島風ちゃんは考えるのをやめた (黒灰)
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over and over overture

プロローグと予告を兼ねていますので大変短いです。ご了承下さい。

2019/02/20
ほぼ全面改稿。多分こっちのほうが現状のプロットに即しているかなと。


「私達は逃げ出すんだ」

 

 彼女の口ぶりは、まるで恍惚の中にいるようで。

 

「私達を誰も捕まえられない。誰も私達に追いつけない」

 

 まるで天にも昇るような神聖さで、彼女はその卑劣を語った。

 私にとって、彼女とは“正しさ”だった。それが、あろうことか裏切りを口にしている。

 

 周りは海。沖合数十キロまで来ている。

 ここは戦場――――――――だった。

 ……今は硝煙の匂いが、戦いの名残を残すだけになっている。

 

 けれど、逃げ出す?

 何から?

 

 西を見る。大陸の影がうっすらと水平線に映っているだけ。

 東を見る。最早住み慣れたと言える舞鶴が小さく見える。

 

 私は……どちらにも行きたくない。

 ここは多分、世界の果ての目の前だった。

 行き詰まり、そんなのは息苦しくて嫌になる。

 

 もううんざりだった……。

 疲れていた……。

 欲しい答えなんてなかった……。

 

 そんな私の嫌気を彼女は見破っていたのか、彼女は口の端を歪めて続けた。

 

「そうだな……私達は北に行こう。――――――――そこに向かって逃げるのさ」

 

 それは……とても魅力的な提案だった。

 見えないそこへ。結局のところ、真北に進路を取れば陸地にたどり着いてしまうのだけれど。

 しかしそれは、私達にとっては現在見えないもの。見えてきた瞬間にそれが”果て”に変わるのだとしても。

 それでも、東西に今それが見えていることよりはずっといい。

 でも、

 

「どうして、逃げるの?」

 

 問いかける。確かに私は逃げたい。けれど、彼女はなぜ?

 

「勿論、君が可愛いからさ。……この道は、きっと楽しい」

 

 楽しい。それは、とてもいいことだ。素敵だ。

 

 海をひたすら北へと進む。

 きっと今より楽になる。何か答えがあるかもしれない。

 今までよりずっと素晴らしい……何かを見つけられる気さえする。

 それに、私は自分の運命から逃げられる。そのはずだ。根拠もない確信があった。

 

 ……背任への決心はついた。けれど、私はまだ呆然としている。

 

 それは正しいことなのか?

 それは間違いではないのか?

 裏切りを必要とする道はあってはならないのではないか?

 誰を裏切ろうとしているのか分かっているのか?

 誰を置き去りにしようとしているのか分かっているのか?

 心意気に反しないのか?

 ”師匠”を裏切るのか?

 全ての思い出を無にするのか?

 それに……”先生”のことはどうするんだ?

 

 そんな問いかけが頭の中で渦巻いている。

 この源は良心か?倫理?それとも哲学?

 ……もしかすると、忌々しい私の運命がそう命じているのか?

 

 ―――――捨ててしまえ。

 この裏切りに、そんなもの必要ない。

 もはや、答えることなどない。

 ……そうだ、”どこかに捨てちまえ”。

 でも……ああ、くそ。

 今はそのワンフレーズすらも厭わしい……。

 

 踏ん切ったのに足を止めている私を他所に、彼女は目の前を過ぎ去り、霧を裂いて海を走る。

 けれど突然主機を止めて、

 

「知っているかい?」

 

 問いかけと共に、左肩越しに私の方を覗き込む。

 首を回すのに合わせて、彼女の白に近い銀色の髪が揺れる。

 こんなにも白んだ視界の中で、それでもはっきりと輝いて見える。まるで星のように。水晶のように。

 あれが、私のなりたいものなのだ。……きっとそのはず。

 今や問いかけという自責は消え去り、彼女の航跡が光って見える。

 あれを辿りたい。

 

 私の憧憬の視線に気付いたのだろうか。

 彼女は被った白い海軍帽のつばを左手で握り、向きを細々と直し、居住いを正す。

 意外にも格好を気にするのだな、と親しみを覚えた。

 

「昔流行った、ロシア出身のガールズデュオ。彼女達の”背景”はね、それはそれは背徳的で扇情的だった。今や本人達もそれを”演出”と言っているけれど、――――――――私にとって、それは”抵抗”だったんだ」

 

 知っている。私も彼女も小さい頃、彼女達は一瞬だけ世界を魅了した。そして、騒がすだけ騒がせて、いつのまにやら消えていた。今はどうしているのか、マニアじゃない私には分からなかった。

 私が、なんとなく問い掛ける。

 

「だから、ファンなの?」

 

 すると思った通り彼女は頷く。答えの分かっている問いかけ。合いの手のようなものだ。

 彼女は頷き、流した左目で私を見ると、

 

「私も、そういうことがしてみたくなる年頃ってことさ」

 

 不器用な笑みだった。

 けれどもそれはまさに、彼女を彩る”演出”としてこの上ないものだった。

 いつも纏っている退廃的な雰囲気と合わせて、それは本当に、破滅的な美しさ。

 

 私は、いつしか海を走り出していた。

 私が寄ってくるのを目に捉えると、彼女は少女のような、けれどどこか不敵な笑顔で、

 

Нас не догонят(私達は追い付かれない)

 

 言っていることはわからないけれど、言っている意図はわかる。

 

 ――――――――私は、逃げ出した。

 自分の運命から逃れたくて、彼女の伸ばした手を握ったのだ。

 誘われるままに。

 それはきっと正しいのだ、正しく間違えるのだと信じて。

 私は走った。

 走って……すべてのものから逃げ出した。



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A面「おひとりですか島風ちゃん(仮称)」
なぜかマイナスからの始まり


2019/02/20
全面改稿。


 2016年、2月。

 冬の冷たい風が、切れるような音を鳴らしている。

 まるで電動ノコみたいだ、と思うときすらある。

 

「寒っ……」

 

 今は早朝。今日は非番だし、同居人が起きて仕事へ向かうまでをやり過ごそうとここにいる。

 けれど、灰色の厚手のスウェット越し、鋭い寒さに切られて思わず身震い。声まで出てしまう。

 でも気にしない。どうせ私がいるところに人なんて来ないし。

 

 そうして、私は煙草を一本取り出すと火を着けた。

 ……プレハブの喫煙所の外、吸い殻入れの前で。

 

「外、やっぱ辛いな……」

 

 私が呟いた言葉は、きっと誰にも届かないだろう。

 一口吸った煙と一緒に、舞鶴の空へと溶けていく。

 

 メンソールのせいで口元が寒くなって、唇を思わず口の中に引っ込めた。

 長くなってしまって後ろに纏めた髪が、背中をつつくように揺れている。

 

 ……孤独だ。

 

 

 ●

 

 

 煙草を吸えば大人になれる、と思ったわけではない。

 子供が吸ったところでただ”悪い子”で終わるだけだ。

 でも事実、煙草を吸う人というのは大人びて見える。

 

 喫煙所に屯し、同僚達と友誼を交わし、上司と砕けた会話に興じる。

 知らない人にだって話しかけて仲良くなる。

 そうすると、次の日も顔を合わせるわけで、友人が増える。

 これが大人の友達作りというものか、と喫煙所という概念を知ったときに得心したものだ。

 

 喫煙所というのは、気取った言い方をすると一種の社交場なわけで、確かにそれへの参加は子供にとって憧れになりうる。

 喫煙所デビュー、即ち大人の世界への仲間入り。

 実にわかりやすいと思う。……ただし、私はそういうつもりはない。

 

 要は、単に人と知り合う場を持つべきだと思ったのだ。

 この新しい職場で。

 

 ここは舞鶴鎮守府。

 私は海軍軍人にして、─────その特殊な兵科の一つである、艦娘である。新人だ。

 

 今の私の名は、”島風”である。

 

 

 ●

 

 

 そもそも煙草を覚えたきっかけは、この”身体”が享楽に耽るのに最適だ、という話から始まる。

 

 私を艦娘に”改造”─────つまり艦娘はサイボーグ兵士だ。格好いい─────した女性軍医曰く、

 

「艦娘はだねぇ、ぶっちゃけると進化した人類とも呼ぶべきものなのだねぇ。エヴォリューション人類!エヴォリュエヴォエヴォリューション!……まぁとにかく面白いですぞぉ、酒にも強いし煙草だって吸い放題、レントゲンも血液検査も怖いものなしッ!まぁ今の所取れてるエビデンスでは、ですがねぇ……個人差もアリアリ……でもそうだ試しに目一杯酒を飲んでから採血を受けてみるといいよぉ。一応定期的に健康診断はあるんですぞぉ。でもホント嫌がらせにもならないくらい数値正常なんだよぉ、酔ってるのにぃ、凄いねぇええええええ!ホヒヒヒッヒヒウゲェッホ」

 

 一体何が嬉しいのかさっぱり分からないのだけれど、彼女は相当楽しそうだった。咽るほど笑うのだから。しかし、20代─────多分だけれど─────の女性が出していい声ではなかった。

 はっきり言って気持ち悪い。

 

 そしてその後、”改造”期間中に私が二十歳を迎えたので、そのハイテンション軍医は私に酒を勧めてきた。

 病室─────とは違うな。私は病人ではなかった─────でベッドに寝かされ、色々な機械に繋がれている私の体を起こし、ベッドテーブルに一つのコップを乗せた。褐色の液体がなみなみ、いわゆるすりきり一杯まで満たされていた。

 これは何か、と問うてみたところ、

 

「ホヒ、火の着く烏龍茶だよぉ」

 

 火の着く?というところに変だなぁ、と思ったわけなのだけれど、

 

「ささどうぞ、一気ぃ一気ぃ、ですぞぉ」

 

 まぁ祝いの酒というからには不味いこともあるまい、烏龍茶割りってやつだろう、と思って飲んでみたのだ。

 

 飲んだ瞬間、喉に火が着いたかと思った。悶絶した。

 焼けた喉を通りすがった酒が、口に舞い戻り、そして吹っ飛ぶ。

 ……平たく言うと吹き出した。

 

「おほほほう、ホホヒヒ、粗相ですねぇ二等兵殿ぉ。それにちょい残しとはけしからんですぞぉ」

 

 軍医はその褐色の燃料をなおも私に勧め続ける。

 ……嫌な予感しかしなかったけれど、私はまたその液体を口に含んだ。口から吹き出してはならない。我慢した。

 ……今度は鼻から出た。またも悶絶した。涙があふれる。

 というか気化したアルコールが目に染みて、痛くて仕方がなかった。

 胃も火力発電所のように燃え上がった。体も火が放たれたようだ。

 

 とにかく、なんとか全てを飲み干すと……急に頭を殴られたように─────けれど痛くは無かった。揺れた感覚がそうだというだけで─────気が遠くなって、私は体を起こしていられなくなった。

 

 そして私が目を覚ますと、軍医が”プレゼント”と言って採血の結果を見せてきた。……どうやら私がアレを飲んで失神したところで血を採ったらしい。

 それにしてはどこから採ったのか分からない。一晩寝た程度の時間経過だったけれど。

 なので軍医に検査の読み方とどこから血を採ったのかを聞いてみた。すると、やけにご機嫌で、

 

「ホヒッヒヒ正常値ですぞぉ─────!まぁ基準値とか人間とかなり変わってしまうのですけどねぇ、小生が艦娘用の基準値を導き出しましたのですよぉ。いやぁチョロい仕事でやりがい無かったぞぉ……しかし二等兵殿コレ見事ッ正常値ッ!特に二等兵殿ッ体がホント優秀ッ!本名も死ぬほど面白いけどッ!しかし急性アル中様症状から無処置で復帰とは素晴らぁしいッ!……ハッピーバースデー……ぜかましん、カッコ予定……あと採血の箇所は実のところわからないのが理想なんですなぁ。傷がパ─────フェクトに塞がっているということですからねぇホヒヒヒ」

 

 テンションのジェットコースターで酔いがぶり返したかと思った。気の所為だったけれど。

 それにしても”あのクソ映画”のノリで誕生を祝福される、というのは屈辱だ。絶対に許さない。

 裏切り者の名っぽく変な名前を授けやがって、許さない。

 

 

 ……まぁ、この話で分かればいいのは、艦娘に改造されると体が非常に丈夫になる、ということである。

 実際、焼けたと思った喉、鼻、目のいずれも、目覚めたときには何の違和感も感じなかったのだ。

 

 ちなみに”火の着く烏龍茶”というのは、

 

「98%エタノールで烏龍茶を抽出したものですぞぉ、度数まさにスピリタスッ!燃える烏龍茶、ドラゴン!アァチョォーウ!あ、ライターは持ち込み禁止ですので実際にファイヤーすることは出来ませんよぉ」

 

 スピリタス……というのがどういう酒なのか分からなかったけれど、非常によくわかった。わからされた。

 そんな酒とは縁のない人生を送ろうと決意したものだ。

 ……ついでにこういう人種とは縁を切りたい。

 

 

 ●

 

 

「うぅ……寒い……」

 

 焼けるような酒の味─────味じゃあない、あれは痛みだ─────を思い出しても、体が温まるはずもなかった。

 嫌な思い出に過ぎないし、心だって暖まらない。

 いくら体が丈夫とは言っても、寒いものは寒い。感性までは変化しない。

 寒いと感じる心に嘘をつこうとしても無駄だ。つけるものならつきたい。

 

 指に挟んで煙草を保持する、というのももう耐えられない。

 手足指先に至るまで凍りそうだ。多分そうならないだろうけれど。

 なのでくわえ煙草にして両手で身を抱き、脇に手を挟んだ。

 煙が少し、目に染みる。ただしあの時のアルコールよりはだいぶマシ。

 

 ……とにかく艦娘というのは、古の仮面ライダーよろしく改造人間だ。

 そこにオカルトやファンタジーの手業も含まれている、というあたり平成っぽくもあるか。

 ただし、それは一般市民には厳重に伏せられている。かくいう私も、”改造”へのお声が掛かるまで正体を知らなかった。

 

 ……海の女神はどこからともなく現れ、人類に仇為す深海棲艦を討ち滅ぼす。

 まさにヒロイックサーガの登場人物。湧いて出たような救世者。

 ご都合の宜しいタイミングで、まさしくカウンターのように現れた艦娘様。

 ……しかし、結局のところは人類の手業によって作り出された最終兵器だったと。

 それも人権・倫理ガン無視の。

 私も”改造”前に、『人権を放棄する』なんて恐ろしい書類にサインしてしまった。

 その存在に正気を疑う代物だ。

 

 まぁ、そこまでしてでも生き残りに賭けた人類、その執念の産物が艦娘……だなんて事を私は考えている。

 そしてその栄えある一員が、私。――――――――”島風”、というわけだ。

 この”島風”と言うのは、私の通称。通称にして個体名だ。

 改造の最終工程の後は、なんだか自分の名前として馴染んでしまった。

 

 艦娘の名前だけれど、同姓同名の人間が意外とこの世にはポツポツと見つけられるように、同じ名前のがそれなりに居たりするらしい。

 ただし、世にありふれたその類の偶然とは違って、私達はそのように作り変えられて出来ている。

 同じ名前。だいぶ似通った顔立ち。大方同じ性能傾向。いかにもな量産品。

 

 そんな量産品の数あるタイプの中、そこそこレアなのが”島風”、なんだそうだ。

 ただし、そんなレア物として生まれ変わった私なのだけれど、

 

「─────ハブにされる、ってのは堪えるなぁ……あぁ寒」

 

 そう。私は実のところ、喫煙所デビューの意義をとうに失っている。

 多分、”私個人”が原因じゃあない。今は……もしや”島風”にあるのではないか、と疑っている。

 とにかく私が喫煙所に来ると艦娘達は皆帰っていく。

 ここに通うようになって一週間と少し経ったけれど、今や決まって来る時間が把握されてしまったのか、一人も寄り付かない。皆、時間をズラしているらしい。

 

 ……まぁ煙草は好きになったけれど。

 疲れを癒やすのにはとてもいい。戦闘でささくれだった神経も休まる。

 それに孤独の添え物としても様になるのだ、煙草というものは。

 肺に気を使わなくていいからいくらでも吸えるし。

 

 閑話休題。 

 ……そもそも着任してすぐから違和感を感じていた。

 寮に入ったときには一応挨拶回り─────蕎麦は持ち合わせが無かったけれど─────をした。

 その時の反応が既に微妙だった。ほぼ皆揃ってぞんざいな対応。

 部屋は結構あったから、違和感を覚えたあたりから挨拶をより丁寧に改善してみたつもり、だったのだけれど、やっぱり反応に大差は無かった。

 あの視線は多分……値踏みのそれだったと思う。

 しかもかなり安く見られていた……と今は感じている。真剣に値をつけようとしていた人も居た気がするけれど、名前は覚えていない。自分だって仲間に薄情だ。人の事は言えない。

 

 そして寮は二人部屋だったから同居人がいる。

 が、その同居人からもかなり訝る視線で見られた。

 ……関係性は即、没交渉気味となった。

 

 それから一応、鎮守府の”旅行”─────各施設を見て回ることだ─────を、この鎮守府の提督直々の付き添いの下でしたんだけれど、その時にこの喫煙所を通りがかった。プレハブの中が煙で霞んでいて、けれど吹き晒す風にも負けない声でガヤガヤ賑わっているのが分かった。あれは楽しいところだ、と確信した。

 そこで、その日の晩に酒保で適当に安い煙草を一つ買って、乗り込んでみた。

 

 私の喫煙所デビュー当初、喫煙者の面々は物珍しそうな顔で私を眺めていたんだけれど、こっちから視線を合わせようとしても……おかしい、合わない。

 人並みに機微の分かるほうだと自認している私は、『あれ?』と思ったのだけれど、一旦気の所為にした。

 しかし、会話が続かないともなるともうそういうわけにも行かない。

 

 かくして数日後、私と煙草をともに吸う人はいなくなった。

 こうして私の喫煙所デビューは失敗したのである。

 ついでにいつの間にか同居人の不興も買ったようで、関係は完全に溝越しのものとなった。

 踏んだり蹴ったりだ。

 

 ……で、どうせ誰も来ないにも関わらず、なんでプレハブの中に居ないかと言うと、

 

「……私がいるせいで入れない、ってなったら忍びないし……寒いし」

 

 私は私なりに気を遣っているつもりでいる。

 私がいると入れない、って言うなら私が外に居ればいいわけだ。

 そうすれば、私を放ってプレハブの中でワイワイやれるだろうし、それすら嫌だとしても、外に出ていれば”島風がいる”と分かりやすい。

 この髪の色だから、遠目でも分かるだろう。

 わざわざ歩み寄って確認するまでもなく、”今は時間が悪い”と分かって引き返してくれる、はず。

 

 それに……今更誰かが来たところで、私の方が他人を苦手になってしまっている、気がする。

 正直会話が怖い。続かない会話が。だから始まらないほうがまだいいとすら思っている。

 私が人を嫌いなのか、人が私を嫌いなのか、もうどっちでもいいか、という感じだ。

 既に、この孤独に心底諦めがついていた。

 

 それに、ここは仕事場だ。

 別に仲良しこよしをやりに来たわけじゃあないんだ。

 出来るなら越したことはないかもしれないけれど。

 関係はビジネスライクで……と言えばいいんだろうか。私は高卒で入隊したからビジネスが分からない。

 とにかく、どんなにドライでも実害さえなければ構わないわけで、私はそういうことに拘ろうとすべきではない、はずだ。

 何より、私はもう成人したのだ。それらしく生きるべき、当然の義務だ。

 

 ……そう思いつつ、風に煽られて不味くなった煙草を啜っていると、

 

「……何故プレハブに入らないんだい?」

「え?」

 

 いきなり話しかけられて、くわえた煙草がこぼれ落ちた。そのまま地面に落ちていく。

 それを拾うより先に、声に向かって振り返ると、白髪に青眼。白い海軍帽。白いセーラーを着た艦娘がいた。この人は確か……。

 

「えっと……………響……さん、でしたっけ」

「そうだね。正式には”ヴェールヌイ”だけれど、私は”響”の方が好ましい。それと”さん”は必要ない」

「あ……ごめん、なさい」

 

 会話が久しぶりすぎて、口を開くと謝罪が出てくるようになってしまった。

 私は病気になってしまったんだろうか。そういう、いわゆる……対人恐怖というか。

 そう思って俯いていると、

 

「謝ることはない。”タメ口をきけ”と言っているだけの話さ。”わかった”とでも言うのが利口だよ」

「あ、分かり……」

 

 思わず敬語になりそうだったのを噛み潰して、

 

「わ、かっ、た」

 

 タメ口に直してみたけれど、様にならない。まるでロボットだ。サイボーグじゃあなくて。

 ここまで会話が苦手になっていたのか、と自分が嫌になる。

 確かに、元々口が上手い方ではなかった。頭の中でウジウジと考えるばかりで、なかなか言葉にならない。

 けど、ここまでおかしくはなかったはずだ。それを咎めるのか、

 

「どうして君は─────そうだな。怯えているんだい」

「え、そ、の」

 

 予想外の問いかけに、私はにわかに動転した。

 怯えている?私が?

 混乱したまま私は、

 

「─────ひ、とが……苦手、で」

 

 口に出した瞬間、失言だと悟った。

 これはバカ正直というか、喧嘩を売っていると言われても仕方がないと思う。

 その”ひと”が聞いてきたのに”ひと”が苦手、はないだろう。普通。

 私はおかしい。冷静に考えて、間違いなく、おかしい……。

 だから、怒ったふうには見えなかったけれど彼女は、

 

「そうか。私にはよくわからないね。苦手になる理由が思いつかない」

 

 それだけ言うと、去っていった。行く先は駆逐艦の寮だ。

 ……多分、夜戦明けか何かだったんだろう。背中が少し煤けている。実際に。

 

 彼女くらい、タフな精神を持ちたい。

 そう思うのは、弱い心の私にとっては当然の憧れだった。

 

 落とした煙草を拾って、吸い殻入れに入れて、けれどやっぱり今の私には。

 プレハブに入る勇気すらなかった……。

 

 

 ●

 

 

 それからまた数日、私は近海の掃海任務にしばらく従事。

 それで実戦訓練もそれなりと判断されたのか、私は”遠征”へと出された。

 世間で言うところの出張というやつに近いだろう。

 

 私含めて六人の艦娘によって組まれた艦隊で鎮守府を出て、舞鶴港を出る輸送船団と合流。

 そうして始まる、船団と速度を揃えさせられる”遠征”任務。

 正直、結構憂鬱に感じる。

 

 私は、速さこそ絶対の正義……なんてことは思っていない。

 足並みを他人と合わせるなんて当然だ。

 ”遅いほうが悪い”なんて腐った価値観のつもりはない。

 でもそんなのは戦闘速度、またはそれに準ずる速度域での話。

 

 ”遠征”は違った。

 その鈍さはひたすら”遅い”と言う言葉で頭を埋め尽くしてしまうくらいだ。

 

 今回私達に与えられた任務というのは、輸送船団の護衛。

 この輸送船団というのは、公社化された─────深海棲艦出現後にだ─────海運会社の船。

 いくら公社とは言っても、企業は企業である。

 当然輸送船は経済速度で進む。つまり、燃費と速度のバランスを取った速度だ。

 そんなのだから、戦闘と同じような速度なんて望むべくもない。

 

 私達は船団を取り囲むように方陣を組んで、どの方向からも一応の対応は出来るようにしている。そうして鈍亀─────この言葉は本来潜水艦を指すけれど─────と足並みを揃えていると、どうしても22,3ノットが限度だ。遅くなると更に下がって15ノット。全速の半分すら出ていない。私にとってはそれ以下。

 

 あまつさえ、海が時化れば護衛の陣すら崩して、水夫さん達に協力して積荷の保護を手伝うという始末。

 艦娘が本領を発揮できる場面なんて、それこそその時だけだった。船に全速で近づいて甲板に上がる時だ。私達は荒れた海でも身軽に動き、そういう芸当が出来る。

 不謹慎だけれど、ちょっとでも全力で航行できるかもしれない時、つまり時化を楽しみにしている自分がいることにも気付いてしまった……。

 

 

 

 

 そんな航海の中、ある日の昼。

 私達は航路をほぼ同じくする輸送船団と出会った。

 航海というのはルートや予定が決まってから行われているので、出会うことに驚きはなかった。”ああ、そろそろか”というだけで。

 

 船団はすれ違うにあたり、事故対策を図って動きを一度止めた。

 その船団も当然、艦娘による護衛を受けていた。

 私を含め、艦娘らは駆け寄るように海を滑り、そして出会った仲間達との束の間の交流。

 船の中で寝ていた艦娘も、足の艤装だけ装着すると飛び出すように海に降りてきた。

 

 そこにはなんと、私ではない”島風”がいた。

 私は自然、自分と同じ姿をした彼女に近づいていく。

 

 他の艦娘の様子を伺うと……どうやらこうか。

 どこの鎮守府から来ているか。

 鎮守府の雰囲気はどうか。

 他には……顔見知り同士もいるようだ。近況についても話し合っているらしい。

 

 一方で、”島風”は私に接近してくる。他の艦娘と話すつもりはないらしい。

 でも、私の今の気持ちにはちょうどいい。

 他の”島風”のことも知ってみたかったところだったから。

 それに、もしかすると同じ気持ちを共有できたり、あるいは……ぼっち問題を解決済みだったりするかもしれないのだ。私はここに期待をかけた。

 

「やぁ、私」

 

 ……そんな言葉で始まる挨拶があるものか?

 けれど気安く言うそれは、多分”島風”に留まらず他のタイプの艦娘にも付き物のジョーク……と思った。

 

 でも─────これは本当になんとなく、何となくだ─────居心地が変で、思わず辺りを見回した。眼の前の”島風”には失礼をするけど。

 

 よく見ると、同タイプで談笑する姿があった。

 なのに彼女達は”艦娘としての名前”ではなく、もっと別の呼び名で話している……と思う。もしかすると、本名なのかもしれない。

 艦娘の耳は良い。少なくとも”やぁ私”……なんて話をしていない程度は分かった。

 

 となると……もしかすると、”他の島風”を”私”と呼ぶことは”島風”の間だけのジョーク?

 眼の前の”島風”を、無礼ながらも訝るような目で見ていると、

 

「夢通信、しようよ」

 

 なんだそれ、と思った。夢と通信……?考える。

 ……ダメだ、分からない。意味不明だ。

 悩み始めた私に、彼女は続けた。

 両手を打って、ヘラヘラと笑いながら、

 

「私達は繋がってるんだよ、同じ”島風”だから」

 

 初耳の概念だった。繋がっている?どういうことだろう。

 私は素直に疑問を吐き出して、

 

「……ちょっと、意味が分からない」

 

 すると、”島風”は……少し呆けた顔になったかと思うと、すぐにまた笑い始めて、

 

「新人さんなんだね。でも今晩にも分かるよ、私が見つけたから、これであなたも”私”」

 

 本当に言っている意味は分からなかった。

 まるでたちの悪い宗教みたいな感じで、言葉の端々から電波が飛んでいる……。

 

「ね、今晩会おうね」

「よく分かんないけど」

「よろしく、私」

 

 そう言った私の手を両手で握った彼女。

 その手はなんだか湿っぽくて、けれど熱くて。

 私はそれを……なんだか嫌だなぁ、と思っていた。




突っ込んだパロディの元ネタと作品中の時間軸が合っていないものがありますが、あまり気にしないでくださいぞん


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8時間くらい煙草を蒸かしている

2019/02/21
全面改稿。
前作との繋がりの情報も含まれていたんですが、オミットしました。
しかし余計に長くなったのは誤算でした。

2019/03/17
早霜が艦隊の旗艦であることを明記しました。

2019/07/18
夕食の描写がまるっきり抜けていましたので追加しました。


 あの“島風”の居た船団と別れて、数時間経った。すっかり辺りは暗い。

 外洋……海以外何もない世界では船の灯り、その光が浮かばせる船影だけが頼り。

 それ以外は本当に何も見えないくらいだ。

 そうかと言って星がはっきりくっきりと見えて美しい、というわけじゃあない。船灯りが邪魔なのかも。

 ─────子供か私は。

 遠足に来ているんじゃあないんだ……。そこに文句を付けるのは筋が通らないだろう。

 

 

 でも……疲れは、かなり溜まってきている……。

 私はそろそろ、とある言葉を期待していた。

 

『─────交代です。一班は休憩、三班は護衛任務を再開して下さい』

 

 連絡が下った。これを待っていた。

 無線には連絡用と雑談用の周波数があって、私は常に前者と合わせている。

 後者は……私には使えない。

 話しかける勇気とか、聞いているだけでいる忍耐力は、無い……。

 代わりに音楽でも聞きたいけれど、潜水艦対策で耳をふさげない。

 これも私が”遠征”で憂鬱になる理由だった。でも、ああ、やっと今日も終わりだ。

 

 船団の右前方にいた私は、右肩越しに後ろを振り返る。

 船団の最後尾、その船の甲板で灯りが揺れていた。あれが目印、私達艦娘の寝床がある船だ。

 私は速度を緩めて陣形から外れた。

 その船がゆっくりと進んで来るのを待つ。全力ダッシュする気にはなれなかった。

 

 

 ……私達の労働時間は、一日一五時間。

 私の場合だと、朝の六時─────日本標準時でいうとだ─────から海を走り、一三時に休憩を一時間。そして二二時までまた海へ。

 しかし……遠征の要員はもう少し増やせないんだろうか?十人くらいでやればもっと楽になるだろうに、それより少ない六人を更に三班に減らしてしまうのだ。意図は、ちょっと分からない。

 

 ともかく、ようやく就寝の時間を貰えた。それは素直に嬉しいし、安心だ。

 幸いにして戦闘は一度も起きていないし、これからも起きないだろう、という漠然とした気楽さがある。

 ただ、これは慢心なのだろう……。戒めるべきだ。

 でも祈っている。この航海の無事を。

 

 ……近づくにつれて輸送船の形ははっきり見えるようになってきた。

 それに速度を合わせる。甲板の上で灯った光が目印。

 そのすぐ下には……吊り下がった縄梯子。これを捕まえる。そうしたら脚部艤装の動力をストップだ。

 ……気合を入れて、この梯子を頼りに体を持ち上げる。そして足で梯子を踏めたならこっちのもの。

 振り落とされないようにしつつも、ゆっくり、安全に気を付けながら登っていく。

 急いだ結果、足を滑らせて落ちたら洒落にならないだろう。

 

 もし仮に。仮にだ……。

 私がしくじったら……皆は助けてくれるんだろうか?

 ……そんなことを知りたい、なんて考えは馬鹿だ。

 そのためにわざとしくじるようなら、私の値段はより一層下がるだろう。

 ただでさえ低いのに。

 

 でも、私が安く見られる理由は最早理解できた。確信だ。

 やはり”島風”であることが、私個人の値を不当に低くしているのだ。

 それはさっきの……妙な、というか気持ちの悪い”島風”を見たからで、そう。

 あんなのと一緒な人種と見られている、だからなのだと。

 

 けれども……それはつまり。

 舞鶴の皆々様方は、”島風”を知っている、ということになるな……。

 それも非常に不愉快にさせられた、と言ったところか。

 挨拶回りでは、その”島風”に会うことはなかったけれど。

 

 ただ、その人と私は別人だ。本当の本当に、別の人間だ。100%。

 皆も分かっているはずだろう。

 だと言うのに、なぜ”私は私”として見てもらえない?

 ”島風”であると言うだけで、なんでこんな目にあわなくっちゃあならないんだ。

 “あと1%”が必要だとでも言うのか?

 後ろ暗いものを隠しているつもりなんてないのに……。

 

 ……そう思いつつ、その他人の一人である艦娘とこれから対面するわけだ。

 今、梯子を登りきった。括り付けられている柵をまたいで、甲板に。

 足元が硬いから違和感がある。でも逆だ。変な足場にいるせいで感覚が変になっている。

 

 そして、そこに居たのが眩い船舶照明─────カンテラ、は違うのか?─────を手に持った、

 

「……お疲れ様」

 

 彼女は、如月という艦娘。茶髪のロングヘアーに、緑の襟をしたセーラー服。

 ……私は、今となっては他人なら誰でも苦手である。その中では、彼女への苦手意識は平均くらいだ。

 まぁ……普通に私に猜疑の視線を見ているのだ、彼女も。

 しかしなんだその”普通”は。……自分で自分が嫌になる。

 

「……次、お願いします」

 

 ともかく私が頭を下げると、彼女も一応会釈をしてくれた。

 こういうのでいいんだ。……いいのか?疑りは悪意よりはマシだ、そのはず。

 

 そして、

 

「皐月!いつまで煙草吸ってるの、もう!」

 

 如月が舳先に向けて声を投げる。それに対して、

 

「あー、ごめーん!今行くからー!」

 

 皐月と呼ばれた艦娘が、脚部艤装のガチャガチャとした音を鳴らしながらこっちに寄ってくる。

 ……私の姿を見せて不愉快にしたくない、そう思って私は急いで艦橋のドアを開けて船内に入った。

 

 ドアを閉めて、背中を預ける……のはやめた。魚雷発射管を背負っているから。

 ちょっとやそっとでどうにかならないとしても、利口でないことはしちゃダメだ。

 私は頭が良くないかもしれないけれど、バカをするほどバカじゃない……と思いたい。

 バカになんてなりたくない。

 

 本当に私は考えこんで、しかも落ち込むのが好きらしい。いつもそうだ。

 いつからこんなのになってしまったのかは分からない。

 けれど、もっとシンプルに、芯のある生き方をしたい。

 例えば、彼女。響のような……。

 バカではない単純さ、私はそういうのが欲しい。

 

 ドアの向こうから声が聞こえてくる。

 私に続いて這い上がってきたもうひとりの艦娘と、皐月が話しているんだろう。

 他愛の無い会話。私との乾いた挨拶と大違いだ。

 それから逃げるように、私は階段を降りていく。情けない……。

 

 トボトボ歩く私の丸くなった背中に、如月の叱咤の声がうっすらと染み込んできた。

 引き継ぎついでの多少のお喋り、の領域を超えたのだろう。事実、それからすぐに背後でドアの開く音がした。

 逃げるように、私は班の部屋に向かっていく。

 ……逃げにすらなっていない。彼女の部屋もそこなんだから。

 バカみたいだ。なりたくないのに、バカになっているじゃあないか……。

 

 

 ●

 

 

 船室で音楽を聞いている。イヤホンを耳に挿し、少し湿り気のある吊床に身を任せながら。

 光の微妙に弱い蛍光灯の下、弱く掛かった冷房の中。……眠気を誘うという点では実にいい。

 掛かっている曲は甚だ激しいのだけれど、それもまた気分が良いものだ。

 ……これが私の癒やしだ。休んでいるという、確かな実感がある。

 

 風呂は……私に続いて戻ってきた班員に順番を譲っていた。

 私が長い髪の世話に慣れていないくて長くかかるからだ。一応、行く準備自体は済ませている。

 

 洗い替えの制服のチェック─────見るだけで嫌気がさす─────とバスタオルの用意。

 後は……背中に接続されている魚雷発射管、それと脚部艤装を外して、むくみ気味の足を包んでいた靴下も脱いで汚れ物入れに入れた、とか。バカみたいなリボンも外して叩き込んである。

 

 それにしても……吊床で足が少し上がり気味の寝姿勢だから、なんだかむくみが収まっていく気がする。

 この体は丈夫で、しかも回復が早い。そのことを実感する……。

 

 唐突に思ったけれど、携帯電話というのはよく考えれば便利なものだ。

 世の中の当たり前の存在だけど、素直にそう思う。

 

 たとえ通信が出来なくとも娯楽を詰め込んでおける。そしてかさばらない。全く、フルーツの会社様様だ。

 ただ電力が必要、という欠点はあるのだけれど。いや、前提条件を欠点と言うのは違うか……?

 とにかく。

 イヤホンがあれば音楽が聞けて、本も、映画だって見れる。

 ああいや……映画は流石に容量が大きいから、入れていない。

 

 この点一番安心なのは……なんだろう。

 愛読書を持ってきて、不幸にも船が沈み、荷物を持ち出せずに失ってしまう……なんて悲劇がないことか。

 携帯一つを持ち出すなんてわけも無いから、いい時代だと思う。

 思い出すら、端末一つで大体持ち出せるというのは。

 だから船に関わる人達は真に携帯を大事にする……と思う。

 海軍の一兵卒……二等兵だった頃、確かに皆は携帯を大事にしていた。

 いや、そういう仕事じゃなくても携帯は貴重品だけれど。

 

 しかし、二等兵か。最後に私を”二等兵”と呼んだのは……あの頭のイカれた女軍医か。

 人の名前を“死ぬほど面白い”とか言ったり、“ぜかましん”と呼んだり……。

 畜生、あいつが最後に私を”あの名前”で呼んだやつだなんて嫌だ。

 ただでさえ好きな名前じゃあないっていうのに……。

 

 そう考えているうち、曲が終わった。もう一曲聞こう。

 流れ出す。血液がビートを刻むような……とても格好いい曲だ。

 

 ……今聞いていたのは、アニメの主題歌だ。次はその二期の主題歌。

 今も連載の続く、歴史ある漫画をアニメ化したもので……私はこの漫画の全アニメ化を見届けたいと思っている。

 まず制作を知った時は、ひたすらに祝福したものだ……。

 

 今の所の内容は幸い、原作を丁寧になぞっていて、なおかつ細かいシーンの追加までやってくれている。

 ファンとしては非常にありがたいことだ。

 ”ここが違うじゃあないか”というモヤモヤが無いのが……”非常によし”。

 ……でも、私は別にオタクってわけじゃあない。その漫画が好きなだけ。

 

 そして二曲目が終わったので、私はイヤホンを外す。そろそろこの航海の同居人が戻ってくる。

 

 思ったとおり、私が1分ほど待つと彼女は戻ってきた。

 

「……次、どうぞ」

 

 班員の片割れ、同居人が。バスタオル一枚で。

 着替えを持って行かずに、何故か半裸で戻ってくるのが彼女の流儀らしい。

 遠征が始まって以来ずっとこの調子だ。

 

 ……彼女の個体名は”早霜”。

 ”夕雲シリーズ”のタイプ17。

 各シリーズの中でも屈指の姉妹艦の多さを誇るーーー欠番も未だ多いけれどーーー、そんな中の1人。

 長い黒髪と、右目を覆うように伸びた前髪が特徴的だ。

 そして、今回の遠征艦隊のリーダー。旗艦ってやつだ。

 私と班を組んでいるのは、私が新人だからにほかならない。……多分。

 

 ……この遠征で名前を改めて確認したから今は分かる。

 早霜は、私を真剣に値付けしようとしていたのだ。

 視線自体が苦手になった今は……やっぱり怖い。

 特に、この遠征でよく分かったことだけれど……彼女は人をじっと見るクセがある。

 人が怖くなった私には、なんて怖い”クセ”なんだと思った。出さないで欲しい”クセ”だ……。

 今だってじっと私を見ている。どんな感情で見ているのかは……分からない。

 

 吊床を降りて、洗い替えの制服とバスタオルを拾ってサンダルをつっかけた。

 そして、なんとなくまた彼女を見てしまった。

 その時、初めて気付いた。

 

 この人は、私と目を合わせている。

 ……不思議だった。普通のことのはずなのに、彼女だけが普通だと却って変だ。

 その左目に吸い込まれそう……とまでは行かないけれど、じっと見ていると、

 

「……」

 

 目を逸らされてしまった。視線の先は……ドアだ。

 出ろ、ということだろう。口に出してくれればいいのに……。

 

 どうやら、彼女は着替えを見られたくないらしい人種なのだ。

 それはとても徹底していて、同じ部屋に人がいるだけで着替えないほど。

 

 私は彼女を困らせたく無かったので、そそくさと船室を出た。

 

 

 ●

 

 

 シャワールームは電話ボックスを一回り大きくした程度の大きさで、少々狭っ苦しい。

 勢いのイマイチ足りないお湯─────節約のためだろう。真水は大事だ─────を浴びながら、とりあえず伸びをしてみる。

 ……流石に天井に手が届くほどじゃあない。

 髪をまんべんなく濡らして、左手に向けてシャンプーをプッシュ。結構量が必要だ。

 人間だった頃は短髪だから経済的だったし、時間も掛からなかった。

 髪の短い艦娘になれれば良かったのだけれど、艦娘の“適性”というのは1種類しか出ないらしい。

 選択の余地なく、私の場合は”島風”。

 選べるならば……陽炎型のどれかが良かったなと思う。

 

 陽炎型は……喫煙所に来ていた。確か、”不知火”だったっけ。

 あの制服はいいなと思う。憧れる。

 普通のセーラー服っぽい響の制服もいいなと。

 早霜や寮の同居人のような夕雲型も、洒落ていて……。

 ……それに比べて“島風”ときたら何なんだ。いかがわしすぎる。酷い。こんなの服じゃない。

 

 髪をゴシゴシと泡立てながら考えることは、適性……そして”艦娘になるということ”だった。

 

 ……実は、私達艦娘は”その艦娘”になると性格が変わるらしい。

 どうやら“その艦娘らしいところ”が植え付けられる……ようなのだ。

 私はその実感がないけれど。“改造”の最終工程を終えた後、確かあのヤバい軍医は……、

 

「二等兵殿改め、ぜかましちゃ─────ん!君はキャラが全ッ然ブレないッ!ひょっとして元々走るの大好きとかそういうやつですねぇ?元々キチガイくらい走るの好きだったとしか思えないですぞぉ二等兵殿本当に面白いですなぁ本名と合わせてッ!……実際今まで小生の受け持った”島風”達ですが、”速さが足りてる”感じになってもうねぇ、”走りたい”ッって気概で満ち満ち満ち溢れんばかりに走りたいっ子に変身したのですぞぉトランスフォ─────ム!俺の速さを見ろぉ─────!スピードこそパゥワー!という感じでしたなぁ。でも二等兵殿そういう感じッコレ全くなしとは如何ッ!……こりゃ今更”走ること”への好感度上乗せしてもカンスト状態でなんにもなりゃしなーいみたいなー……そういう感じですかねぇ……しかし二等兵殿、なんで海軍に?どう考えても陸軍向きですよ?正気ですか?まぁ作る艦娘が増えるのは小生も望むところですが……」

 

 まぁ、元々走ることは好きだ。

 確かにその気持ちが更に強くなる……ということはなかった。

 というかなんで最後に正気っぽくなって、あまつさえ私の正気を疑ってきたのか。

 

 

 髪を濯ぎながら、あの忌々しい軍医との思い出も流れていけ、雨のように……と念じている。

 その隣でもう一つの思考が走り出す。

 

 じゃあ、変わった人といえば?という話だ。

 例えば、彼女。

 早霜は違うらしい。明確に、変化があった、ということを彼女の言葉は示唆していた。

 

 それは数日前、私が風呂の順番を待っていたときのことだ。

 私は音楽を聞いていて……うたた寝をしてしまった。

 目が覚めた時は”やってしまった”と思って周りを見たのだけれど、すると彼女はバスタオル姿のまま、私の吊床の側に立っていた。

 私を見ていたのだ。なんで”起きろ”の一言も無かったんだ、と不気味だった……。

 

 その時、私は怖くて”なんで見てるの”と言った……と思う。

 すると彼女は少し左目を見開いて、もしかすると目が覚めたように、

 

『……きっと、”早霜”になったからよ。”他の早霜”もそうだったわ』

 

 だからあの”人を見る”という”クセ”は後天的に……この場合、艦娘”早霜”になって身についたもの。

 そういうこと。

 つまり個人差というものは、何事に関してもあるものだという実例だ……。

 

 しかし、そこまでして着替えを見られたくないのかと思ったのも事実。

 思うと、大変忍びないものがあった。努めて急いで船室を出たものだ。

 嫌がる理由はどうでもいい。詮索もすべきじゃない。

 その人が嫌だと思うなら、それは仕方がないことだ。大人として当然のことだ……。

 

 

 ●

 

 

 シャワーだけだと言うのに、20分くらい─────もしかするとそれ以上かもしれない─────掛かってしまった。

 湯船に浸かってリラックス……でもないのに、体を流すだけでこんなに掛かる。

 全部髪のせいだ。切りたい。許されていないようだから残念。

 そう考えると……早霜の早風呂は、最早技術と言っても差し支えない。

 多分、私より髪のボリュームは多いのにだ。

 その方法を是非ご教授いただきたい……とは思ったけれど、私には話しかける勇気がない。

 諦めよう……。

 

 また一人勝手に落ち込みながら体を拭き、髪を適当に拭い─────しかし重い。本当に邪魔だ─────、洗い替えの制服に着替える。リボンは……ちょうどいいので髪を結ぶのに使う。長さは足りていた。

 ……戻ろう。

 

 

 ●

 

 

 戻ってきた船室は……電気は豆電球が一個だけ付いている有様。

 早霜はと言うと……着替えるなり早々に寝てしまったらしい。

 全くの暗闇ではないのは温情だろう。多分。暗いと寝れない、なんて理由ではないと思う。

 

 とにかく私はまだリフレッシュし足りないわけで、煙草を吸いたかった。音楽も。後はお腹だって空いている。

 

 私は今回2つの背嚢を持ってきたのだけれど、片方は煙草で満たしていた。そこから未開封のパッケージとライターを引っ掴む。そして吊床の中に放置していた携帯、イヤホンをもう片方の手で持って……ドアの脇のビニール袋を手首に引っ掛け、船室を出た。

 

 喫煙所、というのはこの船にはない。あってもいい気がするけれど、まぁ甲板に出れば換気も、あとゴミの処理も要らない─────環境への配慮はどうした?─────から、作らないんだろう。

 そんなことを考えながら階段を登っていく。イヤホンを耳に挿して音楽もスタート。

 

 艦橋のドアを開けると、すぐに強い風に煽られる。結構、熱を持った風だ。

 夜になったというのに……。赤道近くだからだろうか。

 そう言えば今回の行先はリンガだった。東南アジア、赤道直下の常夏の地だ。

 

 舞鶴を出るときには防寒着が必要だったけれど、ここ数日で一気に要らなくなってきた。

 そう言えば……2月のリンガは雨季なんだろうか、乾季なんだろうか……調べようにもネットには繋がらない。

 知識というものは頭に入れておくべきだ、ということを実感している。

 

 ともかく、艦橋を出て甲板を後方へ。

 

 歩きながらビニール袋を開ける。中にはラップで包んである大きなおむすび、それが二つ。これが毎日の夕飯。

 船内の食堂は既に店じまいで、艦娘の休息時間には合わない。だからこうして、作りおきの食事が毎晩部屋に届けられている。

 がっつくように口に詰め込み始めて……最後方、船尾に着く。おむすびは一つが終わったので次。手早く食事を済ませて、そのままリラックスしたかった。

 

 おむすびを片付け終わると、腹が満たされたからか気分が落ち着いていく。

 一息入れた後に、タバコのパッケージを開封。

 

 シュリンクのゴミは……風に乗ってバイバイだ。ああ、でもビニール袋に入れて持ち帰ればよかったのか……早合点で判断ミスだ……。

 これくらいの失敗は誰も気にしない。きっと……そう自分に言い聞かせ、気を取り直してタバコの箱を開けて一本を取り出すと、咥えてからターボライターで火を点けた。

 

 そう、ターボライター。これがないと、海沿いや海の上では暮らしていけない。

 普通のライターだと風と格闘してだ、最後には諦めることになるだろう。

 特に私なんかは、プレハブに入るのを止めたと同時に百円ライターとは付き合えなくなった。

 そして次の相棒を見繕いに酒保に行くと……なんと煙草に景品としてこのライターが着いていたのだ。

 それを買った。パッケージもカッコよかったし。

 

 舞鶴の酒保はなんだかコンビニみたいで、煙草もそういう形で入荷する場合があるらしい。

 ちなみに免税だ。人権を投げ捨てた代わりに、その辺はお得になる。

 そう言えば給与だって税金とかは天引きされないらしい。

 ただ、艦娘としては新人の私は明細を未だに見れていない。

 この遠征から帰ってしばらくしたら出るだろう。

 

 そんなことを考えながら、一口目。

 暑いところだとメンソールは爽やかだ。まぁ寒いところでも吸っていたけれど。

 手すりに寄りかかって、少し空を見てみる。海には何もないし。で、見えるのは自然、北の空だ。

 北極星らしき星は、見えている。ただ、真ん前ではなくて、結構視界の左側に寄っていた。

 

 ……ということは、見ていたのは北東の空だったとさ。

 まぁ真南に進んでいるわけでもなし、当然だ。

 今更バカ正直に北を向く必要なんて……無いのだけれど、寄りかかったまま首を左にひねった。

 何となく、あの星を見ていたいと思ったのだ。

 真ん中に……。

 

 

 冷たい煙をいっぱいに吸い込んで、それに合う音楽を聞いている。おまけに星空も。

 いい気分転換だ。

 

 今聞こえているのは、さっきの曲とは違う。

 喧しいのに澄んだドラムの音。

 それに乗っかる歪んだギターとベース、そして儚い声で熱唱するボーカル。

 デビューから確か……二、三年くらいの。まだ新しいバンドの曲だった。

 戦争が始まったのと大体同時期にデビューしていた、はず。

 戦争という大ニュースに紛れてしまって、その辺はあまりよく理解していない。

 

 でもこのバンドの音源は、今は少し入手難である。

 CDも回収され、ダウンロード販売も止まった。

 今の入手経路はネットオークションか……違法なものくらいだ。

 ネットで流れているデータ─────マイナーなバンドだからあるか分からないけれど─────とか。

 私は勿論CDを買った。データを吸い出して、こうして携帯に入れている。

 

 ちなみに何が起きているかというと、去年の秋頃に起きた事件が原因。

 バンドの屋台骨とも言えるドラマーが殺人容疑でとっ捕まったのだ。

 事件の内容は……よくわからない。

 けれど、ともかく要点だけ抜き出すと”正当防衛か過剰防衛か”という話になると思う。

 

 このバンドは元々カルト的人気でのし上がったらしい。

 そこからちょっとしたタイアップ曲が出て少しだけ有名になったくらい。

 そんな売れっ子というわけではなかった。

 ネットでの評を見ると……”ゼロ年代の復刻”とか言われていたっけ。

 

 ゼロ年代なんて、時代が近すぎて復刻になっているのか?と首を傾げてしまう。

 まぁ、私はそもそもゼロ年代どころかロックというものをあまり知らないけれど……。

 私は基本的に、古い音楽ばかり聞かされて育ったから。ロックの割合はさほどでもない。例外は……本当の本当に子供の頃、駄々をこねて買ってもらった1枚だけ、だと思う。

 

 ともかくそういうのに嫌気がさして、初めて自分で買ったCDが『凛として時雨』のシングルだった。

 これもアニメとのタイアップ曲だった。そのアニメは見ていないけれど。

 で、それに似ている音楽性、と聞いてこのバンドのCDも買ったわけだ。結構気に入っている。

 

 ……煙草がずいぶん短くなってきた。そして、思う。

 

「一人、か」

 

 ここまで、誰とも会っていない。船員の交代時間とは外れているし、艦娘はみんな寝ている。

 そして、ここにいる私は……あの、更に後方に陣取っている艦娘2人には見えないだろう。

 

 私は、人の輪というものを未だに作れていない。誰の円の中にも入っていない。

 あえて私をそういう図形で例えると……、

 

「私の円、ちっちゃ――――――ってか、無いのか……」

 

 点。それが私、というわけだ。

 思わず咥えた煙草をポロリ。煙草はそのまま転がり、海面へと落ちていく。

 ……まぁ、もう短くなっていたし、構うことはない。

 

 今日はこれくらいで、もう寝よう。

 でも─────嫌な夢を見そう、という予感がしていた。

 

 ●

 

 

 目が覚める……いや、夢の中で意識を取り戻すと、辺は暗かった。

 暗いというよりも寧ろ黒かった。

 

「……なにこれ」

 

 夢の中で、自分の口が思わずぼやく。

 心の中に留めておくつもりだった言葉が、口から滑り出た。

 夢の中のことだから、実際は頭の中の出来事で、それは全く問題ないはずだけれど。

 

 しかし、奇妙な夢だ。

 夢ってのはこう、色鮮やかと言うか、なんか変な感じをしているはず。

 けれど、私は意識を保っていて─────夢の中で意識があるというのも不思議な言い回しだ─────それにここは黒い。

 

 そう思っていると、突然、目の前には人の塊が現れた。

 プラチナブロンドの髪、兎みたく立った黒いリボン。そして、纏うものなき白い肌。

 纏うものがない?つまりは、全裸。そこには、幾人もの”私”が居た。

 

 思わず自分の体を見ると、私も裸だった。

 それに気付いて、そして他人が─────他人?いや、とにかく自分ではないと思われる“自分”─────がいるので、身を抱いて秘所を隠そうとする。

 

 私がもじもじしていると、”私”達の1人が私に気付いて、

 

「こんばんは、”私”。やっぱり会えたね」

 

 それを口火に、

 

「こんばんは」

「こんばんは、”私」

「こんばんはー」

「こんばんは、一緒に遊ぼうよ」

「こんばんは、かけっこでもする?」

「こんばんは、一緒に楽しもうよ」

 

 次々と、”私”達が私に向かって話しかけてくる。

 

 ……これは、なんだ?

 何だ、コレ。私が、たくさんいる。いや、違う。これは、

 

「夢通信にようこそ、私」

「初めてなんだ、ようこそ私」

「仲良くしようね、私」

「みんな、みんな”私”なんだよ。きっとうまくいくよ」

 

 この”私”達は、別の”島風”達だ。

 つまり、他人。無二ではない自分。

 

 夢通信というのは……こういうことか。

 読んで字のごとく”夢で通信している”のだ。

 つまり、私は他の”島風”達と何かで繋がっている。

 こんな仕様、聞いたことない。

 

 ……なんて、気持ち悪い。おぞましい。

 私もアレの1人?冗談じゃない。願い下げだ。

 私は私だ。ただ一人だ。誰と同一人物でもない。

 共有なんて出来ない。”私”どうしはわかり合える?一緒になれる?

 嫌だ。

 

「ッ、一緒になんか、なりたくない!」

 

 そう啖呵を切ると、”島風達”は一瞬面食らった顔になり、次は悲しい顔になった。

 

「そんなこと言わないでよ、同じ”島風”じゃない」

「そうだよ、”島風”を分かるのは”島風”だけ」

「私達、一緒だよ、ずっと一緒だよ」

「寂しいよ、そんなこと言って」

「いいの?ずっと寂しいよ?」

「一緒にいようよ」

 

 口々に私を引き込む言葉を掛けてくる。嫌だ。

 ……これに絆されて、嫌がった”島風”もあの中に取り込まれたのかも知れない。

 私は激昂して、

 

「私はあんた達みたいにはなりたくない、絶対に!」

 

 そう吐き捨てた。

 

 

 ●

 

 

 ……突然、目が覚めた。

 悪夢だった。内容はしっかり覚えている。まるでログが有るかのように、確かなものとして。

 ”島風”は、奇怪な艦娘である。それをハッキリと実感した。

 そして……私以外─────自分をアレに含めたくない─────は“クサレ脳ミソ”だ。

 何があんな風に人を変えてしまうんだろう。いや元々ド低脳だったのか?

 気味が悪いと同時に……私は恐れていた。

 私も”あれ”になってしまうっていうのか?

 嫌だ。嫌だ。それだけは嫌だ……。私は、私でいたい……。

 確かに”島風”になってしまった、そこまではいい。私は私で有り続けられている。

 それを実感できている。この感覚を守り続けたい。

 

 ……携帯電話を取り出して画面を付けると、時刻はまだ深夜の2時だった。

 睡眠は全く足りていない。けれど、これから眠るとまたあの夢を見るだろう。

 またあの“夢通信”に入る。そんな予感が、怖気がしてしまって……眠気が消え去った。

 寝れない。となると、暇を潰すしか無い。

 

 私は静かに吊床から降りると、そっとドアを開けて船室を出た。

 ……6時まで、煙草と音楽で暇を潰し続ける。やるしかない。

 

 

 ●

 

 

 それから数日。

 睡眠不足と煙草切れで気が変になるのは、輸送船が目的地に着く直前のことだった。

 



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じゃあ断る

2019/04/09
全面改稿。


 煙草は依存性が高いっていうけれど、本当の話だと実感した。

 徹夜で吸い続けていたからか、四六時中本当にイライラする。

 手まで震える有様で……艦娘の体の限度を超えてしまった、と分かった。

 慢心だった……。そして煙草の入っていた背嚢はついにぺしゃんことなり、精神も……潰れた。

 

 気が変になった私は、シケモクを齧るようになった。今まで海に捨ててきた煙草達の扱いとは大違い。

 私は縋るようにフィルターだけの煙草を必死で啜っていた。

 そして前歯で噛んでいるだけじゃ飽き足らず、口の中にさえ入れてしまったのだ。

 なんだそれは、子供どころか赤ん坊じゃあないか……。

 

 馬鹿だ。フィルターの繊維が口の中で気持ち悪い。

 でも、口寂しいよりはマシだった……というのが、本当に馬鹿だと思う。

 私は弱っていた。誰にも気持ちの悪い夢を打ち明けられず、眠りという逃げは罠。

 どうしようもなく行き詰まっていた……。

 

 行き先だったリンガ泊地に着いたのは、気が変になった日の昼過ぎだった。

 私は島が見えると全速力で航行を開始した。

 当然、無線から『戻りなさい』と命令が幾度も繰り返された。しかし耳に入っても頭に届かなかった。

 陸へと一直線。

 

 ……誰も私を追ってこない。

 

 息を切らせても走り続け、私は陸に辿り着いた。そして海岸線沿いに桟橋を目指す。

 着くと、そこに出迎えに出ていた人を一人見つけて、

 

「煙草、くだ、さい」

 

 誰かも構わずそう言って、海面にぶっ倒れた。

 

 

 ●

 

 

「あ、また来たんだ”私”」

「やっぱり一緒にいようよ”私”」

「ねぇ、私達なら”私”のことが分かるんだよ、分かってよ」

 

 やめてよ……。

 

 ……その感情で頭が再起動したことを悟った。

 私は、何をしていたんだっけ……。

 今は寝ている─────というか、クソ!夢通信中だな─────はずだ。

 

「うるさい。あっち行ってよ……」

 

 クソ忌々しい”島風”達に向けて、そう吐き捨てる。……動く気配もないし、近づいてくる。

 クソ、クソ、クソ……嫌だ……あんなのと一緒にいるのだけはゴメンだ……。

 

 その意気で立ち上がって、スタスタと─────夢の中の足元がしっかりしているというのも変な話だ─────黒い世界の中、あの脳ミソの腐った連中から離れていく。

 また裸にされてるし。酷い気分……。

 

 そして、歩きながら考える。

 私は寝ている。けれど、寝るまでの記憶が曖昧だ。

 仕事は終わった?その記憶は……無い。

 陸に上がってしばしの休み……というのを楽しみにしていた。それは事実。

 でも、そういう思い出は頭の中に見当たらない。じゃあ、なんで私は寝ているっていうのか。

 

「……ああー……そうか、そうだった……」

 

 海の上でぶっ倒れた。船団を置き去りにして、目に入った陸を目指して一目散に走った。

 もしかして、そのまま溺れ死んだ?それは……大層無様な死に方だと思う。バカだ。みじめすぎる。

 バカをやるやつがバカげた死に方をして、バカここに眠る……バカバカしい。

 なんて迷惑なやつなんだろう、私ってやつは。別に”島風”じゃなくても普通に最低だ。嫌になる……。

 

 ……そんなことより、そもそも死んでないと思いたい。

 なにせ、死んだら罰ゲーム部屋行きというのは御免こうむる。

 死ぬことが覚めない眠りだと言うなら、それは永遠に夢を見ているということで……夢通信繋がりっぱなし。

 いや、夢は別にオカルト的なものじゃない。脳の働きによるものだ。

 まぁ他人と通信できるような”脳の働き”ってのも超能力的でオカルトの類だと思うんだけれど……。

 

「待ってよ“私”、一緒にいようって」

「どこまで行っても絶対に追いついて捕まえるんだから、私達足が速いもん、追いついちゃうよ」

 

 ふと立ち止まる。

 

「もし、一緒になったら、寂しくないっていうの」

 

 背中の方から喜色満面……と言った声色で、

 

「……そうだよ!だから、一緒がいいよ」

「やったぁ、また”私”が増えるのね!みんなで楽しく過ごそうよ!ね?」

 

 そんなに……?

 

「それは……どう楽しいの」

 

 問いかけには声を揃えて、

 

「みんなでね、心も体も溶け合うほど愛し合うの!もう自分が誰だかわからないくらいに!」

「じゃあ断る」

 

 絶対に、それは嫌だ。絶対に受け入れない。

 だから走る。走って遠くまで行こう。一人になれるところに。

 

On your marks(位置について)

 

 足を止めて、その場で身を沈め、地面に膝と手をつく。

 右膝を後ろに、左膝はそれより前に。

 足元にスタートブロックがあればと思う。いや……それは別にいいか。

 私はもう陸上をやるつもりはないし……。

 

Get set(用意)

 

 とは思っていてもだ、自分で合図を唱えてみれば、体はその通りに動いてしまう。

 腰と膝が上がって、スタート直前。弓で言うなら引き絞ったところ。

 ただまぁ……足の裏に置き場がないし、指先だけで地面を掴んでいるからやりづらい。

 けれども、体中の血液は沸騰に向かって煮えていく。

 

 眼の前には闇しか無い。ゴールはもちろん、トラックの線すらも見えないけれど……。

 

 

─────それでも。

 走るということは、いいものだ。

 

 いつだって噛み締めてきた無上の喜び。

 全てのものを振り切っていく、振り払っていく快感。

 

 

「GO」

 

 それとともに、頭の中でピストルが弾けた。

 地面を蹴って、ひたすらに体を前へ。前へ。飛ばしていく。

 

「待─────」

 

 

 

 

 声はもう聞こえない。

 

 私の体は……何故だろう。いつもと違うな。

 風のよう、どころか、光になったみたいだ。

 気の所為か。まぁなんの目印もないわけだから、止まっていると感じるほうが自然だ。

 だと言うのに確かに進んでいる。そんな気がする。

 

 

 ところで。

 この世界に端はあるんだろうか。

 なければないで、あのいかがわしい連中から離れることが出来さえすれば良い。

 でもそうだな……例えばゲームだとワールドマップをずーっと進んでいくと一周するような……。

 

「……うげ。また”島風”だ」

 

 本当に一周したらしい。

 予感は当たらないでほしい方に当たるものか。眼の前にまたプラチナブロンドの色が見える。

 嘘だと思いたいけど、まぁそういうことなら仕方ない。

 

 私は体を左に少し倒す感じで、カーブしてそれから離れていこうとする。

 アレだ、”コーナーで差をつけろ”─────と思ったところでここがトラック上じゃないことを思い出した。

 こんな……鬼ごっこみたいなものにコーナーもクソもない……。

 

「─────え?……あ、ちょっと待って!」

 

 気付かれた。大きめの声で呼び止められたけれど……知るか。絶対に捕まってたまるか。

 でもカーブは失策だっただろうか……?あいつはほぼ一直線に走れば良いけれど、私は曲がっている。

 フルスピードから幾分落ちてしまうわけで。ああ、でも真ん前を横切るよりはマシなのか?

 分からないな……。図形が特に苦手だから、この手の問題は……。

 

 とにかく、速く走ればいいことだ。

 失速したところで、それ以上に速ければ何の問題もない。

 私は考えるのを止めて、ただ進むことだけを思う。

 

「ちょっと、待って!……速い!」

 

 そりゃあそうでしょ。走ってるんだから。

 でも、後ろからの声が……今度は消えていかない?

 さっきはあっという間に聞こえなくなったんだけれど。

 

「止まってって!……もう!」

 

 追ってくるらしい。さっきの”島風”達と比べれば、少しは根性がある。

 けれどまぁ、骨があるランナーは振り切るのに面倒。

 別に振り切れなくたって、マラソン中なら構うことはないんだけれど。

 鬼ごっこじゃないんだし、何より最後に追い抜けばいい話。

 でも今はそうだ。捕まえようとしてきている以上、スピードを緩めるわけにはいかない。

 

「なん、で、こんな……私が遅いの!?」

 

 そういうことになる。

 しかしお喋り出来る程度に余裕があるならもっと出せるだろう、スピードを。

 無駄口を叩くから遅い。

 自転車の……ロードレースならともかくとして、駅伝とかの長距離走を世間話しながらやれるって言うのか。

 

 別に遅いことが悪いこととは言わない。人にはその人のスピードがある。私にもある。

 私だってゆっくり走りたい時はある。皇居の周りを走るのに競ったりすることはない。

 走るだけでも十分楽しいけれど、加えて風景を楽しむなら急ぐこともない。

 勝負でもないなら競う意味もない。

 

 ただし。

 その”勝負”の中で無駄にギャーギャー騒いでる。

 そんなやつに追いつかれるのは我慢ならない。

 

「え、嘘、まだ速く─────」

 

 声が遠くなった。諦めたのか、私が突き放したのか……後ろに目は付いていないから分からない。

 ……しかし、”島風”というのは無類のかけっこ大好き、スピードなら無双だったんじゃないのか。

 私だって”島風”だけれど、あっちだって”島風”で。差がつくなんてことがおかしいと思うのだ。

 となると……原因は”私個人”ということか。

 ”私個人”にあって、”島風”の標準ではないこと、といえば……。

 

 ……ああ、私が元陸上部だからか。フォームが違う。

 身体能力は同等だろうけれど、ずいぶん変わるものだ。

 ”走る技術”というものの重要性を改めて感じさせられた……。

 

 完全に突き放したのか、声はもう聞こえなくなっていた。

 にしても、足が止まらない。私は今、100mのつもりで走っている。

 なのにもうとっくに1kmくらい走ってやしないか、というくらいに走りっぱなしだ。

 少しくらい疲れてもいいはずだ……。

 

 まぁ、走れるならいいか。走るのは楽しい。

 

「止まって!」

「!?」

 

 向こう、”島風”がいた。まるで途中のコマを飛ばしたように……突然そこにいたのだ。

 超スピードとか……そういう、やつなのか?

 夢の中だと言っても時間が止まったりはしないだろうし……しつこすぎるだろう。

 こうなったら最終手段だ。

 

 私はそのスピードを保ちつつ、右足で大きく地面を踏みつけて、跳んだ。

 走り幅跳びの要領で。けれど、足の動きはそうしない。

 

「─────オラァッ!」

 

 ドロップキックだ。ライダーキックでもいい。

 やったことはなかったけれど、意外と上手くいった。

 ともかく、眼の前の島風に向けて全速力、全体重を放り出した蹴りを叩き込む。

 ああでも、そうだ。

 

 ─────これ、当たったら死ぬんじゃあないか?

 

 まぁ、夢の中だし別にいいか。それに死ぬ夢は吉兆と聞く。

 

 心配することを止めて着弾と”島風”がブッ飛ぶのを待っていたけれど、

 

「!?」

 

 今度は消えた……どこに……?

 かくしてキックは対象を失い、私は地面を思いっきり滑ることとなった。

 

「、わっ!」

 

 素肌のままで地面を滑っていく……擦りむいたりはしないみたいだ。

 落ちた痛みも……さほどはない。

 でも、どこへ行った?

