絢の軌跡Ⅲ (ゆーゆ)
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序章
四月一日 プロローグ


 

 

「……また、か」

 

 豊かな自然に恵まれた王国で暮らす少女―――マリィは、微睡みの中で呟いた声によって、静かに目を覚ました。

 陽の光はない。けれど辺りを見渡すと、目当ての背中はすぐに見付かった。私の視線に気付いたのか、小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせていた彼は、ひどく驚いた様子で振り返った。

 

「ま、マリィさんっスか。驚かさないで欲しいっス。びっくりしたっス」

「ごめんね。そんなつもりじゃ、なかったんだけど」

 

 寧ろそれは私の台詞だ。この世界はいつだって唐突に顕れる。間隔は不規則で、連日のようにやって来る時もあれば、数ヶ月間音沙汰なしが続くことだってある。

 私の記憶が確かなら、一年間近く前が最後だったはずだ。見事に不意を突かれてしまっていた。

 

「暫く見ない内に、大きくなったっスね。すっかり見違えたっス」

「背が伸びたからだと思うわ。この一年で、七リジュも伸びたの」

「それに出るとこも出てきて、大人っぽくなったっス」

「……うん。そうだね」

 

 文字通りの成長を実感する一年間だった。背丈は常にクラムの一歩先をいき、身体付きも段々と変わりつつある。できないことが減って、掛け替えのない大切な人達のために、できることが日に日に増えていく。

 だからこそ私は、向き合う必要がある。子供のままではいられない。

 

「正直に、言うとね。怖いの」

「……マリィさん?」

「ねえレグナ。あなたは一体、何者なの?」

 

 この幻想世界には、境目がない。現実と夢がない交ぜになった、そのどちらでもない虚構の異世界。

 あり得ないのだ。この世界も、彼という存在も。知らぬ間に彼をレグナと呼ぶようになっていた、私自身も。疑念と惧れが募るに連れて、あったはずの幸せの匂いは立ち消えていき、純粋ではいられなくなる。

 

「そう構えないで欲しいっス。オイラみたいな存在は、大陸じゃそう珍しくもないっス」

「ああもう。またそうやって嘘を付くんだから」

「嘘じゃないっス。例えばっスけど……最近じゃ、クロスベルで色々騒ぎになってるみたいっスね」

「クロスベル……。んー、あなたにとっては、確かに最近かも。『ベルライン』のことよね?」

 

 クロスベル自治州。いや、既に自治州とは呼べないか。リベールの辺境で暮らしていても、一年半ぐらい前から頻繁に耳にするようになった、大国の東端。私も大枠は把握しているつもりだ。

 『クロスベル異変』。かつての『ノーザンブリア異変』を彷彿とさせる異常現象により、クロスベルは姿を変えた。事実上クロスベルはエレボニア帝国に併合されたとされる一方、現実は違う。今でも度々取沙汰されるクロスベルの情勢は、とても不安定な状態で、安定している。

 

「って、ちょっと待ってよ。いつの間にかクロスベルの話になってるけど、それがどうかしたの?」

「要はそういうことっス。古の盟約と禁忌から解かれ、転生の末に新たな契りを以って、人の仔らに与する……。そういうのもアリってことっス」

「……レグナも、同じなの?」

「どうっスかね。今はただ、同胞を見守ることしかできないっス。何れにせよ―――」

 

 まるで理解が追い付かないまま、レグナは姿を変えた。

 爛々と光る優しげな眼。非常識な大きさと力に、吸い込まれていく。忘れ掛けていた、幸せの匂いを感じていた。

 

「―――全てはそなたの、願いのままに」

 

___________________

 

 

 ―――四月一日。

 

 どうして私はいつも、ここぞという時にやらかしてしまうのだろう。列車の中で繰り返し何度も自分に言い聞かせたのに、結局この有り様だ。全く笑えない。

 

『いいかシーダ。俺も初めはそうだった。アヤの案内がなかったら、トリスタには辿り着けなかっただろう。俺達のようなノルドの人間にとって、列車を複数回乗り換えるという行為は至難の業だ。風ではなく、時刻表を味方に付けるんだ。いいな』

 

 今更になって、兄の有難い忠告が脳裏で反芻される。手遅れ感で満載だ。

 ガイウスお兄ちゃん。私は独りでトリスタに辿り着くことができたけれど、目的地は全くの正反対だったよ。途中で間違いに気付いても、列車ってすぐには引き返せないんだね。

 

「はぁ、はあ、はっ……ふうぅ」

 

 駅を後にして、開けた広場に出てから呼吸を整える。汗を拭いながら振り返ると、頭上には『リーヴス駅』と記されたプレートがあった。

 漸くここまで来れた。最大の難関は突破できたのだから、残る道のりはあと僅か。呼吸が落ち着くまでの間、少し整理をしておこう。

 

「宿舎に行って荷物を置いてから、指定の書類と装備品を持って……第Ⅱ分校本校舎の、正面玄関っ」

 

 次に目指すは、第Ⅱ分校関係者専用の宿舎。制服の内ポケットからリーヴス駅近郊の地図を取り出して、周辺の立地と交互に見やりながら照らし合わせる。

 成程。分からない、ということがよく分かった。恐らくこれは、時間を掛けるだけ無駄だ。お兄ちゃんやお母さんの助言に従い、現地住民を頼るのが得策に違いない。

 

「えーと……あっ。あの、すみませんっ」

 

 ちょうど私の目の前を横切ろうとしていた初老の女性に声を掛ける。察するに、昼餉後の散歩といったところか。きっと近所で暮らす住民の一人だろう。

 

「あらあら、可愛らしいお嬢さんだこと。見ない顔ね、リーヴスは初めて?」

「え?あ、はい。たったい」

「いい街でしょう。この春からトリスタにあるトールズ士官学院の分校が設立されて今朝から続々と生徒さんがって、あら?その服装は……」

「あの、私がそのせ」

「ああはいはい生徒さんの妹さんね。入学式の見学か何か?あたしもあと五十は若かったら嬉々として制服の袖に腕を通すところだけど最近は身体のあちこちにガタがきちゃってねえ。あ、ごめんなさい自己紹介が遅れちゃったわね。あたしはチャミーっていうの。それでねこの間も―――」

 

___________________

 

 

 執拗な追撃を振り切り、宿舎の玄関に辿り着いた時点で、時刻は正午過ぎ。当初目標から一時間以上遅れてしまっているけれど、この調子ならどうにか入学式には間に合うだろう。先ずは一安心だ。

 

「あなたも、士官学院生ですか?」

「え?」

 

 気を取り直して歩を進めようとした矢先に、背後から声を掛けられる。

 振り返った私は、思わず声を失った。

 

「―――!?」

 

 息が詰まり、言葉を発せなくなる。代わりに胸の中で、掛け替えのない家族の名を呼んだ。

 

(アヤ、お姉ちゃん?)

 

 口を半開きにして立ち尽くしていると、件の女性は訝しんだ様子で、再度言った。

 

「その制服は第Ⅱ分校の物ですよね。あなたも……どうか、しましたか?」

「っ……ご、ごめんなさい。勘違い、というか。人違いでした」

「はあ」

 

 馬鹿げてる。冷静になれ。こんな場所で、見付かるはずがないだろう。

 それによくよく見なくたって、一目で別人と分かる。身長は十リジュ以上低いし―――でもひとつひとつの特徴は、しっかりと義姉を捉えていた。お姉ちゃんの出自から考えて、両親は東方の出身なのかもしれない。

 故郷を発って以降、驚かされてばかりだ。先ほどのお婆さんといい、この帝国には様々な人がいるのだろう。それに、色々な物がある。何処も彼処も、人と物で溢れ返っている。まだ学院生活が始まってもいないのに、たった半日間の移動だけで、頭が沸いてしまいそうな気分だ。

 

「よく分かりませんが。とりあえず私達は、急いだ方がいいのではないですか?」

「あっ」

 

 途端に焦燥感が込み上げてくる。こんな所で立ち話に耽っている場合じゃない。余計なことは考えず先を急がないと、いよいよ初日から遅刻してしまう。分刻みの行動という概念が、ノルドの外では当たり前なのだ。

 玄関扉を開くと、やはり人の気配は感じられない。既にほとんどの生徒が第Ⅱ分校へ向かったのだろう。

 

「私の部屋は二階ですが、あなたは?」

「私も二階です」

 

 途方もなく広い室内を早足で進み、階段に差し掛かる。舎内の見取り図は事前に貰っていたし構造は単純だから、いくら私でも迷いようがない。

 

「待って。折角なので、名前だけ伺ってもいいですか?」

 

 割り当てられた部屋を見付けると同時に、再び凛とした声が聞こえた。

 小さな笑みが浮かんでいた。自然と、私も笑った。

 

「私はマヤといいます。あなたは?」

「……名前まで、そっくり」

「名前?」

「な、何でもないです。えと、シーダ・ウォーゼルです。宜しくお願いします、マヤさん」

「こちらこそ。じゃあ、また入学式で」

 

 本当に、色々な人がいる。きっと士官学院にも、沢山の人達との出会いが待っている。

 これからの学院生活に想いを馳せながら、部屋のドアノブを握る。驚いたことに、扉の向こう側から人の気配を感じた。

 

(誰か、いる?)

 

 既に私とマヤさん以外は第Ⅱ分校へ向かったと思っていたのに、一体誰が。僅かな躊躇いを捨てて扉を開くと、予想だにしない光景に、私は目を疑った。

 

「こんにちは」

「……こんにちは」

 

 辛うじて捻り出した声で、挨拶に応じる。

 女の子が、椅子に座っていた。恐らくは私と同年代で、背丈も同程度。目が冴えるような銀色の長髪と、黒色の革帽子。そして、士官学院第Ⅱ分校指定の服装。

 まさか、彼女も?私のような低年齢の女子生徒が、私以外にも?

 

「あ……ええっと。もしかして、あなたも?」

「質問の意味が分かりません」

「……あなたも、この部屋の?」

「私がトールズ士官学院第Ⅱ分校の生徒であり今日からこの宿舎に入居するのか、という意味の質問でしたら、イエスです。……大方の懸念通り、苦戦しているようですね。ある意味で、待機した甲斐があると言えます」

 

 抑揚のない言葉が次々に並んでいく。

 反応に困っていると、女の子は立ち上がり、右手で三本の指を立てて、数字の三を示しながら言った。

 

「時間的余裕がありませんので、状況説明は省きます。定刻に間に合うためにも私の指示に従って下さい。質問は一切受け付けません」

「ち、ちょっと待っ……ああ!?」

 

 言っている傍から、遅刻寸前という危機的状況を忘れていた。自己嫌悪の波が一挙に押し寄せてくる。

 

「書類と装備品をまとめながら指示を聞いて下さい。手は絶対に止めないこと」

「は、はいっ」

 

 考えるよりも前に、不思議と身体が動いていた。

 背負っていた荷物を下ろして、必要な書類と新品の筆記用具を手提げ鞄の中に押し込む。得物は入念に手入れをしてあるから、そのまま持って行けばいい。

 

「詳細は伏せますが、午後に備え補給は必須です。昼食は取りましたか?」

「……まだです」

 

 折角だから現地の食事を味わってみたい、という私の甘々な考えのおかげで、お母さんが持たせてくれた朝餉以来何も口にしていなかった。空腹を感じないのは、それ以上の焦りが先行しているだけだ。

 

「むっ……ふう。仕方ありません、私の間食を差し上げます。少々不作法ですが、移動中に摂取して下さい」

 

 手渡されたのは、小さな紙袋。中からは食欲をくすぐる甘い香りがした。砂糖菓子か何かだろうか。

 

「それでは出発です。体力を温存するために、窓から飛び下りましょう」

「はい!……はい?」

「クラウ=ソラス」

 

 開け放たれた両開きの窓枠へ、背中を押される。

 有無を言わさぬ強引さに、私は為す術もなく宙を舞って、リーブスの上空を突っ切った。女神様の苦笑いが、見えたような気がした。

 

 

 




初めまして。そしてお久振りです。
思い立ったが吉日、ということで。あまり多くを語り過ぎると自爆しそうなので、細々と続けていこうと思います。


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四月一日 前途多難

 

 トールズ士官学院第Ⅱ分校、《Ⅶ組》特務科。本校の《Ⅰ組》から《Ⅵ組》に続く同クラスへの配属を命じられた私達は、担当教官らに連れられて、構内東側の通路を歩いていた。

 

(ええっと。あの子は《Ⅸ組》、だよね)

 

 先頭には三名の教官勢に、金髪の可愛らしい女子が一人。確か彼女は主計科の生徒だったはずだから、私を含めた残りの四名が《Ⅶ組》の所属となる。

 私の前方を歩く、桃色の髪が特徴的な女性。

 彼女に続く、端正な顔立ちの男性。

 そして私の隣、アルティナ・オライオンと名乗った女子に目を向けると、アルティナさんは無表情のまま、私の顔をまじまじと見詰めていた。

 

「ど、どうかしましたか?」

「いえ。シーダさん、ひとつ確認なのですが……分校長のご挨拶をはじめ、理解が追い付いていますか?」

「……正直に、言っていいですか」

「どうぞ」

「ほとんど頭に入ってません」

「成程」

 

 合点がいった様子のアルティナさんは、やれやれといった様子で小さな溜め息を付いた。

 情けないことに、全く付いていけていないのだから仕方がない。分校長の艶やかで端麗な容姿に見惚れていた合間に、とても極端で猛々しい言葉の数々を投げられた辺りから、頭がくらくらしていた。少しでも気を抜くと、膝が折れて座り込んでしまいそうだ。

 

「想像以上に落ち着いている印象を受けましたが、全くの正反対だったようですね」

「……あの、アルティナさん?私のこと、知ってたんですか?」

「データ上の情報は把握しています。ですが私の一連の行動は、分校側からの依頼によるものです」

「で、でーた?いらい?」

「ノルド高原という辺境出身の少女、という境遇を慮った結果だと推測します。あなたの受け入れをサポートして欲しい、とのことでした。同い年の同性である私が適役だと判断したでしょう」

 

 分かるような、分からないような。とどのつまり、私の面倒を見て欲しいと頼まれていた、ということだろうか。

 

「えーと……ありがとう、アルティナさん。おかげで助かりました」

「……私はただ、分校からの依頼を受けたに過ぎません」

 

 何れにせよ現実として、初日から列車の乗り換えを間違えたせいで遅刻しかけた身だ。アルティナさんがいなかったら、間違いなく入学式には間に合わなかった。助けられたのだから、お礼を言う。今はそれだけでいい。

 それよりも―――あの人は。

 

(リィンさん……)

 

 驚きと戸惑いのあまり、後回しにしていた存在。先頭を往く彼。

 人違いのはずがない。最初の出会いは二年近く前。最後に会ったのは内戦中、今から一年半前のことだ。あの紛争が収束に向かった頃から、『灰色の騎士』という英雄の異名は、遠い故郷の地にも届いている。

 

(私も少しは背が伸びたのに……あんなに、大きく)

 

 その大きな背中には、僅かに哀愁が漂っているように感じられた。

 私という存在を、彼は覚えているだろうか。

 追い求めずにはいられない真実を、彼は知っているのだろうか。

 私の大切な家族を―――あの人は。自然と得物を握っていた右手に、力が込もる。

 

「到着、ですね」

「え……。え、ええ?」

 

 不意に見上げた先には、ゼンダー門を連想させる、要塞が佇んでいた。

 金属の巨大な箱、とでも言うべきか。感覚を研ぎ澄ませると、内部からは断続的な重低音と、奇妙な風の流れを感じた。この気配と匂いは―――まさか、魔獣?

 

「《Ⅶ組》特務科には実力テストとして、この小要塞を攻略して貰う」

 

___________________

 

 

 アインヘル小要塞。第Ⅱ分校の設立と共に建造された、実験用の特殊訓練施設。内部は導力機構による可変式で、難易度設定は自在に調整可能―――らしい。

 

(つまり、なに?)

 

 まるで想像が付かない建造物の内部は、外観と同様に無機質で広大だった。

 見慣れない光景に圧倒されていると、リィンさんがアルティナさんの方を向いて、小声で言った。

 

「それで、概要についてどこまで知ってるんだ?」

「詳しくは何も。地上は一辺五十アージュの立方体、地下は拡張中ということぐらいです」

 

 何気ないやり取りの中には、お互いを認め合うような親しさがあった。

 もしかしなくとも、顔見知りなのだろうか?首を傾げていると、リィンさんは左右の掌をぱんぱんと叩き合わせて、私達四人を見渡して言った。

 

「ともかく、今の内に皆で自己紹介をしておこう。俺も赴任したばかりで、生徒達のことは把握していなくてね。俺は―――」

「知ってます。名乗る必要なんてないでしょう?」

「えっ」

「僕も同感です。リィン・シュバルツァー教官」

 

 リィンさんの名乗りが、男女二人の素っ気ない声に遮られてしまう。どうやら彼の名声は、想像に違わず国内中に知れ渡っているみたいだ。

 一年半前。学生の身でありながら、内戦終結へ大いに貢献した若き英雄。在学中も様々な変事や事件を解決し、クロスベル戦役や北方戦役でも活躍した―――かつて読み耽った帝国時報に、記載されていた通りの経歴だった。

 二人がずらずらと言葉を並べると、リィンさんは乾いた笑い声を漏らした。

 

「はは……それでも一応、名乗らせてくれ。リィン・シュバルツァー、トールズの本校出身だ。武術や機甲兵教練、歴史学を教えることになる。担当は君達《Ⅶ》特務科だ。宜しくな」

「はい、宜しくお願いしますっ」

 

 挨拶に応じて、頭を下げる。しかし待てども待てども、一向に後が続かない。ゆっくりと見上げると、何とも形容し難い微妙な風が流れていた。

 

(……??)

 

 私は今、おかしな言動を取ったのだろうか。担当教官に頭を下げただけだというのに。奇妙な気まずさを感じていると、蒼灰髪の男性がコホンと咳払いをしてから口を開く。

 

「では自分も。クルト・ヴァンダール、帝都ヘイムダル出身です。シュバルツァー教官のことは、噂以外にも耳にしています」

 

 ヴァンダール。その響きは今でも耳に残っているし、記憶に新しい。

 もしかして、あの人の?

 

「ヴァンダール……そうだったのか。するとゼクス将軍や、ミュラー中佐の?」

「はい。ミュラーは自分の兄、ゼクスは叔父に当たります」

「あっ……やっぱり、そうだったんですね」

 

 二人の会話に参加すると、クルトさんは意外そうな表情を浮かべた。

 

「君は、ヴァンダールの人間を知っているのか?」

「ええっと。ゼクス将軍が、ゼンダー門に駐在していた頃に、何度かお世話になりました」

「ゼンダー門に……そうか。そういえば、何度か聞かされたことがあるな。ノルド高原で暮らす民が……もしかして、君も?」

「はは。次は君の番みたいだな、シーダ」

「えっ……」

 

 シーダ。優しさに満ちた笑顔で、リィンさんが私の名を呼んだ。

 覚えてくれていた。この帝国の地に、私を知る人間がいる。たったそれだけのことで胸が弾み、居心地の悪さが立ち消えていく。余計な『雑念』には、蓋をしてしまえ。

 嬉々として、私は名乗りを上げた。

 

「シーダ・ウォーゼルといいます。生まれも育ちも、ノルド高原です」

「ノルド?」

 

 故郷の名に疑問符を浮かべたのは、桃色の髪の女性。私に代わって、リィンさんが掻い摘んで説明した。

 

「帝国北東にある高原地帯のことさ。遊牧民達が独自の文化を持って暮らしている。厳密には帝国領じゃないけど、彼女はそのノルドの出身なんだ」

「へえ……ていうか、もしかして二人も知り合いなんですか?」

「まあな。本校にいた頃、同じクラスにノルド出身の姉弟がいたんだ。彼女は彼らの妹に当たる。まさかこんな所で再会するなんて、思ってもいなかったよ」

 

 リィンさんに補足して、私はノルド高原が特別演習の地に選ばれた過去を告げた。

 あれから二年近くが経つというのに、あの濃密な三日間を忘れたことはない。外側の世界に触れて、私の世界が広がり、ある意味でリィンさんらとの出会いが、転機となったのかもしれない。

 

「大きくなったな、シーダ。見違えたよ」

「……あれから、一リジュちょっとしか伸びてません」

「コホン。その、なんだ。大人っぽくなったって意味さ」

「リィン教官こそ。それに、その眼鏡。とても素敵です」

 

 再び訪れた静寂と奇妙な空気。まただ。また私の言動が、何かしらに触れてしまった。

 困り果てていると、リィンさんは目頭を押さえながら、私の肩に手を置いた。

 

「シーダ。君に出会えて、本当に良かった」

「え、え?」

「報われましたね、リィン教官」

 

 それはともかく、と前置いてから、リィンさんは険しい表情で言った。

 

「それで、ノルドの方は、どうなんだ?軍事衝突が続いているって話だし、最近はガイウスとも……」

「っ……!」

 

 当たり前の懸念と心配。思わず視線を逸らしてしまう。

 私の口から明かすべきことではないはずだ。お兄ちゃんだって、敢えて友人らに何も告げず、その道を選んだに違いない。だから、今は。

 

「家族はみんな、元気でやってます。第七機甲師団の人達も、よくしてくれますから。お兄……兄からも、近い内に直接連絡が入ると思います。それまで、待っていて貰えますか」

「……ああ。君がそう言うなら、待つことにするよ」

 

 一先ずの区切りを置いて、リィンさんの視線が左隣へと移る。

 その先に立っていた女性は、どういう訳か、不機嫌さを隠そうともせずに、眉間に皺を寄せていた。

 

___________________

 

 

 どうにも調子が狂う。子供染みた態度を取っている自覚はあれど、想像していた以上に、謙虚というか。棘のある言葉を意図して選んでも、苦笑しながら流されて、空回りをしてしまう。

 馬鹿馬鹿しい。何故私が居た堪れなくなるのだろう。

 

「ユウナ、ARCUSⅡのセッティングは―――」

「終わってます。基本概念はENIGMAと一緒だって言ったのは教官でしょう」

 

 戦術オーブメントの扱いなら、警察学校で一通りの指導を受けている。ARCUSの存在も把握していたし、非正規ルートながらも、随分前からクロスベルで出回り始めているという噂もあった。ライン構成とオーバルアーツの仕様が異なる一方、確か戦術リンクと呼ばれる、所持者同士の連携を促す機能があったはずだ。

 

「流石に手際がいいな。今後もアルティナと一緒に、二人に手解きをしてくれないか。特にシーダは、戦術オーブメントは初めてだそうからな」

「っ……了解です」

 

 またか。いちいち負い目を感じていてはキリがない。

 やれやれと肩を落としていると、頭上から機械的な音声が流れ始める。

 

『準備が済んだなら、さっさと始めるぞ。レベル0のスタート地点はB1、地上に辿り着いた時点でテストは終了とする』

『は、博士?その、赤いレバーって……』

 

 嗄れた声は、シュミット博士と呼ばれていた男性のそれだろう。あどけなさが残る声は、主計科に配属された女の子だったか。

 どうして彼女だけが、こんな意味不明な施設で別行動を取っているのか。素朴な疑問抱いたのと同時に、突如としてふわりとした浮遊感が、視界を揺らした。

 

「みんな、足元に気を付けろ!」

「へっ」

 

___________________

 

 

 ―――バランスを取り戻して、受け身を取れ。

 教官の声に応じようにも、床面に打ち付けた左肘の痛みに気を取られてしまう。肘を押さえながら傾いた床上を滑っていると、私の斜め後方から、幼い悲鳴が響いた。

 

「き、きゃああ!?」

「……っ!?」

 

 完全に足を取られて横倒しになり、回転しながらの落下。

 まずい。あの体勢では、受け身どころじゃない。

 

「はっ!」

 

 咄嗟の判断で床面を蹴って、宙返り。着地と共に全身を襲う衝撃をどうにか逃がしながら、体勢を立て直す。驚いたことに、私の隣では全く同じ構えを取る男子が立っていた。

 

「「危ない!」」

 

 ごろごろと転がり落ちて来た少女の上半身を、私が抱き止め―――

 

「ぐはあぁ!?」

 

 ―――同じく下半身を受け止めようとした男子の、整った顔面を抉るように、少女の右膝蹴りが見事に直撃した。百点満点の角度と軌道を以って、寸分違わずど真ん中に。

 

「っとと……ふう。シーダ、だっけ。大丈夫?怪我はない?」

「だ、大丈夫です。……そ、それより!」

「うん。ちょっと待って」

 

 蹲りながら顔面を押さえる男子の下に駆け寄る。

 立ち位置が逆だったら、私が食らっていたに違いない。痛々しいことこの上ないし、想像もしたくない。小さな女の子の膝とはいえ、体重が乗った一撃を見舞われては、『鼻血』も必至だろう。

 

「ねえ、大丈夫?」

「へ、平気だ」

「鼻血を垂れ流しながら言われてもね……」

「……少なくとも、骨は」

「そう。これ、使ってよ」

「ま、待ってくれ。それは流石に」

「いいからほら」

 

 上着のポケットから取り出したハンカチを強引に持たせる。

 本人が言うのだから、大事はないのだろう。多少強めに圧迫していれば直に止まるはずだ。

 

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

「謝らないでくれ。僕が未熟だっただけだ」

 

 それにしても、この状況は何だ。有無を言わさずに連れて来られて、急に床が傾いて地下に落とされて。膝蹴り云々はともかく、帝国という異郷の地で、私は一体何をやっている。こんなはずじゃ、なかったのに。

 

「リィン教官のように不埒な状況、という訳ではなさそうですね」

「頼むから不用意な言動は慎んでくれないか……」

 

 私達に続いて下り立った教官とアルティナは、よく分からない会話を交わしながら私達と合流した。

 教官はクルト君とシーダの状態を確認すると、前方にあった大きな扉を見詰めた。

 

「折角の機会だ。ユウナ、シーダにオーバルアーツの指南をしてやってくれ。回復系統のクオーツがある」

「それはいいですけど……まさか本当に、こんな茶番に付き合うつもりなんですか?」

「ここまで大掛かりな設備を使って、茶番を仕掛ける人間はいないさ。博士は俺達の実力を、本気で確かめるつもりなんだろう。クルトが落ち着いたら、各自の武装も確認しておきたい」

「っ……ああもう。やればいいんでしょう、やれば」

 

 差し出された水属性のクオーツを、乱雑に受け取った。

 正論を説かれては、いちいち癇に障る。あと何回繰り返すか分からないやり取りに、辟易とした。

 

___________________

 

 

「―――とまあ、こんな感じかな。オーバルアーツは属性によって勝手が違うけど、基本は一緒よ。あとは慣れの問題ね」

「あ、ありがとうございます」

「ふふ、どう致しまして」

 

 初めてにしては上出来だろう。水属性のアーツは支障なく発動したし、直にクルト君の出血も治まるはずだ。すっかり鮮血に染まったハンカチは諦めるしかない。返されても困るだけだ。

 それにしても、シーダ・ウォーゼル、か。

 

「あのさ。シーダって、何歳?」

「歳ですか?十四歳です。今年で十五になります」

 

 第一印象としては、素直な良い子。恐らく印象通りの少女なのだろう。だからこそ、彼女が士官学院に入学した理由が理解できない。もし仮に魔獣との戦闘に及ぶ羽目になったとして、こんな女の子が戦えるのだろうか。

 それに―――ウォーゼル。ウォーゼルという姓と、ノルド高原出身。初耳のはずなのに、覚えがある気がしてならない。

 

(帝国出身の、ウォーゼル……んん?)

 

 不鮮明な記憶を辿っていると、背後から視線を感じた。振り返ると、顎に手をやって考えるような仕草を取る教官の姿があった。

 

「あのー。なんですか?」

「いや……気のせいかもしれないんだが。俺達は何処かで、会ったことがないか?」

 

 思わず声が詰まり、態度に出てしまう。

 不意打ちにもほどがある。どうしてこんな時に、こんな場所で。

 

「っ……かもしれないじゃなくて、気のせいですよ。初対面です」

「しかし、君は今」

「そう、なん、です!それよりも、武装を確認しておきたいって言ってませんでした?」

「あ、ああ。クルト、もう平気か?」

「問題ありません。では早速、自分から」

 

 クルト君は床に置いていたケースを開けると、中から二振りの剣を取り出した。左手に握られた剣は、右手のそれと比較して刀身がやや短め。

 所謂二刀流の剣技だった。数度鋭く振るわれた剣は、心地の良い音色を生み出して、周囲に反響した。

 

「ユウナ、君の方はどうだ?」

「言われなくとも、この通りです」

 

 クルト君に次いで、専用のケースに保管してあった愛用の武装を握った。

 警察学校では、銃器をはじめとした一通りの武装について、習熟が求められる。同時に訓練生の適正と希望に沿う形で、特定の武装訓練を選択できる。あの人達に、あの人と出会った時から、私はこれしかないと決めていた。

 

「ガンブレイカー。クロスベル警備隊で開発された、ガンユニット付きの特殊警棒です。状況に応じてモードを切り替えることで、近中距離での打撃と射撃の使い分けが可能になります」

 

 開発されて間もないとはいえ、十二分に実戦的な武装だ。導入事例は少ないけれど、柔軟に使いこなせば臨機応変な立ち回りが可能となる。

 誇らしげに構えていると、クルト君は思いも寄らない方向から言及した。

 

「ガンユニット付きか。複雑そうな造りだけど、耐久性に問題はないのか?」

「えっ?」

「特殊な武装は、構造が複雑であればあるほど、壊れ易くなる傾向があるだろう?素人考えかもしれないが、少し気になってね」

「うぐっ……!」

 

 見事なまでに、的を得ていた。開発段階から懸念されていたことだ。警棒としての機能を保たせながら銃機構を備えるという発想自体は、最近のものではない。前々から存在していた案が実現されなかったのは、耐久性という課題があったからに他ならない。

 このガンブレイカーも同じ問題を抱えていた。一定の基準はクリアーしたからこそ正式採用に至ったものの、導入事例が少ない理由は、明白だったのだ。

 

「た、確かに、そう言われてるけど。でも、私は―――」

 

 性能だけで選んだ訳じゃない。あの人と同じ武装を、なんて生半な気持ちは、疾うの昔に捨てた。

 改良の余地がある。乗り越えるべき壁がある。だからこそ、私は追い求めたい。この武装の先を見てみたい。

 何も知らないくせに。私の想いなんて―――知らないくせに。

 

「帝国人が使う『時代遅れ』の剣なんかより、ずっと役に立つわよ!」

 

 声を張り上げてすぐ、クルト君の顔から、表情が消えた。

 何の感情もない、平坦な顔。一瞬だけど、釣られて私も、言葉を忘れた。

 

「君がどう解釈しようが勝手だが、口先だけで終わらないようお願いしたい」

「……ふ、フン。そっちこそ、足を引っ張ったら置いてくからね」

「打って変わってやる気満々なんだな。乗り易いというか、乗せられ易いというか」

「うっさい!!」

 

 ほんの一時とはいえ、後悔の念に駆られた私が馬鹿だった。

 可愛くない。実に可愛くない。顔立ちがそちら側な分、余計に腹立たしさを覚えた。

 

「やれやれ……さてと。残りはシーダと、アルティナだな」

「クラウ=ソラスなら、既にお披露目済みですが」

「へっ」

 

 ひどく間抜けな声を漏らす教官。若き英雄の威厳は微塵もなく、やがてアルティナの掛け声と同時に、漆黒の傀儡が音もなく姿を現した。こんにちは。

 

「え、えーと。実は、その……私の、せいでして」

「シーダさんを連れて分校に向かった際に、徒歩では定刻に間に合わないと判断し、やむを得ずクラウ=ソラスを使いました」

 

 忘れるはずもなく。あの時の衝撃は、居合わせた全員を別次元の世界へと真っ逆さまに突き落した。

 入学式開催前のグラウンド。生徒全員で整列を終えた頃、凄まじい速度で何かが飛来したと思いきや、場違いなほどに幼い二人の少女が、頭上から降って来た。うん、自分でも何を言っているのか分からない。

 

「……帝国って、あんなのが普通に飛んでるの?」

「そんな訳ないだろう」

「じゃあ帝国軍情報局って、可愛い女の子の集まりだとか」

「頼むから口に出さないでくれ。自信がなくなってくる」

 

 ともあれ、考えても無駄のようだ。クラウ=ソラスと呼ばれた傀儡は、まず間違いなく超常的な方面からやって来た存在なのだろう。

 少なからず、覚えはある。かつて故郷に舞い降りた―――あの神機や大樹に比べれば、どうということはない。無理矢理にでもそう捉えないと、現実逃避をしてしまいそうだった。

 

「シーダさん、最後はあなたです」

「は、はい。私は、これです」

 

 四人目。シーダが細長い麻袋から取り出したのは、東方風の刀剣だった。

 私が知る太刀とは異なる類の刀剣なのだろう。柄が槍のように長く、刀身の形状も僅かに違うように見受けられる。一言で形容するなら、槍のような太刀。初めて見る得物だった。

 

(……あんな長物を、この子が?)

 

 あまりに不釣り合いな組み合わせとしか、思えなかった。

 私の胸中を代弁するように、教官は腰に携えていた太刀を抜いて、シーダに言った。

 

「やはり、君は……。シーダ、俺が受けるから、何度か打ち込んでくれないか」

「ええ?」

「型は問わないさ。手加減も無用だ。さあ、来いっ」

 

 教官が促すと、シーダは意を決した様子で得物を上段に構え、振るった。剣戟が周囲に響いて、刀身同士の打ち合いが繰り返される。

 率直な感想としては、想像の域を脱してはいなかった。振るっているのではなく、振り回されているという表現が妥当だ。身体のバネを利用して、無理矢理に。見ているこちら側が危うさを感じてしまう。

 

(ねえ、クルト君。どう思う?)

(どうと言われてもな。十四歳だと言っていたか。見ての通り、十四歳の少女だな。それ以上でも、以下でもないさ)

 

 概ね私と相違ない印象らしい。あんな調子で、この先やっていけるのだろうか。

 不安ばかりが先行して、先ほどまであったはずの苛立ちは、知らぬ間に消え去っていた。

 

 

 

 



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四月一日 Ⅶ組特務科(仮)

 

「せいやぁあ!」

 

 左右同時の連撃を見舞い、直後に後方へ飛び退いて、射線上から離脱。やがて背後から放たれた銃弾の雨が駄目押しとなり、ブログ属の魔獣はセピスの塊と化して、床面に散らばった。

 

「ん。まあ、上出来だな」

「ふふん。どうよ、見直した?」

「ああ。武装の方はね」

「……ホント、可愛くないわね」

 

 しっかりと連携を図りながらも憎まれ口を叩く。この辺りが、現時点での落としどころだろう。

 戦術オーブメント『ARCUSⅡ』の戦術リンク機能は、十二分に互いの連携を促してくれていた。初対面の、しかも前途多難と思わせる異性と、阿吽の呼吸で苦もなく魔獣と対峙できているのだから、その恩恵は計り知れない。話には聞いていたが、これほど実戦的な装備だとは思ってもいなかった。

 

「それにしても……あちらは、苦戦しているな」

 

 もう一組の、リンクで繋がった二名。アルティナとシーダは、足並みがまるで揃っていなかった。

 アルティナの武装『クラウ=ソラス』は、魔獣相手に猛威を振るっていた。その剛腕は魔獣を一撃で昏倒させ、零駆動で放たれる光の矢は周囲諸共焼き払う。シーダの剣技が介入する余地はなく、魔獣の注意を引き付けるに留まっていた。

 

「敵性魔獣の沈黙を確認。シーダさん、大丈夫ですか」

「はぁ、はあ……。な、なんとか」

「よし。四人共、一旦集合してくれ」

 

 一方のシュバルツァー教官は、初陣こそ前衛として太刀を振るったものの、以降は後方からのバックアップに回っていた。見に徹することで、僕ら四人の実力を見極めている最中なのだろう。

 

「フン。なによ偉そうに、後ろで踏ん反り返っちゃって」

「教官相手に何を言ってるんだ君は……」

 

 またか。どうも彼女は教官に対して、極端な態度を取りがちだ。僕も少なからず感じるところはあるが、妙に思わせ振りな言動も目立つし、何か因縁があるのだろうか。僕と同じく、今日が初対面だったはずだが。

 

「どうしたんだ二人共。時間が惜しい、早く来てくれ」

「す、すみません」

 

 些細な疑問は後回しにして、足早に教官らの下へ向かう。

 するとシュバルツァー教官は腕組みをしながら、改まった声で言った。

 

「戦闘の基本は一通り説明したつもりだ。ここまでで何か、分からないことはあるか?」

「……では、僕から宜しいですか」

「ああ。何でも言ってくれ」

「今後のためにも、何か助言を頂けますか。折角の機会ですし、指導して頂けると助かります」

 

 さあ、どうする。我ながら意地の悪い振りだとは思うが、ここで答えに窮するようなら、拍子抜けだ。早々に見限る、という道だってある。

 

「そうだな。君達には追々に、と思っていたが。クルトは踏み込みの瞬間、頭を振ってしまう場面があったな」

「え……頭を、ですか?」

「きっと癖なんだろう。頭が振れると、一緒に体幹が振れてしまうんだ。少しずつでいいから意識してみるといい」

 

 面食らっていると、教官は僕の隣に立っていた女子に視線を向けた。

 

「それと、ユウナ」

「は?あ、あたし?」

「意気込みは買うけど、君は感情を表に出し過ぎだ。それにその武装だが、残弾数をしっかり把握できているか?」

「残弾……まあ、大体は?予備弾倉だってありますし」

「その構造だと、戦闘中のリロードは至難だろ。分校長も仰っていた『常在戦場』を忘れないことだ」

「ぐぬぬっ……は、はい」

 

 これはこれで、拍子抜けと言うべきか。思いの外に細かな点を突かれてしまった。

 しかしぐうの音も出ないのも事実だ。身内から口酸っぱく指摘され続けてきた悪い癖を、たった数度の立ち合いで見抜かれた。まあ、見る目はあるのだろう。

 まだまだ未熟。今はただ、受け止めよう。八葉の一端に触れるのは、それからでも遅くはない。

 

___________________

 

 

 一気に間合いを詰めて、クラウ=ソラスの剛腕を振るう。直撃は逃したもののダメージは明らかで、一旦距離を取ると反撃の気配もない。次の接触が最後だ。

 しかし一方で、どうしても引っ掛かる。シーダ・ウォーゼルと戦術リンクで繋がって以降、不可思議な感覚に捉われ続けていた。

 

(この感覚は……一体、何なのでしょうか)

 

 『感覚が鋭敏になり過ぎている』としか、形容できない。恐らくこれは、彼女の物だ。対峙した魔獣の一挙手一投足が、経験や勘とは異なる明確な『情報』として、コンマ一秒単位で流れ込んでくる。

 クラウ=ソラスではなく、戦術リンクを介した敵情報の解析。まるで未知の領域だった。これが、彼女が見ている世界?

 

「シーダさん。次で仕留めます」

「わ、分かりました」

 

 確かめるように、追撃を促す。シーダさんが覚束ない足取りで魔獣に接近すると、息も絶え絶えだった昆虫属の魔獣が、きしきしと威嚇音を鳴らして、最後の悪足掻きを見せ始める―――これも事前に、分かっていたことだった。

 

「ブリューナク、掃射」

「わわっ!?」

 

 前のめりになっていた魔獣に躱す術はなく、クラウ=ソラスの火を真面に受けたことで、一瞬にして灰と化した。敵性魔獣の沈黙を確認。

 このエリアに徘徊していた魔獣は、これで最後。一先ずの脅威は去ったはずだ。

 

「そっちも片が付いたようだな」

「しっかし、ホントすごいわねぇ。クラウ=ソラスっていったっけ?」

 

 ユウナ・クロフォードに、クルト・ヴァンダール。左右一対の武装を苦もなく操る二人の練度は、数度の戦闘で理解できていた。

 しかし二人の目には、私が駆るクラウ=ソラスの勇姿しか映っていないのだろう。魔獣の僅かな動作から先を取り、機を見い出しているのは、私でもクラウ=ソラスでもないのだ。

 

「……アルティナ、どうかしたのか?」

「いえ……」

 

 そして、リィン・シュバルツァー教官も。私が感じている彼女の異質さを、察してはいないようだ。戦術リンクで繋がった、私だけが気付いている。

 当のシーダさんは、攻略を開始してから一時間も経っていないにも関わらず、完全に息が上がっていた。額には多数の汗粒が浮かんでいて、僅かに頬が紅潮しているようにも見受けられる。

 

「シーダさん。率直に聞きます。あなたのそれは、一体何なのですか?」

 

 初めはおぼろげな物だった。しかし戦闘行為を重ねるに連れて、感覚が段々と研ぎ澄まされていき、それが今『頂点』に達しつつある。

 クレア・リーヴェルトの驚異的な空間把握能のような、超然とした何かだ。気付かない訳がない。彼女自身が、意識していないはずがない。

 

「わ、分かりません。ただ、この国に来てから……『風』が、多過ぎる、といいますか」

「風が……多い?」

「そうとしか、言えないんです。この施設に入ってからも、頭が、くらくら、して。い、いい、あ」

「し、シーダさん?」

「シーダ!?」

 

 突然、戦術リンクが途切れる。次いでシーダさんの膝が折れて、私と同じ小さな体躯は、力なく崩れ落ちてしまった。

 それが最後だった。五感は元通りになり、シーダさんは穏やかな寝息を立てて、眠り続けていた。

 

___________________

 

 

「……え?」

 

 重い瞼を開くと、見慣れない真っ白な天井があった。

 ゆっくり息を吸うと、知らない匂いがいくつも鼻に入る。

 故郷には存在しなかった数々。その中に唯一在った優しげな気配が、私の名を呼んだ。

 

「ふう。漸く目を覚ましてくれましたか、シーダさん」

「……アルティナさん?」

 

 恐る恐る上半身を起こして、辺りを見回す。

 金属の骨組みで造られた寝床に、ふかふかの柔らかい寝具。その傍らの小さな椅子に座っていたアルティナさん。置かれた状況から考えて、想像するに容易かった。

 

「確認ですが、記憶は鮮明ですか?」

「うん……。アルティナさんと、何かを話したことまでは」

 

 その後の顛末を、アルティナさんは淡々と説明してくれた。

 私はあの要塞を攻略する道半ばで意識を失ってしまい、途中退場となった。残りの道のりをどうするかは賛否両論あったものの、結局私を除いたアルティナさんら四名は無事地上へ辿り着き、実力テストとやらは一応の終わりを迎えたらしい。

 

「それとシーダさんの容体ですが、トワ・ハーシェル教官の診断によれば、緊張のあまり敏感になり過ぎていたのでは、とのことでした。私としては、今一釈然としないのですが」

「……釈然と、しない?」

「今のあなたからは、何も感じません。理解不能です」

 

 あなたに同じく。何のことかさっぱり分からない。

 

「そ、それより。もしかして……私だけ、不合格とか?」

「心配は無用です。あなたは予定通り《Ⅶ組特務科》の所属になります。ですがリィン教官曰く、何かしらの形で『追試』が必要になるかも、と仰っていました」

「追試……」

 

 追って再度実力テストを受けさせる、ということだろうか。

 何れにせよ、情けない。気を抜いたら涙腺が緩んでしまいそうだ。

 

「はぁ……。初日から、もう。私って、どうしてこう」

 

 列車で帝都近郊にやって来た頃から、違和感はあった。

 周囲に溢れる人や物が、事ある毎に邪魔をしてくる。あまりにも『風』が多過ぎて、気が散ってしまうのだ。目まぐるしい状況の変化に付いていけず、挙句の果てに列車の乗り換えを間違えて、道に迷う。そしてこの有り様だ。入学早々失敗を繰り返すなんて、私は何をしているのだろう。

 

(でも……あの感覚は、一体?)

 

 ひとつ引っ掛かるのは、意識を失う前のことだ。小要塞に踏み入った直後辺りから、頭に熱が籠って、ふわふわとした奇妙な感覚が続いていた。

 緊張のあまり、敏感になっていた?的を得ているようで、何かが違うような気がしてならない。少なくとも今までにない、初めての感覚だった。

 

「リィン教官を呼んで来ます。それと、ユウナさんとクルトさんも。目を覚ましたら教えて欲しいと、お二人からも頼まれていたので」

「あ、はい。色々と、ありがとうございます」

「……私の方こそ。不注意でした」

「え……」

 

 私に背を向けたアルティナさんは、扉の取っ手を握ったまま、淡々と告げた。

 

「戦術リンクで繋がっていたにも関わらず、別のことに気を取られて、あなたの異変に気付けませんでした。私の落ち度です」

「そ、そんなことない。そんなことないよ。今だってこうして、私に付き添ってくれて……。すごく安心したっていうか。ほら、同い年だから。尚更、ね?」

「……?よく、分かりません」

 

 それだけを口にして、アルティナさんは部屋を後にした。僅かな感情の残り香だけを残して。

 

「アルティナさん……」

 

 今一掴みどころのない人だ。しかし焦る必要はないのだろう。少しずつ、理解を深めていけばいい。

 でも『追試』については話が別だ。まさか私一人で小要塞を攻略しろ、などという無理難題はないと思いたいけれど、ある程度の覚悟はしておいた方がいい。

 何より、私を気に掛けてくれている人達。アルティナさんにリィンさん、ユウナさん、クルトさんのためにも。

 

「……ここ、何処なのかな?」

 

 取り急ぎ、ここは一体何処なのだろう。草木の匂いが、恋しくて仕方なかった。

 

___________________

 

 

 ―――その日の晩。午後二十三時過ぎ。

 宿舎三階の私室でデスクに向かっていたリィン・シュバルツァーは、一旦眼鏡を外してから立ち上がった。

 伸びをして固まった筋肉を解していると、こんこんと扉をノックする音が耳に入る。夜分遅い時間帯を考慮して、静かに応じた。

 

「はい。開いてます」

「オルランドだ。ちょいと邪魔してもいいか?」

「……ええ、どうぞ」

 

 ガチャリ。寝間着用のシャツ姿のランドルフ・オルランドが、欠伸を噛み殺しながらリィンの私室へとやって来る。ランドルフの気軽な訪問に対し、リィンはある程度を察した。

 互いに気配には敏感で、意図して感覚を遮断しない限り、壁の向こう側で誰が何をしているのか、自然と感じ取ってしまう。第Ⅱ分校が始動した初日なだけに気を緩め難く、それはランドルフも同じだった。

 

「まーだやってんのか。初日から根詰め過ぎじゃねえのか?」

「はは、そろそろ切り上げますよ。ただ、自分が担当する生徒のことぐらいは、把握しておきたかったので」

「へえ。灰色の騎士と名高い若き英雄が、随分と殊勝なこった」

「それは話が別で……。教官としては、半人前もいいところです。初日から生徒を……特にシーダには、申し訳が立ちません」

「ま、ありゃ無理もねえさ……その書類は?」

「《Ⅶ組》の生徒の物です。ご覧になりますか?」

 

 デスク上に置かれていたのは、《Ⅶ組特務科》に配属された生徒の名簿と、一通りの情報が記された書類だった。

 年齢や出身地は勿論、身長や体重、そして入学試験結果。筆記試験における各科目の点数と、実技試験の成績。リィンが手渡したのは、件のシーダ・ウォーゼルの書類だった。

 

「……成程ねぇ。筆記試験は総じてボーダーギリギリ。実技に至っては目も当てられねえな。言い方は悪いが、本校行きを逃して当然って訳だ」

「実際、第Ⅱに入れたのも不思議なぐらいです。本来の基準と年齢から考えて、何かしらの思惑が働いたとしか思えません」

「『留学生枠』って奴だろ。リベールにレミフェリア、ノルド……併合前ならノーザンブリアとクロスベル。そんで混血に、大部分が辺境出身だぜ?来るもの拒まずの精神を外部に示しつつ、厄介者は全員第Ⅱに押し付けとけってか。魂胆が見え見えだ」

 

 微塵も容赦のないランドルフの物言いに、リィンは同意を示さざるを得なかった。事実として、第Ⅱ分校に入学した生徒らの出生と経歴は、士官候補生としてはあまりに悪目立ちが過ぎるのだ。

 勿論、シーダについても。とりわけ身体能力という点においては、アルティナにすら及ばない。同年代の少女とはいえ、アルティナは数多の修羅場を潜り抜けてきた諜報員でもある。差は歴然だった。

 

「俺がいた《Ⅶ組》にも同じような生徒がいましたが、生い立ちが違い過ぎますね」

「西風の妖精か。そりゃ比べる方が酷ってもんだ。……申請した得物も、問題があり過ぎだな」

「ええ。当然、姉であるアヤに倣っての、選択だとは思いますが……『長巻』は、彼女の手に余ります」

 

 シーダが申請した専用武具は、『長巻』だった。

 かつてアヤが振るっていた東方の大太刀は、それ相応の腕力と体格が求められる。長大な得物である長巻は扱いが非常に難しく、使いどころも限られる。アヤは幼少時より長巻術と共にあり、人生その物が長巻の上に立脚していたからこそ、変幻自在に操ることができた。見よう見真似では、届きようがないのだ。

 

「確かにアヤちゃんは、女子の割に背丈があったっけ。ワジよりちょい上だから、百七十以上はあんのか?」

「はい。《Ⅶ組》の女子の中でも、アヤは一番……っ……の」

 

 アヤ。アヤ・ウォーゼル。彼女の存在を互いに口にした瞬間、空気が一変した。

 リィンは外していた眼鏡を付けて、シーダの書類―――家族構成の欄を、指でなぞった。

 

「その、オルランド教官。あなたは―――」

「やめとこうぜ。大方はお前さんの想像通りだろうよ」

「あ……」

「俺は何も知らねえし、見てもいねえ。勿論、ロイドもな。『ベルライン』はただの自然現象。そんだけだ」

 

 言い終えてすぐ、ランドルフが大きな溜め息を付く。

 怪訝そうな表情を浮かべるリィンを尻目に、ランドルフは後ろ頭を掻きながら、扉の方へ歩を進めた。

 

「ワリィ、マジで謝る。ロクでもねえ態度を取っちまった。詫びのついでに、今度奢ってやるよ」

「いえ、そんな。俺の方こそ……。話を聞いて頂き、ありがとうございます。少し気が楽になりました」

「そうかい。ま、戦術科も曲者揃いだしな。明日からが本番だ、お互いに気張るとしようぜ」

「ええ。こちらこそ、宜しくお願いします」

 

 後ろ手で扉が閉ざされる。ふうと一息を付いて、リィンは再度シーダの書類を手に取った。

 今考えるべき、向き合うべきは生徒達。僅か四名の生徒だからこそ、真剣に今後を検討しなければならない。

 

(ユウナ、クルト、アルティナ、シーダも。明日から、宜しくな)

 

 想いを胸に、デスクの端に置いていた写真立てへ視線を落とす。

 願わくば、もう一枚の未来を。そう願わずには、いられなかった。

 

 

 

 




一先ず、序章終了です。


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第一章
四月九日 ベイビーステップ


 

「んん……。ん、しょっと」

 

 早朝。二度寝の誘惑を追い払って、勢いよく半身を起こす。現時刻は朝の七時ジャスト。早過ぎず遅過ぎず、ほど良い時間帯での起床だった。

 隣のベッドでは、シーダが反対側を向いて眠っていた。アルティナの姿は見当たらない。一足先に起きて、顔を洗っているのかもしれない。

 

(四月の、九日か)

 

 あれから。第Ⅱ分校が産声を上げて、《Ⅶ組特務科》が仮発足したあの日から、今日で一週間が経つ。

 私の想像を遥かに上回る、ハードな日々が続いていた。座学は付いていくのがやっとで、各科目毎に用意していたノートは既に十数頁が埋まっていた。警察学校顔負けの野外訓練は少しも容赦がなく、ランディ先輩の絶妙な匙加減が身体を追い詰める。私自身、かなりの疲労が溜まっていた。

 

「そっか。今日って、自習日だっけ」

 

 来週末には『自由行動日』という名の休息日が設けられている。しかしそれまで二週間ぶっ続けの休みなし―――は流石に酷が過ぎる、と教官勢も判断したのだろう。

 四月九日、日曜日の今日は、全クラスに自主的な学習と訓練が課せられていた。各自のペースで一週間の振り返りを行い、翌週に備えるのだ。私は勿論、アルティナやシーダも心身共に限界が近いはずだし、大変に有り難い。

 とはいえ、普段と同じく朝は定刻までに登校する必要があるし、ホームルームもある。自習日だからといって、あまり寛いではいられない。

 

(……起こさない方が、いいわね)

 

 そっとシーダの寝顔を覗き込む。この様子だと、暫くは起きないだろう。ギリギリ間に合うよう声を掛けてあげればいい。

 

「ふわぁぁ。よしっ」

 

 大きな欠伸をして、両頬を叩く。さあ、今日の始まりだ。

 

___________________

 

 

 日課の朝稽古を早々に切り上げ、汗を拭いてから食堂へと向かった。

 室内にはざっと見て数名。端のテーブルでティーカップを傾けるアーヴィング教官、キッチン寄りの席にはスタークとウェイン。一人で食事中の女子は、主計科のヴァレリーといったか。

 普段よりも人が少ないのは、今日が日曜日だからなのかもしれない。自習日なだけに、教官らを含めやや遅い朝としているのだろう。

 

「おはよう、クルト。今日も朝から稽古か?よく続くな」

「ああ、おはよう。日課のような物だし、大したことはないさ」

「むむ。私も更に精進せねば。負けてはいられないな」

 

 スタークとウェインに声を掛けて、キッチンの様子を窺う。

 今日も今日で、主計科の女子が朝早くから用意してくれたのだろう。切り分けられたバゲットに、鍋には温かいポタージュと、大皿に盛られた野菜達。控え目な量と品数からは、『食材は揃っているので足りない方はご自由に』という気遣いすら感じられる。今度改めてお礼を言っておくとしよう。

 

(……卵とベーコンでも焼くか)

 

 手早くフライパンを温め、ベーコンに焼き目を付けてから卵を二つ割る。

 フライパンに蓋をして振り返ると、トレーを手にした女子と視線が重なった。

 

「おはよう」

「お、おはよう。クルト君」

 

 どうして朝の挨拶なんかに若干の躊躇いらしき物が混ざるのか。まあ、考えても無駄だ。

 

「君も食べるか?」

「え?」

「これさ。焼いただけだけどね」

 

 蓋を開けると、卵黄にほど良く火が通っていた。この辺りは好みが分かれそうだが、些細なことだ。

 

「いいわよ、そんな。自分で作るから」

「食べるか食べないかで答えてくれ」

「……食べる」

「ならこれは君の分だ」

 

 小皿によそって、ユウナが手にしていたトレー上に置いた。ユウナは小声で「ありがとう」と呟くと、冷蔵庫で冷えていた牛乳をグラスに注いで、無人のテーブル席に座った。

 

(……成程な)

 

 あの実力テストから一週間。少しずつではあるが、気軽に会話を交わせる生徒は増えつつある。段々と人となりも見えてきたし、クラスメイトなら、尚更だ。

 

「アルティナとシーダは、まだ寝ているのか?」

「シーダはそうね。アルティナは先に起きたはずだけど、何処にも見当たらなくて……って、ちょっと待って」

「ん?」

「う、ううん。何でもない」

 

 自然な動作で、同じテーブルにトレーを置いた。わざわざ違う席に座る方が不自然というものだ。

 バゲットをちぎり、口に運ぶ。周囲を見渡してから、話題を振った。

 

「ルイゼやティータは、一緒じゃないんだな」

「……何それ、どういう意味?」

「そのままの意味だが。君は大抵そうしているだろう。アルティナやシーダを除いてね」

 

 食事や休憩時間の過ごし方を見ていれば、想像するに容易いことだ。

 《Ⅶ組》は例外として、ユウナと親しげに話す女子は、僕が知る限りルイゼにティータ。二人と共にいる時間が圧倒的に多い。

 理由も明らかだ。人伝に聞いたが、ルイゼはレミフェリア出身で、ティータはリベール人。この帝国で生まれ育った者がほとんどの中、二人は分かり易い点で他の生徒と異なる。要はそういうことだ。

 

「昨日はゼシカとも少しあったらしいね」

「あれは別に……あたしが、その。らしくない態度を取っちゃっただけよ」

「らしくない?……らしくない?」

「何で二回言ったの?」

「フフ、いや。何でもないさ」

 

 笑みを隠すようにスープを啜っていると、ユウナは目を閉じて小さく腕組みをした。

 途端に、テーブルが揺れた。ユウナは突然立ち上がったと思いきや、強引に僕の腕を鷲掴みにした。

 

「ああもう。らしくない、本っ当にらしくない。クルト君、ちょっと来て」

「ま、待ってくれ。何処へ、ま、え?」

 

 どうにか手にしていたスプーンを置いて、されるがままに引っ張られる。

 食堂を出て、ユウナと共に向かった先は―――階段下のスペースに設けられた、用具室。掃除用具や古びた備品が保管されていた狭い一室に押し込まれ、頭上のランプが点灯した。

 とても近い位置に、ユウナの顔があった。開口一番に、ユウナは声を張った。

 

「ごめんなさい!!」

「っ……だから、待ってくれ。まず僕は、何を謝られているんだ?」

「ほら、実力テストの時の、あれよ。つい勢いで言っちゃったけど……自分でも、大人げなかったって思うから」

 

 ―――帝国人が使う『時代遅れ』の剣なんかより、ずっと役に立つわよ!

