魔法少女まどか☆マギカ短編集 (長串望)
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負け犬共の一夜(ほむあん)

 それは、暁美ほむらの100万回の徒労の中の、多分50万回目か60万回目くらいの一か月のことだった。

 その時ほむらは酒に溺れていた。比喩的な意味でも、物理的な意味でも。

 ケース単位で盗んできた瓶ビールを、次から次に開けては、次から次へと空けていった。ビクトリノクスの十徳ナイフに栓抜きがついていた筈なのだが、それを使ったのは最初の一本目位で、あとはアルコールで力加減の利かない指先に癇癪を起して、並べて手刀で首を落としては、唇が切れ口で裂けるのも気にせずラッパ飲みを繰り返した。出血が気にならないくらいにアルコールが回って、回る視界の中で増え続ける瓶を数えることさえ出来ない癖に、瓶ビールを切り裂くほむらの手刀はますます冴えていくばかりだ。

 一体どんな飲み方をしたのか、折角伸ばしに伸ばした黒髪の先から片方行方不明になった靴の中までビール漬けで、栄養価としてはビールだけでも人は生きていけると豪語するベルギー人でも眉をしかめる位だった――経皮接種は効率が良くないと。

 酒に逃げたところでどうにもならないなんて言うのは昔からの定型句だが、酒でも飲まなければやっていられないというのも古典的常套句だ。ほむらは前者を自覚した上で、しかし後者を支持する立場だった。どうにもならないしどうしようもないから、どうもこうもなく酒に逃げているのだ。

 運命とかいう地獄製のアナログマシンに挑みかかっては襤褸雑巾にされ、そして襤褸雑巾にされてはまた立ち上がって性懲りもなく断頭歯車に食って掛かる、そんな生産性も発展性もない繰り返しの中で、ほむらが酒と言うサービスエリアを見つけたのは多分10万回か20万回か、かなり最初の頃だったように思う。

 そうよ、サービスエリアよ。逃げ道じゃあない。

 給油して、休憩して、また走り出す為の正当な寄り道。逃げじゃない。

 ほむらは誰にともなくそう言い訳して、また一瓶、味もわからない大麦の香る炭酸エタノール水を呷った。

 飲む前から低気圧気味だった精神は、アルコールの力を借りて今や捻くれた小型の台風になりかけていた。誰にぶつけるにも当てのない苛立ちと悔しさと無力感と絶望とそれからアルコール由来の頭痛とめまいと肩こりが、ほむらの精神を荒れに荒れさせていた。

 空気諸共に飲み込んだ炭酸が喉を押し広げて、盛大におくびを洩らした。それと一緒にエタノールと胃酸の混合液が上ってきそうになったが、微かに残った理性がごくりごくりと飲み下して嘔吐を避けた。今更理性など、出遅れにも程があるが。

 込み上げてくる吐き気を飲み下す様に更に呷ったビールは、一番目立つ所にあったケースを盗んできただけあって、その銘柄は100万回の一か月前に世間と没交渉を決めこんだほむらでも何度かテレビのコマーシャルで見たことのあるものだった。しかしどうにもそのコマーシャルは広告会社と製造元の薄暗い協定による多大なる欺瞞に満ち溢れているように思われた。だってそうだろう。画面の向こうの人々はみな一様に笑顔で乾杯し、暖かな幸福に満ち溢れている。だが実際はどうだ。こうだ。ご覧の有様だ。意識しない程度の幸福の内に生きているだろう平均的消費者の年間平均消費量のまあ大体三分の一くらいは乾したというのに、ほむらの神経を駆け巡るのはコルチゾール(つかれた)ノルアドレナリン(くるしい)ばかりで、ちっとも幸せになんかなれない。

 世の中間違っている。

 ほむらは新しい瓶を震える手で取り、そのほっそりとした指先で無造作に栓を瓶の口ごと捩じ切った。そうだ。世の中は間違っている。その間違いを正すべくほむらは頑張ってきたのだ。頑張っているのだ。頑張っている、のに。

 ぬるい炭酸エタノール水が、勢い良く喉を落ちていった。落ちていった先の胃の腑では、さっきからずっと熾火の様なじわじわとした不快な熱がわだかまっていた。その熱がアルコールのせいなのか、ストレス・ホルモンのせいなのか、ほむらにはいまいち判然としなかったし、どちらでも大差はなかった。どちらだったところで、救いはない。

「どう……すれば……っ」

 どうすれば、いいというのか。どうしろと、いうのか。

 ほむらは生まれた時から体が弱かった。幼い頃から病院の消毒液と薬品の匂いの中で育ち、同い年の子供よりも先に、ずっと年上の看護師と顔見知りになった。走ることはできず、歌うこともできず、立っている時間よりベッドに横になっている時間の方が長かった。碌に見たこともない両親の顔よりも、夜勤明けの医師の顔の方が親しみを覚える程だった。それを当たり前のものとして受け入れてきた。ずっとずっと、運命を享受し続けてきた。そういうものなのだと、俯いて生きてきた。敬虔な信者の様に、ほむらは従順だった。運命は何時だって、ほむらをそのレールに乗せて運んでくれた。だがただ一度。たった一度、その指し示す先を拒んだというだけで、運命はほむらを磨り潰すことに決めた。ほむらはただ間違っていると叫んだだけだった。こんなのは酷いと。余りにも惨いと。

 ただ笑い合って隣に佇むだけのことが、許されないのかと。

 運命はただ無慈悲な礫を持って答えた。許されないのだ(、、、、、、、)と。

 運命への叛逆は、決まって最悪に最悪を塗り重ねる様な残酷な仕打ちとなってほむらに跳ね返った。より良い結果を求めて遣り直しているというのに、繰り返す度に事態は悪化を続けた。一つの問題を解決しようという試みは、大抵問題を拗れさせるか、新たな問題を二つ三つと増やすのが関の山だった。その一つ一つを潰そうとすれば、手の届かない全てが寄って集ってほむらを押し潰しにかかった。手が足りないのならば妥協しようと、最初に定めたたった一つだけを守ろうと足掻けば、切り捨てたはずのものたちが足元に絡みついて身動きが取れなくなる始末。

 そして終いには、護るべきたった一人の少女にすら、恐れをもって見られたと来れば、本当に、どうしろと言うのだ。何の見返りもなく、報いもなく、ただ一人傷付いて苦しんで、誰にも褒めて貰えず認めても貰えず、その悩みを相談することさえ出来ない。この、苦しみの、中で!

「どうしろって―――言うのヴぇッ」

「とりあえず飲むのを止めろ」

 酒に酔い、悲劇に酔い、自分に酔っていた暁美ほむらの側頭部に吸い込まれるように叩きつけられた蹴り足が、容赦なく飲んだくれの体をビール瓶の山に沈めた。

 アルコールのせいか痛みはあまり感じなかったが、とにかく頭がぐらんぐらんと揺れに揺れ、ただでさえ数えるのも面倒な瓶が、無数に分裂して踊り始めた。万華鏡染みて回り始めた景色の中で、鮮烈な赤が垣間見えた、様な気がした。

 次にほむらが目を覚ましたのは、薄っぺらな毛布の中だった。少し臭い。人の気配の色濃く残るそれに、ほむらは眉を顰めた。無菌室めいた病室で人格を形成し、希望と理想だけを詰め込んだような華やかな魔法少女に一瞬だけ触れ、そして余りにも過酷な試練に心をすり減らし、誰にも頼らないとばかりに人と触れ合わない孤独なマシーン生活を続ける。そんな人間の壊し方の例文その2みたいな生き方が、生身の人間に対する奇妙な潔癖をほむらに与えていた。

 しかしその薄っぺらな毛布は、少なくともその頼りなさと同程度には思い遣りと善意のこもったものだった。

 ほむらは毛布の下でなお寒気を覚えて、小さくくしゃみをした。酒を飲めば感覚が鈍り、血管が広がることで血流は増え、暖かくなったように錯覚する。しかし当然のように体は熱を効率よく発散してしまい、後に残るのは冷え切った体だ。まだ少し肌寒い春先には堪える。ただ飲むだけならばともかく、全身に浴びるようにして飲んだのだ。それは冷え切りもする。

 くしゃみをして頭が揺れれば、途端にひどい痛みが襲った。酒に溺れた後はいつもやってくる頭痛だ。こうなるとわかっていて、この苦痛としばし付き合わなければならないと知っていて、それでも酒に逃げざるを得ない。多大な苦痛から逃れるために少量の苦痛を甘受する。つくづく救われない生き方だ。

「起きたのかい」

 どこか幼さの残る舌足らずな声だった。その癖、その声には甘さなんて欠片もなかった。かといって厳しさもない。心底どうでもいいと言ったフラットな響きだった。投遣りで、面倒臭そうな、それだけの声だった。

 頭を押さえながら見遣れば、彼女は丁度、あれ程散乱していたビール瓶をまとめてビニール袋に放り込んで、しっかりと口を縛っている所だった。海を乾すような気持ちで飲んでいたけれど、それはやっぱり精々一ケース24本でしかなかった。

 がしゃがしゃと頭に響く音を立てて袋をどけて、まだぼんやりとしているほむらを呆れたように見つめて、少女はがりがりと頭をかいた。

「まだ起きてないのか?」

「……ら、…………」

「あん?」

「さくら、きょうこ」

 佐倉杏子。ほむらが痛む頭の中から絞り出した名前を聞いて、少女は、杏子は片眉を持ち上げて探るようにほむらを見た。しかし、そこにあるのは見覚えのある顔ではない。見知らぬ酔っ払いだ。だが同姓同名の人違いでもなさそうだ。どんより濁ったほむらの目は、しかしそれでもはっきりと杏子を認識している、ように見えた。

「酔っ払いが唱えるのは、政治家への悪口かサッカー選手の名前くらいだと思ってたけど、あたしもそんなに有名になったもんかね」

「…………あなたが、酔いどれを介抱するような甲斐甲斐しい人だとは知らなかったわ」

 知りもしない相手から、意外そうにそんなことを言われて、杏子は鼻で笑った。

「そこまでお人好しじゃない。ただまあ、軒先で野垂れ死にされても寝覚めが悪いんでね」

「……軒先……?」

 痛む頭を巡らせて、ぐるりを見回してみれば、いつの間にか自分は屋内に引っ張り込まれていたようだった。窓は割れ、内装は荒れに荒れていたが、しかしどこか格式を感じさせる、天井の高い建物だった。以前、ほむらはこういった様式の傍で暮らしたことがあった。入院して見滝原に越してくる前だ。まだ東京にいた頃のことだ。見滝原にいることが、彼女の姿を見ることに耐えられなくて地の果てまでも逃げたしたつもりが、結局まだ風見野あたりをうろついていたらしい。

「……教会?」

「仮にも神の家の前で飲んだくれるなんざ、あんたも随分罰当たりだよ」

 がさがさと菓子の包装を開けながら、杏子はそう言った。この教会に、いや、その廃墟に、もはや神はいない。神のいない建物は、ただの石くれに過ぎない。しかしその石くれが、佐倉杏子にとってはただ一つの教会だ。神はいない。だが感傷はある。感傷だけが、佐倉杏子の足をここに運ばせ、そして感傷が、暁美ほむらを介抱した、理由と言えば理由だった。

「お人好しじゃあないけど、まあ、拾い上げて面倒も見ない程薄情でもない。風邪ひかれて死なれても、胸糞悪い」

 もとより紙のように白い顔を、いまや死人のように青ざめさせて口元を抑えるほむらを見て、杏子は顔を抑えて天を仰いだ。Oh my Goshと思わず漏らす。

「風呂と、着替えと、その前に、ああ、Jee、終わったばっかでまた掃除だ」

 黄金色の滝を生み出す蒼褪めたマーライオンは、そのまま輝ける吐瀉物に沈んだ。

 

 

 

 

 

 暖かな水音に、ほむらは三度目覚めた。

 ほむらの体は浅い浴槽に横たえられ、温めの湯の中にあった。溺れないようにか、浴槽のふちに持ち上げられた頭の下には、しっとりと濡れたタオルの枕があった。

「今度こそ起きたかい」

 身じろいだほむらに気づいたのか、シャワーの湯を浴びて泡を流していた杏子が、のそりと覗き込んできた。まだ少しぼやける頭が、小さな体だ、と意味のない感想を漏らした。実際、杏子の裸体は小さな子供のものだった。中学生としても、少し小さい部類。魔女に対しても恐れなく向かい合い、長大な槍を振るう背中の印象よりも、ずっと小さく見えた。髪を解いて流している今は、もっとはっきり言って、幼くさえ見えた。いや、実際幼いのだ。佐倉杏子は十代も前半の小さな少女なのだ。そして自分も。その事実が、頭痛と相まってほむらを奇妙に不可解な気持ちにさせた。

 頭痛に顔を歪め、それでも何とか起き上がろうとするほむらの背に、無造作に杏子の手が回された。浴槽の中で座り込んだほむらに、杏子はそのまま座っていろと言い置いて、小さなシャンプーのボトルを手に取った。そしてさも当然の様にほむらの髪を洗い始めるものだから、スロースターターのほむらの脳も、ようやく回り始めて、その手から逃れようともがいた。

「大人しくしてろ。臭いんだから」

「く、くさ……っ!?」

 しかし事実だった。

 艶やかなほむらの黒髪はすっかりビールの匂いをしみこませていたし、盛大に沈み込んだ先の胃液の匂いまでしていた。手慣れたようにほむらの髪を洗う杏子の手つきに、迷いはない。先程から、他人の手が髪を好き勝手弄っている感触に背筋を不快感で震わせているほむらと違い、杏子は裸を晒しあう事も、こうして他人の体に触れることにも遠慮がないようだった。ほむらなど、美容院で髪を任せるときでさえ、一時も落ち着く事などできないのに。

 いや、違うか。ようやく目覚めてきた頭で、ほむらは杏子の奇妙な振る舞いにようやく気付いた。ほむらの知る限り、佐倉杏子と言う魔法少女は、面倒見こそいいが、どこかで一線を引いている少女だった。一度親しくなれば見かけ上人懐っこいが、決して踏み越えさせないラインがあった。その杏子がどうして自分をそのパーソナルスペースの内側に引き入れたのかとほむらは不思議でならなかったのだが、答えはほむら自身にあるとすぐに気付いた。ほむらが弱っているからだった。酒に酔い、悲劇に酔い、自分に酔い、そして立ち上がり損ねていたから、杏子はほむらを引き上げたのだ。言ってみれば今のほむらは、手のかかる子供でしかない。だから杏子はそのように扱うし、そんな相手に遠慮することがない。子供だからだ。

 かっ、とほむらは頭の中が熱くなるのを感じた。強烈な羞恥心がほむらを襲った。裸を見られたことが恥ずかしいのではない。触れられていることが恥ずかしいのではない。このような醜態を晒し、よりにもよって佐倉杏子に助けられたという事実が、凄まじい恥と感じられた。

 鹿目まどかに頼りたいと思ったことは数えきれない。そもそもまどかがほむらを救ってくれたのだ。いまやまどかを救う自分にならんと努めてはいるが、それでも押し潰されそうになった時、その心が頼るのはまどかの面影だ。その思いを恥じることはない。その為だけに、まどかの為だけに走り続ける自分を自覚するからだ。理解できないものを見る目で見られても、尚。

 巴マミに甘えたいとずっと思っていた。まどかは自分を救ってくれた。何もなかった自分に意味を与えれくれた。マミはほむらを受け止めてくれた。優しい人だった。寂しそうな人だった。年上で、美しく、そして弱い人。ほむらはマミに甘え、頼り、そしてマミを満たしてやりたいと思っていた。すれ違い、敵視され、言葉が通じなくなってしまっても、尚。

 美樹さやかに守ってもらえたらと思ったことは一度ではない。さやかはお調子者で、感情に振り回され、でも、弱い者を放っておけない優しい人だった。もしまどかがほむらを救わなかったら、タイミングが違ったら、出会いが違ったら、あるいはさやかはほむらの手を取ってくれたかもしれなかった。その真っ直ぐな瞳に憧れ、頼れたらと思う気持ちは、今も消すことが出来なかった。

 けれど、佐倉杏子に弱さを見せることは、ほむらにとって認められることではなかった。戦力として期待でき、性格的に協力を得やすく、頼りにはなる。しかし杏子に協力を頼むことと、助けを求めることはまるで違った。弱さを晒し、助けを求めれば、杏子が必ず手を差し伸べることを知っていたからだ。そしてそれが、責任感や利他的な感情故ではなく、杏子自身の癒えない傷の、その痛みからだと知っていたから。ともすれば、傷つき堕ちた魂の為に、自らも連れだって煉獄への道を歩む程度のその傷を、知っていたから。

 杏子に助けを求めることは、杏子の傷に付けこむことだった。それも戦闘で傷付いたり、行き詰ってどうしようもなくなったりしたわけでもない。疲れ果て、酒に逃げて酔いつぶれ、それを助けられるなど、最悪だった。その場で死んでしまいたくなるほどの恥だった。しかしそれを謝罪することもできないのだった。それは杏子の矜持に、真正面から傷をつけようとする行為だった。

 杏子はそんなほむらの葛藤を気にした風もなく、手早くほむらを洗い上げると、躊躇う事もなく抱き上げて浴室を出て、バスタオルでほむらの体を拭き上げ、髪の水気を取った。

 バスローブで包まれて放り投げられた先のベッドは、安物ではあるがしっかりとベッドメイクのされたものだった。清潔なシーツの上でぐるりと見回した室内は、どこかの安ホテルのようだった。

「あたしのヤサの一つだ。勝手に使ってるだけだけど」

 ほむらの訝しげな様子に、杏子は自分もタオルで乱雑に髪を拭きながら、短く言った。

「流石に教会(あそこ)じゃ居心地が悪いんでな」

 杏子は据え付けの冷蔵庫を開け、炭酸飲料を二本取り出して、一本をほむらに放って寄越した。良く冷えていた。ぼんやりとアルミ缶を眺めるほむらを、杏子は菓子の包装を開けながら一瞥した。

「酒も入ってるけど、もう止めとけ。子供が飲むもんじゃない」

 いかにも子供な容姿をした杏子にそう言われて、ほむらはなんだか可笑しくなってくつくつと笑った。自分でも意外に思う程、それは自然と零れてきた。笑うなど、何時振りだろう。

「あなたはお酒は飲まないの?」

「飲まないね」

「煙草は?」

「やらない」

「意外ね。あなたはもっと無法者(アウトロー)だと思ってた」

保険適用外(アウトロー)は人一倍健康に気を遣わなきゃあ、長生きできないのさ」

魔法少女(わたしたち)は早々病気にはならないわ」

 ちらりと指輪(ソウルジェム)を翳して見せたが、杏子は小さく首を振って、チョコレート菓子を口にした。

「風邪はひかないかもな。けど、こころは風邪をひく」

「こころ?」

「そうだ。こころの風邪に、酒は利かない」

 かしゅ、と杏子はプルタブを開けた。ほむらも思い出したように、手元の炭酸飲料を開ける。しゅわしゅわと白い泡が、飲み口で踊った。

「酒は、大人の為のものだ。大人の薬だ。あたしたち子どもは、好き勝手やって、甘いお菓子を食べて、悪戯をして、そうしてこころの風邪を治す。でも大人はそうできない。だから酒を飲む。酒を飲んでいいのは、大人だけだ」

 炭酸飲料を呷ってそう語る杏子は、その舌足らずな声に相違して、何処か悟ったような気配があった。大人びていると言えば大人びている。しかし、それは充実した大人ではなさそうだった。

「あなたは、色々縛られているように見えるわ。縛られているのは、大人じゃないかしら」

「大人なんかじゃあない。子供さ。悪戯のつもりで騒ぎを起こして、取り返しがつかなくなって青くなって、開き直って悪ぶって、でも叱られたくてたまらない。そんなのは大人の遣る事じゃあない」

「それは、」

「何でもない事さ。喋り過ぎた。そこまであんたを甘やかす気はないよ」

 杏子はベッドの上に寝そべって、ごろりと転がってこちらに背を向けた。一線がそこに横たわっていた。ほむらはもう杏子の庇護下ではないのだ。手のかかる子供ではないのだ。手を引いてやらねばならない幼子ではないのだ。ほむらが回復してきたことを、杏子は会話の内で知ったのだ。

「ねえ、杏子」

「名乗った覚えはないんだけど」

「そうね、じゃあ、善きサマリア人とでも?」

「今日日はソマリア人の真似事だ」

「善き海賊ね」

「少年誌に出れるほどご立派でもない」

「どうして私を助けたの」

 杏子は少しの間、黙り込んだ。炭酸飲料を呷り、菓子をつまみ、腹をかき、じっと壁を見つめた。ほむらが弱っていたから。ほむらが救いを求めていたから。ほむらが無意識の内に教会へと足を運んだから。色々理由はあるだろう。だがほむらは杏子の口から聞きたかった。ただ放っておけなかっただけにしても、杏子自身の口から聞きたかった。随分と久しぶりに、暁美ほむらは他人の気持ちに興味を抱いたのだった。ちらりと晒された杏子の内側に触れて、もっとよく知りたいと、自分は知らねばならないのだと、そう感じたのだった。

「別に大した理由はないさ。最初はそうさ、あたしがたまたま立ち寄った時に、あんたが黙示録の喇叭でも聞いたように自棄酒してたから、人んちでなにしてんだって蹴り飛ばしただけさ」

 そう言えばほむらは、杏子に蹴り飛ばされたのだった。或いは頭痛の何割かは、それが原因かも知れなかった。

「一応介抱してやって、あんたが魔法少女だとは分かった。どんな理由かは知らないけど、少なくとも楽しそうな飲み方じゃあなかったからな、嫌な事でもあったんだろうとは思ったよ。そんで目を覚ましてみたら、あの目だ。まるで魚の死んだような目だった。スーパーの鮮魚売り場に並んでるやつらでも、もうちょっとは綺麗な目をしてるだろうさ。地獄の底を見てきたばかりのダンテだってもう少し明るい顔だったろうよ。だから最初はもうこいつはダメだと思ったよ。生きる気力がまるでない。このまま死んでいくしかないだろうってな」

 酷い言われ様だ。だが、実際そうだったのだろう。それはほむら自身自覚している。

 けど、と杏子はつづけた。

「あんたのソウルジェムは、それだけ濁ってて、まだ光ってたのさ」

 ほむらは自分の指輪を見つめた。恐ろしく黒ずんで、まるで今にも魔女の卵と化しそうだった。しかしその中心には、生き意地の悪い紫の輝きが灯っているのだった。

「ソウルジェムの輝きはこころの輝きだ。疲れ果てて倒れ伏した負け犬が、それでもまだ諦めるって事だけは出来ずに、指輪の中でぎらぎら光ってた。そいつを見て、まだ死ぬことはないだろうって思っただけさ。ただ、それだけのことさ。大した意味なんかありゃしない」

 杏子は空になった缶をゴミ箱に放り、外し、面倒臭そうにそれを拾って、近くまでいって放り込んだ。そこにはどうしてだか、照れくさそうな色があった。外したことにではない。ほむらを助けたことに対して、杏子は恥を覚えているのだった。ほむらが杏子に助けられたことに恥を覚えているように、杏子は、自分のような人間が他人を助けようという行為に、恥を覚えているようだった。

「あたしは寝る。あんたも寝な。そんで、明日には出ていっちまいな。それ以上は、面倒は見ない」

 それきり、杏子は黙り込んだ。

 ほむらもわかったと返事を返して、そのまま眠りについた。

 翌朝杏子が目覚めた時には、ほむらは何も残さず去っていた。謝礼も残さなかった。杏子がそれを望むとは思えず、かえってプライドに傷をつけるだけと解っていたからだった。

 そうして一か月後、杏子は見滝原が凄まじいまでの災害に見舞われ、マミや、新人の魔法少女が巻き込まれて死んだことを知り、その中に黒髪の少女がいたことを知ったが、ただ、そうかと零しただけだった。少なくとも負け犬は、牙は剥いたのだ。負けて伏すだけということはなかったのだ。

 この一か月に意味があったのかどうかは定かではないけれど、いまも暁美ほむらは懲りずに100万回目の徒労を始めようとしている。

 そういうことなのだ。



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今夜のおかずは肉じゃがです(さやほむ)

「あんた、おかずにはなに使ってるの?」

 深夜の四畳半に響いた下世話な質問に、肉じゃがをつついていた箸が止まった。

 問いかけを発した美樹さやか自身も、思わずぽろりと漏れた失言に硬直し、問われた方の暁美ほむらは肉じゃがに向けていた視線をさやかにむけて、沈黙した。

 かちりかちりと無慈悲な時計の針だけが、冷酷に時間を刻んだ。

 

 

 

 

 

 夜九時以降に食事を摂ると実際太る。もはや格言の如く口々に言われることではあったけれど、成長期真っ盛りの健康優良児にして、カロリーと魔力の消費に喘ぐ美樹さやかにとっては自動販売機の下に転がっているかどうかさえ分からない一円玉位にはどうでもいい事だった。つまり切羽詰ってようやく省みる様な、そういう程度の認識だった。明日の自分が体重計の上で重力と戦おうが、明後日の自分が臍出しルックの装束に危機感を覚えるようになろうが、現在進行形の空腹の前ではそんなものは無価値で無意味で無関係だ。少なくとも、現在においては。

 真面目に魔法少女やっている女子は――つまり、夢とロマンに勤勉な頗る付きのお花畑(ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット)とその同類みたいな連中は、部活動もせず早々と下校しては買い食いしながらパトロールし、とっぷりと夜が更けるまで魔女狩りに青春と睡眠時間とカロリーと魔力と人間性とを捧げて、その対価として夢とロマンと言う名の壮大な自己満足とふくらはぎとかの筋肉と明日の宿題が終わっていないことに対する諦めとどうしようもない空腹感を得るものなのだ。

 眠気は魔法でどうとでもなる。細やかな魔力の消費で、少ない睡眠時間を濃密な休息に充てられる。気付かぬ間に太くなっていくふくらはぎの筋肉も、ちょっと身体強化魔法に気をかけて遣れば抑えられる。しかし宿題と空腹はどうにもならない。いや、まあ、宿題はやる気さえ出ればどうとでもなるが、勤勉なるロマンの追及者たる美樹さやかには、魔女との戦いを終えた後の体が熱くなって後頭部辺りがちりちりするような快感の中で机に向かうような無粋な真似は出来なかった。

 とにかく、空腹はどうにもならない。何か腹に入れねばならない。

 だが魔女狩りを終えた後の夜更けでは、女子中学生が気軽に入れる店は少ない。補導されかねない。よしんば上手いこと潜り込めたとして、今度は金銭的な問題が発生する。魔女狩りでは夢とロマンと自尊心と仲間内での名声は稼げる。しかし物理的質量を伴う報酬も、社会的信頼を伴う対価も得られない。以前、魔法少女稼業の元締めにあたるキュゥべえに、使用済みグリーフシードを駄賃と引き換えてくれないものかと交渉したら、構わないけど、命に値段をつけるのは人々の平穏を護る善意の魔法少女(ばかなじょしちゅうがくせい)としてどうかと思うよなどと揶揄われてしまった。

 ならばどうするか。

 巴マミは打ち上げ的に紅茶や茶菓子を振る舞うことはある。しかし何時もではない。女子中学生として破格の豊満な肉体を持つマミは、その分だけ脂肪分や糖分の摂取には気を遣っていたし、第一彼女はどちらかと言えば頭脳派だ。見栄え良く飛び回るが、運動に使うエネルギーより、弾道計算やリボンの配置などの思考に使うエネルギーの方が大きい。腹持ちよりエネルギー補給を優先してさっと糖分を摂取して回復するのが常だ。

 鹿目まどかは魔女狩りが終われば、明日も学校だからと早々と家に帰ってしまう。勘の鋭い母親を警戒しているようで、あまり生活リズムを崩したくないようだ。それに宿題までするのだという。さやかには理解できない真面目さだ。理解はできないが、授業直前に写させてもらうのに大変頼りになるのでそのままのキミでいてほしいというのがさやかの細やかな本音だ。

