前川みくの生まれた日 (千之里悠久)
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前川みくの生まれた日
プロローグ
わたくし、依田は芳乃が語るのでしてー。
雑誌の取材、撮影が終わり、わたくしたちは事務所への帰路に就いておりますー。ぷろでゅーさーは別の現場へ行ってしまい、わたくしたちは置き去りにされてしまいましたー。幸い徒歩で帰れる距離なのでしてー。
「ねえねえ、よしのん。カレーにはとんかつ? それともメンチカツ?」
「ほー。未央さん、都会の方はかれーらいすにそのような添え物をつけられるのでしてー? わたくしの家ではーばばさまがー小魚の佃煮を添えてくれましたー」
「魚っ!? にゃんて恐ろしいことを……。カレーに魚なんて外道にゃ! ハンバーグ一択にゃ!」
季節は初冬。ですが、未央さん、みくさんと語りながら歩く道のりは、夏の暖かさを感じますー。
「あっ、猫チャンがいる! かわいいにゃあ」
民家の塀の上で眠る縞々模様の猫さんの元に、みくさんは駆け出しますー。わたくしは気がつきませんでしたー。みくさんは猫さんの気にとても敏感なのでしてー。
「おまえはどこの猫チャンだい? 外は寒いだろうに。そういうときは、身体を動かすのがいいんだよ。はい、にゃんとここに猫じゃらしがあるのです。みくが遊んであげるのにゃ!」
縞々猫さんの顔に猫じゃらしを近づけるみくさん。猫さんは無軌道な動きに翻弄されつつ、猫じゃらしに手を伸ばしますー。
「ほらほらーこっちだにゃー。と見せかけて……こっちだにゃー!」
一方、わたくしの隣で未央さんが困った顔をしていますー。
「あちゃー、みくにゃんのこれが始まってしまったかぁ。よしのん、私たちだけで先に帰っちゃおうか」
「皆を事務所まで導くのもわたくしの務めー。ここでしばらく時を過ごすのでしてー」
「ですよねー。しゃあない、不詳未央さんもお供いたしますぞ」
「おーありがたやー」
わたくしたちの見守る中、みくさんは夢中になって猫さんと戯れておりますー。
「ふんふん。友だちの猫が彼氏と遊びに行って、自分は置いてきぼりにされたのかにゃ。それは災難だにゃ。君にはパートナーはいないのかにゃ? ええっ、昨日ふられたっ!?」
みくさんは縞々猫さんと何やらお話をしているようでしてー。おや、未央さんが不思議そうに頭を傾げておりますー。
「よしのん、みくにゃんは一体誰と会話しているのかな?」
「それはもちろん、猫さんなのでしてー」
「いやいやいや、いくら猫キャラのみくにゃんでもさすがに猫と会話は難しいんじゃないかなー?」
「みくさんは猫の神様に見守られているのですー。猫さんとお話ができるのもそのためでしてー」
「ね、猫の神様? えっ、マジで? よしのんには見えるの?」
「見えずとも、目を閉じ、心を静めれば、ほら、感じるのでしてー」
「ははあ……」
そう。みくさんには一際徳の高い、猫神様が憑いておりますー。なぜみくさんが猫の神様にそこまでの寵愛を受けているのかー。わたくしは知っているのですー。
―――ある晴れた夏の日。それは猫チャンアイドル前川みくが生まれた日―――
黒猫が不幸の象徴だとしたら、白猫は幸福の象徴なのだろうか。僕の前を悠々と横切る白猫を見つめながら、黒と白の対照性について思議してみる。
放課後の学校帰り。特にこれといってすることがない僕はハーメルンの笛吹きに導かれるネズミのように白猫の後を追った。
先日オープンした大型量販店によって蹂躙され、衰退のただ中にある商店街の真ん中を通る。やがて商店街から抜けると、白猫は車一台通れないような裏道に入っていく。塀の上を越え、時には民家と民家の間を抜けながら、自由気ままなお猫様は後ろについてくる人間を馬鹿にするかのような道を選んで進んでいた。
ついに僕は白猫の姿を見失ってしまった。スーパーの買い物袋を下げたご婦人に怪訝な顔をされながら、周囲をきょろきょろと見渡して猫を捜索するも、毛の一本も見当たらない。溜息を吐きながら、帰りの方向はどこだろうと途方に暮れ始めたとき、
「先生、今日もレッスン、ありがとうございました」
ハキハキとした滑舌の良い声。それでいて険がなく、少女らしい可愛らしさが垣間見られる。僕の丁度真上、煉瓦作りのマンションの二階からそんな特徴的な声が聞こえてきた。
「はい、お疲れ様でした、前川さん。復習を忘れないでくださいね。オーディションが近いからといって焦らず、着実に実力を付けていきましょう」
彼女は元気よく返事をすると、別れの挨拶をして階段を下り始めた。一階分下った先に自分を呆然と見上げる間抜け面の男がいるとも知らずに。
「げっ」
顔を合わせた瞬間、彼女は憚りもせずにそう言った。
「こんにちは、前川さん。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
「ピィちゃん……だよね? 同じクラスの」
「はい、学校ではそのようなあだ名で呼ばれていますね」
「ななな、なんでこんなところに?? ま、まさかっ! みくのことつけてきたとか!」
「滅相もない。僕は白い猫の後をつけてきたのです。前川さんと会ったのはただの偶然。強いて言うなら、神様の気まぐれ、でしょうか」
「そ、そうなんだぁ。偶然なら仕方ないよねぇ。じゃ、じゃあ、みくはこれで……」
「そうですか、残念です。どうしてアイドルの養成所から出てきたのか伺いたかったのですが」
忍び足で僕の前から逃亡しかけていた前川さんはピタリとその足を止める。
「あ、あいどるって何のことかなぁ。ピィちゃんは勘違いしてるよ。ただの……そう! 塾なんだよ! みく勉強できないからね」
「看板にアイドル養成所と書いてありますし。それと前川さん、成績は悪くありませんよね。騙されませんよ」
彼女の顔が紅潮し、しかめ面になっていく。前川さんがそのような表情をするのは珍しく、嗜虐心が胸の奥から湧き上がってきていた。そもそも眼鏡をつけていない前川さんというのが新鮮だ。普段の彼女は物静かで真面目な学生という印象しかなかった。
そんな彼女がまさかアイドルの養成所から出てくるなんて。僕は冷静沈着を装いつつ、興奮を隠しきるのに精一杯だった。
「ぐぬぬ……。こ、こうなったら、みくも覚悟を決めるしかないみたいだね。ピィちゃん、みくはね、アイドルを目指してるんだ」
腹を括った彼女の目には一点の曇りも迷いもない。直視されている僕の目が焼かれてしまいそうなほどに情熱的な眼差しだ。
「でも学校では内緒にしてるんだ。まだアイドルになれたわけじゃないし、噂とかされると活動に支障が出るし……。だからピィちゃんも今日のことは忘れて欲しいの。お願い!」
深々と頭を下げる前川さん。なんだか彼女を苛めているような気分に陥ってしまう。
「さてどうしたものでしょう」
「うぐっ……な、なんでも言うこと聞くから! お願い、お願いします……」
「なんでもですと?」
なんという魅力的な提案だろうか。何を隠そう僕は以前から前川さんに好意を抱いていたのである。学校の野郎どもは揃いも揃って節穴ばかり。学校一の美少女は前川さん以外にありえないというのに。そんな前川さんを自由にできる。人生一六年、冴えない男の王道を歩んできた僕に示された奇跡の畦道。さあ、いざゆかん。
前川さんの潤みを帯びた瞳はまるで月を映す夜の湖畔のように煌めいている。固く結んだ口は決して挫けぬ強固な決意の表れだ。
「では、ひとつ僕に約束してもらえますか? いつかあなたがアイドルになったとき、ステージの上から観客席にいる僕に笑顔を向けてくれる、と」
「え……ええっ、そんなことでいいの?」
「はい。ですが、ただ笑いかけるだけでは駄目です。他のファンに見せる以上の、最高の笑顔を望みます」
「そんなのお安い御用だよ! あー怖かった。よりにもよって最低のド変態高校生にバレちゃったのかと思ったよ」
僕は一流の英国紳士に比類する高潔な笑みを浮かべる。これでよい。これでよいのだよ。
「あっ、もうこんな時間。ごめん、もう行かなきゃ。じゃあまた明日、学校でね! 絶対絶対、秘密だからね!」
前川さんは制服のスカートを翻し、跳びはねるように走っていった。彼女の姿を見届け終えたとき、僕は今更ながらに思い至った。高校に入学して早半年、僕が前川さんと会話をしたのはこれが初めてのことだった。
僕はとんでもないことをしでかした。
風が吹きすさぶ宵闇の中、後悔の念に苛まれながら歩く惨めな男子高校生。僕は顔を上げることすらできない。まるで夜に塗り潰された自分の影の残滓を探しているかのように。
なぜ僕は格好つけてしまったのだろうか。前川さんにあんなことやこんなことを要求するまたとない好機だったではないか。英国紳士を気取る前に、生物学的な雄としての本能に従うべきだったのだ。
いつの間にか見知らぬ公園に足を踏み入れていた。そこにお誂え向きに二台のブランコが並んでいる。どうして傷ついた人間はブランコを好むのだろう。そんな無意味な疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。
「うん?」
否。いずこから小さき声が聞こえた。それはこの世から消えてなくなりそうなほど儚い便りだった。この公園は中央の柱から水銀灯の輝きが円を描くように広がっている。明かりが照らされている場所には誰もいない。で、あるならば、光の当たらない公園の隅に声の主がいる。
中央にいる僕から見て右斜め前方。そこに白い影が横たわっていた。
光が差さない場所のはずなのに、その一カ所だけは茫洋とした白光が浮かんでいる。猫だ。純白の猫が地面に寝転がっているのだ。
近づいてすぐにハッとなった。この猫はひどく衰弱している。それも命に関わるほどに。同時にほぼ確信的な予感を覚えた。この白い猫は僕が追いかけていたあの猫なのではあるまいか。
僕は即座に猫を抱え込み、一番近くにある動物病院を探して走った。土地勘のない町だったが、道行く人に尋ね、どうにか辿り着くことができた。
事情を察した看護師はすぐさま医師の部屋まで通してくれた。診査台の上で猫の様態を診る医師から焦燥感のある呟きがこぼれ落ちる。
すぐにでも手術を行う必要があると、医師は告げた。おそらく臓器に傷を負っていると。たとえ野良猫であっても僕はもう関わってしまった。だから決断を下すのに時間は必要なかった。
診療室を出て、僕以外の誰もいない待合室で手術が終わるのを待つ。もう僕にできることはない。名も知らぬ猫の無事をただひたすらに祈っていた。
やがて青色の手術服の着た獣医のおじさんが現われた。その表情を見た瞬間、僕は安堵の息を漏らす。
「お待たせしたね。手術は成功だ。猫ちゃんには二、三日ここで入院してもらう必要があるがね」
「そうですか。ありがとうございます、先生」
「うん。ところで君が猫ちゃんの飼い主なのかな」
「いいえ先生。僕は公園で倒れているあの子を見つけて運んできただけです。あの子の名前も飼い主も知りません。そもそも野良猫だったのかもしれない」
