人間と異形と狂気の狭間 (sterl)
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第一章 胎動する狂気 アイノ・クラフト

小説家になろうから二次創作を書きに来た自己満作者です。


 人の往来の中をひとり歩く。道を吹き抜ける春を告げる暖かな風。忙しなく、あるいは騒がしく仮初の平和を過ごす人たち。わたしが着けているこのサングラスを外したら、この人たちはどんな反応をするのでしょう。

 軽蔑でしょうか。恐怖でしょうか。畏怖でしょうか。それとも、同情なのでしょうか。少なくとも、それは差別の視線でしょう。

 わたしの目の色は、普通の人とは違って血のような赤色です。それは10年前、世界を滅亡寸前まで追い込んだ異形の怪物、ガストレアの目の色。化け物の目です。

 ガストレアは恐怖の象徴。人々を殺した、厄災の象徴。呪われた子供たちはそんなガストレアの因子を持って生まれてしまった、何の罪も無い人間です。なのに、化け物として虐げられる。

 虐げられていながら、世界にはイニシエーターとして利用されています。化け物と差別しておきながら、化け物を殺す道具として利用されています。

 差別をするならわたしだけにしなさいと、利用するならわたしだけにしなさいと、そう声を大にして言いたいです。ですが、わたしには勇気がありませんでした。仮に勇気があったとしても差別は消えないと、自分に言い訳をして逃げてしまいました。

「……なんでこんなことを考えているのでしょうか」

 ……こんな自分語りをしても仕方ありません。早く事務所に行きましょう。依頼が入っているそうなので、わたしがいかなくては。(りく)さん一人では頼りないですし。

「……?あれは」

 と思っていたのですが、もっと重要な案件がたった今入りました。空を横切る影。飛行するガストレア、それも滑空して飛ぶタイプのようです。高度がそれなりに高く、まだ見つかっていないようでした。わたしでなければ見つけられなかったでしょう。

 携帯を取り出し、陸さんにメールを送ります。本文は、そうですね。

『滑空するガストレアを見つけたので追跡、排除します。陸さんは単独で依頼を受けてください』

 これでいいですね。依頼内容は知りませんが、陸さんならなんとかするでしょう。

「モデルオストリッチ」

 因子が解放され、脚力が高まるのを感じます。わざわざ口に出す必要は無いのですが、これを言うと少し気が引き締まります。

 では急ぎましょう。このままではあのガストレアによりパンデミックが起こってしまうかもしれません。


 ●


 ガストレアを追いかけて都市部へと入ってきました。わたしが見た限りですと、あのガストレアはモデル・スパイダーのようです。頭上に糸をハングライダーのように張り、揚力を生み出して滑空しているようです。

 今は、先程モデル・スパイダーのガストレアがハングライダーを折り畳んで急降下したので、着地点と思われる場所を探しています。

 ですが、既に建物内に侵入したのか探しても探しても見つかりません。被害者が既に出ていたと仮定して血の臭いを探したところで、あちらこちらから血の臭いがします。表面上は賑わっていても闇の深い街です。
 ガストレアの臭いを辿ろうとしても、まずガストレアの臭いを嗅いでいないので辿りようがありません。

 八方塞がりのまま、気づけば夕暮れ時になっていました。これではあのガストレアが潜伏していたとして、見つけることは至難の技でしょう。それに、滑空するようなガストレアでは、もう飛んで逃げていると考えるのが自然です。もう少し上を見て探すべきでした。わたしにあるまじき失態です。

 それでは帰りましょう。もうすぐ夜になります。ガストレアを見失ってしまったのですから、これ以上探しても埒が明きません。きっと他の民警が倒してくれることでしょう。この時間帯では陸さんは先に家に帰っているはずです。

「夕食は何にしましょうか」

 やや人が少なくなった道路を歩きながら献立を考えます。前にカップラーメンばかり食べていた陸さんに料理を作らせたことがあるのですが、出てきたものは紫色のどろどろとしたガストレアを彷彿とさせる何かでした。陸さん曰くチャーハンだそうです。わたしの胃袋をもってしても吐きました。それ以来わたしが陸さんの料理も作るようになりました。

 昔のことを思い出しているとちゃんとしたチャーハンが食べたくなってきました。材料は家にあるので、献立はラーメンとチャーハンにしようと思います。夕食は遅くなりますがいつものことです。

「――ッ!!」

 そんなことを考えながら歩いていると、どこからか銃声が聴こえてきました。それも1発ではなく、何発も連続して。どこかで戦闘しているようです。もしかしたら先程のガストレアが見つかったのかもしれません。

 わたしも戦闘に協力すれば、手柄の一部、具体的には報酬が貰えるかもしれません。銃声がする場所は近いです。早く乱入しに行きましょう。


 ●


 銃声が聴こえていたビルを特定する頃には銃声は鳴り止んでいました。戦闘が終わったのでしょう。残念です。わざわざ近くのマンションの屋上にまで階段で上がったわたしの努力を返してください。

 ですが、確実によいこともありました。ビルのベランダから飛び降り、逃げるように路地裏に駆け込んだ仮面が特徴的な男を目撃しました。ビルのベランダに仮面の男を追いかけるように表れ、悔しげに部屋の中へ戻る警官がいたので仮面の男は警察の敵でしょう。捕まえれば報酬が貰えるかもしれません。

「モデルラビット」

 因子が解放され、脚がより跳躍に適した形に変化します。では、仮面の男を追いかけましょう。建物の上を跳び移りながら追いかければ確実に見失いません。

 上から見てもかなり特徴的な人です。縦縞の入ったワインレッドの燕尾服にシルクハット。そして笑った仮面。まるで今から曲芸でもするのかというような服装です。

 こんなにしっかり見られたのも、仮面の男が立ち止まって誰かと電話をしているからです。誰と電話をしているのでしょうか。この距離では流石に聞き取れません。

 仮面の男が電話を終えました。と同時に、わたしを見上げました。どうやら尾行しているのがバレていたみたいです。きっとわたしが気づかないのをいいことに仲間に連絡したのでしょう。

「どうして、パパを見てるの?」

 突然、背後から斬りかかられました。質問と順序が逆です。首を狙った一撃でした。本気だったのかはわかりませんが、難なく躱せました。

 距離を取り振り返ると、いたのはわたしと同い年ぐらいの少女でした。イニシエーターなのでしょう。
 ウェーブ状の黒い短髪にフリルのついた黒いワンピース。腰の後ろで交差された二本の鞘に納められているはずの小太刀は、少女の両手にそれぞれ握られていました。

 外見は黒が印象的な少女です。わたしの髪は白色で長いので、対照的に思えます。ただわたしは、緑のベレー帽を被りサングラスをかけて青色が中心の動きやすい半袖の作業服を着ているので、服装に関しては陸さんから変人のお墨付きを貰いました。なので対照どころではないと思います。

 とりあえず初対面なので自己紹介をした方が良いでしょうか。

「わたしはアイノ・クラフト。気軽にアイノと呼んでください。あなたは?」

「教えてくれないなら、斬ってもいいよね?」

 どうしましょう。斬りかかられてから斬ってもいいかと問われました。答えようがありません。
 今度は首を狙う左手の小太刀があわよくば決まることを狙った囮でしたので、後ろに下がって躱しながら心臓を狙う右手の小太刀を横から押していなしました。

「当たらない、どうして」

 実力差を察して逃げてくれればそれでよかったのですが、黒い少女は目を赤く染めて怒濤の連撃を繰り出して来ました。

 流石の私でも無傷で全て捌ききるのは難しそうです。全力を出さないように、少しだけ本気を出しましょう。

「モデルシェル」

 因子を解放し、体表を硬質化させます。黒い少女の二本の小太刀を左腕で同時に受けました。

「っ!?」

 ガキンと金属同士がぶつかり合う音が鳴り、小太刀が弾かれます。斬るために全力で振っていたこともあり、弾かれた衝撃はかなりのものでしょう。しばらく手が痺れて動かないことを祈ります。

「モデルゴリラ」

 因子を解放し、全身の力、特に腕力を強化します。防戦一方では黒い少女を止められそうにないので、わたしからも攻撃することにしました。

「えいっ!」

「かはっ」

 黒い少女のお腹に右腕を振り抜きます。ドコッと鈍い音が鳴り、掠れた声を漏らした黒い少女が鞠のように吹き飛びました。少し強くしすぎたかもしれません。反省です。

 黒い少女は隣の建物の壁に衝突しました。煙幕のように土煙が広がりました。コンクリートが風化していたのでしょうか。ここは比較的都市部ですのでちゃんと修繕工事をしてほしいです。

 煙が晴れていくと、黒い少女の他に背の高い人の影が見えてきました。仮面の男でした。190㎝はありそうです。上からではわかりませんでしたが、こんなに長身だったんですね。いつの間に登ってきたのでしょうか。

「まさか、小比奈がこうも簡単にやられてしまうとは」

 黒い少女の名前は小比奈さんというようです。本人から聞けなかったので、教えてもらえてよかったです。

 小比奈さんは仮面の男の腕に抱かれていました。気絶しているみたいです。気絶させる気はなかったのですが。やっぱり強くしすぎていました。久しぶりに因子解放したからでしょうか。

「ヒヒッ。君の名前は?」

 奇妙な笑い声です。仮面の怪人と呼んだ方がよいでしょうか。とりあえず、名前を聞かれているので答えましょう。

「わたしはアイノ・クラフトです」

「アイノくんだね。覚えておくよ。私は蛭子影胤。君ともまたどこかで会うことになりそうだ」

 仮面の怪人は蛭子影胤というそうです。変わった名前です。

「それではさようなら」

 影胤さんは踵を返しわたしに背中を向けました。すると次の瞬間には、足下のビルがひび割れ、崩れました。このままではわたしも落ちてしまうので、隣のビルに跳び移ります。

 ビルがあった場所を見ると、影胤さんはいなくなっていました。逃げられてしまいました。残念です。

「あっ、因子を解放しすぎました」

 わたしの爪が貝殻のようになり、腕にはもともとなかったうぶ毛がうっすらと生えています。心なしか太ももも少し太くなった気がします。

 そういえば、しばらく人の因子を取っていませんでした。後で陸さんに協力してもらって補充しなくてはいけませんね。一週間かけて余分に補充してもよさそうです。

「……帰りましょうか」

 気づけば日が落ちて夜になりました。これ以上追いかけては形象崩壊してしまうかもしれませんし、家では陸さんも待っていることでしょう。

 ビルが崩れた音を聞きつけて野次馬の方々も集まって来たことですし、見つかる前に帰りましょう。

「……モデルファルコン」

 後で人の因子は補充しますし、少しぐらい飛んでもいいですよね?