 佐倉杏子は意外に夜食を食べない。さやかと同じ様なタイプだと思っていたので腹が減らないのかと聞いてみたことはあったが、そもそも常に何か口にしている様な手合いだった。小分けにして常に補給しているから、空腹感があまり来ないのだという。その癖一緒に食事すると誰より食べるし、しかも太らない。成長というものを悪魔(キュゥべえ)に捧げたのかと言う位変化がない。

 どいつもこいつも、金を出し合って夜食を買い求めるにはどうにも相性が悪い。このまま空腹を抱えて眠れぬ夜を過ごす日々が続くのだろうかと本人ばかりは大真面目に苦悩するさやかに声をかけたのは、こいつだけはまずこの手の話題に食いつかないだろうと思っていた少女だった。

「あたしさ。あんたってカロリーメイトとウィダーインゼリーが主食だと思ってたわ」

「便利なのは認めるわ」

 暁美ほむらであった。

 飯の代わりにガソリンを補給して戦う未来から来たターミネートマシーンガールというのが、さやかのほむらに対する食事事情の想像であった。もしくは魔女を捕食している悪食のソウルイーターガール。学校でも大抵購買のパンを大して美味そうでもなくもそもそ食べていたり、あまり食事に興味がないのではないかと思っていたのだ。

 なので、そのほむらからうちに食べに来るかと誘われた時はすわ殺されるのではなどと警戒したものだが、よりにもよってすばしっこい魔女を猟犬よろしく走り回ってようやく仕留めた後の提案だったものだから、つい頷いてしまったのだった。

 初めて訪れたほむらの家は存外質素で、薄い座布団を寄越されて卓袱台で向き合って白飯と肉じゃがと味噌汁に漬物というこれまた平穏な品を食わされ、赤く細長い顔の宇宙人が夕陽の差しこむ卓袱台を前に胡坐している様なとんでもないシュールさを感じさせられた。いや、一人暮らしの女子中学生ということを考えれば極めて普通の光景だったのだろうが、なにせ顔ばかりはちょっと見ないくらいの美少女で、しかもミステリアスな陰がある。それが卓袱台に向かって肉じゃがを頬張り、ほうじ茶をふうふうと冷ましている姿など、思わずギャグでやっているのかと突っ込みかけた光景だった。

 そんなショッキングな会食は、今やすっかり馴染の物となっていた。

 さやかが今晩大丈夫かと尋ねることもあったし、ほむらが今夜は食べていくのと問う事もあった。そして最近ではその遣り取りさえなくなってきた位には、深夜の会食は日常となっていた。

 

 

 

 

 

 

 暁美ほむらは、身近に美形が多くて目の肥えたさやかから見ても、手放しで賞賛できる美少女だった。教養の良さというか、育ちの良さというか、そういうものを思わせる歯並びの良さ。いつも伏し目がちだけれど真っ直ぐ覗き込んでみると、その潤んだような深紫の宝石は吸い込まれるようだ。すぐに薔薇色の血の色が透けて見える肌は、少し病的と不安になる時もあるが、夜のビロードを背景にすっとその横顔が見えると神秘的な美しさがあった。あまり周囲で見ることのない、長く伸ばした黒髪もさやかの美的感覚をくすぐった。手櫛を通すとまるで抵抗なくするすると自分の重みで流れていってしまう程に滑らかで艶やかで、こんなに触り心地の良い髪があるのかと驚き、嫉妬したほどだった。さやかが髪を伸ばしたって、きっとこんなに魅力的な艶は出ないだろう。

 そして美しいだけでなく、ほむらは意外な事に料理がうまかった。初めて食べさせて貰った時、この人間性を捧げきったような魔法少女が人間味のある食い物を出すとはと驚かされたものだった。

 しかしこの件に関しては、果たしてただ料理がうまいといっていいのかはさやかには判断がつかなかった。上手いのも当然で、この女、完全にマニュアルに従って作っているのだった。材料の切り方は定規で計ったようで、台所より研究室に置いてありそうななんとかいう高性能の精密計りで調味料をミリグラム単位で計っている。加熱時間も恐ろしく厳密にタイマーで計り、盛り方さえ毎度毎度誤差範囲内のコピーっぷりである。手慣れた様子で作業をこなしていく様は、料理をしているというよりもはや精密工業だ。多分爆弾を作っている時と全く同じスタイルだ。作り終えた時のやりきった顔は、熟練の職人を思わせた。

 しかも作れるのは肉じゃがだけだ。白飯は炊飯器で炊くだけ。味噌汁はインスタント。漬物は買ってきたものだ。

 なんで肉じゃがしか作れないのか、というよりなんで肉じゃがだけこんなに極まっているのかと、三回目くらいの会食で食品サンプルじみて同じ姿をさらしてきた肉じゃがをつつきながら困惑気味に尋ねたてみた。

 そうしたところ、小さく小首を傾げ、また小さく小首を戻し、あなた肉じゃが嫌いだったかしらと平坦に尋ね返してくる。まあ肉じゃがは好きだ。何時だったか好きな食べ物を聞かれて適当にぽんと答えた位には、まあ、好きな方だろう。肉じゃがが嫌いな日本人はそういないと思う。しかしそういうことじゃない。そういうことじゃないのだが、面倒臭くなって、まあ好きよと答えると、何やら満足げに頷いてそのまま白飯をちまちま食べ始めてしまった。それでさやかもまあいいかと、結局答えは聞きそびれたのだった。

 さやかとしては献立の壊滅的な幅の狭さに若干辟易はするものの、折半した材料費だけの格安の夜食に文句はなかったし、暁美ほむらは最初から何も言わなかった。いつも疲れた体を引きずって暁美宅に上がり、さやかは愚痴と共に卓袱台に沈み、ほむらは無言で台所で調合をし始める。大抵はさやかがうつらうつらとし始めた頃に起こされ、会食はいただきますと召し上がれで始まる。食事中の会話はぽつりぽつりと時々他愛もないことを話すくらいで、専ら味ばかりは文句のつけようのない肉じゃがを味わうことに専念した。そしてご馳走様とお粗末さまでしたで会食は終わり、また明日とさやかは出ていく。一か月も続ける頃にはもはや仕事の一環なのではないかと感じ始める程のルーチンが出来上がっていた。

 物事が安定してくると余計な事を考える余裕が出てくるもので、さやかも普段から余計なことばかり考えているのに、余分に余計な事を考えていた。

 ちょっと見ないくらいの美少女で、料理も美味くて、沈黙が嫌にならない。これで可愛げがあればパーフェクトな嫁なのだが、などとぼんやり考えているうちに、この完璧超人の鉄面皮を崩せないものかと妙な対抗心が出てきたのである。

 それでぐにぐにと頭の中で奇案妙案を捏ね繰り回しているうちに、思わずぽろりとこぼしてしまったのが冒頭の一文だった。

「あんた、おかずにはなに使ってるの?」

 深夜の四畳半に響いた下世話な質問に、肉じゃがをつついていた箸が止まった。

 問いかけを発した美樹さやか自身も、思わずぽろりと漏れた失言に硬直し、問われた方の暁美ほむらは肉じゃがに向けていた視線をさやかにむけて、沈黙した。

 かちりかちりと無慈悲な時計の針だけが、冷酷に時間を刻んだ。

 さやかとしては、ほむらの回答は二通り予想された。一つは、日頃の浮世離れした様子から、下品だとか食事中に何をとか、潔癖な拒絶を返してくるもの。そしてもう一つは、これはちょっと夢見過ぎではあったが、入院生活が長かった初心な少女らしく、恥ずかしげに頬を染めてばか、とでも可愛らしく罵ってもらえたら、などともはや願望だ。

 しかし現実は三択目だった。

「……じゃがいもと、豚肉と、白滝と、」

「そういうことじゃなくて」

 まさかのガチ回答。よもや意味が解らない程に初心だったとは。

「じゃあ、どういうことかしら?」

「あー、その、ほらさー、わかんないかなー」

「おかずというのが……惣菜でないというのは分かったわ」

「だからさー、その、体をさ、持て余した時とかさ、ほら!」

「…………もう少し、具体的な説明をしてくれるかしら」

「つまり、だからァ、その、マ、マで始まる言葉でさー」

「マ? 魔女? 魔法少女?」

「……マ、マス……その、つまり、マスタ~~…………ベ~~~ション………よ」

 誤魔化し誤魔化し、自分で言っていて勝手に顔を赤くしながらさやかが悶絶する様を、ほむらはじっと見つめ、そしてゆっくりと瞬きした。

「マスターベーション」

 機械音声じみた正確な発音で、ほむらは呟く。

「……マスターベーション」

 頭の中を探るように、再度。

 大真面目にわからないらしいほむらの様子に、さやかは一人、何処からか湧いてきた罪深さに悶えた。両親が教えるキャベツ畑やコウノトリといった誤魔化しをを信じている無垢な女の子に、ママのキャベツにパパのコウノトリを突っ込んで激しく前後する無修正のポルノを突き付ける時を想像するような、そんな罪悪感と下卑た興奮を覚えていた。主に興奮の方を。

「待って。喉まで出かかっているの。確かどこかで聞いた言葉だわ」

「いい、いいんだよほむら……そのまま知らないままで……」

「いえ、確かに聞いた覚えが……」

 しばらく瞑目していたほむらは、小さく小首を傾げ、そして小さく小首を戻した。それから目を開いて、潤んだような深紫の宝石みたいな目で、さやかをまじまじと見つめた。それからまた小さく小首を傾げ、また小さく小首を戻した。

「つまり、自慰行為ね」

「あーはいはいはいそうですそうですよッ!」

「自慰行為に、使う……?」

 大真面目に考え込むほむらに、逆に何だか辱めを受けたような気分で、さやかはげんなりとしながら、おかずというものをざっくりと説明した。その内容を、つまりさやかの発したあまりにも唐突で凄まじく下世話でプライベートに踏み込むような質問をようよう理解したほむらは、やっぱり小さく小首を傾げて、また小さく小首を戻した。

 ほむらとはそれなりに親しくなったような気がしていたが、それでもまどかとのお泊り会での秘密の女子トークや、杏子と馬鹿みたいに盛り上がった深夜のテンションのようなノリでこういった話題を交わすにはまだ新密度が足りなかっただろうか。嫌な汗が背中を伝うのをさやかは感じた。

 ほむらはそれから止まっていた箸を動かして、じゃが芋を口に放り、暫くもむもむと頬張って、こくりと小さく飲み込んだ。それから白米を小さくとって口に入れ、暫くもむもむと頬張って、やはりこくりと小さく飲み込んだ。それから味噌汁を啜り、ぱきぱきと小気味の良い音を立てながらたくあんを齧り、徐に口を開いた。

「おかずには、じゃがいも、豚肉、白滝、」

「それさっきやったから!」

 思わず平手で空を切るさやかを気にした風もなく、ほむらは箸をおいてつづけた。

「下準備が大事なの。じゃがいもは出来るだけ身を多く残す様に、でも皮が残ったりしないように丁寧に向いて、面取りする。油で一度上げてあげる。温度が高すぎると焦げるし、低すぎると油を沢山吸ってしまうわ」

 文章読み上げソフトのように淡々と説明を続けるほむらに、さやかは溜息と共に卓袱台に沈んだ。説明が通じなかったのか。それともその上でこういう風にあしらわれているのか。なんにせよ、コミュニケーションに重大な齟齬が発生している。

 これはもうBGMと割り切ってしまおう。そう決めつけて、さやかは食事を再開した。毎回毎回全く変わりなく同じ味だが、しかしさやかの好みに合った味付けだった。飽きが来ない。毎日作ってくれるというなら毎日でも食べるし、実際ここ一か月はほとんど毎日お世話になっていた。餌付けされているのだろうか。

「隠し味には愛情が大事だと言われたから、たっぷりと籠めているの」

 料理の常套句だ。要するに手間暇かけた丁寧な仕事のことだろうとさやかは素っ気なく聞き流そうとして、ちらと見上げたほむらの顔に硬直した。

「それまで料理なんてしたことがなかったから、沢山予習したわ」

 さやかは初めて見るものに、半分口に入りかけていた芋が落下するのも気づかず、まじまじと凝視してしまった。

 ほむらの顔に血が上って赤みを帯びていた。

 つまり、ほむらははにかむように、頬を染めていたのだった。

「あなたが寝入る頃を見計らって、愛情を込めるの。その、一つずつ、お芋に口づけて、炊くの」

 はふり。温かなじゃが芋を、ほむらは一口、ついばむように頬張った。

「あなたがそれを食べるのだと思うと、悪い事をしているようで、でも、とても嬉しくて、すごく、きもちよくなるわ。そして実際に食べているのを見ていると、とてもとてもきもちよくなって、胸の辺りが一杯になってしまうの」

 口元を軽く拭って、ほむらはご馳走様と手を合わせた。

「自慰って、自分で、気持ちよくなることなのでしょう? なら、私のおかずはそれよ」

 素っ気ない調子で呟くようにそう言うや、ほむらは黙り込んでうつむき、卓袱台の木目を数える作業に没頭し始めた。いつもなら澄ましたように背筋を伸ばしてさっさと食器を洗いに立ってしまうはずなのに、今のほむらは小さく縮こまってしまっていた。

 かちりかちりと時計の針が時を刻むだけの静寂の中、その艶やかな黒髪の間にのぞく、目も綾な薄紅が、何より雄弁だった。

 ちょっと見ないくらいの美少女で、料理も美味くて、沈黙が嫌にならない、可愛げに溢れたパーフェクトな嫁が、そこにいた。



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魔女の醍醐味(なぎさや)

 さやかが百江なぎさという少女に出会ったのは、スーパーの乳製品売り場で必死に背伸びしている所を見かけて、目当ての物らしい商品をひょいと取って渡してやったのが最初だった。家は割合に近所だったから、或いはそれ以前にも見かけたことはあったのかもしれなかったけれど、不思議と記憶にはなかった。まあ、意識しないものは記憶にも残らない。何気なく過ごす日々の背景として処理されていたのだろう。さやかはそのように理解している。いまでは視界の端にそれらしい人影がちらと見えただけで振り向いて探してしまうというのに、不思議にさやかはその認識を頑なに信じていた。

 さやかがあまり好んで食べることのない、香りの強い外国産のなんとかいうチーズを受け取って、なぎさはしばしさやかをじっと見つめた。さやかも何とはなしに見つめ返し、間の抜けた沈黙が流れた。そしてふと気づいた。もしかすると気の弱い人見知りの子なのだろうか。つい見ていられなくて手助けしてしまったけれど、この子は見知らぬ軽薄そうな女子中学生に突然絡まれて怯えているのではなかろうか。頭の中が真っ白になって硬直してしまっているのではないだろうか。数秒後には火が付いたように泣き出すのではないだろうか。ところで火が付いたように泣き出すってそりゃあ尻だろうとどこだろうと火が付いたら大の大人でも慌てふためいて大いに騒ぎ泣き出しかねないけれどそれにしても物騒な喩えだ。後から調べたら火が燃え上がるように勢いよくという意味だったので、別に子供に火箸を押し付けて泣き出す様が慣用句になる程日常的に見られたという訳ではなさそうなのでひとまずよかった。いや、全然よくはないのだ。泣きだなさいとしても何しろ昨今の小学生は挨拶してくる近所のおじさん相手でも通報しろという教育をされている人間不信予備軍だ。このぼけらったと見上げてくる能天気そうな顔が、次の瞬間には使命を帯びた勇者の如き中身のない覚悟をもって抜き慣れた伝家の宝刀可愛らしい子供用防犯ブザーのピンをこなれた様子で引き抜くかもしれないのだ。

 チーズを手渡した時の軽薄な笑みを浮かべたまま、回転の遅いさやかの脳がそれだけのことを考え、焦り、脱兎の如く逃げ出すべきかどうかの脳内審議を始めるかどうかを検討する脳内会議に使用する仕出し弁当の発注先を揉める贈収賄を含む談合の日程を決めかねている辺りで、なぎさはぺこりと可愛らしく頭を下げて、拍子につやつやと赤いランドセルがその背中に見えた。

「ありがとうなのです」

「あ、うん」

 言葉遣いに幼さを感じるが、礼儀は正しい。漫然と頷いたさやかより余程。真っ直ぐにさやかを見つめて礼を言ってくるくりくりとした目は不思議な色合いをしていた。チーズを大事そうに持った手は小さく、桜色の爪は綺麗に切り揃えられていた。色の薄い髪はふわりと柔らかそうだ。何故だかさやかは、そんな風にこの子供をじっくりと眺めてしまった。それまで見たことも無い筈なのに、不思議とその面影に覚えがあったような、そんな気がしたのだった。

「ねえ、もしかして、」

「なぎさちゃん!」

 もしかして、どこかで会ったことがないだろうか。そんなナンパじみた言葉を遮ったのは、こちらは間違いなく聞き覚えのある声だった。

「あ、マミ!」

「もう、探したわよ。勝手に一人でいなくなっちゃ……あら、美樹さん?」

「保護者が板についてますね、マミさん」

「お陰様でね」

 巴マミ。同じ見滝原中学校の制服を身に纏っている筈なのに、隣に小さな子供を置いてみるだけで溢れだすこの母性。見滝原中学校新入生の三割(美樹さやか主観)が恋に目覚めた柔らかく抱擁感のある空気がそうさせるのか。或いは見滝原中学校新入生の五割(女子含む)が性に目覚めた柔らく豊満な肉体がそうさせるのか。まだ15歳だというのにどことなく未亡人を思わせる妙な色気があった。

「また妙なこと考えてるでしょ、美樹さん」

「いえいえ、何時見てもお綺麗だなっと」

「昨夜、私の制圧射撃に『おっかねえ、旦那さんは尻に敷かれそう』って言ってたの知ってるのよ」

「いやあははは、あれは杏子へのからかいって奴で」

「まあいいわ」

 呆れたように溜息を吐くマミの裾を、小さな手がついと引いた。

「マミ、お友達なのですか?」

「ああ、そうだったわね。なぎさちゃん、この人は美樹さやかさん。私の後輩よ」

「みき、さやか」

「そう、サヤカ・ミキ」

「んう? サヤカ? ミキ?」

「もう、遊ばないの。美樹が名字でさやかが名前よ。美樹さん、この子は百江なぎさちゃん。近所の子でね。偶に面倒を見ているの」

「ああ、そうだったんですか」

 てっきり隠し子かと。

「美樹さん?」

「いえいえなんでも。なぎさちゃんだったっけ。マミさんの友達ならあたしの友達だ。よろしくね」

「はい、よろしくなのです、さやか!」

 自然にすいっと差し出された小さな手に、さやかは反射的に手を伸ばし、玩具みたいに小さくてやわらかい手を握り返した。そして多分、それが切欠だったのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

「偶然とはいえ、リンクが繋げたのはよかったのです」

 小生意気そうな声だった。くりくりとした、不思議な色合いの瞳がさやかを覗き込んでいた。

「……なんだ。夢か」

「夢の中のさやかはまだ頭の巡りがいいのです」

「知ってるのと知ってないのとじゃ反応も変わるわよ」

 どこまでも果てしない、上も下も、右も左も、遠いも近いも、過去も未来も、何もかもが曖昧な真っ白な闇の中で、なぎさとさやかはようやく再開した。

「夢の中まではあいつの力も及ばない――のか、大したことはないと端から勘定に入れてないのか。まあ、どっちにせよあたしが記憶をたもってられるのはここだけ。今までは一人でうんうん唸るだけで生産性の欠片もなかったわ」

「そりゃあ、さやかみたいな猪頭じゃ、何処にも進まず何にもならないのです」

「あんたね……」

 起きている時の方の世界ではあの後、好奇心にあふれた小学生の女の子に相応しく、随分とさやかに懐いて遊び回り、純真無垢なことこの上ない笑顔を振りまいてくれたものだが、目の前の相手は実に生意気そうな顔つきだ。しかし思い返してみれば、円環の理と共ににあった時、なぎさは大体こうであったようにも思える。するとこちらが素なのか。女子小学生の社交性恐るべし。

「まずは居心地を良くするのがいいのです。よいしょ」

 なぎさが大きく手を打ち鳴らすと、真っ白な空間にぱたぱたと畳が敷かれた。なぎさがそこに足を下ろすので、さやかもそこに降り立った。次になぎさは手を上げて、見えない紐を引くようにした。するとぱちりと音がして、木目の天井に柔らかなLED照明が灯った。こうしてさやかの夢に天と地が生まれた。

「広すぎるのも落ち着かないのです」

 なぎさがこんこんと何もない空間を軽くノックすると、クリーム色の壁紙に覆われた壁が四方を囲んだ。四畳半ばかりのこじんまりとした、しかしなかなかに落ち着く広さだ。

「かといって密閉されてるのも落ち着かないのです」

 一方の壁に両手を当てて、するりと左右に広げると、そこに窓が出来た。窓の向こうは相変わらず真っ白な闇に包まれていたので、なぎさは何処から取り出したのか、テレビのリモコンの様なものを何度かぽちぽちと操作した。その度に窓の外の景色は、高原の爽やかな朝、透明度の高い一面の海、星々の煌めく宇宙空間と次々に切り替わり、最終的に見滝原の街並みに落ち着いた。

「あとはー、まあこんなもんなのです」

 なぎさがまた一方の壁に手を当てて横に引くと、そこにふすまが出来た。開いた先には細やかな押入れがあって、なぎさは小さい手でよいしょよいしょと折り畳みの卓袱台を取り出して、少しもたつきながら足を立てると、部屋の真ん中に設置した。それから自分用に可愛らしくふわふわのクッションを取り出して座り、さやかには悲しくなる位薄っぺらい座布団を投げてよこした。

「さやかは何をぼうっとしているのですか? ただでさえ間抜けなのに一層間抜けに見えるからそうやって間抜けに棒立ちするのはやめた方がいいと思うのです。あと女子小学生にこれだけ働かせておいてそれを見ているだけとか鬼畜にも程があるのです。そういう趣味なのですか?」

「色々言いたいことはあるけどぶっとばーすぞー?」

 なんだか恐ろしい勢いで、曖昧な夢の世界は世俗じみた四畳半に成り果ててしまった。これは真面目に考えた方が馬鹿なのかもしれない。さやかは溜息を吐いて、薄っぺらい座布団に腰を下ろした。

「まさかこんな風に模様替えが出来るとは思わなかったわ」

「いくらここでだけは円環の理の記憶を思い出せるとはいっても、結局それだけのことで、ここはただの夢の中でしかないのです。上も下も過去も未来も、決めるのは夢を見ている主体なのです」

「あの何もない空間はあたしがそうあれって願ってたっていうの?」

「さあ。なぎさはなぎさでさやかじゃないので、さやかの考えそうなことなんて全然さっぱり想像もつかないのです。でもあれじゃないですか。ほむらにしてやられた屈辱感とかまどかを護れなかった無力感とかそういうのに言い訳するために、どうしようもないからどうしようもないんだって強弁するために、自分が役に立たないんじゃなくて相手が悪すぎるんだって逃げ出すために、行き場のない無限の空間に籠ってたんじゃねーのですか」

 全然想像がつかないという割に、なぎさの言葉はザクザクと容赦なくさやかを刺して行った。刺さるのも当然で、言われててみればそうかとしっくりするほどに、なぎさの言葉はさやかの思いを言い当てているようだった。

 成程そうなのかもしれない。ここ暫くさやかの内でくすぶっていた行き場のない苛立ちは、或いはそのような面倒な気持ちの絡み合いから生じたのかもしれない。どうにかしたいがどうにもならない。どうにもならないがどうにかしたい。しかしやっぱりどうにもならない。そんな鬱屈が現れていたのかもしれない。

「そんなもんかしら」

 だからさやかは怒るでも反発するでもなく、するりと自然になぎさの毒を飲み込んで、するりとそんな軽い言葉を漏らした。さやかがそんな風にあっさりと受け流して見せたのが気に食わないようで、なぎさは顔をしかめながら棒付きのキャンディを取りだし、がりがりと齧った。

「全く。円環のさやかは物分りがよすぎるのです」

「いいことじゃない」

「いまのさやかは円環の理から切り離されているのですよ」

「でも、あたしが円環の理の騎士であることは変わりないわ」

 飴ではなく苦虫でも噛み潰したような顔で、なぎさはしばらくさやかをねめつけていたが、やがて呆れたように溜息を吐いて、噛み潰されてぐしゃぐしゃになった棒を吐き出し、いつの間にか部屋の隅に置かれていたゴミ箱へ放った。

「本当に。円環のさやかは物分りがよすぎるのですよ」

 吐き捨てるように呟いて、なぎさはごろりと怠惰に横になるのだった。

 

 

 

 

 

 

「さやかは本当に物分りが悪いのです!」

「いやだって、ねえ」

「なんなのですか? なぎさが悪いのですか? なぎさの教育に問題があったのですか?」

「あんたに育てられた覚えはないって」

「じゃあパパとママの愛情が足りなかったのですか?」

「そこまで言われるほど!?」

 郊外のショッピングモールに店を出す輸入食料品店。そのチーズ売り場の前で、さやかは生まれて初めて年下の女の子に地べたを這う虫けらでも見るかのような目で叱責されていた。救いようのないものを見る様な憐れみと、その陰に隠しきれない程度の侮蔑と、理解できない断絶を見る様な怪訝さを伴った視線が、さやかを刺した。

 深く長い溜息の後、なぎさはにかっと笑顔を繕った。

「あのですね、さやか。さやかは立派なのですよ。自分の方から年下の子供に『教えてくれ』なんてなかなか言えるもんじゃあないのです。ナチュラルチーズとプロセスチーズの違いだってちゃんと覚えたのです。教えた通りやればちゃんとできるのです。さやかならできるのですよ」

 まるで小さな子供を諭すかのように、なぎさは笑顔で優しく、労わるように声をかけてくれるのだが、それがまた一層さやかを惨めな気持ちにさせるのだった。

「いいですか? このモッツァレラはどんなチーズですか?」

「モッツァレラは……水牛の乳から作った……えと……フレッシュチーズッ?」

「そうッ! やっぱりやればできるのですよ! もう半分出来たも同然なのですよ!」

「そーよねッ! よしッ!」

 なぎさが単ある愛らしい少女だという希望は、見滝原魔獣バスターズ(ピュエラ・マギ・ホーリー・トリオ)で一番面倒臭い女こと巴マミのご近所であるという事実から早々に捨て去っていたが、まさか思わず「うわぁ」と声に出してしまうレベルでドン引きのチーズ狂いだとは思わなかった。

 毎日のように面倒を見てやって、休日にはこうして遠出してまでチーズを探しに来たりはまあいいとして、試験勉強は前日の夜だけという一夜漬け至上主義者のさやかにまでチーズ知識を植え付けようとして来るのはたまったものではない。それでもなんだかんだと付き合ってしまう辺りがなぎさに目をつけられたのだろうが。

 イタリアのチーズであるモッツァレラは、それなりに聞き覚えもあるし、なぎさにも食べさせて貰ったので他の舌を噛みそうな名前の物よりは憶えていた。味や香りに癖がなくて、チーズというものをちょっと敬遠していたさやかもあっさり受け入れられたので、その好印象もあっただろう。

 あとはなぎさに指示された条件に合うチーズを選び出せば試験は合格だ。いや、別に合格したくもなんともないのだけれど、そうしないとこの小さなお姫様が納得してくれないのだ。

 なぎさが興味深そうに香辛料の棚を眺めているのを尻目に、さやかはうろ覚えのチーズ知識を頼りに、何とかそれらしいかなと思う品を揃えてみた。普段見ることのないなんかこう、さやかにとってはレベルが高そうな、マーブル模様したチーズなんかを眺めてるとあたしって実はスゲーんじゃないなどとスゲー頭の悪そうなことを考えながらなぎさを呼びつける。

「やったわよッ! 終わったわよなぎさ! ……どう?」

「ン。できたのですか? ……どれどれ?」

 なぎさはさやかの掌の上に揃えられたチーズを眺めて、小首を傾げた。

「何なのですかこれ……?」

「へへへっ。当たってる?」

 ちょっと自信あるんだよねと鼻をこするさやかに、なぎさはにかっとまた例の笑顔をつくろい、そして容赦なく愛らしい赤い靴の爪先でさやかのすねを蹴りつけた。

「あぎゃアアァ――ッ!」

「この赤点娘がッ! なぎさをナメてるのですかッ! 何回教えれば理解できるのですかァ!

