着いて下さい」

 

 プリンセスはぽかんとベアトリスをしばらく眺めていたが、やがて気を取り直したようにティーカップを口に運ぶ。カモミールの爽やかな香りが鼻一杯に広がり、すぅっと熱が引いていくようにして冷静さが戻っていく。

 

「……ごめんなさい」

 

 自分のことばかり考えていて、周りが見えていなかった事に反省する。今ここで取り乱したところで、現実は何も変わらないのだ。

それを変えようと望むなら、ベアトリスの言うとおり落ち着いて現実的に考えるしかない。

 

「姫さまは一人じゃないです。私はいつでも、姫さまの味方です」

 

「……ありがとう」

 

 ベアトリスが嬉しそうに微笑む。

 

 そうだった。忘れていた。自分は孤立無援ではない。頼りになる味方が、こんな近くにいるのだから。

 

 

 

「―――あー、お取込み中のところ悪いんだが、私もちょっといいか?」

 

 

 

 その時、気まずそうな声と共に戸口から現れたのはメンバーを外されたはずのドロシーだった。思う所があるのか、気恥ずかしそうに困ったような顔をしている。

 

 

「一応、ノックはしたんだが返事がなかったもんで」

 

「え!? でも私、姫さまを部屋に入れた時にちゃんと鍵はかけたのに!」

 

「部室の鍵ぐらい、少しピッキングすれば開くだろ」

 

 

 

「マナー違反です!!」

 

 

 頬を膨らませたベアトリスが反則だの不謹慎だとの抗議するのを軽くあしらいつつ、ドロシーはプリンセスと向かいのソファにどっかと座る。

 

 

「ともかく、一通り話は聞かせてもらった」

 

 

 そう言うとドロシーは手短に、何が起こっているのかをプリンセスとベアトリスに話して聞かせた。

 

 共和国内部で情報部と軍部の派閥争いが怒っていること、プリンセス暗殺はコントロールを掌握した軍部が強引に進めた作戦であること、そして軍部は今回の革命の裏で糸を引いていて王国の弱体化を狙っているということ――。

 

 

「要するにウチらは、政府と軍部の椅子取りゲームに巻き込まれたのさ。今は共和国内部もかなりピリピリしている。事は一刻を争う状況だ」

 

 

「じゃあ、ドロシーさんは……」

 

「私は政府の命令でゼルダの作戦内容を探っていた。どうやら連中、式典の場で王国首脳部を一網打尽にする計画らしい」

 

「そんな……!」

 

 ベアトリスの口から思わず悲鳴が漏れる。だが、続けてドロシーの口から出てきた言葉は、彼女らを更なる不安のどん底に陥れた。

 

 

「それだけじゃない。万が一の失敗に備えてのバックアップ・プランがある。それが“ティーパーティー”作戦………軍部の連中、この混乱に乗じて労働者たちを武装蜂起させて内戦を引き起こすつもりだ」

 

 

 そう言ってドロシーが懐から取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな銃だった。見るからに粗悪なプレス加工で作られており、本格的な戦闘に耐えうるものではないだろう。しかし――。

 

 

 

「アルビオン共和国製・試作簡易拳銃『リベレーター(解放者)』、こいつが50万丁バラ撒かれる」

 

 

 

「なっ………!」

 

 これには流石のプリンセスも驚きを隠せなかった。唇を噛み、白い肌から血管が浮き出るほど強く拳を握りしめる。ベアトリスに至っては顔が真っ青だった。

  




 アレですよアレ、元ネタは言わんでも分かると思います。


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case12.4:“茶会事件”作戦

            

 “ティーパーティー(茶会事件)作戦”と名付けられたそれは、王国市民に銃をバラまいて内戦を引き起こそうという、考えうる限り最悪の作戦であった。これが実行されるようなことになれば、未曽有の死傷者が発生するだろう。

 

 

「ごっ、ごじゅうまん丁ッ!? そんな、いくらなんでも冗談ですよね――?」

 

 

 予想通りのベアトリスの反応にドロシーは僅かに苦笑しながらも、残念そうに首を横に振った。

 

「いいや、嘘じゃない。見ての通りクソみたいな性能だが、その分だけ生産性はゾンビ並みさ。ナンバー刻印や防腐加工は一切なし、部品数はたったの20点、平均組み立て時間は30秒、弾は1発だけで実質使い捨て、射程はせいぜい30フィートが限界ってとこだな」

 

 

 要するに「撃っても当らない、威嚇用のハッタリ武器」という訳だ。この銃を設計した技術者たちも、はなから戦に耐えうるとは思っていないだろう。

 

 

 とはいえ「武器を持っている」という心理的な影響は無視できるものではないし、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」でまぐれ当たりは期待できるかもしれない。圧倒的な数で正規軍を取り囲んで、降伏した兵士の武器を強奪する、といった戦法も考えられた。

 

 

 

 現在、ロンドン市民の数はおよそ500万人。つまり理論上では10人に1人は武器を持てる計算になる。そしてその数は、ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)と5つの近衛歩兵連隊、ソブリンズ・ボディーガードといった近衛師団の全ての合計より遥かに多い。

 

 

「リベレーター(解放者)とはよく名付けたもんだ。共和国は自ら直接手を汚さず、あくまで怒れる王国の民衆自身が王国の支配から己を解放する……」

 

 ドロシーの言葉を聞いて、プリンセスはハッとする。

 

 それではまるで―――。

 

 

 

「あの時と同じ―――あの革命が、また起こるというの……?」

 

 

 

 それだけはいけない。あんなにも多くの暴力と擦れ違いを生んだ革命が再び起これば、さらに多くの悲劇が生まれてしまう。

 

 

「で、どうするんだ? プリンセス」

 

 

 ドロシーが問うと、ベアトリスも不安げな目を向ける。二人に見つめられたプリンセスはじっと黙っていたが、ややあって決意したように口を開いた。

 

 

「……そんなこと、させるわけにはいかない」

 

 

 挑むような眼差しでドロシーを見つめるプリンセス。ドロシーは僅かに驚いたように眉をあげた後、にぃっと悪戯っぽく笑った。

 

「そう言うと思った。それでこそ、我らがプリンセスだ」

 

 ドロシーは椅子から立ち上がると、扉の方へ首を傾け、親指を立てて二人に付いてくるように合図する。

 

 

 

「下に車を用意してある。―――新王室寺院まで全速力で飛ばすぞ」

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 その日、洗濯工場の女社長・マリラは一日分の仕事を終え、帰宅しようと部屋を片付けている最中だった。

 

 

 コンコン、と扉を叩く音がするので顔を上げると、戸口に立っていた郵便配達員が軽く帽子をあげて会釈するのが見えた。

 

「こんな時間に配達かい? 珍しいねぇ」

 

「へぇ、俺も10年以上配達員を務めているんですが、こんなのは今日が初めてっす」

 

 確認書にサインをして荷物を受け取ると、マリラは首をかしげた。届けられた小包はそう大きくはないが、妙に重たい。

 

「紅茶だって……?」

 

 包装用紙を破ると、中には「紅茶」と書かれた安っぽいラベルの貼られた、紙箱がいくつも入っていた。

 

(こんなもん誰が注文したんだ……?)

 

 身に覚えのない届け物に困惑するマリラ。首をかしげていると、従業員のリタとメリージェンが入ってくる。

 

「社長、片付け終わりました」

 

「部品の紛失もありませーん……って、あれ?」

 

 さっそく紅茶箱に目を付けたのは、大食いのメリージェン。眼鏡ドジっ子のリタが慌てて制止しようとするも、メリージェンは興味津々で箱を開けてしまう。

 

「ちょっとメリー、そんな勝手に人のモノを開けちゃ悪いよ!?」

 

「えー、でもちょっと見るぐらい…………へ?」

 

 ひぃっ、メリージェンとが息を飲んだのと、リタが顔を真っ青にして気絶したのは同時であった。

 

「嘘だろ、おい……」

 

 マリラもまた、紅茶箱の中に入っていたモノを見て血の気が引いていくのを感じた。

 

 

 ――そこには照明を反射して妖しく光る、何丁もの銃が入っていた。

 

 

 

「待て待て、どういう事だ!?」

 

 気絶したリタをメリージェンに任せ、マリラは慌てて駆けだした。無駄と分かっていながらも、先ほどの配達員を捕まえて事情を聴くべく工場の外にでる。

 

 

「っ――!?」

 

 

 角を曲がった途端、ドンッ!と誰かにぶつかる音がした。マリラは勢い余って反動で後ろに倒れる。

 

 

「いたた……」

 

 地面にぶつけて擦りむいた足を押さえ、ぶつかった相手の方を見るマリラ。よく見ると、知っている顔だった。残念ながらあまり会いたい顔ではない。

 

「あんたは……!」

 

「ちょっと危ないじゃない! どこ見てんのよぉッ!? 」

 

 そこにいたのは借金取りのオカマ……もとい、フランキーとその取り巻き二人組であった。向こうもこちらに気づいたのか、何とも言い難い微妙な表情を向けてくる。

 

「あら、アンタ洗濯工場の。久方ぶりじゃない、元気してる?」

 

「それなりってトコね。あと、ぶつかって悪かった。今はちょっと急いでるから、用事がないならどいてくれないか?」

 

 マリラがつっけどんに言うと、フランキーはやれやれといった様子で首を左右に振った

 

「やーね、余裕が無い女はモテないわよ。ひょっとしてアンタ、例の連中の仲間だったりする?」

 

「例の連中?」

 

「外でこーんな小さな鉄砲もって暴れてる連中の事よ。まったく何処の馬の骨が配ってるのか知らないけど、迷惑しちゃうわ」

 

 フランキーは困ったようにぼやくと、ポケットから届けられた紅茶箱に入っていたものと同じタイプの拳銃を取り出した。

 

「今朝、知らない届け人から紅茶箱が届けられたんだけど、その中に3丁も入ってて。ホント、悪趣味よねぇ。あたしのとこにも配られたんだけど、どうしろってんのよぉ」

 

「ごめん、ちょっと借りるよ」

 

「あ、ちょっとぉお――!?」

 

 マリラは素早くフランキーから銃をひったくると、抗議の声を無視して拳銃をしげしげと確認する。刻印はなし、シリアルナンバーも無し。どこの誰が作ったのか全く分からない。

 

 それだけに、余計に不安が掻き立てられる。一体誰が、何の目的でこんなモノを配っているのか。少なくとも、真っ当な理由からではないだろう。

 

 

「一体、この街で何が起こっているんだ……?」

 

 




 茶会事件の元ネタはもちろん、アメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です(この世界のアメリカはどうなっているのか謎ですけど……)

 イギリスをモデルにした王国に抗議した市民が立ち上がる、というシチュエーションが似てるからという安直なネーミング(笑)

 ちなみに「リベレーター」拳銃のモデルは第二次世界大戦中にアメリカが作った同名のピストルをモデル、というかまんまパクってます


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case12.5:戒厳令

                      

 

 『ロンドンの壁』をくり抜いて作られた、完成したばかりの新王室寺院の前には奇妙な一団がいた。

 

 この国で一般的な馬車ではなく、牛に車を引かせている。彼らが身に着けている服装もまた、この国のものではない。

 

 

 

 彼らは遠く東に離れた島国、日本政府の外交使節であった。

 

 

 

「外が騒がしいな」

 

 

 牛車の中から呟いたのは、太政大臣にして特命全権大使・堀川卿その人である。

 

「はっ。どうやら民草が待遇改善を求めて抗議運動を行っている様子」 

 

 答えたのは、まだ少女といえる年頃の女性の声だった。

 

 佐賀藩士のチセはクイーンズ・メイフェア校への留学生という肩書で共和国情報部「コントロール」に協力する傍ら、堀川公へ王国・共和国双方の情報提供をも行っている。

 

「抗議運動か……それ自体は珍しいものではないが、なぜ今頃になって急に?」

 

「詳しくは分かりませぬ。ですが………非情にキナ臭いものを感じます」

 

 いつになく硬い声でチセは答える。今までも何度か堀川公が乗る牛車の護衛をしたことはあるが、今回ばかりは彼女も緊張を隠しきれなかった。

 

 

 事態はそこまで逼迫している。あえて例えるなら、かつて日本で“戊辰ウォー”が発生する直前によく似ていた。

 

 

「まるで街全体が狂気に陥っているようです」

 

「そうだな。体制が崩壊する前夜というのは、概してそのようなものだ」

 

 

 堀川マサヤスは、母国で発生した内戦である戊辰ウォーの当事者の一人でもある。その時もまた、混沌が至るところで蔓延っていた。

 

 悪質な悪戯によって警察車両のタイヤはパンクしており、交番には汚い言葉で落書きが書き込まれ、官公庁には石が投げ込まれている。

 今や公然と禁止されているはずのデモが行われ、それは食糧不足や厳しい取り締まりに対する抗議から、紛れもない反政府運動まで様々であった。

 

 

 人は群れる生き物だ。ひとたび仲間が増えれば、人間はどこまでも大胆になる。時が経つにつれ、ささいなスリから大胆不敵な強盗まで、窃盗や武装強盗は爆発的に増えていった。

 

 

 当初こそ警察は総動員で大量の逮捕者を出して事態を鎮静化しようとしたものの、すぐに限界を迎える事になった。

 収容所の広さよりも逮捕者の数が多く、また警察の数より法を犯す民衆の方が上回ったからだ。警察は数では民衆に敵わない。

 

 

 そしてひとたび警察の処理能力が飽和すれば、次には巨大な無法地帯が誕生する。

 

 あらゆる街角の建物を兵器で破壊し、反政府スローガンを殴り書きにした。字が読めない者でも、風刺画でもって現政権を批判する。

 王国を支える貴族システムが行うありとあらゆる弾圧に対し、彼らは真っ向から牙をむいて反抗していくようであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ノルマンディー公の命令でガゼルがロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)に到着すると、そこは見事なまでの恐慌状態であった。まるで戦時中のように喧噪に満ちている。

 

「例の銃はどのぐらい出回っている?」

 

「見当もつきませんよ。もしロンドン市民の半数が隠し持っていると言われても、別に驚きはしませんがね」

 

 ガゼルが尋ねても、職員は肩をすくめるばかりで投げやりな反応しか返ってこない。

 

 ロンドン中にバラ撒かれた銃はそれほどまでに多く、ノルマンディー公の命令通り全員を逮捕するにはどう見ても人員が不足していた。

 