 まさか、あれのことを言っているのか?

 

「別に僕は……。ある意味で、君の言う通りさ。ヴァンダールは、そうだったのかもしれないな」

「え……?」

 

 時代遅れ。言い得て妙だと思う。

 長年に渡る、古くから続いてきた仕来りと習わし。ヴァンダールは家名に甘え、奢っていたのだろう。当たり前に継がれ、継いでいくと思い込んでいた。僕だって例外ではなかった。

 だが時代が変われば、在り方も変わる。剣も体制も、変わる物は、変わるんだ。

 

「いや、こっちの話さ。それより、僕の方こそ謝りたい」

「あ、あたしに?クルト君が?」

「君だってあの特殊警棒には、思い入れがあるんじゃないか。僕も少々無神経な物言いだったと思うよ」

 

 特殊警棒は、護身と制圧に重きを置いた武装。警察官の象徴でもある。不本意な経緯で軍警学校から出向したと言っていたし、出会って早々に苦言を呈されては、不快感を抱いて当然だ。

 何よりあの武装を丹念且つ丁寧に手入れする姿を見せられたら、自然と察してしまう。何かしら、特別な感情があるのだろう。

 

「それと遅くなってしまったが、これを」

「……え、ハンカチ?」

「ああ。取り寄せるのに、時間が掛かってしまってね」

 

 一応洗ってはみたものの、一度男子の鼻血に塗れたハンカチを返す気にはなれなかった。駅前のブティック経由で注文した新品が届いたのが、つい先日。ちょうどいい機会だ。

 

「そういえば、お礼も言いそびれていた。あの時は、ありがとう」

「……納得いかない」

「は?」

「だ、だって!折角言えたのに、お釣り付きで返されたっていうか。なんか、負けた気がする」

「君はとても面倒臭い女子だな」

「面と向かってそういうこと言う!?」

「まあ、お互い様だ」

 

 苦笑いをしながら、右手を差し出す。

 本質的に優しい人間なのだろう。あの時迷わずにシーダを受け止め、僕に手を差し伸べてくれた時から、理解していたことだ。それに生粋の帝国嫌い、という訳でもないらしい。とても面倒臭いクラスメイトだが、可愛げがある程度に受け取っておくとしよう。

 

「ユウナ。改めて、宜しくお願いしたい」

「……こっちこそ。みんなとも、もう少し歩み寄ってみる」

「ああ。そうするといい。……とりあえず、ここから出ないか?その、狭くて仕方ない」

「そ、そうね」

 

 薄暗い室内で身体を反転させて、扉を開ける。埃っぽさがなくなり、一先ずの深呼吸。

 ユウナと一緒に食堂へ向かった矢先、やや離れた位置から僕らを見詰める、少女の姿に目が留まった。アルティナは考え込むような仕草を取ると、淡々と告げた。

 

「朝っぱらからお楽しみだったようですね」

「アルティナ。意味を分かって言っているのか?」

「いいえ。リィン教官用に習得した語彙のひとつです」

「二度と使わないでくれ。いや、教官にだけは許そう」

「よく分かりませんが了解です」

 

 独特の言い回しが多い子だ。もう一週間が経つというのに、アルティナだけは表面上の情報しか読み取れない。ユウナ以上に、前途多難にもほどがある。

 

「ていうか、何処に行ってたのよ?外に出てたの?」

「秘匿事項です」

「……ああ、そう」

「それより、シーダさんの姿が見えませんが。まだ起床していないのですか?」

「あっ。そ、そろそろ起こさないと」

「私が行ってきます。お二人は食事を済ませておいて下さい」

 

 シーダをアルティナに任せて、食堂のテーブルへと戻る。

 少し冷めてしまっていたが、手早く食べるには都合がいい。

 

「やれやれ。底が知れない子だが、シーダを気に掛けてくれるのは助かるな」

「アルティナがって言うより、シーダがあの子を頼りにしてるって感じね。同い年だし、きっと話し易いのよ」

「シーダの方はどうなんだ?この一週間で、かなり疲れも溜まっているはずだが」

「うん……。相当、無理はしてると思う」

 

 口に出したくはないが、年齢や体格のハンデだけは、目に見えて明らかだ。僕らが感じている負荷とシーダのそれも、比べ物にならないのだろう。

 極力支えてやりたいが、僕らにできることは限られている。今日の放課後にでも、改めてシュバルツァー教官に相談した方がいいかもしれない。

 

「ユウナさん、クルトさん!」

 

 不意に、アルティナの声が聞こえた。珍しく感情の籠った彼女の声は、悪い報せを告げる物だった。

 

___________________

 

 

 ―――パタン。

 眠りに付いたシーダを起こさないよう、ハーシェル教官がそっと扉を閉じる。

 

「多分、疲労とストレスの影響だと思う。熱は高くないけど、風邪と同じ症状が出てるみたい。今日一日は、安静にした方がいいね」

「風邪……ですか」

 

 シーダの異変に気付いたのは、彼女を起こしに部屋へ戻ったアルティナだった。声を掛けてもベッドから出ようとしないシーダは、熱に魘された様子で体調不良を訴え、症状は今し方聞いた通り。根本の原因は、言うまでもなく。

 

「リィン教官には、私から通信で伝えておいたから。朝のホームルームは時間を変更して、一時間後にお願いって言ってたよ。三人は予定通り登校して、教室で待機をお願いね」

「了解です。ありがとうございます」

 

 ハーシェル教官の背中を見送って、僕らは一先ず食堂へと向かった。

 置きっ放しにしてあった食器を片付けて、テーブルに付く。ユウナは勿論、アルティナも僅かに表情を歪めていた。

 

「やっぱり、相当無理をしていたみたいだな」

「そうね……もしかしたら、食事の影響もあったのかも」

「食事?」

「シーダって、あまり量を食べなかったのよ。小食なのかなって思ってたけど……ほら、食文化の違いってやつ?あたしは詳しく知らないけど、ノルド高原とここじゃ、かなり環境が違うんじゃない?」

 

 食文化の違いか。まるで気付きもしなかったが、当たり前の発想だ。遥か北方の異境の地と帝都近郊では、少なからず食材や調理方法に違いがあるはずだ。

 もし仮にシーダが居心地の悪さを感じ、食が進まなかったのなら、それだけで致命傷になり得る。僕らと同じ授業と訓練を受けている以上、体力を保つには、食事は必須な要素の最たるひとつだ。

 

「私が考えるに、それだけではありません。恐らく彼女は『感応』という点において、類稀な能力を秘めています」

「「感応?」」

「はい。小要塞で戦術リンクを繋いだ時に、その一端を垣間見ました」

 

 類稀な感応。アルティナの話では、それは異常に秀でた五感を指していた。

 視力や聴力、嗅覚。シーダは常人と比較して、とりわけ敏感なのだそうだ。平穏な大自然と共に生きる上で、ノルドの民が身に付けた感応力。アルティナ曰く、それらの上に成り立つ『第六感』なる物も、シーダにはあるらしい。

 

「そうか……時折シーダは『情報が多過ぎる』と言っていたが、あれはそういうことだったのか?」

「えーと。つまり聴覚で言えば、同じ音でも、シーダには大きな音として聞こえてるってこと?」

「差は分かりませんが、恐らくは。特に夜間、シーダさんが質の良い睡眠を確保する上で、ルームメイトであるユウナさんの『いびき』は喫緊の課題です」

「待ちなさい。待って、待ってホント待って。クルト君、顔!その顔はなに!?」

「あー、コホン。それはさて置きだ」

 

 解消すべき問題点が一気に上がった。しっかりと整理をして、ひとつずつ当たる必要がある。何より僕らの力だけで対応できる域を超えてしまっている。この場で四の五の言っていても始まらない。

 

「ホームルームまでまだ時間はあるが、待つ必要もないだろう。シュバルツァー教官に相談してみないか?」

「それもそうね。そうと決まれば早速行きましょう!」

「了解です」

 

___________________

 

 

 扉の前に立ち、上着の襟を整える。ノックをしようと右拳を上げた矢先、透き通るような美声が待ったを掛けた。

 

「シュバルツァーか。ノックは不要だ、入ってくるがいい」

「……失礼します」

 

 見事にお株を奪われ、そっと扉の取っ手を回した。

 オーレリア・ルグィン。第Ⅱ分校の長を務める伯爵家の当主は、湯気が立つティーポットを手に、テーブルに置かれたカップへと注ぐ最中だった。

 

「茶を沸かして一服しようと思ってな。いい機会だ、そなたも付き合え」

「それは、恐縮です」

「フフ、そう構えるな。自習日ぐらい肩の力を抜くがいい」

 

 テーブルを挟んでソファーに腰を下ろし、ふうと一息付く。

 彼女と一対一で会話を交わすのは、この場が初めてのはずだ。こうして正面から向き合っていると、奇妙な感覚に捉われてしまう。

 

「何やら言いたそうな顔だな。遠慮は要らぬぞ?」

「今更ながら……つくづく、信じられないと思いまして。『黄金の羅刹』と名高いあなたが今、目の前でそうしているのが」

「ふむ……。私自身、あの内戦を境にして、力の衰えを感じていたところだ」

 

 オーレリア分校長は紅茶を一口啜ると、遠い目をしながら語った。

 

「とりわけ『蒼き聖獣』に剣を折られ、機甲兵を砕かれた時は、残骸ごと喰われるやもしれぬと覚悟したものだ」

「……アヤが従えていた聖獣は、戦況によっては騎神をも凌駕していました。無理もありません」

「クク、まあよい。思い出話には、追々花を咲かせるとしようか。……遠慮は要らぬと言ったであろう。率直に申すがいい」

 

 全てお見通し、か。この人を前にして、隠しごとの類は通用しないに違いない。

 それに、今の口振り。今朝の一件は、分校長も見越していた事態に他ならない。分かっていた上で、今日を迎えた。その真意を確かめなくてはならない。

 

「シーダ・ウォーゼルの件は、既にご存知のようですね」

「ああ。ハーシェルから通信でな。入学から一週間、よくぞ今まで持ったものだ」

「……分かって、いたのですね」

「それはそなたも同じであろう?」

「はい。敢えてこの場では、否定しません」

 

 時間の問題だったのかもしれない。シーダが抱えるハンデは、彼女の手に余る。年齢に性別、体格、出生。あらゆる要素が彼女の心身を削り、消耗させる。

 もっと早期に、俺自身が手を差し伸べることはできた。しかしそれは、彼女の今後に繋がらない。彼女が独力で乗り越えない限り、未来には繋がらない。心を鬼にしてでも、見届ける必要があった。

 

「して、そなたはどう振る舞うつもりだ」

「……再来週には、機甲兵教練が控えています。その後には、特別カリキュラムも。詳細を聞かされてはいませんが……機甲兵教練も特別カリキュラムも、内容によってはシーダの『生命に関わる』と言っても、過言ではありません」

「概ね同意見だな。それで?」

「見極める必要が、あると考えています。分校長は、どうお考えですか?」

 

 分校長はティーカップを置いて立ち上がり、出入り口の扉の方をちらと見てから、告げた。

 

「あやつはそなたの生徒だ。そなたに一任するとしよう。……が、期限は必要だな。実力テストとやらの『追試』を課すそうだが、日程は決めているのか?」

「一週間後を予定しています。内容は、まだ未定ですが」

「ならば一週間の猶予を与える。追試で手応えを感じぬようであれば、『見限る』がいい」

 

 ―――ドタタンっ。

 扉の向こう側から、何かが崩れ落ちる音が響いた。

 気付かない訳がないだろうに。俺に先んじて、分校長も察していたはずだ。聞き耳を立てるなら気配ぐらい消せ。その辺りの指導は、今後の課題にしておくとしよう。

 

「クク。そなたの雛鳥は揃ってお人好しと見える。頼もしいではないか」

「俺も含め、まだまだ足並みは揃っていませんが……心強さは、実感していますよ」

 

 唯一の可能性。シーダは決して独りではない。俺達《Ⅶ組》がそうだったように、結束は新たな力を生んで、明日へと繋がっていく。

 ユウナ。クルト。アルティナ。俺にできることは少ない。だから―――支えてやってくれ。

 

___________________

 

 

 午前九時。《Ⅶ組特務科》の教室にて。

 

「ど、どうするのよ!?」

 

 見限るがいい。分校長は確かにそう言った。若干回りくどい言い回しではあるけれど、あの一言が意味するところはひとつしかない。

 状況を整理するために黒板へ『見限る』の三文字を殴り書いたものの、まるで意味を成していない。私も私で、冷静さを失っているらしい。

 

「どうもこうもないさ。シーダが追試の条件を満たさなかったら、彼女は第Ⅱ分校への在席を却下される……。僕らも腹を括るしかない」

「シーダさんが追試で好成績を収める他ありませんね」

 

 クリアー条件は単純だ。シーダが追試とやらで合格点を叩き出せば、全てが丸く収まる。その後も大いに苦労はするだろうけれど、今考えても仕方がない。

 

「問題は追試の内容ね。まだ決まってないみたいだけど、あの小要塞攻略と同種って考えたら、どうしたって実戦が伴うに決まってるわ」

「だろうね。追試までの一週間で、どこまで物にできるか……僕も助力は惜しまないつもりだ」

 

 実戦に必須となるシーダの剣術については、教官勢やクルト君を頼るしかない。

 シーダの得物は『長巻』と呼ばれる太刀の一種だそうだ。かなり癖のある武具のようで、取り扱いも極めて困難。剣術に精通した人間に任せるのが無難だろう。

 

「あたし達はそれ以外のケアよね。食事なんかはティータやサンディに相談した方がいいかも。それに……アルティナは、何かある?」

「私は……。ひとつ、いいですか」

「うんうん、何?」

「シーダさんにとっては、諦めるという選択肢が、最も安全なのではないですか?」

 

 思わず耳を疑った。思考が停止して、理解が遅れる。

 諦める?何を?追試を―――《Ⅶ組特務科》を、諦める?

 

「君はっ……アルティナ、本気で言ってるのか?」

「質問の意図が分かりません。私は―――」

「待って二人共」

 

 間に割って入り、アルティナと正面から向き合う。アルティナの挙動に注視をして、お互いの呼吸を合わせながら、眼の奥を見据えた。

 

「アルティナ。もう一度、あなたの意見を聞かせて?」

「ですから、これ以上の負担はシーダさんの心身を確実に追い詰めます。分校長のご判断も、それを考慮しての……。私は、理解を誤っていますか?」

 

 この一週間で、見えてきた物がある。アルティナは純粋だ。純粋過ぎる、という形容が当て嵌まるかもしれない。

 表面上の言動だけを受け取っていては、この子と通じることはできない。何処からが客観的事実で、何処までが彼女の意思なのか。僅かでも見誤ると、アルティナという人間への誤解に繋がりかねない。

 

(この子なりに……心配、してるのかな?)

 

 アルティナは否定するだろう。しかし彼女なりにシーダの身を案じての発言だとするなら、受け止める側の理解はまるで違ってくる。

 ひとつひとつを、慎重に積み重ねよう。アルティナは外見以上に幼い、子供なのだ。

 

「ねえアルティナ。それを決めるのは、あたし達じゃない。シーダ自身が決めることよ。そうは思わない?」

「その点に異論はありません。当人の判断を尊重すべきかと」

「ええ、そうね。じゃあ、アルティナ自身はどう思う?」

「わたし、自身?」

「そう。シーダがこの《Ⅶ組》にいるのといないのと、どっちがいい?」

「元々少人数の編成なので、いて頂いた方が何かと助かります」

「そうじゃなくって……。えーと」

「ですが、そうですね」

 

 瞬間。アルティナの顔に、ひとつの表情が浮かんだ。感情のひと欠片を、ハッキリと感じた。

 

「誰かに頼られるというのは、不思議と悪い気はしません。よく、分かりませんが」

「……そっか」

 

 十分過ぎるだろう。この辺りが、今のアルティナの精一杯。だから私達も、精一杯汲み取ってあげよう。

 《Ⅶ組》はまだ始まってもいない。小要塞の終点で教官が告げたように、そもそもシーダが揃わない限り《Ⅶ組特務科》には(仮)が付く。追試までの残り一週間、全力疾走で駆け抜けよう。

 

「まずは簡単な問題から解決していこうか。ユウナのいびきはそんなにひどいのか?」

「音量はこれぐらいです。んごごごごご」

「ぶふっ、ぷは、ははっ。いや、その。それぐらいなら、まだ可愛いものじゃないか」

「察するに、シーダさんにはこれぐらいに聞えているはずです。んご!ご!ご!ご!ご!」

「あああああもおおおおおおお」

 

 少しだけ、実家の一人部屋が恋しくなった気がした。

 

 

 

 



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四月十六日 Ⅶ組特務科

 

 四月十五日の土曜日、午後十九時。トールズ士官学院第Ⅱ分校の宿舎にて。

 初となる自由行動日を明日に控えた今日、生徒達は思い思いの時を過ごしていた。目まぐるしい二週間を乗り切った達成感、休日前夜特有の高揚。そして部活動という青春の模索。

 誰もが明日への希望を胸に、目を輝かせる―――その一方で。

 

「ねえルイゼ」

「なに?」

「ユウナ達は……死んでいる、わよね?」

「んー。私が見る限り、死んでるねぇ」

 

 宿舎一階、食堂の一画には、《Ⅶ組特務科(仮)》の姿があった。

 両腕を椅子の背もたれに預けてだらしなく座り込むクルトの姿は、不良生徒そのもの。ヴァンダールの厳格さは微塵も窺えない。椅子を二つ並べてベッド代わりに寝そべるユウナは、女子力云々以前の問題である。体力を根こそぎ奪われたアルティナも、整った姿勢で頭部をテーブル上に置いたまま、涎を垂らして熟睡していた。その寝顔はARCUSⅡの撮影機能により複数人の手で保存されていたのだが、本人には知る由もなかった。

 

「警察学校に通い始めた頃を思い出すわね……精根使い果たしたって感じ」

「正直に言って、食事を取るのも億劫だ」

「……部活動って、明日までに決めるんだっけ?」

「……思い出させないでくれ」

 

 先週末、シーダに実力テストの『追試』が言い渡されて以降、今日までの一週間。あまりにも濃密な一週間だった。

 早朝はクルトが付きっ切りで剣術の基礎を指南し、放課後や夕食後も同様。座学についてもアルティナが徹底的にサポート、予習復習に割く時間を秒単位で削減。ユウナは周囲に協力を求め、シーダが感じていた異文化への抵抗感を解消すべく、奔走する日々が続いていた。

 

「ちょっとユウナ、大丈夫?かなり疲れが溜まっているみたいだけど」

「ゼシカ……あはは。まあ、やれるだけのことはやったし。あとはシーダ次第かな。それより、その。色々協力してくれて、ありがとね」

 

 協力の輪は、少しずつ広がっていった。段々とシーダを気に掛ける生徒が増えていき、一方ではユウナが抱いていた帝国人への抵抗感も、本人が無自覚のまま薄れつつあった。

 そうして迎えた今日。追試は明日の早朝である以上、残り時間は休息に当てるしかなく、合格の是非はシーダ次第。三人は腹を括りつつ、今更になって襲い掛かる疲労感に頭を痛めていた。

 当のシーダは早々に夕食を済ませ、今現在は入浴中。三人もシーダに続きたかったのだが、一向に食事が進んでいなかった。

 

「そろそろ皿を空けた方がいいな。休むのは部屋に戻ってからにしよう」

「そうね。あたし達もお風呂に入りたいし。ほら、アルティナも起きなってば」

「むぐ……もう朝ですか?」

「あはは。アルティナ、超寝惚けてる」

「こうしていると、君もシーダと変わらないな」

「寝起き早々に子ども扱いされる意味が分かりません……」

 

 テーブル上には、すっかり冷めてしまった夕食が並んでいた。いつまでもダラダラとしていては食器洗い班に悪いと考え、クルト達は僅かな食欲に鞭を打ってフォークを握った。

 

「そういえば、お二人共。今週号の帝国時報はお読みになられましたか?」

「ああ、僕は目を通してある。ユウナには聞くまでもないだろう」

「ちょっとちょっと。勝手に決め付けないでよね。なーんか感じ悪い」

「じゃあ読んだのか?」

「……読んでないけど。ていうか、何?てーこくじほー?」

「君は本当に面倒臭いな……」

「あー!また意地悪なこと言った!」

 

 どうして無駄に会話量を増やすのか。アルティナは首を傾げつつ、携帯していた帝国時報をユウナに差し出した。

 

「少々気になる記事がありましたので。ユウナさんもご覧になった方がよいかと」

「えーと。この記事?」

 

 【ノルド高原で軍事衝突】

 去る四月十二日、帝国北東に位置するノルド高原において、カルバード共和国軍との軍事衝突が発生した。国境ゼンダー門に駐屯する第七機甲師団が即時対応、機甲兵部隊と軍用飛行艇を以って敵空挺部隊の侵攻を阻止したが、これで今年に入って三回目の衝突となる。

 

「って、ええ!?これって、シーダの故郷のこと!?」

「幸い死傷者は出ていないようだ。シーダの身内に何かあれば、一報が入るはずだしね」

 

 クルトが言うように、ノルド高原で暮らす民に犠牲者は出ていなかった。念のためにと教官らに確認を取ったクルトは、先んじて被害状況を把握。既に衝突も鎮火し、事なきを得るに至ったらしい。

 

「シーダには明日以降に伝えようと思う。ユウナも、それでいいか?」

「まあ、そうね。黙っているのは違うと思うけど、今は余計なことを考えない方がいいのかも」

「……よく分かりませんが、そういうものなのですか?」

「そういうものよ」

「そういうものさ」

 

 その判断基準と匙加減が、いまいち分からない。アルティナが再び首を傾げていると、ユウナが記事の文面を指でなぞりながら言った。

 

「でも、そっか。シーダがこの帝国に来たのって、この辺りも関係してるとか?」

「少なからずあるかもしれないが、いずれ彼女の方から話してくれるさ。僕らだって同じなんじゃないか」

「……それもそうね」

「やっぱり、よく分かりません……」

 

 三度首を傾げるアルティナ。若干不服そうなアルティナの頬をつんつんと突きながら、ユウナは話題を変えた。

 

「それにしても、いよいよ明日ね。問題は追試の内容よ。アルティナは何か聞いてる?」

「いいえ、私も把握していません。どうやらリィン教官は、他の教職員にも話していないようです」

「クク。んなモン決まってるじゃねえか」

 

 二人の会話に横槍を入れたのは、《Ⅷ組戦術科》の男子生徒―――アッシュ・カーバイド。

 朝の登校の際にも《Ⅶ組》に対し含みのある態度をちらつかせたアッシュは、炭酸飲料が入った缶を片手に、不敵な笑みを浮かべて三人を見下ろしていた。

 

「またアンタなの?いちいち絡んできて鬱陶しいわね」

「やれやれ、嫌われちまったな。俺は別に―――」

「待ってくれ」

 

 早々に追い払おうとするユウナを制止したクルトは、アッシュと視線を重ねた。

 今朝方の態度に抱いた違和感。《Ⅶ組》を妙に意識した言動は、その実『自分達』ではない何かに向いていた。その真意を、見極めておく必要がある。

 

「アッシュ・カーバイド。今のは、どういう意味だ?」

「どうもこうもねえっての。あのチビっ子の追試だろ?考えなくたって分かることじゃねえか」

「分からないから聞いているんだが」

「クク、まあこいつは俺の想像だからな。明日は俺も見学させて貰うぜ。お手並み拝見ってやつだ」

 

 お手並み拝見。これまでシーダに対し微塵も興味を示さなかった男の言葉とは思えない。

 一体何を言わんとしているのか。クルトらを嘲笑うように、アッシュは敢えて多くを語らず、その場を去って行った。

 

___________________

 

 

 そっと湯船に右足を入れて、続けて左足を。息を止めてゆっくりと腰を沈めていき、肩まで浸かったところで、全身を弛緩させた。

 

「はああぁぁあ……へえぇああ」

 

 入浴とはどうしてこうも安らぐのだろう。気持ちがいいという言葉ではまるで形容し切れない。全身の筋肉が解れると共に、疲労が汗と一緒に溶け出していくかのような解放感。女神様の下へ旅立ってしまいそうになる。

 湯で身体を拭く習慣はノルドにもあったし、時折湖で水浴びをすることもあった。しかしこれはまるで別世界だ。贅沢極まりない気がして初めは躊躇いがあったけれど、今となっては慣れたものだ。寧ろ病み付きと言った方がいい。

 

「本当に、贅沢だよね」

 

 この一週間。私はどれだけの人間に支えられてきたのだろう。きっと今も私は、私の与り知らないところで、誰かに支えられている。私が気後れしない絶妙な距離感の優しさ。目には映らない気配りと、聞こえない思いやりに満ちた毎日。

 気を緩めると、目頭が熱くなる。けれども、決して泣いては駄目だ。まだ何かを成し遂げた訳じゃない。全ては明日に掛かっているのだから。

 

「あ、シーダちゃん」

「え?」

「ふふ、お邪魔しますね」

 

 木製の引き戸が開かれた先に、《Ⅸ組主計科》の生徒が二人立っていた。ティータ・ラッセルさんと、ミュゼ・イーグレットさん。合同で受けるカリキュラムの中で、二人とは何度か話したことがあった。

 二人は身体と頭髪を簡単に洗った後、私と同じく湯船に浸かった。湯のかさが増して、少量が湯船から流れ出ていく。

 

「お疲れ様、シーダちゃん。今日も大変だったみたいだね。明日のテスト、頑張って。私も応援してるから」

「は、はい。ありがとうございます」

 

 可愛らしい小顔に浮かぶ笑み。それとは対照的な、洗練された身体付き。

 引き締まった四肢は力強く、外見以上に鍛えられていることが見て取れる。よくよく見ると、手には複数の傷痕が薄らと刻まれていた。表現に困るけれど、同じ女子のそれとは思えない。

 

(すごい手……)

 

 《戦術科》との合同カリキュラムでも感じたことだ。導力銃の扱いは見事なもので、ランドルフ教官も思わず唸るほど。

 導力機器の取り扱いと知識に長けている分、自然と身に付くものなのだろか。事情は分からないけれど、ティータさんは放課後のほとんどを格納庫で過ごしているぐらいだ。

 

(……小さいなぁ)

 

 照明に右手をかざして、目を細める。

 この小さな手に収まる物は少ない。あの長巻が、まるで暴れ馬のように感じてしまう。この一週間でやれることは全てやったつもりだけど、何かが大きく変わった訳じゃない。

 私の身体は、きっと小さいまま。急に背丈が伸びたり、手が大きくなるはずがない。周囲との年齢差も埋まらない。お兄ちゃんとお姉ちゃんは、まだ遠くに―――

 

「シーダさん。私からあなたに、ひとつアドバイスを差し上げます」

「はい?」

 

 じんわりと滲み始めていた弱気を振り払って、ミュゼさんの声に耳を傾ける。

 

「誰にでも得手不得手はあります。至らない点を補うという発想は、間違いではありません。ですが、『得手』を伸ばすという考え方も、数ある正解のひとつですよ」

「……えっと、つまり?」

「うふふ。明日は私も、応援させて頂きますね」

 

 明確な答えが返ってこない。けれども、言わんとしていることは少なからず理解できる。

 得手。私の長所。私にしかないもの。すぐには、思い浮かばなかった。

 

___________________

 

 

 ―――翌日。

 早朝に分校の『グラウンド』へ来るようリィンから言われていたシーダは、アルティナ達と共に本校舎西側の通路を歩いていた。ユウナとクルトの隣には、《Ⅶ組》以外の面々の姿もあった。

 

「どうして君まで付いて来るんだ……」

「昨日言っといただろ。別に邪魔はしねえよ」

「ミュゼまで……言っておくけど、見せ物じゃないんだからね?」

「心得ています。それに、ほら。私達だけではないみたいですよ?」

「へ」

「ふふ、シーダさんは既に気付かれているようですね」

 

 グラウンドへ繋がる坂を下りながら、ユウナが辺りを見回す。

 複数の視線があった。本校舎屋上、二階の窓際、中庭、格納庫二階。教官生徒らがグラウンドを見下ろせる各箇所から、誰もがシーダの背中を見守っていた。

 

「クク、どいつもこいつもこそこそと。俺達の方がよっぽどマシじゃねえか」

「こ、これって……ねえシーダ、大丈夫?緊張とか、してない?」

「平気です。それに私も、そのつもりでしたから」

 

 追試を課せられたあの日から、常に誰かが傍にいてくれた。差し伸べられた沢山の手に報いるためにも、皆の前で実を結んで見せる。元より覚悟の上だ。

 

「お待たせしました」

 

 長巻を左手に、シーダが立ち止まる。同じく右手に太刀を握っていたリィンは、一度瞼を閉じてから見開き、重みのある声で告げた。

 

「シーダ。君には今から、俺と立ち合って貰う」

「っ……立ち合う、ですか」

「一本取れとは言わない。だが俺が合格と判断するまで、立ち合いは続ける。訓練用の刀剣とはいえ、一時も気を緩めるな。何か質問はあるか?」

「いいえ。すぐにでも始められます」

 

 一対一。互いの得物を用いた立ち合い。追試の内容に対し、シーダに動揺はなかった。

 

(ありがとう、クルトさん)

 

 クルトの見立ては的中していた。アッシュの思わせ振りな言動から、単純明快に考えた末の結論が、真っ向からの実力テスト。シーダが抱えるハンデと純粋な力量を試すとすれば、実戦を伴う何かではなく、『実戦その物』こそが相応しい。この上なく分かり易い可能性を、シーダは事前にクルトから言い聞かされていた。

 いずれにせよ、今日が明日以降を左右する。シーダはゆっくりと深呼吸をしながら、長巻を抜いた。

 

「先手は君に譲ろう。さあ、掛かって来い!」

「はい!」

 

 地を蹴り、迷いなくシーダは長巻を振り切った。

 事もなげに斬撃を捌いたリィンが、確かめるように同じ軌道で太刀を振るう。衝撃で体勢を崩したシーダは一旦距離を取って、再度切っ先をリィンに向けた。

 

「う、うんうん。前とは全然違う。クルト君との稽古の成果、出てるじゃない」

「まあ、そうだな。だが……見方を変えれば、それだけだ」

「え?」

 

 剣術の基礎は、しっかりとシーダに叩き込まれていた。教科書通りの構えと握り、力の使い方。

 しかし逆に言えば、それだけだった。銃器で言うなら、銃弾を装填して、引き金を絞る。最低限度の動作しか窺えない。剣術に疎い者の目には派手に映る一方、現実には意外性の欠片もない型だけが繰り返される。

 

「あぐっ!?」

 

 やがて打ち合いの末に、シーダは受けの衝撃に耐え切れず、尻餅を付いた。同時に長巻の柄が手から離れると、リィンは声を張った。

 

「立つんだ、シーダ。得物を簡単に手離すんじゃない」

「痛ぅ……。は、はい」

 

 よろよろと起き上がり、長巻を握る。痺れた両手で振るった打ち込みに、初撃にはあった僅かな鋭さはなく、力任せに弾かれてしまう。

 直後の『掌底』。リィンの一打はシーダの胸部を貫いて、シーダは背中から地面に崩れ落ちた。

 ―――見ていられない。思わず駆け出したユウナの腕を、クルトが鷲掴みにした。

 

「待てユウナ、まだ終わってない」

「で、でもあんな一方的なのって」

「君だけじゃない、僕も同じだ。シーダも……勿論、教官も」

 

 シーダを信じよう。クルトの一言でどうにか踏み止まったユウナの肩に、ミュゼの手が置かれた。

 ユウナも理解はしていた。年齢や体格の壁を乗り超えない限り、シーダは《Ⅶ組》どころか、第Ⅱ分校への在学すら認められない。だからこそリィンは特別扱いをせず、シーダと向き合っている。分かっていたことだ。

 

「頑張って、シーダ」

 

 諦めない限り、必ず壁は乗り越えることができる。大切な先人の教えを胸に、ユウナはシーダの背中を見守った。

 

___________________

 

 

 急速に衰えていくシーダに対し、リィンは手を緩めようとしなかった。

 剣技の引き出しがないシーダには、為す術がなかった。何度も何度も、打ち込んでは返される。時折交える体術に翻弄され、体力を削られて、長巻を握る手から力が失われていく。

 

「何をしてる。立て、シーダ」

「う、うぅ」

 

 リィンの叱咤に、シーダの足は動かない。荒々しい呼吸と共に、肩だけが上下に揺れる。

 すると身体が小刻みに震えていき、砂塗れになった目元からは、大粒の涙がぼろぼろと、零れ出し始めていた。

 

「うっ……うえぇ、え、ううう」

 

 誰もが口を閉ざしたまま、動こうとしなかった。士官候補生としての明日を左右する試しの場で、地面に座りながら涙を流す姿は、外見通りの少女。幼さを残した少女が、立ちはだかる壁の前で、泣いている。それ以上でも、以下でもなかった。

 

「チッ、見てらんねえな。ただのガキじゃねえか」

 

 リィンの手並みを垣間見ることなく、実力テストは終わりを告げた。期待外れを食らったアッシュがその場を去ろうと振り返った瞬間―――背後から、何者かの気配を感じた。

 

「あん?」

 

 視線の先には、つい今し方と同じ光景があった。地面に力なく座り込むシーダと、彼女を見下ろすリィン。

 何も変わっていない。そのはずなのに、刹那を境に何かが変わった。何かが、変わろうとしていた。その感覚はアッシュのみならず、その場に集っていた全員が共有していた。

 

「く、クルト君。この感じ、なに?」

「分からないが……まだシーダの集中は、切れていない。いや、寧ろ段々と、研ぎ澄まされていくような……?」

「あれは……小要塞の時の?」

 

 感応。シーダが秘める、ノルドの民特有の鋭敏さ。一族の中でも、とりわけ秀でたシーダの五感。視力ひとつ引き合いに出しても、かのオーレリア・ルグィンに匹敵する眼力は、違和感だらけの帝国において、重荷でしかなかった。シーダ自身が、意識的に抑えるしかなかったのだ。

 その枷が、外れた。無力感に苛まれ、土壇場に追い込まれた今、涙と共に感情を吐き出したシーダは、無意識の内に全ての感覚を一点に収束させ、リィンに向けていた。

 

「……長巻は、もういいのか?」

「ぐすっ……は、い」

 

 シーダは何度も目元を拭った後、長巻ではなく、地面に置かれていた鉄製の鞘を取った。

 両手で鞘を握り、身体の中央に構え、呼吸を整える。正面に立つリィンと視線を重ねて、微動だにしない。その姿に、リィンは構えを変えた。

 

「ならこちらから行くぞ、シーダ」

 

 一転して、リィンの先手。踏み込みからの袈裟斬り。迎え撃つシーダは―――僅かな予備動作だけで、その斬撃を撥ね返した。

 

「「!?」」

 

 全員が虚を突かれるやいなや、リィンの追撃。リィンが休む暇を与えず、逆袈裟の形に斬り上げる。鞘を身体の中央に構え直していたシーダは、先と同様に不可解な動作を以って、斬撃を捌いて見せた。

 まるで一変したシーダの挙動に、アッシュは口笛を鳴らして表情を変えた。

 

「ヒュー、いい反応じゃねえか。中々様になってやがる」

「ええ。お見事な『後の先』です。技の起こりを見逃さず、瞬時に応じることで斬り始めを抑えています。あれなら力負けもしません」

 

 変化はひとつだけではなかった。

 『初めから』察していたのはミュゼ。シーダの鞘捌きから見抜いたのがクルトとアッシュ。ユウナとアルティナが彼らに続く形で、今更ながらにシーダの『利き腕』を理解していた。

 

「う、嘘。シーダって、両利き!?」

「そのようです。私も気付きませんでした。随分と器用な真似を……」

 

 体勢を左右に崩されても、即座に立て直す。左右いずれの斬撃にも全く同じ速度と軌道で反応する。それらを可能にしているのは、両利きという類稀な器用さと、自然体だからこそ見い出した己の理にあった。

 対するリィンの斬撃は、段々と速度を増していた。

 シーダは苦悶の表情を浮かべながらも、一撃一撃を確実に捌いていく。先手は取れずとも、受けに徹することで奮戦していた。

 

「……頃合だな」

 

 リィンは一度後方へ飛び退いてから、再度構えを変えた。

 やや前傾の姿勢。右片手で握られた太刀。全身から発せられる剣気に、誰もが息を飲む。

 

「手心は加える。これが最後の試しだっ……八葉の一端、耐えて見せろ!!」

 

 八葉一刀流、二の型『疾風』。

 突進と共に放たれた斬撃が、シーダに襲い掛かる。紙一重で反応したシーダは、後方へ倒れそうになるのを耐えて、踏み止まった。

 

「さ、捌いた!?」

「いや、まだだ」

「続きます」

 

 第二撃。踵を返して、更なる速さを伴った斬撃に反応する。

 三、四、五。連撃を耐え忍ぶにはあまりに重く、受けるだけで全身に痺れが走る。既に両手の感覚もなく、身体が感知に追い付かない。悲鳴を上げる小さな手が、鞘を離してしまいそうになる。

 

(それでも、私は―――)

 

 意志は固く。しかし想いだけでは、届かなかった。

 

___________________

 

 

 シーダが握っていた鞘は、最後の一手によって頭上高々へと飛んだ。

 全てを余すことなく使い果たしたシーダは、その場で膝が折れてしまい、すとんと腰を落として座り込む。再び、大粒が頬を伝っていた。

 

「……実力テストは、終了だ」

 

 太刀を納めたリィンは、涙と砂で顔をくしゃくしゃにするシーダの前に立ち、穏やかな声で言った。

 

「シーダ。君が士官学院を志望した理由を、聞かせてくれないか」

「うぅ……う。上手く、言えま、せん」

 

 リィンが身を屈めて、シーダの目元にそっと右手をやる。言葉を介さずとも、小さな体躯から明確に伝わってくる想い。

 彼女をこの地へ衝き動かした意志は、一言では語れないのだろう。

 護られる側に、甘んじていられず。

 大国に侵されつつある現実を、受け入れられず。

 外界で起き始めた異変を、己の目で見極めるために。

 

「それでも、聞かせてくれ。君の口から聞かせて欲しい」

「っ……お兄ちゃんや、お姉、ちゃん、みたいに。強く、なりたい」

「……そうか」

「お姉ちゃんは、私の……会いたい、よ。お姉ちゃんは、何処に、いるの?」

 

 何より、家族のために。憧れや羨望もあるのかもしれない。行方知れずの姉を求め、姉の剣を携えて、外の世界へと躍り出た。

 姉の背中に『追い付きたい』という強い意志と、『会いたい』という願いが入り混じった末の涙が、今のシーダを有りのままに表していた。追い付けないかもしれない。もう二度と、会えないのかもしれない。

 

「シーダ。これを君に託す。受け取ってくれ」

 

 リィンはコートの中から布袋を取り出して、シーダに手渡した。

 シーダが恐る恐る包みを解くと、鮮やかな装飾が為された『業物』が二振り、顔を覗かせた。

 

「こ、これって……太刀が、ふたつ?」

「分類としては『小太刀』に当たる。二刀小太刀『絶佳』。とある女性に頼んで、君のために仕上げて貰った代物さ」

「とある女性……?」

「キリカ・ロウラン。アヤの姉……血の繋がった、腹違いのお姉さんだ」

「っ!?」

 

 シーダは声を失った。脳裏で反芻するリィンの言葉に、理解が追い付かない。

 義姉の実姉。お姉ちゃんの、お姉ちゃん?初耳にもほどがある。唯一の肉親である母親は、もう十年近く前にこの帝国で亡くなった。そう聞かされていたはずなのに、どうして。

 混乱と疲労のあまり眩暈に襲われたシーダの肩に、リィンはそっと手を置いた。

 

「強くなれ、シーダ。君だけの強さを見い出して、誰よりも、アヤよりも強くなれ」

「リィン教官……」

「そうすれば自ずと、真実も見い出せる。四月十六日の今日が、その一歩目だ」

 

 ―――合格だ。その一言が、涙腺をより一層に緩ませる。

 未だ立ち上がれないでいたシーダに、アルティナが肩を貸した。クルトとユウナは安堵と喜びに満ちた表情でシーダの背中をそっと押して、皆に応えるよう促した。

 

「みんな……」

 

 本校舎、中庭、格納庫。周囲から降り注ぐ拍手は、改めての歓迎を意味していた。トールズ士官学院第Ⅱ分校、生徒ら総勢二十一名。今この瞬間をもって、第Ⅱ分校は二度目の産声を上げた。

 そして―――

 

「これで漸く、(仮)は外れるわね」

「ああ。《Ⅶ組特務科》、今日から再スタートだ。宜しくお願いするよ、シーダ」

「はいっ……こちらこそ、宜しくお願いします!」

「まあ、今までと何も変わりませんが」

 

 鳴り止まない拍手に包まれながら、シーダは絶佳の鞘を抜いた。

 羽根のように軽い刀身は、唯一無二の輝きを湛えていた。

 

 

 

 




「あ、あれ?絶佳の刀身に、ち、血が?」
「それは多分キリカさんの鼻血だな。あの人は重度のシスコンなんだ」
「リィン教官、ブーメランです」


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四月十六日 第Ⅱ分校の割りと長い午後

 

 残り僅かとなったミルク粥をスプーンで掬い、一気に頬張る。途端に濃厚且つまろやかな風味が口一杯に広がり、名残惜しさと一緒に飲み込む。コップに入った水を飲み干して、スプーンを置いた。

 

「はあ。ご馳走様でした、ジーナさん」

「フフ、お粗末様。一気に平らげちゃったわね」

 

 実力テストの追試を乗り越えた私は、小一時間程度の仮眠を取った後、少々遅めの昼餉を取りに学生食堂を訪ねていた。休息日でも食堂は普段通りに開いていて、ジーナさんは快く食事を提供してくれた。

 食堂を利用するのは今日が四回目。初めは勝手が分からず多少の抵抗があったけれど、ユウナさんやクルトさんの勧めもあり、今では楽しみのひとつでもある。

 そういえば、ゼンダー門にも食堂という名の食事処があったっけ。……シャル、元気にしてるかなぁ。トーマへの分と一緒に、今度手紙を書いてみよう。

 

「シーダちゃんはミルク粥がお気に入りみたいね」

「はい。故郷のとは大分違いがありますけど、とっても美味しいです」

 

 恐らくチーズを使う点が一番の違いだ。鶏卵と合わさることで独特の味わいを生み出している。

 ノルド高原とエレボニア帝国。文化の違いには、良い側面だってある。何ごとも前向きに捉えて、ポジティブ思考を心掛けよう。

 

「そうそう、聞いたわよ。部活動を始めるんでしょ?シーダちゃんは何部に入るの?」

「それは……まだ、決めてません」

 

 部活動。実力テストを終えた今、考えるべき案件。

 部活動の何たるかを、概ね理解はしていた。お兄ちゃんやお姉ちゃんのおかげだろう。私も私で、今日中に所属する部を決めなくてはならない。既に午後十三時を回っているから、あまり時間に余裕もない。

 

「これから校内を見て回りながら、ゆっくり決めようと思います」

 

 この二週間が慌ただし過ぎたせいか、私は色々な物が見えていなかった。この第Ⅱ分校の設備にしても、本校舎と食堂を除けば、ほとんど利用したことがない。広過ぎる、という理由もあるけれど。

 ともあれ、まずは知ることから始めよう。私の世界はまだまだ狭い。心持ちひとつで世界は広がる。風も変わる。今日も一日―――良い風が、吹きますように。

 

___________________

 

 

 初めに向かった先はクラブハウス。目当ては『自動販売機』。以前にクルトさんが利用しているのを見たことがある。ミラさえあれば飲料品が手に入るというそれを、一度利用してみたかったのだ。

 食堂の階段を上って、一度本校舎の屋上に出てから、階段を下って本校舎の二階に―――本校舎?

 

「あれ?」

 

 違う違う。本校舎ではなくクラブハウスだ。道順を間違えてしまった。

 再び屋上へ戻り、扉を開けて階段を下る。そう、ここが学生食堂で、私はいつもお気に入りのミルク粥を―――んん?

 

「……ああもう」

 

 大きく溜め息を付きながら、踵を返して階段を上り直す。

 三度屋上に出ると、クラブハウスに繋がる扉の前には、アルティナさんの姿があった。

 

「シーダさん、何かお探しですか?」

「……もしかして、見てました?」

「はい、室内から。何やら行ったり来たりをされていたので」

 

 一気に顔が熱くなる。恥ずかしいことこの上ない。帝都中央駅で右往左往をしていた時も、こんな感じだったか。

 無事にクラブハウスへ辿り着いた私は、財布からミラ硬貨を取り出しながら、未だ校内の構造に慣れていない旨を明かした。

 

「そういった事情なら、生徒手帳の簡易マップを参考にされては?幾分マシになるかと」

「……ちゃんと中身を見てなかったです。そんな便利な物があったんですね」

「それとシーダさん、5ミラ硬貨は使えません」

「え?」

「自動販売機に使えるのは10ミラ硬貨からです」

「……はい」

 

 そっと5ミラ硬貨を財布に戻し、アルティナさんの助言に従う。見た目と名称からは味が想像できなかったので、『缶コーヒー』なる物のボタンを押した。

 多少苦戦しつつ缶の蓋を開けて口にすると―――何だろう。これはきっと、大人の味だ。苦みと渋み、甘みが複雑に絡み合っている。まあ、悪くはない。

 

「はあ。アルティナさんって、物知りですね」

「この程度で見識を計られても困るのですが」

「でも私、色々と助けられてばかりです。入学式の時も、それにこの一週間だって、ずっと……アルティナさんがいてくれて、本当に良かったです。……アルティナさん?」

「……いえ」

 

 ずっと抱いていた想いを告げると、アルティナさんは考え込むような仕草を取って、傍に置かれていた椅子に座った。私も隣の席に腰を下ろすと、アルティナさんは小さな小さな溜め息を付いた。

 

「考えても仕方ありませんね。これが感情と呼べるか否かは、保留にしておきます」

「保留?」

「こちらの話です。それよりシーダさん、部活動の方はどうですか?」

「まだ決まってないよ。これから校内を見て回って、それからかなぁ。アルティナさんは?」

 

 質問で返すと、元々垂れ目気味だったアルティナさんの目尻がより一層垂れ下がり、どんよりとした重々しさが漂い始める。

 返答を聞くまでもないのだろう。こんな様子のアルティナさんを目にするのは、初めてだ。

 

「教育機関というのは、何故こうも自主性を求めてくるのでしょうか。肩が凝りまくりです」

「ま、まあ私も似たようなものだし。まだ時間はあるんだから、焦る必要はないんじゃないかな」

「ですが私は……あの、シーダさん。それは敢えて『そうしている』のですか?」

「え……ごめん、何のこと?」

「いえ、お気になさらず。ユウナさんからも言われていたことなので、私はともかく、そちらの方が自然なのかもしれません」

「??」

 

 理解が追い付かないでいると、アルティナさんは立ち上がり、これから図書室へ向かうつもりだと告げた。本腰を入れて部活動を決めるために、書物を参照にするらしい。

 私もそろそろ行かないと。最後の一口を飲み干し、缶をゴミ箱に捨てて―――漸く、未自覚な変化に気付く。

 

「あ……」

 

 今更元に戻す方が不自然なのかもしれない。先ほどの口振りから考えて、アルティナさんも気を悪くはしていないのだろう。それなら、改めて。

 

「アルティナさんっ。お互いに、いい部活が見付かるといいね!」

「はい。お互いに善処しましょう」

 

___________________

 

 

 アルティナさんと分かれた私は、その足で訓練場やプールが設置された地下に向かいながら、部活動を選定するに当たる考え方を再度振り返った。

 大別すれば二つになる。自分の得意分野や趣味に沿うような部活動を選ぶか、或いは不得意で身近ではない領域に踏み込むか。

 

(そう考えると、お兄ちゃんやお姉ちゃんは前者だよね)

 

 お兄ちゃんは逞しい体格に恵まれながらも、とても繊細で器用なところがあった。私達と一緒に暮らしていたお姉ちゃんにとって、馬の世話は日常の一部だったと言える。美術部に馬術部という選択は、とても自然な発想だ。

 それなら、私は。自問しながら両開きの扉に手を掛けると、広大な空間が現れる。

 

「ひ、広い」

 

 屋内プール。改めて目の当たりにすると、途方もなく大掛かりな施設だ。これらが全て人の手によって造られたというのだから驚く他ない。ゼンダー門や監視塔には目が慣れていたけれど、圧巻の一言に尽きる。

 

「ん……やあ、シーダじゃないか」

「こんにちは、グスタフさん」

 

 扉の傍には、腕組みをしながらプールを見詰めるグスタフさんが立っていた。

 

「朝はお疲れだったね。無事に合格できて何よりだ」

「ありがとうございます。これも皆さんのおかげです」

「はは、まあお互い様さ。それで、君も水泳に興味があるのか?」

 

 興味云々は別として、得意不得意で言うなら、泳ぎには覚えがある。夏の暑い季節にはラクリマ湖でよく水浴びをしていたし、それなりの距離なら泳ぎ切れる自信がある。

 リィンさんの話では、『軍事水練』という名のカリキュラムもあるらしい。そもそもこのプールが設置された目的はそこにあるらしいけれど―――水面から漂う、この奇妙な匂いは、なに?

 

「それはきっと消毒薬の匂いさ」

「消毒……ですか」

「ハハ、成程。君は人一倍敏感だって話だったか。慣れるのに時間が掛かりそうだな」

 

 ある程度なら我慢できるとは思うけれど、率直に言って不快感が凄まじい。嗅覚についても、もっと自分でコントロールできるようになる必要がありそうだ。頭がくらくらしてきた。

 

「おっと。おーい、シーダー」

 

 鼻を押さえていると、水着姿で水面に浮かんでいたレオノーラさんが声を張った。脱力した自然体の身のこなしは見事なもので、水滴と共に浮かぶ凛々しい笑顔が、とても眩しく映った。

 

「朝は凄かったねえ。アンタ見掛けによらず根性あるじゃないか。大したモンだよ」

「あ、あはは。ありがとうございます」

「アタシ達は水泳部を立ち上げるつもりなんだ。アンタも気が向いたら入りなよ、大歓迎さ」

 

 今日は同じようなやり取りを繰り返すことになるらしい。それはともかくとして。

 遅かれ早かれ、軍事水練はカリキュラムとして課せられることになる。水泳のような運動は体力不足を補う手段にもなり得るし、候補のひとつとしておこう。

 

___________________

 

 

 水泳部の見学を終え、一階に繋がる階段を上っていると、小柄な男子生徒の背中があった。

 カイリさんは大きな紙製の箱を抱えていて、体勢は見るからに不安定。重い物が入っているせいか、よろよろと左右に揺れながら歩く様はとても危なっかしく、私は思わず手を貸した。

 

「っとと、大丈夫ですか?」

「し、シーダさん?すみません、助かります」

 

 二人で箱を持ちながら、一歩ずつゆっくりと階段を上っていく。

 

「シーダさんの勇姿は、僕も見ていました。君はとても強い女性だったんですね」

「勇姿だなんて、そんな。私なんてまだまだです」

「それを言うなら僕なんて全くです。身体は小さいし、力もない。茶道部の活動で、何かを掴めればいいんだけど……」

 

 小声でそう呟くカイリさんの表情を、私は少なからず理解できた。ないもの強請りをしたって、何も始まらない。自ら生み出そうとしない限り、変わらないものがある。

 それにしても、茶道部か。茶の道と書いて茶道。どういった部活動なのだろう。カイリさんの言動からはいまいち想像が付かない。

 

「あら、シーダさん。珍しい組み合わせですね」

「ミュゼさん?」

 

 階段を上り切ると、目的地である一室の前に、ミュゼさんの姿があった。

 抱えていた荷物を室内に運び終えた後、カイリさんは手伝ってくれたお礼にと缶コーヒーをご馳走してくれた。まさかの二本目を堪能していると、ミュゼさんは艶やかに笑いながら、思いも寄らない話題に触れた。

 

「シーダさんには、改めてお話を聞かせて欲しかったんです。シーダさんは以前から、リィン教官とお知り合いだったのですよね」

「……リィン教官から聞いたんですか?」

「ウフフ。リィン教官のことなら、何だって存じていますよ。勿論、常識の範囲内で」

 

 明確な返答をさり気なく避けながらの笑み。一緒に入浴した昨晩を思い出す。

 リィンさんとの馴れ初めはクラスメイトにも明かしていたことだし、ユウナさん辺りから耳に挟んだ、ということにしておこう。常々感じていたことだけれど、ミュゼさんはリィンさんに興味津々らしい。

 

「リィン教官がまだ学生だった頃、一昨年の初夏ぐらいですね。特別実習……遠地での演習の場に、故郷のノルド高原が選ばれたんです。リィン教官とは、その時に知り合いました」

 

 私にとって、初めて『外』と交わった三日間。グエンさんやシャルのような知り合いはいたけれど、あんな風に深く関わりを持ったのは、お姉ちゃんという例外を除けば初めての体験だった。

 あの忘れられない思い出から、もう二年間が経つ。そう考えると、不思議な感覚がある。

 

「聞けばリィン教官達は、シーダさんのご実家に寝泊りをされていたとか。夏の一夜を共にするなんて……ああ、なんて羨ましい」

「み、ミュゼさん?」

「ウフフ。そしてシーダさんは憧れのリィン教官を追って、この第Ⅱ分校を選んだということですね」

「違います。全然違います」

「や、やはり女性はああいった男性に惹かれるんですね……僕なんて、僕なんて」

 

 瞬時にして勘違いが増えまくり、収拾が付かなくなっていく。どうしてこうなった。

 強引にミュゼさんの誤解を解いて、そもそもの目的でもある『茶道部とは』という話題に持ち込もうとするやいなや、ミュゼさんは再び蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「リィン教官ではないとすると、シーダさんはどういった殿方に惹かれるのですか?」

「へ」

「所謂『理想の男性像』、ですね」

「……いや、ええっと。そういうのは、考えたことがないです」

 

 質問の意図は理解できる。しかし何も頭に浮かんでこない。リィンさんにも憧れに近い感情を抱いてはいたけれど、異性として意識した覚えはない。というより、そういった経験自体がない気がする。

 

「でも私達のような年頃なら、少なからずあるのでは?女子として当然の感情であり、本能ですから」

「……うーん」

 

 理想の男性像。漠然とし過ぎていて、当たり前の前提らしき要素ばかりが思い浮かぶ。こんなものでいいのだろうか。

 

「強いて言えば、逞しくて頼り甲斐のある男性がいいです。……か、カイリさん?」

 

 私の隣で、カイリさんが泣いていた。

 

___________________

 

 

 収穫が乏しいまま午後四時を過ぎた頃、校内をぐるりと回ってグラウンドに下りると、遠目に運動着姿のユウナさんの背中が映った。

 

「あれ、シーダちゃんだ。ユウナちゃん、シーダちゃんが来たよ」

 

 私に気付いたのは、主計科のルイゼさん。戦術科のゼシカさんも含めた三人は、ここ最近一緒にいる機会が多い。お兄ちゃんが言っていたように、別のクラスの生徒と交流を持つことはきっと大切で、貴重な繋がりなのだろう。

 

「お疲れ、シーダ。部活動はどう?良さそうなの見付かった?」

「一通り見て回っているところです」

 

 ユウナさんの右手には、不思議な形状をしたラケットという競技用の道具が握られていた。『テニス』と呼ばれるスポーツは、ラケットを使ってボールを打ち合いながら競うものらしく、ユウナさんら三人はテニス部を立ち上げるつもりだそうだ。

 

「少しだけ見学しても構いませんか?」

「もっちロン。シーダなら大歓迎よ」

 

 邪魔にならないよう距離を取ると、グラウンドの片隅には金属製のコンテナが置かれていた。

 中を覗くと、競技用と思しき道具が複数入っていて、テニスラケットも複数本収まっていた。それ以外にも竹製の刀剣や奇妙な形をした球、衣装にシューズ等々、見慣れない物で溢れ返っていた。

 

「このラケットは……テニスとは、違うのかな?」

「それはバドミントンと呼ばれる競技用だ」

「え……ぶ、分校長!?」

 

 思わず振り返ると、オーレリア・ルグィン分校長が腕組みをしながら私の手元を見詰めていた。

 私が手にしていたラケットは、テニス用のそれとは違い細身で軽く、重みは僅かしか感じない。私の小さな手にも収まってくれていた。

 

「私も少々身体を動かしたくてな。生徒らの様子見を兼ねて、校内を回っていたところだ。そなたはバドミントンに関心があるのか?」

「い、いえ、そういう訳では。ただ、どういったスポーツなのか、少し気になりまして」

「ふむ。ならば実践だ。ウォーゼル、付き合うがいい」

「えええ!?」

 

 今日二度目となる『どうしてこうなった』。縋るようにユウナさんに視線を送ると、「ご愁傷様」と言わんばかりに遠くへ避難した三人が立っていた。逃れる術はないらしい。

 腹を括って分校長の説明に耳を傾けると、大まかに言ってテニスとよく似た近代スポーツのひとつだそうだ。シャトルと呼ばれる羽根が付いたコルクを打ち合い、取得点数を競うという内容だった。

 

「本来であれば専用のコートが必要だが、この際ルールも不要だ。型にとらわれず、打ち合いに興じるとしよう」

「あの、どうやって打てばいいんですか?」

「見て覚えるがいい。さあ、往くぞ!!」

「無茶を言わないで下さい!?」

 

 問答無用に放たれた打球は、初速こそ相当な速度があったものの、山なりの軌道を描きながら、ゆっくりと私の頭上付近に落下した。

 

(こ、こんな感じ?)

