終焉のアタラクシア ―キミを救うために来たんだよ―  (灰都とおり)
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《登場人物》

久凪(くなぎ)勒郎(ろくろう)

 ゲーム三昧で妄想の過ぎる中2男子。ひねた性格だがやるときはやる(?)行動力を示すことも。廃ビルで出会った少女・弥鳥(みとり)(いざなわ)れ、この世界の“向こう側”を目指す戦いに身を投じる。6年前に受けた心の傷で、世の中を恨んでるところがあるらしい。真野あやの、深石彼方(かなた)とは幼馴染み。

 

明弥鳥(あけみとり)空子(くうこ)弥鳥(みとり)

 勒郎を救いに来たと話す転校生の少女。一人称は「ボク」。

 世界の(ことわり)を破壊する「ジャガナート」現象に乗じて、この世界から出ていこうと誘いかける。本人(いわ)く“異世界からの来訪者”。言動は完全に不思議さんだが、異形の世界では頼りになる存在。常に白を基調にした制服姿で、後ろ髪を赤いリボンで結い上げている。華奢(きゃしゃ)な身体ながら凛とした(たたず)まいで、微笑みを浮かべながら勒郎を翻弄する。現実の層(レイヤー)を移動し、真夜(マーヤー)と呼ばれる思念具現化能力を発揮する。

 

真野(まの)あやの

 勒郎の幼馴染みの少女。一人称は「あたし」。

 黒縁メガネに切れ長の目、おかっぱにした髪はクセっ毛のために少しはねている。勝ち気なタイプだが、プライドが高くて友達は少ないらしい。勒郎にはいつもつっけんどんに接するが、学校に来ないのを気にしているそぶりもあって微妙な距離感を保っている。ノートに自作のマンガを描いていて、ひとりでいることも多く、教室ではやや浮いている。弟がひとりいる。

 

◆深石彼方(かなた)

 勒郎の幼馴染みの少年で、数少ない友人のひとり。

 いつも涼しげに笑う爽やかな性格で、背は高く、顔も頭もいいという、勒郎とは真逆の高スペックキャラ。大人びた雰囲気のせいで、周囲からは少し近寄りがたく思われているところも。

 

◆平沢久遠(くおん)(平沢先生)

 勒郎の通う中学校の図書室に勤務する女性司書。一人称は「あたし」。

 縁の赤いメガネの奥で悪戯っぽく笑い、愛情表現めいたからかいで勒郎を手玉にとる(一部の)中2男子にとっては憧れのキャラ。勒郎は「気を使えばそれなりの美人になりそう」と評するが、化粧っ気はなく、いつもボサボサの黒髪を無造作に括っている。

 

◆黒衣の女

 勒郎の夢に現れ、やがて深いレイヤーで出会うことになる“異世界からの来訪者”。一人称は「俺」。

 あらゆる光を吸収するような漆黒の衣を(まと)い、そこから闇夜のような長い黒髪、人形のように華奢な手足を覗かせる。表層現実では漆黒のセーラー服に黒髪ロングの俺っ娘。好戦的な性格で、戦いの中では真紅に輝く両眼を見開き、凶悪な笑みを浮かべる。爪から刃を伸ばすなど無数の能力を持つほか、ドグマを司(ヴァル)る漆黒の羽根(ラヴェン)と呼ばれる「虚海船」を使って世界から世界へ移動する力を持つ。

 

◆クク(カルナー)

 見かけは10歳くらいの女の子だが、世界山(メール)と呼ばれる異世界から来た存在。一人称は「僕」。

 紺のブレザーにチェックのスカート姿で、ショートにした髪からちょこんと逆立つ毛を揺らしている。ぱっちりした目で真っ直ぐ前を見て話す、真面目で穏やかな性格。この物語では数少ない常識人担当。表層現実ではマスコットめいた小動物の姿をとる。小さなキツネかイタチのようなひょろりとした体で、真っ白な毛並みに、頭から背中にかけてオレンジ色の模様がついている。よく魔法少女が連れているアレである。

 

仮名見(かなみ)来子(くるこ)

 血の気の薄い顔に、ウェーブがかった長い黒髪を持つ少女。一人称は「私」。

 勒郎の隣の中学に通う女子生徒。幼少期のトラウマから誰とも理解し合えないと心を閉ざして生きてきたが、勒郎を唯一の理解者と信じ、一方的かつ強烈な好意を寄せる。比較的テンプレ通りのヤンデレさん。

 

◆プルシャ

 世界の秩序を守護する「恒真の守護者(アガスティア)」のひとり。

 

◆ミーアクラア、ガラハド、リエメイ

 ジャガナートに惹かれて勒郎のいる世界へやって来た“来訪者”達。

 

(おおとり)殊子(ことこ)

 無数の世界を漂う“漂流学園”の少女。制服の左腕に生徒会執行局と記された腕章を付けている。

 

 

 



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- 幕明 -
PREINDICATION


 星々の(かす)かな光が、観測室の暗い床を照らしていた。

 その広く静かな空間に、ミカルはひとり目を閉じて立っていた。

 

「……ようやく来た」

 

 目を閉じたままミカルが溜め息をつく。

 その直後、漆黒の壁の一面がドアの形となって開き、眩しい光が射し込んだ。

 ミカルの束ねた長髪が揺れる。

 

「何か変化あったの?」

 

 そう言いながら、好奇心に満ちた瞳を輝かせて入って来たのは、生徒会執行局の制服を来た少女だ。ミカルの傍へ歩いて来る姿が自信に満ちている。後ろになびくストレートの髪が、暗い観測室の中でなお黒く輝いた。

 

(おおとり)殊子(ことこ)? なぜその姿で……」

「うん、あたし向きの話だと思ったんだ」

「まあいいけど……学園がこの状況だと、すぐ動けるのはあなただけみたいね」

 

 ミカルは少し驚いたように殊子の姿を眺めるが、すぐいつもの冷静さを取り戻して正面の壁に顔を向けた。

 虚海に浮かぶ島世界のヴィジョンが映し出され、殊子もそれを眺める。

 

「これが例の島世界?」

「そう。このタイミングでこれが観測されたの」

 

 ミカルが切れ長の目を瞬きすると、別のヴィジョンが重ねて投影された。その島世界へ向けて、遥か彼方から放射される金色の光線……。

 

「これ……もしかして世界山(メール)からの干渉?」

 

 殊子が真剣な眼差しでヴィジョンを見つめる。

 

「そう見えるわ」

「……つまりそれだけのことが起きるってことね」

「ええ」

 

 殊子の横顔を見据えてミカルははっきり口にする。

 

「間違いないわ、ジャガナートはあそこで始まる。世界の(ことわり)が書き換えられる。そしてそれは予想よりずっと大きな影響をもたらすのかも知れない……」

 

 冷静さを保とうとするようにひと呼吸置いてからミカルは続ける。

 

「……幾千幾万の島世界を巻き込み、人類史の流れをも左右するほどの」

 

 広大な観測室に沈黙が流れる。

 微動だにせずヴィジョンを見上げる殊子は、宝物でも見つけたように瞳を輝かせながら答える。

 

「この学園があそこへ漂着するより先に、確かめに行った方が良さそうね」

「……あなたならそう言うだろうと思ったわ」

 

 ミカルは、やれやれとでも言うように右手で額を押さえる。

 

「それでミカルの用事ってのは?」

 

 殊子が嬉しそうに笑いながら見つめるので、ミカルが苦笑しながら答える。

 

「……私もそのことを頼もうと思ってたの」

「ほら! やっぱりあたし向きの話だった」

 

 颯爽と観測室を出ていく殊子を見送りながら、ミカルは一体これは誰の物語として語られるのだろうと思う。

 

――少なくとも私達の物語じゃない。だけど……

 

 ミカルの脳裡に、この学園でこれまでに(つむ)がれてきた無数の物語が瞬く。このところ絶えてなかった懐かしさが胸に溢れ、ミカルはそんな自分に少し戸惑った。

 

――だけど、ここからすべてが始まる気がする。私達の、そしてこの宇宙のあらゆる物語が。

 

 静寂の中、高まる胸の鼓動を静めるように、ミカルはゆっくりと虚界へその身体を解かしていった。

 

 

 



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Ⅰ 始まりの物語/静謐の少女と破壊神
キミを救うために来たんだよ ①


――重要なのは、その瞬間お前が手を伸ばせるかどうかなんだよ。

 

 高架を疾走する8輌編成の列車の屋根の上で、俺はワタリガラスの言葉を反芻(はんすう)していた。

 

――お前が為すべきことから目を()らさせる、この世のあらゆる欺瞞(ぎまん)は破壊しろ。

 

 早朝の冷気がうずくまる俺の身体を叩く。これが……俺がいま為すべきことなんだろうか。

 

「……キミはやっぱり来たね」

 

 列車のたてる轟音の中でも、彼女の透き通った声は聞こえる。

 見上げればそこに、夜明け前の蒼い空を背景に彼女が立っていた。列車の先頭に背を向け、揺れも意に介さず俺を見下ろしている。

 風がその白い制服を乱暴にはためかせるのに、彼女のか細い身体は揺らぎもしない。

 

「キミがあの人たちに話しても、誰にも理解できないよ」

 

 列車の先、遥か遠くから密集する高層ビル群が近付いてくる。

 ビルの上空には、天地創造以前の混沌もかくやと思える暴力的な力が巨大な渦をなし、ダークブルーの雲を引き千切っては呑み込んでいる。もう始まっているんだ。

 

「でも、ボクには分かる」

 

 やや吊り上がった大きな瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。

 震えるほどの生命力に満ちたその瞳を、何度見つめただろう。俺を冒険へと(いざな)う別世界からの扉。

 薄闇の中で、瞳は金色に光る。あの光が象徴する恐ろしい戦いの記憶が、昨夜の夢の欠片のように(よみがえ)る。それは、お前のいるべき場所はここなんだと宣告していた。

 そのとき真横から日の光が射し、風圧にはためく彼女の赤いリボンが(きら)めいた。

 

「……だから、ボクはここへ来たんだよ」

 

 彼女が微笑んでいる。その虚無の優しさを(たた)える微笑を前に、ようやく俺は理解した。また会えるよ――あのときの彼女の言葉がいま現実になったことを。

 

「さあ行こう、ボク達ふたりで」

 

 彼女が右手を差し伸べる。その誘いの意味することを、俺はもう知っている。

 少しの躊躇(ためら)いの後、しかし決意を込めて俺は彼女の手を(つか)む。

 走り続ける列車の上で、足元の感覚がふわりと軽くなる。

 そして俺は、俺の物語と再会する――。

 

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 ありとあらゆる物語は、この世界に突き立てる刃だ。

 

 世界の命運を担う少年少女。

 授けられた能力と、襲来する敵。

 そして出会い。

 それら物語の刃で、俺は何と戦ってきたんだろう。

 

 永劫と見紛(みまご)う時空、世界山(メール)の頂上に俺は立った。

 4000万年に渡り人類史を塗り潰した暗霊斎団(あんりょうさいだん)の先触れと、俺は対峙した。

 そのすべても、50億年を(けみ)する彼女にとっては一瞬頭をよぎる淡いイメージに過ぎない。

 思春期の妄想のように。

 

 時間は幻だ。

 だからこれは、遥かな過去の記憶だが、これから始まる物語でもある。

 その瞬間が来たとき、躊躇(ためら)わず手を伸ばせることを、俺は祈る。

 

 いまはあの邂逅(かいこう)から語られる物語に身を投じよう。

 そのとき俺は14歳だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Ⅰ章】   始まりの物語/静謐の少女と破壊神

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 90年代と呼ばれる十年紀が始まった頃――。

 深夜の気配が部屋を満たすまで、俺は地下迷宮を探索していた。美しく無慈悲な吸血鬼に、奇怪な道化師の妖魔に遭遇した。熟練の剣技を振るう侍も、業火を操る魔法使いも、みな等しく灰となった。

 

 カーテン越しに夜が力を失う気配が伝わると、俺は冒険をセーブして部屋の灯りを消す。

 世界は静かだ。

 大通りを車が走る音がすると、俺はマンションに住まう人々の眠りを意識する。隣の寝室にいる父親の気配を感じる。微睡(まどろ)む世界から、俺だけが遊離する。

 

「スペースシャトルから漂流する宇宙飛行士みたいやな?」

 

 彼方(かなた)との会話を思い出す。

 俺達は想像した。切れた命綱と遠ざかる母船を眺めるとき、宇宙飛行士は何を感じるだろう? 寄る辺ない不安、ゆっくりと息絶える恐怖、そして甘い解放感。

 

 ガ……チャリ。

 

 重く冷たい玄関ドアを閉めた瞬間、その声が聞こえる。

 

――あなたを迎えに来たんです。

 

 いつもと変わらぬ、冒険への誘いだ。

 俺はかつて、暗黒卿に追われるお姫様に助けを求められた。地球侵略のためにやって来た美少女ロボットからも。

 透き通った夜の外気に命を吹き込まれて、俺は走り出す。

 そこは静かで、冷たく、暗い――1日で最も優しい街だ。何だって起こり得る。ざまあみろ、お前らが眠っている間に冒険は始まり、終わるんだ。

 

――その秘められた力を貸してください。

 

 夏休みはとっくに明けていたが、この時間でもまだ微かな熱気を感じる。

 歩道橋を駆け上ると白みつつある空が広がり、いよいよ異世界からの来訪者が現れる場面(シーン)が始まるところだ。

 

――世界を救うために……!

 

 神社の森が見える。

 その鳥居まで来ても世界が変わらずにいると、そこで俺は向き合わなければならない。また1日この世界で生き延びなければいけないことに。

 

「……なかなか来てくれへんなあ」

 

 鳥居に手を突き、荒い呼吸を整えながら俺は(つぶや)いた。

 

 

 

 

 

勒郎(ろくろう)……? あんた何してるん?」

 

 唐突に呼び掛けられて俺は飛び上がった。

 神社の薄暗がりの中、社の小さな灯りが少女のすらりとした輪郭を照らしている。同じ中学の制服だ。

 

「……あやっ……あやの?」

 

 俺は声を絞り出した。

 少女は両手を組んで、詰問するように首を傾ける。切れ長の冷たい目が突き刺さる。

 5歳に学童保育で知り合ったときから、こいつのプライドが高く不機嫌そうな態度は変わらない。おかっぱにした髪がクセっ毛のせいで跳ねているのも。

 

「……あんたよく居場所がないとか言っとったけど、あたしも同じようなもんやな」

 

 ひとり自嘲気味に笑う。

 真野あやの。幼馴染み……だが最近は疎遠で、話すのは数ヶ月ぶりくらいか。なぜかいつものメガネをかけてなくて、俺は少し目のやり場に困った。こいつ、こんなに睫毛が長かったか? それに何かしおらしい雰囲気だ。

 

「でもお前……お前はちゃんとやってるやん……」

「そやな、そこは一緒にしたらあかんな」

「えぇ……」

「あんたと(ちご)て、あたしは学校くらい行ってるし」

 

 憐れむような笑み。

 くそっ、一瞬でも気を許したのは間違いだった。メガネをかけてないせいで昔を思い出し、つい下の名前で呼んでしまったのが運のツキだ。話題を変えよう。

 

「あそういやお前……まだ憶えとる? 昔この神社で……」

「ん……」

 

 

 

 

 

 6年前、俺達はここで異世界への扉を開こうとした。

 あやのと、俺、そして彼方がいた。

 コックリさん……俺達の間ではなぜか、それはこの稲荷神社の鳥居をゲートとして“向こう側”へ行く儀式だった。

 

――本気で思てたら行けるやろ?

 

 彼方の声を思い出す。

 じゃあ俺は――俺達は本気じゃなかったんだろうか?

 記憶には救急車のサイレンが刻まれている。あの夜、小学2年生はとっくに帰宅する時間だったはずだ。

 3人だけの儀式。

 後は鳥居へ踏み出せばよかった。だけど俺は行かなかったんだ。

 

 

 

 

 

「……あやの……お前、家で何かあったんか?」

 

 あのときのことを思い出しながら、俺は言葉を探した。

 

「え……何よそれ」

 

 あやのの声色が急に暗くなる。ぎこちない会話を無理に続けようとして、俺はしくじったのかも知れない。

 

「……あたしもう帰るわ」

 

 あやのは神社から出て、早足に俺の前を横切っていく。

 

「おい……」

「学校行けよアホ」

 

 思わず伸ばした手があやのの肩にあたり、制服越しに華奢な身体つきが伝わる。ひどく悪いことをした気がして俺は狼狽(うろた)えた。

 あやのは振り向きもせず、そのまま歩き去る。あいつの頑なさが、手の感触としてしばらく残った。

 

 

 

 

 

 あやのとの出会いが何を意味したのか、いまなら分かる。それはこの日のもうひとつの邂逅(かいこう)の予兆で……物語の幕明けだったんだ。

 

 

 

 

 

 神社で世界が変わらないなら、俺が向かうのはいつもの廃ビルだ。解体を待つ雑居ビル。俺がこの世界に立ち向かうための場所。

 屋上に出ると、白い陽光が街を照らしていた。俺の1日はまだ終わらないのに、世界はさっさと新しい日を始めてしまう。

 

――都会やと、日の出って不健康な生活の象徴やねぇ……。

 

 縁の赤いメガネの奥で笑う平沢先生の、気だるげな声が浮かんだ。あのひとがいるなら、もう少しこの世界にいても耐えられると俺は思う。

 白々と陽を浴びて向かいの新しいマンションが輝く。

 ここからあの屋上へ飛ぼうと必死に念じていたものだ。小学生の俺は「幻魔大戦」の超能力戦士になりたかったんだ。

 

「……まあ飛べへんよな」

 

 昔の自分に思わず突っ込みを入れたとき、罪悪感を覚えて俺は戸惑った。あのときの自分を裏切ってしまったような。俺にはもう奇跡は起きない、そのことを認めてしまった気がした。

 

「ううん、飛べるよ?」

 

 すぐ後ろから女の子の声がして、俺は悲鳴を上げかけた。

 とっさに振り向きながら不恰好に体制を崩し、膝を突いてしまう。何なんだ今日は。俺が独り言を言うと女子に突っ込みを入れられる決まりにでもなったのか。

 慌てて見上げた先に、ひとりの見知らぬ少女が立っていた。

 

「ふぇ……?」

 

 冗談のように間の抜けた声を出した自分に愕然とする。……が、それもやむなしと慰めよう。

 美少女……と言うべきだろう。誰もいるはずのない早朝の廃ビルの屋上で、制服姿の彼女は少し眩しそうに俺の目をじっと見つめていた。

 あり得ない光景だ。ついに現実がバグったか。

 

 

 

 

 

 それがこの日の、もうひとつの邂逅(かいこう)

 そのとき物語が始まったんだと、俺にははっきり分かった。

 

 

 




中2男子の苛立ちを描くことがこんなに難しいだなんて知りませんでした。


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キミを救うために来たんだよ ②

 白を基調にした、見慣れない制服。

 華奢(きゃしゃ)な身体から、細く伸びた手足。

 どこか常人離れしたスタイルにどきっとする。キャットウォークを歩くモデルというより、グランドを走り回る少年のような手足。美術の教科書で天国の梯子(はしご)を降る天使の絵を見たが、あの無垢で本能的な力だ。性別を超越した透明な存在感。

 屋上を吹く風が、後ろで髪を結い上げた彼女の赤いリボンを細く棚引(たなび)かせた。

 

――飛べるよ。

 

 そう聞こえたのは幻聴だったのか。不安になって、俺はその子の唇を見つめる。

 

「見つけた」

 

 そこから透き通った声がこぼれて、俺の頭をとんと打った。

 その唇が端を少しとがらせ、微かな笑みをつくる。やや吊り上がった大きな瞳が俺を見下ろしている。

 誰だ? いつからいたんだ? 痺れた頭の中で声にならない疑問が反響する。

 

「……だっ……誰?」

 

 口の中がカラカラだ。

 手の平にざりっとしたコンクリートの固さが伝わって、俺は自分が腰を抜かして床に手を突いていることに気付いた。

 

「ようやく会えた。久凪(くなぎ)勒郎(ろくろう)くん」

「ああ俺……え知ってんの?」

「だから来たんだよ」

 

 ふっと少女の目が眠そうに細められ、それが微笑みだと分かった。

 何が起きてるんだ。少女は俺の名を言った。学校の子か。でも会ったこともない――

 

 

 

 

 

――転校生!

 

 思い出した。

 ひと月ほど前、夏休みの登校日。

 俺の数少ない友人、あやのと同じく5歳から付き合いのある深石彼方(かなた)に引っ張られるように出ていったあの日。

 

 休みで浮わついた生徒達がざわつく教室で、俺は窓越しにぼんやり廊下を眺めていた。

 その視界に、廊下を歩く女子生徒が映った。

 見慣れない制服。凛とした空気。少し前を歩く教員が、お嬢様をお連れする執事に見えた。

 

「転校生が来るんやってな。2学期から」

 

 帰り道で彼方が言った。

 あいつはいつものようにすらりと背筋を伸ばし、やけに涼しげに笑っていた。

 俺を裏返したように、社交性があり、規律は守り、先生からもクラスメートからも一目置かれる彼方。背が高く、顔も頭もいいが、落ち着き過ぎた雰囲気が近寄りがたくさせるからか、他人とは距離があった。

 

「……女子らしいけど、なんか可愛いとか噂になってんで」

 

 そのあいつが、そんなことをわざわざ話題にするのは少し妙だったが、2年生になってサボり癖がひどくなった俺を焚き付けようとでもしたんだろう。

 そのとき俺は、その子を見たかも知れない、とは言わなかった。

 女子生徒を見たあのとき、クラス担任が冗談めかした説教をぶっていて、廊下を見ていた生徒は少なかったはずだ。俺だけが彼女を見たのかも知れない。その邂逅(かいこう)を言葉にするのがなぜか惜しかった。

 

 

 

 

 

「えと……もしか、うちに転校した……」

 

 思い出しながら、俺はもごもご言葉を吐き出していた。普段女子とまともに関わらないから話し方が分からないのが痛い……いや、いまはそんなことどうだっていい。

 その子は、そうだよと言うように微笑み続ける。

 そう言えば廊下で見たときは髪を下ろしていたから印象が違う気がする。

 

「ボクは、明弥鳥(あけみとり)空子(くうこ)

「あけ……あけみ……?」

「ミトリでいいよ」

 

 彼女はそう言って、這いつくばるような格好で固まった俺へ近付いてくる。

 

「ミトリさん……。ここで……何してんの?」

 

 転校生が入ったのは別のクラスだった。その子が登校拒否がちな男子を探すために早朝から廃ビルの屋上へ来る理由なんてないはずだ。

 

「久凪くん。ボクはキミを救うために来たんだよ」

 

 当然のことのようにそう言って、彼女が手を差し伸べる。

 呆然とその手を(つか)みながら、女子の手を握るのは小学生のフォークダンス以来かなとぼんやり考えていた。

 その柔らかな感触にびっくりした俺は反射的に手を離し、またしても体勢を崩してしまう。くそ、物語がこんな風に始まると知ってたら少しは心構えだってできたのに。

 

「うわ」

 

 倒れかけた身体にとん、という衝撃があって頭が真っ白になる。

 目の前に彼女がいて、互いの胸がぶつかった。背中を彼女の両腕が優しく支えている。左耳を彼女の髪がふわりと撫で、背筋を電流が走り抜けた。

 

「あはは、危ない」

 

 耳元で彼女の声が響く。

 俺は痺れた頭で、女子に抱き締められるのは掛け値なしに人生初体験だと考えていた。こんな場面(シーン)、いくら心構えしたって中学生男子にうまくこなせるもんか。

 

「それじゃこのまま移ってみよう!」

 

 そう言うと彼女は俺から身を(ひるがえ)し、屋上の端の一段高くなった塀に飛び乗った。

 

「ちょっ……何してんの!?」

 

 落ちることを怖がることもなく屋上の端に立ち、彼女が俺を見下ろしている。出たばかりの朝日が後光のように少女の姿を照らし、下からの風を受けた彼女の髪と赤いリボンがふわりと舞った。

 触れれば突き落としてしまいそうな(はかな)さ。

 俺はおろおろその姿を見つめながら、頭の中で何かが引き剥がされるのを感じていた。危ない……いや違う。いま起きているのは何か……そういう世界の常識に爪を立てる出来事だ。

 

「久凪くん!」

 

 凛とした声が屋上に響く。

 

「キミはこう思ってる。なぜこの世界は息苦しいのか。いつまで耐えれば解放されるのか」

 

 彼女は変わらず微笑を浮かべていた。

 

「……どうすれば“向こう側”へ行けるのかってね。でもこうも考える。そんなことは誰もが思う悩みだ。皆折り合いをつけて生きている。現実に向き合えない、弱く、怠惰で、甘えた人間だけが立ち止まる。立ち止まれるだけの余裕があるという恵まれた環境にいることからも目を逸らして。自分から行動を起こそうともしないで。ただ生ぬるい悩みをつつきながら、閉じた場所に引き込もって……」

 

 彼女が右手の人差し指で俺の胸を指した。

 

「その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる? そう思えるならそれでいい。そうでないなら」

 

 右手が優しく開かれる。救いの手のように。

 

「……キミを“向こう側”へ連れてってあげる。キミがあるがままでいられる世界へ。苦しみのない静謐(せいひつ)の世界へ。それはあるんだよ。もしその意思があるなら……」

 

 俺が見つめる中、彼女の身体の重心が少しずつ後ろに傾いていく。

 

「……ただこの手を取ればいいんだよ」

 

 彼女が優しく笑う。

 その笑み、その言葉のほとんどは理解できなかったが、自分が試されていることだけは分かった。

 ……いや、そうじゃない。俺はすべて分かっていたんだ。

 ここから彼女に手が届くまで約2歩。ほんの一瞬だ。もし彼女がそのまま立っているなら。張り詰めた空気に、心臓はどっと鼓動を強める。6年前の神社の儀式が脳裏をかすめる。

 

「さあ、一緒に行こう」

 

 彼女の身体がとんと後ろへ跳ぶ。何もない虚空で一瞬、その重さを失ったように見えた。

 俺はただ身体だけが動いていた。

 2歩の距離を詰め、塀から身を乗り出して右手を伸ばし……その瞬間理解する。その先へ飛び出さなければ手は届かない。

 

――本気で思てたら行けるやろ。

 

 足は、屋上の縁を蹴っていた。

 足場を失い、重力に捕えられるのを感じて全身の毛が逆立つ。

 視界が(かす)れ……

 

 ……右手が何かに触れた。

 

「大丈夫だよ」

 

 その声を耳にしたとき、全身の感覚が戻った。

 俺の右手はしっかり彼女の右手を……いや、彼女がしっかり俺の右手を(つか)んでいた。空中で……。

 

「飛ぼう!」

 

 なんて生き生きした声だろうと聞き惚れる中、身体はふわりと浮かび、激しい上昇気流に吹き飛ばされるように舞い上がった。

 とてつもない解放感が背骨を貫く。全細胞を拘束していた(かせ)が一気に解かれたような。凄まじい勢いに視界が掻き乱される。

 

「……ぁぁあああ」

 

 絶叫が耳に入り、自分が上げていた声にようやく気付く。嵐は止んでいて、靴の下には固い地面があった。

 

「……久凪くん、目を開けて?」

 

 ゆっくり目蓋を上げる。

 足元のコンクリートが、そして周囲の眺望が視界に入る。街を見はるかす場所……向かいのマンションの屋上に違いない。

 

「わ……何やこれっ!?」

 

 しかしそこに広がる光景は見たことのないものだ。

 歪んだ蟻塚や蜂の巣のような異形の建物群。あるいは中央アジアの砂漠に残る古代遺跡のような。乱雑に建ち並ぶそれは内部から発光し、遠くにはバベルの塔よろしく天を突き刺す建物もいくつか見える。

 辺り一面、薄ぼんやりとした奇妙な蒼白いもやに包まれている。

 

「いまボク達は、現実のレイヤーを移動したんだ」

 

 隣に立つ彼女が、その光景を眺めながら言う。

 

(こんなことが起こり得るのか?)

 

 生まれて14年かけて築いた世界のルールが砕け、脳が新たな現実を処理するのにフル回転している。

 見上げると、天体写真のように色彩の強調された紫や青の光が(またた)いていた。しかしそれが夜空ではなく、依然として早朝の空だと俺には分かった。

 (ねじ)れ、発光し、渦を巻く雲が刻一刻と姿を変えて飛び去っていく。

 目眩(めまい)がした。だけど心地よい目眩だった。

 

「これ……これが……“向こう側”?」

 

 どれだけその光景を見つめていたろうか。俺はようやくそう口に出せた。

 彼女が振り向く。嬉しそうに光るその大きな瞳に吸い込まれそうだ。

 

「現実はね、いくつもの(レイヤー)が重なり合ったものなんだ。いまはその間を少し移動しただけ。ほら」

 

 彼女が足元を示す。そこは見慣れたコンクリートの床だ。

 

「別世界に来た訳じゃないんだよ。ここはいまもあのマンションの屋上だし、9月12日の朝なんだ。コツが分かれば、重なり合うレイヤーを同時に見れるし、こうやって移動することもできる」

 

 さっきまで圧倒されていた異様な景観が、長年暮らした街並みに見える。俺には理解できる。ここは異世界じゃない。いままで見なかっただけで、世界はずっとこんな姿も持っていたんだ。

 

「それじゃ、本題ね」

 

 声のトーンが低くなったのに驚いて見返すと、彼女は悪巧みする子供のような笑顔を浮かべていた。

 

「久凪くんにはあれ……見えるよね?」

 

 素直に彼女の指す方を眺めると、遥か遠く、背の高い建物が密集するその中空に、霞みがかった何かの気配があった。視線を向けると消えてしまう錯覚のような……だけど穏やかならぬ巨大な渦の気配が。

 

「……何やろ。台風でも生まれそうな……」

 

 いや、それよりずっと恐ろしい災厄の芽のようで……言葉じゃ表現できない、この世界の論理では理解不能な混沌が溢れ出すような……。

 ぞっとして俺は目を逸らす。

 俺を見つめる彼女が目を輝かせている。理解不能な混沌……それを歓迎すべきことであるかのように。

 

「あそこからジャガナートが始まるんだ。あれはその予兆」

「ジャガ……ナート?」

「そう。この世界の(ことわり)の一端を破壊する現象――」

 

 不気味に発光する空が彼女を背後から照らしていた。

 

「あらゆる時空……三千世界の無数の縁起が、億に億を掛けても足りない可能性のひとつとして重なり合ったんだ。そこに立ち会った者は、この世界のあらゆる法則、束縛、宿命(さだめ)から開放される……それがどれほどのことか、キミに分かる?」

 

 世界を見下ろす神々のように少女が言葉を(つむ)ぐ。

 

「そのことに気付いた者達がそれぞれの思惑のもと、様々な世界からここへ向かっている。ジャガナートに立ち会えるなんて滅多にないからね。久凪くん、これは大きなチャンスなんだ」

 

 彼女が笑う。信じられないほど優しい微笑みだと思った。

 

「キミは使命を果たすためにこの世界へやって来た。だから苦しいのは当たり前さ。ここの住人じゃないんだから」

「……使命?」

「そう、向こう側へ戻るにはその使命を果たさなきゃいけない。でもね、もうひとつ方法があるんだよ」

 

 少女はあの恐るべき予兆を宿した中空へ顔を向ける。

 

「ジャガナートが起きたとき、その中心に立ち会えば、定められた制約を……運命をすら超えて、キミはもとの世界に戻ることができる」

 

 俺は魅入られたように、その巨大な渦の気配を眺めていた。ずっと、どこか遠くへ行きたかった。この現実から逃げ出せる巨大な災厄を待ち続けてきた。

 

「それが……“向こう側”? 苦しみのない世界ってこと?」

「そうだよ」

「……ほん、とに……そこへ行けるん?」

「大丈夫。ボクと行こう」

 

 彼女が俺を正面から見つめている。

 その背後に壮大な異形の世界が広がり、俺を誘うように光を瞬かせた。

 

「久凪くん、ボクはね……」

 

 彼女が微笑みながら――この日何度目だろうか――右手を差し延べる。

 

「キミを救うために来たんだよ」

 

 

 




救いってある種の怖さがあるなと思います。


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ボク達が世界から出ていくため ①

天刑陣(てんけいじん)は完成しました。貴女(あなた)に逃れる術はありません」

 

 頭に直接声が響く。

 星々を砕く壮大な光の刃が飛び交い、時空間に包囲網を形成する。

 その中心、虚海に浮かぶ岩塊の上で、片膝を突いた人影が周囲を睨み付けていた。

 

「……そう思うか?」

 

 ズタズタに引き裂かれた黒い衣をまとったそれは、針金細工のようにか細い身体を震わせていた。すでに大きな傷を負っているのは明らかだ。

 それが凄絶な笑みを浮かべた。

 

恒真の守護者(アガスティア)でさえ拘束の(あた)わぬものがそこにあるぞ」

 

 フードに隠れた頭部から、その苛烈な視線がこちらを――俺を射抜いていた。

 

「……ジャガナートのことを言ってるのですか? しかし貴女にそこに到達することは……」

 

 岩塊を取り巻く暗黒から、かすかに動揺する気配が伝わる。

 その様子を楽しむかのように、人影はゆっくり(いびつ)な姿勢で立ち上がると、片手を高く掲げた。オーケストラを指揮する尊大さ。

 その動きに追随して、足元の瓦礫から何かが生じ始めていた。

 

「これが切り札だよプルシャ」

ドグマを司(ヴァル)る漆黒の羽根(ラヴェン)……失われた虚海船……そうか貴女は……」

 

 瓦礫が分解され、巨大な構造物に再構成されていく。

 黒い人影がその中に乗り込む直前、もう一度こちらを――次元を超えてこの俺をじっと見つめた。

 

 ……目覚めると昼だった。

 その奇妙な夢が霧散した後も、最後に見たその視線ははっきり俺の記憶に残った。

 

 

 

 

 

 廃ビルから自宅へ帰ると、俺はいつの間にか眠ったようだ。

 あの少女は現実だったのか。すべてが夢だったかと思えたが……そんな風に納得するほど俺は日々に満ち足りてはいなかった。

 この()いだ世界に風が吹くなら、嵐の先触れだろうと俺は歓迎する。いま何かが確かに、この現実を変え始めているに違いない。それが俺の思い込みだろうと、行動すれば同じことだ。

 

 

 

 

 

「おー久凪(くなぎ)かぁ……最後の聖戦やってただろ、観たか?」

 

 図書室へ入ると眠そうな声がかかる。司書の平沢久遠(くおん)先生だ。

 気を使えばそれなりの美人になりそうなのに、化粧っ気がなく、いつもボサボサの黒髪を無造作に括っている……だけど俺はあの縁の赤いメガネに、その奥で悪戯っぽく笑う瞳に、妙にドキドキさせられる。

 

「えっと……いや観てないですね」

「なんだよぉ、せっかく教えてやってたのに。レンタルで観ろよ」

 

 考古学者インディアナ・ジョーンズの映画第3作。平沢先生の好きそうな映画だ。後で動画でも検索してみるか。

 

「……忙しそうやのによく俺が入ってきたの目に入りますね」

「んー、お前が入ってくるとすぐ分かるんよ」

「また……魔法だとか言わんといてくださいよ」

「いやいや」

 

 平沢先生がカウンターから身を乗り出してくる。

 

「これは愛やで? 久凪くん」

「はあっ!?」

 

 いつもの挑発だ。俺は紅くなる顔を見られたくないのでとっとと通り過ぎようとする。

 

「ああおい、久凪よ」

 

 先生が後ろから声をかけてくる。ちょっと真剣なトーンだった。

 

「なんすか」

「最後の聖戦はなぁ、ショーン・コネリーの父親像が本当にいいんだよ」

「……そうすか」

 

 いちいち外してくる。

 

「……じゃなくて、例の“黒いメイドさん”の噂やけどな……やっぱり不審者が夜うろついてるみたいやよ。他にもほら、最近妙なこと起きてるからなぁ。お前まだ夜中に出歩いてるんやったら気ぃつけやぁ」

「……そんときは魔法で助けてくださいよ」

「ははぁ、あたしが魔法使いって信じてくれて嬉しいわ」

 

 先生の赤いメガネがきらっと光る。

 俺はそそくさといつもの自習スペースへ向かう。

 ほとんど授業に出なくなった俺がそれでも学校へ足を運べたのは、この図書室が(いびつ)ながら居場所になっていたからだ。

 

 俺は机の上で、棚から適当に選んだ英和辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典)を開いた。

 

 Jaga……nert……?

 

 今朝、あの少女から聞いた単語。あれが妄想でないなら、何か手がかりがあるはずだ。

 

――ジャガナートが始まる。

 

 闇の中で(かす)かな光にしがみつくように、俺はそれらしい綴りを探して辞書をめくった。

 

------------------------------------------

 Jagannath

 1〔ヒンドゥー教〕 ジャガンナート:ビシュヌ(Vishnu)の化身クリシュナ(Krishna)の名;「世界の主」の意.

 2 =Juggernaut 5(2).

------------------------------------------

 

 なるほど、それらしい言葉が出てきた。ここにあるJuggernautについても調べてみる。

 

------------------------------------------

 Juggernaut

 1 ((しばしば j-)) 大規模で破壊力のあるもの(戦争・大戦艦・強いフットボールチームなど).

 2 ((しばしば j-)) 盲目的献身[残酷な犠牲]を強いるもの(絶対的な制度,主義,迷信など);不可抗力.

 3 ((英話)) ((しばしば j-)) 他の車の妨げとなるような大型トラック[ローリーなど].

 4 ((j-)) 巨大な存在,「巨人」

 5 〔インド神話〕

 (1)ジャガノート:ビシュヌ(Vishnu)の8番目の化神クリシュナ(Krishna)の称号.

 (2)(インド Orissa 州の Puri にある)クリシュナの神像(Jagannath):毎年の例祭に,その巨大な山車にひかれると極楽往生できるという迷信から,信者たちが車輪の下に身を投げ出したという.

------------------------------------------

 

 俺はふと、自分が原色に彩られた異国の街角に立っているのに気付いた。

 

(……? ここは……)

 

 身を焼く気だるさ。

 そばの水瓶から、俺はぬるく(よど)んだ水をすすっていた。テレビを観ているように、自分の動きを外から眺めているようだった。

 甲高い鐘の音が響き渡る。周囲で興奮した群衆が奇声を上げていた。

 

(ああそうだ、俺はもうすぐ報われるんだ)

 

 俺は、自分がその熱狂の中にいることを知って嬉しかった。

 大地を支える巨像の鼓動のようなドラム。

 そして通りの向こうから、真っ赤に彩られた巨大な山車が現れた。その高みにある台座に、伸び放題の黒髪を貴金属で飾り付けた幼い少女の姿があった。

 

――あたしは……じゃがなーと……。

 

 少女の声が聞こえる。

 その髪の間から、彩色で強調された大きな目が俺を無感動に見下ろしていた。

 

――あなたの苦しみ……あたしに……捧げることを許してあげる。

 

 少女が獰猛な笑みを浮かべた。その救済の約束に、俺は涙が溢れるのを感じた。

 

(そうだ、助けて……助けてください……)

 

 やがて大地を磨り潰す無慈悲な車輪の軋みがやって来る。

 その前に投げ出した自分の肉体が一瞬で挽き潰されるとき、あらゆる苦しみから俺は開放される……。

 

――キミを救うために来たんだよ。

 

 熱気に満ちた白昼夢の余韻に、夜明けに聞いた彼女の言葉が風鈴のように鳴った。

 

 俺は現実に返る。

 図書室で辞書を広げたままだ。……これは何の症状だ? 睡眠不足か?

 しかしたったいまの強烈な認識を、俺は忘れない。現実を壊し、苦しみのない世界へ逃げ出せる方法があるのだとしたら、そのこと自体が大きな救いだ。

 

 

 

 

 

 ふと視界の片隅に気付く。

 自習スペースの反対側に、前髪を顔にかぶせながらノートに熱心に鉛筆を走らせる女子がいた。毛先の跳ねたおかっぱ。いつもの黒縁メガネ。

 あやのだ。

 例のごとくマンガを描いているらしい。ひとりノートと格闘する様子は図書室でも目立つが、あいつはそんなこと気にもかけていないだろう。

 

「おお真野や」

「また何か描いてるん。ちょっと見せて欲しいなあ」

 

 女子が3人――校則より派手な格好の子達が、あやのの後ろでニヤニヤ笑っていた。ひとりは同じクラスの高嶋小鳥だ。

 あやのが無視を決め込んでいるので、女子のひとりが邪魔するようにノートの上に手を置いた。

 あやのが面倒そうな表情で顔を上げる。俺にはその表情の危険さが分かるので恐ろしい。

 

「ちょっと、何やっとんの?」

 

 ……とは言えず、俺はただ見ているだけだった。こういうとき、俺は世界に吹く風を願う。この行き場のない現実を壊してくれる風を。

 

 バシャン!

 

 大きな音が図書室に響いた。

 英和大辞典が派手に閉じていた。

 ……俺の手で。

 

 図書室に不穏な空気が流れた。背後に平沢先生の睨むような視線をちくちく感じながら、俺は栗皮色の背表紙をただ眺めていた。

 何をやってるんだ俺は?

 

「何あれきしょ」

 

 しらけたような言葉を残し、3人組はだるそうに図書室を出ていった。

 ちらっとあやのの方に目をやると、本人の視線と正面衝突して俺は狼狽(うろた)えた。いまにも(つか)みかかって来そうな形相だった。

 

 

 

 

 

 図書室を出る頃には陽が暮れかかっていた。部活帰りの生徒達に混じるのが嫌で、俺は渡り廊下からぼんやり校庭を眺めていた。

 

 ッ!

 

 後ろからの衝撃に俺はつんのめった。

 

「あんたな……いらんことせんといて」

 

 振り向くとあやのが、たったいま俺を蹴りつけた足を戻しながら、不機嫌そうに睨み付けていた。いや、確かに小さい頃なら日常茶飯事だったが、中学生にもなって女子に蹴り飛ばされるなんてことがあるか?

 

「ちょ……えええ?」

「あんな奴ら(こわ)ないし。助けてもらおうとか思てへんねんあたしは」

「そんなつもり……」

「カッコつけんなアホ」

 

 ここは俺だってかっとなるところだ。ところがきっと睨み返すと、夕陽に染まるあやののセーラー服が妙に眩しくて釘付けになる。

 何か目がおかしい。あやのが民族模様の布と羽飾りを身に付けているように見える。まるで荒野で生きる誇り高い少女戦士のように……。

 

「……何や、見つめんな……」

 

 あやのは急に視線を泳がせて一歩下がった。俺も急に気恥ずかしくなるが……何となく一矢報いた気になる。

 目の錯覚は消え失せていた。これも睡眠不足のせいか?

 

「べ別に見つめてへんわ……」

 

 そこでどうしていいか分からなくなる。こいつと話すといつもこうなるのはなぜだろう。

 ふたりが固まって何秒間……遠くに生徒達の話し声が聞こえていた。

 

「君ら仲良いなぁ」

 

 平沢先生の呑気な声が呪縛を解いた。図書室を閉めて出てきたところのようだ。

 

「久凪、真野ちゃんに変なことすんなよぉ」

「いや、こっちがされてんすけど」

 

 そう抗議したところで下校のチャイムが鳴った。

 あやのは先生に会釈だけして、無言のままとっとと歩いて行く。去り際にメガネ越しのひと睨みをくれるので、俺もとっさに睨み付けようと身構えるがまったく間に合わない。

 まるで今朝の繰り返しだ。あのときはその後に……

 

――ようやく会えた。久凪(くなぎ)勒郎(ろくろう)くん。

 

 生々しくあの少女の声が甦る。そうだ、あやのはひとまずどうでもいい。俺は彼女に会えることを期待して学校へ来たんだ。彼女は転校生だったはずだから。

 

 

 

 

 

 あやのが消えてから、俺も教室棟へ歩いていく。

 何気なく2年生の教室を覗いてみるが、下校時間を過ぎて誰もいるはずがない。俺は何を期待していたんだろう。

 

(助けてください……)

 

 頭の中で誰かが言った。すでに陽はビルに沈み、教室の中は薄暗い。

 そこに人影が立っていた。

 俺はちょっとした叫び声を上げたと思う。

 

「久凪くん……キミの心は決まった?」

 

 透き通った声だった。

 彼女がそこにいた。いるはずのない、だけど目の前にしたらいるのが当たり前だと思える存在。

 

弥鳥(みとり)……さん……?」

 

 あの見慣れない制服のままだ。赤いリボンで後ろ髪を束ね、少年のように立っている。

 

「ボクのこと、夢だと思った?」

「えっ……いやそんなこと……」

 

 弥鳥さんの大きな瞳は俺を正面から見つめる。その前では何を言っても言い訳じみて、言葉はぼそぼそ消えた。

 

「……何かが……起きてるって……分かってるよ」

「ふふ、そうだよね」

 

 彼女が笑う。

 そうだ。いま世界に確かに風が吹いている。彼女の唐突さが俺を救う。

 

「あ、見廻りの先生が来る。ほらこっち!」

 

 弥鳥さんが俺の右手首をつかむ。

 えっと言う暇もなく、俺は教卓の内側に引っ張り込まれていた。

 

「ちょ待っ……」

「し!」

 

 仰向けに倒れ込んだ俺の上に弥鳥さんが被さる。

 狭苦しいスペースに押し込まれて……微かな香りにくらくらする。これは彼女の香水?

 目の前に弥鳥さんの首筋が、胸元があって、俺は思わず息を止めた。

 何だこれ。いま俺の世界に何が起こっているんだ。

 

 コツコツと廊下を歩く見廻りの先生の足音が響いていた。

 

 

 




図書室の司書に対する憧れを書いてみました。


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ボク達が世界から出ていくため ②

 どっ、どっ、どっ、と大きな音が頭を打つ。

 全神経が彼女に集中していて、それが自分の心臓の音だとしばらく気付かなかった。

 

「平気?」

 

 狭苦しい教卓の中で、頭上から弥鳥(みとり)さんの(ささや)きが降ってくる。どこか楽しそうなのが少し悔しい。

 

「だだっ……大丈夫や」

 

 息を細切れに吐き出し、俺も囁き返す。

 廊下の足音が教室の前を通り、そのまま遠ざかっていくと、ふたりとも大きく息を吐いた。

 

「ふぅ、よかったね。見つからなかった」

 

 彼女の胸が顔にくっつきそうで、俺は慌てて教卓から這い出た。いまのはあくまで緊急避難であって……。

 後から身軽に飛び出した弥鳥さんが平然と膝の埃を払っているので、俺は心の言い訳をやめる。そもそもこんな風に人を振り回す女子なんて、現実世界にいやしないはず。

 

「お……お前……」

 

 いや、お前って呼びかけは偉そうか?

 

「き……きみは誰なんや」

 

 そこから? と意外そうに彼女は眉を上げる。

 

「ボクは、キミの言う“向こう側”……別の世界から来たんだよ」

 

 唇を面白そうにとがらせて、不思議さんめいたことをあっさり口にする。

 その後ろ髪と赤いリボンが揺れた。夕暮れの風が教室に吹き込んだらしい。

 

「キミもそうだよね、久凪(くなぎ)くん。この世界への来訪者」

「え俺も……?」

「ボク達はこの世界では余所者なんだ。だから戻りたいと願う。そのキミの願い、ボクだけが理解できるよ」

 

 凛とした瞳を輝かせ、引き込まれるような微笑みを浮かべる彼女が俺には空恐ろしい。

 またひやりとした風が吹く。目がかすむ。何か奇妙だ。

 

「何なんそれ……」

「信じられない? じゃ……現実の層(レイヤー)を移ろう。表層だけじゃ見えないことが分かるから……」

 

 俺がおかしいんだろうか、暗がりの中で弥鳥さんの瞳が本当に光って見える。金色の光……それは弾丸となって俺の現実を打ち砕いていた。

 

「えと……もしかして……もうそうなってる?」

 

 教室に漂う薄もやが青や紫に発光している。そのキラキラする霞の向こうで、泥細工のような影達がもぞもぞ動いている。

 変容する現実。ああ、思い出した。この言いようのない開放感、これがレイヤーを移る感覚――。

 

「そう……今朝やったからね。キミはもう重なったレイヤーが見え始めてるはずだよ」

 

 俺は渡り廊下でのあやのの姿を思い出した。そして図書室での白昼夢……あれもそうなのか?

