偽典アンジュ・ヴィエルジュ【刻】 (黒井押切町)
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ジュリアとリーナのオーバーチュア

 本編の前日譚になります。この話自体は一年以上前に書いていたのですが、諸事情で公開していませんでした。
 これを前提とした描写も多くあるため、ぜひお読みいただきたく思います。


 とある日の夕暮れ。ソフィーナは、青蘭学園の寮の一室のドアをノックした。すると、ゆっくりと歩くような足音がして、ドアが開いた。

 

「あらソフィーナ。今日も来たの?」

 

 ひょっこりとドアから姿を現したのは、雑にツインテールに束ねた金髪に王冠を乗せ、白を基調とした服を着た、まるで人形めいた美貌の少女だった。しかし、彼女は目の周りに大きな隈を作っていた。彼女の白い肌には、それはより一層目立っていた。ソフィーナがまだ黒の世界にいた時、魔術研究についてしのぎを削りあった、ジュリアの面影は見る影もない。

 

「ジュリア……。その隈、また学校にも行かずに、寝ずに自分の魔術の研究してたわけ? 毎日毎日プリント届けてる私がバカみたいだわ。昔のあなたの方が精力的だったわよ」

 

「あら、別に義務じゃないんだし、プリントくらい机の中やロッカーの中にでも突っ込んでおけばいいじゃない」

 

 ジュリアは優美に笑ってみせた。もっとも、それは隈が無かったらそうだろうということである。雑な髪に、隈や発言のおかげで、優美とは程遠く、寧ろ不気味な笑顔になっていた。

 

「私もそうしたいところだけどね、残念ながら机もロッカーも容量オーバーなのよ。というわけで、私に来られるのが嫌なら一度学校に来て荷物を持ち帰りなさい」

 

 ソフィーナは唇を尖らせてそう言った。すると、ジュリアは露骨に嫌そうな顔になった。

 

「嫌よ。何で今更分かり切ってることばかり教えられる所に行かなきゃいけないのよ。学校なんて、行く価値無いわ」

 

「学校は勉強するだけじゃないわよ。部屋に閉じこもってるだけじゃ、見えないことも多いわ。それに、あなたの部屋を訪ねた人、入学してからの一年間と少しで、私以外にいるの?」

 

 ジュリアは数秒考えると、わざとらしく大きなため息をついた。

 

「友達の人数じゃ、人の良し悪しは測れないわ」

 

「……分かったわ。私、学校行くときにあなたを迎えに行ってあげるから、ちゃんと明日学校に行くことね」

 

 ソフィーナはジュリアの返事を待たずに、手を振ってジュリアに別れを告げ、自分の寮の部屋に早足で向かっていった。

 

        ***

 

 ソフィーナの背中を見送ったジュリアは部屋に戻ると、電気も付けていない薄暗い中、魔法陣の描かれた床の上をよろよろと歩いて、ベッドに飛び込んだ。そこから、部屋の隅に整然と置かれた人形を眺めた。それは、決してジュリアが童女趣味であるから、という訳だけではない。ジュリアの得意とする魔術は、魂の宿らぬ物を意のままに動かすというものだ。人形は、その魔術の対象としてはうってつけなのだ。そして、ジュリアはこの研究を、世界接続の前から続けている。

 

(分からないこと、ねえ)

 

 かつてのソフィーナは、今のように社交的ではなかった。寧ろ、今のジュリアのように、外界との関わりを絶って、自分の世界で、自分の研究に没頭していた。ソフィーナが社交的になったのは青蘭学園に入学してからだ。

 

「私が、社交的になったらどうなるのかしら」

 

 ふと、興味が出てきた。部屋の外に出る億劫さよりも、ジュリアの好奇心が勝った瞬間だった。それに、まだ見ぬ強敵にも出会い、張り合いの無いこの生活から脱却できるかもしれない。そう考えると、ジュリアは興奮を抑えきれなかった。

 ジュリアはベッドから出ると、電気を付けてからクローゼットを開いた。中には私服の他に、青蘭学園の制服一式。殆ど着ていないためか、形が崩れていることはなかったが、埃は被っていた。

 

「一応、明日学校行くのだから、綺麗にしなきゃね」

 

 ジュリアは人形にブラシとアイロンを持って来させると、制服をブラッシングしてからアイロンをかけた。

 

「これでよし」

 

 ジュリアは綺麗になった制服を見て、満足してベッドに戻った。そしてそのまま、明日への期待を胸に、すぐ眠りについた。

 

        ***

 

 窓から差し込む朝日で目覚めたジュリアは、真っ先に時計を確認した。まだ七時前。寮から学校までは徒歩で十分もかからず、八時半にHRが始まるので、余裕をもって準備できると、ジュリアはほっと息をついた。

 ジュリアはのそのそと寝床から這い出た。普段なら、ここから魔術研究を始めるところだが、今日の彼女はまずシャワールームに向かった。体のついでに髪の毛も、いい香りのするシャンプーを用いて洗った。それから、シャワールームを出て髪を乾かした後、納豆ご飯を食べ、コップ一杯分の牛乳を飲んで朝食とした。

 いつもとは違い、髪をきちんと束ね、歯を磨き、制服に着替えたところでジュリアは時間を確認した。まだ八時にもなっていなかった。

 

(私、こんなにテキパキ行動できたのね)

 

 少し感心しながら、ジュリアは軽い足取りで鞄を取り、寮の部屋を出た。ソフィーナはまだ来ていないが、することも無いので、ドアの前で待っていることにした。

 

「あら、もう準備万端だなんて、驚いたわね」

 

 しばらくして迎えに来たソフィーナが、呆気にとられていた。ジュリアは彼女の隣に立つと、勝ち誇ったように微笑んだ。

 

「私だって、やるときはやるのよ。まあ、ソフィーナが誘わなきゃ、やる気にならなかったでしょうけど」

 

「あなたが外に興味を持ってくれたようで嬉しいわ。そうと決まれば早く行くわよ」

 

 ソフィーナは、早足気味に歩き出した。ジュリアも、彼女に追随する形で、一歩を踏み出した。これが新しい世界への一歩だという達成感に似た感覚も感じた。

 ところが。

 

「どうしたのよ、ジュリア。まだ学校に着いてもないのに不機嫌そうよ」

 

 通学路を歩き始めて数分、ジュリアは早くも帰りたくなっていた。その理由は、周囲からの視線(主に男子)に他ならなかった。

 

「さっきから男どもの視線しか感じないのよ。青蘭学園は女子の方が圧倒的に多いんじゃなかったの?」

 

「殆ど登校していなかったから、あなたの姿は他の皆にとって新鮮なのよ。男子の目線が多いのは、あなたが可愛いからじゃないかしら?」

 

「私はハーレムなんか作る気無いわよ」

 

「安心しなさい。どうせ殆どは視線を送るだけよ。まあでも、適当な男は見繕わないと、アルドラに困るわよ」

 

 ジュリアは、「アルドラ」なるものが何なのか、一瞬分からなかった。すぐ思い出したものの、首を横にぶんぶんと振った。

 

「無い無い。あり得ないわ。私は別にアルドラ無くても強いもの。今日それを証明したげるわ」

 

「普通の子だったら否定するとこだけど、あなただからやりかねないわね」

 

 ソフィーナは微笑しながら、肩を竦めた。気楽そうなソフィーナとは違い、ジュリアは今日という日が、不安で仕方なくなっていた。

 

        ***

 

 鼻歌を歌いながら隣を歩くソフィーナに対し、男子からの好奇の視線に慣れてしまうほど、晒されながら来たジュリアは、彼女のクラスの教室の前の時点で、もうすでに一日を終えたような疲労感を覚えていた。しかし、これからに期待する気持ちもある。意を決して、教室のドアを開けた。すると、一人のツインテールの女生徒がジュリアに気づくなり、突進するような勢いで走ってきた。

 

「ソフィーナちゃんの言った通りだ! 本当に来たんだね!」

 

 彼女はジュリアの両手を握って、ぶんぶんと縦に振った。当のジュリアは訳が分からず、ただ唖然としながら、手を振られるままにしているだけだった。

 

「君、ジュリアちゃん、だよね。私、日向美海っていうの! 美海って下の名前で呼んでくれると嬉しいな!」

 

 ジュリアは一方的に自己紹介された。日向美海と名乗った彼女の鼻息は荒かった。まるで目の前で布を揺らされた闘牛のように、ジュリアには見えた。

 

「やめなさいよ。ジュリア、困ってるじゃない」

 

 ソフィーナは呆れながら、美海の頭を軽く殴った。すると、美海は冷静になったのか、ばつが悪そうに後頭部を掻いた。

 

「ごめんね、ジュリアちゃん。ちょっと興奮しすぎた」

 

 ジュリアは少し驚いた。フランクな態度ながら、美海の謝罪から誠意は感じられたからだ。賑やかな子なだけで、実は良い子なのかもしれない。そう思った時、ジュリアは自然と笑みをこぼしていた。

 

「いいのよ。これからよろしくね、美海」

 

 すると、美海は目を輝かせて、大きく首を縦に振った。

 

「うん! よろしくね!」

 

 悪くない滑り出し。今後の、互いの態度によっては、友達になれるかもしれない人が出来た。ジュリアが外に出た収穫は一つ得られたと思ったとき、ジュリアの疲労感は既に消え去っていた。

 

        ***

 

「エクシードの授業は制服のままでもやれるのね。少し意外だわ」

 

 エクシードの実技の授業が始まる前の休み時間。ジュリアはソフィーナにそう話しかけた。

 

「ええ。まあフィールドのおかげで服が破れたりはしないし、この制服のポケットなんかにいろいろな物を詰め込んだり出来るからね」

 

 ソフィーナは淡々と言った。そして、急にハッとしてジュリアに詰め寄った。

 

「座学のように物議を醸すのはやめなさいよ。あのおかげで、あなた多方面に悪評が知れ渡っちゃってるんだから」

 

 物議を醸したというのは、先の座学の授業で、ジュリアが「こんな授業を聞く必要のある人はよっぽどのマヌケだ」と言って、授業を聞かずにそそくさと机の上で魔術実験を始めてしまったことである。

 

「学校に行かなくても、魔術研究の成果を出せばよかった黒の世界とは違うのよ。そこのところ注意してよね。悪評が立ってもいいことなんかひとつもないわよ」

 

「……そうね。気をつけるわ」

 

 ジュリアは、ソフィーナの注意をすんなりと受け入れた。ジュリアが学校に来た元来の目的のひとつは、己が社交的になれるか、なったらどうなるか、ということだ。悪評が立てば立つほど、その目的を果たすのは困難になる。同時に、彼女のしたことは、この場ではただの我が儘であったことに気づいて、ひどく恥ずかしくなっていた。

 

「何事にも、始めは失敗はつきものね。だからと言って私のやったことを正当化する気は無いけれど」

 

 気持ちを落ち着かせて、ジュリアは呟くように言った。それを受けて、ソフィーナが何かを言おうとしたが、

 

「ジュリアちゃん、ソフィーナちゃん」

 

 能天気な美海の声が聞こえて、会話は打ち切られた。美海は小走りで寄って来て、ジュリアとソフィーナの間に入った。

 

「次の授業、ブルーミングバトルの実技をやるからさ、ぜひジュリアちゃんとバトルしたいなって」

 

「ええ。良いわよ。そういえば、バトルは複数対複数で行うのよね。パートナーにはソフィーナを付けていいかしら」

 

 ジュリアは美海の申し入れを快諾すると、ソフィーナに視線を向けた。すると、ソフィーナは複雑な表情を浮かべた。

 