 

 頭越しにラケットを振り切り、どうにかシャトルを打ち返す。ラケットとコルクの弾力が重なったおかげか、思いの外にシャトルは勢いよく飛んでいき、分校長が再度ラケットを構える。

 

「力み過ぎだ。四肢を弛緩させ、身体のバネを以って振り切るがいい」

「は、はい」

 

 この感覚は―――悪くない。一打を重ねるごとに、力の使い方が段々と理想に近付いていく。反応の速さも重要だ。打球の瞬間を見逃さず、即座に反応して落下地点に回り込み、構え直す。

 それにこの軽さ。二刀小太刀『絶佳』と通じるものがある。特殊な金属で鍛えられた絶佳の刀身は、まるで羽根のように感じられた。重さを犠牲にした分、あらゆる『速度』が求められる。

 

「中々筋がいいな。ならば、全力で往くぞ」

「え―――」

「はあぁ!!」

 

 シャトルの落下と同時に、跳躍。全体重を乗せて打ち下ろされたシャトルは、文字通り『目にも止まらぬ速さ』を伴い、私の後方へと飛来した。

 隙を突いた一撃。真面に反応すらできなかった。

 

「ジャンピングスマッシュと呼ばれる球種だ。初速だけならあらゆる球技を凌ぐ。羽球の花形と言えるな」

「っ……分校長。もう一度、全力でお願いできますか」

 

 微動だにできなかったのは確かだ。しかし私にも油断があった。来ると分かってさえいれば、返しようはあるはずだ。

 

(集中……集中っ)

 

 深い集中と感応。実力テストの追試の場で掴み掛けた、あの感じ。全ての感覚を眼前の一点に収束させて、一挙手一投足を見逃さず、反応する。自在に使いこなせれば、非力な私にでも、私にしかできない活路を見い出せる。自分を信じて、立ち向かえ。

 

「心地良い気当たりだ。その心意気、汲んでやるとしよう」

「はい、お願いします!」

「武神功っ……!!」

「えっ」

 

 黄金の羅刹。いつぞや耳にした武神の二つ名が、眼前で在りのままに体現される。グラウンドの中央に黄金色の渦が生じ、全てを薙ぎ倒さんとする覇気に全身を射抜かれて、分校長が握っていたラケットが、炎上した。

 

「あの、分校長!?それは多分駄目なやつです!色々と間違ってます!」

「望み通り、全身全霊を込めて打つ。さあ、耐えてみるがいい!!」

「無理ですうううううううう」

 

 バドミントン部を立ち上げる、という選選択肢もあるのかもしれない。そんな私の想いは粉々に打ち砕かれ、羽球は私のトラウマと化した。

 

___________________

 

 

 ☆分校クエスト

【件名:学生食堂の窓ガラスの修理】

 期限:短

 依頼者:トワ・ハーシェル

 内容:リィン君、大変!学生食堂の二階なんだけど、突然外から何かが飛来して、窓ガラスが一枚割れちゃったみたいなんだ。予備のガラスはあったから、早速取り替えたいんだけど、手伝ってくれないかな。え、なに?手が届かないから?あはは、何を想像してるのリィン君、ぶっ飛ばすよ?早く来て欲しいな。

 

___________________

 

 

 午後十七時。呆然自失とした私は、入浴でもして気分を改めようと考え、宿舎に帰っていた。

 一旦部屋に戻り、着替えと入浴用具を手に一階へ下りると、食堂の中から男子生徒の声が聞こえてくる。

 

『アカーン!やっぱ無理、無理やって!ビジュアルがまんま残っとるやん、これはアカンて!』

「……パブロさん?」

 

 随分と騒がしい。そう思いきや、すっかり青ざめた様子のパブロさんが、食堂の中から逃げるように飛び出してくる。着替え諸々を玄関ロビーに置いて食堂に向かうと、戦術科のフレディさんが怪訝そうな面持ちで立っていた。

 

「あのー。どうかしたんですか?」

「いや、俺にもよく分からないんだが。……ちょうどいい、シーダ。君もひとつどうだ?」

 

 フレディさんが差し出した小皿には、小さな黒色の何かが複数盛られていた。甘辛い香りから察するに、醤油と砂糖で煮詰めた料理なのだろう。

 

「これって、コオロギですか?」

「ああ。リーヴスではこの季節でも採れるのかと興奮して、皆の分も作ってみたのさ」

「へえぇ。帝国のコオロギって、小さくって可愛いんですね」

「……シーダ。君は今、可愛いと言ったか?」

「はい。ノルドにいたコオロギは、これぐらい大きかったと思いますよ」

 

 右手で握り拳を作って見せる。コオロギに限らず、イナゴも同じだ。先日に校内の茂みで見掛けたイナゴは、故郷のそれと違ってとても小さく、大いに驚かされた。生態系の違いというやつなのだろう。

 

「これ、頂いてもいいんですか?」

「勿論だ。是非食べてみてくれ」

「むぐ……んっ。美味しいけど、あはは。翅と脚が歯の間に挟まりますね」

 

 しかしわざわざ可食部を減らすというのもおかしな話だ。貴重な栄養源である以上、無駄にはできない。

 それにしても、帝国でも昆虫を食する習慣があったのか。これはこれで驚きだ。

 

「シーダ。聞いてくれ」

「え……あの、え、え?」

 

 不意に、両手を掴まれる。皮が厚く、包み込むような大きな手は、お兄ちゃんを連想させた。

 

「俺と一緒に料理研究会に入らないか?」

「あの、あの。りょ、ええ?」

「候補に入れるだけでいい。頼む、この通りだ」

「っ……か、かか、考えて、おきます」

 

 どうにか声を捻り出すと、フレディさんは満足した様子で「フハハハ!」という独特な笑い声を上げながら、食堂を後にした。

 

(……この感じ、なに?)

 

 どうしてだろう。身体が火照って動かない。胸の鼓動音が聞こえる。頭に熱が籠もり、全ての感覚が限界を振り切ったかのよう。私は今、何をしているのだろう。

 

「ララララーララーラーラララー。……ねえ。そんな所で突っ立って、何してるの?」

 

 ヴァレリーさん、それは私が聞きたいです。それと、今日は随分とご機嫌ですね。

 

___________________

 

 

 あっという間に一日が終わる。もう何度目か分からないこの感覚は、夕餉と入浴を済ませた後、部屋に戻った頃になって一気に溢れ出てくる。

 

「つっかれたー。自由行動日なのに、全然休んだ気がしないわね」

 

 ベッドの上に大の字で寝転がるユウナさん。ユウナさんは予定通りテニス部を立ち上げるつもりらしく、分校長がグラウンドで暴れ回った後も、一人で練習に励んでいたそうだ。

 

「ねえアルティナ。何でちょっと不機嫌そうなのよ?」

 

 陽が落ちて以降、どうも表情が晴れないのがアルティナさん。部活動を決めあぐねているという訳でもなく、レオノーラさんらの勧めで水泳部に所属すると言っていた。だというのに、若干複雑そうな面持ちなのは、何か理由があるのだろうか。

 

「不機嫌、という訳では。ただ、何かと世話を焼きたがる知り合いと再会して……私らしさとは、一体何なのでしょうか。自問自答のあまり、哲学的な領域に入りそうです」

「ごめんアルティナ、全然分かんない」

 

 ユウナさんに同じく。時折アルティナさんは、塞ぎ込んで考えごとに没頭する時がある。それらは大抵、私達には理解し切れないものだ。

 けれども、今はそれでいいと思える。こうして何かを共有していれば、きっといつか分かり合える日が来るはずだ。

 

「それで、シーダの方はどう?部活動、決まりそう?」

「候補はありますよ。もう少しだけ、考えてみます」

 

 バドミントンは論外として。正直に言って、候補は全部と言っていい。これといった決め手がない限り、どれを選んでも後悔はしない自信がある。

 

「今日一日で改めて感じました。皆さん、とても良い人ばかりですね。お兄ちゃんからは、多少の軋轢は覚悟するようにって言われてましたけど、全然そんなことなかったです」

「ユウナさん、耳が痛そうですね」

「そこ、茶々を入れない」

 

 問題は考え方だ。お兄ちゃんやお姉ちゃんのように、身近な物事を部活動として広げるか。それとも思い切って、知らない世界に飛び込むか。それさえ定まれば―――否。段々と、定まりつつある。

 

「それにしても、この宿舎の部屋割りって微妙よねー」

「部屋割り?」

「ほら、男子と女子の部屋が同じ階にあるじゃない?色々と気を遣わないといけないから、慣れるのに時間が掛かりそう」

 

 不満そうにユウナさんが愚痴を溢すと同時に、部屋の外から男女入り混じった喧騒が聞こえてくる。

 

『ぷはー。やっぱり風呂上りは炭酸に限るね。マヤも一杯どうだい?』

『ちょっとレオ姉、そんな恰好で出歩かないで下さい。ウェイン君はシドニー君をお願いします』

『どけ、どいてくれウェイン!クルトも邪魔すんなよ見えねえだろ!?』

 

 成程。そういった問題もあるのか。

 しかし宿舎の構造上、男女を完全に区切るというのは無理がある。三階が教官と来客用とされているのも私達生徒への気配りのはずだし、解決策はすぐに思い浮かばない。

 

「ていうか、こういうのって誰に相談すればいいのかしら。リィン教官?トワ教官?」

「うーん……でも、そうですよね。そういうのも、やっぱり必要なんだと思います」

「……シーダ?」

 

 具体案はなくとも、考えることはできる。部活動という枠組『以外』の選択肢だって、あるはずだ。幸いなことに、トワ教官という先人もいる。

 

「トワ教官に相談してみます。私は―――皆さんの力に、なりたいんです」

 

 思い切って、知らない世界に飛び込もう。良い風が吹いてくれると、そう信じて。

 

 

 

 



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四月十七日 あの日の出会い

 

 量産汎用型機甲兵。ラインフォルト社によって開発された人型機動兵器。先の内戦において貴族連合側の主力兵器として投入されて以降、その存在は瞬く間に国内全土へと広がった。正規軍をはじめとした各方面で採用され始め、その汎用性の高さから、軍用以外の様々な亜種も開発されている。たったの二年間で、戦車以上に台頭しつつある。

 そして機甲兵の急速な発展と導入に伴い、士官学院においても専用のカリキュラムが設けられた。戦術科の生徒を主に、僕ら《Ⅶ組特務科》も例外ではなく、機甲兵に関する基礎知識や操縦方法への理解を求められたのだ。

 

『さあシーダ。少しずつで構わない、ゆっくりと前進するんだ』

『そ、そそ、そう言われてもぉ……』

 

 そんな中で、約一名。昼休憩の時間を削ることで居残りを命じられたクラスメイトが、今にも泣き出してしまいそうな悲痛な声を漏らしていた。スピーカー越しに、大音量で。

 

「ユウナ、今何時だ?」

「十二時半ジャスト……そろそろ限界ね。アルティナに昼食の確保をお願いしておいて正解だったわ」

 

 既に四時限目が終えて二十分間が経過した今も尚、シーダが操る機甲兵『ドラッケン』は一向に動こうとしない。彼女の手の震えが機体へと伝わり、かくかくと奇妙な動作を取るばかり。正直に言って、目も当てられない状況が続いていた。

 

「う、うーん。アルティナも多少躓きはしてたけど、まるで進展が見られないわね……少し気の毒かも」

「仕方ないさ。恐らくシーダにとって、『遠隔操作』という概念自体が身近じゃないんだろう」

 

 向き不向きで言えば、シーダにとって機甲兵の操縦はあまりに酷だ。文化や生活様式の違いが、そのまま眼前の光景に繋がっていると言っていい。

 シーダが暮らしていたというノルド高原にも、少なからず導力機器は普及しているらしい。しかしそれらは生きていく上で必要最低限のもので、導力が生み出す現象の多くを、シーダは未だ理解し切れていない。導力技術の粋を尽くした機甲兵は、シーダにとって奇々怪々な存在でしかないのだろう。

 

「しかしシュバルツァー教官やオルランド教官は、あれを全てマニュアル操作で動かしているんだろう?」

「そうみたい。あたしも一部の動作をマニュアルでやってみたけど、もう全っ然よ。こんなの無理って感じだったわ」

 

 機甲兵の操作は大別してセミオートとマニュアルの二つ。前者は細かな動作がほぼ自動化されていて、僕らはそれらを必要に応じて使い分けることで機甲兵を動かしていた。中でもとりわけ巧みな操縦を見せたユウナも、マニュアル操作には手が付けられなかったらしい。

 

「何て言えばいいのかな。両腕と両脚を常時コンマリジュ単位で操る、みたいな?」

「あの振動と衝撃の中でか?」

「オートバランスとかの機能も全部切ってるって言ってたわ。マニュアルだと反って邪魔になるんだって」

「それは……それは、無理だろう。人類には無理だ」

「ならあたし達の教官は人以外の何かね」

 

 こと機甲兵に関しては、現時点では全く届く気がしない。アッシュの不作法な奇襲を事もなげに捌いた手腕といい、一朝一夕で身に付くものでもない。……あの『騎神』の影響もあるのだろうか。シュバルツァー教官はどのようにして騎神を駆っているのだろう。

 いずれにせよ、僕らはまだまだ精進が必要なようだ。道の先に立ってくれていた方が、こちらも磨き甲斐がある。

 

「皆さん、お待たせしました」

 

 声に振り返ると、ランチボックスを抱えたアルティナと、その隣には主計科のサンディの姿もあった。

 

「ジーナさんとサンディさんが持たせて下さいました。中にサンドイッチが入ってます」

「わあ。ありがとうサンディ、すごく助かる」

「フフ、いいわよこれぐらい。シーダちゃんってティータ以上に妹っぽい感じがするから、あたしも放っておけないのよね」

 

 妹、か。僕に歳下の兄弟はいないが、もしも世話の焼ける妹がいたら、こんな感情を抱くのかもしれない。同い年のアルティナが妙に大人びているせいか、より一層気に掛かってしまう。

 

(きっと、彼女のおかげなんだろうな)

 

 けれども、負担だとは感じない。寧ろシーダという存在が、僕らの足並みを揃えてくれている節さえある。まだたったの三週間だというのに、彼女のいない《Ⅶ組》なんて、想像が付かないほどに。

 

(……指名手配中の、元士官候補生か。本当にシーダが、彼女の?)

 

 だからこそ、分からない。否がおうにも思い出してしまった心当たり。真実は一体、何処にあるのだろう。

 

___________________

 

 

 情けなさと恥じらいに満ちた居残りから、ややあって。中庭のベンチで軽めの昼餉を取った私達は、その足で本校舎へ向かい、普段は立ち入りが禁止されている軍略会議室へと向かった。

 現時刻は午後十三時前。ちょうど十三時から、今週末に実施されるという『特別カリキュラム』の詳細が明かされると、事前に告知されていたのだ。

 

「特別カリキュラム……どんな内容なのかな。アルティナさんは何か知ってる?」

「いいえ。私も把握していません」

「前々から気になってはいたが、シーダが言っていた本校の『特別実習』を連想するな」

「あたしもあたしも。確かノルド高原が実習地に選ばれたことがあったのよね?」

 

 特別実習。二年前にあの《Ⅶ組》に課せられていたという、遠地での実習。詳細な内容は聞いたことがなかったけれど、実習地に関してはお兄ちゃんが土産話のついでに話してくれたことがある。

 

「えーと。ケル……なんとかっていう街に、パーム?アリアハートと、せん、セント……ぶ、ブリタニア島?」

「ケルディックにパルム、バリアハート、セントアーク、ブリオニア島ですね」

 

 間を置かずに補完してくれたアルティナさんは、少しだけ満足気に胸を張ったような気がした。流石はアルティナさん、いつ何時も頼りになる。

 

「それにノルド高原か。多少の差はあるけど、何処も遠地だな。今回の特別カリキュラムも、外部での実習という可能性は高そうだ」

「え、そうなの?」

「考えても見てくれ。第Ⅱ分校の構内と繋がる鉄道とホームを新設するぐらいだ。それだけで莫大な費用を要する。教練用の機甲兵を搬送するのに便利ではあるけど、流石にやり過ぎだとは思わないか?」

「……言われてみれば、確かに。てことは、列車を使うってこと?」

「僕の勝手な憶測だけどね。そろそろ時間だ、僕らも入ろう」

 

 クルトさんを先頭に、軍略会議室に入る。辺りを見回すと、既に教官や他のクラスの生徒は揃っていたようで、私達は足早に整列、姿勢を正して正面を向いた。

 するとほどなくしてミハイル教官が前方の中央付近に立ち、一度咳払いをすると、向かって左側に設置されていた導力機器に、大きな地図の映像が浮かんだ。

 

「今回の特別カリキュラムは外部での実習だ。実習地は南部サザーラント州、旧都セントアーク付近になる。日程は四月二十一日、金曜の夜に専用列車『デアフリンガー号』で出発する段取りだ」

 

 途端にざわめきが広がった。私の前方に立っていたクルトさんとユウナさんが、小声で会話をしながら頷き合う。

 白亜の旧都、セントアーク。私の記憶が定かなら、お兄ちゃんやお姉ちゃんが特別実習で訪れた都市のひとつだったはずだ。専用列車の件も含め、クルトさんの見立ては的を得ていたようだ。

 

(……なに?)

 

 引っ掛かるのは、先ほどのざわめきの中に埋もれた、複数の視線。演習地が告げられてすぐ、様々な風を感じた。また悪い癖が出たせいか、鋭敏になり過ぎているのかもしれないけれど、とりわけ気を引かれたのは、あまりに意外な組み合わせの、二人が見せた僅かな目配せ。

 

(ミュゼさんに……分校長?)

 

 意味深な二人のやり取りに、私は首を傾げるばかりだった。

 

___________________

 

 

 特別カリキュラムの開催地が明らかになって以降、週末に向けて各クラスによる事前準備が始まった。現地では機甲兵を用いた本格的な演習も予定されているらしく、物資の調達から機甲兵のメンテナンスに至るまで、そのほとんどを生徒が主導となり進める必要があった。あくまで自主性を重んじる辺りは、警察学校時代を連想させた。

 

「ず、随分と本格的な装備ね。これって軍用の物も混ざってない?」

 

 そうして迎えた出発前日、四月二十日の夜。私達はクルト君を宿舎の部屋に呼んで、支給された数々の装備品の確認作業を行っていた。

 軍用のサバイバルキットをはじめ、アーミーナイフ、ロープにワイヤー、非常食糧、火薬式発煙筒、採取ツールにフィッシングツール、双眼鏡にコンパス等々。バックパックに詰められた装備品は、十数品目に及んだ。

 

「この生体サンプル採取キットって何よ。使いどころがいまいち想像できないんだけど。これ要るの?」

「大学やラボでも使用されている高価な品です。末端価格で六千ミラほどになります」

「変な言葉使わないでよね……。ていうかフィッシングツールが一番謎だわ。現地で魚釣り?」

「とある軍隊では正式に採用されています。ちなみにリィン教官は釣りに精通しています」

「ま、またどうでもいい教官情報を……」

 

 非常時における食糧確保用、とかだろうか。それはさて置くとしても、私達《Ⅶ組》に支給された装備品だけ妙に品数が多く、充実している気がしてならない。一体何をさせるつもりなのだろう。

 

「ユウナ、装備品は確実に確認しておこう。こういった作業を含めて、既に実習は始まっていると考えた方がいい」

「……まあ、うん」

「……なんだ?何か変なことを言ったか?」

 

 言っていることは尤も。しかし女子三人が暮らす部屋に、男子一人が紛れ込んで平然としているクルト君の態度が気に食わない。一緒に確認作業をしようと言ったのは確かに私だけど、少しは気まずさを抱いたりしないのだろうか。変に意識しているこちらが馬鹿らしくなってくる。

 もしかして、女子として扱われていないのか?それとも、異性に全く関心がないとか?

 

「ねえクルト君。《Ⅶ組》って男子がクルト君一人だけど、その辺りを気にしたことはある?」

「それは……特に気にも留めなかったな。シュバルツァー教官も含めれば二対三だしね」

「何で教官を入れるのよ。どう見たって一対三じゃない」

「確かにそうだが……すまない、何の話をしているんだ?」

 

 これ以上探りを入れても徒労に終わりそうだ。今は考えないようにしよう。

 やれやれと肩を落としていると、隣で確認作業を続けていたシーダが、トントンと私の肩を叩いた。

 

「あのー。生徒手帳は、やっぱり持って行った方がいいんですよね?」

「え?ええ、そうね。身分証代わりにもなるし、普段通り持っておいた方がいいと思うわ」

 

 私が携帯を勧めると、シーダが手にしていた生徒手帳の中から、ひらりと一枚の何かが落下した。慌てた様子で拾い上げたシーダの手元を覗き込むと、そこには二人の男女の姿が映っていた。

 

「それ、写真?」

「はい。お兄ちゃんと、お姉ちゃんの……二年前に撮られた、学生時代の写真です」

「へえ。見てもいい?」

 

 シーダが差し出した写真を、クルト君と一緒に見詰める。

 向かって左側に映っている男性が、ガイウス・ウォーゼルさん。ウォーゼル家の長男であり、リィン教官と同じ《Ⅶ組》に所属していたというシーダの実兄。逞しさと優しさに満ちた笑顔が、シーダによく似ている。

 そしてその隣の女性が、アヤ・ウォーゼルさん。養子として迎えられたという話だったし、一見して血の繋がりがないと理解できる。その黒髪と特徴的な顔立ちは、何処となく主計科のマヤを思わせた。

 

「あれ?この人って……あ、ああ!?この人、『豚汁』の女性!?」

「え……え?あの、は?」

 

 思わず声を荒げ、『豚汁』という単語が先行してしまう。

 別に写真の女性を指して豚汁呼ばわりをした訳じゃない。しかし私はこの人を、知っている。

 

「そ、そうよ。確か、クロスベル市が猟兵団に襲われて、復興作業中に……旧市街区で、不良チームの男達と炊き出しを配ってた女性!あたし、挨拶したことがある!」

 

 記憶の海に、しっかりと残っていた。今でもよく覚えている。クロスベル市が悪夢のような惨劇に見舞われた、あの日からの数日間。警察学校に通っていた私達訓練生も、いち早い復興に向けて、全員が復興作業に駆り出された。

 私が割り当てられたのは、特に被害が大きかった旧市街区だった。多くの住民が寝床すら奪われ、路上での不自由な生活を余儀なくされる中―――不良チーム『テスタメンツ』の男性らと共に、温かい汁物を振る舞っていた女性がいた。それが、この人。

 

「ゆ、ユウナさんが、お姉ちゃんと?」

「前々からランディ先輩やウェンディさん……知人から、話は聞かされていたの。クロスベル出身の学生が帝国にいて、付き合いがあるんだって。あの時も復興支援に駆け付けてくれたって聞いたから、機会があれば挨拶しておこうと思って……驚いた。あの人が、シーダのお姉さんだったのね」

 

 話だけなら何度か耳にしていた。今から何年も前にクロスベル市で暮らしていた、あの特務支援課とも交流がある女性が、帝国にいる。大まかにはそんな内容だった。どんな人だろうと気にはなっていたし、だからこそ私から会いにいった訳だけれど、まさかシーダのお姉さんだったとは。まさに青天の霹靂だ。

 それにしても、ノルド高原?どういった経緯でウォーゼル家の養子になったのだろう。クロスベルを離れた理由といい、随分と突飛な生い立ちだ。

 

「それで、アヤさんは今どうしてるの?やっぱりノルド高原で暮らしてるの?」

「それは……」

 

 漂い始めた重々しさに、自然と口を噤んだ。暗い表情のシーダだけではなく、クルト君も私から視線を逸らして、居た堪れないような色を浮かべていた。

 私は一体、何に触れてしまったのか。理解が追い付かないでいると、アルティナが淡々とした口調で言葉を並べた。

 

「ユウナさん。アヤ・ウォーゼル氏は昨年の一月一日付で、諜反の容疑を掛けられ指名手配中の身です。クロスベル州東部における目撃証言を最後に、行方が分かっていません」

「っ……ま、待って。な、なに。え?」

 

 ―――誰にも分からないんです。彼女が今、何処で何をしているのか。

 アルティナの声を最後に、深い静寂が訪れる。

 

(謀反……指名手配?)

 

 指名手配犯。真っ先にロイド・バニングス捜査官の存在が脳裏を過ぎる。しかしそんな話は聞いたことがない。ランディ先輩もティオ先輩も、誰もアヤさんの存在を口にしたことはなかった。

 そもそも謀反の容疑とは何だ。私が知るアヤ・ウォーゼルは真っ当な善人のはずだ。クロスベルを離れて以降も故郷を想い、有事には駆け付けるような女性が、指名手配犯?いや―――もしや、だからこそなのか?

 

「あの、皆さん。この話は、一先ずここまでにしませんか」

「……シーダ?」

「お姉ちゃんのことは私の問題です。ユウナさん達が、変に気に病むことじゃないです」

 

 シーダは掌同士を叩き鳴らした後、不器用な笑みを浮かべた。

 

「今は目の前の、特別カリキュラムに専念したいんです。リィン教官も言っていたように、精一杯頑張って強く、強くなれば、きっと……」

「シーダ……」

「だから私、リィン教官を信じます。教官を信じて頑張ります。私には、それしかないから」

 

 力強く宣言したシーダの手には、二刀小太刀『絶佳』が握られていた。

 シーダについて、分かったことがある。『教官を信じる』という言葉には、一片の躊躇いや迷いもなかった。人一倍強固なリィン教官への信頼は、きっとお兄さんやお姉さん譲りの意思なのだろう。私達が未だ知り得ていない何かが、そのままシーダの直向きさを支えている。

 

「そっか。シーダは……あたしも、同じなのかも」

 

 私と変わらない。私にとっての『支援課』と同じだ。絶対の信頼を寄せる存在を信じて、走り抜ける。選択を迫られた時、いつだって脳裏を過ぎるのは、彼らの勇姿と言葉であり、正義に他ならない。

 ……現時点では、教官と支援課の間には、途方もない差がある。私もシーダのように、教官に対して全幅の信頼を置ける日が来るのだろうか。全く想像が付かないが。

 

「ユウナさん?」

「ううん、こっちの話。今は……うん。いつかきっと、みんなにも話すから。だからほら、お互い様ってことで」

「シーダの言う通りかもしれないな。僕も僕で、抱えているもののひとつやふたつあるが……今は目の前に集中した方がいい」

「困りました。私の場合、ひとつふたつでは済まない気がします」

 

 今はこの辺りが落としどころか。小難しい話は後回しにしよう。

 私達はまだまだ道半ば。お互いに知らないことの方が多くて、信頼関係にはほど遠く、時には険悪になり擦れ違う。シーダのお姉さんは謎が過ぎるし、アルティナは言わずもがな。クルト君は……色々な意味で保留で。

 

「よーし。特別カリキュラム、気合いを入れて臨むわよ。《Ⅶ組特務科》、ファイトぉー!!」

「ああ!」

「はい!」

「おー」

 

 私達の力が試される、明日からの三日間。乗り越えた先で、きっと何かがあるはずだ。

 

 

 




「シーダのお兄さんとお姉さん、すごく仲が良さそうに見えるわね」
「はい。両親も『早く孫の顔が見たい』って言ってました」
「ふーん……ねえ、クルト君」
「どうかしたのか、ユウナ」
「ううん、何でもない」
「ああ、何でもないさ」
「??」


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四月二十二日 特務活動

原作と相違ない場面は、サクッと割愛していくかもしれません。


 

 静かな起床と同時に、思わず息を飲んだ。恐る恐る上半身を起こすと、僅かに浮かんだ冷や汗で、肌寒さを感じた。

 

「……そっか。私達、列車で」

 

 寝付く前にも、きっと驚くだろうと思ってはいた。断続的な走行音と、無機質な室内の光景。二段式ベッドの上段で眠っていたせいで、見慣れない金属の天井が、威圧的に私を見下ろしているような錯覚を抱いた。

 

(アルティナさん達は……まだ寝てるよね)

 

 そっと下段のベッドを覗き込む。夜明け前の薄明るさの中に、アルティナさんの寝顔があった。反対側のベッドには、ユウナさんの背中も。

 たったのそれだけで、とても深い安堵を覚えた。まるで故郷での目覚めのように、当たり前に続いていた朝。クラスメイトの寝顔と共にあった朝。あの宿舎での生活は、私にとって日常と化しつつあるということなのだろう。

 

(起こさないように、そーっと)

 

 物音を立てないようにベッドを下りて、簡単に身なりを整えてから室外に出る。ARCUSⅡで現時刻を確認すると、まだ午前四時半前。少々早く目が覚めてしまったらしい。

 何気なく隣の車両に移動すると、二人の教官と視線が重なった。正確に言えば、一名は教官ではないか。

 

「おはようございます、ミハイル教官。クレアさんも」

「ウォーゼル」

「……おはようございます、クレア少佐」

 

 発車前にも叱責された言葉遣いを正す。クレアさんは柔らかな笑みを浮かべて、右手を小さく振ってくれた。

 

「フフ、そう構えないで下さい。……私もシーダさんとは、改めてお話がしたいと思っていました」

 

 クレア・リーヴェルトさん。帝国正規軍鉄道憲兵隊の特務少佐。この帝国においてクレアさんの存在と影響力は極めて大きく、軍事学の授業でも彼女の名が上がるほど。

 士官候補生という立場を除けば、私とは縁がない世界で生きる女性ではある。けれど私にとってクレアさんは、恩人に他ならないのだ。

 

「リィンさんからも聞いていますよ。大分苦労をしているようですね」

「あはは。まあ、それなりに……。でもその分、毎日が充実しています」

 

 初めての出会いは、長兄が故郷を離れてすぐのこと。あの頃から、在ったはずの平穏が崩れ始めた。がらがらと音を立てて、着実に。

 言いようのない焦燥。恐怖と葛藤。底なしの無力感。きっとトーマも、私と同じ感情を抱いていたのだと思う。

 

「道は、拓けそうですか?」

「……手応えは、感じています」

 

 私達兄妹は、己に選択を迫った。そうしてトーマは『中』に留まり、私は『外』を向く決意を固めた。敢えて言葉にはせず、私達は同じ意志の下、別々の方角に歩き出した。

 変わりたかったのだ。私達は、私は変わりたかった。そんな私の意志の先に、新たな道を示してくれたのが、この人だった。

 

「第Ⅱ分校に入れて、本当に良かったです。私からも、改めてお礼を言わせて下さい」

「そう言って貰えると、私も入学を勧めた甲斐があります」

 

 聞いた話では、ユウナさんも私と似た経緯で第Ⅱ分校を紹介されたらしい。

 面倒見が良くて穏やか、誰にでも分け隔てなく接する。尊敬に値する女性だ。今度ユウナさんとも話をしてみよう。

 

「時にウォーゼル。ハーシェルから聞いたが、生徒会の設立を思案しているそうだな」

「それは、はい」

 

 唐突に切り出されて、自然と姿勢を正した。

 キッカケは安易な思い付きではある。生徒会の何たるかさえ、私はまだ理解し切れていない。けれども、半端な覚悟で言い出した訳でもない。

 何より私は、みんなの力になりたい。私が第Ⅱ分校の生徒として認められたのは、みんなが支えてくれた結果だ。だから私は、その恩に報いたい。私にだって、できることがあるはずだ。

 

「私なりに、第Ⅱ分校における生徒会の在り方を考えているところです。私達生徒は勿論、教官の方々も、色々と苦労をされているみたいなので……」

「ふむ。まあ、否定はしない。新たな機関の立ち上げ時には、得てして様々な支障が生じるものだ」

 

 幸いなことに、本校で生徒会の長を務めていたというトワ教官がいる。トワ教官曰く、教育機関の数だけ『生徒会』は存在する。勿論、第Ⅱ分校も例外ではない。今はその在り方を見極めている最中なのだ。

 

「そういえば、話は変わりますけど……。あの、変なことをお聞きしてもいいですか?」

 

 私が話題を変えようとすると、ミハイル教官とクレアさんは同時に私の方を向いた。

 

「なんだ?」

「お二人からは、とても良く似た風が……いえ、風と言っても、風ではなくて。ええっと、感覚的な物なんですが」

 

 当然のように風と称しても、理解は得られない。言い淀んでいると、二人はぽかんとした表情を浮かべてから、打って変わって感嘆の声を漏らした。

 

「驚きました……フフ。恐らく概ね、シーダさんの想像通りだと思いますよ」

「……見事な勘所と観察眼だ。シュバルツァーが一目置くだけのことはある」

 

 察するに、私の見立ては間違ってはいなかったらしい。兄妹とまではいかずとも、多少の繋がりはあるのだろう。この場に居合わせたのも、きっと偶然ではない。

 ともあれ、あまり詮索はしない方がいい気がする。先ほどの口振りから考えて、周囲には明かしていない何かがあるのかもしれない。

 

「いずれにせよ、今は特務活動に専念することだ。その能力は大いに役立つはずだからな」

「トクムカツドウ?」

「すぐに分かる」

 

 トクムカツドウ。特務活動、だろうか。それが私達の―――《Ⅶ組》の?

 

___________________

 

 

 午前六時半。特別カリキュラムの概要に関する説明を受けた《Ⅶ組特務科》の生徒達は、専用列車デアフリンガー号の五号車にて、装備品の最終確認に当たっていた。

 

「それにしても、広域哨戒に現地貢献ねぇ。今一ピンと来ないけど、とりわけ現地貢献が謎っていうか」

 

 《Ⅷ組》と《Ⅸ組》は、それぞれ機甲兵訓練を含めた戦闘訓練、及び実戦を想定した演習に向けて、合同で準備を進めていた。

 一方の《Ⅶ組》に課せられた主要活動は二点。一点目は『広域哨戒』。周辺に敵性勢力や障害がないか等、偵察を兼ねた情報収集活動。そして二点目が『現地貢献』。この演習を現地へ肯定的に受け入れて貰うための支援活動。以上を『特務活動』と定義し、《Ⅶ組》専用の演習として言い渡されていた。

 情報収集を含め、時に現地の民間人に歩み寄り、交流を図る。いずれの活動内容も、軍務として適切なものではある。あるのだが、どうも釈然としない。四人の特務活動に対する印象は、概ねそのようなところで共通していた。

 

「考えても仕方ないさ。そろそろ僕らも出よう。みんな、準備はいいか?」

「ええ、バッチリよ」

「オーケーです」

「私も行けます」

 

 五号車を後にして、他クラスの生徒に声を掛けながら、街道に繋がる演習地出入り口付近へと向かう。担任教官のリィン、そしてセントアークまで同行すると申し出ていたクレアは、先回りをして待機をしていた。

 

「改めて確認するぞ。必要に応じて俺から指示を下すが、あくまで大枠としての指示に過ぎない。君達には自らの意思で考え、決定し、行動して貰う。それで構わないな」

「「はいっ」」

 

 特務活動としてのファーストミッションは、現地の行政責任者との面会、及び現地貢献の要請確認。目指すは白亜の旧都、セントアーク。《Ⅶ組》の新たな一歩目が四人の声となり、南サザーラントの地に響き渡った。

 

「手筈通りに行くわよ。クルト君、先導は任せたからね」

「ああ、君も抜かりなく。背中を撃たないでくれよ」

「シーダさん、魔獣データの記録もお願いします。後で私がARCUSⅡにまとめておきます」

「う、うん」

 

 予め定めておいた隊列を組み、土地勘のあるクルトとアルティナが前衛を務め、中央にリィンとクレア。ガンナーモードのユウナ、そして視力に秀でたシーダが後方から目を光らせる。

 ユウナがガンブレイカーを構え直していると、隣を歩いていたシーダの身体が、妙に強張っているように感じられた。

 

「ねえシーダ。もしかして、緊張してる?」

「そういう訳ではないんですけど……。徒歩で外を出歩くというのが、その、落ち着かないといいますか。故郷では馬を使うのが当たり前だったので」

「無理もありません。ノルド高原に、魔獣除けはほとんど設置されていませんから」

 

 アルティナが言ったように、魔獣除けを目的に設置される導力灯柱の類は、ノルドという大自然には存在しない。魔獣を寄せ付けない知恵や工夫はあれど、徒歩で人里を離れるという発想自体がないのだ。そういった環境下で育ったシーダにとって、魔獣が蔓延っているであろう外を出歩く行為には、極度の抵抗があった。

 

「安心してくれ。サザーラント州の主要な街道には、例外なく魔獣除けが設置されている。そこまで構える必要はないさ」

「……そうなんですか?」

「でもクルト君、魔獣除けって言っても、効果はそこまで期待できないんじゃない?帝国は違うの?」

「いや、勿論万全じゃない。……あんな風にね」

 

 先頭を歩いていたクルトとアルティナが足を止めると、皆がそれに続いた。視線の先では、硬質化した分厚い皮膚に覆われた大型魔獣が、導力灯柱を物ともせず、舗装された街道上で威圧感を放っていた。

 『ライノサイダー』。その突進力は導力車を苦もなくひっくり返すほど。討伐可能な範囲ではあるものの、一筋縄でいく相手ではない。

 

「クロスベルと同じって訳ね。どうしよっか、早速やり合っちゃう?」

「いや、この先何があるか分からない以上、余計な消耗は避けた方が無難だ。シュバルツァー教官、構わないですか?」

「ああ。その調子で頼む」

 

 等間隔に設置された導力灯柱から離れ過ぎないよう、迂回して大型魔獣の背後へと回り込んでから、足早に歩を進める。視界には薄っすらと、セントアーク市を囲む城壁が映りつつあった。

 生徒らの迅速な行動を見守っていたクレアは、微笑みを浮かべながら、右隣のリィンにそっと声を掛けた。

 

「《旧Ⅶ組》に負けず劣らずの、大変興味深い組み合わせとなりましたが、今のところは上手くやれているみたいですね」

「俺もそう思います。Ⅶ組に限らず、順調に足並みが揃いつつありますよ」

 

 トールズ本校から爪弾きにされた、悪目立ちが過ぎる生徒揃い。だからこそ息が合うという捉え方もある。

 《Ⅶ組特務科》も同じだ。出身や年齢、性別、入学に至った経緯。沢山の歪さを抱えながら、奇しくもそれらが良い方向に働いて、大きな衝突もなく噛み合っている。それが現時点での《新Ⅶ組》の姿だった。

 

「寧ろ……理由は分かりませんが、寧ろ俺という存在が、一番の軋轢になっているような気がしてなりません」

「り、リィンさん?」

「改めて思い知りました。サラ教官って、凄かったんですね」

 

 伊達眼鏡を外して、遠くにいる誰かに想いを馳せるように頭上を仰ぐリィン。若干鼻声なのは、己の不甲斐なさと少しの理不尽さが生んだ、一粒の涙によるものだった。

 珍しく弱気な心情を曝け出したリィンに対し、クレアは苦笑いをしながら、やがて笑みの種類を変えた。

 

「誰だって初めは躓くものです。私も同じですよ。新米の頃は、失敗続きでした」

「……クレア少佐が、ですか?」

「ええ、勿論。昨晩にも、似たようなことを言いましたが……私は鉄道憲兵隊の士官であると同時に、クレア・リーヴェルトという、しがない女性に過ぎませんから。リィンさんだって、そうでしょう?」

 

 クレアの想いを、リィンは正面から受け取った。

 『灰色の騎士』という名の英雄は、紛れもない自分自身であり、全く別の誰かでもある。取るに足らないことで悩み、時には挫折して、何気ない小さな幸せに笑う。

 隣をちらと見ながら、リィンは思う。全く別の世界で生きる、完成された人間だとばかり考えていたこの人も、もしかしたら同じなのかもしれない。昨晩に垣間見た顔は、その一端か。

 

「ありがとうございます。少しだけ、気が楽になりました」

「フフ、こちらこそ。……コホン。プライベートのお話になりますが、『彼女』とは上手くやれていますか?」

「やれていなかったら、今頃俺は生きてません。父親に斬られてます」

「……今のは、笑うところですか?」

 

 意味深な会話を続ける二人に、《Ⅶ組》の生徒らは首を傾げるばかりだった。

 

___________________

 

 

 支障なくハイアームズ侯爵との謁見を終え、本演習に対する許可と激励を得た《Ⅶ組》は、侯爵邸の門前で特務活動の内容を確認し合っていた。

 クレアも鉄道憲兵隊としての職務に戻り、ここからは《Ⅶ組》のみ。少人数の構成上、迅速な対応が求められた。

 

「結局僕らは、何をすればいいんですか?魔獣の調査以外にも、要請があるようですが」

 

 現地貢献としての最優先事項が、重要調査項目とされる『謎の魔獣』に関する依頼。金属製の部品から成る大型魔獣を目撃したという証言が、ここ数日で相次いでいるという。目撃地点をはじめとした詳細な内容は、リィンがハイアームズ侯から手渡された書面にも記載されていた。

 そして―――

 

「今回が初の特務活動だし、要請の内容は輪読して貰おう。シーダ、君から順番に一件ずつ読んでくれ」

「分かりました」

 

 大き目の紙封筒を受け取ったシーダが、中から数枚の書面を取り出し、一枚目に記されていた要請の内容を声に出して読み始める。

 

「えーと、『薬草の採取代行』。必要な備蓄を補充したいのだが、採取地付近の魔獣が凶暴化していて、我々では近付けず困っている。どうか力を貸して貰えないだろうか。詳細はセントアーク大聖堂のラムゼンの下を尋ねられたし。……以上です」

「よし。次はアルティナだ」

 

 アルティナ、クルト、ユウナ。四件の要請内容を、各々が輪読していく。最後の一件をユウナが読み終えると、怪訝そうな面持ちのアルティナが、率直に切り出した。

 

「……軍務とは無関係の、ただの手伝い、ですか?」

「ああ。市民や大聖堂からの要請みたいだな」

 

 軍務としての現地貢献―――とは名ばかりの、些細な依頼や相談ごと。魔獣絡みの要請はともかくとして、士官候補生の演習にしては、それこそ『ただの手伝い』という形容が最も適当と思えるような内容ばかりが、書面には記されていた。

 釈然としない表情が浮かぶ中、シーダだけが何かを思い出したように、リィンを見詰めていた。

 

「ノルド高原の特別演習を思い出しますね。同じような依頼を、お兄ちゃん達も受けていたような気がします」

「特別演習……シュバルツァー教官、そうなんですか?」

「否定はしないさ。共通している部分はかなりあると思うぞ」

 

 シーダは記憶の限り、両親が立案し、リィン達が課せられていた数々の依頼を上げていった。

 物資の調達や配達、逃げ出した家畜の捕獲。民間人の保護に大型魔獣の討伐依頼。時を同じくして発生した想定外の案件を除けば、特務活動の現地貢献との間には、多数の共通点があった。

 

「そういえば、シャルの相談ごともカウントされたんですよね?お母さんが本校に報告したら、後々になって臨時依頼として認められたって聞きました」

「俺も覚えてるよ。トーマに贈り物をしたいとかで、彼の好みの色をそれとなく聞き出したことがあったよな」

「「……」」

 

 少年少女の可愛げな相談ごとが、士官候補生の遠地演習の一環として処理された。ある意味で衝撃的なやり取りに困惑する三人に、リィンは気を引き締め直して、教官としての言葉を選んだ。

 

「『異文化交流のあるべき姿と現実について』。あの一件についても、そんな内容でクラスの委員長がレポートをまとめてくれたよ。色々と考えさせられたし、教官から一定の評価を得たことも確かだ」

「……物は言いようですね」

「それも否定はしないさ。だがどんな要請においても、そこに意味を見い出すことはできる。逆に言えば、何も考えず単にこなすだけでもいい。どう受け取り行動するか、全ては君達次第だ」

 

 君達次第。リィンの言葉に、四人は改めて手元の書面に目を通す。

 意味を見い出す。自分達に、できるだろうか。少なくとも《旧Ⅶ組》は、そうやって何かを得てきた。負けてはいられないという対抗心が、じんわりと胸の中に広がっていく。

 

「あれ?教官、さっきレポート云々って言ってましたけど、あたし達もそういうのを作成することになるんですか?」

「ん、その件か。あー、どうだろうな。何かしらの形で報告はして貰うが、どうだろうな?俺の裁量次第だけど、負担も大きからな。まあ、構えておいた方がいいかもしれないな?」

 

 リィンが思わせ振りな態度を取るやいなや、生徒達はリィンから一旦距離を取り、声を潜めて思い思いの言葉を並べた。

 

(見た?今の顔、見た?すっごい下衆な顔してたわよ)

(報告書の作成に異を唱えるつもりはないが、あれだな。正直に言って少々苛立った)

(お、お兄ちゃん達も、あの時は夜遅くまでレポートを作っていましたね)

(下官時代に溜めこんだストレスを上官が発散するという行為は、軍事医学的にも研究されている心理ではあります)

 

 全部聞こえてるぞ。そう怒鳴りたくなる胸の内を飲み込み、教官としての未熟さを素直に省みたリィンは、再度生徒らを集合させて、改めて要請に関する説明を続けた。

 

「重要調査項目と『必須』と書かれている要請は必ず受けて貰うが、『任意』の要請を受ける受けないは自由だ。その辺りの判断も、君達に任せる。よく考えて行動してくれ」

「了解です。じゃあみんな、早速整理するわよ」

 

 重要案件の調査対象である『謎の魔獣』の目撃地点は、セントアーク北西の北サザーランド街道で一件。他の二件はセントアーク南、紡績町パルムの街道沿い。必須と任意の要請も、セントアークとパルムで暮らす住民からの物。

 時間が限られている以上、無駄な行動は省かなくてはならない。中でも移動に割く時間は極力抑えたいところではある。

 

「うーん……大まかには北から南に掛けて移動していく感じになりそうだけど、まずは各要請の詳細を確認しないと、何とも言えないわね」

「かなりの強行軍になるな。そもそも全ての要請をやり切ること自体、少々無理があるんじゃないか?」

「へ?いやいや、困っている人がいるんだし、可能な限りやってみるべきじゃないの?」

「それに異存はないが、体力的な問題もあるだろう?」

「わ、私もできるだけ頑張りたいですけど……アルティナさんは、どうかな?」

「私としては、初めに―――え?」

 

 答え掛けて、アルティナはハッとした面持ちでシーダを見詰めた。今し方自分が取ろうとしていた言動に、驚きを隠せなかったからだ。

 

「アルティナさん?」

「……いえ」

 

 どうして私は何の抵抗もなく、『考えよう』としたのだろう。そういった自主的な思考には、入学以来ずっと辟易としてばかりいたはずなのに。

 彼女と出会ってから、頼りにされる場面が多かった。頼られることに、慣れてしまったのだろうか?まるでそれが当たり前かのように、何かを望まれて、何を求められているのかを察して、思考を働かせる。……不思議と、頭が痛まない。これは、感情?

