東方世界に転生する話 (madao01)
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第1話

取っ手を握れば、結露した水滴で掌が濡れた。

構わず玄関を押し開くと、入ってくる冷気に体がブルリと震えた。

外の冷えた空気から遮断され、暖房の効いた部屋で眠気による気だるさを耐えながら、ボソボソと準備をしていたが、外に出たことにより急激に外気の温度が下がったため、既に寒疣が出来てしまっていた。

こうなってしまえば、事前に着込んでいたセーターも気休め程度にしかならず、また今日も寒さとの戦いになるのだ。

 

少しばかり体を震わせながら歩くこの男、上島光の朝は早い。

光の左腕に着けてある、成人したときに奮発して購入した高価な腕時計は、まだ6時を指す前だった。

 

都内の某市、23区からは外れに位置するところ、もう11月を過ぎようかという時期の朝は、間もなく冬本番だと告げているかのような鋭い冷気で、光と同じ時間に起きて外に出てきた何人かも、「寒い、寒い」と同じように体を震わせた。

少し前には季節外れの木枯らしも吹いた。

ほんの前までは汗ばむくらいだったが、いつの間にかもう身近に冬が迫っているものだから、時間の経過の早さを改めて思い知ったのだった。

 

光がこんなにも早く家を出たのは、彼の仕事に関係している。

光が住む街から少しばかり離れた商店街で、彼はある小売店を経営していた。

成人してまだ何年も経ってない光が小売店の店長を勤めているのは、彼が友人のコネで小売店で働きはじめて暫く経ってから起きた出来事が関係していた。

とは言ったものの、そこまで大きな事件というわけではなく、光がまだ一店員だった頃に、当時の店長が体調を崩して、暫く入院することになったのだ。

その頃の店長は、既に齢70を超え、毎日小売店に顔を出すには体力的にも厳しいものがあった。

それもあってからなのか、入院した折、店長は光に、「店を任せる」と悟った表情で言い渡した。

当時そこまで店員もおらず、一番真面目に働いていたのが光だったから、というのが主な理由だったが、突然の店長交代に、そのときの光は当惑し、無理だと応えても「任せる」の一点張り。流石に折れて、店長職を受け入れたのだ。

 

そこから時間も経ち、当時の店員とも然程大きなトラブルも起きず、順風満帆とは行かずともある程度スムーズに時は流れて今に至るのだ。

 

前店長とは今も交流があり、時折一緒に呑みに出掛けたりもする。その度に「任せてよかった」と言われる物だから、光は恐縮するのだった。

 

実家から小売店まではそこまで距離があるわけでもないが、家を出てたった数分で、耳まで赤くなった。

11月でこれだから、12月はどうなるのかと辟易した。地球温暖化は実は嘘なんじゃないのかと、柄にもなく疑ってしまう。

 

商店街の入り口のアーチが視界に入る。

昔ながらの商店街は、朝はそれこそ静かなものだが、昼は今でも活気に溢れている。

産まれてからずっとこの近辺で生活していた光は、余程の事がない限りは、この地を離れまいと考えていた。

実際、引っ越してくる人は多かれど、誰かが引っ越したというのはあまり聞かない。それほどに住み心地が良いのがこの街であった。

 

その商店街の入り口から少し歩いたところに、光が経営する小売店がある。

間崎小売店。前店長の間崎敏夫が30過ぎの頃に開いたというこの店は、少々小ぢんまりとしながらも商店街の一店として未だに生きている。

 

この小売店の開店は、商店街としては早い7時。

文房具から下着、スナック菓子など、多岐に渡る種類の商品を売るこの店は、謂わば「コンビニ」だった。

 

ところどころ錆びたシャッターを持ち上げて、店の鍵を開ける。

 

年季の入った木造の、落ち着いた香りで、漸く光のやる気のスイッチが入る。

この香りを嗅いで、やっと「頑張ろう」と気持ちを入れるのが光の日常だった。

 

 

「おはよう、今日は一段と寒いねぇ」

 

間崎小売店の斜向かいにある精肉点の、名物おばさんが小売店に顔を出した。

 

「おはようございます。全く、風邪をひいてしまいそうで……」

 

光は苦笑しながら挨拶を返した。「若いのになに言ってんだい」背中をバシンと叩かれた。

 

「しっかりしなさんな」

 