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普通

カオス「出番まだかなー」
原作ブレイク「俺の出番はも(うちょ)っと先だぜ」
クトゥルフ神話「おかしい。1話目で俺の出番がある予定だったのに」

チート「出番がすぐあって有り難くてこれは即ち俺TUEEE!」


 2階建てのボロアパート。その1階の道路側から2番目にある部屋が、わたしと陸さんの家です。わたしと陸さんが所属する民警は中学生時代の幼なじみが集まってできたものらしく、小さな事務所で回ってくる仕事が少ないです。もちろん報酬も少ないので、今でもこのボロアパートに住んでいます。

 電気がついているので、陸さんはまだ起きているのでしょう。もうすっかり暗くなりましたが、陸さんならまだなにも食べていないでしょうし、早く夕食を用意しましょう。

「ただいまです」

「おう、帰ったか。んで、どうだった?」

 ドアを開けると、癖っ毛の茶髪をボサボサにしたままの陸さんが笑顔で出迎えてくれました。眞鍋陸(まなべりく)。それがこの人の名前です。

 白地に虎の顔が前面にプリントされたTシャツとジーパンを着ています。目つきが悪いので、虎の顔が妙に似合ってます。

 どうだった、というのはわたしの送ったメールのことでしょう。ガストレアを追跡、排除するという内容だったはずです。

「ガストレアは途中で見失ってしまいました。ですが、警察と敵対しているであろう民警ペアと思われる方を見つけました。追いかけたのですが、ビルの破壊を目眩ましに逃げられてしまいました」

「……はぁ。ちょっとこい」

「?」

 わたしはただ報告しただけなのですが、陸さんに手首を掴まれ歩かされます。寝室でしょうか?因子の補充は夕食を食べてからにしたいのですが。

 と考えているとテレビの前に座らされました。バラエティー番組がつけっぱなしになっています。陸さんがチャンネルを変えました。ニュース番組です。謎のビル倒壊について報道されています。

 概容は、ビルが何の前触れもなく倒壊したそうです。ビルの中にいた男女10名が重傷を負い、死亡者もいるとのことです。

 現場付近に偶然居合わせた人からは、ビルに亀裂が走りそれから崩れた、謎の光を見た、空を飛ぶ羽が生えた人影が飛び去った、などの目撃情報が上がっていて、警察はガストレアの仕業と見て捜査を開始したそうです。

 それにしても羽が生えた人影ですか。空も飛べるらしいです。そんな人もいるんですね、すごいです。

「この羽が生えた人影ってアイノだよな?」

「そんなわけないじゃないですかー」

 なんで陸さんはそんなこと言うのですかねー。

「よっと」

「いたっ」

 陸さんがわたしの肘から何かを取っていきました。痛いです。

「アイノだよな?」

「あっ……」

 陸さんは1枚の白い羽根を見せびらかすように持っていました。わたしの肘からむしり取られた羽根です。これは諦めるしかありません。わたしが犯人です。空を飛びました。

 鳥類の因子の操作には慣れていたのですが、人の因子が足りないので完全に抑えきれてなかったみたいです。そのせいで羽根が生えたままになっていました。

「なんでわかったのですか?」

「なんでもなにも、アイノしか羽生やして飛べるやつなんていないだろ。それに、お前って動揺すると語尾が伸びるからわかりやすいぞ?」

 なんと。飛んだだけでバレてしまうのでは飛ぼうにも飛べないではないですか。

「全く、何度勝手に飛べば気が済むんだ。これで7回目だぞ」

「8回目です。一週間前にモノリスの外まで行って飛びました」

 あの時は少し遠くまで飛びました。森を越えた先にとても長い建造物があったのを覚えています。バラニウムでできていたので中まで探索はしませんでした。探索しようとすればできるのですが、バラニウムに囲まれた空間はなんとなく嫌悪感があります。

「……そうやって正直に言ってくれるから俺も飛んだ回数を把握できるんだけどさ。その中で他の人に見られたのは5回目だ」

「はい……」

 5回のうち3回は見られると思いませんでした。さっきはビルの下に野次馬もいたので見られるとは思いましたが、夜なので大丈夫でしょうと思っていました。大丈夫じゃありませんでした。

 1回は陸さんの目の前で飛びました。こっぴどく叱られました。あの時はなぜ飛ぼうと思ったのでしょう。わたし自身のことなのにわかりません。もしかしたらわたしの中の鳥の本能が飛びたいと叫んだのかもしれません。きっとそうです。

「飛ぶなら問題にならない場所で飛べって言ってるだろ。一週間前みたいにモノリスの外まで行ってもいいからさ。よりにもよって、野次馬がいる上で飛ぶか普通?」

 あー、長いです。これは長くなります。わたしの経験則です。これでは早く夕食の準備がしたいのにできません。

 ……そうです。いいことを思いつきました。

「陸さんの食事これから作りませんよ?それとも陸さんが自分で作って食べますか?」

「停戦だ。この話はもう置いておこう。さーて、腹へったぜ。アイノ、今日の晩飯はなんだ?」

 今日はまだわたしも陸さんも夕食を食べていません。食い溜めができるわたしはまだ大丈夫ですが、陸さんはかなりの空腹のはずです。ここでこの脅迫をすれば話を切り上げられると思って言ってみましたが、予想以上でした。あっさりとした手のひら返しです。

「今日の夕食はラーメンとチャーハンです。それと……」

 それと、陸さんはきっと逃げると思うので先に釘を刺しておいた方がいいですね。

「それと、なんだ?」

「食事の後、寝る前に因子の補充をします」

「……するのか?」

「はい」

 陸さんがこめかみを抑えて唸りはじめました。おそらく逃げ出す言い訳を考えているのでしょう。

「それは今日しなくちゃいけないのか?」

「少し因子解放しただけで微妙な形象崩壊していますので、できれば今日」

 と言いながら貝殻のようになった爪を陸さんに見せます。陸さんは顔を手で覆い天を仰いでいます。天と言っても天井ですが。

 陸さんがその体勢のまま、部屋に静寂が訪れます。


「あ!蓮太郎遅いぞ!」
「おい馬鹿、誰か見てたらどうすんだ!窓閉めろ」
「安心するのだ。妾のカラダはお主だけのものだ!」
「頼むから日本語を聞き分けてくれ!俺が恥ずいっつってんだろ!」


 開けたままの窓からほのぼのとした平和な会話が聞こえてきます。陸さんが動いて静かに窓を閉めました。

「まずは飯だ。話はそれからにしよう」

「そうですね」

 わたしは陸さんににっこりと微笑みかけてから、サングラスとベレー帽を外し、服を部屋着のシャツと短パンに着替え、エプロンをつけました。


 ⚫️


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさん」

 陸さんと同時に食べ終えました。調理時間を短縮した即席料理でしたが、充分においしくできました。

「それじゃ、俺はトイレ行ってくる」

 陸さんは席を立ち上がりました。隙をついて逃げ出そうという魂胆はわかっているので、陸さんの腕を掴み肩に担いで運んでトイレに放り込みます。すぐにトイレのドアを開こうとしてきたので、手で押して開かないようにします。

「終わったら言ってください。ドアを開きますので」

「ッチ、八方塞がりかよ。降参だ。開けてくれ」

 開けてくれと言われましたので開けます。すると陸さんが素早く飛び出て玄関の方に行こうとしました。腕を掴んで引き寄せ、肩に担ぎ上げます。

「くそっ、離せっ!」

「暴れないでください。あといい加減諦めて下さい。1回の補充だけで一ヶ月も持たせるの大変だったんですよ」

「嫌だ!もう地獄を見たくな――あがっ」

 近所迷惑になってはいけないので口をガムテープで塞いでおきます。そしてわたしは陸さんを寝室に運び、同じ布団に入りました。


 ⚫️


 雀のさえずる声で目を覚まします。すばらしい朝ですね。昨日の夜、2階の角部屋の方が少し騒がしかったです。それに比べ、わたしたちは音を立てないようにやっています。近所の方々に迷惑をかけてはいけませんからね。

 隣を見ると、陸さんが死んだ魚のような目で天井をぼーっと見つめていました。一瞬死んでいるのかとも思いましたが、口に貼ったガムテープを一気に剥がすと「うっ」と呻いたので死んではいません。

 わたしは布団から這い出し体を確認します。貝殻のようだった爪は元に戻り、腕のうぶ毛も綺麗になくなり、太ももは元の太さになりました。無事に人の因子を取れたようです。

 それでは服を着ます。下着をつけるときにブラジャーは必要ありません。悲しいです。ですが、陸さんは貧乳好きのロリコンだと陸さんの幼なじみの藤谷(とうや)さんから聞いたので、そこまで残念でもなかったりします。ちなみに当人の陸さんはロリコンであることを否定しています。最初襲ってきたのはどっちからだと思っているのでしょうか。

 今日はすぐに出かける予定なので、いつもの作業服とベレー帽のセットに着替えました。昨日とは色違いで、ベレー帽は黄色、作業服は緑がメインの配色です。ちなみにわたしの作業服は上下一体になっています。

