「君の名は。キルヒアイス」 (高尾のり子)
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1話

 

 

 

 

 祭りが終わった後の宮水神社の鳥居から、宮水三葉は星空に向かって叫んだ。

「最高のイケメン男子に生まれ変わりますようにィ!!!」

「……はぁぁ……」

 背後で妹の宮水四葉がタメ息をついていた。

 岐阜県飛騨地方の山奥から見上げる銀河の星々はあざやかに燦めいていた。

 

 

 

 翌朝、宮水家の二階でジークフリード・キルヒアイスは目を覚ました。規則正しい軍隊生活のおかげで時刻は6時15分ちょうどだったけれど、寝ている布団の感触や見上げて見える天井が、まったく記憶にないものだった。

「………これは……いったい…」

 落ち着いて起き上がってみるものの、かなり動揺している。左手を顎にあてて様子を見るように周囲を確認した。寝ていたのはベッドでもタンクベッドでもなくて和布団だったし、少佐として用意された艦内の士官室で眠ったはずなのに、窓から陽光が差している。

「惑星表面上にいるのか…?」

 物音を立てないように窓際へ移動すると太陽を見上げた。

 コンコン…

 軽く窓ガラスを叩くと、耐圧ガラスではない民生向けの昔ながらのガラスのようで外と気圧の差があるとは思えないし、外は草木の緑が溢れていて、雀も飛んでいる。

「……いったい、どうなって……たしか、ティアマト星系へ向かっていたはず……眠っている間に連れ去られたにしては身体も拘束されていないし…」

 そう言って手に触れて、さらに大きな違和感を覚えた。

「この手……」

 ほっそりとした三葉の手だった。

「……この顔…」

 窓ガラスに映る顔も三葉の顔で、手で触れると、感覚があった。

「これは夢? ………夢にしては現実感がありすぎている……とにかく、ラインハルト様に連絡を取る方法を考えなければ…」

 自分の肉体のことより優先すべき事項があるので再び状況把握につとめる。もう一度、窓から空を見上げた。太陽がまぶしい。

「この空の色合い……大気がある……重力も、ほぼ1G……ティアマト星系にそんな惑星は……」

 銀河系のどこに自分がいるのか、わからない。室内を見渡すと、雑然と物が置かれた女性の部屋だった。

「武器になりそうなものは……ないか……」

 銃は当然としてナイフなども見つからなかった。仕方なく三葉が図工で使用していた彫刻刀を手にしておく。そっと静かに足音を立てず、部屋を出た。

「……木で作られた家か……」

 どんなに足音を忍ばせようとしても、古い木造住宅なので階段をおりると軋む。その音を聴いて台所にいた宮水一葉が顔を出した。

「めずらしい、えらい早く起きてきたんやね。そんなら台所を手伝ってな。まず、寝間着やのうて、制服に着替えなさい」

「………」

「返事は?」

「…は、はい…」

 彫刻刀を背中に隠して返事をして、とりあえず部屋に戻った。

「はぁぁ………あの老婦人は……この少女の家族………? そもそも私は、なぜ、この身体に……」

 疑問だらけだったけれど、ともかくは言われたとおりに着替えを試みる。

「………制服は、これか……幼年学校のようなものか……」

 ハンガーにスカートがかけられ、ブラウスとブラジャーは近くに落ちていた。目を閉じて寝間着を脱ぐと、手探りでブラジャーを着け、スカートとブラウスも身につけた。

「こんなものか……あとは靴下と髪を…」

 落ちていた靴下を履き、寝癖のついた髪を整えると、階下におりた。

「し…失礼します」

「おはよう、三葉」

「お、おはようございます」

「……ん?」

 ちょっと違和感を覚えた一葉だったけれど、鍋を火にかけているので頼む。

「火を止めて、お皿をだしてちょうだいな」

「は、はい」

 ガスコンロは旧式のコックをひねるタイプだったので一目見て使い方はわかったし、手を伸ばすと身体が覚えているようで適切な力加減で火を消した。お皿も自然と手を伸ばした位置にあったものを出した。三人家族のようで、だいたいの食器類が3組あった。

「あ、お姉ちゃん、おはよう。今日は早いね」

 四葉が挨拶してくる。

「え……うん、おはよう」

 とりあえず挨拶を返した。

「お姉ちゃん、顔洗った?」

「お先にどうぞ」

「うん」

 四葉が洗面所に行き、顔を洗い終わると同じ手順で洗顔して問う。

「私の歯ブラシは、どれでした?」

「その緑のヤツだよ。そんなこと忘れたの?」

「少し寝ぼけているようです」

「……だいぶ寝ぼけてるね」

 歯を磨いて、台所に戻り、一葉を手伝って朝食の用意をした。

「今朝の三葉は、えらい役に立つね」

「いえ、それほどでも」

「………。ともかく、もう食べて学校に行ってらっしゃいな」

「はい」

「いただきます!」

 四葉が手を合わせて箸を持った。

「………。いただきます」

 三葉の手も同じような動作を真似してから、箸を持ってみた。そうして四葉と一葉が箸を使っているのを真似してみると、これも身体が覚えているようで自然と使えた。

「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

 食器を片付けてから二階へ戻り、通学に使っていると思われるカバンを持つと、かなり軽いので不安になる。

「とりあえず、多めに入れておくか」

 落ちていた教科書類を多めに入れて肩にかけると、華奢な肩だったので少し重く感じる。

「お姉ちゃん、まだァ?」

「はい、今すぐ!」

 階段をおりて玄関に立つと、三葉の足に合いそうな革靴があった。履いてみると、ぴったり合うので本人のものだと確信できる。玄関から外に出ると、名取早耶香と勅使河原克彦が待っていた。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉」

「おはよう」

 挨拶を返して平静を装いつつ、二人が歩いていく方向へ進んでみる。二人の会話から情報をえつつも、なるべく目立たないように歩いていると、選挙カーのマイクを使って演説していた宮水俊樹が叱ってきた。

「三葉! もっと胸を張りなさい!」

「はっ!」

 俊樹の方を向いて、左右の踵をつけて背筋を伸ばし、両手を腰の後ろで組むと胸を張って直立不動になった。

「………」

「………」

「「「………」」」

 あまりに見事な直立不動ぶりに周りにいた町民たちも通学中の生徒たちも驚いている。三葉の身体は凛とした気迫のある立ち姿をしていて隙がない、巫女服を着て舞うときとは別の神々しささえあるし、言われたとおりに胸を張ったことで若々しい胸部が強調されて美しいし、すらりとした脚も校則ギリギリまでスカート丈をつめていて自転車を立ちこぎすれば後ろから下着が見えそうなほど短くしているので眩しいほどだった。あまりの圧倒的な雰囲気に、叱った俊樹さえも予想していなかった反応ということもあって、かなり引いている。

「…わ…わかればよろしい。もう学校へ向かいなさい」

「はいッ!」

 ぴたりと90度、踵を返して学校へ向かう三葉の背中を見て町民たちが感心している。

「えらい厳しい躾けはりましたなぁ」

「今どきめずらしいええ子に育って」

「さすが町長さんの娘さんや」

「今期も宮水先生で決まりやな。教育パパさんの」

 口々に褒め称えられると、俊樹も嬉しそうに赤面して照れる。

「い…いや…それほどでも。はははは」

 勇ましささえ感じる娘の背中を見送ると、また票を集めるために演説を再開した。

 



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2話

 

 

 朝のHRが終わり授業が始まる前に早耶香が声をかけてきた。

「三葉ちゃんも、お父さんの選挙のためとはいえ大変やね」

 俊樹に胸を張りなさいと言われてから、ずっと姿勢正しく三葉の身体は背筋を伸ばしているので座っていても凛とした雰囲気が漂っている。言われて少し首をかしげて問う。

「選挙というのは政治的な代表者を選ぶ制度のことですか?」

「え…、うん、そういう言い方をすると、そうなるけど……今さら?」

「………」

 ということは、ここは同盟領内ということなのか、たしかに、さきほどの父親が着ていたスーツも、よく同盟の政治家が着ているものと同じタイプの服装だった、ティアマト星系は同盟領側だったから、やはり同盟領土内のどこかの星系で居住可能な惑星にいるということか、それにしても生徒たちは髪の色も瞳の色も同じで、ほぼ同一民族に見える、ずいぶんと偏った入植の仕方をしているようだ、と考えている三葉の顔が無表情なので早耶香が心配になる。

「そんなマジメな顔ばっかりしてんと教室の中くらいリラックスしてよ」

「え、ええ。ありがとう、サヤチン」

 周りと同じ呼び方で早耶香を呼んで安心させようと微笑む。その微笑み方が普段の三葉とは違って、穏やかで温かみがあって早耶香が同性なのにドキドキしてしまうほど好感のもてる笑顔だった。教室にユキちゃん先生が入ってきて授業を始めるので、周りが出しているのと同じ教科書を机に開き、やや困惑した。

「………読めない…」

 授業は国語で万葉集についてだったけれど、まったく字が認識できない。まるで見たことのない文字が羅列されていた。不安になって他の教科書も開いてみる。数学の教科書を開いて少し安心した。

「数式は読める……こんな古典的な定理を使っているのか……」

 さらに他の教科書を探り、英語を出した。

「読める……だが、これは同盟の公用語…」

 英語の教科書はスラスラと読めた。早耶香が小声で話しかけてくる。

「英語の教科書なんか出して、どうしたん?」

「いえ」

「宮水さん、名取さん、この問題を解いてくれる?」

 ユキちゃん先生が当ててきた。黒板に書いてある文字は、まるで読めない。立ち上がって教師に一礼した。

「申し訳ありません。頭が痛いので少し休ませていただいてよろしいですか?」

「それなら名取さん、保健室まで付き添ってあげて」

「はい」

 二人で廊下に出ると保健室に向かった。

「三葉ちゃん、大丈夫?」

「心配しないでください。授業を抜け出す方便ですから」

「きゃは♪ 悪いんだ」

「一応、保健室に行って頭痛薬をもらいます」

 方便を形に残しておくため保健室で頭痛薬をもらうと、早耶香に問う。

「静かなところで休みたいのですが、図書室は、どこでした?」

「そんなこと忘れたん?」

「やっぱり少し頭が痛いのかもしれません」

「……なんか、言い訳くさいというか……まあ、ええけど、あっちよ。うちも行くわ。なんか心配やし」

「ありがとう、サヤチン」

 礼を言って図書室に案内してもらうと、休むどころか本棚の間を歩き回り、洋書の棚から何冊も本を開いては閉じを繰り返していく。

「三葉ちゃん、何か調べてるん? それ、全文英語やん、わかるの?」

「ええ、少し調べごとを……あ、ドイツ語の本もある。こっちの方が…」

 独語の本を手に取り、読んでいく。英語よりも早く、まるで母国語のようにペラペラとめくって概要をつかんでいる。そうして、しばらく独語の本を何冊か目を通した後、三葉の顔が深刻そうに下を向き、それから周囲を見渡してカレンダーを見ると、さらに深刻そうに顎に手をあて考え込む。三葉の額に汗がうき、その滴が流れて落ちる。

「三葉ちゃん……」

 早耶香は本気で心配になってきた。

「大丈夫? やっぱり頭が痛いの?」

「いえ……」

 やや迷い、それから三葉の瞳がまっすぐに早耶香を見つめてくる。

「私はこれから変な質問をするかもしれませんが、まじめに答えてもらえますか?」

「う…うん、いいよ」

 早耶香も緊張しつつ頷いた。

「まず、ここは地球という星ですか?」

「……。そうだよ」

 かなり変な質問だと思いつつも、まじめに答えた。答えを聞いて三葉の喉が緊張してるのか、生唾を飲んでいる。また、三葉の唇が質問してくる。

「今は西暦の2013年ですか?」

「えっと……」

 あらためて問われ、早耶香もカレンダーを見る。

「うん、2013年」

「………そうですか……ありがとうございます……」

 お礼を言ってくれたけれど、三葉の顔は問題が解決したというより、より深刻化したという顔色で椅子に座ると両手を額にあてている。

「………」

「……み、……三葉ちゃん……大丈夫?」

「…ええ、…大丈夫です、…大丈夫」

 落ち着いているようにも見えるけれど、かなり動揺しているのを精神力で無理矢理落ち着けているという様子の三葉の顔に、早耶香は気分転換を提案する。

「なにか、飲む? 買ってきてあげるよ」

「……ありがとうございます……」

「何がいい?」

「……温かい……ココアのようなものがあれば…」

「すぐ買ってくるから、ここにいてよ」

 心配だったので早耶香は駆け足で自動販売機から、お茶とココアを買って戻ってきた。三葉の身体は考える人のように額に手をあて、何かを悩んでいる。

「はい、三葉ちゃん」

「…ありがとうございます」

 三葉の唇がココアを飲み、少し安心したように息をついた。

「はぁぁ……美味しい…」

「よかった」

「おかげで落ち着きました」

 そう言うと、また独語の本をパラパラと読み、それから独和辞典を眺めはじめた。しばらくして、また早耶香に質問してくる。

「Darf ich Sie etwas fragen?」

「え?」

「あ……。……。お尋ねしてよろしいですか?」

「う…うん…」

「私たちが今、話しているのは日本語ですか?」

「……そ…そうだよ」

 今度は早耶香が動揺してくる、もう医者に診せた方がいい気がしてくる、まっすぐ三葉の瞳は真剣に質問してくるけれど、それが心配でたまらない。早耶香の動揺を察したのか、三葉の顔が安心させるような笑顔をつくった。

「変なことを訊いて、すみません。冗談ですよ、冗談」

「…はは……冗談、きついわ…はは…」

「これらの本を何冊か、借りていきたいのですが借りられますか?」

「あ、うん。それなら……って、そんなことまで忘れてるというか、わからんの?」

「……。夕べ、少し強く頭を打ったみたいです」

 三葉の瞳がウソを考えているような動きをしてから答えてくれた。

「かなり強く打ったみたいやね……お医者さんに行った方がいいかもよ」

「考えておきます」

「とりあえず、自分の図書カードに本の番号を書いてみて」

「図書カード……?」

「これ」

 早耶香はカウンターから宮水三葉の図書カードを出した。小さな町の学校なので図書委員がいないときはセルフで貸し出すシステムになっている。三葉の手は言われるとおりに貸し出し手続きを行っていくけれど、数字はスラスラと書けても、宮水三葉という字さえ書き順が間違っていたりして苦労している様子だった。

「三葉ちゃん、頭痛とか、ホントに大丈夫? うちの親戚のお爺さんで脳溢血になったとき、話はできるのに字が書けないって症状から始まったらしいよ」

「会話はできても字が……なるほど……」

「頭、痛くない?」

「痛くないですよ」

「……こっち、見て」

 早耶香は三葉の瞳を見つめてみる。

「………」

「………」

 その瞳は澄んでいて、正常に見えるような、いつもと違うような、早耶香と三葉の瞳が見つめ合っていると、克彦が声をかけてきた。

「何を図書室で二人して見つめ合ってるんや? あやしい関係か」

「あ、テッシー、もうチャイム鳴ってた?」

「ユキちゃん先生が二人が遅いって心配して、見に行って言うから保健室を覗いたけど、おらんから、来てみたんや」

「そっか…」

「で、見つめ合って何してたんや?」

「何でもないよ」

「はい、何でもありません。私の頭痛をサヤチンが心配してくれただけです」

「そっか……。なぁ、三葉、その選挙用の喋り方なんかしらんけど、オレらにまで、そんなよそよそしいのは水くさいやないか。ちょっと悲しいわ」

「……。ごめん、テッシー」

 そう謝って親しみを込めて呼ばれて見つめられると、克彦は赤面した。

「…わ……わかってくれたら……ええねん…うん」

「サヤチン、テッシー、そろそろ授業に戻…」

 言いかけた途中でチャイムが鳴った。休み時間になり校舎全体が賑やかになる。借りた本をもって教室に戻ると、二年生の教室なのに三年生が3名も入ってきていてクラスメートの男子を脅して、金銭を巻き上げようとしていた。脅している方も、脅されている方も、どちらも素行の悪い生徒で上下関係のような仲間関係のような上級生にとって都合のいい、どこにでもある関係のようだった。

「おい、今月の上納金、出せよ」

「今月、もう払ったじゃないっすか」

「足りねぇよ」

「そりゃないっすよ」

「あん?」

 出し渋っていると、地味に蹴りを入れられ、仕方なく財布を出そうとしている。そのやり取りを見ていた三葉の瞳が怒りに染まった。

「やめなさい」

「ああッん?! 誰か何か言ったか?! コラっ!」

 上級生が悪いことをしている自覚があるので、制止されて余計に威嚇するような声をあげてきたけれど、三葉の足は3名に近づくと、はっきりと告げる。

「やめなさい」

「何だ、このアマっ! ひっこんどけや!」

 突き飛ばそうとしてきた上級生の手は三葉の胸に当たるはずが、さっと横へよけられて虚しく空を突き、上級生は苛ついた。

「よけてんじゃねぇぞ、コラ!」

 今度は三葉の頬を平手打ちしようと手を振ってくるけれど、それも頭をさげて回避されてしまった。

「なめんなッオラァ!」

 もう完全に頭に血が上り、相手が女の子なのに拳で顔面を殴ろうとしてくる。三葉の鼻先に当たるはずの拳は今度も回避され、逆に体重移動のタイミングを見切られて軸足を三葉の爪先に払われて、もんどりうって転がる。

 ドンガラガッシャン!

 教室に並ぶ机の列へ突っ込み、盛大に転んだ。それを見ていた他の二人の上級生がいきりたつ。

「宮水、てめぇ!」

「このゲロ巫女がっ!」

 小さな町なので一つ二つ学年が違っても、三葉の顔を知っている様子で罵り、逆上して殴りかかってきた。左右から襲ってくる二人に対して、三葉の身体は疾風のように右側から来る相手の横をすり抜けて、殴りつけている勢いをそのままに三葉の手が勢いの方向を変えるように背後から肩を押して、左側から襲ってきていた相手と衝突させる。

「「うわっ?!」」

 三葉の顔を殴るつもりが、お互いにぶつかってしまい、二人はからまって転がった。

「無益な争いはやめなさい」

 三葉の唇が、きっぱりと告げる。三人とも転倒したものの、擦り傷程度の軽傷で今なら学校内で問題になることもないレベルだったけれど、男のメンツとしては大問題だった。女子を相手に、しかも3対1で、いいように手玉に取られたまま引き下がるわけにはいかない。最初に襲ってきたリーダー格の男が立ち上がって構える。

「優しくしてれば、つけあがりやがって!」

 何一つ優しくはしていないけれど、たっぷりと油断はしていた男が今度は油断なく構えた。もう本気のケンカの構えで腰を落として攻防にそなえ、軽く足をかけられる程度で転ぶような体勢ではなくなると、三葉の腰も低く構え、両脚を前後に開いて立つ。

「やめなさいと言っても、わかりませんか?」

「上等だコラ!」

 何が上等なのか意味不明なまま、再び殴りかかってくる。そのパンチには、先ほどのような大きな隙がないので後退して避けると、すぐに黒板まで追いつめられた。

「オラっ!」

「はっ!」

 三葉の右脚がハイキックを放って、リーチと腕力の不利を補って男の顔面をカウンターで蹴った。しかも、短いスカートを着ていることを忘れていないので両手でスカートの前後を押さえて下着が見えないようにフォローまでしている。あまりにエレガントな蹴りに女子たちが感嘆の声をあげる。

「キャー♪ カッコいい!」

「宮水さん、すごい!」

「「くっ………」」

 リーダー格の男が一撃で倒されてしまうと、残る二人は悪態をつきながら、倒れた仲間を支えて去っていった。早耶香が駆け寄ってくる。

「三葉ちゃん、すごいやん。そんな技、隠してたんや」

「いえ……。思わず、夢中で。……無益なことをしてしまいました」

「ちっ……余計なこと、しやがって」

 脅されていたクラスメートは立つ瀬が無くて悪態をついている。三葉の指先がハイキックで乱れてしまったブラウスの裾を直すと、軽く会釈して席に戻る。ちょうど、チャイムが鳴り数学の授業が始まった。静かな授業中、三葉の机には数学の教科書とノートが開かれているものの、机の下では独語辞典と、初歩的なドイツ語日常会話の教本、小学校レベルの漢字の本が開かれていて、こそこそと数学とは違う勉強をしている様子だった。早耶香は何をしているのか気になったけれど、あまりに三葉の顔が熱心なので声をかけるのを躊躇っていたものの、数学教師が不快そうに通りかかり、三葉の肩に触れた。

「授業を聴いていたのなら、設問3をやってみなさい」

「はい」

 あてられた三葉の手は難問だった微分積分の数式をサラサラと解いてみせたので教師は納得して机下での副業は不問として通り過ぎていく。そんな調子で昼休みになると、早耶香が誘って、いつも克彦と三人で昼食を摂っている校庭の木陰に行き、弁当を食べながら問う。

「三葉ちゃん、ずっと違う勉強してたけど、あれ、何?」

「少しドイツ語に興味をもっただけですよ」

「う……うまく、かわされた気がする…」

「かわしたといえば、三葉。三年の不良相手に余裕で攻撃をかわしてたな。舞いみたいに。あんなの、どこで習ったんだよ? 巫女の神業か?」

「もう忘れてください。はしたないことをして恥ずかしく思っていますから」

「その選挙モード喋りも、また復活するんや」

「すみません、つい」

「ま…まあ、…そ、それは、それで可愛いけど……三葉の新しい一面というか…」

 克彦が赤面して言うので、三葉の顔が穏やかに微笑むと、余計に赤くなっている。昼休みが終わり世界史の授業になると、三葉の机には世界史の教科書と国語辞典と独語辞典が並び、授業を聴きながら、ノートを書き、ときおり辞典を開いて調べている。教師にあてられても、ほぼ正確な書き順で答えを書いてみせた。物理と化学になると、辞典を開くことも少なくなり、放課後になって早耶香たちと帰宅する。

「じゃあね、また明日」

「三葉、勉強しすぎるなよ。急にガリ勉になると熱出るぞぉ」

「はい、では、また明日」

 三葉の手が上品に振られ、友人たちと別れると宮水家に入った。靴を脱いで居間にあがると、一葉が夕食の用意をしている。

「ただいま、帰りました。お手伝いします」

 手を洗って台所に立つ三葉の横顔を一葉は不思議そうに見上げる。

「ホンマに今日は、ええ子すぎて怖いくらいやわ」

「お姉ちゃん、なにかネダりたいものがあるんじゃない?」

「はははは。そうかもしれないね」

 笑って四葉の頭を撫でている。それでも夜になってくると、あまりに普段と違い、夕食の片付けから風呂の準備まで積極的にやってくれるので、一葉が心配になってくる。

「三葉、あんまり私の仕事をとってくれると、ボケるかもしれんよ。年寄りには、せいぜい家事仕事をさせておくくらいの方が孝行というのも一つなんよ」

「それは気がつきませんでした」

「………」

「お姉ちゃん、やっぱり変じゃない?」

「そうかな?」

 そう言って三葉の瞳はウソを考えるように室内を彷徨ったけれど、仏壇に置かれていた二葉の写真を見て止まる。

「………」

「三葉?」

「お姉ちゃん?」

「………」

 しばらく二葉の写真を見ていた三葉の瞳は意を決したように、一葉と四葉へ、まっすぐに向かってきた。

「大切なお話があります。お時間をいただいてよろしいですか」

「………あんまり年寄りを、からかうと怒るよ」

「真剣な話です」

 そう言って正座していた一葉の前に、真似をして三葉の膝が正座して相対する。空気感が深刻そうなので寝転がっていた四葉も正座した。

「今からする話は、とても驚くかもしれませんし、冗談に聞こえるかもしれません。ですが、本当のことであり、ご家族に対しては話しておくべきだと感じますから、どうか、落ち着いて聞いてください」

「「………」」

「まず、私は、お二人が知っている宮水三葉ではありません」

「「…………」」

「見た目は宮水三葉さん、そのものに見えるでしょうが、まったくの別人です」

「………お姉ちゃん、じゃ…ない?」

 四葉は姉の瞳を見る。知っている三葉の性格なら、ここまで手の込んだ冗談は言わないし、言おうとしても、こんなに長いセリフを噴き出さずに言えず、途中で笑い出すのが関の山だったのに、覗き込んだ姉の目は真剣そのものだった。同じことを一葉も感じて落ち着いて先をうながす。

「それで?」

「なぜ、このようなことが起こったのか、それは私にもわかりません。ですが、私は宮水三葉さんではなく、ジークフリード・キルヒアイスという者です」

「ジーク…」

「……外人さんなの?」

「そうです。日本人ではありませんし、また冗談ではなく、この時代の人間でもありません」

「まさか、宇宙から来たとか言わないよね」

 姉の口から嘘とは思えない口ぶりで、嘘と思いたいような事態が話されることが空恐ろしくて四葉は茶化して訊いたけれど、三葉の瞳は肯定的に見つめてくる。

「私から見て過去、あなた方から見て未来の人間である私が、未来の出来事について細かく話すことは避けた方がよいと判断しますから、やや抽象的に言いますが、私は今から数百年先の未来、そして地球でないところから来ています」

「…はは……あははは……じゃ、どこの星から来たの?」

 四葉が脱力気味に問い、一葉は黙って聞いている。

「私は軍人であり、宇宙を移動する船の中にいることが多いので定住星を訊かれると答えにくいのですが、住所をおいているのは所属する国の首都星です。星の名や国名は、さきほど申しました通り、教えない方がよいと判断します」

「………軍人ってことは、どこかと戦争してるの?」

「はい」

「宇宙人と?」

「…………お答えしない方が、よいかと思います」

「う~ん……そう言われるとさ。じゃあ、私たちに話しておいた方がいいことって?」

「やはり、私が本当の宮水三葉さんではないということが第一です。今朝から演じてきましたが、ご家族を騙していくことは良心も咎めますし、無理もあります。ゆえに話しておこうと判断した次第です」

「あ!」

 四葉が大きな声をあげて、三葉の顔を指して言う。

「やっぱり、ウソだよね?」

「いいえ」

「だって、日本語を話してるもん。数百年先の宇宙から来た軍人が日本語って、無理あるよね。お姉ちゃん」

「その点については私も不思議に思っているのですが、会話は自然と成立するのです。まるで、私が箸を使うことを苦労しないように。ところが、文字を読む、書くとなると、脳の使う部分が違うのか、見たことも聞いたこともなかった日本語は始めのうちは、できませんでした。これは推測にすぎないのですが、私に宮水三葉さんとしての生活史記憶はないのに、箸を使うといった日常の動作に関する記憶はあるのと類似した現象ではないかと思っています。現に、私の母語であるドイツ語に関しては読み書きは容易でしたし、第二言語として学習していた英語についても同様でした」

「……う~ん………何か英語…じゃなくてドイツ語で喋ってみてよ」

「Ich freue mich, Sie zu sehen」

「……発音は本物っぽいけど、意味は?」

「お目にかかれてうれしいです、という意味です」

「………。軍人って、どんな軍人なの?」

「階級は少佐ですが、あまり細かいことは控えさせてください」

「少佐……歳いくつなの?」

「19歳です」

「………大学1年生くらいなのに少佐?」

「武運に恵まれました。上官にも」

「男の人?」

「男性です」

「……………お婆ちゃん、どう思う?」

 四葉が黙っていた一葉に問うと、目を閉じていた一葉は三葉の目を見つめて語る。

「お話は、よくわかりました。実は私にも似たような体験があります」

「ご婦人にも?」

「もう、はっきりとは覚えておりませんし、夢のようなものではと今まで思っていましたが、ジークさんのお話を聞いているうちに、もしや、と思うような体験は若い頃にありました。自分が自分でない誰かと入れ替わっていたような、そんな記憶です」

「ということは、これは元に戻るのですかっ?!」

 落ち着いて話していた三葉の腰が浮いている。

「おそらくは戻ると思います」

「それは、いつ?!」

「一日で戻ったような気がします。ただ、何度か繰り返し起こった気もします。このことは、あまり他人に話す気は無く、今まで誰にも言っておりませんでしたが、ジークさんのおっしゃりようが、とても誠実な方だと感じ入りましたので、お話ししました」

「一日で……だが、繰り返し………」

「さあ、もう夜も更けてきました。お疲れでしょうし、私も疲れました」

 時計を見ると、もう10時を過ぎている。

「お風呂に入っていただき、お休みください」

「……」

 三葉の指がブラウスの襟を少しつまみ、それから言う。

「入浴は遠慮させていただきます」

「遠慮など、無用ですよ。どのみち、もうお湯は沸かしていただきましたし、3人きりですから使わないと、もったいないくらいです」

「そういう意味ではなく、この身体は宮水三葉さんのもので、彼女は17歳。私は男です。彼女の気持ちを考えれば、今朝の着替えは目を閉じていたしましたが、入浴まで目を閉じて完遂することもできませんし、触れられたくない部分もあるかと思い、遠慮する次第です」

「「…………」」

 紳士だ、本物の紳士がいる、と四葉と一葉は女性として感心し、四葉は生まれて初めて異性へときめきを覚えたし、一葉は年甲斐もなく少し頬を赤らめた。そこに座っているのは、たしかに三葉の身体なのに、その向こうに誠実な青年がいるような錯覚さえ見える。一葉が頭をさげた。

「三葉も安心するでしょう。ありがとうございます。では、四葉、二人で入るよ」

「は~い」

 二人が入浴している間、静かに考え、揚がってきた四葉に頼む。

「四葉ちゃん」

「四葉でいいよ」

「四葉、少し頼みがあるんだけど、いいかな?」

「うん」

「夜更かしさせてしまうけれど、夜の12時になって、私が三葉さんと入れ替わるのか、どうか、見ていて確かめてほしい」

「あ~、なるほどぉ」

「そういうことなら、私が確かめましょうか」

 一葉が提案すると、首を横に振って遠慮する。

「ご婦人に夜更かしはさせられません。小さなレディにも負担かとは思いますが、ご婦人は、どうかお休みください。お体を大切に」

「そうですか……ありがとう。……よほど、育ちの良い家柄なのでしょうね、あなたは」

「いいえ、ごく庶民の出ですよ。では、お休みください」

 一葉が寝間に入ると、四葉と二人で三葉の部屋に入った。もう11時20分で、すぐに12時が迫っている。四葉が窓から星空を見上げた。

「お兄さんが来たのは、どのあたり?」

「そうですね。あの星と、あちらの星、その間くらいです」

「ふ~ん……戦争か……イヤだなぁ…」

「そうですね。日本が羨ましいです」

「あっ……やばいかも…」

「どうしました?」

「お婆ちゃん、さっき入れ替わりって言ったよね?」

「ええ」

「ってことは、お兄さんの身体に、今、お姉ちゃんが入ってるかもしれないってこと、だよね?」

「そうなりますね」

「それ……かなり、やばいかも……だって、うちのお姉ちゃんだよ。ごく普通の高校生で、お兄さんみたいに落ち着いてる沈着冷静な人じゃなくて、むしろ、落ち着きがないタイプ。しかも、訓練とか何もしてない。そのお姉ちゃんが、いきなり数百年先の宇宙戦争の中にって……」

 四葉の脳内にビームが飛び交う戦場で、逃げ回ってワンワン泣き出す姉の顔が浮かんだ。

「お姉ちゃん死んじゃうかも! お兄さんの身体で!」

「それは困ったことになるかもしれませんね。ですが、安心してください。すぐに会敵するような宙域ではありませんでしたし、ラインハルト様、あ、この名は私たちだけの秘密にしてください。私の上官であるラインハルト様は、とても優秀な方です。一日や二日、副官の私がいなくても何ら問題なく勝利してみせることでしょう」

「う~……部隊は勝っても、お姉ちゃん一人、死んじゃうってこともありそう……撃ち合いになったらパニック起こして走り出しそうだもん」

「ご安心を。四葉が想像しているような白兵戦が無いわけではありませんが、今回は艦隊戦が主になるでしょう」

「艦隊戦………どっちにしても、お姉ちゃん……かわいそう…」

 四葉が心配しているうちに、あと10秒で夜の12時になる。

「9、8」

 数えながら三葉の身体は布団の上に横たわった。

「「3、2、1」」

 夜の12時になった。



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3話

 帝国暦486年2月、ラインハルト・フォン・ミューゼル中将は定刻に艦橋へ踏み入れ、違和感を覚えた。ティアマト星域へ向かっている艦隊は整然と航宙しており、何ら異変はなく敵との遭遇にも、まだ数日は要するはずで昨夜までと変わったことは一つしかない。

「キルヒアイスはどうした?」

「それが、まだお見えになりません」

 夜間の艦隊指揮を代行していた高級士官が困惑気味に答えた。いつもなら必ずラインハルトが艦橋へ入る10分前には顔を出し、状況確認や引き継ぎなどを行っているはずが、今朝は何の連絡もなく、すでに定刻を数秒ほど過ぎている。

「めずらしいな……なにか、あったのか…」

「見て参ります」

「いや、私が行こう。今しばらく艦隊指揮を頼む。何かあれば、すぐ連絡するよう」

「はっ」

 ラインハルトは艦橋を降り、佐官クラスの士官室が並ぶフロアを進み、キルヒアイスの部屋の扉にある呼び出しボタンを押した。

「フフ、このオレが直々に起こしに来てやったぞ」

 幼年学校時代から寝過ごすことなど、ほとんどなかった親友の遅刻に何か言ってやろうと待ちかまえたけれど、返答がない。

「………おかしいな。本当に具合が悪いのか、あいつに限って連絡もなく…」

 起き上がって連絡することもできないほど体調が悪いのかもしれないと心配になってくる。ラインハルトは艦隊司令官である自分の生体認証を使って扉を開けた。

「おい、キルヒアイス、大丈夫か」

 室内に踏み込むと、心配して損をした気持ちになるほど、キルヒアイスの顔は心地よさそうに眠っている。パジャマを着て、ちゃんとベッドにいるだけだった。

「なんだ……本当に寝坊か。こいつめ」

 悪態をつきながらもクスクスと微笑み、ラインハルトは優雅に室内のイスに腰かけた。佐官用の個室といっても戦艦内のことなので艦長室ほど広くはない。ベッドと机、専用の小さなシャワー室があるくらいで、イスに腰かけたラインハルトは、すぐそばで眠る親友の顔を見つめた。

「ずっと激務つづきだったからな。疲れているんだろう」

「……すーっ……すーっ…」

 穏やかな寝息を聴いていると、起こす気になれない。それに目が覚めたとき、どんな反応をするか、ささやかな悪戯心も湧いて楽しみになる。寝顔を見ていたラインハルト自身まで眠くなるほど時間が経ってから、キルヒアイスの身体が寝返りをうち、目を開けた。

「……ん………」

「やっと起きたか。さて、言い訳を聞こう」

「っ?!」

 三葉は目の前に豪奢な金髪をしてアイスブルーの瞳も美しく白磁のような肌の整った顔立ちをした美青年がいたので驚いて飛び起きる。

「ひゃっ?! 痛っ!」

 狭いベッドで飛び起きて後ろにさがったので壁で頭を打った。

「うぅぅ…痛ァァ…」

「プっ…、アハハハハハ!」

 可笑しくてたまらないという様子でラインハルトが笑っている。

「ハハッハハハ! これは予想以上だ。ハハハハ、楽しませてもらった」

「うう…」

 住宅の壁ではなく戦艦構造物の壁なので、ものすごく痛い。三葉は呻き、ラインハルトは笑い、ようやく二人が再び目を合わせる。

「おはよう、キルヒアイス」

「……、あなたは、誰ですか?」

「プっ、くっ、アッハハハ! お前はオレを笑い死にさせる気かっ? ハハハハ! こ、これは記念すべき日だ。銀河の歴史に残るぞ。くっく…ハハハハ!」

 またラインハルトは笑い出し、それから妙に納得して頷いた。

「たしかに、ローエングラム姓に変えるという話もきているからな、もしも、そうなったら、お前へ一番に自己紹介するとしよう」

「………」

「だが、まだ気が早いな。今はまだ、ラインハルト・フォン・ミューゼルのままだぞ」

「…………ラインハルトさん?」

「クス……うむ、それもいいな。お前は、いつの間にか、様付けしていたが、オレたちは友人なのだから、そういう呼び方もいいかもしれないな。キルヒアイスさん」

「………」

「それにしても、クスクス…さっきの慌てようは…クスクス…打ったところ、腫れていないか?」

 半分は面白がって、もう半分は心配してラインハルトは彫像のように美しい手で、三葉が痛がっている後頭部を撫でると、ついでに赤毛の前髪を指先で親しみを込めていじり、涙目になっている瞳を見つめた。

「っ……」

 あまりに美しい美男子に見つめられて三葉は赤毛よりも真っ赤に赤面する。

「ん? 本当に熱があるんじゃないのか?」

「ひゃ…」

 そう言ってラインハルトの手が三葉の額に触れてくると、変な声をあげている。

「熱いな」

「あう…うわ、わ…」

 落ち着き無くドギマギしている様を見て、ラインハルトは決めた。

「今日は、このまま寝ていろ。お前は、ずいぶんと疲れているようだ」

「え……あの……、ここは…」

「ダメだ。反論は聴かぬ。おとなしく寝ていろ、いいな」

 念を押してからラインハルトは出て行った。三葉は一人になって室内を見回した。

「…ここ……どこ?」

 狭い個室には小さな窓があった。窓は本当の窓ではなくて液晶画面のような画像を映し出す装置が壁に設置されているのだったけれど、画像の鮮明さは見たことがないほどで本当の窓と違いがわからない。そして見えたのは宇宙空間と何千という数の宇宙船だった。

「………なにかの、デモ画面?」

 三葉は首をかしげ、そして違和感に気づいた。首をかしげたのに髪が肩を撫でたりしない。妙に髪の毛が軽い気がする。

「え……私の髪…」

 頭髪を手で触れると、男性のような短髪で少しクセ毛な感触がした。

「…ど……どうなって…」

 頭や顔を触ると、どうにも違和感が大きい。そして、その手も、まったく見覚えがないほど逞しくて力強そうな男性っぽい手だった。

「え? え? なに、この手……ど、…どうなってるの? これ、私の手?」

 確かめるように腕や胸に触れると、腕も硬くて太いし、胸にあったはずの膨らみが無くて、かわりに豊かな大胸筋の厚みがあった。お腹も腹筋の凹凸がわかるほど鍛えられていて脂肪がなくて、ついつい下腹部を触ると身に覚えのない一物があった。

「…お……男っ?!」

 声をあげ、そして鏡を見たくなる。シャワー室のような扉を見つけて入ると、洗顔向けの鏡があった。

「……これが……私………うそ………」

 鏡には見たこともない美男子が映っていた。さきほどの金髪の青年も美しかったけれど、どこか神々しいほど人間離れした美しさだった。彼に比べて、少し背が高くて穏やかそうな顔をしている。

「…………いったい、何がどうなってるの……」

 フラフラと三葉はベッドに戻り座り込んだ。

「これは………いったい、……どういうこと……」

 また手を見る、やっぱり男性の手だった。

「………………夢? ………そうだよ! きっと、夢だよ、これ!」

 あまりも不可解な状況なので三葉は夢だと思ってみるけれど、起きるという気持ちをもっても醒めないし、現実感が強すぎる。困惑して冷や汗がういてくるのに、急に艦内放送が響いてきた。

「本艦隊は予定通り10時20分よりワープを開始する。各員、留意されたし」

「……ワープ? ………10時…」

 三葉は顔を上げて室内に時計がないか探した。ベッドの近くに、それらしき表示がされたパネルがあった。時刻と日付を読んでみる。

「今は10時17分? Montagって何? 月曜日ならMondayだったと思うけど………スペル間違いなんてありえないよね……Februarって? 二月ならFebruaryでしょ。……486……って、これ年のこと? ……486年って……何? ………」

 読めるような読めないような表示がされていて、数字は理解できるし、アルファベットも読めるけれど、微妙に三葉が学習してきた英語とスペルが違うし、何より、おそらくは年を表示しているだろう欄に486という数字があり、わけがわからない。

「……あははは……変な夢……うん、そうだ……きっと、夢だ……」

「ワープ開始!」

 ふわりと三葉は身体が浮くような感覚を覚えた。

「あ、ほら、やっぱり夢だ」

 夢の中で歩いているときに似ている地に足がつかない感じのフワフワとした感覚が生じて、三葉は頷いた。もう目が覚めて、見慣れた天井と布団が迎えてくれると思ったのに、フワフワ感が終わっても、同じ部屋にいるままだったし、美青年のままだった。

「……………なんで……醒めないかな……この夢………」

 夢だと思いたいのに、やっぱり現実感が強い。しかも窓のような画面に映っていた宇宙空間の景色は少し変化していて、距離感はつかめないけれど、さっきまでと星の位置や密度が違い、ガス星雲のようなものも見える。

「…………夢………きっと……夢……」

 もそもそと三葉はベッドに潜り込むとシーツにくるまった。けれど、そのシーツやベッドが知っている物より、はるかに肌触りが良くて、通気性もあるのに保温性もあって、見たことのないような生地で作られていて、ベッドマットの柔らかさも体験したことのない心地よさだったし、その他の室内にあるものも材質が粘土なのか金属なのか、それすらわからない物があったりする。照明も蛍光灯でもLEDでもない、なにか、ものすごい先進的な技術で作られているような雰囲気がする。部屋そのものは人類が居住するのに普遍的な間取りをしているものの、細部の品々が地味ながら圧倒的に違って感じる。そんな現実感をともなった未来的な感じに、三葉は泣きそうになってくる。否定したいのに、自分が百年か五百年、もしかしたら、もっと未来にいるのかもしれないという不安が襲ってきて怖くてたまらない。

「……ぐすっ………夢ッ………きっと夢……寝れば……醒めるから……」

 夢の中で寝れば目が覚めるかもしれないという現実逃避で三葉はプルプルと震えながら目を閉じた。起きていたのはわずかな時間だったけれど、とても頭が疲れてきていて、ベッドマットも心地よくて、目を閉じて泣いていると眠れた。そのまま夕刻まで眠っていると、ラインハルトが2人分の食事をトレーに載せて入室してきた。

「うむ、言われたとおりに寝ているな。起きて仕事でもしていたら怒ってやろうと思ったが感心、感心」

「………ぐすっ……」

 それほど深い眠りではなかったので気配を感じて三葉が目を覚ました。

「キルヒアイス………」

 目が合うと、寝惚け眼が涙に濡れていたのでラインハルトは優しく微笑んだ。

「どうした。悪い夢でも見ていたのか」

「……そんな感じです……今も…」

「そうか。たしかに、色々あったからな。オレも悪夢を見ることがあるよ」

 振り返れば、敵軍に殺されかけたことは当然としても、自軍にさえ裏切られたり陰謀によって窮地に立ったことが何度もあるし、何より10歳だった頃に姉を後宮に奪われてから、悪夢を見るなという方が難しい人生を生きてきた。ラインハルトは親友の隣りに座ると、優しく肩を抱いた。

「キルヒアイス」

「……」

 三葉は芸術的なまでに美しい美男子に肩を抱かれ、また赤くなって顔を伏せた。

「恥じることはない。泣きたいときは泣けばいい」

「…は…はい…」

 しばらく静かに抱かれていると、食事の匂いがして朝から食事を摂っていないこともあって、三葉はお腹が鳴って、ますます恥ずかしくなった。

「っ……」

「アハハハ、身体は元気なようで、よかった。食べよう」

 ラインハルトがトレーを渡してくれる。二人でベッドに腰かけて食べ始める。料理は欧風なだけで、三葉が見たことのある食材が使われていて、食べていると少し気分が落ち着いた。

「ごちそうさまです……ご迷惑をおかけしました」

「いいさ。シャワーでも浴びて、すっきりしろ。ずいぶん、パジャマが汗に濡れているぞ」

「あ…はい…」

 言われてみると寝汗でパジャマが濡れている。顔も洗いたいので、三葉はシャワー室に入ってパジャマを脱いだ。

「……うわぁぁ…」

 鏡に映る裸体を見て感動する。触ったときも思ったけれど、鍛え上げられた若々しい肉体は圧倒的に美しかった。

「すごい筋肉……」

 とくに女性の身体と違うのは肩から胸にかけての筋肉で、くっきりと三角筋や上腕二頭筋のラインがみえ、大胸筋の厚みも体積としてなら三葉の乳房を大きく超えるほどある。

「お姫様抱っことか余裕でできそう」

 ぐっと力を入れてみると、大胸筋がピクピクと反応して嬉しくなった。

「うわ、すごい動く…ピクピク…」

 さらに力を入れると、筋肉のラインがあざやかになった。ついつい、ボディービルダーがやっているようなポーズをとって鏡で見てみる。

「腹筋もキレキレ、かっこいい」

 しかも鏡に映る顔も惚れ惚れするような美青年なので、スマイルをつくってみると、その笑顔にドキリとしてしまい、赤くなってから虚しくなった。

「なにやってんの私……。シャワー浴びなきゃ…」

 そんな場合ではないのに、あまりの肉体美に見入ってしまったことを反省しつつ、下を見ないようにしながら下着も脱いだ。

「…トイレ……」

 シャワー室にはトイレもあったし近づくと自動で便座の蓋があがり、座って用を足すと自動で流れてくれた。

「シャワーは、どう使うのかな……」

 トイレは全自動だったけれど、シャワーは使い方がわかりにくい。なにかパネルのようなものが設置されていて、それを触ると出てきそうでパネルには文字も表示されているけれど、やっぱり英語とは明らかに違うし、うっかり使って熱湯を浴びたり冷水を浴びるのは嫌だったので三葉はパジャマのズボンを再び履くと、扉を開けてラインハルトに問う。

「すいません。シャワーって、どう使えばいいですか?」

「……は? 何を、どう使うって?」

「シャワーのお湯の出し方がわからなくて、すいません。教えてください」

「………クス、変わった冗談を言うようになったな。いいだろう、付き合ってやる」

 少し不敵な微笑みを浮かべたラインハルトは、なぜか軍服の上着を脱いでシャワー室に入ってくると、パネルを操作して適温でシャワーを出しつつ、教えてくれる。

「これを、こう。あとは温度は、こうだったろ。で、どういうオチのある冗談なんだ?」

「い…いえ……冗談ではなく…」

「なるほど、お前、誘ったな。まあいい、少し狭いが久しぶりだ、いっしょに入ろう」

「へ…?」

 三葉が返事をしないうちに、ラインハルトも服を脱いでいく。

「っ……」

 顔も美しいけれど、その身体も全身が白磁で彫像されたのかと思うほど精巧な芸術品のようで三葉は見入ってしまう。この世に、これほど美しい人間が存在したのかと思うような完璧な身体で三葉が立ちつくしていると、先にシャワーを浴び始めた。

「お前を休ませて今日は正解だったかもしれないな。退屈きわまる航海で何もなかった。だが、明日からは警戒が必要だろう。ん? どうした、お前も入ってこいよ」

「…は……はい…」

 逆らいがたい雰囲気に圧倒され、三葉もパジャマを脱いでシャワーを浴びるけれど、もともと小さなシャワールームなので二人で入ると、かなり狭い。どうしても身体が触れ合ってしまうので、三葉はお湯の温度以上に暑く感じた。

「なつかしいな。こうしていると子供の頃を思い出す」

「…ハァ…ハァ…」

 美青年の身体になって美青年とシャワーを浴びるという女子として脳が腐りそうな状況に三葉は、まともに応答できない。

「やっぱり、まだ調子が悪そうだな」

「…ハァ…ハァ…」

「明日も警戒といっても、たいしたことは無いだろうから、調子が悪ければ艦橋に立たなくていいぞ」

「…ハァ…」

「もう揚がろう。ずいぶんと顔が赤い。のぼせているぞ」

「…は……はい…」

 シャワー室を出てバスタオルで身体を拭くと、ラインハルトはバスローブ代わりにバスタオルを腰に巻いたので、三葉も見習って同じようにする。ラインハルトの髪が濡れたことで、ますます美しく輝いているし、アイスブルーの瞳は子供時代を思い出したような無邪気さに光っている。イスに座って三葉にはベッドをすすめてくる。

「お前は横になっていろ。まだ、のぼせた顔をしているぞ」

「…す…すみません…」

 言われたとおりに寝転がった。さすがに、もう眠くないので目を開けていたけれど、むしろイスに座ったラインハルトの方が艦橋勤務の後に、怠りなく白兵戦の訓練もしたので眠気を覚え、うつらうつらとし始めた。

「…眠いな……オレも横になる」

 そう言ってベッドに入ってきた。当たり前のように寝始めたので三葉は困った。

「……………」

 どうしよう、何この状況、これが普通っぽい口ぶりだけど、っていうか、ここは、どこ、今は何時代なの、私は、どうしてキルヒアイスって呼ばれる男の人なの、と三葉には訊きたいことは山ほどあるけれど、すやすやと眠っている美しい寝顔を見ていると起こす気にはなれない。

「…………」

 こんなにキレイな人間いるんだ、金髪すごい、眉毛までキレイ、睫毛も、と三葉は状況の把握よりラインハルトの美しさに目を奪われ、時間を過ごしていく。起こさないように静かにしていても自分は眠くならないし、音を立てないように時刻表示をみると、もう夜の12時になろうとしていた。

 

 



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4話

 

 

 ラインハルトの寝顔を見つめていたキルヒアイスの瞳が少女が美青年に見惚れているような色合いから、未知の体験をしてきた思慮深い青年の色合いに変わった。

「…………」

 ラインハルト様がおられる、ということは戻ってきたのか、しかし、なぜ、裸、とキルヒアイスは大きな安堵と大きめの疑問を抱いたけれど、声に出したりせず眠っているラインハルトを起こさないよう静かにベッドから離れた。

「………」

 私も裸なのか、いったい何が、数秒前までの私の身体は中身が17歳の少女だったはず、と疑問が大きくなりつつあるも、ベッドサイドに置かれた二人分の食事トレーなどで、なんとなく察した。キルヒアイスは静かに軍服を着るとラインハルトへ、私は資料室にいますがラインハルト様はお休みください、とメモを残してトレーを持って退室した。トレーを士官食堂に返却すると資料室に入った。

「日本……やはり実在している国家だったのか…」

 資料室のコンピューターで体験してきたことの真偽を見極めるため調べ物をしていく。

「王朝国家? そんな雰囲気では……なるほど、立憲君主制か、それ以前は征夷大将軍による幕府との並立……そこからの大政奉還……敗戦後は君主を象徴に……三葉さんがおられた時期で、すでに120代以上も……記録上は人類最長の王朝……現在も、同盟領へ亡命した者が、宗教法人日本皇統保存会、通称日本教を立ち上げて……よくルドルフ大帝の時期を乗り越えて……。八百万の神? ……なるほど、ルドルフ大帝の神格化に逆らわず、一柱の神として積極的に受け入れ、瑠怒流布大明神に………おおよそ、軍事的な名将も、すぐに神として祭るのか……かわった民族だ。そういえば、三葉さんも宮水姓が、そのまま神社としても……由緒ある血統の女性だったのかもしれない……黒髪の美しい凛とした女性だったから……」

 キルヒアイスは、あまり深く歴史に興味を持つ方ではなかったけれど、実体験してきた国のことであり、繰り返し入れ替わりが起こるかもしれないという一葉の言葉も気になっているので調べを進める。もう真夜中ではあったけれど、身体は十分に昼寝をした後のように疲れを感じていない様子だった。

「侍? 騎士道精神に類似した独特の戦士階層か……ラインハルト様が以前に決闘されたとき、剣術について調べておられたときも出てきたような気も……まあ、これは関係ないか。ん? 日本教の副会長に同盟軍のウランフ提督が登録されている……日蒙文化交流継承会を通じてか……人の縁というのは不思議なものだ。政治団体でもない、ただの趣味の集まりのようだな。さて、岐阜県飛騨地方については……町の名は、糸守町だったかな」

 さらにローカルな情報についても調べる。

「小さな町のことだから何の記録もない可能性も……あった」

 意外にも糸守町のことは、すぐに見つかった。

「ティアマト彗星の一部が落下……隕石の落下による犠牲者が出た例としては有史以来、最大規模……これ以後、宇宙から飛来する物体に対する防衛が各国で進み、ミサイル技術の進展と拡散……後の地球上での核戦争への遠因とも……」

 かなり歴史的な事件があったようで大きく記録が残っている。そして、読み進めるキルヒアイスの端末機を操作する指が止まった。

「落下は2013年………………まさかとは思うけれど…………犠牲者名簿がある。……っ…彼女たちも…」

 犠牲者名簿に三葉たちの名前を見つけてキルヒアイスは胸に痛みを覚えた。

「私が入れ替わった日から、あと、ほんの半年あまりで……まだ17歳の彼女は……フロイライン四葉なんて、まだ10歳くらいで…………サヤチン…」

 温かいココアの味を思い出して、キルヒアイスが涙を零した。図書室で様子がおかしいと心配してココアを飲ませてくれた早耶香、あの友人を思いやる少女も早世するのかと思うと目頭が熱くなる。お兄さん、と呼んでくれキルヒアイスの話を信じてくれた四葉まで犠牲になると知り、運命が呪わしくなった。

「くっ………」

「今日のお前は、泣いてばかりだな」

 不意にラインハルトが隣りに立って声をかけてきた。キルヒアイスの肩に手を置きながら、アイスブルーの瞳は端末機を見る。

「ティアマト彗星? ほお、泣いているかと思ったら何か作戦に使えそうな地形的条件を見つけたのか? ん? 違うな、これはティアマト星系ではない。どこの星系だ? ……地球? こんなところを調べて何を?」

 ラインハルトはやや早口気味に言った。日に二度も泣いていた親友は弱い男ではないはずなので気にかかり、その心配が口調に出ているのだとわかり、キルヒアイスは涙を拭いて微笑んだ。

「ご心配をおかけしました」

「心配などしていない。こんな古い時代のことを夜中に調べて何をしているんだ?」

「はい、少し気にかかることがありましたので」

「ほお。で?」

「………。黙っておくわけには参りませんね」

「当たり前だ」

「たしかに、話しておかなければならないことです。繰り返し起こる可能性もあるのですから」

 キルヒアイスは資料室に余人がいないか、しっかりと視線を巡らせる。その動作でラインハルトも極めて内密な話なのだと悟る。二人が内密な話をするのは、その多くが帝政に対する反逆についてなので、ラインハルトの顔も真剣になった。

「それで?」

「これからする話は、かなり荒唐無稽というか、信じがたく、また冗談のように聞こえるかもしれませんが、少なくとも私の主観にとっては真実と感ぜられることです」

「めずらしく前置きが長いな。早く言え」

「まず、昨日の私、12時以前の私は、かなり普段と様子が違いませんでしたか?」

「ん? ああ…」

 ラインハルトが記憶を振り返り頷いた。

「かなり普段と違ったな」

「まるで中身がフロイラインのようではありませんでしたか?」

「おお、そう言われると、そうだ。やや女々しい…いや、可愛い、というか…」

「昨日の私は私であって、私ではなかったのです」

「……というと?」

「まったく別の人格と、私の人格が入れ替わっていたのです」

「おいおい、そんなことが…」

「私も半信半疑です。ですが、資料室で調べて疑いようのない事実かもしれないと考えが変わってきています」

 キルヒアイスが端末機に映る宮水三葉の名を指した。

「昨日の私は、西暦の2013年に生きていた宮水三葉という女性と入れ替わっていたかもしれないのです」

「このフロイラインと?」

 ラインハルトも端末機を見る。キルヒアイスは犠牲者名簿だけでなく当時の読売新聞に掲載された、ティアマト彗星落下でお亡くなりになられた方々、という記事にあった三葉の顔写真を指した。その写真は糸守高校の修学旅行で撮影されたものを切り抜いたようで女子高生らしく写りを気にして顔の角度を工夫して撮られた可愛らしい一枚だった。その隣にある四葉の写真は小学校入学時の一枚で、一葉の写真は糸守町老人会のバス旅行で下呂温泉に行ったときのもの、克彦の写真は月刊ムーに投稿記事が載ったときの転載で、早耶香の写真は本人フェイスブックより、となっている。

「はい」

「……………そんな話を信じろというのか? いや……お前が、こんな冗談を言う人間でないのは知っているが……だが、しかしだ」

「私も最初は寝惚けているのか、変な夢ではないか、もしくは精神病にでも罹ってしまったのか、とも考えたのですが、こうして調べてみると、昨日体験したことと、この資料室にある情報が一致するのです。彼女の名前も、家族の名前も。知りもしなかった町の名も」

「…………よしんば、そうであったとして、どうだと言うのだ? 今のお前は、もうお前ではないか」

「人格が入れ替わる現象は、繰り返し起きる可能性があると、彼女の祖母に言われたのです」

「繰り返し………、そうなると、どうなる?」

「その日、一日、おそらく24時間、私はラインハルト様のお役に立てないでしょう」

「………それは………場合によっては、かなり困るな」

「そうです」

「………対策はないのか?」

「今のところ。ですが、ずっと続くわけではないとも言われています」

「続かれてたまるか。お前はお前だ。他の何者でもないはずだろう」

「そうありたいのですが………」

 キルヒアイスが視線を落とすと、ラインハルトが問う。

「それで泣いていたのか?」

「いえ。そのことでは……。むしろ、ただの女々しい感傷です。この入れ替わった女性が、その半年後に不条理な死を迎えると知り……つい…」

「フっ、お前らしいな。どのみち、こんな大昔の人間、100歳まで生きてもオレたちには擦りもしない」

「そう思っていたのですが、わずか半年の命と知れば…………妹もおられて10歳でしたし、私は先刻まで現場にいた、という感覚なので同情を禁じ得ないのです。女々しいとは思いますが…」

「まあ、目の前にいたフロイラインが…、となればわからんでもないが、ちなみに、どういう死に方をするのだ?」

「このティアマト彗星の一部が落下したのです」

「彗星の落下? そんなことも、この時代の人間は観測できないのか? 事前に観測できなくても自動防衛の人工衛星くらいないのか?」

「人類が宇宙へ進出して一世紀と経たない時期ですから」

「そうか。まあ、仕方ないのだろうな」

「………」

「キルヒアイス、お前、このフロイラインたちを救えないものか、と考えているな?」

「いえ……まさか…」

「フフン、では仮にフロイラインミツハと次に入れ替わったとき、彗星落下の当日だったとして、助けようとすれば、どう助ける? お前の身体は鍛え上げた帝国軍少佐ではなく、ただの女学生なのだろう? いかにする?」

「仮に、ということですか…」

「そうだ。まさか、星占いに出たと言い回るわけにもいくまい。まして未来から来たなんて言えば狂人扱いされるだろう」

「仮に落下まで12時間あるとして、協力者なく私一人、いえ、三葉さん一人の身体であれば…」

 キルヒアイスは糸守町の地図をモニターに映した。

「隕石の落下は、この地点です。被害は半径500メートルまで。ただ、事前に察知したと言っても、この時代の観測技術では確認できないでしょうし、確認できても迎撃はできません。落ちることは不可避です。となれば、避難させるしかありませんが、それを叫んでも少女一人の妄言で終わるでしょうから、実力行使します」

「フロイラインミツハ一人でか。どうやって?」

「町内で無人の空き家や倉庫などを2、3カ所、爆破します。その後、さらに大きな爆破を行うという予告電話を入れれば、避難せざるをえないでしょう」

「女学生が爆薬など手に入れられるのか?」

「この時代の地上車は排気ガスの匂いからして、揮発性の高い危険な燃料を使用していたようですから、倉庫などの密閉された空間で揮発させ充満させれば、ゼッフル粒子のように爆発させられそうですから簡単な起爆装置を作れば2時間もあれば。他に料理に使用していた燃料も可燃性のガスでしたから、そちらを利用しても良いでしょう」

「なるほど、即席爆弾か。ちゃちな爆発でもデモンストレーションの爆破があれば、予告電話を信じるだろうな。周辺一帯から避難させられるだろう」

「もし、即席爆弾でない実用的な爆薬が手に入り、男性の協力者が1名でもいれば、デモンストレーションも必要なく予告電話と、見つかりやすい場所に一つ仕掛けるだけで指定した時間までに避難してくれることでしょう」

「たしかに、フロイラインの声で予告電話したのでは当局が本気で捜査しないかもしれないしな。男の声なら動くだろう。それで一つ本物の爆弾が見つかれば、デモンストレーションがなくても避難は開始されるな。いい作戦だ」

「問題があるとすれば…」

「すれば?」

「地方警察の本部から爆発物処理班が呼ばれるでしょうから、彼らに犠牲者がでないよう予告電話のあとに道路を封鎖します」

「どうやって? 動員可能な人員は一人か、二人だろう?」

「幸い、この町は山奥ですから、この道路と、こちらの道路、この二つのルートを木を切り倒すなどの手段で封鎖すれば足止めをできます。あとは注意すべきは事後に三葉さんが当局から逮捕されないよう、目撃されても人相がわからないようにすることやアリバイ作り、現場に指紋、髪の毛などを残さないよう行動しなくてはならないでしょう。我々が普段やっている軍事行動とは違った注意力が必要になるでしょうね」

「うむ、意識のない間に、自分が爆弾魔になっていてはフロイラインミツハに気の毒すぎるからな」

 ラインハルトとキルヒアイスの脳裏に、修学旅行で撮影された微笑んでいる写真の三葉がキルヒアイスの意志によって覆面をかぶり隠密に行動し、燃料を盗み、町内を爆破し、予告電話によって町民を避難させ、爆発物処理班を倒木で足止めし終え、ほっと安堵の微笑をして隕石落下を待つ姿が去来した。

「さすが、キルヒアイスだ。たった一人の女学生でも実行可能な作戦だな。やはり、お前、オレが問う前から考えていたな。助ける手段がないか、その可能性を」

「はい……」

「だが、わかっているのだろう。聡明なお前のことだ」

「ええ……」

 少し沈黙した二人が異口同音する。

「「歴史を改変してはならない」」

 キルヒアイスが体験したことが本当に時間移動であるならば、なおのこと不用意に歴史へ介入してはならない、たとえ無名の少女とわずかばかりの町民を助けるだけであっても、後の歴史に、どんな影響があるかわからない。その認識を共通させた二人は資料室から出た。

「だいたい歴史を変えられるなら、ルドルフの出現前に戻りたいというヤツは何万、いや、何億人といるだろうな」

「ラインハルト様、お声が高いです」

「夜中だ、当直以外は寝ているさ。まあ、一国家の存亡とまでは言わなくても、フロイライン一人くらい助けたいと誘惑されるか?」

「………。もしも、ラインハルト様が、あと半年、一年の命であると、他人から真剣に告げられたら、どうお感じなりますか?」

「そんなヤツは殴ってやる」

「クスっ…たしかに、気分のいいものではありませんからね。やはり、たとえ繰り返し入れ替わりが起こるとしても絶対に教えない方がいいでしょう」

「ああ、黙っていてやるのが、フロイラインミツハのためでもあるだろう」

「そうします。それはそうと、私も訊きたいのですが、なぜ、私とラインハルト様は裸だったのですか?」

「ああ、いっしょにシャワーを浴びたからだ」

「………中身は三葉さんだったのですよ」

「う~ん……フロイラインミツハには申し訳ないことをしたな」

「他に、何をなさいました?」

「事情聴取か?」

「いえ、むしろ、私の身体は何をいたしましたでしょうか、昨日」

「まず寝坊だ。起きてこないから心配して見に行ったら寝ていた」

「それは、すみません」

「お前が謝ることはない。それで起きるまで寝顔を見ていたんだ。ククっ…」

 ラインハルトが意地の悪い笑い方をするのでキルヒアイスが問う。

「よほど彼女は驚いたのではないですか?」

「ああ、壁で頭を打ってな……ククっ……キルヒアイスのあんな顔を見ることができたのは収穫だったぞ」

「かわいそうに……」

「もちろん、ちゃんといたわってやったぞ。しばらく寝ていろと言ってな。で、夕方に食事をもっていってやったら、泣きながら寝ていた」

「無理もないでしょう。あんな平和な生活をしていたのに、いきなり軍艦の中、しかも宇宙ですから。パニックになったりしませんでしたか?」

「いろいろ起こりすぎて、ぼんやりという風だったな。それでシャワーでも浴びて、すっきりしろと言ったらシャワーの使い方がわからない、とか言い出して。オレは、まだキルヒアイスだと思っているから、何の冗談かと思って、まあ、それで、いっしょに浴びることになって……そうか、顔が真っ赤だったのは、のぼせたのではなかったのだな。これは真剣に詫びを入れておかねばならないな。伝えておいてくれるか?」

 写真で見た三葉の前で裸になったのだと考え直してみると、女性に対して悪いことをしてしまったと反省したラインハルトは不明を恥じて少し赤面した。キルヒアイスが微笑んで頷く。

「一応お伝えします。ですが、入れ替わることが繰り返し起きるなら、むしろラインハルト様こそ、三葉さんに出会うことができるのですよ。私は永遠に会えないでしょう」

「そうか、そうだな。………繰り返し、か。次は、いつになるのだろうな」

「その時が戦場でなければ、よいのですが」

「ああ、それについての対処を話し合っておこう」

 二人は入念に、もしも戦闘中にキルヒアイスが三葉として行動した場合について話し合いをもった。



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5話

今回はR15ぎりぎりかな、という内容です。


 四葉が見守っていると、12時のカウントダウンで布団に寝て目を閉じていた三葉が目を開けた。

「っ…戻ってる?! 私の部屋だ!」

「あ、お姉ちゃんになった」

 その動き、口調どれも実姉だと確信できた。

「よかったァ! やっぱり夢だったんだ!」

「……夢にするんだ…」

 どんな体験をしてきたのか、とても気になる四葉が質問する前に、三葉は急に丸くなって布団の上で呻いた。

「うぅぅっ…」

「お姉ちゃん?! 大丈夫?!」

「ううっ…はぅう…」

 苦しみだして歯を食いしばった三葉の額に汗がういてきている。

「どこか撃たれたりしたの?!」

 軍人、戦争という単語を思い出した四葉は心配して姉の頭を抱き上げた。

「しっかりして、お姉ちゃん! お姉ちゃんの身体に戻ってるんだよ! それでも痛いの?!」

「ううっ…あううぐうぅ…た……立たせて、…は……早く…」

「立つの? 大丈夫? どこが痛いの?」

「おっ…」

「お?」

「おしっこ……出そう…」

「………」

 四葉が脱力して姉の頭を落とすと、三葉は下腹部を押さえて悲鳴をあげる。

「あああっ…ひ…響くから……そっと……そっと立たせて…ぅううぅ…」

「あの人……お風呂も遠慮したから……あんな涼しい顔して我慢してたんだ」

 着替えも目を閉じたと言い、入浴も明白に遠慮した紳士が、三葉の下着を脱がせることになるトイレを先延ばしにしたのもわからなくもない。そして精神力の違いなのか、三葉の呻きようを見ていると妹として少し恥ずかしい。

「お姉ちゃんって淑女とか紳士って存在と1光年くらい離れてるね」

「ううぅ…ハァ…お願い…た…立たせて…で、出ちゃう、漏れちゃう」

「はいはい」

 四葉は高齢者を介護するような配慮をしつつ呻いている三葉の肩を抱き、まずは上半身を起こした。

「ほら、私の肩に手をのせて立って」

「ぅうぅ…あ、ありが…ぅう…」

 よろよろと三葉は内股で立ち上がると、妹の肩を杖のように支えにしながら歩く。

「ハァ…ハァ…ぅうぅ…自分の部屋から、出るのが、こんなに遠いなんて…」

 一歩一歩がつらいようで半歩ずつくらい進んでいる。昨日は一日を狭い士官室の中で過ごした三葉が今は少しでも早く自室から出ようとしている。

「そういえば、お姉ちゃん、向こうの世界って、どうだった?」

「うぅぅ…あぅぅ…」

「……。あとで訊くね」

 ようやく部屋を出ると、階段をおりるのは妹の肩ではなく手すりを頼りに一段ずつ進む。けれど、どんどん限界が近づいてきたのか、階段の半分までおりると、もう立つのも苦しいようで、一段一段、お尻をおろして座ってから足をおろし、またお尻を一段おろしてから足をおろすという状態になった。

「ハァ…ううぅ…ハァ…ぅぅう…」

「もうバケツでも持ってきてあげようか?」

 先に降りた四葉が問うと三葉は首を横に、ゆっくりと振る。

「い、…要らない……私にも…ハァ…女子高生としての……ハァ…プライドが…あるの…ハァ…し、思春期むかえてない…ハァ…お子様には…ああぁ!」

「お婆ちゃん、寝てるから静かにね」

 四葉が見守る中、ゆっくりと階段をおりた三葉は、また妹に肩をかりる。四葉の先導でトイレを目指した。

「ハァ…そっと…ぅぅ…そっと、ゆっくり歩いてよ……うぅ…早くトイレに…、ゆっくり…ハァぅ…早く…」

「ゆっくり早くって、それもう超空間移動だよ」

 振り返ると、姉が半泣きの顔で我慢して震えている。もう潤んだ目から涙を流しつつ、鼻水まで少し出ている。姉らしいといえば姉らしいけれど、ほんの数分前までの凛とした美少女とは思えない変貌ぶりで、外見が同じでも中身が変わると人間こうまで変わるのかと感心してしまい、四葉はタメ息をついた。

「はぁぁぁ…、じゃ、超空間移動いくよ。ゆっくり早く」

「あぁぅう…な…何でもいいから…ハァ…お願い…ハァハァ」

「あと1メートルだよ、頑張って」

「うん…うん…うっ…うっ! うわあ! ああっ! ヤダヤダ! 止まってぇ! あああっ!」

「………」

「はああっ! あああうん! ふあぁぁぁぁっ……」

「…………………」

 四葉は痛いほど肩をつかまれて、姉が限界を迎えたのを悟った。肩を貸している四葉の頭に三葉の生温かい涙がポタポタと降ってくる。

「うううっうううっ……漏らしてないから…ハァ…これは違うから…。おしっこ…漏らしてないから…ぅう…ぐすっ……、おもらしじゃないもん……だから、四葉、振り返らないで、見ないで」

「………見ないから」

「ううっ…えぐ、うぐ…はぐ…見たら泣くから…えぐえぐ…ううっ…ぐすっ…おもらしじゃないからね……お姉ちゃん、おしっこなんて漏らしてないよ…ううっ…ぐすっ…ひっく…ひっく…ぅうう…」

「………」

 もう泣いてるじゃん、認めたくなくても、それはおもらしだよ、と言いそうになって四葉はかわいそうなので振り返らずに風呂場を指した。

「お風呂、まだお湯が残ってるから入ってきて。ここは片付けておくから」

「ううっぐすっ…小学校で友達に喋ったりしないでよ……小さな町なんだから、すぐウワサになって高校まで…ぐすっ…姉妹とか、兄弟とかいて…話が回るから…」

「家の恥を外で言わないから」

「ううぅ……恥って言わないで……お姉ちゃん、おもらししてないから」

「うん、うん、これは花瓶の水が零れただけだから、拭いておくね。早くお風呂に入ってきなよ」

「ぐすっ…うん……ありがとう……ごめんね…」

 啜り泣きながら三葉が風呂場に入っていく音がすると、四葉はタメ息をついてからバケツと雑巾を持ってきて床にできた大きな水たまりを拭いた後、点々と風呂場まで続く足跡を拭いた。雑巾とバケツを洗って片付けると、姉から話を聞きたいので祖母を起こさないために二階へあがって三葉の部屋で待つ。しばらくして三葉が揚がってきて、自室に入って妹が待っていたのを見ると、ビクリとしたけれど目をそらして無言で髪をタオルで拭いている。

「………」

「それで、どうだったの?」

「っ…おもらしじゃないから!」

「……」

「あれは汗なの! 汗だったの! あのね、よく聴いて! お姉ちゃん、ヨガやってたの! デトックス的なヨガ! 体内の悪い成分を一気に汗にして、お腹と太腿から出すの! おもらしに見えたかもしれないけど、あれは汗! ヨガの効果だったの!」

「……」

 夜中の入浴なのに、ずいぶんと長湯だと感じていた四葉は姉が苦しい言い訳を考えていたのだとわかり、タメ息をつきそうになって飲み込んだ。姉は落ち着きがないわりに恥ずかしがりで、唾液を混ぜた口噛み酒を造ることも強く恥じらっている。もう何度も祭りの度にやっている四葉は慣れていて、たぶん思春期に入っても平気だと思うのに、姉が思春期に入った中学生だった頃は祭りの前夜に家出しようとしたり、練習中に駄々をこねて泣き出したりした姿を覚えている。

「すっごい汗だったでしょ! お姉ちゃんも、びっくりだったよ! ヨガの効果って、すごいね! うん、ヨガすごい!」

「……すごいヨガだね……ちなみに、どんなポーズ?」

「っ…わ、忘れちゃった! お、思いつきでやってみただけなの! どうやったら汗をかけるかなって考えてやってみたら、すごい効果で、びっくり! ポーズは、こう、だったかな、それとも、こう、かな? あはは…」

 三葉は寝間着を持たずに入浴したのでバスタオルを身体に巻いただけの姿で思いつくポーズで腕を上げたりしている。ウソをウソで上塗りしているために動揺して汗が噴き出してきていて、腕を上げた三葉の腋に玉のような汗が浮いていたので、四葉は話を合わせて終わらせることにした。

「あ、ちゃんと汗かいてるね。すごいね、お姉ちゃん」

「え…」

 言われて三葉も自分の腋を見ると、たっぷりと汗をかいていたので助け船に乗った。

「ほら! 本当だったでしょ! 流れるくらいの汗!」

 三葉は嬉しそうに両腕をあげて腋の汗を見せてくる。入浴で身体が温まっている上に激しく動揺しているので、三葉の腋から噴き出してくる汗が玉になって、その滴がくっつきあい流れる。まるで強火で肉を焼いたときに出てくる肉汁のように三葉は腋から汗を流しているし、もっと絞り出そうとして頭の上に両腕をあげて右手で左肘をつかみ、ぐっと力を入れると、三葉の腋の前後が筋肉で壁をつくり、大きく腋が凹んで汗が合流する。こもった体温と室温の差で三葉の両腋から湯気までのぼった。

「こんなに流れてるよ! ほら! だから、さっきのもおもらしじゃないの!」

「………」

「私の腋の汗、すごいでしょ! さっきは、これがお腹と腿から流れたの! だから、おもらしに見えたかもしれないけど、絶対、おもらしじゃないから! っていうか、高校生にもなったお姉ちゃんがおもらしするわけないよね!」

「………」

 先刻までの凛とした美少女が、今はウソの上塗りのために自分の腋を見せて熱弁している。嘘から出た誠か、瓢箪から駒で、ウソを重ね塗りできそうな汗が流れてくれたことで喜々として両腋を見せてくる姉の姿に、これが実姉かと思うと四葉は目頭を指先で押さえて涙腺を閉めつつ語る。

「うん、本当にヨガだったんだね。お姉ちゃん、もう腋は見せなくていいから、汗も拭いて。おもらしじゃないって信じるから。学校でも言わないし」

「本当に信じてくれてる?」

「うん、うん。もう、いいからさ。私が訊きたくて待ってたのは、そこじゃないから。訊きたいのは昨日一日、誰かと入れ替わっていた感覚とか、ジークフリード・キルヒアイスっていう名前に聞き覚えはない?」

「え? なんで、四葉が私の夢を知ってるの?」

 すっかり入浴中に昨日のことを夢だと思い、誤魔化すための言い訳を最重要視して考えていた姉に四葉は、もう眠いので早めに話を進める。

「お姉ちゃん、ジークフリード・キルヒアイスっていう男の人になってなかった?」

「……あれは夢じゃないのかな……でも、キルヒアイスって人は知ってるけど、ジークフリードって? ラインハルトさんも四葉が知ってる?」

「あ~……ジークフリードはキルヒアイスさんの名だと思うよ。たぶん姓がキルヒアイス。ラインハルトさんはキルヒアイスさんの上官らしいかな」

「情漢って何? どういう関係?」

「今、微妙に変な字をあててない? お姉ちゃん、あっちの世界で一日何をしてたの?」

「う~ん………二度寝して、ご飯食べて、シャワー浴びて、そんな感じ」

「……………。自分が宇宙にいるなぁ、って思わなかった?」

「宇宙………やっぱり、あれは宇宙なのかなぁ……」

「ワープとかした?」

「した!」

「戦争は?」

「戦争? そんなの無かったよ」

「二人は軍人じゃなかった?」

「う~ん……身体は、すごい鍛えて…」

 そう言って三葉は真っ赤になった。なんとなく四葉は理解できたし、姉が初日にした行動は次に入れ替わったときにキルヒアイスから訊く方が詳細な気がして、もう眠いので話を終わらせる。

「とりあえず、キルヒアイスさんと入れ替わるの、しばらく繰り返して起きるかもしれないって」

「またあるの?!」

「うん、お婆ちゃんがそう言ってた。だからね、くれぐれもキルヒアイスさんの生活を乱すようなことしないであげてね」

「い……入れ替わり……入れ替わりってことは、私の身体、どうなってたの?!」

 三葉が不安になって自分の身体を抱く。見知らぬ男性に一日、自分の身体を操られていたという女性らしい恐怖を覚えている。女子として意識のないうちに、自分の身体を男性から意のままに操られるということは底知れない恐怖と不安がある。怯えて青くなっている三葉を見て、四葉はキルヒアイスの配慮を伝える。

「安心して。絵に描いたような紳士的な人だったから、お風呂も断ってたくらい」

「……おっぱいとか触られてない?」

「そういうことしないタイプだと思う。着替えも目を閉じてしたって。トイレも行ってないはず」

「よかったぁぁ……。………でも、だから、あんなに、おしっこ………」

「次、入れ替わったときはトイレは行ってもらうよう言っておく?」

「…………………。ダメ! 我慢してもらって!」

 三葉は鏡で見たキルヒアイスの顔を思い出して、彼が三葉の身体でトイレに入り、脱いだり、拭いたりするシーンを思い浮かべ、ブンブンと首を横に振った。

「絶対ダメ! むしろトイレが一番ダメ!」

 恥じらって顔を真っ赤にして拒否している。

「あんなカッコいい人に見られたくないもん!」

「カッコ悪い人ならOKなの?」

「もっとダメ!!」

「キルヒアイスさんは、きっと目を閉じてくれるよ」

「目を閉じてたって触るんでしょ?!」

「……まあ……拭くかな……」

「その前に脱がせるんでしょ?!」

「脱がずにはできないね」

「着替えだけ! 朝の着替えだけにしてもらって! パンツ脱ぐのは絶対ダメ! 着替えでもパンツは替えなくていいから!」

「……生理現象だよ? 夕方くらいに限界きたら、どうするの?」

「……………我慢してもらって……」

「人間、できることと、できないことがあるかもしれないよ? どうしても限界ってときは、どうする?」

「………目を閉じてもらって耳を塞いでもらって、四葉が脱がせて」

「え~………」

 四葉は姉の介護をするところを想像する。あまり、したくない行為だった。

「それってさ、拭くのも私?」

「……………ごめん……お願い」

「………。大でも……?」

「…………………ごめん……………お願い……します……」

「妹に? ……お姉ちゃんが?」

「………四葉のオムツ替えてあげたことあるもん……」

「10年前の話でしょ、それ」

「……ぐすっ……ぅっ……ぅっ……泣きそう……。入れ替わりなんて……イヤだよぉ……ぅう…ぅう……女の子には見られたくないところが、いっぱい、いっぱい……あるんだよぉぉ……イヤだよぉ……もうイヤだよぉ…」

 座っていた三葉が畳の上に寝転がって手足をバタバタとさせ始めた。四葉は駄々をこね始めた姉の身体に寝間着をかけてタメ息をつく。

「はぁぁ……女の情けで善処してあげるかもしれないけどさ。もう一つの、あれは、どうする?」

「あれって?」

「……私も、そろそろだから小学校で習ったけど、あれ」

「あれ?」

「だから、あの日、月に一回は来るんじゃないの?」

「あ…………」

「………」

「………」

 二人は入念に、もしも生理中に三葉がキルヒアイスとして行動した場合について話し合った。

 

 

 

 キルヒアイスは目を覚まして木造家屋の天井が見えたので二度目だということを悟った。

「………やはり繰り返すのか……」

 静かに和布団から三葉の身体が起き上がると、そばに手紙があった。

 

 キルヒアイスさんへ

 はじめまして、宮水三葉です。

 もし、またキルヒアイスさんが私になっているのなら、できるだけ私の生活を私のように過ごしてください。周囲から変に思われたくないので苦痛かもしれませんが女の子らしく振る舞ってください。入れ替わっていることも周りに言わないでください。

 一度目のとき目を閉じて着替えていただき、ありがとうございます。今日も同じようにしてください。お願いします。私の身体は見ないでください。触るのも必要最小限にしていただけるとうれしいです。お願いします。

 

 読み終えた三葉の手は手紙を机に片付けた。

「返事は夜に書く方がいいか……今日の出来事も含めて」

 鏡を見ると三葉の姿が映っている。

「……女の子らしくか……。言葉使いも気をつけた方がいいだろうな……いいのかな」

 とりあえず着替えを探した。一度目のときは衣類は散らかっていたけれど、今は着替えがセットにして置いてあるのでわかりやすい。部屋の中も、ある程度は片付けられていて人目を気にしている感じがした。

「着替えるか。なるべく触らないように」

 目を閉じて着替えを終えると、一階におりた。

「おはようございます」

「ええ、おはよう。ジークさんなのね?」

 一葉が訊いてくるので頷いた。

「はい、ご迷惑をおかけします」

「いえいえ、こちらこそ。向こうで三葉が迷惑をかけていないか、心配でたまらないくらいですよ」

「三葉さんには安全に過ごしていただけるよう上官にも頼んでありますので、どうか、ご安心ください。何か、お手伝いすることはありませんか」

「四葉を起こすのをお願いします。一昨日、夜更かしして昨日は二人とも遅刻したから、今日はちゃんと登校させんとねぇ」

「やはり、ご迷惑をかけたようです。すみません」

 謝ってから顔を洗い、再び二階へあがった。

「四葉、おはようございます」

 戸をノックしたけれど返事がない。繰り返しノックしていると一葉が台所から言ってくる

「入ってもらって、けっこうですよ」

 そう言われたので室内に入ると、四葉は布団で静かに寝ていた。

「起きてください。四葉」

「……ん……」

 なかなか起きない。小学生なので長い睡眠時間を必要とするのに、前々日は明け方まで三葉と話していたし、そのおかげで昨夜も睡眠リズムが戻っていない。

「起きてください。……………」

 揺り起こそうとして、三葉の手が止まる。穏やかに寝ている四葉が、あと半年で非業の死を遂げるのだ、ということを思い出してしまい、三葉の瞳が潤んだ。ちょうど10歳といえば、キルヒアイスとラインハルトにとっても思い出深い時期なのに、この四葉は人生をそこで終えるのかと思うと、三葉の瞳が涙を零しそうになる。

「…………」

 軽く頭を振って顔を引き締めた。

「起きてください。四葉」

「…ん~……あ、お兄さんの方?」

「見ただけでわかるのですか?」

「うん、まあ、姿勢から言葉遣いから、ぜんぜん違うし」

「……そうですか……女の子らしいというのは難しいようです」

「今の方が普段のお姉ちゃんより、よっぽど女の子らしいよ」

 会話しながら一階へおりて朝食の準備を手伝い、三人で食べる。

「ねぇ、お婆ちゃん、今の方が女の子らしいよね?」

「そうやね。いいところのお嬢さんという風やけど……ちょっと…」

「ちょっと、どう違うのでしょうか? できるだけ三葉さんに迷惑をかけたくないので、ご教授ください」

「うちの三葉に比べると、ピシっとしすぎなんよ。軍人さんの雰囲気が、しっかり伝わってきて……そうやね、もう少し。たとえば、ジークさんの知っている女性らしい女性を真似されてみてはどうでしょう?」

「私の知っている女性らしい女性……」

 アンネローゼ・フォン・グリューネワルトの姿を思い出した。憂いを含んだ穏やかな瞳と、しっとりとした座り姿、後宮に入るまでの微笑みも忘れていない。三葉のまっすぐ正座していた足が少しだけ崩され、背筋もわずかに傾けられると、たおやかな女らしい座り姿になった。

「このような振る舞いでよいでしょうか?」

「「…………」」

 あまりに女らしく優美なので、また別の方向で三葉から離れてしまったけれど、もう注文をつけるのは気の毒なので二人は頷いた。朝食が終わり、家を出て通学路を歩くと、早耶香と克彦に出会った。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉」

「おはようございます、サヤチン、テッシー」

「「………」」

「どうかされましたか?」

「また選挙モードなんやね」

「昨日は休憩やったんか。また無理すると明日遅刻するぞ」

「はい、気をつけます。ご心配、ありがとう、テッシー」

 ありがとう、ジーク、と言ってくれるアンネローゼを真似して言うと、克彦が真っ赤になった。早耶香が少し冷めた目で言う。

「一昨日より女らしいね」

「そう心がけております」

 穏やかに三葉の唇が微笑むと、同性の早耶香でさえ見惚れるような顔だった。学校に到着して授業を受け、昼休みになると柄の悪いクラスメートに野次られた。

「そんなに票が欲しいのかよ、お嬢様」

 野次ってきたクラスメートは一昨日、上級生にからまれて金銭を巻き上げかけられたところを助けられる形になったのだけれど、それが気にくわないようでからんでくる。

「いい子にしてないといけないってか。宮水さんちの三葉ちゃんはよぉ」

「私自身まだ未熟で選挙制度のことはよく理解しておりませんが、お父様の選挙につきましては重ね重ね皆様にご支援いただきたいと存じております。どうか、この通りお願いいたします」

 座っていた三葉の腰が立ち上がって深々と礼をすると、克彦も立ち上がった。

「からんでやるなよ。親のことで」

「ちっ……」

 舌打ちしてクラスメートが立ち去ると、克彦が心配する。

「大丈夫かよ、三葉」

「はい、ありがとう、テッシー」

「……そ、そんな真剣に礼を言われると照れるだろうが……べつに、たいしたことはしてねぇよ」

 昼休みが終わり、午後の授業も平穏に受講して、なるべく宮水三葉としての生活を乱さないことを心がけていたのに、放課後になって校門を出ると上級生3名にからまれた。

「おい、宮水、ちょっと付き合えよ。こないだの礼をしてやる」

「………」

 ついていくべきか、迷う。明らかに先日の件で意趣返しに来ている。それに対して正当防衛で反撃することが、宮水三葉としての生活に良い影響をおよぼすとは思えないし、戦力的にも3対1で筋力には自信がもてない。しかも、三葉の身体を無傷に、相手も軽傷におさめるとなると、かなり至難の業に思える。そして、たまたま今日からんでくれたことは感謝したいほどの偶然で、この次も偶然に期待するのは危険すぎると判断して、三葉の頭が礼をした。

「先日は一時の感情に身を任せ、大変なご無礼をいたしました。どうか、お許しください」

「あん? ……えらく今日は感じが違うな……」

「こいつのオヤジ、選挙に出てるから、もめ事はヤバイってんじゃないっすか」

「なるほど。それならそれでよぉ、こっちも手荒なことはしねぇから、ちょっと付き合えよ」

 三葉の胸に手が伸びてくると、さっと後退った。

「逃げんなよ、コラ」

「どうか、お許しください」

「だからよぉ、詫びなら詫びで、誠意みせろや」

「口先だけじゃなくてよ、口の中で頼むぜ」

「そうそう、白いの吐き出さねぇで、ゴックンしてくれや」

「口技は神業なんじゃねぇか、反吐女」

「………」

 三葉の手に、つい力が入って拳になりそうになるけれど、ぐっと我慢して頭をさげていると、克彦が間に立ってくれた。

「先輩、もう詫び入れてるんすから、このへんで勘弁してやってくださいよ」

「うっせぇ! ひっこんでろ眉毛!」

 ガッ!

 一喝されて克彦が蹴り飛ばされる。

「「テッシー!」」

 心配して早耶香と二人で駆け寄った。すぐに克彦は立ち上がった。

「オレからも頼みます、もう勘弁してやってください」

「……ちっ…」

 かなり強く蹴ったのに、すぐ立ち上がってきたのは意外だった。克彦は休日に建設現場で手伝いをすることもあるので体格も悪くない。小さな町なので、だいたいの素性はお互い知っている。

「勅使河原のぼっちゃんは、やっぱり宮水とデキてんのか?」

「もう手打ちにしてもらえませんか。お互い、一発ずつ、これで終わりに」

「けっ、足りねぇな」

「これ以上やると、こっちも問題にしますよ」

「あん?」

「オレは、ぼっちゃんっすからね。うちにも若いのが大勢いる。っていうか、声かけたら、あんたらの先輩も就職してますから」

「くっ……家の力に頼るってのか、情けねぇ野郎だ!」

「お願いしてるだけっすよ。これで手打ちに、頼みます」

 克彦が頭を下げると、悪態をつきながらも上級生3名が去った。三葉の瞳が申し訳なさそうに克彦を見つめる。

「すみません。私のために」

「おう。缶ジュースおごってくれたら手打ちにしてやろう」

「クスっ……わかりました。おごらせていただきます」

 三葉の財布を勝手に使うことは少し気が引けたけれど少額なので缶ジュースを買った。

「………」

 この時代の缶ジュースと、私たちの時代のもの、ほとんど形状に変化がないな、よほど人類にとって普遍的な形に完成しているのだろう、と余計なことを考えてから克彦に渡した。

「ありがとう、テッシー。蹴られたところ、痛みは大丈夫ですか」

「もう平気だって」

 美味そうに缶ジュースを飲む克彦に、もう一度頭を下げてから帰宅すると、すでに帰宅していた四葉が訊いてくる。

「今日は、どうだった?」

「なるべく普通に授業を受けたのですが、一つ申し訳ないことがあります」

 そう言って上級生にからまれた件の顛末を四葉に話した。

「そんなことがあったんだ。お姉ちゃんに伝えておくよ。他には?」

「あとは、お父様の選挙について周囲から言われたとき、どう対応するのが正しいでしょう?」

「テキトーでいいよ。無視でもいいし」

「………ですが、政治的な代表を選ぶものですよね?」

「子供に関係ないじゃん」

「……そうかもしれませんが……」

「私も訊きたいことがあるの、お兄さんに」

 四葉は姉の身体が一日どう過ごしたかを訊いた後は宇宙や銀河について訊いてきた。それについて、後の歴史に問題とならない程度に答えながら夕食を終え、三葉へ手紙の返事を書いた。

 

 宮水三葉さんへ

 はじめまして。と言いましても、すでに私も、あなたへの手紙を置いておきましたし、これを読まれているときには、もう戻った後になりますから、2通目ということになるのでしょうか、なんだか、ややこしいですね。

 ご依頼の件ですが、私の気のつく範囲で努力いたしました。至らぬ点はあるかと存じますが、どうかご容赦ください。とくに、お身体については細心に気をつけたつもりです。

 ただ、四葉に話しておいたのですが、少々の揉め事を起こしてしまい、テッシーには申し訳ないこともありました。明日もまた彼をいたわっていただけると幸甚です。

 

 手紙を書き終えると国語辞典で誤字脱字をチェックして、入浴せずに12時を待っているうち、気になったので糸守町選挙管理委員会から各戸に配布されている選挙公報を手に取った。俊樹の公約が書いてある。

 

 ブレない責任ある政治を!

 宮水俊樹は責任を果たします。

 宮水俊樹の5つの約束

 農林業を地域の主役に! 安全で美味しい農作物を提供することで地域の農業を元気にします。

 建設業を生き生きと! 地域の雇用は建設業で守られています。建設業の応援団として皆様に役立ちます。

 福祉・医療を充実! 皆様が安心して暮らせる町へ、高齢化社会に対応した支援を推進します。

 地方創生への挑戦! 歴史的・文化的な資源に光を当て、民俗学者としての知見を発揮します。

 子育て・教育は町の責任で! 子供を安心して産み育てられる町へ、教育の機会均等な実現のために奨学金制度を充実させます。

 

 三葉の口がつぶやく。

「……すばらしい……」

 共和主義政体については情報を制限されて育ってきたので、俊樹の公約を見て深く感動している。民主主義について、ごく簡単に投票によって代表を選ぶ、ということと腐敗もあり必ずしも善政を敷くとは限らないという程度のことしか知らなかったので、生の選挙公報を読むことができたのは、とても新鮮だった。そろそろ12時という頃になって寝ていたはずの四葉が起きてきた。

「四葉? どうしました?」

「一応、見守りに来たの、お兄さんとお姉ちゃんを。……まあ、今日はお兄さんっていうより、お姉様だった気がするけど」

「ありがとう、四葉」

 そう言って布団に寝た。時計を見ると、あと2秒だった。

 



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6話

 

 

 ミューゼル艦隊の旗艦タンホイザーの艦橋でラインハルトは定刻になってもキルヒアイスが現れなかったので指揮席から立ち上がった。それを見てノルデン少将がタメ息をつく。

「まったく、たるんでおりますな。これで二度目とは」

「………」

 お前は黙っていろ、という言葉を飲み込んでラインハルトは艦橋をおり、キルヒアイスの部屋に入った。想定通り、三葉はイスに座って待っていた。

「おはよう、フロイラインミツハ」

 なるべく優しい微笑みを心がけるとキルヒアイスの頬が赤くなったので複雑な気持ちになる。宮中の女性から同じような反応をされることには慣れてきたけれど、相手が親友だと反応に困る。しかも、宮中の女性が相手なら無礼でない範囲で冷たくすればよかったけれど、三葉には緊張させないように優しさを心がける必要があった。

「お…おはよう…ございます……ラインハルトさん?」

「もう、キルヒアイスからの手紙は読んでくれたようだね」

「はい」

 三葉の手元にはキルヒアイスからの手紙が日本語で書かれていた。

 

 宮水三葉さんへ

 はじめまして。私はジークフリード・キルヒアイスと申します。

 今回のこと、とても驚いておられると思います。正直、私も驚き、いったい何をすればよいのか、五里霧中の状態です。それでも、お互いに冷静になって自分たちのためには、何をすべきで、何をすべきでないかを、分別していかねばならないかと考えております。

 すでにご承知かと存じますが、私は銀河帝国の少佐であり、ラインハルト様の部下です。まことに勝手なお願いではありますが、三葉さんが私の身体におられる間、その立場で振る舞っていただきたいのです。

 子細につきましては、ラインハルト様よりご説明あるかと思いますので、どうか落ち着いて、イスに腰かけ静かに待っていてください。

 追伸 ラインハルト様が知らぬこととはいえ、シャワーを浴びていただく際に無礼があったこと深く反省しておられますので、どうかお許しください。また、私の身体で入浴していただくことは不快でなければ、どうぞご自由に。

 

 手紙を読み終えたことを確認したラインハルトは、すぐに手紙を処分した。余人をもって解読不能な文字ではあったけれど、コンピューターにかければ解読されるし、余計な嫌疑は避けたいので慎重に行動している。

「どうか、緊張しないでください。フロイラインミツハ」

「は…はい…」

「まずは一つ、私から詫びを入れさせていただきたい」

「え…?」

「知らぬこととはいえ、フロイラインの前で裸になってしまい見苦しいところを見せてしまった。どうか、許してほしい。気が済まなければ叩いていただいてもかまわない。どうか、この通り」

 ラインハルトが恭しく膝をつき頭を下げると、三葉も日本人らしい仕草で膝をついて頭をさげる。

「いえ、私こそ……いろいろ……わけ、わからなくて……」

「では、シャワー室の件は水に流してくださいますか?」

「はい、もちろん」

「ありがとう、フロイラインミツハ」

 安心した顔をしたラインハルトに三葉は好感を抱いた。キルヒアイスにも好感を抱いているけれど、やはり一言の言葉も交わしていないので人となりをつかみにくい。鏡をみれば、そこにいるけれど、それは自分の肉体として動くので、どうしてもキルヒアイスに会ったという実感はなかった。

「では、まず、着替えていただこうか。いつまでもパジャマのままとはいかないから」

「着替え……」

「もちろん、私は退室するが、軍服の着方は説明させてください」

「あ、はい。お願いします」

 三葉は帝国軍少佐の軍服の着方を教えてもらい、退室しようとしたラインハルトに告げる。

「わざわざ出てもらわなくても、背中を向けていてもらえば大丈夫です。この身体は女の子じゃないし」

「わかった。では」

 ラインハルトは背中を向けて立っている。三葉は教えられた通りに軍服を着てみたけれど、やはり微妙な乱れはラインハルトに調整してもらった。

「うむ、どこから見ても立派な帝国軍少佐だ」

「……そう…ですか…? せ…戦争、してるんですよね…?」

 キルヒアイスの身体が不安そうに立っているのは、ラインハルトとして少し悲しかったけれど、顔には出さず三葉を励ます。

「大丈夫、軍隊といっても、この艦は旗艦、めったなことでは傷一つつかない」

「………わ……私も戦うんですか…? 大砲とか、撃つの?」

「いえいえ、ただ私のそばに立っていてくれればそれだけで十分です」

「…た……立ってるだけ?」

「ええ」

「………ここにいちゃダメですか?」

「どうしても不安なら、それでもかまいませんが、艦の構造上、指揮を執る艦橋が一番安全です。私はフロイラインミツハの安全のためにも目の届く艦橋にいてほしい」

「……わかりました。……言われる通りにやってみます」

「では、まずは立ち方と、敬礼をお教えします。私の真似をしてください」

 そう言ってラインハルトは直立不動になり両手を腰の後ろで組んだ。

「これが基本の立ち方です」

「……こう、ですか?」

 三葉は真似してみる。

「もう少し胸を張って」

「…はい」

「そうそう完璧だ」

「……」

 もともと身体が覚えていたのか、やってみると、すぐにできた。

「では、敬礼」

「はい」

 二人で向かい合って敬礼すると、ラインハルトは笑い出してしまった。

「え? …へ、変ですか?」

「い、いや、失礼。ついキルヒアイスの顔と、まじめに向かい合って二人きりで敬礼するなど、可笑しな状況だと思ってしまい。失礼した」

「う~……二人って、どういう関係なんです? 上司と部下ってだけなの?」

「いや、キルヒアイスとは友人です。大切な」

「そうなんだ……じゃあ、敬語じゃない方が自然なんですか?」

「二人きりのときは、くだけてもらってかまわない。むしろ、私もその方が嬉しい。ただ、周囲の目があるときは上司と部下のように振る舞ってください」

「わかりました」

「では、艦橋にご案内します。フロイラインミツハ」

 ラインハルトと三葉は移動して艦橋にあがった。

「うわぁ……」

 三葉は全天の星空を見て驚く。士官室にあったモニターの比ではない艦橋から見える宇宙空間に立ちすくんでいる。画像が鮮明すぎて、まるで宇宙空間に立っているような錯覚さえ覚えた。

「これってガラス? ……軍艦なのに装甲は?」

「アハハハ、むき出しに感じるかもしれませんが、ぶ厚い装甲の内部ですよ、ご安心ください」

「モニターなんだ……」

 見上げている三葉にノルデン少将が近づいてきた。

「ずいぶんと遅い出勤ですな。さすがは少佐殿」

「…は…はい……」

 口調や目線の感じから、それが厭味だということは三葉にもわかった。とりあえず自分が着ている軍服よりも飾りが多いので敬礼をしたけれど、応答に困る三葉の前にラインハルトが立ってくれる。

「卿が言わずとも、私が指導する。しばらく離れていたまえ」

「わかりました。小言をともに聞いても仕方ありませんからな」

 ノルデン少将が離れていくと、ラインハルトが耳元で囁いてくれる。

「指揮席までいけば、周囲には音が漏れにくいよう力場が働いている。こちらへ、どうぞ、フロイラインミツハ」

「はい」

 二人で指揮席まで歩いた。

「女性を立たせて座るのは気が引けるが、立場があるので容赦してほしい」

「い、いえ、どうぞ、お気になさらず」

 ラインハルトが艦隊司令らしく座り、三葉は指揮席の隣りに立ち、教えられた立ち方をしてみる。

「これでいいですか?」

「ええ」

「………すぐ戦いになるんですか?」

「いや、おそらく今日も敵とは遭遇しまい。油断はしないが平穏でしょう。落ち着いて二人で話をしましょう。いろいろとフロイラインミツハには知っておいてほしいこともあるので」

「話を……じゃあ、戦っているのは宇宙人とですか? それとも怪獣みたいな?」

「っ……なるほど……」

 ラインハルトは少し考えてから口を開いた。

「過去から来たフロイラインミツハに未来の出来事を教えてしまうのは、危険が伴うかもしれないから、絶対に過去に戻っても話さないと約束してくれますか?」

「…は…はい…」

「まず、いまだ我々人類は宇宙人というような存在と出会ったことはない。怪獣もいない」

「……じゃあ、何と戦ってるんですか?」

「人間だ。我々と同じね」

「………どうして?」

「うむ、そう問われると哲学的だが、知っておいてもらわないと変なことを言い出されるから教えておこう。あなたがいた時代から、だんだんと人類は宇宙に進出していった」

「ワープとかで?」

「そう。だが、何度か統一されたり分裂したりと、争いを繰り返し、五百年ほど前、銀河帝国が人類をまとめて統一した。だが、そこから脱出して別の国家をつくった集団もある。それが自由惑星同盟、我々は叛乱軍、叛徒と呼んだりもするが、そこと戦争している。飽きもせず長々と」

「何のために?」

「まあ、銀河帝国としては人類はすべて銀河帝国のもとにあるべきだ、と考えているし、自由惑星同盟としては皇帝が支配する体制を打倒し民主主義を広めるべきだ、と考えているのだろう」

「銀河帝国って皇帝がいるの?」

「ああ」

「ふ~ん……」

「………うむ、第三者からみれば、ふ~ん、で終わることかもしれないな」

 ラインハルトは一瞬、自分の人生目標がありきたりな虚しいことに感じられそうになって気を取り直して語る。

「私と二人きりのときは、皇帝に対して、どう言っても問題ないが、他人がいるときは不敬な発言は絶対にしないでほしい。不敬罪で処刑されることもあるゆえ」

「はい、気をつけます」

「キルヒアイスから聞いたが、フロイラインミツハのいた国もテンノウという皇帝のようなものがおられるのであろう? 不敬罪はあるか?」

「いえ、別に」

「その支配は、どうだ?」

「……う~ん……支配はしてないかな」

「………。では、何をしているんだ? 放蕩の日々か?」

「えっと、普通の人は意識してないけど、うちは神社だから知ってますが、祭祀王っていう位置づけなんですよ。人だけど、神さまに一番近い人というか、半分神なような、やっぱり人のような。だから、神事も多くて大変なのに外交儀礼もあったりで、放蕩どころか、ご高齢なのに毎日忙しくて、私も巫女っていうのをやってるから、わかるんですけどお正月も……この話、とても長くなりますけど、聞きますか?」

「…………。やめておこう、フロイラインミツハには知っておいてほしいことが多いが、私が日本のことを知っても仕方ないからな。他に訊きたいことはあるかな?」

「銀河帝国と自由惑星同盟、どっちが勝ってるんですか?」

「うむ、いい質問だ」

 ラインハルトは現在の情勢についてフェザーン自治領の存在も含めて説明していく。そのうちに昼食の時間になった。

「ノルデン少将、しばらく艦隊指揮を頼む」

「はっ」

「何かあれば、すぐ連絡するよう」

 ラインハルトと三葉は士官食堂ではなく艦隊司令官としての住居室に入った。また二人っきりになったので三葉が訊いてみる。

「あのノルデン少将さんのこと、ラインハルトさんは嫌ってるんですか?」

「わかるのか」

「なんとなく」

「うむ、女性の勘というやつか…」

 ラインハルトは通信で従卒に昼食を2人分もってくるように言い、三葉のためにイスを引いた。

「どうぞ、座って」

「ありがとうございます」

 立ちっぱなしだったので座れるのは嬉しい。テーブルを挟んで二人で座った。

「ご察しの通り嫌っている。公言してもいいが、まあ黙っているのが大人というものだろうな」

 すぐに昼食が運ばれてきて、食べながら午後の予定を説明される。

「午後からは避難訓練を行う」

「避難? ………やっぱり危険なんですね…」

 三葉が不安そうに問うと、ラインハルトは優しさと厳しさ、どちらを表情に出そうか迷い、結局は優しさを選んだ。

「フロイラインミツハ、この艦は旗艦ゆえ安全度は高い。だが、万が一ということもある。そんなときに安全にシャトルで脱出する訓練なのだ。しておいて損はない。………それに、フロイラインミツハのいた平和な時代でも、避難訓練はしておいて損はないと……いや、まあ、何でもない。ともかく、ここにいるからには、万が一のとき一人でもシャトルに乗り込めるよう手順を覚えておいてくれ」

「わかりました」

 食事が終わると、二人でシャトルに乗り込み、艦外へ出て、くるりとタンホイザーの周囲を遊覧飛行した。

「うわぁぁ……」

「やはり、見ごたえがあるかな?」

「はい、すごく……」

 三葉は巨大な戦艦を見て感嘆している。ラインハルトは説明を始めた。

「前方に主砲をはじめ武装が集中している。後方は動力部、中央が居住区と艦橋になる」

「へぇぇ……」

「しっかり覚えておいてほしい」

「はい」

「では一度、艦に戻り、フロイラインミツハが一人で操作して同じことをやってもらう」

「え………」

「大丈夫、私もついてはいく。ただ、操作は一人でやってほしい」

「…はい……やってみます…」

 シャトルが艦に戻り、わざわざ一度、艦橋まで戻ってから三葉の判断だけで艦内の通路を進み、シャトル発着装置まで行き、乗り込む操作も三葉が挑戦するけれど、一度は見たものの、モニターや計器に表示されているのがドイツ語なので読めない。もたついていてもラインハルトが優しく指示してくれた。

「このボタンを押して。やはり、キルヒアイスが予想したとおり会話はできても、文字は不自由するのだな。夜にはドイツ語の勉強をしていただく」

「……はい…」

「では、艦に戻り、次は射撃、ブラスターの使い方を習得していただく」

「………やっぱり、撃つことが……あるんですか?」

「万が一、もしもというときに身を守る訓練ですよ、大丈夫、万が一です」

 艦内の射撃場に行き、ブラスターの撃ち方を説明されて撃ってみる。

 ピシュゥン!