 もしかして、これっていわゆる”新手の─────

 

「やっと捕まえた!」

「げ、ぇっ!?」

 

 スピードのなくなった私の体に覆いかぶさって、“島風”が私を捕まえた。

 その姿をよく見ると……服を着ている。他の“島風”とは違うな……。

 そう思って、

 

「あんた、何……」

「私が”島風”!久しぶり、になるのかな?それにしても……あなたって速いのね……」

「そりゃ、私も”島風”だし……不本意だけど」

 

 もう逃走は諦めてみようか。

 そう思って、のしかかって来る彼女の体を押しのけて、上体を起こす。

 何故だろう……あいつらとは、ちょっと違うみたいだ。

 

 それに……そうだな。自分がされていやなことを、無差別に他人にする。

 それこそ筋が通らないってものじゃあないか。バカだな、私は……。

 でもさっきの奴らには無差別にやってるわけじゃない。

 確固たる事実、脳ミソがアレなのを確認しているし。

 

 で、私の返事に少し複雑な表情をしているのが、目の前の”島風”。

 ……何か、気に障ったんだろうか。

 

「うん……まぁ、”適性”だから仕方ないの。不本意でもね」

 

 そういう彼女は、立ち上がって、

 

「服、着たらどう?」

「いや、どこにもないでしょ……」

「思い込めば着れるよ」

「は?」

「深く考えずに、ほら」

 

 思い込む。つまりは……念じろとか、そういうことか。

 

 ……私は、服を着ている……。

 それを、心に念じる。

 できれば、そう、普通の服……。

 

 

 

「ほら、着れた」

 

 そうらしい。目を開けて、自分の体を見てみる。

 

「本当だ……。でも」

 

 自分の腕を見ると、長い手袋。肘上まで覆う白い手袋。

 ああ、やっぱり”島風の制服”だった。普通の服が着たいって念じたのに……。

 

「はぁ……」

 

 思わず体育座りをしてしまう。

 私の頭の上から、”島風”が声を降らせてくる。

 

「裸が嫌だったんでしょ?ちょっとはマシだと思うけど」

 

 裸とどっちがマシか分からない服だっての。

 そう思いながら見上げて、

 

「そもそも……なんであなたは最初から服を着てるの。ここにいる”島風”はみんな裸で、頭がパーで、まともなのは私だけだと思ってたけど。あなたもそのお仲間?あと久しぶりってのは何?」

 

 ああクソ、なんでこういう、喧嘩を売るような言葉ばっかり言ってしまうんだ。

 私だって大概で、“まとも”と言うには怪しい。前に響と会ったときだってそうだった……。

 ”島風”は不思議そうな顔をして、

 

「……結構ズバズバ物言うのね」

「あ……ごめん……性格、悪くて」

 

 私の性格は悪い。正直、自分でも嫌になる。

 おまけにウジウジ考えるクセが酷くて、その結果として勝手に落ち込んだりする。

 自分のバカさに自分で勝手に嫌になる、バカな人間だ。いつだって自業自得。

 頭が良いとは口が裂けても言えない。

 

 でも、眼の前の”島風”は余裕のある笑みを浮かべて、

 

「そうかな?正直者って、嘘つきよりは好きかもしれないけど」

「そう正直でもないよ……」

 

 実際、そうだ。口に出せてない言葉なんていくらでもある。

 まぁ、いちいちそれを口に出してたら日が暮れる、ってのもあるけれど。

 思考ばかりが饒舌になって、口は全くのド下手という……厄介な性分だ。

 

「まぁ、それは置いておいて。”私が島風”。あなたという、”島風”になった人の、原型……って言えば良いのかな?要は”オリジナル”なの。”久しぶり”っていうのがわからない……そうなら別に気にしなくていいから」

「え?」

「だから、狭い意味で言えば“島風”というのは私のことだけを指す、ことになるのかな?他の艦娘もそう」

「いや、その久しぶりってのは……まぁ後でいいっていうか……だけどちょっと待って」

 

 待て。

 その、艦娘というのは……改造人間だ。

 人間が生み出した、狂気の産物。

 でも、まずその原型があって、私達の存在はそのコピー……ってこと?

 

「あなたが……本物の”島風”?じゃあ私達はあなたの偽物で……」

「偽物……というのはなんだか違うかな……”レプリカ”、っていう言い回しの方がいいと思う」

 

 レプリカ。つまり、模造。……結局は、偽物だ。本当に言い回しが違うだけで。

 でも、そもそもなんでこの”島風”に似せる必要なんかあるっていうんだ。髪、顔、制服まで……。

 そんなことよりは、そう、問題なのは……。

 

「そんなこと、全然知らなかった……」

「まぁ、”島風”ってのは結構孤独だから。知ってる人だって別に殊更声を張って言うことでもない、って思うのかもしれないね」

「でも、普通”改造”されるときに伝えられない……?」

「それは軍医の裁量かな。一応知ってはいるはず」

「……あのキチガイ軍医」

 

 言わんで良いことは馬鹿ほど喋って、言わなきゃあいけないだろうことは馬鹿ほど喋らなかった。

 最低だ。

 ……でも、そうなると。

 ”走るのが大好き”っていうのはこの”本物の島風”が持っているものなのか。

 私は元々好きだから、少なくともそこについては同調すると思うけれど……。

 けれども、なんで私は”島風”なんだろう?

 

「あなたって、走るの好き?」

「うん。好きだよ。それで、私の”レプリカ”になった人たちはみんな好きになるかな。あなたはどうだった?」

「全然。何も変わらない」

「嫌いなの?」

「いや、あの忌々しい軍医が言うには……”好きすぎてもう上がらない”だった」

「へぇ……」

 

 私の投げやりな答えに、“島風”はどうやら納得したらしく、

 

「うん。やっぱりあなたは”島風”。それも私が見てきた中で、ある意味”最高”の」

「は?─────こんな、意気地の悪い……」

 

 意気地の悪い……クソガキだ。私は。

 大人なのに、大人になれてない。

 それは言葉にはしなかったけれど、頭の中で私を刺した。

 戒めとしての痛みだ……。

 

 ……それはそうとして、この”島風”は─────”第一号”ということになる。

 最初に改造されて”島風”になった人。

 そしてその量産型が……私達、ということだ。

 私にとっては、いわゆる先達というべきだろう。

 この”島風”は少なくとも脳ミソは大丈夫そうだし、人間関係にも折り合いをつけているはず。

 孤独と自称はしていたけれど、問題のある孤独さには見えなかった。

 何か、アドバイスを貰えるかもしれない。

 手始めの質問として、

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 

 

 

<この記憶は>

<誰かの手で抜き取られている>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●

 

 

「孤独でお悩み?」

「─────え?うん。そうだけど……」

 

 確かにそうだけど、……なんか変だな。変って、感覚が変だ……。

 夢の中に変わりないし……そんなこともあるだろう。

 ”島風”は続けて、

 

「だからね、皆ここに来るの。信じられる人がいないから、”自分”と同じものに救いを求める。……というのは、流石に予想外だったけど。まさかこんなことになるとは、って。でも私もここをなくすつもりはないよ」

「じゃあ、あなたがここを作った?」

「そういうこと。でも私は遥か遠くにいるだけだから、まさかここまで来る子がいるとは全く思ってなかったけれど……」

 

 元凶はコイツか。迷惑な。

 この際だから、顔に出してしまえ。思いっきり嫌な顔だ……。

 それを見せつけてやると、彼女は苦笑いと─────何故だろう?安堵にも見える─────その表情で、

 

「……気に入らないのね?」

「うん。私はもう、ここには……”夢通信”には来たくない」

「そっか。良かった……じゃあ現実で頑張って、としか私は言いようがないわ。”島風”であることがあなたを孤独にしている。それは間違いないけれど、それでも”ここ”を否定するなら気合い入れてやっていってね。次からあなたはここに繋がらないようにする」

 

 何が“良かった”だ、と言いたかったけれど、ここに来なくていいのは、まぁ良いことだし……。

 でも、

 

「……アドバイスは”気合い入れろ”……それだけ?もうちょっと何か……」

「うん。まぁ、一つ言えることは……そうだね……理解者がいると、早く馴染めると思うかな。私はなんだろう、”そういうものなんだ”っていう感じを、一人で時間を掛けて理解してもらって、今は皆が理解者。張り合う相手もいるにはいるけど……今はなんだろう、ふわりと浮いている感じ」

「あなたも結局ぼっちみたいなもん……あ、ごめん」

 

 思わず口に出た。……嫌味だな、私は。本当に。

 謝るんなら、言わなきゃあいい話で。謝るのも嫌味だし……。

 

「まぁ、そうかな。でもみんな私のことを”一目置く”くらいはしてくれてるよ。フワフワしてる感じも楽しいし、自由だから……私は好きかな」

 

 気に障ってないようで、私は安心して溜息した。

 ……私は、下手に口を開かないべきだろう。

 人とうまくやっていくためには、会話が必要のはずだけれど。

 

「あなたは誰か、理解してくれる……そういう人はいる?」

「いない」

 

 断言した。それにしても……私の根性はひん曲がっている。

 ……ああ、クソ。”理解などされたくない”とも思っている。頭を右手が掻きむしる……。

 そんな自己嫌悪など知らずにか、彼女は続けて、

 

「そっか。でも、きっとそういう人がいると思うから。鎮守府にはいろんな子がいるだろうし」

 

 ……まぁ、人のるつぼだろうな、とは思う。軍っていうのは。

 一兵卒として1年半程を過ごしてきて、今は艦娘の新人だけれど……やっぱり、そこは変わらないだろうと。

 だからと言って、そこに都合よく理解者がいるっていうのか。

 ”理解されたくない”まで理解してくれる人が、いるっていうのか?

 そんな都合のいい……馬鹿な話があるものか。

 

「分かった」

 

 ……分からないけれど、そういうことにしておこう。

 私はそう言うと、立ち上がって”島風”に一礼した。

 なんだか、質問を一つ忘れている気がするけれど……もういいや。どうでもいいってことだったんだろう。

 

「……お世話になりました」

「いいよ。それじゃ、さよなら」

 

 彼女のその言葉で、私は闇の中に溶けていった。

 目に見えるもの、聞こえるもの、肌で感じるもの……あと、私の意識も……。

 



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眠りこけ昼が来て

2019/04/09
完全改稿。


 ─────それで気づいたら。

 光のない蛍光灯が浮かんだ、知らない天井を見ていた。

 体には薄いブランケットが被せられて、私はベッドに横たわっていた。

 冷房は効いていて、寝苦しさは感じない。

 それで、ここが多分医務室か何かだろうと見当を付けた。

 

 ……自分が最後にしたことの記憶をたぐる。

 馬鹿なことをした。そして、まぁ……よく助けてもらえたな、と。

 

 そういえばいつかの夜、自分がヘマをやったら助けてもらえるのか、ということを考えたはずだ。

 結果は、助けてもらえた。

 本当に良かった。そこだけは。だけれど、皆の失望をもっと集めたのだろう。自業自得だ……。

 

 でも久しぶりの睡眠で、体はずいぶんと楽になっていた。少しダルいけれど……頭も冴えている。

 ……夢通信があったことも、覚えている。

 いや、なんだか覚えていない気がする部分もあるけれど……?

 ともかく、もうあそことは繋がらないらしい。それは本当に安心した。……改めて、溜息。

 

 厚手のカーテンの裾から漏れる光は、ものすごい明るさだった。

 木張りの艶のない床板が、こんなにも光を照り返している。

 外は相当な日差しだ。

 皆はどうしているだろう。時ならぬバカンス……ってやつ、いやもしかしてもう出発なんだろうか。

 上体を起こして、壁を見ると……時計があった。

 

 12時を少し回ったところ、だった。お昼時だろう。

 とにかく、急いでスケジュールを把握しないと。

 

 ベッドを這い出して足を床板に下ろす。

 靴下は履いたままだった。そこで何となく、自分の体臭を嗅いでみる。

 ……特段臭うことはない。けれど風呂を一回は抜かしているはずだ。

 臭わないし、人の側に立ってやる仕事じゃないにしても、少し気持ち悪い……。

 

 そう言えば荷物はどこだろうか。船に積んだまま……なのかもしれない。

 それは困る。煙草をたんまりと買って行くつもりなのだ。そのために入れ物が要る。

 とは言え、持ってきてくれているというのも期待しちゃいけない立場だけれど……。

 

 ベッドを左側に降りて、部屋の中を少し歩き回る。

 窓際の、陽の当たっている床板を踏んでみたけれど……まるで鉄板みたいに熱い。

 すぐに足をどけた。冷房で冷えた床が気持ちいい……。

 と、ベッドを降りたところと反対側が見えた。二つのキャンパス地の背嚢……私の荷物がある!

 

「誰が持ってきてくれたんだろ……お礼しないと」

 

 とりあえず、背嚢に向かって─────それを通して持ってきてくれた人への感謝を込めて─────深々と一礼した。本人に会ったらもう一度だ。

 リハーサルみたいなものか。いや、それはそれで馬鹿らしい……。

 

 とにかく、私は背嚢の片方……ぺちゃんこになってない方から一つ物を取り出した。

 靴を一組だ。私の一番履き慣れた靴。ランニングシューズ。

 陸上はもうやらないと固く誓っているけれど、走ることは好きなままだった私は、普段履きにこういうのを選んだのだ。

 もうこれで……4代目になるか。3組全て、履きつぶしてきた。

 そのおかげか、もう靴と足は一体化したみたいに馴染む。履きなれるのが異常に早いと思う。

 このことが私の誇りだと、私そのものだと思っている。

 

 私は機嫌を良くして、靴に足を押し込んだ。

 そして、トントンとつま先で床を叩くと……ああ、慣れた感覚だ。

 海の上じゃなくて、陸の上にいて、しかも靴は一番のお気に入りを履いている。

 もっと気分が良くなった。

 ……私は荷物を右肩に背負うと、軽い足取りくらいで部屋を出る。

 こんなところで走るのは……流石にみっともない。

 

 

 ●

 

 

「う、目が……」

 

 ドアを開けるとすぐに視界が眩んだ。

 薄暗い部屋で寝込んでいたからだろう。光の洪水にちょっと耐えきれなくて、思わず瞼を閉じる。

 二息ほど吐くと目がすぐに順応した。もうさほど眩しくはない。

 

 思ったとおり、ひたすらに熱く、そして眩しい。

 空気すら干からびているようだ。呼吸のたびに喉が乾く。

 リンガは今、乾季なのか……。

 

 そして目に入ったのは窓。

 木造の窓枠にガラスをはめ込んだもので……今どき、古風すぎる。

 そのガラスを透かして差し込む夏の日差し。

 確か赤道直下の島だから、太陽は日本で見るより段違いに高い。

 私の立っている場所からは見えないくらいだ……。

 

 それにしても、廊下には誰もいない。

 スケジュールを確認できる相手を見つけなければならないから、分かる人を探さなくては。

 

 廊下を左右見回して……ああ、こういうところまでなんで古風なんだ。

 廊下にはまるで学校の校舎のように、その部屋の札が掛かっていた。

 ということは、と思って私は右に一歩、それから自分が居た部屋の札を見上げる。

 

「……やっぱり医務室だったんだ」

 

 次は右を見渡す……札は、特に見当たらない。

 左を見ると、

 

「あ、事務室……」

 

 ”改造”で近眼が治ったのは非常にありがたい。

 あの距離だと眼鏡なしじゃ見えなかったどころか、見渡す限り万華鏡の世界だった。

 今は澄み切って見える……気がする。

 

 私は心なし早足でそちらへ向かっていく。 ……少しばかり焦っている。

 置いてけぼりは流石にないけれど、相手が待ちぼうけというのは十分に有り得るから、早く確認しないと。

 

 事務室の引き戸の前に立ち、浅く握った右の拳で3度叩く。すると、

 

「はい、どうぞ」

 

 女性の声がした。澄んだメゾソプラノの声。

 知的さと洒脱さを兼ね備えた、まさに大人という感じの声だった。

 建物が学校みたいだったから、つられて学生時代みたく、

 

「失礼します……」

 

 少し遠慮がちなトーンで一声放ってから、引き戸をガラガラと開ける。

 ……ここまで来ると風情すら感じる。

 

 入った私を、声の主らしき女性―――窓を背に無骨な事務机に向かっている─────が視界に捉える。

 そして、苦笑いされた。

 

「ああ……随分とお疲れだったようですね。ほぼ丸一日寝てらっしゃったようですから。……本当に、お疲れ様です」

 

 眼鏡を掛けた黒髪の女性。服はセーラー服に似た別物。

 濃い青のカチューシャを髪に留めていて……私としては、声の印象通りの人に思えた。

 そして舞鶴でも見慣れた顔、制服だから分かる。

 

 彼女は艦娘。そして、”大淀”だった。

 非武装型の前期型、武装付きの後期型と2種類がいるけれど、彼女は前者ではないかと思う。

 

「に、しても……桟橋で見てびっくり、聞いてもびっくりです。遠征の途中からは一睡もしてなかった、って。私なら死んじゃいますね」

 

 そう、身体能力が違う。舞鶴の“大淀”なら多分、生きていられるだろう。

 というのも、艦娘を作り始めたころの“叩き台”として“改造”された者が数人いるらしい。

 特に“大淀”タイプだ。目の前の彼女はそういう“大淀”らしい。

 艦娘としては不完全……らしいのだ。戦闘は出来ないレベルで。

 それでも彼女達は少しばかり常人より頑丈になった。

 多少の体力増強もあって、意外とハードらしい事務仕事に従事している、と。

 

 ……ただし、後期型にしてもやはり事務方に回されることが多いらしい。

 艦娘の数あるタイプの中では少し不遇だ、と。

 ここまでは舞鶴に居た秘書艦、”大淀”の自己紹介で知ったこと。彼女は後期型で、戦闘が可能だ。

 知らぬ人に愚痴を垂れ流すという、よくある一幕の出来事だった。

 しかし、どういうことだろうか。

 

「桟橋で見た、っていうのは……それに、“聞いても”って……」

「ああ、覚えてらっしゃらないんですね。出迎え、私だったんですよ。いきなり物凄い速さでこっちまで来て、それで言ったことと言えば『煙草ください』なんですから。それと、あなたがずっと寝てなかったのは早霜さんから伺ってます。心配していらっしゃいましたよ?」

「それは、その」

 

 ひどく顔が熱くなり、思わず首が下がった。

 ああ、こっちの人にまで迷惑を掛けたのか、私は……。

 それに、早霜が心配を?……彼女はすぐに寝るから気付いていないと思っていた。

 ……いや、もしかして……彼女の声がけを聞き逃した……聞き流してしまった?

 その時は頭がイカれていたからだろうか……何も思い出せない……。

 それは後として、

 

「お恥ずかしいところを……」

「まぁ、私としてはですね、一番びっくりしたのがバターンと倒れたことです。心臓に悪かったです。私、艤装持ってませんから水上に立てませんし、仕方なしに普通に飛び込んで、あなたを牽引して岸辺まで泳いだんですから」

「いや、もうその辺で……」

「何があったかは知りませんが、煙草の吸い過ぎと睡眠不足はいくらなんでも無茶ですよ?あと、私は吸わない人ですから煙草はあげられません。御免なさいね。でも酒保には在庫がありますから、次の出港までに買い揃えられます」

 

 当然こちらにも酒保はある。

 そもそも私達の守ってきた積荷はそういった物資が主だった。

 帰りはこの諸島付近で得られる資源を積んでいくと聞いている。

 

 それより、次の出港にはどれくらいの猶予がある?

 

「えっと、次の出港時間は……」

「ああ、あなたの艦隊の出発は13時半です。こっちの時計は……12時過ぎですね」

「良かった……じゃなくて。ありがとうございます」

「いえいえ」

 

 手を振って謙遜する大淀に、私は少し違和感を覚えた。

 艦娘なのに、私に対する態度が柔らかい。それがどうしてかは分からなかったけれど。

 

「その……”島風”の私に良くしてくれて、嬉しかったです……」

 

 それに少し面食らったのか、目を少し見開く。しかしそのまままた目を細めて、

 

「私にとっては、海に出られる人達は皆羨ましいんです。そして、有り難い人達です。私に出来ないことが出来る、それだけでも尊敬できるんですよ。だからあなたが誰だったとしても、私はこうします」

 

 ……分け隔てのない扱いだ。

 理解とは少し違うのかもしれないけれど、それは多分優しさだったから、

 

「ありがとう、ございます……」

 

 少し、涙ぐんでしまったのは仕方のないこと。

 ……私ってば、本当に病気だ。

 少し優しくされたぐらいで、なんで泣くっていうんだ。子供か……。

 

 

「さぁ、モタモタしている暇はありませんよ。遠征は帰るまでが遠征ですからね。しばしの休息の後は、また気を引き締めて。航海の無事を祈っています。頑張って」

「はい……ありがとうございました」

 

 涙を拭いて、先生みたいな激励に笑顔で答える。

 ……もしかすると、しばらく笑顔なんて浮かべてなかったかもしれない。

 顔の筋肉の動きが少しぎこちなくて、それがなおさら恥ずかしかった。

 

 そう言えば、”島風”は……『理解者を得ろ』みたいなことを言っていたっけ。

 この人がそれになるかもしれなかった、と思うと、このまま別れるのが名残惜しくなった……。

 

 

 ●

 

 

 事務室を出て、出口へ向かって歩く。そして歩きながら考える。

 

 出発までに何をすべきだろう?

 ……とりあえず、時計を持っていないから携帯を見よう。

 そう思って、背嚢の一つに手を突っ込んで、携帯を探り当てる。

 引き抜いて、電源ボタンをプッシュ。

 

「時差は……合わせてなかったか」

 

 表示だと、13時になっている。

 確か……リンガと日本だと、時差は1時間の位置関係だ。

 とりあえず、直さずに読み替えて対応しよう。でも充電は心もとない……。

 早めに船に入って荷物を置いて、充電もしておかないと。

 

「それと、ご飯……煙草……」

 

 酒保に行くのは決定だ。

 私は司令部─────多分。事務室があるから合っているだろう─────のドアを開けると、そこからは走り出した。

 

「……あと、艤装を拝領して」

 

 私の手元にないってことは工廠で預かってくれている、ってことのはずだ。

 そっちに行って……、

 

「最後に、みんなと合流、か……」

 

 まず謝らないと。というか、一番乗りする勢いで船に入って、荷物を置く。

 それからフル装備で到着をお待ちする……というのがあるべき私の姿だろう。

 加えて、可能ならば船団の代表者と面会して謝罪を述べたい……。

 

 私のやったことは、背任行為─────私の個人的事情など関係なく─────にほかならない。

 船団を見捨てて、陸恋しさに逃げ出した愚か者なのだ。

 

 リンガ泊地は現在、比較的安全な海域と言えるらしい。

 それは泊地所属の艦娘達による日々の掃海あってのもの。

 それでも私達が必要な理由は、掃海が100%の安全を保証しないからだ。

 

 深海棲艦はどこから出てくるか分からない。ただ、掃海によって減るということは分かっている。

 まさにこまめな掃除だ。

 ……掃除をすることで汚れを以後完全に断ち切ることが出来るか、といえばノーだから。

 完璧に安全な海は、世界にはもう存在しない。

 

 無論、私達の護衛艦隊が100%の安全を保証できるわけでもない。

 けれど、艦娘の存在によって危険は”万が一”まで減らせる、という認識でいる。

 私はその”万が一”を崩したわけだ。

 残り3人が海の上に、そして2人が船の中で休んでいたとしても、絶対に”一手”を欠いてしまう。

 特に、私が位置を持っていた左前衛は……。

 

 もういい、とにかく急いで行動しないと。

 速いのは足だけで、私は”早い”人間じゃない……。

 

 

 ●

 

 

 外は砂地だった。

 シューズに砂が入るし、足元が悪いのが少し癪に障る……。

 そして、一瞬立ち止まって辺りを見回した。

 ちょっと考えれば分かることで、まだどこに何があるかも分かってない。

 ……わけも分からずに走るのは、馬鹿だ。馬鹿でいたくない。

 

 ……ともかく。

 目の前には水平線が広がっていて、その手前にはコンクリートの埠頭。

 右に視線をやると船団、4隻が係留されていてタラップが降りている。

 クレーンもあって、これはコンテナの積み下ろしに使うやつだ。

 簡素ではあるけれど、港らしい港と言える。それも物流の意味での。倉庫……みたいなものもあるし。

 

 当然だけど、漁港とは雰囲気が違う。

 私はこういうのは好きだ。特に臨海の工業団地―――――ここにはよく似ている。工場がないこと以外は―――――なんてのは走り甲斐があって、暗くなると幻想的で……まるでファンタジーの、ゲームの世界のようだった。……現実逃避だ。そんなことをしている暇はない。

 

 今度は左を向くと、建物がいくつか見える。

 寮らしきものは2階建てで、それが3棟ほど有る。影に隠れてもう一つあるのかもしれない。

 対して食堂があると思われる建物は平屋で見た目横に広い。多分、酒保はそこと併設だろうと思う。

 じゃあ、そこが目的地だ。

 走る。

 

 

 ●

 

 

 考えたとおり、そこは食堂だった。

 日の光が強く差すからだろうか、照明は付けられていない。

 建物の中身全てが心地よい日陰のような印象だ。薄暗さはどこか爽やかなものだった。

 

 ……昼時というのもあって、中は当然人で賑わっていた。

 人混みの熱に負けないようにか、強めの冷房がかけられている。

 入ると熱と冷気の境界線に入った感覚がして、人混みを避けて内側に進むと完全に冷気の中に入っていた。……こんな格好というのもあるけれど、温度差で体が震えそうになる。

 

 人混みの内訳は……物流拠点としての意味合いのある基地だからか、普通の人間が多い。それに混じる程度に艦娘がちらほらと。互いに談笑している様子とかは……ない。席は6人掛けがずらりと並んでいて、そこでも艦娘と人間は席を共にしている様子はなかった。……まぁ、距離感というのはそういうものが当然なのか。

 

 座っていない人達は、ほぼ全員が昼食を取りに行こうとしている列をなしている。

 ……もしかすると私の同僚達は既に準備を終わらせていて、ここで最後に昼食を取っていこう、という構えなのかもしれない。

 でも私は何分急ぎである。併設されているだろう酒保を探す。

 

 探すまでもなく、食堂に入ってすぐが酒保だった。人の列で気付かなかった。

 駅のホームの、アレだ……キオスクみたいな形で、頼めば品物を出してくれる……のだろうか。

 最後尾に並ぶと……前には10人弱……数えると8人が並んでいて、サクサクと買い物を終わらせると立ち去って食堂の列に並んでいく。すぐに私に順番が回ってきた。

 

 酒保のカウンターに立っていたのは”伊良湖”。

 私の所属する舞鶴鎮守府にも同じタイプがいるので、これもまた見慣れた顔だった。でも、100%別人だ。客を早く捌くことに集中しているからか、私には視線を合わせない。

 ……最後まで合わないといいな、とすら思っているのは、あまりに卑屈過ぎる。

 

「ご注文をどうぞ」

「煙草を。ケントのアイブースト8ミリ。それを6……いや、7カートン。あと、ゼリー系の食料もあればそれを3つ」

「はいはい……って、7カートン?」

 

 私の注文に淡々と答えて、煙草の棚を開けようとした彼女だけれど、その数にびっくりするとようやく私を見た。

 ……ああ、失敗か。─────違う、普通だ、これが。普通は客を見るものだ。

 何を考えているんだ、私は……。

 

「……島風、さんですか」

「……そう、ですけど」

「……ああいえ、なんでも」

 

 ……そんなものだ。いい。これで。

 ”島風”がどう思われているかはとっくに分かっている。さっきの、”ここの大淀”みたいなのは少数派だと思う。

 彼女の視線に含まれる、私の苦手なものは……補給艦娘だからかその度合は他に比べて確実に弱い。

 けれど彼女は、その後努めて忌避感を隠すかのように考え込む表情をして、

 

「けど7カートン……うーん、ちょっと銘柄分けていただけますか?」

「……まぁ、そう、ですよね」

 

 買い占めとも言える大量購入だ。

 在庫に偏りが起きて私以外が迷惑を被るわけだ。売る彼女としては居た堪れないだろう。

 申し訳ないことをした……。

 

「じゃあ、分けます……。読み上げればいいですか?」

「ええ、どうぞ」

 

 とりあえず、思いつく銘柄を好きなだけ……。

 

「まず、メビウスメンソール8ミリ」

「はい」

 

 すぐに煙草の棚を睨んで私の言った銘柄のカートンを引き抜いて、バーコードリーダーに通す。

 じゃあ次、

 

 

「黒マル」

「はい」

「ケント・アイブースト8ミリ」

「……はい」

「ラーク・アイスミント5ミリ」

「はい……メンソール、お好きなんですね?」

「メンソールが慣れてるから………でも」

 

 レギュラーも良いかもしれない。なので思い切って、

 

「ピース・インフィニティ」

「はい」

「中南海ライト」

「はい」

 

 これで6カートン。あと1カートン買って行こうか……。

 皆は何を吸っているんだろう。

 喫煙所で共に吸う人が居ないから、何が好まれているかとかは実はわからないのだ。

 それじゃあそうだな……、

 

「ここで一番出てる銘柄、何ですか?」

「まぁ……メビウスか、セブンスターか……そのあたりでしょうか。在庫もそれが多いです」

 

 そんなのは日本でも買える銘柄だ。

 せっかくだし異国情緒を楽しむ─────楽しむ?バカか私は、仕事で来てるんだ。

 それも迷惑をかけている……。

 ……いや、くそ……、その、お土産にいいものはないだろうか。

 

「現地の煙草って、あります?……インドネシア領だし……」

「じゃあガラムですね。それも意外と根強い人気があるみたいです。タール値は……ああ、名前しか分からないんですが、ヌサンタラが一番売れます」

「じゃあそれを」

「はい」

 

 ……多分、日本でも買えるんだろうけど。有名そうだし。

 ともかく、7カートン買った。カウンターにカートンが積み上がって、なかなか壮観。

 それはいいとして、

 

「……それと、ゼリー系の食料ってありますか?なければカロリーブロックとかでも」

「うーん、食堂があるのでそういうのは置いてないですね。……そういえばここの方じゃないみたいですけれど。ウチには”島風”は1人も居ませんから。どちらからお越しで?」

「舞鶴から……。今回は、”遠征”で」

「お疲れ様です。それと携帯できる食料ってことなら……食堂にはおにぎりも置いてますから、それならどうでしょう」

「ありがとうございます……それじゃあ、会計を」

「それでは失礼して、ちょっと指をお借りしますね」

「どうぞ」

 

 レジスターの脇に置いてある指紋認証機をカウンターの真ん中に置き直して、私にタッチを促す。すかさず右手を差し出して、人差し指でひと撫で。

 

 これが艦娘の基地内での買い物のスタンダードだ。

 いくら艦娘が均一に”製造”されていても、指紋までは同じにはならない。

 だから指紋認証は有効な個体識別方法として成り立っている。身分証明書よりよっぽど信頼できる。

 こうして給与の控除額に今の買い物の料金が加えられる、というわけだ。

 ……手取りが結構目減りしてて凹む、までがセットだろうか。給与明細が楽しみなのか、嫌なのか……。

 

 ともかく指紋の読み取り、それから照会は10秒足らずで終わり、少し間延びした電子音が一度鳴る。

 これで、

 

「……はい、認証完了です」

「ありがとうございます」

 

 会計が終わったので、私は空の背嚢へとそれを詰め込み始める。急がないと。それに……、

 

「……」

 

 後ろを振り向くとちょっとした列が出来ている。

 私ってやつは、面倒な客だ。本当に迷惑だ……。全く反論の余地はない。

 ただ、それをいちいち気にする神経なら、とっくに煙草に諦めなんかついている。

 

 

「お買上げありがとうございました」

 

 煙草の全てが私の背嚢に入ると、伊良湖がそう言った。

 

「……邪魔しました、ごめんなさい」

 

 目も合わせず、軽く一礼して……それだけ言って列から外れた。

 

 

 ●

 

 

 酒保で食料を手に入れるという目論見は崩れた。

 けれど食堂にはおむすびがあるという。……弁当なのだろうか。そこまで聞けばよかった。

 後の祭りとはこのことだ……。

 

 どうやって手に入れるのかどうかはわからないまま、とりあえず食堂を一望する。

 

 舞鶴と雰囲気は違う。それは普通の人間の割合が結構多いからだろう。

 ひょっとすると、”人間の”人混みを見るのは久しぶりなのか?

 ……娑婆からはもちろん、軍からも一兵卒としては離れてしまってしばらくだった。当然か。

 それはいいとして……どうやら食堂の中にもう一つ行列が出来ている。お盆を持っている列じゃない。捌ける速さはそれなりだ。見ている内に2人がその行列を外れた。

 

 そして視線を少し上に上げると、高速道路のサービスエリアみたいな看板、ゴシック体の『弁当』の文字が掲げられている。

 どうやら弁当らしかった。

 胸をなでおろしたけれど、あの聞き方だったら当然弁当の話をするだろう。

 考えるまでもないことだ……。

 

 とにかく、おむすびはあそこに売っているはずだ。

 と言う訳で私はその列に向かっていく。そして並んだ最後尾、その目の前には

 見慣れた黒髪の背姿。……早霜だ。黒い大きなボストンバッグを一つ、肩に掛けている。

 

 特に気付いた様子はないから、話し掛けない。

 気まずいから、合流した時で別にいいだろうか……。

 でも、あちらから話しかけられるのも、それはそれで居所がなくなってしまう。

 なのに……欲を言えば、謝るのは一度で済ませたい。

 同僚全員と顔を突き合わせたそのときで、

 

 そして早霜が列の先頭になり、

 

「……」

 

 じっと目の前のショーケースを睨み始めた。

 ……おかしいな。私の目利きでは選択の余地なんて無いはず。

 いや、だっておむすびの弁当以外ないでしょ?そこには。

 

「何、悩んでるの?─────ぁ」

 

 思わず声を掛けてしまった。

 後悔する間もなく、早霜は左肩越しにバッと振り返り、

 

「……あら、ごめんなさいね」

 

 そう言って目を見開いて謝罪すると、

 

「ああ……お目覚めだったの。良かった」

 

 平静の表情を取り戻し、私に向かい合う。

 

「昨日は……ごめんなさい。それより、後ろがつかえてるから……」

「……そうね」

 

 私の謝罪に特に関心がないのかまたショーケース側に向かうと、

 

「……この、おにぎり弁当下さいな」

「はいよ、どうぞ」

 

 悩んでいたのは何故だったのか……?

 ともかく、店員役の青年がそう返事をして、ケースの上に載った指紋認証機をズラして彼女の前に出す。すぐに照会は終わり、会計完了。ケースの裏から弁当を取り出して、

 

「袋は入用で?」

「いえ、いりません」

「それじゃあこのままどうぞー、ありがとーございました」

 

 市販のタッパーに入った弁当を右手で掴むと、早霜は列から外れ、

 

「……無線、雑談用に合わせて。他の人は外させるから」

 

 そんな想像だにしなかった言葉を残して、去って行った。私は驚きのあまりしばらく呆然としていて、

 

「艦娘さん、ご注文は?」

「――――え、あ、はい、その。彼女と同じものを。それとミネラルウォーター3本」

「袋はご入用で?」

「あ、下さい」

 

 ……いくら何も考えていなかったからって、『彼女と同じもの』ってのは、どうなんだろう。

 そんなことを言ったことが、そして言ったことを気にしていることも恥ずかしくて、顔が少しこわばった……。

 



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謝罪とは?

2019/04/09
全面改稿。


 

 背嚢二つを背負い、左手首にペットボトル入りのビニール袋を提げて、砂浜を歩く。

 そして左手にタッパーを持って右手でおむすびを摘む。行儀は悪いけれど本当に急ぎなのだ。

 

 おむすびの色は真っ黒。海苔で丸々覆われている。

 口に含む前にちょっと匂いを嗅いでみると、いい意味で磯臭くて食欲を少し唆られる。

 それで思い切り齧り付くと……案の定、少し乾いた米粒がちょっと残念。

 でもカチカチの……プラスチックみたいな歯ごたえでは無いから、それで良しとする。

 

 このおむすび弁当、実は少し割高だった。

 列を外れた後からちょっと店先を睨んでみたけれど、良く観察すると、『デポジット制です。容器返却で50円お返しします』と張り紙が有った。

 どうやらこのタッパーは使いまわすらしく―――――いや、確かに使い捨てるには作りがしっかりし過ぎか―――――私のようなフラリとやってきた艦娘には些か厳しい。

 エコか経費削減か、その両方なのか……コンビニ感覚で使うところではない、というのは分かった。

 ここの食堂や酒保は、あくまでここで働くひとのためのものなのだ。

 

 お弁当の内容は……、まぁ、こんなものかという感じだった。

 黒々したおむすび2つ。

 それに唐揚げ、ウインナー、着色されたっぽく真っ黄色な沢庵。

 おかずを食べるためにあるのか、爪楊枝が最初から唐揚げに刺さっていた。手間がなくていい。

 唐揚げはまぁ……いかにも”から揚げ粉で安く作ってみました”を声高に主張しているし、ウインナーも”『ハリがある』だなんて期待するんじゃあない”って言わんばかりに安っぽい。

 

 とりあえず、おむすびが一つ片付いたので、唐揚げを頬張る。

 ……思ったとおりだった。硬いし、乾いている。

 外でお弁当なんてのは風情があるものだと思うし、まぁ、この味もまた風情の一つ……なんだろうか。

 

 さて、次にやることは決まっていて、それは艤装の受領だ。

 工廠はおそらく……潮風が良くないとは思うけれど、おそらく海岸のすぐ側だと当たりをつけていた。

 ところで、目の前にはどう見ても安っぽいトタン張りな建物。コンクリートの埠頭から少しだけ離れた位置に。

 さっき、港の方を見渡したときに見えていた。

 

 これは……大倉庫と言った大きさだけれど、潮風や雨風で錆びた様が実に痛々しい。

 どうでもいいけれど、あの屋根を剥がして布団にしようものならものの数分で人間は焼肉になるだろう。

 致死量の放射能に冒されればそれでも寒いと言い張れるのだろうか。

 ……バカバカしいし、不謹慎な考えだ。

 

 でも確か、”はだしのゲン”でそういうシーンがあったはずだ。原爆投下後の、焼け野原になったばかりの広島。

 そこでゲンを負ぶさって歩く兵隊さんが、突然苦しみだして……だったっけ。

 小学校に置くのは正しいのか、正しくないのか、私にはとんと分からない。

 そういう反戦的な漫画を読んで育ったくせに軍に入って、こうして戦争をやっているのだから。

 いや、この戦争にイデオロギーの対立なんてものはひとつまみも存在しないから、これでいいのか。

 御為ごかしではない、純粋な─────”生存のための戦争”なのだから。

 

 けれども。

 そこに違和感がないわけでも、ない。何故そんな違和感を感じているのだろう。

 答えは夢の中にでもあるのだろうか。……これもまたバカバカしい考えだ。

 

 

 ●

 

 

 やはり美味しくなかったおかずも、もう一つのおむすびも腹の中に叩き込んだ。空っぽのタッパーをビニール袋にしまっておく。

 そしてボロボロの大倉庫のような場所に着く。覗き込んで見ると……やはりそこが工廠だった。

 その中─────薄明るい?電灯も点いてないのに何故だ─────には艤装がいくつか見えるから、入って自分の装備を探しに行く。

 

 舞鶴の工廠は鉄筋コンクリートで出来ていて、立派な建物だった。

 大仰に言えば……ギリシャの神殿をも思わせる出来栄え。

 

 一方、こっちの中身は鉄骨が剥き出し。天井を見上げればところどころ陽の光が差している。

 ……つまり、屋根に穴が空いているのだ。ああ、それであまり暗くないのか。

 そして床はコンクリ打ちっぱなしだけれど、そこはかとなく波打っていて精度の低い出来上がり。

 果てにはところどころにバケツが置いてあって、しかもその下は罅が入っている。

 灯りも電灯が吊り下がっているだけで、大きなライトなんて据えられていない。

 光量は明らかに足りないけれど、皮肉にも穴の空いた屋根がそれをサポートしている。

 多分作業に支障は無いくらいに明るかった。

 

 そんな建物の中では半端に日に焼けたメカニック達があーだこーだ言いながら駄弁っていた。

 私の想像とはぜんぜん違う……技術屋に職人気質というものを期待していたからか。

 ともかく南国の人間のおおらかさというか、適当っぷりが染み付いたのだろうか。

 彼れは……どうも軍人として”らしくない”有様だ。

 ……そこらの民間工場のほうがよっぽど引き締まっているかもしれない。

 

 とにかく話をしたい。それで、手近にいた半パン・Tシャツにワークキャップを逆向きに被った青年を捕まえて、

 

「駆逐艦クラス・島風シリーズ・タイプ1”島風”です。艤装の受取に参りました」

 

 そう言って敬礼すると、

 

「あー、艦娘さん。”遠征”の帰りかい?とりあえず補給と整備は済んでっからそのまま海に出てくんなぃ」

 

 えらくヘラヘラした様子で応対される。

 敬礼は一応返してくれたけれど、肘の角度がだらしないなぁ。

 陸軍式と海軍式の中間みたいになっている。

 ……ちょっとムカついたので、真面目な軍人を志す私としては、

 

「……はい、では案内をお願いします」

 

 当てつけのように、こんな話し方をしてみたくもなる。

 今思ったけれど、流暢に話せているのは意外だ。

 けれど人間として、肩肘張った口調のほうが話しやすいってのは如何なものだろう……。

 一方、メカニックの彼はやっぱりヘラヘラ笑って腕を組んで、

 

「あー、ダメダメ、そんな真面目はウチじゃ通用しねぇだよ。お淀さんくらいさ、ここで真面目なんはね。艤装は……まぁその辺にあっから適当に持ってってくんなぃ」

「適当って……えぇ……」

 

 不真面目は工廠だけじゃなくこの基地の至る所でらしい。

 お淀……多分、あの”大淀”だ。彼女以外はだらしないらしい。

 あの弁当の出来栄えもそれが原因かもしれない。

 こういう環境、食事まで手を抜かれだしたら士気に関わる気がするんだけれど。私ならガタ落ちだ。

 ……実際、士気はそう高くない基地なんだろうか。重要な場所のはずなんだけれど。

 いや、”やるときはやる”んだろう。きっと。多分。

 

「……良いです。自分で探して勝手に持って行きます」

「おう、そうそう。そういう感じだぁ。ダルく頑張んなよぃ」

 

 ダルいのか頑張るのか、どっちなんだ。

 本当に見ているだけで気が滅入ってくる彼に背を向けて、私は工廠内をウロウロしだした。

 うだうだ考えてる上にウロウロ探すだなんて、時間がいくらあっても足りない……。

 

 けれど艤装は……本当にそのへんと言ったところに置かれていた。

 連装砲ちゃんは……船に積みっぱなしらしい。ここには無かった。まぁ積む時以外に動かしていないし、別にいいんだろうか。

 いや、私が起きていなくて連装砲ちゃんが動けなかったから?

 それに結構重いし、手作業では搬出できなかったのかもしれないな……。

 そう考えると……また申し訳無さが募っていく。

 

 それは置いておこう。

 外履きを脱いで足に艤装を装着してスクリューを回転させてみる。

 ……一応手は入っているのか、具合は良くなっていた。

 陸で空回ししているだけだから実際はどうか分からないけれど。

 

 装備の修復は資材、そして”妖精さん”の力によって行われる。

 一方でダメージを受けたわけでもない、しかしこうやって酷使された装備は……メカニックの手によって整備される。

 それは工作艦である”明石”だったり、あるいはここのように人間だったり。

 機械である以上、技師もいじれないほどにも複雑ってわけじゃあないらしい。

 それに……こうして動きは良くなったのだから、腕は確かなのだろう。態度はともかく。

 

 しかし、この背負った魚雷発射管。こちらは発射する機会がないから試し様が無い。

 けれど、多分、きっと、メンテナンスはされているはずだろう。

 ……足の艤装のついでくらいに、ちょちょい、って感じなのは想像がつくけれど。

 

 ともかく、これで艤装は確保できた。

 今の時間は……工廠の中の大時計が嫌でも目に入った。大きな文字盤が吊り下げられている。

 白いペンキの上に黒の文字と針が乗っかっただけの簡素な作り。

 こういうルーズなところだからだろうか……ペンキが剥がれて錆色が滲んでいる。

 ここは本当に基地なのか?あまりにだらしがない。

 ……いや、これは多分手入れがしづらいから、仕方がないんだ。きっと。

 あまり目くじらを立てるべきじゃあない……。

 

 とにかく、時計の短針は1、長針は概ね0を指していた。

 やることの少なさの割に、意外と時間を食った……のろまだ、私は。

 

 沼みたいな居心地の工廠を後にして、私はまた陽の光を浴びた。

 ……干からびそうだ。そう思って、ビニルの手提げからペットボトルを取り出して一気飲み。

 これで1本空になった。まぁ、あと2本有る。

 仕事終わりの度に真水タンクから拝借していれば当面暮らして行けるだろう。

 

 さて、もう船に乗って荷物を置かなければ。

 そして同僚達への謝罪を終えれば、私のすべき準備は全て完了。

 帰りは、ごくごく真面目に、ただ真面目に。

 “夢通信”に心を乱されることもないのだから、仕事に集中していればいいのだ。

 退屈ではあるけれど、気楽で良い……。

 

 

 ●

 

 

 船団が係留されているところまで行くと、艦娘は居なかった。

 ここにいる数人はさっき工廠で出会ったメカニック達と同じ装いだった。

 多分、ここに勤める人達だろう。タラップ前に置かれた吸殻入れを囲んで煙草をモクモク蒸かしている。

 クレーンももう動いていなくて、コンテナは甲板上で整然と並んでいた。出港前だから当然か。

 

 ……同僚や船員達だけれど、荷物を置いたりするために船の中には居るはずだ。

 乗ればまず必ず行き当たるだろう。合う都度に最敬礼で平謝り、は想像がつく。

 

 そう思いつつも、タラップから船へ上がる。

 脇で立ち上る煙の匂いが、やたら恋しい。今日はまだ一本も吸っていないからだろうか……。

 

 ペンキで丹念に錆止めされたタラップを上って行くと、チラリとまた長い黒髪が見えた。

 早霜が艦橋に入って行くところのようだった。

 彼女は私に気付いて居ないだろうし、……私も話しかける気は無かった。

 

 タラップを上がりきった所で、艦橋のドアの閉まる音。

 鉄の擦れる音を引き摺りながら、最後に叩かれるようなやかましい音。

 そこに……”跳ねのけられる”というイメージが浮かんだ。

 ……気分が心持ち、沈んだ。

 バカだ。我ながらナーバスが過ぎる。被害妄想の域だ……。

 

 けれども、昨日の醜態……その負い目がそうさせている、というのは分かる。

 だから謝って─────楽になりたい?

 

 そう考え至って、思わず立ち止まって俯いた。

 

 ……楽になるために謝るのか、私は。それは謝る理由がおかしいだろう。

 自分のためにだなんて、そんな謝罪は自己満足でしか無い。

 じゃあ人はなんで謝るんだ。人の機嫌を直させるため?

 

「別に立ち止まらなくたって、いいじゃあないか……」

 

 あえて声に出して自分を叱りつけた。考えることなんて、腰を据えなくたって出来る……。

 左目の端、舳先が見えて……そこには艦娘が4人居た。私がドベだったのか……。

 彼女達から逃げるように、艦橋のドアを静かに開いて船内に入った。

 

 蛍光灯の明かりは、夜明けすぐを思わせる涼し気な色。

 焼けるような日差しよりも、冷たくて気持ちがいい。

 逃げられたという安堵、ともに冷たい空気を吸い込んだ。

 けれど、胸の中が後ろめたさで……凍りついていく感じだ。

 

 階段を降りていく。そして、降りながら考える。

 歩きながらでも出来ることだから。

 

 ……謝罪はなんのためにあるのか。

 過ちを認めて、もうやらないと誓って……それを以て誠意を証明するため?

 そういうことだったら単に行動を改めるだけで謝罪に値するだろう。

 

 じゃあなんだ、改まって言う”ごめんなさい”には、一体何の値打ちがあるんだ。

 悔やんでいることを伝えるため?……嘘なんかいくらでもつける。

 ”ごめんなさい”と言いながら過ちをおかすことだって出来る。

 例えば、─────”ごめんなさい”と言えば、言いながらだったら人を殺して良いのか?

 

 ……入ってすぐの階段を降りて、居住区画に。

 そして多分、私にとってはただの荷物置き場に成り下がるだろう船室へ。

 

 一体、私はどうすれば償えるんだ─────ほら、また楽になろうとしている。

 償うことで、荷物をおろしたいと考えている。

 じゃあ、許しってものは……荷物を下ろしていいよ、っていうこと?

 でもそれだけじゃあないはずだ。私の視点は、私自身しか見ていない。

 もっと他人のことを見れば、きっと、許しには別の意味があるって分かるはずなんだ……。

 

 そもそも許す、それそのものがどういう意味なんだろう。

 ……そんなの、もう分かっていていい歳のはず。

 私はきっと許したり、沢山許されたりしてきたのに、なんでそんなことも分からないんだ。

 私の日々の”ごめんなさい”は、こんなに虚しかったのかと思うと……恥ずかしくて仕方ない。

 

 下を向いて、また勝手にどこまでも落ち込みながら、階段の最後を降りる。

 

「さっきのことだけれど」

「……ぇ?」

 

 声に顔を上げる。降りてすぐのところに、バッグを肩に掛けた早霜が待ち構えていた。

 目はいつもの無表情で、私を見据えている。

 射抜くようで……刺さるようで……、そしてまるで切り開かれているような。

 そんな痛みが喉と胸に走って、こわばる。

 目をあまり合わせないように、そして……私は逃げとして、頭を下げた。

 

「ごめんなさい……」

 

 こんな”ごめんなさい”に、何の意味があるんだ。中身なんてない。

 ただの逃避のために……こんな、”ごめんなさい”という立派な言葉を振りかざして。

 

「……別に、今そうしなくてもいいじゃないの」

 

 そう言って、彼女は私に歩み寄ると……頭を撫でた。

 くすぐったいし……むず痒い。顔まで熱くなってきて、私は思わず一歩後ずさった。

 

「そんな、泣きそうな顔しなくても」

 

 私は、そんな顔をしていたのか。情けない……。

 それで顔を引き締めると、彼女は左目の端を少し緩めて、

 

「いい?謝ったなら、行動するのよ」

 

 ……少なくとも、私の疑問は一つ消えた。

 いや、消えてはいないけれど……不思議とその言葉は腑に落ちた。

 ”ごめんなさい”と”これからの私”がセットで……”謝罪”なんだな、と。

 あまりにも当然のことだった。何を見失っているんだ、私は。……馬鹿だ。

 こんな当然のことの再確認のために、なんでわざわざ悩んでいたのか……馬鹿馬鹿しい。

 

「はい……」

 

 恥ずかしくて、上げた顔をもう一度、深々と下げた。早霜は正面から私の両肩に手を添えて、

 

「だから……ほら。しゃんとしなさいな。よく寝たでしょう?今日はちゃんとお話が出来そうね」

 

 私の前のめりを正して、”気を付け”をさせてきた。

 なおさら恥ずかしくて、思わず右手を左腕にやって……いや、しゃんとするんだから、手はそうじゃない。

 きちんとまっすぐ立って、彼女に向き合うべきだ。

 姿勢を正したことに彼女は満足したのか、振り返って前に進んでいく。

 

「それじゃあ、荷物を置いたら甲板に集合よ。スケジュールを後ろに倒して良かったわ。もう少し遅らせても良かったかもしれないけれど……とにかく無線、雑談用に合わせておいてね」

 

 スケジューリングまで彼女が気を回してくれていたことに、この上なく恥じ入り、また私は俯いてしまった。

 けれど、それだけじゃない。これは……暖かい。胸の中がなんだか、心地よく埋まっていく。

 私は逃げではなく、そう、”感謝”として……また頭を下げた。歩いていく彼女には見えない。

 これは自己満足だと内心思いながらも、私はそうしたかったのだ。

 

「ありがとう、ございます……」

「別に敬語じゃなくていいから」

 

 カチャカチャと足音を鳴らしながら、彼女は先に進んでいく。

 頭を上げて、その後をついていく。

 

 ふと、気付く。

 さっき、肩に彼女の手の冷たさを感じたけれど……それはちっとも嫌じゃなかった……。

 



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まなざし

2019/04/11
全面改稿。


 船室に荷物を置くと、私達は早足で甲板へと向かっていく。

 そして艦橋を出て甲板に出て仲間達と顔を合わせた。……猜疑の視線で迎えられた。

 ともかく、謝罪の言葉を反省文宜しくつらつら述べる。

 最後の言葉に、

 

「自分をしっかり保って……そのためには節制して、これからを過ごします……」

 

 と、なんとも締まりのない結びを加えて、頭を下げた。

 

 今回に道連れである艦娘達は……それに溜飲を下げる……とは行かなかった。

 頭を上げた後も気まずい沈黙が流れて、息が詰まる。詰まりながらも、彼女達を見回す。

 

 皆が皆、揃って─────早霜は除いてだ─────『だから何?』と言わんばかり。

 そんな顔で、けれどその一言すら口にしたくもない、という……それくらいの呆れ顔。

 そうやって私を斜に見ていた。

 

 それが私に一番効くということが分かっているのかどうかは分からない。

 けれども、彼女達の予想を上回る効果だろう……かなり参ってしまった。

 体がこわばって、息がうまく出来ない……。吐く息が、溜息になりそうになる。

 でも溜息なんて吐いていけない。彼女達がそうしたい、いやそうであるべき立場だ。

 鼻でなんとか、空気を吸い上げようとすると……少し、鼻が詰まっていて啜るような音がした。

 ……こんな常夏の島で風邪気味なんて、変だ。体も、心なしか重い気がする……。

 

 誠意─────私には何がその表現になるのかとんと分からない─────が足りないんだろうか。

 だから、とにかくもう一度頭を下げた。

 そして謝罪の言葉を……繰り返しにはならないように並べてみる。

 

 謝罪と行動はワンセットだ。けれど、それが謝罪に手を抜いていい理由にはならない。

 出来る精一杯、謝る。それから精一杯行動を正す。

 セットということは、どちらに不出来があってもならないということだろう……。

 

 そうして頭を上げると、彼女達はいよいよ驚いたらしく……目線の質は少し変わった。

 疎むようなものに、好奇の色が入っている。……少し、心外だった。

 逆上するようなことじゃあないけれど……彼女達の知る“島風”は一体、何をしてきたっていうんだ。

 けれども怒りを逆撫でして、機嫌をこれ以上損ねさせることはなかったという。

 そのことには少し、ほんの少しだけ安心した。

 けれど、早霜は……そう驚いたふうでもなくて、それが一番不思議だったかもしれない……。

 

 

 ●

 

 

 タラップが埠頭と離れて、係留ロープが外された。碇も上がってついに航海が再開される。

 長い帰り道。常夏の島とはおさらばで、冬真っ只中の日本へと帰る。

 帰り道は頭をよく冷やせそうだ……。

 

 船が陸を少し離れた所に来ると、甲板から船体の左側面へと縄梯子が降ろされた。

 最初が早霜で、次が……銀髪が目を引く”霞”。続いて、”満潮”。私は最後に降りる。

 私がシンガリなのは、新人だからだ。

 仮にずぶの新人が先に降りて……もし下手を打ったら、助けに行くのに”一手”遅れる。

 ちなみに、如月と皐月の2人はもう船内に引っ込んでいる。深夜から始まる勤務に備えて。

 

 登るときはともかく、降りる時は梯子が要らないんじゃあないかと思ったこともある。

 けれど飛び降りは禁止だった。そもそも、新人の私はそうする度胸とか、その根拠がない。

 だって勢いよく海面に突っ込んで、そのまま浮き上がってこれるのか……いや、浮くには浮くんだろう。

 ちゃんと立てるかどうかが問題で、下手をすると置いていかれることになる。

 私は……追いつけるだろうけれど、そういう問題ではない。単に危険だ。

 

 縄を握ると……決して不吉ではない、ミシリとした音がする。

 そのまま最下段まで降りると、低速とは言え吹き付ける風、そして跳ねる海水が体中を包んでいる。

 霞と満潮の2人は、もう自分のポジションに行った。方陣の右前、右後ろへ。

 早霜が船と並走しつつ、私が海の上に降りるのを待っている。そういうのも旗艦の役目ってことだろう。

 

 彼女の視線に見守られながら、私は右足を海面へ。

 少し沈んで……そのまま押し上げられるような力を足に感じる。

 そして左足を降ろすと……梯子から両手を離して、主機に火を入れる。航行開始だ。

 船の側面から横っ飛びのように離れて、並んで海を走る状態。

 それを見届けると早霜は前方へと加速していった。

 ……私も、自分のポジションに行かなくては。

 

 少し速度を緩めて、船団の最後尾だったこの船を右前方に見る位置へ。

 ……今回の私のポジションは、左後方だった。早霜は、その前。左前方だ。

 

 私の謝罪が終わった後、1分くらいの打ち合わせがあった。というか、旗艦からの通達だ。それでこの陣形。

 意図は……多分、今度私が勝手をしても引き止めるためだと思う。

 もうあんなこと、しない。けれど保証なんて……100%は無理だ。

 ”絶対”なんて信用できやしない。……私だって出来ない。仕方がない。

 

 そして陸が遠のくのを肩越しに見つつ、私は無線を雑談用の周波数に合わせる。

 ガーピーうるさい音がした後、ノイズ混じりの人の声が聴こえるようになった。

 私は声を立てずに、会話にも耳を貸さず……早霜が呼びかけるまで待つことにした。

 

 

 一体、何を話すって言うんだろう。

 いや、これは……いわゆる先輩としての指導とか、そう、コミュニケーションだ。

 新しい社会に参入したときにはよくあること。一兵卒として軍に入隊したときもそうだった。

 

 でも……よく考えなくても、今までの私はコミュニケーションを避けてきたようにしか見えないだろう。

 その理由が着任直後に受けたハブられだとしても……諦めたのは私だ。私のしたことだ。

 そんな私にもこうして交流の機会をくれた。皮肉でも何でもなく、とても有り難いことだ……。

 

 でも私は……悩みや辛いと思うことを素直に打ち明けられるんだろうか。

 そういうのをいきなり打ち明けて、単なる弱音だと思われたりしないかと不安。

 ……自分が強くありたいと思う程に、そうすることは難しくなっていく。

 抱えられるだけの強さは私にあるか?吐き出せるだけの潔さが私にあるのか?

 ……どっちもない。弱くていじけた人間だ。

 

 ただ手を伸べられるのを待つだけで、いや、その手すらも跳ね除けるような……いやな奴だ。

 本当に、私はどうかしている。……どうかしていなくちゃあ救われない─────”救われない”?

 それじゃあまるで、私が”本当にどうかしている”ことを認めたくて仕方ないみたいだ。

 ”どうかしている”ことにして……本当はそこまで弱い人間じゃあないのだと、言い訳をしたいみたいで。

 

 でもそんなのは、浅ましくて……みじめだ。

 だからこそ私の性格の悪さなんかは……そういうものだと受け入れなくちゃならない。

 そしてそう見えないように、永久に取り繕い続けなくちゃいけない。

 誰にも心の奥底を見せないように、上っ面ではなくて……心底”正しい道を歩いている”ように見えるよう。

 そうすればきっと、誰も私の“真実”なんかには興味などなくなる。私に注意は向かってこない……。

 ボロを出さなければ─────いや、もう遅い……既に私は失敗した。

 疑いの目はもうこちらを睨んでいる。誤魔化すほど、繕うほど化けの皮がほつれていく。

 

 じゃあなんだ……どうやっても、私は”人として正しい道”を歩けないんだろうか?

 そうならそうだと言って欲しい。誰かにこの迷いを断ち切って欲しい。

 誰か?……誰かになんて、また浅はかな考え方をしている。

 自分自身で断言できなければ、自分で自分を”間違っている”と、胸を張れないことには。

 でもそれもダメだ……そんなにも強く“悪”でいることに、耐えきれないだろう……。

 

 ……どうすれば、強くなれるんだろう。

 物理的な力じゃあない。”意思”だ。

 澄み切った黒のような。あるいは混じりけのない黄金のような。

 どちらに向かって走るにしても、遠すぎて、私の胸の中には収まってくれない……。

 

 

『─────風、聞いてる?島風。OVER』

「……ご、ごめん、なさい。聞こえてます。OVER」

 

 ああ……また、考え込んで聞き逃したのか。

 好意に対して、酷い無礼をしてしまった。

 きっと一昨日までもそうだったんだろう……。

 

『約束通り、他は外させたわ。それに謝らなくていいし、敬語はいらないわ─────OVER』

「じゃ、あ、わかっ……った。でも、話って─────OVER」

『話す機会が必要だと思ったの。あなた、行きの航海では部屋に居ないし、声を掛けても目が虚ろだし……それにリンガでも時間が取れなかったから─────OVER』

 

 私がずっと寝なかったから、そしてリンガで寝ていたからだ。

 ちゃんとしていれば、ちゃんと腰を据えて……お話が出来たのに。

 だからこんな、仕事の合間どころか……隙をつくような形での話になる。

 時間を取りたい、って言うからには、つまりそれなりの話題。

 ……ああ、でも”昨日も”って言うからには、もしかしたらただのコミュニケーションなんだろうか。

 

『……OVER』

 

 応えを返さない私に、再度の返信要請。私は……更に心が重くなりながら、

 

「聞こえてる……話っていうのはどういう話─────OVER」

『あなたの連日の徹夜についてよ。─────OVER』

 

 やっぱりそういうことになるんだ。……そりゃそうだ。

 徹夜して、気が変になって、悪いことをして、そして挙句の果てには一日眠りっぱなし。

 ”どうしてそんなことを?”……当然の疑問だ。

 それを解決することだって……きっと、”すべき”ことだ。上役、先輩として。

 答えなんて、決まりきっている。

 

「それは私が、勝手にやったことで」

 

 自分勝手で。

 

「自分で自分の世話も出来なくて」

 

 クソのつくガキで。

 

「無責任で」

 

 仕事もろくに出来ない。

 

「……馬鹿だったから」

 

 馬鹿をやる奴が馬鹿だから、

 

「馬鹿をやった。……それだけ。ごめんなさい。今日から、きっとまともになるから─────OVER」

 

 一番なりたくないもの。足の先から頭まで、馬鹿になった。

 自分で、自分が情けない。許せない。

 でも、きっと、今日から少しまともになる。上手くやる。だから、もうそういうことにしてほしい。

 これ以上言い訳するなんて、みっともなくて……。

 

『そうね。……でもそういうことを聞いてるんじゃないの』

 

 けれど、無線の向こうから聞こえる早霜の声は”ダメだ”と告げている。

 

『それに至る理由が有ったはずよ。私はそれに……関心があるわ。─────OVER』

 

 私は無線に声が乗らないようにして、

 

「関心……?」

 

 関心って、なんだ。なんなんだ……。まるで、見世物みたいな言い方。

 

 ─────違う。言い回しが私にとって少し変なだけ。

 考えてもみればいい。無関心の反対だ。それを表しているだけ。だからこれで合っている。

 “心配”ではないっていうのが釈然としないはずなのに……けれど、妙だな。

 ”それでいい”ような気がする……。

 私は返事として、

 

「どうして、関心があるの?――――――OVER」

『そうね……まず新人に無関心、なんて先輩は先輩失格じゃない?』

 

 そんなに深い理由はない。そうだろうか。でもまだ”OVER”が聞こえない。

 

『それに……あなたは今までの“島風”と違う。だからこそ、なおさらに興味があるのよ─────OVER』

「今までの……?」

 

 今までの“島風”。それとの差異を私から見出すためには、

 

「他の“島風”を知っているの?―――OVER」

『そうね。違いが分かる程度には、“前の島風”を見てきたわ――――――OVER』

 

 “他の”ではなく“前の”。その言い回しに少し引っかかるところがあって、

 

「私の着任前、“島風”がいた?―――OVER」

『三人いたわ。―――――OVER』

「三人?」

 

 三人もいたのなら……舞鶴に居たときに見かけていなければおかしい。

 けれども、”前の”だ。つまり、今は居なくて……。

 背筋を氷が伝うような、そして首筋が軋むような恐怖。

 こわばる口をこじ開けて、問いかけた。

 

「……ひ、……し、死んだの?……OVER」

『死んだわ。OVER』

「ぜ……全員が?……OVER」

『全員よ。OVER』

 

 私より先に居た“島風”。三人。その全てが……死んだ。

 死んでしまった。……どうして。

 

「どうして、死んだの」

『……』

「どうして死んだの……」

 

 返事が来ない。苛立ちが呼吸を荒くするけれど、

 

「……ごめんなさい、OVER」

 

 私が返答を許可しなかったからだ。”OVER”を言わなかったから。

 癇癪を起こす前に気づけて良かった……。

 

『どうして死んだか。簡単ね。自分勝手をした、し続けたのよ。懲りもせず……皆を見下して、迷惑を掛けて、その挙げ句、誰も助けにいけない状況に自分から落ちていって……死んだわ』

 

 自分勝手で死んだ。

 それは……私が辿る道そのもので、早霜からの強い戒めだと理解した。

 そうなりたくないと願っている私が、結局そうなっていくという……予言の、”運命”のような。

 そんな運命はイヤだ。そんな運命に取り囲まれるだなんて……イヤだ。

 

『でも、あなたはそうならないと思うわ。OVER』

「え?」

 

 どうして?まるでそんな馬鹿そのものなのに、どうしてそうならないって言うのか。

 

「私だって……そんな奴なのに」

『……』

 

 ……私が”OVER”と言うまで、彼女は律儀にも返事をしない。

 でも、おかしいな。三人いたのに、まるで一人分のことしか話していない。

 

「でも、他には?というか、一人しか紹介してない……OVER」

『他も何も。正直、これ以外に言うことはないわ。決まりきったように、同じ死に方だったから―――OVER』

 

 決まりきったように?

 まるで台本─────それがあるかのように、”島風”が三人死んだ。

 皆の冷ややかな視線も頷ける。……三度目の正直すらも裏切られて、私で四度目。

 そう。その三人は……100%別人だった。それは皆が皆、十分に分かっている。

 なのに、こうも同じように振る舞った。”レッテル”なんてもんじゃあない。

 ”運命”としか思えない。私だってそう思う。

 だからきっと、今度もそうなる。自分で思ってるようじゃあ世話がない……。

 

 でも、早霜は”そうならない”って言った。

 何故?

 

「私がそうならないって、どうして……」

 

 続きそうになった言葉を、唇を引き絞ってこらえた。

 食いしばった歯の隙間から、涙のように涎がこぼれ……唇の内側を濡らす。

 

 ああ、くそ。こんなの弱音だ。それも酷く幼く、みっともない類の。

 己の運命を嘆くなんて、─────いや、それより浅ましい。

 ”こんな運命から助けて”……そう言っているようなものだ。

 ”自分で切り開くもの”、”強請ることなく勝ち取るもの”、そういう意味合いの言葉を知っている。

 きっとそうなのだと思っているのに、口はこわばりながら─────それは意のままにならないという意味で─────滑らかに、

 

「きっと私は……また馬鹿をして……迷惑を掛けて……最後は馬鹿らしい死に方をする……OVER」

『繰り返して言うけれど、そうはならないと思うわ。だって、あなた。そんなに思いつめるほど悔やんでいるし、反省しているでしょう?』

 

 思いつめる……。これが、そう?

 

『それに泣きそうになって謝るんだから、きっと素直で……でも頑固なのね。OVER』

 

 ……なんだ、それ。いじけてるだけだ。どこも素直なんかじゃない。

 だから”納得”出来ないはずなのに……胸がつまる。腹が煮えくり返るはずなのに、どうして胸が?