 

「ちょっとアルティナ、どうかしたの?」

「何でもありません。いずれにせよ、効率を追求する必要があると考えます。リィン教官、二手に別れての行動は認められますか?」

 

 効率を優先した、二方向からの別行動。その内容以上に、リィンはアルティナ自身からの提案その物に、意外そうな反応を見せた。

 

「成程な。状況によるけど、市内なら認めよう。それで、班分けはどうするんだ?」

「……各種バランスを考慮すれば、こんな感じが妥当かと」

 

 アルティナは小声で言うと、右手でシーダの左腕を。左手でリィンの上着の袖口を摘まんで、ユウナとクルトに視線を送った。

 そこには極々僅かで、しかし明確なアルティナ自身の意思と、願望が込められていた。

 

___________________

 

 

 ラムゼン大司教に教官として挨拶をしておきたいというリィンの意向に伴い、アルティナとシーダの三人は必須要請である『薬草の採取代行』の詳細を窺うべく、セントアーク大聖堂に向かった。

 残り二人のユウナとクルトは、広域哨戒を兼ねて各街区を回っていた。住宅街に差し掛かったところで、ユウナが何とはなしに話題を振った。

 

「アルティナがあんな態度を見せるなんて、ちょっと意外だったわ」

 

 アルティナを少なからず知る人間からすれば、驚く他ない。自主的な意見や考えを持とうとせず、他人に委ねてばかりいたアルティナが、自ら率先して声を上げた。ただの気紛れに過ぎないとしても、彼らにとっては喜ばしい一幕だった。

 

「シーダや君のおかげかもしれないな」

「え?あたし?」

「シーダに自覚ないと思うが、君はいつもアルティナを理解しようとしていただろう?」

「えーと……ごめん、あたしも全然自覚ないかも。例えば、いつのこと?」

「アルティナが『シーダは第Ⅱ分校を諦めた方がいいのでは』と言った時」

「あー、はいはい」

 

 今から二週間ほど前の出来事だ。シーダが第Ⅱ分校への在席を危ぶまれた際、ユウナとクルトは全面的に協力する意思を表明した。一方のアルティナは、『無理をせずに諦めた方がいい』という、シーダを突き放すに等しい態度を取った。

 シーダの言葉を額面通りに受け取ったクルトは、感情的になり掛けてしまった。しかしユウナは言葉の裏にあるアルティナの想いを、懸命に感じ取ろうとしていた。その違いを、クルトはずっと考え続けていたのだ。

 

「僕は不器用な人間だからね。ああいった真似はできそうにないけど、君やシーダのおかげで、アルティナも少しずつ変わり始めているんじゃないかって、そう思うよ」

「そうなのかな……。でもクルト君だって、周りをよく見てるんだなって思う時があったりするけど」

「それこそ全く自覚が……んん?」

 

 突然クルトが立ち止まり、自然とユウナの足も止まった。ユウナがクルトの視線の先を追うと、そこには一人の女性の姿があった。

 同じ桃色の長髪。年齢は恐らく少し上の成人女性。両手には導力カメラが握られていて、前方の建物をファインダー越しに見詰めていた。

 

「ふーん。へぇー。クルト君って、ああいう女の人が好みなの?」

「いや、僕はどちらかと言えばもう少し……何を言ってるんだ君は」

 

 クルトは咳払いをして、改まった声で言った。

 

「見覚えがあると思ってね。よく思い出せないんだが……多分、見掛けたのは最近だ」

「……あれ?た、確かにそうね。いつだっけ?」

 

 記憶の正体は、シーダが持ち歩いていた複数枚の写真の中にあった。ガイウスと共に映り込んでいたのは、彼と同じ美術部に所属していた女子生徒。正確に言えば彼女の双子の妹に当たるのだが、面識のないユウナとクルトにとっては、全くの同一人物としか思えなかった。

 

「あれって、あの建物を撮ってるのよね。何かのお店かな?」

「『レンタカー』という施設らしい」

「れ、レンタカー?」

「ああ。つい最近になってできたばかりのはずだ」

 

 クルトの説明に、ユウナが興味津々といった様子で耳を傾ける。

 導力車を有料で貸し出す、近年になって生まれた新しい事業形態。移動だけを考えるのであれば導力バスや鉄道を使えばこと足りる一方、レンタカー店では導力車その物を借りることができる。導力車が広く普及している帝国においても未だ一般的ではないものの、事業が成り立つ程度には需要があった。

 

「く、クルト君。あれって、アリだと思う?」

「……待ってくれ。ま、まさかとは思うが」

「そのまさか!効率優先、あたしの出番!」

 

 何より導力車を自分の手で運転したいという欲求は、ユウナにとっても理解し得る感情だった。

 

 

 

 



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四月二十二日 前兆

 

 絶対に足を止めるな。何度も声に出さず呟きながら、二刀小太刀『絶佳』を逆手に構えて走り回る。

 大蜘蛛の魔獣は目に見えて衰えていた。無数に浮かんだ裂傷はどれも浅いけれど、体液が流れ出るに連れて動きが鈍りつつある。頃合だ。

 

(背と腹の間―――)

 

 背後へ回り込むと同時に跳躍し、くびれた部分目掛けて体重と共に絶佳を突き立てた。即座に距離を取って身構えていると、大蜘蛛はぴくぴくと痙攣した後、やがて息絶えた。セピスの欠片が地面に散らばって、私は安堵の溜め息を付いた。

 

「敵性魔獣の沈黙を確認……ふう。私が最後だったみたいですね」

 

 振り返ると、既に大蜘蛛の群れは消えていた。私が内の一体と対峙している間、各々が私よりも先に討ったのだろう。

 このイストミア大森林に足を踏み入れたのは、今から一時間ほど前。セントアーク大聖堂の大司教様の依頼で、『エリン』と呼ばれるラベンダーの採取地を目指した私達は、ちょうど目的地に辿り着いてすぐ、大蜘蛛の魔獣に囲まれてしまったのだ。

 魔獣による両翼包囲に手こずりはしたけれど、目立った負傷もなく殲滅できたのは、この演習におけるひとつの成果と言えるかもしれない。私自身、自分に及第点を与えたい。

 

「上出来だ、シーダ。小太刀の扱いにも、大分慣れてきたみたいだな。君を見ているとフィーを思い出すよ」

「手応えは感じています。……でも、まだ思うようにいかないことの方が多いです」

「フィーなら俺よりも適切な助言をくれると思うんだが……覚えてるか?フィーのこと」

「はい。内戦中にお会いした方ですよね」

 

 旧Ⅶ組の面々とは、一通り挨拶を交わしたことがある。フィーさんはとりわけ印象に残った女性の一人だ。背丈は私と同程度で、双剣銃という一風変わった武具の使い手だったと記憶している。

 言われてみれば、体格や得物に共通点が多いかもしれない。もしも今後会う機会があったら、是非とも指南して欲しい。

 

「よし。時間もないし、早速採取に当たろう。手分けして付近を探索してくれ」

「「はい」」

 

 採取籠を組み立てて、背中に背負う。私はユウナさんとペアを組んで、辺り一帯に点在するエリンの花の採取を始めた。

 探索を開始して間もなく、嗅覚を頼りに周辺を見渡していると、ユウナさんが頭上を見上げながら、考え込むような素振りを取っていた。

 

「ユウナさん、どうかしましたか?」

「ん……何処となく、似てるなって思って」

「似てる?」

「ほら、上位属性が働いているっていう、この奇妙な雰囲気。『ベルライン』の近くでも、同じような感覚があったような気がするのよね」

 

 上位属性。大森林に足を踏み入れた直後に、リィンさんも言及した点だ。

 通常の四属性とは異なる、空、時、幻の上位三属性。遺跡や霊脈が集う霊的な場では、例外的に上位属性が働いて、異様な空間を生み出す場合があるそうだ。このイストミア大森林もそのひとつであり、私自身奇怪極まりない風の流れに、戸惑いを覚えていた。

 しかし、ベルラインと来たか。いい機会だから、詳しい話を聞いておいた方がいいかもしれない。

 

「ベルライン……私も耳にしたことはありますけど、一体クロスベルで何が起きたんですか?」

「そうねー。何から話せばいいのやら……。ノーザンブリア異変に匹敵する、史上稀にみる自然現象だって言われてるわ」

 

 クロスベル異変。昨年一月に発生した一連の現象は、故郷であるノルドにまで伝わっている。大まかな事実を把握はしていたけれど、まるで理解に及ばないものだった。

 

「一年半ぐらい前になるわね。ちょうどクロスベルが、帝国に……年が明けた頃に、大きな地震が起きたの。同時にクロスベルの東部に大きな亀裂が走って、そこから『光の障壁』のような物が生まれたのよ。見た目としては、銀色の虹っぽい感じかしら」

「銀色の……虹のような壁、ですか?」

「そうとしか例えようがないのよね。とにかく銀色に輝く光が、クロスベル州を二分しちゃったの。一時からその壁が、ベルラインって呼ばれるようになったのよ。当時は帝国軍と共和国軍の衝突もあってかなり物々しかったけど、もうそれどころじゃない大騒ぎになったわ」

 

 無理もない。得体の知れない障壁が、物理的に州を二分したのだ。両国にとっても予想だにしない天変地異に慌てふためき、一時停戦を余儀なくされ、事態の把握と収拾に当たり始めたらしい。

 現象の規模が大き過ぎて、当時の状況が想像できない。今現在は落ち着きを取り戻しているのだろうか。

 

「でも列車は、今でも行き来しているんですよね?」

「亀裂は鉄道付近に生じなかったのよ。それでもあの時は全列車が運行停止になって、物や人の流れが完全に止まっちゃってね。まさに大混乱」

「完全に……飛空艇とかもですか?」

「こらこら二人共。今は採取に専念してくれ」

 

 リィンさんの声で、手と足が止まっていたことに気付く。

 ベルライン。大いに興味を惹かれる謎ではある。しかし今は後回しにする他なさそうだ。この演習が終わって落ち着いてから、改めて話を聞いてみよう。

 作業を再開してほどなく、採取籠の七分目程度にまでエリンの花は集まっていた。既定量は満たしているし、こういった採取地での採り過ぎは控えた方がいい。

 

「リィン教官、これぐらいで十分ですよね?」

「ああ。長居は無用だ、早速―――」

 

 言い掛けて、リィンさんが振り返る。リィンさんは胸元の辺りに右手をやりながら再度私達の方を向いて、声の音色を変えた。

 

「今そこに、誰かいたか?」

「「??」」

 

 質問の意図が分からず、答えに窮した。当たり前だけれど、私達五人以外の人影は、何処にも見当たらなかった。

 

___________________

 

 

 一台の導力車がサザーラント州北の街道を駆け抜ける。助手席にはリィン、後部座席にクルトにアルティナ、シーダの三人。そして運転席では鼻歌交じりにハンドルを握るユウナが、上機嫌で導力車を走らせていた。

 

「うんうん、思っていた以上に順調よね。セントアーク方面の要請は、午前中に片が付くかも」

「シーダさんの貢献度が高いと考えます。迷い猫と川魚の確保はお見事な手並みでした」

「わ、私は別に、そんな」

「……少なくとも、僕らには真似できそうにないさ」

 

 事実として、シーダの独特な感性はとりわけ良い方向に働いていた。

 迷い猫の捜索時には、まるで猫が猫を追うかの如く瞬く間に対象を見付け出し、飼い主が到着するよりも前に手懐けてしまった。「集落から逃げ出した羊を追い掛けるようなものです」というシーダの語りに、リィン達は半笑いで耳を傾けていた。

 川魚についても同様だった。釣り上げたのはリィンだったが、「あの辺りに大きいのがいます!」という野性味溢れる勘所により、釣り糸を垂らして三分後に依頼を達成するに至っていた。

 更には移動手段としてレンタカー店の利用をユウナが提案、リィンが悩みつつも許可を出したことで、最短ルートに近い道筋でセントアーク方面の要請をクリアーしていた。

 

「クルト、位置座標を確認してくれ。魔獣の目撃情報があったのは、この辺りだな?」

「はい。あと二セルジュぐらい先の、大岩に囲まれた地点です」

 

 そうして最後に辿り着いた先が、北サザーラント街道上。機械のような魔獣を目撃したという証言が正しければ、付近に件の魔獣が潜んでいてもおかしくはない。

 やがてリィンの指示でユウナが車を止め、車内で装備品の確認を始めた。

 

「総員、クオーツ設定を戦闘特化型に変更。それとユウナ、実弾の使用を許可する。準備してくれ」

「っ……はい。了解です」

「装備が整い次第、哨戒を開始しよう」

 

 リィンの言葉少ない指示が、徒ならぬ空気を生んだ。自然と口が噤まれ、ユウナが銃弾を装填する音だけが鳴り続ける。段々と緊張感が張り詰めていく。

 装備確認を終え、全員が車外に出た頃になって、クルトはずっと抱いていた疑念をリィンに投げ掛けた。

 

「シュバルツァー教官。アルティナもそうですが、魔獣に心当たりがあるんですか?」

「待て」

 

 リィンが手をかざしてクルトの声を遮ると、辺りに一陣の風が吹いた。リィンは周囲をぐるりと見回して、左手で太刀の鞘に触れた。

 経験と勘が感じ取った気配。リィンは草木が生い茂る前方を見据えたまま、シーダに声を掛けた。

 

「シーダ。何か聞こえるか?」

「か、微かにですけど……前方から、何か来ます!」

 

 先んじて何者かの接近を感知したシーダの声で、全員が得物を手に取り、身構える。

 金属が擦れるような音と、重量感のある走行音。遥か遠方から滲み寄る脅威が段々と明確になっていき、地面から伝わってくる振動が強みを増す。リィンは声を張った。

 

「君達も一度は耳にしているはずだ。結社『身喰らう蛇』が所有する、自律兵器……人形兵器だ!」

「そ、それって、クロスベルにも持ち込まれたっていう、あの!?」

「内戦時に暗躍していた謎の組織か……!」

「……蛇?」

 

 ―――蛇にだけは関わるな。故郷を離れた長男と文通を続ける中にあったやり取り。ノルドの外に躍り出る上での、ひとつの決めごと。

 触れてはならない世界があると、何度も念を押された。姉の左目を奪ったのが、蛇の毒牙なのだとも。

 

「来るぞ!総員、戦闘準備!」

「力を貸して、お兄ちゃん、お姉ちゃん……!」

 

 ごめんなさい。私はこれから、約束を破ります。覚悟を決めて、シーダは絶佳を抜いた。

 やがて全貌を現したのは、三体の人形兵器だった。アルティナが即座にクラウ=ソラスのサーチモードを起動させると、呼応するようにリィンはARCUSⅡを手に取った。

 

「解析完了。ファランクスJ9シリーズ、中量級の量産型攻撃機です」

「ブレイブオーダー、起動!」

 

 ARCUSⅡの新たなる領域。リィンの思考と情報が、戦術リンクを介して四人へと伝わっていく。

 防御陣『鉄心』。守りを固めた陣形にシフト。

 敵火力規模。直撃は致命傷に繋がる。

 短期決戦。人形兵器に体力の概念がない以上、長丁場は絶対に回避。

 確固撃破。機を突いた一転攻勢。

 脚部関節と頭部センサー系統の破壊。取っ掛かりは―――アルティナ。

 

「クラウ=ソラス!」

 

 ファランクスJ9が数発の誘導弾を頭上に撃ち出した刹那、クラウ=ソラスが障壁を展開させた。着弾と同時に火と黒煙が視界を阻む中、アルティナを除く四人は、真っ直ぐに標的目掛けて地を駆った。

 

「二の型、疾風!!」

 

 リィンが放った連撃がファランクスJ9の脚部を砕くと、クルトとユウナの追撃がセンサー系統を力任せに破壊した。攻撃に特化した機体に自己修復機能は搭載されておらず、攻撃の手段を失ったファランクスJ9は、翼を捥がれた鳥のように地面へと崩れた。

 

「鬼さん、こちら!」

 

 シーダは陽動に徹した。接近するやいなや一気に後方へと飛び退いて、残り二体の注意を引く。

 たとえ誘導弾が飛来しても、アルティナが応じてくれる。その隙を三人が無駄にはしない。戦術リンクによる連携と、それとは無関係の信頼感が、シーダの果敢な陽動を支えていた。

 

「っ……!?」

 

 もう一体が制御不能となった時点で、シーダは『とある異変』を察した。

 おかしい。遥か遠方から、似たような金属音が聞こえる。いや、それだけではない。今この場における戦闘音とは別の同種の音が、紛れ込んでくる。

 人形兵器との戦闘行為?自分達とは別の誰かが?一体、何が起きている?

 

「せぇいやああ!!」

 

 ユウナの打撃が最後の一体を仕留めると、辺りに静けさが広がった。

 しかし一人として武装を解こうとはしなかった。全員が得物を手にしたまま、乱れた呼吸を意識して整えつつ、リィンの指示が下るのを待ち構えていた。

 

「り、リィン教官」

「分かってる」

 

 戦術リンクによる意思の疎通。ブレイブオーダーによる副次的効果は、シーダからリィンに、そしてリィンから残り四人へと及んでいた。

 ややあって。ファランクスJ9の残骸が完全に動きを止めた頃、前方から一人の屈強な男性が歩み寄って来る。

 

「動くな!」

 

 リィンが太刀の切っ先を男に向けて警告を発すると、男は不服そうにゆっくりとした動作で両手を上げた。

 

「おいおい、いきなり得物を向けないでくれよ。随分と物騒な兄ちゃんだな」

「申し訳ございません。無礼を承知の上で、お願いがあります」

 

 リィンは一転して柔らかな笑みを浮かべて、男に応じた。 

 

「俺達はトールズ士官学院第Ⅱ分校の者です。俺が教官で、彼らは俺の生徒に当たります」

「ほう、トールズの学生さんか。そういや、地方演習に来てるって話を市内で聞いたっけな」

「そうなんです。今は実戦訓練中でして……少しの間だけで構いません。訓練にご協力頂けませんか?」

「……成程な。大方察しは付いたぜ」

 

 男は感心したような様子で人形兵器の成れの果てを一瞥した後、リィンの提案に対して視線と身振りで承諾の意を示した。

 

「ありがとうございます。……アルティナとシーダは周囲を警戒、ユウナとクルトで彼に対応してくれ」

「「了解」」

 

 実戦を想定した迅速な判断と対応。もしも戦地で予期せず不審者と遭遇してしまったら、という前提の下、四人の生徒らはすぐさま行動に移った。

 アルティナとシーダは陽動や罠の可能性を考慮し、周辺を哨戒して備える。そしてユウナが男に銃口を向けて、クルトが身なりの確認を始めた。

 

「クク、おっかねえな。間違えても撃たないでくれよ、嬢ちゃん」

「あはは、できるだけそうします。……クルト君」

「ああ」

 

 革製の丈夫そうなベストの中身を、念入りに調べていく。

 私物と思しき数点を除いて、目立った所持品はワイヤー、ナイフ、小型の工具と鉄製の杭。武装と呼べる類は、強いて上げればナイフぐらいのもの。

 不審な点は見られない。だが単独で街道を移動中の身にしては、軽装が過ぎるという見方もある。

 

「失礼ですが、ご職業は?」

「狩人ってやつが一番近いだろうよ。たまに仲間連中と手配魔獣を討伐したりはするがな」

「この街道にも、狩りが目的で?」

「まあな。……なあ教官さんよ、ちょいといいか?」

 

 男は両手を後頭部に添えたまま、後方から一連のやり取りを見守っていたリィンに声を掛けた。

 

「どうかしましたか?」

「いやなに、実戦訓練だって話だからな。俺からもひとつ提案だ」

「……提案?」

「おらよ」

 

 それはまるで、無から生じた有。突然クルトとユウナの足元に、鈍い音を立てて何かが転がった。

 黒色の握り拳大。その正体を察したリィンは、あらん限りの声を捻り出した。

 

「スタングレネードだ!!」

「「!?」」

 

 男の余裕そうな笑みを最後に、周囲に光が溢れた。間一髪で視覚と聴覚を遮断していたリィンは、すぐさま復帰して辺りの状況を確認し始める。

 閃光音響弾を屋外で使用すれば、本来の効果は薄まってしまう。至近距離と言えど、対処法さえ間違わなければ被害は最小限に抑えられる。

 

「総員、無事か!?」

 

 リィンの問いに、四人の声が応じた。リィンと同じく寸でのところで目と耳を防護できていたのは、日頃の訓練の賜物と言えた。

 

「アルティナとシーダは上空、ユウナは導力車を回せ!」

「了解!」

「シーダさん、飛びます」

「は、はい!」

 

 ユウナが導力車に駆け込み、キーを回してエンジンを吹かした。アルティナとシーダはクラウ=ソラスと共に高度を上げ、上空から周囲を見下ろした。

 たったの十数秒で逃げ果せるはずがない。何処かに潜んでいるはずだ。

 

「っ……だ、駄目です。見当たりません」

「ですが死角は数箇所あります。範囲一セルジュ以内に計四箇所確認できます」

 

 一見して人影は見当たらない。しかし上空からでも目が届かない死角が存在した。

 予断と深追いは禁物。だが見過ごす訳にもいかない。リィンは両者を天秤に掛けながら、ユウナとクルトに指示を下した。

 

「ユウナはいつでも出れるよう車内で待機。導力車は無事だな?」

「はい、損傷はありません」

「クルト、俺と一緒に来い」

「了解です」

 

 周囲を警戒しながら、四箇所の死角をひとつずつクリアリングしていく。最後の一箇所に足を運ぶと、そこに男の姿はなく、代わりに驚愕の光景が広がっていた。

 山積りにされた残骸の数々。シーダが聞き取った戦闘音の出処。先ほど五人掛かりで迎撃したファランクスJ9シリーズの機体が、見るも無残な姿へと変貌していた。

 

「これは……これを全て、あの男が?」

「ああ。だろうな」

「ば、馬鹿な。たった一人で、こんな数を無力化したって言うんですか!?」

 

 丸腰も同然の身で、十数体の人形兵器を苦もなく退ける。真っ先に連想されたのは、人の域を超えた使い手達。表舞台にも、そして裏の世界にも、数える程度しか存在しない。

 

「アルティナ、演習地と連絡を取れるか?」

「……繋がりません。恐らく距離的な問題です」

 

 駄目か。取り急ぎの行動を思案していると、逆にリィンのARCUSⅡの着信音が鳴った。ディスプレイ上には、ちょうど今日になって登録したばかりの番号が表示されていた。

 

『もしもしリィン君?ヴィヴィだけど、今話せる?』

「ああ、大丈夫だ。どうかしたのか?」

 

 セントアークで一ヶ月半振りの再会を果たした同窓生。帝国時報社の社員でもあるヴィヴィの報せに、リィンは益々表情を歪めた。

 

『リィン君達、色々と調べて回っていたでしょ?だから何か関係があるのかなって思って。どうかな?』

「……情報提供、ありがとう。俺達もこれからセントアークに戻るよ」

 

 落石による列車の脱線事故。何故こうも立て続けに負が連鎖をする。結社の人形兵器に、得体の知れない男の出現。早合点をするつもりはなくとも、穏やかではない何かが起きていると考える方が自然だ。

 

「シュバルツァー教官、何かあったんですか?」

「移動しながら話すよ。警戒レベルBを維持したまま、セントアークに戻ろう」

 

 太刀を鞘に納めて、リィンは肩の力を抜いた。同様に武装を解いた四人を見渡しながら、リィンは柔らかな声で言った。

 

「四人共、いい動きだった。日頃の訓練の成果が出ているな」

 

 あの状況下でも冷静さを失わず、指示通りに的確な行動を取ってくれた。生徒達の頼もしさが何より誇らしく、嬉しかった。

 

「な、何ですか急に。気味が悪いわね」

「まあ、今は素直に受け取ってもいいんじゃないか」

「シーダさんはもう少しクラウ=ソラスに慣れて下さい。上空でフラフラされては困ります」

「だ、だって急に高く飛ぶんだもん」

 

 それがひとつの過ちを生む結果に繋がるとは、考えてもいなかった。

 

 

 



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四月二十二日 身を焦がして、恋焦がれて

 

 クラウ=ソラスのサーチモードを自身に向ける。各種バイタル値に異常なし、オールグリーン。イストミア大森林で虫に刺されてしまった患部には、後で薬を塗付しておこう。

 気になる点は体力面だ。しっかりと補給をして、午後の活動に備える必要がある。消耗時に対処できるよう携帯食も確保しておきたい。栄養価の高いチョコレート菓子があったはずだ。甘味は何より優先される。

 三号車へ向かうと、数名の生徒達が食事の最中だった。《Ⅷ組》や《Ⅸ組》も一時訓練を中断し、昼休憩を取っているようだ。

 

「はい、お待たせ。お代わりもあるから、足りなかったら遠慮なく言ってね」

「どうも」

 

 サンディさんから手渡されたランチを受け取り、奥のテーブルを目指す。入り口付近のテーブル席では、ユウナさんとクルトさんが情報交換―――とは名ばかりの、中身のない会話を交わしていた。

 

「ねえねえ。さっき言ってたオリヴァルト殿下って、どんな人?クルト君も会ったことがあるの?」

「まあね。どんな人かは……上手く言えないけど、立派な方だ。君も会ってみれば分かるよ」

「ふーん……ていうか、そんな人をつかまえて『自己満足』呼ばわりしたわけ?問題発言過ぎるでしょ」

「それとこれとは話が別だ。僕だって特務活動を無駄だとは思わないが、表現としては間違っていない」

「……リィン教官も言ってたけど、クルト君って考え過ぎなところがあるわよね。モテないわよ、そういう男子」

「君は考えが足りなさ過ぎると思うけどね」

「あー可愛くない。可愛くないわねー、ホント」

 

 どうして彼らはいつも、無益なやり取りを繰り返すのだろう。しかし二人はそうした行為を通して何かしらの感情を抱き、精神面の安定を図っている節さえある。まるで理解に及ばないけれど、要解析課題として保留としておこう。

 一方のカウンター席にはシーダさん。手元の取り皿からは、覚えのない芳しい香りが漂っていた。

 

「見たまえシーダ、サソリの素揚げに川ヘビの蒲焼きだ。ハチノコは蒸し焼きにしてみたぞ」

「わあ、いい香り!とても精が付きそうですね、フレディさん!」

 

 あくまでデータや知識として、ああいった物が一部地域で食されている事実を把握はしていた。栄養価だけでは語れないことも経験則的に熟知している。けれども、意気投合したあの二人の嗜好は、言うまでもなく理解から遠い。見なかったことにしよう。

 

「ふう」

「やあアルティナ。アンタらも昼飯かい」

「お疲れ様、アルティナ」

「……どうも」

 

 私が椅子に座るやいなや、同じ水泳部に所属するレオノーラさんとスタークさんが、テーブルを挟んで反対側の席に着いた。トレー上には私のランチと同じ品目が並んでいた。サソリやらヘビやらが盛られていたら相席を拒んでいたに違いない。

 ちなみにウェインさんは機甲兵搭乗時、コックピットに紛れ込んだ蜂に刺されてしまったそうで、トワ教官から塗り薬を処方されている最中らしい。私も後で貰っておいた方がいい。

 

「《Ⅶ組》も昼休憩中か。珍しいな、君達がバラバラで食事を取るなんて」

「ユウナさんの提案です。たまには他のクラスの生徒と積極的に交流を図った方が、私のためになるそうです。よく分かりませんが」

「いやいや、アンタ思いっ切り一人で食べようとしてたよね」

「……成程、そうでした。別行動だけでは意味を成さないのですね」

 

 思わぬ見落とし。どうも目的が不明確な中で自主性を求められると、足元が疎かになってしまいがちだ。

 慣れない行為に頭を悩ませていると、スタークさんの視線に気付く。何かを言いたげな表情が、私へと向いていた。

 

「どうかしましたか?」

「いや……気にしないでくれ。詮ないことさ」

「そう言われましても気になります。私に関することですか?」

 

 私が追及すると、スタークさんは観念した様子で溜め息を付いて、静かに告げた。

 

「もしかしたら君は、普通じゃないことが当たり前になり過ぎて、気付かないことだらけになっているんじゃないかって、漠然とそう感じたんだ」

「……よく分かりません。理解しかねます」

「そうだな。俺もアルティナのことはよく知らない。だから少しずつでも、知っていければいいって思うよ」

 

 当たり前だ。彼は私を知らないし、この先知ることもないだろう。私の出生も、過去も。

 けれど、どうしてなのだろう。スタークさんが並べた言葉が、一向に頭から離れなかった。

 

___________________

 

 

 午後十四時を回った頃、リィン達は馬を使ってサザーラント南の街道を下っていた。

 午前中に活躍したレンタカー店の導力車は、人形兵器との戦闘で損傷してしまう恐れがあることから使用を断念。脱線事故の影響で列車も運行を停止する中、その代わりにとハイアームズ侯の厚意で貸し出された馬の脚で次なる目的地へと向かっていた。

 

「紡績町パルム。帝国最南端の町ですか」

「俺も初めてだが、噂に違わぬ風景だな」

 

 やがて辿り着いた先、紡績町パルム。古くから紡績業で栄えた町中には多数の水路が引かれ、何台もの水車が連なっている。彩り鮮やかな織物達が風に揺れる光景は、それだけで価値のあるパルムの象徴だった。

 

「うんうん、すっごく綺麗な町ね」

「この町が、お兄ちゃんが初めての実習で……。帝国にも、こんな人里があるんですね。とても居心地の良い風を感じます」

 

 各々が思い思いの感想を述べる一方、クルトは郷愁に耽るような、何処か寂しげな面持ちで広場の噴水を見詰めていた。その表情と背中が、ユウナの目にはとりわけ新鮮に映っていた。

 

「十歳ぐらいまで、ここで暮らしてたのよね。やっぱり、懐かしい?」

「まあね。知り合いも何人かいるはずだし……。教官、早速魔獣の調査に向かいますか?」

「いや、町の中を一通り見て回ろう。人形兵器や脱線事故の情報が得られるかもしれないからな」

 

 土地勘のあるクルトの案内で、目ぼしい施設や建物を訪ねていく。

 工房に宿酒場、仕立て屋。顔が利くクルトが同行していたことで、時に思い出話に花を咲かせつつも、滞りなく情報収集は進んだ。

 

「むぐっ」

 

 町の教会に繋がる階段付近に差し掛かった頃、突然リィンが足を止めた。すると後方を歩いていたシーダが、勢い余ってリィンの背中に身体を預けてしまう。シーダは鼻の先を擦りながら、首を傾げて聞いた。

 

「リィン教官、どうかしました?」

「驚いたな。ヴィヴィに続いて、こんな所で……。すまない、少し時間をくれないか」

 

 リィンが逸る気持ちを抑えるように言うと、教会の方から階段を下って来る女性に声を掛けた。

 

「久し振りだな、ミント」

「ん……え?え、ええ?り、リィン君!?わわ、リィン君だー!」

 

 今日二度目となる、卒業以来の再会。予期せぬ邂逅にリィンとミントが胸を踊らせる中、四人の生徒達はやや距離を取って、二人のやり取りを見守っていた。会話の内容から、間柄は容易に想像が付いていた。

 

「まさか、あの女性もトールズの卒業生なのか?」

「わ、私も見覚えがあります。あの内戦中に、ノルド高原のゼンダー門でお会いしたことがあります」

「リィン教官の同級生ってわけね。……ヴィヴィって人と同じで、元士官候補生って感じが全然しないかも」

 

 唯一面識があったのが、ノルド高原出身のシーダ。シーダはかつて混乱の渦中にあった頃の思い出に浸りながら、声を弾ませて会話を交わすリィンの横顔を見詰めた。釣られるように、自然と笑みを浮かべていた。

 

「ヴィヴィさんの時もそうでしたけど……とっても嬉しそうですね。リィン教官のあんな顔は、入学してから初めて見たような気がします」

 

 柔らかく屈託のない微笑み。大人びた顔立ちの中に残る、まるで少年のようなあどけなさ。

 目が離せなかった。声を掛けるのも憚られて、立ち尽くす。あのアルティナでさえも、誰も気付かないであろう極々小さな笑みを湛えて、時の流れを忘れていた。

 

「折角の再会に水を差すのも、気が引けるな」

「それもそうね……。えーと、リィン教官?あたし達、先に行って町中を見て回っておきますね」

 

 ユウナの声に「すまない」と応じたリィンに先んじて、四人は町の東部へと向かった。

 道なりに歩を進めて、市内に引かれた水路上の小橋を渡る。町並みの東端には、周囲よりも一回り大きい建物が佇んでいた。

 

「そういえばこの町には、クルトさんの実家の剣術道場があったと記憶していますが」

「ああ。あの建物がそうさ。……やっぱり懐かしいな。小さい頃は、ここで暮らしていたんだ」

「へえー。小さい頃のクルト君、見てみたいかも」

「茶化さないでくれ」

 

 ユウナのからかいを受け流すと、クルトは改まった声で告げた。

 

「道場自体は、去年の暮れに閉鎖されたんだ。建物は残っているけどね」

「え……そ、そうなんだ」

 

 唐突に切り出された事実に、ユウナが戸惑いを露わにする。

 ヴァンダール流。アルティナから聞いた話では、二大流派と呼ばれる双璧の片葉。帝国のみならず、大陸全土に名を馳せる一大流派の道場が、何故閉鎖に追い込まれてしまったのか。

 聞いてよいものかとユウナが思案していると、屋内から威勢のいい声が流れ出てくる。しかも複数人分。四人は互いの顔を見合わせ、一様に首を傾げた。

 

「あ、あのー。閉鎖された割には、とても賑わってはいませんか?」

「少々気になりますね」

「……みんな。少しだけ、覗いてみてもいいか?」

「もっちろん」

 

 道場の門を数度叩いてから、クルトを先頭に門を開けた。途端に熱気が溢れ出てきて、掛け声が一気に明確になる。

 屋内には三人の門下生と思しき男女が、声を張って大振りの木刀を振るっていた。クルトらの訪問に気付いた三人は、両目を大きく見開きながら駆け出し、興奮冷めやらぬ面持ちでクルトに詰め寄った。

 

「お、おお!誰かと思えば、クルト坊ちゃんではないですか!?」

「あらまあ坊ちゃん、大きくなっちゃって!」

「お久し振りですウォルトンさん。カティアさんにラフィも」

 

 若干の照れを浮かべながら、クルトが門下生らと再会の挨拶を交わす。

 ユウナはここぞとばかりに悪戯な笑みを浮かべた。

 

「あはは。クルト君、坊ちゃんって呼ばれてたんだ。かーわいい」

「コホン。それで、一体何があったんですか?この道場は昨年末に閉鎖されたはずでは?」

 

 ユウナには無視を決め込んで、道場が活気を取り戻すに至った経緯を問い質す。

 ことの発端は一週間前。クルトの父でありヴァンダール家当主、マテウスの口利きで、臨時の師範代がこのパルムの道場に派遣された。腕前は底が知れず、剣術の熱に当てられた門下生達は、期間限定で道場を再開する決意を固めたのが、先週の出来事だった。

 

「臨時の師範代、か。僕も知っている方ですか?」

「きっとご存知かと思いますよ。今は出掛けられていますが……坊ちゃん、そちらの方は?」

「え?」

 

 振り返ると、四人の知らぬ間にリィンが後方に立っていた。

 一体何時から。大いに驚かされたユウナが、不服そうに口を尖らせる。

 

「び、ビックリした。ちょっとリィン教官、声を掛けて下さいよ」

「……ああ、すまない」

 

 リィンは悪びれる様子もなく、前方を見据えながら小声で答える。

 どうも様子がおかしい。視線の先には何も見当たらず、先ほどとは打って変わってぼんやりとしていて、しかし表情は穏やか。かつて見たことのないリィンの態度をどう解釈すればいいのか分からず、ユウナは気まずそうに名を呼んだ。

 

「り、リィン教官?」

「いや、何でもない。それよりミントから、人形兵器に関する情報を貰えたよ。準備ができ次第、街道に出るとしよう」

 

 踵を返して、リィンが屋外へと出ていく。

 いつにも増して素っ気ない態度に対し、不思議と嫌悪感は沸かなかった。

 

___________________

 

 

 サザーラントとクロイツェンの南端を繋ぐアグリア旧道。パルムからほど近い旧道上の高台が、人形兵器の出没を示唆する二件目の目撃地点だった。

 情報提供者はミント。目撃証言の内容は、高台の方角へ飛んでいく巨大な三つの影を目撃したというもの。その影が人形兵器だったのか否かは定かではないのだが、ミントが人形兵器の存在を知る元士官候補生である以上、信憑性は高いというのがリィン達の判断だった。

 

「あの辺りだな」

 

 ミントが修理したとされる導力灯から、真っ直ぐに高台の窪地を目指す。

 窪地の手前に馬を置いた五人は、周囲を警戒しながら少しずつ歩を進めた。

 

「……嫌な感じがします。あのほら穴って、『巣』でしょうか」

 

 シーダの目に留まったのは、向かって右側の地面にぽっかりと空いたほら穴。日光が届かない穴の奥は闇しかなく、野性的な勘所が警鐘を鳴らしていた。

 動物か、或いは魔獣の棲み処か。五人の注意がほら穴に向けられる中、リィンが頭上を仰ぎながら叫び声を発した。

 

「総員、警戒態勢!」

「「!?」」

 

 頭上の空間がぐにゃりと歪んで、二つの巨影が姿を現す。紛うことなき人形兵器が、音もなくリィン達の前に舞い降りる。

 黒光りをする重厚な装甲、迎撃に特化した兵装の数々。ひとつの要塞を凝縮したかのような出で立ちは、午前中に対峙したファランクスJ9を優に超える存在感を以って、リィン達を威圧していた。

 

「『ゼフィランス』シリーズ。拠点防衛型の重人形兵器です」

「午前に対峙したものより遥かに厄介なタイプだ。全力を以って撃破するぞ!」

 

 ブレイブオーダー起動、突撃陣『烈火』。ファランクスJ9戦と同様に、リィンの指揮がARCUSⅡを介して振るわれる。

 対するは拠点防衛型の重装甲型。深追いは禁物。

 長期戦は必至。少しずつ着実に叩いていく。

 突破口は―――

 

「ま、魔獣!?」

 

 シーダの悲鳴が、ARCUSⅡの連携を阻害した。

 背後から滲み寄る新手。ほら穴から這い出てくる蛇型の魔獣『タトゥージャ』が複数体。四つの頭部が独立した意思を持つ魔獣が群がる様は、ぞっとするような恐怖が具現化したかのよう。無数の大蛇が一斉に牙を向いて、口部からは毒を忍ばせた液体が滴り落ちていた。

 

「魔獣の巣だったのかっ……教官、こちらは僕らに任せて下さい」

「ま、待てクルト」

「シーダ、一気に殲滅するぞ!」

「は、はい!」

 

 リィンの制止を意に介さず、クルトが双剣をタトゥージャに向けて、続くシーダが小太刀を抜いた。二つの二刀流がARCUSⅡで重なり、一閃。クルトの連撃を機に、迎撃を開始した。

 

「はぁああ!」

 

 警戒すべきは頭部。その牙が掠りでもすれば毒に侵され、身動きが取れなくなってしまう。しかし頭さえ落とせば仕留めたも同然。数に惑わされず確実に落としていく。

 

「な―――」

 

 その警戒が、油断を生んだ。斬り飛ばしたばかりの頭部その物が、眼をぎょろりとさせながら、クルトの右手首に噛み付いていた。すぐさま頭部を振り払うと、手首に鋭い痛みが走る。

 

「ぐっ……く、くそ」

「クルトさん!?」

 

 毒自体は重くはなかった。しかし即効性のあるタトゥージャの毒は一気にクルトの四肢を捕え、堪えようのない痺れが身動きを封じた。地に膝を付いたクルトは、己の身を案じて駆け寄って来るシーダの悲鳴を聞いて、益々表情を歪めた。

 

「きゃああ!?」

 

 一度生まれた隙は連鎖をして、シーダの思考を奪い去る。得意とする後の先に徹し切れず、クルトに気を取られて無防備を曝したシーダが、毒牙の餌食となってしまう。

 

(クルト、シーダ!?)

 

 秒単位の迷いが、取り返しの付かない事態を招く。

 迷うな。決断しろ。ゼフィランスに注意を払いながら、リィンが数少ない選択肢を声に出して告げた。

 

「態勢を立て直す。ユウナ、二人を連れて退くんだ!」

「り、了解です」

 

 一時後退。二人の負傷者を抱えたままの戦闘を危険と判断したリィンは、アルティナと共にゼフィランスの攻勢を瞬時に押し返し、ユウナの退路を確保した。

 

「全弾掃射っ……たありゃああ!」

 

 一方のユウナはありったけの銃弾を魔獣の群れにばら撒くと、ガンブレイカーを放り投げ、クルトとシーダを強引に立たせて肩を貸した。

 

「二人共、歩いて!」

「す、すまない」

「ありがとう、ございます」

 

 形振り構っていられない。ユウナは二人の肩を鷲掴みにして、ずるずると引き摺るように後退した。

 窪地の入り口付近まで後退できれば、囲まれる心配はない。両翼包囲は回避できる。手持ちの解毒剤を投与すれば二人も戦闘に復帰できる。あと少しで持ち直せるはずだ。

 

「ユウナさん、前です!」

「え―――」

 

 連鎖は、収まっていなかった。ユウナが向かう先では群れから外れた一体のタトゥージャが、毒牙をちらつかせながら待ち構えていた。

 咄嗟に身構えようとして、ユウナはハッとした。安易に手離してしまった武装は遥か後方。満足に動けない二人を置いて取りに戻るわけにもいかない。唐突に万策が尽きて、目の前が真っ暗になる。

 私は、判断を誤ったのか?

 いやそうじゃない。どうすればいい。

 どうする。どうすれば。

 

「オオオォォォォッッ!!!」

 

 刹那。咆哮が響いて、背後から突風が吹いた。反射で思わず瞼を閉じて、慌てて顔を上げると―――戦慄が全身を駆け巡った。

 

「……な、に?」

 

 真っ二つに裂かれた魔獣の血飛沫が飛来して、額や頬にどろりと纏わり付く。とても些末なことに思えた。それ以上の驚愕が、二の足で立っていた。

 灰色の細髪。紅色の染まった瞳。全身から漏れ出すように滲む何か。

 目の前にいる正体が瞬時に理解された。恐る恐る振り返ると、立ちはだかっていたはずの人形兵器が、成れの果てと化していた。

 

「リィン教官っ……駄目ですリィンさん、早く力を解いて下さい」

 

 ユウナが呆然として動けないでいる一方、珍しく取り乱した様子のアルティナが、変貌したリィンに焦燥を露わにして駆け寄った。

 

「ま、まだだ。まだ終わってない」

「何を言ってるんですか!?」

「忘れたのか!?影は三つ、もう一体潜んでいるはずだ!」

「あ……」

 

 辛うじて残っていたユウナの思考が、リィンの声を拾い上げる。

 高台の方角へ、三つの影が飛んでいった。影の正体は人形兵器だった。最早疑う余地などなく、五人を嘲笑うかのように、最後の一体が窪地の中央付近へと降り立った。

 

「下がっていろ、アルティナ!」

 

 駄目。行かないで。声にならない声を、ユウナは無意識の内に発した。

 

「―――そなたも下がるがよい、リィン」

 

 凛とした声が、代わりにリィンの足を止めていた。

 

___________________

 

 

 時が止まった。思考や感情が虚空の彼方に吹き飛んで、目の前で起きた現実の把握へと、全てが費やされる。

 

「い、一体何が……それに、この音色って」

「う、動ける、のか?」

「毒気が……消えてる?」

 

 一瞬の閃光と衝撃が、残敵を粉々に打ち砕いてしまった。勿論リィンではなく、何者かが下した鉄槌による破壊。かと思いきや、何処からともなく流れてくる楽器の演奏音が、冷や汗で冷え切った体を胸の奥からじんわりと温めてくれていた。

 

「ねえアルティナ。なにが、起きてるの?」

「魔導杖による戦域全体の回復術と推測します。そして、今し方の斬撃は……。漸く、なのですね」

「な、なにが?」

「およそ感情と呼べるものを抱くことができない私ですが、私はこの再会を、とても好ましく思います」

「アル……ティナ?」

 

 未だ黒煙が立ち上る辺りから、二人の男女がゆっくりとした足取りでリィン達の下へと歩み寄って来る。

 魔導杖の特殊モードで儚くも穏やかな音色を奏でる、エリオット・クレイグ。既にその治癒効果は四人へと浸透し、クルトとシーダを蝕んでいた魔獣の毒も消えつつあった。

 そして―――

 

「ふむ、困ったな。気の利いた言葉を、幾つも用意していたはずなのだが……全て、吹き飛んでしまった」

「いいんだ。何も言わなくていい。あの道場を訪ねた時から、俺は……。俺も、同じだ」

 

 風になびく蒼髪が、とても眩しく映る。確固たる意志を宿す琥珀色の瞳が、滲んでいた。

 言葉は蛇足。声に出さずとも、数多が互いを別ち続けて尚、繋がり合う想いがある。

 

「綺麗……」

 

 この世界に溢れるどんな笑顔よりもずっと美しいと思えるような、恋人同士の微笑み。四人の教え子達は、二人が紡ぐ言葉を耳にした。

 

___________________

 

 

 午後十五時半。傷の手当と休息のためパルムへと戻ったクルト達は、宿酒場の一室を借りて、リィンとは別行動を取っていた。

 

「うん、毒は完全に抜けたね」

 

 同行を買って出たのがエリオット。教官の勧めもあり、治癒術や応急処置に長けたエリオットの厚意を受け入れたことで、クルトとシーダが負った傷は完全に癒えていた。解毒を瞬く間に済ませた手並みは、トールズの先人としての偉大さを思わせた。

 

「ありがとうございます。その、何から何まで」

「いいよ、気にしないで。君達も大変な苦労をしてるみたいだからね。演習初日から人形兵器とやり合うなんて、僕もビックリだよ」

 

 治療を受ける最中、クルトは何度も問い掛けようとして、その度に躊躇われた。

 聞きたいことは山ほどあった。人形兵器のこと、リィンとラウラの関係、あの場に居合わせた偶然らしからぬ偶然。この人は何処までを知っていて、自分は何を知らないのか。

 何より、リィンが覗かせた『力』の一端。あの力こそが、灰色の騎士と呼ばれる所以のひとつなのだろうか。

 

「その内リィン本人から、話してくれると思う。僕がとやかく言うことじゃないしね」

「っ……!」

 

 まるで見透かしているかのような物言いにクルトが面食らっていると、エリオットは「何か温かい物でも持って来るよ」と告げて、出入り口へと向かった。

 扉の前で立ち止まったエリオットは、何かを思案するような仕草を取ってから、四人へと語り掛ける。

 

「優しい人になって欲しい」

「え……?」

「僕も《Ⅶ組》で、沢山のことを学んだから。だからこれは、先輩からの助言さ。余計なお節介と受け取ってくれてもいいしね」

 

 優しい人。とても単純で難しい言葉を置いてから、エリオットが一室を後にする。残された四人の間に、奇妙な気まずさが漂い始め、自然と三人の視線がアルティナに集まっていく。

 今に始まった話でもない。リィンとアルティナが思わせ振りな会話を交わしたり、意味深な態度を取ることはこれまでにもあった。今日に限って、見過ごす訳にはいかなかったのだ。

 

「アルティナは、知っていたのか?」

「『力』のことでしたら、以前から。それ以上のことは言えません」

「……そうか」

 

 不用意な発言が目立つアルティナでも、頑なにならざるを得ない瞬間があった。リィン本人から釘を刺されている以上、勝手な真似はできない。

 クルトに続いて、ユウナが別の質問を投げ掛ける。

 

「じゃあ、あの人のことは?ええっと、ほら。ラウラさんと……その、リィン教官のこと。あの二人って、そういう関係なのよね?」

「当然知っていました。その点については、シーダさんも同じなのではないですか?」

「え、そうなの?」

 

 シーダが申し訳なさそうな面持ちで、首を縦に振った。

 

「お兄ちゃんから、それとなく聞いていたので。でも世間体を考慮して口外しないようにって、私も言われていたんです」

「世間体?」

「無理もないさ。この帝国において、灰色の騎士としての教官の影響力は絶大だ。もしもあの二人の関係が公になったら、とんでもない大騒ぎになる。想像するに容易いよ」

 

 クルトの推察通り、リィンとラウラの関係を知る人間は少ない。公にされてしまえば、瞬く間に取沙汰されて、皇族の色恋に匹敵する騒動へと繋がりかねない。軽率な言動ひとつが、世を揺るがす可能性を孕んでいるのだ。

 だからこそアルティナは、ずっと胸に秘めてきた。傍らで見守り続けてきたアルティナの中に生まれた微かな光は、変化の兆し。

 

「私はこの一年近く、ずっとリィン教官のサポートに徹してきました。リィン教官の胸中も、少なからず理解していたつもりです」

「……アルティナさん?」

「私はきっと、望んでいたのだと思います。あんな風にお二人が笑い合える日を、待ち望んでいた」

 

 思いも寄らない発言を前に、三人はきょとんとした表情を浮かべた。直後に抱いたのは、無力感。思い出されたのが、苦悶しながら力を揮うリィンの姿と―――エリオットの言葉。

 

 

「あの、皆さん。全部を一から見直しませんか。私達はもっと、しっかりしないといけないんだと思います」

「同感だ。教官の態度に不満はあるが、僕らの力不足のせいで教官が危険を冒す道理がない。それだけは、我慢がならない」

「いっそのこと怒鳴り散らしてくれた方が、スッキリするけど……まあ、しないわよね。付き合いが短くても、それぐらいは分かっちゃうし」

 

 見栄と意地。誇りと矜持。敬いと、力への渇望。微かな感情の欠片。まるで異なる小さな意志が、足りないものを補い合うように共鳴して、同じ方角を向いた。

 

 

 




明けましておめでとうございます。新年早々、閃Ⅳの発売が待ち遠しいです。今年もどうぞ宜しくお願い致します。


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四月二十二日 《剛毅》のアイネス

 

  

「最後に、会えて良かった。みんなを、未来をっ……お願いするね。―――リィン」

 

 彼女は俺の名を呼んで、光と化した。

 寂しげに震える声は尻すぼみになり、それでも彼女は最後まで、笑っていた。

 

___________________

 

 

 午後二十時前。演習地を囲うように設置された導力灯の光が、ぼんやりと辺りを照らしていた。耳を澄ませば、光に誘われて集まっていた羽虫達の羽ばたきが聞こえてくる。

 

(緑が、濃い)

 

 やがて、遠吠えが届いた。森林の何処かで生じたであろう野生の声に、居心地の良さを覚えた。草木や土の匂いが濃いせいか、深く呼吸をする度に胸が弾む。理由は考えなくたって明白だ。

 

「こんな所にいたのか、シーダ」

「……クルトさん?」

 

 足元を覗き込むと、クルトさんがやれやれといった様子で私を見上げていた。気が緩み切っていたようで、接近にすら気付いていなかった。

 

「今回は見逃すけど、列車の屋根に上るなんて真似は、今日限りにしてくれないか。危険だし、駅でやったら大問題になる」

「あ、あはは。ごめんなさい、以後気を付けます。……私に何か用ですか?」

「そろそろ二十時だ。二十時以降は車外での行動は禁止だと言われていただろう」

「え?ああ、もうそんな時間だったんですね」

 

 失念していた。クルトさんが指摘した通り、二十時以降は車外厳禁。報告書の作成や明日に向けた準備等、やるべきことは未だ山積みだけれど、どれも車内でできることだ。

 

「ユウナやアルティナも、外に出ているのか?」

「いえ、私だけです。少しだけ夜風に当たりたかったので。……ユウナさんは、教官とラウラさんの関係に、まだ戸惑っているみたいですね。アルティナさんに色々と探りを入れていました」

「僕も多少は驚きはしたが……まあ、放っていけばいいさ」

 

 リィンさんの異性関係はさて置いて。

 今から約二時間前。一通りの要請を成し遂げた私達は、満身創痍の身に鞭を打って、演習地に戻った。

 夕食を手早く済ませ、ミハイル教官に今日一日の活動内容を報告すると、案の定手厳しい反応が返ってきた。依頼された全ての要請をクリアーした点については一定の評価を得られたものの、一時は窮地に追い込まれ、ラウラさんやエリオットさんの支援を受けるに至ったことは大いに反省すべき失態。弁解の余地は見当たらなかった。

 そして今現在、私達《Ⅶ組》女子三名は、一時の休息を取っていた。ベッドに横になった途端に熟睡してしまうぐらい疲労困憊だけれど、そうも言っていられない。報告書の作成は明日の朝が期限だし、明日の活動に備え済ませておくべきことは多々ある。

 

「コホン。それで、どうかしたのか?」

「はい?」

「こんな時間に、こんな場所で……。君らしいと言えば、それまでだけど」

 

 変に遠回しな言い方で、クルトさんは言葉を濁した。

 

「気にしないで下さい。少しだけ、考えごとをしていただけです」

「考えごと、か」

「はい。……えーと」

 

 妙な間が空いて、そよ風がクルトさんの細髪を撫でた。

 どうしよう。この場合、話した方がいいのだろうか。言いよどんでいると、クルトさんはふうと溜め息を付いてから、優しげな笑みを浮かべた。

 

「実を言えば、僕も頭を冷やしたくてね。……二十時までまだ時間はある。もう少しだけ、涼んでいくよ」

 

 どうやら無用な心配を掛けてしまったらしい。気にしないで欲しいと言っても、きっとクルトさんは引っ掛かりを抱いたまま寝床まで持っていくに違いない。

 優しさに甘えて、胸の内を吐き出してしまおう。考えごとと言っても曖昧模糊過ぎて、上手く言葉にできる自信はないけれど、駄目で元々だ。

 

「何と言ったらいいか……。随分と遠くまで、来ちゃったなって。多分、そんな感じです」

「……距離的な意味合い、ではなさそうだ」

 

 クルトさんは背中を列車の装甲に預けて、夜空を仰いだ。

 私達の頭上では、無数の星々が朗々と光を放っている。故郷とは同じ夜空で繋がっているはずなのに、見え方が明確に異なっている。季節や天候とは無関係に星の輝きが変わるだなんて、考えたことすらなかった。

 

「もっと小さい子供だった頃、漠然と将来について考えることがありました。クルトさんにも、そういった経験はありましたか?」

「そうだな……あるにはあるさ。というより、多々あったと思う。今となっては、様変わりしてしまったが」

「え?」

「いや、続けてくれ。しかしその口振りだと、何かしら変化があったように聞こえるね」

「はい。ある頃から少しずつ、着実に」

 

 私が思い描いていた未来の中で、私は変わらずにノルドで暮らしていた。お母さんと同じように結婚して、子供を産んで、新たな家庭を築いて。約束された平穏の中で、変わらずに生きていく未来。

 けれども、故郷を取り巻く変化に、私は否応なく衝き動かされた。年々増加の一途を辿る観光客数。それに比例して激化する二大国間の軍事衝突。戦車の咆哮に圧倒される度に、曖昧だった未来像が白紙と化していき、まるで異なる私が描かれていく。

 

「極めつけは、お姉ちゃんとの出会いでした。外の世界から突然やって来た女性が、いつの間にか私達と一緒に暮らしていて、家族になって……。だから、その逆だってあり得るのかなって、考えるようになったんです」

「……そうか」

 

 相槌を打ってから、クルトさんは跳躍した。驚いたことに、クルトさんは私と同様に列車の屋根上へとよじ登り、私の隣に腰を下ろした。

 

「シーダはよく、兄弟の話をするな。察しは付いていたが、第Ⅱ分校へ入ったのも、その辺りに理由が?」

「あると思います。あの内戦も大きな切っ掛けになりました。故郷が戦禍に見舞われた時、私やトーマはいつだって無力でしたから」

「トーマ……確か、二つ年上の兄だったか?」

「ええ。トーマはお兄ちゃんを目指して、一方の私は、お姉ちゃんの背中を求めて。最近は競い合うように、お互いの理想を掲げながら励んでいました」

 

 トーマはこの二年間で大きく背丈を伸ばした。時間を見付けては槍術を磨いて、集落を守る戦士の一人として、鍛錬に励み続ける日々。

 意を決して外界へ飛び込んだ私とは、対称的に映るかもしれない。けれど根柢は一緒のはずだ。道は違えど、信念は同じ。言葉にせずとも伝わる物がある。

 

「だから私は……えーと、……その。ごめんなさい、何を言いたいのか、分からなくなってきちゃいました」

「謝らなくていい。それに他人事とも思えない。僕も、同じなのかもしれないな」

「クルトさんが……私と?」

 

 その横顔には、複数の感情が浮かんでいた。

 希望と絶望。意志と諦観。相反する何かがない交ぜになったかのような表情に、思わず吸い込まれそうになる。

 

「僕にも理想はあった。いや、今も変わらずにある。だけど、まるで届く気がしない。歩みを止めているつもりはないのに、段々と遠退いているようにも感じてしまうんだ」

「それは……分かる、気がします。何となく」

 

 ひどく抽象的な言葉が並んだ。彼が何を云わんとしているか分からず、けれど通じているような感覚を抱いたのは、クルトさんが言ったように、私達が似た者同士だからなのだろうか。

 

「どうしてだろうな。とても遠くに映るんだ」

「どうして、でしょうね」

 

 手を掲げても、夜空に輝く星々には届かない。そんな当たり前が、常に付き纏う。

 私はアヤ・ウォーゼルには及ばない。背丈も体力も、腕力もない。年齢差は言い訳にならない。

 行方知れずという現実が、更に拍車を掛ける。一体何処に消えてしまった?何かしらを知っているであろうリィンさんは、一向に何も語ろうとしない。敢えて触れずにいる印象さえある。

 その代わりにリィンさんは、強くなれと私に言った。直向きに強さを求めた先に、きっと真実があるはずだと。―――うん。とどのつまり、結論はいつだって同じなんだ。

 

「でも届きますよ、きっと。そう信じないと、明日に繋がりません」

「それも分かっているさ。しかし……な、何だ?」

 

 私はクルトさんの右手を掴んで、立ち上がった。

 今の私には、信じることしかできない。このちっぽけな手で掴み取れる物は少ないかもしれないけれど、決して無力じゃないはずだ。家族が信じたリィンさんを信じて、一日一日を全うする。考え込んでも結局は一周をして、結論は同じ。何も変わらないのだ。

 

「二刀流の使い手として、クルトさんは私の先輩でもあります。その人が弱音を吐いていたら、私も困っちゃいます。だから頑張りましょう、一緒に」

「……フフ。ユウナも相当だが、君も大概だな」

「ユウナさん?」

「君達は何処までも―――」

 

 刹那。暗闇の向こう側から、乾いた音が到来した。次いで笛の音色のような音が勢いを増していき―――『火』が演習地のど真ん中に降り注いで、強い衝撃が車両を揺さ振った。

 長い長い夜が、始まりを告げた合図だった。

 

___________________

 

 

 声を出さずに悲鳴を上げていると、複数の飛来音が鳴っては、振動に足を取られる。漸く収まりが見え始めた頃には、演習地のそこやかしこで黒煙が上がっていた。

 

「い、一体何ですか!?」

「敵襲だっ……シーダ、下りるぞ!」

 

 敵襲。一体誰が?意識して平静を保ちながら、地面に着地する。

 既にほとんどの生徒や教官達が勢揃いしていて、辺りには火の手が回っていた。内側に歪んだ列車の装甲。半壊した二体の機甲兵。見るも無残に吹き飛んだ簡易キャンプ。漂う黒煙と硝煙の匂いが、幾度も故郷で生じた戦火を連想させた。

 

「あそこだ!」

 

 リィンさんの声が、全員の視線を一点に集めた。

 夜の闇の中で揺らめく焔が照らした、『三つ』の人影。白銀色の耀く甲冑に身を包んだ女性が二人。その隣に立つもう一人の女性には見覚えがあった。まさかセントアークで擦れ違った、あの人が?

 

「鉄機隊の筆頭隊士と筆頭補佐。そして執行者№XVII。三人共々、結社有数の手練れ達です」

「あれが……結社の?」

 

 アルティナさんの声で、ぞっとするような恐怖感が一挙に押し寄せる。

 鉄機隊。№持ち。人の域を超えた人外達。『お姉ちゃんの手記』に綴られた言葉に、誇張は何ひとつないのだろう。遥か高みから嘲笑うかのように見下す三人の姿は、まさに喰らう側。その華麗な容姿が全てを際立たせていた。

 

「問答無用の奇襲っ……一体どういうつもりだ!?」

 

 リィンさんの怒声に、三匹の蛇が不気味な笑みを湛えた。

 

「勘違いしないで下さい。私達が出るまでもありませんわ」

「此度の目的は『挨拶』と『警告』に過ぎぬ。身のほどを弁えるがいい、第Ⅱ分校とやら」

「あはは!それじゃあ、歓迎パーティを始めようか!!」

 

 穏やかな言葉を合図に、数多の脅威が舞い降りる。概観しただけでも十数体に及ぶ人形兵器達。辛くも撃退してきた機械仕掛けの大所帯が、暗闇の向こう側から続々と姿を現した。

 まるで悪夢のような光景を前に、それでも私達の教官達は、勇ましい声を上げた。

 

「狼狽えんな!《Ⅷ組戦術科》、迎撃準備!!」

「《Ⅸ組》は戦術科が討ち洩らした敵に対処。医療班は待機、通信班は緊急連絡。迅速かつ冷静に対応して!」

 

 ランドルフ教官とトワ教官の指示を合図に、《Ⅷ組》と《Ⅸ組》勢が展開を始める。続いて私達もそれぞれの得物を構えて、リィンさんに指示を仰いだ。

 

「教官、僕達はどうすれば!?」

「俺達は遊撃だ。《Ⅷ組》や《Ⅸ組》の陣形を崩さないよう応戦する。ミハイル少佐、指示を」

「右翼側面を警戒しつつ中央に陣取れ。直に後続が来るぞ」

「了解です。《Ⅶ組》総員、迎撃を開始する!」

「「イエス、サー!」」

 

 ブレイブオーダー起動、布陣は突撃陣『烈火』。リィンさんを先頭に駆け出して間もなく、演習地と街道を繋ぐ出入り口付近から、三体のファランクスJ9が姿を現した。

 戦闘開始。リィンさんは即座にアルティナさんと戦術リンクを繋ぐと、昼間の戦闘から一変して、自ら先手を取った。

 

「終の太刀―――『暁』」

「ブリューナク最大火力。掃討します」

 

 全てが一瞬だった。瞬く間に放たれた無数の斬撃が人形兵器の装甲を裂いて、クラウ=ソラスの容赦のない追撃が薙ぎ払う。二人の先手がそのまま決め手となり、たったの数秒間で、脅威は見るも無残な残骸と化していた。

 

「す、すごい。二人共、あんなにすごかったっけ?」

「僕らも続こう。シーダ、いくぞ!」

「はい!」

 

 こちらも後れを取る訳にはいかない。クルトさんと戦術リンクを繋いで、後方支援に回ったユウナさんがガンブレイカーを構える。

 途端に、頭上から重々しい何かが圧し掛かる。恐る恐る見上げると、絶望的なその光景に、目が眩んだ。

 

「あはは!さあさあ、味見といこうか!?」

 

 新手。無数の人形兵器と、紅色の瞳を爛々と輝かせる鬼。そして甲冑に身を包んだ圧倒的な武が二人。悪夢のような現実が、悪夢で上塗りされた。

 

___________________

 

 

 ランドルフ・オルランドは言いようのない憤りで身体を震わせながら、頭上を睨んだ。

 

「こん畜生がっ……!」

 

 上空から飛来した人形兵器により陣形は乱され、既に乱戦の様相を呈し始めていた。辛うじて押し留めていた軍勢が、四方八方から若者達に牙を向けて、阿鼻叫喚の声が響き渡る。

 更には人外の手練れ達の参戦。戦力差を承知の上での一方的な破壊。ふざけるな―――ふざけるな!