 一発目から的に当たった。

「フロイラインミツハは筋がいい」

「………3メートルしか離れてなければ、当たりますよ。お世辞はいいです」

 見え透いた世辞を言われて三葉は少し疲労感を覚えた。

「そうか、すまない。では次は10メートルで」

「はい」

 だんだんと遠くなる的に、それでも身体が覚えていてくれるのか、集中して狙えば当たるけれど、集中力がきれると外してしまう。三葉がタメ息をついた。

「はぁぁ……」

「はじめてにしては、とてもいい成績だ。世辞ではなく」

「ありがとうございます。この銃って、ぜんぜん反動がないんですね。オモチャみたい」

「うむ、旧式の火薬銃は私も撃ったことがあるが、かなり反動が大きかったな」

 以前の古式決闘戦を思い出しているラインハルトの前で、三葉がブラスターの発射口を覗いている。

「どういう仕組みで動いてるのかなァ…」

「っ?! 何をしている?!」

 ラインハルトが怒気をはらんだ声をあげると、三葉がビクっと身を縮めた。

「この…」

 この大バカ者が、と怒鳴りつけそうになってラインハルトは握った拳を反対の手で押さえ込む。

「……落ち着け……相手はフロイラインだ……そうだ、オレたちの方が悪い……勝手な都合を押しつけて……ハァ……そうだな、キルヒアイス……オレは発射口を覗くな、という説明をしなかった。うむ、オレの方が悪い、そうだな、キルヒアイス、お前が帰ってきたら、オレを誉めてくれ、オレは我慢したぞ」

 ラインハルトは三葉へ背中を向けて心の中のキルヒアイスと会話すると、笑顔をつくった。

「フロイラインミツハ、大切なことを説明し忘れていた」

「は…はい…」

「発射口は絶対に覗いてはいけない。たとえエネルギーパックが入っていなくても」

「はい、す、すみません」

「もちろん、友軍に向けてもいけない。向けていいのは的と敵だけだ」

「はい、わかりました」

「では次は動いている的を狙ってもらう」

「……少し休憩させてもらえませんか?」

「そうだな。では、ブラスターの訓練が終わったら休むとしよう」

 そう言ってもらえたけれど、三葉は動的射撃の後には、物陰に隠れてから打つ訓練や、伏せて打つ訓練、さらには模擬戦用のブラスターに替えてラインハルトとの射撃戦を経験させられてから、ようやく休憩になった。

「よし、10分間の休憩の後、次は小銃と小火器の訓練を行う」

「……はい…」

 すぐに終わった休憩の後で小銃や携帯型の小火器の扱いを学び、午後5時になった。

「少し早いが夕食にしよう」

「はい!」

 まだ混雑していない士官食堂の使い方も教わり、食事が終わるとラインハルトが当然のように言ってくる。

「シャワーを浴びた後、装甲服に着替えていただく」

「え……」

「あ、ああ、もちろん、シャワーがイヤなら省略してもいいが、射撃訓練で汗をかいたから、その方がよいかと思うのだが、どうだろう?」

「いえ、その…シャワーはいいんですけど、装甲服というものに着替えて、何をするんですか?」

「むろん、白兵戦の訓練をしていただく」

「……まだ、続くんですね…」

「すまない。お互いの安全のためだ。いろいろな状況に対応できるよう。一通り学んでほしい」

「……わかりました……頑張ります」

 疲れてきた三葉は、それでもシャワーを浴びてから装甲服の着方を教えてもらい、格闘戦で身を守る方法を教授された。

「では、次は攻撃の方法だ」

「……はい…」

「攻撃は主に戦斧、ナイフ、そして素手となる」

「………はい…」

 だいたいは身体が覚えていてくれるので実演され、真似してみるとできるけれど、やっぱり疲れる。体力はある感じがするけれど、精神的に疲れてくる。軍事知識も教えてもらうと、忘れていたことを思い出すかのように頭へ入り、記憶の引き出しが整理されるようになっていくものの、やっぱり大変だった。

「…ハァ…ハァ…あの、そもそも、こんな戦い方をすることってあるんですか? さっきのブラスターで決着がつくんじゃ?」

「あ、そうか。ゼッフル粒子の説明を忘れていた。休憩がてら説明しよう」

「………」

 休憩中にも、いろいろと説明され、午後8時なって装甲服のまま艦橋に戻った。ノルデン少将が驚いて声をかけてくる。

「どうしたのですか? そのような姿で」

「これより全艦規模での模擬白兵戦を行う」

「「えぇぇ……」」

 三葉とノルデン少将が異口同音したけれど、ラインハルトは指令を発する。

「艦内の各員に告ぐ! これより全艦規模での模擬白兵戦を行う! まず陸戦要員を7対3に分け、7を侵入した敵兵、3を守備兵とし、陸戦要員でない者も艦航行に差し障りのない者はすべて守備側として参加するよう! 敵軍の勝利条件は司令部要員の制圧、防衛側は司令部要員を守りきるか、シャトルにて脱出させれば良いとする!」

「「…………」」

 三葉とノルデン少将が、やる気無さそうに聴いているし、他の艦橋要員も金髪の司令官が急に言い出した模擬戦を迷惑そうにしている。すでに、午後8時を過ぎていて夕食も終わり、艦内の全員が舌打ちしたくなるような指令だったけれど、それはラインハルトも自覚していた。

「むろん、時間外超過勤務手当は支給される! さらに、勝利側へは今月の私の給料をすべて差しだそう! 一個艦隊司令官の給料だ! 男子に二言はない! 15分後、模擬戦開始とする!!」

 個人的な報償の設定により、一気に艦内が沸き立った。

「やるぞ!」

「こっちは守りきるか脱出させればいいだけだ!」

 遮音力場をこえて響いてくるほど艦橋要員も盛り上がっているけれど、三葉とノルデン少将だけは興味が無さそうにしている。

「……お金もらっても……」

「私は白兵戦が苦手でして、この演習はパスさせていただきたいのですが…」

 貴族出身らしい発言にラインハルトの瞳がギラリを光った。すでに三葉に対して忍耐と優しさを一ヶ月分は差しだしているので、容赦なく怒鳴る。

「ノルデン少将! 苦手なればこそ訓練するのが道理であろう!!」

「ぅぅ……」

「さっさと装甲服に着替えてくるのだ! もっとも、そのまま参加でよいなら、そうしているがいい!」

「はっ…」

 仕方なくノルデン少将が更衣室へ走っていく。三葉は艦橋の階段に座り込んでいる。

「……おうち帰りたい……男子に二言はなくても女子には、二言、三言いいたいことがあるよ…」

「フロイラインミツハ」

 キルヒアイスの肩が見たことがないほど落ちているので、ラインハルトは今までの生涯に無いほど、優しく、そして申し訳なさそうな顔で告げる。

「巻き込んで済まない。だが、お互いの安全のためなのだ。万が一、この艦に敵兵が侵入した場合、どういう対処がされ、フロイラインミツハが、どう動くのが最適か、学んでおいてほしいのだ。頼む」

「……は…い…」

 三葉は祖母の顔を思い出した。小さな頃から参加させられた神事の舞いや祝詞の練習は三葉が疲れたといっても、やりたくないといっても、優しく厳しく予定通りに進められた。まったく二人の顔は似ていないけれど、三葉にはラインハルトと一葉が重なって見えてきた。

「状況開始します!」

 模擬戦が始まる。右舷から侵入したと想定された敵兵に対して、ラインハルトは防衛陣を構築していくけれど、もともと陸戦要員が3に対して敵側が7なので、じわじわと押されていく。ノルデン少将が不安そうに提案してくる。

「そろそろシャトルへ移動しませんか?」

「いや、まだだ。この状況で艦を捨てるのは早い」

 気質的に逃げるのが好きではないため、自ら設定した勝利条件を満たすより、より実戦に近い判断をしていたけれど、敵側はラインハルトたち司令部要員が早々に逃げ出すと想定してシャトル方面への兵力を大きく割いていた。おかげで艦橋を守りつつ、敵兵力を待ち伏せによる逆襲で減らしていけたけれど、結局は艦橋への侵入をゆるした。

「突破されました!」

「迎え撃て!」

 艦橋に雪崩れ込んできた敵兵は15名、もともと白兵戦の訓練が少ない艦橋要員は報奨金ほしさに奮戦したけれど、やはり倒されていく。三葉も倒されないことを目標に戦っていた。

「ハァ…ハァ…ぅう…ノルデン少将さん、もう、やられたの?」

「ははは、すみません。白兵戦は苦手で」

 なるべく痛くないように殴られて倒れたノルデン少将は立ち上がらず、もうダメージ判定をほしがっている。ラインハルトは後ろから蹴ってやろうかと思ったけれど、もともと期待していなかったので自制して三葉に叫ぶ。

「キルヒアイス! 私の後ろにいるんだ!」

「ハァ…ハァ…」

「キルヒアイス! こっちだ! キルヒアイスぅぅ!」

「………あ、私か…」

 そう言って振り返った瞬間、敵兵に打たれてダメージ判定をもらった。

「あう……ごめんなさい…」

「いや、よくやった。想定以上に」

「へへへ、とうとう、お一人ですな。金髪の司令官どの」

 敵兵がラインハルトだけになったので嬉しそうに近づいてくる。

「だが、貴様らも3人だ」

「3対1、もう降伏していただいて、けっこうですよ」

 そう言われて降伏する性格なら、とっくにシャトルへ向かっていたので、奮戦してラインハルトは3人の陸戦要員を倒しきった。

「ハァ…ハァ……我々の勝ちだ」

「「………」」

 これが実戦だったら、たった一人、艦内に残った司令官、という状況で、それはそれで勝ちなのだろうか、と三葉とノルデン少将は疑問に思ったけれど、余計なことは言わないでおく。

「模擬戦終了です! 守備側勝利!」

「司令官万歳!」

「ミューゼル閣下万歳!」

「…ちっ……最後の最後で…」

「…くそっ……白兵戦が得意な艦隊司令官って、どうだよ…」

「…自分が暴れたかっただけじゃねぇのかよ…」

 報奨金がもらえる方は喜んでいるし、負けた方は悪態をついている。それでも年齢のわりに頼もしい艦隊司令官で部下を置いて逃げ出す可能性は低そうだと感じられていた。

「フロイラインミツハ、よく頑張ってくれた」

「…逃げ回っただけですけど…」

 そう言いつつも三葉も疲れた顔で嬉しそうに微笑み、装甲服を脱いで自室に戻ったけれど、ラインハルトがドイツ語と日本語が併記されたキルヒアイス手製の学習帳をもってきたので、子供が嫌がるように首を横にイヤイヤと振った。

「…うう…」

「フロイラインミツハ、もう少し頑張ろう」

「もう10時ですよ。少しは休ませて……」

「あと2時間だ。頑張ろう」

「………鬼……」

「本当に、すまない。だが、次にフロイラインミツハが入れ替わって来たとき、そこが戦場でないとは限らない。今のうちに頼む」

「………………金髪の鬼」

「大丈夫、キルヒアイスが言っていたが、すぐに覚えられるそうだ。もともと会話は成立するのだから、普通に言語を習得する何倍も早く」

「……こいつは……赤鬼だよ……」

 三葉は赤毛の頭を抱えつつ、学習帳に12時まで向かった。

 

 

 

 キルヒアイスの瞳がイヤイヤ勉強している子供のような目から、穏やかな貴婦人のような瞳に変わり、そしてキルヒアイスとしてラインハルトを見上げた。キルヒアイスは机に向かって学習している姿勢だったし、ラインハルトは隣にいて教えている体勢だった。

「家庭教師のようなラインハルト様を見ることができるとは思いませんでした。案外、ラインハルト様も教師に向いているかもしれませんよ」

「はぁぁぁ……やっと、戻ったか。疲れたぞ、オレは!」

 ラインハルトはベッドに倒れ込む。

「キルヒアイス、オレを誉めろ! これほど忍耐と優しさを総動員したことは、かつて無いぞ!」

「それは、ご苦労様です。三葉さんの方も疲れたでしょうね」

「そうだろうな………外見がキルヒアイスだから、つい忘れそうになるが、17歳のフロイラインに一日で叩き込めるだけ叩き込んだのだ。ひどいことをしているとは思うが……あいつめ……なかなかに口が悪い…」

「彼女は、何と?」

「金髪の鬼」

「クスっ…、それは、それは」

「お前のことは赤鬼と言っていたぞ」

「このカリキュラムを考えたのは、私たち二人ですから、そう思えるでしょうね。それで三葉さんであるときの私は、どうでしたか?」

「まあ、素材がいい、というか、キルヒアイスの身体だからな、白兵戦はそこそこ、射撃も悪くない。もう2、3回、訓練すれば、お前の半分くらい。半人前キルヒアイスにはなるだろう」

 ラインハルトが起き上がって問う。

「お前の方は、どうだった?」

「もともとが平和な時代の、ごく平和な国ですから、学校に行って帰る。それだけです」

「羨ましいことだな」

「興味深いのは、やはり彼女の父親ですね」

「ほお、どんな父親だ?」

「誠実そうな政治家です。しかも、選挙の真っ最中で公約なども配布されています」

「ん? テンノウが君臨するのではなかったか?」

「君主は象徴に過ぎず、国政も地方自治体の運営も共和主義的な選挙によって選出されていますよ」

「ふ~ん……」

 そう言ってからラインハルトは三葉と同じ反応を自分がしたことを自覚して、笑った。

「なるほど、どうでもいいことだ」

「お疲れでしょう。もうお休みください」

「お前も疲れているだろう?」

「そうですね……身体は不完全燃焼というか、全力で白兵戦をしたかった身体が、とてもハンパなところで終了のホイッスルをもらったような感じです」

「アハハハ、そうだろうな。さて、寝るとしよう」

 そう言ってラインハルトは退室し、キルヒアイスも一人になると、すぐに眠った。

 

 

 

 三葉の貴婦人のように伏せられた睫毛が、イヤイヤ夜中まで学習させられている小学生のような目で開いた。

「Schlachtschifft…戦艦…あ! やっと戻った!!」

「お帰り、お姉ちゃん」

「はぁぁぁ……殺されるかと思ったよ」

「戦場だったの?」

「くうっ…ううっ! 戦場! こっちが戦場だよ!」

 三葉が下腹部を押さえて丸くなったので、四葉は察する。

「二人とも大変だね。朝から夜12時まで」

「うぅぅ……た、…立たせて…」

「はいはい」

 四葉が布団から三葉を起き上がらせるけれど、精神的に消耗しきっていた三葉は布団の上で力が抜けてしまった。

「やぁあぁあぁぁあぁ……」

「………」

 四葉が見ている前で、ぽろぽろと三葉が涙も零している。

「ひっ…ひっく…うぅ…ぐすっ…おもらしじゃないから……これはヨガだから…」

「そうだね。大宇宙と一体になるヨガだったね」

「ぐすっ…ううっ…私……今日、頑張ったのに……」

「そうなの?」

「頑張ったもん! お客さん扱いしてくれたのは最初だけで、あとは訓練! 訓練! それが終わったら10時から12時まで勉強だよ! ひどいと思わない?!」

「……かなりスパルタだね」

「ぐすっ…誉めて、私を誉めてよ、四葉」

「うん、頑張ったね、お姉ちゃん、よしよし」

 妹に頭を撫でてもらっても濡らした布団の真ん中にいると余計に悲しくて再び泣けてきた。

「ぐすっ…ひっく…ふぇぇん! ふわぁぁん!」

「はいはい、大きな声で泣かないの。お婆ちゃん、寝てるから」

「ひっく……お布団どうしよう…」

「干せば乾くよ」

「これじゃ……おねしょしたみたいだよ……ヨガなのに…」

「ヨガだから恥ずかしくないよ」

「ぐすっ……今夜……寝るところが……もうヘトヘトなのに…」

 精神的にも疲労きわまっているし、肉体の方も普段はしない姿勢を維持していたのか、とても疲れている。もう横になって眠りたいのに、それができない。四葉が本当の優しさで背中を撫でてくれる。

「私の布団で、いっしょに寝ればいいよ」

「ぐすっ……ぐすっ…お婆ちゃんは私が、おねしょしたって思うかな……?」

「………」

「ヨガなのに…」

「もういっそ私が、おねしょしたことにしてあげようか? お婆ちゃんには、そう説明しようか?」

「……いいの?」

「いいよ、まだ10歳だし。ほら、お風呂に入って、もう寝よう。洗ってあげるから」

 本当に優しい妹と二人で入浴して身体を洗ってもらい、一つの布団で眠った。疲れていて、すぐに眠った三葉が寝言を漏らしている。

「…ぅう……鬼……金髪の鬼……」

「………」

 どんな世界を見てきたのか、四葉は想像しながら眠ったために、何百万匹という金髪の鬼のような宇宙人が地球へ侵略しに来る夢を見て朝を迎えた。

「はぁぁ……変な夢だった」

「ぐすっ……」

 三葉は眠りながら、まだ泣いている。

「よしよし」

「………っ?! あ、よかった、こっちだ」

 目を開けた三葉は自分の部屋ではなく、四葉の部屋だったので一瞬焦ったけれどホッと安堵している。

「おはよう、お姉ちゃん」

「…うん……おはよう…」

「そろそろ起きないと、また遅刻するし」

「………」

 まだ寝ていたそうな顔で三葉は起きて着替える。

「…あ……スカートが…」

 制服のスカートは濡らしてしまったので入浴時に洗って乾燥機に入れてある。

「……四葉、ごめん、スカートを取ってきて………あと、……その、夕べの……ヨガ…」

「うん、わかってる」

 四葉は返事をして一階におりた。そして脱衣所から台所にいる祖母に言う。

「ごめん、お婆ちゃん、夕べ、おねしょしちゃった」

「あらあら、じゃあ、お布団、干しておくね」

「お婆ちゃんには重たいから危ないよ。お姉ちゃんに手伝ってもらって干しておくね」

「そうかい、じゃあ、そうしておくれ」

「北側に干すけど、南側に移したりしないでね」

 自宅が神社と近いので、毎日のように高齢者の参拝があり、目立つ側には干さないでほしいと念押しした四葉は乾燥機から姉のスカートを出して二階へあがろうとしたけれど、祖母が脱衣所に来た。

「四葉、濡らしたパジャマとパンツは洗濯機に入れておいて…」

「………」

「………」

 四葉のパジャマは濡れていないし、急いで姉のスカートは背中に隠したけれど、見られてしまった。

「しー…」

 四葉が人指し指を唇にあてると、一葉は孫娘の頭を撫でた。

「いい子だね。四葉」

 小さな声で言った祖母は台所に戻っていく。四葉は二階に戻って姉にスカートを渡して二人で布団を干して、それぞれの学校へ向かう。三葉は路上で早耶香と克彦に出会った。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉」

「おはよぉー…」

 元気が無さそうな三葉を見て早耶香が言う。

「今日は電池切れみたいやね」

「私はロボットか……あ、テッシー、昨日は、ありがとうね」

 布団を干すときに四葉から聴いていた上級生にからまれた件の礼を言った。

「おう。いいってことよ」

 そう言って克彦がガッツポーズすると、三葉は気になったので克彦の上腕二頭筋に触れる。

「ふ~ん……普通は、これくらいか…」

「…ま、まあな。何と比べてだよ?」

「ううん、何でもない」

「テッシーは普通より、逞しい方だよね」

 早耶香が言って、反対の上腕二頭筋に触れた。三葉より、ゆっくり長く触れる。

「ほら、テッシーって現場の手伝いもしてるから、運動部よりあるくらいだよね」

「ま、まあな」

 今日から筋トレしよう、克彦は決意しながら二人と登校した。

 

 



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7話

 

 

 キルヒアイスは三度目になる体験だったので落ち着いて起き上がった。

「制服がない……私服? 今日は日曜日か」

 三葉の制服はクリーニングに出されていて部屋に無く、私服がセットになって置いてあったので目を閉じて着替えた。

「三葉さんの予定は……」

 置いてあった手紙を読んだけれど、とくに予定はない様子で身体に触れないでほしいことが繰り返し書かれているだけだった。

「三葉さんの方は予定なしか。………けれど、ラインハルト様の方は、おそらく今日にもティアマト星域で同盟軍と交戦状態に……このタイミングとは。………艦隊戦そのものはラインハルト様なら問題ないとしても、ノルデン少将との関係も……。心配しても何もできない。今は忘れて、三葉さんとして行動しよう」

 窓から空を見上げたけれど、ラインハルトがいるのは遠い銀河のイゼルローン回廊の向こう、しかも時代さえ違う。何もできないと悟り、気持ちを切り替えて女性らしい振る舞いを心がける。髪を整え、一階におりて顔も洗った。

「おはようございます」

「あら、おはよう、ジークさん」

 一葉の家事を手伝い、ゆっくり寝ていた四葉が起きてくると朝食をともにして、平日にはできない家事や神社の掃除を手伝って昼食が終わってから、一葉に問う。

「町の中を散歩してみたいのですが、よろしいでしょうか?」

「ええよ。手伝ってくれておおきにね。これ、ジークさんに」

 一葉が3千円を渡そうとしてくる。

「いえ、このようなお気遣いまでいただかなくても…」

「もらっておいて。使うところなんてコンビニと自販機くらいしか無いけんど、三葉の財布とは分けて持っていれば、ちょっとしたことに気兼ねのう使えるでしょう?」

「それは……たしかに…。ありがとうございます」

 まったく通貨を持たずに行動するのは不便かもしれないと受け取り、前回に克彦へ缶ジュースを買った分を三葉の財布に補給してから、ポケットに入れた。家を出て町を見て回る。

「キレイな町だ。ここが…」

 隕石落下のことを思い出しそうになって頭を振った。

「忘れよう。ティアマト彗星のこともティアマト星域のことも。おっと、いけない」

 つい男言葉になっているのを自覚し、アンネローゼのことを思い浮かべ、しっかりと真似をする。

「どこへ行きましょう。学校ではない方向がいいかしら」

 女性らしい足取りで歩き、すれ違う町の人にも挨拶しながら散歩していると、気になる車が通りかかった。

「今日は糸守町町長選挙の日です! みなさん、投票に行きましょう!」

 町の広報車が早耶香の姉の声を響かせて周回している。

「投票………」

 とても興味が湧く。

「あれが投票所……」

 歩いていると、すぐに投票所と書かれた看板が公民館に置いてあり、中に入ってみたいと思いつつも迷っていると、外でタバコを吸っていた町職員に声をかけられた。

「三葉ちゃん、どないしたん?」

 親しげな声のかけられかたなので、向こうは三葉の顔を知っているようだった。

「はい、その……もし、よろしければ投票所の中を見学させていただけないかと思いまして」

「ああ、なるほど。いよいよ興味が湧いてきたんか。ええこっちゃ。ほな、案内するわ」

 気さくに職員が案内してくれ、中に入ると投票箱や入場整理券の受付があり、立会人もいて、みんな三葉の顔を知っているようで歓迎してくれる。

「なんでも訊いてや」

「では、なぜ、あそこの机にはついたてがあるのですか?」

 三葉の指が投票用紙を書くための机を指すと職員が答えてくれる。

「そりゃ秘密選挙ちゅーてな。誰が誰に投票したか、見られたら書きづらい場合もあるやろ。本当に支持していて入れたい候補者に票を入れられるよう、横から見られんためのもんや」

「そんな配慮があるのですか……すばらしい町ですね」

「……。いや、全国どこでもあるはずやで」

「国中で……本当に、すばらしい国ですね」

「……まあ、そうやな…」

「あの人たちは、やはり監視役なのですか?」

 今度は立会人について訊く。明らかに投票箱を監視できるような位置に座っているので気になった。けれど、MPのような制服ではなく、ただの私服を着ているし、性別も年齢もまちまちで警察や軍の人間とは思えない。

「監視役ちゅーか、立会人は有権者の中からランダムに選ばれて、投票に不正がないか、見守る役やから、まあ、監視役ちゃー監視役やけど、どっちかというと、ワシら役人が不正をせんか、見張る役やね。もちろん、日当もでるよ」

「国民が役人を監視するのですか?」

「そうや。とくに開票作業は、しっかり立会がされるよ」

「国民が……役人を……よくこれほど、すばらしい制度を、どうやって築いてこられたのですか?」

「そ……それは、まあ……長年の努力ちゅーか、コンプライアンス的な? 公職選挙法も、じわじわ厳しくなるでの」

「……。厳しくなるというのは、やはり思想信条によって投票が制限されていくということですか?」

「いやいや、厳しくなるのは立候補者の方や。まあ、一番露骨なんが票の買収やけど、他にも選挙活動に使っていい金額も上限があるし、何より金権政治にならんよう、どんどん厳しくなっていっておるよ」

「…………」

 三葉の顔が感動している。

「三葉ちゃん、そんなに興味があるんやったら、お父さんの事務所に行ってきたらええやん。きっと、喜ばはるよ」

 そう言って職員が俊樹の選挙事務所を教えてくれる。教えられると、目立つ看板と幟旗が立っていたので、すぐにわかった。近づいていくと、運動員から声をかけられた。

「あら、三葉ちゃん、来てくれはったの。どうぞ、中に入って」

 運動員といっても、同じ色のエプロンをしただけの近所のおばさんで登校中に見かけたことがあるような気もする。選挙事務所は勅使河原建設の資材置き場にあるプレハブで中に入ると、必勝という文字が大きく書かれた紙が何枚も貼ってあり、中央には片目のダルマが鎮座している。そして、パイプイスが並び、20人くらいの町民がヒマそうに雑談していたけれど、三葉の顔を見ると一斉に声をかけてくる。

「おお、三葉ちゃん!」

「よう来たね!」

「まあまあ、三葉ちゃんやないの!」

「ぉ…お邪魔いたします…」

 圧倒されて返答に困るけれど、強く歓迎されている。それでも、しばらくして落ち着くと、俊樹が奥から顔を出した。

「三葉、どうして、ここに来たんだ?」

「すみません。ご迷惑でしたら、すぐに帰ります」

「いや、別に迷惑ではないが…」

 俊樹が対応に困っている様子だったけれど、運動員のおばさんが三葉の両肩を抱いてくる。

「ホンマは喜んではるんよ。あんな顔してても」

「……お父様が……」

「ま、…まあ、…来てくれて嬉しいが……どうした? 何か用事か?」

「…………」

 問われて三葉の瞳が迷い、それから決意して言う。

「お父様にお伺いしたいことがあります」

「そ…そうか…なんだ?」

「お父様にとって民主主義とは、どのようなものですか? 共和制を、どのようにお考えですか?」

「………」

「「「「「………」」」」」

 いきなりの質問に俊樹は目を丸くしたし、にぎわっていた町民たちも静かになる。

「………。三葉、ずいぶんと本質的な質問をするのだな」

 俊樹は娘の瞳を見る、とても真剣に問う、澄んだ瞳だった。

「わかった、私も真剣に答えよう」

 そう言って俊樹は咳払いをして語る。

「私の目指す民主主義とは、単に多数派の意向をもってよしとするものではない。むろん、多数派の求めることこそ最重要視するが、それは少数者を無視するということではない。多数派の代表が少数者に配慮しつつ、政治を采配することこそ肝要だ。こんな小さな町でも、ときに争いは起きる。我田引水という言葉があるだろう。昔は村内でさえ、水利一つをめぐって殺し合いになることもあった。人は利益を求めるし、生存を求める。ときに、それは衝突を招く。その衝突を防ぐために、話し合う。和をもって尊しというように、目指すところは、みなの合意が得られることだが、必ずしも全員が頷くとは限らない、それでも少数側に強い不満が残らぬよう、配慮した采配を行っていく。建設工事の発注もそうだし、農業用水の整備も、そうだ。保育園の増設だって必要だ。だが、予算には限りがある。その中で、どれを行い、どれを我慢してもらうか、配慮しつつ決める。その采配が最善でなくとも次善の範囲におさまり、皆さんが納得していてくれれば、私は来期も町長であるし、そうでなく失政や慢心があり、また何度も少数者への配慮を欠けば、それは重なって次第に多数者となるだろう、そして、人心は離れ、いずれは選挙に負け、去るのみとなる。そうならぬよう、町民の声を聴き、みなに配慮する。それが、私にとっての民主主義であり、共和制への考えだよ、三葉」

 黙って聴いていた三葉の頭が深くさげられた。

「お父様のご見識、感服いたしました。誇りに思います」

「三葉…………お前も大人になったな」

 俊樹は涙腺を指先で押さえて頷いた。静かに聴いていた町民たちも拍手してくれる。三葉の頭が町民たちへも向かってさげられた。

「お父様へのご支持まことにありがとうございます。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします」

 三葉の唇が支持を願うと、近くにいた町民が握手を求めてくる。

「ええ娘さんに育って! おっしゃ、福井で仕事しとる弟にも声かけちゃるわ。住民票は、こっちのままやしな」

「おう、ワシも息子に声かけたるわ! あいつ、いっぺんも選挙に行きおらんし! いい加減、大人にしたる!」

「私も!」

「オレもや!」

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 三葉の手が何人もの町民と握手を堅く交わしていくと、どうせ今回も俊樹が勝つだろうという事前予想でたるんでいた雰囲気が一変した。まだ、昼過ぎなので急いで親類縁者に声をかければ1票でも集まる。にぎわってくると、なにか手伝いたくなって俊樹に問うた。

「何か私にお手伝いできることはありませんか?」

「う~む……未成年者の選挙運動への参加は禁止されているのだよ。気持ちは嬉しいが……みなさんに、お茶を淹れることくらいかな……」

「わかりました」

 そう言って、お茶くみをしながら三葉の唇が頑張っている運動員たちに微笑みかけると、より頑張ってくれる。そうしているうちに、日が暮れて開票時間が迫ってきた。そろそろ帰宅しなければ、とも考えるけれど、どのように選挙が終わるのか、とても興味があり知りたい。

「三葉、夕食もこちらで食べていきなさい。まあ、オニギリくらいしかないが」

「ありがとうございます」

 礼を言って心配をかけないよう三葉のスマフォで家に電話をかけた。

「もしもし、宮水です」

 四葉の声がする。

「三葉です」

「ああ、お兄さん。遅いから心配してたよ」

「すみません」

「まだ帰ってこないの?」

「はい、お父様の選挙結果を見守りたいのです」

「……………そんなの面白い?」

「とても興味深いです」

「そっか……それなら仕方ないか」

 電話を終え、時計を見ると8時だった。俊樹がマイクを持ち、事務所内にいる町民たちに挨拶する。

「ただいま投票が閉め切られ、いよいよ開票となります。本日までの皆様のご支援、まことにありがとうございました。今暫くお時間をいただけますよう、よろしくお願いいたします」

 町民たちと三葉の手が拍手をして、そして静かに待つ。開票作業が始まって15分で選挙管理委員会が当確を町内放送で流してくる。早耶香の姉の声が事務所内に響く。

「こちらは糸守町選挙管理委員会です。本日開票されました町長選挙の結果を発表します。当選、宮水俊樹さん。繰り返します、当選、宮水俊樹さん。以上です」

「万歳!」

 誰かが叫ぶと、すぐ続く。

「宮水先生、万歳! 糸守町、万歳!」

「お父様、万歳! 民主主義、万歳! 共和制に栄光あれ!」

「「「「「……。万歳!! 万歳!!」」」」」

 娘さんが少し変なことを叫んだけれど、若い子の言うことなので町民たちには深く気にされず、みんなが万歳し、俊樹はダルマに目を入れる。どういう風習なのだろうと、見ていると若い美人の秘書が声をかけてきた。

「宮水先生への花束の贈呈役をお願いします」

「…はい」

 一瞬躊躇したけれど、娘という立場なので儀礼上、当然だと判断して花束を持ち、俊樹に近づく。

「お父様、ご当選、おめでとうございます。これまで以上のご健勝ご活躍を祈念いたしております」

「うむ……うっ、うむ!」

 花束を受け取った俊樹が涙ぐみ、上を向いて涙を流すまいとしたけれど、ダクダクと涙が溢れてきた。

「宮水先生が泣いてはるわ。そら娘さんに祝ってもろたら嬉しいわな」

「ぐすっ…これは目の玉が汗をかいておるのです」

 実娘と似たような言い訳をして泣き笑いになっている。感動が伝染して、三葉の目尻も濡れた。

「本当におめでとうございます。お父様」

「ああ、ありがとう、三葉」

「お二人とも記念撮影をいたします。こちらを向いてください」

 撮影が終わり、さすがに酒宴になると未成年なので帰宅する。玄関に入る前に、ふと違和感に気づいた。

「……なぜ、お父様と三葉さんたちは同居されていないのでしょう……」

 今さらながら、気になった。

「ただいま戻りました。遅くなり申し訳ありません」

「おかえり~ぃ」

「おかえりなさい」

 四葉と一葉が迎えてくれた。

「選挙なんか面白かった?」

「はい、とても興味深いもので感動いたしました」

「そっか。………」

「……。立ち入ったことを訊くようですが、お父様と三葉さんたちは、なぜ、同居されていないのですか?」

「………」

 四葉が無言で一葉を見る。

「ジークさん、立ち入ったことはお訊きにならないでください」

「はい、大変失礼いたしました、どうぞ、お許しください」

「私はもう休ませていただきますね。四葉も夜更かしはダメよ」

 そう言って一葉は寝間へ入り、四葉も自室で布団に入る。一人になって三葉への手紙を書き終えると、三葉のスマフォを使って公職選挙法について調べているうちに12時前になった。

「お兄さん、入るよ」

 寝ていたはずの四葉が起き出してきて入室してくる。なぜか、背中にバケツと雑巾、タオルを隠すように持っていた。

「四葉、それは何ですか?」

 あいかわらず貴婦人のように問うと、四葉も宮廷文化のことを午前中に聞いていたので、恭しく膝をつき、頭を垂れて答える。

「口の端にのぼらせるのも憚り多きことなれば、どうか、お気になさらず」

 クラウス・フォン・リヒテンラーデのように見守る四葉の前で、三葉の身体は布団へ横たわると、穏やかに目を閉じた。

 

 

 

 第三次ティアマト会戦が三葉の眼前で開戦していた。前衛のミュッケンベルガー元帥の艦隊が、すでに同盟軍と砲火を交えている。三葉は指揮席の隣りに立って、かなり遠くに見える戦闘の光りを見ており、ラインハルトが余裕をもって問う。

「どうかな、フロイラインミツハ、艦隊戦を見ての感想は?」

「……あの光り……あの爆発で人が死んでいるんですか?」

「そうだな。艦の大きさによるが、数百人から千人単位といったところか」

「………」

 怖いような、怖くないような、まだ実感が湧かない三葉が緊張しないようにラインハルトは会話を続ける。

「もし、フロイラインミツハなら、どんな風に艦隊を動かして戦うかな?」

「素人に訊いても仕方ないと思いますが……」

「素人の発想が新しい戦術を生むかもしれない、というのは冗談だが、何か無いかね?」

「たしか、武装が艦の前方に集中しているから包囲して十字砲火にするか、相手の側面や後背をつく方が優位なんですよね。だったら、相手艦隊の後方にワープして攻撃したら、どうですか? それか、ワープするミサイルでも作って敵旗艦に撃ち込めば早いんじゃ?」

「なるほど、ワープするミサイルか、やはり面白いことを言う。すばらしい発想力だ」

「それ、誉めてないでしょ」

「いや、失敬。まず、基本を教えていなかった私が悪い。ワープというのは繊細なガラス細工のようなもので、そうそう簡単にはできない。準備にも時間を要するし、ワープに入る場所はもちろん、ワープから出て行く先の空間にも、無視できるほど星間物質が無い状態であることが必要なのだ。たとえば、1光年先の空間を観測したとき、その情報はいつのものだと思う?」

「一年前ですか」

「そうだ。見通せる先の安全を確認しつつワープするのだが、1年前の情報では不安定要素が大きい、ゆえに既存の航路であれば安全である蓋然性が高いが、まったく知らぬ宙域を進むには、かなりの時間と労力を要する。そして、たとえば地球と近いシリウスまで何光年か、知っているかね?」

「8.6光年ですよね」

「ほお、よく知っていたな」

「私の住んでる町は星がキレイで有名だから、ちょいちょい話題になるんですよ」

「なるほど。で、地球とシリウスまで1光年ずつワープしたとして9回のワープになるが、もしも太陽系とシリウス星系の間で戦闘することになっても、たいていは、どちらかの星系内で行うことになり、あまり途中の宙域で会敵することはない。なにしろ、宇宙は広いからな。だが、広い反面、狭い部分もある」

「イゼルローン回廊みたいな?」

「そう。あそこまで狭くないにしても小惑星帯でも低速で隠れるにはいいが、高速で動けばたちまち衝突してしまうし、ワープなど、もっての他だ。ワープは、ほとんど何も無いことが確実にわかっている宙域でしか行えず、逆に戦闘は隠れるに最適な小惑星帯やレーダーの邪魔をする星間物質が多い星系内で行われる。そういうわけで、戦闘中のワープは、ほぼできないわけだ」

「あ……味方が押されてませんか?」

 三葉が前方のモニターに映し出されている彼我陣形図を指した。同盟軍の第11艦隊がホーランド中将の指揮で猛攻をかけてきている。その突撃に帝国軍の前衛は混乱しつつあった。ノルデン少将もラインハルトへ近づいてきた。

「敵の艦隊運動、なかなかに見事ですな。我が軍が押されている」

「ふんっ……速度と躍動性にはすぐれているが、他の部隊との連携を欠き、補給の伸長を無視している」

 ラインハルトの指摘通り、第5艦隊のビュコック中将と、第10艦隊のウランフ中将は動かず、ホーランド艦隊のみが孤軍奮闘し、ミュッケンベルガー艦隊を押している。ノルデン少将が提案してくる。

「我々も手をこまねいて見ているばかりとはいきますまい。前進して攻撃に参加しては、どうですか?」

「いや、ここは後退だ。全軍! 後退せよ!」

 ラインハルトが麾下の艦隊を後退させる。

「ここは後退して味方にも後退するスペースを与えるのがよい。我々が前進しては、かえって混乱が増すばかりだ」

「「………」」

 ラインハルト艦隊が後退したことを攻勢の好機と見たホーランド艦隊は、さらに激しく突撃を繰り返し、ミュッケンベルガー艦隊は陣形が崩れていく。ラインハルトが立ち上がって言う。

「なぜ、敵の無秩序な動きに合わせて、無意味な混乱を繰り返すのか、なんというていたらくだ」

「………」

 それなら、そろそろ味方を助けに行った方がいいんじゃないかな、と三葉は思ったけれど、黙っている。それでも顔に出ていたのでラインハルトが問うてくる。

「どうした、キルヒアイス、何か言いたいことがあるようだな?」

 近くにノルデン少将がいるのでキルヒアイスと呼びかけられて三葉は少し遅れつつも反応する。

「あ、はい。…あの、そろそろ少しは攻撃に参加した方がいいんじゃないかな、と。余計なお世話かもしれませんが」

「なるほど」

「キルヒアイス少佐の言う通りですぞ。ここは前進して攻勢に出ましょう」

「……」

 お前には訊いていない、と言いそうになりラインハルトは冷静を保つためにキルヒアイスの前髪を触りたくなったけれど、今は中身が三葉なので遠慮してタメ息で誤魔化した。

「はぁぁ……二人とも、よく聞くがいい。敵の動きは、まもなく行動の限界点に達し終局するだろう。そこを待って攻勢に出て、一挙にこれを叩く」

「なるほど、敵が行動の限界に達するまで待つとおっしゃる。それは一年後ですかな、それとも百年後ですかな」

「………」

 あ、イラっとする喋り方する人だなぁ、と三葉が思っていると、ラインハルトは猛烈に苛ついて拳を握り、それから冷静になろうとしてキルヒアイスの前髪を見つめる。

「………」

「………」

 え、なにヘルプアイ? 何を求めてるの、と三葉は困った。ラインハルトは右手でキルヒアイスの肩に触れた。肩くらいならいいかな、という判断だったし、別に三葉もイヤではない。

「キルヒアイス」

「はい…何ですか?」

「いや、呼んでみただけだ」

「……」

 さらに戦局が推移し、とうとうミュッケンベルガー艦隊が瓦解しかかっている。それを見ていると、三葉は少し怖くなった。味方を圧倒した敵艦隊が、次はこちらに来るかもしれない、という本能的な恐怖だったけれど、それはノルデン少将も同じだったようで提案してくる。

「こうなっては退却するしかありますまい。損害を被らぬうちに、さっさと撤退いたしましょう」

「いや、今一歩で敵の攻勢は止まる。それを待って一挙に撃つのだ」

「それは机上の空論、そのような妄想に拘泥せず、ここは潔く撤退を」

「黙れ!!」

 とうとうラインハルトが怒鳴り、さらに怒鳴りつけようとするものの、攻勢に出る好機が到来し、ホーランド艦隊の動きが止まったので指令を出す。

「今だ。全艦、主砲斉射3連!!」

 命令に従い、艦隊が主砲を斉射する光りの帯がホーランド艦隊を撃ち、薙ぎ倒していく。

「第2射用意! ファイエル!」

 二度目の斉射で戦局は一変し、ホーランド艦隊は瓦解した。三葉が感動して声をあげる。

「うわああ! すごい!!」

「フっ…」

 ラインハルトも嬉しそうに微笑み、グッと拳を握った。ノルデン少将が提案してくる。

「すばらしい……さあ、ここは一挙に追撃いたしましょう。もはや敵は烏合の衆」

「うむ………」

 ラインハルトは少し考え、キルヒアイスの顔を見て首を横に振った。

「やめておこう。残敵掃討の功など、他の提督に分けてやる」

 そう言って追撃はしなかったけれど、ミュッケンベルガー艦隊の残存戦力は復讐とばかりに殺到し、追撃していくものの、待ちかまえていたビュコックとウランフの両艦隊に逆撃に遭い、そこで戦闘は終了した。

「すごいですね、ラインハルトさん」

「フフン」

「たった二回の攻撃で勝っちゃうなんて」

「敵の動きを見極め、好機を突けばよい、それだけのことだ」

「すごい、すごい!」

 キルヒアイスの顔が強く感動してキラキラと輝く瞳で見てくれるのはラインハルトとしても、かなり嬉しい。ラインハルトは艦隊戦についてのイロハを語りつつ、艦橋で撤収の指揮を執り、三葉も12時の10分前まで艦橋で見学して、ラインハルトに言う。

「すいません。そろそろ入れ替わるので、部屋に戻っていいですか」

「ああ。お疲れ様、フロイラインミツハ」

 キルヒアイスの身体が艦隊司令官より先に休息するのを艦橋要員は不思議そうに見ているけれど、三葉は艦内の自室に早歩きで戻ると、紙にペンで、大勝利、とだけ書いてイスに座って構える。

「あと30秒。………四葉の前で3回もとか、ありえないから。今度こそ、私も負けない。勝つ、きっと勝つ。行動の限界点に達するまでに」

 姉として守りたいものがあった。

「3、2、1!」

 ぐっと下腹部に力を入れて臨戦態勢をとった。

 

 

 

 キルヒアイスはイスに座って構えていた姿勢を不思議に思ったけれど、目の前にあった大勝利という文字を見て立ち上がった。

「ラインハルト様が勝った! お勝ちになった!」

 負けるはずがないとは信じていたけれど、何もできずに過ごした一日の不安を打ち消してくれた三葉の文字に感謝しつつ艦橋へあがった。

「ラインハルト様」

「その顔は知っているな。そうか、手紙か。フロイラインミツハめ、オレの楽しみを横取りしおって」

 そう言いながらも嬉しそうに艦隊戦の経緯をキルヒアイスに語って聞かせた。

「さすがは、ラインハルト様です」

「フ、だが、フロイラインミツハは、もっと嬉しそうな顔をしてくれたぞ、キルヒアイス」

「そう意地悪を言わないでください。私はラインハルト様の勝利に慣らされているのですから」

「そうだな、そうだった。これまでも勝ってきた。そして、これからも勝つ」

「はい、ラインハルト様」

「お前の方は、どうだった?」

「こちらも勝利です!」

「勝利? 何に?」

「選挙に勝ったのです! 三葉さんのお父様が! 再び町長に選出されました!」

「そうか、それはめでたいな。イゼルローンに帰ったら祝杯といこう」

 二人は喜びを分かち合いながら凱旋していった。

 

 

 

 四葉は階段を拭いた雑巾を洗い終わるとバケツとともに片付けて、自分も裸になると風呂に入った。先に入浴していた姉は湯船に目元まで浸かって零れる涙を誤魔化している。

「…………」

「そろそろキルヒアイスさんにトイレも行ってもらったら?」

「………おもらしじゃないもん……ヨガだもん…」

「うん……そうだね……。それはそれとして、キルヒアイスさんは誠実そうな人だし、きっと変なことしないよ? っていうか、変なことする人なら、とっくにしてるよ? おっぱい揉んだり、どこか舐めたり」

 四葉は二度目の入浴なので、そのまま湯船に入った。水位が上昇して三葉の目が洗われる。

 ぶくぶく…

 三葉が泡を噴き出して沈んでいる。

「はぁぁぁ…」

 四葉にタメ息をつかれると、三葉は、また悲しくなってきた。もう息が苦しいので上昇して顔を出す。

「ぐすっ……ごめん……片付け、ありがとう…」

「そろそろキルヒアイスさんを信頼してみたら?」

「…………」

 黙って三葉は湯船から出ると、洗い場でカミソリとソープを手に取った。

「四葉だって、もう10歳なんだから、裸を男の人に見られるのが、恥ずかしいとか、怖いって気持ちはある?」

「それはあるよ」

 三葉は鏡の前で両腕をあげて左右の腋をチェックして、右腋に3本の腋毛が伸びてきていたのでソープをつけるとカミソリで剃った。

「お姉ちゃん、いつも左は剃らないね」

「左は生えてこないの。右だけ3本、中学生の頃から生えるようになって、そろそろ半袖の時期だから気をつけないと。女の子って、いろいろ大変なんだよ」

 三葉はシャワーで腋を流して、完全に剃りきれたか鏡で再チェックしてから頭を洗う。

「女の子の身体から出るものでキレイなものなんて、せいぜい涙くらいだよ。唾液とかも見られるのイヤだし。おしっことかも恥ずかしいよ」

「でも…………、あのヨガは……どうなの? 続けるの?」

「…………。四葉がさ、もし、公園で遊んでるときに両手をケガして自分でパンツが脱げない状態なのに、ものすごく、おしっこしたくなったとして、近くにいた誠実そうな男の人に頼んでトイレでパンツ脱がしてもらうのと、漏らしちゃうかもしれないけど急いで家に帰って私やお婆ちゃんにパンツを脱がしてもらうの、どっちが安心する?」

「………う~ん………でも、目を閉じてくれるなら……」

「その男の人は目を閉じるって言ってくるかもしれないけど、トイレの中で四葉も目を閉じて耳も聞こえなくなって触られてもわからなくて記憶も残らない。もちろん、トイレの中で起こったことは、その男の人にしかわからない。それでも自分の身体を預けたい?」

「……お姉ちゃん……大変なんだね……」

 頭を洗い終わると、再び三葉が湯船に入り、二人で向かい合って浸かる。

「向こうは今日、どうだったの? また訓練?」

「ううん、戦争だった」

「とうとう……勝ったの?」

「うん! ラインハルトさん勝ったよ!」

 暗い顔をしていた三葉が明るくなったので四葉も安心する。

「どんな感じに勝ったの?」

「まずね。ラインハルトさんとミュッケンベルガー元帥さんの艦隊があってね」

 三葉は湯船に黄色いアヒルを浮かべてラインハルト艦隊とし、緑の亀も浮かべるとミュッケンベルガー艦隊とした。それから、ふと思い出して付け加えておく。

「これ、未来のことだから、ここだけの話ね」

「話しても、誰も信じないよ。もちろん言わないけど。で?」

「でね。同盟軍はホーランド艦隊と、ウランフ艦隊、ビュコック艦隊が来てたの。両軍ほぼ3万」

 ホーランド艦隊の代わりにブルーの小舟が浮かべられ、その後方にウランフ艦隊が赤い金魚、ビュコック艦隊が白い白鳥のオモチャで代替表示される。

「開戦するとホーランド艦隊が押してきたの。二倍あるミュッケンベルガー艦隊は苦戦して、だんだん崩れていく」

 ブルーの小舟が緑の亀をコツコツと打つ。

「私と参謀役のノルデン少将さんは、我々も前に出て攻撃に参加しようって言ったけど、ラインハルトさんは、まだだっ! まだ早い。相手がエネルギー切れになるチャンスを待つんだって少し後退するの」

 黄色いアヒルが少しさがる。

「そしたら、ホーランド艦隊が余計に強く攻めてきてミュッケンベルガー艦隊は、もうチリヂリに」

「二倍の差があるのに、ホーランドさん強かったの?」

「なんかね、すごい動きしてた。アメーバみたいな躍動的な」

 ブルーの小舟に緑の亀がひっくり返されて腹を見せている。

「でも、とうとうラインハルトさんが今だ! 撃て!って」

 黄色いアヒルが突撃してブルーの小舟がひっくり返る。

「相手のエネルギー切れを狙った、すごい一撃だったよ。でも、追撃はしないでいい。そんなのは他の提督の手柄にすればいいって。そしたら、ミュッケンベルガー艦隊の残りが仕返しに追っていくの。ところが、これを予想してたウランフ艦隊とビュコック艦隊が迎え撃って」

 ひっくり返った緑の亀が、ひっくり返ったブルーの小舟を追い、その行く先を塞ぐように左右から赤い金魚と白い白鳥が、つつきに来る。ひっくり返った緑の亀は後ろにさがった。

「そこで戦闘は終わり。ラインハルトさんの一人勝ち! ………ん? ん~……」

 そう言った三葉が5つのオモチャを見つめ、少し考える。

「ちょっと、この戦い、ひどくない? このウランフ艦隊とビュコック艦隊が、たとえば猛攻してるホーランド艦隊をフォローするように左右から前進していけば、片方はホーランド艦隊のフォローができて、もう片方はラインハルト艦隊への牽制になるでしょ」

 赤い金魚と白い白鳥がブルーの小舟の左右を固め、緑の亀をひっくり返すと、白い白鳥と黄色いアヒルが睨み合った。さらに赤い金魚が黄色いアヒルに向かってくる。

「こうなると、ラインハルトさん2対1で不利になるし……ビュコック艦隊が何度も後退命令をホーランド艦隊へ出してたのは傍受してたけど、イゼルローン回廊ほど狭い宙域でもないんだから見てないで助けてあげればよかったのに」

 再び三葉は5つのオモチャを初期位置に戻すと、また考える。

「ラインハルトさんも後退なんかしないで、こう左側を迂回するように進んでホーランド艦隊の側背を突けば、ミュッケンベルガー艦隊の被害も、もっと少なかったかもしれないし」

 緑の亀をひっくり返そうとするブルーの小舟へ、黄色いアヒルが突っ込む。

「いくら後方待機を命じられたからって、観戦しすぎじゃ……」

「これ、どっちもひどいね。なんで味方を助けようとしないの?」

「あ~……ラインハルトさんは、あんまり良く思われてなくて、孤立しやすいらしいよ。っていうか、帝国軍って、お互いに非協力的で要塞司令と駐留艦隊司令も仲悪いって。あと、このビュコックさん…」

 三葉は会戦中に見た敵将経歴を思い出す。

「士官学校出じゃないから、かなりの年齢で。なのに若いホーランドさんに階級が追いつかれて。だから、じゃないかな?」

「男社会のあるあるだね」

「せっかくホーランドさん、面白い動きして頑張ってたのに誰も協力しないから」

 三葉はブルーの小舟を撫でた。

「ホーランド艦隊に必要だったのは100回の後退命令より、一個の味方艦隊だったんじゃないかな」

 ウィレム・ホーランドは未来ではなく過去に知己を得たけれど、いずれにせよ本人の知るところではなかった。

「ラインハルトさんにしても、反応が遅すぎるのだ、あの金髪は! って、ミュッケンベルガー元帥さんに怒られて降格されてなきゃいいけど。追撃もしないとか、仕事しなさすぎじゃないかな」

 三葉は次に入れ替わったときが軍法会議だったらイヤだな、と思った。

「お姉ちゃん、そろそろ寝よ」

「そうだね」

 入浴を終え、三葉は眠る前にキルヒアイスが置いておいた手紙に気づいたけれど、眠いので後回しにして眠り、朝になって寝惚けたまま一階へおりた。

「お姉ちゃん、おはよう」

「おはよう、三葉。顔を洗いなさい」

「ん~……おはよー…」

 顔を洗って髪紐を結び、食卓につくと三人で朝食を摂る。テレビがニュースを流していた。

「昨日行われました糸守町の町長選挙が即日開票され、宮水俊樹さんが再選されました。事務所内の映像です。宮水先生、万歳! 糸守町、万歳! お父様、万歳! 民主主義、万歳! 共和制に栄光あれ! ……。万歳!! 万歳!!」

「「「ブッ!」」」

 三葉と四葉と一葉が味噌汁を噴いた。

「「「ゴホっ! ゴホっ!」」」

「お父様、ご当選、おめでとうございます。これまで以上のご健勝ご活躍を祈念いたしております。うむ……うっ、うむ! ぐすっ…これは目の玉が汗をかいておるのです」

「っ?! ちょっと! 何してくれちゃってるのよ?! 変なことしてるじゃない!」

「「………」」

 三葉がテレビにつかみかかったけれど、もう次のニュースになっている。三葉は新聞を乱暴に開いた。

「うわあぁぁぁ……載ってるよぉ……」

 地方欄には花束を俊樹へ贈呈している三葉の写真が載っていた。

「イヤだぁぁぁ……恥ずかしいぃぃ!」

 三葉が制服でゴロゴロと畳を転がって手足をバタバタさせているのでスカートの中身が見える。

「うう~………だいたい、このスマした顔は何よ?! いかにも町長のお嬢様でございますわ、みたいな、この顔! こんなの私じゃない!」

「「………」」

「ああもおお! あ、そうだ、手紙」

 三葉が立ち上がって階段を叫びながら駆け上がる。

「キルヒアイスぅぅ!!」

 部屋にキルヒアイスがいるわけでもないのに怒鳴り込むと、手紙を取り上げた。

 

 お父様のご当選、心よりお祝い申し上げます。

 

 それ以上は読む気がしない。

「うあああああ!! キルヒアイスぅぅぅ! アイスぅぅぅ! あいつぅぅぅぅ!」

 朝から大声をあげた三葉は学校に行きたくないと言ったけれど、一葉に説得されて登校する。その道すがら、当然のように会う町民の誰もが、お祝いを言ってくれるし、それに対して挨拶しないわけにもいかないので頭をさげて歩く。やっと学校についてもテレビと新聞の影響で話題の中心にされて放課後までに疲れ切った。

「私は平凡に生きたいのに……町長の娘とか……巫女とか……イヤなのに……まして、少佐とか、もっとイヤなのに……」

 フラフラと昇降口で靴を履き替えると、ラブレターが2通も入っていた。読む気がしないけれど無視はできないのでカバンに入れた。

「あいつに丁寧な断りの返事、書かせてやる」

 帰り道も町民たちから声をかけられて三葉はアイドル扱いされるけれど、それがイヤで仕方なかった。

 

 

 



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8話

 

 キルヒアイスは起き上がると、すぐに読めとばかりに枕元へ置いてあった手紙を開いた。

「……三葉さんを……怒らせて……」

 手紙は、かなり感情が滲む字で書いてあった。

 

 キルヒアイスへ

 あなたのしたことについて、私はとても怒っています。

 私たちと父の関係はとても複雑なんです。

 勝手なことをしないでください。

 学校でも家の周りでも、普通の高校生らしく過ごしてください。

 繰り返す!

 私はとても怒っている!

 以上!

 追伸、あなた宛にラブレターが来ています。私の生活を乱さないよう、丁寧な返事の手紙を書いて、断っておいてください。私は町のアイドルでも町長の娘でもなく、ごく庶民として生きたいんです! 目立つことは絶対にしないで! もちろん、身体にも触らないで! 以上!

 

 かなり感情的で追伸の方が長いくらいだった。

「………お父様とのご関係………」

 もう、この身体に入ったときは女性らしく振る舞うということが板に付いてきたので手紙を読み終わると、申し訳なくて祈るような形に手を組み、許しを請う。

「お許しください。三葉さん、私の配慮が足りませんでした」

 自分と父親の関係なら、何ら問題がないような行動でも、もしもラインハルトが誰かと入れ替わるようなことがあって、その誰かが父親と仲良くしていたりしたら、戻ったときラインハルトが、どれほど激怒するかは想像するのが怖いほどで、それぞれの家庭には家庭の事情があるのだと思い知り、三葉の怒気で乱れた字を見ると、日本式の土下座をしたいほどだった。

「………三葉さん、……本当に、ごめんなさい」

 起き上がって鏡を見ると三葉の顔に、バカ、圧政ボケ、と大きく油性ペンで書いてあった。

「…………ご自分の、お顔なのに……それほどにお怒りになって……」

 このまま登校すると、それはそれで三葉の名誉を損ねることになりそうなので急いで着替えて顔を洗う。油性ペンなので、なかなか落ちなかった。やっと、三葉の顔が元に戻った頃、四葉が起きてきた。

「おはよう、お兄さん。っていうか、もうお姉様の方がいいかな」

「おはようございます、四葉」

「顔、かなり赤いよ」

 擦ったので三葉の顔が赤くなっている。

「私は三葉さんを、とても怒らせてしまったようです。どのようなご様子でしたか?」

「激ギレで喚いてたよ。ギャーギャー! って」

「………どうすれば、良いでしょう? 少しでも、お怒りのとける行動を心がけたいのですが、まったく、わからないのです」

「う~ん……とりあえず、お父さんには、あんまり関わらない方がいいよ。あとは普通に授業を受けて普通に帰ってくればいいんじゃないかな」

「そうですか……そのように心がけます」

 申し訳なくて涙を滲ませながら、登校する。早耶香と克彦が声をかけてきた。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉。どうした? 泣きそうな顔して?」

「いえ、何でもありません。ご心配、ありがとう、テッシー」

 ハンカチで楚々たる仕草で三葉の目元を拭く。

「つらいことが、あるんやったら、相談してくれや」

「どうか、ご心配なく。お気持ちだけで私は十分に嬉しいです」

 湿った瞳で三葉の顔が微笑みをつくると、ぞくっとするほどの魅力があった。

「……選挙、終わったのに、そのモード出るんやな。まあ、可愛いけど」

「私も真似してみよっかな」

「サヤチンには似合わんて」

「なんでよ?!」

「ほな、やってみい」

「………おほほほほ! おはようございます、テッシー。ごきげんいかがかしら」

 やってから、早耶香は猛烈に恥ずかしくなった。

「う~……もういい、やめる」

「ほらな、照れがあるやん。三葉、ぜんぜん照れがないからな、すごいよな」

 三人で登校して、三葉の身体は静かに深窓の令嬢のように授業を受け、そして帰宅してからは一葉を手伝い、ラブレターに丁寧な断りの返事を書き、そして思い悩みながら、三葉へ謝罪の手紙を書く。

 

 宮水三葉様へ

 前略

 私の軽率な行動が、あなた様の逆鱗に触れたこと、深くお詫び申し上げます。

 ご家庭の事情を考えもせず、軽々にお父様と交わりましたこと、本当に申し訳なく思っております。

 この上は、いかなる罰でもお受けいたします。

 そして、私の行動に至らぬ点があれば、どうかご教授ください。

 ご意向にそえるよう全力で努力いたします。

 申し訳ありませんでした。

 どうか、お怒りが少しでもとけますよう、心よりお詫び申し上げます。 草々

 

 書き終わると丁寧に机の上へ置き、ラブレターへの返事もそれとわかるように置くと、12時前だったので布団に寝た。廊下からバケツを床に置く音がして四葉が入ってきた。

「お姉様に訊きたいんだけど、いい?」

「はい、なんなりと」

「いつも入れ替わるとき、布団に寝るのは、どうして?」

「それは、ほんの一瞬くらいですが力が抜けて、立ちくらみのような感覚があり、立っていると危ないかと思いまして、こうしております」

「あ~……なるほど……力が抜けるんだ」

「はい」

「そっか……なら、仕方ないね……。どうぞ、横になって」

 四葉が見守る中、三葉の瞼は美しく閉じられた。

「………」

「………」

 このキレイなお姉様が、すぐにビービー泣くお姉ちゃんになるのか、と思いながら四葉はアクビを噛み殺した。

 

 

 

 三葉はリンベルクシュトラーゼの下宿にあるキルヒアイスの部屋で起き上がると、ドキリと緊張した。

「……ここ……どこ? ……艦内じゃない……」

 明らかに戦艦の中ではない。

「……地球……」

 窓を見ると、日が昇っている。

「…………いったい、どうなってるの? ……また、時代が…」

 窓から見える光景は中世ヨーロッパの街並みで石畳が続き、そして行き交う人々の服装も中世を感じさせる。

「……ハァ……ハァ……」

 心臓がドキドキと高鳴ってくる。いったい、どこの時代にタイムワープしたのか、恐ろしくて仕方ない。窓ガラスに映る顔を見た。

「キルヒアイスそっくり……ジークフリード一世とか、そういうつながり?」

 顔には見覚えがあった。背後のドアが開いてラインハルトが入ってくる。

「遅いじゃないか、キルヒアイス」

「あ……ラインハルトさん?」

「その呼び方は、フロイラインミツハか。お久しぶり」

「っ! 今は何年ですか?!」

「ん? 486年だが」

「……それは帝国暦で?」

「もちろん」

「…………えっと、第三次ティアマト会戦の後ですか?」

「そうだよ」

「じゃあ……時代は変わってない。よかったァ」

 へなへなとキルヒアイスの腰が座り込むと、ラインハルトは情けなくなった。

「まあ、立って。イスに座って」

「はい、ありがとうございます。それ、私服ですか?」

 ラインハルトは軍服を着ておらず平服だった。そのせいか、口調も少し優しい。軍人という雰囲気が薄れている。

「ああ、私服だよ」

「……もしかして、軍をクビになったの?」

「アハハハハハ! あいかわらずフロイラインミツハは面白いな。ただの休暇中だよ」

「休暇、それで……もしかして、ここはテーマパークか何かですか?」

「いや、ボクらの下宿さ」

「下宿……」

「まあ、それはいいから、そろそろ朝食を食べよう。ああ、そうだ。フーバー夫人と、クーリヒ夫人の前ではキルヒアイスらしくしてくれよ」

「は……はい……じゃあ、私が変なことを言ったら寝惚けているってフォローでお願いします」

 もう他人になりすますことに慣れてきた面もあるので外したときは寝惚けているで誤魔化すことにして朝食を食べて街に出た。

「あの、どうして、こんなに古いんですか?」

「古いって何が?」

「ここ地球じゃなくて首都オーディンですよね」

「そうだよ」

「街並みが古いのは、そういう地区だからですか?」

「う~ん……フロイラインミツハの言うことは、よくわからないな。別に、これが普通だけど?」

「じゃあ、帝国中が、こういう街並みなんですか?」

「いいや、もっと田舎に行けば農園もあるし別荘地だってあるよ」

「…………文化なのかなぁ……一周まわってこうなったのかな、千年は経ってるのに、この街並み……服装も、みんな……」

 行き交う人々の服装が、とにかく古かった。

「まあ、いいかな。これは、これで」

「お昼からは予定があるんだけど、それまでは、どうする?」

「また白兵戦とか言わないでくださいよ」

「しごいて悪かった」

 二人とも平服なので誰も敬礼してこないし、とても気楽に過ごせている。

「ああ、そうだ。これ、フロイラインミツハに」

 ラインハルトが5万2000帝国マルクを渡そうとしてくる。

「え…いえ、こんなのもらうわけには…」

「忘れたのかい? 報奨金だよ。防御側の勝利だったじゃないか」

「あ、ああ、あの」

 それなら、と受け取ってポケットに入れた。お金があるおかげで買い食いもできる。屋台で売られていたクレープを買うと、ラインハルトに笑われた。

「似合わないな。キルヒアイスには」

「うう……この身体にいると、たしかに味覚も男の人っぽくなるけど、やっぱり見ると食べてみたいと思うんです。あと、私の三倍は食べられるし」

 道を歩いていると、ドレスを売っている店もあった。

「うわぁぁ……古いけど、いつか、こういうのも着てみたいな」

 赤いドレスを見つめていると、ラインハルトが、また笑う。

「その身体で着るのはやめてくれよ。どういう罰ゲームかと思うから」

「むっ……着てやろうかな。キルヒアイスへの復讐に!」

「復讐? キルヒアイスが何かしたのか?」

「聞いてくださいよ。ひどいんですよ」

 キルヒアイスの頬を膨らませて、三葉が語る。

「私の家、お母さんが早くに亡くなったんですよ。なのに、お父さんが、ちょっと勝手で私たち二人の姉妹のことより仕事のこと優先で家を出て行って。お婆ちゃんに育ててもらってるの」

「それは……気の毒に…」

 笑っていたラインハルトが神妙な顔になる。

「それで?」

「それで、お父さんとの仲は、微妙なんです。大嫌いってわけじゃないけど、素直に仲良くしようとは思えないでしょ?」

「それは当然だろう」

「なのに、キルヒアイスってば、お父さんのところに行って仲良く写真にまで写ったりして。お父さん、町長だから世間から注目されてイヤなんですよ。私は平凡な庶民でありたいのに」

「……そうか……すまない。明日、キルヒアイスには必ず言っておく」

「お願いしますね。私の家族関係を変に動かさないでください」

「ああ、悪かった。オレからも謝らせてくれ」

「ラインハルトさんが悪いわけじゃないから、いいですよ」

「…………。オレも父親が嫌いだ」

「そうなんですか?」

「ああ、フロイラインミツハと似たようなものだ。早くに母を亡くして、父は酒に溺れ、オレと姉さんを顧みなかった。それどころか、あいつは……」

 そこまで言ってラインハルトは迷い、やはり言うことにする。

「昼から会う姉のことなんだが…」

 ラインハルトは周囲に人がいないか、監視システムと連動したルドルフ像が無いかを確認してからキルヒアイスの耳元へ語る。

「オレの姉は後宮に捕らわれている。父に売られて」

「っ……」

「オレとキルヒアイスが力を欲しているのは、姉を救い出すためだ」

「………それって……皇帝に逆らうってこと…?」

「…………」

 ラインハルトは沈黙で肯定した。

「絶対に口外しないでくれ」

「わかりました」

「……意外に、オレとフロイラインミツハは共通点があるものだな」

「そうですね。千年経っても人は変わらないのかも」

 あれほど訓練させられた理由が少しわかって三葉はラインハルトに抱いていた反感が消え、再び好感をもち、そして迷惑をかけないよう訓練は頑張ろうと思った。そしてラインハルトは何かを思い悩み始めた。彼らしくなく決断に逡巡している。

「どうかしたんですか?」

「昼から姉に会うのだが、キルヒアイスもいっしょにという形で後宮へ申請してある」

「……私も…」

「迷うのは、連れて行くか、行かないか、そして連れて行った場合、フロイラインミツハのことを話すべきか、話さざるべきか、だ」

「お姉さんにウソをつきたくないんですね」

「……それもあるし……とはいえ、……連れて行かなければ心配をかけるし……」

 ラインハルトが爪を噛む。

「………どうすればいいか……」

「お姉さんに会える機会って少ないんですか?」

「ああ、めったにないことだ。実の姉なのに」

「…………。それなら、やっぱり言わない方がいいと思います」

「だが、フーバー夫人たちとは違うぞ」

「………何時間くらいですか」

「昼からといっても、皇帝への謁見があって、その後だから4時間もない」

「なら、少し心配をかけますが、戦闘中に頭を打ったことにして、頭痛薬を飲んで、ぼんやりしているとでも言えば。乗り切れると思います。その方が心配をかけないと思いますよ。入れ替わりなんて、普通、信じないですし、信じたら信じたで、めったに会えない分、とても心配すると思います」

「……そうだな。そうしよう」

 二人は決断すると、下宿に戻り軍服に着替えた。二人とも階級章が新しくなっている。大将と中佐だった。

「出世したんだ」

「ああ、いよいよ大将だ」

 やはり軍服を着るとラインハルトの雰囲気も少し堅くなる。

「行こうか」

「……皇帝か……怖い感じの人ですか?」

「いや、ただの年寄りだ。それに会うのはオレだけでフロイラインミツハは控えの間で待っているだけだから安心して」

「よかった」

 三葉は新無憂宮へラインハルトと出向き、控えの間で退屈な時間を直立不動で過ごしてからアンネローゼに出会った。

「姉さん、久しぶり」

「アンネローゼ様、お久しぶりです」

「いらっしゃい。ラインハルト、ジーク」

 基本的な会話は事前に打ち合わせているので自然にできた。

「………」

 なんてキレイな人なんだろう、と三葉が見惚れている。見ていると胸が熱くなって、抱きしめたくなる衝動が湧いた。抱きしめてキスをしたい、そしてまた抱きしめたいと、胸が熱くなってくる。

「ジーク、どうかしたの?」

「いえ…」

「こいつ、戦闘中に頭を打って、ぼんやりしているんですよ」

「それは大変、具合はどうなの? ジーク」

「たいしたことはありません。医者も異常はなく、頭痛薬で治るとのことですから」

「そう、それなら良かったわ。でも、気をつけて。ラインハルトのために無理はしないでくださいね、ジーク」

 あ、この人、キルヒアイスのこと好きなんだ、と三葉は呼びかけ方で感じた。とても感情を抑えて押し隠してはいるけれど、ジークと呼びかける声色で、もともとは同じ女性である三葉にはわかった。穏やかに談笑しつつ三人で夕食をともにして、アンネローゼは地下のワイン庫から銘柄を指定したワインを取ってくるようにラインハルトへ頼み、二人きりになった。

「ジーク、ラインハルトをお願いしますね」

「はい、アンネローゼ様。……」

 こんなにキレイな人が、この世に存在するんだ、高嶺の花っていうか、後宮にご指名で召されるくらいだから、帝国臣民の中でも選りすぐりの美人、やっぱり田舎の町娘とは違うなぁ、気品というか、オーラから違うし、三葉が見つめていると、アンネローゼは少し赤面して顔をそらした。

「そんな風に見つめないでください。ジーク」

「し…失礼しました」

 一礼して、少しさがる。近づいてしまうと衝動的に抱きしめそうだった。ラインハルトは本来のキルヒアイスがアンネローゼと二人でいるのなら気を利かせて、ゆっくりとワインを探したのだけれど、今は中身が三葉なので、かなり急いで戻ってきた。

「ハァ…見つけて来ましたよ、姉上」

「大将閣下ともあろうお方が、そんなに息を切らして」

 二人きりの時間が終わり、あとはラインハルトからのフォローもあって三葉は面会を乗り切った。ラインハルトと地上車で下宿先へ戻る道すがら言われる。

「よく姉上に気づかれなかったな。親しい仲は難しいだろうと思ったが」

「………親しくても、めったに会わない関係だと気づかないものですよ。私のお父さんだって、気づかないで万歳してましたから」

「そうか……そうだな。すまない」

「だから、ラインハルトさんが謝らなくていいですよ」

 地上車が下宿に到着すると、午後8時だったので三葉は提案する。

「あと4時間ありますし、白兵戦やりませんか」

「ここでか?」

「組み手くらい庭でもできますよね」

「そうだな、やってみるか」

 二人とも軍服から動きやすい服装に着替えると、庭で向かい合い、組み手争いをしたり、ナイフを持った相手と戦う演習をしたりする。前回のイヤイヤ訓練していたときと違い、三葉にやる気があるので習得が早い。

「金髪さんも、赤毛さんも、ご精が出ますわね」

「ホントお若いって羨ましいことです」

 二人の夫人が窓から声をかけてくる、すでに10時を過ぎていて、かなり非常識な行動になっていた。

「騒がしくして、すみません。どうしても今日、やっておきたくて」

「あらあら、では私たちは休ませてもらいますね」

 ご夫人方に頭をさげて、さらに白兵戦の練習をしていると、だんだん三葉はラインハルトの動きが読めるようになってきた。

「えいっ」

「おっ?」

 ラインハルトが投げられて驚いている。

「今の動きは、いいな。キルヒアイスらしい技のキレがある」

「もう一回、お願いします」

「ああ」

 さらに続けると、ラインハルトがだんだん本気になってきた。

「よーし、一度、本気でやってみるか」

「はい」

 本気で戦うと、むしろキルヒアイスの方が体格がいいので三葉が勝ってしまった。

「……フ、フフ。油断してしまったようだ。もう一度やろう」

「はい」

 再び二人が対峙する。今度こそと、本気の本気で構えるラインハルトと、やはり本気で構える三葉が夜中の庭にいると、練習ではなく酔ってケンカでもしているように見えたので訪ねてきたオスカー・フォン・ロイエンタールは声をかけるのを躊躇った。

「……。コホン」

 それでも火急の用件があるので咳払いして二人へ声をかける。

「ご決闘の邪魔をして申し訳ないが、ラインハルト・フォン・ミューゼル大将閣下とお見受けいたします」

「これは決闘ではない。ただの演習だ。卿は?」

「オスカー・フォン・ロイエンタールと申します」

「おお、卿が、あのロイエンタールか。武名は聞いたことがある」

「それはお耳汚しでした。私などより大将閣下の武名こそ轟いておりますれば、一つお願いいたしたいことがございます」

 いい声をした人だなァ、と三葉は思ったけれど、夜中の訪問なので油断せず相手が武器を持っていないか観察する。すでに宮廷内に敵が多いことは聞いているのでブラスターを部屋に置いてきたことを少し後悔する。そんな表情をロイエンタールは見抜いたようで頭をさげた。

「閣下は、よい部下をお持ちのようですな」

「卿の用件は?」

 すでに午後11時30分を過ぎている。演習も非常識だったけれど、訪問も非常識な時間だった。

「立ち話では、差し障りがございます」

「……。よかろう。入れ」

 ロイエンタールから並々ならぬ気配を感じてラインハルトは居室内に招き入れた。三人でテーブルを囲み、密談が始まると、三葉は日本語でメモを取る。もうキルヒアイスと入れ替わる時間が迫っているので大切な話なら、手紙にする時間もないので書いていたのだけれど、ロイエンタールの瞳が、やめてほしそうにしたので手を止めた。

「すると、卿の友人を助けるため、私に助力を請いたい、というのだな?」

「そうです」

「そのために帝国最大の門閥貴族と対立しろと」

 二人の話を記憶に残そうとするけれど、けっこう複雑な話だった。すでに12時近くて眠くなってくるし、一日の最後に白兵戦をしたので身体も疲れてきている。ついつい話が頭に入らず、ロイエンタールの瞳をぼんやりと見る。

「………」

 あ、左右で色が違う、視力も違ったりするのかな、なかなかハンサム、けど、この身体にいるときって男の人にときめかなくなってきたかも、どっちかというと女の子が可愛く見えて抱きしめたくなるし、食欲があるんだから性欲も、この身体からくるのかな、朝起きたときとかすごいことなってるし、と三葉が無関係なことを考えていると、ロイエンタールが聴いているのか、という目で見てきた。聴いてますよ、という顔を作って背筋を伸ばした。

「卿は現在の銀河帝国ゴールデンバウム朝について、どう思う?」

「五百年になんなんとする巨体には、様々な膿が溜まっております。大規模な外科手術が必要でしょうな」

「あ…」

 今の不敬罪っぽい、と三葉は声をあげてしまった。

「「「……………」」」

 微妙な間があり、三葉は空気が読めていないことに気づいて、視線をそらせ、そして時計を見ると、もう5分前だった。

「す、すみません。ちょっと休憩を10分ほど…」

「………」

 このタイミングでか、というロイエンタールの視線が痛いけれど、ラインハルトがフォローしてくれる。

「キルヒアイスは前回の戦闘で頭を打ってな。ときおり強い頭痛に襲われるのだ。だが、少し休んで薬を飲めば問題ない。悪いが、待ってやってくれ」

「それは、お大事に」

「失礼します」

 三葉はキルヒアイスの部屋に戻ると、紙に走り書きを残す。

 

 アンネローゼさんに会い、気づかれず、無事終了。

 夜中に訪問客あり、今もラインハルトさんの部屋で話し中。5分で戻った方がいい。

 話題は派閥抗争

 貴族の揉め事で友達を助けてほしい、みたいな。

 信用できそうな雰囲気もあるけど、不敬罪っぽいこと言ってた。

 名前はオスカー・フォン・ロイエンロールさん。

 捕まってるのはミッター・マヤさん。

 

 時間が迫ってくる。少しできるようになったドイツ語も混ぜて書いたけれど、スペルなどをチェックしている時間は無さそうだった。

「…ん~……こんなもんかなぁ……忙しい一日だった……午前中は、のんびりでよかったけど…」

 他に書くべきことを考えているうちに12時になった。

 

 

 

 キルヒアイスは目前にあった紙を読むと、すぐにラインハルトの部屋へ入った。

「お待たせいたしました」

「よく戻ってきた。座れ」

「はい」

「……」

 ロイエンタールは6分で戻ってきてくれたことはありがたかったけれど、内心では刻一刻を争っている。頼み事なので失礼の無いよう落ち着いているけれど、今すぐにでも駆けつけたい気持ちを押さえて話を続ける。

「大将閣下のお力添えをいただきたくお願い申し上げに参った次第です」

「うむ。……。キルヒアイス、話は覚えているか?」

「はい、こちらのロイエンロールさんからのご依頼でミッター・マヤさんを助けるという話でした」

「ロイエンタールだッ!」

 つい大きな声を出してしまい、ロイエンタールは詫びる。

「失礼、ロイエンロールではなくロイエンタールだ。できれば間違わないでいただきたい」

「これは失礼いたしました。ロイエンタール少将」

 キルヒアイスは立ち上がって敬礼した。

「あと、ミッターマイヤー少将の救出をお願いしている。こちらも間違わないでいただきたい。キルヒアイス中佐におかれては、よほど頭痛に苦しんでおられたとお見受けする。夜分の訪問、まことに申し訳ない」

「いえ、こちらこそ、失礼いたしました」

「うむ、キルヒアイスには私から話そう」

 そう言ってラインハルトは今までの話を、ほぼ丸ごと繰り返した。ロイエンタールの話が、本当のことなのか、それとも罠なのか、キルヒアイスの判断もほしいので繰り返しているけれど、ロイエンタールにとっては時間の空費に感じられる。

「どう思う? キルヒアイス」

「はい。では、ロイエンタール少将におかれては現在の銀河帝国ゴールデンバウム朝について、いかがお考えでしょうか?」

「……」

「キルヒアイス、それも訊いた。我々の考えと一致している」

 ラインハルトとキルヒアイスが目で会話する。そして頷き合った。

「キルヒアイス! ミッターマイヤー少将が、どこに捕らわれているか、すぐに調べてくれ」

「はい、おそらくブラウンシュヴァイク公の息のかかった軍刑務所でしょう。すぐに!」

 そう言ってからのキルヒアイスは迅速な事務能力を発揮してミッターマイヤーの居場所を突き止め、すぐに三人で駆けつけた。

「くくくっ…ここまで痛めつければ、もう後悔しただろう。死ぬがいい」

 駆けつけた刑務所の奥からフレーゲル男爵の声が響いてくる。

「悲鳴をあげなかったのは、たいしたものだが、もう私は眠い。貴族は健康管理も気をつけるのだ。もはや飽きた。殺せ」

 自分の手を汚さずに手下へ命じているところへ、ラインハルトたちが間に合った。

 バシュゥン!

 手下がミッターマイヤーを射殺しようとしていたブラスターを撃ち落とした。

「ミューゼルっ?! 貴様!」

「フっ」

 ラインハルトとフレーゲルが睨み合い、少し遅れてキルヒアイスが調査したことを知ったアンスバッハが現れ、両者を仲裁する。ロイエンタールは倒れている親友を抱き起こした。

「ミッターマイヤー! 傷は?!」

「ぐぅ……見ての通りさ」

 ミッターマイヤーは20分ほど前に胸部を狙ってきたブラスターの射線を見切って、致命傷をさけるため手のひらから肘までを射線に重ねて受け止めていた。二度の射撃を受けて両手が、まったく動かなくなったものの致命傷は受けていない。そこを電撃も付帯する鞭によって何十回も打たれたために、朦朧としていたけれど、ロイエンタールの顔を見ると、笑顔をつくってみせた。

「なんとか生きているさ。両腕も義手にすれば、なんということはない」

「……。そうだな。だが、ミッターマイヤー夫人には悪いことをした。抱きしめる両手が義手では、いささか、ものさみしいだろう」

 一人の漁色家として冗談を言って励ましたものの、あと10分、いや20分、早く到着していれば、ここまで酷い傷を負わせずに済んだかもしれないと思うと、睨むつもりはなかったのにキルヒアイスを見てしまった。

「……」

「……」

 これは、わだかまりが残るかもしれない、とキルヒアイスは思った。そして、ロイエンタールがブラスターを抜き、誰も止める間もなく撃った。

 バシュゥン!