 罪悪感?……そうだ、そう見えているなら”ダマしてる”ってことなんだから……。

 

「……素直じゃあないよ」

 

 ……素直になれない。根性が曲がっているから。

 まぁ、”頑固”は正しいかもしれないけれど……正確には”思い込みが激しい”だと思う。

 

 そのせいで恥ずかしいことばかりだ。自分で”お願い”すら出来ない、子供以下の意地っ張り。

 夢通信の切断だってそう。困りきってようやく嫌だと言った。それでさっさと切って貰えたのだから。

 素直にあの次の晩も眠って……嫌だ嫌だと喚いていれば、きっと”島風”はそれを聞いただろう。

 あの世界の主なのだし、きっと……。だから私は、

 

「素直なんかじゃあない……全然。OVER」

 

 私が返答を許すやいなや、早霜の笑い声が聞こえてきた。

 ……なにがおかしいっていうんだ。

 

『あなたが言う通り素直ではないにしても……とても正直者なのね。だから、正直に何があったか話してみて。OVER』

 

 ……言いたくない。言うべきだけれども。

 今回のあらましは例えて言うと……そうだな。

 近道というか、脇道を通って行ったら酷いことになって、それで結局普通の道順に戻ったら……それが最短ルートだった。

 ”遠回り”がどうとかじゃあなく、眼の前の行き止まりがそのままゴールだったのだ。

 

 あまりにあっけなさすぎる、つまらない話だ。

 大迷惑をかけた罪悪感だってある。けれど……少し心が軽くなっている?不思議だ。

 彼女の語り口のせいだろうか……。

 

 それにしても、早霜は……こんな人だったんだ。穏やかと言うにも暗すぎる、だから怖い人柄だと思っていた。

 実際はこう、凄くおおらかだ。例えるなら……”晴れの日の木陰”だろうか。落ち着くのだ。

 だけど”甘い人”……いや、そう思ってしまうのは誹りで、恩知らずだ。

 全く何を考えているんだ、私は……。

 

 自己嫌悪を一旦隅に置いて、もう観念しよう。

 私は口を開いて、

 

「ひどい夢を見た。行きの航海で、別の船団とすれ違ったでしょ。あっちの護衛の艦娘とも会った。その晩に。OVER」

『……ひどい夢……それがどんな夢だったの?OVER』

 

 早霜の反応を聞いて、静かに溜息した。

 ……彼女は、”たかが夢でしょう?”となどと茶化したりしなかった。

 いや、まだ分からないけれど。とりあえず続きを話してもいいことに安心する。

 

「ところで、あっちの艦隊に”島風”がいたのは覚えてる?OVER」

『?……ええ、勿論覚えてるわ。……口に出すのは勿論、それを当人に言うのはもっと変だけれど……”島風”同士が話し合うように促す”不文律”のようなもの。私達にはそういうものがあるわ。OVER』

 

 ”不文律”とは、また大仰な単語が出てきたと思う。けれど納得した。

 まるで示し合わせたかのように、私とあの”島風”は二人きりになった。そう仕向けられていたから。

 ……この際だから感想を伸べておこうか。

 

「でもあいつ、”クサレ脳ミソ”だった。OVER」

 

 かなり遠回しかもしれないけれど、”絶対にもう会いたくない”ということは伝わったんじゃあないか、と思う。

 少し間が空いて、

 

『いや……その……本当に正直ね。でも、もうちょっと他の言い方は無い?OVER』

 

 ……ダメだ。流石に口が悪すぎる。

 彼女も戸惑ってるらしい。これが私の”正直”だけれど……酷すぎる。

 けれど、これに対応する言い換えなんてもっとキツい。

 なにせ─────”ド低能”だから。むしろ言い換えてこうなのだ。

 だから更なる言い換えが出てこないんだけれど……ああ、まぁコレでいいか。

 

「─────”Screw loose”。OVER」

『……英語?そんなに聞き慣れないイディオムだけれど。OVER』

 

 ……当然、学校教育では出ないからだ。悪口をわざわざ教えてどうするって話だ。

 仮に”言ってはいけないです”なんて言おうものなら……みんな喜んで使うだろうな……。

 

「“イカレてる”。ネジが……特に頭の。それが緩い、ってことだから……OVER」

『なるほどね……そういう英語の”スラング”。”イカしてる”と思うわ、少なくとも私はだけれど』

 

 今度は”ジョーク”として気に入ってくれたみたいだ。

 ……まぁ、結構に酷い貶しで、確かに”言い換え”には十分だな。

 つまり口は悪いままだ。反省しろよ、私……。

 

 それはともかく。

 耳障りが良く聞こえるのは……母語ではない─────私とてそうだけれど─────ってだけで、それに含まれるニュアンスの伝達が弱まっているせいか。

 ”Fワード”だってそうだ。これも日本人には”イカした”煽りに聞こえるだろう。

 実際は……日本語で言うと”くたばれ”にあたるはず。

 

 よく考えると、“スラング”として“死ね”という……超ド直球が使われるってのは変な話だな。

 世界を探してもなかなか無いんじゃあないか?

 そういや“くたばりやがれ”相当の言い回しは、相手を辱める類のものがほとんどだ。そんな気がする。

 

『それはいいとして……あなたが言うのも尤もね。私も”またか”って思っているもの。……だからこそ、あなたが興味深い。どうしてそこまで違うのでしょうね。OVER』

「……どうしてなのかは、分からない」

 

 私とて頭がしっかりしているとは思えない。

 それでも……彼女は、私と”島風”達を別のものだと見てくれている。

 正直、とても心強いし……裏切りたくない。どうして私を”信用”してくれるのかわからないけれども。

 私は、誠実に─────努めてだ。客観的には分からない─────ちゃんと話そう。そう決意できた。

 

「続きだけれど……私はあいつに”発見”された。……それで、『見つけたから、これであなたも”私”』……って感じのことを言ってた。最初に言った酷い夢は、その晩に見た」

 

 ”OVER”は言わない。このまま一気に話してしまおう。

 

「夢の中は、黒かった」

 

 黒い世界。暗いのではなく、あれは明らかに”黒”だった。

 光らしい光はなかったと思うけれど、たとえ頭上に太陽が輝いていても、きっとあの世界は黒かっただろうと思う。

 

「そこに、何人もの”島風”がいて……私を”私”って、呼んできた。あいつらはその夢を、空間を……”夢通信”って呼んでた」

 

 一人称としての”私”ではなく、二人称として使われた”私”。

 ……文法上おかしいと思うんだけれど、つまりはこの”おかしさ”がそのまま答えだ。

 そもそも二人称……他人がないのだ。

 

「みんな、”私”だって……”私”を分かることが出来るのは”私”だけって。あいつらはもう”自分自身”じゃあなかった。”島風達”……になっていたんだと思う。もうその中には”一人ひとり”ってものがなかった……”自分”をなくしてた」

 

 “I(わたし)”と“You(あなた)”。その境界が失われていた。

 ……こういうのを、なんて言うんだろう。

 それに、なぜ彼女達は”We(わたしたち)”ではないんだろう。

 完全に同一である、という意味なんだろうか。

 

 多分この話とは全く関係ないけど、”We”は……バリエーションとして”I & I(アヤナイ)”という言い回しもあったな。

 確か”ラスタファリアン”─────ステレオタイプな認識だと”ヒッピー”の親戚か何か。いや色々間違ってる気がするな─────の用語。

 あの言い回しはどういう思想で発明されたのだろう?……まぁいいか。

 

「私は、”私であること”を失くしたくなかった。”自分自身”でいたかった。……あんなのと一緒にいたら、気が狂って……”島風達”に、一つにされてしまうような気がして。それで、”夢で通信”なんだから、寝なければいいと思った」

 

 あまりに短絡的すぎた……けれど、もうそれについて反省は済ませた、そのつもりだ。

 

「ともかく、以上。これが徹夜の理由。OVER」

『……かなり奇妙な話ね。けれど……”島風”という艦娘が必然的に抱え込む孤独。それを埋めるため、慰め合うために……”夢通信”、で合ってる?ともかく、”島風”同士が夢の中で集合する仕組みがある。この認識でいいかしら?OVER』

「……うん。それで合ってる、けど」

 

 ……随分とさっぱりと纏めてくれた。過不足ない。

 

「まるで、前から知ってたみたいに理解が早いね……OVER」

『……それは……その、なんだか似た話というか、筋書きを知ってるから……なのかもしれないわね』

 

 うん?……”筋書き”。ストーリーとか、計画とか、そういうのだろうか。

 そう考えていると続けて、

 

『”エヴァ”は知ってる?OVER』

「……エ、ヴァ……えっと、”エヴァンゲリオン”?OVER」

 

 確か……”新世紀エヴァンゲリオン”だったっけ。古いアニメだ。古いんだけど、あんまり古そうじゃあないな……。

 未だに新作が出ているっていうのは凄いと思う。けれど私の好きな”あの漫画”に比べればまだまだだ。

 そんなに休みもなく連載が続いているし、アニメ化だって進んでいる。いずれ全部アニメ化する。絶対だ。

 ”エヴァ”はペースがやたら遅いみたいだし……そうだ、”リオン”は”リオン”でもどっちが先に終わるかな。

 

『それよ。……ネタバレではあるけれど、古い作品だし……実際にこんな似た話が出たから、今説明するわ』

 

 と、いきなりアニメの話にされてしまったけれど、まぁ私は理由を話し終わった。

 顛末はまだだけれど……いいか。まず聞いてみよう。

 

『核心から話すと……ストーリー上で動いていた計画があってね。”人類補完計画”というのだけれど。この計画の目的は、アニメが終わってもなお謎を残している。ただ一応、”何が起きるか”はちゃんと表現されたわ。

 

 それが、生命を”一つ”に還元するということ。一つというのは……文字通り一つなの。人間の自我、そして肉体という境界を解体して……劇中では液体、最終的には海のようになった。

 

 このような”過程”を経たいというのは、計画を進める2つの勢力の間で共通する。彼らの目的は異なる……のかしら。曖昧にされているからはっきりとは言えないけれど。

 

 ……とにかく分かれば良いことは、最終的に全ての生命が”自我”を失ってしまう、ということ。だから似ているのよ。”島風達”の試みというのは。OVER』

 

 ただのロボットアニメでは無い、ということは何となく知ってたけど、そんなに大仰なストーリーだったのか。

 2つの勢力がどっちも世界をホロ暴走としているっていうのはとんでもないな……。

 

「……なんか、難しいアニメだったんだ。OVER」

『単に難しいだけじゃなくて”無駄にややこしすぎる”のよ。いくらでも深読みが出来るってことで、考察ブームが物凄かったみたいだし……今でも漫画の”考察本”なんてもの、あるでしょう?私はそういうのに興味はないけれど……多分、そのはしりね』

 

 当時のサブカルチャーの情勢がそうだとすると、”エヴァ”以前はシンプルだった、ってことなんだろうか。

 妙に勘ぐってしまうというのが許容されるくらい、込み入っているのに曖昧……それが”エヴァ”か。

 未だにコンビニでその手の考察本を見かける気がする。

 

『……話を戻すけれど、その計画は最終的に頓挫するわ。それが何故かというと……その計画の核となった”碇シンジ”という主人公が、”他者の存在を望んだ”の。自他の境界を失くして、全てが”一つ”になるはずだった補完計画、それと真反対の思考。これによって計画は破綻した、というわけ』

 

 ああ、そういうことか。

 似ているな……確かに。その主人公と私のスタンスは逆だけれど、シチュエーションは少し。

 でも私は他人を望むわけでもなくて、”自分”を望んだわけなのだけれど……いや、それは関係ないか。

 似ているのは“島風達”の方だった。

 

 あいつらは“他人を望まなかった”んだ。

 “島風”だけの世界に引きこもって、ひとつになった彼女達。

 確かに”人類補完計画”とやらの目指したものに似ている気がする。むしろ具体化ですらあるかも。

 

 加えてだ、彼女達のいずれかでもが“他人”を求めたならば。

 きっとあの“私”という集まりは破綻するんだろう。そういうところまで同じだ。

 ”イカリシンジ”という主人公の胸先三寸で世界が変わったように……本当に脆い。

 たった一人の思想が、共同体─────と言うか、群体?─────のあり方をそのままに覆すのだから。だからそんな異物は排除されてしまう……違うな、むしろ置き去りにするのだろう。

 

 ……って、そんな“無駄にややこしすぎる”抽象的な物事が本当に具体化しているのがおかしい。

 なんなんだこの世の中は。

 

『少し、話しすぎたわ。ごめんなさいね。……とにかく”夢通信”には、寝ると繋がるのでしょう?リンガで寝ていた間はどうだったの?OVER』

「繋がったよ。また”島風達”と出くわした。……でも、今晩からは大丈夫。OVER」

『本当に大丈夫なの?……気が狂いそうなほど、嫌なのでしょう?OVER』

 

 それじゃあ顛末を話すとしよう。私にターンが返ってきた。

 “きっとまともになる”。その根拠を話して彼女を安心させたい─────そうだ。

 “信用してくれる”ことに、“信用してもらって大丈夫”と返したい。

 ……普段からトーンが低い自覚があるから、少し上げ目に言ってみよう。陰気な声で言うより良い。

 

「もう私は”夢通信”とは繋がらないことになったから。……”オリジナルの島風”に会って、切ってもらうように頼んだ。だからちゃんと寝るし、きっと……”信じて”くれる通り、ちゃんとしていられると思う。OVER」

 

 ”ちゃんと寝る”……その言葉は勿論、この動機だって子供っぽいかもしれないけれど……。

 彼女が信じるような私でいたい。

 ……だってそれは、もとより私が望む”私自身”と同じだと思うから。

 

『……問題は解決した、と思っていいのね?OVER』

「うん。……あなたは私を信用してくれた。それに応えたい。心の底から、そう思ってる。OVER」

 

 少し恥ずかしいけど、そう言ってみた。

 前向きな自分がこっ恥ずかしいのは、普段から俯いて後ろ向きだからだ。……たまには顔を上げないと。

 

 無線の向こうから、木陰のような笑い声が聞こえてきた。

 いつもなら不気味に聞こえるはずなんだけれど、今は涼やかに聞こえる。

 

『大袈裟ね。でも……やっぱり、あなたはとても正直で……そう、素直な子ね』

 

 また”素直”と言われてしまった。それに”素直な子”って言い方も、なんか。

 けど、私の決意をちゃんと取り合ってくれたし……いや、やっぱり恥ずかしいな……ガキ臭すぎた。

 正直に話したことをそんなに後悔はしてないけれど、もうちょっと上手い言い方とかあったんじゃあないか……。

 

 遠くを見て、けれど心の内側─────一番近くだ─────を覗いてみる。

 絶望のドス黒さは、随分と薄くなっていた。

 心を軽くしてもらった、支えをしてもらったことに情けなさがないわけじゃあないけれど。

 

『……頑張りましょう。私は、見ていますから。OVER』

 

 見ていてくれる……。”見物”ではなくて、きっとこれは”応援”だ。

 彼女の視線─────いや、今物理的に通っているわけではない─────を感じる。

 こんな純粋に、嬉しいと思える”視線”……いつぶりに感じただろう。

 

 いじけるのをやめたわけじゃあないと思うけど、心の縮こまりが少しほどけた気がする。

 少し視線を上げると、空が青かった。

 ……普段ならイヤミな空だと思ってしまう。いつも暗い気持ちだからなんだけど。

 でも、今日は違っていて……素直に少し嬉しかった。

 



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夜の帰航路

2019/07/18
全面改稿。

2019/07/22
終わりに1000字ほど追加。


『……そういえば、だけれど。このままお話に混ざる?OVER』

 

 ……あ、そういえばこれって雑談用の電波だった。

 他の人を締め出して─────本当に聞いていないんだろうか?実は筒抜けだったりして─────二人だけで話をしていたけれど。

 少し、考え込む。その前に、

 

「ちょっと、考えさせて」

 

 “OVER”はなしで、考えた後にそのまま続けて話そう。少し迷惑かもしれないから、なるだけ早く決断したい。

 

 ……確かに、早霜とは打ち解けられたと思う。いわゆる”アイスブレイク”か。

 でも他の人とは……どうだろう。

 早霜と私の他、二人が海にいるけれど……彼女達は、”霞”と”満潮”。

 いつもは一四時から海に降りる班だけれど、今日は一三時三〇分から。三十分ズレている。

 だから、早霜と私の班も三十分早く海から上がることなっていた。開始時間も同様。よって朝五時半に私達と入れ替わる形で休む。

 

 彼女達への印象は……少し曖昧だけれど、どちらも”キツめ”だ。

 どうキツいのかはまだ分からない。

 ただ、どちらも同じくらいキツいんじゃあないかという先入観だけ。

 

 だって、初対面の─────私の挨拶回りのことだ─────ときと、今回艦隊を組まれた時の顔合わせのときで、かなり酷い目で見られた。

 蔑みの言葉は一言もなかったけれど。多分”言っても無駄無駄”と思っていたんだろう。

 

 ……この鎮守府の皆が皆して私をそういう目で見ていた、というのは、早霜との話でようやく正確に理解できた。

 そして、それがまだわかりきっていなかったからこそ、彼女達の態度は尚更にキツく感じた。多分。

 

 しかしだ。態度だけでもあからさまにしている彼女達は……率直である、とも言えるんだろうか。

 他の艦娘からは……多分、無関心・呆れ・蔑みを足して割ったような目で─────考えてみるとそれはそれで嫌すぎる─────あったのだけれど、彼女達はストレートに嫌悪感を伝えてきている、気がする。

 

 つまり─────ダメだ。あまりに直球すぎてキツすぎる……。

 それに、人間関係を”新しく”始める……早霜が私を、”今での島風とは違う”と信じて話をしてくれたように、彼女達にも分かってもらうには……何か話題が必要だ。ほんのささいなことでいい。

 

 そうだ、荷物だ。

 私の背嚢二つを持ってきてくれたのは……。

 

 ……早霜、だろうな。同室だし。考えればすぐ分かることだった。

 

 結論として、私は彼女達とのお喋りに混ざれそうにない。

 無理。とりあえず言うこととしては、

 

「……ごめん、今は、やっぱり…………あと、私の荷物を持ってきてくれたのは早霜?OVER」

『分かった。……それと、荷物は私が持っていったわ。何か不備があったかしら?OVER』

「ううん。……持ってきてくれて、本当にありがとう。あと、霞と満潮には、お喋りの邪魔をしてごめん、って……それだけお願いします。OVER」

『そう……。でも、仕方ないわね。満潮、霞。聞いていたら応答お願い。OVER』

 

 え?

 ちょっと待った。

 その、私のガキ臭い決意表明とか、それ以前にゴミカスみたいにウジウジしていたのが、丸聞こえ?

 それで何も言えずに泡を食っていると、

 

『……聞いていなかったようね。流石、義理堅い』

「はぁー……」

 

 無線には乗らないように、今日一番の溜息を吐いた。……本当に良かった。

 あれは紛れもなく本心。そうであっても─────むしろそうだからこそ─────そうそう他人に打ち明けられるものじゃあない。

 ……でも、早霜には聞かせることが出来た。何故、いや、その理由は明らかだ。

 私は、彼女に縋り始めているんだ……。

 

 ……今はそれでいいのかもしれない。むしろ、今だけ大目に見てくれることなんだと思う。

 早くちゃんと自分の足で立ちたい。自分の足で歩いて、皆と”新しく”関わっていきたい。

 多分早霜は……これからも世話を焼いてくれるのだと思う。

 それは正直に、本当に、ありがたいと思う。

 

 いや、”だからこそ”だ。

 私は二十歳だ。紛れもなく若者。それでも成人、大人だ。

 その時が来たのだから、そう振る舞う。

 保護者とかの庇護下にいちゃあいけない。いてたまるか。……あんな”教条主義者”みたいな。

 カルトより質の悪い……”おとぎ話”をボクで再現しようとする、ろくでもない親……。

 

 ……そんなのより、このひとのほうがいい。

 

『それじゃあ……他、何か話しておきたいことはある?OVER』

「え、あ」

 

 ─────何を考えているんだ、私は。

 ”ボク”なんて……もう子供じゃあないって考えているのに。

 しかもすべきことと”全く逆”のことまで思い浮かべて……馬鹿だ、ウスノロだ。嫌になる……。

 そうした自己嫌悪を噛み潰して飲み下す。また一つ溜息。

 

「……ううん。大丈夫。……ありがとう。OVER」

『そう……それじゃあ、がんばりましょう。OUT』

 

 不自然にトーンが低くなった。……と、思われていないか、そんな不安。

 それを見て見ぬふりをするように、無線のチャンネルを連絡用に直した。

 ……うっすらとしたノイズが、潮騒と混ざって落ち着く。

 

 そう言えば、話しておきたいこと─────というか“気になること”?─────はないわけじゃあなかった。

 

「あの時、”おむすび”じゃあなくて……”おにぎり”って言ってた……」

 

 本当に、そんなどうでもいいこと。無駄な疑問だ……。

 どうかしている、そんなことが頭に引っ掛かったままなんて。

 

「はぁ……」

 

 嫌気を三度目の溜息にのせて、吐き捨てた。

 ……とにかく仕事だ。

 しっかりやろう。それが私の義務だ。

 

 

 ●

 

 

『─────交代です。一班は休憩、三班は護衛任務を再開して下さい』

 

 二一時半になった。それをこの通信で知る。

 時間の感覚がほぼ無いままで仕事をしているからだ。

 ……そのせいでメリハリがないのか、それとも最後まで気を抜かずにいられるのか。

 

 私は……多分、後者寄りだと思う。

 というか日没が十分に区切りを作ってくれていると思うから。

 やっと半分終わったなというか……いや、全然半分じゃあないと思うけれど、ともかく心の中で一区切りはある。そう感じている。

 

 行きの道行きとは違って、カンテラ─────本当に”カンテラ”で合ってるんだろうか?─────の光は右前。

 それに導いて貰って、加速。そして並走。光の真下に伸びる縄梯子を掴んで甲板へ。

 

 ……よく考えると、行きの道の途中からはこれを意識朦朧としながらやっていたのか。ゾッとしない。

 でも慣れて来た感じはあるから、経験値はちゃんと貯まっているらしい。

 行きの道より随分危なげなく……というか自信を持って登れるようになった気がする。

 

 甲板に上がると、何度も見た顔。如月だった。私にいつも向ける表情をしている。

 けれども今はもう、特に悲しい気持ち─────悲しかったのか、今まで?─────にはならなかった。

 

「次、よろしくお願いします」

「……お疲れ様」

 

 やりとりもいつもと変わらない。でもなんとなく、

 

「気になってたんですけど、その灯りって”カンテラ”……なんですか?」

 

 そう聞いてみると、彼女はいささか面食らった顔になって、

 

「……え?あ……そう、とも言うのかもね。特に”そうだ”と言われたこともないけれど……」

「そう、なんですね。……ありがとう」

 

 なんだ、みんな結構ぼんやりした認識なのか。

 なんとなくで認識してる、というか……特に気にしたこともないんだろう。

 ”灯り”は”灯り”で、それが”ライト”であっても”カンテラ”であっても、あるいはそっけなく”電灯”でも。

 別に意味さえ通れば差し障りのないことで……。

 

 けれど……コミュニケーションって、こういうのから始めればいいのかな。

 一度煙草で失敗しているから麻痺していたみたいだけど……こういうのでいいはず、だ。

 なんでもないこと、世間話……私には”新人”という肩書がついているのだし、こういう”まだ知らないこと”を取っ掛かりに話しかけていく……そういうので行こう。

 だから今日は一歩進んだ。そういうことにして、いや違うな……”そういうことになればいいな”、だ。

 例えば今話しかけたことにしたって、返答をちゃんと返してくれただけであって……内心までは推し量れない。

 どう思っているのか、気になる……。

 

 そう思いながら私は艦橋のドアを開けて入り……その場で聞き耳を立ててみた。

 すると、すぐに甲板と艤装の擦れ合う音……早霜が上がってきたみたいだ。

 

『お疲れ様』

『ありがとう、次、お願いするわ』

 

 如月が声を掛けて、早霜が応える。

 ああ、この二人の関係はちゃんとしているし、会話らしい会話が聞けそう。

 そう思っていると、

 

『……ちょっと聞いていい?』

『?……いいけれど、何かあったのかしら』

 

 如月の問いかけだ。……流れから考えるに、私の話題になるかもしれない。

 怖いもの見たさ─────聞きたさだけど─────に心臓が少し速くなる。

 

『これって……“カンテラ”なのかしら。それとも単に“電灯”?』

『……私は”灯り”でいいと思うけれど。ずっとわかりやすいもの。”カンテラ”は……少し風情な言い方ね?』

『そうね。……けど、”灯り”の方が100%伝わるし、そういうことにした方がいいのかしら……』

『風情も好きだけれど。でもいきなりそんなこと、どうしたの?』

『ああごめんなさい。その……島風がいきなり聞いてきたものだから』

『あら……そう』

『えっと……彼女、まだそこにいると思うわ』

『え?』

 あ、?

 

 ……思った途端、足が動いた。

 階段を下って逃げていく。ガンガンと階段と艤装のぶつかり合う音が響き渡って……きっと外にダダ漏れだ。

 情けなさすぎる……。

 

 そうして階段を降り終わったと同時、上からドアの開く音が降ってくる。

 閉じる音、慎ましやかな─────私のなんかより軽快な─────足音が続く。

 その音から逃げるように、早足で船室を目指していく。

 ……足音がうるさい。それに気がついて、急に速度を落とす。

 ああ、静かに歩く方法が分からない……そんなことも分からないほどに動転している。

 

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 こんなの、本当に、子供じみてて。

 

 項垂れて歩くと、だらしのない音を引きずるようで。

 それがまた、ダメだ。

 

 曲がった背筋を、笑い声─────堪えてるらしい─────が撫ぜる。

 それを振り払うように背筋をピンと伸ばして歩く。もう足音なんて知るもんか。

 

 早足で風を切って歩くと、顔が冷える感じがする……それに気がついて、頬に手をやった。

 ……案の定だった。

 

 

 ●

 

 

 船室のドアを乱暴に開けて、脚部艤装を脱ぎ捨て、魚雷発射管……は、なけなしの冷静さでそっと床に置き、ドアのそばに置いてあったビニール袋を引っ掴んでから私はハンモックに飛び込んだ。天井が低く軋みの音を立てた。……少し肝が冷える。

 

 けれど、この熱くなった顔はどうしようもなかった。冷房なんかじゃあ冷めていかない。

 ブランケットで顔まで覆って丸くなる。少し湿気って居たせいか、冷たくなっていた。

 それに思わず身震いしたけれど、頬にこすりつけてみる。

 この湿っぽさは普通なら不快だけれど、今だけはほんのちょっぴり心地良い……。

 

 間髪を入れずに船室のドアがまた開く。そして足音。抑えたせいか低い笑い声。

 

「ふ、ふふ」

 

 何がおかしい、なんて言おうと思ったけれど、答えを自分で分かっていて聞くのは馬鹿らしい。

 ……私は、子供だ。本当にクソガキなんだ。

 こんなに顔が赤いのは、当然……恥ずかしくて仕方がないから。

 早霜が声を掛けてこないことが、却ってこの恥ずかしさをひどくしている……。

 

 そう思っていると、

 

「それじゃあ、今日も先にお風呂を頂いてもいいかしら?」

 

 ……いつもは黙ってそうしていたのに、今日になってこんな言葉。

 それに不意を打たれて思わず体が震えた。ハンモックが僅かに振れてしまう。

 

「どうぞ……」

「ありがとう」

 

 そう言うと、艤装を床に降ろしたゴトゴトという音、そしてゴソゴソと何かを漁る音が続く。

 先ほどとはまた違う、ひたひたという足音。ドアが開いて閉まる。

 ……静かになった。

 

 一人だ。

 

 ……少しだけ落ち着いたかもしれない。けれども、まだなんだか胸の中がモヤモヤしている。空腹を満たせば少しは変わるかもしれない。

 そう思い立ってビニール袋を開けると、いつものおむすび。今晩の分は梅干しが散らされていて……いつもより美味しそう。思わず食欲がそそられて、行儀は悪いけれど寝姿勢のままラップを剥がしてかぶりついた。二つ一気に、がっつくように口の中に放り込んで、ろくに噛んだりもせずに飲み込んでしまった。

 

 いくら美味しいからって、短気が過ぎる。だから顔を……頭を冷やしたい。そう思って、

 

「……煙草、吸いに行こう」

 

 私はブランケットをのけて、ハンモックから降りた。そして部屋の隅に置いてある背嚢の軽い方、そっちの口を開いた。

 煙草のカートンがたくさん詰まっている。どれにしようか。

 

 ……頭を冷やしたいのなら、ひんやりするのがいい。キツめのメンソールだ。

 ラーク・アイスミントにしよう。カートンを半分ほど引き出して、シュリンクを剥がす。そこから一つ取り出して、また箱の包装を剥がす。ライターは……確か背嚢の奥かな。空っぽになったところにカートンを押し込めたから、多分……。

 

「あった」

 

 安心した。これで煙草が吸える。

 ……でも、一本吸ったらすぐに戻らないと。早霜の風呂は早いから……。

 

 邪魔なリボン、靴下は脱ぎ捨ててもう汚れ物入れに。

 と、それと携帯とイヤホンを拾って……靴を履いて。

 船室を出る。

 

 

 ●

 

 

 甲板に上がるまで、やっぱり誰とも会わなかった。

 ……それでいい。急に誰かと出くわすと、猫のように固まってしまうような……そんな気がする。

 それはとても恥ずかしいことだ。何か後ろめたいことがあるようで─────勿論そもそもあるのだけれど─────みっともない。

 

 甲板、船尾近くにやってくると、半分くらいの月が昇っていた。

 ……行き道の時は北が後ろだったけれど、今度は南を背にしている。当然のことだった。

 行き道では月が昇ってくるのを見て海を走っていたし。

 

 いつもは手すりに寄っかかるんだけれど、今日はなんとなく座っていたかった。本当は構造物に寄りかかって月を見上げたい。でも灰皿がなかった。仕方なし、手すりを頼りつつ甲板の縁に座ることにした。海面上に足を放り出す形。……靴がゆるくないか心配になったけれど、なじみ具合からして多分大丈夫だろう。

 携帯は……手の届く範囲で遠くに置いておく。

 

 手に持った煙草のパッケージ、その蓋を開けて……中紙を剥がしていなかったことに気付いて、破り捨てた。そのまま海へ。一本取り出して、前歯でカプセルを噛み潰す。そのまま咥えてターボライターで着火。

 

「……ふう」

 

 軽く一回蒸す。生暖かい空気にハッカとミントの味が混じって涼やかだ。落ち着く……。

 パッケージとライターを甲板、ちょうど背中くらいの位置に置くと、手すりを掴みながら背伸びをした。天を仰ぐ。星の海は当然だけれど、凪いで透き通っている。

 

「海の上って、本当に星がキレイだな……」

 

 煙草を咥えながら、思わずそんな独り言が出る。

 

「星……星屑……」

 

 ”星屑”と来れば”十字”。そう連想して……南十字星を探し始める。

 けれど、普段天体観測なんてしないわけで、満点の星空から星座を見つけることはできなかった。

 東京じゃあ星空を満喫するところなんてロクにないわけで、当然といえば当然か。

 せっかく海に出る仕事を続けられているんだから、趣味に天体観測を増やすべきだろうか?

 趣味は人生を豊かにしてくれる。それに星を見るとは……自分にしては静かな趣味で、なんとなく心惹かれる……。

 

「……音楽、聞こう」

 

 一本吸い終わるまでの短い時間だけ、ほんの一曲だけ。

 ……この航路は帰り道だから、そういう曲がいい。

 タイトルには”Train”が入っていて、海の上には似つかわしくないようにも思えるけれど……帰り道には本当にいい曲だと思う。

 イヤホンを携帯に挿して、耳に装着。検索するまでもなくプレイリストからその曲を選んで再生開始。携帯を脇に置く。

 

 汽車の音のような美しいリズム。

 弦の音とも電子音ともつかない不思議な旋律。

 ノスタルジックで叙情的なピアノ。

 

「……何の楽器なんだろう、コレ」

 

 そう思いながら、月を見ている。けれどもそれだけじゃない。この曲の雰囲気が心を飲み込んでいく。

 そういう気分に浸りたかったのは事実だけれど、思った以上に感傷的になって……。

 半分のあの月がどうしようもなく綺麗に思えてくる。

 

 

 

「……何の曲?」

「─────うわぁっ!?」

 

 背筋がビリビリと痺れて、体から叫び声が出ていった。

 口はポカンと開いて、短くなった煙草が素足をかすめながら海面へ落ちていく。

 ぞわりとくる気配に、右肩から振り返る。

 

 膝立ちで、キョトンとした顔の早霜がそこにいた。制服はちゃんと着ている。

 イヤホンを外しながら、

 

「び、びっくりした」

「……ごめんなさいね。呼びに来たつもりだったのだけれど」

「あ、ごめん……」

 

 思った以上に長居してしまったのか、それとも早霜がそれ以上に早かったのか。わからないけれど、手間を掛けさせてしまった……。

 

「いつもここで煙草を?」

「う、ん」

 

 質問が来たのでそう返す。別にどうってことない。誰かの場所ってわけじゃあないんだから……。

 

「えっと……曲の話、だっけ」

「ええ。何の曲なのかちょっとね」

「……”Last Train Home”。これ」

 

 正直に、携帯の画面を見せながら曲名を教えた。

 すると彼女は意外そうに目を丸くして、

 

「あら、パット・メセニー?」

「知ってるの?」

「ええ、有名なジャズギタリストだもの。あなた、ジャズ系が好きなの?」

「……いや、全然」

 

 というか……この曲、ジャズ系だったんだ。

 ジャズって……もっとなんというか、うわんうわん揺れる感じのイメージがあるんだけれど、全然そんな感じはしないし。というか、ジャズギタリスト?……勿論そういうのもいるんだろうけれど、どういうギタリストなのかピンとこない。私が知ってるのはロック系くらいで……ジミとかクラプトン、あとペイジのイメージだ。

 

 釈然としない様子の早霜は首を傾げ、左手の親指を唇に添えて、

 

「あら?じゃあどうやってこの曲を知ったの?名曲ではあるけれど……」

「その……アニメのエンディングテーマになったから」

「アニメのエンディングに……洋楽を取り上げるようなアニメがあるの?」

 

 え?

 ……知らないんだ。YESの曲だって使われて話題になったのに。

 

「最近のアニメ、見ないの?」

「ええ。昔はちょくちょく見てたけれど……ここ数年見てないわね。どちらかと言うとゲームや活字の方が好き、というのもあるかしら。それで、何のアニメなの?」

「ジョジョ」

「ジョジョ……ああ、アレ」

 

 趣味の守備範囲外ってことなら仕方がないんだろう。”ジョジョ”も名前くらいしか知らないみたいだし。

 知らない人間に語ることほど情けないものはない……。

 

「去年放送された分、そのエンディングに使われたから……いい曲だなって」

「そうね……メセニー先生も大人しくギター・シンセサイザーを弾いていて、聞いていて落ち着く曲かしらね」

 

 ミュージシャンを”先生”呼び?変な感じだけれど……もしかして”Mr.”が転じて、とかなんだろうか。

 けどそれより耳馴染みがない言葉、

 

「ギター……シンセサイザー?」

 

 疑問の調子で問いかけてみると、

 

「ああ、メセニー先生が多用することで有名よ。ギターでシンセサイザーを鳴らす、変わった楽器ね」

「”Synthesize“……合成?ギターで、えっと……”合成“って、どういう?」

 

 彼女は膝立ちの姿勢を崩してそのまま座ると、

 

「シンセサイズ……って、良く単語の意味が出てくるわね」

「英語だけは得意だったから……」

「それにしたって……使い所が思いつかないのだけれど」

「英単語なんてそういうもんでしょ。中学英語レベルで日常会話には不便しないし」

「つまり……マニアなのね」

「……そうかも」

 

 確かに、少なからず言語への興味はある。つまり文系の頭をしているんだろう。

 文系に未来はないと思って理転したけど。まぁ今となっては何の意味もない……。

 少し嫌な気分になった。自業自得だ……。

 

 目線を逸してまた月を見上げる。話の途中で顔を背けるのは、失礼だと分かっているけれど。

 ため息を吐きかけるわけにもいかないからだ、と言い訳を考えて、一つ息を吐いて視線を戻す。

 早霜が首を傾げ、うっすら疑問の色をした左目を向けてきて、

 

「英語に何か思うところでもあるの?」

「いや……なんでもないよ」

「……そう。そう言えば、タバコ。吸わないの?」

「……普通、人が話してるところで吸わないでしょ。喫煙所ならともかく……」

「それも……そうね。じゃあ一本もらえるかしら?」

 

 彼女は私の左隣に身を滑りこませて、足を甲板の縁からぷらりとぶら下げた。

 それよりも、私は彼女がタバコ吸いだということは全く知らなくて、思わず、

 

「タバコ、吸うの?」

「昔はね。軍に入る前に禁煙したから……2年ぶりくらいかしら?」

「ふぅん……」

 

 背中に右手を回して、タバコの箱とライターを手に取る。箱を開けて左手に持ち、彼女に差し出した。

 

「ラークの……何かしら?」

「アイスミント。カプセルも入ってる」

「今時ね」

 

 左手で一本摘んで取り出し、そのまま唇へ。着火する。

 一息蒸すと、薄っすらと微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

 懐かしんでいるんだろうか……吸う姿を見るに、それなりに慣れた様を感じる。

 もう一度吸い込んで吐き出すと、左手の人差し指と親指でフィルターをつまんでカプセルを割った。

 ……歯で噛めば楽なのに。

 そう思いながら私も私でもう一本着火。歯でカプセルを潰した。気分がスッとする……。

 

「ふぅ……それじゃあ話を戻すわ。シンセサイザー……つまり”合成機”か何かになるのかしら。その言葉も、楽器に興味がなければ知ることもないのかもしれないけれど。楽器は何か経験があるの?」

「ないわけじゃないけど……ないのと同じだと思う」

「そう……」

 

 父親のギターで少し遊んでいたくらいでは、ないのと変わらない。

 別に謙虚に振る舞ったつもりはない。私が”ある”と断言できる基準に達していない、それだけのことだから。

 

「なら……誰でも分かるように言うと、所謂”キーボード”って言われる楽器はシンセサイザーに分類されるわ」

「へぇ……」

 

 でも、”Synthesize”ってイメージではない。色々な音色が出るってだけで……。

 

「じゃあ、何が”合成”なの?」

「私もそこまで詳しくはないから、あなたが満足できる説明はしてあげられないと思うけれど……多分、”合成音声”だから、じゃないかしら?」

「あー……音を録音して、それを鳴らしているわけじゃなくて……ってこと?」

「本物の音の波形、それを再現して音を出している、とかだったと思うわ」

「再現……だから妙にパチモン臭いんだ……」

「それはそういう味、って考え方もあるでしょう?……とは言え、今時はリアル志向が主流だけれど」

 

 窘められるような声で、咎められた。……よく考えなくても今のは口が悪かった。

 本当にダメだ……。そう思って目を閉じつつ、適当な言い換えを考えて、

 

「……じゃあ、趣があるってこと?」

「そういうことね。本物ではないなりに価値があるものなの。カップ麺のようなもので」

「……なるほど」

 

 私だって、中華屋の本格的な焼きそばとカップ焼きそばは分けて考えているし……確かにそういうものなのかもしれない。

 

 シンセサイザーについては、少しわかった気がする。少し勉強になった、と人心地着いたところで、タバコから長くなった灰を落とす。

 早霜も左手を遊ばせてタバコを弾いていた。一息とばかりに吸う。

 薄い煙を吐きながら、

 

「けれど、そういうものは作り置きと言うか……楽器メーカーが作っておいた波形パターンを使うだけのものってことになるわね。これが所謂キーボードで、デジタルのシンセサイザー。でも、原型のアナログシンセサイザーや、それを模したデジタルシンセだと、音色はまさに”自分で合成する”ものになる」

「……自分で?どうやって……」

 

 楽器メーカーが作り込んで用意した波形に勝るものなんてあるんだろうか。

 そういうのって結局出来合いが一番、と相場が決まっていると思うんだけれど……。

 

「波形の形、周波数……音を重ねたり……そうして作るのが本来の形だったはずね。そこまで詳しくはないから、今度調べておくわ。それと……ああ、昔はタンスみたいな形だったのよ?」

「タンスって……なんでそんな大きな……」

「今ほど科学技術が進んでいなかったから。だから大きくなってしまったの。多分……大昔のコンピュータが巨大なのと同じね。けれど、ライブで使うミュージシャンだって居たのよ?坂本龍一って知ってるでしょう?彼もその一人」

「坂本龍一は知ってるけど……今じゃ考えられない」

 

 ライブの度にタンスのような機材、それも……多分タンスとは比にならないくらい重い機械のはず。そんなものをステージに上げるなんて、一体どれほどの苦労があるものか……。それに、きっととてつもなく高価な代物のはずで。ミュージシャンだけじゃなくて、スタッフの苦労も計り知れないだろう……。

 私が古き時代に呆れる感じで一口吸って吐くと、

 

「そうでもないわ。今だって、自分の音を作る……こう言えばいいかしら、音作りの”システム”が大きいミュージシャンはいるもの。キーボードだけじゃなくて、ギターでも、ベースでも……流石に、タンスまで行くのはそう居ないにしてもね」

「そういうもんなんだ……」

 

 

 それにしても、先に出るべき質問を放ったらかしていた。

 つまり、

 

「早霜はシンセサイザーに詳しいけれど……楽器をやっていた、ってことだよね」

「……そうね、ギターがメインで、ピアノは多少。あと、ちょっとだけドラムが出来るくらい。……元バンドマンだったの」

 

 そうか、バンドマンだったから機材に明るいと。……そうだとしても、早霜だってマニアだ。音楽機材の。

 ……ともかく、棚上げしていた疑問も消化したし、本題に戻す。

 

「シンセサイザーはわかったけれど。ギター・シンセサイザーはどういうものなの?」

「ああ、それを言わなきゃね。今まで話したシンセサイザーは鍵盤楽器。つまり、鍵盤でシンセサイザーをコントロールしている、と言い換えられる。つまりは……分かるかしら?」

 

 ……意味はよく分からない、けれど文をそのまま置き換えれば、

 

「ギターでコントロールするシンセサイザー……ってこと?」

「そうよ。シンセサイザーというのはあくまで音を出すものなの。”どの音階を出すのか?”という、入力は他の機器や部品の仕事になる。それを鍵盤ではなくギターでやったのがギター・シンセサイザー」

「でも……鍵盤とギターで同じように出来るものなの?」

 

 心底疑問だ。アレだ……鍵盤だと、まさにスイッチみたいに”ラ”の鍵盤を押せば”ラ”が出る仕組みのはずで、でもギターってそういうものじゃない。チューニングによって押さえる位置と出る音の関係は一変する。キーボードみたいにどうにかなるとは思えない。

 問いかけに早霜は少し笑って、

 

「ふふふ……それがギター・シンセサイザーがメジャーにならなかった理由の一つかもね」

「……これが?」

「つまり、当時はそこまでうまく出来なかったの」

「……じゃあ、失敗作?」

「それは言い過ぎ」

「あ」

 

 短くなったタバコを指し棒のようにツンツンと振って、また苦言を頂いてしまった。

 本当に口が……酷すぎる。口ごもるくらいの猶予、そういう動作を身につければ考え直せるのに……。

 

「ご、ごめんなさい」

「でも、別に私が悪口を言われたわけじゃないし、謝らなくていいわ。けれど、あなたは率直で……嘘もつけない性格みたいね。社交辞令も苦手かしら?」

「……いや、その」

 

 全く否定できない。そういうマナーと言うか、細かな社会常識に欠けている自覚はある。

 ……クソガキなんだ。いつまでそのままでいる気なのかと、自分で自分を叱りたくなる。

 思わず俯いて、また短くなったタバコを唇から離して海に落とした。

 薄い紫煙のため息が風に乗って消えていく。

 

 

「でも、私だって社交辞令は好きじゃないわ。むしろ……あなたのような率直さは、少なくとも私にとっては好ましい」

「……そう」

 

 褒められるのも、何だか違和感があって……据わりが悪いというか、落ち着かない。

 自分の人格を褒められることなんて、揶揄されたり厳しく叱られたりするのに慣れていたから……変な気分。

 

「少なくとも……そうね、あなたに言うのも、ましてや死んだ人間を悪く言うのも気が引けるけれど、今までの”島風”と比べればずっと素直よ」

 

 私でこれなのに、増して酷い?一体どれだけ酷かったんだか。

 私のような間抜けにすら寛容を示してくれる早霜が、気げ引けるといいつつも苦言を零してしまうほどだ。

 ……ああ、ダメだ。下を見下ろして安心するなんて、それこそ大人げない。

 

「そうじゃないかもしれないんだよ。もっと、酷いのかもしれない……」

 

 自分で自分を蔑んで、他人からの追い討ちを避けるなんて真似も……謙虚なんかじゃあない。これは卑屈だ。でも一体どう返せばいい?”そりゃあ良かった”だなんて言うのは考えられない。

 

「でも、あなたは恥を知っている。だから十分に素直なのよ」

 

 ……”恥知らず”ではない。それは美徳かもしれない。確かに、そう思う。

 思いたいとだけいう願望も、ないわけじゃあないと思うのはともかく。

 己の恥ずべきを知っている。口の悪さ、意固地の汚さ……それに、あの”夢通信”の中で起こした短気も。

 

 それにしても……私は今、”いいところ探し”をされているんだな。

 真摯で、誠実で、嘘のない。……言い換えなのかもしれないけれど。長所短所には裏返しがあるものだし。手放しで喜ぶべきじゃあないとも思ってしまう。だから、

 

「……褒められるような人間なんかじゃないよ」

「ふふふ……本当に頑固で、でもやっぱり素直」

「矛盾してるよ……」

「言うことを聞くだけは素直じゃないわ。……覚えておいて、ね」

「うん……」

 

 それもご尤もだった。ロボットを素直とは言わないように……。

 

「そう言えば”失敗作”という言葉で思い出したのだけれど。私の昔話をしてあげましょう」

「”失敗作”……で、昔話?」

 

 顔を上げて、彼女の方を見た。前髪で隠れた右目は見えないけれど、左目ははっきり捉えた。

 眦を下げて、笑っていて……懐かしそうに、さっきタバコをくわえたときみたいな。

 左手で短くなったタバコをつまむように持ち直すと、最後の一口を吸いきって、海に放り投げた。

 

 まだ話は続くようだし、私はもう一度タバコの箱を差し出した。

 

「あら、もう一本頂いてもいいの?」

「うん。……まだ蓄えは十分にあるし」

「随分買ったのね」

 

 またひっそりと笑うと、彼女はタバコを手にとって唇に挟んだ。また火を差し出して着火。

 それでまた左の指でカプセルを潰そうとしていたから、

 

「カプセル、噛んで潰すと楽だよ」

「……ああ、そうか。その方がいいわね」

 

 またくわえ直して、前歯でカプセルを探るように口を動かして、カチリと噛み潰した。

 煙をゆっくりと大きく吸い込むと、ロングサイズのタバコの先が灯りのように赤くなる。

 

「それじゃあ、私の愛する”失敗作”の話。“ジャズマスター”と……大学生活の話をしましょうか」

「……大卒だったんだ」

 

 意外だったからって、直でその返事はどうなんだ、と思ったけれど……まぁギリギリセーフか。

 そんな少しの心の淀みを、煙に乗せて消し去ろうとする。

 

「そうは言っても、一浪して二年も留年した、バカな学生のお話よ。……今年で28にもなる、おばさんのね」

「……おばさんって歳でもないでしょ」

「あなたは……いくつ?タバコを嗜むのだから……二十歳以上だとは思うけれど」

「ちょっと前に、二十歳になった」

「あら、やっぱり若い子だったのね。じゃあ尚更私はおばさんね。ふふふ……」

 

 そう言って笑った顔は、懐かしみだけじゃなくて……ほんのちょっぴり寂しそうな顔で。

 何故か私は……目を離せなかった。

 

「それじゃあ─────と思ったけれど、あなた、お風呂がまだだったわね。部屋で話をしてあげる。子守唄とでも思えばいいから」

「……あ」

 

 そう言えば、そうだった。すっかり忘れてた……。

 それに気がついて、目一杯吸い込むとタバコを海に弾き飛ばした。脇に置いていた携帯、タバコの箱、ライターを持って立ち上がる。けれど、彼女はそのまま甲板の縁に腰掛けたまま。タバコはまだ長かったし、私ももう少し落ち着けばよかったのか……。もう見えなくなってしまったタバコが名残惜しい。

 

「それじゃあ……」

「ええ。ゆっくりでいいから。話すことを考えておくし」

「うん……」

 

 早足でその場を後にしようとして、思わず振り返った。

 煙をくゆらせながら……足をプラプラさせているのか、体が少し揺れていた。

 

 ……少し、違う雰囲気に見える。

 最初のイメージ、今のイメージ、冷たいほどの静かさや木漏れ日のような穏やかさとはまた違う……。

 私には、それをどう言えばいいのか……分からなかった。

 

「……立ち止まってどうしたの?」

 

 左肩越しに振り返って、左目を流して私を見る。

 それで思わず、

 

「……なんでもない」

「なんでもない……ね」

 

 眦を下げて笑って、タバコを蒸す。

 ……理由もなく人をじっと見るなんて、言い訳として下の下だった。

 だから別のものをでっち上げようと上を向いて……、

 

「……月を、見てて」

「月……そうね。いい月」

 

 彼女は回した首を元に戻すと、少しの感慨と一緒にそう呟いた。

 私も目に入った輝きを眺めて、深呼吸ひとつ分。

 

「それじゃ、お風呂行ってくる」

 

 振り返らない頷きのモーションを見届けて、私は足早にその場を立ち去った。

 

 失敗作。昔話。”ジャズマスター”。大学生活。

 つながりの見えない言葉達。

 どんな話なんだろう。

 

 そう考えながら、艦橋に入って階段を降りて……。

 そして、

 

「……年寄りくさいな」

 

 無礼だけど、そう思ってしまった。

 でもそういうものなんだろう。きっと、歳を取るっていうのは……。

 じゃあ私もそうなるんだろうか。昔の自分について語る、ってことは……多分、”今となっては良い思い出”と言えるようになったってことなのかもしれない。

 

 それに、なんだか。

 パット・メセニーを”先生”と呼んだ彼女は、それこそ”先生”のような気がして。

 ”先輩”とはなんだか違う。7,8歳も離れているからちょっと遠い気がするし。だから多分、きっと”先生”なんだろう。多分、本人の前でそう呼ぶことはないにしても……。

 

 それなら……早霜先生か。語呂も良い。

 そこまで考える頃には、もう風呂の支度を済ませて部屋を出るところで、

 

「……先生に、甘えてるんだな」

 

 自分を省みて、少し情けなくて……なのに、少し居心地がいいのが不思議だった。

 

 廊下を歩きながら、果たして先生のためにゆっくり入るのが正しいのか、早く出るのが正しいのか……そんなことは分かりゃしない。どうせ、風呂の遅い人間だ……。

 ただ、年寄りくさいと馬鹿にした割には楽しみにしている自分がいるのも事実で、自分の中で矛盾している気がする。

 それも含めて、理由のわからない心地よさがあった……。



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マイペース大王女

2023/04/20
全面改稿。


 それから、私は寝る前に早霜先生の昔話を聞かされた。それも毎晩。

 聞かされた、と言っても嫌な感じは全然しなくて……けれど一方で少しだけ妬ましくもあった。

 私は大学には行かなかったから、彼女の話の中の大学生活が……隣の芝生のように余計青く見えてしまったんだろう。それは気取らせないように、私はうっすらとした眠気の中で、夢を見るように彼女の話を聞いていた。

 

 

 ●

 

 最初の話は、ハンモックの中で始まった。豆電球で薄暗い中。

 

「大学の前に……まず、浪人したの」

 

 一浪とは聞いていたから、それには今更驚かなかった。

 けれど、そんなことより驚いたのは、

 

「医学部志望だった」

 

 彼女が次の言葉を話す前に、

 

「看護学科……とか?」

「いいえ。医学科よ。……医者になるつもりだったから」

 

 なんだか少し痛みを感じる声だったけれど、最初から彼女自身分かっていたことだったと思う。

 彼女は続けて、

 

「親が医者で、その跡継ぎになろうと思っていたの。……でもダメだった」

 

 医者志望がこんなところで何を、とも思ったけれど、それはこれから分かることだと思って口を閉ざした。

 彼女が続ける。

 

「それで浪人することになったのだけれど……ヤケになって」

 

 一つため息。

 

「中古屋でエロゲーを買ったの」

 

 は?

 

「え、エロゲー……って」

「アダルトゲームとも言うわね」

「その……へ、」

 

 変態なの?

 ……と言い掛けて口を結んでこらえた。けれど、”へ”を言ってしまったから、

 

「へ、変なヤケ……」

「そうよね。元々オタク気質だったというのもあったけれど……自分から遠いものに手を伸ばそうとしたのかしら。もう昔のことだから、自分が何を考えてそうしたのか、あまり覚えていないわ」

 

 私としては、興味はなかったし、踏み込みたくもなかったけれど……彼女が話を広げやすいように、と思って─────断じて興味があったわけじゃない─────質問をした。

 

「その……どんなゲームを買ったの?」

「そうね……一言で言うと電波だったわ」

「で、電波?」

「……ああ、今時使わない言葉よね。説明はちょっと難しいけれど……」

「いや、分かるけど……」

「あら?そうなら話は早いわね。ともかく、奇っ怪なゲームだったの。エロゲーには文字通りエロ要素が含まれているけれど、そのエロ要素がまた電波を助長していると言うか……具体的に話す方が却って難しいくらい」

「……本当に説明になってない」

「そうね……でも、題材になった物事ならピックアップできる。例えば……”ノストラダムスの大予言”とか」

「……何それ?」

「あ……そうか。あなたは……95年か96年産まれよね?だったら、知らなくても不思議じゃないか」

「……ん?」

 

 いや、記憶の中にある一つの”ページ”が引っ掛かった。

 その左上のフキダシには─────

 

 今年は あの有名な

 ノストラダムスの恐怖の大予言の

 年とかで 日本や世界の

 マスコミは大さわぎだが

 たいていの人々は 晴れ晴れとした

 気分では ないにしても

 いつも生活しているように

 春をむかえた

 

 そう、確か……29巻の7ページ。4部の記念すべき1ページ目だ。

 開くと左側にあって、右は目次だったから……それで間違いない。

 コミックスの扉絵は3ページ目で、4・5はあらすじ紹介、6が目次……うん、合っているはずだ。

 それはともかく……ここに書いてあることがその”ノストラダムスの大予言”?

 

「いや、その言葉は見たことある。”ノストラダムスの恐怖の大予言”って言葉を……内容は知らないけど」

「あら、知っているの?……まぁ、インターネットを使っていれば一度は見るのかしら」

「それで……どういう予言?」

「ええ、中身は……1999年に人類が滅亡する、なんて予言だったの」

 

 なるほど。私は当時幼稚園児だ。先生は……10歳かそこら。

 小学校で話題にでもなってたんだろうか……そういうトンデモな話は小学生が好きそうだし。それに、

 

「……今、2016年だけど」

「そう。”人類が滅亡するのはやっぱり2012年だった”なんて話もあったけど……それにしても、もう通り過ぎた」

 

 実際人類は滅亡していないし、やっぱりそういうトンデモな説は嘘っぱち、いや当てずっぽうだったわけだ。

 でも1999年と2012年、どちらもハズレだったけれど……2013年に出現した深海棲艦。

 やつらは十分以上に世界を……人類を危機に陥らせたと思う。

 もしかして、これが”そう”だったとか?……なんて、あり得ない。

 

 すぐさま艦娘が登場して、世界を団結に導いた。それに今や戦争が日常になっていて……慣れすぎたのか、楽観ムードすら漂っている気がする。かくいう私も、世界が完璧にどうにかなることはない、と思ってしまっていた。今は……自分が直接関わることだから、そういう気分でもないけれど。

 

「他にも……西洋哲学ね」

「哲学?」

 

 少し、胡散臭い題材だ。……先生はそういうのが好きなんだろうか。

 小難しいことを考える主人公より、目の前の絶望や葛藤を勇気とともに切り開く、そういう物語が好きだ。

 

 とは言え、”眠れる奴隷”には考えさせられた。

 ……実際の所、この話の意味が少しわかったような気がしたとき、自分自身の人生を顧みた。

 本当にこんな人生で、こんな人間で良いのかと自問自答。

 どうしようもないことを大真面目に悩むあたり、多分私は特殊なんだろう。

 多分、そういう人生を歩まされたから。

 

 ただ、それでも哲学というものには……少し鼻につくものを感じる。

 そう、あまりに地に足のついていない感じが。

 

 苦い不快感で、ブランケットの中の体を少しよじる。

 でも、オウム返しにしろ問いかけたからには、その話題を受け入れなくてはならない。それが礼儀だ。

 

「そうね……例えば、”明日が来る”……ということを疑ったことはある?」

「……質問の意味がわからないけど」

「そうね、言い換えるわ。さっきのノストラダムスの話と絡めるけど……今日で世界が終わるかもしれない、なんて考えるということ。つまり、明日が来ないのではないか……」

「……それに近いかどうかは分からないけど」

「ええ」

「戦争が始まって、隣の国には攻撃されて、海は滅茶苦茶で……東京、自分がその時いた場所も壊されて、私も死んで……そういう意味で、全てが終わるんじゃあないかって……そんな不安はあった」

「そうね……私もそう言い換えたほうがよかったかもしれない。じゃあ、そういう時……どうやって安心しようとした?」

「……現実逃避」

「どういう方法の?」

「漫画を読んだり、ゲームしたり、どこかへ走りに行ったり……。無駄に時間を過ごして……いや、なんだろう。その時勉強していればよかったんだけれど、”死ぬかもしれない。それをやって意味はあるのか”なんて考えて、目先の楽しみに釣られていたというか……逃げたというか」

 

 そこまで言葉にして、違和感が生まれた。

 おかしいな、と思って、

 

「いや……逆だったかもしれない。今思うと。”もうすぐ死ぬかもしれない”から、それを悔やみたくないからこそ遊び続けた……それなら現実逃避とも、なんだか違う……?」

 

 自分で話しながら、思考がひっくり返りかけている。

 自分自身、そこまで捨て鉢になっていたのかと驚きや疑問があるけれど……納得出来ないこともない。

 

 隕石が落ちてきて地球が破壊されるとなったら、社会は滅茶苦茶になるという話……その現実の例だ。

 逆にその日を粛々と過ごすということは、”明日が来ない”という現実に即した行動じゃあない。それは”また明日”と繰り返すためのもの。だから、それこそが現実逃避になるはず……。

 

「どっちだったんだろう……」

 

 とっくに過ぎ去った問題で、今更解く必要はない。

 言うなれば……二度と受けられない試験の問題。歴史は過去問なんかじゃあない。

 それを後生大事に持っていることに何の価値があるっていうのか。

 

 ”あの時どう生きるべきだったのか”ということを今更振り返るのは無意味だ。

 それに、現に世界は終わらなかった。私も生きている。

 最終的には、現実逃避ということになる。

 

「現実逃避か否かという問い……私も考えましょう。あなた一人でも十分に導けるはずだから、要らぬ言葉かもしれないけれど」

「……別に考える必要なんてないよ。答えは出てる。今が答え……」

「いいえ。そうは思わない。だって……まず、この問そのものに問題があると感じるわ」

「問そのものに問題?……それは、ループするということ?」

「そういう意味ではなくて、所謂……前提がおかしかったりする、というもの。先にその説明をしましょう」

 

 

 

「このあなたの問いとは一見似ていないけれど……”青い林檎は赤いか?”という問いを立てるとして……この問いには意味がないわね?」

「……うん。言ってる意味がわからないし」

「そう、その文章は成立していない。文法上問題はないけれど、論理的に明らかに偽。ここまではわかる?」

「偽……真偽、だっけ。数Ⅰでやったやつ?」

「それね。……じゃあ、あなたの今回立てた問いに、なぜ問題があるのか。それは、”現実とはなにか?”ということ」

「現実っていうのは……今、世界は終わってないし、これが現実」

「そう。でも今は結果論の話をしているわけじゃないの。あなたにとって……いいえ、深海棲艦の出現、隣国からの攻撃……その当時の人々にとって、現実とは……あなたの言う現実というのは、この場合、未来のことね。それはどういうものだったのかしら」

「……分からない。これで人生とか、世界とかが終わるかもしれないとは、みんな考えたと思う。そういう不安があった」

「私もそうだった。……けれど、果たして”こうなる”ことを知っていた人はいたのかしら?」

「……それは、いなかっただろうけれど。ほぼ確実、とまで予想出来る人は、いたんじゃないの?」

「それでも、未来を知ることが出来る人はいない。つまり、あなたの言った現実逃避というものには、対象がない」

「ない?」

「過去があって、現在がある。けれど未来があるというのは迷信に近いもの。戦争がなくたって、この世界が滅ぶ可能性はある」

「……例えば、どういう可能性で?」

「それは知らないわ。ただ、言葉に出来るというだけのこと。それに特に理由もなく……例えばこの世界が、実は誰かの書いた物語で、作者が飽きたか何かで筆が止まってしまったとしたら。つまりこの世界の内側には何の理由もなかったのに終わってしまう、そんなことだってあり得る」

「それは……流石に絵空事が過ぎる」

「でも、言葉で表現することは、想像することは出来るでしょう?それが、私が今回使っている”あり得る”の範囲」

「想像できることは全て現実に起こり得る、みたいな言葉は聞いた覚えがあるけど。それにしたって……」

「言いたいことは分かる。私は今、あなたを煙に巻こうとしている」

「……自分で言ってて嫌にならないの?」

「いいえ。けれど、煙を払うのはもう少しだけ待って。……さて、あなたが逃げようとした現実、未来。それは誰も知ることが出来なかった。これには同意できるかしら」

「それは、……理解できる、けど」

「じゃあまとめましょう。“未来から逃げたのか?”という問に置き換えましょう。これも後で書き換えることになるけれど……今の時点で、私は問いと答えを2組用意できるわ」

「2つ?」

「とりあえず、このまま読んでみて……未来から逃げることなんて出来ると思う?」

「……いや、出来ない。時間は進んでいくし……明日はそのうち、”いま”になる」

「つまり、この問いに意味はない。逃げることの出来ないものから逃げるという文は、ナンセンスよね。答えがない、という答えになる」

「確かにそうだけど……でも逃げる方法なら、一つ思いついた」

「それは?」

「……死ぬ。─────自殺、とか」

 

 そこで、少し息を呑む音が聞こえた。

 確かに重く、ネガティブな単語。けれど、そこまでショッキングなことを言ったつもりはなかった。

 だから……何か間違ったのかもしれないと不安に駆られそうになる。

 そして、一つの溜息が聞こえて、

 

「……そうね。それで主観として未来は閉ざされる。けれど、それなら別の答えになる。あなたは生きている。あなたは現実を十分に受け入れている」

 

 さっきと変わらない声の調子。

 それに安心して、私も溜息を吐きながら、

 

「……そう、なのかな」

「安っぽく答えが出てしまったわね。答えがないことにしたかったのに」

「本当に煙に巻くんだ……」

「問題は解決するものではないわ。消し去るものなのだから」

「解決と消し去る……それのどこが違うの?」

「例えば……解決というのは、お金が足りないときに十分なお金が手に入ること。消滅は、お金が足りないことを問題にしている……そのこと自体が誤りであったと気づくこと。乱暴だし、適当すぎるから例えとして間違っている気もするけれど、そういうことにしておいて」

「……言いたいことは、なんとなく分かった。確かに、”それが問題ではなかった”というのは消滅……なのかもしれない」

 

「それじゃあ、もう一つ。あなたは”未来はこうである”という……”こう”というのは具体的な部分ね。それに則って行動した」

「まぁ……そう言えなくもないけれど」

「”こう”ではなかったから、結果論として逃避ということになった。繰り返しになるけれど、未来を知ることは出来ない。それは現在からすれば願望であって事実じゃないもの。真偽が定まらない問い、答えのない問いに意味はない」

「……またそれ?」

「そうよ。そのつもりで話を進めたもの。そして今、結果として現れているけれど……あなたが遊び呆けたことが責められる理由ってあるのかしら?」

「そりゃあ、遊んでばかりじゃあ駄目でしょ」

「結果論の話はしないわ。その時点でのあなたの選択について話をしているの。世界は滅ぶかもしれなかった。滅ばないかもしれなかった。その中で選択した。答えのないものに則った選択とは、とどのつまり、賭けになる」

「……賭け、ギャンブル?」

「その賭けね。だから、あなたはそれに負けただけ。分の悪い方に賭けたから、という咎められ方はするかもしれないけれど、それだってあり得る目だった。あなたはサイコロを振った人を本気で責める?」

「いや……無理がある。無意味だって気付く……」

「そして、私達に賭けをしないことは不可能。”これに賭けたということ”が間違いだったのではなく、”賭けをしたということ”が間違いだったというなら……やっぱり、死んで勝負を降りるしかない」

 

 少しだけ切羽詰まった、呼吸の浅い声。早口で先生は言い切った。

 そして息を整えると、穏やかないつもの口調で、

 

「ともかく、あなたの選択を完璧に咎められる人はいない。あなた自身にも出来ない。だから、考える意味がない」

「無意味、無駄……か」

 

 無駄だったんだ。

 無駄、無駄。

 考えることに意味がないということを、考えることで導き出すというのは……つまり、”考えるのをやめるために考える”というのは、なんだか奇妙だ。

 

 けれども─────果たして、考えるということに終わりはあるのだろうか?

 無限に回るような気がする。……今の私が考えられる形だと、考えるということに、終わりはないように感じる。そしてそのまま、終わりがないままに終わる。終着ではなく、減速による停止として。動かなくなる。回転は、いずれ止まる。無限の回転なんて、ない。

 

 それに、その回転─────そのように見える思考の動き─────の向こう側というものがあるのならば……きっと、また別の問題がよく見えるようになるだけで。

 きっと行き着く先にはなにもない。

 

 哲学ってものは随分虚しいみたいだ。

 ”何もない”へ向かっていくだけ?世界を寂しくさせていくだけの学問なのか?