 着替えを終えると、昨日の夜に脱ぎ散らかしたわたしと陸さんの服を集め、脱水機能がついている洗濯機に放り込みました。洗濯機を起動します。これで帰ってくる頃には洗濯が終わっていることでしょう。

 テレビをつけ昨日夕食を食べたあと放置していた食器を洗います。テレビは昨日のチャンネルのままで、ニュース番組が放送されていました。

 食器を洗い終えたあとは朝食を作ります。まずは食パンを2枚トースターで焼きます。焼き上がるのを待つ間にスクランブルエッグを作りましょう。

 2個の玉子を1度混ぜてから、マーガリンを引いた小型のフライパンの上で焼きます。少し固まってきたら、ゆっくりと外側から内側に寄せるようにかき混ぜます。

 玉子がフライパンの上でジュゥゥと小気味のよい音を立てていると、死んだ魚のような目をした陸さんがちゃんと服を着て起きてきました。一ヶ月前にぼーっとしたまま全裸で起きてきた失態を覚えていたのでしょう。

 完成したスクランブルエッグを2枚の皿に分けて乗せ、千切ったレタスとプチトマトを2個ずつ添えます。スクランブルエッグにはケチャップをかけ、別の皿に焼き上がった食パンを乗せて完成です。わたし特製のモーニングセットです。汁ものはありません。

 テーブルの上にモーニングセットを2つ置き、既に座っていた死んだ目の陸さんの対面に座ります。

 わたしも席につき、モーニングセットを食べはじめます。陸さんはこのモーニングセットの時は不思議な食べ方をするので、陸さんの様子を見逃さないようにします。

 陸さんはまずパンを半分に折り、間にレタスを挟みました。さらにレタスの上にスクランブルエッグを挟みます。ここからが陸さんの不思議な食べ方で、陸さんはおもむろにナイフを取り出し、プチトマトのへたを取ると十字の切れ込みを入れました。無駄にバラニウム製です。

 陸さんはスクランブルエッグの上にプチトマトの中身を絞りかけます。余ったプチトマトの皮もパンに挟むと、両手でモーニングセットサンドを持ち齧り付きました。陸さん曰く最も食べる時間を短縮できる食べ方だそうです。無駄な手間です。

「ごちそうさまでした」

「ごちそう……さん……」

 わたしと陸さんは同時にモーニングセットを食べ終えました。食器を片づけ洗い終えたあとは、サングラスをつけ、座ったままぼーっとしている陸さんの頭を少し強めに叩きます。

「いてぇっ!なにすんだ!」

「すぐに出られるように軽い身だしなみぐらい整えてください」

「え、あっ、あー。わかった」

 ぼーっとしていた陸さんが再起動しました。きっと朝食を食べたことを覚えていないでしょう。一ヶ月前は再起動させるのを忘れて事務所まで行ったら、道中の記憶がありませんでしたから。どれだけぼーっとすればこうなるのでしょう。

 短い説明で全てを察した陸さんを待つ間、手持ちぶさたになったのでテレビを見ます。ちょうどリポーターが「見てくださいッ」と叫んだのでチャンネルは変えないことにしました。

 テレビに映し出されていたのは第一区の聖居でした。2週間前、聖居の上空を通りすぎた時に見たので間違いありません。ちなみにこの時は見つかりました。早朝の老人の方々の目は侮れません。空を飛ぶ何かが第一区方面へ飛んでいったとすぐに警察に通報があったそうです。

 そんなことを思い出しながら画面を眺めていると、映し出されている場所が切り替わりました。どうやら聖居のバルコニーのようです。

 バルコニーに一人の少女が表れました。着ている服、肌、髪に至るまでが純白です。名前は……なんでしたっけ。わたしが覚えていないのなら名前がないのでしょう。とりあえず聖天子様と呼ばれていることだけは覚えています。この東京エリアの統治者だったはずです。

 わたしの髪の色は純白というより白銀なので、そもそも白の分類が違う聖天子様と白さを競う気はありません。ええ、絶対にです。

 その隣に立っている男の方は、名前だけは知っています。天童菊之丞という方です。それ以上は知りません。

 そういえば藤谷さんが、天童民間警備会社の女社長と報酬の取り分で言い争って負けたと愚痴を言っていた覚えがあります。同じ天童です。何か関係があるのでしょうか。

「おい、行かねぇのか?」

「待ってください。今行きます」

 気づけば準備が終わったらしく、玄関のドアを開けたまま待っている陸さんに呼ばれました。慌ててテレビの電源を消し、小走りで向かいます。

 陸さんの髪は相変わらずぼさぼさで、龍柄のTシャツの上に黒い革のジャンパーを羽織っています。ジーパンのベルト部分にはじゃらじゃらと鎖が巻かれていて、右側に拳銃、左側にナイフが吊るされています。ちなみに銃の予備弾倉は、ジャンパーの後付けした内ポケットに入れてあるそうです。

 昔、陸さんのぼさぼさな髪を注意したことがあるのですが、すぐに無意味だと知りました。癖っ毛すぎて(くし)を通しませんでした。指一本すら通りませんでした。諦めました。

 わたしが歩いてくるのが見えたからでしょうが、わたしの方を向いていた陸さんが振り返ります。そのため、その長さのため正面からも見えていたものがしっかりと見えるようになりました。

 陸さんの背中に斜めがけされた、1mを裕に優に超える長大な大太刀。特注の龍の意匠が施された鞘には肩かけベルトがついていて、それで陸さんの背中に固定されています。

 陸さんの使う武器。それがこの大太刀です。陸さんが龍太刀(りゅうたち)と呼ぶこのバラニウム製の大太刀は、なぜ陸さんが持っているのか不思議になるほどの業物です。並のガストレアならバターのように切り裂きます。

「出発進行!」

 外に出ると、聞き覚えのある元気な少女の声が聞こえました。声がした方を見ると、ちょうど自転車を発進させた不幸面の男と、荷台に足を投げ出して座っている声の主の少女がいました。名は知らぬ男性とこのアパートでは有名な延珠さんです。延珠さんとはたまに会った時に話しています。

 この2人はアパート2階の角部屋に住んでいます。昨日の夜、窓の外から聞こえた会話もこの2人のものです。ということは不幸面の男の人は蓮太郎さんというのでしょう。今まで陸さんがつけたあだ名でしか知りませんでした。

 ちなみに陸さんが蓮太郎さんにつけたあだ名というのは『十歳の女児に養ってもらってるロリコンヒモ野郎』です。盛大なブーメランだということになぜ気づかないのでしょう。稼ぎのほとんどはわたしが雑務の依頼を受けて稼いだお金です。ガストレアを倒すことにしか能がない脳筋は大人しく黙っているべきだと思います。

「……なあ、学校に行きたくはならねぇのか?」

 自転車で走り去る延珠さんを見て思ったのか、陸さんが言いました。延珠さんが勾田小学校に通っているというのは、このアパートの住人なら誰もが本人から聞いた話です。

 ()()の人が見れば()()の学校に通う少女に見える延珠さんを見て、普通の人である陸さんは何か思うところがあったのでしょう。

「行きたくなっても、わたしには無理です。目がずっと赤色ですから」

 あえて『呪われた子供』だからとは言いませんでした。『呪われた子供たち』であっても、()()に見せて学校に通う人もいるのですから。学校は人ですらないものが行く場所ではありません。

「そっか。んじゃ、行こうぜ」

「はい」

 わたしは、()()の『呪われた子供たち』ですらないのですから。

 化け物と敵対する化け物は、かつて人間の最底辺まで堕落した人の隣がちょうどよいのです。

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亜土民間警備会社

 アパートから徒歩20分。住宅街のど真ん中にある2階建ての建物がわたしたちの事務所です。綺麗に整えられた鉄筋コンクリートの事務所は景観を崩さず、ひっそりと佇んでいます。

 入口横には石柱が立てられ、『亜土(あど)民間警備会社』と縦書きで刻まれています。そこまで大きくはありませんが、仮にも仕事がなくて貧乏な民警だと外観からは想像できません。この建物を個人で所有している社長の相馬(そうま)さんには感謝です。

 ただ、住宅街のど真ん中にあり、なおかつ目立ちにくい外観なので、直接依頼してくれる方々は近所の方ばかりです。掃除などの家事や雑用の依頼には事欠きません。

「来てやったぞ相馬」

「相馬さんおはようございます」

 両開きの自動ドアをくぐり、社長席に座っている相馬さんに挨拶します。部屋の間取りは左に2階への階段、奥に相馬さんの座る社長席があり、その正面に長いガラステーブルと、テーブルを挟むように黒光りする革のソファーが2つ置いてあります。右側の壁には2つ木製のドアがあり、手前は個別の応接室、奥はトイレになっています。

「ふぁぁ。2人ともおはよ。陸はいてもいなくても変わんないから来なくていいよ」

 眠そうにあくびをしながら返事をしたのは、この民警の社長である亜土相馬(あどそうま)さんです。相馬さんはいつもキッチリとしたスーツを着て、黒縁の眼鏡をかけています。黒髪も短く整えられていて、一見するととても真面目です。見ての通り真面目というわけではありませんが。

「んだとコ――」

「相馬さん、なにか依頼はありますか?」

 うるさくなりそうな陸さんの腹にチョップをして相馬さんに話しかけます。陸さんが隣で悶絶していますが無視です。

「依頼はないよ。適当にそこら辺でくつろいでて」

「わかりました」

 依頼はないそうです。暇です。ソファーに座って相馬さんとなにか話しましょうか。

「そういえば莉子(りこ)さんは?」

「ぐっすり寝てたから寝かしといてあげたけど、そろそろ起きてくるんじゃないかな」

 莉子さんは相馬さんのイニシエーターであり、義理の娘です。陸さんとは違って純粋に子供が好きな相馬さんは川流しにされる呪われた子供たちを可哀想に思い、危険を(おか)して定期的に子供たちを助けに行くようになったそうです。

