人間と異形と狂気の狭間 (sterl)
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第一章 胎動する狂気
アイノ・クラフト


小説家になろうから二次創作を書きに来た自己満作者です。


 人の往来の中をひとり歩く。道を吹き抜ける春を告げる暖かな風。忙しなく、あるいは騒がしく仮初の平和を過ごす人たち。わたしが着けているこのサングラスを外したら、この人たちはどんな反応をするのでしょう。

 

 軽蔑でしょうか。恐怖でしょうか。畏怖でしょうか。それとも、同情なのでしょうか。少なくとも、それは差別の視線でしょう。

 

 わたしの目の色は、普通の人とは違って血のような赤色です。それは10年前、世界を滅亡寸前まで追い込んだ異形の怪物、ガストレアの目の色。化け物の目です。

 

 ガストレアは恐怖の象徴。人々を殺した、厄災の象徴。呪われた子供たちはそんなガストレアの因子を持って生まれてしまった、何の罪も無い人間です。なのに、化け物として虐げられる。

 

 虐げられていながら、世界にはイニシエーターとして利用されています。化け物と差別しておきながら、化け物を殺す道具として利用されています。

 

 差別をするならわたしだけにしなさいと、利用するならわたしだけにしなさいと、そう声を大にして言いたいです。ですが、わたしには勇気がありませんでした。仮に勇気があったとしても差別は消えないと、自分に言い訳をして逃げてしまいました。

 

 

「……なんでこんなことを考えているのでしょうか」

 

 

 ……こんな自分語りをしても仕方ありません。早く事務所に行きましょう。依頼が入っているそうなので、わたしがいかなくては。(りく)さん一人では頼りないですし。

 

 

「……? あれは」

 

 

 と思っていたのですが、もっと重要な案件がたった今入りました。空を横切る影。飛行するガストレア、それも滑空して飛ぶタイプのようです。高度がそれなりに高く、まだ見つかっていないようでした。わたしでなければ見つけられなかったでしょう。

 

 携帯を取り出し、陸さんにメールを送ります。本文は、そうですね。

 

 

『滑空するガストレアを見つけたので追跡、排除します。陸さんは単独で依頼を受けてください』

 

 

 これでいいですね。依頼内容は知りませんが、陸さんならなんとかするでしょう。

 

 

「モデル・オストリッチ」

 

 

 因子が解放され、脚力が高まるのを感じます。わざわざ口に出す必要は無いのですが、これを言うと少し気が引き締まります。

 

 では急ぎましょう。このままではあのガストレアによりパンデミックが起こってしまうかもしれません。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ガストレアを追いかけて都市部へと入ってきました。わたしが見た限りですと、あのガストレアはモデル・スパイダーのようです。頭上に糸をハングライダーのように張り、揚力を生み出して滑空しているようです。

 

 今は、先程モデル・スパイダーのガストレアがハングライダーを折り畳んで急降下したので、着地点と思われる場所を探しています。

 

 ですが、既に建物内に侵入したのか探しても探しても見つかりません。被害者が既に出ていたと仮定して血の臭いを探したところで、あちらこちらから血の臭いがします。表面上は賑わっていても闇の深い街です。

 ガストレアの臭いを辿ろうとしても、まずガストレアの臭いを嗅いでいないので辿りようがありません。

 

 八方塞がりのまま、気づけば夕暮れ時になっていました。これではあのガストレアが潜伏していたとして、見つけることは至難の技でしょう。それに、滑空するようなガストレアでは、もう飛んで逃げていると考えるのが自然です。もう少し上を見て探すべきでした。わたしにあるまじき失態です。

 

 それでは帰りましょう。もうすぐ夜になります。ガストレアを見失ってしまったのですから、これ以上探しても埒が明きません。きっと他の民警が倒してくれることでしょう。この時間帯では陸さんは先に家に帰っているはずです。

 

 

「夕食は何にしましょうか」

 

 

 やや人が少なくなった道路を歩きながら献立を考えます。前にカップラーメンばかり食べていた陸さんに料理を作らせたことがあるのですが、出てきたものは紫色のどろどろとしたガストレアを彷彿とさせる何かでした。陸さん曰くチャーハンだそうです。わたしの胃袋をもってしても吐きました。それ以来わたしが陸さんの料理も作るようになりました。

 

 昔のことを思い出しているとちゃんとしたチャーハンが食べたくなってきました。材料は家にあるので、献立はラーメンとチャーハンにしようと思います。夕食は遅くなりますがいつものことです。

 

 

「――ッ!!」

 

 

 そんなことを考えながら歩いていると、どこからか銃声が聴こえてきました。それも1発ではなく、何発も連続して。どこかで戦闘しているようです。もしかしたら先程のガストレアが見つかったのかもしれません。

 

 わたしも戦闘に協力すれば、手柄の一部、具体的には報酬が貰えるかもしれません。銃声がする場所は近いです。早く乱入しに行きましょう。

 

 

 

 ●

 

 

 

 銃声が聴こえていたビルを特定する頃には銃声は鳴り止んでいました。戦闘が終わったのでしょう。残念です。わざわざ近くのマンションの屋上にまで階段で上がったわたしの努力を返してください。

 

 ですが、確実によいこともありました。ビルのベランダから飛び降り、逃げるように路地裏に駆け込んだ仮面が特徴的な男を目撃しました。ビルのベランダに仮面の男を追いかけるように表れ、悔しげに部屋の中へ戻る警官がいたので仮面の男は警察の敵でしょう。捕まえれば報酬が貰えるかもしれません。

 

 

「モデル・ラビット」

 

 

 因子が解放され、脚がより跳躍に適した形に変化します。では、仮面の男を追いかけましょう。建物の上を跳び移りながら追いかければ確実に見失いません。

 

 上から見てもかなり特徴的な人です。縦縞の入ったワインレッドの燕尾服にシルクハット。そして笑った仮面。まるで今から曲芸でもするのかというような服装です。

 

 こんなにしっかり見られたのも、仮面の男が立ち止まって誰かと電話をしているからです。誰と電話をしているのでしょうか。この距離では流石に聞き取れません。

 

 仮面の男が電話を終えました。と同時に、わたしを見上げました。どうやら尾行しているのがバレていたみたいです。きっとわたしが気づかないのをいいことに仲間に連絡したのでしょう。

 

 

「どうして、パパを見てるの?」

 

 

 突然、背後から斬りかかられました。質問と順序が逆です。首を狙った一撃でした。本気だったのかはわかりませんが、難なく躱せました。

 

 距離を取り振り返ると、いたのはわたしと同い年ぐらいの少女でした。イニシエーターなのでしょう。

 ウェーブ状の黒い短髪にフリルのついた黒いワンピース。腰の後ろで交差された二本の鞘に納められているはずの小太刀は、少女の両手にそれぞれ握られていました。

 

 外見は黒が印象的な少女です。わたしの髪は白色で長いので、対照的に思えます。ただわたしは、緑のベレー帽を被りサングラスをかけて青色が中心の動きやすい半袖の作業服を着ているので、服装に関しては陸さんから変人のお墨付きを貰いました。なので対照どころではないと思います。

 

 とりあえず初対面なので自己紹介をした方が良いでしょうか。

 

 

「わたしはアイノ・クラフト。気軽にアイノと呼んでください。あなたは?」

 

「教えてくれないなら、斬ってもいいよね?」

 

 

 どうしましょう。斬りかかられてから斬ってもいいかと問われました。答えようがありません。

 今度は首を狙う左手の小太刀があわよくば決まることを狙った囮でしたので、後ろに下がって躱しながら心臓を狙う右手の小太刀を横から押していなしました。

 

 

「当たらない、どうして」

 

 

 実力差を察して逃げてくれればそれでよかったのですが、黒い少女は目を赤く染めて怒濤の連撃を繰り出して来ました。

 

 流石の私でも無傷で全て捌ききるのは難しそうです。全力を出さないように、少しだけ本気を出しましょう。

 

 

「モデル・シェル」

 

 

 因子を解放し、体表を硬質化させます。黒い少女の二本の小太刀を左腕で同時に受けました。

 

 

「っ!?」

 

 

 ガキンと金属同士がぶつかり合う音が鳴り、小太刀が弾かれます。斬るために全力で振っていたこともあり、弾かれた衝撃はかなりのものでしょう。しばらく手が痺れて動かないことを祈ります。

 

 

「モデル・ゴリラ」

 

 

 因子を解放し、全身の力、特に腕力を強化します。防戦一方では黒い少女を止められそうにないので、わたしからも攻撃することにしました。

 

 

「えいっ!」

 

「かはっ」

 

 

 黒い少女のお腹に右腕を振り抜きます。ドコッと鈍い音が鳴り、掠れた声を漏らした黒い少女が鞠のように吹き飛びました。少し強くしすぎたかもしれません。反省です。

 

 黒い少女は隣の建物の壁に衝突しました。煙幕のように土煙が広がりました。コンクリートが風化していたのでしょうか。ここは比較的都市部ですのでちゃんと修繕工事をしてほしいです。

 

 煙が晴れていくと、黒い少女の他に背の高い人の影が見えてきました。仮面の男でした。190㎝はありそうです。上からではわかりませんでしたが、こんなに長身だったんですね。いつの間に登ってきたのでしょうか。

 

 

「まさか、小比奈がこうも簡単にやられてしまうとは」

 

 

 黒い少女の名前は小比奈さんというようです。本人から聞けなかったので、教えてもらえてよかったです。

 

 小比奈さんは仮面の男の腕に抱かれていました。気絶しているみたいです。気絶させる気はなかったのですが。やっぱり強くしすぎていました。久しぶりに因子解放したからでしょうか。

 

 

「ヒヒッ。君の名前は?」

 

 

 奇妙な笑い声です。仮面の怪人と呼んだ方がよいでしょうか。とりあえず、名前を聞かれているので答えましょう。

 

 

「わたしはアイノ・クラフトです」

 

「アイノくんだね。覚えておくよ。私は蛭子影胤。君ともまたどこかで会うことになりそうだ」

 

 

 仮面の怪人は蛭子影胤というそうです。変わった名前です。

 

 

「それではさようなら」

 

 

 影胤さんは踵を返しわたしに背中を向けました。すると次の瞬間には、足下のビルがひび割れ、崩れました。このままではわたしも落ちてしまうので、隣のビルに跳び移ります。

 

 ビルがあった場所を見ると、影胤さんはいなくなっていました。逃げられてしまいました。残念です。

 

 

「あっ、因子を解放しすぎました」

 

 

 わたしの爪が貝殻のようになり、腕にはもともとなかったうぶ毛がうっすらと生えています。心なしか太ももも少し太くなった気がします。

 

 そういえば、しばらく人の因子を取っていませんでした。後で陸さんに協力してもらって補充しなくてはいけませんね。一週間かけて余分に補充してもよさそうです。

 

 

「……帰りましょうか」

 

 

 気づけば日が落ちて夜になりました。これ以上追いかけては形象崩壊してしまうかもしれませんし、家では陸さんも待っていることでしょう。

 

 ビルが崩れた音を聞きつけて野次馬の方々も集まって来たことですし、見つかる前に帰りましょう。

 

 

「……モデルファルコン」

 

 

 後で人の因子は補充しますし、少しぐらい飛んでもいいですよね?




Tips

アイノ・クラフト(Eyno Craft)

 白銀の長髪が特徴的な赤目の少女。年齢は例に漏れず10歳。
 常にサングラスを着けている。上下一体型の作業服が普段着の不審者。


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普通

 2階建てのボロアパート。その1階の道路側から2番目にある部屋が、わたしと陸さんの家です。わたしと陸さんが所属する民警は中学生時代の幼なじみが集まってできたものらしく、小さな事務所で回ってくる仕事が少ないです。もちろん報酬も少ないので、今でもこのボロアパートに住んでいます。

 

 電気がついているので、陸さんはまだ起きているのでしょう。もうすっかり暗くなりましたが、陸さんならまだなにも食べていないでしょうし、早く夕食を用意しましょう。

 

 

「ただいまです」

 

「おう、帰ったか。んで、どうだった?」

 

 

 ドアを開けると、癖っ毛の茶髪をボサボサにしたままの陸さんが笑顔で出迎えてくれました。眞鍋陸(まなべりく)。それがこの人の名前です。

 

 白地に虎の顔が前面にプリントされたTシャツとジーパンを着ています。目つきが悪いので、虎の顔が妙に似合ってます。

 

 どうだった、というのはわたしの送ったメールのことでしょう。ガストレアを追跡、排除するという内容だったはずです。

 

 

「ガストレアは途中で見失ってしまいました。ですが、警察と敵対しているであろう民警ペアと思われる方を見つけました。追いかけたのですが、ビルの破壊を目眩ましに逃げられてしまいました」

 

「……はぁ。ちょっとこい」

 

「?」

 

 

 わたしはただ報告しただけなのですが、陸さんに手首を掴まれ歩かされます。寝室でしょうか?因子の補充は夕食を食べてからにしたいのですが。

 

 と考えているとテレビの前に座らされました。バラエティー番組がつけっぱなしになっています。陸さんがチャンネルを変えました。ニュース番組です。謎のビル倒壊について報道されています。

 

 概容は、ビルが何の前触れもなく倒壊したそうです。ビルの中にいた男女10名が重傷を負い、死亡者もいるとのことです。

 

 現場付近に偶然居合わせた人からは、ビルに亀裂が走りそれから崩れた、謎の光を見た、空を飛ぶ羽が生えた人影が飛び去った、などの目撃情報が上がっていて、警察はガストレアの仕業と見て捜査を開始したそうです。

 

 それにしても羽が生えた人影ですか。空も飛べるらしいです。そんな人もいるんですね、すごいです。

 

 

「この羽が生えた人影ってアイノだよな?」

 

「そんなわけないじゃないですかー」

 

 

 なんで陸さんはそんなこと言うのですかねー。

 

 

「よっと」

 

「いたっ」

 

 

 陸さんがわたしの肘から何かを取っていきました。痛いです。

 

 

「アイノだよな?」

 

「あっ……」

 

 

 陸さんは1枚の白い羽根を見せびらかすように持っていました。わたしの肘からむしり取られた羽根です。これは諦めるしかありません。わたしが犯人です。空を飛びました。

 

 鳥類の因子の操作には慣れていたのですが、人の因子が足りないので完全に抑えきれてなかったみたいです。そのせいで羽根が生えたままになっていました。

 

 

「なんでわかったのですか?」

 

「なんでもなにも、アイノしか羽生やして飛べるやつなんていないだろ。それに、お前って動揺すると語尾が伸びるからわかりやすいぞ?」

 

 

 なんと。飛んだだけでバレてしまうのでは飛ぼうにも飛べないではないですか。

 

 

「全く、何度勝手に飛べば気が済むんだ。これで7回目だぞ」

 

「8回目です。一週間前にモノリスの外まで行って飛びました」

 

 

 あの時は少し遠くまで飛びました。森を越えた先にとても長い建造物があったのを覚えています。バラニウムでできていたので中まで探索はしませんでした。探索しようとすればできるのですが、バラニウムに囲まれた空間はなんとなく嫌悪感があります。

 

 

「……そうやって正直に言ってくれるから俺も飛んだ回数を把握できるんだけどさ。その中で他の人に見られたのは5回目だ」

 

「はい……」

 

 

 5回のうち3回は見られると思いませんでした。さっきはビルの下に野次馬もいたので見られるとは思いましたが、夜なので大丈夫でしょうと思っていました。大丈夫じゃありませんでした。

 

 1回は陸さんの目の前で飛びました。こっぴどく叱られました。あの時はなぜ飛ぼうと思ったのでしょう。わたし自身のことなのにわかりません。もしかしたらわたしの中の鳥の本能が飛びたいと叫んだのかもしれません。きっとそうです。

 

 

「飛ぶなら問題にならない場所で飛べって言ってるだろ。一週間前みたいにモノリスの外まで行ってもいいからさ。よりにもよって、野次馬がいる上で飛ぶか普通?」

 

 

 あー、長いです。これは長くなります。わたしの経験則です。これでは早く夕食の準備がしたいのにできません。

 

 ……そうです。いいことを思いつきました。

 

 

「陸さんの食事これから作りませんよ?それとも陸さんが自分で作って食べますか?」

 

「停戦だ。この話はもう置いておこう。さーて、腹へったぜ。アイノ、今日の晩飯はなんだ?」

 

 

 今日はまだわたしも陸さんも夕食を食べていません。食い溜めができるわたしはまだ大丈夫ですが、陸さんはかなりの空腹のはずです。ここでこの脅迫をすれば話を切り上げられると思って言ってみましたが、予想以上でした。あっさりとした手のひら返しです。

 

 

「今日の夕食はラーメンとチャーハンです。それと……」

 

 

 それと、陸さんはきっと逃げると思うので先に釘を刺しておいた方がいいですね。

 

 

「それと、なんだ?」

 

「食事の後、寝る前に因子の補充をします」

 

「……するのか?」

 

「はい」

 

 

 陸さんがこめかみを抑えて唸りはじめました。おそらく逃げ出す言い訳を考えているのでしょう。

 

 

「それは今日しなくちゃいけないのか?」

 

「少し因子解放しただけで微妙に形象崩壊していますので、できれば今日」

 

 

 と言いながら貝殻のようになった爪を陸さんに見せます。陸さんは顔を手で覆い天を仰いでいます。天と言っても天井ですが。

 

 陸さんがその体勢のまま、部屋に静寂が訪れます。

 

 

「あ!蓮太郎遅いぞ!」

「おい馬鹿、誰か見てたらどうすんだ!窓閉めろ」

「安心するのだ。妾のカラダはお主だけのものだ!」

「頼むから日本語を聞き分けてくれ!俺が恥ずいっつってんだろ!」

 

 

 開けたままの窓からほのぼのとした平和な会話が聞こえてきます。陸さんが動いて静かに窓を閉めました。

 

 

「まずは飯だ。話はそれからにしよう」

 

「そうですね」

 

 

 わたしは陸さんににっこりと微笑みかけてから、サングラスとベレー帽を外し、服を部屋着のシャツと短パンに着替え、エプロンをつけました。

 

 

 

 ⚫️

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

「ごちそうさん」

 

 

 陸さんと同時に食べ終えました。調理時間を短縮した即席料理でしたが、充分においしくできました。

 

 

「それじゃ、俺はトイレ行ってくる」

 

 

 陸さんは席を立ち上がりました。隙をついて逃げ出そうという魂胆はわかっているので、陸さんの腕を掴み肩に担いで運んでトイレに放り込みます。すぐにトイレのドアを開こうとしてきたので、手で押して開かないようにします。

 

 

「終わったら言ってください。ドアを開きますので」

 

「ッチ、八方塞がりかよ。降参だ。開けてくれ」

 

 

 開けてくれと言われましたので開けます。すると陸さんが素早く飛び出て玄関の方に行こうとしました。腕を掴んで引き寄せ、肩に担ぎ上げます。

 

 

「くそっ、離せっ!」

 

「暴れないでください。あといい加減諦めて下さい。1回の補充だけで一ヶ月も持たせるの大変だったんですよ」

 

「嫌だ!もう地獄を見たくな――あがっ」

 

 

 近所迷惑になってはいけないので口をガムテープで塞いでおきます。そしてわたしは陸さんを寝室に運び、同じ布団に入りました。

 

 

 

 ⚫️

 

 

 

 雀のさえずる声で目を覚まします。すばらしい朝ですね。昨日の夜、2階の角部屋の方が少し騒がしかったです。それに比べ、わたしたちは音を立てないようにやっています。近所の方々に迷惑をかけてはいけませんからね。

 

 隣を見ると、陸さんが死んだ魚のような目で天井をぼーっと見つめていました。一瞬死んでいるのかとも思いましたが、口に貼ったガムテープを一気に剥がすと「うっ」と呻いたので死んではいません。

 

 わたしは布団から這い出し体を確認します。貝殻のようだった爪は元に戻り、腕のうぶ毛も綺麗になくなり、太ももは元の太さになりました。無事に人の因子を取れたようです。

 

 それでは服を着ます。下着をつけるときにブラジャーは必要ありません。悲しいです。ですが、陸さんは貧乳好きのロリコンだと陸さんの幼なじみの藤谷(とうや)さんから聞いたので、そこまで残念でもなかったりします。ちなみに当人の陸さんはロリコンであることを否定しています。最初襲ってきたのはどっちからだと思っているのでしょうか。

 

 今日はすぐに出かける予定なので、いつもの作業服とベレー帽のセットに着替えました。昨日とは色違いで、ベレー帽は黄色、作業服は緑がメインの配色です。ちなみにわたしの作業服は上下一体になっています。

 

 着替えを終えると、昨日の夜に脱ぎ散らかしたわたしと陸さんの服を集め、脱水機能がついている洗濯機に放り込みました。洗濯機を起動します。これで帰ってくる頃には洗濯が終わっていることでしょう。

 

 テレビをつけ昨日夕食を食べたあと放置していた食器を洗います。テレビは昨日のチャンネルのままで、ニュース番組が放送されていました。

 

 食器を洗い終えたあとは朝食を作ります。まずは食パンを2枚トースターで焼きます。焼き上がるのを待つ間にスクランブルエッグを作りましょう。

 

 2個の玉子を1度混ぜてから、マーガリンを引いた小型のフライパンの上で焼きます。少し固まってきたら、ゆっくりと外側から内側に寄せるようにかき混ぜます。

 

 玉子がフライパンの上でジュゥゥと小気味のよい音を立てていると、死んだ魚のような目をした陸さんがちゃんと服を着て起きてきました。一ヶ月前にぼーっとしたまま全裸で起きてきた失態を覚えていたのでしょう。

 

 完成したスクランブルエッグを2枚の皿に分けて乗せ、千切ったレタスとプチトマトを2個ずつ添えます。スクランブルエッグにはケチャップをかけ、別の皿に焼き上がった食パンを乗せて完成です。わたし特製のモーニングセットです。汁ものはありません。

 

 テーブルの上にモーニングセットを2つ置き、既に座っていた死んだ目の陸さんの対面に座ります。

 

 わたしも席につき、モーニングセットを食べはじめます。陸さんはこのモーニングセットの時は不思議な食べ方をするので、陸さんの様子を見逃さないようにします。

 

 陸さんはまずパンを半分に折り、間にレタスを挟みました。さらにレタスの上にスクランブルエッグを挟みます。ここからが陸さんの不思議な食べ方で、陸さんはおもむろにナイフを取り出し、プチトマトのへたを取ると十字の切れ込みを入れました。無駄にバラニウム製です。

 

 陸さんはスクランブルエッグの上にプチトマトの中身を絞りかけます。余ったプチトマトの皮もパンに挟むと、両手でモーニングセットサンドを持ち齧り付きました。陸さん曰く最も食べる時間を短縮できる食べ方だそうです。無駄な手間です。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

「ごちそう……さん……」

 

 

 わたしと陸さんは同時にモーニングセットを食べ終えました。食器を片づけ洗い終えたあとは、サングラスをつけ、座ったままぼーっとしている陸さんの頭を少し強めに叩きます。

 

 

「いてぇっ! なにすんだ!」

 

「すぐに出られるように軽い身だしなみぐらい整えてください」

 

「え、あっ、あー。わかった」

 

 

 ぼーっとしていた陸さんが再起動しました。きっと朝食を食べたことを覚えていないでしょう。一ヶ月前は再起動させるのを忘れて事務所まで行ったら、道中の記憶がありませんでしたから。どれだけぼーっとすればこうなるのでしょう。

 

 短い説明で全てを察した陸さんを待つ間、手持ちぶさたになったのでテレビを見ます。ちょうどリポーターが「見てくださいッ」と叫んだのでチャンネルは変えないことにしました。

 

 テレビに映し出されていたのは第一区の聖居でした。2週間前、聖居の上空を通りすぎた時に見たので間違いありません。ちなみにこの時は見つかりました。早朝の老人の方々の目は侮れません。空を飛ぶ何かが第一区方面へ飛んでいったとすぐに警察に通報があったそうです。

 

 そんなことを思い出しながら画面を眺めていると、映し出されている場所が切り替わりました。どうやら聖居のバルコニーのようです。

 

 バルコニーに一人の少女が表れました。着ている服、肌、髪に至るまでが純白です。名前は……なんでしたっけ。わたしが覚えていないのなら名前がないのでしょう。とりあえず聖天子様と呼ばれていることだけは覚えています。この東京エリアの統治者だったはずです。

 

 わたしの髪の色は純白というより白銀なので、そもそも白の分類が違う聖天子様と白さを競う気はありません。ええ、絶対にです。

 

 その隣に立っている男の方は、名前だけは知っています。天童菊之丞という方です。それ以上は知りません。

 

 そういえば藤谷さんが、天童民間警備会社の女社長と報酬の取り分で言い争って負けたと愚痴を言っていた覚えがあります。同じ天童です。何か関係があるのでしょうか。

 

 

「おい、行かねぇのか?」

 

「待ってください。今行きます」

 

 

 気づけば準備が終わったらしく、玄関のドアを開けたまま待っている陸さんに呼ばれました。慌ててテレビの電源を消し、小走りで向かいます。

 

 陸さんの髪は相変わらずぼさぼさで、龍柄のTシャツの上に黒い革のジャンパーを羽織っています。ジーパンのベルト部分にはじゃらじゃらと鎖が巻かれていて、右側に拳銃、左側にナイフが吊るされています。ちなみに銃の予備弾倉は、ジャンパーの後付けした内ポケットに入れてあるそうです。

 

 昔、陸さんのぼさぼさな髪を注意したことがあるのですが、すぐに無意味だと知りました。癖っ毛すぎて(くし)を通しませんでした。指一本すら通りませんでした。諦めました。

 

 わたしが歩いてくるのが見えたからでしょうが、わたしの方を向いていた陸さんが振り返ります。そのため、その長さのため正面からも見えていたものがしっかりと見えるようになりました。

 

 陸さんの背中に斜めがけされた、1mを優に超える長大な大太刀。特注の龍の意匠が施された鞘には肩かけベルトがついていて、それで陸さんの背中に固定されています。

 

 陸さんの使う武器。それがこの大太刀です。陸さんが龍太刀(りゅうたち)と呼ぶこのバラニウム製の大太刀は、なぜ陸さんが持っているのか不思議になるほどの業物です。並のガストレアならバターのように切り裂きます。

 

 

「出発進行!」

 

 

 外に出ると、聞き覚えのある元気な少女の声が聞こえました。声がした方を見ると、ちょうど自転車を発進させた不幸面の男と、荷台に足を投げ出して座っている声の主の少女がいました。名は知らぬ男性とこのアパートでは有名な延珠さんです。延珠さんとはたまに会った時に話しています。

 

 この2人はアパート2階の角部屋に住んでいます。昨日の夜、窓の外から聞こえた会話もこの2人のものです。ということは不幸面の男の人は蓮太郎さんというのでしょう。今まで陸さんがつけたあだ名でしか知りませんでした。

 

 ちなみに陸さんが蓮太郎さんにつけたあだ名というのは『十歳の女児に養ってもらってるロリコンヒモ野郎』です。盛大なブーメランだということになぜ気づかないのでしょう。稼ぎのほとんどはわたしが雑務の依頼を受けて稼いだお金です。ガストレアを倒すことにしか能がない脳筋は大人しく黙っているべきだと思います。

 

 

「……なあ、学校に行きたくはならねぇのか?」

 

 

 自転車で走り去る延珠さんを見て思ったのか、陸さんが言いました。延珠さんが勾田小学校に通っているというのは、このアパートの住人なら誰もが本人から聞いた話です。

 

 ()()の人が見れば()()の学校に通う少女に見える延珠さんを見て、普通の人である陸さんは何か思うところがあったのでしょう。

 

 

「行きたくなっても、わたしには無理です。目がずっと赤色ですから」

 

 

 あえて『呪われた子供』だからとは言いませんでした。『呪われた子供たち』であっても、()()に見せて学校に通う人もいるのですから。学校は人ですらないものが行く場所ではありません。

 

 

「そっか。んじゃ、行こうぜ」

 

「はい」

 

 

 わたしは、()()の『呪われた子供たち』ですらないのですから。

 

 化け物と敵対する化け物は、かつて人間の最底辺まで堕落した人の隣がちょうどよいのです。




Tips

アパート

 アイノの暮らすアパートは某原作主人公と同一。だからといってどうということは無い。


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亜土民間警備会社

 アパートから徒歩20分。住宅街のど真ん中にある2階建ての建物がわたしたちの事務所です。綺麗に整えられた鉄筋コンクリートの事務所は景観を崩さず、ひっそりと佇んでいます。

 

 入口横には石柱が立てられ、『亜土(あど)民間警備会社』と縦書きで刻まれています。そこまで大きくはありませんが、仮にも仕事がなくて貧乏な民警だと外観からは想像できません。この建物を個人で所有している社長の相馬(そうま)さんには感謝です。

 

 ただ、住宅街のど真ん中にあり、なおかつ目立ちにくい外観なので、直接依頼してくれる方々は近所の方ばかりです。掃除などの家事や雑用の依頼には事欠きません。

 

 

「来てやったぞ相馬」

 

「相馬さんおはようございます」

 

 

 両開きの自動ドアをくぐり、社長席に座っている相馬さんに挨拶します。部屋の間取りは左に2階への階段、奥に相馬さんの座る社長席があり、その正面に長いガラステーブルと、テーブルを挟むように黒光りする革のソファーが2つ置いてあります。右側の壁には2つ木製のドアがあり、手前は個別の応接室、奥はトイレになっています。

 

 

「ふぁぁ。2人ともおはよ。陸はいてもいなくても変わんないから来なくていいよ」

 

 

 眠そうにあくびをしながら返事をしたのは、この民警の社長である亜土相馬(あどそうま)さんです。相馬さんはいつもキッチリとしたスーツを着て、黒縁の眼鏡をかけています。黒髪も短く整えられていて、一見するととても真面目です。見ての通り真面目というわけではありませんが。

 

 

「んだとコ――」

 

「相馬さん、なにか依頼はありますか?」

 

 

 うるさくなりそうな陸さんの腹にチョップをして相馬さんに話しかけます。陸さんが隣で悶絶していますが無視です。

 

 

「依頼はないよ。適当にそこら辺でくつろいでて」

 

「わかりました」

 

 

 依頼はないそうです。暇です。ソファーに座って相馬さんとなにか話しましょうか。

 

 

「そういえば莉子(りこ)さんは?」

 

「ぐっすり寝てたから寝かしといてあげたけど、そろそろ起きてくるんじゃないかな」

 

 

 莉子さんは相馬さんのイニシエーターであり、義理の娘です。陸さんとは違って純粋に子供が好きな相馬さんは川流しにされる呪われた子供たちを可哀想に思い、危険を(おか)して定期的に子供たちを助けに行くようになったそうです。

 

 そして8年前、唯一救えたのが当時生後一ヶ月だった莉子さんだそうです。川岸に流れ着いていたところを偶然見つけて以来、実の娘のように可愛がっていると藤谷さんから聞きました。

 

 

「俺を放置して話すなよ」

 

 

 復活した陸さんがわたしの隣にドスッと音を立てて座りました。邪魔です。せめて龍太刀を置いてから座って欲しいです。横向きにずれた龍太刀の柄頭が肩にあたって痛いです。

 

 龍太刀を陸さんから剥ぎ取ってテーブルの上に置き、一言。

 

 

「邪魔です」

 

「あぁ、ありがとな」

 

 

 なぜか感謝されました。もういいです。陸さんはこういう人です。

 

 特に何をするでもなく時計を眺めていると、階段から小刻みな足音が聞こえてきました。

 

 

「パパおはよー!」

 

 

 階段を下りてきた莉子さんが相馬さんに飛びつきました。

 

 

「おおっと。莉子、よく眠れた?」

 

「うん!」

 

 

 相馬さんは莉子さんを抱き止め、膝の上に座らせます。莉子さんの定位置です。

 

 莉子さんは黒い髪を短く切り揃え、可愛らしい薄ピンクのフリルがついたワンピースを着ています。亜土莉子(あどりこ)というのは相馬さんがつけた名前で、自分の名字は当然として可愛い響きの名前にしたいとつけた名前だそうです。理子と迷ったそうですが、悩んだ末に文字の形が莉子の方が可愛いと判断したそうです。

 

 ちなみにこの事務所の2階は居住スペースになっていて、相馬さんと莉子さんはここの2階に住んでいます。

 

 

「アイノおねーちゃんとりくもおはよー!」

 

「おはようごさいます」

 

「おいガキ、俺は呼び捨てかよ」

 

 

 笑顔で返事をします。2歳年下の妹のような存在で、とても可愛いです。欲しいです。抱きしめたいです。相馬さんが手放しませんが。

 

 莉子さんをガキと呼んだ陸さんに相馬さんから鋭い視線が飛びます。陸さんは気づいていません

 

 

「りくはりくなのー」

 

「ガキ、ちょっと来い」

 

「きゃー!怖いのー!」

 

 