「いや、あの猫ちゃんは飼い猫だよ。避妊済だったからね。もっとも、飼い猫だったと言うべきかもしれないが」
「つまり捨て猫であると?」
「そうかもしれない。だとしたら悲しいね」
飼い主に見捨てられた存在。決して他人事だとは思えなかった。
広い邸宅にひとりぼっちで残される日々。両親との時間より、時給制のハウスキーパーと過ごした時間のほうが長かった。
「僕は飼い主を探します。たとえ一度捨てたのだとしても、事情を知ればきっと愛情を思い出すはず」
「そうか……あの子も君のような優しい人間に助けられて感謝しているだろう。どんな生き物だって簡単に死んでいいはずがないからね」
すでに夜は更け、まもなく日付が変わろうとしていた。僕は傷ついた白猫を獣医に託し、自分の家へと帰る。迎えてくれる人は誰もいない、独り暮らしのアパートへ。
学生の本分が勉学である以上、行きたくなくとも理由なく学校を休むわけにはいかない。翌日も僕はいつもどおり登校した。
休み時間、多くの人が友人との雑談に興じる中、猫の飼い主を見つけるためのポスターを黙々と作成していた。作業に集中しすぎたせいか、教室の中の異変に気づいたのは四時間目の授業を少し過ぎた頃であった。
「今日は二一日だから……出席番号二一の前川っ。おや、前川は今日は休みだったか」
前川さんが欠席している。昨日はあんなにも元気だったのに。どうしたのだろうか。
彼女に会えないのは悲しいが、僕は僕でやるべきことがある。明日には元気な顔を見せてくれるだろう。教科書を机の上に立てて置き、その裏でポスター作成を再開したのだった。
放課後、ポスターに貼るための猫の写真を撮りに動物病院に寄った。あの白猫は以前のように元気よくとはいかないものの、起き上がってケージの中を歩けるまでには回復していた。獣医の見立てだと、この調子なら明後日には退院できるようだ。
翌日も、その翌日も前川さんは学校を休んだ。担任教師は理由を体調不良だと話していたが、三日連続となるとただの風邪とは思えなくなる。どこへ行っても何をしていても不安が濃霧のように僕の頭に纏わり付いてきた。
そんな僕の心境に一条の明かりを灯すのは、今日が彼女、名にも無き白猫の退院日だということだ。
ケージに入れられた白い猫がにゃあと鳴く。青い術後服を着て退屈そうに寝転がっていた。
「傷口が開かぬよう、あと数日は術後服を着せるようにね。それから栄養のある物を食べさせて……」
「あの、先生。実はその……問題があるんです。まだ飼い主からの連絡がありません。それまでは僕のほうで面倒を見たいのですが、ペット禁止の賃貸物件に住んでおりまして。もう少し、預かっていただくことはできませんか?」
僕が最も懸念していたのはこの件だった。口惜しいが僕には彼女の寝床を用意することができないのだ。実家の屋敷はもう売却されており、頼れる友人もいない。
「残念だけど、それなら保健所に引き渡すしかないね」
「そんな…………いえ、おっしゃるとおりなのですが」
「仕方ないこともある。里親を買って出てくる人は少なくないよ。たとえ短い間でも、よい飼い主に出会えることを祈るしかない」
獣医の言葉に違和感を覚えた。短い間とは、どういう意味だろうか。
「ごめんね、伝えるのが遅れてしまった。この猫は内臓を損傷してしまったんだ。治療はしたけれど、傷はほぼ間違いなくこの子の寿命を削っている」
「その可能性はあると覚悟はしていました。ならこの子はあとどのぐらい生きられるのでしょうか」
「断定はできないな。ただ、いつ状態が悪化してもおかしくないと認識してもらえれば」
地獄の剣山に突き落とされたかのようだった。必死に救った命は理不尽に消えたりしないと、何の根拠もない決めつけをしていたのは認めざるを得ない。そんなことはないのだ。生き物であるならば、その生死に人の道理は通用しない。
ひとしきり獣医に感謝の言葉を述べた後、僕は白猫を引き取った。猫の様子を見て、思わず笑みがこみ上げてくる。僕の受けた衝撃は猫には通じていないようだ。彼女はケージの中ですやすやと眠りこけていた。
悩んだ挙げ句、結局僕はその日のうちに決断を下すことはできなかった。
保健所に預けたとして、この猫が幸せになれる保証はどこにもにない。最悪の場合、殺処分されてしまう可能性だってある。僕の力の及ばぬところに遣ってしまったらどうすることもできない。
隠れて自分の部屋で飼うのも考えたが、お世話になっている大家さんに迷惑をかけるわけにはいかない。そもそも僕は日中学校へ行かなければならないのだから、その間は彼女の面倒を見てあげられない。
決心がつかない代わりに覚悟を決めた。今日一日、公園で猫と共に野宿する覚悟だ。
自宅のマンション前に小さめの公園がある。その公園の中心には細長いコンクリートの土管があった。屈めば大人でも通り抜けられるぐらいの幅がある。
僕はケージを持ったまま土管に入り、身体を丸めて腰を下ろした。リュックサックからキャットフードを取り出し、皿に入れて猫に差し出す。勢いよくキャットフードを貪る猫の姿に心が温かくなった。
今が夏で助かった。これが冬なら僕も猫も凍え死んでしまったかもしれない。
「フランダースの猫なんて流行らないよな……」
「にゃあ」
「なんだこいつ、馬鹿にしやがって」
そういえばまだこの猫には名前がなかった。飼い主が見つからないのだから、暫定的に僕がつけても問題ないだろう。
「うーん……猫……白い……」
白猫の顔を凝視する。可愛い面をしてやがる。ビー玉みたいな青い目はくりっとしてて、鼻は少し低めだが愛嬌がある。アンテナみたいにピンと立っている耳は一番のチャームポイントだろう。猫の可愛さの象徴は耳にあり。
なぜだろう。僕は猫を飼った経験なんてないはずなのに、この猫を見ていると既視感が溢れてくる。同じクラスの堀内君の顔を見たときと同じ感覚。彼はとあるお笑い芸人と顔がそっくりだったのだ。
猫が前足で顔を掻いた瞬間、脳裏に一人の女性が思い浮かんだ。この仕草を知っている。僕は毎日のように斜め後ろから盗み見ていたのだから。
この猫はどことなく前川さんに似ているのだ。
「決まりだ。お前の名前はマエカワにゃんだ」
なんという甘美な響きだろう。まるで目の前にあの前川さんがいるような気になってくる。ケージの中に入って、媚びたように僕の前で小首を傾げている。他の誰もいない土管の中で二人きり。
「ハッ、いかんいかん。僕はなんて不埒な想像を……」
好きな女性の名前をゲームのキャラクターに名付ける男は多くとも、ペットに名付ける男はどれほどいるのだろうか。まさか僕一人ということはあるまいて。
いずれにしろ、飼い主が見つかるまでの暫定的な名前なのだ。前川さんにさえバレなければ問題ないだろう。
ケージに敷いてある毛布に寝転がるマエカワにゃんを眺めていると、徐々に瞼が重くなってきた。こんな場所でも人間眠れるものなんだなぁと感心しながら、睡眠欲に従って眠りについた。
朝、目覚めるとマエカワにゃんがいなくなっていた。ケージの扉は開かれていた。
その日の登校は午後からとなった。授業中、後の戸から教室に無言で入る。失意の底に沈んでいる僕を見た担任教師は無断遅刻を責めようとはしなかった。
午前中いっぱい探したが、マエカワにゃんは見つけ出せなかった。なぜこのような事態が起こってしまったのか。自分の不注意を嘆くばかりだった。ケージの扉は何者かに開けられたわけではない。開きかけの状態であったため、内側からの圧力で外れてしまったのだ。
マエカワにゃんは元々単独で町をふらついていた猫である。檻の中に閉じこもっていることにストレスを感じていたのだろう。
まだ怪我が治ったばかりだというのに。走り回ってもし傷が開いたりしたら……考えたくもない。
授業の内容は全て頭を素通りしていった。こんな状態でまともに聞けるはずもない。気づけば周囲の人がいなくなっていた。
「ピィちゃん、まだ帰らないの?」
飼い主を探すポスターの次は、飼い猫のほうを探すポスターを作らなくてならないとは。しかし人間を探すならまだしも猫を探し出すのは難易度が高い。首輪すらついていないのだ。術後服を着ているが走り回って脱げることもありうる。そうなったら他の野良猫と容易には区別できなくなる。
「ねえ、ピィちゃんてば! 聞いてる??」
「えっ」
頭上から聞こえた大声に反応して顔を上げる。そこには眼鏡の美少女が一人。
「ま、前川さんっ。どうしてここに?」
「いやここにも何も、みくも同じクラスだし。それに今日は掃除当番なの。早く退いてくれないと掃除できない」
「あ、すいません。気づきませんでした」
「いいけどね。どうしたの? 今日はなんだか目が死んでるよ。みくの大嫌いなお魚みたい」
憧れの前川さんに嫌いな対象と同列に語られて心が痛む。だからといって空元気を出す気力はなかった。
「ちょっと悲しいことがありまして。凹んでいるんです」
「わかるよー。みくもしょっちゅう凹まされてる。先生は厳しいし、勉強は大変だし、オーディションには受からないし。そういうときは大好きなものを思い浮かべると良いんだよ。ピィちゃんは猫チャンが好き?」
猫、というキーワードに胸がざわつく。杭で打たれたように疼痛が走った。
「猫は好きですよ、とても」
「それ! みくはいつも猫チャンを思い浮かべて癒やされるの。猫チャンって可愛いすぎるでしょー? 猫チャンの可愛さと自分が感じてる辛さを比べてみるとね、猫チャンがいつも圧勝するの。だから大丈夫! まだまだみくは頑張れる! って、こうなるの」
「なんだか前川さんらしい理論ですね。確かに落ち込んでいてもどうにもなりませんよね。ありがとうございます、参考にします」
「うんうん、よろしい!」
席を立ち、鞄を持って教室を出る。戸に手をかけたとき後ろから声がかかった。
「ピィちゃんあのね。みく、本当は怖かったんだ。みくが休みの間にピィちゃんがみくの秘密をみんなに言いふらしちゃうんじゃないかって。でもみくはピィちゃんを誤解してたんだよね。ピィちゃんはみくの大ファンで、みくの言いつけは絶対に守ってくれるんだよね」
僕は神妙に頷く。言いつけを守るなんて、なんだかペットに使うような言葉だなぁと呑気な考えが浮かぶ。
「みくね、来週オーディションがあるの。そこで絶対に合格して、アイドルになってみせる。そうしたらピィちゃんとの約束を果たすよ!」
「はい、期待しています」
目が眩むような笑顔を向けられて僕は教室を逃げ去った。
そういえば休んでいた理由を聞き忘れていたと気づいたのは、学校を出た後だった。
あれから一週間。僕はマエカワにゃんを探し続けていた。だが目撃情報は一件もなく、彼女の行方を知る手がかりは何も見つからなかった。あの猫は初めから存在していなかったのではないか、なんて錯乱した考えが浮かんだりもする。
あの猫とは確かに奇妙な縁があった。だが結局のところ猫は猫だ。何を考えているのか人間に読めるはずもなく、自由気ままに本能の赴くところへ行くのが猫だ。僕はそんな猫たちの気性が嫌いではない。