 何か一つウォッシュチーズ持って来いって言ってるのになんでブルーチーズもってきてやがるのですか、この……さやかがァ――ッ!」

「なんかまるであたしの名前が罵倒語みたいに!?」

 地団駄を踏むようにさやかの爪先を踏みつけるなぎさの権幕たるや凄まじいもので、世界で一番人気のチェダーチーズさえ在庫がないというチーズ・ショップにさえもう少しは大人しい怒りを示したことだろう。少なくとも、店主の頭を拳銃で撃ち抜く前は。

 さやかの爪先をビル・「ボージャングル」・ロビンソンよろしくひとしきり踏みつけ、お店の人に迷惑だからという至極尤もな正論を三回ほど聞き流してから、なぎさはようやく息を落ち着けて、今更ながらにシャムネコみたいに澄まして見せた。

「まあ、さやかのお頭でそんなに簡単に覚えられるとは思ってないのです」

「うっわすっごい上から目線」

「でもでもさやかならきっとなぎさの大好きなチーズの事を覚えてくれるに違いないのです」

「うっわすっごいあざとい。でも可愛い」

「さやかがロリコンさんでよかったのです」

「ぶっとばーすぞー?」

 先程までの喧騒もどこへやら、二人仲良く姉妹のように並んで、さやかはなぎさが一つ一つ指示しては説明するチーズ談義を、半分以上耳に心地よい小鳥の囀りめいてBGM代わりに聞き流し、時折どこかで聞いたような単語だけ拾って適当に相槌を打った。なぎさの方でもそんなさやかの適当な態度に気づいてはいるようだったけれど、やれやれ仕方のない奴なのですと大人の受け止め方だ。まあ実際にはチーズ語りが楽しくて仕方がないのだろうけれど。小学校での話はとんと聞かないけれど、マミの所でも余りチーズの事を熱弁する機会はないようだから、たまの機会があるとこんな風に熱も入るのだろう。

「ねえ、なぎさ」

「カース・マルツゥの写真ですか?」

「いや、そんなグロ画像のことじゃなくて」

 カース・マルツゥはチーズバエの蛆に発酵を行わせるとかいうエグイ作り方をしたエグイ程柔らかい見た目もエグイチーズだ。

「なんであたしにばっかチーズの話するのかなって」

 よく面倒を見ているマミにも、チーズケーキをねだりはしても専門的な話はしない。よく一緒に買い食いしている杏子にだって、こんな薀蓄を垂れたりしない。一番真面目に話を聞かないだろうさやかにばかり、なぎさはこうして熱心にチーズの話をするのだ。それがさやかには不思議でならなかった。

 第一、そもそもの話として、さやかはどうして何時の間に自分がなぎさとこうして二人きりで買い物に遠出するほど仲が良くなったのかさえいまいち思い出せないでいた。本当にいつの間にか、それが自然と思える様な不自然な付き合いとなっていた。

「そうですね」

 なぎさはカッテージ・チーズのパックを手の上で転がしながら、少し考えて、さやかにこう質問を返した。

「好きな人に自分が好きなものを好きになって欲しいと思うのは変なことなのですか?」

 

 

 

 

 

 

「あれ、どういうつもり?」

「んん? なんのことなのですか?」

 夢の中、四畳半の部屋で卓袱台越しに向かい合ったなぎさは、六ピース入りのプロセスチーズを積み重ねて螺旋階段を作ろうとするというひたすらに不毛な作業に従事しながら適当な生返事を返した。なお、二人きりのこの部屋で、唯一の話し相手を放置してチーズ螺旋階段という草木も希望も星の王子様もない砂漠の様な不毛な作業を繰り広げているのは、暗にも明にもいまお前の下らない話に付き合う気分にならないんですという露骨なメッセージだったが、当然さやかは気にしない。

「昼間のあれよ。好きな人がどうたらっての」

「起きている時のなぎさは、円環の記憶もないただの小学生なのです。十年位しか生きてないちみっこが懐いて、付き合いのいいお姉さんに絆されただけなのですよ。さやかはようやく年齢二桁になったような子供の戯言をいちいち気にするのですか?」

 お前の便所の落書き程の価値もない雑談よりチーズ螺旋階段のほうが大事なんですけどと言わんばかりの、至極面倒臭そうななぎさの返答に、しかしさやかはうなずいた。

「うん。気にする」

「……うぇー。さやかってば本当にロリコンさんなのですか?」

「別にそういう訳じゃないわよ。ただ、あたしだってたかだか14歳だもん。小学生の言葉だって、真面目な物なら真面目に考えるわ。第一、あれもあんたじゃない。記憶がなくても、本質は変わらないでしょ」

「…………円環のさやかは本当に面白くないのです」

 ひたすらに天井を目指していた不毛の塔は、あえなく造物主の気紛れによってカ・ディンギルよろしく崩れ去った。造物主ことなぎさはその煉瓦の一つであるチーズを取って包装を剥ぎ、まくまくと頬張った。言葉の乱れを与える代わりに、なぎさはどうやら対話をする気になったらしい。

「別にどういうつもりもこういうつもりもないのですよ。百江なぎさは多感な小学生。付き合いのいい気さくなお姉さんに面倒を見て貰って、我儘を聞いてもらって、お姫様みたいに扱ってもらって、年相応な初恋を経験したというだけのことなのです。相手が同性っていうのがまあ変わってはいるですけど、ちょっと変わっているの範囲内なのです。おさなごころのこいごころ。はしか(、、、)みたいなものですよ」

「はしか、ね」

 なぎさの言うのは、尤もな話だ。もっというなら、尤もらしく聞こえる話だ。面倒を見てくれる年上の相手に懐いて、憧れて、恋心みたいなものを経験して、そしてほろ苦い失恋を経験する。ドラマや少女漫画で聞きそうな筋書きだ。起きている時のさやかならすんなり受け入れただろう。

 しかし夢の中のさやかはそうではない。夢の中のさやかには、円環の理の内側で得た知識があり、経験があり、記憶がある。

「あたしは円環の理で、あの過去も未来もない、全てが全て等しく重なり合った概念の内側で、あたしが果たした成功も、あたしが犯した失敗も、何もかも何もかもを経験した。魔女に成り果てる世界。魔女と相打つ世界。魔法少女と争い、破れる世界。自らの死を選ぶ世界。どんな世界でもあたしはバカばっかりやってたけど、それでもバカなりに学んだわ。少しは成長した」

 さやかは崩れたチーズのカ・ディンギルから一ピースを手に取り、掌の上で転がした。

「起きている時のあたしは、ささやかな違和感しか覚えていない。『気が付いたら』だとか、『いつの間にか』だのが、良くある忘れやすい日々の中に埋もれてしまっただけだと、そう納得している。でもこの四畳半の中でだけは、あたしはその異常に気が付ける」

 ぱたり。卓袱台に押し付けたチーズの先端が、鋭くなぎさを指す。

「もう一度聞くわ。どういうつもり?」

 さやかが真っ直ぐ叩きつける視線に、しかしなぎさは答えない。ただぱちりぱちりとチーズを組み合わせて、六つ揃えて綺麗な円を作っている。

「なぎさ。あんたの面倒を見ていたのは、マミさんであってあたしじゃあない。この世界であたしとあんたは出逢ったばかりの、知り合いの知り合いでしかない筈なのよ」

「…………」

「あたしもあんたも円環の記憶を、封じられているとはいえ宿している。でもそれだけでどうにかできる程、現状は甘くない。現状をどうにかできるのは、まどかか、或いはもう一人しかいない。まどかの記憶が厳重に封印されている以上、なぎさ、あたしはあんたがあいつの力を借りているとしか思えない」

「…………」

「なぎさ。あんた、あの悪魔(、、)に、」

「さやか」

 なぎさの手元で組み合わされたチーズが、かちりと音を立てる。

もう目を覚ます時間なのですよ(、、、、、、、、、、、、、、)

 じりりりりと破壊的な音を立てて、なぎさの手元で目覚まし時計が鳴り響き、四畳半の世界は硝子のように割れて爆ぜた。

 

 

 

 

 

 

「おいさやか! ぼうっとしてんな!」

「え、あ、うん!」

 杏子の怒声に、さやかは眼前に迫っていた魔獣の攻撃を、殆ど体に染みついた反射的な動きで回避する。ええと、いまは何処で何をしているんだったか、さやかはぼんやりしていた頭を回転させる。

 無意識の内に魔力で足場を作って跳ねまわっているのは、夜の見滝原市だ。ビルの間を駆け回り、いまいち回転があがらない脳に代わって、馴染みの動きを体は繰り返す。つまり、剣を振るい、投げ、魔獣どもを殲滅していく。

 視界の端を杏子の槍が煌めき、さやかは自然と逆の方向に駆け、魔獣を一所に押し込めていた。更に進んだ先から、見た目ばかりはきらきらふわふわと美しい、しかし凶悪な破壊力を持ったシャボン玉が魔獣たちを追い詰めてくる。三方からの囲い込み。さやかの頭が回らなくても、さやかの考える気のない神経の方では慣れた動きのままに魔獣を確かに予定のポイントに誘導していた。

 テレパシーで伝わる合図に飛び退けば、凶悪な魔力の奔流が、集められた魔獣を一緒くたに貫き、消滅させていく。

「マミの砲撃は相変わらずすごいのです」

「確かにね。あればっかりはあたしらじゃ真似できないもん」

 呑気に笑いながら姿を見せるなぎさに、言いようのない違和感を抱えながら、さやかは頷いた。じゃらじゃらと零れ落ちる黒いキューブを回収する二人の下に、遅れて杏子が跳び来たり、それからもう少し遅れて、リボンを巧みに操ってマミが姿を現した。魔獣大量発生地において未だに黒星なしの見滝原魔獣デストロイヤーズ(ピュエラ・マギ・ホーリー・カルテット)の四人が揃った。

 見慣れた魔法少女達が、キューブを回収しながら談笑する姿に、通い慣れた通学路の様な馴染み深さと、模様替えしたばかりの部屋の中の様な落ち着かなさが同居する奇妙な違和感の中で、さやかは首をかしげた。

「ねえ、なぎさ」

「なんなのですか?」

「あんたっていつから一緒にやってるんだっけ?」

「もう、さやかは忘れっぽいのです!」

「そうよ美樹さん。皆でパーティもしたじゃない」

「そうでしたっけ……?」

「おいおい大丈夫か? 変なもんでも食ったんじゃないの?」

「杏子と一緒にしないでよ!」

「あたしは変なもんなんか食べねーぞ!」

「いつもなんか食べてるじゃない!」

「この前はマミのご飯があるのに買い食いしてたのです」

「あっ、ばかっ」

「佐倉さん……?」

「ち、ちがっ、あれはなぎさが!」

「もう、小さい子のせいにしないの!」

「むぐぅ……」

 何時もの様に笑い合っているうちに、違和感は鳴りを潜めた。確かにこうであったような気もする。いや、こうであったのだ。いま、さやかは幸福の内にあるのだ。頼りの仲間たちがいて、慕ってくれるなぎさがいて、生き甲斐に満ちた生活がおくれている。日々は楽しく、希望にあふれている。

 さやかは間違いなく最良の日々の内にあるのだった。

 

 

 

 

 

 

「違う、違う違う! これは、こんなのは違う!」

「何が違うっていうのです、さやか」

 四畳半の狭い室内で、さやかはいきり立ち、なぎさはクッションを抱えて座ったまま、ころころと小さく小分けに包装されたスモークチーズを味わっていた。

「あんたは魔法少女じゃなかった! 少なくとも、あたしが面倒を見ていた、小学生の女の子は……!」

「なぎさはもともと魔法少女なのです。じゃなきゃ円環の理なんかにいなかったのですよ」

「ちがう、そうだけど、そうじゃなくて……!」

 さやかは苛立ちのままに卓袱台に拳を打ち付けた。

 間違いなく、世界は改変を続けていた。それも恐らくは、なぎさの意図によって。なぎさの目的が何なのかは見当もつかない。しかし、いかにして改変を行っているのかは想像がついた。幾ら円環の理の記憶があるとはいえ、それは夢の中でしか思い出せない。さやかにしてもなぎさにしても、世界に影響を及ぼすほどの力などありはしない。あるのは奴だけだ。

「あんた、ほむらと手を組んだの!?」

「手を組んだなんて、まるで悪者みたいなのです。人聞きが悪いのですよ」

 悪びれる様子もないなぎさに、さやかは爆発しそうになるのを必死にこらえた。感情のままに荒れ狂ってどうにかなる問題ではない。しかし抑えきれない激情が、自然と言葉を荒くする。

「なぎさ! あんた一体何が目的なのよ!? こんな、こんな好き勝手世界を弄繰り回して……!」

「さやかは、嫌でしたか?」

 しかし激昂も、あまりに落ち着いたなぎさの姿に、困惑と共にしぼんでいく。悪びれない所ではない。穏やかですらある。ただただ静かに、微笑みさえ浮かべてさやかを見つめてくる不思議な色合いの目に、さやかは動揺した。

「い、嫌って……そういうことじゃ、」

「誰か、悲しい思いをしたのですか? 誰か、嫌な思いをしたのですか? 辛い事や酷い事、見過ごせない不幸が、あったのですか?」

「それは……それは、なかったけど」

「誰かが蔑ろにされていたのですか? 虐げられていたのですか?」

「それも、ない……」

「マミがいて、杏子がいて、まどかもいて、ほむらもいて、学校の皆も毎日勉強が面倒臭いって言いながら元気に過ごしてるのです。朝起きたら家族がおはようって言ってくれて、美味しいごはんが食べられて、みんなと遊んで、夜は街を護る為に戦って、ベッドですやすや気持ちよくお休み。これって悪いことなのですか?」

「悪い事じゃ、ない……けど、でも……っ」

「ねえ、さやか。ねえ。さやかは、嫌でしたか?」

 再度の問いかけに、さやかは答えられなかった。

 嫌では、なかった。全然嫌ではなかった。寧ろ好ましくさえあった。この世界でずっと生きていけたら、きっと幸せだろう。そう思えた。そうしたいとさえ思った。だが言えなかった。言ってはならなかった。他の誰がいいのだと言っても、さやかだけは言ってはいけなかった。それだけはできなかった。

「ふふふ。わかっているのですよ、さやか。楽しくて、幸せで、心地よくて、誰も不幸にならなくて、寧ろどうにかしてしまったら誰かが不幸になってしまう。それでも、さやかは耐えられないのですね。認めちゃいけないと思っているのですね」

 なぎさが笑う。

「だって、それは正しくない事だから」

 そうだ。円環の理を乱し、世界の秩序を破壊し、恣意のままに世界を塗り替える。そんなことが許されない。許されてはいけない。それは正しくない事なのだから。

「さやかも言っていたのです。本質は変わらない。さやかもそうなのですね。正しくないことを認められない。ふふ。本当に、さやかは変わらないのです。憐れなくらいに」

 

 

 

 

 

 

「さやか、ねえ、さやか。さやかは円環の理が、いいえ、まどかが正しい事をしたと思っているのです。全ての魔法少女を救い、自分は概念と化して因果から外れてしまう。まるで聖人君子なのです。さやかは自分の正しさを最後まで貫けなかった。だから、まどかを尊いものとして神格化してしまっているのです。当たり前にエゴイストで当たり前に考えなしな女の子の、身勝手な願いの果てがこの円環の理だというのに。

 確かに、みんなを救いたいというのは立派な事なのです。そのために身を捧げるなんて誰にでもできることじゃあないのです。

 でもね。でも、さやか。

 なぎさは救われたくなんてなかったのですよ。

 救ってほしいなんて言ったことなかったのですよ。

 なぎさは誰かに救ってもらわないといけない程、可愛そうな子だったのですか?

 なぎさは自分の絶望を、自分で受け入れちゃいけなかったのですか?

 なぎさは救われたくなんてなかった。

 願いを叶えたことも、間違った願いを祈ってしまったことも、失敗を嘆いたことも、絶望に沈んだことも、それは全部なぎさのものだったのです。全部全部、なぎさのものだったのです。

 でも、なぎさの絶望も後悔も、そして覚悟も決意も、何もかも何もかも、全てが全部、円環の理というクソッタレなエゴの塊に拾い上げられて、大変だったね、辛かったね、可愛そうだね、でももう大丈夫だよっていうふざけた馬鹿女に、全部全部台無しにされてしまったのです。

 そう、そうなのです、さやか。なぎさは、円環の理なんて、ずっとずっと大っ嫌いだったのですよ」

 

 

 

 

 

 

「あなたも、悪趣味ね」

「悪魔に言われるほどじゃないと思うのです」

 よく晴れた午後。涼しい風の吹く木陰で、二人の少女が語らっていた。

 一人はただの魔法少女で、一人は只者ではない悪魔だった。そして二人ともが恋する少女だった。

「一体あれの何処がいいのかしら」

「そっくりそのまま、まるっとお返ししたい所なのですけれど、そうですね、さやかの可愛い所は、正しさというもののの正しさを信じている所なのです」

「正しさというものの、正しさ?」

「ええ、ええ、そうなのです。まるで穢れを知らない白雪みたいに潔癖なさやかは、世の中には何か絶対的な正しさというものがあると信じているのです。正しいのだからそうするべきだと盲目的に信じて、正しさから外れる世の中に憤って、自分自身も正しくあろうとする。けれど正しくあろうとしても報われない事に疲弊し、報われるために正しくあろうとしている自分自身を汚らしく感じてしまうのです。そしてそんな自分を回復するために一層正しさというものに縋りつくのです。そんなもの最初から存在しないのに」

「報われないものね」

「そうなのです。今のこの世界の幸せの中にあっても、これは正しくないのではと常に悩んでしまうのです。本当に可愛そうな可愛いさやか。なぎさを責めようにも、なぎさが救われることを望んでいないと知って、絶対的に正しいと思っていた円環の理への信頼が揺らいで、何が正しいのかもうわからないでいるのです。正しさというものに囚われなければ、もっと楽に生きられるのに」

「そうなるように仕向けたのは貴女でしょうに」

「手伝ってくれたのはほむらなのです」

「手伝わせたのは貴女でしょうに。全く、つくづくあなたは魔法少女なんかにしておくのは惜しいわね」

「魔法少女も悪いものではないのですよ。少女より魔法少女を出し、魔法少女より絶望を出し、絶望より魔女を出す。魔女は幸福なり。もし浴する者あらば不幸皆除く。これぞ魔女の醍醐味なのです」

「やれやれ。手を貸した私が言うのもなんだけれど、美樹さやかも憐れなものね」

「救いに来て半裂きにされたまどか程じゃないのです」

 くすりと笑い声が重なった。

 

「「この悪魔め」」

 

 

 

 了。



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二人で読書するだけのお話(さやほむ)

 

 

 

 かたととん。かたととん。かたととん。

 寝惚けた昼下がりのことだ。間延びした陽射しはシェードに遮られ、車内は陽光に目を眇める必要のない日陰と、柔らかな蛍光灯による明るさという、現代文明の生み出す二者両立の快適な空間を築いていた。あとはこのどうしてまだ耐用年数を過ぎていないのか殆ど誰も知らないし説明のしようもないような古びた鈍行列車が、ちょっと気合を入れてクーラーを回復してくれれば最高だ。しかし今の所、このロートルは自分を引きずって線路の上をえっちらおっちら走るので手一杯のようだった。

 気休めの様に隅の方に置かれた扇風機が、首をふりふり生ぬるい空気をかき混ぜたが、涼しく感じるのは風の触れる一瞬だけで、あとはただただ耳障りなだけだった。

 そしてまた、大して客もいない各駅に停車する度に、アスファルトの上で良く良く熱せられた空気がじわじわと忍び込んでくるのも頂けなかった。

 特急に乗っていれば今頃はクーラーの良く利いた新品の車内で、ちんたら走る鉄の長虫とは大違いの快適快速の旅が楽しめた筈なのに。だがさやかはその件でほむらを責めることはできなかった。そしてほむらもまたさやかを責めることはできなかった。どうせ急ぐ旅でもないし、特急料金は節約して土産代の足しにし、今日日は寧ろ贅沢な部類に当たる、のんびりとした路線の旅を楽しもう。そんな呑気な旅程を組んだのは二人でだったし、お互いそれはそれで楽しみにしていたのだ。現地の魔法少女の要請を受けて遠征に行くのだという本来の目的でさえ、久方ぶりの遠出にはしゃぐ少女のこころには関係のない事だった。

 本当に、せめてクーラーさえ利いていればな、とさやかは嘆息した。

 そして気長な列車の旅を最も退屈なものに貶めるのは、同乗者が先程から没頭している一冊の本だ。文庫本だ。鞄に忍ばせて、すっと取り出して気軽に読めるサイズの小説だ。暁美ほむらは乗り込んでしばらくの、あの旅特有の奇妙な盛り上がりがゆっくりと落ち着いていくにつれて、読みかけの小説を取り出して読み始めたのだった。

「あのさあ。列車の旅ってこう……もっと車窓からの景色とかさ、そういう風情を楽しむもんじゃないの?」

「走り出してものの数分で飽きたのはあなたでしょ」

「いや、まあそうなんだけどさ。でも普段滅多にしない折角の旅行なんだしさ、こう、電車の中じゃなきゃできないようなこととか」

「電車の中での読書は、電車の中でしかできないわ」

「またそうやって屁理屈こねる」

「屁理屈じゃあないわ。読書にも風情はある。環境が読み心地に影響を与える。それに最近はゆっくり読書する暇も取れなかったのだもの。赤点だけは取れないって騒ぐ誰かさんのおかげで」

「その節はご迷惑おかけしましたっ」

 これだ。さやかが少し、ほんのすこうし構って欲しいなと声をかければ、にべもない。そりゃあ、まあ、言わんとすることは分かる。リズミカルな振動は心地よく、移動中の電車には無理難題を持ってくる忌々しいマスコットも来ない。長時間の拘束が前提なのだから読書するのに時間を気にしなくていいし、保温水筒に詰めた紅茶に、駅で買ってきた駅弁もあるのだから、大概のことでは席を離れなくていい。実に理想的な読書環境だ。

 だがさやかはその間一人ぼっちだ。トランプもウノも携帯チェスも、相手がいなきゃどうしようもない。せっかく珍しい事にほむらと二人で組んでの遠出なのに、これじゃああんまりだ。いつもより近い筈なのに、教室にいるときより遠く感じる。

 こうなったらもう、一人でエイトクイーンにでも挑んで暇潰ししようか。

 そんなことを考えながらの今日何度目かの溜息に、ついにほむらは折れた。ほむらなりの形で。

「はい」

「…………なにこれ」

「本よ。こう……紙の束に物語を印刷したもので、あ、印刷は分かるかしら」

「そういうことじゃなくって! 本くらい知ってるわ!」

「なら使い方くらいわかるでしょう。ああ、普段は枕か、早弁隠すのに使っているのだったかしら」

「読みますよ読めばいいんでしょ!」

 一々嫌味なしでは会話できないのかこの女は。涼しげに髪をかきあげる仕草に少しどきりとしながらも、差し出された文庫本を受け取る。

「いつもあなたの趣味に付き合っているのだもの。たまには私の趣味に付き合いなさい」

「ほむらだっていつも楽しんでなんでもないです黙って読みます」

 視線の圧力に負けて、仕方なくさやかは本を開いた。普段本を読むことが少ないものだから、あまり活字慣れしていないさやかは、とりあえず表紙を眺めてみた。カタカナの著者名からして、海外の作品の邦訳らしい。裏表紙の粗筋によればどうやらSFのようだ。

 ちらとほむらの読んでいる本に目を遣れば、そちらもSFらしい。背表紙から読み取ったタイトルは、鼠と竜のゲーム、とあった。なかなか興味深いタイトルだ。

「こっちは、断絶への航海、か」

 なんだか難しそうなタイトルだ。表紙に書かれた宇宙船の様なものからして、きっとこの航海と言うのは宇宙への旅の事を指しているのだろう。

 意を決してさやかは、つっかえつっかえ読み始めることにした。

 最初は読書とただそれ言うだけでなんとなくとっつき辛さを覚えていたが、色々と出てくる用語をしっかり理解しようとするのではなく、なんとなく雰囲気を理解しようという風に切り替えてしまえば、するするとはなしは呑み込めてきた。大事なのは電子情報将校とか低空飛翔型の遠隔操縦機とか超水源とか超排水孔とか、そういう単語は興味が出たら後で調べればいいのだ。大体どんな役回りで、どんな筋なのかがわかればいい。小説とはドラマなのだとさやかは理解した。

 もともと読書に慣れていないので、読み進む速度はあまり早くないが、さやかとしては自分でも驚くほどのペースでするすると読めた。SFというとなんとなく男の子と言うイメージだったのだが、人間ドラマと言う視点で見ればそこに男女の差異はない。作中に登場する地球人とケイロン人の価値観の違いがさやかを楽しませた。また軍人と民間人の違いが、男女の機微の違いが、また楽しませた。

 ある程度きりの良い所で一度手を止め、さやかはステンレスのカップに口をつけた。紅茶はすっかり冷めていて、少しの渋みが舌に残った。惑星ケイロンに紅茶畑はあるだろうかと、さやかはぼんやり考えた。あるなら、移住していいかもしれない。美味しい紅茶の飲める場所は、さやかにとって帰るべき場所だ。それは巴マミの家であり、魔法少女達の集いであり、そして気紛れに紅茶を淹れては、感想を聞くでもなく黙って寄越してくるほむらの隣だった。

 ちらとほむらに目を遣れば、熱心に本を覗き込んでいるところだった。

「それさ、読み終わったら感想教えてよ」

 鼠と竜のゲーム。やはり気になるタイトルに、そう声をかけてみたけれど、余程に熱中しているのか返事はなかった。まただ。さやかにはよくわからない機械を弄っていたり、どういう配合なのかさっぱりわからない薬品を調合している時、ほむらは大抵さやかの事など頭になく、返しても気のない生返事ばかりだ。

 肩をすくめて、さやかはメイフラワー二世の人々とケイロンの人々との奇妙に噛み合わない、けれど段々馴染つつある不思議な交流に意識を戻すのだった。さやかはさやかで、この宇宙のどこかで行われている人間ドラマに集中していて、意識はすっかり銀河の彼方だ。

 だからさやかは気付かない。

 ほむらの手元の文庫本は、先程から一ページも捲られていなくて、ヘレン・アメリカは故障した船の中で延々と同じ時を過ごしたまま、ミスター・グレイ=ノー=モアとの再会にあと一歩の所で届かない。

 ほむらの視線は同じ文字列を何度も辿り、それからちらと本の外へと視線を飛ばし、普段は見られない程に真剣な眼差しで文字列を辿る、伏し目がちなさやかの顔を息を潜めて見つめるのだった。そして息苦しくなって、かたととん、かたととん、リズミカルな電車の振動よりも鼓動が大きくなりかけると、その度に慌てて顔を伏せ、何処からだったろうかとまた同じ文字列を辿るのだった。

 ゆるゆると死にかけの扇風機が首を振り、温い風がページを揺らした。

「……あついわね」

「ん、そうだね」

 車内には局所的な温度差があった。

 

 