 莉子さんが楽しげに笑いながら相馬さんに助けを求めます。親バカで過保護な相馬さんは陸さんに殺気を飛ばします。陸さんの動きが一瞬止まりました。

 

 

「いや、まぁ、別にいいんだけどな」

 

 

 明らかに萎縮した陸さんがソファーに座り直しました。莉子さんのためならとんでもない力を発揮する相馬さんの前なので仕方ないことです。

 

 2年前、莉子さんがガストレアに襲われてしまったことがありました。わたしもその場にいたのですが、当時イニシエーターになったばかりでまだ弱かったわたしはどうすることもできませんでした。無力なわたしと泣き叫ぶ莉子さんを守ったのが相馬さんです。

 

 相馬さんは普段の姿からは想像できない馬鹿力で倍以上の体格のガストレアを投げ飛ばしたのです。あの光景は今でも忘れられません。そのあとすぐに陸さんが駆けつけて、龍太刀でそのガストレアを斬り倒しました。

 

 それ以来、莉子さん関連で相馬さんを怒らせてはいけないというのは暗黙の了解です。

 

 

「パパ、おなかすいたの」

 

「よし、じゃあなにか作ってあげるよ。アイノと陸はそこら辺で待ってて」

 

「わかりました」

 

 

 相馬さんが莉子さんを抱っこして2階に上がって行きます。

 

 

「相馬ってさ、親バカすぎないか?」

 

「激しく同意します」

 

 

 異論はありません。莉子さんが可愛すぎるのはわかりますけど、流石に甘やかしすぎです。

 

 その後、特にすることもなく話題もなく、なんとなく時計を見ていると自動ドアが開く音が聞こえました。

 

 

「俺が来たぞー」

 

「……おはようごさいます」

 

 

 目を向けると、気の抜けた声の藤谷さんとそのイニシエーターである美雨(みう)さんがちょうど入ってきたところでした。

 

 

「おはようごさいます、藤谷さん、美雨さん」

 

「来たぞってなんだ、来たぞって」

 

「別にいいだろ、んなこまけぇこと。てか相馬は?」

 

「相馬さんは莉子さんの朝食を作っています」

 

「いつもの親バカだ」

 

「ああ、なるほど」

 

 

 藤谷さんは普段から上下黒ジャージでバラニウム製の棍棒を常に持ち歩いています。ファッションにはわたし以上に無頓着なようです。わたしはベレー帽と作業服の色の調和には気をつかっています。

 

 美雨さんはいつも通り、手から足首まで全て覆う真っ黒なレインコートだけを着ています。大きなフードもついていて、顔は少ししか見えません。レインコートの下になにを着ているのかさえ定かではありません。

 無口かつ無表情なので、美雨さんがなにを考えているかは顔色の変化でしかわかりません。ですが少しでも恥ずかしいことがあると真っ赤に染まるので、むしろわかりやすいです。

 

 

「なんか暇だし、トランプでもすっか?」

 

 

 藤谷さんが社長席の引き出しからトランプを取り出しだから提案しました。

 

 

「トランプって言っても、なにするんだ?」

 

「んー、ちょうど4人いるから大富豪とかでいいんじゃね」

 

「いや、ここは先に七並べだ。上の2人が下りてきたら人数多くて封鎖祭りのパス祭りになる」

 

「なら間とってババ抜きだ」

 

「それは人数多い方がいいだろ。それなら神経衰弱の方がまだいい」

 

「血迷ったか?神経衰弱は前、アイノが全取りして終わったじゃんか。あんなん勝てるわけねぇよ」

 

 

 藤谷さんと陸さんがトランプでなにをするか話しています。神経衰弱でわたしに勝てないというようなことを言っていますが、当然です。わたしは暗記には自信があります。

 

 

「とーやおはよー!」

 

 

 いつの間にか莉子さんが降りてきていました。

 

 

「莉子もおはよう。相馬は一緒じゃないんか?」

 

「うん。だれかとでんわしてるの」

 

「電話……依頼ですかね」

 

「ハッ、ないだろ。政府の関係者から依頼なんて」

 

 

 相馬さんは事務所の固定電話と自身の携帯電話で相手を判別できるようにしています。事務所1階にある固定電話には一般の方々や警察から電話を受けられるよう電話番号を公表していますが、政府関係の方々には相馬さんの携帯電話の番号を教えているそうです。

 警察は政府の関係者ですがガストレア関連の依頼は警察から来ることも多いので、どこかの脳筋プロモーターが自分も電話に出られるように相馬さんに頼み込んだ結果こうなったそうです。

 

 相馬さんの携帯電話にかかってくるということは、電話の相手は政府の関係者か普通に相馬さんと仲のいい人です。

 

 少しの間無言でいると、相馬さんが下りてきました。

 

 

「陸、アイノを借りてくけどいいね?」

 

「あ?なんでだ?」

 

「呼び出されたからこれから防衛省に行ってくる。護衛のためと、ちょっと退屈な話があるからアイノが適任だと思った。以上」

 

「防衛省って、政府かよ。別にアイノじゃなくてもよくないか?莉子……は無理だとして、美雨もいるだろ。むしろ退屈な話なら美雨の方が適任だと思うが」

 

 

 どうやら政府からの電話だったようです。防衛省へ行く、ということはなにかあったのでしょうか。防衛省が直々に民警を呼び出すのですから、なにか大きな事件が起こったと見るべきでしょう。きっとわたしたち以外にも呼ばれている民警は多いはずです。

 

 でも、確かにわたしじゃなくてもいいと思います。正直、長話を聞くのは退屈ですし面倒です。報酬が出るのなら勇んで行きますけど。

 

 

「俺は美雨がいいって言うなら別に構わんよ」

 

「……私は……大丈夫」

 

「だってさ。どうすんの、相馬」

 

 

 藤谷さんは美雨さんが代わりに行ってもいいそうです。ならわたしが行く必要はないでしょう。

 

 

「アイノを連れていきたいのはただの見栄だよ。みんなそれぞれのIP序列覚えてる?僕と莉子は15万3501位だ」

 

「俺と美雨は8420位だよ」

 

「なるほどな。俺とアイノは1021位だ。この中で一番強いアイノを連れていきたいってことか」

 

「そういうこと」

 

 

 つまりわたしが強いから連れていきたいということですね。悪い気はしません。行きたくはないですが。

 

 

「でもアイノは行きたくなさそうだぞ?」

 

 

 バレてました。流石陸さんです。わたしと同棲しているだけはあります。

 

 

「一緒に来てくれるなら臨時報酬をあげてもいいよ」

 

「行きます」

 

「即答かい」

 

 

 藤谷さんに驚かれましたが気にしません。それより報酬です。

 

 

「相馬さん、早く行きましょう。防衛省ということは電車に乗っていくんですね」

 

「そうだよ」

 

 

 相馬さんは答えると、莉子さんの前にしゃがみました。

 

 

「莉子、パパはちょっと出かけてくるから、陸たちと一緒にお留守番しててね」

 

「うん!行ってらっしゃい、パパ!」

 

「ああ、行ってくるよ」

 

 

 相馬さんが莉子さんのおでこに短いキスをしました。

 

 

「早く帰ってこいよ」

 

 

 陸さんが言いました。きっとわたしに対してでしょう。

 

 

「もちろんです。行ってきます」

 

 

 報酬、臨時報酬はいくらでしょうか。楽しみで仕方ありません。

 

 わたしは今がとても幸せです




Tips

亜土民間警備会社

 社員数6名の小規模な民間警備会社。最大時は8人。
 ガストレア退治からゴミ屋敷の掃除までなんでも請け負う。ただし仕事があるとは言っていない。
 基本的に赤字だが、社長である亜土相馬の個人資産により運営されている。


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防衛省

 電車に揺られ、少し歩くと防衛省の庁舎に到着しました。相馬さんが入口で名乗ると中に通されます。エレベーターで上の階に昇り、第一会議室と書かれた部屋まで案内されると、案内した職員は去っていきました。

 

 部屋の中は思っていたよりも広かったです。中央には細長い楕円形の卓、奥には巨大なパネルが壁に埋め込まれています。モニターでしょうか。

 

 楕円形の卓の周りには席が備えられていて、民警会社の社長と思われる方々が座っています。彼らの後ろにはバラニウム製の武器を携えたプロモーターの方々がいます。イニシエーターを連れている人もいますが、わたしたちのようにイニシエーターだけという人はいません。

 

 相馬さんが用意されている席に座ります。わたしはその後ろに立ちました。

 

 

「末席ではないんですね」

 

「きっと僕たちより格下の民警があるんだよ」

 

「予想外です」

 

 

 末席ではないということはわたしたちよりも規模の小さい民警があるということです。3ペアしかいない亜土民間警備会社より小さな民警が防衛省に呼ばれるものなのでしょうか。

 

 わたしと相馬さんが最低限の会話を終え待っていると、他の民警の方々がざわつきはじめました。

 

 

「白銀の長髪にサングラスとベレー帽……まさか、『無装のアイノ』ではないか?」

「あの、バラニウム製の武器を使わずにガストレアを屠るという」

「バラニウム製の武器を使ったのならIP序列3桁は固いと言われているが……」

「そんな強者がなぜ末席に近いあの席に」

 

 

 どうやらざわついている理由はわたしの噂をしているからのようです。通り名がついているのは嬉しいですが、ちょっと根も葉もない噂なので不満です。

 

 わたしが武器を使わないのは必要ないからです。それに、IP序列が低い理由はガストレア討伐依頼がないからです。好きなだけ倒せる環境さえあれば1位は固いです。

 

 そうです。今度ステージVのガストレアを討伐する旅にでも出てみましょうか。1年前のわたしなら勝てないでしょうが、今のわたしなら余裕で倒せます。

 

 ……やめましょう。面倒です。

 

 今ある空席は2つです。三角プレートにはそれぞれ『天童民間警備会社様』と『大瀬フューチャーコーポレーション様』と書かれています。天童民間警備会社は藤谷さんが報酬の取り分で負けた民警です。末席の民警に報酬を取られるなんて屈辱としか言いようがありません。

 

 しばらく待っていると、部屋に誰か入ってきました。どこかの学校の制服を着た女性の人と、見覚えのある不幸面の男性です。アパート2階の角部屋に延珠さんと住んでいるロリコンで、確か名前は、蓮太郎さんです。

 

 

「おいおい、最近の民警の質はどうなってんだよ。ガキまで民警ごっこかよ。部屋ぁ間違ってるんじゃないのか? 社会科見学なら黙って回れ右しろや」

 

 

 10キロ以上はありそうなバスタードソードを扱う大柄のプロモーターが文句ありげに蓮太郎さんに迫りました。面倒事に巻き込まれたくはないので傍観します。

 

 蓮太郎さんが女性の人を庇うように前に出ました。

 

 

「あぁ?」

 

 

 大柄なプロモーターの人のイライラがアップしたみたいです。

 

 

「アンタ何者だよ、用があるならまず名乗れよ」

 

 

 実力差を理解していないのかバカなのかはわかりませんが、煽っています。バラニウム特有の磁気が蓮太郎さんの腕と足と、あと目から感じられるので何か特殊な武装があるのでしょう。ですが、わたしからすればそれほど強いものではなさそうです。きっとバカなのでしょう。

 

 

「なにか『アンタ何者だよ、用があるならまず名乗れよ』だよボクちゃん。見るからに弱そうだな」

 

 

 見るからに弱そう、というのには同意です。ついでに言うと他の人をボクちゃんと呼ぶ人を初めて見ました。

 

 

「別に民警は見た目で実力が決まるわけじゃねぇだろ」

 

 

 確かにその通りです。失念していました。わたしも本来の実力を隠していますし、蓮太郎さんもきっと隠している力はわたしの予想以上に強い力なのでしょう。

 

 

「『別に民警は見た目で実力が決まるわけじゃねぇだろ』? ムカツクなテメェ、斬りてぇ、マジ斬りてぇよ」

 

 

 オウム返し2連続です。むしろ大柄なプロモーターの人の方がバカなのではないでしょうか。

 

 なんとなく眺めていると、何故か周囲を見回し始めた蓮太郎さんに大柄なプロモーターの人が頭突きしました。

 蓮太郎さんは背中から倒れましたが、すぐに跳ね起きてベルトに挟まった拳銃に手を伸ばします。

 

 

「バァーカ、なに熱くなってるんだよ。挨拶だろ?」

 

 

 周りから蓮太郎さんを嘲笑うような失笑が起きました。

 今の流れで笑う人は、蛮族だとわたしは思います。相馬さんでさえこうして無気力にぼーっとしているだけなのです。かつての陸さんのように人を嘲笑うのはよくありません。今の陸さんでも笑いはするでしょうけど。

 

 

「里見くん、こんなのに構っちゃ駄目よ。目的を忘れないで」

 

「おいクソアマ、いまなんつったよ!」

 

「やめたまえ将監!」

 

 

 一気に話が進みました。女性の人が口を挟んだかと思えば、プロモーターの人が怒鳴り、さらにそのプロモーターの社長と思われる人が怒鳴りました。

 

 蓮太郎さんの名字が里見といい、プロモーターの人の名前が将監さんということがわかりました。

 

 

「おい、そりゃねぇだろ三ヶ島さん!」

 

「いい加減にしろ。この建物で流血沙汰なんか起こされたら困るのは我々だ。この私に従えないなら、いますぐここから出て行け!」

 

 

 将監さんは何か考えるように黙ったあと、「へいへい」と言って引き下がりました。どうやらもめ事は終わったようです。

 

 

「騒がしい人でしたね」

 

 

 相馬さんに話しかけたのですが、将監さんにも聞こえたのか舌打ちしています。蓮太郎さんの時のように突っかかってこないということは、わたしのことを知っているのでしょう。あまり依頼が無いのに、どうしてこうも有名なのでしょう。

 

 

「あんな人がいるから民警は蔑まれるんだよね」

 

「ちなみにあの人のIP序列はいくつか知ってますか?」

 

「伊熊将監、IP序列1584位だよ」

 

「千番台ですか。偉ぶってるので少しは強いと思ったのですが、雑魚ですね」

 

 

 会議室の空気が凍りつきました。何故でしょう。普通の会話の流れで思ったことを言っただけなのですが。

 

 蓮太郎さんとちょうど末席に座った女性の人もわたしを凝視しています。そんなに驚くことでしょうか。

 

 

「てんめぇ、三ヶ島さんからアイツにだけは関わるなって言われてたから無視してやってたけどよ、大人しく聞いてりゃ調子に乗りやがって。同じ千番台のクセに粋がんなガキィ!」

 

「ッ!将監、なにをする気だ、やめなさい!」

 

 

 将監さんが三ヶ島さんと呼んでいた人の制止を振り切ってわたしに向かってきます。ガキはどちらでしょうか。将監さんの単純な思考回路の方がガキらしいです。

 

 将監さんはバスタードソードを振り上げ迫ってきます。もちろんバラニウム製ですので、わたしでも受ければひとたまりもありません。復活に1分はかかります。バラニウムでさえなければ全身ミンチにされても3秒で復活できる自信があるのですが。

 

 とりあえずバラニウムの武器が唯一の脅威ですので、バスタードソードの刀身を右手で掴んでへし折ります。口で言わずにカニの因子を解放したので、せんべいのように割れました。

 

 

「んなっ!?」

 

 

 刀身を半分失ったバスタードソードがわたしの目の前を通りすぎていきます。将監さんは驚いた表情で刀身とわたしを見ます。

 

 

「謝ってください。そして失せてください」

 

 

 サングラスをずらし、常に赤く輝き続けるわたしの目を見せます。どんなガストレアにも共通する特徴が赤目だからか、わたしは目の因子操作が苦手です。人間の目の形をさせることしかできません。

 

 ライオン、ワシ、サメ、ありとあらゆる食物連鎖の最上位の生物の因子。それら全てが備わった目。現在の世界での食物連鎖の頂点、ガストレアのものであるわたしの目。

 わたしの目の前では1人の人間などちっぽけなものでしかありません。そんなこの目で、将監さんの目を睨みます。

 

 

「あ……ぁぁ……」

 

 

 将監さんの口から掠れた声が漏れました。顔は白を通り越して青くなっています。

 

 

「す……すまな、い……」

 

 

 将監さんが小さな声で謝りました。力の差は認識できたようですし、これで許してあげることにしましょう。

 

 

「失せてください」

 

「ひぃっ」

 

 

 尻もちをついた将監さんがそのまま後退(あとずさ)って行きました。将監さんのイニシエーターと思われる人が驚いた様子でわたしを見ています。とりあえずサングラスをかけ直しておきましょう。

 

 

「終わったの?」

 

 

 机に突っ伏していた相馬さんが突然起き上がりました。

 

 

「はい。迷惑でした」

 

 

 本当に迷惑でした。力の差も考えずに突っかかってくるのはただのガストレア以下です。

 

 

「えっと、君は」

 

 

 蓮太郎さんが話しかけてきました。

 

 

「同じアパートのアイノ・クラフトです。変にかしこまらなくてもいいですよ」

 

「あ、ああ。俺は」

 

「2階角部屋の蓮太郎さんですよね?」

 

「そ、そうだ」

 

 

 蓮太郎さんの顔が引きつっています。蓮太郎さんが言葉を言いきる前にわたしが答えているからでしょうか。

 

 

「ちょっと、里見くん。知り合いなの?」

 

「同じアパートに住んでて、何度かすれ違ったぐらいだ。まさか民警だとは俺も思ってなかったよ」

 

 

 女性の人が蓮太郎さんを肘で小突いて尋ねています。わたしが民警だとわからなくても、普段から一緒にいる陸さんの龍太刀(りゅうたち)を見れば察しは付きそうなものですが。

 

 

「アイノさん、初めまして。天童木更と申します」

 

 

 挨拶をされました。女性の人の名前は木更さんというそうです。

 

 

「木更さんもかしこまらなくていいですよ。相馬さんはこれですし」

 

 

 相馬さんは机に突っ伏して寝ています。寝言で「莉子ぉ」と呟いています。

 

 

「そ、そうね。そうさせて貰うわ」

 

 

 木更さんも少し苦笑いをしています。なぜでしょうか。

 

 その時、制服を着た禿頭の人が部屋に入ってきました。そのすぐ後ろを早足で抜けるように燕尾服の男性と黒服の少女が入ってきます。影胤さんと小比奈さんです。

 

 影胤さんは空いていた席に座り、足を机の上に投げ出しました。影胤さんも呼ばれていたのでしょうか。だとすると、正規の民警ペアのはずです。昨日追ってしまったことを後で謝らないといけませんね。ですが、遅刻は感心しません。

 小比奈さんは私の横を通りすぎ、部屋の一番後ろで壁に背中を預けました。じっとわたしを見ているので、わたしも見返します。にらめっこでしょうか。

 

 

「本日集まってもらったのは他でもない、諸君等民警に依頼がある。依頼は政府からのものと思ってもらって構わない」

 

 

 禿頭の人が話し始めたので、小比奈さんから目を逸らし前を向きます。相馬さんはいつの間にか起きて真剣な表情で話を聞いていました。

 

 

「ふむ、空席一、か」

 

 

 ?

 どこに空席があるのでしょう。最後の席は影胤さんが座って埋まりました。

 

 

「本件の依頼内容を説明する前に、依頼を辞退する者はすみやかに席を立ち退席してもらいたい。依頼を聞いた場合、もう断ることができないことを先に言っておく」

 

 

 誰も席を立ちません。もちろん相馬さんも立ちません。貴重な依頼です。逃したら会社の経営は赤字のままです。いつか相馬さんの個人資産が底を尽きます。

 

 

「よろしい、では辞退はなしということでよろしいか?」

 

 

 禿頭の人が念を押すように周りを見回しますが、辞退の声はありません。

 

 

「説明はこの方に行ってもらう」

 

 

 禿頭の人が身を引くと、特大パネルに一人の女性が写し出されました。

 

 

『ごきげんよう、みなさん』

 

 

 写し出されたのはこの東京エリアを統括する聖天子様でした。影胤さんと相馬さんを除く社長格の方々が勢いよく立ち上がります。影胤さんは姿勢を変えずに聖天子様が写るパネルを眺めています。相馬さんは嫌そうな顔をしています。きっと対応しきれない面倒事に反応するセンサーが発動したのでしょう。

 

 天童菊之丞という名前の男性の姿も見えます。まるで光の裏にある影のようです。

 

 

『楽にしてくださいみなさん、私から説明します』

 

 

 着席する人はいません。影胤さんは態勢を変えませんし、相馬さんは顔だけパネルに向けて机に突っ伏しました。とがめるような視線が相馬さんに飛びます。

 

 

『といっても依頼自体はとてもシンプルです。民警のみなさんに依頼するのは、昨日東京エリアに侵入して感染者を一人出した感染源ガストレアの排除です。もう一つは、このガストレアに取り込まれていると思われるケースを無傷で回収してください』

 

 

 感染源ガストレア……昨日空を滑空していたモデル・スパイダーのガストレアのことでしょうか。

 

 パネルにジュラルミンシルバーのスーツケースと、その横に報酬額の数字が写し出されました。相馬さんが飛び起きて、わたしにアイコンタクトで「できる?」と聞いてきます。わたしはアイコンタクトで「必ず」と答えました。相変わらず現金な民警会社です。

 

 三ヶ島さんがすっと手を挙げました。

 

 

「質問よろしいでしょうか。ケースはガストレアが飲み込んでいる、もしくは巻き込まれていると見ていいわけですか?」

 

『その通りです』

 

「感染源ガストレアの形状と種類、いまどこに潜伏しているのかについて、政府は何か情報を掴んでいるのでしょうか?」

 

『残念ながらそれについては不明です』

 

 

 今度は木更さんが挙手しました。

 

 

「回収するケースの中にはなにが入っているか聞いてもよろしいですか?」

 

 

 社長の方々が色めき立ちます。相馬さんは報酬額を見て目を爛々と輝かせています。

 

 

『おや、あなたは?』

 

「天童木更と申します」

 

『……お噂は聞いております。それにしても、妙な質問をなさいますね天童社長。それは依頼人のプライバシーに当たるので当然お答えできません』

 

「納得できません。感染源ガストレアが感染者と同じ遺伝型を持っているという常識に照らすなら感染源ガストレアもモデル・スパイダーでしょう。その程度の敵ならウチのプロモーター一人でも倒せます」

 

 

 やっぱりモデル・スパイダーでした。たぶんこの中で滑空するという特長を知っているのはわたしだけなので、わたしが有利です。

 

 

「問題はなぜそんな簡単な依頼を破格の依頼料で――しかも民警のトップクラスの人間たちに依頼するのか腑に落ちません。ならば値段に見合った危険がそのケースの中にあると邪推してしまうのは当然ではないでしょうか?」

 

『それは知る必要のないことでは?』

 

「かもしれません。しかし、あくまでそちらが手札を伏せたままならば、ウチはこの件から手を引かせていただきます」

 

 

 もったいないです。手を引いたら当然何も貰えません。もったいないです。

 

 

『……ここで席を立つと、ペナルティがありますよ』

 

「覚悟の上です。そんな不確かな説明でウチの社員を危険にさらすわけにはまいりませんので」

 

 

 沈黙が広がります。相馬さんは目を¥マークにして妄想にふけっています。

 

 突然、影胤さんがけたたましく笑い始めました。

 

 

『誰です』

 

「私だ」

 

 

 全員の視線が影胤さんに集まります。影胤さんの両隣の人は驚いて椅子から転げ落ちました。驚きすぎではないでしょうか。

 

 

「お前は……そんな馬鹿なッ」

 

 

 蓮太郎さんは影胤さんを知っているようです。ですが反応が今更すぎないでしょうか。先程から影胤さんはいました。

 

 影胤さんは体を反らせて跳ね起きると、机の上に立ち上がります。マナーが陸さん並みです。

 影胤さんは聖天子様と向き合える位置まで移動しました。

 

 

『……名乗りなさい』

 

「これは失礼」

 

 

 影胤さんはシルクハットを取り、体を二つに折って礼をしました。

 

 

「私は蛭子、蛭子影胤という。お初にお目にかかるね、無能な国家元首殿。端的にいうと私は君たちの敵だ」

 

 

 前言撤回です。追ってしまったことを謝る必要はありませんでした。むしろ捕まえたら報酬が貰える系統の人でした。WANTEDです。

 

 

「お、お前ッ……」

 

 

 蓮太郎さんは拳銃を影胤さんに向けて構えています。影胤さんの首がぐりんと外れそうな勢いで蓮太郎さんの方を向きました。

 

 

「フフフ、元気だったかい里見くん。我が新しき友よ」

 

「どっから入って来やがった!」

 

「フフフ、そ――」

 

「えっ、気づいてなかったのですか?」

 

 

 その場にいた全員の視線がわたしに集まりました。その全てが驚愕の視線です。相馬さんだけ納得した様子です。

 

 

「驚いたよ。まさか気づかれていたとは。アイノくん、君はいつから私に気づいていのかね?」

 

「いつからと言われても、最初からとしか」

 

「……それは本当かい?」

 

「パパ、アイノの言ってることは本当。最初から気づかれてた」

 

 

 後ろに控えていた小比奈さんがわたしの隣まで来て言いました。わたし以外は小比奈さんにも気づいていなかったみたいです。みなさんとても驚いています。

 

 

「……強そうに見えないのに」

 

 

 小比奈さんはどこか不満げに言いました。きっと、今までは相手の強さを見ただけで察することができたのでしょう。それなら昨日すぐに退いてくれなかった理由もわかります。

 

 

「能ある鷹は爪を隠すのです」

 

「パパァ、アイノ嫌い。斬っていい?」

 

 

 嫌われてしまいました。煽ったと勘違いされてしまったのでしょうか。悲しいです。

 

 

「駄目だ。アイノくんの力は思っていたよりも遥かに上だ」

 

「むぅ、パパァ」

 

 

 小比奈さんは小太刀の柄に手を添えて、小太刀を抜きたそうに指をせわしなく動かしています。

 

 

「おおそうだ、紹介が遅れてしまったね。私のイニシエーターにして娘の、小比奈だ」

 

 

 小比奈さんは小さく跳んで卓上にのぼり、影胤さんの隣まで歩いてからスカートをつまみお辞儀をしました。

 

 

「蛭子小比奈、十歳」

 

 

 顔を上げた小比奈さんにジト目で睨まれています。なにか悪いことをしたでしょうか?こんなに嫌われている理由がわかりません。

 

 

「では本題と行こうか。と言っても、今日は挨拶に来ただけだけどね。私もこのレースにエントリーするよ」

 

「エント――」

 

 

 蓮太郎さんがなにか言おうとした直後、電話の着信音が室内に鳴り響きました。

 

 

「私の携帯だ。すまないね」

 

 

 どうやら影胤さんの携帯にかかってきたみたいです。

 影胤さんが電話に出ました。

 

 

「……ふむ、そうか。既に『七星の遺産』は手に入れたと。それなら迎えに来てもらえないかね?私単独で逃げきれないことも無いが、少し面倒だ。……では、頼んだよ」

 

 

 奇妙です。わたしの聴力で電話相手の声も聞き取ったのですが、聞こえてきたのは虫の羽音のようななにかだけでした。

 

 

「諸君、始まる前からすまないが、どうやらレースは私の勝ちのようだ。君たちが欲するジュラルミンケースの中身、『七星の遺産』は我々が頂いた。すぐに迎えが来る。私たちはこれにて去るとしよう」

 

 

 直後、窓を突き破って何かが入って来ました。蟹のような腕、蜂のような胴体、頭部と思われる場所には鮮やかな色のうずまきがあり、蝙蝠の羽を生やして飛行する生命体。

 

 

「ガストレアだ!撃て!」

 

 

 誰かが叫びました。直後、謎の生物に黒銀の弾丸が殺到します。しかし、その全ては謎の生物と影胤さんたちを守るように出現した青白い燐光を放つバリアに防がれました。

 

 

「ヒヒッ、何をしても無駄だ。私の斥力フィールドは今や……ステージⅤの攻撃すらも防ぐだろう」

 

 

 謎の生物が影胤さんと小比奈さんを腕に乗せます。謎の生物はそのまま飛び上がりました。

 

 

「ではさらばだ! 友よ、そして超越者よ!」

 

 

 影胤さんと小比奈さんを乗せた謎の生物は窓の外へ飛び去って行きました。一瞬で外周区の空へと消えていきます。

 

 

「追いかけないの?」

 

 

 呑気に椅子に座ったままの相馬さんが聞いてきました。

 

 

「無理です。モノリスの近くで完全に気配が消えました」

 

「モノリス? あれ、ガストレアなのにモノリスに近づけるの?」

 

 

 モノリスは東京エリアを守るバラニウムの塊。普通のガストレアが近づけばただでは済みません。ですが……

 

 

「あれは、ガストレアではないです」

 

 

 わたしだからこそ、確信を持って言えます。




Tips

無装のアイノ

 素手でガストレアの脳を潰し、心臓を刺し貫く。ガストレアの肉体を武器に、また別のガストレアを狩る。
 その戦鬼の如き戦い方に、アイノはIP序列100位以内でないながらも二つ名で呼ばれるようになった。
 無装と呼ばれるキッカケとなった『仙台エリア防衛戦線』という戦いがあるが、それはまたいずれ。


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バナナキムチ

「その影胤ってやつ、お前から見てどうだった?」

 

 

 ハートの4が陸さんの手から落とされます。

 

 

「どうと言われても、不気味としか。せっかくのジュラルミンケースも取られてしまったので、その分の報酬が貰えなくて残念です」

 

 

 スペードの6を手札から捨てます。

 

 

「まあ、あの蛭子って人を捕まえればもっと多い報酬が貰えるから別にいいんじゃない?っと、スペード縛りね。あと7渡し」

 

 

 相馬さんはスペードの7を捨てました。加えてカードを一枚、次の藤谷さんに渡しました。縛りと7渡しはローカルルールです。

 

 

「おっ、サンキュー相馬。俺は別に報酬さえゲットできるんならそれでいいけどな。そんじゃ、ほいっ」

 

 

 スペードの2が落とされました。誰かがジョーカーを出さないと、残り手札3枚の藤谷さんが続けて捨ててしまいます。加えて二枚あるジョーカーのうち片方は既に捨てられているので、ジョーカーを藤谷さんが持っていたら一巻の終わりです。

 

 

「報酬といえば、臨時報酬をくれると言ったから防衛省についていったのに、あれじゃあただのお小遣いじゃないですか。あ、パスで」

 

「たったの500円だもんな。俺もパスだ」

 

「ちょっとは収支状況を考えて言って欲しいね。特に陸。っと、とりあえずこれで流しでいいかな」

 

 

 と言いながら相馬さんがシルクハットの道化が描かれたカードを捨てました。ジョーカーです。ちなみにもう一枚のジョーカーは仮面の道化が描かれています。

 

 

「いいやまだだ。俺の手札にはスペードの3(勇者)がいる。つぅことでこれで流しにするぜ」

 

「ファッ!?てっきりもう出てたのかと」

 

 

 藤谷さんがスペードの3を出してカードの山を流しました。スペードの3は唯一ジョーカーに勝てるカードです。

 

 

「4の二枚出しで俺が大富豪だ!」

 

 

 藤谷さんがクラブの4とダイヤの4を捨てて上がりました。

 

 

「げぇ、マジかよ」

 

「ふっ、どうだ、参ったか」

 

 

 舌を出して言う陸さんに対し、藤谷さんは誇らしげです。

 

 

「っち、二枚出しなんてできねぇよ。パスだパス」

 

「こればっかりは手札の運ですからね」

 

「そう言うアイノはまだ7枚残ってるんだね」

 

「ハッ、今回はアイノが大貧民か?」

 

「いえ、そうでもありませんよ」

 

「はっ?」

 

 

 手札が5枚の陸さんに鼻で笑われましたが、わたしの手札はそんなに弱くありません。

 

 

「クラブとダイヤの2、これで流しですね。それからハートの2。これもジョーカーは全部出たので流しです。ダイヤの8とスペードの8で2回8切りです。ハートとダイヤの3の二枚出し。これで富豪です」

 

「なっ……」

 

 

 残り7枚の手札を一気に捨てたわたしを見て、陸さんが唖然としています。

 

 

「なぁ、そんなにいい手札だったのに俺に勝てなかったんか?」

 

「ジョーカーが出るまでは様子を見ようと思ってました」

 

「なるほど」

 

 

 藤谷さんが「あのタイミングでジョーカー出してくれて助かった……」と呟いています。

 

 

「10の二枚出しで、10捨てだよ」

 

 

 相馬さんがスペードとクラブの10を捨て、更にクラブのキングとハートの5を捨てました。10捨てもローカルルールです。

 

 

「だから二枚出しはできないっての。パスパス」

 

 

 二枚出しができないのは陸さんが下手だからだと思います。さっきも強引に一枚目のジョーカーで自分の手番にしておきながら、ハートの4を出していました。終盤なのに低い数の一枚出しです。もっと他の手は無かったのでしょうか。

 

 

「本当にいいんだね?じゃあ、クラブの3。これで上がり」

 

「は?」

 

 

 結果、一人残った陸さんが呆然としています。

 