 

「シャーリィ、てめえ!!」

 

 感情に身を任せて、ランドルフはスタンハルバードを振るった。

 何より許せなかったのだ。これはこれで悪くはないのかもしれないと感じ始めていた物が、音を立てて崩れていく。乗り越え受け入れたはずの忌々しい過去が脳裏を過ぎり、憤激が闘気を生んだ。

 

「あははは!流石だねぇランディ兄、久々に痺れたよ。もっと楽しませてくれるよね?」

 

 戦鬼と化した従妹の声に意を介さず、ランドルフは鍔迫り合いの状態で、後方を振り返る。

 既に負傷者は多数生じていた。早々に立て直さないと手遅れになる。

 

「レオノーラ!お前が指揮を執って、負傷者を列車の中まで後退させろ!」

「あ、アタシが?」

「マジモンの実戦を知ってんのはお前だけだ、前線は任せて後ろから応戦しろ!」

「っ……オーケー、やってやろうじゃんか」

 

 レオノーラの背中を見届けてから、渾身の力を込めてテスタ=ロッサを押し返す。重低音と共に回転するテスタ=ロッサの刃が火花を降らし、それでもランドルフは目を逸らさず、赤々と燃え盛る意志を以って踏み止まった。

 

「よそ見をしてる場合かなぁ!?」

「るせえ!こちとら背負ってるもんがあんだよ、好き勝手やらせはしねえ!!」

 

 巨大な闘気がぶつかり合う最中、後方ではレオノーラの援護射撃の下、負傷した生徒らが続々と列車内に後退し始めていた。

 

「タチアナ、早く!」

「きゃあぁ!」

「タチアナ!?」

 

 最後の一人であるタチアナの左肩に銃弾が掠め、思わず倒れ込んでしまう。レオノーラはありったけの銃弾を撒き散らしながら駆け寄り、肩を貸して強引にタチアナを立ち上がらせた。

 間に合ってくれ。藁をも縋る思いで後退し始めると、頭上から予期せぬ応援が風と共に舞い降りた。

 

「私とクラウ=ソラスが引き付けます。二十秒で体勢を立て直して下さい」

「アルティナっ……助かる、任せたよ」

 

 漆黒に輝く機体が銃弾を弾き返し、再び高度を上げると、釣られて人形兵器の猛攻が逸れていく。列車内からも援護射撃が放たれ、その隙に車内へ飛び込んだレオノーラは、一度だけ深呼吸を置いてから声を捻り出した。

 

「リロード!!」

 

 タチアナの左肩の患部を確認して、手近にあったブラウスを巻き付けて止血する。車内も決して安全ではなく、依然として前線で戦い続ける仲間と教官を援護する必要もある。少しでも手を緩めれば、全滅は必至。

 

「ツーマンセルでいくよ、マヤはシドニー、サンディはアタシと。タチアナはオーバルアーツで援護。アルティナの合図で応戦を開始っ……日頃の訓練の成果を見せる時だ、銃弾を絶やすんじゃあないよ!!」

「了解です」

「ま、任しとけ!」

「ここからが正念場ですね!」

「逃げちゃダメ、逃げちゃダメっ……。い、いけます!」

 

 この一ヶ月間で積み重ねてきた物があるはずだ。各々が己を奮い立たせて、銃口を向けた。

 

________________________

 

 

 ランドルフがシャーリィと刃を交え始めた頃、リィン・シュバルツァーは感情に蓋をしながら戦場を俯瞰的に捉え、淡々とした口調で指示を下した。優先すべきは負傷者の救護と安全確保だ。

 

「アルティナ、レオノーラ達の援護に回ってくれ。あのままじゃ保たない」

「え?で、ですが」

「この状況じゃ君だけが頼りだ。行ってくれ」

「っ……分かりました」

 

 リィンは振り返らず、眼前に降り立った二人の女性と対峙していた。

 

「久しいですわね、灰の起動者。……彼女とは初対面でしたか?」

「我が名は剛毅のアイネス。見知り置き願おう」

 

 神速の異名を有する鉄機隊筆頭隊士。そして剛毅。その立ち振る舞いと猛々しい気当たりから察して、神速と同格の使い手と踏んでいい。

 執行者に勝るとも劣らない一騎当千の戦士が二人。地力で渡り合えるとは到底思えない。最後に『奥の手』を引き出して間もない以上、少しでも長引けば尽きてしまい、裏目に出る可能性の方が高い。

 

「ど、どうしますか、教官」

 

 それに今は、過去とは違う。昼間とは状況が違う。これ以上、下手に巻き込む訳にはいかない。超えてはならない一線がある。

 それなら、どうする?どうすればこの窮地を脱することができる。

 

「何を呆けている。こちらから往くぞ」

「!?」

 

 一片の迷いが、反応を鈍らせた。剛毅が振るった巨大なハルバードの斬撃が地面を抉り、地鳴りが轟く。突如として現れた亀裂は―――リィンと生徒ら三人を分断し、やがてアイネスの戦意は、そちら側へと向けられた。

 

「クルト、ユウナ、シーダ!?」

「そうはさせませんわ。貴方のお相手はこの私です」

 

 デュバリィの剣先がリィンの動きを封じると、視界の隅ではアイネスが一歩ずつ守るべき者達へと近付いていく。教官としての意志が身体を衝き動かそうとしても、足を取られたように動けない。

 

「ご安心を。彼女は生粋の武人ですわ。ことのついでに武の一端を味わうだけでしょう。……まあ、無事では済まないかもしれませんが」

「っ……!」

 

 わなわなと身体を震わせながら、リィンは太刀を抜いた。さながら獰猛な獣が今にも獲物に飛び掛からんが如く、鋭い眼光で対象を射抜きつつ、牙を構えるように。

 

「……成程。腐っても『八葉』ですわね。お見事な気当たりですわ」

「何のつもりか知らないが、生徒達まで巻き込んでっ……!!」

 

 一閃。妙域に達した者同士の斬撃が、新たな亀裂を地面に刻んだ。

 

___________________

 

 

 剛毅のアイネス。初めて耳にした名だ。少なくともお姉ちゃんが残してくれた手記に、その名はなかったと記憶している。

 

「ヴァンダール流の双剣術に、特殊警棒を用いた制圧術か。いずれも興味深い」

 

 けれども、力量の程は肌で感じ取っていた。ユウナさんとクルトさんも同様のようで、無数の汗粒が浮かんでいた。巨大な斧槍を向けられて以降、生きている心地がまるでない。一歩でも迂闊に動けば、それこそ首が飛んでしまう。

 

「して……ふむ。二刀小太刀、そなたがクロスベルの錠を解く『鍵』なのだな」

「……わた、し?か、鍵って」

「構うなシーダ。どうせ戯れ言だ」

 

 鍵。あの人は今、『鍵』と言ったか?

 頭を軽く振って、雑念を追い出す。忘れるな、相手は執行者と並ぶ身食らう蛇が一人。余計なことは考えず、集中を深めろ。

 

「尋常ではない使い手だ。抜かるなよ、ユウナ」

「い、言われなくとも」

 

 視線で会話を交わして、ユウナさんとクルトさんが戦術リンクで繋がる。取っ掛かりは二人の仕掛け。先手を取らないと、圧倒的な膂力に抗えない。

 

「あ―――」

 

 二人の踏込みと同時に、突風が生じた。気付いた時には斧槍の柄がクルトさんへと襲い掛かり、力任せの薙ぎ払いが、双剣ごとクルトさんを吹き飛ばした。

 

「がはっ!?」

「く、クルト君!?」

 

 返す刀で、ユウナさん。剛腕が振るう斧槍がユウナさんを捉え、為す術もなく悲鳴が上がった。

 たったの二撃。とても技とは呼べない単純な力が、戦況を一変させた。一歩も動けないまま、私は独り立ち尽くしていた。

 

「若い。いずれも腕は認めるが、迷いが気を乱している。ヴァンダール、そなたは殊更にな。踏込みが浅過ぎだ」

 

 やがて剛毅の視線が、私へと向いた。辛うじて構えていた小太刀に身体の震えが伝わって、ゆらゆらと揺れ動く。混じり気のない恐怖心が止め処なく溢れ出て、視界が歪んだ。

 

「失望させてくれるな。有角の獅子の魂を継ぐ者として、気概を見せるがいい」

「あ……あ、う」

 

 駄目だ。敵うはずがない。攻めることも、守ることもできない。逃れようがない。

 感情に屈し掛けていた、その時。予想だにしない名前を告げられた。

 

「話は変わるが。そなたの姉君……アヤ・ウォーゼルは、我と同格の使い手と聞いている。願わくば一度、立ち合ってみたかったのだがな」

「……お姉、ちゃん?」

 

 瞬間。景色が変わった。突然の夜明けのように視界が広がり、自然と呼吸が安定した。全身に浮かんでいた冷や汗に気付いて、冷静さを取り戻していく。

 

(そっか……この人、似てるんだ。お姉ちゃんと)

 

 女性としては際立つ背丈の女性。超重量の得物を軽々と自在に操る勇姿。確固たる信念が振るう刃。一定の領域に達した使い手。

 敵である事実に変わりはない。逆境の只中にあることも。けれども、今の私を形作る大切な物のひとつが、二の足で立ちはだかっている。そう捉えれば、私は抗うことができる。

 

「……ふう」

 

 恐怖心が、羨望へと変わった。強張っていた四肢が弛緩して、脱力を生んだ。

 抗う術はない。しかし抗わずにはいられない。たとえ届かなくとも、手を伸ばすことはできる。この小さな手は、そのために磨いてきたのだから。

 

「あの構えは、シュバルツァー教官から教わった……『残月』?」

「ふむ。返し技と見える。……面白い、我から後の先を取るつもりか。その度量、汲んでやろう」

 

 恩師から授かった唯一の技に型はない。両利きの利を活かして左右対称に二刀小太刀を緩めに構え、あらゆる角度に対応。

 意識した深い集中。最大限引き出した五感の全てを相手に向けて、一挙手一投足を合わせる。感応力だけなら、私はこの人達の領域に達することができる。

 

「クソッタレが……誰でもいい、アイツらを止めろ!!」

「シーダちゃん、駄目!」

 

 ランドルフ教官とトワ教官の声が聞こえる。二人だけでなく、後でみんなに謝っておこう。全てを分かり切った上で、覚悟の上で―――身勝手を、貫かせて貰います。

 

「さあ、返して見せるがいい!!」

「っ……!!」

 

 二刀小太刀『絶佳』。私だけの剣で、私は―――

 

___________________

 

 

 ユウナの目には、一瞬の閃光のようにしか映らなかった。両者が瞬く間に交差したと思いきや、アイネスはハルバードを振り下ろした姿勢のまま動かず、一方のシーダの身体は、『何者か』の腕の中にあった。

 

「……誰?」

 

 衝突の刹那、西方から疾風の如き速度で割って入った銀髪の戦士、フィー・クラウゼルの腕の中で、一時的にシーダは意識を失っていた。

 

「勇敢と無謀の違いを理解して尚、挑まずにはいられない、か……うん。血は繋がっていなくても、確かにアヤの妹だね」

「……無粋な真似を。何のつもりだ、遊撃士」

 

 実のところ、アイネスにその気はなかった。多少の手傷は仕方ないと目を瞑りつつ、殺める訳にはいかない。アイネスにとって、彼女の主にとって、何より結社としても。

 

「そっちが本気じゃなかったのは分かってる。でも見過ごす訳にもいかなかった。……それに、気付いてる?」

「何のことだ?」

「反応が速過ぎて、コンマ一秒間に合わなかった」

「何のことだと聞いている」

「この子の剣は、あなたに届いた」

 

 フィーが指をぱちんと鳴らすと、無数の栗色の髪が、アイネスの背後で静かに落下した。

 髪留めで束ね、腰元まで届いていたはずの長髪の大半が、ぱらぱらと地面に落ちていく。ユウナとクルトは、驚愕の声を漏らしていた。

 

「か、髪が……?」

「斬った、のか?」

 

 フィーが駆け付けていなければ、返しようのないアイネスの一撃に屈して、血を流していたであろう事実は否定できない。しかしシーダの意志と意地が、フィーの疾風に匹敵する超反応となって、僅かに届いていたのだ。

 

「私が割って入らなかったら、もうちょい髪が落ちてたかも」

「ふむ。手心を加えたとはいえ、まさかこれほどとは。……散髪は当面、不要だな」

 

 アイネスは髪留めを外して、半端に残っていた長髪にハルバードの刃を当てると、無造作に斬り払った。やがて沸々と込み上げる感情を抑え切れず、肩を揺らして笑い声を上げた。

 

「フフ、ハハハ!惜しいな。余りに惜しい。鍵として見過ごすには惜しい武の才だ」

「何のことか分からないけど、鍛え甲斐があるのは同感」

「ああ。だが主の命には逆らえぬ」

 

 フィーの後に続くように、《旧Ⅶ組》の面々が機を突いて応戦を始め、戦況に変化が訪れる。

 

「この音色は、エリオットさんの……?」

「すまないリィン。遅くなってしまった」

「ラウラ……来てくれたのか」

 

 エリオットの演奏が耳に入った影響か、フィーに抱き抱えられていたシーダも既に意識を取り戻していた。

 目が覚めるやいなや、見覚えのある顔に覗かれていたシーダが、戸惑いを露わにする。

 

「久し振り。元気にしてた?」

「ふぃ、フィーさん!?え、あの、どうして」

「やれやれ。頃合だな」

 

 アイネスは身を屈めると、常軌を逸した脚力を以って飛び上がり、後方の崖の上へと退いた。するとシーダは、慌てた様子で制止の声を張った。

 

「ま、待って!」

 

 クルトが詮ない戯れ言とした『鍵』という言葉。義姉の故郷であるクロスベル。クロスベルを開く鍵が、私。

 何かを連想せざるを得なかった。立ち合いの結果すら気にも留めず、初対面の敵が発した言葉へ縋るように、シーダは問い掛けた。

 

「私が鍵って、一体何のことで……お姉ちゃんを知ってるんですか?お姉ちゃんは、今何処にいるんですか!?」

「……何も知らぬと申すか。そなたには同情を禁じえぬ」

 

 アイネスは憐れみを隠すように背を向けて、ある種の感情を帯びた声で、静かに言った。

 

「全てを存じてはいない。が、知りたくば高みを目指すがいい。力を求めよ。……いずれまた、相見えることになる」

 

 高み。力。私にはない力。

 まただ。リィン教官の言葉と同じだ。また私は強さを求められた。弱さは自覚しているけれど、私はあとどれぐらい強くなればいいのだろう。強さの先に、一体何が待ち構えているというのか。

 

「アイネスさん……」

 

 答えは、何処にも見付からなかった。

 

 

 




「あらあらアイネス、随分と可愛らしくなったわね。急にどうしたの、素敵な殿方との出会いでもあった?」
「出会い……確かに、思いがけぬ邂逅はあった」
「まあ。それで、どんな人?」
「少女だ」
「あら~」


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四月二十三日 拒絶

 

 再度の襲撃を警戒しながらの復旧作業は、夜を徹して続けられた。

 驚かされたのは、デアフリンガー号の損傷が思いの外に軽微であったこと。対戦車擲弾の直撃を受け、銃弾の雨曝しにされておきながらも、列車としての機能に異常はなし。勿論全車両の装甲は歪んでしまってはいたけれど、既に試運転も実施済みで、移動に支障を来たすことはないようだ。

 寧ろ問題は、二体の機甲兵にあった。損傷の程は見た目以上に深刻で、翌日の機甲兵を用いた演習も絶望的。そもそもこんな状況下では演習どころではなく、誰もが頭を抱える中―――『あの人』だけが諦観せずに手を動かし続け、そして夜が明けたのが、つい今し方。

 

「シーダちゃーん、どう?軽警報、まだ出てる?」

「き、消えました。ティータさん、問題なく動いてます」

「やった!ウェインさん、立ち上げをお願いできますか?」

「ああ。任せてくれたまえ」

 

 機甲兵とケーブルで繋がっていた端末パネルからアラートの表示が消えて、聞き慣れた駆動音が辺りに響き渡る。機甲兵の胸部付近で作業をしていたティータさんは数度頷いた後、脚立を伝って地上に下り立った。

 

「着弾の衝撃と同時に導力がダウンしちゃったから、導力弁が半端な位置で止まってただけだったみたい。……はあぁ、すっごく遠回りしちゃった。もっと早く気付いてれば、すぐに復旧できたのになぁ」

 

 軽々と言うけれど、リィン教官やランドルフ教官といった準専門家でさえ匙を投げたに等しかったのだ。それでもシーダさんは最後まで背を向けず、たった一人で為し遂げてしまった。私はきっと、ひとつの偉業に立ち会ったに違いない。

 

「そ、それよりこれを使って下さい。油と汗まみれで、その、全身真っ黒です」

「あ、本当だ。でも慣れっこだから平気だよ」

 

 手渡したタオルでティータさんが顔面を拭うと、油汚れのせいですぐに片面が黒色に染まった。腰には複数の工具が収まった革ベルトが巻かれていて、重量感のあるそれらも油まみれ。ティータさんは気にする素振りを微塵も見せず、晴れ晴れとした達成感を振り撒いていた。

 

「お水です。飲んで下さい」

「ん。色々ありがとう、シーダちゃん」

 

 紙製のコップを受け取ると、ティータさんは一口で中身を飲み干して、朝陽に照らされた機甲兵の頭部を仰いだ。

 

「いい子。後でちゃんと直してあげるから、もう少しだけ頑張ってね」

 

 機甲兵の脚部に這わせた手は私のように小さく、けれど薄らと無数の傷痕が刻まれていて、逞しく力強い。華奢のように映る四肢は、その実しっかりと鍛え込まれている。

 何より特筆すべきは心。心が動じていない。あれ程の騒動があったのにも関わらず、物怖じせずただ直向きに、知恵と技術を駆使して為すべきを為していく。こんな風に彼女の背中に見惚れるのも、初めてではないはずだ。

 

(……憧れるなぁ)

 

 何が違うのだろう。年齢も背丈も大差ないはずなのに、まるで別世界の人間のように感じてしまう自分がいる。引き合いに出すなら、アルティナさんが近い。私の理解に及ばない何かが、ある種の強さを生んでいるような気がしてならない。……今の私では、とても敵わない。

 

「お疲れ」

 

 声に振り返ると、フィーさんの姿があった。昨晩は夜通しで警戒に当たってくれていたはずなのに、疲労感は全くと言っていい程窺えない。

 いい機会かもしれない。あまり接したことはなかったけれど、「君を見ているとフィーを思い出す」というリィンさんの言葉が、実はずっと気に掛かっていたのだ。

 

「フィーさん。お疲れ様です」 

「今作業中?」

「ちょうど区切りが付いたところです。どうかしましたか?」

 

 手分けして当たっていた復旧作業は既に終盤戦。辺りには空腹を刺激する朝食の匂いが漂っていて、食事の後には交替で仮眠を取る段取りとなっている。その後の詳細なスケジュールについては、教官らが協議をしている最中だった。

 

「なら少し付き合って」

「は、はい」

 

 フィーさんの後を追い、列車を挟んで演習地の反対側にある小さな池の畔へと向かった。フィーさんは立ち止まると、何の躊躇いや容赦もなく、私の身体を弄った。さわさわ、にぎにぎと。

 

「ふぃ、フィーさん?あの、あの、ひゃっ!?」

「……ふーん」

 

 値踏みをするような目付きで、上から順に腕や脚を両手で確認していく。思わず身体が強張る度に「力を抜いて」と注意されては、「無茶を言わないで」という文句を飲み込んで耐え忍ぶ。この拷問は一体何だ。

 たっぷりと私の身体を堪能したフィーさんは、顎に手をやりながら言った。

 

「うん、非力だね」

「……えーと。はい、知ってます」

 

 知っているどころか、昨晩にも嫌という程その現実を突き付けられて、作業中も思い悩む程度には自覚している。そんな私の胸中を察したのか、フィーさんは小さく微笑みながら続けた。

 

「でも私が好きなタイプかな。年齢を加味してもフィジカルはないけど、アジリティーはまあまあ。反応とセンスには光る物がある。ただスタミナに乏しいから長所を活かし切れてない。……加えて、少し『勘違い』をしてる」

「え……」

「この場合、センスってどういう意味だと思う?」

 

 突然過ぎて、答えに窮してしまう。

 センス。単語自体に複数の意味があるけれど、だからこその問い掛けだろうか。

 

「センス……持って生まれた才能、とかですか?」

「それだけじゃない。生まれ育った環境も大きく影響する。シーダで言えば、ノルドの民特有の感覚と、とりわけ秀でた五感、そしてノルドという大自然。あなたを形作ってきた物の全てが、シーダ特有のセンスを育んだ。結果論だけどね」

 

 ひとつひとつの言葉を咀嚼しながら、整理をしていく。フィーさんは私から一旦視線を外し、何かを思い出すような様子で、少しだけ寂しげな表情を浮かべながら、呟くように言った。

 

「私もそうだった。《Ⅶ組》の中で、私の生い立ちはあまりに特殊で、私の力は異質過ぎた。一時はその現実に戸惑ったり、拒絶されるぐらいにはね」

「……フィーさん?」

「でも……うん。シーダには、何の心配も要らないみたい。誰もがあなたを受け入れているし、周囲に恵まれてる。第Ⅱ分校は上手くいってるっぽいね」

 

 段々と分からなくなってきた。フィーさんは何を語ろうとしているのだろう。

 しかし最後の言葉だけは理解できる。私がここに立っているのは、第Ⅱ分校のみんなが支えてくれたからに他ならないのだ。この想いだけは、卒業するまで肌身離さず持ち歩こう。

 

「何も気負わず、武器にすればいい。優れた五感と反応力を更に磨けばいい。鍛錬次第では体格の不利だって有利になり得る。あとは戦い方の問題かな」

「戦い方、ですか?」

「『後の先』は到達点じゃない。『対の先』があり、『先の先』があって、その先を往く領域がある」

 

 聞き慣れない単語を並べてから、フィーさんは戦術オーブメントを取り出した。

 ARCUSⅡ。入学時に支給された私達の戦術オーブメントと同モデル。

 

「五分間だけ付き合ってあげる。戦術リンク、繋げるよね?」

「戦術リンク?」

「私は教官じゃないし、そもそもこういうのは言葉で伝えられることでもない。だから感覚で受け入れて。……アヤ以上に、強くなりたいんでしょ?」

 

 たったの五分間。されどこれ程に貴重な五分間も滅多にない。

 力が欲しい。私は強くなりたい。今はリィンさんを信じて、強くなろう。

 

___________________

 

 

 クルト・ヴァンダールは気配を殺しながら、二人のやり取りを離れた距離から見詰めていた。

 

「……何をしているんだ、僕は」

 

 己の行動に苦言を呈し、大木に背中を預けて深々と溜め息を付いた。両の掌を交互に見た後、瞼を閉じて昨晩の一戦を思い起こす。するとすぐに、得体の知れない焦燥感に駆られてしまう。

 剛毅が揮う圧倒的な膂力を前に、為す術がなかった。届くはずがなかった。それ程の差があった。しかしその差はどうすれば埋まる?あとどれだけ積み重ねればいい。―――その余地が、この手の中にあるのだろうか。

 

「悩んでいるな。少年」

 

 ハッとした表情で顔を上げると、クルトの視線の先には、腕組みをしたラウラが立っていた。クルトは小声で朝の挨拶を置いてから、僅かに口を尖らせた。

 

「少年呼ばわりされる程、年齢差があるとは思えませんが」

「二十代になると、大人の仮面を被りたくなるのだ。そなたもいずれ分かる時が来る」

 

 ラウラは先程のクルトと同様に、そっと顔を覗かせて、フィーとシーダの濃密な五分間を見詰めた。戦術リンクで繋がった者同士の流れるような体捌き。親友の珍しい一面を垣間見て、ラウラは自然と笑みを浮かべた。

 

「成程な。何ともアンバランスで不安定ではあるが、鍛え甲斐がある。フィーが磨きたくなる訳だ」

「……そうですね。僕もそう思います」

 

 言葉とは裏腹に、クルトの声色には複数の感情が込められていた。本人でも整理し切れていない想いの数々。ラウラはやれやれといった様子で、クルトの背中をぽんと叩いた。

 

「勘違いをするな。そなたは既に磨かれつつあるだけだ。少なくとも私の眼には、そう映っているぞ」

「気休めは要りません。更に磨くだけの余地が、大して残っていないだけでしょう」

「剛毅とやらにも諭されていたであろう。その気負いが、迷いを生んでいる」

「……感情の問題だと?」

「ああ。気持ちの問題だな」

 

 自然と語気が強まる。クルトは沸き上がる感情を隠そうともせずに、声を荒げた。

 

「気の持ちようだけで、何かが変わる程度のっ……僕が積み重ねてきた物が、そこまで軽いと仰りたいのですか?」

「それ程に繊細な剣だということだ。二刀流は攻防一体であり二刀一心。そんなことも忘れてしまったのか?」

「っ……!」

 

 クルトは、自分の頭が空回りをしていることに気付いていた。曖昧な不安に駆られている自覚もあった。己が歩もうとしている道に先はあるのか、道は合っているのか。そもそも自分は、『逃げ道を選んだに過ぎない』のだろう?何を、今更。

 しかし整理がまるで追い付かない。感情が雁字搦めになり、堂々巡りをしてしまう。日々欠かさずに続けている鍛錬さえもが、逃避に思えてくる。

 

「フフ、まあよい。私はそなたに、頼みごとがあって訪ねたのだ」

「頼みごと?あなたが、僕に?」

「少々失礼するぞ」

「えっ。な、ななっ。らう、ら?」

 

 唐突な抱擁。ラウラはクルトの背に両腕を回し、抱き寄せ、瞼を閉じた。身体の一部が軽く触れ合い、お互いの呼吸が耳に入る。ラウラは年下の兄弟を諭すような声と仕草で、優しげに告げた。

 

「私が考えるに、そなたが《Ⅶ組》の『重心』だ。『中心』がユウナであるならば、重心がクルト、そなただ。だからこそ、リィンのことをお願いしたい」

「……教官を?」

「私とリィンの関係は、聞き及んでいるな?」

「はい。存じていますが」

 

 すっかり赤面したクルトは、リィンの名を聞いて漸く冷静さを取り戻し、耳を澄ませた。

 

「そなたも既に承知の通り、あれは何かと一人で抱え込み、熟そうとする傾向がある。悪い癖と言ってもいい。導く側に立って尚、その節が窺える。だから、支えてやって欲しい」

「僕達が……支える」

「『教官と生徒という垣根を越えて、共に高め合っていこう』。そのようなことを、リィンは言っていなかったか?」

「それは、確かに。入学初日だったと記憶しています」

「ふむ。ならば言質は取得済みだ」

 

 そっと距離を取って、ラウラは混じり気のない笑顔を湛えた。

 見惚れるしかなかった。目が離せないでいた。かつての級友であり、仲間であり、そして想いを馳せる恋人の笑顔。やがてクルトは、母親の顔を思い出していた。次いで、門出の日に兄が託してくれた言葉を。

 

「己をあまり卑下しないことだ。そなたなら更なる高みを目指せる。……頼んだぞ、クルト」

 

 不意にやって来た風と共に、ラウラがその場を後にする。

 同時にクルトは驚愕した。「そなたもな」とラウラが肩に手を置いた女子生徒は、形容のしようがない表情で立ち尽くし、ラウラに応じようともせず、ぼんやりとクルトがいる方角を眺めていた。

 

「うぉっほん。ユウナ、いつから見ていた?」

「……口から心臓が飛び出るかと思った。ううん、一度飛び出たんだと思う。すぐに飲み込んで正解だったわ」

「落ち着いてくれ。一応確認するが、誤解はしていないだろうな」

「してたらもう撃ってるわよ」

「二人諸共か?」

「ど、どうかな。ていうかこのやり取りは何?要る?」

「……落ち着いてくれたな」

 

 辛うじて踏み止まれたのは、二人の信頼関係がそれなりに築かれつつあるからだろう。ユウナは慎重にガンブレイカーの引き金から指を外し、ぱたぱたと手を扇いで額に浮かんだ汗を乾かし始める。

 

「それで、どう?あたしには何のことかさっぱりだけど、少しは気が晴れた?」

「……ほんの少しだけね」

「ふーん」

 

 眼に映る風景は相変わらず。前に進めた手応えもない。けれども、二刀流は攻防一体であり二刀一心。それを思い出せただけでも良しとしよう。今はそれでいい。

 

「あれ。何かありましたか、お二人共」

 

 ユウナに続いて、シーダ。シーダの変わり果てた身なりに、ユウナは戸惑いを露わにして、一方のクルトは憐れむような視線を向けてシーダの髪を整えた。

 

「どど、どうしたのよシーダ!?」

「見事にぼろぼろだな……」

「今まで生きてきた中で一番濃厚な五分間を過ごした気がします……」

 

 僅か五分間で何かが変わるはずがない。が、取っ掛かりを掴むまでには至っていた。あるべき姿と理想像を明確化することで、初めて人は歩を進めることができる。クルトの迷いは、それが定まっていないからこそ生じる焦り。泥沼から脱するには、切っ掛けが必要だった。

 

「あ、そうそう。二人共、ちょっと三号車まで来てよ。どうも妙な展開になってきたみたい」

「「妙な展開?」」

 

 クルトとシーダの声が、次いで視線が重なる。昨晩の襲撃は、全ての始まりに過ぎなかった。

 

___________________

 

 

 三号車へ向かう道中、ユウナは簡単に事のあらまし伝えていた。

 予定時間を過ぎても終わらない教官勢のミーティング。そして突然現れた『かかし男』の異名を持つ帝国軍情報局所属の、特務少佐。詮索は不要だと言われても、昨日の今日。見過ごせるはずがなかった。

 クルト達が三号車に入ると、車内には教官らを除いた全生徒が集っていて、誰もが不安気な表情を浮かべていた。

 

「お、クルト達も来たか」

「ああ。まだ終わっていなかったのか?」

 

 クルトの問いに対し、グスタフが首を縦に振った。ミーティングは既に三十分以上も長引いており、五分後には早朝のブリーフィングも控えている。予定時刻変更の事前アナウンスもなく、放置されているに等しい状況下で、事の深刻さは想像するに容易かった。

 

「やれやれ、アタシらは蚊帳の外ってか。面白くないねえ」

「も、もしかして、演習が中止なるって可能性も?」

「あり得ますね。教官達も、あんな事態は想定していなかったはずです」

「鉄道憲兵隊が動くかもしれないな。何れにせよ今は……シーダ、どうかしたのか?」

 

 スタークの声を皮切りにして、全員の注意がシーダに向いた。当のシーダは貫通扉の前に立ち、聞き耳を立てるような仕草を取っていた。一気に視線を集めてしまったシーダは、慌てた様子で告げた。

 

「その、声が拾えたので、よく聞こえるようにと」

「声って……ま、まさか。教官達の会話が、聞こえるのか?」

「はい。微かにですけど、聞こ、っ……え……?」

 

 段々と言葉が途切れていく。シーダは向けられた複数の凝視を前にして、無意識の内に後ずさった。

 ざらつくような違和感。

 押し寄せる負の感情。

 私が何をした?どうして私は、見られている?

 

『―――私の力は異質過ぎた。一時はその現実に戸惑ったり、拒絶されるぐらいにはね』

 

 怖い。嫌だ。やめて。私は、そんなつもりじゃ。フィーの言葉が脳裏を過ぎり、ぞっとするような恐怖感が頭を穿った。―――しかしそれらは瞬く間に霧散して、次々と声が上がった。第Ⅱ分校を成す者達の、声があった。

 

「マジかよ!もしかしてあれか、俺達のこそこそ男子トークとかも筒抜けだったりすんのか!?」

「ご安心を。シドニーさんの破廉恥な視線には女子全員が気付いています」

「寧ろ男子も時々引いてるぜ」

「それだけ耳が利くとなるとぉ、夜にユウナちゃんのいびきはなぁー」

「確かにユウナのいびきはねぇ」

「気の毒に……」

「悪夢かよ……」

「あのさ、そのネタいつまで引っ張るの?言っておくけどあたし結構気にしてるよ?ねえちょっと、ねえってば!?」

 

 今更ながらに、漸くシーダは察した。フィーの言葉を理解した。周囲に恵まれているという幸せを、本当の意味で理解し、噛み締めた。フィーが口にした『勘違い』の対象は、ひとつではなかったのだ。

 不意に温度を帯びた目元を拭って、シーダは一度深呼吸をした。泣いている場合じゃない。追々寝床の中で、改めて受け止めよう。だから今は、目の前に集中。深く潜り込んだ、集中だ。

 

「アルティナさん、戦術リンクを繋いで貰える?」

「リンクをですか?」

「単語は拾えるんだけど、途切れ途切れだし、分からない言葉も多いから。アルティナさんなら、上手く変換できると思うんだ」

「……成程。意外ですね、シーダさんにしては柔軟な発想です」

「あはは。意外は余計だよ」

 

 再度深呼吸を置いて、貫通扉に耳を当てる。

 五感の操り方はオーレリア分校長譲り。未だあの域には達していないけれど、視える物を視えなくしたり、聴力も同じ要領で多少はコントロールできる。感覚に蓋をせず、故郷で風の声を拾うように、引き出す。

 

(―――鉄道憲兵隊)

 

 ひとつひとつを、漏らさずに拾い上げる。

 鉄道憲兵隊。

 赤い星座。

 帝国正規軍。

 帝国東部。

 現有戦力。

 儀式。

 灰色の騎士。

 ―――ばその要請―――も手伝わ―――貰おう。

 

「え?」

 

 シーダの耳に入った声がアルティナに伝わり、単語が意味を成し、前後の文脈から推測された言葉が、抜け落ちた部分へと填まっていく。何度も繰り返している内に二人の理解が統一されていき、声を潜めていた全員に広がっていった。

 やがて、静寂が訪れる。すると静けさは段々と変貌していき、いつの間にか車内には、重苦しい沈黙が淀んでいた。口火を切ったのは、ティータだった。

 

「何と言うか……聞いちゃいけないことを、聞いちゃった気がしますね」

「よく分かりませんが、シュバルツァー教官はずっと、背負い続けてきたんですね」 

「……英雄って、何なんだろうな」

 

 答えなんて、あるはずもなく。英雄と持て囃し、祭り上げる。国とは、政治とは、軍事とは一体何なのか。何の覚悟もなく、期せずして知り得てしまった帝国の裏側の一端を前にして、誰もが暗い影を落としていた。

 それでも彼らは、彼らだけは、懸命に前を向こうとしていた。

 

「クルト君、アル、シーダ。すぐに仕度するわよ」

「ああ。言われるまでもない」

「了解です」

「急ぎましょう!」

 

 想いは、実らなかった。

 

___________________

 

 

 奇妙な懐かしさを抱いていた。隣に誰かがいる。後ろでも前でもなく、横並びに立ってくれる誰かがいる。いつ以来の感覚だろう。

 リィン・シュバルツァーは物思いに耽りながら、駆け付けてくれた三人と共に装備品の点検作業を続けていた。時刻は午前九時十五分。動くに遅過ぎる時間ではないが、如何せん突破口になり得る材料が少ない。すぐにでも発つ必要がある。

 

「教官!!」

「っ……」

 

 教え子の声に、リィンは腹を括った。流れに任せるという選択肢もあった。しかしそれでは教官役として不義理が過ぎる。何れにせよ、避けては通れないのだ。

 

「さっきみん……トワ教官から、聞きました。教官は帝国政府からの要請で、別行動になるって。本当、なんですか?」

「ああ。特務活動は昨日で終了とする。本日は《Ⅷ組》《Ⅸ組》と合同でカリキュラムに当たってくれ。……アルティナ、君もだ」

「え……は、え?しかし、私は」

「経緯はどうあれ、今の君は第Ⅱの生徒だ。俺の個人的な用事に付き合わせる訳にはいかない。……これもいい機会だ。三人と行動を共にしてくれ」

 

 じわじわと、背筋に圧し掛かる重み。胸の奥底にじんわりと沁み込んでいく鈍い痛み。

 不意に、声が聞こえた。誰の声だろうと思いきや、自分自身のそれだった。自分の言葉が、他人のそれに聞えた。不可思議な感覚に囚われて、思わず首を横に振った。不要な感情を削ぎ落として、今に徹する。二年前とは状況が違う。

 

「っ……失礼します」

「ちょ、クルト君!?」

 

 そう。違うのだ。自分は今、導く側に立っている。確かに俺は、『彼ら』であったのかもしれない。けれども今は護るべき物があり、超えてはならない一線がある。全てを覚悟の上でここにいるのだ。根底にあるのは、教官としての正義に他ならない。

 

「あたしが、みんながどんな思いで教官を、教官達をっ……馬鹿にしないでよ。少しは、見直してたのに」

 

 それなのに何故、負い目を感じてしまうのか。正面から向き合っているはずなのに、眼を逸らしているような錯覚を抱いてしまう。小刻みな震えが収まらない。

 教え子達が一人、また一人と去って行く中、最後に立っていたのは、幼さが残る少女だった。

 

「あの、リィン教官」

「……何だ?」

「《旧Ⅶ組》の話は、お兄ちゃんから沢山聞きました。どんな困難も、立ちはだかる壁を幾度も乗り越えて、そうやって俺達はお互いを高め合い、成長して、絆を育んできたんだって。だから、今回も―――」

「聞こえなかったのか、シーダ」

「で、でもだからって」

「君達は《旧Ⅶ組》じゃない、《Ⅶ組特務科》だ。俺の指示に従ってくれ」

 

 意識して突き放す言葉を選び、閉じていた瞼を起こす。向かい風が強く、思わず目を細め、やがてリィンは予想だにしない衝撃を受けた。

 

「……私は今日まで、教官を信じて頑張ってきました。私の家族が信じたあなたを信じて、強くなれという言葉を胸に、励んできたつもりです」

 

 面影が、あまりに濃過ぎたのだ。顔立ちや身体的な特徴は、かつて共に戦い、語り合い、支え合ってきた親友の。そして頑なさと直向きさ、揺るぎない何某かを宿した心は―――今も遠くで眠り続ける、彼女の。

 

「けれど、分からなくなりました。お姉ちゃんのことだって、あなたは何も話してくれない。……失礼します」

 

 小さな背中が遠退いていく。見送ってから、リィンはゆっくりと深く息を吸い込んで、吐き出した。動じてはいない、そう自分に言い聞かせながら、眉間に寄っていた皺を右手で解した。

 

「……ふう」

 

 背後から、肩に手を置かれた。ラウラはリィンに身体を寄せて、お互いの体温を感じ取れる程に近付き、包み込んだ。慈しみに溢れた、温かな感触。リィンはそっと、手を重ねた。

 

「リィン。そなたの胸中は察している。損な役回りを負わせてしまったな」

「ラウラ……ぐああぁ!?」

 

 少しも表情を変えることなく、ラウラはリィンの人差し指を取り、折り曲げた。曲がってはいけない寸での位置取りが骨を軋ませ、痛々しい悲鳴が上がり、珍妙な光景を生んだ。

 

「しかし態度と言動を選んだらどうなのだ。その不器用さを正せ、未熟者。フィー、往くぞ」

「ラジャ」

 

 指を押さえて蹲るリィンを見かねて、水属性のオーバルアーツを発動させるエリオット。その気遣いが、理不尽な孤独感に苛まれた心を癒していく。

 

「す、すまない。エリオット」

「いいって。ラウラが言ったように、間違ったことはしていないしね。難しい立ち位置にいることは、僕らも理解してるよ」

 

 痛みが和らいでいく指を擦りながら、リィンはかつての恩師の存在について触れた。

 

「最近、考えるんだ。サラ教官のことを」

「サラ教官?」

「サラ教官はどんな思いで、俺達を見送っていたんだろうな。教官側に立ってみて……改めて思い知らされた」

 

 導く側に立ってみて、初めて抱いた感情。怖さと言い換えることもできる。

 あの人はどうだったのだろう。表に出さなかっただけなのか。それとも教官としての確固たる信念があったからこそ、死地へと飛び込んでいく俺達の背中を押してくれていたのか。今となっては、想像を働かせることしかできない。

 

「ほらまたそうやって、一人で抱えようとする」

「え?いや、俺はそんなつもりじゃ」

「さっきも言ったけど、僕らがここに居る理由を考えて欲しいな」

 

 ともあれ、もう後戻りはできない。時間もあまり残されてはいない。灰色の騎士として、為すべきを為す。それだけだ。

 

「……分かったよ。力を貸してくれ、親友」

「言われなくとも。親友」

 

 お互いの握り拳を打ち、痛みが走る。心地の良い痛みだった。

 

 

 

 



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四月二十三日 それぞれの一歩目

第一章もエピローグを残すのみになりました。


 

「―――リィンさん!?」

 

 微睡みの底から急浮上をして、飛び起きる。止まりっ放しだった呼吸を再開し、熱を帯びた呼気を吐き出して、冷たい空気を吸い込んでを何度も繰り返す。全身から噴き出していた汗が肌寒さを呼んで、身体を震わせた。

 

(……夢、ですか)

 

 自覚した途端、一気に意識が冴えていく。現時刻から考えて、約二時間は眠れていたらしい。

 状況確認。夜通しで続いた復旧作業の影響により、十分な睡眠時間を確保できていなかったことから、交代で仮眠を取っていた。午後からはリィンさんの指示に従い、《Ⅷ組》と《Ⅸ組》合同でのカリキュラムに専念する。……けれども、リィンさんは。

 

「ん、んんぅ……」

「……シーダさん?」

 

 頭上から、呻き声のような何かが聞こえた。

 ベッドから出て、備え付きの梯子に足を掛け、物音を立てないようにそっと一段ずつ上る。声は断続的に漏れていて、やがて横向きに蹲りながら小刻みに震える、シーダさんの姿があった。

 

「シーダさん、どうかしたのですか?」

「んん……んぁ!?」

「えっ」

 

 不意を突かれて梯子を踏み外しそうになり、どうにか踏み止まる。気を取り直してベッド上に座り、シーダさんの様子を窺うと、額には無数の汗粒がびっしりと浮かんでいた。呼吸も荒く、頬が紅潮していて、視線が定まらない。

 つい先程の自分を見ているようだ。私はここまで取り乱してはいないけれど。

 

「てぃ、ティナ?私……え、あれ?」

「落ち着いて下さい。私とシーダさんは、仮眠を取っていたところです。察するに、夢を見ていたのでは?」

「夢……。そっか。ゆめ、かぁ」

 

 シーダさんは深々と息を吐くと、手の甲で額を拭って、再度仰向けに寝そべった。するとシーダさんは、傍らに座っていた私の左手を、右手で緩く握った。拒む理由は、特に見当たらなかった。

 

「今、何時か分かる?」

「十一時十三分です。昼食まで、まだ少し時間があります」

「そっか。……もしかして私、魘されてた?」

「はい」

「……何だか、ごめんね」

「謝る必要はありません。私も私で、不快な夢から覚めたばかりでした」

「あれ、そうなの?」

 

 夢は夢に過ぎない。記憶の再生と再処理であり、混濁した記憶や知識が擬似的な異世界を作り上げる。

 造られた存在の私でも、夢を見る。大抵は荒唐無稽で意味のない世界が現れて、時折不快感極まりない映像を突き付けられることもある。

 

「イレギュラーが発生し、普段とは異なる時間帯に睡眠を取ったことで、心身が不安定になっていた影響と考えます。お互いに疲労もありますから」

「よ、よく分からないけど。でもちょっとだけ、意外かも。ティナも嫌な夢を見たりするんだね」

「……シーダさん。その呼称は、何ですか?」

「胡椒?」

「呼び方です。ティナ、というのは?」

「え?あ、ああっ?ご、ごめんなさい」

 

 シーダさんによれば、所謂『あだ名』と呼ばれるものだそうだ。私が与り知らないところで、シーダさんら三人は、私の呼び方に関する談議に花を咲かせていたらしく、結果として二つの派閥が生じた。ユウナさんは『アル』派で、シーダさんが『ティナ』派。中立のクルトさんが『アルティナはアルティナだろう』。

 どこぞの誰かを連想せざるを得ない。呼び方ひとつに貴重な時間を割くなんて発想は、一体何処から生まれるのだろう。相も変わらず、私の理解から程遠い人達だ。

 

「まあ、構いません。お好きなように呼んで貰えれば」

「そう?じゃあ早速、ティナ。お願いしてもいい?」

「何でしょうか」

「もう少しだけ、このままで」

「……構いません。お好きなように」

 

 小声でそう呟いてから、シーダさんは私の左手を握り直した。私は無言で返答をして、小さな溜め息を付いた。

 もやもやとした何かが、確かな感情を伴って胸にせり上がる。拒む理由がないという、たったそれだけのことが、左手に温もりを与えてくれた。知らぬ間に、悪夢は過去のものになっていた。

 

___________________

 

 

 ややあって。私とティナは起床した後に身なりを整え、三号車に向かった。

 ユウナさんとクルトさんは私達に先んじて仮眠を取り、午後の演習に備えた点検作業に当たっていた。入れ替わりでベッドに向かう際、一緒に昼食を取ろうという話になっていたから、既に二人も三号車にいるはずだ。

 

「リィン教官は……今頃、どうしてるのかな」

「既に二時間以上が経過しています。何かしらの進展はあったのかもしれません」

 

 リィンさん達が演習地を発ったのは午前九時過ぎ。今頃は北のセントアークか、それとも南のパルムか。いずれにせよ、あの三人が一緒なら、きっと首尾よく進んでいるに違いない。それに、私達が気に掛けても仕方のないことだ。

 

『その、あの人にあんな風に言われたからって』

『……別に、落ち込んじゃいないさ』

 

 貫通扉を開けようとして、思わず手が止まった。

 張り詰めた声。扉越しに伝わってくる冷ややかな空気。私は隣に立っていたティナに身振り手振りで「ちょっと待って」と制止してから、耳を澄ませた。

 

『とっくに分かっているんだ。あの人が、僕らを危険から遠ざけるために、あんな態度を取ったことくらい。僕らには……いや。僕には荷が勝ち過ぎる。彼の判断は何も間違っていないさ』

 

 情けなくは、あるけどね。意識していなければ聞き漏らしてしまいそうな、覇気のない呟き。普段の彼からはまるで想像できない剥き出しの弱さが、とても意外で―――ちくりと、胸の奥底に引っ掛かりを覚えた。

 

『あのね、クルト君。格好付けて、物分かりがよさそうなことを言っているみたいだけど……別にいいじゃない。置いてかれて悔しい、で』

『っ……』

『あんな風に遠ざけられて、納得なんてできる訳ない。あたしもアルも、シーダだって同じだよ』

 

 瞬く間に、違和感が増大した。声を失ったように、言葉を発せない。扉を挟んで立っているはずなのに、段々と遠退いていくかのような錯覚に陥ってしまう。私が、悔しい?

 立ち尽くしていると、隣で首を傾げていたティナが、私に代わって扉を開く。振り返った二人と視線が重なって、クルトさんはばつが悪そうな表情を浮かべた。

 

「シーダ、アルティナ。いつからそこに?」

「……シーダさん?」

 

 悔しい。悔しい。悔しい。それらしい感情を探しても、やはり胸の中には見当たらない。

 分かっていたことだ。私は今、三人とは違う戸惑いを抱いている。ばつが悪いのは、私の方だ。

 

「悔しいというより……悔しいとは、感じていません。ただ、分からなくなりました」

「分からない?」

「ずっとリィン教官を信じて、頑張ってきたのに。急に教官のことが、分からなくなったんです」

 

 悔しさとは違うのだと思う。遠ざけられたことに、失望した。落胆して、迷いが生じてしまった。

 義姉に纏わる真実に近付きたければ、強くなれ。リィン教官の言葉が、私の支えだった。この一ヶ月間、直向きに打ち込んできた。

 けれども、唐突に見放された。兄や義姉と共に数多の困難に立ち向かい、肩を並べてきたあの人に、まるで「お前には無理だ」と言われたかのよう。

 私では届かないのだろうか。あの人の言葉を、私は信じ続けていいのだろうか。考えれば考える程、分からなくなっていく。

 

「……ユウナ、さん?」

 

 俯いていると、頭に手が置かれていた。

 一瞬、穏やかな記憶が過ぎった。それらはすぐに消え去って、手の届かない背中へと元通りになる。代わりに、クラスメイトの控え目な笑顔があった。

 

「ねえシーダ。あなたはあたしやクルト君よりも、教官のことを信頼している。信頼していたんだと思う。でも、どうして?」

「それは……お兄ちゃんや、お姉ちゃんが」

「そうじゃない、あなたがどう思っているかを聞いてるの。前々から薄々感じてはいたけど、アヤさんやガイウスさんは関係ない。シーダ自身が教官を信頼する、その支えになっているものは、なに?」

 

 頭の中を整理しながら、全ての始まりを思い起こす。同時に、意識をして兄と義姉の存在を追い出して、考える。

 出会いは突然だった。憧れの対象でもあった。偶然の再開に歓喜して、私は―――

 

「……あ、あれ?」

 

 驚きのあまり、血の気が引いた。『ほとんど見当たらない』のだ。縋るように教えを乞い、信頼に値すると決め込んでいた男性に関する物が、僅かしか思い浮かばない。

 これ程までに、私は盲目だったのだろうか。考えてみれば入学初日、私を除いた三人は、選択を迫られたと聞いている。《Ⅶ組》への所属を拒否してもいいし、教官役に不服があるのなら、そう提言して貰っても構わないと。私は―――あの人のことを、僅かしか知らない。知ろうとしていなかった。

 

「欠けているのは、それなんだと思う。本当のシーダは、とても悔しくて、それを教官にぶつけたい。でも教官と正面から向き合ってないから、それができない。……あたしも、人のことは言えないけどね」

「はい?」

「ううん、別の話。正直に言うと、あたしはもっと素のシーダを見てみたいの。あなたは誰よりも聞き訳がよくて、真面目で、頑張り屋で……でも一応、クラスメイトなんだし。文句のひとつぐらい垂れてくれた方が、嬉しいかな」

「……そんな風に、感じていたんですか?」

「ちょっとだけよ。まあでも、教官に対する態度がやっぱり一番ね」

 

 より素直に。リィンさんのみならず、もっと剥き身で接する。

 その通りなのかもしれない。偽りの自分を演じていたつもりは毛頭ない。けれども、無意識の内に同じことをしていたと言われれば、否定できない。聞き訳がよくて、真面目で、頑張り屋?トーマやシャルが聞いたら、腹を抱えて笑い転げるに違いない。

 正面から向き合おう。思うところがあれば抱え込まず、躊躇せずにぶつけよう。一先ずはそれからだ。

 

「アルだって、クルト君と同じでしょ。そんな顔のアル、初めて見たわよ」

「私は、悔しいとは……。よく分かりません。ただ……そうですね。理解はしていますが、納得はしていません」

「ん。それで十分よ」

 

 ユウナさんは何度か頷いた後、私達の中心に立った。それが彼女の在り様を象徴しているようで、とても頼もしく、誇らしく思えた。

 

「改めて言うわ。あたしは到底納得できない。置いていかれる程、あたし達は無力じゃない。やりようは幾らでもあったはずよ。なのに何よ、それっぽい綺麗ごとや理屈を並べて、取り繕っちゃって。クルト君と同じね」

「急な駄目出しはやめてくれ……しかし、そうだな。そこまで言うからには、何かいいアイデアでもあるのか?」

「え?」

 

 居た堪れない静寂が訪れる。クルトさんは「冗談だろう」と言わんばかりに驚愕の表情を惜しみなく浮かべ、ティナは細い目を向けて口を噤んだまま。敢えての無言が容赦なくユウナさんに突き刺さる。

 私も私で呆れ果てていると、背後に人の気配を感じた。

 

「―――ふふっ、よかった。元気を取り戻されたみたいで」

 

 場違いな程に蠱惑的で艶やかな笑みが舞い降りて、事態は急展開を迎えた。

 

___________________

 

 

 午後の十三時前。クルト・ヴァンダールは前日にも訪れた紡績町パルムの剣術道場の門を潜り、目当ての人物の足取りに関する情報を集めていた。

 

「ええ、来られましたよ。師範代も一緒でした。確か昼過ぎぐらいだったと思います」

「……やはりそうでしたか」

「あのー、何かあったんですか?昨晩も演習地でひと騒動あったと聞きましたが……」

「いえ、大事ありません。今も追跡訓練の最中で、別行動を取っているだけです。なので、僕らのことは他言無用でお願いします」

 

 ウォルトンにそれらしい事情を伝えて、道場を後にする。外へ出てすぐ、南サザーラント街道へと繋がる西口の方から走り寄って来たユウナと合流したクルトは、掻い摘んで状況を説明した。

 

「やっぱりそうだ。教官達は昼過ぎにパルムを経由して、西に向かったらしい。ユウナ、間に合うと思うか?」

「昼過ぎってことは……うん。地形にもよるけど、飛ばせば追い付けると思う。遠回りしてでもレンタカーを確保しておいて正解だったわね」

「よし、すぐに発とう」

 

 西口に停めた導力車へと向かいながらARCUSⅡを取り出し、頭上高くに待機していたアルティナと無線通信を繋げる。更にクラウ=ソラスが携帯していた通信機器を介して、遠方の森林地帯で機甲兵と共に息を潜めていたアッシュと連絡を取り合った。

 

「クルトだ。そっちはどうだ?」

『どうもクソもねえ、機甲兵の中で待機中だ。足取りは掴めたか?』

「ドンピシャリさ。予定通りの座標で落ち合おう。僕らもすぐに向かう」

『了解だ。やれやれ、林道は動き辛くって仕方ねえな』

「……君は、どう思っているんだ?」

『だから、何がだよ?』

「いや……何でもない」

 

 事の発端は、ミュゼが提供してくれた情報だった。彼女の話によれば、切っ掛けはティータが所持していたサザーラント地方の地図。十数年前に発行された一昔前の地図上に、とある村名が表記されていた。

 人形兵器の大所帯を潜めておくに適した拠点。ひとつの可能性に過ぎない一方で、妙な説得力のある言い回し。事実として、状況から考えれば彼女の憶測は的を得ていたということだ。

 

「……考え過ぎか」

 

 いずれにせよ、立ち止まってはいられない。後にも引けない。ただひたすらに、前へ進むだけだ。

 

___________________

 

 

 量産汎用型機甲兵『ドラッケン』。アッシュは学生離れをした操縦技術を最大限に引き出し、人目が付かない林道の中を一歩ずつ進んでいた。

 

(ドンピシャリ、か。まあ、勘繰りはこの際だ)

 

 この状況下が、もしも何かしらの思惑が働いた結果だとして。それでも余計な詮索は不要だとアッシュは考えていた。兎にも角にも、足踏みをしてはいられない。求めるもののひとつが、この先に。

 

『おうチビッ子。ちゃんと掴まってろよ』

「わ、分かってます」

 

 機甲兵の右肩には、必死になって肩部にしがみ付くシーダの姿があった。

 機甲兵は足音ひとつ取っても隠密行動には向いておらず、対象への接近は困難。安易な動作が引き金となり、接近に気付かれてしまう。つまり万全の索敵体制を以って先手を取り、敵の所在を認識する必要があった。

 シーダの秀でた五感と独特の勘所は、アッシュの知るところでもある。彼女は打って付けの役処だったのだ。

 

「あの、アッシュさん。村って、そんな簡単に消えてしまうものなんですか?」

『あん?何だよ急に』

「えーと。私ってまだ、国の中身を上手く理解できていなくって。村や町があって、都市があって……村が消えたっていう話を聞いて、驚いちゃいました」

『……成程な』

 

 シーダならではの悩み。ノルドという大自然で育まれた、外界では当たり前の概念が存在しない真っ新な頭で『国』を理解するには、順を追う必要があった。

 

『山津波は例外としてだ、別に珍しいことでもねえさ。特に辺境の村ってのは、生業ひとつが成り立たなくなるだけでも不安定になっちまう。それこそ、気象変動による不作続きとかな』

「不作、ですか。移住したりはしないんですか?」

『そりゃ遊牧民の発想だろ。村ってのはそこにあるから村なんだ。……あとは人の問題とかもある。村民同士の争いで燃えちまった村なんかもあったっけな』

「……やっぱり、そうなんですね」

『厳密に言えば、大都市も一緒だぜ?衰退と復興を繰り返して今がある。規模が小せえと、復興もクソもねえってことさ』

 

 饒舌に語るアッシュに、シーダは意外そうな様子で感嘆の声を上げた。

 

「アッシュさんって、物知りなんですね。とても勉強になります」

『クク、暇潰しに読書することが多いからな。自然と知識が身に付いちまう。少し博識なぐらいが、女受けもいいんだぜ。チビッ子もその口か?』

「前言撤回をよっ……と、止まって下さい!」

 

 張り上がった声へ瞬時に反応したアッシュは、機甲兵の動作を緊急停止させた。最低限度の導力源を確保しつつ索敵レーダー以外の周辺機器を落とし、物音を立てないよう身動きも一旦封じる。外部スピーカーもオフにしたため、ARCUSⅡを介した無線通信へと切り替えた。

 

『チビッ子、聞こえてるか』

「はい。でも通信は必要ありません。装甲越しに声は拾えます」

『マジかよ。でも俺が拾えねえんだ、繋いどけ』

「あ、そっか」

 

 レーダー上には何も反応がない。機甲兵同士が対峙することはないらしい。が、昨晩の一戦から考えて、『それ以上』の脅威が待ち構えている可能性は大いにあり得る。

 

『それで、どうなんだ?』

「恐らく、ですけど……複数人。六、七人はいます。その内の一人は、シャーリィと呼ばれていた女性です」

『あのイカした姉ちゃんか。距離は?』

「二百アージュ以上はあると思います」

『……マジですげえな。そんだけ離れてて気配を拾えんのかよ』

「あ、あの人の殺気が巨大過ぎるんです。嫌でも気付きます。それに呼応するように、他の人達も……これ以上は、もっと近付かないと分かりません」

 

 二百アージュ。仮に三百アージュ以上の距離があったとしても、機甲兵では接近を感知される危険がある。しかも相手は、あの結社有数の使い手。更に距離を詰めるにしても、百アージュかそこらが限界だろう。

 アッシュは操縦方法をセミオートからマニュアルに切り替えて、再度導力源を立ち上げた。ひとつ深呼吸をしてから、操縦レバーを握り直す。

 

『歩き方を変える。落ちんなよ』

「は、はい」

 

 その動作は、所謂『忍び足』。身を屈め、全身の関節駆動部を細かく操作し、衝撃を和らげる。木々との接触も避け、ゆっくりと着実に。アッシュの巧みな操縦を目の当たりにしたシーダは、声を失っていた。

 

(こ、こんな動きを、機甲兵が?)