「ヒギィイアアア!」

 牢内にいた拷問係が悲鳴をあげている。この拷問係というのが、黒の編み上げブーツに、網タイツをはいて、黒皮のパンツをはいた大男でオフレッサー並みの体格をしていたけれど、自身の痛覚には弱いようで、ロイエンタールが一人の漁色家として急所を撃ったために、喘ぎ苦しんでいる。アンスバッハが眉をひそめて言う。

「私は自重を願ったはずですが、ロイエンタール少将」

「ああ、人として自重はするさ」

 ロイエンタールが平然と応答する。

「ただ、軍刑務所内にいるはずのない害虫がいたので殺虫剤をかけたまでのこと。フレーゲル男爵におかれては、身に覚えのない害虫であれば、実に申し訳ないが、今暫くお待ちいただければ、殺虫剤が効いて駆除できましょう。その上は死骸を捨てておいてもらいたい」

「……ちっ…」

 フレーゲルは舌打ちして手下に片付けておくよう命じると立ち去った。もともと、この拷問係を呼んだのも彼であったけれど、あまり気に入っていない依頼先で単に料金が安いということで使っていた。というのも、この拷問係の本業はマッスルジムの人気トレーナーで拷問係は趣味ということが大きかったけれど、趣味が災いして、ジムの生徒たちは愛好する講師を喪うことになった。

 

 

 

 三葉は自分の身体に戻った瞬間、妹が優しく抱き起こしてくれたので、なんとか立ち上がった。

「ほら、肩に手をのせて」

「ありがとう……ぅぅ…」

 妹を杖代わりに廊下まで出たけれど、そこで限界が来た。

「……ぅ~………」

「………」

「……ぁぁ………」

 大きな声を出さなかった三葉は静かに妹に頼む。

「……ごめん、ヨガしちゃった。タオルある?」

「はい」

 バケツと雑巾とタオルは廊下に用意されていた。

「…ありがとう……自分で片付けるから、もう四葉は寝て」

「手伝うよ」

 さすがに4回目になると泣かないんだ、と四葉は姉の成長を感じたけれど、泣きそうな顔はしている。落ち着かせて二人で入浴し、首都オーディンでの出来事を聞いた後、傷つけないように訊いてみる。

「お姉様は12時まで我慢してても、つらそうな顔は一回もしないけど、お姉ちゃんになると、いきなり限界になってるのは、どうしてか、わかる?」

 単に精神力の違いじゃないか、と言ってしまうと傷つくかもしれないので遠回しに訊いていた。

「それは……入れ替わった瞬間、ちょっと力が抜ける感じがあるから。立ちくらみみたいな」

「あ~……それはお姉様も言ってた。だから、なるべく布団に寝るって。でも、もう少しお姉ちゃんも我慢できない?」

「……。限界ギリギリまで我慢してる状態で一回、力を抜いた後に立て直すのって、すごい難しいよ。それにさ、朝からジワジワ我慢してたら慣れるかもしれないけど、いきなり猛烈に襲ってこられると、そんなすぐに対応できないし。遭遇戦みたいな感じだよ」

「じゃあ、お姉様にトイレの前か、トイレの中で12時を迎えてもらう?」

「それなら………イヤ。それもイヤ」

「なんで?」

「だって、それだと、私がヨガしたから、そうなったんだって、向こうも気づくもん」

「………まあ、気づくね。間に合わないことがあるんだって」

「それにトイレの中って密室だから、一人にはしないで」

「…………信用してないんだ?」

「男の人の欲望って、すごいんだよ。誠実とか、そういうのはあるかもしれないけど、健康な男の人だと、女の子を見ると、すごい抱きしめたくなるの。気を抜くと、抱いちゃいそうなくらい」

「………」

「朝も、すごい元気だし」

「…………お姉ちゃん、向こうで変なことしてないよね?」

「完璧に過ごしてるよ。白兵戦でもラインハルトさんと互角に戦えるようになったもん」

「へぇぇ……その分、男っぽさを感じるかも。逆にお姉様、しっかり女性っぽいし」

 午前1時まで話し込んでしまい、起床後バタバタと寝癖も直さないまま三葉は通学路を走った。少し走って、早耶香と克彦に追いついた。

「ハァ…ハァ…おはよう、サヤチン、テッシー」

「おはよう、三葉ちゃん」

「おう、おはよう。三葉」

 三人で歩いていくと、不意に三葉は早耶香の胸に触った。

「おお、いい感触だ」

「っ?! いきなり何するんよ?!」

「ちょっと触ってみたくて。友達だし、いいじゃん」

「………。今の触り方、友達って感じじゃなかった」

 早耶香が恥ずかしさと怒りで顔を赤くしている。三葉は次に克彦を見て訊く。

「テッシーってさ、私やサヤチンのこと見ていて抱きたいって思ったことある?」

「なっ………」

 克彦の顔が赤くなるので、悟った。

「あるんだ」

「「……………」」

「………。あれ、私、今、かなり変なこと訊いた?」

「「………」」

 二人が無言で頷くので、三葉も自分が女子であるということを意識し直してみて会話を振り返ると猛烈に恥ずかしくなってきた。

「ごめん! なし! さっきの無しで! お願いします!」

「ったく、お嬢様だったり変なこと言い出したり、三葉、大丈夫か?」

「えへへへ…、女心と秋の空、みたいな」

「はぁぁぁ……そろそろ夏だな」

 あきれられながら登校してラブレターをくれた相手の下足箱に返事を入れておき、昼休みになると、三葉は自分が女子であるということを、より強く意識させられながら女子トイレに入って確認すると、絶望的な気持ちになった。

「う~……来ちゃったよ……」

 いつも通りに対応してから、洗面台で手を洗い、やはり絶望的な気持ちで愛用のポーチを握って鏡を見る。

「うう~……鏡よ、鏡、私を私でいさせてください」

「三葉ちゃん、なに言うてんの?」

 早耶香も女子トイレに入ってきた。

「う~……来ちゃったの」

「あれが?」

 長い付き合いなので愛用のポーチに何が入っているか知っているし、身体の匂いも変化するので、早耶香は、すぐにわかった。ただ、ごく当たり前のことなのに三葉は激しく動揺している。

「うん、あれが来ちゃった。どうしよう?」

「………いやいや、来ない方がヤバイでしょ」

「それは、もっとヤバイけど、そんなことはしてないもん」

「だったら、当たり前に来るよ、そりゃ。温泉旅行でも行く予定だった?」

「う~………そんな感じ……」

「そっか、気の毒にね」

「ああ~……」

 絶望的な気持ちで帰宅して、四葉に相談する。

「来てしまいました。あれが」

「そっか。まあ、そろそろだとは思ったけど」

「どうしよう?」

「前に考えておいた通りにするしかないんじゃない?」

「ぐすっ……それしか、ない……かな…」

「他に手段がある?」

「………ない」

「じゃあ、一回は私も予行演習しないと、いきなりお姉様のときで失敗したら困るから、やっておくよ」

「うん………ごめんね、四葉……こんなことさせて……」

「別にいいよ。10年前にはオムツ替えてもらったお姉ちゃんだし」

「…………」

 三葉は申し訳なさそうな顔で自室の布団に寝転がった。そして、愛用のポーチを妹に渡す。

「………」

「お姉様のときは目隠しとイヤホンもしてもらう?」

「うん、そうして」

「音楽とか大きめの音でかければいいよね」

「うん。…………」

「じゃ、ちょっと腰あげて」

「…………。息も止めてもらって。今も四葉も」

「私、息止めは40秒が限界だよ」

「それでいいから」

「わかった」

「それ、すぐ丸めて捨てて。手を汚さないように」

「こう?」

「そう」

「で、新しいのを貼る、と。これを、こうして……こう?」

「うん、そう。それを表側に回して貼って」

「これでOK?」

「うん」

「じゃあ、もう一回、腰あげて」

「はい。…………」

「これで完了?」

「うん………ありがとう……ごめん…ごめんね、ごめん、四葉…っ…ひっく…ぅう…」

 起き上がった三葉が啜り泣き始めたので四葉は首を傾げる。

「ここって泣くところ? 問題なく交換できたと思うけど……」

「まだ来てない四葉にはわからないよ、この情けなさは……妹に替えてもらうことが……あるなんて……ううっ……ごめん、ごめん……」

「謝らなくていいよ。ほら、泣かないでお姉ちゃん」

「ぐすっ…ぐすっ…」

 そう言われても三葉は、しばらく泣いていた。



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9話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で起き上がろうとして、経験したことのない体調不良でよろめいて手をついた。

「うぅ……」

 下腹部が痛いし、頭痛もあって頭に重さを感じる。めまいもするし軽い吐き気もあった。

「風邪……それとも下痢……」

 そして気持ちが憂鬱で、何もしたくないくらい身体がダルい、このまま起きないで寝ていたいという強烈な誘惑もある。それでも風邪のような高熱がでているわけではなく、行こうと思えば学校に行けそうなほどの体調の悪さで、判断に迷う。

「…………」

 なんとか立ち上がると、よりいっそう身体が重い。

「……これは…いったい……」

 鏡を見ると、それほど顔色が悪いわけでもないけれど、明らかに、いつもの三葉の身体ではなかった。手紙が置いてある。

 

 四葉の言うとおりにして過ごして。

 

 それだけが書いてある。まるで三葉も思考力がないような様子で妹に丸投げされていた。

「……とにかく……着替えを…」

 よろよろと着替える。目を閉じるとバランスを崩してしまいそうなのでイスに座ってから着替えようとして三葉のお尻がイスに接すると、言いようのない気持ち悪さが股間にあった。

「っ………」

「お姉様、起きてる?」

 四葉が入ってきた。

「あ、イスに座っちゃダメだよ。こっちに寝て」

「は…はい…」

 言われるとおり、再び布団に寝た。

「つらいよね。お姉ちゃんは重い方らしいから、毎月、大変そうだから、たぶん同じだと思うよ」

「この体調の悪さは………何かの持病なのですか?」

「ううん、健康な証拠だよ」

「では、なぜ、これほどに身体が……」

「月経だよ。知らない?」

「……月経……」

 言われて、ようやく三葉の身体に何が起こっているのか、理解した。軍事教育がメインの幼年学校では、あまり習わない知識で姉妹もいないし、ほんのわずかに一般教養の授業で習った気がする程度で、ラインハルトとも、そういったことは話題にしなかった。むしろ、10歳の頃にアンネローゼを後宮に奪われてから、そういった方面の話は二人とも無意識的にさけ、拒絶してさえいた。

「これから必要な物を交換するから、私の言うとおりにして」

「……は……はい…」

「足を肩幅に開いて、膝を立てて」

「…はい…」

「じゃあ、この後は目隠ししてイヤホンで音楽もかけてから作業するから、自分の下半身に起こってることは意識しないようにしてあげて。でも、私が膝を軽く叩いたら、腰を5センチくらい持ち上げて。それ以外は終了するまで何もしないようにしていて」

「………わかりました。お手数をおかけするようで、すみません」

 三葉の両膝が恐る恐る立てられ、少しだけ脚を開いた。

「もう少し、脚を開いておいて」

「…はい…」

「うん。じゃあ、まず目隠しをするね。目を開けないとは思うけど、お姉ちゃんを安心させるためだから、わかってあげて」

「…はい、お願いいたします…」

 三葉の瞳が閉じられると、四葉はハンカチを細長く折ったものを目の上に置いて、さらに三葉の髪紐を後頭部へ回してから縛った。

「じゃあ、次にイヤホンで音楽をかけるけど、何か好きな曲とかありますか? できれば2013年以前に存在している曲で」

「……はい……では…ワーグナーをお願いします…」

「うん、じゃあ」

 四葉は三葉のスマフォを操作してユーチューブでワーグナー名曲選を見つけ、イヤホンジャックをさした。

「あとね、作業中、可能なら息を止めていてほしいらしいよ。でも、苦しいと思うから、無理はしないで」

「…はい…」

「じゃ、イヤホンするね。音も大きめだけど我慢して」

 四葉は自分の耳にさしてみて音量を確認してから三葉の耳へイヤホンを挿入する。大音量でワーグナーがかけられ、聴覚と視覚は完全に無くなった。四葉が作業を始める。

「まずは。これでよし。ちょっと腰をあげてもらって」

 四葉が三葉の膝を軽く叩いた。

「うん、そんな感じ。って、聞こえてないか」

「…………」

「これを剥がして、すぐにビニール袋へ。で、新しいのを」

「…………」

「これでよかったはず」

 テキパキと作業して、また三葉の膝を軽く叩いた。

「はい、終了」

「…………」

「もう、いいですよ」

 四葉はイヤホンを抜き、目隠しをといてハンカチが三葉の涙で濡れていたので驚いた。

「……」

 お姉様が泣いていらっしゃる、そんなにこれってイヤなことなの、と四葉は意外に思っている。

「………」

「………」

 目隠しをとかれても、まだ三葉の涙が止まらない。ずっと考えないようにしていたことを意識してしまっていた。婦女子が後宮という場所で、どういう目に遭うのか、かのフリードリヒ4世は、すでに高齢ではあるけれど病臥に伏しているわけではない。そして、後宮にアンネローゼが入ってから、すでに9年もの歳月が過ぎようとしている。ずっと考えないようにしていたし、10歳のころは知らなかった。けれど、現実を実感してしまい、しかも今は女の身であるからか、それとも体調がもたらしてくるのか、憂鬱で悲しくて胸が苦しい。むしろ、今まで意識しないようにしてきたことさえ、自分の卑怯さに思えてしまい、助け出せないでいる不甲斐なさと、女の身への同情が涙になって溢れて止まらない。あのチョコレートケーキを泣きながら一人で食べた夜から、もう泣くまいと決意していたのに、声をあげて泣きそうになり、三葉の手が三葉の胸を強く押さえた。

「っ…」

 胸を押さえてしまい、そこにある膨らみを感じて慌てて手を離した。

「……なんてことを……私は……」

「そこまで気にしなくていいよ」

「…ですが……三葉さんとの約束…」

「別にエッチな気持ちで触ったわけじゃなさそうだし。起きられる?」

「…はい……」

 起き上がると、やっぱり身体が重い。それでも涙は止まってくれた。四葉に頭をさげる。

「……どうも……すみませんでした……」

「ぜんぜん、いいよ。気にしないで。じゃあ、放課後になったら、すぐに帰ってきてね。また交換するから」

 そう言って四葉は階段をおりつつ一人言をつぶやく。

「あそこまで潔癖性の人だと、お姉ちゃんの身体でいるの、かなり、つらそう」

 今朝は四葉だけが朝食の用意を手伝い、三人で食卓についたけれど、食欲もない様子だった。

「お姉ちゃんの場合も、ほとんど食べないけど、お茶くらいは飲んだ方がいいよ」

「…はい…」

 食べると吐きそうな気がして、少しだけ日本茶を飲み、登校する。通学路に出ると早耶香と克彦がいた。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉」

「……おはようございます……」

「「………」」

 長い付き合いなので三葉の顔色を見て、多い日なのだと克彦までわかってしまう。それでも、なんとか学校前まで歩いたものの、校門へ至る坂道を見上げた三葉の瞳が力を失った。

「ぁぁ……」

「三葉!」

 克彦が倒れそうになった三葉の身体を抱き支えた。うなじから、うっすらと汗をかいている三葉の体臭がして、やっぱり生理中なのだとわかってしまう。

「おい、三葉、大丈夫か?」

「………」

 貧血を起こして聞いているのに聞こえていない、見えているのに見ていない。

「三葉ちゃん、保健室いこ」

「………すみません…」

 それだけ言って気を失い、一日がどう終わったのか、ほとんど記憶に残らず手紙も書けなかった。

 

 

 

 ベーネミュンデ侯爵夫人から唾液を吐きかけられたラインハルトは表情を変えなかったけれど、心情は複雑だった。

「ペッ!」

「……」

「そのへんで気が済みましたかな。侯爵夫人」

 リヒテンラーデが慇懃に、やや遅い制止をして自裁という形式の死刑執行を行っていく。

「陛下! 陛下は、いずこに?!」

「………」

 姉を殺そうとした憎い女ではあったけれど、あわれな最後を迎えるかと思うと憎みきれない部分もあったし、この女は姉と同じような立場にいたのだ、ということもわかっている。毒が回り、もう動かなくなると医師と死体処理係を残して立会人たちは解散し、ラインハルトも廊下を進み、ハンカチで顔を拭いたものの、不快感は残っている。しかも、フレーゲルに出会ったので、さらに不快感が増し執務室に戻ると、すぐに顔を洗った。時間が経過して唾液の匂いが、より不快になってきたし、死の寸前だったからか、アドレナリン混じりなのか、この上なく臭い。

「フロイラインミツハ」

「は~い」

 執務室の机でドイツ語の勉強をしていた三葉が返事した。二人きりなので返事が軽い。

「悪いがシャワーを浴びたい」

 三葉や四葉と違い、ベーネミュンデは唾液を美しく吐き出す訓練をしていないので切れがわるく、ラインハルトの髪や軍服にまで匂いがついていた。

「どーぞ」

「では、失礼する」

 大将としての執務室には夜通しで仕事になった場合にそなえてバスルームもあった。歴代の大将は生真面目に夜通しの作戦会議で使用した者もいれば、私的に連れ込んだ女性と使用した者もいたが、ラインハルトは後者のような使用方法があるとは思いもせず、ベーネミュンデの唾液を洗い落とすために入浴する。更衣室もあるので三葉に裸体を見せることはないものの、一応は断ったラインハルトはシャワーを浴び、軍服はクリーニングに出して、バスローブを着た。

「やっと、すっきりした」

「お姉さん、お怪我はなかったんですか?」

「ああ、無事だ」

 暗殺は未遂に終わりアンネローゼは無事でいる。髪を拭いたラインハルトはキルヒアイスの横顔を見つめ、その中にいる三葉に問う。

「フロイラインミツハ、女性に生まれたというのは、どういう気持ちだ?」

「え……」

 ドイツ語の勉強を止めて、考える。

「ん~……じゃあ、ラインハルトさん、男性に生まれたというのは、どういう気持ちですか?」

「…………。なるほど、愚問だったようだ」

「愚問ついでに、ラインハルトさんって好きな女性いるんですか?」

 女子高生らしい質問に、ラインハルトは真面目に答える。

「いや、いない。フロイラインミツハには好きな男性はいるか?」

「いえ、いません」

「では、キルヒアイスなんて、どうだ? どう思う?」

 もうベーネミュンデのことを忘れたいラインハルトが話を膨らますと、三葉はキルヒアイスの赤毛をかきあげて答える。

「正直、会ったことがないんで、わかりにくいんですよ。人柄が」

「なるほど、たしかに」

「あとは永遠に会えないことがわかってる人を好きになっても、しょうがないっていう虚しさもありますね」

「それも、たしかに、そうだ」

「ラインハルトさんは、どういう女性が好きですか?」

「そうだな。頭が良くて器量がよければいい、かな」

「秀才系が好きなんですか?」

「そうなるな。……」

 忘れたいのに、またベーネミュンデのことを思い出した。唾液は洗い落としたのに、記憶はなかなか洗い落とせないでいる。

「フロイラインミツハが、もし誰かと結婚していて、その誰かが、別の女性を愛し始めたら、その別の女性を殺したいと思うか?」

「………思うかもしれないけど、思うことと実行することの間には1万光年くらい距離がある気がします。ラインハルトさんは、どうですか? もし誰かと結婚していて、その女性が別の男性と付き合うようになったら、許せますか?」

「……………。想像がつかない。そもそも、自分が結婚するということさえ、思いもよらぬ話だ。まして、その先など………わからない」

「ですよね。結局、まだ子供なんですよ、私たち」

「………」

「この世界、っていうか、今の時代って一夫一婦制なんですか?」

「基本的には、そういう建前だが皇帝は当然として、門閥貴族どもも二人、三人と囲っていることも多いし、貴族でなくても裕福な者や地位のある者は、そうであることもある」

「ロイエンロール少将さんも、そんな感じですね。今朝、軍務省の前で女の子と歩いてたし」

「彼は結婚していないから厳密には違うが、……個人の自由だろう、干渉することではない。あと、ロイエンロールではなくロイエンタールだ。非礼にあたるから、しっかり覚えてやってくれ。彼は、これから大切な部下になるのだから」

「はい。……個人の自由ですか、それを言い出すと、一夫一婦制が厳密じゃないなら、さっきの質問への答えはノーですよ。殺してまでなんて。何より、失ったお互いの気持ちを取り戻せるわけじゃないから」

「お互いの気持ちか……」

 なんとなく答えをえたような気がしてラインハルトはベーネミュンデのことを落着させ、机にあった書類にサインをした。

「お昼から、またブラスターの訓練とかですか?」

「いや、私は大将級以上が出席する退屈な会議に出なければならない。他の者にフロイラインミツハの訓練を頼むわけにもいかないから6時までは自由にしてくれていていい。この書類さえ、リヒテンラーデ公へ渡しておいてくれれば」

 そう言ってラインハルトはサインした書類を渡した。

「はい」

 三葉はベーネミュンデの自裁見届人証明書を持ってリヒテンラーデ公のもとへ出向いた。

「メールとかで送ればいいのに。効率悪いなぁ」

 ラインハルトから重要な書類なので従卒などに渡さず、必ずリヒテンラーデ公本人へ手渡すように言われている。もともと、本来は暗殺未遂事件の被害者であったアンネローゼが見届人の1人になるのが慣例だったのであるが、姉の心理的負担を考えてラインハルトが代理人として見届けているし、そうして良かったと思っていたけれど、三葉にとっては入れ替わったときには、すでに終わっていた事件で実感はない。

「失礼します。ミューゼル閣下より書類を預かって参りました」

「うむ」

 リヒテンラーデ公は書類を受け取ったけれど、とくに何も言われなかったので、すぐに敬礼して退室した。

「さてと6時まで、どうしようかなぁ」

 廊下を歩いていると、生理現象を覚えたので男子トイレに入った。

「男の子って前に飛ぶから便利」

 用が済んで手を洗っていると、奥の個室からノルデン少将がズボンを直しながら出てきた。

「やぁ、キルヒアイス中佐。昇進、おめでとう」

「ありがとうございます」

 ハンカチで手を拭いてから敬礼した。ノルデン少将も軽く敬礼を返して、手を洗い、ややクセのある髪を鏡で整えている。もともと戦場にいても厳格な雰囲気のない将官だったので三葉は訊いてみる。

「この近くでヒマつぶしに、ちょうどいいところってありますか?」

「そうだね。それなら、軍務省付きの美術館など、どうかね? ちょうどいい、当家が寄贈した刀剣があるのだ。案内しよう」

「ありがとうございます。でも、ノルデン少将、お仕事は?」

「少将は少々ヒマなのだ。はははは!」

「………あはは…」

 一応、上官なので合わせて笑い、三葉は軍務省に付属した美術館に入った。館内は過去の武具などを展示していて、とくに戦車や戦闘機などの工業製品ではない、美術性の高い物品を中心として戦争に関するものを並べていた。

「これが、当家が寄贈した太古の昔の槍だ」

「…三大名槍……日本号……あの日本号が…、ちゃんと伝わってるんだ…」

 三葉は刀剣に関心はなかったけれど、官位まで与えられた槍のことは知っていた。もともと神社関連で大きな集まりがあると、刀剣神社として有名な名古屋の熱田神宮などへ行くことになるし、ご神体が刀剣である神社も多いので普通の女子高生よりは知識がある。鋼色に光る槍を指してノルデン少将は自慢げに語ってくれる。

「この槍に、私は救われたのだ」

「え? これ、もって白兵戦でもしたんですか?」

「いやいや。これを寄贈したことで私は少将への昇進が早くなり、おかげでミューゼル閣下の艦隊に配属された。もし、准将のままだったら、ミュッケンベルガー艦隊だったかもしれない。そうなると、ティアマト会戦で戦死していたかもしれないからね」

「なるほど、そういう出世の仕方もあるんだ。楽でいいですね」

 三葉が感心していると、同じように時間の余裕があったのか、エルネスト・メックリンガー准将が声をかけてくる。ノルデンが上官なので敬礼し、三葉も敬礼した。

「すばらしい槍ですな。ノルデン少将からの寄贈があったおかげで私たちも目にすることができる。ありがたいことです」

「うむ、子爵家としては、この程度、当然の社会貢献ですよ」

「……」

 見返りがある場合は社会貢献って言わないと思う、と三葉は余計なことを考えたけれど、余計なことだとわかっているので口にはしない。他にも日本から伝承されている物がないか目で探したけれど、この槍だけのようだった。そんな三葉の様子に気づいたのか、メックリンガーが残念そうに言ってくる。

「この時代から、のちに地球上での核戦争がなければ、もっと伝承された美術品は多様で豊富だったでしょうね。実に惜しい」

「核戦争……」

 そんなことが起こるんだ、いつだろう、と三葉は気になった。メックリンガーに質問しようとして、ごく当然の歴史知識だったら、沖縄歴史博物館で第二次世界大戦っていつですか、とバカな女子高生が質問するようなものだったり、ルドルフ大帝って何年前の人物ですか、と不敬罪クラスの発言をするようなものだったりしたら、それをキルヒアイスの口でするわけにはいかないと判断し、帰ってから調べてみようと思った。

「当家には、この槍以外にも色々とありますよ。よければ、お二人に、これからお見せしましょうか?」

「それは是非!」

「………」

 メックリンガーの瞳がキラキラと輝いているので、三葉も付き合うことにしたおかげで子爵家で紅茶を飲んでいるうちに、今夜どうやってヨガを防ごうと考えることに手一杯となり核戦争について調べることは忘れた。夜11時30分になり、幼年学校の教科書をラインハルトと復習していたことも終え、フーバー夫人が用意してくれたワインを開けた。

「その身体なら飲めるだろう」

「お酒か……」

 酒といえば口噛み酒を思い出す。

「嫌いか?」

「いえ、造ってばっかりで飲むことがないので」

「酒を造っていたのか、どんな酒を?」

「………」

 説明すると原始人あつかいされそうなので避ける。

「お米から造っています。ごく普通に」

「ビールのようなものか?」

「う~ん……まあ」

「飲んでみたいな」

「……」

 飲まれたくないな、私の唾液から造るんだよ、と思いつつワインを飲んだ。

「あ、美味しい」

「フロイラインミツハ本人そのものが、ここにいるのなら、今はお互い、かなり緊張すべき場合なのだろうな。時間も遅いし二人きりだ」

「フフ、そうかもしれませんが、この身体にいると男性を同性に感じますよ」

「すると、女性を異性に感じるのか?」

「そうですね。そんな感覚があります。そして、ワインも美味しい」

 グラスを飲み干すと、もう12時だった。

 

 

 

 少し酔っていたキルヒアイスの瞳が、体調不良で呻いているような色合いに変わり、それから、ようやく12時を過ぎてくれたことに気づいてタメ息をついた。

「はぁぁ…………やっと、この身体に…」

「つらそうだな? 何かあったのか?」

「………。いえ、……何も」

「明らかに何か隠しているだろう? お前が、つらそうな顔をするなんて、よほどのことだ」

「…………彼女のプライベートなことですから」

「そうか。では遠慮しよう」

「ベーネミュンデ侯爵夫人の件は、どうなりましたか?」

「………うむ」

 せっかく忘れていたのに思い出してラインハルトはワインをあおった。記憶が唾液の匂いとともに蘇ってくるのでワインで洗い流すために、2杯目を注ぐ。

「予定通りすべて終わった。もう何も問題はない」

「そうですか……よかった、と申し上げにくいですが、アンネローゼ様にとっては、一つ危険が減ったことになりますね」

「ああ。………女か……思えば人類の半分は女なのだな」

「……はい、そうなりますね」

「…………」

「ラインハルト様」

「何だ?」

「一日も早くアンネローゼ様をお救いしましょう」

「ああ、そうだな」

 そう答えてラインハルトは三葉が飲んでいたグラスにワインをついだ。

 

 

 

 三葉は布団の上で月経痛に耐えるような丸くなった姿勢でいた。

「ぅぅ……この痛み、このダルさ……いっそ、あと3日くらい入れ替わったままでよかったのに……ぅうぅ…ぁあぁ…」

「お姉ちゃん、起きて」

 姉が布団を汚す前に四葉は優しく立たせて導く。

「この上に立って」

「これ? 何?」

 布団の隣りには60センチ×30センチくらいの長方形をした白い吸収体のような物が敷かれていた。

「ヨガマットだよ。買っておいたの」

「………。ヨガ…マット…」

 本来のヨガマットは堅い床でヨガポーズをしても膝や肘が痛くないようにするゴム状の敷物だった気がするけれど、四葉が用意してくれたのはコンビニで買った犬用の衛生用品だった。

「…………これにヨガするの…」

「トイレまで間に合いそう?」

「……無理だと……思う…」

 朝から、ほとんど食事も水分も摂っていないようで、いつもより我慢できそうだったけれど、それでも階段をおりきる自信はないし、今日は布団や床を汚すと、拭くだけでキレイにならないかもしれない。

「……………」

 三葉はヨガマットの上に立った。もう限界だったので、すぐにヨガが始まる。

「……………」

「……………」

 三葉はヨガを済ませると、ビニール袋なども用意されていたので、自分で片付けてから、四葉に礼を言う。

「ありがとう」

「どういたしまして。で、向こうは、どうだった?」

「うん、面白かったよ。子爵家でお茶もよばれたし」

「へぇぇ」

 妹に子爵家の豪華さとノルデンの息子たちが父親とそっくりだったことを語りながら入浴して、寝る前に、やっぱり心に引っかかっているので訊く。

「……ねぇ…四葉…」

「ん?」

「なんで、あのヨガマット、犬用のを買ったの?」

「人間用のもあったけど、それを買うとコンビニの店員さんに、うちの誰かが、それを必要としてるんだ、って、わかるよ?」

 小さな町でコンビニは1件しかないし、働いているのは近所のおばさんで、だいたいは顔見知りだった。おかげで何か変わった物を買うと、すぐに詮索されたりウワサになったりする。もちろん、高校生が男女交際を始めてから、しばらくして避妊具を買うと確信されるし、女子中学生の母親が多めに生理用品を買うと、お祝いを言われる。ほぼプライベートなど無い町だった。観光で来る分には牧歌的で移住したいという人も多いけれど、現実的には煩雑な面も多い。生まれた頃から住んでいる三葉には煩雑な面ばかりが感じられていた。

「…でも…犬用だと問題ないの?」

「買うときにシーってすれば」

 四葉が唇に人指し指をあてて言う。

「私たちが、お婆ちゃんに内緒で子犬でも隠してるのかな、って思って黙っていてくれるよ」

「………四葉は、きっと私より参謀役に、ふさわしいよ……」

 そう誉めつつも、これから犬用のを使うのかと思うと、三葉の気持ちは複雑だった。

 



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10話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で目を覚ますと、回数を数えて日付を見ていた。

「これで22回目………」

 三葉と入れ替わること、すでに22回となっている。

「三葉さんの時間では4月から6月に、けれど私の時間では486年の2月から11月まで進んで……私が三葉さんになるのは、三葉さんの時間で、およそ週に3、4回。けれど、私の時間では不定期ではあるけれど週に1回程度……もしも、このままのペースなら彗星落下の頃には、私の時間では489年中頃に……」

 入れ替わる日のペースが二人のいるそれぞれの時間で違うことには、ずいぶん前から気づいていたけれど、その記録から逆算して彗星落下まで入れ替わりが続くと仮定すると、帝国暦では489年までになりそうだった。

「この現象は三葉さんたちを救えという神の意志なのでしょうか………いえ、神のような非科学的なものが……もっと、よく知り、もっと、よく考えましょう……。けれど、もしも、彗星落下で三葉さんが亡くなるとすれば、私は彼女の残り少ない人生の半分を無為に奪っているということに…」

 胸に痛みを覚えつつ、三葉としての日常を女性らしく過ごすために枕元にあった手紙を読む。

「テッシーとカフェに………写真とお土産…」

 手紙には今日の予定として、克彦と電車で移動して地方都市にあるカフェに行くこと、もしも自分が行けずに入れ替わりが起こってキルヒアイスが行くなら、カフェの料理をスマフォで写真に撮っておくこと、テイクアウトのお土産を多めに買って帰ることが書かれていた。

「サヤチンは……」

 たいてい3人いっしょに行動するのに、早耶香のことが触れられていないのでスマフォでメッセージ履歴をチェックした。克彦とのやり取りが見つかる。

 

 明日、念願のカフェに行かんか? 割引券もらったし。

 行く行く!

 じゃあ、9時に駅に集合な。

 サヤチンは?

 あいつは家族で富山にマス寿司を食べに行くって言っておったやろ。

 ああ、そういえば、そんなこと言ってたかも。サヤチンが行けないなら来週は?

 割引券の期限が来るから。

 そっか。どうしようかな。

 割引券がある分、おごってやってもいいぞ。

 行く!

 じゃあ、決まりだな。

 

 やり取りを見ると、昨夜になって急に決まったことなのだとわかった。

「………これは……デート……どんな服で行けば……」

 着替えは用意されていなかった。お互い、軍服や制服だと、もう用意しなくてもわかるし、普段着も三葉のショーツが入っているタンス以外は中身を把握している。

「明らかにデートなのですから、テッシーに失礼のない服装でないと……」

 いつもの日曜日に着ているような平服で行くわけにはいかないと思い、タンスを探って少し胸がきついけれど、三葉が中学生の頃に女性らしさへ憧れて買った白いワンピースを選んだ。

「もう、こんな時間に…」

 服を選んで、いつもより身なりを整えることに気遣っていると、約束の時間が迫り、朝食もそこそこに駅へ急いだ。到着すると、すでに克彦が待っていた。

「おはようございます。お待たせいたしました」

「………。そ、そんな女らしい服……もってたんや……」

 初夏らしい肩と胸元を露出したワンピースは17歳の三葉の健康的な美しさを外面からも内面からも輝かせていたし、白いワンピースに合う靴が無くて玄関で困っていたところ、一葉が二葉が使っていたヒールのある白サンダルを出してくれたので、いつも学校で見る三葉とは別人のように可愛らしく見えて、克彦は気温以上に暑く感じた。

「おかしくないでしょうか。スカートが短すぎる気がして、場にふさわしくなければよいのですが」

 スカート丈は制服と同じほどだったけれど、ふわりとした生地なので風が吹くと不安感が大きい。首から肩、胸元までを露出するのは宮廷婦人たちにも、よく見られる衣装だったので抵抗が少ないけれど、スカートは踝まであるのが普通で、膝上の腿半ばまで露出するのは内心で、とても恥ずかしいと感じている。ただ、周囲の女子高生も同じほど短いので、それが文化なのだと自分に言い聞かせているだけで、恥ずかしいことにはかわりはなかった。

「い…いや…ぜんぜん、大丈夫。ナイス、チョイス」

 そう言う克彦も普段の平服よりも決めてきていて、香林坊で買ったスラックスや勅使河原建設の嫡男として出席するパーティーなどでも着られるフォーマルさとカジュアルさを兼ね備えたカッターシャツを選んでいた。

「じゃあ、行こうか」

「はい」

 二人で電車に乗って糸守町を離れ、おしゃれなカフェのある街を歩くと、三葉の美しさと気品ある雰囲気は、とても目立った。立っていても座っていても、物腰の穏やかさと上品さは銀河屈指の女ぶりでエスコートしている克彦にも気合いが入る。それでも、お目当てのパンケーキが運ばれてくると、三葉の手が恥じらいながらスマフォを出した。

「……お料理の写真を撮りたいと思います。……失礼ですが、よろしいでしょうか」

「あ、…、ああ、どうぞ」

 克彦は普通のことだと感じたけれど、喫茶中にスマフォを出して料理を撮影することが、とても下品で不作法なことに感じられるのに、そうするように命じられているので羞恥心に耐えながら、一品につき角度を変えて3枚は撮らされ、恥ずかしそうに顔を赤くしていると、克彦は元々どうでもよかったパンケーキの味は一切記憶に残らず、ただ三葉の顔に見惚れた。とても恥ずかしそうに一枚一枚の写真を丁寧に撮りつつも、周囲の視線を気にして顔を真っ赤に染め、あまりに恥ずかしくて涙まで浮かべている。

「はぁぁ…」

 やっと撮り終わってスマフォを片付けると、両手の指で熱くなった頬を冷やしてタメ息をついている。

「はしたないことをして、すみませんでした。ご同席されていて、さぞやご不快であったかと痛み入ります。どうか、お許しください」

「いや、いいって、いいって。ほら、早く食べんと、クリームが解けるで」

「はい、いただきます」

 そう言って半分まで食べてから、また恐る恐る三葉の手がスマフォを出した。

「あの…」

「どうした?」

「……もう一度、写真を撮ってもよいでしょうか」

「ああ、いいけど、早く食べんと解けるぞ」

「はい、せっかくお誘いいただきましたデートで、このような不調法をお見せすること、どうぞ、ご容赦ください」

「…デート……だよな、やっぱり……これは…」

 克彦は満足そうに頷いて、迷っていた夕方の予定を三葉が喜びそうな手羽先の美味しい焼き鳥屋から、景色のいい静かな公園の丘に決めた。けれど、三葉の顔は悲壮なほど羞恥心で染まり、食べかけのパンケーキの断面を撮ることに抵抗を覚えている。ふわふわのパンケーキの断面を生地の様子がわかるように撮っておくことという命令だったけれど、公衆の面前で自分が食べかけた物を撮るという行為が恥ずかしすぎて、スマフォを持つ三葉の手が震えている。見かねて克彦が言う。

「貸してみ、オレが撮ったろ」

 そう言って克彦が撮ってくれた。

「すみません。ありがとうございます」

「いいって。さ、食べようぜ」

「はい」

 ようやく喫茶を楽しみ、糸守町にはない都市部の賑わいを見て回り、夕方になると克彦に誘われて公園の丘にのぼった。

「ここ夕日がキレイなんや」

 有名すぎるスポットだと、他にカップルもいて告白しにくいので子供の頃に何度か見に来たことのある、ごく平凡な公園に誘ったのだけれど、その選択は正解だったようで運良く誰もいないし、夕日が美しく周囲を彩っている。

「テッシーのおっしゃる通りですね」

 初めて地球から見る太陽の夕日は、とても感動的だった。どの可住惑星も当然ながら環境的に地球と近いけれど、恒星の大きさや色合い、恒星惑星間の距離、大気の微量成分、それらが少しずつ惑星ごとに異なるために夕日は、とくに違いが鮮明になる。そして、糸守町は急峻な山に挟まれた谷間であるために夕日になる前に日没してしまうので、これが本当に初めての夕日だった。太古の昔から何十億年と繰り返されてきた自然現象を目の当たりにしてDNAが揺さぶられるような感動を受けていた。今までに見た、どの夕日よりも美しいと感じるし、写真や絵画で見た夕日も、地球が核戦争で混乱する以前の夕日を目指す印象の原点としているので、その原点そのものを見ることができて胸と目が熱くなってくる。

「夕日……なんて美しいの……ありがとう、テッシー」

「三葉」

「はい?」

 克彦の方を振り返ると、真剣な眼差しで見つめられていた。

「オレは三葉が好きだ」

「っ…」

 前置きも照れもない直球の告白を受けて三葉の心臓が拍動の速度を早めた。

「オレは三葉が好きだっ」

「……テッシー……」

 困った、という気持ちと、嬉しいという気持ちが等量に湧いて思考を混乱させてくる。自分が三葉ではないことは忘れていない、けれど可能な限り三葉として行動しようと思っている、もしも、この告白を受けたのが三葉なら、どう反応したのか、どう反応するのが、今後の三葉と克彦のためになるのか、それを考えるけれど、答えに至れない困ったという気持ちと、そして素直に嬉しいと感じる気持ちが混在して、三葉の頬も夕日で染められている以上に赤くなってくる。

「オレと付き合ってくれ」

「……それは……男女交際ということですか?」

 わかりきっていてバカな質問をしていると自覚していたけれど、それでも問うと、克彦は真剣に頷いてくる。

「ああ、そうだ」

「………」

 三葉の瞳が克彦を見つめる。克彦も見つめてくる。男性からの告白と熱い視線が、より三葉の心臓を高鳴らせてくる。答えに窮して無言だったけれど、三葉の表情を見て克彦は勝機を感じて、三葉の肩を握った。

「ずっと、好きだった。なかなか言えなかったけど、伝えておきたいんだ。好きだ、大好きだ」

 ずっと言えなかった分、言えるようになると繰り返し言いたくて連射した。その連射が三葉の心臓を経験したことがないほど高鳴らせたし、感じたことのない嬉しさが胸に湧いてきて、このまま克彦の男性らしく成長してきた腕に抱かれたいという衝動さえ覚えた。

「………」

「………」

 イエスと答えたい、答えてあげたいし、答えたかった。言葉にしなくても、そっと目を閉じて唇を捧げるだけで気持ちは十分に伝わるし、身体がそれを求めている気がする。けれど、それはダメだとわかってもいる。たとえ、最終的にイエスと答えるにしても、それは三葉が決めることで、今日の自分が決めていいことではないとわかってる。そして、このタイミングで、また思い出してしまった。この真っ直ぐな熱い告白をしてくれた克彦でさえ、あと四ヶ月の命なのだと知っている。

「………」

「好きだ、三葉」

 女として、とても嬉しかったし、男として尊敬に値する男だと想う。自分に、こんな勇気をもった告白をアンネローゼにできるだろうか、そう自問すると、より尊敬するし、握られている肩から感じる男の手の逞しさが女の身体の芯を熱くさせてきて、このまま抱かれたいという気持ちで体重が克彦の方へいってしまいそうになる。

「泣かないでくれよ」

 克彦は三葉の涙を指先でぬぐった。いつの間にか、泣いていた。

「イヤだったか? オレなんかに好きだって言われて……」

「いいえ!」

 それは、はっきりと答えておかないといけない。三葉がイエスと答える可能性もあるのだから、今は選択の余地を残して明日に持ち越さなければいけない。

「イヤだなんて、とんでもないことです! 嬉しいです! とても嬉しいです。この涙は嬉しくて泣いているのです!」

「三葉……」

 克彦はイエスだと想って三葉の身体を抱きしめてキスしようとしてくる。けれど、それには抵抗した。

「待って、待ってください。どうか、答えは明日まで待ってください。お願いします、今は……今は、ここまでに…」

 キスは拒絶して顔を伏せ、克彦の胸へ頬をつけた。

「本当に嬉しいです。けれど、どうか明日まで待ってください。勝手なことを言って、すみません。お願いします、どうか、待ってください」

 答えを待たせることが申し訳なくて泣けてくる。しかも、克彦と三葉には時間が残されていない、あと四ヶ月しかない。そう想うと涙が止まらなくなって、ぽろぽろと三葉の涙が零れ、夕日を反射してキラキラと光った。

「三葉……」

 克彦は待ってと言われて、一つだけ心当たりはあった。早耶香のことだと思った。自分が早耶香に好かれているという自覚は自惚れでなくあった。むしろ、早耶香は周囲から見てもわかるほど、はっきりとアピールしてくる。だから、三葉が躊躇うことがあるなら、それは早耶香のことだと、女性の人間関係はわからないものの、そう解釈した。

「…………」

「…………」

 もう夕日が沈んでしまった。

「待つよ。三葉、一日でも一ヶ月でも一年でも待つ。オレは、ずっと三葉が好きだから」

「っ…ぅっ…くっ…」

 声をあげて泣きそうになって、それは17歳の少女として、この場面でするのは変だとわかっていても嗚咽が湧いてくる。泣き声を手で押さえて耐えている三葉の肩を克彦は優しく抱いていてくれた。ずっと、そうしていたいと克彦は思ったけれど、現実は少し冷酷で、もう時間がない。夕日をバックにしての告白は予定したものだったし、日没時間もネットで検索して知っていた。そして、糸守町まで帰る終電も、もう無くなることを知っている。山奥の町に帰るには、たった今、日没したばかりなのに次の電車を逃すと、無くなってしまう。

「三葉、そろそろ帰らないと電車が無くなるから」

「はい…」

 ハンカチで涙を拭くと、克彦が手を引いてくれる。泣き顔のままで電車に乗るのは恥ずかしかったけれど、ダイヤが極めて限られていることは行きに見たので知っている。せめて電車内に化粧室でもあれば顔を整えたかったけれど、たった2両しかない車両には化粧室もなかった。夕方の混み合う車両の中で顔を伏せていると、克彦が守るように抱いてくれて頭を預けた。そうして、糸守町へ近づいていくと、どんどん乗客が減っていく。一駅ごとに乗客が減り、二人とも席に座ることができた。座ってからも、克彦の胸に顔を伏せていたけれど、さすがに一時間もすると泣き顔も落ち着いて、抱かれていることが恥ずかしくなって礼を言って離れた。

「………」

「………」

 明日まで待って、と言われた克彦は待つつもりだったので話題に困り、そして三葉の身体は、もっと激しく困っていた。

「………」

 いつも夜12時まで我慢している生理現象が激しく三葉の下腹部をノックしてきている。学校での昼食時も食べるだけで飲まないようにしていたのに、今日はカフェでのデートだったためにパンケーキとセットだった紅茶がポットで提供されたので2杯も飲んだし、行きの電車で克彦が買ってくれた生茶も断るのも失礼だと思って飲んでしまっていた。おかげで涙は止まったのに、今度は背筋に冷たい汗が流れるほど我慢している。しかも乗客が2人だけになった車両内は冷房が効きすぎてきてワンピースを着ている三葉の身体は手足が冷えて余計につらい。ギュッと膝と膝を合わせて我慢しながら座っていても気を抜くと取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。

「……はぁ……」

 つらくて息を吐いてしまうと、克彦が心配してくれる。

「遠出やったし疲れた?」

「はい…少し……でも、ご心配なく……とても楽しかったですから」

 微笑したつもりだったけれど、頬が攣れそうになってしまった。そして、疲れてもいる。履き慣れないヒールのあるサンダルだったので、ふくらはぎから腿、お尻までの筋肉が悲鳴をあげてきている。そんな下半身に力を入れているので、ときどき気が遠くなりそうになった。

「次は終点、糸守ぃ~♪ 糸守ぃ♪」

「あぁ、やっと…」

 つい声に出してしまうほど、待ち遠しかった終点に到着してくれた。克彦もタメ息をつく。

「はぁぁ、ホント遠いよな」

 二人で降車しようと座席から立ち上がったときだった。

 くきっ…

 履き慣れないサンダルで足首を捻りそうになり、バランスを取るために脚を開いて立った瞬間、どうにも我慢できなくなってしまった。

「んっ、あぁ………」

「三葉? ………」

「……こっちを……見ないで……ください……お願い…」

 三葉の両手が顔を隠している。止まっていた涙も、また溢れてきて止まらない。終点だったので車掌が車内点検のために歩いてきて、失禁している乗客がいたのを見て、見なかったことにして去っていく。終電でトイレのない車両だと、たまにあることだったし、医療を必要とするような体調不良であれば見なかったことにせず対応したのだけれど、三葉の身体は健康そうに見えたし、何より彼氏とのデートに見えたので関わらない方が無難だという顔で去っていった。

「…み……三葉…」

「…………」

 三葉の両手は顔を覆ったまま、肩を震わせて静かに泣いている。とても恥ずかしくて顔を見せられたものではなかったし、どうしていいか、もうわからない。こんなとき、17歳の少女なら、どうすればいいのか、いくら考えようとしても頭が混乱して思考がまとまらないし、せっかくデートに誘ってくれた克彦にも、三葉にも申し訳ない気持ちでいっぱいになり、何もできずにいる。そして、脚が震えて腰が抜けそうになる。

「三葉、泣かんでええから。気づいてやらんで、ごめんな」

 そう言った克彦は座り込みそうになっていた三葉の身体を横抱きにすると、電車を降りて改札を通る。無人改札だったし、さきほどの車掌が検札するシステムだったけれど、克彦の両手が塞がっているので、素通りさせてくれた。女性一人を横抱きにしたまま歩いても、建設現場でセメントの袋を運ぶこともある克彦の両腕は、ここ最近は筋トレもしていることもあって危なげなく進み、そして駅前にあった噴水に抱いたまま入った。

「………」

「………」

 ゆっくりと克彦が噴水の中で座り込むと、二人ともずぶ濡れになった。

「………」

「遊んでたら、うっかり落ちちまったな」

「っ……テッシー!」

 こんな方法で女子の大失敗をフォローしてくれたことが、あまりにも嬉しくて、まだ横抱きにされたまま、克彦に抱きついて衝動的にキスをしてしまった。

「…み…三葉…」

 驚いた克彦だったけれど、もう明日まで待つこともないと今度は克彦からキスをする。さきほどの車掌が羨ましそうに遠目に見ている中、しばらくキスしていた二人は静かに離れると、宮水家に歩いて向かう。初夏とはいえ、日の暮れた高地で衣服が濡れていると、さすがに寒い。とくにワンピース姿だと震えてくる。また克彦が温かい手で肩を抱いてくれると、もうこのまま抱かれてしまいたいと感じてしまったけれど、自制心は残っていた。

「二つ……お願いさせていただいてよろしいでしょうか…」

「何でもいいぜ」

「ありがとう、テッシー。では、一つ、さきほどの私の失態を、どうか忘れてください。明日以降に二人きりのときも、お話にならないでください。お願いします」

「ああ、当然」

 了承した克彦の手が頭を撫でてくれる。

「もう一つ、さきほどのキスも忘れてください」

「………。……それは、…どういう意味で?」

「…………」

 しばらく考えて言い訳を思いついた。

「ファーストキスが、ああいう形だったことは忘れたいからです。お願いします。次にテッシーとするキスが私たちのファーストキスだと記憶してください」

「わかった」

「ありがとう、テッシー」

 そこまで約束してるうちに、もう宮水家が見えてきた。もう別れて、それぞれの家に向かうと思うと、一抹の不安がよぎって最後に問う。

「テッシー…」

「ん?」

「……私のことを、まだ……好きでいてくれますか? あんな失態を見せて、もう呆れておられるなら……私は明日……」

 そこまで言って悲しくなって顔を伏せると、克彦が肩をすくめた。

「失態? そんなこと、あったか?」

「っ……ありがとう、テッシー」

 また抱きつきたくなってしまって、自制するのに苦労してから別れた。宮水家に帰ると四葉が迎えてくれた。

「お帰り、お姉様。どうしたの? びしょ濡れで」

「テッシーと噴水で遊んでいて、落ちてしまったのです」

「そんな小学生みたいな……。風邪ひくよ。目隠しして、お風呂に入ったら?」

「………。……」

 すっかり身体は冷えてしまっているし、このままでは風邪を引くと思われた。

「……ですが、目隠ししていては危険ですし…」

「いっしょに入ってあげるよ」

 そう言ってくれた四葉に脱がしてもらって、いっしょに入浴し身体を温めた。夕食を終え、どんな手紙を書いて三葉に克彦から告白されたこと、そして、すばらしい男性なので、ぜひ交際した方が良いことを伝えようかと考えていると、スマフォが鳴った。

「サヤチンから。もしもし?」

「メッセージ、読んでくれてないの?」

「すみません。入浴していたものですから」

「そっか。富山土産のマス寿司、食べてくれた?」

「あ、はい。さきほど、ただきました。ありがとうございます、とても美味しかったです。お魚をあんな風に調理しているなんて、とても斬新で面白い料理だと思いました」

「……。まあ、喜んでもらえてよかったけど。話は、それだけよ」

 早耶香が電話を終えようとするので、こちらから話しかける。

「サヤチンにも聞いてほしい話がありますの」

「嬉しそうな声して、ええことでも、あったん?」

「はい! 今日、テッシーが私のことを好きだと言ってくださったのです。お付き合いしたいと! 私は、とても良いことだと思うのですが、サヤチンも祝福してくださいますよね?」

「……。それは何かの冗談?」

「いいえ、冗談などではありません。テッシーは本心から私のことを好きだと、まじめに告白してくださったのです。私、とても感動いたしましたし、あしからず想っておりました彼のことですから、まだ明日まで結論は保留しておりますが、前向きに考えたいと想っております」

「………それを私に話して、どうしたいわけ?」

 急にスマフォから響いてくる早耶香の声が低く冷たくなったけれど、話を続けた。

「お友達として祝福してください。テッシーと私が交際することを、いっしょに喜んでいただきたいのです」

「………。あのさ!」

 早耶香が怒鳴ってきた。

「いくら何でもひどすぎない?!」

「え………何がですか?」

「っ……そうやってスットボケるんや?! 私の気持ち、知ってるくせに!」

「サヤチンのお気持ち? すみません、よく知りません。教えていただけますか?」

「………ああそう!! じゃあ勝手にすればいいよ!! 付き合えばッ!!! こんな大事な話、そのふざけたお嬢様モードでされるなんて思わなかった!! わかってほしいなら、わかってほしいで、もっと言い方ってあるやん?! それなら私だって諦めたのに!!」

「あ……あの……お気に障ったのなら、謝罪いたします。どうか、落ち着いてください」

「バカにしないで!!」

 そう怒鳴った早耶香は電話を切ってしまい、こちらから何度かけても応答してくれなかった。

「いったい、どうして、サヤチンはお怒りになってしまったのでしょう……」

 まだ女心が十分に理解できない。けれど、ゆっくり何度も考えてみるうちに、だんだん早耶香の気持ちが見えてきた。

「もしかして、彼女もテッシーのことを好きで……」

 そう考えると思い当たる節は多い。そして、そうとしか思えなくなってきた。

「私は、なんてことを……彼女の気持ちも考えずに……」

 時計を見ると、もう夜の10時過ぎで早耶香へ会いに行くことも非常識だし、自分が謝りに行くと余計に混乱させる気もする。そして、やっぱり時間が残されていない三葉と克彦に幸せな時を少しでも過ごして欲しいという気持ちもあった。自分に置き換えても17歳の頃にアンネローゼと幸せな時間を数ヶ月おくれるなら、その後に過酷な運命が待っているとしても、その数ヶ月の価値は何物にも代え難いと想える。

「とにかく、お手紙に……」

 克彦から真剣な告白を受けて、とても好ましい男性だと感じたこと、そして早耶香とのやり取りを手紙にしていくうちに12時を迎えた。

 

 

 

 三葉はクロイツナハⅢの警察署内でホフマン警視から感謝状を受け取っていた。

「感謝状! ジークフリード・キルヒアイス殿。貴殿はクロイツナハⅢにおける麻薬捜査に協力され、多大な功績のあったことをここに証し、これに感謝いたします。帝国暦486年11月…」

 感謝状が手渡され、三葉も銀河帝国の礼儀作法で受け取る。

「この身に余る栄誉、恐縮の至りです」

 授与式が終わり、少しばかりホフマンと談笑したけれど、あまり話すと昨日の記憶がないことでボロが出そうなので、早々に切り上げ、ラインハルトが待っている喫茶店に入った。

「お待たせしました」

「ああ」

 ラインハルトは平服で優雅にコーヒーを飲んでいた。二人とも第四次ティアマト会戦が終わったことで、休暇で娯楽施設であるクロイツナハⅢに来ている。

「こんなのをもらいました」

 三葉が感謝状をラインハルトに見せる。

「キルヒアイスらしいな。どこにいても苦労性のようだ」

 そう笑ってから、三葉に名乗る。

「フロイラインミツハと、はじめて会ったときも少し話したけれど、オレの名も変わった」

「そういえば、どこかの家名を受け継ぐって…」

「ええ。ラインハルト・フォン・ローエングラムと申します。以後お見知りおきを、フロイラインミツハ」

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人の会話をお冷やを持ってきたウエイトレスが聴いてしまい、真顔で同性にフロイラインと言っているラインハルトの顔をちらりと見て、すぐに行ってしまった。二人も休暇中の油断で、つい変な疑いをもたれる言動をしてしまったことにお互い失笑して席を立った。

「さて、せっかくの休暇だ。とりあえず観光でもしようか」

「そうですね」

 喫茶店を出て、二人でクロイツナハⅢの内部を歩き回った。やはり大人向けの娯楽施設なのでカジノやキャバクラなど、金、女、酒という組み合わせが目立つ。あまりラインハルトにとっては興味の湧かない場所だったので、ついつい話題が会戦のことになった。

「フロイラインミツハは、あのとき何か言いたそうにしていたな」

「あのときって?」

「ミュッケンベルガーから私の艦隊が単独で突出する形に布陣され、右に転進して敵の眼前を横断する、という策をとったときだ」

「ああ、あの。こんな邪道は二度と使わぬ、って言ってらしたときですか」

 三葉は第四次ティアマト会戦を思い出して答える。

「余計なことだから言わない方がいいかな、って思ったから黙っていたんですよ」

「どんなことを考えていたのか、知りたい」

「じゃあ、言いますけど、あれって完全にミュッケンベルガー元帥さんからの仕返しですよ」

「仕返し?」

「ほら、第三次ティアマト会戦のとき、ホーランドさんの艦隊に猛攻されてミュッケンベルガー艦隊が大ダメージを受けてたじゃないですか。そのとき、いくら戦利にかなっていたとしても、ぜんぜん助ける様子も見せなかったら、そりゃ怒りますし、次で仕返しされますよ」

「ふむ……ミュッケンベルガーから好かれていないのはわかっているが、なるほど仕返しかァ」

「ミュッケンベルガー元帥さんにしたら、ティアマトの借りはティヤマトで返す、みたいな気分だったと思いますよ。だいたい、帝国軍も同盟軍も、お互いに友軍と協力しなさすぎです」

「フ、それが見抜けるようになったか。あの会戦でのフロイラインミツハの働きには感謝している」

「私は、ただ相性が悪そうだったノルデン少将さんを近づけないようにしただけですよ。第三次のときと違って、忙しそうでしたから」

 会戦の日に入れ替わっていた三葉は相性の悪い二人が揉めないように間に立って両方と会話し、直接二人が話すことのないよう立ち回っていた。それは糸守町でも相性の悪い氏子のおじさんたちが氏子総会や社務所月例会でケンカをしないように立ち回るときに身につけた技術で、お茶を淹れたり、コーヒーの糖分を多めにしたりと、細々とした配慮で衝突をさける戦術でもあった。それに、第三次ティアマト会戦でのラインハルトの勝利によりノルデンも批評より世辞が多くなったので、その世辞さえ耳に入れたくないラインハルトに代わって話を聴くことが三葉の役目になっていた。

「ああ、それが、とても助かった。あいつが何か言うとオレの思考が乱される」

「配属されてきた副参謀長のメックリンガー准将さんとは相性がいいみたいですね」

「女性は人間関係を見抜く目が鋭いな」

「……」

 思いっきり顔に好き嫌い出てますよ、と三葉は言いそうになったので黙ってキャバクラの看板を見上げた。

「ここに入ってみませんか?」

「ここにか……いや、こういう店は、ちょっと…」

「こういう店ばっかりの地区じゃないですか。避けてたら面白いものないですよ」

「だ…だが、フロイラインミツハが不快な思いをするかも…」

「イヤだったら、すぐ出ればいいじゃないですか」

 二人の美青年が店前で話し合っていると、すぐに客引きが声をかけてくる。

「いらっしゃいませ。本日サービスディにて30分2000帝国マルクで1ドリンクつき、しかも5時までは一対一以上の接待をお約束しております。さ! さ! どうぞ!」

「入ってみましょうよ」

「……では……少しだけ…」

 好奇心を刺激されている三葉と、乗り気でないラインハルトを客引きはプロらしく柔軟さと強引さを兼ね備えた攻勢で店内に引き込んだ。

「二名様、入りまーす!」

「いらっしゃいませ」

「キャー、お兄さん、ステキ!」

 まだ昼過ぎだったので他の客は少なく、余り気味だったキャバ嬢たちが二人の美青年を見て集中砲火を浴びせてくる。

「どうぞ、こっちに座って。お兄さん、お名前は?」

「ジークフリード・キルヒアイスだよ」

「キルヒアイスさんですね。かっこいい名前! まるで戦場を駆け抜ける疾風みたい! 軍人さんでしょ?」

「え、わかるの?」

「姿勢でわかるよ。何を飲みますか?」

「じゃあ、黒ビールを」

「黒ビールですね。私も何か飲んでいい?」

「いいよ。どうぞ」

「じゃあ、キルヒアイスさんと同じにしよ」

「君の名は?」

「私はエリザベート。エリザでも、エリーサでも好きなように呼んで」

 よくある源氏名で本名ではなかった。

「じゃあ、フロイラインエリーサって呼ぶね」

「きゃはっ♪ フロイラインとか言われると恥ずかしい!」

「一回言ってみたかったんだ。フロイラインって」

「うんうん、上流階級って感じがするよね。あ、ビール来たよ。乾杯しよ、乾杯!」

「プロージット♪」

 三葉は、どことなくユキちゃん先生に似ているキャバ嬢と盛り上がっているけれど、ラインハルトは不味そうに安ワインを黙って飲んでいる。ラインハルトに付いたキャバ嬢が話しかけても必要最低限に、ああ、と答える程度で盛り上がっていない。それでも律儀に30分間は待ち、立ち上がった。

「キルヒアイス、そろそろ出よう」

「はーい」

 まだ居たかったけれど、明らかにラインハルトが不機嫌なので三葉も立ち上がった。キャバ嬢たちもラインハルトの顔色は見ていたので、ここでしつこくすると次の瞬間に怒鳴り出すという気配を見抜き、次回のご来店を期待して引き下がった。どのみち宇宙に浮かぶ閉鎖されたクロイツナハⅢに居るのなら、また夜にでもキルヒアイスだけが来店してくれるかもしれないという見込みもあるし、そういうパターンの客も多い。三葉はユキちゃん先生に似ているキャバ嬢の頭を撫でた。

「ごめんね、フロイラインエリーサ」

「また来てください。キルヒアイス」

 店を出ると、ラインハルトはタメ息をついた。

「はぁぁ……うるさいところだった」

「ああいうの嫌いですか?」

「好かないな。むしろ、フロイラインミツハが楽しそうだったのが意外だ。あんな下品…いや、ああいう雰囲気は平気なのか?」

「雰囲気っていうか、女の子たちが可愛いじゃないですか」

「………。あれも、可愛いうちに入るのか……」

「今度は、あっちの店に入ってみませんか?」

 三葉が別のキャバクラを指したのでラインハルトは止める。

「い、いや。もう、たくさんというか、もっと別のジャンルの店にしよう。ああ、そうだ! カジノがある! カジノに行こう!」

 二人で別のフロアに移動してカジノに入ると、やはりバニーガールもいたし、スロットゲームもポーカーもあったけれど、賭け事に関しては二人とも経験がない。少し試してみて、すぐに負け、もともと吝嗇気味であるラインハルトは金銭の無駄遣いだと感じたし、田舎育ちの三葉も興味が持てずカジノに使うくらいなら、もう一度エリーサと乾杯したいと思った。

「出ようか、キルヒアイス」

「そうですね」

 ここは意見が一致してカジノを出た。

「次、どこで遊びます?」

「ふむ……」

 ラインハルトが悩む。たしかにクロイツナハⅢには休暇で遊びに来ているけれど、10歳で幼年学校に入ったきり、ずっと遊びとは無縁の生活だった。もともと壮大な目標があって座学にも訓練にも励んできたので遊び方など知らない。そして、やはり大人向け娯楽施設で水商売を避けると、やれることは少ない。ラインハルトは案内板を見て考えるけれど、フライングボールの競技場は現在閉鎖中と表示されているし、射的などでは三葉が怒りそうだし、おそらく本格的な射撃訓練にはならないと思われる。

「あ」

 ラインハルトが決めた。

「ここにしよう!」

「……ここですか…」

 小学生じゃないんだから、と三葉はプールを指されて思ったけれど、さっきはキャバクラに付き合ってもらったので同意した。二人で男子更衣室でレンタルの水着に着替え、プールサイドに出ると、やっぱり大人向けの娯楽施設なのだと感じる雰囲気だった。子供がキャッキャッと水遊びするプールではなく、大人の男女がゆったりと休暇を過ごすプールだった。

「キルヒアイス、競争しよう」

「……。場の空気を読んでください。ここで競泳とかしたら冷たい目で見られますよ」

「そう言われると、みな泳いでいないな。いったい何をしているんだ?」

「基本、カップルで来るか、ナンパでしょ。それか、日光浴、あとはお酒」

「プールの意味がないじゃないか……」

「いえ、プールがあるから水着になれるという口実があるわけですよ。ほら、ああいう水着の人もいるし」

 三葉は相手に気づかれないようにプールサイドのカウチで寝転がっているドミニク・サン・ピエールを指した。ドミニクは赤い水着を着ていたけれど、かなりの露出をしていて身体の大部分が見えている。

「あの女は、あんな姿で恥ずかしくないのか?」

「声が高いですよっ。遮音力場があるわけじゃないんですよ」

 三葉が心配したとおり、ラインハルトの声はドミニクに聞こえてしまい、寝転がっていたのに起き上がってフルーツカクテルを一口飲むと、こっちに歩いてくる。目のやり場に困るような水着姿でラインハルトは目をそらしたし、三葉はフォローするために前へ出る。

「す、すみません。田舎育ちなもので。あんまりキレイな人だから、びっくりして」

「そう。坊やたちも可愛いわね。どこから来たの?」

「オ…オーディンです」

「ずいぶん都会から来たのね。私の方が田舎者よ」

「お姉さん、どこから来られたんですか?」

「フェザーン」

「ああ、あの」

 はじめて帝国臣民以外の人間に会い、ちょっと嬉しい。

「フェザーンって、どんな感じですか?」

「抽象的な質問ね。でも一杯おごってくれるなら、話してあげてもいいわよ」

「ぜひ」

 三葉とドミニクが会話を始めると、ラインハルトはすることがなくなり、とりあえずプールを一周泳いでから、また戻ってきた。まだ楽しそうに会話してるので、また一周してから戻ってくると、アドリアーナ・ルビンスカヤに声をかけられた。

「私の連れに、お友達を盗られたみたいね」

 ルビンスカヤは黒い肌を銀色のビキニ水着で包み、黒い頭皮も銀髪のウィッグをかぶっていた。ドミニクと同じくスタイルは良いものの、ドミニクよりは露出が控え目で、けれど瞳は野心でもありそうな光りを放っていたのでラインハルトも少しは興味をもった。

「ご婦人もフェザーンから?」

「ええ。坊や、と呼ぶには失礼な年齢かしら?」

「ラインハルト・フォン・ミュ…ローエングラムですが…」

「ローエングラム……あの二度のティヤマト会戦で活躍された? たしか、以前はミューゼル…」

「フェザーンのご婦人方にまで覚えていただいているとは思いませんでした。失礼ですが、あなたは?」

「ルパーナ・ケッセルリンクと申しますわ」

 堂々と偽名を名乗った。お忍びで来ているので当然、自治領主ということは隠しているし、スキンヘッドで多くの人々に記憶されているだけに、銀髪のウィッグをかぶっていると、誰も気づかずにいてくれる。

「あの二度の会戦、本当に見事なご活躍でしたわね」

「いえ、それほどでも」

「そして、ウワサに違わぬ、この金髪もお美しいこと」

「そんなことまでウワサの種になっていますか」

「私は外側より、その内部にある実力に興味を覚えるけれど」

 ルビンスカヤが見通すように見つめてくる。せっかくの偶然の機会に最大限情報をえようとしてくる視線だったけれど、ラインハルトの方もフェザーン人という存在に興味を覚えるし、政治や軍事の話は退屈しない。二人も話し込み、三葉とドミニクの方も盛り上がっているので、ルビンスカヤが滞在しているホテルに呼ばれ、最高級ワインを飲みながら、また話し込んだ。ラインハルトとルビンスカヤは政軍について話していたけれど、ドミニクと三葉は完全に逆ナンになっている。

「坊や、女の人と、お付き合いしたことあるかしら?」

「いえ。……」

 キルヒアイスの瞳は赤いドレスに着替えたドミニクの胸を見ている。さきほどまでの水着より面積が広いので露出は控え目だけれど、また別の色気があって身体が熱くなってくる。

「フフ」

 ドミニクは露骨な視線を浴びて楽しそうに微笑んだ。まるで少年が覚えたばかりの性欲に翻弄されているような視線で、大人の男性が隠すことを学習する前の、野蛮で野性的で物欲しそうな目で年下の美男子から見られると、ドミニクも身体が熱くなってくる。今夜どうやってキルヒアイスの身体で楽しもうか、せっかくの休暇を最大限に楽しもうと、挑発的なポーズをとってみると、やっぱり見つめられる。

「「……」」

 ドミニクが脚を組むと、スカートの奥を見られるし、腕を上げて髪をまとめるフリをすると胸と腋を見られる。そろそろ、女優、歌手、ダンサーとしては第一線で活躍するには苦しい年齢になってきているだけに若い美男子からの視線は、とても嬉しくて、もう会話はどうでもよくなり、魅せるドミニクが見ている三葉の前で色々なポーズをとっている。だんだんダンサーとしての血も騒いできて、ほぼ踊りのように動いていた。ルビンスカヤの方も、ドミニクの方向性に賛同してラインハルトを口説こうと思ったけれど、こちらは容易に落ちない。軍略の話には乗ってくるけれど、ルビンスカヤの身体には一切の興味がないようで、銀色のドレスから見える内腿や胸元、腋、背中、お尻から目をそらせて話している。あまり見せつけると退室しそうな雰囲気さえ感じる。

「まるでイゼルローンの防壁ね」

「は?」

「もし閣下が同盟側で、あそこを落とすなら、どう落とすかしら?」

「さて、それは思いついても話せないな」

 アイスブルーの瞳が野心的に光ると、ルビンスカヤは金髪の頭を抱きしめたくなったけれど、正攻法で落ちないのはイゼルローン並みのようなので策略をろうすることにした。

「これは479年ものの白よ」

 そう言ってラインハルトのグラスにサイオキシン入りのワインを注いだ。この手の酒席に慣れているルビンスカヤとドミニクに比べて、まったく初陣に近いラインハルトと三葉は指先で微量ずつ入れられているサイオキシンに気づきもせず酩酊していく。それでもラインハルトは引き際を感じていた。

「酔い過ぎてしまったようだ。そろそろ失礼しよう」

「もう一つだけ昔話を聴いてほしいわ」

 もう、だいたいの話題は尽きてきたのでルビンスカヤは野心と恋について語る。

「もしも閣下が、野心と恋、いずれかを選ぶとしたら、どちらにする?」

「………。………野心だ」

「なぜ?」

「恋は誰にでもできるだろう。だが、野心は……その才幹のある…」

 アルコールとサイオキシンの作用で、もうラインハルトのろれつは怪しい。

「…者にのみ…達成可能…な…」

「そうね。昔、閣下と同じことを考えた男がいた」

「……」

「その日の暮らしにも困るような、ごく貧しい家の娘。けれど、とても可愛い。夕食を持っていてあげると、とても喜んで食べるような可愛い娘」

「……貧しい…か…」

 もうラインハルトは半分話を聞いていない。貧しかった家族3人での暮らしが脳裏を回っている。

「そんな貧しいけれど、それでも愛していた娘と結婚するか、銀河の富の数%を占める富豪の娘との縁談を選ぶか。とても悩んだし、悩みすぎてハゲてしまったけれど、結局は野心をとった」

「……」

「おかげで、その男は恋以外のすべてを手に入れ、人生を大いに楽しむ、芳醇な酒、舌を溶かす料理、心の琴線を震わせる名曲、たおやかな美女、いずれも手に入れた。そして政略と軍略のゲームを楽しむ地位さえ」

 もうラインハルトの意識は朦朧としているので、ルビンスカヤは銀髪のウィッグをとって禿頭になった。

「けれど、ダース単位で愛人をつくっても、子供をつくったのは、その娘とだけ。そういうバカな男の昔話」

「もう聞いてないわよ。どっちの坊やも」

 まだ三葉は目を開けているけれど、もうドミニクの身体しか見ていない。ドミニクは三葉が意識を失わないようアルコールとサイオキシンの量を調節していた。完全に意識を無くしたラインハルトの身体をルビンスカヤは女性とは思えない膂力で横抱きにして持ち上げるとベッドへ運んでいく。

「私の最初の相手にふさわしいわ」

「まったく、あきれるわ。たしかに、あなたは男としての楽しみを、ほぼすべて手に入れた。だからといって、女の楽しみまで手を出す必要があったのかしら?」

 ドミニクは先月までアドリアン・ルビンスキーという男性だった元愛人に問うたけれど、彼らしく、そして彼女らしく微笑まれる。

「そう、あしざまに言うものではないわ。人の運命なぞ、ちょっとした気まぐれで大いに良い方にも悪い方にも変わってしまう。むしろ、個人の才幹など、それを生かす場も与えられず死んでいった者の方が多い。さきの会戦でも100人はいたろうさ」

「運命と気まぐれねぇ……」

「オレにとって、いや、私にとって、女になったのは幸いな気まぐれだったわ。でなければ手術前に精密検査など受けなかったし、医者嫌いの私のこと、男のままだったら、近いうちに脳腫瘍で死んでいたから」

「お金儲けにもつながったしね」

 中年男性だった自治領主が見違えるような美女になったことは、すでに一部の業界では有名で銀河中から同じような手術を望む問い合わせが、すでに一万を超え、超高額にもかかわらず予約は100件を超えている。これはこれでフェザーンの新たな経済的優位点になりつつあった。イエス・ルパート・クリニックは結果にコミットする、という謳い文句で自治領主の顔写真をビフォアーアフターで流している。どう見ても別人というほどの美女になっているけれど、自治領主という立場に変更がないのでコンピューター合成写真でもない、真実だと思われているし、医科大学院を出たばかりの実力派名医も笑顔でCMに出ている。地球教の司教も、いい顔はしなかったけれど、ダメという教義もなかったので不問にしていた。

「はぁぁ…」

 ドミニクは聞こえないように囁く。

「結局、いまだに初恋の相手が忘れられないようじゃ、たかが知れているけれど。ね、坊や」

「ぁあぁ」

 ふらふらと三葉が求めるように抱きついてくるのを避けて、ドミニクは高級ハンドバックから注射器を出した。

「最高にハイで忘れられない夜にしてあげる」

 やはりサイオキシンも麻薬なので口から飲食物に混ぜて摂取させるより血管に直接流し込む方がはるかに効く。サイオキシン入りの注射器の針がキルヒアイスの肌へ刺し込まれつつあるのと、ルビンスカヤの舌先がラインハルトの肌へ接触しつつあるのは、ほぼ同時だったし、そして夜12時だった。

 



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11話

 

 

 キルヒアイスの瞳がアルコールとサイオキシンと色香に酔っていた色合いから、熱い告白をされた余韻に浸っている乙女の色合いになって、そして今しも注射器で怪しげな薬物を投与されかかっている帝国軍大佐の危機感に満ちた目になった。

「やめなさい!」

 明らかに看護婦でも医師でもない妖艶なドレスを着たドミニクを平手打ちして倒すと、状況を確認するために周囲を見回すのと同時にブラスターを抜いた。

「くっ…」

 目まいがする。アルコールだけでない神経異常を感じた。

「何するのよ?! っ………」

 顔を叩かれたドミニクが激怒しているけれど、ブラスターの発射口を向けられて黙った。さっきまでの色香に惑ってくれていた様子とはまったく違い、下手に動くと撃たれると感じている。

「この注射器は何だ?!」

「……さあ?」

 ピシュン!

 威嚇だったけれど、ドミニクは顔の横を撃たれて、次の回答は慎重にしないと殺されないまでも膝や腿を撃たれるかもしれないと感じた。

「ラインハルト様は?!」

「………」

 ドミニクは視線をベッドに向けた。

「ラインハルト様!」

「急に威勢が良くなったな、坊主」

 坊主頭の美女がラインハルトを人質に取るようにしている。ラインハルトは意識がなく、ぐったりとしていたし、ルビンスカヤはスカートの中から小型ブラスターを抜いている。

「ラインハルト様に何をした?!」

「………うむ、貴様、夢遊病者か何かか。それともサイオキシンが、おかしな回り方をしたか…」

 ラインハルトを人質に取りながら、ルビンスカヤは銀髪のウィッグをかぶる。

「さて、どうする?」

「くっ…」

 ブラスターで狙いをつけているものの、目まいがする。ぐらぐらと頭が揺れて今にも意識を失うかもしれない。キルヒアイスはドミニクを人質に取った。状況は不明だったけれど、二人の女は仲間のように見えたし、その判断は悪くなかった。

「なるほど、では人質交換。そして解散といこうか」

「………わかった。ラインハルト様を無事に返すなら、それでいい」

「ドミニクと出口まで向かえ」

「ラインハルト様は?」

「部屋の奥に置く」

 そう言ってルビンスカヤはラインハルトを室内に残し、自分たちの重要な荷物だけを手にすると、ブラスターの発射口を天井に向けた状態でキルヒアイスと距離をとりつつ室内を時計回りに移動し、キルヒアイスにも同じように動くよう顎で指示した。

「………」

「………」

 お互いに一触即発を避けつつ、室内を迂回して距離をあけ、ルビンスカヤはドミニクのいる出口へ、キルヒアイスは部屋の奥へと動き、ラインハルトのもとへ辿り着いた。

「ラインハルト様、ラインハルト様!」

 呼びかけても意識はないけれど、呼吸はしてくれているし、顔色も悪くないので少し安心した。そしてルビンスカヤたちに問う。

「お前達は何者だ?! さっきの注射はサイオキシンなのか?!」

 けれど、すでに二人の姿は出口から消えていて、もう誰もいない。追いかけたいけれど、目まいがして歩くのも苦労する。なんとか、電話機まで辿り着くと警察署に連絡してホフマンを呼び出してもらった。

「ラインハルト様、ラインハルト様」

 ホフマンが来てくれるまで呼びかけていると少しは反応してくれた。

「ぅぅ…」

「ラインハルト様……よかった……ご無事で…」

 けれど、今度は自分の意識が朦朧としてくる。結局、意識を失ってしまい、駆けつけてくれたホフマンに事情を説明することができたのは、かなり時間が経ってからとなり、その頃にはルビンスカヤたちはクロイツナハⅢから消えていた。ラインハルトとキルヒアイスが不本意にサイオキシンを摂取させられたことは不名誉なことだったけれど、一昨日の警察への協力とホフマンの機転もあり、記録には残らないまま解毒剤をもらえたものの、もうクロイツナハⅢには滞在したくなかったので、すぐにオーディンへ帰還した。

 

 

 

 三葉は習慣になっていたのでヨガマットの上にいたけれど、もしかしたらトイレまで間に合ったかもしれないという違和感と、そして24時間前に着けていたショーツとは違うショーツを着けていることに気づいてギョッとした。

「なんで、私のパンツ替わってるの?!」

「お姉様がテッシーと噴水に落ちたらしいよ。で、お風呂に入ったの」

「お風呂に?!」

「ちゃんと目隠しして、私がいっしょに入ったから安心して」

「……それでも……勝手に……。ううっ……いいところで交代になるし……」

 ドミニクの姿態が脳裏によぎった。

「今日は、どうだったの?」

「はじめて遊びらしいことできたよ」

 ヨガマットを片付けつつ、今日の体験を語る。

「娯楽施設に行っててね。女の子とお酒を飲んだりプールで逆ナンされたりしたよ」

「……う~ん……なんか、それ、お姉様のイメージと違うなぁ……お互い、いろいろすれ違ってないかなぁ……」

「お風呂、まだお湯ある?」

「あるよ」

「じゃあ、入ろ」

 二度目になるらしいけれど入った実感がないので入浴するため脱衣所へ行って悲鳴に近い絶叫をあげた。

「なんで、このワンピが出てるの?!」

「お婆ちゃん寝てるから静かにね」

 四葉も二度目の入浴が習慣になってきたのでパジャマを脱いでいる。

「まさか、この乙女ワンピで出かけたの?!」

「デートとか言ってから、まあ普通のチョイスだと思うけど」

「デートじゃないよ、ただのお出かけだよ。うう……このワンピで外を歩くなんて…」

「それ、お姉ちゃんが中学の頃に買ったやつじゃん。自分で買ったのにダメだし?」

「あれは気の迷いだったの! 思春期の黒歴史だよ! こんな女の子っぽいの着てみたいな、って思わず買ったけど着てみたら、いかにも過ぎて恥ずかしくて部屋から出られなかったし、四葉にしか見せてないの」

「お姉様とお姉ちゃんの羞恥心は、いろいろと水準が違うんだね」

「あいつ、ホントに男なの?! よく、こんな女の子女の子したワンピでテッシーと……」

 そう言って湯船に入っていると、だんだん克彦と、どんな日曜日を過ごしたのか心配になってくる。さっと洗髪して、すぐに揚がると手紙を読んだ。

 

宮水三葉さんへ

前略、本日は大切な報告があります。ご予定通りにテッシーとデートいたしました。

 とても親切にエスコートしてくださり、楽しい一日を過ごすことができました。あれほど、すぐれた男性はそうそういないと感じております。優しくて頼りになって逞しくて、そして彼は三葉さんのことを好きでいてくださいます。

 これは憶測などではなく、確かなことです。

 はっきりと彼は私に、いえ、三葉さんに向かって、好きだと言ってくださいました。とても熱意のある告白で私が代わりに聞いてしまったことは本当に申し訳ないのですが、それだけに三葉さんにも伝えておきたいのです。あんなに感動的な告白をできる男性は、この宇宙にそうはいないでしょう。女の身になって受けても、男として見ても、とても尊敬に値する人であると感じております。

 もちろん、告白に対する答えは保留しております。

 明日、お答えいたします、と伝えて、お待たせすることも陳謝いたしております。

 あとは三葉さんのお気持ち次第です。

 ただ、差し出がましいようですが、テッシーは素敵な方だと思いますし、三葉さんのお相手として望ましいと感じます。また、青春の時間というのは、とても短いものです。とくに来年には大学受験を控えておられるのですから、お二人が楽しい時間を過ごせるのも今年の秋くらいまでかもしれません。そのことも含めて、テッシーの熱意に答えてあげてください。どうか、良い青春の思い出をたくさんつくってください。

 もう一つ、ご報告せねばならないことがあります。

 サヤチンのことです。これは憶測なのですが、おそらくは外れていないと思います。サヤチンはテッシーのことを好きでいらっしゃると感じるのです。

 それなのに、私はデートが終わった後にサヤチンからお電話をいただき、そのとき告白された嬉しさで軽率にもテッシーとのことを祝福してください、とお願いしてしまったのです。

 このために、彼女は大変に憤慨されてしまい、お詫びのしようもありませんでした。まことに勝手で申し訳ないのですが、サヤチンのことは、どう対応してよいかわからず、善処いただければ幸いです。 草々

 

 手紙を読み終えた三葉の手が震えている。

「……サヤチンに……なんてことを……」

「サヤチンさんの気持ちに気づいてなかったんだ。お姉様……そのへんは男っぽいね。あんなわかりやすいアピールに気づかないとか」

 横で四葉も手紙を読んでいた。

「う~……サヤチンに、なんて言って謝ろう?」

「それもあるけど、告白の方はどうするの?」

「……そんなこと言われても……私が告白されたわけじゃないし……」

「ぶっちゃけ、好きなの? 嫌いなの? 男子として」

「…………」

「……」

 あ、ちょっと赤くなった、でも真っ赤になるほどじゃないんだ、と四葉は姉の気持ちを計ったけれど、三葉は友情の破綻を心配している。

「ありえないよぉ……私たちは三人で、いい関係だったのにぃ……」

「そろそろ寝ないと遅刻するよ」

 そう言って四葉は退室し、三葉も悩みながら布団に入って朝を迎えた。あまり眠れずに布団を出て、休みたいけれど休むわけにはいかない、と登校する。いつもより早く出たり、遅く出たりして早耶香と克彦を避けようかとも考えたけれど、それをすると逆にあとあと話しにくくなると、四葉に言われて普段通りのタイミングで通学路に出た。

「………」

「………」

「………」

 通学路には同じことを考えた早耶香もいたし、克彦もいた。克彦は当然として、早耶香もタイミングをずらすのは負けを認めた気もするし、もう負けているけれど最後の意地で長年の習慣通りに登校している。早耶香と重苦しい雰囲気で歩いていた克彦が挨拶してくる。

「よ、よぉ、三葉」

「……うん……おはよう。……サヤチン、おはよう」

「……。おはよう」

 返事はしてくれたけれど、目は合わせてくれない。顔も見たくないという気配が漂っている。

「………サヤチン、あのね…」

「…………」

 黙って早耶香が歩調を早めた。遅れないように三葉も歩調をあげ、克彦もついていく。

「………」

「………」

「……そ、そうだ! お土産があったのに電車に忘れちまったろ? あれ、さっき駅に連絡したら届いてるって! 放課後、取りに行こうぜ!」

「「………」」

「マス寿司、美味かったぞ! ありがとうな。こっちも、お土産にクッキー買ってきたんだ。な、三葉」

「う…うん…」

 とりあえず頷いた。多めに買ってくるように伝えておいたお土産が無かったことには今になって気づいている。早耶香が、さらに歩調を早めた。話したくない、ついてこないでという背中を追いかけているうち学校に着いてしまった。早耶香と落ち着いて話すタイミングをもてずに授業を受け、昼休みになった。

「………」

 いつも通りなら三人で校庭で食べるけれど、どちらから誘うわけでもなく移動していたので、どうしようか迷っていると克彦が声をかけてくる。

「三葉、昼飯、行こうか」

「……。サ、サヤチン、お昼ご飯、食べに行こうよ」

 勇気を出して声をかけると、早耶香は弁当箱を出して考える。

「………いい。今日は教室で食べるから」

「そ……そう…」

「オレは先に行ってるぞ」

 克彦が行ってしまうと、三葉は二択を迫られた。校庭に行くか、このまま教室にいるか、場所の二択は、そのまま人との関係に反映されることが痛いほどわかる。三葉は恐る恐る弁当箱を持って、早耶香の机に移動した。

「い…いっしょに……食べていい?」

「………。……」

 いいともダメとも言わなかったけれど、早耶香は机上に少しだけスペースを空けてくれた。

「あ…ありがとう…」

「………」

「……。あの…ね……昨日は、私、どうかしてたと思うの……ごめんなさい…」

「…………早く食べたら?」

「う……うん…」

 二人で昼食を食べるけれど、あまり味は感じない。ちらりと校庭を見ると克彦が一人で食べながら月刊ムーを読んでいる。月刊なので一ヶ月間、ずっと同じ雑誌を読んでいることが多い。

「…………」

「気になるなら、行ってきたら?」

「ううん、そういうわけじゃ……ないから…」

「…………」

「ホントごめん! ごめんなさい!」

 手を合わせて頭をさげた。

「……………それで、私は謝ってもらったし許さないといけないわけ?」

「そ……そんな……つもりじゃなくて……ただ、謝りたくて…」

「…………」

 早耶香は食べ終わると、スマフォをいじり始める。三葉も食べ終えたので黙っているのも居心地が悪いのでスマフォをいじる。昨日のパンケーキの写真が出てきたので、あわてて閉じたのに、見られていた。

「カフェ、楽しかった?」

「ぅ……ううん! ぜんぜん!」

「…………」

 早耶香が立ち上がった。

「ど、どこ行くの?」

「トイレ」

「そ…そう…じゃあ、私も…」

 前の休み時間に済ませていたけれど、ついて行く。女子トイレで別々の個室に入ると、三葉は用がないので、そのまま便座に座った。かさかさと早耶香が入った個室から音が聴こえてきたので月経中だと気づいた。三葉ほど早耶香は重くないけれど、やっぱり機嫌は悪くなりやすい。しばらくして早耶香が個室を出たので三葉も出る。

「………」

「………」

「……と、富山、どうだった?」

「別に、普通」

「そっか。まあ、そうだよね」

 予鈴が鳴った。

「………」

「………」

 教室に戻ると、克彦も戻ってくる。三葉が目を合わさないようにしていると、克彦は黙って自席に座った。授業が始まっても、頭に入らない。先週にキルヒアイスが受けてくれた実力テストが返ってきて、先生に誉められても嬉しくない。そして、重い気分のまま放課後になり、早耶香が教室を出て行くので、あとを追った。

「ぃ、いっしょに帰ろうよ」

「………」

 早耶香は歩調を早めなかった。後ろから克彦がついてくる気配がする。三人で校門を出ると、いつも通りの道を黙って歩く。

「………」

「………」

「………」

 二つめの交差点まで沈黙のまま進み、克彦が口を開いた。

「駅にお土産を取りに行こうぜ」

「じゃあ、私は帰る」

 そう言って早耶香が別々の道を行こうとしたのを三葉の手が袖をつかんで止めた。

「ヤダよ! 私はサヤチンと友達でいたいよ!」

「「………」」

「私は三人がいいの!!」

 叫ぶと涙が溢れた。

「三人でいたい! 二人とも好きだもん!! バラバラなんてイヤだよ!!」

「「……………」」

「お願い! このままの三人でいよう!」

「…三葉ちゃん……」

「三葉………」

「サヤチンとテッシーと私の三人でいたいの! お願いだよ!」

 ぼろぼろと三葉が涙を零したので、早耶香がハンカチを出してくれた。

「ほら、そんなに泣かんで」

 そう言う早耶香も泣きかけている。克彦がタメ息をついた。

「泣く子と地頭には勝てない、ってか」

 これ以上、三葉を困らせたくなかったので克彦は戦術的撤退を決め、今しばらく三竦みは続くことになった。

 

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で目を覚まして、手紙を読んで顔を曇らせた。

「……このままの三人で……」

 期待していた朗報と違う手紙だった。

 

 キルヒアイスさんへ

 私は今までの三人でいたいの。

 サヤチンは大事な友達だし、テッシーとも友達でいたいんです。

 今までの三人で、このままの三人で平和に、ずっと過ごしていきたいの。

 だから、必要以上にテッシーに近づかないで。

 二人きりで出かけるのは無しで、二人きりになるのもさけて。

 あと、お風呂に入るのも、よっぽどじゃない限りやめてください。

 入るとしても目隠しして四葉といっしょでお願いします。

 

 入浴については異存はないけれど、克彦のことについては残念でならない。

「……平和に、ずっと過ごして……、そんな時間は、もう……」

 できれば二人には数ヶ月でも幸せな日々を送って欲しかったのに、早耶香に遠慮しているのか、決断を先延ばしにしたのか、もどかしい答えが書いてあった。

「………テッシーの、あの告白を三葉さんにも聴いていただきたいくらいですわ。あんなに熱い想いを……」

 切なくて両手を胸の前で祈るように握った。三葉の胸の膨らみに手が触れているけれど、それさえ意識しないほど残念に思っている。それでも、いつも通りに身支度をして通学路に出た。

「おはようございます、テッシー、サヤチン」

「ああ、おはよう。三葉」

「…おはよー…三葉ちゃん…」

 克彦は何か期待した目で見てくるけれど、早耶香は冷めた目で見てくる。もう、そのお嬢様モードはやめてほしいんだけどな、という視線だったけれど、早耶香に会釈してから、克彦を見つめる。

「……」

「……」

 二人とも、夕日に照らされたお互いの顔を想い出してしまった。

「「………」」

 必要以上に近づくな、と呪縛されてしまい、まるで後宮にいるアンネローゼと自分のようだとさえ感じると、余計にもどかしい。けれど、このままの三人でいたいという気持ちにも共感できる、あのままの三人でいられたら、と10歳の頃を想い出しもする。ただ、似ているようで姉弟という家族愛がある三角関係とは、まったく違う部分もあるのだと考えれば、いつかは選択のときがくるかもしれないし、この三人には永遠に来ないのかもしれない。克彦を見つめる三葉の目尻に涙が浮かんだ。

「……テッシー…」

「…三葉……」

「サヤチン・ハンマー!」

 ハンマーと言ったのにチョップを頭頂部に受けてしまった。

 

 

 

 三葉はオーディン市街地で文句を言いながら買い物に出ていた。朝から夕方まで座学と訓練とサイオキシンの危険性について、みっちり学ばされて、かなり疲れている。

「好きなワインを買っていいとか言ってさ。エサがあれば頑張って勉強すると思う、その魂胆がイヤだなぁ……私は犬か」

 最近、妹からも犬を見るような目で見られることがある。

「この店かぁ…」

 教えられたワインの店に入った。

「どれにしようかなぁ……って、知識もないし。高ければいいってものじゃないかな」

 なんとなく手を伸ばしたワイン瓶を取ろうとして、同じく手を伸ばした隣りにいた客と手が触れ合った。

「「あ…」」

 二人とも手を引っ込めたけれど、三葉は相手が女性だったので譲る。

「どうぞ、フロイライン」

「ありがとう」

 ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフは快活に礼を言ってワイン瓶を取った。

「「………」」

 何か社交辞令でも言うべき場面だったけれど、三葉は不慣れだったし、ヒルダは若いのに大佐の階級章をつけていることに興味をもっていた。

「では、失礼します」

 それでもヒルダは胸や腰を見てくる男性らしい視線を浴びて、会釈して背中を向ける。お尻のあたりにも視線を感じるけれど、だいたいの男性は自然の摂理なのか、生理現象なのか、似たような反応をするので、もう慣れているし、それほど不快でもない。

「お父様の好きな銘柄があってよかったわ」

 あまりワインなどには詳しくないけれど、それでも父親の嗜好くらいは把握しているので会計を済ませ帰宅する。居間に入ると、フランツ・フォン・マリーンドルフは浮かない顔で何かを悩んでいた。

「どうされました? 浮かない顔をして」

「ああ。少し親類のことが気にかかってな」

「ハインリッヒのことですか?」

「いや、マクシミリアンのことだ」

 穏健な良識派で知られるフランツだったけれど、なぜか気がかりな親戚には恵まれている。

「マックが、どうかしたのですか?」

「ああ、財務省の調査官を追い払ってしまってな」

「彼なら、やりかねませんね」

 親戚なので子供の頃に遊んだこともある。あまり、いい性格でないことも知っているし、男勝りのヒルダとは外で遊んで衣服を汚し、いっしょに入浴したこともあるけれど、なぜか、まだ9歳だったヒルダの下半身をジロジロと見てきたことを印象深く覚えている。そして、ヒルダが15歳を過ぎると、もうパーティーで出会っても興味なさそうにしていたので、かなり残念な指向をもっているのだと、薄々察してもいる。

「やれやれ、近いうちに説得に出向かなければならないかもしれないな。隣の星系でもあることだし」

「そういうことなら、私もついていきましょうか」

「ヒルダが?」

「歳も近いですし、何より、こういったことを経験しておきたいのです」

「うむ、お前は、そういうことにばかり興味を持つなぁ……まあいい、では、つれていこう」

 フランツは激しく後悔することになる選択をした。

 

 

 



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12話

 

 

 キルヒアイスは糸守高校の修学旅行での行き先を決めるHRで、三葉の手をあげた。

「宮水さん、どうぞ」

 クラス委員が指名してくれたので上品に立ち上がって発言する。

「発言の機会をいただきありがとうございます。私の意見を述べさせていただきます。やはり、すでに先生方からのご意見にもありますように、広島県と京都府への訪問をプランにさせていただく方が良いかと考えます」

 北海道、東京、京都、大阪、広島、福岡、沖縄から生徒と教師の意見をまとめて決定するHRだった。三葉に目立たないで、と言われているので、ずっと自重していたけれど、生徒たちの意見が東京でディズニーランドに行った後、大阪でUSJに行って帰るというプランが多かったので、どうしても黙っていられず意見具申していた。

「その理由につきましては、まず広島には第二次世界大戦についての歴史遺産が多く、大和ミュージアムと原爆資料館は訪れる意味が深いと考えます。戦艦大和は水上戦艦として人類最大のものでしたし、また惑星…、いえ、地球上で熱核兵器が使用された例は今のところ広島と長崎のみです。この資料館は是非とも訪れるべきかと感じます。そして、京都は桓武天皇が794年に都として以来、すでに1219年も都市として繁栄しています。このこと自体、人類史上まれにみぬ奇跡です。加えて千年の時を経た木造の建造物がいまだ現存しており、これも奇跡といってよいかと感じますし、この時代に生きる者として一目見ておくことができるのは、何物にも代え難い幸運かと存じます。以上のような観点から、私は広島県と京都府への訪問を提案いたします」

 ユキちゃん先生だけが拍手してくれている。

「お嬢様、うぜぇ」

「やっぱ、町長の娘だよなぁ」

「うざすぎぃ」

 クラスメートが不規則発言しているので、また三葉に怒られるかもしれないと少し後悔したけれど、もう言ってしまったことなので頭をさげて着席した。ユキちゃん先生が安心した顔で教卓に立つ。

「では、東京と大阪の案と、広島と京都の案で、また職員会議を経て決定します。みなさんからの意見は単純な多数決ではなく、修学旅行の意義と目的をふまえて決まりますから、そのことも承知しておいてください」

 校長と教育委員会からディズニーランドとUSJはさけるように指導されているユキちゃん先生は、生徒からの自発的な意見ということで広島と京都を職員会議に出せそうなので、軽い足取りで職員室に戻り、三葉の口が述べた意見を模範解答としてメモしておいた。

 

 

 

 帝国軍は同時並行して、アスターテ方面へローエングラム上級大将の艦隊を、カストロプ領へシュムーデ提督の艦隊を派遣していた。そして、三葉は旗艦ブリュンヒルトの艦橋から同盟軍第四艦隊との交戦を見ていた。

「…………」

「怖いか?」

 ラインハルトが訊きながら、キルヒアイスの前髪に少しだけ触った。

「いえ………ラインハルトさんの作戦は、いいと思います」

「ほお、だが、顔が不安そうだぞ」

「………。作戦は良くても、それを実行する人たちが、今回はミッターマイヤーさんもロイエンタールさんもいないし。ノルデンさんもメックリンガーさんも外されちゃったんですよ? 意地悪されすぎです。しかも、一個艦隊で行けとか、ありえないですよ」

「クスっ…ノルデンはともかく、他の三人がいないのは、いささか淋しいな。だが、他の提督たちとて死にたくはあるまい。奮戦するしかないだろう。それに指示に従わない別の艦隊がいるよりオレたちの艦隊だけの方が、ずっといい」

 ラインハルトの見込み通り、すでに第四艦隊は組織的な抵抗ができなくなっている。メルカッツからの通信に対して掃討戦は無用と答え、艦隊の再編を指示したラインハルトは三葉に訊いてみる。

「次に、左右どちらの艦隊を攻撃するべきだと思う?」

「…………どちらも可能っぽいけど、やっぱり数が少ない方かな……」

「うむ、そうだろうな。だが、他に何か言いたそうな顔をしているな。言ってみろ」

「じゃあ、もう、ここで撤退するというのはダメですか?」

「ここでか? まだ、敵は二個艦隊も残っているぞ」

「2倍の敵を相手に一つ艦隊をつぶしたことですし、もう戦功としては十分じゃないですか。また昇進できますよ」

「だが、みすみす敵の二個艦隊を逃すというのか?」

「第三次ティアマト会戦のときも、ホーランドさんの艦隊だけつぶして、あとは放置したじゃないですか。いい感じに勝ってるうちに帰るのがラインハルトさんらしいかと」

「………。あのときとは状況が違う。敵の二個艦隊は分散している。これを撃つ好機なのだ」

「そうですね。そう言われるとは思ってました。目を見たら、やる気まんまんだから」

「フン」

 言ってみろ、と言った手前ラインハルトは美しい鼻を鳴らしただけで三葉の意見を強くは否定しなかった。そして、次に同盟軍の第六艦隊へ向けて移動するよう指令して、また三葉が何か言いたそうにしているので、訊くだけ訊いてみる。

「何か異議でもあるのか?」

「異議っていうか……次の会敵までに時間があるなら、交代でみんなに休憩をしてもらったら、どうかなって……余計なことかもしれないけど」

「いや、いい意見だ。気づかなかった。そうさせよう」

「……」

 それは気づいてあげようよ、みんながみんなラインハルトさんみたいに、やる気まんまんで参加してるわけじゃないんだから、と三葉は思ったけれど顔に出さないようにして休息の指示を出しに行った。そして7時間後、第六艦隊も破り、第二艦隊へ紡錘陣形をとって中央突破をしつつあった。

「完勝ですね」

「ああ」

「本当に、すごい」

「フ」

 単純な賞賛だったけれど、快勝しつつある状況で言われると嬉しい。

「どうやら勝ったな」

 ラインハルトがつぶやいたとき、第二艦隊の旗艦パトロクロスでヤン・ウェンリーも言った。

「どうやら、うまく行きそうだな」

 中央突破されるのを逆手にとってラインハルト艦隊の後方に回り込みつつある。ラインハルトが指揮席から立ち上がった。

「しまった……」

「え?」

「してやられた………敵は左右に分かれて我が軍の後方に回り込むつもりだ。中央突破を逆手に取られてしまった」

「………。どうされますか?」

 三葉の問いに、ラインハルトは即断する。

「全艦隊、全速前進! 大きく時計回りに迂回して逆進する敵の後背をつけ!」

 その命令に一部の艦は離反したけれど、多くは従い、陣形はリング状になった。

「何たる無様な陣形だ! これでは消耗戦ではないか……」

「………」

「キルヒアイス、どう思う?」

「………。人として、思いついてはいけないことを思いついてしまいました」

「ほお、キルヒ…いや、フロイラインミツハが、か?」

「はい……あまり言いたくないんですけど、言ってみろって、言うでしょ」

「ああ、聴いてみたいな。ぜひ拝聴させてくれ」

「ラインハルトさんとキルヒアイスさんの目的が帝国軍の単純な勝利ではなくて、アンネローゼさんを取り戻すことであるなら、その障害となりそうな人を、さっき命令に反して自滅してしまったエルラッハ少将のような形で、この機会に反転突撃でもさせるか、なにか策があるフリをして孤立させて置き去りにするか、単純に殿を命じて撤退するか、そういう風に………始末……する、っていうのは、どうですか?」

「…………意外、だな……」

「自分でも意外ですよ。こんなこと思いつくなんて。自分たちが優位に立つことだけを考えてると、人間って、どこまでも卑しくなりますね……ホント……怖い。戦争なんて、さっさと、やめればいいのに」

 三葉は寒気がするように腕を撫でた。そして気になっていることを問う。

「あの、私から質問していいですか?」

「ああ、どうぞ」

「私たちの中央突破を逆手にとって後方に回り込むって戦術、どうして傍受できなかったんでしょう?」

「それは、おそらく敵将の中に、すぐれた者がいて会戦前に戦術コンピューターに内容を送信しておいたからだろう。つまり、私が各個撃破をもくろむことを見越していた者が敵の中にいるということだ」

「…怖いですね……第二艦隊を最初に相手にしていたら、危ないところだったんだ……」

「………」

「あ、もう、こんな時間」

 時刻を見ると、もう夜12時になりそうだった。

「すみません、手紙を書く時間もないので、戦況など、キルヒアイスさんに教えてあげてくださいね」

 そう言って指揮席の背もたれを手でつかみ、力が抜けても身体のバランスを崩さないようにした三葉は目を閉じた。

 

 

 

 キルヒアイスは目を開けてアスターテ会戦の最終局面を見た。

「これは……」

「面白い陣形だろう。どうして、こうなったと思う?」

「お意地の悪い質問ですね」

 苦笑したけれどキルヒアイスは明晰に考えた。

「我々は3方向から包囲されつつありましたが、ラインハルト様の作戦通りに進み、おそらく今、戦っているのは最後の3つ目の敵艦隊でしょう」

「なぜ、そう思う?」

「他に敵艦隊が残っていれば、こんな無防備な陣形を維持されているはずがありません」

「たしかに」

「それで、ここから、どうなさいますか?」

「ふむ。やはり撤退だろうが、フロイラインミツハの発案を教えてやろう」

 そう言ってラインハルトは三葉の発想をキルヒアイスに伝えた。

「………意外ですね」

「だろう」

「とはいえ、彼女に軍事的な知識を与え、戦場に身を置かせているのは私たちです。場にふさわしい思考をした、それぞれの居場所に適応してきた、といえば、そうかもしれません。それにアンネローゼ様のことを強く気にかけてくださっているのも、やはり女性だからでしょうが、私自身も女性として過ごしているために、もう向こうにいるときは自分が自分でないというか、二つめの自分といった心地になっています」

「それは見てみたいものだな。フロイラインとして過ごすキルヒアイスというのは実に興味深い」

「見せられたものではありません」

 キルヒアイスが少し赤面してから思考を戦場に戻した。端末機を操作して、ここまでの会戦全体を把握し、そして提案する。

「やはりタイミングを見ての撤退でしょう。ラインハルト様」

「ああ。フロイラインミツハの策は、どちらかというとオレたちが被害者にされかけたことが多かったような策謀だな」

「はい。たしかに」

 これまで何度も戦場で門閥貴族から戦死に見せかけて殺されかけた二人は嫌な思い出を振り返っている。

「オレは勝利者になるにしても卑怯者にはなりたくない。もっとも、オレの麾下の艦艇にフレーゲルでもいたのなら、その誘惑に勝てたか、どうか。このくらい、いいだろう、と反転命令でも出したかもしれないな」

「クスっ…お意地の悪いことで」

 二人が談笑していると通信士官が入電を告げる。

「敵旗艦より入電!」

「読み上げろ」

「はい! ……。我々は十分に戦った。これから撤退する。反撃の備えはあるが、できれば追撃しないでほしい。自由惑星同盟軍准将ヤン・ウェンリー。以上です!」

「「………」」

 ラインハルトとキルヒアイスが目を見合わせた。キルヒアイスが通信士官に問う。

「本当に敵旗艦からのものですか?」

「はい! 偽装工作の痕跡はありません!」

「…………。ラインハルト様、どう思われますか?」

「策にしては見え透いているというか、浅はかすぎるな。つまり……ただの本心だろう。こちらが、もたもたと撤退のタイミングを逃しているから痺れを切らしたな。正直すぎるヤツだ。クク…。よかろう! こちらも撤退する! 返信を送れ!」

「はっ!」

 敬礼した通信士官がメモを取る用意をした。

「貴官の勇戦に敬意を表す、再戦の日まで壮健なれ。と、私の名で送れ」

 ラインハルトは模範解答を返信させた。アスターテ会戦は終結し、同盟軍の戦死者は151万人を超え、帝国軍のそれは15万5000人余りとなり、やや撤退のタイミングが遅れたことで糸守町の人口を超える戦死者を出していた。

 

 

 

 三葉はヨガマットの上でアスターテ会戦での自分の思考を振り返り、身震いしていた。

「私なんてこと考えたの……怖っ…」

「何かあったの?」

「う~ん……妹に言えるようなことじゃないよ」

「また、キャバクラでも行ったの?」

「………」

 黙って三葉は濡らしたヨガマットを片付けた。

 

 



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13話

 

 

 

 キルヒアイスは宮水神社の境内で夏祭りにそなえた練習として、四葉が巫女服を着て舞っているのを見て感動していた。まだ10歳の四葉が神々しくさえ感じられるほど美しい。

「高天原にかみつまします。かむろぎかむはやぎなる神々に」

 祝詞の声も朗々として、場の空気さえ変化している気がする。舞いが終わり、三葉の手が妹を讃えて拍手する。

「すばらしいですわ! なんて感動的なのでしょう! まるで天使のようですよ!」

「……。ありがとう、お姉様」

 姉の顔で最大限の讃辞を送られると、かなり照れくさい。四葉が赤面して咳払いした。

「じゃあ、次は、いっしょに舞ってみて」

「はい」

 すでに巫女服を着て準備もしている。もしも、夏祭りの日に入れ替わっていた場合にそなえての練習だった。

「いくよ」

「はい」

 二人が舞台に立ち、一葉が雅楽を奏でてくれる。やってみると、三葉が白兵戦技や射撃を習得するのが早かったように、すぐに舞いを覚えることができた。

「うん、いいね。この調子なら大丈夫そう」

「きっと三葉さんが、しっかり練習してくださっていたおかげですわ」

「はは…」

 嫌がる姉に祖母が叩き込んでいた長年の記憶が蘇り、四葉は苦笑した。舞いの習得が終わると、四葉は三宝を持ってきた。

「それは何でしょうか?」

「三宝って言ってね。普通の家は鏡餅とか載せる台だよ。神さまへのお供え物を載せるのが普通の使い方だけど、祭りの本番では、ここに炊いたお米を載せるの」

「お米を供えるのですね」

「ううん、お米は口噛み酒の材料。とりあえず、やるから見てて」

 四葉は三宝にエアガン用の白いBB弾をザラザラと入れた。

「昔はね、よく洗った玉砂利とかで練習したらしいよ。お婆ちゃんの代にガラス玉のビー玉で練習するようになって、私たちはBB弾でやるようになってるの。本物のお米だと、もったいないからね」

 説明した四葉は舞いの最終形をとると、三宝からBB弾を摘みあげ、口に運ぶ。

「んぐ…んぐ…」

 もごもごと噛むように口を動かし、それから酒枡へおごそかにBB弾を吐き出した。

「と、こんな感じに、お米をよく噛んで、ここにキレイに吐き出すの。唾液とお米が、よく混じるように噛んで、それから一粒残さず吐き出して、できるだけヨダレが糸を引かないように、すっきり出すんだよ」

「……………」

 三葉の瞳が、いつも通りやりたく無さそうにしているけれど、子供が駄々をこねるような色合いではなく、あまりに文化が違うので困惑しているという色合いだった。

「じゃ、やってみて」

「………………あの……何と言いますか……その……こう申し上げては失礼かもしれないのですが……私の知っている行儀作法や女性としての振る舞いから見て………その……品位が……いささか………欠けるといいますか……文化的な違いかもしれませんが……上品には見えないのです……」

 喫茶中に食べかけのパンケーキを撮影することさえ、激しく羞恥心を刺激されてできなかったのに、口に入れた物を唾液とともに吐き出すという行為を求められて拒否したいのに拒否できず困っている。四葉は選択の余地なく求める。

「これは神聖な儀式だから品格は高いよ。いかに上品にやれるかがポイント」

「…………」

「やってみて」

 ずいっと四葉が三宝を差し出してくる。

「……………」

「さ、やってみて」

「……はい…」

 姉と違って駄々はこねないけれど、三葉の手が震えている。その震える手でBB弾を少しだけ摘むと、口に運んだ。

「……………」

「よく噛むフリして。BB弾だから本当に噛むとダメだよ」

「…………」

 三葉の目が潤みつつ、噛むフリをしている。

「はい、こっちに出して。ヨダレが糸を引かないように、すっきりと」

「……………」

 恥ずかしそうに手で隠しながら、ほんの少しだけ三葉の唇が開き、ぽろぽろとBB弾を酒枡に落としていく。BB弾には唾液がまとわりつき、糸を引いている。

「うん、一回目にしては上出来」

「……ありがとうございます……」

「はい、二回目やろうね」

「……………はい…」

「さっきより多めに入れて。で、吐き出すとき手で隠すのはいいんだけど、完全に隠しちゃダメなの。ちょっと手をそえるくらいの感じ。ゆっくり私もやるから、真似しながら、やって」

「………はい…」

 四葉の手がBB弾を摘み、続いて三葉の手もBB弾を摘む。それを10歳と17歳の唇に運ぶと、噛むフリをしてから酒枡を持ち、そこへ吐き出す。

 ザラザラ…

 BB弾が音を立て、酒枡に落ちた。唾液で光っている。

「…………」

「いいよ。三回目やって」

「……はい…」

 舞いと同じく動作は身体が覚えているようでもあるけれど、身体が拒否している覚えもあって、なかなかできない。五回目が終わると、泣いてはいけないと思っているのに泣けてきた。

「ぅっ……ぅぅっ……」

 声をあげないように泣いているけれど、顔を真っ赤にして、その顔を両手で隠している。

「ちょっと休憩しようか。でも、これを町のみんなの前でやれるように特訓するから、午後からはサヤチンさんとテッシーくんも呼んで見てもらうからね」

「っ………」

 姉の顔がイヤイヤするように左右へ振られている。これは本人と、ほぼ同じ動作だったし、身体が覚えているのかもしれなかった。午前中の練習が終わり、お昼ご飯になると食卓には、いつもと違って箸がなく白米だけが山盛りに三宝へ載せられていた。

「お昼ご飯で箸を使わずに手で食べる練習もするね」

 そう言って四葉は手で白米を摘みあげると口へ運んだ。

「………………こくっ。このくらい噛んでから吐き出すんだけど、今は飲み込んでいいから。じゃ、やってみて」

「……はい…」

 手で直接に食事するということにも、とても抵抗がある。

「…………」

 それでも三葉の手は求められた義務に応えようと、白米を摘みあげると唇に入れた。よく噛んでから飲み込む。

「…………………。これで、よろしいでしょうか?」

「そうそう。よくできてる」

 練習を兼ねた昼食を終えると、四葉が呼んでおいた早耶香と克彦が呼び鈴を鳴らした。

「はいはい!」

 四葉が玄関へ行き、二人に神社の舞台へ上がって待ってくれているように言い、戻ってきた。

「じゃ、また着替えて今度は人前で挑戦するよ」

「…………はい…」

 そう返事をしたけれど、三葉の足は立とうとしない。

「さ、早く着替えて行こう」

「……は………はい…」

 返事はしても、立たずにいる。

「どうしたの? 早く立って」

「…す、すみません……あ…足に力が入らなくて……」

 ぺたりと座り込んだまま、三葉の足は動かない。

「……た……立とうとしているのですが……足に力が……」

「………」

 お姉ちゃんだと駄々をこねるところで、お姉様は義務感と拒否感の板挟みで身体に不具合がでるんだ、と四葉は二人の反応の違いを知った。実姉は嫌なことは寝転がって手足をジタバタさせるけれど、今は義務を果たそうという表情はしているものの、強い拒否感で足が動かない様子だった。嫌がるのは同じでも、やっぱり気品が違うと感じた。そして、四葉は一葉が使ってきた策略をろうする。

「うん、わかった。そんなにイヤなら今日の口噛み修業は無しにして、舞いだけ二人に見てもらおう。ほら立って」

 四葉が三葉のお尻をポンポンと叩いた。

「舞い……だけ、ですか…?」

「そうそう。さ、ゆっくり立ってみて」

「はい…………」

 今度は、かろうじで足に力が入り立てた。二人で巫女服に着替えて舞台にあがる。

「お待たせ」

「お待たせいたしました」

 祭りの時とは違い、早耶香と克彦も舞台にあがって座っている。

「近くで見ると、またキレイやね」

「ああ……キレイだ……」

「ありがとう、テッシー、サヤチン」

「………」

 もう声色だけで早耶香は察するようになったので、もともと克彦と隣り合って座っていた位置から、さらに10センチ、克彦に近づいて座り直した。一葉が雅楽を奏で始めてくれたので、二人が舞う。

「おお……」

「キレイやね……」

「ああ、特等席で見られてラッキーだぜ」

 舞いが終わると拍手して、早耶香が問う。

「でも、急に練習を見てほしいなんて、どうしたん?」

「うん、それがさ。第二の思春期みたいで、また口噛み酒を造るのがイヤだって言い出したから、慣れさせるために二人に来てもらったの」

「第三次性徴じゃないんだから……あ~、でも、そのお嬢様モードのときだとイヤかもね。そのモード入ると、きっちり一日続けてるし。ある意味、ホント第三次性徴なのかも」

 女子高生になっても子供っぽかった親友が最近は貴婦人のように変貌することがあるのに慣れてきた早耶香は巫女服を着ている親友を見上げた。

「……」

 そっと上品かつ、さりげなく三葉の瞳がそらされて早耶香との衝突を避けるようにしている。そのけなげさが、また克彦の気を引こうとしているようで早耶香はベーネミュンデのように睨んだ。