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幼児化した詢子ママを和子先生がだっこするだけの話

 学校の先生に憧れていた。

 子供たちを教え諭し、時には厳しく、時には優しく、その成長を見守り支える先生という仕事に憧れを抱いて、私は教壇を目指した。ドラマで見る様な大事件を華やかに解決したり、教え子たちと真正面からぶつかっていく熱血教師のような、派手なものでなくても良かった。ただ、子供たちが成長するその切欠となれればよかった。その支えとなれればよかった。自分一人ではきっと思いも寄らなかっただろう溢れんばかりの希望と可能性が、大きく花開いていく姿を見守りたかった。記憶に残らなくても良かった。ただふとした時にあんな先生がいたなと思いだしてくれればそれでよかった。忘れかけた頃にふと足を運んで、通り過ぎる様な挨拶でも交わせればなおよかった。

 そういう先生というものになりたかった。

 しかしそんなロマンティックな夢は、給料も安いし腰も痛くなる実際の教師生活と、動物卒業後すぐの半人間もとい思春期に悩む生徒達と向き合う日々とに摩耗し、少しでも油断すればモンスターペアレントがポップするダンジョンアンドクレーマーズから逃げ出したくなるようなときさえあった。

 それでも私は耐えた。

 自分を頼る生徒達の信頼が一つでもある限り私はそれに応えたいと思ったし、無限に広がる可能性へとおずおずと翼を広げようとしている雛鳥たちを支えたかった。そして何より結婚を見据えた交際も捗々しくなく貯蓄も心許なく転職先の便りもないので辞めようがなかった。

 しかし今日という今日はさしもの私も心が折れそうだった。

 授業を終えた放課後、部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が遠く校庭に響くのをぼんやりと聞きながら、私は言葉を纏めようと試みた。しかし手を伸ばせば伸ばすほど、言葉はほろほろと崩れて形にならない。

「あのね、鹿目さん」

「はい」

 素直な返事。

 まだ大分子供っぽい容姿をした受け持ちの生徒は、しかしどこか親譲りの頑固さを思わせる意志の強さを目に宿している、ように思えた。

 鹿目まどか。

 私の旧友である鹿目詢子の娘は、本当に素直で愛らしく育った。暫くアメリカで暮らしていたから、まだ色々と日本での生活には不慣れな所もあるけれど、控えめな振る舞いと言い花の綻ぶ様に笑う様と言い、とても海外で育ったとは思えなかった。ずっとこの小さな島国で育ち、この見滝原の風に吹かれて育ったような、そんな風にさえ思える。

 しかしそんなささやかな疑問はすぐにほろほろと崩れ、目下の問題に私の思考は向けられ、そしてやっぱり崩れた。

 現実から逃れる様にそっと目を遣った窓の向こうでは、野球部の生徒が青春に汗を流しながら青春を燃やして校庭をランニングしている。あそこで費やされる青春のエネルギーがきちんと将来に昇華するのは果たして何人くらいだろうかと酷薄に考えてしまい、頭を振る。

 いま私が考えなければいけないのは、目の前の少女の将来、の筈なのだ。本来。

 一学期末。夏休み前に設けた三者面談の席で、私はクーラーの良く利いた教室でかいてもない汗をぬぐった。

「あのね、鹿目さん」

「はい」

 間抜けにも繰り返した呼びかけに、まどかちゃんは律儀に返事を返してくれた。

 私はその素直な視線に負ける様に再び視線を逸らし、そして逸らした先で目下の問題と目があった。

「あのね、鹿目さん」

 三度目の呼びかけに続けて、私はついに言葉をまとめた。

「学校に子供を連れてくるのはどうかなって、先生思います」

 子供である。

 私とばっちり視線が合ってしまった、まだ小さな子供。中学生用の椅子に腰掛けて、それでも大きすぎるものだから足をプラプラと揺らしている幼い子供。見た所、まだ小学校に就学する前の子供に見える。勝気そうな目に、これから健やかに育つことを予見させるふっくらと柔らかそうな頬。退屈そうに足を揺らす様は何とも愛らしくさえある。

 私も人間だ。子供は愛らしく思うし、何もしていない子供を憎たらしく思ったりはしない。しかし、それはそれとしてここは学校で私は先生で今は三者面談の時間だ。そこにどうして子どもを連れてくるのか。鹿目家にこの位の年頃の娘はいなかったはずなので、親戚の子供でも預かっているのだろうか。いやそれだってこの場に、いやそもそも学校に連れて来る必要など、

「母です」

 捲し立てたくなるのを堪えて言葉を選んでいると、思考を叩っ切るようにまどかちゃんが何でもない事の様に問題発言をしてくる。

「……何が?」

「こちらが。母です」

「…………私、鹿目さんのお母さんとは昔からのお友達なのだけれど」

「まま、いえ母から聞いています。なので連れてきました」

「……その子供を?」

「母です」

 頭がおかしくなりそうだった。或いは既におかしくなっているのだろうか。それともおかしいのはこの娘だろうか。困ったように微笑みながら、しかしそれでも全く平静としては母ですと繰り返すまどかちゃんの目つきは、少なくとも正気であるように思われた。というよりそう信じたかった。教え子がトチ狂った時の対処法なんて和子マニュアルにはない。

 頭を抱える私に、まどかちゃんは退屈そうな子供の頭を撫でてやりながら、暇を持て余した白痴の神々がダイスロールで適当に組んだシナリオのような説明をしてくれた。

「母が急に子供になってしまいまして」

「待っ……いえ、続けて」

「今朝起きたらこんなに小っちゃくなってまして。お仕事は有給がたくさん残ってたのでなんとかなったんですけど、ぱぱ、じゃなくて父がオジサン呼ばわりされてショックで寝込んじゃって、私一人でおうちのことも、たっくんのお世話もしないとでもう大変なんです」

 両親が旅行で出掛けちゃって自炊しないといけないんです、などと言った軽い調子でなかなか頭がおかしくなりそうな事を言ってくる。

「詢子ちゃんのお世話も見たいんですけど私一人じゃ手が回らないし、パパが現実逃避から帰ってこれないので、出来れば余所で誰かいないかなと思って、そしたら先生がママの友達だってこと思い出して、連れてきちゃいました」

 きちゃいました、じゃない。

 可愛らしくはあるが、同時に憎たらしくもある。

「ほら、詢子ちゃん、和子お姉ちゃんですよー」

「んー、カズコぉー」

 舌足らずに呼んでくる声に現実逃避しかけた脳が思わずほっこりしていると、流石は詢子の娘、まどかちゃんは油断ならない。気付けば膝の上に預けられ、子供体温とふにゃふにゃした小さい身体をどう支えたものかとあたふたしている内に席を立たれた。

「母も困ったら先生に頼るように言ってましたし、お願いしますね」

 ぱたんと戸の閉じられる音を聞きながら、私は膝の上のぬくもりにげんなりと顔をうずめた。やられた。置いて行かれた。あの与太話を信じる信じないは別として、子供を独り押し付けられた。流石に今から追いかけて無理だ駄目だ返すと言っても後の祭りだし、この子供も悲しい思いをすることだろう。くそう。ああ見えて詢子の娘か。鹿目家が今日の三者面談最後の組で良かった。いやそれすらも計算の内か。ああ、頭が痛い。お腹も痛い。内申書には腹が立つほどしっかりしたお子さんですと書いてやろう。

 しかし、とにかく、何はともあれ。

「……えっと。よろしく、詢子ちゃん」

「あーい」

 直視し難い現実を受け入れるコツは、すべて受け入れる事でもすべて拒むことでもない。半分受け入れて半分目を逸らす事だ。私は面倒な事を全て放り投げて、小さくなった詢子を、親戚の子供でも預かったようなつもりで引き受けたのだった。

 しかし、引き受けたはいいがちょっと考え無しが過ぎた。

 早々と後始末を終えて、小さな詢子を連れて家に帰ってきたはいいが、何しろ私は独身の独り暮らしだ。出勤するときこそ生徒の目もあるし、お手本足らんとしてきちんとした身なりをしているが、家ではずぼらなものだ。自炊など暫くしていないし、冷蔵庫の中身はビールと何時の物か覚えていないおつまみのチーズが少しだけ。そしてお腹を空かせた子供と大人が一匹ずつ。

「……詢子ちゃん、お寿司好き?」

「おすし! すき!」

 出前のチラシばかりは豊富だった。

 こうなればもうやけくそだった。私はチラシの中で一等高い桶を注文し、ファンシーなキャラクターものの子供寿司を頼み、アイスも付けた。届いた寿司を受け取り、少し迷って、ビールを一缶手に取った。

 私は詢子を膝に乗せて、片手でビールのプルタブを開けると、詢子に持たせたプラスチックのコップにジュースを注いでやった。くぴくぴと愛らしく喉を鳴らす様を見下ろしながら、今日はやけに苦く感じるビールを呷り、景気づけ。あとはもう自棄も自棄だ。詢子が欲しいという寿司を取っては口に運んでやり、時折ぷっくりした唇や桜貝を削って作ったような小さな歯に指先を捕えられては、玩具みたいな体を擽っては報いを与えた。口に含み切れずにぽろぽろと零せば甲斐甲斐しく拭いてやり、美味しいからと小さな手で差し出された寿司は恭しく頂戴した。

 詢子は余所の家だというのに実に図々しいもので子供らしく子供らしさを発揮し、終いには私をママ呼ばわりまでしはじめた。あんたみたいにでかい子持った覚えはないと言いたいところだったが、なにしろもう一回り大きな子供の面倒を毎日見ている身分だ。それに週末ともなればバーで34歳のでかい子供の愚痴に付き合うのが恒例となればもうママでいい気がしてきた。

 気づけばビールの空き缶は増え、酔いきれぬまま現実逃避だけは成し遂げて、私は賑やかな夕食を終えて、片付けもそこそこに二人して倒れ込むようにベッドに横になった。

 そんな有様だったから、カーテンから差し込む払暁の光に目をさまし、空っぽのベッドを這い出て綺麗に片付いたリビングを発見した時は、あれは夢だったのだろうかと不思議な気分だった。

 熱いシャワーを浴びて、化粧をし、身なりを整えて家を出ると、玄関先に寿司桶が回収を待つように鎮座していた。一番お高い桶だった。

 昨夜のビールによってもたらされた軽い頭痛を引きずるように駐車場に向かうと、朝日に照らされた真紅のロードスターがやんちゃ止めしていた。真っ赤なコブラなどと言う目に痛い代物を乗り回せるのは、人類最強を除けば見滝原では一人しか心当たりがなかった。

「おはよ」

「……おはよう」

「なに。二日酔い?」

「コンビニ寄って」

「仰せのままに」

 環境と頭痛に悪い排気をかまして、鹿目詢子のコブラは滑らかに走り出した。

 早朝の風煌めく見滝原の景色にまじる違和感に、眼鏡を外して日に翳すと、小さな指紋がべったりついている。クロスファイバーの眼鏡ふきを取り出して磨きながら、私は欠伸交じりに呟いた。

「ねえ詢子」

「なにさ和子」

「お寿司美味しかった?」

「コーンの軍艦って意外と美味いのな」

「あとで請求するからね詢子ちゃん」

「マジかよママ」

 ロードスターは軽やかに、ファビュラスな夢の続きを駆け抜けた。



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ほむあんがトマトラーメン食ってる話

「おい、ラーメン食わねえか」

 水曜日はどうでしょう。

 日曜日の朝っぱらから安アパートの薄いドアをノックすることもなく、フィジカル・アンチロックドブレードでこじ開けて押し入ってきたヤクザシスターに対して、寝ぼけた頭が絞り出せたのはそんないまいちパッと来ない文句だった。

「らー、え、なに? 何時いま?」

「ラーメンだよラーメン。ラーメン食いに行こうぜ」

「馬鹿なの?」

「佐倉だよ」

 なんだこの早起き魔法少女事件。

 頭が痛い。時計を見てみれば時刻は七時だった。朝の七時だった。平日に起きる時間としては間違っていないが今日は日曜日だ。六日間頑張った『私はある』という人が自分へのご褒美に制定した人類の休日であり、自分が休みたいが為に世間まるごと休日に指定した安息日なのだ。その上私はつい先程までケミカルなパウダーの調合に勤しんでやっと寝入った所だったのだ。まさに今しがた寝入った所だったのだ。これを妨害されるという事がどれほど辛いことか。ようやく冷めきった布団に体温が馴染んできたところだったというのに。

「大丈夫だ」

「何がよ」

「あたしは寝てないからな!」

「寝ろ」

「だが寝ないね! 何しろ一周回って目が冴えてきたからな!」

「ダメだわ……これはダメね」

 大方サタデーナイトフィーバーで一晩中魔獣を追っかけまわしていたか、もしくは狂気の沙汰デーナイトフィーバーで一晩中魔獣に追っかけまわされていたかだろう。それで目も冴えているし腹が減ったから、気軽に飯を食いに行ける相手を求めてやってきたと、まあそんなところだろう。巴マミは女子力が高いのでお店を評価するときには必ずお洒落か否かを気にするし、女子力の低い美樹さやかは人目も気にせず大声で店の文句を言うので地雷臭がする。ではまどかならどうかというと、言う程接点がない、言うなれば友達の友達ポジションで、気軽に飯食いに行こうぜと声をかけるのは憚られたのだろう。杏子はなんだかんだそういう面倒臭いもとい繊細な所がある。

 こうなるともう手が付けられない。

 人を24時間営業のコンビニエンスな女と思ってるんじゃなかろうかこの女。大体なんでいつもいつも私なのだ。地雷臭で言ったら私が一番地雷ではないか。思いつめた挙句に時を超えた粘着ストーカー周回プレイを繰り返し約束一つを胸に見返りもないのに色々と取り返しのつかない地雷原を駆け抜けてきたような女だ。私なら控えめに言ってノーセンキュー。出来る事なら同じクラスに居ても話しかけたくないタイプだ。あれ。なんだろう。悲しくなってきた。

「おい早く準備しろよ。減ってるんだよ。腹が」

「減ってるのは脳細胞よ」

「良質なアミノ酸が要るな」

「まず寝なさいよ……」

 仕方がない。

 ウザったい絡みに段々苛ついてきたし、眠気も薄れてきてしまった。布団も冷めてしまっただろう。私は仕方がなく杏子に少し待つように告げて引っ込んだ。さらば寝間着。正味二十分ほどの付き合いだったけれど。

 

 

 

 

 

 

「はあ? トマトラーメン?」

「おまえほんとその嫌そうな顔並ぶ者がいねえな」

「嬉しくないわ。それで、え? なんですって? トマト? ラーメンに?」

「おう」

「馬鹿なの?」

「まあ、まあまあまあ、待てよ。おい待てったら。食えばわかるって」

「なによ。美味しいの?」

「知らん」

「はあ?」

「おまえほんとその嫌そうな顔並ぶ者がいねえな」

「あなた食べたこともないもの食べに行くのにこんな朝っぱらから人を誘いに来たの?」

「はっはっは」

「はっはっはァ?」

「お前を笑いに来た、って待て待て待て小指は止めろ」

「ちょっと捩じ切るだけよ」

「お前のちょっとシビアだなオイ。まあ待て。お前この店いつできたか知ってるか」

「知らないわよ」

「あたしも知らない。いつの間にかできてた。そしていつの間にか食ってきたって奴が増えてるんだ」

「なによそれ。何処情報」

「クラスの連中がさァ、最近トマトラーメン食べたんだけど佐倉さんはァって言ってくるんだよ」

「貴女のクラスだけじゃないの。私は言われたことないわよ」

「そりゃ、ほむらはそもそもクラスの奴に話しかけられ、あ、いや、なんでもない。なんでも」

「中途半端に気を遣ってんじゃないわよ!」

 

 

 

 

 

 

 杏子に連れられてしぶしぶと入った店は、どうもラーメン屋という風情ではなかった。

 いつも杏子が連れて行くラーメン屋と言えば大抵、殆ど趣味でやってるんじゃないかという寂れ具合で、テーブルがどこか油でぺとついたようで、店主はあいよとほれよの二語しかしゃべらないような無愛想で、そして食べ始めてから食べ終えるまで一言も発せずに済むようなそんなラーメンを出すのだった。

 この店はそうではなかった。まず入り口のガラス戸からして綺麗だ。ヤニで曇ってもいないし、油でぺとついてもいない。洒落たポップボードなんか置いてある。そして店内。なんだこれは。如何にも新規開店ですと言わんばかりに清潔なばかりか、こじゃれたログハウス風の内装に、洋物の小物が並んでいる。それイケアで買ってきたのと聞きたくなるような椅子じゃあないか。

 店員も愛想のいいお姉さんで、早朝で客も少ないだろうに既に支度は十分と言わんばかりに気力に満ちていて、いそいそと席に案内して、これまたこじゃれたグラスにお冷を注いでくれる。

 さて、さて、さて。

 席についてメニューを眺めてみるとますますおかしい。

 売りであるトマトラーメンとやらの写真が載っているのだが、成程、スープが赤い。まるで坦々湯麺だ。しかしトッピングに半熟煮卵やチャーシューと言った見慣れた面子に並んでチーズやらバターやらが並んでいるのを見ると頭がおかしくなりそうだった。ラーメンにチーズ? ここは日本じゃないの?

 トマトはまだギリギリわかる。ヘルシー野菜ラーメンの勢いだ。だがチーズ。こいつは面白くなってきた、と杏子なら言う所だろう。

「こいつは面白くなってきた」

 外さない芸人か。

 杏子も私も、第一印象でぱっと決めた。初めての店で初めての料理だ。うだうだと考えてもらちが明かない。店の売りに、自分の好みをそっと添える。その位でいい。

 私はトマトラーメンに追加チーズのトッピングを決めてみた。あえてこんなトッピングを堂々と載せているのだ。その挑戦は買おう。

 杏子はトマトラーメン大盛りに、チーズと煮卵、それにチャーシューも追加した。更にライスも。朝からよく食べることだ。その上餃子まで頼んでいる。

 お冷を半分ほどちまりちまりとあけたころ、まず餃子がやってきた。五個入り。味は可もなく、不可もない。良くあるラーメン屋の餃子だ。安牌だ。注文する前は頼んでおこうかなと軽い気持ちだが、一つ食べると、なんか割高だったかなと感じる例のあいつだ。

 この餃子は特に面白味はなかったが、問題は並ぶ調味料だった。

 餃子タレ、ラー油、ニンニク、胡椒、そしてタバスコ。

「タバスコ?」

「使う?」

「……後で使うかもしれねえ。生かしておこう」

「そうね」

 そしてやってきた。

 トマトラーメンだ。

 スープは濁った赤色で、ホウレンソウが鮮やかな緑を浮かべている。そこに生白い麺がなんだか艶めかしく見え隠れしている。

 私はこれを前に少しうっとした。

 というのも、トッピングのチーズが思いの外多かったからだ。写真で見たレギュラーの物は、粉チーズがかかっているのかなという程度だったが、これには粉チーズの小山が出来ている。スープに接した部分からじわりじわりととろけだしていて、如何にもチーズというチーズだ。

 隣を見ればもっと酷い光景だ。私のより一回り大きな丼にたっぷりのラーメン。半分に切った煮卵がとろりと赤く輝く半熟の黄身を、いまにもスープに溶け出させようとするように身を投げ出している。そしてチャーシューは、どうも豚ではなく鶏のようなのだが、これがまた惜しげもなく焦げ目の付いた白い肌を扇状に並べている。そしてやはりチーズの小山だ。

 早速嬉々として箸をつけ始めた杏子を尻目に、私も食べ始める。

 まずは蓮華を手に取り、スープだ。思った通り見た通り、かなり濃い目だ。やはり、坦々湯麺に近い印象。しかし飲んでみると印象は全く違う。見た目はすっかり濁っているし濃いめだが、味はさっぱりとしている。トマトの色だから当然トマトの味なのだが、これが悪くない。安いミネストローネや缶のスープなんかは大分薄く感じるが、このスープはトマトが濃い。トマトの酸味や甘みを薄っぺらに出してくるようなことはなく、裏ごししたトマトを煮詰めてスープでのばしましたといった具合に濃厚なうまみがある。

 麺を箸で取ってみると、なんだか白いと思っていた麺にぶつぶつと黒っぽく何かが練り込まれている。なんだろうとメニューを見てみると、何とバジルを練り込んでいるという。私としてはトマトにはオレガノだと思うが、しかしバジルも悪くない。実際に麺を啜ってみると、そこまでバジルを感じないが、なに、ジェノベーゼを食べようというのではない。こんなものだろう。全体の邪魔もしない。

 少し食べ進めて、勇気を出してえいやっとチーズを混ぜ込んでみる。あっという間に赤いスープに白い濁りが混ざり込む。どろっととろける程ではないが、程よく溶けて麺に絡んでくる。少し重たくなった麺を、跳ねないように気を付けながら啜ってみると、味がひとつ変わった。先程のトマトラーメンが重みのある長剣で殴りつけてくるとしたら、今度はフルプレートアーマーを着込んで体重をかけて殴りつけてきた。パワーだ。チーズの持つ旨味と香りが、先程のトマトの旨味を殺すことなく、まるまる乗っかって殴りかかってくる。ちょっとヘヴィなくらいだ。最初からこの調子だったら、途中で飽きが来たかもしれない。加減が難しい。トマトの酸味が、負けてきている。

 舌が重たくなってきて、軽く髪をかきあげてお冷を口にすると、隣で杏子がごそごそ何やらやっている。何かと思えば、ラーメンに何かかけている。赤い、細長い瓶。タバスコだ。

「……成程、ね」

 ここでタバスコが生きてくるわけだ。

 杏子がたっぷりとかけ終えた瓶を掠め取り、チーズがとろりと絡んだ麺に慎重に振り掛ける。見極めが肝心だ。多すぎれば、台無しになる。程よい具合にタバスコをかけ、軽く混ぜて、一息に啜る。

「……ほふっ」

 タバスコ、やるじゃない。

 タバスコの本領は、辛味よりむしろそれと合わさってやってくる酸味にあると思う。ただ辛いのではない。さっぱりとくる。タバスコの辛味によって味がひとつ開き、そして酸味によってチーズとトマトで広がりきった旨味を爽やかに締めてくれる。

 三段階の味の変化は悪くない。

 ぞろぞろと止まることなく麺を啜ってしまう。スープも飲み干してしまえそうだったが、そうするとチーズが重い。チーズがなければ、なにしろトマトのスープだ。さっぱりと飲み干せたかもしれない。しかしやはり、チーズは重い。ちょっと先走ったかもしれない。だが悪くなかった。それが答えだ。

 私が満足してお冷を呑み干していると、不思議な事に気づいた。

 杏子のライスが減っていないのである。

 炭水化物と炭水化物の組み合わせを何よりも愛する、パンは主の肉でコメは主食と言い張る杏子が、なぜかラーメンは美味しそうに食べながらもライスが一切減っていないのである。これは奇妙だった。焼肉屋に行って肉より米を多く消費する人種の杏子が、米を食べていない。ある種異様な光景だった。

 しかしその答えもすぐに知れた。

 大盛りなのに私と大差ない時間内で麺を啜り終えた杏子は、そのままスープも飲み干すかと思いきや、なんとそこにライスを投入したのである。

「!?」

「おー、なんか本当にリゾットっぽいな」

「リゾッ……ト……?」

 メニューを見てみればなるほど、食べ終えた後にライスを投入してリゾット風に楽しめますとある。チーズトッピングでよりそれらしくとも。見通していた。私としたことが。

 ライスがトマトのスープをたっぷりと吸ってふっくら膨らみ、とろりととろけるチーズをまぶされ、杏子の口へと消えていく。

 しまった。私も頼めばよかった。しかし今更隣で食べているのを見て欲しがるなんて言うのもなんだか卑しい感じがする。それに徹夜明けの朝っぱらで、いまいち腹が空いていた訳でもないのだ。

「……リゾットっぽいかしら?」

「っぽいな。ぽい。悪くねえ。ところでピラフとリゾットの違いって何?」

「炊き込みご飯とおじやみたいなものよ」

 結局ライスは頼んだ。

 

 

 

 

 

 

 結局スープまで平らげ、支払いを終えて店を出ると、朝日はすっかり通常営業を始め、街もすっかり目覚めて動き始めていた。

 そしてお腹が一杯になった私は猛烈に眠くなってきていた。ライスをおかわりしてスープが足りなくなったこの馬鹿もそうらしい。

「悪くなかったろ?」

「そうね。でも」

「でも?」

「ラーメン食べてる感じじゃあなかったわね」

Amen.(それな)

 イタリアンな朝食を済ませ、私たちは安アパートに辿り着くなり冷めた布団に縺れるように倒れ込んだのだった。

 寝息はチーズとトマトの香りがした。

 

 



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ほむあんがうどん食うだけのお話

「うどんってお前」

 魔獣退治ですっかり疲れて、胃袋が勤労意欲たっぷりにスタンバイし始めているというのに、あたしは何の因果かうどん屋なんかの前にいた。繁華街の中程に暖簾を出した小さな店で、カウンター式の席数は二十あるかないかと言う位だったが、時間帯が半端だったからか、入れ違いでおばさんが出て行っただけで、他に客の姿はなかった。

 我が物顔で真ん中あたりの席を取るほむらの隣に渋々と腰をおろし、ぼやくように言ってやれば、じろりと性格の悪そうな目で睨まれる。

「この前日曜の朝っぱらからラーメンに付き合わせたの誰だったかしら」

「あたし」

「そうね」

「すげえいいことした」

「はあ?」

 本当にこいつは嫌そうな顔をさせたら並ぶ者がいない。

「うまかったろ」

「…………はぁーあ」

 これ見よがしに鉛みたいな溜息を吐いて、小さく肩をすくめてそっぽを向くほむら。

 いつもそんな風にとことん気が合わないと言う様に空気の悪い奴だが、結局何だかんだこうしてつるんでいることが多いのだから、こいつはさぞかし友達がいないのだろう。転校してきたばかりのあたしでさえクラスメイトと放課後にバーガー齧ったりしてるのに、その間こいつが何してるのかって言えば、鉄砲と火薬と爆弾と、あたしにはよくわからない機械の類をいじりながら味も素っ気もないブロックを齧ってるのだ。

 勿論お前友達居ないだろなんて正面から言えばただでさえ気位の高い野良猫みたいなほむらがすっかりへそを曲げてしまうのはわかっているから、幾らデリカシーに欠けると言われるあたしだって真っ直ぐ指摘なんかしない。

 でもあたしはそういうお前の可哀そうな所知ってるんだからなとそっと微笑んでやるだけだ。

「なに? 死にたいの?」

「お前ほんと嫌そうな顔させたら並ぶ者ないな」

 しかしほむらが可愛そうなやつで、こころの広いあたしが付き合ってやっているのは半ば義務みたいなもんだとしても、だからってうどんはどうかと思う。

 別にうどんを馬鹿にする訳じゃあない。嫌いじゃない。

 でも走り回って暴れ回って、あー疲れたー腹減ったーって時にがーっと腹に詰め込みたいものかって言えば違うんじゃなかろうか。

 あたしはてっきりラーメンでもと思っていた。

 馴染の、殆ど趣味でやってるんじゃないかっていうぼろいラーメン屋でもいいし、昨日出来ては明日潰れている様な新規ラーメン屋のどれかを開拓してみるってのも手だった。前から見かけてるんだけど行ったことはないんだよなって店を発掘するのだって悪くない。

 それですっかりラーメンの舌になっていた所に、ほむらが連れてきたのがこのうどん屋だった。

「毎度毎度あなたに付き合わされて化学調味料の固まり食べさせられてる身にもなりなさいよ」

「餓えた者にあなたのパンを分け与えよ、だ」

「人はジャンクフードのみに生きるに非ずよ」

「そうだな。信仰と感謝とカネ。で、メシだ」

「…………はぁーあ」

 愛嬌のあるおばちゃんにほむらがむっつりとうどんを頼むので、あたしは深く考えずに大盛りを頼んだ。せめて量は欲しかった。

 おばちゃんは麺をゆでながら、御盆に何やら準備を始めた。漬物に、薬味皿にたっぷりの刻んだ浅葱、それにごっとりとワサビ。それに、生卵。

「……なァんだこりゃ」

「こうするのよ」

 見ていると、ほむらは生卵を割って溶き、そこに薬味を全部放り込んだ。たっぷりの浅葱もごっとりのワサビも全部だ。おいおい、と思って見ていると、ワサビがきっちりとけるようにしっかり混ぜている。

