戦友諸君、地獄へようこそ (homura1988)
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戦友諸君、地獄へようこそ

pixivに上げている既存です。


  ターニャ・デグレチャフの夜はとても貴重である。成長期の子どもには十分な睡眠が大事だと医務局の者も言っていたことから、一向に減らない書類の束がわたしのなかなか伸びない身長の原因になっているのだと確信していいだろう。

 タイムカードを切ったあと、と言いたいがそもそもタイムカードという概念がないここではこの言葉は無意味であるため、はっきりと、サービス残業と申しておこう。いざ言葉にすると更にやる気を削がれてしまい、すでに何枚か紙を無駄にしている。

 時計の針がカチリと時を進ませたところでわたしは万年筆を置いて背伸びをした。

 単に目通しするだけの書類や署名するだけの書類ならまだいい。しかし今夜の無報酬デスクワークは広報室から依頼を受けたものだった。

 これがまた呆れた笑いすら忘れてしまうほど実に皮肉ったタイトル。大隊編成の際の募集要項さながらのこのタイトルを考えた広報局の者とは美味しいコーヒーが飲めそうな気がする。

 新兵募集の冊子なのだが現航空魔導師の精鋭勢を紹介をするページがあるそうで、今回わたしが率いる203大隊にその順番が回ってきた。最近は各方面に引っ張りだこになっている為、ページを大幅に取って大隊長から簡単に大隊の宣伝と部下の評価をいただきたい、ということらしい。大隊の士気向上にもなるし、セレブリャコーフ少尉が言うには、この冊子は帝都の一般市民も見ることができるということで、上手くいけば女性の目に止まって出会いのきっかけになる、ということだそうだ。実際この冊子がきっかけで女性と出会い結婚まで至った士官もいるのだと。プロパガンダと婚活の両方を担っているわけだ。

 わたしにはとても関係のないことだなと鼻で笑ってやると、少尉は不思議そうに顔を傾かせて、少佐殿もあと少ししたら殿方が黙っていませんよ、と今日も変わらずたわわな胸を、ずいぶんと逞しくなった腕二本で挟ませていた。駄目だ、これはセクハラに値するだろう、考えるのはもう止めよう。

 デスクに置いた万年筆を再び手にし、訂正印まみれの紙にインクを滲ませるが直ぐに途切れてしまう。締め切り日まで余裕はあるが、わたしは夏休みの宿題を早めに終わらせて自分のやりたい勉学に励むことが好きだったのだ。

 前世で子どもだった頃、まだ小学校低学年だっただろうか。宿題科目にはなかった自由研究を自主的に行い、小さいながらも優秀賞を貰った私の頭をこれでもかと撫でながら喜んでくれた父の大きな掌を思い出してしまった。眠気が背後から押し寄せているのだろう。

 けして、愛おしい人の、少しばかり愛煙の沁みた手指を求めたわけではない。理性的で生理的かつ健全な心の裏側だ。

 マグに注がれていたはずのコーヒーはすでに空っぽで、わたしの視覚がそれを認識した瞬間、背後の眠気はわたしの小さな躯体に覆いかぶさる。ここは非魔導依存環境下なのだ、重力に従い力が抜けていくわたしの上半身は冷たいデスクへと落ちていく。

 蹴落とす評価ばかりに慣れていたためか、いざ褒めろと言われると筆はなかなか続いてくれない。参考資料にとバックナンバーを渡されたがそれほど読む気にはなれず、一度も開かれずに横に置いてあるだけだった。

「 こういう時、人事を担っている中佐殿なら… 」

 恋仲になってからはエーリッヒと呼ぶようにしているのだが、かれこれ三週間ほど会えていないせいか中佐殿と呼称が戻りつつある。そろそろ帰ってきてくれないと、本当に付き合ったばかりの時のように恥ずかしくてエーリッヒと呼べなくなってしまいそうだ。

  眠気に負ける寸前に窓の向こうを見てみると、欠けた月ではなく誘蛾灯が見えた。ジリリと蛾が焼け焦げる音が耳に届くたびに小さな命が途絶えているのだろう。何度も前線で見てきた光景だ、わたしらしくていいじゃないか、今さら何を月に嘆くことがある。

「実に、人間的だ、なー 」

 目を閉じて、喉にひっかかる程度の一人笑いをしてしまった。

 実際、部下らはよくやってくれている。直ぐに根を上げることを仮定とした過酷な訓練を乗り越えわたしのもとで見事に人的資源の一員になってくれたのだ。上官として、無理な背伸びのない成長は素晴らしい。戦友として、あらゆる死地から共に帰還できたことを誇りに思っている。それを単純かつ明快な文字にしたらいい。

  日頃の感謝とでも称してもう一度頑張ってみようかと万年筆を取ったが、あとは一番に悩ませている箇所だけ、のところまでは書いてみたのだが、成長期の身体はいとも簡単に重い瞼を閉じることに抗えず、わたしは深くなる夜半に意識を落としていった。