 

(まずいな……)

 

 

 もちろんノルマンディー公らも手をこまねいてロンドンが無法地帯と化すのを放置していた訳ではない。

 

 

 ガゼルから警察のみでの対処が困難との連絡を受け取ると、さっそくノルマンディー公は自らの知るもっとも確実で実績のある方法―――軍隊を動かしての戒厳令を発動した。

 

 ルーアンから呼び戻した内務省軍を中核とし、さらに海軍大臣のアンキテーヌ公にも協力を要請、最寄りの駐屯地で待機してた空中戦艦グロスターをロンドン上空に急行させる。

 

 警察の持つ棍棒と拳銃などといった見かけ倒しの武器ではなく、最新鋭のライフルと銃剣で武装した正真正銘の軍隊が市民の取り締まりにあたった。

 厳しい訓練で鍛え抜かれた彼らは不屈の意思と力でもって、「法と秩序」を取り戻すべく市民に対して一層の弾圧を加えていく。

 

 

 だからこそ、だったのかもしれない。

 

 

 ――――まったくの偶然だが必然的に、その事件は起きた。

 

  




 “ちせ”は平仮名かカタカナかで迷ったんですが、平仮名表記だと紛らわしいので本作ではカタカナ表記の“チセ”で統一させていただきます。原作だと平仮名表記なのですが、どうぞご容赦ください。


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case12.6:暴動の始まり

  

 

 血の様に赤い太陽が落ち、ロンドン名物の霧が立ち込め始めた夕刻――――ヘンリー伍長はロンドンの中心部にある王立公園、ハイド・パークを休みなく巡回していた。

 

 空中戦艦グロスターの水兵であるヘンリー伍長にとって管轄外の任務なのだが、非常事態ということで水兵にも警備巡回の任が与えられていた。

 

(本当なら今頃、休暇を取ってジェニファーと会っている予定だったのに……)

 

 慣れない巡回業務に、連勤のストレス、休日出勤を命じられた苛立ちから、いつになく彼は不機嫌であった。

 

「あれは……」

 

 そんな折、彼が目にしたのは一人のみすぼらしい身なりをした少女。しかし、ただの少女ではない――スリだ。彼女の手が道を行き交う人々のポケットに素早く突っ込まれ、何食わぬ顔で財布か何か小さなものを取り出し、自分の服の中へと入れるのをヘンリー伍長は目撃した。

 

「おい、お前!」

 

 ヘンリー伍長は叫びながら銃を構えた。ロンドンでスリなど珍しくないが、この国の治安を預かる兵士の一人として、見てしまった以上は注意せずにはいられない。もちろん発砲するつもりなどなく、ただ少女を威嚇するために銃を向けたにすぎなかった。

 

 

 だが、スリの少女の反応はそうではなかった。いきなり恐ろしい形相で自分を睨んだ兵士が、銃口をこちらに向けている―――驚いた少女は、つい盗んでいた“収穫”を落としてしまう。

 

 

「お前……!」

 

 

 ヘンリー伍長の目が驚愕に見開かれた。少女が落としたモノは、何丁もの小型ピストル……件の『リベレーター』拳銃だったからだ。

 

(コイツはなんだ? まさか、共和国のスパイ―――)

 

 ヘンリー伍長の思い至った可能性に、スリの少女も気付いたらしい。ハッとした表情になり、ガタガタと震え始める。

 

 

 結論からいえば彼女は共和国のスパイでも何でもない、普通のスリの少女だ。ただ、「禁止されているモノは闇市で高く売れる」というスリの常識に従って『リベレーター』を集めていただけ。

 

 だが、そんな事を言っても信じてはくれないだろう。

 

 王国の階級制度のもとで貧乏人が一度疑われれば、間違いなく有罪判決は避けられない。ましてや恐怖でもって人民を支配しているノルマンディー公の手先、恐るべき内務省に連れて行かれたとなれば待っているのは、共和国のスパイである事を自白するまで続けられる容赦ない拷問だ。

 

 

「嫌っ………!」

 

 

 ゆえに少女は怯えて逃げ出した。悲鳴を上げ、驚いた公園の通行人たちの合間を縫って走り出す。続いて何が発生するかは、容易に想像が出来た。

 

 

 もしこの場にいたのがヘンリー伍長ではなく警察であったなら、最悪の事態は避けられたのかもしれない。本来であれば逮捕は警察の領分あり、軍人であるヘンリー伍長はこのような事態に際して、どういう対応をとるべきか判断がつきかねた。

 

 ヘンリー伍長は混乱していた。休みなしのシフトもまた、彼の判断力低下に拍車をかけたのかもしれない。

 

 いずれにせよ、彼はパニックに陥った人間の常として、これまでの経験に基づくもっとも慣れた動作を行った………引き金には指がかえられており、彼は無意識のうちに訓練通りの動きをした。

 

 

 ―――銃声―――

 

 

 機械のような動作で引き金が絞られ、耳をつんざくような轟音がハイド・パーク王立公園に響いた。

 驚いた鳩たちが一斉に飛び立ち、すぐ静寂が訪れる。道行く人々はあっけにとられ、銃を撃ったヘンリー自身も自分が何をしたのか理解していない様子であった。

 

 

 ――ふと地面に目を向けると、そこには一人の死体があった。先ほどの、スリの少女の死体であった。

 

 

 ヘンリー伍長のライフルによって旋回運動を与えられた銃弾は、日頃の厳しい訓練の成果を羽根井してか、見事なまでに正確無比に少女の心臓を貫いていた。

 

「あ……」

 

 次の瞬間、少女の口から真っ赤な血が溢れ出た。スリの少女は不自然にねじ曲がった姿勢で地面に倒れたまま、まだ生きたいと願っているかのように痙攣している。徐々にて血の滲んだ青い目から光が失われていくと、やがてスリの少女はぴくりとも動かなくなった。

 

 

 人々が集まり始めた。好奇心と不安に駆られた無数の人々が、ヘンリー伍長とスリの少女の死体を取り囲んだ。男、女、子供、老人、白人、黒人、平民、貧民………普通に暮らしていた人々が、普通じゃない状況を見て引き付けられるように集まっていく。

 

 

 ―――誰の娘だ?

 

 ―――分からん。だが、知り合いかもしれん。

 

 ―――そうだ、誰の娘であってもおかしくない。

 

 

 スリの少女の身元を特定することは出来なかった。それほどロンドンにはスリが溢れ、また大量に配られた『リベレーター』拳銃は誰が持っていてもおかしくはなかった。

 

 

 ―――誰がやった?

 

 ―――アイツだ。あの男だ。

 

 

 誰かが言うと、一斉に群衆の目がヘンリー伍長に向けられる。低い囁き声があちこちから聞こえる。怒り、不安、恐怖、憤り……その時初めて、ヘンリー伍長は自分がしでかした事の重大さを悟った。

 

 

「く、来るな! 近づくと撃つぞ!」

 

 

 無数の人々の突き刺すような視線を一身に受けて、ヘンリー伍長は恐怖に駆られた。完全に平常心を失い、溢れ出る冷や汗が止まらない。

 

 

 慌てて次弾を装填しようとするヘンリー伍長の背後に、一人のスコップを持った鉱夫が歩み寄った。

 彼は何年か前に、娘を警察の誤射で殺されたばかりだった。裁判所は助けてくれず、男は泣き寝入りするしかなった。

 

 それゆえ彼は王国を憎んでいた。目の前にいる若い水兵個人に恨みはないが、この腐った社会とそれを積極的に支える政府の人間すべてを憎んでいた。

 

「くたばれ!」

 

 ヘンリー伍長がライフルを向けるより早く、鉱夫は長年の恨みを込めてスコップで殴りつけた。

 

「政府の犬め!お前らが、お前たちのような人間がいるせいで俺たち労働者は……!」

 

 我慢の糸がプツンと切れたように、鉱夫の男は倒れたヘンリー伍長を立て続けに殴り続ける。そのすぐ傍では、倒れたスリの少女の母親がボロ人形のように動かなくなった娘の死体を抱いて悲嘆に暮れていた。

 

 

 それはハイド・パークだけの出来事ではなかった。同じような光景が、ロンドン中で見られていた。ソーホー、チャリング・クロス、トラファルガー広場……ロンドン市内の至るところで何人もの“ヘンリー伍長”が怒りを爆発させた民衆の犠牲となった。

 

 

 やがて、本格的な暴動が始まった。

 

 

 内務省はいつもの通り暴力でもって弾圧を加えていたが、やがて警察の手に負えなくなった。何人もの職員が犠牲になり、攻守は完全に逆転した。

 

 潰しても潰しても湧いて出てくるデモや暴動に、現場の職員たちは辟易していた。上層部もまた過労気味で、現場と悲鳴と上層部の無茶な要求に挟まれて精神的リンチを受けていた。

 

 

 それはこの事件の黒幕である、共和国の想像をも遥かに超えていた。事件を引き起こしているのは共和国のスパイでもなければ、操り人形の革命軍でもない。長年の不満をついに爆発させた、ロンドンの一般市民の手によるものであった。

 

 治安は加速度的に悪化していき、その包囲の輪は徐々に王国の中枢部分、ウェストミンスターとシティ・オブ・ロンドンへ迫ってきているようであった。

 




 哀れヘンリー伍長(原作2話に出てきた水兵の人。ベアトリスの変声をすぐに信じず、カマをかけた上で本人確認するぐう有能)、この日はきっと連勤で疲れてたので2話の冴えはなかった。


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激闘編
case12.7:Wild Wild Speed


  

 ロンドン中に戒厳令がしかれる緊張状態の中、『壁』をくり抜くようにして造られた新王室寺院では、ロンドンの喧騒とは別世界が広がっていた。

 

 礼拝堂の広さは他に類を見ないほど広く、また装飾も趣向が凝らされている。

 

 床は天然の大理石、シャンデリアは磨き上げられた純金で塗装されている。彫刻の掘られた柱と一緒に立ち並ぶ石造は、どれも中世に活躍した芸術家たちが作り上げた骨董品。女王陛下の住まうバッキンガム宮殿にも引けを取らない豪華さと、優雅さが此処には備わっていた。

 

 

「女王陛下、ご到着――!」

 

 よく通る侍従の声に、それまでシャンパングラスを片手に談笑していた貴族たちが一斉に頭を垂れる。やがて広間の奥の方から、執事の押す車椅子に乗った女王が姿を表した。

 

 

 

「……始まったか」

 

 

 

 吹き抜けの屋根の上から、ゼルダは間もなく天に召されるであろう憐れな仔羊たちを眺めていた。すぐ後ろの部屋には、大人しくスコーンを食べるプリンセス――――変装したアンジェの姿があった。

 

 今のところ、彼女は怪しい動きを見せてはいない。まるで自分こそが本物のプリンセスだと言わんばかりに、完璧な王女を演じ切っていた。

 

「言っておくが、上層部からはお前も見張るよう命令が出ている。疑われるような動きは慎めよ」

 

 アンジェの耳元で、ゼルダが囁くように警告する。

 

「共和国の為にも、王国の連中は今日ここで確実に仕留める。いいな?」

 

「分かってるわ。何度も言わないで」

 

 プリンセスの笑顔のままドスの聞いた声で返すアンジェに、ゼルダは小さく鼻を鳴らして立ち去る。相変わらず、何を考えているか分からない女だ。敵ではないが味方とも言い切れない。

 

 これから“ティー・パーティー”作戦は大詰めを迎える。だからこそ、より一層の警戒が必要だ。

 

「ん……?」

 

 にわかに下が騒がしくなったのは、その時だった。数人の黒服が、ノルマンディー公と出口の間を行ったり来たりしている。

 

(何かあったのか?)

 

 

 

 

 **

 

 

 

 ドロシーの運転する車は、まっすぐに新王室寺院に向けて走っていた。ただし、法定速度を無視して走っている場所は、『壁』の内部に作られた環状線路だ。

 

 

「ちょっと、何ですかアレ!! なんか後ろからスゴいのが追っかけてきるんですけど!?」

 

 

 後部座席に座るベアトリスが、泣きそうな表情で悲鳴を上げている。

 

 

 無理もない―――彼女たちの背後から迫っているのは、機関銃と大砲を満載した巨大な装甲列車だったからだ。

 

 

「お迎えが装甲列車とは、随分と手厚い歓迎だな! 流石にちょっとコレは予想外だ」

 

 ドロシーはバックミラーで相手を確認すると、軽い苛立ちをこめてチッと舌打ちする。プランBを立てる余裕もない。

 

「呑気なこと言ってる場合ですか!? 姫さまにもしもの事があったら……!」

 

 今にも卒倒せんばかりのベアトリス。もっとも当のプリンセスは侍女より余程肝が据わっているらしく、落ち着き払った様子で逆にベアトリスを宥めている。

 

「ベアト、運転中のドライバーの邪魔をしてはダメよ」

 

「それはそうですけどぉ~」

 

 八方塞がり。どうして毎度の事ながらこんな目に合わねばいけないのだろうと、ベアトリスは大きく嘆息する。

 

 今回の事だってそうだ。本物のプリンセスが到着したというのに、アンジェの変装が上手すぎたせいで逆にこっちが偽物扱いされてしまい、衛兵に怪しまれる始末。

 

 本来であれば怪しまれた時点で一度撤退して作戦を変更すべきなのだろうが、事は一刻を争うと判断したプリンセスは衛兵の「調べさせてもらうぞ」との反応に対して、一言。

 

 

「嫌です♪」

 

 

 当然のように拒否、そのままドロシーに命じて強行突破を図ったのだ。当然、すぐに追手が差し向けられ、現在の状況に至る。

 

 

「ねぇベアト、見て見て。砲塔がこちらに向けられてるわ」

 

「ふ、伏せて下さい! 砲弾なんか撃ち込まれたら車じゃひとたまりもありませんよ!?」

 

「では、機関銃で撃ってくれる事を祈りましょう」

 

 そうこうしている内にも、装甲列車は距離を詰めてくる。やがて照準を完了したらしく砲塔の動きが止まり―――ズドン!!と榴弾がドロシーたちの車を目掛けて放たれる。

 

「きゃぁああああーーーっっ!!」

 

 車体がガクン!と大きく揺れ、ベアトリスの悲鳴がトンネル内に反響した。

 

 

「ドロシーさん! もっと早く! このままだと……!」

 

「わかってるって! 落ち着けベアト! いま全力で飛ばしてる!」

 