生きてさえいてくれればいい。それだけでも知ることができたなら、と夕暮れに伸びた影を追いながら学校の正門を出る。
正門を通り抜けた瞬間だった。石柱に背を預けて立っている女生徒に声を掛けられる。そう、まるで僕が通る瞬間を待ち伏せしていたような。
「ピィちゃん、これから帰り?」
「前川さんじゃないですか。はい、僕は帰宅部ですので」
「ちょうどよかった。ちょっとみくに付き合って欲しいんだけど、いいかな?」
僕の曇りがかった心に涼風を呼び込んでくれるのは彼女の清澄な瞳をおいて他にはない。僕は二つ返事で承諾した。
どこへ行くのかと思いきや、前川さんが向かったのは駅前のファミリーレストランだった。名目的にはイタリアンのお店であり、家族連れはもちろん若年層にも好まれているチェーン店。
一番奥の二人がけの席に案内される。彼女の意図はわからないが、僕は颯爽とドリンクバーを二つ注文した。
「ピィちゃんってどうしてピィちゃんって言うの?」
「まさかその質問をするためにここまで連れてきたのですか……?」
「ううん、なんとなく気になって。でもぴったしのあだ名だよね。どっからどう見てもピィちゃん、って感じの雰囲気だし」
「はあ。僕自身、由来を知らないのです。いつの間にか周りがそう呼んでいたというか」
「あーでもそういうのあるよねー。みくも昔からあだ名で呼ばれてて、自分もすっかり馴染んじゃった」
「僕は馴染んでませんよ。自称ピィではありません」
そうなんだー、と適当な相槌を打った前川さんは俊敏に席を立ち、あっという間にドリンクを二つ持って帰ってきた。白ぶどうサワーとはさすが玄人なチョイスだ。
「でね、今日ピィちゃんに来てもらったのはね、みくの相談に乗って欲しいからなんだ」
「相談、ですか。わざわざ僕を呼び出すということはズバリ、アイドル活動の件ですね」
「うん正解。あのね、みく昨日オーディションがあったんだ。有名な芸能プロダクションのアイドル選抜オーディション。この日のために毎日毎日レッスンしてきたんだけど……ダメだったの」
「ああ、先週言っていた……」
オーディションに受かってみせると意気揚々と宣言していた彼女の姿を思い出す。今日の彼女はあの日とはまるで別人だった。自信なさげに俯いて、暗澹とした想念に押しつぶされて背中が曲がっている。
「これが初めてってわけじゃないの。もう一〇回以上オーディションに落ちてる。最初は猫チャンを抱きしめても治らないぐらいに落ち込んだんだけど、最近はあまり悔しくなくなってきた」
「悔しさを忘れると人の成長は止まる。あなたはよくわかっているはずです。それでいてなぜ?」
「この世界にはね、みくより可愛い子がたくさんいたんだ。本当に恥ずかしいんだけど、みくは自分の見た目に自信があったんだよ。オーディションを軽く合格して、トップアイドルまで一直線に駆け上がる。そんな気がしてたんだけど、現実は甘くなかったんだよね」
「では前川さんはもう諦めたということですか?」
前川さんが勢いよくグラスを置くと、中の氷が一つ飛び出して転がった。
「みくは簡単に諦めたりしない。絶対にアイドルになる。そう決めて大阪から
「……なぜですか。あなたはそんなにもスポットライトに当たりたいのですか? あんなもの羨望する価値はない。期待に焼かれ、身も心も灰となって朽ち果てるだけ。後には何も残らない。周りの人も自分自身すらも」
「ぴ、ピィちゃん? どうしたの?? お腹痛い?」
「え? 何を言っているんです?」
「だってピィちゃん、泣きそうな顔してる」
僕は手を目元に当てた。指先は濡れていない。
「いや……その……」
僕は前川さんから目を逸らし、視線を泳がせた。自分の意志でなく、身体が拒絶反応を示したかのように。
しかし感情で身体反応に抗った。前川さんは説明を求めている。僕は答えなければならない。
「すいません。取り乱してしまいました。昔のことを思い出してしまって。実は子供の頃、大人達と一緒に舞台に上がったことがあるんです」
「えっ!? それって幼稚園のお遊戯会じゃなく?」
「はい。都内にある立派な劇場に立たせてもらいました。僕自身に演技の才能があったからというわけではなく、母親の勧めでした。僕の母親は昔女優をやっていたのです」
「本当っ!? スゴイスゴイっ! ピィちゃんって実はサラブレットだったの??」
「親に恵まれていたのは事実です。何せ父親は現役の芸能プロデューサーなのですから」
前川さんの目と口が大きく開いたまま固まった。彼女の目の前で手を振ってみたが正気を取り戻すのに五秒はかかった。
「そ、そんな羨ましい両親の下で育って、どうしてあんな辛い発言を……」
「失敗したのです。本番の重要な局面で。ただそれだけです。あの頃の僕は軟弱者でしたから」
おかわりを持ってきましょう、と前川さんの分のグラスも持って席を立った。グラスとカップを交換し、自分の分にはコーヒーを入れる。砂糖もミルクも入れたくない気分だった。
席へ戻ると前川さんがいつになく神妙な顔つきをしている。眼鏡も相まって一段と理知的な雰囲気が漂っていた。
「ところで前川さん、さっきの続きですが。前川さんのオーディションの話」
「えっ、ああ、うん。そうだった、その話をしてたんだった」
「はい。僕が父に連絡をして前川さんをスカウトしてもらいましょうか」
「それはダメ!」
一瞬の躊躇もなく断言する前川さん。その決然とした態度に思わず薄笑いがこぼれた。
「ダメですか?」
「絶対ダメだよ。自分のお父さんならまだしも、他の人のお父さんに頼むだなんて、そんなのルール違反だよ。アイドル目指して頑張ってるのはみくだけじゃない。もしズルをしてデビューできたとしても、下から這い上がってきた人たちにコテンパンに負けちゃうよ」
「そうですか。非常に前川さんらしいと思います」
でも、と前川さんは恥ずかしそうに言葉を続けた。
「もしもお願いできるなら、君のお父さんにアドバイスをもらいたいかな。普通の女の子がどうしたらアイドルになれるのか」
どうしたら、か。アイドルを目指す人がすべからく抱えている疑問。そこに明確な答えはあるのだろうか。僕自身も興味がある。長年業界で生きてきた父の回答を。
「わかりました。前川さんのためなら断れません。本日のうちに父に連絡を取り、助言をいただいてきます」
父親と最後に会話をしてから約五年。関係性を閉ざしていた僕らに、この日この時、歩み寄るきっかけが生まれたのだった。
僕の携帯に入っている父の電話番号は五年前のモノ。変わっていてもおかしくはなかった。だが、三度の逡巡を乗り越えてプッシュした携帯電話からは五年前と変わらぬ父の低い声が聞こえてきたのだった。
「……いつでも電話していいと伝えてから五年。ようやくその気になってくれたようだな」
「はい、父さん。ご無沙汰しております」
僕を置いて単身海外に居を移した母とは違い、父は別れる最後の最後まで僕を気にかけてくれた。そんな父の情を無下にした僕は、もう愛想を尽かされていると覚悟していたのだが。
父は昔から関西に単身赴任をしていた。実家に帰ってくるのは年に一回か二回。ただでさえ会う機会が少なかったのに、母と離婚してからはただの一度も会っていない。
広いだけが取り柄の空虚な邸宅に一人取り残された僕は、自分の矮小さに虚しくなる日々を送っていた。そして五年前、父の反対を押し切って僕は家を出た。その際、実家の邸宅は売却している。学生の僕が一人で生きるための軍資金とするために。
「ちゃんとご飯は食べているか? まさか預金が尽きたんじゃないだろうな」
「まだまだお金は残ってるよ。大丈夫、ちゃんと毎日三食食べてるから」
売却の手続きを進めてくれたのは父だ。あの人はずっと僕を顧みることがない仕事人間だったが、僕の決断を阻みはしなかった。
「お前が電話してきたのだから、何か用があるんだろう。話してみろ。俺は長電話が苦手なんだ」
「変わりませんね。では単刀直入に。アイドルになるために必要な条件はなんですか?」
「そいつを俺に聞くのか。他ならぬこの俺に」
「芸能界に長く身を置いている父さんの答えを知りたいんです」
電話越しに父の唸り声が聞こえてくる。沈黙が続く。三秒、四秒、五秒……一〇秒。
「お前がどこの誰に頼まれたのかは知らん。だが、たとえどんな関係だったとしてもお前はその娘に引導を渡さなければならない」
要領の得ない話に僕は言葉に詰まる。父は僕の相槌を待たずに続けた。
「アイドルになれる娘は一握りだ。たとえアイドルとしてデビューできたところで、その先の道程には苦悩が待ち構えている。お前もよく知っているだろう?」
子供の頃、舞台に上がったときの記憶が蘇る。父や母はもちろん、同じ舞台に立つ大人たちや、大勢の観客の前で頭が真っ白になり、ただ立ち尽くしてしまった。どこを振り返っても二対の目が追いかけてくる。目、目、目、目、目。期待から困惑、そして落胆へと遷移していく感情が伝わり、僕の心に傷を残していった。
「お前がその娘に伝えることはただひとつ。諦めて普通の女として生きろ、ということだ」
「……それじゃあ答えになってませんよ、父さん」
「なにぃ?」
「僕は確かに壊れてしまった。でも何度挫けても立ち上がる人だっているじゃないですか。彼女はその人種です」
「ほう。確信があるのか?」
「いいえ。芸能プロデューサーの父を持つ子供の、ただの直感です」
「ふん、そういうときだけ子供面するのか。まあ、その不遜な態度は嫌いじゃない。この世界じゃ必要な素質だ」
父が長く息を吐いている。きっとタバコを吸っているのだ。ヤニの臭いが電話越しに洩れてくるようで不快だ。
「幸福にした娘より不幸にした娘のほうが多い。芸能界のプロデューサーなんて持て囃されても、所詮は金儲けの世界に生きる一会社員。我を張って娘を支え続けたとしても、最後まで守ってやることはできない。俺が言いたいのはつまり、責任が取れるのかってことだ」
僕は想像を巡らせる。アイドルになった前川さんが打ちひしがれ、疲れ果て、自暴自棄になって堕ちていく様を。だが、そんな虚像の映った鏡は瞬く間に砕け散った。
「彼女に限って、僕が責任を取るようなことにはならない」
「強情なやつだな! なら教えてやる。俺が合格を出す娘の条件は、キャラクター性だ。他の有象無象の女にはない、その娘だけの個性。完成度の高いアイドルなんて毎年いくらでも入ってきて、いくらでも抜けていく。だがキャラクター性の強い女は別だ。磨けば光る原石なんかより、よっぽど貴重で期待が持てる」
キャラクター性。そのアイドルにしかない、唯一無二の特性。それが父さんの答えか。
「わかりました。ありがとう、父さん」
「お前のためじゃない。未来溢れるその娘のためだ。もう電話を切るが、その前に一つだけ言っておく。もしお前が俺と同じ道を目指そうとするのなら、真っ先に俺に挨拶に来い。以上だ」
一方的に電話を切られた。要件が終わったのだから他に余計な会話をするつもりはない、全く父らしい行動だ。