 そして8年前、唯一救えたのが当時生後一ヶ月だった莉子さんだそうです。川岸に流れ着いていたところを偶然見つけて以来、実の娘のように可愛がっていると藤谷さんから聞きました。

「俺を放置して話すなよ」

 復活した陸さんがわたしの隣にドスッと音を立てて座りました。邪魔です。せめて龍太刀を置いてから座って欲しいです。横向きにずれた龍太刀の柄頭が肩にあたって痛いです。

 龍太刀を陸さんから剥ぎ取ってテーブルの上に置き、一言。

「邪魔です」

「あぁ、ありがとな」

 なぜか感謝されました。もういいです。陸さんはこういう人です。

 特に何をするでもなく時計を眺めていると、階段から小刻みな足音が聞こえてきました。

「パパおはよー!」

 階段を下りてきた莉子さんが相馬さんに飛びつきました。

「おおっと。莉子、よく眠れた?」

「うん!」

 相馬さんは莉子さんを抱き止め、膝の上に座らせます。莉子さんの定位置です。

 莉子さんは黒い髪を短く切り揃え、可愛らしい薄ピンクのフリルがついたワンピースを着ています。亜土莉子(あどりこ)というのは相馬さんがつけた名前で、自分の名字は当然として可愛い響きの名前にしたいとつけた名前だそうです。理子と迷ったそうですが、悩んだ末に文字の形が莉子の方が可愛いと判断したそうです。

 ちなみにこの事務所の2階は居住スペースになっていて、相馬さんと莉子さんはここの2階に住んでいます。

「アイノおねーちゃんとりくもおはよー!」

「おはようごさいます」

「おいガキ、俺は呼び捨てかよ」

 笑顔で返事をします。2歳年下の妹のような存在で、とても可愛いです。欲しいです。抱きしめたいです。相馬さんが手放しませんが。

 莉子さんをガキと呼んだ陸さんに相馬さんから鋭い視線が飛びます。陸さんは気づいていません

「りくはりくなのー」

「ガキ、ちょっと来い」

「きゃー!怖いのー!」

 莉子さんが楽しげに笑いながら相馬さんに助けを求めます。親バカで過保護な相馬さんは陸さんに殺気を飛ばします。陸さんの動きが一瞬止まりました。

「いや、まぁ、別にいいんだけどな」

 明らかに萎縮した陸さんがソファーに座り直しました。莉子さんのためならとんでもない力を発揮する相馬さんの前なので仕方ないことです。

 2年前、莉子さんがガストレアに襲われてしまったことがありました。わたしもその場にいたのですが、当時イニシエーターになったばかりでまだ弱かったわたしはどうすることもできませんでした。無力なわたしと泣き叫ぶ莉子さんを守ったのが相馬さんです。

 相馬さんは普段の姿からは想像できない馬鹿力で倍以上の体格のガストレアを投げ飛ばしたのです。あの光景は今でも忘れられません。そのあとすぐに陸さんが駆けつけて、龍太刀でそのガストレアを斬り倒しました。

 それ以来、莉子さん関連で相馬さんを怒らせてはいけないというのは暗黙の了解です。

「パパ、おなかすいたの」

「よし、じゃあなにか作ってあげるよ。アイノと陸はそこら辺で待ってて」

「わかりました」

 相馬さんが莉子さんを抱っこして2階に上がって行きます。

「相馬ってさ、親バカすぎないか?」

「激しく同意します」

 異論はありません。莉子さんが可愛すぎるのはわかりますけど、流石に甘やかしすぎです。

 その後、特にすることもなく話題もなく、なんとなく時計を見ていると自動ドアが開く音が聞こえました。

「俺が来たぞー」

「……おはようごさいます」

 目を向けると、気の抜けた声の藤谷さんとそのイニシエーターである美雨(みう)さんがちょうど入ってきたところでした。

「おはようごさいます、藤谷さん、美雨さん」

「来たぞってなんだ、来たぞって」

「別にいいだろ、んなこまけぇこと。てか相馬は?」

「相馬さんは莉子さんの朝食を作っています」

「いつもの親バカだ」

「ああ、なるほど」

 藤谷さんは普段から上下黒ジャージでバラニウム製の棍棒を常に持ち歩いています。ファッションにはわたし以上に無頓着なようです。わたしはベレー帽と作業服の色の調和には気をつかっています。

 美雨さんはいつも通り、手から足首まで全て覆う真っ黒なレインコートだけを着ています。大きなフードもついていて、顔は少ししか見えません。レインコートの下になにを着ているのかさえ定かではありません。
 無口かつ無表情なので、美雨さんがなにを考えているかは顔色の変化でしかわかりません。ですが少しでも恥ずかしいことがあると真っ赤に染まるので、むしろわかりやすいです。

「なんか暇だし、トランプでもすっか?」

 藤谷さんが社長席の引き出しからトランプを取り出しだから提案しました。

「トランプって言っても、なにするんだ?」

「んー、ちょうど4人いるから大富豪とかでいいんじゃね」

「いや、ここは先に七並べだ。上の2人が下りてきたら人数多くて封鎖祭りのパス祭りになる」

「なら間とってババ抜きだ」

「それは人数多い方がいいだろ。それなら神経衰弱の方がまだいい」

「血迷ったか?神経衰弱は前、アイノが全取りして終わったじゃんか。あんなん勝てるわけねぇよ」

 藤谷さんと陸さんがトランプでなにをするか話しています。神経衰弱でわたしに勝てないというようなことを言っていますが、当然です。わたしは暗記には自信があります。

「とーやおはよー!」

 いつの間にか莉子さんが降りてきていました。

「莉子もおはよう。相馬は一緒じゃないんか?」

「うん。だれかとでんわしてるの」

「電話……依頼ですかね」

「ハッ、ないだろ。政府の関係者から依頼なんて」

 相馬さんは事務所の固定電話と自身の携帯電話で相手を判別できるようにしています。事務所1階にある固定電話には一般の方々や警察から電話を受けられるよう電話番号を公表していますが、政府関係の方々には相馬さんの携帯電話の番号を教えているそうです。
 警察は政府の関係者ですがガストレア関連の依頼は警察から来ることも多いので、どこかの脳筋プロモーターが自分も電話に出られるように相馬さんに頼み込んだ結果こうなったそうです。

 相馬さんの携帯電話にかかってくるということは、電話の相手は政府の関係者か普通に相馬さんと仲のいい人です。

 少しの間無言でいると、相馬さんが下りてきました。

「陸、アイノを借りてくけどいいね?」

「あ?なんでだ?」

「呼び出されたからこれから防衛省に行ってくる。護衛のためと、ちょっと退屈な話があるからアイノが適任だと思った。以上」

「防衛省って、政府かよ。別にアイノじゃなくてもよくないか?莉子……は無理だとして、美雨もいるだろ。むしろ退屈な話なら美雨の方が適任だと思うが」

 どうやら政府からの電話だったようです。防衛省へ行く、ということはなにかあったのでしょうか。防衛省が直々に民警を呼び出すのですから、なにか大きな事件が起こったと見るべきでしょう。きっとわたしたち以外にも呼ばれている民警は多いはずです。

 でも、確かにわたしじゃなくてもいいと思います。正直、長話を聞くのは退屈ですし面倒です。報酬が出るのなら勇んで行きますけど。

「俺は美雨がいいって言うなら別に構わんよ」

「……私は……大丈夫」

「だってさ。どうすんの、相馬」

 藤谷さんは美雨さんが代わりに行ってもいいそうです。ならわたしが行く必要はないでしょう。

「アイノを連れていきたいのはただの見栄だよ。みんなそれぞれのIP序列覚えてる?僕と莉子は15万3501位だ」

「俺と美雨は8420位だよ」

「なるほどな。俺とアイノは1021位だ。この中で一番強いアイノを連れていきたいってことか」

「そういうこと」

 つまりわたしが強いから連れていきたいということですね。悪い気はしません。行きたくはないですが。

「でもアイノは行きたくなさそうだぞ?」

 バレてました。流石陸さんです。わたしと同棲しているだけはあります。

「一緒に来てくれるなら臨時報酬をあげてもいいよ」

「行きます」

「即答かい」

 藤谷さんに驚かれましたが気にしません。それより報酬です。

「相馬さん、早く行きましょう。防衛省ということは電車に乗っていくんですね」

「そうだよ」

 相馬さんは答えると、莉子さんの前にしゃがみました。

「莉子、パパはちょっと出かけてくるから、陸たちと一緒にお留守番しててね」

「うん!行ってらっしゃい、パパ!」

「ああ、行ってくるよ」

 相馬さんが莉子さんのおでこに短いキスをしました。

「早く帰ってこいよ」

 陸さんが言いました。きっとわたしに対してでしょう。

「もちろんです。行ってきます」

 報酬、臨時報酬はいくらでしょうか。楽しみで仕方ありません。

 わたしは今がとても幸せです

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防衛省

クトゥルフ神話「ちょびっと出られた」


 電車に揺られ、少し歩くと防衛省の庁舎に到着しました。相馬さんが入口で名乗ると中に通されます。エレベーターで上の階に昇り、第一会議室と書かれた部屋まで案内されると、案内した職員は去っていきました。

 部屋の中は思っていたよりも広かったです。中央には細長い楕円形の卓、奥には巨大なパネルが壁に埋め込まれています。モニターでしょうか。

 楕円形の卓の周りには席が備えられていて、民警会社の社長と思われる方々が座っています。彼らの後ろにはバラニウム製の武器を携えたプロモーターの方々がいます。イニシエーターを連れている人もいますが、わたしたちのようにイニシエーターだけという人はいません。