 砲撃は一撃では終わらず、続けて何発もの砲弾が放たれる。直撃こそ免れたものの、凄まじい爆風がドロシーたちの車に襲い掛かり、サイドミラーが砕け散った。

 

「なんかさっきより近くなってません!? もっとスピード上げないと次こそ直撃ですよ!?」

 

「無茶言うな!もうこれが限界だ!!」

 

「もうダメですっ! 追いつかれるーー!」

 

「ごちゃごちゃ喚くなって! どうせ叫ぶなら交通安全でも祈ってくれ!」

 

 次々に放たれる砲撃と衝撃波に足を取られないよう、ドロシーはスピンしかけた車のハンドルを必死に押さえつける。

 思い切りアクセルを踏み込むも、徐々に距離は狭まっていく。そもそも列車と車では最高速度が違うのだ。

 

 すると、プリンセスが後部座席から身を乗り出してドロシーの耳元で囁いた。

 

「ドロシーさん、次の分かれ道を右です。線路のレールは左側に続いてますから、右折すれば追手を振り切れるはずです」

 

「え? なんだって? 風がうるさくてよく聞こえな―――」

 

 

 

「えいっ」

 

 

 

 プリンセスは問いに答えず、ハンドルをふんずと掴むと、そのままグイッと右側に大きく寄せた。

 

 

「ちょ、プリ――」

 

 

 当然、そんな事をすれば車は斜めに横滑りする。ドリフト状態でスピンしながら、分かれ道の右側へと突入した。

 

 

「うおおおおぉぉぉぉぉぁぁぁぁあああああッッ!?」

「きぃいやああああああぁぁぁぁあああああっっ!?」

「きゃー♪」

 

 

 三人分の悲鳴を響かせ、ドロシーたちの乗った車が右折する。やがて遠心力が底をつくと、車は疲れ果てたように動きを止めた。

 

「列車は……!」

 

 ドロシーが顔を上げる。するとプリンセスの予想通り、装甲列車はレールに従ってそのまま分かれ道を左折していく。最後の抵抗とばかりに数人の兵士が恨めしく発砲するも、無駄撃ちに終わった。

 

「……た、助かった」

 

 ドロシーがふぅ、と大きく息を吐く。後ろを見ると、悪戯を成功させた時のように満面の笑みを浮かべているプリンセスと、泡を吹いて倒れているベアトリスの姿がった。

 

「ベアト、生きてるか?」

 

「大丈夫です……いま天国にいるみたいな気分で―――うっぷ」

 

 激しいスピンの酔いに耐えられず、ベアトリスが車内から身を乗り出した。花も恥じらう乙女にあるまじき音が聞こえてくるが、そこは突っ込まないのが優しさというものだ。

   




 自分の中でベアトリスはオモシロ黒人枠なので、ちょっと洋画のノリで


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case12.8:待たせたな!

 

 ひとまず危機は脱したはず………そう安堵したのも束の間、数人の人間が駆けてくる足音が鳴り響いた。

 

 

「いたぞ! こっちだ!」

 

 

 見れば、道の先の方から赤と濃紺の制服に身を包んだ内務省軍の兵士たちが駆けてくるのが見えた。

 相手は最新式のボルトアクションライフルを装備しており、まともに正面から撃ちあえば勝ち目はない。

 

 

「隠れろ!」

「――撃て!」

 

 

 ドロシーたちが車の後ろに隠れたのと、兵士たちが発砲したのはほぼ同時であった。

 

 続いて新型ライフルの特徴である、再装填速度の素早さを活かした絶え間ない連続射撃音が響いた。タイヤがパンクし、車体にも次々に穴が空いていく。

 

 

「くそっ――」

 

 

 三人の中で唯一武器を持つドロシーが反撃を試みるも、まるで機関銃のような乱れ撃ちに思うように狙いを定める事が出来ない。

 

「ッ……!」

 

 やむを得ず腕だけを出して適当に発砲するも、訓練を積んだ内務省軍兵士に怯む様子はなかった。機械のように装填と発射のサイクルを延々と繰り返す。

 

(どうする……このままだとジリ貧に……!) 

 

 ドロシーは弾薬を再装填しながら考える。

 

 彼女の愛用しているリボルビング・ショットガンは基本的に遠距離での撃ち合いには向いていない。

 リボルバー銃の特徴である回転式シリンダーは、その形状から弾倉と銃身の間ある隙間からガス漏れが起こりやすく、またショットガンの弾は放射状に散らばるため遠距離では集弾性が極端に落ちるからだ。

 

 どうにか接近すればなんとかなるかも知れないが、あの弾幕の中を潜り抜けるのは至難の業だ。非武装のプリンセスやベアトリスでは援護もままならない。

 

 

(普段ならこういう時は、アンジェかチセがどうにかしてくれるんだが………あの二人が居ないと、こうもやり辛いとはな)

 

 

 弾の残り弾数もそう多くはない。ドロシーの額を、一筋の冷や汗が垂れていく。

 

 

 

 万事休すか―――そう思われた矢先に、どこからともなくスモークグレネードが投げ込まれる。一瞬のうちに白い煙がトンネルを満たし、兵士たちの視界を奪う。

 

 

 

「ぐわっ――なんだ!?」

 

「スモークグレネードだ! どこの誰が―――ガッ!?」

 

 

 その兵士は最後まで言い終わることなく、暗闇から現れた小さな人影の峰打ちによって昏倒した。

  

 

「敵襲! 敵襲だ!」

 

「くそっ!煙で何も見えない!」

 

「どこに居やがる! 正々堂々とフェアな勝負を―――うおッ!?」

 

 襲撃に気付いた兵士たちが反撃を試みるも、暗闇と煙で視界が不明瞭な状態での戦闘では相手に分が悪い。

 そう長くかからない内に、内務省軍の分隊はたった一人の少女によって壊滅した。

 

 

 

「チセ!!」

 

 

 

「――待たせたな。一宿一飯の恩義じゃ」

 

 かくして煙の中から現れたのは、堀川公の護衛についていたはずのチセであった。アンジェたちのチームで最強の戦力である彼女が参戦したとなれば、もう恐れるものはない。

 

「遅かったじゃないか相棒、自慢の勘でも鈍ったか?」

 

「案ずるなドロシー、これも策の内だ。いい女は遅れてくるものだと聞いた」

 

「ああ、今のチセは最高に美人だよ」

 

 こいつめ、とドロシーが冗談交じりに小突く。チセも満更ではなさそうな様子で、駆け寄ってきたベアトリスたちと再会を喜ぶ。

 

 

 

「それにしても、一体なにが起こっているのだ?」

 

 チセもまた、詳細は知らずとも王国でキナ臭い動きがあることには感づいていたようだ。ドロシーが手短に事情を話すと、チセは目を大きく見開いた。

 

「ふむ、女王暗殺か……穏やかではないな」

 

「プリンセスに扮したアンジェが、ゼルダと一緒に寺院にいるらしいんだが……」

 

 ドロシーの言葉を受けて、チセは寺院にいたメンバーの顔を思い出そうと顎に手を当てる。ややあって何かに思い至ったのか、ぽんと拳で手の平を打った。

 

「ゼルダというのは、プリンセスの傍にいた目つきの悪い女の事か? それなら吹き抜けの部屋の上にいるのを見たぞ」

 

「本当か!?」

 

 あっさりと居場所が分かったことに拍子抜けするドロシーたち。もちろん疑うわけでは無い。チセの能力はこの場にいる誰もが認めている。

 

 

「嘘は言わん。礼拝堂から見えた」

 

「よし、なら急ごう。時間が無い」

 

 ドロシーが言い、他のメンバーも頷く。全員で駈け出そうとした時だった。

 

 猛烈な突風がトンネルに吹き荒れ、間を置かずして金属同士が擦れるようなキィイイイ――ッという甲高い音が響く。

 

 そう、例えるなら―――列車が駅のホームに停車する直前のような音が。

 

 

 

「まだ残ってたぞ! 一気に仕留めろッ!」

 

 

 

「さっきの装甲列車か!? こんな時にッ!!」

 

 

 あまりに間が悪い状況での敵襲に、思わずドロシーの口から呪詛が漏れる。先ほど撒いたはずの装甲列車が、線路を逆走して戻ってきたのだ。王立鉄道警察の呆れるほどの職務への忠実さに対し、敵ながら尊敬の念すら感じてしまう。

 

 もっともドロシーが彼らを見直した時間は30秒にも満たず、銃撃を受けた次の瞬間には吹き飛んでしまったのだが。

 

「ったく、しつこい! 少しは空気読めって!」

 

 正直、先ほどの内務省軍より厄介な敵だ。装甲列車はその搭載能力を生かして歩兵から砲兵、工兵、軍医、場合によっては戦車から装甲車まで何でもござれだ。こうしている間にも、停車した貨物車両から次々に兵士が吐き出されていく。

 

 

「……チセ、スモークグレネードはあと幾つ残ってる?」

 

「これが最後の1つだ。他は全て使い尽くした」

 

 

 チセが懐から、小さな球状の物体を取り出す。

 

 

「でかしたチセ! 後で幽霊通りにあるパブのスタウトを奢ってやるよ。絶品だ」

 

 

 ドロシーはそう言うと、チセにスモークグレネードを取り出すよう合図する。

 

「作戦はこうだ。チセがグレネードを投げる。煙で敵は視界が見えなくなるはずだから、プリンセスとベアトはその隙に一気に走り抜けてくれ。私は銃で援護、チセはカンフーで敵を撹乱―――どうだ?」

 

 プリンセスとベアトリスが頷くと、ドロシーは「よし!」と銃を構えた。チセは「カンフーではない……」と不満げにブツブツ呟いていたが、体は既に投球の構えに入っている。

 

 

「よし、今だ! 投げろ!」

 

 

 ドロシーが叫ぶと同時に、チセが勢いよくスモークグレネードを投擲する。チセの強肩によって投げられたスモークグレネードは綺麗な放物線を描き、装甲列車から降りてきた兵士たちの中心部に着地した。

 

 

「プリンセス、ベアトリス、―――走れッッ!!」

 

 

 ドロシーは発砲しながら、口だけを動かして叫ぶ。それを合図に、プリンセスとベアトリスは駆けだした。チセの姿は既になく、兵士たちの中に飛び込んでいるようだった。

 

 

「ベアト、行きましょう!」

 

「はいっ!」

 

 

 駆け出す二人の主従をチラッと横目で見やり、ドロシーはその幸運を祈る。

 

 

 

(頑張れよ、プリンセス……囚われのプリンセス(アンジェ)が待ってるからな)

 

 

   




チセ「待たせたな!」


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case12.9:夜明け前

         

 新王立寺院の外は完全に封鎖されていた。テムズ川には武装した巡視船が何隻も並び、大通りは戦車で封鎖され、上空には空中戦艦が待機していた。

 

 『ロンドンの壁』に通じる道と言う道にはバリケードが作られ、機関銃が不審者に目を光らせている。その後ろには幾つもの大砲が用意され、夜にもかかわらず持ち込まれた大量のサーチライトが昼のような明るさを演出していた。

 

 

 そして新王立寺院の正門前には、武装した装甲車の脇でガゼルが指揮をとっていた。海兵隊から選抜した特殊部隊に、職務に忠実な内務省軍、近衛騎兵連隊に王立騎馬砲兵……いずれも軍の最精鋭たる優秀な兵士たちだ。

 

 

(さぁ、来るなら来い――)

 

 

 ガゼルは戦力分散の愚を犯すことをせず、限られた兵力を重要拠点に集中配備することにした。ワンズワース、シティ・オブ・ロンドン、ウェストミンスター、グリニッジにケンジントン&チェルシー、そしてこの新王立寺院だ。

 

 合計で4万人近い兵力が、このロンドンに集結している。それも重火器で武装した王国指折りの強者たちだ。たとえ暴徒がいかなる数で押し寄せようと、ガゼルには守りきる自信があった。

 

 

「――グリニッジの近衛擲弾兵連隊から、民衆を発見したとの報告がありました」

 

 報告を行ったジェイク大佐の声には、かすかな不安が混じっていた。じろり、とガゼルが睨むと怯んだように背筋を引き締める。

 

「大佐、夜間外出禁止令を破った者は全て逮捕するよう命じたはずだが?」

 

 既に何度も命令でそう伝えてある。それとも王国軍兵士はこの程度の命令すらこなせないのだろうか?

 

 

 ジェイク大佐は逡巡していたが、ややあって気まずそうに口を開いた。

 

 

「いえ、近衛擲弾兵連隊からは“逮捕は不可能”との返答が」

 

「どういう意味だ?」

 

 ガゼルが鋭く問う。こちらは戦車も大砲も持っているのだ。たかだか粗悪品の銃や棍棒で武装した市民など、苦も無く逮捕できるはず。

 

「それが……」

 

 ジェイク大佐は大きく息を吸ってから、躊躇うように告げた。

 

 

「民衆の数があまりにも多すぎると言っております」

 

 

 

 **

 

 

 新王立礼拝堂チャペルの二層部分では、こっそり忍び込んだプリンセスとベアトリスの姿があった。

 

 本来なら人が入るべき場所ではなく、チャペルをより高く見せるための装飾に過ぎないのだが、そのおかげで二人が侵入しても気づく者はいなかった。

 

 

(なんとか間に合ったようね……)

 

 

 ひとまずプリンセスは安堵のため息をつく。眼下には女王陛下やノルマンディー公をはじめ、見知った顔が大勢整列している。

 

(それにしても、どうやってこれだけの王族や諸侯を一網打尽にするつもりなのかしら……?)

 

 暗殺計画の詳しい部分については、ドロシー達も知らされていない。まさかゼルダたちが文字通り“天井を落として”王国首脳部の全滅を図っているなどとは思うまい。

 

 だが、やるべき事は変わらない。

 

 

「―――ベアト、やるわよ」

 

   




 ちょっと短め。

 そういえばアルビオン王国には内務省軍があるらしいですね。国軍は基本的に外国との戦争に使うものなので、植民地の反乱鎮圧とかに使うんでしょうか?