 

 

 

 

 

 

 

「 ターニャ、起きているのか 」

 静かにノックをしてみたものの、扉の向こう側にいるはずの者からは何も反応らしき音も声も聞こえない。懐中の時計を確認するが、変わらず時計の針は深夜一時を指している。

 今夜帰ると電報を寄越したのだが見ていないのか。出張帰りからの軍議へ出席した身のまま彼女の寝室へ足を運んだがもぬけの殻だった。 さすがにこの時間にはいないだろうと思いながらも執務室に向かうと電気が点いているのを見てしまい盛大にため息を吐いてしまった。 もう一度ノックをしてみるがやはりそれらしい反応はない。ドアノブを捻ると、無用心なことに鍵は掛かっていないようだ。

「 入るぞ 」

 人通りなど全くない廊下よりも、人の気配など掻き消えたような静けさと深い夜半の肌寒さが漂う執務室に思わず足取りが止まる。微かに、ほんの微かにコーヒーの匂いが残っているが、今しがた軍議で上官らから貰い受けてきた葉巻や煙草の臭いでコーヒーの匂いは直ぐに散華してしまった。ジャケットを脱いでソファに掛けようとしたが、それよりも前にデスク横の窓から射し込む光の中で突っ伏して寝ている彼女の姿を見つけた。

 しかし、今夜は曇りで月は見えなかったはずだ。起こさぬようにカーペットに軍靴を沈ませながらデスクへ近づくと、月から洩れた露光だと思ったものは誘蛾灯からの光だったらしい。覗き込めば、左手を枕にして頬をくにゃりと歪ませている顔はなんとも年相応らしく、珍しいものが見れてしまった。尻尾のように彼女の一喜一憂にふわふわと揺れていたてっぺんの髪も、今はくったりとデスクに垂れて休んでいる。

 そして彼女のデスクには無さそうなものが一つ、寝ている彼女の横に置かれている。創刊号の際に一度だけ私も関わったことのある新兵募集要項や航空魔導師の紹介がある冊子だ。付箋が貼られている箇所を捲ると、予想していたとおりのページだった。

 実は広報局から、203大隊の紹介ページを載せる際にターニャ・デグレチャフの紹介と評価のコメントを書いて欲しいと頼まれている。同様に、彼女も大隊の部下と直属の上官である私への紹介と評価を頼まれているはずだ。

 そのお互いが、まさか恋仲であることはさすがの広報局も知らないだろう。もし知っていたとしたら、先々月号の最後のページの、明らかにターニャ・デグレチャフをイメージした女性士官が主人公の恋愛短編小説など掲載するはずはない。中身は読んでいないが噂では短編小説の域を超えていてもはや文学に近く、今じゃその号だけはオークションなどで高値で取引されているらしい。

 個人的には読んでみたい気もするのだが、新兵募集の冊子に《戦友諸君、地獄へようこそ》というタイトルを付ける広報局が掲載した小説だ、普通では済まされないはずだ。それに加え作者は匿名になっていて誰が書いているのかわからない。小説だろうと、彼女の身を好き勝手に暴かれるのは恋人として面白くない。だから、私しか知らないターニャ・デグレチャフがいることを、恋人らしい嫉妬を見せつけるべく、今回の依頼を引き受けたのだ。

「 純然たる理性、とはなんだろうなターニャ 」

  今からでも月が雲のカーテンから顔を出し、寝入る彼女を窓越しに照らしてくれないだろうかと無理難題を思う。

  普段の彼女なら、月よりも誘蛾灯の方がわたしにはお似合いでしょう、とでも言うはずだ。血でも埃でも硝煙でもない少しの石鹸とインクの匂いを漂わせる彼女を、今直ぐにでも起こして寝台で貪りたいと考えている私の熱を、どうかその月の露光で有耶無耶にしてほしい。 しかし私の細やかなる願いも、ただ誘蛾灯に引き寄せられた蛾が焦げた音が耳に届いただけで、諦めろと言われているような気がした。

 愛煙まみれのジャケットを彼女の肩に羽織って抱き上げながら、デスクに突っ伏していた彼女の下から出てきた紙に目がいってしまう。

 書きかけの原稿を見る趣味は無いのだが、内心ですまないと彼女に言いながら紙を覗き込んでしまった。

「ん、ぁ、れ、エーリ、ヒ、帰ってた、の、ですか……」

「 まったく、恋人を放っておいて更にこの仕打ちか 」

 原稿には眠気と戦った痕が幾つかあるが、部下の欄はしっかりと書き込まれている。しかし私の欄には、たった一言、早く帰ってこいバカ、とミミズのような文字で小さく書かれているだけだった。

 

 

 終わり

 

 

 



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