「さ、次の実演やるよ」

 そう言って四葉がBB弾を載せた三宝をザラザラと音をさせながら運んでくると三葉の身体が硬くこわばる。克彦が男子として自分も中学の頃はよく遊んだBB弾を見て問う。

「それで練習してるんや?」

「最終的にはお米でも練習するけど、もったいないからね」

「……お米で練習した場合は、どうしてるんだ?」

「鳥送って言って、ようするに鳥のエサ。鳥は神さまの使いだからね。鳥居って言うくらい」

「人にお下がりしたりは、しないのか……」

「「「「…………」」」」

 一葉がポンと太鼓を叩いた。

「さ、私から、やって見せるね」

 四葉が舞いの最終形をとり、おごそかにBB弾を摘みあげると口に含み、酒枡に吐き出してみせた。

「はい、今度はお姉様の番」

「………はい…」

 震える三葉の手がBB弾を摘みあげると、唇に運ぶ。

「……………」

 そっと酒枡を持つと、手で隠しながら吐いた。その表情が、いつもより儚げなので克彦が見惚れる。しかも、距離も近い。やり終わると三葉の両手が顔を隠した。

「お姉様、恥ずかしがってやると余計に見栄えが悪いよ。きちっと所作通りにやって」

「…はい……すみません…」

 泣きそうになりながら返事をして、また実演する。やはり動作は身体が覚えていてくれるけれど、その動作を拒否する感覚もあるようで、うまくいかない。何度も実演させられ、いちいち克彦が見惚れるのが早耶香は腹立たしくなってきたので7度目の実演の最中に聞こえるように言った。

「やっぱり、人前でやることじゃないよね。女子として」

「っ…」

 ビクンと三葉の肩が震え、BB弾を吐き出せなくなって顔を隠して泣き出した。

「サヤチンさん……ひどいよ」

「ごめん、つい」

「慣れさせる練習だったのに。今日は、もう限界かな」

 四葉がタメ息をついて、早耶香を呼ぶ。

「ちょっと、こっち来て。サヤチンさん」

「私だけ?」

「そうそう」

 そう言って四葉は早耶香と、どこかへ行ってしまった。一葉も楽器をもって倉庫へ行くと、克彦と二人きりになった。

「そんなに泣くなよ。キレイだったぞ」

「…………本当に、そう感じてくださいますか?」

「ああ」

「………………」

 泣きやんだけれど、かなり疲れた表情でうつむいている。克彦は抱きしめて慰めたいと思ったけれど、早耶香が戻ってきた。

「もう戻ってきたのか」

「……。もう戻ってきたよ!」

「四葉ちゃんの用事、何だったんだ?」

「少し二人きりにさせて慰める時間だって! あの子、ホントに小学4年生なのかな? しっかりしすぎ!」

 四葉が着替えて戻ってきた。

「お姉様、もう今日は終わりでいいよ。あとは、のんびり過ごして」

「……はい……ありがとうございます……あの、テッシー、……サヤチン…お茶でもいかがですか?」

「おう、サンキュー」

「それ、明らかに私、ついでというか、しょうがないから呼んだよね?」

「いえ、とんでもないことです。どうぞ、ゆっくりしていってください。私は着替えて参りますので少し失礼いたします」

 しずしずと巫女服で歩き去っていく姿を克彦が見惚れる。

「私も、あれ……着てみたら似合うかな……」

「サヤチンさんも着てみる?」

「いいの?」

「いいよ」

「神聖な物なんじゃないの?」

「別にサヤチンさんが穢らわしい者じゃないから大丈夫だよ」

「クスっ…くく!」

「そこで笑うな!!」

 克彦に笑われて怒った。

「着てみる! お願いします!」

「うん、じゃあ、こっち来て」

 克彦を舞台に残して四葉と早耶香も家に戻る。居間へ入ると、目隠しして着替えている三葉の姿を見て、早耶香が疑問に思う。

「ああいう風にして着替える決まりなの?」

「う~ん……第三次性徴みたいな感じでね、最近ちょっと自分の裸を見るのも恥ずかしい日もあるんだって」

「………それ、やばくない? そういえば体育のときだけ女子トイレに入ってきて着替えてるよね。逆に体育のない日は一回もトイレに来ないし、いつか漏らすんじゃないか心配なんだけど」

「「………」」

 四葉が話題をそらすために脱ぎ終わった巫女服を拾い上げた。

「サヤチンさん、脱いで。着付けしてあげるから」

「あ、うん、ありがとう」

 女子しかいないので早耶香は下着姿になった。

「これでいい?」

「うん」

 本当の本番は下着も着けずに禊ぎしてから着付けるけれど、それを一般の町民に教えると、また色々と言われるのは四葉も愉快ではないので黙っておく。

「はい、終了」

「意外と重いね……」

「よく似合ってるよ」

「はい、よくお似合いですわ。サヤチン」

 早耶香の着替えが終わってから目隠しをとり、一目見て賞賛している。

「ホントに?」

「うん」

「はい」

 三人で克彦が待っている舞台に戻った。

「おお……意外と似合ってるな」

「意外とって、どういう意味よ?」

「ははは」

「サヤチンさん、口噛みもやってみる?」

 四葉がBB弾をもってくる。

「……それは遠慮しときます」

「あ、そうだ。話、変わるけどさ。修学旅行先、やっぱり広島と京都に決まったから、オレら三人で、そのうち長スパ行かねぇか?」

「行く行く!」

「長スパとは、何でしょうか?」

「長島スパーランドだよ。そう略すだろ、普通」

「失念しておりました。そうでした」

 知らなかったことを誤魔化して頷く。

「まあ、小遣いとか予定とかあるから、すぐってわけじゃないけど、都合つけて行こうぜ」

「うん」

「はい」

 返事してから四葉を見る。

「お姉ちゃんも、そういうの好きだしね」

「四葉は…」

「私は留守番でいいよ。そのうち女子高生になったら、男つくって行くから」

「「「…………」」」

 しっかりしすぎている小学生も問題かもしれない、と三人は思った。

 

 

 

 いよいよ念願だった元帥府をかまえ、キルヒアイスは当然としてミッターマイヤーら有能と見込んだ将官を集めていたラインハルトは元帥執務室で、かなり憮然とした表情で軍務尚書エーレンベルク元帥と皇帝フリードリヒ4世からの推薦状を睨んでいた。

「ちっ……」

「ノルデン少将さんのこと嫌いですもんね」

 隣にいた三葉も推薦状を読んで、ラインハルトの不機嫌をなだめる。

「こないだ廊下で会ったとき、ご本人も、ぜひローエングラム元帥の元帥府に入りたいって言ってたから、たぶんエーレンベルク元帥さんと皇帝陛下にお願いしたんじゃないかな。子爵家だし、推薦状くらいなら書いてもらえる立場なんじゃないかな」

「なぜ、オレの元帥府に望んでもいない者を配属させねばならんのか?!」

「制度上は任命権は元帥にありますけど、軍務尚書はともかく皇帝陛下からの推薦状って断っても大丈夫なんですか?」

「…………。過去に例はない。おそらく」

「こんなことで反逆の意志あり、と思われるなら入れるしかないと思いますよ」

「わかっている!」

「ほとんどの門閥貴族に嫌われてるのに、ノルデン少将さんだけでも、こちらを好きになってくれたなら、いいじゃないですか。嫌われてるより、ずっといいですよ」

「……だんだんキルヒアイスと同じようなことを言うようになってきたな」

「それが任務みたいなので」

「フン、元帥府をかまえれば、オレの目指すとおりの人事が可能になると思っていたものを……ちっ…」

「それは、あれですよ。ミュッケンベルガー元帥さんだって、使いたくないけどラインハルトさんを使っていたじゃないですか。えらくなっても立場立場の苦労はあるってことですよ」

「………フロイラインミツハが可愛くなくなってきた」

「私はノルデン少将さん好きですよ。戦場にいても緊張感がないところとか、なごむし」

「では、キルヒアイスの管轄としよう」

「え? でも、私、少将ですよ? 同格だし、ノルデン少将さんの方が先任なのに?」

「すぐに中将になるさ」

「そんな簡単にポンポンあがるものですか? こないだまで大佐だったのに」

「これを見ろ」

 ラインハルトがカストロプ領の星系図を三次元モニターに出した。

「この星系で起こっている内乱の鎮圧をキルヒアイスへ勅命がくだるよう根回ししている」

「内乱……皇帝に逆らってる人がいるんですか? すごいじゃないですか」

「そんな立派なものではない。ただの貴族のバカ息子が起こしたくだらん動乱だ。自動防衛の人工衛星と、たった5000の私兵艦隊で帝国が揺らぐものか」

「………さっき、勅命っておっしゃいましたけど、それって私……キルヒアイスさんが総司令官で行くってことですか? ラインハルトさんは来てくれないの?」

「ああ、そうだ。少将として2000隻の艦隊を率いて出陣させる」

「……2000……。すぐに撤退してきたら怒ります?」

「大丈夫だ。フロイラインミツハがキルヒアイスでいるのは週に1度ほど、キルヒアイスなら、なんとかする」

「………きっとね、そういう時に限って私になるんだよ……」

「撤退も選択肢に入れてかまわない。周囲の将校に意見を訊いて、撤退が大半を占めるようなら撤退していい。だから、行ってくれ」

「…………はい」

「では、これから、その根回しのために政務補佐官のワイツに会うから、ついてきてくれ。今のような自信のなさそうな顔はするなよ。堂々としていろ」

「…はい。……質問いいですか?」

「ああ」

「根回しって、具体的に何をされるんですか?」

「すでにリヒテンラーデにはキルヒアイスへ勅命が下るよう依頼してあるが、いい顔をしていないのだ。ゆえに、ヤツの政務補佐官であるワイツに金品を送って、動いてもらう。そういうことだ」

 そう言ったラインハルトと郊外へ地上車で移動すると、待っていたワイツを乗せ、移動しながら会話する。社交辞令的な挨拶が終わると、三葉は渡すように言われていた金品をワイツに差し出した。

「「……」」

 お互い無言で受け渡しが終わると、ラインハルトが依頼する。

「国務尚書におかれては、いい顔をされていないそうだが、こう言ってくれ。キルヒアイス少将は私の腹心中の腹心だ。討伐に成功したときは褒賞を与えて恩を売ればいい。さすれば後日、何かと益になる。また失敗したら、それは推挙した私の責任。改めて私へ討伐を命じればすむことだし、部下が失敗したとなれば、私も功を誇ってばかりとはいかぬ、と」

「わかりました。とはいえ…」

 ワイツがちらりと三葉を見てくる。

「この赤毛の少将殿に、わずか2000隻の艦隊で可能なものでしょうか?」

「キルヒアイスなら、やってくれる。な?」

「はい、必ずご期待にそいます!」

 背筋を伸ばして敬礼することは身体が覚えていてくれるので、心にもないことを三葉は堂々と述べた。やりたくないことを、やらされるのは、どこに居ても変わらないな、と思いながら。

 

 

 

 キルヒアイスはラインハルトの部屋で、いっしょにワインを飲んでいる状況を認識した。

「はぁ……」

「タメ息をついて、どうした?」

「すぐにブラスターを抜かなくていい状況のようで安心したのです。ワインにも何も入っていない」

「あのときは、すまなかった。私の不覚でもある」

 そう言ってキルヒアイスのグラスにワインを注いだ。

「ワイツ政務補佐官との会談は、どうでした?」

「予定通りだ」

「にしては、ご機嫌が悪そうですね」

「ああ、悪いさ!」

 そう言ってラインハルトは2枚の推薦状を親友に見せた。

「これは………」

 目を通して、なだめるように言う。

「嫌われているより、よいでしょう」

「やはり、そう言うのか……。………お前の管轄にするからな。フロイラインミツハは、あの子爵家の嫡男が気に入ったようだ。女の考えることはわからん!」

「単に相性の問題かと思いますよ。ごく平凡な女学生でしたから、ごく平凡な貴族の息子と、ごく平凡な会話をするのが落ち着くのでしょう」

「すると、彼女はノルデンに恋をしているのか?」

「それは無いと思います。前にも言いましたが、おそらく彼女は、この身体にいるときは女性を異性と感じてしまうでしょう。ですから、もし誰かを好きになるとすれば、それは女性であるはずです」

「ほお、では、お前は向こうで男を好きになるのか?」

「……可能性としては。ですから、ノルデン少将のことはラインハルト様と私のような男友達という感覚で接しておられるのでしょう。とくに、彼女にとっての初陣をともにしたということもありますし。こちらにいるときラインハルト様以外の親しい人間がいるのも、悪いことではないでしょう」

「まあ、そうかもしれんな」

 ラインハルトはワインを飲み、そして問う。

「カストロプの件、策はあるか? もし、当日にフロイラインミツハだとしても」

「あります」

「わかった。任せよう」

 まだキルヒアイスとは乾杯していなかったので、グラスをかかげた。

 

 

 

 三葉は濡らしたヨガマットを片付けると、妹から長島スパーランドの件を聞いて喜んだ。

「やった! テッシー、ナイス!」

「あと修学旅行は広島と京都だって」

「え~……あいつが余計なこと言うから……せめてUSJかディズニー、どっちか片方は行きたかったなぁ…」

「そっちはどうだった?」

「もしかしたら私が総司令官で戦闘になるかも……」

「うわぁぁ……戦闘中に漏らしたりしないであげてね」

「それは大丈夫。ちゃんとトイレ行ってるし。しかも、戦闘中は軍服の中に、それ用の吸収してくれるのも着けるの。戦闘機乗りのは、もっと大きいし。装甲服なんかだと内部で浄化してくれて、横についてるチューブで飲料水として飲めるようになってるんだよ。だから最大14日間は生き延びられるの」

「へぇぇ……まあ、現実的には、そうなるよね。持ち場は離れられないだろうし、宇宙服は今でも、そうだし。あ、いいこと思いついた」

「何?」

「オムツ着けて学校に行く? 安心だよ」

「絶対っイヤ!!!!!」

 夜中に大声で叫んだ。

 

 

 

 キルヒアイスは糸守高校の修学旅行で広島県にあるホテルの一室でトランプを持っている状況が目に入ってきた。

「………」

「もしもーし? 三葉ちゃんの番だよ? 聞いてる?」

 早耶香が覗き込んでくる。

「あ……はい……すみません。何ですか?」

「だから、三葉ちゃんの番」

「…はい………すみません。何のゲームをしていたのですか?」

「半分寝てた? もう12時だもんね」

「……」

 時計を見ると12時なっているので、三葉が同室の女子たちと談笑しながら日付を越えたのだと認識した。

「はい、少しうとうとしていたようです。申し訳ありません」

「………モードチェンジしてる……まあ、いいや」

 早耶香が持っていたトランプを放り出して、お菓子を食べてノンアルコールのビール風味飲料を飲んだ。他の女子が言ってくる。

「そろそろ本題に入ろうよ」

「え~……このモードに入った三葉ちゃんって本心隠してる感じがしてイヤだなぁ」

「……すみません……。本題とは何でしょうか?」

「ほら、こうやってトボける。修学旅行の夜にする話って言ったら恋話に決まってるのにさ」

「恋………」

 克彦とアンネローゼの顔を想い出してしまった。もう、どちらが本心なのか、自分にもわからなくなってきているけれど、三葉の身体にいるときは、やはり女性であるという自意識の方を強く感じてしまう。

「三葉ちゃんとサヤチン、このごろ戦争状態だもんね」

「「………」」

「で、どっちが優勢なの?」

「「…………」」

 早耶香がポッキーを囓り、三葉の手が明らかに自分の分という場所に置いてあったビール風味飲料を一口飲んで様子見する。

「サヤチンも本心隠してるじゃん」

「劣勢だからよ!」

 早耶香が三葉の首にヘッドロックをかけてきた。豊かな胸の膨らみを後頭部に感じて少し困惑する。

「うっ……サヤチン……何を…」

「こいつめ、テッシーから告白されたって言うの!」

「それ、劣勢じゃなくて、もう敗戦じゃん」

「まだ付き合ってるわけじゃないし、諦めなければ可能性はあるもん!」

 ますます早耶香が腕に力を入れてくるけれど、敵意は感じない。ほのかな親しみの情を覚えて、されるまま身を任せていく。

「サヤチンはわかったからさ。三葉ちゃんは、どう思ってるの?」

「私は…」

 話しやすいように腕の力をゆるめてくれた。

「……これまでのように三人で仲良くしていきたいと思っております」

「なんか、模範解答だね。誰かに言わされてるみたい。じゃあ、次の人」

 もう三人の煮詰まらない関係に飽きられたのか、次の女子へと話題が移り、順繰りに恋の話をしていくうちに朝の4時になった。全員、寝るつもりがないようで新しいお菓子を開け、ジュースを回している。それでも、少し話題が無くなってきたタイミングがあり、訊きたいことがあったので口にした。

「もし、みなさんが恋をしていない相手と結婚することを強制されたら、どうお感じになりますか?」

「何それ? 普通にありえないでしょ」

「ですから、もしも、の話です」

「断るか逃げるか、するんじゃない?」

「断れず逃げられなければ、どう感じますか?」

「いやいや、それ犯罪じゃん」

「……。犯罪にならず、たとえば相手が大きな権力を持っていた場合などで結婚を強制されたときの話です」

「お金持ちってこと?」

「はい、そういう場合も含めてください」

「う~ん……お金かぁ……迷うかもしれないけど、やっぱり相手によるかな。いい人そうだったら、結婚してもいい」

「こちらは相手のことを選べない場合です」

「……それ、死ぬほど苦痛なだけじゃん」

「やはり……そう思いますか……。もし、そんな生活が10年も続いたら、どうでしょう?」

「諦めて慣れるかもしれないけど、頭おかしくなって精神病にでもなるんじゃない」

「………」

「え、なに? 三葉ちゃん、変なお見合いでも強制されてるの?」

「いえ、私の話ではありません」

 そう言ったわりに自分のことのように悲痛な顔をしているので周囲が心配になる。また、早耶香がヘッドロックをかけてきた。

「明らかに今のは何か実話に基づいて質問してきたよね?」

「ぃ、いえ……たとえばの話です」

「みんなも訊きたいよね」

「訊きたい訊きたい」

 そう言って他の女子たちが三葉の手首や足首を押さえてくる。布団の上に大の字に寝かされ、手足の自由も奪われた。

「拷問係、お願いします」

「フフフ」

 女子の中で、そのテクニックと同性愛傾向でやや恐れられている水泳部の女子キャプテンが指を鳴らして近づいてくる。脱ぐ必要性は不明だったけれど、浴衣を脱いで下着姿になると水泳部らしい筋肉が見えた。

「よく聴きなさい」

 そう言って三葉の眼前に指先を見せてくる。

「私の指は、とっても、くすぐったいの」

「………」

「ほら、こんな風に」

 指先が三葉のわき腹に触れてきた。

「っ…うっ…」

「ね? くすぐったいでしょ」

 三葉の耳元に囁いて息を吹きかけてきた。

「さ、言ってごらんなさい。とっても、くすぐったい、って」

「……言えばよろしいのですか…」

「ええ、言って」

「……と…とても、くすぐったい…です」

「じゃあ、もう一度いくわね」

 素直に言ったからと容赦してくれるわけではなく今度は三葉の腋に触れるか触れないか、そっと指先をあててくる。

「っ…くっ…うくっ…」

 三葉の唇が笑いそうになって、頬が真っ赤になる。

「ほらほら、つん、つん」

「…うっ…あはっ! あはははあっはは! ひっ、イヤ! やめて! ひっ、あはははきゃははは!」

「ほら、言いなさい。とっても、くすぐったい、って」

「ひっはひっ、とっとっても、くすぐっ、きゃははははは! イヤひひっ、あははあはっはは!」

 言わせることで、くすぐったさを激増させる暗示をかけたうえで緩急をつけて指先を動かしてくる。

「さあ、どこまで耐えられるかしら」

 そう言って他の女子に目線で指示すると、三葉の足の裏や内腿、首筋や耳の裏まで、くすぐってくる。ほんの数分が数時間に感じられるような拷問を受けた。

「ハァ…ハァ…ひっ…ハァ…」

 笑っているのに泣きそうになって、やっと解放された。

「話す? それとも、もう一回?」

「………は……話せないこと……なのです。どうか、お許しください」

「そっか。もう一回、楽しませてくれるのね。私を失望させないでくれて、ありがとう」

 二回目は、さきほどの3倍も続けられて、もうぐったりと動けなくなるほど笑わされた。

「…ハァ………ハァ…………」

「さ、どうする? 話す? それとも3回目に挑戦する? 前に3回目をした子は、おしっこ漏らして泣いちゃったから、そこまではイジメになる気もするし、やめたいような、やりたいような。さ、どうする?」

「……は……話します…」

 もう三葉の身体が壊れそうだったので、アンネローゼとラインハルト、そして自分のことを欧州の小王国での出来事で三葉とは遠い親戚ということで話した。聞き終わった女子たちが重い沈黙に包まれる。一人が口を開いた。

「………一日も早く助けてあげられるといいね…」

「その前にアンネリーゼさんの心が壊れてしまわないといいけど…」

「三人は離れていても、お互いの存在が心も、社会的な意味でも支え合ってると思うなぁ」

「どういう意味?」

「だってさ、お互いが居るから自暴自棄にならないでしょ。社会的にも王妃の弟って立場だと、貴族たちにしても目立つ方法では抹殺できないし。お姉さんの存在がラインラットさんとキルヒマウスさんを守ってもいると思うの。もちろん、その逆も」

「けど、女の子にとって15歳から25歳までって一番楽しい時期なのに……悔しいよ! そんなのってない! その国王、殺したい。クーデターでも起こって死んじゃえばいいのに」

「うん、一日も早く解放されてほしい。ね、三葉ちゃん、私たちに協力できることってないの?」

「お気持ちだけで十分です。ありがとうございます。みなさまのお話を聞けただけでも、とても気づかされておりますから」

 ずっと不敬罪を恐れてラインハルトとしか、この話はしておらず、両親にさえ相談したことはない。それを大っぴらに、しかも女性に相談することができて見解を知ることができたのは幸いだったし、やはり一日も早く解放したいと誓い直した。気がつけば、朝日が昇ってきている。

「朝だねぇ。完徹したねぇ」

「朝ご飯、何時からだっけ?」

「7時だよ。まだあるね」

「お風呂いかない? 6時から開くはず」

「行こう行こう」

「……」

「三葉ちゃんもおいでよ」

「くすぐられて、たっぷり汗かいたでしょ」

「いえ、私は遠慮いたします。後片付けをしておきますから、みなさん楽しんでらしてください」

 そう言って徹夜の女子会の後片付けをして全員で朝食を摂り、バスで大和ミュージアムへ移動した。メインの展示物である戦艦大和の10分の1模型を見ると、穏やかな貴婦人としての振る舞いが少し崩れて、少年のように戦艦を見つめて三葉の瞳を輝かせた。

「火薬式の砲と、火力ボイラーで、これほどの戦艦を造り上げるなんて……」

「三葉、こういうの好きか? オレは好きだけど」

 克彦をはじめ男子は、やはり喜んでいるけれど、女子の反応は薄い中、はしゃいでいるので目立った。

「だって、これレールキャノンではないのに、重力下で46キロ先まで到達するのですよ。すごい」

「レールキャノンなんて言葉よく知ってたな」

「ぇ……」

 うっかり徹夜明けの頭で余計なことを口にしてしまい焦ったけれど、克彦は感心しているだけだった。

「レールキャノンも、そろそろ実用化されるかなぁ。大きな戦争でもあれば、その必要性もあるのかもしれないけど」

「そんなこと起こらなければよいですね」

 この後の地球の歴史を思い出して、はしゃいでいた気持ちが一気に落ち込んだ。昼食のお好み焼きを食べて、原爆資料館を巡ると、落ち込んでいた気持ちが地の底まで沈んだ。

「……はぁ………はぁ……」

「三葉ちゃん、大丈夫? 鳥肌、立ってるけど」

 早耶香が心配してくれて笑顔をつくろうとしたけれど、冷や汗が流れただけだった。

「…だ……大丈夫です………いえ、その……展示物の……ショックが……大きすぎて…」

 何度も戦場を巡ってきたけれど、艦隊戦で死体を見ること無い。地上戦でも、そこで見るのは兵士として不本意ではあっても死地に赴く覚悟を大なり小なりしてきた戦闘員の死体であって、子供や女性がいる市街地、むしろ本土に残っていたのは非戦闘員が多かったのに、そこに落とされた熱核兵器の惨状を見ると、足がすくんで早耶香と克彦に両方から支えられるようにして歩いていた。

「……はぁ……」

「三葉、気分が悪いんやったら、もう途中でやめるか? 別に、全部見んでもええやろ」

「そうよ。顔色、すごい悪いよ」

「いえ……きちんと、すべて……。……テッシーとサヤチンは、平気なのですか?」

「いや、まあ、気分のええもんやないけど、こういうの見慣れたというか」

「なんのかんので、よく見るしね。8月とかテレビでも、やりまくるし」

 小学生の頃から平和教育の名のもと日教組が宗教的な熱心さをもって主導する戦争の悲惨さを何度も見てきた二人に比べて、幼年学校では帝国軍の精強さと、かつての戦功や英雄について教えられるばかりで、ラインハルトに言わせれば、なぜそれほど精強な帝国軍が百年かかっても叛乱軍を覆滅できないのだ、とつっこみを入れられるような戦争観の教育しか受けてこなかった。おまけに克彦と早耶香は戦場と死など自分とは無縁の遠いことだと確信しているのに比べて、死も戦場も我がこととして捉える差は巨大だった。

「……はぁ……ぅぅ……」

 奥へ進むほど展示物のインパクトは大きくなり、三葉の胃が痙攣してきた。

「……ぅ…」

「吐きそう? トイレ行く?」

「……」

 口を押さえて頷いたときには限界だった。

「うえぇ! うえっおえぇえ!」

 三葉の唇から嘔吐物が流れ出て床に拡がった。お好み焼きだった物が三葉の唾液と胃液が混じった状態で出てくる。

「ハァ…ハァ…うぅ…すみません…ごめんなさい…」

 施設の係員がバケツと雑巾を持ってきた。申し訳なさそうに謝るのに、かまいませんよ、とショックを受けてくれたことが、むしろ教育効果を出せて嬉しいというような表情で片付けてくれる。

「うわぁ…ゲロ巫女がゲロってる。悲っ惨」

「人前で吐くとか笑える。臭っ」

 一部の心ない女子が野次ってくるのを克彦が睨むと、笑ったまま進んでいった。

「三葉ちゃん、トイレに行こう」

「はい……」

 早耶香に手を引かれて女子トイレで顔と手を洗ったけれど、顔色は悪いままだった。徹夜のせいもあって目に隈ができてるし、全体に青白い。それでも自滅的な義務感で館内を最後まで巡った。ユキちゃん先生も感受性の強い生徒がショックを受けることは想定していたので優しくフォローしてくれたものの、展示物の印象が頭に残って消えないまま、広島駅から京都駅まで新幹線で移動し、旅館に入った。

「三葉ちゃん、夕ご飯、食べられそう?」

「いえ……遠慮します…」

「お風呂は、どうする?」

「それも遠慮します」

 夜になってもショックは消えなかった。今夜は予算の関係で女子は大広間に全員が布団を敷いて寝ることになっていた。睡眠不足と心理的なショックで、もう気力は残っていなかったけれど、三葉からリュックサックを必ず枕元において寝るよう指示されていたので、それだけは守って横になる。身体を横にすると意識を失いそうなほどの睡魔が襲ってきたけれど、12時までは我慢しなければと睡魔との持久戦を試みるけれど、どんどん意識が朦朧としてくる。

「宮水さん、リュック決まりだから、どけるよ」

 荷物は一カ所にまとめて置くよう決められていたので、気づかないうちに動かされてしまった。

 

 

 

 ハンス・エドワルド・ベルゲングリューン大佐は、したたかに酔っていた。わずか2000隻のキルヒアイス艦隊の旗艦で通路を歩きながら、酒瓶をあおっていた。

「酔ってるな、ベルゲングリューン」

 フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー大佐が注意しても、また酒をあおる。

「ああ、酔っているさ。前回、失敗したときより数が少ないんだぞ」

「だからこそ…」

「た、大佐」

 三葉が二人に声をかけると、ビューローは敬礼してくれたけれど、ベルゲングリューンは睨んできた。三葉の隣にいるノルデン少将が咳払いしても無視だった。

「こ、これから作戦を説明します……」

 酔ってるよ、このオジサン、ありえないでしょ、作戦前に、なんで、こんなに規律が乱れてるわけ、と三葉は強い不安を覚えつつも、なんとか平静な顔を保って四人で艦橋へ向かう。ベルゲングリューンがアルコールの匂いをさせて近づいてきた。

「小官は作戦より全体の数の方に問題があると、愚考つかまつりますが!」

「と、とにかく、これを見てください」

 艦橋へ入って三葉は作戦を説明する。キルヒアイスの指が自信なさげにメインモニターを指した。

「工作艦ばかり、こんなに並べて、、どうしようと言うんですか」

「ま、まず、シュムーデ提督が前回敗北された状況を振り返ります」

 三葉はキルヒアイスが残してくれた日本語混じりの作戦書を読む、もう三葉もドイツ語を読み書きできるけれど、今は機密保持のために日本語を使っているのだった。

「カストロプ公は説得に出向いたマリーンドルフ伯と、その令嬢を捕らえているばかりか、帝国に反旗を翻し、マリーンドルフ領へも、その妹が5000の艦隊を指揮して侵攻していましたが、シュムーデ提督は私兵艦隊を無視してカストロプ本領の惑星ラパートを突くと見せかけ、慌てて戻ってきたところを迎撃するおつもりだったようです。しかし、逆にラパート星に配備されていたアルテミスの首飾りへ追い込まれる形となり壊滅しました」

「それを、たった2000隻の艦隊で、どうしようというのです?!」

 あまりに頼りない雰囲気が漂っているのでベルゲングリューンは三葉から作戦書を奪い取った。

「こ…これは……いったい、何が書いてあるのです?!」

 日本語なので、まったく読めない。

「返してください。機密保持のため特殊な記号を使っています。私にしか読めません」

「………」

 不承不承でベルゲングリューンが作戦書を返した。

「まず、アルテミスの首飾りはゼッフル粒子によって無力化します。さいわい、微弱ながら引力がありますから、昨日のうちに散布されています」

 住民がいる惑星へ影響させずに軌道上の衛星のみを破壊するためにゼッフル粒子を散布するのは、名人芸といっていいほどの巧妙さを要するけれど、すでに完了している。その分、作戦を延期することはできず、明日にするわけにはいかなかった。

「次に、敵艦隊ですが、我々を待ちかまえるように正面にいますから、これに正面から接敵します」

「正面からっ?! 2000で5000にですかっ?!」

「最後まで聞いてください。接敵寸前に後退します。当然、相手は追ってきます」

「でしょうな」

「この追ってきた敵へ、横から小惑星を複数個ぶつけます。この小惑星にはワルキューレを隠してありますし、ワルキューレを隠していない小惑星は敵陣内で爆発するよう仕込みがしてありますから、敵艦隊は混乱に陥るでしょう。そこで後退をやめ、前進し敵中心を突きます。相手は5000といっても士気の低い私兵です。これで勝てるでしょう」

「…………たしかに、その作戦なら……可能性は…」

 ベルゲングリューンが作戦を聞いて、少し納得したけれど、それでも不満そうに通路へ出ると、酒瓶をダストシューターに捨てた。

「まだ半分以上残ってたんじゃないのか」

 心配して追ってきたビューローが言い、ベルゲングリューンは憤然とする。

「あの頼りない司令官を見たか?! 作戦を説明するのに手が震えていたじゃないか! 声だって震えていた! 昨日までは冷静だったが、いよいよ戦場に着て怖くなったって顔だぞ!」

「……」

 ビューローも否定できないので黙っている。

「あんな頼りない司令官のもとで酔っていたら、うまくいく作戦も失敗する! だいたい、どうして同格で先任のノルデン少将が戦闘技術顧問でついてくるんだ?! イゼルローンの失敗を忘れたのか?!」

「そのことだがな、昨日、キルヒアイス少将はオレにも、もしも自分が明らかに間違った戦闘指揮を執った場合は、かなり強い口調で反論してほしいと言った。どんなに強く進言しても、あとで罰したりしないから遠慮無く言ってくれと。むしろ、なるべく優しく言ってくれる方が、きっと素直に聞くとまで言われた」

「はぁ?! なんだ、それは?!」

 怒りながらベルゲングリューンが歩いていく。

「どこへ行くんだ?」

「タンクベッドで一眠り! 酒を抜くのだ!!」

 激怒しながらタンクベッドに入った寝顔を見ていると、ビューローは司令官が頼りになろうがなるまいが、どのみち戦闘前にはお互い死にたくないので僚友は酒を抜いたのではないかと思ったけれど、もう言っても詮無いことなので艦橋に戻って作戦開始の準備をする。しばらくしてベルゲングリューンが無言で艦橋へ入ってきて手伝ってくれた。すべての準備が整い、無駄とはわかっていても降伏勧告をする。

「すーっ…はーっ……」

 三葉が深呼吸をして気持ちを整え、通信をオンにする。

「ジークフリード・キルヒアイス少将です。マクシミリアン・フォン・カストロプに対して降伏勧告します」

「ほお、最近では女のような顔の若造が司令官になれるのか。貴族でもない身でどうやって取り入った? スカートが似合いそうだな、そっちか?」

「………」

 なんでギリシャ風なんだろう、と三葉は固まった。通信スクリーンに大きく映し出されたカストロプは細身で長髪のハンサムと言っていい顔立ちの男性だったけれど、着ている服は古代ギリシャ風だった。背景に見える建物の内装もギリシャ風だし、使用人たちもギリシャ風の服装をしている。帝都オーディンが中世風だったのも驚いたけれど、今回の驚きはより大きい。

「……」

 私も祭りの日には巫女服を着て舞うんだし、なにか儀式でもやってたのかな、と三葉は思い直して降伏勧告の答えを確認しようとする前に、カストロプが言ってくる。

「そんなところにおらず降りてこい。こうやってかわいがってやるぞ」

 ジャラ…

 カストロプは10歳くらいの少女を、あられもない姿にした上で首と両手に輪をかけて鎖でつないでいた。手錠と違い、結局のところ鎖が長いので両手の自由はあるようだけれど、いかにも奴隷であるという雰囲気を出すための装飾的な拘束で趣味の悪さを感じる光景だった。四葉と同じくらいの年頃の少女が涙を流しているし、そんな少女が10人くらいいて、さらに伯爵令嬢のヒルダまで同じ姿にしていた。

「………」

「いいものを見せてやる。もともとヒルダは歳だから要らんし、他のにも飽きたからな」

 そう言うと使用人に命じてヒルダたちを闘技場へ追い込むと、十数頭の猟犬をけしかけた。この猟犬というのがDNA処理によって頭部に円錐状の角をもつようになった有角犬で、無防備な少女たちは追い回され、身体を角で突かれている。もともと犬は強く噛みつくことで攻撃力を発揮するように何十万年もかけて進化してきたのに、小さな角で突くよう訓練されて攻撃力が乏しい、貴族権力の散文的な一面を象徴するイマイチな獣だったのだ。攻撃力が弱い分、すぐに致命傷とならず長く追い回されることになる。逃げまどう少女たちを守るようにヒルダが猟犬たちに立ち向かっているけれど、素手で複数の猟犬にかなうはずもなく、その美しい瞳が角に抉られ、悲鳴をあげるのを見たキルヒアイスの顔が怒りで真っ赤になった。

「この変態公爵!! 全艦! 最大加速!」

「ふわははははは! 来るがいい!」

 明らかに挑発だったけれど、作戦でも前進する予定なのでキルヒアイス艦隊が進む、そしてアルテミスの首飾りの射程範囲に入った瞬間だった。

 ふわっ…

 宇宙空間なので衝撃波が来るまでは音は聞こえないけれど、光りの輪がラパート星を囲んだ。

「なんと見事な……」

「お見事……」

 名人芸を通り越して、大きな重力のある可住惑星の表面上にいる住民たちに一切の被害をおよぼさず、しかも首飾りの射程距離圏外から、軌道上の微弱な重力しかもたない人工衛星だけを爆破する神業的なゼッフル粒子の仕込み方に、ベルゲングリューンたちは息を飲んだ。これはこの人にしか再現できない、この人ならイゼルローンさえゼッフル粒子で攻略するのではないかとビューローたちが尊敬していると、作戦予定よりも前進速度が速いので敵艦隊との距離が詰まってくる。

「なんだ?! 何が起こっておるのだ?! ええい、首飾りは無敵ではなかったのか?!」

 まだ通信がつながっているカストロプが激しく動揺しているけれど、妹の艦隊のことは覚えていた。

「エリザベート・フォン・カストロプ提督! ヤツらを生かして返すな!!」

 妹のことをフルネームで呼んだカストロプが命じると、敵艦隊から通信が送られてくる。

「名門カストロプに、わずか2000隻の艦隊でたてつくとは愚かなことよ」

 兄と同じく自己顕示欲が強いようで、わざわざ戦闘前に顔を見せてくれたけれど、ぽっちゃりとした中肉中背の女性で二重顎だった。顎の肉を震わせて命令してくる。

「全艦前進! 砲撃戦用意!」

「砲撃戦用意!」

 三葉が対戦準備を命じると、ベルゲングリューンが通信の送信を切ってから異議を唱える。

「閣下っ! 予定と違います! すでに速度が出すぎていますから、もう後退をお命じになりませんと!」

「………。このまま前進!」

「閣下っ!」

「閣下、ご予定では後退して小惑星を突入させ敵艦隊の混乱を誘うはず、ここは一つ冷静になってください」

 ビューローが優しく進言してみても、三葉は命令をかえない。

「このまま前進」

「閣下!! なりません!!」

「我らは、わずか2000! 正面からぶつかって勝てる相手ではありませんぞ!」

「あれを見ても、なんとも思わない?!」

 三葉が通信スクリーンを指す、そのモニターでは、いまだカストロプの闘技場の様子が送信されてきていて、有角犬たちに襲われているヒルダと少女たちが映っている。ヒルダは少女たちを統率して、より小さい歳の子を中心にして守り、自分と身体の大きめの少女たちで円陣を作って防御しているけれど、その分、どんどん背中を刺されていた。

「あれは敵の罠です!!」

「挑発にのってはいけません!!」

「女の子を守れない軍隊に存在価値なんてない!!」

 一つの真理を口にした。

「後退していたら、間に合わないから!!」

 三葉がキルヒアイスの手を振った。

「ファイエル!!」

 すでに、お互いの射程距離に入ってしまい砲撃戦になった。双方前進していたので近接戦闘になる。

「くっ…これでは後退しても遅い…」

「ノルデン少将さん! ホーランドアタックの準備を!」

「了解しました。全艦へ通信! 戦術コンピューターの回路Hを開くよう!」

 二人は事前にコンピューターへ仕込んでおいた戦術を展開する。

「「ホーランドアタック開始!!」」

 キルヒアイス艦隊が、さながらアメーバのように速度と躍動性にすぐれた艦隊運動で敵艦列を乱していく。かなりのエネルギー消費ではあったけれど、その分だけ敵を乱し、練度の低い私兵だったので立て直せないでいる。ベルゲングリューンが感心しつつも進言する。

「見事な艦隊運動ですが、こんな動きでは長くはもちませんぞ」

「わかっています。通信を! 敵艦隊の全艦へ向けて通信回路を開きなさい!!」

 三葉の命令通りに通信要員が敵艦隊への通信を送る用意をした。

「敵将兵の全員に告ぐ! 自分で選びなさい! あなたたちはカストロプの手下として死ぬか、名誉ある帝国軍に加わるか! 選びなさい! 私たちは先遣艦隊に過ぎない! すでに、ローエングラム元帥閣下が1万隻の艦隊を率いて近くまで来ている! 今なら、まだ間に合う! 降伏なさい! 寝返りなさい! 降伏すればカストロプ以外の罪は問わない! そして寝返って、いまだカストロプの手下である艦を撃てば、戦功とみなしてあげます! さあ! 選べ! あの変態の手下として死ぬか!! 生き伸びてチャンスをつかむか! 自分で選べ!!」

「「…………」」

 あと1万隻が控えているというのは、大きなブラフだったけれど、もともと前回のシュムーデ提督が5000隻で、キルヒアイス艦隊の2000隻が少なすぎることと、首飾りが消失してしまったこと、混戦になり指揮系統が乱れつつあることも手伝い、1隻また1隻と降伏したり寝返りを宣言して1秒前までの味方を撃ち始め、ここぞとばかりに私怨で友軍艦を撃つ艦長まで現れ、陣形の最後尾で裏切りやすかった100隻単位の分艦隊が旗色を変えたことで、一気に全体が瓦解した。

「降伏する!! 我々は悪逆な支配者から解放された!!」

 通信スクリーンにブラスターを突きつけられたエリザベートの泣き顔が映り、キルヒアイス艦隊に安堵が拡がったけれど、三葉は次の命令を下す。

「大気圏突入用意! 陸戦準備!!」

 さらに三葉は下士官に命じる。

「私の装甲服を! ノルデン少将さん、艦隊指揮をお願いします。あのギリシャ神殿みたいな建物に強行着陸を! 地対空攻撃には注意して!」

「了解しました。お任せを」

「閣下が自ら出撃されなくとも!」

「危険です!」

「怖いなら、そこで見ていなさい」

 そう言われると、ベルゲングリューンも着替えた。地表からの対空攻撃は無く、強行着陸して三葉たちが闘技場へ駆けつけると、誰も抵抗しなかったし、襲ってきた猟犬を三葉が戦斧で数頭薙ぎ払うと、あとは逃げ散った。

「しっかりして!」

 三葉は出血多量で朦朧としているヒルダを抱き上げた。

「ぅぅ……」

 ヒルダは左目だけでキルヒアイスの顔を見上げると、その聡明な記憶力で以前にオーディンで会ったことがあると判断したけれど、さすがに詳しく思い出すことはできない。

「助けに来た! 安心して! 衛生兵か、軍医を!! 早く!!」

「…ありがとう……あなたの…お名前は?」

「宮水三葉ぁあ…じゃなくて! ジークフリード・キルヒアイスです!」

「…私は……ヒル…」

 そこまで言ってヒルダは失神した。衛生兵が駆けつけヒルダと少女たちの手当を始めると、三葉はカストロプを探した。

「カストロプは?!」

「こちらです、閣下!」

 ベルゲングリューンが指す方へ走った。

「私が殺してやる! …………」

 殺意を剥き出しにして疾走したけれど、すでにカストロプは使用人たちに短剣を何本も刺され、最後にブラスターで背中から撃たれて大理石の階段に転がっていたので、もはや三葉にすることはなかったけれど、血中に滾るアドレナリンがキルヒアイスの腕を動かし、戦斧を振りおろして、首を刎ねた。

「顔さえあれば本人確認できる。身体は犬のエサにでもなればいい」

 そう言って状況判断のために周囲を見回すと、ギリシャ風の衣服を着た使用人たちは恭順の意を示すように膝をついて頭をさげている。

「ベルゲングリューン大佐さん」

「はっ!」

「他に敵は?」

「おりません」

「戦闘終了?」

「そうなります」

「………。さっきの女の子……」

 三葉はヒルダの容態が心配だったので、衛生兵から引き継いで治療している軍医に訊いてみた。軍医による説明では失血死しかけていたものの輸血が間に合い。傷そのものは浅いので命に別状はないが、右目の失明はまぬかれないとのことだった。

「かわいそうに……」

 同情の念と忌々しさが湧いてきて、三葉は床に転がっているカストロプの頭を蹴った。サッカーボールのように転がっていく。主人の遺体を辱められても、使用人たちは誰一人として異議を唱えない。ベルゲングリューンが言ってくる。

「閣下は猛将であらせられますな。それでいて情に厚く、また策士でもある」

「…………」

 誉められてるのかな、と三葉は思ったけれど、あまり適切な返答が浮かばない。かわりにテーブルに置いてある酒類に目がいった。金満な公爵家らしくテーブルには豪華な料理と、最近わかるようになってきた帝国産ワインの中でも最高級の物が並んでいる。

「………ベルゲングリューン大佐さん」

「はっ」

「もう戦闘はない?」

「はい」

 ベルゲングリューンは空を見上げた。すでに軌道上での戦闘も終結していて砲火は見えず、艦隊が再編されつつある。一部の艦が完全占領のために降りてきているけれど、地上でも抵抗する者はいない状態だった。

「もう完全に降伏しておりますれば、戦闘が行われることはないかと思われます」

「…………。じゃあ、もう飲んでもいいと思う?」

「……。はっ、お付き合いさせていただきます!」

 ベルゲングリューンもアルコールは大好きだった。困難な作戦を成功させた戦友として、酒を酌み交わしたい気持ちは強い。二人が飲み始めると、当然のように酒宴になり、罪を問われたくないカストロプの使用人たちは酒をついでくる。

「帝国万歳!」

「キルヒアイス閣下万歳!」

 他の陸戦要員や占領事務に従事するはずだった兵卒たちも飲み始め、だんだんと秩序が無くなってくると略奪と婦女暴行が始まった。酔ってきた三葉の見ている前で陸戦要員が使用人が着ている脱がせやすそうなギリシャ風の衣服を脱がせて女性を押し倒している。

「………」

 ふらっと立ち上がった三葉は女性を押し倒している陸戦要員を横から蹴った。

 ドカっ!

「ぐはっ…」

「いくら勝ったからって、それはやり過ぎ!」

「はっ…はい!」

 強姦しようとしていた陸戦要員は敬礼して逃げていく。三葉が見回すと、同じようなセクハラ行為をしかけていた兵士たちは威儀を正して、素知らぬ顔をしているけれど、略奪した腕輪や宝石を持っていたりする。

「う~ん………ベルゲングリューン大佐さん」

「はっ。ヒクッ…失礼」

 ベルゲングリューンの顔はアルコールで赤く染まっている。もう作戦前より飲んでいた。

「ああやって、宝石とかを盗んでるのはあり?」

「はっ………あまり良い習慣とはいえませんが、役得といいますか、さきのクロプシュトック侯の叛乱鎮圧時にも戦利品を入手した者は多く、ある程度は兵士への褒賞という意味合いもあります。帝国軍の悪しき風習と言ってしまえば、それまでですが、婦女暴行や殺人まで発生するのは、いささか困りものです。ヒクッ…失礼」

「そう……う~ん……風習……役得……文化の違いかな…ヒクッ…自衛隊とは、だいぶ違うか………米軍も婦女暴行するし……そういえば、ロイエンロールが、そんな話で相談に来てた気が……あいつ、私のこと、ときどき睨む……。…とりあえず文化の違いなら……あんまり厳しすぎても逆に不満がたまるかな……」

 すでに三葉も、かなり酔っている。酔った頭で三葉が結論を出した。

「婦女暴行禁止!! 傷害殺人も禁止!! 略奪は、ほどほどに!」

「はっ!」

「婦女暴行したヤツは犬に喰わせるから!!」

 もともと三葉が突撃を開始したのは女性への陵辱に憤慨したからだと知っている兵士たちに命令は徹底され、婦女暴行は発生しなくなったけれど、ほどほどの略奪は行われた。酒宴は続き、ふらふらと三葉はカストロプが座っていた玉座へ腰をおろした。手にはカストロプの首を持っている。放り出そうかと思ったけれど、少しばかり遺体に対する尊厳の念も湧き、そっとテーブルの上に置いた。そして日本人でもあまり知らない神道式の冥福を祈る動作をした。

「よもつくに、あきつかみ、やすくにとおぼしめせ」

 三葉が何らかの祈りを捧げていると感じた使用人たちもギリシャ式の祈りを捧げてくる。

「次に生まれ変わってくるときは、ロリコンじゃないといいね。……ヒクッ………ヒクッ…あ、もう12時に……」

 時計を見ると読みにくいギリシャ文字だったけれど、12進法は共通のようで時刻はわかった。

「紙とペンある?」

「はい! 今すぐに!」

 使用人がダッシュで持ってきた。

「……フフ……完勝っと…」

 ワインを飲みながら満足そうに手紙を書きにくい羊皮紙へ書き始めた。

 

 



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14話

 

 キルヒアイスはギリシャ風の玉座に座って、カストロプの生首を前にして、ワインを飲んでいた状況を認識した。

「っ…」

 まるで日本の戦国武将のように生首を前にした酒盛りを装甲服を着用したまま行われていて、周囲では友軍兵士が同じように酒を飲んでいる。

「うっ…」

 少なくとも周囲に危険はないと判断した直後、気持ち悪くなってきた。まだ原爆資料館での余韻が残っていた上、いきなりの生首で、さらにかなりの飲酒をしていたようで、たまらず吐いてしまった。周囲の兵士が12時の5分前から、もう飲めなくなるような勢いで、がぶ飲みしていた総司令官が吐いているのを、まあ、そうなるだろうな、と若さゆえの酒量のわからなさを冷静に見ている。それでも勝利をもたらしてくれた指揮官に対する尊敬と愛着の念は感じられる。

「閣下、いきおいよく飲み過ぎですぞ。まあ、この勝利です、気持ちはわかりますが」

 ベルゲングリューンが水をくれた。さらに、恭しく使用人がタオルを渡してくれる。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 礼を言って受け取る。使用人はギリシャ風の衣服を着ているので、事前に調査していた通りのカストロプの使用人だろうと推測し、ともかく落ち着いたフリをしてテーブルに置いてある羊皮紙を手に取った。ドイツ語で三葉から手紙が書いてあった。手紙というよりメモに近い。

 

 完勝!

 圧勝! 大勝利!

 右のポケットに入っている宝石は伯爵令嬢にあげること。ひどい怪我をさせられていたから、その慰謝料。あと、他の女の子にも十分な補償をさせること。酔った兵士が婦女暴行しないか、注意すること。

 

 読み終わって装甲服のポケットを探ると、宝石が5つほど入っていた。

「…………。ベルゲングリューン大佐」

「はっ! ヒクッ…失礼」

「端末機をお願いします。ヒクッ…ぅぅ…あと、水をもう一杯いただけますか」

 すぐに端末機と水を渡してもらい、今までにないほど酔わされた頭脳で艦隊戦の推移と陸戦の状況などの記録を見て状況を理解した。

「ラインハルト様に報告を……ぅう…ベルゲングリューン大佐、ローエングラム元帥への報告は終わっていますか? ヒクッ…失礼しました」

「はい。ノルデン少将がされたという話です。先を越されてしまい、残念ですな。閣下、自らなさりたかったでしょうに。まあ、こちらが、のんびりしすぎていますから仕方ないかとは思いますが」

「いえ、幸いです。私からも報告してきますから、これ以上の略奪もやめるよう布告してください。飲酒は……節度をもち、決して領民に危害を加えないよう重ねて通告してください」

 本心では飲酒も止めたかったけれど、ここまで盛り上がっている兵士たちへ急に手のひらを返したように水を差すのは忠誠心にも影響すると判断して、キルヒアイスはふらつきそうになる足取りを、なんとか整えつつ艦内に戻って超光速通信でラインハルトと連絡を取る。

「お待たせしました」

「ああ、思ったより遅かったな。フ、酔っているな」

 ラインハルトは12時すぐに連絡をもらえると思い待っていたけれど、もう20分も待たされていた。

「すみません」

「お前が謝ることはない。ミツハめ、よほど嬉しかったのだろう。まあ、見事な勝利だ」

「はい。まさか、あのような勝ち方をされるとは……」

「相手の寝返りに期待して勝つとはな。2000隻の艦隊で出発して帰りは4000隻になるのだから、イゼルローンの魔術師に比肩する魔術だ。凡庸に見えて、案外と魔女だったわけだな。いや、巫女とか言ったかな」

「………」

「浮かない顔をしているな。自分の作戦を無視されたのが残念か?」

「いえ、そうではありません。むしろ、すばらしい結果だと感じています。あのカストロプ公の挑発を見ては私自身も冷静であれたか、どうか、それに冷静に艦隊を後退させていれば伯爵令嬢をお救いすることはできなかったでしょう。その意味でも三葉さんの判断は正しかったと考えます。ただ…」

「ただ? 何だ?」

「私の不明なのですが、まさか、これほど早く占領に至っているとは想定せず、おそらくは艦隊戦の途中で私自身へ戻ると思っていたものですから、占領時に領民への略奪や暴行を強く制止することを作戦書に記していなかったのです」

「そうか……状況は、ひどいのか?」

「クロプシュトック時ほどではありません。三葉さんは婦女暴行と傷害殺人について厳命を出して禁じていてくれますから。ただ、略奪は、ほどほどに、と」

「……ほどほど……か…」

「これを……ご覧ください」

 キルヒアイスは装甲服のポケットから宝石を出して見せた。

「……なるほど、司令官自身が手を染めていては兵士たちも手を出すだろうな。ミツハめ、意外に……いや、凡庸であれば、その程度か……」

「いえ、彼女自身の私欲というよりは、この宝石は負傷された伯爵令嬢と少女たちへの慰謝料に、と」

「慰謝料か……。たしかに、カストロプの財産を帝国の国庫に入れられてしまえば、あまり補償されることはないからな……」

「とはいえ、厳密には横領です」

「……そうだな………困ったな……まだ、続いているのか?」

「一応、制止はいたしておりますが、私が厳命して返却を指示しても、あまりに朝令暮改にすぎ、兵士たちに大きな不満がたまるでしょう。最悪の場合、私が独り占めするために略奪物を吐き出させるのだと曲解されることもありえます」

「そうだな。今までの帝国軍の規律を考えれば、そういう思考になる。クロプシュトック時より、マシということで目をつむるか……」

 二人の信条に合わない結果にラインハルトは複雑な表情をした。三葉がもたらしてくれた結果は一方で素晴らしく、もう一方で遺憾であり、とはいえ彼女を叱責しようという気にはなれない。むしろ、関わりのない戦乱に巻き込んだのに、ラインハルトの野望にそう戦功を予想以上にあげてくれていた。

「ラインハルト様にお願いがございます」

「何だ?」

「兵士たちの酔いが醒める昼頃、通信で私を強く叱責してもらえませんか?」

「……略奪についてか?」

「はい」

「なるほど、その手があるか。……だが、いいのか? お前の不名誉になる」

「このまま見過ごすより、よほど良いです」

「わかった。そうしよう。まずは休め。飲み過ぎた顔をしている」

「はい」

 通信を終わると、キルヒアイスはタンクベッドで酒を抜き、早朝から占領事務を開始して、軍の秩序を取り戻していく。昼前になって手の空いている者は全員が拝聴するようにと命じて、ラインハルトと通信を開いた。大きなメインスクリーンにラインハルトが元帥らしく威厳を持って映った。

「まずは、見事な戦果であったこと賞賛しよう。よくやったキルヒアイス少将。中将への昇進は確実だろう。また、他の士官、兵士諸君も、よくやってくれた。ならびに、カストロプの私兵から帝国軍への編入を望む者も、喜んで受け入れよう。その戦功についても評価する」

 ねぎらいから始まったけれど、叱責へ変化する。

「だが、キルヒアイス少将!」

「はっ!」

「占領時に蛮行があったと聞いている。これは真実か?!」

「……はい……事実で、ございます…」

 認めたく無さそうに認める芝居をした。ラインハルトも芝居をして顔を険しくした。

「カストロプの財産は帝国より、掠め盗られた物、本来国庫に納めるべき、それらを収奪したということであれば、それは新無憂宮が財物に手を出すも同じこと!」

「………」

 直立不動だったキルヒアイスが膝をついて頭をさげた。

「戦果大なりといえど、小なる不正を見逃すことはできぬ!! キルヒアイス少将は自室にて謹慎せよ!! また、他の将兵については、ただちに申し出れば罪は問わぬ! ただし、隠し持って後日に判明したときは厳罰に処する! ラパート星へ降りた艦については憲兵と財務省の調査官が立ち会いのもとに身体検査を行うこととする。以上」

 憲兵だけなら誤魔化しもきく上、もともと占領事務には憲兵も参加していて、その憲兵そのものが略奪に加担していることも多いことを見越して、財務省の名を出したラインハルトの言葉は効果的だった。古来より国家財務にあたる官僚と、国家予算の大きな部分を占める軍関係者とは、良好な関係であったことがない。その財務省官僚が調査に立ち会うと言われ、また戦功大であった総司令官へも容赦が無かったことで、奪われた財宝はその日のうちに返却された。キルヒアイスは謹慎という形で、自室でつかの間の休息をとり、少将であるノルデンに全体の指揮が任されたけれど、ノルデンは何か忘れている気が、ずっとしていた。

「………そうだ。伯爵!」

 令嬢は助けたものの、すっかり誰もがフランツのことを忘れていた。ノルデンの命を受けた捜索により、フランツはギリシャ風の囚人服を着せられて地下牢に閉じこめられているところを無事に発見、救助された。

 

 

 

 勝利の美酒に酔いしれていた気分から、三葉は孤立無援の絶望的な戦いに追い落とされていた。

「……ぅ~………ハァっ………ぅ~………ハァっ……」

 あるはずのヨガマットを入れたリュックサックが枕元に無かった。

「………ぅぅ……」

 布団の中にヨガマットを敷き込んで秘かに、すべてを終わらせるつもりだったのにヨガマットが無いので呻いている。

「……だ……誰か……」

 周りを見ても、大広間で女子全員が寝ているものの、名簿の順番で寝るように指導されていて、周囲に友人はいないし、早耶香とはかなり遠い。そして、ほとんどの女子が前夜は遅くまで起きていたり徹夜したために今は鼾をかいて爆睡している子も多い。誰も起きていない。何よりリュックを取ってきてと頼むにしても、かなり不自然で自分で取ってくるのが普通だと思われるけれど、もう立つことはおろか、起きることもできない。いつもいつも四葉に起こしてもらってヨガマットの上に辿り着いていたのは起きるために腹筋へ力を入れると、もうその瞬間に限界を迎えるためだった。

「……ハァっ………ハァっ……」

 泣きそうになってくるけれど、泣いた瞬間に破綻してしまうことがわかるので、なんとか耐えて次善策を考える。ギュゥウと脚を閉じて、両手でも押さえた。

「………諦めない……こんなときこそ……冷静に………状況の打開にそなえて……機会を待つ………絶望的に思えても………劣勢でも挽回のチャンスを逃さないために……」

 ラインハルトに教えてもらった不利な状況でこそ、冷静に粘り強く耐えよ、という訓辞を胸に、下腹部の絶望的な関門防衛戦を守り続ける。けれど、もうヘトヘトだった。おそらく前夜は徹夜したようで睡魔が死に神のように枕元に立っている気がするし、全身を長時間くすぐられたような疲労感と、昼食も夕食も胃に入っていないような空腹感と、強いショックを受けて弱っているような感覚があり、意識が朦朧としてくる。二食も抜いたなら、その分だけお腹が楽になってもいいのに、思い出してみればビール風味飲料を飲みながらトランプしていたのが今になって攻め込んできている。

「……よ……四葉………た………助けて……」

 お待たせ、お姉ちゃん、そう言って妹が助けに来てくれるかもしれないという荒唐無稽な希望さえ湧いてくる。岐阜から京都まで、小学4年生の妹が長駆して援護に来てくれるまで頑張ろう、だって1光秒も離れてないもん、そんな妄想を布団の中で抱きつつ三葉は睡魔の牙に脳幹を突き刺された。

「…くーっ…すーっ…」

 三葉は夢を見た。

 悪夢だった。

 祭りに巫女として出仕し、口噛み酒を造る夢だった。

 いつも通りにお米を口に含み、それを吐き出す。

 また、心ない女子から、人前でよくやるよね、と言われた気もする。

 それでも咀嚼物を吐いた。

 酒枡いっぱいに吐いた。

 なのに、止まらない。

 まだ、吐き出てくる。

 たらたらと三葉の口から咀嚼物が吐き出てくるのが、止まらない。

 口も閉じられない。

 お姉ちゃん、もういいよ、お祭り終わったよ、と四葉が言ってくれても、まだ止まらない。

 たらたら、たらたら、口から白濁液が溢れ出てきて、止まらない。

 町のみんなが見ている。

 見られている。

 なのに、止まらない。

 口を閉じようとしても開いたままで、どんどん漏れ出てくる。

 祭りが終わっても、深夜になっても、止まらない。

 朝になっても、まだ溢れている。

 白濁液を口から、たらたらと吐き出したまま登校する。

 教室に入って授業を受けていても、止まらない。

 どんどん教室の中が白濁液で浸水していく。

 みんなが汚いと言って三葉から遠ざかっていく。

 浸水が洪水になり、三葉は自分が吐いた白濁液の池にいた。

 生温かい咀嚼物の白濁液に腰まで浸かっていて、感じた。

 これは夢だ。

 見てはいけない夢だ。

 お尻が温かい夢はダメ。

 醒めなきゃ、我慢しなきゃ、きっと、漏らしてる。

 漏らしてるなら、もう醒めなくていい。

 ずっと寝ていたい。

 ずっと寝て、起きたらオーディンがいい。

 きっと次は中将。

 もうすぐアンネローゼさんを助けに行くんだ。

「っ…」

 目が覚めた。

「…………」

 お尻が生温かい。

「……………」

 もう敗北したことはわかっていても、三葉は寝汗かもしれないという希望的観測で、おそるおそる手で触った。

「っ! ……………」

 ぐっしょりと濡れていた。学校指定のジャージも、旅館の布団も、ぐっしょりと、まだピチャピチャと水たまりになっているくらい濡れている。

「………………」

 窓の外が、少し明るい。まだ朝日は昇っていないけれど明け方。

「………」

 何時間くらい寝てしまったのか、これから、どうすればいいのか、三葉は泣かないようにプルプルと震えて過ごした。外が明るくなってくる。早起きな子が、もう起きて顔を洗いに行った。一人また一人と起き出してスマフォをいじったり、今日の自由行動の予定を小声で話し合ったりしている。

「三葉ちゃん、起きてる?」

「………」

 早耶香に声をかけられて寝たふりをした。

「三葉ちゃん、すごい汗……」

「………」

 寝たふりをしている三葉の額を早耶香がタオルで拭いてくれた。それでも寝たふりを続けていると、早耶香は顔を洗いに行った。もう全員が起きている。

「よく寝たわぁぁ」

「朝ご飯、まだかな」

「ここで食べるから、もう布団を片付けないと」

「みんな起きてるし、電気つけていいよね」

 大広間が明るくなった。みんなが布団を片付け始めている。

「宮水さん、まだ寝てるの?」

「………」

 目を開けず、聞こえないフリをする。

「三葉ちゃん、そろそろ起きたら?」

「………」

 早耶香の声も無視する。無視したのに、揺すられる。

「三葉ちゃん、もう7時前だよ」

「………」

 イヤだ、このまま寝ていたい。そっとしておいて。

「起きないと、こうだぞ」

 早耶香が鼻を摘んできた。息ができない。

「「…………………」」

 苦しい。

「………………プハッ!」

 口で息をした。

「ハァ……ハァ……」

「おはよう、三葉ちゃん」

「……うん……おはよう……」

 仕方なく目を開けて挨拶する。

「よく寝てたね。昨日の原爆資料館、そんなにショックやった?」

「……う……うん……そう……みたい……」

「でも、そろそろ起きて布団を片付けないと、ここで朝食だから、すぐに男子も来るよ」

「っ……」

 そういえば、そんな予定だった。旅費の関係で二泊目は女子は大広間で雑魚寝、しかも浴衣もなくて学校指定の体操服を寝間着にしている。そして、このまま京都市内を散策するプランだったのに、ジャージは濡れたまま、布団も濡れたまま、とても起きられない。

「さ、起きて」

「…………」

「どうしたの?」

「…………どうもしないから気にしないで」

「布団を片付けないといけないから起きて」

「………………」

「具合でも悪いの?」

「うん! そう! 具合悪いの! しんどい! 熱もあるかも! 寒気がする! 寒くて布団から出られない! 今日は、このまま寝てるから! 心配しないで!」

 熱があるとは思えない張りのある声で三葉が強弁した。

「このまま寝てるって……旅館だから、そうはいかないよ」

「………。とにかく寝てるの! 寒気がするの!」

「宮水さん、どうかしたの?」

 他の女子も集まってくる。

「うん、三葉ちゃん、具合悪いみたい」

「昨日から、つらそうだったね」

「けど、布団は片付けないと……かわいそうだけど一度、起きてちょうだい」

 そう言って布団をめくられそうになり、三葉は両手を出すと、がっしりと布団をつかんだ。絶対に布団をめくられないように両腕で守るように押さえ、両足でも布団を挟み込んだ。

「寒気がするの! やめて! 寝かせておいて!」

 元気そうな、泣きそうな声で力説しているし、しっかりと布団を握っている。

「ゲロ巫女、またゲロるなよ」

 心ない女子も集まってきた。もう大広間で布団に入っているのは三葉だけになっている。

「……ハァ……ハァ……」

 残っているのは三葉の布団だけになり、それを取り囲むように大勢の女子が集まっている。

「三葉ちゃん、熱は……」

 早耶香が額に触れてくる。あまり体温の差は無かったけれど、びっしょりと汗はかいている。

「あ、先生!」

 ユキちゃん先生が現れた。

「宮水さん、どうかしたの?」

「具合が悪いみたいなんです」

「そう。かわいそうに。昨日、かなりショックを受けていたから」

 そう言ってユキちゃん先生も額に触れてくる。

「熱は無いみたいね。起きられそう?」

「無理です。寒気がして布団から出られません」

 そう言ってギュッと布団を握っているので、心ない女子が笑いながら言う。

「なんか怪しいよね。おねしょでもしたんじゃない?」

「っ…してない! おねしょなんてしてないもん!! 絶対してないから!!」

 泣きそうな声で叫んで、絶対に離すまいと布団を握っているので、もう全員が悟った。

「おねしょしたんだ。キャハハ」

「してないから! してないの! ぅっ…ひっく…してない……してないもん…」

 ぽろぽろと三葉が涙を流したけれど、その涙を拭きもせずに布団を押さえている。見ていて多くの女子は可哀想に感じたし、ユキちゃん先生はからかっている女生徒を睨んで言う。

「宮水さんは調子が悪いようです。騒がないであげなさい」

 普段ほんわかした雰囲気のユキちゃん先生も年齢相応に女性として経験を積んでいるので本気で睨むと、それなりの迫力があり静かになった。

「原爆資料館が、よっぽどショックで体調を崩したのね。かわいそうに」

 嘔吐するほどショックを受けた女生徒が、悪夢も見て夜尿することもありえると慮って、しかも嘔吐より何倍も恥ずかしいだろうと推し量り、絶対に布団から出たく無さそうな三葉への対応をする。

「六人で宮水さんの布団を隅へ動かしますから手伝ってください」

 三葉は布団に入ったまま動かされる。寝ていたところの畳が濡れていないか、とても心配だったけれど、ぶ厚い敷き布団の防壁層は三葉による流体浸透に耐えてくれていたようで畳は無事だった。ユキちゃん先生は大広間の隅へ布団ごと三葉を移動させると、その周囲に女子たちの荷物も移動させるように指示して防壁を築いた。おかげで男子が入ってきても、あまり近づかれることはない。それでも三葉を気にかけている克彦は寄ってきた。

「三葉、具合が悪いって?」

「…うん……」

 布団に入ったまま小さく頷いて顔を赤くしている。ユキちゃん先生が克彦に告げる。

「心配してあげるのはいいことですけど、女の子は調子の悪いときの顔を男子に見られるのもイヤなものですよ」

「…は…はい…」

 そう言われると近づけず、克彦は早耶香と朝食を摂った。全員での朝食が終わり、それぞれに荷物を持って旅館を出て行くと、急に大広間が静かになり、三葉とユキちゃん先生だけになった。ユキちゃん先生が温かい濡らしたタオルとバスタオルを持ってきた。

「着替えて玄関に出てきてください」

「………」

「急がなくていいですよ」

 ユキちゃん先生も大広間から出て行くと、完全に一人になった三葉はおそるおそる布団から出た。

「…ぐすっ…」

 濡れタオルで顔を拭いてから、着替える前に下半身もキレイに拭いて濡らしたジャージはビニール袋に入れてリュックの奥へ片付け、制服を着た。京都での自由行動は田舎育ちの女生徒たちが大都会で盗撮被害に遭わないようにと体操着での行動と決められていたけれど、着る物が無いので仕方なく制服を着た。

「…………オーディン……行きたい……」

 京都よりオーディンが良かったし、高校2年生より中将がよかった。それでも、いつまでも旅館にいられないのでトボトボと玄関に出るとユキちゃん先生と早耶香、克彦が待っていた。

「……………」

「三葉、具合はどうだ?」

「……ちょっと……マシ……」

 克彦に答えてから、ユキちゃん先生に小声で伝える。

「………旅館の人に………布団のこと……」

「大丈夫ですよ。先生から謝っておきましたから」

「…すみません……」

「三葉ちゃん、班の人には先に行ってもらったから、うちらだけで行動しよ」

 もともと6人の班が設定されていたけれど、三葉の調子が悪いということで他の3人には先発してもらっていた。

「三葉の具合が悪いなら、集合場所の近くで、のんびりしようぜ」

「…ありがとう……でも……だいぶ…マシだから…」

「宮水さん、何かあったら連絡してください」

 そう言ってユキちゃん先生は離れていく。早耶香が今日の予定を見る。

「予定では金閣寺から貴船神社、平安神宮、清水の舞台だったけど、どうする?」

「それ回るのは時間的にキツいだろ」

「ごめんなさい、私のせいで……」

「いいよ、気にしないで」

「おう、気にするな。もう原爆のことは忘れろ」

「……うん……」

 男子が鈍くて良かったと思いながら三葉は寝不足で軽い頭痛を覚えた。寝てはいけないと思いながら、ほんの数時間だけ徹夜の翌日に寝た後は、絶望的な気持ちで布団の中にいたので、かなり疲れている。

「まだ顔色悪いな。タクシーで清水の舞台だけ行って、バスターミナルで待ってようぜ」

「そうやね、そうしよ」

「そんなの悪いよ!」

「いいって」

「うん、歩くの面倒だしね」

「……ごめんね……」

 謝って3人でタクシーに乗り、清水寺へ行った。到着して舞台までの坂を登っているうちに少しは気分も晴れてきたので3人で京都の思い出をつくり、名水も飲んで、昼食の頃には猛烈な空腹を覚えていた。昨日のお好み焼きを嘔吐した後、夕食も摂らず、朝食さえ抜いたので目まいがする。焼き団子を食べながら、どこで昼食を摂るか決め、湯豆腐と湯葉の定食にした。

「清水の舞台だけにしてよかったかもな」

「そうやね。一日で名所を何カ所も、しかも市バスと徒歩で巡るのは疲れそうやし、ゆっくり見られへんもんね」

「ごめんね……ありがとう」

「もういいって。な」

「うん、清水寺の周辺コンプリートできたし、これは、これで楽しいよ」

 ゆっくりと土産物の店舗を巡ることができたし、清水の舞台だけでなく地主神社や、横道にそれたところにある由緒はありそうだけれど有名でもない静かな小寺にも入れたので3人とも京都の雰囲気を楽しめた。15時を過ぎると、ぞくぞくと糸守高校の生徒たちが清水寺の麓にあるバスターミナルへ集まってくる。

「そろそろ出発だな」

「私、トイレ行ってくる」

「私も」

 早耶香と三葉はバスターミナルの大きさに比べて、かなり古くて小さいトイレに入って用を済ませると、バスに乗った。もう立ち寄る場所はなく、このまま高速道路で岐阜県へ帰る予定だった。残りのお菓子を食べてジュースを飲みながら、残り少ない修学旅行の雰囲気を楽しめたのは30分くらいで、すぐに三葉は睡魔に抱かれて死んだように眠った。初日に徹夜して二泊目も4時間と眠れていないので寝てしまうと、周りが賑やかでも目が覚めないし、サービスエリアに寄って多くの生徒が出て行って静かになっても起きない、滋賀県を通り過ぎ、岐阜県美濃地方も通り過ぎる。いよいよ飛騨地方の山間部に入り、片側2車線だった高速道路も1車線になり、最後のサービスエリアに寄ったバスが出発してから、やっと目が覚めた。

「ん~……ここは?」

「糸守高原サービスエリア」

 早耶香が答えてくれた。故郷まで、もう10キロもない。

「そっか。修学旅行、終わっちゃったねぇ」

「そうだね。終わると、あっという間だったね」

「………」

 三葉はバスが加速してサービスエリアを出るのを車窓から眺めながら、起きてトイレに行けばよかったと感じて座り直して足を組んだ。京都から一度もバスを降りていないので、少しつらい。けれど、あと10キロなら問題ないと思ったのに、渋滞が発生してバスがノロノロ運転になり、ついに停車してしまうと焦った。

「こんな田舎で渋滞なんかしなくていいのに…」

「事故かもね。1車線しかないから、すぐに塞がるし」

 早耶香が言ったとおり交通事故だった。深刻な死亡事故ではない軽い乗用車同士の玉突き事故だったけれど、タイヤがパンクして自走不能になって車線を塞がれると、ぴたりと停まったバスは動き出す気配がない。

「あと何分かなぁ…」

 また三葉が座り直して組んでいた足を解いて膝と膝を擦り合わせるように座ると、早耶香は察した。

「おしっこしたいの?」

「……ううん……別に平気」

 張らなくてもいい見栄を張ったけれど、急激につらくなってきた三葉は下腹部を両手で押さえたいほどだった。それでも、そうすると周りに丸わかりなので擦り合わせた両膝の上へ両手を置いて我慢する。その三葉の手首が緊張して反っているので、隣にいる早耶香には一目瞭然だった。かなり我慢している様子で、額に冷や汗が浮いているし、手首にも汗が滴っている。手首の汗は三葉の腋から流れ落ちてきた汗だった。半袖の制服から、一滴ずつ汗が流れ落ちてきている。その汗を拭きもせずに微動だにしないので早耶香は限界が近いのだと悟り、お茶の入ったペットボトルの蓋を硬く閉めると、三葉に差し出した。

「三葉ちゃん、これ」

「っ…………………」

 三葉は親友だと想っている早耶香からペットボトルを向けられて絶望的な表情になった。もう見れば自分が何を我慢しているかわかりそうなものなのに、それをわかっていてお茶を飲ませて失禁させようとする謀略だと感じた。同じ男子に好意をもっていることが判明したら、女同士は敵なんだ、ベーネミュンデと同じなんだ、もうお茶を飲まされなくても降りるときに邪魔されたら漏らすくらいだから、私の青春は終わったんだ、と悲壮な顔をしている。あまりにも顔で語っていたので早耶香にも三葉の思考が伝わった。

「違うよ。はしたないけど、これの上に座れば、かなり楽になるよ」

「…そ…それの上に?」

「私を信じて一瞬だけ立ち上がって」

「……うん…」

 三葉は親友を信じることにした。そっと前席の背もたれにある手すりをつかみ、なんとか立ち上がる。早耶香はペットボトルを三葉の席へ、自転車のサドルが股間を圧迫するような位置になるよう上を前に、下を後ろにして中央に置いた。

「ゆっくり座って」

「…うん……」

 三葉はペットボトルへ座る。ちょうど、自転車のサドルがあたるような感覚があった。

「どう? マシになった?」

「……はぁぁ……うん、すごく楽。ありがとう、サヤチン」

 今にも漏らしそうだった三葉をペットボトルの圧迫が救ってくれる。まるで男でいるときのように一物があると心強く、そして楽になった。

「ありがとうね。………ごめんね、疑ったりして」

「いくら何でも、そんな低レベルの嫌がらせしないって。正々堂々いこうよ」

「……うん……ありがとう……」

「けど、動かないね。あ、パトカーが来た」

 路肩をパトカーが走っていく。これで事故処理が進むはずだった。それでも、すぐに動き出してはくれない。

「……ぅぅ……」

 ペットボトルの圧迫があっても、つらくなってきた。早耶香がシートに備え付けられているビニール袋を拡げて、耳元へ囁いてくる。

「いよいよ無理だったら、これにしちゃう?」

「……そんなの……ヤダ…」

 バスの中には男子も乗っているし前席には克彦もいる。嘔吐ならビニール袋へできても女子として絶対にしたくない。ヨガマットも頭上のリュックにあるはずだったけれど、それを出してヨガするのもありえない。もともとヨガマットは夜中に秘かに使うためで、とても見せられない姿だとは自覚しているし、今日まで誰にも言わないでくれている四葉へは感謝している。そもそも犬用な上、なぜ、そんなものを持って修学旅行に来たのか、という話になることは絶対にさけたい。

「……ハァっ……ハァっ……」

「あ、作業車も来たよ。これで動くはず」

 パンクした車も牽引できる車両が路肩を通り過ぎていき、ほどなくバスが動き出した。すぐにインターを降り、バスが高校に向かってくれる。

「……ハァっ………ぁぁ……ハァっ……」

「頑張って、三葉ちゃん、もう学校が見えてきたよ」

 早耶香が優しく背中を撫でてくれる。

「ぅぅ……撫でないで……逆に、やばい…」

「あ、ごめん」

 嘔吐ではないので撫でられると、むしろ生理現象が促されそうになってくる。ようやくバスが高校前に停車してくれた。さっと早耶香が立ち上がって一番に降りられるように通路を確保してくれる。

「ほら、頑張って」

「うん……うん……」

 もう周りに隠している余裕もないので両手で押さえて、ずっとお世話になったペットボトルと離別してバスの通路を進む。三葉の顔色を見てクラスメートたちは先を譲ってくれた。

「……ハァっ………ハァっ………」

 急なバスの階段を諦めずに歯を食いしばって降りて、早耶香に支えてもらいながら校門をくぐり、目指していた校庭の屋外トイレが視界に入った。

「「あ……」」

 屋外トイレには女子が列をつくって並んでいた。バスは組数の順番で走行していたので、先に着いた1組と2組の生徒が校庭に整列していて、一部の女子は三葉と同じ事情で屋外トイレに並んでいる。

「………」

「三葉ちゃん、頑張って」

「…………」

 屋外トイレには個室は2つしかないのに、並んでいるのは20人で、一人60秒としても10分かかる、兵站や補給線の維持、火砲の配置と火力投射量など最近いろいろと状況分析の演習をさせられることが多かったので、瞬時に屋外トイレは間に合わないと判断できてしまった。

「…校舎の……」

「校舎は閉まってるよ」

 屋内のトイレは個室が十分にあるけれど、もう校舎そのものが閉鎖されている時間だった。修学旅行の予定でも、このまま校庭に整列して人数確認が終われば解散という流れになっているので校舎が開いているはずはない。

「……コンビニ…」

「コンビニまで歩ける?」

「…………」

 町に一つしかないコンビニまで歩くくらいなら屋外トイレに並んだ方が早いし、もう歩けない。あと10メートルも歩けないという感覚がヨガの経験でわかる。昨夜も限界まで我慢した筋肉が、フルマラソンの翌日にジョギングをさせられているような悲鳴をあげてきている。

「………もう……無理……歩けない……」

 歩けても、あと7メートル。半径7メートル以内には校門しかない。

「……ぅぅ……」

「三葉ちゃん、とにかく屋外トイレまで」

「……ハァっ…ぅ…」

 5メートル。

「…ハァっ…ぅう…」

 4メートル。どんどん行動可能範囲が狭くなってくる。

「…ハァっ…ハァっ…ぁぁ…」

「三葉ちゃん、しっかり頑張って」

 あと3。

「…ハァハァっ…ぅぅ…ぁぁ…」

 もう2。

「…ぅぅ…うっ…うっ!」

 そして1、三葉は行動の限界点を迎えた。

 

 宮水三葉は闇の中にいた。

 早耶香の姿も、校庭に整列している生徒たちの姿も、彼女の黒色の瞳には映っていない。

 彼女は、ただ、速度と躍動性にすぐれ、さながらアメーバのように拡がる生温かさを両脚に感じていた。

 彼女は漏らした……そう、三葉は、ここで、こんなときに、漏らしてしまったのだ。

 自分のせいだった。キルヒアイスは関係ない、自分のせいなのだ。

「…………」

「三葉ちゃん……」

「…………」

 どうして、私は3組だったんだろう、1組だったら間に合ったのに。

「………」

 どうして、私はバスを降りたんだろう、いっそバスの中でしてしまえば見られたのは数人、お願いして口止めすれば黙っていてくれたかもしれないのに。

「………」

 どうして、サービスエリアで起きなかったんだろう、どうして、どうして。

「宮水が漏らしてるぞ」

「あ、ホントだ。かわいそー」

「きゃははは! 泣いてるよ」

 聴きたくないのに声が聞こえる。学年全員がそろっていて、見て見ぬフリをしてくれる生徒もいるけれど、心ない生徒は大きな声でからかってくる。しかも、ほとんどの生徒が体操着なのに三葉だけが制服なので、よく目立っていた。

「垂れるのはゲロだけにしとけよ」

「あの子、おねしょもしてたよ。ジャージ濡らして制服まで。キャハハ」

「マジで? 町長の娘なのに」

「ゲロ巫女、終わったな」

「おもらし巫女で再スタートだろ」

「きゃははは! それ笑える」

「最近、お嬢様気取りでムカつくし。ザマぁみろって感じ」

「高校生になって人前で漏らしたら人生終わりでしょ」

「いろいろ垂らして、やっぱ、汚い女だよな」

「オヤジは腐敗の匂いがするし、娘は屎尿の香りだな。あとゲロ」

「あいつの酒、絶対臭いよね」

 どうして、私は町長の娘なの。

 どうして、私は巫女なの。

 どうして、私は口噛み酒なんて造らなきゃいけないの。

 そんな立場、そんな目立つ肩書き、自分で選んだわけでも、ほしいわけでもないのに。

 ただ、平凡に、ごく庶民的に生きていたかっただけなのに。

 こんな田舎じゃなくて。

 もう少し都会で。

 歩く人、出会う人、みんな顔見知りで私を知ってる環境は、もうイヤ。

 誰も私を知らない。

 私も平凡なOLで、誰とすれ違っても、誰の名前も知らない都会で生きたい。

 誰のことも知らないところで生きたい。

 知らないところへ行きたい。

 オーディン。

 ラパート。

 フェザーンもいい。

 いっそ、ハイネセンも。

 三葉の心は地球の重力から解き放たれ、遠い未来の宇宙へ旅立ちたがっていたけれど、重力のくびきから脱することはできず、むしろ重力に負けて水たまりの中に座り込みそうになる。それを早耶香が支えてくれて、また克彦が抱きあげた。

「テッシー、どうするの?」

「とにかく行こう」

「そうやね」

 このまま晒し者では三葉が可哀想なので克彦は抱き上げたまま校門を出た。早耶香が三人分の荷物を持って、ユキちゃん先生に点呼を待たずに帰ることを伝えた。本来は全員がそろってから帰宅させる手順だったけれど、事情が事情なので許可がもらえ、宮水家まで帰る。虚脱状態の三葉は抱かれたまま動かない。三葉は重くはないものの人間一人を抱いたまま宮水家まで向かっていく克彦の背中を見て、早耶香は諦めがついてきた。

「テッシーの体力、すごいね」

「ハァ、まあな、ハァ」

 額に汗を浮かしているのでハンカチで拭いてあげた。宮水家に着くと、四葉が姉の姿を見て克彦に礼を言いつつも、やっぱり疑問なので訊く。

「お姉ちゃん、どうして、こうなったんですか?」

「………」

 克彦は汗だくでペットボトルのお茶を早耶香からもらって飲んでいたけれど、答えにくそうに早耶香へ視線を送る。早耶香は、たとえ家族に隠してあげても、どうせ近日中には町のウワサでわかるので、むしろ正確に教えることにした。

「渋滞でバスが動かなかったの。すごく傷ついてるから、からかったりしないであげて」

「はい、わかりました。ご迷惑をかけて、すみませんでした」

 四葉は玄関におろしてもらった姉を風呂場に連れて行く。

「お姉ちゃん、脱いで」

「………」

 三葉は虚脱状態のまま入浴だけはすると、二階へあがって布団に潜り込んだ。

「お姉ちゃん、ヨガマットは使わなかったの?」

「……次は中将………オーディンに帰ったらラインハルトさんに誉めてもらうんだ……私、教えられた以上に頑張ったもん……」

 シーツにくるまって三葉は遠いところを見ている。その目から涙が溢れ出てシーツを濡らしている。今はそっとしておく方がいいと四葉は判断して姉から離れる。一階に降りて姉の制服を洗っておき、それから神社に出た。

「今日も私だけかぁ…」

 神社の掃き掃除と賽銭箱の回収作業を修学旅行中は四葉がやっていた。今日は姉が手伝ってくれるかと思っていたけれど、あの様子では無理そうなので一人で進める。賽銭箱を開けて金額を数え、祖母が管理している金庫の前に置いておき、次は箒をもって神社全体を掃く。落ち葉の少ない季節なので、それほど苦労はしなかった。

「たかだか1リットルに満たない水分を出しちゃったくらいのことが、そんなにショックなのかなぁ」

 姉の様子は、まるで戦場で包囲殲滅され孤立無援のまま殺されかけた兵士か、長征10万光年のあげく銀河の反対側まで行って可住惑星を見つけたときには、もう自分一人しか生き残っていなかったような顔色だった。

「大袈裟というか……おしっこ漏らしたくらいで人生が終わるみたいに」

 四葉は最後の落ち葉をちりとりに入れて、箒を剣のように振る。

「学校で、からかわれたって、それがどうした?! って言ってやればいいのに」

 ちりとりと箒を片付けると、四葉は尿意を覚えた。

「………。おもらししてみようかな。どうせ、たいしたことないし」

 いっそ自分も衣服を濡らして、姉に見せてショックをやわらげられないか、試してみようという気になった。屋外なので土が吸収してくれるし、衣服は洗濯機で洗えば、それで終わる。

「……………。いざ、となると、さすがに、すぐ出ないなぁ……」

 力を抜いたつもりが、やっぱり抜ききれず、むずむずとする。そして、人目が気になって周囲を見た。

「この時間だし、誰もいないんだし、やってみなよ、四葉」

 自分に言い聞かせて、もう一度、力を抜いた。

「……ぅ~……ぅあぁ……」

 限界まで貯めた後ではないので、速度と躍動性には劣るけれど、さながらアメーバのような生温かさが拡がり、四葉の下着と短パンを濡らし、靴下も湿らせた。

「…はぁぁ………おもらし、ホントにしちゃった。………でも、……恐怖は感じない……むしろ、温かくて……安心を感じるとは……」

 四葉は大きく感情を動かされていて、流れそうになった涙を指でぬぐった。

「……お母さん……」

 なるべく想い出さないようにしている早世した母のことを想い出してしまっていた。だんだん冷たくなってくる短パンを四葉は右手で触った。

「…………」

 触った手を見てみると、当たり前だけれど濡れている。

「……この……感じ………なに? ………何かに目覚めてる……私……」

 身体の芯が熱くて、何か新しいことに目覚めているような感覚が湧いてきている。

「………おしっこ………おもらし……気持ちいい……」

 うっとりと四葉は表情をゆるめている。

「じゃあ、唾液は?」

 少し唇を舐めると、自分の左手に唾を吐いた。

「ぷっ!」

 唾液を受けた左手を見つめる。

「………っ……私は………普通の人間じゃない……」

 身体に電撃が走るような感覚があり、目覚めていた。

「………そうだよ……人間じゃない………人間であるはずがない……」

 児童が少年少女へ成長するときに自我や性別に目覚めるよう四葉は何かに目覚めていた。

「………唾液……おしっこ……流体……液状……だから、宮水……水……。その流れに浮かぶ葉っぱ……、それが私たち……。そして、糸の声を……歴史の流れ………歴史の糸の声を束ねて紐にする……宮水の巫女……」

 両手を口元にあて考え込む。

「お母さんの言葉………ティアマトは……きらきら輝くもの……原初の海の女神……私たちは、どこから……」

 亡くなる前に母が言ったことは、ほとんど理解できなかったけれど、断片的に記憶に残っている。そして、四葉は確信した。

「私たちは人間じゃない! 何で気づかなかったの?! ただの人間が時間を飛べるわけがない! 何度も何度も!」

 宇宙空間を1光年ワープすることでさえ、さまざまな条件があり、さらに巨大な機械装置を必要とするらしいのに、まったく何の道具も使わずに時間を跳躍する存在が人とは思えなくなると、答えに近づいた気がする。

「……私たちの使命……。…そして、口噛み酒は………私たちの半分……私たちの生命の半分………そっか。……あれを人に飲んでもらうと……私たちの人間としての残りの寿命は半分に……だから、お母さんは早くに………でも、お母さんは、きっと見ていてくれる……」

 まだ完全には、すべてを掴めたわけではないけれど、四葉は教えられなくても鳥が飛び方を習得するように、自分たちの存在について少しわかったような気がした。急いで部屋に戻って姉へ声をかける。

「お姉ちゃん! 聴いて! 私たちの入れ替わりには使命があるかもしれないの!」

「フロイライン四葉。そんなに慌てて。女の子は、もっと落ち着かないと」

「っ……誰?!」

「忘れたのかい。ボクはジークフリード・キルヒアイスさ」

「……………」

 嘘くさいキルヒアイスになることで現実逃避している姉へ語る気がなくなってしまった。まだ立ち直りに時間を要する様子の姉を置いて、一階で夕食を作ってくれている一葉へ声をかける。

「お婆ちゃん、宮水の巫女が時間を跳躍することの意味ってわかる?」

「……は? 四葉、なんだって?」

「私たち宮水の巫女が時間を跳躍したりすることの意味だよ。お婆ちゃんも飛んだんだよね?」

「………ごめんよ……もう忘れてしまったし……私には、そういうことは一度きり……二葉なら、何か知っていたかもしれないけれど……」

「そっか。いいよ、ごめん。もし、何か思い出したら教えてね」

「はいはい。……ところで、四葉、どうして服が濡れてるんだい?」

「クスっ、おもらししちゃった。テヘっ」

 照れ笑いして四葉は可愛らしく舌を出した。

「三葉を慰めようとしたんだね。本当に、よくできた妹だよ、四葉は。けど、着替えないと風邪を引くよ。お風呂に入っておいで」

「は~い」

 裸になった四葉は湯船に入って、湯に浸かると今まで以上に、流体と身体が一体化することを心地よく感じて、うっとりとしていた。

 

 



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15話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で目を覚ました。いっしょに四葉が寝てくれていたようで、目が合った。

「おはようございます、四葉」

「おはよう、お姉様」

「どうして、私たちは、いっしょに眠っていたのですか?」

「うん、それは……私が淋しかったからだよ」

 姉が心配だったからとは答えずに、四葉は着替えるため自室へ行った。三葉の部屋に手紙がないか探したけれど見つからなかった。修学旅行の3日目が、どう終わったのか、わからないまま、目を閉じて着替える。乱れている髪を整えるために鏡を見ると、何度も泣いたように目が赤い。

「京都見学も恐ろしい展示物が多かったのでしょうか………空襲は無くても、あそこは応仁の乱……本能寺の変……蛤御門の変……池田屋事件……枚挙にいとまが……」

 もう日本史の教科書は読み切っているので京都の戦禍が強調されていたなら、とても三葉がショックを受けたのではないかと思えてくる。

「私が広島と京都にいたしましょうと提案したとき、他の生徒たちも嫌がるような反応だったのは、このことを知っていたから……やっぱり、東京や大阪で遊ぶ方が……」

 同級生たちに悪いことをしたのではないかと思いつつ、通学路に出た。

「おはよう、三葉ちゃん。元気?」

「おはよう、三葉。大丈夫か?」

「はい、この通り立ち直っております。どうか、ご心配なく。ありがとう、サヤチン、テッシー」

「そっか。よかった」

「もし、学校で何か言われてもオレが守ってやるからな」

「テッシー……ありがとう」

「私もよ」

「サヤチンまで、ありがとうございます」

 なんだか二人が優しいので沈みかけていた気持ちが明るくなった。もう馴染んできた道を高校まで三人で歩き、穏やかに午前の授業を受けて、校庭で昼食を摂り教室へ戻ってきて困惑した。

「「「………」」」

 黒板に大きな字で、宮尿三吐、と書かれているし、その隣りに下手な絵で三葉の姿が描かれ、泣きながら口から白いものを吐き出して、スカートから黄色いものを垂らしている描写がされていた。

「……ひどい……」

 もう漢字の意味も理解できるし、部首の変化で似たような漢字が、ひどく侮辱的な意味に変化することもわかる。なにより描かれている絵が女性に対して非礼にすぎることは前後千年で変わらないと感じられた。

「誰だ?! こんなの書いたヤツ!!」

 克彦が怒鳴り、早耶香が黒板消しで消去してくれるけれど、クラスメートは誰も何も言わないし、犯人は不明だった。教室の後ろの黒板にまで、屎尿酒・新発売! おもらし祭り開催! 前夜祭はオネショです、と書いてあり、また侮辱的な絵もあった。足が動かなくて茫然としていると、早耶香が急いで消してくれている。

「…………」

 どうしていいか、わからない、これは宮水三葉に対して、ひどい侮辱と名誉の毀損がされていることはわかる。けれど、犯人が不明で、たとえ犯人がわかっても女性として振る舞っている今、よくラインハルトがやっていたように拳や石つぶてで解決するわけにもいかない。それならアンネローゼなら、どう反応するだろうか、そう考えるのと同時に身体が動いた。

「どうか、これ以上の侮辱はやめてください。今日を限りに、皆様といさかうことのないよう心がけたいと存じます」

 そう言って頭を下げると、教室内から舌打ちされるのが聞こえた。舌打ちされたのは三葉が泣き出すことを期待して仕掛けたのに思ったより反応が薄かったからだった。けれど、自席にも悪戯がされていて椅子は濡れていたし、ノートに落書きまでされている。ノートへの落書きは黒板に書いてあったことの何倍も酷く、卑猥で侮辱の限りを尽くしたものだった。三葉だけでなく克彦との関係まで邪推されて描かれ、さらには勅使河原建設と糸守町町長のことまで書いてある。こういう本人の行為や実力と関係ないところまで、えぐってくる構図も、皇妃の弟へのやっかみと侮辱に似ていて、人間という存在が悲しくなる。

「…………」

 涙が出そうになってハンカチで拭うと片付ける。早耶香が手伝ってくれ、克彦は犯人捜しをしたけれど、おおよその目星はついても確定までは至らなかった。やりそうな数人はわかるけれど、確証がない。

「卑怯もんが……」

 すぐに授業が始まり、そして放課後になると二人が心配そうに声をかけてくれる。

「三葉ちゃん、あんなの気にせんときよ」

「はい……」

「ああいうことするヤツって、ホント人間の屑だよな」

「………」

 同意も否定もせず、むしろ三葉に今日の出来事を、どう報告するか、迷いながら帰宅した。

 

 

 

 三葉は赤毛を整え、鏡で軍服に乱れが無いかチェックすると男子トイレを出て、軍務省にある式典室へ入った。高級軍務官僚が証書を読み上げてくれる。

「この度の功績により汝ジークフリード・キルヒアイスを帝国軍中将に任ず」

「はっ」

 敬礼して証書を受け取ると、実感と充実感が湧いてくる。

「……」

 そうだ、ここだ、こここそが、私の本来いるべき場所、私はジークフリード・キルヒアイス、本来生きるべき姿、と三葉は直立不動で胸を張った。式典室を出ると、次にノルデンが入り、しばらく待っていると誇らしげな顔で出てきた。

「いよいよボクも中将だよ。キルヒアイス中将」

「やりましたね」

 二人でガッツポーズする。カストロプ動乱の平定でキルヒアイスの戦功はラインハルトが報告し、またノルデンが果たした役割もキルヒアイスの記述をラインハルトが削除することなく上申したので、艦隊攻撃の功と伯爵救出の功が認められ、昇進したのだった。浮かれている中将二人へ軍務尚書エーレンベルク元帥が廊下へ出てきて小言をいう。

「勝つには勝ったようだが、ホーランドなにがしという戦術名は感心せんな。そは敵将の名であろう。次に用いるとしても、今少し考えるよう」

「「はっ!」」

 二人で相談して、ジークフリード・ノルデンアタックへ改称してから、三葉だけがラインハルトに呼ばれて元帥執務室へ入った。

「昇進、おめでとう。ミツハ」

 いつのまにかフロイラインが外れていて、それが一人前扱いされている気がして嬉しい。

「ありがとうございます。閣下」

「閣下は、よせ。今は二人だ。エーレンベルクに何を言われていた?」

 二人きりなので三葉は直立不動をやめて、それでも男性っぽく腰に手をやり答える。

「ホーランドアタックって名前は敵のだから、やめろって」

「くだらんな」

「ホントくだらない。で、相談してジークフリード・ノルデンアタックにしました」

「………かなり俗っぽい名前だな……まあ、いい」

 ラインハルトは気を取り直して、それでも気が進まない様子でフリードリヒ四世からの推薦状を三葉へ見せた。推薦状にはラインハルトの元帥府入りを希望する士官の名があった。

「ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ? 中尉待遇で? 誰ですか、この人」

「………ヒルダ、と言えばわかるか?」

「あ! あの!」

「そうだ。ミツハが助けた伯爵令嬢だ」

「え、でも、あんな女の子が中尉待遇で来るんですか?」

「反対か? 反対だろう」

 ラインハルトが嬉しそうに訊く。明らかにラインハルトも気乗りでない様子だった。

「だって、中尉って士官学校をちゃんと卒業するか、幼年学校から回ってくるか、そういうのが普通じゃないんですか?」

「そうだ。それが常道だ。伯爵令嬢だから中尉だとか、子爵家の嫡男だから少将だ、などというのはバカげた話だ」

「ノルデン中将さんはともかく、ヒルダって女の子だし……」

「ミツハが言うと面白いな」

「この身体は男ですから」

「たしかにな。ま、それは、ともかく、どうしたものか……」

「今回も皇帝からの推薦状だと困りますね」

「ああ……父親は良識派として評判の良い伯爵なのだが……」

「そもそも、どうして志願したんでしょう? 傷の方は、もういいのかな?」

「面接もかねて会ってみるしか、あるまいな。同席してくれ」

「はい」

 三葉はラインハルトの隣りへ移動して立ち、内線で呼び出されて控え室にいたヒルダが入室してきた。中尉の軍服を着ており、ぴしりと敬礼した。

「ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフです! ローエングラム元帥閣下とキルヒアイス中将のお役に立ちたく不肖ながら参りました次第です!」

「「………」」

 ラインハルトと三葉が黙り込んでしまったのはヒルダの右目のためだった。左目は美しい瞳をしてるのに、左は義眼で薄い茶色の目だったけれど、本人の緊張や心理状態と関わりがあるのか、ないのか、異様な光りが浮かび、二人を驚かせた。

「失礼いたしました。まだ、義眼の調子が馴染まないようです」

「……他の、傷は? もういいのですか? フロイライン・ヒルダ」

 つい三葉は直立不動から、ヒルダへ数歩、近づいた。

「はい、おかげさまで」

「そうですか。よかった。それにしても、キレイな目だったのに、かわいそう…」

「ありがとうございます…」

 礼を言ったヒルダが少し赤面したのでラインハルトは志願動機を察した。そして自分の元帥府は中学校の中庭でも高校の校庭でもない、と腹立たしく感じる。

「中尉」

「はい」

「レールキャノンが、もっとも有効な射程距離を述べてみよ」

 ごくごく初歩的な知識を問い、相手を試したラインハルトへヒルダは瞬時に答える。

「はい、10光秒から3光秒です」

「ほお、一応は正解したな。一通りの勉強はしてきたのか」

「まだ未熟者ですが精進いたします!」

「………だが、女の身で戦場は、なにかと苦労するだろう。後方勤務を望むなら、そのように取り計らってもよいぞ」

「閣下」

 ヒルダが義眼を外して見せた。眼窩に空洞ができ、ヒルダの美しい顔貌に空虚な印象をもたらしてくる。よく見れば、手や首の後ろにも有角犬に刺された傷跡があり、おそらく背中には数十箇所はあるはずだと三葉は想った。

「もはや、私は自分を女とは思っておりません。もともと、父からも男のようだと言われて育ちましたし、ご迷惑でなければ、キルヒアイス中将のお手伝いをさせていただきたい所存です」

「…………キルヒアイス、どう思う?」

「気持ちは嬉しいけれど、……また危ない目に遭ってしまうかもしれませんよ?」

「覚悟の上です」

「「………」」

 ラインハルトと三葉が目で語り合う。二人とも判断に迷い、結局は皇帝からの推薦状がものをいった。

「わかった。キルヒアイス、使ってやれ」

「はい」

 結論が出た頃に正午を迎えたので三葉はヒルダを昼食に誘った。

「お昼、いっしょに食べますか? 士官食堂の使い方、教えてあげるから」

「はい、ありがとうございます」

 もともとヒルダが好意をもっていた上に、どこか女性的な雰囲気もする中将と、男勝りではあっても女性である中尉は30分のランチで仲良くなった。

「じゃあ、夕飯もいっしょに、どこかのレストランに行こう。おごってあげる」

「そんな申し訳ないです」

「いいの、いいの。予定がないと、いつもラインハルトさんと食べるだけになるし。たまには女の子と出かけたいから」

「フフフ、思っていたより普通の方なんですね。キルヒアイス中将」

 夕方に会う約束もしてラインハルトの執務室へ戻った。午後からラインハルトが思い出したように、もしも次に指揮官として、どこかの地域を占領することがあったとしても、婦女暴行だけでなく略奪も制止するよう、たしかに帝国軍は過去何度も領土内でさえ略奪をしているが、それは文化ではなく憎むべき蛮行であると言い、ゆえにその場合の処置などを学んでいたけれど、だんだん集中力が切れてきた頃、来客があった。

「まず、お人払いを願います」

 パウル・フォン・オーベルシュタイン大佐がラインハルトと話しているのを、三葉は隣で直立不動で傍聴している。

「キルヒアイス中将は私自身も同様だ。それを卿は知らないのか」

「……」

 初対面っぽい人に、知らないのかって堂々と言うほど有名な話なんだ、そういえば幼年学校から、ずっと同じ部署って人事的にすごいなぁ、私の町でも小学校から高校までクラス同じって子まずいないのに、と三葉が余計なことを考えていると、オーベルシュタインの話は進んでいた。

「さまざまな異なるタイプの人材が必要でしょう。AにはAに…」

 三葉は空気を読んだ。

「元帥閣下、私は隣室に控えていた方がよろしいかと」

「そうか」

 ラインハルトが頷いたので隣室へ移動する。

「よし、私、空気読めた」

 自分の判断が正しかったことに自信をもって拳を握る。そして、しばらく静かに待っていると大きな声で呼ばれる。

「キルヒアイス!」

 かなり緊迫した声なので、急いで戻る。

「はい!」

「キルヒアイス、オーベルシュタイン大佐を逮捕しろ。帝国に対し不逞な反逆の言動があった。帝国軍人として看過できぬ!」

「はい!」

「しょせん、あなたもこの程度の人か……」

 三葉はブラスターを抜いて正確にオーベルシュタインの胸部を狙った。

「両手を頭の上にあげ! 膝をつきなさい!」

「けっこう、キルヒアイス中将ひとりを腹心と頼…」

「両手を頭の上にあげ、膝をつきなさい!」

「……」

 オーベルシュタインは三葉の方を向いた。あ、この人も義眼、しかも両目、と今さら気づいたけれど油断はしない。

「キルヒアイス中将、私を撃てるか。私はこの通り丸腰だ。それでも撃てるか?」

「丸腰…」

 三葉はブラスターの狙いを胸部から太腿にかえた。

「両手を頭の上にあげ、膝をつきなさい! 最後の警告です!」

「撃てんだろう。貴官はそういう男…」

 三葉がローキックを放つ。

 ベキッ!