 ちなみに作中に出てきたジェイク大佐は4話でドロシーの色仕掛けに引っかかってたCV:玄田哲章の人です


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case12.10:ジェリコのラッパ

 そのころ、二階の別室ではゼルダたちが暗殺計画に備えて待機していた。

 

 部屋にはゼルダとイングウェイ少佐、プリンセスに扮したアンジェ、そして数人の少年兵たちがいた。すぐ横の食堂にはイングウェイが集めた革命派の兵士たちが詰めており、まもなく起こるであろう反乱の手はずを整えている。

 

 

「いよいよなのですね……」

 

「ご安心ください、プリンセス。手筈は万全です」

 

 

 アンジェの問いに、イングウェイ少佐が答える。やはり取り換えに気づいた様子はなく、純粋にアンジェの事をプリンセスだと信じているようだ。

 

 

「イングウェイ少佐。天井を落とすとはどのようにするのですか?」

 

「鍵を使い、私が仕掛けを……」

 

 

「少佐! 心中をお察ししろ。プリンセスにとって女王は身内なのだ」

 

 

 さりげない会話を装って情報を手に入れようとするも、目ざとく狙いを嗅ぎ付けたゼルダが巧妙に話を逸らしていく。

 情報収集には失敗したアンジェだったが、少なくとも一つだけ分かった事がある。

 

 

 ――ゼルダはまだ、自分のことを疑っている。

 

 

 これは一筋縄ではいかないな、とアンジェは思った。

 

 もしゼルダの警戒が緩いようだったら、もっともらしい理由をつけて“鍵”を譲り受けることも視野に入れていた。

 だが、現状を見る限りそれは難しそうだ。

 

 

 かといって無理やり奪い取れば、ゼルダに撃ち抜かれてしまうだろう。彼女は養成所の先輩にあたり、アンジェいえども万全の状態で当たらなければ厳しい相手だった。

 

 

(とはいえ、王国首脳部が皆殺しにされるのを見過ごすわけにはいかない……)

 

 

 そんなことをすれば、王国は立ち行かない。イングウェイ少佐らは国民に人気のあるプリンセスを神輿にすれば統治できると考えているようだが、政治の世界はそんなに生易しいものではない。

 

 

 ここに集まっている王侯貴族はたしかに王国に階級社会という歪みをもたらした、因習と腐敗の象徴なのかもしれない。

 

 しかし現に政治や行政をになっているのは彼ら上流階級の人間なのであり、それを失えば王国という国は機能不全に陥る。

 上流階級はいわば国家の頭脳なのであり、いくら脳に腫瘍があるからといって、頭を丸ごと切り落とせば身体の方も立ち行かなくなってしまう。

 

 

 それに女王をはじめとする王族はアンジェ―――本物のシャーロット王女の実の家族なのだ。

 

 王族に生まれたことを嫌い、共和国のスパイとなってからはもう何年も会っていないが、それでも目の前で家族が惨殺されるのを黙って見過ごすほど、アンジェは人間の情を捨てたつもりは無かった。

 

 

(こうなったら最悪、“アレ”を起動させるしかないかもしれないわね……)

 

 

 アンジェの脳裏に、最後の手段がよぎる。

 

(本当ならプリンセスに見てもらいたかったんだけど――)

 

 個人的な理由から、プリンセスの為に準備してきた一つの大掛かりな仕掛けがある。スパイとして暗躍する傍ら、暇を見つけてロンドンで着々と進めてきた計画だったが、この際それを応用するのも止むをえまい。

 

 

 

 アンジェが一人で決意を固めていたころ、ゼルダは自身の腕時計を確認していた。

 

「さてと……そろそろ頃合いだな。イングウェイ少佐」

 

「いよいよですか」

 

「ああ、貴様は成すべきことを成せ。ジェリコのラッパは既に鳴ったのだ」

 

 

 イングウェイ少佐が頷き、ポケットから鍵を取り出した。

 

(来た――――!)

 

 アンジェはドレスの中に隠したCボールを握りしめ、自分を警戒するゼルダを横目に見ながらタイミングを伺う。

 

 

 やがてイングウェイ少佐の持つ鍵が鍵穴へと近づいていき………アンジェがCボールを起動させる一瞬前、耳をつんざくような甲高い銃声が聖堂に響いた。

 

 

 

「っ……!?」

 

 

 

 続いてチャペルの方から一斉に銃声がこだます。けたたましい発砲音が連続し、貴族たちの悲鳴があがった。

 

 

「なんだ!?」

 

 

 予想外の状況に、イングウェイ少佐が呻く。ゼルダとアンジェの二人にとっても完全な予想外。この部屋にいる人間ではない誰かが、チャペルで発砲しているのだ。

 

 

「どこの部隊だ!? 発砲の許可など出した覚えは――」

 

 

「敵だ! 上の階にいるぞ!」

 

 イングウェイ少佐が状況を確認しようと駆け出すも、裏切り者の存在に気づいた王国警備兵がライフルで反撃を開始する。

 無数の銃弾が飛び交い、礼拝堂の壁が次々に砕け散る……そして幸か不幸か、一発の弾丸が鍵を持つイングウェイ少佐の肩を貫いた。

 

 

「しまっ――――!」

 

 

 被弾した衝撃で思わず鍵を握る手の力を緩めてしまう。イングウェイ少佐の手から零れ落ちた鍵はバルコニーの上で2、3度ほど跳ねた後にそのまま下のチャペルへと落下していく。

 

 

「鍵が!?」

 

 

「馬鹿者! 何をやっている!?」

 

 ゼルダの怒声が響く。これで一撃のうちに勝負を決する望みは絶たれてしまった。革命を成功させるには、意を決して正面から戦うしかない。

 

「第二、第三近衛分隊はそのまま撃ち続けろ! 敵に反撃の機会を与えるな! 第一分隊は私と共に女王陛下をお護りしろ!」

 

 だが、この頃には既に王国側も体勢を立て直していた。ノルマンディー公の指揮は素早く、主だった王侯貴族と共に礼拝堂から離脱していく。

 

「ッ………!」

 

 その様子を見たゼルダは、当初予定していた暗殺計画が失敗に終わったことを悟った。

   




 謎の銃声、犯人は一体誰なんだ(棒)


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case12.11:バックアップ

 

 

「――姫さま、やりましたね!」

 

 

 脱出していく人々の後ろ姿を見ながら、感極まったベアトリスがプリンセスに抱きつく。プリンセスもまた大勢の命が救われたことに安堵し、本心からの笑顔を浮かべている。

 

「ベアト、凄いわ! ぜんぶ貴女のおかげよ!」

 

「そんな、勿体ないお言葉です! でも私、お役に立てて嬉しいです!」

 

 ゼルダたちの計画になかった謎の銃声――――その正体はベアトリスの改造された人口声帯が発した、本物そっくりの銃声だった。

 

 ベアトリスの人工声帯が色々な音を出せることは知っていたが、まさか声真似だけでなく銃声まで再現できるとは………ベアトリスの父親はマッドサイエンティストの名に恥じず、娘の人工声帯に持ちうるすべての技術を注ぎ込んでいたらしい。

 

 あるいはその無駄な高性能こそが、ベアトリスの父親が娘に見せた彼なりの愛情だったのかもしれない。

 

 

「今なら私、少しだけ自分の身体を誇りに思えるかもしれません」

 

「ベアト……」

 

 

 少しづつではあるが、ベアトリスは忌み嫌っていた改造された自分を受け入れつつある。

 それが幸福なことなのかは分からない。それでもベアトリスが自分を誇れるようになったことを、プリンセスは一人の友人として祝福せずにはいられなかった。

 

「姫さま、それでアンジェさん達は……」

 

「たぶん、上の階にいるわ」

 

 チャペルを除くと、近衛兵たちが方陣を組んで自分たちより更に上の階を狙っているのが見える。ということは、反乱軍の主力は上層階にいるのだろう。きっとアンジェも、そこにいるはず――。

 

「ベアトは此処に残って、ドロシーさん達を待ってちょうだい」

 

「じゃあ姫さまは……?」

 

 不安げに自分を見るベアトリスに、プリンセスはきっぱりと告げる。

 

 

「私はアンジェを追いかけるわ」

 

 

「いけません!! そんな危ないことをして、姫様に万が一のことがあったらどうするんですか!?」

 

「お願い、ベアトリス。私が行かないと―――いえ、私が行きたいの」

 

「では、私もお伴しますっ!」

 

 いつになく食い下がってくるベアトリスに、プリンセスは困ったように微笑んで。

 

「気持ちは嬉しいけど、まだチャペルには逃げまどっている人たちが大勢いるわ。彼らを安全なところに避難させなくては」

 

 すらすらと流れるように、正論で武装した建前が口を突いて出てくる。自分勝手な“アンジェ”の本音を覆い隠す、“プリンセス・シャーロット”としての嘘。

 

「そんなの……そんなの、ズルいです………」

 

 半べそ状態のベアトリスの目尻に浮かんだ涙をプリンセスは指で優しく拭いていく。

 

「ごめんなさい、ベアト。私、悪い女だったの」

 

 寂しげに微笑むプリンセスに、それ以上ベアトリスは何も言う事が出来なかった。ただ、敬愛する主人にとって“アンジェさん”がとても大切な人なのだと、その程度は長年仕えた侍女として理解することが出来た。

 

 同時に優しくも頑固なこの主人が、一度こうと決めたことは最後まで貫き通す、強い意志の持ち主であることも理解していた。こうなったらもう、自分に止めることはできない。

 

 

 だから―――。

 

 

「……行ってらっしゃいませ、姫さま。私は……ベアトリスは、いつでも姫さまの帰りを待っていますから」

 

 

 それならせめて、最後は笑顔で送り出そうと。

 

 

 必ず帰ってくると信じて、ベアトリスは深く礼をした――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その頃、イングウェイ少佐の率いる革命軍は反撃に転じた近衛兵たちと激しい銃撃戦を繰り広げていた。

 

 戦術のセオリーでは高所に位置どった革命軍の方が有利なはずであったが、王国の最精鋭を集めた近衛兵はひるむ様子もなく精確な射撃で次々とイングウェイ少佐の部下を仕留めていく。

 

「ええい、近衛兵の連中は化け物か!?」

 

 忌々しげに革命軍の兵士たちが吐き捨てる。数とポジションではこちらの方が有利なのだが、敵の戦意は一向に衰える様子がない。

 

「ちっ……役立たず共め」

 

 作戦の失敗を悟ったゼルダは苛立たしげに舌打ちすると、うろたえるイングウェイ少佐らを叱咤するように檄を飛ばした。

 

「撃ちまくれ! どのみち捕虜になれば縛り首だ! 一人でも多く敵を道連れにするんだ!」

 

 半ば脅しともとれるゼルダの怒声に、右往左往していた革命軍兵士たちも意を決したように戦闘を開始する。多くが植民地出身者で構成されているだけに、捕まれば慈悲はないと誰もが痛いぐらい理解していた。

 

 

(これでいい……貴様ら無能どもがありったけの時間を稼いでくれれば、まだ挽回のチャンスはある)

 

 

 天井を崩落させて王国首脳部を暗殺する計画は失敗したが、ゼルダはまだ諦めてはいなかった。

 反撃に転じたイングウェイ少佐らを満足げに横目で見やると、ゼルダはプリンセス―――アンジェに移動するよう合図した。

 

 

「行くぞ、アンジェ・レ・カレ」

 

 

「……行くって、どこに?」

 

「決まってるだろ。女王陛下とその取り巻きを追うんだよ」

 

 ゼルダが合図すると、駅でアンジェとプリンセスを監視していたスパイたちが近づいてきた。彼らは共和国情報部の人間であり、イングウェイ少佐たちと違うプロの暗殺者でもあった。

 

「まぁ、私たちが追いつく頃には女王陛下もノルマンディー公も、とっくに死んでいるとは思うがね」

 

「っ……!」

 

 さりげなく囁かれたゼルダの台詞に、アンジェの顔が強張る。

 

「おや、そんなに怖い顔をしてどうしたんだ?」

 

 アンジェの葛藤をあざ笑うかのように、小馬鹿にした口調でゼルダが続ける。

 

「まさか王国の連中に情でも沸いたんじゃないだろうな? アイツらは憎むべき共和国の敵だぞ」

 

「……そういう意味じゃない。私はただ、計画が失敗したのにどうして貴女がそんなに余裕なのか疑問に思っただけ」

 

 アンジェの問いにゼルダは「そういう事か」と納得したように頷き、なんでもないように告げる。

 

「イングウェイたちの計画が失敗した時に備えて、“ティー・パティ―”作戦とは別に予備のプランを作っておいたんだ。これだけ大掛かりな計画なら、念入りにバックアップをとるのは当然だろう?」

 

 ゼルダの上官、ジェネラルたちは半ば強引ともとれる方法で『コントロール』の指揮権をLからもぎ取っている。裏を返せば強引に指揮権を奪い取っても、確実な実績を示して見返せるだけの自信がある、という事だ。

 

「連中の脱出経路は既に掌握している。買収と脅迫で内通者を作るのは骨だったが、何年も前から時間をかけて準備した甲斐があったよ。今頃、逃走経路には共和国軍特殊作戦群から選抜されたエリートの暗殺部隊が待ち伏せしているはずだ。多少のトラブルはあったが、すべて計画通りさ」

 

 青ざめていくアンジェの様子を楽しむかのように、ゼルダは嗜虐的な表情を怜悧な顔に浮かべる。そして死刑囚を前にした処刑人のように、ゆっくりと、いたぶるように囁く――。

 

「言ったろ―――王国の首脳部は今日、此処で死ぬんだ」

   




 前話での謎の銃声の正体はベアトリスの変声スキル。ちなみに元ネタは『ポリス・アカデミー』に出てきた黒人


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case12.12:幕切れ

 

 

 『ロンドンの壁』の内部には、いくつもの鉄道が通っている。

 

 元々は壁を建設する際に必要な物資や人員を運ぶためのトロッコだったのだが、延々と増築と改築を繰り返された『壁』が巨大化するのに伴ってその輸送網も巨大化していった。

 

 

 そして今では2万を超える対外国境警備軍が『壁』で共和国に対して臨戦態勢をとっており、また1万もの武装警官からなる対内国境警備隊が共和国への無謀な脱出を試みる民衆に対して睨みを利かせている。

 遥か遠くでドロシーとチセを相手にしていた装甲列車も、そうしたもののひとつだ。

 

 

 こうして3万を超える軍隊を保有するに至った『ロンドンの壁』は、それ自体がひとつの要塞であり社会へと変貌していく。

 駐屯地に必要な兵舎、食堂、購買、倉庫、エネルギーとそれを支えるインフラが整備され、その大半は『壁』の内部に作られた鉄道を使って物資や兵力の移動を容易にしていた。

 