「いいけど、アルドラはどうすんのよ。一応プログレスとアルドラとの相性があるのよ。言っとくけど、私のアルドラがあなたと相性がいいかは分からないわ」

 

「朝の会話を忘れたの? アルドラ無しでも私の強さを見せつけるって」

 

 ジュリアは余裕だった。相方は旧友であり、黒の世界にいた頃の競合相手だったソフィーナだ。そして、ジュリア自身も才能があると自負していた。たとえ未知の者が相手でも、遅れを取る自分の姿を想像できなかった。しかし、未知なる者との闘いを楽しみにしているのも事実で、もし美海がジュリアを下せるほどの実力者なら、それはそれで学校に行く意味ができる。寧ろ後者の方が、ジュリアが学校に行く意味が深まるので、ジュリアは美海の実力に相当な期待をかけていた。

 

「楽しみにしてなさい。私の力、見せてあげるわ。その代わり、あなたも私を楽しませてね」

 

        ***

 

 そして、勝負の時間は来た。晴天の下、コロシアムのような闘技場の中央で、ジュリアたちは退治している。観客席のギャラリーは、専ら美海やソフィーナ、そして美海のパートナーであるセニアとかいうアンドロイドの応援ばかりだ。ジュリアには、彼女の力に対しての好奇の目や、教師をはじめとした、冷ややかな目が向けられた。

 ソフィーナのαドライバーは、少し身長の高い好青年だった。体格もがっしりしており、女生徒からの人気は高そうだ。実際、気持ち悪がられて女生徒から避けられているαドライバーも多い中、彼はかなり人気が高いらしく、言い寄られることも珍しくないとのことだ。その上、αドライバーとしての高い素質も有するので、その意味でも人気は高い。ジュリアに向けられた冷ややかな視線は、そういうことも含むだろう。

 しかし、ジュリアはそのようなことでなく、自分と彼の相性はいいのか、ということにしか関心が無かった。試合が始まる前に、試しにシンクロしてみたところ、彼曰くまあまあ、ということだった。

 

「まあまあの相性というのは残念ね。全く悪かったら、私の実力を存分に見せつけられたのに」

 

 バトルが始まる前に、ジュリアは微笑を浮かべながら、ソフィーナにそう言った。

 

「一応あんま大きな声で言わない方がいいわよ。あいつ、ああ見えて繊細だから、聞こえたら気悪くしちゃうかもしれないし」

 

 ソフィーナが口を尖らせたのを見て、ジュリアはソフィーナに体が密着するほど近づいて、耳元に囁いた。

 

「朝に私が同じこと言った時と反応が違うわよ? あなた、ひょっとして彼のこと――」

 

「わー! わー!」

 

 ソフィーナが喚いた。体もじたばたさせた。彼女の顔は真っ赤だった。ジュリアはふふんと鼻を鳴らすと、ソフィーナの肩を叩いて、審判役の教師を指差した。

 

「うんざりしてるっぽいわよ。遊んでる場合じゃなさそうね」

 

「誰のせいよ!」

 

 ソフィーナは憤慨しながら位置に戻った。

 

(しかしあのソフィーナが、ねえ。面白いこともあるものね)

 

 ジュリアもころころと笑いながらそれに続く。その道中で、一度深呼吸をして、顔を引き締めた。怪我をしないとはいえ、これは闘い。その前後はともかく、最中には気をぬくわけには行かなかった。

 程なくして、バトルが始まった。事前に聞いた通り、美海とセニアは突っ込んで来た。美海の方が前に来ている。彼女らのコンビの戦法は、風のエクシードを駆る美海のスピード感溢れる攻撃を、セニアのビットで援護していくというものと聞いた。強力だという話だったが、ジュリアにとっては、他愛のない攻撃にしか聞こえなかった。彼女らがセオリー通りではない動きをしたとしても、ジュリアにとっては些細なことだ。

 

(人形を使うまでもないわね)

 

 ジュリアは前に突っ込んだ。そして、適当なタイミングを見計らって、真上に跳躍した。その場の誰も、ソフィーナでさえも、呆気に取られていた。一応、ジュリアはこの動きをするために、人形魔法を応用させて自分に使っていたのだが、側からはエクシードもリンクも何も使わず、超人的な動きをしたようにしか見えなかったことだろう。

 ジュリアは美海が呆然としている隙に、本来は人形を操るための糸を美海に向かって伸ばし、美海の首に巻きつけ、糸をピンと張った。

 

「はあっ!」

 

 重力に任せて落下しながら、糸を強く引いた。美海の体が宙に浮く。そこから更に、糸を振り回して、美海の体をセニアに叩きつけようとした。しかし、体が動かなかった。それだけでなく、そこから重力で落ちることもなかった。それは美海も同じだった。そこで、ジュリアは美海のエクシードから、動きを封じているものが気流だと悟った。

 

(人形は使わない予定だったけれど、仕方ないわね)

 

 ジュリアは、ここぞとばかりに加えてきたセニアの攻撃を魔術障壁を用いて防御しつつ、人形を数体召喚する。そのうちの一体を美海の顔にへばりつかせた。そして二体を脇にしがみつかせ、一体をスカートの中に突っ込ませ、残りを脇腹や鳩尾に突進させるのを繰り返した。すると、案の定拘束が緩くなったので、予定通り美海をセニアに落とす。セニアの表情が焦燥感に染まる。そこで、慌てて回避を試みるセニアの隙をついて、ソフィーナが魔術的なエネルギーを纏わせた右手で、セニアの鳩尾を殴った。少し飛ばされるセニア。そしてその先で、美海の体が、セニアの頭頂部に直撃した。

 

「勝負あり!」

 

 審判の声が響く。ジュリアたちは拍手に包まれるが、ジュリアは物足りなく感じていた。一分もかかっていない。あまりにあっけない。

 

(高いエクシード能力を持っていると言っても、この程度なのね)

 

 ジュリアがため息をついたその時、彼女は好戦的な気を感じた。はっとして周りを見回すが、その時には、その気は失せていた。

 

(今のは、誰のなの?)

 

「ジュリア、何ぼうっとしてんのよ」

 

 ソフィーナに肩を叩かれ、ジュリアは我に返った。

 

「俺が指示する必要も、リンクも必要なかった。すごいな、君は」

 

 ソフィーナのαドライバーにそう賞賛されるも、ジュリアは空返事をするばかりで、先程感じた気のことが気になって仕方なかった。

 

        ***

 

 放課後、ジュリアは美海とソフィーナに誘われて、街に遊びに出ていた。はじめにショッピングをして、カラオケで日が暮れるまで歌った。ジュリアには一応幾つか好きな歌はあったため、カラオケはなんとかなったものの、ショッピングには興味が無かった。そのため、美海とソフィーナに様々な服を着せられたり、奢られて色々なものを食べさせられたりと、大変な思いをする羽目になった。しかし、嫌な気分では無かった。

 

「楽しかったねー。また遊ぼうね、ジュリアちゃん」

 

 寮への帰路の途中で買ったクレープを食べながら、美海は言った。街の光に照らされ、クレープを頬張りながら能天気に笑うその様は、ジュリアには眩しく見えた。

 

「そうね、楽しかったもの」

 

 この言葉は嘘偽りではない。本心からのものだった。しかし、ジュリアは満ち足りない何かを感じていた。新しい友達は出来たし、遊ぶことも覚え始めた。これらのことは、外に出なければ得られなかったものだ。少しは社交的になれた気もしたので、その意味では、ジュリアの目的は達成できたといえる。

 しかし、足りない。黒の世界にいた時の方が良かったとさえ思える。原因はすぐに思い至った。期待外れも甚だしいバトルに他ならない。二年生の中でもトップクラスと言われる美海であの体たらくなら、二年生の中では、到底競合相手になり得る者はいないだろう。

 ジュリアは、己の力に自信を持っているが、向上心も持ち合わせていた。そして、その向上心は非常に強かった。青蘭学園に入学したと直後から引きこもってしまっていたのはそのためで、その向上心を満たすにふさわしい場所とは思えなかったのだ。

 黒の世界にいた時は、ソフィーナをはじめとした競合相手が多くいた。互いに切磋琢磨しながら、自分なりの魔術研究を完成へと近づけていた。ジュリアは自己満足出来る性格ではなかったから、ライバルの存在がいることは素晴らしく感じた。競い合えて、己の力を試すことができて、幸せだった。

 しかし、今、ジュリアの知り得る限り、青蘭学園にジュリアがライバルと認められるのは、ソフィーナしかいない。せっかく社交的になったとしても、それでは大した意味を持たない。ジュリアは今、社交的な自分よりも、自分と同等か、それ以上の実力を持つ新たな敵を渇望していた。

 

「ジュリア?」

 

 気がつくと、ソフィーナが心配そうにジュリアの顔を覗き込んでいた。こんな顔も出来るようになったのかと、ジュリアはソフィーナの心配をよそに、感心していた。

 

「大丈夫よ。ちょっと考え事をしてただけだから」

 

 ジュリアは微笑んで見せた。すると、唐突に美海がジュリアの肩を叩いてきた。突飛なことだったので、思わず飛びのいてしまった。

 

「びっくりするじゃない」

 

「悩みがあるなら、いつでも相談してよ。ジュリアちゃんとは、気が置けない友達になりたいからさ」

 

 ジュリアは少し考えたが、結局「大したことじゃない」と答えた。相談してしまったら、美海は弱いと言ってしまうことになるので、美海自身が気にしなかったとしても、ジュリアの気分が悪かった。この話はここで打ち切りとなり、寮まで他愛のない会話を三人でかわした。

 

「じゃ、また明日ね」

 

 寮の部屋の前まで来てくれた美海とソフィーナに、ジュリアは自然とそう言っていた。

 

「うん、また明日」

 

「ちゃんと来るのよ」

 

 二人は笑ってそう返した。ドアが完全に閉まる間際まで二人の顔を見ながら、ジュリアは、少しだけ名残惜しさを感じていた。

 

        ***

 

「ジュリア先輩はいらっしゃいますか!」

 

 翌日の昼休みに、昼の教室の賑やかな空気を切り裂くような声が響き、ドアが勢いよく開かれた。教室の誰もがそちらを一瞥した。無論、ジュリアとて例外ではない。声の主は、低めの身長の、長い青髪を持つ少女だった。ジュリアを先輩と呼んだことから、中等部か、一年の者だと分かる。そして、ジュリアは昨日感じた気と同じものを、その少女から感じた。

 

「ジュリアは私よ」

 

 美海とソフィーナと、席を囲んでいたジュリアは立ち上がると、その少女へ歩み寄った。すると、少女は目を輝かせて、唾が飛ぶくらいの大声で、

 

「私と! バトルしてくださいませんか!」

 

 頭を下げられてしまった。周囲の視線もあり、こうしてしまった以上は、断りきれない。

 

「いいけど、あなた、なんていうの?」

 

「やや、これは失礼」

 

 少女は顔を上げ、彼女の制服の埃を落としたり、裾を整えたりしてから、一度咳払いをして告げた。

 

「私、青蘭学園高等部一年、リーナ=リナーシタと申します!」

 

 妙にはきはきした声で、恭しくリーナは言った。今の時世、こうした人はなかなかいない。リーナは引き気味になりながらも感心していた。

 

「昨日のバトル、拝見させていただきました。あのあなたの詰まらなさそうな顔! 私は物悲しくなりました。しかし、私ならあなたにあのような顔はさせません! ですから!」

 

 ジュリアは眉をひそめた。先に抱いた好感はとうに消え失せた。しかし、不快感を表すジュリアをよそに、先ほどまでの恭しさはどこへやら、リーナはかなりヒートアップしてジュリアに詰め寄った。

 

「私と! バトルしましょう! アルドラ抜きで!」

 