 そばにワサビがついてくるのはわかる。だがうどんで、しかも溶き卵に混ぜ込むというのは初めて見た。しかしいいのか。ワサビってのはこう、あんまり溶け込ませないでつんと爽やかな辛味を楽しむもんなんじゃないのか。わからん。こういう手合いは、馴染がない。

 しかし見ていたって仕方がないので同じようにしてみるかと盆を見ると、卵が二つ。大盛りだからか。

 ちゃかちゃかと卵にワサビを溶いていると、おばちゃんが茹で上がったうどんを持ってくる。細目だが、なんだかかまたまみたいだ。丼にあんまりたっぷり持ってくるものだから、幾ら大盛りでも大概だろうと目を剥くと、ほむらが意地悪げに笑う。

「下にザルが敷いてあるの。底上げしてるから、あなたが期待するほど多くはないわ」

「へん、こんくらい屁でもねえや」

 ちょっと驚いたが、まあ所詮うどんだ。食いきれないってことはない。

 さてどう食ったものかと見ていると、おばちゃんが御燗よろしく湯煎に突っ込んでいた徳利を寄越してくれる。

「熱いから、おしぼりでもってね」

「うン、あんがと」

 受け取ると、確かに熱い。つけうどんだが、ツユがあったかいのはこれもはじめてだ。うどんといえばざるうどんかキツネうどんか、そんなイメージしかない。

 ほむらの真似をするように、さっき溶いた卵にとっとっと、と八分目くらい注いで、ざっくり混ぜる。卵が固まる程には熱くないが、さっと上る湯気がにくい。たっぷりの黄色い溶き卵に、緑の浅葱、溶けて見えないワサビ、そして黒々したツユ。混ざり合って何だか不思議だ。みょうてけりんだ。

 もうほむらの見様見真似なんざ待ってられないと、がばりとうどんを取ってツユにつけ、啜り、そして盛大にむせた。何しろ、熱い。茹でたての上に湯にひたしてあるし、ツユだってあったかいのだ。それでも何とか飲み下すと今度は喉が熱い。慌ててお冷をぐいっと干せば、喉から押し下がって今度は腹が熱い。だがそれでも何とか一息ついた。

 隣を見れば馬鹿の相手はしていられないわとばかりにつんと澄ましてつるつるとうどんを啜っている。畜生め。すまし顔の癖に、何だかうまそうだ。

 考えてみれば普段食べてるラーメンだって熱いのだ。細目ったってこんなに太いうどんが、アツアツの状態で待ち構えているのだ。考え無しに一気に啜ったら、そりゃあ熱い。

 ちょいと癪だがちまりとつまみ、ツユにひたしてつるつると啜る。さっきは熱くて熱くて味なんてわかりゃあしなかったけれど、しっかり味わってむぐむぐ食べてみると、なんだか不思議な味だった。初めて食う味だ。

 うどんと言やあ、出汁が命だ。言うなれば出汁の香りばかりで食うものと思っていた。だがこいつはどうにも違う。そりゃあ、ツユは出汁も利いている。しかし卵の存在がある。何しろ半分くらいは卵だ。月見そばの卵を崩した時の感じってんでもないし、すき焼きの溶き卵ってんでもない。卵が綺麗に絡まって味が丸く落ち着いてる。でも生卵だけ食べた時の鼻水でも啜ってんのかっていう感じじゃあない。卵かけご飯の醤油の利いた感じでもない。きっちりツユと綺麗に割り合って、いい具合に腰を落ち着けてる。

 いいじゃないか、とつるつる啜りきった所で、鼻を通ってぎゅっと仕掛けてきたのがワサビだった。卵とツユのまあるいコラボレーションの、うまいはうまいけどちょっと弱いかなってところに、ごっとり溶かしたワサビが駆け抜ける。駆け抜けるが、残らない。

「ほうっ」

 すっと爽やかな辛味が抜けるけど、涙が出る程じゃあない。成程、しっかり溶かせというのはこういうことだ。塊があると、つっかかる辛さになっただろう。しっかり溶かしてまんべんなくワサビが広がったおかげで、丸みの中に程よくつんと利いてくる。もしワサビが無かったら、片手落ちだ。

 しゃきしゃくと歯茎に気持ちいい浅葱の触感も飽きさせない良いアクセントだ。真っ白いうどんの麺に、卵の黄色とこの浅葱の緑がちらほらと絡んでいるのは、目にも鮮やかで楽しませてくれる。シンプルな彩だが、鮮烈だ。

 なんてことをあたしがゆっくり考えながら食ってたかっていうとそんなことはなくて、ずる、ずるずるる、ぞろろろろーっと、水木しげるの描きそうな勢いで麺をたぐっては啜ってたぐっては啜ってと休む暇がなかった。

 もしかしたら途中で飽きちまうんじゃないかと心配なくらいたっぷりと盛られたうどんだったけれど、底上げのざるが見えてくる頃には、アアッ、もう終わりなのかと物足りなささえ覚える位だった。

 すっかりうどんを啜り終えた頃には、ああ、食べ終えちまったという不思議な感覚だった。ザルをひっくり返して下にまだ隠れていないかと探した位だ。

 そうしていると、別にゆっくり食べていた訳でもないほむらがようやく食べ終えて、箸を置いた。

 なんだかちょっと物足りないけど、出るか、と財布を取り出そうとすると、おばちゃんが湯煎から取り上げた大きな徳利を寄越してくる。

 何だこりゃ、と思っていると、ほむらがそいつをツユ入り溶き卵にとぷとぷ注いでいくじゃあないか。

「釜湯よ」

「釜湯だぁ?」

 どうやら蕎麦湯みたいなものであるらしい。蕎麦湯はまあ、蕎麦が溶け出るのはわかる。しかしうどんゆでたって小麦だけだろう。何の意味があるんだ。しかしまあ、出してくれるんなら貰おう、その位のつもりで同じ様にとぷとぷ注いで、締めにと思って一口啜ってみる。

「おっ」

 その一口がはじける。

 そりゃそうだ。卵にツユにこの釜湯にと大分薄められてはいるが、ごっとりワサビを溶かしているのだ。それがまた上手いこと呑めるくらいに調節されて、ほっとする温度で出されるんだからたまらない。こくりこくりと何回かに分けて飲み干し、けぷりと小さくげっぷをもらすと、ワサビがつんと鼻を過ぎ去った。

 何時ものラーメンよりひょっとすると安い位の会計を済ませ、ほむらと連れ立って店を出ると、二月の冷たい風が頬を撫でた。だがうどんで暖まったからだにはちっともこたえない。

「たまにはこういうのもいいでしょう?」

「そうだな。たまにはな。なあおい、腹ごなしに少し歩こうぜ」

「帰って寝ないの?」

「そんなに眠くないんだ。変だな」

「ラーメンをお腹一杯に詰め込むから、いつも眠くなるのよ」

「そんなもんかね」

「そんなものよ」

 訳知り顔でするりと歩き出すほむらについて、あたしも繁華街をのんびり歩きだす。

 普段より何だかほむらの黒髪が弾むように見えるのは、きっとうどんが思いの外に美味かったからだろう。

 

 

 

「おい、あれうまそうだな。買ってこうぜ、たこ焼き」

「まだ食べるの?」

「歩いたら腹減った」

「…………はぁーあ」



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レビ記に曰く(ほむあん)

 都会っ子であるという程、都会を満喫してきた人生ではなかった。

 暁美ほむらが生きてきた都会というものは、つまるところ最新の医療機器に囲まれた病室の中か、いずれ崩壊することが確定している爆薬の設置場所でしかなかった。人間性をすり減らしながら相当長いことやってきたのは確かな話だったが、それは言うならばゲームの最初のステージの結末を認められないまま延々と繰り返してきただけに過ぎず、まともな人間生活ですらビギナーでしかないほむらにとって都会というものはまだまだ不明な点の多い概念だった。

 それでも、少なくとも都市部の人間であるという自負はあった。自負というには余りに感傷のない事実認識に過ぎないが、少なくとも最低限度より大分文化的で現代的な生活を送ってきた。

 だから救援を求められて遥々長野の畑しかないような山奥くんだりまで遠征に出てくるにあたっては、かなりの不便を覚悟してきた。

 実際のところその覚悟は殆ど杞憂に終わり、コンビニもあればWiFiも通じるし、精々バスが少ないので足に困るといった程度で、それさえも駅まで車で迎えに来てもらったので何ということはなかった。

 暮らすにはいささか不便だが、たまの旅行にはちょうど良い毒抜きになる、などと言う有り触れた感想は、いま目の前にあるものによって打ち砕かれかけていた。

 今日は助かりましたという感謝の言葉とともに、屈託のない笑顔で地元の魔法少女が差し出してきたものを前に暁美ほむらは躊躇していた。

 今年は畑でたくさんとれたのでおすそわけです、お礼というほどのものではないですけれどどうぞどうぞお召し上がりくださいと、全くの善意と好意と感謝から寄越されたものを、無碍に拒絶できるほどほむらの精神は強くはなかった。

「食べるの? これを?」

「おまえほんとその嫌そうな顔並ぶ者がいねえな」

「嬉しくないわ。それで、ええと、これ、食べるの? というか食べられるの?」

「見てみろよ、あいつらうまそうにむしゃこら食ってるじゃん」

「それが理解できないわ」

「前テレビで見た時だっていけそうだって言ってたろ」

「あれは佃煮だったじゃない。佃煮にしたらなんだって醤油と砂糖の味しかしないわよ。これ素揚げよ? 塩振っただけじゃない」

「シンプルな方が美味いってよく言うだろ」

「シンプルにもほどがあるわ。信州人はこれ食べないと生きていけないの?」

 極めて失礼な会話は勿論肉声によって交わされたものではなく、愛想笑いでへらへらとどうでもいい雑談で時間稼ぎをしている裏で、閉鎖系念話によって交わされたものだ。その位の腹芸は心得ている。

 ほむらは最大限の不満とわずかな不安を念話に漏らしながら、皿に盛られたそれを改めて見つめた。

「だってこれ……モロ虫じゃない」

「イナゴだからな」

「せめてこう、なに? 形をどうにかしようと思わなかったの?」

「小エビみたいなもんだろ。いちいち解体できっかよ」

「やめて、エビ食べられなくなる」

「エビだって大概妙な面構えだと思うけどなあ」

「なんであなたそんな平気そうなのよ。ホームレス生活者は慣れてるのかしら?」

「ぶっ殺すぞ。食いもんとして出されたのを食わねえわけにもいかねえだろ。それに聖書にもイナゴは食っていいって書いてある」

「食べていいのと食べるべきというのは全然別問題だわ。そんなカシュルート誰が気にするのよ」

 完全に及び腰のほむらと違って、杏子はしれっとしたものだ。勿論、どう足掻いても虫を素揚げしたものでしかない虫そのものが皿に山盛りに盛られている光景に思うところがない訳ではないようだったが、まだ食べ物として認識できているようだった。

「ありゃ、お客さんはイナゴ駄目でしたかね」

「いんや、何しろ山盛りだからな、食い切れるかってね」

「大丈夫大丈夫。見かけより軽いから」

「そうかい。じゃあ遠慮なく」

 一向に手を付けない二人に気兼ねしたらしい現地の魔法少女に気さくに受け答えする杏子だったが、ほむらに向ける視線は厳しい。こと食べ物に関して、杏子はどうもこだわるところが強い。勧められた場合決して断るということがない。他人にまで強要するようなことはないが、しかしほむらが食べなければ、例え満腹でもきっと杏子はひとりで平らげるだろう。そうなるとさすがにほむらの薄っぺらな良心も痛む。以前杏子のこの性質を利用してサルミアッキを完食させた経験があるだけに。

「いいわ。いただきましょう」

「よしきた」

 別に示し合わせたわけではないが、余計なためらいを排除するために、二人はそろってイナゴを手に取り、口に放り込んだ。中途半端に噛み切ると感触やら断面やらが気になりそうだった。

 さくり、と思いの外心地よい触感だった。確かに、軽い。スナック菓子というほど軽くはないが、カラッと上がったてんぷらのように気持ちの良い歯応えだ。微妙に引っかかる何かにこれ足なんだろうなあとか、ちょっと固い部分にこれ頭なんだろうなあとか、色々無駄なことを考えなければむしろ上等な揚げ物としてカウントしていい歯応えだ。

 虫の味というものを細かく想像したことはなかったが、なんとなく考えていたいやらしい味はなかった。水分が飛んでサクサクとした歯ごたえの中に感じられるのは、労働の後だからだろう強めに打たれた塩味と、そしてどこかで食べたことのあるような味だった。

「あー……あれだ。エビ」

「エビ?」

「エビフライとかのさ、尻尾の味」

「あー……わかるわ」

「なー」

 からりとうまく揚げられたエビフライの尾は、あれでなかなか美味しい。揚げ方が下手だと嫌に硬くて食えたものではないけれど、このイナゴの素揚げは上手に揚げられたエビの尻尾のようであった。

「考えてみればエビの殻もキチン質だもの。同じだわ」

「キチンシツってなんだ」

「エビの尻尾よ」

「そうかい」

 ひょいひょいとつまんでいく杏子につられて、ほむらもいつの間にか二つ三つとつまんでいた。勿論、どう見ても虫でしかないこいつを正面からまじまじと眺めるとどうやっても気分が悪いので、故意に目への魔力供給をカットしてなんだかよくわからないスナックとしてつまんでいた。この戦略はなかなか悪くなかった。見た目はともかく、味は確かに、悪くないのだ。

「なんかこう、香りがいいな。エビの香りじゃないんだよ」

「何かしらね。確かに爽やかな香りがするわ」

 強い香りではなかったが、ともすれば油で辛くなる舌に、いくらか優しい爽やかな風味である。

「いやあ、気に入っていただけて幸いです。お土産に包みましょうか?」

 完全に善意と好意と感謝からそんなことを言ってくる現地の魔法少女に、二人は顔を見合わせた。

「是非」

 帰りの道中のおやつにちょうど良いという食べ盛りの食欲以上に、巴マミのリアクション芸が楽しみだったのである。

 

 

 



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これはあなたの肉である。(ほむあん)

 

 

 

「美味しいのかしら」

 ぼんやりと呟いたのは、別に深い意味からではなかった。ただ本当に、ぼんやりと、先ほど見た光景を思い返しながら、ふと思い立ったのだった。

 日曜日の朝。私が杏子と教会でミサの見物をするなんて悪趣味な真似をしたのは、いやがらせでも何でもなく、ただの成り行きだった。いや、或いは嫌がらせだったのかもしれない。そうしようと思ったわけではなかったけれど、杏子がいい思いをするわけがないということはわかっていた上で、拒もうとしなかったのだから。

 教会に勤めているという魔法少女に協力を要請されて、暇だからと行かされたのはまあいい。巴さんにも、何か考えがあったのだろう。それがどんな悪手であろうとそれは善意からの勧めだっただろう。私は渋り、杏子は何でもないように引き受けた。結果がそうなら、私は何も言わない。

 朝早くに訪れた私たちは、ミサがあるので申し訳ないがと待たされた。よければ部屋を用意するともいわれたけれど、私が何か言うよりも先に、適当に後ろの方で待たせてもらうと杏子はどっかり腰を下ろした。私に否やはなかった。

 信者でもない私にとって、教会というのは異所だ。昔はミッション系の学校に通ってもいたが、思い出深いというにはあまりにも平坦な記憶に過ぎない。思いの外に姿勢よく腰かけた杏子の隣に居心地悪く腰を下ろして、神聖さという目に見えないステータスに気圧されたように、私はただ黙ってミサの行く末を見守った。杏子はどうだっただろう。薄暗い聖堂だか礼拝堂だかの、最後列の影と混じった曖昧な長椅子に腰かけた彼女の横顔は、石像のように物静かだった。

 滞りなく儀式が終わり、敬虔な修道女然とした魔法少女と打ち合わせをした時も、杏子は何ということもなくいつもの皮肉気な応対だった。また夜に落ちあうことにして、主のご加護がありますようにと見送ってくれた魔法少女に、杏子はただ面倒くさそうに手を振るだけだった。

 夜までどうやって時間を潰そうかと歩き始めて、そうして私が何となく呟いたのが先の言葉だった。

「なにがだよ」

「さっきの。何か食べてたじゃない」

「…………ああ。ホスチアか」

 ほすちあ。聞き慣れない言葉にオウムのように繰り返す私をちらと見て、杏子は口の中でもごもごと言葉を探した。

「聖体。聖餅。『これは私の肉である』」

 ああ、と私は思い出した。

 確か聖書の中で、キリストが言うのだった。パンを裂き、これは私の肉であると。葡萄酒を注ぎ、これは私の血であると。

「カニバリストなのかしら」

 これまた深く考えずに呟いた私に、思いがけない言葉を聞いたという風に、杏子はふへっと中途半端にふきだした。

「まあ、どうだろうな。肉と血を共にして、共同体としての絆を深めるなんて話もある。誰かの肉を食べたいなんてのも、或いは足りないものを満たしたいのかもしれねえな」

 足りないもの。

 私はなんとなく自分の胸を押さえた。平坦な胸だ。だが物理的に貧相である以上に、その内側は欠けばかりであるように思われた。私の中にはたくさんの穴ぼこだらけで、私自身落としたり捨てたりしてきたものがもう何だったのかよくわからないでいる有様だった。それでもその穴ぼこは、そこに何もないというのに、何もないということをもって、時折重たいほどの存在感で私の中に居座るのだった。

 先を歩く杏子の薄い肩を眺めながら、食べれば満たされるのだろうかと、私はぼんやりとまた呟いた。

「美味しいのかしら」

「味なんてしねえよ。ただの小麦だ」

 そう、と返した私をちらと振り返って、杏子は黙ってしばらく歩いて、おもむろにコンビニに足を運んだ。特に用のない私がなんとなく栄養ドリンクの棚を眺めている間に、杏子はおかしと飲み物を買ってきた。

 コンビニを出て、日差しを逃れるように店先のひさしの下で、杏子はビニール袋から葡萄味の炭酸飲料を取り出して蓋を開けた。また、買ってきたクラッカーの包装を開くと一枚を取り出して、まあこれでいいだろと呟いた。

 杏子はクラッカーをぱきりと半分に割って一つを自分で食べてしまって、残った一つを私に見えるようにかざした。

「『これは私の肉である』」

「は」

 杏子はそのクラッカーの片割れを、ペットボトルの飲み口に差し込んで湿らせた。

「『これは私の血である』」

 そうして私に向けて突き出されたクラッカーを、私はじっと見つめた。

「これはあなたの肉なのね」

「そうだ」

「これはあなたの血なのね」

「そうだ」

「いいのかしら」

「ただの小麦だ」

「あなたの血肉なのに?」

「血肉にするのはお前だ」

 私は黙って膝をつき、口を開けた。

 舌に乗せられたクラッカーを口に含み、咀嚼し、飲み下す。

「美味いか」

「……ただの小麦だわ」

「そうだな」

「でもあなたの血肉」

「そうだな」

 安っぽく甘い葡萄味のクラッカーは、胸のがらんどうにことりと落ちて、そうしてそこに居座った。

 

 

 



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六花亭のマルセイバターサンド(ほむあん)

 

 

 

 丸に成の字の入ったラベルを眺めながら、そういえば食べたことがなかったなと気づいた。物産展で見かけたから買ってきたというほむらに、存外に普通の人間みたいなことを言うのだなと妙な感想を抱いたものだった。

 北海道の銘菓であるというバターサンドは、白い恋人と同じくらいには名の知れた北海道土産だと思う。とはいえあたしの家は北海道旅行なんてできるほど裕福じゃなかったし、今日という日になっても遠路はるばる北国まで旅行に出かけるような知り合いはいなかった。マミはきっとゲレンデでスキーをするのなんて似合うと思うが、見た目の派手さとは裏腹に恐ろしく義理堅い彼女が、魔獣を置いて旅行に出かける姿は想像できなかった。

 買ってきたという十個入りのバターサンドの箱を開けて、ほむらは四つを取り出して六つを冷蔵庫にしまった。残りはマミたちの分かと思えば、冷やすとまた味わいが違うという。食ったことがあるのかと聞けば、むかし両親に食べさせてもらったことがあるという。

「あの頃は一日ひとつしか食べられなかったわ。それだって他の食事を調整した上で」

 何でも好きに食べられるようになったのに、いざ食べようと思うとそんなに思いつかないものねと、インスタントコーヒーを入れながらほむらは呟いた。

 なんだかレトロな包装を開いて取り出してみると、硬めのクリームをクッキーで挟んだようなおかしがまろび出る。バターサンドというくらいだから、これはバターなのだろうか。脂の塊なのか。

「ホワイトチョコレートと、バターと、生クリームだったかしら。母はバタークリームと言うと、バターと砂糖と卵で作った、硬いものを想像するらしいけれど」

 淹れたての珈琲の香りの中で、あたしはさっそく一つかじってみた。食感は思いの外しっとりとしていて、ビスケットのようにさくりぱきりとした感じではない。ほろりと崩れるようだ。そして挟まれたクリームはと言うとなかなかに濃厚な甘さだった。それに何か混ぜ込んでいる。舌で転がしたそれは、レーズン、だろうか。かじった断面を見てみれば、干しブドウが顔をのぞかせている。

 ホワイトチョコレートとバターと生クリームだったか。残りも口に放り込んでもむもむと頬張る。柔らかくとろけるクリームはなるほど甘ったるくて脂の塊だ。

 安っぽいコーヒーで口の中を洗ってみるが、甘ったるいのにコーヒーの香りが上書きされた程度の様な気もする。

 二つ目の包装をはいで、今度は一口に頬張ってみる。なにしろキュートでラブリーな魔法少女ちゃんのおちょぼ口にゃあちょっとばかり大きかったが、なかなか食いでがあっていい。こうして食べてみると、クリームを挟むクッキーだかビスケットだか、こいつがしっとりしているのがちょうどいいというのが分かる。そりゃあビスケットはさくっとパリッと歯応えがいいのが大事だろうが、この柔く甘いバタークリームと合わせたときのことを考えると、しっとりほろほろ崩れる生地がちょうどいい塩梅だ。もむもむと噛み崩して、むぎゅりと飲み込み、珈琲を流し込む。

 うまい。

 だがちょっと物足りないかも。

 ちらとほむらを見れば、ほむらはほむらで二つを二つ、綺麗に平らげ包装を丁寧に畳んでいる所だった。

 かすめ取るのは諦めて冷蔵庫からもう一つ二つ取ってくるかと立ち上がると、ぺしりと額を叩かれて窘められた。

「けちけちすんなよ」

「ご飯が入らなくなるわよ」

 櫛通りのいい髪をするりとゴムでまとめる背中に、あたしは黙って座り直してコーヒーをすすった。

 

 

 



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天地無用(ほむあん)

 

 

 

 アップサイドダウン。

 意味を確かめるように口の中で転がすと、杏子はそうだと頷いて、オーブンレンジの様子を確認しながら洗いものに取り掛かった。

 いつもいつも食べるばかりで家事というものと縁がなさそうな杏子は、しかし意外にそつなく菓子作りに使った道具を洗い上げて行った。その道具もまた私にはいまいちよくわからないものばかりで、聞けば巴さんに借りたのだという。だったら巴さんの家でやればいいのにと言えばマミに食わせても面白くないという。私なら面白いのと聞けば時々何かうまいもの食わせないとダメになる気がするとよくわからないことを言われる。毎度のようにご飯をたかるのは誰かと聞けば、あたしだけど、あんたが自分の為にキッチンに立つのは想像できないと言われればぐうの音も出なかった。

 紅茶はまだあるかと言うので、自分で飲むのは専ら珈琲ばかりで、杏子の持ち込んだ茶葉は使った覚えがないのであるはずだと答えたけれど、その場所までは覚えていなかった。しかし杏子はそうかいと答えるや、迷いなく棚を開いてブリキの缶を取り出し、殆ど置物と化したティーセットを洗って手際よく準備を始めてしまった。

「普段からやればいいのに」

 我ながらどこから出てきたと思う拗ねたような響きだった。

 杏子は布巾で手を拭きながら面白くない冗談でも聞いたように肩をすくめた。できるのとやりたいのとは別だのたまう。そりゃあ誰だってそうだろう。じゃあそのケーキはやりたくてやっているのかと聞けば、手間は手間だがふと食べたくなったという。食べたくなったがひとりじゃ食いきれないし、何より自分の為に焼くのはあんまりわびしいとぼやく。

 巴さんの方がケーキ作りが美味くて面白くないなら、美樹さやかにでも食べさればいいのに。そう言うと、珍しく渋い顔をする。あいつは反応が鬱陶しいと短く言われ、なんとなく納得した。杏子が美樹さやかの家でケーキを焼き始めたら、きっとあの娘は大いに騒ぎ立て揶揄い、そして気を遣うことだろう。確かに実に鬱陶しい。

 その点成程、私は杏子にとってちょうどいい距離感なのだろう。

 子供の頃に習っただろうケーキを急に作りたくなった心境なんて私は尋ねたりしないし、本当に食べさせたかった相手の事なんて知りたくもないし、自分以外の誰かを思って作られたケージに不満を覚えたりもしない。余計な口もきかずただ消費してやって、郷愁を妨げたりしない。

 我ながら便利な女だと鼻を鳴らすと、オーブンレンジが音を立てた。

 灼熱のオーブンレンジから取り出され、しっかりと冷まされ、そうして裏返しに取り出されたケーキは、確か底に敷いていたりんごがきれいにその表面を彩っていた。

 成程、アップサイドダウンだ。上が下に。下が上に。

 カラメルで固められたりんごは、日頃の杏子からは想像もできないくらい丁寧に並べられていた。それはきっと杏子に教えた人が、そうしたからだろう。ケーキを食べる人のことを思って、並べたからだろう。

 切り分けられたケーキに、りんごの皮を使って淹れたアップルティー。

 ふんわり柔らかな生地の上で、カラメルが少し苦かった。

 

 

 



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部屋とコロッケとあなた(さやほむ)

「よっ、ほむらー。コロッケ食べる?」

「頭がおかしいの?」

 顔を合わせるなり正気度判定を開始するのは流石に大人げなかったかもしれない、と暁美ほむらは出来るだけ理性的に頭を働かせた。いかにこの「脳がカロリー分の仕事をしている魔法少女ランキング」ぶっちぎりのワーストを突っ走ってそうな軽薄な少女が相手であっても、そこは最低限の礼節としてわきまえるべきだ。相手が誰であれ粗雑な扱いをするのは自分の品格を下げることにつながる。

 暁美ほむらはしばし瞑目して道理というものを考えた。

 大型の台風が接近し危険であるということで休校の報せが来たのが昨夜。今朝には虹の彼方にまで招待してくれそうな強風と豪雨が安普請の窓をがたがたと揺らしていたので、これ幸いと惰眠を貪ろうと昼過ぎまでお布団とマリアージュしていたのがさっきまで。そしてそんな危険な日にアポイントメントもなしに執拗にチャイムを鳴らし、すわ緊急事態かと寝起きで不機嫌なまま応対したほむらにすこぶる健康的な笑顔と冒頭の台詞を投げかけてきた雨合羽の美樹さやか。