 一体何故、人はそういうことを考えるんだろう。考えてきたんだろう。

 ……暇な人間だって、もう少し楽しいことを考えようとしてもいいはずなのに。

 

「どうして人はそういうことを考えるんだろう……」

「……悩むからじゃないかしら」

「悩む……そりゃあ、悩める人は助けが欲しいんだろうけど」

「いいえ。助けなんて必要ないと、ただ自分で自分を救いたいと思うから。そういう哲学者は沢山いた」

「……そういう人は、どうして神様に頼らないの?」

「それも誤解だと思うわ。哲学者は別に全てが無神論者じゃない。聖書と哲学を矛盾なく統合しようとした哲学者もいるし」

「……失敗しそうな気もするけど。知らないなりに」

「そうね。それでも、近代哲学の下準備は整えられた。それだけでもお釣りが来るほどの偉業だし、そしてそれだけではなかったの」

 

「話が逸れっぱなしになってしまったわね。本題は全然話せなかったけれど……今日はここまでにしましょう」

「うん……」

 

 ●

 

 航海は恙無く進んでいる。

 少しずつ風が冷たくなってきたのを感じながら、夜の海から上がって、食事と風呂を済ませた。

 甲板後ろで煙草を蒸す時間も短く、1本か2本程度。部屋に戻ってハンモックに入る。

 

 第2夜……といえば良いんだろうか。

 昨日と同じく、豆電球の明かりの中で話が始まった。

 

 ●

 

 

「さて、昨日は哲学の話に逸れてしまったけれど……肝心の私の話に戻りましょう。エロゲーを買って、プレイして……それから。端的に言って、私は哲学にハマった。そのまま文転したわ」

「せっかく理系だったのに?」

 

 私と逆だ。

 ……せっかく元々理系だったのに。それでやっていける頭をしていたのを投げ捨てるなんて。

 嫌味に感じる、というのは事実だけれど……それ以上に、羨ましいと感じた。

 例えるなら─────これはどうかと思うけれど─────天使が地上を歩くようなものだ。

 空を舞うことが出来るのに、敢えて地上に降りてきた……足もあるから、という理由だけで。

 そういう、物好きをわざわざ実践できるという意味。

 

 確かに、理系頭を特権のように見ているのは事実だ。私に無理だったから。

 でもきっと理系の人だって、文系の頭が欲しくなることはあるんだろう。

 人間が鳥に憧れるように、鳥も人間を羨むことがあるかもしれない。

 そのどちらにもなれるのは羽の生えた人。……私の思いつく例えでは、それは天使だった。

 

 でも、

 

「それに……医者になる、というのはどうしたの?」

「……諦めてしまった。それに”無理に継ぐ必要はない”って。自由にすればいいと言われた」

「自由に……」

「”お前の探しものが、そこにあるのかもしれないのだろう?”って……父親が」

 

 探しものを探しに行ける自由。

 

「……ボクには無かった」

「無かった?」

「いや、なんでもない……続けて」

 

 また”ボク”か。……昔のことを思い出すと、”ボク”になる。

 

 ボクに自由なんて無かった。

 だから逃げ出した。”お前はこういう人になれ”という筋書き、”運命”から。

 その”こういう人”の、まがい物のような人生、スクリプト。それをなぞるだけの日々。

 はみ出ては戻れと促され、いつしかレールの上を意思無く走るだけになっていたから。

 

「自由がない……か」

「”運命の奴隷”。……自分で言ってて何だけれど、不本意だし気障だけど、そういう人生だった」

 

 走るのは好きだ。いいものだ。

 誰がなんと言おうと。そう思っている。

 

 ……けれどそれすらも、台本(スプリクト)や設定として決められていたようで。

 人間として生きるのではなくて、”キャラクター”として存在させられているように思ってしまって。

 だから多分、ボクは……“目を覚ましてしまった奴隷”だ。

 いっそ眠ったままでいられたなら……ボクは両親の立てた筋書きの通りに、”見世物としての人生(トゥルーマン・ショー)”を疑うこと無く生きていったんだろう。あいつらの見たい夢の通りに……。

 

 それが嫌で、ボクは陸上部から足を洗った。

 走ることもやめてしまおうと思ったけれど……それだけが出来なかった。走ることを嫌いにはなれなかった。……幸い、時が経つにつれて複雑な気持ちも薄れていった。

 そして、自分のために自分に命じて走るのだから……もうそれはボクのものなのだと思っていいと考えた。

 こうして出来た足も、自分で作ったもの。ボク自身が手に入れた”自分”なんだと。

 ただ、そうだと信じていたかった。

 

「運命の奴隷……不穏で、深遠な言葉ね」

 

 口が滑った、と思ってブランケットで顔を覆った。けれど先生は耽けるような声色で続けて、

 

「私達は運命を変えられると教わって育ってきた。そういう意思と力を持った存在なのだと。けれど事実、それほど大した存在じゃないことにも、そのうち気付く……」

「うん……変えられないから運命。昔からそう思ってる」

「……随分冷めてるのね」

「“ジョジョ”はそういう物語だから、自然とそう考えるようになったんだと思う」

「哲学的ね、”ジョジョ”って。……私も読んでみようかしら」

「……結構な人が絵で敬遠するけどね」

「そうなの?……ああでも、ちょっとだけ見た覚えがあるかもしれない。……確か、独特の絵柄だった気がする」

「私にとっては、あの絵が当たり前だったから……別になんてことなかった」

「いつ頃から読んでいたの?」

「さぁ……分からない。物心ついたときには、目の前に”少年ジャンプ”があった気がする」

「……ちょっとだけ変わった家庭ね」

 

 その”ちょっとだけ”は……”だいぶ”と言いたいんだろう。

 分かってる。慣れっこだから。

 

「……早霜の話なんだし、私の家の話なんか別に」

「……ええ、分かったわ」

 

 拒絶をもっとやんわりと伝えるにはどうしたらいいんだろう、とか益体のないことも思ったけれど、それよりも話が聞きたかった。

 

「それから、次の、その次の受験で大学に合格して……2浪ね。それからは実家の下北沢を、本当にほんの少しだけ離れた、渋谷で一人暮らし」

「え、下北沢?」

「ええ……それが何か?」

「……私も下北沢あたり出身で」

「あら……同郷だったのね」

「でもなんで渋谷に?……そんな近くで一人暮らしなんて、意味あるの?」

「……一人で暮らしてみたかったの。ちょっと、家族と距離を取ってみたかった、そういう年頃だったから」

「その、家賃とかも高かったんじゃ」

「すごくオンボロのアパートに住んでたから、アルバイトでどうにかなったわ。……単位はどうにもならなかったけれど」

「どうなったの?」

「留年。学費の無駄ね……」

 

 ……そういうしくじりも含めて、いいな、と言いたかった。しくじりはつまり、自由のような気がしたから。

 でも言いたくなかった。言えば、また自分の話をしてしまう。

 聞いているだけでいたかった。

 子守唄のような話を。

 

「渋谷とかその近くって住みにくそうだけど……」

「……そうね。街の賑やかさが、遠鳴りのようにずっと……本当は聞こえていないのに、聞こえてくるような。そんな落ち着かなさはあったかもしれない」

「ふぅん……」

 

 渋谷。あまり記憶に残していない街。ゲーセンしか用がなくて、109は看板を見たかすら怪しい。

 

 秋葉原には自転車でよく通っていたけれど……いや、それも別にアニメショップとか……丸々一棟如何わしいビルに用があったわけじゃない。単純にゲーセン通いが習慣だっただけのこと。お気に入りは特殊筐体かつ古いから、そもそも選択肢がなかったってのもある。

 

「でも、結局また引っ越したんだけれど」

「え、なんで?」

「3年生になると…私は4年目にだったけど、キャンパス移動があるのよ。それでまた引っ越し。一人暮らしに慣れてたから、引越し先でもなんとかやっていけたと思うわ」

「ああ……そういう」

 

 東京の大学で、キャンパスが移動するって言うと……どこの大学なんだろう。私が行きたかったところはそういうのじゃなかった。

 

「とっても可愛い後輩もいたし、ちっとも寂しくなかった……」

「後輩?」

「そう。私が留年したから、彼女とは同じ講義を取っていて……それで出会った。とっても可愛い子」

「ふぅん……」

 

 大学の友達は一生物なんて話、どこかで聞いた覚えがある。先生の場合、後輩だけれど先生がダブっているから……実質、同級生みたいなものだろう。

 

「楽しそうだね」

「そうね。でも、私のようになってはいけない。ダメ人間だもの」

「そう?」

 

 私の目から見える先生は、昔はともかく今はシャンとしていて……とても大人だ。

 

「そんなことないんじゃないの?」

「いいえ。それがとんでもないダメ女で……大学の単位を落とした理由もお酒とセックスにのめり込みすぎたからだもの」

「……は?」

「……? お酒とセックス」

 

 喉から音が出なくなった。

 口だけが痙攣のようにパクパク開いて閉じる。

 

「……島風?大丈夫?」

「あ、あ、だ、だ、……だ、だ」

 

 大丈夫、がつながった言葉にならない。

 私の情けない変な声を聞いて、先生はしばらく黙ると、笑った。

 

「ふ、ふふふ……ふふ……ごめんなさい……ちょっと刺激が強かったかしら」

「あ、あのあ、あの、せ、せ、“セックス”って……」

「あの頃の私、脳みそアッパラパーでお酒を飲むとすぐに“スケベしようや……”って言っていたらしいの」

「は、は、へ、あ、あああ、あの、って……らしい?」

「ええ、私お酒弱いからすぐ記憶が飛ぶの。気がついたら男に跨ってたなんてこともよくあることね」

「……」

「そのまま迎え酒ならぬ迎えセックスとかも」

「……」

「あ、ちゃんと相手を起こしてゴムは付けさせてもらったわよ?」

 

 色々とツッコみたかった。

 なんて危ないひとなんだろう。

 



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海色チェイサー(改稿予定)

申し訳ありません。ちょっと短いです。
あと話タイトルは正直ふざけました。深夜テンションで大変申し訳ありません。

レーダーに関する記述がありますが、これを書くにあたり、源治様(代表作:「提督をみつけたら」)より貴重な情報を頂きました。
大変参考になりましたのでこの場で紹介させて頂きます。
ありがとうございました。

2019/02/24
この回は改稿予定となっています。


 日本領海にも入ると、行き先だった赤道直下とはまるで気温が違う。沖縄近海から九州南端まではまぁ良しとして、帰る港は日本海、それも冬のだ。

 中国地方が右手に見える。甲板の上は、それはもう寒かった。

 行きの時もそうだったのだけれど、私達には防寒用の外套が与えられた。でも私はその下に着ている服がああなのだ。皆と同じように、上にPコートを着込むだけでは全く意味がなかった。

 そこで私には別のコートが与えられている。ロングのトレンチコート。しかもかなりブカブカの。

 それに艤装のコネクタを通すために、間抜けな感じで背中に穴が空いてる。でも体に合わないのが逆に良くって、ベルトは低い位置……ちょうど腰骨あたりに来ている。確かに、腰の上に”コネクタ”が出てるからちょうどいい。

 でも……私としては、あまり好みじゃない。自意識過剰なのは分かっているけれど。あんな制服の上に御大層なコートを着ているというのは、なんだか……そう、アンバランスなことのように思われたのだ。

 

 コートに袖を通した時、私はそんな恥ずかしい気持ちを押し込めるようにベルトをきつく締めた。すると海に降りる前に、早霜先生はそれを見て、

 

「オーバーサイズだからだけど……そうやって締め付けると余計に不格好よ?」

 

 まるで新人のネクタイをいじくり回すかのような自然さで、私のコートのベルトを緩めた。

 その日、私はなんだか恥ずかしくなって、先に海に降りた。

 

 

 ●

 

 

 舞鶴到着は今日の昼らしい。

 

 今日も起きてしばらくして、朝の勤務が始まった。

 私の位置はいつも通り。船団の左後方。

 

 霧が立ち込めていて、視界は不良。加えての曇り空で、少し暗い。とはいえ、迷子になるほどでない。警戒態勢ということを鑑みれば、不安しかないけれど。

 

 当たる風はどんどん寒くなっていく。このまま北へ進んだら、どんどん寒くなっていくだろう。もう舞鶴が近くて良かった。まるで包丁の腹で撫で付けられているような、切られそうな風。別に時化ているわけじゃなくて、単純に進んでいるから風に当たるだけなのだけれど。

 正直、別に気持ちいいとか考えることはない。コートの裾から入り込んだり、前の袷の隙間から入ってきたり、あとはそのまま顔に当たったり。耳はとっくに凍ってるんじゃないかと思うくらいだ。けれど都合のいいことに、私達の体はそんなにヤワじゃない。それに耳当てを付けると聴音に差し障る可能性があるっていうからもう堪らない。なんで人間らしい権利がないのだろう。まぁ、兵士だ。もっと言えば……兵器なのだ。銃口を花で飾ることに意味がないように、あるいはそれによって意味をなさなくなるように、余計な装備は原則として禁じられている。防寒具はその例外に過ぎない。私達への最低限の施しというものは、篩から間違ってこぼれ落ちたものなのだ。

 

 また益体もないことを考えているな、と思ったとき、ふと気配に違和感を覚えた。

 それはもしかすると、遠くで風が乱れた音で、むしろそれが理解できることに私は驚いていた。そして、それがどんどん近付いていると。海面を乱す音も、その空気の乱れに続いて聞こえてきた。

 

 ……何かが来る。

 それは直感からすると船で――――――それも大きなものだ―――――私達に危機をもたらすものとはあまり思えなかった。けれど常識的に考えなければならないとすれば、敵の可能性がある。

 

 ……電探、つまりレーダーが使えるならばこんなもの、とっくに接近を察知できている。けれど電波は深海棲艦を誘引するという――――――もしかしたら迷信かもしれない。実際に無線の電波は、最大限の妥協で使っているらしい―――――ことが、私達を護衛に置くことを更に有益なものにしていた。

 私達だけで行動する分には、限度はあるにしても引き寄せても構わないから、電探を使えるのだけれど。

 

 私は迷わず無線の周波数を連絡用に合わせて、

 

「こちら島風。後方より接近音を認める」

 

 船団全体に情報を共有する。まずこれが出来なければ話にならない。そして一息置くと、

 

『こちら“わかさ丸”、この航路を通る船は他にはなし。航路状況・予定によればそのはずです。そちらの知覚は確かでしょうか。どうぞ』

 

 人の頭を疑うような、でも少し驚いた声色で返信が来た。

 かつて使用されていたらしいレーダー類は軒並み使えなくなったから、船舶の行動予定は行政に把握されている。そしてそれを全世界で共有していて……だからスケジュールは厳密に組まれている。そして“SOS”や“メーデー”も最終手段。この航海の予定が決まったのだって、確か私が艦娘に“改造”され始めた頃、そのはずだ。

 その声のバックで、気配はさらに近くなってくる。私はそろそろ視認可能だと考えて、左肩越しに後ろを見る。でも霧のことを忘れていたな、と思っていると、

 

「……船?」

 

 無線に語りかけるわけでもなく、私は思わず口に出していた。距離感は霧のせいで狂っている。それでもまだ遠いことは、それだけは判る。

 

 私は努めて冷静に、

 

「ただいま対象を視認。霧で大きさ程度しか把握できないものの……」

『……島風?報告を続けてください。どうぞ』

「こちら島風、対象は……」

 

 嘘みたいだ。

 それは遠いにしても、

 

「……巨大な船です」

 

 あまりにも、大きすぎた。

 それと同時、私達の船団から大きなサイレンが鳴り響く。

 

 にわかに無線がうるさくなった。総員通達として基本の連絡用チャンネルにまず連絡が来る。

 

 内容は単純、面舵――――――つまり北上している現在は東の方だな―――――積荷への重大な影響が出るギリギリまで進路を変えて、後方から接近する艦船をやり過ごす。

 それだけ。注意事項などは省いてある。それくらい自分で考えろ、あるいは船長の指示に、居る船の方針に従えということだ。

 

 一通り通達が終わると、音が途切れる。なんとなく理由は分かる。そう思ってチャンネルを雑談用に合わせると、そっちでも同じような言葉が告げられている途中だった。最初は戸惑いの声も少し混信していて、でもすぐになくなった。こちらでも一通り連絡が終わると、またノイズだけになる。雑談用チャンネルだけど、誰ももう連絡を取り合うことはない。連絡内容に従って船団運動への追従に専念、あるいは見張りに専念……そういうことだ。

 

 私は船団が右に舵を取り始めたのを見届けると、少し速度を落としつつ、大回り気味にその軌道の平行線へ乗る。

 そして、気まぐれにチャンネルを適当に回してみる。ちょっと回してみると、すぐに何かと繋がった。

 とは言え、その何かというのは当然ながら私達の護衛する船団からの無線だ。内容は今までと違って、あの艦に連絡をつけようと試みるものだった。私は無線がノイズだけになるのに合わせて、チャンネルを回して無線を追いかける。片手間にやるにはちょうどいい。

 

 けれど、さすがに3個目のチャンネルは追い掛けられなくなって、私はまた連絡用に割り当てられた周波数に戻しておく。いつ普通の連絡が来るかもわからない。それに備えておくのが利口だと思った。

 

「……少し近くなったかな」

 

 そう思って謎の艦に視線をよこす。予想通り近づいてきているけれど、それ以上に速い。速すぎる。

 霧をまとっているのに――――――だんだんと解像度が上がっていくように――――――既に形が見えてくる。近い。波濤を裂いて、まさしく爆進と言った様子で航行する様も見て取れるほどに。

 それはやはり、確かに艦船だということが分かった。けれど甲板には、

 

「構造物がない……」

 

 いや、それは本質じゃない。あれは……空母だからだ。そうだ、空母の形で間違いない。

 ……見えてきた。左側、艦体からすれば右側に慎ましく艦橋が乗っかっている。

 でも、煙突はない。ということは原子力空母か。……中国はまだ持っていないはずだから、あれは米軍か仏軍のもののはず――――――――そんな馬鹿なことがあるか。

 

 なぜ一隻だけなんだ。どうしても私にはその一隻以外が見当たらないように思う。

 

 空母というものは随伴艦を常に伴う艦種である。それは空母が専ら艦載機を扱う艦だからだ。

 特に米軍の空母は原則、”空母打撃群”という艦隊を構成して行動する。

 それには潜水艦が含まれる時もあって……じゃあ、もしかして海中に潜水艦がいるのかもしれない。それが共連れなのか。いや、それでも絶対に水上艦の随伴があるはずなのだ。それも、露払いのような先導する艦が。潜水艦がいるとしても、それは水上艦がいない理由にはならないのだ。

 ――――――――じゃあ、ひょっとして見えているものが間違い?

 

 何かがおかしい。幽霊船か蜃気楼だという方がまだ信用できる。

 けど、私の目は確かに、”それ”がそこにあるということを私に知らせている。

 単独で行動する原子力空母という、あり得ない存在。

 

 私はその正体を……確かめなければならないと思った。それは義務感なのだ。

 だから、堂々と言わなくてはならない。

 ……無線は未だうるさい。

 船団の運動については打ち合わせが終わったらしくて、その話題はなかった。後は航路になんであんなものが通るのか、そこに話題が終始していた。

 

 私の言葉の入り込む隙間はないようにすら思えた。けれど、私は口を開く。

 

「……こちら島風、応答願います。どうぞ」

『こちら”わかさ丸”、どういった要件でしょうか』

「あの艦について偵察に行って参ります。通信終わり」

『ご、ご遠慮頂きたく思います!船団の護衛に専念『島風、やめなさい!』

 

 混信した。声は、早霜先生のものだ。止める言葉だった。でも、私は行く。

 私は右に舵を取った船団とは反対に、左周りにターン。そして西向きへと軌道を変える。

 

『やめなさい!島風!これ以上の逸脱行為は、あなたにとっても、この船団にとっても――――――』

 

 無線機のチャンネルを変えた。

 もう聞こえない。聞こえないはずなのに、耳にこびりつくように、”やめなさい”が頭の中で反響している。

 私はあの空母と距離を詰めに行く。確かめなければならないのだ。これは、私のためではないのだ。

 断じて、これは、真実を知らなければならないから、そうしているだけなのだ。

 でも、遠鳴りのように、

 

 ――――――――やめなさい――――――――

 

 うるさい。

 

 ――――――――やめなさい――――――――

 

 行くんだ、私は。

 

「やめなさい、島風!止まりなさい!」

 

 本当に耳に聞こえていることに気がついて、私は思わず速度を緩めて後ろを見る。

 

「……早霜、先生」

 

 彼女が、私を追い掛けてきた。必死の形相だ。でも、私より、遅かった。

 

「戻りなさい!いいから!今なら、私が取りなせるから!」

 

 ――――――――ダメだ。

 それは、させたくない。だから私は、

 

「いい。私一人で行くから。放っておいて」

 

 そう。……悪いのならば、私一人が悪くなければならないのだ。

 私は先生を背後に残して、全速力であの空母に向かっていった。

 

 

 ●

 

 

 船団はあの空母のコースを逸れた。そして今現在、空母は私達を追い越そうとしている。

 ものすごい速さだ。下手すると35ノット以上出ているかもしれない。でも私よりは遅い。追いつける。

 あの空母のコースを見極めて、斜めに交わるようなコース取りをする。舵を少し右に傾けると、進路は北北西気味になる。そしてちょうどいいと思った角度で舵を真っ直ぐに。

 

 私の全速力には、早霜先生は追いつけない。私は一人で行くから、それでいいのだ。

 

 それにしても速い。並走状態にある今、特にそう思う。私に速度の分があるとしても、前に回り込むなんてことはしたくもない。今にも艦載機を飛ばしそうな、まるで臨戦態勢……でも艦載機が見えない。

 

 おかしい。

 普通、空母がこんなに速度を出すのは艦載機の発艦に速度を乗せるときだけだ。戦うときだけだ。

 だってのに、こんなに速度を出すのはおかしい。

 

 そして霧に包まれた空母が、まるでベールを引き裂いたように、はっきりと見えるようになった。

 ……本当におかしい。幽霊船だ。幽霊空母だ。だって、今運用されている空母があんなに錆まみれのはずはないのだ。塗装はところどころ剥げて、赤錆だらけで痛々しいほど。特に艦橋なんて――――――――

 

「え?」

 

 嘘だ。

 あの艦橋。

 あの数字。

 

「なんで、”これ”が今も動いてるっていうの……」

 

 こうして、ましてや全速力以上で動いているはずはないのだ。

 あれが、この日本海に用なんかないはずなのだ……!

 

 私は、”その二桁の数字”の意味を知っている。知っているから分からない。

 混乱の極みに達した私は、そこで機関を止めて、追いかけるのをやめた。

 私の偵察は無意味だった。

 見ても、”わけがわからないもの”があっただけだった。

 

 そこに、小さな航行音が聞こえてくる。波濤を切り裂くあの空母の航行音に混じって、あれが遠ざかるに連れて、それは少しずつ大きくなっていく。高い音。それこそ、目いっぱいに機関を回したみたいな。

 

 立ち尽くす私が、反射的に、でものろく、それを右肩越しに覗き込む。

 

「……早霜、先生」

 

 彼女が、追い掛けてきていた。そして彼女を”先生”と……初めて声にしたと思う。

 彼女の顔は赤いのか青いのか分からない。表情なんて見たくなかった。私は目をそらす。

 そして、彼女は私のすぐ目の前、それどころか顔と顔が触れ合うほど近くまで来て、

 

「……っ!」

 

 私は、左頬に、痛い一発を食らった

 強烈なビンタ。

 ……すごい、本当にすごい衝撃だった。

 だから、何も言えなくなった。

 

「……帰りましょう」

 

 私はうつむいて、何も言えなかった。

 

「……いい!?」

 

 私は、口の中にほんの少しだけ鉄の味がするのを感じながら、

 

「……はい」

 

 自分でも分かる、くぐもった声で返事をした。

 

 けれど私は、冷えていく血の気の中に、奇妙な熱さがあることに気付いた。

 心臓がまだ跳ねているのはそのせいだろう。

 私はわけのわからないものを見た。

 多分、それが理由なのだ。



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改造人間讃歌(改稿予定)

また短いです。前話とつなげると長すぎた上、雰囲気が一話の中でコロコロと変わるのも良くないかと思ったので切らせて頂いています。

2019/02/24
この回は改稿予定となっています。ご承知下さい。


 その後、早霜先生からはお説教の無線が届き続けた。

 

 一度ならず二度までもの逸脱行動。

 お咎め無しでは済まない。

 謹慎処分は確実、営倉入りも視野に入っている。

 そして、”見てはいけないもの”を見てしまったのだと。

 

 だから私は、”見てはいけない”ってどういうこと?って、問い掛けてやった。

 それには先生も、

 

「分からない……」

 

 ”あの数字”が見えなかった彼女は、本当に”あれ”が何だったのかは分からない。

 けれども、只事じゃないことは理解していたのだ。

 

 私のほうが分かってる。あれがただの大きな艦じゃないってこと。

 あれは”あるはずのないもの”だってことを、私のほうが理解している。

 

 先生は、お説教は長く出来ない質みたいで、そんなに長い話にはならなかった。

 けれど舞鶴に着くまで、それっきり私に無線を寄越してくることはなかった。

 私は……そう、安心して、連絡用のチャンネルに無線を合わせて、そのまま航海を続けることにした。

 

 

 ●

 

 

 ちょうど正午に差し掛かる頃だと思う。腹時計からすると。

 そのくらいの時間に、輸送船団の係留までを見届け終わった。

 船員達からの生の感謝の声、連絡用無線での謝辞を受けて、それから帰ることになった。

 私の二度の暴挙には、全く触れない内容だった。

 後、船員のほとんどは私のやったことなんて知らなくて、”ありがとう”の声は私にもきっちり届けてくれた。

 ……居心地が悪かった。

 

 そして、休憩中だった艦娘二人が船内から甲板に上がってくる。船員達の最敬礼に囲まれながら。

 艤装は当然完全装備、その上で海に出ていた四人分の荷物も持ってきたから、眠たい目を擦ることも出来ない、そんな感じだった。彼女らも彼女らで、居心地は悪いのかな、と思ったけれど、そんな素振りは見えなくて、ただ眠そうだった。

 

 寝ぼけ顔の駆逐艦娘の片割れから荷物の背嚢二つを受け取って、私は”連装砲ちゃん”を動かしに掛かった。

 他のみんなは元からフル装備だけど、私は資源節約のために”連装砲ちゃん”を船内に置きっぱなし。

 だけど私が念じれば、器用にトコトコとやってくるのだ。でも保管庫から甲板は階段の段差があったりで時間が掛かる。緊急時はフルパワーで文字通り飛ぶようにやってくるけど、平時はこんなものだ。私の念そのものも弱いし。

 

 ……そうして五人を待たせていると、さっきまで寝ていた艦娘二人が私に、尖った視線を寄越してきた。視線は見えたんじゃなくて、感じたものだ。

 だから首を少しだけ動かしてその二人を見ようとすると、他の二人も目に入った。ヒソヒソと声を潜めているけれど、耳を澄ましてみれば大体聞こえる。私のことを話していることがすぐに分かった。

 そして今度はあっちが私の視線に気付くと、鋭い視線は二倍になった。

 目を逸らして、”連装砲ちゃん”を急かすことにした。急げと。

 

 するとほとんど全開の手応えが返ってきて、艦橋を突き破るような勢いでお出ましになった。

 三体の“連装砲ちゃん”が次々着水、私に侍ると、四人の視線はより一層刺すようになった。

 ……手を抜いていたんじゃない。やたら勢いが強いから抑えていただけ。

 そういう言い訳は頭には浮かんでも、口には届かない。そのまま忘却の流れに紛れて消える。

 

 そんな空気の中、誰かが手を打ち鳴らした。

 

「さぁ、帰りましょう」

 

 四人から離れた位置に佇んでいた、早霜先生だった。

 特に表情は浮かべていない。クールないつもの無表情。

 ……似合っているのに、似合わない。

 

 彼女がハナを切り、私達は続いて航行を開始する。遠征中よりずっと速く。

 でも私は”連装砲ちゃん”を引き連れて、その最後尾にいることにした。

 

 

 ●

 

 

 舞鶴鎮守府に到着。

 霧とあいにくの曇り空で太陽は見えないけれど、昼のてっぺんはとっくのとうに過ぎていると思う。

 もう、いい加減お腹が空いていた。

 埠頭へ上がろうとする。……出迎えがいる様子はない。

 

 けれど、早霜先生と他の四人は違和感を覚えたらしく、にわかにざわつき始める。

 

「……いつもなら、誰かはいるはずだけれど」

 

 早霜先生の囁きが聞こえた。

 私はこれが初めての遠征だったから、それが普通だということも知らない。私はそれに構わず、埠頭にリベットで留めてある、錆びた赤い階段を登り、久々の陸へ。

 いくら水を弾くとは言っても、陸に上がるとコートをより一層重く感じた。足場が違うとよく分かる。私達がどこで働いているのか、ということを。

 それに続いて皆も上がってくる。最後に早霜先生。

 

 そして、

 

「……いやな雰囲気」

 

 風は吹きさらし、今にも泣き出しそうな空―――――と言えばいいんだろうか、こういう時は―――――を見つめて意味深な台詞、また早霜先生は先陣を切って歩き始めた。工廠へ。艤装を預けなくてはいけない。

 

 ……私は、今度も離れてシンガリ役を選んだ。

 

 

 ●

 

 

 ……工廠も無人だった。”いやな雰囲気”、それは確かに当たっているように思えて、私もその”いやな雰囲気”とやらを肌で感じられるようになった気がした。

 

 とにかく、私は魚雷発射管を降ろして脚部艤装も外し、”連装砲ちゃん”も置いていく。

 でも自前の靴に履き替えていると、彼らがぴょこぴょこ跳ねて寄って来た。

 だからなんとなく口だけで”バイバイ”と言って、手も振ってあげた。長い付き合いじゃないからだと思うのだけれど、彼らはなにものなんだろうか。わからないけど、私の指示に従うことは分かっている。そして……そう、私に懐いているらしいことも。

 

 みんなも装備を降ろすと、私と同じように靴に履き替える。

 理由は知らないけど、みんなローファーだった。多分、ファッションなのだと思う。デザインはそれぞれ違うから支給品じゃない。

 私はその点楽でいい。こんな格好だ。何を履いても関係ない。今はコートを着ているけど。

 

 みんなそれぞれが武装解除を終えて、仕事の終わりを実感しているようだった。伸びをする者、屈伸をする者、あるいは……眠たげに欠伸をする者。

 そして一番驚いたことに、

 

「島風。ストレッチするわよ」

 

 早霜先生がそう言ってきた。

 一方、他のみんなはとっとと帰って寝たいらしくて、足早に工廠を去っていった。そして、私と先生二人きりになった。

 

 ……正直なところ、気まずいなんてもんじゃない。

 それに耐えきれなくって、

 

「行かなくていいの?」

「私が今回の責任者だから。まだ休めないのよ」

「じゃあ早く報告に行けば」

「もう歳なのよ」

 

 ……さいですか。

 体をほぐして一度リラックスしないとこれ以上保たない年齢なのだ、と。

 艦娘になった以上、実際の年齢なんて関係なさそうに思うのだけれど。

 それで私が粛々と頷くと、

 

「いや……今の、笑いどころだったのだけれど」

「……」

 

 いつものクールな無表情が崩れて、苦い顔になっている。多分、これは珍しい表情だ。

 でも今更笑ってあげられるほど、私は肝が太くない。だから、

 

「ごめんなさい」

「……許す。ちょっとだけ」

 

 そう言って一度鼻を鳴らすと、彼女は地べたに座って開脚。まずは私が押せ、ということらしい。

 

 ”許す”、”ちょっとだけ”。

 それにどういう意味があったのか、なんて考えてしまう。

 けれど、そんなことを考えるのは……きっと私の甘えなのだ。

 

 私も地べたに膝をついて―――――――コートの裾が地面との間に入ってる。邪魔のような、ありがたいような―――――――、彼女の背中を押した。彼女が身を倒していくのに、引っ掛かりは感じない。柔らかい体だ。どこも凝っていないし、だからストレッチなんて最初から必要ないだろうと感じた。

 なんとなく口に出して、

 

「柔らかいね」

 

 そう言うと、先生は身を起こしていく。私は押す力を抜いて、

 

「”改造”されて良かったことの一つ、かしらね」

 

 上体が起ききると、彼女は正面を向いたままそう言った。

 

「ふーん」

「もう一度」

 

 促されたので、もう一度押す。

 ……やっぱり、ストレッチしなくてもいいと思う。もうぺったりと地面にくっついてるほど。この行いの意味が分からなくて、でも多分、聞く権利はないと思った。

 また先生の体が起きていく。力を抜く。

 背筋がピンと伸びたところで、

 

「横は自分でやるから。後でまた押してちょうだいね」

 

 そう言って、今度は右に体を倒し始めた。私は左右の伸ばしが終わるまで待機。

 膝をついているのは正直疲れるから、私も一度座った。……なんとなく、背中合わせに。工廠の入り口の方向だ。

 

 特に気乗りしているわけではないけど、自分でも試しに一人で長座体前屈。

 コートの裾がやっぱりちょっと邪魔だけど……まぁ、昔から続けていたし、私も体は柔らかい。特に昔と違いは感じないと思う。……でももしかすると、少しだけ、もっと柔軟になったかもしれない。体質改善……と言えばいいんだろうか。元から良いのも更に良くしてくれるみたいだ。”改造”って不思議。

 

 でも結局この疑問に帰ってくる。

 なんで特に意味もなくこんなストレッチをしてるんだろう。

 

 そう思いながら足を開いて体を前に倒そうとすると、

 

「提督への報告、あなたも連れて行くから。……あら、自分でもやってるの?」

「え、うん」

 

 ”うん”とは言ったけど、それはストレッチについての方だったので改めて、

 

「私も、うん……行かなくちゃいけないよね」

「ちゃんと話を覚えてるのはよろしい。後はその場でちゃんと聞ければ合格、かしらね」

 

 …………さいですか。

 

 少し肌が暖かくなった気がする。

 ……多分、もう風を浴びていないからだ。気付くのが遅すぎる。

 そんなことを考えながら、体を前に倒していく。ゆっくりと、でもそのつもりが思った以上にスムーズに曲がっていくから、そのままぺたりと地面と胸がくっつく。顔は正面を向けたまま。

 すると先生は体を捻っていて……私と目が合う。先生は眉を緩めながら、

 

「楽しい?」

「いや、別に」

 

 突然聞かれたから、思わずそう答えてしまった。本当の話、別に楽しくはないし。

 でもなんでだろう、私の言葉を聞いて彼女は、

 

「そう。でもあなた、うん。やっぱり本当に分かりやすい」

 

 そう言って、笑った。

 私は、……なんだか、コートはもう脱ごうと思い始めていた。

 

 

 ●

 

 

 そうして、もう話すことはなくなった。

 けれど、実際話す必要はなかったと思う。

 責任者である早霜先生と一緒に、提督に報告に行く。その通達を受けた。それで十分だったわけだ。

 ストレッチは必要だったのか、という疑問はすっごくあるのだけれど、やっぱりそれは口にしないことにした。

 

 そして長座した早霜先生の背中を押して、一通りが終わった。

 

 先生は立ち上がって伸びをして、

 

「……じゃ、交代しましょう」

「え、別に私、そこまで疲れてないし」

 

 本当になんでストレッチなんだろうか。こんなに時間を掛けて。

 私が本当にいらない、って思っていると、早霜先生は……ああ、ちょっと憮然としている。無表情とはちょっと違う。それで少し低い声で、

 

「若いから?」

「関係ないでしょ」

 

 さっきの自分の年齢を理由にしたのは冗談なのに、なんでその真顔で聞いてくるのか。

 私が突き返すと、彼女は少しだけ眦を下げて、

 

「あら。若いうちからやっておくことに意味があるのよ」

「いや、昔からやってきてるから」

 

 そう言うと、今度は溜息を吐いて……何だろう。これは初めてのパターンか。

 

「……頑固は美徳だけど、ノリの悪さは悪徳、そう思わない?」

 

 声のトーンからして、非難か呆れかどちらかだろう。

 でもそういうことなら私は座らなければならない、ということは分かっていた。

 大人しく長座の体勢になると、

 

「じゃあ、押すわ」

 

 と言って――――――――いきなり容赦なく体を倒しに掛かってきた。

 幸い筋が痛くなるとかは全くなかったけれど、単純にびっくりして、

 

「……何してるの」

 

 抗議を口にしてみるけれど、

 

「あら、本当に柔らかい」

 

 なんでクスクス笑いをするのか分からない。

 

「そっちもそうだったけど」

「いいえ、やっぱり若いのねって」

「……」

 

 もう、これしか頭に浮かばない。

 さいですか。

 

「……悠長に何をやってるんですか!」

 

 突然、外から声が聞こえてきて、工廠の中に響き渡った。

 顔を上げると……明石だと分かった。工廠の主だ。

 家主の留守を良いことに遊んでいたことに怒ったんだろうか。

 でも早霜先生は悠然として、

 

「あら、クールダウンは重要だと思うけれど?」

「そんなことしてる場合じゃないんです!」

 

 明石はそのまま工廠の中に入ってきて、私達を睨む。

 ……怒っている以上に、顔色が悪い。何故だろう。いや、何故じゃない。つまり只事じゃないのだ。

 私と先生が同時に立ち上がる。そしてなんとなく隣を見た。

 

 先生の顔は硬く、それに浅く溜息を吐いた。

 

「……予感、的中かしら」

 

 独り言ではない、そう思ったから私も頷いた。

 それに答える形か、先生も一度頷いて、

 

「何があったのかしら」

「――――――――軍葬です。海軍上層部も軒並み出席されます。直ちに準備の上で、あなた達も出席して下さい」

 

 本当に、只事ではなかった。

 ……とりあえず、この服では出られないな。

 どうでもいいことなのか、大事なことなのか……そんなことを考えてしまった。

 



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彼女の本当を私は知らない

前話で”軍葬がある”というところで〆た訳なのですが、キャラクターが死んだのです。

お詫び申し上げますが、この作品は割とキャラクターが死ぬと思って下さい。
もとい、死んだと言うべきですか。

ともかく、前作『女提督は金剛だけを愛しすぎてる。』以来1年半以上詳細を棚上げにしていた”北伐艦隊の大敗”について。
海域との対応は”北海道北東沖”です。……実は偶然だったのですが。
そこでの損害が明らかになっていきます。


 軍葬。

 それは何をひねる必要もなく、誰かが死んだということを意味する。

 そして舞鶴鎮守府でやる以上、提督が死んだわけでなければ、それは艦娘への死出の餞として捧げられるものとして相違ない。

 

 ……なんて考えてもみたけれど、とりあえず仲間が死んだらしいのだ。

 

 艦娘の損耗率はそれほど高くない。

 というのも常人なら死ぬところでも、意外と生きているから、生き延びられるからである。

 まず手足が付け根から豪快にもげたら……それでも死にはしない。流石に首がもげたならば話は別――――――――いや、下半身と上半身が泣き別れというのも即死だろうな――――――――だけれど、艦娘はおおよそ”手足がもげて出血ショックで死ぬ”という人間の泣き所から解放されていると言っても過言ではない。”改造”中に、軍医になんとなく詳しく聞いておいたのだ。

 そして鎮守府に来てから風に聞いた話によると、手首が飛んだくらいでは撤退の直接的理由にはならないらしい。つまるところ、それのみの問題であれば、十分に継戦能力を残せているうちに入るのだ。

 そういえば、指紋認証をやり直す―――――おそらく利き手を失ったときだろう―――――のが少し億劫だ……というのは喫煙所で一度話題に出ていた。

 

 ちなみに喫煙所は寮の近くには一箇所だ。これはどの寮にとっても同じである。そして寮は固めて四棟が建っている。

 そう、喫煙所はまさに艦種を越えた交流の場なのである、不可抗力的に。皆その一箇所に集まるから。

 私がここに来た当初、交流を求めたのもそれが理由になっていた。

 

 いや、それはどうでもいい。四肢欠損の話だった。

 手首はともかく、これが足首ならば話は別。

 一応、艤装によって浮力は確保されるらしい。私自身は未だ体験していないことだけれど、艤装という重量物を背負った状態でも、一応浮いてはいられるということなのだ。ただし、死んだらその限りではないとも。例えとして適切かどうかはともかく、艦娘は死ぬまでは艦船だけれど、死んだら重荷を背負った死体……ということになるのだろうか。だから、船で言うならば舵が壊れた状態ということになる。これでは戦闘は難しい。一人そうなれば、まず戦力は二人分、あるいは二.五~三人分ダウンするだろう。

 船で言うならば曳航、艦娘の場合は―――――いや、実際曳航ではあるのか――――浮いてはいる体を、引き摺り回される。

 

 なので、艦娘が死ぬ時はまず五体満足ではないだろう。

 これはおそらく、間違いないこと。

 

 いや、それか手足があっても臓器、血液の大部分を失っている。ほぼ即死のレベルだ。いくらショックに強いとは言っても、その耐性は無限じゃない。最低限の血液すらも失えば、人間と同じく死にゆく運命なのは変わりない。

 

 ともかく、そうなると遺体が回収されるかと言う問題も立ちはだかる。

 かなり厳しいだろう。

 

 艦娘の死というのは、油断での即死でもなければ、まず差し迫った戦況の中で起きることのはず。

 そんな中、自分で浮いていることも出来ない死体を引きずり回り、かつ戦場から逃げおおせるということが可能だとは思えない。当事者たちは……虚しく悲しいだろう。

 

 しかし却って言えば、私達はこれからの軍葬で遺体と対面することはないのだ。

 ……誰かが執念で以て戦友の屍を持ち帰った、なんてことがなければ。

 いや、そうであったとしても相当ひどい死体になっているのかも。葬儀屋がどれだけ取り繕っても、公には出せない、それほどに。

 よって今回、私は艦娘の死体を見なくて済むということになる。

 

 幸いにしてか不幸にもなのか、とにかく艦娘としては新兵もいいところの私は艦娘が目の前で死ぬのを、あるいはその遺体を目の当たりしたことがない。

 けれど、それは十中八九”まだ”というだけであり、”決して”ではない。

 

 いつか、私は艦娘が死ぬ様を見るのだろう。

 その艦娘は、己自身でもありうるということも忘れてはいけない。

 死は、そう遠くないところにある。逃げ切れるかどうかは、能力、努力、直感、そして運次第だろう。

 私には、何がある?そう思うと、死の気配を背筋に感じるようだった。

 ……そうか、考えなくてはいけない一方で、取り憑かれてはならない。

 私には、まだ難しい。

 でも、私は能天気でいるつもりはなかった。

 

 ここに来た”島風”は、皆死んだのだから。

 

 

 ●

 

 

 私と早霜先生が、荷物を背負って寮に戻ってくる。久々の我が家……もとい、仮住まいというか。

 私はそもそも新入りだから、この建物にいささかの懐かしさは感じても、”Sweet”を付けるほど愛着は感じていなかった。というか、別の寮と間違えそうになることもあった。それものはず、仕方無いことだろう。

 

 だってそれは真新しい―――――舞鶴鎮守府が発足されてから作られたものだから当然だ―――――三階建て、鉄筋コンクリート造、趣は……驚くことに一切なし。聞く話によれば、他の艦種の寮も間取りを変えた程度で同じ雰囲気らしい。外観もほぼ同じだし。

 多分、かなり無機質なマンション・アパート……と言ったところだと思う。そう、どこに”Sweet”をつければいいんだ、という話。

 まぁ私は実際のマンションをほぼ知らないのだけれど。家は一軒家で、しかも木造だったから。数少ない友達の家も戸建てで、せいぜい鉄骨造……だったろうと思う。

 

 人の気配はほとんどなくて―――――元から分かりにくいのもあるけれど――――――物音がほんの少しだけ聞こえてくる程度だった。その音の主は……順当に考えて、私達と遠征に行った面子だろう。他はもう全て葬儀に参列している、あるいは準備に回っているはずだ。そう思って私達が三階へ向かって階段を登っていくと、二階に差し掛かったあたりで、そのフロアでドアの開閉音が聞こえた。もう身支度を整えたんだろう。私達は三階へとそのまま上がっていくと、

 

「何してたのよグズ、急ぎなさいよ!」

 

 私達の柔軟な――――――これは本当に馬鹿らしいことだけれど、物理的な話である―――――背中にそんな言葉を突き刺してきた。そいつは……確か、霞という名前だったと思う。

 御生憎様だが、私は彼女と話すことはまるでない。同じ艦隊にいたにも関わらず、だ。

 でも鋭い視線を送ってきた一人だということは記憶している。それも倍になって増えたうちの片方。私の暴挙を休んでいた艦娘二人に教えて、寝起きから目つきを鋭くさせた張本人だ。性格が良いとか、悪いとかは分からない。でも彼女とは決して仲良くはなれないと分かった。

 

 早霜先生は彼女の方へ軽く振り向いて、

 

「分かっているわ。急ぎますから」

 

 私は……振り向かなかった。

 先生が一度足を止めた一方で、私はそのまま階段を登っていく。

 ……私のほうが階段から遠い部屋に住んでいるからだ。

 

「でも、霞。……あなた、泣いているの?」

 

 そんな言葉を背中越しに受けた。

 ……泣いていた、って?

 

 

 ●

 

 

 階段を登りきると、……ギリギリで気が狂いそうなほど白くはない――――――窓からの明るい日差しが入ってくることはないからだ、特に曇りなら尚更――――――――そんな廊下が広がっている。

 右手側は窓、左手側にドアが並んでいる。寮室の窓は東に向いている。朝日が差し込んでくると目覚ましに都合がいいからだ。これは私がこの寮室で気に入っていることの一つだった。問題は同居人だ。

 

 彼女は主力の一人であり、名は”夕雲”と言った。早霜先生にとっては数いる姉妹艦の一人であり、その長姉にあたる艦娘だ。

 

 私は友好な関係を築く努力をしていたはずなのだけれど、すぐにその努力は無に帰した。

 ……彼女は相当の嫌煙家だったみたいだから。

 そして早霜先生から”かつて居た島風”のことを聞いてようやく今理解できているけれど、主力ということはそれなりの古株ということでもあり、”いまいましい島風”二人の目撃者である。

 彼女が煙草の匂い、過去の”島風”との遺恨、そのどちらかを許してくれればよかったのだけれど……両方重なった結果、彼女との関係は凍てついたものになった。

 関係はもはや同居人ではなかった。そう呼ぶには破綻しすぎていたのだ。彼女と話をしたのは、私がこの寮室にやってきた時から、私が初めて喫煙所に行って帰ってくるまで。最後の言葉は確か、

 

『その臭い、最低』

 

 その後、私はどういう意味かを問い掛けたりして、関係の改善のため……丸一日は粘ったと思う。

 そして理由を理解すると同時に、なんとなく諦めてしまった。

 

 そんな……ともかく苦手な部屋のドアを開けた。

 ……部屋の空気が冷たい。温さが残っている、ということもない。向こうの部屋から少しは漏れ出すはずの、暖房の痕跡……それがなかった。

 とっくに葬儀に行ったのか。それこそ朝方から準備に行くとか……。

 

 ともかく部屋に入る。

 入ってすぐ、玄関というにはささやかな土間に立つ。半畳もない広さ。タイル敷でもなくて、本当に打ちっぱなしのコンクリート。びっくりするくらいに素っ気ない。

 そして右手には、申し訳程度の下駄箱。とは言え、二人がかりでもこの下駄箱を使い切ることは出来ないだろう。履かない靴をやたら無駄に買うくらいしなければ。

 

 靴を脱いでフローリングの床に上がる。すぐ左手にはトイレがあって、右にはそれほど使われない部屋風呂。ちなみに、毎日使うのはどうやら私だけらしい。

 

 というのも、私以外の艦娘に部屋風呂が使われないのにはれっきとした理由がある。

 艦娘の大体は、寮から少し離れた位置にある大浴場へと行くのだ。

 そこまで遠くもないし、それに無料のランドリーもそこに併設されている。汚れ物が出たらその場で洗って、乾燥させて、それから帰る。

 私も最初の数日……だかは行ったけれど、実に快適なところだった。環境は。

 ……そのうちランドリーにしか行かなくなった。

 そう言えば確か、遊技場まで併設されている有様だったか。……特に興味はないけれど。

 

 そんなタダで使えるスーパー銭湯―――――いや、実際は分からない。銭湯に色々くっついているから”スーパーな”と思うだけで――――――だから、大体の艦娘はそこを選択する。裸の付き合いとランドリーでの付き合いで交流を深めて、より一層絆を育むというわけだ。

 

 ……実に男らしいシステムだと思う。誰が考えたかは知らないけれど。

 しかしながら実際、艦娘はみんな勇ましい。男性的な部分が強いのかもしれない。

 愛らしい、美しい容姿をしているけれど、中身は結局軍人なのだ。頭に”女性”は付くけど。……私も含めて、艦娘としての個性も付与されるにはしても、だ。

 

 沿岸の臭い潮風に洗われた体を水で流したかったけれど、どうやらそういうわけにもいかないらしい。何分急ぎなのだ。惜しまれるが、風呂は抜きだ。

 

 そして廊下―――――と言うにはあまりに短い。けれどそれ以外適当な言葉がない――――――と部屋を隔てるドアを開ける。

 

 ドアを手前側に開けると、殺風景な部屋。白い壁紙、そして飾り気の一切ない東窓。

 概ね左右対称……だと思う。右側が私のスペースだ。左側が夕雲。風呂場・トイレを合わせて長方形の中にコンパクトに収めるためか、ドアは夕雲のスペース側だ。

 窓際、壁にピッチリと付けてあるデスクが二つ。座ると背中合わせになる形。

 その手前、ベッドが置いてある。枕側とデスクの端はピッタリとくっつけられている。

 更にその手前は壁……もといささやかなクローゼットである。私の場合、スペースが余って仕方ない。

 

 旅の荷物だった背嚢二つを降ろしてベッドに放り投げて、私は手早くクローゼットを開ける。

 

 その中で私物と言えるのは、寝間着が2着、非番の日用の普段着がほんの少し。

 小さなカラーボックス二つに入っている。

 そして、ハンガーで吊るされているのが今も着ているこの忌々しい制服の替え3着、そしてお目当ての……軍人としての制服である。

 黒と白、それぞれ冬服と夏服。両方が礼服に相当するものだ。……一応、喪章もあるはず。

 帽子はハンガーを吊るすパイプの上に段があって、そこにぽつんと二つ置いてある。

 

 ただ実のところ、これを着て葬儀に出るのは多分私だけだろう。他は”服として”ちゃんとしているからだ。そしてそれが艦娘の制服である以上、文句の付け所はデザインにしかない。喪章を付ければ大丈夫。

 その文句の付け所が山のように積み上がるのが……私、”島風型”の制服だったとさ。

 一応艦娘の全員が軍人としての制服を貸与されたままなのだけれど、これまでもこれからも出番はほぼないだろう。これのお世話になるのは私と……後は、誰かいただろうか?

 ああ、”雪風”はダメだろう。あの格好も多分制服という言い訳が通用しない。……だから目立っても視線の5割はそっちに行くはずだ。

 

 まず手袋を外した。そして髪からリボンを解いて、それから制服を脱ぐ。セーラーまがいの何か、スカートになってないスカート、如何なものかと思う下着……そして膝上まである赤白ストライプの靴下……全部ぽいぽいとベッドの上に脱ぎ捨てていく。……全裸になってしまった。分かってはいたけれど、普通の着替えをするはずなのになんで裸にならなくちゃいけないんだ。下着姿ですらない。一つ溜息を吐いてから、カラーボックスから普通の下着、上下とストッキングを取り出して着用。ここまで来てようやく普通の人間である。

 ハンガーで吊るしてある冬制服をパイプから外して、ベッドに投げ捨てた方の制服を隅にまとめつつ、一旦ベッドに寝かせる。そしてカッターシャツ、ネクタイ、スカート、ベルトをそこから外す。そしてシャツのボタンを留め、スカートを履いてベルトして、あまりに久々のネクタイを首に締める。……クローゼットの扉には鏡が付いているから、それでチェックするけど……格好はそんなによろしくない。普段からしないことが上手くなるはずもない。

 

 それからPコート型の上着を着て、喪章を見つけられたからそれを左腕に付けて帽子を被る……そうしようと思ったけれど、そこまできてやっと、髪を結わなければならないことに気付いた。

 

 その術を少し考えたけれど、やはり艦娘になってから使っているヘアゴムしかないだろう。

 でも自分で髪を結んだことほとんどなんてなかった。艦娘になって伸びてからは後ろで雑に纏めるだけだったから。それに小さい頃、髪を長くしていた時はお母さんにやってもらっていたし、小3で髪をバッサリ切ってショートカットしてからはずっとそれで通してきたのだ。軍に入ったらなおさら短くなって都合が良かったし……でも艦娘になって髪が伸びたのだから、練習しておくべきだったんだろう。ともかくなんとか調べてお団子にしなければ。

 

 携帯でネットからお団子に纏める方法を探し出したけど……ダメだ。全くピンと来ない。理解できない。それにピンが必要だったりで、それは私が持っていない。つまり不可能。

 

 だから力なくベッドに座り込んで帽子を右隣りに置いて、

 

「どうしよう……」

 

 肩を落として俯く。でも諦めちゃだめだ。そう思って顔を上げる。

 すると自然、夕雲のベッドとデスクが目に入る。

 

 ……おかしい。

 そこにあるべきものがない。

 

 確かに、私も夕雲も、私物はそんなにはなかった。

 でも夕雲はお香を持っていた。それも線香ではなくて……いや、線香ではあったのか。仏事に使うものではないってだけで。彼女は何種類かお香を持っていた。それと、それを燃やす皿……と言えばいいんだろうか。灰を受ける皿でもあったと思う。それと、ライターじゃなくてチャッカマン。

 

 私の煙草の臭いがそんなにも気に食わないのか、私が部屋に入るたび、あるいは私がいるところに帰ってくるなり、度々お香を燃やしていた。……どうせ煙なんだから、同じ穴の狢だと少しだけ思っていた。

 私は彼女が焚くお香の香りが好きだったり、嫌いだったり、あるいは何も思わなかったりした。

 つまり、私の苦手な香りを調べて、そればかりを燃やしてやるほど陰険ではなかったのだと思う。

 ただ単純に煙草の臭いが心底嫌いなだけで。

 

 ……その、お香の皿がないのだ。

 脇に置いてあったはずの、お香も、チャッカマンも。

 

 いや、片付けたのかもしれない。

 ……本当に?

 

 そこまで考えて、もしかして……と行き着き、私は血の気が引いた。

 

 死んだのは夕雲だ。

 

 それを否定するために、あるいは確認するために、私は彼女のデスクの前に立って中身を検めた。

 ……ない。いや、彼女は私物をあまり持ち込んでいなかった。でもデスクにお香がないなら、ここにあるはず。

 

 私は、開けるべきではないと思ったけれど、義務感に駆られてクローゼットを開いた。彼女のクローゼットは壁に埋め込まれていなくて、大きめの家具としてあった。それも壁にぴったりと付けられている。

 

 深呼吸をして、一気に開ける。

 

 

 

 ……何も、なかった。

 

「死んだ?……夕雲が」

 

 見知った誰かが、死んだ。

 例えそれが良い関係ではなかったとしても、確かに、知っている人が死んだのだ。

 

 私はフラフラとしながら、自分のベッドまで後ずさり、そして、座った。

 

 死んだ。

 死んでしまった。

 

 悲しくないわけではない。でも悲しむ理由は、ただ死を悼む感情によるものであって、惜しむということではないのだ。同室であったとしても、彼女に世話になった覚えといえば……追い出されなかったことくらい。それで十分だろう、と言えるほど私は達観できない。

 

 とにもかくにも、彼女が死んだ。それは間違いないらしい。

 でも……同居人だって言うのに、どんな顔をして出ればいいのか……?

 そんなことで惑ってしまうような、そんな関係だったのだ。

 私は彼女を、何も知らない。

 ついに為人を”煙草嫌い”以外に知ることは出来なかったという、そのことを惜しむこともないのだろう。

 私は彼女を、本当に何も知らない。

 

 

 呆然としていると、ドアをノックされた。3回。

 その音に思わず体が固まった。

 

「島風?……入るわよ」

 

 早霜先生の声だった。私はそれに、

 

「……どうぞ」

 

 そう言った。聞こえるかどうか怪しいな、と思っていたけど、食い気味にドアが開いた。

 じゃあ許可を取らなくても良かったんじゃ。

 ともかく、早霜先生は入ってきた。

 ……顔面蒼白で目が赤い。それに瞼も腫れている。

 いや、まさか、そんな、もしかして、と思って口を開こうとしたら、

 

「……秋雲が死んだわ」

 

 ――――――――二人も、死んだ?



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スティール、コールド、ウィンド

連載開始からダラダラしすぎて季節が一周してしまいました。
前作と違ってこの体たらく。

ともかく、更新です。


 涙の跡も新しい早霜先生の顔は、張り詰めていた。

 その表情がどんなものに変わろうとしているのかは、誰が見たって分かる。

 

 けれど、先生は私の乱れた髪、帽子を見て、

 

「……髪、まとめられなかったのね」

 

 少し強張ったため息を吐いて、微笑んで、一度瞼を閉じた。すると、顔の引き攣れはなくなっていて、私の知っている先生の顔になった。

 ……私はなんだか、急にそわそわしてきて、

 

「髪、自分でまともに纏めたことないから……」

 

 早口にそう白状した。先生は短く笑いながら鼻をすすって、

 

「ゴムは?」

「ある、けど……」

 

 ゴムは右手に持ったままだったから、それをつまんでぶら下げて見せた。

 先生は、

 

「そう。一つあれば十分よ」

 

 そう言うと、流れるように靴を脱いで部屋に上がり込んで来て、私の右隣に腰を下ろした。

 そこにあった帽子は私の膝に置いて。

 その仕草に、心臓を甘噛みされたような感覚を覚えた。

 私は隣の先生をじっと見てしまって、間の抜けた―――――私にとっては引き絞った弦のような――――時間が一瞬流れて、

 

「……ベルトやネクタイみたいには出来ないわよ?」

「え……あ」

 

 呆けた私の右頬に左手で触れて、左を向けと軽く押し込んできた。

 

「ほら、あっち向いて」

「うん……」

 

 それに従って―――――というか当然のこととして―――――私は左に顔を向ける……それだけだとちょっと角度が足りなかったから、座り直して体を左に向けた。すると、すぐに髪に触れられる感覚が始まった。それが首筋を伝って、背筋を通り過ぎていく。

 慣れない感覚、母親ではない人から与えられる、初めての感覚に私は身震いして、

 

「……ん」

「くすぐったい……? ごめんなさいね」

「……ううん、ごめん」

「謝るようなことじゃないでしょう」

「そっちだって……」

 

 そうした短い言葉のやり取りの間にも、私の髪は手櫛で梳かされて整えられていく。引っかかる感覚はそんなにない。するりと指先が頭から髪先を往復して、その度に慣れない感覚が体を震わせる。

 

「……猫みたいね」

「飼ったこと、あるの?」

 

 ペット扱いされたことへの軽い憤懣を喉の奥に押し込めて、代わりに質問にして吐き出した。その言葉に、

 

「無いわ。野良とじゃれてたくらい」

「ふぅん……」

 

 ……それで会話は途切れた。

 そして、髪を解し終わった後は結びに掛かる。少し引っ張られながら、髪がくるくると巻かれていくのがわかった。

 

「……秋雲はね、いい子だったわ」

「?」

 

 唐突に話が始まった。……多分、話すことがそれくらいになったからだろう。だから、先生は故人となった同居人の話を始めることにした……のだと思う。私は黙って続きを待つ。

 

「それに、絵を描くのが好きな子だった」

「……水彩画、とか?」

「いいえ、漫画よ」

 

 さらさらとした音。それが私の髪と先生の指とで擦れる音に重なって聞こえた。先生の髪が、横に振った頭に揺られて服と触れ合った音だろう。

 

「私に見せてくれたほとんどはイラストだったけれどね。……漫画は、買えなかったって言ってたわ。家が母子家庭で貧乏だって……。だから漫画雑誌を立ち読みして、それこそ穴が空くくらい見て、目に焼き付けて……家でそれを思い出しながら練習、だったかしら」

「……」

「でもね、高校に入って彼女の友人達がいろいろ漫画を読ませてくれたって。それに、執念でイラストの技術を伸ばしていたからかしらね、高校生のときにはもうファンがいた。つまり、その友達をファンにつけていたのよ」

「……凄い絵描きさんだったんだ」

「そうね。部活は漫研だったらしいけれど、実質、彼女に投資するために友人一同が立ち上げたようなものだった。”貸す”って名目で、ね。おかげで参考に出来る漫画はたくさん読めて、いろいろなパターンの漫画を描けたって。イラストもたくさん描いた……」

 

 多分相槌はそんなに求められていないだろうから、そこからは黙っていることにした。

 意図して黙っていることに気付いているのかは分からないけれど、先生は続けて、

 

「申し訳程度に、その友人達も漫画作りを手伝っていたらしいけれど……話を作れなかった秋雲の代わりにネームを……ネームって分かる?本格的に絵を描く前に、何を描くのかをあらかじめ書き出しておく、って感じのやつだけれど……そういうのを作ってくれていたって。それを実際に漫画にするのが秋雲。最初、あの子って漫画で“何を描けばいいのか”自分自身よく分かってなかったって言うし」

 

 話の一方、私は髪をねじられる感覚に、少し戸惑っていた。髪を編むのとは違う、頭皮全体が突っ張るような。

 

「でも、そのうちあの子自身で話を作れるようになって、他人のネームや脚本はいらなくなった。けど、その友人達はずっとあの子を支援し続けた。手を変え品を変え……は過言かしら。普通に、文学やライトノベル、も貸し出してた。多分、“これを描いてみたい”とか、“こういうお話を考えてみたい”とか、そういうモチベーションやスキルの養成、漫画描きとしての下地作りを促したんじゃないかしら。……流石にこれはやり過ぎだと思ったけれど、デジタル作画環境を作って使わせてた、って友人もいたそうよ。“どうせ自分も使うし”って言って、遠慮なく使えって……聞けば、その子本当は活字のほうが好きだったらしいわ。それに、ネームが作れないから脚本で秋雲にストーリーを差し出していたくらいの。当然漫画だって好きだったみたいだけれどね」

 

 頭の後ろがちょっと重くなってきた気がして、首の据わりがちょっと良くない。私が首をよじると、

 

「ほら、じっとして」

「……はい」

 

 がっしりと後頭部を両手で掴まれて、”この位置で止めろ”って感じにしてきた。それに、話を聞いているのは良いけれど、会話をするなら対面であるべきだ。後ろから聞こえてくるだけというのは、少しくすぐったい。

 それを理解してはいないだろうし仕方ないけれど、先生は、

 

「続きだけれど……まぁ、あなたも分かるでしょ。これはファンと作家の関係とはちょっと違うって」

「え……熱心すぎるくらいのファン、でいいんじゃないの?」

 

 思い出話が急に会話になったから、私は面食らって気の利かない馬鹿らしい言葉を返してしまった。

 それに私が肩を縮こまらせると、先生は私の肩に手の平で柔らかく触れた。指は、そよ風のように曖昧に首筋を撫ぜた。力んでいた私は、その絹のような接触に、

 

「は……ぉぅ」

 

 ……なんか、声になった瞬間に飲み込もうとしたら、こんな呻きになってしまった。

 先生は、

 

「……あら? 感じちゃったの?」

 

 心なしかねっとりとした、ため息混じりの低い声色で、愉快そうに私を茶化す。

 というか、

 

「か」

「か?」

 

 感じちゃった?

 何を?

 ――――――――何も。

 ただ、首に触られてくすぐったいだけ。それにびっくりした、それだけ。

 そう声にしようとしたのに、喉がカチコチに固まって詰まっている。息も。

 私が固まっていると、今度は豪快に肩を掴んで揉みながら、

 

「冗談よ……ごめんなさい」

 

 普通の触られ方をされてようやく調子が戻ってきた私は、

 

「……なんの」

「でも、思ったとおりウブね、あなた。……けど、これからお葬式だって言うのに、こんな馬鹿な話するんじゃなかった……」

「本当……」

「馬鹿よね。私は、本当に馬鹿……」

 

 クスクス笑いだったけれど、どこか渇いていて……けれど涙で濡れているような、矛盾した印象。

 多分それは正しかった。先生は事実、一度深く溜息した。

 

「話を戻すわ。……あなたの言う通り、“熱心すぎるくらいのファン”というのは全く間違ってない。けれど、それは“ファン”という枠組みからしたら、些か以上に“やりすぎ”なのよ」

「……まぁ、それくらい熱心ってことなんでしょ」

「そう、それくらい熱心にクリエイターを支援する人々は、ファンという言い回しの枠を越えて―――――パトロン、ってことになるのよ」

「パトロン……」

 

 一応、言葉としては知っている。何故かいい意味で私は捉えていない。何故だろう。つまり、それはひどい言い方をすると、

 

「金蔓?」

「そうよ」

 

 私の悪ふざけみたいな回答に、先生は予想に反してそう採点した。

 驚いたまま呆けていると、先生は私の髪をつつくように弄り回しながら、

 

「――――――――あの子はね、それに耐えられなくなったのよ。吐き気すら催すほどに」

 

 私は、その意味があまり分からなかった。

 

 まぁ、他人の脛をかじっているという事実を考えると、心が穏やかじゃないというのも分からなくはない。

 それでも支援者は喉から手が出る程欲しいはず。そもそも当然のように必要だっただろう。

 なのに、彼女はそれを手放した……いや、拒んだ。

 私にはその選択が理解できない――――――――違う。

 私はその選択に至った心境を察することが出来ない。

 家柄が違う。夢の有無でも違う。

 差し詰め……彼女の立っている場所は分かっても、彼女の見ていたものが分からない。

 そうして答えあぐねていると、

 

「――――――――っ」

 

 声にする前に噛み潰したような―――――多分私でもそうなる―――――、子音の音だけが隙間風のように吹いて、消えた。

 それは、か行の言葉だっただろう。噛み潰す前に鳴ったのは、おそらくは、Kの音だった。

 か行の音で始まる何か。それは何だったんだろう、そう内心で推測しようとして、

 

「……はい、完成。鏡、見てみたら?」

「……あり、がとう」

 

 考え込んでいたから、反応が遅れて少し詰まった感じになった。

 確認を促されたので帽子を右手に持って立ち上がって、クローゼットの扉裏の鏡を覗き込む。

 見事に髪は纏められていて、正面からだとあのうざったい髪は見えない。後ろも気になるけれど……先生が見て問題ないと判断したんだから、構わない。

 

「うん、凄い……」

 

 もっと気の利いた言葉があると思ったんだけれど、私にはそれを用意できなかった。……先生の前だと、なんだかやたらと恥ずかしい気持ちになる。それを振り払うように、俯きながら帽子を被る。少し深すぎるくらいに。

 けれど、帽子はすっと浮いていく。目を右に流すと、先生の指先が後ろから伸びていて、

 

「駄目よ、そんなに詰め込むみたいに被っちゃ」

「……」

 

 ファッションチェックを受けるのは二度目だ。恥ずかしい。なんだか悔しくて今度は顔を上げた。

 お直しを受けた後の私をちゃんと見る。

 

 鏡の中の私は、……なんというか、ちゃんとしていた。少しだけ垢抜けていたというか―――――そりゃあ艦娘の顔は綺麗だし、私だってそういう風に変わった――――――今までの私より、”らしい”格好だった。

 

 でも、”らしい”のに。

 ”私らしく”というか――――それはなんだか御大層にして陳腐にすぎる――――、”私っぽく”はなかった。

 

 鏡の向こうを、うだうだした考えを透かして見ていると、

 

「決めた」

 

 後ろで衣擦れの音。とすん、という音は多分立ち上がった音。

 先生が決意表明―――――いや、”表明”というには中身が何もわからない――――したのが聞こえて、振り返る。

 

「何を?」

 

 すると、立っていた先生の顔。大粒の涙が伝って光っていた。

 ……私の髪を結んでいる間、ずっと泣いていたんだろう。涙を拭くこともせずに。

 私の視線に気付いたのか、先生は苦笑いしながら右手、その袖で顔を拭った。涙はなくなったけれども、目に差した赤みや、腫れた瞼はすぐに元に戻りはしない。

 私には……それに何かを言うことはしなかった。

 

「せっかくだから、私も着替えることにしたわ。そんなに時間は掛けないつもりだけれど……一人で行ける?」

「ううん、待つ」

 

 即、口からその返答が出た。

 だって……一人だけ身繕いの世話をしてもらって、それでハイさよなら、って言うのは……なんだか違うと思ったのだ。

 先生は私の言葉に何も訝ることもなく、いつもの無表情で手を一つ打ち鳴らし、

 

「ここで待つ?」

「ついていく」

「じゃあ、行きましょうか」

 

 クローゼットの前で立っている私の右肩をかすめて、先生はそろりと部屋を出ていく。靴はいい加減に履いて―――――というか踵を潰してしまっている―――――――、部屋の重いドアを開けて、廊下に出た。クローゼットを閉じて―――――ドアが閉じるのとほぼ同時だ―――――、玄関脇の下駄箱から礼服合わせのパンプスを取り出すと、それを突っかけて部屋を出る。……なんだ、私だって靴の踵を踏んでいる。つま先立ちのように立って潰さないようにしているけれど。

 そうしてドアを開けて、

 

「……あ、」

 

 少し、蹴躓きながらドアに寄り掛かる私が廊下に現れる。

 それを廊下の少し先で先生が振り返って、屈託ない、けれど密やかな笑みを私に放り投げる。

 

「……慌てん坊ね」

 

 ……強烈に恥ずかしくて、思わず二歩下がってドアを閉じた。ついでに靴の踵も踏んづけて。

 

 私は顔にものすごい勢いで血液が集まっていくのを感じながら、下駄箱の中から靴べらを探し出そうとする。けれど、普段の私がそんなものを使うことはなかったことに気付いて、

 

「……本当に、そうだ」

 

 先生の言った通りの人間なのだと、私はしみじみと実感しながら、身を屈める。

 なんでこんなに恥ずかしいんだろう。

 ……異常だ。生きてきて、こうまで恥ずかしかったことがあるだろうか?