「分かったから。放課後でいいかしら?」

 

 ジュリアはぶっきらぼうに言った。しかし、当のリーナは、何も気にしていない様子で承諾すると、

 

「失礼いたしました!」

 

 入った時とは対照的に、静かにドアを閉めて去っていった。すると、教室は何事も無かったかのように賑わいを取り戻した。

 

「えらいのにバトル申し込まれちゃったわね」

 

 呆然とするジュリアに、ソフィーナはそう話しかけた。

 

「知ってるの?」

 

「名前はね。彼女、一年の実技負け無しで、成績はぶっちぎりでトップなのよ。二年でも、かなう子はいないんじゃないかっていうもっぱらの噂」

 

「へえ、そりゃあ楽しみねえ」

 

 ソフィーナは何かを言いかけたが、ため息をついてやめた。対し、ジュリアは自然と口角を釣り上げていた。ソフィーナの話しぶりからするに、昨日の美海のような期待外れではなさそうだ。黒の世界にいた時とはまた違った幸せを得られる――そう考えると、昨日以上に、ジュリアは授業が身に入らなさそうに思えた。

 

        ***

 

 放課後の空は赤かった。雲はなく、コロシアムの中央に立つジュリアとリーナの長い影が真っ直ぐに伸びている。ジュリアが北東で、やたらボディラインの強調が激しい、体に密着した衣装を着たリーナが南西に立っていた。観客席には、ソフィーナと美海だけが座っている。

 

「では、バトルスタートといきましょう!」

 

 リーナは早口気味に言うと、突然右手を高く掲げた。

 

「出ろおおおおッ! ジャッジメンティイイイイス!」

 

 リーナがそう叫び、掲げた右手で指を鳴らした。すると、遠くで大量の水が流れる音を聞いた。音の源はプールだった。そのプールに、謎の人型の巨大ロボットが出現していたのだ。ジュリアの心はわき踊った。彼女を相手することは、つまりそのロボットを相手することなのだ。なんという非常識。なんと素晴らしいことか。そのようなジュリアの興奮をよそに、それはジェット噴射をして飛び立ち、リーナの隣に降り立った。それは目測で十メートル弱だった。銀色のボディは夕日によって赤く輝いている。

 

「これが私の相棒、ジャッジメンティスです。不公平だと言うなら、これを使わなくても構いませんよ」

 

 リーナは余裕たっぷりに言った。なるほど、負け無しの理由はこういうことかと、ジュリアは納得した。そして、せせら笑うように鼻を鳴らして、

 

「巨大兵器なんて、あなたの特権じゃないのよ。まさか青蘭学園であれを使うとは思いもしなかったけどね」

 

「ジュリア、まさかあなた!」

 

 何を使う気なのか悟ったらしいソフィーナが、観客席からいきり立った。しかし、その時にはすでに、ジュリアはその周囲に巨大な魔法陣を描いていた。

 

「さあ出でよ! 魔神鎧(マジンガイ)!」

 

 ジュリアが召喚したのは、ジャッジメンティスと同じく人型の、金属でできたコウモリの羽のようなものを背中に付けた、ジャッジメンティスとほとんど大きさの変わらない巨大な黒鉄の鎧だった。ジュリアはその四肢に操るための糸を伸ばし、その肩に飛び乗った。

 

「これこそ魔神鎧。私の人形……と言えるか微妙だけど、その中じゃ最強クラス。同じ土俵に立ってあげたわけだし、あなたも思う存分暴れられるわね」

 

「ふっ、楽しくなりそうです!」

 

 リーナはジャッジメンティスのコックピットに乗り込むと、外部スピーカーを通じて告げた。

 

「改めて、いざ尋常に、勝負!」

 

 掛け声の瞬間、ジャッジメンティスが消えた。ジュリアは辺りを見回したが、ジャッジメンティスの姿はどこにも見えない。しかも魔神鎧が向いているのは、ちょうど太陽が正面から当たる方角だ。これでは、もし背後から来られたら、ジュリアは気付けない。そこで、ジュリアは空に浮かぶことを思いついた。それなら、どこにジャッジメンティスが来ても、気がつくことができる。

 

「飛ぶわよ魔神鎧!」

 

 ジュリアは魔神鎧を飛翔させ、地上約十五メートルのところまで上がった。するとその瞬間、目の前の空間が湾曲し、そこからジャッジメンティスが現れた。

 

(亜空間移動!?)

 

「ジャッジメント・ビィィィィイム!」

 

 リーナの掛け声で、ジャッジメンティスの、人間でいうところの額にエネルギーが集まり始めた。ジュリアは咄嗟の判断で、魔神鎧に、ジャッジメンティスの顎にアッパーカットを繰り出させた。ジャッジメンティスは回避を試みるが、完全には回避できず、拳がフェイスに掠った。そしてちょうどその時、ビームが発射された。拳完全には掠ったおかげで、向いていた方向がそれ、ビームはあらぬ方向にそれ、コロシアムを覆うブルーミングバトルフィールドを突き破り、空の彼方に飛んでいった。

 あんな攻撃を食らったら、いくらフィールドがあるといえたまったもんじゃない――そう思うなかで、ジュリアは興奮していた。その理由を考える暇は無かったが、ジュリアは楽しくなって、笑みすら浮かべていた。

 

「今度はこっちから行くわよ。アサルトナックル、行きなさい!」

 

 ジュリアの操作で、魔神鎧がその両腕をジャッジメンティスに向けて飛ばした。そして、その手の先で魔法陣を展開し、腕を小刻みに移動させながら、そこからエネルギー弾を発射させる。

 

「ちっ、オールレンジ攻撃ですか!」

 

 リーナの舌打ちが聞こえた。彼女は亜空間移動を再び使わなかった。二度も同じでは通じないと考えたのだろう。リーナがアサルトナックルの対処に気を取られている隙に、ジュリアは魔神鎧の前方に強固な結界を作った。そして、リーナに気取られぬようにしながらゆっくり近づいていき、息を殺して機を待った。

 

(もらった!)

 

 リーナがエネルギー弾を回避した直後、ジュリアは結界を張ったまま、魔神鎧をジャッジメンティスに突っ込ませた。いかにメカといえど、行動の直後に僅かに硬直する。その隙に高威力の攻撃を叩き込めば、いかにジャッジメンティスといえど、ひとたまりもないだろう。

 

「フッ、甘いですよ!」

 

 しかし、ジャッジメンティスは硬直したかに見えた瞬間、機敏な動きで魔神鎧の突撃を回避し、その背後に蹴りを加えた。ジュリアはすぐ魔神鎧の体勢を整えて、距離を取り、腕を戻した。

 

「私のエクシードでジャッジメンティスの遠隔操作ができるのです。私の素の操縦技術と、それだけではカバーしきれない隙を私のエクシードで埋める。この戦法は打ち破れませんよ」

 

「そりゃ厄介ね。じゃあ、そんなの関係無い、私の最強技を食らわせたげるわ。マジカルウェイブ!」

 

 ジュリアは一旦力を込めると、魔術的なエネルギーをジャッジメンティスに飛ばした。それはジャッジメンティスのボディに触れると、まとわりついてその動きを阻害した。そして、両手を組んで前に突き出し、その拳に結界を纏わせ、それを錐揉み回転させながら、ジャッジメンティスに飛ばした。

 

「そして、私自身が拳となる。これが魔神の鎧だということを、よく分からせてあげるわ」

 

 ジュリアは魔神鎧を変形させた――魔神鎧は、巨大な拳となったのだ。そしてその手の甲にあたる場所に立つと、拳の前に強靭な結界を張り、先程よりもかなり大きい加速で、ジャッジメンティスに突っ込んでいった。

 

「ふっ、いいでしょう。全身全霊で受けて立ちましょう!」

 

 リーナが気合を込めると、ジャッジメンティスの顔面の装甲が開き、人面のようなものが現れたかと思うと、縛っていた魔術エネルギーを弾いた。そして、ジャッジメンティスの右の掌に、青い閃光が走った。

 

「私の右手が青く閃く! あなたを倒せと轟き唸る! ひぃぃっさつ! ジャッジメント・パニッシャアアアアッ!」

 

 リーナは拳となった魔神鎧の正面に、青き閃光を纏わせた、ジャッジメンティスの右手を突き出した。魔神鎧とジャッジメンティスの右手が激突し、エネルギーの奔流が接触点を起点として発生した。力は互角。このままでは相打ちは必至だろう。

 しかしこの時、ジュリアはかつてない興奮と、歓喜を覚えていた。ジュリアが全力を出さざるを得ないだけの力を持つ者が、目の前にいるのだ。リーナこそ、自分の新しい競合相手にふさわしい。ジュリアがそう思えるだけの相手に、巡り会えたのだ。

 外に出て、本当に良かった。そう心の底から思えた時、ジュリアの頬を熱いものが伝った。

 

        ***

 

 結局、決着はつかなかった。あの拮抗の最中、フィールド発生装置への負荷がかかりすぎたため、駆けつけた教師に仲裁されたのだった。

 

「全く、余計な邪魔が入ったもんだわ」

 

「はい、私もあのような形で終わってしまったのは残念です」

 

 日没後の寮への帰路を、ジュリアはリーナと並んで歩いていた。後ろにはソフィーナと美海がいる。新たなライバルと友、そして旧友と歩くこの道が、いつもと違うものに思えてならなかった。

 

「お互い力を高めて、いつか再戦したいです」

 

「そうね、次は負けないわよ」

 

「私はやって欲しくないわ。あんな見ててハラハラするのは」

 

「まあまあソフィーナちゃん、そう言わずに。それにソフィーナちゃん、あまり関係無いじゃん」

 

「美海の言う通りよ、ソフィーナ。なんなら、あなたもリーナとやってみなさいよ。絶対何回もやりたくなるわ」

 

 ソフィーナは否定も肯定も出来ず、悔しそうな顔で押し黙った。その顔を、ジュリアはころころと笑いながら眺めていた。そして、ふっと表情を和らげて、談笑するリーナと美海を一瞥した後、ソフィーナに話し掛けた。

 

「ねえ、ソフィーナ」

 

「何よ」

 

「ありがとうね、外に出るきっかけを作ってくれて」

 

「急に畏っちゃって、どうしたのよ」

 

 ソフィーナは怪訝な顔をした。対し、ジュリアは表情を崩さず、微笑みを浮かべていた。

 

「あなたが外に出ることを提案してくれなかったら、きっと私は黒の世界にいた時よりも、つまらない生活を送り続けていたもの。外に出たおかげで、新しい友達と、ライバルが出来た。だから、私ね」

 

 自然とこぼれた満面の笑みで、ジュリアは告げる。

 

「今、幸せよ」

 

 頭上には燦然と輝く北極星。これから先も、きっと充実した、幸せな学校生活になる。その生活を想像すると、ジュリアは自然とにやけてしまっていた。



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かなしみのセレナーデ
日常の裏で


 ある秋の日の夕方のことである。青蘭島の都市部の路地裏の一角に、一人の、金髪で、黒いグリューネシルト統合軍の制服を着た青年が一人と、パンクファッションの格好をしたり竜の模様が入った金のスカジャンを着たりした不良風の五人の男が居た。ただし、不良風の男は四人が気絶して倒れ伏しており、残りの、タバコをくわえた一人も壁際に追い詰められている状況であった。

 

「あー、つまんね。揃いも揃って青蘭島のチンピラはこんなもんかよ。こんなところでチンピラやってるってことは、もともと低脳か、在学中にαドライバー能力失ったかのどっちかか。ま、どっちにしろロクデナシのドサンピンってことには変わりねえな」

 