 

「レイヤーを深く潜るほど、キミは力を引き出せる」

 

 弥鳥さんが廊下に目をやる。そこから奇妙な影がじっと俺を見返していた。

 急に不穏な空気を感じて、さっきまでの開放感が消え去る。何だあれ? 何が始まる?

 

「……誰にも負けない、キミ本来の能力をね」

「えええ……?」

 

 その影は両目をどんより(あか)く光らせ、教室内へにじり寄ってくる。中学生にしてはやや小さいが、触角を生やし直立する大トカゲが頭を揺らして歩いてくるとなると誰だってびびるだろう。

 

「ちょ……弥鳥さん? こいつ何なん……」

 

 俺は後退りしながらヘルプのメッセージを込めて弥鳥さんに目をやる。

 金色に輝く瞳はただ俺を見つめて笑っていた。面白いでしょ? とでも言いたげだがまったく共感できない。

 

「これを武器にして!」

 

 弥鳥さんが何かを放り投げた。

 思わず受け取ったそれは、よく見るとカッターナイフのようだった。いや、俺の手に触れてその形になったような……。

 

 ぐずぎぃ……!

 

 鳴き声に驚いて振り向くと、トカゲの口が突然大きく裂け、体ごと跳ね飛んでくる。

 俺は悲鳴を上げてカッターを突き出した。

 どん、とそいつの体重がのしかかる。カッターの刃がそいつをかすめた感触があった。

 

 ぎひぃ……っ

 

 目の(くら)む閃光……直後、そいつは幾つかの肉片……粘土状の塊になって飛び散った。

 ねばねばした泥状のものが頭からべっとり降りかかる。妙に甘ったるい匂い……だが端的に言って吐きそうだ。

 

「久凪くん……キミはやっぱり凄い。もう真夜(マーヤー)を使ってる」

 

 嬉しそうに弥鳥さんが駆け寄って、倒れた俺に手を差し伸べる。

 

「みみ弥鳥さんこれって……何やこれ……っ」

 

 俺のステータスは“茫然自失”から“混乱”へ移る。

 慌てて彼女の手を(つか)もうとしたとき、握っていたカッターナイフが消えているのに気付いた。

 立ち上がると、髪の毛やシャツにかかった泥がぽたぽた床に落ちて、青や紫に瞬く。

 

「ここの言葉で……そう魄蟲(キータ)、人の心の(よど)み……ありふれた存在だから平気さ」

「……平気ちゃうけど! こここんなんが学校におるのにみんな大丈夫なんか……?」

「レイヤーがズレてるからね。お互い干渉しにくいんだよ」

「じゃいまは……わざわざ危険なとこに移ったってこと!?」

 

 弥鳥さんが面白がるような表情で顔を近付ける。

 

「ふふ、見えなければいない、ってことにはならないからね。ほら……」

 

 彼女の指先が伸びて俺の髪をなでる。

 またしても唐突な接触に俺の無垢な心は逆上しかけるが、その指はすぐ離れる。その指先には手品のように小さな生き物がぶら下がっていた。

 

 ぎぐふぅぅ……

 

 ハトやウサギのように可愛くなかった。言うなればゲジゲジとカラスを混ぜて擬人化したような。

 わあっと間の抜けた声をあげて俺が飛びのくと、その勢いで頭や背中からバラバラ奇妙な虫だか爬虫類だかがこぼれ落ち、床にぶつかってぎいぎい鳴いた。神経を削る素敵な声だ。

 

「心の澱みが見えないと、自分がどうして辛いのか分からない……辛いことにすら気付かないかも知れないね」

 

 俺は全身が総毛立って身体中を払う。

 床に落ちたそいつらがもぞもぞこっちに戻ろうとするので、慌てて教室の隅へ逃げる。ぶつかった机がギギギと床を(こす)る。格好悪いことこの上ないが、人にはどうあっても逃げなきゃいけないときがあると思う。

 

「でも見えるなら、戦えるんだよ」

 

 振り向くと、彼女が俺に手の平をかざしていた。

 

「……静謐の心を照らせ幽けき光(カウムディー)……そして影をあるべきところへ」

 

 手の平から発した蒼白い光線が俺を貫き、思わず目を(つむ)る。凛と冷たい風が身体を吹き抜けた。

 

 (くら)んだ目を開くと、薄暗い教室のあちこちが黄色や緑に光っていて、床も壁も柔らかく震えているように見えた。虫達は消え失せ、あちこちで(うごめ)いていた影も隅へ退散している。

 嘘のように気分が晴れていた。

 

「凄い……!」

「あはは、まあすぐ元に戻るけどね」

 

 輝きの中に弥鳥さんが立っている。

 その額、首もと、腰周りや手足に、金色の光模様が浮き上がり、高貴な装身具を(まと)う王女のようだ。

 

「久凪くん、外に出よう」

 

 金色の光を湛える王女様の姿に見とれながら、俺は素直に後について廊下へ出た。

 

 教室の外はすっかり異界だ。

 立ち込める青白い霧、奇妙な浮き彫りの壁……古い寺院や神殿のような雰囲気。天井を這う模様が脈動し、羽虫めいた影が発光して飛んでいく様子に、次々目を奪われる。非日常へ足を踏み入れる高揚感が俺の心を満たす。

 

「あ、ちょっと気を付けてね」

 

 先を歩く弥鳥さんが廊下に(うごめ)く影を指す。胴体がゲル状のアシナガグモ、背中に突起を生やしたワニなど、奇怪な姿がごそごそ歩き回っていて、どうやら高揚するとばかり言ってられないようだ。

 

「なかなか……愉快やね」

「あはっ、襲ってきても大したことないから、そんなに怖がらなくていいよ」

「だっ誰が……」

 

 すっかり心を読まれてるようなので俺は言い訳を諦める。

 

「ね、このまま窓から出てみよう」

 

 弥鳥さんは光に包まれた顔で振り返りながら歩調を早める。天使にでも誘われたようだった。それとも妖魔の誘いだろうか?

 

「窓から!?」

 

 俺も足を早めて追いかける。

 

「そう、あそこから!」

 

 弥鳥さんが手を向けると、突き当たりの窓がはじけるように開く。超能力! と興奮する間もなく急に床を蹴る感覚が消え、身体がすごい勢いで窓に吸い込まれていった。

 

「飛ぶってことかよぉ!」

「あはははは」

 

 我ながら見苦しくじたばた暴れる俺の手首を、目の前を飛ぶ弥鳥さんが掴む。

 次の瞬間、船外に放り出された宇宙飛行士のように、俺達は学校の遥か上空まで吹き飛んでいた。

 

「……久凪くん」

 

 一瞬飛んだ俺の意識を、弥鳥さんの優しい声が起こしてくれた。

 

「ほら、いま学校を見下ろしてるんだよ」

「飛んでる……今朝と同じや……」

 

 上空の強い風が身体をなぶる。

 不思議な色に輝く黄昏の空が視界を(おお)い、弥鳥さんの髪や制服がはためいていた。

 

「レイヤーを移れば飛ぶことも簡単……世界が見渡せるでしょ?」

 

 弥鳥さんが手を引き寄せるので、顔がくっつきそうになる。

 俺はぎこちなく頷きながら視線を下に向ける。緑色に発光する雲が街並みを染めていた。

 

「え……? 弥鳥さん、あれ何なん?」

 

 街のあちこちに立つ半透明の影を見て俺はぎょっとした。

 廊下の影達よりずっと大きい……住宅や、オフィスビルを越えるほどの影もいる。それぞれ妙な形で、目覚めたばかりのようにどんよりとした動き何とも不安を誘う。

 

「あれが……魄魔体(ヴァーサナー)。心の澱みが凝り固まったもの……」

「街中にあんなに……?」

「久凪くん、あれも見える?」

 

 弥鳥さんはジャガナートの予兆が見えたあの高層ビル群を指す。

 じっと目を凝らすと……20~30階の高さがあるだろうか、恐ろしく巨大な人影が微かに……見えた。

 

「うぅわっ……あれは……っ!?」

「あれも魄魔体(ヴァーサナー)。あんな大きなものは普通あり得ないんだけどね」

 

 非日常もそろそろ行き過ぎだ。いつの間にこの街は怪物の巣窟になっていたんだろう。

 

「これほど多くの魄魔体(ヴァーサナー)が生まれてるのは、ジャガナートのせいなんだ」

「世界の……(ことわり)を壊すっていう……」

 

 図書室の白昼夢……あの巨大な山車と、その上に乗った女の子の姿が浮かんだ。

 

「そう。それはある意味では救いなんだ。だって苦しみを生む仕組みも壊してくれるからね。だからいまの現実に縛られ、苦しむ人達の救いを求める心が、魄魔体(ヴァーサナー)となって具現化する……この澱んだ心を消してくれって」

 

 俺達の高度は少しずつ下がり、校舎の屋上へ降り立とうとしていた。

 

「……だけどね、久凪くん」

 

 弥鳥さんは、何かを打ち明けるように静かに言葉を続ける。

 

「ボクはジャガナートに救われたい訳じゃない。ただその力で向こう側へ行きたいんだ。キミはこれを夢だと思う?」

「……俺には……」

「夢なのかも知れない。だけど世界の理を変えるほどの夢さ。……それなのに、そこから目覚めたとき、それまでよりほんの少し生きるのが楽になった……その程度の物語をキミは求める?」

 

 弥鳥さんの眼差しが俺を貫く。その瞳の訴えることが俺には分かる。

 

「表層の現実からは決して届くことのない、無窮(むきゅう)の領域へ足を踏み入れ、あらゆる(くびき)から解き放たれた燦爛(さんらん)たる可能世界の海に浸る……その夢を、ただひとつの狭苦しい現実を生きるための道具にする、そんなことをキミは願う?」

「弥鳥さん……」

「ボクはその力で、この世界から出て行く。夢を見られるなら、目覚めようとは思わない。……キミもそうだよね、久凪くん」

 

 俺はようやく理解した。この不思議少女がなぜ俺の前に降り立ったのか。

 

「俺は……もっとましに生きたいなんて思ったことないんや。ただ、誰か俺をここから連れてってくれって、そう願ってた……」

「そう……()いだ世界にひとりいたボクのところへ、キミのその声が届いたんだよ」

 

 俺達は屋上に舞い降りた。

 異形の影達が(うごめ)く街。その前に彼女が立っている。俺が永遠のごとく待ち、焦がれ続けてきたものが目の前にあった。

 

「……弥鳥さん、ありがとう」

「うん」

 

 彼女が差し出した手を握る。

 俺には実感できた。苦しみがなくなることじゃない、苦しみが誰かに理解されること、それが救いなんだ。

 

「じゃあ行こう、ふたりで」

 

 弥鳥さんが嬉しそうに微笑んだ。

 

「……ジャガナートへ!」

 

 叫びと共に、その全身が金色に輝いた。掴んだその手から電流が流れ込むようだ。世界がぐにゃりと歪み、気が遠くなる。

 

「……久凪くん、ボク達の力を合わせればもっと深いところまで潜れるんだよ。こうやってね」

 

 弥鳥さんの悪戯っぽく笑う顔がすぐそばにあった。何て危険で魅力的な笑みだ。

 

「それはジャガナートへ近付くことでもあるけど、そこへ向かう魄魔体(ヴァーサナー)に近付くことでもあるんだ。すぐに気付かれると思う。夏の虫を前にした炎だよ、ボク達は」

「ええええ……?」

 

 レイヤーを移るうち、周りの影達の姿が随分はっきりと見えてきた。そいつらが、一斉にこっちに向き直ったように見えた。

 すぐ近くで巨大な足音が響く。そして這い摺るような振動。

 慌てて屋上の端から見下ろすと、蛇めいた巨大な頭部を持つステゴサウルスのような黒い影が、咆哮を上げて向かってくる。

 

「ちょ……あれ!」

「うーん、やっぱり襲ってくるみたいだね」

「でどうすんの!?」

「大丈夫だよ、ボク達なら」

 

 怪獣めいた影が柵を踏み越えて校庭へ入り込む。地震のように大地が震えた。さっきまではホラーだったが、どうやら特撮ものに変わったらしい。

 怪獣には目もくれず、弥鳥さんは正面から俺を見つめていた。あの微笑みを浮かべて。

 

「たとえ息絶えたっていいよね。これは世界を守る戦いじゃない。ボク達が世界から出ていくための戦いなんだから」

「……!」

 

 恐怖と混乱の中、それでも俺は自分が笑っているのが分かる。

 この(いざな)いは冒険の始まりだ。魔王の野望を打ち砕くための……いや、地下迷宮に秘められた俺達だけの宝を見つけ出すための冒険。死ぬほど待ちわびた誘い。

 

「え、ええで。一緒に行こう……!」

 

 俺はこのとき初めて、弥鳥さんの瞳を正面から見つめられた気がした。そう、これが世界に吹いた風なんだ。

 襲来する巨大怪獣を前に、俺達は手をつないで校舎の屋上に立っていた。

 

 

 




戦う動機は、利己的であるほど美しいと思います。


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世界に抗うキミの武器を ①

「例えば学校へ行かへん、友達つくらへん……それも全部世界に対する行動やろ」

 

 夜空を耀かせる流星群を背景に、彼方(かなた)が涼しげな表情で俺を見下ろしていた。

 

「でも俺……そんなことしたいんちゃうんやけどな」

 

 あの夏……尾根には風もなく、夜の大気には8月の熱気が残っていた。

 あれがどの山だったのか思い出せない。

 

「ええやん……世界に違和感あったら無視すんなよ。自分が最初に感じたことがすべての出発点やろ」

「出発したところで……どこにも行かれへんけどな」

「なあ(ろく)

 

 彼方の言葉は適当にあしらえない。クラスから浮いてた峰岸桜子がタバコを吸ってると噂されたとき、こいつはその場で「俺は見たことないけど」と口にできる奴だ。

 

「お前はもう世界との勝負始めてんねん。いまさらやり直しでけへんわ。定石とは違う手でも……それでも勝てるって証明してやったらええやろ」

 

 妙に達観した目で彼方は笑い、その後ろをいくつもの流星が横切る。絵になる奴だ。

 魄魔体(ヴァーサナー)と戦い始めた頃、俺は彼方の言葉をよく思い返した。闇の中でか細い光の糸を手繰るように……俺はただ次の一手を指し続けていた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「我が手に来たれ、光輝の弓(サルンガ)……!」

 

 弥鳥(みとり)さんが叫ぶとその突き出した左手が輝き、彼女の身長ほどもある巨大な弓が現れた。

 校舎の屋上に立つその姿を、緑色に明るむ空が浮かび上がらせる。唐突な戦いの始まりに俺の意識がついていかない。

 

「みみ弥鳥さん……!」

「うん、ひとまず全力でやってみる」

 

 魄魔体(ヴァーサナー)と呼ばれたステゴサウルス風の怪獣が立てる地響きが校舎を揺らし、俺は心底恐ろしくなる。

 そいつのもたげる蛇のように長い頭部は、立ち上がればこの屋上にも届きそうだからまったく冗談じゃない。

 

「深奥を穿(うが)て、(ほのお)()!」

 

 そんな俺の怯えを吹き飛ばすように弥鳥さんの鋭い声が響く。

 燃え上がる矢が放たれると、強烈な閃光に目が眩む。いきなりの必殺技という派手さだ。

 

 がらるぅぅぅ……!

 

 空を引き裂く衝撃音の向こうで怪獣が悲鳴を上げる。やったか!?

 

「……あれっ!?」

 

 目蓋を開くと、怪獣は変わらずそこにいた。

 弥鳥さんの矢はその黒い(もや)を幾分払ったようだが、相手はぴんぴんしていて軽い火傷すら与えたか疑問だった。

 

「うーん、まだボクの力は充分乗らないみたい」

 

 いや、何でそんなに呑気な口調なんだ。

 俺を振り返って困ったように笑う弥鳥さんの後ろで、怪獣がまさに校舎にのしかかろうとしていた。

 

「ちょ……後ろ! やばいって!」

 

 怪獣がぶつかって、ぐらりと足元の校舎が揺らぐ。これ、表層現実での学校は大丈夫なのか!?

 怪獣の蛇のような頭部が屋上より高く持ち上がり、さあ喰うぞとばかり俺達を睨み付ける。いよいよ洒落にならない。

 

「跳ぶよ、イメージして久凪(くなぎ)くん!」

「まままじで!?」

 

 空へ跳び出す弥鳥さんを追って、俺は初めて自転車に乗った子供のように無我夢中でコンクリートを蹴った。

 

 ががるうぅぅぅ……

 

 轟音と共に、巨大な頭部が屋上に叩き付けられる。その寸前、俺達は屋上から宙へ舞った。

 4階建て校舎からの決死のダイブだ。回転する視界に、はためく彼女のスカートと、薄明かりに照らされた校庭が映る。

 

「ちゃっ、着地は……っ」

「大丈夫! ボクに付いてきて」

 

 黄金の装身具を輝かせ、弥鳥さんが体重を感じさせない身軽さで着地する。

 それよりずっと不格好ながら、俺も無事校庭に転がった。屋上から跳べた……!

 

 うらるるる……

 

 前足を上げて校舎に張り付いた魄魔体(ヴァーサナー)がゆっくり振り向く。

 全身に(まと)った黒い靄が、動くたび残像のようにブレる。

 

「また来るで!」

「じゃあ……動きを止めてみる」

 

 両足を踏みしめた弥鳥さんが、怪獣を見上げながら右手を真横に伸ばす。その手に、赤、黄、青……様々な色で編まれたロープのようなものが現れた。

 

「迷妄の闇へ手を伸ばせ……遍く縛索(アモーガ・パーシャ)

 

 金色の閃光と共にロープが凄まじい勢いで縦横に走る。

 小さな束に見えたが、それは魄魔体(ヴァーサナー)の巨体を覆って余りある網状の光となった。

 

 ぎるらぁぁぁ……!

 

 校舎に縛り付けられた怪獣がもがく。

 

「ふぅ、これはなんとか効いたみたい」

「よ、良かった……!」

 

 心の底からそう思った。

 

「久凪くん……」

 

 振り返った彼女が微笑んでいた。

 

魄魔体(ヴァーサナー)を消すには、この世界に長くいたキミの力がいるみたい」

「なあっ!?」

 

 怪獣が牙を立て、光の縄を引き千切ろうとしている。

 解き放たれるまであと数秒……いや次の瞬間かも。

 

「どうすんねん!? まず逃げ……」

「久凪くん!」

 

 次の瞬間ぎゅっと抱き締められて俺は言葉を失くした。このいきなりさ、まったく慣れない。

 

「さっきのカッター……あれはキミの武器のイメージなんだ。真夜(マーヤー)はイメージの力。創造の力。今度はもっと心の奥から引き出して」

 

 耳元で囁かれる彼女の声が心に溶けていく。焦りや混乱が少しずつ静まるようだ。

 

「キミは戦ってきたはずだよ。この世界の不条理な悲劇と。不理解や断絶と。そこから生まれる哀しみや孤独と……」

 

 弥鳥さんがその手を俺の右手に重ねる。温かい感触。

 縄を千切った怪獣が校庭に両足を着け、その激しい地響きに俺は足を踏みしめる。

 

「その戦いで、キミが心に握り締めるものは何? 世界に抗うキミの武器をイメージして……」

「俺の……戦い……」

 

 弥鳥さんに掲げられた右手が熱い。全身を走る(うず)きが右手に集まり、熔けるほどの熱を持った。

 怪獣の赫く光る眼が、高みから俺を見下ろしていた。

 

「世界に……抗う……!」

 

 俺はその視線を睨み返す。

 冷や汗を流し、震えながら……俺は笑っていた。恐さより、半ば投げやりな衝動が身体に満ちている。

 手の平から何かが現れる。

 天へ向かって……長い刃が真っ直ぐ伸びる。

 

「俺の……武器……」

「そう、これがキミのイメージする武器なんだね」

 

 銀色に輝く両刃の剣。

 その(つば)は、誇らしげに開げられた鳥の翼。

 中央に輝く赤い宝玉。

 何度も思い描いた武器だ。

 

「……勇者の……(つるぎ)……!」

 

 顕現した剣の輝きに、怪獣は怯んだように動きを止めた。

 俺は剣を両手で握る。あつらえたように馴染んだ。

 

「前を向いて……キミがやるの」

 

 弥鳥さんの(ささや)きが、俺の意識を研ぎ澄ます。

 

「……う、うん」

「その武器はキミの一部。身を委ねて……力も迷いもいらない」

 

 怪獣が鋭い牙を剥き出し、凄まじい勢いで頭部を叩き付けてきた。

 絶叫――その自分の声を聞きながら、俺は剣の切っ先を掲げるように突き出していた。

 強烈な閃光に思わず目を閉じる。

 衝撃で身体が吹っ飛び、危うく剣を手放しそうになる。

 

 がぎゃる!

 

 薄目に怪獣の頭がのけ反るのが見えた。

 

「久凪くん!」

 

 弥鳥さんが俺を後ろから抱き締めていた。地面に叩き付けられなかったのは彼女のおかげだ。

 

「だ、大丈夫……っ!」

 

 俺は半ば無意識に剣を構え直し、両足を蹴って怪獣の懐に飛び込んでいた。燃え上がる衝動のままに動いていた。

 軽々と俺の身体は宙を舞い……その巨大な胴体に剣を突き立てる。

 硬い皮を貫いた直後、ぬめるような感触が手に伝わってきた。

 

――何デ……俺ナンダァァァ……

 

 突然頭に耳障りな声が聞こえた。

 視界が暗くなり……俺は何もない空間に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

――俺ハ……真ッ当ニヤッテキタノニィィィ……何デ俺ダケガァァァ……

 

 誰かが叫び続けている。

 目、鼻、口、あらゆる穴から真っ黒な粘液が流れ込む。

 何だこれ? 吐き気のする憎悪と呪詛が俺を侵す。逃げ場のない恐怖に、暗黒の世界で俺はもがき続けた。

 

――どうして…………?

 

 不明瞭に反響する叫びの中に、子供の声が聞こえた。

 気が付くと、俺は見知らぬアパートの一室にいた。午後の日射しが畳を白く照らしていた。

 

「――くんはしっかりしてるなあ」

 

 大人が子供に語りかけるわざとらしい口調。

 

「ほんまに、お母さんのこと支えてくれてるわ」

 

 居間に大人達がいる。

 その中で小さな男の子がひとり、張り付いた笑顔を浮かべていた。

 

――どうしてお父さんは帰って来ないの?

 

 大人達が玄関から出ていく。

 これで何度目や……父親があれやと大変やな……。大人達の放り出した言葉が耳に届く。

 

――この家はおかしいの? 僕はどうすればいいの?

 

 部屋に残されたその子の声が俺には聞こえていた。

 俺は思わず手を伸ばした。

 

「……あの……」

 

 俺の身体は目に見えず、その子に触れることもなかった。

 ただ伸ばした手が肩をすり抜けたとき、その子が一瞬こっちを見た気がした。

 

――久凪くん!

 

 透き通る声が聞こえた。

 世界が再び暗転した。

 

 

 

 

 

 暗闇の中、粘液に侵される凄まじい嫌悪感と共に、俺は両手の剣の感覚を取り戻していた。

 言葉にならない叫びを上げながら、その柄を握り締める。

 突然、眩い閃光が闇を消し去った。

 

 ひがあぁぁう……

 

 魄魔体(ヴァーサナー)の最後の鳴き声が弱々しく消える瞬間、破裂音と共にその巨体が弾けるのが分かった。

 体液が全身に降りかかる。

 無数の肉片が地面に打ち付けられる湿った音が響いた。

 

「ぐえはっ……げぇっ」

 

 俺は地面に両手を突いてえずいていた。

 投げ出した剣が地面に刺さり、無数の光になって消えるのもほとんど見てなかった。ただ体内をねぶられるおぞましい感覚に、胃が反転して息ができなかった。腐った内臓が吐き出されるようだ。

 頭からかぶった粘液と吐瀉物が足元にぼたぼた落ちる。おぞけの走るゲル状の海から、熟した果実のような匂いが立ち上った。

 

「……さすが久凪くん」

 

 涙目を開くと、怪物の残骸を眺める弥鳥さんの後ろ姿が見えた。

 左手を腰に当て、両足をすらりと伸ばして立つ彼女がゆっくりこっちを振り向いたとき、その背後の空がエメラルドに光る。

 

「この肥大化した魄魔体(ヴァーサナー)を一撃で飛散させる……キミとボクの力を合わせれば、きっとジャガナートの中心へ辿り着けるよ」

 

 金色に輝く瞳が俺を見つめる。

 逆光になって彼女の表情が見えないせいか、その両の瞳はまるで虚無へ開いた窓のようだった。

 

「ひぃ……ふうぅ……」

 

 涙を流し、息も絶え絶えに俺が見上げていると、その瞳が近付いてくる。

 人間離れした……だが優しい微笑みだと俺は思った。

 次の瞬間、彼女が足元の醜怪な汚泥に両ひざを突いて、俺をぎゅっと抱え込んだ。

 

「ふあっ!?」

 

 俺の顔が彼女の胸に埋まる。

 粘液と吐瀉物が彼女を汚すのが悪くて俺は身を振りほどこうともがいたが、弥鳥さんは逃がしてくれない。

 

「苦しかった? 人が長年抱え込んだ心の澱み……魄魔体(ヴァーサナー)に剣を突き立てるってそういうことなんだ」

 

 長年抱え込んだ心の澱み? さっきの幻は魄魔体(ヴァーサナー)を生み出した誰かの幼少期の現実だったのか?

 あのおぞましい嫌悪感を思い出し、俺は反射的に身をよじる。

 弥鳥さんがさらに力を込めて抱き締める。

 

「久凪くん……キミがボクを呼んだんだ。だから止めたいなら止めていいんだよ。でも前に進むなら、キミのその苦痛、ボクがすべて受け止めてあげる」

 

 弥鳥さんの体温と柔らかさを感じていると、混乱と恐怖が少しずつ薄れていく。

 身体の内側から蹂躙される恐怖……だけど彼女となら耐えられる。俺はさっきの激しい衝動を思い起こしていた。

 それに……。

 

「弥鳥さん、大丈夫や……。何もできへん苦しさに比べたら、こんなん幸せ過ぎるわ」

 

 俺は立ち上がり、彼女の腕をほどいた。

 俺を見つめる金色の瞳。そう、俺はこの瞳をずっと待っていた。澱んだ日々に窒息しそうになりながら。

 

「だって来てくれたんやもん。この世界から……連れ出してくれるって」

 

 そのための苦しみなら、心地いいとすら俺には思えた。

 弥鳥さんの大きな目がふっと細められる。

 

「久凪くんがそう言うの……分かってたよ」

「……って弥鳥さんが言うのも、何か分かっとった」

「あはは、いいコンビだねボク達」

 

 弥鳥さんの右手が伸びて、俺の頬を優しく撫でた。

 

「うん、ボクが連れてってあげる。この世界の向こう側へ……キミが元いた場所へ」

 

 

 

 

 

 虚海を越え、無数の島世界を渡り来る漆黒の船。

 その構造体の大部分は知覚を超えた次元に在るため、俺の目には複雑な形状を絶えず変形させる精密な立体パズルに見える。

 

 そのメインブリッジとでも言うべきところに、あの黒衣の人物――女がいた。

 頭を覆うフードからは、闇夜のような長い黒髪が飛び出している。

 そこは何十人もが航海を指揮する空間に見えたが、いまはその中央、床から数段高い座席に彼女の姿があるだけだ。

 

「観測結果」

 

 身体を投げ出すように座ったまま、女が呟く。

 うなだれ目を閉じていたが、脳裡で膨大な情報を処理しているのが分かる。船が座席を通じて虚海の観測情報を直接伝えているのだ。

 

「……!? これは……」

 

 フードの奥で両目が鋭く見開かれる。

 

「学園が近付いているのか?」

 

 女が視線をめぐらせると、俺の視線に正面からぶつかった。

 

「もう時間がないぜ……」

 

 その瞳は警告するように紅く光っていた。

 

 

 




親友って何なんだろうって、いまだに分かりません。


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世界に抗うキミの武器を ②

 沈む夕陽が大通りの人々や車を染めて、世界の終わりのようだった。

 

久凪(くなぎ)くん!」

 

 待ち合わせたビルの前で弥鳥(みとり)さんが手を振っていて、俺はああよかった、昨日までのことは夢じゃないんだって思う。

 

「どう……? 昨日の魄魔体(ヴァーサナー)は」

「うん、あっちだよ」

 

 ビルの向こうを指す弥鳥さんを、通り過ぎる人達が怪訝そうに振り返る。

 

「じゃ、行こう!」

 

 彼女に手を握られると、表層の現実がゆらりと崩れる。

 建物は奇妙に(ねじ)れ、人々の姿は溶ける。彼らの意識からも、俺達の姿はあっという間に消えたことだろう。消えたことに気付くこともなく。

 冒険を始めるこの瞬間が、俺は大好きだった。

 

「……! あっちか」

 

 レイヤーを移ると、すぐに奴らの気配が感じられる。

 俺はジャンプを重ねてビルの屋上へ上がった。“物理法則”に囚われないイメージ通りの動き――真夜(マーヤー)の使い方にも慣れてきた。

 

 うぐぅぅる……

 

 唸り声がして、1区画向こうに巨大な獣の影が見えた。あのステゴサウルスに比べれば小さいが、それでも大型車並のサイズ。

 黒い(もや)(おお)われて分かりにくいが、ヒョウやトラのような猫科の獣らしい。動きが(いびつ)に見えるのは(あし)の数が多過ぎるせいだ。

 

「あの魄魔体(ヴァーサナー)……やっぱりなんか変だよ」

 

 俺の隣に立つ弥鳥さんが怪訝そうに(つぶや)く。

 

「いいよ、まず戦ってみる……」

 

 俺は右手に意識を集中する。戦いにはやる気持ちが抑えられない。新しい能力を発揮する快感――。

 

「我が手に来たれ、勇者の(つるぎ)……!」

 

 手の平から伸びる光が剣の形をとる。

 想像が創造の力となる真夜(マーヤー)――ゲームやマンガに浸った妄想は、ここではすべて現実となる。

 

加速(ヘ・イ・ス・ト)……!」

 

 叫びに合わせ、全身が青白い光に包まれる。

 リアルに想像しさえすれば魔法だって使える。しびれるような高揚感の中で、俺はこの10日あまりの記憶を思い返していた。

 

 

 

 

 

「……ボク達はまず、真夜(マーヤー)の力に慣れなきゃね」

 

 校庭で戦った日から、俺は地下迷宮の代わりに変形(へんぎょう)した街へと潜った。レイヤーを深く、ジャガナートへ近付くために。……この世界から出ていくために。

 

「夜は真夜(マーヤー)が活性化するから、レイヤーを潜りやすいんだ」

「……でも魄魔体(ヴァーサナー)やって夜になると活発になるんやろ?」

「そう……だからこれは、ボク達がレベルを上げる戦いでもあるんだ」

 

 もとより弥鳥(みとり)さんのレベルは充分のようだった。

 俺を先導して空を駆ける弥鳥さんの、はためく赤いリボン、白い制服を眺めながら、これはレベル上げというよりチュートリアルだと俺は思った。

 世界に抗うチュートリアルだ。

 

「ボクはまだこの世界に馴染んでないから……あまり無茶すると、世界から弾き出されちゃう。だからキミの力がいるんだ」

魄魔体(ヴァーサナー)を……倒すときに?」

「そう。世界に(あらが)うのは、その世界にいる人だけの特権だから」

 

 魄魔体(ヴァーサナー)にとどめを刺すたび、俺はあのおぞましい暗黒と汚泥に(おか)された。

 どろどろに溶け落ちた魄魔体(ヴァーサナー)の残骸に倒れ込むとき、弥鳥さんはいつも俺を抱き締めてくれる。

 

「大丈夫だよ久凪くん……苦しいときはずっとこうしててあげるから」

 

 俺はいつだって、そのまま死んだっていいと思っていた。そうして戦いを続けられたんだ。

 

 

 

 

 

 るぎゃぁぁぁ……!

 

 猫じみた魄魔体(ヴァーサナー)が跳び、ビルの屋上にいる俺の目の前に音もなく着地した。その巨体で信じられない跳躍力だ。

 体を覆う黒い靄越しに、(あか)い瞳が光る。

 

「ひぐ……っ!」

 

 思わず漏れる悲鳴を噛み殺し、俺は加速能力を開放して相手の背後へ回り込む。周囲の時間が遅く感じられ、空気が水中のようにまとわり付く。

 無数の肢をなめらかに動かして走る怪物のスピードも凄まじいが、いまの俺の方が速い。とにかく剣を突き立てさえすれば決着だ。

 

「危ない!」

 

 弥鳥さんに身体を引き寄せられた直後、俺のすぐ傍を激しい衝撃が通り抜けた。

 魄魔体(ヴァーサナー)の背後から無数の鞭が……尻尾が飛び出していた。

 

 るっぎゃああああ!

 

 一瞬でこっちに向き直った魄魔体(ヴァーサナー)がその口を開ける。

 口元は見る間に首から胴へ裂け、体の上半分がまるごと上顎のように持ち上がった。半身を引き裂くように開いたその暗黒の中、俺の身長より長い牙が無数にそそりたつ。

 体の脇から無数の前肢を触手のように広げた姿に、猫らしさは微塵もない。暗黒神話の邪神さながらだ。弥鳥さんが支えてくれてなければへたり込んでいたかも知れない。

 

焔撃(ベ・ギ・ラ・マ)……っ!」

 

 パニックになりながらも俺は左手をかざし、大気を焦がすエネルギーを放射する。

 鼻っ面を焼かれて怪物が一瞬(ひる)む。

 俺は恐怖を感じる間もないように無我夢中で加速の力を使う。剣を立てて正面から飛びかかり……というより巨大な顋の中へ身体ごと飛び込んだ。

 ぐにゃりとした嫌な感触があった。

 

 

 

 

 

 ……暗転。

 湿った闇の中、俺はいつもの侵食を待ち構える。

 

――暗いよぉ……寒いよぉ。

 

 子供の声。小さな女の子らしい。

 いつも幕間劇だ。“幼少期のトラウマ”なんて安直な素材ばかりだ。俺はもう抵抗する気もなく、全身を侵す汚泥に身を任せた。

 

――みーちゃぁん……。

 

 気付くと薄暗い部屋にいた。

 周囲には異様に大きな子供向けの小物。おもちゃのアクセサリ、人形、キーホルダー……どれも歪んで見える。

 

「いつもひとりでなにやってんだ? あれは」

「上の子と違ってあの子気持ち悪いのよね……」

 

 隣から囁き声が聞こえる。

 (ふすま)から光が射し込み、薄暗い部屋に白く線を引いていた。

 

――みーちゃぁん、あたしも連れてってよぉ。

 

 光から逃げるように、小さな女の子が部屋の奥で身を潜めている。

 その影のような姿に目を凝らしていると、ずぐりと足元が床にめり込んだ。その子のいる隅へ向けて、床が流砂のように沈み込んでいく。

 

(呑み込まれる……!)

 

 振り返ると、隣の部屋はすでに遥かな高みにあって、襖越しの光が命綱のように見えた。

 女の子を見返すと、悲しげに呟きながら床の底へ消えていくところだ。

 

(やばい、逃げなきゃ……!)

 

 

 

 

 

「……どうしてわざわざ暗い部分を見つめるのかなあ」

 

 唐突に馴染んだ声が聞こえて、俺は自宅のマンションにいる自分に気付いた。

 そのとき俺は、弥鳥さんに会いに出かけようとしていた。

 部屋を暗くして映画を観ている父親が、不思議そうに呟いていた。

 

「面白いなあ、人間て」

「……俺ちょっと出かけてくるから」

 

 夜歩きの言い訳でもと思ったが、どのみち無害そうに笑うこの父親から小言のひとつも出るはずがない。

 

「最近いろいろ物騒だからね。夜道で妙な影を見ても見えない振りをしとくんだよ」

 

 相変わらず、本気か冗談か分からない話し方だ。

 俺は玄関ドアを開けながら返事をする。

 

「うん、分かってるよ……」

 

 ……あんたと俺は違うってことが。

 俺はこれから影を見つけに行くんだから。見えなければいない、ってことにはならないんだ……。

 

 

 

 

 

「……大丈夫っ!?」

 

 俺は流砂の渦へ飛び込んでいた。

 かろうじて女の子の腕を(つか)む。

 

「!? お兄ちゃん誰……」

 

 こっちが見えてる!

 魄魔体(ヴァーサナー)の心に触れるとき、俺はいつも無力な透明人間だが、いまはその体を掴むこともできる!

 

「ここから出よう!」

「え……? でも」

「テレポーテーション……! いや浮遊(レヴィテーション)でも……!」 

 

 女の子を抱え上げながら、俺はすでに胸まで沈み込んでいた。

 部屋全体が漏斗(ろうと)状にゆがみ、蟻地獄の底にいるようだ。

 耳鳴りのように外からの声が反響してることに気付いた。

 

――気色悪い子やなあ……。

――何なのあれ?

――やばっ、こっち来るよ。

 

 女の子が小さな身体を必死に縮めている。

 俺はその子の頭と肩をぎゅっと抱き締めていた。

 

「ここから逃げ出せるんやったらなんでもいい……!」

 

 目を(つむ)り、ありったけの真夜(マーヤー)を込めながら、自分が生ぬるい闇の奥へ呑まれるのを感じていた。

 

 

 

 

 

 背中を打つ衝撃の数秒後、屋上のコンクリートに身体が投げ出されたと分かった。

 魄魔体(ヴァーサナー)に剣を突き立てたときの、何度やっても慣れない吐き気にうずくまる。

 

「同調したの……久凪くん」

 

 弥鳥さんの声がやけに懐かしく耳に響いた。

 涙でぼやけた視界の隅で、魄魔体(ヴァーサナー)が無数の肢を蹴って逃げて行くのが分かった。

 

「……ここから……逃げ出せるなら……」

 

 無意識に女の子の姿を探して、俺は辺りを見回した。

 弥鳥さんが俺を見下ろしている。その背後の空に浮かぶ渦が目に入った。

 この世界の理を消失せしめる破壊の神。それは向こう側への(ゲート)……。

 

「久凪くん……キミ、レイヤーを……」

 

 空の彼方で渦巻くそれが、視界を覆い尽くす。周囲が歪み……大きな流れに呑み込まれるような目眩があった。これはレイヤーの移動……俺ひとりで?

 

「みと……り……さん……」

 

 目の前に弥鳥さんの姿はなかった……いや、そこにいるのにうまく見えない。

 脳を撹拌(かくはん)されているようだ。まるで立っていられない

 

――久凪くん……ひとりじゃ……。

 

 微かな声も消えた。

 ……ようやく目眩が治まったとき、巨大な無音(・・)に取り囲まれているのに気付いてぞっとした。

 俺は慌てて立ち上がる。

 世界は一変していた。

 

 荒れ果てた廃墟のように、音も色彩も失った地上。

 絵の具を垂れ流したように鮮やかな紫色の空は、巨大なドームの内側のように見えた。そこに目を凝らすと、捻くれた骨格や神経、臓器じみたものがびっしり張り付いている。

 その紫色の空に……高層ビルよりも巨大な歯車が宙に爪を立てるように静止していた。

 至るところ凶器のような牙を剥き出した禍々しい姿。それは宏大な地下トンネルを掘削するドリルのように恐ろしい力を秘めて見えた。

 

「……ジャガナート……?」

 

 その静かで暴力的な風景に俺は見入っていた。ここが俺の……俺達の目指した場所なのか?

 

 ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……

 

 可聴域ぎりぎりの高音だった。

 通りの向こう、十字路から何かが姿を現そうとしていた。

 

「……魄魔体(ヴァーサナー)?」

 

 そう呟いて俺は(おのの)いた。いま俺を助けてくれる弥鳥さんはいない。そもそも彼女なしで、俺は元のレイヤーへ戻れるのか?

 

 閃光が走る。

 十字路の向こうに姿を見せた何かが発光している。

 

 ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……

 

 巨大な目があった。

 ビルほどの大きさの目玉が浮かんでいる。頭から無数の触手を生やし、その一本一本の先にも目玉があった。

 その何本かから、サーチライトのように光線を走らせている。

 

大凍(マ・ダ・ル・ト)……!」

 

 俺は両手を振り上げ、強烈な冷気の嵐をイメージをした。

 地表や廃墟の壁面が一瞬で凍り付き、砕けていく。

 

 ひぃぃぃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……

 

 その冷気の嵐は巨大な球体の表面を撫で……微風のように通り過ぎた。

 俺の想像できるだけの強力な魔法……だが、真夜(マーヤー)は自分の想像を超えて発動しない。現実そのものとしてイメージできなければ、ただ魔法の名前を言っただけだ。

 次の瞬間、目玉の怪物は慣性を無視した異様な飛び方で俺の真正面に巨体を浮かべた。

 

「ひ……」

 

 目玉の下部に横一文字の巨大な裂け目が生じ、無数の牙が飛び出た。俺が100人も同時に噛み千切られそうだ。

 

 ふぁぁぁぁ……ん

 

 無感動な深淵が俺を頭から呑み込む。まさか……と俺は信じられない思いだった。これでおしまいなのか?

 

 ……無数の金属片がぶつかり合うような音響が世界を満たした。

 

 一瞬遅れて、凄まじい衝撃が俺を吹き飛ばした。

 反射的に真夜(マーヤー)で防御したはずだが、全身が砕けるようだ。何が起きた!?

 

「……ようやく会えたなぁ少年」

 

 苛立たしげな声が聞こえる。

 半ば瓦礫に埋もれた身体を起こすと、辺りで崩れた廃墟の残骸に魄魔体(ヴァーサナー)の肉片が降りかかり、どろどろと溶けていた。

 空気は肌を刺すように帯電し、生臭い匂いが立ち込めている。一瞬でけりを着けるなんて恐ろしく強力な真夜(マーヤー)だ。

 

「退屈過ぎて気が狂いそうだぜ。物語の座標系を与えられながら、願うのは逃避ばかりかよ……」

 

 その声に、俺は聞き憶えがあった。

 砕けた建物の破片が舞い、視界を砂塵がおおう中、長身の人影が見えた。

 針金細工のような手足。黒いフードの奥から、挑みかかるように苛烈な眼光が輝いていた。

 

「この世界から出ていくなんて簡単だろ?」

 

 砂煙の向こうから突き出された手……その爪から、悲鳴のような音を立てて黒い影が鋭く伸びる。

 無数の刃。

 それは冗談のようにあっけなく、俺の全身を刺し貫いた。

 

「……死ねばいいんだよ」

 

 

 




異能力に目覚めたときの少年の気持ちって、なかなか想像しにくいです。現実からファンタジーへ跳躍する瞬間は大事に描きたいんですが。


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お前の溜め込んだドロドロ全部 ①

「まあ……まあ……まあ……よくあることだぜ『主人公の少年』」

 

 憐れむような女の声が聞こえる。

 全身を貫く刃が骨に食い込み内蔵をえぐる、その感触が生々しい。痛みは夢のように曖昧なのに……怖い。何が起こってるんだ。

 

「物語が当てを外すなんてことはな。……十月(とおつき)中学校2年生・久凪(くなぎ)勒郎(ろくろう)くん、お前では力不足だ」

 

 女の(まと)う衣は、あらゆる光を吸収する(まった)き黒だった。そこから(のぞ)く手足は人形のように華奢に見えるのに、右手の爪から伸びる無数の刃で俺を持ち上げている。とんでもない膂力(りょりょく)だ。

 フードが後ろに落ち、その黒髪が流れ出るのを見て、俺はぼんやり美しいと思った。野生の狼のようだ。

 

「お前の待ち望んだ非日常への(いざな)い……それで満足したか? その程度の奇跡、物語にとっちゃありふれた序章なのにな」

 

 女は何を話してるんだろう。

 その鋭い弧を描く眉の下で、真紅に輝く両眼が見開かれ、笑っている。持て余す狂気がその瞳を踊らせているように見えた。喜んでいるのか、激昂しているのか。まともな人間じゃない。

 

「ジャガナートは間もなく始まる。世界を変える気がないなら、せめてお前の溜め込んだドロドロ全部吐き出してから死ね……」

 

 刃が乱暴に引き抜かれ、女の爪に戻る。

 肉が裂け、骨を削られる激痛。

 倒れた地面から身を起こすと、貫かれた箇所から光る液体がこぼれる。血……ではないが、それより本質的な何かが失われていくようだ。死ぬのか。

 

――久凪くん、真夜(マーヤー)が支配する現実では、痛いと思えば痛むし、死ぬと思えば死ぬんだよ。

 

 弥鳥(みとり)さんの言葉が頭に浮かぶ。

 そうだ、この刃は傷付けようとするイメージ……それに呑まれたとき、俺は本当に傷付き、死ぬ。

 

――だからいつもこう思って……キミはヒーローだって。どんなにピンチでも最後には必ず勝つヒーローだよ。

 

「わ……我が手に来たれ……勇者の(つるぎ)……」

 

 右手から光が伸びる。そうだ、これが俺の力。

 

「お前が……何言ってんのか知らんけど……俺は弥鳥さんとこの世界を出ていく、そう決めたんや」

「へぇ……それで?」

「だから……殺されてやらん!」

 

 俺は片膝を立てて剣を構える。こんなのはみんな真似事だ。だから最後までやってやる。

 女は暗い微笑みで俺を見下ろしていたが、ふと脇に視線をやった。

 

「……おいおいおい、それは随分ひどいチートだぜ」

 

 その言葉が終わらぬ間に、無数の光の矢が女の身体を吹き飛ばした。

 ミサイルでも直撃したかという衝撃に俺も倒される。

 

「久凪くん! ごめん遅くなって」

 

 透き通る声が懐かしい。中空から現れた弥鳥さんが俺の前に降り立った。

 その姿を見上げて俺はぞっとした。彼女の身体……手足や肩、腰などの一部が半透明に消え……溶けかかっているようだ。

 

「み、弥鳥さん!? その身体……」

「えへへ……ちょっと無茶しちゃった。早く表層へ戻ろう」

 

 透き通った右手を差し伸べながら、弥鳥さんが困ったように笑う。無茶をすれば世界から弾き出される……ってのはこのことか?

 立ち上がって恐る恐るその手に触れるが、しっかり感触はある。

 

「い、痛くないん……?」

「ん、平気。キミこそ」

 

 弥鳥さんが俺の傷口に手をそっと当てる。鈍い痛みが少し緩やかになった気がした。

 

「いつもなら治してあげられたんだけど」

 

 表層現実では出血多量でショック死だろうが、いまの俺には“HPは残り僅か”という程度の認識しかなかった。それはそれで深刻な事態なんだろうが。

 

「ごめん、俺のせいや」

「あはは、お陰でこんなところまで来れたね」

 

 いまにも倒れそうな弥鳥さんを俺は自然と抱き寄せていた。いつもと逆だ。

 壊れてしまいそうな(はかな)い感触に俺は戸惑った。こんなか細い身体だったっけ?