 

 

 ノルマンディー公らが脱出経路として使ったのは、新王立寺院を建設する際に搬入・搬出用に使われていた貨物鉄道であった。

 

 貨物鉄道には荷卸しに使う“ホーム”があり、そこまで辿り着くことが出来れば、後は列車に乗って安全地帯まで脱出できる――――――はずであった。

 

 

 

「まったく、こうなってしまっては王侯貴族も乞食も大差ないな」

 

 

 

 中折れ式の重厚なリボルバーを油断なく構えながらも、ゼルダはあっけない幕切れに失笑を浮かべていた。

 

 彼女の目の前には10名の完全武装した共和国軍特殊部隊がおり、彼らの足元では両腕を後ろで拘束された王国の首脳陣が恐怖に震えていた。

 

 頭には黒い布を被せられ、貴族の誇りも超大国アルビオンの指導者たる自負も消え失せたのか、哀れに命乞いをして震えるばかりだ。

 

 

 

「さて、ショータイムといこうか」

 

 アンジェの方を見て、ゼルダが余興でも見物するかのように言った。

 

 特殊部隊の隊長格らしき男が、唯一背筋をピンと伸ばして跪いていた捕虜へと近づいた。

 捕虜の頭に被さっていた布を剥ぎ取ると、そこには眼鏡をかけた白髪混じりの初老の男がいた。

 

 

「ノルマンディー公……」

 

 

 捕らえられるまでに相当抵抗をしたのか、額の殴られた跡からは血が滲んでいる。ワックスで整えられていた髪は乱れ、眼鏡にはヒビが入っていた。

 

 王国を実質的に支配し、民衆を恐怖と監視で締め上げていた男。自由や平等を警察権力でもって無慈悲に弾圧し、アンジェら共和国スパイを何人も死に追いやった天敵………それが今、目の前でなすすべもなく殴られ、無様な敗残者となって間もなく処刑されようとしている。

 

 

「黒幕は君だったか、シャーロット」

 

「っ……!」

 

 

 プリンセスに扮したアンジェを見て、ノルマンディー公が静かに呟く。老いてなお鋭い眼光に耐え切れず、アンジェは思わず目を逸らす。心の奥底まで見透かすようなノルマンディー公の瞳に、自分こそが本当の“シャーロット王女”だと気づかれてしまうような、そんな錯覚すら覚えた。

 

「君に野心がある事は気づいていたが、よもや此処まで大胆だったとはな。いささか君を甘く見くびり過ぎていたようだ」

 

 ノルマンディー公の声に恨むような様子はない。ただ淡々と、自らの敗北を認めるように落ち着いた口調だった。その体はいつになく小さく見え、巷で言われるような恐怖の独裁者とは程遠い姿だった。

 

 そこにいたのは落ちぶれ、疲れ果てて急に老いてしまった一人の老人―――アンジェがシャーロットと呼ばれていた頃の叔父の姿だった。

 

 

「やってみるか?」

 

 小馬鹿にしたような口調で、ゼルダが自分の拳銃をアンジェに差し出す。

 

「っ――――」

 

 アンジェは青ざめながらも、何かに憑かれたようにゼルダの拳銃に手を伸ばした。使い慣れているはずの拳銃はいつになく冷たく、ずっしりと重たかった。

 

 ノルマンディー公は瞬きすらせず、運命を受け入れるように自分を見つめている。アンジェもまた、負け時と見つめ返し、やがてその指がゆっくりと引き金にかけられる。

 

 視界の隅に、ゼルダの姿が見えた。完全にリラックスした状態で、面白そうに処刑の様子を眺めている。

 

 アンジェは唾を飲み込み、指の筋肉を動かしていく―――撃鉄が動き始め、そして。

 

 

 

 一発の銃声が暗い通路に響き渡った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「今の銃声は……!?」

 

 

 その音は、アンジェたちを探すプリンセスの耳にもハッキリと聞こえた。

 

 複雑に作られた『壁』の内部を手探りで探していたプリンセスだったが、離れたところから反響して聞こえてきた一発の銃声は彼女の心に一つの確信を生み出した。

 

(間違いない、あそこにシャーロット達がいる……!)

 

 この時、プリンセスは分かれ道にいた。どちらに進むべきか迷っていたが、今の銃声で道は決まった。もし神という存在がいるとすれば、きっと今の銃声がそうなのだろう。

 

 プリンセスは走り出した。

 

 

 待っててねシャーロット、すぐに行くから―――。

 

   




 タイトルを「ノルマンディー公死す」にしようか迷った。


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case12.13:再開

 

「案の定、だな」

 

 プリンセスが向かった通路の先では、銃口を向けられたゼルダが不遜な表情で立っていた。彼女に向けられた銃口からは白い煙が立ち上っており、持ち主であるアンジェが驚いたように目を見張っていた。

 

「信用できない相手に、実弾入りの銃を渡すとでも思ったか?」

 

「……弾頭は抜いてあったのね」

 

 

「ご名答だ、裏切り者」

 

 

 アンジェが次の動きに入るより早く、ゼルダが鋭い蹴りを入れる。

 

「ぐっ……!」

 

 痛みに喘ぐアンジェ。取り出そうとした愛用のウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバーが地面に落ち、乾いた音が通路に反響する。体勢を立て直す間もなくゼルダ配下の共和国軍特殊部隊の銃口が一斉にアンジェに向けられ、少しでも動けば頭部を撃ち抜くと暗に伝えていた。

 

 

「惜しかったな。もう一回、養成所(ファーム)に戻ってイチから出直して来い」

 

 

 ゼルダが合図すると、二人の特殊部隊員がアンジェを拘束した。

 

 

「まぁ、もっとも―――」

 

 

 ゼルダは拳銃の弾倉を開け、銃弾を一発づつ交換しながら言う。

 

 

 

「次、なんてものは無いが」

 

 

 

 リボルバーを弄ぶように弾倉部分をぐるりと回転させ、ゼルダはそれをノルマンディー公の額に当て、冷たく言い放った。

 

 

「待っ―――――」

「さよならだ、公爵」

 

 

 ゼルダは冷たく言い放つと、一気に引き金を絞った。

 

 

 

 ***

 

 

 

 銃声を頼りに走ってきたプリンセスが最初に見たもの――それは目の前で頭を吹き飛ばされるノルマンディー公の姿だった。

 砕けた頭蓋骨の破片が飛び散り、それに交じって脳漿と血液があたり一面に飛び散る。

 

 

「え………?」

 

 

 倒れたノルマンディー公の瞳は、もはや何も見えてはいなかった。じわじわと広がる、どろりとした血の海。そして唖然とした表情で棒立ちになる、血染めのプリンセス。

 

 革命で王女と入れ替わってから10年間、内務卿そして叔父として接してきた相手が今、目の前であまりにあっけなく命を散らした。その事実を前に、プリンセスは呆然と立ち尽くす事しかできない。

 

 

「ほう、これはこれは」

 

 

 一方のゼルダは、新しい獲物を前に哄笑した。特段、驚いた様子はない。ちらっと横目でアンジェを見ると、彼女は信じられないといった様子で呆然としている。

 

 

(アンジェが裏切った事が判明した以上、死んだはずのプリンセスが生きていても不思議はない。とはいえアンジェの様子を見る限り、プリンセスが此処へ来たことは予想外だったらしいな)

 

 

 だが、ゼルダにとっては行幸というほかない。プリンセスが自分から進んで処刑場へと飛び込んでくれるなら、こちらが探す手間も省けるというもの。これぞ飛んで火にいる夏の虫、という奴だ。

 

 

 

「プリンセス・シャーロット、生きていたとは。いやはや、無事で誠に―――残念だよ」

 

 

 

 **

 

 

 ゼルダは意地の悪い笑みを浮かべ、無力な獲物を前にせせら笑った。最新式の自動拳銃で武装した部下が数名、その銃口をプリンセスに向ける。

 

 

「殿下の叔父・ノルマンディー公は最後まで勇敢だったよ。死の直前まで泣き叫ぶこともなく、毅然としていてね。命惜しさに泣き叫ぶ他の腐れ貴族どもとは大違いだ」

 

 

 ゼルダの口調には1割の敬意と、9割の悪意が混じっていた。

 

「さぁ、貴女はどちらの側の人間だ? お上品な仮面の裏に、何を隠してる?」

 

 

「……何も」

 

 

 プリンセスは体をこわばらせながらも毅然と背筋を伸ばし、両手を後ろで組んだ。

 

「私には何もありません。知性も気品もない、空っぽの人形だから」 

 

 プリンセスが落ち着いた口調で言うと、ゼルダと部下たちが一歩後ずさった。ゼルダたちを思わず下がらせたものは、人間が持つ本能的な恐怖であった。彼女たちは無意識のうちに感じ取っていた。

 

 

 ――この女は、潜り抜けた修羅場の数が違う。

 

 

 かつてスリだった少女。革命でたった一人王宮に取り残され、殺気立つ大人たちの中で王女を演じ切らねば殺される……ほんの一瞬の綻びが死に直結するプレッシャーの中、血の滲むような努力を10年も休むことなく続けてきた。

 

 文字を書くことすら出来ず、譜面を読むことも出来なかったスリの少女は、今や七ヶ国語を流暢に操る王国有数のピアニスト、誰もが認める正真正銘の“プリンセス”へと変わっていった。

 

 

「プリンセス・シャーロット、貴様……!」

 

 

 華奢な身体のどこにそんなエネルギーが隠されていたのか、この時プリンセスの姿は二回りも大きく見えた。

 この時この瞬間、場の空気を支配していたのはプリンセス―――無防備で武器の一つも持っていない少女は、ただその気迫のみで歴戦の共和国軍特殊部隊を圧倒していた。

 

「貴様は一体、何者なのだ……?」 

 

 不安の混ざったゼルダの声に、プリンセスはただ一言。

 

 

「ただの、スパイです」

 

 

 いつの間にか、プリンセスの手の中には小さな小石が握られていた。プリンセスの投擲は精確にゼルダの肩に命中し、銃口を横に逸らした。

 

 

「こいつ、いつの間に……!」

 

 

 そしてそれが合図だったかのように、それまで無抵抗だったアンジェが弾けるように飛び出した。

 

「なっ……!」

 

 チセから学んだ東洋の体術――柔よく剛を制す――を応用して素早く相手の拘束から逃れ、驚く相手が正気に戻る前に昏倒させて武器を奪う。

 

 

「殺せ!!」

 

 

 ゼルダが怒号を上げ、絶叫した。

    




>チセから学んだ東洋の体術

たぶんバリツ、シャーロック・ホームズがモリアーティ教授を倒した謎武術


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case12.14:Battle of the Shadows

  

 ゼルダの命令が発せられるや否や、その語尾は銃声の爆発的な騒音に飲み込まれた。

 

 自動拳銃の連続した発砲音に、ゼルダのリボルバーが放つ断続的な銃声。繰り返される火薬の爆発する轟きと、唸りをあげて飛来する鉛の弾丸、さらに跳弾した銃弾の甲高い音が混ざり、麻痺した耳がその空間だけ時間が止まったかのような錯覚を引き起こす。

 

 

 アンジェは素早くCボールを起動させるも、圧倒的な火力の奔流に逆うことはできなかった。

 

「くっ………!」

 

 避けきれなかった何発もの銃弾が、彼女の細い身体を傷つけていく。噴き出した赤い血が白い硝煙を紅に染め上げ、その姿もやがて白煙の中に消えていく。

 

 やがて銃声の残響が消え始め、静寂が訪れた。自動拳銃のブローバックは止まり、リボルバーは回転して空の薬莢を空しく撃つ。

 合計で86発の弾丸―――ゼルダのリボルバー6発に、10人の共和国軍特殊部隊員の持つ装弾数8発のブローバック式自動拳銃――は、そのすべてを撃ち尽くした。

 

 

 

 だがゼルダたちが期待したような、人間が倒れる音はしなかった。

 

 

 

「嘘……だろ……?」

 

 

 

 まるで神話に出てくる不死身の怪物のように、アンジェはプリンセスを庇うように仁王立ちで立っていた。

 

 両足は僅かに震え、華奢な少女の身体は微かに揺れている。身体の至る場所からは血が止めどなく流れ、彼女もまた無事ではないことを物語っていた。

 

 

 それでも、アンジェは自身の両の足で立っていた。銃弾を耐え凌ぎ、苦痛を不屈の精神で克服した少女は倒れることなく立ち続け、彼女の澄んだ青い瞳が、「次はお前たちの番だ」と告げていた。

 

 

「これで、終わりかしら?」

 

 

 冥府から響くような、アンジェの低い声。誰も逃がしはしない、とその仮面のような表情が語っていた。ただ一人の例外もなく、死へといざなう死神―――。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 もし目の前にいる人影が突然、ボロ切れのように倒れてくれたら。目を閉じて開けると横には家族や友人がいて、何事もなくすべては悪い夢だったのなら……しかしアンジェは確かにそこにいた。

 

 

 それは夢でも幻でもない。アンジェという人間は現実に存在し、その腕には落としたはずの愛銃が握られていた。

 

 

 

「じゃあ、次はこちらからいくわ」 

 

 

 

 アンジェは言葉は素っ気なく、普段のミッション時と何ら変わることのない落ち着きようだった。ただプリンセスだけが、アンジェの声の隅に含まれた静かな怒りに気づいていた。

 

「くそっ―――!」

 

 アンジェの言葉に我に返った特殊部隊員たちは、慌てて銃に再装填を始める。だが、動くのが少しだけ遅かった。

 

 

 最初の犠牲者は脳髄を貫く、ウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバーの.455MkⅡ弾に反応する時間もなかった。

 

 放たれた銃弾は柔らかい眼球をゼリーのように押しつぶし、頭蓋骨の隙間から脳へと一直線に吸い込まれていった。逆流した脳髄と血液が眼窩から噴水のように派手な血飛沫を撒き散らす。

 

 

 次の犠牲者は最初の隊員が倒れるより早く、Cボールで飛び上がったアンジェの二射めで心臓を貫かれた。冷たい鋼鉄が皮膚を食いちぎり、肋骨の隙間を貫通し、肺を砕きながらそれは心臓へと達した。

 

 

 

 血が噴き出るたびに悲鳴が響き、骨が折れる度に絶叫がこだます。銃弾が吸い込まれるかのように次々と急所へと命中していく異様な状況の中、共和国軍の選りすぐりの精鋭たちがバタバタと暗闇の中で倒れていく。

 

 アンジェの動きは機械のように精確で、優雅にたなびく黒いマントは死神のように次から次へと移動し続ける。特殊部隊員たちの周囲を旋回し、息の根を止め、死体から銃をもぎ取って更なる殺戮を繰り返す。

 

 

 ゼルダは血の気が引くのを感じながら、ただ訓練で覚えた身体が筋肉を収縮させるに任せて、リボルバーを一発づつ再装填していた。

 

 腕は石のように重く、指の感覚はゴムのようになり、弾丸は石鹸のように汗で滑って思うように弾が込められない。それでも何とか薬室に弾丸を押し込めるたびに、部下が一人、また一人と戦慄すべき血の海の中で絶命していく。

 

「っ―――!?」

 

 最後の部下が再装填を完了し、銃口をアンジェに向けようとした刹那、アンジェのナイフが銀色の閃光のように煌めいた。刃がぎらりとわずかな光を鈍く反射したかと思うと、次の瞬間には鮮血が雨のように降り注ぐ。

 

 

 

(ま、間に合った……!)