 金髪の男は拳を鳴らしながらそう吐き捨てるが、口元は嗜虐的な笑みを浮かべていた。不良風の男は、四人をたやすく一蹴した目の前の男に歯を鳴らしながらも、威勢良く啖呵を切る。

 

「ふ、ふざんけんじゃねえぞバカヤロウ! 手前なんかに馬鹿にされたままでいられるか!」

 

 そう言って彼が取り出したのはバタフライナイフであった。蛮声を上げて金髪の青年に突進する。しかし、金髪の青年は紙一重でそれを避け、ナイフを持った腕を締め上げた。

 

「んな屁っ放り腰で、統合軍のスーパーエースの俺に勝てるわきゃねえだろカスが」

 

 金髪の青年は、徐々に締め上げる力を強くしていった。やがて不良風の男は痛みに耐えかねたように絶叫し、口から紙巻きタバコを、手からナイフを落とした。金髪の青年はそのまま彼の肩を脱臼させると、彼の尻ポケットから出ていた財布を取り出して、その中身を確認した。

 

「ひい、ふう、みい。なんだ万札三枚しか持ってねえのかよ。しけてんなあオイ。ま、無いよりマシだな。じゃ、これ貰ってっから」

 

「てめえ、ふざけんな!」

 

 不良風の男は至極真っ当な反論をするが、金髪の青年は財布を懐にしまうと、彼の正面に回ってその胸元を蹴って倒れさせ、さらにその鳩尾に踵を押し付けた。

 

「ああ? 因縁つけてきたのはそっちだろドサンピン。だったら慰謝料払うのも当然だろうが。あ、そうそう。口答えしたから慰謝料追加な。つっても金はもう無えだろうから、俺が楽しむことでチャラにしてやるよ」

 

 そう言って、金髪の男は不良風の男を踏みつけたまま、辺りを見回した。すると、彼が先ほど落としたタバコが、まだ火がついているのが見えた。金髪の男は嬉々としてそれを拾うと、不良風の男の頬を手で挟んで、そのタバコの火を彼の目に近づけた。

 

「てめえ、未成年のくせにタバコ吸うってことは、よっぽど好きなんだろうな。だとすると、目に入れても痛くねえよなあ。ヒッヒッヒ」

 

 不良風の男は顔を激しく振って抵抗した。何かを叫んでいるようであったが、金髪の青年に頬を挟まれているため、それは呻き声にしかならなかった。

 

「うるせえよ。あと動くな。手が狂っちまうだろうがよ」

 

 金髪の男が悪戦苦闘していると、一際大きな足音と、凛とした女性の声が背後から聞こえた。

 

「そこまでです! 私は風紀委員のリーナ・リナーシタです! 今すぐやめなさい、カール・ヘス!」

 

 そう言われ、金髪の青年——カール・ヘスは、舌打ちをしながら、口を尖らせて振り返った。その先には、細身の低身長で、長い青髪を伸ばした少女、リーナ・リナーシタがいた。

 

「さあ、早くこちらに来なさい!」

 

 リーナは大声で催促した。カールは、それに頷きながら、再びその場に倒れている不良に向き直った。

 

「良かったなあ。命拾いしたぜ」

 

 カールはそう言いつつ、彼の鳩尾に強い踵落としを入れて気絶させた。それから振り返って、カールはリーナの方に歩いて行った。

 

        ***

 

「さあ、これであなたが一ヶ月前に入学してから暴力沙汰は十二回目ですが、言い訳を聞きましょうか」

 

 青蘭学園の風紀委員会教室で、リーナとカールは机を挟んで向かい合っていた。二人の他には誰もおらず、陽の光はカーテンで遮られており、光源は天井に付いている照明だけだ。

 

「他の風紀の連中はどうした?」

 

 カールはリーナの質問を無視して、辺りを見回しながら尋ねた。リーナはその態度にムッとしながらも、質問された以上は答えねばと、吐き捨てるような口調で返答する。

 

「様々な事情で出払っていて、今は私しか手が空いてないんです。これで満足ですか」

 

「そうだなあ。風紀委員会に仕事やらせ過ぎなんじゃねえのか? 学園内の風紀の取り締まりだけじゃなくて、プログレスとかαドライバー絡みの犯罪の取り締まりもやってんだろ。そりゃいくら人がいても手が足りねえだろうよ」

 

 カールはそのように言いつつ、座っている椅子を後ろにやって、頭の後ろで手を組んで、机に組んだ足を乗せた。リーナは更なる苛立ちを感じながらも、カールの言葉に返事をした。

 

「確かにその通りです。もっと細分化させて、専門の委員会を作るか、もしくは警察の中にプログレスの犯罪を取り締まらせる部署を作るかしなければと私も考えています。でも、今聞いてるのはそんなことじゃありません!」

 

 リーナは机を強く叩いて音を鳴らした。しかし、カールは全くその横柄な態度を変えず、リーナの方すら見ずに返答した。

 

「なんか向こうが突っかかってきたので撃退しましたー。以後このようなことを他の人に起こさないように、身も心も懐事情も死なない程度に粉々に打ち砕いて再起不能にしましたー。私一個人としては、街の治安向上に繋がると思ってのことでしたー。はい、以上」

 

 真面目さが微塵も感じられないカールの口調に、リーナはフラストレーションを爆発させて怒鳴る。

 

「だとしても! あなたのあれはやり過ぎです!」

 

「いや、だってよ。傑作なんだぜ? 俺がアイリスと街中でイチャついてる時でもよ、前にボコったやつに気さくに挨拶すると一目散に逃げ出すんだぜ。……フヒヒ、いかん、思い出すだけで笑いがこみ上げてきた。ヒッ、ヒッヒッヒ」

 

 とうとう、彼は腹を抱えて下卑た風で笑い始めた。それでも机から足を下さないあたり、変に器用だとリーナは感心してしまった。しかし、我に返った彼女は、再びカールを叱責する。

 

「ともかく、規律に則れば、あなたにはよくて謹慎、悪くて退学といった重罰が課されます。あなたみたいな極悪人、本当は今ここで銃殺したいところですが」

 

「ああ、そのうち俺解放されるから、そんなこと言わなくても大丈夫だぜ。それに、もしも俺がお前の言うような極悪人なら、今頃お前は俺にレイプされて種付けされてる真っ最中だ」

 

「なっ、なんて下品なことを! ありえません!」

 

 平然として下品な言葉を言ったカールに、リーナは顔を少し赤らめて怒鳴った。すると、カールはおもむろに机から足を下ろし、急に真面目な顔になって言葉を続けた。

 

「それくらいお前が上玉だってことだよ」

 

 急に態度が改まったかと思えば、唐突に予期していなかったことを言われ、リーナは唖然としてしまった。カールはその間にリーナに近づいて、彼女の頬に触れた。

 

「海のように深い青のその髪と、雪のように白い肌。エメラルドグリーンの大きな瞳は、引き込まれてしまうようだ。小柄ながらも引き締まったその体も、お前の魅力を一層引き立てる。身体的な特徴だけじゃない。職務に忠実なその真面目さや、時折見せる柔らかい笑みも、全てがお前を魅力的にしている。お前は美しい。そして、その美しさに応えられるのは、この五つの世界でたった一人、俺だけだ。だから、俺の女になれ」

 

 先ほどの発言以上に予期しえなかった事態に、リーナは完全に茫然自失としていた。しかし、ふと我に帰ると、自分が何をされたのかを理解され、ゆでダコのように顔を真っ赤にし、声を震わせてまた怒鳴りつけた。

 

「な、な、な、何ナチュラルに口説いてるんですかあなたは! 奥さんもいるのに、なんてはしたない!」

 

 リーナの言う通り、カールは妻帯者である。先ほど彼の発言に出てきた、アイリスが彼の妻なのだ。彼女の存在があるのに、他の女を口説くなど、リーナの価値観からすれば言語道断の所業である。しかし、カールは調子を変えずに続けてきた。

 

「グリューネシルトは重婚が許されているんだ。というかそれが当たり前だ。なるべく沢山の子を作り、次代を切り開かせようということでな。だから、これはアイリスも了承済みだ。それにな」

 

 カールはリーナの頬から手を離し、その手を腰に回すと、爽やかな微笑みを浮かべた。顔立ちだけ見ればかなり端正な彼の笑みは、人なりを知っているリーナでさえ、心を奪われるほどのものであった。

 

「アイリス以外に口説いたのは、緑の世界にいた時から数えてもお前一人だけだ。そのくらい、俺はお前をものにしたいってことさ」

 

「だ、だからといって、私は嫌です」

 

 リーナは精一杯に抵抗したつもりだったが、弱々しい、消え入るような声になってしまった。その言葉を聞いたカールは、鼻と鼻が触れ合うか触れ合わないかの距離まで顔を近づけて、囁くような声で尋ねる。

 

「なら、なぜ俺の手を払わないんだ? なぜ、俺の言葉を最後まで聞いたんだ? 本当に嫌なら、あんな口説き文句、気持ち悪いと思うはずさ。意地を張ることはないんだ。素直になれよ」

 

 意地悪で最低な言葉であったが、妙な妖艶さがあるおかげか、リーナはその言葉に反論できないでいた。それどころか、彼の言う通りかもしれないと思い始めていた。彼の言葉は、まるでリーナの心を弄ぶようで、彼女はある種の恐怖感すら覚えていた。これまでに一度もないような心境に陥り、あわや籠絡されるかというところまでになっていた彼女を救ったのは、リーナの携帯電話にから聞こえた着信音だった。どこか淫靡だった空気は無に帰り、カールもその着信音で興が冷めたのか、リーナから手を離してしまった。なんとか落ち着きを取り戻したリーナは、その電話に応える。

 

「はいもしもし。こちらリーナです。ええと、委員長ですか。今カールの取り調べ中ですが」

 

「そのカール君なんだけど、すぐ解放してあげて。上からの指令なの」

 

 風紀委員長のその言葉にリーナは、またか、と息を漏らした。これまでに十一回も暴力沙汰を起こして退学にならない原因はこれだ。彼が暴力沙汰を起こす度、謎の圧力がかかって解放せざるを得なくなるのだ。それが統合軍の仕業だということは、リーナも勘付いている。しかし、分かったところで聞くわけにもいかず、どうしようもないのが現状である。

 リーナは了承の返事をして電話を切ると、カールに向き直った。

 

「解放だそうです」

 

「知ってたぜ。こうなることはな」

 

 カールはそう言って、無造作にドアを開けて廊下を歩き始めた。リーナもそれに続いて、彼の隣を行く。すると、彼は不思議そうな調子で尋ねた。

 

「あれ、なんでお前が着いてくるんだよ。結局俺に惚れたのか」

 

「んなわけないでしょう、この馬鹿。あなたを一人で野放しにしたら、何をしでかすか分かったものじゃありません。それに、私ももう戻る時間ですから、寮まで送ります」

 

 リーナの返答に、カールはニヤついて相槌をうち、ポケットに手を入れて歩き続けた。リーナは彼に何も話しかけられなかった。先ほどの出来事が尾を引いて、何を話せばいいのか分からないでいるのである。カールはそのような彼女の様子を察してかどうかは不明だが、時折リーナの横顔を見て微笑むだけで、積極的に話しかけようとはしなかった。

 リーナは、たまに彼と視線が合うと、その顔の端正さにいつも脱帽する。鼻が高く、シュッと引き締まった輪郭を持ち、更にその白い肌には荒れている様子は全く見当たらない。二重瞼で大きく見える青い瞳や、短めで整えられた金髪もまた、彼の顔立ちの良さを引き立てるのに一役買っている。また、服の上からでも分かるほどに筋骨隆々な肉体も、筋肉質ながらも長い脚もまた、女性としての本能を惹きつけてやまない。これで性格が品行方正で、言葉遣いも下劣なものでなかったら、どれほど好青年に映ることかと、リーナは心底思っている。しかし、現実には口を開けば汚い言葉が飛び出し、性格もお世辞にも良いとは言えないものだ。「残念系イケメン」なる言葉が俗世では存在するようだが、まさにカールにぴったりだとリーナは思った。