「僕がプロデューサー? まさか」
他人を導く以前に、自分がどこへ向かっているか不明だ。そんなやつに務まる仕事であるはずがない。
昨夜の電話で父から得た助言を前川さんに伝える。彼女は腕を組んで頭を捻らせた。休み時間、人気のない階段の踊り場は静かすぎて、僕は少し居心地の悪さを感じてしまう。
「もっともな意見なんだよね。可愛いだけで頂点に立てるアイドルは一〇〇年に一度だとみくは思う。でもキャラクター性って簡単に身につくものじゃないよね……。みくには生まれ持った個性なんてないし……」
「自然体を求めるかどうかでしょう。父は個性の在り方について言及してはいなかった。天然の個性は才能に依るものなのは間違いない。ですが人工の個性は努力によって成熟させられます」
「だからみくの場合、自分の個性を見つけ出すんじゃなくて、新しく個性を作り出すところから始めなきゃいけないんだね」
またしても前川さんは難しそうな顔をして口を閉ざしてしまった。父のおかげで今後の方向性は示されたが、肝心の解決策が思いつかない。個性を生み出すなんて一介の高校生に可能なのだろうか。ありきたりな特徴では意味はない。自分の魅力を引き立てる要素を持ち、かつ他のアイドルとは被らない彼女だけのキャラクター性でなければならない。
少なくとも僕には案がない。これはおそらく前川さん自身によって生み出されなければならない。自身の内面への果てしない問いかけ。父さんもえげつない助言をしてくれたものだ。
「……難しいね。でもやるしかないよね。うん。頑張って案を出してみる。ピィちゃん、ありがとうね」
僕にしてあげられるのはここまでになりそうだ。前川さんならきっと乗り越えてくれる。信じるしかない。
一週間が過ぎた。ある日曜日の昼下がり。その日は空全面に青が行き渡る快晴だった。僕は日用品の買い物を済ませ、せっかくの休日をどう過ごそうか検討し始めていた。
ポケットの中で携帯電話が震動する。開くと画面上には見知らぬ番号が表示されていた。
「もしもし。どちら様でしょうか」
相手は僕の名前を確認してくる。どこかで聞いたことのあるような声だった。
「そうですが、何の御用でしょうか」
「張り紙を見て連絡しました。ごめんなさい、もっと早くに見つけていればよかったのですが」
「張り紙? まさかっ! 猫の飼い主ですか!?」
「いえ、飼い主ではないんですが……あなたが飼い主じゃないんですか?」
「ああなるほど、そちらのほうのポスターですね。僕はまあ、暫定的な飼い主みたいなものです。それで、白猫をどこかで目撃されたというお電話でしょうか?」
「どこかで、というよりも家で預かっているというか」
思わぬ僥倖に居ても立っても居られなくなる。落ちつきなく辺りをうろつきながら電話を続ける。
「保護してくださったということでしょうか。なんとお礼を言っていいものか。できればこれからすぐにご自宅までお伺いしたいのですが、ご都合はよろしいでしょうか」
「ええと、今日は夜まで家に戻らなくて。でも猫ちゃんは今ここにいるの。こっちまで来てもらえるなら、住所を教えますよ」
「なるほど、ではご訪問させていただきます。都内でしょうか」
電話口の彼女は都内の住所を告げた。場所はそれほど離れていない。何から何まで好都合だ。幸運が僕にも回ってきてくれたに違いない。
これから向かう旨を告げ、電話を終えた。指定の場所に向かいながら、電話の女性が見つけた白猫がマエカワにゃんであることを祈っていた。
指定された場所を僕はよく覚えていた。
閑静な住宅街に位置する赤い煉瓦のマンション。その二階へ上がる階段を昇ったのは初めてだったが、下りてきた人を待ち構えていたことならある。
アイドル養成所。ここで前川さんと出会ったのだ。思えばあのとき、白猫を追いかけてここに辿り着いたのだった。
そのとき、ようやくあの声の主に思い至る。
受付で名前を告げると、すぐ近くの扉が開き、電話の女性が現われた。
「あれ? ピィチャン! どうしたの?」
「前川さん、僕の本名を覚えていなかったようですね」
「えっ? あ……ああっ、もしかしてあの猫チャンの飼い主って、ピィチャンだったの!?」
「正確には飼い主ではありませんが、確かに探していたのは僕です。こちらにいると伺いましたが」
「うん、いるよ。ちょっと待っててね」
そう言うと彼女は元来た部屋に戻り、両手に白い毛並みの猫を抱えて出てきた。顔を見た瞬間に確信した。間違いなくあのとき脱走した猫だ。
「ああ、こいつです。ケージから抜け出した破天荒な猫は。ふう、よかった、生きてて」
ここ数週間の不安の錘がようやく外れたような気分だった。本当に人騒がせな猫である。命の恩人よりも、食べ物を与えてくれる人を選ぶなんて。
「前川さん、これまで何度かこの猫に会ったことがありますか?」
「うん。この猫チャンね。時々ここに遊びに来るの。そのたびにご飯を上げて遊んであげてるんだよ。最近は特にみくから離れようとしなくて、寮まで連れて帰ってるんだ」
やはり。これであの日、白猫がこの場所へ向かっていた理由が判明した。ケージから逃亡したのも同じ理由だろう。
「寮……ですか。前川さんの住んでいる寮とは、ペットを飼えるのでしょうか」
「ううん、本当はダメ。でもね、寮母さんが許可してくれてるんだ。みくだけじゃなくて、寮のみんなで飼っているってことで。でもこの子、いつも寝るときはみくの部屋に来るんだよね。むふふ、みくの猫チャン愛は隠しきれないんだよねぇ」
前川さんの腕に抱かれているあの猫はごろごろと喉を鳴らし、彼女の豊かなバストを枕にリラックスしている。僕のほうは見向きもしない。猫が飼い主でない人間にこうも懐くものだろうか。
「前川さんは本当に猫が好きなんですね」
「うん! 夢は猫チャン一万匹の観客の前でライブをすること”にゃ”!」
言葉の終わりにマエカワにゃんの鳴き声が入った。人が真面目な会話をしているのにこの猫は本当に空気を読まない。猫とはそういう生き物ではあるが。
「……ううん?」
前川さんが難しい顔をしている。なんだろう。
「前川さん、アイドルらしからぬ顔をしていますよ。ああっ、眉間に皺なんか寄せて……いったいどうしたっていうんですか」
「なにか閃きそうになった。さっきの会話、もう一度やってみない?」
「いいですけど……えと、僕なんて言いましたっけ。前川さんは猫が好きなんですね、でしたっけ」
「そう! それでみくは猫チャン一万匹ライブをやるのが夢だって話して……あれ? 別におかしいところない」
「どこが引っかかったんでしょうね。確かに猫を一万匹集めるなんて現実味のない話ですけど」
「夢はでっかくおっきく! 人生”にゃ”んとでも”にゃ”る! みくは本気だよ。アイドルになったら、全国各地の猫カフェを回る”にゃ”。現地の猫チャンと仲良くなって、いつかこの場所で全員集合の号令をかける”にゃあ”。ほら、現実的で”にゃ”。……って、もうっ! せっかくみくがいい話をしてるのにこの猫チャンは。にゃあにゃあ言い過ぎにゃ!」
「にゃ?」
僕にも何か不思議な感覚が芽生えた。灰色に染まった曇天から天使の梯子がかかるような。
「あ。そうか。ピィちゃん、みくわかっちゃったにゃ」
「前川さん、語尾が猫になってますよ」
「それだよピィチャン。猫チャンなんだにゃ、みくの大好きなものって。これなら誰にも負ける気がしない。だったら躊躇わず全力で猫チャンになればいいんだにゃ」
「猫になる? 前川さん、もしかしてあなたのキャラクター性は……」
前川さんがマエカワにゃんを両手で高く掲げた。まるで誇らしく優勝トロフィーを見せつけるかのように。マエカワにゃんは両足を広げ、歌うように鳴いている。
「猫キャラだよ。いや、猫キャラだにゃ! みくの目指すアイドルは、猫チャンアイドルにゃあ!」
彼女の瞳は星空を映す海だ。自信に満ちたその表情は晴れ晴れしく、彼女の未来に憂いはないのだと思い知らされる。
道は開かれた。白い猫を道連れに、彼女の旅が今ようやく始まったのだ。
レッスンルームに案内され、マエカワにゃんと共に前川さんのダンスレッスンを見学している。マエカワにゃんのことを前川さんに託し、そのまま帰るつもりだったが、前川さんに是非と誘われてしまった。断る理由はないのでついてきたが、果たして何を見せてくれるのだろうか。
「ワン・ツー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイッ」
トレーナーの手拍子と掛け声に合わせてアイドルの卵達がステップを踏む。たった四人とはいえ、皆、見事にタイミングが合っている。オーディションに受からないのが不思議なくらいの実力者が集まっている養成所なのだと、このとき理解した。
眼鏡を外した前川さんは学校にいるときと印象がまるで変わっている。どちらも真剣な顔をしているのには違いないが、学校の前川さんが与えられた作業のように勉強をこなしているのに対し、ここでの前川さんは一歩でも前へ進もうと、油断も驕りも一切無くしてレッスンに打ち込んでいる。真剣さの桁と質が違う。
以前の僕はここまで練習に打ち込んでいただろうか。
ふと右隣から何モノかが動く気配を感じた。顔を向けると、マエカワにゃんが四本脚を器用に動かしてステップを踏んでいた。トレーナーの取るタイミングと寸分違わぬ足運び。唖然とするしかなかった。
「き、君には、そんな特技があったのですか」
やがてダンスは佳境に入ってくる。トレーナーの最後の手拍子が打たれたとき、前川さんが奇妙な動作に入った。指を曲げて手首を内側に捻る。ただし親指は握り込まず、指に力は入れていない。片足を上げ、軽く小首を曲げると、決め台詞と共にポーズを固める。
そのとき隣の白猫も彼女の動きをトレースする。自分を可愛く見せる術を知っているかのように、前足を内側に捻ったまま片足だけ上げてみせる。
一人と一匹は同時に鳴いた。
「にゃあ!」
否、このレッスン場には猫が二匹いる。
「こらぁ、前川! なんだそのおかしなポーズは!」
「おかしくないよ! ないにゃ! これがみくの新スタイルなの!」
「何が新スタイルだ。ふざけてる余裕がお前にあるのか」
「ふざけてないよ、にゃ。これがみくのキャラクター性だもん。基礎は絶対に守るから、みくを信じてやらせて欲しいのにゃ!」
「う、うーん、まあ、そこまで言うのなら。そのおかしな語尾もキャラクター性?とやらか?」
「うん。みくは次のオーディション、猫チャンアイドルで挑んでみるつもりにゃ」
前川さんの決意は固い。彼女は自分の選んだ道を突き進むだろう。確かに、あのキャラクターは彼女に似合っている。正統派アイドルではなくなり、色物アイドルへと方針は変わるものの、かといって彼女の可愛さが損なわれるわけではない。むしろ彼女にしかない魅力が存分に発揮されている。
行けるかもしれない。素人の感想でしかないが、そう予感させるほどのインパクトがあった。