 相馬さんが用意されている席に座ります。わたしはその後ろに立ちました。

「末席ではないんですね」

「きっと僕たちより格下の民警があるんだよ」

「予想外です」

 末席ではないということはわたしたちよりも規模の小さい民警があるということです。3ペアしかいない亜土民間警備会社より小さな民警が防衛省に呼ばれるものなのでしょうか。

 わたしと相馬さんが最低限の会話を終え待っていると、他の民警の方々がざわつきはじめました。

「白銀の長髪にサングラスとベレー帽……まさか、『無装のアイノ』ではないか?」
「あの、バラニウム製の武器を使わずにガストレアを屠るという」
「バラニウム製の武器を使ったのならIP序列100位以内は固いと言われているが……」
「そんな強者がなぜ末席に近いあの席に」

 どうやらざわついている理由はわたしの噂をしているからのようです。通り名がついているのは嬉しいですが、ちょっと根も葉もない噂なので不満です。

 わたしが武器を使わないのは必要ないからです。それに、IP序列が低い理由はガストレア討伐依頼がないからです。好きなだけ倒せる環境さえあれば1位は固いです。

 そうです。今度ステージVのガストレアを討伐する旅にでも出てみましょうか。1年前のわたしなら勝てないでしょうが、今のわたしなら余裕で倒せます。

 ……やめましょう。面倒です。

 今ある空席は2つです。三角プレートにはそれぞれ『天童民間警備会社様』と『大瀬フューチャーコーポレーション様』と書かれています。天童民間警備会社は藤谷さんが報酬の取り分で負けた民警です。末席の民警に報酬を取られるなんて屈辱としか言いようがありません。

 しばらく待っていると、部屋に誰か入ってきました。どこかの学校の制服を着た女性の人と、見覚えのある不幸面の男性です。アパート2階の角部屋に延珠さんと住んでいるロリコンで、確か名前は、蓮太郎さんです。

「おいおい、最近の民警の質はどうなってんだよ。ガキまで民警ごっこかよ。部屋ぁ間違ってるんじゃないのか?社会科見学なら黙って回れ右しろや」

 10キロ以上はありそうなバスタードソードを扱う大柄のプロモーターが文句ありげに蓮太郎さんに迫りました。面倒事に巻き込まれたくはないので傍観します。

 蓮太郎さんが女性の人を庇うように前に出ました。

「あぁ?」

 大柄なプロモーターの人のイライラがアップしたみたいです。

「アンタ何者だよ、用があるならまず名乗れよ」

 実力差を理解していないのかバカなのかはわかりませんが、煽っています。バラニウム特有の磁気が蓮太郎さんの腕と足と、あと目から感じられるので何か特殊な武装があるのでしょう。ですが、わたしからすればそれほど強いものではなさそうです。きっとバカなのでしょう。

「なにか『アンタ何者だよ、用があるならまず名乗れよ』だよボクちゃん。見るからに弱そうだな」

 見るからに弱そう、というのには同意です。ついでに言うと他の人をボクちゃんと呼ぶ人を初めて見ました。

「別に民警は見た目で実力が決まるわけじゃねぇだろ」

 確かにその通りです。失念していました。わたしも本来の実力を隠していますし、蓮太郎さんもきっと隠している力はわたしの予想以上に強い力なのでしょう。

「『別に民警は見た目で実力が決まるわけじゃねぇだろ』?ムカツクなテメェ、斬りてぇ、マジ斬りてぇよ」

 オウム返し2連続です。むしろ大柄なプロモーターの人の方がバカなのではないでしょうか。

 なんとなく眺めていると、何故か周囲を見回し始めた蓮太郎さんに大柄なプロモーターの人が頭突きしました。
 蓮太郎さんは背中から倒れましたが、すぐに跳ね起きてベルトに挟まった拳銃に手を伸ばします。

「バァーカ、なに熱くなってるんだよ。挨拶だろ?」

 周りから蓮太郎さんを嘲笑うような失笑が起きました。
 今の流れで笑う人は、蛮族だとわたしは思います。相馬さんでさえこうして無気力にぼーっとしているだけなのです。かつての陸さんのように人を嘲笑うのはよくありません。今の陸さんでも笑いはするでしょうけど。

「里見くん、こんなのに構っちゃ駄目よ。目的を忘れないで」

「おいクソアマ、いまなんつったよ!」

「やめたまえ将監!」

 一気に話が進みました。女性の人が口を挟んだかと思えば、プロモーターの人が怒鳴り、さらにそのプロモーターの社長と思われる人が怒鳴りました。

 蓮太郎さんの名字が里見といい、プロモーターの人の名前が将監さんということがわかりました。

「おい、そりゃねぇだろ三ヶ島さん!」

「いい加減にしろ。この建物で流血沙汰なんか起こされたら困るのは我々だ。この私に従えないなら、いますぐここから出て行け!」

 将監さんは何か考えるように黙ったあと、「へいへい」と言って引き下がりました。どうやらもめ事は終わったようです。

「騒がしい人でしたね」

 相馬さんに話しかけたのですが、将監さんにも聞こえたのか舌打ちしています。蓮太郎さんの時のように突っかかってこないということは、わたしのことを知っているのでしょう。あまり依頼が無いのに、どうしてこうも有名なのでしょう。

「あんな人がいるから民警は蔑まれるんだよね」

「ちなみにあの人のIP序列はいくつか知ってますか?」

「伊熊将監、IP序列1584位だよ」

「千番台ですか。偉ぶってるので少しは強いと思ったのですが、雑魚ですね」

 会議室の空気が凍りつきました。何故でしょう。普通の会話の流れで思ったことを言っただけなのですが。

 蓮太郎さんとちょうど末席に座った女性の人もわたしを凝視しています。そんなに驚くことでしょうか。

「てんめぇ、三ヶ島さんからアイツにだけは関わるなって言われてたから無視してやってたけどよ、大人しく聞いてりゃ調子に乗りやがって。同じ千番台のクセに粋がんなガキィ!」

「ッ!将監、なにをする気だ、やめなさい!」

 将監さんが三ヶ島さんと呼んでいた人の制止を振り切ってわたしに向かってきます。ガキはどちらでしょうか。将監さんの単純な思考回路の方がガキらしいです。

 将監さんはバスタードソードを振り上げ迫ってきます。もちろんバラニウム製ですので、わたしでも受ければひとたまりもありません。復活に1分はかかります。バラニウムでさえなければ全身ミンチにされても3秒で復活できる自信があるのですが。

 とりあえずバラニウムの武器が唯一の脅威ですので、バスタードソードの刀身を右手で掴んでへし折ります。口で言わずにカニの因子を解放したので、せんべいのように割れました。

「んなっ!?」

 刀身を半分失ったバスタードソードがわたしの目の前を通りすぎていきます。将監さんは驚いた表情で刀身とわたしを見ます。

「謝ってください。そして失せてください」

 サングラスをずらし、常に赤く輝き続けるわたしの目を見せます。どんなガストレアにも共通する特徴が赤目だからか、わたしは目の因子操作が苦手です。人間の目の形をさせることしかできません。

 ライオン、ワシ、サメ、ありとあらゆる食物連鎖の最上位の生物の因子。それら全てが備わった目。現在の世界での食物連鎖の頂点、ガストレアのものであるわたしの目。
 わたしの目の前では1人の人間などちっぽけなものでしかありません。そんなこの目で、将監さんの目を睨みます。

「あ……ぁぁ……」

 将監さんの口から掠れた声が漏れました。顔は白を通り越して青くなっています。

「す……すまな、い……」

 将監さんが小さな声で謝りました。力の差は認識できたようですし、これで許してあげることにしましょう。

「失せてください」

「ひぃっ」

 尻もちをついた将監さんがそのまま後退(あとずさ)って行きました。将監さんのイニシエーターと思われる人が驚いた様子でわたしを見ています。とりあえずサングラスをかけ直しておきましょう。

「終わったの?」

 机に突っ伏していた相馬さんが突然起き上がりました。

「はい。迷惑でした」

 本当に迷惑でした。力の差も考えずに突っかかってくるのはただのガストレア以下です。

「えっと、君は」

 蓮太郎さんが話しかけてきました。

「同じアパートのアイノ・クラフトです。変にかしこまらなくてもいいですよ」

「あ、ああ。俺は」

「2階角部屋の蓮太郎さんですよね?」

「そ、そうだ」

 蓮太郎さんの顔が引きつっています。蓮太郎さんが言葉を言いきる前にわたしが答えているからでしょうか。

「ちょっと、里見くん。知り合いなの?」

「同じアパートに住んでて、何度かすれ違ったぐらいだ。まさか民警だとは俺も思ってなかったよ」

 女性の人が蓮太郎さんを肘で小突いて尋ねています。わたしが民警だとわからなくても、普段から一緒にいる陸さんの龍太刀(りゅうたち)を見れば察しは付きそうなものですが。

「アイノさん、初めまして。天童木更と申します」

 挨拶をされました。女性の人の名前は木更さんというそうです。

「木更さんもかしこまらなくていいですよ。相馬さんはこれですし」

 相馬さんは机に突っ伏して寝ています。寝言で「莉子ぉ」と呟いています。

「そ、そうね。そうさせて貰うわ」

 木更さんも少し苦笑いをしています。なぜでしょうか。

 その時、制服を着た禿頭の人が部屋に入ってきました。そのすぐ後ろを早足で抜けるように燕尾服の男性と黒服の少女が入ってきます。影胤さんと小比奈さんです。

 影胤さんは空いていた席に座り、足を机の上に投げ出しました。影胤さんも呼ばれていたのでしょうか。だとすると、正規の民警ペアのはずです。昨日追ってしまったことを後で謝らないといけませんね。ですが、遅刻は感心しません。
 小比奈さんは私の横を通りすぎ、部屋の一番後ろで壁に背中を預けました。じっとわたしを見ているので、わたしも見返します。にらめっこでしょうか。