 そのようなことを考えているうちに、二人は寮のカールの部屋の前に着いた。その直後、まるでリーナとカールが帰ってくるのを知っていたかのようなタイミングでドアが開かれ、リーナとほぼ同じ身長で、ウェーブのかかった長い銀髪と赤い瞳、そして筋肉質な肉体を持ち、それでいてリーナと比べて少しあどけない雰囲気を醸し出す少女が、藍色のタンクトップとショートパンツを身に付けた汗だくになって出て来た。リーナは、彼女を知っている。彼女こそが、カールの妻、アイリス・ヘスその人である。

 

「ただいま、アイリス」

 

 カールは爽やかに告げた。銀髪の少女——アイリスも、ニッと笑って返す。

 

「おかえり、カール」

 

「その様子だとまた筋トレか。熱心なのは良いことだ」

 

「私、小柄だからね。出来る限り体は鍛えておかなくちゃ」

 

 アイリスはそう言って、その体格には不釣り合いなほど成長した力こぶを見せる。タンクトップの脇から下着をつけていない、生の乳房が見えたが、彼女は気にしていなかった。しかし、胸筋かと見間違うほど筋肉ばかりの乳房であるので、男性が見たとしてもエロティシズムは全くないだろう。リーナは男性ではないし、同性愛的な嗜好も持っていないために、そのような想像しか出来ないが、アイリスが全く気にしていなかったり、カールも特に注意しないため、リーナは己の考えは正しいのだろうと思った。

 

「ねえ、ところで、何でリーナがあなたを送って来てるの? ひょっとして、もう落としちゃったり?」

 

 会話には入れないでいるリーナを一瞥して、アイリスは心底楽しそうな口調でカールに尋ねた。それに対して、カールもリーナを見ながら、小声でアイリスに告げる。

 

「いや、まだだが、もうちょっとって所だ。あと一押しであいつはもう俺の女になる」

 

「やったあ! じゃあ、家族が一人増えるね」

 

 二人は小声で話を盛り上げていき、結局リーナはその輪には入れないでいた。アイリスの話ぶりからするにグリューネシルトでは重婚が可能だというのは本当のようだが、だからといって恋人になることと結婚することを等しく捉えているのはいかがなものかと、リーナはため息をついた。

 リーナがそのように考えている間にも、二人の会話の内容はエスカレートしていっていた。部屋の間取りはどうしようだとか、そもそも異世界人との婚姻が軍に許されるかとか、夜伽の順番はどうしようだとか、ともかく彼らの妄想は止まることを知らぬかのようだった。更にはそれらは全て小声で話されており、どうにもリーナには聞こえていないと思っているようである。仕方がないので、リーナは大きく深呼吸をしてその話に割って入った。

 

「あの、全部聞こえているのですが」

 

 リーナが告げた直後、カールとアイリスは同時にリーナに向いて、バツの悪い表情を浮かべた。やがてアイリスが誤魔化すように笑いながら、リーナの肩を叩いた。

 

「ははは、ごめんごめん。今の話は忘れていいからね。それじゃ、また明日、教室でね」

 

 アイリスは早口気味にそう言って、リーナの返答も待たずにカールを部屋に引き込んでドアを閉めてしまった。リーナは頭を掻いて暫くその場に立ち尽くしていたが、そうしていてもどうにもならないので、自分の部屋に向かって歩き出した。

 カールとアイリスは、リーナにとって心底奇妙な存在だ。彼らは、緑の世界が新たに青の世界接続した、九月の頭に、そこからリーナのクラスに転入して来た。高校一年生なのに妻帯者という彼らは、良くも悪くも好奇の目に晒された。リーナもそのような目を向けた一人であった。実際にはリーナたちより少し年上で、学習環境の都合で高等部の一年になったということや、二人の人となりが分かると、次第にそのような目線も無くなっていき、何故カールのような者がアイリスのような器量の良い女性と婚姻関係にあるのか、という疑問が彼らに対する話題の中心となった。これについては、カールはもちろん、アイリスも何も言わなかった。聞いたところではぐらかされてしまう。彼らは、本当に仲の良い鴛鴦夫婦であるので、余計に訳がわからなくなって、リーナを含め、クラスメイトらは無理矢理な理由をつけて納得させているのだ。

 そして、リーナがそのように感じる理由はもうひとつある。ブルーフォール作戦という、世界の持続に必要な世界水晶が、緑の世界で死に瀕しており、それを打開するために青の世界のそれを強奪しようという作戦のことだ。第一次作戦はマユカ・サナギの裏切りが直接的な原因で失敗したというのは公然の秘密だが、生徒会役員選挙や文化祭も近い慌ただしい今、第二次作戦が水面下で進行しているという話が、統合軍特務隊所属の、アインス・エクスアウラら三人から、数日前に齎されたのだ。その特務隊という、諜報や破壊工作を専門とする部隊の存在も、第二次作戦と同時に知らされた。彼女らが学園側や風紀委員会に流出させた作戦の人員のリストには確かにカールとアイリスの名があったのだが、配置や進行ルートの資料には、彼らの名前だけが一度も現れなかった。アインスらの流した情報に誤りがあったのか、それとも彼女らも知り得ないレベルの情報の中に二人がいるのか、どちらにせよ、日常の中でも彼に疑いの目を向けざるを得ないのである。しかし、リーナは割り切れずにいた。カールとアイリスの目が離れるまで、リーナはブルーフォール作戦のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。学園に来る前、乃ち、13歳から15歳になった年まで、十メートル級の人型兵器、ジャッジメンティスのパイロットとして軍事活動に従事していた頃のリーナであれば、そのような公私混同はあり得ないことであった。彼女は、そのような自身の変化に、悶々とするのであった。

 気が付けば、自分の部屋のドアの前に到着していた。「故障中につき使用不可」と書かれた張り紙がされているインターホンの上に、リーナ・リナーシタとジュリアの名前が刻まれたネームプレートがある。間違いなく自分の部屋であると確信し、ドアノブを回してドアを開け、中に入った。

 

「ただいま。ジュリア、聞いて欲しい話があるのですが」

 

「今手が離せないから、部屋まで来なさいな」

 

 壁を隔てた、ジュリアのくぐもった声が聞こえた。リーナは靴を靴箱に入れ、洗面所に入って手を洗ってうがいをすると、リビングに入った。青蘭学園の寮は、寮と言ってもマンションのようなもので、1LDKで、風呂に直結した、玄関に廊下で繋がっている洗面所がひとつある。

 基本は一人部屋だが、申請をして許可が下りれば相部屋にすることができる。リーナもそうして相部屋にした一人で、二人で今住んでいる部屋は、元々ジュリアのものだ。理由は簡単で、ジュリアが大量に私物を持っているのに対し、リーナは必要最低限の私物しか持っていなかったため、リーナが引っ越した方が楽だったからだ。

 そういう訳で、内装はジュリアの趣味の、白と黒と赤を基調としたゴシック調のものとなっている。二人で共有している個室のリーナのスペースにもそのゴシック調は侵食しているが、そもそもリーナが内装の見栄えなどについて無頓着なので、不満は持っていない。

 リーナがリビングを通って個室にはいると、ツインテールに縛った金髪を持つ頭に小さな王冠を載せ、裾と袖、胸元のリボンが水色で、他は白色であるワンピースを着た、人形のように整った顔立ちの美女が床に座って何かを弄っていた。彼女がジュリアである。

 リーナは鞄を自分の机の脇に置くと、ジュリアが睨めっこをしている物を覗き込んだ。すると、ジュリアは説明書らしきものを見ながら、細かなプラスチックのパーツどうしを汗が滲んだ手で嵌め込んでいるのが見えた。彼女の周りを見てみると、ニッパーや替え刃式のナイフ、数種類の紙ヤスリ、接着剤と、細かすぎて何のパーツなのかさっぱりわからない数多くのランナーと、底箱と思しき箱、そして細かい区画が作られており、そこに棒が差してあり、その先に沢山の組まれたパーツが付けられている箱が置いてあった。

 

「プラモデルですか。ジュリアにそんな趣味、ありましたっけ」

 

「ううん、今日始めたのよ」

 

「今日!?」

 

 あっさりと言ったジュリアに、思わずリーナは素っ頓狂な声を出してしまった。対して、ジュリアはそのような彼女の様子を少しも気にせず、パーツと格闘しながら言う。

 

「そ。地球にしかないものにも手を出そうと思ってね。その記念すべき第一号よ」

 

「それにしてはやけに難しそうなものを買ってきましたね。何だか揃えてるものも本格的ですし」

 

「いやね、手先の器用さには自信があったから、どうせなら難しいものから手をつけようってことよ。一応、必要になるものはネットで調べたのだけどね。いやはや、思ったより難しいわ」

 

 そう言いながら、ジュリアは心底楽しそうに笑っている。しかし、いつもこのように精力的な訳ではない。彼女は興味のあるものや、やる必要があることに対しては積極的に動き、かなりの能力を発揮するが、普段はものぐさで、()が付くほどに面倒臭がりなのだ。つまり、綺麗な言葉で形容すれば自由奔放、俗っぽくいえば自分勝手で我儘な性格なのである。また、いつもは今のような無邪気な笑みではなく、余裕の現れとも取れる謎の微笑を浮かべており、そのような時は彼女の考えは全く読めない。ジュリアが感情を前面に出すのはリーナと二人きりの時くらいなのである。

 

「しかし、それほどのものとなると値段は高くつくでしょう。いくらしたんですか?」

 

 リーナが率直に感じた疑問を口に出すと、ジュリアはリーナの方を見ず、プラモデルを組み立てながら答えた。

 

「道具込みで三万円強だったかしらね」

 

「あれ、ジュリアってそんなにお金持ってましたっけ?」

 

「ん? こないだ、青蘭学園上層部の気前のいいおじさんに五百万円もらったから、三万円くらいわけないわ」

 

「ちょっと待ってください! 五百万ってどういうことですか!?」

 

 しれっと大金を口に出したジュリアに、リーナは慌てて突っ込んだ。対し、ジュリアは思い出し笑いを堪えながら、手を止めて答えた。

 

「いやね、こないだ暇だったから、青蘭学園の収益の使い道を法に触れない程度に探ってたのよ。そしたらね、一見問題無いんだけど、よく見ると不可解な金の流れがあったのよ。それを上層部のおじさまの一人に直接聞いてみたら、なんとびっくり! それをやった調本人だったの。それでいくら欲しいかって聞いてきたから、五本指を広げてみせたわけよ。私は五万貰えりゃいいかなーと思ってたのだけれど、なんとおじさまは五百万円下さったわ。というわけで謹んで五百万円貰って話を無かったことにしたわ」

 

 彼女の話を最後まで聞いて、リーナは聞いたことを後悔してこめかみを抑えた。ジュリアという女性が、まともな手段で大金を入手するわけがない。それに、彼女の言ったことは明らかに詳しい調査が必要なことであるが、リーナにも、風紀委員会にも、警察にもそのような余裕は今ない。

 

「ていうか、そんなこと聞きたいんじゃないでしょう? 聞いて欲しいことがあるんじゃなくて?」

 

 ジュリアは組みかけのプラモデルを片付けながら尋ねた。彼女の言葉でハッとしたリーナは、今日のカールとのやりとりを告白した。ジュリアは最後まで黙って聞いていたが、話が終わった途端に腹を抱えて笑い出した。