 

「……あれがジャガナートなんやろ? 俺達が目指す……」

 

 紫色に染まる異形の空に静止する巨大な歯車――。静かな廃墟の街から、俺はその威容を見上げた。

 

「そう。この理不尽な世界に苦しむ人々の消えたいという願い(ヴァーサナー)を牽き潰す救済の神……ボク達はその中心から向こう側へ行くんだ」

真夜(マーヤー)を使えば……あそこまで飛んでいけるかな」

「うん……ボクには分かる。近いうちにキミは真夜(マーヤー)を使いこなし、あらゆる障害を越えてあの中心へ辿り着ける。そこが、この世界から出ていく扉なんだよ」

 

 俺を見つめる弥鳥さんの瞳には真夜(マーヤー)の輝きはなく、まるで普通の女の子のようだった。

 

「……あれ?」

 

 弥鳥さんが怪訝そうに言ったときだった。

 

 キリルルルルルルルル……

 

 電子的な音響が頭の中で鳴る。

 その瞬間、俺達の周囲に精密機器めいた無数の構造体が浮かび上がった。指先程度からせいぜい(こぶし)大のサイズで、奇妙にその形状を変えながら明滅している。

 俺はようやく、レイヤーを移動できないことに気付いた。

 

「虚海船……? レイヤーを固定してる。こんなところに……」

 

 弥鳥さんの言葉が唐突に断ち切られ、振り向くと彼女がゆっくり仰向けに倒れるところだった。

 その胸を何かの冗談のように、一本の巨大な牙が貫いている。

 

「み……とり……さん」

 

 俺は呆然とその光景を眺めていた。

 背中へ貫通した牙が地面に突き刺さり、彼女の身体は不自然に傾いだまま止まった。

 

 

 

 

 

「まあ……まあ……まあ……そう急ぐなよ、少年」

 

 黒衣の女が立ち上がっていた。黒髪が渦を巻いて風に舞い、その中心で両目が紅く光っている。矢に撃たれた痕は微塵もない。

 

世界山(メール)からの来訪者とはな……。まだこの世界に馴染んでいないのが惜しかったな。せいぜい本来の力の1割というところか?」

「弥鳥さん……」

 

 俺はゆっくり弥鳥さんへ歩み寄る。

 何だこれ……。彼女の両手は地面すれすれに垂れ、ぴくりとも動かない。

 

「ならば……聞かせてくれ少年。お前の物語がこの世界をどう見ているか」

 

 女が顔を空へめぐらせるので、俺もつられて周囲を見回した。

 遠くに高層ビルらしいバベルの塔めいた建物群が見える。その間に、恐ろしく巨大な蒼白い姿が見えた。20~30階の高さはあろうかという巨人。

 校舎の屋上で見た魄魔体(ヴァーサナー)に違いない。

 このレイヤーからだと、その頭部の(ねじ)くれた無数の角や、波打つ長い髪、女性らしいその身体を(おお)う薄いヴェールの細密模様までもがはっきり見える。まるで古代神話の神だ。

 

冥界の支配女神(エレシュキガル)の力が流入している……冥界の支配女神(イザナミ)の、というべきか? あそこにあるのは、ただ苦しみから逃れたいなんて貧弱な心じゃないぜ。世界をまるごと引き擦り込んで磨り潰す、生きとし生けるものへの憎悪と怨念だ。あれだけの供物を前にジャガナートが起これば、無数の世界を崩壊させてもおかしくねえ……。来訪者達もそう考えてるだろう」

 

 その言葉で、なぜだか俺にも知覚できた。

 ジャガナートを監視するように浮遊する船団、廃墟じみた塔の数十階に陣取る魔物めいた集団、大地に腰をおろして瞑想にふける灰色マントの男……。

 このレイヤーには、本来この世界にいない存在……別世界からの来訪者が入り込んでいる!

 

「ジャガナートを制御できる奴なんていやしないだろうが、無数の世界を巻き込むほどの災厄(イベント)になるなら、それはどんな不可能をも(くつがえ)せるジョーカーと同義だ。強大な宿命や制約に縛られた者達にとっては、どれほど分が悪くとも賭ける価値はある……だからここへ集う……俺もな」

 

 自分の言葉に感極まるといった調子で、目を見開きながら女は滔々(とうとう)と語る。

 その背後に、ゆっくり街を徘徊する巨大な魄魔体(ヴァーサナー)達の蒼白い姿がいくつか見えた。どれもあの目玉の怪物並に大きく、異形だ。

 

「人類史上稀に見る暗黒の祭典が始まるって訳だ。さてこの大舞台で……お前は何をするんだ?」

「お……俺はただ……」

 

 圧倒されていたのか。俺は言葉を失くした。あまりに大きな話が展開していて、まるで自分事として呑み込めない。

 

「……ああ、それじゃあサービスだ、少年」

 

 黒衣の女がおもむろに両手を掲げると、周囲が暗闇に覆われた。

 寄る辺のない宇宙空間に、俺とその女だけが浮かんでいる。

 

「シルウェステルの魔導具がひとつ……星幽測算器(アストロラーベ)よ、この者の因果を示せ」

 

 女の詠唱に呼応して、暗黒の空間を無数の蒼い流星が飛び交い、光の線を描き始める。

 それが大きな球を中心に展開する幾何学的な光の紋様を浮かび上がらせると、女は目を細めて面白そうに眺める。

 

「少年……その球がいま自覚できる“お前自身”だよ。だが見ろ、本来のお前はそこから連なる別の時間から割り込んでいるんだぜ」

「何の……ことや……?」

 

 女が球から伸びる光の線を示すと、その先のもうひとつの球体が見る間に大きくなる。胸騒ぎのする気配があった。

 

「あれが本来のお前だ。思い出せないか? お前は14歳の中学生なんかじゃないだろう? 生きることに絶望した貧弱なオトナの魂だ……」

 

 身体が、その光が描く球体模様の中へ吸い込まれる。とても(あらが)いようがなかった。激しい目眩の中で、俺の脳裏に断片的なヴィジョンが浮かんだ。

 

 

 

 

 

 ……カーテンの閉め切られたマンションの一室。

 壁を覆う棚は本やガラクタに埋め尽くされ、ペットボトルやビニール袋の散らばる床は足の踏み場もない。

 薄暗い部屋をノートパソコンの青いライトが照らしている。

 

――お前は世界に殺されかけているじゃねぇか……。人を拒絶し、世を怨み、不安と恐怖を噛み砕きながら辛うじて命をつないでいる……。

 

 女の声が反響していた。

 そうだ、俺は忘れていた。インターネットが世界を覆っていた。マンガも動画もそこで手に入ったし、SNSが(いびつ)な居場所になった。そうだ、中学生の俺がやっていたゲームには、チュートリアルなんてものはなかった。

 俺は誰なんだ。この記憶は何なんだ。

 

「誰か……助けて……」

 

 薄暗い部屋で(うめ)くように吐き出されたその言葉が自分のものなのか、俺には分からなかった。

 

 

 

 

 

「……どうだ少年?」

 

 いつの間に目を閉じていたのか、女の声で俺は我に返る。

 無機質な廃墟の街で、黒衣の女が目を輝かせながら俺を見下ろしていた。

 

「そのちっぽけなお前がふらふら舞い込んだこの舞台で、どんな物語を描こうというのか教えてくれよ」

 

 静寂が流れた。

 俺はうずくまったまま、地面に転がる瓦礫を見つめていた。

 

「……暗黒の祭典、人類史上の……」

 

 自分が何を言ってるのか分からなかった。だが、何かを言うべきだという確信があった。

 

「何や知らんけど……えらいことが起こってるんやな」

 

 俺は少し笑いながら、ゆっくり顔を上げる。黒衣の女の紅い目を見返す。

 

「でも俺には……世界がどうなるかなんて関係ない。だってこれまでも……世界は俺と関係ないところで廻ってきたんやから。この世界は俺に関心がない、だから俺がその世界を捨てる、それだけや」

 

 身体がうっすらと光っていた。

 俺は女を見据えて立ち上がり、掲げた右手に剣を顕現させる。

 

「異世界から集ったお前らは、これから神々の黄昏(ラグナロク)でも始めればええ。でも俺はその舞台には上がらへん。俺達は出ていくからな。俺が戦うのは、それを邪魔する奴がいるときだけや」

 

 面白がるように見開かれていた女の瞳が、すっと細められた。

 

「……それで勝てればいいな、少年」

 

 女は残念そうに笑うと、一歩前へ足を踏み出す。

 

「……失われゆくすべて(はかな)きものを(いた)め……大鴉の賢慮(ネヴァーモア)……」

 

 女の言葉に合わせ、その黒衣が漆黒の羽根で覆われる……それは肉体すら一体化し、その姿を人間と鳥の融合した奇怪な生物へと変えていく。

 

「……死へ還す前に、せめてお前のすべてを受け止めてやるよ、少年」

 

 手足の鉤爪、角のように逆立つ体毛、その凶悪な姿は見る間に2倍以上の大きさに膨れ上がる。ああ、俺は死ぬんだ。いまここで。

 そう思いながら俺は剣を握り、全身に真夜(マーヤー)を込める。

 こんなところで死ぬなんて、まったく予想外だ。俺はなぜか、その意外な死が世界に対して報いる一矢のように思えた。ざまあみろ、俺がこんな死に方をするなんて思わなかっただろう。

 弥鳥さん、一緒に行くよ。ここが世界の果てだ。

 

「死なないよ、久凪くん」

 

 後ろから声がした。

 振り向くと弥鳥さんの身体がゆっくり起き上がり、眩しいほどの金色の輝きを発している。

 ああ弥鳥さん、確かにそれはひどいご都合主義だ。

 その身体を貫く牙に無数の亀裂が走る。

 

貪欲なる双子狼の牙(ヒルドルヴ)を破壊できるのか……」

 

 異形の存在が感嘆の声をあげた瞬間、牙は光の粒子となって飛散した。その粒が俺の頬に当たって弾ける。

 

「久凪くん、ありがとう。その気持ち……純粋な、心の底からの声があれば、ボクはいつだって蘇る。いつだってキミを助けに来るよ」

 

 白い制服、金色の装身具、そこに傷も汚れもない。

 髪を後ろで結い上げた赤いリボンが颯爽と(ひるがえ)った。

 

「さあ、まずはここから出ていこう。この大鴉(おおがらす)を退治してね」

 

 

 




能力バトルの主人公が敵に串刺しにされる、ていうイメージが強固なんですよね。『超人ロック』あたりが原体験かも。


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お前の溜め込んだドロドロ全部 ②

「我が手に来たれ、揺るぎなき守護(アチャラナータ)……」

 

 弥鳥(みとり)さんの詠唱が、俺の心に心地よい波紋をつくる。

 その言葉が廃墟の街に響くと、漆黒のカラスじみた怪物が俺達を待ち受けるように体を震わせた。

 リンと鈴の音がして、弥鳥さんの振り下ろした右手に光り輝く長剣が現れる。

 一瞬、彼女の顔が近付いて(ささや)き、俺はその顔を見返して頷く。何も怖くなかった。

 

「……久凪くんは殺させない」

 

 そのひと言の後、弥鳥さんが金色の光を発して怪物へ飛びかかる。

 すでに黒衣の女の身体は大鴉の体躯に溶けていたが、顔はそのまま胴に張り付き、黒髪をなびかせながら思惑ありげな笑みを浮かべていた。

 俺はその胸を弥鳥さんの長剣が貫くのを見て、絵に描いたような怪物退治だと思った。

 

「……世界山(メール)の来訪者……こんなものか」

 

 少女に串刺しにされた怪物は、数メートルもの翼を広げながら芝居がかった言葉を連ねる。こいつは本当にファンタジーから抜け出してきたのかも知れない。

 

「確かに……ドグマを司(ヴァル)る漆黒の羽根(ラヴェン)で顕現した俺と違い……お前はまだこの世界で力を発揮できないんだろう……だが、そもそもお前の心は空っぽだ」

「……解説役だなんて余裕だね? 確かにそうかも知れない、だって主人公はボクじゃないもの。だから……」

 

 弥鳥さんが目を閉じると、かざした左手から光り輝くロープが現れ大鴉の体を縛り付ける。それがそのときだ。

 

「……倒すのは俺なんや」

 

 背後から大鴉に剣を突き立て、俺は叫んでいた。とどめを刺すのは俺の役割なんだ。

 

「……おお……おお……おお……お前のは悪くないぜ、少年。世界の果てへの逃避行……シンプルな物語じゃねえか」

 

 大鴉に張り付いた女の顔が異様な角度で曲がり、俺を見つめる。黒いシルエットに、紅く輝く両目と吊り上がった口だけが見えた。まったく絵本の怪物じみてる。

 そのとき、真っ黒な胴体に突き通した勇者の剣がゆっくり(ねじ)れ、吸収されるようにひしゃげていくのに気付いた。こいつの体は妙だ。粘性の渦に巻き込まれるようだ。

 弥鳥さんのロープも大鴉の体内に溶けていく。身体に満ちていた怒りや苛立ちすら吸い取られるようで気が遠くなる。

 

「自分を傷つける世界への復讐……こうか?」

 

 大鴉が体を震わせた瞬間、視界が黒く染まり、俺は貫かれたような衝撃を受けて吹き飛んでいた。

 攻撃が跳ね返された……? 辺りの建物が軋み、瓦礫が砕ける。

 

「久凪くん!」

 

 地面に叩き付けられる前に身体を抱きとめられるのが分かった。

 

 

 

 

 

 身体の痛みが和らいでいく。

 廃屋のような建物の中で、弥鳥さんが俺の胸に両手を当てていた。

 

「はい、大丈夫!」

「ありがとう……」

 

 あの爪に貫かれた傷もすっかり消えていた。そう、大丈夫なんだ。真夜(マーヤー)の司る現実では、治ったと思えばそうなるはず。

 窓から外を窺うと、さっきの戦闘で舞い上がった砂煙が見えた。

 

「弥鳥さん、あいつは……何者なんやろう」

「虚海船……て言ってね。現実の層(レイヤー)の移動はもちろん、世界から世界へも自由に移動できる技術なんだ。あいつはそれで、初めっからこの世界の住人として活動できるし、ほら」

 

 薄暗い廊下で、弥鳥さんの指差す中空に奇妙な構造体が現れる。常に形状を変化させる立体パズルが、目の錯覚のように浮かんでは消える。

 

「……ボク達のレイヤーを固定することもできる。やっかいだね。このままじゃ表層へ戻れない」

「異世界からの来訪者って言ってたで……?」

「そう……ボク達と同じ……」

 

 そう言う弥鳥さんの姿をあらためて眺める。表層では制服姿の女子中学生だが、ここでは古代の王族のような装身具を(まと)い、瞳を金色に輝かせる戦闘少女(ヒロイン)――。何て妄想じみた現実。

 

「弥鳥さん……俺いままで気にせんかった……理由なんていらんかったからな。でも……聞きたい。弥鳥さんはどこにいたん? 何で俺のとこへ来たん?」

 

 弥鳥さんの瞳がしばし遠くを眺め、そして俺を見た。その目を一瞬よぎった感情……あれは懐かしさだろうか。それとも哀しみ?

 

「……ボクはね、とても静かなところにいたんだ。ずっと遠く……だけどすぐ傍にある世界さ。あんまり静かだから、感情が揺れることもなく、時間すら流れなかった」

 

 弥鳥さんの瞳に、その静謐の世界が見えるようだった。いや、彼女の言葉がヴィジョンとして目の前にあった。

 星灯りが静かに照らす無限の空間――鏡のように空を映す地面が地平線まで続いている。

 その世界に彼女がひとりいた。

 

「……でもそうじゃない、時間は流れるんだ。それもあっという間にね。感情がなければ100年さえ一睡の夢さ。ボクにとって時間は幻だった。存在することそのものが幻になるんだ」

「そんなん……」

 

 これだけの体験の後で、荒唐無稽とは思えなかった。ただ、彼女のヴィジョンはとても寂しそうだった。

 

「そう、寂しい……そう思うこともなかったよ、それまで……キミの声を聞くまでは」

「俺の……?」

「うん、キミの声だった。さっきあの大鴉が言ってたね、生きることに絶望した魂って。でもそうじゃなかった。キミの声は希望そのものだったよ」

「……俺は何て言ってたん?」

「ここから連れ出して、って」

 

 弥鳥さんが微笑んだ。少し顔を傾けると、その前髪が揺れる。

 

「ひとりじゃない、救いがあるって知ってる、それが希望だよ。ひとは誰でも、自分だけの命綱にしがみついてるんだ。それを手放せるってこと。手放して、その空っぽの手で誰かに手を差し出すってことだよ。もしかするとそれは、全部を諦めるってことかも知れない。諦めた先に救いがあるんだ。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ……ってね」

 

 大きな地鳴りがして、一瞬後に建物が揺らいだ。

 遠くからあの女の声がする――そろそろいいか? そう言っているのが分かった。

 

「あはは、のんびりさせちゃくれないね」

「……うん」

「久凪くん、生き延びるにはボクとキミの力を合わせなきゃ」

「うん……分かってる」

「大丈夫。忘れないで、キミの……ボク達の最初の気持ちを。出会ったときから、ボク達はもう勝ってるんだ」

 

 

 

 

 

 空を駆ける弥鳥さんの手を離し、俺は瓦礫の散らばる地面へなんとか着地する。

 弥鳥さんがその前に身軽に降り立ち、正面の怪物に向き合った。

 

「決戦前の休息か……覚悟は決まったか? そんなことができるのも物語の座標系あればこそだな」

 

 黒髪の女が、紅い瞳を輝かせて嬉しそうに笑う。こいつの言葉が俺の心にさざ波を立てる。

 鉤爪の生えた(あし)が地面を擦り、乾いた音を立てた。

 

「あは、キミも面白いよね。虚海船を持ってるってことは、漂流学園から来たの?」

「ああ……昔のことだよ」

 

 女が一瞬見せた遠い視線に、彼女の人間らしさを感じて俺はどきりとした。それはこいつの背後にある物語の奥行きだった。

 

「……いまはこのジャガナートに絡む物語に会いにきた、ただの漂流者だぜ」

「ふぅん。じゃあお互い自己紹介からかな?」

 

 弥鳥さんは優雅なそぶりで両手を空へ舞わせる。金色の光の粒子がその身体を取り巻き、頭上に寄り集まっていく。これまでにない力を集めていることがすぐ分かる。

 

「我が前にその大いなる力を示せ……三神気の霊槍(トリシューラ)

 

 集まった光が巨大な三つ叉の槍を形成する。いや、柱とでも言うべき巨大さだ。

 

「確かにボクの力は1割も届かないかも……でも元の出力が大きければそれで充分でしょ?」

「……宇宙則(リタ)を書き換えてるのか? そうかお前……」

 

 三つ叉の間に青白い火花が飛び交い、周囲の空間が奇妙に歪んで見えて、その力の凄まじさに俺はたじろいた。

 弥鳥さんの姿も瞬き、いまにも消えそうに見える。

 

「……み、弥鳥さん、無茶しちゃ」

 

 俺は思わず声をかけたが、彼女が一瞬振り返ったので我に返る。いまは相手に集中するんだ。

 俺は大鴉の趾を見つめて叫んだ。

 

「……石化(ブ・レ・イ・ク)……!」

 

 奴に向き合った瞬間から発動させていた俺の真夜(マーヤー)……石化の魔法。そのイメージを強化するため最後に術名を唱える。

 

「……これは意外だ」

 

 大鴉が灰色に硬直した両趾を面白そうに眺める。鈍い音がして、そこに大きな亀裂が走った。そうだ、石化させ、硬直した肉体を砕く、思い描いたとおりの魔法。そのまま弥鳥さんの一撃を味わえばいい。

 

「まず相手の攻撃を受けるのがキミの戦い方でしょ? これも試してよ」

 

 弥鳥さんの言葉に、大鴉が笑いを凍り付かせる。

 

穿(うが)て!」

 

 槍から凄まじいエネルギーが放たれる。落雷のような凄まじい閃光と轟音。正面から建物が崩れる音が聞こえる。

 

「おお……おお……おお……素晴らしいじゃないか」

 

 直撃を浴びながら、(ひる)む様子もなく大鴉が呟いている。

 

「ここまで力を制限されながら……大鴉の賢慮(ネヴァーモア)を貫通しそうだぜ」

「じゃあこれで貫通できるな」

 

 大鴉の胸を、無数の刃を逆立てた大剣が正面から貫いている。その柄を両手で(つか)んでいるのは俺だ。とどめを刺すのは俺だから。

 

「……おお……攻撃圏に自ら飛び込んでくるとは……」

守護防膜(フ・バー・ハ)……弥鳥さんの攻撃が1割しか届かへんのやったら、俺にも耐えられる……!」

 

 俺の全身を青い光の膜が覆っていた。――防御魔法。

 槍の光は収まり、焼け焦げた周囲から黒煙が立ち上っていた。大鴉の体表と同時に俺の背中も焼き焦げたが、それもイメージに過ぎない。この現実では何とでもなる。

 

「……見直したぜ少年」

 

 女が心底嬉しそうに笑う。

 胸に突き刺さった大剣が、またもひしゃげ、肉体に取り込まれていく。さっきと同じだ。攻撃が吸収されていく。そう、それも分かってる。

 

「……あ?」

 

 女の表情が硬直する。

 大剣に無数の亀裂が走り、同時に俺の全身にも裂け目が走る。

 

「これは……諸刃(もろは)(つるぎ)……攻撃すれば自分にもダメージが跳ね返る呪具……」

 

 俺の身体中から赤い液体が(こぼ)れるのが分かる。その痛みを俺は歓迎する。

 すぐに大鴉の全身にも、俺と同じだけの亀裂が走る。

 

「お前は相手の攻撃を受け止めてから跳ね返すんやろ? じゃあ一緒に行こう」

「……素晴らしい」

 

 自らの身体が崩れることを喜ぶように、女が笑みを(たた)えたまま俺に顔を寄せた。俺は避けない。こいつは俺の世界の果てなんだ。

 女の頭部から滴り落ちる赤い液体が俺の顔を染めていく。皮膚が焼けるほどの熱が、耳元から胸元へ流れる。

 ああ悪くない。こんな終わり方ができるなんて。

 俺は力を振り絞って、相手の体内深く大剣を突き刺していた。

 

「久凪くん、ボクも一緒だ」

 

 傍に立った弥鳥さんが、剣を握る俺に両手を重ねていた。その柔らかさ、温かさが俺には信じられない幸せだ。

 瞬く間に弥鳥さんの身体からも赤い液体が流れる。これで一緒だ。

 金属の柱が折れるような音がして、大鴉の身体が(かし)ぎ、剣の刺さった胸から肩にかけて大きな裂け目を作った。

 

「……そうか……賢者の石……この少年で精製していたのか」

 

 引き裂かれた半身を傾けながら、大鴉が弥鳥さんを見つめて呟いた。

 その言葉の意味も分からないまま、俺の意識は薄れ始める。たとえ息絶えたっていいよね、弥鳥さんはそう言った。俺も同じ思いだ。ふたりで行けるなら。

 

「……ごめん」

 

 すぐ傍で弥鳥さんの声がする。

 直後、俺は後ろへ突き飛ばされていた。一瞬、俺は何が起こったのか理解できない。

 剣から手が離れ、大鴉から遠ざかっていく自分が、ゆっくり現実からずれていくのが分かる。失われる。あの一瞬にもう届かない……。

 

「ごめんね、このまま一緒でもよかったけど……もうちょっと先を見たくなったんだ」

「み……とり……さん」

 

 レイヤーがずれていく。弥鳥さんの姿が薄れる。大鴉も、紫色の空に静止するジャガナートも。すべてが灰色へ溶けていく。

 

「また会えるよ。もしキミの心が望めば。純粋にそう願えば……」

 

 最後の意識が、その彼女の声だけを捉えていた。

 

 

 

 

 

 俺は見慣れた通りにいた。

 すぐ傍に神社があった。

 誰もいない路上を街灯が照らし、信号が静かに光っていた。静かで、冷たく、暗い……俺のよく知る時間。都市の曖昧な夜空はそれでも、東から白み始めていた。

 

「……夜明け?」

 

 夕暮れにレイヤーを移って、さほど経っていないはずなのに。 

 傷は跡形もなかったが、大切な何かを忘れたような喪失感が胸を貫いていた。

 俺は思わずあやのの姿を探していた。ここであやのに声をかけられた朝は半月ほど前……だが半年も前だと感じる。

 

 呼ばれたように神社の敷地へ入ると、社の灯りが誰かの姿を照らしていて俺はぎょっとした。

 小さな女の子だ。

 10歳くらいか。真っ直ぐ前を向くぱっちりした目。ショートにした髪からちょこんと逆立つ毛を揺らしている。

 紺のブレザーにチェックのスカートは、どこかの私立小学校の制服だろうか。

 

「深く潜ると時間もずれるからね」

 

 無邪気な声。それが俺への言葉だとしばらく分からなかった。

 ビルの隙間から(こぼ)れた陽光が赤い鳥居の天辺を照らした。街が目を覚ます瞬間。

 

「……ほら、世界は美しい」

 

 そう笑いかけなら歩み寄ってきたその子が、突然俺の胸に飛び込んできた。

 尻餅をついた俺に覆い被さるように顔を突きつける。幼さの残る顔が真剣な表情をぶつけてくる。

 

「この世界を君は……捨てるっていうの? なんて……」

「え……何……?」

 

 胸ぐらを掴まれて俺は戸惑っていた。

 

「なんてひとりよがり……」

 

 怒ったような泣いているような顔で、女の子がじっと俺の目を覗き込んでいた。

 近くの通りを、車が走り過ぎていった。

 

「だ……誰なん……?」

「マイトリーが無茶をしたから……僕が幕を引きにきたんだ」

「マイトリー……?」

 

 気を取り直したように数歩下がって、女の子が話し始める。

 

「彼女は……明弥鳥(あけみとり)空子(くうこ)って名乗ってたね。救世の英雄神ミトラ。50億年を(けみ)する者……それとも弥勒(みろく)菩薩って呼んだ方が君にはしっくりくるかな」

「弥鳥さん……」

 

 その名が奔流となって頭を叩いた。そうだ、さっきまで弥鳥さんといた。あの深いレイヤーで……一瞬そのことを忘れていた。

 

「僕はカルナー……マイトリーと同じく世界山(メール)から来たんだ。最後に君を……君の現実へ送り届けるために」

 

 ぼんやりとその女の子を眺めながら、俺は決して忘れないよう念じていた。現実に戻っておしまい……そんな物語は求めないよ弥鳥さん。俺はまた、絶対に君に会いに行く。

 

 

 




これにて第1章「始まりの物語/静謐の少女と破壊神」は終幕。主人公も作者も訳も分からず駆け抜けた章でしたが、次章はもう少し明確なゴールを目指して語られる予定です。出番の少なかったあの人やこの人も色々動くはずです。


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Ⅱ 君だけの断章/冥界からの呼び声は彼女
行ったら還ってこなきゃだろぉ ①


『……胎蔵印を発動……表層へ追い込んだよ勒郎(ろくろう)

 

 凛とした女の子の声が頭に響く。

 俺はゆっくり目を開き、周囲の気配を確かめる。

 

『位置は……かなり西にずれてる。真夜(マーヤー)を発動……加速(ヘ・イ・ス・ト)

『ごめん、動きが早い奴だ、気を付けて!』

 

 緑色に照らされた薄暗い街を俺は駆ける。身を包む青白い光がビルの屋根から屋根へ跡を引く。

 ひと区画先を、硬そうな殻に覆われた黒い触手が横切った。

 

『見つけた……! クク、先に仕掛けるで』

『無茶はしないでよ。こっちもすぐ行くから』

 

 頭に響くククの返事を待たず、俺は空中で剣を顕現させて飛び降りる。

 

魄魔体(ヴァーサナー)! こっちや」

 

 ぎこちなく路地を走るムカデとイカの合いの子のような影が、俺の声に反応して動きを止める。こいつらの習性だから狙い通りだ。

 

 きるるぅぅぅ……!

 

 金管楽器のような声と共に、金属的な触手が空中の俺を捕えようと飛ぶ。

 剣を横殴りに一閃。1、2本を半ば切断しながら、俺は影の前に着地する。

 

「素直にジャガナートへ向かえばええのに……表層で悪さするからククに捕まるんや」

 

 鳴き声を上げて向かってくる影の攻撃をかわし、腹部に剣を突き立てる。

 すぐに魄魔体(ヴァーサナー)の核となった心の(よど)みが俺の精神を侵し始める……。

 

「胎蔵……一切の因果を含有せし光のもとへ還れ」

 

 女の子の声が闇に包まれた俺の耳に届いたとき、周囲の影が飛散した。

 俺は地面に転がり、吐き気を(こら)えてうずくまる。

 

「大丈夫? 足留めだけでいいのに、君はいつも無鉄砲をやって……」

 

 ブレザーを着た10歳前後の女の子――ククが立っていた。男の子のようにショートにした髪から逆だった毛がひと房揺れている。

 その差し伸べる手を取って、俺はゆっくり起き上がる。

 ククの身体には白銅色の装身具が輝いていた。この子の真夜(マーヤー)……。

 

「ククの印だと……ただ消えてまうからな。ちょっとでも触れてやりたいし」

「まだマイトリーといた頃の癖が消えないんだね。ほら……」

 

 ククは顔を近付けて俺の首元に触れる。そこに複雑な装飾の首飾りめいた銀色の輝きがあった。

 

「この瓔珞(ようらく)のおかげで、君は深い現実の層(レイヤー)に落ちなくてすんでるんだ。リハビリの意味で魄魔体の退治を手伝ってもらってるけど……自暴自棄なことはやめよ?」

 

 俺は曖昧に(うなず)いて立ち上がるが、心の中ではマイトリー……弥鳥さんの最後の言葉を思い出していた。

 

――また会えるよ。もしキミの心が望めば。純粋にそう願えば……

 

 そうだ、俺は忘れない。この世界から出ていこうという最初の願いを……彼女にまた会うために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Ⅱ章】   君だけの断章/冥界からの呼び声は彼女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弥勒菩薩に救われた男子中学生はいるだろうか。それも制服姿で空を駆ける少女の姿の、だ。妄想性障害の症例にしてはあまりに無邪気だし、ライトノベルのモチーフにしてはインパクトが足りない。

 そもそも弥勒というのは2000年以上昔にインドで入滅したお釈迦様の後継者として、人々を救うために覚醒する存在らしい。ヒーローを約束された主人公のようなものだけど、その覚醒は56億7000万年の未来というから気が長過ぎる。阿弥陀様なら「ナムアミダブツ」と唱えればすぐにでも助けてくれるらしいが、この現代で弥勒に救ってもらえるのは期待薄だ。

 ところが少し(平沢先生にも聞きながら)調べてみると、弥勒は覚醒までは天界(兜率天)にいるそうで、じゃあいますぐそこへ行こうって信仰があったらしい。これを「上生信仰」というが、これと真逆の発想でいまこの現世に弥勒を迎えようという「下生信仰」というのもあった。そりゃ遥か未来の救いよりもモチベーションが湧くだろうし、弥勒様にしたって退屈しないだろう。

 

世界山(メール)にいると声が聞こえるんだ、様々な世界からの声が。それを聞いてマイトリーは君のもとへやって来た……彼女の姿で」

「そんでカルナー……じゃなくてクク、お前はなんでその姿なんや」

 

 自宅マンション6畳の部屋で学習机に片肘を突きながら、俺は窓際に座った小動物を眺める。

 真っ白な毛並みに、頭から背中にかけてオレンジ色の模様がついたマスコットめいた生き物。小さなキツネかイタチのようなひょろりとした体に乗った無邪気そうな顔が、こっちを見つめていた。

 

「しばらく君の傍にいるなら、この方が何かと楽でしょ?」

「……せめて普通の猫とかの方が違和感ないんちゃう?」

「普通の猫が喋る方が違和感あるよ。レイヤーをずらしてるからどうせ普通の人には見えないんだし」

 

 女の子の声でククが話す。

 あの日神社でカルナーと名乗ったこの子は、普段小動物の姿で俺の傍にいる。愛称があった方がいいと言い出したのもこいつだ。

 

「別に一緒におらんでええんですけど」

 

 そう言うとククはわざとらしくため息をつく。

 

「君達のおかげで事態は予測不能の領域にあるんだよ。僕としては、ジャガナートが終わるまで君には平穏な日常にいてもらいたいんだ。色々影響があるんだから」

 

 ジャガナート――世界の(ことわり)の一端を破壊する現象。

 深い深いレイヤーで出会った黒衣の女はそれを暗黒の祭典と呼んだ。この現実と地続きの場所でその大いなる災厄(イベント)が始まろうとしているだなんて、ここにいると馬鹿げた妄想話だ。

 

「そういえばクク、賢者の石って知ってる?」

「……錬金術の言葉だね。金を作る触媒だっていう。それがどうかしたの?」

「いや……」

「それより勒郎」

 

 ククが窓際からとんと床に降りる。

 

「また遅刻じゃないか。学校に行き始めたのは嬉しいけど、それならしっかり時間を守ろ?」

「……やれやれ」

 

 物語のジャンルが微妙に変わったなと俺は思った。

 

 

 

 

 

 あ、久凪や。おう。遅えな。

 教室に入るとぱらぱら声がかかる。休みがちな生徒が2時限目から遅れて来ようが、周りにとっちゃ変わらぬ日常のさざ波に過ぎないってことは救いでもある。

 カバンを肩から下ろしたところで、向こうの机に座ったあやのと視線が合う。

 黒縁メガネの奥の切れ長の目が、いつもより気持ち優しそうに見えた……のは俺の勝手な思い込みか。

 あやのの後ろの窓の向こうに、見慣れた街の眺めが広がっていた。

 

 

 

 

 

「はいこれ」

 

 あやのが素っ気ない態度でキャンパスノートを手渡す。

 屋上の風がその髪を撫でるので、おかっぱのクセがいつもより目立って見えた。

 

「うん……ありがと」

 

 目が合うとまた怒られそうなので、俺も視線を外してノートを受け取る。

 受け取ったノートが何ページか(めく)れ、コマで割られたスペースに描かれた顔やフキダシ、擬音(オノマトペ)が見えた。殴り書きしたような激しい描線。

 

「おお……見せてもらうの久しぶりや」

「……後で読みぃや」

 

 ノートをぱらぱら眺めると、あやのは明後日の方向に顔を向けながら怒ったような声を出す。

 裏紙にいつも絵を描く女の子だったあやのは、やがてマンガとしての表現を始め、そのノートは一時期クラスで回し読みする人気連載になった。それからまあ色々あって、小学校も高学年になるとあやのはノートをほとんど人に見せなくなったが、それでも俺と彼方(かなた)は数少ない読者であり続けた。

 

「凄いよな、続けてるって。これお前の使命みたいなもんやな」

「どうしたん急に。……気ぃ遣うの嫌やから言うけど、あんたさ、最近何があったん」

「うんまあ……色々あってんけど……何て言うか、俺ってひとりよがりやったかなあってショックで」

「へぇ? 勒郎のくせに何今さら」

「えええ」

 

 俺は校舎屋上フェンスの土台ブロックに腰かけながら話していた。

 正面には建ち並ぶ高層ビルが見える。あのとき、あのビルの向こうに、この世の理を破壊する恐るべき予兆が見えたんだ。

 

「例えば……辛くて、もうダメや消えたい、みたいな気持ちって外からやと分かれへんやん。普通に歩いてる人が一杯おるの見ると俺みんな凄いなって思うけど、そのうちの何人が心の中に澱んだもの抱えてていまにも倒れる寸前なんやろなって」

「ふぅん……誰かとそんな話でもしたんか?」

「まあ……話したってほどでもないけど」

 

 これまで剣を突き立ててきた魄魔体(ヴァーサナー)の心の感触を思い出す。

 

「とにかく()ねててもしゃあないなって。みんなと同じようにちゃんと生きてかなあかんなって」

「えー何や? 彼方がおらんようになって弱気になったんか?」

「はあ? べ別にそんなん……いや……そうなんか俺?」

 

 あやのはフェンスに背中をもたれさせ、俺と同じように遠くの高層ビルを眺めている。

 

「あんたの言うことな、拗ねててもしゃあないって、それその通りやと思うわ。あんた見てるといっつも思うし」

「うわあ……やめろよお」

「いひひ……。でも後半は全然そう思わへん。みんなと同じように生きていかなとかな」

 

 誰かに宣言するように、あやのは言葉を続ける。

 

「人それぞれ辛いことあるやろ。そこで何とか生きてるんやん。その生き方が周りと違ってたとしても、それでなんであたしから気後れせなあかんねん。『みんなみたいにちゃんとしろ』とか言う奴と喧嘩できるようにがんばらなあかん、とは思うけどな」

「ああ……そこはそんなにがんばらんでええで」

「うるさいな……。そう言うあんたも、みんなに合わせようとか全然思てないやろ?」

 

 俺は黙って高層ビルの向こうを見つめていた。

 

「あんたのお母さんが……あんなことなってもな。うちもお父んはどうしようもない奴やし。それでもあたしらなりのやり方で生きてけばなんとか生きてけるやろ。学校休もうが」

「……ええ話っぽく言うてるけど、お前この前は学校来い言うてたやん」

「あはは、それで来たんやったら単純過ぎるわあんた」

「えええ」

 

 

 

 

 

「勒郎、なにか憑き物が落ちたような顔だね」

 

 どんどん早くなる夕暮れが通学路を斜めに照らし、俺の前をとことこ歩くククの白い毛並みも橙色に染める。

 

「お前にそんなこと分かるん」

「そりゃね。あやのちゃん? 今日はあの子と話せて良かったじゃないか」

「はあ? あいつは別に昔からの……」

 

 大声を上げかけて止める。レイヤーを少しずらせばテレパシー的に話せるが、表層ではつい声に出るから周りから見るとやばい絵になる。ククの姿が見えるならまた違うんだが、それはそれで騒ぎになるだろう。

 

「君が前向きになってくれて僕も嬉しいよ」

「……まあ、そうすか。そうやね。拗ねてたらあかんね」

 

 歩きながら独り言のように俺は小声で呟いた。

 いまはとにかく家であやののマンガを読むのが楽しみだ。帰るのが楽しみだなんて久しぶりだ。

 

「……あの、見つけました」

 

 ぼんやりしてたんだろう、息がかかるほどの距離に少女がひとり立っていて、ぶつかる寸前だった。

 血の気の薄い顔に、見開いたように大きな目が俺を見つめていた。

 妙に焦点のずれたその瞳に磁力めいた力があって、俺も目を逸らせない。

 

「……えと、あの?」

仮名見(かなみ)来子(くるこ)です。ああごめんなさい、最初にお礼を言おうと思ってたのに。ありがとう、そう言いたかったんです。私のこと理解してくれる人がこの世にいたんだって、それだけで本当に嬉しくて、思い出すたび泣いてるんです私」

 

 少女の大きな瞳から涙が(あふ)れる。その言葉の奔流に俺の思考はついていけない。

 

「えと……どこかで?」

 

 ゆっくり視線を移す……ウェーブがかった長い黒髪。制服は確か隣の中学のものだ。前にそろえた両手で鞄を持ち、じっと俺の顔を覗いている。

 

「勒郎! 危ないよ、それは」

 

 足元でククが叫んでいる。

 

「勒郎っておっしゃるんですね。勒郎。勒郎。上の名前もお聞きせずに下の名前で呼んでしまうなんてすみません。ああでも結局そう呼ぶようになるならいいんでしょうか? 勿論あたしのことは来子(くるこ)って呼んでくださいね」

 

 俺は痺れた頭で考えていた。少女はククの言葉を聞いた。つまり重なったレイヤーを知覚している!

 首元でククにもらった瓔珞(ようらく)が銀色に輝いていた。

 周囲の景色が垂れ幕を降ろすようにずるりと崩れる。レイヤーが凄まじい勢いでずれていく。

 

「勒郎……!」

 

 ククの声が徐々に遠くなる。

 目の前に少女だけが残り、その全身を影が覆っていく。

 首の瓔珞(ようらく)が砕け、光の粒子になって飛び散った。

 

 

 




いつかヤンデレを書きたいと思ってましてですね。


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行ったら還ってこなきゃだろぉ ②

 黄色い帽子に青いスモックの幼い女の子がお菓子のステッキを手にすまし顔で歩いていて、足元を黒猫がとことこ先導するのが微笑ましい。

 

「あの猫が……みーちゃんか」

「そう、私が5歳で出会った本当のお友達です」

 

 黒猫が幼女を見上げてなあと鳴き、ああ会話してるんだって俺は感心する。

 

「言葉が分かったと言うつもりはありません。私とみーちゃんは言葉を超えて、お互いの感情も感覚も共有していましたから。……たぶん魂さえ」

 

 幼女は10歳くらいの女の子に成長していて、歩くたびにその子のフリルのスカートがちかちか光る。不思議だったが、つられて俺の心も弾んだ。

 その肩にはさっきの黒猫らしい小さな生き物がちょこんと乗っていて、俺はなぜかほっとした。

 

「みーちゃんは一度いなくなったのですけど、その後もずっと私の(そば)にいてくれたんです。他の誰にも見えませんでしたが」

 

 唐突にガラスの割れる甲高い音がして、どきっとした。痛ぁいと言う子供の泣き声に続いて、何なのあの子、気持ち悪い――ひそひそ声が反響する。

 周囲は暗闇……得体の知れないどろどろに囲まれていた。

 

「5歳で魂を共有する相手に出会えたことは恐ろしい幸運でした。そのせいで私は他人との距離をうまくつかめなくなっていたようです」

 

 闇に囲まれながら歩き続ける女の子のクセのある黒髪には、ティアラのように輝く光があり、その手には魔法使いのステッキ。肩の黒猫は額に星模様を光らせ、天使のミニチュアのような白い羽根をぱたぱたふるわせている。俺は何かを思い出しそうだった。

 

「あの光は……真夜(マーヤー)……?」

「やっぱり見えるんですね! みーちゃんと私には魔法の力があったんです。私達だけにしか分からない力……おかげで私は助かりました」

 

 ハープをかき鳴らすような音が鳴り、空から無数の流星が降り注いだ。

 地面に落ちては光を撒き散らし、その一瞬周囲に泥人形めいた無数の影が浮かぶ。

 その薄気味悪い夜道を、女の子は気にもしない様子で歩み続ける。

 時折直撃の軌道で落ちてくる星を、女の子はステッキを振って空中で四散させる。細かい星屑が降りかかるのを、肩の黒猫が体を震わせて吹き飛ばす様子が微笑ましかった。

 

「猫には魂がないって母は言います。私達のつながりを理解できないんです。それは親だけでなく、ほかの誰にとってもそうなのだと私は学びました」

「……寂しいな」

「いえ……」

 

 すぐ後ろから声が聞こえることに気付き、俺は振り向いた。

 ウェーブがかった長い黒髪がやや俯き加減の顔にかかり、その向こうから大きな瞳がこっちを見つめている。

 

「寂しい……とは感じないんです。みーちゃんがいますから。私の中にいるんですほら」

 

 この子には見覚えがある。いつ会ったんだろう。

 少女が俺に話しかけながら、ゆっくり顔を上げ、口元を開いていく。

 彼女の下唇の上に何かが現れる。

 赤黒い塊。

 よく見ると、動物の体毛のようなものがびっしり生えていて、俺は目を離せない。

 

「大きな車だったんでしょう。潰されてました。大人が何か言ってましたが、私に分かったのはその血肉がすぐ失われてしまうということでした。だから私にできたのは小さな一部だけ」

「……お前……」

「全部を食べてあげられなかったんです……それでもみーちゃんの体を私の中に宿すことができた。魂を分けたお友達とひとつになれた、その経験が私を幸せにし、そして私を他人から遠ざけてきたのです。……あなたが現れるまで、勒郎さん」

 

 その言葉を聞いた瞬間、視界が黒く染まる。

 俺は突然、自分の背中が固い地面に押さえ付けられていることを意識した。

 

 るっぎゃああぁぁぁぁ……

 

 間近の大きな鳴き声に全身が震え上がり、自分が強く目を閉じていることに気付く。

 目蓋を開けると目眩と共に世界が反転し、背中を押し付けられているのが地面じゃなく壁だと分かった。

 巨大な猫じみた影のような怪物が目の前にいて、何本あるのか数えたくもない前肢のうちの2本で俺の身体を壁に張り付けている。いまにも頭から俺を食べようという体だ。

 

「そうか……あの時の魄魔体(ヴァーサナー)……」

 

 猫の巨大な口がさらに裂け、奥から少女の顔が覗いた。確か来子(くるこ)と名乗った、隣の中学の生徒。焦点のずれた大きな瞳が俺を捕える。

 

「この心に触れてくれるひとが現れるだなんて希望もなかったのに」

「わ……我が手に来たれ……」

 

 巨獣の前肢に潰されそうな痛みに耐えながら、俺は必死に真夜(マーヤー)を発動しようと試みた。

 その様子を愛おしむように見つめながら、来子がゆっくりと猫の頭部から上半身を出し、近付いてくる。

 

「な……んで、真夜(マーヤー)が……使えない」

 

 もがく俺の頭を来子が両手で抱え込む。母親が子供を胸に抱くように。

 

「思い出しました? 誰とも分かち合えない気持ちに触れてくれたこと。あの時、私は勒郎さんの魂の傷も感じました。暗くてよく見えなかったし、ほとんど言葉も交わさなかったけれど、あなたの傷は私の傷とそっくりでした」

 

 侵食……これは、魄魔体(ヴァーサナー)に剣を突き立てるたびに起きていたことだ。

 俺の首筋に押し当てられる来子の両手が、服も皮も肉も透過して一体化していくようだ。

 

「ひとつになれる、これほどの幸せが訪れるなんて信じらない、そうじゃないですか?」

 

 生ぬるい粘液と共に、彼女の喜びや哀しみが背骨にそって身体の内側へ流れ込んでくる。

 俺は顔にかかる彼女の髪を感じながら、感情のタガが外れれば痛みも心地よくなるんだとぼんやり考えていた。

 

 

 

 

 

「同意の上かぁ、久凪(くなぎ)?」

 

 とぼけた声がして、水をかけられたように意識がはっきりした。

 俺の真正面、来子の背後で何かが光る。次の瞬間、魄魔体(ヴァーサナー)が来子を口に収めたまま後ろに飛び退いた。巨体が嘘のような身軽さだ。

 支えを失った自分の身体が地面に崩れ落ちる中、俺は遠くから飛来した光が地面に当たって派手なピンク色の火花を散らすのを見た。

 

「……はははっ、まじですか」

 

 俺は身体を起こしながら向かいの建物の上に立つ姿を見て、ギャグかシリアスか大いに迷った上で、ひとまず笑ってみた。

 

「魔法使いの女の子……だったんすねほんとに」

「いまもそのつもりなんやけどなぁ」

 

 鮮やかなオレンジに彩られた少女趣味なワンピース、胸元を飾る大きなリボン。大きなトンガリ帽子を斜にかぶり、平沢久遠(くおん)先生がいつもの赤い縁のメガネの奥で悪戯っぽく笑っていた。その手には宝石のついたカラフルな弓を持っていて、さっきはそこから魔法の矢でも放ったらしい。衣装からはキラキラ光を振りまいていて(真夜(マーヤー)……?)、空でも飛びそうな勢いだ。

 

「……月が優しく唄うとき、心の音色(ねいろ)木霊(こだま)する」

 

 右手を高く掲げ、目を閉じて何やら唱え始める先生を俺は呆然と眺めていた。

 

「この心ふるえる限り、響け! 光のメロディ」

 

 ここで決めポーズ。

 20代女性が着るには致命的に痛々しい衣装だが、ああも得意気な立ち姿を披露されるとこっちの感性がぐらついてくる。そもそもこのひとが完璧なメイクアップに艶のある髪をなびかせるだけで、俺にとっちゃ天地鳴動の大事件なんだ。

 

「あのひと……恥ずかしくないんか」

『こういうのは恥ずかしがったら負けなんよぉ』

 

 正直な感想をこっそり(つぶや)いた途端、頭に先生の言葉が響いてぎくりとする。テレパシーくらい当然なのか。

 そんな先生を慌てて見つめると、顔も赤いし笑顔も引きつっていて、案外いっぱいいっぱいのようなのでここは素直に感動していよう。

 

「勒郎! 大丈夫っ!?」

 

 先生の足元から白い小動物が顔を見せる。ククがその姿でいるとすっかり魔女の使い魔だ。

 俺が無事なのにほっとしたようで、先生を見上げて話しかけている。

 

「ありがとう、久遠さん……て呼べばいいかな? おかげで間に合ったよ」

「久遠でいいよぉ。……ええっと」

「僕のことはククって呼んで」

「ククね。懐かしいなぁ、むかし君に似たQ太って子がいたんやけど」

「うん……かつて君達の傍にいたのは僕じゃないけど、憶えてるよ久遠。君の魔法、君達の冒険を……」

 

 

 

 

 

 うるるるるぅぅぅ……

 

 猛獣の唸り声にその場の皆が振り向くと、魄魔体(ヴァーサナー)が無数の肢を地に踏みしめ、身を低く威嚇していた。来子の姿は見えなかったが、その猫じみた巨獣の瞳は彼女のものだ。

 

「……ええ、知ってます。いつも私達は邪魔されるんです。でも結局は私達の絆の強さを確認するだけ。みーちゃんのときと同じ……」

 

 平然と言葉を連ねる来子の声が、巨大な猫の口許から聞こえる不気味さに鳥肌が立った。

 

「こんなに大きい影魔(シャドウ)やなんてねぇ……いま何が起きてんの?」

「久遠、話は後で……」

「うん分かってる。悠久(はるか)永遠(とわ)もいないから……ここはあたしが張り切るしかないねぇ」

 

 建物の上から先生が平然と弓を構えると、巨大な猫の影が音も立てずに跳んだ。

 一瞬の交錯の後、空中戦が始まる。

 空を舞いながら先生は矢を放ち、襲いくる無数の鉤爪に対抗する。激戦に違いないが、矢が放たれるたびに黄色やピンクの光が輝き、俺の心もときめいてしまうのがどうにも悔しい。何のショーなんだこれ。

 

「……何者なんやあのひと」

「魔法少女……そう、永遠(Puella)の少女(Aeterna)とも呼ばれたね」

 

 紺のブレザーを着た小さな女の子……その姿に戻ったククが傍にいた。

 地面にしゃがみ込んだ俺の肩に手を置くと、巨大な前肢にやられた痛みが引いていく。

 

「クク……お前先生のこと知ってたんか」

「……どの世界にもいるんだよ、レイヤーを移れる人ってね。僕は以前、世界山(メール)から彼女達を手助けするためにやってきたことがあるんだけど……それはいまの僕とは別の僕だ」

 

 ククが俺を覗き込むように微笑むと、頭の上でちょこんと逆立てた毛が揺れる。

 言葉の意味はいまいち(つか)みかねるが、そもそもいま起きてることがおかしいんだ。

 

天使の輪舞(エンジェリックロンド)っ!」

 

 空中にオレンジ色の波紋を散らしながら、先生が叫んでいる。

 何だこれ。俺はいま誰の物語に入り込んだんだ。弥鳥さんもいないのに話だけが進むだなんて……。

 いや、これは千載一遇の好機なのか?