その後も前川さんは随所に猫らしい動作を交えてレッスンをこなしていった。マエカワにゃんも彼女と一緒になって踊り続けていた。怪我は完全に治っているようで僕は心から安堵していた。
「ピィちゃん、今日のみく、どうだった?」
「はい、非常に良かったと思います。前川さんにしかない猫らしい笑顔がたくさん見られました」
彼女と連れだって歩く帰り道。家の方向は違っているが、前川さんたっての希望で彼女のエスコートを任されることになった。片想いの女性と話ができるのなら僕には断る理由がない。
「そうでしょーそうでしょー。次のオーディションは確実に獲れるにゃ」
「次のオーディションの日程はいつでしょうか」
前川さんの告げた日にちは今日より三日後。猶予はほとんど残っていない。急ごしらえの猫キャラでどこまで善戦できるのか。
「前川さん、猫キャラの質をより向上させましょう。これからオーディションまでいつでも語尾に『にゃ』をつけることを意識してください」
「にゃにゃ、学校でも?」
「そうですね……できれば学校でも徹底したいところですが、そうは行きませんよね」
「うーん……授業中はさすがに難しいけど、休み時間なら大丈夫だと思う。にゃ。でもクラスの人と話すのは無理。ピィチャンとなら大丈夫なんだけど……」
「では提案です。オーディションまでは休み時間は全て僕と一緒に過ごしましょう。周囲にあまり人がいないところで。それなら存分に猫キャラを習熟させられるはずです」
「ありがとにゃ! ピィチャンがそう言ってくれるなら、みくは甘えちゃうにゃ」
前川さんは嬉しそうに鼻歌を歌い出す。後ろからついてきているマエカワにゃんも釣られて鳴き出した。
「あ、ところでピィチャン。この猫チャンだけど、ピィチャンに返さないといけないよね」
「いえ、その件はこちらから前川さんにお願いしたいことがございまして。是非、今後も前川さんのほうで預かって欲しいのです」
「えっ、ホント! いいの??」
「はい。僕の部屋ではペットは飼えませんし。飼い主の方から連絡もありませんので」
「やったやったーーー! 猫チャン、これからもみくと一緒にゃあ!」
前川さんは白猫を抱きかかえると、飛び跳ねながら喜びを表現した。そんな彼女たちを微笑ましく見つめる。マエカワにゃんにとっても最高の飼い主だろう。元の飼い主に見捨てられ、命に関わる怪我を負った彼女だったが、ようやく幸福を手にすることができたのだ。
ふいに、とある疑問を思い出した。マエカワにゃんが事故にあってからの三日間、前川さんは学校を休んでいた。あれは本当に風邪だったのだろうか。
「あーあのときのことね。先生にも内緒にしてもらってたんだけど、みく、入院してたんだにゃ」
「入院!? まさかっ!」
「本当のことだにゃ。あの日は養成所の前でピィチャンに会ったんだったよね。あの帰り道に車に轢かれちゃったんだ」
「なんと……。辛かったでしょう。どこかに怪我をされたのでしょうか?」
「ううん、怪我はなかったの。でも頭を打っちゃって。精密検査をするから、って入院になったのにゃ。でもね、あのときは本当に危なかったんだよ。車の急ブレーキのタイミングが少しでも遅かったらもっと酷いことになってたかもしれないって、お医者さんが」
「危ないところでしたね。相手の運転手には反省して欲しいものです」
「うん。あ、そういえばあの人、おかしなことを言っていたにゃ。みく以外にもう一人、轢いていなかったか、って」
「もう一人?」
「そう。みくの手前で何かが飛び出してきたんだって。ぶつかった音はしたらしいんだけど、現場にはみく以外誰もいなかったんだにゃ」
僕は彼女の腕の中で気分良く喉を鳴らしているマエカワにゃんを見遣る。もしかするとその何かとは……。
「前川さん、あなたは神様以外の何かに愛されています。例えばこの世界の猫たちに」
「みくも同じ意見だにゃ。猫チャンにはこれまで何度も助けられたのにゃ。だからみくは猫チャンへの助力は惜しまないと決めてるんだにゃ」
この辺でいいにゃ、と前川が足を止める。明日からの猫キャラ特訓を約束し、僕らは別れた。たった三日だが、無為に過ごすには長すぎる。僕は僕で、彼女が合格できるよう全力でフォローしよう。
朝、一時間目の授業が始まる前。
昼、お昼休みに昼食を取るとき。
夕、養成所までの道行き。
夜、レッスンの帰り道。
僕らは少しでも共に過ごす時間を増やし、前川さんの猫キャラの練度を上げるべく、特訓を続けていた。
その甲斐あってか、前川さんはほぼ完璧に猫キャラを演じられるようになっていた。言動に不自然さはなく、あたかも生まれながらの猫キャラであったかのような印象さえ受ける。
そして、オーディションを明日に控えたお昼休み。僕と前川さんは学校の屋上に出て、ベンチに座ってお昼ご飯を食べていた。ちなみに僕が購買の菓子パン三つ、前川さんは弁当屋の幕の内弁当である。野菜、肉、魚、そして炭水化物として米が綺麗に並べられている。栄養バランスの高い食事だ。
「ピィチャン、今までありがとうね」
彼女は殊勝な態度で感謝の言葉を述べる。僕は食べかけのパンを口に詰め込み、居住まいを正す。前川さんは気恥ずかしそうに俯き加減でご飯をつまんでいた。
「明日、たとえどんな結果になっても、みくは後悔しないと思う。これまで一度だってレッスンに手を抜いたことはないし、猫キャラの特訓だって一生懸命やった。みくはこれまでずっと全力を尽くしてたと思ってたにゃ。いつだって全開で夢に向かってるって。だからオーディションに受からないのは運がなかったから、なんて心の中で言い訳してたにゃ」
「それはそのとおりかもしれません。審査員の方によって合格基準は異なりますから」
「ううん、それじゃあみくの成長は止まってた。自分の猫キャラの可能性に気づかなくて、きっとすぐにアイドルを辞めてたにゃ」
「自分の成長……ですか」
うん、と前川は力強く頷き、卵焼きを飲み込んだ。
「自分のことは自分が一番よくわかる、なんてよく聞くよね。みくはそうじゃなかったにゃ。みくに可能性を開いてくれたのはピィチャンだよ」
「僕は父の受け売りを伝えたまでです」
「でもピィチャンが行動してくれなかったらそんなチャンスはなかったにゃ。それにピィチャンはみくの猫キャラ特訓にずっと付き合ってくれた。猫はご恩を忘れないのにゃ」
僕はつい彼女から目を逸らしてしまう。前川さんの眼差しは僕には眩しすぎる。こんな身近に太陽があっては影に隠れることもできない。
「あ、明日は、どこでオーディションをやるんですか?」
前川さんは話題を逸らされても笑顔を絶やさない。ここから約三〇分ほどの地下鉄の駅名を告げた。
「コンサートホールを貸し切ってオーディションするんだって。ちょっと緊張しちゃうよね」
「舞台の上でアピールする、というわけですか。新人アイドルのオーディションにしては随分大仰ですね。さぞ派手好きな審査員なのでしょう」
「うん……。ねえ、ピィチャン、みく他にできることないかな」
前川さんの声は消え入りそうな蝋燭の火のようだった。情熱に燃えてる光輪は影を潜め、薄雲に隠れた朧月のような目で僕を見上げてる。
「あるとすれば、前川さん、あとはあなたの気持ちだけです。前だけを向いてください。後ろを振り返らないで。左右に目を移さないで。そこにきっとあなたの輝かしい未来がある」
「……うん! そうやって突き進むのがみくだよね! さすがピィチャン、みくのプロデューサーだにゃ!」
「ぷ、プロデューサー??」
彼女の発言にあからさまに狼狽してしまう。あやうく袋からパンを落としそうになったほどだ。彼女は弁当を勢いよくかき込み、全て平らげると自信ありげに胸を張った。
「冗談のつもりはないにゃ。みくはまだアイドルになっていないけど、もしアイドルになれたならピィチャンみたいなプロデューサーのいる事務所に行きたいにゃ」
「ぼ、僕は、もう光の当たるところへ出るつもりはありません」
「チッチッチ、ピィチャン、プロデューサーは舞台に立たないにゃ。舞台に立って、ファンのみんなの視線を集めるのはアイドルの仕事だよ。ピィチャンは極端だにゃ。これはこれ、それはそれだよ」
彼女の発言は正論だ。舞台を作っているのは役者だけじゃない。役者としての能力はなかったが、舞台を影で支えることはできるかもしれないのだ。
それでも僕に誰かを送り出す資格があるだろうか。逃げ出してしまった腰抜けに。
前川さんは立ち上がり、両手を腰に当てて胸を張った。僕より高い視線から呆れ顔で宣言する。
「しょうがないにゃあ。ピィチャンの才能はこのみくが証明してあげるにゃ。だからピィチャンには約束して欲しい。もしみくがオーディションに合格したら、ピィチャンはプロデューサーを目指すって」
自分の将来をそんな簡単に決められるものか、などと一蹴するのは逃げだ。前川さんにここまで言わせておいて、それでも守りたいほどの
腹を括るときは、今。
「その約束、必ず果たします。だから前川も必ず合格してください」
「本番前日にプレッシャーをかけるなんて! ピィチャンも性格悪いにゃ」
「ならやめますか?」
「ううん、やめない! みくにだって、ピィチャンとの約束があるからね」
「はい。アイドルになって観客席にいる僕に笑顔を向けてくれるんですよね」
「もちろん! 全力前進! みくは戦う猫ファイターだにゃ!」
その晩、僕は自室の布団の上で大の字になっていた。暗い部屋で天井を見上げながら、前川さんとの会話を回想していた。
僕が芸能界にプロデューサーとして進出する。あの日以来、想像もしていなかった未来だ。だが確かに、僕が前川さんに対しておこなってきた数々の行為はアイドルの導き手、つまりはプロデューサーの業務と重なるところがある。
だからといって、将来の道として選択するには根拠が薄いというか。僕自身、強烈な願望があるわけではないのだ。
「……考えていても埒が明かない」
もし僕に才覚があるのだとしたら、きっと明日の彼女が証明してくれるだろう。
と、そのとき開けていた窓から白い塊が飛び込んできた。
「にゃあ!」
「にゃあ、じゃない! マエカワにゃん、なんでここに?? ああっ、もうここペット禁止なんだってば」
僕は急いで白猫を抱きかかえ、部屋から脱出した。大家さんに見つからないようにアパートから離れ、どうしたものかと途方に暮れる。
「お前なあ、こんな時間に抜け出してくるんじゃないよ」
すでに時刻は午後九時を回っていた。前川さんの下宿先を訪ねるには少し遅すぎる。彼女は明日のオーディションに供えて集中力を高めている頃だろう。
預け先を求め、僕はマエカワにゃんを治療してくれたあの動物病院に向かう。あの先生なら事情を話せば一日ぐらいなら預かってくれるだろう。
動物病院への道行き、マエカワにゃんが急に懐から飛び出した。そこで僕は傷だらけのマエカワにゃんを発見した公園の傍を歩いていたことに気がついた。マエカワにゃんは公園の入口から入り、ブランコに飛び乗った。勢いでわずかに揺れる板の上で白い猫が背筋を伸ばして座っている。僕はベンチに座り、少しだけ休憩していくことにした。