 

「陸ってトランプ全般苦手なのにやりたがるよな」とは、藤谷さんの談です。

 

 

「うるせー。苦手じゃなくたまたまだ、たまたま」

 

「そんじゃ、今月のボランティアは陸な」

 

「あっ、そうだった……」

 

 

 ボランティアとは、亜土民間警備会社の恒例行事です。わたしとプロモーター1人でモノリスの外まで行って、一泊二日のガストレア狩りをします。わたし以外は報酬無しの完全ボランティアです。わたしは相馬さんから毎月ゼロ五つ分は貰っています。

 

 この大富豪で、大貧民になった人がボランティアに行くという賭けをしていました。ちなみにわたしが大貧民だった場合はわたし一人です。

 

 

「陸さん、諦めてください。明日から泊まり掛けですから、準備しますよ」

 

「嫌だ!地獄のボランティアなんか行きたくな」

「うるさいです」

 

 ドスッ

「ガハッッ」

 

 

 まるで子供のように駄々をこねはじめた陸さんを黙らせてから、手首を握って引き摺ります。辛うじて気絶はしてないので、大丈夫でしょう。

 

 

「それでは、買い出しに行ってきます」

 

「いってらっしゃーい」

 

 

 間延びした相馬さんの声を聞きながら、亜土民間警備会社を後にしました。

 

 

 

 ●

 

 

 

「ピーマンとニンジンともやしと……」

 

「そういえば、お前でも影胤ってやつの気配を追いきれなかったって本当なのか?」

 

 

 わたしがスーパーで野菜を物色していると、陸さんが話しかけてきました。

 

 

「はい。臭いも音も、モノリスのすぐそばで突然途切れました。能力を隠さずに追いかけていれば、空気の流れでどこに行ったかわかったのですが……」

 

「そんなことで秘密を見せちゃ切り札にもならないし、危険に身を晒すだけか」

 

「はい」

 

 

 陸さんしか知らないわたしの秘密は、そう簡単に公開していいものではありません。もし知れ渡ってしまえば、この力を求めて、或いはこの力を恐れて、世界中からの刺客が襲ってくることでしょう。

 わたしはともかく、陸さんまで危険な目に遭うのは看過できません。

 

 

「にしても、ガストレアではない化けもんねぇ。新種の生物って訳でも無いんだろ?」

 

 

 昨日わたしが相馬さんと防衛省に行った時に東京エリアとの敵対を宣言した蛭子影胤。影胤さんと小比奈さんだけなら逃がさない自信があったのですが、そのあと表れた謎の怪物に乗って逃げられてしまいました。

 今思えば、完全に気配を消したのもあの化物の力によるものでしょう。

 

 

「同族の気配は感じませんでしたし、地球上であんな生物は誕生できません。可能性があるとすれば、ガストレアウィルスとは違う別のウィルスが生み出した生物か、宇宙から来た未知の生物、でしょうか」

 

「よくわからねぇけど、もし戦うことになったら勝てるのか?」

 

「戦ってみないことにはわからないですが、見た感じでは雑魚です」

 

「ならよし」

 

 

 一つ気になることといえば、化物が全身にまとっていた薄緑のゼリー状の物質でしょうか。猛毒物質なのか、衝撃緩和装甲なのか、どういうものなのか未知数です。

 猛毒でもなんでも、わたしなら特に問題無いので大丈夫なんですけどね。

 

 

「あっ、豚バラ肉が3割引されてますね。少し多めに買っておきましょう」

 

 

 食材を買い物カゴに入れながら歩いていると、豚肉が目に止まりました。賞味期限も切れてませんし、外見も悪くなさそうです。それになにより、わたしの中の肉食獣の本能がこれは大丈夫だとGOサインを出しています。

 

 買いですね。

 

 他に必要なものは……なさそうです。一泊二日だけならこれで充分でしょう。

 

 

「レジに行きましょうか。……陸さん、何を見ているのですか?」

 

 

 陸さんに声をかけたのですが、反応がありません。どうやらカップラーメンのコーナーを覗いているようです。

 

 

「買うべきか買わざるべきか……。いや、でも、バナナキムチ味?好きなメーカーの新商品でもこれは……」

 

 

 陸さんは黄色と赤のまだら模様のパッケージを手に取って悩んでいました。パッケージにはバナナ味キムチ風味と書かれています。謎のラーメンです。

 

 

「バナナ味ならまあわかる。キムチ味はいいだろう。しかし、バナナキムチ味はどうな――グハッ!?」

 

「買うなら早くしてください。わたしは先にレジに行ってますよ」

 

 

 あまりに遅いので脇腹にチョップを入れます。

 さて、悶絶する陸さんは放っておいて会計を済ませましょうか。

 

 余談ですが、結局陸さんはバナナキムチラーメンを買いませんでした。




Tips

謎の生物

 脳の缶詰めを作れる程度の技術力を持った神話生物。当然科学は発展するものであるため、クトゥルフ神話作品やCoCシナリオなどで登場する同種個体よりも強力。


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始まりゆく混沌

 深夜二時。多くの人が寝静まったであろう頃、わたしは全裸でモノリスの外にいました。露出狂ではありません。服を着るのが面倒だっただけです。それにわたしなら見つからないので問題ありません。

 

 家ではわたしに人の因子を捧げて干からびた陸さんが気絶しています。たったの一時間で力尽きてしまったので、思ったよりも早く家を出ることができました。

 

 

「モデル・オウル」

 

 

 フクロウの因子を解放します。全身を白銀の羽毛が覆い、ちょうど下着のような形になりました。足は指が長く細長く硬くなり、鳥の足になります。腕は大きく変化し、猛禽特有の翼になりました。お尻からは背骨を延長するように尾羽が生えます。

 

 わたしの今の外見を一言で表すなら、ハーピーでしょうか。神話上の醜悪なハーピーではなく、日本人がファンタジーに美化したハーピーです。

 

 ここまでしっかりと因子解放したのは久しぶりです。これも陸さんさまさまですね。心の中で感謝しておきましょう。

 

 

「それでは行きますか」

 

 

 翼を大きく広げ、飛び上がります。羽ばたくのは少し疲れますが、そもそものスタミナが無尽蔵なので問題ないです。みるみる高度が上がり、あっという間にモノリスを越えました。

 

 空をゆるりと滑空しながら、巨大なガストレアや影胤さん、ガストレアではない怪物がいないか、地上を見下ろします。

 

 昨日……ではなくもう深夜二時なので一昨日ですね。影胤さんがいなくなった後、聖天子様から緊急の依頼。それも実質指令に近いものが言い渡されました。

 

 要約すると、曰く、七星の遺産とは厳重に保管しなければ東京エリアに大絶滅を引き起こすもの。それが影胤さんに奪われてしまった現在、早急に取り返さなければ東京エリアが滅んでしまう、とのことです。

 

 わたしとしては東京エリアが滅ぶこと自体はどうでもいいのですが、亜土民間警備会社の事務所が無くなるのは嫌ですし、みなさんの居場所が無くなってしまうのはもっと嫌です。

 

 ですので、明日――厳密には今日ですが――のボランティアで行く場所の下見ついでに影胤さんを探せるよう、影胤さんの気配を感じられなくなったモノリスの先でボランティアを行うことにしました。

 

 眼下、モノリス側も気にしつつ飛び回ります。ステージⅠやステージⅡはいつも通りたくさんいますね。ステージⅢもちらほら見かけます。陸さんはステージⅢまでは余裕を持って対処できるので、ステージⅣがいたら適度に間引きしておかないといけません。

 

 やはりというべきか、昨日見たガストレアではない怪物は見当たりません。渦を巻きいくつもの触肢を生やす頭部。蟹の鋏のようなものがついた腕。胸元付近から生える足は4本あって、虫の腹部のように膨らんだ腹とあわせて見ればまるで虫のようです。しかし、蚊のような不快な音を出して羽ばたく翼は蝙蝠のようでした。

 

 この複数の生物の身体的特徴を併せ持つことだけを見れば間違いなくガストレアなのですが、わたしが同族と感じなかったのであれはガストレアではありません。では、あれは一体なんだったのでしょう……?

 

 ……前方から飛行型ガストレアが飛んできました。見たところステージⅡでしょうか。狙いはわたしのようなので、すれ違いざまにガストレアの頭を潰し、地上に落としました。

 

 考えていても仕方ありません。ステージⅣは目につく範囲にはいませんでしたし、適当なステージⅢを食べてから帰りましょう。

 

 

 

 ●

 

 

 

 深夜二時。暗い部屋の中。赤い髪の少女、延珠は大の字になって寝ていた。

 

 

「れんたろぉ……。すー」

 

 

 寝返りを打つ延珠。幸せそうな顔でよだれを垂らしている。しかし、そこに蓮太郎の姿は見えない。

 ただ時折、蚊の飛ぶような不快な音が聞こえるだけだ……。

 

 

 

 

 同時刻。某所公園。人払いをしたように人気は無く、二人の男が佇むのみ。……否。空に、木の影に、遊具の裏に、暗色に身を溶かした異形が潜んでいた。

 

 

「こんなとこに連れてきて、何が目的だ?」

 

 

 寝間着のままの不幸面の男、里見蓮太郎。寝癖で髪がボサボサで、心底不機嫌そうに目を細めている。しかし、銃だけは対面に立つ男に向けたまま、警戒を解いてはいない。

 

 

「アイノくんがモノリスの外にいると連絡を受けてね。君と話すなら今しかないと思った次第だよ」

 

 

 対面に立つのは笑う仮面に燕尾服、そしてシルクハット。ふざけたような格好の長躯の紳士、蛭子影胤。丸腰で銃口の先に立つが、警戒している様子は見受けられない。

 

 影胤の言葉に、眉をしかめる蓮太郎。銃を握る手に力が入る。

 

 

「さて、本題だ。里見くん、私の側に来ないか? もちろんタダでとは言わない。望むなら金でも力でも、なんでも――」

 

 

 影胤の言葉を銃声が遮った。半透明の青い壁に阻まれ、黒い銃弾は地に堕ちる。夜の公園に甲高い音が響き渡った。

 

 

「てめぇの仲間になんか、死んでもなるかよ」

 

「ほう、本当にそれでいいのかね?」

 

 

 蓮太郎は無言を以て答える。

 影胤は踵を返し一歩、歩き始めた。

 

 

「ヒヒッ、それでこそ里見くんだ。だが、いずれ君は知ることになる。星辰は既に揃っているのだと」

 

 

 影胤は首を回し、蓮太郎を視界に捉える。

 

 

「里見くん。君は、君自身のために、私と行く道を選ぶことになるだろう」

 

「何を、言っているんだ……?」

 

 

 影胤を訝しむ蓮太郎。

 影胤は右手を掲げ、指を鳴らした。蚊の飛ぶような音とともに、形だけを見れば蜂のような、渦を巻く頭部の異形が舞い降りる。影胤はその異形の腕の大きなはさみに腰掛ける。

 

 

「二日後だ。二日後、この東京エリアをステージⅤ(ゾディアック)ガストレアが襲う。その後、再び答えを聞かせてもらうよ」

 

 

 影胤を乗せた異形が蝙蝠のような黒い翼を震わせ、空へ飛び立つ。それを追うように、大小様々な異形が5匹飛び去っていった。

 

 

「影胤……一体、何者なんだ?」

 

 

 宵闇の中、蓮太郎はただ一人残された。

 

 

 

 ●

 

 

 

 深夜二時半。聖天子の寝室。部屋の主たる聖天子は、窓の外を見て憂いていた。

 

 

「七星の遺産は既に敵の手に……。このまま取り戻せなければ……」

 

 

 聖天子の顔には疲労が浮かんでいる。影胤の手に『七星の遺産』と呼ばれるものが渡ってから既に一日以上経過している。モデル・スパイダーのガストレアはその影すら見せておらず、その事実が影胤の言葉を裏付けていた。

 

 

「はぁ、もう寝ましょうか……」

 

 

 俯いたままベッドに座り込む聖天子。ふと、背後に気配を感じる。何者か。この時間帯では普段なら部屋にいるのは聖天子ただ一人。誰かが入ってくるにしてもまずノックの音がある。

 まさか、暗殺者か。そう思いつつ、聖天子は立ち上がりながら振り向いた。

 

 

「何者ッ!」

 

 

 その褐色肌の美しい男はベッドに座ったまま、笑顔で聖天子を見ていた。聖天子と真逆の、漆黒に染まったゆったりとした服に身を包み、漆のように美しい髪は短く整えられている。その容姿は女性どころか男性でさえ惚れてしまうのではと思うほど美形。

 しかし聖天子には、その男があまりに完璧過ぎて不気味に感じられた。

 

 黒い男は口を開いた。

 

 

「やあ、はじめまして。僕は君を導きに来たよ」

 

 

 その大人びた外見から発せられる言葉は少し幼げで、明るい声なのにその男の全てから深淵を感じさせる。

 

 不安、焦燥、驚愕、恐怖。

 

 いくつもの感情が渦巻く中、聖天子は一歩、後退る。

 

 

「そんなに警戒しないでおくれよ。大丈夫、僕に君を傷つける気は全く無いから」

 

 

 不思議とその言葉は、聖天子の心に染み渡るように広がっていった。

 

 

「私に何の用でしょうか?」

 

 

 ふと気づけば、聖天子は男に気を許していた。しかし、害意があるならば気づかれる前に何かしてきているはずだ、と考え直す。聖天子は完全に警戒を解き、再びベッドに座った。男が不審者であることには変わり無いのに。

 

 

「言っただろう? 君を導きに来たんだ。この東京エリアを存続させたいなら、呪われた子供たちとの共存を望むなら、今の君だけでは力不足だ」

 

 

 その言葉は聖天子の心に深く突き刺さった。確かに、自分は思想ばかりで自分の望むことなど何もできないのではないかと、心のどこかで薄々気づいていたからだ。

 しかしこの程度の言葉など、現聖天子を評価した評論家の一部は既に吐いている。

 

 

「私は、どうすればいいのでしょう……」

 

 

 気づけば、聖天子は男に縋っていた。それは、聖天子という立場故に募った不安か、或いは、人知の及ばぬ渾沌故か。

 

 

「二日後、奪われた七星の遺産の影響で《天蠍宮(スコーピオン)》がこの東京エリアを襲う。それを倒すんだ。そうすれば、東京エリアとそれを統治する君自身が、ステージⅤ(ゾディアック)を打倒した者として確固たる存在となる」

 

 

 天蠍宮(スコーピオン)。それは10年前、世界を蹂躙した黄道十二星座の名を冠する最凶の十一体の内の一体。それを倒すなど、根拠の無いこと。だが、

 

 

「……はい」

 

 

 瞳に光を失った聖天子は、安心したように小さく微笑んだ。それを見た男も、一層笑みを深くする。

 

 

「いつまでも君と呼ぶのは忍びないね。これから君のことは“白色”と呼ぶことにするよ。僕のことは“黒色”って呼んでね。それじゃあまた来るよ、白色」

 

「わかりました、黒色様……」

 

 

 黒色は空気に溶けるように、闇に融けるように消え去った。そこに黒色のいた痕跡はない。

 

 一人、眠りにつく聖天子。その表情は、憑き物が取れたように穏やかなものだった。

 

 

 

 

 

 

 とある国のとあるガストレア研究家の男は、衛星を通して太平洋上を観測していた。渡鳥型のガストレアの群れが飛んでいるのを眺めていると、ふと、島のようなものが見えた。

 

 男はそれを拡大して見る。いくつもの建造物が連なる都市を乗せた島のようだった。拡大すればするほど、男はその島の異常性に気づく。

 

 その建造物群は凡庸な脳ではとても理解しがたい非ユークリッド幾何学的な構造をしており、詳しく理解しようとすればするほど頭痛と吐き気を催す狂気的なものだったのだ。

 

 気分を害した男は、正しく見ようとするのは止めて眺めるようにその島にあるものを見ることにした。

 

 建造物の間に複数見える生物の姿……ガストレアだろう。地上を歩く魚のガストレアが多数見受けられた。当然のことだが、これほど多くの同じ外見のガストレアが群れでいるのはなかなか珍しい。正確な大きさは解らないが、体格さえ同じなのだ。しかもしばらく見ていると、一定の社会性を持って高度で知性的な行動をしている様子が伺える。

 

 これは大発見だと気をよくした男は、社会性を持つなら王に位置する存在がいてもおかしく無いのではと考える。実際、過去に《金牛宮(タウルス)》というガストレアの軍勢を率いたステージⅤ(ゾディアック)ガストレアも実在した。

 

 男は一度衛星から送られてくる映像を縮小し、もっとも王たる存在がいる可能性が高いであろう都市の中央部分を拡大した。

 

 そして、男は『ソレ』を見てしまった。

 

 ガストレアと呼んでいいのか。或いは『ソレ』こそが欠番だった十二番目のゾディアックガストレアに収まるべきなのではなかろうか。

 

 『ソレ』は、左右3つずつついた目で映像越しに男を睨んだ。

 

 

 

 ――その後、男の溺死体が研究室で見つかった。

 

 

 

 溺れるほどの水など無いその部屋でなぜ溺れたのか。胃液の逆流や肺の異常とも思われたが原因は定かではなく、衛星との接続が切れたスクリーンが現場にあるのみだった。

 




Tips

太平洋上の『ソレ』

 最も有名な旧支配者。海中のガストレアが厄介で本格的な行動に乗り出せずにいる。


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不穏なる平穏

「うっし、やるからには気張るか」

 

「気張るなら夜も頑張ってください」

 

「それは……な?」

 

 

 現在モノリスの外側、既に廃れ廃虚となった街を歩いています。外周区のマンホールから既に使われなくなった地下水道に降りれば、モノリスの外へは比較的簡単に行けます。自衛隊はモノリスとモノリスのちょうど中間ばかりを気にしているので、モノリスのほぼ真下を通る地下水道は眼中に無いのでしょう。たまに瓦礫が道を塞いでいますが、わたしにとってはあってないようなものです。

 わたしだけなら迷彩で自衛官の隣を通り過ぎることもできますが、陸さんもいるので地上を通ることはできません。

 

 

「にしても、今回はガストレアが少なくないか? 先々月はマンホールから出た直後にステージⅠが襲ってきたろ」

 

「な、なんででしょうかねー」

 

「……面倒事になってないし構わないけどよ」

 

 

 陸さんに呆れたような目で見られます。先々月のボランティアでは陸さんと一緒でした。その時にステージⅠとⅡが絶えず襲ってきたので、それを気にしているのでしょう。なぜか感づかれてしまいましたが。

 

 実は昨晩、適当に見繕ったステージⅢのガストレアがたまたま小規模の軍団指揮能力を持っていてステージⅠの取り巻きが数十体いました。それに加え死んだ時に死体から他のガストレアを集めるフェロモンを発したので、その死体を食べている間にもステージⅠが辺りから寄ってきました。そのせいで、食べ終わる頃にはこの辺りのステージⅠは大体狩り尽くしてしまいました。ステージⅡも巻き込んだので、今日のキャンプ予定地にはステージⅡとステージⅢが数体ぐらいずついる程度でしょう。ですのでまだガストレアに襲われていません。

 

 ……場所を変えましょうか。

 

 

「ガストレアが少ないので、せっかくですし少し離れた所まで行きましょうか」

 

「あー、んー、別に問題ねぇか。この程度なら地獄って訳でもないしな」

 

 

 釣れました。流石、脳筋は餌が無くても引っ掛かってくれます。では、前々から気になっていたジャングルの方へ行きましょう。ガストレアウイルスの影響で日本原産の植物でもジャングルとなりうるようになっています。

 ジャングルの上を飛び越えることはあっても、中に入ったことは一度もありませんでした。ステージⅣがどれだけいるのか、今から楽しみです。

 

 

 

 ――8時間後――

 

 

 

「かはっ! ……もう、無理」

 

 

 大きな翼の生えたライオンの前足の一撃で吹き飛んだ陸さんが、巨木を背に地面に崩れ落ちました。宙を舞う龍太刀が、陸さんを殴り飛ばしたガストレアと陸さんとの間に刺さります。

 

 

「『コイツは俺に任せとけ』とか言うからですよ」

 

 

 わたしはわたしで目の前にいた鋭い針を纏う大蛇の首をねじ切り、少し離れた場所から固めた土を投げてくる虫の外骨格を持ったサルに投げつけます。大蛇の鱗の代わりに生えていた針がサルの腹部を貫きました。

 ちらっと陸さんの方を見ると、這いつくばる陸さんに白翼ライオンのガストレアが迫っていました。

 

 

「しょうがないですね……っ!」

 

 

 頭があった部分の断面を晒す大蛇を両腕で抱えるように持ち上げます。既にゴリラの因子を解放しているのでさほど苦労はしません。陸さんに迫るガストレアの位置を確認して、大蛇の体を鞭のように上から叩きつけます。

 轟音。枯れ葉と土が巻き上がり、大蛇の胴体が直撃した木が外皮を破裂させて半ばから折れました。木々が軋む音を聞きながら、針の無い大蛇の白い腹部を駆けます。もうもうと立ち込める土煙に飛び込むと、前からなにかが近づく気配を感じました。

 

 

「モデル・ソーシャーク」

 

 

 咄嗟にノコギリザメの因子を解放、そして跳躍。右腕をノコギリに見立て、下を通る気配を切りつけます。ギャウと小さな悲鳴を漏らし、気配の主が大蛇の下へ転がり落ちる音が聞こえました。

 

 一旦立ち止まり様子を見ます。徐々に土煙が晴れて視界がはっきりしてきたその矢先、サルに投げつけたはずの大蛇の頭が飛んできました。屈んで回避し、頭が飛んできた方向を見ます。そこには、腹部から血を流すサルがいました。大きさだけは一軒家ほどはあるので、先程の一撃だけでは殺しきれなかったのでしょう。

 

 サルに投げつけるための鱗を足下の大蛇の死体から剥がしていると、大蛇の下に落ちていたライオンが飛びかかってきました。左の翼を失っているので、持っていた鱗をぶつけるだけでバランスを崩し転倒しました。

 

 目の前に倒れたライオンの頭部を手刀で切り落とします。ついでにわたしの体重より明らかに重いライオンの頭を、固めた土を投げようとしているサルに向けて投げつけます。ライオンの頭は、同じく投げられた土の固まりに迎撃され、土と血を散らしました。

 

 

「モデル・チーター」

 

 

 ライオンの頭が地面に着く直前、その隣を駆け抜けます。そのままの勢いで軽く跳び、サルの頭を側面から蹴ります。その衝撃にサルの頭は耐えきれず、爆散しました。

 

 倒れたサルの胸部甲殻の上に着地。周囲に生きているガストレアの気配なし。血の臭いに釣られて来るかもしれませんが、その時はその時です。人の因子を活性化させ、解放していたその他の因子を封じます。

 

 

「ふぅ」

 

 

 軽く呼吸を整え、サルの上から飛び降ります。針の鎧の大蛇、白い翼のライオン、虫の殻のサル。3体のステージⅢに同時に襲われましたが、なんら問題ありませんでした。

 

 既にステージⅢと単独で17連戦やらせていたからか、陸さんは変なテンションで白い翼のライオンに突っ込んで返り討ちにされていました。結果、現在大木の下で気絶しています。頑丈な陸さんのことですから、夜になる頃にはスッキリ目覚めるでしょう。

 

 さて、ちょうどいいのでこの3体のステージⅢは食べてしまいましょう。陸さんもこうしてわたしがガストレアを食べるのは知っているのですが、あまり見ようとしません。なので気絶している間に食べてしまいます。

 

 

「モード・イーター」

 

 

 複数因子の多量解放。あらゆる生きものの捕食者としての側面。全身がメキメキと音を立て変形し、急な変化に白銀の体毛が抜け落ちました。

 

 ……それでは、いただきます。

 

 

 

 ●

 

 

 

「ふあぁぁぁあっ、んー」

 

「おはようございます」

 

「ぁぁあ、あ? ここは……あー、そういやボランティア中か」

 

 

 夜の闇の中。たき火の隣の地面に放られていた陸さんが起き上がりました。持ってきていたリュックサックの中身を取り出すのを止め、陸さんの方を向きます。

 

 

「なあアイノ、なんでそんなんなってんだ?」

 

 

 陸さんがわたしを見て言いました。そんなん、とは、わたしの姿のことでしょう。今のわたしは、パンツだけを穿いて上半身は裸です。それに加え、肘先と膝先からは白銀の毛がびっしりとはえ、手足の爪は異様に鋭く伸びています。我ながら惚れ惚れする毛なみです。

 ちなみに、歯を見れば八重歯が鋭く伸びているでしょう。チャーミングです。

 

 

「陸さんが気絶したあと追加でステージⅣも来たので仕方ありません。寝る前にしますよ」

 

 

 嘘です。残念ながらステージⅣは来てくれませんでした。無駄に使いすぎた因子を補充するための口実です。本当は獣じみたこの格好をする必要もありません。

 

 

「おっふ……」

 

 

 顔面蒼白で再び倒れた陸さんをよそに食事の用意をします。バーベキューコンロは既に組み立てたので、炭に火を起こします。起こすと言っても、松の因子を中心に解放し体内で合成した可燃性の油を炭にかけ、たき火の火を移すだけです。

 

 炭に火が行き渡る間、たまに息を吹き掛けるしかやることがないので空を見てみます。

 

 ジャングルの中の開けた場所、と言うより、木を切り倒して強引に作った空き地からは満天の星空を見ることができます。

 一昔前……わたしが生まれるより前では、人工の光に遮られ、地上からは星々の煌めきがほとんど見えなかったそうです。今の東京エリアの中心部からも光の弱い星を見ることはできませんが、夜間は光の無い外周区からなら同じくらいの星空を見ることができます。

 

 人類の文明はガストレアによって滅亡寸前まで追い込まれましたが、それにより、より身近になった自然もあります。現在の人類はガストレアを滅するべきものと断定していますが、それは一概に悪とは言い切れないと思うのです。

 地球……この世界にとっては、環境を破壊し、野生を棄てた人類こそが絶対悪なのではないか。ガストレアこそが正義の使者で、世界を護る存在なのではないか。ふと星を見たり、空を飛んだりすると、たまにそんなことを考えてしまいます。

 

 わたしの立場から生まれる、哀しい利己主義(エゴイズム)にしか過ぎないのですが……。

 

 ……。

 

 さて、炭全体に火が行き渡りました。昨日買った野菜や肉を焼いても大丈夫でしょう。金網を置き、とりあえずは食パンを並べておきます。米は炊くのに時間が掛かるので、パンで代用です。

 

 

「陸さん、起きてください」

 

 

 陸さんに呼び掛けつつ、食パンに焦げ目がついているか確認します。うっすらと茶色が差しているのを確かめたら、裏返します。両面に焦げ目さえあればそれで充分なので、焼き終わった食パンから順に紙皿に移しておきます。

 

 ……陸さんが起きる気配がありません。仕方無いので、野菜と肉を焼いてしまいましょう。陸さんが食べる分を残しておけば特になにも言われません。

 

 ジャングルと化した木々の間に、たき火と野菜の水分が弾ける音が響き、肉が熱され縮れながら小気味良い音を鳴らします。先程ステージⅢのガストレアを3体食べたばかりだというのに、お腹が鳴ってしまいました。

 

 火が通った肉と野菜を食パンに挟み、甘口の焼肉のタレをかけます。仕上げにブラックペッパーをお好みで振りかけたら完成です。野菜は種類によって生のまま挟んでも美味しいです。

 

 一口。サクッと小さな音を立て、歯がパンを貫通します。炭火焼き特有の食欲をそそる風味が口に広がり、安物の肉に付け加えたタレが絶妙なジューシーさを生みだします。

 ジャングルの中とはいえ、夜の涼しさと日本の元々の気候により、あまりじめじめとした嫌な感じはしません。そのお陰か、屋外で食べる料理というものをしっかりと楽しむことができます。

 

 平和。ガストレアと人類が劣悪ながらも絶妙な均衡を保つ現在、このように平穏の中に平和を感じることはできます。朝起きてから夜寝るまで、何事もなく平穏に過ごせることこそが、平和とも言えます。

 

 

「いつまでも、この平和が続けばいいのですが……」

 

 

 遥か遠く、しかし着実に近づいてくる、人には聞こえない周波数の遠吠えを聞きながら、夜は深くなっていきます。




Tips

モード

 アイノが形態(モード)と呼ぶ、複数因子の多重解放によって齎される姿。何かに特化させたモードが多く、通常の単因子解放のみでは対応しきれない場合に使う。


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ガストレアならざる異形

『蛭子影胤を追う必要はありません』

 

 

 

 それが、わたしたちがボランティアをしているとき、相馬さんが聞かされた聖天子の言葉だそうです。そのせいで、臨時手当は貰えましたが報酬は貰えなかったそうです。正直なところ不完全燃焼です。

 

 今は特にやることも無いので、事務所でそれぞれのんびりしています。相馬さんは莉子さんと昼寝、藤谷さんは持ち込んだポータブルゲーム機で美雨さんと協力プレイ、わたしは先ほどキッチンを借りて作った創作料理を食べ、陸さんは昨日の疲れからか気絶しています。

 

 

 

「ごちそうさまです」

 

 

 

 空になった皿を持って階段を上がります。事務所の2階は相馬さんと莉子さんの寝泊まりする住居になっていて、細かく部屋が区切られているので広々とした1階に比べてやや窮屈です。

 

 キッチンで使った食器を洗い、お風呂場の洗面台で身支度を済ませます。階段を降り1階へ。

 

 相馬さんはまだ寝ていたので、ゲームをしている藤谷さんに声をかけます。

 

 

 

「少し出かけてきますね」

 

「おう、相馬に伝えときゃええんやなっ……と。罠サンキューな、美雨」

 

「ん、早く」

 

「りょーかい、これで倒しきる!」

 

 

 

 藤谷さんが手元のゲーム機に視線を戻したのを見届けてから、事務所を出ます。誰もいないことを確認してからクラゲ等の因子を解放。肉体を透明化かつ軟体化し、道路の側溝から下水道に降ります。最近毎日陸さんから人の因子を補充しているので、この程度の因子解放なら問題はありません。

 

 それでは、不満を燃焼させに行きましょう。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 カエルのガストレアが木々の間を飛んで行きます。巨木に衝突したガストレアは、木の表皮に血の染みを残して潰れました。

 

 現在地は昨日の夜切り開きキャンプした場所です。ここは自分のものだと言い張るように切り株の上に座っていたカエルのガストレアを殴り飛ばしました。ステージⅠの分際でいい度胸です。

 

 さて、準備は整いました。

 

 

「5匹……形からして3匹は昨日付け回してきたのと同じ個体ですね。出てきてください」

 

 

 ……反応はありません。

 ですが、わたしの耳は人間の可聴域外の羽音を捉えています。空気がほんの少し揺れ動くのを感じました。気配は徐々に近づいて……いや、手を伸ばしています。これは……っ!