 指で靴の縁を引っ張りながら、足をそこに収めた。

 立ち上がりながら、右頬に右手の甲を当てる。

 

「……あつい」

 

 手の冷たさや、冷えた空気が、少しだけすずしいと。

 そしてこんなに恥ずかしがることの馬鹿馬鹿しさが、笑えてきた。

 

 

 ●

 

 

 今度はきっちり靴を履いて部屋の外、廊下に出ると、先生は四部屋くらい向こう、私から見て右の方にいた。そこが先生の部屋なのだろう。

 

 私は慣れない靴をつかつかと鳴らしながら歩いて、その部屋の前に来る。

 

「それじゃ、私着替えるから。そこで待ってて」

「え」

 

 待たせるにしても、こんな寒々しい廊下で、なのだろうか。手をかけさせた私が言えることでもないのかもしれないけれど。

 そうしてボケッとしていると、先生は一度、ああ、と言って、

 

「……着替え、見られたくないの」

 

 そんな、今更のことを明言した。

 私がそれに納得がいかない顔をしていると、

 

「じゃあ、入っていいけれど。そのかわり、終わるまではこのドアの方を向いていること」

 

 先生はドアを開けて、つかつかと入っていった。私もそれに続いて玄関に入る。

 廊下よりはマシだけれど、冷たい空気が溜まった空間というのは当然寒々しい。どうにも。

 靴を脱いで床に上がった先生は、続いて上がろうとする私を右手で押し留めて、

 

「そこで待機」

「……はい」

 

 ”え”と言ってやっても良かったんだけれど、それは芸がないと思ってやめた。

 私はその場で回れ右する。ドアの方を向いていること、と言われたから。

 

「いい子」

 

 帽子越しに後ろから頭を撫でられた。……私は犬でも猫でもない。もちろん野良じゃないし。

 だからちょっと腹が立ったけれど、褒められたことに逆上するのはなんだかおかしな話。

 馬鹿にした言い方ではなかったし、厭味ったらしさはもちろんなかった。

 純粋な好意だ。好意は受け取るものだ。それも、なるだけ上手いこと。

 そして、今それは無言によって果たされるものだろう。

 

「じゃあ、待っていて」

 

 ドアを開けて、バタンと閉める音。

 ……すぐに着替えの音は始まった。乱暴にクローゼットが開く音。そして少し重いものがバサッとベッドの上に落ちる音。それが2回。

 そして、とすっ、と言うべきか、どすっ、と言うべきか微妙な音。多分ベッドに座ったんだと思う。

 それから、ごく軽いものがフローリングの上に放り投げられた音、それも2回。

 ……そこからは、ものすごい速さだった。

 

 次々と床に服が放り出される、わさわさとした音が続き、それが止むとパツンという音、カッターシャツとスカートと思しき衣擦れの音、ベルトのバックルが出したカチャッとした金属音、ズバッ、としか言いようのない音―――――多分ネクタイの音だろう――――――、それで最後にドアの開く音。

 

「髪は歩きながらやるわ」

 

 後ろへ振り返る。

 そこには、私の格好とほとんど遜色なく着こなしを決めた先生の姿があった。

 何か話をする間もなく、非常識な速度で準備が半ば終わってしまった。

 多分、合計で2分弱。異常だ。

 

「……速すぎない?」

「ラブホでギリギリまで粘る手段」

 

 ……さいですか。

 と考えて、私ってばそればっかりだな、と思い返す。けれど、いや、もう、そうとしか言いようがない。コメントがまるで思いつかないのだ。

 

「40秒とは行かないわね。普段着なら間違いなくフルコースで40秒だったんだけど」

「いや……そもそも普段着がランチで、礼服がフルコースなんでしょ」

「……確かにそうね」

 

 普段着がどんなもんかは知らないけれど、それは書き込み/掻っ込み時の簡素化されたメニューみたいなものだろう。それこそ、Tシャツとジーンズ、なにか羽織るもの……みたいな。食事に当てはめると、ご飯と味噌汁、他に一品。

 予想もしなかったことだけれど、先生は私の例え方に意外と驚き、そして深く納得したようで、

 

「……そう言われてみると。でも、この慌てっぷりを考えるとコンビニのおにぎりじゃない?遅刻寸前の」

「そこまで行ったらもう10秒チャージでしょ。おむすびですらなくて」

「そっちのほうが早いわね、確かに。じゃあ出ましょ。髪にもう2分よ。今度は立ち食い蕎麦ね」

 

 ……それは、髪の毛と麺を掛けているということなんだろうか?

 ふとそんな疑問がよぎった。本当にどうでもいい。例えに一貫性もないし。

 

 ともかく先生は帽子を脇に挟みつつ、ヘアゴムとピンを咥えてこっちに歩いてきた。

 ドアを開けて先に出る。

 先生が外に出るのを、ドアを開けたままにして待った。

 

 左肩越しに先生の方を覗き込むと、彼女は左手で下駄箱の右扉を勢いよく開けて……それから少し中を見詰めた。

 一息吐くと、パンプスを右手で引っ張り出して土間に叩きつけ、返す刀で靴べらも引き抜いて靴にあてがう。

 そして、歩くように右足を靴に滑り込ませ、踵を押し込む。靴べらを左手に持ち替えて左足も。用が済んだ靴べらはそのまま下駄箱に叩き込まれ、左足の軽い蹴りで下駄箱を閉じる。

 ……無駄に洗練された、日常において無駄な所作だった。これもまた確かに早業ではあるけれど、私にはそれの必要性が分からない。ただ、”なんと見事にまぁ”……と思わないこともないのも事実。

 

 歩き始めると、先生は髪をねじり始める。私は肩を並べて、ではなくて後ろにつく。

 歩幅を合わせやすいし、何より見ていて参考になると思ったのだ。

 しかしながら、大ボリュームの長い髪をいとも簡単に、ぐるぐると捻っていく様は早回しのようで上手く理解できない。

 私がそれに目を取られていると、

 

「そういえば」

「?」

 

 向けられた声に私は首を傾げてしまう。対面でない今、意味がないとはすぐに分かったけれど。

 だからやめてみると、続いてもう一言が来た。

 

「おにぎりじゃない?」

「何が」

「おにぎりはおにぎりでしょう」

 

 …………ああ、言いたいことはわかった。

 いわゆる言い回し、もとい表記ぶれみたいなものだ。

 

「どっちでもいいんじゃないの?私はおむすび派」

「でもコンビニのは”むすんだ”って感じはしないし、おにぎりじゃないかしら?多分、実際は握ってすらないのはともかくとして。ううん、機械で成形なら……やっぱりどちらかと言えば握ってるのかしら」

「だから、どっちでもいいでしょ……」

「納得が行かないのよ。でも、今する話でもなかったわ。……ごめんなさい」

「謝らなくても……」

 

 本当に、これから葬式ってのが全く信じられないような馬鹿話。

 ……先生は多分、馬鹿なのか、それとも人一倍悲しいかなんだろう。

 私と違って、―――――親しい人が死んだから当然かも知れない。それも互いを知り合うことの出来ただろう同居人だ――――他人のために泣くことが出来る人なのだから。

 

 だからだろうか。

 私が、もう少し涙もろい性格なら、と。もっと人情があったならと。

 心の片隅で、無い物ねだりをしている気がする。

 

 

 ●

 

 

 先生は有言実行、髪を2分前後くらいで―――――別に数えてるわけじゃないから曖昧だけれど―――――纏め終わった。今はちょうど、階段を降りているところ。もうすぐ一階だ。

 私にやってくれた纏め方と同じなのかは分からないけれど、多分自分の髪の毛の方が扱いやすいからなのだろう、と考えると、その速さは納得がいく。

 歩む速さも少し上がった。私は慣れない靴でごく短く小走りすると、彼女と肩を並べた。

 それを横目に見られて、ちょっとした微笑みを貰った。私は……目をそらすのは失礼だと思ったから――――照れているとか、そう思われるのが嫌だからじゃない――――――微笑み返してみた。

 なのに、

 

「そんなに照れなくてもいいと思うけれど」

 

 そう言われると、本当にそのとおりだと思えてしまう自分が嫌だ。

 早足になって、追い越そうとする自分がいるのも。

 二、三歩だけ。ほんの少し早足になっただけで、心のうちに収めた。そうだ。

 

 私がすぐに元の速さに戻ると、

 

「……霞が泣いていたのは、わかった?」

 

 先生が話を振ってくる。低いトーンで。

 それは知っている。先生が、霞に”なぜ?”と聞いた、それを耳にしたからだ。

 私がうなずくと、

 

「あの子の同居人も……死んだの」

 

 ――――――――え?

 

 階段を降りきって、止まる足音、自分の、その最後のコツンという音がいやに響いて聞こえる。

 階段の上まで、天井まで届いて、音が落ちてくるような。

 まるで、心臓の最後の鼓動のように、不吉で、不穏な。

 ……私はもう一度早足になって、また先生と並ぶ。そして冬の空気が吹き荒ぶ外に出る。

 

 一度大きく風に煽られて、それに帽子を取られまいと、私は頭を右手で押さえた。先生は左手で。

 空は見上げると、信じられないくらい、割れたコンクリートの屋根だった。

 さっきにましてひどい空模様。これで降ってこなかったなら、私は相当運がいいだろう。……その運が、今回死んだ艦娘達になかったのか、と思うと―――――こんな考えなど全く要領を得ていない―――――なぜか罪悪感が湧いてくる。

 ……それはともかくとして、

 

「……三人も……死んだ?」

 

 そう、これで亡くなったと分かっているのは三人。何人行ったか知らないけれど、ともかくとんでもない事態だと言うことは理解できている、そのつもり。

 

「いいえ……他にも、まだいるみたいで」

 

 ――――――――他にも?

 

 四人?

 五人?

 ……想像すらしたくない。

 六人艦隊ならほぼ全滅……いや、潰滅だ。完全なる敗北。

 

「遺影の数を数えないことには分からないけれど、――――――――今回北海道の方に行った面々は」

 

 ――――――――一体、何人が、行った?

 

「ほとんどが、戦死らしいと……」

 

 ――――――――一体、何人が、逝った?

 

 一体全体、どうして、何がどうなって……こんな、皆殺しのような目に遭った……?

 

 頭の中の奥の奥から、体中に向かって氷が駆け巡る。

 心臓も、耳も、喉も、膝も、全てがまるで凍りついたような、固まり、震える。

 

 ――――――――風が寒い。それだけのこと。

 

 一瞬止まった足を、無理やり動かした。

 体が潰れると思えるほどの風の中を、……なんでもないことだと、私は歩いていく。



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怒りをやるよ

前以てお願い申し上げます。

この投稿に、艦娘を貶める意図は一切ありません。
ですので、本文中に”誰”の発話か明示していない会話文がありますが、
可能な限り、”誰だとも”想像しないで下さい。
筆者も本投稿以降、”誰だった”と明示、あるいは仄めかすことは一切致しません。
ただ、気の迷いで過ちを犯してしまった”誰か”であると、
それだけに留めて頂きたく思います。

よろしくお願い致します。


 葬儀の会場に着くと、そこに艦娘―――――私のように礼服には着替えていない―――――が数十人。

 そしてその両脇を固めるように、それぞれ通路を挟んで、階級の高そうな人、あるいは高くなっていきそうな士官がずらりと座っていた。

 皆が座る椅子は、黒いということ以外とりわけ特徴のないパイプ椅子。

 

 その側で整列している儀仗隊は……どうやら、普通の儀仗隊。

 女性軍人のみで構成されている、というのはなかなかに珍しく思われる。やはり艦娘が“女性型”だから―――――艦娘は謎の存在、それがたまたま女性の姿をとっているだけというのが世間の共通認識だ―――――だろうか。

 ともかく艦娘を借り出して艤装で弔砲を撃たせる、というものではないらしかった。

 まぁそこまでやると大げさが過ぎる。それに報道がいるわけでもないから、アピールの必要性がないからだろう。

 というか、報道がいるほうがコトだろう。こんな大惨事には……。

 

 少し目線を逸した先には……音楽隊もいる。そちらはまぁ、別に男女比は……恣意的っぽい偏りはない。つまり普通に男が多い。吹奏楽楽器を構えた数十人が、直立不動で今か今かと出番を待っている。ほんの何曲かのため―――――国歌とかのことだ―――――にわざわざ冬の海近くに駆り出されるのは、まぁ……いつもご苦労さまです、としか。

 

 ……とまぁ、軍葬自体は慣れていないわけではない。普通の海兵だったころにはしばしば出ていたから。ただ艦娘の葬儀というのは、私が艦娘として新人ということもあって、当然はじめてのことだった。思ったより普通だな、と感じている。

 

 人の集まり、その向こうは祭壇が見える。ただ、“祭壇”で呼び方が合っているかは分からない。

 そこにおびただしい数と言っても差し支えない花が手向けられていて、それに紛れるように―――――いや、この葬儀の主役なのだから紛れるんじゃあやり過ぎじゃないか―――――遺影がいくつも並んでいる。

 数は……十。覚悟はしていた。都合、艦隊二つ分がほぼ皆殺しにされた……ことになる。

 その顔ぶれは、……まだ艦娘の名前をよく知らないから、ピンと来ない。

 

 ……啜り泣きが聞こえてくる。数人ではきかない、数十人くらいの……こらえた泣き声の重なり。

 秋雲……の顔は、どれなのかは分からなかった。けれど、あの中にいるんだろう。

 

 私と先生は足早に、着席している集団に近づいていく。

 少し身を低くしながら、列の埋まっていない右側から入って席に着いた。先生が先に歩いていたから当然先生が左側、私は右側だ。

 前と左の詰まり具合に反して、私は右と後ろがスカスカした感じだ。……当然だけれど、居心地は良くない。ただ、嫌われ者の”島風”としては、多分却ってこの方がいいのだろうと思う。私みたいなのがド真ん中に放り込まれてみろ、という話。きっと今以上に針の筵だったろう。左に先生がいるというのも、今の私には……少し気が楽だ。まだ話せる人だから。

 

「……なんであんたも着替えてるのよ」

「いいじゃない、たまには。こういう日よ」

 

 左隣で、先生と……霞が話している。

 流石にこの場だ、声はひそめているけれど……刺々しさはまるで衰えない。

 これは”その人”の性なのだろうか、”霞”の性なのだろうか?

 彼女を知らないし、彼女以外の”霞”も知らないから、それは全く分からない。

 

「そこの、”のろまなウサギ”に付き合ってやってたわけ?……ハ、おやさしいこと」

 

 霞は、多分わざと私に聞こえるよう、7音の貶しを吐き捨てつつ先生に食って掛かった。本当に気性の荒い人だ。

 ……私は、こういう人は心底苦手だ。

 人物像は……、

 勝ち気で、

 勇ましくて、

 多分思慮もそれなり、

 気心知れば情に篤く、

 ……しかしながら口悪しというところだろう。

 私はその”気心知れば”を乗り越えられそうにない。

 

 一方、常にどこ吹く風の先生―――――私はこちらの方がまだ好ましい――――――は、

 

「誰にでも分かる事実を言い当てて、楽しい?」

「ッ―――――、ちっ」

 

 喧嘩を売ってきた相手に、目線も合わせずにこの手慣れた返しだ。世にも稀に見るほどドギツイ舌打ち、それにも涼しい顔。

 ……皮肉を完全に無視して額面通り受け取ってやる。

 ついでに、こんな言いがかりを付けるナンセンスさも相手に思い知らせる、というところだろうか?

 言い回しが酷薄に過ぎると感じたけれど、少し怒っているのかもしれない。

 

 でも、口を挟みたいのは……そこは私の弁護まで手を回してくれるところじゃないの?

 ……と思って、自分がそう言える立場にないことを改めて確認する。

 たしかに、私は足が速い。でもそれだけで、他はダメだ。

 頭も良くはないし、協調性の面でも今回の遠征で問題が露呈。

 特に同じ遠征隊としてその割を食った彼女、霞は私に対する不信感を募らせていることだろう。

 

 ……それだけなら、まだいい。それは謂われある、紛れもない私の欠点だ。

 治そうと気を払うだけでいい。後ろめたさも付き合える。いずれ直していけばいい。いや、なるべく早く……。

 

「これで全員か」

 

 いつもの通りうじうじ考えている時、後ろから男性の―――――多分、テノールと言えば良いんだろう―――――声。それに肩が跳ねて、恐る恐る、左肩越しに振り返る。

 

「……提督」

 

 そこには、”あんまりまだ見慣れていないバージョン”の提督がいた。

 特に格好そのものは変わらないけれど……眼鏡がない。

 

「私と島風で最後、これで全員かと」

 

 隣の先生が、右肩越しに振り返りつつ、低い声で提督に答えてくれた。

 それに提督は、そうか、と前置き、

 

「では始めさせる」

 

 そう言って、仮面のような無表情で去っていった。そのまま着席している士官の左脇を通って、自分の席へと戻る。

 

 ……彼という人は、不気味そのものだ。慣れない私だからそう感じるのだろうか。

 親しみやすい時もあれば、冷酷なときもある。あるいはひたすらにふざけていたり。

 今はそのどれとも違う。

 人間ではないような、そう、ロボットのように無機質。

 ……今回のこの惨状にも、どこ吹く風どころか、完璧に冷静だ。

 彼から―――――”今の彼”というのが正しいのか?―――――情緒というものの発露は、全く感じられない。

 

 私が空恐ろしさに肩を縮こまらせていると、

 

『これより、戦没艦娘十名の葬儀を執り行います』

 

 提督の声だ。マイクを通した声。

 それに従い、再び啜り泣きが波のように盛り上がり、そして全員が立ち上がり終わると、少し凪いだように微かになる。

 

『全員、ご起立願います。前奏に引き続き、ご唱和ください。国歌斉唱』

 

 その言葉に一息分の空白が続き、国歌の一フレーズ目を音楽隊が演奏。

 しかしここが野外で風も吹き晒すせいか、生音なのにやけにロー・ファイに聞こえて……どこか物悲しい。

 そして斉唱が始まる。私も口を開いた。

 

 ……士官達のほぼ男声に、艦娘達の女声。

 やはり、響くこともなく風に流されて、まるで煙のように消えていくような。

 ……いつもどおりの軍葬で慣れている。今日はただ寒い日だったというだけで、何も代わり映えしない。

 

 斉唱が終わると、嗚咽がまた押し寄せた。

 

『着席下さい』

 

 パイプ椅子の軋みと服と座面・背もたれの擦れる音が幾重にも重なり、それなりの騒音になった。厳粛な場にふさわしい、そういう音ではあるけれど。

 

『――――――――戦没艦娘の名簿を読み上げます』

 

 名簿か。その中には実際に、『駆逐艦 夕雲型 秋雲』と名前があるはずだ。

 ……いや、”秋雲”は本当に夕雲型だったっけ?それとも、陽炎型?

 まぁいい、今から読み上げられることだと納得し、私は努めて耳を澄ます。

 

『戦艦艦娘、金剛型、金剛』

 

 金剛。……多分、茶髪のあの人だろうか。

 この人は騒がしかった気がする。周りがそうなのもあるけれど、本人も喧しかった。

 仲間に囲まれることも多かったはずだ。

 この鎮守府のボス格……だったのだろうか。嗚咽も一層高くなるばかりだ。

 

『軽巡洋艦艦娘、川内型、川内』

 

 川内。この人は……よくわからない。けれど、姉妹艦の他二人を知っているから消去法でわかった。

 周りの様子は……金剛の名前を聞いて感極まったのがそのまま続いている。

 

『軽巡洋艦艦娘、川内型、神通』

 

 神通。川内とは姉妹艦か。この人は分かる。

 ……ごく短い間、二三日だったけれど、着任直後の訓練で世話を焼いてくれた人だった。

 温和そうに見えて厳し目な人、という印象だった。

 

『軽巡洋艦艦娘、川内型、那珂』

 

 那珂。一人称が”那珂ちゃん”で、食堂でやけに騒がしかったのを覚えている。

 そして、それと似たような格好、顔立ちなのが川内、神通。姉妹艦だ。1シリーズ分の艦娘がまとめて戦死したということだ。……あまりに、むごい。

 

『軽巡洋艦艦娘、長良型、五十鈴』

 

 五十鈴。この人は……会った覚えがない。すれ違うくらいはしているのかも。写真のどれなのかは……また消去法だけど、駆逐艦っぽくなく、かつ川内型ではない……から、黒髪でツインテールの人か。やっぱり覚えがない。

 

『駆逐艦艦娘、白露型、夕立』

 

 夕立。彼女もまぁ目立つといえば目立っていたか。同じ寮に住んでいるから、すれ違ったことがある。会釈程度の付き合いだ。食堂とか賑やかなところでは……”ぽい”が語尾に付く独特の話し方をしていたっけ。

 

『駆逐艦艦娘、朝潮型、朝潮』

 

 朝潮。……私の二つ隣りにいる、霞の姉妹艦。長姉にあたる。霞は嗚咽を噛み殺そうとしているけれど、それでも悲痛な呻きが漏れている。多分、彼女が朝潮の同居人だったんだろう。

 私はこの人については本当に何も知らない。少なくとも、喫煙者ではないということくらいしか。

 すれ違う程度だったし。ただ律儀に会釈はしてくれたはず。挨拶の声を交わすことは、ついになかったけれど。

 

『駆逐艦艦娘、陽炎型、不知火』

 

 不知火。目つきがキツい駆逐艦娘だから、印象に残っている。喫煙所の常連だった。そして制服は私の憧れ。記憶の中では、常に折り目正しく厳格……と言った人物。可愛げとか、愛想とかは無かった。知る人ぞ知る内面があったのかもしれない。最早私は知ることが出来ないけれど。

 

『駆逐艦艦娘、陽炎型、秋雲』

 

 そして、件の秋雲。あとは二択だったから、どれが秋雲の顔かは分かる。陽炎型と夕雲型が曖昧な彼女だけれど、実際は陽炎型。でも制服は夕雲型だ。薄めの茶髪と……よく見れば、泣きボクロがある。

 

『駆逐艦艦娘、夕雲型、夕雲』

 

 最後に夕雲。私の元同居人。そして、嫌煙者。お香好き。

 ……私を、一応追い出さないでくれた人。

 何も知ることが出来なかった人。

 知り合うことのないままに”さよなら”をしてしまった人。

 

 ……全員の名前が読み上げられ終わった。

 やはり”秋雲”は陽炎型だった……いや、そんなことに感心するなんて、葬式にふさわしい心情なんかじゃあない。

 

 ……儀仗隊が前に出てくる。

 号令が掛かる。それによどみなく、ビシッと所作が為されていく。

 

 ……本当に情けない話なんだけれど、私はこの号令が何を言っているか聞き取れない。

 一兵卒だったころの私には、儀仗隊のお役目は回ってこなかった。一度も。

 基本的には男子の仕事、ということもあるだろう。

 このように艦娘の葬儀の儀仗隊は特別に女性のみで編成、ということであっても、私にはついに回ってこなかった。

 

 それにしても、今回は女性が号令しているから、いつもよりは聞き取りやすいはず、なんだけど……風のせいだろうか。しかも声が裏返るほどに張り上げられているのもあるだろう。アレだ、剣道とかの試合で……奇声を上げながら打ち掛かるというか、そういうのに似ている気がする。

 

『拝礼を行います。起立、脱帽を願います』

 

 起立を命じられたので立つ。帽子も取って、前に持つ。

 

『拝礼、及び黙祷』

 

 楽器隊が追悼の旋律を鳴らす。曲名は……分からない。

 とりあえず、頭を垂れて黙祷する。

 

『拝礼を終わります』

 

 それを聞いて、頭を上げる。帽子はまだだ。

 

『戦没艦娘に追悼の意を表し、弔銃を行います』

 

 続く、その提督のアナウンスに続いて、

 

「弔銃用意!」

 

 この号令は流石に聞き取れた。それに少し間を空けて、

 

「撃てェ!」

 

 一発。

 それを合図に楽器隊が勇ましい音楽を鳴らし始める。確か、『命を捨てて』……だったっけ?

 式典の決まりごとはあまり具体的には知らない。軍歌にもさほど親しむ気が無いし。

 

「用ゥ意、撃てェ!」

 

 二発。

 

「用ゥ意―――――撃てェぃ!」

 

 三発。

 

『ご着席願います』

 

 また提督の声だ。

 それに従ってまた着席。

 儀仗隊は、号令に従って引っ込んでいった。……私の右側を通るのが見えた。

 ……皆、年若い女の子だった。

 変な勘ぐりだと思うけれど……彼女たちはもしかすると、艦娘への改造候補なのかもしれない。

 何も知らないだろう彼女達は……どう思っているのだろう。私達のことを。

 私も改造のお声を蹴っていた―――――そのつもりは全くなかったけれど―――――ならば、あの場にいたのかもしれない。

 

 ……また演奏が始まった。

『軍艦マーチ』だ。……ぴったりすぎて、嫌味なほどだ。本当に。

 私達は人型の軍艦だから。人じゃない。

 

 そして『軍艦』に繋いで『海ゆかば』。マーチとして一緒に演奏するのが慣例、というか定形。

 これは知っていた。有名な曲だし、親しみ深いメロディだ。

 でもやっぱり、こんな寒々しいところで楽しげな旋律が鳴っても、なんだかなぁ、と思う。

 

 ……無駄に考えにふけるのは、私の悪い癖だ。そう分かっていてもやめられない。

 やっぱり、考えてしまう。うつむいて。寝ているようには見られたくないけれど。やめられない。

 

 これは、仲間を悼む式典だ。そして不謹慎かもしれないけれど……私は、”明日は我が身”と思った。

 沈んだ仲間を哀れに思う。”お悔やみ申し上げる”程度なら、できる。

 けれどそれらと同じくらい、私は……死にたくないと、情けないことにそう思ってしまった。

 

 でも軍人なんて、結局は”誰かの代わりに死ぬ”のが仕事だ。”誰かの代わりに殺す”のもあった。

 その点、今の時代は半分ほど幸いなのか、それとも不幸なのだろうか。

 今日において、”人間同士の紛争”はほぼ全て収拾されている。

 深海棲艦の登場から間もなく、人殺しの戦争はやむなしと閉幕したのだ。

 

 まぁ、戦争が生き物であるということをある程度知っているつもりの私からすると、そう簡単に戦争が終わるっていうのか、と思わなくもなかった。けれど、大国がひたすら介入して回ったらしい。アメリカ、ロシアも軍事的緊張を解いて、半ば自分たちがけしかけただろう小国らを全力で止めに入った。

 

 ……今や世界の覇は競う場ではなくなった。各国がなすべきは、世界への奉仕だ。

 深海棲艦という脅威から、世界を守護していくこと。

 

 しかし、いや……どうだろう。とっくに、”この戦争が終わること”を視野に入れた駆け引きが始まっているのかもしれない。多分……戦後にイニシアチブ、”ナプキンを取る”―――――私はこの言い回しが好きだ―――――のは、”この世界を守るのに最も貢献した国”だ。となると、現在はこの日本が深海棲艦との戦いを主導しているわけで、終戦すれば戦勝国となる……?

 

 ……ちょっと待った。この日本は独力でこの戦争を戦っているわけではない。世界各国からの人員・資金・技術提供を受け、その力でこの戦争の大部分を”代行”しているに過ぎないのだ。

 

 この日本は深海棲艦出現と時を同じくし、隣国からの侵略―――――多分、”あちら側の陣営”が強引に自分達側にこの国を組み込もうとした?でも強引が過ぎる―――――を受け、在日米軍と協働して反撃。勝利して講話、賠償金を勝ち取った。

 ちなみにこの戦争は、”不幸な行き違いによる悲劇だった”と総括されている。全く笑えない。

 

 この、半年と少しの戦争の中の生活は無性になにか怖くて―――――結局東京に戦火が及ばなかったとしても―――――、受験勉強に身が入らなかったのを覚えている。

 そして……大学に落ちたから、もっと笑えない。

 

 それからしばらくして、艦娘の”誰か”―――――未だに”誰”だったのかは発表されていない―――――が艦娘代表として緊急の国連総会に出席した。

 そこで”渡米の過程においての太平洋航路の一部回復”という、デモンストレーションとしてはあまりに暴力的な功績を引っさげて交渉―――――いや、もうその余地などなかっただろう―――――を行い、全世界から対深海棲艦の戦争を委任されたのである。

 そのバックアップを行うのが、この日本。その海軍だ。……という建前。実際はバックアップ役じゃなく、主体そのもの。

 

 これ以降、艦娘の本拠地である日本には莫大なカネや資源が流れ込んでいる。

 戦災からの復興は猛スピードで進み、むしろ豊かになりつつあるほど。

 

 ……ただ、貧困層などへの福祉にまで完全に手が回っているかと言われると、ノーだと思う。

 防衛費があまりに重すぎるか、あるいは提供された資金は“そこ”に回せと決められているのかもしれない。

 一応先進国であるこの国、そこのスラムやら何やらのためだけにカネを注いでくれるほど、世界は甘くないのか……。

 

 とまぁ、そういう話なら……最終的にこの日本主導で戦争を終結まで持ち込んだところで、今度はこの国にどれだけの助けをもたらしたか……そこで国の度量が測られ、最高位につけた国が”ナプキンを取る”……のか?

 

 だとすれば、今のこの国の立場はまさに”神輿”。

 神輿の担ぎ手として優れたものが世界に発言力を強く持つ、と。

 

 日本が神輿でしか無いなら……この戦争自体、まるでお祭りのようだ。

 笑えないを通り越して苦笑いになりそう。

 

 と……ここまで考えたは良いものの、残念ながら私は政治がさっぱり分からない。

 もっと複雑な思惑が働いているに違いないのに。

 つまり、私はここまでややこしく考えて、多分答えはハズしている……のだろう。

 

 ともかく。

 今や軍人の仕事は、ただ”深海棲艦と戦うこと”だ。

 各国の陸軍は冷や飯を食っているはず。

 ……あるいは、深海棲艦の地上侵攻に備えて営々と備えを進めているか、だ。

 私は多分前者だと思う。だって、この国はそうだなと感じるから。

 そう考えると……行くなら陸軍にしてくれ、という両親の意向を蹴飛ばしてよかったと思える。

 世間体だって良い。

 

 他にも、陸軍から海軍に引き抜かれる士官も少なくない……という話も聞いた。これは私が一兵卒だった頃に聞いた噂だけれど、事実だろう。実際、この舞鶴の提督は陸軍出身らしい。肩書は、陸軍大学校主席とのこと。まだ20代だけれど大佐の地位にある。極めて優秀だ。……人間性に関しては、いかがかと思うところがあるのだけれど。”人が変わりすぎる”から。

 

「島風」

「え」

「……考え事?」

 

 自分の世界から帰って来て、その声に顔を向ける。

 左を、そしてそこに制服の腕があったから、ちょっと上を向いた。

 先生は立っていた。

 

「……ごめん」

「別に謝らなくていいわよ。物思いに耽ることなんて、こんな時だもの……あって然るべきよ」

 

 ……先生が思っているようなのとは違う、とは言えなかった。

 ともかく、私もつられて―――――と言うには遅すぎるか―――――立ち上がって、先生と肩を並べる。

 少し周りを見回すと、士官の群れはいなくなっていた。

 代わりに、艦娘達が続々と立ち上がって、祭壇の前に向かっている。

 

「これは……」

「聞こえなかった?……提督が、艦娘の皆にって……手を合わせる時間を作ってくれたの。行きましょう」

「うん……」

 

 霞はもう立ち上がって、祭壇の方に向かっていた。先生が列の左へ歩くのに付いていく。

 そうして椅子の並びから抜け出て、祭壇へと歩いていく。

 

 ……私は、誰に手を合わせればいいのだろう。

 馬鹿か、私は。

 まず同居人に手を合わせるべきに決まっている。短い付き合いだった、同居人に。

 

 遺影の並びの、下段、左から二番目に夕雲の顔があった。

 その前に向かって歩く。先生はその隣、一番左の秋雲の前に。

 

 夕雲の遺影の真ん前に行くにはちょっと人が混み合いすぎていたから、少し手前で頭を下げて、手を合わせた。

 

 ……私は、本当に薄情者だ。本当に。

 仮にも一緒に暮らしていたのに。涙の、一つくらい、出てもいいはずなのに。

 私は、本当に”お悔やみ申し上げる”くらいしか出来ないっていうのか。

 

 そうしていると、

 

「……何よ、その格好」

 

 誰の声かは分からない。

 

「こんな時だけいい子ぶって……」

 

 ……私のこと?

 

「またあなたが」

 

 ……頭を垂れたまま、振り返れない。

 

「―――――――代わりに死ねばよかったのに」

 

 背中を突き刺されたような、

 

「っ―――――――」

 

 ……刺さっていない。

 何も刺さってなんかいない。

 でも、

 私の胸が、穴が空いたように、冷たい。

 

 代わりに私の目は熱くなって、ああ、泣くのか、私。

 こんな、”死ね”と言われたくらいで。

 情けない。

 本当に、

 

「ごめん、なさい……」

 

 情けなくて、

 膝から、力が抜けていく―――――――

 

「ごめんなさい……」

 

 崩れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「謝るな」

「……え?」

 

 ……うずくまりそうになった私に、誰かが肩を貸した。

 熱い体が。……炎のように、熱い。

 誰だろうと思って、声の主を覗き込んだ。こんな声、聞いたこと無い。

 それは、

 

「……先、生……?」

「謝るな」

 

 見たこともないような、恐ろしい形相の、先生がそこにいて、

 彼女の体から、なによりその左目から、なぜだろう……黒い光か火としか言いようがない、そういうものが漏れ出していた。

 

「立て」

「へ……」

「っ―――――――立て!」

 

 強引に懐に体を入れられて、私は立たされた。

 それから胸ぐらを掴まれて、顔を引き寄せられて、黒い炎が目の前で、

 

「お前は、自分が死んでいいとか、死んでも思うな……!」

 

 私の知らない先生が、そこにいた。

 涙で視界が歪んでいるからだけじゃない。そこには別の人がいた。

 そして、私に怒鳴っている。さっきの、海の上で叱ってきたときとは違う人。

 何より、熱い。あまりにも。

 自らの身を焼くほどの気炎を声にのせて、私を打ち据えた。

 自分の力で立てなくなった私を、声の圧力が、魔力が、立ったままに固めていく。

 

 彼女は私に言葉の魔法が掛かったのを見届けると、視線を外した。

 そのまま私の視界の、右端に遠ざかっていく。

 

「出ろ」

 

 地鳴りのような声。

 

「出て来い」

 

 空気に罅を入れるほどの声。

 

「誰がこの子に”代わりに死ね”と言った!?―――――出ろ!」

 

 怒りは頂点。

 まるで火を焚いているように、この場そのものが熱くなる。

 目の端にいる、黒い火が、先生の体が一層強く燃えているのだ。

 

 ……イメージじゃない。本当に、私にはそれが見えている……。

 私は初めて、こんなにも力ある言葉を目にしている……。

 

 もはや、私の心に刺し傷は感じない。

 ただ、この怒りの激しさが……眩しいだけだ。まっすぐ見れないほどに。

 

 そう思っているうちに、炎は残像もなく消えた。次の瞬間には、

 地鳴り。

 虎のような咆哮。

 何かがぶつかる音。

 潰れた悲鳴、遠ざかり。

 ……椅子が十数個倒れた、厭な音。

 艦娘達の困惑と悲鳴。

 ざわめき。

 

 ざわめき。

 

 ざわめき。

 

 

 

 遠くの、ざわめき。

 

 

私は、立ち尽くしてその全てを聞いていただけだった。

 一人、どこか遠い場所にいるみたいに。

 

 

 ●

 

「島風」

「……え」

 

 ……まだ呆けていた。

 けれど背中から先生の……普段の声が聞こえて、私に掛かった魔法は解けた。

 だからだろうか、振り返るだけなのに……足がもつれて転びそうになる。

 まだ自分の足で立てそうにないくらいに、私は……弱りきっていた。

 よろけながらようやく先生の方へ向き直ると、

 

「島風……」

 

 いきなり、抱き寄せられた。

 

 今更だけれど……先生の体は小さいということに、初めて気がついた。

 私より、ずっと小さかった。

 私の背が少し高めだということを差し引いても、それでもなお小さい……。

 

 立ち上っていた気迫はもう消え失せて、今はむしろ、少し生気が薄れているような気さえする。

 怒りを搾り切ったかのように、今は穏やかで……違う、砂漠のような”さびしさ”を感じる。

 先生は、少し枯れた声で私の左耳に囁いた。

 

「いい?……あなたは、何も謝ることなんて無いの。彼女達の死に関して、あなたが負うべき責任なんて何も無い。あるって言ったら、それこそ承知しない……」

 

 私を守るように背中を撫でてくれるのが、とても暖かい。

 言葉の刺さった、背中の傷を、慈しむようにさすってくれた。

 私はなぜか、

 

「そしたら、もう一度、怒るの……?」

「いくらでもよ……」

 

 ……それを聞いたのは、恐れからじゃなかった。

 ただ、どうにも……さびしさを感じてならないのだ。

 彼女の、この尊い怒りが……どうしても悲しいものに思えてならない。

 

 何故怒りを燃やすのか。

 何故その身を怒りの火に焚べてまで、私なんかを守ってくれたのか。

 

 私は分からなかった……。

 私を守る理由が、分からない……。

 分からなくて、つらいと……。

 申し訳ないと、情けないと、こんなにも……。

 

「うっ、うぅ……」

 

 本当に、なんで私は泣いているんだろう。

 泣くなと思っても、この温もりがそうさせてくれない。

 

「泣きなさい」

「泣、かな、っい」

 

 強がりを言ってみても、

 

「泣きなさい……いいから」

 

 もっと強く抱きしめられて、鼓動まで伝えられて―――――もう堪えられなかった。

 

 葬式で泣くのは、自分のためじゃいけない。

 ダメなのに、浅ましくも……自分のために泣いている。

 

 私はこの小さな体に縋って、

 いつぶりにだろう、赤ん坊のように……泣きわめいた。

 

 



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B面「メンヘラ那珂ちゃんと愉快な仲間たち2017(仮称)」
白昼夢色


さん、ハイ

「またお前か」

このB面ですが、筆者前作「女提督は金剛だけを愛しすぎてる。」の直接的な続編にあたるものです。特に番外編-2の続編です。
最低でも番外編-2だけでも読んでいただければ、大体登場するキャラの把握は出来るかと思います。

2019/04/03
裁判のカメラ規制について考証し直しました。
那珂の父親個人のツテと司法への”お願い”で行われた、と直しています。


2018/09/28
四十九日が明けていることので明文化しました。
それと矛盾するので、「禁酒してるので」を削りました。

2019/07/01
那珂ちゃんの身分と軍人の副業について重大な考証漏れがありました。
大変インチキ臭い設定で申し訳ありませんが、以下の通りです。
Q.君たちいつまで軍にいるつもりだい?フハハハ!
 退職金も軍人年金も大して出せないし、今のうちに自分でセカンドキャリアを形成して、
 それで国民年金受給までの生計を立ててくれたまえ!君たちなら出来る!
A.(仕事がキツすぎて)無理じゃい!そんなら資格取得でどうにかするわい!
……制度上OKだけど物理的に困難、みたいな感じです。国家公務員では軍人だけOK。
西側諸国の風潮を反映してるつもりなんだと思います。半端なことしやがって……。
また、このことは自明のこととするため本文にはあんまり反映しません。

他、那珂ちゃんがちょっと自分の状況やら世間の情勢を把握しすぎていました。
後の展開で差し障るので改訂しています。


 覚悟はしていたけれど、それは唐突だった。

 

「……マジですか。青森市で復活ミニライブ……あの、むつ市じゃ……交通の便悪い、いやまぁそうですけど……ああ、はい、わかりました……やります」

 

 私の現役復帰が、通達された。

 

 

 ●

 

 

 私の名前は、那珂。今のところ、そして当面の間。

 元々あった名前の方は看板を下ろして封印中……だったはずなのだけれど、そうもいかなくなったらしい。

 

「ついに来たかー……」

 

 今は真っ昼間、実のところ寝ていなければならない時間帯。昨晩も夜間戦闘に従事していた。それで次の夜の食堂での演奏時間、その次の出撃に備えて体力を回復する……はずだった。

 けれど、マナーモードにするのを忘れていた携帯電話がいきなり鳴り出して、飛び起きた私は押取り刀で通話ボタンをタッチ。その前に誰から掛かってきたかくらい確認すればよかったんだけれど、寝起き・焦り・そそっかしいの三段重ねのせいで、私はわけも分からず電話に出ることになったのである。

 

 電話の主はやけに懐かしい声。私のバンドのプロデューサーからだった。懐かしいと言っても数ヶ月前の裁判の時には彼は出てきていて、二言三言は話した。その後のバンドメンバーとの飲み会には出てきていなかったから、まともには話していない。そのせいだと思う。

 

 さて。

 封印中の本名を引っ張り出して、その人間として振る舞うことが求められた理由は、私をこの夏に現役復帰させるというからだ。

 

 裁判が終わってすぐ、マネージャーから速報でバンドの活動再開の連絡が来たけれど、対外的・内部的にも具体的な動きは無かった。いつになるか分からない復帰の日を恐れて、私はリハビリに日々励んでいた。そのおかげで得たものは大きい。新しい音楽仲間と日々演奏を披露できる場所だ。と言うものの、ジャンルはロックじゃない。

 

 新しい音楽仲間というのは、五十鈴さんと上姉ちゃんの川内。

 彼女達と私のジャンルはまるっきり違っていて、そこで擦り合わせるのではなく適当な落とし所を作ったところ、バンドが出来上がった。ジャンルはジャズだ。クラシックピアニスト・初心者ベーシスト・ハードコアドラマーの3人という凸凹トリオだけれど、私達はなんだか上手くやっていた。音楽性の食い違いで仲違いとかは、お互いがお互いの本領に踏み込んでいないから起きていない。そもそもお遊びバンドなのだ。組んだ理由も適当なのだし。

 

 ・私が基礎練習をやっていた

 ↓

 ・五十鈴さんがスネアの音色だけで私の正体を看破した

 ↓

 ・一緒に演奏してみようかという話になった

 ↓

 ・上姉ちゃんが適当に乗り込んできた

 

 こんなものである。その上、組んでからなし崩しにジャズトリオに。何をやるのかも決めていなかった結果だ。ともかく、私達は警備府の食堂で夕食後に演奏するようになった。評判は悪くないと思う。プロが二人もいるし、上姉ちゃんは天才的な成長曲線を描いている。まったく卑怯だ。

 

 で、そんな中で私についに復帰の日が告げられた。2017年の8月19日だそうだ。お盆は外して、その次の週。そういえばお盆……お盆も世の中休みだ。特に実家に帰るという風習が多いから、青森だろうと流石に交通が混み合う。そうすると交通の問題で客足が伸び悩む恐れもあるってことかな。……元々会社勤めとは縁がなかったから関係ないけど、お盆かぁ。私にはやっぱり関係ない。……関係ない?

 

「……んん?」

 

 私の仕事、艦娘。軍人みたいなもの。世間のお休みとは関係ない。つまり、私が外に出る日についても全く関係が無い、というか……、

 

「やっば!」

 

 そうだ、外に出るんだ。出なきゃいけない!出ちゃいけないのにだ!裁判の時は司法の力に親が折れ、親の力に軍と提督が折れ、と”力”というどうしようもないものによって外に出ることになったけれども、今回は違う。事務所の力に軍が折れることはまずない。……いや、待った。ここには有給休暇というものがなかったっけ?それと外出申請というものも。良く考えよう。前回の外出は、外出申請を上の権力で通して……という形だったはずだ。

 つまり、提督さえ首を縦に振ればいいわけだ。なーんだ、そんな簡単なこと────────

 

 

 ●

 

 

 

「……は?寝ボケてんの?頭大丈夫?」

 

 ダメだった。

 いやまぁ、実際寝起きで取った電話だったんだけれども。うん。

 

 さて、起きてからTシャツとGパンにサンダル……私服で髪もそのままにして食事へ、それから提督……叢雲、もとい元叢雲の坂神さんのところに相談に行ったのだけれど……答えは真っ向から”NO、ダメ、ゼッタイ”だ。それも”頭の具合を疑う”という強烈な熨斗がついている。確かに仕方ないけれど、私はちょっと諦めるわけにはいかなかった。約束は守らなければならない。うっかり結んだ約束でも、約束は大事なものだ。そして芸能界では信義が何にも勝る。というわけで、

 

「あのー、また大吟醸差し入れるんでー、何卒……」

「酔ってんの?」

「素面です……」

「素で言うんだから頭が可哀想ね、あン?」

 

 マジで頭が残念ということにされつつある。私の立場本当に弱いな。

 こういうとき、普通の無神経なボンボンなら親の力に任せてゴリ押すのかもしれないけれど……特に私の場合、止むに止まれぬ事情がない限り、もう親の力をあてにすることは出来ない。今まで親にかなり迷惑を掛けてきたから尚更。私ももうそんなことがないことをひたすら願っている。今回のような事情の場合は特にダメだろう。何しろ私が蒔いた種。私の仕事の話だ。艦娘も仕事だけれど、バンドマンとしてはまた別なわけで。本当に個人的な事情なのだ。軽率に約束をした私が悪い。

 そうであっても、やはり約束は守らなければならない。ということは、坂神さんの心変わりが起きるまでひたすら拝み倒すしかないのだ。

 

「本当にお願いします!なんでもします!……出来ることなら!」

「あー?なんでもって言ったわねぇ?出来ることならってのは聞き逃したことにしておいて……」

「すみませんこんな立場で本当に申し訳ないんですが聞いたことにしてもらえれば」

 

 机越しに私が何度もペコペコ頭を下げてお願いしていると、なんか機嫌が良くなってきたみたいで”ほれほれ”とばかりに、「あ~?聞こえないわねぇ~?」とあっちも何度も繰り返してくる。けれどそれも何度か繰り返したあと、坂神さんは急に姿勢を正し……いや、ゲンドウポーズだから別に正しているわけではないけれど、

 

「……と、まぁ。何が問題なのかってのは分かってるわけ?」

「へ?」

 

 何が問題なのか、と改めて問われると……言葉に出来ない。ダメなものはダメ、とかしか思いつかない。それで私が口ごもっていると、

 

「私がアンタの外出を認めないわけ、分かるかって聞いてんのよ」

 

 仕方なしに私は”ダメなものはダメ”説にヤマを張って、

 

「いや、普通に外出がダメなんじゃ……」

「あのねぇ、別に強制収容所じゃないんだから”普通の”外出なら大吟醸で頷くわよ」

 

 ……大吟醸は必須条件なんだ。強制労働施設ではあるらしい。外出権を買う必要があるくらいには。

 ともかく、坂神さんの言う”問題”についてまるで分かっていないということが分かって、私は首を傾げた。一方坂神さんは力なく俯く。それで一息つくと、彼女は顔を上げて、

 

「聞き方を変えるわ、アンタは“自分が何者か”分かってんの?」

「それは、えっと、しがないドラマーやってる────────」

「それもそうだけど、もう一つあるじゃない。今」

「あ、その、艦娘”那珂”です」

「で、アンタの場合、その2つはイコールなのよ?意味、分かる?艦娘”那珂”……世間ではその顔も有名ね。それが芸能人……しかも殺人容疑かかったことのある”人間”。どういうことを意味するか、分かんないわけ?」

 

 あ、そうか。”那珂”が”人間として生きてきた誰か”ということが分かってしまう。

 ”那珂”って私だけじゃない。

 それにそもそも私は”本物の那珂”の”レプリカ”で、他にも”レプリカ”はいるはずで……。

 身バレするのは”私という那珂”だけなんだけど……。

 

 ええと、とにかくめちゃくちゃになることはなんとなく分かる。

 とりあえず、

 

「その、”那珂”が”わたし”だということがヤバい、と……」

「まぁそうなるわね。……正直、外出理由を素直に申告してきたことだけは利口だったわ。隠してたらマジでヤバかったから」

 

 とりあえず、相談したこと自体は間違っていないらしくて、それはよかった。

 相談に至るようなことを起こしたのは間違いだけど。

 ……あれ?今思うと、私、裁判のときに顔を誤魔化したのって超ファインプレーだった?

 

「あのー、私が裁判に行ったのってやっぱマズかったんですよね?顔誤魔化しといて良かっ──────」

「うん?いや、裁判は写真禁止だし、そんなに心配してなかったけど?てか、顔を誤魔化した?何?ブスメイクでもしたの?」

 

 うん、おかしいな。全然ヒヤヒヤした感じがない。ブスメイクってのも間違っていないけど何故か納得行かない。って、

 

「でも判決後の……囲み取材とかは?」

「アンタの父親……中将、それと司法側の力でカメラ・それに類するものはメチャクチャ厳重に持ち込み禁止を発令。関東だからか中将個人の顔がかなり効いたらしいわ。だからアンタ関連であの時メディアに残ったの、声だけなのよ。フラッシュとかシャッター音でも聞こえた?ってか、自分のニュースは見ない主義?アレ、シケた似顔絵しか映ってなかったわよ」

「いや、聞こえなかったような……あと、すぐ車に乗って出たし、元々テレビもそんなに見ないなぁ」

「そういうこと。でもテレビ見ないとは感心しないわねー。娯楽がタダで見れんのよ?タダよ?でもNH────―」

「それ公務員が言っちゃダメじゃ……」

「チッ、うるさいのよドラムドンスカ女」

 

 ……ドンスカ?なにそれ?イメージは分かるけれど……。

 どこからそんな擬音が出てきたのか真剣に私が悩んでいると、坂神さんは煙草をくわえて火をつけていた。

 箱を見ると……パーラメントか。金持ちで何よりだ。あとは賄賂から大吟醸を値引いてくれれば文句がない。

 で、美味そうに一口吸うと煙を吐きながら、

 

「……で、やるのはライブだっけ?写真残るわよね?」

 

 少しリラックスした雰囲気になったけれど、話は元に戻った。私の顔についての話だ。質問には頷いて、

 

「まぁ、大抵は……あと、ファンの隠し撮りとかもあるかもしれません」

 

 経験からも写真が残る可能性をさらに述べると、彼女はもう一口。かなりの勢いで吸い込み、煙草の先が赤々と燃えて……ああ、これは不味そう。今度は大量の煙を吐き出しながら、

 

「でしょ?でもまぁ、フツーの対面なら空似で済むのよ、記憶なら完全な検証はしようがないし。ただ写真となると話は全く別。特に今のようなネット社会だとね。マジで取り返しつかないわよ」

「まぁ、そうなりますよねぇ……」

 

 そこでお互いが溜息を吐いて、少し間が空いた。居心地の悪い雰囲気で、私はなんとなく視線を彷徨わせた。……場所は定まらない。そのまま、ふと湧き上がった喫煙欲求に誘われて煙を眺めている。そしてモクモクと煙を吐き出している煙草の赤い一点とピントが合って、

 

「……一本吸う?」

 

 物欲しそうにしている目だと思ったのか、いや確かにそういう面もあるけれど、それを察して坂神さんが箱を左手で私に差し出した。それに思わず、

 

「え?ケチの坂神さんが────―」

「根性行っとく?」

 

 間髪入れずに右手で煙草の先を向けて、ねじ込むぞーとばかりに素振りの体勢。即反省し、

 

「考えてものを言うようにします」

 

 根性注入棒を引っ込めて一口吸うと、坂神さんは、

 

「そうね、行動も三秒くらい待つこと。この話だってアンタが冷静に保留にしておくとかしとけばまだマシだったのよ。……にしても、ケチケチケチケチって、私ゃ高給取りよ。20代にして年収は勝ち組なのよ?だから煙草の一本くらいどうってことないわよ」

 

 ケチは一回しか言っていないはずなんだけれど。まぁいいか。そう思って頷く。すると、気を取り直してというか、坂神さんが箱を差し出す。私はそこから一本頂いて、

 

「火、あんの?」

「まぁ、常に持ち歩いてるし……」

 

 私はGパンの右ポケットを探ると、

 

「あ、れ?」

 

 手に馴染んだショッポの箱の感触はあるんだけれど……。これはつまり、

 

「……すみません、火もらえます?」

 

 私のうっかりは割とウルトラCモノで、例えば煙草の箱を引っ掴んでも隣のライターには手が出なかったりするのである。指から火が出るからいらない、とかだったら実にスマートなんだけれど、私はあいにくガンガンの看板漫画の類のビックリ人間じゃない。ビックリ人間であること自体は全く否定出来ないけれど。改造人間・戦闘の天才・プロのドラマーなのである。欠点が致命的なのもバランスの問題だろう。神は二物与えたら代わりに三物奪い取るものだ。理不尽である。トータルで損をしてるんだから人生っていうのはままならない。

 

「アンタ、本当にうっかりよね。……あのさ、そういう病気なんだっけ?」

「まぁ、実際……」

 

 私の病名はADHD。

 パニック障害なんてのも患っていたけど、そっちはほぼ完全に寛解した。主に今戦っているのはADHDの方である。

 この戦いの不毛さと言ったらない。

 何かに気をつけるほど他のこと、あるいはそれそのものがヤバい方向に転がるという、まるで幽霊を殴りに追い掛けていたら崖に落ちていたような感覚なのだ。そしてよしんば追い付いてパンチしたところで、完璧なスウェーバックの上で頭突きカウンターしてくるという……もうこれは戦いになっていない。一方的にいたぶられているだけだ。

 私の今の主治医である前々提督の金剛さんは、

 

『結局今まで処方は出来まセンでしたけど……ストラテラの処方、始めてみマスか?コンサータはちょっと難しいのデスが……』

 

 と言っていた。それに関しては、私はちょっと答えを出しかねていた。

 

 病名を言われた後、私も個人的にこの病気について調べていたのだ。そして、特効薬に近いものがあるということも。それが”コンサータ”と”ストラテラ”。副作用もあるけれど、本当に人並みの生活が送れるようになるらしい。問題は、それが私の能力の偏りを均してしまうのではないか、という点だった。

 障害である点は、私にとって武器でもある。人並みの生活と引き換えにそれが奪われる。

 

 幸いにして、私は私のうっかりに”死にたくなるほど”困ったことは少ない。”あの事件”は忘れられない、忘れないし、死にたくなったこともあったけれど……今はそうじゃない。多分、ああいった薬に頼るべきなのは、本当に困っている人なのだ。

 

 ……まぁ、そんなものは建前で。

 

 一番イヤなのは酒が飲めなくなることなのだ。

 かつてデパスとちゃんぽんしていたのは忘れたことだ。もうやらない。特に医者が身近にいる。大目玉どころか大粒の涙で懇願されて居たたまれなくなるだろう。……あの人、常軌を逸した善人だから、実は怖いのである。はっきり言って苦手なのだ。やりにくいし、良心が痛むから悲しませたくない。あと悲しませると今度はエクストリームな折檻が待っているだろう。ウォースパイトさんのことだ。前提督の。

 

 ……しかし相変わらず思考がとっ散らかっているなぁ。

 気がついたら、私、煙草くわえてるし。

 ふと思ったことが口を突いて出る。

 

「……私、いつの間に火着けてたんですか」

「いやフツーに。……って驚いたわ、アンタ心ここにあらずって時ほど動きが冴えてるんだから」

「まぁ、そういう病気です……」

 

 いわゆる神の手である。無意識に手が動くというか、ほとんど意識がない時に起こるアレである。私の場合は特にひどい。ライターを忘れても煙草の箱だけは持ってきている、というのも本当に無意識なのである。

 

 一服して少し空気が緩んだところで、

 

「……で、どうすれば出られると思います?」

 

 なんて聞くのも私の考えなしで、

 

「出すわけないってんのよこのトンチキ」

 

 こう返ってくるのを予想できたのにしないのが私である。

 話は平行線になってしまったわけだ。もうどちらかが折れるしか手はない。

 

「言い訳、どうしよう……」

 

 で、私が先に折れた。

 

「よく考えることね、んじゃ今日の夜戦もよろしくー」

 

 

 あっち行けのサインで私の退室を促してくる坂神さん。本当に変わらずドライなんだから、この人はここに向いている。特にトップに立つと面目躍如だ。出来上がっていたルールを守り続けるあたり、真面目なのか、体制変更が面倒なのか、そこは良く分からないけれど、ともかく彼女はここのトップに相応しいだろう。そんなどうにもならないないことを考えた。

 

 そして執務室を出ると、左太ももになんだか違和感。

 まさか、と思ってポケットを探ると、

 

「……いや、まぁ、よくあることかなぁ」

 

 手のひらに転がり出たのは何度買い直したかわからない100円ライター。

 左の手のひらで、プラスチックが光を照り返していたのだった。

 神の手、恐れ入りました。

 乾杯、もとい完敗……の代わりに、司令部の外の喫煙所でもう一服することにした。

 

 肩をすくめて溜息一つ、そして私はふらりふらりと歩き出す。

 廊下の窓から、最近高くなってきた太陽が、静かな司令部を柔らかく暖めている。

 その光が照らすものに、なんとなく視線を引かれる。

 ……壁際の床板に残された、明らかに只事ではつかないはずの、どす黒いシミ。

 でも私を含め、それに眉を顰める者は誰も居ない。不思議だけれど、そういうことだ。

 

 ……もう、すっかり春だ。

 あの葬式が終わって、しばらくの。四十九日も明けた。

 何も変わらない、でも確かに何かを変えたはず。

 去っていった彼女は、そんな曖昧な名残だけを残して。

 私達に、最期の光だけを残して。

 そう、彼女がついにブライト・サイドを示してみせたなんて、なんて皮肉。

 けれど彼女が示したからこそ、私達はその存在を確かに信じることが出来るようになったのだ。

 

 私は、なんとなく口笛を吹いて、センチメンタルな廊下を歩いていく。

 涙も出ないほどの、うっすらとした感傷が、心を撫でて、そして包んでいった。

 

「……”そっち”に行ったら、まともに話が出来るといいな」

 

 ……だなんて、縁起でもないことを考えるのも仕方ないと思う。

 

 でも、そうだな。

 可愛い、素直で良い子の彼女に煙草を教えてあげるのが、楽しみなのかもしれない。

 そんな私は、きっと悪い人なんだろう。そもそも人殺し、なんだし。

 それじゃあ天国では会えないなぁ。

 けれど、三途の川で誰かを待ってる、なんてことがあるなら、その誰かを待っている間に話でも出来るかもしれない。

 私が死んだときは、棺桶に酒と煙草と……色々と入れてもらわなくちゃなぁ。




この子動かしやすいんです。
言い訳しますけど、後から本編とクロスするんです。


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ストラトキャスターの真実

 寮の部屋に戻ると、なんとも見慣れない光景に出くわした。

 

「……下姉ちゃん、なに、してるの?」

「……その」

 

 白いパジャマ姿の下姉ちゃん――――――――神通が、上姉ちゃんのベースをかっぱらって行こうとしていた。

 私が部屋に入るとそのまま静止状態になった。慌てて落としたりはしないあたり、度胸に鍛えが入っている。

 

 その姿はストラップを左肩にかけて、腕で包むように大事そうにベースを抱えている。

 ……まぁ、なんでなのかは言わずもがな、である。

 

「弾きたいんだ」

「……そういうことに、ならなくは、ないでしょうね」

 

 答え方がやけに回りくどいのはともかく、否定はしていない。こんなコソ泥に身をやつすほどに弾きたかったのかと思うと、なかなか涙ぐましいものがある……一方で、なんだか優越感すら湧いてきた。

 

 へぇ、弾きたいんだ。楽器、やりたいんだ。へぇ。

 

 口に出さないものの、なんだか口元は釣り上がって目元は下がっていく。これはアレだ、楽しい事件だ。

 と、言うわけで。

 

「上姉ちゃ――――――――ん!もう夜だよ――――――――!」

「ちょ、あなた何を――――――――」

「……っるさいなまだ昼でしょ、日が高いうちに私を起こすなぁぁぁ目がぁぁあああああああ灰になるぅぅぅぅうう」

 

 三段ベッドのカーテンを開けてドヤしようとしたら、窓のカーテンから漏れ出た光にソッコーで目を焼かれて悶絶。アルビノで光に弱いのと寝起きでダブルコンボだ。死ぬほど辛いだろう。

 うちの長姉、随分レスポンスのいいヴァンピィだ。主食は赤ワインどころかハードリカーだけど。……しかし、はっきり言ってここまで反応がいいとは予想外すぎる。カーテンは開けないものだとばかり。そんな思惑はいざ知らず、上姉ちゃんはベッドの上でドッタンバッタンジタバタしている。

 

「ハルコぉぉぉぉぉおおおてめえ日が落ちたら絶対血祭りにしてやるからなぁあああああああああ」

 

 ベッドのカーテンを閉めて、もう布団に潜り込んだんだろう。ものすごいドスの効いた脅しが布団から漏れた感じに聞こえてくる。というかなりふり構ってないからか私を本名で呼んできた。……コレ、流石にマズいのでは。と、

 

「ユッコ姉さん本名呼びはダメです!それにまだ昼ですから!寝ててください!」

「……アッコ姉ちゃんも全然自重できてないよね」

「ハルコぉぉおおおてめぇ布団に入れぇええええ複雑バラバラ骨折にして固めて箱詰めしてやるぅうううううう」

 

 ここに誰かいたら姉妹全員の名前が大開帳である。

 まぁ、私が下姉ちゃんを本名で呼んだのは意趣返しだったんだけど。誰も聞いてない前提の。

 

 

 

 ●

 

 

 さて。

 

 私の人間としての名前は、ハルコという。

 漢字で書いて、水川晴子。芸名はハルコ・ミズカワ。ハルコミと略されることもある。私の預かり知らぬところで生まれた、アンオフィシャルの渾名だ。ちなみにハルーコ・ミズカワンテと名乗ったことはまだない。ピエール水川の予定も当面ない。

 しかし、実に地味な字面である。小学2年生、下手すると1年生で書ける程度に地味。

 本当は春生まれだから”春子”になるはずだったらしいんだけど、安直すぎるからって両親の間でセルフボツ、それで読み方はそのまま、漢字を変えて”晴子”というわけだ。

 

 上姉ちゃんはユッコ。正しくはユキコ。こちらは漢字で書くと雪子だ。

 生まれながらの白い容姿がそのまま名前に受け継がれている。安直すぎる。昔は雪女と呼ばれていた時期もあったかな。しかも”二中の雪女”みたいなノリで、いわゆる札付きである。ワルのオリンピックに出たら多分ハンデが必要だ。勿論上姉ちゃんを抑えるために。

 高校は日中を避けて定時制高校に通っていたんだけれど、卒業を目前に「やっぱあたしも軍人の家系なんだな」と何故か一念発起。財力に任せ、膨大な量の高級日焼け止めを頼みにして軍大学へ行った。下姉ちゃんと一緒にだ。訓練とか座学とかは当然主に日中にやるわけで、それが文字通り死ぬほど辛かったらしい。でもなんだかんだで卒業できたし、そしたら妙なところでコネを使って、最初からいきなり夜間勤務に入った。だからあの人は学校より職場の方が楽しいという稀有な人種である。文字通り稀有な生まれだけれど、それに輪をかけて稀有な経歴の持ち主だ。

 

 下姉ちゃんはアッコ。こっちも渾名で、正しくはアキコだ。漢字で書いて暁子。こっちはなぜか難しい漢字だ。

 由来と言うか、経緯は確か……お母さんは2回目のお産だってのに、なぜかやたらに難産で、結局夜明け前に出産が終わったのだ。

 それでようやく気が緩んで、思わず外の空気を浴びに行ったお父さんは、まさに暁を見たわけである。

 それで暁子だ。うん、間違いない。そういう話だったな。

 ……本当にウチの両親は安直なネーミングが好きだと思うけれど、如何なものかと思う。

 それで反省したのか私の時は一捻りだけ入れたんだろう。反省の度合いが甘いでしょソレ。

 

 それで、言い方はひどいけれど、私を最後に子供は打ち止めになった。もう少し経ったら男の子を生みたい、と思っていたらしいんだけれど、年齢的にちょっときつかったそうな。

 そういうことで、我が家の命運は誰かが婿を取らなければ潰えることとなる。まぁ、水川は一族を形成する程度には一族だし、別にどこが本家というわけでもないから、そうでもないのか。それに男児が生まれても嫁がいなきゃいけないのだから変わらない。従兄弟連中、全員軍人だけど揃いも揃って未婚だし。

 まぁ、順当に行けば下姉ちゃんが一流大学に行って、そこで釣り合う男を引っ掛けて……となるはずだったんだけれど、私を除いて姉妹2人が軍大学へ行って軍人になってしまったのである。で、末妹はこの体たらく。下手しなくても一族の恥。

 そんなだから全員、婚期を逃す可能性、非常に大である。

 例え一般的な進路を行ったとしてもだ、上姉ちゃんはヤンチャだし、下姉ちゃんはやたら自分にも他人にも厳しいし、私は人間性能的にアレ。釣り合うどころか付き合いきれる男性が稀有である。そしてそんな男がいようものなら私達の間で取り合いになるだろう。

 ターミネーター姉妹による骨肉の争い、そんなものは見たくない。映画化したら間違いなくB級だし。

 

 ……と、まぁ。三姉妹ってこういう荒っぽい輩ばっかりだっけ?昔見たアニメだと、なんだかゆるゆるのふわふわで、あと二期が黒歴史になっていたような……。

 

 

 ●

 

 

 ともかく、

 

「……持っていきたけりゃ持ってけばいいじゃん。姉妹同士で気兼ねなんてしなくていいしさ。黙ってでも、声かけてでも別に構わないんだし」

「でしょう。……面白がって姉さんを無理やり起こしたあたり、あなたやっぱり愚かですね」

 

 なんで私だけ正座で一番怒られているんだろう。

 いや、まぁ、そうか。うん。状況を面白がった私が一番悪かった。確かに。

 私がバカだ。

 

「反省します……」

 

 今日はいろいろと怒られる日らしい。多分あともう一回は怒られるんじゃなかろうか。

 そう思いつつも深い反省の意を示すべく、畳の上からベッドの3段目とその前に座る鬼に、慎ましく土下座。

 

 それを見れた片方は気が収まったらしいけれど、それを見れないもう片方はまだご立腹だ。

 安眠妨害に加えて殺人未遂まで付けられそうな勢いで、

 

「おい、このバカヤロー。よく聞けぇ、二度と私を日の出てるうちに起こすな」

 

 布団とカーテン、二重のオブラートに包んでもなお刺さる声で、私を責め立てた。続きに”でないと殺すぞ”が隠れているのは明白。札付きのワル、”雪女”の面目躍如である。

 そんな彼女は見てない、見えないと知っていながら私はもう一度、ははぁーと土下座。……もしかすると下姉ちゃんが取りなしてくれるかもしれないから。

 と、そんな思惑は見透かされていたらしく、

 

「私からの温情は期待しないように」

 

 いきなりストレートに釘を刺しに来た。いやもうこれ直撃でしょ。五寸釘で心臓一発、トドメじゃん。誰も止めてくれないじゃん。私の針の筵は続行らしい。これからついでに石も乗っかるんだろうか。乗るだろうな、確実に。それも立派な庭石サイズが。殺す気だ。となったら、モノで釣るしかない。モノで石を釣り上げてついでに私も針の筵から上昇させてほしい。

 

 と、なると何がいいんだろうか。

 大吟醸?バカ言えやい、どーせお父さん経由で届くからお父さん持ちじゃない。

 それじゃあ……、アレだ。

 

「その、楽器を……私の自腹でプレゼントしますから……」

 

 む、という感じの目線が私に。興味が湧いたのだろうと思うけれど怒ったままだから視線でぶった斬られてる感覚だ。目の流れからしてズバリと首を飛ばすコースである。そうして鋭いままに舐めあげるように私の目へと。

 

「……まぁ、いいでしょう。私の自由に出来る楽器があるのは望むところです。何より姉さんに気兼ねしなくて良くなりますし」

「最初から気兼ねなんていいんだよあんたはさ。……まぁいいや。ハルコ、いいの見繕え」

「ははぁ――――――――」

「良いのをね。……”伝説の某”とか言って丸め込むむようなら血祭り」

「……めっそうもございません」

 

 いや、最初からそんなので丸め込めるとは思ってない。いくらロック系の楽器に疎くても、音の善し悪しに関しては騙せないだろう。今回お望みはどうやらエレクトリックな楽器らしいし……。

 と、なるとだ。下姉ちゃんのお好みとは、なんぞや、という話になる。

 

 まず大前提として安い楽器は論外。エントリーモデルだから、で通用するものではない。もはや予想もなにもなく、確信と言っていいけれど、下姉ちゃんもどうせ天才である。半端なスペックではすぐに腕が楽器のレベルを越えてしまう。じゃあ、どうするかって?