 ククは俺を守ってくれるが、あいつといる限り俺は表層現実に留まるしかない。弥鳥さんと目指した、そして彼女を最後に見た深いレイヤーへ移るには、あの瓔珞(ようらく)が妨げだった。それが砕けたいまなら……。そしてここにはレイヤーを移動できるらしい存在がふたりもいる。

 

「勒郎、大丈夫かい?」

 

 心配そうに尋ねるククに俺は笑いかけ、立ち上がる。傷はすっかり治ったようだ。

 

 るっぎゃああぁぁぁぁ……!

 

 魄魔体(ヴァーサナー)の鳴き声が響き渡る。先生が空中に描いた光の魔法陣めいた模様が閃光を発し、その巨大な影を取り囲んで分解していく。

 

「あれが彼女達の力だよ勒郎。魄魔体(ヴァーサナー)を生み出す心の澱みそのものを癒してしまう」

「……凄いな」

 

 言わば必殺技だったんだろう。閃光が消えると、そこには微かに残った黒い影を(まと)う少女の姿だけがあった。

 倒れたまま動かない来子の華奢(きゃしゃ)な身体を見て、俺は胸を刺されたような気がした。

 

――あなたの傷は私の傷とそっくりでした。

 

「来子……」

 

 俺が半ば無意識に歩み寄ろうとしたとき、ククが後ろから俺の手を掴む。

 ぼんやり振り返って、ククの真剣な表情に俺は驚いた。

 

「あれはまさか……」

 

 ククの視線を追って再び来子に目を向ける。やっぱり倒れたまま……だがその周囲の影が再び具現化しつつあった。来子を守るように身構える、巨大な猫の姿へ。

 

「……来訪者!」

 

 ククが叫ぶ。何だって?

 

――あの魄魔体(ヴァーサナー)……やっぱりなんか変だよ。

 

 弥鳥さんは確かそう言っていた。

 

「勒郎、危険だよ。あれは別世界からの来訪者が、この世界の魄魔体(ヴァーサナー)に同化してるんだ」

「じゃあ、あれもジャガナートを目指してここへ来た……?」

 

 俺が見つめる最中、猫は来子を優しく抱き抱えながらその姿をぼやけさせる。レイヤーを移ろうとしているんだ。

 そのとき俺はほとんと何も考えていなかった。ただ身体が動いていた。弥鳥さんを残してきたあの深いレイヤーへ飛び込みたいという衝動がそうさせたんだ。

 疾走する俺は真夜(マーヤー)を使っていたんだろうか? ククにも追いつけない速度で俺は来子へ手を伸ばす。

 そして身体を貫く衝撃。

 天地が逆転し、地面に転がる自分がうっすらと意識できた。

 派手な黄色とピンクの光がちかちかと舞っていた。

 

 

 

 

 

「……どうするつもりやったんやお前は」

 

 聞き慣れた声。女の人に仰向けに抱き起こされる、なんて経験も物心ついて初めてじゃないかと俺は考えていた。

 

「ここじゃないどっかへ行きたい……その気持ちは信じてええと思うけどなぁ」

 

 焦点の合わない目で見上げるせいか、平沢先生が随分綺麗に見える。いや、このひと綺麗なんだよなやっぱり。

 その向こうにククの顔も見える。初めて神社で会ったときの、あの怒った顔。まるで自殺未遂を(とが)めるような。まああの猫に付いてレイヤーを潜ろうだなんて、自殺と変わりなかったかも知れないが。

 

「でもなぁ……行ったら還ってこなきゃだろぉ」

 

 優しく俺の髪をなでる先生を見ながら、魔法少女の格好も見慣れると似合いますね、なんて茶化そうと思ったけどうまく声にならない。

 ああでも先生、俺は一度“ここじゃないどっか”へ行った後で、結局ここに帰ってくるだなんて裏切りは絶対したくないんですよ。

 勿論そんな言葉も形になることはなく、俺の意識と一緒に眠りの世界へ溶けていった。

 

 

 




魔法少女と言えば決め台詞でしょうか。あまり正統派な感じになりませんでしたが……。


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いつだってその瞬間しかないんだぜ ①

 赤い砂漠に灌木の散らばる荒涼とした世界が広がっている。

 そこに異物めいて、3年前にこの大地に突如現れた校舎が廃墟のような姿を留めている。あれがあたし達にとっての我が家(ホーム)であり……そして故郷(ホーム)への道標(みちしるべ)だ。

 

「ミツキ、もうすぐみんな配置に着くよ」

 

 小高い丘から校舎を眺めていたあたしに、後ろからカナメちゃんが声をかける。これから始まる戦いに緊張しながらも、そこには強い決意があった。

 3年前の彼女を思い返し、見違えるように成長したその姿をあたしは頼もしく感じる。

 

「……いよいよ、だね。カナメちゃん」

「うん……あの、やっぱりツカサ達は……?」

「しかたないよ。あたし達はいまできる限りのことをするだけ。あたし達の世界へ還るためにね」

 

 あたしはツカサとの最後のやりとりを思い出す。

 この狂った世界を受け入れ、ここで生き抜こうという彼女の覚悟をあたしは否定できない。だけどあたしにはあたしのやるべきことがある。白いご飯が食べられて、清潔なお風呂でくつろげて、マンガだって読めるあの世界へ……お父さんお母さんが見守ってくれるあの世界へ戻れるなら、それが僅かな可能性でもしがみつきたい。

 

「カナメちゃん、これ……持っててもらえる?」

「これって……!」

 

 あたしが手渡したあの手帳を、カナメちゃんが絶句して受け取る。

 

「あたしがしくじったら、カナメちゃんに継いで欲しいから」

「……そんなこと言ってミツキは、どうせ結局今度もうまくやっちゃうんでしょ」

「あはは、さすがにもう分かってきた?」

 

 あたし達は笑っていた。これが最後になるかも知れない、その瞬間をかりそめにでも笑顔で送ることができて良かったと思う。それだけでも、訳も分からずこの世界へ飛ばされて過ごした3年間に意味があったと思えるから。

 

「じゃ、行こう……」

 

 そう言ったとき、校舎と反対側の砂丘のあたりから大きな地響きが(とどろ)いた。

 慌てて様子を(うかが)うと、立ち込める砂塵の向こうで巨大なミミズめいた影が頭をもたげるところだ。

 

香砂蟲(すなむし)!」

「そんな! このタイミングで……」

 

 絶望に歪むカナメちゃんの表情を眺めながら、あたしは蟲の速度と校舎に巣食うあの怪物どもの反応を計算していた。周到に練った計画はもうご破産だ。だけどこれはチャンスなのかも知れない。

 一瞬の後、あたしは丘を駆け下りていた。カナメちゃんに向かって叫びながら。

 

「カナメちゃん動こう! あの蟲に乗じるしかない。あたしは予定どおり裏から回る!」

「ミツキ! ……分かった、絶対また会うから!」

 

 背中から届くカナメちゃんの力強い言葉が嬉しかった。危機に一瞬怯えても、あの子はすぐに前を向いてくれる。彼女の勇気に支えられたおかげで、あたしもいままで生き延びてこれたんだ。

 あたしは振り返りたい欲求を必死に押さえ付けながら、ただ前を向いて全力で走っていた。

 

 

 

 

 

「……すげえなあいつ」

 

 夜中に部屋であやのに借りたノートを読み返しながら、俺は心からの感嘆をもらしていた。

 赤い砂漠の異世界へ校舎ごと転移した少女達の物語。

 それは小学5年生の頃、自分が生まれる前に描かれた名作マンガを読んだあやのが、その衝撃冷めやらぬうちに描き殴り始めた作品だった。当初手慰みのパロディのように始まったそれは、すぐにあやのにしか描き得ない怒りや絶望を滲ませるようになり、それまであいつが描いていたような誰もが気軽に回し読みできるマンガではなくなっていた。

 “元の世界”へ戻るために凶悪な怪物や天変地異と戦うその少女達は、俺達と同じ時間を生きているようで、この3年の間にそれだけの成長をとげていた。いまもまだ生き延びている者は……だが。

 

勒郎(ろくろう)、いいかい?」

 

 部屋にいる俺に珍しく父親が声をかけてきて、その聞き慣れない声色を俺は怪訝に思う。

 

「何?」

「いま連絡があったんだけどね、真野さんのところ、お母さんが倒れたみたい」

「……何それ」

「お前いま真野さんと同じクラスだっけ? まあ声でもかけてあげるとかさ、機会があればね」

 

 あいつのマンガを読んでいたときに、何の偶然だ?

 俺は何となくカーテンを上げて真っ暗な窓の向こう側を眺める。ここから見えるはずもないが、あやののアパートはこの方角にあるはずだ。

 

――人それぞれ辛いことあるやろ。そこで何とか生きてるんやん。

 

 学校の屋上であやのがそう言ったときの、遠くを見るような瞳を思い出した。

 ククは日課のパトロールからまだ戻らない。

 それまでずっとそうだったはずなのに、俺は急に部屋でひとりいる自分を自覚して大きく息を吐いた。まるで長い夢から醒めたようだった。

 

 

 

 

 

 手の届かない高さに(しつら)えられた大きな窓から午後の光が射し、図書室の床を照らしている。

 昼休みが終わると生徒達の姿が消え、ぽつんと椅子に座って眺めると書棚に並ぶ本達が急に(たたず)まいを正したように見えた。

 

「真野ちゃん休んでるんやってな。あそこの(うち)も大変みたいやなぁ」

 

 カウンターに肘を突いて、平沢先生が考え込むように呟いた。

 そのボサボサの長い髪も、午後の授業を無視している俺に何も言わないのもいつものことだが、赤いメガネの奥の瞳が笑っていないのは珍しい。

 

「真野あやの……勒郎と仲のいい子だったね。君には縁のある女の子が多いよね」

 

 誤解を招くようなもの言いで、小動物姿のククがカウンターへ音も立てず飛び乗る。真っ白な毛並みに映えるオレンジ色の模様はいかにも魔法の生き物という外見だが、普通の人にその姿は見えない。

 

「ククも女の子やもんなぁ。あ、もちろん平沢久遠(くおん)だって女の子やで? 久凪(くなぎ)くん」

 

 そのククと当たり前のように会話する先生を、俺はいまいち現実感のないまま眺めていた。数日前の先生のあの姿を俺にはいまだにうまく呑み込めていない。――魔法少女だって?

 あのあと先生にもらった“魔法のペン”を俺は手元で眺める。いやいや、まるきり小学生向けのファンシーグッズだ。

 

「……個性的な女の子ばっかりで楽しいですよ」

「いやいや、お前の趣味も相当(かたよ)ってるからなぁ。あたしらじゃお眼鏡に叶えなくて申し訳ないわ」

「ちょ、来子(くるこ)のことですか!? まじで関係ないですから!」

「おぉ、呼び捨てにしちゃう仲やのに、そんな冷たいこと言ってあげるなよぉ」

 

 ああだめだ。先生のからかいモードには敵わない。俺はうるさいわともごもご言って視線を逸らす。

 

「そうだね、仮名見(かなみ)来子……あの子はきっとまた現れる。だからだよ、勒郎」

 

 ククが無邪気な顔で俺の首元を見つめる。そこにはうっすらと複雑な装飾の首飾りめいたものが見える。

 

「その新しい瓔珞(ようらく)はこの前のよりずっと強力だ。いまの君を深いレイヤーへ引きずり込めるような存在は、この世界にはまずいないはずだよ」

「うん……ありがたいね」

 

 俺を見つめる、あの大きく見開かれたような来子の瞳が頭に浮かぶ。彼女はいまどこにいるんだろう。そして弥鳥(みとり)さんは……。

 

「勒郎」

 

 ククは俺の座っている長机へ飛び移り、じっと目を合わせる。女の子姿のククの責めるような表情が浮かぶようだ。

 

「当分魄魔体(ヴァーサナー)退治を手伝ってもらうつもりもないからね。君があんな風に、誰かと一緒に自分を投げ捨てるようなことをしてるうちはね」

「……変な子についていかんよう気ぃつけるわ」

 

 俺は首元を触りながら言った。この瓔珞(ようらく)は、俺を現実に縛り付ける(かせ)なんだ。

 

 そのときすっと空気が冷えた。

 高い窓から射し込む陽光が一瞬かげった気がする。

 

「あれ……」

 

 何か言おうとして、先生とククが真剣な表情なのに気付き、俺は背筋が凍る。

 遠くから何かがやってくる。この気配は(・・・・・)知っている(・・・・・)

 

「クク……これって……!」

「うん、魄魔体(ヴァーサナー)だ……! 3、4体はいる。信じられない、この真っ昼間にこんな強力な真夜(マーヤー)を……」

「なあ久凪」

 

 カウンターの向こうで平沢先生が立ち上がり、俺を見つめている。

 

「お前、気付いてたぁ? あの来子って子が例の“黒いメイドさん”やってこと」

「は? それって……」

 

 近頃不可解な事件をよく耳にするこの街でも、黄昏(たそがれ)時に慇懃(いんぎん)に話しかけてくる真っ黒な少女の影という心霊話は特に子供達の口の()に上っていた。それが来子だって? 本人は中学生で、れっきとした人間だったのに……。いや、あの子は“心の(よど)み”の生み出す魄魔体(ヴァーサナー)を身に(まと)っていた。それにククは、あの子には来訪者が一体化していると言っていた……。

 

「あたしらは影魔(シャドウ)って呼んでた。ああなると昼間に暴走する奴もおるし。それに……」

 

 先生が俺とククを初めて会った人のように見るので、俺は戸惑った。

 

影魔(シャドウ)は少しでも自分に近い人間を取り込もうとするんやよぉ。あいつらにとって、お前らみたいにふらふら現実を行き来している奴は目立つんよなぁ」

 

――夏の虫を前にした炎だよ、ボク達は。

 

 弥鳥さんは確かそう言っていた。俺はいま表層現実にいるのに、それでも奴らを引き寄せるのか?

 その影達がもうすぐそこに迫っていることが分かる。

 怖気の走るプレッシャーを感じながら、俺は自分がとっくに引き返せないところまで歩いてきたんだってようやく気付いた。なんて呑気だったんだ。

 

 ガラスの砕ける甲高い音が響く。

 慌てて身構えると、図書室の高い窓が割れ、破片が陽光を反射しながら床に落ちるところだった。

 

「あれぇぇぇ、どいつの匂いも随分毛色が変わってるなぁぁぁ」

 

 水中から聞こえるようなくぐもった声がして、見上げると窓から何かが宙吊りになっている。

 黒い影に覆われて見えにくいが、ぬめるような肌をしたヤモリと人間を混ぜ込んだような姿。ただし普通の人間の倍はあるサイズだ。その大き過ぎる両眼が丸く光っている。

 

「ミーアクラアが接触したのはきっとこいつらだなぁぁぁ。こっちが当たりだぁぁぁ」

 

 その耳障りな声を聞きながら、俺は胸の奥が痺れるのを感じて身を屈める。

 これは何だ? あのヤモリ人間の言葉の奥に何かを感じる。いや、何かが見える(・・・)

 

「勒郎……?」

「クク……頭に浮かぶんや……やばい……」

 

 うずくまりながら、俺は脳裡(のうり)のヴィジョンに見入っていた。小さい頃から見覚えのあるアパートが見える。あれは……あやのの住まいだ。そこに嫌な気配が近付いている。

 

「何で……こいつら、あやののところにも向かってる……」

「何だって!?」

「あははぁぁぁ」

 

 俺とククへ向かって吐き気のするような笑いが投げ付けられる。

 

「あっちも美味しそうな匂いだったからなぁぁぁ、あいつらもそれなりに味わえるんじゃないかなぁぁぁ」

 

 湿った音を立ててヤモリ人間が床に降り立つ。

 俺が何とか身体を起こしたとき、そいつと俺との間に平沢先生が立っていた。

 奴らに引きずられ、すでに俺達のレイヤーは表層からずれている。先生が、オレンジ色に輝く少女趣味なワンピースを身に付けているのが分かる。

 

「久遠……これは君の戦いじゃない。だから頼めることじゃないんだけど……」

 

 ククが俺の足元へ駆け寄りながら、先生の背中に声をかける。

 

「はは、冷たいこと言わないでよぉクク。あたしは夢幻少女のひとり……影魔(シャドウ)を解放するのはあたしの戦いやよぉ」

「……ありがとう久遠」

 

 その瞬間、ヤモリ人間の口から鋭い何かが飛び出した。先生が奇妙な形に指を立てると黄色い光が閃き、それを弾く。

 カメレオンのような舌……ヤモリ人間から出たそれが本棚にぶつかって、鞭打つような音を立てた。

 

「久凪……お前のことも、あたしはいちいち驚かんけどねぇ」

 

 先生は俺に背中を向けたまま話していた。戦いの最中なのにいつものとぼけたような声。何てひとだ。

 

「あたしはなぁ……生きてるうち、そうやって現実から抜け出せる時期があるってことには意味があるって思うんよ」

 

 ヤモリ人間が体を(ねじ)ったかと思うと、今度はその巨大な尻尾が本棚をなぎ倒しながら飛んでくる。

 先生は一歩も動かないまま、両手を前に突き出して攻撃を弾き飛ばした。魔法の障壁でも作ったんだろう、派手なオレンジ色の光が図書室を眩しく照らす。

 先生の髪留めが飛び、艶のある長い髪が風圧で(ひるがえ)った。

 

「ただなぁ、“あっち”だけ見て突っ走ると転んじゃうやん。お前には“こっち”もあるやろぉ? あやのちゃんもいる“こっち”やん」

「先生……俺だって……」

「まあここはあたしに任せて、あやのちゃんを頼んだよぉ。ああそうや……」

 

 魔法の力で正面のヤモリ人間の攻撃を封じながら、先生の顔がこっちを振り返った。

 

「これは愛やで? 久凪くん」

 

 赤いメガネの奥で、先生の瞳がいつものように悪戯っぽく笑っていた。

 俺は何も言えず、ただその数瞬、先生の目を見つめていた。何て言うべきだったんだろう。

 

「勒郎、行こう!」

 

 足元のククが図書室の出口へ走り出す。

 

「真野あやののアパートへ向かって! 途中で魄魔体(ヴァーサナー)とぶつかったら……」

 

 光を舞い散らせながらククが身体を回転させると、紺のブレザーにチェックのスカート姿の女の子になっていた。

 

「僕が相手をするから。君はとにかく全力で走って!」

「……分かった! でも俺も戦うからな!」

 

 俺は図書室を飛び出す瞬間、もう一度だけ後ろを振り返った。

 背後に守るものがなくなったせいか、魔法少女が活き活きと飛び回り、黄色やピンクの光を振りまいて戦っている。

 

「俺は……いまできる限りのことをするだけや」

 

 あやのの描いたマンガ――『漂流少女』のワンシーンを思い出しながら、俺は渡り廊下を駆け抜けて教室棟へ入る。

 レイヤーのずれが浅いからか、昼間だからか、校舎の様子は異界というほどでもない。ただ校舎内の異様な雰囲気に、どのクラスも授業を中断してざわついているようだ。そんな教室を横目に走りながら、俺は真夜(マーヤー)を発動させる。

 

「我が手に来たれ、勇者の(つるぎ)……」

 

 手にぼんやりと剣が現れるが、夜よりもずっと手応えがない。真夜(マーヤー)は昼間には力が弱い……だけど泣き言を言う暇なんてない。

 すぐ近くで、別の魄魔体(ヴァーサナー)の強い気配を感じた。

 見れば階段から、天井に届きそうな巨大な影が這い上がってきたところだ。ナメクジのような軟体……その上部に異様に大きな人間らしい顔が生え、無数の触手を天井に伸ばしている。

 

加速(ヘ・イ・ス・ト)……!」

 

 そう唱えた直後、右からククが光る錫杖(しゃくじょう)を構えて飛び出した。

 俺は左側からだ。飛びかかる触手を空中で弾きながら、俺は巨大なナメクジを飛び越えて着地する。

 倒している暇はない。あやののところへ……一刻も早くと願いながら、俺は加速能力を……真夜(マーヤー)を振り絞る。早く、早く……間に合ってくれ! 

 

 

 




この物語でずっと書きたかったところへ、ようやく手がかかった気がします。


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いつだってその瞬間しかないんだぜ ②

 自分の家庭が少しおかしいって、あたしが気付いたのはいつからだろう。

 あれに殴られた青アザに担任教師が騒ぎ立てたのは小5の頃だったけど、酔っ払いの溜まり場になった家から弟を連れ出して夜の街をぶらつくようになるのはもっと前からだ。

 7歳のとき、あたしは別世界への扉を開こうとした。思えばあのときすでに気付いていたのかも知れない。ここにはいたくない、そう強く願うほどには。

 

「じゃ(さとる)、あたしは一回家に戻るから、あんたはお母さん見てたげてて」

「お姉ちゃんちょっと寝てきたら。疲れてるやろ」

 

 大丈夫。眠ってて叩き起こされることがないから病院にいる方がかえって楽だ。とりあえず着替えと日用品をまとめて、またすぐ戻ってくるだけ。前にもあったことだ。大したことじゃない。

 

――お前、家で何かあったんか?

 

 気遣うようなあいつの声が聞こえる。何だそれ。そんな顔されることじゃない。

 あいつに同情されるのがあたしは恐い。まるであたしの人生に深刻なことが起きてるような気になる。

 

――あやの……お前も来いよ。ひとりやとおもんないやろ。

 

 あのときあいつはそう言った。

 コックリさん。稲荷神社の鳥居を抜ければ向こう側へ行ける。7歳児の他愛ない遊びだった。

 なぜあたしは、あの言葉をいまだに抱えてるんだろう。あれは向こう側への誘いの言葉だった。あたしをここから連れ出してくれる救いの言葉――。

 

 ダンダンと木の板を叩くくぐもった音がする。

 アパートの扉。夜中にあれが帰ってきた音だ。

 すっと心が冷える。

 重たい石が水底(みなそこ)へ沈んでいくように。

 

『うふふふふふ……』

 

 可笑しくて仕方がないという声。いつから聞こえてたんだろう。

 すると扉を叩く音が小さくなって、あたしはほっとする。

 

『沈むと気持ちいいよね? 深く深く……うふふふふふ……』

 

 楽しそうな笑い声が木霊(こだま)すると、あたしは嬉しくなる。

 全身を包むひんやりした水が心地いい。

 そうだね、沈むほどに静かになるね。もう笑い声しか聞こえない。

 

『うふふふふふ……。そうだね静かになるよ。もっともっと深く沈めば……』

 

 ……音も光も優しくなるね。深く沈めばもっと……。

 うふふふふふ。

 そうか、あたしが笑ってたんだ。

 うふふふふふ。気持ちいいなあ。

 このままでいたいなあ。

 

「……の!」

 

 まだ音がする。扉を叩く音。嫌だ。もっと深く深く……。

 

「あやの!」

 

 ……やめて。あたしに手を触れないで……!

 

 

 

 

 

「あやの……!」

 

 俺はアパートの戸を叩きながら叫んでいた。どうしてだか、あいつの姿が、あいつの心が見える。抱え込んだ気持ちを閉ざしていく心が。

 俺はいままで何をしてたんだ。あやのは俺のすぐ傍でこんなにも苦しんでいたのに。

 

勒郎(ろくろう)、だめだ。彼女はもう取り込まれてる。いや……」

 

 隣でククが後退りながら周囲に視線を向けている。

 どうしてだ。どうして魄魔体(ヴァーサナー)があやのを襲うんだ。

 ああ、俺にもこの目眩のする感覚は分かる。レイヤーがどんどんずれていく、坂を転がり落ちるような感覚。そして戸の向こうの恐ろしい気配が高まる。

 

 …………ァァァ!!

 

 心を引き裂くような絶叫が頭を揺さぶる。

 

「彼女の方が……取り込んだ!?」

「クク、なんでや、なんであやのが……」

 

 ククの小さな紺のブレザーを乱暴に(つか)むと、空気を押すような手応えのなさにぞくりとした。

 その姿を薄れさせながら、ククが悲しそうに俺を見つめていた。

 

「周囲の人間も……影響を受けるんだよ。ごめん、僕の考えが甘かった」

 

 いまやアパート全体が真っ黒に塗り潰されて見える。なのに……元の建物もはっきり分かる。

 俺の首元が銀色に光っていた。

 

「ジャガナートが迫り、来訪者が集ういまこのときに、君の影響力を甘くみてた。勒郎、君は絶対に来ちゃだめだ」

「クク、待てって! 俺も……」

 

 首の瓔珞(ようらく)を引き千切ろうとするのに、うまく掴めない。真夜(マーヤー)を込めようとして俺は一瞬躊躇(ちゅうちょ)する。俺の影響を受けてあやのがこうなったのなら……。

 もうククの姿を認識できなかった。そこにいるはずなのに。

 

「真野あやのは僕が追いかける。勒郎、君には謝っても謝りきれないけど……せめて僕ができるだけのことをするよ」

 

 最後の声が消えると、どんよりとした暗い空気も無くなっていた。

 目の前には、あいつのアパートが何の変哲もなく建っていた。

 

 

 

 

 

 廃ビルの屋上から眺めると、夕陽が街の喧騒を彩る様子がよく分かる。その光景では皆が帰る場所を持っているようで、なぜか苛立たしい。

 学校へは戻らなかった。平沢先生のことは気になったが……あのひとなら大丈夫だろう。それに先生と顔を合わせるのが怖かった。

 

――なんてひとりよがり……

 

 ククの言ったとおりだ。結局俺は変わらない。ひとりよがりな悩みに浸りながら、自分では何もせず、周りの足を引っ張るだけ。まるで……

 

「……魄魔体(ヴァーサナー)そのものや」

 

 俺は屋上の端、一段高くなった塀の上に立つ。足を踏み出せば……俺はまだ空を飛べるだろうか。

 

「お前じゃ飛べねぇぜ」

 

 急に声がして足を踏み外しそうになる。この声は……!

 半ば逆上して俺は床へ飛び降りる。

 

「なんだ? ようやくお前の気配を捉えてみれば」

 

 黒いセーラー服の女がそこにいた。

 胸元のリボンだけが白く、袖も、足首近くまであるプリーツスカートも、完全な黒だ。人形のように細い手足が伸び、俺よりずっと背が高い。

 闇を溶かしたような長い黒髪が風になびいていた。

 

「お前は……!」

 

 俺はすぐ真夜(マーヤー)を発動させる。右手に剣、そして全身を魔法で強化する。日が沈むにつれ真夜(マーヤー)が強くなるのを感じる。

 

「……あのときの大鴉(おおがらす)やろ」

「はははぁ、そうだな。ワタリガラスとでも呼んでくれ、少年」

 

 女の両眼が嬉しそうに見開かれた。夕暮れの暗がりの中、その瞳が紅く光って見える。

 

小凍(ダ・ル・ト)……!」

 

 有無を言わせない。俺は魔法で作り出した極低温の疾風を相手に叩き付ける。大気中のチリが氷結し、刃となって奴を襲い……。

 

「だあああっ!」

 

 魔法と同時に飛びかかり、勇者の剣をなぎ払った。……が、手応えなく空を切る。

 かわされた!?

 いや、女はすぐそこに立っているのに! その黒いセーラー服に傷ひとつない。

 

「まあ……まあ……まあ……」

 

 女は何気ない仕草で右手を突き出し、俺の胸へ刺し込んだ(・・・・・)

 激痛……それは精神的な痛みというべきだった。

 とっさに両手でその腕を掴むが、女の手首から先は同化したように俺の体内に消えている。またこいつの奇怪な能力だ。

 

「そう興奮するな少年」

「あがっ」

 

 体内を掻き混ぜられる感触に嫌な声を上げた瞬間、俺の全身から黒いヘドロのようなものが溢れ出してビルの屋上を埋め尽くす。

 それは縄状に固形化し、俺を立ったまま縛り上げた。まるで身動きがとれない。

 その様子を女の瞳が楽しそうに見ていた。

 

「み……弥鳥さんはどうした!?」

「知らねえよ。あいつらは生きるも死ぬもねえんだし……気にしててもしょうがねえだろ」

 

 どういう意味だ。こいつだって外からきた“来訪者”のはずなのに、弥鳥さんはその中でも特別なのか。

 もがく俺を覗きこむように、女が黒髪をたらしながら顔を近付ける。

 

「それより……さっき表層から濃い影が落ちてったが、あれはお前の何だ」

「あやのが……魄魔体(ヴァーサナー)に……」

「あやの……ねぇ」

 

 俺の首につけられたククの瓔珞(ようらく)に気付き、女が怪訝そうな顔をする。

 

「……そんなものに守られてたのか。それで、そのあやの(・・・)を見捨てたまま逃げ帰って、自分の城で()ねてるって訳だ」

「そんなんじゃ……!」

「じゃあ安全なとこでぬくぬく何してんだよ。ジャガナートはもうすぐ始まるってのに」

「何なんやお前……お前こそここで何してんねん」

「ああ、俺は探し物だ」

 

 女は俺の胸に突き刺した手を乱暴に掻き回す。自分の一部が引き剥がされるようで目が眩み、ひいいと声を上げてしまうのが情けない。

 女の右手が何かを掴んで引き出した。うっすらと緑色の光を脈打たせるもの。

 

「ああ……まさしく賢者の石……!」

 

 右手の光を天に掲げ、長い黒髪を振り乱し、女が狂喜している。

 

「あははははは! 俺の望みは叶うようになっていたんだ。恒真の守護者(アガスティア)ども……天刑陣(てんけいじん)に縛られるのもおしまいだ」

 

 俺は朦朧(もうろう)としたままその光景を眺めていた。

 邪悪そうに笑う女に、暗くおどおどした少女の姿が重なって見える……。

 黒髪を三つ編みにし、目もとのクマが不健康そうなメガネの少女が、両目をおどおどと上目遣いにして、思いつめたように中空を見つめている。

 

殊子(ことこ)ちゃん……オレ……絶対取り戻すから』

 

 その少女が自分に言い聞かせるように(つぶや)いた気がした。

 

 

 

 

 

「ことこ……?」

 

 ぼんやりと少女の言葉をなぞっていたらしい。気付くと女がじっと見つめていた。

 

「……なるほど。俺にすら同調できるのか」

「同調……?」

 

 このワタリガラスと名乗る女が、こんな冷静な表情を見せるのは初めてだ。

 賢者の石……同調……そこに大きな意味があるのが分かる。こいつは出会ったときから奇妙なことばかり言っているが、俺はたぶんその意味を理解しなきゃいけない。

 

「それが賢者の石……俺の中にあったんか……」

「そう……感情を相転移させる触媒……これでジャガナートの賭けにすら勝ちが期待できる……」

 

 女が一歩引いて、右手の光を愛おしそうに胸に抱く。黒いセーラー服姿のせいか、さっきの少女の幻のせいか、宝物を見つけて無邪気に喜ぶ女の子のようだった。

 

「……どうせお前にとっちゃ、誰かとつながる糸電話にしかならねぇだろ?」

 

 つながる……? 俺はさっき、あやのの心の奥を垣間見た……学校にいながらあいつのアパートのヴィジョンを見た。あれが……。

 

「人との関わりを避けながら、それでも誰かとつながりたい。心から理解し合いたいと願いながら、そのことを恐れて引きこもる。……その矛盾を一時(いっとき)忘れるために、道具としてこいつを使うんだ」

 

 女は優しささえ感じられる表情を浮かべていた。

 

「そうじゃねえだろ……失われゆくものを諦めず、掴みたいものへ躊躇なく手を伸ばす。そのためには世界の(ことわり)すら超えたいという思いにこそ、こいつは使うべきだ……」

 

 その一瞬ふたたび、正面を見つめる三つ編みメガネの少女が現れた。内心の絶望に(ひる)みながら、その涙を内側に閉じ込めるように凍り付いた瞳。

 ああ、こいつにもあったんだ、世界から見捨てられたことを自覚する、あの瞬間が。

 

「俺やって……そう思てた……」

「あははははは!」

 

 女が凶悪な笑い声を発し、その瞳を紅く光らせると、俺を締め付ける黒い縄が暴発するように膨らんで屋上を(おお)う。身体が呑み込まれそうだ。

 

「あのとき本当はこうしたかった……次の機会は本気でやろう……そう思うたびに自分を殺してるんだお前は。いつだってその瞬間しかないんだぜ。重要なのは、その瞬間お前が手を伸ばせるかどうかなんだよ」

 

 叩き付けられるような言葉。何も言い返せない。

 

「悪いがこいつはもらってくぜ。これで物語の座標系は引き直される。お前はこれからはしっかり現実(・・)を見据えて生きてってくれ」

 

 女が(きびす)を返す。

 彼女の右手の光が遠ざかるにつれ、俺は自分の為すべきことが消えていくのを感じた。もう俺にやれることはない……。

 

「……待ってくれよ」

 

 誰にも届かない言葉がこぼれた。

 

『……あたしも……あんたと同じようなもんやったな』

 

 あやのの声が聞こえてはっとした。

 あいつの視界が浮かぶ。紫色の空がドームのように覆い、廃墟のような建物が並ぶ……この世界は見たことがある。

 

「あやの……!」

『……最後に……ノート渡せて良かったわ……もうちょっと続き描きたかったけどな……』

 

 まだ“糸電話”が機能している! あやののところまで辿り着けるんじゃないか。いまならまだ。

 

「こんな縄……」

 

 もがきながら、あやのへ声をかけ続ける。賢者の石……それがまだ俺とあやのをつないでいるんだ。

 

「あやの!」

「うるせえなあ」

 

 顔を上げると、黒いセーラー服の女が俺を見下ろしていた。

 

「……頼む……」

 

 じっと覗き込む女の瞳を、俺は必死で見つめる。

 

「俺を……連れてってくれ……」

「都合のいいことじゃねえか。俺に何の得がある?」

「あやのを救えたらその石はやるから」

「……交渉になってねえ。こっちはいまもらっていいんだ」

「できるか? 俺はまだ……それとつながってる。抵抗できるはずや」

「ふぅん……」

 

 女が右手の緑色の光と俺の目を見比べる。『こいつがいる方が……使いこなせるか?』女の声が聞こえた。

 

「……少しは……マシな顔をするようになったじゃねえか」

 

 女が首を傾けると縄が溶けて流れ落ち、俺は倒れ込みそうになる身体を両手を突いて支える。まるで女の足元に(ひざまず)くようだ。

 

「俺と行くなら二度と戻れねえぜ」

「ああ……」

 

 片膝を突いて立ち上がる。

 平沢先生、だけど今回はひとりよがりのバカじゃないんです。あいつのために、俺はいま行かなきゃいけないんだ。

 

ドグマを司(ヴァル)る漆黒の羽根(ラヴェン)……」

 

 女が左手を軽く掲げると、妙な電子音が鳴り、周囲に小さな精密機器めいた構造体が浮かんだ。

 細かな立方体の集合が形を変えながら明滅し……目の錯覚だったかのように唐突に消える。

 

「サービスだ。本来はお前ひとりで引き剥がすもんだぜ」

 

 女の左手に銀色の首飾りがあった。ククの瓔珞(ようらく)……俺を表層へ縛り付けていた(かせ)。俺は思わず自分の首元を確かめる。

 

「これでもう命綱はないぜ」

 

 女が力をこめると、瓔珞(ようらく)が銀色の閃光を発し、無数の粒子となって飛び散った。夕闇が覆う廃ビルの屋上を、それは花火のように照らした。

 

「……帰ろうなんて思ってへんよ」

 

 女が笑った。

 白い残光が、女のセーラー服と俺の姿を浮かび上がらせた。

 

 

 




黒髪ロング+黒セーラーの少女……ていう憧れなんですけど、なんでこうも萌えがないのか。


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あなたの言葉が光になったの ①

 青白く半透明なゼリーのカラダに同化してあたしは漂う。

 見下ろす地上には廃墟の街が広がっていて、空は紫色……それも生き物の中身みたいな模様が浮き上がってる。ここはもう、学校とか家とかのある世界じゃないんだ。

 

「ねえ、あなたは……どうしたいの?」

(何でもいいの。ぜぇんぶ壊れちゃうならね……うふふふふふ)

 

 あたしはもうひとりのあたしと会話する。

 クラゲのようなその姿はあたし……別の世界からきたもうひとりのあたし。レースのように繊細な触手で撫でる空気がなめらかで気持ちいい。

 その空に、無数の刃を突き出した巨大な歯車が浮かんでいる。じっと見つめてようやく分かるくらいゆっくりと、それが回転している。

 

「あれが……破壊の車ね」

(うふふふふ……この世の決まりごと、付き合わされる勝手なルール、みぃんな壊してもらおうよ)

 

 あたしはゆっくり地上へ降りていく。

 廃墟の塔が密集して建つそのあたりに、高層ビルほど大きな女の人が……(ねじ)れた無数の角を持つ恐ろしい姿があって、あたしの夢にしては随分と派手でハリウッド調だ。

 建物や地上のあちこちには、毛色の変わった大小さまざまな生き物らしい影が動き回っていて、奇妙な格好をした人間らしい姿もちらほら。

 

「こんなに集まってるんやね」

(冥界とつながったからねぇ。ワタシ達(・・・・)はずうっと閉じ込められてきたけど……これでみんな一緒に行けるんだよ)

 

 暗がりで小さな灯りを探すように、あたし達は仲間を求めて、くっついて、最後は大きな存在に溶けていく。そのことがいまはよく分かる。

 

『やあ、新しい子が来たよ』

『美しい子だ。あの歪んだ魂……もうエレシュキガルと感応してる』

『ミーアクラアはいなくなったけど……あの子なら代わりを務めてくれるかな』

 

 皆があたしを迎えてくれる。頭に届くその声がくすぐったい。

 塔の間を漂いながら巨人へ近付くと、窓からは角や翼を生やした魔物みたいな人達が歓迎するように顔を向けてくれる。

 ゼリー状のカラダはほとんど見えなくなって、あたしはいつものあたしの姿に戻っている。空を飛ぶって思ってたよりずっと気持ちがいい。

 

(うふふふふ……ほら、肩に乗るよ。感じるでしょ?)

「うん。あなたのおかげで思い出した……あたしの閉じ込めてた感情」

 

 蒼白い肌をした女の肩に、あたしはそっと舞い降りる。

 地上から、建物や塔から、姿かたちの違う皆があたしを見守ってくれてる、そのことが嬉しい。

 足元がその大きな肩に触れた瞬間、痺れるように甘い感情が湧き起ってあたしは泣きそうになる。寂しい……あたしは寂しかったんだ。いつからこんなに暗い場所にいたんだろ。

 大きなカラダにゆっくり溶け込みながら、あたしは目を閉じる。

 

『……助けて……取り戻して……』

 

 あなたがエレシュキガル。皆がそう呼ぶ、冥界の力を統べる女神。あなたがこの世界に顕現させた仮のカラダを通じて、あたしは深い深い冥界からの声を聞く。

 

『……光を……もう一度……』

 

 そうだね、あなたの気持ちはあたしの気持ち。

 

「さあ……光を取り戻そう」

 

 あたしの足元には真っ暗な淵があった。果てのない深さ。

 その向こうから、どろどろした感情の濁流がせり上がってくる。その黒い渦はあっという間にあたしを飲み込み……廃墟の世界へと溢れ出していった。

 

 

 

 

 

「何が起きやがった!」

 

 凄まじい轟音に、俺は意識を取り戻す。

 黒い羽根を刃のように伸ばした、機械と生物の融合体のような飛行機――ワタリガラスが思考する鴉(フギン)と呼ぶそれが激しく振動している。座席から身体が投げ出されそうだ。

 

「おい少年……見てたんだろ!?」

 

 操縦桿らしいものと半ば一体化したワタリガラスが、黒髪をなびかせながら振り返る。こいつの黒いセーラー服姿はそのままで、かえって現実感がなくなって困る。

 

「あやのは……冥界の支配女神(エレシュキガル)のところや。そこから何か黒いもんが溢れて……」

「冥界の力か……!」

 

 前方から黒い雷光が走り、危うくかわした思考する鴉(フギン)はバランスを崩してきりもみ状に高度を下げる。

 雷光は廃墟群を破壊しながら飛びすさり、吹き飛ぶ瓦礫が視界をよぎるがこっちもそれどころじゃない。

 

「……いよいよ始まったな」

 

 強烈な加速度に声も出ない俺の耳にワタリガラスの声が響く。妙に楽しそうなのは気のせいか?

 あわや地面に激突、という寸前で旋回した思考する鴉(フギン)が地上すれすれを飛んでいく。周囲には大小の魄魔体(ヴァーサナー)がいたが、どれもはるか先に見える歯車へ……いや、エレシュキガルを目指している。

 そこからまた黒い雷光が四方に飛び、建物を壊しながらどろどろした黒い泥流を撒き散らしている。まるでみんな死にに行くようだ。

 

「引き寄せられてるんだよ。あの影どもの行き着く先こそが冥界だからな」

「じゃあ来訪者達は何がしたいんや!?」

「できるだけ派手にやりたいんだよ。この祭典をな」

 

 風を切る黒い飛行機を操縦しながら、ワタリガラスが胸を躍らせるような口ぶりで語る。

 

「冥界の力が流入すればするほど、ジャガナートが牽き潰す供物が多くなる。供物が多いほどジャガナートは荒れ狂う……無数の世界を巻き込むほどに。世界を憎悪する奴らが、自分を供物にして世界に復讐しようとしてるんだよ」

 

 魄魔体(ヴァーサナー)の数がどんどん増える。

 いまでは建ち並ぶ塔の隙間にはっきりと、エレシュキガルの蒼白い姿が見える。立ったまま微睡(まどろ)む穏やかな顔……その額が時折轟音と共に黒い雷光を放つ。

 

「だから来訪者達は、お前みてえな奴らに接触したがるんだよ。その世界の住人が基点になってはじめて、外からの力を流入させられるからな」

「お前も……世界を壊したいのか?」

「ははははは!」

 

 ワタリガラスが振り返る。風に舞い狂う黒髪ごしに、紅く輝く瞳が俺を見つめた。

 

「世界を壊したい……当たり前の感情だろ? そう思ったことのない奴がいたら心底哀れだと思うね。お前だってそうだろ?」

 

 まただ。こいつの顔に、黒髪を三つ編みにしたメガネの少女がダブって見える。泣き崩れるのを必死に(こら)える顔でじっと俺を見つめている。

 

「そう……かもな」

「まあそんなのは前提だ。俺はもう少し別の目的がある。束縛する鎖を断ち切る、そのために来訪してる奴らもいるんだよ……こいつみてぇに!」

 

 突如思考する鴉(フギン)が急旋回して俺は座席に叩き付けられる。

 回転しながら飛来する巨大なハンマー……そいつをかわしたんだと直感できたのは、俺の胸のなかで緑色に輝く賢者の石のおかげだろう。世界で起きていることが見渡せる……まるで物語を外部から映すカメラだ。

 

「何をそんなに急いでおられる……虚海渡り殿」

「祭りの会場はここじゃねえぜガラハド」

 

 ワタリガラスが笑みを浮かべて話すその視線の先……建物の屋上に灰色のマントに身を包んだ男が立っていた。

 思考する鴉(フギン)の羽ばたきがそのマントを(ひるがえ)すと、フードに隠れていた頭部があらわになる……が、その上半分が無い!