 

 その場で慌てて宙返りすると、わたしの心臓があった位置をバチバチと音を立てて光るなにかが通り過ぎていきました。

 

 着地と同時に飛んでくる光る弾丸の2射目。上体を反らして弾丸が目の前を過ぎていきますが、目下にあと1弾飛んでくるのが見えます。

 

 

「モデル・スティックインセクト」

 

 

 即座にナナフシの因子を解放し、両腕両足を地につけて変形、伸ばします。枝のようになった足の間、胴体の下を光る弾丸が通り過ぎます。

 

 

「手荒な歓迎ありがとうございます。今度はわたしから行きますねっ」

 

 

 ナナフシの因子を抑え元の足に戻しつつ跳躍。四方から飛んでくる光の弾を回転して回避しつつ、敵の気配の直上に辿り着きます。

 

 

「モデル・シダー」

 

 

 全ての針葉樹の因子を解放。下半身が木になり、服を破って地面に向かって幹と根を伸ばします。木の体は、敵の気配を地面に縫いつけました。

 

 木に変化した下半身をトカゲの尻尾切りの要領で切り離し、プラナリアを筆頭に再生力の強い生物の因子を解放して下半身を復活させます。

 

 幹の上から飛び降り、いまだ途絶えず飛来する光の弾丸を空中で(かわ)しつつ、着地。ガストレアウイルスを保有するキノコの胞子を周囲に撒き、高さ3メートル程度に瞬時に成長させ光の弾丸を防ぐ盾にします。

 

 ガストレアキノコが敵の攻撃を防げていることを音で確認してから、木の根に捕らわれたその存在に目を向けます。

 

 渦を巻き、短い触肢を生やした鮮やかな色の頭部。木の根の間からカニの(はさみ)のような形状の腕が左側のみ表れ、千切れた蝙蝠のような羽の残骸が地面に転がっています。体表を覆う薄緑色の粘体はぐずぐずと煙を出して溶けています。

 

 

「どんな生物かは知りませんけど、知的生命体と判断します。防衛省で影胤さんの逃走に手を貸した生物の仲間ですね? 命が惜しければ影胤さんの居場所を教えてください」

 

『無駄だ。その個体は直に死ぬ』

 

 

 身動きが取れないでいる異様な風貌の生物に話しかけますが、反応があったのは別の方向からでした。

 

 虫の羽音のようにざわついて、やや不快に感じる声です。四方から音を出し反響させ、私の耳に届くときにちょうど声として聞こえるように重ねているようで、明確な音の発信源は掴めません。

 

 

「血も涙も無いのですか?」

 

『無い。君の質問に対する回答だが、契約によって話すことを禁じられている』

 

「あなた方を追えば影胤さんの居場所が判明するのでは?」

 

『イエスだ。しかし、君では我々を追いかけるなどできはしない。何故なら、君は隠れ尾行していた総勢12体の我々に気づけなかった。それが答えだ』

 

 

 ……ブラフでしょうか。確かめようにも、この声が聞こえはじめてから空気をかき乱すように妙な風が吹いていて、空気の動きから気配を感じることは難しいです。

 声の発信源は、会話の中で入念に聞き分けて、4体が発する音を重ねたものだと確信できました。

 さきほど感じた気配は間違いなく5体だけだったので、これがブラフか事実かはわかりません。もし事実なら、この生物への評価を改める必要があります。

 

 

『信じぬならそれでいい。たった一度の接触で、今まで気付けなかった気配に気付けたのだから、君は間違いなく優秀だ』

 

「今まで? まさか、わたしのプライバシーを覗き見していたのですか?」

 

『イエス。君が超越者であるが故に、必要な観察行為だ。(もっと)も、疑心を持った蛭子影胤は君と無用な接触を(おこな)ったが』

 

 

 ……わかりません。口振りから察するに、影胤さんとわたしが会う前からこのガストレアならざる生物はわたしを尾行(ストーキング)していたようです。理由は影胤さんも防衛省から去るときに口にしていた、『超越者』に関連しているそうですが、なぜわたしが超越者とされるのでしょう。心当たりはありますが。

 

 

「超越者とはなんですか?」

 

『……教えられない。まだその時ではない』

 

 

 その時ではない、とはどういうことでしょう。わたしの心当たりの通りなら、今知っても問題はないはずです。わたしが思い当たるようなものではないということでしょうか。

 

 

『……関わりすぎた。これ以上の接触は望ましく無い。さらばだ、超越者アイノ・クラフト。明日を楽しみにしている』

 

「待ってください! まだ聞きたいことがあります!」

 

 

 ガストレアキノコの上に飛び乗り、辺りを見渡し呼びかけます。

 ……返答はありません。気配を遮断する妙な風が収まる頃には、あの生物の気配は感じられなくなっていました。

 

 ふと、背後の気配に変化を感じて振り向くと、木の根に囚われていた生物が煙を出して、体表を泡立たせながら空気に溶けていました。数秒もすれば、木の下にはなにも無い空洞だけが残りました。

 

 

「……明日、ですか」

 

 

 悩んでいてはどうしようもないです。不満は晴れるどころか溜まるばかりですが、もう帰るとしましょう。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「As01から12の帰投を報告。内、As08が死亡。状況は良好だ」

 

 

 黒色の壁に囲まれ、薄明かりを放つディスプレイだけが光源となっている。壁には計器が埋め込まれ、コンソールを叩きながらその様子を見ていた男は、羽虫の飛ぶような音が混ざる声の主へ振り向いた。

 

 

「電気銃とバイオ装甲を装備していてもなお、1体を返り討ちにするとはね。しかもこれで全力ではないんだろう? ヒヒヒッ、なんとも恐ろしい話だ」

 

 

 奇妙な笑い声の燕尾服の男は、片手で仮面を持ち上げ懐から取り出したペットボトルの紅茶を口に含む。

 

 

「天使の最終調整は終わったのか?」

 

「終わったよ。今は経過観察中だ」

 

 

 男はペットボトルごと紅茶を差し出すが、人ともガストレアとも取れない異形は首を振って応えた。

 

 

「最後の仕上げは計画を遅らせてでも自分でしたいなどと言い出したが、やはり、ヒトのその感情は理解できない」

 

「自ら生み出したものの進化を他者に完全に任せるというのはどうも、私の性に合わないようでね」

 

 

 ディスプレイには、2メートルのカプセルに満たされた薄緑の液体の中で眠る全裸の少女の姿が映っている。液体の中を漂う長い黒髪の合間からは、蝙蝠のような皮膜の翼が覗いていた。

 

 

「君を生み出した新人類創造計画、それに則り考案した我々の新宇宙創造計画。第一フェイズの仕上げは成果報告までだ。解っているな?」

 

「ヒヒッ、もちろんだとも。明日、報告を楽しみにしてくれたまえ」

 

 

 男は部屋から出ていく異形を見届け、紅茶をすすった。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 海底を歩くソレは、赤い目を爛々と輝かせる。1年前、誰にも知られることなく傷付き壊れかけた体は治り、力を得た。

 

 地上へ幾多の触手を伸ばす。海底を這いずり、進んでいく。ゆっくりと、着実に。海面はもうすぐそこだ。




Tips

新宇宙創造計画

 作者の安直なネーミングセンスによって生み出された影胤sideの計画。詳細不明だがどう転んでもロクでもないのは確か。


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緊急速報

 全針葉樹の因子解放によって下脱ぎの状態で事務所に戻り、陸さんが何をしてきたか聞いてきたのでモノリスの外で想定外の強敵と交戦してきたと答えるのが3時間前。陸さんのあの化け物かという質問に無言で頷くと、陸さんはそれ以上追及して来ませんでした。

 

 

 事務所に預けてある服に着替え、有り合わせの食材で夕食を摂ったのが2時間前。大事な話があると言って帰ろうとする藤谷さんと美雨さんを呼び止め、事務所に居座りました。

 

 

 夕食を早々に食べ終えて再びゲームを始めてしまった藤谷さんが、ゲームを終えるまで待ったのが1時間前。ようやく、謎の異形から聞いた話をすることができました。藤谷さんは興味無さそうでしたが、相馬さんと陸さんと美雨さんは真面目に聞いてくれました。ちなみに莉子さんは相馬さんの膝の上で寝ていました。

 

 

 そして現在、まさに0時になろうとする数十秒前。藤谷さんと美雨さんは2階にスペースを借りて寝ています。しかし、わたしと陸さんは起きて1階にいました。妙な胸騒ぎがするのです。恐らくは、わたしと長い時を過ごした陸さんも。

 

 

 言葉は交わさず、陸さんは座って目を閉じています。音を発するのはテレビに流れるニュースのみ。秒刻みで0時が迫り、わたしの耳が人の可聴域外の遂に明瞭になった咆哮を捉え、0時ちょうど、謀ったようにその緊急速報(ニュース)は始まりました。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 蓮太郎は眠れないでいた。それも当然といえば当然だろう。あの仮面の男が、わざわざ連太郎にステージⅤ(ゾディアック)ガストレアが表れると予告したのが明日なのだから。

 

 

 そのまま寝付いてもいられず、延寿を起こさぬよう連太郎はキッチンへと向かう。コップに水道水を注いで、一気に飲み干した。何故かそのまま寝ようとは思わず、テレビを付ける。

 

 

 0時。日を跨いだ瞬間に始まった緊急速報(ニュース)を、連太郎は目撃する。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 聖天子……否、白色は、傍らに寄り添う黒色に(もた)れ座っていた。

 

 

「報道各局への連絡は済ませました。後は、ただ待つだけ……」

 

 

 聖女のような柔らかな笑みを浮かべる白色。その瞳に正気の光は既に無く、果てなき深遠に沈んでいる。

 

 

「ああ、その通りさ。君は何もしなくていいんだ。ただ待つだけで、君の辛苦が一つ、報われる」

 

 

 黒色は手を上げ、白色の背を優しく撫でる。白色は安心しきった様子で、寝息を立て始めた。

 

 

 0時になり、緊急速報(ニュース)が始まった。その部屋にテレビは無かったが、黒色はニヤリと微笑む。

 

 

「これが、破滅への前奏曲(プレリュード)になるか、それとも英雄譚の幕開け(プロローグ)になるか……」

 

 

 白色を撫でながら、クスクスと笑う。その嗜虐的な光を湛えた瞳に映る未来は……。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「緊急速報です。たった今、東京湾にゾディアックガストレアが出現しました。《天蠍宮(スコーピオン)》です。《天蠍宮(スコーピオン)》は進行を続け、本日未明には東京エリアに侵入するだろうとのこと。現在、報道ヘリが現場に急行中です。続けて、聖天子様より全ての民間警備会社に向けての勅命をお伝えします。至急、《天蠍宮(スコーピオン)》との戦闘準備を整え、各自防衛にあたるように。これは東京エリアを守るための戦いです! 私からもどうか、お願いします!」

 

 

 東京エリアのために願いを叫ぶ者、絶望し淡々と伝える者、或いは、冗談と思い込みたいのか半笑いでありながら虚ろな目が真実を物語(ものがた)る者。報道局によって伝え方に差はあれど、その表情故に事実であると証明する。

 

 

「報道ヘリが《天蠍宮(スコーピオン)》に接近。映像を切り替えます」

 

 

 それは、自衛隊の戦闘機より先に報道ヘリが捉えた前代未聞の大事件。滅びを前に、ただ畏怖し、粛々と恐怖せよ。

 

 

『こっ、こちら東京湾上空。眼下には巨大な――』

 

 

 カメラマンの手が震えているのか、安定しない中継映像に映る顔面蒼白の男性アナウンサー。その声を遮るように、重低音の獣の咆哮が轟く。

 

 テレビ越しでも伝わる飛行機のジェット音のような大音量は、カメラマンからカメラを手放させるには充分過ぎた。

 

 

『ひぃぃぃぃっ! もう嫌だ! ヘリを戻し、て…………石? ぃぃぁあぁなんでなんでどうして!? なんでなんで俺がこっこんな目にっメにィっめニ目にめガ眼がッ――キィィィィイァァァァァァァアアアイヤだイヤだイヤ―――』

 

 

 中継映像に微かに映る小窓には、グルグルと回転し続ける星空が見える。狂乱するアナウンサーの金切声と、暴れているのか物にぶつかる音が断続的に続く。

 

 

 一瞬。それは本当に一瞬だった。何かにヘリが衝突した音が響き、その衝撃によってカメラが浮かび上がったのか、画面全体に小窓の外を映す。

 

 

 

 赤い、紅い、瞳だった。

 

 

 

 爆音が鳴ったかと思うと、中継が途切れる。テレビが元のスタジオを映しても、言葉を発する者はいなかった。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 東京エリアに訪れし災厄。それは、狂気と交錯せし可能性(IF)の世界が故に、本来の《天蠍宮(スコーピオン)》と似て非なるもの。

 

 よってここにて区別する。その名を――

 

 

 

 

 

 ――海の底を這うもの(スコーピオン)

 




Tips

白色

 正気を失った聖天子さま。黒色の操り人形。


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天使

 テレビを通してもなお生々しい狂気。それは、蓮太郎をテレビの前で放心させた。或いは10年前の災害以来か。

 

 

「死んだ……のか?」

 

 

 それを蓮太郎が認識した頃に、ようやく放送事故時のテロップが流れ始める。その狂気に見入るのは、テレビの裏側を担う者でも同じだった。

 

 蓮太郎はテレビを消し、延珠を起こさぬよう最小限の音で銃の手入れをした。安全装置(セーフティ)を確認し、動きやすい服に着替える。

 

 最後に、書き置きを残すと音を立てないように玄関を出た。自転車を道に出し、跨がる。

 

 

「何が、俺にできるって言うんだ……?」

 

 

 浮かび上がった疑問を晴らすように、蓮太郎は自転車を走らせた。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「思ってたよりもドデカイのが来たんだが?」

 

「わたしは知ってましたよ?」

 

 

 緊急速報(ニュース)は、わたしの予想通りゾディアックガストレアの訪れを告げるものでした。水面に出たことにより、離れているはずのこの位置でもその気配を感じることができます。

 

 それにしても妙ですね。緊急速報(ニュース)が始まったのは気配の出現と同時。普通ならゾディアックガストレアが表れてから気づくまでにもっと時間がかかる思うのですが……。気にしていても仕方ありませんか。

 

 

「使うのか?」

 

「そうですね……1割で使います」

 

 

 わたしの言葉を聞き、半腰だったのを座り直した陸さんに対し、わたしは立ち上がりました。

 

 

「どうしたんだ? 1割ならまだ何もしなくていいだろ」

 

「別件です。彼らも、恐らくは動き出していますから」

 

 

 陸はなるほどと言って立ち上がりました。

 

 

「その別件が終わったら起こしてくれ」

 

 

 一瞬、一緒に来るつもりかと思いましたが、そんなことはありませんでした。陸さんは陸さんです。わたしが眺めている間にも、陸さんは2階へ上っていきました。

 

 テレビや電気を消して外に出ようとしたとき、自動ドアの外の人影が目に入りました。この時間帯は内側からしか開かない設定になっている自動ドアをくぐり抜け、その人影と対面します。

 

 

「昨日は私の仲間が世話になったようだね」

 

「会いに行く手間が省けました、影胤さん」

 

 

 わたしと並ぶと、それこそ月を覆い隠すほどの長身の男は、わたしの顔を覗き込み言いました。

 

 

「一つ、手伝って貰おうと思うのだが」

 

「お断りします」

 

 

 不意を突いたハイキックで首を狙った……つもりでしたが、影胤さんの頭を刈り取る前に透明な壁に阻まれました。一種の金属音のような、甲高い音を響かせて左足が宙に止まりました。

 

 ステージⅣなら一撃で殺せる程度の力を込めたのですが、少し残念です。

 

 

「ヒヒヒッ、血気盛んなようで何よりだ」

 

「音がうるさいですね。場所を変えましょう」

 

 

 わたしがそう言うと、影胤さんは踵を返して歩き始めました。

 

 

「なら案内しようと思っていた場所がある。ついてきたまえ」

 

 

 影胤さんに従うのは釈然としないですが、言う通りにしましょう。このままここで戦っては近所迷惑になりますし、そもそもわたしが提案したことです。

 

 元よりわたしが欲しいのは情報です。そのためには、影胤さんの脳さえあれば充分。新鮮な脳さえあれば、ガストレアウイルスを操作できるわたしにとって、脳神経から記憶を読み取るのは簡単なことです。

 

 つまり、どこで戦っても影胤さんを殺せるのなら結果は同じです。

 

 

「殺気が凄まじいねぇ……ヒヒッ」

 

 

 影胤さんが歩く速度を速め……いえ、走り始めました。殺気から逃げているとでも言いたいのでしょうか? 地面を蹴るたびに青白い光が輝いているので、輝く壁を作る妙な能力を使って走っているのでしょう。

 

 今思えば、初めて会った時にも、ビルが壊れる寸前に生じた亀裂から青白い光が漏れていました。あれも影胤さんの持つ謎の能力によるものなのでしょう。あまりにも汎用性の高い能力です。

 

 それにしても、随分遠いですね。影胤さんは飛行機程度なら軽く追い抜かせる速度で走っています。モノリスの外にでも向かっているのでしょうか?

 

 

「どこへ向かっているのですか?」

 

「もうすぐだ」

 

 

 と言っている間にもモノリスを通り過ぎました。そして更に1キロほど進んだ所で、影胤さんはようやく止まりました。

 

 

「ではやりましょうか」

 

「相手になろう。私ではなく、我が天使がね」

 

 

 死角から突然の殺気。背後から首を狙う刀を、屈んで躱します。直後跳躍。離れた位置に着地して、襲撃者の姿を確認します。

 

 それは少女でした。ウェーブのかかった黒い短髪。真っ黒なドレスにはフリルがついていて、腰には左右それぞれに計2本の刀を差しています。

 

 蛭子小比奈。紛れもない見知ったその姿ですが、大きく変わっていました。

 

 背中にはコウモリのような皮膜の大きな翼を携え、腕や首元など目に見える部位の白い肌には、まるで血管のように緑の線が張り巡らされていました。

 

 

「むぅ、パパァ、やっぱり当たらないよ」

 

 

 そして、その最たる変化は、小比奈さんから放たれる殺気と剣速。

 

 

「ふむ、それは力を完全に発揮できていないからだろう。小比奈の力は神にも及ぶと、彼らからのお墨付きもある」

 

 

 殺気は前に戦った時よりも鮮烈になり、その剣速も比べ物にならないほど速くなっていました。

 

 

「小比奈さんはどうなったのですか?」

 

「紹介が遅れたね。彼女は新宇宙創造計画被験体α(アルファ)、蛭子小比奈だ」

 

「新宇宙創造計画?」

 

 

 聞いたこともありません。ですが、ろくでもないものだということはわかります。

 

 

「フフフ、まだ詳細を知る時では無いよ」

 

 

 知る時では無い……ですか。後で殺して奪えばいいだけなので、問題はありませんね。

 

 

「さて、本題と行こうか」

 

 

 影胤さんは小比奈さんに歩み寄り、その頭に左手を軽く乗せました。

 

 

「小比奈と存分に殺し合ってくれたまえ」

 

 

 小比奈さんの頭から影胤さんの手が離れた瞬間、小比奈さんが突進してきました。右から横薙ぎに振るわれた刀を体を前転するように丸めて飛び越え、続けて斬り上げられた刀の側面に手を添えて乗り越えつつ、右足で小比奈さんの右側頭部を蹴り抜きます。

 

 わたしに蹴られた勢いのまま派手に吹き飛んだ小比奈さんでしたが、背中の翼を広げて体勢を整え、虫の羽音のような音を引き連れて低空飛行で再び突進して来ました。

 

 飛行する速さをそのままに迫る突きを右にステップして躱しやり過ごします。わたしを通り過ぎた小比奈さんは、空中でUターンしてまた突進してきました。

 

 何度も繰り返される突進を回避し続けると、小比奈さんは突進攻撃を諦めたのか、両足を地につけ擦過音を立たせながら着地しました。

 

 

「見えた。アイノはすごく強い」

 

 

 小比奈さんが嬉しそうに口元を歪めたその直後、地を蹴って跳躍しつつコマのように回転して斬り込んできました。背後に倒れて回避しつつ小比奈さんを蹴り上げようと思いましたが、足を振り上げようとしたときにはそこに小比奈さんはいませんでした。

 

 

「モデル・シェル!」

 

 

 気づいた時には背後に回っていた小比奈さんの振り下ろした刀を、貝の因子で硬質化させた腕を頭上で交差させて受け止めます。ですが、続けて繰り出された回し蹴りを回避することはできず、背中に鈍い痛みを感じながら体が宙に舞いました。

 

 地面に墜落する直前に地面に手を着き、何度かバク転をして勢いを殺します。わたしが着地するまでの間、小比奈さんは爛々と輝く目でわたしを見ていました。

 

 ……釈然としませんね。

 

 

「小比奈、そろそろその刀を使ってみなさい」

 

「わかった」

 

 

 小比奈さんは虚空で刀を振りました。その動作がトリガーとなっていたのか、刀がバチバチと音を立てて発光しました。まるで、刀が雷を纏ったかのようです。

 

 その場から動かず、小比奈さんはわたしに斬りかかるときのように三度、刀を振るいました。刀の切っ先から雷の刃が飛び出し、わたしに迫ります。

 

 1つ目は目視で回避し、2つ目は先程の小比奈さんの刀の軌道から予測して避けられました。しかし、軌道が普段のわたしの動体視力で見えないほど高速で振るわれた3つ目を避けることは(かな)わず、ふとももにその一撃を受けてしまいました。

 

 服の繊維と肉が焼ける臭いが充満し、感電の影響で一時的に体が全く動かなくなりました。その間にも追加の雷の刃と小比奈さん自身が迫って来ますが、かろうじてアメーバの因子の解放が間に合い、スライムのような半液状になり回避しました。

 

 小比奈さんの足下を通過し、1つだけ残した赤目で小比奈さんを見据えながら肉体を再構築します。1度肉体を細胞レベルに分解したおかげで、先程受けた傷は無くなりました。しかし、アメーバ状になる際に服は置いてきてしまったので、いつものことながら全裸です。いっそのこと服は要らないのではないでしょうか?

 

 と、無意味なことを考えている暇はありません。考えている間にも小比奈さんは攻撃してきます。肉体を再構築する際に猫や鳥類などの動体視力あるいは視力が良い動物の因子をあらかじめ解放しておいたので、動きを完全に見切り回避して、小比奈さんから大きく距離を取りました。

 

 

「思っていたよりも強いですね。油断しました」

 

 

 小比奈さんは足に力を込めましたが、影胤さんは手で制しました。

 

 

「当然だ。小比奈は彼らの技術で変異し、ゾディアックガストレアさえ凌駕する存在となったのだから。最も、本人もまだその力を扱いきれていないようだがね」

 

「つまりわたしは、小比奈さんの力を引き出すための練習台ということですか?」

 

「……この場はイエスと答えておくよ」

 

 

 なるほど、要するにこのまま戦ってはいいように利用されるだけということですね。少なくともこの状態のわたしでは戦闘が長引き、小比奈さんが力を使うことに慣れてしまいます。

 

 なら、やることは1つです。

 

 

「あまり、舐めないでください。……モード・エンジェル」

 

 

 前傾姿勢になり、指先を地に着けて一息。

 

 背中の肩甲骨の付近から急速に生えた白銀の羽はうねるように天を突き、わたしの身長ほどもある翼が2枚、生まれました。

 

 全身を長さ2、3ミリほどの透明な産毛が覆い、月光に照らされてわたしの体が白銀に輝きます。体を起こし翼を広げると同時に、白く煌めく粉が周囲に漂いました。

 

 体の内側では血流や筋肉量が増加し、元々赤かった目の輝きが強くなります。今のわたしの姿を表現するなら、白銀の天使でしょうか。飛ぶことが好きなわたしの、本気の飛行形態です。

 

 加速した血流に比例して速くなった呼吸を深く息を吸って整えます。

 

 

「……いきます」

 

 




Tips

新宇宙創造計画被験体α

 肉体に他生物の要素を埋め込まれた蛭子小比奈。黒の天使。
 新人類創造計画が人と機械の融合であるなら、新宇宙創造計画は人と神話生物の融合である。


モード・エンジェル

 天使の如き神々しさを身に纏ったアイノ・クラフト。白の天使。
 空中戦闘、主に格闘戦に特化した形態だが、アイノにとって戦闘が(こな)せることは前提であるため飛行専用の形態としている。


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冥い夜

「いきます」

 

 

 前に走ると同時に飛翔。地面を蹴った勢いと羽ばたいた勢いを合わせて2メートルほど飛び上がり、滑空。刀を構える小比奈さんに突撃します。

 

 当然小比奈さんはカウンターを狙って踏み込んで来ましたが、予想通りです。1回だけ羽ばたいて体勢を整え、雷とともに迫る刀を左から蹴りつけます。もちろん全身に流れる電流が筋肉を硬直させますが、遠心力を残してその場で駒のように回転し、かかとが小比奈さんの側頭部に命中します。

 

 小比奈さんがのけ反り刀がわたしの足から離れ、硬直から解放されました。その瞬間を逃さず小比奈さんの足下に急降下し、小比奈のお腹をまっすぐ蹴り抜きます。

 身体が浮かび上がった小比奈さんに起き上がりつつの回し蹴り。数メートル吹き飛んだ小比奈さんを追いかけてボディブロー。上方向にジャンプして膝蹴り。小比奈さんの腰を掴んで投げ飛ばし、空中で回し蹴り、ハイキック、かかと落とし。落ちていく小比奈さんを追いかけ、頭上へと投げ飛ばします。

 

 最初こそは羽を使って体勢を整えようとする様子も見られましたが、攻撃を続けていると、もう気絶したようです。最後に全力のかかと落としで、地面に落としてフィニッシュです。相手が悪かったですね。

 

 砂埃と銀の鱗粉が舞う中、地上にいるはずの影胤さんを探します。砂埃が徐々に晴れ、銀の鱗粉が減って視界が明瞭になります。……ですが、視覚、嗅覚、聴覚、その3つをフル活用して探しても見つかりません。

 

 せめて小比奈さんだけは持ち帰ろうと地上へ降りると、地面に叩き落とした小比奈さんの姿はすでに消えていました。地面にクレーターができているので、ここに落ちたのは間違いありません。

 

 してやられました。影胤さんはわたしが小比奈さんを相手にしている時、すでに逃げる準備をしていたのでしょう。もう少し影胤さんに気を配るべきでした。

 

 影胤さんを見つけ出すのは少し厳しいでしょうか。砂埃に紛れていたとはいえ、わたしに気づかれず小比奈さんを連れ去るだけの能力があるのです。既に逃げた後では尻尾を見せることも無いでしょう。

 

 時間は体内時計で深夜一時といったところでしょうか。獲物の到着まであと六時間程度ですかね。少し早いですが、観測を始めましょう。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 編隊を組んで東京エリア上空を飛ぶ戦闘機。目標は東京湾。厭に目につく民間の報道ヘリを横目に、追い抜いて行く。

 

 

「……妙だな」

 

 

 この部隊のリーダーである男は、奇妙に感じていた。なぜ、我々より先に報道機関が動けているのか、と。

 

 自衛隊のレーダーが海の底を這うもの(スコーピオン)を捉えるのとその出現を伝える緊急速報が流れ始めたのは、全くの同時だった。加えて、最も早い報道ヘリはその1分後に海の底を這うもの(スコーピオン)と接触したのである。

 

 

(報道機関に連絡したのが聖天子様だというのが真実なら、なぜ自衛隊より報道機関を優先した?)

 

(そもそもなぜ、目標の出現時刻が判った?)

 

 

 リーダーの男は深く考え込んでいたが、戦闘機のレーダーに写った目標を確認すると考えるのをやめた。

 

 部隊の仲間への号令とともに海の底を這うもの(スコーピオン)へと接近する。そして暗闇の中、その姿を捉えた。

 

 海面から表れるあまりにも巨大な体躯に、幾多の赤い目と名前の由来にもなった鎖鎌。そして、周辺の海から立ち並ぶ無数の触手。かつて世界を滅ぼした《天蠍宮(スコーピオン)》とはどこか異なる、しかしそれは、紛れもなくゾディアックの再来であった。

 

 戦闘機は攻撃を開始した。重い炸裂音が断続的に響き、或いは鮮やかな光が爆音を伴って海の底を這うもの(スコーピオン)を襲う。

 

 しかし、海の底を這うもの(スコーピオン)の歩みが止まることは無かった。それどころか、あまねく攻撃を意に介した様子も無く、反撃の素振りすら見せない。

 

 その時、海の底を這うもの(スコーピオン)を見ていたリーダーの男に悪寒が走った。直感から即座に退避するよう指示を出す。

 

 高度を上げていくリーダーの戦闘機。彼の目に映ったのは、指示と異なる動きを取る2機の戦闘機だった。軌道を変えることなく高度を落とす2機の戦闘機は、呼び掛けても応答はなく、次の瞬間。

 

 1機が海面に衝突し爆発四散。もう1機も片翼を海面に擦りながら着水し、やがて水没した。

 

 直後、リーダーの耳に飛び込んだのは体調不良を理由に撤退を求める仲間の震える声。彼にはそれに応える他、選択肢が無かった。

 

 自衛隊の攻撃はまるで通用せず、2人の死者を出しその部隊は撤退した。その後攻撃を行った部隊も原因不明のまま数人の死者を出し続け、体調不良を起こさなかった者だけで組まれた部隊による攻撃も無為に終わった。

 

 その戦いに参加した者は後に、まるで壁に発砲しているのと同じだったと語る。とてもただの人が太刀打ちできるような存在では無かったのだ。

 

 それは、終焉の始まりだったのだから。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 蓮太郎は、自分がなぜそうしているのかも分からないまま海岸にいた。影胤とは深夜の公園での一件以来、一度たりとも会っていない。蓮太郎を突き動かす衝動がなにか、それは彼自身にも分からないことだった。

 蓮太郎は自分がゾディアックを倒せる実力者だとは夢にも思わないし、ましてやこの蓮太郎は東京エリアの英雄(ヒーロー)でもない。小さな民間警備会社の一人の民警にしか過ぎないのだ。

 

 ある種の不安なのだろうか。唯、影胤の『星辰は既に揃っている』という言葉が耳にこびりついて離れなかった。

 

 だが、ここに延珠を連れて来なかったのは僥倖だったと言えよう。

 

 この海岸は、モノリスのちょうど中間にあることも作用し蓮太郎以外に人の姿は無い。海の底を這うもの(スコーピオン)の進行方向を把握している者からすれば、この海岸で海の底を這うもの(スコーピオン)を待つのはあまりにも馬鹿らしいことだ。

 もちろん蓮太郎に海の底を這うもの(スコーピオン)の進行方向を知ることはできない。自衛隊の攻撃による光で辛うじてその所在を知ることのできる程度で、彼は彼なりに海の底を這うもの(スコーピオン)の上陸する場所を予測しここまで自転車を走らせたのだ。

 

 それは運命の、或いは星辰の導きだったのだろう。

 

 暗闇の中、蓮太郎は爆撃による光の他に、光るものを見た。それは、海の上に漂い、爆撃の光を反射して輝いている。それがいくつもあった。蓮太郎は海面とは異なる光の反射に違和感を覚え、あと一歩踏み出せば海というところまで歩き寄った。

 

 

「あなた、誰?」

 

 

 その時だった、蓮太郎の背後から少女の声が聞こえたのは。

 振り向いてみれば、確かにそこにいたのは少女だった。暗がりで表情は見えないが、少なくとも体のラインがはっきりと浮き出る服を着ている。後ろに組んだ手で、長棒のような、槍のようにもみえる細長い物を持っている。そして何より象徴的だったのが、少女の目は赤く輝いていた。

 

 

「里見、蓮太郎だ」

 

 

 この少女が『呪われた子供たち』であることは、赤く輝く目を見れば自明の理だった。だが、蓮太郎は少女の接近に全く気づかなかった。民警を生業とする以上音には敏感になるのだが、それでも気づけなかったのだ。

 

 

「イニシエーターなのか?」

 

 

 もちろん、相手がイニシエーターであるならそれは例外である。イニシエーターは自身の力の制御に熟達しており、特に忍び歩きの得意な生物の因子を持つイニシエーターなら物音一つ立てずに歩いても不思議ではない。

 

 

「違う」

 

 

 しかし、少女から返ってきたのは否定の言葉だった。

 

 

「私は……別にいいか」

 

 

 少女は自らの正体を明かそうとしたが、突然考える素振りを見せ、それを止めた。蓮太郎は当然困惑する。しかし、或いは、その困惑こそが目的だったのかもしれない。

 

 肉が刺し貫かれる瑞々しい音が鳴る。

 

 蓮太郎が次に感じたのは腹部の違和感。見れば、血に濡れた金属が自らの腹から飛び出していた。

 

 

「っぐぁ」

 

 

 何者かに背後から刺されている。そう認識したとき、激痛が走った。声にならない叫びを上げ、しゃがみこもうとする。が、腹を貫く金属を支える何者かによってそれは許されなかった。

 

 

「適当に捨てといて」

 

 

 少女の声に応えるように、蓮太郎の体が浮いた。そのまま振り上げられ、金属が抜けた蓮太郎の身体が宙を舞う。

 

 痛みで意識が朦朧とする中、辛うじて蓮太郎の目に写ったのは、長大な槍を持つ、鱗とヒレを持った人型の背だった。

 




Tips

謎の少女

 鱗とヒレを持つ生命体を従える赤目の少女。スクール水着や全身タイツレベルで体のラインが浮き出ている。
 この謎の生命体は当然インスマウス。
 謎は謎のまま、三章再登場予定。


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とある自衛官へのインタビュー

 夜が明けた。如何なる理由か、本来警鐘を鳴らすはずの警報が鳴るより早く、海の底を這うもの(スコーピオン)は上陸した。

 

 これは生還した自衛隊員の、数少ない証言だ。

 

 

 

 

 

 ――海の上に見えていたのは《天蠍宮(スコーピオン)》じゃあない。便宜上《天蠍宮(スコーピオン)》と呼ばれてはいるが、絶対に違う。今じゃ情報封鎖されて一般にはヤツの一部しか見れないだろうが、俺は見たんだ。

 

 まだ空が薄暗かった時の話だ。ヤツが陸に近づくほど、ヤツが大きくなってる気がしたんだ。当然、最初は気のせいだと思ったよ。なんせ、ヤツが海上に見せていた姿は、資料で見た《天蠍宮(スコーピオン)》そのままだったからな。

 

 だが、それは気のせいなんかじゃなかった。いや、気づいて然るべきだったんだ。もしかしたら、俺も、仲間も、無意識にその可能性を排除してたんだろう。

 

 海から這い上がってくるヤツは、先んじて海中から触手を陸に掛けたんだ。10本だったか20本だったか、大体そんぐらいだ。

 

 妙だった。ヤツの周囲10メートル圏内に触手がある分には気にも留めなかったんだが、ヤツがまだ陸から2キロは離れてる時に触手が掛かったんだからな。それに、ヤツの周囲にあった触手の何倍も太かった。

 

 ちょうど、空が白んできた頃だ。陸に掛かった触手が地面にめり込むのが見えた。コンクリートが板チョコレートのように割れた。……モノリスが握り潰され、海に落ちた。

 

 ヤツからすれば、ただ懸垂するだけの感覚なんだろう。それだけでも、被害は甚大だった。何せ、機を伺っていやがったのか、モノリスが倒れてすぐに、渡り鳥型のガストレアの群れがその上空から侵入して来やがったからな。

 

 そうまでしてヤツが触手の力で引っ張り上げたもの、それはヤツの体だった。

 

 海から迫り上がる黒々とした肉の塊。時折蠢いて赤色を示すソイツは、無限にも思える触手を纏っていた。

 

 何本かの、体の中心に近い触手には幾つかの眼球があった。目と呼ぶにはあまりにも大きかったが、俺の身長の2倍はあったに違いない。

 

 不規則に並んだ真っ赤な眼球が、舐め回すようにそれぞれ動くのを見て、ようやくヤツがガストレアだったことを思い出した。それほどまでに、今まで見たどんなガストレアとも、何かが決定的に違っていたんだ。

 

 上昇が始まって数分経って、既に2倍近くの大きさになっていたが、ヤツの海面への上昇はそれだけじゃ終わらなかった。

 

 ヤツ自身が朝日を遮ってできた影に、ザクロのように赤い瞳が蠢いている。水飛沫を上げながら、醜い肉塊を包む触手が姿を表す。

 

 一時間かそこらだ。ようやく上昇が終わったとき、ヤツはもはや、肉の塔と表現して然るべき何かになっていた。《天蠍宮(スコーピオン)》は塔の頂点に座すのみ。

 

 悪寒で震えが止まらなかったよ。いや、今も、こうして手が震えている。あの夜の間、俺はこんなものに手を出していたのかと思うとな。ヤツはもう、人の手に負えるものじゃない。もっと別の、畏れ敬うべき、何かだ。

 

 ヤツを攻撃して、反撃も無いのに何人もの仲間が死んだ理由も、具体的にはわからないが、少なくともヤツの能力に依るものだ。ヤツが海の中に隠していた身体を見せた時、俺は全身を這い回る怖気と、体が強張ったような硬直感を感じた。

 

 さらっと硬直感と言ったが、恐らくあんたらの想像してる程度のものじゃない。金縛りに遭ったみてぇに、それこそ体が石になっちまったのかと錯覚するほど、動かないんだ。

 

 ……あんたらは聞いたか? 石像化した人間の話を。ヤツを望遠鏡で見た人が石像になったり、ヤツが破壊した家屋の瓦礫から人の石像が掘り出されたって話だ。ほとんどの人は実物を見ていないから、デマだと思っただろうよ。だが、俺は見た。

 

 戦いが終わった後のことだ。息つく間もなく、生き残った隊員には新たな任務が下された。遺品回収さ。東京湾に落ちた仲間の遺体と遺品を、可能な限り回収する。ほとんどは海の藻屑になっただろうが、海上を漂う壊れた機体もあったからな。

 

 結果は、2機の軍用ヘリと4機の護衛用の戦闘機を投じ、1人だけ見つけることができた。機体の残骸に埋もれているのを発見し、引き揚げたらしい。

 

 帰投し、冥福を祈ろうと遺体の安置所へと向かった。数多の遺体で埋め尽くされた中、海から引き揚げられたその男は、すぐにわかった。服は焦げ、穴だらけになり、見える皮膚は全て灰色になっていた。石になっていたんだ。

 

 体勢はコックピットに座った形のまま固定されていて、灰色の顔は恐怖に歪んでいた。……操縦桿を握っていたであろう手を撫でると、確かな暖かみがあった。石像なのに、どういうわけか、熱を発していた。奇妙だろう?