 ブラスターは発射口を天井に向けて、強烈なローキックを放ってオーベルシュタインの足元を崩すと、左手で頭を押さえつけ、床に組み伏せた。

「制圧、完了!」

 できた、習った通り、うまくできた、と三葉は達成感を持ちつつ、油断せずブラスターをオーベルシュタインの頭に押しあてる。相手が丸腰だった場合の制圧方法の一つを実戦でも成功でき、白兵戦の訓練が無駄ではなかったと感じている。そして、猟犬が猟師に獲物を見せて、誉めて欲しそうな顔をするようにラインハルトを見る。

「制圧しました!」

「……よくやった…」

 ラインハルトは、まだオーベルシュタインの話の続きが気になっているけれど、とりあえず三葉を誉めた。

「光りには影がしたがう……しかし、お若いローエングラム伯には、まだご理解いただけぬか…」

 それでも、オーベルシュタインは話を続けていた。以前に出会ったキルヒアイスから受けた印象や事前調査による見込みとは、ずいぶんと人物像が違い、自分の人物眼に少し自信が無くなったけれど、今はキルヒアイスという人物よりも、ラインハルトに自分を売り込む必要があり、それに失敗すると軍上層部から劣悪士官として排除されるので決死の覚悟で臨んでいる。床に組み伏せられた衝撃で両目の義眼が転げ出てしまい、まったく視界が無い状態でも、言い募った。そんな様子にラインハルトは感心して頷く。

「言いたいことを、……何が何でも、しっかりと言う男だな」

「恐縮です。ゴホッ…ゴホッ…」

 三葉が膝で体重をかけて背中を押さえつけているので咳き込んでいた。

「ゼークト提督からもさぞ嫌われたことだろう、違うか」

「あの提督は…ゴホッ…部下の…ゴホッ…忠誠し、ゴホッ…」

 三葉が絶対に動けないよう組み伏せているので、かなり苦しそうだった。

「キルヒアイス、もういい。離してやれ」

「え? いいんですか? でも…」

「我々と同じ方向性なのか、試しただけだ。そして、オーベルシュタインの目指すところと我々のそれは共通だ」

「ってことは皇帝を倒すための仲間?」

「「………」」

 二人は否定しなかったけれど、軽率に口に出すことではないという沈黙をしている。三葉は力を抜いてオーベルシュタインを立たせてやり、転がっていた義眼も拾って渡した。

「コンタクトレンズと違って、両方を落としてしまうと大変そうですね」

「……。かたじけない。……キルヒアイス中将……」

「オーベルシュタイン、よかろう。卿を貴族どもから買おう」

 かなり鋭い男だと感じたので三葉と長く話をさせたくなかったゆえ、ラインハルトは話をまとめた。夕方になり三葉はミッターマイヤーに教えてもらったレストランでヒルダと夕食を楽しんでいた。

「ヒルダって本当に色々なことを知ってるね」

「いえ、父に言わせれば、女子が知るべきことを知らず、政治や軍事といったことにばかり興味をもって困りものだと」

 会話が弾み、二人で2本のワインを飲み、別れ際に三葉は名残惜しくてヒルダの頬へキスをした。

「……キルヒアイス中将…」

「お別れの挨拶だよ。でも、また、いっしょに過ごせるといいね」

「はいっ」

 ヒルダを公用車で送らせると、三葉はラインハルトの部屋へ行った。

「遅かったな。キルヒアイス、いや、ミツハ」

「ごめんなさい。つい、話が弾んで」

「まあ、女性同士だ。そういうものなのかもな」

 一人で飲んでいたラインハルトは三葉へグラスを勧める。

「飲むか?」

「う~ん……少しだけ」

 三葉はグラスに半分だけワインをもらって座った。

「伯爵令嬢は、どうだ?」

「うん、可愛い」

「……いや、そうではなく使えそうか、という話だ」

「女の子をさ、そういう言い方するの、どうかな?」

「……」

 酔っているキルヒアイスの瞳に批判的に見られると、ラインハルトは返答を考えるのに数瞬を要した。

「彼女は自ら、自分を女とは思っていない、と言ったぞ」

「それは身体も心も傷つけられて、そう思わないと気持ちの整理ができないから。そのくらいのこと、わかってあげようよ」

「…………そう受け取るべきなのか………やはり、女性というのは、わかりにくいな。だが、彼女は我々の部下として来たのであって、客人ではないぞ?」

「なら、皇帝が後宮の女性を、あいつは使える、あいつは要らない、そんな風に言ってたら、どう感じる? もっと、単純に自分のお姉さんが、そんな言い方を他人にされていたら、どう? 立場の上下があれば、何を言ってもいいの?」

「………………わかった。オレが悪かった」

 ラインハルトが素直に非を認めて、お互いに一呼吸おいたとき、12時になった。

 

 

 

 キルヒアイスは見慣れたラインハルトの部屋でワインを飲んでいたので安心した。

「ただいま、戻りました」

「ああ」

 そう答えてキルヒアイスのグラスへワインをそそいだ。

「ラインハルト様、すでに、かなり飲んでいるようですから、このあたりで…」

「そんな顔色だな」

「今日は何がありましたか?」

「オーベルシュタインという男を覚えているか」

「はい」

 ラインハルトはオーベルシュタインについて語り、それからヒルダについても一応の説明をすると、夜が更ける前に二人とも休んだ。キルヒアイスは定刻に起きて、元帥府へラインハルトと出仕すると、それぞれに別の仕事を精力的に進めていく。その過程でヒルダの馴れ馴れしさに少し困っていた。

「キルヒアイス中将、お昼をごいっしょしてもいいですか」

「いえ、今日はラインハルト様と会議をかねて食べる予定ですから」

「そうですか。では、ご夕食の予定は? 友人から東洋料理の美味しい店を教えてもらったのです。ごいっしょしていただけませんか?」

 そう言いながらヒルダが気安く肩に触ってくるので、さすがに中将としても職場の上司としても威儀を正す。

「マリーンドルフ中尉、ここへ遊びに来ているおつもりなら帰ってください」

「っ……失礼いたしました」

 頭を下げたヒルダが涙ぐんでいたのでキルヒアイスは心が痛んだけれど、言うべきことは言っておき、ヒルダと距離をおいた。一言苦言を呈してからのヒルダは優秀な事務能力を発揮してくれたので部下として有能だと判断して、昼食時にラインハルトとの話題の一つになった。

「使えるという表現は三葉さんに怒られるかもしれませんが、彼女の能力的にはそう言って差し支えないかと思います」

「そうか。なら、適度に使ってやれ」

「はい。……」

「どうした、キルヒアイス、何か言いたいことがあるのか?」

「オーベルシュタイン大佐の方です」

「うむ。あの男が門閥貴族どもの手先ではないか、と、一時はオレも疑った。しかし、貴族どもの手に負えるような男ではない。頭は切れるだろうが、癖がありすぎる」

「ラインハルト様のお手には負えるのですか?」

「奴一人を御しえないで宇宙の覇権を望むなんて不可能だと思わないか」

 ラインハルトは不敵に微笑して昼食を終えた。

 

 

 

 三葉は自分の部屋で目を開けると、四葉に起こしてもらってヨガマットに立とうとしたけれど、少し迷って階段へ向かった。

「ちゃんとトイレでしたいから………ぅぅ……ぅ~……」

 けれども部屋を出たところで下着や脚を濡らしてしまい、頬も涙で濡らした。かすれるような声で泣き出した。

「…ぐすっ……ひっく……ぐすっ……ひーっ…ううっ…ひーっ…」

「………」

 最近はヨガマットがあれば泣かなくなってたのになぁ、と四葉は啜り泣く姉への慰めを実行してみる。お昼休みから四葉も、ずっとトイレに行っていないので力を抜くと、すぐに溢れてきた。

「お姉ちゃん、見てみて」

「…ぐすっ…」

「私もヨガしてみた。ヨガって気持ちいいね」

 四葉のパジャマも濡れて、廊下の床で二人の水たまりが混じって一つになっている。

「いい汗かいたし、お風呂に入ろう」

「………バカにして……」

 姉が涙に濡れた目で睨んできた。

「……四葉まで、……そうやって……私をバカにして……」

 睨みながら、ぼろぼろと涙を零すので四葉は、どう慰めていいか、わからない。

「お姉ちゃん……泣かないで。バカにする気なんか、ないから」

「どうせ、……ひっく……ちょと濡れるくらい、たいしたことない、とか……そんな風に、四葉は割り切って……ぐすっ……」

「………」

「ぐすっ……小学生のおもらしと、いっしょにしないでよぉ……私は高校生なんだよ……高校生にもなって、学年みんなが集まってるのに、おもらししたのと、家の廊下でするのは、ぜんぜん違うんだから……」

 修学旅行の終わり方を思い出してしまい、三葉は脚の力が抜けて水たまりへ座り込みそうになる。四葉は支えてあげようとしたけれど、体格の差がありすぎて二人とも水たまりの中に座り込んだ。

「ぅーっ……ひぅーーっ……ひぅーーーっ…」

「そうだよね。じゃあ、明日、私も学校で、おもらししてみるよ。それで、お姉ちゃんの気持ち、ちょっとはわかるかもしれないから」

「…………………。やめて! 絶対やめて!」

「私なら、きっと大丈夫だよ。からかわれても、それがどうした?! って言い返すから」

「お願いだからやめて! 四葉は大丈夫でも、四葉までおもらししたら、おもらし姉妹とか、もっと色々言われるから! お願い、はやまったことは絶対しないで!」

 すがりついて懇願されて四葉は頷いた。

「うん、わかったよ、しないよ。とにかく、お風呂に入ろう」

 その場を片付けて二人で入浴しても、三葉は泣き声をあげないものの、ぽろり、ぽろりと涙を零している。四葉は姉の身体を手で洗って慰めるように撫でる。

「はい、バンザイ」

「……ぐすっ…」

 素直に全身を洗ってもらい、髪も洗ってもらう。四葉は姉の髪を洗いおわると、そのまま頭を抱きしめて頬をつけて、しばらくジッとしていた。

「…………なによ……慰めてるつもり? ……小学生のくせに……」

「ううん、そんなつもりじゃないよ」

「………」

 否定されると言い様がなくて三葉は黙って湯船に入る。すでに四葉は二度目の入浴なので、そのまま湯船へ浸かった。向かい合っている姉は涙が零れそうになると目元まで湯船に浸かって誤魔化し、呼吸のために、また浮上する。

「お姉ちゃん、ちょっと」

 そう言って四葉は姉の涙を指先で拭き取って、その指先を見つめ、匂いを嗅ぎ、それから舐めた。

「…う~ん……」

「……ぐすっ……」

「お姉ちゃん、唾液を出してみて。私の手に」

 四葉が右手を向けてきた。

「唾液? なんで……ヤダよ……」

「お願い」

「…………」

 妹には借りが多いのでお願いされると断れない。気が進まないけれど、唾液を出す訓練は長年してきたので、少し貯めてから四葉の右手に垂らした。垂らして、すっと舌先でヨダレを切り、糸を引かないように終えた。

「これでいいの?」

「うん、ありがとう」

 四葉は垂らしてもらった姉の唾液を見つめ、匂いを嗅ぐ。

「ちょっと、ヤダ、何してるの? 四葉、変!」

「………」

 匂いを嗅ぎ終わると、四葉は姉の唾液を舐めた。

「っ……」

 三葉は湯船に入っているのに鳥肌が立った。聞いたことがある、世の中には同性を好きになる人間がいると、漫画で読んだことがある、世の中には妹や姉や兄や弟を家族愛を超えて愛する人間がいると、そのハイブリッドが自分の妹なのかもしれないと感じると、さっきまでの行為や今日までの世話焼きが、すべて理解できてくる。さっき、全身をくまなく洗ってくれた。優しく指先で探るように、どこもかしこも洗ってくれた。それから頭を愛しく抱きしめられた。そして何度も夜の12時に眠いだろうにヨガの世話をしてくれる、それに感謝はしているけれど、下心があったのかもしれないし、もしかしたら何度も、そんな姿を見せたことで妹が変な方向性に目覚めてしまったのなら、責任も感じる。

「よ、四葉……あ……あのね、女の子は、男の子を好きになるべき……なんだよ。あと、家族は…、ずっと、家族なんだから」

「は? それより、私の唾液、どう感じる?」

 四葉は左手に唾液を垂らして、三葉に近づけてきた。

「ちょっ、ヤダ! やめて!」

「いいから、どう感じるか、教えて」

「ヤダヤダ! 四葉、お願い! 変な子にならないで!」

「………」

 四葉は不満そうに諦めた。それから両手を合わせて混じり合った唾液を観察しながら、姉に問う。

「あのさ、お姉ちゃんは自分を普通の人間だと思う?」

「私は絶対ノーマルだから! ありえないから!」

 湯船の中で三葉が身体を守るように自分を抱いたので、四葉は姉の思考に気づいた。

「何か変な勘違いしてる?」

「変なのは四葉だよ! おかしいから! ダメだよ、お姉ちゃんは四葉のこと、妹としか想ってないから! 妹以上でも妹以下でもないの!」

「…………。はぁぁぁ……」

 タメ息をついてから、四葉は湯船を出た。身体を近づけていると姉が変な勘違いをしているので冷静にさせるために距離をおく。

「お姉ちゃん、落ち着いて聴いて。ワープだって宇宙船が必要なのに、時間をポンポンと飛び越えるお姉ちゃんは普通の人間だと思う?」

「ぇ……………さあ? わ……私は……普通の女子高生だもん……」

「う~ん……使命感とか、ない?」

「使命感?」

「なにか、しなきゃいけない。どうして、私には、こんな力があるんだろう、みたいな」

「……………そんなの、ないよ」

「………。じゃあ、自分や私の唾液とか、おしっこを、どう思う?」

「そんなの、どうも思わないよ。四葉、変だよ、そんなものに興味をもたないで。お姉ちゃんは四葉の将来が、すごく心配」

「まだダメなのかなぁ……今夜は性急すぎたかも、お姉ちゃんには、もっとゆっくり目覚めてもらった方がいいのかなぁ…」

 つぶやきながら脱衣所へ出て行った妹の方向性が、とても心配になり、三葉は修学旅行のことを忘れて眠ることができたけれど、やっぱり朝になると思い出した。

「………」

 目が覚めたけれど、布団から出たくない。学校に行きたくない。

「お姉ちゃん、もう時間だよ」

「…………」

「まだ目が覚めないの?」

「………目覚めないから……私は……ずっと、目覚めないの……」

 いろんな意味で目覚めたくない。布団に潜り込んで丸くなった。

「学校、遅れるよ」

「……行かないから……」

「休むの?」

「うん」

「…………それをすると、余計に行きにくくなるよ? 昨日、お姉様が行っておいてくれたから今日は頑張りなよ」

「あ……手紙あるかな…」

 三葉は布団から顔を出して周囲を見回した。手紙はあった。

 

 宮水三葉さんへ

 お元気でしょうか。

 入れ替わりましたおり、身体が重いように感じて心配いたしております。

 また、広島で私も体調を崩してしまい、本当に申し訳ありませんでした。

 そして、どのように報告申し上げるべきか迷っておりますが、からかいや冷やかしを学校で受けることがあり、幸いにしてテッシーとサヤチンが守ってくださいましたが、あまりに品性のない誹謗でしたから、筆舌に耐えません。

 憶測するに、お父様の立場や、テッシーからご好意をいただいていることへの羨みが動機なのかもしれません。

 どのように対処するのが適正か、わからずにおります。

 ご指導ください。

 

 読み終えた三葉は再び布団に潜り込んだ。

「お姉ちゃん、ホントに学校いかないの?」

「……筆舌に耐えないって……からかわれてるの、おもらしのことに決まってるよ……ぅっ…うぅっ…ぐすっ……ひーっ……ひーぅぅぅ…」

 かすれた泣き声が布団から漏れてくるので、四葉はティッシュの箱を布団へ入れてやり、今日の登校は無理だと思い、一階へ行った。

「……ぐすっ………ぅう……」

 しばらく泣き続けた三葉は、ずっと布団の中にいたので二度寝して昼過ぎに起きた。朝食も昼食も食べていないので空腹に負けて一階へおりた。トイレに入ってから祖母の姿を探したけれど、家に一葉はいなかった。何か町内会の集まりでもあるのかもしれないし、出先での神社の仕事かもしれない。

「……お腹空いた……」

 冷蔵庫を開けたけれど、食べる物はなかった。牛乳だけを飲んで空腹を誤魔化す。

「ぐすっ………お婆ちゃん……また……働かざる者食うべからず……で……」

 昔気質の祖母は病気ではないのに学校を欠席した孫娘へ食事は用意してくれない。優しさと厳しさを使い分ける祖母だということは物心つく前から知っている。

「……ぐすっ……この欠席は…心の病だよ……ぅぅ……お腹空いたぁ…」

 きっと、このままでは夕食も用意してもらえないので、三葉は着替えて普段着になると、神社の掃き掃除をしておく。せめて一つでも仕事をしておけば、ご飯を食べさせてくれるかもしれないという希望で境内を掃いていると、参拝に来た町内の老人に出会った。

「やあ、三葉ちゃん、ご苦労さん」

「ご参拝ありがとうございます」

 今まで何度も口にした礼を言って、掃き掃除を続けるけれど、神前へ手を合わせて戻ってきた老人に訊かれる。

「三葉ちゃん、学校は?」

「……今日は、ちょっと……」

 三葉が答えにくそうに目をそらすと老人は察した。

「ああ、あれを気にして……そんなん気にせんときよ。失敗は誰にでもあるから」

「っ……」

 もう知ってる、きっと、もう町中に知れ渡ってる、2年生は3クラス、約100人が帰宅して両親に話したら300人、祖父母もいたら500人、兄弟姉妹がいたら、もう1000人、そのお爺さんお婆さん兄弟姉妹が世間話したり、学校で笑い話にしたら、もう完全に町民全部が知ってる、と三葉は思い、境内の玉砂利の上に崩れると、また泣き出した。すでに老人は歩み去っていて、誰もいないので、声をあげて泣いた。

「うわああぁあぁ! ああああぅううう! もう、ヤダよぉお……絶対、学校いかないもん……ぅうう……うううひいううぅ…外にも出ないもん……お祭りなんか、絶対に出仕しないから!!」

 もう夏祭りは目前に控えているし、秋になれば新米を扱う秋祭りもある上、今年は糸守町の直上を1200年に一度の彗星が通るから観光客も来るかもしれない。何より夏祭りのタイミングは最悪といっていい、おもらしのウワサが町中に回った後で舞台にあがるくらいなら、イゼルローン奪回を命じられる方がマシだった。

「ぐすっ…ぅう…ぐすっ……ゼッフル粒子を超大量につくって……ぐすっ…回廊全体を封鎖してさ…ひっく…そこへ小惑星を何個も何個も加速して、ぶつければ…ぐすっ……あとは、表面がベコベコになったところに圧倒的な兵数で陸戦要員を送り込めば……そうだ、オフレッサーさんに頼んだら喜んでやってくれるかも…ぐすっ…内部構造は私も見たから……そうだよ、地の利は、こっちにもある……ぐすっ…」

 別の現実に逃避しながら泣いたまま部屋に戻ると、また布団という要塞にこもる。しばらく、籠城していると四葉が小学校から帰ってきた。

「お姉ちゃん、気分はどう?」

「………もう一生、ここから出ないから」

「寝たきりになるには、あと70年ばかりは早いと思うけど……」

「ぐすっ……小学校で私のこと、言われてる?」

「………。少しだけ」

「……ぅぅ……ぅ、ひっく……小学生にまで……笑われてるんだぁぁ……私はぁ……ぅううぅ……ひぅぅぅぅ……」

「少しだけだよ。ちゃんと仕返ししておいたから、二度と言わないように」

「ぅぅぅ…ひぅぅぅ…あぅっぅぅ…ああぁぁ…ぅあぁあぁぁ…」

 丸まった布団が震えている。ゆっくりと四葉が布団を撫でていると、早耶香と克彦が学校帰りに寄ってくれた。四葉が玄関で応対して、三葉に問う。

「サヤチンさんとテッシーくんが来てくれたよ」

「……ぐすっ……サヤチンにだけ会う……テッシーには、ありがとうって………こんな顔、見られたくないから……」

「わかった」

 女子としての見栄を大切にする姉の気持ちを玄関で二人に伝え、早耶香と戻ってきた。

「サヤチンさん、どうぞ」

「お邪魔します」

「…ぐすっ……」

「三葉ちゃん、今日は学校に来れる気持ちじゃなかった?」

「…ぅっ…ぅっ……四葉、…泣くから、出て行って」

「お姉ちゃん……」

 さんざん泣いたのに、まだ泣くのかな、と思いつつ四葉が出て行くと、三葉は早耶香に抱きついて号泣し始めた。

「うああああああ! はあああああ!! ああああああん!」

 廊下にいる四葉が今までの泣き方は、やっぱり妹の前だから控え目だったんだと思い知るほどの慟哭を親友に抱きついてしている。

「三葉ちゃん……、よしよし」

「わあああああん!」

「いっぱい泣いたらいいよ。よしよし」

 こんなに三葉が泣くのは二葉が亡くなった後から無いので、早耶香は抱き返して背中を撫で、三葉が落ち着くのを待った。

「…ぐすっ…うぐ……ぐうぅ…ふえ……ぐすっ…」

「もっと泣いてもいいよ」

「うぐっ……うん……ありがとう、サヤチン……」

 やっと嗚咽が止まって三葉はティッシュで顔を拭いた。

「……サヤチン……学校で……私のこと、何か言われてる?」

「今日は本人が欠席してるから、とくに何も」

 本当は一部の生徒が笑い話にしているけれど、それを伝えることは控えて早耶香は安心させるように三葉を何度も抱いてから帰った。また、三葉が布団にこもって時間を過ごしていると、夕食が終わった頃に四葉がオニギリを二つ持ってきてくれた。

「また、お婆ちゃんの働かざる者食うべからず、が始まって、これだけはもらってきたから食べて」

「うん……ありがとう…」

「はぁぁ……お婆ちゃんも厳しいよねぇ…」

 籠城に対して兵糧攻めという常道をいく祖母に四葉はタメ息をついた。

「昔気質なのはわかるけど、このパターンでお父さん、家を出て行ったのに……」

 町長選挙へ立候補するという俊樹へ、反対だった祖母は食事を用意せず、どちらも主張を曲げなかったので結局、別居している。

「……ぐすっ……美味しい……ありがとう、四葉」

 ほぼ24時間ぶりの食べ物に三葉は妹の存在をありがたく思いつつ食べた。食べ終えて入浴すると下着も替え、時計を見た。

「あと30分、いっそ、しばらくオーディンで暮らしたいなぁ……」

「トイレも行っておいてあげたら」

「うん、そうする」

 ほとんど尿意は無かったけれど、ちゃんと出し切った上で12時を迎えた。

 

 



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16話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で気がつくと、四葉が目の前にいた。

「こんばんは、お姉様」

「はい、こんばんは」

「お腹空いてる?」

「え? ………はい……そのようです」

 恥ずかしそうに頷いた。

「下に夕食があるから、どうぞ」

「ありがとうございます。けれど、どうして夕食が12時を過ぎたのですか?」

「うちのお婆ちゃん、厳しいからね。病気でもないのに学校を休むと、働かざる者食うべからず、でさ。巫女の仕事をしなくても、そうだし」

「三葉さんは欠席されたのですか?」

「うん」

「その方が良いのかもしれません。ひどい中傷を受けていましたから」

「お姉様もつらいなら、休んでくれてもいいよ」

「いえ、私は大丈夫です」

 かなり遅い夕食を取ってから眠り、朝になって通学路へ出た。

「おはようございます、テッシー、サヤチン」

「おう、おはよう、三葉」

「おはよう、三葉ちゃん」

 二人とも、あえて修学旅行の話はせずに、まったく関係ない月刊ムーの記事について克彦が語るのを聴きながら登校する。

「でよ、この記事によると地球外生命体の有力な移動手段として彗星が考えられるっていうんだ」

「あいかわらずバカな話を思いつくよね、その雑誌」

 早耶香が夏の空を見上げて、暑そうに汗を拭いた。学校に着くと、いきなり侮辱されるようなことは無いけれど、一部の生徒がヒソヒソと話し合ったり、クスクスと笑っていたりする。

「今日は休まずに来てるよ、おジョー様」

「替えのおパンツ持参じゃね」

「おジョー様はトイレいかないから、きっとオムツだよ」

 面と向かって言うわけではなく聞こえるか、聞こえない程度の声で話されているし、克彦が睨むと知らん顔される。宮尿三吐の次は、おジョー様という言い方でお嬢様と発音するのと違いが少なく余計に注意しにくいし、陰にこもる中傷だったけれど、もともとアンネローゼも宮廷内で門閥貴族から色々と陰口を言われても、聞こえない顔をして過ごしていたので、それを見習って毅然としている。そのおかげか、大きな悪戯はされずに一日が終わった。

 

 

 

 三葉はラインハルトとの朝食を終え、元帥府でヒルダから今日の予定を聴いていた。

「本日のご予定は10時より、エリザベート・フォン・カストロプ公爵夫人の自裁に立ち会われることになっております」

「ああ、あの人……皇帝に逆らったんだから、死刑は当然か……。他の予定は全部、明日に回しても大丈夫?」

「はい、キルヒアイス中将自らがなさらなければならない仕事は、それだけです。他は事務的な決済などがありますが、明日以降でも問題ありません」

 すでにヒルダはキルヒアイスから、たまに自分は丸一日あまり仕事をしたくない日があり、そんな日は翌日以降でいい仕事は後回しにして、どうしても処理しなければならない案件だけ進めるよう、と聞いているので、その日が来たのだと思い、外せない用件だけを伝えている。

「じゃあ、午後からヒルダと、どこかに遊びにいこう」

「え……はい! あ、でも…」

 嬉しそうに返事してからヒルダが迷っている。

「何か用事ある?」

「実は昼休みにオーベルシュタイン大佐に呼ばれているのです」

「あの人に………しかも、昼休みにって……」

「大佐は、これは私的な用件だから業務時間外に、と」

「……私的な用件って、怪しくない? あの人そのものが怪しいのに」

「クスッ……今日のキルヒアイス中将は、いつもと、ぜんぜん雰囲気が違うのですね」

「そ、そっかな。まあ、今日はオフな気分だからさ」

「まるで元帥府で初めて、お出会いした日みたいです」

「うん、あの日から、もう一週間は経ったなぁ……ま、それはいいとして、あの大佐の私的な用件って明らかに怪しいから注意して」

「はい」

「っていうか、私もついていってあげようか」

「いえ、それでは鼎の軽重を問われます」

「あ、そっか、中尉が大佐に会いに行くのに中将がついていくのはマズいか………じゃあ、偶然をよそおってドアの外で待ってるよ。変なことされそうになったら叫んで呼んで。今度こそ逮捕してやるから」

「クスっ…よろしくお願いします」

 ヒルダとの話を終えると、軍服を儀典用の華美なものへと着替え、新無憂宮へと移動する。途中でノルデンに出会った。

「気の進まない任務だね」

「まったくですな」

 ノルデンも中将としての儀典服を着ている。エリザベートを捕虜にしたとき、二人とも関わっていたので慣例として見届人に指名されていた。二人でベーネミュンデも自裁させられた部屋に入った。

「………。ここで、今までに何人も……」

「独特の雰囲気がありますな」

 自裁のために用意されている部屋は華美なのに陰鬱な感じを受けるのは、その使用目的を知っているからかもしれなかった。他にも官僚やカストロプ家と関わりのあった見届人が入室して整列していく。フランツも入ってきて、ノルデンと三葉に会釈した。

「そのせつは、ありがとうございました。ノルデン中将にお助けいただき、まことに感謝いたしております」

「いえいえ、当然のことをしたまでですよ。ははは! 伯もお元気そうで、よかった」

「おかげさまです。また、キルヒアイス中将のところへは娘がわがままを言って押しかけてしまい、すみません。ご迷惑をかけていませんか?」

「いえ、ぜんぜん。むしろ、可愛…いえ、えっと…嬉しいですよ。光栄です」

「そう言っていただけると幸いです。もともと男勝りで結婚も難しいかと思っていたのに、あの傷では……」

「………。そんな簡単に諦めなければ、よい縁があるかもしれませんよ」

 キルヒアイスの手が娘を心配する父親の肩に触れると、フランツは有り難そうに一礼して軍属の三葉たちとは離れた位置に整列した。三葉は天井を見上げた。豪華な天井画が描かれ、やはり部屋の使用目的に合わせているのか、ヴァルハラを表現している。

「あと3分か……毒殺は苦しむのかな? ノルデン中将さんは見たことありますか?」

「いえ。けれど、そう苦しむことは無いはず。一応、公爵夫人としての礼節をもって遇されると」

「爵位か……」

「兄のカストロプ公から形式的に相続した上での自裁ということに。もっとも、その兄のマクシミリアンでさえ、死後に宮内庁が父オイゲンからの相続を正式に認めた後から妹へ、ということゆえ。本当に形式的なもので、あわれなことよ」

「………憂鬱ですね。……新無憂宮といっても、けっこう憂鬱な部屋が有って…」

「ゴホン!」

 リヒテンラーデが咳払いして私語をやめさせた。いよいよ定刻となり、エリザベートが儀仗兵に連れられて、ドレス姿で現れた。最後の礼遇ということで公爵夫人として最初で最後のドレスを着ているし、おそらく蒼白な顔色をしているはずなのに化粧のおかげで美しく見える。しかも二重顎だった下顎のラインが、ほっそりと痩せていた。

「………」

 ぜんぜん別人みたいに痩せてる、そりゃそうだよね、捕虜になって、ご飯もらっても公爵家の食事とはレベルが違うだろうし、いずれ殺されるとわかってたら食欲も無いだろうし、こうやって痩せると、けっこうキレイで可愛い子だったんだ、艦隊指揮なんか執らずに全部お兄さんのせいにしたら、命くらいは助かったかもしれないのに、かわいそう、と三葉が同情的な視線を送っていると、睨まれた。

「この下賤な卑怯者めが!! 正々堂々戦っていれば勝ったのは私だ!!」

「………」

 まあ、5000対2000だったから、私が5000の方でも、勝ったと思うよ、そもそも真正面からぶつかることしかしないなら艦隊指揮官も参謀も無用の長物だよね、いかに戦術を練るかが仕事なんだから、それを卑怯って言われてもなぁ、と三葉が黙って考えていると、エリザベートが唾を吐きかけてくる。

「ペッ!」

「っ…」

 三葉は人間が唾液を貯めるときの予備動作を熟知していたし、持ち前の反射神経もあってエリザベートの唾が顔にかかる前に、さっと横へ回避すると同時に、とっさに身体が動いてボディーブローを放ち、うずくまったエリザベートの肩を捻ると組み伏せた。

「あ……」

 流れるような白兵戦技で組み伏せてから、空気が読めていないことに気づいた。リヒテンラーデが注意してくる。

「キルヒアイス中将、公爵夫人への礼節を忘れぬよう」

「は…はい、すいません。つい、とっさに……失礼しました」

 キルヒアイスの手が公爵夫人を離すと、たとえ女性が相手でも容赦しないのだと思い知ったのか、もう何も言わずにエリザベートは儀仗兵に連れられ、赤い絨毯の上を歩いていき、リヒテンラーデの前に立たされた。

「フリードリヒ皇帝陛下よりの勅命である」

「……」

 エリザベートは顔を硬くして聴き、リヒテンラーデは慇懃に宣言する。

「エリザベート・フォン・カストロプ公爵夫人に死を賜る」

「っ…」

「格別のご慈愛により自裁をお許しくだされた。さらに公爵夫人たる礼遇をもって、その葬礼をなすであろう」

「…………ぃ……イヤ…」

 ドレスが着乱れるほど震え、周囲を見回して助けを求める。

「……た……助け……フ…フランツ伯父様! た、助けて!」

 親戚を見つけて助命を乞うた。フランツは人質にされた恨みも無いように気の毒そうな顔をしたものの、助けることはできないとわかっている。それでもエリザベートは言い募った。

「わ…私は強欲な兄に騙されていただけなのです!」

「……エリザ……かわいそうに…」

 主犯たるマクシミリアンが生き残っていれば、妹は終身刑からの恩赦の可能性もあったけれど、三葉が帝国に反逆した私兵の多くを帝国軍に組み入れたこともあり、誰も処罰しないままでは示しがつかないので、エリザベートの死は不可避だった。

「お願い、フランツ伯父様! 私は悪くない! 悪いのは全部兄なの! あいつは……あの男は……まだ、幼かった私を辱めた!! だから、言うことをきくしかなかったの!」

「「「「「……………」」」」」

 場の空気が、さらに重くなった。マクシミリアンが10歳前後の女子を愛することは公然の秘密だったけれど、まさか実妹にまで手を出しているとは、という残念な空気が漂い、エリザベートは同情を集めようと必死に語る。リヒテンラーデはベーネミュンデのときと同じく、もう最後なので言いたいことは全部言わせてあげてから、終わらせるつもりで今少し本人の気が済むまで待っている。泣きながらエリザベートは幼少の頃に受けた実兄からの虐待を語り、それゆえ嫁に行くことも諦めて、また大人になってからは相手にされなくなったものの、トラウマによるストレスで肥満して二重顎になり、兄が帝国に反逆したときも止めようとしたけれど、言うことをきかないと幼少期に撮られた3次元映像が、全宇宙に送信されるかもしれないので本当に仕方なく皇帝陛下へ弓を引いたのだと、切々と語った。

「………実の兄妹で………気持ち悪い……」

 三葉は聴いていて、ぞっとした。そして、やっぱり実の兄弟姉妹でも、そんなことをする人間が実在するのだと思い知り、これからは四葉と距離をおこうと考えている。

「……エリザ………本当に、かわいそうに……」

 フランツは娘を傷物にされてはいたけれど、同じく傷物にされていた姪を抱きしめた。そして、わずかな可能性に期待してリヒテンラーデへ視線を送ったけれど、勅命に変更はありえなかった。

「そのへんで気が済みましたかな、公爵夫人」

 リヒテンラーデが腰の後ろで組んでいる手の指先をチョイチョイと動かすと、係の者が用意していた杯を盆に載せてもってきた。豪奢なグラスに3分の1ほど、酒と毒が入っている。

「ひぃっ…」

 エリザベートが本能的に後退ると、儀仗兵が左右から両腕を捕まえて動けないようにした。ゆっくりと厳かに係がグラスを載せた盆をもって近づいていく。エリザベートは恐怖してガタガタと震え、もう腰が抜けて儀仗兵に支えられて立っている。

「ひぃ……ひぃぃ……」

「………」

 これって銃殺の方が楽なんじゃないかな、もしかして自裁って名目でイジメてるのかな、だいたい潔く自分で死んじゃう人はブラスターで頭を撃つパターンが多いらしいし、ってことは自分で死ねない人だけが、この自裁に追い込まれるわけで、やっぱりイジメかも、と三葉が可哀想に思っていると、エリザベートの足元に水たまりができた。

「………」

 かわいそうに漏らしちゃったよ、おもらしってホントみじめ、かっこ悪いし、みんな紳士だから見て見ぬフリしてるけど、これが高校だと紳士ばかりじゃないし、と三葉は涙ぐみつつ、エリザベートが強引に毒を飲まされるのを見ていた。

「うっ……くっ…」

 ほとんど苦しむことなく少し血を吐いて倒れると、もう動かない。赤い絨毯には血と尿でシミができていた。

「…………」

 三葉は軍靴を少し動かして絨毯の感触を確かめる。新無憂宮は手織りの豪華な絨毯が敷かれている部屋がほとんどだったのに、この部屋の絨毯は感触的に、かなり他の部屋より安価そうで絨毯は毎回使い捨てなのだろうと思った。

「もう出ましょうか。キルヒアイス中将」

 ノルデンに促され、頷いた。

「昼休み前に、これはきついね」

「そうですな。ご昼食の予定は?」

「ちょっと女の子と」

「羨ましいですな」

 にやりと微笑んだノルデンはタメ息をついてから話題を変える。

「はぁぁ……羨ましいといえば、キルヒアイス中将はローエングラム元帥のお気に入りのようで羨ましいですな」

「はあ……まあ……昔から友達って部分もあるから」

「どうも、私はローエングラム元帥にこころよく思われていないようで中将として艦隊をさずかったものの、どれも旧式艦や第2線級の艦ばかりで、主に補給部隊の護衛が任務になりそうでね。黒色槍騎兵や疾風ウォルフとまでは望まないものの、活躍の機会が無さそうで」

「ラインハルトさんは、ちょっと人への好き嫌いが激しいから。けど、考えようによっては安全でいいじゃないですか。私が言うのもなんですけど、今の年齢で中将なら、エーレンベルク元帥さんやミュッケンベルガー元帥さんに比べれば十分に若いですし、ほどほどの出世の方がいいですよ」

「おお、なるほど、たしかに、そうだ。何事も、ほどほどですな」

「そう、ほどほど。あんまり目立つ立場だと、失敗したとき余計に恥ずかしいですし、ほどほどに、いきましょう、ほどほどに」

 三葉はノルデンと別れ、ヒルダと早めの昼食を済ませてからオーベルシュタインの執務室まで行く。三葉だけが廊下で偶然をよそおいつつ待機し、ヒルダはノックして入室する。

「ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ中尉、参りました」

 ぴしりと敬礼すると、待っていたオーベルシュタインも敬礼を返しつつ、ソファを勧める。

「よく来てくれた。マリーンドルフ中尉。どうぞ、座って」

「は…はい…」

 ヒルダも、まだ一週間ほどしか元帥府に勤務していないけれど、明らかにオーベルシュタインの態度はいつもと違った。

「そうだ。コーヒーを…」

 オーベルシュタインは従卒に命じようとして止め、自ら立ち上がった。

「いや、これは私的な用件であるから、私が淹れよう。どうぞ楽にして、待っていてくれたまえ」

「は…はい…、ありがとうございます…」

 ヒルダは少し待ってオーベルシュタインが自ら淹れてくれたコーヒーを礼儀の上で飲むフリをしたけれど、カップに唇を着けないようにした。

「それで、大佐。ご用件というのは?」

「うむ……これを…」

 そっとオーベルシュタインは封書をヒルダへ手渡した。

「もちろん、これは業務命令ではないので、中尉には断ることもできるが、ぜひ、よく考えて、受諾していただきたい」

「……」

 ヒルダは封書を開け、目を通すと立ち上がった。

「わかりました。前向きに検討いたします」

「伯爵へも、よろしく伝えておいてほしい」

「はい」

 敬礼して退室したヒルダに三葉が訊いてくる。

「どうだった? 変なことされなかった?」

「クスっ、はい。意外ではありましたが、考えてみれば当然かもしれません。これを見てください」

 ヒルダがパンフレットを見せてくれる。

 

  義眼者友の会 入会案内

 義眼の開発は、いまだ道半ばです。

 ときおり異様な光りを発して周囲を驚かせてしまったり、

 どうにも頻繁に調子が悪くなったり、

 そんな悲しい想いをしている皆さんが立ち上がるときです。

 みんなの力を合わせて財務省を動かしましょう。

 義眼者友の会は一人でも多くの加入を募っています。

 義眼者本人、またはご家族、門地爵位に関わりなく誰でも歓迎しています。

 ぜひ、ご入会ください。

会長 パウル・フォン・オーベルシュタイン

 

 読んだ三葉も納得した。

「そういうことか。ヒルダも片目が義眼だから。じゃあ、入るの?」

「そうですね。年会費も300帝国マルクですから、一応、入会してみます」

 心配していた案件が軽微に終わったので、二人とも安心して出かけ、郊外にある夕日の見える丘までレンタルした地上車で移動して、早めの夕食をテイクアウトのサンドイッチとワインで終えると、ごく自然な成り行きで三葉はヒルダにキスをした。

「……キルヒアイス中将……」

「もう一回していい?」

「………私は、この通り……傷物ですから……」

「ヒルダの傷、全部見てみたい」

「っ…」

「抱いていい?」

「………」

 ヒルダは黙って頷いた。

 

 

 

 キルヒアイスは見慣れないバスルームにいたので緊張しつつも落ち着いて手に持っていた手紙を読む。

「なっ……」

 落ち着いて読んだけれど、ひどく動揺する内容だった。

 

 ごめんなさい、男の欲望に負けてヒルダを抱いてしまいました。

 けど、すごく可愛いし、キルヒアイスさんにお似合いだと思うから、ぜひ交際してあげてください。

 ラインハルトさんには遅くなるって連絡してあります。

 今日の行動としては、エリザベートの自裁に立ち会いました。ごく無難に終了。

 ただ、ノルデンさんがラインハルトさんに気に入られてないみたいだって気にされてました。うまく取り持てるといいかな、と思います。

 あと、オーベルシュタインさんが障害者団体への加入をヒルダに求めていました。義眼の会とか、別にいいかな、とは思います。

 ヒルダには優しくしてあげてください。

 勝手に抱いてしまって、ごめんなさい。

 どうしても、可愛くて我慢できなくて。

 とてもいい女の子だと思います。

 目のことも身体の傷のことも気にしてるけど、そんなこと関係ないくらい魅力的。

 だから、お願い、大切にしてあげて。

 避妊はしました。

 

 思わず2回、読んだ。

「………………」

 何度読もうと内容は変わらない。とくに最後の一行が、恐ろしく現実的で重い。

「…………………」

 自分が着ているのは、どこかのホテルのバスローブのようだった。

「……………三葉さん……そんな……勝手に…」

 言うまいと思ったけれど、やっぱり勝手すぎると感じる。

「………………」

 けれど、自分も女の身であったとき、身体が求めるのか、克彦と思わずキスをしてしまっていた。幸いにして、ずっと克彦は黙っていてくれるけれど、どちらが先に勝手をしたのかといえば、自分だった。けれど、キスだけで、それ以上はしていない。

「………私は……アンネローゼ様を……」

 三葉と入れ替わるようになってから、三葉に自分の想いを教えたことがあるか、思い返してみる。

「…………三葉さんは……知らない……」

 教えていない。ラインハルトと協力して後宮から救い出したいとは伝えてある。けれど、自分の想いは伝えていない。そもそも、その想いを口にしたことさえない。ラインハルトは暗黙の了解として気づいていてくれるけれど、後宮にいる女性へ思慕しているというだけで不敬罪にあたる恐れもあり、言うわけがなかった。

「…………」

 そうなると三葉が恋人のいないキルヒアイスにヒルダが似合いだと勧めるのは、自分が勝手に克彦との交際を勧めたのと同じようなもので、ごく勝手な善意と身体が求める生理なだけだった。

「とにかく状況の確認を……」

 キルヒアイスは気を取り直して、バスルームを出た。ホテルの一室だった。ベッドにはヒルダが横になっている。目を閉じているけれど、恥じらっている表情で眠っているわけではなさそうだった。

「………」

 窓の外を見ると、夜景からオーディンの郊外だとわかった。

「……………」

 星空へ叫びたくなった。もう長い付き合いになっているけれど、一度も言葉を交わしたことのない三葉へ直接に言いたい、叫びたい、これはないだろう?! と。

「………………」

「キルヒアイス中将……どうか、されましたか?」

 ヒルダが目を開け、シーツで身体を隠しながら上半身を起こした。

「……いえ……少し…飲み過ぎたようです…」

 ごく無難な返答をしてヒルダに背中を向けて動揺を知られぬよう気持ちを落ち着ける。これから、どうするべきか、ラインハルトへの報告は、どのようにすべきか、これは報告すべき事柄なのか、よくよく考え、ヒルダとの性行為のことは伏せることにした。

「ラインハルト様に電話をかけてきます」

「はい」

 ヒルダは急に仕事を思い出したかのような男の雰囲気の変化を残念に思ったけれど、はいと返事だけして待つ。キルヒアイスは服を着て、ホテルのロビーまで出てから電話をかけた。

「ラインハルト様」

「遅かったな」

「すみません」

「で、どうしているんだ?」

「はい、三葉さんとマリーンドルフ中尉が郊外まで遊びに出ていたようで、遅くなってしまったので、このまま最寄りのホテルに泊まるということです」

「そうか。他には?」

「自裁の件は無事に終えてくれたようです。あとはノルデン中将のことを少々。そして、オーベルシュタイン大佐が義眼についての障害者団体をマリーンドルフ中尉へ勧めたそうですが、お気にされるような内容とは思えません」

「そうか。わかった。こちらからは重要な情報がある」

 一呼吸おいてラインハルトが気迫のこもった声で告げる。

「同盟軍に何らかの動きがあるようだ。いまだ詳細は不明だが、少なくともイゼルローンより、こちら側へ、何らかの侵攻をしてくる気でいるようだ」

「それは……では、ただちに元帥府へ戻った方が…」

「いや、まだ、そこまでの段階ではない。ただ、そんな話がフェザーンから回ってきたという段階だから、まだ先になるだろう。だが、遠い将来のことではない」

 もうラインハルトはキルヒアイスが女性中尉と外泊していることなど、どうでもいいようで電話の向こうで、相手の侵攻規模に応じた戦略をいくつも考えている気配だった。

「何個艦隊で来るか、楽しみだな」

「はい」

「まあ、今日のところは、しっかり休んでおけ」

「はい」

 電話を終えると、少しタメ息が漏れた。

「はぁ…」

 同じ部屋に泊まっているのか、と訊かれたら、どう答えるべきか、困ったかもしれない。けれど、すでにラインハルトの思考は同盟軍との戦闘にあって、男女関係については一欠片も考えていない様子だった。

「…………部屋に……戻るべき……かな…」

 このまま帰宅したり、もう一部屋を借りて別々に眠るのはヒルダに対して、かなりの非礼になる気がする。どうするべきか迷う。

「こんなことには経験が……教科書か、師匠でもいれば…」

 ロイエンタールの顔が浮かんだ。

「ダメだ」

 ミッターマイヤーに相談するのも、やはり遠慮したい。そもそも深夜12時を過ぎて、いきなり電話で質問するようなことではない。

「……………相手は伯爵令嬢なのですよ、三葉さん……」

 三葉は爵位と軍階級の存在に慣れてきてくれているものの、根本的には平等な日本社会から来ているので、キルヒアイスが帝国騎士でさえない庶民であること、中尉であってもヒルダは伯爵令嬢であることを意識してくれていない気がする。単に歳が近くて、お似合いそうだから、むしろ自分が可愛いと感じてしまったので、というだけのように思われる。

「………あまり待たせるわけにも………」

 そろそろ戻らねばと、答えのないまま、部屋へ戻った。

「………」

「………」

 待っていたヒルダも、どう応答すべきか困り、恥じらって下を見ている。流れから考えて、このまま二人で一つのベッドで眠るか、もう一度、抱き合うか、そのくらいのことはわかるけれど、わかることと実行に移すことには数光年の開きがある。

「………」

「………」

「………何か、あったのですか? ローエングラム元帥とのお電話で」

「え…ええ! 同盟軍が攻めてくるのです!」

 話題を変えられることのタイミングの良さに同盟軍へ感謝しつつ、ヒルダとは男女ではなく中将と中尉として、同盟軍を迎え撃つ対応について話し合い、朝を迎えることができた。

 

 

 

 三葉は抱き起こそうとしてくれる妹に断りを入れていた。

「いいよ、一人で何とかするから、私の身体に、あんまり触らないで」

「……布団を汚さないでね」

 心配して見ている四葉の視線が気になり、三葉は退室を促す。

「見られたくないから出て行って」

「……バケツと雑巾も廊下にあるから。じゃ」

 四葉が出て行くと、三葉はスカートだけは濡らさないようにまくって、布団の隣りに四葉が敷いておいてくれたヨガマットへと、起き上がらずに寝たまま転がって移動した。

「ぅ……ぁぁ~……」

 情けない姿だと自覚しているので、あまり考えないようにしてヨガマットを片付け、濡らした下着を持って廊下に出る。四葉が待っていた。いつもの流れだと、いっしょに入浴することになるけれど、それも断る。

「これからはお風呂も一人で入るから」

「……。じゃあ、もう私は寝るよ。おやすみ」

 四葉は自室へ入っていく。三葉は脱衣所で下着を手洗いしながら、今までたいてい妹が洗っていてくれたことを実感して、この作業を自分ですると、みじめさが増すことも思い知った。

「…………」

 黙って一人で入浴していると、会話しながら入るよりも淋しいし悲しい。

「…けど…これ以上、四葉に変なことに目覚められても困るから……」

 それでも唾液や小水に興味をもったり、姉の身体に触れてくる四葉と入浴するのも、今後やめようと思っている。静かに揚がると、自室の布団に潜り込んだ。

「………学校……行きたくないなぁ……でも、行かないと、ご飯が……」

 朝が来なければいい、来るならオーディンの朝がいい、と願いながら眠り、願いはかなわずに朝を迎えた。

「…………」

「お姉ちゃん、朝ご飯できたよ」

「………どうせ、それ食べたら学校に行けって……」

「働かざる者食うべからず、らしいからね。お弁当も用意されてるけど、たぶん、それも学校に行くんじゃないともらえないよ」

「…………ぐすっ………いいもん………ダイエットだと思うもん……」

 もそもそと三葉が布団に潜り込み直すと、四葉はタメ息を飲み込んで一階へ降りて祖母へ報告しようとしたけれど、克彦と早耶香が玄関に現れたので応対する。二人は通学路に現れない三葉を心配して来てくれているので、四葉は頼む。

「どうぞ、二人ともあがってください。お姉ちゃん、まだ布団から出ないし、なんとか元気づけてあげてください」

「「お邪魔しまーす」」

 制服を着ている二人が三葉の部屋へ入る。

「三葉ちゃん、元気にしてる?」

「三葉、大丈夫か?」

「………大丈夫じゃないし……元気じゃないもん……お休みするんだもん」

「三葉ちゃん……昨日みたいに毅然としてたら、そんなに色々は言われないからさ」

「………それでも、ちくちく言われてるもん…」

 昨日の出来事を書いた手紙もすでに読んでいたけれど、やはり陰口を言われていると書いてあったので登校したくない。

「三葉、休むと明日、より行きにくくなるぞ。できるだけ守るからさ。行こうぜ」

「……ぐすっ……明日は、ちゃんと行くもん」

 まだ洗顔もしていないので克彦に顔を見られたくない。布団から出ずに二人と話していると、四葉が朝食をトレーに載せてもってきた。

「ほら、これ食べて」

 香ばしい自家製味噌の匂いが拡がり、三葉は仕方なく諦めた。

「ごめん、テッシー、着替えるから出て行って」

「じゃ、オレは外で待ってるからよ」

 朝食を摂って洗顔し、制服を着て三人で登校した。

「あ、おジョー様、おはよう」

「きゃはは、おジョー様、お元気?」

「「「…………」」」

 からかわれて三葉がビクリとして顔を伏せると、昨日よりからかい甲斐があるのでエスカレートしてくる。とくに克彦がフォローできなくなる男女別の体育でひどくなった。心ない一部の女生徒が聞こえよがしに会話している。

「オネショってさ、いくつまでした?」

「小2までかな。あんたは?」

「恥ずかしながら小4で、やっちゃったことあるよ」

「クスっ、まあ中学までに卒業すればOKじゃない」

「おもらしは、いくつまでした?」

「さすがに、おもらしは幼稚園で卒業でしょ」

「だよね。普通しないよね」

 聞きたくなくても聞こえてしまう三葉が泣きそうな顔で震えているので早耶香が怒る。

「そういう話、もうやめてあげなよ! いつまでもさ! 人が失敗したのが、そんなに可笑しい?!」

「え? なに? 私ら、自分のオネショと、おもらしが、いつまでだったかって話してるだけなんですけど?」

「わざとらしい!」

「名取は、いつまで、おもらししたの?」

「…………」

 早耶香が最後におもらししたのは、小学5年で富士急ハイランドのお化け屋敷に挑戦したときだったけれど、もちろんそんなことを教える気はないし、黙って睨むと背中を向けて、泣きそうな三葉の背中を撫でる。

「気にすることないよ、三葉ちゃん」

「……ぐすっ……」

 昼休みも、注意しにくい遠回しな中傷を続けられ6時間目のHRで修学旅行を振り返る時間がもうけられた。ユキちゃん先生が文集にするための用紙を配りながら生徒たちに言う。

「今回の修学旅行で一番、印象に残ったことを、それぞれ書いてください」

「そりゃ一番は、あれしかないだろ」

「きゃはは、そうそう、あれあれ」

「糸守門内の変!」

「おジョー様、校庭でござる! 校庭でござるよ!」

「ご乱心めさるな! トイレは、あちらにござる!」

 校門を入ったところで、おもらししたことを桜田門外の変と忠臣蔵に喩えられて、もう耐えられなくなった。三葉は立ち上がってカバンを持つと、早退も告げずに教室を走って出ようとする。

 バンっ!

 感情的に教室の戸を開けて勢いがつきすぎてしまい、弾き返ってきた戸に側頭部を打たれてバランスを崩すと、もんどりうってゴミ箱へ頭から突っ込んで倒れてしまった。

「きゃはははははは!」

「だははははは! ひーはははは!」

 おかげで、からかいに参加していなかったクラスメートにまで爆笑され、あまりに可哀想で笑う気になれるわけがない克彦と早耶香以外は笑い続けている。

「…ぅっ……うくっ…ひっく…」

 今にも号泣しそうな三葉を早耶香が立たせる。

「三葉ちゃん、帰ろう」

「オレも早退する」

 三人で早い時間に通学路を戻り、啜り泣く三葉を慰めながら宮水家まで帰ると、そばの小川に四葉がいるのを克彦が見つけた。

「四葉ちゃん、何をしてるんだ」

「巫女さんって、あんな修業もしてたっけ?」

 早耶香も気づいて小川の滝に打たれている四葉を不思議そうに見る。巫女として三葉が滝業などしているのを見たことはない。四葉は巫女服の下に着る襦袢姿で滝に打たれている。まるで滝の流れと一体化するように両手は力を抜いて垂らし、ときどき口を開けて水を飲んでもいる。夏なので気持ちよさそうにも見えた。

「ぐすっ……このごろ、四葉、変だから……ちょっと頭を冷やした方がいいよ……」

 三葉は巫女業には興味なさそうに自室へ戻ると、布団に潜り込んだ。あと、何時間でオーディンかな、ヒルダに会えるかな、と想いながら。



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17話

 

 

 キルヒアイスは日の出前に四葉に起こされていた。

「起きて。お姉様の方だよね?」

 ほぼ一日おきに入れ替わっているので見当をつけて四葉が問うと、頷いた。

「はい」

「よかった。昨日の前夜祭はボイコットされたから。お姉様なら、ちゃんとお祭りに出てくれるよね」

「…はい…、不肖ながらお勤めいたします」

 三葉は、もう何度も学校を休んでいるようだったし、夏祭りの前夜祭は各家庭から氏子代表が来るだけで高校の同級生などは顔を出さないけれど、それでも出仕しなかったようで、かなりの空腹を覚える。ただ、睡眠だけは十分に摂っておいてくれたようで、相当な早起きなのに、あまり眠くない。

「悪いけど10分で、ご飯を食べて。日の出のタイミングで禊ぎするから」

「はい」

 祭りの手順や舞いは、もう何度も練習したのでわかっている。急いで食事すると、近所の小川へ行き、周囲に誰もいないことを確認してから四葉は裸になった。

「お姉様も目を閉じて裸になって」

「…はい…」

 屋外で裸になることに、かなりの抵抗を覚えつつも、時間をかけたくない上、すでに四葉は裸になってしまったので諦めて脱いだ。それでもショーツまで脱いでいいものかは、かなり迷う。迷っていると四葉が脱がせてくれた。目を閉じたままなので手を握って導いてくれる。

「冷たいけど、この水で全身を洗うから」

「はい」

 洗ってもらいながら、夏はともかく秋は震えるだろうし、正月の祭りは、もはや苦行であり、三葉が嫌がるのもわからなくもないと感じた。ただ、この行為も秋祭りが最後になり、三葉も四葉も死んでしまうのだと思うと、閉じた瞼が涙で濡れた。

「お姉様、襦袢を着けたから、もう目を開けていいよ」

「………」

 目を開けると、まだ四葉が裸だったので目をそらした。それでも一瞬見た四葉の肢体は朝日を浴びて輝いていて、神々しいとさえ感じた。二人で巫女服を着ると、祭りの準備に入る。去年の秋に収穫されて、ずっと稲穂のまま保存されてきた古米を石器を使って食べられる段階まで整えていく。脱穀作業だけでも汗が流れた。

「ハァ…石器時代の人は本当に大変だったのでしょうね」

「どんな時代でも人間は、それぞれに苦労して生きてきたんだよ」

「たしかに…」

 まだ10歳なのに、しっかりしている、と想って四葉の横顔を見ると、とても真剣な顔で脱穀している。さらに玄米を白米にし終えると、もう正午を過ぎていた。

「お姉様、火を熾すよ」

「はい」

 さらに原始的な道具だけで火を熾す作業も苦労した。摩擦熱を利用して火を熾し、土器で米を炊くために石で釜戸を造る。夕方になって米が炊きあがると、感動と空腹で身震いした。

「これを一粒も食べてはいけないのですよね……」

「お供え物だから」

 二人とも汗だくになっているし、早朝に食事してから水と塩しか口にしていない。

「お姉様、二度目の禊ぎするよ」

「はい……。あそこで、するのでしょうか? ……」

「大丈夫、人払いはされるから」

 すでに祭りの夕方なので出店も始まり、人通りも多いのに、近所の小川で裸になるのかと不安になると、四葉は婦人会の当番に挨拶する。

「お集まり、ありがとうございます。これから禊ぎしますので、お願いします」

「はいよ。二人とも、頑張ってね」

 婦人会の会長が指示して小川の周辺から町民や観光客を退去させる。完全に婦人会のメンバーしかいなくなると、離れたところにパトカーも駐まり、準備が整った。

「これで安心でしょ」

「…はい…」

 やっぱり三葉が嫌がる理由がよくわかる、完全に人払いされても、まだ明るい夕方の小川で禊ぎするのは、かなりの抵抗があった。それでも時間がおしているので、やるしかない。四葉に手を引かれ、裸になって小川で身体を清める。腰まで水に浸かっているときに四葉が小声で囁いてきた。

「おしっこ、今、しちゃって」

「……川の中に、ですか? 神聖な儀式の最中なのに……」

「汗や垢を流すわけだから、いいんだよ。それに、今しておいてもらわないと、きっと舞いの途中で漏らすよ。そんな予感がする。私の予感、最近当たるから」

「………」

 舞いの動作には地面を踏みしめるように脚を開いてドンドンと飛ぶものもある。早朝に水へ入り、今も身体を冷やしているので、かなり我慢している。四葉の言うとおり済ませておかないと、舞いの最中に我慢ができなくなりそうだった。ずっと、忘れるようにしているけれど、終電での失禁は忘れられない記憶で、その悲劇を繰り返したくはないし、三葉からは手紙で何も知らされていないけれど、修学旅行の3日目にあったことは同級生たちの言動で、なんとなく察してきている。

「……わかりました……今、本当に、誰もこちらを見ていませんか?」

 ずっと目を閉じているので周囲の様子はわからない。四葉が促すように背中を撫でてきた。

「大丈夫だよ。しちゃって」

「……はい…」

 おそるおそる力を抜いた。

「………ふぁぁ…」

 思わず声が出るほど、ずっと我慢してきた尿意を解放するのは気持ちよかった。そして、やはり男性とは感覚が大きく違った。

「はぁぁ……」

「気持ちいいでしょ」

「…………お答えいたしません」

「とくに川の中にするのって気持ちいいよね。鮭が卵を産むみたいな感覚でさ、いってらっしゃい、って気分」

「……………それには同意しかねます」

「私もしよ」

「…………」

「あぁぁ……」

 四葉が済ませるのを待って、川から揚がると、二人とも新しい巫女服に着替え、いよいよ完全に準備が整った。舞台の袖で祭りが進行していくのを見守る。

「四葉………緊張してきました……」

「それでいいんだよ。神事なんだから」

「………」

 四葉の横顔を見ると、とても落ち着いている。落ち着いて、人の流れでも見ているようで、祭り全体を見渡している。

 ドンッ!

 一葉が太鼓を打った。舞いが始まる合図だったので、一斉に町民たちが二人を見てくる。

「「……」」

 すっと立ち上がると、雅楽の拍子に合わせて身体が動いてくれた。四葉と三葉の喉が歌い上げる。

「「八百万の神たち、あらゆるうつしき青人草、もろもろ聞こし召せ」」

 二人の声と雅楽だけが響く。

「「神はかりに、はかりたまひて、糸守の瑞穂の郷」」

 歌いながら舞う。

「「神問はしに、問はしたまひ、神祓いに祓いたまひて、安国と平らけく、治ろし召さむ」」

 舞いが終わると、苦労して炊きあげた白米を手で口へ運ぶ。

「「………」」

 早朝から何も食べていないので、口に食物を含むと、唾液が溢れ出して口いっぱいになる。ゆっくりと、よく噛み、唾液と白米を混ぜ、それを酒枡へ吐き出していく。途中で、今回も見に来ていた同級生から、からかいの声をかけられたけれど、儀式に集中していると、気にならなかった。

「ありがとう、お姉様」

 終わってから四葉が礼を言ってくれた。

「いえ、私こそ、貴重な経験でした……まるで…」

「まるで?」

「自分と自然、自分と宇宙が一体化するような心地で……」

 共和制だけでなく、祈りや宗教といったものとも縁遠い文化で育ってきた。儀式といえば俗物でしかない皇帝を讃えるものだったし、たまに士官のうちには雷神オーディンの名を口にする者もいるけれど、それほど真剣に信仰しているわけではなくて、自らを奮い立たせるための掛け声にすぎなかったりする。

「不思議な心地でした。神というものが、存在するような気がするほど……」

「そっか。……少なくとも、千年先の科学でも理解できないものは存在するよ」

「…………なぜ、そう言えるのですか?」

「お姉様は、今、ここに、どうやって来たの?」

「っ………」

「こういうのを神業っていうんだよ」

 巫女服を着た四葉が言うと、四葉が半分、神であるように感じた。二人が巫女服を脱いで平服になると、克彦と早耶香が声をかけてくれる。

「お疲れ様。よかったぞ、三葉」

「三葉ちゃん、立派やったよ」

「ありがとうございます」

 心配してくれていた友人に礼を言い。家へ戻って、ようやく一葉が用意してくれた食事を口にすると、とても美味しくて、アンネローゼが作ってくれた料理を思い出すほどだった。

 

 

 

 三葉は中将としての執務室でヒルダを抱いていた。人払いしてあるので安心だったけれど、キルヒアイスからの手紙では、他に好きな人がいるから、ヒルダとの関係は遠慮してほしいと伝えられている。それに対して、その好きな人との関係が進展しそうにないならヒルダを大事にしてあげたい、と伝え返している。そして、ヒルダを一晩だけの関係で切り捨てるのは残酷だ、と伝えて結局は会う度に抱いていた。

「キルヒアイス中将……ああ、嬉しい…」

 ヒルダも一週間に一度くらいの割合で仕事をせずに自分を抱いてくれる命の恩人が大好きだったし、普段の仕事を熱心にしているときも、よそよそしくはされるけれど、そういう姿も好きだった。

「もう一回しよ。ヒルダ」

 男として女性を抱く喜びは大きかった。強い欲求があり、その欲求を満たすというサイクルに三葉は浸っていた。けれど、ヒルダが時計を見て残念そうに告げる。

「そろそろ、ローエングラム元帥のところへ参られるお時間ですわ」

「もう、そんな時間かぁ……早めに終わったら、もう一回しようね」

 名残惜しくヒルダとキスをしてから、定刻ギリギリに招集されていた部屋に入った。すでにラインハルト麾下の主だった提督が集まっており、三葉が最後だった。

「キルヒアイス中将、口紅が着いていますぞ」

 ノルデンが半分笑いながら指摘してくる。

「どこどこ?」

「冗談ですよ」

 ヒルダは配慮して口紅を相手へ付着させないグロスを塗っているので、どこにも着いていなかったのに、かまをかけられてハマっていた。ミッターマイヤーも失笑する。

「うちの元帥府には撃墜王が多いのかもしれんな。ロイエンタール」

「「いっしょにしないでもら…」」

 三葉とロイエンタールが異口同音しかけてやめ、ロイエンタールは黙り、三葉は言っておく。

「女の子を次々と替えていくのは、どうかと思うな」

「「「「「……………」」」」」

 その点についてはミッターマイヤーだけでなく他の提督も同感だったけれど、それを面と向かって集合しているときに言った者はいない。そして、三葉の言い方は冗談でも羨望でもなく、本当に批判だった。ロイエンタールが反論してくる。

「キルヒアイス中将におかれては私生活にまで心配していただき、ありがたいことだ」

「心配じゃないよ。やめた方がいいって話」

「………」

「いろいろな女の子を抱きたいって気持ちはわかるけど、すぐに替えてたら、その子のこと深くわからないし、そんなポンポン捨てちゃうような子と、なんで最初から付き合うの? もっと、お互いの時間を大切にしたら?」

「キルヒアイス、そのへんにしておけ」

 ラインハルトが入室してきてキルヒアイスの肩を叩いた。

「けど…」

「人それぞれのことに、口を出すな。キルヒアイス」

「……はい」

 不服だったけれど、三葉は黙った。オーベルシュタインが三葉とロイエンタールを冷たい目で見てから、大攻勢をかけてくる同盟軍に対して、徹底的な焦土作戦に出ることを説明した。

「以上のように、相手の物資を浪費させ、物心ともに限界に至ったところへ、一挙に我々で殲滅する」

 領民を飢えさせることになる作戦に、数人からの異論も出たけれど、ラインハルトが意見をまとめ、いよいよ決定というとき、三葉が閃いた。

「あ!!」

 大きな声をあげたので全員の注目が集まる。

「まだ異論があるのか、キルヒアイス」

「いえ、むしろチャンスです! あ、でも……ここでは……あとで、二人のときに話します。今は、この作戦、このまま進めてもらっていいと思います」

「「「「「……………」」」」」

「……わかった。そうしよう」

 ラインハルトが諸将へ解散を告げ、三葉と二人になった。

「それで、ミツハは何を閃いた?」

「同盟軍と同盟するんです!」

「は?」

「まず、オーベルシュタインさんの作戦通り、同盟軍に帝国領の奥深くまで侵攻してもらいます」

「それで?」

「それで、いよいよ物資が尽きてきた。もう限界かな、というところで私たちはオーディンを出発して、これを討つ、と見せかけてアンネローゼさんを救い出します」

「姉上を……だが、そんなことをすれば…」

「そこで同盟軍と同盟するんです。私たちも皇帝と戦う! さあ、いっしょに戦おう! 物資も腐るほどある! 供与しよう、って」

「何をバカな……」

「彼我戦力差を考えても戦利にかないますよ! ラインハルトさんには帝国軍の半数が麾下にあって、これに今回攻めてくる同盟軍を足せば、たとえ門閥貴族の私兵艦隊がそこそこあっても勝てますよ! もしも、戦術的な敗退が数カ所で生じても、全体では帝国領の半分が同盟側になるくらいで落ち着くと考えます。それに、アンネローゼさんを救出するとき、ついでに皇帝も殺してしまえば、跡継ぎは幼い3人くらい? かな。そうなると、門閥貴族は、きっとまとまりを欠いて自分の領土を安堵してもらえるなら、それぞれに同盟軍や私たちと停戦する見込みだってある! ほら、これで万々歳! アンネローゼさんと、いっしょに暮らせますよ!」

「………バカバカしい……」

「なんで? どこが?!」

「オレは宇宙の覇者になりたいのだ。誰が一亡命者のような生き方をしたいと言った?」

「……宇宙の覇者……って、なに? それ、どういうこと? アンネローゼさんを助けたいんじゃなかったの?!」

「むろん、姉上は取り戻す。その上で、オレは全宇宙をも手に入れる。宇宙の覇者になるのだ。ルドルフにできたことだ、このオレにできないと思うか?」

 ラインハルトのアイスブルーの瞳が野望に輝き、キルヒアイスの瞳が不審に曇った。

「…………全宇宙で一番になりたいってこと?」

「……。そういう言い方もある」

「それならさ、やっぱり同盟軍と同盟して、帝国の門閥貴族を全部倒して、フェザーンの自治体制にも変更を要求して、宇宙を一つの共和制政体にして、そのうえでラインハルトさんが大統領選挙に立候補するなりすればいいよ! 帝国領が共和制に参加するっていうなら、同盟軍は、きっと喜んでくれるし!」

「……………」

 ラインハルトの脳裏に大統領選挙でヨブ・トリューニヒトあたりの選挙ポスターと自分のポスターが並ぶ姿が去来し、さらに年齢的には今回の同盟軍大攻勢を提案したアンドリュー・フォークあたりが対立候補になるかもしれないという未来予想も浮かび、すぐに掻き消した。

「バカバカしい! 選挙など論外だ! オレはルドルフのような至尊の座を占めるのだ! このオレの手で! 軍略によってな!」

「………でも、ルドルフだって、たしか20代そこそこで政界に転じて選挙で、えらくなったと思いましたけど……違いました?」

「…………」

 そういえば、そうだった。ルドルフが戦術的勝利を重ねたのは、ごく若い頃のみで、28歳で少将だった時期に退役し、以後は政党政治家として躍進している。ウッド提督の再来などと称されているけれど、宇宙海賊を相手に規律を正した正規軍で、苛烈に追いつめただけで、もともと宇宙海賊と正規軍では装備にも兵站にも大きな差がある。苛烈さと捜査の緻密さは賞賛に値すべきだったけれど、軍略家としては真正面から正規軍同士が戦うことでの評価はない。そして、ルドルフにできたことを再現するのであれば、そろそろラインハルトも退役して選挙に出てもいい階級だった。

「いいや! 違う! オレは武力によって全宇宙を統べるのだ!」

「……武力によって……」

「ミツハの言うような姑息な手段によって宇宙を盗むのではなく、力によって奪いたいのだ」

「………そんなことして自分が皇帝になっても、またラインハルトさんの子孫が今の皇帝みたいになるかもしれないですよ?」

「フン、世襲などにこだわらぬ。かりにオレの子孫に、その地位にふさわしい実力がなければ、別の者に取って代わられる、それだけのことだ」

「…………世襲もさせないのに、皇帝になる意味って、あるんですか?」

「……。……ミツハなどには、わからんのだ。キルヒアイスなら、わかってくれる」

「でもでも、この同盟軍大侵攻の機会を逃したら、またアンネローゼさんを助けられる機会が遠のいてしまいますよ?」

「姉上には………今しばらくお待ちいただく」

「今しばらくって、もう十年だよ?! 十年も好きじゃない男に抱かれてる女の気持ちが…」

「黙れ!!!」

 ラインハルトが一喝して睨みつけてくると、三葉は気圧されたけれど、睨み返した。

「っ……」

「ミツハの意見など求めていない! オレとキルヒアイスの野望について、お前に意見を求めた覚えはない! 分をわきまえろ!」

「………二人きりのときは、くだけてくれていいって、言ったもん……」

「さがれ。もう12時まで顔を見せるな」

「っ! 自分が聞きたくない意見を聞かないようにするなら、そんなのルドルフと同じだよ!!」

「何ィ!!」

 ラインハルトの白磁のような肌に朱が走った。

「貴様、言うにことかいて! あの男とオレを同列にするかっ!!」

「同列じゃないよ! 選挙じゃなくて武力な分、もっと悪い!!」

「貴様ぁ!!」

 二人とも完全に頭へ血が上り、軍服を掴み合い、白兵戦技も出ない、ただの押し合いをして、まだ怒鳴る。

「オレとキルヒアイスで、すべて決める!! お前は黙っていろ!!」

「ああそう!! じゃ、勝手にすればいいよ! アンネローゼさんを助けたいっていうから協力してきたのに!! この武力バカっ!!」

「貴様っ!! ぬううう!」

 掴み合いは筋力と体格で勝る方が有利になり、ラインハルトの爪先が浮く頃、ドアの外にまで響く怒声を衛兵が心配して報告を受けたミッターマイヤーによって制止される。

「何事ですか?!」

「「……」」

 制止されて、ようやく二人とも少し冷静になった。

「元帥閣下と中将が揉み合うなど、作戦を前に士気へ影響します! どうか、冷静に」

「「……………」」

 ラインハルトが、さがれ、と手を振ると、三葉は何か言いかけて、やめた。そして、敬礼もせずに退室する。廊下を怒りながら進み、中将としての執務室に入ると机を蹴った。

「あの武力バカっ!!」

「っ…」

 待っていたヒルダが激しい剣幕に驚いている。女の子を驚かせてしまったことで三葉は悔やんだ。

「あ……ごめん……」

「どうかなさったのですか?」

「……………」

 言える情報ではないと判断したけれど、しばらく黙って考え、そして時計を見てから、ヒルダを見つめて問う。

「ヒルダはさ、現在のゴールデンバウム王朝を、どう思ってる?」

「……どう、と言われましても………ただ、ある程度の改善すべき点は多いかと思います」

 慎重に言葉を選んだヒルダを、さらに見つめる。

「もしも、その改善を私たちがやろう、と言うとき、それに協力したいと思ってくれる?」

「………。はい。閣下のおそばにあって、それが成し得るなら、これに勝る喜びはありません」

 はっきりと断言してくれたヒルダに三葉は閃いた計画を話し、残りの数時間でヒルダの協力もえて、キルヒアイスを納得させられそうな作戦を立案した。

 

 

 

 キルヒアイスは12時なっても執務室にヒルダと二人でいる状況を認識した。何度か、ヒルダの衣服が乱れていることがあったので、それはやめてほしいと思っていた。その願いが届いたのか、今夜のヒルダは赤面して何かを期待していたりせず、きっちりと軍服を着て、望ましい真剣な顔をしている。

「では、閣下、12時になりましたので、ご命令通り、二人で立案した作戦のすべてを最初から説明させていただきます」

 ヒルダは三葉から、考えを整理するために12時から作戦を説明し直して欲しいと言われていたので、とても手紙ではおさまりきらない量の作戦案をキルヒアイスへ説明する。いきなり始まった説明を、キルヒアイスは三葉の意図を察して聴くことにした。

「はい、お願いします」

 まずヒルダは焦土作戦から説明していき、途中で三葉の閃きに変える。

「いよいよ同盟軍へ攻勢をかける、というタイミングで帝都オーディンを急襲します。地上ではキルヒアイス中将の指揮による陸戦部隊が、軌道上ではローエングラム元帥による艦隊が。このとき、もっとも重要視するのは、ローエングラム元帥の姉君を無傷で保護すること。皇帝陛下については保護が可能であれば保護、状況が難しければ生死は問わないが必ず身柄を押さえること」

「っ…」

 キルヒアイスが緊張して周囲に余人がいないか、再確認して、そしてヒルダを見つめる。片眼義装の両目に迷いは無かった。

「同時に同盟軍へ使者を送ります。使者には食料と物資を満載した補給艦1500隻を付帯させ、また信用をえるため、かつて捕虜にしている将官以上の者、具体的にはリンチ少将またはセレブレッゼ中将などを同行させ、交渉中に解放します。使者の人選には、なお吟味を要しますが、ミッターマイヤー提督またはメックリンガー提督にあたっていただきます」

「……………」

 あまりに大胆な計画にキルヒアイスの額に汗が浮かび、無意識に手の甲で拭い、黙って最後まで聞き入る。

「想定される危険性は麾下の提督が命令に従わないこと、また、麾下にない帝国軍艦隊の動勢ですが、軍務省の占拠により、これらも8割を押さえることができるでしょう。そして、門閥貴族たちの私兵艦隊への対応ですが父マリーンドルフとノルデン提督を中心として一部の貴族にのみ領土を安堵する旨の布告を出し分裂を誘います。もっとも激しい抵抗が予想されるイゼルローンに近い星系を領土としている貴族たちの私兵艦隊ですが、当初の作戦で撤退させられているこれらの私兵艦隊は同盟軍との挟撃により戦術的優位を確保しやすいばかりか、領主以外の私兵それぞれの私有財産については、たとえ同盟領となった後も補償する旨を伝え、降伏を誘います。以上です」

「……………。本当に、同盟軍が我々と手を結ぶと思いますか?」

「結ばざるをえないでしょう。焦土作戦により占領地は拡がっていても物資は枯渇しています。こちらには撤収した物資が山のようにありますから、交渉材料になります。何より帝都オーディンで政変があれば、いずれかの勢力と手を結ぶことになるでしょうが、門閥貴族たちと同盟が手を結ぶことはありえません。何より、ローエングラム元帥の姉君を取り戻したいという反逆の理由は同盟市民にも受けが良いでしょうから」

「………。麾下の提督たちは、みな指揮に従うと思いますか?」

 いずれ、帝政への挑戦をふまえて人選している提督たちではあったけれど、長年の宿敵である同盟とまで結ぶと言われて従うか、その点に不安はある。

「多くの提督はローエングラム元帥への忠誠から従ってくださると考えます。ですが…」

 ヒルダが少し言いにくそうにしたので促す。

「忌憚なく言ってください」

「キルヒアイス中将は子爵家の嫡男であるノルデン中将を信用しておられるようですが、私は彼が指揮に従う可能性は半々、いえ、それ以下であると考えます。父は私が説得いたしますが、ノルデン中将のことは信用されすぎない方が良いかと思います」

「……たしかに…」

「ですが、一人、二人の提督が離反したところで全体が優勢に進み、帝国領の半分が同盟の占領下となり、残り半分が一部の貴族とローエングラム元帥が治める形になることは高い蓋然性があるかと判断します」

「………同盟に帝国領の半分を……、そして残り半分を一部の貴族とラインハルト様が治める形に……それでアンネローゼ様を取り戻せるっ」

「………」

 ヒルダの義眼が少し異様な光りを放った。それに気づかず、問う。

「他に、私は何か言いませんでしたか?」

「こちらの暗号文を説明後にお見せするよう」

 ヒルダが手紙を渡してくれる。日本語で書かれていて、ヒルダには読めなかった。

 

 一日も早くアンネローゼさんを救い出すには、このチャンスを生かすべきだと思います。

 ヒルダには反逆のことを勝手に話してしまって、すみません。作戦の細部を詰めるのに、ヒルダの協力が欠かせなかったのです。

 でも、彼女は裏切らないと思います。私のこともキルヒアイスさんのことも好きでいてくれるから。

 ただ、問題はラインハルトさんが反対なことです。

 宇宙全体を手に入れたい、とか言い出して話を聴いてくれませんでした。

 この作戦で、なんとか説得してください。帝国の半分でも十分だと思います。

 なによりも一日も早くアンネローゼさんを助けてあげて。

 キルヒアイスさんなら、わかってくれると思うから。

 お願いします。

 

 読み終えたキルヒアイスは作戦書をヒルダから受け取ると、すぐにラインハルトの執務室へ向かった。

「元帥閣下は、おいでになりますか」

「はっ。おいでになります。…ですが…」

 衛兵が会わせることを躊躇している。数時間前に掴み合いのケンカをしていた中将が再び訪ねてきたのでトラブルの香りしかしない。

「お取り次ぎをお願いします。元帥閣下は私に会ってくださるはずです」

「……わかりました。一応、訊いてまいります」

 そう言った衛兵は、すぐに戻ってきた。

「お会いになるそうです。どうぞ」

「ありがとうございます」

 キルヒアイスは執務室へ案内され、ラインハルトと二人きりになった。

「お待たせしました」

「ずいぶんと遅かったな」

 ヒルダからの作戦説明を聴いていたので、すでに午前1時になっている。ワインを飲んでいたラインハルトはグラスを勧めてきた。

「まあ、飲め。今日のお前は激しかったぞ」

「その前にお話があります」

「……何だ?」

「この作戦案を聴いてください」

 そう言ってキルヒアイスは三葉とヒルダが作った作戦案を説明した。説明しながら細部を補足してもいく。ラインハルトは不服そうに、それでも黙って聴いていた。

「以上です」

「………はぁぁ……お前まで、ミツハに影響されるとはな。オレたちの野望は、どうするのだ?」

「二つの点を、さらに私は主張します」

「ほお」

「まず、第一に、もしも今回の同盟軍の大侵攻をオーベルシュタイン大佐の発案通りに徹底的な焦土作戦によって財政的にも疲弊させ、艦隊戦力へも壊滅的な打撃を与えれば、今後10年20年に渡って再度侵攻してくることは無くなるでしょう。これは結果としてラインハルト様の存在を門閥貴族たちから見たとき、利用価値と機会が激減し、逆に危険性が増大することになります」

「……」

「そして、同盟軍を撃退した戦功に対する報償ですが、すでにラインハルト様は元帥です。この上、三長官職を与えられれば良いですが、それが軍務尚書などでは直接指揮する兵がいないことになります。もっと悪い可能性としては元帥の上に、大元帥なり首席元帥なりの称号をもうけて、それに当てられることですが、栄誉ばかりで実権が一切ない。実権を与えられることがあっても、それは大規模な叛乱が起こるか、再び同盟軍が侵攻してきてくれるか、そんな機会を待つことになるかもしれません」

「………」

「何より、いずれ我々が決起するにせよ、そのためには兵、物資、艦隊を招集せねばなりませんが、平時にこれを行うのは目立ちすぎます。むしろ、今回のような機会であれば、最大限に物資を集め、艦隊を整えても誰も怪しむことはないでしょう」

「………」

「第二は、なによりもアンネローゼ様を今すぐに解放できる機会だということです。この機会を逃したとき、あと何年、お待たせすることになるのか、その点が最大です」

「…………だが、この作戦がうまくいったとして、オレたちは帝国領の半分以下で再出発することになるぞ。同盟に対して著しく戦略的に不利だ」

「この作戦が終わったとき、同盟とはすぐに戦端を開くような終わり方にはならないでしょう。お互い、一度は兵を引き、何らかの条件で休戦、または停戦となり、それは短い間ではないはずです」

「では、どうするのだ?」

「機会を待ちましょう。我々が善政を敷き、戦力を整え、機会の到来を待っていれば、巨大化した同盟は自ら分裂することもありえます。それが20年先でも30年先でも、私たちは50歳です」

「そんな年寄りになるまで待てというか」

「歴史上の英傑も多くは版図が最大化した頃には、その年齢を超えています。何より、アンネローゼ様をお救いするのが、10年20年先であってはなりませんが、宇宙を手に入れるのは30年先でも良いではないですか」

「……………」

「この作戦がラインハルト様の信条に合わないことは理解しております。とくに三葉さんの発想は敵の裏切りに期待するばかりでなく、自ら裏切って状況を打開しようとする卑劣漢の発想です。ですが、それでもアンネローゼ様をお救いできる上、我々とて帝政へ裏切りを企てているという意味合いでは同じです。戦い方が美しいか、汚いか。それと、三葉さんは状況を楽観的に考えすぎます。麾下の提督が従うのか、同盟が本当に手を結んでくれるのか、門閥貴族の私兵艦隊が容易に駆逐できるのか、不確定要素は多い。けれど、それはオーベルシュタイン大佐の作戦を実行した後でも同じことです。勝った我々に、どんな処遇がされるのか、それに武力で対抗するタイミングをいつ掴むのか、もしもアンネローゼ様が人質に取られるようなことがあれば、私たちは打つ手が無くなるのですから」

「…………」

 黙り込んでいるラインハルトへ、キルヒアイスは一歩近づいた。

「女の身でいることの不安さは、おわかりにならないと思います。私も体験してみるまでわかりませんでしたから。それでも、少し想像してみてください。自分が女だったら、と」

「……オレが女だったら、どうだと言うのだ?」

「自分がアンネローゼ様であると強く思い込んでみてください」

「姉上だとか……」

「身体の造りも女性になり、気持ちも女性になったと想像して思い込んでみてください」

「……そんなことに意味があるのか?」

「お願いします」

「………わかった」

 ラインハルトは目を閉じて想像してみる。けれど、気性に合わないし、やはり完全に肉体と精神が入れ替わっているキルヒアイスと三葉に比べるべくもないものの、それでも自分を女性だと思い込んでみた。

「…………」

 なんだか、とても恥ずかしくなってキルヒアイスを直視することができず、目をそらした。

「では、次に私をフリードリヒだと思い込んでみてください」

「…………」

 嫌そうに頷いた。

「動かないでください」

「…………」

 キルヒアイスの手がラインハルトの頬に触れ、それから首筋まで優しく撫でおろした。

「っ! やめろ!!」

 ラインハルトは悪寒を覚え、鳥肌を立てながらキルヒアイスの手を払うと、胸を突き飛ばした。

「気持ちが悪い!! 二度とするな!!」

「………二度と、ですか…」

 強く突き飛ばされて転倒したキルヒアイスは倒れたまま、ラインハルトを見上げる。

「もう十年ですよ。そして、アンネローゼ様は手を払うことも、突き飛ばすこともできない。ずっと耐えておられる………一日でも、一日でも早く解放したい」

 ぐっとキルヒアイスが拳を握ると、ラインハルトも不快感より胸の痛みを覚えた。

「お前の言いたいことは、わかった。……だが、……この作戦は……」

「まだ、時間はあります。どうか熟慮してください。私は準備しておきますから、決行のご命令をお願いします」

 そうキルヒアイスは懇願した。

 

 

 

 三葉は自分の部屋で焦土作戦を実行されて、呻いていた。

「……ぅぅ……お腹、空いたぁ…」

 目の前には四葉が置いていった美味しそうな朝食がトレーに載っているけれど、それを食べると学校に行かなくてはいけない。けれど、学校には行きたくない。

「三葉ちゃん………かわいそうに……。でも、お祭りは立派にやれたんやし、学校もさ、行こうよ」

「三葉……食べて学校に行こうぜ」

 早耶香と克彦が今朝も不登校気味の三葉を心配して来てくれている。

「……ぐすっ……焦土作戦って人道に反するよ……」

 それでも学校に行きたくない。食料に手を着けず、三葉は布団に潜り込んだ。

「「…………」」

 早耶香と克彦が目を合わせて、考えていた作戦を口にする。

「なあ、三葉。近いうちに学校サボって気分転換に3人で長スパへ行こうぜ」

「ぇ……」

「三葉ちゃんの気分転換によ、遊びに行こう。早朝に始発で出発して思いっきり遊ぼうよ」

「…………行きたいけど……」

 この町にいると全員が三葉のことを知っていて気が休まらない。学校を休んで一日ずっと二階にいる。一階だと昼間は神社を訪ねてきた人が寄ってくれたりするので、三葉の居場所は二階だけだった。二階で空腹に耐えながらスマフォでパズルゲームをして過ごしている。もう三葉にとって世界は布団になっている。キルヒアイスの人生については真剣に考えているけれど、自分の人生については投げ出し気味だった。

「でも、悪いよ……二人とも休ませてまで……」

「たまにはいいさ」

「うん、たまにはね」

 休日に電車に乗ると他の同級生も遊びに出るかもしれない。おもらしをからかわれるのがつらくて引き籠もっている三葉を解放するために、あえて夏休み前に遊びに行く計画だった。

 



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18話

 

 キルヒアイスは四葉と一葉の三人で朝食を摂っていた。すでに髪を整え、きっちりと制服を着て正座して食べている。凛とした雰囲気の姉の姿を見ると、実姉が布団に潜り込んだまま出てこない姿と対比して、重いタメ息が出そうになるけれど、白米とともに飲み込んだ。三人が食べ終える頃、克彦と早耶香が訪ねてきた。

「おはよう、三葉ちゃん」

「おはよう、三葉。お、今日は元気そうな」

「はい、おはようございます、サヤチン、テッシー。わざわざのお訪ね、ありがとうございます」

 不登校になるのではないかと心配して来てくれた二人へ礼を言う。克彦も早耶香も、もう慣れてきて三葉が中傷されるとしても頑張って登校する日と、気力が尽きてしまうのか布団から出られなくなる日があるのだろうと、解釈している。四葉は三人が仲良く登校していくのを見送りつつ、自分も小学校へ向かった。

「今日はプールがあるし、嬉しいな」

 四葉は小学校の3時間目にあるプールを楽しみに待ち、2時間目が終わると、すぐに着替える。学校指定のスクール水着を着て一番にプールサイドへ立った。風のない真夏のプールは波一つなく凪いでいる。

 ドボン!