 両眼のあるべき位置から上はぼんやりした闇に紛れ、口元だけが苦笑いを伝えている。よく見ると身体のあちこちも欠損していて、逆に腕の数はちょっと多いようだ。バグを起こしたゲーム画面のキャラクターのように、見てると頭のネジが狂ってくる。

 

「何やあれ!?」

「……ちょっと大人しくしてろよ少年」

 

 思考する鴉(フギン)があり得ない急角度の軌道で男へ飛びかかる。

 とっさに座席に隠れた俺だったが、こいつらの異常な戦いぶりは否応なく脳裡に知覚された。

 ガラハドと呼ばれた男の周囲に、何の兆しもなく奇怪な物体が実体化し、次々に襲いかかってくる。無数の棘に覆われた立方体、燃え盛る巨大な鞭、派手な装飾のギロチンの刃……。

 思考する鴉(フギン)はそれらをかわしながら、不可視の波動を放って応戦する。それは建物や地面に当たると金属的な音を立てて一帯を融解させるので、地上はすぐ絨毯爆撃の跡地と化した。

 ワタリガラスの苛立ちが俺に伝わる。ガラハドは一瞬で姿を消し、まったく別のところから現れるのでまるで捉えられない。

 

「遊びが過ぎると病気がひどくなるぜガラハド?」

「虚海渡り殿にご案じいただき光栄の至りなれど、我にはもうさほど時は要らぬ」

 

 思考する鴉(フギン)が建物の残骸にとまり、俺はようやく座席から顔を出せた。表層現実でなら胃の中を全部ひっくり返してただろう。

 地上からこっちを見上げるガラハドが、欠けた身体を明滅させながら話していた。

 

「その者の持つ賢者の石……それがあればあのような騒ぎに乗じる必要はござらんからな」

「ははははは、よく見つけたじゃねえか。だがそれならひとまず好きにさせろ。物語はいまエレシュキガルに向かってる」

「いや……そうとは限らぬ」

「……ちっ!」

 

 足元から無数の槍……いや、電柱が飛び出して、飛び上がろうとした思考する鴉(フギン)を下から貫いた。

 その瞬間を察知できた俺は、間一髪で飛び出して地上へ転がった。

 すぐ傍に黒いスカートが揺れて、見ればワタリガラスも何事もなかったかのように地上に降り立っている。

 

「融合体とご一緒か、ガラハド……」

 

 俺たちの後ろで、地響きをたてて半壊した思考する鴉(フギン)が崩れ落ちた。

 目の前、電柱が飛び出した地面の黒い染みからは、さらに大きなものが姿を現そうとしていた。

 

「ミーアクラア殿……()の者はこちらに」

 

 ガラハドが(かしず)くようにその傍に立っていた。

 影から生じた巨大なそれは猫の姿をしていた。無数の肢を持つ猫がいるとすればだが。

 

『ミーアクラアは寄り添う……ミーアクラアは見守る……ミーアクラアは闇と共にあり、光へ手を伸ばす……』

 

 影のように黒いその猫の言葉が頭に直接響く。こいつは来訪者だ。そう、こいつは融合していたんだ。あの子と……。

 

「ええ……そうです」

 

 少女の声が聞こえる。

 

「みーちゃんは私に寄り添ってくれてる……ずっと……あのときから。みーちゃんは私……向こう側から(・・・・・・)迎えに来てくれた(・・・・・・・・)もうひとりの私(・・・・・・・)

 

 か細い少女のシルエットが黒猫の前にあった。

 ウェーブがかった長い黒髪。

 血の気の薄い顔をあげると、妙に焦点のずれたふたつの瞳が俺を見つめていた。

 

仮名見(かなみ)来子(くるこ)……」

「そう勒郎(ろくろう)さん、随分待たせてしまいましたがもう邪魔は入りません。さあ……一緒になりましょう」

 

 来子が微笑むと、後ろのミーアクラアが低く身構えて牙を剥き出しにした。

 やばそうな気配に後退ると、背後から固いものが砕ける派手な音がした。

 振り返れば、思考する鴉(フギン)に突き刺さった電柱がひしゃげ、その内部に取り込まれていくところだ。

 

「邪魔しちまったら悪いな」

 

 黒髪をなびかせながらワタリガラスがにいっと唇を吊り上げる。この能力はあのときと同じだ。

 

ドグマを司(ヴァル)る漆黒の羽根(ラヴェン)は大いなる黒、すべてを呑み込み反転させる……この電柱はお前の創るような虚体じゃないからなガラハド」

 

 ミーアクラアに向き合って、思考する鴉(フギン)がすっかり修復したカラダで立ち上がる。その2体は黒猫とカラスそのものだ。人間達より遥かに巨大な、だが。

 次の瞬間、黒猫が凄まじい速度で飛びかかる。

 同時にカラスが身を震わせると、見えざる強力なエネルギーがうなりをあげて飛び、空中のミーアクラアに無数の穴を穿(うが)った。

 

「来子……!」

 

 なぜ俺は叫んでる? その驚きの最中、ミーアクラアは来子の背後にゴミのように叩き付けられていた。

 

「ふふふ……みーちゃん……」

 

 背後の惨状を気にもせず、来子は平然と俺を見つめて微笑んでいる。

 

「一度摩り潰されてますから」

 

 その後ろでミーアクラアがのけぞるように体を起こすと、見る間にその傷がふさがっていく。

 

「……ですから何度体を壊されても元通り。このくらい邪魔にはなりません」

 

 元通りというより、前より大きくなってる。いまや初めて会ったときから倍以上のサイズで、逆立てた毛は鋭い棘と化しずっと禍々しい姿だ。

 

「これも勒郎さん、あなたのおかげで思い出せたこと……。そしてあなたと出会えたから、私はもうあの大きな力……エレシュキガルと皆が呼ぶあれに頼る必要はなくなったんです。だって……」

 

――みーちゃぁん、あたしも連れてってよぉ。

 

 魄魔体(ヴァーサナー)の中で触れた来子の心が生々しく甦る。

 俺は無数に繰り返したあの行為が、他人の心の傷をわざわざ掘り返すようで、あるいは誰かの負の感情を押し付けられるようで(たま)らなく嫌だった。一方通行のやりとり。だけどあのとき、来子とだけは会話ができたんだ。

 

「……だってあなたが『ここから出よう』って、そう言ってくれたから!」

 

 来子の両目が喜びに見開かれると、ミーアクラアが甲高い叫びと共に飛びかかってくる。身体を引き裂こうとする無数の鉤爪を俺はスローモーションのように眺めていた。

 後ろへ引っ張られる衝撃の後、俺の身体は巨大なカラスの背に……舞い上がる黒い飛行機の座席にあった。

 

「ぼんやりしてんじゃねえ!」

 

 俺を引き寄せたワタリガラスが、操縦席に立って黒いセーラー服をはためかせていた。

 思考する鴉(フギン)が羽ばたいて、高度を上げていく。

 遠くのエレシュキガルから再び恐ろしげな黒い光がほとばしった。そうだ、俺はあやのの元へ急がなきゃいけない。

 

「ほら、とっとと行くぞ」

「……待ってくれ」

 

 俺は何を言ってるんだ。いまは誰にかまってる暇もないのに。

 

「てめえいまさら迷うんじゃねえぜ」

「ワタリガラス……」

 

 俺は初めてこの女をそう呼んだ気がする。

 

「ここで……逃げられへん。俺が手を差し出したんや。だから」

 

 俺の身体は座席から舞い、この高さから飛び降りていた。真夜《マーヤー》を発動……。

 地上から来子がじっと俺を見上げている。独り言のように(つぶや)くその声が俺には聞こえる。

 

「暗い場所にひとりいるのが当たり前だって思ってた……でもそうじゃない、そこから出ていってもいいって気付けたの……勒郎さん、あなたと出会えて……あなたの言葉が光になったの」

 

 地上に降り立った俺に向けて、上空のワタリガラスが「バカが……」と呟くのが分かったが、その声はどこか楽しそうだった。

 

「……だから来子、俺はお前と向き合う」

 

 巨大な黒猫を背後に従えた来子が俺を見つめる。その瞳が初めて俺を見たように焦点を合わせた。

 

「ええそう……勒郎さんはいつだって、私の元へ飛び降りてくれるんですね」

 

 

 




誰かを救うために、対立していた相手と組んで敵陣へ乗り込む、みたいなアレをやりたかったんです。


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あなたの言葉が光になったの ②

――ごめんね、このまま一緒でもよかったけど……もうちょっと先を見たくなったんだ。

 

 最後に弥鳥(みとり)さんはそう言った……いま俺は、その“もうちょっと先”の物語にいるんだろうか?

 

 ガアララララァァァ

 

 空気を掻きむしる轟音に視線を向けると、遠くに見える巨大なエレシュキガルが黒い雷光を発し、破壊された建物や黒い泥流が魄魔体(ヴァーサナー)達に降り注いでいる。

 あやの……あそこにあいつがいる。あいつの孤独に触れた感触がいまも残る。俺はあそこまで行かなくちゃいけない。

 

「それ、誰なんですか?」

 

 背後の声に振り向こうとした瞬間、激痛に悲鳴が漏れる。

 後ろから来子に抱き付かれている。右肩に乗った頭が、首に噛み付いている……!

 

『いま私のもとへ飛び降りて来てくれたのに。どこへ行くんですか』

 

 来子(くるこ)の言葉が脳裡に響く。

 あり得ない……刃物のように鋭い牙だ。肉が裂け、溢れる赤い液体をすすられるのが分かる。

 

「ひぎぃ……」

幼月姫(ようげつひめ)……あなたの言ったとおり……血を流せば心が伝わります』

 

 来子はさらに牙を喰い込ませながら、後ろから両手を俺の身体に優しくまわした。

 

『ええ、勒郎(ろくろう)さんはいつも迷ってるんですね。ああだからこそ・だからこそ……! そこでいつも私を選んでくれる勒郎さんが可愛らしいって思えるんです』

 

 首から、背中から、来子が同化してくる。この子の痛みが神経に(から)み……全身に伝わる……この前と同じだ。真夜(マーヤー)がうまく使えない。

 

『大丈夫ですよ、勒郎さんを迷わせるすべてのものは……私が食べてあげます』

「わああっ」

 

 不格好に暴れると来子の牙はあっさり抜けて、俺は地面に倒れ込む。

 振り返って、そのまま尻餅をついてしまうのが情けない。来子が微笑みを浮かべて俺を見下ろしている。その後ろから巨大な黒猫ミーアクラアが無数の肢を(うごめ)かしながら近寄る。 

 

「はあぁ……そんな可愛らしい格好しないでください勒郎さん。早く一緒になってあげないと可哀想……ねぇみーちゃん?」

 

 禍々しいミーアクラアの影に(おお)われながら、来子の瞳だけが紫色に光っていた。唇から赤い液体がすっと一筋流れ落ちる。

 俺は何をしてるんだ? なぜ飛び降りてしまったんだ?

 そのとき突風が吹き抜け、来子のウェーブのかかった長い髪が舞う。

 ミーアクラアの後ろで、飛び込んできた黒い何かが激しい激突音をあげて宙に舞い上がる。ワタリガラスがガラハドと戦っているんだ。

 

『お前のやりたいようにやってみろ、少年』

 

 ワタリガラスの声が聞こえた気がした。そうだ。ここで(ひる)んでどうするんだ。

 

解呪(ディ・ス・ペ・ル)……! 軟化(ル・カ・ナ・ン)……恐慌(マ・モー・リ・ス)……!」

 

 自分が何をしたいのか分からないまま、俺は迫るミーアクラアへ真夜(マーヤー)を……魔法を畳み掛ける。

 弱体化させる青や緑の光を浴びながら、黒猫は気にもかけない様子でゆっくり近付き、来子の姿はその中へ溶けていった。

 

「来子……!」

 

 来子を吸収した猫の瞳が紫色に光る。

 力が入らない。

 両手を突いて(うつむ)く俺に、巨大な影が覆いかぶさる。もうなすすべがない……俺の力だけ(・・)じゃ。

 

『ああこれで一緒になれます』

 

 るぐうぅぅぅ……

 

 喜びの声をあげる黒猫の巨大な口が、頭から俺を呑み込み……そこで動きを止める。

 

『……みーちゃん?』

 

 オレンジ色の光が、その巨大な口を内側から照らしている。その光は俺の手元、地面に描かれた魔法の円から伸びている。

 

「夢幻少女の魔法は、心の(よど)みを癒すんやって」

 

 平沢先生がくれた魔法のペン。そのとき教わった簡単な魔法円をどうやらうまく描けたらしい。

 こういうのは恥ずかしがったら負け、でしたよね先生。

 

月光閃華(ムーンライト・フリッカー)っ!」

 

 俺はそれらしいポーズを取ろうとがんばってみた。

 ぽぽん、と可愛らしい音がして、強烈なオレンジ色の輝きがミーアクラアの巨体を弾き返し……キラキラしたピンクの光を(きら)めかせながら、影を掻き消すようにその巨体を溶かしていく。

 すごい……これこそ魔法だ!

 

『勒郎さん……どうして……? どうかしたんですか?』

 

 不思議そうな来子の声と共に、サイズを随分縮めた黒猫がどさりと地面に倒れ込むが、すぐに低く身構えなおす。また飛びかかってきそうな勢いだ。

 だけど俺ももう覚悟ができた。

 

「来子……その影の奥にいるお前を見たいから」

 

 ……俺はこれからその黒猫を引き剥がす。幼少期の絶望からお前を支えてきた魔法を……世界での唯一のお前の友達を。

 俺はふらつく身体を起こし、右手を天へ掲げる。真夜(マーヤー)を絞り尽くすんだ。

 

浄化(ニ・フ・ラ・ム)……!」

 

 閃光が世界を真っ白に塗り潰す。その一瞬、ワタリガラスとガラハドが建物に隠れるのが分かった。

 目の前で影が爆ぜる。

 光が消えると、溶けて分解された魄魔体(ヴァーサナー)の血肉が散らばっていた。

 

「ミーアクラア……」

 

 その来訪者がなぜ来子に宿ったのかは分かりようもないが、彼女の“心の澱み”に共感した、そのことは確かに思えた。

 来子は地面にしゃがみ込むようにしてうなだれていた。俺も精根尽きて眠りたかったが、いま倒れるわけにはいかない。

 ゆっくり歩み寄り、その肩に触れる。

 

「来子……みーちゃんはもう……」

 

 んん、とかすかな声をあげて来子が顔をあげ、放心したように地面の黒い染みを眺める。

 

「……いつも……同じこと……なんですね」

 

 来子が表情のない顔で俺を見上げる。

 その口元が、言葉で捉えきれない感情を吐き出そうとするようにぎこちなく開かれていた。

 何だ? その奥で何かが動いている……。

 

 るぎゃああああっ……!

 

 耳障りな絶叫が轟き、何かが正面から俺を凄まじい勢いで殴りつけた。

 数メートルも背後に吹っ飛んだろうか。道を塞いでいた大きな瓦礫に背中を叩きつけられた。真夜(マーヤー)の防御がなければ頭が半分になってただろう。

 起き上がろうとすると、額から赤い液体が吹き出して視界を染める。

 

『……誰も……私達を……理解しない……』

 

 来子の口から鉤爪のついた大きな前肢が飛び出している。

 

――全部を食べてあげられなかったんです……それでもみーちゃんの体を私の中に宿すことができた。

 

 みーちゃんはそこ(・・)にいたんだ。

 ごぼりとそれが地面に吐き出されると、瞬く間に骨や筋肉を伸ばして動物の肉体を構成し始める。そのうしろは来子の口の中につながったまま……いや、来子をその体内に呑み込んで、巨大な黒猫の全身が再び現れようとしていた。

 

「来子……!」

『……捨てろって……忘れろって……暗いことばかり考えてないで前を向いて歩きなさいって……』

 

 来子の言葉が坂道を転がり落ちるように溢れる。

 俺は瓦礫を支えにかろうじて立ち上がり、残された最後の真夜(マーヤー)を形にする。

 

「勇者の……(つるぎ)……」

 

 目の前で大きな黒猫が牙を剥き、うなり声をあげながら四肢を伸ばす。

 肢は4本……もう異形の姿じゃない。これがたぶん、本来のみーちゃんの姿なんだ。

 

『……でもそっちには道がないんです……私の道は暗闇(こっち)に続いてる……私に分かるのはそのことだけ。あのひと達はそれを逃げだと言うけど』

 

 俺を見下ろす黒猫の顔に重なって……幼い来子が泣き叫ぶ姿が見える。賢者の石の見せるヴィジョン。

 大人が賢しげにつくった痛ましさでもなく、拗ねた子供がかぶる仮面のような表情でもなく、ただ純粋に泣いている幼児の姿だった。

 

「来子……」

『私が再び光を……見つけられるとしたら……それは暗闇に背を向けて見つけるものじゃないんです。……きっと光は、この暗闇の向こう側にあるの』

 

 ガランと音を立てて、勇者の剣が地面に転がる。

 武器を投げ捨てた右手を、俺はただ差し出していた。

 

「ええよ……俺を食べても」

 

 瓦礫の向こうから、ワタリガラスがじっと俺を見ていた。

 そうだな、やっぱりバカなことだったかも知れない。何のためにここまで来たんだ俺は。

 

「来子、お俺もお前も似てるよな……必死に、この世界に噛み付かんと、生き残ってこれんかった」

 

 黒猫がじっと俺を見つめる。

 俺は6年前の神社を思い出していた。救急車のサイレンの音。世界が俺を見捨てる音。それなら俺も世界を捨てる……そう思った。

 

「でも……お前は俺と違うよ。みーちゃんが……友達がいなくなったことを忘れようとせんかった。そこから逃げずに、ずっと思い続けたんやな。俺みたいにただ逃げてるだけの奴より100倍すごいわ……」

 

 黒猫がその口をかすかに開くと鋭い牙が覗いた。俺はその鋭さを愛おしいとすら思う。

 

「それでもまだ俺のことを……理解し合える奴やって思ってくれるんやったら、好きにしてええよ」

 

 巨大な口が開く。ひと噛みで俺を寸断できそうだ。

 あやの、ごめん。お前を巻き込んでしまったけど……俺はここまでだ。

 胸が痛い。きっとこの痛みが最後の感覚なんだろう。

 

 ……目を閉じていたのか、巨大な口に呑まれたのか……そこには真っ暗な闇があった。

 闇の中に光があった。

 エメラルドグリーンの輝き。

 

「……賢者の石?」

 

 俺の胸から強烈な緑色の光が飛び出していた。胸が燃え上がるように疼く。眩しくて目を開けていられないが、光が大きな影を吸い込んでいくのが分かる。

 

『私の……光……』

 

 幻だと思う。だけどそこに来子がいた。緑の光に内側から照らされるように、半ば身体を透き通らせた来子が俺を見つめていた。

 

『やっぱり……あったんだ』

 

 初めてみる笑顔。ああ、こんな顔をしてたんだって俺は思う。

 光がゆっくり消えていくと、建物の残骸と瓦礫が散らばるもとの街並みが現れた。

 消えゆく緑の光に照らされて、来子が横たわっていた。

 みーちゃんはもういない。……俺は何をしてしまったんだろう。

 

 キィィィン……

 

 そのとき胸に鋭い衝撃があり、金属的な響きが鳴り渡った。

 銀色の甲冑めいた手が俺の胸に突き刺さっている。

 

「見事なものでござるな」

「おまえ……は……」

 

 その手首から先は鎖状に長く伸び、遠くに立つ男につながっていた。

 灰色のマントに身を包むガラハドと呼ばれた男。そうだ、こいつの狙いはこの石なんだ。

 

「左様、そなたのおかげで十分に精製されておる」

 

 上半分が闇に溶けたように消失したその顔で、淡々と言葉を発するのが異様極まりない。

 胸をえぐる感覚に硬直している間に、銀色の手が体内に沈んでいく。

 

「ご案じめさるな……この石さえいただければそれでよい」

 

 ガラハドの口が笑みを浮かべる。

 ちくしょう、確かに俺は来子に食べられてもいいと思った……だけどこの石は、あやのを救うために必要なんだ。

 

「……いや、心配しちゃうぜ」

 

 ガラハドの笑みが凍り付く。

 その声は俺の真後ろから聞こえる。

 

東峰騎士団(パンタグリュエル)様が最後のツメで油断しちまうとは、そろそろ虚壊病が頭に廻ったか?」

「なるほど……確かに我の実体を(つか)めるのはこの瞬間だけでござるな……」

 

 背中からもうひとつの腕が俺の体内に挿し込まれている。それがガラハドの銀色の手を掴み、俺の身体から引き剥がす。

 くそっ、俺の身体を戦いの駆け引きに使いやがって! こいつはそういう奴だ。

 

「ワタリガラス……!」

「ああ少年、ちょっと邪魔したな」

 

 地面に倒れ込みながら振り返ると、漆黒のセーラー服を(まと)った黒髪の女が笑っていた。

 その右手に力が込められると、掴んだ銀の手、そこから続く鎖が真っ黒に変色していく。その黒は瞬く間にガラハド本体に達し、その欠損だらけの身体や、灰色のマントまでが火で炙られたように黒ずむ。

 

「お互い全力でやり合えなかったのは残念だったが、まあこういうこともあるさ」

「いや、お見事でござった」

「じゃあまたな。……次があればだが」

 

 ワタリガラスの赤い瞳が輝くと、鎖が粉々に弾け飛ぶ。

 次の瞬間、岩が割れるような音が響いてガラハドの全身も砕け、破片が地面に転がった。

 俺はゆっくり立ち上がって、その残骸を眺める。ジャガナートに惹かれてこの世界へやって来た来訪者達……ミーアクラアもガラハドも、何を求めていたのか、そしてこれがこいつらの死なのかすら、俺にはよく分からない。ただ、こいつらにはきっと強い動機があった。世界を壊してでも手に入れたい何かがあったんだろう。

 

 グアアァァァ……

 

 カラスの鳴き声のような声がして、俺達を乗せてきた巨大な黒い飛行機が舞い降りた。

 俺を眺めるその顔を眺めると、飛行機というよりすっかり生き物のように……友達のように思える。

 

「フギン……」

「寄り道は済んだな勒郎。じゃあ行くぜ」

 

 黒髪をなびかせてワタリガラスがフギンの操縦席に飛び乗る。聞き違いか? いまこいつは俺の名を呼んだ。

 

「……うん」

 

 俺もフギンの背に飛び乗る。

 顔を巡らせると、ゆっくり身を起こした来子と目が合った。

 

「来子……」

 

 言葉を探している最中に、フギンが羽ばたき始めて飛び上がるので、俺は慌てて叫んだ。

 

「俺、十月(とおつき)中学2年2組の久凪(くなぎ)……」

 

 フギンはすぐに上空に舞い上がり、風を切って飛ぶ。そのとき来子の返事が微かに聞こえた気がした。

 

『ええ……知ってます。マンションだって』

 

 その言葉はちょっと怖かったが、最後に俺を見上げたあの子の顔はそんなに怖くはなかった……気がする。たぶん。

 

「……何だ?」

 

 ワタリガラスの(つぶや)きが俺は慌てて正面に目をやる。

 近付いてくるエレシュキガルの蒼白い姿……その頭上にキラキラと青く光るものが見えたかと思うと、金切り声のような音が響き、エレシュキガルの巨体がぐらりと揺れる。

 

「まさか……観測者どもが動きやがったのか!?」

 

 賢者の石の力なのか、エレシュキガルの頭上に浮かぶ何艘もの船が見えた。様々な形のそれが、中に人を乗せた船だとなぜか分かる。

 それが真下のエレシュキガルへ向けて、破壊的な力を持った青い光を放っている。

 その光は、周囲に集まっている無数の魄魔体(ヴァーサナー)をも巻き込み、そのカラダを引き裂いていた。すでにその一帯は、エレシュキガルから溢れる黒い泥流が渦をなし、何もかもを呑み込む大渦潮(メイルストローム)と化している。

 

「あやの……!」

 

 俺は右手で胸を押さえ、その内側の光に意識を向けるが、もうあやのの声は聞こえなかった。

 フギンが黒い翼を伸ばし、破壊と混沌の吹き荒れるエレシュキガルへ向かって速度を上げた。

 

 

 




「噛み付き」っていう愛情表現の尊さ。


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本当の瞬間は迷わないから ①

 それ(・・)は俺の物語の外側から来た。

 (おおとり)殊子(ことこ)――彼女はそう呼ばれていた。どこかでその名を聞いた。

 青と白の制服姿。左腕の腕章には、赤地に金文字で生徒会執行局と記されている。殊子が好奇心に光る視線をめぐらせると、長いストレートの黒髪が揺れる。

 彼女が立つ円形スペースの床は幾何学模様で飾られ、ドーム状の天井が明るく照らしている。そこには10数名の人間が正面のヴィジョンを眺めていたが、殊子だけはこっちを……俺の視線を捉えていた。

 

「なんとか間に合った……いまひとつの物語が収束する。そこで……君は何を為すのかな?」

 

(何を為す……?)

 

 その瞳がなぜか懐かしい。忘れていた何か大切なものを思い出しそうな……。

 

「ともかく……私達が為すべきことはひとつです」

 

 円形スペースに中性的な声が響いた。

 そこは船のブリッジのようだ。

 声を発した白いスーツの人物……銀髪を後ろでひっつめにし、整った顔に柔らかな微笑を浮かべた男とも女ともつかない人物はその指揮官らしい。

 

「エレシュキガルの仮想体で形成されたゲートを閉じること……観測者の皆様、そのことを最優先に願います」

 

 正面のヴィジョンに映る蒼白い巨大な姿は……エレシュキガルだ。すると、ここはどこなんだ?

 

「残念だよプルシャ。いまゲートを閉じれはどうなるか分かるだろうに……」

 

 白いスーツの人物に向かって小さな女の子が声をかける。青いブレザーにチェックのスカート、ショートにした髪からちょこんと毛を逆立てた……あれは!

 

世界山(メール)のカルナー様……仕方がありません。冥界流入は阻止しなければ。我々はもうあの混沌に逆戻りするわけにはいかないのですから」

 

 プルシャと呼ばれた人物が微笑を崩すことなくカルナー(そう、あれはククだ)へ答える。

 

「そのためにこそ、皆様は観測者たらんとしている訳でしょう」

 

 プルシャがその視線を、様々な格好の人々にめぐらせて話す。壇上でスピーチする教師のようだ。

 

「君達は観測者と名乗るけど……僕には来訪者と区別することができないんだ」

 

 ククが独り言のように(つぶや)いた。

 

 

 

 

 

 甲高い破壊音が空を(おお)う。天空からの攻撃に(さら)されるエレシュキガルが、黒い雷光を四方へ放った。

 空を駆けるフギンの背で俺は意識を取り戻し、目前に迫る巨体を見つめる。

 空に浮かぶ何艘もの船が青く光る弾丸を真下に撃ち込んでいる。あれはプルシャと呼ばれたあの人物の先導なのか。

 

「何でや!? ワタリガラス、あやのの声が聞こえない……!」

「ちっ、同化が進んでやがるんだ」

 

 地上ではエレシュキガルから溢れ出す黒い泥流が、集まった魄魔体(ヴァーサナー)を呑み込んでいる。そのどろどろした渦に空から降り注ぐ光が当たると、大きく爆ぜて粘土状の飛沫を散らせる。無数の悲鳴や(うめ)き声が聞こえるようだ。

 

「こりゃあ戦場に突っ込むようなもんだぜ」

「危なっ!」

 

 俺が叫ぶ前にフギンは反応していたようだが、雷光に撃ち抜かれて落ちてきた大きな魄魔体(ヴァーサナー)の残骸を完全にはかわせない。

 

「わああっ」

 

 激突を覚悟した瞬間、その残骸が銀色の光に吹き飛ばされる。この真夜(マーヤー)は……!

 

勒郎(ろくろう)……君が来るような気がしてたよ」

 

 小さな女の子姿のククが空中を舞い、曲芸のようにフギンの翼に降り立った。こいつの身体能力は冗談みたいだ。

 

「……世界山(メール)の来訪者か? ああ……お前が勒郎に首輪をつけていた御守り役か」

「君にはマイトリーが世話になったみたいだね。だけどいまはそれどころじゃない」

 

 体制を立て直したフギンが飛び続ける。もうエレシュキガルはすぐそこだ。

 そのとき再び空から青い光が降り注ぐ。

 

「こっちもそれどころじゃねえ……!」

 

 ワタリガラスが叫びながら、空からの攻撃に巻き込まれないようフギンを遠巻きに旋回させる。

 

「観測者達はゲートを閉じようとしてるんだ。恒真の守護者(アガスティア)が来てしまったから……」

「まさか……プルシャか!」

 

 ワタリガラスが血相を変える。

 

「……早すぎる。あいつ……絶無崩壊より俺を優先したのか!」

 

 

 

 

 

 その瞬間、賢者の石が俺にヴィジョンを見せる。

 プルシャ……あの銀髪の人物が、円形スペースの床に映ったエレシュキガルを見下ろしていた。そこには同じようなスーツ姿が数人いるが、観測者達はそれぞれの船に戻ったようだ。鳳殊子……彼女の姿もない。

 

「プルシャ、よろしいのですか。島世界に干渉することになるのでは」

 

 銀髪を肩までおろした人物が、後ろからプルシャに声をかける。

 

「冥界流入の基点となっているあの少女……その魄魔体はそもそも具現化することはなかった。これは来訪者の干渉を正すことなのです」

「確かに……彼女には来訪者の影響が著しく現れています」

「ええ……」

 

 微笑を保ったプルシャが眉をかすかにひそめる。

 

「……どうもミーアクラアが接触したという者が気になりますね……。少女と魄魔体の同化はどの程度進んでいますか」

「正確な観測が難しいのですが、30%ほどかと」

「では魄魔体を排除しても(おおむ)ね自我は残るでしょう」

 

 プルシャが細く鋭い目を床から正面へ戻すと、そこには巨大な歯車の姿が映っていた。凶悪な牙を生やしたそれがゆっくり回転している。

 プルシャの微笑がすっと消える。

 

「それにしても……ジャガナートがなぜこのタイミングで起こるのでしょうか」

 

 その歯車をおぞましいもののように睨みながら、後ろに立った人物がプルシャに尋ねた。

 

宇宙則(リタ)の深淵なこと、私の理解の及ぶところではありません。私はただ、この場に居合わせた縁に従うまでですよ」

 

 プルシャが自分に語りかけるように呟いた。

 

「そしてあのカラスとの縁にもね……」

 

 

 

 

 

 衝撃を感じて周囲を見回すと、フギンが倒壊しかけた建物の中に飛び込んでいた。まるで空から見つめる視線から隠れるように。

 ワタリガラスもククも、その廃墟のフロアから外を伺っている。外では強い風が吹き荒れ、断続的に観測者から放たれる光が金切り声のような破裂音を発していた。

 

「クク、あいつらの狙いは分かった……早くあやのを助けな!」

 

 俺も慌ててフギンから降り、ククに駆け寄る。ククにワタリガラスがいるなら何とかなるはずだ!

 

「勒郎……落ち着いて」

 

 ククが言いにくそうに俺を見上げる。

 

「ゲートが閉じれば、冥界に感応していたすべての魄魔体(ヴァーサナー)は行き場を失って暴走する。勒郎、魄魔体(ヴァーサナー)に同調しやすい君がその場にいたらどうなることか……いますぐここから離れないと」

「賢者の石……があるから?」

「勒郎……」

 

 ククがはっとした顔を見せる。

 

「弥鳥さんがいなくなった後、何でお前が俺のところに来たのか……ジャガナートから遠ざけようとしてたのか、何となく分かるよ」

 

 胸が緑色の光を発するのが分かる。

 

「この力……確かに暗い気持ちに引きずられたら大変なことになるやろな。これを利用しようって奴もおるし」

 

 ちらりとワタリガラスに目をやると、両手を組んで考え事でもしている様子だ。

 

「でもこの力があるから……俺はこれをあやののために使わな……」

「いや、観測者達はエレシュキガルとして集合している魄魔体(ヴァーサナー)だけを破壊してるんだ……あやのを殺そうというわけじゃない」

 

 概ね自我は残るでしょう――さっきプルシャがそう言っていた。「概ね」だって?

 

「ははは、影をとっぱらってもらえるなら、あやの(・・・)もかえって楽に生きていけるんじゃねえか?」

 

 ワタリガラスがふざけたように笑う。

 あやのの孤独……悲しみ……それが冥界の力を呼び寄せていて……それがなくなればむしろ楽になるんだろうか?

 

 悲鳴のような音が空気を掻きむしり、黒い雷光が周囲の建物を破壊する。微睡(まどろ)みながら空からの攻撃に身を晒すその蒼白い巨体は、少しずつ形を崩し始めていた。

 

「そもそもエレシュキガルに触れた君が自分を保てるとは思えない。取り込まれるだけだよ」

「そんなこと……」

「悪いが勒郎、俺もここまでだ。正面から突っ込んでもプルシャの天刑陣に囚われちまう」

 

 地震のように揺れる建物から、俺は崩れゆくエレシュキガルをじっと見つめる。ふと言葉が浮かんだ。

 

――そこから目覚めたとき、それまでよりほんの少し生きるのが楽になった……その程度の物語をキミは求める?

 

 弥鳥さん……俺がやるべきことは何なんだ?

 攻撃を受けながらなお微睡むようなエレシュキガルの顔が、じっと俺を見つめていた。

 

『ここは……暗いの……』

 

 声が聞こえる。それは冥界から届く声……蒼白いカラダが抱える闇の深さを感じて、気が遠くなる。

 

『光を……』

 

 よく知る声だった。

 

「あやのだ……あそこにいる」

「何だって?」

 

 エレシュキガルの首から胸元のあたり……その内側、胎児のように身を丸くしたあやのがいるのがはっきり感じられる。

 俺に反応するように、エレシュキガルがゆっくりこっちへカラダを傾けた。

 

「お前……エレシュキガルに同調してるのか!?」

「あり得ないよ! そんなこと誰にもできるわけが……」

 

 地響きを立てる建物の中でふたりが俺を見つめる。

 

「……勒郎、君は確かに……いつも魄魔体(ヴァーサナー)に触れようと手を伸ばしてきた……」

 

 胸の光が辺りを緑に照らし、天井から落ちる塵がそれをキラキラと反射した。

 

「ずっとそうしてきた君だから……冥界の力にすら触れられるように……?」

 

 ククがその大きな瞳をさらに見開いている。ああ珍しいなクク、お前がそんなに興奮するなんて。

 

「……勒郎、君があやのの居場所を正確に掴めるなら、そこを狙い撃つようプルシャに言ってみよう。早ければ彼女への影響も少ないはず……」

「いや、違うよクク」

 

 俺は一度目を閉じてから、ククに向き直った。胸の(うず)きがいまは心地いい。この疼きがまっすぐあやのの心につながっている。

 

「これから俺があの中に入ってあやのを連れ出してくる。クク、ワタリガラス……あそこまで連れてってくれ」

 

 ふたりが絶句する。分かってる……これは無茶で、虫の良い願い事だ。

 その瞬間、建物が大きく傾ぎ、崩れる壁が俺の視界を塞いだ。足場を失い、身体が宙に浮く。

 

 グアアァァァ……

 

 崩壊音を貫くカラスの声で我に返る。俺はその優しい背中に乗せられて空を飛んでいた。

 

「フギン……!」

 

 紫色の空が異様な鮮やかさで視界に広がった。

 見下ろせば、エレシュキガルの足元の黒い渦が周囲の建物をも呑み込んでいる。

 

「ちくしょう仕方ねえ……! 手伝ってやるからその賢者の石、最後にいただくぜ」

 

 漆黒のセーラー服をはためかせながら、ワタリガラスがフギンの背に飛び降りる。行こう、とでも言うようにフギンが鳴いた。

 

「勒郎……君の行動は危険なんてものじゃない……だけど」

 

 ククがフギンのすぐ傍に……中空に立っている。左右の足の下に車輪のようなものが回転していて、それが小さな身体を浮かせているらしい。

 

「いまは君の意志のままに行こう。僕も……そうしたいから」

 

 ククがフギンの前に飛び出し、空中を駆けながら右手を前に掲げる。その手から発した銀の光が盾になって俺達を覆うと、上空から降り注ぐ流れ弾が弾かれる。

 すごいなクク……お前と一緒に戦ってたのが嘘みたいだ。

 ククを先頭にエレシュキガルまで一直線、空中に道ができる。

 

「すれ違う瞬間に飛び降りろ! 暇があれば戻って回収してやる」

 

 操縦席に着かず、フギンの首の上で身構えたままワタリガラスが叫ぶ。

 すぐそこに、薄いヴェールを(まと)う蒼白い姿が迫る。あそこだ、あの胸元からあやのを救い出すんだ!

 

「……その衝動が世界に苦しみを撒き散らすのですよ」

 

 無機質な声が聞こえた瞬間、激しく輝く光の輪が先頭を飛ぶククを捉える。

 

遮耀陣(しゃようじん)! しまった」

 

 そう叫ぶククの周囲が球状に切り取られるのが一瞬見え、ほぼ同時にフギンが電源を切られたように力を失くして落下する。

 衝撃が覚悟したほどでなかったのは、フギンが最後の力で倒壊した建物に軟着陸してくれたからだ。俺が名を呼ぶと、グウウ……と一声(うめ)いて動かなくなる。

 

世界山(メール)の力の前ではただの時間稼ぎではありますが……」

 

 見上げるとプルシャがエレシュキガルの前に浮かんでいた。まるで合成写真のように空中を踏んで立っているが、その白いスーツや後ろでひっつめにした銀髪は風になびいている。

 

「ぐあああっ」

 

 プルシャの背後で天地が裂けるような稲光が走り、ワタリガラスの絶叫が轟いた。

 あいつも凄い……と俺は思った。あの一瞬でフギンの背から飛び、プルシャへ襲いかかったのか……ワタリガラス。

 その彼女を脈動する強烈な光が空中に縫い止めている。

 

「……しかし貴女にとっては致命的なはず」

「天……刑陣……!」

 

 ワタリガラスが光の束縛から身を引き剥がすようにもがくと、周囲に無数の構造体が現れて全身を覆っていく。その瞬間俺の足元にも構造体が現れ、フギンのカラダを一瞬で消し去った。

 

「虚海船ですか……しかしすでにこの世界との接触面は断ちました。逃げられたところで、もはやここへは戻れないでしょう」

 

 背後でもがくワタリガラスを振り返りもせず、プルシャが俺を見下ろしている。俺はいまにも崩れそうな建物の残骸に立ってプルシャを……その背後のエレシュキガルを見上げた。

 

「少女を魄魔体ごと連れ出せばゲートは閉じません。そうなれば無数の魄魔体がこの世界に溢れ……それらを贄としたジャガナートはこの世界を崩壊させてしまうでしょう。いや、もっと多くの世界をも。あなたの衝動は、この世界に住まうすべての人々と天秤にかけられるものなのですか」

 

 プルシャが微笑みなから淡々と言葉を吐き出す。世界と天秤にだって……?

 

「なぜあなたはそうするのでしょう。無力な自分でも価値があると示したいから? 世界に拒絶された苛立ちをぶつけるため? それとも彼女に……あの少女に認められたいと願うからでしょうか?」

 

 上空から眩しい輝きが辺りを照らし、船団から降り注ぐエネルギーがエレシュキガルを甲高い音を立てて削っていく。その光が地上の黒い渦に当たると、悲鳴のような音と共に周囲を蒸発させる。

 

「俺は……なんで……」

「迷うな! 勒郎、お前が……」

 

 プルシャの背後から、ワタリガラスが光に拘束された手足を半ば引き千切りながら叫んでいる。虚海船の構造体と共にその姿が消えてゆく。

 

「お前が為すべきことから目を()らさせる、この世のあらゆる欺瞞(ぎまん)は破壊しろ……!」

 

 その言葉を最後にワタリガラスがこの世界から消える。

 最後まで偉そうに言いやがって。

 

「……プルシャ、俺は」

 

 そうだ。俺がいま為すべきこと……それはもう分かってる。胸が燃え上がるように熱い。緑色の光が全身を内側から照らしている。

 

「!? その光は……!」

「あやのを連れ出す。いま、ここから」

 

 

 




最近は流行らないのかも知れないヒロイン救出劇なんてものを、やっぱり描きたいなって思うのは子供時代の刷り込みですね。


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本当の瞬間は迷わないから ②

「貴方に興味もありますが、いまは魄魔体の破壊が優先事項です」

 

 宙に浮かんで俺を見下ろすプルシャは相変わらず微笑を崩さないが、俺にはその焦りが感じ取れる。胸を(うず)かせる賢者の石が周囲をはっきり知覚させるからだ。

 上空の船団が光弾の狙いをエレシュキガルの頭部に定めている。観測者達は統率されてはいなかったが、ようやく攻撃を一点集中させようというらしい。そうなればいよいよ危ない。

 

「あやの……引きこもってんのは退屈やろ」

 

 つながった“糸電話”で呼びかけ続ける。エレシュキガルの内部のあやのがはっきり感じられる。

 

『……だれ……?』

「目ぇ覚ませよ……このままやとあいつらの好きにされて終わりや」

『……しょうがないよ……ここがあたしの居場所やから……』

「違うやろ……なんでお前が……気後れせなあかんねん(・・・・・・・・・・)!」

 

 エレシュキガルがその目を初めて開いた。

 吸い込まれそうな紫色の瞳……それと視線を交わした瞬間、俺の意識も半ばその巨体の中にあった。

 

「バカな……! 仮想体が自律して動くはずが……」

 

 言い終える前に蒼白い巨大な腕がプルシャをはたき落とす。

 その余波が俺のしがみつく建物をぐらりと揺らしたが、俺の意識は空からの敵意に向いていた。

 真上を見上げるエレシュキガルの額から黒い雷光が走り、面白いように観測者達の船を吹き飛ばしていく。

 

「はははは……」

 

 自分が笑っていることに気付いたのは、足元が崩れ落ちて我に返ったからだ。真下で渦を巻く黒い泥流めがけて落ちていく。だめだ、早く真夜(マーヤー)を……!

 どんと身体に何かが当たって、俺を目の前の塔の壁面へ引き上げた。

 

「乗ってくですかぁ?」

 

 俺を背に乗せてレンガ色の壁面にしがみついているのは、真っ白な毛皮に長い耳を立てた獣めいた少女だ。その背に生えた大きな翼は、広げればゆうに10メートルはありそうだ。

 

「ら、来訪者……?」

「そ、リエメイちゃんです。君、恒真の守護者(アガスティア)相手にすごいですねぇ」

 

 さらさらの白髪に赤い飾り、額から伸びた2本の角は可愛らしく見えたが、額から左目までの焼けただれたような傷痕が痛々しい。無事な方の瞳を小動物のように動かせる様子はまるきり無邪気そうだ。

 

「あ、ありがとう。あの……」

「いいですよぅ、エレシュキガルまで連れてくです」

 

 塔の壁面から、リエメイの背に乗って俺は飛んだ。その背はフギンより激しく揺れるが……柔らかい。

 

「どうしたですかぁ?」

「い、いや何でも!」

 

 ていうか、どこまで強くしがみついていいのか分からない!

 

「ほら、月蓮(げつれん)のみんなも見ててくれてるです」

 

 戸惑いも吹き飛んだ。

 エレシュキガルを囲む塔にはたくさんの来訪者達が……魔物めいた異形の者達がいて、何やら声援を送ってくれている。

 翼のある者達はリエメイと俺を守るように飛んでいて、俺は嬉しくなった。分かる。この世界への苛立ちと、冥界へ惹かれる想いが。

 

「あの子によろしくです」

「……ありがとう!」

 

 いまや再び微睡(まどろ)むエレシュキガルの頭上で俺はリエメイから飛び降りる。賢者の石の眩しい光が、まるで全身を守ってくれているようだ。

 

『君、いいね』

 

 誰かが俺をじっと眺めていた。

 その視線を俺は知っている。(おおとり)殊子(ことこ)……外からやって来た存在。

 

『あの子を救い出せたなら、迷わず飛び降りて。大丈夫、うまくいくから』

 

 何を言ってるんだ、と俺は思わない。殊子が何者か知らないが、言われなくとも迷いはなかったから。

 あやのを救うだって? そんなことできるもんか。俺はただ……手を伸ばすだけだ。あいつに触れるために。

 

 

 

 

 

「ミツキちゃん!」

 

 ああ、あたしを呼ぶ声がする。

 あたしは……誰だっけ。

 見知らぬ異世界に学校ごと飛ばされたあたし。それはあたしの、別世界へ行きたいという願いのせいだったの。

 

「起きて! 早く!」

 

 カナメちゃん、そうだね。それでもあたしは元の世界へ戻ろうって決めた。

 いや……違う。これはカナメちゃんじゃない。

 

「こっちに手を伸ばして……!」

 

 誰かが呼んでる。たゆたう流れの上から波紋のようにあたしを揺さぶる。

 身体を起こしたとき、逆に流れの底からも呼ばれた気がした。

 行かないで。

 一緒にいて。

 幼児が母親の(すそ)をつかむような弱々しさ。

 

「あなたは……」

 

 あたしはその声も知っている。

 その小さな声があったから、あたしはここまで降りてきたんだ。

 

「一緒に行こう?」

 

 あたしは流れの底へ手を伸ばす。

 でも、その手が激しく拒絶されるのが分かる。凄まじい敵意と憎悪。

 救いなんて求めていない。理解なんてされる訳がない。この絶望が……他人に理解される程度のものだなんて認めない。

 そうだ、あたしもそう思っている。

 どうして忘れてたんだろ。あたしはあいつら(・・・・)には負けない。この世界のルールにだって負けない。そう決めたんだ。

 

「世界なんて……」

 

 また上から声がする。

 

「……どうなってもええやろ。あやの、お前はどうしたい?」

 

 さっきより騒がしい。

 あいつの声だ。なんであんなに偉そうに叫んでるんだろ。

 

「お前の……家のこと、お父さんのこと、そこに触れるのが恐かった。お前の抱えるもんを知って、うまく話せる自信なかったし……お互いやり過ごしてきた嫌なことに捕まるのも恐かったし。でも……見ないふりしてたらなかったことになる訳ちゃうよな。お前だって、言わずに気ぃ遣うの嫌やって言ってたやろ。せやから……うざがられても俺は手ぇ伸ばす!」

 

 見上げるとエメラルドグリーンの光が水面からキラキラ射し込んでいて、ああ綺麗だなあ。

 いま気付いたけど、ここは随分と暗い。

 その暗闇が少しずつあの水面へ吸い上げられていく。光があたしの頭をクリアにする。

 

「お前が望むんやったら、このまま世界を巻き込んで何もかも壊してもええ。せやから……まずこっちへ手ぇ伸ばせって……!」

 

 何を大袈裟な話をしてるんだあいつは。

 まるで少年マンガの主人公気取りのセリフに笑ってしまう。

 あははは……まあ笑わされたら負けかも。

 あたしはその眩しい水面へ手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 高く澄んだ鐘のような音だった。

 エレシュキガルの体内の暗黒を吸い込んでいた賢者の石が、その鋭い音を鳴り響かせる。石を亀裂が貫く。

 俺はその瞬間確かにあやのの心に触れた。闇の底からあやのが伸ばした手を(つか)む。

 

「あやの……行こう!」

「アホか」

 

 溢れ出す黒い激流に身体を突き上げられてエレシュキガルから飛び出すとき、あやのの声がようやくはっきり聞こえた。

 何が面白いのか……いつも不機嫌そうなあやのがこんなに笑ってるなんて。

 激しい泥流となってエレシュキガルの頭部が崩れる。頭部を失った首元あたりに俺達はふたりで立っていた。

 高層ビル並みの高さから廃墟の世界を見はるかす視界に鮮やかな紫色の空が広がり、まるで竜巻に呑まれてやってきた魔法の世界を眺めているようだ。

 

「あっつ……!」

 

 火傷するような熱さを感じたとき、俺の胸から光そのものと化した賢者の石がこぼれ落ちる。

 とっさに手で受け止めた瞬間、それがとんと弾み、凄まじい光の爆発を起こした。

 ひときわ甲高い音が世界に鳴り渡る。

 粉々になった緑色の宝石が、花火のように鮮やかに周囲を照らしながら飛び、散らばっていく。まったく魔法の世界そのものだ。

 

「……派手な演出やなあ。全然あんたに似合ってないで」

「うるさいな」

 

 ぐらりと揺れを感じて見下ろすと、溢れ出した泥流がエレシュキガルの足元の渦をさらに激しくかき混ぜ、魄魔体(ヴァーサナー)を呑み込んでいる

 頭部を失ったエレシュキガルのカラダはみるみる崩壊を進めていた。

 

「あやの、ひとまずここから……」

 

 あやのを振り返った瞬間、回転する何かが飛んでくるのが見えた。同時に、半透明のカラダがあやのをかばうように身をのり出し、その棘の付いた大きな車輪のようなものを受け止める。

 

「あやのっ!」

「うふふふふ……楽しかったねぇ」

 

 クラゲのような……あれはあやのと同化していた来訪者だ。それが車輪に半ば引き裂かれるようにしてエレシュキガルの肩から落ちていく。

 

「あなた……」

 

 落ちていくその姿を見つめるあやのの傍で、俺は目の前の白いスーツを睨み付ける。

 

「プルシャ……!」

「賢者の石だったのですか……これほど肥大化した仮想体を分解するとは素晴らしい。しかしこれでは……ただ冥界の力を撒き散らすだけです」

 

 プルシャの背後にその船が浮かぶ。いや、観測者達の船も……さっきの雷光のダメージもあるようだったが、大半は事も無げに浮かんでいる。

 

「あなたのような衝動が世界を壊すたび、我々は修復する。そして二度とその苦しみを味わうことのないよう、こうして世界を守護しているのです」

 

 プルシャが優しげな微笑を浮かべながら、崩れゆくエレシュキガルの肩をゆっくり歩いてくる。

 その右手が光ると、さっきと同じ車輪が具現化していた。差し渡し俺の身長くらいはある……あれが奴の真夜(マーヤー)なんだ。

 

「勒郎、何やのあの偉そうな奴は」

「いやちょっと黙っててくれ」

「はあ!?」

 

 どうすればいい。俺も真夜(マーヤー)で応戦するか? しかしあの船団もこっちを狙ってるだろう。しかも足場は間もなく崩れ、このままじゃ真下の黒い渦に呑まれる。

 

「ゲートは閉じなくてはなりません。その少女の抱える魄魔体、いまこの場で消滅させます。なに……」

 

 プルシャが子供を安心させるように目を閉じる。

 

「悪いことではありません。もう妄想に逃げる必要もなくなるでしょうから」

「それあたしのこと!?」

 

 くってかかろうとするあやのを抑えながら、真夜(マーヤー)で剣を創り出そうと集中する。くそっ、とにかくやれるだけやるしかない!