 

 その後ずっとどうしてなのか考えたが、なんで熱を持っていたのかはわからなかった。ただ一つ言えるのは、ヤツが人を石に変える能力を持ってるってことだけだ。

 

 俺は幸運だったんだろうな。体が硬直するだけで、操縦桿を動かして旋回するぐらいはできたのだから。

 

 あー、どこまで話したか……。そう、ヤツが肉の塔になった後のことだ。ヤツは倒れた。倒れたって言っても、残念ながら死んだって意味合いじゃないけどな。

 

 物理的に倒れたんだ、陸地に向かって一直線に。2キロは間違いなく離れていたが、それで届いた。届いちまった。なんなら300メートルぐらいは余裕を持っていたよ。

 

 倒れたヤツの姿を例えるなら、ナマコか? 太さの比率もそのぐらいだ。とにかく、ヤツが倒れたことで津波が起きて、地震が起きた。倒れた衝撃で沿岸部の施設は大体倒壊したし、打ち上げられた海水がそれらを洗い流していった。

 

 ここからはあんたらも知っての通りだ。突然の地震に都市部は大パニック。まだ寝ていた人もそれで叩き起こされて、遅れて鳴り始めた警報が東京エリアの住民に避難を促した。

 

 だが、遅すぎた。体の先端を陸に乗せたヤツは、ナメクジのようにゆっくりと、だが確実に東京エリアを侵食していった。……大絶滅の始まりだ。

 

 人的被害で言えば、混乱に乗じて侵入してきた渡り鳥型ガストレアの方が大きかったか。これは後から知ったんだが、コイツらは6匹全てがステージⅣで構成された群れで、通称《ミルクディッパー》。非常に知能が高いことで知られ、10年前の大戦でオーストラリアを中心に多大な被害をもたらし、過去に2回、ブラジルエリアとサンフランシスコエリアを大絶滅に追い込んだ最悪の群れだ。

 

 それがヤツがモノリスを破壊してからずっと東京エリアにいたんだ。被害は尋常じゃあない。モノリスが倒れた際の地響きで起きて屋外に出た人はみんな、ヤツの存在を知る前にミルクディッパーに喰われた。

 

 世界中どのエリアを探しても、対抗できるエリアは無いだろうよ。ヤツとミルクディッパーの同時侵攻なんて。6羽のガストレアがパンデミックを起こし、無数のガストレアが人を啄みながら東京エリア上空を飛び回る。そして、その背後からは朝日に照らされてなお漆黒の巨影が迫る。まさに地獄絵図、絶望そのものだ。

 

 ああ、だからこそ不思議だったよ。なんで生きてるんだろうってな。だけど、こうして生き残った。

 

 ……心が救われるってのは、ああいうことを言うんだろうな。空から舞い降りた巨獣。朝日に照らされて輝く姿は、まさに希望を体現していた。

 

 かつて仙台エリアを救った奇跡。猛々しさと美しさを併せ持つ救世主は、6枚の翼で空を切り降臨した。

 

 

 

 その名は――

 

 

 

 

 

  ――《北極星(ポラリス)

 

 




Tips

海の底を這うもの

 某太平洋上のお方の親戚と人知れずドンパチして勝利し、食べてその力を獲得した《天蠍宮(スコーピオン)》。
 原作では《金牛宮(タウルス)》の指揮能力や《天秤宮(リブラ)》の毒のような特徴が語られることは無かったが、今作では新規特性の獲得力を《天蠍宮(スコーピオン)》の特徴とした。
 要するに神話生物のいない原作ではあれが成長限界。


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雪銀降り来る

 完全に夜が明け、地表は光に包まれた。外の騒動にも動じず、ただひたすらに引きこもる選択を採った自宅警備員(ニート)の男でさえ、耳を(つんざ)く警報と、響き渡るその鳴き声に、埃を被ったカーテンを開く。

 

 

「KYEEEEEEEEEEEE!」

 

 

 それは終焉を告げる鳥の声。或いは終焉を齎すものの声。

 

 空を舞う怪鳥。その数、男の視界に映るものだけでも10を優に越える。プテラノドンと呼ばれるそれに酷似したシルエットを持つ彼らは、小さいもので全長2メートル程度、大きいもので全長10メートルはあるだろう。

 

 時折、水鳥が水面に舞い降りるように降下する。再び空に舞い上がった時、(くちばし)に人が咥えられていた。その数瞬後、魚がペリカンに呑まれるように、人の姿は消えた。

 

 別の所では、家屋の屋根に停まった鳥のガストレアが、卵を産み落とす。親が飛び立った直後、卵殻は内側からはち切れるように弾けた。卵の中にいたのもまた鳥のガストレア。元の卵の大きさより明らかに大きい体を震わせ、飛び立った。

 

 1体1体、確実にガストレア化するのは彼らの知能の高さ故か。人の手の届かぬ高空でガストレア化し、産み落とす一瞬の隙を卵殻でカバーしつつスムーズに排出する。地上から狙撃しようとも、その多くは動き回る標的を捉えられない。少なくとも東京エリアの民警には、新たなガストレアの誕生を防ぐ手立ては無かった。

 

 ふと、影が陽の光を遮る。男の視界に映ったのは、ガストレアの胸部の羽毛。見上げれば、男を覗き込む赤い瞳。(くちばし)が窓ガラスを破り男に迫る。悲しきことに、その瞳に捉えられた時点で男の命運は決まっていたのだ。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「なんだありゃあ、空母かよ」

 

 

 陸さんの視線の先には、空を飛ぶ1羽のガストレア。片方の翼の大きさは20メートルほどでしょうか。両翼合わせて40メートルです。大きいですね。

 

 そのガストレアは今、空を飛びながら無数の卵を落としています。卵は落下する途中で割れ、中から小さいガストレアが飛び立って行きました。小さいとはいえ、大きいもので陸さんが空母と称したガストレアの3分の1はあるのですが。

 

 その異様な光景は陸さんの言う通り、空母が適切な表現なのでしょう。最も巨大な、ガストレアを投下し続けるガストレアが母艦で、投下されるガストレアが航空機です。全部倒すのに何時間かかるのでしょうか。

 

 しかも厄介なことに、母艦ガストレアはこの個体の他に5羽存在します。見渡せば、モノリスよりやや高い位置を旋回する母艦ガストレアが他に3羽。残りの2羽は地上で建物を破壊し、中に隠れていた人間を啄んでいます。

 

 初めこの母艦ガストレアは、モノリスが倒壊した数分後に6羽のみで飛来し、総出で人々を食べ始めました。ですが、飛来してから1時間後、今のように2羽が人を食い、1羽が産卵を行い、3羽が東京エリアの各所を旋回するという形を交代で行い始めました。今産卵しているのは3羽目です。

 

 新たに生まれた航空機ガストレアも当然のように、人を襲っているのが見えます。小さい航空機ガストレアのステージは基本Ⅱ以下なのですが、大きい航空機ガストレアはステージⅢなので、民警の皆さんも対処しきれずにいるようです。

 

 

「これだけやべぇやつがいるってのに、メインは他にいるのか」

 

 

 そう言って陸さんは視線を移します。東京湾から長太い胴体を陸地に乗せ、這い進む黒い巨塊。長い触手を何度も地面に打ち付けてながら進んでいるので、黒い巨塊の周囲100メートル程度は既に更地に、1キロメートルの範囲の建物はほとんど倒壊しています。

 

 彼、彼女かもしれませんが、彼はいわゆる《天蠍宮(スコーピオン)》と呼ばれる存在です。実物は見たことがありませんでしたが、陸地に乗せた胴体の先端の形状が、図鑑で見た《天蠍宮(スコーピオン)》の姿と一致しています。

 

 前に見た《天秤宮(リブラ)》よりも遥かに大きく、あれでまだ海の中に体の一部を隠しているようです。図鑑には明らかにもっと小さい値が大きさとして書かれていたはずですが、不思議ですね。

 

 徐々にとはいえど、彼が上陸してから既に1時間半は経っています。上陸した時の位置から1キロメートルは動いていました。それでもしばらくは気にしなくて良さそうですね。

 

 

「そんじゃアイノ。そろそろ行こうぜ?」

 

 

 そうですね。もう1割は達成されそうですし、害獣駆除の時間です。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 肉の塔、海の底を這うもの(スコーピオン)が倒れ大地が揺れる頃。

 

 

「ふあ、じしん! 地震なのだ!」

 

 

 一人、他に誰もいない部屋で目覚めた藍原延珠。目覚めて真っ先に蓮太郎の姿を探すが、見回す限り蓮太郎はいない。起きて家の中にいるのならこの地震に何らかの反応を示しているはずだ。されど聞こえる音は、鳥の野太い鳴き声のみ。

 

 

「蓮太郎……?」

 

 

 揺れは既に止まっていたが、嫌な予感を感じて起き上がる。そして見つけたのは1枚の置き手紙。

 

 

  危険だから家から出るな

  必ず帰るから待っててくれ

               』

 

 

 ぐしゃり。潰された紙を放り、カーテンをばっと開いた。そこから見えたのは、鳥型のガストレアの群れが目につく空のあらゆる場所を飛び回る光景。偶然か幸運か、延珠のいるこのアパート近辺には飛んでいなかったが、それでも外に出て少し歩けば、すぐにでも襲われそうだ。

 

 

「なんでなのだ……!」

 

 

 既に感染爆発(パンデミック)が起きていると断定してもいいであろう光景を前に、延珠は咄嗟に身を(ひるがえ)す。寝間着を脱ぎ捨て外着に体を通し、そして、着衣が乱れたまま玄関へ走った。

 

 

「なんで、私を置いて行ったのだ!」

 

 

 底にバラニウムが仕込まれた靴を履き、扉を蹴破る勢いで開く。朝日照らす下へ、赤毛の少女は駆け出した。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 銃声が住宅街に響き渡り、鳥型のガストレアが墜ちる。

 

 

「ほんっとうにっ! あの2人はどこに行ったのかな!?」

 

 

 亜土相馬は不満を口にしながらも、大型拳銃による攻撃の手を緩めない。上空にいるガストレアにバラニウム弾を当て、ダメージを確実に与える。本来扱いづらさの目立つ大型の拳銃で、的が大きいとはいえ空を飛ぶ敵に攻撃を当て続けるというのは、明らかに人間離れした達人技と言えるだろう。

 

 しかしそれでも、顔を上に向けたままでは大きな隙が生まれる。当然その隙を突かれ、相馬に低空飛行でガストレアが迫る。

 

 

「知らねぇよ! どっかで戦ってんじゃねぇの!」

 

 

 相馬に迫るガストレアの背に、黒光りする棍棒が振り下ろされた。棍棒を握るのは三野藤谷。藤谷は自らが叩き落としたガストレアにトドメを刺すべく、その頭にバラニウムの棍棒を振り下ろした。

 

 

「ああもう! 次から次へキリが無いなぁ!」

 

 

 相馬の言葉の通り、鳥型のガストレアはここに魚群があるのだと言わんばかりに、相馬達の上空に鳥山を形成していく。

 

 

「いっくのー!」

 

 

 家屋の屋根から跳び出した亜土莉子は、付近を飛んでいたガストレアの首に抱きつく。そのガストレアは身を(よじ)り莉子を振り払おうとするが、莉子の腕を振りほどくことはできず、むしろ首を抱き締める力はますます強くなっていく。

 

 やがて飛び続けるのが困難になったのか、莉子に抱きつかれたガストレアは遂に墜落した。

 

 

「莉子っ、大丈夫!?」

 

「いえーい! やったのー!」

 

 

 砂埃の中、地に伏したガストレアの前で仁王立ちして「ぶいっ」とVサインを作る莉子。しかしその背後で、ゆらりと立ち上がるガストレアの影。

 

 

「莉子、油断大敵」

 

 

 電柱の影から飛び出し、今にも莉子に襲いかからんとするガストレアの眼前に躍り出る影。漆黒のレインコートに身を包む皐月(さつき)美雨が短剣を振るうと、音も無く斬られたガストレアの頭部が地に落ちた。血飛沫がかからないよう莉子を抱き上げ、美雨は道路の端へ軽々と飛ぶ。

 

 

「みうおねーちゃんありがとうなの」

 

「……ん、気をつけて」

 

 

 小さく言い残すと、美雨は再び影の中へ身を隠した。

 

 

 

 

 この後も亜土民間警備会社の面々は戦い続けた。否、東京エリアに存在する全ての民警が戦った。しかし、それは徒労でしか無い。生み出され続ける鳥の軍勢は、まるで東京エリアの最期を告げるように飛び交った。

 

 多くの民警は力尽き、戦うことを諦めた。未だ人的被害で言えば東京エリアの人口のおよそ1割。しかし、人々の心に差した陰は海の底を這うもの(スコーピオン)のように重くのしかかる。

 

 その時、それは現れた。

 

 

 

 

「きれいなの……」

 

 

 相馬達から一歩離れた位置にいた莉子は、いち早く天より降るそれを認識した。

 

 

「……雪? なんでこんな時に、冬じゃねぇぞ」

 

 

 藤谷の言葉に、一同は辺りを舞う白く輝くものを見る。それは輝きを残し、血の海へ落ちていく。

 

 

「……違う。雪じゃない」

 

 

 影に在ってなお、白く輝くそれに触れた美雨は、それが雪ではないと悟った。

 

 

「これは、仙台エリアの時の……!」

 

 

 その正体を悟った相馬の言葉に、一同は天を仰ぐ。

 

 空を覆うようなガストレアの大群の更にその上。それはまるで空か雲か、一見しただけでは背景にしか見えぬ巨影。しかしひとたび認識すれば、その威光は目に焼き付いて離れない。

 

 6対の翼が羽撃(はばた)くたび、雪が如き煌めきを舞い散らす。朝日を受け輝くその巨体は白銀の光を照り返し、遥か遠くその空に長く尾を引く。

 

 西洋の竜のような形状を持つ上半身に、天使を思わせる6対の翼。そして東洋の龍を模したような下半身。まさに神と形容すべきその白銀の巨躯の持ち主は、紅き双眸を煌々と輝かせ、東京エリアの上空に降臨した。

 

 

「《北極星(ポラリス)》……!」

 

 

 誰が口にしたか、人々はその巨獣に希望の名を示した。迷える旅人を導く光の名、《北極星(ポラリス)》。それは奇跡の救世主。




Tips

北極星(ポラリス)

 白銀の体色が特徴的な、唯一のステージⅥガストレア。
 過去、仙台エリアに出現したゾディアックガストレアを撃破し、窮地から救った。このことから《北極星(ポラリス)》をガストレアと呼ばず、『救世主(メシア)』とする新興宗教もある。
 出自は不明。今回の東京エリアでの出現で2例目。謎に包まれたガストレア。


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躍らされるは六星

 白銀の光が舞い落ちる中、比較的小型な――推定ステージⅡ以下のガストレアが一斉に向きを変え、《北極星(ポラリス)》へ向けて飛んでいく。東京エリアのあらゆる場所で戦っていた民警達は、それをただ見守ることしかできなかった。

 

 全長及び翼長、それぞれおよそ2キロメートルと1.5キロメートルのその巨躯と比べれば、精々が全長10メートル程度のガストレアの群れなど塵芥に過ぎない。されど、塵も積もれば山となる。無数に集まったガストレアの黒い体によって、《北極星(ポラリス)》の白銀の胴体が覆い隠されていく。

 

 やがて白銀の輝きもまばらになり、黒色に侵食される白銀の様相を呈した時、《北極星(ポラリス)》は動いた。3対の内の1対、最も後方に位置する翼が、《北極星(ポラリス)》の体を包み込み、撫でる。たったそれだけで、《北極星(ポラリス)》の体に纏わりついたガストレアが消え去った。

 

 大量のガストレアを絡め取った翼は、毛氈苔(モウセンゴケ)蝿取草(ハエトリグサ)か、まるで食虫植物のように、ガストレアを逃がさぬよう隙間なく翼を閉じていく。やがて蓋を閉じた靫葛(ウツボカズラ)のような形となった翼を携え、2対の翼で強く羽撃(はばた)いた。

 

 地上付近を飛び交うのはステージⅢのガストレアと、ステージⅡのガストレアの中でも大型の個体のみとなった。依然として数は多く存在しているが、先程まで東京エリアを絨毯で覆い尽くさんばかりに存在していたのと比べれば、民警達の目にも希望が宿る。

 

 その上何らかの影響か、生き残ったガストレアの動きが明らかに鈍る。中には自重を支えきれず墜落するものも表れ、地上での戦いは一気に人間の優勢に傾いた。

 

 しかし、その最中にあっても平然と動く個体も存在した。空を征服するもの。通称《躍る六星(ミルクディッパー)》である。

 

 彼ら躍る六星(ミルクディッパー)には、彼らの生み出す個体も共通して持つ体内での他生物のガストレア化の他に、明確に異なる能力があった。

 

 彼らは《北極星(ポラリス)》の降臨に反応し、東京エリア各地から《北極星(ポラリス)》の下へ集結。6羽連なり、その場で旋回を始めた。円を描く躍る六星(ミルクディッパー)から、黒い粒のような影が胡麻を撒くように吐き出される。それらの影は鳥の形を取り、直上の《北極星(ポラリス)》に向かって急上昇する。

 

 躍る六星(ミルクディッパー)のみが持つ力。それは、体内にガストレアを格納しておけることだ。ガストレアを圧縮して体内に格納しておき、必要な時に魚が卵を産むように吐き出す。吐き出されたそれは急速な再生の後に鳥の形を取り、敵に急襲を仕掛ける。彼らは個であっても、群れなのだ。

 

 《北極星(ポラリス)》を襲撃するガストレアの群れ。当然のようにステージⅢのみで構成された群れの採った攻撃手段は突撃、即ち特攻だった。否、採ったより、採れたと言うべきだろう。どれほど群れの規模が大きくとも、相手は胴体の直径が100メートル弱に及ぶ超巨体。爪で引っ掻く、嘴でつつくといった近距離攻撃では、《北極星(ポラリス)》の表皮或いは鱗で止められてしまう。その上爆撃のような遠距離での攻撃手段を持たない彼らでは、特攻でしかダメージを与えられる見込みが無いのだ。もっとも、彼らの特攻自体を躍る六星(ミルクディッパー)の遠距離攻撃と捉えることはできるが。

 

 ガストレアの特攻により、再び《北極星(ポラリス)》の体表が黒く染まっていく。しばらくはされるがままだったが、残弾尽きたのか躍る六星(ミルクディッパー)が吐き出すガストレアが途切れてきた頃、《北極星(ポラリス)》は動いた。

 

 それまで閉じていた食虫植物ような翼を開くと、本当にそこにガストレアを包み隠していたのか疑問に思うほどその形跡は無く、白銀の美しい翼だった。

 

 開いたばかりの透明感さえある翼が、再びその身を撫でた。それはこびりついた油汚れを拭き取るように、胴体に付着したガストレアの残骸を拭い去る。三度(みたび)顕になった白銀の御体に、傷がついた様子は無い。

 

 特攻が無意味と知ったガストレアの群れは、《北極星(ポラリス)》の周辺を飛び回る。時折《北極星(ポラリス)》の体の各所に特攻を行うものもいたが、その攻撃は体表で止められ、今度は靫葛のように閉じなかった3対目の翼に絡め取られて終わった。

 

 完全に攻撃の手が止まった。その瞬間を待っていたのか、大きく動くことのなかった《北極星(ポラリス)》が急激な方向転換を行う。その目線の先に写ったのは躍る六星(ミルクディッパー)。巨体をうねらせ肉迫する。

 

 しかしその巨体故に動きを予測しやすく、渦を描き散開した躍る六星(ミルクディッパー)は《北極星(ポラリス)》の攻撃が及ぶであろう範囲から逃れた。だが、《北極星(ポラリス)》の攻撃は躍る六星(ミルクディッパー)の予測を上回る。

 

 口が裂けるほど大きく開かれた(アギト)。暗闇の覗く口腔から、長く細い舌が放たれる。舌は上方へ逃れた躍る六星(ミルクディッパー)の1羽を引き連れて、口腔の闇へと消えていく。

 

 それだけに留まらず、口腔内壁が捲られるようにして、より大きな第2の口が口から出現する。投網の如き広がり方で元の口の2倍にもなった第2の口は、その範囲内に2羽の躍る六星(ミルクディッパー)を捕らえ、瞬く間に呑み込んだ。

 

 一瞬にして3つの星を失った躍る六星(ミルクディッパー)は、一転、攻勢から逃走に移った。ステージⅢ以下のガストレアをどれだけ生み出そうとも塵芥のように退けられ、かといって躍る六星(ミルクディッパー)だけではその質量差ゆえに到底敵う訳がない。賢明な判断だった。

 

 生き残った3羽は、それぞれ別の方向へ散らばる。《北極星(ポラリス)》は1体しか存在せず、もしどれか1羽が狙われ喰われたとしても、残り2羽の生存率は飛躍的に向上する。まさに合理的判断。しかし、《北極星(ポラリス)》は躍る六星(ミルクディッパー)とは次元が違った。

 

 《北極星(ポラリス)》の背、中央の翼の付け根から2羽の鳥が飛び立った。プテラノドンに酷似したシルエットで、翼長40メートルほど。赤目を煌々と、全身を白銀に輝かせる。それは、体の色が白銀と化しただけの、躍る六星(ミルクディッパー)に他ならなかった。

 

 《北極星(ポラリス)》と2羽の奪われた星(ミルクディッパー)がそれぞれ3羽の躍る六星(ミルクディッパー)を追い翔る。その数十秒後には、1羽が《北極星(ポラリス)》の体内に呑み込まれ、2羽の奪われた星(ミルクディッパー)はかつて仲間だった敵へと取り付いた。

 

 取り付かれた躍る六星(ミルクディッパー)は満足に動くことができず、滞空するので精一杯。地面に降下しようとしても取り付いた奪われた星(ミルクディッパー)がそれを許さない。見れば、奪われた星(ミルクディッパー)の体の各所が充血し、時折血が噴き出る。死力を尽くしガストレアの限界すらも超えた怪力に、逃げる余力を残さねばならぬ躍る六星(ミルクディッパー)では、太刀打ちできる道理も無かった。

 

 タイムオーバー。《北極星(ポラリス)》が残る2羽の躍る六星(ミルクディッパー)を足止めしていた奪われた星(ミルクディッパー)共々喰らい、遥か高空での戦いは終結した。

 

 

 同時刻。地上においても残存するガストレアが討滅され、東京エリアに平穏が訪れた……かに思われた。しかし忘れてはならない。躍る六星(ミルクディッパー)はその存在の襲来に乗じて東京エリアを襲撃したことを。

 

 

 そこは繁華街、そこは住宅街、そこは商店街。いずれにも共通しているのは、外周区からは程遠いということ。当然、躍る六星(ミルクディッパー)の運んだガストレアの群れの襲撃は受けたが、今は静かな白銀の光で満たされている。

 

 突如として、大地が割れた。爆音と粉塵を撒き散らし、それは宙へ戻っていく。黒く光を照り返し赤く血管を張り巡らす。直径10メートルはあるだろうそれの根元を探せば、白銀の光に遮られうっすらと見える黒い巨影。

 

 巨影が携える触手が再び振るわれたとき、それは100メートル先へと進んでいる。そして、海の底を這うもの(スコーピオン)は生きた人間を眼下に見た。

 

 数瞬後、人だった石塊が赤黒い肉塊に挽き潰される。何を望んでいるのか、巨影は彼方を目指して進む。

 

 ただひとつ、そこにあるのは海の底を這うもの(スコーピオン)が着実に侵攻してくるという恐怖だけ。

 




Tips

躍る六星(ミルクディッパー)

 常に群れで行動する6体の翼竜型ステージⅣガストレアに付けられた名称。
 体内に同種のガストレアを格納することができ、これにより空母のように振る舞う。
 また躍る六星(ミルクディッパー)および躍る六星(ミルクディッパー)によりガストレア化した生物は、いずれも捕食した生物を体内でガストレア化する能力を持つ。
 大戦時はオーストラリア大陸を中心に猛威を振るい、終結後もブラジルエリアとサンフランシスコエリアを大絶滅に追い込んだガストレア。


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狂気と災禍の二重奏

「ヒヒヒッ、いやはやなるほど。噂には聞いていたがあれが《北極星(ポラリス)》か」

 

 

 モニターの薄明かりのみで照らされた部屋の中、仮面の男――蛭子影胤は呟いた。

 

 

「イエス。だが前回はガストレアのみ害する毒の散布は行わなかった。あの姿になっても恐らく進化を続けている」

 

 

 影胤の傍らに立つ異形の影が、気味の悪い虫の羽音らしき雑音(ノイズ)を伴い応える。

 

 

「あれが救世主とはねぇ。神々しさの殻を破り、なんともおぞましい戦い方をするじゃないか。ヒヒッ、笑わせてくれる」

 

 

 モニターに映る白銀の竜は、口角を引き裂き大型の鳥のガストレアを喰らう。一口で呑まれたガストレアは静かに消えていった。

 

 

「まさに化け物そのものじゃないか」

 

 

 その言葉に含まれるのは嘲笑か愉悦か、或いは憐憫か。影胤は小さくヒヒヒと笑う。

 

 

「《天秤宮(リブラ)》は見事倒して見せたが、はたして、神を喰らいし海の底を這うもの(スコーピオン)には勝てるかな?」

 

 

 暗く重い黒い部屋に、影胤の笑い声だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 海の底を這うもの(スコーピオン)は這う。縮小すれば海鼠(ナマコ)のような図体が、幾多の触手を大地に這わせ蠢き進む。

 

 突如として()が陰った。否、海の底を這うもの(スコーピオン)はその存在に気づいていたが、意に介さなかった。

 

 暗黒の体表に2つ、巨大な風船のようなものが直撃する。風船は即座に破裂し、中に溜め込んだ無色透明の液体をばら撒いた。

 

 液体に触れた部位からぐずぐずに化膿し、中身が溶け出るように崩れる。ゾディアックガストレアの力はこれを即座に再生したが、液体と共に振り掛かった化膿の原因は容易に滅せるものではなく、第2陣を待たずして再び化膿を始める。

 

 煩わしげに空を見上げた海の底を這うもの(スコーピオン)は、遂にその存在を認めた。白銀の燐光を振り撒き、自らも白銀に染めた赤眼の巨龍、《北極星(ポラリス)》だ。

 

 《北極星(ポラリス)》は3対ある翼の中央の2翼を蜷局(とぐろ)を巻くように丸めていた。

 

 海の底を這うもの(スコーピオン)の上空を旋回する間に、丸めた翼は内側から押されるように徐々に大きくなる。そして熟れた蕾の様相を呈した時、翼は花開く。

 

 薄赤い皮で被われた肉風船がそこにはあった。風を受けてふるると震えるその塊は、熟しきった果実が大地へ墜ちるように、海の底を這うもの(スコーピオン)に向けて投下される。

 

 再びの着弾。振りかかる液体は、更に広い範囲で海の底を這うもの(スコーピオン)の化膿を加速させる。化膿は一向に途絶えることなく、広大な漆黒の皮膚は醜悪な膿の色に染まっていく。

 

 上空を飛ぶ《北極星(ポラリス)》と地を這う海の底を這うもの(スコーピオン)。着実にダメージを与える空からの一方的な攻撃により、勝敗は既に決したかに思われた。しかし、這いつくばるものが空に手を伸ばせぬ訳ではない。

 

 空を、《北極星(ポラリス)》を目掛けて伸ばされた2本の触手。海の底を這うもの(スコーピオン)が伸ばした漆黒の(かいな)は、2倍ほどのの太さの龍の胴へとそれぞれ巻きつく。刹那、《北極星(ポラリス)》の長い胴が(たわ)んだ。バランスを崩した《北極星(ポラリス)》は瞬く間に地上へ引かれ墜ちていく。そして、膿だらけの触手の海へ縛りつけられた。

 

 無数の触手が龍の体表を這い回り、白銀の鱗が1枚ずつ剥がされていく。躍る六星(ミルクディッパー)の攻撃では身動(みじろ)ぎ一つしなかった《北極星(ポラリス)》も、自身より巨大な海の底を這うもの(スコーピオン)の前では確実にダメージを負わされる。

 

 だが、このまま死を待つのみではなかった。 眼前の肉の海に噛みつき、《北極星(ポラリス)》はピタリと動きを止める。当然好機と言わんばかりに、触手は鱗を剥がし、皮を破り、肉を抉った。そして、その動きを徐々に停止させた。

 

 完全に攻撃の手を止めた海の底を這うもの(スコーピオン)の全身には、血管のように這い回る白銀の模様。《北極星(ポラリス)》を労るように、ゆっくりと触手による拘束を解いた。

 

 直後、ただ噛みついているだけだった牙が、肉を抉った。それがトリガーだったのか。再生すら止め肉体の5割以上が触手に貪られていたが、大量の蒸気を出して再生を再開。露出していた骨も流れ出た内臓も、瞬く間に治っていく肉に巻き込まれ体内に還る。

 

 《北極星(ポラリス)》は肉体が完全に治るまで、今も白銀に侵食され続ける海の底を這うもの(スコーピオン)を喰らい続けた。3分経てばボロボロだった龍の身体も元通り白銀の威光を放ち、同時に深淵に呑まれたように黒かった海の底を這うもの(スコーピオン)も完全に白銀に染まった。

 