 

 最期の部下が倒れた直後、ついに最後の一発がゼルダのリボルバーに装填された。彼女を守る部下は一人も残っていなかったが、彼女は再び人間を6回は殺せる力を手にしていた。

 

「来るなぁッ!」

 

 怯え切ったゼルダは絶叫を上げ、何度も引き金を絞りながらアンジェに発砲した。

 

「死ね! 死ね! 死ねぇッ!!」

 

 

 

 ゼルダの狙いは精確だった。彼女が立て続けに発砲すると、ついにアンジェの動きが止まった。か細いか少女の身体は銃弾の衝撃に耐えられずのけぞり、弾丸が当たるたびに激しく右へ左へ揺さぶられた。

 

 

 しかしアンジェは特殊部隊員たちの死体が散らばる中、血の海の主であるかの如く、決して倒れる事だけは無かった。

 

 一発、二発、三発………やがてゼルダの残り弾数が半分を切る頃には、それが彼女に残された寿命のカウントダウンであるかのように渇いた銃声が響いていた。

 

 

 

「ありえない……! 銃を撃って! 当たって! どうして倒れない!?」

 

 

 

 信じられない、という風にゼルダが喘いだ。弾を全て打ち尽くしたリボルバー銃はいまだアンジェに向けられ、空になった薬室を撃鉄が空しく叩いている。

 

 

「なぜだ……なぜ死なない……」

 

 

 アンジェは答えない。能面のような無表情で、容赦なくゼルダの末路に向かって歩みを進めていく。

 

「ひっ……!」

 

 ゼルダは恐怖に度肝を抜かれ、悪あがきを続けようと後退する。アンジェの歩調に合わせるようにじりじりと後ずさり、―――やがて背中が壁にぶつかった。

 

 もはや逃げ場はない。目の前には、生ける死神が近づいてくる。

 

 

「お前は―――、お前は一体なんなんだ!?」

 

 ゼルダの絶叫。それをアンジェは気にも留めず、一歩づつゆっくりと近づいていった。アンジェが一歩近づく度に、ゼルダは金縛りにあったかのように動くこともままならなくなっていく。

 

 

 やがて顔と顔とが触れ合うほど近づいた時、アンジェが再び口を開いた。

 

 

「私はスパイ、嘘をつく生き物よ」

 

 

 ゼルダはアンジェの鋭い視線から目を逸らそうと努力するも、蛇に睨まれた蛙の如く手足が思うように動かない。やっとのことで息も絶え絶えに出した言葉は、自分でも馬鹿馬鹿しくなるぐらいの愚問だった。

 

 

 

「殺すのか? 私を……」

 

「いいえ」

 

 

 

 それが、ゼルダとアンジェが交わした最後の会話になった。

 

 次の瞬間、彼女の心臓に一本のナイフが突き立てられ、口から血が溢れ出した。思考力が奪われていき、感覚が曖昧になってゆく。

 やがて全身の筋肉が弛緩して失禁し、両目が反転して白目を剥くと、ゼルダの身体は永遠に動かなくなった。

 

 

 アンジェは深く息をつき、ゆっくりとナイフを握る手をおろす。そこから滴り落ちる血は、もはや誰のものだか分からなかった。

 

「ひとつ、言い忘れてたわ………スパイに不可能はないのよ」

 

 最後に少しだけ振り返ると、そこには死屍累々の屍山血河が積み上げられ、中心には恐怖に目を見開き絶命したゼルダの姿があった。それはまるで、伝承の杭を突き立てられた吸血鬼の最期のようであった。

 

  




 アンジェ無双のネタ明かしは次回!

 ちなみにタイトルはOSTから。戦闘シーンで良く流れてるあの梶浦感あるBGM。戦闘回ですので、BGMもイメージしてくれればと。


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崩壊編
case12.15:アンジェ


 

 全てを終えた後にカツン、と地面に何かが当たる音がした。アンジェのポケットから滑り落ちたそれは、小さな注射器――――前のミッションで“処置”した同期、かつて『委員長』と呼ばれていた女スパイの遺品であった。

 

 

(ありがとう委員長、貴女の私物を勝手に使わせてもらったけど、とても役に立ったわ………)

 

 

 だが、麻薬の鎮痛効果もそろそろ時間切れのようだ。痛覚が徐々に戻ってきている。足取りはふらつき、呼吸が徐々に乱れていく。

 

 

 

「シャーロット!」

 

 

 プリンセスは不安な思いで叫ぶと、急いでアンジェの元へ駆け寄った。アンジェの口元にかすかな笑みが浮かんだかと思うと、彼女は糸が切れた人形のようにプリンセスの腕の中で崩れ落ちた。

 

「プリンセス……」

 

「無理に喋っては駄目、怪我が酷いわ……!」

 

 両腕で抱きしめるや否や、プリンセスの両手は血塗れになっていた。ぜいぜいと喘ぐように荒い息をするアンジェの鼓動が、抱きしめた腕越しに伝わってくる。硬直したアンジェの体はひどく強張り、一目で彼女が限界を迎えている事が分かる。

 

「出血を止めないと……」

 

 アンジェを近くの壁に座らせると、プリンセスは自身の上着を迷うことなく脱いだ。アンジェの傷口を抑えるように上着を巻いていく。

 

 

だが、それでもアンジェの出血は止まらない。純白のドレスが赤く染められていく。

 

「ありがとう……でも、もういいの」

 

 アンジェが息も絶え絶えに言う。

 

 

「だけど……!」

 

 

「いいのよ。もう、いいの」

 

 

 アンジェの右手がプリンセスの腕を優しく掴み、左手はプリンセスの頭を抱えるようにしてぎゅっと抱きしめる。まるでそれが、最後の抱擁であるかのように――。

 

「シャーロット、そんなこと言わないで……」

 

 本当であって欲しくなかった。傷の深さから見て、アンジェがどういう状態なのかは嫌でも想像がつく。

 だが、それでもプリンセスはそのことを認めたくは無かった。

 

「プリンセス……いいえ、“アンジェ”にはもう嘘はつかない」

 

「っ……!」

 

 泣き声を押さえる事が出来ない。涙を堪えようとしても、嗚咽が漏れてしまう。

 

「お願い……死なないで」

 

 

「私は―――」

 

 

 プリンセスの懇願に、アンジェは笑顔で返す。残された命に少しでも長くしがみつくかのように、プリンセスの腕をつかむ手に更に力を入れる。

 

 

「私はこの10年間、ずっと貴女と一緒になるために『壁』を壊すことだけを考えてきた……」

 

 

 アンジェの声はか細く、ほとんど囁き声になっていた。今にも消え入りそうで、プリンセスが一句もらさず聞き取るためには顔をもっと近づけなければならなかった。

 

 

「人嫌いで怖がりだった空っぽの私に……貴女は初めて生きる理由をくれた。初めて出来た友達……貴女にもう一度会いたい……その理由があったから、今日までずっと戦ってこれた……」

 

 

 残り少ない命を削って絞り出しす様なアンジェの独白に、プリンセスはただ彼女を抱きしめながら咽び泣くことしか出来ない。

 

 

「貴女にもう一度会いたかった……そして、もう一度会って貴女に、アンジェに謝りたかった……」

 

 

「私は……私は後悔なんかしてない!」

 

 

 涙で顔をくしゃくしゃにしながら、プリンセスは必死に叫ぶ。

 

 

「シャーロット、貴女と会う事が出来て良かったって、今も昔もそう思ってるわ……!」

 

「……私も、あなたに会えて良かった」

 

 

 もはやアンジェの声は、聞き取れないほど小さな掠れ声になっていた。それでもアンジェは最後の力を振り絞り、プリンセスの耳元に口を近づける。

 

 

「――、―――――」

「っ…………!?」

 

 

 目を見開くプリンセス。驚いてアンジェを見つめると、彼女は穏やかに微笑んでいた。

 

 

 ―――大好きだった、彼女の笑顔。

 

 

 永遠とも錯覚する僅かな時間が過ぎていく。プリンセスの目から頬に涙が幾重にも伝い、アンジェの顔へと零れ落ちた。

 

 

 

「大好きよ」

 

 

 

 少しだけ名残惜しげな表情で、アンジェが告白した。やがてプリンセスの腕を掴んでいた手から力が抜けていき、アンジェの体は徐々に重くなっていった。

 

「シャーロット……?」

 

 そっと問う――――――二度と目覚めることがないのは明らかだった。アンジェは満足げな微笑みを浮かべながら眠っていた。

 

 

「私も、貴女の事が好きよ」

 

 

 答えは無かった。それでも、プリンセスは自分の想いを口に出さずにはいられなかった。

 

 

「世界中の誰よりも、貴女の事が好き。貴女には幸せになってもらいたかった……二人で一緒に夢を叶えたたかった」

 

 

 それが限界だった。想いがはじけ、涙が溢れて止まらなくなる。

 

 残されたプリンセスは為す術もなく泣きじゃくり、言葉にならない慟哭が暗い地下通路の虚空に響き渡った。

 




 前話のアンジェ無双の正体:麻薬

 良い子は真似しないでね!


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case12.16:シャーロットのおくりもの

  

 新王立寺院前の広場では、ガゼルが部下の兵士たちに戦闘態勢を指示していた。

 

 彼女はいつになく緊張していた。部下たちもまた、ただならぬ事態に何が起こるのかと不安げに顔を見合わせている。

 

 

 ―――やがて“彼ら”は来た。

 

 

 一人、もう一人と物陰から人が現れてゆく。ガゼルは身体をこわばらせ、腰の銃に手を伸ばす。

 

 

 

「いかがいたしましょう?」

 

 ジェイク大佐が不安げにガゼルに尋ねる。支持を切望しつつも、死ぬほど恐れている命令が下されないよう必死で祈っていた。

 

「……ノルマンディー公から連絡は!?」

 

 ガゼルが叫ぶ。彼女もまた、この異常事態にどうするべきか迷っていた。撃ち殺すには群衆が多すぎる――。

 

「ダメです! 連絡とれません!」

 

「非常回線も応答なし! どの回線を使っても何の反応も返ってきません!」

 

「っ……!」

 

 青ざめた通信兵たちが叫び、ガゼルが唇を噛む。彼女の前にいる人々の数は増え続け、民衆の本流は津波のように広場を覆い尽くそうとしていた。

 

 数百人から数千人へ、数千から数万へ。万を超える人々が広場の前に集結し、通りを圧倒的な人ごみで飲み込んでいた。

 

 

 **

 

 

 プリンセスはアンジェの最期の言葉に従うがまま、暗い通路を奥へ奥へと進んでいった。彼女から託された最後の願いを、叶えるために――。

 

 

 沢山の扉を抜け、立ち入り禁止と書かれた看板を無視して進み、長い階段を抜ける。やがて筒状のトンネルに辿り着くと、その先に小さな駅のプラットフォームのようなものがあるのが見えた。

 

 

「古い……トロッコ?」

 

 その時プリンセスは初めて、自分が古い運搬用トロッコの車庫に辿り着いたことに気付いた。

 

 恐らく廃棄されてから何年も経っている。所々に投棄された機材は、このトロッコが『壁』の建設初期に運搬を目的とした作られたものであることを示していた。

 

 

「シャーロット、貴女はこれを一人で……」

 

 

 

 中央には、新品同様に磨かれた一台のトロッコがあった。アンジェが整備したのであろう。

 

 

 プリンセスはトロッコに近づき、先頭車両の前に立った。彼女がブレーキレバーを解除すれば、そのままトロッコは動き出すに違いない。

 ブレーキレバーには連動して時限装置が備え付けられており、それは後部に連結されている貨物車両へと続いていた。

 

 

「まったく、シャーロットったら一人で無茶ばかり……」

 

 

 プリンセスは笑顔を浮かべるしかなかった。

 

 貨物車両には砂利や石材の代わりに、紙で包まれた小さな四角いブロック状の物体が詰め込まれている。

 周囲をよく見ると、後ろの貨車にもさらなるブロックが積み上げられており、どうやらトロッコ全体に詰め込まれているようであった。

 

 

 そのブロックの中に詰め込まれているものを、アンジェは“希望”だと言った。

 

 人々を隔てている『壁』を壊すことで、誰もが好きな人と一緒にいられるような世界を作る………彼女は10年もの歳月をかけて、二人の約束を現実のものにしようとしていた。

 

 

 幼いころに交わした約束を、彼女はずっと覚えていたのだ。そしてプリンセスもまた、彼女の大切な友達との約束を叶えようとしていた。

 

 

 そして―――。

 

 

 

「動くな!」

 

 

 

 その時、大きな叫び声が地下空間に響き渡った。どうやら、最後の最後でアンジェの予想になかった訪問者が現れたようであった。

 

 

 

 そこにいたのは銃を構えたドロシーであった。

 

 

 

「プリンセス、いったい何があったんだ……?」

 

 艶のあった髪は乱れ、汗でべっとりと額に張り付いている。体中が煤まみれで、ここまで全力疾走してきた事は明らかだった。

 

 

「答えてくれプリンセス……何があったんだ? ゼルダとノルマンディー公に何があったのか、アンジェの身に何が起きたのか……」

 

 

 プリンセスは返事をせず、ただドロシーを見つめ返した。その澄んだ青いブルーの瞳が、淋しげな表情が全てを物語っていた。

 