「本日集まってもらったのは他でもない、諸君等民警に依頼がある。依頼は政府からのものと思ってもらって構わない」

 禿頭の人が話し始めたので、小比奈さんから目を逸らし前を向きます。相馬さんはいつの間にか起きて真剣な表情で話を聞いていました。

「ふむ、空席一、か」

 ?
 どこに空席があるのでしょう。最後の席は影胤さんが座って埋まりました。

「本件の依頼内容を説明する前に、依頼を辞退する者はすみやかに席を立ち退席してもらいたい。依頼を聞いた場合、もう断ることができないことを先に言っておく」

 誰も席を立ちません。もちろん相馬さんも立ちません。貴重な依頼です。逃したら会社の経営は赤字のままです。いつか相馬さんの個人資産が底を尽きます。

「よろしい、では辞退はなしということでよろしいか?」

 禿頭の人が念を押すように周りを見回しますが、辞退の声はありません。

「説明はこの方に行ってもらう」

 禿頭の人が身を引くと、特大パネルに一人の女性が写し出されました。

『ごきげんよう、みなさん』

 写し出されたのはこの東京エリアを統括する聖天子様でした。影胤さんと相馬さんを除く社長格の方々が勢いよく立ち上がります。影胤さんは姿勢を変えずに聖天子様が写るパネルを眺めています。相馬さんは嫌そうな顔をしています。きっと対応しきれない面倒事に反応するセンサーが発動したのでしょう。

 天童菊之丞という名前の男性の姿も見えます。まるで光の裏にある影のようです。

『楽にしてくださいみなさん、私から説明します』

 着席する人はいません。影胤さんは態勢を変えませんし、相馬さんは顔だけパネルに向けて机に突っ伏しました。とがめるような視線が相馬さんに飛びます。

『といっても依頼自体はとてもシンプルです。民警のみなさんに依頼するのは、昨日東京エリアに侵入して感染者を一人出した感染源ガストレアの排除です。もう一つは、このガストレアに取り込まれていると思われるケースを無傷で回収してください』

 感染源ガストレア……昨日空を滑空していたモデル・スパイダーのガストレアのことでしょうか。

 パネルにジュラルミンシルバーのスーツケースと、その横に報酬額の数字が写し出されました。相馬さんが飛び起きて、わたしにアイコンタクトで「できる?」と聞いてきます。わたしはアイコンタクトで「必ず」と答えました。相変わらず現金な民警会社です。

 三ヶ島さんがすっと手を挙げました。

「質問よろしいでしょうか。ケースはガストレアが飲み込んでいる、もしくは巻き込まれていると見ていいわけですか?」

『その通りです』

「感染源ガストレアの形状と種類、いまどこに潜伏しているのかについて、政府は何か情報を掴んでいるのでしょうか?」

『残念ながらそれについては不明です』

 今度は木更さんが挙手しました。

「回収するケースの中にはなにが入っているか聞いてもよろしいですか?」

 社長の方々が色めき立ちます。相馬さんは報酬額を見て目を爛々と輝かせています。

『おや、あなたは?』

「天童木更と申します」

『……お噂は聞いております。それにしても、妙な質問をなさいますね天童社長。それは依頼人のプライバシーに当たるので当然お答えできません』

「納得できません。感染源ガストレアが感染者と同じ遺伝型を持っているという常識に照らすなら感染源ガストレアもモデル・スパイダーでしょう。その程度の敵ならウチのプロモーター一人でも倒せます」

 やっぱりモデル・スパイダーでした。たぶんこの中で滑空するという特長を知っているのはわたしだけなので、わたしが有利です。

「問題はなぜそんな簡単な依頼を破格の依頼料で――しかも民警のトップクラスの人間たちに依頼するのか腑に落ちません。ならば値段に見合った危険がそのケースの中にあると邪推してしまうのは当然ではないでしょうか?」

『それは知る必要のないことでは?』

「かもしれません。しかし、あくまでそちらが手札を伏せたままならば、ウチはこの件から手を引かせていただきます」

 もったいないです。手を引いたら当然何も貰えません。もったいないです。

『……ここで席を立つと、ペナルティがありますよ』

「覚悟の上です。そんな不確かな説明でウチの社員を危険にさらすわけにはまいりませんので」

 沈黙が広がります。相馬さんは目を¥マークにして妄想にふけっています。

 突然、影胤さんがけたたましく笑い始めました。

『誰です』

「私だ」

 全員の視線が影胤さんに集まります。影胤さんの両隣の人は驚いて椅子から転げ落ちました。驚きすぎではないでしょうか。

「お前は……そんな馬鹿なッ」

 蓮太郎さんは影胤さんを知っているようです。ですが反応が今更すぎないでしょうか。先程から影胤さんはいました。

 影胤さんは体を反らせて跳ね起きると、机の上に立ち上がります。マナーが陸さん並みです。
 影胤さんは聖天子様と向き合える位置まで移動しました。

『……名乗りなさい』

「これは失礼」

 影胤さんはシルクハットを取り、体を二つに折って礼をしました。

「私は蛭子、蛭子影胤という。お初にお目にかかるね、無能な国家元首殿。端的にいうと私は君たちの敵だ」

 前言撤回です。追ってしまったことを謝る必要はありませんでした。むしろ捕まえたら報酬が貰える系統の人でした。WANTEDです。

「お、お前ッ……」

 蓮太郎さんは拳銃を影胤さんに向けて構えています。影胤さんの首がぐりんと外れそうな勢いで蓮太郎さんの方を向きました。

「フフフ、元気だったかい里見くん。我が新しき友よ」

「どっから入って来やがった!」

「フフフ、そ――」

「えっ、気づいてなかったのですか?」

 その場にいた全員の視線がわたしに集まりました。その全てが驚愕の視線です。相馬さんだけ納得した様子です。

「驚いたよ。まさか気づかれていたとは。アイノくん、君はいつから私に気づいていのかね?」

「いつからと言われても、最初からとしか」

「……それは本当かい?」

「パパ、アイノの言ってることは本当。最初から気づかれてた」

 後ろに控えていた小比奈さんがわたしの隣まで来て言いました。わたし以外は小比奈さんにも気づいていなかったみたいです。みなさんとても驚いています。

「……強そうに見えないのに」

 小比奈さんはどこか不満げに言いました。きっと、今までは相手の強さを見ただけで察することができたのでしょう。それなら昨日すぐに退いてくれなかった理由もわかります。

「能ある鷹は爪を隠すのです」

「パパァ、アイノ嫌い。斬っていい?」

 嫌われてしまいました。煽ったと勘違いされてしまったのでしょうか。悲しいです。

「駄目だ。アイノくんの力は思っていたよりも遥かに上だ」

「むぅ、パパァ」

 小比奈さんは小太刀の柄に手を添えて、小太刀を抜きたそうに指をせわしなく動かしています。

「おおそうだ、紹介が遅れてしまったね。私のイニシエーターにして娘の、小比奈だ」

 小比奈さんは小さく跳んで卓上にのぼり、影胤さんの隣まで歩いてからスカートをつまみお辞儀をしました。

「蛭子小比奈、十歳」

 顔を上げた小比奈さんにジト目で睨まれています。なにか悪いことをしたでしょうか?こんなに嫌われている理由がわかりません。

「では本題と行こうか。と言っても、今日は挨拶に来ただけだけどね。私もこのレースにエントリーするよ」

「エント――」

 蓮太郎さんがなにか言おうとした直後、電話の着信音が室内に鳴り響きました。

「私の携帯だ。すまないね」

 どうやら影胤さんの携帯にかかってきたみたいです。
 影胤さんが電話に出ました。

「……ふむ、そうか。既に『七星の遺産』は手に入れたと。それなら迎えに来てもらえないかね?私単独で逃げきれないことも無いが、少し面倒だ。……では、頼んだよ」

 奇妙です。わたしの聴力で電話相手の声も聞き取ったのですが、聞こえてきたのは虫の羽音のようななにかだけでした。

「諸君、どうやらレースは私の勝ちのようだ。君たちが欲するジュラルミンケースの中身、『七星の遺産』は我らが頂いた。すぐに迎えが来る。私たちはこれにて去るとしよう」

 直後、窓を突き破って何かが入って来ました。蟹のような腕、蜂のような胴体、頭部と思われる場所には鮮やかな色のうずまきがあり、虫の羽を生やして飛行する生命体。

「ガストレアだ!撃て!」

 誰かが叫びました。直後、謎の生物に黒銀の弾丸が殺到します。しかし、その全ては謎の生物と影胤さんたちを守るように出現した青白い燐光を放つバリアに防がれました。

「ヒヒッ、何をしても無駄だ。私の斥力フィールドは今や……ステージⅤの攻撃すらも防ぐだろう」

 謎の生物が影胤さんと小比奈さんを腕に乗せます。謎の生物はそのまま飛び上がりました。

「ではさらばだ!友よ、そして超越者よ!」

 影胤さんと小比奈さんを乗せた謎の生物は窓の外へ飛び去って行きました。一瞬で外周区の空へと消えていきます。

「追いかけないの?」

 呑気に椅子に座ったままの相馬さんが聞いてきました。

「無理です。モノリスの近くで完全に気配が消えました」

「モノリス?あれ、ガストレアなのにモノリスに近づけるの?」

 モノリスは東京エリアを守るバラニウムの塊。普通のガストレアが近づけばただでは済みません。ですが……

「あれは、ガストレアではないです」

 わたしだからこそ、確信を持って言えます。

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バナナキムチ

遅筆は御容赦


「その影胤ってやつ、お前から見てどうだった?」

 ハートの4が陸さんの手から落とされます。

「どうと言われても、不気味としか。せっかくのジュラルミンケースも取られてしまったので、その分の報酬が貰えなくて残念です」

 スペードの6を手札から捨てます。

「まあ、あの蛭子って人を捕まえればもっと多い報酬が貰えるから別にいいんじゃない?っと、スペード縛りね。あと7渡し」

 相馬さんはスペードの7を捨てました。加えてカードを一枚、次の藤谷さんに渡しました。縛りと7渡しはローカルルールです。

「おっ、サンキュー相馬。俺は別に報酬さえゲットできるんならそれでいいけどな。そんじゃ、ほいっ」

 スペードの2が落とされました。誰かがジョーカーを出さないと、残り手札3枚の藤谷さんが続けて捨ててしまいます。加えて二枚あるジョーカーのうち片方は既に捨てられているので、ジョーカーを藤谷さんが持っていたら一巻の終わりです。