 ふむ。

「頭がおかしいの?」

「二度までも!?」

 よく考えてもやはりダイスロールが必要に思えた。

 寝なおそう、と閉めかけたドアは凶悪な低気圧と凶悪な美樹さやかの握力で阻害された。

「まあまあまあ、そんな恥ずかしがんなよー」

「頭がおかしいの?」

「今日あんたの口からそれしか聞いてないんですけど!?」

「おかしいの? 頭が」

「まさかの倒置法!」

「おかしいのね。頭が」

「納得された!」

 かけあいノルマは終えたと思ったのだけれどなかなか解放してくれないさやかに、ほむらは溜息を吐いた。

「仕方ないみたいな溜息まで!」

「違うわ。どうして神は完全な世界を御創りにならなかったのかと考えていただけよ」

「人を不完全代表みたいに!」

「そのまま燃え尽きてくれればいいのに」

「物理的完全燃焼はしたくないかな!」

 台風の日には子供と畑を見に行くお爺ちゃんがやたら元気になると聞いてはいたがここまで鬱陶しいとは思わなかった。

 風はますます強くなり、さやかの体が盾になっているとはいえ吹き込む雨で玄関も濡れはじめた。厄日だった。全く厄日だった。

 このまま強引に放りだす術は幾つか思いつくけれど、しかしそれを実行してこの台風の中さやかを一人で帰らせれば、台風明けにほむらを襲うのは今度は批難の嵐だろう。台風程度で魔法少女がどうこうなるか、と言いたいところだけれど、何しろ重たい鉄の看板だって吹き飛ばされるのだ。それが油断している所に直撃すればただでは済まないし、うっかりソウルジェムが濁流に流されたらそれだけで終わりだ。無事帰れたとしてもその後はどうだ。佐倉杏子はばっかでーと笑うかもしれない。しかし巴マミは眉を顰めるだろう。百江なぎさは興味を持たなそうだけれど、鹿目まどかは間違いなくほむらちゃん酷いよと涙目で憤慨する事だろう。

 仕方がない。

 悪魔にも世間体というものはある。

 もう一度鉛のような溜息を吐いて、暁美ほむらは馬鹿を独り部屋に受け入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 風邪を引くし何より部屋が濡れるからと、ほむらは玄関でさやかをひんむき、風呂に放り込んだ。呑気な鼻歌とシャワーの音を聞きながら、雨合羽の水気を払って干し、防ぎきれなかった風雨に負けた衣服を洗濯機に放り込んだ。

 着替えはどうしたものだろうか。下着はまあ、つけてきたものを使用してもらうほかない。生憎と残酷な現実というものがこの世には存在していて、さやかとほむらの下着には互換性がないのだ。主に胸部の質量差によって。

 どうせこの天気では部屋から出ることもないし、適当なものでいいだろうと、部屋着用に古着屋で適当に買ったTシャツとスウェットを引っ張り出してきた。少し大きめの、色気も何もない無地のものだけれど、仕方がない。しかしこれだと、シャワーを浴びさせているとはいえ台風の中歩いてきてすっかり冷え切った体には涼しすぎるかもしれない。同様のカーディガンも用意しておいた。

 こんなものかと見回して、それから慌ててバスタオルを用意する。うっかりしていた。

 なんだかそれだけですっかり疲れてしまった。

 万年床に潜り込む気も薄れ、薄っぺらい座布団に腰を下ろして、冷えた卓袱台に体を預ける。一旦作業から離れ落ち着いてしまうと、何をしているのだろうかという徒労感がほむらの脳裏を巡った。全く、本当に何をしているのだろうか。

 しばらくして、着替えあんがとね、と実に気安い文句と一緒にさやかはシャワーを終えてやってきた。印象にあわず意外と丁寧に髪の水気をタオルで取りながらやってきたのだが、何故だろうか。色気の全くない古着屋で買ってきたアイテムも、さやかが着ると不思議にカジュアルスタイリッシュとか謳いそうな具合だった。着こなしもへったくれもないようなものだから、これはもう純粋にスタイルの問題だろう。奇妙なことだが胸部が平坦なほむらが着ると途端に板に布をかぶせたような具合なのが、さやかが着るだけで全体にメリハリが発生するのだ。滅びろ三次元概念。

 女子中学生が住んでいる部屋というより、アンドロイドが待機時に使用している倉庫といった具合の、万年床と卓袱台しか物の存在しない生活感の欠片もない部屋に苦笑いしながら、さやかは畳に腰を下ろしてほむらと向かい合うように卓袱台に肘を下ろした。生憎と座布団は一枚しかなかった。

「あんた結構お洒落さんだから、もっとインテリアにもこだわると思ってた」

「誰かに見せる予定がないもの。必要も」

 ふぅん、とさやかは小さく鼻を鳴らした。ほむらは電池の切れた玩具の様に脱力し切って、卓袱台に突っ伏している。普段背筋を伸ばして、あの陰気な目で笑っている悪魔の姿とは大違いだ。誰も信じないと強がって、捨てきれずにいる何かに足元をがんじがらめにされていたあの頃とも大違いだ。しかし或いは、そう言った何もかもを取っ払ってしまうと、暁美ほむらの中身というものはこんなものなのかもしれなかった。ほむらにはまどかだけがあって、そしてそれ以外はないのかもしれなかった。持ち続けることが出来ないのかもしれなかった。どうする事も出来ないのかもしれなかった。どうしたいのかもわからないのかもしれなかった。

 そんな姿をさらすのは、仕方のない事態だったとはいえ、さやかに気を許しているからだろうか。勿論ノーだ。さやかは自問に即座に自答した。どうでもいい(、、、、、、)のだ。この悪魔にとって、宿敵たる自分の存在などどうでもいいのだ。

 その証拠にほむらは何も考えていなかった。ただどうしようもない退屈と無駄な時間を、万年床での睡眠で消費していたのが、こうして思考停止状態で突っ伏することに変わっただけだ。

 さやかは空虚な卓袱台に、持参した袋を置いた。その音にほむらはちらりと視線を遣る。コンビニの袋だった。まあ、この台風だ。コンビニくらいしか開いていないだろう。コンビニだって、店仕舞いしていいと思う。

 中身を取り出しながらさやかは再度言った。

「コロッケ食べる?」

 袋の中身はコロッケだった。

 この嵐の中最寄りのコンビニで買って、雨合羽の内側、懐で大事に抱えてもってきたらしく、まだ温かいコロッケだった。如何にもな安っぽい揚げ油の匂いが、寝起きの胃袋をたたき起こそうとしていた。

「いやー、この台風の中客が来ると思ってなったみたいで準備してなかったんだけどさー、お願いしたら揚げてくれて、いやでも迷惑かなーって思ったんだけどすっごい暇だったみたいで逆に感謝されちゃって」

「どうして?」

「え? ああ、元ネタは知らないんだけど、ネットでさ、台風の日にはコロッケみたいのがあって、折角だし乗っかろうかなーって」

「違うわ」

 のっそりと体を起こして、暁美ほむらはゆっくりと瞬いた。

「どうして、この台風の日にわざわざ私を訪ねてきたのかしら」

 美樹さやかは少し考えるようにして、髪の水気を取り終えたバスタオルを丁寧に畳んで、横に置いた。それから改めてコロッケを取り、ほむらに勧めた。

「コロッケ食べる?」

「……頂くわ」

 紙袋に包まれたコロッケを受け取り、ほむらはなんだか異世界の物でも見るような心地でこの黄金色を見下ろした。

 ああ、ソース貰って来るの忘れた。そんな気の抜けた声を聞きながら、ほむらは小さく一口をかじり取る。ざくりとした軽い歯触りに、ほくほくとした芋の触感。

 それは確かにコロッケだった。

 

 

 

 

 

 

「どうして?」

 再度の問いかけに、コロッケをかじりながらさやかは視線を巡らせた。言葉を探した。そして結局うまい言い回しは見つからず、彼女なりの言葉を積み上げることにした。

「あらしが来てたから」

「意味が解らないわ」

「あんたさ、何回も何回も、それこそ円環の理にいたはずのあたしですら気が遠くなるほど何回も、あの一か月を過ごしてた訳じゃん」

「そうね」

「でも、次の一か月のこととかは、あんまり知らないんじゃないかって」

「意味が解らないわ」

「あんたは見滝原の夏を、知らないんじゃないかって」

「夏なんてどこでも同じだわ」

「病院での夏も?」

「……そうね」

「あんたにとっちゃ、まどかのこと以外はどうでもいいのかもしれない。でもそのまどかが生きているこの世界は、それで、あんたも生きているこの世界は、あんたの言うどうでもいいもので溢れていて、そのどうでもいいものを呼吸して、どうでもいいものを食べて、どうでもいい生涯を送るんだ。どうでもいいことを楽しんだって」

「余計なお世話よ」

 如何にも古着屋で買ってきた如何にもなスタイルで、しかし暁美ほむらは冷たい拒絶を示した。壁の手前で、美樹さやかはコロッケをざくりと食んだ。

「それに、そう、うん。あらしが来てたから」

「意味が解らないわ」

「もう乗り越えたかも知れない。どうでもいいものになっているかもしれない。でも、あらしを怖がっているかもしれないから。だから来たわ」

「余計なお世話よ」

「そうかもね」

 暁美ほむらはコロッケをざくりと食んだ。火傷するほどではない、人肌に近いぬくもりがあった。

「昔ね、絵本の作家がこういったんだって。どんな時でも正しい行いっていうのは実はないんだって」

正義の味方(あ な た)らしくもない」

「かもね」

 皮肉にちらとだけ目を伏せて、さやかはつづけた。

「立場ごとに正義があるんだってさ。あたしにはあたしの。まどかにはまどかの。あんたにはあんたの。でもね、絶対に正しい行いがあるんだって」

 綺麗な歯並びに丸く削られたコロッケ越しに、美樹さやかは暁美ほむらを見た。ちまちまと小さく削られたコロッケ越しに、暁美ほむらは美樹さやかを見返した。

「困ってる人、餓えている人に食べ物を分け与えることは、立場や人が変わったって、正しいことなんだって」

「それでコロッケを?」

「うん」

「あさはかね」

「うん」

「余計なお世話よ、偽善者」

「そうかもしれない」

 チープなコロッケは、安っぽくやさしい味がした。

 

 

 

 

 

 

 窓を揺らす風は強くなる一方だった。

 カーテンを閉め切り、人工の明かりに照らされた室内では、時間の感覚がおかしくなってくる。今は何時だろうか。時計を見上げてみたけれど、午前も午後もわかりやしない。

「絵本と言えば」

 コロッケをかじりながら過ぎる沈黙の間に、美樹さやかはそっと話題を差し込んだ。

「こんな風にね、あらしの夜をひとつの小屋でやり過ごすお話があるの」

「ああ、そう」

「真っ暗な闇の中、もしかしたらこの小屋も吹き飛んじゃうかもしれないって不安になりながら、二人は夜通し話して意気投合するのよ。それでまた、次の日に会いましょうって」

「へえ」

「そうして翌日、秘密の合言葉を携えてやってきたらなんと、片方は狼で、もう片方はヤギだったのよ。食べる側と食べられる側。でもお互いの事をすっかり話してすっかり仲良しになっちゃってたもんだからさ、今更もとの関係になんて戻れなくて、二人して群を飛び出して」

「ばかばかしい」

 するりとはだえに走る剃刀のように冷たく鋭い声だった。

「私はこの世界を好きなように書き換えた悪魔。あなたは書き換えられた世界を取り戻すべく正しさに奔走する騎士。あらしの夜に一緒にコロッケを食べたら仲良しになれるとでも? それをあなたが言うの?」

 風が強く窓を打った。

 そうだ。最初に拒んだのは彼女だった。

 目的を達成した悪魔にとって、全ては些事だった。何もかもが上手く回っていた。全てに対して寛容な気分だった。自分の中でうつうつと下らぬことをわめきたてるちっぽけな自分自身さえ、放っておいてやろうと思う位に。その誘いを断ったのは彼女だ。仲良くしてやろうという誘いを拒んだのは彼女だ。誰も不幸にならない。誰も割を食ったりしない。みんなでお茶会出来るような世界を作ったのに!

 ほむらの中のちっぽけなほむらは、冷笑を浮かべた悪魔に、もっと酷薄に嗤うのだった。ほら、と。ほらやっぱり、と。お前はいつもそうなのだ、と。馬鹿ばっかりだ、愚か者ばかりだ、どうしてこの箱庭の素晴らしさがわからないんだろうと嘆く悪魔に、ほむらの中のちっぽけなほむらは馬鹿ねあなたはと嗤うのだ。そのどうしてを知っている筈なのにと。

 

「わたしは」

 

 稲光がカーテンの隙間を走り、ばちんと全ての明かりが落ちた。

 停電だった。

 ブレーカーを確かめようと立ち上がる少女の裾を引くものがあった。お互いの輪郭すらもぼやけ切った闇の中で、見上げる瞳があった。少女はすとんと腰を下ろして、それからずりずりと輪郭の解けた闇と隣り合って座った。

 視界は闇で覆われ、耳にはごうごうがらがらというあらしの音ばかりが聞こえ、体温ばかりが二人の間にやりとりされた。そしてそれ以上のものはこの闇の中に無かった。

 少女が頭を傾げると、寄り添うように少女の額が寄せられた。安っぽい、コロッケの揚げ油の匂いがした。

 

「あらしのよるに」

 

 少女が呟いた。

 

「あらしのよるに」

 

 少女が返した。

 

 

 

 それはあらしのよるにあったかもしれないおはなし。



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なぎさとさやかのマジカル☆クッキング!(なぎさや)

「なぎさと!」

「……………」

「な!ぎ!さ!と!」

「……さやかのー」

「マジカル☆クッキング! なのです!」

「わー……」

 美樹さやかは虚無を呼吸した。

 さわやかな朝の空気が、恐るべき冷え込みとして台所の足元を襲っている。窓から差し込む日差しはまだ若く、朝露をきらめかせて弾けていた。閑静な住宅街は穏やかなまどろみの中にあり、通りかかる車の音も遠い。

 美樹さやかは、そんな爽やかな朝をしぱしぱする目で迎えていた。

 日曜である。

 日曜の早朝である。

 学生としても魔法少女としても、堂々たる公休として朝寝を決め込もうと思っていた日曜である。

 ところが現実として、さやかはいま、普段でも起きないだろう時間帯に、見知らぬ人さまの家の台所で、あつらえたようにサイズの合うエプロンを巻いていた。

 原因は、同じように体に合ったサイズの、しかしもっとファンシーで愛らしい色使いのエプロンを巻いた小学生のお誘いであった。

 いましがた露骨なテンションの差異を見せつけたクソガキこそが、諸悪の根源たる百江なぎさであった。なぎさは普段流している髪を少し高めの位置でポニーテールにして、間を通すようにして三角巾を巻いていた。足元の冷え込みに対抗するためか、ふわふわのスリッパも履いている。

 それは文句なしに可愛らしい小学生だった。さやかはロリコンではなかったが、もしかするとロリコンだったかもしれないと思い始めるくらいにはなぎさはかわいかった。そしてたとえロリコンであったとしてもこいつだけはねえと思い改めるくらいにはクソガキだった。

 土曜夜のパトロールを済ませ、さあ惰眠をむさぼろうと帰り支度を始めたさやかを拉致し、深夜営業のスーパーで買い物に付き合わせ、お腹を空かせた方がおいしいのですとか抜かして見知らぬ深夜の住宅街を魔力強化なしで走らせ、一睡もさせることなくこうしてキッチンに立たせているクソガキだった。

 まあそもそも、いつも怪我してお世話になっているさやかにごちそうしたいのですとかいう上目遣いのお願いにたやすく屈したのはさやか自身なのだが。

 怪我したときは回復役のさやかに、というのは見滝原の魔法少女にとって今や常識だった。そして常識になってしまっているからこそ、こうしてしっかりと感謝の意を示したいと言われると、さやかとしては何とも言えず面映ゆく、また嬉しい気持ちになって、頷かざるを得なかったのだ。

 まあ、見てないところで手足をポンポン落としては、生やしてほしいのですとかしれっと言ってくるヘヴィ・ユーザーに一言どころか小一時間お説教したくもあるが。

「さやかになぎさの手作り料理を味わってほしいのです。……ダメでしたか?」

 許した。

 さやかはロリコンではなかったが、許した。なぎさはいい匂いがした。

 この家はなぎさの家なのかとか、ご両親はどうしたのかとか、色々聞きたいこともなくはなかったが、眠気が一周回ってきた倦怠感の伴う覚醒感に、もう何もかも面倒くさくなっていた。

 棒立ちするさやかを置いて、なぎさはてきぱきと料理を始めている。

 さやかは調理実習で可もなく不可もなくをおしゃべりしながらだらだらと作り上げる程度の腕前だったが、なぎさは小学生ながら立派に料理の知識や技術を持っていた。

 とはいえ、物理的に小さいなぎさは踏み台がなければならなかったし、冷蔵庫や棚の上の方は椅子を持ってきて上らなければならなかった。なぎさは何も言わなかったが、さやかは黙って台を移動してやり、棚の上のものを取ってやった。そうするとなぎさはきょとんとしたように見上げて、それからありがとうなのですと花開くように笑った。なぎさはいい匂いがした。

 小学生が刃物を使ったり火を使ったりするのはどうなのだろうかと思いはしたが、さやかが見てるのでいいのですよと言われるとなんだかそのような気もしてきて、さやかは形ばかりの監督官としてちょこまかと動くなぎさを眺めた。ぴょこぴょこ跳ねるポニーテールや、冷え込むのにむき出しのひかがみを所在なく眺めた。

 なぎさはクソガキだったが、こと台所に置いてさやかは役立たずのクソ虫だった。

 なぎさはセラミック製の包丁で手際よく材料を切り分け、鍋でことことと煮込んでスープにし、形よくむいたニンジンを小さなフライパンでグラッセにした。さやかもそれを手伝い、何をするのかを見ていたのだが、いまだにさやかはニンジンがなぜあんなに甘くなるのか理解できないでいた。

 後で温め直すというそれらを置いて、メインが登場した。

 肉である。

 挽肉である。

 つやつやと照りも良い、お肉様である。

 スーパーで買ってきた食材の中にあったものではなく、なぎさがドヤ顔でない胸を張った、とっておきのお肉である。なぎさはいい匂いがした。

「さやかにはこのお肉を食べてほしかったのです!」

「なんか特別なの?」

「ふふふ、とっても希少なお肉なのです! お高いのですよ?」

 さやかには肉の味がわからぬ。さやかは、小遣いの少ない女子中学生である。食べ放題のぺらい焼肉で喜び、グラム単価が安いお肉ほど量が食べられると喜んだ。けれども人の金で食う肉の値段に関しては人一倍に敏感であった。

 ボールにぽてぽてと転がった挽肉は、いかにも家でミンチ機にかけましたよ、自家製のミンチですよと言わんばかりの風情があって、それがまたなんだかさやかには高尚なものに思えた。

 なぎさはゴム手袋をしてそれをぎゅむぎゅむと揉み込み、練った。さやかが聞きかじりの知識で玉ねぎや、またパン粉といったつなぎは入れないのかと聞くと、なぎさは今日は100%混じりけなしなのですと胸を張った。かわいい。これは期待ができそうだった。

 なぎさが踏み台の上で頑張って練っているのをただ黙って眺めているというのもなんだかためらわれたので、さやかもゴム手袋を貰って、交代で練った。

 なぎさは手慣れた手つきで、練り方も堂に入っていたが、何しろおててが小さいし、体も小さいから、力もうまく伝わらない。さやかは寝不足とは言え、回復魔法でけろりと回復したので体力は有り余っていたが、手つきはやはり怪しいものだった。にっちゃりとした生挽肉の感触に、おっかなびっくりこねるのである。

「む……結構難しいのね」

「ちゃんと練らないと美味しくならないですし、でも練り過ぎてもダメなのです」

「りょーかい、なぎさシェフ」

 それも、冷たい流水で手を冷やしながらこれをやるので、なかなかにしんどい。

 やがて挽肉がからまりあい、白っぽくなってくると、なぎさはあらかじめ用意しておいた調味料を加えてさらに混ぜ、納得がいくまでこねた。

 そうしてからようやく成型する。さやかは言われるままに両手の間でポンポンと投げるようにしてタネを成形した。こうすると空気が抜けるという。調子に乗って大きなものを作ろうとすると崩れてしまって、さやかは何度かやり直した。

 なぎさはおててが小さいので、大きなものはできない。しかし手際はよく、さやかが半端なサイズのものをなんとか歪に成形する間に、小さめのものをいくつか仕上げた。しかも中にチーズを仕込む余裕さえある。

 これにラップをして、冷蔵庫で少し寝かしてやる。

「あたしお腹減ったんだけど」

「ご飯もまだ炊けてないですし、一番おいしく作ってあげるのですよ」

 仕方なしにさやかはなぎさと並んで洗い物を片付けた。さやかが洗い、流し、なぎさが拭いて片づける。親子みたいだなとさやかはぼんやり思った。

「新婚さんみたいなのです!」

「はいはい、なぎさはいいお嫁さんになるわよ」

「さやかが嫁ですけど?」

「決定事項のように!!!」

 やがてご飯が炊けると、なぎさはスープとグラッセを温め、フライパンを熱した。さやかは皿を用意してそれを見守った。

 なぎさは、さやかの歪なタネを最初にフライパンに寝かせ、その横に小さめのものを並べた。じゅうじゅうと胸の弾むような音が響き、換気扇がごうごうと音を立てて香ばしい空気を吸い上げていった。なぎさの後ろからのぞき込むと、フライパンの中で柔らかい赤色をしたタネが、なんだか途端にハンバーグらしく見えてきた。

 なぎさは真剣なまなざしでフライパンの中のタネを見つめ、口の中で小さく数を数えているようだった。うなじにしっとりと汗がにじんでいたが、気にした風もなく熱いフライパンを覗き込んでいる。なぎさはいい匂いがした。

 そして時来るや否や、なぎさは素早くフライ返しで種をひっくり返していった。香ばしく焼きあがったその肌は確かにハンバーグである。さやかのそれは、大きすぎたし、成形が甘かったので、早速割れたが。

 なぎさはさっと蓋をして火を弱め、そのぱちぱちいう音に耳を傾けながら、また口の中で数を数えた。

 さやかが横からそれを覗き込むと、ご飯をよそいスープを注ぐように言われて、そのようにした。

 テーブルにそれらを並べて戻ってくると、温められた皿に、ハンバーグとグラッセ、そして洗って手ちぎりしたレタスがよそわれていた。そこに、切ったばかりのトマトが添えられて、ようやくさやかは「よし」を得た。

「いやー……やっぱりちょっと崩れちゃったね」

「さすがにさやかのはおっきすぎたのです。さやかがおっきくするからいけないのです」

「なぎさのはちっちゃくてかわいいじゃん」

「さやかはロリコンなのです」

「文脈ゥ!!」

 ご飯は程よい硬さに炊き上がり、スープも柔らかく心地よい香りがする。

 しかしなにより、ハンバーグがまた食欲を誘った。焼き立ての香ばしい香りが何とも言えない。

 頂きますと手を合わせて、早速さやかはハンバーグに箸をつけた。繋ぎもなく肉だけだというのに、変に硬くなく、自然に柔らかくすっと箸が入り込み、驚くほどどっと肉汁が溢れてくる。まるでジュースだ。それに絡めるようにして取り上げて口に含めば、脳天突き抜けるような旨味が口の中に広がった。

「うっ……まっ!」

 それははじめて食べる味わいだった。語彙力も消滅させて、さやかは「うまい!」「うまい!」と一口ごとに叫ぶほどだった。牛肉のような、ラムのような、しかしそれとも違う。もっと豪華な香りがある。安い肉には牛臭さや豚臭さのようなものがあるが、これは臭みというよりも力強い香りだった。あるいは以前、巴マミがストレス解消にと休日を丸々一日使って煮込んだビーフシチューのような濃厚ささえあった。

「いや、ほんとに美味しい……すっごくいい香りがして……ご飯が進むわ!」

「んふふ、お口にあってよかったのです」

 なぎさもにこにこと嬉しそうにさやかを眺めながら、チーズ入りのハンバーグを食べている。その無邪気な満面の笑みを見ていると、クソガキとはもうちらとも思わなかった。愛らしい女の子だった。なぎさはいい匂いがする。多分明日にはまたクソガキだと思い始めているが。

 さやかは香りのよいスープをすすって一息ついた。

「ねえ、ところでこのお肉は何のお肉なの?」

「美味しい挽肉なのですよ」

 にっこりと微笑むなぎさは、いい匂いがした。



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あの日君に手を取られたことをずっと後になってからきっと思い出す(ななさや)

 

 

 

 今夜はアメリカンドッグにしよう。

 何の話かと言えば、魔女狩りの疲労を訴える小腹に詰めてやる賃金、夜食のことだ。

 毎度デザイナーの正気を疑う結界の中とは言え、いい加減うんざりするほど長い階段を降り続けながら、美樹さやかはすでに終わった後のことを考えていた。

 ジャンボなフランクフルト・ソーセージもいい。そこはかとなくジャンクな感じでありながら、正統派まっしぐらの充実した肉っぷりは、シンプルに過ぎるかもしれないが、そのシンプルさこそが正にパワーといった感じで、いい。

 ただ、今夜は肉肉しい気分ではなかった。少し前に避け損ねた攻撃で中身を詰めてないソーセージがお腹からまろび出たので、ちょっと受け付けない。

 肉まん、あんまん、ピザまんてのも捨てがたい。たまに変わり種も入るが、いまはそういう時期でもない。つやつやと白い魅惑のお肌にそのままがぶりとかぶりつくのもいいし、押し頂くように半分に割って、ふわりと立ち上るその犯罪的な香りを顔に浴びるというのも、いい。

 馴染みのコンビニは、深夜帯でもホットスナックの品ぞろえがいい。というより、ホットスナックの品ぞろえがいいから、馴染みになったのか。

 ただ、気分はやはり、アメリカンドッグだった。

 炭水化物とタンパク質と、そして何より脂質が欲しかった。からりと上がった揚げ物が恋しかった。例え脇腹にしがみつく呪いがあろうとも、この時間に頂く揚げ物の魅力にはとてもかなわなかった。

 ざくりとした外側をかじると、ふわりと柔らかな衣が広がる。そしてぷつりとちゃちな歯応えのソーセージ。肉肉しくなくていい。素朴な味わいでいい。ケチャップとマスタードをかけて、ざくりざくり、もしゃもしゃと一心不乱に食べたい。食べよう。絶対食べよう。

 このくそったれな結界を生み出したくそったれな魔女を片付けたら、絶対にアメリカンドッグを食べよう。

 さやかはそのように決意して、闘志を燃やして階段を駆け下りた。

 そしてその闘志はすぐに鎮火して萎えた。

 というのも、駆け下りていった先に、背中が見えたからだった。それも見知った背中だった。

 着崩した牡丹色の和服の下に、洋装のドレスをまとったような装束。たおやかさすら感じさせるその意匠と裏腹の、その手に携えられた凶器。鞘の両端から柄を見せて収まった小太刀二刀。

 向こうも気づいたようで、おやと見上げるのは腹立たしくなる程に落ち着き払った瞳。

 

「常盤、ななか」

「奇遇ですね、さやかさん」

 

 微笑みを浮かべて会釈するななかに対して、さやかは眉をひそめた。礼儀の上では褒められた態度ではないが、美樹さやかという少女は良くも悪くも感情に素直だった。好意を持つ相手には笑みも見せるが、敵意を持つ相手には刺々しい。

 さやかは、常盤ななかに対して敵意を持っているわけではなかった。敵意という程のことではない。ただ、好意もない。好きでも嫌いでもないというには、やや嫌いより。嫌いというよりももっと正確な言葉を探すのならば、それは不信感という言葉が当たるのだろうと思う。

 不信であるし、不審だ。

 刃を向けられたことがあるわけではないし、魔女や使い魔をけしかけられたことがあるわけでもない。悪質な罠を疑うわけでもない。戦闘中に落っことした指をぽっけないないされておやつ代わりにかじられたわけでもない。そんな奴はひとりで十分だ。