おばさんはそう言い残して、精肉点に帰っていった。

時刻は8時を過ぎた頃。

 

7時に開店したのは、間崎さんがまだバリバリだった頃は朝の方が一通りが多く、稼ぎどころだと判断したからだというが、今はあまり客足は伸びていないようで、それは閑静な住宅街と変わらない。

それこそ、大体の店は10時からだったりと、朝早くから空いているほうが珍しいのだが、光は7時開店の()()を崩したくないと考えていた。

そして、その徹底ぶりは店長を変わってから少し経ったときに色んな人から「もう少し遅くしても良いんだよ」という気遣いの言葉に対し、「いえ、大丈夫です」としか答えなかったところに現れていた。

 

閑話休題

 

「うーっす」

 

気だるげな挨拶で店に顔を出したのは、光がアルバイトで働き出した頃からずっと店員をやっているベテランの大前良知である。

 

「おはようございます」

「さみーよ。どうにかしろ」

「無茶ですよ、暖房かけるくらいしかありません」

 

大前と光は、年こそ離れてはいるが、友達のような関係である。

見た目こそはどこかのヤの付く職業(・・・・・・)の人厳ついものだが、実際は部下想いの良い先輩である。

光も、働きはじめてから何度も呑みに誘われている。

そして、今では軽口を叩き合うくらいの仲になっていた。

 

「天気のねーちゃんは嘘つきだ。こんなに寒くなるなんて言ってねーぞ」

「当てる方が難しいです。やってみたらどうです」

「いやだあんなの、めんどくせー」

 

ぶつくさと文句を垂れながら大前は準備部屋のほうへ消えていった。

本来、店長は大前がやってしかるべきなのは、誰が見ても明白なのだが、大前がそれを辞退したのである。

理由は一つ、「めんどくせー」。

最早、彼の口癖になっていた。

今も準備部屋で着替えながら「こんな寒い日にめんどくせー」とボヤいているだろう。

それでもサボタージュを決行しないあたり、ちゃんとした大人だというのが見てとれる。

大前が準備部屋から出てきて、漸くスタッフが揃う。

 

大前と光。今はこの二人が間崎小売店を切り盛りしている。

 

 

「今日はもう、閉めて良いだろ?」

「…そうですね、閉めましょう」

 

既に日は暮れて、長針は一周した。

日中から夕方は、それなりの喧騒だった商店街も、今は数人の足跡が壁伝いに響くようになっていた。

大体の店はもうシャッターが降りていて、残っている店も閉店準備が進められていた。

この商店街は、夜も早い。

 

「先に失礼するぜ」

 

大前はそう言い残して準備部屋に入っていった。

光も掛札を「open」から「close」に入れ替え、先に閉店準備を始めた。

 

外に出してあったカート付きの商品ケースを店の中に入れた。

幾つかの商品を倉庫に仕舞っている途中で「じゃあな」と大前が店を出た。

光も、仕舞う予定の商品を全部入れた後、準備部屋で着替えて店を出て、鍵を閉める。

シャッターを降ろし、しっかり施錠する。

ガチャガチャと閉まったのを確認して、漸く帰路に着いた。

 

いつも通りの帰り道。何でもない、何も変わらない日常。

長いストリートを抜け、いつもの通り交差点を曲がる。 

家まで後10分くらいだろう。

今日は何を作ろうか。

 

 

異変に気付いたのは、交差点を曲がってそこまで経っていない頃だ。

道は間違えていない。見える景色も毎日見ているものと変わらない。何も間違いはない。

だが、何かがおかしい。

 

何だ。

 

いつもと、感覚(・・)が違う。

よくある、嫌な予感とか、ああいうものだ。

 

光は、嫌な予感を感じていた。

 

恐怖か?

何へ?

嫌悪?

何を?

 

気付けば足早と、そして走りへと変わった。

早く抜け出さなければ。

留まってはいけない。

早く。

 

タンタンと地面を蹴る音が、やけに大きく響いた。

脇目も振らず、まるで短距離を走るかのような全速力。

 

呼吸も辛くなってきた。

バクバクと心臓が脈打つ音も響いてきた。

 

家はまだ遠い。

まだか、まだか、早く……!