 

 もう最初からハイエンドを差し出すしかあるまい。それは覚悟しなくちゃ。

 

 というわけで、

 

「……下姉ちゃん、何が弾きたい?」

「……グランドピアノ―――――――」

 

 ちょっと待った、と言おうとしたところで、

 

「エレキギターだよね」

 

 唐突に上姉ちゃんが口を挟んだ。布団からは顔を出したのか、膜が一枚減った感じの声だ。

 それに下姉ちゃん、少し固まる。

 続けて、

 

「そもそもさぁ、なんで私のベースに興味持ったのさ」

「……」

「6弦だからでしょ」

「……」

「チューニング違うよ」

「……何が言いたいんですか」

 

 だんだん追い込まれているのが分かる。私にも明確に分かる。こんな受け答えじゃ誰でも察しが付く。

 

「昔さ、私が寝てるか夜遊び行ってた時にこっそり弾いてたでしょ」

「……」

 

 否定はもはや肯定にしかならない。かと言って沈黙も利口ではないと思う。まぁこんな状況に追い込まれてる時点で答えは明白なんだけれど。

 

「あんたさ、私のギター勝手に弾いてたんだよ」

「……」

「やっぱりね。なんか私が触ったときやけにチューニングが合ってないなーって思ってさ」

「……」

「特に3弦。きっちりチューニングするように心がけてたんだけど、ちょっと弾くかーって時に弾くとなんか、明らかにズレてんのさ。しかもちょっと上によ。コレ、多分誰か弾いたなー、それでズレたのは分かったけど直そうとしてちょっと弦巻きすぎたんだろうなーって思うわけ。んで弾くやつに心当たりなんて一人しかいないじゃん。それに当時のあんたはチューナーも知らなかっただろうし」

 

 持論をつらつらと寝起きの気怠いトーンで述べていく上姉ちゃん。それに対して下姉ちゃんは頑なに憮然な態度を崩さない。しかも、

 

「……この愚かな妹が弾いたのでは?」

 

 私に目線をやって、罪のなすりつけである。彼女らしくない大人気なさである。そして私のことを見下しすぎ。

 でもやっぱり、

 

「ドラムにぞっこんのこのバカが脇目振ると思う?どうよ」

 

 バカ含めて全く同意だったので、私は大きく頷いて、

 

「私、ギターに興味なかったなぁ」

「でしょ?じゃあ弾いたのはあんただよ、アッコ。諦めな、数年前からバレバレだったんだから今更どうにもならないっての」

「……」

 

 なおも無言を保つけれど、時折体がピクリと震える。あ、コレはヤバイやつだ。けれどそれは彼女も自覚していることで、体の震えに気付いたんだろう。肩の力を抜いて深呼吸した。で、おもむろに私に、

 

「ギター」

「うん」

 

 思わずそう返事したけど、

 

「最高級の」

「へ?」

「USA」

「いや、その……最高級の、USA?」

 

「ストラトキャスター」

 

 確かに、淀みなく、そう言った。

 

 

 ●

 

 

 それから私は粛々と鬼と吸血鬼の環視の下、楽器通販サイトをスマホで血眼になって探し始めた。

 

 下姉ちゃんからの要求事項はシンプルだった。

 中古は排除。

 ストラトキャスター。

 フェンダーUSA製。

 最高級品。

 

 だったらヴィンテージのべらぼうに高いやつは選ばずに済む、なんて思った私はバカだった。

 フェンダーと言えばバンドマンの中では一般教養以前の常識。

 泣く小僧も黙る超ビッグな楽器メーカーだ。

 だけど高いのはヴィンテージとばかり思っていたのだ。みんなこぞって古いものを買い求める、よって釣り上がる。しかも年代だって限定されていて、ただ古いだけでは済まない。~年代の、という指定がつくからタチが悪い。マニアならば本当にピンポイントで年式を指定してくるレベルだ。しかもスペックが要求に合わなきゃ容赦なく選択肢から排除と来る。

 ……そういう頭の痛い事情とは無縁になる、そう思ったのだ。新品限定ということなら。

 

 しかしそうは問屋が卸さないのが泣く子も黙るビッグなところ。というか中古市場だけで盛り上がるのが嫌だったんだろうか、年式を指定した復刻版なんてのもあるらしいのだ。いや、それならまだマシだろう。問題は、フェンダー社は世界でも指折りの職人を抱えているということで、彼らの名前も看板に付けてしまえるほどのブランド力を持っているのだ。

 

 ここで最高級品というところがヤバい。

 つまりそれは、エレキギター総本舗の頂点に君臨する職人の手がけた”作品”なのである。

 独立して新ブランドを擁立しても不思議じゃない、そんな超一流の職人が、だ。

 それがフェンダー・カスタムショップというグレード、もといブランド。

 

 ……私はギターにはとんと疎いから、フェンダーの力の絶大さを知らなかったのだ。

 特にグレードの幅広さ、そしてそのてっぺんのヤバさを。

 故に究極のギターメーカーであることを。

 

 で、そんなのを素人の下姉ちゃんがなんで知っていたのかって、

 

「憧れですから」

 

 さよで。

 

 しっかし、調べているとヤバい金額がずらりと並んでいる。目から血が出そうだ。鼻血じゃなくて。

 もう本当に目が痛い。6桁目の数字が特に目に悪い。下手すると7桁に手が届く値段のものもあって……もう死にたくなる。

 私の貯金は……まぁ、ないわけじゃない。使い所は少ないし、家賃・食費・光熱費は掛からない。その僅かな使い所は日々のタバコ代、それと最近はスティック代だ。ちょっと前にドラムセット・シンバルセット一式で散財はしたけれど、まだそれなりに残っている。

 けれど、これはないだろう。

 一括だと、一気に底をつくどころか突き破るやつだってある。

 そもそも通販のお供、クレジットカードの上限額をやすやすと超えているわけで。

 というか私のようなミュージシャンがクレジットカードなんてものを作れたのが奇跡に近いのだ。上限額を上げる?バカ言えやい、20万以上にはテコでも動かない。まあ、今の職業を正直に答えらればそれなりに枠を広げられるだろうけれど……。

 

 しかし本当に辛いのは、ここから私が選ぶということだ。

 殺されそうになって屋上に追い詰められて、最終的には自分で好きなスタイルで飛び降りて死ね、みたいな流れである。そう考えると下姉ちゃんはサイコパスになってしまうから、流石にちょっと違うか。

 つまり……そうか、なるほどヤクザか。そっちだったか。

 鬼にはお似合い……なんて死ぬほどつまらないダジャレが出てくるあたりもう頭がヤバい。乱舞する6桁の数字にかなりやられている。

 

 せめて松竹梅の竹あたりを狙って妥協してもらうしかない。梅で通れば梅で。最高”級”には変わらないのだから。そこで”本当に最高ですか?”なんて変なMCの如く聞き返されたら、多分私は目を逸してしまうだろう。そして本日3度目の大目玉を喰らうわけだ。理不尽である。姉に勝てる妹など存在しなかった。古今東西どこを探しても……いや、いるにはいるだろうな。うん。けれど水川家は姉が絶対強者である。末妹にアドバンテージなどない。

 でも、竹、どれ?

 私からすれば全部松なんだけれど……。

 

 そうして私がケジメに踏み切れないまま唸っていると、

 

「そういやさ」

「え?」

「どっか行ってたの?飯食って煙草吸っただけじゃ帰りこんなに遅くならないじゃん。それでアッコ……もうそろそろやめよっか、本名呼びは。……神通が変な気を起こしちゃったわけだしさ」

「変な気……」

 

 カーテン越しに上姉ちゃんが普通の声で話し始めた。鬼の上のランク、神が不機嫌を収めてくださったらしい。それにひとまず安心した。下姉ちゃんの抗議はともかくとして、それで気が緩んで、

 

「あのさ、事務所からライブやって復帰しろって言われちゃって。うっかり受けちゃったから、それで提督に相談に行ったの」

「は?」

「……は?」

 

 スマホをペチペチ操作していた私だけれど、空気の変化は分かった。

 今日は怒られる日だ。つまりそういうことだ。

 

「おいハルコ、私の布団に入れ」

「死になさい、ゴミムシ」

 

 死ぬほど怒られた。



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「ハッハー!ツェッペリンなんてお笑いだぜ!」

言い訳をしておきますが、筆者はツェッペリンを愛しています。

2019/01/29
ちょっと修正。


 その後は下姉ちゃんに、それと夕方からは上姉ちゃんに、代わり番こで仁王立ちのお説教を受けて、私は終始土下座。頭を上げることは一切許されなかった。

 

 内容は私の肝に刻み込むがごとく、三つくらいの話題を水で薄めた……のではなくて、原液たっぷりを時間を掛けて刷り込むように語られた。大いに。

 

 まず一つ。

 私が寝起きで重大な決断をしたこと。これは二人共が言っていた。

 お前さ、流石にそれはマズいってわかんないかなー、みたいな。下姉ちゃんは蔑み、上姉ちゃんは呆れていた。……どっちも意味が同じのような。さじ加減であって。

 

 次に二つ。

 自分が艦娘であることを十分理解できていないこと。こっちは下姉ちゃんが十分に語った。これについては裁判で一度世間様に顔を出しちゃったから勘違いしたんだろうな、みたいなことを仕方ないなー……じゃなくて、何勘違いしてんだゴミカス、みたいな感じで分からされた。要は提督に言われた内容と概ね同じだ。

 言うだけ言ったら下姉ちゃんは夕食に出かけていった。あの、一緒に夜戦に行くんだから……。

 

 そして三つ。

 最後に上姉ちゃんが何故か心配したのが、練習どうすんだって話。軍人としてのお話しじゃなかった。

 あんなんで人様の前に出てタイコ叩けんのかお前は、みたいなすっごくお師匠みたいな話をされてしまった。

 ……解せない。プロは私だ。素人は上姉ちゃんの方である。でも言えない。末妹に口を開く権利はない。

 じゃあ練習に付き合ってよ、って言う話なんだけれど、それについてはついに話題に上らなかった。

 

 ……そうして話が終わると、ようやく頭を上げることが許される。

 眼の前にはサングラス装備、黒いパジャマの上姉ちゃんがいた。

 私は立ち上がろうとして、

 

「……立てない」

「うん。まぁ、だろうねーって感じ」

 

 他人事みたいに言ってるけど……。

 ともかく私はなんとか正座を崩して足を前に放り出して、

 

「……ああー、足がビリビリする……」

「うん。ハルコ、あんたいい薬じゃん」

「なんでこの歳になって躾受けてるんだろ……」

「あんたが大人としてダメだからでしょ」

「うーん……」

 

 縮こまって固まっていた体をほぐしたくて、その場でバターンと上体も寝かせてタコのように体をうねらせる。1分もそうしていると、不思議と体は楽になっていた。その間、上姉ちゃんは私のスマホを勝手にいじっていて、

 

「あ、上姉ちゃん何してんの……」

「いやね、我が妹の誠意のほどとチョイスの良し悪しをだ……てかロックくらい掛けなよ」

「いや、私すぐ忘れるし分かりやすいのにするとないのと同じになっちゃうから」

「あー……まぁ、確かにそうか。しかし……へぇ、やっぱ高いんだね、フェンダーって」

 

 上姉ちゃん的にも”誠意”なのか。とりあえず半分予想が当たって嬉しいのか悲しいのか。わかんないからとりあえず笑った。

 それで、上姉ちゃんは何故かヤンキー座りになってスマホをペチペチやり始めたから、私は立ち上がってその後ろから画面を覗き込む。

 ……どれも天下御免のクオリティー、そんな名品が並ぶ検索画面をサングラス越しに眺めていた上姉ちゃんだけれど、突然首を傾げ始めた。で、

 

「コレさ、全部新品だよね?」

「うん。それで検索してるけど」

「マジ?」

 

 怪訝な声、更に疑問を深めたらしい。何がおかしいのかな、って思って画面をよく見ると、

 

「あー、これはね……」

 

 映っているのはボロボロのギター。それが3つ。それぞれ三者三様といったボロボロ加減だった。

 塗装が剥げて木目が見えてるのはもう全部。それが本当にひどい具合だったり、ちょっとくらいだったり、あるいは”あー、大事に使い込んだねー”くらい。指板も色が変わってたりする。この汚れ具合も、まぁボディと同じ程度だ。すっごく黒ずんでるのから、ところどころ黒ずんでる、あるいは全体的に使用感あり、みたいな。

 上姉ちゃんは今度は逆の角度に首を傾げて、画面を目に近づける。ガン見の体勢だ。

 

「おっかしいな。私の知ってる新品ってこんな年季の入った風情はしてないけどなぁ。しかも中古、ってかジャンクみたいな」

「うん、でも新品なんだよね」

 

 今度は首を傾げるんじゃなくて、”あーもうわからん”みたいに天を仰ぎ始めて、

 

「何を以て新品とするか、みたいな話?なにそれ、哲学?」

「いやそんなんじゃなく。――――――そういう加工なんだよね。私にはよくわかんない価値観だけど」

 

 更に首を反らして、私とサングラス越しに目を合わせて、

 

「……加工?わざとボロっちくするのが?」

 

 耳を疑う、みたいなニュアンスだけど、私も最初は目を疑ったものだし、まぁまぁって感じだった。

 

「うん。レリック加工って言うんだったかな……ギタリストのかたっぽはマジモンのビンテージギター使ってたけど、話に出たことはあったし。だから”あー、ビンテージってこういう感じだよねー”ってところかな」

 

 そこで”ほへー”なんて口の形をさせてから、首を戻して画面に目をやる。そしてギターの画像を指差して、

 

「つまりなんだ……ビンテージの偽物」

「いやそれを言ったら下手すると殺されるかも」

「……レプリカ」

「それなら当たり障りないかな、うん」

 

 危ないところだった。

 

「しっかしそんなにビンテージが欲しいかー、世の中の人間ってさー。畳と嫁は新品が良いってよく言うのにさー」

「いやこれ新品……」

「じゃあ中古に見える新品って損じゃないかなぁー?あと、これも誰かの手に渡ってまた離れて……ってなって、こいつが本当のビンテージになる頃には何が本物か分かんなくならない?」

「素性の良い楽器って大体シリアル振ってるらしいし。これだってそれは分かるんじゃないかな」

「あー、そういうもんなんだ。……ふーん」

 

 それで疑問はなくなったらしくて、上姉ちゃんは黙って楽器の詳細なスペックを見始めた。見てもわからんだろうに……。まぁ、私だってギターは門外漢だから分かんないんだけれど。

 

「しっかし、50万とかフツーに超えてくるんだ。高い誠意だなぁ」

「……」

 

 そんな高い金を払わせようというあたり、プライドに高値を付けすぎでしょ。

 私の無言にはお構いなしに、上姉ちゃんはどんどん他のギターも見ていく。

 

「しっかし、レリック加工だっけ?それがないやつもないやつで普通にヤバいくらい高いじゃん。……そういやボロいのは型式名に”Relic”って入ってるね。”Journey”も入ってるのはそれよりかはボロくない。……他には、うーん、なんか少し汚れてるのもあるけど、これはRelicって入ってないし……“NOS”って入ってるのもあるね。……これはうん、どう見ても新品だ。しかもクソみたいに高い。レリックより高くない?ボロいほど高いってわけじゃないの?」

「うん、よくわかんないけど全部高いことだけわかったって感じなんだよね」

 

 流石に”うげー”って感じになっている。うん、それが一般人の感覚だよね。30万くらいをポンとベースで使った人とは思えない。まぁ、アレは間違いなく一生モノのつもりだったから出せたんだろうけど。

 

「……しっかし、私も知らないんだけどさ。あの子、誰に憧れてギター弾きたいと思ったんだろーね」

「確かに……」

 

 と言うか、そこらへんを曖昧にしたままブランドと機種名だけでオーダーしてきたわけだ。こっちとしては何がなんだか分からないのである。選べ、と言われても困る。

 

 ……いや、誠意を試されている”だけ”だからこそ、逆に曖昧なんだ。

 

「つまりさ、まず私が選んだもので試されるってことかな?」

「うん?……ああー、なるほど。そういうことね。うん。間違いないよ、その考えは」

 

 じゃあこれは多分……とりあえず私の誠意の”額”を知りたいんだろう。やっぱりヤクザだ。国家公務員の思考法じゃない。

 ただ、そういうことなら値段という絞り込み条件を増やせるのはありがたい。それだけはありがたい。

 問題はどこで絞り込むかなんだけれど!最低35万からスタートってのが非常に悩ましい!当然そこで私が妥協しようものなら誠意が足りないと理不尽を言われそうだし。いや、言わないのかな……流石に下姉ちゃんも人の子だし……。そう思うと、ちょっと上の価格帯でも、という気になるあたり私はなんだかバカみたいだ。

 私はなんだか、頭がグルグルと回り始めるのを感じて、上姉ちゃんの頭の左側に手をスッと伸ばした。

 

「――――――――上姉ちゃん、携帯返して。探す」

「うん?……いや、あんた、今はマズい。やめときな」

 

 え?と思ったときには頭をコツンと小突かれて、私はなんだか寝起きみたいに頭がクラクラしている。

 あれ?

 

 ああ。

 ……集中に入っちゃうところだったのか。危なかった。

 

「ごめん」

「こっちも叩いてごめん。……飯行こっか。もう十分日も落ちたし」

「そうだね」

 

 そう言うと、上姉ちゃんはちゃぶ台の上のアークロイヤルとジッポを引っ掴んで、

 

「んじゃ行こっか」

 

 私に一度振り向くと、床の間を降りて靴を履いた。

 それに続いて、私もサンダルをつっかける。

 

 

 ●

 

 

 私達が食堂に着くと、もう人は居なかった。炊事担当の給糧艦の人すら居ない。

 飲ん兵衛達は鳳翔さんのところに行ったし、夜戦のない日なら私達も帰ってるころだ。夜戦があっても私達が演奏してれば、それなりに人は残るし、間宮さんか伊良湖さんが残っていたんだけれど、今日はそういう状況じゃなかった。

 

 そこに、一人だけ残っていた。制服を着た下姉ちゃん、神通。六人がけの机、その真中の椅子に座って羊羹と抹茶をちびちび楽しんでいる。しかもお盆が二つだから、二人前だ。贅沢な夜を過ごしているなぁ。

 そしてその手前には、お盆が二つ。私達が遅くなると踏んで、私達二人の分ももらっていてくれたみたい。

 

「よ、おまた?」

「ええ。ゆっくりとさせていただいています」

 

 手を挙げて近寄っていく上姉ちゃんの影に心持ち隠れるように、私が後ろを歩く。まぁ、そんなことは無意味でギュピーンと効果音を鳴らさんばかりの視線が私を貫いているんだけれど……。

 

「まぁまぁそんな目しないでさ」

「……それで、あなたの誠意は?」

 

 私への視線による暴力は意にも介さず、上姉ちゃんは下姉ちゃんの右手側にどっかと座り、

 

「それより飯。誠意の大きさくらいは決めてきたよね、妹」

 

 その逆側に座ろうとしたところに、ぐいっと上姉ちゃんの視線も。それに私は、

 

「まぁ、それくらいは……」

 

 嘘だ。正直、覚悟が決まっていない。ピックアップは検索条件を絞り込むだけで終了する。それから適当に選ぶだけでOKだ。レリックとかNOSとかの概念もきっと知っている下姉ちゃんは、おそらく値段だけを見て私を値踏みするだろう。

 

「んじゃいただきまーす」

「……いただきます」

 

 食べながら考えよう。と、思った矢先に、

 

「あ」

 

 右手から片方の箸がこぼれて、机で跳ねて、そして、

 

「ん」

 

 左手が勝手に動いて、間一髪、机から宙に舞おうとしていた箸の片方を掴んで止めた。

 

「やるねぇ」

「……はぁ、落とさなかったことは褒めましょう」

「手厳しい……」

 

 思わずぼやくのも仕方ない。うん。

 そんなことより今日の晩ごはんは……と言うと。

 

 メインはどうやら鰆の西京焼き。緑色の……確か、シダ系の葉っぱ。そうだ、葉山椒だった。それが乗っている。その添え物は……なんだっけ、この細長くて生姜みたいな味するやつ。食べ慣れている方だとは思うけど、名前が分からない。……じゃあ生姜でいいや。多分そこは合ってるはずだから。

 

 思わず西京焼きに手が伸びそうになるけれど、そこで箸を方向転換。左手は右手側のお椀に。こう見えても育ちはいい私達。育ってどうなったかはともかく、食事の一口目は汁物で口を潤すというものがマナーだと知っている。

 ……本日はオーソドックス、シンプル・イズ・ベストとばかりにワカメと豆腐の白味噌汁だった。……具材だけど、代わりにしじみなんて入ってたらまたアツい。特に朝まで飲んでからの朝食には最高だと思う。

 

 ずず、と味噌汁をすすると……まぁ、流石に少しは冷めてる。けれども口に含んだ時、熱さで分からなくなるような、そんな繊細なところまでが分かるような気がする。はっきり言って、出汁モノは冷め掛けが一番美味しいと私は感じる。ヌルいところまで行くとダメなんだけれど。しかし……ははぁ、これはいりこ出汁だな。しかもなんだかそれだけじゃない感じがする。多分だけれど昆布と合わせてるのかな。私は食通ってわけじゃないから、流石にどこの昆布なのかは皆目見当もつかないのだけれど、それでも合わせ出汁なのはなんとなく分かる。実家の食事でも確かこの組み合わせは鉄板だったはず。まぁいずれにしても、この鎮守府は結構裕福らしいから、いい煮干や昆布を使って贅沢仕様なんだろう。

 

 次はご飯。……まぁ、こっちは私の好みが炊きたて熱々だから、なんとも言えない気分になるんだけれど、それでもまぁ美味しい。そりゃあ高級料亭とか、実家の味には負けるけれど。一人前を土鍋で炊いてとか、高級炊飯器でとか、そういうのは大量生産を第一の目的とする食堂では望むべくもない。というのに、十分美味しいのだ。これはなにかのマジックだと思う。さすが給糧艦。家事の超人だ。

 

 そしてメインの西京焼き。箸で身を裂くと、もうまさにふわりとした手応え。箸で摘んで口元まで持っていくと、焼いた白味噌の、香ばしいけど品のいい香り。実に良い。私はこういうのも好きだ。なにせ、育ちだけは良いのである。結果がダメなだけで。……自分で考えていて悲しくなる。一口パクっと行ったらそのままもう一度ご飯を一口だ。

 

「……おいしい」

 

 ちゃんとご飯と西京焼きを飲み込んでから言ったことだ。口をモゴモゴさせて話しちゃいけないって言われてきた。何度怒られたことか、そうしてマナーとかを身に付けてきたことか。

 

「お、ほんろだ、これおいひいれ」

 

 ……上姉ちゃんは色々と例外だけど。

 私や下姉ちゃんと同じような教育を受けて、何故かとびっきりの悪童に育った、これこそまさに突然変異なのだから。

 

 

 ●

 

 

「ごっそさん」

「ごちそうさまでした」

 

 今日も素晴らしい夕餉を楽しむことが出来た。……ここに来てから私に成長があったとすると、あの一件を背負うことが出来たこと、それと下姉ちゃんと一緒に食卓を囲んでも食事の味がわかるようになったことだと思う。しょうもないことだけれど、図太い神経を手に入れられたのは良いことだと思うのだ。問題は自分が死にそうなことにも気づかなくなりそうなことだけれど。

 

 と、夕食を食べてそれから少し準備して夜戦……なんだけど、今日はストレートにそうするわけにも行かない。なんせ、私の誠意を見せなくちゃいけないのだ。

 

「……それで、あなたの誠意は如何程でしょうか?」

 

 腕を組んでふんぞり返り、下姉ちゃんがそう言った。なんだろう。……やけに機嫌が良い。こんなに横柄になるのは近年珍しかった。そう言えば、堅物スパルタウーマンに成り果てるまでは、私を見下して偉そうにするのが好きだったな。……まぁ、それは自分に厳しくなりきれなかった頃の若気の至りだった、ということにしよう。でも若気の至りと言っても、ティーンになる前にそれを卒業してしまった。やっぱり只者じゃないストイック女だと思う。中学生にもなると、出来の悪い私にマウントを取るどころか一心不乱に鞭を入れるようになり、そして人一倍自分自身の尻に火をつけるような感じになっていた。それで将来は一流大学で一流の婿を見つけて捕まえる、はずだったのに、それどころか軍大学の首席でバリバリの軍人になった。なんか、一族全体の目論見違いにもなってしまったんだけれど。それでも一族の誇りは誇りだった。……というかむしろもう女扱いされていなかった気もする。女であることを差っ引けば諸手を挙げて喜べる、ということに気がついた私の一族は本当に優しくて頭がいい。身内の贔屓目は入るにしても、確かに下姉ちゃんは昔から美人だった。それを帳消しにするくらいインテリゴリラだった。うん。女と思ってたら殺される。

 

 そんなインテリゴリラあらため鬼ゴリラの下姉ちゃん、ストラトキャスターに憧れる二十代半ば。

 このギャップよ。

 そこでストラトキャスターというのがまたよくわからない。

 本当によくわからない。

 あまりに王道も王道すぎる。

 エレキギターの”当たり前”すぎて、なぜ憧れるのかがよくわからない。それにストラトに拘るからこそカスタムショップの存在に気付くのであって、普通にエレキギターに憧れるだけならそんなものは知る動機がない。

 

 そんな不思議について考えても誠意の額に下駄がつくわけでもなし、私は覚悟を決めて、スマホを睨み、やけくそで一品を選んでみた。

 

「これなんか、どう?」

「ふむ……」

 

 私が画面を見せると、腕を組んだまま前のめりになる下姉ちゃん。そして画面にガンを飛ばさんばかりの気迫の目で品定めし、

 

「いいでしょう」

 

 ご満悦とばかりに再びふんぞり返る下姉ちゃん。もう笑みを隠そうともしない。

 私の誠意は、一応及第点を超えたらしい。

 

 さて、やけくそで選んだから私もどんなものか詳しく分かっていない。

 で、自分の手元に戻して品物をチェック。

 

 ……値段は40万程度、色は白。

 仕様は……ふむ。Journeyman Relic、2015年版。

 経年劣化加工とは裏腹に、けっこう近代的な設計をしている、というくらいか。何年式のレプリカ、ってわけでもないそうだ。

 ……それくらいしか私にはわからない。まぁ、私はドラム一筋だから仕方ない。

 

 ともかく、それで下姉ちゃんは満足したらしい。で、それは私の誠意の程度であって、本命はちゃんとあるんだと思う。それを暗に聞く形で、

 

「これで本当にいい?」

 

 と、問いかけると、

 

「いえ、私の方で目を付けているものがあります」

 

 やっぱり、か。まぁ、そうだよね。でも多分これと同ランクのものになるはず。

 そう安心していると、下姉ちゃんは自分のスマホを取り出して、画面を点灯。

 

 現れたのは――――――――

 

「98万……98万!?」

 

 意味がわからない。なんでこんな価値が――――――――

 

「イングヴェイ・マルムスティーン様ご自身がオーダーしたものと噂の一品です。あと一桁上がっても不思議ではありません。お得です。これは間違いなくお得な一品です」

 

「イング……なに、どなた様?」

 

 私が首を傾げていると、

 

「あー、あの超絶に根性悪いピロピロギタリスト?」

 

 隣の上姉ちゃんはご存知の様子。背もたれにぐたーっと寄っかかりながら……と、思ったら勢いよく姿勢を正して、

 

「様、を付ける、フツー?」

「イングヴェイ様です」

 

 なに、その目の輝き。怖いんだけど。

 

「……おいおい、我が末妹よ、こいつは相当ヤバいよ」

 

 隣から何か聞こえてくるけど、なんだか雰囲気が今までにないものすぎて、却って身の危険を感じてきている。

 

「……イングヴェイがストラト使ってるから、ストラトが欲しいってこと?」

「それ以外の何がありますか」

「おいおい妹冗談きついよ、なんでまたイングヴェイなんだ、ストラト弾きって他にもごまんといるでしょ、特にクラプトンとか、ベックとか……」

「王者の前には3大も所詮下郎です。ペイジはヘタクソですし」

「おいおいマジかよ私の愛するペイジをディスるとは……」

 

 良く分からないけれど、ギターを知るものなら知っていなくちゃいけないらしい。特に”3大”と言われるギタリスト達は。私は知らないけど。ドラマーだし。それにJロックの人間だし。

 だから私は話の外だなーって思ってたら、突然胸ぐらを掴まれて、

 

「3大ならペイジ、だよね、ね!?」

「うわぁ」

 

 なんだかヤバい状況に。蚊帳の外にいたら腕が突き破ってきて捕まったみたいな感じだ。我が姉達は理不尽の塊だ。

 

「何が”うわぁ”だ、ツェッペリンあんなに聞かせただろうが、車ン中でさ!神通も聞いてたじゃん!」

「あー、でも私ドラムしか聞いてなかったし。あのバンドのドラマーは神様だよね」

「ペイジは確かに偉大かもしれませんが好みに合いません。何よりイングヴェイ様と比べれば下郎ですから」

「分かってるけど分かってないなーあんたらはさー!」

「私はドラマーなんだから仕方ないでしょ……」

「もうちょっとUKに敬意を払えってんの!」

「時代は北欧だというのに……」

「いつから始まったってのそんな時代は!」

 

 多分ごもっともなお叱りなんだろうけど、私は本当にJロックの人なのだ。そっちなら当然多少は分かってるんだけども……。

 これ見よがしに大きく溜息を吐いて、上姉ちゃんは椅子に座り直し、

 

「……んで、どうすんのさ。こいつ100万は出せないし、私も出させる気はないよ」

 

 よく分からないけど、何故かここで完全に味方になってくれてしまった。まぁ、実際そこまで出すのはキツいし……。

 すると下姉ちゃんは、

 

「ええ、ですから誠意の分だけ出してもらいます」

「え?」

「あ、そっか。んじゃいいのか。……でもペイジを下郎と呼んだ罪は重いよ。泣きたくなるまで天国への階段弾かせてやるからね」

「……」

 

 しかし、なんだろう。この違和感、いや、今感じたことが、長年の謎の鍵……というか、何か分かっちゃいけないものが分かってしまうような、予感が。

 

「下姉ちゃん」

「なんですか」

「タイプの男性は?」

「イングヴェイ様です」

 

 即答かよ。

 でも……ああー、うん。そういうことか。

 

「どこが好み?」

「顔も性格もスタイルも演奏も全てです」

 

 いよいよ何かマズいものに直面していると気付いた上姉ちゃんが、貧乏ゆすりの動きで床を踏み鳴らし始める。そして真顔で、

 

「……マジ?」

「天上天下唯我独尊、それを裏打ちする確かな才能、凄み、そして貴族的な容姿の変遷……」

「……」

 

 うん。もう、何も言うことはない。

 

「根性ひん曲がってるだけでしょあのデブ、ってかまさか、むしろそれが――――――」

「素敵です……太り始めてからは愛らしくて……」

「ワーオ」

 

 私の姉は、人間としてダメな男が好きなんだ。しかも性格が苛烈にネジ曲がった方に……。

 これはとてつもない欠点だった。まぁ、バランスだ。凄まじい才能に恵まれて、人格面もスパルタすぎること以外、特に問題はない。だからその裏に、

 

「……不遜になじられたいのです。見下してなじりたいのです……抱き合って転がるように、上と下を延々と入れ替え続けて……ああ……ああ……!」

 

 こんな核爆弾が潜んでいたというわけだ。

 そしてそれが信仰というには明らかに危うい、いわゆる性癖であるということが、拍車をかけてマズい。

 しかもマゾじゃなくてサドマゾというあたり業が深い。

 

「オイオイオイオイこいつはヤバいよ……」

「うん、マズい。―――――――私達誰も結婚できないよ」

「……私を一緒にするなよ、ダメ人間」

「それに自覚はあるけど上姉ちゃんも大概だからね」

 

 どうしよう。

 本当に水川家、断絶の危機です。



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私は"少女"だった

2019/01/29
ちょっと加筆です。

2019/04/03
通販の扱いについて考証し直しましたので加筆。


 というわけで、私は40万を銀行口座から下姉ちゃんに送金することになった。私の誠意40万というのは下姉ちゃんにとって嬉しい誤算だったみたい。実のところ、そもそもギターと他の機材とかを合わせて100万を軽く超える予算をとっくに準備していたらしい。それが思わぬところで浮いたのである。だから迷わず、アンプとかも高級品を買った。ヘッドとキャビネット合わせて30万。それにイングヴェイ……様のエフェクター、それとマルチエフェクター、シグネチャー弦、ピック、シールドケーブル、その他諸々を揃えて予算を見事に使い切った。いやもう、清々しいくらい金を使ったものだと思う。下姉ちゃん曰く、”Play Loudの時なのです”だそうだけど、意味がわからない。

 

 ちなみに通販だけど、送り先と受取人を”大湊警備府”にすると自動でセンター止になる。そして私の場合だけは受取人を”坂神紫苑”にするように言われている。

 それらは軍のトラックが回収して持ってくる。

 

 さて、ある日の夕方頃にズドーンと荷物が届いた。守衛さんがかなり面食らっていた。提督を除いて、警備府たった一人の人間のスタッフである。

 

 とりあえず、私達が愛用する酒持ち込み用台車が役に立ってスムーズに荷物の運び込みは出来た。……まぁ、寮の部屋には流石に持っていけなかったけど。スペース的な問題で。それで食堂の演奏スペースに直行である。するとあら不思議、ただでさえバンド楽器で一角を占領している食堂は……なんだここ。本当になんなんだろう。音楽が聞けるお洒落なレストラン、ではまかり間違ってもあり得ない。喫茶店……にしちゃあやたら広い。ライブハウス……薄暗さがまるで足りない。謎の食堂、それが一番正しくてけれど意味がわからない。

 

 演奏スペースには、マーシャルのスタックアンプが右手にズドンと鎮座、シンセサイザーとアンプを押しのけた。それでベースアンプとキーボードアンプが仲良く左手に並ぶ。そして中央のドラムセット。ギターアンプの威圧感に押されてて……結構いかついセットだと思うんだけど、なんだか萎縮しているようにすら見える。

 

 それで厨房でせっせと夕食の準備がされていい匂い漂う中、電源コードの配線し直しが終わった。

 すると、上姉ちゃんが一歩離れてステージらしきこの場所を眺めて、ぽつねんと、

 

「……これさ」

「うん」

 

 私はなんとなくその右隣に立って相槌を打つ。

 

「どう見てもロックバンドだよね」

「絶対そうなるでしょ」

「なにか不満でも?」

 

 腕を組んだ下姉ちゃんが更に並ぶ。どこから見てもご満悦にしか見えない。

 そして上姉ちゃんは一度首を傾げると、

 

「……ザ・フーだよね?」

「アルカトラスです」

「ごめん私どっちも分かんない」

 

 私がお手上げという感じで肩をすくめると、2人は異口同音、違うテンションで、

 

「はぁ!?」

「はぁ……」

 

 上姉ちゃんは半ギレ、下姉ちゃんもテンションは低いけど半ギレ、結局どっちも半ギレだ。

 

「おい神通、ストラトでUKならピート・タウンゼントだろ」

「ストラトでUSAならイングヴェイ様です」

「やるかおい」

「望むところです」

 

 今度はバンド名、ギタリスト……だよね、その名前を挙げた2人ですわバトル開始か、と思っていると、

 

「……おい那珂、この構成で日本のバンド挙げな」

「え?」

 

 なんで私を巻き込むのか。

 

「どうしてそこで日本のバンドなんですか。アルカトラスでいいでしょう」

「那珂が分かんないだろ、どーせ」

「いやわかんないけど、実際」

 

 この構成の日本のバンドなんていくらでもいると思うんだけど。

 でも、パッと思いつくのとなると……

 

「じゃあ、POLYSICS?」

「どんなバンドですか」

「変なバンド」

「じゃあボツ」

 

 じゃあ聞かないでよ。

 

「次」

「他には?」

 

 まだ聞くんだ。

 ……でも意外と思いつかない。

 いやこのバンドがあった。

 

「フジファブリック……」

「どんなバンドですか」

「あー名前は聞いたことあるかな。どんなんだっけ」

「ポップめなロック」

「ボツ」

「軟弱な」

 

 文句が多い姉達だ。……まぁ、フジも初代ボーカル・ギターが亡くなってから4人体勢になっただけで、実のところ5人バンドだ。まぁ、それはいいか。私も嗜み程度に聞いているだけで、ホントの好みというわけではないし。

 

 じゃあ、ちょっと路線が変わって、

 

「ねごと、とかは?」

「どんなバンドですか」

 

 もうそれと文句しか言わないマシンになりつつある下姉ちゃん。私の意見を聞く気があるのかないのかさっぱりわからない。

 ともかく上姉ちゃんは、

 

「……どんなバンドなのさ?なんか、ネーミングの時点でゆるふわって感じがするんだけど」

「ガールズバンド」

「ボツ」

「女々しい……」

 

 特に下姉ちゃんは自分が生物学的になんなのか分かってるのだろうか……。

 でも上姉ちゃんは釣れる要素が一つある。

 

「ブンサテの人が最近プロデュースしたんだって」

「ブンサテ?……ってことは……うん、編成に合わないじゃん。やっぱボツ」

 

 好きと可能かどうかは別らしい。美味そうだけど食えない餌がしっかり分かっているというのは、なんだか、うん。

 

 じゃあ、ちょっとキワモノだけど。

 

「神聖かまってちゃん」

「変なやつでしょ」

「ボツですね」

 

 なんで名前だけで即答するかな。

 

「まぁ確かに変だけどボーカル・ギターが変なやつってだけで」

「おい、私は変か?」

「私が変だとでも?」

 

 変人だよ、かなり極めつけの。……とは言えずに、私は言葉を引っ込める。

 となると、もうボーカルはカウントせずに楽器隊が4人ってやつをピックアップするしかない。私も大概偏ってるから、提示できる選択肢は多くない。……うーん、コレは、どうなんだろう。

 

「なんか思いついた?」

 

 私が頭を捻っていると、私が言おうか言うまいかを迷っていることに気付いて、上姉ちゃんが言葉を促してくる。

 うん、まぁ、言うだけなら。

 

「筋肉少女帯」

「名前は知ってるなぁ。どんなんだっけ?」

「……変なバンドでしょう。変な名前ですし」

「うん、変なバンド。思いっきり病んでる感じ。実際はボーカルが楽器持ってないから、楽器隊の編成が合ってるってだけなんだけど。しかも昔の頃の編成だし。ギター、ベース、キーボード、ドラムだったのって」

「ふーん……」

 

 上姉ちゃんはなんだか興味があるらしい。下姉ちゃんはほとんど興味を示してないけど。

 

「よし、聞いてみよう。ボーカルなら私がやれるし。五十鈴も呼んでこよっか」

「姉さんがそう言うなら……」

 

 え?

 なんで候補に残っちゃったの?

 言っちゃあ悪いけど、なんであんなのが……。

 

 

 ●

 

 

 それで、生の音声・物音がアウトだから携帯のショートメッセージで五十鈴さんを起こして呼び出し、それで寮の談話室で集合。

 大きなテレビとホームシアターまで入っている、その上ソファが円形に並んでいて、はっきり言って豪華もいいところ。多人数でつるむって感じの人間が少ないから持ち腐れ感はすごい。ちょっと昔、瑞鶴さんの快気祝いはここでやったんだけど。

 そんなところで筋肉少女帯の曲を鳴らしてみることになった。……しかも初期も初期のやつを。

 テレビはと言うとやけに高性能で、スマホから映像を飛ばせるというすっごいやつ。これで映像も見せられるのは、いいのか悪いのか……このバンドの場合。

 

 テレビと画面を同期させながら、私がスマホをいじくり回す。

 その隣でテレビ画面を指差しながら、

 

「で、那珂。どれがオススメなのさ」

「……私、ロックバンドってあなたのバンドくらいしか知らないわね。初体験かも」

 

 なんだか楽しそうにしている五十鈴さんだけど、今回はイヤホン付きだ。音楽を鳴らしながら、その向こうで聞こえる私達の話を聞いている。よく聞こえるなぁ、と感心しきりだ。

 一方で下姉ちゃんは、

 

「変なバンド名の変なバンドですから、あまり期待しないほうがいいでしょう」

 

 候補に残しておいて何を言うのか。

 ともかく、私も知ったきっかけはまぁ近年のソロ活動からなんだけど、確かにファースト・アルバムが衝撃的だった。しかも今でも収録曲がライブで演奏されてるという、普通に考えれば名盤中の名盤だろう。

 

 選ぶのは筋肉少女帯『仏陀L』の収録曲から。

 

 私の携帯の中にはデータの持ち合わせが無かったから、動画投稿サイトから見つけるしかなかったんだけど……、まぁ、探したら見つかった。オリジナルじゃなくて、ライブ映像がおあつらえ向きに。

 

 画面にずらりと並ぶ『仏陀L』関連の動画を眺めながら、上姉ちゃんが、

 

「で、まずは何て曲から行くのさ」

「うーん、まず私としては、これかな。メジャー一枚目、その一発目からコレってタダのバンドじゃないって明らかに分かるやつ」

 

 そう、筋肉少女帯はただのバンドではない。

 どうしてあんな人材が集まってしまったのか、それが未だに私にはわからない。

 

 そして、

 

「んで、それが『モーレツア太郎』」

「……漫画のタイトルだっけ」

「やはり変なバンドではないですか……」

「ロックバンドって、もう少しかっこいいタイトル付けると思ってたけど……」

 

 三者三様、さっそく候補に挙げたことを後悔しつつあるらしい。まぁ、聞いたとして見直すのか首の角度がさらに急になるのかは、わからないけど。

 

 とりあえず、再生開始。

 すると映ったのは……、

 

「……何この人。ヤクザ?マタギ?」

 

 なんか、ピアニストらしからぬピアニスト。しかも弾いているのが、

 

「……コレ、ロックのイントロじゃないでしょ」

「完全にクラシックだわ……」

 

 全くそのとおりで、ここからどう展開してもロックに持ち込むなんてことは出来ないだろう。

 

「この姿でこの音色……?」

「……驚いたわ、素晴らしい表現だわ」

 

 疑問もまっとうだし、感動もなるほどプロから見ても上手いのか、納得。

 それで、固唾を飲んでピアノ独奏を見ていて、それが終わった途端。

 

 Eコードでドジャァーンと爆音。

 ロックに展開できないからブチ切って再スタートなのだった。

 

「どぉわっ!?」

「きゃっ!」

「うぇ!?」

 

 音量差がやたら激しいから驚いて、当然だけど大体同じリアクション。

 まぁ、普通そうなるだろうなぁ。私はある程度覚悟してたからノーリアクションだけど。

 

 そしてボーカルがタイトルコールして曲が始まり、

 

『モォォレェ――――――――ツア太郎!』

 

 ……そしてしばらく聞いて、

 

「なんじゃこりゃあ……」

「何なんです、この下手なボーカルは……」

「クラシックとロックを混ぜたら混ざってなかった感じがするわ……」

 

 良くも悪くも度肝を抜かれている。まぁ、私もアルバムを聞いた時は本当に言葉がなかった。意味不明な歌詞、技巧ガン無視のボーカル、そして無駄に高い、高すぎるバック陣のレベル。最後に何より、これをデビューアルバムの一発目に持ってくるというクソ度胸だ。間違いなく伝説の幕開けだったんだろう。私は当時生まれても居なかったんだけど、当時の人にとってはそうだったんだと思っている。

 

 曲の内容はメタメタだ。

 やたらパンキッシュ、負け犬根性を隠せない歌詞。

 これぞ初期衝動丸ごと、原石にして完成形。

 ……ここから進化していくにつれて、よりプログレ寄りへアプローチしたり、ちゃんとHR/HMっぽくなったりもした。けれどそこにはきっちり文学的な面、近代日本的な”おぞましさ”をプラスしていて……。そうして彼らは決して換えのきかないバンドになっていった。

 プログレ、パンク、ニューウェーブ、ハードロック、ヘヴィメタル……彼ら、たかがいちバンドを語るのに、ジャンルがやたらたくさん必要になる。音楽性が変化していっただけじゃなくて、一曲とは言わないものの、一アルバムを語るのに今挙がったワードを全部使い切るような時もあったと思う。

 

 彼らは革新的だった。そしてそれが行き過ぎて、言っちゃあ悪いけどロックの極北だったと思う。それを更に先鋭化していくようなバンドはいなかった……少なくとも、私の知る限りでは。だから最終的に彼らが行き着いたところは、ロックという音楽における終端の一つだと、私は考えている。

 そして、実は私。

 このバンドがちょっと苦手なのである。

 何故かと言うと、彼らはあまりに鬱屈としすぎてる。全体が死の哲学で満ちているというか。

 明るい曲だって聞いたけど、やっぱり”死”という大きなテーマが背後に見え隠れしている。精神が不安定な時に一番刺さるけど、私の場合、癒やされるどころかどんどん沈んでいった。色んな意味でハマってしまったバンドだ。

 

 ……で、そんなバンドの一発目を聞いてみんなの感想は、

 

「変っつーか、気持ち悪いバンドだけど……なんか、他も聞きたいかもしんない。やりたいわけじゃないんだけど」

「それより、ギターソロを聞ける曲はないのですか」

「私はピアニストの人が気になるわ……なんでロックバンドに?」

 

 もうお決まりだけど、またそれぞれ違う感想。

 そんなわけで、まだ他の曲を聞くことになった。

 

 

 ●

 

 

 例えば、

 

『サンフランシスコぉ!』

 

 だと上姉ちゃんの感想は、

 

「変な歌詞だし何言ってるか分かんないから調べたんだけどさ……ずっと思い違いしてんのね」

「ハマってた頃にライブ映像よく見てたけど一回も綱渡りしてないね」

「作詞者誰さ」

「……作詞、大槻ケンヂ。多分」

「自分で書いたのに忘れるかぁ……?」

 

 下姉ちゃん、五十鈴さんのクラシカル組は、

 

「イングヴェイ様とは違いますけれど、凄まじく鬱屈したものを感じるギターソロでした……」

「ピアノソロがすっごくドラマチックだけど……ギターソロの方は強烈さが足りない気がするわ」

「確かに、物足りないものがありますね」

「ピアノソロは書き直したらしいけど、ギターソロはそのまま、んで合体させちゃったみたいなんだよね」

 

 で、最終的には、

 

「やりたくはないけどもっと聞きたくなってきた。次」

 

 上姉ちゃんの決定に2人が頷いて、私は更に動画、音源を探すことに。

 

 

 ●

 

 

『ダァメダメダメダメ人間!ダァメ!にんげーん!にんげーん!』

 

「コミックソングだったね」

「特に何も気になるところはありませんね」

「ピアニストの人はもう居ないのかしら……」

 

 散々である。

 ……多分ダメ人間を見ても心が痛くならない人達だからだろう。

 私?ハートがズキズキと痛い。むしろズビズバと切られてる感じ。

 それはともかく、では次行ってみよう。

 

 ●

 

 

『ばあさんとボウリング!』

 

「まーたコミックソングかと思ったけど何だこれ、いい曲じゃん……やべ、泣けてきた」

「何故フライングVであんなフレーズを……逆に寒気がします」

「……コレ、バンドっていうかただのカラオケじゃない?」

 

 なんだか上姉ちゃんには刺さったらしい。他2人の感想は芳しくないけど。

 私も年寄りになったらこうして人を慰められるようになるんだろうか。なれそうにないな。まず私、ばあさんになるまで生きられるんだろうか。というか、誰かのばあさんになれるのかって話。結婚のこと。

 

 もう良いや、また次行ってみよう。

 

 

 ●

 

 

『なぁがぁれゆけよぉおぉおおおおおお』

 

「……酔ってるねー」

「……そう、ですね。酔っぱらいです、これは」

「私、初期の方が好きだと思うわ」

 

 リアルに薬を数種類常備していた中学生一、二年生の私にとっては、死ぬほどこの曲が刺さったんだけど、やっぱりアレだ。

 筋肉少女帯は私のような、いわば少数派と多数派のはざまにいるような、そういう”弱者”に刺さるけど、

 

「なんつーか、女々しいなぁ。ナヨっとしてるよね、大槻ケンヂ」

「負け組根性の染み付いた歌詞が気に食いません」

「私はピアノの三柴氏の関わった曲が聞きたいのよね」

 

 こういうなんだか”強い人”達……どこか病んでるし、決して弱さがないわけじゃないんだけど、そういう人とっては、『音楽性に見るところはあるし、曲は面白いのもあるけれど……』って感じ。

 つまり、嫌いじゃないけど好きでもないという。

 

 こう、聞かせていて居心地が悪かったって、あったよね、そういう経験。

 

 筋肉少女帯は、”ドグラ・マグラ”の呪いにかかって手首を切った私が、その後また手首に刃を当てた、そんな時にまるで引き摺り込まれるようにはまり込んだバンドだ。

 私はある種正気じゃなかったわけで、つまり人と会話にならないってやつ。そんな人間の嗜好が元気な人間のそれと噛み合うはずもなかったわけだ。仕方ないか。

 

 例えば……夜中に襲ってきたパニックの中、”死ぬ”という言葉と概念が頭の中を支配して、それでどうせ死ぬならサンフランシスコに旅に出たいと思って、でもとっくにヒッピームーブメントが終わっていることに気がついて、結局また塞ぎ込んだ。そんなこともあった。そんな思い出もある。

 

 ――――――――でも、そのうち私は別のバンドと出会って、その圧倒的すぎる”生”のエネルギーに当てられて、音楽にようやく熱中し始めた。

 あんなにも一七歳が待ち遠しくなった。

 言葉にはならなかったけれど、その時に”生きたい”と感じていたんだと思う。

 両親は私が元気になったこと、それと『目に火が着いていた』っていうことに感嘆して、私が『欲しい』とぽつんと言った、ドラムセットを与えてくれた。とりあえず私は元気になって、はい、めでたし。

 それが私というロッカーの始まり。

 

 そうか。多分、私が今皆に聞かせたいのって、そういうバンドなんだ。

 意を決して私は口を開いて、

 

「あのさ、こんなバンド知ってる?」

「ん?なんだ妹。……珍しく目に火が着いてるじゃん」

 

 上姉ちゃんがニンマリと笑って、私は少し安心した。

 

 確かに編成は違うし、音楽性だって、メタルでもUKでも、ましてやプログレッシブでもない。私が出会った別のバンドっていうのは、そう。

 

 福岡市博多区からやってきた傾奇者。

 生への、性への飽くなき執着、架空の青春を与えてくれる教祖。

 ”一七歳”を聖なる言葉に一層押し上げた扇動者。

 やたらと登場する”少女”というワードから推し量れる、あまりの青臭さ。

 

 ……中身は、目のヤバいお兄さん、ボーカルギター。

 誘い文句の意味がわからなかったベーシスト。

 ”おとなしい子”のギタリスト。

 暇になったところを誘われたドラマー。

 

 多分、普通のバンドだ。それだけを取ってみれば。

 

 でも私はそんな彼らの……”伝説のバンド”の系譜に名を連ねている。

 このことを誇りに思っている。

 そのバンドは、

 

「ナンバーガール」

 

 と、発します。



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夜も更けて青空は一層眩しい

ただのナンバーガールの布教になってますが気にしない。

2018/08/02
夕張の音楽の好みを追記。


「ナンバーガール、ねぇ。なるほどなるほど……」

 

 私の問い掛けに、上姉ちゃんは曖昧な返事。スマホに視線を落としている。

 ……私の話、聞くんじゃなかったの?

 下姉ちゃん、五十鈴さんはというと、

 

「どんなバンドですか」

「私、ロックは本当に疎いから分からないわ」

 

 いつもそれ言ってるなって感じだ。五十鈴さんはともかく、下姉ちゃんは何か別のパターンを用意して欲しい。

 まぁ、とりあえず説明申し上げることにしよう。

 言うなれば、あれは……

 

「……どう言えばいいんだろうね」

 

 私が自分で首を傾げてしまった。いや、言葉はあるのだ。でもどれもピンと来ないのだ。

 激しい?そりゃあ激しいよ。でもそれが本質だとは思えない。

 熱い?そりゃロックだし当然だ。当たり前のことを言っても仕方ない。

 男らしい?……うん、まぁそうだよね。さっきまで女々しいとか言われてばっかりだったから、

 

「男のロック」

 

 と、大雑把に説明。間違ってはいないと思う。

 

「ヘヴィメタルですか?」

「クラシックもどっちかと言うと男性的なのが多いと思ってたのよね。そういう系統?」

 

 何か勘違いさせてしまったようなので、私が弁明しようとすると、

 

「いやいやお二方、そういうのとはこいつは違うね」

 

 上姉ちゃんが先に口を出した。……その口ぶりだと、知っているってことかな。

 

「ナンバーガールは……オルタナティブ・ロックだ!」

 

 スマホを片手に、チラチラ見ながらそう言った。……画面がなんだか白地に黒字で埋まっている。

 つまりWiki調べによる情報だ。言わなくても分かる、ジャンル分けはあんまり知らないんだな、と。

 知ってても名前だけとかその程度。

 

「オルタナティブ……とは?」

「”Alternative”……は、どういう意味だったかしら。そんなには使わない単語よね」

「”二者択一の”って形容詞。らしい!私の好きなレディオヘッドもオルタナだってさ!」

 

 上姉ちゃんはまたもやスマホをチラッと見ながら元気よく、自信たっぷりに。

 ……Wiki調べでここまで得意げになれる人類を初めて見たかもしれない。

 

「二者択一ロック?……生きるか死ぬか……殺伐とした音楽ということでしょうか」

「いや、それは勘ぐり過ぎじゃないかしら?違う意味があるんじゃないの?」

「まぁ実際ナンバーガールは“殺伐”がよくテーマに挙げられるんだけどね」

「では合っているではないですか」

 

 いや、確かに向井は”殺伐”が大好きで、カウントにも『殺』『伐』を使わせたほどなんだけど……。

 そんなところでスマホに目を落としっぱなしの上姉ちゃんが、”止まれ”みたいな感じで右手を上げる。

 

「待て待て妹たちよ……”Alternative”には、”代わりの”という意味もあるらしいよ」

「代わりのロック……つまり本物のロックではないということではないですか。―――――軟弱な」

 

 いやだからどうしてそうなるのかなぁ。

 一応訂正すると、

 

「オルタナの“Alternative”は、確か……“代わりの選択肢”みたいな意味だったと思うんだよね」

「……代わりの選択肢ロック……?全くピンと来ませんが」

 

 まぁ、普通はピンと来ない。というか私自身オルタナが”どうしてオルタナティブなのか”をそんなに理解していない。私にとって、ロックは”生まれたときからそうだった”のだ。多分、オルタナの何がオルタナティブなのかが分かるのは……この中ではオールドロック上等な上姉ちゃんくらいだと思う。

 で、

 

「なになにピクシーズなどのオルタナティブ・ロックからの影響……ピクシーズはアメリカのバンドか……うーん、私はUKしか聞かないから、USはもちろんJロックもてんでダメなんだけどさ。そういや、ニルヴァーナってやつもオルタナティブだっけ」

「うん。よく知らないけど……グランジって括られる方が多いみたい。まぁ、あれはあれで下姉ちゃんからしたら軟弱なんだけど」

 

 洋楽派の上姉ちゃんは一応名前だけなら知っていた。そう、オルタナ系で世界的に有名なのは確かニルヴァーナだ。

 上姉ちゃんは少し考え込む仕草をして、

 

「スメル……なんだっけ、アレ。那珂、分かる?」

 

 曲名を思い出そうとしてたみたいだった。言わんとするその曲名は知ってる。

 

「私は一曲だけなら知ってる。上姉ちゃんが言いたいのは多分、”スメルス・ライク・ティーン・スピリット“」

「”10代の魂のような匂い”……詩的だわ。どんな曲なのかしら?」

 

 下姉ちゃんは”代わりのロック”など惰弱とぶった切ってるし、五十鈴さんはなんか違う想像をしてる。多分それはプログレッシブな方向を考えていると思う。けど、あれはそんなんじゃなかった。一曲だけしか知らないから、そのバンドを語ることは全く出来ないんだけど、

 

「ダウナーで乾いた感じの曲、だったかな」

「……詩的、とかではなくって?」

「歌詞も読んだことあるけど、なんだろ。俗語だったのかな……意味が分かんなかった」

「えぇ……」

 

 いきなりがっかりしている五十鈴さん、なんかノリノリだったのがいきなり消沈してる。けどまぁ事実として、

 

「しかもダウナーだけど耽美さとかそういうのは全くない、憂鬱な曲だったかな。でも耳に残るんだよね」

「ま、やっぱ売れた曲は耳に残るものだよねぇ。普通はさ。思い出にだって残る」

 

 上姉ちゃんが締め括る。なんか耳に痛い気がする。そういうものからは遠ざかっていようとしてきたつもりなんだけど、なりたくないものになってはいないか、みたいな。

 ちょっと改めて聴いてみたくて、

 

「掛けてみる?まずオルタナ入門みたいな感じで」

「おう、掛けろ掛けろー。US系はほとんど初体験だしねー」

「そんなに興味は湧かないのですが……姉さんが言うなら」

「私も逆に気になってきたから、いいわよ」

 

 それなら、と私は動画共有サイトの検索フォームに曲名を打ち込んで、適当に動画を選んで流し始めた。

 

 

 ●

 

 

 で、感想は。

 

「ダウナーだけどさ、ぶっちゃけポップだと思ったね。すっげーとっつきやすい曲だった。でもレディオヘッドとか、UKのオルタナとは違う感じだった」

「極めて単純な曲でしたが、確かに、耳に残りやすい曲。そうですね」

「あなたの言った通り、乾いた音楽だったわ。歌詞もちょっと、汚いし」

 

 評判は……どうだろう?

 良くもなければ悪くもないみたいな。『さすが有名だねー』ってところ?

 それとスマホに目を落としっぱなしの上姉ちゃんは付け加えて、

 

「これさ、ボーカル・ギターのカート・コバーンって奴はこの曲が嫌いなんだってね。……自分で作った曲を自分で嫌いって言っちゃうってさ。なんだか、奇妙な話だよね」

 

 なんだか、しみじみとしているんだけど、多分あんまり分からないんだろう。

 自分の意思じゃない、何か別の意思によって作らされるというか。それか、自分自身が心変わりしてしまうというか。上姉ちゃんは、そういった”ブレる”ということからは縁遠いと思う。

 

 私自身は、カート・コバーンみたいな目にあったことはない。幸運なことだと思う。

 私はバンドで作った曲が好きだし、演奏していて楽しい。人気がある、売れるというのは嬉しいと思っている。

 それにバンドの曲作りにプロデューサーが干渉してきても、それは”よりよくするもの”だった。と言うより、もしかすると私達の音楽性そのものが割と”それなりに売れる音楽”だったのかもしれない。いや、そういうことなんだろう。プロデューサーは基本的に、”曲を売る”ことを最上の命題とするから。そして私達のプロデューサーは、”売れるものは良いもの、良いものは売れるもの”という哲学でいる。多分、ミュージシャン側に寄り添ったそれだと思うのだ。

 結局のところ、非商業主義とか、アンダーグラウンド志向とか言っても曲は”売り物”なのだ。私は音楽を商っている時点でそれを受け入れた。そして、売り物として恥ずかしくないレベルに私自身を高めてきた。そのつもり。

 はっきり言うと私は、宇宙一の超天才とかそういうアーティスト以外は、ディレクションやプロデュースを受けなきゃならないと思っている。音楽は産業……というと、なにか語弊があるかな。そう、ものづくりだ。だから目の利く人間が居てくれたほうがいい、そういうことだと思う。そして的確に口出しをしてくれるなら尚更だ。そもそも、それがプロデューサー達の飯のタネなんだし。

 

 でも、カート・コバーンは違ったんだろう。

 自分で嫌な曲を作る人間はそう居ない。その例外が彼だった、とは思っていない。

 彼は、作ってから嫌いになってしまったのだ。それがどれだけ辛いことかはわからない。

 自分で作ったものを自分で否定する、それはただ何かを嫌いになるのとはわけが違う。

 

 自分を嫌いになる、ってこと。

 あるいは、過去の自分に、自分が傷付けられているのかも。

 

 ……そういうことを考えていると、上姉ちゃんは、

 

「もう一曲掛けてよ。なんか、気になる曲があるんだよね」

「……ん、どんな曲?」

「ユー・ノウ・ユア・ライト。”君が正しいって君は知ってる”……って訳せばいいのかな。コバーンの生前には世に出なかった曲だってさ。どんなもんか聞いてやろうって思って」

「分かった。一応、スペルは?」

「ユアはユー・アーの短縮形。あとは訳から分かる?」

「分かる。……こうかな」

 

 “you know you’re right”。

 

 正直、嫌な予感しかしない。というか、ぶっちゃけとっとと本題のナンバーガールを聴かせたい。

 けど、まぁ。

 売れた曲への憎しみ、そんな自己嫌悪の果てについに世に出ない曲、つまり一枚も売れない曲を残して死んだ。

 そんな彼の、望み通りの徒花を聞いてみよう。……まぁ、こうして世に出たから聞けるんだけど。

 

 一方、会話に参加しなかったクラシカル大好きの2人はと言うと、

 

「……後でジェット・トゥ・ジェットを流しなさい」

「私は少し寝るわ……あなたの曲ってすっごく落ち着くのよ……」

 

 ソファーでふんぞり返ったり、イヤホン突っ込んで寝っ転がったり。

 

 なんだろう、私達。

 ロックバンドらしき何かになった途端、すごく溝が深くなった。

 

 

 ●

 

 

 予感どおり……ひどい曲だった。

 スメルスのような、なんだか気の強い部分とか、ちょっと明るい部分とか、そういうのが全て取り払われた、本当の奈落みたいな。

 これを残して死んだ、なるほど納得。

 上姉ちゃんはもうお決まりになってきたけど、スマホに視線を落としている。

 そして、口を開いて、

 

「酷いね。……コレ、売る気あったのかな」

「まんま遺書だよね。遺書そのものは別にあるみたいだけど、ミュージシャンとしての遺書というか」

「また歌詞見ながら聴いてたんだけどホントそうだよ。ちょっとくらいなら私だって暗くなるけど、よくここまでになれるね、人間ってさ。いっそ感心モノだ」

「……」

 

 いや、それにはちょっと閉口してしまう。

 何しろ私がその暗ぁーい人間の一人だからで、挙句の果てにと言うべきか、一応はと言うべきか、手首まで切ったのである。あとそうだ、点滴のチューブで自分の首を絞めたりとかもしたっけ。大昔のリストカットをカウントしなくても、2回自殺未遂をやらかしている。……人殺しのくせに。でもそのときのことも、もうあんまり思い出せなくなってきてる。割と正気の今は、狂っていた頃のことは遠く感じている。取り返しの付かないことを背負い続けるためには、少しずつ軽くなっていかなくちゃいけないのだろうか……なんて。

 だから言い返すとして、そうだな、

 

「ちょっと前の私はこれくらい酷い気分だったかもね」

「……ああー、うん」

 

 私がそう言うと、上姉ちゃんはサングラス越しにも分かるくらい目を丸くして、それからばつの悪い顔になった。

 わかればよろしい……なんて言うのもはっきり言って情けないし、厚かましいんだけれど。

 私の場合、特に。

 

「もうニルヴァーナはいい?」

「ああうん、もういいや。USオルタナも入門したね。で、本題だよ。ナンバーガール」

「うん、そろそろ聴かせたかったし。五十鈴さん起こそうか」

「あなた達」

 

 そうして五十鈴さんはともかく、下姉ちゃんを放ったらかしてると、

 

「イングヴェイ様のギターを聴いて空気を変えましょう」

 

 ブスッとした声で提案。

 ワオ、なんだかまっとうな意見に聞こえてくるから不思議。

 

 それで適当にアルカトラスのジェット・トゥ・ジェットで検索してライブ映像を見つけたんだけど、

 

「”Alcatrazz”ってあるから、コレ?」

 

 私がスマホから複製されたテレビ画面を指差すと、下姉ちゃんは首を振って否定。

 

「それはスティーヴ・ヴァイの演奏です」

「え、イングヴェイってアルカトラスのギタリストじゃなかったの?」

「加入後、程なくしてお辞めになりましたから。イングヴェイ様がアルカトラスでジェット・トゥ・ジェットを演奏している映像は、私が探した限りでは見つかりませんでした。なので、イングヴェイ様が演奏しているということを優先して下さい」

 

 だってさ。つまり、

 

「これ?」

 

 モロに名前に”イングヴェイ・マルムスティーン”って書いてあるやつ。

 

「そうです、それです!」

 

 上姉ちゃんがちょっと口寂しそうに唇を歪めながら、

 

「聞くの初めてなんだけどさ。ご機嫌なやつ?気分爽快な」

 

 首だけぐりんと回して、下姉ちゃんに問いかける。それに下姉ちゃんは、

 

「姉さんのお望み通りの曲だと思います!」

 

 もう顔まで赤くして、興奮して売り込みに掛かっている。

 いやもう、本当に好きだね……。

 そのご期待にお応えして、そのご指定の動画のサムネイルをタッチ。

 

 ……いきなり始まる、一聴して忘れられなくなるような印象的なギターリフ。しかも当然すっごくカッコいい。

 私のようなJロック、あるいはオルタナ人間の発想とは違う。多分、これが”カッコいいというフォーマット”なんだろう。言うなれば、ロックの本来の様式に沿っているというか。

 だからか、元祖志向の上姉ちゃんはやはり思い当たる何かがあったらしく、

 

「……なんつーか、パープルの血を感じるなぁ。USなのにさ。てかよく見たら……イングヴェイってブラックモアのコスプレしてるわけ?」

「分かりますか、姉さん!」

 

 下姉ちゃん、食いつきが良い。イングヴェイについて語りたくて仕方ないと言うか。私はブラックモアがどんな人かは分からないんだけど。

 

「ん、なんかやっぱパープルと関わりあるの?」

「イングヴェイ様のルーツはリッチー・ブラックモアですから」

「おー、なるほど。しかし徹底したブラックモアのフリークだねぇ。カッコまでまんまなあたり」

「それだけではありません。クラシックの要素をより一層取り込んだのがイングヴェイ様の様式なのです」

 

 すかさずイングヴェイを上げていくスタンス、他人をこうまで褒めちぎるというか、称賛するというのは正直あまりにも見たことのないシチュエーションで、私としては不気味さすら感じる。

 けど上姉ちゃんはそれを意にも介さず、ぽろりと、

 

「へぇ。でもさ。――――――――それってつまり、実質UKじゃないの?」

「えっ」

 

 下姉ちゃん、絶句。

 なんか手が震えだしてるし、頭を抱え始めた。

 

「わ、私はUSメタルファンのはず……いやでもディープ・パープルの、リッチー・ブラックモアの系譜に連なるイングヴェイ様の音楽を嗜好するということは、つまりディープ・パープル、UKのファンということに……」

「いやいやいや、そんな三段論法にはならないけどさ。音楽性はUKの系譜だよねってだけで」

「私のUSは、本当はUKだった、ということですか……」

 

 いや、うん。その。よくわかんないけど。

 イングヴェイは実はUK直系のギタリストで、それをアメリカのバンドでやっただけであって、本当のUSの音楽性とは違う、ってことなのかな?