 白銀の龍は空へ飛び立ち、白銀の肉塊は海へ還らんと蠢き始めた。彼方、雲の切れ間へ《北極星(ポラリス)》は消え、此方、海の底を這うもの(スコーピオン)も海へと沈んでゆく。

 

 斯くして、狂気の力を得たガストレアが齎す東京大絶滅は、1体のガストレアの力によって免れた。東京エリアの人口の3割強が失われた戦いですらないこの事件は、『最悪にして奇跡の事件』として歴史に刻まれる。

 

 しかし、人間はまだ知らない。異形に制圧されしこの地球に、狂気が広がりつつあることを。

 

 

 ――星辰は、既に揃っているのだ。

 




Tips

星辰

 クトゥルフ神話でよく出てくるワード。揃うとヤベーやつ。
 今作ではもう揃っているらしい。本格的にヤバいことになってないのはあちこちにいるガストレアのおかげ。ゾディアックとかいう3次元生命体の頂点は神々ですら対処が困難らしい。ガストレアと似た名前の神様とか《天蠍宮(スコーピオン)》に食われたし。


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心の在処

 『最悪にして奇跡の事件』から一ヶ月。多大な損害を受け破綻するかと思われた東京エリアの経済は一切の滞りなく運行し、都市部の賑わいはまるで海の底を這うもの(スコーピオン)の襲来など無かったかのようだった。

 

 事件の死者の行方、増加した精神病院の入院患者、石になった人間、事件を予知していた子供。テレビやネットニュースではなんてことのないように、或いは他人事のように、かつて通り情報を垂れ流している。

 

 

「……はぁ」

 

 

 窓から射し込む光のみが照らす薄暗い部屋。天童民間警備会社のオフィスにて、たった一人、天童木更はため息をついた。

 

 1月前の事件の日から里見蓮太郎は行方不明となった。同様に100万を超える人が行方不明となり、それらは全て既に死亡したものとして処理されている。

 

 藍原延珠はプロモーターが死亡したためIISOに引き取られた。そう遠くない内に別の誰かのイニシエーターとして派遣されるだろう。

 

 継続が不可能となった天童民間警備会社は廃業し、数日後このビルからも引き払うことになっている。

 

 木更は、蓮太郎が死んだのにも関わらず、まず事務的な手続きを終わらせることを優先した自分に嫌気が差していた。自分はそんなに冷たい人間だったのか。やるべきことがなくなってなお、木更の心は機械的なままだった。

 

 そんな時だった。予想外の人物が木更を訪ねたのは。

 

 

「調子はどうかな? ミス天童」

 

 

 時が止まった部屋に、布がばさりとはためく音が鳴る。木更が顔を上げれば、声の主は燕尾服を身に纏った長躯の男。顔を隠した笑い顔が、木更に優しく微笑みかける。

 

 

「……最悪よ」

 

 

 東京エリアを揺るがす大犯罪者。『最悪にして奇跡の事件』を引き起こした元凶。指名手配犯・蛭子影胤を前に、木更は返事を以て応えた。

 

 

「それは重畳。君に良い報せがある」

 

「そう。で、私に何の用かしら?」

 

 

 影胤の言葉を無視して問う木更。纏う空気。隠されることのない倦怠感の奥に、確かな敵意があった。

 

 

「ヒヒヒッ、そう急くんじゃあない。まあ構わないがね。木更くん。今日は君をスカウトしに来た」

 

 

 奇怪な笑い声を聞き流し、木更は眉を(しか)めた。

 

 

「私に仲間になれってこと? 冗談じゃないわ」

 

 

 拒絶。その言葉を聞いた影胤は、堪えきれぬようにイヒヒヒと笑う。

 

 

「そうだ、そう、その瞳! 意思を持つ者の証明! それこそが今後の未来に必要なのだ!」

 

 

 しばらく興奮した様子で静かに笑い続けた影胤だったが、唐突に手を叩き合わせた。響いた音が室内に木霊する。

 

 

「いや、すまない。つい取り乱してしまった。話を戻そう。君への良い報せだ」

 

 

 木更が呆気に取られている間に、影胤の背後から人影が歩み出した。その顔を見て、木更は目を見開いた。

 

 

「ヒヒヒッ、遺体が漂着しているのを仲間が見つけてね。蘇生し体を治療したまではよかったが、傷口から流れ込んだ海水が脳に深刻なダメージを与えてしまった。今の彼は体を生かすために疑似脳を載せているが、いずれ脳の治療も完了する予定だ」

 

 

 虚ろな瞳。やや伸びているが整った髪。生気はないが健康的な皮膚。雰囲気こそ大きく変わっているが、その不幸面を見間違えることはない。

 

 

「里見……くん?」

 

 

 死んだはずの……否。影胤の言葉が正しければ死して蘇った、里見蓮太郎の姿がそこにはあった。

 

 

「さて、もう一度訊こうか。我々の仲間にならないか?」

 

「……里見くんの命で脅す気?」

 

 

 動揺こそしたが、木更は飽くまで冷静に応えた。

 

 

「ヒヒッ、それはないね。里見くんの治療が完了した時、スカウトに協力して欲しいという打算はあるが。君が断ろうとも、彼の命は保証しよう」

 

「ならあなた達の目的は? それにあなた達の仲間になったとして私にメリットはあるの?」

 

 

 影胤は「目的か」と呟き、考え込む素振りをする。そして仰々しく両手を広げた。

 

 

「我々の目的は(きた)る戦いに備えて供に戦う仲間を集めることだ。そして君にとってのメリットだが」

 

 

 身を正して1拍。

 

 

「例えば君の腎臓病を治療しよう。他には、別に配下になれと言っている訳ではないのでね。君の望む限り、君の望み全てに協力しよう。……自慢ではないが、我々に叶えられない望みの方が少ないのだよ」

 

 

 一瞬の静寂が薄暗がりに満ちる。

 

 

「我々と供に行かないか? 天童家の娘よ」

 

 

 影胤は、木更に右手を差し出した。

 

 




第一章終了。


Tips

里見蓮太郎

 インスマウスな生物に海の中へブン投げられて一度死んだけど、脳缶作る奴らに蘇生されて脳は修復中の可哀想な原作主人公。
 決して扱いが面倒になったからこの暴挙に走った訳ではない。第二章を物語る上で必要な犠牲だったのだ。
 アンチヘイトではないことはお祈り。


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第二章 這いよるものども
片鱗


「ひまです」

 

「寝てろ。俺は寝る」

 

 

 世間一般には『最悪にして奇跡の事件』と呼ばれるあの日から半年近く経ちました。モノリスが倒壊したので一ヶ月はガストレアの関連依頼が絶えませんでしたし、およそ二ヶ月の間は瓦礫の撤去依頼などでボランティアができないほど働き詰めでした。

 

 こういった大規模な雑務は、大抵は大きな民警にまとめて依頼が流れるのですが、今回はモノリス4基の倒壊・半壊が発生したこともありわたしたちにも多くの依頼が流れてきました。ありがたいです。

 

 しかし残念ながら、東京エリアにとっては運よくその後のガストレアの襲撃は散発的で総量が少なく、結果モノリス4基の再建は一ヶ月ほどで完了。後はあっという間に仕事がなくなってしまいました。暇です。

 

 聖天子は……敬称なしはダメでしょうか? ですが今の聖天子に様づけはなんとなく気に食わないです。妥協して聖天子さんにしましょう。

 

 聖天子さんは事件の後すぐに、影胤さんを事件の最重要参考人――事実上の元凶として、指名手配しました。その懸賞金額の高さからわたしを含む多くの民警が影胤さんを捜索していますが、今に至るまで目撃情報ひとつありません。影胤さんと行動している化け物の仕業でしょうが、相変わらず凄まじい隠密能力です。

 

 

「ひまです」

 

「……ぐぁ」

 

 

 陸さんが寝てしまいました。異様な寝つきのよさです。十数秒前までは起きていました。

 

 こんなに暇なのは事務所にわたしたちしかいないからです。相馬さんは莉子さんの侵食率の定期検査のため外出中ですし、藤谷さんたちも依頼で事務所にはいません。暇です。

 

 

「ちょっと散歩に行ってきます」

 

 

 陸さんは聞いていないでしょうが、相馬さんにしばらく陸さんを事務所に放置して出かけることをメールしてから自動ドアを通りました。

 

 

 

 

 

 とはいえ、暇なものは暇ですね。特に意味もなく歩いても、目に写るのはいつもと変わらない平凡な日常です。『最悪にして奇跡の事件』のすぐあとでこれだけ平和なのは喜ばしいことなのですが、それはそうと暇です。あまりにも暇で、1区から順に東京エリア全区を誰にも見つからずにマラソンしようと聖居前まで来てしまいました。

 

 ……しかし、日常の中であっても異変がないわけではないようです。感じたことのある気配に目を向けると、見覚えのない女の子がいました。歳はわたしと同じくらいでしょうか。外国人と思わせる金髪と碧眼です。パジャマ姿で自転車を漕ぎ続けています。わたしの作業着(私服)といい勝負です。

 

 

「こんにちは」

 

 

 自転車の前輪を掴んで止めます。勢いを失った自転車が倒れそうになりましたが、強引にバランスを取り支えました。

 

 

「……こんにちはー?」

 

 

 おかしいですね、返事がありません。それどころか半目を閉じて今にも眠ってしまいそうです。

 

 

「おはようございまーす。昼ですよー?」

 

 

 金髪の女の子はポケットからカフェインと英語で書かれたラベルが貼られたボトルを取り出し、大量の錠剤を掴んで口に放り込みました。錠剤が噛み砕かれる小気味良い音が聞こえます。ゆっくりとした動きでそれを数回繰り返し、ひとしきり噛み終えたところでようやくわたしと目が合いました。

 

 

「……はい」

 

 

 やっと返事が貰えました。寝ぼけ(まなこ)を擦りながらでしたが。

 

 

「あなたの名前はなんですか?」

 

 

「…………………………セラ」

 

 

 10秒ほど間を空けてから、女の子が答えました。

 

 

「わたしはアイノ・クラフトです。気軽にアイノと呼んでください。よろしくお願いします、セラさん」

 

「……よろしくお願いします?」

 

 

 反応が早くなりました。目が覚めてきたようです。

 

 

「寝ながら自転車を運転するのは危ないですよ。居眠り運転です」

 

「……私はいつの間に自転車に乗っていたのでしょう」

 

「……さあ?」

 

 

 寝ぼけるにも程があると思います。もはや一種の夢遊病ではないでしょうか。

 

 セラさんが地面にしっかり足を着けたのを確認して前輪から手を離します。

 

 

「では、わたしはもう行きたいと思います。縁があったらお話しましょう」

 

「はい?」

 

「それではまた」

 

 

 今日は暇ではなくなりましたね。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「どうしてこうなったのでしょうか……」

 

 

 古びた木造アパートの一室。それが金髪碧眼の少女――ティナ・スプラウトの居城だ。外壁のペンキは剥げ、壁はひび割れ、室内にはカビの臭いが充満するおよそ人が住むとは考えられない住居。そこに住まうのは任務が終わるまでの短い期間のため、部屋の汚点には目を瞑っていた。

 

 しかし今はどうか。外観は変わらないものの、部屋は昨晩の内に綺麗に整えられ、目に見える汚れは取り除かれている。それでも残るカビ臭さを低減するためにアロマが置かれ、それまで見る影もなかった清潔感が生まれていた。

 

 そうなった原因と言えば、使う予定のなかったキッチンを当然のように使用している銀髪の少女――アイノ・クラフトだ。

 

 

「もうすぐできるので待っていてください」

 

 

 ティナの視線に気づいたアイノに微笑みかけられる。こうなるまでの顛末を思い出し、ティナはため息をつきながら睡魔に身を委ねた。

 

 

 

 

 

 昨晩の事だ。ティナはマスター――プロモーターより指示されていた郊外の貸コンテナを訪れていた。いわゆるレンタルボックスだ。開いたコンテナの中身を形容するならば武器庫。大小様々な銃火器が並ぶ中から狙撃銃を選び出し、持ち上げようとした、その時だった。

 

 

「銃ってこんなにたくさんあるんですね」

 

 

 隣から声が聞こえた。一切気配を感じられなかったことに、ティナは驚かざるを得なかった。呪われた子供としての力を意図的に発揮していないとはいえ、今は"夜"だ。ティナのフクロウの因子の力が最大限発揮される時間であり、ティナ自身も夜こそが己の時間であると認識していた。

 

 だが現実は、何者かの接近を許した。声からは少女と思われ、それは即ち声の主が呪われた子供ないしイニシエーターであることを示唆している。しかしそれ以上に、ティナはその声に聞き覚えがあった。

 

 因子を解放。声の主から遠ざかるようにステップしつつ、足下にあった拳銃と弾薬を取る。素早く装填しつつ、声の主を視界に収めた。

 

 

「……アイノ・クラフト」

 

「アイノでいいですよ」

 

 

 暗がりの中でも目立つ長い銀髪と黄色のつなぎ服。レンズの大きなサングラスは銃を物色する視線と合わせて動き、時折覗く瞳はうっすらとだが赤い。

 

 

『どうした? トラブルか?』

 

 

 肩に挟んだスマートフォンからマスターの声が漏れる。装填を終えた拳銃から安全装置(セーフティ)を外しつつ、銃口をアイノの頭部に向ける。

 

 

「イニシエーターと思われる少女に尾行されていました。目的は不明」

 

『ふむ、殺せるか?』

 

「実力が未知数なので、なんとも」

 

 

「別にあなたがたと敵対するつもりはないので安心してください」

 

 

 耳元から声が聞こえた。たったさっきまで目の前にいたアイノが背後にいた。テレポートを疑う程の瞬間移動。ティナの目を以てしても、宙に尾を引く銀髪が一瞬視界に写っただけだった。圧縮された空気が風となり、拳銃を握る腕を撫でる。

 

 枷が外された精神的圧力(プレッシャー)

 

 ティナは感じたこともない感覚に襲われた。臓腑の底から沸き上がる衝動が逃げろと警鐘を鳴らす。肢体が凍てつき心が震える。この少女(アイノ)は、この未知の存在(アイノ・クラフト)は、決して敵対してはならない。動物としての本能が訴え、溢れ出す情動。人の身に不相応な果ての"怖"、"恐"、"畏"。

 

 

『ッ…… 何がそこにいる?』

 

 

 マスターの言葉で失いかけた気力を持ち直す。アイノの威圧は電話の先にまで伝わったらしく、その声音は重い。

 

 ティナは返事をしようと口を開くが、発せたのは(しわが)れ掠れた声にならない声。思い出したように動こうとするが、身を(よじ)ることもなく立ち尽くす。どうにもできないでいる間に、通話中のスマートフォンをアイノに取られてしまった。

 

 アイノは設定をスピーカーに変更する。

 

 

「もしもし、ティナさんのマスターさん?」

 

『……誰だ?』

 

 

 ティナは驚愕した。昼間、アイノにはセラという偽名を教えたはず。なのになぜ、アイノはティナという名を知っているのか。

 

 ティナは記憶を遡り、そして恐怖した。東京エリアに潜入したのは昨日の夜間のため、アイノは東京エリア外からティナを尾行していたか、今日気まぐれに見かけて尾行を開始したことになる。

 

 東京エリア外から尾行されるのは現実味が薄く、今日尾行を開始したのであれば、ティナの名が出たのはマスターとの定期連絡の時のみ。一切気配を気取られずに尾行し、あまつさえ電話の相手の声すら聞き取れると言うのか。

 

 

「わたしはアイノ・クラフトです。アイノと呼んでください」

 

『アイノ・クラフト……ふむ、よくわかった。何が目的だ?』

 

「何が、とは?」

 

『お前がティナを尾行した理由だ』

 

 

 アイノは戸惑ったように考える素振りを見せる。

 

 

「うーん、強いて言えば、暇潰しですかね。最近やることがないので」

 

『ハッ、野良の異名持ちは言うことが違うな』

 

「知ってるんですね」

 

『有名だとも。仙台エリア防衛戦線最大の功労者、無装のアイノ。だがどうやら、実力は噂以上らしい』

 

 

 仙台エリア防衛戦。それはティナも聞いた覚えがあった。この東京エリアが『最悪にして奇跡の事件』に見舞われるしばらく前、海から仙台エリアに大量のガストレアが襲来する事件が発生した。通常であればモノリスによってほとんど死滅するが、襲来するガストレアには周囲のバラニウムの影響を軽減する特異なステージⅣガストレアも存在し、大量のガストレアがモノリスを突破。大規模な戦闘が発生した。それが仙台エリア防衛戦である。

 

 仙台エリア防衛戦はゾディアックガストレア《天秤宮(リブラ)》までもが襲来し、その時初めてその存在を認知された白銀の体を持つガストレア《北極星(ポラリス)》によって《天秤宮(リブラ)》が仕留められるという、世界的に強い衝撃をもたらした事件だった。

 

 その戦場、その最前線において最大の活躍をしたのが、今現在ティナの回りを歩き回るこのアイノだという。

 

 

「それで相談なんですが、聖天子暗殺を見学させて貰えませんか?」

 

『断ると言ったら?』

 

「見学します」

 

『殺すと言ったら?』

 

「不可能です」

 

『フッ、ハハハッ、最高だな、ええ? 大した自信だが、誇張ではないのが実に(いや)らしい』

 

 

 ティナはアイノとマスターのやり取りを冷や汗をかきながら聞いていた。アイノは今まで見たどの序列上位者とも次元が違う。序列など関係ない。例えイニシエーターの境地に、ゾーンに到達していようとも(かな)いなどしない。そう感じさせるほどに異質なプレッシャーだった。

 

 そこに一切の殺気は無い。それまで隠していた本来の存在感を見せる。ただそれだけで、ティナの精神の均衡は容易く崩れた。もしマスターがアイノの機嫌を損ねたのなら。ティナの脳裏に浮かんだのは、蒸発するように消える(おのれ)の体だった。

 

 

『まあいい。邪魔をしないなら好きにしたまえ』

 

「ありがとうございます」

 

 

 言質は取ったとでも言うかのように、プレッシャーが消えた。解放感からティナは膝から崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。(うつむ)いたティナの頬を幾筋もの汗が伝い肌を離れ地に落ちる。生きている事実を主張するようにガストレアウイルスが活性を始める。

 

 力の抜けた脚の上に通話の切れていないスマートフォンが置かれた。重い頭を持ち上げると、(かが)んで頭の高さを揃えたアイノがティナの目を覗き込んでいた。

 

 

「それではまた」

 

 

 そう言ったアイノは鼻歌混じりにコンテナを出ると、月明かりの下で忽然と姿を消した。

 

 吹き込む夜風が汗に濡れたティナを寒いほどに冷やす。

 

 

『……行ったか?』

 

 

 マスターの声がスマートフォンから漏れる。

 

 

「いないように見えますが……私には、わかりません」

 

『そうか。ならば聞かれている前提で話そう。ティナ・スプラウト。聖天子暗殺を遂行せよ。失敗は許されない。いいな?』

 

 

 失敗は許されない。今までも言われた言葉だが、その言葉に新たな重みがのし掛かる。

 

 

「イエス、マスター。聖天子暗殺は、必ずや遂げられます」

 

 

 ティナの瞳に光が灯った。




Tips

ティナ・スプラウト

 《天蠍宮(スコーピオン)》倒した功績とかないけど原作主人公を野放しにしたら謎の運命力で先にティナと遭遇しそうだったから星辰力で一時リタイアさせた、二章での登場予定は無いなどと供述しており……


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被支配

※注

軽度の性的描写があります。
R-18警告は受けていませんが、ご注意ください。




 時は未だ夜。豪快に破壊された警察車両(パトカー)。およそ人間の仕業とは思えないほどに歪んだ車体から、金属の欠片が剥がれ落ちる。

 

 理不尽な暴力を叩き付けられたそれを見て、ティナはどこかスッキリとした感覚を覚えた。アイノに感じさせられたストレスを流す先を無意識に探していたのは間違いない。しかし、破壊行動がストレス発散になるなど久し振りのことだった。

 

 

「マスター、目標の抹殺を完了しました」

 

『任務を続行せよ』

 

「はい」

 

 

 瓦礫に半ば埋もれるようにして倒れる警察官を見る。ティナに話しかけた憐れなその男は、ティナのマスターの殺せという命令のままに攻撃され気絶。その後のパトカーへの攻撃に巻き込まれ体の各所から血を流していた。今はかろうじて息があったが、いずれ死ぬことは目に見えている。

 

 もしかしたら、今すぐ救命すれば命は助かるかもしれない。そんな考えが頭を(よぎ)る。実際、普段のティナならば迷いなく命は助けていただろう。しかし、同時に脳裏に浮かんだのは新鮮な恐怖(アイノのプレッシャー)。思い出すだけで全身を這い回る怖気(おぞけ)に、逃げるようにその場を立ち去った。

 

 死などとっくに覚悟していたはずだった。だが、支配されるというのはある種、生物の本能だ。聖天子暗殺を遂行する。そのために1つのミスも許されない。ティナの理性はトドメを刺すことを拒んだものの、本能は助けることを是とはしなかった。

 

 

 

 帰路を歩く。やがてティナの仮住まいが見えた。壁に満遍なく塗られていたであろうペンキはほとんど剥がれ落ち、醜態を晒す。建物を構築する金属部分は、見える限りほぼ全てが錆で膨張している。旧建築基準法に則って建てられ増築を繰り返された木造アパート。その一室がティナが寝泊まりする住居だ。

 

 ふと、ティナは違和感を覚えた。アパートの窓から光が見える。ここまではいい。住人の誰かが起きているのだと思うだけだ。しかし、問題はその部屋だ。間取りを考えるとあの部屋はティナの部屋であったはず。

 

 ティナは非常に嫌な予感を感じながらも玄関の前に立つ。耳を澄まさずとも部屋の中から物音が聞こえる。確実に誰かがいる。狙撃銃を運ぶために瞳は既に赤く輝いている。いつでも戦闘の開始は可能だ。

 

 中にいる存在を予想し、ゾッと身震いをする。予想が違っていた場合に備え警戒は最大限に、予想が当たっていた場合に備え余計な物音を立てず平常を装って。

 

 ドアノブを捻る。掛けておいたはずの鍵は開いており、すんなりとティナを迎え入れた。急な光量の変化に目を細める。慣れるまで数秒。中にいる存在ははたして、ティナの想像通りだった。

 

 

「おかえりなさいティナさん。ご飯にします? お風呂にします? それともわたし(寝ます)?」

 

 

 外では着けていたサングラスを外し、冗談めかして笑いかける少女。アイノ・クラフトには、恐怖など微塵も感じられない。或いは先程の事が夢だったかのように、可愛らしく振る舞うソレはただの少女に他ならなかった。

 

 

「どうしてこちらに?」

 

「なんとなく来ちゃいました」

 

 

 どうやらアイノは相当の気分屋であるらしいとティナは結論付ける。今日――正確には昨日だが――、昼間出会ったあの時がお互いに初対面だったのだろう。気まぐれに生きるこの生物に、海を越えてじっと追跡することなど可能であっても不可能だ。

 

 何を話せばいいのかわからず、言葉の無いままアイノに見つめられていると、不意にアイノが目の前に歩み寄る。眼前数センチ。鼻と鼻が触れそうになり、アイノの薄赤い瞳が視界いっぱいに広がる。

 

 

「……失礼」

 

「えっ、あっ」

 

 

 アイノの細い左腕で軽々と担ぎ上げられ、手際よく靴を脱がされるティナ。今度は右手で狙撃銃の入ったケースを引ったくられ、そのまま部屋に移動する。磨いてワックスでもかけたのか、綺麗になった床を眺めながら運ばれること数秒。まるで人形を置くようにティナの臀部は椅子に落とされた。

 

 見上げたアイノの瞳を見ると変わらず薄赤く、椅子の隣に狙撃銃を置く今も変わらず輝きは無い。しかしそれがガストレア由来のものであると察するには充分な腕力があることは間違いない。

 

 ティナの背後にアイノが回る。何をするのかと振り向きかければ、ティナの肩に手が置かれ揉むように動きはじめた。

 

 

「はうあっ。あえっ? ふえっ?」

 

 

 突然の行動に困惑とも快楽ともつかない声がティナから漏れる。肩を揉む手は絶妙な力加減で、ティナの思うよりも強張っていた筋肉を優しくほぐしていく。

 

 

「緊張しなくていいですよ。敵対されなければ、何もしませんから」

 

「ふぁう。はう。ふぁぁ」

 

 

 返答することもできず快楽の波に揉まれるティナ。心地よさが脳を掻き乱し、水に沈むように全身から力が抜けていく。アイノの手は肩から背中を辿り、全身を這い回る。その(たび)にティナの口から嬌声が漏れ、痺れるような快感が広がる。

 

 思考などあってなかったようなもので、曖昧な意識の中、弛緩しきった体が快楽を求め貪るのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識を取り戻したティナは、鳥の(さえ)ずる声を聞きながら上体を起こす。寝ぼけてぼんやりしながらも妙にスッキリした感覚に見舞われながら窓を見れば、外は明るい。いつの間に朝になっていたようだ。

 

 たった先程まで眠っていたからか、朝ではあるが普段ほどの睡魔はない。床で眠っていたのかと思い下を見れば、どこから運び込まれたのか見覚えのない運動用マットに、血色の良いティナの素足が見える。

 

 違和感を感じてぼーっとした頭で思考を廻らせると、自分がなぜか服を一切着ていないことに気がついた。下着も含めて全てである。見回すと、鉄パイプの上にクッションを乗せた椅子に緑を基調とした布の塊、ドレスを含めた衣類一式が畳まれて置かれていた。椅子はマット同様この家に無かったものだが、この服はティナが着替えとして持ってきたものだ。

 

 ひとまず服を着ながら部屋を見回す。マットと椅子の他にテーブルが持ち込まれているらしい。どれも状態はよく清潔だが、よく見るとテーブルの足などにキズが付いており、決して新品ではないことが伺える。

 

 ついで目についたのは部屋の様相。初見ではカビ臭く不潔な印象を受けた部屋は、今や床が光を照り返すほど清潔感に満ちている。カビの臭いも意識して嗅ごうとしなければ全く気にならない。

 

 部屋の隅には狙撃銃を入れたケースが置かれていた。ちょうど服を着終わっため、手早くケースの中身を確認する。中身は昨晩詰めた時のままだった。本来であればあと3挺用意し狙撃ポイント近辺に設置する予定だったが、予めコンテナから運び出せなかっただけで大きな問題ではない。

 

 ふと、ティナはなぜ夜だったのに眠ってしまったのか考えた。夜行性の因子を持つティナにとって夜こそが概日リズムに即した行動時間。そうでなくとも今は聖天子暗殺という今まで生きた中でも特に大きな任務。それなのに眠ってしまうなど、ただならぬ異常事態だった。

 

 昨晩の事を思い出す。コンテナでアイノに遭遇したのは鮮明に覚えている。その後、ここまで狙撃銃を持って来たのもハッキリと。そしてこの部屋にアイノがいたのだ。

 

 問題はここからだ。その後の記憶が曖昧になり混濁している。確かアイノにそこにある椅子に座らせられ、肩を揉まれたのだ。ただ肩を揉むだけだというのに、想像を絶する快感であったことは思い出せる。アイノの手付きは絶妙で、そのマッサージは心地よさより気持ちよさが勝っていた。

 

 泡が水面を目指すように徐々に思い出される記憶に、ティナは赤面した。全身に及んだマッサージのどの場面でも、ティナはまるで性行為に及んでいるかのように喘いでいた。気持ちよさというものは、ここまで人を乱すものなのか。その先を思い出すことを止めようと理性が訴えた。しかし、一度浮上を始めた泡は留まることを知らない。

 

 

 パッと記憶が(よみがえ)った。完全に力が抜け動くこともままならなくなったティナは、マットの上に寝かされていた。一旦マッサージの手が止まったからこそこれだけ鮮明に思い出せたのだろう。頬を紅潮させたアイノは、ティナの服を丁寧に脱がしていた。間違いなく全裸で寝ていた原因だ。ティナのパンツまでも剥ぎ取ったアイノは、今度は自らの服にまで手を掛ける。

 

 徐々に露になるアイノの肢体は、皮膚から分泌されるローションのような粘液を纏い滴らせる。その下腹部を見て、驚愕に目を見開いた。本来男性にしか無いはずのものがついている。それはアイノの肌のように透き通るように白く、アイノの感情を示すように強く天を突いていた。

 

 生まれたままの姿になったアイノは、マットに寝そべるティナに覆い被さる。肌と肌が触れ、ティナの全身に粘液が絡む。明らかに性感を優先したマッサージが開始され、ティナは本能からそれを受け入れる。やがて我慢ならなくなったのか、アイノはそり立つソレに手を伸ばし、そして――。

 

 

 

 

「――ッ!!!」

 

 

 思い出してしまった記憶に、ティナはマットに倒れ込み、悶え、のたうち回る。盗聴防止目的でアパートの両隣が空き家で本当によかったと思った。もし自制なく上げてしまった声を誰かに聞かれてしまったなら、羞恥心でこのアパートは更地になっていただろう。

 

 実際の所、ティナの激しい嬌声は薄い壁を貫通し静かな夜道に響いていた。寝ている人を起こせる音量ではないとはいえ、その場に居合わせればハッキリと聞き取れるほどに。しかし強烈な記憶が思考を阻害し、その事実に気づくことはなかった。

 

 記憶の濁流を前に顔を覆い身悶えするティナだったが、そのうちおそるおそる手を離し、そのまま伸ばす。目的の場所にたどり着いた手は、初めはスカート越しに、次にパンツ越しにまさぐる。やがて、一瞬の逡巡の後にパンツをずらし直接。迷いながらも記憶を参考にすればどうすればいいのかわかった。

 

 

「はぁ、はぁっ、んっ」

 

 

 興奮が血流を加速させ、堪えた快感が小さな声になって漏れる。当然想起するのはアイノに犯された記憶。その経験は、性欲を知らぬ齢10の少女にとってあまりにも刺激的で、衝撃的だった。結果、暗殺兵器として育てられた少女を自慰行為に走らせたのだ。

 

 しかし幸か不幸か、ティナの手では自らを絶頂に導くことはできなかった。慣れていないのもあるが、それ以上にアイノによる快感が強すぎたのだ。アイノの技と体、そして支配されているという屈服感によって得られた快楽は、自慰の快感とは比べ物にならなかった。よりよいものを求める人間の本能ゆえに、強すぎる経験は(のち)の体験を霞ませる。

 

 満足感の欠如が指の動きをだんだんと加速させる。狭い部屋にティナの吐息と水音だけが響く。いつの間にかパンツは脱ぎ捨てられ、スカートは大きく捲れ上がり本来隠すべき下半身を晒す。跳ね垂れた液がマットに落ち、染み込んで消えていく。しかしそれでも果てるには足りない。

 

 疲労を感じ僅かに手を止める。少しして再開しようと力を込め直すが、そこで何者かの視線を感じた。何者かとは言っても、本能はそれが誰かを察し、細胞がざわめくように歓喜する。右に顔を向ければ、地面に垂れる白銀の髪と中身の詰まった白いレジ袋が視界に映る。水色の作業着を着たアイノは、外したサングラスを片手に持ち、屈んでティナを見つめていた。

 

 

「おはようございます」

 

 

 ティナと目が合うと、アイノは顔を綻ばせてそう言った。スッと立ち上がるとテーブルにレジ袋を置き、中身を漁り始める。

 

 

「いつから、見てましたか?」

 

 

 ティナの問いに、短く考える素振りを見せるアイノ。

 

 

「5分ぐらい前ですかね」

 

 

 5分。果たしてそれは長いのか短いのか。そもそもどれだけの時間自慰に耽っていたのか。ティナには分からなかったが、少なくともティナの醜態をアイノにじっくり見られたのは間違いない。

 

 ぼうっと、熱に浮かされたような目でアイノを見る。あるいは本当に浮かされていたのだろう。何かを訴えるように、ティナは潤んだ瞳でアイノを見つめた。

 

 

「わたしに構わず続けていいですよ」

 

「えっ、あ、まって」

 

 

 いくつかの食材をレジ袋から取り出し(きびす)を返すアイノを思わず引き留める。ティナの口から出た甘く切ない声にそれが自分のものなのかと心臓が高鳴る音を聴きながら、アイノに濡れた指先を伸ばす。言葉を紡ごうと開口したままの口を動かすが、熱い吐息が漏れるのみ。

 

 

「仕方ないですね。すぐ終わらせてご飯にしますよ」

 

 

 テーブルに食材を置き直し、アイノはティナに歩み寄る。伸ばされた手を取られ指先を舐められると、ティナの胸中に安心感と高揚感が生まれた。ティナの正面に座ったアイノは、ティナの腰を両手でホールドしM字に開かれた脚の中央に頭を落とす。

 

 

「ひあっ」

 

 

 舐めている。そう知覚した時には、既にティナの全身を痺れるような快感が走り抜けていた。背筋が弓なりに反り、視界が白く明滅する。脊髄から脳までが引きずり出されるような錯覚に襲われ、逃げるように体が跳ねる。

 

 アイノの宣言通り、それはすぐに訪れた。一瞬の硬直に襲われ、じんわりと麻痺が溶けていく。アイノが水気を舐めとる微弱な快感が余韻を刺激し、僅かに体が反応する。ティナは自らの股間で忙しく動く白銀の髪を、脳内麻薬に侵された頭でぼんやりと眺めていた。

 

 やがてひとしきり舐め終えたアイノは顔を上げた。口の端をぺろりと舐め、「ごちそうさまでした」と小さく呟く。

 

 

「さて、朝ごはんにしましょうか」

 

 

 そう言いながらアイノは立ち上がると、テーブルの上に置き去りにされた食材を持ってキッチンへと歩く。その後ろ姿を眺めていると、ふと眠気が込み上げてきた。

 

 それも当然と言える。はじめ起きたとき長く寝ていたようにも感じたが、実際は記憶が飛んでいただけでほとんど寝ていない。加えて今までは脳が興奮状態にあって眠気を感じていなかっただけだ。さらに言えば、ティナにとって今はほとんど眠っている時間帯。起きていられる理由の方が無いのである。

 

 回らない頭で冷静に状況を捉える。全裸でぐったり寝そべるティナの下半身は、もはや隠そうという気が見られないまま放置されている。驚くことにあれだけ濡れた股間は既に乾ききっており、端から見ればティナは露出狂の痴女だ。

 

 今のティナの姿を見て、誰が昨日まで性の悦びを知らぬ純朴な少女だったと思うだろうか。あまつさえ、暗殺兵器として育てられたなどとは誰も思うまい。

 

 キッチンを見れば、鼻歌を歌いながらフライパンで何かを焼くアイノの姿がある。腰まで届く白銀の髪はヘアゴムでポニーテールにまとめられていて、アイノの動きに合わせて左右に揺れる。

 

 まるで主婦のように振る舞うアイノをどれだけ見ても、ティナを、会ったばかりの10歳の少女をレイプするような人とはとても思えない。そもそもアイノも外見はティナと同年代に見えるのだ。10歳の少女が10歳の少女をレイプするなど、誰が聞いても嘘だと信じて疑わないだろう。

 

 

「どうしてこうなったのでしょうか……」

 

 

 無為に投げた問いに答える声は無い。ティナは自身の胸中が充足感に満たされている事実を、信じ難くも心地よく受け止めていた。

 

 

「もうすぐできるので待っていてください」

 

 

 見られている気配を感じたのか、アイノはティナを振り返り少女らしい笑みを浮かべる。

 

 

 自由気ままで可愛らしい少女のアイノ。

 性欲に乱れ快楽を御する淫らなアイノ。

 未知の果てのような恐怖を纏うアイノ。

 

 

 本物のアイノの顔は一体どれなのか。或いはまだ見せていない顔があるのか。ティナの回らない頭では思考が堂々巡りに陥り、やがて、睡魔に意識を手放した。

 




直接的な描写は避けたのでR-15です。


Tips

媚薬ウイルス

 アイノによりティナへこっそり投与されたウイルス。アイノが特定の周波数の超音波を発生させると活性化し、通常の媚薬と同様の効果を即座に発揮する。要するにアイノの意思でいつでも即媚薬。
 非活性時はガストレアウイルスに擬態している他、強力な絶頂抑制効果を発揮する。これにより、どれだけ快感を積み重ねようとも媚薬ウイルスが活性化しなければ絶頂はできない。
 このウイルスは通常の人体であれば一ヶ月程度で免疫機能に駆逐されるが、『呪われた子供たち』の体内ではガストレアウイルスを媚薬ウイルスに変化させることで半永久的に存在し続ける。


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混沌との邂逅

 今の時間は夕暮れ。赤い太陽の光が地平線からわずかに見えますが、もうほとんど夜です。空には街の光を越えた星がちらほらと見えます。

 

 わたしはティナさんの待つビルの屋上へ飛び移りました。

 

 

「設置場所はあそこで大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です。問題ありません」

 

 

 ティナさんの言葉に少し遅れて、わたしの横を宙に浮く球体が通り過ぎます。球体の中心にはカメラが着いています。シェンフィールドというらしく、遠距離や遮蔽物がある場所での索敵などができるそうです。

 

 シェンフィールドは虫の羽音を伴ってティナさんの袖の中に帰って行きました。

 

 

「すみません、手伝わせてしまって」

 

「別にいいですよ。わたしが邪魔してしまった仕事ですしね」

 

 

 昨晩はわたしも調子に乗りすぎました。陸さん以外とあそこまで行為が発展したのははじめてです。ティナさんがアメリカ人だからでしょうか?