 しかして、さやかはこの女に苦手意識があった。

 さやかの露骨なまでの態度に、いっそ笑みを深くさえして穏やかに見上げるこの女に。

 この空気を持った相手に対してさやかが持ちうる語彙は一つだけで、つまり、胡散臭い、だった。

 例えば暁美ほむらも大概胡散臭いが、あれが腹立たしいのはむしろ言ってもわかる訳がないという上から目線の拒絶であり、私はあなたのことをよく知っているんですよという根拠不明のわかってる面であり、自分一人で何もかも抱え込もうとするがための秘密主義である。

 こっちを見ようとしない不信感がほむらにあるとしたら、ななかにあるのはこっちを見ている不信感である。

 じっとさやかを見つめる目は、どうにも何かを見透かしているようで、気持ちが悪い。含みある物言いはさやかのおつむには回りくどいし、やることなすことも手の札が見えず考えが読めない。

 

「なによ、お仲間はどうしたの?」

「別にいつも一緒、というわけではありませんから。それにさやかさんも」

「そう言う日もあるわよ」

「私もそう言う日なんです」

「あっそ」

 

 すげない態度のさやかに、しかしななかは何がおかしいのか微笑みを深くしただけで、こつりこつりと階段を降り始めてしまう。

 ここで黙って見送るのはなんだか馬鹿らしい、ななかが気に食わないからと言って引き返すのはますます馬鹿らしい。かといってわざわざ追い越していくというのはいよいよもって馬鹿馬鹿しい。

 それで、微妙な距離を置いて後から階段を下りていくのだから、これも全く馬鹿だなとさやかは思った。ななかはなんだか知らないがご機嫌の様子で、さやかはますますげんなりしてきた。この女と魔女退治を同道するというのはあまり気持ちのいい話ではない。

 第一、共闘するという間柄でもない。一時的な協力は魔法少女にとってよくあることだが、グリーフシードの取り合いは美しいものではない。結局はスタンドプレーが結果としてチームワークの形になるだけだ。

 ただでさえ胡乱な相手に、いつまで続くともしれないこの階段。

 さやかはため息をついた。愚痴も出てくるというものだ。

 

「はーあ。ついてないわ。いつまでも階段が続くと思えば、今度はあんた」

「退屈な旅路に連れができたのはプラスでは?」

「掛け算じゃないんだから。マイナスとマイナスは、足してもマイナスじゃん」

「つれませんね」

「つらないもん。あーあ、とっとと終わらせて、アメリカンドッグ食べたいのに」

「アメリカンドッグ」

「そーよ。コンビニよって、アメリカンドッグ食べたいんだから」

「それは素晴らしい!」

 

 ぎょっ、とした。

 くるりときれいなターンで振り向いたななかは、きらきらと輝く目でさやかを見上げた。

 流れるように手まで取られて、さやかは唖然とした。

 

「深夜のコンビニで、ホットスナック! 私、したことがありませんわ」

「ああ、そう……?」

「それもお友達と!」

「誰が?」

「さやかさんが」

「誰と?」

「私、常盤ななかと」

「オーケイ、あたしちょっと今月はCD買い過ぎたから間食は控え」

「もちろん奢りますわ?」

 

 柔らかく手を取って、楽し気に上目遣いで見上げるななかに、さやかは口ごもった。

 その手は、花を生ける手に似ている気がした。

 この目は、なんだか仁美に似ている気がした。

 そしてそういう目に、さやかはノーと言えないのだった。

 

「……あー……」

「いー?」

「そういうのいいわよ。ああもう、しかたない」

「それでは?」

「あたし早く帰りたいんだから、急ぐわよ」

「では、参りましょうか!」

 

 結局、アメリカンドッグは自分で買ったし、コーヒーマシンの使い方は教えてやった。

 肉まんの湯気を浴びる顔は、存外に幼い、ような気がした。

 

 



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夢の中を歩くように(さや仁)

はじめに

・上条恭介と付き合っていた志筑仁美概念あります。

・暴力シーン、グロテスクな流血描写があります。

・不安定な精神状態の描写が含まれます。

・何も解決しません。落ちもありません。

お楽しみください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近頃の仁美は浮き沈みが激しかった。

 精神的に不安定といってよかった。

 俯きがちになり、ため息が増え、微笑みも力ない。

 まどかは酷く心配して気にかけてやっていたし、さやかにもほとんど挨拶のように仁美ちゃんを気にかけてあげてねとことあるごとに告げた。

 さやかも仁美の友人である。自惚れてもいいなら、親友と言っても良い。

 だからもちろんさやかもよくよく気にかけてやっていたし、慰めてやりたいと思っていた。はしゃいだようにおどけて見て、反応が悪ければそっと寄り添って穏やかに過ごしてやっても見せた。

 そうして気遣いをされること自体に仁美は申し訳なさそうだったが、友人の不調を思い遣りこそすれ負担に思うようなものはひとりとていなかった。

 とくにさやかは、仁美の不調の訳を知っていたから、ずいぶんかわいそうに思って、親身になってやっていた。

 その訳というものは、折角付き合うようになった相手である上条恭介であった。もっと正確に言えば、付き合うようになったけれど、近頃うまくいかずに破局にいたってしまった上条恭介である。

 上条恭介は将来有望なヴァイオリニストであり、顔も悪くなく、性格も酷いということはなく、端的に言って有望株である。そういう表向きのラベルをなくしても、幼馴染であるさやかは恭介のことをよく知っていたし、そして、恋もしていた。

 正直なところ、いまとなってはその恋心は告白しなくてよかったと思う。仁美は正々堂々さやかに告げてから恭介に告白し、見事恋人となったが、傍から見ているとその恋人関係は妬ましさや恨めしさよりも心配が多かったのだ。

 恭介は悪い人間ではない。普通に笑うし、冗談も言うし、古い漫画を読んで面白いと感じたり、人に勧めたりするような立派な社交性もある。クラス内でも、良くも悪くも年頃の男子といった具合だ。ただ、その優先順位のかなり上の方に、ヴァイオリンがあるというのが問題だった。

 恭介は音楽を愛し、ヴァイオリンに誇りを抱いていた。ヴァイオリンを弾くことが、恭介の人生の中でかなりのウェイトを占めていた。

 仁美と付き合うようになって、年頃の男の子らしくはにかんだように照れ笑いしたり、仁美の微笑みに頬を染めて微笑み返したり、仲睦まじく遊園地でデートなどもしてみせた。プレゼントに大いに頭を悩ませて、幼馴染であるさやかに必死になって相談を持ち掛けてきた時など、そう言うところだと思いながらも絆されてしまった。

 そう、悪い人間ではない。ただ、まあ、相性が、悪い。

 ヴァイオリンに夢中で時間を忘れ、デートに遅刻したりすっぽかしたことは数知れず、じゃあお家デートにしようかと仁美が気を利かせれば一日中ヴァイオリンを弾いて聞かせる気の利かなさである。

 コンクールを前にして振るわなかったり、なにかにつまずいてうまく弾けない時にはその空気の読めなさもひとしおだった。苦悩し、足掻き、努力する。それは美徳だろう。しかしそうしてもがいている時の恭介に他人を思いやる余裕はなかった。

 仁美も支えてやろう慰めてやろうとはするのだが、いくら教養があるとはいっても仁美は奏者ではない。恭介の悩むところももどかしさも、仁美にはわからない。わからない人間が慰めようとしても、とても噛み合うものではない。

 破綻は時間の問題で、そしてその時は来てしまったというだけだった。

 さやかははたからそれを見て、自分が辿るかもしれなかった恋路を客観的に理解させられてしまっていた。

 そりゃあ、恋をした。

 その恋は紛れもなく本物で、輝かしいものだった。

 しかしいま思うに、さやかは割と恋に恋をしていた。

 恭介に恋をしていたというよりも、恭介のヴァイオリンに恋をしていた。

 あの日、さやかは美しい音色を聞いた。それを生み出す指先を輝けるもののように感じた。

 さやかの恋は本物だった。そしてその恋の落ち着くべき場所は恭介の隣ではなく、恭介が演じるコンサートホールの座席の一つだということがよくよくわかった。

 だからいまでは割とさっぱりとした気持ちで恭介を罵倒できた。

 仁美を泣かせてんなよと。

 結局、恭介が仁美に謝罪したのは、コンクールが無事に終わり、スランプを抜け出してからのことで、その時には二人ともこれ以上続けるのは無理そうだと感じていた。結果的には、時間が二人の恋をなだめて、安穏に終わらせてくれたのだった。

 とはいえ、客観的に見ることのできたさやかとは違い、正面から恭介と向き合わなければならなかった仁美のショックは決して小さいものではなかった。

 コンクール会場できっぱりと別れ話を終えた後、まどかとさやかに挟まれて安っぽいラーメン屋の味の濃いラーメンを涙ながらにスープまで飲み干した仁美は、カラオケ屋で声が嗄れるまで歌い、門限を少し過ぎてから帰っていったほどであった。ここまでの不良行為を仁美がしたのははじめてだった。

 仁美の失恋はいまもあとをひき、慰めてやったさやかに甘えてその傷を癒しているのだった。

 授業中はともかくとして、休み時間になる度に仁美はさやかの席にやってきたし、昼休みにはぴったりと隣に座って昼食を摂った。時折肩に頭を預けてきたり、意味もなく手をつないでみたりと、とにかく触れたがった。きっと心が寂しくて、誰かのぬくもりに飢えているのだろうとかわいそうになって、さやかはそれに丁寧に答えてやった。どこかのヴァイオリンバカと違ってさやかは気が利くと自負していた。

 最初のうちはまどかもそれに同席して、時々冷やかすようなこともあったが、近頃はほとんど仁美と二人きりである。

 朝は、いままでも一緒に登校していたが、近頃は家を出ると門の前に仁美が待っている。それから手をつないだり、腕を組んだりして、途中でまどかと合流し、当校する流れだ。本当なら恭介のやつがこうして一緒に登校してやっていたはずなのだ。代役があたしなんかでごめんねとさやかはなんだか申し訳なかった。

 下校時間は、最近遅くなった。さやかは部活もしていないので、のんびり家に帰るか、そのまま魔法少女としてパトロールに出るのが日課だったが、仁美が寂しがるので、付き添ってやるようになった。門限ぎりぎりまで校舎でお喋りしたり、のんべんだらりとお散歩したり。時々ショッピングに出ることもあった。

 仁美はことあるごとにさやかに何かしら奢ろうとしてくれたが、これは断った。付き合わせて申し訳なく思っているのだろうが、さやかも友人とこうして遊ぶのが楽しいから気にするようなことではない。そこにお金が絡んでしまうと、かえってよくない。

 勿論、二人で同じように金を出して買い食いしたり、そう言うことは喜んでした。さやかが小遣いが足りないと嘆いたときは、二人で折半して一つのクレープを分け合ったりもした。なんだかユウジョウって感じだとさやかは青春を覚えたりもしたものだ。

 いよいよ門限が近くなると、仁美は人気のない当たりで、さやかに体当たりでもするようにぶつかってくる。それがわかっているから、さやかは痛覚を切っておいて、全然なんでもない風を装ってこれを抱き留めてやっていた。

 震えるその背中を撫でてやり、大丈夫だと声をかけてやり、仁美はがんばってるよ、あたしがそばにいるよと慰めてやった。

 呆然と見上げてくる仁美の頬を撫でて、明日もちゃんと会えるからと微笑んでやり、ふらつく仁美が迎えに来た黒塗りの車に乗り込むまでしっかり見送る。

 それでようやくさやかはパトロールに出るのだった。

 ほとんどいつも仁美がべったりで、大変と言えば大変だし、疲れると言えば疲れるのだが、むしろそんなにまで仁美が大変なのだと思えば、その程度は苦でもなかった。

 さやかは仁美の親友なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迎えの車に揺られながら、仁美は自分の手を見つめていた。

 そのかすかな手の震えは、気取られていないだろうか。顔色の悪さは。

 ちらと視線をやった先で、運転手は寡黙に業務に勤めていた。あくまでも業務として仕事に専念し、顧客の都合は気に留めない。気が利かないとも言えるその武骨さが、いまの仁美にはありがたかった。

 そっと手で口元を覆い、深く息を吸う。

 さやかのにおいがした。それだけでくらりとするような少女のにおい。

 そしてなまぐささと鉄さびの香り。

 仁美にはそれが現実なのか幻覚なのかもうわからなかった。

 先程まで、この手の中には包丁が握られていた。

 それは笑顔のさやかの腹に垂直に突き立てられ、そして今もそのまま笑顔のさやかの腹に垂直に突き立っているはずだった。そんな破綻したストーリーなど、幻覚だと考えた方が自然ではないだろうか。しかしさやかの温もりも、刃を突き立てた衝撃も、はっきりと思い出せるほどにその手に残っていた。

 鞄の中には包丁ケースが収まっている。中身はない。いや、そもそも最初からあったのだろうか。仁美には自信がない。包丁なんて持ってきただろうか。ケースだけが入っていたのではないだろうか。そもそもこのケースさえ幻覚なのではないだろうか。

 しかし確かめる術などない。

 仁美はここしばらくの間、そんな現実と幻覚の間をさまよっていた。

 恭介との間に決定的な破局が訪れた時、仁美は自分がひどくショックを受けていることにショックを受けていた。覚悟は決めていたはずだった。こうなるだろうと予想がついていたはずだった。なのに、いざ別れを切り出し、それが認められてしまったとき、仁美の心は奇妙にかしいだ。

 そのかしいだ心をさやかが支えてくれた時、仁美は致命的に揺らいでしまった。

 親身になって慰めてくれるさやかが、まるでかみさまのように思えた。

 恋敵であったはずの自分と友情を続けてくれ、そして失恋した自分を柔らかく受け止め慰めてくれる。こんな尊い存在がいていいのだろうか。

 仁美の中の冷静な部分は、さやかのお人好しな性格と、その情の深さ、そして恭介の幼馴染であるからという奇妙な責任感などを正確に分析し、さもありなんと納得していた。しかし感情は、どうしようもなかった。致命的なタイミングで、致命的な角度で、さやかという存在は仁美の懐の深いところに刺さってしまった。

 自分でものめり込みすぎだというのは感じていた。志筑仁美はもっと冷静でなくてはならない。そのような教育を受け、そのような教養を育んできたはずだ。

 わかっている。

 わかっていた。

 しかし、これは、沼だ。沼にずぶずぶとはまり込むように、仁美はさやかにのめり込んでいた。

 最初はただ慰めが欲しかった。失恋直後の期間限定の優しさが心地よかった。しかし近寄れば触れたくなり、触れれば離れたくなくなる。そして離れがたくなった次は、独り占めしたくなっていた。

 友人であるはずのまどかの隣にいることさえも、苦しく感じ始める自分の異常に、仁美は限界を迎えた。

 ある日のこと、仁美は人気のない放課後の校舎の裏で、さやかの腹に包丁をねじ込んでいた。

 適当な店で最初に目についたからという理由で購入したセラミックの文化包丁は、仁美が思い切るようにぶつかりながら刺したからか、柄までしっかりと突き刺さり、指にぬるりと血が絡みついた。

 わあと気の抜けた声とともに尻もちをついたさやかは、何をされたのかわからないといったようにきょとんとした顔で仁美を見上げた。

「仁美?」

 お腹に包丁が突き刺さって制服に赤い染みを広げていくさやかが、どうしたのとでもいうような顔で仁美を見上げてくる。

 非日常と日常が、仁美の脳内でねじれて爆ぜた。

 仁美は逃げ出した。息も絶え絶えに走って逃げ、迎えの車に飛び込んで、訳も言わずただ出してと怒鳴った。

 指先に残った血を見つけて恐慌しそうになり、でもハンカチで拭いたら血の染みが家のものに見つかると冷静な部分が呟く。そして恐慌と冷静の間で湯だった脳が、咄嗟に指を口に含んで血を舐めとっていた。生臭く、塩気と鉄の味がする、ぬるい血液。仁美はパンクした。

 はしたなくも指をくわえたまま家に辿り着き、なにをどうしたものか、気づけば翌朝だった。

 ぼんやりした頭で指先を嗅いでみたが、もちろん血の匂いなどしなかった。

 家のものはいつも通りで、空はよく晴れて心地よい風も吹いていた。

 運転手はいつも通り仁美をさやかの家まで送り、さやかはいつもどおりあくびをしながら出てきて仁美に微笑みかけた。

 夢。だったのだろうか。仁美は咄嗟に笑顔をつくりながら、頭がおかしくなりそうな夢を頭から追い払った。

 そうだ。あれは夢だったのだ。

 あれは、あんな、ああ、

「あ、仁美、忘れ物。あたし以外にしちゃだめだよ?」

「え、あ」

 いつも通りの日常から、非日常がまろび出る。

 さやかはハンカチで刃を巻いたセラミック包丁をそっと取り出して、仁美に握らせた。それは夢の中で散々リフレインした手触りだった。

 仁美は咄嗟にそれを鞄にしまい込み、青ざめてさやかを見た。

 さやかはそんな仁美を不思議そうに見つめ返して、ちょっと小首を傾げた。

 それは、まだ寝癖が残ってたかなとでも考えているような、あどけない表情だった。

 仁美はますますわからなくなった。

 いまのやり取りさえ幻覚なのだろうか。白昼夢なのだろうか。

「仁美、顔色悪いよ。辛かったらあたしに言いなよ」

 さやかに手を取られ、ふわふわとした心地で仁美は歩いた。

 これは。これも夢なのだろうか。それとも現実。

 あれから毎日、仁美は放課後になる度にさやかを刺し、朝になる度に突き立てた包丁をさやかの手から受け取った。

 確かに刺したはずなのに、それとも刺していなかったはずなのに。

 どちらが夢で、どちらが現実か、仁美にはもうわからない。

 ただわかるのは、それでもさやかは優しく、この夢の終わりを仁美はもう望んでいないということだった。

 

 

 

 



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ノン・カロリー・キス(ななさや)

熱量もなく、甘さも偽物で、舌に響く酸味と塩気ばかり生々しい。
それなのに、こんなにも胸が弾む。


 かしゅ。

 缶飲料のプルタブというのは、どうしてこう期待を持たせる音がするのだろうか。

 美樹さやかはロング缶を手にふと思った。

 他愛もない些細な音に過ぎないのに、そのちっぽけな音を聞くと、なんだかわくわくしたような気持ちになる。さやかはこの持論にかなりの自信を持っていたが、いまのところ共感者は少ない。そうかな、そうかも、という程度である。

 担任の早乙女和子教諭はとてもよくわかると頷いてくれた。彼女の場合は仕事上がりの缶ビールだったが。さやかには残念ながらその気持ちはまだわからなかった。

 ともあれ、さやかはその期待とともに缶の中身を呷った。

 正直なところ、その期待からはちょっと外れた味わいなので、小首をかしげたくもなる。不味いわけではない。むしろ心地よくさっぱりと飲める。若干の塩味が、疲れた身体に効く、ような気がする。

 ただやっぱりこう、もっとえげつないぐらいパンチの利いた味を期待していただけに、やや物足りなさは感じる。何事においても満たされないやつらを対象としているにしては、と。

「……なにを飲んでらっしゃるんですか?」

「ウルトラなやつ」

「ウルトラなやつ……」

 そんなさやかを胡乱気な目で眺めているのは常盤ななかであった。

 缶を呷るさやかの白い喉はいつまでも眺めていられたが、それはそれとしてその缶に描かれた荒々しい爪痕を思わせるパッケージはいささか気になるものだった。その特徴的なデザインは、ななかでも名前くらいは耳にしたことのあるエナジードリンクのものだった。これはそれのウルトラなやつであるらしい。

 ななかはエナジードリンクなるものを飲んだことがない。いわゆる栄養剤、小瓶で売られているものくらいならば、疲労や体調不良を感じるときに飲んだことはある。しかしそれは医薬品としての扱いであって、まるでジュースのようにごくごく飲む類のものではない。

「あまり健康には善くないと思いますが」

「燃料補給よ燃料補給。あたし、動き回るから」

「確かに、よく跳ねまわってますものね」

「……なんか言い方が気になるけど」

 魔法少女は基本的にタフだ。

 物理的な耐久性は勿論、莫大なカロリーを消費してそうな運動をしてもけろりとしているスタミナや、翌日に疲れを残さない回復力など、通常の人類とはかけ離れた性能を持つ。

 とは言えそれは万能ではない。

 単純な身体能力の強化とはいえ、それらはすべて魔法の産物だ。魔法少女の全ては魔法によるものと言っていい。極端な話、魔法少女にとって肉体とは、本体であり魂であるソウルジェムが操縦する修理可能な乗り物に過ぎず、燃料さえ切れなければ動かし続けることのできる便利な人形。

 逆に言えば、魔力が切れてしまえばその肉体は通常の人類のそれと何ら変わりない。それどころか、神浜のような特殊地帯でもなければ、魔力切れはほとんどイコールで穢れをため込み魔女化すなわち死につながる。

 魔法少女のタフさは魔力頼りなのだ。

 だからこそ莫大な魔力持ちはそれだけで強いし、グリーフシードを集められるものはその回復にもつながる。そして魔力を効率的に運用することがより優秀な魔法少女への道だ。

 なので少ない魔力をできるだけ効率的に運用し、普段から体調や健康を気にかけること、身体のメンテナンスを行うことが必要だ。

 さやかもそれは大事だと思うし、自分も気を付けるべきだと思う。

 その上でのエナジードリンクであった。

「やっぱりさ、いくら魔法で痛くない疲れないってなっても、どっかで無理してると思うんだよね。そう言うの普通のご飯とかだけじゃ足りないから、燃料補給みたいな」

「……燃料にしては、カロリーがありませんね」

 ノンシュガー、カロリーゼロがうたい文句であった。

 エネルギー、たんぱく質、脂質、見事にゼロが並ぶ。これでは燃えるものもあるまい。

「……心の! 心の燃料だから!」

「飲んでみたかっただけ、ですね」

「むぐ」

 図星である。実際のところ、興味本位以上の意味などなかった。

 そして一口飲んでしまうと、その興味も収まってしまった。

 あれほど魅力的に思えたパッケージも、しかし味を知ってしまった今は、ビタミンとカフェインを含むスポーツドリンク風の飲料でしかない。あっさりさっぱりごくごく飲めるが、満足感はやや乏しい。

 酸っぱいクエン酸は疲れが取れるような気がするし、カフェインなんかのおかげで目も冴えてくるけれど、カロリーゼロは確かに意味がない気がしてきた。まるで燃料にならない。

 覚醒感のおかげでバリバリやる気が出ているが、走り回っても燃やすものがないのだ。エンジンの空ぶかしに等しい。あとで大層腹が減ることだろう。

 しかしわざわざそんなこと指摘しなくていいだろうとさやかは恨めしげにななかを睨んだ。気付かなければあとで後悔するだけで済んだのに。

 そもそもこの女はなぜさも当然のような顔をしてしれっと隣にいやがるのだろうかとさやかは訝しんだ。チームを組んだわけでも、ましてやお友達なんかであるわけでもない。にもかかわらず、神浜をうろつくと高確率でこの女と出くわしてしまうのがさやかには不思議だった。

 さっさと飲み干して立ち去りたいところだが、ロング缶はなかなか容量があって一息には飲み切らない。いくらさっぱりしていようと、一缶分というのは意外に量があるのだ。かと言って歩き飲みするには、缶というのは存外じゃまだ。

 邪魔な缶。邪魔な女。ダブルで邪魔だなとさほどの悪意もなく考えて、さやかはこの二つをまとめてしまえばいいのだと気づいた。

「おっしゃるとーり、飲みたかっただけで、満足したし、あとあげる」

「……よろしいんですか?」

「よろしいよろしい。じゃあたしはこれで」

 きょとんと眼を丸くした顔は、なんだかあどけない。押し付けた缶を両手で受け取って、まじまじと飲み口を見つめる姿はどこか子供っぽい。それがなんだか新鮮で、少しの間さやかは見守ってしまった。

 ななかは少しの間、よくわからないものをよくわからない気持ちで見るような目で缶を、その飲み口をじっと見つめて、そしておもむろに両手で掲げてこくりと一口飲んだ。

 あまり口に合わなかったらしいことは、寄せられた眉が如実に語っていた。ちろりと赤い舌先が唇から顔を出し、舐めるようにもう一口。

「……悪くはありませんね」

「うっそだぁ」

「いえ、そうですね」

 ななかは少し目を伏せて笑った。

「さやかさんのような味がしますね」



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顔も知らぬ名も知らぬ(ほむあん)

 佐倉杏子は慈悲深い性質ではなかった。

 情がないとは言わないし、言う気もないが、情け深くはないと自認している。

 優しさというものとは縁遠くなって久しく、とてもではないが仲良くしているとは言い難い関係だ。

 物事を解決するための手段として、暴力が選択肢の一つに必ず上がるような人種だし、関係のない他人の命がどこでどう散ったところで胸を痛めるようなこともない程度には薄情だ。

 だからそれは単なる気まぐれだった。少なくとも杏子はそう思っている。

 ここしばらくのこと、猫に餌をやるように、佐倉杏子は少女に餌付けしていた。

 杏子がコンビニのビニール袋を片手にいつもの場所を訪れると、彼女は変わらずにそこにいた。へたり込むように座り込んで、薄い肩をゆらゆらと揺らしていた。

 杏子は「よう」と短く声をかけ、それから短く舌打ちした。自分の行いの馬鹿馬鹿しさを再確認したからである。

 杏子の声は彼女には届かない。もしかしたら届いているのかもしれないが、ちらとも反応も示したことはない。杏子の姿も目に入らないし、杏子のやることなすことを気にかけることもない。なにもできない。

 そりゃそうだ、と杏子は再度諦めと自虐を込めて舌打ちした。

 杏子はどっかりと少女の隣に腰を下ろし、ビニール袋を開いた。中身は紙パックの紅茶と、ゼリータイプの栄養補助食品。どちらも杏子の好みでは、全然ない。紙パックの紅茶なんて甘ったるく紙臭いだけだし、栄養食品なんて味気のないものを腹に入れたくもない。せめてかじられる奴でなければ、食いでがない。

「なあ……なあ、あんた、好き嫌いあんのか? あってもわかんないかな、それじゃ」

 杏子は少女の名前を知らない。顔だって知らないのだ。いまも馬鹿馬鹿しいと思いながら話しかけているが、実際のところ独り言に過ぎない。

 その少女には頭がなかった。

 愚かということではない。文字通り、少女の頭部は欠落していた。ほっそりとした色素の薄い下あごと、艶やかな黒髪の流れるうなじを残して、それから上はどこにもないのだった。ただ赤黒い断面だけがそこにさらされていて、おとがいに小さく収まった舌が時々ぴちゃりと音を立てた。

 目を向けても視線が合わず、行儀よく並んだ歯と横たわる舌を見下ろすとき、杏子は酷くいたたまれない気持ちにさせられた。

 はじめてこの少女を見つけたのも、この場所だった。

 夢見るような足取りで、辛うじてバランスを保ちながら、頭のない少女はふらりふらりと彷徨っていた。どこへ行くわけでもなく、ただ、どうしようもなくふらふらとしていた。

 その奇怪な姿を目撃した時、何を思ったのか、杏子は正直なところあまり覚えていない。

 試しにと槍の石突でそっと肩をつついてみて、何の抵抗もなくぐらりと倒れ込むのを咄嗟に抱え込み、迂闊だなと思いながらも地面に座らせた。その肩は薄く、身体は軽く、あまりにも弱々しい生き物のように思われた。いや、そもそも頭がないのだ、それで生きているということ自体が奇妙でならなかった。

 杏子はそれでもその少女が確かに呼吸をし、心臓を動かしている事実に気づいて、ほとんど現実逃避のように鶏を思い出していた。マイケルだかジョンソンだか、なんとかいう鶏が、首を落とされた後も一年以上生きていたという話だった。

 そしてその手に紫に輝く宝石を見つけて、杏子はそう言うこともあるのかと自分を納得させた。

 魔法少女の本体はソウルジェムだ。ソウルジェムが砕ければ死ぬし、そうでなければ死なない、ゾンビのようなもの。こいつは頭を吹き飛ばされて、それでもなお死を認めず、さりとて回復も出来ず、こうしてここで彷徨っていたのか、そのように判断した。