 それだけでアイデンティティが崩壊し始めている。

 ……なんだろう、人の音楽性が音を立てて崩れる瞬間を初めて見てしまった。音楽性とかのを出来るほど下姉ちゃんは演奏家ではないんだけど。というか初心者だし。機材がいかついだけで。

 

 それでひとしきりなんかブツブツ言った後に、

 

「私はイングヴェイ様をお慕いしているのです」

 

 据わった目で、

 

「ですから、USだろうとUKだろうと北欧だろうとイングヴェイ様がイングヴェイ様であることに変わりはないのです」

 

 なるほど。そういう防御方法もあった。いや、むしろ音楽好きとしてある種の正解なのかもしれない。

 自分を無理にジャンルに当てはめないっていうのは健全だと思う。ただ個人への狂信は病的なんだけど。

 

「うん、あんたがそうならいいんだけどさ。……じゃあパープル聞こうよパープル。武道館のやつ!」

「私もロックに目覚めました……イングヴェイ様を絶対的頂点に置き、それを基準にあらゆるものを取り込みましょう」

「おうそうだそうだ。ルーツも勉強して、そこから色々とムーブメントを追体験しようじゃないかいみんな」

「……」

 

 あのさぁ。

 本題からなんで遠ざかっていこうとしてるんだいあなた達は。

 ジャパニーズオルタナティブに一向に入っていけないじゃないか。

 それかあれだ、ロックの歴史を本当に追体験しようとしているんじゃあるまいな。

 それとも『メタルにも飽きたなー』まで行ってからオルタナに入ろうとしてるのかい。

 というか日本は海外にそこまで影響を及ぼしてきていないから、結局Jロックへの道筋がないじゃない。

 いや、もう一度ニルヴァーナを経由して少年ナイフで入って来ればいいのか。

 でもそんな七面倒臭いことはやってられない。

 

 それことを口にすることは出来ないから、私はもう行動で示すことにした。

 2人が画面を見ていないのをいいことに、私はスマホを操作して準備に掛かる。

 

「そんでさぁ、メタルって言うならメタリカってのもあるじゃんさ」

「メタリカも少し聞きましたがミスが多すぎて笑い者です」

「おっと隙あらば他のギタリストをディスっていくなあんたさぁ」

「メガデスは演歌の心があると言います。そこから日本の音楽に入っていくというルートも」

「演歌かぁー。私らも年食ったら良さが分かるのかねぇ」

 

 私を放っておいてなんか、話が進んでいるけど。構うことはない。

 

 そもそもの話。

 私の本領というか、直接的な影響元は”凛として時雨”のピエール中野のドラミングだ。

 けれど初期衝動、始まりの原動力は違う。”ナンバーガール”というバンド”そのもの”だった。

 今でもふと聞きたくなって聞く。そして、それを追い掛けている自分に気がつく。

 でも、私は彼らにはなれない。

 ピエール中野にもなれない。

 だから私なりに追い掛けてきたけど、追いつけない今がそれで良いのだと受け入れている。

 そうしてどこか別の道に外れて、走った距離くらいは並ぶことが出来ればいいと、そう思っている。

 

 私はドラマー。ポスト・ハードコアを信条とする、誰よりも喧しくなりたいドラマーだ。

 私は心を音にしたいだけ。頭が音でいっぱいになっていて溢れ出してくるだけ。

 そうしてもいいのだと先人が教えてくれたから、それをやりすぎなくらい徹底しているだけの。

 多分、それが今の私だ。

 

 だから、その始まりを共有したい。

 誰も彼もが追い掛けていたものを、私は今でも追い掛けているということを、素直に吐き出したい。

 私の”芯”をぶつける。

 

「ナンバーガール、行くよ。五十鈴さんも起こそう」

「っておいおい、那珂。今いい所なんだから――――――――」

 

『福岡市 博多区から参りました ナンバーガールです ドラムス、アヒトイナザワ』

 

 そう、宵闇の中、このお決まりのMCにかぶせるように、ドラムが単独でイントロの先陣を切る。

 スネアの連打から始まり、タム、フロアへ行って、間を溜めて。

 シンバルを打ち鳴らすと同時にギター二本、ベースのGコード。

 

「……おう、もう日本に来ちまったのか私達は。太平洋の旅は短かったなぁ」

「せっかく世界に視界が広がったというのに……」

 

 水を掛けられたみたいな2人は放置。本題に入らせない方が悪い。

 私は失礼して、五十鈴さんの耳からイヤホンを取り去る。

 すると、すぐに耳の感覚、BGMが変わった事に気づいて彼女は起きた。

 そんなに深い眠りじゃなかったんだろう。目をパッチリ開けて、

 

「……そろそろ?」

「うん」

 

 問い掛けにはそう答える。五十鈴さんは体をよろりと起こして、オープニングが終わる。

 同時、私は音量を上げた。目一杯に。

 

 一瞬静寂。

 四度をスネアが数え、

 

 鋼が、

 

 絶叫する。

 

 狂った鋼の、まるで、目覚めのあくびのような。

 ギター、ギター、ベースの三重に重なったフィードバックノイズ。

 

 誰も、もう口を開かない。

 

 それはハードロックにあらず。

 ヘヴィメタルにあらず。

 その魂は、オルタナティブ(型にはまらない)

 追従者が後を絶たなくなったこれ以降、そして今はともかくとして、少なくとも当時のこの国ではそうだったのだと思う。

 解散してその結果、無数のフォロワーを置き去りに”伝説”へと上り詰めた。

 ”思い出”のオルタナティブ・ロックバンド。

 

 私は色々聴いてきたと思う。けれど、それでも思うのだ。

 解散した後から知った私でも思う。

 絶対にナンバーガールは超えられない。

 もしかしたら、”思い出”であるということが、そうさせているのかもしれない。

 思い出は美しいから、頭の中のそれは、途方もなく美しいから。

 

 そうだ。

 私のロック、その産声が、あの時画面の向こうから聞こえてきたのだ。

 この曲を聞くと、私の心に火が点く。

 今もそう。

 こんなにもドラムを叩きたい。今すぐに。

 心の高鳴りに任せて、空の青に染まる、この頭の中が、世界に流れ出していくように。

 この青の中に、溺れていきたい。

 みんなも飲まれてしまえばいい。この感情の中に。

 

 フィードバックが止むと、ギターとドラムがリズムを刻んでいる。

 私は固唾を飲んで、テレキャスターの音が空へ登っていくのを見つめる。

 

 本当にほんの一瞬、時が止まったように、真空になって、

 

『ん゛ッ!』

 

 間隙の中に、音の洪水が雪崩れ込んで鋭く切り裂く。

 

 斬られた私はもう、OMOIDE IN MY HEAD状態だった。

 

 

 ●

 

 

 かくして、寂しさを残し曲は幕を閉じる。

 

 私は、みんなに問いかける。

 

「どうだった?」

 

 表情は、まさに三者三様と言った感じだ。

 真っ先に五十鈴さんは、

 

「凄いわ!私、今晩からこのバンドも聴いて寝る!これが日本のロックなのね!イントロのあの轟音はどうやって出してるのかしら……電気の楽器じゃなきゃあんな音、絶対に出せない!私もあの音を……ああ、何が何だか、もう……!」

 

 相当お気に召したようで何よりだった。まぁ、私達のバンドからすると、このバンドこそが元祖。やっぱり一度は聴いてみてほしかったと思う。でもピアノじゃフィードバックは出せない。残念。

 そして、意外や意外、下姉ちゃんは感心しきりの顔で、

 

「新鮮です。いえ、これももう古いのかもしれませんが、イングヴェイ様だけを追い掛けていた私からすると、やはり新しく聞こえました。……それに音楽の本質は技巧ではなく、”説得力”なのですね。単純で、でも見失いがちなのかもしれません……」

 

 本当にそうだと思う。

 結局、“何が伝わるか”じゃないのだ。

 “とにかく何かが伝わるか”が音楽なのだ。少なくとも私はそう思う。

 だから解釈は自由で構わない。泣いたって、喜んだって、悲しんだっていいのだ。

 音楽はただ、感情を駆り立てるもの。方向は問わないもの。

 

 最後に、上姉ちゃん。こっちの方がもっと意外だったかもしれない。

 ただ、呆然としていた。

 だからもう一度問い掛けて、

 

「……上姉ちゃん、どうだった?」

 

 私の言葉に上姉ちゃんはただ顔を向けて、多分私の目を見て、

 

「――――――――まぶしい」

 

 それだけ言って……涙を流した。

 よく分からなかったけれど、私は、

 

「そっか」

 

 そう答えた。

 

 ●

 

 

 それからしばらく、私達はナンバーガールをメインに、他のバンドも聴き漁っていた。

 ナンバーガールのご先祖とも言えるピクシーズとか、あとは影響された向井秀徳が公言しているイースタン・ユース、ブラッドサースティ・ブッチャーズ……。後はいわゆる”97の世代”からスーパーカー、あとくるりも。

 他にも、五十鈴さんが意外にも『聞きましょ!』って提案してきた、ヴァネッサ・カールトン。”サウザンド・マイルズ”。一曲だけだったんだけど、素晴らしい曲だった。ピアノメインのソフトなポップ・ロックって感じ。

 そうしたら下姉ちゃんも遠慮せずに『ファー・ビヨンド・サン、それとブラック・スターも聴かなければならないでしょう』と二連チャン。いきなりあまりのクラシカルさにむせ返りそうだったけど、クラシックに親しい五十鈴さんは結構好みみたいで、楽しそうに聴いていた。

 それと、途中で大音量がうるさいってことで夕張さんが乗り込んで来たけど、結局私達の音楽鑑賞会に参加。

 しかし彼女のお好みってビジュアル系は予想通りだったけど意外、ニューメタル、それとダブ・ステップもだったのだ。黒夢、ペニシリン、BUCK-TICKは知ってたけど、ニューメタルとかは分かんない。もちろん私の知らないバンドばっかりだった。スリップノット、リンプ・ビズキット、リンキン・パーク、あとDJからはスクリレックス。うるさいと叱りに来たのにより一層ズンズクとうるさくなった。そんなわけで、意外とヘヴィな音の曲が好みだって分かって、ちょっと下姉ちゃんと意気投合したり、意見がぶつかったりして楽しそうだった。

 

 ……上姉ちゃんはずっと黙っていた。サングラスの向こうの目が何を見ていたのか、何を思って泣いていたのかは私達には分からなかった。ただ、ずっと細く涙を流していた。

 

 そんな楽しい音楽鑑賞会だったけど、もう夜明けってことで私達は談話室から引き上げた。

 五十鈴さんはこれからナンバーガールも子守唄にして眠り、下姉ちゃんは愛しのギターを抱いて眠り、私は頭の中のOMOIDEに浸って眠る。

 上姉ちゃんは突然筆記用具を準備してちゃぶ台に向かい、ノートに何かを書き始めた。多分、そのうち起きていられなくなって眠るだろう。

 

 そうして春眠暁をおぼえず、昼も知らぬと、私と下姉ちゃんは眠っていた。

 

 一方上姉ちゃんは、埠頭で倒れていて。

 ――――――――陽の光を浴び続けて、死にかけていた。



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ダメ人間 二人寄っても ダメ人間

色々なものを同時並行で進めてるんですが、なんつーか半端になっちゃいますね。
終わりが近いものから終わらせたいのはやまやまなんですが、まぁ書けちゃったものは仕方ない。

では更新です。

2018/09/28
”彼女”の四十九日が明けていることを明文化しました。


 昼半ば頃、眠い目を擦りつつ起きて、適当に着替えた。

 それで下姉ちゃんと廊下に出たら……木曾さんが私服でドアの脇に立っていた。

 

 今は眼帯も帽子もなし。白いノースリーブのブラウス、生地の薄いフレアスカート。

 意外と私服はフェミニンである。

 為人は……人嫌いの激しさはこの警備府でも随一、上姉ちゃんによると”狂犬だったから躾けた”とか。警備府への着任時期は……上姉ちゃん・下姉ちゃんの同期、だったはず。上姉ちゃんが一回”ヤキを入れた”……らしいのだ。で、今は狂犬ぶりが鳴りを潜めて大人しい、ただの御一人様。

 加えて津軽海峡の守護神の片割れである。週の半分くらいはフェリー・輸送船のお守りをしている。

 今日は非番だったらしい。つまり今日からは時雨さんが津軽海峡に出張。

 ただ、そんな休みのときでも他人と関わるということが皆無だったんだけれど……、なんでここで出待ちなんかしているのか。

 その疑問はすぐに解けた。彼女は右目を閉じたまま、苦い顔でこう言った。

 

「川内の姐さん、死にかけたぞ。……昼過ぎ、埠頭に転がってたのを明石が見つけた。あいつは非番だったんだが……暇潰しに工廠に行ったら見つけたらしい。……運が良かったな」

 

 それだけ言って、彼女は階段を降りていった。自分の部屋に戻るらしい。

 

 私と下姉ちゃんはまさに青天の霹靂を食らった感じで、しばし呆然としていた。

 

 ――――――――上姉ちゃんが……これは、自殺未遂?

 

 にわかには信じがたい、その事実。

 私達は顔を見合わせると、”ドック”に向かって走り出した。

 ……五十鈴さんは、まだイヤホンを耳に突っ込んで寝てると信じて。

 

 

 ●

 

 

 工廠のすぐ隣、“ドック”。

 お風呂みたいな緑色のタイル張りの空間。

 まるで銭湯の縮小版みたいな感じで”修復槽“が4つ並んでいる。

 その中の一番奥の一つから、緑の蛍光が放たれている。

 そこだけ、今は”修復液”で満たされているということだ。

 

 私達は少し怪しい足取りで、そこを覗き込みに行く。

 ……上姉ちゃんは人工呼吸器を口に突っ込まれて、修復液の中に本当に沈められていた。

 全身が漬け込まれている。

 当然、死んだわけじゃない。目を閉じたまま、呼吸に合わせて体は浮き沈みしている。

 その体、白い肌は到るところが赤く焼け爛れていて、今は少しずつ、白に戻っていく途中だと分かった。

 顔は……こんなの初めて見た。見たくなかった。ズタボロとしか言いようがない。

 

 私達二人は、何も言えなかった。

 眠っている上姉ちゃんを見て、ただ愕然、混乱していたのだ。

 絶対にこんなバカな事、しないと思っていた。

 上姉ちゃんだけはずっと正気なのだと。

 真人間では無いけれど、それでもこんなことをするとは夢にも思っていなかったのだ。

 水川家の誇るヤンチャ娘、大湊の夜の王、破天荒な天才。それが、この様?

 ……信じられなかった。認められなかった。

 

 眼の前のこの人を、私が畏れ敬う上姉ちゃんだとは。

 

 上姉ちゃんは目覚める気配もないし、その上目を覚ましたところで顔も治っていない。

 ここに居ても仕方ない。そう思って、私は“ドック”を後にした。

 下姉ちゃんも、後ろ髪を引かれるように振り向いていたけれど、やっぱり私と一緒に帰ることにしたらしく、足音が私を追いかけてきた。

 

 あまりのショックで、私は、ふらついていた。頭がクラクラしていた。これは起き抜けだから、そのまま全力で走って来たから、そんなんじゃない。

 ただ、頭を殴られたからだ。

 

 今見たものが信じ難くて、掻き消したくて。

 私はこれから、この光景を打ち切るために行動するだろう。

 司令部、執務室に行く。

 

 

 ●

 

 

 執務室のドアの前に立つ。後ろには下姉ちゃんがちゃんと着いてきていた。私のやりたいことを理解しているんだと思う。そして、そのためには承認を得る必要がある、ということも。

 

 ノックを3回。

 

「那珂です」

「入って」

 

 間髪を入れず声が返ってくる。坂神提督の声だ。私もすぐにノブを降ろしてドアを開け、執務室に入る。

 

「失礼します」

「失礼します……」

 

 入ってすぐ、顔も見ずに頭を下げる。最敬礼の角度で、深く。

 

「お願いします、”バケツ”を使わせて下さい」

「私からも、どうか……」

 

 “バケツ”は俗称。正式には”高速修復材”。”修復液“に添加することで、傷の治癒を瞬く間に完了させるという、信じがたい代物だ。そしてびっくりすることに、これは”艦娘用”と”艤装用”とで一セット。艤装の修理というのも、工廠に同じように存在する”修復槽”に漬け込むことで行われる。妖精さんが資源を溶かして”修復液”を作るんだそうだ。そこに”バケツ”をぶっ掛けることで、まるで逆再生みたいに復元する……らしい。……なにせ、ここは基本的に資源が少ない。もちろん、装備開発に使う”開発資材”はともかく、”高速修復材”はほとんど無用の長物なのだ。大した備蓄はない。よって私も使われる場面というのを見たことがない。例え大怪我したとしても、一日以内になんとか治るから、ローテーションが少し崩れる程度で影響が少ないのだ。

 つまり、勿論上姉ちゃんの傷も一日以内に“修復”されるだろう。けれど、どうしても。

 

 少しだけ息を入れると、続けて請う。

 

「どうしても、見てられないんです」

「……お願いします、提督、どうか」

 

 そうして、数秒経ったと思う。

 高い金属音、そして弾けるような音が一つずつ、続いて聞こえてきて、それから大きなため息。

 

「頭、上げなさい」

 

 それに従って、顔を上げる。

 気怠げに煙草をくわえて、椅子に身を任せる提督の姿が見えた。黒い詰め襟をだらしなく着崩した、見慣れた姿。けれど顔は少し青白かった。煙草を吸わずに蒸して、煙を無為に垂れ流していた。

 提督のそんな顔も初めて見たから、私達もなんだか不安になって、思わず後ろに回した右手で、左手首を強く握った。……いつの間にか早鐘になっていた心臓に気付いて、耳の奥がざわめいている。

 

 右横目に、下姉ちゃんを見る。顔は正面を見据えているけれど、目の端になにかの動きが見えた。

 ……目が、泳いでいる。こちらにしたって、私は初めて見た気がする。ずっと一緒に育ってきたのに、こうまで所在なさげにしている下姉ちゃんも見たことがなかった。いつだって堂々としていて、……というか、堂々とし過ぎていて苦手な部分も多分にあるのだけれど、それがこうも崩れるとは、思っていなかったのだ。

 

 ……私は、私のことを多少分かっているつもりでいる。でも、私が過ちを起こしたときと、違うけれど、どこか似ていた。……世界が傾いている。全てひっくり返った、あのときほどではないにしろ、私の中の”神話”とも呼ぶべきものが崩れ落ちたのだ。

 

 その感情は、もしかすると私達3人で共有していたのかもしれない。少なくとも下姉ちゃんとは、多分間違いなくこの気持ちを同じにしていただろうと思う。

 

 私がそこまで確認していると、提督はくわえていた煙草を右手に持ち、灰皿でもみ消した。まだまだ残っていたはずなのに。……まさに苦虫を噛み潰したような表情で。

 

 そして私達に改めて向き直り、

 

「……直球で言ったげるけど、その要請、もう遅かったわ」

 

 ……遅かった? 

 私がちょっとだけ面食らっているところ、下姉ちゃんはすかさずもう一度深々と一礼して、

 

「ありがとうございます……」

 

 それで流れを理解した。

 

「上ね……川内に、使ってくれるんですか?」

「……あー、那珂?別にそういう畏まりはいらないから。特に私達、身内って感じだし。普通に”上姉ちゃん”でいいわよ」

「……すみません」

 

 なんだ、私も大概混乱している……のかな。押さえつけようとして、却って何かはみ出てるみたいな。いつも坂神さんって言ってるのに。そそっかしさ全開で、もう恥ずかしくなって、思わず俯いてしまった。

 それに提督は疲れた顔でカラカラ笑って、

 

「知らせ聞いたときには……正直血の気引いたわ。アンタ達がそうして泡食ってるみたいに、私も煙草落っことしたし。床焦げちゃったわ」

「はぁ」

 

 口が開かない私に代わって、下姉ちゃんが呆然と相槌を打っている。……まぁ、煙草吸いにはありがちな話なのである。漫画みたいだけれど、ビクってなると指は意外と思ったように動かない。滑り落ちてしまうのである。

 ……そういや、渋谷で暮らしていた頃、何度か火の着いた煙草を落っことした覚えがある。そのたびに敷物がそれを受け止めてくれて……化繊系の敷物だったからか、プラスチック片がこびりついたようになったっけ。削り落としてみたくもなったし、実際座っていて右手の位置にちょうど来るからガジガジと爪で引っ掻いてた。

 

 ……本当にどうでもいいことを考えてる。現実逃避だ。悪い癖だと思う。すぐに思い出に逃げ込もうとするんだから。

 

 目を覚ましたように、顔を上げてしっかりと提督の顔を見る。

 いきなり目線が飛んできたからか、顔にうっすらと疑問符が浮かんでいるのが見える。

 それに、どこか”いつもどおり”を見つけた私は、

 

「……ありがとうございます」

 

 そう言って、頭を下げた。下姉ちゃんも律儀にそれに付き合ってまた頭を下げる。

 それに提督は、

 

「まぁ、アンタ達の上に就いてるんだから、何が起きたってしゃーないってものよ。それに――――――」

 

 そこまで言うと、言葉が止まった。私達は頭を上げる。

 提督が左手に携帯を持って、何かを読み取っている。そして、私達に向かって歯を見せて、

 

「――――――――修復完了、だって。金剛にも診てくれるよう頼んであるから、迎えに行きなさい」

 

 そう言って、右手を伸ばした。退室を促すサイン。

 私達は今一度深々と礼をして、

 

「ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」

 

 二人で声を揃え。

 下姉ちゃんがドアを開けて飛び出すように退出、それに私も続く。

 基本走っちゃダメと言われてるけど、廊下を走り始め――――――

 

「そそっかしい方―、ドア閉めてって」

 

 ……あーあ。

 こんなときに、やっちゃったぁ。

 

 

 ●

 

 

 足を止めてそろりと廊下を逆戻りして、ドアを閉めに行った。足を止めて待っていた下姉ちゃんには案の定、

 

「……もう言葉もありません」

 

 目を閉じて、その言葉をため息に乗せた。

 昔はガミガミ言われていたけれど、それすら無くなってしまった。

 でも、もうどうしようもない症状なんだから、お説教が来るよりは随分マシなのである。

 例え蔑みとしての無言だとしても、そんなのは自己嫌悪で間に合ってるわけで、わざわざ真に受けたりしない。

 はっきり言って、結構図々しいくらいでちょうどいいのである。少なくとも、私にとっては。でないとまた心が叩き割れるわけで。そう何度も精神崩壊するわけにもいかない。

 

 ともかく、私達は司令部を出て“ドック”へとんぼ返り。

 

 

 ●

 

 

 ドックに入ると、白衣を着た長いブラウンヘアーの人。

 それと同じくらい長いブロンドヘアーの人、こっちは黒のフリフリの服を着ている。それと右手には杖。

 白衣の方は金剛さん、黒い服の方はウォースパイトさんだ。

 金剛さんは膝をついて”修復槽”を覗き込んでいて、ウォースパイトさんはそれを見下ろしている。

 

「金剛さん、ウォースパイトさん」

「姉さんは、どうでしょうか」

 

 私達が声を掛けると、ウォースパイトさんが振り向いて、無言で微笑んだ。

 この人、本当に“あの”提督だったとは思えないくらい表情が豊かになったと思う。それに同性の私から見ても眼福としか言いようがない、それくらい美人だから凄いと思う。

 けれど、それ以上に、

 

「……ああ、那珂、神通。大丈夫デスよ」

 

 ちょっと変な訛りが混じったその声の主。

 右肩越しに振り向いたその顔。

 そしてこの微笑み。……多分人死が出る。この世に女神はいた。

 ……いやー、もう。

 ウォースパイトさんも絶世の美人だけれど、この人と比べるとランクが落ちるってのが恐ろしい。

 この世にこんな美形存在していていいのかってくらい綺麗な人。はっきり言って、ウォースパイトさんが羨ましい。いや、私は同性愛者じゃないけど、それでもこんな女神様とお付き合いが出来るってもんのすごい幸運だと思う。

 そう。この人の美しさと言ったら、もう好き嫌いの次元じゃない。1億人中1億人が世界一の美人と認めるはず。それでいて、正真正銘の医者。つまり私なんかよりも滅茶苦茶頭がいい。天が二物与えたとしか言いようがない。……勿論、私と同じように、けどもっと色々なものを奪われているわけなんだけれど。

 めちゃくちゃ幸薄いし、鬱病だし。精神科医なのに。

 

 それはともかく、上姉ちゃんである。

 ”修復槽”に近づいていくと、そこには、

 

「……よかった」

 

 思わず、それが口に出た。

 まだ人工呼吸器を付けられたまま、透明の液体に浮かんでいるその体は、元通り、白い肌。

 でも、

 

「……髪も元に戻っていますね」

 

 私も思ったことだけれど、下姉ちゃんが先に口に出した。

 

 そう、黒染めしていた髪もすっかり色が抜けていて、今は限りなく白に近いプラチナブロンド。

 上姉ちゃんが定時制高校に入って黒染めするまでは見慣れていたその色。

 なんだか、場違いに懐かしかった。

 

「この警備府ではほとんど使ったことがないので、私もあまり理解はしていまセン。けれど、髪の毛も生え変わるみたいなのデス」

 

 そう言って金剛さんが手招く。それに促されて”修復槽”の縁に立って中を覗き込む。

 

「ホラ」

「あ、黒い毛……」

 

 ちょっと気持ち悪いくらいに、髪の毛がうようよ浮いていた。加えて角質の塊みたいなものも。それも例えば普通の入浴で落ちる量じゃなくて、確かに頭一個分と言うべき量だった。

 

「染め直し……なのかなぁ」

「夜戦では目立ちますし、姉さんならそうするとは思いますが」

 

 まぁ、そうだろうと思う。けど、

 

「治ってはいますし、もう出してあげたほうがいいのでしょうか?まだ寝ているようですけれど……」

 

 下姉ちゃんが金剛さんに問いかけると、彼女は首肯、

 

「そうデスね。後は経過の観察になりマスので、もう部屋に戻ってもいいと思いマス」

「そうですか。では……タオルは、そこにありますし……、那珂」

「うん」

 

 呼ばれたので返事。多分上姉ちゃんの着替えを持ってこいってことだろう。

 なので、

 

「任せといて」

「では、姉さんをよろしくお願いします」

 

 ……あれ?

 そう思って拍子抜けしているとどうやら顔に出ていたみたいで、下姉ちゃんは、

 

「……あなた、忘れ物せずに持って来れますか?」

 

 かなーり呆れ顔でそう言ってきた。

 それは問いかけの形ではあったけれど、もちろん”無理です”が後ろに付くのは明らかだった。言い切りだ。

 なので大人しく、

 

「……お願いします」

「よろしい」

 

 というわけで、

 

「姉さんの引き揚げは任せます」

「……はい」

「念の為です。復唱」

「上姉ちゃんを”修復槽”から引き揚げます……」

「では任せます。金剛さん、ウォースパイトさん、この愚妹の監視をお願い致します」

「分かりマシた」

 

 下姉ちゃんが一礼して立ち去る。足取りは、多分軽い。というかガンダッシュ。

 それで、お願いされた金剛さんはちょっと苦笑いを浮かべながら、

 

「では手伝いもさせて頂きマス」

「金剛」

 

 そこに、ウォースパイトさんが口を挟んできた。しかも金剛さんの左手を握って、引き止める恰好。

 

「――――――え?」

 

 当然金剛さんは戸惑って、ウォースパイトさんに振り向く。そして、

 

「あなたの定時は過ぎているわ」

 

 ……あ、そうか。金剛さん、あの子の四九日が明けて復帰したのは良いけど、勤務時間相当は短くされてるんだった。

 残業禁止、じゃなくてそれ以上、ガチガチに締め上げて時短勤務。

 多分、意図としては……安全マージンを滅茶苦茶大きく取っているってことだと思う。過労死ラインとか言うけれど、金剛さんの場合前科持ちである。自発的に過労死ラインをオーバーラン。なのでウォースパイトさんはそれを絶対許さないわけだ。今の提督……坂神さんだってその方針を良しとしている。

 それで今……もう四時位だっけ?

 確か……ウォースパイトさんも金剛さんも寝起きが最悪らしいから十時スタート。

 ここでもう流石と言わざるを得ない。色々と。

 それで一時間休憩挟んで……今四時だから、五時間勤務。

 あの金剛さんから労働時間をここまで奪い取るとは、もはや無体と言ってもいい。

 しかし、それでも分かる。金剛さん、本当に愛されすぎである。もう大事に大事にされてるわけで、金剛さん自身だってその愛を無碍にする訳にもいかない。

 

 とまぁ、つまり、

 

「あのー、デモ……」

「あなたは絶対に定時で仕事を終えなければならないの。残業は許しません」

「……ハイ」

「立会は私がやるわ。部屋に戻っていて。約束よ」

「分かりマシた……でも、見ているだけなら……」

「拘束時間が生まれるわ。ダメよ」

「ハイ……」

 

 ちょいちょい食い下がるものの、押し切られる、どころかぶった切られる。

 この匙加減の効かなさって、確かに金剛さんには必要かなぁ、と思っている。

 

 というわけで、

 

「それじゃあ、私は帰りマス……本当にごめんなさい……」

「いえ、大丈夫です。お休みなさい……」

 

 金剛さんは申し訳なさそうに、頭を二度三度下げながら”ドック”を去っていく。

 それを見送るウォースパイトさんはニコニコ顔でご満悦って感じだ。

 そして金剛さんの影が見えなくなると、ウォースパイトさんは、

 

「それじゃあ、私が立ち会うわ。ちょっとした手伝いは出来るから、ちゃんと言って頂戴」

「あ、はい」

 

 そう返すと、私は上姉ちゃんをドックから引き揚げる作業に入る。

 やり方は……あまり慣れてないからなんとも言えないんだけれど、先に水を抜くんだろうか。栓は……お風呂みたいな感じでチェーン付きの、ああいうのがある……ようには見えない。

 早速質問。

 

「あの、この……水ってどうやって抜くんですか?」

「そこにプッシュボタンがあるわ。それを押すと、浴槽の底の栓が跳ね上がって、そこから水が流れ出るの」

「え、栓が跳ね上がる?」

「正式な名称、構造も知りたい?」

「あ、いや、そこまではいいです……極端な話、水が抜ければいいので」

「そう……」

 

 ちょっとがっかりさせたようで申し訳ないけど、とりあえず……そのボタンとやらはどこに。

 足元を見回すけれど、それらしきものはない。

 

「えっと、ボタン、どこです?」

「貴方が今踏んでいるところよ」

「あっ」

 

 そう言われて右足をちょっと上げる。

 ……そこにはなかったので、今度は左足を。

 あった。しゃがんで、ぐいっと押す。すると、カコンって感じの音が鳴った。聞き慣れた感じがする。多分、スナッピーをオンにした時のと似ているんだ。

 それからちょっとした唸り声のような音が流れ始める。そっちは多分下水管の音だ。

 あとは流れるのを待つ。

 

 そうして、水が減っていくのをぼーっと見ている。ウォースパイトさんも静観。

 そして、ふと考える。

 

 ……多分、だけれど。

 方向性は違うにしろ、この人―――――ウォースパイトさんも私と同じく、能力が偏っている。

 具体的には……そう、いわゆるASD。調べて初めて分かったことだけれど、私のADHDと括られることの多いアレ。

 あの時聞いた限りではあるけれど、彼女曰く……”呪い”。全く以て正しい。私もその一人だから。

 

 そういう性質だからだろう、”しょうがないわね”とかそういう余地は彼女にない。

 逆に坂神さんなんかは融通の効く側、つまり”いわゆる普通”のところに立っている。

 ただし、ウォースパイトさんと同じく金剛さんに対しては例外を設定した。同じようにちょっと強硬に接している。残業、ダメゼッタイの体制だ。

 

 ここから分かることは、……前科持ちが信用を取り戻すのって本当に大変だと思う、というか。いや、前科って言うには違う気もするけれど。

 それに、そんなこと言ったら……私は人殺しである。無罪ではあっても。

 ……罪に対して、もう”喰らっちゃう”ことはない。棚上げにするのをやめて、私の中にきっちり収めてる。

 それでも生きるために。

 月並みではあるけれど、あの子に生きて欲しかったこの世界を、生きていくために。

 

 それでも。

 罪を犯した者は……世界からの視線に耐えなくちゃいけないのだ。

 その人達からの、”信用していない”という事実を、どうしても受け止めなくちゃならない。

 信用してくれる人がいる、それでも絶対に信用してくれない人だっているわけで。

 例え無罪で済んだのだとしても、私は”人殺し”と呼ばれることを否定することが出来ない。

 否定出来るとも思わない。私自身、それを受け入れた。

 それでも。

 その上で、信用というものを建てていかなくちゃいけないのだ。

 吹けば飛ぶような、砂の城でも。

 ――――――――それでも、生きてゆかねばならない。

 

 私はダメ人間。

 ダメで、ダメで、どうしようもなくて、もしかすると生きている価値なんかも無くて。

 それでも、生きると決めた。

 生ききって死ぬのだ。”彼女”が教えてくれた。

 そして、生ききれず死んだはずの”あの子”も、また私を生かしている。

 

 私は人間、胎児の夢の続きで。

 泣きながら、恐れに震えながら、それでも生きていく。

 

 ――――――――そう考えていると、ゴボゴボという音を立てて、水が抜け終わった……と思ったら、

 

「……あれ?」

 

 水が残っているのだ。……ちょっと待て、もしかして。

 

「……えっと、これって、――――――――詰まった?」

「……そのようね」

 

 ウォースパイトさんが杖をコツコツと鳴らしながら、ゆっくりとした歩みで近づいてきて、私と一緒に“修復槽”を覗き込む。

 それに加えて、だ。上姉ちゃんの体に、角質っぽいものと夥しい抜け毛がべったりと纏わり付いている。

 

 つまり、これはなんだ、アレだ。

 それじゃあ頭を抱えて一人でご唱和、 

 

 「やらかしたぁ――――――――!」

 



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YATTAZE。

 ――――――――で。

 監視機能として役に立たなかったウォースパイトさん。

 そして実行するにあたって何の見通しもしていなかった私。

 かくして、2人まとめて下姉ちゃんの叱責を受けることになったわけである。

 それはありがたいことに大変短かった。左脇に上姉ちゃんの着替えとかを抱えていたからだけれど。

 

 まぁ、まず私がマズかった。手順の把握と承認、という段階を踏めば、ウォースパイトさんの方でチェックが入った”はず”。

 そう、私が問うたのは”水の抜き方”のみ。

 ”意識のない艦娘を引き上げる正しい手順”じゃない。融通の効かないウォースパイトさんは律儀に”水の抜き方”にのみ答えておしまい。

 

 一方、ウォースパイトさんも”水の抜き方”を聞かれた時点で順番の誤りを指摘すべきだった。

 ただ、彼女は几帳面なところを主に見せている一方で、あんまり興味のないところに関しては非常に雑な認識をしているみたい。そして”修復”の立会も今回が初めてだった……と思う。

 ただし、栓を開けて抜くとなれば、当然色々と吸い込まれるわけである。特にこの栓の構造は開口部が小さくて詰まりやすいんだろう。多少ならともかく、この量の髪の毛を全部すっきり通せるような構造ではない。

 そう、確かに彼女は構造について知ってはいるものの、実際使うにあたっての特徴……つまり、欠点について想像出来ていなかった。その辺が欠けていたわけで、つまり”考えれば分かる”ことであるのが余計に良くない。よってチェック機構として不適格だった……というわけである。

 

 そして私達に纏めてこの一言。

 

「もう少し考えてから行動してください」

 

 ごもっとも。

 でもウォースパイトさんはやたらケロリとしていて、

 

「これで覚えたからもう大丈夫よ」

 

 ……その前向きさは本当に素晴らしいと思うし、実際彼女は想像力を経験則や知識量で補う人間なんだと思う。……多分、死にゲーとか向いてる。滅茶苦茶な回数死ぬだろうけど。

 

 というわけで、ウォースパイトさんは手伝いの必要はあるかということは聞いてきたけど、下姉ちゃんも戻ってきてるし人手は足りていた。下姉ちゃんがそれを謹んで、けれどはっきり辞退すると、仕事は終わったということで帰っていった。……役目を十全に果たしたとは言えないけれど。まぁ私だって悪いわけで。

 私達はそれを見送ると、

 

「――――――――それで」

「……はい」

 

 なんとなく察しはついていたけれど、

 

「続きです」

「はい……」

 

 そういうわけである。

 

 

 ●

 

 

「先程の指摘に追加。指導です」

「はい……」

「まず、絶対の前提を置きます。あなたはまず3秒考えなさい」

「はい……」

 

 えーっと、お叱りタイムです。

 ちょっと前に提督にも言われたことを、またここでも言われています。

 返事に”はい”以外は折檻コース間違いなし。

 

「そして3秒考えたことを10秒かけて反芻して、その是非を決めなさい」

「はい……」

 

 それは実に役に立つアイデアだし、私もそれに”はい”と頷く。

 けれどそれがスタートから蹴躓くのが私という人種で……そこが実に悩ましい。

 癖にすればいいんだろうけれど。癖にするまでがかなり危うい。というか”3秒考えて10秒追加で考える”だけが残って、何かあるごとに13秒泡を食うだけの人間になりそう。そっちの方がヤバい。

 

「先程の指摘と重なりますが……その考えを他人に明かして、改めて正誤を確認しなさい。以上の3点を固く守ること」

 

 最終手段だ。とにかく他人に話せ、相談しろと。

 はっきり言えば”自分をアテに出来ると思うな”ということである。大人失格を認めろと。

 私は情けないことこの上ないのだけれど、他人からすれば”やらかさられる”よりは万倍マシということである。私も他人も痛い目に合うくらいなら、私のプライドなんて安物も安物だ。分かってる。

 

 ……確かに、バンドの復活の件だって、他人に相談していればそれだけで返答を”保留”ということで安全に着地させられたのだ。……まぁ相談相手、あいにくその時は寝てたんだけど。ともかく、今からその方向に行こうとすると不時着の形になる。事故だ。いやもう本当にライブどうしよう。あと3ヶ月しか無い。”やっぱダメでした”を言うことすら出来てない。

 

 で、今回の場合。

 私の付添はウォースパイトさんだったのである。……考えるのも忍びないので、まぁそういうこととだけ。

 なので一旦頷いて、

 

「はい……でも――――――――あ」

 

 私の反論が始まろうとした途端、下姉ちゃんは大きく溜息、一度目を瞑る。

 それで思わず口が固まってしまった。反論は禁止だったのに、思わず口に出てしまった。

 どうしてこう、肝心なときにしくじるんだ私は。そういう運命なのか。

 そして、

 

「……確かに、今回は付き添った方がアテにならなかった、というのは私も認めるところです。私の想定が甘かったと思います」

 

 なんと、許された。何が起きるんだ。私死ぬのかな?

 死ぬのと死ぬほど怒られるなら……迷うな私。死ぬよりはマシだい。

 そう考えられることに、ちょっと自分の幸せを実感する。

 ……というかそれよりも、

 

「言っていいのそんなこと……」

「事実ですから仕方がないでしょう」

 

 元提督、上官に対してこの評価だ。本当にこんなこと言って大丈夫……?

 不安になる私は他所に、下姉ちゃんは続けて、

 

「残念ですが、ウォースパイトさんはこういう状況では無能です。あなたも分かっているでしょう?」

 

 ああ、言ってしまった……。

 まぁ本人も自覚していることだろうけれど……。

 下姉ちゃんは目を開くと、私と目を合わせ……というか睨んで、

 

「ですが、考えを口に出して他人に話すことで自らの愚かさを確認できる……という効果は、その他人がどういった存在であろうと変わらないのです。そもそも正誤を尋ねるわけでもないならば、他人は必須ではありません。独り言でもいいわけです。……理解しましたか?」

「はい……」

 

 多分……要はコレって”音読”がどれだけ凄いかという話で。

 口に出すことで暗記が上手くいくようになったり、”元気です”と言うだけで元気な感じになったり、他には……トラウマを口に出してもう一度心に傷を負ったり……だ。

 そもそも、私は結構音に関する記憶力はある、というか脳が処理しやすい……のだと思う。

 なら口に出せば、考えているだけよりはよっぽど頭が整理できるだろう。それは間違いない。

 私がもう一度深く頷くと、下姉ちゃんはわざとらしく微笑んで、

 

「――――――復唱しなさい」

 

 え゛?

 

「……あの、要約しても?」

「今、なんと?」

「復唱は無理です……」

 

 ある程度譲歩は欲しいんだけれど、下姉ちゃんはかなり微笑みを深くして……あ、コレ蔑みのやつだ。

 理不尽なこと吹っかけておいて勝手に失望ってそりゃあないでしょ。

 

「覚えていないのですか」

「……無理です」

「分かっていました。……ならば要約して述べなさい」

 

 ……分かってたなら期待したり失望したりするフリはやめて欲しい。心臓に悪いし。

 まぁ、今の話を私なりの言葉に置き換えると……、

 

「えっと……”私は3秒待って考えて、もう10秒でそれが本当に正しいのかを検証する。可能である限りは他人に相談しなければならない。またその相手がどういう人でも、自分で口に出すことで、考えの悪いところに気付く”……って感じで……」

「……まぁいいでしょう」

 

 一応及第点だったらしい。国語のテストか。得意と言えば得意だったけれど。文系だし。

 満足した下姉ちゃんは、左脇に挟んだ衣服類から、一枚の布きれ、紐付きを取り出す。

 アイマスクだ。

 

「とりあえず、姉さんにこれを」

「うん」

 

 そう言われて、私は段を上って上姉ちゃんの側に寄る。右手側。そしてアイマスクを装着。

 

「仕方ないので起きてもらいましょう」

「あ、目を開けたらマズイんだね、今」

「そういうことです。寝起きは蛍光灯でもかなり辛いと思いますから」

 

 下姉ちゃんは頷くと、私と同じように段を登り、私と反対側の位置にしゃがみ、上姉ちゃんの頭に手を添えて呼吸器をなるだけそっと引き抜きにかかった。

 

「……う、ぉぐぇ、――――――はぁ、……」

 

 呼吸器が抜けていくに従って、上姉ちゃんがえづきながら、右手で”修復槽”の底をタップした。パチャパチャとした水音が響く。

 喉から異物が引き抜かれるっていうのは、なかなか辛いものじゃないかと思う。吐き気とかしそうだし。

 抜き終わると、

 

「おぇっ……はぁ……ふぅ……はぁ……、あ?」

 

 吐き気を少し催しながらも、自発呼吸に切り替わって……目が覚めたみたいだ。

 それに下姉ちゃんは、

 

「姉さん」

 

 声を掛けると、上姉ちゃんは夢うつつと言った感じで、

 

「……アッコ?」

「神通です」

 

 反射的に本名で呼んでしまったのを下姉ちゃんが諌める。

 それで少し意識がはっきりしたのか、上姉ちゃんは首をぐりんと回し、

 

「……ああ、ごめん……神通。目が見えないんだけど、なんでかな……」

「アイマスクです」

「そっか……あ、なんか顔に着いてると思った……目が焼けてダメになったかと……」

 

 上姉ちゃんは寝起きということもあってか、受け答えに覇気がない。いつもこんな感じだったっけ、と思ってしまう。いつもは元気になってからベッドを出て来ている、ということなんだろうか。日が落ちる前に実はもう目が覚めてて、充電してからドジャーンと登場、みたいな感じで。……よく考えると、自分の姉なのに生態がよく分からないってのは不思議だと思う。……違うのかな、上姉ちゃんが意図的にそういう弱さを見せないようにしているのかもしれない。

 

 私はとりあえず声を掛けるとして、

 

「上姉ちゃん、大丈夫?」

 

 なぜ、とは問わないことにした。それは今聞いても、なんだか、というか。

 自殺未遂した人に、なんでこんなことをした、ってすぐに聞こうとするのは酷だと思う。

 ……私だったら、かなり辛い。

 

「あー……那珂もいるんだ。うん、大丈夫。……ってか、ごめん。迷惑掛けてさ」

「気にしなくていいよ」

 

 こうして気安く話せるなら、多分大丈夫だと思う。今のところは。なんであんなことをしたのかの理由は知りたいけれど、それでこの空気を重く沈めてしまうのは嫌だ。

 上姉ちゃんは少し乾いた感じだったけど、カラカラ笑って、

 

「すまねえすまねえ、っと。で……えっと、ここさ、”ドック”? だよね?」

「はい。それで、寝起きで申し訳ないんですが……シャワーを浴びていただきたいんです」

 

 質問に答え、下姉ちゃんがお願いする。

 すると上姉ちゃんは首を傾げて、

 

「……今、この中身って水になってんじゃないの?拭くだけでいいんじゃ?」

「そうなんですが……」

 

 と、下姉ちゃんが言いかけた、と思ったら私に視線をいきなり寄越した。

 

「え?あの……」

「ん、那珂?何?」

 

 私が思わず出した疑問符に、上姉ちゃんは見えてないから理由が分からず反応してしまった。

 混乱させっぱなしは申し訳ないので、というかフツーに今の状況が申し訳ないので、正直に。

 

「……あのね、私、”修復槽”の水を抜こうとしたんだよね」

「おう」

「でも、上姉ちゃん、皮膚とか髪の毛とか全部生え変わっちゃってさ」

「え?髪の毛までゴッソリ?」

「うん。角質とか、抜け毛とかべっとり着いてる」

「言われてみると……なんかやな感じだね、確かに」

「それで、水を抜こうとしたらさ、……詰まらせました……」

「あー……マジか」

 

 私がちゃんと説明すると、下姉ちゃんは無表情にうなずいた。……一応、過不足ないということで良いよね?

 そして下姉ちゃんが話を引き継いで、

 

「拭き取るだけでは取り除くのが難しいので、いっそ起きていただいてシャワーを、と思いまして」

「ああ、うん。とっとと浴びたい。……うっわ、触ってみると髪の毛べたぁーって付いてるんだね、マジで気色悪いなぁ」

 

 上姉ちゃんは自分の肌をペタペタ触りつつ、指に引っかかる髪の毛、角質の固まりにうへぇ、という顔をしている。

 

「ホント、すみません……」

「あー、いいからいいから。元はといえば自分が招いた事態だし、担ぎ込んでもらった身で文句なんか無いよ。みんなにお礼参りしないとね」

 

 ……ずいぶんと、あっけらかんとしている、と思う。

 死にかけるような事態に自分をブチ込んでおいて、恐ろしいくらいに。

 さっき、多分私は上姉ちゃんに……失望した、のかもしれない。けれど、今はそう思ったことを忘れそうなくらい、目の前の上姉ちゃんはいつもどおりだ。

 どこか取り繕っているフシが無いかと、探してしまうくらいに。

 

「さって、起きるか……」

 

 上姉ちゃんはそう言うと、”修復槽”の縁に手を掛けて立ち上がる。下姉ちゃんと私は段を降りた。

 そして上姉ちゃんはアイマスクの下の方を右手で少しだけ引っ張って、

 

「眩し……よく見えないけど……こうか」

 

 底と縁の高さに見当をつけて、足を持ち上げた。縁に足先を掛けて、一気に体を持ち上げる。

 そして、縁の上で……なんか腰に手を当ててポーズ。

 

「なんだっけ、生きているからラッキーだ……うん、それだ」

 

 いやその。

 葉っぱ一枚もないのにそれは……。

 にしても、高さがあるから視線が、ね。

 ……本当に白いなぁと。どことは言わないけどさ。

 

 で、取り繕っている感じだけれど。

 そんなの全く見えない。むしろいつもよりハッピーな感じとしか……。

 なんで自殺未遂してこんなにポジティブなんだろう。

 

 私、このひとには絶対敵わないと思った。

 



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初めての性的衝動

 それから、上姉ちゃんは“ドック”据え付けのシャワーを浴びて……抜け落ちた髪と皮膚だったものの塊を洗い流し、服を着た。

 上姉ちゃんは黒が好きで、服はいつも決まってオールブラック。ちなみにコーヒーもいつもブラック。

 久々の白い髪、レイバンカラーのサングラスに……黒のロンT、ブラックジーンズ。

 いやもう……これでもかってくらいビジュアル系。服はカジュアルなのに、本人の素のビジュアルが。

 

「いやー、スッキリした。それにしてもお肌スッベスベだ。別に普段気にしてないけどさ」

 

 いつもの不敵な笑顔を浮かべながら、バスタオルで髪の残りの水分を拭き取っている。

 こんなキューティクル抜群の白髪はなかなか見ない。どんなに気を遣ってても、脱色したらどうしても髪は荒れるものだし、お年寄りは言うまでもなく……だ。

 

 そう考えてみると、うちの両親って髪……それに他の美容に関してもかなり頑張ってるなぁと思う。

 お父さんはまさにロマンスグレーって感じ。

 娘の私から見てもかなりイケてるオジサンだ。ちょっと天然なダンディ。

 お母さんは……そういえば白髪染めとかしてた記憶が無いけど、いつも綺麗な黒髪だったなぁ。

 ……最後に顔を合わせたのが、私が普通の人間だった最後の……”あのとき”だっていうのが、ちょっと切ない。

 裁判では、会えなかった。多分、関係各所との調整やらなにやらで忙しかったんだと思う。

 思えば……現役の艦娘が、人間として表の社会に一時的に戻ってくる。

 これは多分初めての事態で、きっと大変だったんだろう。

 

 こうして考えてみると、私……これからとんでもないことをやろうとしている、というか、阻まれたのか。一応。

 坂神さんもキツく言ってくるはずだなぁ。

 

 内心少し落ち込んできたから……あえて私から話を振ってみようか。

 姉妹のお喋りは楽しいし。私達は仲良しな部類だから、幸せなんだと思う。

 で……まぁ、妥当な話題としては、

 

「久しぶりに見るね。上姉ちゃんの地毛」

「そうですね……定時制に行き始めてから、でしたよね。黒染めは」

 

 上姉ちゃんはバスタオルで髪をわしゃわしゃする手を止めて、

 

「あー、そっか。……そうだよね。でも軍大学入る時にぶっつけ本番、ってならなくて良かったなぁ。今思うと」

「地毛ってことで……通るもんじゃないの?そういうのって」

 

 あれ?と思ったので隣の下姉ちゃんにも視線を投げてみる。

 下姉ちゃんは少し考えて、

 

「生来の髪色とは言え……流石に軍大学では、指導が入ったかもしれませんね」

「うん。まぁ仮にも軍だしね、学校とは言えさ。学生だって見習いっつっても軍人の端くれ。エリートだけどね」

 

 そういうもんなんだなぁ。まぁ、公務員だし。

 しかもメッチャクチャ厳格な公務員って感じだから当然なのか。

 そう思っていると、

 

「那珂も……すげー色に染めたよね、一回」

「……ああ、そう言えばそんなことも。確か……3年生の時の夏休み、でしたか。あれには言葉もありませんでした」

 

 ……あの時のことか、とすぐに思いつく。というかその一度だけしか染めてないし。

 言葉もない、ってことはまぁつまり、

 

「……そんな酷かった?」

 

 二人共うんうんと頷いて、

 

「うん。ありゃヒドかったね」

「まるでクズの着いたボビンのような頭でした。赤いボビン……」

「まぁ……確かにそうだったけど」

 

 そう、若気の至りで……よりによって赤に染めたことがある。

 経緯は、というと……専門学校に入ってしばらくして髪を切ったのだ。ボブくらいまで思い切って。

 そのまま調子に乗って髪をブリーチ、赤に染めた。

 

 でも結局、私が髪に関してかなりぞんざいだったのもあって髪がかなり荒れた。酷いもんだった。

 ブチブチ髪が切れて、部屋に赤い糸クズがパラパラと。

 拾ってみると……まぁ嫌な感じに変質してて、これが私に生えてたのか、と思うとかなり気が滅入った。

 それに懲りて、髪染めはもう止めた。

 後は伸びるに任せて、ただあんまり長いと面倒だからセミロングで維持。

 で、艦娘になってからは”那珂”としての髪型に合わせて……長く伸びたのを放置、ってところ。

 

「にしてもさ」

 

 上姉ちゃんの言葉でハッとなる。顔を上げて、

 

「なんで赤だったの?」

「えーっと……」

 

 口ごもっていると下姉ちゃんは、

 

「それも、こ汚い赤でした」

「こ汚いはちょっと……」

「事実です」

 

 いや事実だけどさ。

 ……染めるは染めるでも、赤にした理由なんて、一つしか無いんだよね。

 恥ずかしながら、

 

「……私も憧れたわけです、”透明少女”」

 

 と、言ったものの、別にイントロが始まるわけではない。MCじゃないんだから。

 それで上姉ちゃんはピンと来たらしく、

 

「わぁお、早速履修した知識が役に立ったぜ。……でも”早足の男”がいる気配はなかったけどなぁ」

「そこは……えっとぉ……」

 

 まぁ、その、ズタズタの髪の女には誰も寄り付かなかったんです。……というのは恥ずかしい。

 ……のに、

 

「ボビン頭に言い寄る男が居なかったのですから、いい学校ですね」

 

 なんでそこでにっこり笑うのか分からないなぁ、下姉ちゃんは。

 しかも私が言い兼ねたことをあっさり当ててくるし、でも私の行ってた学校を褒めるってのは皮肉が大部分だとしても珍しい。

 

 こう言ってはなんだけど、下姉ちゃんは古い考え方をしていて、結構学歴を重視する人種。

 だから専門学校に行った私をよく思っていなかった。両親より強硬に反対していたのが下姉ちゃん。

 私のような人間こそ大学に行くべきだ、という考えらしく。

 これを姉妹愛として捉えるなら……学歴が私を守ってくれるってところか。

 

 ……けれどあんまり下姉ちゃんが電話でこき下ろすもんだから、かえって両親は私の肩を持っちゃったわけで。

 それで最終的にはつつがなーく専門学校へ進学したんだけど。

 ついでに私の入学寸前の春休み、軍大学からうちに帰ってきたときは……二人称が”クズ”だった。酷い。

 

 でもまぁ、私だし。……ダメ人間の私なんかだし。

 大学に行ってもこうしてドラマーになってたか、あるいは本当に半端な人間になってたか、そんなところ。

 大して人生に変わりはない気がする。

 

「まぁ、私の話はいいから。でも、日が落ちるまでまだしばらく掛かりそうかな……」

「日も長くなってきましたから……姉さん。外に出るなら”梱包”しますけれど」

「あー、いや。起きてる状態でそれやられるのはチョイと嫌だなぁ。寝てたら文句ないけど、もう目が冴えちゃってるし」

 

 ”梱包”というのは、日の光に弱い上姉ちゃんを完全防備……というか、布とかで包んでしまうこと。まんまだ。

 それで、私達が担いで運ぶのである。

 

「座ろっか。んで駄弁って日没を待とう」

「それじゃあそういうことで……」

 

 三人揃って、使われてなかった”修復槽”3つの縁に並んで座る。向かい合うにもちょうどいい椅子がないし。

 私が真ん中で、上姉ちゃんは私の右で入り口側、下姉ちゃんは左で奥側。

 座ってすぐ上姉ちゃんは、

 

「煙草……は、まぁダメか。こういう時にこそ欲しいんだけどさ」

「まぁ基本的に屋内は禁煙だし……」

 

 あー、と言って上姉ちゃんが足をパタパタさせる。

 確かに、私だって今日はまだ吸ってないし一本行きたいところだけれど。

 姉妹で唯一非喫煙者の下姉ちゃんは憮然として、

 

「たまには吸わないのもいいと思いますが。二人共吸いすぎです」

「健康被害無視できるからいいじゃんかよー、ねー那珂」

「私達、体丈夫だしね」

 

 艦娘の体ってのは便利だ。肺活量とかもかなり上がった気がする。

 本数は減ってないのに全然影響を感じない。だから結構楽観しているわけで。

 でも下姉ちゃんはその返事でもご不満らしく、

 

「……退役したらどうするんですか。人間に戻る、はずなのですから」

「そんときはそんときだ。今は今を楽しむもんだって。死なないように気張りはするけどね」

 

 ”死なないように”……という言葉で空気が止まった。それに全員が気付いている。

 それを破って、

 

「んで、まぁ……なんで私がこんなことしたか、話しとこうと思う」

 

 上姉ちゃんを見ると、足を組んで膝に肘をついていた。

 横顔が見えるから、目を見ると……少し、虚ろだった。

 

「……自殺に見えたろ、私がやったこと」

 

 ……答えろ、と言っているけれど。言えるはずなかった。言いたくなかった。

 下姉ちゃんも同じみたいで、押し黙っている。

 

「うん。まぁ、見えたんだよね。フツーはそうでしょ。……”改造”されて昔に増して日光がダメな体になった。あれくらい日向ぼっこしたくらいで……全身が火傷みたいになってたんでしょ。……私が”改造”に頷いたのは、そういうのが治せるかもしれない、って甘い言葉に乗ったからだった。那珂には言ったこと、あったよね」

「うん」

「……私もさ、”普通”になりたかったんだ。”普通”なんかにはそっぽ向いて生きるのが正しいと思ってて、少なくとも私にとってはそのはずで、でも……”普通の体”に憧れてた」

 

 ”普通”って、何。……それすら言えなかった。それほどに、重かった。

 人と違うことを誇って生きている人だと思っていたし、多分今この瞬間だってそうだと思う。

 でも、やっぱり、上姉ちゃんも”人間”だったんだと、今……この上なく”納得”している。

 相槌すら打てない。

 上姉ちゃんは続ける。

 

「黒染めだってさ……本当は心底やってみたかった、だからやった。目立たないほうが良いだなんて言い訳つけてさ。地毛だって嫌いなわけじゃない。でもさ、持ってないものは欲しくなるんだよ。自分らしさなんて関係ない。十分私は自分らしく生きてきてた。幸せに生きてこれた。お父さんやお母さん、みんなのおかげで。でも私は欲張りでさ、黒い髪も欲しかった……」

 

 白い髪の上姉ちゃんが、俯いている。顔は……右にそっぽを向いているから窺えない。

 

「染めた時に鏡の中の自分を見て、あんた達と姉妹なんだなって、心底納得できてさ……嬉しかった」

 

 はは、と笑うその声は、聞いたことがないくらい弱々しい声で……、それで今ようやく理解した。

 上姉ちゃんは……弱音を吐いているんだって。

 

「そもそも分かってはいたよ。自負だってあった。私はいつだってあんた達の姉だった。けど、やっぱり一番それに納得できたのは……この髪が、黒くなったときだったんだよ。たかが髪の色くらい、どってことないことのはずなんだけど、なにかが違うんだよ。なんか変わったんだよ……」

 

 ……鼻をすする音。泣くところを見るのも珍しい。

 昨日は、ただ涙を流していただけで、泣いているのとは少し違うように見えたから、だと思う。

 でも、やっぱり泣いていたんだ。

 

「ずっと”普通”に憧れてたってことを、昨日また思い出した。……”OMOIDE IN MY HEAD”は、すげー曲だった。すごくて、”普通”の曲だった。”普通”を歌ってた。でも、私は見れなかったんだよ」

 

 ……あれは、それこそ思い出と感傷の歌。

 夜を明かして朝を迎える歌。黎明の中を歩く歌。

 だからこそ、上姉ちゃんはそれを……”普通”の風景だって理解はしていても、同じように体験することは出来ない。

 そう、

 

「眩しくて、見えない風景なんだよ。朝日の白い眩しさや、白昼夢の色とか、気が狂いそうな青空も、センチメンタル通りも。なんで私は見れないんだよ、って思った。……どういうことだったか、もう分かったでしょ」

 

 確かに、分かった。

 上姉ちゃんは、自分には見えないと分かっていて……その風景を探しに行ったんだ。

 見えないものを探しに、悔しくて、それでも諦められなくて。諦められなくなって。

 

「ムカついて、私も白く眩しい朝日が見たかったから……太陽の馬鹿野郎って言いたかったから……私はあんなことをした……だから、自殺ってわけじゃないんだよ」

 

 そして、上姉ちゃんは胸一杯に息を吸うと、震えながら、

 

「まぶしかった……本当に、まぶしかった……気が狂いそうなほど、まぶしかった……」

 

 子供のように泣き喚きたいのを押し殺して、それでも漏れ出す嗚咽。

 私は、それを……”理解できる”なんて言っちゃいけないと思う。絶対に。

 同じアルビノの人だって、理解できないだろう。

 

 それに、その”まぶしかった”の意味はきっと語られることはないんだろう。

 けれども、痛いほどに”なにか”が伝わってきた。

 恋?憧れ?喜び?悲しみ?いや、あえて語ろうとしても、きっと違うなにかになってしまう。

 だからきっと、”まぶしかった”……その言葉のままであるべきなんだ。

 

 上姉ちゃんは、大きくしゃくり上げて、鼻を一層大きくすすると、

 

「そんでさ……それを歌ったやつが、カッコいいと思った。心底惚れた……」

 

 ……えっと、え?

 それは、もしかして。

 下姉ちゃんに続いて、”また”?

 

「画面の向こうの、あの男に惚れたよ。自意識クソみたいに肥大して、粋がってて、イっちゃってる目して、こっちを睨んでる。でもなんか、そこに……普通の兄ちゃんが……”男の子”がいた。どうしようもなくカッコよかった」

 

 思わず左の下姉ちゃんを見た。

 ……もらい泣きしていたらしくて頬に涙が伝っていたんだけれど、表情はポカンだ。

 私が見ていることに気付くと、表情を引き締めてこっちを睨んできた。いや、そんな怖い顔しなくても。

 それはいざしらず、そっぽ向いたままの上姉ちゃんはしみじみとしたトーンで続けて、

 

「私は、この男に抱かれたいって思ったよ。初めてはこの兄ちゃんが……いや、今はオッサンなんだろうけど、関係ない。私の処女をこの男にくれてやりたい……こんなこと思うの初めてだ。てか私、今年何歳だよって……28にもなろうってアラサー女が今更初恋で、しかも十何年前に撮られた映像の中の男、しかもバンドマンに惚れるとか……馬鹿かってね」

 

 つまり……うちの姉2人はこうだ。

 二人共、絶対に結婚できない相手に懸想しているわけです。

 うわぁ、と思っていると、

 

「那珂」

 

 いきなり上姉ちゃんがこっちを向いた。顔は涙で濡れているけれど、表情は……真顔。

 

「え、何?」

「向井は結婚してたっけか」

 

 ……なんで聞くかな、そんなこと。

 でも……向井、その辺謎なんだよなぁ。

 とりあえず言えることとしては、

 

「配偶者いるかどうか非公開だし、マジでなんにも分かんない……はず。結婚してる説も出てたと思うけど……」

「ふーん……」

 

 それだけ言ってみたけど、上姉ちゃんは考えモードに入った。

 そしてしばらくすると、

 

「私の退役後が決まった」

「え?」

「え?」

 

 下姉ちゃんと私の声が揃った。当然、どちらも疑問の声。

 それに機嫌を良くしたのか上姉ちゃんはいつもの不敵な笑みで、

 

「ベーシストになるよ、私は」

 

 いや、マジで?遅咲きも遅咲きすぎない?

 確かに初心者にしては上手いけれど……同年代のプロと比べると当然技量なんかは全く及ばないわけで、

 

「私は本気でベースをやるよ。……誰にも負けないようなベースを弾く。どーせ退役したら暇なオバサンだしさ。オバサンなめんなってね」

 

 それでも……”本気”となれば話は別かもしれない。

 なにせ、私の姉だ。夜しか活動できない代わりに完全上位互換。

 私の”本気”は典型的な追い込み型だけど、上姉ちゃんと下姉ちゃんは最初から最後までスピードが衰えない。

 スランプの一つや二つ、あるいは三つ四つがあるにしても、それでも力づくで這い上がるだろう。

 私の場合は、スランプの壁は気がついたら登りきっている感じだけれど。

 だから……退役後の暇な時間と金を注ぎ込めば……あるいは、と言ったところ。

 きっと長生きも出来るだろうし、何よりアルビノという身体的特徴はビジュアル的に映える。

 でもまぁ一応、とりあえずプロの先達としては、

 

「どういうジャンルがやりたい?オルタナ?」

「ZAZEN BOYSに入りたい」

「え何聞こえなかった」

「ZAZEN BOYSに入りたい」

 

 ……この姉、何言ってるんだ。

 そもそもBOYSでしょ。

 それにいつ退役するかに関係なく、もう上姉ちゃんはGIRLという年でもないし。

 

「別にBOYSん中にオバハン一人混じっててもいいでしょ」

 

 言いやがった。

 

「んで、向井とワケアリになる。不倫だろうがそうじゃなかろうが最低でもワンナイトラブまでは持ち込む」

 

 絶対それが主目的でしょうが。

 

「つーわけでまずライブがやりたい。那珂、あんたのバンド、ライブやるでしょ。前座やらせろ」

 

 つーわけって……ええ─────!?