 

「な、何を笑ってるんですか!」

 

「そりゃ笑うわよ。だってそんな下手くそな口説きにまんまと引っかかって手籠めにされかけたんでしょ? くくく、カールに余程の魅力があるか、もしくはあなたがカールに気があるかしないとそんなのありえないわよ」

 

「どちらもありえません! それに、笑うのもやめてくださいよ! ルームメイトを解消しますよ!」

 

 リーナは憤慨して怒鳴り散らすが、ジュリアは一向に笑いを止めず、その調子のまま告げる。

 

「いいわよ別に。だって一番困るのはあなたでしょ?」

 

 その言葉に、リーナは押し黙ってしまった。これには学業成績という、学生にとって深刻な問題と、リーナの交友関係が絡んできている。

 まず学業成績についてであるが、リーナは、今は中の中ほどの成績であるが、これはジュリアの存在が大きい。ジュリアと知り合う前は本当に悲惨な成績で、13歳からジャッジメンティスのパイロットをやっていたおかげで、15歳までどうしても学業を疎かにするを得なかったために、赤点を取るか取らないかの得点しか取れなかったのだ。それが、一学年上であり、学業成績がトップクラスのジュリアと知り合ってから、彼女に勉強を教えてもらうことで変わったのである。彼女と縁が切れると、気軽に勉強を教えてもらえる者がいなくなってしまうのだ。

 次に、交友関係についてである。リーナは風紀委員だけでなく、生徒議会の一年生代表も兼任している。その上、酷かった成績も順調に伸ばし始めたため、気の置けない友達というよりは、凄い同年代として尊敬されがちな立場なのだ。まだ知り合って日が浅い緑の世界出身の者からはそのような扱いを受けないのだが、周囲の空気に触発されてしまうようで、親しげに話してくれるのはアイリスくらいなものとなっている。そのような中で、ジュリアという、同級生でなく、かつ自己中心的な人物はリーナにとって数少ない親友なのだ。リーナは、彼女に苛立つことは数多くあるが、彼女はそれでいがみ合うことなく、軽く流すかからかったりしてくれる。そのような友の存在は、リーナには本当に喜ばしいものなのだ。

 そういうわけで、リーナはジュリアと縁を切ることはできない。今のリーナに、ジュリアは必要不可欠だ。リーナは折れて、自分のベッドに、大の字になって飛び込んだ。そこから、ジュリアのスペースを見やる。

 そこには、人間サイズから親指ほどの大きさまで、大小様々な人形が、壁に立てかけられたり棚に陳列されたりしているのが見える。それがジュリアの趣味であり、異能(エクシード)と魔術に必要なものでもある。ジュリアの異能と、得意とする魔術は人形を操るものだ。両方を併用することで、凡百のプログレスよりも非常に高い戦闘能力を発揮する。また、これらはある程度の応用がきき、ジュリア曰く、彼女自身に向けることや、身の丈の十倍はある巨大な人型のものを操ったり、その気になれば他人を操ることもできるとのことだ。

 一方、リーナも、人型のものを操るという、似たような異能を持つ。しかし、リーナの方が異能だけで比べても弱い。というのも、ジュリアは操るものの能力を底上げしたり、複数体操ったり、人型以外のものも操ることができるが、リーナは対象物のポテンシャル以上の能力を引き出すことはできず、また対象は単体で、人型のものしか操れない。しかし、リーナが操るのは基本的にジャッジメンティスなので、巨大兵器どうしの戦いとなればジュリアにも引けを取らない。事実、リーナがジュリアと初めて知り合い、ブルーミングバトルをした時は、彼女の操る、ジャッジメンティス並みの大きさの人型の鎧である魔神鎧(マジンガイ)と互角に渡り合い、双方引き分けとなった。

 リーナは、人形から目を離し、天井をぼんやりと見つめた。その行動に意味はなく、ただ少し無気力になってしまっただけのことだ。翌日が休日なのも、リーナの無気力さに拍車をかけた。とうとう、うとうとし始めてしまった辺りで、ジュリアが顔を覗き込んできた。

 

「まだ風呂も入ってないし、晩御飯食べてないでしょ。寝ちゃダメよ。寝たら私があなたの純潔奪っちゃうから」

 

 怖いほどに底抜けに明るい笑みを浮かべるジュリアのその言葉で、リーナは飛び起きて、慌てて部屋を出てリビングと廊下を走り、脱衣所と一体になっている洗面所に飛び込んだ。そこで制服を脱いで全裸になったところで、ふと鏡の前に立ってみた。S=W=E軍の推奨するトレーニングメニューは卒なくこなしているため、リーナの身体には、常人よりは遥かに全身に筋肉がある。しかし、リーナの頭にアイリスの肉体が思い起こされると、えも言われぬ劣等感を感じられてしまうのだった。

 

        ***

 

 カールは外に、アイリスは部屋の中に盗聴器などが仕掛けられていないことを確認すると、カーテンを閉め切って、そこかしこに置いてある筋トレ用の器具を避けながら、リビングの中央のテーブルの前の椅子に二人して座った。アイリスの前には軍用のパソコンが置いてあり、今しがた電源を入れたところだった。

 

「じゃあ、頼むよ」

 

 アイリスにそう言われたので、カールは左の眼窩に指を入れ、悍ましい弾力のある義眼を引きずり出した。彼はその粘液が付いた手をテーブルの上に置いたハンカチで拭きながら、空いた手で左の眼窩を隠した。

 

「この感覚、やっぱ慣れねえな。気持ち悪いったらありゃしない」

 

「ぼやいても仕方ないでしょ。どうしようもないんだから」

 

 アイリスは吐き捨てるように言うと、義眼の上部を取り外してコードの接続口を露出させると、そこにコードを繋いだ。すると、パソコンの画面に、風紀委員会教室の金庫やファイルの中身を透過したものが現れた。カールがわざわざ暴力沙汰を起こすのは、このためだった。

 カールの左目は昔、ある事情で潰されており、統合軍に拾われた頃から、彼らに渡されたこの透過能力を持つ義眼を使うようになった。義眼を眼窩に嵌めている時は目の代わりとなって働き、透過した内容を見るにはコンピュータに接続するしかない。そのため、今のように取り外さねばならないのである。

 データの開示はアイリスが行う。特務隊の嗜みとして、カールも人並みよりはコンピュータを扱えるが、アイリスの方が扱いが長けているため、公私ともにパートナーである彼女に任せている。

 

「ねえ、カール。これ見てよ」

 

 アイリスはカールの腕を指で突いて、パソコンの画面をカールに向けた。そこには、風紀委員会の最新の配置図と見回りのローテーションの表がテキストデータ化されて表示されていた。それを見た瞬間、カールは言葉を失った。

 

「気づいた?」

 

 アイリスは眉をひそめて訊いた。カールはぎこちなく頷き、掠れた声を絞り出すように答える。

 

「ああ。明らかに今度の作戦を意識した配置だな。しかもまだ一般部隊に知らされてない内容もカバーされてる。裏切り者は特務の誰かと考えるのが妥当だな」

 

 カールの言葉に、アイリスは頷く。もう一度、カールはその表を隅々まで凝視した。すると、ある、重大なことに気がついた。リーナも、学園内に配置されていたのだ。そこから導き出される情報は、ただひとつだ。

 

「これ、俺たちの碧き巨神のことは全く考慮されてないな。となると、裏切り者の候補から、俺とアイリスに、ティルダイン中佐以上の幹部は外されるな。特務の中でも下っ端か」

 

「本当だ。碧き巨神のことを極秘事項にしたミロク少将に感謝しなきゃね。とりあえず、報告書はどう書こうかな」

 

「碧き巨神に関していない部分の作戦内容が流出している、くらいでいいんじゃねえのか? 傍受されても、碧き巨神のことなんざ、特務の下っ端には分かんねえしよ」

 

 カールの提案に対して、アイリスは少し考えた後、それに追従することにした。彼女が報告書を作っている間、カールはその横顔を眺めていた。彼女がこうして軍の業務に従事している時でも、彼は彼女が愛おしくてたまらなかった。初めて出会ってから、ずっと惹かれあい、苦難を共にしてきた。十四歳の時まではまさに生き地獄で、そこから統合軍に救い出され、才能を見出された二人は、ミロクの元で数年間、特殊な訓練を重ね、軍の最重要機密であり、当時の統合軍では誰一人として扱えなかった碧き巨神を任されるに至った。

 そのような理由で、カールは、愛する者と自分を救ってくれた統合軍に、絶大な忠誠心を持っている。これはアイリスも同じで、二人とも、愛国心は誰にも負けないという自負を持っている。だから、裏切り者の存在は死んでも死にきれないくらいに許せないのである。国が滅ぶか滅ばないかの瀬戸際で、ブルーフォールを台無しにしかねない売国行為を働く不埒な輩は、見つけたらその全身の皮を剥いで、内臓を抉り取った後に残った肉体を滅多刺しにし、木っ端微塵に爆破したいとまで、カールは考えていた。

 第一次ブルーフォール作戦が失敗したのはマユカ・サナギの裏切りによるもの、というのは公然の秘密であり、カールは当然彼女にも激烈な恨みを持っているが、書類上は無罪ということになっているため、カールも手出しができないのであった。流石のカールも、今はそこまで冷静さを欠くことはない。

 

「ねえ、カール。そういえば、今日街に何しに行ってたの?」

 

 報告書の提出まで終えたらしいアイリスが、パソコンを閉じながらカールに話しかけてきた。カールは思考を切り替えて、爽やかに笑いながら懐から、首輪風の黒革のチョーカーを取り出した。

 

「これ、前にデートした時に欲そうに見てただろ? これを買いに行ってたんだよ。ま、その帰りでちょっとしたアクシデントがあって、それでリーナに連れてかれたんだけどな」

 

「そうだったんだ。ありがとね!」

 

 アイリスは興奮した様子でチョーカーを受け取ると、早速身に付けて、無邪気に笑いながらカールに尋ねる。

 

「どう? 似合うかな?」

 

「今のガチムチのタンクトップ姿じゃミスマッチ過ぎるかな。アイリスは着痩せするから、いつものデートに着ていくような服や、統合軍の制服なら合うかもしれんが」

 

「そっか。じゃあ、明日のデートに着けてくよ!」

 

 アイリスは興奮が冷めない様子で、部屋のクローゼットに直行した。カールはその間に義眼を再びはめ込んで、部屋でクローゼットを漁るアイリスの姿を、穏やかに見つめていた。

 

        ***

 

 リーナの朝は早い。まだジュリアが熟睡している朝の五時半に起床し、顔を洗って歯を磨き、ジャージを着て長い髪をポニーテールに束ねて三十分ほど寮と学校の間の緩やかな坂道でランニングをする。これは今日のような休日でも変わらず、S=W=Eにいた頃から続く日課である。少し前までは半袖のトレーニングウェアを着ていたのだが、流石に十月の半ばともなるといくら運動で身体が温まるとはいえ、かなり肌寒くなるので長袖のジャージを着ている。

 まだ日の出前だが、リーナと同じくランニングをする者が数人いる。とはいえ他に目に見える生き物はすっかり青い葉を赤くした道の両脇の並木くらいなもので、特にこの薄暗く、静かで冷たい空気が流れる中では自分一人だけが世界にいるような感覚になる。以前はそれを心地良く感じたものだったが、近頃、具体的にはジュリアと同棲を始めたあたりから、一抹の寂寥感を覚えるようになった。そして、今日はそれがこれまでで最も強く感じられた。いくら走っても、前日のカールの言葉が脳裏にこびりついて離れない。しかも、ジュリア曰く下手くそな口説き文句そのものが。