 まだ教師が来ていないので本当は入水してはいけないけれど、四葉はプールへ飛び込み、少し背泳ぎすると、全身を流体へ預けるように浮いた。

「……あ………今なら……飛べそう……飛べるかも……」

 赤ん坊が立つ日がくるように、雛が飛ぶ日がくるように、四葉はできなかったことができるようになる予感を覚え、目を閉じた。

 

 

 

 立花瀧の頭が居眠りでもしているように一瞬ふらりと揺れた。

「っ……」

 飛べた、四葉は視界に入ってきた神宮高校の3時間目だった古文の授業風景を見て確信した。

「少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子は後見なるべし。尼君、いで、あな」

 源氏物語の若紫が説明されているけれど、そんなことは、どうでもいい。瀧の制服やカバンを教師に気づかれないよう探ってスマフォを見つけた。

「………たった3年……」

 スマフォのカレンダーで日付を確認すると、少し落胆したけれど気を取り直す。

「一回目は、こんなものかな……」

 わずか3年未来の2016年に来ている状況を冷静に受け止め、さらにスマフォを操作して糸守町のことを調べてみた。なんとなく知っておいた方がいい気がして調べたのだけれど、すぐにニュースが何個も検索結果にあがってきた。

「隕石落下……秋祭りの日……あ、もう無理かも。くっ、あと少し!」

 ニュースの表題を読んでいるうちに、息を止めていられる時間に限りがあるように四葉は瀧の身体にいられなくなる予感を覚えた。

 

 

 

 立花瀧は糸守小学校のプールで浮かんでいた状態から驚いて溺れた。

「うごっ?! ぶは!!」

 手足をバタつかせるけれど、どうにも短くて小さい。それでも溺死せずに済んだのは水深が浅くて、足が着いたからだった。

「げはっ! ハァ…ごほ! ハァ…ハァ、死ぬかと思った!」

 とりあえず命の危険を脱して、周囲を見ると、なぜか見慣れない学校のプールだった。

「どうなってるんだ……授業は古文だったはず……」

「四葉ちゃーん! だいじょうぶー?!」

 四葉の同級生が心配しているけれど、瀧は手で顔の水を拭いて、その感触に違和感を覚えた。

「オレの手……」

 まるで10歳の女児のような手だった。

「オレの身体……ええ?!」

 なぜか、女児のスクール水着を着用している。

「いったい、どうなってるんだ?!」

 胸に触れてみると、まだ小さくて揉むほどはない。それでも感触を確かめていると、キラキラと陽光を反射するプールの水面がスーッと遠くなっていった。

 

 

 

 瀧は自席でスマフォを放り出して絶叫した。

「なんでオレは女子のスク水を着て、小学生女子になってるんだぁぁぁ?!!」

「「「「「……………」」」」」

 教師とクラスメートが外宇宙のように冷たい目で瀧を見ている。藤井司がタメ息をつきながら言う。

「お前、どんな夢を見てたんだよ」

「お? 戻ってる! 教室だ!」

 教室には戻っていたけれど、教室での立場は戻りそうになかった。

 

 

 

 四葉は自分の手が胸を揉んでいる状況を認識して舌打ちした。

「ちっ……揉むなよ、ゲスが……」

 まだ思春期は迎えていないけれど、それでも女性として実に不快だった。姉がトイレの使用を厳禁している気持ちが少しわかった。

「……だいたい、あいつは毎回毎回、お姉ちゃんの胸を……え? ……この記憶……他の世界……多世界記憶……」

「宮水さん!! まだプールへ入ってはいけませんよーぉ!!」

「はーい! すみませーん!」

 教師に注意されてプールから揚がると、色々と考え込みながら放課後をむかえ、帰宅して高校が終わるのを待った。

「おかえりなさい、お姉様」

「はい、ただいま戻りました」

「ちょっと、お姉様にお願いがあるの」

「はい、どんなことでしょう?」

「私の部屋に来て」

 二人で四葉の部屋へあがった。

「ここに寝て」

「はい」

 素直に布団へ横になってくれたので、ゆっくりと抱きついた。

「……………」

「………………あの、これは?」

 いくら姉妹とはいえ、まだ夕方にもなっていない時間から布団の上で密着して抱きつかれ、やや困惑している。

「これはね、お姉様が、どこから来てるか、探ってるの」

「……私が……」

「そう、ジークフリード・キルヒアイスが来た時脈をね。私も辿りたいから」

「………………」

「このごろ、お姉ちゃんだと変な勘違いして、させてくれないからね」

 四葉は子猫が擦り寄るように姉の身体を探り、そして頼む。

「口の中に唾液を貯めて」

「…は……はい…」

 不可解に思いつつも、唾液を貯めると、それを直接に吸われたので、さすがに赤面する。

「あ……あの……これは……まだ私は日本の文化を深くは知らないのですが、こういったことは普通なのですか?」

「う~ん………したいとは想ってるだろうけど、テッシーくんとはお姉ちゃんがいいって言うまでしちゃダメだよ」

「っ…」

 ますます赤面したので、四葉は微笑して囁く。

「ま、すぐ近いうちにOK出るだろうけど」

「………………」

 どう返事していいか困り、されるままに任せ黙っていた。

 

 

 

 三葉はヤン艦隊と砲火を交えているキルヒアイス艦隊の様子を艦橋から見て怒っていた。

「結局は同盟軍と戦って……」

 自分の作戦を無視されたということより、姉の救出を後回しにして自分の野望を推進している男と、その親友に怒っている。キルヒアイスからの手紙にはアンネローゼへの気遣いに対する感謝と、意に添わぬ結果となったことへの陳謝があったけれど、続いてヤン艦隊との戦闘は現状の4分轄した分艦隊による交代の攻撃を継続して、無理をせず着実に相手を撃ち減らし消耗させてほしい、大胆な攻撃は無用、とあった。

「………車懸かりの陣か……また古くさい戦法を……」

 上杉謙信が愛用した戦術を飛騨地方が上杉武田戦争の影響を受けたこともあって三葉も軍事教育を受ける前から知ってはいた。メインモニターに映し出された4つの分艦隊がヤン艦隊へ回転しながら交代で攻撃をかけている。

「……4倍の戦力があって……いくら相手が魔術師でも、ちょっと消極的すぎ……」

「はっ、何かおっしゃいましたか?」

 ベルゲングリューンが問うてきた。

「一人言。もう、いいや。現状維持しておいて、私は休憩してくる」

 三葉は戦闘の行く末が、どうでもよくなった。ラインハルトとキルヒアイスの野望も、どうでもいい、姉を後回しにした男たちへ協力する意志は皆無だった。

「ヒルダも来て」

「はいっ」

「…………」

 ベルゲングリューンは女性士官を連れて艦橋を出て行く司令官の背中を黙って見送り、言われたとおり現状維持に取りかかる。三葉はヒルダと艦隊司令官としての広い居室に入ると、ヒルダの耳を甘噛みした。唇や舌、歯を使って、よく唾液を混ぜて、物をほどよく噛むのは特技でもある。

「はむっ」

「んっ……キルヒアイス中将……今は戦闘中ですよ」

 二人きりとはいえ、同盟軍と戦闘中で、それも名高い名将ヤン・ウェンリーと矛を交えているのにキスしてくる司令官に困惑しつつも、やっぱり嬉しいのでキスに応えた。

「ヒルダ……すごい汗かいてる」

 軍服の上着を脱がせるとシャツが汗で濡れていた。

「あ、そっか。ヒルダにとっては初陣か。それは緊張するよね」

「は…はい。あの……これ以上されるのであれば、先にシャワーを浴びさせてほしいのですが…」

 女性らしく恥じらっている姿が可愛くて三葉は男の衝動が高まってくるのを感じた。ヒルダの胸へ顔をうめ、汗の匂いを吸った。

「う~ん……いい匂い」

「ィ…イヤです……やめてください」

「このアドレナリンの匂いとヒルダの匂いが混じると、最高に美味しそう」

「うぅ……」

 抱かれるのは嬉しいけれど、初陣の緊張で汗に濡れた身体を嗅がれるのは恥ずかしくてたまらない。逃れようとモジモジとしているのを長い腕で包囲するように抱いて離さない。

「ヒルダ、可愛い」

「………せ、せめて先にトイレだけ行かせてください」

「あ、戦闘中だったし、ずっと我慢してた? わかる、わかる、いくら吸収してくれるからって、初めてのときは抵抗あるもんね」

 戦闘の程度によるものの、持ち場を離れられないときは排泄もできるよう装甲服やパイロットスーツだけでなく艦橋要員も軍服の中に専用の下着を着けている。そういった訓練も当然に幼年学校や士官学校でも行われるけれど、その課程を無しにして戦場に立つようになった三葉も最初は激しく迷ったし、今はヒルダも同じく課程を飛ばして戦場に立っているので初体験に強く恥じらっているのが可愛くて、再びキルヒアイスの唇がヒルダの耳を甘噛みしてから囁く。

「何事も訓練だよ。触っていてあげるから、してみて」

「そ…そんな…」

「ほら、シーって」

「………」

「命令だよ。中尉。ほら、訓練。シー」

「……………ぅぅ……」

 ヒルダが顔を真っ赤にして震えながら済ませた。

「フフ、おもらししたヒルダ、可愛い」

 男になって見ると、恥じらいながら股間を濡らした女子は扇情的で、三葉は修学旅行で大失敗した体験から屈折した感情を抱き、ヒルダを見つめてキスを繰り返していく。

「ホントに可愛いね、ヒルダ。よし、これからは訓練として私が許可しないとトイレは禁止にする」

「そんな……」

「私がヒルダの身体を管理してあげる。喜びなさい」

 そう言って脱がせていき、抱き合った。ベッドの上で8時間あまり抱き合うことと訓練を楽しんでいると、艦橋から通信が入ってきた。

「キルヒアイス閣下、ご休憩中のところ失礼いたします」

「どうかした?」

 三葉は通信スクリーンをサウンドオンリーにして送信応答した。ベルゲングリューンの方は顔を見せているので、女性士官を同伴して居室へ入った司令官が何をしていたのか想像してしまう微表情を浮かべたけれど、報告すべき事態があるので淀みなく語る。

「敵艦隊に動きがあります」

「そう。……送ってみて」

 軍服を着て艦橋に出るのが面倒だった三葉が命じると、居室の三次元モニターにヤン艦隊の動勢が投影された。

「敵艦隊は後退しつつ見えますが、U字型に陣形を変化させつつあるようにも見えます。いかがいたしますか、閣下」

「…………」

「敵は魔術師と呼ばれる男です、何らかの思惑があると小官は愚考いたしますが」

「それは愚考じゃなくて、普通の考えだから。ちょっと待って。考えるから。…………………………あ、そうだ! これで、いこう!」

 しばらくモニターを見つめて考え込んだ三葉は閃いた。

「現在、敵と交戦している分艦隊へ、まったく同じ陣形に敵の真似して変化するよう伝えなさい」

「真似して……ですか?」

「ええ。まったく同じに」

「わかりました。……艦橋へ、おいでくださいませんか?」

「………ここで指揮するから、内線通信は開いたままにしておいて」

「はっ。……」

 三葉は椅子に座ると、ヒルダを膝にのせて抱きながら三次元モニターを見つめる。命令通り、交戦していた分艦隊はU字型へと陣形を変化させていく。

 一方で、この変化に気づいたヤンは艦橋の机に胡座をかいて座ったまま、後頭部を掻いた。

「こいつは……また……」

「敵はこちらの陣形と同じに変化しておりますわ……どういう意図でしょう?」

 フレデリカが心配そうに問う。このような問いが、ヤンの思考を整理するのに役立つとわかっていての問いだった。

「あまり深い意図はないだろうね。だが、こちらは手詰まりになった。三次元チェスや古い時代の盤上ゲームでも、相手と同じ手を打つという戦法はある。もちろん、後手に回る分、ずっと真似していては先手にチェックメイトされてしまうけれど、今の場合は相手は4倍、こちらは分艦隊の一つと戦っているにすぎない。その一つと真似っこ戦闘をしていれば、消耗戦になって終わりさ」

「敵の司令官は、どういった人物なのでしょう……このような手段をとる用兵家は」

「ああ、言いたいことはわかるよ。かなり大胆というか、むしろ用兵家としてのプライドの無い人物だろうね。たとえ思いついても普通は恥ずかしくてできないさ。真似していれば負けない。ジリ貧になっても残り3倍の戦力がある。そんな計算だろう。だが、おかげで私は、また悩まなくてはいけない。真似される前提で、どう対応していくか。こいつは難問だ。なにより相手は考えなくていい、私は考えなくてはならない、羨ましい身分だよ、いっそ代わってくれないかな」

 ヤンが後頭部から前頭部まで頭を掻いていると、フレデリカが通信文をもってきた。

「閣下。イゼルローンからの通信です」

「読み上げて」

「本月14日を期してアムリッツァ恒星系A宙点に集結すべく、即時、戦闘を中止して転進せよ、です」

「簡単に言ってくれるものだな。……いや、真似をしてくれるなら」

 ささやかな期待をしてヤンは艦隊に陣形を撤退に適した方陣へ変化させつつ、ゆっくりと後退してみるよう命じた。

 一方の、三葉は低速で後退していくヤン艦隊を見て、悩む。

「……これって逃げてると思う? ケンプ提督との戦闘と似たようなパターンかなぁ…」

「はい。ですが、あるいは反撃を前に距離を取っただけかもしれません。それもまたケンプ提督が警戒したのと同じことですが」

 ヒルダも抱かれながら真面目に考えている。ベルゲングリューンの声が問うてくる。

「どうされますか、閣下」

「………。真似させてた分艦隊は、とりあえず休憩に入らせて、次に戦う予定だった分艦隊を前に出して、相手と同じ陣形で待機させて。逃げるようなら追撃は………ほどほどで」

「……ほどほど、ですか…」

「うん、ほどほど」

「………もう少し具体的に言っていただけませんと、分艦隊司令も対応を誤るかもしれませんぞ」

「じゃあ、追撃するときは、こっちの被害を出さないよう艦列が乱れないよう意識しつつ、それでいてネチネチとしつこく女同士の嫌がらせや、からかいみたいに相手だけ被害を出させて、こっちは消耗しない、そんな女々しい追撃をするように言っておいて」

「……ネチネチとしつこく……嫌がらせや、からかい……ですか……」

「そう、逃げ切られそうになって射程距離圏外になっても、まだレールキャノンとミサイルは撃つだけ撃っておくの。少しは当たるし、轟沈させられなくてもストレスは、かなり与えられると思うから」

 三葉は学校で自分が受けている被害を艦隊戦術に形を変えて発案した。

「わかりました。疲弊している相手に効果はあるでしょうが、言い方が露骨すぎますな」

「わかりやすくていいでしょ」

 三葉の命令により、ヤン艦隊はアムリッツァ星系へ向かうのに、大変な苦労と疲弊を強いられることになった。

 

 

 

 キルヒアイスは三葉がヤン艦隊に取った対応には、まずまずの評価と感謝をしたけれど、その指揮を居室でヒルダと執ったことには複雑な想いを抱いていた。キルヒアイス自身、ヒルダへは義眼と身体の傷跡のことを気の毒には思い、同情もしているし、人としても女性としても評価はしているけれど、そのこととアンネローゼへの長年の想いは、まったく比較にならない。とはいえ、すぐに切り捨てるのは残酷だという三葉の主張もわかるにはわかるので、戦術的判断に比べて実に難しいと思いつつ、指向性ゼッフル粒子の準備をさせながら恒星アムリッツァを迂回していた。

「今少しで敵の機雷原です! 急ぎつつ慎重に!」

 少し矛盾のある命令だとは自覚しているけれど、麾下の艦隊も艦橋から指揮を執るようになってくれた司令官に従い、作戦は進行している。

 しかし一方で、誤算も生じていた。ラインハルトはブリュンヒルトの艦橋で通信士官から不快な報告を受ける。

「閣下! ビッテンフェルト提督より通信、至急、援軍を請うとのことです」

「援軍?」

 ラインハルトは鋭く呻るように言い、通信士官はたじろいだけれど、律儀に答える。

「はい、至急、援軍を請うとのことです」

「私が艦隊の湧き出す魔法の壺でも持っていて、そこから援軍をさし向けるとでもヤツは思っているのか?!」

 怒鳴ったラインハルトは、それでも一瞬で怒りを抑制して冷静になった。

「ビッテンフェルトに伝えろ。余剰兵力は無い。……いや、ノルデンがいたな。ビッテンフェルトに伝えてやれ、ノルデン艦隊をさし向ける。それまで持ちこたえろ、と!」

「はっ」

 通信士官は命令を遂行するけれど、オーベルシュタインが確認するように問う。

「よろしいのですか。ノルデン中将の艦隊は補給部隊の護衛を主任務として、第1線への投入を予定しておりませんでしたが」

「それでも、窮地にあるビッテンフェルトへの助力くらいできよう。敵も疲弊している。一度も砲火を交えていないノルデン艦隊の使いどころとして悪くはあるまい」

「そのようにお考えであれば、何も言いますまい」

 戦局は帝国軍優位のまま進行するが、ヤン艦隊を中心として同盟軍も善戦している。ラインハルトは不意にオーベルシュタインを顧みた。

「キルヒアイスはまだ来ないか?」

「まだです」

「……」

 ラインハルトは自分の前髪を掻き上げた。

「ご心配ですか、閣下?」

「心配などしていない。確認しただけだ」

 その頃、ようやくキルヒアイスは予定の行動に出ていた。待っていた報告があがってくる。

「ゼッフル粒子、機雷原の向こう側まで達しました!」

「よし、点火!」

 キルヒアイスが命令すると、担当だった艦が発砲しゼッフル粒子を起爆させて機雷原に複数のトンネルを穿った。戦局は決定的になり、同盟軍は撤退し始める。その殿となったヤン艦隊を帝国軍で包囲しつつある。オーベルシュタインが戦況を見て具申する。

「キルヒアイス提督でも誰でもよろしいが、ビッテンフェルト、ノルデン両提督を援護させるべきです。敵は包囲のもっとも弱いところを狙って、一挙に突破をはかりますぞ」

「そうしよう。それにしてもビッテンフェルトめ、ヤツ一人の失敗に、いつまでも祟られるわっ!」

 ラインハルトからの命令を受けたキルヒアイスは援護のために艦隊を動かし始めた。

「全艦! ビッテンフェルト艦隊とノルデン艦隊の援護に向かいます!」

 命令しつつ、間に合わないかもしれない、と感じていた。すでにヤン艦隊も最後の力で包囲の突破をはかろうと、ビッテンフェルトとノルデンが守る宙域に突撃をかけ始めている。スクリーン上でヤン艦隊とノルデン艦隊が近接戦闘に入り、索敵士官が報告してくる。

「ノルデン艦隊がヤン艦隊と接触! ノルデン艦隊がジークフリード・ノルデンアタックを開始!」

「………」

 キルヒアイスは直立不動と無表情を維持したけれど、背中に汗が浮いた。恥ずかしい。まさか、二人の間で言い合うだけでなく帝国軍の戦術コンピューターに名称登録していたなんて、この状況だと他の提督たちの耳にも届いていると思われ、そのうち何人かには失笑された気がする、あの戦史に残るイゼルローン攻略をしたヤンでさえ、ヤン回廊などという妄言は吐いていないのに、とキルヒアイスの背中に羞恥心で汗が流れた。それでも、さながらアメーバのようなノルデン艦隊の艦隊運動はヤン艦隊を一時は混乱させた。

「……」

 いけるか、と期待させてくれたけれど、一時の混乱をエドウィン・フィッシャーによる艦隊運用で立て直したヤン艦隊へ、ビッテンフェルト艦隊が槍のように鋭い紡錘陣形で切り込み、さながらジークフリード・ノルデン・ビッテンフェルトアタックの様相を呈している。

「……それでも、ダメか…」

 ここを突破しなければ明日はないという覚悟で挑んでいるヤン艦隊の各艦長たちの働きと、ビッテンフェルト艦隊が量において少なく、ノルデン艦隊が質において劣り、本来のホーランドが目指した速度と躍動性にすぐれた動きができないことで、ヤン艦隊は突破しつつあり、キルヒアイス艦隊も間に合いそうにない。

「戦艦タンホイザー信号途絶! ノルデン提督、生死不明です」

 ノルデンの乗艦はビッテンフェルトの協力をえてフィッシャーの乗艦と相打つように轟沈していた。

「敵艦隊が包囲を突破!」

「………。このまま追撃します。整然と、ただし執拗に」

 自分なら、ここで戦闘を終えていた、けれど、もしも三葉なら、きっと追ったに違いないと想い、命令していた。生死不明と報告され、シャトルの脱出が確認されなかった場合で生存していたことは、ほとんどない。三葉なら、きっとイゼルローン回廊まで追い続け、多少の反撃は受けるとしても、疲弊の度合いも、各艦の損傷も同盟軍の方がはるかに重い、追い続ければ、脱落艦や降伏も含めて、まだ2割は撃てる、とキルヒアイス艦隊は追撃戦に入った。

「閣下、深追いしすぎではないでしょうか」

 ベルゲングリューンが当然の進言をしてきた。

「そう思いますか」

「はい」

 執拗な追撃のおかげで、すでに数百隻の敵を討ち果たしてはいるし、降伏してきた艦もある。けれど、追撃しているのはキルヒアイス艦隊のみで、ラインハルトは何も言ってこないものの、キルヒアイスらしくない、と思われている気はする。まさか、このままイゼルローンまで追うのか、と自問自答していると、ヒルダが震えながら言ってくる。

「キ……キルヒアイス……閣下…」

「……。どうかしましたか? 中尉」

 あまりヒルダの方へ視線を送らないようにしていたけれど、指向性ゼッフル粒子を散布していた頃から、小刻みに震えていて、やはり女性ながらに戦場へ立つのが怖くなったのだろうと思っていた。いっそ、当初の三葉が望んだように居住区で過ごさせようかとも考えたけれど、本人から言い出すまでは、あまり優しい配慮はしないでおこうと判断していた。

「……ト……トイレに行っても……よろしいですか…?」

「…………」

 原則として戦闘配備中は持ち場を離れるのは厳禁だった。交戦中であれば艦隊司令とて艦橋でパンを片手にソーセージを囓ったりする。一瞬、今すぐ追撃をやめて戦闘配備を解こうかと考えたけれど、それでは一女性士官のために全艦隊の動きを変えたことになるし、またヒルダにだけ許可するのも、まるで艦隊司令に聖域があるようで周囲に与える印象が良くない。キルヒアイスは艦隊司令であることに徹した。

「その程度の判断は自分でしてください」

「っ……ぅ……」

 ヒルダが顔を真っ赤にして震えたのと、かすかに音が聞こえたので、わかりたくなくてもわかった。そして、やはり女性なのだな、とも思う。帝国軍には前線勤務の女性はほとんどいないし、そのため配慮もない。ヒルダは正規の軍人教育も受けていないので、初めての体験に強く恥じらっているのだろうと慮った。普通の女学生という立場なら、それが、どれだけ恥ずかしいことかは自分も知っているし、女性の身体の構造での長時間の我慢が苦しいのもわかる。それゆえ気の毒に思ったけれど、やはり優しい言葉をかけることは自制した。もうヒルダから視線をベルゲングリューンへ移して問う。

「このまま追撃することを愚行だと思いますか?」

「それは…」

 ベルゲングリューンが考えをまとめる前に、ヒルダが言う。

「…ハァ…キルヒアイス閣下…。許可無く、おもらししたヒルダを…ハァ…叱ってください」

「「…………」」

 ベルゲングリューンが黙り込み、キルヒアイスは額に手を当てた。

「………三葉……」

 誰を叱りたいかといえば、一人しかいない。自分も女の身体にいるとき、男に抱かれたいという原始的な衝動を抑える術を学ぶのに苦労したし、生真面目に女であることに徹しているうちに、もう自分を見失いかけてもいるので、三葉が男の身体にいるとき、女性を抱きたいという衝動を持て余すのも理解はできる。また、そのためなのか本来の自分とは、かなり違う行動を取ってしまうことも共感してもいい。けれど、せめて変な癖はつけないでほしい。キルヒアイスが思い悩んでいるうちに、また5隻の同盟軍艦艇が索敵範囲に入り、射程距離に捉える前に降伏信号を送ってきた。それと同時にラインハルトから通信が入ったので、メインモニターに映してもらった。

「キルヒアイス、もういいだろう。戻ってこい」

「はい、ラインハルト様。私の戻るところはラインハルト様のもとのみです」

 キルヒアイス艦隊は追撃をやめ本隊へ合流した。

 

 

 

 三葉はヨガマットへ手早く用事を済ませる。もう装甲服や軍服の中に済ませるのと同じくらいの感覚で、さっと終わらせて片付けると、入浴も10分以内に終えて、布団に入って寝る。

「明日は長スパぁ~♪」

 早朝の始発で行くので、睡眠時間の確保を優先して目を閉じ、日の出前に起きると家を出た。まだ暗いので早起きな高齢者さえいない。駅へ向かっていると、約束していた早耶香と克彦たちと出会い、計画通りに始発へ乗った。町を離れると、三葉の気持ちも軽くなった。

「サヤチンは何から乗りたい?」

「う~ん……絶叫系は後がいいかな。お化け屋敷は絶対イヤ」

「オレは何でもいいぞ」

 保護者へ話は通してあるけれど、学校をサボって遊園地に行くという大胆な作戦に三人とも浮かれながら、岐阜から愛知の海沿いまで移動し、丸一日遊園地を楽しんだ。やはり夏休み前の平日だったので、どのアトラクションも混雑することなく乗れて休日に来る5倍は楽しめた。すべてのアトラクションを体験して、気に入ったものには2度、3度と乗って閉園まで滞在して帰宅する。けれど、名古屋を過ぎて岐阜市まで戻ってきて電車の遅延から、乗り換えるはずだった飛騨地方への電車に乗れなかった。

「テッシー、今、行ったの終電だよね」

「ああ……マズいな」

 以前のデートでも日暮れと同時に帰路についてギリギリだった。もともと、ひどいと一時間に1本もないくらいの山奥まで帰らないといけないので、まだ市内は賑やかな時間帯だけれど、三葉たちにとっての終電は出てしまった。早耶香がタクシー乗り場を指した。

「私、タクシーやったら、いくらになるか、訊いてくるわ」

「うん、お願い」

 すぐに戻ってきた早耶香は少なくとも6万円だと言われていた。克彦が他のタクシーへ交渉してみても、町の名を言っただけで勤務時間の都合で拒否されたり、6万円以上を言われることもあり、三人で悩む。

「いっそ、どこかに泊まって始発で戻ったら明日の学校、ちょい遅刻くらいじゃね?」

「検索してみるわ」

 始発で戻ることを調べると、それほどの遅刻にはならない。それを、お互いの保護者へ説明して外泊の許可をもらうと、逆に楽しくなってきた。

「サヤチンのお母さんも、あっさり許可くれたね」

「まあ、女の子だけ、とか、男の子と二人やったら、ここまで迎えに来てでもダメって言われたかもしれんけど、この三人やしね」

「次は宿探しやな」

 スマフォで検索してみたけれど、空室は多いのに、未成年だけの当日予約はできなかった。

「意外に無いな。サヤチン、あるか?」

「ううん、このサイトも未成年のみはお断り」

 三人で一時間ほどネット上と市街地を彷徨い、そして未成年のみでも泊まれそうな施設を見つけた。

「………ここ、どう思う?」

 早耶香がラブホテルを指している。

「…………料金的には手頃だな。……使ったことあるか?」

「「ないない!」」

「………だろうな」

「「テッシーは?」」

「無ぇよ。オレたちの町の近くに、こんなもん無いだろ」

「………でも、ここしか、無理かも……サヤチン、どう思う?」

「う~ん……三人で……」

 理想的にはシングルに克彦、ダブルに三葉と早耶香という予約がとれれば問題なかったし、それが無理なら旅館や民宿などに三人で一室も覚悟はしていた。路上で15分ほど話し合った後、どうせ三人一室も覚悟していたし、いいかな、という気持ちになった。そして、好奇心もある。決断して三人で入ると、カウンターには誰もおらず、部屋を選んでボタンを押すだけで鍵が出てきた。三人なので一番広めの部屋を選んで入室した。

「うわぁぁ、中は、こんな造りなんやね」

「すごいすごい!」

「おお、こんな感じなのか」

 家族旅行や修学旅行で泊まる施設とは、まったく違うラブホテルの室内に三人とも興奮している。派手な色の内装、大きなベッド、液晶テレビ、よくわからないオモチャ、意味不明なオブジェ、いろいろあるゲーム機とカラオケ、そしてバスルームはガラス張りだった。

「三葉ちゃん、お風呂に入るとき、どうしたらいいと思う?」

「テッシーに目隠しすればいいよ」

 やや似たような状況に慣れている三葉の提案に二人が安心した。

「なるほど、それなら」

「安心やね」

 そう決まると、大きなバスルームに入ってみたい三葉と早耶香は、すぐに克彦の頭へバスローブの帯を巻いた。目隠しされた克彦はソファに座って待ち、脱衣所がないので三葉と早耶香は何度も克彦の目隠しを確認してから、裸になった。

「「「……………」」」

 三人とも頬が赤くなる。目隠しされていても脱衣の衣擦れの音は聞こえるし、見えていないとわかっていても三葉も早耶香も恥ずかしさを覚えた。

「早く入ろ」

「そうやね」

 バスルームに入ると、恥ずかしさが落ち着いてくる。二人で身体の洗い合いをして温まって出てくると、ガラス張りのバスルームが完全に曇っているのに気づいた。

「こうなるんだったら、先にテッシーに入ってもらえば、よかったね」

「うん、それは言えるかも」

「三葉、サヤチン、もういいか?」

「「まだまだ!!」」

 二人は急いでバスローブを着た。そして気づく。

「二人分しかないけど、テッシーには何を着てもらう?」

「そうやね。私、自分のシャツでもいいけど、下は……」

「オレが自分のシャツでいいさ。下は……トランクス姿で寝ていいか?」

「「……うん、それなら」」

 ようやく目隠しを外してもらった克彦が入浴し、三人でルームサービスの夕食を摂ると、三葉と早耶香がベッドに、克彦はソファへ横になる。

「「ごめんね、テッシー」」

「いいって。なんか、こう楽しいな」

「「うん」」

 色々と未体験で楽しかった。そして、部屋の照明を落として、三葉と早耶香が向かい合って横になる。

「…………」

「…………」

 静かになって実感した。同じ男を好きでいる二人が、こんなに仲良くしていられる不思議さを、そして三葉は女として男に抱かれたい衝動も覚えた。それは早耶香も覚えている気がする。丸一日楽しかったし、学校をサボって遊園地という背徳感も味わった。その非日常さが、さらなる背徳を誘った。

「ねぇ、サヤチン、いっしょにバージン卒業してみない?」

「……え、……それって……」

 二人とも17歳、ちょうど平均的な女子高生の体験年齢に達している。興味はあるし、三葉は男として女を抱いた経験はある。その逆を体験したいという気持ちが、むくむくと大きくなってくる。

「……三葉ちゃんが……それで……いいなら……あとはテッシーが…」

 一度は諦めがついた恋だったけれど、まだ克彦のことは好きでいる。克彦が三葉を好きでいても、三葉がいいと言うなら、どうせ、いつかは卒業する処女を初恋の相手と体験したい気持ちは小さくない。

「「………」」

 二人の女子が決めてから、ソファにいる克彦へ問うと、やや迷った男も、据え膳が2膳でも箸をつけることにした。そして終わってから三人とも、これが学校の校則でいうところの不純異性交遊ではないだろうかと思ったけれど口にはしなかった。そろそろ12時になる、三葉はペンを持って立ち上がった。

 

 

 



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19話

 

 

 キルヒアイスはラブホテルの狭い個室トイレにいる状況が視界に入り、平和な日本社会のどこかだろうとは思っているので見知らぬ場所でも、それほど緊張しなかったけれど、次の瞬間には三葉の身体が一糸まとわぬ姿であることに気づいて極度に緊張した。

「っ……こ……これは……どうして……」

 今まで一度も見たことの無かった三葉の身体を見て激しく動揺しつつも、手には手紙があったので、とにかく読む。

 

 いろいろあってテッシーと初エッチしました。

 いっしょにサヤチンも。

 したいなら二回目をしてくれてもいいし、イヤなら眠いとか言って静かに寝てください。 テッシーに求められたら拒否ったりパニックったりしないで。

 高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処し

 

 そこまで書いて12時を迎えたようで文章の途中で終わっている。

「……そんな……諜報部が入手した同盟軍の侵攻方針みたいな……」

 結果として壊滅的な打撃を受けた同盟軍の爆散した艦艇の姿を思い出した。

「…………私は、どうすれば…………いろいろあっての、いろいろって……それに、サヤチンまで、いっしょ……」

 手紙を読んでも、ほぼ状況がわからない。手探りで帝国領へ侵攻した同盟軍提督たちより不安になった。身にまとうものは何もないし、ここがどこなのかもわからない。

「……………それでも、とうとうテッシーのご好意を…………ですが、サヤチンまで……いえ、テッシーのお家柄と男ぶりを考えれば、二人くらいいても当然なこと……」

 町で一番の実業家の嫡男であれば、町長の娘と釣り合うし、さらに二人目がいて、それが町役人を代々勤めている家系の娘となれば、それほど異常なことではない、と感じる文化で育ってきたので、いささか自分の庶民的な恋愛感覚とは相容れないけれど、三葉が受け入れたことなら口を出す筋合いではない、と思えた。

「……………ずっと、ここにいても………」

 おそらく宿泊施設のトイレだと感じるところに、ずっといるわけにもいかないので、身体に触れないよう胸と股間を隠して、そっとトイレを出た。トイレを出ると、すぐに状況が目に入ってくる。やはり宿泊施設で大きなベッドがあり、克彦と早耶香が抱き合っていた。

「っ…………」

 胸が締めつけられるように苦しくて、悲しみと早耶香への憎しみまで生まれてくる。これが嫉妬なのかもしれない、と判断すると、ベーネミュンデが暗殺まで企てた気持ちが推し量れてしまうほどだった。

「テッシー!」

 いつのまにか叫んでいた。

「ん?」

「私も抱いてください!」

「「………」」

 あ、モードチェンジしたんだ、と克彦と早耶香は思った。おかげで克彦は雰囲気の違う三葉を、もう一度、初めてのように楽しむことができたし、一回目より本当に初めてのように恥じらっていて、男として嬉しかった。

 

 

 

 三葉はキルヒアイスからの手紙を読んでも実感できなかったノルデンの戦死を、執務室でヒルダから本日の先送り不可な予定として、ノルデンの家族への弔問が入っていることを説明されて、ようやく実感しつつあった。他にも皇帝の崩御や、それゆえ国内情勢の不安定化があるので行動は厳に自重してほしいとあったけれど、そんなことよりノルデンのことを詳しく知りたい。

「……ヒルダ……アムリッツァ会戦の状況を三次元モニターに映して…」

「はい」

 今さら、と思いつつも、ヒルダは会戦の状況を再生する。それに見入っている三葉へ、他の予定も言っておく。

「また、この執務室も本日中に引き払い、上級大将としての執務室への移動となります」

 そんなヒルダの声を三葉は聞いていない。

「…………ラインハルトっ! 第1線も張れないような艦をあてがっておいて……最初から員数外にあつかって………やることがミュッケンベルガーと同じじゃない!」

「………………」

「ラインハルトは、どこ?! 元帥府にいる?!」

「元帥閣下はシュワルツェンのお館へ、姉君が移り住まれるお手伝いで、元帥府にお顔を出されるのは午後からとなります。………」

 週に一度くらいの割合で雰囲気ががらりと変化して、いつもなら優しく抱いてくれる上司が今日は今さらのように僚友の戦死に憤っているようで、どう対応していいか、わからない。三葉は執務室を出ると、早歩きでノルデンの執務室を訪ねた。

 バンッ…

 扉を開けて室内に入ると、ノルデンの従卒が悲しそうに遺品を整理している。

「ノルデン中将さんは……いないの?」

「中将閣下は、……いえ、ノルデン上級大将閣下はアムリッツァ会戦で栄誉の戦死を遂げられました。ぅっ…くっ…」

「……………」

 キルヒアイスの肩がうなだれて落ち、とぼとぼと自分の執務室へ戻る。今日まで三葉にとって戦死者は、ただの数字でしかなかった。ぜんぜん知らない人たちだった。けれど、ノルデンとの付き合いは長い。入れ替わりが起こるようになってから、ずっとだったし、上昇志向の強いラインハルトとは話が合わず、ノルデンと話していると楽しかった。その彼が戦死したと言われ、まだ信じられない。

「キルヒアイス閣下。そろそろ、お時間です」

「……うん…」

 ヒルダに促されて弔問へ出向くために執務室を出ると、ビッテンフェルトとメックリンガーが廊下で待っていて敬礼してくる。

「ご同行の許可をお願いします」

「私どももお供させてください」

 ビッテンフェルトは戦場で故人に借りがあり、メックリンガーは生前に美術品を通して親交があったので、それぞれに弔意を示したい様子だった。

「……どうぞ…」

「「はっ。………」」

 二人とも気落ちした上級大将の様子に目を見合わせつつも、三人でノルデンの邸宅へ出向いた。玄関で未亡人と、そっくり父親に似ている3歳から15歳までの5人の息子たちに会うと、三葉は泣いた。

「…ごめん…ごめんなさい…、私たちが、もっと、しっかりしていれば…」

 なんで四倍もの戦力があってヤン艦隊を全力で叩かなかったんだろう、あのとき、あんないい加減な指揮をしたんだろう、アスターテを思い出したら四倍で圧倒できなかった不甲斐なさが不思議なくらい、四倍もあったのにちょっと削っただけで終わってしまって、あそこで全力で突撃さえさせていればノルデンさんは死ななくて済んだのに、と三葉は後悔して泣きながら、10歳くらいのノルデンの息子を抱いた。メックリンガーは紳士的に未亡人へ声をかけ、ビッテンフェルトは15歳の長男に武人らしく肩へ手をおいて語る。

「君たちの父親は立派だった。オレの窮地を救ってくれたばかりか、劣勢の中で勇猛果敢に新戦術を駆使して戦い、敵の副司令官を討った。まこと帝国軍人の鑑であり、子爵家の名に恥じぬ男であったよ。ノルデン提督と轡を並べたことは生涯、誇りに思う」

 弔問を終え、元帥府へ戻る地上車の中で、メックリンガーがしみじみと言う。

「惜しい人を亡くしましたな」

「「……」」

 三葉とビッテンフェルトは黙って頷いた。

「…ぐすっ…」

 キルヒアイスの涙を見て、隣りに座っていたビッテンフェルトは厚い手のひらをキルヒアイスの膝へおいた。

「情に厚いお人なのですね。閣下は」

「……」

 返答が思いつかず、ノルデンの軽快な笑顔を思い出している三葉にビッテンフェルトは頭を下げた。

「閣下とともにあることを嬉しく思います。わが忠誠もまた閣下とともに」

 アムリッツァでの失敗を寛恕されたことの背景にキルヒアイスの進言があったろうことは諸提督の察するところであり、当然にビッテンフェルトは深く感謝していたし、僚友の死に涙する姿にも感銘を受けていた。地上車が元帥府に到着し、降りたところで同じくラインハルトも別の地上車から降りてきた。その顔を見て三葉は、もともと失い安い自制心を完全に喪失した。

「ラインハルトぉ!!」

「っ…貴様かァっ!!」

 ラインハルトの方も、三葉を殴りつけたい理由があった。ようやく後宮から解放され、これから二人で暮らせる、キルヒアイスも気軽に訪問できる、そんな立場になったのに口さがない宮廷の女官たちからの噂話で、赤毛の上級大将が副官の女性士官と関係を持っていると聞いてしまった姉の落胆ぶり、ほんの半時間前の引っ越し作業中、どうしても不安で弟に迷いながらも質問してこられ、それに明確に事実無根と答えられなかった原因をつくった三葉を、たとえキルヒアイスの身体だとしても、殴りつけねば気が済まなかった。

 ガッ! メシッ!

 元帥府の正面で二人が殴り合う。二人とも白兵戦技に長けているので怒っていても身体が自然に攻撃と防御を繰り返し、なかなか勝負が決まらない。周囲にいた誰もが、あっけにとられて制止に入るのが遅れている。顔を見るなり一言の口論もなく、いきなり始まった殴り合いは、まるで格闘を愛好する親友同士が挨拶代わりに組み手をしているようにさえ見えて、ビッテンフェルトの部下などには実際にそのような血気盛んな者もいたのでウルリッヒ・ケスラーが止めに入るまで続いた。

「ハァっハァっ」

「ハァハァ、離せ。ケスラー」

「両閣下とも、どうか冷静に」

 ラインハルトは、すぐに離してもらえたけれど、三葉は衛兵5人に抑えられたまま解放されない。アイスブルーの瞳が冷静さを取り戻し、冷厳と見下ろしてくるのに対して、三葉は炎髪灼眼で睨みあげていて、おそらく解放すると、また殴りかかると誰にでもわかった。

「貴様には話がある。それまで頭を冷やしていろ。ケスラー、こいつを目立たぬところに監禁しておけ」

「はっ」

 ケスラーは元帥府内の落ち着いた内装があるものの窓からの脱出などができない部屋を選び、三葉を丁重に案内すると、口の硬い者を厳選して歩哨を立てた。三葉は後ろ手に手錠をされた状態でソファに座って怒っていたけれど、さすがに2時間も経つと少しずつ冷静になっていった。

「少しは頭を冷やしたか」

 ラインハルトとオーベルシュタインが入室してきた。顔を見ると、また三葉は冷静さを失った。

「よくもノルデンさんを使い捨てに!!」

「フン、無能者が死んだところで何ほどのことがある」

「そうやって自分の基準だけで人を差別してるといい!! すぐにルドルフになれるから!!」

「ちっ………見たか、オーベルシュタイン」

「はい、とてもキルヒアイス提督とは思えませんな。私を組み伏せたときも、そうであったのでしょう」

 オーベルシュタインはラインハルトから三葉とキルヒアイスが入れ替わることを簡単に説明されていた。そうでもしないと、元帥と乱闘したキルヒアイスに何らの処断をしないことに納得させることができないという意味もあった。

「察していたか。およそ一週間に一日ほど、こうなる」

「精神病の類であれば病院へ入れるという手段もありますが、ルドルフ以降、精神病理学は進展せず、ただの収容所にすぎませんが」

「病院はダメだ。おそらくこれは病気ではない。なによりキルヒアイスは必要だ」

「ですが…」

「ミツハも感情さえコントロールできれば使って使えなくはない」

「誰がお前なんかに!!」

「まあ、聞け」

 ラインハルトも対面するソファに座り、オーベルシュタインは隣りに立った。

「お前はオレが姉上を後回しにしたことと、ノルデンのことを怒っているようだが、ノルデンとて武人、戦場に出る以上は覚悟があろう」

「第1線を張れない艦ばっかり押しつけて員数外に扱っておいて!! そのくせ、予備兵力としてあてにしたくせに!!」

「戦場とは、そういうところだ。ゲームではない。そして、姉上のことだが…」

「結局、皇帝が死ぬまで救い出せなかったくせに!! お前はお姉さんを出世の道具に利用しただけじゃない!!」

「………」

 ラインハルトは拳を握って、それから冷静さを保った。

「結果論だな。だが、ミツハの立てた作戦も我々は真剣に検討したぞ。オーベルシュタインが、より完璧にな。説明してやれ」

「過ぎたことですが、同盟軍の大侵攻に対して焦土作戦を実施し、皇帝と皇妃を保護するまでは良いでしょう。ですが、その後、わざわざ同盟軍に物資を供給してやる必要などないのです。オーディンで政変が起こった、今がチャンスである、もっと奥深くまで攻めてこい、と何らかの情報をリークするだけで同盟政府も同盟軍も引くに引けなくなるでしょう。そして、我々は皇帝と国璽をおさえて宇宙のいずこかに隠れ潜めばよいのです。さすれば麾下に組み入れられなかった帝国軍の残滓と、門閥貴族どもの私兵が同盟軍と死闘し、我々は、その勝者を叩き伏せればよいだけのこと。門閥貴族はいうにおよばず、同盟軍も長い占領戦のあげく財政的にも戦力的にも限界を超えたところを叩かれるのですから、アムリッツァより容易であったことでしょう」

「………………。じゃあ、そうすればよかったじゃない」

「オーベルシュタインは、この作戦に乗り気であったが、オレとキルヒアイスが却下した」

「なんで?!」

「三つ問題があった。うち一つはお前のせいだ」

「…………どんな問題よ?!」

「一つ、お前は親交があったかもしれんが、ノルデンは子爵家の嫡男、門閥貴族側の人間だ。計画の実施にさいし、不確定要素になる。二つ、マリーンドルフ伯へも、それとなく根回しをしたが、伯が出してきた条件が問題だった。これが、お前のせいだ」

「…………どんな?」

「伯は娘とキルヒアイスが正式に結婚すること、これを約束する公文書を求める、と」

「結婚…………してあげればいいじゃない。他に好きな人がいても、中将とか上級大将なら二人くらい奥さんがいても大丈夫なんじゃないの?」

「お前は、この社会をわかっていない。伯爵令嬢と庶民が結婚するだけでも大事なのに、そのうえ重婚などありえないのだ」

「………そういう社会を平等な社会にしたいんじゃないの? 一応、そういう野望もあったよね。お姉さんのことみたいに口先だけじゃないなら、平等な社会を作るんでしょ」

「くっ…一朝一夕にそうならぬし、お前は女であるのだろう、よく重婚などという発想が認容できるな?!」

「う~ん………人類最初の長編小説って知ってる?」

「………知らぬ!」

「源氏物語っていうんだけど、基本、重婚ありだよ。ちゃんと一人一人優しくしてくれるなら、ダメな夫と一対一より、ずっといいよ」

「…………お前たちの文化と我々の文化は違うのだ!! とくにキルヒアイスは正しい男だ! 一対一しか考えていない! オレも、そうだ!」

「……………そうなんだ……ごめんなさい…」

「くっ……」

 素直に謝ってくれるけれど、謝り方が、どうにも軽いのでラインハルトは苛立つ。三葉が問う。

「あと一つは?」

「焦土作戦が延長されるのだ。計算しただけで餓死者が少なくとも2億人を超えるだろう。我々だけが豊かな物資を確保し、領民が飢えるのを傍観して漁夫の利をえる勝機を待つことになる。何ヶ月か、あるいは半年以上か。キルヒアイスは当然に反対したし、オレも同意見だった」

「……2億人が…餓死……」

 ご飯を食べさせてもらえないことが、たとえ三食でも、どれだけつらいか知っている三葉が納得した。オーベルシュタインが残念そうにつぶやく。

「ですが、いずれ来る内戦でも多少の犠牲は出るでしょう。あの作戦を実施していれば効率よく二つの敵を排除できたでしょう。伯との約束にしても一度は結婚してみせ、それからキルヒアイス提督が納得できなければ離婚するなりすればよかったのです」

「えぐいこと考えますね。でも、それもいいかも。結婚したらヒルダのいいところにキルヒアイスさんも気づきますよ」

「……………」

 ラインハルトは結婚観が二人とずいぶん違うので少し頭痛を覚えた。とはいえ、自分も流れによってはブラウンシュバイックの係累である16歳のエリザベートか、リッテンハイムの係累となる14歳のサビーネと形だけの結婚をする選択肢もあるにはあったので、結局はキルヒアイスと姉を聖域のように考えるのは個人的な願望なのだ、と自分を納得させて話を続ける。

「ともかく、我々とてミツハの作戦を真剣に受け止めもした。そしてノルデンの戦死とて残念には思っている」

「…………だから、なに? なにか、条件がありそうな話の流れだよね?」

「ああ、とても大切な条件だ」

 そう言ってラインハルトは姿勢を正した。

「キルヒアイスが好きでいる。いや、愛しているのはオレの姉上だ」

「っ…、……え、でも5歳も年上なんじゃ?」

「歳など関係ない」

「男の人は、そう思うかもしれないけど、女から見て5歳は大きいよ。女が年上だと3歳が限度くらいって………私の文化だと思うんだけど? 違う?」

 自分が高校2年生なので5歳年下となると、小学6年生になる。四葉が小学4年生で10歳なので5歳上だと中学3年生で、これもイメージしにくい。それでもキルヒアイスとアンネローゼの相思相愛は事実だった。

「あ、でも、アンネローゼさんはキルヒアイスさんのこと好きっていうのは感じたから……そっか。キルヒアイスさんもアンネローゼさんを好きなんだ。…………ごめんなさい。でも、ヒルダも、いい子だよ?」

「伯爵令嬢とは、もう二度と男女の関係をもたないでほしい。姉上が解放された以上、一刻も早くキルヒアイスと姉上には心安らかに過ごしてほしいのだ。これは命令であるし、個人的な頼みでもある」

「…………………」

 三葉が考え込む。つい可愛くてヒルダを抱いてしまったけれど、そもそもキルヒアイスの人生なので、アンネローゼと相思相愛だと言われてしまうと、もう引くしかない。貴族社会は重婚ありだと感じていたけれど、それも個人的に拒否しているようなので、やはり選択の余地はない。けれど、それではヒルダが、かわいそうすぎる、その原因をつくったのは自分であり、なんとかヒルダのためを想って考え、そして閃いた。

「あ…」

「「………」」

「わかりました。ヒルダとは穏便に別れます。けど、そのために協力してください」

「協力はしよう。で、どんな?」

「ヒルダを私の副官から、ラインハルトさんの副官にしてあげて。それで、ラインハルトさんがヒルダと付き合ってあげて」

「なっ……オレが、か?」

「彼女とか婚約者、いますか?」

「いないが……」

「好きな人は?」

「いない」

「前に言ってましたよね、頭がいい女がタイプだって、ヒルダ、すごく頭いいですよ」

「………しかし、だ。……彼女の気持ちもあるだろう? 猫の子じゃあるまいし」

「私がヒルダに、他に好きな人ができたから、ごめん、って言うから、その後、人事異動でラインハルトさんの副官にするってことを伝える名目でディナーに誘ったりして、ゆっくり口説けば、すぐに落ちますよ。振られた後の女って焦土作戦された軍隊みたいなものですから」

「……………」

「そうしてもらえると、ヒルダもキルヒアイスさんに、しつこくしないと思いますよ」

「………………一つ、質問がある」

「はい、どうぞ」

「お前は伯爵令嬢のことを愛していたのか?」

「………恋ってほどじゃなくて……つい、男の性欲に負けた感じです……すみません。でも、愛着はありますよ」

「……性欲……」

「ラインハルトさんだって女の子を見たら抱きたいって感じるでしょ?」

「…………いや、そんな風に思ったことはない」

「…………………それは……男の人が好きってこと? たまに、いますよね。そういう人なんですか?」

「違う」

「…………それなら、一度、病院で診てもらった方がいいかもしれませんよ。朝とか、元気ですか?」

「………もういい。とにかく、伯爵令嬢とは関係を精算しろ」

「はい。その分、ヒルダのフォロー、よろしくお願いしますね。ラインハルトさんとヒルダも、けっこうお似合いかもしれませんよ。貴族同士だし」

 自分が関係した女性のフォローをラインハルトに頼む様子を見てオーベルシュタインが感想を述べる。

「本当にキルヒアイス提督とは、まったく違いますな。ですが、いずれ迎える内戦でも伯爵を味方につけておくことは悪くないかもしれません。根回ししたところで前回と同じような条件をつけられるでしょうから、元帥閣下がお引き受けになるということであれば、伯も望外の喜びでしょう」

「…………」

 婚約者も恋人も好きな人もいないラインハルトは拒否する理由を思いつけなかった。そして、いくつか打ち合わせすると、ヒルダを高級レストランの個室へ呼び出して、三葉とラインハルトが迎えた。三人で談笑しつつ夕食を摂るものの、三葉は別れ話を切り出す予定なので、いちゃついたりせず、むしろ距離をとる。反対にラインハルトは親しげに接してみるけれど、慣れないことなので苦労している。

「どうかな、フロイラインマリーンドルフ、もう一杯、ワインは」

「ありがとうございます。でも、もう十分ですわ」

「「………」」

 ラインハルトと三葉が、そろそろ、という目配せをしていると、ヒルダは仲がいいのだと勘違いする。

「お二人が元帥府前で争われたと聴いたときは、心配いたしましたわ。でも、仲が良さそうで本当によかったです。ケンカするほど仲がいいと申しますものね」

「そうですね。キルヒアイスとは幼馴染みですから、殴り合うことがあっても、すぐに和解しています。はははは! な、キルヒアイス」

「はい。………」

 返事した三葉は意図的に浮かない表情をつくった。それに対して打ち合わせ通りにラインハルトが問う。

「どうした? 浮かない顔をして」

「いえ………その……ずっと黙っているわけにもいきませんから、場にふさわしくないのを承知で中尉へ言っておくことがあります」

「私に……ですか……」

 レストランで出会ってから、ずっと距離をおかれているのでヒルダも良い知らせとは思えず、表情を少し硬くした。三葉は目をそらして告げる。

「他に好きな女性ができたので、これからは中尉とは………会えない。ごめんなさい」

「っ…」

「おい、それはないだろう! キルヒアイス、考え直せ!」

「いえ、もう決めたことですから。つきましては、ラインハルト様にお願いがございます。中尉を私の副官から外してください」

「キルヒアイス、なにも、そこまで…」

「けじめですから」

「だが、フロイラインマリーンドルフの気持ちも考えて…」

「決めたことですから」

 交渉の余地がないという様子で三葉が席を立つと、ヒルダが問う。

「好きな人というのは、グリューネワルト伯爵夫人のことですか?」

「「…………」」

 知っていたのか、女の勘は怖いな、と二人とも思ったし、嘘もつけない。

「はい。そうです。でも………ヒルダのことも、好きではいたよ。……ごめんね。ごめんなさい!」

 そう言って三葉は走っていく。追う気力がない様子のヒルダの肩へラインハルトが触れた。

「フロイラインマリーンドルフ、気の毒に。そうだ、私の副官として働いてくれないか。大尉として待遇しよう」

「……ぅっ……ぅっ……」

 返事もせずにヒルダが泣き出したので、ラインハルトは胸に痛みを感じた。傷ついたヒルダが泣きやむまで色々と慰め、声をかけているうちに、ラインハルトはヒルダに好意を覚えた。当初の嘘くさいフォローから、だんだん真剣味を帯びて慰めていくうちに、ヒルダも受け入れていった。

 

 

 

 朝、キルヒアイスは三葉からの手紙を読んでヒルダとの関係が終わった事を知り、安堵と心痛を綯い交ぜにした複雑な気持ちになった。

「…………中尉……気の毒に……」

 自分のせいではないけれど、自分が深く関係しているし、もしも、最初からアンネローゼが好きだと三葉に伝えていれば、こうはならなかったかもしれない。どうしても三葉が性欲を持て余すなら、クロイツナハⅢまで行かなくても、オーディンにも、そういう店はあった。とはいえ、そこに自分の身体で行かないで欲しいという気持ちも大きい。

「何よりも、まずアンネローゼ様に会わなくては」

 ようやく胸を張ってアンネローゼに会うことができる。キルヒアイスはシュワルツェンの館を訪ね、引っ越し後の片付けを手伝い、アンネローゼと心から微笑み合える時間を過ごすことができた。けれど、ラインハルトはいなかった。

「ラインハルト様は、いつ頃お戻りになるのでしょう?」

「ラインハルトは昨夜、外泊すると連絡がありましたよ。そろそろ戻ってもよい頃ですが、元帥府へ行ってるのかもしれませんね」

「こんなときスマフォでもあれば…」

 つい三葉がもっている便利な道具のことを思い出した。なぜ、帝国では廃れたのだろう、やはり共和主義者の地下活動に便利すぎ社会秩序維持局が存在そのものを許さなかったのだろうか、それとも惑星単位でしか使えないことが経済的な採算があわず普及しないのだろうか、と考えていると、アンネローゼが紅茶を淹れてくれた。

「お飲みなさい。ジーク」

「はい、ありがとうございます」

「ラインハルトがいないなんて、なんだか二人きりで……」

 そこまで言ってアンネローゼは淑女らしく続きは言わない。もうキルヒアイスの目を見れば、他に関係する女性がいないことはわかる。ただ、やはり五歳も年上なことと、後宮へ入れられていた身であることに、この若く将来性ある青年に対して気後れしないとはいえない。夕方までキルヒアイスとアンネローゼが静かな時間を過ごしていると、ラインハルトが帰ってきた。

「ラインハルト、それは、どうしたの?」

 アンネローゼは弟が巨大なバラの花束をもっていたので問うた。

「いえ……これは……この館に飾ったら良いのではないかと…」

「そう。では飾るところを決めましょう」

 実の弟のことなので、だいたいわかった。おそらく性急すぎて受け取ってもらえなかったのだと察して、何も言わず新居に飾った。

 

 

 

 三葉は一学期の終業式も欠席して、克彦と早耶香が持って帰ってきてくれた成績表を眺めていた。

「……まあ、キルヒアイスには感謝もしておこうかな……」

 修学旅行から二日に一回しか出席していないけれど、なんとか出席日数は足りたし、期末テストも二日間のうち一日分は、すべて満点を取ってくれ、欠席した日のテストは再テストで、これも満点を取ってくれたけれど、それは満点を取っても平均点としてしか評価されない学校システムだったものの、かなりの好成績ではあった。

「……あ~……ずーーーっと夏休みだったら、いいのになぁ……」

 似たようなことを願った人類の構成員は多かったけれど、通りがかった妹に冷めた目で見られた気もする。

「宿題はテッシーとサヤチンの三人で協力すればいいし。っていうか、キルヒアイスが全部やってくれたら最高かも」

 ころりと寝転がってキルヒアイスとアンネローゼのことを考える。

「…………あ、アンネローゼさんなら、抱いてもOK……なのかな……」

 また余計なことを閃いていた。

 

 

 

 

 



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20話

 

 

 夜12時から、キルヒアイスは三葉の部屋で手紙を読み、アンネローゼさんなら抱いても問題ないよね、と書かれていたので震える手で、それもやめてほしい、という文面の手紙を、すぐに書き出していた。後宮で、どんな体験をしてきたのか、少なくとも大きく傷ついているに違いないアンネローゼに対して、どうか、そっとしておいてほしい、彼女の心の傷が癒えるまで、という内容の文面を三葉に理解してもらえるよう、何度も書き直しているうちに夜明け前になり、やっと決定稿ができあがり、布団に入って眠った。

「お姉ちゃんは酒税法の予知夢を見たよね? その予知夢って、どんな感じだった?」

 朝9時過ぎ、四葉が部屋に入ってきた。寝不足だった三葉の目が開く。

「ぅ……はい? おはようございます、四葉」

「あ、お姉様の日か。ま、いいや、唾液を口の中に貯めて」

「……………」

 四葉が何を求めているか、いい加減わかるようになってきたので困る。

「せめて、顔を洗ってからでもよろしいでしょうか」

「濃い方がいいから、そのままで」

「………」

 仕方なく応じた。そして、問う。

「四葉、このような行為に、どういった意味があるのですか? 単なる家族の親愛ではありませんよね」

「う~ん……全部説明していいかなぁ……とりあえず、予知夢の話だけ。お姉ちゃんはさ、前に予知夢を見たことがあるはずなんだよ。酒税法について」

「酒税法?」

「前にね、私が口噛み酒を商品化したら面白いかもね、って言ったら真っ赤な顔して酒税法違反っ! って即答したんだよ。普通の女子高生なお姉ちゃんが酒税法なんて言葉を知ってるはずがないのに。これは、たぶん、予知夢を見たんだろうなって」

「……予知夢ですか……」

「で、今確かめてわかったよ。予知夢というより可能性の世界、もしも、口噛み酒を商品化すると、たしかに売れるんだけど、そのうち姉妹そろって酒税法違反で逮捕されるの。だから、やめておいた方が無難。お姉ちゃんには、漠然とその記憶が残ってたの」

「………今の行為で、それがわかったのですか?」

「うん。朝ご飯、そろそろ食べなよ。もうサヤチンさんたち来るよ」

 促されて冷めた朝食を摂り、台所を片付けていると、早耶香と克彦が夏休みの宿題をもって現れた。ほんの30分ほど宿題を三人でしていると、四葉は川遊びに出て行き、一葉も老人会の定例会議に出かけていったので家の中に三人だけになると、早耶香は甘えるように克彦の肩に頭をもたげた。

「今日は私が先がいいなぁ」

 昨日も三人で三葉の部屋で抱き合っていた。この町にはバイト先もなく三人とも帰宅部で夏休みになると、することがない。川遊びかゲームか、おしゃべりか、けれど三人とも若い熱情を健全な青少年として持ち合わせている。そして、すでに一線を越えている高校生らしく何度も何度も、したくなる。他の糸守高校の生徒たちも相手さえいれば、似たような過ごし方をしているので、夏休みに入るとコンビニでは避妊具の仕入れが増える。部活もバイトもない高校生らしく克彦と早耶香がキスを始めると、そっと立ち上がって部屋を出ることにした。そうなると、早耶香は初めて二人きりで克彦と抱き合えることに喜びを感じて盛り上がっていく。お昼まで三葉の部屋で楽しみ、昼食の時間になって一旦それぞれの自宅へ帰り、また午後から集まった。早耶香が問う。

「午後から、三葉ちゃんとテッシー、二人きりでエッチする? たまには三人よりさ」

「「………」」

 克彦に見られると、身体が熱くなるのを感じたけれど、首を横に振った。

「いえ……今日は、そういった行為は……やめておきます」

「生理はじまったの?」

「………いえ……そういう気分なんです」

 たしかに身体は求めているし、三葉から禁止はされていないけれど、アンネローゼとはしないでほしいと伝えるのに自分だけ欲求に身を任せるのは気が引けて遠慮した。克彦が残念そうに宿題のテキストを拡げた。

「たまには、ちゃんと勉強しておこうぜ」

「そうだね」

「そうですね」

 まじめに宿題を三人で進め、夕食前になって克彦と早耶香は帰り、一葉を手伝って夕食を準備し、やっと川から帰ってきた四葉と三人で食べた。

「お姉様、いっしょにお風呂に入ろう」

「………。いえ、そういった許可も、まだ、いただいていませんし」

「律儀だねぇ」

 四葉は一人で入浴すると、すぐに眠った。

 そして夢を見た。

 秋祭りの日だった。

 新米が獲れたことを祝う新嘗祭の意味合いもあるので、年中で重要な神事でもあるし町民も多くが集まっている。

 いつも通り、四葉は巫女服を着て準備を整えているけれど、三葉は自室に引き籠もって布団に潜り込んでいる。

「お姉ちゃん、そろそろ本番だよ」

「……やだ……おもらし巫女って言われるもん」

「はぁぁぁ……もう何ヶ月も前の話なのに、いつまで気にしてるの?」

「いつまでも言われるんだもん!」

「……わかったよ、陰祭りでいいからさ。巫女服に着替えて、この部屋で一人で雅楽に合わせて舞いをして口噛み酒を造っておいて。誰にも見られない陰祭り形式なら、できるよね?」

「うん………それなら…」

 渋々、巫女服に着替え始めた三葉が部屋の窓から空を見上げて言った。

「あ、ティアマト彗星……分裂してる」

「………」

 四葉も見上げると1200年に一度の彗星が割れていた。

 三葉が感動して言う。

「うわぁぁ、キレイ………。……けど、こっちに……レールキャノンみたいに……っ! 直撃コース! 四葉! 伏せて!」

 姉に抱かれるのと同時に視界が真っ暗になり、そして気がつくと、姉が死んでいた。

「…お……ね……」

 自分も声が出にくい。手足が動かせないし、そもそも手足があるのか無いのかさえ、わからない。血が流れ、その血が落下してきた隕石から染み出している何らかの液体と混じっている。

「……ああ……」

 ものすごく痛くて苦しいのに、妙に幸せな心地だった。

 四葉は夢から醒めた。

「っ……やっぱり夢か……この未来は避けないと。……あ、やっちゃった」

 ぐっしょりと布団が濡れている。生温かくパジャマと下着も濡れているし、それは血ではなかった。四葉は敷き布団を椅子にかけて干すと、パジャマと下着は脱いで洗濯機に入れ、お尻と前をシャワーで流してから新しい下着とパジャマを着て、掛け布団を敷いて夏なのでバスタオルをお腹にかけただけで寝直すために目を閉じた。

 

 

 

 三葉は捕虜交換のためにイゼルローンを訪れていた。アンネローゼとは光年単位で遠く離れていて今日中に会えそうにはない。そんな残念な気持ちで交換文書に署名していたので、うっかりジークフリード・キルヒアイスと書くところを宮水と書いてしまい、二重線で消すのも問題あるかと思い、宮水・ジークフリード・キルヒアイスになった。

「……」

 ヤンが古美術品に描いてあるような漢字を見て不思議そうにしているけれど他人の氏名に余計なことを言うのは非礼にあたるかもしれないので自重している。そもそも文書も形式的なものなので、あろうがなかろうが、ここまで来ては捕虜交換をお互いのために整然と実行するしかない。ヤンは間違わずに自分の氏名を書いて、三葉と握手するために向かい合った。

「……」

「……」

 二人が握手する。三葉は少し握力を強めにしながら言う。

「私の友達は、あなたに殺されました」

「……それは……申し訳ない」

 とっさにヤンは謝ったけれど、ここで謝るヤンも軍人として異常だったし、捕虜交換の式典上で恨み言をいう三葉は、ただの子供だった。さらにヤン艦隊では、先の戦いでの二度の追撃戦を受けた経験からキルヒアイスのことを、追撃の赤鬼、と呼んでいたりする。ダスティ・アッテンボローが腹に据えかねて口を開いた。

「そんなこと言ったら、こっちだってなぁ…」

「アッテンボロー」

「……」

 ヤンに制止されて仕方なく黙る。三葉は続けた。

「同盟って民主主義なんですよね?」

「ええ……まあ、一応はね…」

「戦争を続けたい人、何割くらいいるんですか?」

「………どうだろう……。私は、やめてほしいと思っているけれど、なかなか…」

「………」

 三葉が握力を抜いた。

「お互い、やめられるといいですね」

「同感です」

 三葉とヤンは握手を解くと、敬礼して三葉が立ち去るために背中を向けた。そして、ユリアン・ミンツと目が合ったけれど、声をかける気にはならず、そばいた女性士官に声をかけたくなったけれど、それは自制してイゼルローンの内装を懐かしそうに見上げた。

「ここに来るのは久しぶり……少し、滞在してもいいですか? 歓楽街とか見てみたいから」

「………」

 ヤンがワルター・フォン・シェーンコップの顔を見る。

「ははは、歓楽街ですか。ブラスターを預けていただき、身体検査を受けていただけるなら小官がお供しましょう」

「はい、お願いします」

 三葉がブラスターを預けるのでベルゲングリューンが異議を申し出る。

「閣下、危険です」

「それを言ったらトール・ハンマーの射程内に入った時点で危険だから」

「それは、そうですが…」

「さすがに、軍服だと目立つかな」

 三葉はシェーンコップに見張りと護衛を兼ねた随伴を受けてイゼルローンの商店街で平服を買おうとする。

「あ…通貨が……。これって銀行で交換できますか?」

 帝国マルク紙幣を見せられてシェーンコップは肩をすくめ、財布を出して両替してくれる。

「フェザーンまで行かんと交換できませんからな。手数料30%でよろしいかな」

「はい。それで」

 平服を手に入れた三葉は目立つ赤毛を同盟の文化に合わせるようハードジェルで固めて髪型を変えた。

「どう? まだ、追撃の赤鬼に見える?」

「一見してわからんでしょうな。変装して何か目的が?」

「うん、ナンパ。一晩だけなら後腐れ無いし」

「なるほど」

 とても嬉しそうにシェーンコップは微笑んだ。二人でナンパ目的で歓楽街を散歩するけれど、すぐに大混雑してタメ息をついた。捕虜交換のおかげで、やっと解放された同盟軍兵士たちも一時金をもらって歓楽街へ入ってきている。長い捕虜生活から解放された喜びは大きく、歓楽街は立錐の余地がないほどになった。

「酒だぁ!」

「自由だ!」

 表通りで叫んでいる兵士たちの影でアーサー・リンチも、ちびちびと美味そうに同盟産のウイスキーを飲んでいる。

「ここでナンパは無理かな」

「たしかに」

 二人で公園へ移動した。そして、同じ目的と事情で公園に来ていたオリビエ・ポプランと鉢合わせした。捕虜交換のおかげで男女比が、もともと女性が少ないところ、さらに激減しているので、自然と声をかける女性が重なってくる。

「お前、見ない顔だな。あ、お前……」

 すぐにポプランは気づいた。そして酔っていたので、いきなり殴りかかってきた。

「コールドウェルの仇!」

 三葉による嫌がらせのような追撃で仲間を喪っていたポプランの拳は酔っているので、あっさりと三葉に回避され、殴り返される。

「うぐっ…野郎…」

 さらに三葉は反射的に身体が動いて蹴りつける。無意識下でナンパが思ったように進まない苛立ちもあり、蹴り倒したポプランへ追加攻撃しようとしてシェーンコップに止められる。

「先制攻撃したコイツが悪いが、そのへんで…」

 強く手首を捻って止めようとしたけれど、三葉が巧みに振り払って構えると、やはり弁舌より身体が動く陸戦要員なので右手が反射的に動いて、三葉を制圧しようと投げ技に入る。

「「っ!」」

 三葉が投げ技も的確に振り払って、逆に膝蹴りを入れようとすると、シェーンコップは肘で受け止めてから、三葉の軸足を払った。

「くっ」

 三葉は空中で回転して体勢を立て直すと同時に低い姿勢からローキックを放った。それも回避されると熱くなる。ついついお互い、立場も忘れて格闘していると、さすがに憲兵が駆けつけてきた。それでシェーンコップの方が矛をおさめて問う。

「お前さん、ヴァンフリート4-2にいたことはあるか」

「え………どうかな……いたかも、いないかも…」

「オレと互角にやり合えるヤツなぞ、そうはいない。体格も似ている」

「………そう言われても……」

 キルヒアイスの戦歴をすべて知っているわけではないし、そもそも入れ替わり前のことは、たいして知らないので三葉が返答に困っているうちに憲兵が集まり、すぐに身分がバレてヤンの前にシェーンコップと連れて行かれた。

「……はぁぁぁ……」

 ヤンが深いタメ息をつく。

「まさか、護衛対象と格闘するとはね」

「つい熱くなりまして」

「ごめんなさい。でも、最初に殴りかかってきたのは、別の人ですよ」

 三葉が謝りつつ言い訳すると、ヤンは頭を掻いてベレー帽を取った。

「こちらの不手際でした。ただ、キルヒアイス提督の滞在許可は取り消させていただきます」

「……はい」

 仕方なく艦に戻った三葉はラインハルトの演説を見上げた。

「…兵士諸君! 諸君らには恥じるべきなにものもない! 恥じるべきは愚劣な指揮によって降伏やむなき状況に諸君等を追いやった旧軍指導者に…」

「ラインハルトさん、やる気まんまんだなぁ」

 演説を聞き流して、三葉は艦隊司令としての居室で一人、夕食を摂った。

「……さみしい……」

 ヒルダの笑顔を思い出すと、余計に淋しい。イゼルローンから出港して本土へ向かうと、もう艦隊指揮も重要度がさがるので居室で一人、ベッドに寝転がる。

「あ~……」

 ノルデンもいないし、ヒルダもいない。

「……男でいるの……あと、3時間か…」

 期待していたアンネローゼにも会えなかったし、ナンパも失敗した。

「うう~……エッチしたい。……男の身体って、ムズムズする……しかも、格闘戦とかも好きっぽくて勝手に動き出すし……争いとか、戦争、男の衝動なのかも……。ああ~……エッチしたいなぁ……女の子を抱きたいなぁ……そりゃ公務員も痴漢で捕まるし、学校の先生も女子に手を出してクビになるよ。この性欲の強さ、なんとかならないの?! 女の子でいるときの性欲なんて、ほわっと抱いてもらえたら嬉しいなぁくらいなのに! ああ! イライラするくらいエッチしたい!!」

 三葉は若者としてベッドの広さを持て余している。ゴロゴロと転がって手足をジタバタさせていた。

「う~! 男は狼ってホントだよ! あーっ! もう! 月経は月経で面倒だけど! こうムラムラムズムズするのも問題だよ!! おっぱい触りたいぃぃ! やりたいやりたい! エッチしたぁぁい!」

 空腹を忘れられないように肉欲が鎮火してくれない。

「っていうか、艦内なんて、ほとんど男なのに、みんな、どうしてるんだろう?!」

 三葉は居室を出ると、ベルゲングリューンの部屋をノックした。

「はっ。ヒクッ…失礼」

 ドアを開けたベルゲングリューンは酔っていた。非番な上、戦闘の予定もまずないので飲酒も許可されている。

「お酒もいいかもしれないけど……ちょっと、訊きたいんだけどさ」

「何でしょうか。ヒクッ…失礼」

「軍隊生活で、女の子を抱きたいなぁ、ってムラムラしたとき、みんな、どうしてる?」

「ムラムラですか……まあ、酒以外で、となると…」

 ベルゲングリューンは急にヒルダがラインハルトの副官になってしまった上司を気の毒に思い、秘蔵の成人雑誌を出してきた。規則では持ち込みが禁止されているけれど、そんな規則は憲兵さえ無視しているので建前だけになっている。

「これなど、いかがでしょうか」

「あ~……こういうの見るんだ。見るだけで、おさまる?」

「………。いえ、見て……こう…ご自分の手で」

 ベルゲングリューンは酔った勢いで親切に教えてくれた。わずか二十歳そこそこで上級大将にまで上り詰めた青年に多少欠けたところがあり、常人が15歳くらいで覚える技術をもっていないこともあるだろう、という年長者としての配慮だった。

「なるほど、自分で、するんだ……やってみよ」

 三葉は居室に戻ってベルゲングリューンが貸してくれた成人雑誌で試してみる。やってみると、すぐにできた。

「はぁ……すっきりした」

 すーっと身体が落ち着き、悶々とした気分が静まってくれる。

「これ重要かも。最初に教えてほしかった。ナプキンの使い方なみに重要だよ、これ」

 頷きつつ、また一時間ほどすると持て余してきたので、また対応し12時までに3回ほど繰り返した。

 

 

 

 キルヒアイスは散らかっていたティッシュを捨てると、ベルゲングリューンの所有物だと手紙に書いてあった成人雑誌も明朝に返却することにして机の引き出しに入れた。

「………規則違反ではあるけれど、次からは持ち込む方がいいのかもしれないな……」

 三葉が男性としての生理現象に悶々とするならば必要かもしれないと諦めることにした。少なくとも手当たり次第に女性士官へ声をかけられるより、ずっといいし、何よりアンネローゼのことを大切にしたい。

「……………疲れた」

 肉体的疲労感と精神的疲労感も覚えたので、艦隊の運行状況を確認すると、すぐに眠ることにした。朝になりラインハルトと超光速通信で会話する。

「捕虜交換は無事に終わっております」

「そうか。こちらも門閥貴族どもが、こそこそと動いてはいるが、大きな問題はない。………」

「他に、なにかございましたか?」

「いや……」

 ヒルダのことを相談しようかと思ったけれど、それはキルヒアイスにではなく三葉に問いたいのでラインハルトは話題を変える。

「ノルデンのことだが、お前が具申したよう、生前の戦功をもって大将とし、戦死をもって元帥とすることにした。お前とオーベルシュタインを二階級特進させたこととのバランスもあるしな」

「ありがとうございます」

「……ミツハは、こんなことでは喜ばないかもしれんがな」

「それでも、お気持ちは通じると思います」

「うむ。姉上とも一日に一度は話しておけよ」

「はい」

 そう返事して通信を終えてから、やや不安になり超光速通信の発信履歴を調べたけれど、三葉がアンネローゼへ連絡している履歴はなかった。

「よかった。……疑ってしまい、申し訳ない」

 お互いに手紙へ、すべてのことを書いているわけではないので三葉のアンネローゼへの接し方は不安ではある。けれど、昨日は何の接触もしていないようで安心してアンネローゼへ通信を開いた。

「お元気にされていますか、アンネローゼ様」

「ええ、ジークはどうですか?」

「はい、無事に任務も終え帰還しているところです」

「そう、では帰ってきてくれるのを楽しみにチョコレートケーキを焼いておきますね」

「ありがとうございます。全艦に増速するよう指令を出しておきます」

「あらあら、ご勝手な司令官だこと」

 アンネローゼと微笑み合ってから通信を終えると、やはり全艦に可能かつ安全な範囲で増速させた。自分だけでなく帰還兵たちも故郷へ早く到着したいに違いないゆえ。そして、近いうちに必ず内乱が起こり、のんびりとアンネローゼと過ごしていられなくなることもわかっていた。

 

 

 

 三葉は12時を自室の布団でむかえ、油断していたので盛大に漏らしてしまった。

「うわっ?! うわわぁ……うぅぅ…」

 克彦と抱き合うようになってから、もう無理に我慢せずに済ませていたようなのに今夜は再び丸一日我慢していたようで、もう止めようと思っても止まらないし、ヨガマットも用意されていないし、四葉もいない。

「ああっぁぁ……出ちゃったよぉ……あいつ、また律儀に我慢して……もうテッシーとエッチしたから、別に処女じゃないからいいのに。手紙に書いておこう」

 暗黙の了解でトイレ禁止を解除していたと思ったのに、我慢されたおかげで寝るところが無くなってしまった。

「……また、四葉にお願いしてみよう」

 最近は起きてきてくれない妹に朝になってから頼むつもりで、とりあえず椅子にかけて干す。真夏なので掛け布団を敷いて寝ることにした。

「お風呂、お湯あるかな」

 入浴して身体を温めると、なんだか身体の芯が熱い。尿意だけでなく女性としての性欲も抱かれたいのに、ずっと我慢していたようで男性の性欲ほどでないものの身体が疼く。入浴を終えて部屋に戻ると、長々とした手紙があった。

「ようするに、勝手にアンネローゼさんを抱くな、と。まあ、当然か」

 手紙を読み終え、掛け布団に横になると、やっぱり身体が疼いた。

「…………女の子も自分ですると、どうなるのかな……」

 好奇心もあって自分で試すことにした。

「……んっ……ふーっ…」

 男性の身体ほど急には反応しないけれど、ゆっくりと熱くなってくる。三葉は胸がさみしくなって自分の手で胸を揉み出したとき、四葉が12時を過ぎても夜中までゴソゴソと動いている姉が気になり、戸を開けた。

「っ……」

「………お姉ちゃん……」

 妹に見られてしまった。

「そんなに自分のおっぱい好きか。……あれ? これも……既視感……違う、似たようなことを言った記憶が……。お姉ちゃんは立花た…、この名前、教えない方がいいのかな。う~ん……とりあえず、今のお姉ちゃんは、お姉ちゃん?」

「早く閉めてよ!」

 妹に見られてしまった恥ずかしさで、なかなか寝付けず朝9時過ぎまで起きなかったので二階へあがってきた克彦と早耶香に濡らした敷き布団まで見られてしまった。

「「………」」

「こ、これは四葉が! 四葉が、おねしょしたの!」

 そう言い訳したけれど、四葉の部屋にも敷き布団が椅子へかけられていて濡れていた。夏なので風通しのために戸が開いていて、よくわかる。

「「二人とも………」」

「うううっ……違うよ。レモンジュースを零したの」

「「………そっか」」

 考えてみれば三葉も四葉も早くに母親を亡くし、父親も出て行った、そういう寂しさもあるのかな、と二人は解釈してレモンジュースだと思うことにした。

 

 



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21話

 

 キルヒアイスは朝起きて宮水家のトイレで用を済ませると洗顔するために脱衣所へ行く途中で四葉に会った。

「おはようございます、四葉」

「おはよう、お姉様。すっきりして一日過ごせるって、いいでしょ」

「はい」

 やはり朝から丸一日我慢するのとは、かなり気分が違った。一葉を手伝い、三人で朝食を摂ると、克彦と早耶香が訪ねてきて二階へあがり、四葉は小学校の自由水泳へ出かける。スクール水着になり、プールで泳ぐと、また予感がした。

「いける、飛べる、かなり飛べる」

 二度目なので落ち着いて身構えると、目を閉じた。

 

 

 

 ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは法務将校として民間企業へ発注した啓発キャンペーンの説明を受けていたのに、居眠りでもしているように一瞬ふらりと頭を揺らした。

「っ……」

 かなり飛べた、四葉は視界に入ってきた三次元モニターを見て確信した。モニターに映る男優が啓発キャンペーンの内容を告知している。

「酒、賭博、麻薬、同性愛、この四悪を宇宙軍から追放しましょう! やめよう賭博! なくそう麻薬! 同性愛は許さない! お酒は控え目に! リゲル航路警備部隊は綱紀粛正に乗り出します! 安全な航路は正しい心から! 飲む、打つ、掘るを無くそう!」

「どうでしょう、ルドルフ少尉。カストロプ次長が予算内におさまるようプロダクションへかけあって3割引で仕上げております」

「男優へもノルデン課長が掛け合い、リゲル星系以外の全銀河へ配信する肖像権の許可を取っておりますぞ」

 まくし立てるように話してくる二人のサラリーマンと思われる男たちに四葉は告げる。

「急に話を変えて悪いけど、今は何年だった?」

「え、あ、はい。宇宙暦288年ですよ、少尉殿」

「宇宙暦……西暦でいうと、何年になる?」

「え、えっと…」

 ノルデン課長が電卓を叩く。

「3088年でございます、ルドルフ少尉」

「よし」

 ルドルフの唇が満足げに微笑み、なんだかわからないけれど、ノルデン課長とカストロプ次長も微笑み返した。それから四葉は2013年以降の人類の歴史を二人へ問い、なぜ、そんなことを訊かれるのだろう、試されているのかな、と思いつつも公共事業を受注したいので二人とも知る限り頑張って答えた。

 

 

 

 ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは糸守小学校のプール内に立っている状態が目に入ってきて、四葉の眉をひそめた。だらりと垂れていた両腕を胸の前で組む。

「………」

「きゃはっは! 冷たいって!」

「えい! ほら! くらえ!」

 周囲では児童が楽しく水遊びしている。

「夢か……いや……しかし…」

 夢とは思えない現実感があるし、こんな夢を見る自分ではないという自負がある。自らを恃むこと厚く、自らの正義を信じて疑わないルドルフにとって、夢とも現実とも思えないけれど、落ち着いて周囲を観察する。

「四葉ちゃーん? どうしたの?」

「………。お嬢ちゃん、ここは、どこかな?」

 ルドルフは怖がらせないよう優しく女児に訊いてみた。訊きながら、たしか身長195センチあり、体重も99キロだったはずなのに、なぜか女児と目線が同じであることに気づき、自分の身体を見下ろした。

「っ………オレの……」

 二十歳だったはずの自分が、なぜか10歳くらいの女児の身体をしてスクール水着を着ている。

「どこってプールだよ? 何のなぞなぞ?」

「いや、そうではなく、この星の名を教えてくれないかな、お嬢ちゃん」

 問いながら空を見上げるけれど、見覚えがない惑星のようで昼間なので星もなく銀河系内の位置がつかめない。

「星の名? う~ん……なぞなぞかぁ……」

「あの恒星の名でもいい」

 四葉の指が太陽を指した。指しながら、その手の華奢さに強い違和感を覚えている。

「あれは太陽だよ」

「うむ、太陽ではあるね。どういう名前の太陽か、わかるかな、お嬢ちゃん」

「お日様?」

「…………」

「時間ですよーっ! みんな揚がってくださーーい!!」

 教師のように見える女性が告知している。秩序を重んじるルドルフは言われるとおりにプールサイドへ揚がった。

「みんな目を洗って着替えてくださーい!」

「「「「「はーい!」」」」」

「…………。そこの君」

 ルドルフは女児では埒があかないので女性教師に声をかけてみる。

「ん? 先生のこと?」

「ああ。この星の名を教えてくれないか」

「この星? どの星?」

「この惑星だ」

「ここ?」

 教師が地面を指したので頷く。

「ああ、この惑星の名を知りたい」

「……地球ですよ」

「地球だと?! あの地球だというのか?!」

「はいはい、早く目を洗って着替えてくださいね」

 教師に背中を押されると、軽い体重の四葉の身体はいとも簡単に列へと押しやられた。

「………」

 仕方がないし、とりあえず消毒剤で目が痛いので素直に目を洗った。

「四葉ちゃん、早く着替えて神社の小川で遊ぼうよ」

「………」

 見知らぬ女児に手を引かれ、拒否しても仕方ないので女子更衣室になっている教室まで歩いた。教室内では小学4年生の女児たちがスクール水着を脱ぎ、平服に着替えている。

「…………」

 明らかに自分も着替える流れで、四葉の衣服だけ誰も手を着けていないので、それが自分の物なのかもしれないと推測もできたけれど、とても抵抗がある。

「……………」

「四葉ちゃん、着替えないの?」

「………」

 仕方がない脱ごう、とルドルフは女児水着を脱ぎ始めたところでスーッと女児たちの着替えている光景が遠くなっていった。

 

 

 

 ルドルフは自席で肩でも凝ったように肩へ手をやり、スクール水着を脱ぐために肩紐を掴もうとしたけれど、軍服の上を空振りしただけだった。ノルデン課長が素早く背後へ回って肩をもんでくる。

「お疲れでしょう、ルドルフ少尉」

「……うむ…」

 やはり夢だったのか、それにしては現実感がありすぎたが、とルドルフが目頭を指先で押さえるとカストロプ次長が目薬を出してくれる。

「どうぞ」

「……ああ、ありがとう。カストロプ次長」

 素直に目薬を貸してもらい、目の錯覚だったのか、居眠りだったのか、とにかく落ち着いて二人が用意してきた啓発キャンペーンの映像を確認する。もう確認したはずなのに見直している少尉へ二人は何も言わず待った。そして、ルドルフが考えつく。

「同性愛以外にも小児性愛を加えられないか?」

「っ、ロ、ロリコンもですかっ? ……」

 なぜか、カストロプ次長が緊張しつつ反問すると、ルドルフは眉をひそめた。

「俗っぽい言い方をするな」

「は…はい。…ペドフィリアもお加えになるのは……」

 次長が困っているので課長が助け船を出す。

「そうなると撮り直しになりますし、キャッチフレーズも全体を考え直さねばなりません。実はこの男優、大変に人気が出てきておりまして発注したときは一介の若手俳優にすぎなかったのですが、今や宇宙に覇を唱えんばかりの勢いの売れっ子でして、再発注となりますと明らかに予算を超えます」

「…………」

 ルドルフは3次元モニターに映るアイスブルーの瞳に豪華な金髪をした顔立ちの美しい男優を値踏みするように見つめる。

「なにしろ、全宇宙抱かれたい男ランキング1位と、銀河ええ男伝説のダブル受賞をしておりますし。また、ここ最近は体調を崩して病気がちのようで、ややスケジュールにも不安定さがあるそうですから。ただ、その分、完成している映像は貴重となりますので、きっとキャンペーンの知名度も鰻登りとなるでしょう」

 さらに、次長が言い訳を思いついた。

「艦隊勤務中には同性愛の機会は多くとも、幼女を連れ込むことはありませんし」

「……たしかに、そうだな…」

 明らかに病人でない艦長が専用看護婦2名を連れていくことはあっても、さすがに幼女は同伴できない。たいていの看護婦が資格を取ったばかりの若い娘ばかりで、ろくな医療現場の経験もなく従軍しているのは、だいたい理由がわかっているけれど、その粛清は自分の権限が増してからの課題とし、小児性愛も今思いついただけだったので予算を考え諦めることにした。

「いいだろう。これで契約する」

「「ははっ! ありがとうございます!」」

 二人が揉み手をしつつ頭を下げた。

「ご契約のお礼もかねて、これから一席どうでしょうか。ノルデン課長、予約してあるね?」

「はい、それはもう! 可愛い子いっぱいおりますよ」

「………」

 ルドルフが不快そうに眉をひそめたので課長は慌てて路線を変更する。

「がっつりステーキなど、どうでしょうか? 良い店を知っておりますよ」

「……ステーキか……」

 身長195センチ、体重99キロを養う胃袋が、すでに食事を待ちかねている。その巨体にはひとかけらの贅肉も一片の脆弱さもないだけに、筋肉量が多くて基礎代謝が高い、その分だけタンパク質は摂りたい。しかも士官食堂へ行けば無料ではあるものの、宇宙軍の腐敗は末端にまで達しており、食材費を横流しされていることもあって、ろくなものが食べられない。粗悪な人造タンパクばかりでは、この巨体は支えられなかった。ルドルフは立ち上がった。

「行こうか」

「「ははっ!」」

「むろん、ワリカンでよい」

「「………」」

 契約直後なので当然に接待もかねて会社の経費で行くつもりだったけれど、この若い少尉は堅物のようで二人は合わせることにした。

「さすが、少尉殿!」

「ルドルフ少尉のような方が出世されれば、宇宙軍の未来も明るいですな!」

 三人でステーキ店で、がっつり食事して黒ビールを飲んだ後、さらに課長が居酒屋へ誘うと、ルドルフは少し迷ったけれど、今日は飲みたい気分だった、どうにも変な体験をして、自らを恃むこと厚いはずの自分が女児になっていた記憶は不可解でアルコールとともに洗い流したい。むしろ、自らを恃むこと厚いだけに、その自らが不確かに感じられるショックは小さくないし、自らを恃むこと薄くなった気がして、取り戻したくもある。おかげで次長課長に勧められるまま、ついつい飲み過ぎた。まだ、20歳なので今ひとつ自分の酒量がわかっていないこともあり、ろれつが怪しくなってきている。

「んーっ…ヒクッ…このビールは、どこのものだ?」

「これはサントリーでございます、少尉殿」

「フン、ビールはな、ドイツ系に限る!」

「さすがはルドルフ少尉! お目が高い! 黒ビールをもう一杯! ピッチャーで!」

「ドイツはいいぞ。とくに中世ドイツが一番美しい。人類の文化のあるべき姿だ! ヒクッ…こんな退廃した、くだらん風俗など、オレに力があれば、一掃してくれる!」

 酔ってくると自分を語りたくなるのは人類に共通した特質だった。契約時に、やたらと歴史について質問してきた少尉が、また中世などと言い出したけれど、もちろん次長課長は話を合わせる。

「中世いいですな!」

「ドイツ最高っすよ!」

「うむ。そもそもだ。遺伝子が、すべて決めるのだ」

 もう酔いが回っているので話が飛びやすい。

「優良な者と劣悪な者、これを、しっかり峻別しなければ、ならん!」

「なるほど、その通り!」

「ルドルフ少尉のおっしゃる通りですな!」

「おお、わかるか。お前たちは優秀だな」

「「ははっ、ありがとうございます」」

「ふむ、オレが考えるに、優秀な者には、それにふさわしい地位を与えるべきだ。中世においては気高き者は公侯伯子男の爵位によって峻別され、大衆と区別されておったものだ」

「爵位ですか…なるほど」

「さすが、おっしゃることが高尚ですな」

「お前たちもオレの役に立て、いずれは公爵、子爵にしてやろう。ヒクッ…」

 次長課長を公爵子爵にしようと言ったルドルフは酒量の限界を迎えたようで眠りつつある。その巨体に爆睡されると困るので、二人はタクシーを呼んで士官宿舎までルドルフを送ってから飲み直すことにした。

「あの少尉が接待を断ってくれたおかげで、かなり経費が浮いたな。ノルデン課長」

「まったくですな。はははは! むしろ、飲み直しておかないと領収書がもらえないくらい浮きましたな!」

「ああいう堅物は御しやすくていい」

「どうせ会社は接待費をつけてくれますからな、浮いた分は私たちで楽しめると」

「フフフ、そちも悪よのう」

「いえいえ、公爵様にはおよびませんよ」

「公爵かぁ……、タクシーの中で騎士も設定するとか言ってたな」

「ええ、啓発キャンペーンが成功したら、あの俳優へも叙勲してやるとか」

「騎士の第一号か」

「アホなことを考えてますな。まあ、まだ20歳、夢見がちな年頃なのかもしれません。歴史は好きなようですが、どういう頭をしているのでしょうな」

「いや、オレも中学生の頃は、ちょっと歴史にハマったことがあるよ」

「カストロプ次長も?」

「オレは中世ドイツより、古代ギリシャが好きだったなぁ」

 次長が遠い目をして退廃した歓楽街をタクシーの車窓から眺めている。

「こんな雑多な文化より、古代ギリシャの方が、ずっとよかったと若い頃は思ったものだ。自分でコスプレ衣装を作ったりさ。まあ、そんなの高校生にもなったら卒業したけどな」

「いわゆる中2病というヤツですな」

「そうそう。ま、そんなのを20歳まで引きずるのは、恥ずかしいヤツだけだ。あいつ、たしか士官学校首席だったよな。勉強と筋トレばっかで、常識を学ぶ機会が無かったんだろう。何にせよ、うまく利用して美味い汁を吸わせてもらおう。今夜も女の子のいる店でな。フフフ」

「え~……カストロプ次長が言う女の子って、たいてい10歳でしょ」

「ロリコンは滅びん! 何度でも蘇るさ! ロリコンこそ人類の夢だからだ!」

「スカトロじゃないだけマシですけど、ボクはどっちかというと、もっと熟れた方が好きなんですよ」

「お、ノルデン課長は熟女系か。じゃあ、親子丼の店にいくか?」

「いいっすね。親子丼!」

「初物が入ってると最高だよ、ノルデン子爵殿」

「そこ行きましょう! カストロプ公!」

 大いなる野望を胸と股間に抱き、タクシーを降りた二人は肩を組み、退廃した銀河連邦末期の歓楽街へと消えた。

 

 

 

 四葉は自分だけ着替えが遅れて、まだスクール水着を着たままなことに感心した。

「さすがは初代皇帝、なかなかに紳士的な人物」

 実姉から色々と聞いているので、だんだん歴史の流れがつかめてきている。

「次こそキルヒアイスの時代へ」

「四葉ちゃん? さっきから、変だよ?」

「ごめん、ごめん。何でもない。私、なにか変なこと言ったり、したりした?」

「あ、この星の名は? ってナゾナゾ出してたよ」

「まあ、それ基本かな」

「で、答えは?」

「もちろん、地球」

「つまんない答え」

「ごめん、ごめん」

 謝りつつ、四葉はスクール水着を脱いで裸になった。

 

 

 

 三葉は旗艦バルバロッサの艦橋で、まじめに指揮を執っていた。内乱中の帝国内で辺境星域を平定するよう命じられているキルヒアイス艦隊は大小60回を超える戦闘を経ていて、そのうち10回ほどは三葉の指揮で戦ったけれど、今までに教えられたことを、まじめに実践したので問題なくリッテンハイム侯を討ち滅ぼしている。わずか800隻の高速艦を連れてリッテンハイム軍の真ん中にいる状況で入れ替わりが起こったときには、さすがに寒気がしたけれど、手紙にあった通りに対応して事なきを得ているし、それまでの戦闘での経験もあり、またキルヒアイスから戦闘指揮において信頼されているという気もして、それに応えなければとも思っている。

「辺境制圧も、もう終わりかな………私、頑張ったなぁ……」

 もうノルデンさんを亡くしたときのような後悔はしたくないし、そんなに親しくないけどメックリンガーさんにも、ベルゲングリューンさんたちにも死んで欲しくないし、ビッテンフェルトさんあたり前回の失敗を無理に取り戻そうとして死んでないといいけど、と心配しているので、まじめに指揮している。

「別にラインハルトのためじゃないし……」

 ラインハルトの野望は、どうでもいいものの、門閥貴族を討ち滅ぼさないとアンネローゼとの安らぎがないことはわかっている上、見知っている人には死んで欲しくないという、ごくわかりやすい動機だった。

「私の夏休みは内乱平定で過ぎていくのかぁ……これならテッシーとエッチしてる方がよかったよ……アンネローゼさんとの仲は、ぜんぜん進展しないし」

 超光速通信で二人が、どんな会話をしているかは次に出会うことがあったときのために三葉も録画映像を見て知っている。

「お元気ですか、こちらも元気です、って、それ老人の会話だし! よし! ちょっと決めてきてやる!」

 三葉は閃いて、ちょうど艦隊指揮も交代する時間だったので通信室へ行くと、アンネローゼとの会話を始めた。キルヒアイスらしく恭しい態度から入る。

「お元気ですか、アンネローゼ様」

「はい、おかげさまで。ジークは、どうしていますか?」

「私も元気にしていますよ。もう辺境制圧も終わり、明日にはラインハルト様と再会できるでしょう」

「それは良かったわ。二人とも無事で、ほっとしていますよ」

「ご心配をおかけしました」

 まだるっこしい会話だなぁ、もお、と三葉はキルヒアイスを真似た会話のテンポに苛立ちつつも、恭しさを崩さず、それでいて本題に入る。

「今日はアンネローゼ様にお願いがあります」

「私にですか。私にできることなら、なんなりと言ってくださいな」

「では、一つだけ。これからはアンネローゼ様のことを、アンネローゼと単にお名前だけをお呼びしてもよろしいでしょうか」

「まあ……はい、そう呼んでくださいな、ジーク」

 通信画面に映るアンネローゼの顔も嬉しそうだったので、思わず三葉はガッツポーズした。それをアンネローゼに微笑されてしまう。

「フフ、お願いというのは、それだけかしら、ジーク」

「はい。今夜は、これだけです。いずれまた、お願いするかもしれませんが、今夜は、これだけです。おやすみなさい、アンネローゼ」

 含みを残す言い方をして三葉はアンネローゼとの通信を終えた。そして、ちょうどラインハルトから超光速通信が入ってきた。

「キルヒアイスか?」

「ううん」

「そうか、ミツハなのだな。どうだ、そちらは無事か?」

「ばっちり、やってますよ。明日には合流します」

「よくやってくれているようだな」

「ラインハルトのためじゃないけどね」

「フフ、まあいい。ちょうど、ミツハに相談があったのだ」

「私に?」

「ああ。……その、フロイラインマリーンドルフのことなのだが……」

 戦場において決断に迷いのないアイスブルーの瞳が、迷いたっぷりに訊いてくる。

「私は彼女と結婚したいと思っている。だが、むろん上下関係をかさにきて、強要する気は、まったくない。だが、一夜の……その……」

「セックス?」

「………、一夜の関係に対する責任としても、だ。結婚すべきだと、思っているのだ」

「重っ……まあ、そういうのがラインハルトさんのいいところなのかもしれないし、悪いところでもあるよね。ただ、いろいろと手順を無視して攻略しようとしても女の子はホーランド艦隊みたいには落ちないよ。むしろ対要塞戦だと思った方がいい」

 あえてラインハルトにわかりやすい喩えにして三葉は語る。

「要塞戦か……」

「まず、まだ相手の呼び方がフロイラインマリーンドルフの段階なのに、求婚とか。イゼルローンにむかって降伏勧告してるようなものだからね」

「そうなのか……だが、一夜…」

「うん、それは私が振った後、お互い勢いでやっちゃったんでしょ。たぶん、ヒルダは私というか、キルヒアイスのこと、まだ好きだよ。けど、優しくしてくれるラインハルトさんも悪くないと思ってる。なのに、いきなり結婚とか言われても、ちょっと待ってよ、ってなるんだよ。ここからはさ、じっくり攻めよう。じっくり。今は、いっしょ?」

「いや、彼女はオーディンでマリーンドルフ伯とともに、こちら側についた貴族のまとめ役をしてもらっている。……ワープは女性の妊娠に悪影響があるということもあるし」

「っ…もう、妊娠させたの? 一発で?!」

「違う! もしかしたらだ! もしかしたら!」

「……つまり避妊もしてあげなかったんだ。だいたい、どういうエッチしたか想像がつくよ。女の子だって気持ちよくなりたいんだよ。そこらへん、ぜんぜんわかってないでしょ」

「…………こういったことには経験がないのだ」

「そのくせ結婚は焦るし。そういえば、伯爵は結婚のことは、どう言ってるの? また、公文書にしろとか、言われた? それ女心には逆効果だからしない方がいいよ、もはやフリードリヒなみになるから」

「伯は今回については家名と領土の安堵を公文書にしてほしいと。娘のことについては、彼女の気持ち次第だと」

「いいお父さんで良かった」

「………オレは、どうすれば、いいと思う? ミツハの意見を聞かせてくれ」

「うん、わかったよ。考えておく。私の責任でもあるから、二人にはうまくいってほしいからね。とりあえず、ちょこちょこヒルダに連絡して、まずは呼び方をフロイラインマリーンドルフからヒルダに変えるところから始めよ」

 三葉は攻略の初歩を手ほどきすると通信を終え、そろそろキルヒアイスが用意してくれている成人雑誌を一部はベルゲングリューンと交換しながら拝読して、ワインでも飲みつつ、男としての欲望を一人で発散しようかと思って、居室でベッドへ寝転がったのに、重要そうな連絡が入ってきた。

「ヴェスターラントに核攻撃? わかりました。艦橋へ行きます」

 仕方なく乱していた軍服を整え艦橋へあがって、まじめに映像を見た。成層圏あたりから撮影された映像だった。さらに麾下にあるワーレン艦隊がとらえたシャトルに乗っていた兵士から、ラインハルトたちが核攻撃を政治的な宣伝のために故意に見逃したと聞いて考え込む。

「……きっとオーベルシュタインだよ、その発想は…」

 焦土作戦を発案し、さらに三葉がクーデターを画策したら、それを徹底的な焦土作戦に変えて内憂外患を一挙に解決しようとした義眼の男が裏にいると、もう見抜けるくらいにラインハルト陣営の人間関係は把握している。

「どうなされますか、閣下」

「どうもこうも、明日の私が考えるよ」

 成層圏から撮影された映像は火球に街や村が飲み込まれるというだけで、毎年8月にテレビなどで見てきた広島長崎の再現映像などとは比較にならないほど、惨状がわかりにくいものだったので、あまり三葉は200万人が亡くなったということに強く感情を動かされなかった。ちょうどイラクやイスラエルで虐殺が起きても普通の女子高生が気にしないように、誰一人知り合いのいない、行ったこともないヴェスターラントが壊滅したと聞いても、かわいそうに、と思うだけだったし、むしろ、アンネローゼの呼び方を変えたことをキルヒアイスに伝え、もう様付けは絶対しないよう釘を刺しておくことにこそ意識がいった。

 

 

 

 キルヒアイスは三葉からの手紙を見て、かなり不安になったものの超光速通信の録画映像を見て思ったより無難な会話だったので安心した。それから安心が戸惑いと嬉しさに変わる。

「……アンネローゼ様から……アンネローゼ……。アンネローゼ」

 口にしてみると、胸が嬉しさと気恥ずかしさで熱くなってしまい、三葉と同じようにガッツポーズしてしまった。けれど、三葉からの手紙では一切触れられていなかったヴェスターラントの情報を艦橋記録とベルゲングリューンからの再報告で知ると、浮かれていた気持ちは沈み、ラインハルトに詰問のように問うていた。

「ラインハルト様、お話があります」

「なんだ?」

「ヴェスターラントで200万人の住民が虐殺された件です」

「それがどうした?」

「ラインハルト様が、その計画を知りながら、政略的な理由で黙認した、と申す者がおります」

「………」

「事実ですか」

「……そうだ」

 キルヒアイスとアンネローゼに嘘はつきたくない、その気持ちが言いたくない気持ちを上回ったのでラインハルトは答えた。

「………」

「………」

 数秒か、あるいは、もっと長かったのか、重い沈黙があってラインハルトは話題を変えたくてワイングラスを親友へ勧めようとして、その男が涙を零したのでドキリとした。

「……キルヒアイス…」

「ご存じないでしょうし、わからないと思います」

 涙は止まるどころか、話ながら、はらりはらりと頬を落ちていく。

「地上で何が起こったか……あんな成層圏からの映像では……」

「………」

「一瞬で死ねたものは、むしろ幸せだったでしょう。運悪く衝撃波と熱線を物陰や地下で、やり過ごせた者は、今頃になって血を吐いて死んでいるでしょう。母親に抱かれていた赤ん坊は、死んだ母親のそばで何時間も……くっ…言葉で言ってわかるものではないのです」

「……お前には、わかるとでも言うのか…」

「わからなくても、少しは知っております! 熱核兵器が生身の人間におよぼす惨劇を! 地獄を! あれは、やってはならないことです! やらせてはならないことです! しかも、戦地に立つ兵士ではなく! 子供や女性がいる…くっ…熱線に皮膚を焼かれて…うぐっ…ぐっ…」

 そこまで言って嗚咽しそうになってキルヒアイスが歯を食いしばると、ラインハルトは罪悪感と苛立ちを覚え、そして苛立ちを優先させた。

「お説教はたくさんだ! 第一、キルヒアイス、この件に関して、オレがいつお前に意見を求めた?」

「っ…………」

「いつ、お前に意見を求めた、と訊いている」

「………いえ……お求めになっていません」

「お前はオレの何だ?」

 ラインハルトの言わんとする口調と雰囲気から、キルヒアイスは答えを察した。

「私は閣下の部下です。ローエングラム閣下」

「わかっているんだな、それならいい」

「………」

「お前のために部屋が用意してある。命令があるまで、ゆっくり休め」

「はい。………」

「………」

 まだ何か言いたいことがあるのか、とラインハルトは促したくなかった。そして、促されずとも、キルヒアイスは言った。

「この戦いが終わってオーディンへ帰還いたしましたら、退役いたします」

「っ…キルヒアイス?!」

「辞めさせてください」

 友人でなく部下なら辞めることもありえる、そして友人でさえ、そうでなくなることもあった。辞意を示したキルヒアイスにラインハルトは焦りを覚えた。

「いや、待て! そんなことは許さん!」

「………」

「お前には、まだまだ仕事があるのだ! そうだ、今回の武勲は大きい! まずは元帥に昇進だ! それから、三長官職のいずれか、いや、その三つすべてをお前のものとしてもいい!」

「………もう辞めさせてください」

「っ…キルヒアイス! オレたちの野望を忘れたのか?! いっしょに宇宙を手に入れよう! もう目の前だ! 帝国は落ちた! あとは同盟とフェザーン! あと5年! いや、3年で落としてみせる!」

「それで、あと何人、死ぬのですか?」

「っ……」

「勝手を申して、すみません」

 そう謝って一礼するとキルヒアイスは退室した。

「……キルヒアイス……いや、キルヒアイスなら、わかってくれる。ほんの一時の迷いが、ああ言わせているだけだ……」

 子供の頃から、何度もキルヒアイスとケンカしたことがある。たいてい悪いのはラインハルトだったけれど、それでも笑って許してくれた。だから、きっと今回も、そうあって欲しい、そうであるはずだ、とラインハルトは願った。

 

 

 

 三葉は朝まで眠って、朝から克彦と早耶香の三人で勉強を始めたけれど、それは30分で終わり、どこに遊びに行くあてもない田舎の高校生らしく、お互いに抱き合って過ごした。

「お茶、取ってくるよ」

「ありがとう」

「サンキュー」

 一階に誰もいないと思って三葉が降りると、たまたま四葉が帰ってきた。

「………」

「………」

 妹から、とても蔑んだ目で見られた気がする。何も言葉を交わさず、三葉と四葉はすれ違った。お茶をもって三葉は階段をのぼりながら、つぶやく。

「……まあ、そのうち、わかってくれるよ。……思春期に入って、エッチするようになったらさ……」

 自分でも三人でというのは、ちょっと冒険的すぎたかな、と思ってはいるけれど、早耶香とは友達でいたいし、克彦との関係も進めたかった。三人仲良くいっしょに過ごしていたかった。

「……奪い合って戦争になるより、ずっと、いいじゃん、ね」

 自分に言い訳して部屋に戻った。

 

 

 



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22話

 

 

 キルヒアイスは生真面目に糸守高校の夏休みの宿題を進めていた。自由研究に取り組んでいるのを横から早耶香が覗いてくる。

「何の研究にしたん? うわっ……選挙制度の維持と改変についての議会との分離による公正さの維持と、国家の意思決定機関に対する一考察って……やっぱり、町長の娘さんなんやねぇ」

 この提出課題が完成すれば糸守町教育委員会は表彰せざるをえないに違いない、と思いつつ早耶香は少し対抗意識が芽生えて、糸守産イワナによる押し寿司の開発と売り込み方についての一考察を書き始めた。ちらりと克彦の手元を見ると、建設物の設計段階における爆破解体を予定した構造による低コスト化、というタイトルを書いている。

「テッシー、爆破、好きやね。三葉ちゃんも」

「爆破は男のロマンだ」

「爆破………」

 いつも不思議と爆破について克彦と楽しく語り合ったりするのに、三葉の顔が何かを思い出したように曇り、目に涙を浮かべた。

「三葉ちゃん……」

「三葉?」

「……何でもありません…」

 滲んでいた涙を三葉の指先が上品にぬぐい、その仕草や表情の愛らしさに克彦は欲情を刺激されたし、心配でもある。ついつい提出課題への手が止まり、三葉の身体に触れたくなる。

「三葉、どうかしたのか」

「テッシー……」

 触れられて拒否する気はない。三葉からも手紙で、ものすごくイヤでない限り克彦と抱き合うことを拒否したり、関係が悪化するようなことはしないでほしい、と伝えられているので、今は気分ではなかったけれど、キスを繰り返して優しく抱きしめてもらうと、むしろ気持ちが慰められて嬉しかった。

「コンビニでも行ってくるわ」

 早耶香が立ち上がった。そろそろダース単位で買った避妊具が無くなりそうだし、飲み物も買っておきたい。何より、二人が二人の世界に入って抱き合い始めたので、やや混じりにくい。今日の午前中は譲ることにして、玄関で靴を履いていると、巫女服を着た四葉に出会った。