 

「アンジェは…………死んだのか?」

 

 

 相変わらず、プリンセスは無言のままだった。無言のまま、沈黙でもってドロシーの問いへ答えを返す。その顔はプリンセスであってアンジェでもあり、シャーロットであった。

 

 彼女はゆっくりとした足取りで、トロッコへと歩みを進めた。

 

 

「やめろ!」

 

 

 ドロシーが叫んだ。

 

 後ろの荷台に乗っている“ブロック”が何なのか、スパイである彼女には分かっていた。プリンセスが何をしようとしているのかも分かっていた。

 

 そして、もし彼女を止めたければ自分の手で引き金を引くしかないことも……。

 

 

 だがドロシーの予想と違って、プリンセスはそのままトロッコの脇を通り過ぎた。レールの上を跨ぎ、反対側のホームへと移動する。

 

 

 

 ホームの隅には、明らかに場違いとも思える、こじんまりとした報道ブースが設置されていた。音声送信機にヘッドホン、ラジオマイク………放送に必要な機材は全て揃っている。

 

 スタジオの雛壇には、真っ白な原稿がそっと置かれていた。何も書かれていない、真っ新な白紙……だが、何を伝えるべきかは明白だった。

 

 

 プリンセスが機材の電源を入れると、唸るような重低音と共に音声送信機が動き始める。ドロシーはそれを、魔法にかけられたかのように茫然と見守る事しかできなかった。

 

 

「―――――、」

 

 大きく深呼吸した後、プリンセスは口を開いた。

 

 

 ―――これから、自分の口から語られる言葉は全てが“嘘”だ。

 

 

 私が騙してあげる。

 

 あなたも。

 世界も。

 

 そして私自身すらも――。

 

   




 同名の小説と映画があるけど内容は全く関係ありません


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case12.17:『Goodnight, London』

 

「銃剣装着!」

 

 

 ガゼルの命令を受けた兵士たちが一斉に銃剣を着けると、“彼ら”の動きは止まった。すぐさまサーチライトの照明が向けられる。

 

 そこにいたのは、ごく普通の人々であった。男もいれば女もいる。子供もいれば老人も、王国の人間もいれば植民地出身者もいた。彼らは目の前で一斉に銃を構え始めた兵士たちを見て驚き、たじろいだ様子であった。

 

 

「射撃用意!」

 

 

 ガゼルが叫ぶと、一斉に安全装置が外される音がした。続いて、銃を肩で構える軽快な音。それでもなお、その一連の動作には躊躇いがあった。

 

 

 

 これ以上、兵士たちに恐怖心が蔓延する前に威嚇射撃で追い散らそう――ガゼルは次の命令を下そうとして腕を振り上げ、それが振り落とされる寸前………彼女の動きが凍り付いたように止まった。

 

 

 

 動きを止めたのは、広場に集まっていた無数の市民も同様であった。『壁』に設置された緊急放送用の警報スピーカーから、何の前触れもなくキィーーーンと甲高いノイズが流れてきたからだ。

 

 

 それは新王立寺院前の広場だけにとどまらない。郊外のリッチモンドから王国の中枢たるホワイトホールまで、ロンドンの至るところで同じ音が聞こえていた。

 

 万が一にでも共和国軍が『ロンドンの壁』を突破してきた場合に備えて作られた非常用スピーカーは、本来の想定とは異なる役目を担いつつも確実にその機能を果たしていた。

 

 

 しばらくするとノイズは止まり、不気味な静寂が夜のロンドンに戻ってくる。誰もが困惑しつつも、同時に“何か”を期待していた。この記念すべき夜を彩る、何か新しい変化を――。

 

 緊張と期待に満ちた沈黙が破られるまで、そう長くはかからなかった。

 

 

 

 

『―――こんばんは、ロンドン』

 

 

 

 

 スピーカーから聞こえてきたのは、まだ若く少女といえる年頃の女性の声だった。

 

 

『私の名前はシャーロット、このアルビオン王国の王女です』

 

 

 プリンセスの告白に、ロンドン中がどよめく。国民の人気は高くとも、政治的なバックをもたないお飾りの王女……そんな彼女がこの重大な場所で何を話そうというのか?

 

 

『親愛なるアルビオン国民の皆さん。そしてこの国の不平等を正そうと集まった革命軍の皆さん――本日は王室を代表して貴女方にお伝えしたい事があります』

 

 

 ゆっくりとした、落ち着いた声だった。魅力のある声が彼らを捕えて離さなかった。

 

 

『今までこの国を支配してきた私たち王侯貴族は、今日という一日で大きくその力を失いました。貴方がたは勝ったのです』

 

 

 まさかの敗北宣言。困惑と動揺のささやきがロンドン中に広がっていく。

 

 

『市民の皆さん、今の貴方たちには“力”があります。自らの意思で世界を変える事が出来るかもしれない“力”を今夜、この場にいる誰もが手にしています――――その上で少しだけ私の話を聞いていただきたいのです』

 

 プリンセスが小休止し、町中の群衆も同じように息を呑む。静寂がロンドンの隅々にまで広がった。

 しばし沈黙が続き、多くの者が自分の心臓が激しく脈打つ音が聞いていた。

 

 

『本日は実に多くの出来事がありました。内務省からの夜間外出禁止令に、都市部での暴動と警官隊による鎮圧作戦、軍隊の出動を伴った戒厳令………良き市民であった多くの方々がこの国で何が起こっているのかも分からないまま、この非日常的な一日を不安な気持ちで過ごされていると思います。残念ながらこうした事態を招いてしまった責任の一端は、我々アルビオン王室にもあります』

 

 

 プリンセスは自らの至らなさを恥じるように、意味ありげに間をおいてみせた。その上で、民衆にこう問いかける。

 

 

『皆さんもいい加減、お高くとまったお偉いさんが勝手に決めたルールに振り回されるのも飽きたのではありませんか?』

 

 

 国の在り方を決めるのは領土でも体制でもない。そこに住む「人」が決めるのだ。

 

 

『確かにこの世界には沢山のルール、規制、偏見、因習といった『壁』があります。見える壁もあれば見えない壁もあります。誰かが勝手に作った壁もあれば、自らが無意識のうちに作ってしまう壁もあります』

 

 

 プリンセスはさらに力強く語り続けた。飾り気や気取りのない平坦な言葉で語り続けた。

 

 

『ですが、決して壊れない壁は無いのです。小さな一歩を踏み出す勇気があれば、壁を壊してその先へと進むことが出来るのです』

 

 

 広場にいたジェイク大佐はその演説を、畏怖の念に打たれて聞いていた。隣にいるガゼルや内務省の人間、そして兵士も民衆も、皆がプリンセスの一言一言に聞き入っている。

 

 

『だから壊せ、と強制するつもりはありません。壊れた壁を作り直しても構いませんし、全く違う壁を作って頂いても問題ありません。親しい人と納得がいくまで語らうのは自由ですし、何もしない自由もあります。それを決めるのもまた、貴方がたが手にした“力”だからです。どう使うかは自分の自由です』

 

 

 プリンセスの演説は今や鬼気迫るものだった。その声にはここ数年の王族には決して見られなかった強さと気品がみなぎっている。少なくともこの一夜に限り、彼女はまさしくアルビオンの「女王」であった。

 

 

『今の皆さんなら、どんな事でもできます。その上で、選んで頂きたいのです。誰のために、何のためにその“力”を振うのかを』

 

 

 それは、一人の人間の意思というちっぽけな“力”かも知れない。

 

 しかし確実に世の中を動かすであろう“力”を手にした人々に、プリンセス・シャーロットは祈るように語りかけた。

 

 

『共に、新しい世の中を作っていきましょう』

 




 「国とは領土でも体制でもない。――人だよ」

 どっかで聞き覚えがあったらブリタニア領


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case12.18:歴史の変わり目

              

 

 その日、ロンドンのある下町では一人の男性が開け放たれた窓の前で立ち尽くしていた。

 

 既にプリンセスの演説は終わり、スピーカーからは僅かにノイズが漏れるだけになっている。

 

(なんなんだ……今の演説は……)

 

 ちらり、と後ろを振り返ると同じように困惑した家族の姿。その後ろに見える、借り暮らしの粗末なアパート。

 

 

 

「ねぇ、お父さん、さっきの放送は……本当なの?」

 

 

 

 男は自分を見上げる、幼い息子の顔を見つめた。

 

 

 ――やがてはこの子も、自分と同じように粗末なアパートに住む事になるのだろうか。労働者階級に生まれたという、ただそれだけの理由で豊かな生活を諦めて一生を過ごさなければならないのだろうか。

 

 

 これまでずっと「仕方ない」と諦め、壁の内側に閉じこもって目を塞ぎ続けてきた。だが、あのプリンセスの放送のとおり、もし自分がもっと早くから別の一歩を踏み出していれば、何かが変わったのではないだろうか。

 

 

 今日この日、この瞬間なら。

 

 

 いつもと違う今日なら、何か特別な奇蹟が起こるのではないかと、そんな子供みたいに無邪気な期待を抱いてしまう。長いあいだ胸の奥底に沈め、忘れていた感情が湧きあがってくる。

 

 

 妻の方を見ると、自分が何をしようとしているのか察したようだった。ただ一度、大きく頷いただけだった。

 

 

「……すまん。子供たちを頼む」

 

 

 男はそう言い残すと、仕事用のスコップを持って玄関の外に出た。大通りに出ると、既に何人もの人々が自分と同じようにパイプやツルハシを持って立っていた。

 

 ―――やがて彼らは互いの表情を確認すると、前に向かって歩を進め始めた。

 

 

 **

 

 

 ある場所では、一人のベテランの警官がギュッと強く握った拳を震わせていた。

 

 彼が部下と共に警備していた立ち入り禁止区域の前にも、大勢の市民が集まり始めていた。彼は上官から指示を受け取っておらず、そもそもあのような放送があるなどと事前には知らされていなかった。

 

 プリンセスの演説を聞いてからは更に大勢の民衆が馳せ参じ、その数は倍以上に膨れ上がっていた。道と言う道を群衆がぎっしりと埋め尽くし、警官たちは完全に面食らっている。

 

 

 彼はすぐに上官に問い合わせたが、上からは「命令があるまで待機しろ」との一点張り。反乱を恐れた王国軍上層部はそれぞれの部隊の横の連絡を禁止しており、必ず上官の命令に従うことになっていた。

 

 しかし指示を出すべき内務省はノルマンディー公の死によって混乱をきたしており、事実上、現場の責任者に全てが委ねられている。

 

 

(駄目だ……もう群衆を抑えきれない。このままでは流血沙汰になってしまう……)

 

 

 実際、警備の警官隊は立ち入り禁止区域の手前まで後退し、群衆の前から引き下がっていた。これは彼の長い職歴において、未体験の出来事であった。

 

 多くの市民が警察車両を揺さぶり、警官たちが銃で脅しても多勢に無勢であった。それはまさに前代未聞のことだ。

 

 

 ―――もし自分がここで判断を下せば、歴史が変わる。

 

 

 それまで人の命令を聞くだけの人生を過ごしてきた彼は、生まれて初めての経験に何をしたらいいのか確信が持てなかった。

 

 

 しかし事態は緊迫しており、予断を許さなかった。

 

 

 間違っても、人が死ぬような事態だけは何としても避けなければならない。興奮状態の市民の暴走や圧死による群衆事故が発生しようものなら、その後にどのような大惨事が待っているかは容易に想像がついた。

 

(これ以上、封鎖を維持する事は不可能だ……!)

 

 

 もう限界だった。

 

 

 

「全てを開けろ! 責任は私がとる!」

 

 

 

 午後23時45分だった。彼は独断で封鎖を解除した。ほぼ同時刻、ウェストミンスターやグリニッジといった他の地区でも封鎖が解除され始めた。

 

 

 

 

 ―――そこから先は、現実離れした映画でも見ているかのようだった。

 

 

 待っていた市民はわれ先へと、封鎖地区へ足を踏み入れていく。踊りだす者、小走りになる者、泣きそうな表情の者、信じられないというように頭を振る者………王国を縛り付けていた、見えない壁が崩れ始めた。

 

 僅かな間に大勢の人々が茫然とする警官たちの前を通り過ぎていったが、さらにその背後には数千人の殺気立った市民が続いていた。

 

 

 おそらく彼らは今宵、ちっぽけだが一人のヒーローになるのだろう。だが、体制の犬であった自分たちにその資格はない。

 

(いいさ、俺たちの仕事はこれで終わったんだ……)

 

 吹っ切れたように帽子を脱ぎ、警察バッジを地面に投げ捨てる。自分と同じく、新しい時代には必要とされないものだ。

 

 

「―――おい、アンタたち」

 

 その時、ずるずると床に滑り込んで意気消沈した警官たちに話しかける者がいた。髭面の老人は呆然自失の警官たちに視線を合わせるように屈み込み、こう言った。

 

 

「アンタたちの力が必要だ。プリンセスも言ってたろ? 一緒に、この国を変えようぜ」

    




 今回の話のモデルはもちろん、ご存知「ベルリンの壁」崩壊です

 wikiとかにものってるけど、リアルにいい話

 


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case12.19:Never Ever Be Forgotten

              

 プリンセスの演説から2時間も経たないうちに、『コントロール』の作戦室では現場からの信じられない報告にジェネラルが泡を食っていた。

 

 

 

「こちら側の『壁』にも、民衆が集まり始めているだとぉッ!?」

 

 

 

 大音量のスピーカーが『壁』の反対側まで聞こえたのか、アンジェが共和国側にもしかけていたのか、あるいは誰かが手引きをしたのかは分からない。

 

 

 しかし王国で起こった異変は、共和国にも程度の差はあれ伝わっていた。軍部のもとにも何事かと嗅ぎつけた報道関係者から、取材の電話がひっきりなしに掛かってきている。

 

 さらに部下の報告では、共和国側にある『壁』の検問所にも、数千人単位で民衆が集まっているという。一部では既に国境警備隊と揉み合いになっており、それが一層多くの野次馬を引き寄せる結果となっていた。

 

 

「いったい全体、王国で何が起こっているというんだ!?」

 

 

 その問いに答える者はいない。いや、正確には答えられる者がいなかった、というべきか。セブンも大佐もドリーショップも、恐らくは前任者のエルでさえも答えられなかっただろう。

 

 

 奇しくも共和国の“ティー・パーティー”作戦は、彼らの意図しない形で王国史上最大のお祭り騒ぎとなった。

 