 杏子はその境遇に同情などしなかったし、その胸のうちに慈悲などなかった。

 だから、そう、それはやはり気まぐれだったのだ。

 杏子はそのように考えている。

 紙パックの紅茶を慎重に少しずつ舌に垂らしてやり、こくりこくりと反射的に嚥下するのを見守る。ゼリータイプの栄養補助食品のアルミパウチをそっと喉に差し込んでやり、じわりじわりと絞ってやる。それから背中を軽く叩いてやると、少女の肉の管の奥から小さくげっぷが上がった。

「リンゴ味だってさ。この前のは、グレープフルーツ。ま、どっちにしろこれじゃ味もわかんないよな。値段は一緒だから、次は在庫がある方を買うよ」

 もちろん返事などない。

 だが黙っていると自分の頭がおかしくなりそうで、杏子はどうもでもいい独り言を繰り返した。あるいはそれこそが頭がおかしくなった証左なのかもしれない。

 紙おしぼりで、頬をぬぐい、首筋をぬぐい、手を拭いてやる。汚れはない。だがそれでも、いくらかはさっぱりするだろうと考えて、また自嘲する。こいつには何かを感じる脳みその欠片だってありゃしないのだ。こんなものは何の意味もない自己満足だ。お人形遊びだ。

 吐き捨てながら、杏子は手を止めなかった。

 少女の左手をそっと持ち上げてやれば、そこには紫の宝石が鈍く光っている。この色合いは、澄んでいるのか濁っているのか、一目にはわかりづらい。グリーフシードを押し付けてやれば、少し穢れを吸ったような気がする。気のせいかもしれないが。

「考えたり、感じることができないんだからさ……苦しいとか辛いとか、そう言う穢れも出てこないのかもな」

 何にも感じないというのが幸せかと言えば、恐らくはノーだが。

 ビニール袋をあさり、駄菓子を取り出して無造作に口にしながら、杏子はゆらゆらと揺れる首無しの魔法少女を眺めた。

 あたしはこいつをどうしたいんだろうか。

 自問ははじめてのことではなかった。何度となく繰り返してきた。

 食事を与え、身を清め、穢れをはらってやり、そして、それでどうしたいのだと自問する。

 失われた頭部を回復させてやれば満足なのか。不自由なく生きられるようにしてやりたいのか。どうしてまた一銭の足しにもならないことをしようなどと考えるのか。

 佐倉杏子は慈悲深い性質ではない。

 関係のない他人の生き死になどに心動かされることのない程度には薄情だ。

 しかし、道端に転がる生き物を放っておけない程度には、杏子の中には杏子を育てたものが染みついていた。杏子自身が拒もうと、蔑もうと、その性質は杏子自身を形作るものだった。杏子を育て杏子の肉となり、今更別つことのできないものだった。

 少女はふらりと立ち上がり、そして何もしなかった。

 ただそこに立って、ふらふらとしている。あるいは何かをしようとしているのかもしれない。どうしようもなくどうしようもない何かを前に、これが最大限の努力なのかもしれない。

 足掻いても足掻いてもどうしようもなく、どこへも進めず何にもなれず、それでも終わることも終わらせることもできず、諦めることも逃げ去ることもできず、生きているのか死んでいるのかわからなくなってなお、なにかであろうとしているのだろうか。

 それは杏子の独り相撲に過ぎないのかもしれない。

 しかし、それは杏子自身にもどうしようのないことだった。

「なあ、あんた――」

 答えの返らない問いかけは、しかし形になる前に銃声に掻き消えた。

 頭のない少女のその下あごがはじけ飛び、薄い肩がえぐれ、ふらつく足が跳ね飛び、そして不器用なダンスでも踊るようにぐらんと回りながら崩れ落ちた。

 途端に周囲の景色は色彩を取り戻し、ビルのはざまの路地裏がコンクリートの地肌をさらしていく。

 杏子は冷たいコンクリートに腰を下ろしていた。杏子はビニール袋を手にしていた。杏子は独りだった。

「何をしているの、杏子。あなたらしくもない」

「……あん?」

「結界に出入りはするのにグリーフシードは持ち帰らない。巴マミの家にも顔を出さない。おかげで私は探偵の真似事。笑えないジョークね」

 月明かりに浮かんだ姿に、杏子は目を細めた。自分を見下ろせば、深紅の魔法少女装束。そばにはグリーフシードが転がっている。

「……魔女だったのか」

「魔女以外の何? 幻術使いのあなたが惑わされるとはね」

「惑わされたんじゃねえ……ただの気まぐれだ」

 そうだ。ただの気まぐれだ。

 杏子はグリーフシードを槍で弾いて、拳銃を携えた女に放ってやった。

「何か因縁のある魔女だったのかしら?」

「いや……いいや、なんでもない」

 色素の薄い肌に、黒い髪。暁美ほむらのいけ好かない顔を一瞥して、杏子はため息をついた。

 杏子は慈悲深い性質ではない。優しさとは縁遠く、薄情で身勝手。

 だからあれは同情じゃなかった。哀れみなんかじゃなかった。

 ただ、どうにも、似ている奴の顔が頭によぎった。

 それだけのこと、それだけの話だ。

「ラーメンでも食うか?」

「あなたの奢りならね」

「いいよ、奢ってやる。面倒かけたし」

「……………」

「お前その不審そうな顔させたら右に出る奴いねえな」

 そう、それはそれだけの話だった。

 

 

 

 

 




無力の魔女
その性質は停滞。
この魔女は何もしないし、何もできない。
救いを求めることすら、もはやできない。
なんにもならず、どうにもならない。
しかしどうしたわけか、惹かれ惑うものが少なからずいるようだ。


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それらはすべて匣の中(ななさや)

 少女が一人、電車に揺られていた。

 

「すべてを投げ出して逃げ出してしまえたらと、そう思ったことはありませんか」

 

 平日昼過ぎのこと、各駅停車の鈍行列車の車内は閑散としていた。

 少し前まではどこか懐かしい土の匂いのする荷を抱えた夫人が同乗していたが、何駅か前にその姿も消えた。

 規則的な揺れと、時折聞こえる車内放送。

 冴えていたはずの目がいつしか眠りに沈みそうな、そんな。

 だからななかが溢した言葉を、さやかは取り逃しかけた。

 それは問いかけのような、独り言のような、曖昧な呟きだった。

 聞かせる気があったのか、どうなのか、それさえわからない。

 ちらと見上げたななかの横顔は、静かに車窓から外を眺めていた。

 その横顔をさやかは美しいと思う。

 てらいもなく、ただ、きれいだなと思う。

 その中身を考えなければ、常盤ななかは美少女であった。いや、その中身もまた、その美しさを何らかげらせるものではない。むしろその内面こそが、彼女の静かな横顔にしみ出す何かを生み出していた。

 さやかにはそれが何なのかわからない。わからないから、さやかは素直に認めることができないのだろうか。まるで子供の嫉妬だ。何を妬んでいるのか、うらやんでいるのか、それさえもわかっていない。

 

「不思議な話ですね。奇妙なことです。復讐のために立ち上がり、その一心で戦ってきたつもりです。なのに、時々、何でもないような一瞬に、ふと思うのです。家に帰りたいと。あるいはまた、どこか遠くへ行ってしまいたいと。全然別の方向のことを、同じように思うのです。ただただここから離れてしまいたくなるんです」

 

 ぽつりぽつりと、ななかは呟いた。

 その声には、ななかの言う通り心底不思議に思う色と同時に、なんだか奇妙に腑に落ちたような納得の色がうかがえた。わからないのに、わかっている。知らないのに、知っている。

 納得できない納得がななかの中にあって、それがいまこうしてさやかの前で形にならないままに吐き出されているようだった。

 

「ファスト・フードを利用したことがありませんでした。馴染みというものがありませんでした。おかしな話で、魔法少女となって、魔法少女達とかかわるようになって、そうして非日常の世界で戦うようになって、私ははじめて当たり前の世界を見るようになりました。繊細さの欠片もない安っぽい派手な色使いは、しかし弟子たちが好き勝手にふるまい始めたあの外連味のようなものは感じられませんでした。それはありふれた町中に溶け込んだ色でした。そして」

 

 ななかは眼鏡越しの視線をさやかに向けた。

 それから、そしてと何回か囁くように繰り返してから、ふいと視線を切って車窓の外を見やった。

 

「そしてあなたを見ました」

 

 さやかはそれを黙って聞いていた。それをどんな気持ちで聞いていたらいいのかわからなかった。

 ただ聞くよりほかになくて、そうしていた。

 

「あなたはきっと、ほんの少し通りかかっただけの、目も合わなかった見知らぬ女のことなど、覚えてはいないことでしょうね。でも、その時のことはどうにも奇妙に私の中に残っています。あなたはお友達と話していましたね。きっと、学校のことや、テレビで観たドラマのこと、そんな些細なことを。笑顔が何種類もあることを、私はそのほんの少しの間に知りました。歯を見せ、喉を反らして、声をあげて笑う姿が、私にはなんだか眩しく思えました」

 

 さやかはそれを覚えていなかった。

 そもそも最初から気付いてさえいなかった。

 ありふれた日常の中の、その背景にさえきっと映り込んでいなかった。

 それでもそのどこかに、彼女はいたのだ。

 

「あなたの戦う姿を見ました。あなたはいつの間にか魔法少女になっていて、そして戦っていた。風のように踊りながら、あなたは真剣な目をしていましたね。綺麗だと思いました。美しいと感じました。光り輝くようにさえ見えました。そして声をかけられませんでした。きっと私の目は曇り始めていたから。ええ。ええ。そうです。私はきっと」

 

 ななかは笑ったようだった。

 それはななかの言う何種類もの笑顔の中で、彼女が持ち合わせるほんのいくつかのうちの、一番馴染んでしまったものだったのだろう。苦い溜息がこぼれて落ちた。

 こぼれて落ちたそれを掬い上げて、大切に押し頂くように、ななかはあてどもなく手をさまよわせた。半端に持ち上げた掌が、どこへも行けず迷っている。

 

「ええ。私は、きっと、恋をしていました」

 

 それはまるで懺悔のようだった。

 信じてもいない神に、それでも吐き出さねばならないようだった。

 許しを乞うわけでも、罰を求めるわけでもない。

 ただ、それを胸のうちだけにとどめておくことができないのだった。

 そうしてその吐き出す相手としてさやかを選んだくせに、すべてを預けることも出来ずに半端に手元で転がしている。

 さやかはななかのそう言うところが好きではなかった。

 そう言うところが、もどかしくて仕方がなかった。

 

「すべてを投げ出して逃げ出してしまえたらと、そう思ったことはありませんか。私は時々あるんです。そうするつもりが全くなく、そうできる機能もきっともうすでに捨て去ってしまったというのに、それでも思いだけは時々よぎるんです。当たり前のように、当たり前の日常を、当たり前に笑いながら、当たり前に誰かと過ごしたいと────あなたと過ごしたいと」

 

 さやかはそれを黙って聞いていた。

 応えられるかどうかは別として、受け止めてやりたいとさえ思った。

 けれどななかはそれを求めなかった。半分だけ手のひらに吐き出した、形のない思いを、独りでそっと呑み込んだ。

 

「そんな夢を見ることもあるというだけの。それだけの話です」

 

 ななかの指がそっと伸びて、さやかの目の前で蓋を閉じた。

 閉ざされた箱と少女が一人、電車に揺られていた。

 次の駅はまだ、遠い。

 

 

 

 

   ◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

「あんたなんか言いたいことないの?」

「はて。あなたと歩いているだけで満足です、とでも言えば?」

「そういうんじゃなくってさあ。なんかこう、悩みとか……妙な性癖とか」

「は?」

 

 常盤ななかの目を丸くする顔というのはあるいはレアかもしれない。

 ただ、気まずい空気と引き換えにしてまで見たいかというと別だが。

 さやかはなんでか知らないけれどいつの間にか同道していた魔法少女にため息をついた。

 

「人様の手足ぶった切ったり、箱に詰めたりとか、そう言う猟奇的なこととかさ」

「さやかさんは私をどんな目で見ているんですか……?」

「いや、別にそう言うわけじゃないけど……おとなしい子って、なんか胸にしまい込んでることとか、ありそうじゃん」

「それは……それは、どうもお気遣いを?」

 

 気遣いとかそう言うわけではないのだが、かといってどうにも説明のしようがない。

 さやかは諦めて頭を軽く振り、黙ってパトロールを続けた。

 そしてななかも当然のようについてくる。

 なんでかな、と思う。なんだかな、とも思う。

 成程、もやもやしたまま吐き出してもなあ、という気持ちにもなる。

 それでもなんだか吐き出さないとすっきりしなくて、さやかはこぼすように呟いた。

 

「あんたさ」

「はい?」

「眼鏡、けっこう似合ってるよね」

「……は?」

 

 そんな夢を見たこともあるというだけの。

 それだけの話だった。

 



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青い花瓶(全年齢版)(ななさや仁)

 友達なんだから何でも知っている、なんて思い上がっていたわけではなかった。

 ただ、思いの外に知らないことが多かったのを、さやかが勝手にショックに感じただけだった。

 そのショックはなんだか妙に大きなもので、少しの間ぽかんとしてしまっただけだった。

 そう、それだけだ。

 

「やはりさやかさんには、青がよく似合いますね」

「ええ、本当に。はい、少し上を向いてくださいね、そう……」

「緊張されていますか? リラックスしてくださいね」

「いつもの元気なさやかさんも素敵ですけど、こうしているとまるでお姫様の様で……」

「ふふふ、本当に」

「ふふふふ」

 

 左右から、前後から、二人の声に翻弄されながら、さやかは困惑した。

 どうしてこんなことになったのか。

 

 この頃の仁美は、お稽古に前向きだった。

 様々な稽古事を嗜んでいることは知っていた。そしてそれをいくらか重荷に感じているということも。

 それが、放課後になるや足取りも軽く楽しそうに向かうようになった。

 ため込みがちな仁美が、なにか気持ちを軽くするものに出会えたのならばそれはいいことだった。

 

 聞けば、新しい華道の先生というのが、ほんの一年先輩の中学生なのだという。

 おいおい大丈夫なのとさやかは思ってしまうが、年も近く話も合うということで、仁美は最近お花の楽しみとやらを思い出してきたのだそうだった。

 さやかはそれが我がことのように嬉しく、そして少し寂しい。

 

 もちろん、さやかやまどかとの付き合いがそれですっぱりなくなってしまったわけではない。

 稽古のない日は放課後を共に過ごしもするし、仁美がさやかたちを遠ざけることも、また自ら遠ざかることもない。

 ただ、お稽古の日にはあんまりにもあっさりと手を振って、迎えの車に乗って去ってしまうのである。

 

 なんか寂しいなー、ちょっともやっとするなー、などと言うことを口にするさやかではなかったが、それ以上に顔面が雄弁過ぎた。

 放課後に少し目を伏せて見送る物憂げなさやかの表情は、仁美の庇護欲をこれでもかと刺激した。

 玄関まで見送りに出て、きゅうんと心細げになく子犬のような愛らしさだった。

 それは仁美にしか見えない幻覚で、まどかには「ちぇー」と口をとがらせているようにしか見えなかったが。

 

 自分の知らないところで、自分の知らない新しい友達を作って、その誰かさんのことを楽しそうに話す親友。

 仁美は自らの身に置き換えて想像し、さやかに悪いことをしてしまったと深く反省した。

 もし自分がさやかに同じような仕打ちを受けたら、興信所に札束が積まれたことだろうと。

 

 けれどいまさら「先生」との仲をなかったことにはできない。

 そこで仁美が状況の打破のために選んだのが、個別の関係性を一つにまとめてしまおうということだった。

 つまり、仁美と「先生」、仁美とさやかという二つの関係性を、仁美と「先生」とさやかというひとくくりにまとめてしまえばいいのだと。

 

 そうして連れられた先で、さやかは知った顔を見ることになったのだった。

 

「あら、さやかさん?」

「常盤、ななか……?」

「ななかさんとお知り合いなんですの?」

 

 むしろ仁美こそ、という気持ちだった。

 

 小ぢんまりとした和室で待ち構えていた少女は、常盤ななかといった。

 さやかは彼女についてあまり詳しくはない。ほとんど知らないと言ってもいい。

 断じて友達ではないし、知り合いと言うほどでもないと思う。

 しかし、知らぬ仲、とも言えない。

 

 常盤ななかは魔法少女であった。そして美樹さやかもまた魔法少女であった。

 見滝原がホームであるさやかと、神浜にヤサを移してきたというななかは、そもそも土地が違うから出会うことすら珍しい。はずだ。

 その割には神浜に行く度になぜかこの女はさやかに奇遇ですねと挨拶をかましてくるのだが、言ってしまえばそれだけの仲だ。

 時折その場の流れで共闘することもあるが、目的も違えば方針も違う二人だから、仲良く御一緒にという感じでもない。

 

 しかしその微妙な関係性は、魔法少女ではない仁美には説明が難しい。

 だから曖昧に誤魔化したいところなのだが、不器用なさやかはなんだか隠し事でもあるみたいにええとまあうんそんな感じとか適当な返し方をしてしまう。

 ななかはななかでそれを面白そうに眺めて、何とも言えぬ含みのある笑みを深くするものだから、まるで本当に何かあるみたいだ。

 親友の可愛い嫉妬をなだめるために合わせたはずなのに、今度は仁美の方が降って湧いた嫉妬心に困らされた。

 

「ななかさんがさやかさんをご存知とは知りませんでしたわ」

「私も、仁美さんがさやかさんのような方とお友達とは……」

「意外、でしょうか?」

「そうですね、少し、意外かもしれません」

 

 仁美とななかは、さやかを挟んでゆるゆると語らった。

 それは傍目には微笑んで和やかな会話でしかなかったが、さやかはなぜだかお腹の奥の方がじんわり重くなって痛むような気がした。

 もぞもぞと足を崩して、「この部屋冷房利きすぎてない?」とでもいうように、「この部屋重力強くない?」とさえ思った。

 

 お手伝いさんが入れてくれたお茶の味さえ、なんだかいまいちわからない。

 もともと貧乏舌のさやかに高級なお茶の良し悪しはよくわからないが。

 

 仁美の新しい友達にささやかな嫉妬を抱いて不満を感じていたはずのさやかは、いまとなってはむしろ二人とも仲良くしてという気持ちでさえあった。

 自分が原因となって仲のよかった友達の間に軋轢が生じるのはつらかった。

 なぜかわからないがさやかはたまにそう言うシチュエーションに遭遇するのだ。

 別の友達グループの子にちょっとした用で話しかけたり、ありがとーと軽く肩を抱いたりすると、なんだかそのグループは少しぎこちなくなったりするのだ。

 なぜかはわからないが。

 

 ここはさやかちゃんが身を挺して二人の仲を取り持つしかないかな、などと教科書の落書き程度の覚悟を決めようとしていると、ふと自然な笑い声に我に返る。

 ぱちくりと瞬きして二人を見れば、なぜだか短い間に仁美とななかの間のわだかまりはすっかりとけてしまったようだった。

 

「そうですか、そうですよね。さやかさんはそういうところがありますものね」

「ええ、ええ。仁美さんも苦労されているんですね」

「まあ、苦労なんて。好きでやっていますもの」

「ふふ、わかります」

 

 話を聞いていなかったが、もしかするとさやかのバカ話でもして盛り上がっていたのかもしれない。

 そういう形であっても二人の仲を壊さずに済んだのであれば、普段のおちゃらけもまんざら無駄でもなかったかな、などと馬鹿なことを考えていると、唐突に話を振られる。

 

「ねえ、さやかさんもそう思いますでしょう?」

「え? あー、ウン? 仁美が言うならそうかな」

「あら。私なら頷いてくれなかったでしょうに」

「いや、そう、そんなこともないんじゃないかなー、なんて」

 

 全然聞いていなかったので適当に返事してしまったことを、さやかはずいぶん後悔することになる。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「やはりさやかさんには、青がよく似合いますね」

「ええ、本当に。はい、少し上を向いてくださいね、そう……」

「緊張されていますか? リラックスしてくださいね」

「いつもの元気なさやかさんも素敵ですけど、こうしているとまるでお姫様の様で……」

「ふふふ、本当に」

「ふふふふ」

 

 左右から、前後から、二人の声に翻弄されながら、さやかは困惑した。

 困惑、そう困惑だ。それ以外に何と言ったものかわからない。

 

 すっかり仲直りして楽しそうにするふたりは、なんだかよくわからないうちにさやかの言質をとり、あっという間に制服をひん剥いてしまった。

 え、え、え、え、とさやかが目を白黒しているうちに上から下までうっかり脱がされてしまって、さすがに慌てたところに今度は着せられていく。

 

 お手伝いさんが持ってきた姿見に映し出されたのは、見事な振袖姿のさやかだった。

 さやかも、夏祭りで浴衣くらいは着たことがある。しかし振袖となると話が違う。一般庶民のさやかはお正月でだってこんな上等なものは着たことがなかった。

 あるいは成人式でようやく着ることになるかもしれない。

 そんな、生地からして高そうな振袖だ。

 

 仁美とななかはとても楽しそうにさやかを着せ替え人形にして、たっぷりとした厚みのある座布団に座らせる。

 どう考えても異常なシチュエーションだが、あんまり楽しそうにしているので口もはさめない。

 まあ楽しそうだしいいかな、なんて思ってしまう。

 

「さやかさんは、本当にそう言うところさやかさんですわね」

「ええ、まったく。本当にさやかさんですね」

「えっ、待って、そのさやかちゃんの用法、あたしが知らないやつじゃない?」

 

 馬鹿にされているのか、褒められているのか、それさえ分からない。

 ただ、きれいどころが二人して楽しそうに笑っているのだから悪いことではないんじゃないかとさやかは思ったりする。

 なんだか脳裏で親友のまどかが「そういうところだよさやかちゃん」と言っている気もするが、さやかには何が悪いのかわからない。

 

「これ高い奴じゃないの? あたし着ていい奴?」

「もともとさやかさんのためにあつらえたんですの」

「えっ」

「とてもお似合いですよ、さやかさん」

「あー……うん、ありがとう?」

 

 よくわからないさやかだが、美少女二人に手放しで褒められて悪い気もしない。

 なんだか照れ臭くなってしまった。

 二人はその様子を眺めて笑みを深くし、そして続きを始めた。

 

「ではまず髪を」

「爪も磨きましょうね」

「さやかさんにはまだお化粧は早いですけれど、ほんのすこし」

 

 さやかが何か言う前に、さやかの体は二人がかりで改造され始めた。

 短い髪には仁美の手で綺麗に櫛が通され、結えないまでも髪飾りでアレンジが入れられていく。

 ななかの指先が唇にそっと紅を落とし、真正面からまじまじと覗き込まれてどぎまぎした。

 左右から二人がかりで指を磨かれ、信じられないくらいつやつやにされてしまった。

 

 置かれたまんまの姿見の中で、知らないオンナノコが不安げな、でも期待をどこかに秘めた顔をしていた。

 それはさやかだった。さやかの知らないさやかが、鏡の向こうで二人に拓かれていく……。

 

 そうして今やさやかは花器になっていた。

 花をいける一つの器になっていた。

 

 慣れない正座でしびれた脚を崩して、片手を畳につけて体重を支えるさやかの姿は、不思議な艶があった。

 仁美とななかはそんなさやかを左右から挟み込んで、鏡の中と見比べるようにしながら華やかに飾り立てていく。

 

 はじめは生花を髪に飾られていくだけだった。まるで簪のようにそれはさやかを飾った。

 次にはまるでアクセサリーのように、さやかの耳元や、胸元に花がいけられていく。

 

 さやかはそれをどういう目で見たものかもうわからなかった。

 鏡の中のオンナノコは、なにもわからないまま美しくなっていく。

 少しの不安と少しの期待、まるで酔っぱらったように目元が揺れる。

 

 仁美とななかは、花器に花をいけるように、さやかに花をいけていった。

 襟元は緩められ、勿忘草が差し込まれる。

 花の香りとさやかのにおいが混ざり合って、さやかはくらりとする。

 左右から甘い香りがする。仁美とななかの香りが……それらはさやか自身のにおいとさらに混ざり合う。

 

 さやかはもう自分がどうなっているのか、何をされているのか全く分からなくなっていた。

 状況にずるずると流されていくうちに、異常な状況そのものをうまく認識できないでいた。

 左右からさやかを甘くとろかす声が、絶え間なく耳朶にしみていく。

 鏡の向こうには知らないオンナノコがわらっている……。

 

「さあ、もっと可愛くなりましょうね」

「もっともっと可愛くなりますよ」

「……あー……うん………」

 

 さやかは頷く。何に頷いたのかもわからないまま頷く。

 胸元が緩められ、着物ははだけられていく。

 青い花がさやかを飾り立てていく。

 少女たちの白い指がさやかを拓いていく。広げていく……。

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

「それではまた次のお稽古で」

「ええ、楽しみにしていますわ」

 

 ななかと仁美の朗らかな別れの挨拶に、さやかは不意にぱちりと目を覚ました。

 スイッチを切り替えたように、不自然な目覚めがあった。

 

「えあ……?」

「大丈夫ですかさやかさん?」

「お疲れだったのかもしれませんね」

 

 仁美とななかに顔を覗き込まれ、さやかは思わずのけぞる。

 さり、と指先に触れる畳の目。

 イグサのにおい。

 見下ろせば、少し骨ばった足がスカートの下で半端に折りたたまれて、崩した座り方をしていた。

 それは着たときのままの姿で、だから、なにもおかしくはないはずなのに、さやかは奇妙なつながりの悪さを感じる。

 

「う、ん……? あれ……?」

「すっかり寝入ってしまったんですよ、さやかさん」

「あれ……そうだっけ……?」

 

 そうでした、と言われると、さやかにはそうだったのだろうとしか言えない。

 気遣われるようにして立ち上がり、なんか寝ちゃってごめんね、いえいえお疲れだったんですよと曖昧なやり取りを交わす。

 

 半ばななかの肩を借りるようにして志筑家を辞すと、夕日はとうに沈みかけて、その端の方が残り火のように西の方で頑張っていた。

 東にかけられた夜色に挟まれて、空は薄紫色をしていた。

 

「ん、んん……? なにしてたんだっけ……?」

「お喋りをしているうちに、寝入ってしまったんですよ。お花の話は、さやかさんには退屈だったかもしれませんね」

 

 ななかがさらりとそう告げる。まるで台本をそらんじるように完璧だった。

 さやかにはわからない。なにもわからない。でもそうだったんだろう。だぶんそうだったんだろう。そう言っているのだから。きっと。

 

 少しの間、さやかはななかと並んで歩いた。

 そうして、分かれ道に差し掛かって、立ち止まる。

 さやかの家は向こうだ。ななかは送るというが、駅は逆方向。

 

 ななかが自然につないでいた手に気づいて、さやかはぼんやりそれを眺めた。

 よくわからないものを見る気持ちで、一本一本指を剥がすようにして手を離す。

 

「まあ、あんたが仁美と仲良くしてるってのは、わかったわ」

 

 だから、今度からは邪魔しないわよ、とそう言おうとしたはずだった。

 けれど言葉は口から出る前に、なんだかぼんやりとしたもやもやに変わってしまって、何を言おうとしたのかもわからない。

 なんだっけ。さやかは軽く頭を振る。

 髪の先から、ふわりと香るものがある。

 それは、そう、甘い──

 

「ええ、ですからまたご一緒しましょうね」

「え? ああ、うん……またね」

「ええ、また」

 

 さやかが流されるように返した言葉に、ななかは心底嬉しそうにほほ笑む。

 眼鏡越しの目がなんだか眩しくて、さやかは目をそらした。

 なんだか無性に頬が熱くて、息苦しい。

 

 またね、ともう一度だけ交わして、さやかは家路につく。

 ふわりと風に、花の香りがした。

 そのはずだった。

 

 



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