「あ、四葉ちゃん、巫女姿で何かしてたの?」

「夏祭りの追い祭りと、台風への治水治山祈願だよ」

「いろいろ次々にあるんやね。えらいね、四葉ちゃん」

「身分にふさわしい振る舞いをしてるだけ」

 そう言った四葉が早耶香の顔を見つめてくる。まるで見通すような見られ方で、早耶香は後ろめたいことがないわけではないので、少し背筋と腋が汗で濡れた。

「ど、どうかした? 私の顔に、何か着いてる?」

「三人いっしょに仲良く。そんなことが、いつまでも続くと思う?」

「っ…」

 いきなり核心を10歳の子に突かれて早耶香は心臓が跳ね上がった。子供だし気づいてないかな、と甘く見ていたのに四葉の目には軽蔑と迷惑そうな色合いが現れている。

「たとえ100万回やっても1度として、仲良くは終わらない」

「……な、何を言ってるのかな、四葉ちゃん?」

「ひどい場合、お前はお姉ちゃんに殺されるし、お前もお姉ちゃんを殺す」

「っ……変なこと……言わないで…。殺されたのに、殺せるわけが、ないよ……四葉ちゃん、変なテレビでも見たの?」

 早耶香は怖くなって足がすくんだ。四葉が巫女服姿なので言葉に変な重みを感じるし、まるで四葉は見ているように語ってくる。

「ささいなことからケンカが始まる場合もある。そこのティッシュを取って、と言ったのに、自分で取れば、と始まったケンカで15分後には、お前はお姉ちゃんに階段から突き落とされる」

 四葉が床を指した。

「ちょうど、そこに頭から落ちて二カ所、骨折して動けなくなる。そこへ、お姉ちゃんは花瓶を投げ落として、お前の頭は血と肉の塊になる」

「っ……自分のお姉さんの味方をしたいのは、わかるけど、もっと言い方があるよ……」

「お前がお姉ちゃんを殺す場合、家から包丁を持ち出してくる。わざと避妊しなかったことに怒り狂い、お前はお姉ちゃんのお腹を刺す。3回、ここと、ここ、そして、ここ」

 四葉の指が早耶香の腹部に触れてくると、恐ろしくて身震いした。

「お姉ちゃんは呻いて、泣いて、苦しんで。救急車が到着する前に死ぬ」

「ひっ……気持ち悪いこと言わないで!」

「惨劇はさけて。注意深く行動を選んで。でないと地獄は、すぐそこ。三人いっしょ? そんな友愛と快楽の泉は、たとえ泉に見えても、獅子の泉とはならない、澄んでいるように見えた水の、すぐ下は泥沼。底なしの地獄沼、血と臓物で溺れることになる」

「……っ…」

 怖くて立っていた早耶香は腰が抜けてペタンと玄関に座り込んだ。その頬を四葉が優しく撫でる。

「けれど、幸せになれる道もある。そんな糸を手繰り寄せ、掴みなさい」

 そこまで言うと四葉は別の予感を覚えて、巫女服のまま神社へ戻った。そして空を見上げて柏手を打った。

「お姉ちゃんが二度も間違った世界、私が手繰り直さないと! さあ、いくよ!」

 二度目の柏手を打ち、目を閉じた。

 

 

 

 オーベルシュタインはガイエスブルクの高級士官向けタンクベッドで、徹夜の占領事務に取り組んでいた頭脳を休めていたけれど、セットした時刻になったのでタンクベッドごと起き上がった。

「………」

 あれ、飛べたはずなのに、と四葉は不安になった。時間を跳躍し、誰かの身体に入ったという感覚はあるけれど、まるで何も見えない。身体の感覚はある。手を握ると動いている気がするし、ベッドのような物に寝ていた状態からベッドごと起きていて、そこから出てみると床に足が着いた。

「……いったい……どうなって……」

 まわりは真っ暗なのか、何一つ見えない。手探りで歩く。身体は中年男性のようで細身でルドルフに比べると筋肉も少ないけれど、瀧よりは鍛えている様子だった。

「……どうしよう……何も見えない……なにか、失敗した? ……焦りすぎたの…」

 かなり不安になりつつも、もしかしたら、単に電灯がついていないだけかもしれないと、手探りで歩き回っているうちに、若い男性が走ってくる音と呼吸音がする。

「ハァハァ! も、申し訳ありません! 遅れました!」

「………」

 状況がわからず黙っていると、若い男性が何かを近づけてくる。

「どうぞ、義眼をお持ちしました。ハァハァ…」

「義眼……」

 実姉から聞いたことがある言葉だった。そして、手を伸ばすと身体が毎日繰り返している動作を覚えていてくれて、ピンポン球ほどの球体を眼窩に嵌めた。

「……」

「ちゃんとシステムチェックは終了しています。どうですか? また調子が悪かったりしますか?」

「………」

 視界が256色くらいで見えるようになった。けれど、画質は公民館に置いてある古いブラウン管テレビくらいだった。細かいところに目を凝らすようにしてみると、青と緑と赤の素子のようなものが見える。

「…まあ……見えるかな…」

 それでも日常生活くらいなら問題なく送れそうな視力を確保できた。

「さて…。今は何年だったかな?」

「はい、帝国暦488年9月9日です」

 従卒が日付まで教えてくれた。

「帝国暦…488年。それは、西暦でいうと?」

「え………西暦……そんな古い暦で言われましても……し、調べてまいります!」

 駆け足で調べに行こうとする従卒を止める。

「待って。ここに資料室か、図書館のようなものはある?」

「はい、あるとは思います」

「そこに案内して」

「かしこまりました」

 従卒も占領したばかりで、よく知らないガイエスブルクの内部を調べながら移動して図書室に辿り着いた。

「何か調べ物ですか?」

「当然。ルドルフ以後の歴史がわかる音声つき画像を探して。基礎的なのでいい」

「はっ」

 命令通りに、すぐに歴史についての映像資料を集めてくれたので、それを複数のモニターで同時に再生しながら見入る。

「…二代目ジキスムントは25歳で…」

「…オトフリートが立った…」

「…劣悪遺伝子…」

「…ハイネセンはドライアイスを…」

「…地球出身のレオポルド・ラープが…」

「…………………」

 朝食も摂らずに複数の映像を見ている上司に従卒は何か言って怒られるとイヤなので、ずっと黙っている。数時間が過ぎ、アントン・フェルナーが入室して声をかけてきた。

「オーベルシュタイン中将、ここにおられたのですか。探しましたよ」

「………」

 四葉は呼ばれたことはわかっていても、映像に集中しているので返答を省略した。それでも、フェルナーは愛想の一欠片も持ち合わせていない上司に慣れてきているので用件を話す。

「そろそろ勝利式典です。ご準備ください」

「………」

 四葉は時間が惜しかった。なんとなく実姉のように24時間も入れ替わっていることは、まだできない気がする。今は勝利式典とやらより数百年の歴史を一気に消化吸収したかった。

「オーベルシュタイン中将?」

「……」

 四葉は言い訳を閃いた。

「どうにも義眼の調子が良くないようだ。式典は欠席する」

「欠席……ですか…」

 実務を重んじ形式的なことは省略しがちなのはわかるけれど、それはラインハルトも同じであったものの、さすがに勝利式典は出席した方が良いと感じられる。それでも、身体を補助する義装具の調子が悪いと言われれば、無理にとも言えない。フェルナーは一点だけ問うことにした。

「キルヒアイス上級大将の式典会場への武器持ち込みの件ですが、結論は出ておりますでしょうか」

「………。いや……」

 それは、まったくわからない、四葉は少し考え、フェルナーに任せることにした。

「貴官に一任する」

「はっ」

 これはまた難題を、とフェルナーは無表情ながら困った。それでも彼らしく鋭敏に考え、例外をつくらないことと、これまでの前例を続けることを天秤にかけ、結論を出して上司に確認してみる。

「これまで通りでよろしいかと存じます」

「では、そのように」

「はっ。………」

 敬礼したけれど、義眼の調子が悪いと言った上司が熱心に12個ものモニターを視聴しているので不思議で仕方ない。それとも、これこそが義眼の調子を治す療法なのだろうか、と思っていると、四葉はフェルナーを一瞥した。

「……」

「っ…」

 その邪魔そうな目使いが、そっくり上司に似ていたのでフェルナーは直ちに退出した。

 

 

 

 オーベルシュタインは宮水神社の境内に立っていた。

「………これは………夢か、幻か……」

 蝉の声、風の音、それらは既知のものだった。

「……これが空……」

 空が青い。

「…………これは杉か、こちらは楓……」

 樹木が碧い。

「……手……肌の色……」

 手を見ると、明らかに自分の手より小さかったけれど、そんなことより四葉の血色のいい肌色が眩しかった。巫女服の白も赤もあざやかで眩しい。

「そうか………空は、こんなに青かったのか……」

 天を仰いで、つぶやいた。

「木は、こんなに色々な緑をしていたのか」

 一歩、足を進めると玉砂利が心地よく鳴った。

「石ころだって、こんなに美しい色をしている」

 オーベルシュタインは深く感動していた。

「……ふっ…フフ…」

 かすかに失笑し、それが、だんだん大きくなる。

「フフ! ククっ! アハハハハハ!」

 愉快だった。心地よかった。世界の見方が変わった。

「アハハハハ! ウフフフフ! キャハハッハハハ!」

 可愛らしい四葉の声で大声で笑い、くるくると巫女服のまま回転して世界を見つめる。

「ああっ! 素晴らしい! 素晴らしい世界だ! あははははは! 生きているって、なんて素晴らしいんだ! フアハハハハハ!」

 溢れる笑い声をあげたまま、空を見上げ、小川を見つめ、草木の緑を愛でた。太陽の角度が変わると空の表情も変わる。飽きることなく世界を見つめ続けた。

 

 

 

 オーベルシュタインはフェルナーに深刻な表情で声をかけられていたけれど、うっとりと囁いた。

「ああ、星はいい………」

 そう言って、ほろりと涙を零すので、フェルナーは、まだ話していない内容を知っていて、そして人の死に、この上司も涙するのだ、と思ったけれど、泣いたせいで義眼の調子が悪くなったのか、外して拭いている。そうして装着しなおすと、周囲をキョロキョロと見ているので、まだまだ義眼の調子が悪いのだな、とフェルナーは障害のある上司を気の毒に思ったものの、今は一大事があり、しかも大声では話せない内容だった。

「極めて深刻な事態が発生しております」

「……そうか。執務室で聞こう」

 いつもの上司に戻ってくれると、フェルナーからの報告を聞き、全軍に箝口令を敷いた。

 

 

 

 四葉は星空を見上げていた目に痛みと眼精疲労を覚えて目頭を指先でほぐした。

「ぅぅ……痛っ…」

 昼間から、ずっと酷使されて紫外線を浴びたり、物を見つめて瞬きが少なかったのか、とにかく目が疲れている。そして、巫女服の下半身が乱れていた。

「……一回、おしっこして着方が、わからなかったんだ……まあ、しょうがないか」

 半日以上入れ替わっていたので、おもらしされるよりマシなような、やっぱりアソコも見られたのかな、と思うと気持ち悪いような心地で巫女服を着直す。

「まあ、頑張って着直そうとしたみたいだけど、けっこう複雑だからね」

 きちんと巫女服を着てから家に戻らないと、祖母に見られて変な心配をされるかもしれないので着こなしを整えるために物陰で脱いでから着直す。

「う~ん……テキトーに結んでくれちゃって……。それにしても、お姉ちゃんが嫌がるのもわかるかなぁ……知らない間に、ここまで脱がされて……何されてるか、わからないって、けっこう、つらい」

 もともと恥ずかしがりだった姉が羞恥心をこじらせて、夏休みを一切外に出ず、それでいて克彦と抱き合い、早耶香まで交えていることに少しは同情した。

 

 

 

 三葉はガイエスブルクで勝利式典に参加していた。

「銀河帝国軍最高司令官ラインハルト・フォン・ローエングラム閣下、ご入来!」

 式部官の声が響き、ラインハルトが入ってくる。

「オーベルシュタインは欠席か」

 隣にいたミッターマイヤーが小声で囁き、正面にいるロイエンタールが微笑して言う。

「ヤツがいないのには、それなりの理由があるのだろうさ。万人が納得せざるをえない、それでいて、それが良いこととは思えないようなな」

「まったくだ」

「同感」

 三葉も頷いていると、ラインハルトが前を通り過ぎる。ラインハルトは一瞬、合いかけた目をそらせようとしたけれど、キルヒアイスではなくミツハなのかもしれない、と再び視線を送ってくる。

「「……」」

 ミツハか、そうだよ、とアイコンタクトが成立した。ラインハルトはキルヒアイスとこじれた仲をミツハを介して修正できないものか、と思い立ちながら玉座に座った。捕虜謁見が始まり、まずはアーダルベルト・フォン・ファーレンハイトが提督の列に加わった。

「主君の屍体とは、良い手土産だな」

 ビッテンフェルトが冷笑しているので三葉は、何かな、と思って見る。アンスバッハが自裁させたブラウンシュヴァイクの遺体をケースに入れて運んできたのだった。ゆっくりとアンスバッハはラインハルトの前まで進むと、ケースを開けて礼装していたブラウンシュヴァイクの胸部からハンドキャノンを取り出した。ハンドキャノンは三葉も見たことがあった。多くの白兵戦がゼッフル粒子下で行われるので、あまり使う機会の少ない小火器だったけれど、使用方法と威力は教え込まれたので覚えている。

「……」

 なんで遺体の胸からハンドキャノンが、と三葉は他の提督が動けずにいたのと同じように一歩も動けずに見ていた。

「ローエングラム侯! わが主君ブラウンシュヴァイク公の仇をとらせていただく!」

 アンスバッハの声が沈黙を圧して響きわたり、ついで轟音と爆炎をハンドキャノンが吐いた。ハンドキャノンの火力は装甲車や単座式戦闘艇すら一撃で破壊する。ラインハルトの身体は肉片となって四散する。

「え…」

 狙いは外れなかった。アンスバッハの狙いを誰も妨げなかったし、誰もラインハルトの前に立たなかった。

「……ラインハルト…さん…」

「やりましたぞ!! ブラウンシュヴァイク公! ご照覧ください! このアンスバッハっ! 金髪の小僧めを討ち滅ぼしましたぞ!! 最高の手みやげをもってヴァルハラへ凱旋いたしまする!!」

「痴れ者めが!!」

 最初にアンスバッハへ飛びかかったのは三葉の正面にいたロイエンタールだった。そのロイエンタールが指輪型のレーザー銃に胸を撃たれ、頚部も撃たれた。その間にやっと他の提督たちも動き出し、アンスバッハを捕らえるけれど、服毒してしまい、とても満足そうな顔で死んでいた。

「………」

 三葉は状況を理解するのに何度も呼吸を要した。それから、やっと理解した。

「ラインハルトさん!!!」

 すでに玉座ごとラインハルトの身体は四散していて、本人も一瞬の苦痛さえ感じていなかったと思われるし、なぜ死んだのかも、わかっていないかもしれない。ヴェスターラントの多くの犠牲者がそうであったように、一言の遺言もなく、一瞬の苦痛もなく、死んでいた。

「……ラインハルトさん……が……死んだ……」

「ロイエンタぁーールっ!!」

 ミッターマイヤーが叫んでいる。

「医者だ! 医者を呼べ!」

「…もう…遅い…」

 ロイエンタールがミッターマイヤーに最後の力で微笑みかけ、そして動かなくなった。

「ロイエンタールっ!!」

「…………」

 三葉は、ふらふらと玉座のあった方へ歩いてみた。けれど、そこには血と肉片があって、それを踏んで進む気にはなれない。わずかに美しい金髪が舞っていたので、それを掴んだ。

「ラインハルトさん………ラインハルトさん………ラインハルトっ……ぅっ…うううっ、うわああああ!」

 出会った頃には見惚れたし、父親のことで共感した日もあった、いっしょにワインを飲んだことは何度もある、お互い遠慮がなくなってケンカしたり、嫌ったりしたこともあるし、ヒルダのことで話し合ったりもした、たくさん、たくさん思い出のある人が死んでしまった悲しさで、三葉は大声で泣いた。

「…ラインハルトさんっ…ぅうっ…ぐすっ…」

 どのくらい泣いていたのか、泣き疲れて涙が出なくなった頃に、ぼんやりと気づいた。

「………キルヒアイスさんに………アンネローゼさんに、なんて報告したら……」

 きっと自分の何十倍も悲しむに違いない、そう想った。

「どうしよう………どうするべき……」

 周りを見ると、ミッターマイヤーも泣いている。けれど、他の提督たちは悲痛な顔をしているものの、落ち着きと困惑を半々に浮かべて、これからを考えている。

「これから……どうすれば……どうしておくのがベスト……」

 それを考えると、涙が止まった。

「ラインハルトさんの夢………その実現に……」

 三葉は涙を拭いて諸将を見渡した。

「聴いてください!」

「「「「「……………」」」」」

「これから、どうすることがラインハルトさんの気持ちに応えることになるか! それを、みんなで考えましょう!!」

「そうだ! キルヒアイス閣下の言うとおりだ!!」

 ビッテンフェルトが同意してくれる。そのタイミングでオーベルシュタインとフェルナーが入室してきた。オーベルシュタインは落ち着いて四散したラインハルトを見ると、やはり落ち着いたままだったのでミッターマイヤーが怒鳴る。

「卿が黒幕ではあるまいな!」

「なるほど、本来、閣下の隣にいたはずの私が欠席していたのは、いかにも怪しいな」

「そうだ! オーベルシュタインが怪しい!!」

 ビッテンフェルトが同意している。オーベルシュタインは静かに応える。

「それでもかまわないが、それではローエングラム閣下も浮かばれまい。今少し強大な者を真犯人とすることにしては、如何か」

「何を言ってやがる?!」

 ビッテンフェルトが激昂して飛びかかろうとするのを三葉が制した。

「待って! また、ろくでもない作戦があるの?」

「策謀とは、そういうもの」

「話して、早く」

 三葉は時刻を見た、もう数時間しか残っていない。きっと、キルヒアイスは大きなショックを受ける、どうなるか、わからない、私がしっかりしなきゃいけない、そう考えてオーベルシュタインの話を促した。

「真犯人は帝国宰相リヒテンラーデということにする」

 オーベルシュタインの説明を聴いてミッターマイヤーは苦々しげに言った。

「卿を敵にまわしたくないものだ。勝てるはずがないからな」

 その言葉を無視して続ける。

「可能な限り迅速にオーディンへ戻り、リヒテンラーデを逮捕し、国璽をおさえてもらいたい」

「だが、国璽を手に入れた者が、そのままオーディンにとどまって自ら独裁者たらんとしたら、どうする?」

 ミッターマイヤーの問いに、オーベルシュタインは平然と答える。

「心配ない。今やキルヒアイス閣下をナンバー1とし、他の者は同格。いや、ミッターマイヤー提督にさえ、野心がなければ、どうということはない。お有りか?」

「………オレは、ここに残る!! ガイエスブルクのおさえとて必要であろう!」

「他に異議のある者は?」

 オーベルシュタインの問いに誰も異議を唱えず、諸将の視線が三葉に集まってきた。

「「「「「……………」」」」」

「……」

 え、私? と一瞬戸惑ったけれど、自分を奮い立たせた。

「出陣します!!」

「「「「「おおっ!!!」」」」」

 軍靴を鳴らして走り、艦へ乗り込むと出港する。可能な限り早く、と艦隊指揮を執るけれど、頭の片隅では、どういう手紙を書くべきか、迷いに迷っていたし、アンネローゼへの報告も迷っている。

「……………」

「大変なことになりましたな」

 ベルゲングリューンが言ってきた。

「ベルゲングリューンさん」

「はっ」

「今は私は気を張っていますが、これから数日、激しく落ち込むかもしれません」

「……閣下……無理もないことです」

「ですが、私には守りたいものがある。せめて、ラインハルトさんの姉君だけはお守りしたい。国璽はビッテンフェルト提督に任せます。私は姉君のもとへ。彼女の安全が最優先です。もしも、私が落ち込んで指揮が執れないようであれば、ベルゲングリューンさんにお願いします。そして、叱ってください。姉君まで喪っていいのか、と」

「はっ」

「質問いいですか」

「むろん」

「姉君に…………弟さんの死を……伝えるべき、でしょうか? 会う前に……」

「それは………」

 少し考えたものの、年長者として明言してくる。

「隠して、どうにかなるものでもありません。他の者から知るより、よほど良いかと」

「………。ありがとうございます。通信室に行ってきます。指揮をお願い」

 三葉は超光速通信を一人で送信するために通信室へ移動して、一言目に何というかも決まっていないのにアンネローゼへの通信を開く。もう迷っている時間が無かった。すぐにアンネローゼの穏やかな笑顔が映り、胸が痛くて声が出ない。

「………………」

「こんばんは、ジーク」

「……はい………こんばんは………アンネローゼ………」

「…………悪い、知らせですか?」

「……はい…………」

「………ラインハルトが、どうかしたの?」

「はい………」

「…………あの子が………死んだのね……」

「……はい……」

「…………」

 アンネローゼの悲しそうな顔を見ると、叫んでいた。

「あなたは私が守ります! どうか、そこに落ち着いていてください! すぐに駆けつけますから!! 絶対に早まったことはしないで! お願いします!」

「っ……ありがとう、ジーク。……待っています」

 通信を終えると、三葉はキルヒアイスへの手紙を書き出した。

 

 

 

 キルヒアイスは12時になって旗艦バルバロッサの居室にいたので違和感を覚えた。まだガイエスブルクにいるはずの予定で、むしろ式典後の祝宴会で飲み過ぎていられると苦しいな、と思っていたくらいなのに、急な出撃でもあったのだろうか、と思いながら手紙を読む。

「っ………」

 信じたくないことが書いてあった。

 

 落ち着いてください。

 悪い知らせです。

 とても悪い知らせです。

 ラインハルトさんが亡くなりました。

 暗殺されました。

 現在、その真犯人を逮捕するため、またアンネローゼを守るため、オーディンへ向かっています。

 全速航行中です。

 アンネローゼへは、もう伝えました。落ち着いたら録画を見てください。

 ごめんなさい、一瞬の出来事でラインハルトさんを守れなくて、ごめんなさい。

 でも、どうか、落ち着いて。

 落ち込むのはオーディンに着くまでにして、一番傷ついてるアンネローゼを守ってあげてください。

 

 他に暗殺時の状況や国璽とリヒテンラーデをおさえること等も書いてあったけれど、キルヒアイスは生まれて初めて、近しい人間、それも大親友を亡くして号泣した。

 

 

 

 三葉は自室で起きると、ぼんやりと窓から空を見上げた。その先の宇宙に、まだ人類は進出していないけれど、キルヒアイスが泣いているような気がして、自分も泣けてきた。

「…うっ…うくっ……うぅうっ……あううっ…」

 ずっと布団の上で泣いていると、克彦と早耶香が来て、心配した克彦が抱いてくれる。

「どうしたんだよ、何かあったのか?」

「ううっ…はううっ…」

「三葉ちゃん……今日も……」

 泣きじゃくって克彦に抱きついている三葉を見ていると、早耶香は殺意を覚えた。

「…………」

 昨日も落ち込んだ雰囲気で克彦の気を引いて抱かれていたのに、今日もまた泣いて抱かれている。心配してあげなきゃ、と思う気持ちより、三葉の気の引き方が卑怯に感じられて腹立たしくて、嫉妬の炎が殺意になるほど胸を灼熱させてくる。

「…………昨日の四葉ちゃんの言葉……」

 それでも、昨日の四葉の言葉を思い出すと、少しだけ冷静になれた。

 



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23話

 

 

 キルヒアイスは気持ちの落ち込みを避けるためにも、夏休みの宿題へ真剣に取り組んでいた。背後にいる早耶香がつぶやく。

「明日から学校やね。とうとう今日でお休みも終わり」

「そうだな。長かったような、あっという間だったような」

 もう宿題を終えた早耶香と克彦は布団の上にいて、早耶香は男の腕枕を楽しんでいる。ちらりと三葉の背中を見ても机へ向かって真剣に自由研究を書いていた。

 

 選挙制度の維持と改変について、その権限を議会と分離することの意味

 そも、人間は自分たちに有利となるよう規則であれ、法律であれ、設計しがちである。これは公職選挙法や選挙区割りにおいても同様で米国のゲリマンダリングの例を挙げるまでもなく、与党は自らの優位さを維持できるよう選挙区を設定し、また公職選挙法を改変する。

 人類にとって血統でなく選挙によって政治的代表者を決定することは最善である確証はないものの、他の方法が選挙に勝っていると立証されない限り、今後も有用であるが、前述のような恣意的な運用によって与党優位のまま政治腐敗が進むことは避けなければならない。

 このためには選挙制度の維持と改変については、議会の権限とせず、一般市民から裁判員制度と同様の方法で選出された者に、さらに法律について行政書士程度の試験を課し、これに合格した者へ6年ないし10年の任期をもって選挙制度審議委員にあて、その委員を251名の定数として運用していくことを提案する。

 これによって与党が自らに優位な選挙制度を設計することはできず、公正さを保つことが可能となり、また委員の任期途中の罷免については最高裁判所裁判官の罷免と同様に国政選挙のさいに行うことによって、単なる抽選と筆記試験だけでなく国民からの信任も担保できうる。

 たとえば、世襲議員の問題についても、父親が多選のベテラン議員であればあるほど、周囲は異議を唱えにくい。世襲議員について父親と同一の選挙区から立候補することを不可とする規則を作ろうとしても、現状の制度では途中で頓挫しやすい。人間は自らに不利となりうる制度改変に賛成しないからである。

 しかし、既に述べた選挙制度審議委員を議会と別個に設ける方法であれば、世襲議員が父親の仕事を受け継ぐという家業継承の意味合いもあって、それに幾分かの道理もあるとしても、せめて選挙区を替えるなりの規制によって、まったくの新人立候補者との間に公平性をつくりうる可能性は出てくる。

 

「三葉ちゃん、頑張るねぇ」

「三葉、それ、もう課題の文字数を超えてるんじゃないか? もう、それで提出すればいいじゃん」

「いえ、もう少し」

 

 一票の格差について

 地域の人口によって一票に2倍以上の格差が生じていることは問題である。しかしながら、山間部など人口の少ない地域の民意を無視してもよいことにはならない。この問題を解決するには議決権を議員一人1票とするのではなく、議員の得票数に応じて議決権を付与すればよい。

 たとえば、A議員が3万票で当選し、B議員が2万票で当選していても二人の議会における議決権は同じであるが、議決権を得票数に応じて付与する制度を設ければ、Bは2万に比例した議決権をもち、Aは1.5倍の議決権をもつことになる。これによって1票の格差は議決権において、まったく生じなくなる。

 また、議員報酬についても得票数と比例させることで、その正当性を主張しやすくなる。

 ただし、それでも山間部や離島などの人口希少地区の民意が無視されがちなことは懸念されるが、これに対して、ふるさと投票という制度を創設することで対応できる可能性が増す。

 ふるさと投票とは地域出身者が都市部で長年生活していても、一定の登録要件を満たせば、出身地の国政選挙へ住民票がなくても投票できうるという制度である。

 

「三葉ちゃん、まだまだ頑張りそうやし。テッシー、もう一回、私としよ」

「そうだな。めちゃ真剣だし邪魔しないように声はあげるなよ」

「う~……そんなん言われたら、余計に感じるやん」

 

 もっとも、ここまでに述べたようなドラスティックな国政の改革は第二次大戦後に明治憲法から現状の憲法へ、強権的にGHQ主導で変更されたように、強大な権限が一時的に必要になることは想像されうるが、それでも粘り強い民衆への啓蒙によってなしうる可能性もある。それには全体の民度の底上げが必要となり、教育の充実が重要である。

 

「……あんっ……テッシーっ……んっ……はうんっ…」

「声を出すなって。三葉の邪魔になるだろ」

「んっ……だって…ハァハァ…気持ちいいの…テッシー、巧くなりすぎっ…ああっ…」

 

 快楽と怠惰に溺れやすい民衆に、いかに規範的な生き方をさせるか、この課題を人類がクリアするには百年、いや千年を経ても困難なのかもしれない。すでに古代ローマにおいてさえ、市民階級はパンとサーカスに浸り、滅びを経験している。より高く、より良く、人類を導く方法はないものだろうか。ないのであれば、やはり選挙による共和制が最善でなくとも次善であり、その制度設計に磨きをかけることこそ、よりよい未来への布石になると結論する。

 

「はぁぁ……終わった」

 三葉の唇がタメ息をつく頃、早耶香の唇も熱い吐息を何度も漏らしていた。

 

 

 

 三葉は銀河帝国の実質的な最高権力者として新無憂宮の中で一番憂鬱な部屋に来ていた。豪華なのに陰鬱な自裁用の部屋で、諸将や文官たちとリヒテンラーデが連れてこられるのを待っている。

「はぁぁ……」

 キルヒアイスの唇がタメ息をついてから、しっかりしなければ、と思い直して直立不動となった。リヒテンラーデが爵位にふさわしい礼装で儀仗兵に連れられ入室してくる。新たな国務尚書となったフランツが運命の皮肉と繰り返しに対して悲痛な面持ちで読み上げる。

「エルウィン・ヨーゼフ皇帝陛下よりの勅命である」

 わずか5歳の皇帝が老人に死ねと命じるはずもないけれど、それでも読む。

「リヒテンラーデ公爵に死を賜る」

「……」

「格別のご慈愛により自裁をお許しくだされた。さらに公爵たる礼遇をもって、その葬礼をなすであろう」

「…………。まさか、赤毛の小僧とはな。帝国騎士でさえない、平民の」

 リヒテンラーデに睨まれて、三葉は無表情を頑張ってつくった。ビッテンフェルトが声をあげる。

「キルヒアイス閣下に対し無礼であろう!」

「ビッテンフェルト提督、ここは気が済むまで言いたいことを言わせる部屋だから」

「…はっ…」

「そういえば、赤毛の小僧と、ここで会うのは2度目だったな」

「……そうですね」

「せいぜい勝った気でいるがいい。金髪の小僧とは、ここで1度しか会わなんだ。じゃが、もうじきワシは会える。どれほど悔しがっておることか、ククっ。ブラウンシュヴァイクらに会うのも楽しみじゃ。きっと腹を抱えて笑っておるに違いないでな」

「…………」

 ひどいことを言われても、これから死んでいく人だと思うと三葉は反論する気になれなかった。

「赤毛、お前の立っておるところは危ういぞ。下手をすれば、歩みの遅い老人より、お前の方が先にヴァルハラの門へ着くかもしれんくらいにな」

「……………」

 そろそろ終わりにして合図を送った方がいいのかな、それともフランツさんが決めるのかな、と自裁執行のタイミングと合図を係の者と決めていなかった不手際を三葉は悔いつつ、やはり人を殺すタイミングは取りにくい、迷っているとオーベルシュタインが部屋の窓を開けた。窓から風が入り込み、陰鬱な空気が少し和らぐ。

「リヒテンラーデ公、最後に空をご覧になってはいかがか」

「………そうしよう」

 意外にも素直に窓から老人はオーディンの空を見上げたけれど、諸将はオーベルシュタインの言こそ意外だった。リヒテンラーデは空を見たままつぶやく。

「……ワシは長生きしたな………それに比べて金髪は気の毒に………。キルヒアイス、とかいうたか」

「はい」

「せいぜい気をつけることじゃ。そして権力を手にしたかもしらんが、どう使うか次第でお前の評価は天にも地にもなるじゃろう。汚名を残さんようにな。理想の政治とは何か、よく考えることじゃ」

 そう言ったリヒテンラーデは窓の方を向いたまま、腰の後ろで組んだ手の指先をチョイチョイと動かした。それは長年の合図だったので係の者が毒杯を恭しく差し出した。

「…………どうせ滅びるなら……せいぜい華麗に滅びるがよい……か」

 その言葉を最後に毒杯をあおり、すぐに倒れて動かなくなった。

「………ごめんなさい」

 三葉が頭を下げると、諸将と文官たちも、それに倣った。自裁が終わり宰相府へ戻るために移動する。移動しながら三葉は現在のキルヒアイスの立場を自分が知っている歴史から考えてみた。

「……秀吉か…」

 織田信長が天下統一前に倒れ、庶民の生まれであったけれど頂点に立った人物を思い出した。

「……そうなると勝家はいないし……日本史だと……次は朝鮮出兵か………ヤンが李なんとか……みたいな…」

 歴史が繰り返すなら歴史からヒントをえようと、考え込みながら歩いている三葉が廊下の角を曲がったとき、一人のメイドがぶつかってきた。

「死ねェ!!」

「っ…」

 突き出されたナイフをキルヒアイスの手は反射的に掴むと、白兵戦技の手順通りに相手の手首と肘をひねって、刺客へと突き刺した。

「ぐうっ…」

「女の子っ?! ちょっ……大丈夫?!」

 対処してから三葉は相手の容態を心配したけれど、ナイフには毒まで塗ってあったようで、もがき苦しみながら死んでしまった。

「「閣下?! ご無事ですか?!」」

 そばにいた士官が駆け寄ってきて、すぐに刺客の身元をケスラーが検めて報告してくれる。

「エルフリーデ・フォン・コールラウシュという女でした。この者はリヒテンラーデ公の姪の娘にあたり、オーディン制圧のさい手配しておりましたが捕らえられず、潜伏して閣下の暗殺を謀ったものと思われます」

「…………」

 怖っ、本当にリヒテンラーデさんを追いかけるとこだったよ、と三葉は今さら身震いしてケスラーに命じる。

「私に護衛をつけることはできますか?」

「はい。ですが、先日、私が提案いたしましたとき無用だと。余分な経費をかけるなら民生費にあてよとおっしゃいましたが、よろしいのですか?」

「………」

 あの倹約家め、自分の立場を自覚しなさいよ、と三葉は朝令暮改を気にせずケスラーへ厳命する。

「今後、私の気が変わって、また護衛が要らないなんて言い出しても、絶対につけなさい。私の安全をケスラーさんに一任します。あなたの判断で必要と思われるだけ護衛してください」

「はっ!」

「そもそも手配されていた人が、どうして、ここまで入ってくるわけ?」

「おそらくは、かつての知り合いなどを買収し、潜り込んだものと思われます。トイレ内でメイド服へ着替えたさいに落としたと思われる髪飾りも発見しておりますから」

「監視カメラは?!」

「おそれながら、皇居の周囲は無粋な機械によって守られるのではなく、近衛によってこそ守られるべきとの慣習がございますれば、監視カメラの類は一切ございません」

「それで知り合いが買収されてたら意味ないと思わない?」

「はっ、おっしゃる通りです」

「監視カメラを増やして。顔認証システムもあるやつ。カメラの死角が一切なくなるくらいに」

 三葉は最近のコンビニと同じくらい、すべての通路や部屋に監視カメラをつけるように命じる。けれど、女子トイレについては迷った。

「女子トイレは………ケスラーさん、どう思う?」

「はっ……無粋とは思いますが、今回の犯人もトイレで着替えております。ここが監視の穴となるは必定かと」

「……………録画もされる?」

「当然に。………ですが、平時において見る者を女性保安員に限るという手もございます」

「たしかに……。けど、その監視室に勝手に出入りする男が……」

「そのような行為に罰金を課してはいかがでしょうか」

「罰金じゃ軽すぎる。極刑で」

「……極刑ですか……」

「女の子が、おしっこしてるとこ見るようなヤツは極刑!」

「…………」

「見たいの?」

「いえ」

「じゃあ、極刑で」

「おそれながら量刑というものがございます。安易に極刑を課すは、逆に法の秩序を乱し治世を混乱させますぞ」

「うっ………う~ん………じゃあ、法律の専門家に、できるだけ重い罰で検討させて」

「はっ」

 ケスラーは三葉と別れる前に6人の衛兵をつけた。つけられてから安易に一人言も言えなくなったので、三葉は最高責任者の重苦しさを感じた。

「…………」

 思うとおりに国を動かせるって、むしろ大変かも、と三葉は無表情のまま執務室へ戻った。そこへ面会を求めてきた科学技術総監のアントン・ヒルマー・フォン・シャフト技術大将が緊張した顔で告げてくる。

「閣下に今一度、ご検討願いたく具申いたします。どうか、ご再考をいただきたく我が新計画を説明させていただくお時間をくださいますよう」

「…どうぞ」

 明らかにキルヒアイスが数日前に却下した案件のようだったけれど、とりあえず聴いてあげるという姿勢で説明を聴いた三葉は椅子から立ち上がった。

「ワープする要塞ってこと?!」

「そ、そうです」

「それいい! 最高! ワープするミサイルなみにいい!!」

「おっ…おお、わ、わかっていただけますか!」

「うん、いいよ! その計画は進めよう!!」

 三葉はシャフトに駆け寄ると、強く握手した。そして問う。

「ちなみに、前に私が却下したとき、なんて言って却下してた?」

「はっ、そのような長大な物を建造する費用があれば、500万人の貧しい家庭に援助ができる、と」

「なるほど」

「………」

「そんな小さな問題じゃないよね! この計画は絶対に進めよう!」

「はいっ! 必ずや成功させます!」

「この計画は人類史に残るよ! 歴史を大きく動かすことになる! 指向性ゼッフル粒子といい! シャフトさん、すごいよ! きっと歴史に名前が残ってシャフト技術大賞とか創設されるよ! もう指向性ゼッフル粒子はシャフト粒子になるかもしれない! それで、ただのゼッフル粒子は非指向性シャフト粒子とか呼ばれるくらいに! とにかくワープする要塞計画は頑張って! 応援してるから!」

「ははっ! キルヒアイス閣下、ありがとうございます!」

 もともと指向性ゼッフル粒子を使って華々しい戦果を挙げてくれていたキルヒアイスに好感を抱いていたシャフトは強く握手しながら涙ぐみ、歴史に名前が残るかもしれないから、もう汚職はやめようと内心で誓った。そして三葉は、もう計画が成功することを前提にビッテンフェルト以外の主だった提督を集め、再びシャフトにガイエスブルクを移動可能にする計画を説明させた。

「なるほど、たしかに壮大な計画ですが、はたして成功するでしょうか」

 ミッターマイヤーが代表して問い、三葉が答える。

「技術部門のことについてはシャフト技術大将さんを信じましょう」

「必ずや成功させます!」

「………たしかに、我々は門外漢ですから」

 メックリンガーが頷いた。諸提督もワープについては士官学校で学習しているものの、技術畑にいるわけではないので理論的な限界を詳しく知っているわけではない。三葉がスマフォを知っているからといってスマフォを作れるわけではないように、だいたい知っていて使えることと、開発し製造することはかなり違う。シャフトに対して規模が壮大であること以外に専門的な反対意見を言える者はいなかった。

「それで閣下は我らを集め、いかなる作戦を考慮しておられるのでしょうか? できますれば、先陣は、このファーレンハイトめにご下命ください」

 まだ加わって間もないために功績のないファーレンハイトが先陣を求めることに諸提督は微笑ましく感じたけれど、三葉はビッテンフェルトに似たタイプだと判断して慎重に答える。

「まだ詳しい内容は話しません。ただ、この移動要塞が完成したとき大規模な作戦行動があると思っていてください。作戦名は、八百万の黄昏、とします」

「「「「「……………」」」」」

 諸提督の反応は微妙だった。およそ実質的な戦闘員が800万人くらいになるからだろうか、と思う程度だった。

「また、この作戦があることは当然に機密です。諜報活動に対する防諜が難しいのはわかっていますが、できるだけ外部に漏れないよう、また内通者や潜入者を発見、取り締まるよう努力してください」

「「「「「はっ!」」」」」

「最後にガイエスブルクは移動可能になった時点で、新しい名称にします」

「「「「「……………」」」」」

 それは諸提督も納得するところだった。あの要塞で二人の元帥を亡くしている。不吉な名称を変更することは武人にとって験かつぎの意味合いもあり支持されやすい。ミッターマイヤーが問う。

「して、その名は?」

「三元帥の城、ドライ・グロスアドミラルスブルクとします。三人の霊が私たちを守ってくれ。もう二階級特進で元帥になる人が生じないように」

「「「「「おおっ」」」」」

 諸提督がラインハルト、ロイエンタール、そしてノルデンを思い出した。三葉が解散を命じて廊下に出ると、一人ビッテンフェルトが待っていた。

「キルヒアイス閣下、自分も参加いたしたくあります!」

 招集されなかったけれど、主だった提督の全員が呼ばれていたことに気づいていたビッテンフェルトが大規模な作戦行動があることを推察するのは容易だった。

「ビッテンフェルト提督には首都オーディンの守りをお願いします」

「留守番など、メックリンガー提督あたりこそ適任です! どうか、黒色槍騎兵に活躍の機会を!」

「………」

「…コホン…」

 メックリンガーが咳払いしながら歩み去っていった。

「キルヒアイス閣下、ご命令を!」

「………」

 そうやって本人が聴いてるのに口走るあたり先走りそうでイヤなんだよ、と三葉は思ったけれど、顔に出さず優しく微笑んでラインハルトがやっていたようにビッテンフェルトの前髪をいじりつつ、語る。

「内乱は終わったとはいえ、いまだ帝国内が完全に安定したわけではありません。我々の多くが出陣したとき、その機に乗じて不穏なことを考える輩もいるかもしれませんが、首都の番人が名高い黒色槍騎兵であれば、辺境で遠吠えさえしないでしょう。そういう意味なのです、わかってください」

「っ、はっ! ご期待に添います!」

「ありがとう」

 礼を言って執務室へ戻った三葉は機密のために日本語で作戦案を書き始める。

「フフン。みていなさい、ヤン。アスターテを再現してやるから」

 閃いた作戦をキルヒアイスに承認してもらうため作戦案を仕上げ、日が暮れる頃にシュワルツェンの館へ帰宅した。帰宅途中でケスラーが命じて警備を増やしていたことに満足しつつ、いまだアンネローゼとの関係が進んでいない様子には不満を募らせている。

「おかえりなさい、ジーク」

「ただいま、アンネローゼ」

 いっしょに暮らしてるのは立派なんだけど、いっしょに暮らしていて一度もベッドを共にしてないってのが、逆に女には不安を与えるって、わからないのかな、と三葉は美味しい夕食を食べながら考える。

「美味しい……本当に美味しいよ。アンネローゼ」

「ありがとう、ジーク」

 微笑んでくれるけれど、やはり悲しげで一日中物思いに耽っていた様子なので三葉はアンネローゼの頬に触れた。

「アンネローゼ」

「……ジーク…」

 ごめんね、キルヒアイス、と謝りながらキスをしようとすると、アンネローゼも拒否しなかった。そっと軽いキスをした。

「……」

「……」

 やっぱり待ってるよね、今夜決めよう、決めておこう、三葉は決断した。時計を見てからアンネローゼに入浴を勧め、交代で自分もシャワーを浴びて、居間で刺繍をしていたアンネローゼに問う。

「アンネローゼの部屋で、いっしょにワインを飲んでもいいかな?」

「……。ええ、どうぞ」

 遠回しなイエスをもらった。ワインは口実に過ぎないので、あまり酔わないうちにキスを繰り返して、そっとアンネローゼをベッドへ寝かせると、またキスを降らせる。キスしながら寝間着を脱がして、お互いに裸となってから、三葉は苦労して男性としての衝動を抑制すると、用意しておいた紙とペンで手紙をベッドの上で書く。

「……ジーク……何を書いているの?」

「おまじない。アンネローゼと幸せになれるよう。ずっと、いっしょに居られるように、おまじないをかけておくから。安心して、アンネローゼ」

「……はい……ありがとう、ジーク」

 アンネローゼは見たこともない日本語で書かれている手紙を嬉しく想った。

 

 

 

 キルヒアイスは裸でベッドの上にいて、左手でアンネローゼの右手を握り、反対の手には手紙を持っている状況を認識して、激しく驚いたけれど、入れ替わり直後に状況が予想外であることは何度もあったので驚きを表情に出さず、とにかく手紙を読む。

 

 アンネローゼが淋しそうだったから、勝手にキスしました、ごめんなさい。

 けど、私も女だから、わかります。

 アンネローゼも待ってるって。

 だから、男として応えるべきだと想います。

 男にはわからないかもしれないけど、五歳も年上というのは、かなり戸惑います。

 どうしても積極的になれないの。

 それにラインハルトさんが亡くなったのに、自分たちだけ幸せになっていいのか、って二人とも考えるかもしれないけど、逆にラインハルトさんは、どう想ってるか、考えてみて。

 二人にこそ幸せになって欲しいと想ってるはず。

 そのために頑張ってきたんだから。

 そして、アンネローゼが待ってることは目を見れば、わかるから。

 抱いてあげて。

 ちなみに、この段階から抱かずに部屋を出た場合、今後の関係は絶望的になります。

 策謀的で、ごめんなさい。

 けど、二人のためには、これが最善だと想うから。

 落ち着いて、頑張って。

 この手紙は、幸せになるための、おまじない、と説明しています。

 夕食後にキスして、いっしょにワインを飲んで、何度もキスして、脱がせた段階です。

 ファーストキスだったら、ごめんなさい。

 

 読み終えてキルヒアイスは思わず漏らした。

「三葉……」

「……ジーク?」

「…………」

 そっと見ると、アンローゼは裸だったし、自分も裸だった。

「…………。アンネローゼ、ずっと好きでいました。出会った日から」

「ジーク……ええ、私も、あなたが好きでした」

 二人が本当のファーストキスをして、抱き合った。

 

 

 

 三葉は性欲を持て余していた。

「う~………やりたかったぁ!」

 布団の上でゴロゴロと転がる。

「我慢した! ちゃんと我慢した私を誉めてよ、キルヒアイス!」

 衝動のままに抱きたかったのを耐えて前戯だけで終えたので、入れ替わっても、まだ興奮が残っている。

「く~っ! 据え膳どころか、蟹で言ったら、殻剥いて、あとは食べるだけまでしてあげたんだからね! あ~……私もエッチしたい!」

 しかも、今日は夏休みの宿題を終わらせるためだったのか、女子として抱かれてもいないようで身体が疼く。

「………四葉は、もう寝てるよね」

 もう勝手に戸を開けないで、と言ってあるので三葉は自分を慰めてから眠った。そして朝になり、起きたくない。布団を出たくない。

「お姉ちゃん、テッシーくんとサヤチンさん、来てるよ。ご飯も持ってきたから、開けるよ」

「…どうぞ……」

「はい、朝ご飯」

 四葉が朝食を置いてくれた。夏休み中は三食、登校しないでも食べさせてもらえた。神社に出るのもイヤだったので、家の中で神事で使う紙飾りや御守りを作ることで仕事をしたと見なしてもらい、働かざる者食うべからずの刑を受けないよう過ごしていた。とくに御守りは一つ一つ祈祷してから中身の和紙に唾液をつけているので、単に全国神道製造組合から仕入れたものを、そのまま売っているわけではない。ずっと自宅内の内職で食事をえて夏休みを生き延びてきた。けれど、今日からは登校しないと、ご飯がもらえないことは、わかりきっている。

「……行きたくないなぁ……」

 そう漏らしつつ、仕方なく朝食を食べて制服を着て、迎えにきてくれた克彦と早耶香に礼を言う。

「ありがとう……テッシー……サヤチン…」

「おう。ちゃんと夏休みの宿題、もってきたか?」

「…うん…」

「三葉ちゃん、もっと胸を張って、しゃんとしてれば、もう平気やから」

「……うん……」

 学校に行きたくない、学校に行きたくない、と三葉は一歩ごとに重くなる足を仕方なく進めて登校した。

「あ、おジョー様、おはよう。きゃははは!」

「ちゃんと学校、来たんだ。おジョー様」

 からかってくる心ない女子に克彦が怒ってくれる。

「おい、お前ら、いい加減にしろよ!」

「きゃははは、おジョー様をおジョー様って言っただけだしぃ」

「おジョー様だもんね。チョロチョロのおジョー様。あ、町長だっけ? チョロチョロ? ジョロジョロ? ちゃんとトイレ行きなよ」

「……ぐすっ…」

 おもらしのことをからかわれると泣きそうになる。三葉が泣きそうになると余計にからかわれるという悪循環が始まり、教室で夏休みの宿題を提出してから校庭で校長の長話を聴くために整列すると、さらに苦しくなった。

「宮水、トイレ、大丈夫か? プフっ…」

「また校庭にしないでね。クスクスっ…」

 二年生の一部がからかってくるだけで済まずに、三年生や一年生の一部まで三葉の顔を見て笑ったり何か囁いていたりする。整列して立っているのが、とてもつらい。泣くと余計に笑われそうで涙を耐えているけれど、残暑で流れてくる額の汗と涙が混じって、ときどき手で拭かないと頬が濡れてしまう。しかも登校したとき下駄箱には以前にラブレターを送りつけてきた一年生の女子から、幻滅しました、とまで書かれていた。

「……勝手に好きになって……勝手に幻滅しないでよ……」

 なかなか校長の話は終わってくれない。下を見ると、三葉の脚に赤いレーザー光線が当てられていた。

「っ?!」

 一瞬、狙撃されるのかと勘違いして身を翻して伏せると単に三年生の男子がキーホルダー型のレーザーポインタで三葉の股間から足首まで照らしていただけだった。

「プフっ、なんかビビってるよ」

「暗殺されると思ったんじゃねぇ? 要人の娘だしな」

「きゃはは、自意識過剰ぉ! 逃げ方がプロっぽかったよね」

 笑われているのを無視して、また整列して立つと、再びレーザーポインタで股間から足首まで照らされる。赤い光りが、おもらしを再現するように何度も三葉の脚を行き来してくる。克彦も早耶香も名簿の順番では遠いので守ってやることができず、立っているしかない。ようやく校長の話が終わりそうになった頃、盛大に遅刻してきた三年生の男子が校門から入ってきて、三葉の姿を見ると飲んでいたペットボトルの水を校庭に垂らした。その三年生は以前に三葉からハイキックを受けた男子で恨みを晴らすように、ちょうど三葉が我慢できなくなって漏らしてしまった地点に水を垂らすと、わざとらしく手を合わせて祈られた。

「プッ! きゃははは!」

「あはははっ!」

 もう小声ではなく大きな声で数人に笑われ出して、三葉は耐えきれず泣きながら走った。走って校門を出ると、克彦と早耶香がついてきてくれるけれど、もう学校には戻りたくない。二人に慰められながら帰宅した。

「…ううっ…はううっ…ぐすっ…ひぅうう…」

「三葉ちゃん……」

「あいつら、ホント最低だよな。人間のクズだ」

「ホントそう! 最低だよ! もうイジメだよ!」

「あうぅう……もう、ヤダよぉ……学校いきたくないよぉ…」

「「…………」」

 頑張って登校した二学期初日から挫折するような目に遭った三葉にかける言葉がなくて困っているうちに、四葉も始業式を終えて帰ってきた。泣き声が家の中に響いているので、すぐに気づいて姉の前に立った。

「いつまでメソメソしてるの?」

「っ……あうぅぅ…」

 最近、手厳しい妹から逃げるように克彦に抱きついた。可哀想になって克彦が言う。

「三葉は頑張って行ったんだけど、一部のヤツらがひどくてさ!」

「そうだよ! ひどいの! 最低!」

「あいつらはクズだ! 人間じゃない!」

 三葉のために言い募る克彦と早耶香へ四葉が視線を送る。

「クズか。そう思うならクズなのかもしれないね」

「ああ、ホントに最悪だ! 三葉がかわいそうだ!」

「なんで、あんな人たちいるんだろう、三葉ちゃんが何したっていうのよ?!」

「おもらしでしょ」

 妹に冷たく言われると三葉が、またボロボロと涙を零した。

「ひうぅうう…」

「よ、四葉ちゃん、もう少し優しくしてあげて。三葉ちゃん、すごく傷ついてるから」

「……情けない姉…」

「四葉ちゃん! 怒るよ!」

「………。三人とも、ホントに、からかわれてる理由がわからないの?」

「え……」

「いや、……それは……だから……修学旅行のこと、だろ?」

「違う。本当の理由」

「「……………」」

「…ぐすっ……四葉、変……四葉の言うこと、このごろ、せんぜんわかんないもん!」

「三人も私も、この町の特権階級なのに、その自覚はないの?」

「「特権……」」

「四葉、意味不明!」

「私たちは言ってみれば貴族みたいなものだよ」

「貴族? 四葉ちゃん、また変なテレビでも見たの?」

「私たちは、お金に困ったことある?」

「「「………」」」

 克彦は町一番の建設会社の嫡男だったし、早耶香は公務員家系で、三葉と四葉も両親はいないものの、町長である父親から仕送りもあるし、神社そのものの収入もあるので金銭に困った経験はない。

「からかってくるのは貧民だよ。わからない?」

「「「…………」」」

 言われてみれば心ない女子や野蛮な男子は、だいたいが恵まれない家庭の子供だった。母子家庭だったり、生活保護家庭だったりする。山間部の町なので現金収入は限られている。小さな田畑と観光収入、そして公共事業くらいしかない。

「この町を小さな帝国だとすれば、皇帝はテッシーくんのお父さん、テッシーくんは皇太子」

「え……オレが? 皇太子? ……いや、その例えだと、四葉ちゃんが皇女で、町長さんが皇帝じゃね?」

「違うよ。お父さんは帝国宰相。だから、お父さんの差配で町政は回るけど、町長も宰相も世襲はされない。でも、一番の権力がある建設会社は世襲される」

「な…なるほど……」

「で、サヤチンさんは中流というか、官吏の娘さんね。で、私とお姉ちゃんは宗教的頂点にいるわけ」

「そう言われると、そうかもしれないけど、それと関係あるのかよ?」

「あるよ。私たちが恵まれた階級だってことは、わかったよね。で、からかってる人たちは貧民。私たちは望めばディズニーランドだって行けるし、USJも長スパも行けるし、連れて行ってもらったことあるでしょ。でも、貧民にとっては修学旅行がかけがえのないチャンスだった。って、ここまで言えばわかる?」

「………そんなこと根に持ってるのか……」

「生まれた頃から恵まれた貴族に貧民の気持ちはわからないよ。あと、私もお姉ちゃんもサヤチンさんも美人でしょ。テッシーくんも眉毛さえ剃ればハンサムだし」

「うっ……オレの眉毛は気に入ってるんだ!」

「ごめんごめん。まあ、自分で言うのも何だけど、たまたま美人に生まれて、何の努力もなく男の子に好きになってもらえたりする。それに比べて、からかってくる女子は、どう? かわいい?」

「……いや……あいつらブスだ。……心も、見た目も」

「じゃあ、ブスで貧民な人たちの視点から見てみて。美人で町長の娘で巫女で、お金にも困ってない。そんなヤツが修学旅行は遊園地じゃなくて広島京都にしようって言ったら、むかつくし。おもらしなんかしたら最高に笑えるよね?」

「「………」」

「ぅぅっ…ひぅぅぅ…」

「お姉ちゃんも、お姉ちゃんだよ。毅然としてればいいのに。いちいちビクビクして泣くから面白がって、からかわれる。ホント情けない」

「っ…情けなくないもん! 私だって頑張ってることあるもん!」

「頑張ってるって何?」

「うっ…ううっ…わ、我こそは帝国軍最高司令官にして帝国宰相なるぞ!!」

 三葉がビシッと指先を四葉に向けた。四葉が長いタメ息をつく。

「はぁぁぁ……」

「「…………」」

 克彦と早耶香も何を言っていいか、わからない。四葉は向けられた指先を姉へ向け返して告げる。

「あなたは小便たらして不登校になりかけてる女子高生です」

「ひっ……ぃ……違うもん! 違うもん! 私はっ…私はっ…う…うぐっ…あううっ…」

 今度こそ号泣し始めたので早耶香が背中を撫で、克彦が抱いてやった。

「四葉ちゃん、お姉さんを叱って何とかしたいのはわかるけど、もう少し優しく言ってあげて。これじゃ余計に傷つくよ。家族だと、ついキツイ言い方になるから、ね?」

「…………そうですね……言い過ぎたかも……」

 四葉が深呼吸して、それから泣いている三葉の涙を指先で拭き、舐めてみた。

「まあ頑張ってはいるのかな。そうだね、このまま頑張って。あと少しだと思うから」

 四葉は祖母に登校はしたので三食用意してあげようと報告に行った。

 

 

 



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24話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で起きると大量の手紙へ目を通した。

「……星系ごとの地方自治……」

 夏休みが終わって、もう2週間ほどになるけれど、三葉は登校していないようで一日中、今後の帝国内政と軍事についての方向性について考えてくれている。手紙には、ところどころ四葉の字も混じっていて小学校が終わった後は二人で相談しながら進めてくれているようで、三葉とは直接に対話できないので四葉と話すことで細部を詰めることができたりしている。

「お二人とも真剣に私たちのことを……」

 正直、キルヒアイスにとっても帝国宰相から、さらに皇帝という立場になったのは負担だった。それは本来ラインハルトが登り詰めるべき階段で、自分は一段低いところから支えようと思って生きてきたのに、今は頂上にいる。誰もが自分に敬語を使ってくるので、悩んでいる迷っているという顔ができず、それだけに三葉と四葉からの忌憚ない意見は希少だった。

「……そろそろ準備しないと」

 けれど、今は銀河の頂上ではなく田舎町の女子高生という立場であることを忘れていないので制服を着て克彦たちと登校する。ときおり、以前の失敗について中傷を受けるけれど、毅然として無視していると、すぐに止む。

「テッシー、はい、あ~ん♪」

「自分で食えるから」

 昼休みになり三人で木陰で食べているけれど、早耶香が克彦にべったりとくっついていた。早耶香は午前中は中傷から守ろうとしてくれるものの、中傷が止むと克彦の恋人は自分だという態度に変わる。ずっと夏休みの間、三葉は外に出なかったけれど、克彦と早耶香は屋外でも関係を隠さなかったので、新学期が始まると同級生たちも三葉早耶香戦争が早耶香の勝利で終わったのだろうと思っていて、さすがに自室外で三人仲良くキスしたりするわけにはいかない。

「………」

 そうなると、いちゃつく二人を見ていると胸が苦しい。自分にはアンネローゼがいるはずなのに、この三葉の身体にいると、ほぼ完全に女性として嫉妬してしまう。まるで自分が第二婦人のようで悲しいし、寵愛を喪ったベーネミュンデや過去の寵妃たちの想いが擬似的に体験させられているようで、思わずタメ息が漏れる。

「はぁ……」

「三葉、ごめんな」

「いえ、平気ですから。どうぞ、おかまいなく」

 嫉妬心を隠して微笑するのが習慣になってしまっている。早く放課後になって部屋で抱かれたいという、はしたない気持ちまで芽生えてくるほど、胸が痛い。食べ終わった頃に校内放送で呼ばれた。

「2年3組の宮水三葉さん、名取早耶香さん、校長室まで来てください。くりかえします、2年3組の宮水三葉さん、名取早耶香さん、校長室まで来てください」

「三葉ちゃんと私、呼ばれてるね………なにやろ……」

 早耶香の顔が不安そうだった。克彦も緊張している。

「もしかしてオレらのことバレたのか……」

 校則で男女交際は禁止されていないけれど、不純異性交遊は禁止されている。

「けど、オレが呼ばれないって……ことは……別々に取り調べなのか……」

「三葉ちゃん、お願い! 私がテッシーの彼女で三葉ちゃんは、ただの友達って言い張って。エッチしたことないって! キスも!」

「はい、わかっております」

 早耶香の要求は状況的にも文化的にも理解できるけれど、心が痛む。胸が痛くて、気がつけば涙が出ていた。

「ぅっ……」

「三葉……」

「三葉ちゃん……」

「2年3組の宮水三葉さん、名取早耶香さん、至急、校長室まで来てください。くりかえします、2年3組の宮水三葉さん、名取早耶香さん、至急! 校長室まで来てください」

 至急が着いた。小さな学校なので放送室から校庭にいる三人の姿は見えていたりするし、早耶香も放送部で、今呼びかけているのは同じ部員なので、もう声色から、もたもたしないで早く来い、と伝わってくる。

「「「………」」」

 逃亡すると疑いを深めるのはわかっているので三人とも覚悟して立ち上がった。

「オレも廊下にいるよ」

 呼ばれていない克彦も責任を感じて同伴する。早歩きで校長室に二人で入った。

「遅くなり申し訳ありません。宮水三葉、参りました」

「名取です…」

 二人が名乗ると、校長だけでなく町の教育長と町長である俊樹まで居た。二人とも緊張して表情が硬くなる。けれど、校長も教育長も、そして俊樹もにこやかに微笑んでいた。

「よくやった、三葉。それに名取さん、すばらしい自由研究でしたよ」

 俊樹は三葉の肩を撫で、早耶香へはセクハラと言われると困るので、握手だけして表彰状を渡してくれた。表彰状は二人の自由研究に対する教育委員会からのもので記念撮影もされる。校長と教育長からも一言ずつ誉められて、ほっと安堵して二人とも校長室を一礼してから出た。

「どうだった?」

 克彦が心配して訊いてくる。

「「……」」

 二人とも女として息が合い、すぐに克彦を安心させず、少しだけ下を向いて、より不安にさせてから、同時に表彰状を見せた。

「な…なんだ、そういうことか、よかった…」

「まったくよ」

「とても不安でしたよ」

 三人で安心し合い、午後の授業を受けて放課後、帰り道で早耶香が残念そうに言う。

「私、生理、はじまったし、このまま帰るわ」

「……」

 二人きりになれると想うと、嬉しくて表情がゆるみそうになってしまう。

「そうか。じゃあ、また明日な」

「う~っ…テッシー、あっさりすぎ! もっと引き止めてよ」

「いや、引き止めても仕方ないだろ。はじまったんならさ」

「フンっ、どうぞ二人で、ごゆっくりぃ」

 可愛らしく拗ねた早耶香が帰っていくと、二人で三葉の部屋にあがり、抱き合って2時間ほど過ごすと、名残惜しく見送った。一葉を手伝って夕食を作り、入浴もしてから四葉と話し合う。

「お姉様が…、っていうか、ジークフリード・キルヒアイスの氏名のまま、爵位無しで皇帝に即位したんだよね」

「はい、迷いましたが、そういたしました」

「日本だと天皇陛下は氏が無かったりするからね」

「それぞれの文化で多彩ですね」

「地球上での核戦争が文化的な多様性を失わせてしまったんだよ」

「………」

 ドキリとしたけれど、表情に出さないようにした。当初、未来のことは一切教えないことにしていたけれど、三葉が妹へは気軽に話しているようで、ついつい自分も話しすぎてしまったかもしれない。核戦争は2039年に起こる。それは、あと26年後のことで、四葉が生きていれば36歳の女盛りで、何より来月に生じる隕石落下によって犠牲者が出て、その後に宇宙から飛来する物体を迎撃するためミサイル技術が一気に進展、加速して核戦争の遠因となってしまう。とくに高い技術力を持ちながら軍事転用しなかった被爆国の日本がリメンバーイトモリの掛け声で弾道弾を堂々と開発し始めたことが大きい。そんな史実を四葉と三葉が知ったら、どうなるか、やはり誰しも死にたくない、そして助けてあげたい、けれど、歴史を改変してしまったら、いったい何が起こるのか、因果律が狂い、下手をすれば宇宙そのものが崩壊するかもしれない。つい何度も入れ替わって慣れてきてしまったけれど、時間を跳躍していること自体が極めて異常な現象なのだと自戒し直した。

「文化的な多様性がないことも社会を不安定にしたし、なにより宗教的な規範意識が無くなったことが社会の退廃を招いているね。ルドルフが中世ドイツ文化に固執したり、自己神格化に至ったのも、文化と宗教の希薄さが原因だね」

「……………。四葉……あなたは、本当に10歳ですか?」

「…………」

 お互いの顔に、話しすぎたかもしれない、という色合いが浮かび12時を迎えた。

 

 

 

 三葉は明日に回せない皇帝としての仕事に精一杯取り組んでいた。かつてフリードリヒが座っていた玉座で次々と官吏がもってくる案件のうち、明日では遅いものや、三葉にも対処がわかるものを決裁している。そばには皇妃たるアンネローゼもいて、アンネローゼは皇妃たる地位に慣れているので平然と、そして穏やかに座っている。ただ、政治のことには一切口を出してくれないし助言もくれない。何度か、これどう思う? と訊いてみたけれど不干渉を貫かれている。意外と頑固だな、さすがラインハルトのお姉さん、と思っていたりする。

「はぁぁ……」

「お疲れですか、ジーク」

「ええ、まあ…」

 中将や上級大将だったときに比べて、明日に回せない要件は多いし、暫定的にでも決めておかないといけなかったりする。だんだん、よきにはからえ、とフリードリヒのように言いたくなる気持ちがわかってきているものの、まだ投げ出さずに頑張っている。アンネローゼも紅茶を淹れてあげたいと思うけれど、そういったことも立場上、召使いがすることになっていて、二人とも広い玉座の間で窮屈な思いをしていた。ただ、アンネローゼも立場は同じでも隣にいる夫を愛しているか、愛していないか、で天と地の差があり、今は笑顔が明るい。

「最終的には、こういう形式ばったことも、なんとかしないと。かといって、まつりごとに形式と威儀が必要なのは、わかるし」

 自分がやってきた巫女としての所作と神事など形式のもっともたるもので、それを否定したいけれど否定しきることもできない。それでもキルヒアイスと手紙で相談しながら、今後の帝国について方向性が決まりつつあったし、すでに思想犯でテロを試みたことのない者などは恩赦を出しているし、言論の自由も段階的に解放していた。また、刑務所の待遇改善や貧民救済なども進めている。それだけに仕事が多い。

「はぁ……お腹空いた…」

「フフ」

 アンネローゼに笑われてしまった。

「お昼ご飯は……たしか、何か予定が入ってたよね?」

「ええ、陛下として初の臣下の屋敷へ、玉体をお運びになります」

「お運びされるのかぁ……」

「フフ」

「アンネローゼ、よく笑うようになってくれて、うれしいよ」

「ジークのおかげです」

「お腹は大丈夫?」

「ええ」

 アンネローゼは妊娠している下腹部を優しく撫でた。

「………」

 私とキルヒアイス、どっちとのエッチでできた子なのかな、まあ、どっちでもキルヒアイスの子だけど、避妊しないでエッチするの気持ちよかったぁ、テッシーには一度もさせてあげてないから、一回くらい月経寸前にやってみようかな、と三葉は高貴な玉座で歴代皇帝と似たような品性の低いことを考えていた。そこへフランツが現れて恭しく一礼した。

「本日は我が甥の招きに応じてくださり、まことに感謝いたしております。お時間となりましたので、ご案内させていただきます」

「うん。行こうか、アンネローゼ」

「はい、陛下」

 過去の慣例では即位までに功績のあった臣下であるミッターマイヤーか、オーベルシュタインを訪ねるところであったけれど、二人とも望まなかったし、その慣例をあえて無視していく意味もあってハインリッヒ・フォン・キュンメルの邸宅へと出かけた。地上車を降りると、車イスに乗ったキュンメルが出迎えてくれた。

「お越しくださり、まことにありがとうございます。この一事をもって我が男爵家末代までの栄誉となりましょう」

 自分の代で末代にする気でいるキュンメルが恭しく頭を下げ、咳き込んだ。

「大丈夫ですか。無理しないで」

 三葉は普通に心配したし、アンネローゼも同様だった。咳がおさまってからキュンメルは皇帝一行を庭園へ案内した。そこには昼食のためにテーブルが設置されていて、他に先客があり従姉弟であるヒルダがいて三葉と目を合わせずに恭しく頭を下げた。

「………」

 ヒルダ元気そうだけど妊娠はしてなかったんだ、ラインハルトさんが亡くなってから、すっかり忘れていたけど、どうしていたのかな、と三葉は声をかけたくなったけれど、ヒルダの方には、それを望まない空気がある。今日も出席するか、どうか迷っていたところをキュンメルに強く求められて顔を出しているのだった。

「さあ、どうぞ、おかけください。陛下」

「うん、ありがとう」

 キュンメルに促されて主賓席に座り、左右にキュンメルとアンネローゼが着席して、キュンメルの隣にフランツ、その先にヒルダが座った。

「ささやかですが昼食を、ご用意いたしております」

 男爵家の家名をかけ、さらに一世一代の舞台の前座として、贅をこらした昼食が提供されて、三葉は美味しく食べた。つわりが始まりかけているアンネローゼは少量にとどめ、病弱なキュンメルも少食だった。メインディッシュが終わり、デザートは何かな、と三葉が期待していると、キュンメルは暗い微笑を浮かべ、懐から無線スイッチのような物を取り出した。

「デザートにゼッフル粒子など、いかがですか、陛下」

「…ゼッフル粒子かぁ…」

 非指向性シャフト粒子だと、やっぱり長いかな、と三葉はキルヒアイスと意見が分かれていて、名称改変の布告を出すか迷っている事案を思い出した。すっかりケスラーによる警備と、ギュンター・キスリングたち近衛兵がいてくれることで安心しきっていて、危機感が無くなっている。キルヒアイスは安易な思いつきによる名称改変は社会を混乱させるといい、三葉は移動要塞を研究開発中のシャフトを励ますことになるといい、意見が分かれていた。それでも、明らかに不穏なセリフにキスリングたち近衛兵には緊張が走っている。三葉が空を見上げて移動要塞のことを考えているので、キュンメルは苛立って問う。

「聞いていますか、陛下」

「あ、ごめん。聞いてなかった。もう一回、お願い」

「くっ…」

 キュンメルは仕切り直すことにした。

「デザートにゼッフル粒子など、いかがですか、と申したのですよ、陛下」

「あれって食べられるの?」

「………いえ。ゴホッ…ゴホッ…」

 キュンメルは無線スイッチを握りながら咳き込み、今一度、仕切り直す。考えておいたセリフの中で、より直接的なものを選ぶ。

「いい庭でしょう」

「え、ええ。そうですね」

「けれど、この地下にはゼッフル粒子が充満していて、陛下を死の世界へとご案内すべく待っているのです」

「っ……」

 今度こそ、三葉は戦慄した。皇帝が驚き恐れてくれたのでキュンメルは我が意をえたり、と暗く微笑した。

「ハインリッヒ、なんと畏れ多いことを!」

「ハインリッヒ、どうしたというの?!」

 フランツとヒルダも困惑している。

「ヒルダ姉さん、ごめんよ。けれど、ボクはこの男が許せない」

「ハインリッヒ……」

 マクシミリアンといい、ハインリッヒといい、どうして、こうも自分の親戚には問題行動を起こす人が多いのだろう、それも大逆罪などという大問題を、とヒルダは悲しく思い、フランツは胃が痛くなった。

「だって、そうでしょう。たしかに、この男はヒルダ姉さんをマックから救出したかもしれない。けれど、一時の慰みものにして、あっさりと捨てた! 平民だったくせに、伯爵令嬢だったヒルダ姉さんを!」

「ハインリッヒ……そのことは……」

「ヒルダ姉さんはボクにとって憧れだった。そのヒルダ姉さんを娼婦のようにあつかったことを、この男に謝らせてやる! さあ、そこに膝をついて、ヒルダ姉さんに謝れ!! ゴホっ…ゴホっ…」

 キュンメルは苦しげに咳き込みつつも無線スイッチを誇示するように握っている。三葉は心から謝ることにした。

「ごめんなさい、ヒルダ。本当に私が悪かった。どうか、許して」

「「陛下………」」

 三葉が帝国の文化様式に合わせた片膝を着いて頭を下げる姿勢を取ったけれど、帝国の文化様式では皇帝がする行為ではなかった。あまりにも、あっさりとキュンメルは目的を達成してしまい、もっと勝ち誇ってから膝を着かせるつもりだったのに納得がいかない、ある意味で満足したはずなのに、別の意味で満足できない。

「い、いいや! ダメだ! そうだ、ヒルダ姉さんを皇妃にしろ! そう誓え! そう約束する公文書を出せ!」

「…それは……」

 三葉が困るし、ヒルダは叫ぶ。

「やめて、ハインリッヒ! そんなことされても私は少しも嬉しくないわ!」

「ヒルダ姉さん……けれど……」

「もう、やめて。そのスイッチを渡して」

「い、いいえ! ダメです! 陛下、ヒルダ姉さんを皇妃にすると誓え! 誓うんだ! でなければスイッチを押すぞ!」

「…そ…それは……えっと……その……」

 三葉は困り、そして振り返って現皇妃を見て問う。

「……あの……もう一人、皇妃をもらっても、いいですか?」

「…………」

 ずっと黙っていたアンネローゼがキルヒアイスの瞳を見つめて問い返す。

「あなたはジークではありませんね?」

「っ…、…い、いえ! ジークフリード・キルヒアイスですよ!」

 動揺して名乗る三葉にヒルダも問う。

「あなたはミヤミズミツハではありませんか?」

「っ…、な、なんで、その名を…」

「私を助けに来てくれたとき、とっさに、そう名乗られたのを覚えています」

「っ……」

 失血死しかけていた気絶寸前の記憶を聡明に覚えているヒルダに追いつめられ、もう三葉は言い逃れできないと覚悟した。二人の女の勘は誤魔化せない。部下や同僚であれば接触時間は限られているけれど、ベッドを共にした異性は気づいている。三葉がキスリングに命じる。

「離れていなさい」

「で、ですが、陛下、御身に危険が…」

「離れていなさい! マリーンドルフ伯も! 私たち4人だけで話します!」

 厳命されて、近衛として危機にある皇帝から離れるのには大きな抵抗があったけれどキュンメルが求めている内容から考えると、最終的に皇帝を害する気がないようにも思え、キスリングたち近衛とフランツは離れた。人払いが終わり、三葉はヒルダを見つめた。

「そうです。私は宮水三葉です」

「っ…やっぱり……」

「正直に話しますから、アンネローゼも聞いてください」

「はい」

「今の私は宮水三葉という人間の精神が、ジークフリード・キルヒアイスに入っています」

「「「………」」」

「第三次ティアマト会戦の頃から、週に1度ほど、私とキルヒアイスは入れ替わっています。もともとの私の身体には今、キルヒアイスが入っている。そして夜12時になれば元に戻ります」

「「…………」」

 ヒルダにもアンネローゼにも思い当たる節があった。明らかに落ち着きがなくなり幼稚なことをしたり、仕事を後回しにしたり、性欲に負けやすくなったりする。それは嬉しいときもあったけれど、困惑するときもあった。ただ、キュンメルは意味がわからない。

「陛下は人格のご病気なのですか?」

「そう見えるかもしれないけれど、そうではないと思っています。そして、私はヒルダが好きだった。けれど、キルヒアイスはアンネローゼが好きで、だから、ヒルダをラインハルトさんにお願いして……。ごめんなさい、ヒルダ、こんなことになって、全部、私のせいだから、キュンメルさんが罰されないよう、キルヒアイスにも伝えておきます」

「ミヤミズミツハ様……そのお言葉だけで十分です」

「ヒルダ、ごめん。ごめんなさい。大好きだったよ、ヒルダ」

 見つめ合う二人を見ていると、キュンメルは頼みたくなった。

「たとえ、週に1度でも、ヒルダ姉さんを皇妃にしていただけませんか? 陛下」

 歴代の寵妃には月に1度も相手にされない者も多かった。とくに門閥貴族からの輿入れだと、単純に好みに合わず、数人の子供をもうけた後は、まったく相手にされなくなった者もいる。それを思えば、たとえ人格の病であって週に1度の関係でも、そう悪くはない。

「陛下、どうか、ヒルダ姉さんをお願いします」

「…わ…私はヒルダが好きだけど……」

 三葉がアンネローゼを振り返ると、もともとフリードリヒの皇妃生活をしていたアンネローゼは穏やかに頷いてくれた。争ってベーネミュンデのようになるくらいなら、分かち合う方がいいし、まだキュンメルはスイッチを握っている。この場を治めるためにも三葉は決めた。

「ヒルダ、好きだよ。皇妃になってくれる?」

「……はい、ミヤミズミツハ様」

 二人が抱き合い、そして三葉は重要なことを告げておく。

「皇妃になってもらっても皇位継承は……その…」

「はい、当然にアンネローゼ様のお子に」

 聡明なヒルダは数十年後の争いを避けるために明言したけれど、三葉はヒルダの耳元に囁いた。

「まだ、正式に決まってないけど、皇帝による支配体制そのものを大きく変えるから、そう思っておいて」

「…はい」

「ゴホっ! ゴホっ! グフッ…」

 キュンメルが激しく咳き込み、退場した。その顔は満足そうだった。そっとヒルダがスイッチを拾い上げ、キスリングに渡した。

「陛下を安全な場所へ!」

 三葉はアンネローゼと護送されかけて、ヒルダも呼ぶ。

「ヒルダも来て!」

「……はい」

 皇居へ戻り、しばらくしてケスラーが報告に来た。

「周辺を捜索いたしましたが、ゼッフル粒子は確認されませんでした。起爆スイッチと見せかけていたものも、ただの無線機でした」

「ブラフだったわけね」

「はい。また背後関係も捜索中ではありますが、おそらくは男爵の単独犯かと思われます」

「そう。……私の、身から出たさび、ね」

「…………。この件につきまして伯爵と令嬢の罪状は、いかにいたしましょうか?」

「本人以外も罰されるの?」

「ことは大逆罪となりますれば、一族ことごとく極刑が通例にございます」

「…………」

 三葉が自裁を思い出した。あの部屋でヒルダを見送りたくないし、フランツも気の毒すぎる。いい加減、あの部屋そのものを廃止したい。そして思い出した。

「カストロプのときはフランツさんも、ヒルダも被害者扱いで、親戚でも大丈夫だったはずじゃ?」

「たしかに……、では、巻き込まれ人質にされたということで処理いたしましょうか」

「はい、それでお願いします」

「はっ」

「あと、ゼッフル粒子って誰でも簡単に手に入れられるもの?」

「いえ、ゼッフル粒子規制法によって軍または軍に準じる機関のみ保有が認められておりますが、その軍からの横流し品がございます」

「……腐敗しすぎ…」

「規制を強化いたします」

 ケスラーが退出し、三葉がつぶやく。

「刀狩り令っぽく、ゼッフル粒子も……あと、私兵も問題。……銃規制も……」

 キルヒアイスに伝えるべきことを書き出しておき、それからアンネローゼと二人になって問う。

「本当に、ヒルダを皇妃にしても、いいですか?」

「ミヤミズミツハさんが、なさりたいのであれば、そうなさってください」

 アンネローゼは三葉が、ときどき寝言でヒルダと言うのを聴いていたので、もう受け入れる気でいた。そうなると、三葉は妊娠していて抱き合えないアンネローゼより、ヒルダと夜を過ごしたくなる。警戒厳重な後宮でヒルダと抱き合い、キルヒアイスへ手紙を書いた。

 

 

 

 キルヒアイスは後宮の一室でローブを着て、ヒルダとソファに対面して座っている状況を認識した。ヒルダもローブを着ていて、抱き合った後のように感じられる。

「………」

「ミヤミズミツハ様から、お手紙がございます」

「っ…」

 驚きつつもキルヒアイスは落ち着いて手紙を読む

 

 ごめんなさい、いろいろありました。

 まず、ヒルダの親戚から以前の関係について責任をとれ、と脅迫され、皇妃とする約束をしました。

 その場にアンネローゼもいて承諾してもらっています。

 事件の詳しいいきさつは二人から聴いてください。

 私からのお願いとしても、やはりヒルダを皇妃にしてあげてください。

 前は平民だったかもしれないけど、今は皇帝なので二人くらい問題ないと思いますし、何より勝手ですが、私がヒルダを好きです。

 そばにいてほしい。

 お願いします。

 あと、ヒルダもアンネローゼも、私たちが入れ替わっていたことに、薄々気づいていたようです。

 これ以上は隠せないと思い、話しました。

 ヒルダは可愛いし、そして私たちが考えている方向性にも賛成してくれました。

 とても色々と知っていて助言してくれるし、助かります。

 そういう意味でも、いてほしいです。

 

 さらに手紙は内政について気づいた点などが書かれていた。手紙はドイツ語で書かれていたのでヒルダが見てもわかるようになっている。

「………気づいておられたのですね。フロイラインマリーンドルフ」

「はい」

「……………」

「アンネローゼ様が、お待ちです。どうぞ、行ってください」

「………あなたからも、お話を聞いておきます。今日の出来事を教えていただけますか?」

「はい、では…」

 ヒルダからの説明は三葉の手紙より明晰で必要十分なものだった。それだけでなく内政について三葉が指摘した点を的確に発展して伝えてもくれる。アンネローゼとは政治的な話は一切しないのと対照的だった。

「なるほど、たしかに。その件は財務省へ伝えておきます。いえ、あなたから伝えて……、あなたに何か政務補佐官のような役職を与えることに承諾してもらえますか?」

「はい。喜んで。ですが、皇妃としてお迎えいただけるのであれば、その権限に制約があった方が良いかと存じます」

「……あいかわらず聡明な人だ……三葉さんがいてほしいというのもわかります」

 中将の副官であった頃から性的な関係を除けば有能な人物だと思っていた。こうなってしまった以上、キルヒアイスも覚悟する。

「あなたを女性として愛せるか、どうかは、まだわかりません。それでも男爵との約束でもありますから、……アンネローゼと話してから決めさせていただきます」

「はい」

 ヒルダと別れ、アンネローゼのもとへ急いだ。

「遅くなりました」

「フフ、そんなに慌てて、ジークに後ろめたいことはないのでしょう?」

「は…はい……いえ、三葉さんのことを隠しておりました。申し訳ありません」

 キルヒアイスが頭を下げるのでアンネローゼは愛しく夫の頭を撫でた。

「皇帝陛下が、そのように軽々に頭を下げるものではありませんわ」

「はい。ですが、私はアンネローゼの前では、ただのジークです」

「そうね」

「………フロイラインマリーンドルフの件、どのようにお感じですか?」

「皇妃が一人でないことには慣れています。けれど、私のジークが私だけのものでなくなるのは、少し淋しいわね」

「では、彼女のことは断ります」

「そう結論を急ぐものでもないわ。何よりミヤミズミツハさんとのことの方が重大事ではなくて? ずっと困っていたでしょう」

「はい。ですが、助かっている面も大きいのです。とくにラインハルト様が亡くなられたとき、アンネローゼを救いに行かねば、と動き出してくれたのは三葉さんです。あのとき私が私であったなら茫然自失して何もできず、今のような生活はなかったでしょうから。三葉さんには感謝してもしきれないくらいです」

「そう……そんな風に支えてくださっていたのね」

「はい。………ですが、それも、おそらく、………あと少しで終わるでしょう。三葉さんの死によって」

「………どういうことですか?」

「三葉さんは説明しなかったようですが、あの人は過去の人間です。これは、私とアンネローゼだけの話としてください。三葉さんを好きでいるフロイラインマリーンドルフにも伝えないでください。三葉さんは過去から来ています。そして調べたところ、あと少しで亡くなられる運命にあります」

「っ……それを本人は知っているの?」

「いえ、伝えておりません」

「…………」

 アンネローゼがキルヒアイスを抱きしめた。

「つらかったでしょう、ジーク」

「っ…くっ…いえ……」

 強がって否定したけれど涙が零れた。

「ジーク、泣いてもいいのよ、ただのジークなのですから」

「…はいっ…うっ…くっ…ありがとうございます」

 ラインハルトが亡くなってから、三葉のことを相談できる相手がいなかったキルヒアイスは静かに泣いた。

 

 

 

 三葉は朝起きると、迎えに来てくれた克彦と早耶香に謝る。

「ごめん……行きたくない…」

「そうか」

「また放課後、来るね」

「うん、ありがとう」

 もう一日おきの不登校が慣例になっているので強く誘われることもなく、三葉は朝食を摂る。それから神社の内職をして二階に戻った。

「銀河帝国皇帝陛下、ご入来~ぃ」

 自分の部屋に入るのに自分で宣言して布団に座ると、内政に取りかかる。キルヒアイスからの手紙へ目を通したり、スマフォで調べものをしているうちに四葉が帰ってきた。

「やってるね。お昼ご飯も食べた?」

「うん。ちゃんと内職したよ」

「お姉ちゃんに食べさせてないとき、お婆ちゃんも抜いてたからね。いよいよ、お婆ちゃんの健康の方が心配だったよ。で、内務省は、どうするの?」

「う~ん……迷い中……国造りの最初って、すごい大変……明治政府も昭和憲法も、よく頑張ったよねぇ」

「最初で、だいたい国の運命が決まっていくからね。あ、そうそう。これ、見た?」

 四葉が自由研究を表彰されて俊樹と記念撮影されている姿が載った新聞の地方欄を見せてくれる。

「うっ……あいつ、また目立つことを……これでヒルダの件とチャラね」

「それは、だいぶ違う気がするけど、まあ男だし、そのうち落ち着くかな」

 そう言って四葉も座り、内政に関わった。

 



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25話

 

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で起きると、日付を見て心痛を覚えた。

「あと少しで……三葉さんは……四葉も…」

 鏡を見ると三葉の顔が映る。

「………三葉さんを……助けたい……けれど、歴史は変えられない……。歴史が変えられるなら……ラインハルト様……」

 このままでは朝から泣いてしまいそうなので気持ちを抑えて、女子高生として登校する。克彦と早耶香に合流して通学路を歩く。

「テッシー、私の生理、終わったよ」

「そうか。……」

「今、エッチなこと考えてる顔してるよ」

「お前が、そういう話をモロに振ってきたじゃないか!」

「きゃははは♪ ねぇ、ねぇ。冬になって寒くなる前に、もう一回、どこかの遊園地に行こうよ。三人で。それか、バラバラに二回いく? うん、デートしよ」

「その計画だとオレは同じ遊園地に二回いくのか……」

「そのくらいの責任は取ってもらわないとね。あ、クリスマスは、どうしよ? もちろん、プレゼントくれるよね?」

「考えておく」

「………………っ…」

 あなたたちは、その季節は迎えられないのです、と考えてしまい、三葉の目から涙が溢れてきて止まらなくなった。

「ちょ、三葉ちゃん? ごめん、いちゃつき過ぎた? それとも、学校に行くの、イヤ? やめておく?」

「三葉、大丈夫か。無理なら欠席するか?」

 気遣ってくれる二人が死んでしまうと想うと、止めようと思っても涙が止まらない。泣きながら言った。

「サヤチン、今すぐ、行きたいところに行きませんか?」

「今すぐって……学校を休んで?」

「そうです。サヤチンの行きたいところ、テッシーとお二人で行ってきてください」

「二人でって……三葉ちゃんは、どうするの?」

「私はいいですから。どうか、お二人で」

「………。そんな譲られ方されても……。なら、三人で行こうよ。どこでもいいよ、私は。テッシー、どこか行きたいところない?」

「急に言われてもなァ……」

 普通に登校するつもりだったのに欠席して遊びに行くと言われても克彦も困る。そもそも始発で出発すれば遠くまで行けるものの、終電が早い。今からでは岐阜市さえ遊んでいる時間がないくらいだった。

「弁当もあるし、あの山でも登るか」

 克彦は目についた山を指した。

「そうやね。三人で行くなら、どこでもいいよね」

 早耶香も小学校の頃には登ったけれど、最近は見上げるだけだった故郷の山へ登るのに同意した。三人で山道を歩き、頂上に着いて弁当を食べる。

「いい景色だなぁ」

「うちらの町、小さいね」

「こんなに小さい町だったのですね」

 地図で見たことはあっても実際に見下ろしたのは初めてだった。そして、気づいた。

「……………」

 ここには、すでに2度、隕石が落ちている、あちらの湖と、こちらのクレーター、明らかに戦争による爆撃ではなく、この時代の化学爆弾では、これほどの威力は出せない、そもそも米軍も、こんな田舎町を強力な爆弾で攻撃する意味がない、地形の風化から見ても第二次大戦の爪痕ではなく数百年、いえ、千年以上を経ているかもしれない、と糸守町の地形から読み取った。

「……………」

「テッシー、ここでエッチしてみない?」

「ここでか………まあ、誰もいないしな」

 お腹がふくれた二人は、もともと人口の少ない町の山頂まで来て、まったく人気がないので若い情熱と冒険心が疼いている。

「三葉ちゃん、どっちが先にするか、ジャンケンしよ」

「え……あ……はい」

「ジャンケン、ポン」

「ポン」

 思わず手を出して勝ってしまった。

「…………」

「負けちゃった。どうぞ」

「……ありがとうございます」

 もしかしたら日本の文化で女子高生のスカートが極端に短いのは、このためかもしれない、と思いながら克彦と抱き合った。それから早耶香の番が終わるのを待って下山前に考える。

「テッシー、ここで夕日を見ることはできるでしょうか」

「見ることはできるけど、下山が危なくなるな。せいぜい黄昏時までが限界やろな」

 暗い中を下山するのは危険だとわかる。

「黄昏時まで、ですか」

「待つか?」

「いえ、テッシーと見た夕日は、この胸の中にありますから」

「……」

 克彦はキスをしたくなって、三葉の唇を見つめ、キスをした。

「いい雰囲気になってるところ、悪いけど、私、おしっこしたい」

「あ、オレも」

「………」

 三葉の膀胱も解放されたがっていた。けれど、山道はあってもトイレはない。何もない山頂だった。

「三葉ちゃんもしたいよね。あっち、行こう」

「……はい」

 茂みの中で早耶香と並んで二人で済ませる。地球の大地に三葉と早耶香の小水が降りそそぐ。

「「…………」」

 二人とも不思議な親近感を覚えた。衣服を整え戻ると、立ちションを終えていた克彦が訊いてきた。

「もうエッチしてるのに、それは隠れてするんやな」

「見せられるところと見せられないところがあるの。ね」

「はい」

 色々な想い出ができた一日だったけれど、三葉への手紙には、あまり詳細は書かないでおこうと思った。

 

 

 

 三葉はヤンと対戦していた。麾下にある艦隊はバルバロッサを旗艦としたキルヒアイス艦隊、さらにミュラー艦隊、メックリンガー艦隊、ルッツ艦隊、ワーレン艦隊だった。すでに長期間にわたってイゼルローン要塞の近くに布陣して、嫌がらせのような攻撃をしていた。先走った行動をしそうにないメックリンガー艦隊に命じて、要塞主砲の射程距離外から、小惑星を次々と加速してぶつける、平行してランダムなタイミングで指向性ゼッフル粒子を要塞へ向けて散布してみたりもしている。前線からメックリンガーが通信を送ってきた。

「ご命令通りにしておりますが、すべて迎撃されております」

「うん、それでいいよ。ずっと、続けて、ずっと」

「はっ」

 通信が終わると、三葉は満足そうに微笑んだ。

「落ちぬなら、埋めてあげよう、イゼルローン」

 字余りの句を詠んで紅茶を飲む。

 一方でヤンは辟易としていた。敵襲の報を受けたとき、ちょうど査問会に呼び出されて出港するところだったので、これで査問会に行かなくて済む! と帝国軍に感謝しつつイゼルローンの指令室へ戻ったけれど、引き続く三葉からの稚拙な攻撃にタメ息をついている。

「はぁぁ……まったく、困ったものだ……」

「嫌がらせのような攻撃ですわね」

 フレデリカが紅茶を差し出しながらモニターを見上げた。あいかわらず小惑星が次々とぶつけられてきているけれど、すべて浮遊砲台やミサイルで迎撃できている。大きいものは要塞主砲で対応する場合もあるが、きわめて強力な主砲であるだけに2射、3射の連発には耐えるものの、50回を超えるような連発は設計想定外であり、あまり多用して、いよいよ敵艦隊が接近してきたときに使えなくなると困るので控え目に使っている。アッテンボローが、どうせ出撃命令が無いので、艦を降りて指令室に来ていた。

「なんて腹の立つ、うっとおしい攻撃だ! こっちに十分な艦隊があれば、出て行って蹴散らしてやるのに!」

「アッテンボロー、籠城は基本的に籠もっている側が兵力的に不利であることが戦史の常だよ。出て行って蹴散らせるくらいなら、籠城しない」

「それは、そうですが……クーデターを鎮圧するのに、こちらも、かなり損害が出ましたからね。フィッシャー提督がいてくれれば、もう少し早く鎮圧できたろうし、損害も少なかったろうに」

 かろうじで一個艦隊を保っている要塞駐留艦隊たるヤン艦隊では出撃しても勝ち目が薄い。一度だけアッテンボローが前線にはメックリンガー艦隊しか出ていないこともあり挑戦していたけれど、三葉からの指示通りにメックリンガーは整然と後退して、アッテンボローを左右に布陣しておいた4艦隊で挟撃しようとしてきた。それを逆手にとって狼狽して逃げるふりをして要塞主砲の射程内へ誘導しようとしたものの、どの艦隊も追ってきてくれなかった。そして、アッテンボローが帰港すると、また嫌がらせのような攻撃が延々と続いている。

「誰かが生きていてくれれば、あのことがなければ、それを言ったらきりがないよ。そもそもアムリッツァがなければよかったし、もしかしたら、私がイゼルローンなんて落とさなければ、よかったかもしれない。よくもまあ、半個艦隊でイゼルローンを落としてこいなんて命令を出したものだよ。案外、あのときの上層部の狙いは私に恥をかかせることで、出陣したものの諦めて帰還したところを笑ってやろうとしたのかな……いや、半個艦隊なら、どの提督だって諦めて帰ってきても笑われないだろう。もしかして、死んで来い、ということだったのか。いくら何でも私一人を抹殺するのに半個艦隊の将兵を道連れにさせるのは合わないし。むしろ、フォーク准将のように私自身が絶対に落とせるからと作戦を上層部に売り込んだなら、わからなくもないが………、実際、落とせたからいいようなものの実に不可解な命令だった。査問会といい、理不尽なことが多い」

「行かなくて済んだのは幸いですが、それはそうと、いつまで続ける気なんですかね。このくだらない攻撃を」

「こちらが音をあげるまで……でなければいいけれど。もう一つ、気になることもあるしね」

「それは?」

「今、ここに来ている帝国軍の数は、全軍の約半数なんだよ。もう半数に大規模な作戦行動をさせているとしたら」

「大規模な別働隊といっても、このイゼルローン回廊を通る以外にないでしょう」

「今まではね。どうも以前から、こうならなければいい、ということばかり起こるからさ。そして敵将は、あの追撃の赤鬼だ。もし、ここを引き払って撤退するにしても考えたくない、しつこい追撃をされそうだ」

「ここが落ちることはないでしょう」

「そうありたいね。ジークフリード・キルヒアイス、彼とは会ったけれど、子供のような印象だった」

「二十歳そこそこですからね」

「いや、精神年齢的には10歳くらいかもしれない印象だった」

「……たしかに……この攻撃も…」

 二人が辟易としていると、アレックス・キャゼルヌが計算結果の資料をもって来た。

「計算してみたが、現状の攻撃が続くと、2年半後には、この要塞は落ちるぞ」

「やはり、そうか。敵の狙いは堀を埋めることだったか」

「堀?」

 アッテンボローの問いにヤンが答える。

「古代の城には堀と呼ばれる人工の川みたいなものがあったのさ。防御のためにね。そして攻城戦の常套手段だったのが、その堀をチマチマと埋めることだよ。そうなると城は裸同然になる」

「いや、しかし、そんなものとイゼルローンの流体金属層は違うでしょう? しかも小惑星は迎撃している」

「迎撃はしているさ。大きなものはね。けれど、破片は飛び散る。その一部は降ってくる。そんな小さな破片まで迎撃していられないし、ミサイルは撃てば無くなるし、無くなれば製造もできるが、その材料だって無限にあるわけじゃない。浮遊砲台にも、ときどき散布される指向性をもったゼッフル粒子のおかげで、じわじわと損害が出ている。我々は少しずつ消耗する。けれど、小惑星は無限にある。降り積もった物を工作艦で除去しようにも視界の悪い流体金属層の中で不成形な岩石を取り除くのは難作業だし、いつ次の破片が降ってくるかわからないから危険すぎる。そうしているうちに、チマチマと降ってくる小惑星の破片でイゼルローン外壁は埋まり、大小のハッチの開閉にも支障をきたすし、港湾機能も2年半後には喪失する。文字通り埋められるわけさ」

「うっ……しかし、2年半とは気長な」

「気長だね。けれど、数万の将兵を死なせる作戦に比べれば、一兵も損なわずに要塞を落とせる。2年半、向こうはのんびりと眺めているのだろうね。こちらが音をあげるのを待ちながら。古代の籠城戦でも長期包囲は定石だったよ。たいてい士気が落ちて損害計算上の落城より早く降伏していたりする」

「対抗手段はないんですか?」

「籠城戦に活路があるのは援軍があるときさ。2年半以内に、外の艦隊を蹴散らせるだけの援軍がハイネセンから派遣されてくれればいい」

「ハイネセンにはビュコックの爺さんしか……」

「来てくれても、外の半数にしかならない。これは詰んだな」

「………」

「一応、この計算結果をハイネセンへも送信しておいてくれ。あと、ミサイルの材料と食料も多めに送ってくれるよう。港湾やハッチが使えるうちに兵糧を取り込んでおこう」

 ヤンが長期籠城戦の備えを始めた。

 一方で三葉はオーディンにいるケスラーから超光速通信で報告を受けていた。

「逮捕いたしましたアルフレット・フォン・ランズベルクとレオポルド・シューマッハですが、やはりエルウィン・ヨーゼフ少年を誘拐しようとしていたようです」

「そうですか。よく、やってくれました」

「いえ、陛下が監視カメラを増設せよとお命じになってくださったことと、ヨーゼフ少年の周囲に同じ年頃の子供を集めて生活させておられたことで、二人とも、すぐにヨーゼフ少年を特定できなかったのでしょう。もたついているところをモルト中将が捕らえており、私が成したのは事後処理にすぎません」

 キルヒアイスと三葉が相談し、退位させたヨーゼフを孤児院で普通の子供として生活させようとしたのを、ケスラーが警備上の問題があるといって修正提案し、皇居内に平民の孤児と、リップシュタット戦役で孤児となった貴族の子弟を集めて、生活させていたのが幸いし未然に誘拐事件を防ぐことができていた。ケスラーにも周囲にもヨーゼフを、ただの少年として扱い育てるよう命じてもいる。

「いえ、ケスラーさんのおかげでもありますよ。モルトさんにも、よろしくお伝えください」

「はっ。逮捕した二人は、どのようにいたしましょう。未遂に終わったとはいえ、大逆罪ともなりかねぬ犯行です」

「……。ただの少年を誘拐しようとして大逆罪になりますか?」

「これは、したり。ただの誘拐未遂事件といたします」

 通信を終え、再び戦況を見守ると、イゼルローンの表面上で爆発が起こった。隣に立っているオーベルシュタインがつぶやく。

「これで3度ですな。同盟の生産体制が疲弊しているとはいえ、ミサイル発射直後の暴発が、これほど続くものではない……」

 ミサイルの生産技術は両軍で確立されているので、人が造るものである以上、不良品は存在するものの、それは万に一つもないはずなのに、さきほどから3度も続いていた。オーベルシュタインが不審に思い、詳細を調べさせると、ベルゲングリューンが報告してくる。

「ケスラーシンドロームでした。陛下」

「……ケスラーさんはオーディンにいるはずじゃ…」

 ケスラーさんは優秀だから何か、すごい必殺技でもしてくれたのかな、でも勝手に攻撃しないでほしいな、と三葉がオーディンへ問い合わせようかと思っていると、ベルゲングリューンが否定する。

「いえ、同じケスラーでも憲兵総監殿は無関係です。古い天文学者のドナルド・J・ケスラーが提唱した現象で、我々がカストロプ動乱のおりラパート星でも生じさせております。片付けるのに少々手間を要しましたが、……また、お忘れですか、陛下」

「うん、忘れた。もう一回、説明して」

 もうベルゲングリューンも、ときどき色々なことを丸忘れしていることがあるのに慣れているので説明する。隣にいるオーベルシュタインも今日は三葉であることは、とっくに感じているので、あえて何も言わない。

「ケスラーシンドロームとは主に可住惑星などの重力のある星の軌道上でスペースデブリ、いわゆる宇宙ゴミが一定以上に増えすぎ、お互いに衝突して加速度的に、その数を増す現象です。人工衛星などを無計画に増やすと、お互いに衝突して、そうなりますし、ラパート星の防衛衛星を破壊したおりも、相当のデブリが生じて、戦艦や恒星間旅客艦などの防御措置のある艦では問題となりませんが、惑星の周囲を飛ぶ程度の小型船では大変な脅威となります。当然に、ミサイルも戦艦のような防御があるわけではありませんから、高速で飛来するデブリを受ければ、当たりどころによっては暴発するでしょう」

「………。なぜ、それがイゼルローンで起こるの?」

「我々がぶつけている小惑星の破片がイゼルローンに降りそそぐ場合もあれば、イゼルローンの重力に捉えられつつも落下する軌道とならず、その周囲を回り続ける軌道をとる場合もあり、これだけ大量かつ長期に続ければ、イゼルローンの重力は可住惑星におよばぬものの表面に大気はありませんから減速する要因がなく、ずっと回り続けるのです」