「報酬といえば、臨時報酬をくれると言ったから防衛省についていったのに、あれじゃあただのお小遣いじゃないですか。あ、パスで」

「たったの500円だもんな。俺もパスだ」

「ちょっとは収支状況を考えて言って欲しいね。特に陸。っと、とりあえずこれで流しでいいかな」

 と言いながら相馬さんがシルクハットの道化が描かれたカードを捨てました。ジョーカーです。ちなみにもう一枚のジョーカーは仮面の道化が描かれています。

「いいやまだだ。俺の手札にはスペードの3(勇者)がいる。つぅことでこれで流しにするぜ」

「ファッ!?てっきりもう出てたのかと」

 藤谷さんがスペードの3を出してカードの山を流しました。スペードの3は唯一ジョーカーに勝てるカードです。

「そんじゃ、8切り」

 藤谷さんが捨てたハートの8が流れていきます。

「4の二枚出しで俺が大富豪だ!」

 藤谷さんがクラブの4とダイヤの4を捨てて上がりました。

「げぇ、マジかよ」

「ふっ、どうだ、参ったか」

 舌を出して言う陸さんに対し、藤谷さんは誇らしげです。

「っち、二枚出しなんてできねぇよ。パスだパス」

「こればっかりは手札の運ですからね」

「そう言うアイノはまだ7枚残ってるんだね」

「ハッ、今回はアイノが大貧民か?」

「いえ、そうでもありませんよ」

「はっ?」

 手札が5枚の陸さんに鼻で笑われましたが、わたしの手札はそんなに弱くありません。

「クラブとダイヤの2、これで流しですね。それからハートの2。これもジョーカーは全部出たので流しです。ダイヤの8とスペードの8で2回8切りです。ハートとダイヤの3の二枚出し。これで富豪です」

「なっ……」

 残り7枚の手札を一気に捨てたわたしを見て、陸さんが唖然としています。

「なぁ、そんなにいい手札だったのに俺に勝てなかったんか?」

「ジョーカーが出るまでは様子を見ようと思ってました」

「なるほど」

 藤谷さんが「あのタイミングでジョーカー出してくれて助かった……」と呟いています。

「10の二枚出しで、10捨てだよ」

 相馬さんがスペードとクラブの10を捨て、更にクラブのキングとハートの5を捨てました。10捨てもローカルルールです。

「だから二枚出しはできないっての。パスパス」

 二枚出しができないのは陸さんが下手だからだと思います。さっきも強引に一枚目のジョーカーで自分の手番にしておきながら、ハートの4を出していました。終盤なのに低い数の一枚出しです。もっと他の手は無かったのでしょうか。

「本当にいいんだね?じゃあ、クラブの3。これで上がり」

「は?」

 結果、一人残った陸さんが呆然としています。

「陸ってトランプ全般苦手なのにやりたがるよな」

 とは、藤谷さんの談です。

「うるせー。苦手じゃなくたまたまだ、たまたま」

「そんじゃ、今月のボランティアは陸な」

「あっ、そうだった……」

 ボランティアとは、亜土民間警備会社の恒例行事です。わたしとプロモーター1人でモノリスの外まで行って、一泊二日のガストレア狩りをします。わたし以外は報酬無しの完全ボランティアです。わたしは相馬さんから毎月ゼロ五つ分は貰っています。

 この大富豪で、大貧民になった人がボランティアに行くという賭けをしていました。ちなみにわたしが大貧民だった場合はわたし一人です。

「陸さん、諦めてください。明日から泊まり掛けですから、準備しますよ」

「嫌だ!地獄のボランティアなんか行きたくな」
「うるさいです」

 ドスッ
「ガハッッ」

 まるで子供のように駄々をこねはじめた陸さんを黙らせてから、手首を握って引き摺ります。辛うじて気絶はしてないので、大丈夫でしょう。

「それでは、買い出しに行ってきます」

「いってらっしゃーい」

 間延びした相馬さんの声を聞きながら、亜土民間警備会社を後にしました。


 ●


「ピーマンとニンジンともやしと……」

「そういえば、お前でも影胤ってやつの気配を追いきれなかったって本当なのか?」

 わたしがスーパーで野菜を物色していると、陸さんが話しかけてきました。

「はい。臭いも音も、モノリスのすぐそばで突然途切れました。能力を隠さずに追いかけていれば、空気の流れでどこに行ったかわかったのですが……」

「そんなことで秘密を見せちゃ切り札にもならないし、危険に身を晒すだけか」

「はい」

 陸さんしか知らないわたしの秘密は、そう簡単に公開していいものではありません。もし知れ渡ってしまえば、この力を求めて、或いはこの力を恐れて、世界中からの刺客が襲ってくることでしょう。
 わたしはともかく、陸さんまで危険な目に遭うのは看過できません。

「にしても、ガストレアではない化けもんねぇ。新種の生物って訳でも無いんだろ?」

 昨日わたしが相馬さんと防衛省に行った時に東京エリアとの敵対を宣言した蛭子影胤。影胤さんと小比奈さんだけなら逃がさない自信があったのですが、そのあと表れた謎の怪物に乗って逃げられてしまいました。
 今思えば、完全に気配を消したのもあの化物の力によるものでしょう。

「同族の気配は感じませんでしたし、地球上であんな生物は誕生できません。可能性があるとすれば、ガストレアウィルスとは違う別のウィルスが生み出した生物か、宇宙から来た未知の生物、でしょうか」

「よくわからねぇけど、もし戦うことになったら勝てるのか?」

「戦ってみないことにはわからないですが、見た感じでは雑魚です」

「ならよし」

 一つ気になることといえば、化物が全身にまとっていた薄緑のゼリー状の物質でしょうか。猛毒物質なのか、衝撃緩和装甲なのか、どういうものなのか未知数です。
 猛毒でもなんでも、わたしなら特に問題無いので大丈夫なんですけどね。

「あっ、豚バラ肉が3割引されてますね。少し多めに買っておきましょう」

 食材を買い物カゴに入れながら歩いていると、豚肉が目に止まりました。賞味期限も切れてませんし、外見も悪くなさそうです。それになにより、わたしの中の肉食獣の本能がこれは大丈夫だとGOサインを出しています。

 買いですね。

 他に必要なものは……なさそうです。一泊二日だけならこれで充分でしょう。

「レジに行きましょうか。……陸さん、何を見ているのですか?」

 陸さんに声をかけたのですが、反応がありません。どうやらカップラーメンのコーナーを覗いているようです。

「買うべきか買わざるべきか……。いや、でも、バナナキムチ味?好きなメーカーの新商品でもこれは……」

 陸さんは黄色と赤のまだら模様のパッケージを手に取って悩んでいました。パッケージにはバナナ味キムチ風味と書かれています。謎のラーメンです。

「バナナ味ならまあわかる。キムチ味はいいだろう。しかし、バナナキムチ味はどうな――グハッ!?」

「買うなら早くしてください。わたしは先にレジに行ってます」

 あまりに遅いので脇腹にチョップを入れます。
 さて、悶絶する陸さんは放っておいて精算を済ませましょうか。

 余談ですが、結局陸さんはバナナキムチラーメンを買いませんでした。

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始まりゆく混沌

※途中(一つ目の●)から三人称神視点になります
クトゥルフ神話「俺大連鎖」



 深夜二時。多くの人が寝静まったであろう頃、わたしは全裸でモノリスの外にいました。露出狂ではありません。服を着るのが面倒だっただけです。それにわたしなら見つからないので問題ありません。

 家ではわたしに人の因子を捧げて干からびた陸さんが気絶しています。たったの一時間で力尽きてしまったので、思ったよりも早く家を出ることができました。

「モデルオウル」

 フクロウの因子を解放します。全身を白銀の羽毛が覆い、ちょうど下着のような形になりました。足は指が長く細長く硬くなり、鳥の足になります。腕は大きく変化し、猛禽特有の翼になりました。お尻からは背骨を延長するように尾羽が生えます。

 わたしの今の外見を一言で表すなら、ハーピーでしょうか。神話上の醜悪なハーピーではなく、日本人がファンタジーに美化したハーピーです。

 ここまでしっかりと因子解放したのは久しぶりです。これも陸さんさまさまですね。心の中で感謝しておきましょう。

「それでは行きますか」

 翼を大きく広げ、飛び上がります。羽ばたくのは少し疲れますが、そもそものスタミナが無尽蔵なので問題ないです。みるみる高度が上がり、あっという間にモノリスを越えました。

 空をゆるりと滑空しながら、巨大なガストレアや影胤さん、ガストレアではない怪物がいないか、地上を見下ろします。

 昨日……ではなくもう深夜二時なので一昨日ですね。影胤さんがいなくなった後、聖天子様から緊急の依頼。それも実質指令に近いものが言い渡されました。

 要約すると、曰く、七星の遺産とは厳重に保管しなければ東京エリアに大絶滅を引き起こすもの。それが影胤さんに奪われてしまった現在、早急に取り返さなければ東京エリアが滅んでしまう、とのことです。

 わたしとしては東京エリアが滅ぶこと自体はどうでもいいのですが、亜土民間警備会社の事務所が無くなるのは嫌ですし、みなさんの居場所が無くなってしまうのはもっと嫌です。

 ですので、明日――厳密には今日ですが――のボランティアで行く場所の下見ついでに影胤さんを探せるよう、影胤さんの気配を感じられなくなったモノリスの先でボランティアを行うことにしました。

 眼下、モノリス側も気にしつつ飛び回ります。ステージⅠやステージⅡはいつも通りたくさんいますね。ステージⅢもちらほら見かけます。陸さんはステージⅢまでは余裕を持って対処できるので、ステージⅣがいたら適度に間引きしておかないといけません。

 やはりというべきか、昨日見たガストレアではない怪物は見当たりません。渦を巻きいくつもの触肢を生やす頭部。蟹の鋏のようなものがついた腕。胸元付近から生える足は4本あって、虫の腹部のように膨らんだ腹とあわせて見ればまるで虫のようです。しかし、蚊のような不快な音を出して羽ばたく翼は蝙蝠のようでした。

 この複数の生物の身体的特徴を併せ持つことだけを見れば間違いなくガストレアなのですが、わたしが同族と感じなかったのであれはガストレアではありません。では、あれは一体なんだったのでしょう……?