腹の虫が豪快に鳴った。僕もそうだが、猫も腹を空かせている頃だろう。道中で飼ってきた一匹の鰺をマエカワにゃんに献上する。だが、彼女は威嚇するように鳴いて、鰺を後ろ足で蹴り飛ばした。キャットフード以外も食べたいだろうと気を利かせてやったのに、なんてやつだ。一生同じモノを食べていればいい。僕は袋ごとキャットフードを渡してやった。
夜空を見上げても星はほとんど見えない。今日は夜から曇りの予報だった。
ここ最近、僕の頭に描かれるのは前川さんばかりだ。今だって、彼女の不安そうな瞳が頭から離れない。
彼女にはアイドルになって欲しいと思っている。もしかしたら、プロデューサーなんて本質的には単純な仕事なのかもしれない。思い入れのある卵達に晴れの舞台を作ってあげたい。誰よりもキラキラ輝いて欲しい。そういった願望を実現させるために様々な手段を講じる。目的は至ってシンプルなのだ。
明日、彼女は一〇〇%の自分を発揮できるだろうか。まだ何か決定的な一押しが足りないような気がする。
ブランコに揺られているマエカワにゃんを見遣る。小さな耳をひくつかせ、板の上に腹をつけている。
確かに猫は可愛い生き物だ。だがいったいなぜ我々は猫に愛らしさを感じるのか。悩むまでもなく、第一はその見た目による。
仮に猫の身体から一部を取り上げるとしよう。どの部分が猫を可愛くたらしめているのか。脳裏にマエカワにゃんの全身像を思い浮かべる。髭を取ってみる。それほど魅力は損なわれない。鼻を取ってみる。猫ではない生き物に見えるが、鼻が決め手かといわれると首肯しかねる。
耳はどうか。前に横に、広がったり縮んだり、事ある事に反応する両耳。これを外すと、明らかに猫ではない。加えて魅力が格段に落ちる。猫の可愛らしさを象徴する箇所のひとつは耳だ。
マエカワにゃんを凝視する。もうひとつを見つけ出した。動物の感情を表す指標のひとつ、尻尾である。頭の反対側にあることで全体のバランスにも影響してくる。
前川さんが猫キャラを貫くのなら、形から入るとより完成度が増すに違いない。僕はマエカワにゃんを連れて公園を飛び出した。必要な裁縫道具を購入し、かつての土管にマエカワにゃんと潜り込む。おとなしくしている彼女をモデルにしながら、僕は耳と尻尾を作り始めた。
朝方に鶏の鳴き声で目が覚めた。人生で二度目の土管起床である。今回はすぐ隣でマエカワにゃんも眠っていた。
まだ時間はある。装飾品の最後の調整をおこない、それを終えると自宅に一時帰宅した。準備を終え、オーディション会場へと向かう。
会えるかどうかは運の問題だったが、僕は女神の加護を受けたようだ。入口で張っていると目的の人物が現われた。
「前川さん、おはようございます」
「んにゃあっ!! って、ピィチャンか。もービックリするからやめてよ。猫の心臓は小さいのにゃ」
「申し訳ありません。ですが、あなたにどうしてもお渡ししておかなければならないモノがありまして」
僕は背中のリュックから例のブツを取り出す。
「これです。身につければより猫らしくなるのではないかと」
差し出した猫耳と尻尾を見た途端、前川さんの強ばっていた表情がほぐれ、歓喜に目を輝かせた。クリスマスの朝にサンタクロースからのプレゼントを発見した子供みたいだ。
「ピィチャン……これだにゃ。強烈な猫キャラを演出するためにやっぱり形から入らなきゃ!」
「はい、僕も同意見です。夜なべをした甲斐があるというものです」
前川さんは眉のハの字に曲げて首を傾げる。その後、閃いたかのように口を縦に開けた。
「もしかしてこれ、ピィチャンの手作りなのかにゃ!?」
「はい。マ……この猫の耳と尻尾を参考に作りました」
いつの間にか僕の足下から前川さんのもとへ移動しているマエカワにゃんを横目で一瞥する。彼女と同じような素材の白いファー生地を購入し、カチューシャに縫いつけた。尻尾は生地の中に針金を入れて作成した。尻尾の先を丸めてより猫らしくなったはず。
「……なんといっていいか……みく、ピィチャンにこんなに良くしてもらって、本当に嬉しい。おかげで勇気が出てきたよ。よぉし、猫チャンアイドル目指して、大出発にゃ!」
マエカワにゃんが発破をかけるように「にゃあ」と元気よく鳴く。前川さんはしゃがみ込んでマエカワにゃんの頭を撫でた。
「み……キミも応援ありがとにゃ。思えばキミとは一緒にレッスンをしたり、お風呂で歌ったりしたものだにゃ。みくのファン第一号はキミだにゃ。だからキミもピィチャンとみくの合格を祈ってて欲しいにゃ」
マエカワにゃんは小首を傾げる。彼女の想いが伝わったのかは判別できないが、前川さんは満足そうに微笑むのだった。
「ではお二人さん、行ってくるにゃ!」
前川さんは威風堂々とした態度でホールの門をくぐっていった。
前川さんを見送り、踵を返したそのときだった。携帯電話がぶるぶると震動し始めた。
ディスプレイに表示されたのは”父親”という文言。
「もしもし。父さんですか?」
「そのとおりだ我が息子よ。急で悪いが、お前これから暇か?」
「暇といえば暇ですけど……いったいどうしたんです?」
「うちの部下がドタキャンしやがって人が足りない。仕事で東京に来てるんだが、お前、今から手伝いにこい」
有無を言わさぬ申し出に、僕は咄嗟に断ることができなかった。前川さんの結果をただ悶々と待つよりは有意義な時間の使い方かもしれないと理由付けをしてみる。
「わかりました。どこへ行けばいいんですか?」
「おう。場所はな……」
父が告げた場所に僕は既に到着していた。
眼前に建つ瀟洒なコンサートホールを見上げる。芸能プロデューサーである父の仕事。そしてアイドルのオーディションへ向かった前川さん。両者が同じ場所で交錯する意味は明白だ。
僕は意を決してエントランスへと進んだ。自動ドアが無機質に僕の訪れを歓迎してくれた。
受付で父の名を告げ、三階の一室に案内された。扉に貼られた紙には父の所属する芸能事務所の名が記されている。
「関係者控え室……ここだな」
扉をノックすると先日電話越しに聞いた声が返ってきた。五年ぶりの再開は劇的でもなんでもなく、日常の延長線上に乱雑に置かれていた。
「よう。めちゃくちゃ早かったな」
「久しぶりですね。父さん」
親子の再開を祝う人はこの場にはいない。父の同僚と思われる若い女性が一人、困り顔で立ち尽くしていた。
「千川、こいつが俺の息子だ。今日一日こき使ってもいい」
そんな許可は出していない、などと言い返すよりも優先すべき事柄があった。
「父さん、これからここでアイドルのオーディションがあると思うんですが、もしかして父さんの仕事って」
「おう、そうだ。若い娘の品評会、といったところか。ははん、読めたぜ。お前が電話で話した女がいるんだな?」
「否定しません。まさか父さんが審査員を務めるとは予想していませんでしたが」
父に前川さんの情報は与えていない。彼女の素性がばれることはないだろう。
「父さん……その……無理を承知でお願いしたいのですが」
「ダメだな。厳正な審査の場に部外者を入れるわけにはいかん」
わざわざ言うまでもなく、僕の気持ちはあからさまに過ぎた。だが、実際にこの目で見たいのだ。僕の応援する彼女がアイドルになる瞬間を。
「そんな顔をするな、馬鹿野郎。ほら、人手が足りねえんだ。千川についていけ」
僕はその場を動かない。弱気な想いとは別の意志が足を床に縫いつけている。
「僕を審査会場に入れないのであれば、このまま帰ります」
「ああそうかい! ったく仕様がねえクソガキだ。会場の一番後ろに目立たないように座ってろ。何かあったらすぐ対応できるようにな」
思わず雄叫びを上げそうになった。どうやら今日の僕には感情の蓋が外れているらしい。
千川さんという女性の指示に従い、審査用紙の準備と確認、マイクや音響機材の調整の補助、ホールの照明の調整など、雑務を引き受け、会場を駆けずり回っていた。本来なら三人でやるはずの仕事だったと千川さんは申し訳なさそうに言う。会場の準備が終わる頃には疲労困憊し、舞台から一番遠くの観客席でへたり込んでいた。
アイドルの審査会場としては大仰すぎる会場だった。実際に歌手のコンサートにも使用されるホールで、座席数はおよそ八〇〇といったところか。舞台を要として扇形に広がるような構造になっている。
この会場は父が用意した篩《ふるい》だ。まだデビューもしていないアイドルの卵達にとっては憧れであると同時に重圧となるだろう。特に、口先だけでアイドルを目指している子には効果覿面だ。
舞台上ではすでにオーディションが始まっている。華やかな外見をした娘が目を泳がせていた。容姿には自信があったのだろう。だが、舞台に立ち光を浴びたその瞬間、自信は紙屑のように吹き飛ばされる。生半可な覚悟の持ち主はそれだけで堕ちる。
自らを守る鎧を剥ぎ取られてから始まるのだ。選ばれた者だけが辿り着ける光輝な世界への挑戦が。
「にゃあ」
「んっ!? ま、マエカワにゃん! どうしてここに??」
どこからともなく現われ、僕の隣で呑気に鳴いた白い猫。こいつは本当に神出鬼没だ。前川さんあるところに彼女在り。きっとこいつも前川さんの舞台が気になって仕方がないのだろう。
ひとり、またひとりとアイドル志望の若い娘が舞台に現われては下りていく。面接官である父は観客席の最前線でふんぞり返っていた。最初に簡単な質問を投げかけると、自己アピールをするように求める。審査内容はそれだけだが、非常に厳しいと言わざるを得ない。自己アピールに形式は用意されておらず、個人の自由で何でもやってよいと事前に通知されていたらしい。ダンスを披露する者、歌やトークで勝負する者、はたまた水着で色気をアピールする者など千差万別だ。明確な基準がない分、むしろ演者は苦労していることだろう。
前川さんはまだ出てこない。彼女の出番が何番目か聞いておけばよかったと後悔する。何時間も緊張しっぱなしで心臓に穴が開きそうだ。
ちなみにマエカワにゃんは呑気に毛繕いをしているのだった。
そして―――ついにそのときが訪れる。
胸に三九番のナンバープレートをつけて、前川さんが舞台の上に登場した。まるでそこに観客がいるかのようにゆったりと周囲を見渡し、気合いに満ちた表情で審査員と目を合わせた。大舞台に萎縮している様子はない。そう、彼女はすでになりきっているのだ。
「じゃあ、まず最初に番号と名前を教えてくれ」
前川さんは得意げに笑った。頭の猫耳とお尻の尻尾が最高に決まってる。審査員は皆、口をあんぐりと開けている。完全に狙い通りだ。隣の白猫が陽気に鳴いている。自分に続けと鼓舞するように。
「―――はい。エントリーナンバー三九、前川
想定通り、審査委員の質問は彼女のキャラクターに集中した。
―――どうして猫キャラなのか。
「猫チャンってすっごく可愛いでしょ? みくにとってのアイドルも同じなの。世界一可愛いアイドルを目指すなら、猫チャンの力を借りるのが自然だと思う」
―――ということは生粋の猫キャラではない?