 

(まさか、ジュリアの言う通り、私はカールに気があるのでしょうか? いやいや、そんな馬鹿なことはありません)

 

 リーナは彼の言葉を振り切ろうとして懸命にランニングに励んだが、彼の言葉を忘れることは、三十分が経ってもできなかった。結局諦めたリーナは坂を下りてそのまま寮の敷地に戻ると、リーナがよく知っているアベックと目が合った。

 

「よう、リーナ」

 

 男の方が先にリーナに声をかけて、小走りで近づいてきた。遅れて、女の方も早歩きで近寄る。リーナはしまったと感じたが、二人との関係を考えると無視はできないので、ぎこちなく口を開いた。

 

「兄上に、アナベルさんじゃないですか。こんな時間にここで出会うなんて、珍しいですね。何かあるんですか?」

 

「これから、ミッキーと今日開店するレストランに並びにいくところなのよ。すっごく評判がいいシェフがいるらしいの。リーナちゃんも来る?」

 

 頰に手を当ててゆったりとした口調でそう話す、長い黒髪でグラマラスな長身の美女、アナベルは、リーナが最も苦手とするモノのひとつだ。というのも、それは人間ではなく、アンドロイドなのである。

 白の世界におけるアンドロイドというものは、元々は生身の人間では対処が難しい領域や、機械でもできる仕事を担うために開発された、人間型のメカニズムだ。当初は、それこそ片言で話し、一目で機械とわかる代物だった。しかし、最近は急速にアンドロイドの技術が発展し、見た目も肌触りも話し方も人間と遜色なくなったばかりか、人の感情を理解するようになり、終いには、白の世界全ての政治、裁判、立法を司る巨大コンピュータEGMAが、アンドロイドに市民権を与えるまでに至った。人間とアンドロイドとの結婚すら可能になった。これは、EGMAがアンドロイドが、人間と変わらぬ知的生命体であることを認めたということだ。更に噂によれば、人間との性行為で子を作ることのできるものまで開発されたという話だ。

 目の前の、リーナの兄であるマイケルとアナベルはそのような今の白の世界を体現するような存在だ。マイケルは、今の身分は青蘭学園大学部の物理学科の学生だが、リーナや、二人の父であり青蘭学園高等部保健体育科の教官であるアルフレッドと同じく、軍人でありαドライバーである彼が青蘭島で過ごしやすくするために得た身分に過ぎない。実際、マイケルは齢25であり、アナベルと婚姻関係にある。アナベルの方も、正式名称はタイプPM-66アナベルといい、戦闘用でなく、カウンセリングを行って人間の精神的なケアをするためのアンドロイドである。リーナはアンドロイドの存在自体は認めるものの、機械が人間を称することには嫌悪感を抱いている。これのすることは、本来であれば人間がすべきことであり、機械がすることではない。人間に対する冒涜にも等しい行いだ。しかし、リーナは面と向かってそうは言えない。兄の妻であるということもあるが、他ならぬリーナ自身がアナベルの人柄を気に入っているため、それに対しては複雑で混沌とした感情を抱かざるを得ないのである。

 

「い、いえ。私は今日は用事がありますから、結構です」

 

 リーナは所々つっかえながら、作り笑いを浮かべてアナベルの誘いを断った。もちろん、用事などは口からでまかせだ。アナベルは何かを言おうとしたが、マイケルがそれを遮るように前に出て、リーナと同じ色合いの短い青髪をいじりながら、明るい声で言う。

 

「用事があるなら仕方ないな。また誘うよ」

 

 マイケルはそうして手を振りながら踵を返し、アナベルの肩を抱いて、早足で寮の敷地外に出て行った。マイケルの顔がリーナから見えなくなる寸前に、その表情が一瞬暗く沈んだのを、リーナは見逃さなかった。

 リーナとマイケルの関係もまた、微妙な関係である。彼の明るく気さくで、気遣いができる性格もリーナは好きで、それ故にアンドロイドを伴侶としていることを許せないでいる。マイケルの方も言葉には出さないが、リーナにアナベルを受け入れて欲しいと考えていることは、リーナにとって明白である。表面上も内面でも仲の良い兄妹でありながら、主義主張の面で反目し合うという、常に綻びが存在する関係だ。

 アルフレッドはこのことに関しては何も言わない。二人の決着をつけさせるにはどちらか一方に味方するか、それとも、どちらでもない新しい主義を示して、二人をそれに導くしかない。どちらをとっても、親として失格の行為と彼は捉えているようで、なんとかしたいと願っているのだろうが、徹底して不干渉の立場を取っている。リーナはこの点を含めて、彼を父親として尊敬し、また彼に自分を認めて欲しいとも考えている。母はリーナを産んだ時に逝去したため、リーナは家族全員と複雑な関係を抱いてしまっているのだ。

 

「ただいま」

 

 心にモヤがかかったような気持ちのまま、リーナは自分の室に戻り、洗面所で手を洗ってうがいをしてからリビングに入った。すると、納豆の独特の匂いが鼻を刺激した。ダイニングテーブルの方を見やると、湯気が立っている味噌汁と、三個のめざしが載せられた皿と、すでにかき混ぜられたらしい納豆がかかった茶碗いっぱいの飯が、それぞれ二人分用意されており、片側に白いネグリジェ姿のジュリアが椅子に腕を組んで座っていた。

 

「おかえりリーナ。さ、朝ごはん食べましょ」

 

 ジュリアに促されて、リーナはジュリアの向かい側の椅子に座った。

 

「いただきます」

 

 二人同時に手を合わせて箸を持ったものの、リーナはその食事の内容に失礼だとわかっていながら、不満を漏らしてしまった。

 

「また納豆ご飯とめざしに味噌汁ですか。美味しいですけど、毎朝違うのが味噌汁の具だけなんて、飽きちゃいますよ」

 

「文句言うなんて感謝の心がなってないわね。嫌ならいいのよ、私もう料理作ってあげないから」

 

 ジュリアは、見ているだけで微笑ましく思えるくらいに美味しそうに、納豆のかかった飯を食べながら言った。その言葉で、リーナは押し黙るしかなかった。というのも、リーナは料理が下手くそで、サバイバル用の料理も満足に作れないほどなのである。そのおかげで、同棲を始める前は寮や学校の食堂で食べるしかなかったのだが、それだと出費がかさんでしまうし、今更その生活に戻れというのも無理がある。しかしジュリアは料理は上手だ。朝の食事は毎朝これであるが、彼女が作る弁当や夜の食事は毎日違う。しかもどれも絶品で、その点に関していえば今すぐに嫁入りしても十分やっていけそうなほどである。

 

「大人しく食べます」

 

「よろしい」

 

 リーナが渋々引き下がると、ジュリアは満面の笑みで頷いた。彼女がリーナをからかって楽しんでいるというのはよく分かる。全く褒められた行為ではないが、かといってリーナもこうしたジュリアとの関係を楽しんでいることを自覚しているため、心の底から嫌と思っているわけではない。

 食事を半分くらい進めたところで、誰かが戸を叩く音が聞こえた。リーナは立ち上がって玄関まで行ってドアを開けると、そこには所々が意図的な感じに破られた、褪せた藍色のジーンズを履き、黒地の退廃的な柄のシャツの上に黒革のジャンパーを着て、大きな銀の輪のようなイヤリングに、首輪状で黒革のチョーカーをつけたアイリスと、統合軍の制服姿のカールがいた。

 

「おお、ポニテか。結構レアだな。これでジャージじゃなかったら完璧だったのに、残念残念」

 

 軽い調子でそのように話しかけてきたカールは無視して、リーナはアイリスに声をかける。

 

「アイリスさん、そういうファッションをするんですね。少し意外でした」

 

「んー? まあ清楚な感じのも着るけどね。せっかく昨日こういうチョーカー貰ったから、それに似合う格好をしようと思ってね。チャラチャラしててリーナには不快だった?」

 

「ああ、いや。そういうわけじゃないですから、安心してください。似合ってますし」

 

「そう? ハハハ、いやあ照れちゃうなあ」

 

 アイリスは、後頭部を掻きながらがさつな風で笑った。その横のカールを見ると、いつの間にか出てきていたジュリアと何やらひそひそと話していた。特にその会話の内容が気になるわけではないが、珍しい光景だった。その様子を眺めていると、アイリスに軽く肩を指で突かれた。

 

「そうそう。今から私とカールでデートに出掛けるんだけど、良かったらリーナも着替えたら来る? 私たちは今日開店する例のレストランに並ぶからさ。まあ、これを言うために訪ねたんだけどね」

 

「すみません、今日は行けないんです。またの機会に」

 

 リーナは、アイリスの誘いを丁重に断った。普段であれば、カールと一緒だということの他には彼女の誘いを断る理由が無かったが、あいにく、先ほどマイケルとアナベルの誘いを断ったばかりである。しかもそのレストランに並ぶとなると、彼らと鉢合わせになる可能性もある。それでは幾ら何でも体面が悪い。

 誘いを断った直後に、リーナはふと違和感を覚えた。そして、その原因がアイリスの服装にあることにすぐに気がついた。

 

「あの、アイリスさん。その格好でレストランに行くんですか?」

 

「うん? そうだけど」

 

「いや、少し雰囲気的におかしくなりません?」

 

「ああ大丈夫大丈夫。白い目で見られることには慣れてるから」

 

「いや、その」

 

「あっ。もうこんな時間。カール、もう行くよ! リーナ、じゃあね!」

 

 アイリスは、リーナの言うことも聞かずに飛び出してしまった。彼女に続く形で、カールもリーナに手を振ってから走っていってしまった。

 

「いやはや、エロい体してるわね、あのカールっての。性格はともかく、体つきだけでいったら、こっちがお金出してでもセックスしたいくらいだわ」

 

 唐突に、ジュリアがそのようなことを言い出した。面食らったリーナは、彼女を叱るような形で怒鳴った。

 

「なんということを言うのですか! 冗談でも女性がそんなこと、言うもんじゃあないですよ!」

 

「いや、私は割と本気で言ったわよ。あの体の魅力があれば、口説き方がど下手くそでも十分カバーできるわね」

 

 ジュリアはそう言って部屋に戻ってしまったので、それが捨て台詞になった感じになった。リーナは彼女がいなくなった後、外を歩くカールとアイリスを、無意識のうちに目で追っていた。

 

        ***

 

 カールとアイリスは、門のところで見知った二人を見かけた。青い統合軍の制服を着た露草色の長髪にリボンをつけた少女のルルーナ・ゼンティアと、赤い統合軍の制服を着た朱色の短髪の少女のリーリヤ・ザクシードだ。そのうち、ルルーナが二人に気がついたらしく、手を振って近づいて来た。

 

「特務のガチムチカップルじゃん。アイリスの格好を見る限りだと、今日はデート?」

 

 ルルーナが大声でそう言うので、カールは詰め寄って人差し指を立てて己の口に当てた。

 

「シーッ、声が大きい。一応秘密部隊なんだから、聞かれたらどうする。あと誰がガチムチカップルだ。ぶっ飛ばすぞこの野郎」

 

「前者は、黒服着て大手を振って歩いてる人が言うことじゃないと思うなー。それに女の子に向かってぶっ飛ばすぞなんて、ちょっと言葉遣い気にした方がいいんじゃない? 特に私にそんなこと言ったら、リーリヤに殺されるよ」

 

 ルルーナはそのように言ったが、当のリーリヤはうつらうつらとしていた。カールが見る限り、寝ているのか起きているのか分からない状態だった。

 

「ちょっとリーリヤ、起きてから三十分は経ってるのにそれは無いっしょ」

 

「朝は弱いのです低血圧なのです寝かせてくださいお願いします」

 