 

 一歩ずつ前進して、距離が縮まっていく。やがて百数アージュ程手前にまで接近した頃には、複数人の気配も明確になり、シーダは各々を特定するにまで至っていた。

 

「ま、間違いありません。リィン教官達です。それともう二人は、甲冑を身に付けた例の女性達です」

『……ここいらが限界だな』

 

 これ以上の接近は困難と判断したアッシュは、シーダとの通信を切り、代わりにクルトのARCUSⅡと無線通信を繋げた。声を潜めてお互いの情報を確認し合いながら、思考を巡らす。次なる一手を、何処に打つべきか。

 

「クルト、今何処にいる?」

『予定の座標まで……あと五分程で着く。何かあったのか?』

「予定座標から南南東に三百アージュだ。教官共と、昨晩に出やがった結社の使い手が三人いやがる。俺達の百アージュ先にな」

『な、何だって!?』

 

 機甲兵があると言えど、たった二人で割って入るなんて真似は無謀が過ぎる。そもそも視界が絶望的で、状況の詳細が分からないのだ。シーダ一人を向かわせるにも、この環境下では目と耳を手離すに等しい。現時点では、手の打ちようがない。

 

「こっちは身動きが取れねえ。あと二分で来やがれ」

『できる限り飛ばす。ユウナ、急いでくれ』

『了解っ……舌を噛まないでよね!』

 

 クルトとの通信を終えて、再度シーダと繋げる。シーダによれば、既に剣の鞘は抜かれており、交戦が始まっているらしい。対峙しながら何かしらの会話を交わしているようだが、中身まではシーダでも拾いようがなかった。

 

『一旦待機だ。あとはクルト達の到着を待つ』

「分かりました。……アッシュさん。もうひとつだけ、聞いてもいいですか?」

『何だよ。手短に言え』

「この国で消えてしまった村の中に、『オーツ』という村はありませんでしたか?」

 

 オーツ村。前方に注意を払いつつ、記憶と知識の海から該当の村名を探し始める。……見付からない。探索を早々に打ち切ったアッシュは、怪訝そうな物言いで質問を投げ返した。

 

『覚えがねえな。その村がどうかしたのかよ?』

「お姉ちゃん関係で、少し」

『……姉貴絡みか。どうやら訳ありみてえだな』

「そうですね。お姉ちゃんは一度、村と共に亡くなったと聞いています」

『何だって?』

「死んだんです。村も、お姉ちゃんも」

 

 まるで予想だにしない言葉に、アッシュは面食らった。

 アヤ・ウォーゼルの存在を、アッシュも把握はしていた。本校の元士官候補生であり、リィンの元同窓生。灰色の騎士と共に内戦集結に一役買い、しかし一時を境に諜反の容疑を掛けられ、行方知れずとなった女性。シーダの義姉。そんな彼女に纏わる、シーダの何故めいた告白。

 

(村と共に一度死んだ、か……。クク、重なりやがるじゃねえか)

 

 思慮分別に欠けた好奇心が込み上げ、アッシュは自虐気味に笑った。同時にARCUSⅡの振動が着信を報せ、アッシュは声と表情を整えてから応じた。

 

「遅えよ。着いたのか?」

『ああ、既に視認している。敵勢は五人だ』

「五人だと?おいおい、三人じゃねえのかよ?」

『気配を殺して潜伏していたんだろう。甲冑姿の弓使いと、猟兵らしき狙撃手が一人。膠着状態にあるが、教官達の不利は明らかだ。今の二人に頭上を取られている』

 

 弓の使い手と、猟兵の狙撃手。尋常ではない相手だけに、機甲兵の装甲を撃ち抜く程度なら容易くやってのけるだろう。窮地に立たされているとしても、下手に動けない状況に変わりはない。

 どの道、躍り出るしか術はない。それなら、取っ掛かりは彼らの役目だ。

 

「仕方ねえ。てめえらが先陣切って、俺達が続く。クルト、指示を出せ」

『僕が?』

「何度も言わせんじゃねえ。こっちは動きようがねえんだ、さっさと腹括りやがれ!」

『……分かった。二十秒後に合図を出す。そちら側の敵を叩いてくれ』

 

 背部に携えていた得物を構えると共に、開閉レバーを引いて操縦席のハッチを開ける。

 

「おいチビッ子、俺と一緒に乗れ」

「は、はい!?あの、何をするつもりですか!?」

「奇襲だ。連中の不意を突くんだよ。おら、早くしろ!」

 

 有無を言わさぬアッシュの形相に、シーダは迷いを振り切って操縦席に飛び込んだ。

 ハッチが閉じると、狭苦しい操縦席の中には、自分の居場所が見当たらない。シーダは慌てた様子で声を振り絞った。

 

「ど、どこに座れば?」

「ここに決まってんだろ。しっかり掴まってろよ」

 

 アッシュの両脚の間、僅かな座席の隙間に恐る恐る腰を下ろす。すると操縦レバーを握った両腕に挟まれ、背中には煮え滾るように熱い体温と激しい鼓動音が伝わってくる。立ち込める濃い雄の匂いに頭がくらくらとして、シーダは思わず唇を噛み、正面を見据えた。

 

「一気に行くぜっ……おおるぁあああ!!」

 

 鬱憤を晴らすかのような疾走からの、跳躍。頭上高々に振り上げたヴァリアブルアクスを、着地と同時に地面へと振り下ろす。地鳴りが響き渡った直後に操縦席のハッチが開かれ、寸でのところで回避行動を取っていたシャーリィ、そして弓使い―――エンネアと、シーダの視線が重なった。

 

「今だ、ぶちかませ!!」

 

 アッシュの気迫に背中を押されて、シーダは二刀小太刀の鞘を払った。

 やるしかない。我武者羅でいい。渾身の力を込めて、飛べ。

 

「見よう見真似、二の型『疾風』……!!」

 

 落下と踏込みの速度を殺さずに、突進力を斬撃の鋭さに変えて、斬り掛かる。着地と同時に振り返り、対の一刀がエンネアの喉元へと向いた。

 

「あら、うふふ。どうやらあなたが、アイネスを散髪してくれた女の子みたいね」

「動かないで下さい。私は本気です」

「動けないのは、あなたも同じでしょう。シーダ・ウォーゼルちゃん?」

 

 首に突き付けられた小太刀。エンネアの手に握られた一本の矢。妙域に達した弓使いに死角はなく、ゼロ距離における接近戦など造作もない。先手を許した不利はあれど、エンネアには技を選ぶ余裕さえあった。

 

「クルト、ユウナ、アルティナに、シーダまでっ……駄目だ、下がっていろ!」

「聞けません!!」

 

 視線はそのままに、シーダは揺るぎない信念に裏打ちされた、クルトが紡いだ言葉を耳にした。

 間違っているかもしれない。

 許されない行為なのかもしれない。

 それでも私達は、私達の意志でここにいる。誰かに頼まれたからでも、強要された訳でもない。煌々と輝き、赤々と燃え盛る意志の下で―――私は。

 

「……噂以上に不思議な子ね。こんな時に、どうして涙を流すの?」

「今までの自分が、情けなくてっ……許せないから」

 

 もう認めよう。ユウナさんの言う通りだ。四月一日のあの日から、私はずっと空っぽだった。

 リィンさんを信頼していたからではなく、私は全てを委ねてしまっていた。リィンさんを知ろうともせず、彼の言葉に縋り、与えられることに満足して、意志を放棄していただけだ。

 義姉に負けない強さを手に入れ、真実を手繰り寄せて、探し出す。私自身の意志で歩を進める。今日がその一歩目であり、取っ掛かり。だから譲れない。この場だけは、引く訳にはいかない。

 

「ふふ。もう少しだけ戯れてあげたいところだけど……そうも言っていられないみたいね」

「動かないで!」

「そうかしら。巻き込まれてしまうわよ?」

「え……」

 

 唐突に陽の光が遮断されて、巨大な影が地面に落ちる。

 直後に感じた、天地が逆さまになったかのような衝撃。逆光のせいで、『それ』は巨いなる影としか映らない。

 

「……う、そ」

 

 破壊と絶望の権化に、私達は見下ろされていた。巨影を前に、意志は無力に過ぎなかった。

 

___________________

 

 

 戦況が目まぐるしく変貌を遂げては、無力さに苛まれる。人智を凌駕した力同士の衝突が眼前で繰り広げられて、為す術もなく立ち尽くしていた現実を、クルトは今更ながらに自覚した。

 

「っ……みんな、アッシュの容体が心配だ。手伝ってくれ」

 

 クルトに続いて、ユウナら三人が駆け出す。向かった先は、岩肌に叩き付けられて微動だにしない機甲兵。搭乗者であるアッシュは今も尚操縦席に取り残されており、最悪の可能性が四人の脳裏を過ぎる。

 

「アッシュ、聞こえてるか!?……クソ、今開ける」

 

 外部に備え付けられていた開閉レバーを引いて、ハッチを開ける。操縦席に座っていたアッシュの額からは血が滴っており、クルトは努めて冷静さを保ちながらアッシュの名を呼んだ。

 

「アッシュ、アッシュ!?」

「し、心配ねえって。ただの、脳震盪だ。傷も浅い」

「そ、そうか。立てそうか?」

「それより、どうなった?あのデカブツは?」

「……見ての通りだ」

 

 灰色の騎士が駆る騎神ヴァリマール。対するは神機アイオーンγ。かつてクロスベル独立国に降臨し、帝国正規軍第五機甲師団を壊滅に至らしめた悪魔。

 互角に渡り合えていたはずが、徐々に形勢は変わりつつあった。ゼムリアストーンで鍛えられた太刀による八葉一刀流が、幾度も撥ね退けられてしまう。騎神の消耗は明らかで、有限が無尽蔵に立ち向かうかの如き理不尽ばかりが展開される。端から見ていても、打開策がまるで見当たらないのだ。

 

「二人共、危ない!!」

「「!?」」

 

 ユウナが叫び声を上げた直後、騎神の背中が岩山を揺らした。

 ドラッケンの再現だった。神機の巨腕が揮った一撃を真面に受けたヴァリマールは、背中から岩肌に叩き付けられ、ドラッケンの隣で地に膝を付いていた。

 どうする、どうする。どうすればいい。

 

「……アッシュ、退いてくれ。僕が動かす」

 

 強引に一筋の光明を見出したクルトは、アッシュの手を取って力任せに彼を立たせ、操縦席を空けた。ぽかんとした表情を浮かべていたアッシュは、やがてぎこちなく笑った。

 

「クク、面白え。やって見せろや、クルト・ヴァンダール」

「く、クルト君!?何をしているの!?」

 

 制止の声を振り切って、入れ替わりで操縦席に座り、ハッチを閉める。確認作業の大半を省略して、各種警報を流し読む。主だった損傷はなく、どれも軽微。短時間の戦闘に支障はない。

 しかし愛用の得物も、火力もない。立ち向かう術も思い浮かばない。無謀と言われても反論の余地がない。ないない尽くしの状況下で、神機は一歩ずつ歩み寄って来る。

 

『く、クルト?何の真似だ、早く降りろ!』

「できません」

『降りろと言っているだろう!?』

「できません!!」

 

 間に合え。操縦方法を切り替えて、立ち上がる。既に神機は眼前へと立ちはだかり、ヴァリマール諸共薙ぎ払わんと、巨大な右腕を振りかざしていた。

 

「え―――」

 

 刹那。溢れんばかりの青白い光で、操縦席が満たされる。胸が高鳴り、落雷に打たれたかのような衝撃が全身を走った。同時に視界が一気に広がって、奇妙な一体感が舞い降りる。

 やがて、その場に居合わせた全員が、目を疑った。教官と生徒、鉄機隊の筆頭、猟兵に執行者でさえも。

 

「……なん、だ?僕は今、何を?」

 

 眩い光に包まれた機甲兵が、神機の剛腕を軽やかな身のこなしで捌き、返す刀で掌底を見舞う。騎神を彷彿とさせる、機甲兵では届き得ない領域。操縦者であるクルト自身が、呆気に取られてしまっていた。

 真っ先に思い至ったのは、目を逸らさずに彼を見守り続けていた、仲間達だった。

 

「い、今の超反応は、まるでシーダの……それに、警察学校で習った、逮捕制圧術?」

 

 シーダを思わせる、両利きの利を活かした左右対称の構えからの返し技。クロスベル警察学校で指南を受けた、制圧を重んじた体術と体捌き。ユウナの目には、そのいずれもを機甲兵が繰り出したようにしか映らなかった。

 

「神気、発動」

 

 続いて、アルティナ。アルティナの声を合図にして、再度機体が光に満ちていく。事態が飲み込めないでいたクルトは、神機に注意を向けながら、混乱を露わにしてアルティナに声を張った。

 

『あ、アルティナ、一体何が起きている?何か知っているのか?』

「原因は分かりませんが、どうやら私達は、『準契約者』と同様の力を与えられたようです」

『分かるように言ってくれないか!?』

「今のクルトさんは、無力ではありません。そして私達は、あなたと繋がることが可能です」

 

 ―――無力ではない。

 たったそれだけの言葉が、頭の中を幾度も叩いては反響を続け、じんわりと浸透していき、余韻を残した。微睡みから覚めた直後のように現実味がなく、言葉が見付からない。

 本当に、そうなのだろうか。

 先程の力が、本当に、僕の?

 

「そうだよ。クルト君。あなたは、無力なんかじゃない」

『ユウナ……』

「だって、ずっと見てきたから。あたしは、あたし達は、ずっとクルト君を見てきたから」

 

 背中を押すように、ユウナは止め処なく浮かぶ言葉を、想いのままに口にした。

 ずっと見てきた。毎朝見てきた。欠かさずに鍛錬に没頭して、剣を振るう姿を何度も何度も目の当たりにしてきた。

 今のあなたを形作る、根柢たる礎を、私達は知っている。

 この一ヶ月間、一番傍で見てきたのは私達だから。

 誰よりも見てきた。誰よりも知っている。家族よりも友人よりも、今この場に立って懸命に歩み出そうとするあなたを―――私達が、見ているから。

 

(僕は―――)

 

 機体の中で、クルトは一人咆哮を轟かせた。身体の奥底から湧き上がる想いに身を任せて、唸りを上げた。前を見据えて、ずっと目を逸らし続けていたものと向かい合って、前だけを。

 

『アルティナ、神気とやらを絶やさないでくれよ』

「了解です」

『シーダ、君の力はこんなものじゃない。もっと集中するんだ』

「は、はい!」

『それに、ユウナ。ありがとう』

「まっかせなさい!警察学校で……へ?」

 

 向かい風は強い。けれども、前に進むことはできる。情熱を力に変えられるのなら、明日だって変わる。未来も変わる。今の僕なら―――仲間と一緒なら、きっと。

 

 

 

 



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第一章 エピローグ

今話に登場する「オーツ村」に関しては「絢の軌跡64話:狼と少女」をご参照下さい。


 

 四月二十三日。演習最終日の前夜。明日はこの二日間の振り返りを行う共に、ベースキャンプの撤去作業を済ませた後、昼前には発つ段取りとなっていた。滞在の痕跡を消しながらの迅速な撤退も訓練の一環ではあるのだが、三日間に渡る演習も残り僅か。生徒達がほど良い疲労感と達成感を味わう中で―――教官らが集う一号車には、重い沈黙が淀んでいた。

 やがて口火を切ったのは、ミハイル・アーヴィングだった。

 

「……ハーメル村に纏わる案件はレアケース中のレアケースだ。情報の秘匿は法的義務ではない。だが現実には国家機密に等しい、国を揺るがしかねん暗部なのだぞ。それは理解しているな」

「重々承知しています。だからこそ、生徒達に話しておくべきであると考えます。最早彼らも、無関係ではありません」

 

 ハーメル村に纏わる真実。百日戦役を勃発させた引き金。十四年前に闇へ葬られ、長年に渡り隠蔽されてきた暗部。それらを生徒達に明かすか否か。重い決断を、彼らは迫られていた。

 口外厳禁と言っても、内容があまりに凄惨で濃い闇に満ちている。士官候補生とはいえ、学生である彼らに背負わせてしまっていいのだろうか。彼らは耐え切れるのか。そもそも明かすことで得られる物は一体何なのか。正解がない以上、慎重に議論を重ねる他なかった。

 

「オルランド。君はどう考える」

 

 不意に名を呼ばれたランドルフは若干驚いたようだったが、できる限り言葉を吟味しながら答える。

 

「どうもこうもありません。上の判断に従うまでっすよ。しかしまあ、権利ぐらいはあるんじゃないですかね」

「権利?」

「事後処理や人形兵器の掃討にも、生徒達は一役買ってくれた。だがあいつらは軍人じゃねえ、学生だ。命を賭して戦う義務はねえし、今回の演習は明らかに想定を超えた内容だったはずだ」

 

 誰の目にも明らかであり、否定できない事実だった。

 演習という体裁の下、不穏な気配が漂う地に生徒らを送り込む。万が一に備え機甲兵を駆り出し、場合によっては実戦に投入する。

 蓋を開けてみれば実戦どころの騒ぎではなく、想定を遥かに凌駕した脅威が待ち構えていたのだ。幸いにも重傷者は出なかったものの、最悪の可能性もあり得た。ランドルフの刺々しい物言いには、明確な感情が込められていた。

 

「負傷者も多数出た。無傷だった奴は一人だっていやしねえ。理不尽に巻き込まれた身で、あいつらは文句も垂れずに最後までやり切ったんだ。……真実の一端を知る権利ぐらい、あるんじゃないですかって話です」

「……ふむ」

「どっちにしろ、俺は従いますよ。ハーシェル教官、お前さんはどうなんだい」

 

 ランドルフに続いて、トワ・ハーシェル。トワは注がれた三つの視線をひとつひとつ確認するように見渡した後、静かに告げた。

 

「私は……メリットとデメリットを天秤に掛けて、判断するべきかと」

「デメリットは重々承知している。前者について簡潔に述べたまえ」

「私は私なりに、この国の側面を垣間見てきたという自負があります。その中でも、ハーメル村に関しては……常軌を逸していると、言わざるを得ません」

 

 この国が、彼女を育んだ故郷に等しいということ。その違いひとつとっても、トワとランドルフの受け取り方は変わってくる。複雑な胸中を冷静に整えながら、トワは続けた。

 

「でも、理不尽さはどの世界にも存在します。誰だって大なり小なりの不条理を飲み込みながら、この国で生きていかなくてはなりません」

「だから今の内に、この国が抱える不条理を見せておけ、と?」

「そこまで短絡的に考えてはいません。ですがこの国と正面から向き合う機にはなり得ます。生徒達に限らず、私達はこれから何年も、何十年も、生涯この国で生きていくかもしれないんです。それに……あの地には、犠牲になった沢山の魂が眠っています。ランドルフ教官の言葉を借りれば、弔う権利もあるのではないでしょうか」

 

 丁寧ながらも芯の通った言葉。優しく諭すような声を前に、ミハイルはしばし黙考した。

 気まずい静寂が訪れる。この場に限って、主任教官を務めるミハイルが他三名の上司であり頂点。一方では帝国正規軍の佐官でもあるのだ。

 

「分校長が不在な以上、私が判断する。明日の朝に指示を出す。それでいいな」

「了解です。……それと、別件でひとつ宜しいですか」

「別件?」

「明日の早朝、俺の生徒を『とある場所』へ連れて行こうと考えています。演習に支障は来しません。許可を頂けますか?」

「……いいだろう。だが反省文は確実に提出させたまえ」

「勿論、責任を持って。既に書き始めている頃だと思います」

 

 リィンに釘を刺しながら、ミハイルが一号車を後にする。

 すると一転して空気が弛緩した。ランドルフは肩を解しながら深々と溜め息を付き、腕と足を組みながら申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

「やれやれ。立場上仕方ねえけど、途方もなく損な役回りを押し付けちまったな」

「そ、そうですよね。私達は、各々の意見を出すだけで済みますけど、ミハイル少佐は……」

 

 想像に難くなかった。ミハイルの生真面目な性分から察するに、恐らく一晩中自問自答を繰り返すに違いない。そう口には出さずとも、三人は同じ想いを共有し、負い目のような物を感じてしまっていた。

 とはいえ、思い詰めても始まらない。場の空気を和らげるように、ランドルフは話題を変えた。

 

「そういやシュバルツァー。反省文は何枚書かせてんだ?」

「五十枚です」

「ご……十五?」

「いえ、五十です」

「四人合計で?」

「いえ、各自で五十枚です」

 

 五名の生徒らが犯した明白な命令違反。訓練の放棄。機甲兵の私的利用。正規の軍人であれば如何なる処罰も覚悟しなければならないのだが、彼らはあくまで軍人の卵に過ぎない。

 生徒には学院らしい方法を以って罰を課す。ランドルフも理解はしていたのだが、リィンが口にした枚数に耳を疑わざるを得なかった。

 

「マジかよ。超スパルタだな。俺もアッシュにそれぐらい書かせた方がいいのか?」

「自分が学生だった時もある程度は書いていたので……多かったですか?」

「リィン君、一時期は百枚以上書いてたよね」

「それはフィーですよ。いや、アヤだったか?」

「……ホント何なんだよ、この国」

 

 様々な意味で、この国は自分の理解を超えている。ランドルフは思わず身震いをしていた。

 

___________________

 

 

 翌日の早朝。太陽が頭部を覗かせ始めた薄明りの中、騎神がサザーラントの上空を東に向かって飛行していた。両手上には、恐る恐る地上を見下ろすシーダの姿があった。

 

『シーダ、大丈夫か?』

「は、はい。でも不思議ですね。すごい速度で飛んでるのに……全然風を感じないし、静かだし」

 

 飛行船の甲板に立っていても穏やかな風しか感じられないように、霊力を利用した飛翔機関と同じ類の作用が働いているのだが、そもそもシーダは飛行船の利用すら未体験。説明しても仕方ないと踏んだリィンは、サザーラントの東端に差し掛かった辺りで、高度を下げ始めた。

 

『よし、この辺で一旦下りよう』

 

 騎神が地上に着地してから、シーダがそっと地面に降り立つ。周囲を見渡しても、人の気配はない。目の前には故郷のラクリマ湖を思わせる巨大な湖が広がっていた。

 

「教官、ここは?」

「この辺りがサザーラントとクロイツェンの州境だ。あれがエベル湖で、向こう岸に薄らと町並みが見えるだろう?あれがレグラムさ」

「へえー。じゃあ、あれがラウラさんの。……教官とラウラさんって、婚約はしていないんですか?」

「と、突拍子もなく突っ込んだことを聞かないでくれ。急にどうしたんだ?ユウナじゃあるまいし」

「もっと教官のことを知ろうって、私決めたんです。今度、沢山お話を聞かせて下さい」

「あ、ああ……?」

 

 怪訝そうな表情を浮かべつつ、リィンは北に向かって歩き出し、シーダがその背中を追った。遠目に見えるレグラムを除けば人里らしき物は見当たらず、やはり人気もない。

 一体何処へ行くのだろう。シーダが首を傾げていると、草木の向こう側に、人工的な何かが映った。

 

「あれは……小屋?」

 

 木製の小さな建屋はぼろぼろに朽ち果てていて、土や苔塗れ。もう何年も使用されずに放置されているであろうことはすぐに理解できた。

 更に歩を進めると、建屋は数を増した。そのどれもが原型を留めておらず、枯れ果てた古井戸も見付かった。よくよく見れば、元は日常品であった小物も散見された。

 かつては人が居住していたはずの跡地。新鮮な記憶と風景が浮かび上がる。

 

「あのハーメルっていう廃村みたっ……!?」

 

 リィンが足を止めると同時に、シーダも瞬時に察した。

 昨日の今日で、無警戒が過ぎた。こうして視界の端に映る程に近付いて、漸く気付かされる。

 

「剛毅の……流石に、これは予想外だな」

 

 剛毅のアイネス。鉄機隊筆頭補佐。彼女が揮う圧倒的な力を前に、一時は身も心も屈し掛けた。羨望にも似た複雑な想いを抱きつつ、明確な敵であることに変わりはない。

 何故彼女がこの場に。そもそもどうして気配を拾えなかったのか。答えも、明白だった。

 

「……身構えるな。今の私は、一人の武人に過ぎぬ。場を弁えろ」

 

 リィンは太刀の柄から手を離し、代わりにシーダの小さな手を取った。二人は緩く手を握り合いながら、ゆっくりと一歩ずつ近付いていく。

 微塵も殺気を感じなかった。剛毅の手に得物はなく、甲冑も身に付けていない。一人の女性が廃村の中心に立ち、朝陽に染まりつつある晴れ渡った空を仰いでいた。

 

「この地には、偉大な武人が眠っている。ただ、それだけだ」

「……成程な」

 

 合点がいったような様子のリィンに、シーダは益々疑問を深めた。そんなシーダの背中を、リィンは優しい手付きでそっと押した。

 

「九年前らしい。ここには、『オーツ』という村があったんだ」

「っ!?」

 

 オーツ村。村の名を耳にした途端、全てが繋がりを見せ始める。

 今から九年前、二人の母娘がこの帝国を訪れた。親戚を頼っての外国旅行。母親は伴侶を失った悲しみの果てで、別の幸せを掴むために。娘はそんな母親を見守り、見届けるために。確かな幸せが待っているはずだった。

 けれども、一夜にして全てが崩れ去った。

 母親諸共、村人は惨殺された。

 娘も一度は死の淵に立たされ、感情を失くした。

 全てを奪われた娘は、これまでの人生を捨て、名前を捨てて―――『アヤ』という存在を作り上げた。

 

「ここが……お姉ちゃんの、始まりの地。じゃあ、武人って……お母さん?」

 

 よくよく見ると、剛毅の足元には一房の髪があった。丁寧に切り揃えられた栗色の髪束。誰の者かは、聞くまでもなかった。

 

「そ、その髪は」

「故郷の習わしだ。髪を一房手向け、弔う。ちょうどそなたに切られた髪だ。捨てるよりはいいだろう。……邪魔をしたな」

 

 素っ気のない声を置いてから、一人の武人が去っていく。

 一時は支える籠手の紋章を掲げながら生きてきた。誰よりも正しくあろうとする世界の中で、断絶した流派を継ぐ武人として誇りを抱いていた。だからこそ、この地に眠る『彼女』に惹かれていた。

 

「一代で我流の剣を築き上げた遊撃士、か。……せめて、安らかに」

 

 感謝の言葉を、シーダは声に出すことができなかった。朝陽が滲む栗色の髪が揺れて、黄金色に照らされた後ろ姿に、ただただ見惚れていた。言葉を失っていた。

 やがて背中が見えなくなった頃に、リィンが告げた。

 

「シーダ。ひとつだけ、話しておく。アヤは今、眠っているんだ」

「え……え?」

 

 眠っている。時に様々な意味合いを持つ表現に、一瞬悪夢のような現実が過ぎったが、リィンが湛える笑みがそれを否定した。

 本音を言えば、何度も考えた。もしかしたら、義姉はもうこの世界を去っているのではないか。誰もが口を閉ざしているだけなのではないか。もう二度と会えないのではないか。

 でも、生きている。アヤは生きている。大いなる希望に、自然と力が湧いてくる。

 

「今も彼女は、眠っている。だから俺達は、みんなで起こしに行こうって、そう仲間と約束した。いつか必ず会いに行く。それが《旧Ⅶ組》の約束だ」

「……私も。私達《新Ⅶ組》も、行きます。行かせて下さい」

「ああ、勿論だ。みんなで起こしに行こう。ここで眠る女性のためにも」

 

 夜が終わりを告げて、完全なる夜明けが周囲を輝かせる。太陽はいつだって等しく昇り、過去に生きてきた者達にそうしていたように、今を懸命に生きようとする者も、未来を育むであろう者達も、変わらずに照らし続ける。

 

「待っていて、お姉ちゃん」

 

 新たな一日が、始まりを告げる。

 

 

 



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第二章
五月七日 動き始めた意志


「てやぁああ!」

 

 一気呵成。シーダの気迫溢れる叫び声が室内に響き渡り、逆手に握られた二刀小太刀が目まぐるしく回転する。

 

「むむむっ……」

 

 対するユウナは防御に徹し、確実に斬撃を捌きつつ、一定の間合いを保ちながらシーダの連撃を凌いでいた。堅牢なユウナの守りに崩れる様子は見られず、シーダの勢いも留まる気配がない。もう暫く、同じ攻防が続くだろう。

 

「日進月歩、といったところでしょうか」

 

 僕の隣に立っていたアルティナが、瞠目しながら言った。

 

「ああ。たったの一ヶ月間で、見違えたよ」

 

 五月七日、日曜日。五月に入り一回目の自由行動日に当たる今日、僕らは朝一に練武場の門を潜り、シーダの朝稽古に付き合っていた。

 週に一度切りの貴重な自由行動日に、朝っぱらから汗を流す。熱心なシーダの誘いに、僕は何の抵抗もなく首を縦に振ったが、一方のユウナは流石に難色を示した。身体を休めるどころか普段よりも早く起床したこともあり、とりわけユウナの「おはよ」は欠伸のせいで声が擦れていた。

 しかしいざ得物を握れば、自然と気が引き締まるものだ。ユウナの体捌きは見事なもので、シーダの動きも洗練されつつある。一ヶ月前と比較すれば、まるで別人だ。

 

「それでも、ユウナには及ばないな。呼吸も乱れていないし、まだ余裕がある」

「そのようですね」

 

 左右一対の得物。僕の双剣術と違い、彼女らは攻防いずれにも特化可能だ。

 だからこそ求められる技量は計り知れない。棍棒術は僕の専門外ではあるが、ユウナのそれはひとつの才能と言っていい領域にある。警察学校時代は優秀な成績を収めていたという話は、誇張ではないのだろう。ガンブレイカーに対する特別な想い入れも相まっているのかもしれない。

 

「ここ最近は特に調子がいいようだしね。帝国という異郷の地に慣れてきたおかげかもしれないな」

「……私としては、寧ろクルトさんの方が気になりますが」

「僕の?何の話だ?」

「今月に入り、私はクルトさんの戦力評価を上方修正しました。シーダさんの急成長と単純比較はできませんが……何か、あったのですか?」

 

 年不相応な無表情の中に浮かぶ、僅かな感情の兆し。少女の純粋な疑問に対し、確かな手応えと高揚を抱きながら、内心で己に問い掛ける。

 何かが特別変わった訳じゃない。

 僕だけのヴァンダールは未だ見付からず、漸く踏み締めた一歩目の先に何が待っているのか、自分でも分からない。

 しかし結局は、ラウラさんの言った通りなのだろう。心持ちひとつで、眼に映る景色は変わる。変えることができる。

 

「どうだろうね。好きに解釈してくれて構わない」

「よく分かりませんが、何かを誤魔化そうとしていませんか?」

「気のせいだろう」

「む……釈然としません」

「それより、そろそろ頃合みたいだ」

 

 視線を正面に戻し、交差する二人の姿を追う。

 立ち合いを開始してから既に五分間が経過していた。合図と共にシーダが仕掛けて以降、形勢に変化はない。

 しかし段々と、シーダの斬撃が途切れ途切れになりつつあった。考えなしに傍から見れば、攻め急いだ代償。決め手に欠けたことで一時的に息切れ状態に陥っているように映る。―――その全てが、シーダの狙い。敢えて隙を作り、ユウナが攻めに転じた瞬間を突く。シーダが得意とする後の先を取ろうとしているに違いない。

 やがて連撃が収まり、シーダの足が止まる。一気に間合いを詰めたユウナがガンブレイカーを振りかざすと、シーダは待ってましたと言わんばかりに身体を捻り、ユウナの死角へと滑り込んだ。

 

「なんちゃって」

「えっ」

「とりゃ!」

 

 流れるような足取り。シーダが完全にユウナを見失うと共に、視界の外からやってきた返し技がシーダの脇腹へと突き刺さる。

 全力疾走後の、腹部への打撃。その苦痛は語るまでもない。シーダは息も絶え絶えな状態で床に膝を付き、苦悶しながら蹲っていた。

 

「痛たたた……」

「アル、水とタオルをお願い。クルト君も手を貸してくれる?」

「了解です」

「ああ」

 

 シーダの唇から乱れた息遣いが漏れ、褐色の肌を汗が滑り落ちる。右手を差し伸べると、シーダは掌の汗を拭ってから僕の手を取り、呼吸を落ち着かせながらゆっくりと立ち上がった。

 

「シーダ。今の駆け引きで、よく分かっただろう」

「……はい」

 

 課題は明白だ。元々浮き彫りだったのだ。

 『実戦経験の少なさ』が、シーダの武器である『感応力』の足を引っ張っているのだ。後の先には必須と言える技の読み合いが、まるでなっていない。彼女が限界まで集中を研ぎ澄ませれば、あの剛毅にだって届く天賦の才が、この有り様。まだまだ磨く余地は多いようだ。

 

「焦る必要はない。場数を踏めば、自然と身に付くはずだ」

「フィーさんも、同じことを言っていました。『後の先』の先に、『対の先』、そして『先の先』があるって。……剣の道って、果てがないですね」

「そうだな。『先の先』を目指すのであれば、尚更さ。恐らくだけど、シュバルツァー教官やオルランド教官でも、届かない領域だ」

「そ、そうなんですか?」

「本来の意味で使いこなせる武人がいるとすれば、この帝国でも―――」

「呼ばれた気がするな」

「「っ!?」」

 

 思わず身体が跳ね上がり、間抜けな声が漏れていた。

 振り返ると、僕らの背後には武を体現した女性の姿があった。オーレリア・ルグィン分校長。その逞しく美しい曲線を描く右肩には、身の丈を超える宝剣―――ではなく、清掃用の箒が置かれていた。

 

「ふむ。自由行動日に総出で朝稽古とはな。精が出るではないか」

「ぶ、分校長こそ、いつの間に?」

「そう構えるな。ただの巡回だ」

 

 この状況は一体何だ。突然の声掛けに困惑する僕らに、分校長は箒をくるくると器用に回しながら説明してくれた。

 ここ最近の分校長の一日は、早朝に校内を巡回することから始まる。異常がないかを点検して回り、目に付く場所があれば手早く清掃。何かしら不備があれば、自らの手で改める。自由行動日も例外ではなく、今日も今日で巡回の最中だったそうだ。

 

「朝一から直々に見回りとは……長としてのご尽力、感服しました」

「いや……少々、持て余していてな」

「は?」

 

 首を傾げていると、分校長は大きな溜め息を付いてから、憂いを帯びた声で続けた。

 

「部下が優秀過ぎる、というのも考えものだ」

 

 掻い摘んで言えば、『暇』なのだそうだ。実務を担当する教官がたったの四名という過酷な環境下にある以上、自らが前線で業務に当たる必要があると、分校長は設立当初から考えていた。

 しかし蓋を開けてみれば、想定は大いに外れた。人手不足は否めないものの、運営自体は特に支障なく軌道に乗っている。勿論、四名の教官らが死力を尽くしてくれている成果に他ならないのだが、人手が足りていないのに業務が回ってこないという、奇妙な状況に陥っているらしい。

 

「無論、未だ稼動していない設備もあるが故、人員は今後も増やす計画だ。購買部や医務室が無人ではそなたらも不便であろう。……気は進まぬがな」

「……つまり、益々持て余してしまう、と」

「とりわけハーシェルの処理能力が常軌を逸している。頼んでもいない業務が、知らぬ間に私の決裁待ちになっているのだ。早く印鑑を押せと言わんばかりにな。あれもひとつの『先の先』と言える」

 

 分校長には、分校長にしか担えない業務がある。第二分校における管理監督者としての職務権限があり、あらゆる判断を下す立ち位置にある。彼女の代理は、誰にも務まらない―――はずなのだが。どうやらその前提すら危ういらしい。

 

「まあ、そういう訳だ。邪魔をしたな」

 

 分校長は踵を返すと、箒を使い室内の掃き掃除を始めた。無言で黙々と箒を動かすその背中には、哀愁のような何かが漂っている。

 

「「……」」

 

 何かしら、声を掛けた方がいいのだろうか。視線で女子三人と会話を交わしていると、ユウナが思い付いたようにぽんと掌を叩き、シーダの背中を叩いた。

 

「そうだ。ねえシーダ、『意見箱』の件、分校長に相談してみたら?」

「え、ええ?」

 

 意見箱。分校長が即座に食い付くであろう話題を振ると、分校長は予想通りの反応を示し、竜胆色の眼を輝かせた。

 

「はい。実はシーダ、生徒会……と言っていいのか、まだ分かりませんけど。取り組みの一環として、学生寮に意見箱を設置していたんです。困っていることとか、教官への要望とか、そういう声を募るために」

「ほほう。そのような取り組みを始めていたのか」

 

 今月に入って以降のことだ。部活動へ所属せず、たったひとりで所謂『生徒会』としての道を選んだシーダは、本校で生徒会長を担っていたハーシェル教官の意見を参考にしながら、取っ掛かりを模索していた。

 そうして辿り着いた入口が、意見箱。単純な発想ではあるが、開校から日の浅い第二分校は、数々の課題を抱えているのだ。僕だって困りごとのひとつやふたつはすぐに思い浮かぶ。

 

「え、えーと。確かに今日、集まった意見をまとめようと思ってました」

「しかし一生徒であるそなたひとりで対処し切れるものでもなかろう」

「……なので、リィン教官にお願いしました」

「なに?」

「一緒に対応策を考えて貰うよう、リィン教官へ既にお願いしてあるんです」

「……。……そうか」

 

 間が空いた。遥か遠方から届いた小鳥のさえずりがひどく場違いに聞こえ、言葉が出ない。分校長の表情は至って平静なのだが、心なしか沈んでいるようにも窺える。

 

「まあよい。話は変わるが、折角の機会だ。私が直々に稽古を―――」

「すまないみんな、遅くなった」

 

 分校長が何かを言い掛けた直後、背後の扉が開かれ、声が遮られた。

 この場に集うはずだったⅦ組特務科の、五人目。担任であるシュバルツァー教官が、額の汗を拭いながら室内に入って来る。

 

「道中でチャミーさんの長話に捕まってな。適当なところで……ん、分校長?分校長も、朝稽古ですか?」

「……いや。気にするな、詮ないことだ」

 

 それだけを告げて、分校長は静かな足取りで練武場の出入り口へと向かった。

 事情を飲み込めないでいるシュバルツァー教官が、首を傾げながら分校長に頭を下げる。一方の僕らは何を口にしても逆効果を生んでしまいそうな気がして、押し黙ることしかできないでいた。

 

「……よく分かりませんが、自ら校内の清掃を買って出るだなんて、ご立派ですね」

「ティナ。それ、皮肉になってる」

「ちょっと意外だったけど、結果的に微妙な雰囲気になっちゃったわね……。クルト君、どうしよっか?」

「どうもこうもないさ。きっと君も、同じことを考えているんだろう?」

「ん。じゃあ、行こっか」

「一体何の話をしているんだ……?」

 

 せめて、今日ぐらいは。僕らは教官を引き連れて、掃除用具を片手に分校長の後を追った。

 

___________________

 

 

 午前九時。本格的に活動を開始した運動部の活気に、食堂で談笑に耽る生徒らの声、普段よりも軽やかな足音。トールズ本校では失われつつある、自由行動日ならではの賑わいが、五月七日の第二分校に溢れていた。

 一方の本校舎一階、軍略会議室では、オーレリアを含めた五名の教官らが集い、臨時の小ミーティングが開かれていた。

 

「……成程な」

 

 オーレリアが手にしていたのは、リィンが先月末に作成した報告書だ。ランドルフやトワが提出したそれと異なる点は、教官としてではなく、『灰色の騎士』として綴られた数々。

 四月二十三日のあの日、一体何が起きていたのか。騎神を駆るに至った経緯、神機と称された尋常ならざる存在。そして―――

 

「『準起動者』としての力を利用した機甲兵による戦闘行為。確かにこれは、外部には出せぬ文書だ」

 

 準起動者。起動者であるリィンを起点として何らかの繋がりを持つことで、騎神のみが有する超常的な力の行使を認められた、極僅かな人間達。先月の特別演習でクルトが揮った力は、紛うことなき準起動者としてのものだった。

 

「ヴァンダールが搭乗したドラッケンが……。馬鹿げているとしか言いようがない内容だが、誇張は一切ないのだな?」

「はい。全て事実です。遅くなってしまいましたが、報告すべきか否か、俺なりに考えた結果……共有すべき情報であると判断しました」

 

 それらの事実をリィンは敢えて秘匿し、信頼の置ける仲間を除けば、この場に集う第二分校の教官勢のみに打ち明けていた。

 理由は明白だ。学生が操縦する量産汎用型機甲兵が、騎神と肩を並べて神機と対峙し、一定の戦果を挙げたのだ。騎神には遠く及ばないと言えど、知れ渡れば何が起きるか想像も付かない。

 

「ふむ」

 

 オーレリアは一連の内容に目を通すと、報告書の束をデスクに置き、腕組みをして天井を仰いだ。一方のリィン達は、口を閉ざしながら身構える。

 リィンからの報告を受け、どう判断するのか。知らぬ存ぜぬを通し、かん口令を敷くのか、それとも。

 

「博士、クルト・ヴァンダール専用の兵装を開発して頂きたい」

 

 やがて告げられた内容は、誰しもが予想だにしないものだった。

 G・シュミットが確かめるように、問い返す。

 

「それはつまり、ヴァリマールの太刀のように、ヴァンダール専用の双剣を、ということか?」

「可能であれば、ですが」

「……私とて暇ではない。設計を引き受けても構わんが、生産自体は外部委託になるぞ」

 

 機甲兵用の兵装は、この第二分校にも複数配備されている。T2型機甲兵用ブレード、T51グロッケンハンマー、L24シュツルムランサー、M08アサルトライフル等々、一通りの訓練用が機甲兵教練でも使用されていた。

 オーレリアの依頼は、クルトの得物である双剣。ヴァリマールがそうであったように、搭乗者専用の兵装があれば、それだけで戦力は飛躍的に向上する。

 

「分校長。その、宜しいのですか?」

「ああ。報告書の内容通りであれば、あやつは有事の際に騎神と並ぶ貴重な戦力となり得る。今後の演習でも何があるやもしれぬ以上、万事に備えておいた方がよいであろう」

「ま、待って下さい」

 

 思わず口を挟んだのは、困惑を露わにしたトワだった。

 

「先月の演習が熾烈を極めた影響で、機甲兵の修繕費が予算を上回り、一部が今月度に回っているぐらいです。これ以上の投資は、流石に無茶です」

「二機ともオーバーホールする羽目になっちまったからなぁ。そりゃミラも掛かるって」

 

 さも他人事のようにランドルフが漏らすと、トワは不満気に周囲を見渡した。

 事実として、無視できない問題でもある。トワが言及したように、配備されてばかりの機甲兵が甚大な被害を受け、オーバーホールを迫られたのだ。シュミットやティータ・ラッセルの尽力もありコストは抑えられたものの、当初見込んでいなかった費用が、全体を圧迫してしまっていた。

 

「問題なかろう。『その他雑費』にでも計上しておけ」

「経費管理を何だと思ってるんですか!?」

「冗談だ。私からもある程度の融通は利かせよう。そなたなら可能だな?」

「そ、それはまあ。遣りようは幾らでもありますけど。学生の頃から慣れっこですから」

「……やはり末恐ろしいな、そなたは」

「は?」

 

 味方としては心強いことこの上ないが、絶対に敵に回してはならない典型例。オーレリアが頼もしさついでに畏怖の念を抱いていると、代わってシュミットがリィンへ疑問を投げ掛けた。

 

「私からも確認だ、シュバルツァー。アッシュ・カーバイドとシーダ・ウォーゼルについての報告内容だが、これも事実なのだな?」

「アッシュとシーダ……はい。そのはずです」

 

 二人に関する内容は、既に演習後の総括の場でも報告されていた。シュミットの引っ掛かりは、アッシュとシーダの人並み外れた才に関するものだった。

 

「カーバイドの操縦技量もそうだが、ウォーゼルの知覚に至っては、機甲兵に搭載されたセンサー系統をも上回っているぞ。確かなのか?」

「アッシュが秘める資質は、天性のものでしょう。シーダも同じです。視覚や聴覚といった点に限って言えば……恐らく、分校長に匹敵する」

 

 ドラッケンを巧みに操り、そのスペックを最大限に引き出した隠密行動。そしてシーダの鋭利な感覚。両者が合わさったことで、はじめてあの場での奇襲に繋がった。

 シュミットにとっては、関心の抱きようがない些細な情報。しかし改めて二人の天性を見比べ、そして沸々と込み上げてくる衝動。それは、ひとつの可能性だった。

 

「私は軍人ではない。機甲兵という存在が戦場に及ぼす影響など、知ったことではない。ただ導力工学者として、可能性を追い求めるだけだ」

「あの、博士?」

「フフ、実に興味深い。この二人ならば、或いはな」

 

 口髭をたくわえた無表情に、明確且つ怪しげな感情が浮かんだ。その矛先が自身の生徒らに向いていることは言うまでもなく、ランドルフとリィンは薄ら寒さを覚えた。

 

(おいシュバルツァー。すっげぇ嫌な予感がするぞ)

(ど、同感です)

 

 当の二人には、知る由もなかった。

 

___________________

 

 

「えーと、次の意見です」

 

 午後四時を回り、出払っていた生徒達が宿舎へと戻り始めた時間帯。私とリィンさんは食堂の一画で、先月末に設置した意見箱の中身を整理し、その内容をひとつずつ確認し合っていた。

 

「『学生食堂の品目をもっと充実させてほしい』。……これも、難しそうですね」

「そうだな……。ジーナさん一人で切り盛りするだけでも手一杯のはずだ。利用者の数を考えても、流石にな」

 

 ある程度の想像はしていたけれど、集まった要望のほとんどが、すぐには実現不可能なものばかりだった。

 購買部―――故郷にもあった交易所のようなものは、現時点で開く見込みがない。医務室も物品は揃っているものの、管理する人員がいない。そもそも清掃が行き届かず、開校して一ヶ月が経ったこともあり、段々と埃が積もり始めている場所がある。

 様々な面で至らない状況下で、先程のような要望に応えられるはずもないのだ。そういった意味では、分校長自らが掃除をして回るのも当然なのかもしれない。

 

「ここだけの話だが、こういった教育施設には保険医の常駐が必須なんだよな」

「え?いやでも、いませんよね?」

「本校にはいるだろう?法的にはそれで問題ないんだ」

「……言っている意味が分かりません」

「ああ、すまない。『帝国法上は問題ない』って意味さ」

「分かってて言ってるんですよ!」

 

 まるで理解できない理屈が、どうやらこの国ではまかり通る場合があるらしい。ただでさえ浮世離れしているという自覚はあるのに、頭が痛くなってくる。

 ともあれ、これで全員分の要望は集まった。内容は様々あったけど―――実のところその大半が、この宿舎に関するものだった。

 

「今ので最後ですけど……随分と偏りましたね。『男女の部屋が同じ階にある』って、そこまで気になるものなんですか?」

 

 『同じ階に男女の部屋が混在していて気まずい』、『水場が一階にしかないから尚更気を遣う』、『一部の男女がだらしなくてお互いに困っている』、『実例を挙げればレオノーラの部屋着に隙があり過ぎる』、等々。

 言い回しは様々あるけれど、結局は同じことだ。女子の間でも度々話題に上がることで、全く気にしていないのは私とティナ、レオノーラさんぐらい。それ以外の女子生徒は、全員が問題視をしていると言っていい。……この国に来てから、私はいつだって少数派だ。

 

「リィン教官が本校にいた頃は、どうしていたんですか?聞いた話では、男女の部屋は別々の階に別れていたそうですけど」

「確かにそうだな。《Ⅶ組》の学生寮は二階が男子で、三階を女子が使っていたよ。ただ、別に階に分ければいいという話でもないんだ。寧ろそれが弊害になることだってある」

「……と言いますと?」

「『この階に異性はいない』という油断が、事故を招くことは多々あった。例えば上の階から女子の悲鳴が聞こえたら、男子はどうする?」

「教官は、どうなったんですか?」

「慌てて様子を見に行ったところまでは覚えてる。でもその先の記憶がない。多分、右クロスカウンターだった」

 

 リィンさんは笑いながら、右拳で自身の顎を小突いた。

 痛々しくて、直視ができない。一体誰がリィンさんの意識を刈り取ったのだろう。ラウラさんだろうか。いや、お兄ちゃんの話から察するに、アリサさんか?……義理の姉だとは考えたくない。

 

「と、とりあえず、この件は一度みんなとも相談してみます」

 

 強引に一区切りを付けて、話題を変える。

 課題は山積みだけれど、良い報せだってあるのだ。そのひとつが、先月の演習の際にもお世話になった、『あの人』の件だ。

 

「今後のことは、セレスタンさんに相談してみよう。本校の第一学寮の管理を担っていたこともある優秀な人だ。力になってくれるとは思うが、それでも人手不足は否めないな。各教室の清掃なんかは、これまで通り生徒達が担当して欲しい。構わないか?」

「はい。ミントさんのことも含め、みんなにも伝えておきます」

 

 第二分校の管理スタッフとして、セレスタンさんが来週以降に来校してくれるというのだ。加えてリィンさんの同窓生でもあったミントさんも、同じ時期に着任予定。二人とは挨拶を交わしただけだけれど、きっと信頼できる人達なのだろう。リィンさんの言葉の端々から察するに容易い。

 

「それと、教官。別件で相談したいことが―――」

 

 言い掛けて、こんこんと扉をノックする音が耳に入る。

 すぐに違和感を抱いた。食堂の扉をわざわざノックする人間は、この宿舎にはいない。

 

(あ、あの人誰だよ?めっちゃ美人じゃなんか)

(あれは……教会の、シスターか?)

 

 椅子に座ったまま振り向くと同時に、軽食を取っていた男子生徒らが、控え目な称賛の声を上げた。

 開かれた扉の先には、黒色の衣装を身に纏った女性が立っていた。整った小顔の上に浮かぶ円らで大きな瞳と、金色の細髪。この国における女性の美を象徴するかのような姿に、自然と目が離せなくなる。

 

「ロジーヌ?」

「……教官の、お知り合いですか?」

「ああ。すまない、少し時間をくれないか」

 

 リィンさんは立ち上がり、小走りでロジーヌと呼んだ女性の下へ向かった。

 するとリィンさんは女性と一言二言を交わしてから、意外そうな表情を浮かべ、女性と共に視線を私へと向けた。

 

「シーダ・ウォーゼルさん。少しだけ、お時間を頂けますか?」

「……はい?」

 

 人違いではなかった。女性は優しい笑みを湛えて、私の名を呼んだ。

 

___________________

 

 

 時刻は午後五時を回る頃。頭上は夕焼けに染まりつつあり、週に一度の自由行動日が終わりを告げようとしている。第二分校に入学して一ヶ月が経った今も尚、一日があっという間に過ぎていく感覚に変わりはない。

 

「お話の最中に、突然ごめんなさい。シーダ・ウォーゼルさんですね?」

「は、はい。えーと……ロジーヌさん?教会の方、ですよね?」

 

 宿舎からほど近い街路上で、私達は足を止めて向き合った。

 よくよく見てみれば、街中で何度か見掛けたことがある顔だ。これまでは遠目にしか映らなかったけれど、こうして面と向かうと、その魅力に奇妙な気恥ずかしさが込み上げてくる。

 

「はい。でも今の私は、表側の人間です」

「表?」

「私は『裏側』の人間でもあります。と言えば、貴女にも伝わりますか?」

 

 途端に、冷静さを取り戻した。忘れ掛けていた記憶や感情が一気に甦り、脳裏を過ぎる。

 長兄の言葉を借りれば、この国には表と裏がある。今の私は表側の世界を知る道中にあるけれど、表を知る以前に、裏の一端に触れたことがある。

 

「……合点がいきました。兄がお世話になっています」

「フフ、こちらこそ。……本当に、ガイウスさんそっくりですね」

「よく、言われます。もしかして、ロジーヌさんもトールズの?」

「はい。本校出身です。《旧Ⅶ組》の皆さんとも、親しくさせて頂いてましたよ」

 

 リィンさんとも旧知の仲。先程の親しげなやり取りから考えても、単に同じ本校出身という間柄に留まらないのだろう。リィンさんも、彼女が秘める素性を知っているのだろうか?