 

 マットもただマッサージ用で済ませるつもりでしたが、持ってきておいてよかったです。

 

 

「あれで最後のスナイパーライフルでしたよね?」

 

「はい。後は自由に見てください」

 

 

 先程まで、スナイパーライフルをコンテナから運び出し設置する作業を手伝っていました。本来なら昨晩の間に運び出しを済ませてしまう予定だったそうなのですが、わたしのせいで邪魔してしまったのでその埋め合わせです。

 

 完全に日も暮れて、夜の賑わいが眼下に光と音となって満ちます。そういったものから隔離されたビルの屋上は、異様な静けさに包まれていました。

 

 ティナさんは袖から3つのシェンフィールドを落としました。地面に着くことなく浮遊したシェンフィールドは、光の中へ転がるように下りていきます。

 

 後は聖天子(ターゲット)を待つばかりです。静かな空気が心地よいですね。

 

 

「あの、アイノさん」

 

「なんでしょう?」

 

「どうして私に関わろうと思ったのですか?」

 

 

 ゆったり流れる時間の中、ティナさんはそんな質問を投げ掛けてきました。赤い光を帯びたふたつの瞳がわたしを見上げています。

 

 難しい質問ですね。どうして、と言われれば理由がある気もしますが、実際はほとんど直感に従って行動しただけです。

 

 ……ああ、ですがひとつだけ、そう感じるに至った明確な理由がありました。

 

 

「ティナさんが『呪われた子供たち』だったから、ですかね」

 

 

 例え忘れたかったとしても忘れられない、日々感じられるガストレアの気配がティナさんからしました。その気配に惹かれて見れば、そこにいたのは外国人少女。たったそれだけでもわたしが興味を持つには充分でしたね。

 

 そうして近づいてみれば、感じたのは虐待の経験とは違うほの暗い気配。より興味が湧いて深入りするとなんと暗殺者でした。最強の娯楽です。

 

 

「そう、ですか……」

 

 

 ティナさんは若干落ち込んだ様子で眼下の光に目を下ろしました。『呪われた子供たち』である以上の理由を言葉にしていないので気にしているのでしょう。かわいいですね。

 

 

 と、ティナさんの纏う空気が変わりました。重く張り詰めたトゲのある雰囲気です。鋭い眼光が赤く輝いています。

 

 ティナさんの視線を追えば、目立つ車が1台走っているのが見えました。真っ黒に光るリムジンです。運転手はここからでも目視できますが、聖天子の姿は長い屋根と側面の遮光ガラスに遮られて見えません。そもそも目測1キロは離れていそうです。

 

 ですが、ティナさんは迷いなく引鉄(ひきがね)を引き絞ります。狂いなく飛んだ弾丸は、予定通りリムジンへと着弾しました。しかしそれだけでした。屋根を撃ち貫いたことは間違いありません。穴が空いているのも見えます。しかし、リムジンは何事もなかったかのように走り続けています。

 

 ティナさんに目を向ければ、驚いた様子を見せつつも既に2発目を撃つべく引鉄(ひきがね)を引いていました。

 

 再び放たれた弾丸は、今度はタイヤに着弾します。したように見えました。しかし、直前で黒い何かが弾を包み込み、次の瞬間にはもろとも消えました。

 

 っ、空気が変わりました。この気配は――

 

 

「ティナさんッ!」

 

 

 倒れるようにして伸ばしたわたしの手がティナさんを掬い上げるように投げ飛ばし、直後、ティナさんのいた場所に黒い〝無〟が出現しました。〝無〟はわたしの肩を覆います。咄嗟に身体を捻りますが、巨大化する〝無〟から逃げ切れません。右半身のほとんどが〝無〟に包まれ、次の瞬間、わたしの右半身は跡形もなく消えていました。

 

 遅れて、ティナさんが地面とぶつかる音がします。

 

 

「いっ、どうし……アイノさん!?」

 

 

 ティナさんの声が聞こえます。なんとか頭は守れたみたいです。ですが右腕の感覚がありません。お腹と背中が生ぬるく熱い感覚で覆われて行きます。傷が塞がる一瞬の間にどれだけの血が溢れたのでしょうか。

 

 

「へぇ、僕の攻撃に反応できるんだ。もう死にそうだし、もったいないことしちゃったかな」

 

 

 痛いです。いつもならもう再生は完了しています。なのに傷が塞がるだけで、再生は遅々として進みません。

 

 

「あなたが、アイノさんを……?」

 

 

 苦しいです。右肺がやられました。呼吸が浅く、酸素と血液不足で視界が朦朧とします。

 

 

「ああ、可哀想に。彼女は君を庇って死ぬんだ。憐れだねぇ。君がいなければ、きっと生きていただろうに」

 

「ッ……!!」

 

 

 赤いです。実に赤いです。意識を手放したくなります。そうすればこの苦痛ともオサラバです。

 

 

「ァァアアッ!」

 

「ふぅん、三方からの狙撃ねぇ。埋め込まれてる機械のお陰かな?」

 

「ア゛ガッ」

 

「君自身もなかなかやるみたいだけど、まあいいや」

 

 

 ああでも、わたしが理性を失ったら(ゾディアックになったら)、護るべきものも護れませんね。

 

 

「死ね」

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 黒いスーツに身を包んだ褐色肌の美青年がつまらなさそうにティナを見る。掲げた左腕はティナの首を掴み、今にも握り潰さんとしていた。

 

 ティナは絶えそうになる意識の中、逆転の一手を模索した。設置していた狙撃銃は破壊されたのか、既に接続はない。必死に(もが)いても、赤目の膂力を前に男は微動だにしない。

 

 

「死ね」

 

「させませんよ?」

 

 

 もうだめか。そう思った時、男に応える声があった。刹那、男の左腕が切断される。続けて男の体が吹き飛び、地面に落ちるティナの体が優しく受け止められた。

 

 

「まさか、命を張ることになるとは思いませんでした」

 

「アイノ、さん?」

 

 

 見上げるアイノの顔はいつもと何ら変わらず、油断なく男の消えた闇を見据える。左腕は無事だが右腕がない。あるはずの場所に、醜い肉の断面があるだけだ。

 

 違和感。ティナを支えるこの感触はなにか。手ではない。膝も見える距離にある。瓦礫のような硬さも無く、ぶにぶにとした弾力が背中に伝わる。

 

 

「✕✕✕、✕✕✕✕!」

 

 

 言語なのだろうか。理解できない音の羅列が闇の向こうから聞こえる。乾いた拍手。響く足音。やがて理解しがたい歓声と共に、無傷の男が表れた。

 

 

「ん、ああ、興奮しすぎたね。思わずヒトの言葉を使うのを忘れていた」

 

 

 アイノの顔色を見て悟ったか、すぐに音の羅列は理解できる言葉に変わった。それに対しアイノは、怪訝な表情のまま口を開く。

 

 

「あなたは誰ですか? 何者ですか?」

 

「誰か……?」

 

 

 アイノの問いに男は腕を組み、俯いて如何にも考えているといった素振りを見せる。やがてパッと顔を上げると、両の手のひらを叩き合わせた。

 

 

「僕は黒色だ。少なくとも僕はそうだ。だから君も黒色と呼んで欲しい」

 

「何者ですか」

 

 

 間髪入れずに繰り返す問いに、黒色と名乗った男はキョトンとした表情をし、すぐに笑みを浮かべた。

 

 

「そう慌てないで。僕だって君みたいな混ざりものははじめて見たんだ。ゆっくり話そうじゃないか」

 

「わたしから話すことは何もありません」

 

 

 キッパリと言い放つアイノだったが、黒色はより一層笑みを深める。

 

 

「知りたいんでしょ? 君自身の正体」

 

 

 黒色はゆったりとした動作で左腕を上げる。その手の先には黒く光るエネルギーを視覚化したような何かが蠢き、それをティナへと向けた。

 

 

「ッ!」

 

 

 咄嗟に避けようとするが、黒い何かが迫る方が早く、それは赤いものによって防がれ溶けるように消えた。

 

 

「いいねぇ、実に醜く美しい。✕✕✕✕のと近いのかな? ああ、ヒトの当てた発音はクトゥルフだったね」

 

 

 それは血色の触手だった。無数の触手が背後からティナを包み込んでいる。おそるおそる振り返れば、血色のマットが手についた。

 

 触手で象られた血の海と形容すべきだろうか。それらの触手を目で追うと、全てがある一点に辿り着く。

 

 ――右腕。白く美しい右腕の根元から吐き出されるように、血に濡れた白い触手が蠢いていた。

 

 

「……教えてください」

 

「いいよ。好きなだけ訊くといい」

 

 

「……わたしは、この力は、なんですか?」

 

 

 

 

 暗い夜に風が吹く。

 

 

 

 

「君は僕たちと同じ高次元の存在。……即ち神さ」

 

 




Tips

黒色

 APP18の黒人男性。7版ならAPP100。(Nyarlathotep)
 いろいろ貌があるが、これは『黒色』というオリジナルの貌。
 善意と娯楽で東京エリアを支配している。


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炎の宴

 ガラス越しに飛行機が空へ飛ぶ。広い屋内には少なくない活気が渦巻き、ティナ・スプラウトを現実から引き離す。

 

 ティナは一人、空港にいた。聖天子の暗殺に失敗したのは三日前の事。再度の挑戦もアイノに止められ、そうなるとティナにはもうどうすることもできない。マスター、プロフェッサーランドより帰還の指令が一昨日下った。

 

 思い出す。暗殺に失敗したあの夜。いつの間に気を失ったのか、目覚めた時には日は昇っていて、アイノに優しく膝枕をされていた。記憶は曖昧だったが、それでも右半身をごっそりと抉られたように失い、血の海を形成していくアイノの姿は嫌でも記憶にこびりついていた。ティナの心配に、アイノは問題ないと答えた。

 

 あの夜の事を、ティナはよく覚えていなかった。正確には、傷つき倒れるアイノを最後に記憶が途切れている。何があったのか、アイノに訊いても知らない方がいいと返されるのみ。

 

 あの時、確かに聖天子を撃ったはずだった。シェンフィールドのセンサーで聖天子を捉え、撃ち抜いたはずだった。だが結果として当たらなかった。当たったことにならなかった。直後にタイヤへ狙いを変えたが、当たらなかった。

 

 アイノにこの事を話せば、狙らわれた対象に攻撃が当たらなくなる、ある種のジャミングがあのリムジンに掛けられていたのだと言う。答えは得られたが、理解はできなかった。できるはずもなかった。

 

 

「はぁ」

 

 

 口を突いてため息が零れる。ふと握っていたスマートフォンに目を落とせば、そこにあるのはアイノの名前。ボタン一つでいつでも電話を掛けられる状態だった。

 

 指がボタンへ伸び、引っ込む。別れは済ませたではないか。昨日も一昨日も、一生の思い出に残る楽しい時間を共に過ごせたのだ。暗殺者にとって、充分過ぎる幸せだろう。そう、自分に言い聞かせた。

 

 今後、東京エリアに来るのかもわからない。いや、まず来ることはないだろう。プロフェッサーはアイノの存在を知っている以上、無闇な接触は避けようとするはず。となれば、アイノに顔を覚えられている私が東京エリアに派遣される道理は無い。

 

 元の生活に戻るだけだ。暗殺者としてのティナ・スプラウトに戻るだけなのだ。

 

 ……ふと、ティナを現実に引き戻す音がある。着信音だ。淡い期待を込めてスマートフォンの画面に目を戻すと、映っていたのはプロフェッサーの文字。若干落ち込みながらも電話に出る。

 

 開口一番。ティナが言葉を発する前に、ランドの声がティナの耳を刺す。

 

 

『東京エリアに待機しろ。理由はニュースを見ればわかる。合流するまで待っ――』

 

 

 爆音。早口の声を遮る音に、ただ事ではないと察する。

 

 

『チッ、クソが。聞こえてるな? とにかく、現状最も安全なのは東京エリアだ。移動手段が確保でき次第すぐに向かう』

 

 

 一方的に切られた電話を前に、一瞬放心する。しかし言われたことを思い出し、すぐに検索エンジンを立ち上げた。プロフェッサーがいるはずのワシントンエリアの情報を探る。そして、それはすぐにヒットした。

 

 それはSNSに投稿された1枚の写真だった。投稿日時は今日、たったの10分前。添えられたコメントは「oh my god」。ティナはすぐさま写真を拡大する。

 

 その写真はスマートフォンを用いて取られたのだろう。縦長の写真は画面にピッタリと収まる。手ブレはしていたが、情報を見て取るのに申し分ない。

 

 パッと目につくのは赤色だった。画面を埋め尽くす炎。燃えているのは壊れた街並み。焼夷手榴弾が4桁あっても足りないような範囲が赤く染め上げられている。

 

 そして画面中央に映されたソレ。空の闇を食うように膨らんだ炎。一見すると炎の海の一部分に過ぎないが、ソレに類するものに接していたからか、ティナは気付いた。気付いてしまった。

 

 炎の中に鎮座する炎。

 ソレは生きているのだと。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

 疾走するワゴン車。駆ける大地は炎の中。瓦礫が跋扈する道を右へ左へ避け進む。ハンドルを握る男はスマートフォンをポケットに仕舞うと、深くため息をついた。

 

 

「大都市が前触れもなく大絶滅だって? 冗談じゃない」

 

 

 ワゴン車を運転する男、エイン・ランドは悪態をついた。冗談じゃない。そう、冗談ではないのだ。ワシントンエリアは前触れもなく表れた炎によって大絶滅した。瞬く間にインフラは崩壊し、万が一に備え用意していた脱出経路も使い物にならなくなった。当然だ。想定していたのは人やガストレアからの逃走で、神の襲来など想定するはずもなかったのだから。

 

 シェルターに逃げ込むことも考えたが、相手はモノリスすら溶かす炎を発する太陽だ。逃げ切れてもシェルターごと焼き殺されるのは目に見えている。

 

 

「クソ。ああ、確かに気付くべきだったとも」

 

 

 後悔の自問自答を繰り返す。

 

 つい先日、東京エリアに派遣したティナが遭遇した存在。アイノ・クラフトはティナのスマートフォンから私に電話を掛けてきた。

 

 アイノの言葉は非常に端的なものだった。クトゥルフ神話について調べてくれと。便利屋じゃないぞと思いながら渋々理由を聞き返せば、東京エリアはナイアルラトテップに事実上支配されているらしい。なぜそんなことを知り得たのか聞けば、本人から聞いたのだと。クトゥルフ神話のこともナイアルラトテップが調べるよう促したそうだ。

 

 バカらしいと思って断ったのが間違いだった。アイノは紛れもなく事実を述べただけで、冗談でも騙されている訳でもなかった。そもそもガストレアというバカらしい存在が跋扈するこの世界で、なぜ二例目が無いなどと言い切れたのか。

 

 どこかの誰かが空想の手順を辿り、神の招来を成功させてしまうことだって、決してありえない話ではないのだ。

 

 ガンッと、何かがぶつかる音がする。小さく目を向ければ、長い金髪が風に(なび)くのが見えた。

 

 

「この先は瓦礫に塞がれてるわ。回り道して」

 

 

 窓から顔を覗かせる赤目の少女の言葉を聞き入れ、ランドはハンドルを切る。少女は車体を蹴ってワゴン車の進む先へ走った。

 

 護衛として置いていたのがスピード型のイニシエーターでなかったのが恨めしい。彼女の走る速さは平均的な車より少し速い程度。瓦礫を跳び越えて行けるとはいえ、安全性を鑑みれば彼女に背負われるよりこのワゴン車の方がよい。

 

 そうは思っていたが……。

 

 

「駄目。こっちも塞がってるわ」

 

「アイリーン。私を運べるな?」

 

「……わかった」

 

 

 瓦礫があまりにも多い。このまま回り道を繰り返していつの間にかUターンしていましたなど笑い話では済まされない。

 

 アイリーンが屋根の上に退()いたのを見てドアを開く。伸ばされた手にすかさず捕まって車の外へ身を投げ出す。あっという間に引き上げられたと思えば背負われ、足下で慣性のまま走るワゴン車の屋根が陥没した。

 

 加速、そして落下。むせ返る熱気の中、瓦礫をものともせずに駆け抜けていく。燃える家屋が後ろに流れ、橙色の輝きに照らされたモノリスがすぐそこに見える。その先は夜の闇。モノリス外の研究所まで逃げてしまえば後はどうとでもなる。

 

 ふと背後を振り返れば、炎の邪神は遥か遠く。攻撃の手を止め、踊る火を侍らせて佇んでいた。

 

 逃げきった。そう思った。

 

 

「プロフェッサー、あれは?」

 

 

 前を見る。闇の中、視界の中央に光があった。違う、あれは火だ。生きた火ならば問題ない。動きは遅く私の足でも振り切れる。

 

 

「無視していい」

 

 しかし火はなぜあんなところにいるのか。索敵役だとしたら厄介だ。

 

 宙に佇む火に接近し、距離を開けて通り過ぎる。浮遊感。気付けば私は宙に投げ出され、慣性に従って地面に叩き付けられていた。

 

 

「何をしているアイリーン!」

 

 

 怒りを込めて背後を見る。そこにアイリーンの姿は無く、代わりに炎があった。否、アイリーンの姿はあった。下半身を炎に呑み込まれ、辛うじて外に出た上半身が炙られ服が煙を上げていた。

 

 

「ぇ……ぁ?」

 

 

 アイリーンは何が起きているのか理解できていない様子で下半身を包む炎に触れる。一瞬にして皮膚が破けて燃え縮れ、新たな皮膚を火に晒す。火傷と再生を繰り返して、炭化した皮膚が剥がれ落ちる。

 

 

「あ――」

 

 

 発するはずだった悲鳴は封じられた。瞬きの刹那に炎の中に吸い込まれ、一人の少女は命を散らす。

 

 逃げなければ。死ぬ。殺される。

 

 気が付けば脱兎の如く駆け出していた。死を予感するのはいつ以来か。10年前すら必死になって走ることはなかった。どんな時も余裕を持っていた。つい先程までもそうだ。都市が滅びながらも、自分は生き残るという確信があった。そうだ。何を慌てている。私は生きる。生き残るのだ。

 

 背後を振り返る。遠ざかっていく炎は動く素振りを見せない。火には人を食うなど不可能であるはず。無論全てが未知ゆえに断ずることはできない。だが、生きる炎に関するものに、人を食うものなど……。

 

 

Yomagn'tho(イオマント)か」

 

 

 次元の影より出でる悪意。生きる炎が不完全な儀式によって招来されたのなら存在しているのも納得できる。むしろいて当然だ。星々より宴に来たりて貪るもの。なるほど、今の状況にピッタリ符合する。

 

 しかし、であるなら腑に落ちないことが一つある。なぜ私を追わないのか。未知の嗜好でもあるのか。それとも未だに舌鼓を打っているのか。まあよい。既に木々の影に隠れて見えない以上、今は研究所への到着が先だ。

 

 入口のゲートはモノリスから――イオマントから最も遠いものを選んだ。ガストレアと遭遇する危険性もあるが、ワシントンエリアがあの有り様だ。目を奪われているに違いない。

 

 隠された門を設定された手順に従って開く。地面に開いた穴に取り付けられている梯子に捕まり、無機質な金属によって囲われた空洞へと降りる。壁に埋め込まれたパネルにパスワードを打ち込み、エンター。継ぎ目の無かった壁に線が走り、ゆっくりと開いていく。

 

 

「プロフェッサー! 無事でしたか!」

 

 

 ゲートが開くのを検知していたのだろう、薄暗い通路で息を切らした研究員が出迎えた。動きを止めずに通り過ぎ、振り向くことなく問う。

 

 

「被害状況は」

 

「第一から第三ゲートは焼失したため封鎖し放棄。偵察用ドローンが2機焼失。他被害はありません」

 

 

 ゲートが使い物にならなくなったのは痛いが、予想の範疇だ。脱出用のジェット機が無事ならいい。

 

 

「脱出の用意をしろ。この研究所は放棄、日本に渡る」

 

 

 ゲートが閉じる音。荒い呼吸音。返事はない。

 

 

「どうした――」

 

 

 振り返り、目に入ったのは光。目の眩む暖色が通路を照らす。研究員の姿はなく、炎の光が揺れ動く。

 

 理解することも後悔する間もなかった。

 

 

「■■、■■■■!」

 

 

 炎は花開き、そして嗤った。

 




Tips

アイリーン・スペンサー

 設定資料が無いから勝手に想像した。もし原作の続きが出た時に間違っていた場合が怖いから死んでもらった。原作まだかなぁ。


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そらをとぶ

 みなさんの目線の先で、わたしが回したルーレットが減速していきます。

 

 

「5……川に落ちてしまった、1回休みですか」

 

 

 わたしは川に落ちたぐらいでは休みません。不服です。

 

 

「ははっ、ざまあないな。っと」

 

 

 右隣から陸さんの手が伸び、ルーレットを回していきます。止まった目は……2ですね。

 

 

「2か、微妙だな。えーっと、家が泥棒に荒らされた。100万円失うだあ!?」

 

「ひゃく、まん! プププっ」

 

 

 藤谷さんが笑いを堪えきれないといった様子で自分の太ももを叩いています。便乗しておきましょうか。

 

 

「無様ですね」

 

 

 陸さんの目の前にある紙束から、10万と書かれたものを10枚取ります。これで陸さんの残りの所持金は15万3000円ですね。わたしの所持金は62万なので勝ちました。

 

 

「相馬さん、どうぞ」

 

「どうも」

 

「俺の100万がぁ……」

 

 

 紙束が陸さんの目の前を通り過ぎ、相馬さんの手に渡ります。100万は陸さんの目線とともに銀行という名のケースに吸い込まれました。

 

 

「無様ですね」

 

「なんで2回も言ったゴラァ!」

 

 

 陸さんの怒声を尻目に、対面から伸びた手がルーレットを回します。止まった目は9。それを見た美雨さんはコマを進めました。

 

 

「……宝くじが当たった。100万円」

 

「おっ、ちょうどいいところに100万円分の束が」

 

「……ありがとう」

 

 

 相馬さんが収めたばかりの100万円を取り出し、美雨さんに手渡しました。陸さんが口をあんぐりと開けて枯れた声を漏らしながらその様子を見ています。

 

 

「無様ですね」

 

「クソがっ、クソがぁっ」

 

 

 一時の栄光とは、かくも無様なものですね。

 

 

 現在の時刻は10時。いつも通り亜土民間警備会社に集まったものの依頼は特になく、暇つぶしに人生ゲームをしていました。

 

 依頼こそ『事件』前と比べて少なくなりましたが、それ以上に『事件』直後の収入が大きく、亜土民間警備会社の財政は安定しているそうです。そのお陰で今わたしたちはのんびりできています。いつでもそうだろとは言ってはいけません。

 

 

「たのもー」

 

 

 そんな時でした。普段客も無い亜土民間警備会社に珍客が訪れたのは。

 

 決して広くないオフィスと融合したエントランスに表れた1人の少女。寝癖だらけの金髪。眠たげな碧眼。当然のように片手に携えたカフェイン錠剤のボトル。

 

 

「ティナさん」

 

「あん? 知り合いか?」

 

 

 見慣れぬその姿に陸さんは訝しげな目を向けていますが、一昨日の夜まで毎日会っていたので見間違える訳がありません。ですがティナさんは昨日の朝、日本を出国したはずです。

 

 

「どうしてここに?」

 

「探しました」

 

 

 続く言葉はありません。返事はすぐに返ってきたので目は覚めているようですが、それはそうと眠いみたいです。ひとまず手を引いてわたしの隣に座らせます。

 

 

「ええと、アイノ。その子は誰?」

 

 

 戸惑った様子で相馬さんが訊ねてきました。

 

 

「ティナさんは――」

 

 

 その後、わたしはティナさんに出会ってからの話をしました。当然莉子さんもいるので、夜の話は伏せつつですが。もちろん黒色さんと2人で話したことも秘密です。

 

 聖天子を殺そうとしたことを話した時にはみなさん驚いていました。プロモーターがランドさんであることを話した時にも相馬さんは反応していましたね。

 

 ちなみにティナさんの制止は無視しました。そのお陰か、眠そうに半分閉じていた目はぱっちり開いています。

 

 

「つまり、君は聖天子暗殺未遂の犯罪者だと」

 

「あー、えっと、あー。はい」

 

 

 ティナさんは諦めたように俯きました。

 

 

「ていうか黒色ってなに? 化け物? アイノを殺しかけるやつが聖天子の護衛? なにそれ聞いてないんだけど」

 

「言ってないですからね」

 

 

 相馬さんが両手で目を抑えて天を仰ぎました。思考回路がオーバーフローしたのでしょう。莉子さんが相馬さんのアゴをつついています。

 

 

「えーっと、で、お前はなんでここに来たんや?」

 

 

 藤谷さんが苦笑いを浮かべながら訊きました。

 

 

「しばらく居候させて貰おうかと思いまして」

 

 

 続くティナさんの説明はこうでした。曰く、プロモーターから帰還の命令を受けていましたが、それが急遽東京エリアで待機するよう言われたと。

 調べると、帰る予定だったワシントンエリアが炎上、大絶滅していることがわかったそうです。しばらくしてプロモーターに電話を掛けましたが、応答はなし。

 指示通り東京エリアで待機しようとしますが、宿として使っていたアパートは既に燃やして処理済み。ホテルに泊まろうにも、すぐにお金が尽きるのは目に見えていた。

 結果、東京エリアで唯一知り合っていたわたしを頼ろうと探し、ここまで来たそうです。

 

 

「アイノさんが有名で助かりました。大きな民間警備会社を尋ねたらすぐにここがわかりましたし」

 

「それで、プロモーターが迎えに来るまで泊まりたいってことか」

 

「はい」

 

 

 話が一区切りついたと見て、陸さんがソファーにどっしりと寄りかかりました。

 

 

「どうすんだ、相馬?」

 

 

 相馬さんはいつの間にか天を仰ぐのを止め、姿勢を正していました。眠そうに寄りかかる莉子さんの頭を撫でています。

 

 

「アイノも共犯者だしな……。空き部屋はあるし泊める分には構わないけど、そのプロモーターって生きてるの?」

 

「……わかりません」

 

 

 ティナさんの話では、エインさんはとても焦った様子だったと言っていました。十中八九、大絶滅に巻き込まれたと見ていいでしょう。そうであれば、よほど周到な準備が無ければ生き残れません。連絡もつかないそうですし、相馬さんが気になるのも当然です。

 

 

「IISOの規約に則れば、プロモーターの死亡が確認されたら即ペア解消。行方不明になった場合は、行方不明になった次の月の終わりまでに生存が確認されなければペア解消だ。君はIISOに出頭して新たなペアを組まなければいけない」

 

 

 毎月生存報告をしなければならない面倒なシステムです。プロモーターは飽くまでイニシエーターの監督役なので、仕方のないことではあるのですが。

 

 

「君自身の生存報告をしなければ君も死んだことになるだけで、さっき言った問題はない。けど、侵食抑制剤が貰えなくなる。それに生きてることがバレれば僕たちもペナルティを受けるし、罪になりかねない」

 

 

 今相馬さんが言った策はデメリットだらけに見えますが、実は最善策です。侵食抑制剤はわたしがいれば必要ないですし、バレてもある程度までならわたしが文字通り揉み消します。

 

 

「もちろん君のプロモーターが生きてればなんの問題もない。けどもし死んでいた場合、君はどうするんだい?」

 

「えっと……」

 

 

 難しい質問ですね。既にティナさんには帰る場所が無いです。順当に行けばIISOに引き取られて新たなプロモーターと組むことになるのでしょう。ですがティナさんが考えている様子を見るに、それをあまり快くは思っていないようです。もしかしたら、なし崩し的に亜土民間警備会社に居座るつもりだったのかもしれません。

 

 しかし相馬さんはそうはさせないつもりのようです。ここまで詰め寄られては、ティナさんもハッキリ答えなければいけません。ここはひとつ、助け船を出しましょうか。

 

 

「確認しましょう」

 

 

 わたしの言葉に、全員の目線が集まりました。

 

 

「わたしとティナさんで、エインさんが生きているか確認してきます」

 

「本気?」

 

「はい。エインさんの生死がわからなければ、決めるものも決められないでしょう」

 

 

 相馬さんと無言の睨み合いが始まります。無駄です。わたしには亀をはじめとした数多くの因子があります。根比べなら負けません。

 

 