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これからのもくろみ

2年放置大変申し訳ありませんでした。
短いですが、話の切れ目的に切らざるを得ませんでした。
何卒ご理解下さい。


「そういうかくかくしかじかで……坂神さん、私らもお外に出たいわけよ」

「……姉妹揃ってなんなのよアンタらは!脳ミソ蒸発したわけ!?」

 

 ……日が落ちて”ドック”から退出、現在は執務室で坂神さんの説得に入ってます。

 上姉ちゃん主導で。私の外出を”ついで”で認めさせてやる、みたいな感じらしく。

 でも、私が表に出ることありきの出来事なのに。意味が分からない。

 ちなみに下姉ちゃんは”結果だけ知らせろ”って感じで食堂に行った。……どうでもいいってことだろうか。

 

 ただ、前座……オープニングアクトが必要なのは事実。

 地元のアマチュアとかがまず出てきて、その上で私のバンドがミニライブ……いつもの半分かアンコール込みで4分の3くらい。そういう流れになると思うから。

 

 上姉ちゃんが坂神さんに机越しに詰め寄る。それで自分の顔を指差して、

 

「だーかーらー、顔隠せばイケるって。問題は顔でしょ、顔。ほれ、私なんかグラサンだしアルビノだ。”川内”だってバレやしないって」

「……それで済むなら最初っから那珂の時にも”バカだから馬でも被れ”で済ましてるわよバカ。そりゃ、問題の大本は顔なんだけどさぁ」

 

 坂神さんが不味そうに煙草を吸って、それで上姉ちゃんから顔を逸して吐き出した。

 煙吹きかけるのって、”ソの気がある”って意味もあるんだっけ。どうでもいいこと思い出すなぁ。

 右手側に置いた安っぽい灰皿で煙草をねじ消すと椅子でふんぞり返りながら、坂神さんは溜息。

 

「アンタらバンド勢全員イケたらついでに那珂もOKが出るんじゃないかなー、みたいなこと考えてんの……?」

 

 そのまま髪を一頻りわしゃわしゃして、結局煙草をもう一本取り出して口に咥えた。

 ……そう言えば坂神さんのライターって金ピカのジッポだ。カッコいいなぁ。

 私は……メンテが面倒だし頻繁に失くすから買えないけど。

 生涯100円ライターをとっかえひっかえする運命だ。

 

 それから着火して火をつけようとしたところに上姉ちゃんが机に身を乗り出して、

 

「いや、別にそういうわけじゃあないんだよねぇ。坂神さんには単に許可を出して欲しいだけでさ」

「はぁ?」

 

 いきなり距離を詰められたから、坂神さんがジッポの蓋を閉めて唇を曲げる。

 咥えた煙草が持ち上がる。まさにクエスチョンマーク出てそうな感じ。

 対して上姉ちゃんはダブルピースで、

 

「坂神さんご心配の上層部のゴタゴタについては、うちの父親使って根回し。だから大丈V!Vッ!」

「……マジで?そんなことで親使うわけ?いくら父親だからって中将閣下アゴで……」

 

 坂神さん、ドン引きしたのか煙草を口からポロッと落とした。着火前で良かった。

 

 まぁ……うちのお父さん、お偉いさんなのである。その中将閣下。

 私達はなんだかんだも何も、いわゆる”いいとこのお嬢さん”ってやつなのだ。

 そして私は……一番頼りたくない、というかもう頼らずに生きていきたい。生きていけると言いたい。

 でないと娘として顔向けできない。

 

 そもそも私がこうしているのは、艦娘として匿って貰っているからなのだ。お父さんの計らいによって。

 おかげで、判決の日まで殺人の容疑者として扱われずに済んでしまった。

 ……自殺未遂、発狂による措置入院、という体で世間から姿を眩まして。

 保釈金まで払ってもらったわけだし……返ってきたはずだけど。

 

 そういうわけで。

 社会人にもなってからなのにド級の迷惑を掛けた、とっても後ろめたい気持ち一杯の相手なのだ。

 いつまでスネを齧ってれば気が済むんだ、と自己嫌悪になる。こればっかりは図太くいられない。

 それで思わず俯いてしまったんだけれど、

 

「……ん?那珂、気にしなくていいって。あんたは”ついで”だから」

「ついでって……メイン私でしょ」

「私が出たいから頼んで、ついでであんたも出してもらうんだよ。私が前座をやるには五十鈴、神通、那珂が必要なわけだし。あんた”が”じゃない、あんた”も”ついで。扱いは二人と同じだって」

「って……前座も私が叩くの!?」

「いやその場で気付けよ」

 

 ……なーんでこっちが怒られるのかな?

 とか思って首を傾げていると、

 

「というわけで坂神さん。問題は解決!後は一言上司にお伺い立てるだけの簡ッ単なお仕事だよ!」

 

 ……上姉ちゃん、親を頼ることに全く躊躇無いなぁ。

 まぁヤンチャ以外は私みたいに後ろめたいところないみたいだし、当然なのかも。

 というか、今度は私が上姉ちゃん頼るみたいで……ああ、でも私って”ついで”なんだ。

 そんな……気を使わない気遣いというか。矛盾してるけど。

 

 こう考えればいいのかな。

 ”気負わせずに恩を着せる”のが上手い。

 血を分けた姉妹同士で恩義のやりとり、ってのも変な話だけど、これが”持つもの”の人徳ってやつなんだろうか。

 

 そんな感じに上姉ちゃんに感服していると、坂神さんは溜息。

 そして床に落ちた煙草を拾って咥えて着火。

 

「……影響範囲デカいって分かるでしょアンタも。中将閣下、軍は勿論、他からも相当圧力喰らうと思うんだけど……」

「ああ、その辺大丈夫。うちの父親ってやけに顔が広いし、格上も黙るくらいの権威持ってるらしいよ。

 最低でも……那珂をここにねじ込んどいて無事なくらいにはね。無茶の回数券もまだ残ってると思う」

「まぁ……そうなんだろうけど。言っちゃ悪いかしら、那珂がここに来た経緯だって親バカにも限度とか……ああ、もうちょっと違う方策なかったのって思ったわよ」

「まま、そう言わずに」

「分かってる。この通り立派にやってるし、結果オーライになったから悪手じゃなかったのも事実だけど」

 

 坂神さんが少し呆れた声色で言って、煙を吐く。

 ……やっぱり、親の脛齧り。そう考えるだろうなって思う。私だってそうだし。

 

「あー、那珂?別にアンタを責めちゃいないから。一応艦娘としてちゃんとやることやってるわけで」

「え、す……すみません」

「なーに今になって殊勝な顔してんのよ。……ってか、あの余裕ブチかまして”生きよう”とか言ってたの何?あの気分どっか行った?」

「ん……?那珂、なにそれ初耳なんだけど」

「えー、あー……あ、はい、言いました……」

 

 私にあの手紙が届いた日のこと。坂神さんが”叢雲”だった時のことだった。

 

 それを読んで、私が殺してしまったあの子は……救われたと思って死んだのだと。

 そのことに私は救われてしまった。

 ひどく現金だと思う。でも、そのおかげで私は”生きよう”と思えた。私の死にたい日々は終わった。

 おまけに正当防衛が認められて無罪、私のしてしまったことは、取り返しのつかないまま許されてしまった。

 

 けれど私の人生は続くから。どうにか、笑えるだけ笑おうと決めた。

 そして、あの子が生きたいと思える世界を描こうと。

 

 ……とは言っても、人からその言葉をほじくられると流石に相当恥ずかしい。

 思わず苦笑いしながら俯いてしまう。

 

「……そっか」

 

 上姉ちゃんが、噛みしめるような声で呟いた。

 顔を上げて、頷く。

 

「うん」

「まぁーねぇ……もう心配はしてなかったけど、はっきり聞けてよかった」

 

 ……上姉ちゃんにも、下姉ちゃんにも、『もう大丈夫』としか言ってこなかった気がする。

 あれは戦うことについてで、”生きたい”というのは口にしてこなかった気がする。

 あの手紙を貰ってしばらくして、下姉ちゃんと仲直りしたときにも言い損ねていた。

 はっきり言ってすっぽかしていたんだけど……こうして、素直に口に出す機会があってよかった。

 

 すると坂神さんは何かを思い出すように首をひねって、

 

「まぁ死にたいわけじゃないならいいけど……って、そういや確か……死ぬつもりで艦娘になったのよね。アンタって」

「えっと……はい。病院で”死にたい”って延々言ってたら、いつの間にか……あはは」

「随分あっさりね」

 

 自分でもこう、あっけらかんと言える日が来るとは思わなかった。

 ……罪悪感は絶対に消えない。消してはいけない。外してはいけない足かせ。

 それに、命から逃げようとしたことへの痛みだって忘れられない。でも、遠くに行ってしまった。

 その程度の、傷に染みるようなもので。”痛い”って笑うことが出来る。

 明るいところを歩いていける。

 

 坂神さんも安心した表情になって、

 

「えーっと……一応アンタの個人情報に加えて、前任者2人と軍医からの申し送り事項も頭に入れてはいるんだけど。その中でも”希死念慮有り”については解決した……と見て良いのね?」

 

 私が自分自身に刻んだ命令。

 ”生きろ”と、自分で自分の背中を蹴飛ばす言葉。這いずってでも前のめり。

 ”死にたい”って思うことは、これからもきっとあるけれど。

 でもそれ以上に、この命令は強いから。そう信じているから、

 

「はい。─────大丈夫です」

 

 胸を張って、そう言うことが出来る。

 それを”よかった”と素直に受け入れられる。

 

「んじゃそれについてはOKよ。って、相当話逸れたわね。で─────」

「後はうちの父親にお任せーってことで、坂神さんとしても……OKな感じ?」

 

 上姉ちゃんが右手でOKサインを作りながら再度問うと、坂神さんは笑いながら溜息、

 

「上がOKって言うならね。そうなったら仕方ないわよ……」

 

 椅子の背もたれに体を任せて宙を仰いだ。

 

「よっしゃあ!喜べ妹!」

「……わーい」

 

 ……あっという間にほぼ解決してしまった。あとはお父さん次第か。

 上姉ちゃんがハイタッチの構えを取ってるので、とりあえず応じてみる。

 

「YEAH!」

「イエー……あ痛っ─────!」

 

 滅茶苦茶に強烈なのを食らった。手のひらがビリビリする……。

 でも、そういえば……なんだか分からないこともある。

 

 お父さん、具体的にはどこからぶっ叩かれるんだろう。軍”以外”ってのが分からない。

 だから痛い手をこすり合わせながら、

 

「坂神さん、ちょっと聞きたいんですけど……」

「……え?」

「さっき言ってた“影響範囲”ってのがあんまし分かんなくて。具体的にはどこまで……?」

 

 私がそう質問。上姉ちゃんは、

 

「おいおい、そりゃ国防省上層部と─────あ」

 

 上姉ちゃんが一つ答えて、そのまま顔が青ざめる。……あれ、地雷?

 いや、普通に質問だし、私に落ち度は……ないと思うんだけど。

 坂神さんは流暢に、

 

「国防省、法務省、国家公安委員会、そのいずれでも極一部の高官、あとは閣僚と直近のOBだけど?……って、川内。何よ”あ”って」

 

 え?

 

 閣僚や軍上層部、つまり行政トップと国防省が知ってるのはともかく、法務省と……国家公安委員会……何だっけ。お役所の中でもどういう仕事をしてるところだろう。

 それは良いとして、坂神さんが青ざめた上姉ちゃんを短い煙草を持ちながら指差す。人に指差すのあんまり良くないと思うんだけど……。

 それで呼ばれた上姉ちゃんは、首をギギギとぎこちなく坂神さんに向けて、

 

「……そういや、私達って艦娘になるときさ、”どこが私達の正体を知っているか”って指導受けたよね」

 

 え?知らないんだけど……。

 

「あったあった。”改造”を受諾して”工廠”行く前にね。逃げ場無くしてから”例のアレ”に署名。それがどうかした?」

 

 例のアレ?なにそれ。署名?逃げ場をなくして?

 それで私がポカンとしていると、上姉ちゃんは何かを察したのか、私に震える右手の人差指を向けて、

 

「……こいつ、もしかして、そういうのすっ飛ばしてる?」

「……は?」

 

 坂神さん、絶句。口から消えかけの煙草が落ちる。

 

「あヤバ、って、いやいやいや無いでしょそれ……」

 

 椅子に座ったまま床に落ちた煙草を拾おうと体を折りつつ、そう言うけれど、

 

「いやいやいや、だってさ、影響範囲の見当もつかないんだよ?要するに……」

「ちょっと……嘘、コイツ……今まで何も知らずにってか……まさか”人権持ったまま”やってきたわけ……?」

 

 え゛?

 ”人権持ったまま”?

 

「あいやちょっと待った、そこまではないでしょ。未だに兵士、人間を自認してる私ですらだよ、一応……まとめると、”私は死にました”って、”人権ありません”って署名してんだよ。那珂、あんたも─────え?」

 

 私の困惑顔で上姉ちゃんが絶句。

 いや、こっちが絶句なんだけど。

 私は被告人という立場もあったから、確かに事情が違うかも知れない。あの軍医の先生も言ってた。

 艦娘になると死んだ扱いになるどころか、─────実際に、公的に人間をやめちゃうの?

 衝撃の事実に私が呆然としていると、

 

「も」

「も、も」

 

 ふたりとも何故か”も”しか口から出てこない。

 ”も”って何。

 

「モグリだあ─────!?」

「モグリじゃないのよ─────!?」

「えぇ─────!?」

 

 



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真・いままでのあらすじ

 ……それから、私を放置して坂神さんと上姉ちゃんは、『手続き全スキップはやべえよやべえよ』という具合で震え上がったけど、

 

「……でも、こいつ悪くないよね。今回ばかりは。私もそれは聞いてなかったし」

「まぁ、艦娘になることに同意して艦娘になったわけでもない……のよね、この経緯だと。心神喪失でしょ実際。てなると……本当に倫理的にヤバくない?ていうか”署名してない”って特記事項なかったわよ?」

「えぇ、マジで……?にしても、現状実害は出てないけどルール、後はまさに倫理的、人道的にヤバいね。普通の艦娘は一年務めるだけで”任務中行方不明”から”死亡扱い”に出来るでしょ?」

「そうね、それが最悪の場合の抜け道というか言い訳だし」

「だよね。だから”解体”を受けて人間に戻ったとしても、”艦娘だったこと”自体を”行方不明”でカバーして問題を強引に踏み倒せる……はずなんだけど、那珂は被告人って立場だった以上そうも出来なかったよなぁ……」

「そりゃあ、そうだけど……そうよね……被告人が行方不明になったら事件が更に拗れるわけだから……その裁判が決着したのはいいけど、それで本人の生存が全国区レベルで確認されちゃってて……下手に状況を変化させるほうがヤバそうね。ともかく、こっちでどうこうする判断は不可能だわ……」

 

 えーっと、……私、藪蛇だった?というか私が蛇だったとか?

 どうしよう。私、どうすればいいんだろう、これから。

 なのでちょっと右手を上げて、

 

「えーっと……しつもーん」

「どした?」

「何?」

「私、もうここにいちゃいけないのかなーって……」

 

 そう問うてみると、

 

「いや、そこまでは……あ、そっか。そもそもこのままシャバに戻ればいいのか!」

「……そう、だよね」

 

 私、結構今の仕事もちゃんとしたいと思ってたんだけど。ミュージシャンと艦娘の二重生活になるとしても。

 何より、願ってもない二つ目の天職だし、ちゃんと恩返しもしていきたいと思うわけで。

 ただ、このまま私に居着かれたほうがもっとマズいって言うのも分かるけど……。

 

「……言われてみると”解体”受けて一般人に戻るのがベストね。今の所は”措置入院”で隠蔽出来てるし、あの手続きがスキップされてたなら……逆に”解体”もすんなり通るかも。そもそもの発端の裁判も無罪判決で終わったから、もう匿う必要もない……って─────」

 

 坂神さんが私に向き直りながらそう言って、言葉が詰まって……首をかしげながら目を見開いた。

 

「敢えて言わなかった、というか忘れてて今思い出したんだけど……アンタがいつまでたっても”お世話になりました”って言ってこなかったの、なんで?」

「あっ」

「……妹、“あっ”ってなんだよ」

 

 思わず声が出て自分でもちょっと驚いたけど、よくよく考えるまでもなくて、確かにその流れになっても全くおかしくなかった。なのに、全く“艦娘をやめたい”とは考えなかった。……理由は、わかっているけれど。

 上姉ちゃん、坂神さんにも悪いと思いつつ、なんとか笑ってみながら言葉にして、

 

「それは……えーっと、やっぱり匿ってもらってハイさよなら、ってのは考えたこともなくって、あと正直この生活に馴染んじゃったと言うか……」

「は、いや、ごめん、笑うけど……っ、真面目かよ……かははははは」

「えぇ……アンタ、メンタル弱いくせになんでドンパチに順応してんの……?」

 

 坂神さんのツッコミ、本当にご尤もだと思う。他人に言われて気付いたけど、これは引かれても仕方ない。

 けど上姉ちゃんは少し苦笑いっぽく、けれど楽しそうな声色で、

 

「んふふ、いやーこりゃ……血かな?」

「物騒な血筋もあったもんね……」

 

 ……なんというか、同じ血が流れているわけだから。

 上姉ちゃんとしては、やっぱり”姉妹”を実感できて嬉しいんだと思う。その実感の理由がヤバいけど。

 それをさておき、坂神さんは遠い目で、

 

「まぁここを出るって言っても止めやしないけど……うちの戦力的にちょっとキツいかしらーって言っとくわ」

「ああ、うん。それもそうだけどねぇ……」

「一応、誤解招かないように言っとくけど川内。一人抜けた程度でどうこうなるような方針じゃないつもりよ。実際、一人死んだし。……前提督の時もそうだけど、しばらく昼戦に出した後は事務方に回してたってのもあるんだけどね」

 

 ……“彼女”のこと。

 私達が”さよなら”をした、死出の旅に送り出した彼女。

 どうやら彼女の仕事はウォースパイトさん、金剛さんで引き取って回しているみたいで、問題は出てないみたい。だって坂神さんいっつも暇そうだし。

 

「でもね、那珂。アンタ強すぎ。大湊の最高戦力だし。アンタら三姉妹でトップ3独占よ。だからぶっちゃけると、ミュージシャン引退して艦娘に専念してくれればってのが提督としての本音」

「それは、そう……なんですよね……うん」

 

 艦娘としての私が、”那珂”が高く買われているのはまぁ、嬉しいと思う。役に立ってるってことなんだし。

 でもそれが私の将来まで完全に変えてしまうってのは、ちょっと想定外。

 第二の天職とは言っても……失礼ながら副業みたいなもので、やっぱり私はドラマーでありたい。気持ちは複雑。

 

 坂神さんが首を回してコリを解しながら、

 

「さて、まぁ……本ッ当に今更の話になるけど……だからこそ、認識は今度こそ合わせておきたいわね。”艦娘”というものについて」

 

 なんとなく心の準備が出来てたから、すぐにちょっと背筋を正した。

 となりで上姉ちゃんは深呼吸から大きなため息、

 

「はー……坂神さん、ホントごめん。その辺の認識確かめるタイミング見失っちゃってさ……。んで、情緒面と神通との関係が一気に解決して浮かれたと言うか……なんかまぁ、ガチで忘れてた。ごめん」

 

 プラチナの髪を一度掻いてからすぐ整えて、坂神さんへ一礼。

 坂神さんはすぐにそれを手で制して、頭を上げさせながら、

 

「……それは理解できるわよ。”外様”とは言え秘書艦もやってたんだから。随分長引いてて落ち着いて話すとか無理だったんでしょ」

「うーん、そういう感じ。気ぃ遣わせてごめん」

「ま、そもそも那珂が来た当時の提督、金剛の対応にも問題アリだし……でもそれは置いといて」

 

 坂神さんも一度深呼吸して、顎に右手指を添えながら、

 

「じゃあまず、そもそもよ。”艦娘の正体”を知っているのって、どういう人間なのか……いや、そうね……”どのあたりの人間までが知っているか”、分かる?」

「えっと……それが、軍の上層部、国防省に……法務省、内閣、それと……あー、公、安……でしたっけ?」

「国家公安委員会。いわゆる”公安”、公安警察とは別よ。ただ絶対”あっち”も噛んでると思うけどね」

「あ、違うんだ……すみません」

「正直普段意識しない役所なんだから、別に仕方ないわよ……ともかく、軍では基本的に将官以上、官僚は最上層部と実務上知る必要があるごく一部、内閣では大臣クラス。そんなところよ。あとは……”任務のために知る必要がある”となれば、軍でも階級問わず知らされることになる。艦娘の改造候補とか、提督とか、それに一部の軍医ね」

 

 思ったよりは多いけど、多分これが艦娘を……”使う”ための最低限必要な人間、ってことだと思う。

 それに……これはちょっと的外れかもしれないけど、

 

「えっと……つまりその、いわゆる”行政”しか知らない、ってことですよね。三権分立……の」

「……ああ、言われてみればそうね。そりゃ当然なんだけど。”普通の政治家”って言えばアレだけど、野党議員は当然、与党議員すらほとんど知らないのよ、艦娘の実態ってものを」

「まー、この辺最初から公開しておいて、腹から痛いものは取っ払っちゃった方が良かったんじゃないかなーとも思うけどね。……おおっと、今のナシで」

「別にいいわよ。その辺、私も思うところがないでもないし」

 

 ああ……行政の下に居る国家公務員としては、確かに反感の表明は良くない。

 建前というものは崩さないからこそだし。

 それより、

 

「”司法”……も知らないんですね」

「あー、そうそう。そうね、そこが今回痛いところだったわけ」

「やっぱり……あの、父からは……その、”判決受けろ”って感じの手紙が届いてたんですけど」

「それは知ってるけど、ってそこまで来ても具体的な説明無かったの……?」

「うぁー、ほんとごめん坂神さん。私も手紙は見たけど、その時点でも認識合わせ吹っ飛んでたし」

「……はいやめやめ、終わった話。何度も謝らなくていいわよ。んでー、そこがちょっとややこしい部分だったのよ」

 

 気怠げな溜息と共に、坂神さんが一度目を伏せる。そして見開くと、ちょっと違和感があるくらい穏やかな表情で、

 

「ここからはちょっと違う立場同士として……それじゃあ、”水川晴子”さん。今度こそ丁寧に説明したげる」

「は、はい……」

 

 ─────“お客さん”。それに対するものだった。

 ただ、すぐにいつもの少し不機嫌なものに戻してくれて、

 

「あのさ、前回の裁判の時はね、司法の力って圧力……コレ、逆に言うと”人前に出なきゃいけない”っていう……ある意味では”後ろ盾”があったのよ」

 

 雰囲気が戻って少し安心したけど、話題は穏やかじゃない。

 圧力、と言うと……聞き慣れた言葉だけど、受ける側になるというのはやっぱり慣れない。というか、特に感じたことがない気がする。私が受けた身柄拘束ってのは、そういう”圧力”って言うには物理的だし……。

 ともかく、ない頭……考えて情けなくなるけどそれでポンと回答を捻り出してみる。

 

「圧力に負けたのは……お父さん達……軍ですよね?司法が軍を説得する材料になった……で良いですか?」

 

 私が答えると、坂神さんは難しい顔で、

 

「そうだけど違う……というか、”関係ない”のよ。説明がややこしいけど」

「え?あの、どういう」

「まぁ……”表面上は”、が頭に付くかしらね」

「うーん……」

「あのさ、別に考え込まなくていいから。これ別にクイズじゃないわよ」

「そそ、下手に考えるより話聞く方に集中しな」

「すみません……」

「はいじゃ続き行くわよー。……まず、水川晴子被疑者、職業ミュージシャン。親が軍人というだけの”一般人”。これで軍とどう関わりがあるのって話よ。高官の子女だからって”いいとこの子”以上のことはないわよね」

「へー、じゃあ坂神さん、私のことも”いいとこの子”に見えるわけ?」

「あのね……今アンタの身の上は関係ないんだけど?……でもまぁそう見えるわよ。どっか頭おかしいのは事実だけど全然荒んでないから」

 

 真剣な話の途中だと思ったら、結局坂神さんがタバコに火を着けた。上姉ちゃんは腕組んでカラカラ笑ってるだけ。

 ちょっと物々しい話題だけど、雰囲気軽めだから少し安心していられる。

 

「それで、圧力の……力点でいいかしら、それはアンタ本人。んで、アンタの親族である中将閣下がそれを代わりに受ける。この場合水川氏、と言ったほうが良いかしら。私人という意味で」

「矢面に立ってくれてたのは、お父さん……なのはよく考えなくても、そうですよね」

 

 思い出すと罪悪感で滅入りそうになる。それも分かってはいた。

 けど、そのお父さんからの手紙だと、かなり大雑把な説明で……確か、

 

『そろそろ判決受けないと、軍がちょっとマズいかもしれない』

 

 そんなこと書いてたような……随分短い手紙で、スケジュールと、後は”領収書を切ること”って。

 よく考えると、高速バスの領収書を貰い損ねなかったのは奇跡的だった。一番忘れそうなものなのに。

 それに思いを馳せ……てもいられない。一度頭を振って坂神さんに向き直る。

 坂神さんは灰皿でジリジリ燃え続けてる煙草を右手でつまみ、一回蒸すとネジ消す。

 頬杖の体勢は変わらず、

 

「そうよ。ここで問題が発生」

「え?」

「司法からの要請もあったし、水川氏は大人しく裁判を決着させるべきと判断したみたいね。……水川晴子さん、あなたの精神疾患を理由に蹴るにも、療養期間がそれなりにあったから難しかっただろうし。んー、下手すると勾引もあり得たのかしらねぇ……勾引って分かる?司法が被告を“強制的に”召喚出来る権限よ」

「それ……直に私をとっ捕まえに来る、ってことですよね……」

「正解」

 

 坂神さんが頷いて、一瞬、時間の空白が入り込んだ感覚。

 もう終わった話なのに、背筋がひりつく。首元がなんだか、落ち着かなくて、

 

「ハルコ、落ち着け」

「んえっ、……あ?」

 

 左肩に右手を乗せられて、振り向いたら人差し指が頬にブスッと。

 えっと…………、

 

「いや、落ち着けって、なんでいきなり……」

「んー、いきなり呼吸速くなったから」

「あ……」

 

 その言葉に少し寒気がして、思わず右手が額に。……冷たい汗が手のひらに滲んだ。

 

「うーん……もう治ったと思ったのに」

「自分で分かってるとは思うけどさ、ヤバい状況を脱しただけでヤバくなりやすいのは覚えと……いや、却って覚えてないほうがいいまであるのか?まぁ頭の片隅には、とっくに置いてあるよね」

「うん……」

 

 今現在は居眠りから覚めたようにスッキリのような、悪夢から覚めて安心したような。

 それで坂神さんが置いてけぼり、かつ居所の悪い表情だったから、

 

「坂神さん、すみません」

「……まぁ、ちょっとこの話振るの不用意だったわ。こっちが悪かったから」

「あ、いや、気にしなくても」

「アンタに”私が気にするかどうか”口出す道理はないわよ。”気にしなくていい”って言われても、私が必要と感じたら配慮する、それだけ」

「……」

 

 ……なんというか、坂神さん、メチャクチャ器が大きくなったなぁ。

 ”叢雲”だったころは”有能だけどキツい人”だったのに。

 

「さて、何がマズいのかボチボチ分かってきたとは思うけど……司法は水川晴子が”父の計らいで軍保有の療養施設に入れられてる”と思ってた。ちなみに書類上、その施設はむつ市の山奥、立入禁止区域に存在する……ということになってる。まぁ、実はここのことなんだけど……それはいいとして」

 

 それはいいとして……って、ここってそういう場所だったんだ……と思っていると、

 

「ほへー、それは私も初耳だなぁ。ここ、サナトリウムだったわけ?」

 

 サナトリウムって……文学だなぁ。むしろ文学でしか知らないし。

 でも、今やフリーキーな面々がドンチャンやるようなところが……?

 と思っていると、坂神さんは椅子にふんぞり返って、

 

「結構長くここで暮らしてんだからそれモドキなのは分かってんでしょうが。アンタは昼夜逆転どころか昼に何もできないし、神通も精神の問題で流されたんだから。今やすっかりバカ天国だけどスターティングの面子にしたって……あ」

 

 “あ”ってなんだろう。

 今の、坂神さん的には失言?……ちょっと気になるけど。

 と思ったら上姉ちゃんが軽く宙を見て口を半開きにしながら、

 

「あー……ここの発足は鎮守府に遅れてだったねぇ。私もとっくに古株だけど……それより前に居たのってなると……」

「そこまで。後は本人にでも聞きなさい。この話ヤメ。話を戻すわ」

 

 上姉ちゃんが”極秘任務”で一度連絡がつかなくなったのも……私が”ああなる”より結構前の話で。

 というか、むしろ坂神さんこそがこの中で最新参。なんで事情通なんだろう。提督特典、なのかなぁ。

 一息ついた坂神さんがまた口を開いて、

 

「んで現在の居所は“実態がない”。何も知らない警察が、山奥の”立入禁止”に強制的に踏み入ったら……何もない。なんじゃこりゃ、となるわけ。痛い腹探られるどころか大当たりよ。超ヤバ、大スキャンダル」

「そうなったら……とりあえず青森県警がブチ切れ?」

「それで、被告を預かってるはずの軍に抗議ね」

「そりゃ”被告どこやった”ってね。次に青森地方裁判所もキレるよね」

「それと、それに勾引の執行を代行させた群馬地方裁判所もブチ切れ」

「あ、そっか。そこも軍に抗議……まぁ当然最高裁判所も……か。私も今まで考えないようにしてたけど、割とオオゴトというか。まぁそうなるのと天秤にかければ、当然一日かそこら誤魔化してコトを丸めるに決まってるよね」

 

 ”艦娘の正体が露見しないか”、それについて敏感になっているお偉方からすれば、万が一にも探られるわけにはいかない。それがどういうきっかけであるとしても。

 つまり、点と点が結ばれて真相発覚、なんてのも最悪。仮に私が引きこもっていたなら、一つ大きな点が打たれてしまっただろう。あまりにも大きな点が。

 

 そして同時に、私は……私自身がとんでもない“不発弾”だった、ということに気付いた。

 私の一挙一動で、政治が混乱しかねないほどの。

 

「……いい?那珂。もう済んだ話だから」

「……あ……すみません」

 

 坂神さんの声で、また自分が俯いていたことに気付いた。

 そして私が口を開こうとしたら、

 

「私がアンタに付けた評価は掛け値なし。文字通り、大湊の最高戦力。ここは確かにアレな基地ではあるけれど……実は条件さえ整っていれば超がつく”少数精鋭”なの。雪風を勘定に入れなくても、水雷戦隊であれば全基地でも恐らく最強」

「ハッハー、フカすねぇ坂神さん。でもまぁ言われてみりゃそうかもなー」

「実際、艦娘の平均練度トップはここなのよ。……まぁ、他の鎮守府の最精鋭、その落伍者の受け皿になってるからってのもかなりあるけどね」

「あー、確かに大体そんな感じだっけねー」

 

 坂神さん、大言を吐いたというか、身内を持ち上げたと思ったらあんまりノリノリではない。

 自分で言ってて情けないけど、無理もないと言うか……。

 

「えっと……夕張さんは島流しだっけ?」

「そうそう。初日の顔合わせでバリの罪状教えたっけ、確か」

「あー……うん」

「実はあいつ、元は佐世保の最古参で教導役なんだよね。言ったっけ?」

「えぇ……初耳……」

「最古参は……私達の間では”第1ロット“とも言われてる。それが瑞雲ズと鳳翔さん、あとバリ」

「うーん……”第1”ってことは、一番最初ってことだよね」

 

 坂神さんが浅く頷いて補足、

 

「そうよ。この戦争、その本当に最初期、そして”最初”に改造を受けた人間達、つまり艦娘としての最古参」

「あと、随時適性があるのを工廠に送ってるわけだから、第2とか第3とかはないんだよね」

「最古参でも島流しって……しかもなんか”ロット”って、モノみたいな言い方だね……」

「言っちゃ悪いけど、実際そうよ。横須賀で艦娘やってたころ……会計やってたけど、それ絡みでゲロ吐いたし」

「えっ……と」

「あー……そりゃ私も見たくないなぁ……”左側”に載るんでしょ?」

「右よ。……貸借と損益間違えてるでしょ」

「ん?あ、そっかぁ……しかも左は載るっていうか消える?」

「そうね」

 

 私が絶句してる間、二人であっさり目のトーンで何か……世間話。

 当然会計の話だとは思うけど……お父さんの簿記の本は私の枕になってた時期がある。

 つまり読めずに寝ちゃっていた。

 

「それに私より先にここに居た奴ってなると……あいつも?ってことは、そういうことか……」

「まぁそういうことよ。……また話脱線したから、戻すわよ?戻れる?」

「あ、その、はい……」

 

 途中から話題が分からなかったから、むしろ戻りやすくて助かるというか。

 ……本題は、

 

「まとめると……”私が裁判で判決を受けられた理由”……から、でいいです?」

「OK、戻れてる。川内の言った通り、アンタの、そして水川氏の裏にいる軍が折れてコトを丸めに掛かった。じゃあそこからよ。軍とアンタの関係は、実態はともかく、表面的にはだけど……家主と居候?かしらね。アンタはあくまで一般人。しかも表向きには軍籍すらも無いわけだから……アンタの実際の状態って”ほぼ行方不明”なのよ。軍が『患者として預かってますよー』って言ってるだけ。ここにだって”水川晴子”は居ないし。で、本人がどこにも見当たらないのに電話とかで連絡はつく、妙な状況」

「確かに……」

 

 自分自身、鏡を見て”水川晴子”って気付くかって言われると……結構怪しいと思う。

 身長とか、体型とかは変わってないとは思うけど……問題はまさに顔。

 なのに、掛かってきた仕事の電話も普通に出ちゃってるし……。

 

「もう色々ややこしいけど、なんやかんやってやつよ。異例も異例、現役艦娘が元の人間として表舞台に出られたわけ。上層部は最大限妥協した。アンタの”現在の顔”が残らなければいい、として。で、判決の日には厳重な規制をマスコミに掛けた。この規制を行うために水川氏個人が司法に”お願い”してね。これは言ったっけ。……まぁ、世間的というかゴシップ的には中将閣下の親バカ、で済まされたんじゃない?ともかくこれで、”那珂”とアンタの繋がりは見えないままに事件は終わったのよ。一件落着」

 

 私が”自分の顔が変わってる”って泡を食ってメイクしてたのに別に必要なかったとか、そういうのはさておき。

 坂神さんは説明が終わって一息ついてる……というか、あと一言言いたそうな顔。

 その予感通り、

 

「……だったのにねぇ……はぁ─────」

 

 どデカイため息。

 そりゃそうなるか、と他人事みたいな言葉が思いついたけど、私という不発弾がまた起爆の恐れアリみたいなことになってるんだから、すっごい迷惑掛けてるなぁと……。

 

「……私はもう別に、アンタがライブ出る出ないで口出ししないわよ。上がダメって言ったらダメって言うだけなんだから。こんなの、個人的な気苦労よ」

「すみません……」

 

 頭を下げると、言葉もなく右手をゆらゆらさせてまた制してきた。

 

「それで……やっと認識合ったけど、ここで伺うべきは中将閣下の思惑よ。”署名してない”っていう。……なのに、それがてんで分からないわけ。ここで最初に引き取った金剛も……医者としての所感が主で、アンタのこの特殊性については書き残してないし。だからって今から聞きに行こうにもアレがブロックしそうで今日は無理。……何かしら考えがあって署名させなかったんじゃないかとは思うんだけど」

「……まさかなぁ」

 

 上姉ちゃんが何故か首を傾げ始めた。しかもかなり急角度。冷や汗もセット。

 

「……川内?また何かあんの?」

「……いや、思う当たるところというか、その思い当たり自体がアテにならないってことというか……」

「いや、何なの?その思い当たるって」

 

 坂神さんが更に問うと、上姉ちゃんは……うっわ、見たこと無いくらい見事な苦虫噛み潰し、

 

「その─────ロクに考えてなかった可能性がある」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………は?」

「えっ」



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恐るべき父親

「今回の件は私も悪かったと思うけど、それ以上にうちの父親、たまに想像を絶するバカだから」

「えっ」

 

 初耳と言うか、バカはともかく”想像を絶する”って……実の父に言う言葉じゃない。

 いや、確かに天然気味だとは思ってたけれど、ああでも、私だって間抜けはそれ以上なわけで……。

 

「……お父さん、意味分かんないくらいバカな時があるんだよ。そのせいでろくでも無い目にあったこともある。今や、笑えそうで笑えないけど、仕方なく笑うしかない思い出」

「えっ─────えっ」

「……まぁ、あんたは知らないんだよなぁ」

 

 ろくでも無い目って、なんじゃそりゃあ。

 

 色々思い出はあるけれど……特に旅行行ったりとか。

 いつもお母さんが運転、お父さんがせっせとカーナビ操作。そしてちょいちょいミスる。もっと言うとお母さん画面見てない。

 

 外国には行ったことなかったけど、国内は色々行ったと思う。北海道にフェリーで行ったり、霧ヶ峰でハイキング、軽井沢で散策したり、日光でお参り、飛騨高山で飛騨牛食いまくり、群馬の尾瀬で大冒険とか。大体アウトドアな感じで山系が多かった。ちなみに上姉ちゃんは日光対策フル装備。

 あれ?でも公共交通機関……使ったこと無いな。

 

 それに今思うと、気温低めの標高高めが多かった。……上姉ちゃんが重装備でも暑くないようにと思ってだったのかも。

 

 そんな中、私は……多分3回くらい”致命的な迷子”になった。山の中で。見つけてもらえたから生きてる。助けに来たのはいつもお父さんだった。

 

 山梨や長野だと、私対策に景色のいい開けた場所でキャンプ。お父さんもお母さんも滅茶苦茶に手慣れてるし装備が本格派。……というか、アレって軍用品だったんじゃ……。お父さん、昔は陸軍だったのが海軍に移籍した人だし、その使い古しを買い取ったんだろうか……。

 

 あと……授業参観に父母揃ってやってきたりもした。

 その時お母さんキメキメの着物でお父さんは何故か礼服。私も私でいつものトロさを遺憾なく発揮して……死ぬほど恥ずかしかったっけ。

 

 とまぁ、私の中では結構美しい思い出が多いはず。

 鈍臭すぎる私を根気強く育ててくれた上に、ミュージシャンになるという夢まで応援してくれた大事な両親。お父さんに至っては命の恩人。

 ……なんだけど、上姉ちゃんはそれだけじゃ済まないらしい。

 

 と考えてたら、坂神さんが首を傾げながら煙草を加えて着火、紫煙の溜息。

 どうもピンと来ないって感じの顔をして、

 

「……そんな風には見えなかったけどねぇ」

「あれ?実物知ってる?」

「ええ、閣下本人をかなり近くでお目にかかったことがあってね」

 

 そういえば、他人というか、他の軍人さんから聞くお父さんの印象ってなかなか聞く機会がなかった。

 なので、心持ち前のめりになって坂神さんの話に耳を傾ける。

 坂神さんは思い出を振り返って宙を見つめながら、

 

「なんかね、主計学校に視察に来たのよ。講演とかもなしで、本当にただ見てくだけって感じの。ニコニコしてたけど、すっごいオーラだったわねぇ。あとめっちゃ男前だったし……」

「へぇ……」

 

 こう、身内を褒められると面映いって言うのかな。自分のことじゃないけど、ちょっと照れる。

 と思っていたら上姉ちゃんが、

 

「あーそれね。確か……”ちょっと若い衆を見に”とかで行ったらしいよ。ノーアポで。部下に怒られたってさ」

「えっ」

「はぁ!?……ああ、でも教官が必要以上にビビってたのってそういう……」

 

 全く心の準備もないままに軍の重鎮が視察……。

 それはビビる。ビビらないわけがない。そして何も口出しせずに見ていくだけって逆に怖すぎる……。

 そして上姉ちゃんは釈然としない表情で続けて、

 

「ただまぁ、一部の軍人からの評価はえらく高いんだよね……。部下にも怒られるのに。なんか、軍大学の教官が私と神通に常時死ぬほどビビっててさ。恐怖っつーか、畏れ多い的な感じで。んで“その態度何すか?”って聞いたら、“あの人は伝説だから”って言うから何の伝説だよって思うじゃん。“バカ的な意味っすか?”って聞いたら“とんでもない”って……あれ?これって否定してんのかマジでバカなのか分かんなくない?」

 

 ……要するに、”バカなんてとんでもないほど伝説”と、”とんでもない伝説のバカ”、どっちでも意味が通りそうってことか。

 他の軍人さんからの認識が後者じゃないことを祈りたいけど……。

 

「トンデモと言ったらそれの極みみたいな思い出もあってねぇ。聞きたい?聞きたくなくても聞かせるけどさぁー!?」

 

 ……上姉ちゃん、珍しく半ギレだ。

 ヤンチャではあるけどブチ切れることはめったになくって、特に半ギレ状態なんてもっと珍しい。私との姉妹喧嘩もキレてない状態でやらかしてきた。

 もっとも、”野球やろうぜ”のノリでチンピラと戯れる、もといフルボッコにするような人だから、精神状態とやることなすことの関係が普通の人と全然違うんだけど。

 

「……那珂は確か2歳か……うん、そこらかな。まだネンネみたいなもんだったからお母さんと留守番だったし、そりゃ知らないよね。お父さん、私、神通でキャンプ行ったんだよ。私ら2人にとっては初めてだった。幼稚園の夏休み終わり頃に”思い出作ろう”みたいな感じでね。車で出かけてったわけだ」

「へぇ」

「……普通の話にしか聞こえないんだけど。アウトドア好き家族の、だけど」

 

 知らない思い出だけど、私達一家にとっては本当に普通。キャンプの思い出が多いことから考えても。でも2歳かそこらなら、キャンプはちょっと厳しいかもしれないし、姉2人は5歳と4歳で、多分まぁ大丈夫だった……んだと思う。

 

「まぁもうすぐヤバいって分かるから。……場所は富士山の麓あたりだった。んで、テント張る場所探してかなーり歩いて森っつーか茂みの中へと……。私のために日差しを避けてね……そんで、そこに着いてからはお父さんの作業ちょっと見た後に放ったらかして、2人で楽しく走り回ってたんだけど」

「……普通ね」

「うん、普通。うちだと特に」

 

 思わず坂神さんと顔を見合わせちゃった。そして二人して頷く。

 その様子を見て、

 

「……ハハハハハハ」

 

 上姉ちゃん、こわれた。

 なんか、聞いたこともないほどカラッカラに乾いた笑い声で……サングラスの奥の目が、笑ってない。

 下手すると今までで一番怖い。久々の地毛モードだから尚更幻想的に怖い。

 もう一度坂神さんの方を見る。目を丸くして、上姉ちゃんを二度見する始末。

 上姉ちゃんは笑い声を止めると、口を凶悪に歪めながら俯いて、

 

「─────突然遠くで地面が爆発した」

「えっ」

「はぁ?」

「10年くらい経ってから思い返して分かったんだけど、あれは砲弾だった」

「ほ、砲弾!?キャンプ場に!?」

「なんなのよそのキャンプ場!?」

「坂神さん、煙草と火くんない?……ムカついてきた」

「えっ、ああ、いいけど……」

 

 上姉ちゃんが左足のつま先をカツカツ言わせ始めた。……相当イラついてる。初めて見る仕草だけど本当にキレてるのが分かる。

 煙草を受け取って唇にねじ込み、頭を突き出す。ちょっとブルった坂神さんがササッとジッポに火を着けて差し出す。

 

「あんがと」

 

 大きく吸い込んで、ドでかい煙の溜息。

 

「あー……」

 

 それで少し落ち着いたのか、足のカタカタは収まった。

 

「幼いながらに死の危険を感じたね。爆発音に気付いたお父さんが急いで片付けて、私と神通を抱えてダッシュ。無事生還。帰ったらお母さんがお父さんにデンプシー」

「デンプシー!?」

「おう、もうボッコボコだった。んでお父さんも倒れないんだよなぁー。最終的にお父さんがゲザって決着。最後までKOされずに。……でさ、こんな話が起きる”タネ”が分かるかぁい?」

 

 憮然としながら苦笑いを浮かべる。ニヒルに。

 それに答えようと坂神さんがくわえ煙草でまた宙を見つめ……ようとしたところで、煙草を右手に移した。

 灰皿の上で手をストップ。……何が来て驚いても床に落とさないようにかな。

 

 んー、でもこれで何が分かるんだろう。

 引っかかるもののない私、一方坂神さんは頭を捻っていて、

 

「富士山の麓……砲弾……夏休みの終わり頃って……8月……8月末かそこら?」

「おー坂神さぁん要点しっかり抑えてるねー。そうだよ時期はそのへんだったなぁー」

 

 それから一呼吸置いて、坂神さんがビシッと石のように……。

 

「……え?」

「それで合ってる、ハハハ」

 

 えっと、これで分かるもんなの?

 と思って私が焦りながら頭を捻っている、それをよそに今度は坂神さん、手が震え始めてる。

 右手に持った煙草もブルブルと……。

 

「え、ちょっと、そんな馬鹿な話……」

「しかしそのまさかさハハハハハハ!」

「……信じらんない。なんでよりによって”その日”に”そこ”でキャンプなのよ!?」

「まぁ”キャンプ富士”とも言うしね!ハハハハハハハハ!」

「洒落になんないわよ!?」

 

 ……まだわかんない。けど、”キャンプ富士”?

 それは……軍事施設じゃなかったっけ。米軍の。

 そんなのあるところでキャンプって、職権乱用ってやつの気がするけど……。

 もしかしてフツーに開放されてる時期もあるの?私が心持ち上を向いて更に考え始めると、

 

「……方向音痴で”北富士”と”東富士”を間違える時点でもうバカ極まってるんだけどねぇ?─────その日、どうやら”総火演”だった」

「き、聞きたくなかったわ……」

「そう、かえん、って……あの”総火演”!?」

「その。ハハハ」

 

 坂神さん頭抱えて、私は思わず口があんぐり─────って。

 ちょっとどころか本当に意味が分からない……!

 

 “総火演”。

 本物の砲弾銃弾がブッ飛んでいくのを皆で見るっていう陸軍のデモンストレーション、もとい軍事ショー。

 あるいはサーカスのドンパチ版……と言ったら語弊しかなさそう。

 

 近年は『いつもよりちょーっと遠くに飛ばしております!』とか放送がかかるらしい。……傘じゃないんだから。

 でもその調子だと遠い将来、富士山そのものをブチ抜くんじゃ……外したのを誤魔化してるとかじゃないよね?本当に練度大丈夫なのか不安になるけれど、一応4年前の戦争では大活躍だったみたいで……。

 

 ただ、そういう軍人さん達の悪ノリには賛否両論あるみたい。……もちろん否が多め。

 特に『“演習”なんだからふざけるのはいい加減にしろ』と。そもそもどうしてそんな企画が通るのかも分からない。

 

 とにかく、当然それだけ国民から注目されてるし、軍の広報として滅茶苦茶重要な行事。

 よりによってそれを忘れるって、本当にわけがわからない。演習場に入って来れないように警備とかされててもおかしくないはずなのに、どうして潜り込めたのか……。

 

 呆然としていると、上姉ちゃんは執務机の灰皿に右手を伸ばして灰を落とし、

 

「私も神通もよくトラウマにならなかったなって思うね。それからだよ。お父さんが外出する時、お母さんも絶対について行くようになった。それ以降が……那珂も覚えてるような旅行の形になるわけだ」

 

 となると、私の美しい思い出は上姉ちゃんと下姉ちゃんの尊い犠牲の上に成り立ってたってことに。

 不憫すぎる……!

 それに、いや、まさか……、

 

「お父さん、ちょっとコンビニ行くのにもお母さんがついていくのって……」

「ああー、それも……そう、かもなぁ……そうなんだろうなぁ……ハハハハハ」

「否定しないの!?」

「うん、あの頭じゃなあ……ハハハ」

 

 もしかしてお父さん、一人でおつかいも行けない?

 残念すぎる……!

 

「上司がボンクラ……想像だにしないボンクラ……アホ……男前なのに……アホ……」

 

 坂神さん、ショックで体が震えたり揺れたりしてて、ちょっと話できなさそう……。

 上姉ちゃんも笑うのをやめて、というか幾分いつも以上にスッとした顔になって、

 

「……まぁ、後は本当にお父さん次第だから、飯行くか」

「坂神さん放置で……?」

「うん。まぁ……そっとしておこう」

「うん……」

 

 ……というわけで、放心の坂神さんを放っといて私達は執務室を出た。

 食堂で坂神さんのジャッジ待ちしてる下姉ちゃんにも、とりあえず状況は伝えないと。

 

 いや、それにしても。

 親を美しいものだと思いながら育つことが出来て救われたというか。

 ホント、知るのが大人になってからで良かった……!

 



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豚にまつわるエトセトラ

ここから楽器ネタ・音楽ネタが続きますのでご了承下さい。


 食堂に行くと、見慣れないものを見た。というか、聞いた。

 

「え、なにこれ……」

「……なんか、凄い音がするな」

 

 ……エグい速度のバスドラ連打。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド……と延々滅茶苦茶な速度。

 私も踏めなくはないけど……ここまでのパワーは流石に出ない。無茶すればともかく、それじゃ一曲すら保たないと思う。なんというか、完全に筋力の違いを感じさせられるもの。ただ、ちょっと”鳴らしきれていない”感はある。

 

 足が止まったから、なんとなく、食堂に入らずに立ち止まって2人で様子を伺う。

 

「……踏めるものだな。むしろ踏めすぎるくらいだ」

「んじゃ、次私ね」

「ああ、同じ速度でいけるだろう」

 

 ……アレ?この声は、

 

「瑞雲ズじゃんか、この声。あいつらドラム出来たのか……」

「うん、それもこんな─────」

 

 と、私が言い掛けたところで、

 

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド……って、また滅茶苦茶な速さ、やっぱりちょっと鳴りが足りない感じ。一応、自分の中でプロの面目は保った、気がする。

 で、声のやり取りからして……さっきが日向さんで、今が伊勢さん─────って待った。

 

 なんで全く同じ音がするの?

 

 疑問の答えを確かめようとして、食堂に踏み込んだ。

 

 ……やっぱり、伊勢さんがバスドラを踏んでいた。

 その脇で日向さんが腕を組んで見守っている。

 

 でも、おかしい。

 なんでこの二人、ほぼ完璧に同じ出音?

 

 違いが分からない。本当に同一人物の、同日の、同じ時間帯の別テイク、それくらいの違いしかない。

 

 足の動かし方や癖、サイズ、筋力、体重、タイム感や好みとか、そういうのが複雑に絡まって……一絡げにすると“音の感じ”として色々な特徴で現れる。

 見た目から想像もつかない音を鳴らすドラマーだってごまんと居るし、反対に全く違う体格のドラマーが似たような出音を鳴らしていることだってある。

 なのに、出音の特徴がここまで一致している。ここまで出音が似るドラマーを、私は知らない。確かに二人共同じような体格だし、パワー感にも説明はつくけれど……。

 それに呆然としていると、

 

「那珂、何ボーッと突っ立ってんのさ」

「いや、耳を疑うっていうか……」

「そりゃ、この速度はヤベーなと思うけどさ……」

 

 本当の異常さに気付いていない上姉ちゃんには目線もやらず、私は二人の様子をじっと見ていた。

 それに気がついたのか、日向さんが微笑みながら右手を挙げる。

 

 えーっと。

 ……一応、完全に私だけが叩いていい、ってつもりでもなかったけどね?

 領収書的には大湊の備品なんだし、セッティングさえ致命的に変えられてなければ構わない。

 ただ、一応一言断りは欲しかった気もする。そういう、ちょっとした釈然としなさ。

 

 でもあの二人って、多分そういう分別くらいはある人間のはずだし、だったら誰かに……あ、下姉ちゃんか。

 私に代わって許可出せるような、というか平然と許可しちゃうのは……そうだよなぁ。

 

 それで下姉ちゃんを探すと、楽器スペースの近くの机で……あ、もうデザート食べてる。

 その上軽く首まで振ってるし、表情と裏腹にノリノリみたいだ。動きを見るに……バスドラの……3拍で浅く首が下がって3拍で戻ってを繰り返してるから……6連?

 

「……あ、持ち主来た。ごめんねー、神通の許可は取ったけどー」

 

 伊勢さんがペダルを踏むのをやめて私に手を振って笑いかけてきた。

 やっぱりか、という感じで苦笑いになる。

 そして下姉ちゃんと目が合って、

 

「……何か不満でも?」

「……いや、全然」

 

 あるけど。ちょっとくらい。

 

 

 ●

 

 

 今回は伊良湖さんが食堂の当番。

 多分私達が最後くらいなわけで頭が下がる。……まだ坂神さんもいるにはいるけど。

 

「今日のメインは何かなーっと……」

「豚の生姜焼きですよ。今回、結構たっぷり目ですね」

「おおー、いいじゃん。前々から思ってたけど、伊良湖ん時はやっぱ食いでがあっていいよねぇ」

「わかります?……そのあたりは、私達も個性を出していこう、っていう試みですね。均質に作る、というのも大事なんですけれど、やっぱり個々人の好みを出せるほうが楽しいですから」

 

 食堂では間宮さん、伊良湖さん、大鯨さんの三交代制で食事を作ってくれる。

 でも伊良湖さんが楽しそうに話していたように、当番ごとに個性がちょくちょく出ているのだ。

 

 間宮さんは味付けちょっと薄め、その代わりにお出汁重視。和洋中何でも作れる。なおかつ栄養バランスを完璧に整えた、至高の食事。それを真っ向から踏み倒すのが我らの提督……もう提督じゃなかった、今はウォースパイトさん。他の二人はわりかし粛々と特別メニューを作るんだけど、間宮さんだけが未だに抵抗を試みてる。二人の喧嘩とも言えないじゃれ合いというか、そういうやり取りは日常茶飯事。

 

 伊良湖さんは……上姉ちゃんが言う通りにちょっと量多め。それに三人の中でも肉系の料理が一番美味しい。脂は程よく落とすように気を使ってるみたい。でも、スパムの脂は落とさない。落とさせてもらえてない。……ちなみに坂神さん一番のお気に入りと目している。伊良湖さんの牛肉料理が出てくると露骨に機嫌が良くなるから。どうせ鳳翔で更に食うし飲むんだけど。

 

 ちなみに大鯨さんは……もう正体がバレてる。脂っこいもの大好き。フライ、天ぷら、唐揚げ、素揚げ、オイル漬け、油ものなんでもござれみたいな。その場で酒飲みたくなるメニュー目白押し。

 最近のびっくり料理はあの”天一”風ラーメン。ついに〆完備。

 ただ、ドロドロ感は似てるけど、ぶっちゃけ野菜ポタージュ。全然胃に来ないから朝でもイケる気がした。多分、間宮さんに口出しされたんだろうな……。二人共釈然としない顔だったし。誰かさんはそのトッピングにスパムマシマシを請求。間宮さんの口出し、台無し。

 

 というわけでご飯の載ったお盆を持って、楽器スペースそばの机、下姉ちゃんの待つ机に。

 

「さ……て、と。現況聞く?」

「ええ、お願いします」

 

 上姉ちゃんがお盆を置いて座りながら切り出し、下姉ちゃんが応える。

 私も続けて隣に座る。

 

「……いただきます」

「いただきまーす、っと……。あ、神通。今まで控えてたけど、お父さんに電話しよう。それでナシをつける」

「……やはり、そういう方策で行きますか」

 

 下姉ちゃんは予想済みだったみたいて、携帯をスッと取り出して机の上に。

 そういえば、私携帯持ってきてなかった。あの場で電話ってなったら怒られるところだったのかも……。

 

「今掛けますか?」

「んー、いや。親しき仲にもってやつ。流石に飯の片手間でそういうお願いは駄目だと思うし」

「そうですね」

 

 ……とりあえず、まずは落ち着いてご飯を。

 と思っていたら伊勢さんと日向さんがこちらに寄ってきて、

 

「那珂、ちょっといいか?」

「……え、はい」

 

 味噌汁を一口してから返事。今までこうして話しかけられることってなかったから、ちょっと新鮮。

 

「あのツインペダル、すっごい軽いよね」

「DWの……9000か。当然だが、アイアンコブラとは大違いだった」

 

 え、ペダルの話?

 そう思いつつ汁のお椀をお盆に置き直して、あと箸も一応箸置きに。

 

「あー……はい、私も試したことあったんですけど、結局軽かったDWに……」

「まぁ、そうだろうな……今こうして軽いペダルを踏んでみると……ハハ、確かにアレはちょっと重いな」

「っても、私達昔から図体大きかったから普通に踏めたんだよね。あとメタル専門だったしほぼ一択だったっていうか」

「それに意外と安かったからな……DWも試しに踏んだが、値段を見て見送ったよ」

「えっと……確かにちょっと割高って感じですよね。TAMAとかと比べると」

 

 確かにDW、ちょっと高い。

 でもやっぱり商売道具だし、私のジャンルは手も足も忙しい。だから軽く踏めて、なおかつ安定してる必要があったから、ハイハットスタンドもDWに。あ、財布から万札がサッパリ消えた感覚を思い出して……ちょっとヒヤッとしてきた。けどまぁ、

 

「……でも、モノは良かったから、いい買い物だったなって」

「そうだな。その通り良いペダルだと思う。まぁ、私達がTAMA派であることは変わらんが」

「やっぱメタルはTAMAだよ、TAMA」

「あ、スネアは私もTAMAです。その……あー、ピエール中野モデルなんですけど」

 

 ……他人のシグネチャー使うって、未だにちょっと恥ずかしいから言うのを躊躇いそうになった。

 その割にドラムセットはお父さんが最初に買ってくれたもの基準で選んできたし、シンバルも同様だったり。

 

「ふむ……ピエール中野……どこで聞いた名前だったか」

「私達洋楽のコピーばっかりやってたから、邦楽はホント疎くってね」

「えっと、凛として時雨ってバンドのドラマーなんですけど……」

「あー……それも名前は、だな」

「ジャンルは?せっかくTAMAだし、結構うるさ目のバンドだよね?」

「あ、まさにそういう感じです。ポストハードコア。私、畑はそこで」

「ほぉ、ハードコアか……那珂がか。イメージや見た目にはよらんな」

「結構ギャップ凄いねー。しかも最近は五十鈴、川内ととジャズやってるわけだし、余計に不思議だよ」

「あはは……」

 

 それにしても結構話が通じる。

 ……というかドラマー同士の会話ってすっごい久しぶりだ。まだまだおっかなびっくりの距離感だけど。

 

「……なんか詳しい話だなー。瑞雲ズ、やっぱりドラマーだったの?」

「ああ。だが、ギタリストでもあったし、ベーシストでもあった」

「バンド楽器は鍵盤以外出来るんだよねー」

 

 しかもマルチプレイヤー。……つまり、私達姉妹全員と話が通じる。

 ここに来てそれなりになるけど、新事実が発覚して楽しくなってきた。

 上姉ちゃんも同じ感想みたいで、

 

「へー……んじゃさ、私のベースどう思う?あの御MOON様は」

 

 そう言って自分の愛器に視線を遣って感想を求めると、

 

「ああ……ロゴを見てググったんだが、随分いい楽器だな。私達では確実に持て余すし……」

「“ちょっと弾かせて”って言う度胸も出なかったよ……」

 

 二人共、ため息モノって感じのコメント。特に伊勢さんの言葉には……下姉ちゃんが眉をピクつかせた。

 ……うん、何も言わずにちょっと弾こうとしてたわけだし。

 それを他所に上姉ちゃんは少しだけ照れながら右手を揺らして、

 

「はっはっはー。でも実は私これが1本目なんだよね」

「最初から6弦でコレとは……また思い切ったな」

「最近5弦から入るって人も多いみたいだけど、6から入るのは初めて見たよ」

「まぁ一生モンだと思って買ったしね。あとギターはちょっと弾けたし」

「いやそういう問題じゃないと思うんだが……」

「弾けてるしねぇ……使いこなせてるかは私達こそ分からないけどさ……」

 

 伊勢さんも日向さんも分かってくれてる。やっぱり上姉ちゃんはおかしい。

 

「しかもアレだ、コントロールが多いと逆に恐ろしいな……」

「あー、そこは私もまだビビってる。だから今はアンプちょっといじるくらいで、ベース側はほぼノータッチ」

「ふーむ……まだどう効くかも試してないのか?」

「どの辺の音域持ち上がるかとかー」

「そりゃ勿論、この子が来たときに一通り試してるって。でも所詮初心者だからさ、とりあえずこの楽器の……すっぴんの音っつーの?その旨味を理解してからって思ったんだよね。じゃないと混乱するじゃん?しかもなんか、ちょっと不思議な感じの音だしさ」

 

 初心者と経験者の会話だけど、上姉ちゃんの貫禄がやたら凄い。初心者はこっち。言ってることはともかく。

 でも初心者にありがちらしい、”とりあえずフルテン”しないのが結構驚きだった覚えがある。ちょっと気分変えるにしてもアンプを弄ってすぐ音が決まるし、なんというか……もう耳が良い。”何が良いか”の基準を標準装備、しかも”楽器のうまみ”を探ってるのもレベルが高い。

 ここでちょっと口を挟んで、

 

「音は……私もちょっと思ってた。ちょっと例えが思いつかないんだけど……確かに不思議だよね」

「おー、那珂はやっぱ流石。なんつーか、あんまりボヨーンとしてないよね。ズゴンともべゴンとも違うし」

 

 アンプで歪ませてない、それだけじゃ説明が付かない不思議さ。

 どう言えばいいか迷っていたけれど、伊勢さんも日向さんは悩みつつ、

 

「あれはそうだな、クリアと言うか……」

「”みっしり”感って言えば良いのかなぁ。しかもゴチャっとしたんじゃなくて整った感じ」

 

 伊勢さんの例えに思わず手を打って、

 

「あ、なるほど。凄い”目の詰まった”感じなんだ……」

「ああ、そうだ。硬いと言えば少し硬いんだが、金属の感じではない。まさに硬い木だ。……木材が気になるな。スペックシートは残っていないのか?」

「何だ何だ日向、木材オタクなの?まぁ見たけりゃ見ていいよ?ハードケースに仕舞ってあるから」

「うっわー、超見たかったー!ありがとー!」

 

 伊勢さんが何故か大喜び。……二人共機材オタクかぁ。

 上姉ちゃんは“うひょー”とか言いたそうな顔で、

 

「え、二人共オタクなの?」

「あまり金がなかったから最終的にギターもベースもYAMAHAになったが、色々目移りはしていたからな」

「っても『YAMAHAでいいや』ってなるのが悲しい性っていうか……YAMAHA凄いってことでもあるんだろうけど」

 

 それには深く同意する……と同時に、

 

「いや……10万台、下手すると10万切ってるのにプロスペックだし、むしろ最も正解に近いんじゃないかなーって思うんですよね……」

 

 例えば、私のバンドのベーシストなんかはYAMAHAのベースを使ってる。スーパーカーのベーシストと同じ型で、プレミアは付いてるけど定価はお安いとか。だからと言ってファンアイテムとしてだけで価値が高いんじゃなく、普通に楽器として出来が良かったりするみたい。

 

「確かに……GibsonとYAMAHA、同じ値段でってなったらYAMAHA取っちゃうもん」

「そうだな……というか、いきなり食事の邪魔をして悪かった。それとドラムなんだが、もう少し借りてもいいか?」

「え、いいですけど……」

「スティックまで借りるのは悪いから、もうちょっと足動くかチェックしたくってさ」

「あー……スティックもいいですよ、使ってもらっても」

「……スティックくらい良いのでは?」

 

 下姉ちゃんが口を挟んできた。……まぁ、良いと言えば良いんだけど、

 

「神通、スティックは消耗品なんだ。折れなくても使えなくなる」

「だからね?下手に他人のスティックとか使えないんだよ。先っぽ……チップ欠けたらアウトだしさ」

「……なるほど」

 

 瑞雲ズの2人が説明してくれた。ちょっとありがたい。

 

「一応、まだストックあるし……そこのスティックは使ってもらって大丈夫です」

「そうか、すまないな」

「ほんと、ありがとー……うわー、スティックも懐かしいなぁ。でもこれ軽いなぁ……メイプル……じゃなくてヒッコリー?こんな軽いのある?」

「だがまぁオークだったらどうしようかと思ったな、無駄に根性出してまた腱鞘炎か?」

 

 ……二人共、楽しそうで良かった。

 と思ったら、伊勢さんだけ戻ってきて机についた。交代で試すし、まだちょっと話があるってことかな。

 

「あー、ご飯食べてていいよ?」

「言われなくてもそうするって、返事は遅れるけどさ」

 

 口にご飯を含んでたところだったので、頷きだけで返す。

 

「ごめんねー、久しぶりに楽器の話できて浮かれちゃってさー。川内、エフェクターとかって興味ないの?」

「……んー、そこまでかなぁ。私のやってみたいことって、今のところはアンプでなんとかなっちゃうし」

「まぁジャズやってればそれもそっか……。神通は……ガチの揃えたね?」

「……私ですか?ええ、せっかくなので」

 

 ここまで話に入ってなかった下姉ちゃんもようやく参加らしい。それで、一応すまし顔で応対してるけど……ちょっとテンパり気味?

 

「ごっついマルチに……なんか、ちょっとこだわりのありそうなペダルだしさ。ここから増やす予定は?」

「無いですね。だからこそ、”これ以上は要らない”と考えていますが」

「そう割り切れるかなぁ?……ってのは意地悪かな。まぁ、Marshallのスタックまで揃ってるのは圧巻だね」

「それは外せない要件でしたから」

「ブルジョアだねぇ……」

 

 いつも通りと言えばいつも通りだけど、なんというか応対が硬い。やっぱり緊張してたみたいだった。

 私は話題から抜け出たので、話を聞きながら食事。それと日向さんのドラミングにもちょっと興味があるので耳を傾ける。

 

「あ、気になってたんだけど、神通。マルチからシールド何本も刺さってるのってあれどういう意味あんの?」

「……それですか、姉さん。少し説明が難しいのですが……」

「……マルチにコンパクト、それとMarshallのプリ組み合わせてるんだよね?4ケーブルメソッド」

「え─────ああ、そういうことです」

 

 のんびり豚肉を食みながら話を聞き流す。

 あのセットアップは……私のバンド、マルチ使いが居なかったから結構面食らったり。

 にしても、日向さん。普通に上手い。ブランクがある……みたいな雰囲気だったけど。今は普通の8ビートだからか、バスドラの鳴らせてない感も無くなっていい感じ。

 

「ふーん、それじゃさ、マルチにコンパクト繋ぐの、どうしてこう回りくどいことになるわけ?」

「それねー。実はエフェクトの順番って超重要でさ。全てが同時にかかるわけじゃないんだよね。簡単に言うと……生音を歪ませてコーラス掛けてって音と、生音にコーラス掛けてから歪ませるってのは別の音色になっちゃうわけ。場合によってはメチャクチャ。とりあえず”思ってたのと違う”ってのは確実に起きると思うよ」

「あーこう、……あれだよ、焼き肉で言うとタレ漬け込んでから焼くのと、焼いてからタレ付けるのは違うし……そういう感じ?これみたいに」

 

 上姉ちゃんに視線をやると、生姜焼きを箸で持ち上げてピラピラと揺らしていた。

 ちょっと行儀が悪いような……。

 

「なんで肉……?でも例えとしては割と適切っぽくて困るなぁ……ともかく、センド/リターンって仕組みがあるんだけど、例えば……というか神通の構成まんまだけど、歪みだけコンパクトやアンプ側で作れるんだよね」

「へぇ……それ、どういう理屈なの?」

「センド/リターンに繋ぐと、マルチの中のエフェクトループ……これはエフェクトの”一連の流れ”かな?神通の

 場合だと、Marshallのプリアンプと歪みペダルが割り込んでる。マルチ側で”どこに割り込ませるか”って設定要るけど」

「なるほどなぁ……」

「音を途中で外に”送って”、”戻す”。センド/リターンってわけ。今回は歪みだけど、別の種類のエフェクターでも同じように出来るんだ」

「ほへー」

 

 よくわからないなりに、色々と便利な世の中らしい。

 それに比べてうちのバンド、結構時代錯誤だったりしたんだろうか……。そうかも……。

 日向さんは……今はオープンハイハットでバラード調な8ビート。この人、結構グルーヴが重めな気がする。

 私は鋭いところを目指していたし、実際そうなれたけど、こういう重量感のあるビートも結構聞いてて気持ちいい。

 

「ところで」

「おう」

「ん?」

 

 下姉ちゃんが、ちょっと圧強めで話題を切り替えて、

 

「私のギターですが」

「ああー、なんか、すごい、もうね」

「うん、凄いわけよ。コイツこれに100万突っ込んだからね」

「一応聞くけど、スキャロップは何?そういうオーダー?」

「間違ってはいませんね、おそらく」

「へぇ……リッチー好きなの?」

「そうでもありますね」

 

 なんか、ゾワゾワしてきたというか、下姉ちゃんのテンションが沸点に向かってブッ飛びそうな……。

 あ、自慢したいのか。

 

「ですがこれは、イングヴェイ・マルムスティーン様モデ─────」

「んだよ豚野郎かよ」

 

 え。

 ちょっと、これは……

 

「何が貴族だよ。何がラージヘッドだよ、ラードヘット?トンカツでも挙げんの?」

 

 向こうの日向さんも手を止めて、

 

「セポイの反乱だな」

「ハハハ」

「ハハハ」

 

 ──────マズいよくわかんないけどなんかマズい!

 

「なんだァ?てめェら……」

 

 

 




神通、キレた!


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