「ふにゃあ! み、みくは初めから猫チャンにゃ! Pチャンたち何を言っているのかわからないにゃ」
―――その猫耳と尻尾は自分で作ったのか。
「ううん、これはピィチャンが……って違うにゃ! これはみくの身体の一部! 作ったんじゃないにゃ!」
猫キャラとして表舞台に立つにはまだまだ修行が足りない。だがこれも彼女の魅力の一つだろう。審査委員の食いつきが他の参加者とは比較にならない。
不安要素があるとすれば、審査委員のトップである父がまだ彼女に対して一言も言葉を発していないことだ。
「……なるほど、大体わかりました。では自己アピールに移っていただきますが、いいですよね?」
進行を務める若い男の審査委員が隣で腕を組んでいる父に確認を取る。父は頷きもせずじっとしているだけだった。肯定とみなしたのか、進行係は前川さんに自己アピールをするように促した。
「わかったにゃ! Pチャンたち、みくの最高にキュートな歌声とダンス、いっぱい楽しんでいって欲しいにゃ!」
彼女の持ち歌『おねだり Shall You~?』が流れ始める。彼女独自のアレンジを加えた猫ダンスを踊りつつ、明るく元気な声で歌う。陽気に、軽やかに舞う一匹の猫。その姿は人々の目を独占し、会場の空気を猫一色に染め上げていた。前川さんにしかできない、彼女のためだけの
スポットライトは激しく熱く、その者を照らし燃やす。その光を内に留めてしまったならば、自らの心を焦がし尽くすだろう。しかし、彼女たちアイドルは違う。彼女たちは鏡だ。自らを照らす光を跳ね返し、会場の観客全てを照らし上げる。自分自身の中でその輝きを何倍にも増やして。
それこそが舞台に躍動する者達に求められる唯一必須な才能。
―――ああ、ようやく答えを得た。
アイドルが鏡ならば、僕は彼女たちを磨き上げたい。誰より美しく、決して砕けないほど硬く。希有な才能を持つ彼女たちの存在が霞んでしまわないように。
「ドキドキしたでしょ にゃお♪」
隣の席でもう一つの猫ダンスを披露しているマエカワにゃんを見遣る。前川さんと共に歩んできた彼女は何を思っているのだろうか。いや、何も考えていないかもしれない。猫という生き物は気まぐれだから。
音楽が止み、静寂が場を満たしていく。前川さんの一世一代の自己アピールが終了した。
「はあ、はあ、はあ……」
全てを出し尽くした彼女はそれでも前を見続けていた。
「お、お疲れ様でした。で、ではこれにて……」
「待て」
最後まで地蔵を貫いていた父がようやく口を開いた。一瞬にして息苦しいほどの緊張の糸が張り詰めていく。
「前川、最後にひとつ質問させてもらう。もし、猫キャラを辞めればアイドルにしてやる、と言ったらどうする?」
そんな馬鹿な! 僕は思わず立ち上がっていた。キャラクター性を最重視すると言っていた父の言葉とは思えない。よりにもよって彼女がやっとの思いで見出した個性を捨てろだなんて。
抑えきれず審査員席まで下りていこうとした僕を小さな手が止めた。マエカワにゃんの肉球が僕の腰に触れている。いつもと変わらない気楽そうな顔をして。
「お仕事によってはもちろん、猫キャラじゃないみくが求められることもあると思う。それはプロとして応じるのが当然にゃ。でもね、みくは……みくは猫チャンアイドルとして生きていくと決めたのにゃ。Pチャンがどんなにすごいプロデューサーだとしても、みくは自分を曲げないよ!」
ここから父の顔は窺い知れなかったが、僕は彼が笑ったような気がした。
「よろしい。では、そのまま真っ直ぐ走るといい」
その言葉が意味するところを噛みしめる暇もなく、前川さんの挑戦に幕が下りた。彼女は舞台を下りる最後の最後まで笑顔を崩さなかった。
エントランスの外で僕と白猫は前川さんの帰りを待つ。
オーディションの結果は本日中に伝えられるらしい。全員の審査が終わってもう二時間は経った。すでに多くの参加者が会場の外に姿を現わしている。そのほとんどが意気消沈とした表情をしていた。今回を最後に身を引く者もいれば、また次の機会に望みを託す者もいる。何度挑戦したとしても、夢が叶うかどうかは誰にもわからない。現実は残酷で、期待を持たせる分、質が悪い。
ようやく彼女が出てきたときにはすでに日が完全に暮れてしまっていた。
「あ、ピィチャン。みくのこと待っててくれたの?」
「はい。できるだけ早く会いたかったので」
「にゃお」
マエカワにゃんもご主人様に会えてご満悦の様子だ。頬を彼女の足首にすり寄せている。
「キミも待っててくれてありがとうね。可愛いやつめーよしよし」
前川さんの様子は僕が予想していたいずれのものとも違った。合格していれば喜んで真っ先にその報告をしただろう。不合格だったならば、全身で落胆ぶりを表現していただろう。しかし今の彼女はどこか心此処に在らずといった様子だ。
「ま、前川さん。それで、結果は……?」
彼女はすぐには答えなかった。もごもごと言い淀み、顔を俯けたままこちらを見ようとしない。
やがてようやく聞き取れた彼女の発言に僕は耳を疑った。
「みくね、ピィチャンに謝らないといけないの」
僕に謝る? 彼女の意図が全く読めない。
「なぜ? あなたが僕に謝るべきことなんて、何一つとしてないと思いますが」
「だってみくはっ! せっかくピィチャンに応援してもらって、ものすごーく迷惑をかけて、たくさん手伝ってもらったのに……」
このとき僕は彼女の落選を悟った。
「いいえ、前川さん。あなたは謝るべきではない。全力を尽くしたではありませんか。あなたにしかできない、最高の舞台でした」
「えっ、ピィチャン……もしかして見てたの?」
「はい、失礼ながら。こちらの猫さんとご一緒に」
マエカワにゃんは穏やかならぬこの雰囲気の中で空気を読まず毛繕いをしていた。猫に人の心が読めるようになる日は来るのだろうか。いや、永遠に訪れまい。
「うん。みくもね、今までで一番出し尽くしたと思う。だから合格をもらえたんだよね」
「え?」
彼女の前では紳士たれと意識していた僕だが、このとき素に返ってしまった。
「ま、前川さん、今合格と言いましたか? 漢字で書きますと、合衆国の『
「うん。審査員のプロデューサーからはそう言われたにゃ」
「ならばなぜそのように落ち込んでいるのか! 諸手を挙げてお祝いし、歓喜の声を上げるのが自然でしょう!」
「だって、みくは辞退してしまったから」
もはや叫びは声にならなかった。何がどうなっているのか、僕の未熟な頭では整理が追いつかない。あれほどアイドルになることを熱望していた彼女が、よりにもよって、自らその夢を辞するなんて。
「ち、父に何か酷いことを言われたのですか? 猫アイドルは辞めろ、と」
「ううん、言われてない」
「ならお金ですか? 高額の費用を請求されたとか」
「そんなことないにゃ」
「じゃあどうして!?」
前川さんはなかなか顔を上げなかった。そのため彼女がどのような顔をしているのか確認できない。僕たちが積み上げてきたものをすべて崩すような発言を、一体どんな表情で語っているのか。
彼女の足下に目を遣った。両足の爪先が内に向いている。自信なさげで彼女らしくない。
息遣いが聞こえるほど大きく深呼吸をすると、前川さんはようやく僕と目を合わせた。少し潤んだその瞳が意味する感情を僕は拾い損ねた。
「アイドルは特定の誰かのためにあるんじゃないにゃ。愛してくれるファンみんなのためにあるんだよ。これから先、みくがアイドルとして生きるなら、みく個人の想いは忘れなきゃダメなのにゃ」
僕は押し黙ったまま彼女の言葉を聞いていた。自動ドアの開閉する音が耳障りに感じる。一言一句漏らさないよう、耳を澄ませた。
「舞台の上でピィチャンのことばかり考えてた。おじさん達の前に立つと足が竦んで、何度も逃げ出したいって思った。けどそのたびにピィチャンとの特訓を思い出したにゃ。ピィチャンがいてくれたから、みくは最後まで立っていられたのにゃ」
僕はもう彼女から目を逸らすことができなかった。
「みくはファンのみんなの想いを裏切れない。でも自分の気持ちを抑えることもできない。だから夢を一つ、諦めることにしたにゃ」
「そ、それがアイドル……?」
「うん。みくはアイドルを辞めるにゃ」
だから、と彼女は言葉を続ける。その続きを紡ぐのに数秒の間があった。
「だからもう一つの夢を叶えさせて欲しいにゃ。ピィチャンのお嫁さんになるっていう、かけがえのない夢を」
これが前川さんの出した結論か。
この展開を予想していなかったが、心の隅で希望していたのは事実だ。僕が前川さんに抱いていた恋心は紛れもなく本物だった。ここで彼女を拒絶し、再びアイドルの道に進ませることも可能だろう。そうするべきなのかもしれない。だが所詮は一介の男子高校生に過ぎないのだ。彼女のプロデューサーではない。彼女の道を選ぶのは僕ではない。
「ねえピィチャン、責任取ってくれる?」
「…………はい、前川さん。取りましょう、責任」
「ならみくのこと、名前で呼んで欲しいにゃ」
「……
マエカワにゃんが珍しく真剣な眼差しで僕らを見つめていた。こういうときこそ毛繕いでもしていればいいのにと思わずにはいられなかった。
二人と一匹は連れ立って夜道を歩く。深い濃紺色の空には星が疎らに輝いている。月が見えない星月夜。いつもより暗い夜のはずなのに、どこかぼんやりとした明るさが心落ち着かせてくれる。