 プルシャがまるで重さのないようにその車輪を持った右手を掲げる。

 

「……間に合ったね」

 

 その声と共に銀色の光の綱が飛来し、プルシャの全身に巻き付いた。

 その綱は、上空に浮かぶ小さな女の子の手から伸びている。

 

「クク!」

「……世界山(メール)の縛索ですか。予想より20秒早い……ですがこれではあなたも動けませんよ」

 

 冷静に(つぶや)くプルシャの全身を青い光が包み、縛り付けていたククの綱がゆっくりほどけ……止まる。ふたりの力がそこで拮抗しているみたいだ。

 

「うん、僕と君が少しこのままでいるだけで十分だよ」

 

 ククが意味ありげに俺を見た。

 何だ? 何を言おうとしてる!? いや、俺には分かる。

 

――あの子を救い出せたなら、迷わず飛び降りて。大丈夫、うまくいくから。

 

「あやのっ!」

「気安く呼ぶな」

「ええから飛ぶで」

「は!?」

 

 見下ろすと、遥か下では真っ黒な泥流がどろどろとうねっている。ぞっとしない眺めだが、迷う余裕はない。

 

「……ここにいても上から撃たれるか、この下に呑まれるかや。俺やったら……飛べる」

 

 真夜(マーヤー)を発動……。全身をうっすらと光が包み始める。いつあやのの手を握ったのかも憶えていない。

 

「……夢にしたってやり過ぎやろ。勒郎がこんなにカッコつけてるとか」

「ええやろ……夢の中くらい」

 

 空を飛ぶ真夜(マーヤー)は苦手だった。せいぜい飛び降りたときに着地できる程度だ。でもいまはそれじゃだめだ。せめてこの泥流の向こうまで飛ばないと。それもあやのと一緒に。

 

「やめなさい……! 下の魄魔体に同化してはもう還れなくなります」

「勒郎……いましかない! プルシャを抑えられるのはこの瞬間だけだよ」

 

 銀の光でつながったプルシャとククが叫んでいる。足元が水を含んだ砂城のようにぼろぼろ崩れていく。

 

「……ごめんな、失敗したら」

 

 じっと泥流の向こうを見つめていると、頬を触られてびっくりする。

 俺の頬をぎこちなく撫でながら、あやのも廃墟の世界の彼方を見つめている。

 

「ええよ。一緒に飛んだる」

「……そう素直に言われるとかえって不安になるわ」

「あはは……なんだかね」

 

 地平線を眺めていたあやのが、その視線を俺に向けた。風になびくおかっぱの髪。眼鏡の奥の切れ長の瞳。こいつは……こんな素直な目をしてたか? いや、この目は知ってる。6年前の神社のときと同じ――。

 

「本当の瞬間は……迷わないから」

 

 あやのは笑っていた。たぶん俺も。

 とん、と軽く足を踏み出す。

 重力がゆっくり身体を掴み、全身の毛が逆立つ。ああ、あれはいつだった……廃屋のビルの屋上から俺は飛んだ。あのとき感覚を思い出せ。

 

『チャンスは一回だぜ!』

 

 あやのと風に舞う中で、その声が脳裡に響く。

 同時に電子音めいた奇妙な音が鳴り響いた。聞いたことのある音に似た……しかしそれとは少し違った、世界の外から聞こえる音。

 

「これは……もうひとつ虚海船が!?」

 

 背後でプルシャが叫んでいる。

 俺の視界を、見慣れた黒い翼がよぎった。

 

「フギン!」

「こっちだ勒郎!」

 

 分かってるよワタリガラス!

 俺はあやのの手を握り必死で風を切る。天地が凄まじい勢いで流れるなか、フギンの黒い翼を俺は捉え……どんという衝撃と共に俺達は温かいフギンの背中にしがみついていた。

 

「観測者の皆さん、何をしている……!」

 

 苛立つプルシャの声が聞こえて、俺は慌てて上空の船団を見上げる。

 

「あれは……!」

「あの人達……」

 

 翼を持つ魔物めいた者達が船を取り巻き、魔法だか炎のブレスだか……思い思いの方法で攪乱している。フギンが速度をあげて彼らを後にする一瞬、リエメイの白い姿が見分けられた。

 

「ワタリガラス……ありがとう。でも悪い、賢者の石は砕けて……」

 

 俺はあやのと狭い座席に潜り込みながら言う。

 

「まったく骨折り損だぜ。……この程度しか手に入らないなんてな」

 

 操縦席から振り返るワタリガラスの手に、緑色の石の欠片が載ってキラリと光る。抜け目がない奴だ。

 

「……役に立ってくれれば何よりや」

「サービスだ。表層まで送り届けてやるよ」

「ククは……」

 

 背後を振り返ると、蒼白い巨体がいくつかの塊に分裂して泥流の渦へ落下し、黒い飛沫を吹き上げている。

 もうククもプルシャも見えなかった。

 

「あいつなら心配いらねえだろ。……ゲートは閉じちゃいねえが、もう基点もねえし、仮想体も崩れちまった。ジャガナートは派手な宴になるだろうが、世界を壊すほどの供物はもうやってこねえ」

「退屈そうやな」

「まったく退屈な幕引きだ。……だがまあ、楽しめたぜ」

「あははは……ほんまにアホらしい夢や」

 

 (こら)えきれないといった感じであやのが吹き出したとき、何かが終わったんだと思った。たぶん、ひとつの物語が……。

 帰ろう。あの現実(せかい)へ。

 俺はぼんやりと、最後にもう一度フギンの背から振り返る。この光景を最後に目に入れようとしたんだ。

 どうしてそれまで視界に入らなかったんだろう。

 それはやっぱりそこにあった。

 牙を生やした巨大な歯車……世界の(ことわり)を破壊する救済の神。

 それはいまや遠くからでも分かるくらいはっきりと、中空を削るように回転していた。

 

 

 




第2章「君だけの断章/冥界からの呼び声は彼女」終幕です。断章と名付けましたが、第2章は本編から脱線した余談のようなものでした。だからこそ、やりたいようにやれたんですが。次回から最終章、世界から出ていきたいと願った勒郎の物語の結末を追います。


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Ⅲ 失われた終焉/キミが世界を救いたいなら
誰にも理解できないよ ①


 暗黒の宇宙を浮遊する小惑星の表層に高層マンションの最上部が顔を覗かせていて、遠目には小さな建物に見えるが、その根は深く巨大な地下都市へとつながっている。

 人も物も密集する息苦しい穴ぐらの世界から、こうして灰色の表層を歩くとき、たとえ薄く冷たい空気の中でも俺は本当の意味で呼吸ができた。

 

勒郎(ろくろう)、そろそろ戻ろうぜ」

 

 涼しげに声をかける彼方(かなた)のおかげで、俺は自分の身体が凍えかけてることに気付ける。

 さすがにそろそろ戻らないと、この前のように凍傷騒ぎだ。

 しかし今日はいつもと違う。

 この胸騒ぎは、地下へ帰る拒否反応のせいだけじゃない。まるで足元が崩れ落ちるような、寄る辺のない不安感。

 

「何だこの揺れ……?」

 

 彼方がそう言うならこの揺れは錯覚じゃないってことだ。まるで……旧世紀にあったという「地震」じゃないか?

 そのとき(いびつ)な地平線の向こうが光ったかと思うと、巨大な炎の柱が大地を赤く照らした。

 言葉を失くす俺達を、数秒遅れて巨大な轟音と暴風が襲う。

 

「嘘だろ……」

 

 それ以上声が出なかった。

 いや、激しい揺れと音に声が用を成さなくなった。

 いつか起こると、オカルトまがいの娯楽としてメディアが語ってきた世界の終わり。俺達の生活を成り立たせる小惑星内部の核反応がほんの少しバランスを崩せば、連鎖的に地下都市群は壊滅する――。

 人工的に作り出した重力も空気もこれでおしまい。冗談のように危うく(もろ)い世界だ。

 身体がゆっくり星々の世界へ浮き上がる。しがみつくものがなにもない、それ以上の恐怖がこの世にあるだろうか。

 

 

 

 

 

 目が覚めたとき、その恐ろしさがまだ背中に張り付いていた。この手の夢は久しぶりだ。

 ぱりっとノリの効いた白いシーツの感触。つるりとした見知らぬ壁を、俺はぼんやり見つめていた。

 

「あぁ悪いな、起こしたか?」

 

 聞き慣れた声に俺は少し安心した。

 ボサボサの髪を無造作にくくった化粧っ気のない平沢先生が、赤い眼鏡越しにやけに優しい視線を向けていた。ちょうどベッド横の台にノートを置いたところらしい。

 

「いえ……。何……ですかそれ?」

 

 声がかすれて上手く話せない。

 昨日の夜、気付けば市立病院に寝かされていて、念のため一日検査入院という流れだったのを思い出した。窓の日差しはもう午後のようだから随分眠ったらしい。

 

「あやのちゃんのノートがあってなぁ。これだけ渡しそびれたんだよ」

 

 この前借りたノートの続きか? 異世界に飛ばされたミツキ達の物語――。

 

「お祖父さんのところへ行くってのも、こう急だとなぁ。とりあえずお前に渡しとこうと思うんだ」

「先生……昨日、大丈夫でした?」

「ん? 地震のことか?」

「いや(地震?)……あいつらが襲ってきて……」

「……何だ? 夢の話かぁ?」

 

 何だこれ。

 あのとき、図書室に魄魔体(ヴァーサナー)がやって来て……先生は魔法使いで……。

 俺はもごもごと何をどこまで口走ったのか。

 平沢先生は現実の層(レイヤー)を越えて仮名見(かなみ)来子(くるこ)から俺を救ってくれて、図書室に襲来したヤモリ人間と派手な魔法戦を繰り広げて……。

 妄想というなら確かにそうだ。窓が割れたのも騒ぎが起こったのも、怪物の襲来より地震というのが分かりやすい説明だ。

 

「お前はさぁ久凪(くなぎ)……奈落に落ちても聖杯を(つか)もうとするタイプだよなぁ」

 

 入院ボケの戯言(ざれごと)だと思ってくれたのか、フォローするように話題を変えてくれる。

 この前の映画の話だ。インディ・ジョーンズ/最後の聖戦。そう、俺はあの映画を観たことがある。いまではその記憶を思い出せる。

 映画の終盤……皆が追い求めた聖杯が地割れに転がり落ち、そこへ手を伸ばそうとした人物はそのまま地の底へ消える宿命だった。

 

「人生を賭けて聖杯を手に入れたかったんでしょ……じゃあ死ぬ直前の一瞬でもそれを掴めたなら勝ちじゃないですか」

「お前のそういうところ、ええと思うけどなぁ」

 

 苦笑する先生の顔に、夢幻少女のメイクアップが重なる。あれが夢だって?

 

「それは夢を掴みたかったのか……現実に帰りたくなかったのか、どっちかなぁ?」

 

 俺は何も言えない。

 心から信頼する誰かが声をかけてさえくれれば、俺は奈落の底だろうとどこへでも踏み出すのに。先生にだって、そう言ってもらえれば……。

 

「お前に、こっち側へ戻れって言ってくれる人がいたらなぁ」

 

 先生が帰った後も、その言葉が病室に留まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Ⅲ章】   失われた終焉/君が世界を救いたいなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父親が迎えに来て、俺はその日のうちに帰宅した。

 あやのは弟と一緒に、隣県に住む祖父に引き取られた。昨日、酔った父親がアパートで暴れてあやのに怪我を負わせた。母親の入院理由も父親の暴行ということだからそのままあそこに住む訳にはいかないのだろうけど、あまりに急で俺にはうまく飲み込めない。

 そして俺も無関係じゃなかった。騒ぎに隣人が様子を見に来たとき、部屋に俺も倒れていたからだ。警察に話も聞かれ、お(とが)めはなかったが、俺がどうしてそこに居合わせたのか色々と取り沙汰されているようだ。そりゃそうだろうが。

 黒い翼に乗ってあの蒼白い巨大な姿を目指した感覚はいまでも生々しい。天を(おお)う鮮やかな紫色、廃墟の広がる灰色の大地、心の(よど)みが具現化した影達――。

 

「そもそも、他人(ひと)が理解してくれることなんてほとんどないだろう」

 

 慰めのつもりか、その日自宅で夕食をとりながら父親はそんなことを言った。

 なぜ俺があやののアパートにいたのか、警察の前で通り一遍のことを聞いた後はまるで口にしないのは、いつものようにややこしいことに捕らわれたくないからだろう。こっちも煩わしくないから楽だ。

 

「……お母さんのことも?」

 

 こんなことを言うのは初めてだ。いつものように黙っていればいいのに、俺はなぜこんなことを聞いたんだろう。

 そうかもね、とか適当な返事があった。

 つけっぱなしのテレビは、地震と異常気象のニュースばかりを騒ぎ立てていた。昨日の地震はかなり大きく、あちこちで建物が傾いたらしい。しかし俺にはどれも呑気な話に聞こえる。昨日俺は、天を裂く雷光や、傾くどころか崩壊する建物をいくらでも目の当たりにしたんだから。

 

 

 

 

 

 平日、登校時間を過ぎれば、住宅街は妙に殺風景になる。

 あの廃屋のビルもこの時間には、夜明けの頃に(まと)っていた魔法を失くして素っ気ない姿を(さら)している。

 学校をサボった気だるい感覚をもてあましながら、俺はビルの屋上に出る扉を開ける。そこで扉の下から差し込まれたらしい封筒に気付いた。

 無味乾燥な事務封筒……だがそこに入っていた手紙には馴染みの文字が並んでいた。

 

------------------------------------------

 

 あたしはしばらくここから離れるから、一応あいさつ程度に書いとく。色々急やし、あんたがどこにいるかも知らんけど、あんたはよくここに来てるからな。どうせいまもひとりですねてるんやろ。

 

 昨日のことはよく憶えてないけど、父がやったことならだいたい分かる。だけど周りの人は、あんたのことも好き勝手に言ってて、それが嫌やった。あんたが助けに来てくれたのは分かる。あんたにしてはがんばったな。いや、昔からあんたはがんばってくれてた気もする。

 

 この何年か夢の中にいて、久しぶりに目が覚めたような感じがしてる。あんたに偉そうなこといろいろ言ってたけど、やっぱりあたしも逃げまわってた。あんたのしてくれたこと、いま素直にありがとうって言えないけど、今度会うときはあたしも少しは変わってると思うし、まあ呆れずにいてください。

 

 あんたもがんばれ。あたしもがんばる。

 

------------------------------------------

 

 宛名も書き手の名前もない手紙だったが、届いて当然と言わんばかりの迷いのない書きっぷりだった。

 

 

 

 

 

 2日ぶりに学校へ行くと教室の空気が変わっていた。

 俺はこれまでのように日常に溶けた大勢のひとりじゃなく、事件の当事者になっていた。

 ぽかんと空いたあやのの席が、無視できない欠落として教室に影を落としている。これまで俺にかけられていた他愛のない挨拶も、その影に呑まれて声にならなかった。

 

「お前ちょっと変わったな」

 

 授業が終わった直後のざわつきで、誰から声をかけられたのか一瞬分からなかった。

 派手なピンクのヘアゴムで髪を留めた高嶋小鳥……よくあやのとぶつかっていたこいつが俺に話しかけるなんて初めてだ。

 

「何したか知らんけど……まあがんばりや」

 

 顔も合わせず、すれ違いざまに言葉をぽんと置いて高嶋が歩いていった。周りの誰も気付かないさりげなさ。何だその戦友をねぎらう兵士みたいなノリは?

 ぼんやり高嶋を見送る俺の耳に、帰り支度をするクラスメートの会話が飛び込んでくる。

 

「……復帰したんやって」

「転校してすぐ休んでたもんなあ」

 

 転校生……そうだった。

 弥鳥(みとり)さん。

 あの廃墟の世界で別れてから、もちろん学校で彼女と会うことはなかった。病欠という話だったが、俺は別段気にならなかった。弥鳥さんは俺にとって、この現実ならざるレイヤーで会うひとだったから。

 だけどいま……吸い込む息すら消えてしまいそうな空虚を抱えるいま、それはすがり付きたくなる幻だった。

 ふらふらと教室を出た俺は、そのふたつ隣のクラスへ向かう。

 復帰した?

 彼女がそこにいる?

 まるで現実感のないまま、その教室を俺は眺める。

 別のクラスの男子生徒を(いぶか)しむようないくつもの視線……その先に彼女がいた。

 あの赤いリボンはしていない。見慣れない他校の制服も、いまではこの十月(とおつき)中学のものになっている。

 

「みと……」

 

 呼びかけた声が消えてしまう。

 ぞっとする違和感だった。

 違う。

 あれは彼女じゃない。

 華奢な手足、凛とした立ち姿……だけどあれは弥鳥さんじゃない。

 確かにあの夏の日、俺は廊下を歩く彼女を見かけた。弥鳥さんにそっくりの顔……だけどいま話しかけても返事が返ってくるとは思えない。

 いや、違うんだ。

 弥鳥さんがあの転校生(・・・・・・・・・・)に似てるんだ(・・・・・・)

 

 

 

 

 

 日々が過ぎる。

 教室にあった影は存在感をなくしていく。

 多少の陰口めいた言葉を背中に聞いたにせよ、俺も無慈悲に当たり障りのない日常へ取り込まれていく。日常というものの強靭さに俺は感じ入る。凄いもんだ。

 ちょくちょく図書室に寄れば、カウンターの奥で忙しそうにしている平沢先生が声をかけてくれる。魔法使いの女の子である平沢久遠(くおん)はそこにいるけれど、それはもう俺にしか分からない。

 そうして俺も色んなことを忘れる。

 きっと夢を見ていたんだ。何年も前からの長い夢を。

 風の匂いが秋から冬へ変わりかけた頃、俺はそのビル倒壊のニュースを聞いた。

 

 

 

 

 

 その建物は、高層ビルの乱立する街の中心部にほど近い一画にあったので、大きな騒ぎになった。折しも日曜日で多くの野次馬が集まり、それは俺にとっても退屈な日常を忘れるイベントだった。

 手抜き工事だとか、9月の地震の影響だとか言われているようだったが、隣の壁に寄りかかるように半ば崩れたそのビルを眺めたとき、俺には別の原因が分かった気がした。

 

「この……眺めって……」

 

 人混みの中、思わず言葉が漏れる。

 心が激しく波打つ。

 その崩れた建物の背景に、高層ビルが建ち並んでいた。まるで天を突くバベルの塔だ。

 俺はこの場所を知っている……?

 記憶の中で、俺は崩れ落ちる建物からそびえる塔を見上げていた。黒い雷光が破壊する建物群。空から光を降り注がせる船団。あれはいつ見た夢だったろう?

 

 まだ憶えてる……?

 

 建物を見上げる人々のざわめきの中、誰かの声が聞こえた気がした。

 見物人から少し離れて、青と白の制服姿の少女が立っていた。生徒会……とか何とか書かれた腕章。

 10月も末の冷たい風が吹いて、少女の長いストレートの黒髪を揺らす。

 その子が何かを推し測るように俺をじっと見るので当惑する。どこかで会ったか?

 

「……すごいよね、これ」

 

 話しかけられたとき、驚くよりも、どこで会ったかを思い出すのに必死だった。

 

「こんなビルそう簡単に壊れないよね。何があったと思う? まるでさ……」

「……何かに撃ち抜かれたみたいですよね」

「ふふ、そうそう!」

 

 少女が瞳を輝かせて笑う。期待通りの言葉を返せたみたいでなぜかほっとした。

 

「何に撃たれたらこうなるのかな?」

「いやまあ……レーザー光線みたいなアレですかね」

「へえ?」

「ほら、あの高層ビルの方からこっちへ撃ったら」

「見てきたみたいだね」

「……そうなんすかね」

 

 何で敬語使ってるんだろう俺は。確かにその子は年上のように思えるが。

 

「あのさ、もしかすると本当にそんな冒険してたのかも、とか思うことない?」

 

 名も知れない少女が俺の隣に立って、倒壊したビルを眺めている。片手を腰に当てて挑戦するように見上げる彼女の姿こそ、冒険マンガの主人公みたいだ。

 

「ただ忘れてるだけで?」

「そう。例えばさ、こことは少しずれた現実で、自分は剣と魔法で怪物達と戦ってたのかも、とかね。それこそビルが崩れ落ちるくらいの派手な冒険の中でさ、誰かを助けたり、仲間に助けられたり……」

「完全に妄想ですよね」

「うん、じゃあさ、妄想が覚めた後は、その世界はどうなるのかな? その冒険の中で出会った人達は、その瞬間に消えちゃう?」

「消えないと怖いじゃないですか」

 

 相手の饒舌(じょうぜつ)さに当惑しながら、俺は何かに苛立っていた。この子は何を言ってるんだ?

 会話が途切れ、少女は黙って崩れた建物を見上げていた。いや、その向こうの高層ビルをだろうか。

 

「……語られなくても物語は存在するんだよ。でも、誰かがそれを語らなきゃ、世界は閉じたまま……」

 

 空を眺めながら少女は唐突にそう言って、ふっと顔を隣の俺へ向ける。

 長い黒髪が(ひるがえ)る。挑むような笑みが俺の目を見据えていた。

 

「君の物語はもうおしまい?」

 

 少女は何かを期待して俺を見つめている。奈落へ続く地割れの向こうから、さあこっちへ飛び越えてと誘うように。

 いや、みんな妄想だ。俺が勝手に思い込んでるだけ。

 もうあやのもいない。弥鳥さんはいなかったんだ。なのに……何度繰り返すんだろう。

 俺は何も言わずにそこから離れる。

 早足で歩きながら、振り向きたい気持ちを必死に抑える。振り返ったときそこに少女がいてもいなくても、自分の正気を疑いそうだ。

 背後から最後に聞こえた言葉……あれも幻聴だったのか。その聞き慣れない言葉はなぜか恐ろしく、ぞくりと心臓をかすめた。

 

「ジャガナートは始まったよ、勒郎くん」

 

 

 




「真・女神転生if...」というゲームがあってですね。魔界に呑まれて戦って、終盤には魔王に匹敵するほどのレベルになって、それでクリアして現実に戻るとレベル1に戻ってるんですよね。ああそういうことなんだって。衝撃でした。


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誰にも理解できないよ ②

 少女の言葉は薄氷を砕くように、俺の足元にある(もろ)い現実を壊し始める。

 混乱の海に溺れながら、(わら)だろうと(くじら)だろうと(つか)もうとする俺の手に触れたのは、あの日平沢先生が置いていったあやののノートだった。例の冒険マンガの続き。俺は帰宅するとすぐ、熱心な信者のようにそれを読み返した。

 

「あんた達も好きなようにやればいいよ……でも……あたしも負けない!」

 

 その描きかけの物語は、主人公の少女・ミツキが読者へ燃えるような視線を向けるシーンで終わっていた。

 荒涼とした赤い砂漠世界へ学校ごと転移した少女達は、3年間のサバイバルの果てにふたつのグループに分かれていた。“元の現実”への帰還を目指すミツキやカナメ達と、その世界に順応しようとするツカサ達とに。

 サバイバルには衣食住に加えて大きな問題があった。その世界には敵意を抱く支配者達がいたからだ。その節くれだった手足を持つ背の高い生き物を「闇人間」と、あるいはただ「怪物」と少女達は呼んだ。マントのように暗闇を(まと)うその闇人間達は、暗闇から暗闇へ時や場所を超えて移動し、その能力はミツキ達の転移とも深く関わりがあるようだった。

 ミツキはいくつもの冒険を経て、転移の原因や闇人間の能力を解明する手がかりとなる手帳を発見する。それはミツキ以前にこの世界を彷徨(さまよ)った人間の手記だったが、ミツキ達の冒険が進むごとに内容が変化する奇妙な特性があった。

 

「読んだ瞬間を基点に、最も蓋然性の高い過去-未来に準じた手記が現れる」

 

 作中のある人物はそう推測していたが、このあたりは正直よく分からない。

 やがて手帳は、闇人間に占拠された校舎の中に、時空間が“元の現実”と結節するポイントが現れることを示す。そしてミツキ達は最後の戦いに挑む。闇人間の力すら及ばない、不思議な交感力をもって砂漠に君臨する香砂蟲(すなむし)と呼ばれる巨大なワームの出現がその戦いをかき乱す。

 俺はその戦いにツカサ達が合流し、なんだかんだで協力して闇人間を撃退し、元の世界へ戻るんだろうと予想していた。ご都合主義とかそういうことじゃない。マンガはそれ(・・)を描くためにあるからだ。

 だけどその未完のノートにツカサは現れなかった。

 

「ミツキは全部ひとりで抱え込むキャラやったからな。あやの本人と同じや」

 

 彼方(かなた)が電話口で懐かしがるように話す。

 2学期から転校した彼方に電話するのは初めてだった。結局俺の話し相手は彼方とあやのしかいなかったのかも。

 彼方も読んでいたあやのの物語の最新のあらすじを、電話口で説明する。ミツキが手帳を託したカナメちゃんが、闇人間のひとりに呑み込まれたこと。ミツキは同行した数人の仲間全員を失い、最後にひとり闇人間に囲まれていたこと。そして、そこで笑みすら浮かべながらあの啖呵(たんか)を切る。負けない、という言葉は俺にもあやの本人の言葉に聞こえた。

 

「普通なら、次の瞬間救いの手が現れるところやけど」

 

 そうかも。それとも物語はさらに過酷な展開を迎えるのか。あやの本人も迷ってるのかも知れない。

 

「でもあやのの話やからな。現実にはそういいタイミングで救いなんかないからな」

 

 そうなんだ。

 これはリアリティの追及という話ではなくて、あやのがこの世界(リアル)をどう捉えているかという問題だ。物語は現実を超えようとするが、本質的に現実に縛られてもいる。

 ふと、俺はもっと早くあいつの世界へ手を伸ばすべきだったんだと思う。

 

「でもお前が……あやのの家まで行ったって聞いて嬉しかったわ」

 

 彼方が唐突に俺の話をするので戸惑う。言った通りやろ。お前は世界に対してちゃんと行動できるんや。そうだろうか? 学校をサボるのも、幼馴染みの家にいきなり押し掛けるのも、駄々っ子のワガママだ。

 

「それで後悔してるんか?」

 

 いや。何度繰り返しても俺はああしかできなかっただろうから。

 彼方はそんな俺を大人になったとか言うので、茶化しているのは分かるがなぜか少し寂しくなる。

 そして俺は、その寂しさを過去の記憶として抱えていることに気付く。

 彼方……お前は仕事のできる大人だった。少なくとも俺と違って、新卒で名の知れた企業に入り、キャリアを積んで真っ当な人生を歩いていた。

 

「お前もあやのも戦ってるやん。子供のワガママか何か知らんけど、戦ってるのは間違いないやろ」

 

 彼方に励まされた気になりながらも、その言葉は心に届く前に虚空へ消えていった。電話を切ったときしみじみ実感したのは懐かしさだった。

 

 

 

 

 

 古くなったインクと油が混じったような新古書店特有の匂い。

 俺は入荷した本を並べていた。

 大学を出て、バイトを転々とした末にこうして何となく契約社員をしていると、ふと不思議に感じる。

 俺はもう大人になったのか?

 

「ねえ久凪(くなぎ)くん、これ! この本すごくない!?」

 

 ぼんやりしてると、後ろからバイトの阿佐ヶ谷さんの興奮した声が降ってくる。

 

「え……うわ。呪術の使い方? 陰陽師ですか」

「どこの棚に並べるんかなあ?」

「まあ……実用のとこですかね」

「えー、呪術使いたい人が実用本コーナー探してくれるかなあ?」

 

 呑気そうに(つぶや)きながら、目だけ悪戯っぽく輝かせる阿佐ヶ谷さんの気さくな態度が心地よくて、俺は彼女と同じシフトになるのをこっそり楽しみにしてる。俺とタメ歳にしては子供っぽい人だ。まあ人のことは言えないが。

 今日みたいに雨の日は客も少ないからふざけた会話も弾む。

 

「久凪くんさ、なんか今日ぼーっとしてへん?」

 

 阿佐ヶ谷さんが隣で棚を整理しながらしつこく話しかけてくる。独り暮らしをしてると誰かに声をかけられるのがくすぐったい。

 

「そうかなあ?」

「せやでー? なんかノスタルジックな感じ」

「え、大人っぽい雰囲気出てるってこと?」

「そやなあ、縁側に座ったおじいちゃんみたいかなあ」

「大人過ぎるっ!」

 

 人とスムーズに会話できることに俺は驚く。

 いつの間にか適度な距離の取り方を覚え、会話の弾む当たり障りのない返事を覚える。野垂れ死にしない程度には働けて、ひとりでも何とか生きていける。

 

「子供の頃って世界の終末とか憧れませんでした?」

「あー分かる分かる。中二病ね。そういや久凪くん中学生っぽい」

「えらい若返ったっ!」

 

 憧れてたって?

 思い出すのも忘れるくらいほったらかして、たまにあの頃は痛かっただなんて笑い飛ばすような、そんな記憶に過ぎないって?

 この苦しさが?

 

「あ、ほらまたぼーっとして。久凪くんまじでちょっと休んだ方がええよ?」

 

 そうすね阿佐ヶ谷さん。

 確かに妙な気分だ。

 夢の中で夢を見てるって半分自覚してるような。

 そうだ、俺はいつか大人になる。そんな未来もある。

 ……もしも中学2年生のあのとき、世界が壊れることがなかったなら。

 

――キミを救うために来たんだよ。

 

 なんて透き通った声。つい最近聞いた気がする。

 あれは誰の声だったろう。

 

 

 

 

 

 目が覚めたら涙が(あふ)れていた。

 いつものマンションの一室。子供の頃から過ごした部屋――その真ん中にある学習机をベッドからぼんやり眺めつつ、俺は混乱の波にバラバラになった記憶がゆっくりあるべきところへ戻るのを感じた。

 時計に目の焦点が合って、夕食後にうたた寝をしたんだと理解する。

 未来の夢とはレアな体験だ。

 だけど何だかつい最近まで、そんな不思議を当然のように受け入れていた気がする。

 

――お前は14歳の中学生なんかじゃないだろう? 生きることに絶望した貧弱なオトナの魂だ。

 

 誰に言われた言葉だったか。

 窓の外でゴウゴウと風がうねる。異常な低気圧がどうとかニュースが言っていた。

 さっきの夢が大人になった俺だったとして、あれで生きることに絶望してるんだろうか? たとえそうでも、それなりにオトナをやって生きていきそうじゃないか?

 

勒郎(ろくろう)、いいかい?」

 

 父親が部屋へ入ってくる。最近何となく、家にいても会話が増えた気がする。

 風の音が少し小さくなったようだ。

 

「ああ、この本……」

「お母さんの本棚整理したときに取ってあったみたいでね。居間の段ボールにあったよ」

 

 わざわざ探してくれたのか?

 お母さんが生前俺に見せてくれた本の話をしたところだった。

 

「……ありがと」

「何やかやとあるけど、勒郎が俺の子供にしては真っ当に育ってくれて良かったよ」

「何やそれ」

 

 去り際に父親がらしくないことを呟くので気持ちが悪い。

 いまの俺を肯定されることが腹立たしい。

 学校へちゃんと通ってるからか? それだけで真っ当に育ったと思われるなら、その単純さは残酷過ぎる。

 部屋にひとりでいると、外の風がやけにうるさく聞こえる。

 

――ジャガナートは始まったよ。

 

 少女の言葉が木霊(こだま)していた。

 

 

 

 

 

 目が覚めたとき、カーテンの向こうの闇がほんの微かに薄れていて、夜明けが近いと分かった。

 風になぶられる街路樹がざあざあ音を立てている。雨は降っていないようで、かえって激しい風の力がくっきりと感じられた。

 この時間に起きているのが懐かしい。

 

 ガ……チャリ。

 

 重く冷たい玄関ドアが背後で閉まる。

 冷たく暗い街は嵐の気配に満ちていて、気圧の低さに身体ごと空へ吹き飛ばされそうだった。

 誰もいない世界。

 何だって起こり得る時間。

 そう言えば少し前まで、こうして早朝に出歩いていた。

 

――キミはこう思ってる。なぜこの世界は息苦しいのか。いつまで耐えれば解放されるのか。……どうすれば“向こう側”へ行けるのかってね。

 

 その声が本当に聞こえるようだ。

 俺を冒険へと(いざな)う声。

 白み始めた夜空を見上げると、蒼黒い雲の切れ端が猛烈なスピードで横切っていく。その雲の輪郭を、着色された宇宙写真のように鮮やかな青や紫の光がチカチカと走る。

 住宅街はゆっくりと古代遺跡めいた荘厳な姿へ変容する。

 ここがすでに冒険の舞台なんだ。

 

――現実に向き合えない、弱く、怠惰で、甘えた人間だけが立ち止まる。ただ生ぬるい悩みをつつきながら、閉じた場所に引き込もって……。

 

 いや、ぜんぶ錯覚だ。

 何もかも俺の妄想なんだ。

 それじゃ……何で俺はいま走ってるんだ。

 あの高層ビルの上に何かがある。それが俺を呼んでいる。

 これが最後だ。今日が大人になる前の最後の遊び。この嵐が終われば、中学2年生の頃はと振り返る当たり障りのない記憶になる。

 

――その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる?

 

 この時間すでに駅は動いていた。始発はもう走っている。

 俺は衝動のままに、市の中心へ高架線路を伸ばす環状線のプラットホームに立っていた。

 人気はない。

 ホームの屋根と屋根の隙間から、吹き荒れる風に切り刻まれる雲がオレンジ色に照らされるのが見えた。もうすぐ夜が明ける。子供時代の終わりの空だ。

 

「オトナになったの?」

 

 はっきりと声が聞こえた。

 向かい側のホームの正面に、彼女が立っていた。

 

「近しい人達にそう言われると、そういうものかと思うかも知れないね」

 

 構内放送がこのホームに電車が来ると告げている。

 右手に疾走する車両の光と音を感じながら、それでも俺はじっと正面を見すえる。

 白を基調にした見慣れない制服姿の少女。

 これは妄想……。

 

「でも、どれほど周りが当たり前のことだと言っても、消えることのない違和感があるんだね? 彼らの世界すべてを天秤にかけてもなお、キミだけの世界を捨てられないんだね?」

 

 ホームの柱や看板の輪郭が奇妙な緑色に光る。風が発光するもやを飛ばす。現実の層(レイヤー)がずれているんだ。

 断崖のように2つのホームを裂く線路の向こうで、彼女が手を差し伸べている。

 後ろ髪を赤いリボンで結い上げ、華奢(きゃしゃ)な手足を凛と伸ばした少女。

 

「それならボクがキミを……“向こう側”へ連れてってあげる。その意思があるなら……」

 

 警笛が鳴り響く。薄闇を貫く電車のライトが俺の右頬を眩しく照らす。

 

「飛んで……この手を取ればいいんだよ」

 

 彼女が微笑んでいる。

 

――重要なのは、その瞬間お前が手を伸ばせるかどうかなんだよ。

 

 身体が動いていた。

 足がホームの端を蹴った。

 目の前に俺のために差し出された手があるのなら、それ以外に欲しいものはない。

 暴風に吹き飛ばされるように身体が舞い上がった。

 

真夜(マーヤー)……」

 

 ホームに停車する列車の屋根の上で、俺は両手を突いていた。

 冷たい金属の感触。

 それが振動し、電車は次の駅へ走り始める。ホームが後ろへ流れ、視界の左右を街のビルが通り過ぎていく。

 高架を疾走する8輌編成の列車の上で、俺はさっき浮かんだ言葉を反芻(はんすう)していた。

 お前が手を伸ばせるかどうか……。飛べると信じて飛び降りろ、とでも言うような危険な言葉。

 

――お前が為すべきことから目を()らさせる、この世のあらゆる欺瞞(ぎまん)は破壊しろ。

 

 ワタリガラスの言葉だった。俺はあの黒衣の女と戦い、共に黒い翼に乗った。

 早朝の冷気がうずくまる俺の身体を叩く。

 脳裡に、あいつらの姿が鮮やかに現れる。ミーアクラアと来子。クク。そして――。

 

「……キミはやっぱり来たね」

 

 列車のたてる轟音の中でも、彼女の透き通った声は聞こえる。

 見上げればそこに、夜明け前の蒼い空を背景に弥鳥(みとり)さんが立っていた。列車の先頭に背を向け、揺れも意に介さず俺を見下ろしている。

 風がその白い制服を乱暴にはためかせるのに、彼女のか細い身体は揺らぎもしない。

 

「キミがあの人たちに話しても、誰にも理解できないよ」

 

 列車の先、遥か遠くから密集する高層ビル群が近付いてくる。

 ビルの上空には、天地創造以前の混沌もかくやと思える暴力的な力が巨大な渦をなし、ダークブルーの雲を引き千切っては呑み込んでいる。

 ジャガナートは始まったんだ。

 

「でも、ボクには分かる」

 

 やや吊り上がった大きな瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。

 震えるほどの生命力に満ちたその瞳を、何度見つめただろう。俺を冒険へと(いざな)う別世界からの扉。

 薄闇の中で、瞳は金色に光る。あの光が象徴する恐ろしい戦いの記憶が、昨夜の夢の欠片のように(よみがえ)る。それは、お前のいるべき場所はここなんだと宣告していた。

 そのとき真横から日の光が射し、風圧にはためく赤いリボンが(きら)めいた。

 

「……だから、ボクはここへ来たんだよ」

 

 弥鳥さんが微笑んでいる。その虚無の優しさを(たた)える微笑の前で、ようやく俺は理解した。また会えるよ――あのときの言葉がいま現実になったことを。

 

「さあ行こう、ボク達ふたりで」

 

 弥鳥さんが右手を差し伸べる。その誘いの意味することを、俺はもう知っている。

 少しの躊躇(ためら)いの後、しかし決意を込めて俺はその手を(つか)む。

 走り続ける列車の上で、足元の感覚がふわりと軽くなる。

 そして俺は、俺の物語と再会する。

 

 

 




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間に合うよ、思い出せたなら ①

 昇った朝日がビルの群れを照らし、複雑に装飾された壁や柱は内部からの発光で陰影を揺らめかせる。息を呑む美しさ。

 その向こうから迫るバベルの塔の上空には、回転する巨大な歯車が姿を現そうとしている。

 

「さあ久凪(くなぎ)くん……いよいよだね」

 

 走り続ける列車の屋根に立って、弥鳥(みとり)さんが笑っている。

 

「この世界のあらゆる法則(ルール)束縛(しばり)宿命(さだめ)……それを壊してくれる救済がある。あれが、ボク達がこの世界から出て行く扉だよ」

「弥鳥さん俺……忘れてて……弥鳥さんなんていなかったんやって……」

「あはは、大丈夫だよ久凪くん」

 

 後ろ髪をくくる赤いリボンをはためかせながら、弥鳥さんが胸を躍らせるような笑顔を向ける。

 

「言ったでしょ、純粋な……心の底からの声があれば、ボクはいつだってキミを助けに来る。その声だけが、ボクが世界山(メール)と呼ばれるあの場所からこの世界へやってくる扉になるんだから」

 

 どんなに荒唐無稽な話だろうと、それが真実たりえる世界がある。あやのはそれを夢だと言った。そう、夢だろうと構うもんか。もう()めたいとは思わない。

 

「心の準備はいい? まだなら……いましてね」

「大丈夫、弥鳥さんに会う前からできてるわ」

 

 そう言って空の歯車を眺めたとき、同時に6年前の神社にいる自分を感じた。異世界への扉を、俺達はまさにいま開こうとしていた。右隣にはあやのがいる。左に立つ彼方(かなた)の言葉が聞こえる。

 

――本気で思てたら行けるやろ?

 

 そうやな。俺は彼方に肯き返し、暴風を巻き起こしている上空の渦へ視線を戻す。いまがそのときなんだ。俺はこれから“向こう側”へ行く。

 

「……本当に捨てちゃうの?」

 

 あどけなさの残る声が背後から聞こえた。

 振り返ると、同じ車両の屋根に小さな女の子が立っている。

 紺のブレザーにチェックのスカート。頭の先にちょこんと逆立つ髪の毛が風圧で揺れている。

 

「クク……!」

「やあ勒郎(ろくろう)、思い出してくれたんだね」

「……ありがとうクク……あのとき、お前が助けてくれて……」

「忘れてても良かったんだよ勒郎。そうやって、夢だ、妄想だって割り切って、誰もが生きてるんだから。君にはその先の未来があるんだよ」

 

 ククはどうしてあんなに寂しそうなんだろう。その視線が俺の隣に立つ弥鳥さんに向けられる。

 

「戻ってこれたんだねマイトリー」

「うん。カルナー、苦労かけちゃったね」

「ううん、それが僕の役目だから……ここで君達を止めなきゃいけないのもね」

 

 何気ないそぶりでククが上げた手の平に、銀色の光が複雑な紋様を描いて踊っていた。

 

「そうだね、カルナーならそうするよね」

 

 微笑む弥鳥さんの胸元に同じような紋様が浮かび、その銀色の光が身体の自由を奪うように制服の上を(おお)っていく。

 ククの泣きそうな顔に、俺は初めて神社で会ったときのあいつを思い出した。

 

「ごめんねマイトリー、君の出番はまだ先だから、印章は僕の手にある。世界山(メール)へ戻ってもらうよ」

「クク? 一体……」

 

 不穏な様子にククへ駆け寄ろうとしたとき、背後から巨大な車輪が(きし)りをあげるような轟音が響いた。

 その恐ろしげな渦は、まるで空そのものを吸い込みながら叫んでいるようだった。

 樹々をなぎ倒すような突風が列車を()で、俺は立っていられずに車両の屋根に手を突いた。

 

「……冥界の力の流入が止まらないんだ。このままじゃジャガナートの力は際限なく大きくなっちゃう」

 

 ククが右手をかざすと、俺の首元から銀色の光が溢れる。瓔珞(ようらく)……俺を表層に縛り付ける(かせ)

 

「僕は何度でもそうするよ勒郎。あっちへ行っちゃいけない……戻ってよ!」

「クク、待ってくれ!」

 

 世界がぼやけて、咄嗟(とっさ)(つか)んだ弥鳥さんの手がみるみる透けていく。だめだ、俺は醒めたくないのに……!

 

「久凪くん……キミの見てる世界はほんの一部なんだよ」

 

 弥鳥さんの声が聞こえる。

 

「……ほんの少し視野をあげて……見通せるんだ。それがボクたちの視界……」

 

 世界から吹き飛ばされる強烈な圧力を感じる中で、その声が鐘の音のように響いていた。

 

 

 

 

 

 狭苦しいアパートのくすんだ緑色の壁紙がぼんやり照らされていた。

 締め切ったカーテンと、積み重なるマンガやゲームソフトが、外の世界から隔絶した静かな空間を守っている。

 大学時代から安アパートを転々としてきたけど、この部屋での独り暮らしはそれなりに長くなる。

 

【過去、現在、そして未来の間の区別はただの幻想に過ぎない。たとえそれが極めて強い幻想だとしても】

 

 無意識にネット上のリンクを辿っていると、ふと引っ掛かるフレーズがある。

 俺は手元に置いた2リットルのペットボトルに直接口をつけてスポーツドリンクを飲み、薄暗い部屋を青く染めるモニタに向きなおった。

 

【アインシュタインが書簡に記したこの言葉はよく知られています。彼の相対性理論によれば、時間は空間と同じように対称性を持ち、過去が未来を規定するなら未来も過去を規定し得るといいます。この理論に基づくなら、私達は時間の中を一方向にだけ進み、過ぎた過去は決して変えられないという、一般的な時間に対する理解は誤りとなります。現在はもはや、絶対的な意味を持たなくなるのです。例えば、ある座標系から観測すると同時に起きたように見える2つの事象も、他の座標系から観測すれば時間を前後して生じたものとして見えることがあり得ます。すべては相対的なものといえるでしょう。現在が絶対的なものではない――それはこのようなイメージで理解できるかも知れません。私達が過去、現在、未来として把握しているものはすべて、同時に存在しているのです。私達が、そのほんの一部分にしか意識の焦点を当てられないために、いまここには現在しか存在しないと錯覚してしまう。その意識の焦点が次々と移っていくことで、まるで時間が過ぎていくように感じられるのです。ですが実際には、時間は流れてはいません。過去も現在も未来も、すべては同時に存在しているのですから】

 

 大乗仏教の教典、インドの思想家の言葉、西洋哲学から最新の科学理論まで、つまみ食いしてオカルティックに味付ける、ネットにありふれたそのページをいま目にした意味を俺は考える。いや、そこに意味が生じる気配を捉えようとする。

 あれはついこの間だった。勤務先の古書店で棚出しをしていたとき、ふと中学時代を思い出した。あのことが関係している? あれは新しい季節を伝える風の匂いのように、生々しく懐かしい記憶だった……。

 

――ただ、誰か俺をここから連れてってくれって、そう願ってた……。

 

 それは中学生のときの言葉だ。あれは誰に言ったんだろう?

 苦しい、苦しい、俺はずっとそう思い続けて、その苦しさから逃げ続けて生きてきた気がする。だけどあの時期だけは、俺は何かと……戦っていた。

 

 

 

 

 

 休日だった。俺は駅前の商店街の雑踏をふらついていた。

 今日は古書店のシフトに入っていないのに、何となくここまで来てしまった。

 自分が恐ろしく狭い空間に閉じ込められているような、激しい発作のようないつもの感覚。パニックになりそうだった。朦朧(もうろう)と歩いていると、勤務先にほど近い見慣れた通りがやけに奥行があるように見えてくる。

 ビルの隙間、裏路地の影に、蒼黒いものが(うごめ)いている。

 電信柱を這い登るムカデのような影を目で追うと、電線を伝っていく軟体動物や、建物の屋上を渡る手足の多いトカゲが見えた。

 

――魄魔体(ヴァーサナー)

 

 懐かしいその名が記憶から浮かぶ。

 そう、あれは人の心の(よど)みが凝り固まったもの。

 目に見える世界はほんの一部……現実の層(レイヤー)をほんの少し移るだけで、街に息づく無数の影が知覚できるんだ。

 魄魔体(ヴァーサナー)達が目指す方向へ、何となく足が向く。

 その先から、甲高い鐘の音がした。低く唸るような太鼓が空気を震わせている。

 いまは祭りの季節だったっけ……。

 

「久凪くん!?」

 

 いきなりかけられた声が、俺を表層へ引き戻す。

 混み合う通りの中に、阿佐ヶ谷さんの笑顔があった。思わぬ出会いに子供っぽくはしゃぐその屈託のなさが何だか(まぶ)しい。

 

「阿佐ヶ谷さん? あれ、何持ってんすかそれ?」

「それがな、猫飼うことになってん。これ猫用のキャリーバッグ? ていうん? ここに入れてもらうねん」

 

 手に抱えた緑色の大きなカゴを揺らしながら話す阿佐ヶ谷さんはやけに楽しそうだった。

 何で猫を?