「ややこしいことはわかんねぇけどさ、要するにアイノがどうにかするっつうことやろ? だったらそれでええやろ」

 

 

 最初に根負けしたのは藤谷さんでした。藤谷さんの言葉を聞いた相馬さんは、片手で頭を抱えます。

 

 

「……はぁ。わかったよ。でも2人だけで大丈夫? 今のワシントンエリアに派遣された調査隊が帰ってこなかったって、ニュースで見たけど」

 

「問題ないです」

 

 

 ティナさんの前なら力を隠すつもりもないですし、全開で戦えます。

 

 

「……大丈夫なんだな?」

 

 

 陸さんがわたしの目を見て言ってきました。言葉の意味はわたしを気遣ってのものではなく、「俺はいなくても大丈夫か?」という意味でしょう。

 

 

「大丈夫です」

 

 

 これでティナさんが考える時間は作れました。あとはワシントンエリアへ行ってエインさんの生存確認をするだけです。

 

 

「アイノさん。ありが「ではティナさん。行きましょうか」えっ?」

 

 

 ティナさんの手を取って立ち上がり、そのまま外へ向かいます。

 

 

「みなさん、数日ほど留守にするのでよろしくお願いします」

 

「えっ、今から、えぇ!?」

 

 

 善は急げです。ティナさんが驚いていますが知ったことじゃありません。みなさんの苦笑いを尻目に、わたしたちは光の下に出ました。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「それで、どうやってワシントンエリアまで行くのですか?」

 

 

 亜土民間警備会社を後にしたわたしたちは、必要なものを用意して廃棄された下水道を歩いていました。ボランティアの時、自衛隊に捕まらないために通っている道のひとつです。

 

 

「飛行機で密航できれば楽だったんですけどね。飛行機は出ていないので飛んで行きます」

 

「……?」

 

 

 ある程度歩いたら地上に出ます。モノリスを背後にさらに歩いて、樹海化した土地は走り抜けて海沿いに出ました。ここは旧千葉県の太平洋側です。ここなら万が一でも見つかる心配はないでしょう。

 

 手早く服を脱いで、持ってきておいたリュックサックの中に詰め込みます。生まれたままの姿になり、リュックサックの口を閉じました。

 

 

「アイノさん!? どうして服を……まさかここで」

 

 

 ティナさんの顔が真っ赤に染まっていきますが、無視してリュックサックを押し付けるように託します。顔が赤いまま困惑するティナさんから距離を取り、意識を集中します。

 

 

「モード・フライト」

 

 

 いくつかの因子をまとめて解放。身体中の骨から異音が鳴り響き、肉体が変形していきます。

 

 背丈が5メートルほどまで伸び、背中が横幅2メートル弱まで広がります。指が急激に伸び、指と指、指と腕、そして体との間に皮膜が形成されました。脚は逆に縮小し、やや筋肉質な鳥の形へと変形します。

 

 髪が抜け落ちて頭が前後に伸び、口はくちばしに、後頭部は大きく広がったトサカに変化しました。皮膚の質はゾウのように固く、背中を中心に体全体へ白銀の毛が生えます。

 

 今のわたしの姿を形容するなら白銀の横長プテラノドンでしょうか。少なくとも翼竜の類いです。

 

 以前、小比奈さん相手に使ったモード・エンジェルは空中戦闘用の形態(モード)ですが、モード・フライトはつい先日考えた飛行専用の形態(モード)です。ちょうどいい因子の組み合わせの素体を食べれたので、形態(モード)として確立できました。

 

 モード・フライトはモード・エンジェルと比べて安定性に優れていて、人を背中に乗せて運ぶことができます。あまり速いと風圧で乗っていられなくなると思いますが、スピードを出しすぎなければ問題ないでしょう。

 

 ちなみに声帯は人のままです。機内アナウンスの真似ができます。

 

 

「ティナさん、乗ってください」

 

 

 ティナさんに背中を向けて、乗りやすいよう体を伏せます。

 

 

「アイノさん、なんですか?」

 

「はい、そうですよ」

 

「えっ、けいしょうほうか、うぇっ? どうなって」

 

 

 驚くのも無理はありません。わたしも陸さんも最初は驚きました。ガストレアウイルスを操り形象崩壊をコントロールする力なんて、世界でわたししか持っていないでしょう。

 

 そういえば、もしかしたらこの秘密に気づいていたかもしれない人がいるのですが、今はどうしているのでしょう。突然民警を辞めると言い出して本当に辞めてしまってから、一度も姿を見ていません。以前暇つぶしに会いに行ったら既に引っ越していました。相馬さんも話したがりませんし、情報はありません。

 

 今気にしても仕方ありませんか。

 

 

「ティナさん。積もる話は後にして、乗ってください」

 

「ひ、ひゃい!」

 

 

 ティナさんの体内にある媚薬ウイルスを少しだけ活性化させて命令し、背中に乗せます。

 

 巨大化し皮膚越しに盛り上がった背骨にティナさんが座ったことを確認して、脚で地面を蹴り跳躍します。十分高度が確保できたら翼を開き、飛行開始です。

 

 目指すはワシントンエリア。モード・フライトで人を乗せて空を飛ぶのは初めてですが、問題はないでしょう。




Tips

IISOへの生存報告義務

 勝手に作った設定のため、原作の正しい設定を見逃していたら教えてください。

 一ヶ月に一度、各エリアのIISOの支部へ生存報告を行うプロモーターに課せられた義務。ガストレアウイルス抑制剤の盗難を防ぐため、抑制剤の支給もこのタイミングで行われる。
 イニシエーターのみで生存報告を行った場合、プロモーターが行方不明ならイニシエーターの一時的な保護観察、死亡していたなら新たなプロモーターとペアを組むこととなる。プロモーターの職務放棄だった場合は、厳重注意や場合によりプロモーター資格剥奪の処分が下される。
 プロモーターの行方不明が確認された次の月の終わりまでに生存報告がなされなかった場合、ペアは解散となる。イニシエーターのみや両名の行方不明であっても同様。イニシエーターの行方不明は場合により最大で資格剥奪までの処分が下される。


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ギガスコリデス

 ダイジェストにはなってしまいますが、ティナさんとの空の旅はそれはとても楽しいものでした。

 

 最初は飛ぶ速さに耐えきれずティナさんが落下してしまって空中でキャッチしたり、速度を緩めても風圧は強かったらしくティナさんの顔がおかしなことになったり。

 

 半日近く飛んだ頃に我慢できなくなったのかティナさんが漏らしてしまったり、その数時間後には吹っ切れたのか大きい方も漏らしたり。

 

 それはそれはとても楽しい空の旅でした。当のティナさんはわたしの背中でぐっすり寝ています。足をわたしの体内にめり込ませているので、落ちる心配はありません。

 

 余談ですが、わたしは優しいので背中の一部をアメーバ状にして大も小も吸収し掃除してあげました。

 

 

 そんなこんなで大体1日経ったでしょうか。日が暮れてきた頃にワシントンエリアが見えてきました。

 

 大きさは東京エリアと同じぐらいですかね。道中に他のエリアも見かけましたが、そこよりは大きいように見えます。流石、ガストレア大戦前最大の国家の元首都です。

 

 ですがどう見ても燃えています。モノリスに囲まれた中のほとんどの範囲に火が見えます。どれだけ熱いのか、一部のモノリスは半ばまで溶けています。そしてエリアの中央には、遠くから見てわかるほど巨大な火の玉が浮かんでいました。

 

 不思議なのが、火があるのは地面の近くに限らないことです。巨大な火の玉同様に、モノリスより高い位置を浮かんでいる無数の火があります。一体どういう原理なのでしょうか。

 

 

「ティナさん、起きてください」

 

 

 頭のトサカの裏にある口からティナさんに話しかけます。起きる気配が無いので、ティナさんの足の神経を直接刺激して起こします。

 

 

「いっ!?」

 

 

 起きました。

 

 

「おはようございます」

 

「ふぇ。……あ、おはようございます」

 

 

 寝ぼけまなこを擦ってティナさんが目覚めます。風圧で髪の毛があちらこちらへ飛び交っていますね。とんでもない寝癖です。

 

 ティナさんに地上のワシントンエリアが見えやすいよう、羽ばたくのを止めて滑空します。

 

 

「……ワシントンエリアが、燃えてます」

 

 

 ティナさんも眼下の現状を把握したみたいです。燃えている建物の中にワシントンエリアのランドマークでもあったのか、モノリスの外の特徴を覚えていたのか。どちらにせよこれがワシントンエリアなのはわかるみたいですね。

 

 ちなみにわたしは経緯度から方向と距離を推測して、ハトなどの帰巣本能の応用で飛んできました。初の挑戦でしたが案外なんとかなりましたね。

 

 

「それで、エインさんの研究所とやらはどこですか?」

 

「……私に使用許可が出ている第2ゲートは炎の中です。おそらく封鎖されているかと。他のゲートの場所はそもそも知らされてません」

 

 

 あの炎の中に行くのはティナさんでは危ないですね。わたしだけではゲートの場所はわかりませんし、困りました。

 

 

「……研究所のある大まかな位置ならわかるかもしれないです。あのビルの近くに降りてください」

 

 

 ティナさんが指さしたのはモノリス外の廃ビルでした。周りの建物がほぼ全て崩れている中、その廃ビルは苔のように張り巡った木々のお陰でなんとか倒壊を免れているようです。

 

 

「わかりました」

 

 

 廃ビル前の元道路に降ります。地面のコンクリートを突き破って木が生えているのは、海を越えても変わりませんね。

 

 ティナさんの足を体外に排出し、リュックサックを持って降りるのを待ちます。地面に足が着いたのを確認してから人の因子を解放。他の因子を抑制して元の姿に戻ります。長時間モード・フライトを維持していたので人の因子が足りるかやや不安でしたが、これなら問題はなさそうです。

 

 人の姿に変形している間、ティナさんは辺りを見渡していました。太陽はもう沈んで、空はワシントンエリアが燃える赤い光で淡く照らされています。

 

 変形も終わったので、リュックサックから服を取り出して着ました。リュックサックを背負ってティナさんを追います。

 

 

「ティナさん、どうですか?」

 

「……この一帯、全てが研究所の上、だと思います」

 

 

 この辺り全てが、ですか。随分広いですし、上に廃墟があるということは、研究所自体は大戦前からあったということでしょうか。ランドさんはすごい人みたいですし、ありえない話じゃなさそうです。

 

 

「でしたら、掘りましょうか」

 

 

 コンクリートのヒビに指を入れ、一息に持ち上げます。コンクリートの層が剥がれ、細かい塵が舞いました。続いてその下の石を掘り進めます。細かい石は掘り出しても掘った気がしませんね。

 

 

「面倒です」

 

 

 適当に石を3個掴んで背後に投げます。直後、犬の鳴き声に似た悲鳴が聞こえました。ステージⅠのガストレアです。大したことはありません。雑魚です。

 

 さて、いつまで掘ればいいのでしょう。もうとっとと終わらせてしまいましょうか。

 

 

「モード・ワーム」

 

 

 因子解放。わたしの体が膨れるように肥大化していきます。途中、背負っていたリュックサックは短く太くなった腕を抜けて落下しましたが、耐えきれなくなった服はちりぢりに破けました。せっかくモード・フライトになる時は脱いだのに、またやってしまいましたね。

 

 

「うひぃっ、大丈夫なんですかそれ!?」

 

 

 ティナさんがやや青い顔をして一歩身を引きます。無理もありません。モード・フライトは骨格中心の変形だったのに対して、モード・ワームは肉が大幅に増量する変形です。人の形を崩し皮膚と溶け合いながら爆発的に膨れ上がる肉塊は独特の気持ち悪さがあります。現在のわたしの姿ですけどね。

 

 ぐちゃぐちゃに崩れたわたしの体は縦横高さ全て20メートルほどの山を形成しました。その後肉が集合し、段々に積み重ねた形状に纏まります。肉の表面に膜が張り、赤い表皮に変化します。

 

 最終的に、わたしの体は蜷局(とぐろ)を巻いた赤く巨大な物体になりました。一言で形容すれば巨大なミミズです。わたしのトレードマークである白銀の要素が無いように見えますが、表皮にうっすらと白銀の毛が生えています。長く伸ばせばわたしの体は銀一色です。

 

 

「では行ってきます」

 

 

 発声器官を生成しティナさんに一言掛けてから、頭を地面に突き入れます。コンクリートが邪魔をしますが、モード・ワームのパワーの前では誤差です。叩き割って強引に潜ります。

 

 モード・ワームは地面穿孔に特化したモードで、100メートルを優に越える長大な体のほとんどがガストレア基準の筋肉です。堅いだけではモード・ワームを止めることはできません。

 

 真下に向けて軽快に地面を掘り進みます。おそらく地上では地震のような地鳴りが発生しているでしょう。表皮に帰ってくる僅かな振動から大きめの岩を察知し、回避しながら進みます。

 

 しばらくして地中にそれらしき建造物を発見しました。確かにティナさんの言っていた通り巨大な施設です。この辺り一帯の地下は全てこの施設の範囲内でしょう。

 

 慎重に土をかき分けて研究所に接近します。通常時は閉じている口を開き、施設の天井を噛みちぎって吐き捨てました。目を生成して内部を確認します。噛みちぎったのが通路の天井だったらしく、停電した通路には左右に続く壁の数ヶ所と突き当たりに扉が見えます。左側突き当たりの扉のみ電気系統が別なのか、赤いランプが(とも)っていますね。

 

 ここで間違いないみたいですので、ティナさんをつれて来ましょう。地上に余った体に目をいくつか生成し、ティナさんを探します。それほど時間はかからずに、わたしの体の陰に隠れているティナさんを見つけました。空から降りる時に目印にしたビルが倒壊しているので、瓦礫から身を守るためにわたしの体を盾にしたのでしょう。ティナさんは困惑した様子で地面に潜るのを止めたわたしを見ています。

 

 

「ティナさん、聞こえますか?」

 

「ひゃい!」

 

 

 わたしの声に反応してティナさんが飛び上がりました。どこから声が聞こえたのかわからないのかわたしの体を見渡しています。正解は全方位です。

 

 

「服を脱いで下さい」

 

「はい!?」

 

 

 ティナさんは「なんでですかぁ」とやや小さく震えた声で呟きましたが、続くわたしの言葉が無いので渋々といった様子で服を脱ぎ始めました。

 

 ティナさんが服を脱いでいる間にリュックサックを回収します。目を生成して探すと、幸い瓦礫には潰されずに残っていました。体表から触手を生やして拾います。

 

 リュックサックをティナさんの下へ運ぶと、ちょうどパンツに指を掛けた所でした。上半身は既に裸で、脱いだ服が簡単に畳まれて足下に重なっています。

 

 リュックサックを運んで来た触手を見て、ティナさんは小さく身を震わせました。このままティナさんで遊ぶのもアリですが、今はランドさんの捜索が先です。

 

 触手を駆使してリュックサックにティナさんの服を詰め込みます。脱いだばかりのパンツも奪い取って押し込みました。

 

 

「あ……アイノ、さん?」

 

 

 ティナさんは左手で胸を隠し、右手を内股に挟んで身を縮めています。心配しなくてもわたし以外に見ている人はいません。

 

 

「数分だけ息を止めていて下さい」

 

「えっ、あ」

 

 

 ティナさんが言い切るより先に、わたしの体がティナさんの姿を包み隠します。そのまましっかりと掴み、持ち上げました。

 

 今のティナさんはわたしの体の末端に開いた穴、すなわち肛門から足だけ出した状態で逆さまに掲げられています。ある程度の空気と一緒に包んだので、なんとか息を溜めるぐらいはできたでしょうか。

 

 消化管にさらさらとした粘液を分泌し、筋肉の運動によってティナさんを一気に呑み込みました。ティナさんが体内を流れて行くのを感じます。少しして、地上に出ている体から地下に潜った体へ突入しました。ここまで来ればあとはほとんど重力だけでも流れていきます。

 

 リュックサックからポリ袋を取り出し、そのままリュックサックを封入。ポリ袋の口を縛ったら肛門に入れてティナさんの後を追わせます。

 

 そこまで地下までの距離が長かった訳でもないので、ティナさんがわたしの口の近くまで降りてきました。筋肉を収縮させることで消化管を締め、ティナさんが流れる速度を緩めます。

 

 同時に舌を生成して自切。着地用のマットとします。口を絞って切り放した舌のマットを照準。大量の粘液と共にティナさんが吐き出されました。

 

 ティナさんの体が赤い舌に飛び込み、大きく沈みこんで衝撃を吸収。急造の舌だったため、切断面からペースト状の肉がドロドロと溢れます。

 

 

「ごふっ、ごぷっ!」

 

 

 ティナさんが咳き込み、口からどろりとした粘液が溢れます。ティナさんはゆっくりと体を起こし、力なく座ったままだらりと垂れる粘液を手で拭いました。

 

 

「死ぬかと思いました。いえ、絶対に死にました」

 

 

 全裸で全身粘液まみれの金髪美少女が肩で息をしながら何か言っています。赤目の少女であるなら死ぬことはないように調整したので問題はありません。

 

 体内を降りてきたリュックサックを口の手前で完全に動きを止め、口を開いて落とします。ちょうど眼下の通路に広がったペースト状の肉の海が衝撃を受け止め、跳ねることなく着地しました。

 

 続いて、わたしもいつもの人の肉体を形成し、意識を移してからワームの巨体を切り離します。体を切り離して元の姿に戻るのは人の因子の消耗が少なくていいですね。大量の栄養を犠牲にしますが。

 

 通路に着地して上を見上げると、ワームの口が無造作に開きっぱなしになっていました。まるで、わたしたちがモデル・アースワームのガストレアに襲われているみたいです。

 

 帰る時は動きを止めたミミズの体に融合し直せば、ティナさんを口に入れて地上に戻れます。その時にできる限り肉を回収しましょう。地面に散らばった元舌の肉のペーストは探索中に腐りそうなので今回収してしまいますか。

 

 足から肉のペーストに神経を繋ぎます。神経を張り巡らせ、意識を集中して操作。肉のペーストが流動し、一斉にわたしに向かって移動を始めます。ティナさんが乗っていた舌の表面も例外ではなく、ペースト状に形を崩して流動します。ついでにティナさんの体についた粘液を取っておきましょうか。

 

 

「ふぇっ、ひゃああぁぁ!」

 

 

 ティナさんが見えなくなるまでペースト状の肉で包みます。少しの間、もごもごと咀嚼するように動かし、酸素が足りなくなる前にティナさんを解放します。流れる肉のペーストから徐々に姿を表すティナさんは、呆然と宙を見つめていました。感触からして失禁していますね。温かいです。

 

 粘液は大体取れたので、ティナさんの放尿が終わるまで下半身は包んだままにして、それ以外をわたしの足下に集合させます。

 

 わたしに接触した肉からわたしの皮膚と融合し、それと繋がるようにして他の肉も融合していきます。ティナさんの放尿も終わったので、残りの肉も集合させてわたしに融合します。

 

 少しして全ての肉と融合し、体内に吸収、回収が完了しました。赤い断片が散らばり汚かった通路も、モード・ワームが顔を覗かせる殺風景な通路に早変わりしました。インテリアは天井の瓦礫です。

 

 

「服着たら行きますよ」

 

 

 リュックサックが濡れていないことを確認して、ティナさんに着替えを投げ渡します。続いてわたしの着替えを取り出したら、リュックサックはモード・ワームの口の端を切って傷口に押し込みます。中身は着替えと食料ぐらいで持ち運ぶには邪魔ですからね。神経を繋いで傷を塞げば外からリュックサックは見えません。

 

 

「ふへっ、へへへへ」

 

 

 パンツに足を通していると、背後からやたらと気持ち悪い笑い声が聞こえました。振り向いて見れば、ティナさんが地面にぺたりと座ったまま宙空を見つめていました。いえ、焦点が合っていませんね。目が虚ろです。

 

 黒いドレスが投げ渡されたままに肩に引っ掛かっていることから、完全に意識が飛んでいることがわかります。心身喪失です。なぜでしょう?

 

 ティナさんがやったことと言えば、丸呑みにされて1分強の間肉のトンネルをウォータースライダーよろしく落下。吐き出されて全身丸洗いされて失禁した尿を全て直飲みされただけです。それだけで心身喪失するものでしょうか?

 

 ……しますか。

 




Tips

モード・ワーム

 地面穿孔に特化したモード。外見はでっかいミミズ。ミミズとその他数種の因子しか解放しないため肉体構造はステージⅡ程度だが、規模が大きすぎるのでステージⅣ相当の力がある。
 太さは直径3メートル、長さは200メートル。一般的なミミズと異なり、およそ9割が筋肉によって構成されている。そのためとんでもなく重い。肉体構造が単純であるため、後から目や口などのパーツを生成できる。
 筋肉により地中を強引に掘り進むが、効率など捨てている。なお地上の方が遥かに移動速度は速い(鞭のように体を地面に叩きつけ飛び跳ねて移動する)。

 ちなみに地球最大のミミズはメガスコリデス・アウストラリスというらしい。


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貪食者と捕食者

 目の前を揺れる白銀の髪。懐中電灯によって照らし出された小さな姿。水色の作業服に身を包んだ少女は、今やよく見知った存在だ。

 

 よく見知った、未知の存在だ。

 

 

「ティナさん、これどうやって開けるんですか?」

 

 

 振り向いた顔は可愛らしく、深紅に煌めく瞳が私を射貫く。暗闇でもなお赤い光が、包むように、捕らえるように。

 

 まるで誘引灯のようだ。進めば戻れないとわかっていながら、その誘惑に抗えない。体の自由は決して利かず、この身はアイノの物だと主張している。

 

 

「……ティナさん?」

 

「へぁ? あ」

 

 

 赤い双眸に覗かれて、ようやく話し掛けられているのだと気づいた。

 

 

「これ、どうやって開けるんですか?」

 

 

 アイノが後ろ手に指さすそれは、扉だった。押したり引いたりして開く扉ではない。電気信号によってはじめて開く隔壁だ。分厚い鉄の扉が行く手を阻み、閉鎖を意味する赤いランプが点灯している。

 

 

「顔認証か監視カメラ越しの承認で開きます。でもこちらの通路が停電しているので開かないかと」

 

「では壊しますか。モデル・マンティスシュリンプ」

 

 

 カマキリエビ(Mantis shrimp)。アイノがシャコの英名を唱え、手を胸の前に構える。直後、アイノの腕を甲殻が覆った。その外見は、今まさにアイノが口にしたそれ(シャコ)だ。

 

 様々な姿に変身する能力。超人的な身体能力のみなら『呪われた子供』であることが証明になる。しかし、この変身能力は謎だ。先天的に体の一部が動物化している事例は多くある。しかし、後天的に変化するなど、それこそ形象崩壊しかない。

 さらに言えば、アイノの変身は形象崩壊と呼んで然るべき規模だ。全身を鳥型のガストレアに変形させたのに、何事も無かったように人の姿を取る。ゾディアックを思わせる大きさのミミズに変化したかと思えば、その肉体から人の体が分離する。

 

 明らかに人ではない。呪われた子供とも違う。かといってガストレアなのかと言えば、違和感が拭えない。完全なる未知。

 

 はじめてアイノに会った日を思い出す。あの日の夜、アイノに感じた恐怖心。ただ力の差があるだけだからだと思っていたが、今思えばそれは違った。

 きっとアイノは、正真正銘の化け物なのだ。怪物なのだ。人間には立ち向かうことさえ許されない。共に在ることすら許されてはならない。何よりもおぞましき未知。

 

 

 後悔。関わり続けてはいけなかった。

 恐怖。今すぐ逃げろと本能が訴える。

 畏怖。そう理解しているのに、何故。

 

 

 何故この体は、アイノと共に在ろうとするのか。

 

 

 爆音。アイノが扉を殴った音だった。分厚い鉄の扉がひしゃげ、僅かに開いた隙間から橙色の光が漏れる。

 

 

「思ったより堅いですね」

 

 

 間髪入れずに二発目の打撃。先の殴打よりも力が込められた一撃により、隔壁の役割を果たしていた鉄の扉が両開きのドアだったかのように開いた。

 

 橙色が網膜に焼き付く。決して強い光ではないそれにまもなく目は慣れ、その先の光景が明瞭に浮かび上がる。

 

 3階吹き抜けの円筒の形をした空間。研究所の中心に位置するロビーだ。通常の電灯は消され、薄暗い橙色の光を放つ電灯が満ちている。

 

 非常用電源で電力を賄っているのだろう。電気の供給が断たれた時は、このような橙色の電灯に切り替わると聞いた覚えがある。

 

 

「さて」

 

 

 先を歩くアイノが私を振り返った。橙色の逆光に、深紅の眼差しが浮かび上がる。

 

 

「干渉を防ぐためとはいえ、この調子では探索もままなりませんね」

 

 

 すぅ、と意識が遠ざかる。倒れそうになって、アイノの両手で受け止められた。

 

 

「少しの間、眠っていてください。すぐに片付けますので」

 

 

 いつの間にかロビーを内周する通路にまで歩いていたらしい。ガラス越しに誰もいない1階が見える。

 

 

「隠れてないで出てきたらどうですか? それともわたしが怖いのでしょうか?」

 

 

 遠ざかる視界の中。吹き抜けの宙空に、一際まばゆい光が集まっているのが見えた。

 

 

「やっと出てきましたね。では、やりますか」

 

「■■ッ」

 

 

 不可解な音の羅列を最後に、意識は眠りの底に落ちた。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 

 

「まずは小手調べです」

 

 

 空中に集まる光の集合に向かって跳躍。右の拳を固めて、一息に振り抜きます。

 命中、しましたが手応えがありません。熱湯を殴ったような感触です。右手を見ると、一瞬の接触だったのにも関わらず火傷しています。

 

 攻撃を受けた光の集合は、一瞬光を乱した後、徐々にその姿を炎のように変えていきます。丸い炎です。円を描く炎の中には花でしょうか? 花弁のようなものが3枚、中央を私を向けた状態で見えます。

 

 

「モデル・アーチャーフィッシュ」

 

 

 因子解放。火傷が治ったばかりの右手を、テッポウウオの水鉄砲の発射能力に最適化した形へ変形します。

 

 

「即席の弾丸です」

 

 

 指があった腕の先端を炎の花に向けて照準。筋肉を収縮させ、腕の先端に開いた直径1センチの穴から血液を打ち出します。

 

 本来の水鉄砲(それ)よりも遥かに長い射程を持って、炎の花に弾丸は届きました。炎の花に触れる前に血液は蒸発しましたが、血液によって打ち出された骨の欠片が炎の花を貫きます。

 

 直後、甲高い音が鳴りました。骨の欠片は壁との衝突音を以て、命中しなかったことをわたしに伝えます。

 

 

「物理的な攻撃は効かなそうですね」

 

「■■■■!」

 

 

 笑うような音が煩わしいです。肉弾戦ができないのであれば、早々に切り札を使った方がいいでしょう。

 

 

「モデル・ゴリラ」

 

 

 右腕にゴリラの因子を解放。右手で左の二の腕を力強く掴みます。

 

 

「すーっ……!」

 

 

 ガストレアウイルスによって鋭敏化した知覚に伝わってくる、ぶちぶちと肉の繊維がちぎれていく感触。ひとおもいに引き抜くと、わたしの左腕の感覚が消失。(おびただ)しい量の血と共に、左腕が本来あるべき場所から外れました。

 

 断面から神経が垂れ下がるわたしの左腕を眺めながら、痛みを堪えます。意図的にガストレアウイルスの働きを抑制し、左腕は再生させません。敵もわたしの凶行が気になるのか、黙って宙に浮いています。好都合ですね。

 

 やがて、左腕に感覚が戻ります。力がみなぎり、外れたままの左腕を目線の先で動かします。手を閉じて開いて、肘を曲げて伸ばして。肩に接続されていない腕の動きが、直接右手に伝わってきます。

 

 ――自分の体とはいえ、流石にこれは気持ち悪いですね。

 

 

 左腕の断面を右手の親指と人差し指で囲むように持ち変え、左手で右の二の腕を掴みます。自分の二の腕を肘を伸ばして掴みあうという奇怪なポーズで、左腕の断面を炎の花に掲げました。

 

 

「この力の解放条件は、肉体の欠損だそうです」

 

 

 聖天使暗殺に失敗したあの日、黒さんが言っていました。生まれながらにガストレアウイルスによって抑制された力は、ガストレアウイルスの影響を断たれた時に覚醒すると。

 

 即ち、ガストレアウイルスの影響を失った左腕は、最も早く覚醒するということ。

 

 

 さて、

 

「ここからが本番です」

 

 

 左腕の断面から放たれる白い触手。うっすらと血に覆われ、橙色の光を照り返すそれは、紛れもなくわたしの体の一部です。

 

 幾条も伸び、洪水のように溢れる触手は炎の花に殺到します。衝突した感触を辿り、花の内部へ。高次元へ。

 

 

「■■■!?」

 

「逃がしませんよ」

 

 

 千切れかけた気配を掴み、さらに上へ。触手の塊が空間を占居した頃、伸ばした触手が敵の全貌を捉えました。

 

 

「高次元に手を伸ばすというのは、奇妙なものですね」

 

 

 炎の花が何か喋っているようですが、物理的にもう聞こえません。元々理解できなかったのでどうでもいいですが

 

 抵抗してきているのが触手に伝わってくるので、適当に締め付けて弱らせていきます。ステージⅣのガストレア程度なら即死するレベルの締め付けにも耐えてくれるのは加減が楽でいいですね。

 

 30分ほどそうしていると、遂に抵抗が無くなりました。力尽きたのでしょうか。触手の先端で敵の体内を適当に抉ると小さな反応があったので、生きてはいるようです。

 

 案外早かったですね。まあ人間の体で例えれば、血管を這い上がってきた触手が口から出てきて、体内と体外から同時に締め付けられたようなものです。むしろよく30分も持ったと思うべきでしょう。

 

 抵抗も無くなったところで、食事の時間です。釣り糸がリールに吸い込まれるように触手を引き戻し、3次元空間に敵の体を引きずり込みます。

 

 さほど時間はかからずに敵の全身が部屋の中に出てきました。今は触手に圧縮されて小さくなっていますが、本来はこの研究所に匹敵する大きさです。

 

 さて。口から直接食べたい所ですが、反撃が怖いのでこのまま左腕で食べましょう。

 

 敵をさらに圧縮しながら、左腕に触手全体を引き寄せます。やがて触手の塊は人間1人分の大きさとなり、左腕に吸い込まれるように消えていきました。

 

 残った左腕を丸呑みし、胃に落ちてからガストレアウイルスを活性化。左腕を再生させます。それと同時に、切断された左腕の感覚が消えました。これでわたしの胃の中にあるのは、敵を閉じ込めた肉の塊です。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 

 

 




Tips

この小説(sterlの小説)における次元についての考え方
長いので面倒なら読まない方がいい


 実在・非実在を1ドットとし、このドットを1列に並べたものが1次元直線(或いは線分)。
 1次元直線を同様に並べたものが2次元平面。
 2次元平面を同様に並べたものが3次元空間。
 以降、同様に並べたものが4次元以降の高次元。
 実在・非実在のドットの配列パターンにより、我々の知るあらゆる物質が形造られている。

 世界(宇宙)とは4次元上に並べられた3次元空間の1つであり、同様に並べられた他の3次元空間は、いわゆる異世界・並行世界・異空間と呼ばれるものである。
 5次元は4次元を並べたものであり、並べられた4次元は全て3次元空間(世界)を並べたもの。6次元は5次元を並べたものであり、7次元は6次元を並べたもの。即ち、我々が世界と呼ぶものは死ぬほどたくさんある。

 4次元に干渉できるのなら、3次元空間(世界)を渡ることができる。5次元以降も同様である。

 人間は3次元の生物であり、そのほとんどが3次元以下のものにのみ干渉できる。生物は大まかに2種類存在する。

 一つ、n次元の生物であり、n以下の次元に干渉できるもの。
 一つ、n次元の生物だが、何らかの要因でn+1以上の次元に干渉できるもの。

 ほとんどの生物は前者だが、何らかの要因で後者となるものもいる。例として人間の場合、稀に明晰夢や死を媒介として高次元に干渉し、異世界に渡るものがいる。
 いわゆる高次元の生物は、大抵の場合後者である。種族単位で3次元生物が高次元に干渉できている場合がほとんど。もし前者の高次元生物なら、それは紛れもなく神と呼ばれる存在。

 前者の3次元生物であっても、外的要因によって世界を渡ることはある。高次元生物による運搬や、高次元に干渉する門(仮称)など。神隠しはこれに該当する。

 また、自身のみが干渉できる世界(自分の世界)を持つものもいる。大抵の場合、限定的に高次元に干渉する力を併せ持っている。

 アイノが行った「高次元に手を伸ばす」とは、ガストレアウイルスの影響下に無い自身の肉体を媒介とし自分の世界に接続。その世界にあるアイノの触手は、ガストレアウイルスの影響下に無いため高次元に自在に干渉。敵が潜む次元に高次元を介して干渉した、ということである。


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