 

「積もる話もありますが、今日は手短に。彼から手紙を預かっています」

 

 ロジーヌさんは、筒状に巻かれた便箋を手渡してくれた。見慣れない金属製の留め金で封をされていて、一見しただけでは外し方が分からない。

 

「ご存知の通り、内容はこちらで検閲しています。ご了承下さい」

「あ、ありがとうございます」

 

 兄からの便り。故郷を発ったあの日から、幾度かこうして手紙を送ってくれることがある。第二分校の生徒になって以降は、これが初。まさかリーヴスにまで届くとは考えてもいなかった。

 

「それと貴女に、渡す物があります。伝えなければならないことも」

「え……何ですか?」

「手紙を読めば、分かりますよ」

 

 手紙。この手紙に、何か特別なことが綴られているのだろうか。内容はいつも平坦で、重要な何かしらが記されていた試しがない。意図的に控えている節すらあった。

 

「一体なにがっ……ぁ!?」

 

 時が止まった。前触れなく、ぞっとするような戦慄が走った。感覚の何もかもが虚空の彼方に吹き飛んで、呼吸が儘ならなくなる。全身が縛られたように、身動きが取れない。

 

「な……に。いまの」

 

 思わず夕空を仰いだ。遥か上空から見下ろされ、睨まれていたかの如き、圧倒的な支配と掌握。無意識の内に研ぎ澄まされていた感覚が、それらを一手に拾ってしまったに違いない。

 一体誰が。一体、何が?振り返った先には―――普段通りの、日常風景の一枚があった。

 

「ミュゼ、さん?」

「……どうやら、ご友人がお呼びのようですね」

 

 ロジーヌさんは私の手を取り、一枚の紙切れを私に持たせ、声を潜めた。

 

「ARCUSの番号です。明日以降にご連絡下さい。続きは、また今度」

「えっ。あ、あの」

 

 私の制止を意に介さず、ロジーヌさんがその場を後にする。

 残された私には、選択肢がなかった。焦燥に駆られて、私は真っ直ぐに前を見据えた。

 

「……ミュゼさん」

「こんばんは、シーダさん。どうかされましたか?」

「いえ……私は、別に」

 

 再び頭上を見上げる。段々と日が暮れて、周囲は既に薄ぼんやりとした暗がりに閉ざされている。

 

(さっきのは……この人の)

 

 一抹の疑念を抱きながら、私達は横並びになって宿舎へと続く道の上を歩き出した。

 

 

 

 



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五月八日 歪み始めた絆 ~前編~

 

 まだ死ねない。ほんの僅かでいい、託すだけの猶予を。それだけを願いながら吐き出した息が、恐ろしく冷たかった。

 刻一刻と終焉が歩み寄って来る。背中から体液が漏れ出るに連れて全身の感覚が薄れ、視界が狭まっていく。

 

「駄目だ、いかないでくれ!俺はっ……俺は、まだ」

「……ふふ」

 

 明確な死を突き付けられて尚、男は笑った。

 

「ガイウ、ス」

 

 知らぬ間に、何かを得るよりも、喪うことの方が多くなっていた。刻まれた皺の数が増える一方で、歩みを共にしていた者達が去り、己を慕っていた者達が減っていき―――心の中で、まだ死んではいけないと、彼らがそう叫んでいる。

 ……有り難い。複数の希望に囲まれながら、私は残すことができる。託すことができる。

 『十二』という数は、何時の世も様々な物事の象徴とされてきた。時を示す数字であり、七耀教会では聖数として扱われ―――内のひとつが、ここに在る。

 

「ガイ、ウス。こころ、ざし、を。継いで、くれ」

 

 男は叫んだ。今わの際の擦れ声を以って、獅子の如く心から吼えた。既に世界は闇に染まり、残された者達の悲哀に満ちた表情は映らない。漸く絞り出した声が誰かに届いているのか、それすら分からない。

 けれども、男は吐血と共に言葉を残した。数十年に及んだ己の生を、十二分に噛み締めながら。

 

「トーマ、よ。あにに、かわり……みなを、まもるのだ。おまえなら、ば、きる」

「っ……はい」

 

 段々と、手足すら動かなくなってきた。何もかもが遠退いていく中で、男は最後の温もりを感じた。

 それはとても小さく、華奢な手。少女は末っ子の妹を抱きながら、迷い猫が寄り添うように、すっかり冷え切った老いぼれの血に塗れた手を取り、握った。

 

「シー、ダ。そとの、かいを、しり、みみきわ、め……かの、じょを―――」

 

 憧憬してやまなかった、義姉のように。約束の地でひたすらに願い、幻の聖獣と契りを交わし、寄り添いながら、太陽の如く大地を照らし続ける彼女のように。飛び立ちなさい―――シーダ・ウォーゼル。

 

「誓います。風と、女神様の、お導きを」

 

 やがて、蒼穹の大地にひとつの魂が還った。最期を看取った若人達は、振り返らずに前だけを見据えて歩き出す。

 託された力を鍛造するために。

 戦乱に見舞われる故郷を護るために。

 誰のものでもない、自分だけの道を、見付けるために。

 

___________________

 

 

 五月八日、早朝。

 

「よしっと」

 

 頭上から葉桜が舞い降りる中、石畳みの街路上を歩き出す。朝が早いせいか人通りは少なく、鳥のさえずりや風の音色が一切の淀みなく耳に入ってくる。

 近郊都市リーヴス。異文化溢れるこの街での生活にも慣れたものだ。故郷と比べると若干朝寝坊気味で、湿度が低く乾いた風が頬を撫でる。そこやかしこに設置された導力機器の駆動音も、今では自然の中に溶け込んで、私の一部になりつつある。

 

「おっはよー、シーダちゃん」

「おはようございます。レイチェルさん」

「そろそろシーダちゃんもヴァンテージ・マスターズ、始めない?教官さんは結構のめり込んできてるみたいよ」

「あはは。また今度にしておきます」

 

 街の住民から声を掛けられる機会も、ここ最近は増えてきたように思える。入学当初は奇妙な距離感があり、戸惑いを覚える場面が多々あった。

 クルトさん曰く、あの内戦に起因しているらしい。比較的被害が少なかったこのリーヴスにおいても、少なからず犠牲者は出たのだ。誰かを喪い、悲しみに明け暮れた者がいる。

 やがて平静を取り戻した頃になって新設された、士官学院の分校。私にだって、その複雑な胸中は―――

 

(誰かを、喪い?)

 

 ―――唐突な眩暈に襲われ、声を発せなくなる。夢見の直後のように、世界の境目が曖昧になるかのような感覚。そして耳鳴り。

 

「……っ……、う、んん?」

 

 息を止めて、拳で額を押さえながら、耳鳴りが消え去るのを待つ。段々と鈍い痛みは治まっていき、ゆっくりと呼吸を再開して、冷静さを取り戻していく。

 大丈夫。己に言い聞かせて、ゆっくりと双眸を開いた。

 

(……夢、かな?全然、覚えてないのに)

 

 夢は得てして記憶に刻まれない。他者が触れる余地のない微睡みの世界は、忘れ去れば二度とは戻らない。

 けれども、現実と何かが混濁してしまうかのようなこの感覚は、夢見の直後のよう。私は昨晩、どんな夢を見ていたのだろう。厭な夢の後は、決まって汗に塗れていて不快だ。できることなら、呼び覚ましたくはない。

 

「ふう」

 

 一呼吸を置いて、第Ⅱ分校の校門を通る。鞄を背負い直して本校舎へ向かうと、その道すがら、私は思わず足を止めた。

 

「あら、おはようございます」

「……おはよう、ございます。ミュゼさん」

 

 《Ⅸ組主計科》所属、ミュゼ・イーグレット。普段通りの挨拶を交わしながら、自然と昨日の夕刻の一場面が脳裏を過ぎる。

 

「……どうされました?」

「い、いえ」

 

 遥か上空から見下ろされ、睨まれていたかのような、圧倒的な支配と掌握。過去に近しいものを、クレア少佐から感じ取ったことはあった。しかし根本が異なっているように思えて仕方ない。勘違いではなく、あれは確かに彼女のものだったはずだ。……一体、何だったのだろう。

 

(悪い人じゃ、ないはず。多分)

 

 直感を信じて、私はミュゼさんと一言二言を交わしてから、本校舎の正面玄関を進んだ。

 ミュゼさんの件は保留にするとして、ロジーヌさんとの約束もある。週明けに会いたいと言っていたから、今週中には時間を見付けて訪ねた方がいい。

 問題は、私だけの話ではないということ。私が見誤っていなければ―――私を含む、《Ⅶ組》全員が関わる問題だ。

 

「とにかく今は教官室に……あれ?」

 

 二階に繋がる階段は上らず、身なりを整えながら階段東側にある教官室へと向かう。すると通路の反対側に、大きな欠伸をしながら歩く男子生徒の姿があった。

 

「アッシュさん?」

 

 私は意外そうにアッシュさんの寝惚け顔を見詰めた。私が知る限り、彼は何時だって定刻間際に登校する悪癖がある。時折遅刻しては、ランドルフ教官の怒声が《Ⅶ組》の教室まで届く程だ。

 

「んだよ。お前も教官室に用か?」

「はい。リィン教官から朝一で来るようにって言われていたので。もしかして、アッシュさんも?」

「……マジかよ」

 

 そんなアッシュさんが、まだ朝の八時を回らない時間帯に本校舎に現れた理由。思い付くままに投じた問いを、アッシュさんは表情を歪めながら肯定した。

 私の場合は昨晩。夕餉後にリィンさんから声を掛けられ、明日の朝一番に教官室を訪ねて欲しいとのことだった。

 

「なーんか嫌な予感がしやがるな」

「嫌な予感、ですか……も、もしかして、先月の演習関係でしょうか」

「機甲兵をかっぱらって二人乗りで突貫したあれか?」

「もっと言葉を選んで下さいっ」

 

 心当たりがあるとすれば、先月に南サザーラントで実施された演習の一幕。リィンさんからの指示命令に背き、独断で突貫した際、私とアッシュさんは一時的に行動を共にしていた。とりわけ問題視されたのが、量産汎用型機甲兵『ドラッケン』を無断使用した戦闘行動だった。

 しかしあの一件に関しては、こと細かな報告書を作成し、提出したはずだ。五十枚という膨大な量の反省文も徹夜で仕上げた甲斐もあり、此度に限り不問に付すとされていた。まさかあれが、未だ尾を引いているのだろうか。

 

「考えても仕方ねえ、入ろうぜ」

「は、はい。……コホン、失礼します」

 

 扉を軽くノックしてから、ドアノブを回す。室内には四人の教官の姿があり、すぐにリィンさん、そしてランドルフ教官と視線が重なった。

 

「おはようシーダ。アッシュも一緒だったか」

「おうアッシュ。珍しく時間通りじゃねえか」

 

 想像通りの反応に、思わず笑みが零れた。一方のアッシュさんは辟易とした様子で、二人にその先を促した。

 

「余計な前置きは要らねえッスよ。さっさと済ましちまおうぜ。朝っぱらから何だってんだ?」

 

 案内されたのは、入って右手に置かれていた長机。二つずつ用意されていた座椅子に私とアッシュさんが腰を下ろすと、教官らは私達と向かい合う形で座った。

 

「なら手短にまとめるぜ」

 

 思わず身構える。幾何かの間を置いて、ランドルフ教官が告げた。

 

「昨晩に分校長を介して特別顧問……シュミット博士からお達しがあった。まず一点目だが、来週以降の機甲兵教練に向けて、お前ら二人は今後、極力行動を共にすること」

「あん?」

「……はい?」

 

 口早の説明。特別顧問、お達し、機甲兵訓練、行動を共にする。

 まるで整理が追い付かない。私とアッシュさんが、機甲兵訓練?いやそれより、行動を?

 

「二点目だ。ARCUSⅡについてだが、二人のリンクレベルを規定値以上に持っていくこと。こいつは授業中に専用の時間を設けてやる。しっかりやれよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体何を―――」

「そんで三点目だが、こいつは俺とシュバルツァーで話し合った結論だ」

 

 ランドルフ教官は座椅子に深く背を預けると、隣に座っていたリィンさんが意味深な表情を浮かべながら、私とアッシュさんを交互に見詰めた。凄まじく嫌な予感がして、両手で耳を塞ぎたくなる。

 

「アッシュ。君は今日付けで《Ⅶ組特務科》所属に変更だ。今後共、宜しく頼む」

「……はあああ!?」

 

 私の分まで、アッシュさんは嘆きの声を上げた。

 

___________________

 

 

「―――という訳なんです」

「全っ然分かんないから」

 

 午前八時半前。《Ⅶ組》の教室で一通りを説明し終えた私は、三人の異なる反応を前に、困り果てていた。

 ユウナさんは不満を露わに。クルトさんは大きな疑問符を浮かべ、ティナは小さく首を傾げる可愛らしい仕草を取っている。クラウ=ソラスも何処かにいるのだろうか。

 

「そ、そう言われても、私も何が何やらさっぱりで」

「うーん。機甲兵教練に向けてってことは、機甲兵関係で何かあるってことよね。アル、教官から何か聞いてる?」

「私も把握していません。シーダさんのお話を聞く限りでは、シュミット博士の意向なのでは?」

 

 兎にも角にも、説明不足が過ぎるのだ。来週に予定されている機甲兵教練の内容が不明瞭である以上、判断のしようがない。ティナの憶測通り、珍しく強引なリィンさんの態度の裏には、シュミット博士の思惑があるのかもしれない。

 いずれにせよ、生徒である私達は受け入れざるを得ない。本日からアッシュさんは《Ⅶ組》所属。戦術リンク云々はその時に考えるとして……行動を共にする、の匙加減が今一掴めない。

 

「ああもう、一体何を企んでいるのやら……クルト君はどう思う?」

「僕は……いや、それよりもだな」

 

 クルトさんは若干不機嫌そうな声色で言った。

 

「アッシュ・カーバイド。どうして君は教室でホットドッグを頬張っているんだ?」

 

 当のアッシュさんは、私の隣の席で自由を謳歌していた。ピクルスとマスタードがたっぷりと盛られたパンは、故郷にも存在したパンの概念を根本から覆した『ルセット』の逸品に違いない。

 

「むぐ……朝飯を食いそびれたんだ。別にいいだろ、飲食を禁止されてる訳でもねえし」

「そういう問題じゃない」

「なら何が問題なんだよ?」

「食べながら話さないでくれないか?」

「飯の邪魔すんじゃねえよクソッタレ」

「中指を立てるな!」

 

 噛み合わない会話が繰り広げられる中、不意に教室の扉が開かれる。顔を覗かせたのは、《Ⅷ組戦術科》の面々。一足先にSHRを終えた様子の《Ⅷ組》勢が、好き好きに声を上げた。

 

「あ、いたいた。本当に今日から《Ⅶ組》なんだな」

「アッシュー、シーダに手出すんじゃないよー」

「《Ⅶ組》の皆さん、問題児をどうかお願い致します」

「野次馬はどっか行きやがれ!」

 

 アッシュさんが右手の中指を突き立てる―――この国では様々な意味合いを秘めるとされる行為に及ぶと、集まっていた人だかりが散り散りとなり、一先ずの静けさを取り戻す。

 

「ったく、騒ぐ程のことでもねえだろ。俺からすれば教室やら何やらが変わっただけだ」

「それは……確かに、今はそうですね」

 

 私達が課せられたカリキュラムは多岐に渡る。現時点ではそのほとんどを各クラスが共有していて、《Ⅷ組》や《Ⅸ組》専用の授業は一部に過ぎない。勿論、先々は特化した内容の授業が増えていく段取りではあるらしい。

 

「随分と無頓着ね。強引に所属を変えられたのに、アンタはそれでいいの?」

「特別顧問様が何を企んでいやがるのか知らねえが、先月の演習で好き勝手やっちまったからな。暫くは大人しくしといてやるさ。……つーわけだ、チビっこ」

「は、はい?」

「俺の席は、今日からここだ」

 

 差し出された右手。男性らしさ溢れる逞しいそれを、躊躇いを抱きながら恐る恐る握った。

 不安ばかりが先行するのは、知らないからに他ならない。彼に関する良くない評判は、何度も耳にしたことがある。けれども私は、彼の多くを知らないのだ。

 余計な先入観を捨てて向き合おう。皆が私にそうしてくれたように、私も。

 

「宜しくお願いします。アッシュさん」

「おう。宜しくたの―――」

 

 突然、複数の横槍が入った。見慣れた背中が前方に立ち並んで、自然と握手が切られる。

 

「コホン。アッシュ、彼女の純真さを踏み躙るような真似だけは控えてくれ」

「アル、異常を感知したら焼き払っていいからね」

「教官からも発砲許可は頂いています」

「てめえらには宜しくしねえ」

 

 前途多難ながらも、《Ⅶ組》に新たな一名が加わり、新たな日々が始まりを告げた。

 

___________________________

 

 

(え、えーと。辺AB上に点Cがある場合、……ある場合?)

 

 苦手な科目は何かと問われたら、第一に歴史学がある。中でも帝国史の授業は頭痛の種で、定期的に実施される小テストの成績は目も当てられない。帝国史担当でもあるリィンさんの面目丸潰れだ。

 次いで、この数学が如何ともし難い。入学試験は通過できたのだから、必要最低限の知識は有しているはずなのに、一向に頭が慣れてくれない。こんなことになるなら、長兄と共にもっと勉学を積んでおけばよかった。

 

(アッシュさんは……意外と、普通かも)

 

 今は四時限目の数学。隣で頬杖を付くアッシュさんの授業態度は、意外な程に落ち着いていた。少なくとも目立った問題行動は見られず、数分間の居眠りを咎めるには、私も身に覚えがあり過ぎて気が引けた。

 今も指定された問題を解こうと、図形と睨めっこを―――いや、待て。

 

「あ、アッシュさん?」

 

 視線の先に図形はなく、代わりに口語的な文章の羅列があった。内容が明らかにおかしい。表紙は数学の教科書のそれなのに、中身だけをすり替えていたのだろう。授業中に何をしているんだこの人は。

 

「んだよ、邪魔すんなや」

「だ、駄目ですよ。授業中に、そんな」

「聞きながら読んでんだ、問題ねえって」

「あるから言ってるんですよ!」

「こら、そこの二人!」

 

 思わず声を張り上げた途端、即座にトワ教官の手厳しい叱責が入った。

 

「早速仲良くしてくれてるところ悪いんだけど、そういうのは休憩時間にお願いね?」

「はーい、サーセーン」

「……すみません」

 

 トワ教官の小柄な体躯が一気に巨大化したかのような錯覚に陥る。普段の物腰が柔らかい分、こういった場面での威圧感は教官らの中でも屈指だ。

 気を取り直して、再考。身を縮ませて、眼前の問題と向き合う。

 

(え、えーと。辺AB上に点Cがある場合、……ある場合?)

 

 ……先程と同じ場所で、大きな壁が立ちはだかる。周囲ではペンを走らせる乾いた音が鳴り止まず、奇妙な孤独感と焦りが思考の巡りを掻き乱してしまう。

 

「そうじゃねえ。こうだ、こう」

「え?」

 

 何度目か分からない頭痛が生じたところで、視界にアッシュさんの中指が映る。図形上で中指がなぞった軌跡は、そのまま一本の補助線と化して、一気に視界が広がった。

 

「あー、あ、あー!なるほど!」

「シーダさーん」

「はっ」

 

 両手で口を塞いだ頃には時既に遅く。嘲笑が教室中に広がっていき、皆の肩が揺れ動く。私は息をするのも忘れ、広がったはずの視界を強引に狭めて、白紙のノートを消しゴムで擦るという非生産的な行動に逃避した。

 

「熱心さは買うけど、声に出さなくていいからね?」

「……はい」

 

 そっと右隣を向くと、アッシュさんが煽り顔で中指を立てていた。無性に腹が立ったので、私が中指を立て返すと、アッシュさんはどういう訳か満足気な表情を浮かべていた。

 

___________________

 

 

 正午を回り、程良い空腹感を満たすべく教室を後にした私は、「飯だ、飯」と呟くアッシュさんの背を追った。

 学生食堂へのルートは複数ある。二階の教室からなら、北口を出て中庭を経由するのが最短。一旦屋上に向かい一服した後に、屋上西側の出入り口から下りる生徒もいる。気怠そうに歩くアッシュさんは、一階の正面玄関を出て、そのまま真っ直ぐに歩を進めた。

 

「ど、何処へ行くんですか?」

「飯だって言ってんだろ。外で食うんだよ」

 

 まさかの外出。然も当たり前のように校外へと踏み出したアッシュさんに釣られて、気付いた時には二人揃って規律違反に該当する行為に及んでいた。

 

「校外に出るのは禁止されていますっ」

「いちいち気にすんな。それに、お前も既に同罪だからな」

「うぐっ」

 

 士官候補生の名に恥じぬよう、定められた規則を遵守し規律を徹底して参ります―――先月の演習後、リィンさんに宣言した己の言葉が、脳内で木霊した。

 まだ半日しか経過していないのに、呆れてものが言えない。外の世界では秩序を重んじるのが第一という私の固定観念は、どうやら個人単位では通用しないらしい。リィンさん、ごめんなさい。

 

「おっ。アッシュの兄ちゃんじゃんか」

 

 じんわりとした胃の痛みを感じる最中、幼い声に呼び止められる。見れば、街中で何度か見掛けたことがある少年の姿があった。

 

「よう、ザックか」

「今日もエスケープってやつ?見付かったらまた怒られちゃうぜ」

「クク、見付かんなきゃいいんだよ」

「アッシュさん……」

 

 記憶が確かなら、食材雑貨店を切り盛りする店主のお孫さんだ。アッシュさんとは顔見知りのようで、親しげなやり取りから察するに、遊び仲間か何かだろうか。

 

「……なあ。姉ちゃんも『しかんこうほせい』なのか?」

「え、わたし?」

 

 不意に、ザック君が私の顔を覗き込んでくる。

 

「えーと。うん、そうだよ!」

 

 久方振りとなる、年下から向けられた好奇心に、自然と胸が弾んだ。この感覚は懐かしくて仕方ない。入学して以降、私は何時だって年下扱いをされてばかりいたのだ。

 

「それにしては、小さいんだな」

 

 一転して、冷や水を頭上から浴びせられた。

 

「小さ……小さいって、何の話?」

「『背』とか、『胸の辺り』とか」

 

 下段蹴りから上段に繋げられたかのような連撃。辛うじて踏み止まり、私は文字通りに胸を張った。

 

「そ、そんなことないよ?ほら、私は年齢があれだから、あれなだけで。胸もほらっ」

「アッシュ兄ちゃん、そうなのか?」

「ふふ……クク、どうだろうな。確かに、あれだな。クク、痛ぇ!いってえぇ!?」

 

 気付いた時には手が出ていた。義姉譲りの奇襲、ゼロ距離から脇腹へ突き刺さる打拳。長兄の類稀な打たれ強さを育んだアヤ・ウォーゼルの拳に、少しは手が届いただろうか。

 

「あれ、どうかしました?」

「的確に急所突いて言う台詞かよ!?」

 

 中指を真上に立てるアッシュさん。知らぬ存ぜぬを決め込んでいると、ザック君は挙動不審な様子でアッシュさんの袖口を引っ張った。

 

「お、俺もう行くね。……あ、それとさ。この間貸してくれた本、すっげえ面白いよっ」

「ん、おう。続きもあるから、読み終わったら声掛けろや」

「本当に?分かった、楽しみにしてる!」

 

 脱兎のような勢いで駆け出したザック君は、一度振り返って大仰に手を振った。立ち直ったアッシュさんも同じ仕草を取って応える。

 

(……リリ、元気かな)

 

 リリ。妹の無邪気な笑顔を連想して、知らぬ間に笑みが浮かんでいた。

 まだ五月上旬だというのに、若干色褪せつつある故郷の情景。悪い気はしない。それ程にこの国での生活が充実しているということなのだろう。けれども、家族の声がこの耳に届かないのは寂しいし、物足りない。名前を呼ぶだけで、胸の奥が少しだけ締め付けられる。

 

「あの子とは、この街で知り合ったんですか?」

「ああ、まあな。昔っからああいうのには懐かれんだ」

「……少し、意外です」

「何とでも言え」

「ちなみに、どんな本を貸したんですか?」

「子供向けの冒険活劇だ。なんなら、お前にも貸すか?」

「遠回しに馬鹿にしていませんか?」

「深読みし過ぎだろ……」

 

 どうにも捉えどころのない人だ。飄々としていて、周囲に応じようとしない自由奔放さはとても幼いようでいて、目端が利くし、外見以上に大人びているようにも思える。

 博識な一面があることも確かだ。演習中に行動を共にしていた時も感じたこと。暇を見付けては読書に耽る姿勢が、知識の根源となっているのだろう。こんな男性とは出会ったことがない。

 

「どうした、チビッ子」

「あ……いえ」

 

 それに、どうしてだろう。全く似ても似つかないというのに。ザック君の頭を撫でるその姿が、思い掛けずに一瞬だけ、兄の面影と重なった気がする。昨日の夕刻、ロジーヌさんとの邂逅の影響だろうか。

 ともあれ、振り回されてばかりはいられない。こんな私にだって、女性としての誇りと意地がある。

 

「あのー、その呼び方やめません?私は小さくないです。どこも小さくありません」

「……ちっちゃ」

「ああもう!校内に戻りますよ、ほら早く、急いでっ」

「痛、いってえぇ!クソッタレが、手本みてえな構えから殴りやがって!暴力癖かよ!?」

「姉譲りです!」

 

 私は案外、義姉に似ているのかもしれない。良くも、悪くも。

 

___________________

 

 

「毎日が掃除当番とかやってらんねえ」

 

 放課後。教室内の日常清掃を終えた頃、アッシュさんは愚痴を吐きながら背伸びをしていた。

 各クラスの教室の掃除は生徒らの担当。他のクラスが当番制の一方、少人数から成る《Ⅶ組》にとっては日課なのだ。サボり癖のあるアッシュさんにとっては面白くないらしい。

 

「あのねぇ。言っとくけど、一日でもサボったら殴るからね」

「Ⅶ組の女子は暴力的過ぎる」

「……何のことよ?」

「何でもねえよ。で、これからどうすんだ?」

 

 アッシュさんの問いに、皆が同じ反応を示す。ユウナさんはテニス部、ティナが水泳部、クルトさんもチェス部。全てのクラブが毎日活動している訳ではないけれど、今月に入り本格始動しつつあるらしい。今日の放課後は賑やかになりそうだ。

 

(……どうしよう?)

 

 さて、どうしたものか。生徒会(仮)活動の主としていた意見箱の件はひと区切りが付いたし、今は次の案を模索している段階だ。今日ぐらいはゆっくり過ごそうと思っていたけれど、昨日と今日では状況が変わり過ぎている。

 

「アッシュさんも、部活ですか?」

「まあな」

「……ご一緒してもいいですか?」

 

 返答がない。妙に曖昧な態度に小首を傾げつつ、私は他の三人と分かれ、アッシュさんの背中を追った。

 向かった先はクラブハウスの二階。先月までは空き部屋だった一室が、文芸部用の部室として当てられたそうだ。私は小走りでアッシュさんの歩調に合わせながら問い掛ける。

 

「文芸部って、どんな活動をしているんですか?」

「最近は部室の整備と目録作りばっかだったな」

「もくろく?」

「蔵書室にはハーシェル教官様作の目録があったからな。そいつを基に読み応えのありそうな本を選定して、部室に持ち込んだんだ。俺とタチアナの二人しかいなかったから、相当苦労したんだぜ?」

 

 あまり想像が沸かないけれど、察するにかなりの苦行を強いられたらしい。蔵書室に溢れ返る書物の量を前に、目が眩んだ記憶がある。

 本探しの苦労、これも想像でしか語ることができない。故郷における私にとっての本は、他者から与えられる物だった。能動的に探すという行為自体が私にとっては新鮮で、贅沢とさえ感じてしまう。

 

「よう」

「あっ。お、お疲れ様です」

 

 部室には、もう一人の文芸部員であるタチアナさんが静かに佇んでいた。タチアナさんは慌てた様子で椅子を引いて立ち上がると、対面に腰を下ろしたアッシュさんに続いて、そっと座り直す。

 

「どうも、お疲れ様です」

「……あら、シーダさん?」

「今日は見学といいますか。少しだけ、いいですか?」

「は、はい。勿論です」

 

 アッシュさんの《Ⅶ組》入りは既に皆の知るところで、私が事情を説明せずとも、タチアナさんは概ねを察してくれたようだ。

 私は二人から二席分離れた椅子に座り、一息を付いた。

 室内には中央のテーブルを囲う形で本棚が並んでいて、持ち込まれた書物達が整然と収まっている。蔵書室程ではないにせよ、無数の紙束が特有の匂いを醸し出していて、妙な心地良さを抱いた。

 

(……何だろう、この距離感?)

 

 落ち着きも束の間。二人の文芸部員の間に、重い沈黙が澱み始める。

 読書中は静寂を保つ、という気配りが求められる。近しい習慣は故郷にもあるし、私も理解していることだ。けれどもこれは、全く別の類の静けさに思えて仕方ない。ただ単に会話がない、というだけではないか。

 

(き、気まずい)

 

 耐えかねた私は、音を立てないように席を離れ、周囲を見渡した。

 背後には小型の本棚が置かれていて、色彩豊かな表紙が見えるように数冊が収まっている。上部には『リクエストコーナー』の文字が並んでいた。

 

「アッシュさん。これは?」

「他の生徒や教官から要望があった本を置いてる。蔵書室に埋まってたり、なければ購入したやつもある。一応、活動用の部費は貰ってるからな」

「ふーん」

 

 一際目立つのが、薄着の女性が映る一冊。恐らく導力カメラで撮影された写真だろう。手に取って中を覗くと、傷ひとつない透き通るような白色の肌を露出した女性達が、奇妙な体勢で満面の笑みを浮かべていた。

 

「ふぁ……あ、え?」

 

 常軌を逸した世界。故郷にはない、幻想的な白肌。朝露に濡れた草苺の花弁のような白。白、白、白。私は何を見ているのだろう。何も見ていないことにしよう。

 泳ぐ視線を強引に固定して、隣の一冊へ。

 

「『ゼロから始める貴族令嬢の婿探し』……?」

 

 表題からは全くと言っていい程に内容が見えてこない。誰がこの本を欲しているのかが、分からない。一方では分からないままでいた方がいいような気もする。不思議なこともあるものだ。

 

「探し物かよ?」

「え?あ、はい。あの、あっ。えーと。な、何だっけ」

 

 突然の声に、手当たり次第に浮かんだ言葉を捻り出す。

 

「読書、好きなんですか?」

「は?」

 

 突拍子もない私の返事に、アッシュさんは怪訝そうな表情で私を見詰めていた。無理もないと思う。突然のこととはいえ、何故質問に質問で返してしまったのか。

 

「えーと、アッシュさん?」

「……まあいい。一服だ」

 

 アッシュさんは首の関節を鳴らした後、部室の外へ向かった。クラブハウス二階の休憩場に設置された自動販売機の前で立ち止まり、上着の懐から取り出したミラコインを入れて、ボタンを押す。

 気紛れに、私もアッシュさんに倣った。好奇心に駆られて一度だけ口にしたことがある缶コーヒーを買い、隅の長椅子、アッシュさんの右隣に座った。

 

「で、読書が何だって?」

「ですから、好きなのかな、と。クラブ活動で本を読むぐらいだし、授業中に……昼間にも、ほら。ザック君みたいな子供にも、本を勧めたりしてますよね?」

 

 傍から見ていて、ただ純粋に気になっていたことだ。

 読書。先月の演習中での会話、そして数学の授業中もそうだった。アッシュさんにとっての読書は、単純に本を読むという行為以上の意味合いを孕んでいるように思える。

 

「どうだろうな。ガキの頃から人一倍読んではいたが……。逆に聞くけどよ、ノルドじゃどうなんだ?読書の習慣なんてあるのかよ?」

「同じ読書でも、根本が違いますね。でも昔とは違って、近年は異国の書物も簡単に手に入りますし、勉強になるので読む機会はありました。多分私は、そういう世代なんだと思います」

「時代の流れってやつか。つっても、ジャンルによっては意味不明だったんじゃねえのか?流石に習慣や文化が違い過ぎるだろ」

「……否定はしません。本音を言えば、面白いと感じたことは少なかったです。勿論、一部を除けばの話ですよ?」

「クク、だろうな。しかしまあ、本は読んでおいて損はねえ。『世界が広がる』からな」

 

 世界が広がる。話の規模が突如として膨れ上がり、けれども飛躍し過ぎているとは感じない。

 私にとっても同じことが言える。初めて手にしたのは、導力車や飛空艇の大写真が掲載された、学習書的図鑑だった。戯画混じりの児童向けではあったけれど、世界の広さと深さを堪能するには十分過ぎた。私の世界が広がった瞬間だった。

 

「分かる気がします。私ももっと、この国のことを知りたいです」

 

 素直な胸の内を、口に出したつもりだった。

 ただ、その時、アッシュさんの表情に、陰りが差した。見逃しようのない変化に目を奪われ、一時の沈黙が生まれて、彼は声には出さずに何かを呟いた。

 

(……アッシュさん?)

 

 言葉を読み取ることはできない。変化も一瞬で、アッシュさんは意図的に顔を背けている。

 やがてアッシュさんは立ち上がり、頭上を仰ぎながら私に背中を向けて、途切れ途切れに言葉を並べた。

 

「ひとつ、聞きてえ。お前はどうして、帝国に来たんだ」

「……急に、何ですか?」

「いいから答えろ」

 

 何度も自問自答してきたことだ。私が故郷を発った理由。この帝国を選んだ理由。私がここにいる理由。 

 第Ⅱ分校への入学を決意したあの日、それはとても曖昧で不安定だった。しかし段々と少しずつ、確固たるものへと変わりつつある。

 

「一言では、とても語れません。でも……来て良かったって、最近はそう感じることが多いです」

「……自己欺瞞かよ。どいつも、こいつも」

「どい……え?」

 

 小さな囁き。視線を上げると、既に背中は遠退いていた。慌てて後を追いながら、私はアッシュさんの問いの真意について考える。

 帝国を選んだ理由。彼は私の何を知りたかったのだろう。考えても、答えは見付からなかった。

 

 

 

 



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五月十二日 歪み始めた絆 ~後編~

Aya's Diary:前々作『絢の軌跡』及び前作『絢の軌跡Ⅱ』をご参照下さい。


 

 煮えたぎる汚泥のような感情が、少年の中に在った。右眼の疼きと共に在り続けたそれは、紛うことなき少年自身の想いである一方、まるで身に覚えのない穢れでもあった。

 感情の正体が『憎しみ』であることを、少年は自覚していた。しかし右眼が疼く度に雑音が入り混じり、自分の手を離れてしまう。何者かの意志が介在して、感情が一人歩きを始める。

 この感情は何?決まっている、憎悪だ。

 何を憎んでいる?……分からない。

 違う。偽物だ。こんな不純物だらけの憎しみは、自分のものではない。……右眼が疼く理由も分からない。

 

(気に入らねえ)

 

 偽物の感情には屈しなかった。支配を拒み、常に冷静さを忘れなかった。粗野で猛々しい立ち振る舞いは、周囲の目には破天荒に映りつつ、決して一線は超えない。引き際を弁えながらも、他者の支配を撥ね退けて、己を曲げずに押し通す。その姿に、憧れを抱く者さえいた。

 

(気に入らねえ。どいつも、こいつも)

 

 少年はいつしか、やり場のない感情の行先を求めていた。記憶の欠片を拾うと、憎しみは肥大して、より一層の不純物が混ざり込んだ。

 欠片が足りない。もっとだ。この憎しみは、己が生み出した純粋な感情のはず。誰の手も触れさせない。

 より純粋に。一切の淀みなく。何者でもない、自分自身を手に入れるために。

 

___________________

 

 

 五月十日、夜。浴場で一日分の汗と垢を洗い流したアッシュ・カーバイドは、フェイスタオルで額の汗を拭いながら、食堂へと向かった。

 隅の席に勢いよく腰を下ろし、ふうと一息を入れる。背後の窓が半開きになっていて、僅かに流れ込んでくる夜風が火照った頬を撫で、心地良い。

 

「お疲れだな」

「ん……」

 

 男子の落ち着き払った声と、椅子を引く音。次いでテーブル上に置かれたのは、二本の缶入り炭酸飲料。向かいの席に座ったクルトは内の一本を開けて、ごくごくと喉を鳴らした。

 

「なんだ、そりゃ」

「オルランド教官からだ。『ウチの馬鹿を宜しく頼む』と言って差し入れてくれた」

「ならお前らで飲めや」

「一ダースもあるんだ。それにアルティナやシーダは、炭酸が苦手らしい」

 

 アッシュが零度付近にまで冷えた缶を手に取ると、クルトは腕組みをしながら不機嫌そうに言った。

 

「シーダから話は聞いた。部室に有害図書を置いているそうだな」

「馬鹿言え。勘違いしてんじゃねえよ。ただのグラビア誌だっての」

「シーダの生い立ちを少しは考慮してくれないか。物事には順序があるだろう。……ひどく困惑していた」

「はいはいサーセンしたー。気を付けまーす」

 

 椅子を傾けて、反省の欠片もない言葉を並べる。誤魔化すようにクルトから視線を逸らし、アッシュは周囲の様子を見渡した。

 厨房に近いテーブルでは、《Ⅷ組》のグスタフとウェインが談笑を交わしている。そして厨房内には《Ⅶ組》女子が三名。各々が食材や調味料を手に取り、計量作業の真っ最中だった。

 

「女子共は何してんだ?」

「明日に軍隊調理法に関する授業があるだろう。その準備だと言っていた」

「ああ、そういや。ご苦労なこった」

 

 他愛のない会話に花を咲かせながら作業を続けるユウナらの姿を、アッシュはぼんやりと見詰めた。

 何の変哲もない《Ⅶ組》の日常。その場に居合わせた者達の目には、そう映っている。事実として、すっかり見慣れた光景だ。

 

(……仲が良いんだか、悪いんだか)

 

 しかしアッシュにとっては、彼女らが『歪んでいる』ように思えて仕方なかった。誰もそのことに気付こうとしない。表面化しないが故に正しようがなく、改めようのない関係。上辺だけの絆。

 取り繕うあまり、己を捻じ曲げる。

 感情を押し殺して、ひた隠しにする。

 ……馬鹿げている。自分もその一部だと想像しただけで、虫唾が走る。

 

「君が《Ⅶ組》に来て、今日で三日目になる。大分慣れてきたんじゃないか?」

「クク、そうだな」

 

 黒々とした感情と共に、缶の中身を一気に飲み干す。喉に炭酸の刺激を残したまま、皮肉を込めて大仰に笑いながら告げた。

 

「まあ、居心地は悪くねえさ。だがな、肝心な所で一線を超えようとしない気持ち悪さは、どうにも鼻持ちがならねえ」

「……それは、どういう意味だ?」

「チビ兎が良い例だろ。この三日間だけで、情報局だのなんだの、爆弾発言しまくりじゃねえか。だってのに、誰もそのことについて言及しようとしねえ……普通に考えて、おかしいだろうが」

 

 事の真相は定かではなく、しかしアッシュの言い分は尤もだった。

 帝国正規軍情報局出身。アルティナが明かした身分ひとつ取っても、彼女が常軌を逸した世界で生きていたであろうことは想像に容易い。けれども、アルティナが不用意に垣間見せた過去を、誰もが気に掛けず、触れようとさえしない。

 

「君の言いたいことは分かるが……時が来れば、アルティナ自身の口から語ってくれるはずだ。僕らが追及するのは筋違いだろう」

「クク、綺麗事吐かしてんじゃねえ。『腫れ物に触れる』のを避けてるだけだろ?」

「っ……」

「チビ兎に限った話でもねえぜ。じゃじゃ馬に、チビッ子だってそうだ。いつまで『腫れ物扱い』する気なんだよ」

 

 アッシュは立ち上がり、クルトを一瞥して背を向けた。容赦のないアッシュの言葉に、クルトは押し黙った様子で何も語ろうとしない。アッシュは畳み掛けるように続けた。

 

「さっきも言ったが、居心地自体は悪くねえ。……だが仲良しごっこは、真っ平御免だ」

「あっ。クルトさん、アッシュさん」

 

 アッシュがその場を去ろうとするのと同時に、胸掛けを着たシーダが歩み寄って来る。シーダは二人の間に漂う物々しい雰囲気を察して、思わず足を止めた。

 

「えと……どうかしましたか?」

「いや、何でもない。僕達に用か?」

「あ、はい。お二人に、お願いがありまして」

 

 シーダは躊躇いつつ、二人を交互に見詰めながら告げた。

 

「明後日の金曜日の朝に、少しだけ時間を貰えませんか。会って欲しい人がいるんです」

 

___________________

 

 

 二日後。五月十二日の明朝に、シーダは忙しない様子で寝惚け顔のアッシュを急かし、強引に上着を着せた。

 

「ほらアッシュさん、早く早く!」

「だりぃ。何でこんな朝早くに……くぁ」

 

 時刻は朝の六時前。宿舎一階は朝特有の静けさに満ちている。教官生徒を問わず、週末が近付くに連れて疲労が蓄積するせいか、この時間帯に起床しているのは《Ⅶ組》の生徒らだけだ。

 勿論、《Ⅶ組》揃っての早寝早起きには理由があった。

 

「あん?クルト達は何処に行ったんだ?」

「先に礼拝堂へ向かいましたよ。ロジーヌさんを待たせては失礼ですから」

 

 先週末に、シーダとロジーヌが交わしたやり取り―――『渡したい物』と、『伝えたいこと』がある。約束の内容は、たったのそれだけだった。後日に落ち合う日時を決める際にも、淡々とした会話しかなかった。

 しかしシーダは、概ねを察していた。だからこその《Ⅶ組》総出の訪問だった。

 

「さあ、行きましょう」

 

 リーヴスの礼拝堂は宿舎から徒歩ですぐ、駅前広場の北西に位置している。シーダは気乗りしない様子のアッシュを連れて、急ぎ足で礼拝堂へと向かった。

 やがて、時刻は六時ちょうど。礼拝堂の大扉を開けると、先行していたクルト、ユウナ、アルティナ、そして礼拝堂のシスターを勤めるロジーヌの姿があった。

 

「やっと来たわね、プリン頭。いつまで寝てたのよ?」

「朝っぱらから騒ぐな、じゃじゃ馬」

「す、すみません。遅くなりました、ロジーヌさん」

「いえいえ、時間通りですよ。では早速、こちらに」

 

 向かった先は、普段は主に日曜学校、学びの場として使用されている一室。シーダらが最前列の席、アッシュだけがその後ろの席に腰を下ろすと、ロジーヌは改まった声で口火を切った。

 

「コホン。先に少しお話させて頂きましたが……シーダさん。私は貴女に、渡したい物と、伝えたいことがあると言いました。どうして、彼らまで?」

「必要だと思ったからです。その、私だけの問題じゃないような気がして」

 

 封聖省。七耀教会が表沙汰にはできない役割を担う、教会が秘める裏側の一端。この帝国においても極僅かの者しか把握していない世界に、シーダは兄を介して触れていた。

 ロジーヌの思わせ振りな言動。渡す物と、伝えること。ロジーヌが彼女の前に現れ、普段は秘匿しているであろう素性を明かした以上、想像に難くはなかったのだ。

 

「そうでしたか。フフ、察しがいいのですね」

 

 ロジーヌが部屋の出入り口を一瞥し、周囲に人気がないことを確認する。

 

「では、改めまして。この礼拝堂に勤めているロジーヌと申します。元士官候補生で、昨年までトールズの本校に通っていました」

「昨年……つーことは、アンタもシュバルツァーの同期かよ?」

 

 アッシュの粗暴な言動を咎めようともせず、ロジーヌは微笑みと頷きでアッシュに応じて、その先を続けた。

 

「先月の演習の件については、リィンさんから伺っています。結社『身喰らう蛇』に、大陸有数の猟兵団『西風の旅団』……あの内戦時にも暗躍していた彼らが、第Ⅱ分校に接触してきたそうですね」

 

 ロジーヌが整った語調のまま演習の顛末について触れると、自然と場が引き締まる。

 身喰らう蛇。西風の旅団。まるで書物の一節を読み上げるかのように、平然とその名を口にしただけで、目の前の女性が裏に精通しているであろうことは、十二分に伝わっていた。

 

「皆さんもご存知のように、一年半前に勃発した内戦には、トールズの士官候補生らが大きく関与しました。とりわけリィンさん達《Ⅶ組》の面々による能動的な行動が、内戦の情勢に大きな影響を及ぼしたとされています」

「要するに、だ。偉大なパイセン達が宜しくやってくれたおかげで、第Ⅱ分校も連中に目を付けられちまったってことだろ。クク、ありがたい話じゃねえか?」

「はい。そして貴方達《新Ⅶ組》も、自らの意思で彼らに刃を向けたことで、《旧Ⅶ組》と同様の立ち位置を確固たるものにした。つまりは、そういうことですね?」

 

 流暢な返し。ロジーヌが笑みを深めると、アッシュは値踏みをするように視線を這わせた。

 

「そうくるかよ。思いの外にイカした姉ちゃんだな……何者だよ、アンタ」

「フフ。私はこの礼拝堂のシスターです。先程も言いましたでしょう?」

「えー、コホンっ」

 

 クルトが咳払いを置いてクラスメイトの非礼を遮ると共に、ロジーヌに話の先を促す。

 するとロジーヌは静かに深呼吸をした後、真っ直ぐな視線をシーダに向けた。

 

「……話を戻しましょう。シーダさん、貴女に、これをお渡しします」

 

 やがて差し出されたのは、一冊の薄い書物。とりわけ際立つ点は見られない、書店の店頭に並ぶことの多い一般的なノートだった。

 受け取ったシーダは、表紙に並んでいた文字を指でなぞった。

 

「『Aya's Diary』……あれ?こ、これって、お姉ちゃんの日記?」

「正確には手記でしょうか。アヤ・ウォーゼルさんが一時から記し続けていた物です。存在自体は、シーダさんもご存知だったようですね」

「は、はい。でも、これって―――」

 

 ―――ガタンと、物音が鳴った。シーダらが驚いた様子で振り返ると、食い入るような目付きで手記に見入る、アルティナの姿があった。

 

「てぃ、ティナ?どうかした?」

「……どうしてそれを、貴女が所持しているのですか?」

「友人であるガイウスさんからお預かりしました。ただそれだけのことですよ」

 

 唯一平静を保っていたロジーヌが、余裕のある笑みをアルティナに向けた。アルティナは息を詰まらせると、怪訝そうに目を細めてロジーヌを凝視した。

 

「お察しの通り、それは単なる手記ではありません。アヤさんが手に入れた、裏の世界に関わる情報の数々……それらが丁寧に記された、貴重な一冊です」

「お姉ちゃんが……」

「ガイウスさんは、貴女には知る必要があるとお考えになったのでしょう。そして知るだけの権利がある。だから私を介して、貴女に託した。……私から言えるのは、ここまでです」

 

 恐る恐るノートを開き、内容に目を凝らす。日付けは二年前の九月六日から始まる、思い思いに綴られた手記。今では思い出と化してしまった家族が残した、数少ない私物のひとつが、シーダの手の中にあった。

 

「……これは、みんなに見せても?」

「貴女自身が決めることです」

 

 ロジーヌの言葉に促され、ユウナとクルトがシーダの手元を覗き込む。

 『Aya's Diary』。その名の通り、手記は手記に過ぎない。内容の大半は、アヤが過ごしてきた日常その物。時に友と語り合い、想い人と触れ合いながら育んだ大切な絆と想いが、文字列として並んでいた。

 しかしながら、幾頁かの空白を挟んで、内容が変貌していく。

 

「こ、これはっ……『結社』の組織図、なのか?いや、それだけじゃ、ない」

「なによこれ。く、クロスベルのことまで、こと細かに」

 

 膨大な情報が、紙面上に圧縮されていた。

 情報の集合体が、頁によって異なる観点から整頓され、整列している。組織や勢力別、時系列順、各国の政治的背景、影響力や重要度といったように、同一の事柄が頁によって千差万別に扱われ、姿を変える。

 一例を挙げるなら、クロスベル。元クロスベル自治州という視点から、近年に発生した事件や時事問題を考察する。それだけでも六頁分が費やされており、一個人が取り纏めた情報とは到底考え難い程の完成度を誇っていた。

 

「あれ?……ん、くっ付いてる?」

 

 シーダが頁を捲っていると、不意に指が引っ掛かった。よくよく見ると、紙同士が糊付けされたかのように引っ付き、剥がれない部分があった。

 

「注意して下さい。貴女達が今、知るべきではないとされる情報が記された頁に限り、ガイウスさんによる『封印』が施されています」

「ふう……え、封印?」

「はい、封印です」

 

 施された封印。突然飛び出した仰々しい表現に誰もが首を傾げていると、それまで黙りを決め込んでいたアッシュが、シーダの手元を見やった。

 

「貸せ」

「え、え?」

 

 半ば無理矢理に手にした一冊をアッシュがぱらぱらと流し読み、引っ付いた頁に差し掛かったところで、鼻を鳴らした。引っ付いた二枚を強引に剥がそうとするやいなや、アッシュの指に鋭い痛みが走る。

 

「痛ぅっ!?」

「ちょ、わわっ」

 

 火花が散ったかのような音と光。思わず手離してしまった手記を、落下寸前でユウナが拾い上げた。当のアッシュは呆然と指先を見詰めた後、シーダとロジーヌを交互に睨み付けた。

 

「クソッタレ。どう考えても普通じゃねえだろ。こいつの兄貴は何者なんだよ?」

「ま、待って下さい。お兄ちゃ、兄はっ……その」

 

 尋常ならざる力の片鱗を目の当たりにして、シーダは思わず立ち上がっていた。

 普通ではない。その言葉を、安易に否定はできない。こうしている今も尚、長兄は託された意志を貫き、力を鍛造している只中にある。その事実を明かすのは、今ではない。

 明かす訳にはいかなかったのだ。揺るぎない絆で結ばれた友にさえ伏せ、自身から直接伝えたいという兄の意向を尊重する以上、口を噤むしかない。

 

「すみません。これ以上は、私の口からも」

「……ちっ。そうかよ」

 

 段々と声が尻すぼみになっていく。アッシュが舌打ちをして深く腰を下ろすと、それまで五人を見守っていたロジーヌが、気遣わしげに言った。

 

「この部屋は自由に使って頂いて構いません。暫くの間、人払いをしておきますね」

 

 バタン。扉が閉ざされ、残された者達の視線が複雑に絡み合う。

 ユウナは手元の手記を一旦シーダに返し、アルティナの反応を窺った。……目立った挙動はなし。やれやれといった様子で、ユウナは情報局云々の件について言及した。

 

「アヤさんの手記のこと。アルは、知ってたの?」

「情報局のデータベースに登録がある、とだけ。指定重要図書として扱われています」

「クク、参ったな。どいつもこいつも、隠しごとがお好きなようだ」

 

 アルティナの物騒な物言いに対し、アッシュは苛立ちを隠そうともせずに不機嫌さを撒き散らした。

 

「し、しかしこれは、本当にすごいな」

 

 一方のクルトは、再度アヤの手記を開き、感嘆の声を漏らしていた。

 情報局が指定重要図書として扱うレベルとは言え、あくまでそれは保険に過ぎない。一部の者にとっては周知の事実ばかりであり、情報価値としては大して高くはなく、日付が昨年の年始で途絶えているせいか、直近の時事についてはすっぽりと抜け落ちている。

 特筆すべきは、整然。あやゆる立場、観点から見ても、一律に理解できてしまう程に整えられた情報の数々。国や概念、宗教、年齢に性別、職業の一切を問わない平等さが、一冊の中に在った。

 

(これではまるで、第三者へ知らせるための……。アヤ・ウォーゼルが、誰のために?シーダ、なのか?)