 捨て猫の貰い手を探してるって話があってね。

 行き交う人々の賑わいの中で立ち話をすることが、現実離れした出来事のようだった。この世界に俺に話しかけてくれるひとがまだいたなんて。

 

――そう、君は大丈夫だよ勒郎。

 

 ククの声に、俺は心の中で答える。

 これが俺の未来なんか?

 こうやってオトナになるって?

 そう、苦しさを背負いながら、それでも生きていける。あんなこともあったねって、振り返って笑えるようになる。

 でも……だとしたら……この気持ちは何のためにあるんや?

 俺のすぐ隣で、中学生の俺が、いまも何かと必死に戦ってる。この戦いは意味がないんか?

 

「久凪くんはどこ行くん?」

 

 阿佐ヶ谷さんがすましたような表情で尋ねる。その目が、少し不思議そうに俺を見つめていた。

 

「いやちょっと散歩で」

「ええそうなん。暇やったら猫もらいに一緒に行かへん?」

「今から!?」

 

 会話に心が弾むなんて久しぶりだ。

 ククの笑顔が目に浮かんだ。そう言えばあいつは、俺があやのと屋上で話した後もやけに機嫌が良さそうだった。まるで友達の少ない子供を心配する母親の目だ。

 

――居場所なんて、行き先なんて、君が目を向けたところにあるんだよ。“向こう側”なんてなくても生きていける。

 

 クク、そうやな。

 そういうものかも知れない。

 まだ子猫なんだけどね、全然人間になつかないみたいでね。ワクワクする気持ちを隠さず、阿佐ヶ谷さんが笑っている。

 きっとこの先が……光の射す方向なんだ。

 

 なあぁう……

 

 そのとき黒猫が鳴いた。

 阿佐ヶ谷さんの後ろ、その黒い影が路地裏へ消えるのが一瞬見えた。

 いや、あれは魄魔体(ヴァーサナー)……?

 

――暗いことばかり考えてないで前を向いて歩きなさいって……。

 

 誰かがそう言っていた。

 

――でもそっちには道がないんです……私の道は暗闇(こっち)に続いてる……私に分かるのはそのことだけ。

 

 俺は阿佐ヶ谷さんと話しながらも、その路地から目が離せない。影から心が離れない。

 これは逃げなんだろうか。子供が()ねてるだけのことなんだろうか。

 

――きっと光は、この暗闇の向こう側にあるの。

 

「……なんや、ヒマそうなくせにぃ」

 

 阿佐ヶ谷さんが不満げに口を尖らせる。

 

「ああでも、今度その猫絶対見せてくださいよ」

「ふーん、まあ考えとくけどお……」

 

 それでも最後は笑いながら、阿佐ヶ谷さんがじゃあねと声をかけて歩いていく。

 その後ろ姿が人混みに消えるのを眺めながら、俺はククの声を聞いていた。勒郎、勒郎……。うん、大丈夫だよ。これは逃げじゃないから。

 俺はようやく、色んなことが見えるようになってきた。

 祭りの音が近付いてくる。甲高い鐘と地響きのようなドラムが聞こえる。

 そして大地を踏みしめる、巨大な車輪の軋み……。

 その恐ろしげな音に向かって、俺は街中の影達と一緒に通りを歩いていく。

 奇妙に(ゆが)んだワニのような影が、無数の足で蠢くカラスのような影が――街中の魄魔体(ヴァーサナー)が俺を先導するように歩いていく。

 

――あたしは……じゃがなーと……。

 

 少女の声が聞こえた。

 向こうの十字路から、祇園祭の山鉾(やまぼこ)のような巨大な山車(だし)が姿を現した。

 その高みにある台座に、伸び放題の黒髪を貴金属で飾り付けた幼い少女の姿があった。

 

――あなたの苦しみ……あたしに……捧げることを許してあげる。

 

 その髪の間から、彩色で強調された大きな目が俺を無感動に見下ろしていた。

 そうだ、俺はすでに出会っていたんだ。この救済に。

 

「うん。ありがとうジャガナート」

 

 少女の浮かべる獰猛な笑みが俺の心を満たす。影達が歓喜の叫びを上げる。この世界すべてを天秤にかけても揺るぐことのない、純粋で強烈な感情。

 ここから救い出して(・・・・・・・・・)……!

 俺はすでにあのとき、ジャガナートへ身を投げ出していたんだ。

 あれは遥か未来のこと。だけど、すべての瞬間は同時にここにある。

 

 

 

 

 

 走り続ける列車の屋根の上、叩き付けられる強烈な風の中で俺は意識を取り戻した。

 粉々に砕けた瓔珞(ようらく)が周囲に飛び散って銀色の光を(またた)かせている。

 

「勒郎……!? あり得ないよ……!」

「クク、おかげで思い出せた……。この世界には価値があるって……こんな俺に手を差し伸べてくれるひともいるってこと。それから……俺が何を選んだかってことを」

 

 全身から光が湧き出していた。

 真夜(マーヤー)……強く思えばそれは現実となる。

 

「俺は……救って欲しかったんやな」

 

 隣に立つ弥鳥さんは、銀色の文様に全身を覆われて微動だにしない……ククの封印か何かか? でもその輝きの向こうから、あの微笑みが俺を見つめている。

 うん、弥鳥さん、俺は君と行くよ。

 

「勒郎……君だって誰かに手を伸ばせるのに……」

 

 車両の振動に身体を震わせながら、ククが呆然と(つぶや)いている。

 

「それでも……君はマイトリーを選ぶの?」

「クク……俺は……」

 

 真夜(マーヤー)が身体を光で覆っていた。弥鳥さんの装身具……あれはこういうことか。堰を切ったように力の使い方が分かる。

 

「俺は……弥鳥さんと一緒にこの世界を出て行くよ」

「……分かったよ。勒郎、君がそこまで……」

 

 吹き荒れる嵐、列車のスピードが作る風圧、その中でククも俺も身じろぎひとつせず立っていた。

 

「君がそこまで影と分かちがたくなっているなら……いっそ」

 

 ククの全身が銀色の閃光を発した。

 眩しさに薄目で見つめる中で、ククの姿が膨れ上がるのが分かる。白く大きな獣の姿……。

 

『いっそ……その影を食べてあげる!』

 

 頭に直接その言葉が伝わる。

 魔法少女のマスコットめいた小動物だったククが、いまや俺の背丈の数倍はある、妖怪めいた巨大な姿へ変貌を遂げていた。

 白い毛並みは硬質な輝きを照り返し、背中には呪術的な赤い模様がびっしり連なっている。

 低く身構えるその獣がアーモンドのような目を大きく見開くと、美しく光る黒い瞳が俺を見つめていた。

 

『勒郎……君のその影、抱え続ける意味なんてないんだよ……さあ!』

 

 尖った口元がすっと裂けると、鋭い牙が威嚇するように光った。

 

「クク……!」

 

 光輝く勇者の(つるぎ)……俺はそれを両手で構える。

 走り続ける列車の先頭車両の上で、いまにも飛びかかろうとする白く美しい獣と俺は向き合っていた。

 

 

 




人生のある瞬間と瞬間って、時間を超越して、ビリヤードの玉みたいにぶつかり合ってるんじゃないかって気がするんですよ。


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間に合うよ、思い出せたなら ②

 戦いの中で知覚は数倍に研ぎ澄まされ、肉体が凄まじい反応速度で応える。

 加速(ヘ・イ・ス・ト)……大盾(マ・ポー・フィ・ク)……強撃(バ・イ・キ・ル・ト)……ゲーム世界でリアルに想像した魔法が身体能力を強化する。

 

勒郎(ろくろう)……!』

 

 白い獣の鉤爪を勇者の(つるぎ)で受け止め、互いの身体を包む光が火花を散らす攻防の中、相手の言葉が頭に届いた。

 

「ククっ」

 

 数度の激突の末に俺達は位置を入れ替えた。

 疾走する列車の屋根の上、正面からの風圧を感じながら、身構える巨大な白い獣の姿に向けて俺は剣を構える。

 獣の後ろに、銀色の封印を施された少女の姿が見えた。

 

「クク……弥鳥(みとり)さんを解放してくれ」

『勒郎……なぜ君はこんなにも戦えるの?』

 

 獣となったククの大きな瞳に吸い込まれそうだ。そこに宿る銀色の光が視界に広がっていく。

 

『その気持ちはいつから君のもとにあるの……? それは本当に心からの願いなの……?』

 

 いつの間にか、銀色の光が飛び交う真っ暗な空間に浮かんでいた。これは幻……呑まれるな。

 

『長く抱え込むと、それが自分の一部だって錯覚するんだよ……痛みも苦しみも』

「うぐっ」

 

 胸に鋭い痛みを感じ、もがく手は宙を掻く。

 大きな(あぎと)が胸に牙を突き立てている。

 

「やめ……っ」

 

 視界が戻ると、列車の屋根の上で白い獣が俺にのしかかり、その口で下半身を呑み込んでいた。来子(くるこ)のときとは逆に、身体から何かが吸い取られるようだ。

 

『大丈夫だよ勒郎……食べてあげる……この苦しみは君自身じゃないんだから』

「そんな……こと……」

 

 目の前の黒く大きな瞳に俺の姿が映っている。何をそんなにもがいているんだ? 大丈夫……俺はもう失うものはない。

 

『……勒郎!?』

 

 俺を吐き出して飛び退いたククが、俺の全身から溢れる光を驚いたように眺める。

 輝く服装……(まばゆ)い白と深い青とで飾られたゆるやかな衣が俺の身を(おお)っていた。

 

聖な(Garb of)る衣(Lords)……」

 

 聖戦士(ロード)だけが身に(まと)える最高の装備。俺がイメージできる守りの象徴だ。

 

 ギィィン……

 

 鉄板に鉛玉でもぶつかったような音と衝撃。無数のクギのような刃が全身に突き刺さっている。……これはククの体毛!?

 

『壁を作らないで勒郎……その影は僕が……』

 

 身構えるククが硬質化した体毛をさらに逆立て……そのまま言葉を失う。俺が剣も構えず歩み寄るからだ。

 聖なる衣がふわりと輝くと全身の刃が剥がれ落ち、傷跡も残さない。衣の自動回復(ヒーリング)能力……。

 

「クク、大丈夫や。影にしがみついてるんと違う……これが俺なんや。それが分かればもう傷付かへんよ」

『そんな……』

 

 至近距離から無数の刃が放たれ、今度はそのすべてが衣の表面で止まる。胸にも腕にも、そして額の前にも……。

 

「影も……心の(よど)みも……俺そのものやから」

 

 カン、と剣を足元に突き立てる。

 その瞬間すべての刃ははね飛ばされ、ククのカラダへ当たって獣の姿を光の粒へ砕いていった。

 同時に数本が奥の弥鳥さんの封印へ当たり、甲高い音を立てる。

 次の瞬間、弥鳥さんを覆う銀色の紋様が粉々に砕けて撒き散らされた。

 

「ほら……ボクの言ったとおりでしょ、久凪(くなぎ)くん」

 

 制服に残った鱗のような銀色の薄片をはたきながら、弥鳥さんが得意気な顔で笑っていた。

 

「近いうちにキミは真夜(マーヤー)を使いこなすって」

「まだ弥鳥さんほどちゃうけどね」

「ううん」

 

 弥鳥さんが目を細めると、猫のような釣り目が際立つ。

 

「その力はキミだけのもの……キミがキミにしかできない力を持てるなら、世界だって救えるんだよ」

 

 戯言(ざれごと)だろうか? でも彼女が言うなら真理に聞こえる。

 

「さっきまでずっと未来にいた気がしてん。もう何もかも終わった後みたいで……でも、まだ間に合ったんやな」

「いつだって間に合うよ、思い出せたなら」

 

 そうだ。大切な瞬間はいつもすぐ傍にある。

 俺はククに歩み寄る。そこに獣の姿はなく、へたりこむひとりの女の子が呆れたように笑うだけだった。

 

「僕は……引き立て役だったね」

 

 弥鳥さんがその傍で照れたように微笑んだ。

 

「後は大丈夫だよカルナー。またね」

「うん、じゃあまた、マイトリー」

 

 ククの身体がぼんやり光りながらその姿を薄れさせていく。

 

「クク……それでも、ありがとう」

「勒郎……その意志、それだけの力があるのはきっと……それが君のやるべきことだからだね」

 

 消える前に優しそうな笑顔が残った。あいつの世界に戻ったんだろうか? いや、これは……。

 

「もう引き返さないよ、久凪くん」

 

 ぶれる視界で辺りを見回せば、進む先は古代の神殿めいた建物に呑み込まれている。列車の振動はすでになく、足元にはレンガを敷き詰めた巡礼の道があるだけだ。

 目眩のする勢い……レイヤーを移動してるんだ。

 絵の具をぶちまけたような紫色の空が世界を覆い、廃墟めいた建物群が広がっていた。

 

「弥鳥さん……ここへ戻ってきたんやね。懐かしい……」

「ふふ、そう?」

 

 巨大な猛獣が上げるような唸り声が響き渡って、自分があまりに呑気なことを言ったと分かった。

 向こうにそびえる塔の上空では、鋭い刃を突き立てた恐ろしい歯車が半ば(かし)ぎ、凄まじい勢いで回転している。その直径は以前よりずっと大きく、下は地面に触れるほど、上端は遥か高みにあった。

 その渦に空そのものが巻き込まれ、紫色の中空に浮き出た脈打つ血管や神経らしいものが悲鳴を上げるように痙攣している。

 

「あそこで呑み込まれ、破壊されているのは、この世を構成する骨組み……世界の(ことわり)そのものだよ」

 

 吹き荒れる暴風の中に、砕かれた空の一部だろうか、暗く淀んだ肉片や骨のような欠片が混じっている。

 

「表層じゃ気付かない。だけど世界は変わるんだ。それ以前とは違って……権勢は零落し、虐げられる者が虐げる牙を得る。情熱は諦念に、塵芥は宝石になる。大地と星の関係すら転回するんだ。面白いよね、ボク達は誰も絶対の基準なんて持てないんだから」

 

 金色の装身具を輝かせ、空を見上げたまま弥鳥さんが言葉を(つむ)ぐ。

 懐かしいだって? あのときとは完全に違う。ジャガナートはもう始まったんだから。

 

 ……ァァァアアア……!

 

 遠くから届く絶叫は、大地に積み重なり巨大な回転に()き潰されている黒い塊から聞こえる。

 魄魔体(ヴァーサナー)の群れだ。

 唖然とするほど無数の影達がひしめき合いながら悲鳴を上げ、どろどろした血肉を噴き上げている。

 あれが……彼らにとっての救済なんだろうか?

 

「暗黒の祭典……」

 

 思わず漏らした言葉に、隣に立つ弥鳥さんが振り返る。

 

「うん、そうかも知れない。ボク達がいるのはその最後列ってわけだね」

 

 気付けば周囲にも(いびつ)な影がちらほら見える。廃墟のようなビルの間を、魄魔体(ヴァーサナー)達は巨大な歯車へ引き寄せられるように歩いていく。

 存在するだけで苦しいと感じる心の澱みなら、消滅は救いだから。

 

「弥鳥さん、どうする?」

「うん、一気に突っ切ろう。のんびりしてると影達につかまっちゃう。さあ」

 

 右手を差し伸べる弥鳥さんの自信に満ちた仕草が嬉しかった。

 いつか夕方の学校で飛んだことを思い出しながら、俺は剣を左に持ちかえて彼女の手を握る。

 

風精(ヴァータ)……この嵐を越えてボク達を運んで……」

 

 金色に光る弥鳥さんの手から力が伝わり、それが膨れ上がった瞬間、俺達の身体は風に舞う紙切れのように吹き飛ばされていた。

 

「やっぱり全然すごい……っ」

 

 暴風にあおられて激しく上下しながら、空を駆ける高揚感に全身が沸き立つ。

 渦巻く風に吹き下ろされて地上すれすれを飛ぶと、眼下の魄魔体(ヴァーサナー)が獲物が降ってきたと言わんばかりに騒ぎ立てた。

 

「危なっ!」

「あはっ、ボク達は格好の餌だよね」

 

 何でそんなに嬉しそうなんだ……と俺は思うが、自分の口からも笑い声がこぼれているのが分かる。

 ジャガナートへ近付くほど空中には蒼黒いどろどろや紫色の破片が混じり、風圧に飛行のコントロールも効かなくなる。まるで竜巻の中心を目指すようだ。このまま飛べるのか……?

 地上で(うごめ)く巨大な影達が、金色の光を流して飛ぶ俺達に視線を向ける……あの群れの中に落ちて無事で済むとは思えない。

 

 きひぃぃぃいいっ……!

 

 怪鳥のような絶叫が聞こえ、視界の端から巨大な蒼黒いものが襲いかかった。

 

「久凪くん!」

 

 空中で弥鳥さんと引き離され、俺は自力の真夜(マーヤー)で何とか浮かぶ。

 そいつは墜落するように着地して無数の魄魔体(ヴァーサナー)の巨体を吹き飛ばし、衝撃で何体もが破裂して黒い肉片を撒き散らした。

 

「な……何やあれ……っ!?」

 

 大きな蝙蝠の羽根が何枚も、背中で不気味に揺れていた。

 竜と人間の合の子のような怪物。立ち上がれば俺の何倍の身長になるんだろう。

 日本人形のような黒髪が頭を覆い隠し、そこから(ねじ)れた角が何本も生えている。地面に(こす)り付けていたその頭部を、そいつは痙攣的な動きで持ち上げて空に浮かぶ俺を見つめた。

 その顔にはただ闇があるだけだった。

 

「暗闇の子供……」

 

 弥鳥さんの(つぶや)きが聞こえた。

 その怪物が闇の領域……冥界と呼ばれた世界の力を体現しているんだとなぜか直感できた。世界への尽きることのない憎しみ……。

 

 ふるるるぅぅ……

 

 怪物がカラダをたわめる。

 宙に浮かぶ弥鳥さんが目を閉じ、その装身具がひときわ強く輝く。

 

「我が手に来たれ、畏怖すべき金剛(ヴァジュラ・バイラヴァ)……」

 

 その右手に強烈な光を発する何かが現れた。

 剣? 槍? いや、強大無比の力が視覚に捉えられることすら拒むように、それはただ恐るべき破壊のイメージとして弥鳥さんの右手に握られていた。

 

「くっ……」

 

 俺も慌てて勇者の剣を構える。身体を強化しろ。聖なる衣のイメージを強く保て……。

 そのとき怪物の顔が奇妙に(またた)いた。恐怖が背筋を走る。あれは見たことがある!

 直後、真っ黒な閃光が視界を覆い、落雷のような轟音が鳴り響く。

 思わず閉じた目を開けると、俺を(かば)うように宙に両足を立てて浮かぶ弥鳥さんの後ろ姿があった。

 いまのはエレシュキガルの雷だ。もし弥鳥さんが守ってくれなかったら……!

 

「キミは……世界を壊したいんだね……」

 

 怪物へ呼びかける弥鳥さんの声には、いつにない響きがあって俺は少し驚く。

 その言葉に重なるように、地上を遥か先まで引き裂く亀裂に沿って無数の建物が倒壊し、巻き添えになった何十体もの魄魔体(ヴァーサナー)がカラダを爆散させる。

 弾かれた雷光のせいか、弥鳥さんの武器の威力なのか……その破壊的な力がもたらす惨状に全身の毛がそそり立つ。くそっ、ぼうっとするな! ここはもう物語の舞台なんだ! 

 

 きるひゃあああぁぁぁ……!

 

 絶叫と共に怪物が跳躍し、弥鳥さんと衝突した。

 目の(くら)む閃光と天地を揺るがす衝撃に意識が飛びそうになる。

 力が渦を巻いていた。竜巻……いや海の大渦潮に呑まれたようだ。

 

「弥鳥さん……っ!」

 

 凄まじい勢いで身体が流されていく。

 目もよく見えない乱流の中、何かがぶつかってくる。同じように為す術なく押し流される魄魔体(ヴァーサナー)やその残骸だろう。流されていちゃダメだ。飛べ、そう強く思え。

 一瞬、渦の外へ出た。

 そこで間近に恐ろしい気配を感じ、凍り付く。

 ジャガナート――世界を壊す巨大な歯車がすぐそこにあった。

 

――あなたの苦しみ……あたしに……捧げることを許してあげる。

 

 少女の声が聞こえた気がした。

 

「救済……これが俺の……」

 

 ふたたび渦に呑まれる直前、暗闇の子供と呼ばれたあの怪物が数えきれないほど空を舞っているのが見てとれた。その破壊的な力が戯れのように、魄魔体(ヴァーサナー)を引き裂き黒い泥流へと変える。

 そのさらに奥では、凄まじい歯車の回転が何もかもを磨り潰していた。

 誰かにどうにかできるようなもんじゃない、圧倒的な力だ。

 ざまあみろ……。

 俺は知っていた。この世界に、表層の現実にいては思いもよらない強大な力が働いていることを。

 

「ここで……終わりかな……」

 

 これで抗うものも、怯えるものもなくなる――そう思って力が抜けると、身体を押し流す渦も心地よかった。これでおしまい、その宣告を俺は待ち続けていたんだから。

 

「見つけました」

 

 誰の声だ?

 何かが……俺の襟元を(つか)んで建物の屋上へ引っ張り上げている。

 

「やっぱり勒郎さんでした。うふふ、私達って凄いですね、これだけの人混みの中でも出会えるんですから」

「……来子(くるこ)!」

 

 ウェーブのかかった黒髪の少女が、仰向けに寝かされた俺を見下ろしていた。

 その傍に、俺を引っ張り上げたらしい大きな黒猫が、無数の脚を器用にたたんで座っていた。

 

「そいつは……」

「ええ、みーちゃんです。あのみーちゃんとは違うけど、それでも……この子もみーちゃんなの」

 

 ミーアクラア……来子と同化していた別世界からの来訪者が、ぐるぐると喉を鳴らした。

 

「ありがとう……」

「うふふ、それ最初は私の言った言葉でしたね」

 

 身体を起こすと、建物から地上の混沌とした有り様が一望できた。

 噴き上がる黒い血肉が竜巻のように渦を巻き、向こうの空を覆い尽くす巨大な歯車が恐ろしい音と悲鳴を響かせて回転している。

 

「ここで……何してるん?」

「お祭りに行きたいってみーちゃんがせがむので……。私遠くから見てるつもりだったんです。でも勒郎さんとならあそこへ……」

 

 来子が歯車の中心を見上げる。

 そこに瘴気が湧き出すようなおぞましい穴があった。大きな魄魔体(ヴァーサナー)も数体まとめて呑み込めるくらいの大きさだろうか。あれは……冥界のゲート……?

 

「あの向こうへ行ってもいいなって思ってます」

「あそこへ……? でもあれは」

「あそこから溢れる暗闇の子供達を供物として、ジャガナートはどんどん大きくなってるんです。いまやあそこがジャガナートの中心……」

 

 ミーアクラアが見果てぬ夢を掴もうとするように一声鳴いた。そうだ、こいつもジャガナートに惹かれてこの世界へ来たんだ。あそこが、あらゆる束縛から解放される場所なのか……?

 

「あそこへ行って……来子は何を願うんや?」

「何も……私はもう(おぎな)われてたって、そう気付けましたから。でも勒郎さん、もしもあなたが世界から出ていこうと望むなら、私はその願いを叶えたいと思うの」

 

 血の気の薄い来子の顔に少し朱がさして見える。

 長い睫毛の向こうから、見開かれた瞳が俺を凝視していた。

 何でその願いを知ってるんだ。それに……。

 

「この嵐の中で……あそこまで飛ぶのは……」

「無理でもねえだろ」

 

 振り向くと屋上の一角に巨大なカラスが舞い降りるところだ。

 その背から黒いセーラー服の女が、長い髪とロングスカートを(ひるがえ)して飛び降りる。

 

「ワタリガラス!」

「お前の望み、俺はこの身で聞いたからな。だからこっち側へ戻って来たんだろ?」

「戻って来た……」

 

 そうなのか……俺は戻って来た(・・・・・)のか。

 

「それなら……やりたいことやれよ」

 

 フギンが勇気付けてくれるように鳴いた。

 これは、まるで物語だ。

 吹き荒れる風に髪をはためかせる来子とワタリガラスを眺めながら、俺は、俺達は、この暗黒の祭典……その舞台に上がるくらいの資格はあるだろうと思った。

 

 

 




最終回まであと2回(投稿ベースで4回)です。終わりが迫ってる感じが出せていればいいんですが。


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君の望んだ世界だね ①

 この物語を、俺は届けなければいけない。

 遥かな時空を隔てて、俺はいま為すべきことを必死に思い出そうとしている。

 

「キミがこの世界から出ていけないのは、(くびき)があるからだよね」

 

 あれは夜の歩道橋だった。

 街灯がぼんやり照らす静かな車道を弥鳥(みとり)さんが睥睨(へいげい)していた。

 

「例えば親や友達……大切なひとの存在が、キミを世界につなぎとめる。この世界で為すべきことがあるという幻想がキミを束縛し続ける」

 

 出会ってすぐの頃だ。まだ夏の熱気が空気に溶けていた。

 弥鳥さんの視線が向けられると身体に痺れが走る。その瞳に別世界の気配を感じるから。だから俺は彼女を信頼する。

 

「ジャガナートの中心に至れば、そんなすべての軛から解放される。こうありたい、こうでなきゃ……そうやってキミ自身を制約する幾重もの(かせ)から自由になれるんだよ」

「それ……自分自身も消えてしまいそうやね」

「ううん、キミなら大丈夫さ久凪(くなぎ)くん。その胸にある光……純粋な気持ちの結晶があれば」

 

 あれは賢者の石のことだったんだね。いまなら分かる。でもあれは砕けてしまった。

 いや、本当にそうだったろうか?

 

「ジャガナートの中心は宇宙の法則すら届かないから、そこから時も空間も超えてあらゆる世界へ行ける。ボクがその扉を開いたら……キミは迷わず踏み出して。その胸の光の指す方向へ……」

 

 

 

 

 

 襲いかかる魄魔体(ヴァーサナー)を空中で寸断しながら、俺は視界の端に風に引き裂かれそうなフギンの黒い翼を捉える。来子が叫んでいる。

 

勒郎(ろくろう)さん!」

 

 来子(くるこ)が差し伸べる手をとって、俺はなんとかフギンの背中に戻った。

 ジャガナートの巨大な渦に吹き飛ばされる大小の魄魔体(ヴァーサナー)が眼前を(おお)い、俺達はそれを叩き落としながら飛ぶ。ただ破壊のために剣と魔法を振るう。ぼとん。がつん。飛び散る黒い血肉が降りかかると腐敗した果実のような匂いがする。

 密度の濃い大気がうねる中を俺達は飛ぶ。それは濁流を泳ぐに等しかった。

 フギンの翼の上に軽やかに立って、来子がその濁流に身を任せている。ウェーブのかかった長い髪が生き物のように揺れる。彼女の周りで大きな黒猫の影が(またた)くたび、飛び来る蒼黒い巨体が引き裂かれる。そのどろどろした体液はすぐに来子の全身を染める。その血色の薄い顔を黒く塗り潰す。血肉を(したた)らせる顔の奥から、来子の大きな瞳が俺を見つめる。

 

「生まれて初めて……この世にこんな楽しいことがあるなんて」

 

 来子が笑っていた。

 俺も笑い返した。

 世界を壊す嵐の中で、俺達は雨に濡れながらはしゃぐ幼児だった。

 どうしてそこ(・・)へ向かうのか、俺にはもう分からなかった。

 来子は俺の願いを叶えたいと言ってくれた。それほどの願いが俺にはあった。だけどいまはこの瞬間だけがある。

 胸が火傷するように熱い。

 

 奇怪な絶叫が響く。

 世界を暗黒に染める雷光が走り抜け、大気を焦がす。

 

「暗闇の子供か……!」

 

 フギンを駆るワタリガラスが声を上げた。後ろ姿しか見えないが、いつもの好戦的な笑いを浮かべているに違いない。荒れ狂う大気に翻弄される俺達にとって、そのドラゴンめいた怪物は恐ろしい脅威なのに。

 蝙蝠の羽根を何枚も広げながら風を裂くように飛び、破壊を振り撒く冥界の使者。大小様々なその竜人達が空を覆い尽くす。

 

面白(おもしれ)ぇ、そろそろ終演らしい展開になってきたぜ」

 

 そうだ。物語終盤の絶望的な状況は、最後の奇跡を演出する。

 崩れた塔の残骸が、黒い泥流と化した魄魔体(ヴァーサナー)の海から姿を見せていた。そこは生き残り達の砦だった。6人、7人……いやもう少しいる。人と動物が混じったような、魔物めいた姿。

 

「あれは……来訪者!?」

「そうだな! あははは、この状況でもジャガナートの中心を目指す往生際の悪い奴らだよ。勒郎、俺達と同じだな!」

 

 フギンの操縦席からワタリガラスが振り返る。はためく長い黒髪の向こうに、意外なほど無邪気な笑いが見えた。こいつもはしゃぐ子供だ。

 不時着するようにその砦に降り立つとき、俺とワタリガラスは同時に全力の真夜(マーヤー)を正面にぶつける。

 暗闇の子供の黒い雷光が直撃する。

 天地が砕ける衝撃。

 だけど俺にとっては2回目だ。今度は持ちこたえる。意識を保てる。

 ぶつかり合った力が周囲に飛び交う影を一掃して、視界が晴れる。

 砦は健在だ。

 ここと同じように黒い海から突き出した建物の残骸ごとに、それぞれ来訪者達が集まっていた。その中にリエメイと名乗ったあの白い姿もあった。角と翼を生やした獣の少女が一瞬、その笑みを向ける。

 そして、どこかに弥鳥さんの気配があった。

 俺達3人も飛び入りだ。

 言葉は交わされない。

 だけど皆が同じ興奮の中にあった。

 空から襲いかかる無数の暗闇の子供に相対し、視界の半分を埋める巨大な歯車の傍で、撒き散らされる破壊に(あらが)って戦っている。

 ここが祭典の最前列だ。

 灰と黒と紫の世界に、魔術的な光が飛び交い、鈎爪と牙が剥き出しになる。

 遥かな高みに見える歯車の中心……皆があそこを目指していた。

 

「いまここで終われるなら……私最高に幸せです」

 

 来子の(つぶや)きが聞こえる。

 ああ、俺も同じだ。この異形の世界で、全身全霊を尽くして戦える。俺の歯車が世界と噛み合っている。俺達は笑っていた。

 

魔霊を遣う者(ゲンドリル)……」

 

 ワタリガラスの右手から黒い杖のような影が伸び、そこから黒い無数の獣達が飛び出して俺や来子を、そして同じ砦にいる来訪者達を守るように取り囲んだ。狼、カラス、蛇やトカゲのような黒き守護霊が、暗闇の子供の爪や牙を受け止める。

 この女は仲間だと見なせば徹底して同じ側に立とうとする。漆黒のセーラー服をはためかせながら矢継ぎ早に真夜(マーヤー)を展開するその存在は、攻防両面でパーティを助ける強力な魔法使いだ。俺は剣を振るう戦士より、彼らの万能の魔法に憧れていた。

 

「すごいな、ワタリガラス」

「これはついでだぜ勒郎。俺には俺の目的があるからな」

 

 隣で俺を見下ろす長身の女が面白そうに笑うと、その胸元に緑の光が見えた。賢者の石の欠片……。

 

「あそこに辿り着いてからは助けねえぜ。お前はお前のやりたいようにしろ」

「世界を……変える気がないならって……」

「ああ?」

 

 空からの電撃を勇者の(つるぎ)で弾き返し、俺はふたたびワタリガラスに話しかける。

 

「お前が言ってたんやワタリガラス。世界を変える気がないなら、せめて溜め込んだドロドロを吐き出してから死ねって」

「あはははは……真理じゃねえか?」

「うん。俺は世界を変える気なんかあらへん。せやからこれは、ただドロドロを吐き出してるだけや。この世界でやりたいことなんかない。でも……あの向こうに」

 

 空から襲いかかる怪物に、俺は氷雪の嵐を叩き付ける。その向こうに歯車の中心が見える。

 

「あの向こうに何かあるってことは分かるから……そこを目指してるだけなんや」

「ああ……それで勝てればいいな勒郎。お前の言ってるのは……勝たねえと意味のない想いだぜ!」

 

 ワタリガラスが複雑な動きで右手を振るうと、俺達の砦に取り付いていた3、4体の闇の子供を恐ろしく派手な爆炎が薙ぎ払い、引き千切られた肉片が宙で焼き尽くされて灰になる。まるで……魔法使い(メイジ)最強の攻撃呪文。

 

躊躇(ちゅうちょ)するなよ勒郎」

 

 燃え上がる炎を背景にワタリガラスが振り返る。影になった顔の中で瞳だけが紅く光る。

 

「その扉が開いたとき、戻ろうなんて思うんじゃねえぜ。最後の最後でその一歩を踏み出せねえ……そんな物語は死ぬほど見飽きたんだ俺は」

「……もしそうなら、始めっから向こうへ行こうとか思わへんよ」

「だといいな」

 

 妙に優しげなワタリガラスの笑みに、一瞬あの少女の姿が重なった。メガネをかけて上目遣いにこの世を睨む女の子。世界を見透す賢者の石の力はもうないはずなのに。

 

「人それぞれ辛いことあるやろ。そこで何とか生きてるんやん」

 

 フギンの背に乗り込んでふたたび舞い上がるとき、聞き馴染んだ声が聞こえた。

 

「……あやの?」

 

 耳元で(うな)る風がつくった幻聴か?

 周囲の戦いの中に、民族衣装の女が戦っている姿が見えた気がした。

 かき混ぜられる大気が意識を揺さぶる。

 

「そうやって現実から抜け出せる時期があるってことには意味があるって思うんよ」

 

 平沢先生。いや……夢幻少女・平沢久遠(くおん)が、オレンジ色のワンピースを煌めかせながら、襲いかかる怪物へ魔法の矢を放っている。

 錯覚だ。幻だ。

 あのひとの戦いはきっと、こことは違った、だけど重なりあった別の現実で繰り広げられている。

 きっとこっち側も向こう側もないんだ。

 俺達は戦いの中にいる。この世界で戦いは避けられないから。

 

「勒郎左だ!」

 

 分かってる、ワタリガラス。

 俺は天から招来した雷をその怪物へ撃ち落とす。勇者だけに使える最強の魔法……いまならイメージできる。

 尽きることのない怪物の群れの前に、来訪者達は引き裂かれ、砕かれていく。しかし何人かは辿り着けたはずだ。あの歯車の中心に。そこで望んだことが叶ったのか俺には分からない。

 来子が何か叫んでいる。すぐ目の前に迫る巨大なドラゴンめいた影、その闇の顔を俺は眺める。

 お前が終わりを告げてくれるのか?

 愛しさすら感じていた。

 

 閃光が世界を満たす。

 ちりちりと肌を刺す感覚。その向こうから声が届いた。

 

「やっと見つけた、久凪くん」

 

 弥鳥さんが笑ってる。

 俺の立つフギンの翼の傍を飛ぶその姿が懐かしい。はぐれたのはついさっきなのに。

 

「元気そうだな、世界山(メール)からの来訪者」

「あはは、キミもね、漂流学園のひと」

「元、だよ。一緒に行くか?」

「ふふ……ボクと久凪くんに付いてきてもいいよ」

 

 とん、と身軽な仕草で俺の隣に降りると、弥鳥さんは例の恐ろしい武器をフギンの前方へ構える。

 

「弥鳥さん」

「うん、行こう。もうすぐそこだよ」

 

 もう一方の翼に立つ来子が不思議そうに様子を眺めている。

 

「勒郎さん?」

「来子、ありがとう。このままジャガナートの中心まで行こう。そこまで付き合ってくれるんやったら」

「そんな……そんなロマンティックな言葉ずるいですよ……」

 

 ん? そうだったかな。

 赤くした顔を伏せる来子から視線を()らし、俺は正面に向き直る。

 弥鳥さんの凄まじい真夜(マーヤー)が一直線に宙を穿(うが)ち、一掃された進路をフギンが突き進む。

 その先、視界をふさぐ巨大な歯車、光すら歪ませる圧倒的な存在の中心にぽっかりと暗黒の穴があった。

 大きな洞窟のような(うろ)

 

「これが……ジャガナートの中心……」

 

 呟きはほとんど声にならなかった。

 ワタリガラスも来子も黙ったまま、ただ正面の暗闇を見つめていた。

 

「そう、ここが世界のあらゆる束縛から解き放たれる場所……」

 

 

 

 

 

 俺達は暗闇へ飛び込んだ。いや……飛び降りたというべきか。

 そこは天も地も無い巨大なすり鉢状の空間だった。

 空間をぐるりと囲む壁が“下”になるようだが(遠心力で疑似重力を作る宇宙コロニーのように)、すり鉢状に斜めになっているので足を滑らせると奥へ落下しそうだ。

 フギンの姿が消えて、俺達はそこにばらばらと降り立った。

 

「ここだ……! ようやく解放できる、俺の手に入れた力……!」

 

 奥へ走っていくワタリガラスの声が奇妙に(ひず)んで反響した。

 

「みーちゃん……」

 

 来子がぼんやりと自分の影から現れる大きな黒猫を見つめている。ミーアクラア……来子に同化したそれが何かを求めるように奥へ向かって鳴いている。

 そこには他にも来訪者達の姿があったが、どこかおかしい。あれはカラダが潰れたように見える。あっちのはいくつもに分裂しているようだ。

 

「久凪くん、奥へ急ごう」

 

 弥鳥さんの手を取ると、身体が浮いてすり鉢の底へとゆっくり落ちていく。

 宇宙に放り出されたようだ。

 暗く静かな空間……だが心はざわめいていた。

 激しい感情が沸く。

 それが喜びなのか怒りなのかも分からない。

 思い出したこともない過去の会話が蘇る。いつか眺めた夕焼けに沈む街。陽光を受けて揺れるカーテン。脈絡のない記憶の断片。

 懐かしかった。1000年も昔の記憶に巡り合えたような、信じられないほどの懐かしさ。

 涙が燃えるように熱い。

 内側に閉じ込めていたものが蓋を破って溢れ出していた。

 身体中に痺れが走り、ちくりとした痛みに目をやると、手が内側から圧されるようにひしゃげて見える。いや、背骨を軸に全身が(ねじ)れていくようだ。

 

「弥鳥さん……どこや……?」

 

 さっきまで一緒に浮かんでいたのに。

 涙に歪む視界の中で、洞窟は渦を巻くように脈動していた。

 暗闇の中で自分がどこへ向かっているのかも分からない。

 その闇の深淵に少女がいた。

 

 

 

 

 

「あなたを……待ってたの……」

 

 上下のない暗黒の中から、彩飾で縁取られた大きな目が俺を見つめる。

 少女の伸び放題の髪や小さな身体を、輝く石や金属が豪奢(ごうしゃ)に飾り立てている。

 彼女がジャガナートだった。

 

「何で俺を……」

「この場へ来た誰もを……あたしは知ってるわ。いまここにいるのがあなたであることに理由はないの……ただそうだったというだけ」

 

 少女の声が水面に波紋を起こすように、俺の意識にさざ波を立てる。

 いつの間にか少女は目の前にいた。

 異形の瞳が俺をじっと見据える。

 胸の奥が焼けるように熱い。

 これはたぶん、気の遠くなるほどの間待ち望んだことなんだ。

 ふと、すぐ傍に弥鳥さんの気配を感じた。

 

「ほら、あそこだよ久凪くん。向こう側への扉だ」

 

 ジャガナートの背後の暗闇にその光があった。叢雲(むらくも)を透かす月のように(かす)かな光。

 

「手を伸ばして……さあ、あの向こうへ」

 

 その光は感情の奔流を受け止めるように優しく瞬いていた。

 気が付いたのはそのとき……ジャガナートの足元に何かがいた――鳥肌の立つおぞましいものが。

 この世界への強烈な憎悪と怨念が、気の遠くなるような深みから湧き出していた。

 

「冥界の……」

 

 何が起こったのか分からなかった。

 そこから真っ黒な何かが“こちら側”へ手を伸ばした。

 瞬間、世界を壊すような轟音が洞窟を満たし、暗黒の光が外へ放出された。エレシュキガルや闇の子供の雷光とは比べ物にならない凄まじさだ。

 

「来子! ワタリガラス……!」

 

 俺は洞窟の深淵から後ろを振り返る。

 黒い光は洞窟の内側を半壊させ、来訪者達の肉体をガラスのように砕いていた。

 頭部を失くした来子の身体が壁にぶつかり、4つ5つの断片に割れるのが見えた。

 

 足りないよ。足りないよ。もっともっと壊して。この世に生きるすべての人間を壊して。のうのうと当たり前に生きてるすべての人間を。幸せだと笑う人間も不幸だと騒ぐ人間も。

 

 俺の傍に立つ蓬髪(ほうはつ)の少女の足元から、それが()い出してきた。

 闇を()した闇、暗黒そのものが凝固したようなそれは人の形をしていた。

 ジャガナートの少女の瞳がじっとそれを見つめていた。

 誰かが呼んでいる。黒いセーラー服を来た長身の女が遠くからこっちを見ている。

 いや気のせいかも知れない。左肩から斜めに引き裂かれて下半身のない状態で生きているとは思えない。

 

「弥鳥……さん……」

 

 俺は何をすべきだったのか憶えていなかった。

 ただ胸の奥が熱い。

 足元から現れるそれに背を向けて、俺は少女の後ろにある幽かな光へ手を伸ばす。

 それに触れたとき、胸の奥に抱え込んできたすべての痛みが溶けた気がした。

 

 

 




ナズグル(指輪の幽鬼)って怖いですよね。怖いんですが、あれが空からやってきたらもういいや、ここで終わりなんだと思えるんですよね。


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君の望んだ世界だね ②

 陳褘(チェン・フイ)がまだ少年のあどけなさを残した顔を上げると、そこに広大無辺の大海が広がっていた。

 天の日輪は黄昏の光を静かに放ち、渺茫(びょうぼう)たる光景を薄闇が優しく彩っている。

 

 ここはどこだ?

 皇帝が楊州へ引き込もってから都の不穏な気配はいや増すばかりで、このような静けさが訪れる余地など城市の外縁にこびりつく陋巷(ろうこう)にすらあり得ない。

 いや、そもそも大海を臨む土地が都であるはずがない。俺は何かを勘違いしている……。

 

 茫然と寄る辺ない海を眺めていると、遠く霧のけぶる彼方に忽然(こつぜん)とそれが浮かんだ。

 この世のものとも思えない霊妙(れいみょう)なる山の形貌。

 

 あの山を……俺は知っている。

 世界を囲繞(いにょう)する九山八海(くせんはっかい)――その海面から八万四千由旬(ゆじゅん)もの高みに(そび)え、諸天の住まう世界へと触れる須弥山(メール)

 あまりにも遠い――しかし確かに在る、理想郷。

 

 永劫のように()いだ足下(そっか)へ目をやると、薄紅(うすべに)色の(つぼみ)水面(みなも)に顔を覗かせ、ぽんと音を立てて美しい(はす)の花を開かせた。

 知らずその蓮華に足を乗せる。

 海面を先導するように蓮は次々と現れ、ぽん、ぽんと澄んだ音を響かせる。

 暮れゆく世界を、その(はかな)げな色が灯火(ともしび)となって照らしていた。

 蓮華から蓮華へ足を運びながら、身体の重さを感じることなく、陳褘(チェン・フイ)はやがて翔ぶように海面を駆ける。

 

 天には銀色の月があった。

 その(かそけ)き光が、(いただき)見果てぬ世界山の偉容を照らす。

 海から、登ることなど思いもつかぬ高みをただ見上げる。

 その陳褘(チェン・フイ)の身体を風が支え、優しく抱えるように山頂へと運ぶ。

 そこに、それがあった。

 人の身で辿り着くことの叶わぬ静謐(せいひつ)の境地……。

 

 目覚めたとき、帰郷を果たさぬままに皇帝が弑逆(しいぎゃく)されたとの噂が都を駆け巡っていた。

 政変が起こる。

 いや、それはすでに起こっていたが、いま史書に記される歴史として(あらわ)れた。

 やがて群雄を滅ぼし、新しい帝国が生まれる。東西に(またが)る大陸の東半分を三百年に渡って支配する世界帝国が。

 しかし陳褘(チェン・フイ)はその時代の変転を(かえり)みない。

 彼の視線は遥かな西域、天山山脈の向こう側を捉えていたからだ。その先にある、人の世の苦しみから超越した境地を。

 天竺――だがそこへ至る長い旅路を踏み出すにはさらに11年の時を待たねばならない。幼い頃に洛陽で玄奘の戒名を与えられた彼は、そのとき17歳だった。

 

 

 

 

 

 それは誰の物語だ?

 

 ほんの刹那(せつな)に折り重なる無数の物語が脳裡をよぎる。

 両腕の無い法師に仕えて神の像を彫る少女がいた。

 流浪の皇子を(まも)傀儡子(くぐつ)の姉妹がいた。

 それは向こう側を目指した者達の物語――。

 そのどこかに俺自身の声が響いていた。

 

――助けて……。ここから……。

 

 世界に殺されそうな貧弱な魂の上げる声――。

 

弥鳥(みとり)さん……」

 

 自分の言葉で我に返った。

 暗く静かな空間が果てしなく広がっていた。

 星々の銀色の光が世界を照らし、透き通った大地がその光を映して優しく輝いていた。

 ここはどこだ?

 いや、この言い様のない懐かしさ。俺はここを知っている。

 光も音も幽かな世界……なのに満たされている。視覚や聴覚を超えて世界が知覚できる。

 

「弥鳥……さん……?」

 

 現実感を(つか)もうと、もう一度声を出してみた。声は無限の平面世界へ広がっていった。

 その声を上げるまでどれほど(たたず)んでいたのか。時間の感覚がない。

 

 誰かいないのか?

 次にそう思う。

 不安はない。きっとここでは誰も傷付かないと直観している。

 

 こん。こおん。

 

 歩くと金属楽器を叩いたような耳当たりの良い音が小さく響く。

 どれほど歩いていたのか。5分……あるいは5年か。

 やがて、ユークリッド幾何学的な単調な世界と思えたそこに、疎密を感じる。

 ここには中心があり、外縁がある。

 中心へ向かうほど世界の密度が濃くなる。

 さっきまでただの平面に思えたのに、そこに無数の構造体を見つける。

 まるで巨大な宮殿……いや都市というべきだ。

 無人のまま静かに星を照り返すその都市の中心に、巨大な塔があった。地の底から伸びて天を貫く圧倒的な存在。

 その頂上を見上げようとして目眩(めまい)に襲われる。

 果てがないのか?