「………つまり、破片が弾丸みたいに、ビュンビュンと表面近くを飛び交っていて、ミサイルを発射すると、たまたま衝突することもあるってこと?」

「そうです」

「もしかして、より攻略が早くなる?」

「はい、計算いたしました結果、敵がミサイル発射装置の損壊を覚悟で発射し続けても、およそ6ヶ月後には要塞を落とせます」

 イゼルローンにミサイル発射装置や浮遊砲台が何台あるかは、増設されていなければ完全に帝国軍も把握しているので計算は現実になりやすい。

「よし」

 キルヒアイスの唇が得意げに微笑んだ。

 

 

 

 キルヒアイスは旗艦バルバロッサから、引き続く小惑星と指向性ゼッフル粒子によるイゼルローンへの攻撃を指揮していた。三葉はランダムに散布させていたけれど、キルヒアイスは敵の心理を探りつつ、より効果的な散布を心がけている。

「さすがですな」

 また浮遊砲台の一つを破壊したのでオーベルシュタインが誉めた。

「…いえ……それほどでも」

 この人も他人を誉めることがあるのだな、とキルヒアイスは思いつつもヤンとの心理戦に集中している。オーベルシュタインがオーディンを介したミッターマイヤーからの戦況報告を読んだ。

「敵の降伏も、そろそろ、でしょうな」

「……甘いと、お思いですか?」

「いえ、人が死なぬのは、よいことです」

「はい、本当に」

 ラインハルト様の死から、この人も変わった、とキルヒアイスは旧友を想った。

 一方で、ヤンは日付が変わるとともに、微妙に攻撃が変化してきたことに気づいていたけれど、対処方法を大きく変える選択肢も無かった。

「…………」

「一度、お休みになってはいかがですか、閣下」

 フレデリカが心配してくれるけれど、同じ攻撃なのに敵から稚拙さが感じられないので指揮席を離れる気になれない。

「急に重圧感が増したな」

「はい、まるで人が変わったように」

「まあ、司令官と副司令官で交代することもあるだろうさ。紅茶をもらえるかな」

「はい、すぐにお持ちしますわ」

 数分後、フレデリカは紅茶といっしょに悪い報告も持ってきた。それが顔色に出ていたのでヤンが気遣う。

「悪い知らせのようだね。気にせず読んで」

「はい。ハイネセンからの情報で、帝国軍がフェザーンを占領し、さらに同盟側へ侵攻してきているそうです」

「………やるかとは、思ったよ。敵の数は?」

 周囲を動揺させないように、あえてヤンは軽く肩をすくめた。それでもフレデリカは激しく動揺している。

「敵の数は5個艦隊、さらに巨大なる移動要塞をもって、と」

「移動要塞だって?」

「はい。ほぼイゼルローンと同じ規模の要塞をワープ可能に改造し、フェザーン回廊から同盟側へ侵攻してきているそうです」

「………はは…」

 シャフトが指向性ゼッフル粒子を開発したとき以上の情熱をもって計画予定より少し早く完成させたドライ・グロスアドミラルスブルクはミッターマイヤー艦隊を本隊として、アイゼナッハ艦隊、シュタインメッツ艦隊、ファーレンハイト艦隊、レンネンカンプ艦隊の5個艦隊と、要塞司令官をケンプとして進んでいた。

「移動するイゼルローンか……これは、また壮大で、もはや反則のようなものを……」

 つぶやきつつ紅茶を啜る。

「うん、美味しいね」

「閣下……」

「ハイネセンから指示はなかったかい?」

「最善と思われる手を打て、と」

「………あるといいね、その手が…」

 そう言いつつも、ヤンはイゼルローンを放棄して、ともかくもビュコックと合流する手段を模索する。

「敵の追撃は、しつこいだろうね」

「陰険なヤツですから」

 アッテンボローが忌々しげに言う。

「今までの傾向だと、我々が脱出するのを素直には見送ってくれんでしょうな。きっと小惑星を投げつけてきたり、ゼッフル粒子を散布したりと、退路もさんざんに邪魔するでしょう」

 シェーンコップも追撃を懸念している。

「いっそ、小官が要塞に残って殿を務めましょうか。さんざんに抵抗してから、降伏いたしますよ」

「………できれば、全員というのは甘いかな」

「甘いですな。少なくとも放棄せず抵抗すれば、あと6ヶ月はイゼルローン回廊で敵の半数を食い止めていられる。その間に、ミラクルヤンなら5個艦隊と移動要塞を、なんとか、できるでしょう」

「こちらは、たった2個艦隊でかい?」

「イゼルローン攻略戦時の4倍ですぞ」

「一度、奇跡を起こすと、次も期待されるから困ったものだ」

 一度目の奇跡に立ち会ったフレデリカが言う。

「閣下、せめて非戦闘員だけでも無事に脱出させる方法をお願いします」

「ああ、そうしたいね。この常に降ってくる小惑星を、どうにかして、その間に」

「要塞主砲を連射して小惑星の攻撃に空白をつくり、その間というくらいでしょうか」

 シェーンコップの提案にヤンも頷いた。

「そうだね。同時に浮遊砲台で退路の安全も確保しないといけない。どこにゼッフル粒子が散布されているかわからないし、小惑星の破片も大小が飛び交っている。実に嫌がらせのような攻撃だよ、まったく」

「弱い物イジメみたいだ。チクショー」

 アッテンボローが右手の拳で左手のひらを打った。ユリアンが何か言いたげにしているのでヤンが促す。

「ユリアン、なにかあるかな?」

「やはり、要塞を放棄することを敵に告げ、追撃を控えさせるか。せめて非戦闘員だけでも追撃しないでほしい、とお願いしておく、というのは、情けないでしょうか?」

「敵の温情に期待するのが、情けないというわけではないさ。むざむざ、何も手を打たないよりは、ずっといい。ただ、ジークフリード・キルヒアイス、彼の人となりがつかめない。帝国では、ずいぶんと温情ある内政を敷いているようだけれどね。領民と敵国民は違う、と判断する支配者も多い。いや、むしろ、それが世の常だ」

 そう言っている間にも迎撃のために発射したミサイルがデブリと衝突して至近で暴発し、かすかな揺れが生じた。

「さて、仕方ない。引っ越し荷物を整理するとしよう」

 できるだけ軽い調子で言ったヤンに通信士官が新たな通信を持ってきた。それを読んでヤンは指揮席に座った。

「閣下?」

「すべては終わった。もう悩むことはないよ」

 ヤンが通信をフレデリカに見せる。

「っ……同盟政府が降伏を受諾………戦闘行為の完全停止……現状を維持せよ…」

「そう。すべてはボクの手を離れた。むしろ、ちょっと嬉しいね」

「同盟政府のヤツら情けなさすぎるだろ!」

 アッテンボローが机を蹴って、逆に足が痛かったけれど、それでもおさまらない。

「こうなったら、我々だけでも、ここで抵抗しよう!!」

「そして6ヶ月後には埋められるのかい? まあ、その時点で降伏すれば、もっと情けないだろうね。掘り出してくれ、と頼まないと。ともかく、戦闘停止! これを通達して」

 ヤンが通達を出すと、小惑星の攻撃も慣性の法則で飛んでくる分を除いて止み、ゼッフル粒子の散布も止まった。そして、キルヒアイスから通信が入ってきた。

「降伏を受諾していただき、ありがとうございます」

「………いえ、……お礼を言われるようなことではありませんよ」

「ヤン提督とは一度お会いしてお話してみたいと思っていたのです、こちらに来ていただけませんか?」

「は…はい。…ですが、一度、お会いしていますよ?」

「………」

 キルヒアイスが恥ずかしそうに目線を伏せた。うっかり会った実感が無いので忘れていたけれど、三葉が捕虜交換のさいに出会っていた。

「失礼しました。そうでした。もう一度、お会いしてみたいと思います。いかがでしょうか」

 礼儀正しく申し込んでくる青年にヤンは好感を覚え、会うことにした。旗艦バルバロッサに招かれ、応接室で対面した。

「ヤン・ウェンリーです」

「ジークフリード・キルヒアイスです」

 二人とも肩書きをつけなかった。そしてキルヒアイスは通信したときヤンの周囲にいたアッテンボローたちの顔が不満そうだったので、降伏文書のコピーを差し出した。

「こちらが、同盟政府に受諾していただいた条件となります」

「これは…」

 ヤンが読み進める。

 

第一条、銀河帝国と自由惑星同盟の戦争を停止する。

第二条、この停止は10年間とし、以後可能な限り、これを更新する。

第三条、双方は現状の戦力比を維持したまま、年3%ずつ軍縮する。

第四条、前条の確認のため、双方に駐在武官をおくこととする。

第五条、銀河帝国は10年以内に議会を設置し、20年以内に帝政を廃止する。

第六条、前条にともない、帝国暦を廃し、西暦を使用する。

第七条、双方は国交の樹立に向け、フェザーンにて交流する。

第八条、双方の境界はイゼルローン要塞から帝国側へ1光時までと、フェザーン回廊に設置するドライ・グロスアドミラルスブルク要塞から同盟側へ1光時までとする。

第九条、銀河帝国と自由惑星同盟の戦争は帝国の勝利であったとする。

第十条、同盟がフェザーン自治領に対して負っていた債務は帝国が引き継ぐこととする。

 

 読み終えたヤンが問う。

「あなたは皇帝をお辞めになるのですか?」

「はい。そのつもりです」

「………それで、どうする、おつもりですか?」

「……………」

 問われてからキルヒアイスは気づいた。国体のことばかり考えていて、自分のことを考えていなかった。

「そうですね。その頃に私は40歳そこそこ……どうするかは、決めていませんでした。軍人しか能がないので、困るかもしれませんね」

「…ははは………皇帝に年金がつくことにすればいいですよ」

「それでは特権階級になってしまいます」

「……たしかに……では、軍役について年金をおつけになれば?」

「なるほど、そうですね。そうします」

 お互いの戦術や前回の邂逅について語ることはなく、しばらく会談するとヤンはイゼルローンに戻り、降伏文書をアッテンボローたちに見せた。

「西暦とはまた……にしても、九条の、帝国の勝利であった、ってのは必要なんですかね?」

「これがないと実質的には同盟の勝利であった、と後世の歴史家は判断するかもしれないね。同盟は領土を失わないし、フェザーンに負っていた債務は、もともとあったもので賠償金ではないし、それなのに帝国は議会を設置して帝政をやめてしまう。この条件を、10個艦隊と移動要塞を差し向けて突きつけられれば、同盟政府も、まいりました、と言うしかないさ」

「…………10年後、また戦争になるってことは……」

「その可能性は低いね。しかも、双方の要塞が………そうか、これはアスターテと似たような終わり方だな」

 ヤンが気づいて三次元モニターに銀河の地図を出して言う。

「アスターテ会戦が終わったとき、2匹の蛇が食い合うようになっていた。それが銀河規模で再現されている。フェザーンの要塞が帝国の頭、イゼルローンが同盟の頭、もし、また戦端を開けば、実に面倒だ。もう、やめておこう、そう思うような形だ」

「とはいえ、彼我戦力差は大きいですよ。龍と蛇くらいに。しかも龍の頭は動く」

「キルヒアイス氏が生きていてくれれば、それはないだろうさ。もしくは、がらりと人が変わるようなことがなければね」

「そういえば、人柄は、どうでした? 結局、子供みたいなヤツでしたか? オレたちの勝利だァみたいな」

「いや……今回は違ったなぁ……とても、まともな青年だった。少し自分のことを考えるのが、後回しになるくらいの」

 ヤンは20年後でも、自分もまだまだ老人ではないので、キルヒアイスと、また会える日もあるかもしれないと思った。

 

 

 

 三葉は自宅で帝国の今後を考えていた。

「もう戦闘は終わってるかなぁ……それとも、しつこく粘って、生き埋めになったり、ハイネセンまでドライ・グロスアドミラルスブルクで攻め込まないと降伏しないかなぁ」

 戦闘の途中だったので続きが気になってしかたない。

「けど、すぐ降伏されてると一回もラインハルト・ロイエンタール・ノルデン砲を撃つ機会がないかも」

 ガイエスハーケンにも新しい名称をつけていた。

「………それにしても、キルヒアイスとの入れ替わり、いつまで続くのかな。あいつが学校に行ってくれなくなったら、ちょっと困るかも」

 今日も学校を休んで家にいたのだった。

 

 

 



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26話

 

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で朝を迎え日付を見て、泣いてはいけないと思っているのに涙が止まらなくて喘いでいた。

「うっ…くっ…うぅっ…」

 明日、この町に隕石が落ちる日だった。

「…明日っ……どうして……明日っ…」

 今まで入れ替わりは連続して生じたことは一度もない。今日、三葉の身体にいるということは、ほぼ必ず明日は三葉は三葉だった。避難させる作戦案はある、実は起爆装置も秘かに造ってはいた、そして半年前の三葉ではなく、今の三葉なら作戦案通りに動いてくれる可能性もある、ガソリンで火傷したりせず町内の空き家を爆破して、予告電話をかける、そのくらいのことができる経験をともに重ねてきた。

「…ぐすっ…泣いて、どうなるものでも……どうせ、私は三葉さんたちを助ける気もないくせに……」

 けれど、宇宙の因果律に触れる気は無かった。

 この入れ替わり現象だけでも相当な危険だと感じるのに、歴史を意図して変更したら、どうなるのか。起爆装置を造っていたのも、結局は自分への言い訳や気休めにすぎず、論理的な思考では助けるつもりは無かった。

「……できないっ……私には……そんな恐ろしいこと……」

 極めて楽観的に考えれば、隕石落下での犠牲者をゼロになるよう避難させれば、犠牲者は出ず日本は対宇宙防衛のミサイル技術開発に乗り出さず、そうなれば核戦争は起こらないか、もしくは時期がずれるかもしれない。その時点で、もう歴史は大きく違うことになる。いずれ人類が宇宙に出るとして銀河連邦が成立するのか、ルドルフが再臨するのか、核戦争の時期が違うだけでも、おそらく歴史は大きく狂う。それさえ楽観的に考え、揺り戻すように歴史が同じ経路を辿り、ルドルフ以外のルドルフのような男が出現するかもしれない。そう考えれば、ラインハルトのようなラインハルトも、アンネローゼのようなアンネローゼも生まれてくれるかもしれないけれど、姉弟ではなく兄妹になっているかもしれないし、キルヒアイスのようなキルヒアイスと出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。楽観を究極に突き詰めれば、核戦争はなく人類は穏やかに銀河へ拡がり、ルドルフも一軍人として生涯を送り、ラインハルトも幼年学校などへ行かず、アンネローゼも幸せに青春を送るかもしれない。

「……そうなれば、私は……ここに来ない……ここにいる私は私………」

 そこまで大きく歴史が変われば、そもそも帝国暦に生きた自分が1583年も遡って、ここにくる現象が生じないし、生じるとしても、それは帝国暦の自分で無くなり、結局、今ここに三葉の中にいる自分がいないことになってしまい、とてつもなく矛盾が生じる。

「……あるいは………私は消えて……」

 それとも歴史を変えた瞬間に自分は消えるのかもしれない、隕石落下で犠牲者は出ず、その瞬間に自分もアンネローゼも銀河帝国も銀河連邦も何もかも消失して、宇宙は2013年からやり直すのかもしれない。それで三葉たちが助かるなら、と、そう考えなくもないけれど、確証もないし不安は巨大すぎる。

「……結局……私は卑怯者……」

 三葉には何度も助けてもらった、三葉がいなければヒルダは死んでいたし、アンネローゼもどうなっていたか、わからない。そんな大きな恩のある三葉を見捨てて、自分は美しい二人の妻と来年には生まれる子供、そして揺るぎない皇帝としての地位を守るのか、宇宙が崩壊するなんて大袈裟なことは起こらないかもしれない、ただ少しずつ歴史が変わるだけかもしれない、もしかしたらラインハルトだって死なずに済んだかもしれない。ただ、ただ、自己保身のために三葉たちを見捨てるような気がして、感極まって大声で泣いた。こうやって泣いていることさえ、心の底で、もう助けない、歴史は変えない、見捨てると決めているから泣いているのだと、自分の卑怯さが嫌になって慟哭する。

「ああああああっ!!」

「朝から何を大声で泣いてるの?」

 戸を開けて四葉が入ってきた。

「また、オネショしたなら私がしたことにしていいからさ…あ? お姉様の方?」

 同じ号泣でも実姉とは品格が違ったので四葉は、すぐに気づいた。

「お姉様、どうして、そんなに泣いて……あ、もしかして、明日、隕石が落ちて私たちが死ぬと思ってる?」

「っ…知っているのですかっ?!」

「安心して。大丈夫、そうはならないから」

「そんなっ…、でも……何が…どうなって……宇宙の因果が…」

「なるほど、そういうこと考えて悩んでくれてたの。それも大丈夫、宇宙がストップしたり壊れたりはしないから。まあ、……若干、一名、一つの世界を途絶させた人が私の姉だったりするけど……まさか、宮水の巫女にとってのタブー中のタブーをやるとは……我が姉ながら…」

「四葉、どうか、教えてください! どうなっているのですか? 四葉は何もかも知っているのですか?」

 縋りつくように三葉の手が四葉に抱きついた。四葉は手で姉の涙を拭いて舐めた。

「何もかもではないけれど、ただの人間よりは色々と知っているよ。とりあえず、泣かなくていいよ」

「ぐすっ…四葉たちを助けても宇宙は崩壊しないのですか? 歴史は、どうなるのですか?」

「さすが、お姉様、ちゃんと慎重に考えてくれてたんだね。その慎重さと注意力をお姉ちゃんにも一欠片でも分けて欲しいくらいだよ。うん、わかった。お姉様なら不用意に誰かに言ったりしないと思うから、全部、教えてあげるね」

「……すべて…」

「う~ん………まず、人間に理解してもらうために、私たちの存在を正確に語る言葉がないけれど、私たちは水に宿る霊、時間に根を張る流体の生命とでも言えるかな」

「…………霊………流体……」

「って、いきなり言われてもわからないよね。とりあえず、お姉様が一番心配してくれてる因果律についてだけど、パラレルワールドっていう概念はわかる?」

「はいっ!」

 その一言で三葉の顔がパッと輝き、そして普段は三葉が触らない押し入れの奥から小さな箱を出してきた。

「四葉、それなら、これを見てください!」

「なにこれ?」

 四葉は起爆装置と作戦案を見せられた。作戦案はドイツ語で書かれていて、オーベルシュタインと入れ替わったときに多少は習得したので読めなくもない。

「……農業小屋を爆破………予告電話………あ~、そういう風に避難させるつもりだったんだ」

「はいっ、これなら誰も死なずに済みます! ガソリンで火傷しないよう、これから私が教えますから、どうか三葉さんと二人で明日、頑張ってください」

「ありがとう。でも、せっかく準備してくれたけど、そんな大袈裟なことしなくても、お母さんが準備しておいてくれるから、大丈夫だよ」

「……二葉さんが……けれど、彼女は……とっくに……」

「そろそろお父さんに知らせた方がいいかもね。あんまりギリギリだと、お父さんも大変だから」

 そう言った四葉は机の上にあった三葉のスマフォを手に取った。

「静かにしててね」

「はい。……」

 四葉は電話帳から俊樹の番号を出して電話をかける。別居していても、父娘なので番号くらいは知っていた。

「おおっ、三葉か。おはよう、どうしたんだ?」

 なかなか会う機会が無い娘からの電話に、俊樹は嬉しそうな声で応対してくる。

「違うわ。あたしよ、トッシー」

「っ……二葉……なのか…」

 俊樹をトッシーと呼ぶのは、彼の記憶の中で一人しかいなかった。

「お久しぶりね。嬉しいわ、ちゃんと町長になって続けてくれていて。まさか、三葉たちと別居してるとは思わなかったけど。まあ、それもいいかもね」

「二葉……本当に二葉なのか……」

「ええ、四葉の身体をかりているけれど、あたしよ。で、二つお願いがあるの」

「ぅっ……二葉が、そう言う時……たいてい難題が…」

 民俗学者を辞めて町長になれ、と遺言で命じられた俊樹の声から恐れが感じられる。

「一つは、明日の夕方、ここに隕石が落ちるの」

「ここって?」

「宮水神社に決まっているでしょ。で、半径500メートル以内に誰一人いないように避難させておいて。避難訓練名目でも、爆破予告があったでも、何でもいいわ。隕石が落ちるなんて言っても誰も信じないでしょうから、そこは知恵を絞って考えなさい」

「隕石って……そんな突然に……」

「ティアマト彗星よ、あれの一部が割れるの」

「……そんなことを信じろと……」

「あたしが言ったこと、今までに一回でも外れたことある?」

「………ない」

「じゃ、その件は、よろしくね。あと、三葉のことなんだけど、あの子、不登校になってるの知ってる?」

「あ、ああ…担任から電話があった。修学旅行から二日に一回くらいしか、登校していないと。最近は、それも休みがちだと」

「理由も知ってる?」

「………いや、…詳しくは……いろいろとウワサは聴くが、真偽も怪しいし、この前、教育委員会から表彰されたときは元気そうにしてはいたぞ」

「校庭で、おもらししたウワサは本当よ。かわいそうにバスが渋滞に巻き込まれて我慢できなかったみたいなの。タイミング悪く、その前にはオネショもしちゃって、ずいぶん学校でからかわれてるみたい」

「そうか……かわいそうに……私が目立つ立場だから余計にだろう……それで、休みがちなのか?」

「ええ、あの子、昔から恥ずかしがりだから。頑張って二日に一回は行っていたけど、もうそれも限界みたいよ。きっと来週からは、まったく行かなくなるから通信制の高校に移籍させて。あと、隕石で、この家も吹っ飛ぶから、三葉は体育館の避難所だと、かわいそうだから、トッシーの家に住ませてあげて」

「うっ…うちにか…」

「若い美人の秘書と同居してるから困る?」

「っ……なっ…なぜ、それを……、い……いや、お前は、だいたい、何でも知っていたな……未来でさえ……」

「全部じゃないけどね。ということで、しばらく三葉を住ませてあげて。代わりに再婚してもいいわよ。トッシーも一人じゃ、淋しいもんね。もう、いいのよ。気にしなくて。ありがとう。じゃあ、また。何か頼みたいことがあったら頼むから町長はできるだけ続けておいてね。バイバーイ♪」

 ものすごく軽く電話を切った。電話一本で隕石の件と、ついでに姉の不登校まで対処しておいて四葉はキルヒアイスとの話に戻る。

「これで隕石は、もう大丈夫。誰も死なないから安心して」

「………そんな……簡単な……」

「そのために、お父さんは町長なんだから利用しないと」

「今、あなたは…二葉さんだったのですか?」

「ううん。演技。でも、お母さんは私の中にもいるから」

「四葉……あなたは、いったい……何者なのですか? 神の使いか……なにか…」

「人間から見れば、半分は神で半分は人間と言えなくもないかな。神さまも色々で、うちの姉みたいなのもいるけど」

「……神が……存在する……」

「神と言っても、全知全能唯一絶対じゃないよ。実体は宇宙人と言った方が近い」

「っ、宇宙人なのですか?!」

「そう、地球外生命体が宮水四葉という人間の身体に寄生してる状態という表現も間違いではない」

「……寄生……」

「怖がらなくても、ミトコンドリアや腸内細菌が害をおよぼさないように、私たちティアマトから来た流体生命体は害はないよ。むしろ、人間に貢献してる。なるべく人間世界の歴史を良い方に導いて、いずれ霊的に高次な存在となってくれるようにね」

「霊……霊や霊魂といったものが存在するのですか? 宇宙人でさえ、信じがたいのに」

「霊や霊魂を、否定するのは、おかしな話だよ、とくにお姉様たちの来た時代の科学なら逆説的に証明さえ、できるくらいに」

「私たちの時代……」

「なぜ、ワープは成人の脳細胞には一切悪影響を与えないのに、妊娠中の胎児には、きわめて悪い影響があるのかな?」

「……その原因は不明です」

「それは唯物論でのみ考えるからだよ。女性の妊娠中に胎児は、だんだんと霊魂を形成していく。なのに、いきなり空間上の位置が変わると、周囲から霊魂を形成するために集めていた形成の材料、かりに霊子と言ってもいいけれど、ワープによって空間上の位置を瞬時に動かされてしまうと、霊子を集めることに支障をきたして形成不全を起こす。霊も、霊だけでは存在が不安定で、よりしろや身体があってこそ安定するからね。ティアマト星系から来た私たちも、そう。ティアマト彗星という母船から、1200年ごとに地球へ着陸して人間に定着してる。まあ、着陸というよりは強行着陸になってるけど。むしろ人間には墜落に見えるかもね。でも、私たちは流体だから平気だし、ティアマト彗星の分轄は一部を凍らせることで割ってるからさ」

「…だから、この土地には、以前に2度も隕石墜落の後が……?」

「そう。さすが、よく観察してるね」

「偶然とは思えない確率ですから……けれど、あなた方はティアマト星系から……来て……いるのですか…?」

「そうだよ。それを偶然だと思った? あの星系に人間がティアマトと名付けたことも。彗星に同じ名を名付けたことも。言葉には霊的な力があるよ。あと、何より私たちも、どこでも好きな時代、好きな場所にタイムワープできるわけじゃない。ワープに制限があるように、タイムワープにも、入れ替わる人との相性や、時脈、辿り行く道の問題もある。まあ、だからこそ、ティアマト星系付近にいてくれたとき、お姉ちゃんが入れ替わりに行って時脈をつなげられたわけだけどね」

「………入れ替わりは……霊が入れ替わっているのですか?」

「脳細胞が入れ替わっていると、思う?」

「……いえ……おそらく質量は時間を跳躍できないのではないかと……」

「うん、だいたい無理」

「霊は信じざるをえない………そうだとしても因果律は、どうなるのですか? 単純にパラレルワールドだとしても、辻褄が…」

「そう、辻褄は大切だね。うちのお姉ちゃんは、その辻褄を無視して、一つ世界を途絶させたからね」

「………三葉さんは、何をされたのですか?」

「まず、パラレルワールドって概念で入れ替わりと時間跳躍をとらえると、つい、世界を数直線のようなイメージで考えるかもしれないけど、そうじゃないの。世界の総体は、この紐のようなものであり、より重層的で多世界が組み合ったものなんだよ」

 そう言って四葉は、三葉の髪を結っている紐を撫でた。組紐は複数の糸で形成され、組み合わさって鮮やかな色を表現しつつ、頑丈さも兼ね備えている。

「紐……」

「一つ一つの世界は、この一本一本の糸のようなもの、そして、寄り集まって組まれて、この組紐みたいに確かな存在になる。世界はね、多世界なんだよ、それをまだ人間は認識できないけれど、いくつも複数の世界が組重なって、世界の総体になる、その世界の総体を私たちは、より良い方にしたい。人間と共生してね。人間は自分がいる、一本の糸の世界だけを見て、それを確かなものだと感じるけれど、そうじゃない。むしろ、一本ずつだと、とても不確かなもの。いつ切れるか、わからない。そうならないよう幾重にも組み合わさり、支え合い、多世界で進んでいくの。まあ、だから、お姉ちゃんが一本ダメにしても、なんとか、なるんだけどね」

「………ダメに……した?」

「まず、お姉ちゃんは一度目…、一度目というと時系列が不確定な多世界で表現に語弊があるから、一本目と言うね。一本目、お姉ちゃんは、そろそろ宮水の巫女として普通は覚醒する時期なのに、ぜんぜん目覚めず、何も気づかず、予感も予知夢も見ず、思いっきり隕石の直撃を受けて私たちごと死ぬの」

「…………その延長が私たちの世界?」

「そう! さすが、お姉様! その通り。隕石落下で犠牲者が出て、核戦争、銀河連邦、銀河帝国、そんな殺伐とした世界になったのも、私たちが干渉できなくなったことも大きい。私たちは唾液や、おしっこを介して世界全体に拡がってはいるけれど、大本は宮水の血筋にあるから、それが絶えると、とても影響力は弱くなる。それでも修正方法はある。けれど、二本目! これの方が大問題だった。もう修正もきかない」

「…………」

「二本目で、お姉ちゃんは、一応は入れ替わりに目覚めて3年先を知る機会を得たのに、ぜんぜん隕石落下の情報に触れようとしない。というか、3年先であることさえ、何度入れ替わっても気づかない。曜日だって違うのに、どういう頭をしてるのか、同じ時間だと思い込んで、しかも使命感も何も感じず、ただただ東京で遊んでバイトして、男の子の身体であることを楽しむだけなの!」

「………」

 三葉がヒルダと遊んでいたことを思い出した。

「で、このままじゃ、また死ぬ! ぜんぜんダメって状況だったんだけど、なんとか入れ替わり相手の男の子、立花瀧が気づいてくれて、私たちを助けようと動いてくれた。けれど、未来から過去に干渉するのは、とても難しい。それでも最後の最後、究極の奥の手として用意してある口噛み酒に辿り着いてくれて、かなりドタバタな感じに終わったけど、なんとか隕石で犠牲者が出るのは防いでくれたの」

「……よかった…」

「ここまではギリギリよかった。ギリギリ。けれど、なんと! お姉ちゃんはタブー中のタブー、辻褄をメチャクチャにする行動に出た! なんと、入れ替わり相手に会おう! 会って声をかけよう! むしろ彼氏にしたい!! という、とんでもない行動に出て、わざわざ東京で就職までして、何年も何年も! 探し回った。で、あげくに、とうとう出会うはずのない二人が出会って、声までかけてしまうの!」

 四葉は話しながら興奮してきている。半分は人間であると言っただけに、やはり家族である実姉の所業に思うところが大きいようだった。

「……それが、いけないことなのですか?」

「ダメダメだよ。多世界といっても辻褄は重要なのに。世界が重層的であるために、それに口噛み酒を飲んで糸と糸の区別が、より不明確になっているために会ってしまうリスクが生じていて、けれど、ちゃんと論理的に考えれば、助けに来てくれた立花瀧は一本目のお姉ちゃんたちが死んだ世界の立花瀧、なのに二本目の生きているお姉ちゃんと会うなんて超危険! 本来は会わないはずの二人が出会って、声をかけたら、その時点で、その先は無し! その世界は途絶! たった一言、君の名は。そう問いかけた時点で、そこで終わり! タイムパラドックスを起こして、世界の糸は途絶する。ごくごく単純に考えて隕石落下で宮水三葉が死んだという情報に触れた立花瀧が、助かった宮水三葉に出会うわけがないんだよ。なのに、世界の総体が重層的な多世界であるために、そして宮水の巫女と、口噛み酒を飲んだ者であるために、出会ってしまうこともありえるの。それでも、幽霊のように黙ってすれ違っていてくれれば、世界の糸は保たれる。なのに、出会って、君の名は。とまで因果律に干渉して声をかけられると、もう世界は糸の軸を保てない。そこで終わりの終止符。こんな風に、お姉ちゃんは二本目の世界を途絶させてしまったの」

「………では、いま、ここに四葉といるのは三本目なのですか?」

「そう。フォローの三本目。三本目の西暦2013年から、一本目の西暦3599年に干渉してるの。一本目で、その先に殺伐とした未来をつくってしまったフォローとして、お姉ちゃんと私が頑張らないといけないの。私は無理して早めに覚醒したから、きっとお母さんみたいに人間としては早く死んでしまう。私たちも人間の個性が色々であるように力にバラツキもあるの。お姉ちゃんは連続で、しかも24時間も入れ替わっていられるところは、すごいんだけど、使命感とか、人間としての注意力とか、思考の方向性とか、そのあたりが残念だったし、お婆ちゃんは前時代に十分に働いたんだけど、その分、もう人間でいう痴呆症みたいなもので、もう世界の総体の紐を見ることもできないし、その記憶も薄れてる。そもそも、宮水の巫女は多くが一人娘だったのに、お母さんが無理して二人目を産んでくれたのも、なんとなく理由がわかるよ。お姉ちゃんを産んでから未来を感じて、この一人じゃ危うい、と思ってくれたんだよ」

 四葉は長い話を終えて軽くタメ息をついた。

「はぁぁ……お姉ちゃんは、この三本目でも、数々のことを、やらかしてるけどね……どうして、あの人は、こっちを選択するかなぁ、って選択を………。まず、テッシーと素直に結ばれればいいのに、友情と優柔不断と性欲で3Pとか、始めるし。もともと、幼稚園の頃にお母さんがお父さんをトッシーって呼んでるのを真似して、勅使河原克彦をテッシーって呼び始めて、私この人のお嫁さんになる、とか言い出して男児をその気にさせたくせに。そもそも、最初の入れ替わり後に無理しないでバケツに、おしっこすれば、その後のおもらしルートも回避できたし、入れ替わり相手に丸一日我慢なんて過酷なこと強いたりするから終電でも漏らすし」

「っ…」

「あ、ごめん。これ、テッシーと二人だけの秘密だったね。うん、忘れとく」

「……お願いします…」

「あげく修学旅行で大失敗して不登校になるし。旅館でのオネショだって夜中のうちに布団とか旅館の人に相談して片付ければ全員爆睡してたんだから、なんとでもなったし。校庭でのおもらしなんか自爆以外のなにものでもないし。口噛み酒を造るだけで恥ずかしがってた人が、おもらしなんかしたら、そりゃ学校いけないよ。そもそも二本目から何度も何度も一本目の立花瀧と入れ替わってたのに、どうやったら3年先だって気づかずに過ごせるんだろう。ちょっとくらいニュースでも見れば、糸守町の隕石落下なんて大ニュース、触れないわけがないのに。どうせ、彼のスマフォでも、くだらないことばっかり見てたんだろうなぁ。宮水の巫女の力は、彼氏をつくるためでも、入れ替わった先で彼女をつくるためでもなく、ささっと未来の情報を集めて活かすものなのに。だいたい感情移入するほど何度も何度も入れ替わるものじゃないのにさ。それでいて、他人の批判は一人前以上なくせに、自分は打たれ弱い現代っ子だし」

 もう大筋を語り終わり四葉が一人言のようにつぶやいているので、キルヒアイスは半分は神のような存在だという四葉に是が非でもお願いしたいことがあった。

「四葉にお願いがあります!」

「……」

「四葉が神さまに近い存在なら、どうか、ラインハルト様を生き返らせてください! いえ、死ななかったことにしてください! お願いします!」

「……それが可能だと思う?」

「お願いします! どうか、どうか! ラインハルト様のいらっしゃる未来を!!」

「そのために自分が死ぬ、としても?」

「っ……かまいません!!」

「さらに、ヴェスターラントの犠牲者に数倍する死者が出るとしても?」

「……………まさか……ラインハルト様が、過ちを繰り返すようなことは……」

「繰り返すよ。ただ、ヤン・ウェンリーに勝ちたい、それだけのために何百万の人命を損ねる。何より、アンネローゼさんを笑顔にできるのはキルヒアイスの存在のみ、彼女に灰色の生涯を送らせるのがいいか、数人の子供と、その数倍の孫に囲まれて、にぎやかに過ごさせるのがいいか、あなたに、あなたの未来を教えるのは語りすぎかもしれないけれど、アンネローゼさんとヒルダさんは、とても仲良くうまくやっていくし、皇帝を退いた後も、あなたが生きているうちに大きな戦乱が起こることはない。そもそも、そう修正することが私とお姉ちゃんの使命だった。さらには、ラインハルトはアンスバッハに殺されなかったところで、ほんの数年の寿命しかない。これは不可避な寿命。そして、その数年で屍体の山を築く。カイザーラインハルトは戦を嗜む、そう評されるけれど、嗜むなら、酒か女である方が、ずっとマシ。さあ、それでも、ラインハルトを生かしておきたい?」

「……………………」

「そろそろ登校の時間だよ。そして、今日が最後、もう二度とお姉様が、ここに来ることはない。隕石の件は大丈夫。もう何も心配しないで、ただの女子高生として一日をおくって。出席も、どうでもいいよ、どうせ早退するだろうし」

「………四葉………本当に、色々ありがとうございました」

 四葉に頭を下げて通学路に出ると、克彦と早耶香に出会った。

「おはよう、三葉」

「おはよう、三葉ちゃん」

「っ…はい…おはようございます。テッシー、サヤチン。…ぅっ…」

 二人の顔を見て、涙が零れた。二人は死なない、これからも元気で生きていてくれる、けれど、もう会えない、もう二度と会えない、その安心と離別の感情で涙が溢れて止まらない。

「三葉……無理なら今日も欠席するか?」

「そうだよ、無理しないで休む?」

「いえっ…今日が最後…いえ、何でもありません。…うぅっ…今日は学校へ行きたいです。行っておきたいっ…だから…」

 そう言って涙を拭きながら歩き出すので、克彦と早耶香は心配しながらついていく。泣きながら歩いていると、からかわれた。

「おジョー様、目が、おもらししてるよ」

「きゃははは! 朝からボロ泣きじゃん。またオネショしたの?」

「お前らなァ! いい加減にしないと、女でも殴るぞ!!」

 克彦が怒鳴って本当に殴りそうな勢いでいると、三葉の手が克彦の手をつかんだ。

「テッシー! やめてください! かまいませんから! どうか、静かに登校したいです!」

「お…おう……三葉が、そう言うなら……」

「手をつないで……。……サヤチン……今朝は……テッシーと手をつないで歩いても、よろしいですか?」

 人目があるところでは早耶香が克彦の恋人ということで過ごしていたけれど、今日だけは手をつないで登校したかった。濡れた三葉の瞳で懇願されて、早耶香に断るという選択肢は生まれなかった。

「ええよ。たまには」

「ありがとう、サヤチン」

 つかんでいた克彦の手を握り直した。

「「…………」」

 二人とも初めての手をつないでの登校に照れと幸せを感じた。ただ、それを見た同級生たちは不思議に思う。たしか、克彦と早耶香が交際していたはずなのに、泣きながら手をつないでいるのが三葉で、早耶香は三葉の隣を歩いている。どうなったら、そうなるのだろう、という強い疑問が生まれる。おかげで、おもらしのことをからかわれることはないけれど、注目はいつも以上だった。そして、最後の朝のHRを終え、一時間目を克彦と離れた自席で授業を受けていると、もう我慢できなくなった。

「テッシー……今日、一日いっしょにいたいです……」

 休み時間になって、そう克彦に告げた。それから早耶香に謝る。

「サヤチン、お願いです。どうか、今日一日、テッシーと過ごさせてください」

「……いいよ、どうぞ」

 泣きながら頼まれて断る気になれなかった。了承すると、三葉の両腕が早耶香を抱きしめてきた。

「ありがとう! サヤチン! サヤチンのことも大好きです! あなたに会えて良かった!」

「ちょっ……いきなり、何よ…」

 突然に抱きつかれて泣かれて、それでも早耶香も想うところもあって、つられて涙が流れた。嫉妬しないように、争わないようにと心がけていても、一人の男と二人で付き合っているのは感情が高ぶりやすい。早耶香も抱き返して囁く。

「私も大好きよ。これからも仲良くしようね」

「っ…ぅっ…くっ…」

 その、これからが存在しないので、涙が止まらない。それでもチャイムが二人の抱擁を解いた。

「テッシー、どうか、わがままをお許しください。あの夕日を見た丘に、いっしょに行きたい!」

「お…おう! わかった。どこでも、付き合うぜ!」

「「「「「……………」」」」」

 クラスメートたちが公然と早退しようとする二人を茫然と見ている。なにが、なんだか、わからない、勅使河原って名取と付き合ってたよな、という疑問が渦巻く。克彦と二人で教室を出ようとして、振り返った。

「みなさんも! 今日まで、ありがとうございました! さようなら!」

「「「「「?? ……………」」」」」

 さらにクラスメートの疑問が深くなり、そして数人は背筋に氷柱を刺されたように冷たい恐怖を覚えた。

「「「っ……」」」

 やばい、からかい過ぎた、イジメ過ぎた、死ぬ気かもしれない、という恐怖だった。思い返せば、修学旅行からイジメまくった、おもらしとオネショのことで、美人で巫女で町長の娘というクラスメートを何度もからかい、イジメた。イジメではないように見せかけていたけれど、自殺されると絶対にイジメと認定される気はする。しかも相手は権力者の娘で、教育委員会も徹底的な調査をするだろう、否定しても他のクラスメートは証言するに違いない、やばい、超やばい、警察沙汰になるし、最悪は逮捕、全国ニュースにもなるかもしれない、ネットに加害者の実名を晒されるかもしれない、何より町長である父親も子供のケンカで済むうちは自重して出てこないとしても娘が自殺したら鬼神となって荒れ狂うに違いない、小さな町で町長に睨まれて生きていくのは大変だし、親が生活保護世帯だと余計に怖い、と三葉をイジメていた一部の生徒たちが真っ青になっている。

「み…宮水、もう、からかわないからさ!」

「そうよ! 宮水さん! ごめんね! ちょっと、しつこかったよね!」

「て、勅使河原! 優しくしてやれよ! ずっと、ついていてやれよ!」

「勅使河原くん、どうか、お願い! フォローしてあげて!」

 三葉の立場で考えると、おもらしとオネショのことで学校ではイジメられ、親友との恋争いにも敗れて、克彦と早耶香が付き合い始め、もう何も生きる望みが無くなったと思い込んでも仕方ない気がする。今日一日だけ克彦を貸してもらった後、ひっそり一人で自殺する気かもしれない、そんな恐怖で、とにかく克彦に頼んでいた。克彦が三葉の肩を抱きながら言っておく。

「お前ら、もう三葉をイジメるなよ!」

「わ、わかってる!」

「うん、もう、からかわない! ごめんね、宮水さん!」

 自殺されたくない一心で謝っているクラスメートたちを克彦は睨んでから三葉の手を引いた。

「行こう、三葉」

「はい」

 二人で早退して、あの丘まで行った。いっしょに弁当を食べて、静かに過ごして、ときおりキスをして、そして時間は刻一刻と流れて日が傾き、夕日になる。夕日のまぶしさと、もう会えなくなる悲しさで、また涙が流れた。

「……三葉……、もう、そんなに泣くなよ……」

「はいっ……ごめんなさい……せっかく、二人でいるのに……泣いてばかりで…」

「………。まさか、あいつらが考えたみたいに……自殺する気じゃないよな?」

 克彦も、それは少し心配だった。クラスメートへ、ありがとうございました、さようなら、と言い、早耶香へは、会えて良かった、などと言った。それに克彦にもフタマタ継続という、とんでもないことしている自覚も実はある。罪悪感もあったりする。

「三葉……オレは三葉が好きだ。お前が苦しいなら、……サヤチンとは、もう……終わりにしてもいいんだ。いや、終わりにしよう。オレは三葉だけが好きだ。だから、死のうなんて絶対に思わないでくれ。な、三葉」

「テッシー……………」

 勘違いされていることに気づいた。

「テッシー、それは誤解です。私は死のうなんて、思っていません。サヤチンとのことも今は結論を出さないでください。私が……私は……」

 三角関係が継続するにせよ、結論が出されるにしても、それに自分は干渉してはいけないとわかっている。ただ、もう克彦に会えなくなるのが悲しかった。

「…私は………私は……もう……ぅっ…ぅぅっ…」

「そんなに泣かれたら、心配になるじゃないか。どうしたんだよ? 何が、あったんだよ? 問題はイジメだけじゃないよな? サヤチンのことでもないなら、何だよ?」

「……………」

「三葉、言えないことなのか?」

「…………」

 言いたい、言ってしまいたい、嘘をついたまま、克彦と別れたくない。もう二度と会えないし、もう二度と起こらない現象なら、もう言ってしまっても問題ない、と思った。

「私は………自殺したりしません。……でも、……もう……今の私は……もう、テッシーと会えなくなります……」

「ど……どういうことだよ?」

「私は、本当は宮水三葉では……ありません。実は……ときどき、三葉さんと心が入れ替わっていた別の人間です」

「っ……マジ……で?」

「はい」

 まっすぐに三葉の瞳が見つめてくると、克彦は信じた。もともと月刊ムーなどを愛読しているので超常現象へのシンパシーは普通の高校生より、はるかに強い。そして、やはり毎日のように三葉へ接していて、本当の三葉と今の三葉が、ずいぶんと性格も品格も違うことは気づいていた。最初は町長選挙のために、お嬢様として振る舞っているだけかと思っていたけれど、細かい記憶に齟齬があったりもするし、布団の上で抱いていて本当に同じ三葉なのか、疑問に思うことも多かった。むしろ、別の人間だと言われると、すべて納得するほどだった。

「そうか……そう、だったのか」

「ごめんなさい……騙すようなことになって…」

「いや、いいよ。心が入れ替わるなんて……そんな現象……すぐに信じないし、言えないだろう。……町長選挙のとき、くらいからか?」

「はい、そうです。そして、もう今日で終わりです。だから、もうテッシーと私はッ……会えなくなる……ぅっ…ぅっ…」

 三葉の目が涙を流すと、克彦も悲しくなって泣いた。

「そうか……。……オレは君のことも好きだった」

「っ…テッシー!」

 三葉の身体が抱きついてきた。

「三葉……違う……、君の名は?」

「ジークフリード・キルヒアイスですっ」

 三葉の唇が名乗り、克彦は微笑んだ。

「キルヒアイス、キレイな名前だな」

 そう言って克彦は三葉の身体を抱きしめた。いまだにアンネローゼとヒルダはミヤミズミツハを女性名とは思っていないし、克彦もジークフリード・キルヒアイスを男性名とは感じなかった。

「キルヒアイス、もう会えなくなるのか。外国にいるのか? どうすれば、会える?」

「もう……絶対に会えません。私は別の世界から来ているのです」

 四葉の話からすると、会えないし会ってはいけないし、それでなくても1500年もの時を隔てている。いっそ、別の世界と言った方がいいくらいだった。

「そうか……会えないのか……くっ…くっ…」

 絶対に会えないとわかると克彦の悲しみも深まった。それは死ぬのと、同じ意味合いさえある。たとえ、それぞれに先の人生があるとしても、もう絶対に会えないなら、お互いにとって、それは死に近い離別だった。

「キルヒアイスっ」

「テッシーっ」

 感極まって二人が抱き合い、キスをする。

「キルヒアイス、この丘でオレが告白したときも、キルヒアイスだったんだな?」

「はい……ごめんなさい……黙っていて」

「もう、いいよ。オレはキルヒアイスだって好きだ」

「ああ、テッシーっ! 大好きです! 私もテッシーが大好きです!」

「キルヒアイスっ! オレもお前が大好きだっ! キルヒアイスぅぅ!」

 抱き合って何度もキスをして、そのうちに夕日が沈み、暗くなってしまった。前回に来たときより日没時間が早いので、ゆっくりと歩いて駅に向かった。静かに二人で手を握り合って、時間が流れなければいいと想いながら電車に乗った。

「あと、どのくらいキルヒアイスは三葉の中にいられるんだ?」

「夜の12時までです」

「……まるでシンデレラだな」

 そう言って、もう電車の中なのもかまわずに抱きしめてキスをした。まわりの乗客が高校生の若さを、微笑ましく想ったり、煩わしく思ったりしている。糸守町に着き、手を握り合ったまま、宮水家まで戻った。

「……離れたくない……最後まで、いっしょにいてください」

「ああ、そうしよう」

 帰宅していることは四葉に伝えて、宮水神社の境内から星を見上げた。もう、はっきりとティアマト彗星が見える。明日にも再接近するはずで、分裂するはずだけれど、それについては四葉の言葉を信じているので、もう案じていない。克彦が髪を撫でてくれた。

「別の世界から来たか。会えて、よかった。キルヒアイス」

「はい、私もテッシーに会えて、よかったです」

 またキスをして抱き合う、もう会えないと想うと何度キスしても足りないし、9時、10時、11時と残り時間が着実に減っていくと、もう神社の境内であることも忘れて制服を脱いで抱き合い、避妊具を使うのも忘れて、一つになっていた。もともと、宮水神社の境内は夜中になれば、庭ようなもので誰も来ないし、つい先日も山頂で交わった二人は最後の時間を情熱的に過ごした。

「ああっ……大好きですテッシー、愛しています」

「オレもだ。愛している、キルヒアイス」

 あと数秒だった。

「「さようなら」」

 二人とも涙を零しながら、別れた。

 

 

 

 三葉は観光気分で旗艦バルバロッサから海王星を見ていた。手紙で同盟政府との和平が成立し、その直後から地球に向かっている状態だと説明されている。

「たしかに、今現在の地球は見てみたいよね」

「陛下、ビッテンフェルト提督から通信が入っております」

「メインスクリーンに映して」

 すぐにビッテンフェルトの姿が映し出されたけれど、顔色が悪かった。やや青白いのに、頬だけが興奮しているように赤い。

「どうしたの? 大丈夫?」

「はっ」

 さらに、敬礼している手の小指と薬指が途中で切断されていて無い。

「その指……」

 まさか、また何か大失敗でもして、ヤクザみたいに指を落としたのかな、でも、そんな文化があるようには思えなかったけど、と三葉が変な心配をしていると、ビッテンフェルトが自らが説明する。

「陛下が地球へお越しになる前に露払いをと、ミッターマイヤー元帥より命を受け、地球の安全を確認しに接近していたのですが、艦橋に潜り込んでいた賊にナイフで斬りつけられ、毒が塗ってあったものですから、かすり傷だったのですが切断しております。お見苦しきところ恐縮です」

「賊って……」

「御安心ください。調べましたところ、地球教徒なる者どもであり、すでに本部を叩き潰しております!」

「そ…そう……それなら、いいの、かな…」

 同盟軍との最終戦闘に留守番を命じられて不満が溜まっていたビッテンフェルトが指まで斬られて、どれほど激怒して苛烈な攻撃をしたのか、明らかに鼎の軽重を問われるような艦隊攻撃をしたんだろうな、と三葉は思った。

「地球教徒どもの目的も計画も不明でしたが、もはや山脈ごと消滅しております。何も案ずることはありません」

「そ…そう……山脈ごと……。体調は、どう? 顔色悪いけど、大丈夫? 毒は、どうだったの?」

「ご心配いただき、ありがとうございます。毒など、とうに免疫ができております! 何ほどのこともありません。指も2本ばかり、武人の勲章にすぎません」

「……。お大事に」

 免疫ができてないから指を切断したんじゃないかな、と三葉は余計なことを考えたけれど、皇帝として部下をねぎらうことを優先する。

「無事でよかったです。ビッテンフェルト提督の武功も、八百万の黄昏に参加した提督たちと同じほどに評価しますね」

「はっ! ありがたき幸せ! ……ですが、もう戦闘は無いのでしょうか?」

「無いことを祈ってください」

 やっぱり参加させなくてよかったよ、絶対イゼルローン方面でもフェザーンから侵攻させても、同盟政府の返事を待たずに戦端を開きそうだもん、と三葉は一人の戦死者もなく大作戦が終わったことに安堵しつつ、通信を終えた。そして、バルバロッサの艦橋から、そろそろワインでも飲みたいな、と思いながら土星を眺めている。

「あ~あっ……ヒルダも妊娠しちゃうし。いっしょに、お酒も飲めないし、ワープもダメらしいから連れて来れないし、また一人だよ」

「酒なら、お付き合いしますぞ、陛下」

 ベルゲングリューンが言ってくれる。

「いいね、いいね」

「……」

 オーベルシュタインが何か言いたそうに時刻を見た。まだ、予定では三葉自らが艦隊指揮を執る時間帯ではある。キルヒアイスがキルヒアイスである場合は、皇帝という覇者たる立場にしては低姿勢に過ぎたけれど、三葉である場合、低姿勢な上に軽姿勢で、しかも同盟軍と和平が成立したことで完全に遊び気分になっているのを、そろそろ諫言すべきかと考えている顔だった。

「わかってますよ、あと10分は勤務時間ですもんね」

「おわかりいただけ幸いです」

 オーベルシュタインに頭を下げられたけれど、三葉は叱られたようにしか感じなかったし、それが実体だった。そこへ、ケスラーからも通信が入ってきた。ケスラーは敬礼して話し始める。

「ビッテンフェルト提督を襲った地球教徒なる者どもですが、目的は陛下の暗殺にあったようです。その前に地球へ接近していたビッテンフェルト提督を、まずは害そうとしたようです。ビッテンフェルト提督より連絡を受け、オーディンおよび他の星系でも捜査いたしましたところ、相当数の教徒をとらえております」

「ご苦労様です。これは大逆罪?」

「当然に」

「ですね、その方向で、よろしくお願いします」

「はっ」

 ケスラーは簡潔かつ明瞭に報告し、引き続き捜査する旨を述べて通信を終えた。三葉はヒマそうに艦橋から太陽系内の宇宙空間を眺めていて、一つの小天体を見つけた。

「あれ、何かな?」

 一応は皇帝の質問なのでオーベルシュタインは手元の操作端末機で調べて答える。

「ティアマト彗星なる彗星です」

「ふーん……あれが……意外と地味」

「………」

 オーベルシュタインは操作端末機で彗星の詳細を見て、変わった彗星だな、と感じた。記録では1200年周期で地球に接近しており、しかも386年前の西暦3213年と、さらに2013年と、813年と紀元前387年に毎回毎回分裂して地球へ隕石となって落下しているとあった。

「…………。陛下、何をされているのですか」

 そのことを説明しようかと思っていたら、三葉が彗星に向かって大きく手を振っていたので、覇者として不格好なので質問の形で注意した。

「ん? なんとなくだよ、なんとなく」

「………」

 まるで仲間でもいたかのように手を振った三葉へ、何か言う前に勤務時刻が終わった。

「終わった♪ さ、飲みに行こう」

「行きましょう、陛下」

 ベルゲングリューンと艦橋を出て行く。オーベルシュタインはキルヒアイスから、もう、それほど入れ替わりは続かないはずと聞いていたので、あまり皇帝が部下と親しげに飲むな、と言うのもやめることにした。三葉はビューローも誘って、低重力訓練室を出入り禁止にして3人で飲みながら、成人雑誌を回し読みする。ビューローはベルゲングリューンほどの愛飲家ではなかったけれど、成人雑誌のコレクションはベルゲングリューンを上回っていた。

「「「主砲斉射3連! ファイエル!」」」

 おじさんたちと酔っぱらって飛距離を競い合い、笑っている。

「さすが、陛下! お若いですな!」

「あ~っ! 気持ちよかった! 男って最高! 女もいいけどね!」

 最後のキルヒアイスとの入れ替わりを気持ちよさそうに終えた。

 

 



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27話

 

 キルヒアイスは低重力訓練室でベルゲングリューンとビューローの三人で酒盛りをしながら、成人雑誌を回し読みしていた状況を認識しつつ、涙ぐんだ目尻を拭いて軍服を整えた。

「飲み過ぎたようです。お先に失礼します」

「「……。はっ!」」

 皇帝になっても気安く飲んでくれるものの12時になると、急にテンションが変わるのにも二人とも慣れてきていたので、皇帝になっても低姿勢なままの皇帝に敬礼した。キルヒアイスは酔ったまま艦橋にあがるのはやめて、居室で艦隊の運行状況を確認すると、一人で眠った。朝になり、いよいよ地球の上空に到達していた。

「陛下自ら、おいでになるおつもりですか」

 オーベルシュタインに問われ、申し訳なさそうに答える。

「わがままに過ぎますが、お願いします」

「………。ご同行いたします。それに、護衛も完全装備で、陛下にも装甲服をお召しになっていただきます」

「はい」

 地球教の本部はビッテンフェルトが壊滅させたものの、そのビッテンフェルト自身もナイフで毒傷を負っているし、オーディンでさえ地球教が蔓延っていたとの報告がケスラーからあがってきているので、キルヒアイスは暗殺を防ごうとしてくれる周囲に感謝して頷いた。そもそも、同盟政府と和平が成立した後、地球へ行きたいと言い出したこと自体が、完全な個人的なわがままで皇帝たる立場の濫用だという自覚は持っている。それゆえ、バルバロッサ単艦で向かうと言ったのに、安全のためにキルヒアイス艦隊全体で向かうことになり、それに先立ちミッターマイヤーが首都で燻っていたビッテンフェルトを露払いに派遣したところ、思いもかけない地球教徒からの襲撃を受けているので、たとえ本部を消滅させていても油断するという選択肢は近衛たちにも無い。キスリングが言ってくる。

「おそれながら、装甲服をお召しになっていただけるのであれば、陛下が陛下であるとわからぬ方がよろしいかと存じます」

「そうですね。では、少佐クラスの装甲服を用意してください」

「少佐ですか……せめて将官では?」

「私の年齢では将官は不相応でしょう」

「……。はっ」

 キルヒアイスは近衛兵たちだけにわかるマークを付けた佐官向けの装甲服を着用してオーベルシュタインとともに岐阜県飛騨地方へ降り立った。すでに核戦争から1560年も経過しているので放射能の影響は薄れ、緑溢れる地域であることは変わりないし、幸いにして名古屋や大阪のような都市部ではなかったために直接の攻撃目標ともなったことがないようだった。

「まるで戦禍に巻き込まれない地域を選んで降りたように……」

 日本そのものが地球史において国際的な戦争が少なかったし、また国内戦においても岐阜県飛騨地方は、ほとんど戦禍に遭っていない。歴史の先々を見通す目があるとしか思えない選定だった。オーベルシュタインが西暦3213年に隕石が落ちて形成されたクレーターを見て言う。

「やはり、この地に集中的に落ちているようですね」

「そのようです」

 かつて糸守町だった地域には4つもの隕石落下痕らしき地形が残っている。その三つ目である宮水神社へ直撃した隕石痕に近づいたときだった。

「ようこそ、お姉様。それとも皇帝陛下の方がいいかな?」

 風のように現れた少女がキルヒアイスの前に立っていた。そして少女は巫女服を着ている。

「なぜ、私だとわかったのですか……いえ、あなたなら、わかるのでしょうね」

 キルヒアイスは装甲服の面鎧をあげた。キスリングたちと同じ装甲服姿なのに、一目でわかること自体、もはや人外の技だった。けれど、キルヒアイスは少女の顔を見て違和感と既視感を覚えた。

「……サヤチン…」

「違うよ。私の名は、名取那耶香」

「ナヤカ…、……名取早耶香の子孫なのですか?」

「残念ながら、名取早耶香も、この一本目では死んでいるの。あの日に」

「……では、あなたは?」

「サヤチンさんの姉妹の子孫だよ。顔が似てるでしょ」

「たしかに……」

 少女の物言いと雰囲気は四葉そのものなのに、顔立ちは早耶香に似ていて、キルヒアイスは違和感と既視感の正体に気づいて納得した。

「ここの、みなさんは無事に暮らしているのですか?」

「それなりにね」

 少女が水田を指した。もともと山地で平野が少ないけれど、ところどころに水田が見られる。神社も再建されていた。

「よかった………」

「美しい地域ですな」

 オーベルシュタインも、しみじみと言って見渡している。

「二人とも、わざわざ確かめに来てくれて、ありがとう。じゃ、これをお願いね。最終の内政提案書」

「「………」」

 渡された和紙にはドイツ語で内政についての提案という名の命令に近い指示があった。キルヒアイスが目を通す。

「……宗教法人として地球教を認可して残党を、ゆるやかに監視…………他に、ルドルフ真理教を用意して、主神をルドルフとして、現在の爵位を戸籍から外し、一宗教法人内の資格とすること……宮内庁を独立行政法人を経て、NPO団体としてからルドルフ真理教へ編入………同盟領土内の日本教についても同様の扱い……。信仰の自由を広く認めること……。地球の自然環境の保全のため出入りを制限……歴史学的研究および生物学的研究を優先……。わかりました。そのようにいたします」

「よろしくね」

 少女は土産に1トン近い白米と、唾液は混ぜていないよ、と言い添えた日本酒7樽を村人たちに用意させて送ってくれた。そして、バルバロッサが宇宙へと離陸していくのを見送りながら気づいた。

「あ、そっか。あのとき三葉様にはブラスターがあったから、ラインハルトを助けることもできたかもしれないのか………ホント、三葉様はダメだなぁ………けど、やっぱり、ラインハルトがいても戦乱が……うん、今がベストだね、今が」

 そう言って赤毛の皇帝を見送った。

 

 

 

 三葉は宮水神社の境内で克彦に抱きしめられていることに気づいた。それから自分が靴下しか身につけていないことにも気づき、克彦と何をしていたのか察した。

「…………」

 こんな状況が、もし入れ替わりが始まった直後だったら自殺したかも、と思いつつ、もう処女でも童貞でもないので、克彦に微笑みかける。まだ、ベルゲングリューンたちと男ばかりの軍隊生活らしい遊びをしていた余韻が残っていた。

「もう一回やれる?」

「………キルヒアイス?」

「あ……あいつ、話したの。まあ、それでもいいかな。もうキルヒアイスじゃないよ、私、三葉」

「……三葉……なのか?」

「そうだよ。お楽しみだったみたいね。……あ! ゴム使ってないでしょ?!」

 三葉は避妊具を使った痕跡が無いことに気づいた。

「妊娠したら、どうしてくれるのよ?!」

「ご…ごめん、つい…」

「なんてね。そろそろ生理だし、きっと大丈夫だよ。私も一度、ゴム無しでやってみたかったの。もう一回、やって」

 そう言って三葉が脚を拡げて、男のように腰を振ったので克彦は、もう君は居なくなったのか、と思い知り、そして7歳の頃からの10年の恋が急速に冷めるのを感じた。ほんの数瞬前までの貴婦人のような少女と、なんだか男っぽくなった三葉が本当に別人だったのだと思い知らされる。とくに夏休み明けからは、いっしょに長く過ごしていたのはキルヒアイスの方だったのだと、わかってくる。もしかしたら、オレが好きだったのはキルヒアイスだったのかもしれない、とも想った。

「テッシー、早く、もう一回やろ」

「……ごめん……もう勃たないし……疲れたから……」

「う~っ…私は、ぜんぜん気持ちいい記憶が無いんだよ……」

「家まで、送るよ」

「また、自分一人で……あ~あっ…」

 三葉は家に送ってもらい、入浴してシャワーで遊んでから布団に入った。そして秋祭りの日なので早朝から四葉が準備していることには気づいたけれど、布団から出ないことにした。お昼過ぎになって早耶香が訪ねてきた。

「三葉ちゃん、まだ寝てるの?」

「……どうせ、起きたら、祭りに出ろって言われるもん」

「あのね。昨日、クラスのイジメしてた人たちにも、あのあと、ちゃんと約束させたの。もう、絶対に三葉ちゃんを、からかわないって」

「…………」

 あのあと、って、どのあと、かな、と三葉は手紙もなかったので状況もつかめず、早耶香への返事に困る。

「だから、もう大丈夫だよ」

「……………ヤダ……そんなこと言って、サヤチンまで私に祭りに出ろって言うの?」

「お祭りは…………イヤなの?」

「絶対ヤダ! 町の人たちだって、みんな来るんだよ?! みんな、私のおもらし知ってるのに!」

「…………そうだよね……イヤだよねぇ………」

 早耶香は布団を撫でてから立ち去った。しばらくすると、町営放送が避難を呼びかけ始めた。早耶香の姉の声で高校へ避難するように告げている。

「避難……? なんで、お祭りの日に……」

 不思議に思っていると、四葉が二階へあがってきて巫女服姿で問う。

「お姉ちゃん、避難しないの?」

「…………」

「避難した方がいいよ。リュックサック一つ分くらい、想い出の品とか、大事な物を持って」

「………あ、わかった! そういう作戦なんだ! そういう謀略ってわけね! 町営放送まで使って、私を家から出そうって!」

「……………」

「そんな手に引っかかるもんか! 絶対お祭りは出ないからね!」

「お祭りは無いよ。避難するから」

「じゃあ、どうして四葉は巫女服を着てるの?!」

「これは、これで別に必要だから」

「私は絶対、着ないからね!! もう絶対に巫女なんかしないから!!」

「…………………そんなに巫女でいるのイヤ?」

「イヤ!!」

「…………どうしてもイヤ?」

「イヤっ!!!」

「……………ごく普通の女の子になりたい?」

「……うん、なりたい」

「わかったよ、お姉ちゃん。一つだけ言うことをきいてくれたら、今後、巫女の仕事は全部、私がしてあげる。もともと宮水の巫女は一人が基本だしね。いいよ、私が全部、やってあげる。お姉ちゃんは、ごく普通の女の子として自由に生きて。この町を出て行ってもいいし」

「…………四葉………いいの? ………全部、………四葉に押しつけちゃうことに……」

「そう、したいんでしょ?」

「……………もう巫女……ヤダもん」

「いいよ、巫女、辞めて」

「………でも、一つだけ、って何?」

 三葉が警戒気味に訊くと、四葉は穏やかに答える。

「私と5分間、キスして」

「っ…………本気?」

「それだけで、あとは全部、私がしてあげるよ」

「……………」

 三葉が迷う。ヒルダやアンネローゼとはキスをしたけれど、そのときは男の身体だったし、そもそも血のつながりがない。実は早耶香あたりとなら一回くらいキスしてみようかな、という余計な好奇心も持っていたりするけれど、さすがに実の妹には何の興味もない。むしろ、はっきり言って気持ち悪い。とくに夏休み前頃には四葉に唾液を舐められたりした記憶も鮮明に残っている。やっぱり、この子はガチなんだ、そういう系の人なんだ、と三葉は思った。

「……………」

「どうするの? お姉ちゃん」

「………………その一回で、……一生、巫女やらなくていい?」

「いいよ」

「…………………キスって軽いキス? 舌とか、入れる?」

「入れるよ。お姉ちゃんの唾液を一滴残らず吸い出す感じ。お姉ちゃんは私にすべてを捧げるイメージを強くもって。うまくいけば5分で終わるから」

「…っ…っ…」

 三葉は寒気がした。どうやったら、肉親に、そんな欲情がもてるんだろう、と三葉は気持ち悪いと思うと同時に、あわれにも想った、どうして、この子は男を好きにならないんだろう、よりによって姉の私、かわいそう、ちゃんと異性を好きになれたら、可愛い顔してるからモテたのに、ううん、案外、同性でも好かれたかもしれない、けど、何も実の姉を、そういう対象にしなくてもいいのに、と哀れんだ。

「どうするの?」

「………」

 けれど、もう巫女はやめたい。もう二度と町民の注目を浴びる舞台には立ちたくない。もともと、ずっとやめたくて仕方なかった。とくに口噛み酒はイヤだった。

「……………巫女……やめたい」

「じゃあ、口を開けて」

「………」

 三葉は身震いしながら口を開けた。

「そう。そのまま、唾液をいっぱい出すの。そして全身のすべてを私に捧げるイメージをもって。それで、終わるから。早く終わるように、ちゃんとイメージしてね」

「……うん…」

 口を開けたまま、鼻声で返事した三葉の唇へ、四葉の唇が吸いついた。

「ぅぅ……」

「…………」

 強く吸ってくる。口の中の唾液も、あたらしく湧いてくる唾液も、どんどん吸われる。言われた通り、全身を捧げるイメージをもつと、さらに大量の唾液が溢れて、それを四葉に吸われる。長い長い、今まで誰としたよりも長く感じるキスが、ようやく終わった。ぐったりと三葉は身体から力が抜けた。まるで男の身であったときに成人雑誌を見ながら一日に何度も遊んだり、午前中にヒルダ、午後からアンネローゼ、そして夜にはまたヒルダという至福の一日を送ったときのように、身体から何かが抜けていった気がする。

「…ハァ……ハァ…」

「うん、これでもう、お姉ちゃんは、ただの女の子になったよ」

「……ぅぅ……」

 気持ち悪い、と三葉は口元を手の甲で拭いて、布団に潜り込んだ。実の姉にキスしておいて、ただの女の子になったよ、と言われて、これ以上に何かされるとイヤなので三葉は布団を丸めて防御する。布団を球状にして要塞形態になった。

「もう、いいでしょ! 早く出て行って!」

「いいけど、避難しないとダメだよ」

「キスだけでいいって言った!」

「………それと、これとは…」

「もう何もしない! 何もさせないから!!」

「お姉ちゃん………あのね、そこにいると死んじゃうよ?」

「………そんなウソついてまで、何が目的なの?!」

「ウソじゃないよ。放送では詳しく言ってないけど、ティアマト彗星が落ちてくるの」

「ウソだッ!!」

「……本当だよ?」

「私は未来でティアマト彗星を太陽系内で見たもん! 落ちるはずない!」

「それは母体部分で、今回落ちてくるのは3回目の分だよ」

「意味不明! もう、四葉の言うこと何も信じない!! 巫女は絶対やめるからね!!」

「………やっぱり、バカな姉」

 一瞬、四葉は苛立った顔を見せたけれど、次の瞬間、深い哀れみと強い悲しみの表情になった。

「そっか。わかったよ。好きにして、お姉ちゃん」

「……………」

「さようなら、お姉ちゃん。……小さい頃、いっぱい遊んでくれて、ありがとう」

 そう言って四葉は涙ぐむと、三葉のタンスを勝手に開けて形見分けでも受けるように下着と靴下を巫女服の懐へ入れた。姉の衣類を懐に入れる妹を見て、三葉も深い哀れみと強い悲しみを抱いた。

「「…………」」

 どうして、この子は、こうなんだろう、かわいそうに、という目でお互いを見つめ合った。しばらく見つめ合って、もう一度、四葉が悲しそうに言った。

「さようなら、ありがとう、お姉ちゃん」

「…………」

 四葉が出て行くと、とても静かになった。

「………歯磨きしよ」

 朝から洗顔もしていないし、長い妹とのキスをしたので歯を磨きたくなった。布団の要塞を出て、そっと一階に誰もいないか気配を探る。祭りの日なので氏子や当番など、どんどん人が出入りするはずなのに誰もいない気配だった。

「…………」

 寝間着のままでは人に出会うと恥ずかしいので、とりあえず制服を着て巫女服を着る意志は無いことを表しつつ、降りて顔を洗った。

「はぁ……お腹空いた」

 ちゃぶ台を見ると、お菓子が置いてあった。四葉の字で、食べていいよ、とメモがある。

「いただきます」

 お菓子を食べながら、冷蔵庫を開けて牛乳を飲む。誰も来ないおかげで一階で寛げる。のんびりとテレビをつけてみた。

「ご覧ください。ティアマト彗星が美しい尾をひいております」

「ほら、落ちてこない」

 そう言って二つめのお菓子を食べる。不意に棚にあったはずの家族写真が無いのに気づいた。

「どこにやったのかな?」

 俊樹と二葉も写っている、五人そろった貴重な家族写真が見あたらないし、二葉の遺影も消えていた。

「…………なんで、こんなに静かなんだろう……お祭り、本当に無いのかな……」

 あまりにも周囲が静かなので、少し不安になった。そっと玄関から外を覗いてみる。

「………………誰もいない…」

 祭りの日なので、すでに屋台が設営されて、そろそろ人が増える時間なのに、誰一人いなかったし、屋台も設営されていない。

「……………」

 靴を履いて玄関から出てみた。

「………すごい……静か……」

 町に誰もいないように静寂だった。車の音さえ聞こえないし、世界中から誰もいなくなったような気がするような静寂だった。

「時間が止まってるみたい……」

 もともと人口の少ない町だけれど、今日は賑やかになるはずなのに、まったく人の気配がない。けれど、遠くを見ると高校の校庭に大勢の人と車が集まっているのに気づいた。

「避難……本当に、してるんだ……した方がいいのかな……」

 そう感じたけれど、あんなに大勢の町民が集まっているところに顔を出したくない。

「……どうせ、大丈夫……。彗星は……」

 神社の境内から空を見上げた。

「……割れてる…」

 ティアマト彗星が分裂して、その一欠片が、こちらに向かってきている気がする。

「…………直撃コース……」

 戦場で培った感覚が、音速の数倍で落下してくる隕石が大気との摩擦で、どんなコースを描いて進行するか、わかった。ぐんぐんと隕石が迫ってくる。

「……ヤダ………私…死ぬ…」

 三葉は久しぶりに小水を漏らした。

 ジョーぉ…

 我慢の限界で漏らしたのではなくて、恐ろしくて力が抜けて失禁したので、速度と躍動性には劣るけれど、さながらアメーバのような動きで生温かさが下着の中に拡がり、すぐに滴って落ちる。黄昏時の陽光を反射して、キラキラと宝石のように三葉の小水が地面に落ちて染みこんでいる。ちょうど、ここに隕石が落ちてくる、そんな気がして一歩も動けなくて腰が抜けそうになった。ブルブルと震えたせいなのか、月経まで始まった感触あって下着が汚れた。

「………ひぃっ……」

 私、ここで一人で死ぬんだ、避難しなかったバカな女子高生として死ぬんだ、ラインハルトさんみたいに死体も残らないような死に方するんだ、と三葉は避難の呼びかけを舐めていたことを後悔して涙も零した。隕石は、まっすぐに、まるで神社の鳥居が着陸ビーコンであるかのように向かってくる。

 タララッタララッ♪ タッタ、タンタン♪ タッタ、タンタン♪  タッタタァーンタンタン♪

 スカートのポケットに入れてるスマフォが鳴った。ほぼ無意識で女子高生の反射的な動作としてスマフォを出して電話を受けた。

「走れ!! まだ間に合う!!」

 着信音は早耶香からのものだったけれど、四葉の声が響いてきた。

「コンビニの裏まで!! 走れ!!」

「っ!」

 抜けそうだった腰に力が入って走り出した。

「ハァハァ!」

 通りまで駆け下りると、ちょうど乗りやすい位置に自転車が置いてあって、鍵もかかっていなかった。それに飛び乗って必死に漕ぐ。立ち乗りしてスカートが捲れあがって汚してしてしまった下着が丸見えになるのも気にせず、コンビニを目指した。

「ハァハァハァ!」

 コンビニの裏へブレーキもかけずに突入した瞬間だった。

 ドゥ!!!

 轟音と爆風が背中を通り過ぎていき、その余波で吹っ飛ばされる。

「キャァ?!」

 自転車ごと転がったけれど、擦り傷くらいで済んだ。

「ハァ…ハァ……ハァ……た、……助かった…」

「はい、お姉ちゃん、人が来る前に着替えて」

 爆風を電柱の影でやり過ごした四葉がショーツと靴下、ナプキンを巫女服の懐から出して渡してくれた。

「……ぐすっ……四葉ぁ……ありがとうぅ…」

「着替えたら、あと少しだけ手伝ってくれると、嬉しいかな」

「……はい」

 三葉はコンビニの裏で汚した下着と靴下を脱ぐと、四葉が差し向けてくれたビニール袋に入れて、新しい物を着けて四葉に従って宮水神社へ戻った。神社にはクレーターができて、その中心に隕石がある。三葉はコンビニの裏に四葉が用意していた立て札と杭、大きな金槌をもって、まだ表面が熱い隕石に近づいた。

「四葉、こんなに近づいて大丈夫なの?」

「平気だよ。でも、お姉ちゃんは隕石に触らないようにしてね」

「うん……」

「ここに、その杭を打って立て札を掲示して」

 四葉の腕力と体格では大仕事になる杭打ちを姉に頼むと、隕石に触れて囁いた。

「ようこそ、地球へ」

 そして隕石から染み出していた液体を舐めると、振り返って近づいてくる自衛隊のヘリコプターを見た。すぐに降下してきた隊員が、隕石調査のために接近してくると、響き渡る朗々とした声で告げる。

「これなる御石は当社の御神体である!! 触れること一切まかりならぬ!! これは勅命なりっ!!」

 立て札には813年に嵯峨天皇より受けた書状があり、近づいてきた隊員たちは顔を見合わせ、堂々と所有権を主張する四葉への対応に困り、結局は宮内庁が書状を真正であると確認すると、余人に触れさせること無く、守りきった。

「四葉、あんな書状、どこにあったの?」

「いつも口噛み酒を奉納してる御石様の裏だよ」

「………私は何も知らないんだね………ごめんなさい」

「いいよ。やっぱり一人っ子より、小さい頃に遊んでくれる人がいた方が楽しかったから。きっと、お母さんもそれを考えてくれたのかもしれない。ごめんね、お姉ちゃん、何回かイラっとして、ひどいこと言って。これからは二人以上の子供を産んで、そのうち一人を選ぶことにするよ」

 そう言って四葉は過ぎ去っていくティアマト彗星の本体を見送り、なんとなく三葉は敬礼した。

 

 

副題「君の名は。はそこで終わり、だから終止符。」

 

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28話

 

  エピローグ

 

 

 

 西暦3634年、キルヒアイスは50歳を過ぎて自宅に招いたヤン夫妻との茶話会を終え、見送っていた。

「また、来てください」

「はい、そうさせていただきます」

 ささやかな茶話会ではあったけれど、両者ともに退役したものの要人ではあるので、そばにいたキスリングが目線で部下に命令してヤン夫妻を宇宙港まで送るよう伝えた。ヤンたちの姿が見えなくなると、オーベルシュタイン退役元帥が地上車で訪ねてきた。

「お久しぶりです。オーベルシュタインさん」

「はい。急な相談ごとにのっていただき、ありがとうございます」

「どうぞ、中へ」

 二人で応接間に入ると、ヒルダとアンネローゼも茶器を用意し直して現れた。ヒルダを見てオーベルシュタインは鞄から新しい義眼を出した。

「まだ試作段階ですが、6万色の義眼アダプターへも接続可能な25万色の新義眼です。お試しください」

「ありがとうございます」

 礼を言ったヒルダは新義眼を試してみた。

「まあ……すばらしいですわ。まったく自然に見えるくらい……」

「片眼義眼の奥様に、そう言っていただけると開発者も喜ぶでしょう。それに、お二人とも、これほどキレイな人だったのですね」

 自身も新義眼を装着しているオーベルシュタインに今さら誉められると、今まで、どう見えていたのか、少し気になったけれど、それは問わないことにする。二人とも年相応に老けてはいるけれど、いまだ美しさと気品は保っていた。そして新義眼についてが本題ではないので、少し談笑してからオーベルシュタインは相談に入った。

「実は私ごとですが、結婚しようかと思っているのです」

「それは……おめでとうございます!」

「「…おめでとうございます!」」

 三人とも意外だったし、年齢の問題もあるとわかっていたけれど、まずは祝辞を述べた。

「ですが、二つばかり問題があります。一つが解決しそうなので思い切って婚約したのですが……」

 迷っている男へ、ヒルダが問う。

「まずは解決しそうな問題とは何でしょう?」

「私の遺伝子の問題です」

「「「………」」」

 たしかに、それは大問題だった。オーベルシュタインが、どのような遺伝性の疾患で生まれつき両目が見えないのか、三人とも詳しくは知らないけれど、結婚に際して問題になることはわかるし、むしろ、この年齢まで結婚が遅れたことも当然だと同情した。もともと人を人とも思わぬ彼の若い頃の言動も、人が人に見えなかったのかもしれないし、恋や結婚という道も完全に諦めていたからかもしれない、とさえ想える。

「ですが、この問題は劣悪遺伝子排除方法が発明されたことで解決しそうなのです。これをご覧ください」

 オーベルシュタインは新技術を説明するパンフレットを見せた。そこには微小粒子に指向性を与えるナノマシン技術と、超微小ワープ技術の組み合わせによるDNA再編纂技術の説明があり、故人であるシャフト博士と、いまだ天才医師の名を轟かせているルパートの写真があった。

 

 このブリーフを装着すれば、睾丸内の劣悪遺伝子を確実に排除!

 生まれつきの障害のある人も、婚期の遅れた人も安心!

 シャフト粒子に使われている軍用技術を医療へ転用し、DNAを変換します。

 今まで体外受精しか方法がないと諦めていた人に朗報!

 ワープ技術の天才シャフト博士が残した理論をもとに、超微小ワープを行うことで体外から睾丸内の精子DNAをピンポイントに編纂!

 さらにルパート医師がデザインした理想的なDNAへとコーディネイトされます。

 

 ヒルダが不安になって問う。

「この技術は信用できるのですか?」

「すでに類人猿で成功しており、ほぼ実用段階です」

 オーベルシュタインの説明に、キルヒアイスも頷いた。

「今日の平和があるのもシャフト氏の貢献が大きいですから大丈夫でしょう」

 ゼッフル粒子に指向性を与えたことといい、巨大要塞のワープを成功させたことといい、シャフトへの評価はキルヒアイスの中でも高かったし、戦後社会でも賞賛されていた。

「では、今ひとつの問題とは何でしょうか?」

 ヒルダが促すと、オーベルシュタインは迷いつつも語る。

「相手と、かなり年齢差があること。それに、知人の娘であることです」

「その知人とは?」

「ケスラー氏です」

「「「………」」」

 ケスラーが、かなり歳の離れた若い娘と結婚したことは三人とも知っていた。その二人の娘となると、さらに若い。キルヒアイスが問う。

「おいくつの娘さんなのですか?」

「17歳です」

「……」

「ケスラー氏は反対されるでしょうな……」

 オーベルシュタインが諦め気味に言うと、アンネローゼが告げる。

「結局のところ、お二人の気持ち次第です。年齢差など、気持ちのあるなしに比べれば、ささいな問題に過ぎませんよ」

「「「…………」」」

 わずか15歳で皇妃となり、その相手が老齢のフリードリヒであったアンネローゼが言うと説得力が大きかった。オーベルシュタインが立ち上がり、一礼した。

「ありがとうございます。相談して、よかった」

 決断した男を見送り、午後からは三人でオーディンの商店街へ出た。すでに皇帝の座から退位して15年近くが過ぎている。退位後の10年は、さすがに政治的な要人として扱われ、厳重な警護も受け、また政治的な判断について意見を求められることも多かったし、控えてはいたものの、判断を下す方が良いと思われることには忌憚なく意見を伝えていた。それでも10年を過ぎると、もともとは庶民に過ぎなかったキルヒアイスを皇帝扱いすることは減り、政治的な判断もいまや議会がくだしていた。おかげで商店街へ出ても、キスリングたちが遠巻きに警護しているだけにすぎない。キルヒアイスはコーヒーを買ったついでに、キスリングの分も持って声をかけた。

「いつも、ありがとうございます」

「いえ、任務ですから。恐縮です」

 辞退するのも失礼になるし、今まで何度も差入れを受けているのでキスリングはありがたくコーヒーに口をつけた。すでにキスリングも要人警護につくには年齢的に盛りを過ぎている。それでも着任しているのは、それだけ安全であるという事情もあった。

「そういえば、いよいよ、キスリングさんの所属も独立行政法人近衛師団から、民間警備会社に衣替えされたのですよね」

「ええ、まあ…」

 あまり反応が良くないので重ねて問う。

「なにかありましたか?」

「理事長が、あのシャフト氏の子息でして。やや強引なところがありますね。社名も少々問題を感じます」

「どのような社名に?」

「警備会社としては平凡なのですが、ご自身の名を冠されて、シャフト・セキュリティ・サービス、通称SSSと」

「……少々、強引ですね」

 キルヒアイスは二人の妻が仲良く商店街を歩いているので、キスリングと歩くことにした。街頭の三次元モニターが自由化された民間放送を流している。

「栄えある第一回シャフト平和賞を受賞されたヨブ・トリューニヒト氏です!」

 三次元モニターに高齢の男が、よぼよぼと杖をついて現れたので、キスリングは思い出した。

「この受賞、陛下は辞退されたのですよね?」

「もう陛下はやめてください」

「すみません。つい。キルヒアイスさんは辞退されたとか?」

「あの財団はシャフト氏の遺産をもとにラング氏が理事長をされていますから、かなり旧帝国よりの財団です。いっそ、第一回は同盟側である方が良いでしょうし。皇帝であった私に賞を与えるというのも鼎の軽重を問うようなものです。何より、これ以上の肩書きはほしくない。そういうことです」

「変わりませんね、あなたは」

 キスリングが再びモニターを見上げた。

「ヨブ・トリューニヒト氏へ、ルビンスカヤちゃんとドミニクちゃんから花束の贈呈です」

「「………」」

 二人とも思い出したくないことを思い出した。

「あのアイドルユニット、一見して17歳に見えますが、我々より年上のはずですよね」

「ええ。……それに片方は、もとは男性です」

「………」

「フェザーン占領時の条件が、ご子息の病院経営について広く自由を認めること、という内容でしたが、最近ではDNAへの編纂技術を駆使して、脳細胞以外は若返らせることに成功したそうです」

「………見た目は可愛らしいですが、こういった受賞の場に贈呈役とは………差別する気はないのですが、本当に17歳の少女が抜擢されるものではないのでしょうか」

「そうですね。あまり、いいウワサは聞かない。金銭での裏取引がある、と」

「そのあたりはフェザーンらしいやり方が変わらないのですね……見た目が少女でも………。たしか、ご子息のルパート医師は、もともとは第一志望であった政治経済系の大学に落ちて、第二志望だった医学部で才能を発揮したとか」

「人間、わずかなことで大きく人生が変わりますね。さきほど、ヤンさんとも話していたのですが、西暦1900年頃に現れた独裁者も第一志望であった美大が不合格であったことから政治方面で活躍するようになったと」

「独裁者ですか………とはいえ、技術の進歩で誰でも17歳の少女になれるようでは、かのルドルフ大帝が、退廃した銀河連邦の文化を憂いて、強制的に文化の方向性を決めたのも、わからなくもないですね」

「……たしかに……」

「それに、すっかり艦隊戦は旧時代のものになってしまいましたね」

「そうですね。シャフト氏が移動要塞の開発に成功してから、もはや戦艦は戦力たりえなくなり、ごく少数の海賊狩りに駆逐艦が製造される程度で、軍の主力は移動要塞が基本になったようですね。これもヤンさんが言っておられたのですが、弓から銃へ、歩兵から戦車へ、火薬から核兵器へと、兵器にイノベーションが起こったように旧来の艦隊戦が意味を成さなくなるのは歴史の常だと。そして、そういったイノベーションが起こる前夜には、旧来の軍人は自らが不要になる本能的な恐れから、新しい兵器を過小評価しがちだと。たしかに、八百万の黄昏までは諸提督も、巨大な移動要塞を無用の長物、巨艦巨砲主義の産物などと言い、私も半信半疑でしたが運用してみると、内部に工場もある移動要塞は補給線の心配も激減し、同盟政府への威圧効果も抜群で、さらには、これからの銀河未開発域への進出に最適なようですから。時代は変わったのでしょう」

「未開発域への探索に向けて新たに建造されるものをシャフト級というそうですが、その防御力の高さから、今まで危険宙域とされていた銀河腕へも向かえるそうで…あ、そろそろ、奥様方のところへ戻られた方がよさそうですよ」

 キスリングが夕食の材料を決めるのに、ヒルダとアンネローゼが夫の意見を欲している目をしていたので促した。キルヒアイスは妻たちに駆け寄ると、パンよりもライスが食べたいと言ってメニューを決め、そのまま三人で街を歩いた。

「………」

 不意にショーウィンドウへ飾られた赤いドレスが目に留まった。真紅のドレスはルビーを溶かしたような赤色で、赤毛と同じような色合いだった。どことなくデザインの感じがバルバロッサに似てもいる。

「……………」

「ジーク、それを着てみたいのね」

「っ…いえ、まさか!」

「フフ」

 アンネローゼが微笑んでヒルダへ視線を送ると、ヒルダも微笑んだ。

「これだけ長く連れ添った夫が、どんな寝言をつぶやいているか、知らないとでも思うのかしら」

「ええ、寝ているときのジーク、とっても可愛いですよ」

「………」

「「まるで女の子みたいに」」

「………」

 初めて妻の笑顔を怖いと、感じてしまった。

 

 

 

 西暦2040年の元旦を三葉は東京のアパートで一人で迎えていた。テレビが正月らしい面白くない番組を流している。

「2040年開けましておめでとうございます!」

「……何もめでたくないし……」

 世界は核の炎に包まれることもなく、ごく普通の正月を迎えていた。こたつに入ったまま三葉は冷蔵庫へ手を伸ばすと、お茶を出して飲み、ミカンを剥いた。東京の家賃は信じられないほど高いので、ごく狭いアパートに住んで節約していた。おかげで、だいたいの物が立たずに取れる。

「………疲れたぁ……」

 ほんの一時間前までコンビニでアルバイトしていた。正月休み時期なので時給が少しだけ高いけれど、気分的にとても疲れた。

「…………」

 今年で44歳になる。

「…………」

 あの隕石落下の日から、俊樹の家に引き籠もった。

「…………」

 何度か、早耶香が学校へ誘いに来てくれたけれど、やっぱり学校へは行きたくなかった。そうしているうちに通信制の高校を紹介されて、そこで高卒資格を取った。

「…………」

 克彦とは自然消滅した。やはり父親がいる家には来にくいらしく、そして三葉が外に出ないので会うことがなくなり、メッセージのやり取りも自然と無くなった。二人が自然消滅したので早耶香と克彦が自然成立しているし、2020年頃に結婚したらしい。

「…………」

 ごく普通の女子高生にはなれなかったけれど、ごく普通の女子大生になろうと、一浪して得意だったドイツ語学科のある大学に入った。一年次は成績優秀だった。けれど、卒業する頃には成績は普通になったし、何度か彼氏をつくったけれど、運命の出会いという感じもしなかったし、今ひとつ続かなかった。

「…………」

 ごく普通のOLになろう、と普通そうな会社に就職した。けれど、仕事は普通に大変だった。地獄のような満員電車で何度も痴漢に遭ったし、人身事故の停車で苦しんだこともある。そして何より生活費が苦しかった。家賃、光熱費、スマフォ代、飲み代、ぜんぜん足りなかった。

「…………生活費…高すぎ…」

 それなら普通の結婚をしよう、と仕事場や周囲で婿探しをしたけれど、なかなか結婚しようと思えるほどの男はいなかった。三葉のイメージする普通の結婚相手は、なかなか見つからなかった。普通の年収で普通に暮らせて、できれば子供部屋もあるくらいの一戸建てを買えて、大きくなくてもいいからクルマも買えて、残業が少なくて土日と祝日が休みで、ルックスは自分と釣り合うくらいで、性格は優しくて気のつく好きになれそうな人柄で、なるべくならタバコを吸わない、何より巫女業みたいな煩わしい家業があったりしない人を探したけれど、めったに見つからなかった。千人に一人くらいしかいなくて、しかも、そういう男は既に結婚していたり、もう婚約していたりして都会の女子間における競争率を実感する頃には30歳を過ぎていて、第一線で通用しないことを痛感していた。それでも、とりあえず付き合ってみたけれど、仕事場で5人目の彼氏と別れた後から陰口でビッチと噂されるようになって勤続9年目で辞めた。

「………はぁ……」

 次の会社は派遣社員という身分だったけれど、仕事場で彼氏をつくるのは控えた。そして控えなくても20代の頃より、誘われることが明らかに減った。誘われることは減ったのに上司からセクハラされて3年で辞めて弁護士に依頼して訴えた。裁判で勝訴になったけれど、もらえたのは75万円だった。もともと派遣社員だったし後悔はない。もしも、正社員だった最初の仕事を続けていても、その職場も結婚した人は寿退職が基本だったし、子育てしながら在籍している人は大変そうだったし、東京の保活は経験したくない。ごく普通の主婦に成りたかった。

「………普通って難しいなぁ………何か、いいことないかなぁ……」

 その後は、コロコロと仕事を変えて、何をしてきたか、もう思い出せないほどだった。だいたいはバイトだったし、生活費が足りなくて俊樹に仕送りしてもらった。その仕送りも異母兄弟が大学に入ると、じわじわと減らされて空腹に耐えかねてスーパーで菓子パンを万引きしようかと迷っていたら、スマフォが鳴って四葉から3万円の振込があった。その翌日に大量の藁が送りつけられてきて、しめ縄を90本も作らされた。それ以後、お金に困ると内職と振込があるけれど、あまりやりたくないという三葉の気持ちを察しているのか、本当に困ったときにしか送られてこない。

「……お腹空いたなぁ……」

 元旦なのに食べる物がない。最後のミカンを食べ終わってしまった。

「…はぁ……お弁当くらい、くれてもいいのに……」

 せちがらい東京のバイト先は商品の弁当をわけてくれることはない。村社会なら、食べるのに困っていたら、大根でもお米でも、みんな分け合って食べた。けれど、東京では売れ残っても廃棄される。

「……いいバイト無いかなぁ……」

 どんなにお金に困っても水商売だけはイヤだった。ごく普通の人生を送りたい。なのに、ごく普通に行き詰まってきている。とくに40歳を超えてから、仕事が決まりにくい。あってもバイトで、しかもハンパな時間だった。早朝のみのコンビニや11時から13時のみのラーメン店くらいだった。

「う~っ……おしっこしたい」

 三葉は手近にあったペットボトルを使った。水道代の節約と、こたつから出たくないという気持ちの両立だった。ついつい、捨てるのが面倒になって、そんなペットボトルが窓辺に並んでいる。ぴったりと並べると窓からの冷気を遮断してくれたりするので、春まで置いておくつもりだった。

「27年前に隕石が落下した糸守町に来ております」

「………」

 テレビが何か言っている。

「こちらの宮水神社は隕石の直撃を受け、鳥居から社まで、すべて壊滅的打撃を受けたのですが、町民の皆さんが一致団結して再建され、いまでは立派な姿を取り戻しています。お巫女さんをされている宮水五葉さんと六葉ちゃんにインタビューしてみます。こんにちは、あけましておめでとうございます」

「…あけましておめでとうございます…」

「あけまして、おめでとうございます♪」

 長女が思春期らしく恥ずかしそうに答え、次女は快活に挨拶している。姪たちと妹の背後に、ちらりと早耶香と克彦が初詣に大学生の息子を連れて来ているのが見えたので、もうテレビは消した。

「…………お腹空いた……。生きてるから、お腹が空くんだよ……死んだら……」

 正月から暗いことを考えていると、チャイムが鳴った。宅配便だったし、四葉からのクール便だった。

「うぅっ……ありがとう、四葉」

 おせち料理と白米15キロだった。妹に感謝しながら食べるけれど、いっしょに入っていた手紙を読むのは後回しにした。きっと内職か、なにか作業を要求される気がするので食べ終わってから読むことにする。

「ああ、美味しい……」

 おせち料理は手作りだったし懐かしい味だった。やっぱり東京の味は馴染めない。とくに水が不味い。水道水はとても飲めない。改善されたと周囲は言うけれど、糸守町の水とは比べものにならないし、お金に困っているのにペットボトルの水しか飲む気になれなかった。

「……神社かぁ………お正月だと、すごいお賽銭が……万札とかもあって……」

 高齢の参拝客の中には小銭を捧げるのを嫌ったりして必ず紙幣を入れてくれる人もいるし、そういう人は平日の参拝でも、そうだったりする。とくに正月は集計すると、すごい額になった。

「けど……巫女って結局は水商売みたいなもんじゃん。みんなの前で踊ってさ。神話の最初の巫女だって踊りながら脱いだし…うぐっ?!」

 口に入れた里芋の煮付けが、甘いはずなのに激辛だった。里芋の内部にハバネロが入っていて、ぽろぽろ涙が溢れるほど辛い。それでも貴重な食料なので吐き出さずに飲み込んだ。

「ハァ…ハァ…ひぃぃいぃ…辛い……」

 涙が止まってから、三葉は岐阜県の方向へ向かって正座して頭を下げる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、もう言いません、ごめんなさい」

 ちゃんと謝っておかないと、おせち料理の重箱がシュレディンガーの猫が入れられた箱のように不確定要素でいっぱいになりそうで、心から妹に謝った。それからは余計なことは言わずに感謝しながら食べたので地雷は無かった。

「ごちそうさまでした」

 残りは冷蔵庫に入れて、手紙を読むことにする。

「……婚活パーティーか……」

 手紙には婚活パーティーの案内が同封されていた。三葉が35歳を過ぎた頃から、たまに入っていることがあるけれど、今回は会費まで添えてくれていた。

「女性は年齢制限なし、か……でも、男も年収制限なしなんだ………今から考えるとテッシーって、けっこう………」

 本人の就職先がどうなろうと町一番の建設会社の嫡男というのは女子高生だった頃は何とも思わなかったけれど、かなり惜しいことをした気がする。そういえば、いい男と結婚しているのは早耶香のようなタイプが多いかもしれない。押しと引き、攻勢と守勢のバランスが取れていて、なおかつ劣勢な状況でも粘り強い、恋は戦争とは、よく言ったものだと今になって思う。

「……婚活パーティー、どうしようかな……」

 迷ったけれど、いっしょに会費まで入っていたので行くことにした。むしろ、行かないと別の作業を課されそうなので素直に従う。成人の日が終わった翌週に都内の三流ホテルに出かけた。

「連絡先を5人以上と交換かぁ……」

 婚活パーティーのシステムは必ず5人以上の異性と、名刺大の用紙にメアドなどを書いて交換することだった。携帯番号は書いても書かなくてもいいので、捨てアカウントでも連絡先交換は可能で、気軽さと交流のバランスが保たれている。

「……私より歳上もいるし……」

 まだ44歳、ギリギリ賞味期限なはず、とパーティー会場を彷徨う。

「パッとしない人ばっかり……あ!」

 それでもルックス的に好みの男性を見つけた。

「こんにちは」

 声をかけて相手の名札を見る。

「ど、どうも。こんにちは」

 立花瀧は女性から声をかけられて一瞬戸惑ったけれど、婚活パーティーなので挨拶を返して三葉の胸を見る。三葉の胸にある名札には年齢も書いてあるし、瀧の名札には年収と勤務内容も書いてあるシステムだった。

「「………」」

 二人の視線が名札と顔を行き来する。

「………」

 建築系正社員か、でも41歳で勤続3年ってことは転職したか正社員なりして、まだ3年なのかな、年収215万は低すぎだよ、せめて下限250万でお願いします、と三葉は顔に出さないようにするけれど、やっぱり顔に出る。

「………」

 可愛い顔してるけど44歳って、しかも44歳でポニーテールして参加かよ、若い頃は可愛かったんだろうな、せめて39歳が上限だよな、と瀧は顔に出さないようにするけれど、やっぱり顔に出る。

「「…………」」

 二人とも連絡先を交換するか迷っているけれど、三葉が決断した。

「よかったら、お願いします」

「あ、どうも。よろしくっす」

 とりあえずキープで、と二人とも1枚目を交換した。それから三葉は5枚がノルマなので気乗りしない3人の男とも交換して、最後の1枚を迷っていると、外国人男性に声をかけられた。

「オ嬢サン、ボクト交換シテアゲマスカ?」

「え…」

 変な日本語だったけれど、意味はわかる。

「ヨロシクデス」

「………」

 三葉は相手のスペックを見る。

「………」

 ドイツ系自動車会社、勤続1年で520万か、外資は報酬よくても来年どうなるか、正社員でも一瞬で首斬りだし、あ、課長なんだ、勤続1年で課長ってのも、外資らしいなぁ、と思いつつ氏名も見た。

「……ノルデン」

 その顔に、どことなく見覚えがある。

「ハイ。私、ノルデン」

 そう答えつつ三葉の名札を見てくるけれど、まだ日本語が十分に読めないようで訊いてくる。

「君ノ名ハ?」

「宮水三葉ですっ」

 答えると同時に最後の1枚を差し出した。どことなく熟女好きそうな視線といい、懐かしい顔つきといい、三葉は運命を感じた。そうして婚活パーティーが終わり、三葉は2枚の連絡先を見つめる。

「………う~ん……どっちに、しようかな」

 瀧とノルデン以外は捨てた。

「両方ってのダメかな……三人、いっしょとか」

 どちらとも進めたいと思っていると、遠い岐阜県から妹が、ちゃんと選べ、また捨てられるよ、と言っている気がして今日中に決めることにした。

 

 

 




とても長い二次作品になりましたが、お付き合いいただきありがとうございます。
書いていて、楽しかった。
この三ヶ月、三葉とキルヒアイスのことを考えてばかりでしたが、楽しい日々でした。
これにて、終了となります。
最初は三葉が、どんどん成長していって、すべて解決していく予定で、二葉が補完するくらいのつもりだったのですが、四葉の成長がすごくて、三葉が伸びなやみ、こんな流れになりました。
キルヒアイスも途中でアンネローゼ化して以降は、ほとんど男としての意識を失っている感じで、生真面目に女子高生を頑張りすぎになりました。
両方の作品の設定を拾い上げて、思い切り膨らませて楽しかったです。
それにしても銀英は、よく完成された作品だということが今回しみじみ感じました。
また、君の名は。のちりばめられた謎も、考えていて楽しかった。
膨らませて楽しかったのは、とくにシャフト氏、それにカストロプ次長とノルデン3代ですね。
原作で報われないキャラを膨らませるのが好きだったりします。
逆に主人公キャラがかわいそうだったりもするのですが。
9月から、ずっと君の名は。系の二次作品を書いていますが、次は未定です。
もう書かないかもしれないし。
書くとしたら、ひぐらしのなく頃に、とのクロスオーバーなんか楽しいかもしれませんね。
地域が近いのでダム戦争で、どちらかの町か村が水没するのを、どちらにするか争う、みたいな。昭和なので二葉が主人公でもいいかもしれませんが、リカちゃんと巫女同士、そして時間操作系の巫女同士、とんでもなく、ややこしい戦いをしてくれるかもしれません。
ややこしすぎて書く気になれないくらい。
次は艦これの二次作品なんかも、いいかなと思っています。
また、機会があれば、お付き合いください。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
 


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