距離は長いが等間隔で立っている街灯を通り過ぎるたび、僕は前川さんの横顔を眺めた。アイドルになるはずだった彼女はやはり美しく可憐だ。彼女は日の当たる昼よりも暗がりに包まれた夜のほうがその魅力が高まるような気がした。猫は本来夜行性。猫キャラになる以前から、彼女には猫らしさが備わっていた。
「前川さんは約束を果たしてくれましたね」
「ん? ピィチャンはみくの話を聞いていたのかにゃ? みくはアイドルを辞退したって……」
「はい。ですが合格は合格です。だから僕はこれから芸能プロデューサーを目指さなければなりません」
左手がより温かくなった。彼女の意志が直接僕に伝わってくる。
「みくは強制しないにゃ。ピィチャンが本当に嫌なら、きっとやめたほうがいいことなんだよ」
「自分のことは自分が一番よくわかるから、ですか? そうではなかったと、あなたは言っていた気がしますが」
そうだけど、と前川さんが不満げに呟く。彼女は確固とした自分の信念を持っているが、それを他人に押しつけたりはしない。そういうところも彼女の美徳のひとつだ。
「ご安心ください。僕自身が決めた道です。アイドル前川みくるの背中を追って、僕もまた前へ進みたいのです」
「そっか。なら今度は一緒に歩こう。みくがサポートしてあげるにゃ」
それなら百人力だ。頬が自然と緩んでしまう。今日ぐらいは気の抜けた一日を送ってもいいだろう。風のない静かな夜なのだから。
「あ、みくだけじゃないよね。この子も一緒……って、あれ」
前川さんの隣を歩いていたはずの白い猫が姿を消していた。僕は周囲を見渡し、すぐに彼女を発見した。
光の差さない道端に横たわる雪のように白い塊を。
「みくっ!!」
前川さんが彼女のもとに走る。僕もその後に続いた。力なく横たわるマエカワにゃんの呼吸は今にも途切れそうなほどに小さかった。僕は即座に判断し、彼女を動物病院に連れて行くことにした。
以前にも彼女を診察した中年の医師はぐったりとした白猫を見るなり首を振った。戸惑いを隠せない前川さんの隣で、僕は諦観の息をつく。
先日マエカワにゃんが入院したときにこの医師から伝えられた言葉を覚えている。彼女の余命は長くない。いつ状態が悪化するかはわからない、と話していたが、ついにそのときが訪れてしまったのだ。
「先生、治療すればまだこの子は生きられるのでしょうか?」
「……もうずいぶん消耗している。手術しても身体が耐えられんだろう。残念だが、今夜が山だ」
「そんなっ!」
前川さんが上げた悲痛な声に、しかし医師は顔を上げない。本当にもうどうすることもできないのだ。
なら、僕がマエカワにゃんにしてあげられることはあと一つしかない。
「先生。最期にこの子を連れ出してもよろしいでしょうか」
医師は反対しなかった。別れの場所に相応しい場所は他にある。彼は僕の意志をくみ取ってくれた。
衰弱した白猫を揺らさないよう慎重に抱きかかえ、僕らはあの公園に辿り着いた。
「ねえピィチャン。どうしてこんな何もない公園に来たの?」
「何もないとは失礼ですね。あそこにブランコがあるじゃないですか」
乗る人のいない二つのブランコを指さす。もうマエカワにゃんにはあの板の上に飛び乗る体力すら残っていないのだろう。昨日、元気に飛び乗って寛いでいた彼女の姿を思い出し、目頭が熱くなった。
僕たちはベンチに座り、最期の時を過ごすことにした。白猫は前川さんの膝の上で穏やかな顔をしている。これから死ぬ生き物の顔ではなかった。
「僕はここで大けがをしているこの猫に会ったのです。ちょうど前川さんと初めて会話をした日のことでした」
「それって、みくが事故に遭った日? えっ、もしかして、みくが轢かれたときに車の前に飛び出したのって……」
「わかりません。ですが、その可能性はあります」
「そっか……この子は、みくは命の恩人、いや恩猫だったんだね。ありがとうね」
白猫の背をそっと撫でる彼女。マエカワにゃんは気持ちよさそうに小さく喉を鳴らした。
「ところで前川さん。自分の聞き間違えでなければ、先程からこの猫のことを、”みく”と呼んでいる気がするのですが」
「うん、そうだにゃ。この子はね、みくにとって妹みたいな猫チャンだったの。ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、寝るときも、もちろんレッスンのときも一緒だった。だから、みくるの名前から二文字取って、みく、っていう名前をつけたの。ちょっと恥ずかしかったから、ピィチャンの前では呼ばないようにしてたけど……えへへ」
前川さんもマエカワにゃんに名前をつけていたのか。考えてみれば僕よりも長い付き合いなのだから当然だ。だがそれだけに彼女との別れは前川さんにとって心の一部を失うかのように感じるだろう。
「そういえば、前川さんのあだ名は”みく”でしたね」
「うん。でももう変えなきゃね。”みく”はこの子の名前だから」
やがて僕たちの間に会話がなくなった。僅かに揺れる木々のさざめきと、ブランコが軋む音。それ以外の音は聞こえない。静寂の中、ただ時間だけが過ぎていく。
音への意識がなくなっていたせいか、唐突に呟いた前川さんの言葉を聞き逃してしまった。
「今、なんと言いましたか?」
「約束、守れなくてごめんなさい」
「いや、あなたは果たしてくれたと」
「そっちじゃないにゃ。もっと前に、みくと最初に話したときに、約束したにゃ。もしみくがアイドルになったら、観客席にいるピィチャンに……」
「あっ」
風が一際強く吹き、草木がざわめき、ブランコが大きく揺れた。目の錯覚だろうか、目の前の白い猫から光を放つ丸い球のようなものが飛び出て行ったように見えた。
「ピィチャン、今の見た?」
「はい。錯覚ではないようですが……なんだったのでしょう」
「みく、キミは何をしたのかな? みく?」
僕と前川さんを繋いでくれた白い猫は、もう息をしていなかった。
前川さんの瞳から涙の雫がこぼれ落ちる。しかし彼女は声もあげず、袖で目を拭った。顔を上げたときにはもう元猫チャンアイドルの陽気な笑顔を取り戻していた。ただ今回ばかりはその笑顔が切なく感じる。
「ピィチャン、この子のお墓を作らないとね」
「はい。もちろんです」
「ところでピィチャン。ピィチャンはこの子にどんな名前をつけていたの?」
さてどう言い逃れをしたものか。当たり障りのない名前の候補を思い浮かべながら、やはりどれもしっくりこないなぁ、と頭を抱えるのだった。
エピローグ
舞台の上ではみくさんがえむしーをおこなっているのでしてー。
「会場の猫チャンたちぃー! 今日はみくのライブに集まってくれて、ありがとにゃー!!」
「ちょっとみく。今日はみくだけのステージじゃないよ。私だっているし」
「りーなチャンは本当に細かいにゃ。小姑みたいにゃ! そういえば最近、皺が増えたんじゃないかにゃ?」
「馬鹿みくっ! そんなわけないだろ! あっ、会場の皆さん、冗談ですからね。ロックに喧嘩は付き物みたいな? あははは」
みくさん、りーなさんは仲の良いこんびなのでしてー。ふぁんの皆様が楽しそうに笑っておりますー。
そろそろわたしくの出番も近づいて参りましたー。舞台袖で自分の番を待つというのは、どきどきするものなのですねー。
おや、誰かが舞台袖に上がってきましたねー。黒いスーツを着た背の高い御仁ー。
「おーそなたー、どこへ行っていたのでしてー?」
「すいません。少し観客席のほうから見ておりました。前川さんにそう頼まれまして」
「おーそれはそれはー。奥さんとは会えましたかー?」
「はい。機会を作ってもらった形になりましたね」
「みくさんを見て、どのような感想を述べられたのでしょうー?」
「昔の自分によく似ている、と。みくるは、失礼、僕の妻のことですが旧姓が前川と言います。名前もそうですが、仕草や立ち振る舞いも、まるで生き写しのようだと話していました」
「それはそれはー。輪廻とは不思議なものですねー」
「え? それはどういう?」
さてさてー。
わたくしは再び舞台上のみくさんたちに注目します。どうやらこんとは終わったようでしてー。
「ちょっとみく! 言い争ってる場合じゃないよ。そろそろ次の曲行かないと私たちの番終わっちゃうよ」
「にゃ!? それはマズイにゃ! 早く、早く次の曲歌うにゃ! ラーラーラー」
「待ってよみく、アカペラはダメだって」
そなたの顔が綻んでいるように見えますー。それもそのはず、今日のみくさんは一段と輝いているようでしてー。
「みんなー! みくはいつでも全力だけど、今日はいつもより最高のパフォーマンスをするにゃ! みんなの心に可愛い猫チャンの想い出がいつまでも残りますように。それじゃあ次の曲、行くよ!」
赤と青のライトがみくさんたちを照らしますー。伴奏と共に、お二人のステージが始まりましたー。
彼女は覚えているのでしょうかーわたくしにはわかりかねますー。ですが、たとえ忘れていたとしてもー魂の繋がりは永遠なのでしてー。
完
お時間をいただき、ありがとうございました。
前川みくの物語を読みに来てくれた方々にとっては、もしかすると不満のある展開だったかもしれません。
彼女が前川みくだったなら、アイドルと好きな男を天秤にかけた結果、アイドルを捨てることはおそらくないでしょう。
IFのお話として、みくにゃんの真実を楽しんでいただけたなら幸いです。
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