 

 自分自身の情報整理が目的ではなく、他者に伝えるための一冊。一体何のために、そして彼女は誰のために、これを残そうとしたのか。該当しそうなのは義妹であるシーダだが、時系列が上手く噛み合わない。

 

「……ユウナ?」

 

 漠然とした疑問を抱きながら、クルトは右隣でノートの中身を共有していたユウナの表情に気付く。ユウナは虚ろな目をゆらゆらと揺らしながら、クルトの手元を覗いていた。

 

「どうかしたのか?」

「ううん、違うの。クロスベルのことも……その。沢山、書かれてて」

「……そうか」

 

 神妙な面持ちのユウナが、苦しそうに笑みを浮かべる。クルトはそれ以上の追及を控え、ユウナの言動を見守った。

 

(また、か。今はそっとしておくべきなんだろうな)

 

 アヤの、そしてユウナの故郷でもあるクロスベルが絡むと、彼女は決まって複雑そうな心境を露わにする。その傾向は入学当初から一貫しており、この帝国に対してわだかまりのようなものを抱いていることも、クルトは理解していた。

 一方では、何がユウナをそうさせるのか、彼女が何を想って沈むのかが、未だに見えてこない。一向に縮まる気配のない独特の距離が、クルトの悩みの種でもあった。

 

「おい。お前らって、いつもこうなのかよ」

 

 重い沈黙が漂い始めた頃、アッシュが語気を強めて言った。

 

「……アッシュ。何のことだ?」

「一昨日の晩も言っただろ。この数日間、お前らを見てきたが……都合が悪い時に限って、誰も何も語ろうとしねえ。普段は口うるせえくせして、今だってそうじゃねえか」

 

 それはこの数日間、アッシュが《Ⅶ組》の一員として日常を共にしてきた中で、抱いていた疑問。クルト、ユウナ、アルティナ、そしてシーダも例外ではない。担任教官であるリィンも含め、否定できない側面。

 何故誰も語ろうとしないのか。

 何故誰も触れようとしないのか。

 己を曲げずに我を貫くを徹底し生きてきたアッシュにとって、我慢がならなかったのだ。

 

「ハッキリ言ったらどうなんだ、じゃじゃ馬」

「何の、ことよ?」

「そこにも書いてあることじゃねえか」

 

 アッシュはユウナの手元を覗き込みながら、彼女の胸の内を代弁した。

 

「てめえの故郷に『列車砲』をぶっ放したのが、気に食わねえんだろ?」

「なっ……」

「……え?」

 

 事実を知る者は、そう多くない。しかし決して少なくもない。積極的に報じられなかったというだけで、情報統制が敷かれた訳でもない。この場に集った五人の内、シーダを除く四人の中では事実として認識されている。『向けられた側』であり、『撃たれた側』のユウナにとっては、悪夢に等しい過去があった。

 

「アッシュ、君はっ……!」

「待って、クルト君」

 

 アッシュに詰め寄ろうとしたクルトを遮り、ユウナが頼りない声を捻り出す。

 

「あれは……あの件は、別に。だって、状況が状況で……だから、その」

 

 到底納得はできず、しかし理解はしていた。

 主観を捨て外側の世界から見れば、クロスベルの選択は常軌を逸していた。あらゆる面で非常事態に陥り、何より神機という人智を凌駕した脅威を前にして、列車砲は玩具同然。放たれた砲弾さえもが、無力でしかなかったのだ。

 だから、仕方のないことだった。私達は人であり、国ではない。ここで声を荒げても、何も生み出さない―――ユウナが懸命に自分自身へ言い聞かせていると、アルティナが疑問の声を上げた。

 

「よく分かりません。私達は今、何を議論の対象としているのですか?」

「え……え?」

「発射指令の合法性でしょうか。確かに帝国正規軍法では、列車砲の起動には防衛庁長官と共に、最高指揮官である宰相の承認が求められます」

 

 体温が一気に低下していくのを、ユウナは感じた。眩暈がして、視界が歪んだ。

 事務的に並べられた言葉。言葉ばかりが先行して、全くと言っていい程に頭の中に入らない。……そんな議論を、誰もしていない。聞きたくもない。

 

「しかし帝国領域内の財産及び人命が脅威に曝され、尚且つ承認を得る時間的余裕が無い場合、特定の環境下においてのみ承認を得ることなく、権限移譲が発生します」

「っ……。やめ、てよ」

 

 ユウナは理解した。悪夢のような現実が、この少女にとっては、その程度のことなのだ。取るに足らない些末なこと。対岸の火事ですらない。

 煮えたぎる汚泥のようなこの感情が―――何ひとつ、微塵も伝わらない。

 

「当日も現場責任者である第五機甲師団所属、ワルター中将による判断で―――」

「やめてって言ってるでしょ!?」

 

 一転して、静けさを取り戻す。

 ユウナは唖然とした。今し方の怒鳴り声が、自分の声なのか。血の気が引いて、吐き気を覚えた。

 

「……ごめん。ちょっと、お手洗いに」

「ゆ、ユウナさん?」

 

 逃げるように、ユウナが急ぎ足で室外へと出ていく。慌てて制止をしようとしたシーダは、どんな言葉を掛ければいいのか分からず、今し方のやり取りの意味さえ理解できずに、声を失くして立ち尽くすしかなかった。

 やがて。思い掛けず引き金を引いてしまったアルティナが、小さな両手を見詰めながら、か細い声を漏らした。

 

「私は……。私は、『また』、なんですね」

 

 薄々勘付いてはいたこと。己の不用意な言動が、時に誰かを驚愕させ、時に意表を突きながらも、咎められたことはなかった。傍に居てくれた誰かが尻拭いをしてくれたから、見過ごされ続けてきた。

 ……誰かを傷付けることだって、あり得たのだ。じわじわと背筋に圧し掛かる重さに耐え切れず、アルティナは珍しく、直情的に動き出した。

 

「ユウナさんと、話をしてきます」

「あ……ま、待ってティナ。私も行く」

 

 見るに見かねて、シーダがアルティナの背を追う。駆け出してすぐ、シーダは何かを思い出したように足を止めて振り返り、アッシュと視線を重ねた。

 

「正直に言って、私には何が何だか、分かりません。でも……どうして、あんな」

「お前だってじゃじゃ馬と同じはずだぜ、チビッ子」

「私が、ユウナさんと?」

「前にも聞いたよな。『どうして帝国に来たのか』……お前にもあるんだろ。『消したくても消えねえ焔』ってやつが」

 

 アッシュが《Ⅶ組》の一員として加わった初日。唐突に切り出されたアッシュの問いに対し、シーダは戸惑い、言葉を濁して曖昧な返答を口にした。

 今にして思えば、あれは己の根底に踏み込んだ一歩だった。彼なりに私と向き合い、知ろうとした一歩目。一線を超えようとした一瞬。

 

「っ……今は、答えたくありません。答えたくない」

 

 苛立たしげに呟いてから、シーダが一室を後にする。残されたアッシュは、背もたれに反り返って天井を仰ぎ、背後に立っていたクルトへ声を掛けた。

 

「やれやれ。思いの外に引っ掻き回しちまったな」

「そのようだ。随分と損な役回りを演じてくれたみたいだが……これで、君は満足なのか?」

「クク、殴りてえなら殴れや。殴り返すけどな」

「そこまで愚かじゃないさ。だがユウナ達が傷付いて、黙っておく程、愚かでもないっ……!」

「あん?」

 

 クルトはアッシュの胸倉を掴み、固く握った右拳を振り上げて、アッシュの右頬を殴打した。込められた想いは複数。何も言い返せない己の不甲斐無さ。ユウナの真情を未だ理解できない自分。些細な言動で綻んでしまった《Ⅶ組》の脆弱さ。

 何よりも、たとえ理不尽であろうと、感情に身を任せた愚行であろうが、男子として抑える訳にはいかなかった。クルトは右手に鈍い痛みを抱えたまま、アッシュを見下ろした。

 

「殴り返すのは、また今度にしてくれ。二人同時に怪我をしては不自然だ」

「っ……クク、面白え。楽しみにしてろや」

 

 クルトはアッシュが口にした言葉の意味について思考した。

 『消したくても消えない焔』。自分にだってある。同じように彼女達にも、そして恐らくは、この男にも。

 

 

 

 



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五月十五日 紡がれていく絆 ~前編~

 

『もしもーし。ミリアムだよっ。リィン、どしたの?』

『こんばんは。アルティナです』

『え……あれれ?でもこれ……アーちゃん?』

『夜分に失礼します。少しお話ししたいことがあったので、《Ⅶ組の輪》を使わせて貰いました』

『あ、なーるほど。だからリィンの番号なのかぁ。あはは!なになに、秘密の相談事?』

『何故そう思われるのですか』

『だっていつもの回線だと録音されちゃうでしょ。だからあんまり聞かれたくない話なのかと思ってさ』

『……まあ、半分は当たってます』

『ふーん。それで、誰かと喧嘩でもしちゃった?それとも傷付けて泣かせちゃったとか?』

『思い付きで話さないで下さい。……でも、どうして?』

『アーちゃんはKYなところがあるからねー。もっとボクを見習った方がいいよ』

『ミリアムさんに言われたくありません。ですが……確かに私の言動は、不用意が過ぎるのかもしれません』

『あれれ。珍しく殊勝だね。この間会った時は「シーダのお姉さん役を任された」って得意げに言ってたのに』

『客観的に考えて、ユウナさんやクルトさんの方が適役と判断します。それにシーダさんは、私なんかよりも、感情が豊富で、決断力があって……。ごめんなさい。上手く言えません』

『……ねえ。アーちゃんはさ、もっと自信を持っていいと思うよ』

『そう言われても……』

『こんな風に話をしてくれたこと、今まであった?』

『あったような、なかったような』

『ああもう、なかったのっ。それだけでも、アーちゃんは変わったよ。自分じゃない誰かのことを想って、うんうん唸ってたんでしょ。違う?』

『……恐らく、合ってます』

『何となく食欲が沸かないとか』

『はい』

『夜に寝付けずにベッドの中でごろごろしたり』

『はい』

『リィンに相談しようと思ったけど結局気が引けて、「《Ⅶ組の輪》を使わせて下さい」って言って誤魔化して、結局ボクの番号に掛けたはいいものの、上手く説明できずに椅子の上で足をぶらぶらさせてたり?』

『……はい』

『当たってたことにビックリだよ……』

『ミリアムさん。私は割と真剣な話をしているつもりなのですが』

『あはは、ごめんごめん。でもさっきも言ったけど、もっと自信を持って、アーちゃん。悩むなとは言わないけど、その先にアーちゃんが求めているものが、きっとあるはずだよ』

『抽象的過ぎて理解しかねますが……了解です。もう少しだけ、悩んでみます』

『それと、シーダのことも、お願いね』

『シーダさん、ですか』

『ボクにとっては、大切な仲間の、大切な家族だから。お姉ちゃん役、やめちゃ駄目だよ?』

『……はい。善処します』

『ニシシー。ボクのこともお姉ちゃんって呼んでいいからね?』

『お断りします』

『ええー!何でさ。今のはナチュラルに呼んでくれるところでしょ。やっぱりKYだなぁアーちゃんは』

『話は変わりますがミリアムさん』

『強引に変えないでよー』

『もうひとつだけ、真剣にお話ししたいことがあります』

『……ん。なに?』

『貴女は―――アヤ・ウォーゼルに纏わる真実を、知っているのですか?』

『……っ』

『ミリアムさん』

『うん。知ってる』

『それは、他の元《Ⅶ組》の方々も?』

『知ってるよ』

『……話しては、くれないようですね』

『アーちゃん。もしもその時が来たとして、しっかりと支えてあげてね』

『それは……シーダさんを、ということですか』

『シーダだけじゃない。みんなを、だよ』

『みんな……』

『それがどれだけ悲しくて、辛くても、絶対に目を背けちゃ駄目。約束してくれる?』

『……はい。必ず』

『ん、ありがと。頑張れー、アーちゃん。お姉ちゃんが応援してるからね』

『こちらこそ。ありがとうございます、ミリアムさん』

『どぼじでお姉ちゃんって呼んでくれないのおおおお』

『おやすみなさい』

『ユーシスうう、アーちゃんが言うこと聞いてくれないいいい』

『ええい、掴むな縋るな泣き喚くな!』

『……おやすみなさい』

 

___________________

 

 

(―――好機っ)

 

 ユウナの掃射に気を取られたのか、試作型自律戦闘機の巨体側面に、致命的な隙が生じた。常人離れをした速度で反応したシーダが、二刀小太刀『絶佳』を手に飛び掛かる。

 

「見よう見真似、レインスラッシュ!!」

 

 クルト譲りの連撃。華麗に舞う白刃。戦局を見極め回避を捨てたシーダの斬撃が、左脚の膝部一点に注がれる。自重を支え切れなくなった巨体が、大きく揺らいだ。

 

「アッシュさん!」

「どいてろっ……おおるぁあ!!」

 

 鋭利で猛々しい気勢。振り下ろされたヴァリアブルアクスが頭部を穿ち、自律戦闘機は原型を失った。後方に飛び退いて万一の反撃に備えたアッシュは、リィン・シュバルツァーに視線を送り、手応えの程を伝えた。

 

「総員、周囲を警戒。まだ気を緩めるな」

 

 生徒らに指示を下しながら、自律戦闘機の反応を窺う。

 ストラスダイバー。導力文明の父が手塩に掛けた三高弟子が一人、G・シュミット自らが制作した試作機と言えど、中枢の頭部を破壊されては屑鉄も同然。完全に沈黙していた。

 

「敵性対象の無力化を確認……ふう。博士、これにてテストは終了、ですか?」

『攻略時間に戦闘効率、共に及第点といったところだな。想定の範囲内だ』

「はは……褒め言葉として受け取っておきます」

 

 可愛げのない無機質な反応に半ば呆れつつ、リィンは愛刀を鞘に納め、警戒を解くよう皆に合図を送った。

 

「みんな、お疲れ様だ。テストの内容について……詳しい話は、後回しにしよう。五分間の小休憩を取ってから、撤退だ。最後まで警戒を怠らないようにな」

「「了解」」

 

 トールズ士官学院第Ⅱ分校の構内に建造された、極めて特殊な訓練施設―――アインヘル小要塞におけるデータ収集をかねた戦闘訓練は、入学式での一件を含め三度目。今日が初陣となったアッシュの獅子奮迅の立ち回りもあり、最後の砦として立ちはだかった試作機に苦戦を強いられつつも、負傷者を出すことなく事なきを得るに至っていた。

 

「クルト。少し、いいか?」

 

 そうして各々が一息を付いていた最中、リィンが声量を抑えて、クルトの名を呼んだ。

 

(……やっぱり、来たか)

 

 クルトにとっては、想定内の声掛けだった。

 『綻び』が生じてから今日に至るまでの間、機会は幾らでもあったはずだ。時間が掛かった原因は、恐らく人選。自惚れではなく、結果として自分を選ぶことになるという見立ても、間違ってはいなかったようだ。

 

「はい。何でしょうか」

「この後だが、何か予定は入れているか?」

 

 即答しては不自然と考えたクルトは、敢えて考えるような仕草を取ってから、リィンに答える。

 

「午後二時から部活動がありますが、それまでは特に」

「そうか。なら、少しだけ時間を貰えないか。自由行動日だし、偶には昼食を奢るよ」

 

 リィンらしい律儀な誘いに、クルトは想像を巡らせながら、リィンに応じた。

 

___________________

 

 

 いつもの食堂に向かうと思いきや、シュバルツァー教官は「気分を変えて場所を変えてみるか」と言って、クラブハウスを選んだ。気分転換を装いつつ、あまり他人には聞かれたくないというのが本音なのだろう。肝心の昼食も既に用意済み。僕が断っていたら、全てひとりで食べていたのだろうか。

 

「よし、ここにするか」

 

 二階に上がり、遊戯具等が置かれた休憩場のテーブルに荷物を下ろす。教官は上着から小銭入れを取り出し、壁際に設置された自動販売機にミラコインを入れた。

 

「好きなのを選んでくれ」

「……お言葉に甘えます」

 

 数年前までは珍しかった自動販売機も、今では大して目新しさを感じない。僕はいつも通り、一番右端のパネルを押した。

 

「へえ。缶入りの紅茶なんてあったのか。気付かなかったな。クルトは紅茶派なのか?」

「そうですね。母が深く嗜んでいたので、その影響かと。教官は珈琲派のようですね」

「紅茶も好きだけど、最近はそうだな。眠気覚ましに飲むことが増えた気がするよ」

 

 甘味料が多めに添加された缶珈琲独特の配合も、疲労には効能があるのかもしれない。ハーシェル教官も砂糖多めのココアを愛飲しているようだ。

 席に着いて缶の蓋を開けると、教官は紙袋から二つの包みを取り出した。

 

「ほら、これが君の分だ」

 

 包みを受け取り、内のひとつをそっと開ける。中から出てきたのは、丸型のサンドイッチ。もうひとつの中身は小振りのオニオンリングが複数個。前者は見慣れた食べ物のようでいて、まるで異なるようにも映る。

 

「このサンドイッチは……ハンバーガー、ではありませんよね。中身は、シュニッツェルですか?」

「フィッシュバーガーさ。白身魚のフライを挟んである。友人が食べさせてくれて以降、俺の好物なんだ」

 

 フィッシュバーガー。初めて耳にする。パティ代わりに白身魚のフライをバンズで挟んでいるらしい。あとはキャベツの千切りに、白色のソースは察するにタルタル。この組み合わせも未体験のはずだ。

 ルセットで購入した新しい商品なのだろうか。何度か足を運んだことはあるが、覚えがない。

 

「遠慮せずに食べてみてくれ」

「では、いただきます」

 

 若干の躊躇いを抱きながら、具材を溢さないようそっと噛り付く。ふんわりとしたバンズ、次いでフィッシュフライのサクみと油っこさと共に、濃厚且つまろやかなソースの酸味、そしてキャベツの歯応え。それらが一体と化した途端、口内へ一気に幸福感が広がった。

 

「んぐっ……ん。これは……うん。良い、ですね。もっと淡白かと思いましたが、ソースの酸味とキャベツの食感が……んん。とても美味しいです」

 

 率直に言って美味しい。これは、良い物だ。大っぴらには語れないが、舌は肥えている方だという自負心はある。しかしこの味わいと食感は唸らずにはいられない。紛れもない匠の逸品に値する。

 

「はは、そうだろう。俺も初めて食べた時は、同じような反応だったな」

「これなら肉食を禁じている地域でも受け入れられそうですね。これはルセットの新商品ですか?」

「いや、俺の手作りさ。バンズも含めて」

「ぶほっ」

 

 意表を突かれ、思わず逸品を落としそうになる。一旦紅茶で喉を潤してから、失い掛けた冷静さを取り戻した。

 

「えー、うぉっほん。あの……き、器用ですね。バンズとはいえ、パンも焼けるんですか」

「俺なりに試行錯誤を重ねてきたから、完成度は高いと思うぞ?お代わりもこの通り、用意してある。存分に食べてくれ」

 

 底なしの気まずさが、重々しく肩に圧し掛かってくる。 

 かの高名な灰色の騎士の手製料理。彼を慕う女性達からすれば、喉から手が出る程に欲するであろう物を、意図せず独り占めにしているという困惑。教官の料理の腕前が想像以上の域に達していたというあまり嬉しくもない発見。

 何より、男性教官の手料理を、本人と二人切りで啄んでいるというこの状況に、形容し難い抵抗を感じてしまう。父の豪快且つ繊細な料理に舌鼓を打つのとは訳が違う。

 

「クルト?」

「な、何でもありません」

 

 落ち着こう。取り乱し過ぎだ。それに本来の目的は、別にある。

 昼食は単なる口実であり隠れ蓑。教官がそうまでして僕を呼び出した理由は―――僕らに、原因がある。

 

「シュバルツァー教官。早速ですが、話というのは……『僕ら』のこと、ですよね」

「……話が早くて助かるよ。色々と考えたんだが……呼び出すような真似をしてすまない」

 

 教官は歯切れが悪そうに頷くと、腕組みをして目を瞑り、午前中の小要塞攻略について触れた。

 

「要塞でのテストは悪くない内容だった。しっかり連携も取れていたし、日頃の訓練の成果を出せていたと思う。シーダとアッシュのリンクレベルも、規定値に達していた。ただ……今日に限った話じゃない。一昨日辺りから、『何か』が欠けていると言わざるを得ないな」

 

 教官生徒を問わず、気付いている者はそう多くないはずだ。有るか無しかの『僅かな違和感』。しかし普段から近しい距離にいた教官からすれば、察するに余りある態度として映っていたのだろう。

 

「……仲違いをしている訳ではありません。それでも、何かあったのかと問われたら、否定はできません」

 

 お互いの距離。笑顔を振る舞う時間。会話を交わす頻度。語調や声色。日常的な行動のあらゆる点で、『ズレ』が生じていた。魔獣や人形兵器との戦闘行為に支障を来たさず、しかし自然と目に留まってしまう程度の隙間が、僕らの間にある。

 

(稽古以外で誰かを殴ったのは……あれが、初めてだな)

 

 自然と疼いた右拳の傷痕を擦っていると、教官は眉間に皺を浮かべて続けた。

 

「実は昨日も、シーダが俺を訪ねて来たんだ」

「シーダが、ですか?」

「初めは何か相談事があるのかと思って、身構えていたんだが……終始、世間話だけでさ。結局何も話してくれなかったんだ。その件もあって、益々気になってしまったというか。でも流石に、気になるだろう?」

 

 珍しく弱気な教官の表情を前にして、失礼と感じつつ抑え気味に笑った。すると教官も、体裁が悪そうに笑った。

 これぐらいの距離でいい。その方が、こちらとしても気を楽にして胸の内を明かすことができる。

 

「多分それは、頼るに頼れなかったんだと思います。この間の演習の中で、ユウナが彼女に言ったんです。『ガイウスさんやアヤさんは関係ない。自立して、貴女自身が教官と向き合って、信頼関係を築くべきだ』ってね」

「ユウナが……。でも、確かにそうだな。シーダは良くも悪くも、あの二人に影響され過ぎていた節があったが……成程な。最近少し大人びてきたのは、ユウナのおかげだったのか」

「だからシーダは、自分自身の目線で教官と向き合い、相談しようとしたんだと思います。でも芽生え掛けた自立心が、邪魔をしてしまった。……いえ、それ以上に、『何が問題なのか』が曖昧過ぎて、相談のしようがなかったんでしょう」

 

 火付け役はアッシュに他ならない。だが僕らの煮え切らなさが誘因した事実も否めない。誰かが間違っていたという話でもない。

 教官の言葉を借りれば、『何か』が欠けてしまっているに過ぎないのだ。それが一体何を指しているのか、当事者のひとりである僕でさえ理解できていない。十中八九、ユウナ達も同様なのだろう。

 

「シーダに限らず、僕らも同じです。何かが悪さをして、噛み合っていないといいますか。上手く、言えませんが」

「いや、何となく分かる気がするよ。俺が学生だった頃も、ふとした拍子に擦れ違いが生じることは多々あった」

「ラウラさんとも、ですか?」

「どうしてそこでラウラの名前が出るんだ……」

「実際、上手くいっているんですか?」

「それなりに、な。ああ見えて二人きりになると結構かわ……コホン。クルト、教官をからかうんじゃない」

「フフ、失礼しました」

 

 咄嗟に出た悪戯心に蓋をして、気を取り直す。

 今回の一件は僕らの問題だ。これ以上教官に心労を掛ける必要はない。しかし万が一、手の施しようがない程にこじらせてしまいそうになったら―――その時は素直に、この人に全てを打ち明けよう。それぐらいの信頼心なら、既に僕の中にある。……我ながら、見事な掌返しだと思う。

 

「だから、時間を下さい。時間が解決してくれる訳ではありませんが、きっと上手くいくと思います。……楽観視が過ぎますか?」

「いや。君がそう言うなら、見守らせて貰おう。……それにしても、クルトも大分、視野が広がったな。ラウラが君のことを大層買っていたが、確かに君は《Ⅶ組》の『重心』になりつつあるみたいだ」

「買い被り過ぎです。ユウナの方が嵌まり役だと思いますし……正直に言って、今も自分のことだけで一杯一杯ですよ」

 

 言葉にした途端、より一層の重みがじんわりと圧し掛かり、視線が下がる。 

 

「率直にお聞きします。あれは―――あの方は、本当に殿下なのですか?」

 

 ヴァンダール家の男子として生を受けた僕にとって、守護の別名は『正義』。先代が築き、鍛造してきた正義。今後数十年続くであろう己の人生を賭して、護り抜くと疑わなかった正義。殿下はその象徴に他ならなかった。

 けれども、僕は与えられて然るべき尊厳の全てを奪われて―――『与えられて然るべき』、そんな風に考えていた自分に、愕然とした。勝手に失望して、自分自身を失い掛けたのが、昨年の秋。

 

「……失念していたよ。君も、ヴァンダールの人間だったな。皇太子殿下とは、長いのか?」

「ええ、それなりに。いつかは一命を賭してでもお守りしようと、心に決めていましたから」

「そうか。俺が最後にお会いしたのは、一年ぐらい前になる。俺も話には聞いていたが……本当に、見違えたよ」

 

 昨日の夕刻。殿下という大前提が、変貌を遂げていた。一度たりとも見たことのない表情。聞き覚えのない声。屈強な体躯。自信に満ち溢れた不敵な笑み。その全てが僕を否定して、心の片隅に辛うじて残っていた淡い期待を踏み躙る。

 

「今でも、悪い夢を見ていたと、思うぐらいです」

 

 この第Ⅱ分校に入り、漸く踏み出せた一歩先。その足許が崩れ去っていくかのような感覚。

 殿下の存在は、未だ僕の根底を成しているのだろう。本校へ来ないかという殿下の誘いを前に、一時でも揺らいでしまった自分が、今でも赦せない。あれが殿下だという現実も、受け入れたくはない。

 

「クルト。人の本質は、そう易々と変わりはしないさ」

 

 複雑極まりない胸中を整理しかねていると、教官は大口でフィッシュバーガーを頬張った。品位に欠けた教官の素振りに訝しみつつ、耳を傾ける。

 

「同様に、共有した時間も関係ないんだ。幼少時からの付き合いとはいえ、向き合わないと見えてこないものだってある。逆に言えば、たった数ヶ月を共にしただけで、心の底から通じ合える関係にだってなれる」

「それは……何となく、分かりますが」

「これだけは言っておく。クルト、俺は君に、後悔だけはして欲しくない」

 

 教官の視線は、手元に注がれていた。郷愁を誘うような憂いを帯びた表情で、夢中になってフィッシュバーガーを口にしては、堪能する。

 

(……なんだ?教官は、一体何を言わんと―――)

 

 ―――友人が食べさせてくれて以降、俺の好物なんだ。

 不意に、教官の何気ない一言が、脳裏を過ぎる。無意識の内に引っ掛かりを覚えていたのか、想像を掻き立てられて、詮索せずにはいられなくなる。

 

(もしかして、その友人は、もう……いや。どちらでもいいか)

 

 後悔だけはして欲しくない。それは文字通りの意味で、教官の心を反映した言葉なのかもしれない。僕の見当違いだったとしても、この人の言葉には、不思議と他者の心を動かす何かを秘めている。

 

「もぐっ」

 

 唯一、確かなこと。ふらふらと揺れ動き立ち位置が定まらず、半ば自棄になって、逃げるように第Ⅱ分校へ飛び込んだ僕の中に芽生え始めた、揺るぎない想い。

 

「それにしても、本当に癖になる味ですね。お代わり、頂けますか?」

「……はは。ああ、勿論だ」

 

 今更になって、どんな顔をして本校行きの誘いを受ける。馬鹿なことを言わないで欲しい。『今の僕』の居場所は、ここにある。

 

___________________

 

 

 五月十五日。

 雲ひとつない蒼穹の空。頭上では太陽が激しく輝き、新緑を照らしている。

 

「二人共、そこまでだっ」

 

 トールズ士官学院第Ⅱ分校のグラウンドでは、先月に続いて二度目となる、五月度の機甲兵教練が実施されていた。

 相対しているのは、二刀の直刃を携えた量産汎用機甲兵『ドラッケンⅡ』。一方の同型の手には独特の形状をした槍。初期型の標準装備であるT2機甲兵用ブレード、そしてL24シュツルムランサーを改良して作製された兵装は、搭乗者が修める流派に基づいたオリジナルだった。

 

『ゼシカ、怪我はないか?』

『ええ、大丈夫。……参ったわ。シュライデンの槍を手にしておきながら、後れを取るなんて。流石ね、クルト』

 

 オーレリア分校長の意向により、機甲兵教練において優れた成績を収めた三名―――アッシュにゼシカ、クルトには、それぞれ専用の兵装が与えられ、その使用を認められていた。

 正規軍人ならまだしも、莫大なミラを費やしての新規兵装の開発と設計を、生徒個人に対して施す。言うまでもなく、士官候補生としては異例の優遇だ。無論、オーレリアなりの考えがあっての決断なのだが、真実を知る者は極一部に限られていた。

 

「ヒュー。クルトの奴、二皮ぐらい剥けやがったな。正規軍人顔負けじゃねえか、リィン」

「そうですね。マニュアル操作であそこまで動かせるのは、クルトとアッシュぐらいでしょう」

「例の『準起動者』として、騎神と繋がったっつー影響があんのかね?」

「いい切っ掛けにはなったんだと思います。一度は機体と一体化したと言っていい感覚があったはずです」

 

 機甲兵の操縦技術は、生徒によって大きな差があった。大まかな構図としては、天性の資質を如何なく発揮するアッシュに続き、導力車両の運転技術に長けたユウナ。そしてクルトやゼシカ、レオノーラといった優秀な面子が横並びになっていたのだが―――ここに来て、クルトの評価が大きく改められた。

 騎神と共に神機を相手取った経験がそのまま伸び代となり、アッシュと同等の域に達したのだ。完全なマニュアル操作を実現できているのも、二人だけ。他の生徒にとっては程良い刺激となっていた。

 

「双剣使いとしての瞬間的な集中力と爆発力は、クルト特有の資質ですね。彼なら『リアクティブアーマー』も使いこなせるかもしれません」

「……テロリストの幹部共が使ってたっつーアレか。兵器としては欠陥品だと思うけどなぁ」

 

 隊長機『シュピーゲルⅡ』をはじめとした固有機体に搭載された、対戦車砲用結界発生装置『リアクティブアーマー』。内戦下では一部で猛威を振るっていた兵器は、実のところ実用性が皆無に等しく、既に前線では採用すらされていない。

 扱いが極めて難し過ぎるのだ。結界はコンマ数秒しか展開せず、莫大な導力を消費するため連続使用は不可能な上、展開後は機体が硬直してしまい無防備。搭乗者曰く、「結界を発生させる暇があれば回避行動を取った方が百万倍マシ」「銃口を向けられた状態で博打に出る人間がいると思うか?」「装置をパージして積載を減らした方が回避の可能性が上がる」等々酷評の嵐。確実性のない兵器は兵器ではないという失敗の代表例として、既に過去の遺物と化していた。

 

「にしてもよ、リィン。『あっち』は相変わらずだな」

 

 ランドルフが指差した先には、同じくドラッケンⅡが直立して佇んでいる。しかし遠目に見ても挙動がおかしく、小刻みに脚部が動くだけで、一向に進もうとしない。搭乗者の腕の震えがそのまま機体に反映され、滑稽にさえ映ってしまう。

 

「シーダさん、落ち着いて下さい。バランサーが働いている間、転倒の危険性はありません」

『わわ、わ、分かっ……あああ!?』

「……ユウナさん」

「う、うーん。これってもしかして、先月よりも悪化してない?」

 

 現時点で、シーダは機甲兵をまともに動かすことすらできていなかった。搭乗して操作レバーを握るやいなや、極度の抵抗を示し、半ば錯乱のような状態に陥ってしまう。先月度と同様に、今回も進展はなし。そればかりか、シーダの狼狽振りは深刻さを増していた。

 

「そろそろ本気で引き際を考えないとヤバいんじゃねえか。あれは素質云々ってよりも、『精神的』なところで引っ掛かってるようにしか思えねえぜ」

「……分かっています」

 

 遠隔操作という概念に乏しい。一同の見解は概ねそのようなところで一致していたが、こうなっては認識を改めざるを得ない。順調に帝国での生活に馴染みつつあるシーダが、機甲兵に限って示す極度の抵抗。恐らく根底には、本人でさえ意識していない何かがある。

 

「シーダの件については、俺が責任を持って預かります。それより、そろそろ『例の件』に取り掛かりましょう」

「了解だ。……ぶっちゃけ、不安しかないけどな」

「ま、まあ大丈夫でしょう。ティータ、準備を進めてくれ」

「はい、すぐに始めます!」

 

 リィンが声を掛けると、ティータは意気揚々といった様子で後方に待機していたヘクトルⅡに駆け寄り、搭乗用の縄梯子には目も向けず、素早い身のこなしで機体をよじ登った。コックピットに滑り込み、僅かな時間で立ち上げを済ませ、重厚な鋼の機体が動き出す。

 今から何を始めようというのか。生真面目な性分のウェインが、皆を代表した。

 

「シュバルツァー教官。訓練の予定表に記載はありませんでしたが……これから、何を始めるんですか?」

「それについては私から話すとしよう」

 

 答えたのはG・シュミット。白衣を身に纏ったシュミットは、知性の象徴でもあるラウンド型の眼鏡を掛け直し、腕組みをして生徒らを見渡した。

 

「今回のテーマは『騎神』だ。お前達も知っての通り、騎神は機甲兵とは比較にならん程の機動力を備えている。実際に目にした者なら理解しているだろう」

 

 一様に複雑そうな表情を浮かべる生徒達。灰の騎神がリィンの召喚に応じ、無人で上空を自在に駆った姿は、先月の演習で全生徒が目の当たりにしたばかり。神機との壮絶な衝突も《Ⅶ組》を介して話は広まり、より一層の注目を集めていた。

 

「スラスターの推進力による高速機動と飛行能、搭乗者と五感を共有することで生まれる精密動作。どれもが機甲兵では到底届かん領域だ。たとえ無兵装の騎神が相手でも、徒手空拳で無力化されるのがオチだが……近接距離の不利を考えれば、当然とも言える。ウォーゼル、理由を簡潔に述べてみろ」

「え?あ、はい。……あの、え?」

 

 唐突な名指しに、未だ息切れ気味のシーダが戸惑いを露わにした。半ば聞き流していたことは明白で、見かねたアルティナが小声で助け舟を出し、漸く質問の意味を理解する。

 

「近接、近接……あ、そっか。機甲兵は元々、格闘戦が苦手だから、ですよね?」

「……まあ、半分正解にしてやろう」

 

 最大限の譲歩。シュミットは渋々告げると、機甲兵の設計担当者としての見解の詳細を並べた。

 

「そもそも『初期型』の機甲兵は、強襲任務を主目的として開発された精密兵器だ。人型でありながら格闘戦を想定しておらず、重厚長大な戦車とは違い、戦場では使いどころも限られる」

「だが実際にはあの内戦下でも、各所で格闘戦は頻発していたんだ。武術で言うところの『零勁』を体現した先輩もいたよ。……反動で、機体は無事じゃ済まなかったけどな」

「……全く度し難い話だ。だがシュバルツァーが言ったように、戦訓が集まるに連れて近接戦闘の重要性が明らかとなり、開発されたのが『ドラッケンⅡ』や『シュピーゲルⅡ』といった改良型だ。無論、改良型の強みは格闘戦にも耐え得る強靭さではあるが、一方では結果として思わぬ副産物も手に入れた。カーバイド、その副産物とは何だ?」

「優れた拡張性とペイロードの広さ、だろ」

 

 アッシュの的確な返答に、シュミットは無言で満足気に頷いた。

 作戦任務や目的に応じて生み出された機甲兵の代表例が『ケストレル』や『ゴライアス』。量産汎用型とは違い、機動力や装甲火力に特化した新型機は、その反面兵器としての『汎用性』が損なわれており、運用コストや保守性といった点でも課題が多々残されていた。

 一方の量産汎用型は、改良により基礎体力が向上したことで、兵装の幅が広がった。様々な格闘兵器、携帯火器を搭載し使い分けることで戦局に沿った立ち回りが深まり、量産可能な汎用兵器としての地位を確固たるものにしつつある。『ケストレルⅡ』や『ゴライアスⅡ』といった改良型が開発された今も尚、前線では専ら『ドラッケンⅡ』に『シュピーゲルⅡ』、そしてペイロードの広さを活かせる『ヘクトルⅡ』のような機体が台頭していた。

 

「今回の試みは、兵装を駆使することで、騎神特有の優位性を擬似的に確立することにある。そのための『人材』が、先の演習で見付かったからな。……弟子見習い、準備は済んだか」

『たった今完了しました。これから出ます』

 

 シーダの応答を合図にして、格納庫の大扉が開かれる。ティータが操縦するヘクトルⅡが徐々に接近するに連れて、先程までとは異なる外見が、自然と視線を集め始めた。

 

「あれって……さっきのヘクトルⅡよね。何だか、ちょっとだけスリムになってない?」

「固定武装の追加装甲を外しているようです。それよりも……あれは、何でしょうか?」

 

 機体の腰部にマウントされた大型装置。追加装甲を外しても頑強なフレーム構造はそのままに、見慣れないユニットがヘクトルⅡの腰回りに外付けされていた。多少の違いはあれど、誰もが『騎神』を連想した。

 

「機体のベースはヘクトルⅡだ。積載を減らした代わりに、腰部に『導力スラスター』を搭載した。直進的な動きに限られるが、スラスターから高速で噴出する導力流により、高速機動が可能になる」

「えっ!じゃあもしかして、騎神みたいに空を飛べたりするんですか?」

「できる訳がないだろう愚か者が!」

 

 ユウナが目を輝かせるやいなや、手厳しい罵倒が浴びせられた。シーダの時とは打って変わって容赦のない反応に対し、ユウナは「あたしだけひどくない!?」と不服そうに口を尖らせ、クルトが冷静に宥め始める。

 

「まあ、飛行能については継続課題ではある。……弟子見習い、『例の装備』についてはお前に任せるぞ」

『は、はい!』

「話を戻す。もうひとつ、センサー系統にも工夫を凝らしてある。スラスターの機動力を自在に操るには、騎神のように搭乗者が機体と一体化するに近しい感覚が必要だ。既存のセンサーでは手に余るからな」

 

 シュミットは満足げにヘクトルⅡの勇姿を仰いだ後、やや間を置いて少女の名を呼んだ。

 

「今回採用したセンサーに適合するのは、ウォーゼル。お前ぐらいだろう」

「へ。わ、わたし?」

「ルグィン将軍に匹敵する、極端に秀でた五感の持ち主……その異能を活かすには打って付けの機会だ」

 

 グラウンド場が騒然となる。全生徒の中でも、機甲兵の扱いに関して言えば追随を許さない程に低空飛行を続けるシーダが、名指しされた。本人以上に、彼女の身を案じる生徒らが戸惑いを露わにした。

 

「まま、待って待って。まさかあの機体を、シーダが操縦するんですか?」

「ええい、早合点をするなクロフォード。ドラッケンⅡすら動かせん小娘に、導力スラスターを搭載したヘクトルⅡを任せる訳がないだろう」

 

 緊張が一気に解け、誰もが大きな溜め息を付いた。

 見るからに特殊で癖が強い機体を操縦するとして、適任者は一体誰なのか。満場一致で、不敵な笑みを浮かべていた男子生徒が選出された。

 

「カーバイド。先月の演習での報告書には目を通した。お前の操縦技能と瞬発力、動体視力は買っている。乗りこなして見るがいい」

「クク、そう来るかよ」

 

 アッシュは一歩前に身を乗り出し、ヘクトルⅡの巨体を仰いだ。

 耐久性や機体剛性、ペイロードを重視して造られた構造。力強く、それでいてスラスターという翼を手に入れた鋼の肉体が、強烈で危険な魅力を放ち、目が離せない。自然と胸が躍った。

 

「導力スラスターか。面白え、暴れ馬の扱いなら任せときな」

「それとウォーゼル。センサー系統の詳細については後述しよう。事前に課した戦術リンクレベルについても、規定値に達したと聞いている。準備を進めろ」

「あん?」

「……はい?」

 

 きょとんとした様子で立ち尽くすアッシュとシーダ。同様に大きな疑問符を浮かべる面々。事前に聞かされていたリィンとランドルフだけが、複雑そうな面持ちで明後日の方向を見やっていた。

 

「何をしている。ぐずぐずするな、さっさと乗るがいい」

「いや、だから……あれ?あ、アッシュさんは?」

「何度も言わせるな。何のための戦術リンクだ。それに先月の演習では、ドラッケンⅡに二人乗りをしたのだろう?今回も、二人乗りだ」

「えええええええ」

「はああああああ!?」

 

 二人の沈痛な叫びが、第Ⅱ分校のグラウンドに響き渡った。

 

 

 



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番外編・短編集
一二〇三年二月 アッシュ・カーバイド


アッシュに焦点を当てた、三年前の過去話になります。


 

 

 寒かった。指先から体温が漏れ出て、感覚を失う。

 衣服は用を成さず、四肢の先端が段々と遠退いていく。

 

(……誰でもいい)

 

 誰かの人肌が、唯一の温もりだった。

 冷たくて、冷たくて。愛おしくて。

 どうしようもなく、愛おしかった。

 

___________________

 

 

「――てるの、アッシュ?勝手に上がるわよ」

 

 穏やかさの欠片もない起床。瞼を閉じたまま深呼吸を置いて、安物の壁掛け時計を見やる。

 午前九時過ぎ。今日は二月の何日だったか。起きたばかりで頭が働かない。

 

「……ったく。朝っぱらからうるせえっての」

 

 重い身体を起こして、椅子に掛けていた上着を取り、導力式ヒーターのスイッチを入れる。これも年季物だが、暖を取るには事足りる。買い替える余裕もないし、あと数年は使えるはずだ。

 両手を擦りながら温まっていると、開かれた玄関扉の先には、腰まで届く金髪を揺らす女性の姿があった。

 

「あら。なによ、起きてたの?なら出てくれたっていいじゃない」

「今起きたんだよ。さっさと閉めろや、寒くて仕方ねえ」

「はいはい」

 

 女性の名はジュリア姐さん。界隈では名の知れたバーテンダーで、老若男女を問わず、姐さん目当てで『ハーミット』を贔屓にする人間は多い。年齢は三十を過ぎているはずだが、確かめようにも引っ叩かれて口を閉ざしてしまうのだから知る由もない。

 

「何の用だよ、姐さん」

「差し入れ。モーリーさんのお店に寄ったら持たせてくれたの。……また寒そうにしてるけど、風邪は治ってないの?ちゃんと看て貰った?」

「風邪じゃねえって言ってんだろ。どこも悪くねえって」

 

 医者の診断によれば、身体は健康そのもの。しかし手足の冷えは最近の悩みの種だ。ふとした拍子に四肢を冷水に突っ込んだような冷えに襲われてしまう。所謂冷え性というやつかもしれない。

 今年は暖冬だと聞いていたが、心が折れそうになる。単純な風邪の方が気が楽だというのに。

 

「そう。それで、食事はしっかり取ってるの?育ち盛りなんだから、食べ過ぎぐらいがちょうどいいのよ」

「食ってるっての。つーかまた差し入れかよ?この間の野菜だってまだ残ってんだぜ」

「贅沢な悩みじゃない。最近は野菜だって高いんだから。ここ、置いておくわよ」

 

 大量の野菜が詰まった籠が台所の隅に置かれた。どうやらまた料理の幅を広げる必要があるらしい。このままでは到底処理し切れる自信がない。

 

「……ん。掃除はしてるみたいね」

 

 姐さんは室内を見渡すと、満足気に首を縦に振った。

 すると壁際のデスク上に置かれていた写真立ての内のひとつを手に取り、優しげな表情を浮かべると、抱き包むような仕草で、写真立てを胸に当てた。

 

「おはよう、エレン姐さん。おかげ様で、お店も繁盛してるわ」

「……フン」

 

 あの日。残暑が厳しかった九月のあの日。あれから、二年半の月日が経った。

 その日暮らしが当たり前だったオフクロは、実のところそれなりのミラを積み立てていて、向こう数年間の生活に不自由はないと判断された。

 ひとり残された俺の処遇については、姐さんと食堂『デッケン』の女将が未成年後見人を買って出てくれた。二人の申し出がなければ、教会が運営する施設行きは免れなかったのだろう。当時の俺には、その意味合いが理解できていなかった。

 

(……最近よく、思い出しちまうな)

 

 理由は分からないが、あの日のことを思い出す機会が増えた気がする。特別なキッカケがあった訳でも、家族という存在に対する価値観に変化があった訳でもないのだが。

 血の繋がりが無かったせいか、涙は出なかった。思えばあの時も、ひどい寒気に苛まれたような気がする。唐突に『それ』は訪れて―――手足の指先が、凍えていく。

 

「っ……!」

 

 まただ。油断した傍から、またあれがやって来る。

 寒い。寒い。寒い。どうしようもなく、寒い。

 

「ちょっと。貴方、本当に大丈夫?」

「あ?」

「顔色が良くないわよ。やっぱり風邪じゃないの?」

「引いてねえよ。ただ……いや。何でもねえ」

「でも―――」

「触んな!!」

「っ!?」

 

 差し伸べられた手を無造作に振り払って、ハッとした。気付いた時には、手が出ていた。

 急速に体温が上昇していくのを感じた。冬場らしく室内は乾燥しているのに、全身に浮かんだ汗粒が衣服に纏わりついて、不規則な吐息が妙に熱を帯びている。

 

「……ワリィ。起きたばっかで、テンションがおかしいみてえだ」

「ん……そう。大丈夫なら、いいんだけど」

 

 確かめるように、右手を握っては開くを繰り返す。多少の震えはあるものの、感覚は戻っていた。朝特有の肌寒さは季節を考えれば当たり前。何もおかしくはない。

 

「あ、そうそう。モーリーさんのお店、従業員がひとり休んじゃったみたいで、人手が足りてないみたいなの。貴方ヘルプに行きなさい」

「はあ?何で俺なんだよ?」

「健康だって言ったのは貴方でしょう。それに差し入れのお礼も言わないといけないし、どちらにせよ用があるんだから、四の五の言わず行ってきなさい」

「ちっ……面倒くせえ」

 

 姐さんが窓を開けて室内の空気を入れ替えると、峡谷地帯特有の乾燥したそよ風が、姉さんの金髪を揺らした。その横顔を見詰めていると、再び指先に冷たさを覚えて、俺は誤魔化すように両手を上着にしまい込んだ。

 

(何なんだ、一体)

 

 ここ最近ずっとだ。この寒気は、何なのだろう。

 この凍てつきは俺に、何を云おうとしているのだろう。

 

___________________

 

 

 空っぽの酒瓶が詰まった木箱を店の裏通りに運び出し、一通りを済ませたところで、厨房で忙しなく働く悪友に声を掛けた。

 

「おいシリュー、これで全部か?」

「ああ、今ので最後だ。何か持ってくるから、裏で一服しようぜ」

 

 ふうと一息を付き、壁に背を預けて腰を下ろす。ぼんやりと頭上を仰いでいると、二本の瓶を片手で器用に持ったシリューが隣に座った。瓶の中身は炭酸飲料らしい。

 

「はー、助かったよ。こいつは俺の奢り」

「タダ働きさせといてよく言うぜ」

「俺に文句言っても仕方ないだろ……」

 

 蓋を開けて喉を潤すと、程良い炭酸が口内を刺激した。淹れ立ての熱い珈琲が欲しいところだが、贅沢は言ってられない。おかげで昼飯にも無料で有り付けた。

 

「そういやシリュー。お前、煙草止めたのか?」

「んー。ここで吸ってたら女将に取り上げられちまって。『十五のガキが何考えてんだい』って怒鳴られた」

「そりゃ無理もねえよ。もっと上手くやれや」

「まあ、舌が馬鹿になっちまうって話も聞くしな。俺は頭悪いし、料理人として食ってくためって考えりゃ、丁度いいのかも」

 

 こと料理という分野に限って言えば、シリューには天性の才があった。何を作らせても外れたことがないし、今も料理人見習いとして『デッケン』で小銭を稼ぐ日々を続けている。

 味音痴で極度のメシマズなオフクロに代わって俺が料理当番を担えたのも、この悪友から手解きを受けた成果に他ならない。後々聞いた話では、オフクロが俺を引き取るに当たって周囲が最も懸念した点が、食生活。それ程までにエレン・カーバイド=メシマズという図式は知れ渡っていたようだ。

 

「逆にアッシュは酒にも煙草にも手を付けないよな。一度聞いてみたかったんだけど、何でよ?」

「言うまでもねえよ。身近に反面教師がいたからな」

「反面教師?誰のことだ?」

「言わなくたって分かんだろ」

「……あ。その、すまん。変なこと聞いた」

 

 直接の原因ではないにせよ、水商売という生業はオフクロの身体を少なからず蝕んでいた。業界には酒も煙草もやらない人間だっているらしいが、大半は客付き合いを優先する。

 考えてみれば、酒臭さは日常の中にいつだってあった。とても不快で、安堵する匂い。今でもよく覚えている。

 

「……アッシュ。もしかして、具合悪いのか?」

「は?」

「いやなんつーか、血色が悪い?ように見えたから」

「あ……いや」

 

 知らぬ間に、身体が小刻みに震えていた。もう何度目か分からないこの感覚。

 寒い。寒い。寒い。抗いようのない寒さが、重く圧し掛かる。

 

「何でも、ねえって。……それより、もうヘルプはいいのかよ。俺だって暇じゃねえんだぜ」

「あっ。えーと、悪い。もう一件頼まれてくれないか?実は届け物があってさ」

「マジかよ……」

 

 シリュー曰く、礼拝堂からとあるハーブを分けてくれないかという依頼があり、女将のモーリーが快く了承したそうだ。一方で店側も礼拝堂も手一杯の状況にあり、物はあるのに届けられない。シリューも人手不足で厨房を離れられず、ヘルプで入った俺に白羽の矢が立ったらしい。

 

「わーったよ。そん代わり、今度また料理ネタを教えろや。野菜を沢山使うやつ」

「すまん、本当に助かる。こいつを礼拝堂の……なんつったっけ。ほら、最近余所から来たシスター見習い。名前が出てこない。あいつに渡してくれ」

「ああ、あのメガネか」

 

 ハーブが入った包みを受け取り、溜め息を付く。

 凍てつくような寒気は、いつの間にか消えていた。

 

___________________

 

 

 シスター・オルファ。先月にラクウェル礼拝堂に赴任したばかりの新米で、その名は悪い意味で一気に知れ渡った。

 時に聖典の朗読を間違え、時に作法を間違え、時に支給する薬草の種類を間違え、万遍なく下手を踏む。彼女の働きを快く思わない住民が半分、直向きさや純粋な頑張りを評価する住民がもう半分。

 

「つーわけで、こいつが届けモンだ。間違って食うんじゃねえぞドジメガネ」

「た、食べませんっ。ああもう、どうしてアッシュ君はいつもそうやって……ど、ドジメガネってなんですか!?」

「しかし何だ、いつにも増して忙しそうだな。司祭さんは留守なのか?」

「無視しないで下さい!」

 

 か弱い怒声を聞き流して、堂内を見渡す。博打で一山当たるよう祈りを捧げたり破産相談を持ち掛けたりと、ラクウェルの住民は礼拝堂に対して容赦がないのだが、当のイートン司祭の姿が見当たらない。

 

「司祭様は急遽外出されました。なんでも、南のリベール王国方面で騒動が起きたとか」

「リベール?何のことだよ?」

「私も詳しくは知らないんです。ですが、どうも只事ではないようで……」

 

 初めて耳にした情報だ。礼拝堂の司祭が最優先で当たる程の案件となれば、確かに穏やかではない。しかも国外。国内にも影響を及ぼす可能性があるということだろうか。

 どうも引っ掛かる。質屋『マッケンロー』にでも顔を出して情報を探っておくとしよう。

 

「それにしても、この街の住民はどなたも突拍子がないといいますか……今朝も『イイ男が引っ掛かりますように』という的外れなお祈りをする方が来られましたし」

「クク、そりゃローザだな。水商売の女共はどいつもこいつも―――」

 

 ぞくりと、背筋に悪寒が走った。

 未だかつてない早さで体温を奪われ、寒気が襲来する。耳鳴りがひどく、身体が強張って呼吸すら儘ならない。両足の指先に力が入らず、立っていられなくなる。

 寒い。寒い。寒い。

 寒い寒い寒い寒い寒い―――

 

「アッシュ君?どうかしましたか?」

「っ……!!」

「ひゃっ、あ?」

 

 耐え切れず、少女の両手首を握り、力任せに壁際に追い詰めた。戸惑いを露わにした表情を視界から外し、うなじの辺りに口元を当てた。

 途端に、温もりを感じた。温かい。温かい。温かい。

 地肌を介して、体温が伝わる。ふくよかな胸元が温かい。愛おしい。温かい。

 

「な、んぁ……シュ、君、です。駄目っ……やぁあ!!」

「あっ……」

 

 暗転。知らぬ間に途絶えていた呼吸を再開して、一気に視界が開けた。凍てつくような寒さは、治まらない。一向に収まる気配がない。

 おかしい。どうして。どうしてだ。どうして―――俺は。

 

「その、ワリィ。マジでごめん。謝る、から」

「アッシュ君……?」

「今度、また謝る」

 

 真面に顔を見ることさえできず、その場しのぎの謝罪を口にしてから、逃げるようにその場を後にする。

 血の気が引いた。何も考えることができず、ただ息が詰まった。まるで光が届かない海の底でもがいているみたいに、苦しくて、寒かった。

 

___________________

 

 

 どれぐらい時間が経ったのだろう。数時間前に夜の帳が落ちて、歓楽都市特有の賑やかさが街中に広がった。喧騒のピークは既に過ぎていて、客引きや下らない喧嘩の声も減り、段々と人気が減っていく。

 

(クソ……クソ、畜生)

 

 寒い。寒い。寒い。

 いつから自分はおかしくなってしまった。今の自分は魔獣と同じだ。自由奔放に生きるのと、欲望に身を委ねて喰らうのとは違う。自分が自分以外の何者かになっている。一体何処で、何を間違えた。

 寒い。寒くて、凍え死んでしまいそうだ。誰か―――誰か。誰でもいいから。

 

「アッシュ?」

「……姐、さん?」

 

 不意に、声が聞こえた。ただでさえ人通りの少ない路上に導力灯の光は届かず、声の主の顔は窺えない。身近にいる世話好きの誰かのような、違っているような気もする。

 けれども、その声がどうしようもなく、愛おしかった。

 

「アッシュなの?ちょっと貴方、こんな所で一体―――きゃっ」

「寒いんだ。温まりたい」

「ああ、アッシュ?あ、ちょ、え?」

「頼む。寒い、寒く、て」

「アッシュ、貴方……」

 

 包み込んでくれる香りが、香水の匂いが懐かしかった。その温もりが柔らかくて、ただただ、愛おしかった。

 

___________________

 

 

 

 

 

 

 少年は夢を見ていた。

 記憶と願望がない交ぜになった世界の中で、少年はたったひとりの最愛の下で育ち、逞しい男性へと成長した。

 

 やがて故郷を離れ、とある女性と出会い、将来を約束し合った。そうして授かった新たな生命を目の当たりにした男性の母親は、歓喜にむせび、我が子と孫を抱いた。

 

 世界には、理不尽さも不条理もなかった。

 与えられて―――手に入れて然るべき幸せだけが、世界には満ち溢れていた。

 

 

 

 

 

___________________

 

 

「……んん」

 

 自身の呟きで、アッシュ・カーバイドはハッと目を覚ました。見慣れた天井と、毛布の肌触り。壁掛け時計の規則正しい刻み。何年間も過ごしてきた自宅。

 

「俺は……」

 

 起床直後だというのに、頭は冴えていた。昨日と同じ服装で、上着のコートとジーンズだけはベッドの傍らに畳まれている。記憶は曖昧だが、シャワーを浴びた形跡はなく、シャツは少々汗臭い。

 

「おはよ」

「……姐さん?」

 

 声に振り向くと、ガウンローブ姿のジュリアが立っていた。母親が残した数少ない遺品であり、見慣れた寝間着。アッシュ同様に起きて間もないせいか、大きな欠伸を隠そうともしない。アッシュは思わず目を背けた。

 

「何か飲む?まだ夜明け前だし、寒いでしょう」

「や、俺は……その」

 

 珍しく戸惑うばかりのアッシュを見て、ジュリアは悪戯な笑みを浮かべ、導力ヒーターのスイッチを入れた。

 

「念のために言っておくけど、『何もなかった』わよ。温めて欲しいっていうから、一晩中貴方を抱いてあげただけ。文字通りね」

「そう、なのか」

「貴方だって三十のオバサンが相手じゃ嫌でしょう。やり方が分からないって歳でもないでしょうに」

「ぶっ殺すぞてめえ」

「フフ。どう?まだ、寒い?」

「……少し」

「そう」

 

 ジュリアは笑みを湛えたままベッドに腰を下ろし、アッシュの肩を抱き寄せた。ぴくりと肩が震えたが、構わずにそっと頭部に指を這わせて、愛おしそうに抱いた。

 

「ねえアッシュ。ひとつだけ忠告しておくわ。貴方は一生、エレン姐さんの死から逃れられない」

「え……え?」

 

 微塵もいやらしさのない愛撫。母親が我が子へそうするように、慈しみ、愛情を注ぐ尊さだけが、アッシュを包み込む。

 

「できないのよ。それは貴方がこの先ずっと背負わなければならないものなの。忘れることも、逃げることも、消すこともできない。悲しみは一生貴方を縛り付けるわ。付き纏って、貴方を追い詰める。もう、分かっているんでしょう?」

「……俺、は」

「だから、受け止めなさい。目を逸らさずに、エレン姐さんと向き合うの。エレン姐さんはもういない現実と向き合い、受け止めて……この世界を生きて。アッシュ」

「おれ……う、わ」

 

 堰を切ったように、アッシュの頬を大粒が伝っていく。

 唯一の最愛が倒れた時も。残された時間を言い渡された時も。死に目に会った時も、たった一人で我が家に戻った時も、目覚めの度に孤独を突き付けられた時も。流れ出ずに溜まりに溜まった全てが、一挙に押し寄せる。

 

「泣いたっていいのよ。しっかり苦しみなさい。苦しんで、苦しんで苦しんで、全部、吐き出して。貴方はひとりじゃない。ひとりじゃないんだから」

「あ、あぁ……う、あぁあ」

 

 紡がれた言葉の先で、アッシュは見た。ぼんやりとした世界の中で、エレン・カーバイドは困ったような表情を浮かべて―――それでも彼女は、笑っていた。

 

 

___________________

 

 

 七曜歴一二〇六年、四月。夜明け前、帝都方面行きの列車が始発を控える時間帯に、アッシュ・カーバイドはラクウェル駅の改札前で手荷物の最終確認を行っていた。

 とは言っても、荷物の大半は事前に宿舎へ送り込んでいる。移動時間のほとんどが列車内ではあるが、必要最低限に留めた荷物はバッグひとつでも充分に事足りた。

 

「さーて。行くとすっか」

「随分と早い旅立ちじゃの」

「……あん?」

 

 振り返った先には、ベンチに座りながら帝国時報を広げる初老の男性がひとり。質屋マッケンローの店主がにやりと笑うと、アッシュは不機嫌そうに返した。

 

「ったく。何してんだ爺さん。挨拶はもう済ませただろうが」

「入学祝いを渡し忘れてな。ほれ、もってけ」

 

 マッケンローが小さな紙袋をひょいと放り投げると、アッシュは慌ててバッグを地べたに置き、両手で拾い上げる。重さはほとんど感じず、手に取った感触からでは中身が何か想像も付かない。

 

「鎮痛剤じゃよ。とっておきのな」

「鎮痛?」

「何を抱えているのか儂は知らんが、どうやらお前さん自身も『それ』が何か理解しておらんようじゃしのう。ま、ただの気休めじゃよ。『疼いたら』使うといい。ヒヒ」

「……クク、よく言うぜ」

 

 始まりはいつだったのか。もう覚えてはいない。

 極度の寒気に襲われたのは、三年前が最後。しかしもうひとつの『疼き』は唐突に舞い降りて、左眼が熱を帯び、身に覚えのない声が脳内で反芻する。得体の知れない疼きを解き明かす術はなく、しかし本能のような何かが、耳元で囁くのだ。

 瞼の裏に浮かぶ焔。誰かの悲鳴。全ての答えは、失った過去にある。

 

「ありがたく受け取っておくぜ」

「抜かりなくな、小童」

 

 迷いはない。覚悟はできている。これから歩む先に待ち構えているものは、恐らく底なしに深い業のような塊。それだけは理解していた。けれども、立ち止まる訳にはいかない。

 

「……いってくるぜ、オフクロ」

 

 想いは強く、決意は固く。足場は脆く、呪いは重く。

 エレン・カーバイドは一人息子の背中を見送りながら、より一層困ったような表情で儚げに笑い、「いってらっしゃい」と、そう告げた。

 

 

 

 



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