 

「大海より(そび)えること八万四千由旬(ゆじゅん)の高みにその山の(いただき)ありき。頂より昇ること十二万由旬(ゆじゅん)の涯てに七宝(しっぽう)宮殿(くでん)ありき、無量の諸天ここに住す」

 

 透き通るような声だ。

 細胞の隅々に、波紋のように心地よい振動が広がる。

 誰だろう? 懐かしい声のようにも聞こえる。

 

「あなたの見るそれこそが世界軸(アクシス・ムンディ)。拡散する世界をつなぎとめる象徴……」

「誰……ですか? どこに……」

「あたしの声が聞こえるのなら、あたしの姿も見えるはず」

 

 そのとおりだった。

 いつの間にその都市へ……人の身にはあまりにも巨大な建築群の中へ入り込んだんだろう。

 無数の立体が複雑に積み上げられている。永遠のような時間、いくつの回廊を越え、部屋と呼ぶには広大過ぎる空間を抜けたのか。

 辿り着いたその広間は、一辺が見通せないほどの距離を持ち、天蓋は闇夜に消えるほどの高みにあった。

 そこに、微睡(まどろ)みながら中空に浮かぶ、その姿があった。

 透明かと思えるほど薄い衣を幾重にも(まと)い、目を閉じたその顔には微笑があった。

 

「あの……お邪魔します」

「ようこそ世界山(メール)へ……可愛いお友達」

 

 その姿を見上げながら、俺はほっとした。慈愛に満ちた声だ。

 

「ここが……世界山(メール)なんですか」

「そう……あなたがかつていた、そしていずれ還り(きた)る静謐の場所」

「静謐の……」

 

 そうだ、ここは静かで……こんなにも心が落ち着くことなんて絶えてなかった。

 

「ええ……。東の哲学が涅槃寂静(ニルヴァーナ)と呼び……西の哲学が平静なる感覚(アタラクシア)と呼んで追い求めた境地に最も近い場所」

「……あなたは?」

「いま、あなたの知覚体系に合わせて顕現し理解されるあたしの姿、あたしの言葉は、友愛……慈しみ……寄り添う心(マイトリー)。人の創った無数の価値観……国、信仰、芸術、そして家族……そのあらゆる束縛を超え、ただひとりあなたに寄り添うものとして、東西文明の狭間であたしは生まれたの。あたしの名は、弥勒(マイトレーヤ)

 

 その言葉と共に膨大なイメージが流れ込んできた。

 無数の声、無数の思考が、途方もない時間の重なりの中で木霊(こだま)していた。

 しかしそのすべては、この宮殿の中では瞬きの間にも満たず、羽虫が床に降り立つ音よりも静かだった。

 

――ボクはね、とても静かなところにいたんだ。あんまり静かだから、感情が揺れることもなく、時間すら流れなかった。

 

 弥鳥さん、君だったのか。

 

「そう……あたしはここで、外の声に耳を澄ましている。そして何度もここから出ていくの……その人に知覚される姿形を持って」

「どのくらい……そうしてるんですか」

 

 その時空の広がりに意識がついていかない。弥鳥さん、これが君のいた世界なんだね。

 

「あたしの微睡みは一瞬かも知れないし、世界が生まれて消えるまでより長いかも知れないわ。それを数えるのは無意味なの……あなた達の知覚する時間は幻なのだから。それでも……例えばあたしの来訪を待ちわびる人々は、その時を表現しているわ。つまり……56億7千万年と」

 

 数え切れない世界の折り重なる時間が見通せる。

 弥鳥さんがここにいながら俺の前に現れたように、俺がここにいるいまも、別の俺はあの世界で暮らしているんだ。時間はひとつじゃない。

 そのとき、僅かな不協音に気付いた。ここが世界の中心に近いとすると、それは遥かな外縁から聞こえた。

 

「彼らの声が聞こえるのね。それはあなたの(きた)る道。思い出せるなら、そこへ行けるでしょう……」

 

 その声には、世界の涯てへ手を伸ばす鮮烈な感情があった。

 見果てぬ先へと歩み続ける、無数の探求者達がいた。

 その声に意識を傾けたとき、凄まじい勢いで吹き飛ばされていた。

 

「あなたの前に道があるわ。故郷へと帰還するその道は、常にあなたの前方にあるの……」

 

 その透き通った声が脳裡に残響する中で、身体は世界の“外縁”へ飛んでいた。

 

 

 

 

 

 星々の輝きが透き通った平面に優しく反射する世界山(メール)の世界――そこは弥鳥さんの言ったとおり、静かな、苦しみのない場所だ。

 そこに孤独はなかった。

 彼らの声がさざ波のように木霊していたから。

 

 外縁へ向かうほどに、その声はクリアになった。

 声に耳を澄ますと、物語が現れた。

 どれほどその静謐の空間に俺はいただろう……まさしく世界が起こり、滅びるほどの年月だったかも知れない。

 

 その中で数え切れない物語の断片に身を浸した。

 理想郷へと至る道標(みちしるべ)を求めて、仏僧と3人の弟子が怪異溢れる大陸の交易路を旅していた。

 絢爛たる文化の結晶と教典を求めて、4隻から編成された使節船団が海を渡り、大陸を目指していた。

 もうひとつの世界を希求する物語……。

 あるときその万華鏡の中に、俺自身の姿があった。

 

 

 

 

 

久凪(くなぎ)くん……ステラマリスが動いてるよ」

 

 サンルーフから身を乗り出して星空を眺めていた弥鳥さんが、シートへ身体を落とした。

 

「分かってる。ついに来たんやね」

 

 星の光を反射して広がる茫漠とした世界に車を走らせながら、俺は助手席の弥鳥さんを眺める。 

 何だろう、懐かしさがこみ上げる。

 いや、いまはそれどころじゃない。それ(・・)がとうとう姿を見せるんだ。

 静かに広がる世界山(メール)の外縁を放浪した俺と弥鳥さんの旅が、ひとつの到達点を迎える。

 

 やがて暗い視界の彼方に赤い火が見える。

 俺達は車を置き、闇の中で妖しく映える炎へと歩いていく。

 ひとつの都市を焼き、世界山(メール)の構造体を分解する災厄がそこに生まれている。

 だけどそれも、これからここに顕現するものに比べればそよ風だ。

 

「やあやあ……世界の終わりへようこそ」

 

 外縁が世界震と重なる境界を前に、姉妹が立っていた。

 闇を照らす炎を背景に、白衣(しらぎぬ)緋袴(ひばかま)という巫女装束の少女が目を閉じて微笑んでいる。その隣に、立烏帽子(たてえぼし)を冠り刀を差した男装の少女がきっとこちらを睨んでいる。

 

氷鏡(ひかがみ)。キミの視る未来もそうなの?」

 

 周囲で崩れゆく構造体に目をやりながら、弥鳥さんが尋ねる。

 氷鏡は白衣を(ひるがえ)して右手をひと振りすると、(まぶた)を開き、青く光る盲目の瞳を向ける。

 

「さあてねえ……だけど我々と人類史の未来との間に立ち塞がる4000万年の暗黒、その先を見透せるものなら見てみたいものだね」

「じゃあ、試してみよう」

 

 俺のその言葉が引き金を引く。

 境界の向こう、空の一画に闇夜より濃い暗黒が凝り固まり、それ(・・)がこちら側へ滲み出る。

 磨き上げられた水晶のような世界山(メール)が、それまで反射していた星々の光を失っていく。

 

「あれが……暗霊斎団(あんりょうさいだん)の先触れ……」

 

 燃え上がる都市を前に、上空から侵入するそれ(・・)を待ち構える者達がそこにいた。

 (みお)朱鳥(あけみとり)耿介(こうすけ)、そして氷鏡と(かささぎ)……。

 

勒郎(ろくろう)、下だ!」

 

 (みお)の叫びで跳び退いた足元が、流砂に呑まれるように沈んでいく。

 辺りの構造体が見えない手で握り潰されるようにひしゃげ、引きずり込まれていく。瞬く間にそれは都市の一画に穿(うが)たれた巨大なクレーターと化し、その底から得たいの知れない何かが這い出そうとしていた。

 天を覆う巨大な暗黒が咆哮していた。可聴帯域より低いその絶叫が世界を震動させる――。

 

 

 

 

 

 思い出した。夢から醒めるように。

 

 

 

 

 

 あのとき……14歳の冒険の中で、俺は確かにあの暗黒を垣間見た。

 この物語を紡ぐ俺が、いま身を置いている重苦しい戦い――無数の人格が永遠に失われ続けるあの暗黒を。

 身動きのとれない暗がりの中で、身体が砕けるほどの恐怖に苛まれながら、俺は生き延びている。

 

 なぜ俺は、遥かな過去を物語ったんだろう。

 あのとき……14歳の俺は静謐の世界を望み、辿り着いた。そしてその先に、この暗黒がある。

 

 いや……違う。

 時間は幻だ。

 だからあれは遥かな過去の記憶だが、いま目の前で進む物語でもある。

 まだだ。

 俺はまだこの物語から目を逸らしちゃいけない。

 その瞬間……為すべきことができるように。

 

 

 

 

 

「ここが、君の望んだ世界だね」

 

 青と白の制服姿の少女が立っていた。左腕には生徒会執行局と記された腕章。

 (おおとり)殊子(ことこ)――彼女はそう呼ばれていた。

 そう、ジャガナートから辿り着いた世界山(メール)で、幾星霜に渡る物語の反響に身を浸していたあのとき、俺は彼女に出会った。

 

「鳳……さん?」

「うん。よろしく、久凪勒郎くん。あたしは君の物語を……無数の島世界を巻き込むジャガナートの物語の帰結を確かめるために来たの」

「え……? 無数の島世界を巻き込むって」

 

 好奇心に満ちた殊子の視線が外の世界を眺めるように星空を仰ぐと、長いストレートの黒髪が揺れた。

 

「冥界のゲートからやってくる暗黒を(にえ)にして、ジャガナートの力は凄い勢いで広がってるよ。どれだけの島世界を巻き込むんだか……恒真の守護者(アガスティア)は大変そうだね」

「それ……俺のせいなんですか」

「誰のせいでもないんじゃない? そこに興味はないの。あたしはただ、漂流学園ポータラカの意志……世界再魔術化計画のために物語粒子を回収しに来たの。それはたぶん君の物語だから」

 

 殊子が何を言ってるのかほとんど分からない。

 “向こう側”を求める心、それが物語の萌芽だと彼女が説明する。

 その心が世界に座標系を定める。物語の座標系に従って方向性(ベクトル)が生じる。ベクトルに沿って物語粒子が流れる。

 それが彼女の求めるもの。

 

「久凪勒郎くん……君の物語はジャガナートが断ち切った。それでもいいんだけどね……この静かな世界にとうとう君は辿り着けたんだもの。だけどもし願うなら、あの物語に立ち戻ることができる。あたしの虚海船……世界を魔術化する杖(メルクリウス)に乗ればね」

 

 薄闇の世界で、殊子の瞳がエメラルドグリーンに光っていた。

 何者なんだ。世界を渡り歩く奇術師だろうか。

 だけど目の前に選択肢があることだけは、俺は理解している。

 立ち戻る……あの世界へ?

 

「俺は……」

 

 殊子がじっと見つめている。

 その瞳を俺は知っていた。それは別世界につながる扉だ。

 俺は何を求めたんだろう。

 苦しみのない世界?

 

「いや……俺は向こうへ行きたかった」

 

――故郷へと帰還するその道は、常にあなたの前方にあるの……。

 

「そうや、戻るんとちゃう……この先へ進むために還るんや……」

 

 ()いだ世界に風が吹いた気がした。

 

「これが物語なんやったら、その先を見たいから。鳳さん……還りたい。あの世界へ」

 

 俺の言葉を聞いて、殊子がすっと右手を天へ伸ばす。

 舞台劇の幕開けを示すように。

 

「その願いを叶えるために、漂流学園は現れるの」

 

 幾何学的な模様が中空に浮き上がっていた。何か巨大な構造体がそこから姿を現そうとしていた。

 

「それじゃ連れて行くよ。物語の終焉へ」

 

 

 




静謐の世界をようやく描けました。この世界を描くためにこの話を書き始めたようなものです。次回が最終回です(毎回と同様2回に分けて投稿しますが)。


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世界を救えると思ってた ①

「閉じた物語が真に駆動することはないわ。物語とは、自分自身を規定し、幾多の制約を自らに課しながら、それを逸脱し続ける力……あたしが求めるのはそれなの!」

 

 広大な船室を横切るように歩きながら、(おおとり)殊子(ことこ)が話していた。

 そこは何十人もが集う司令室に見えたが、いるのは黒い長髪をなびかせる殊子と、正面に映された星々のヴィジョンを眺める俺だけだ。

 世界を魔術化する杖(メルクリウス)……その異形の船が、世界山(メール)から――永遠の安らぎから、俺を連れ出した。

 

「鳳さんは……つまり、逃げるなって言いたいんですか?」

「ううん?」

 

 考え事をするように歩いていた殊子が立ち止まり、面白そうに俺を見つめる。

 彼女の背後のヴィジョンが、無数の星の光を収束させて眩しさを増していく。目的地が近いらしい。

 

「逃げることもまた君の物語だよね! だって痛みを恐れるから、不安から逃れようとするから、物語は生まれるんだ」

 

 恐い――その感情が、殊子の言葉を聞いているうちに嵐のように渦巻いた。

 なぜ俺はふたたび戻ろうとしてるんだ?

 身体に、心に襲いかかる痛みが恐ろしい。あの世界では、刃の雨の中を歩いているようだった。

 

「あたしは最前線でその物語を追いかける」

 

 すぐ目の前に、緑色に光る殊子の瞳があってぞくりとする。

 俺を覗き込みながらまったく別の何かに焦点を合わせた異形の目。こいつもワタリガラスと同類だ。まともな人間じゃない。

 

「……そう、魔子もあそこにいるね。君があたし達をつなげてくれた。そしてあそこにはもっと多くの物語が収束してる」

 

 殊子が正面のヴィジョンに向き直る。

 そこにぼんやり輝く光の玉が映っていた。懐かしさ……と同時に、寄る辺のない不安さを感じた。

 

「それでも……どれほど多くの物語が語られたとしても、いま君の前に立ち現れる物語はただひとつなんだ。流れにぶつかりながら火花を散らして、それはそこにある……」

 

 その言葉の最後の響きが脳裡に残るうちに、俺は暗闇に投げ出されていた。

 

 

 

 

 

「あなたを……待ってたの」

 

 彩飾で縁取られた大きな目が、暗黒の中から俺を見つめる。

 伸び放題の髪を豪奢(ごうしゃ)に飾り立てた少女。ジャガナートがそこにいた。

 

「ここは……!」

『さあ、君の物語を聴かせて』

 

 殊子がその存在を虚海船の向こうに消すのが分かる。ああそうだな。ここから先は俺の物語だ。

 

「この場へ来た誰もを……あたしは知ってるわ。いまここにいるのがあなたであることに理由はないの……ただそうだったというだけ」

 

 少女の声が意識にさざ波を立て、遥かな過去の記憶が甦る。ここは世界の(ことわり)を破壊する歯車の中心、すり鉢状になった洞窟の奥。

 そしてこのあと何があったのかを俺は思い出す。

 ふと、すぐ傍に弥鳥(みとり)さんの気配を感じた。

 

「ほら、あそこだよ久凪(くなぎ)くん。向こう側への扉だ」

 

 ジャガナートの背後の暗闇にその光があった。叢雲(むらくも)を透かす月のように(かす)かな光。

 しかし俺が見つめるのはジャガナートの足元だ。

 吐き気がする。

 何ておぞましいんだ。

 名付け難いそれ(・・)が現れようとしている。この世界への強烈な憎悪と怨念。

 しかし俺はそれを知っていた。

 

「久凪くん……? どこ見てるの」

「弥鳥さん、俺はまずこいつに向き合わなあかんかったんや」

「だめ……!」

 

 真っ黒な何かが“こちら側”へ手を伸ばす。

 俺もまた手を伸ばし、その手に重ねる。

 この世を暗黒に染める凄まじい憎しみが溢れ出す瞬間、俺はそれ(・・)に向かって呼び掛けていた。

 

「……勒郎(ろくろう)

 

 世界を壊す轟音が洞窟を満たし、暗黒の光が視界を(おお)う。

 背筋を強烈な痺れが走り、それ(・・)が脳内で叫んだ。

 

 足りないよ。足りないよ。もっともっと壊して。この世に生きるすべての人間を壊して……!

 

 そうだ。

 俺がそう思った。

 生きとし生けるものへの憎悪……全部、俺の願いだった。

 

 

 

 

 

 闇の中でサイレンの音が聞こえる。

 都会の夜のざわついた気配と走り回る車の音からほんの少し距離をとった、稲荷神社の暗がりの中に俺達はいた。

 あれは小学2年生が出歩くにしては遅い時間だった。

 生ぬるい空気が震えていた。

 

「救急車や……」

 

 鳥居の前に立つ彼方(かなた)が、わざわざ振り返って言った。

 サイレンに耳を澄ますように周囲を見回していたあやのが、何か言いたげに俺を見た。

 

「何や……もうちょいやったのに」

 

 コックリさん……鳥居をゲートに“向こう側”へ行く儀式の中断を残念がるように俺は(つぶや)いた。それは向こうへ踏み込むタイミングを逸した言い訳にも聞こえた。

 あのとき、どうして鳥居を越えなかったのか?

 世界がそのままである残酷さを目の当たりにするより、いつでも向こう側へ行ける魔法を残しておきたいと思ったんだ。

 それとも、サイレンが自分のマンションの方から聞こえてくることに胸騒ぎを覚えていたのか。

 

「勒郎、お母さんダメだったよ」

 

 あの夜マンションへ帰ったとき、父親がやけにそっけなく言った。

 いや、あれは病院だったはず。

 

「ダメやったって……?」

 

 噛み付くように声を絞り出していた。

 何度も未遂があったので、何があったのかはほとんど正確に分かっていた。だけどそれは、起こり得るはずのないことだった。

 横たえられたお母さんの身体を現実感のないまま見下ろしていた。

 

「……何それ」

 

 見捨てられた。

 (ののし)られるより殴られるより強い、そして絶対的な拒絶が、底の見えない断崖としてそこに広がっていた。

 その真っ暗な深淵をぼんやりと覗きながら、俺はしっかりと理解した。

 

 この世界には価値がない。

 

 反論しようのない完全な形で、そのことが証明されていた。

 もしも世界が美しいなら、生きることに価値があるのなら……この俺の存在に意味があるのなら、お母さんはなぜそれを捨てるだろう?

 涙は出なかった。

 俺はそれを全部怒りに変えた。世界への憎悪へと持ち変えた。

 

 

 

 

 

 世界が(きし)みをあげて砕けていく。重なり合う無数の宇宙がその崩壊を連鎖させる。その破滅的なヴィジョンが頭を揺さぶっていた。

 

「僅かなゆらぎが……これほど甚大な影響を及ぼすとは」

 

 幾何学模様で飾られた円形スペースに、銀髪を後ろでひっつめにした白いスーツの人物が立ち、同じような服装をした部下の報告を受けている。

 

「プルシャ、冥界流入経路の92%が特定できました」

「やっかいですね……因果循環を起こしている。これでは手が届きません。ジャガナートの状況は」

「流入した暗黒体を追うように業報(ごうほう)直径を増大させています。暗黒体はすでに3000の3乗に及ぶ島世界に侵入しているため、すぐにそれだけの規模に膨張すると見られます」

「そうでしょうね」

 

 すべてを諦めたように、プルシャがその整った顔に微笑に似た表情を浮かべた。

 

「世界を壊す衝動……それは何度でも繰り返すでしょう。ですがそのたびに我々は修復する」

 

 プルシャが視線をこっちに向けるのでどきりとする。

 まるで何かに祈るような静かな目だ。

 

「崩落がどこに行き着くかは、この閉じた因果の輪に託されています」

 

 

 

 

 

 ……壊せ!

 その絶叫だけが頭に響いていた。

 その中で、小さな声が聞こえた。

 

「勒郎さん……!」

 

 激しい震動と轟音の中で、その声が俺を洞窟に引き戻す。

 正面に立つ影と対峙しながら、俺は背後からの視線を感じていた。

 洞窟の外へ放り出されながら、来子(くるこ)が必死に呼びかけてくれていた。

 ワタリガラスが、来訪者達が、うねるように揺れる洞窟から身を起こす。彼らの身体は無重力の中のように浮かび、外の世界へと押し出されていく。

 ジャガナートの影響なのか、奇妙に(ねじ)れ、崩れた身体も多く、空中でバラバラに砕ける者もいた。

 気付くと自分の手足も(いびつ)にひしゃげていた。まるで内側から何かに喰い破られるように、身体が崩れていく。

 その身体を見つめながら呟いた。

 

「……そう……全部壊したかった。忘れてた」

 

 目の前に真っ黒な子供が立っていた。その刺すような敵意に心が洗われるようだ。

 これは俺の敵意だ。

 手放しちゃいけない、心の底からの感情。

 子供の手に重ねた自分の手が、燃え尽きた炭のようになっている。

 そこから恐ろしい光が生じようとしていた。

 これで世界を壊せる。のうのうと日常を暮らす奴らを。この世が素晴らしいと空言を吐く笑顔を。

 いまここで世界ごと消えるなら、願い続けたことが叶うんだ。

 

『……じゃあな勒郎』

 

 そのとき黒いスカートをはためかせてワタリガラスが洞窟を飛び出していった。その身体をうっすらと緑色の光が覆っていた。

 幻覚のようなそのイメージと共に、頭の中でワタリガラスの声が静かに響いていた。

 まるで少女のような声だ。

 

『俺は先に行くぜ……お前の心の底なんて、お前が見つめるしかないんだ』

 

 何を偉そうに言ってるんだ。

 心の底だって……?

 そう思ったとき、舞台がぐるりと入れ替わった。

 

 

 

 

 

「これは……裏切りやと思って欲しくないんやけど」

 

 言葉を探すように、俺が(・・)話していた。

 その冴えない大人が、古書店のカウンターに立って店の入口から射し込む陽光を眺めていた。

 こいつは何を言ってるんだ?

 

「誰も助けてくれへんってのは、思い込みなんやで?」

 

 店内では、そいつと同じ制服の女の人が少年マンガの棚を整理していた。あれは阿佐ヶ谷さんだ。妙に真剣な顔付きで、窮屈な棚に並ぶシリーズものを並べ替えている。

 

「お前はただ……寂しかったんやろ?」

 

 俺がいけしゃあしゃあと語りかける。

 何だそれ? ふざけるな。

 暗黒に身を染める子供が絶叫している。

 

「いまでも時々聞こえるんや、お前が寂しがってるんが。それでこんな世界全部投げ出したいって、いまでもよく思うで? でも……それでもまだ俺はここにおるよ」

 

 阿佐ヶ谷さんがカウンターへやって来て、ふた昔前の少年マンガを並べる。これはネットで売った方がええんちゃう? ああ珍しいなあ、80年代の少年マンガはやっぱり凄かったですね。

 

「お前の目にはただの真っ暗闇が続いてると思うやろ。でも……その闇は突然嘘みたいに消えるんやで?」

 

 何でそんなこと断言できるんだ?

 だってあのとき、そんなことはなかったのに。

 一番欲しかったときに光は射さなかった。

 救いは来ないんだ(・・・・・・・・)……!

 

「そう、せやから俺は……想像したんや。もしも……この世界に救いがあったらって」

 

 はっとする。

 そうだ、いつか誰かに手を差し伸べられた。

 

――キミを救うために来たんだよ。

 

 

 

 

 

 衝撃を受けて目が覚める。

 胸が(うず)くように熱い。

 地響きの鳴る暗い洞窟に倒れ込んでいた。

 全身真っ黒の子供が俺を見下ろしていた。

 

 ……あんなことあり得ないんだ。

 

 その子が言った。

 

 ……この世界では……誰かに手を差し伸べられることなんてないんだ。

 

 崩れた身体を起こして、俺はその子供へ手を伸ばす。

 それはジャガナートで裁ち切ろうとしていた……俺自身だった。

 

 ……くだらない……そんな慰めは求めてないよ。僕はひとりでいい。お前ら全員殺せるようになるまで戦い続けてやる。

 

「ああ分かる……でも俺は知ってる……! その闇だけがすべてとちゃうんや」

 

 緑色の光が視界を染めていた。

 砕けたはずなのに……胸の奥で賢者の石が輝いている。

 エメラルドグリーンの光が洞窟を照らす。

 その光の中に、魔法使いの女の子がいた。

 オレンジ色のワンピースを(ひるがえ)して、夢幻少女・久遠(くおん)が得意気に魔法の矢を放つ。

 

「そうや……世界は物語で満ちてる。誰もが戦いの中にあるんや」

 

 少女の隣を走る白い生き物が、ブレザー姿の小さな女の子の姿になる。

 銀色の光を(まと)ったククが笑っている。

 

「そこでは……抱える闇も、行き場のない苦しみも、能力になる。自縄自縛の思い込みに殺されそうなら……いっそ突き詰めたらええんや!」

 

 上目遣いで路地裏を歩く来子(くるこ)の姿が見えた。その背後に大きなミーアクラアの影が見える。その黒い毛並みに来子が半ば身を(うず)めて、街の雑踏を眺める。

 じっと前を見つめるその視線に、俺はかすかな火花を見る。

 闇を通してなおこの世界を肯定できる光を、俺は勝手に感じ取る。

 

 眩しい緑の光の中で、その子供が泣いている。

 ずっと泣いていたんだ。

 その全身の暗闇がガラスのように結晶化し、ぽろぽろと剥がれ落ちていた。

 

 ダメだ僕のなのに……!

 剥がれちゃう。

 全部なくなっちゃう……!

 

「大丈夫や……!」

 

 俺は叫ぶ。

 緑色の光が見せるヴィジョンの向こうで、召喚した虚海船に乗り込むワタリガラスが唇の端を吊り上げて笑っていた。

 偉そうに笑うなよワタリガラス。

 だけど、お前に刺された痛みを俺は一生憶えておいてやる。

 

「その闇……どうせなくなることなんかないんや」

 

 崩れ落ちる黒い破片にしがみつくように身を投げ出す子供に向かって、俺も手を伸ばす。

 

「俺も半分持ってく……!」

 

 鋭い破片が手を刺し、身体の内側に根を張る。激痛が身体を捻り上げる。

 それでも胸から溢れる光は強くなる。

 俺は分かっていた。

 これはいまこの瞬間だけの決意……明日には翻るかも知れない、か弱い決意だ。

 

 

 

 

 

 ハレーションを起こした緑の光の向こうで、誰かが机に座っていた。ノートに頭をくっつけて何かを書き込んでいた。

 勢いのあるその描線がマンガのコマをはみ出している。

 ミツキの顔だ。

 額から血を浴びて、それでも読者の方を振り向きながら激情の叫びを上げている。

 

「……お前はいつも叫んでるな」

 

 ふと口にしたその言葉が届いたらしい。

 おかっぱの頭が起き上がってこっちを眺めた。

 

「……何や、また夢か?」

 

 黒縁メガネの奥から、あやのの切れ長の目が呆れたように俺を見つめていた。

 

「そう夢や……でも、世界を変える夢や」

「……アホか。勒郎のくせに何カッコつけてんねん」

「あは……そやな。でもほんまに……世界が変わることもあるんやって思えてん」

「ふーん」

 

 あやのが怪訝(けげん)そうに顔を上げて、見下すような視線を向ける。くそ、俺の方が4ヶ月も年長なんだぞ。

 

「いまさら? そんなん昔から知ってたやろ。せやからあんたはあのときやって……」

「あやの、手紙読んだで」

「え? ……あそう」

 

 あやのが目を泳がせる。どうせ夢だ、遠慮しても仕方がない。

 

「今度そっちに行くな。平沢先生からお前のノート預かってるし」

「ふーん……あれ途中になっとったな」

「あの話の続き、描いとってや」

「言われんでもいま描いてるわアホ!」

 

 そうだ。こいつは描き続ける。こいつが抱える痛みがある限り。

 

 

 

 

 

 賢者の石の“糸電話”がつないだその瞬間を、俺は忘れない。

 そうなんだ。

 その苦痛が、不安が、恐怖が、お前の本質だ。お前の武器なんだ。その怒りが、憎しみが、悲しみが……物語を駆動させるんだ。

 

「その痛みを……手放すな!」

 

 眩しい光の中で、子供の姿をしたその黒い影が崩れ落ちる。

 同時に、俺の身体を内側から引き裂いていた黒い塊が砕けるのが分かる。それは自分の身体の一部だったのかも知れない。何かが深いところで混じり合っていた。

 ゆっくりと光が胸の奥へ消えていく。

 崩れた身体を、俺はゆっくり取り戻す。

 

「円環はいま裁ち切られたわ……」

 

 がりりと何かを噛み砕くような音がして、見上げるとジャガナートの少女が大きな瞳を向けて俺を見下ろしていた。

 

「あたしはジャガナート……ここに終焉を迎える」

 

 その言葉と共に、宇宙的なビジョンが脳裡に流れ込んで目眩(めまい)を起こす。

 重なり合う無数の……数千数万を掛け合わせた膨大な世界を巻き込んで回転する歯車……その周囲に群がる影達が、来訪者達が叫んでいた。

 壮大なファンファーレ。

 祭典の終わりを惜しむように。

 

「プルシャ、流入経路が閉じています」

「ええ……見ていました。なんて退屈な自己充足……ともあれ、世界は救われる」

 

 様々な世界の断片から、俺を見つめる幾人もの視線があった。

 そしてそれら無数の世界に牙を突き立てるジャガナートが、回転しながら壊れ、崩れていく。 

 この祭典の後、世界はその姿を変えるのだろう。

 だけど当面、それでも世界は続く。

 俺の痛みも……物語も、まだ先がある。

 そうだ、まずはあやのの話の続きを読みたい。平沢先生にも話して……それから父親とも。

 俺は立ち上がり、その先を見るように洞窟の外を眺めた。何かが変わった世界がその先にあるはずだ。

 

「それで……キミはどうするの? 久凪くん」

 

 すぐ後ろに弥鳥さんが立っていた。

 崩れゆく洞窟の奥を振り返ると、そこにあの月のように幽かな光がいまも浮かんでいた。

 

「これでキミの夢は覚めた? それとも……まだ見果てない想いが向こうにある?」

 

 彼女の大きな瞳がじっと俺を覗き込んでいる。その焦点はどこか異なる世界に結ばれていた。

 異世界へと開かれた扉がそこにあった。

 

 

 



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世界を救えると思ってた ②【最終話】

 ボクはずっとキミを見ていたんだ。

 闇の中で手を伸ばすキミの、(かす)かな声を聞いたんだ。

 ここから連れ出して。

 この世界の()てから向こう側へ――。

 

 

 

 

 

 世界の(ことわり)(くつがえ)す破壊神の少女が、目を閉じるように姿を消した。薄暗いすり鉢状の巌穴(いわあな)が地響きを立てて崩れ始める。

 ほら、いまここにボク達ふたりだけがいる。

 

「ここが世界の涯てだね、久凪(くなぎ)くん」

 

 ボクの声に驚くキミを見るのは何度目かな。

 

弥鳥(みとり)さん……」

 

 瓦礫の舞う広大な洞窟をボクは見回した。

 ジャガナートの中心……ここはいま、世界のあらゆる束縛から解き放たれる場所。

 物語という強固な幻さえ。

 

「そしてここが……キミの物語の終焉。そこから救いに来たよ」

 

 ボクの言葉は相変わらず奇妙に聞こえるかな。

 でもボクは、世界山(メール)で出会ったキミの姿を想う。あの静謐(せいひつ)の世界、永劫にも似た時の中で、キミとボクはまるでひとつだった。

 キミの胸にある光が、洞窟を目映(まばゆ)く照らしている。

 そう、ボクが授けたその光は、(あらが)いがたいこの物語の力をも超えることができる。

 

「キミには見通せるはずだよ。無数の物語がキミをどこへ連れて行くのか……向こう側を求めたキミのかけがえのない衝動が、物語に食べ尽くされる様子を……」

 

 

 

 

 

「あやの。……久しぶりやな」

 

 その小さなローカル駅の出口で、あやのが腕を組んでキミを見つめている。眼鏡の奥の怒ったような視線は、しかしキミには嬉しそうな笑顔に見えたはずだね。

 

「……あんたは変わらへんなあ」

 

 照れたように少し目を泳がせながら、あやのが近付いてくる。

 その毛先の跳ねたおかっぱを見て、キミは安心する。

 世界が崩壊する災厄の中交わした約束の通り、キミはあやのに再会した。戻ってきたんだね。

 

 そうしてキミは生きる。

 平沢先生は相変わらず図書室のカウンターの向こうで忙しそうで、キミを見つけると悪戯っぽく話しかけてくる。その会話はあの一件以来少し落ち着いて……ほんの少しの苦さが混じるようにキミには思える。

 

 彼方(かなた)とはそれからも何度か電話をしたね。

 だけど中学を卒業する頃から、話す機会はほとんどなくなる。

 

 そして時は過ぎる。

 中学2年生の冒険の記憶は色あせ、思い出すことも少ない。

 キミは新しい居場所、新しい友人を見つけるから。

 

 大型トラックの急ブレーキが、キミをふと我に返す。

 

「久凪くん……危ないやんか」

 

 勤務先の古書店へ向かう大通りで、阿佐ヶ谷さんに声をかけられる。いつも呑気そうな彼女の瞳が、キミを探るようにじっと見つめている。

 

「ああ……ぼうっとしてて……」

「生きてる?」

「なんとか」

「いつもそうやけど、今日はいつも以上に中学生みたいやで、久凪くん」

「そんなに褒めんでも」

「はぁ、赤信号横断って……まだまだ褒め足りんわ」

 

 危なっかしい歩みで、それでもキミは生きていく。

 その胸の鈍い痛みをときどき思い出しながら。

 それは醜く足掻きながら、向こう側へと必死に手を伸ばした記憶の残滓(ざんし)

 だからキミは、時々不思議そうに空を見上げるんだ。

 それが何か分からないままに、失ったものを(いた)むんだね。

 

 

 

 

 

「抱えたその痛みにも慣れたんだね」

 

 ボクの語りかける声に、まだキミは耳を澄ませてくれるね。

 だからボクはキミの前に現れる。何度でも。

 

「苦しみを抱えて……不完全なキミ自身を受け入れてくれる誰かを見つけて……いずれ世界をすら好きになれる……そう思える?」

 

 晴れ渡る青空のもと、通行人の行き交う都市に縛り付けられたキミは、何て遠い目でボクを見上げるんだろう。

 かつてキミは、この距離を軽々と飛んだんだよ。

 

「その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる?」

 

 ほら、キミの胸はまだ痛む。

 納得できるかも知れないとほんの少しでも思えただなんて、恐ろしい錯誤だね。

 その緑色の光は、まだキミの胸の奥を刺しているんだ。

 さあ、キミの本当に望んだ世界をボクに見せて。

 

 

 

 

 

 鍵ががちりと鍵穴に噛み合う。

 

(ろく)、どうや?」

「開く!」

 

 扉が開く。

 薄暗い廊下に光が差し込み、目の前に屋上の光景が広がる。

 あの廃ビルの屋上。

 そう、キミが彼方、あやのと初めてそこへ出たのは、小学2年生の夏休みだったね。

 たいして高くもない建物だったけど、そこは街を眺め渡せる特別な場所になった。

 

「うわあすげぇ!」

「あたしのお陰やで?」

「見つけたんは俺やもん」

 

 夕暮れまで、キミ達はそこにいたね。

 3人だけの世界だった。

 やがて街はざわつき始める。

 帰路につく人々。忙しそうな車。あちこちで食事の用意が始まる気配。

 

「じゃあまたな!」

「おう!」

「じゃあね」

 

 満ち足りた気持ちでキミは家へと走る。

 楽しかったよ。面白かったよ。その気持ちを大事に抱えながら帰るんだ。

 

 玄関に入ると、キッチンからまな板を叩く包丁の音が聞こえる。

 甘く味付けられた肉じゃがのにおい。

 お母さんがそこにいる。

 キミは思わず息を吐き出すんだ。

 ああ、みんな夢だったんだ。良かったね。本当に良かったね。世界はなんて優しいんだろう。もう何も怖くないよ。

 ランドセルを床に放り出しながら、キミはお母さんの後ろ姿を眺める。

 隣の書斎からお父さんがやってきてテーブルに皿を並べるので、キミもそれを手伝う。カチャカチャと食器が鳴るのが楽しいよね。

 

「彼方と遊んでたんや」

 

 キミは待ちきれないようにお母さんに話しかける。

 あやのちゃんは? ああ、あやのもいたで。いつもの3人やね、何してたん? あんな、秘密の場所見つけてん! へえ、どこ? あかん、教えへん! ええ、教えてやあ。秘密やから! そうなんかあ。めっちゃ眺めええねんで。へえぇ、お母さんも行きたいわ。うん……。

 賑やかに飾られる食卓を3人で囲む。

 

「ねえ、ほんまに空飛べたらいいなあ」

 

 脈絡もなくキミは思うことを口にする。

 

「な、お母さん!」

 

 

 

 

 

 でも、そんな時は存在しなかった。

 

 

 

 

 

 誰もいない。

 キミはひとりでそこに立っている。

 暗くて静かな部屋――。

 

「そう……キミには帰る場所がなかったよね。だから向こう側へ行こうって思ったんだもの」

 

 そう、あのときもボクはキミに声をかけた。

 冷たく、静かで、暗いあの空間で。

 キミが家のマンションの扉を開けると広がっている、あの虚ろな空間で。

 

 小学2年生のあの日から、大学を卒業して安アパートを転々とする日々に至るまで、キミの前にはいつもあの暗い空間だけがあったね。

 

 

 

 

 

『誰か、僕を見てよ……。僕に優しくして……』

 

 キミはひとり、カーテンを締め切ったアパートで声をあげずに叫んでいた。

 

『僕のすべてを理解してくれるひと。どうか教えて、ここにいてもいいって。……存在する価値があるってことを証明して欲しいんだ』

 

 

 

 

 

 だからボクが寄り添ってあげる。

 そうボクは声をかけたんだ。

 その世界のすべてに等しく価値がないってことを、キミに教えてあげる。

 だから不安にならなくていい。

 戦うこともない。

 キミの価値を証明する必要はないんだから。

 

 

 

 

 

『いや、そんなことあり得ないよ。あり得ないものを求めるから、苦しいんだ。痛みのない世界を想像するから、痛みを感じるんだ。だから生きている限り、この痛みを抱えるしかないんだ』

 

 

 

 

 

 本当にそう?

 いいんだよ久凪くん。

 キミはその世界の住人じゃないんだから。

 無理に合わせなくていいんだ、その世界の奇妙な決まりごとに。

 

 

 

 

 

『それでも……生きなきゃ。辛いこと、苦しいことはきっと乗り越えられる。それが僕を殺してしまわない限り……すべては僕を強くしてくれるんだ』

 

 

 

 

 

 心の底からそう思うの?

 ……あらゆる欺瞞がキミを殺す。

 キミは毎日死に続ける。

 本当のキミが目を()ますまで……。

 その目醒めを、あの人達は道を踏み外したって言うだろうね。

 その道こそ、キミが向かう本来の方向なのに。

 

 

 

 

 

 耳障りな急ブレーキの音と鈍い衝突音。

 大型トラックが巻き込んだ人身事故を人々が見守る。

 

「ほら久凪くん、憶えてる?」

『あれは……』

 

 ボクはキミにそのヴィジョンを見せてあげる。

 あの日、キミは発作的に飛び出したんだね。

 勤務先の古書店へ向かう大通りで、巨大なタイヤの回転の前にキミは身を投げ出した。

 それはあまりの人混みに酔ったせいだったかも知れない。

 

『でも……痛みを抱えて……生きていくはずやったんや。弥鳥さん』

 

 そう、闇は突然嘘みたいに消えるんだってキミは言ったね。

 そしてどんな光も、同じように嘘のように消えるんだ。

 久凪くん、ボクは何度も見てきたんだよ。繰り返すその闇と光が、あれほど輝いていたキミの衝動を鈍く磨耗させていくのを――。

 

 

 

 

 

――いまのは……?

 

 震えながら崩壊を始める洞窟の中、目の前に俺をじっと見つめる弥鳥さんが立っている。

 その白い制服の上に、うっすらと金色の装身具が浮かんでいる。

 さっきのは……賢者の石がみせたヴィジョンだ。

 そうだ。

 俺は、死んだ。

 そういう……未来もあったんだ。

 何千何万ものあり得た自分が、その刹那にひしめき合っていた。

 過去も未来も……そのすべての自分を積み重ねていまここに到達したんだ。

 

「何て……長い夢なんや……。ここまで来るのにこんなに……弥鳥さん」

 

 (つぶや)いた自分の言葉に、俺はようやくこの物語を思い出した。それは中学2年生の妄想。世界を救う物語。

 ひときわ大きな地響きが俺と弥鳥さんの間に亀裂を走らせた。

 

「そうだね、久凪くん。キミは知らなかったかな。無数の世界を破壊するジャガナートを食い止めること……それがキミの使命だったんだ。キミの苦しみはそのためにあった。その物語がいま終わったんだ」

 

 弥鳥さんの大きな瞳はこれまでになく優しく輝いている。

 使命だって? 世界を救う物語……そう、俺は無我夢中の衝動でこの物語を語ってきた。

 ありとあらゆる物語は、この世界に突き立てる刃だ。

 その刃で、俺は何と戦ってきたんだろう。

 

「久凪くん、ほら憶えてる? キミがいた、あの向こう側の世界のこと。キミが本当に、キミらしくいられる世界だよ。キミはぼんやりとしか憶えていないかも知れない……だけどそれがあるってことは、はっきり分かってる……」

 

 弥鳥さんが背後を振り返り、その向こうを指し示す。

 薄暗い洞窟の向こうに蒼白く輝く月の光がある。それは向こう側への扉。

 その先を眺めた瞬間、視界にエメラルドグリーンに照らされた星空が広がった。

 

 

 

 

 

 昼夜の区別なく、日月がめぐる静謐の虚空が天を(おお)っていた。

 世界は九重(ここのえ)の山脈に囲まれた渺茫(びょうぼう)たる大海の上にあった。

 その荘厳無窮(むきゅう)の宇宙を、視覚を超えたヴィジョンが見はるかす。

 すると闇夜のように透き通った海に、小波(さざなみ)が立つのが見えた。

 それはいくつもの国をも呑み込む小波。

 

「見える?」

「うん。竜だ」

 

 大海を攪拌(かくはん)するように、水底で巨大な竜が胎動する。

 

「あれは……世界を支える九頭竜(アナンタ)

 

 その長大な姿のごく一部が海面に橋を架けるのが見える。

 水飛沫のように、輝く幾千もの立体が周囲に撒き散らされ、分裂し、拡散する。降り注ぐ驟雨(しゅうう)となって、星々の光を乱反射する。

 

「あの水滴のひとつひとつに、どのくらいの世界が宿ってるのかな」

「ほら、世界樹が喜んでる」

 

 無辺の世界の中心に、天へと(そび)える山があった。世界を支える柱、世界軸(アクシス・ムンディ)。その構造が水晶のように見透せる。

 大海の奥深くから吸い上げられた力が、キラキラと明滅しながら流れ、無数の枝々を通じて遥かな虚空へと流れていく。

 

「あそこから……すべての島世界へ通じてるんだね」

「そう。生命の力を伝えるネットワーク……竜脈だ」

 

 その輝く流れを中空に浮かぶ無数の構造体が反射して、合わせ鏡のようにその光を増幅する。

 限りのない数は不安を消してくれる。あらゆる可能世界の海に浸されて、何もかもが自由に在った。

 君と僕はあそこにいた。

 

 

 

 

 

 涙が(あふ)れる。

 地響きの激しさを増す洞窟の中で、俺は地に両手を突いて泣きじゃくっていた。

 

「思い出した……。俺のままでいられる世界……」

「久凪くん、その感情は……その目に映る向こう側の世界は、誰とも分かち合えないんだよ」

 

 見上げると亀裂の向こうから弥鳥さんが微笑んでいた。

 

「ボク以外とはね」

 

 髪を結い上げた赤いリボンが光っている。初めて会ったあの廃ビルの屋上で……俺は願ったんだ。その(いざな)いを。

 自分の胸から流れ出す光が暖かい。

 だけど何かが……俺をつなぎ止める。

 

 

 

 

 

「それでも……あたしは、あの世界へ帰るよ」

 

 声が聞こえた。

 それはあの、異世界でサバイバルを続ける少女ミツキの言葉。

 あやのの物語……。

 そうだ。

 それでも俺はあやのと約束した。また会おうって。

 彼方がいて、平沢先生のいる、あの世界で。

 たとえ何度この決意が……痛みを抱える覚悟がゆらぎ、絶望に殺される未来があったとしても……俺はあそこへ戻らなきゃいけない……。

 

「それじゃ、何のためにこの物語はあったの?」

 

 立ち上がる俺に、弥鳥さんの金色の瞳がじっと向けられる。

 ふたりを分かつ亀裂が広がる。その向こう側に立つ弥鳥さんの姿が半ば透き通って見える。

 

「救われるために物語があったというなら……終わってしまえばもう要らない?」

 

 俺の背後には、あやののいる世界への帰路がある。この崩れ落ちる洞窟の外へ続いている。

 俺は選ばなければいけない。

 そして物語はいつも、最後には俺をこの洞窟から外へと……あやのと再会する世界へと連れ戻すんだ。

 それまでよりほんの少し生きるのが楽になった……そんな現実で俺は目覚めるだろう。中学生の頃は独りよがりに苛立ってたなあなんて当たり前のように振り返って、大人になったつもりになるんだろう。

 その結末への流れに抗える訳がないんだ。

 

「弥鳥さん……世界を救うのが俺の使命だったって言ってたね」

 

 右手に勇者の剣が現れる。

 全身を白く輝く聖なる衣が覆う。

 これは君に導かれて覚えた力……世界をすら救える力だ。

 

「俺昔から……世界を救えると思ってた。そうしなきゃって思ってたんだよ」

「うん」

「でもそれって……自分を救いたかったんやな」

 

 そして世界を壊したいという思いは、自分を壊したいということなんだ。

 俺は右手の剣を自分の胸に突き立てる。

 真夜(マーヤー)が……想像の創り出した刃が、賢者の石に当たって甲高い音を響かせる。

 

「こっち側も向こう側も同じ……その選択を迫ること自体が物語のごまかしなんや」

 

 自分という殻に亀裂が走るのが分かる。

 剣を引き抜くと、賢者の石がこぼれ落ちるのに合わせて()が砕ける。

 しがみついていた自分から、自分が解放される。

 その僕の心を宿して輝く石が、大地を跳ねて、亀裂へ向かって転がり、深淵へ落ちるその前に、手が伸ばされる。

 弥鳥さん、君の手がそれを(つか)んでくれる。

 

 そう弥鳥さん、知ってたよ。

 君は僕の想像したもうひとりの僕――。

 

「そうだね、久凪くん。ボクがキミになってあげる」

 

 弥鳥さんの隣に立つ僕は、いまどんな姿をしているだろう。

 僕達の目の前には、月のように優しく輝く光がその扉を開けている。向こう側へと――。

 

「さあ行こう」

 

 そうだね、行こう。

 折り畳まれた無数の時間と空間を越えて、僕はいまようやくここに辿り着いた。

 振り返ると、亀裂の向こうに、勒郎(ろくろう)……君が立っている。

 勇者の剣を手に、聖なる衣を(まと)って、眩しそうに僕を眺めている。

 その君の身体が、ゆっくり外の世界へと浮かんでいく。

 そう、君は生きる。

 

 

 

 

 

 勒郎、これは君へ向けた物語だった。

 君はこれから痛みと向き合って生きる。その世界の人達と共に。ときに危なっかしく、それでも不完全な自分を受け入れながら。

 その勇者の剣と聖なる衣が、君の戦いを助けてくれる。

 

 だけどその胸には空虚がある。

 その不在を思い出して、ときどき君は空を見上げるんだ。

 あの世界を思い出して。

 物語の終焉から踏み出すことでのみ辿り着ける、静謐の世界(アタラクシア)を。

 

 でもきっと大丈夫。

 僕はこれから、弥鳥さんと世界山(メール)を旅する。

 そして人類史を塗り潰す暗黒に立ち向かうだろう。

 そのすべては君にとって、一瞬頭をよぎる淡いイメージかも知れない。

 だから僕はここまで、この物語を(つむ)いできたんだ。

 

 じゃあね、勒郎。

 ありがとう、君の痛みを、僕は祝福するよ。

 この世界に物語を生み、そしてそれを解放する、その痛みを。

 

 

 



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