 

 

 **

 

 

 

 23時55分―――この時には、既に軍部や警察の機能を停止していた。国民を抑圧していた内務省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、政府は何の手を打つことも出来なかった。

 

 

 新王立前の広場でも、無数の群衆が兵士たちの目の前にまで迫ってきていた。手ぶらで来ている者もいれば、スコップやツルハシを持った者、共和国のばら撒いた『リベレーター』拳銃を手にした者、どこからか調達してきた銃や骨とう品の剣などを身に着けている者もいた。

 

 

 王国軍と政府は事実上の崩壊状態となり、辛うじてガゼルらの指揮する一部の部隊が散発的に最後に受けた命令を守ろうと努力をしているのみとなっていた。

 

 

「どうします?」

 

 

 再びジェイク大佐が問い、群衆を見やった。彼らの足音が絶える様子はなく、兵士たちはパニックに陥りつつある。 

 

 群衆は申し合わせたかのように大通りをまっすぐに進んできており、ついに「立ち入り禁止」と書かれた柵を乗り越えて広場へと侵入してきた。

 万をこえる老若男女が公然と王国政府の権威に対して真っ向から反抗し、その最後の砦である兵士たちを取り囲む。

 

 

「どうか命令を!」

 

 

 

「………、―――だ」

 

 

 ガゼルが押し殺した声で呟いた。

 

 

「待機だ! 銃を下ろせ!!」

 

 

 彼女はついに悟った。最初の一斉射撃で群衆が行動を起こすのは間違いない。そうなれば彼らの数は多すぎて兵士たちの射撃が追い付かず、怒涛のような人民の海に埋葬されてしまうのは間違いない。

 

 

「聞こえたか、待機だ! みんな銃をおろせ!!」

 

「武器を下げて待機しろッ! 誰も動くんじゃない!」

 

 

 ジェイク大佐が大声で叫び、兵士たちに武器をおろさせる。兵士たちの顔に、僅かに安堵したような表情が見えた。

 

 同胞殺しの咎を負わずに済んだことによる安心感―――押し寄せる群衆の中には、彼らの見知った顔も多く含まれていたからだ。

 

 

 王国軍が武装解除するのを見て、人々は再び歩き始めた。何千、何万もの民衆が自らの意志で、足を前へ前へと進めていく。

 

 

「おお、神よ………」

 

 

 思わず、ガゼルの口から言葉が漏れた。喉の奥から絞り出すような声は誰の耳にも入らず、兵士たちの隙間を通り抜けて新王立寺院前に集まる人々の足音にかき消されていく。

 

 

 そして人々が新王立寺院まで進んだその時、ロンドン中に大きな鐘の音が鳴り響いた。『ビッグ・ベン』の愛称で知られる時計塔が、深夜の0時を指し示したのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 荘厳な時計塔の鐘の音は、『壁』の内部にいたドロシーとプリンセスの耳にも届いていた。銃を持つドロシーの体が僅かに震え、プリンセスは大きく息を吸った。

 

 

 

 それが合図だった。

 

 

「――――時間よ」

 

 

 プリンセスは決意を込めて言うと、再びトロッコへと近づいてゆく。今度はドロシーも止めようとはしなかった。

 銃を持つ腕が下がり、呆けたようにプリンセスがレバーを押すのを見守っていた。

 

 

 カチッ、と音がした。トロッコのブレーキが解除され、今宵の祭りを彩る最後のピースがはめられようとしていた。アンジェとプリンセスが夢見た世界へ向けて、壮大なドミノが倒れ始めていく。

 

 

 恐らく今夜は、誰にも予想のできない夜になるだろう。誰もが一生忘れてはならない夜更けとなるだろう。

 そして自分の選択が正しかったのか、近い将来に誰もが自問自答するに違いない。

 

 自らの行動とその結果に恐れと希望を抱きながら、ドロシーは立ち尽くしていた。

 

 

「ねぇ、ドロシーさん」

 

 その時、プリンセスが近づいてきた。ついぞ“約束”を果たせなかった最高の相棒の代わりに、彼女はこう告げる。

 

 

「音楽はお好きかしら?」

 

    




 “約束”が何を意味するかはプロローグをご覧ください。ちょっとした伏線です


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case12.20:希望と栄光の国

 通路を抜けて『壁』の外へ出たプリンセスとドロシーは、歴史が変わる瞬間を目にしていた。何千、何万もの人々が立ち上がり、それぞれの『壁』を壊そうとしていた。

 

 

 そこにいる人々は、決して特別な力を持っていた訳ではない。普通の庭師だったり、メイドだったり、警官や工場労働者だった。スリもいたし、オカマや死体処理業者もいた。

 だが、今や彼らの一人一人がヒーローだった。

 

 自らの意思で最初の一歩を踏み出し、それぞれの願いを叶えるために動き始めた普通の人々。生まれや育ちの違いなど問題ではない。

 

 各々の人生において、自分こそが主役なのだと。今宵、彼らは皆が平等に主人公であった。

 

 

「すごいな……」

 

 

 ドロシーは目を輝かせ、思ったままの感想を口にしていた。

 

 共和国の陰謀やプリンセスの演説は、あくまで小道具に過ぎない。目の前に広がる光景の本質は、自分で『壁』を打ち破ることを決めた人々の勇気の結果なのだ。

 

 

(アンジェと委員長、そして父さんにも、見せたかったな……)

 

 

 もうこの世にいない、大切な人たち……その一人一人の顔を思い浮かべながら、ドロシーは一筋の涙をこぼした。

 

 

(みんな見てくれよ……この国は凄いぞ、みんながヒーローだったんだからな)

 

 

 ドロシーの隣では、プリンセスが静かに佇んでいた。彼女もまた、もっとも大切な人の事を想い浮かべていた。

 

(ねぇ、アンジェ……貴女にも見えるかしら? この奇跡が )

 

 きっと、アンジェも気づいていたはず。スパイとして活動する傍ら、普通のロンドンに住む人々と接する中で彼女は知ったに違いない。

 

 

 この国に住む人々の中に、どれほど素晴らしいものが眠っているかという事を――。

 

 

 **

 

 

 やがて「越えられないもの」「変えられないもの」の象徴であった、『ロンドンの壁』でも異変が起きようとしていた。

 

 

 『壁』へと殺到していた人々は、ふと耳に違和感を感じてその歩みを止めた。無数の人々が一斉にに歩みを止め、爆音の様に鳴り響いていた群衆の足音が波が引くように消えていく。

 

 

 その代わりに聞こえてきた音は、金管楽器と弦楽器のオーケストラからなる華々しい序奏だった。

 

 

 始めこそ微かに聞き取れる程度の音量だったが、やがて徐々にそれは大きく鳴り響き始めた。それはアルビオン国民なら誰もが知っている曲だった。

 

 

「エルガー作曲、行進曲『威風堂々』第1番……」

 

 

 ドロシーがぽつり、と呟いた。いつの日か、アンジェの約束した“女王陛下のオーケストラ”の力強い演奏だった。

 

 

(……馬鹿野郎、カッコつけやがって)

 

 

 彼女は約束通り、最高の夜にチケットを一番の相棒に渡したのだった。

 

 

 **

 

 

 音楽がどんどん大きくなり、弦楽器の低音部による勇ましいメロディーへと続いた。行進曲主部が雄々しく鳴り響き、スピーカーの音量は上がり続けている。

 

 何人かの人々が大きく息を吸い込み、『希望と栄光の国』と名付けられた歌詞を歌い始めると、やがて他の人々もつられて歌い始めた。

 

 

 

 愛でるべき希望の国、汝は戴冠せり。

 神は汝を偉大にしたり!

 愛され、偉大なるその君主たる額に

 今ひとたび、汝が冠を戴き給え。

 

 

 自由によりて得たる、汝の等しき御法よ、

 其は汝を良く、そして長く統べたり。

 自由により得られし、真実によりて保たれし、

 汝の帝国は強大たるべし!

 

 

 

 思いおもいの音程で唄われた歌はお世辞にも上手とは言えなかったが、無数の人々の奏でるハーモニーは魂を揺さぶられるような魔性の力を秘めていた。それは大地に根差した今を生きる人々の心の叫びだった。

 

 

 深夜にもかかわらず、その日、街中の至る場所で人々はひっきりなしに歌い続けた。

 

 『ロンドンの壁』で隔てられた反対の共和国側でも、多くの家で子供たちが目を覚まして驚いていた。人々は何事かと月明かりの下、通りに出て壁の向こうへと耳を傾けていた。

 

 

 今や音楽は大爆音と化し、人びとを深い眠りから覚まそうとしていた。その旋律はさらに激しく、激烈さを増していった。

 シンバル、ティンパニ、バスドラム、ホルンが大砲のような爆音をあげ、クライマックスへ向けて着々と盛り上がっていく。

 

 

 やがて再び有名なトリオの旋律の再現部にさしかかった瞬間、突如としてが割れるような爆発音で引き裂かれた。爆弾を満載したトロッコが、ついに最後の役割を果たしたのだ。

 

 

 ―――――轟音―――――――

 

 

  目も眩むほどの輝きが、『ロンドンの壁』から溢れ出す。やがて『壁』は激しい炎と煙に包まれ、内側から破裂して何百もの粉々の破片となった。

 

 

 演奏に合わせるかのように爆発は次々と連鎖して更なる破壊を引き起こし、アルビオン王国と共和国の間にそびえた分断の象徴は人びとの目の前で崩れ落ちていった。

 

 基礎部分が吹き飛び、自重を支えられなくなった上層構造部分が倒壊する。ロンドンを取り囲むようにそびえ立っていた『壁』は、起爆点を中心としてドミノ倒しのように両側へと次々に崩れはじめた。国境から市街地へ、市街地から郊外へと崩壊の連鎖は広がってゆく。

 

 

 その光景を、ロンドン中が固唾を飲んで見守っていた。あらゆる職業、あらゆる人種が心を一つにして、共に手を取り合って天を仰ぎ見ていた。

 

 

 難攻不落を誇った『ロンドンの壁』が、音を立てて崩れてゆく。その残骸はオレンジ色に燃え盛り、かつて世界に覇を唱えたアルビオン王国最後の煌めきとなった。

 

 

 それは同時に、10年に渡った分断の歴史の終焉を意味していた。何千何百もの陰謀と策略、数多の人々の願いと呪い、その最後の残滓を焼き尽くす火葬であった。

                




 イギリスといえば『威風堂々』、別名「希望と栄光の国」

 映画『キングズマン』ではネタでしかなかったけど、クラシックに合わせて爆発って良いですよね。


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エピローグ:A Page of Our Story

 『ロンドンの壁』崩壊と共に、盛況を誇った超大国『アルビオン王国』は一夜にして滅んでいった。

 

 

 だが、それは国家という想像の共同体の崩壊であり、そこに住む人々は生き続ける。今日この日、この瞬間からアルビオン王国は大きく生まれ変わるだろう。破壊と再生……それはまだ産声をあげたばかりだ。

 

 

 歴史の転換点を見つめる者たちは未来に想いを馳せるとともに、過去に消えゆく者たちにも思いを馳せた。

 

 

 ドロシーもまた、炎に燃え行く過去の中にシャーロットとして生まれ、アンジェとして死んだ少女の存在を想った。

 

「なぁプリンセス………アンジェは一体、何者だったんだろうな。私は長いことアイツと一緒に組んでるが、詳しいことは何一つ知らないんだ」

 

 ドロシーが尋ねると、プリンセスはにっこりと微笑んだ。

 

「いいえ、貴女は彼女の事をよく知っているはずよ」

 

 プリンセスの瞳は、燃え盛り崩れ落ちる『ロンドンの壁』の先――――その先にいる人々の姿を見つめている。

 

 

 

「彼女の名前はシャーロット、アルビオン王国のプリンセス」

 

 

 

 驚いたような顔をするドロシーに向けて、さらに続ける。

 

 

 

「そして共和国のスパイ、アンジェ・レ・カレ」

 

 

 

 空中で大きな花火が爆発する。色とりどりの光が、暗い夜空を煌びやかに染め上げてゆく。

 

 

 

「またの名を、黒トカゲ星から来た黒トカゲ星人」

 

 

 

 壮大な音楽と華やかな花火に見送られ、ひとつの時代が終わろうとしていた。

 

 

 

「チーム白鳩のメンバー、貴女の頼れる相棒で、私の大切な友人」

 

 

 

 旧体制の象徴であった『ロンドンの壁』は崩壊し、新しい時代が始まろうとしている。

 

 

 

 

「そのどれもが、彼女なのよ」

 

 

 

 

 難攻不落に思えた『壁』も崩れてしまえば、まるで初めから無かったかのようであった。全ては白紙に戻された。

 残されたのは、そこに住む人々の姿………そして彼らは気づいた。

 

 自分たちを苦しめていた全ての壁――差別、偏見、階級――は虚構であり、人びと自身によって作り上げられた幻想なのだと。それはおとぎ話であり、作り手によって悲劇にも喜劇にも変えられるのだと。

 

 

人もまた、その在り方は1つではない。己の意志で、自らを何者にも変えられる。

かつてシャーロットとして生まれた少女が、自ら“アンジェ”として生きたようにーー。

 

 

 

 

 パーティーはお開きを迎えようとしていた。集まった人々は夜空を彩る花火を見つめ、これまでとこれからに思いを馳せた。

 

 

 

 そこにはチセがいた。ベアトリスがいた。マリラがいて、洗濯工場の少女たちがいた。リリやキャメロンら、クイーンズ・メイフェアの生徒たちがいた。

 

 『コントロール』のメンバーがいて、スリの少女も、借金取りのフランキーも、モルグの死体処理業者たちに堀川公、ガゼルやイングウェイ少佐もいた。

 

 

 研究者のエリック、ドロシーの父親、委員長、藤堂十兵衛やモーガン委員、ゼルダにノルマンディー公………この場にいないはずの者も、きっとどこかで同じ光景を眺めているはずだ。

 

 

 

 そしてアンジェと呼ばれた少女も、きっとまた―――。

           




 最終話のタイトルは原作のEDをもじって。

 今作はこれで完結とさせていただきます。

 最後に、ここまで読んでくださった読者の皆様に感謝いたします。つたないストーリーと文章でしたが、無事フィナーレを迎えることが出来ました。

 本作を読んでくださった方々へ、本当にありがとうございました。


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