 ……前方から飛行型ガストレアが飛んできました。見たところステージⅡでしょうか。狙いはわたしのようなので、すれ違いざまにガストレアの頭を潰し、地上に落としました。

 考えていても仕方ありません。ステージⅣは目につく範囲にはいませんでしたし、適当なステージⅢを食べてから帰りましょう。


 ●


 深夜二時。暗い部屋の中。赤い髪の少女、延珠は大の字になって寝ていた。

「れんたろぉ……。すー」

 寝返りを打つ延珠。幸せそうな顔でよだれを垂らしている。しかし、そこに蓮太郎の姿は見えない。
 ただ時折、蚊の飛ぶような不快な音が聞こえるだけだ……。



 同時刻。某所公園。人払いをしたように人気は無く、二人の男が佇むのみ。……否。空に、木の影に、遊具の裏に、暗色に身を溶かした異形が潜んでいた。

「こんなとこに連れてきて、何が目的だ?」

 寝間着のままの不幸面の男、里見蓮太郎。寝癖で髪がボサボサで、心底不機嫌そうに目を細めている。しかし、銃だけは対面に立つ男に向けたまま、警戒を解いてはいない。

「アイノくんがモノリスの外にいると連絡を受けてね。君と話すなら今しかないと思った次第だよ」

 対面に立つのは笑う仮面に燕尾服、そしてシルクハット。ふざけたような格好の長躯の紳士、蛭子影胤。丸腰で銃口の先に立つが、警戒している様子は見受けられない。

 影胤の言葉に、眉をしかめる蓮太郎。銃を握る手に力が入る。

「さて、本題だ。里見くん、私の側に来ないか? もちろんタダでとは言わない。望むなら金でも力でも、なんでも――」

 影胤の言葉を銃声が遮った。半透明の青い壁に阻まれ、黒い銃弾は地に堕ちる。夜の公園に甲高い音が響き渡った。

「てめぇの仲間になんか、死んでもなるかよ」

「ほう、本当にそれでいいのかね?」

 蓮太郎は無言を以て答える。
 影胤は踵を返し一歩、歩き始めた。

「ヒヒッ、それでこそ里見くんだ。だが、いずれ君は知ることになる。星辰は既に揃っているのだと」

 影胤は首を回し、蓮太郎を視界に捉える。

「里見くん。君は、君自身のために私と行く道を選ぶことになるだろう」

「何を、言っているんだ……?」

 影胤を訝しむ蓮太郎。
 影胤は右手を掲げ、指を鳴らした。蚊の飛ぶような音とともに、形だけを見れば蜂のような、渦を巻く頭部の異形が舞い降りる。影胤はその異形の腕の大きなはさみに腰掛ける。

「二日後だ。二日後、この東京エリアをステージⅤ(ゾディアック)ガストレアが襲う。その後、再び答えを聞かせてもらうよ」

 影胤を乗せた異形が蝙蝠のような黒い翼を震わせ、空へ飛び立つ。それを追うように、大小様々な異形が5匹飛び去っていった。

「影胤……一体、何者なんだ?」

 宵闇の中、蓮太郎はただ一人残された。


 ●


 深夜二時半。聖天子の寝室。部屋の主たる聖天子は、窓の外を見て憂いていた。

「七星の遺産は既に敵の手に……。このまま取り戻せなければ……」

 聖天子の顔には疲労が浮かんでいる。影胤の手に『七星の遺産』と呼ばれるものが渡ってから既に一日以上経過している。モデル・スパイダーのガストレアはその影すら見せておらず、その事実が影胤の言葉を裏付けていた。

「もう寝ましょう……」

 俯いたままベッドに座り込む聖天子。ふと、背後に気配を感じる。何者か。この時間帯では普段なら部屋にいるのは聖天子ただ一人。誰かが入ってくるにしてもまずノックの音がある。
 まさか、暗殺者か。そう思いつつ、聖天子は立ち上がりながら振り向いた。

「何者ッ!」

 その褐色肌の美しい男はベッドに座ったまま、笑顔で聖天子を見ていた。聖天子と真逆の、漆黒に染まったゆったりとした服に身を包み、漆のように美しい髪は短く整えられている。その容姿は女性どころか男性でさえ惚れてしまうのではと思うほど美形。
 しかし聖天子には、その男があまりに完璧過ぎて不気味に感じられた。

 黒い男は口を開いた。

「やあ、はじめまして。僕は君を導きに来たよ」

 その大人びた外見から発せられる言葉は少し幼げで、明るい声なのにその男の全てから深淵を感じさせる。

 不安、焦燥、驚愕、恐怖。

 いくつもの感情が渦巻く中、聖天子は一歩、後退る。

「そんなに警戒しないでおくれよ。大丈夫、僕に君を傷つける気は全く無いから」

 不思議とその言葉は、聖天子の心に染み渡るように広がっていった。

「私に何の用でしょうか?」

 ふと気づけば、聖天子は男に気を許していた。しかし、害意があるならば気づかれる前に何かしてきているはずだ、と考え直す。聖天子は完全に警戒を解き、再びベッドに座った。男が不審者であることには変わり無いのに。

「言っただろう? 君を導きに来たんだ。この東京エリアを存続させたいなら、呪われた子供たちとの共存を望むなら、今の君だけでは力不足だ」

 その言葉は聖天子の心に深く突き刺さった。確かに、自分は思想ばかりで自分の望むことなど何もできないのではないかと、心のどこかで薄々気づいていたからだ。
 しかしこの程度の言葉など、現聖天子を評価した評論家の一部は既に吐いている。

「私は、どうすればいいのでしょう……」

 気づけば、聖天子は男に縋っていた。それは、聖天子という立場故に募った不安か、或いは、人知の及ばぬ渾沌故か。

「二日後、奪われた七星の遺産の影響で《天蠍宮(スコーピオン)》がこの東京エリアを襲う。それを倒すんだ。そうすれば、東京エリアとそれを統治する君自身が、ステージⅤ(ゾディアック)を打倒した者として確固たる存在となる」

 天蠍宮(スコーピオン)。それは10年前、世界を蹂躙した黄道十二星座の名を冠する最凶の十一体の内の一体。それを倒すなど、根拠の無いこと。だが、

「……はい」

 瞳に光を失った聖天子は、安心したように小さく微笑んだ。それを見た男も、一層笑みを深くする。

「いつまでも君と呼ぶのは忍びないね。これから君のことは“白色”と呼ぶことにするよ。僕のことは“黒色”って呼んでね。それじゃあまた来るよ、白色」

「わかりました、黒色様……」

 黒色は空気に溶けるように、闇に融けるように消え去った。そこに黒色のいた痕跡はない。

 一人、眠りにつく聖天子。その表情は、憑き物が取れたように穏やかなものだった。





 とある国のとあるガストレア研究家の男は、衛星を通して太平洋上を観測していた。渡鳥型のガストレアの群れが飛んでいるのを眺めていると、ふと、島のようなものが見えた。

 男はそれを拡大して見る。いくつもの建造物が連なる都市を乗せた島のようだった。拡大すればするほど、男はその島の異常性に気づく。

 その建造物群は凡庸な脳ではとても理解しがたい非ユークリッド幾何学的な構造をしており、詳しく理解しようとすればするほど頭痛と吐き気を催す狂気的なものだったのだ。

 気分を害した男は、正しく見ようとするのは止めて眺めるようにその島にあるものを見ることにした。

 建造物の間に複数見える生物の姿……ガストレアだろう。地上を歩く魚のガストレアが多数見受けられた。当然のことだが、これほど多くの同じ外見のガストレアが群れでいるのはなかなか珍しい。正確な大きさは解らないが、体格さえ同じなのだ。しかもしばらく見ていると、一定の社会性を持って高度で知性的な行動をしている様子が伺える。

 これは大発見だと気をよくした男は、社会性を持つなら王に位置する存在がいてもおかしく無いのではと考える。実際、過去に《金牛宮(タウルス)》というガストレアの軍勢を率いたステージⅤ(ゾディアック)ガストレアも実在した。

 男は一度衛星から送られてくる映像を縮小し、もっとも王たる存在がいる可能性が高いであろう都市の中央部分を拡大した。

 そして、男は『ソレ』を見てしまった。

 ガストレアと呼んでいいのか。或いは『ソレ』こそが欠番だった十二番目のゾディアックガストレアに収まるべきなのではなかろうか。

 『ソレ』は、左右3つずつついた目で映像越しに男を睨んだ。



 ――その後、男の溺死体が研究室で見つかった。


 溺れるほどの水など無いその部屋でなぜ溺れたのか。胃液の逆流や肺の異常とも思われたが原因は定かではなく、衛星との接続が切れたスクリーンが現場にあるのみだった。


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