 

 

ふっと、今までの重圧が嘘のように無くなり、思わず足を止めた。

乱れた呼吸を直そうとも思わず、肩で息を吸う。

 

そして、落ちた目線を上げる。

 

「……は」

 

辺り一面森の中。

変な声しか出なかった。

 

 

 



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第2話

よく、こんなことを言う人がいる。

 

「どうしようもなく取り乱した時こそ、まずは心を落ち着かせて周りを見よう」

 

成程、確かに焦っているときはなにかと周りが見えていないことが多い。そして、それを自覚してなんとか冷静さを取り戻すと、意外と直面していた問題が然程大きいものではなかった、というのは往々にして生起している。

予想外のことが起こると、大抵は頭がパニックに陥って正常な判断が下せないものである。

しかし、パニックになるとどうしようか、という思考に行き着くことすら儘ならないことも、起こる時はある。

 

それは、人智の範疇をとうに越して、見えている景色がまるで幻影か何かかと咀嚼しようとしてしまう程には。

 

パニック、という言葉も烏滸がましいのか。

思考回路が、パタリと止まったこの状態は、いわゆる思考停止。

上島光は、自分の身に一体何が起きたのか、何故ここにいるのかという現状把握が一切出来ない状態に陥っていた。

 

まるでSFのようだ。

道を間違えたか。それはない、目を降り切んばかりに走りはしたが、変なところで曲がった記憶はない。確りと家に向かって全力疾走していた。

だがどうだ。

見える範囲全てが木に覆われているではないか。

残念なことに、光の実家の付近は都市開発が進んだせいか、森という森はすでに消滅していた。あったとしても、それは小ぢんまりとした庭のようなものだ。

こんな場所は、近所にはなかった筈なのだ。

 

木と木の隙間から、少しだけ月明かりが差し込む。

今日は運が良いのか、満月だったようで腕の長さ以上の視界は確保出来ていた。

しかし、これでは勿論動けるはずがない。

子供の頃に野山を駆け擦り回っていたならば、多少の無理をしたのだろうが。

生憎と光にはそのような経験は無い。

夜の森を歩き回ろうとする肝据わりも無かった。

そんな光に出来ることは、その場を離れないことだった。

下手に動けば、それこそどうにもならない事態に陥るかもしれない。

未だにはっきりしない思考回路で、漸く行き着いた結論だ。それ以外の選択肢は、浮かばなかった。

 

ズボンが汚れることも厭わず、その場に座り込む。

冷えた土が若干の水分を含んでいたせいか、尻のあたりが湿ってきた。

普段なら気持ちが悪いとその場を離れるものだが、今まで全力疾走して体力を消耗したからか、どうしようもない現象に巻き込まれてしまったという諦念からなのか、その場を動こうとする気力は一切湧かなかった。

 

丁度座ったところの後ろに、凭れ掛かれるほどの太さの木があった。

光は遠慮なく凭れ掛かった。

 

風に揺られてワサワサと木擦れの音がする。

夜空は、まだ枝に付いてる無数の葉に覆われていて、眺めることは叶わなかった。

 

思考能力が、徐々に戻ってくる。

 

どうすれば良いのだろうか。

 

このままじっとしていれば、一晩だけなら越せるだろう。

だかその後は。

食料は持ってない。

それより、この場でこのまま目を瞑っても良いのか。

野犬に襲われる危険性もあるだろう。

というより、ここは何処なんだ。

本当に住んでいた街の近くなのか。

待っていて助けは来るのか。

 

どうにもならないではないか。

 

思考能力か回復しても、良いことは無かった。

逆に心配事が無数に顔を出してきた。

際限ない負のスパイラルは、心をいとも簡単に蝕んだ。

蝕まれた結果、残ったのは諦念だった。

 

ー俺一人でどうにか出来る事態は、とうの間に越しているー

 

格闘や護身術を習った経験は皆無、そもそも喧嘩をした記憶もない。

誰かを殴った記憶すらない。

そんな人間がこの場で身を守れるか。

サバイバルなんて、まず知識がないから出来る筈がない。

 

誰かの救助を待つしかないのだった。

 

 

蟋蟀なのか、それとも鈴虫か。

兎に角、耳に入ってくるのは、夜の帳に喜び勇んで鳴いている虫の声のみ。

時折、風が吹いた。

 

当然、誰かが助けにくる気配は無い。

こんな不気味な森、一体誰が喜んで歩き回るか。

そんな人間は、大体はロクでもない者だ。

オカルト好きでも好んでやったりしないだろう。

実際、幽霊の一体や二体出てきても何ら違和感が無いくらいの、闇夜。

月が傾いてからは、灯りがなくなってしまったので、夜目しか頼れるものはない。

 

ちょっと前に、そうだ携帯だと思い付いてポケットをまさぐったが、何故かどのポケットにも入ってなかった。

走っていた時に落としてしまったのだろう。全くの不運だ、酷く落胆した。

 

この時ばかりは、鳥目ではなかった自分の眼に感謝した。

だから何かが起きる訳でもないが。

 

多分の話、いやもうほぼ確定の話だが、このまま飢えて死んでしまうだろう。

少しくらい抵抗したい。そこらへんの野獣でも狩ってやろうぞ。

だが、今は夜中だから出来るわけが無いし、獰猛な野獣に素手で対抗なんて、アホか命知らずなアホがすることだ。

 

今思えば、中々短い人生だった。

でも、大学に行かずに良い職場に巡り会えたし、そこからは不自由しない生活も送れた。

ただ唯一の心残りは、異性との関係が無かったことだが、今となっては過ぎたこと。

 

まあ良いや、取り敢えず眠くなった。

目を瞑って、野犬に察知されても、気付ける自信はない。

そうなった場合、間違いなく喰われるだろう。

 

だが、結局死ぬなら問題ないか。

 

そう結論付けて、光はゆっくり目を閉じた。

 

 

ゆっくりと瞼が上がっていくのを、寝惚けた頭が片隅で認識した。

隙間から光が差し込んで、眩しさを覚えつつゆっくり意識が覚醒する。

程なくして、自分が座った状態、そして木に凭れ掛かっていることが判明した。

薄暗いが、木と木の隙間から僅かながら日光が降り注いでいた。

漸く、朝になったことに気付く。

 

どうやら、野犬の類いは現れなかったらしい。

一応、何処か怪我をしていないか身体の隅々を探ってみたが、衣服に血が滲んで固まったような感触はしなかった。

 

今日一日は、まだ生きられる。

 

「……はははっ…」

 

何故だか、笑いがこぼれた。

見渡す限りの木。何処か開けた場所に出られそうな出口は、見当たらない。

 

朝にはなった。

しかし、鬱蒼と木が生い茂って右も左も分からないこの森に、助けが来ようとは全く想像が出来ない。

 

生き延びる為の選択肢は、サバイバルまがいのことをするか、自力で脱出するか。

 

しかし、昨夜でサバイバルの線は消している。

なら、残ったのは、自力で見付ける。

 

寝る前、結局死ぬから、とかいう諦念に囚われたが、一晩明かすと嘘のように気持ちが晴れた。

色々な問題に直面している。

そのどれ一つだって解決の方法が見つからない。

だが、座り込んでしまえば、もうそれで終わってしまう。

なら、足掻きたいと、思ったのだ。

 

脚に力を込めて、立ち上がる。

昨日の疲れは、奇跡なのか残っていない。

そして、異常事態に神経がおかしくなったのか、空腹も感じない。

 

一歩ずつ、歩き出す。

 

 

ザクザクと、土を踏み締める音が木に反射して反響する。

時折落ち木を踏んだ音が辺りに劈いた。

あてもなく、ただ一歩一歩進んだ。

相変わらず出口なるものは視界には無い。

もしかしたら、同じところをグルグル回っている可能性も考えられるが、生憎とそれを証明できる道具類は手持ちに無い。

というより、完全に手持ち無沙汰なので、どうしようもないのだが。

 

だが、それでも歩いた。

1より小さい、それこそ殆ど0に近い確率だったとしても、森から脱出出来る可能性が有る限り、歩こうと光は決めていた。

いつの間にか、空腹を感じるようになっていて、時折腹も鳴った。

やはり昨日の疲労が残っていたか、両膝が痛くなってきた。

 

それでも、奇跡を信じて。

何もせず死ぬくらいなら、生きたいと願っていた。

 

 

 

皮肉なことに。

 

時には報われない苦行も存在するのだ。

 

 

 

体躯は光の三回りは大きいだろうか。

全身が黒い体毛に覆われて。

血走った双眸は光を捉えていて。

半開きの口は不揃い牙が羅列していた。

 

熊という単語では形容できないモノが、そこにいた。

いたというよりかは、視界に入った。

何だと確認したら、それで最後。 

 

化け物を見て、光の思考は再び停止した。

 

 

 

 

 



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