 ルルーナが注意するも、リーリヤは彼女特有の早口で、寝ぼけた風で、目をこすりながら返した。目がしっかりと覚めている時はもっと俊敏で、ハキハキした喋りをするのだが、朝はこの通りだ。おかげで、彼女が朝に作戦行動を行う時は覚醒剤を服用する有様である。

 

「ルルーナたちはこんな朝にどこ行くの?」

 

 リーリヤを揺さぶるルルーナに、アイリスが尋ねる。

 

「んー? 例の今日開店するレストランだけど」

 

「奇遇だね、私たちもなんだよ。良かったら一緒に並ぶ?」

 

「おっけーおっけー。じゃあ歩きながら話そっか」

 

 そう言いつつ、ルルーナはリーリヤの首根っこを掴んで彼女を引きずる形で歩き出した。カールとアイリスも、彼女に続いて早足で行く。

 リーリヤの目も覚め始めた頃、四人は件のレストランに到着した。開店まで三時間前ながら、既に五十名ほどが並んでおり、また、後続の者も数十名ほどが並んでいる。一人で来ている者は殆どいないようで、まだ朝早いうちでありながら、けたたましいくらいの喧騒に包まれている。周囲の数人の声を拾うのがやっとなほどだ。

 

「こんな朝によくもまあこんなに来るもんだ。これが日本本土とかだともっと来るんだろうが……うん?」

 

 後ろを見ながら呟いたカールだったが、つい先ほど列に入ろうとしていた女性に、彼は見覚えがあった。その女性もカールに気がついたようで、こちらに小走りで近づいてきた。

 

「よう、四人とも。久しぶりだなぁ」

 

 高めの背丈で、特務隊の黒の統合軍制服をしっかりと着てモデルのような体型を収め、鈍く輝く長い銀髪を持つ美人の彼女はナイア・ラピュセアだ。階級は少佐で、中尉であるカールとアイリスが砕けた口調で話せる相手ではないのだが、昔から上官としてでなく、姉のような立場で二人に接していたため、公式な場でなければ、二人は彼女に友人のように接するのである。

 

「こっちに来てたなんて知らなかったよ。言ってくれれば良かったのに」

 

 アイリスがそう言うが、ナイアは首を横に振った。

 

「実は今日来たんだよ。昨日、急に命令が下ったのさ。どうせ来るなら一日くらいは楽しもうかと思ってね。休日じゃ、大した調査も出来そうにないしな。昨日の夜に調べておいた。しかしな」

 

 ナイアはアイリスの全身を眺めた後、上着を脱いで彼女に差し出した。

 

「その格好でレストランは恥ずかしいからやめてくれ。レストランから出るまででいいから、これを着ときなよ」

 

 アイリスは、もしリーナがいたら驚くほどに、素直に彼女の言葉に従ってナイアの上着を着た。ナイアは緑の世界でずっと姉貴分で、恩義も数え切れないほどなので、アイリスは彼女に逆らうことができないのである。

 アイリスが革のジャンパーを脱いで鞄に入れ、ナイアの上着を着る間に、リーリヤがナイアに尋ねる。

 

「少佐殿までがこちらに来られたということは何かあったのでしょうか。先ほど調査と仰っていましたし」

 

 リーリヤとルルーナも、カールたちと同じく階級は中尉だ。しかし、ナイアとは所属部隊が違う上に、親しい付き合いがあるわけでもないため、彼女らは普通に上官としてナイアに接する。

 

「昨日、誰かは分からないが裏切り者がいるという情報が入ってな。それで、あたし自ら調査に赴いたってわけ。そうそう、それで、中等部の三年生の身分で調査することになったから、よろしくお願いしますよ、先輩方」

 

 ナイアは冗談めかしてそう言ったが、カールたちは唖然とする他なかった。その中で、最初に口を開いたのはルルーナだった。

 

「いや、いや、いや。さ、流石に無理がありませんか? しょ、少佐殿のお歳は確か、にじゅ——」

 

「あー、はいはいはい。気にすんな気にすんな。あたし童顔だから大丈夫だ。あと、モデルとかだとあたしみたいな中学生とかいくらでもいるだろ。いけるいける。それにルルーナとリーリヤ! 特務隊権限で命令する。リーリヤはいつも丁寧語だからいいとして、ルルーナは、あたしは下級生なんだからタメ語を使え。復唱は無しでいいからな」

 

「りょ、了解です!」

 

 ナイアがルルーナの言葉を遮り、早口で捲し立てた上に勢いで出した命令に、リーリヤとルルーナの二人は背筋を伸ばして返答した。

 ナイアの言ったことはかなり滅茶苦茶だった。確かにナイアのような見た目の中学生のモデルはいることにはいるが、だからと言って中学生と言い張るには無理がある。

 しかし、それは重要な問題ではない。最もおかしいのは特務隊権限の命令を使ったことである。その命令は、左官以上の特務隊所属の者が使えるもので、部隊や階級の垣根を超えた、グリューネシルト王家の者以外には絶対の命令だ。当然、濫用されれば部隊の私物化から国家の転覆も思いのままであるから、特務隊の左官以上の者は、皆愛国心と責任感が強く、また十分な実績のある者が上層部の慎重な審査を経てその立場が与えられているのである。今のナイアのように、冗談に近いものとはいえ、私事、とりわけ些事に使うようなものではない。

 しかし、四人ともそれが分かっていながらも、特に注意することはなかった。というのも、ナイアが笑顔で四人を順に一瞥していったからだ。嫌に明るい笑顔だったので、全く口答えする気になれなかった。

 

「時期的に、あんたらも学園生徒としては今日明日で最後の休日だろ? 一世一代の大勝負が迫ってるんだ。ということであたしが奢ってやるから、ここで一丁景気付けってことで」

 

 ナイアはそう言って、財布の中を四人に見せた。そこには地球の通貨の札がぎっしりと詰まっていて、カールは思わず見入って、息を飲んだ。他の三人も同様に、その大金に目を奪われていた。

 

「奢る代わりに、絶対、大勝利に終わろうな」

 

 ナイアは財布を閉じて、憂いを帯びた表情で告げた。それで、四人とも力強く頷いた。故郷の命運をかけた、乾坤一擲の大作戦。この場にいるグリューネシルトの軍人がそれに馳せる思いは皆同じだった。それなのに裏切り者が統合軍の内部にいるということに、カールはやりきれない気持ちにならざるを得なかった。



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赫奕たる我が正義

 休みが明けた月曜日の朝は、激しい雨が降っていた。昨夜のうちに台風が近づいてきていたようで、雨だけでなく風も強かった。そのおかげで、リーナもジュリアも、傘は差していたものの、学校に着くまでにすっかり体を濡らしてしまった。

 リーナは階段でジュリアと別れると、タオルで髪や肌を拭きながら自分の教室に入った。彼女が一番乗りで、電気すら付いていない。リーナは電気を付けて自分の席に着くと、制服の上着を脱いで椅子の背もたれにかけた。

 リーナは、風紀委員会ないし生徒議会の仕事がない日や、日直ではない日も、このように一番に教室に入る。これに特に意味があるわけではない。先に挙げたようなことがある時には早く学校に行かねばならないため、もう習慣にしよう、と考えてのことだ。このことも、リーナが凄い同級生として見られることに拍車をかけているのだが、リーナはそのことに気づいてはいない。

 勉強でもしようかと、問題集とノートを取り出して開いた瞬間であった。ドアが開かれ、入ってきたモノと目が合った。それだけならどうということもないが、そのモノが問題であった。

 

「あ、リーナさん。今日もお早いのですのね」

 

 それは、恭しく、優美な笑みをたたえてリーナに話しかけた。それはコードΣ40シノン。外装パックであらゆる戦闘に対処する、というコンセプトで作られた戦闘用のアンドロイドである。

 

「ああ、そうですね」

 

 リーナは素っ気ない返事をして、問題集に視線を戻した。リーナはシノンが苦手だ。原因は、それの個性にある。明治か大正の上流階級の娘のような口調で話すことは、解し難くはあったがまだ問題とすることではない。問題はそれの興味の対象物で、それが自然ということなのだ。白の世界出身の人間が、自然に興味を持つことには違和感は無い。白の世界では、植物や野生動物で出来ることは全て機械で出来てしまい、また食事も元素から作ることができるために、植物や野生動物は遥か昔に駆逐されて、生物と呼べるのは人間しかいない。そのため、緑豊かな青の世界に来て、自然に興味を持つというようなことは珍しくない。しかし自然の調査を目的とせず、しかも純然たる戦闘用のアンドロイドであるシノンが自然に興味を持つことには、リーナは嫌悪感を感じずにはいられない。他にも、戦闘用アンドロイドなのにお淑やかな性格という矛盾した点もあり、戦闘には邪魔となる人間性を持っていることが、リーナには理解できなかった。また、アンドロイドならば、人工知能に情報を容易に書き込めるため、機械であるアンドロイドが人間と同じ学び舎で学習するということも、リーナが反感を抱くひとつの要因となっている。

 シノンやアナベルの他にも人間的なアンドロイドは近頃多くなり、次々と青蘭学園に入学している。アンドロイドの動かし方を決めるのはEGMAであるため、白の世界でアンドロイドが市民権を得たことも合わせて考えると、EGMAがアンドロイドを積極的に人間社会に溶け込ませようとしている、ということになる。リーナはそのことに至りながらも、EGMAがその先に何を見ているのかは、全く分からないでいる。しかし、何か危ない気がする、ということだけは直感的に感じていた。

 

「よう、リーナ」

 

「リーナ、やっほー」

 

 リーナが思考にふけっている間に、カールとアイリスの二人が教室に入り、真っ先にリーナに挨拶をし、カールがリーナの右隣の席に、アイリスが彼の前の席に着いた。

 

「おはようございます、アイリス、カール」

 

「お、ブラ透けてんじゃん」

 

 リーナがカールたちの方を向いて挨拶したところに、彼はリーナの胸元を覗き込んで呟いた。リーナはすぐ腕で胸を隠すと、カールを睨みつけて怒鳴った。

 

「不潔! 不潔です!」

 

「そうだよカール。私にならいいけど、リーナにセクハラはダメだよ」

 

 珍しくアイリスがリーナの側に立って、カールを非難した。流石のカールもアイリスに言われるのには弱いようで、ばつの悪い表情を浮かべる。

 

「悪かったな。不快にさせてすまない」

 

 カールはリーナの目を見て、いつになく凛々しい表情で謝罪した。リーナは、先程言われたことも忘れてその顔を見つめていたが、我に帰ると目を背けて、小さな声で答えた。

 

「いいですよ、別に。次から気をつけてくれれば」

 

「おう」

 

 カールは短く返事をした。リーナは、先の自分の行動が不可解で、カールと目を合わせることができなかった。数日前に口説かれたことをまだ引きずっているのか、それとも世界水晶の強奪まで数日しかないことが気になっているのか、今のリーナには判別できなかった。

 しばらくすると、ぞろぞろと教室に人が入って来て、そのうちの何人かがリーナに挨拶をするが、それはどれも学友に対するものとしては、互いによそよそしいものであった。

 

        ***

 

 学年の半分のクラスで合同で行われる異能の訓練は、体育科の授業とは別だが、それを受け持つのは体育科の教師だ。リーナたちの担任は父親のアルフレッドである。肉親が教科担任であるというのもおかしな話であるが、彼は軍隊でもリーナを娘としてではなく部下として扱っているため、リーナはそれでもいいかと考えている。実際、これまでリーナが特別扱いされたことはないため、他の生徒も納得しているようである。

 本日は雨の中だが、どのような状況でも対処できるように、ということで普通に外で行う。リーナは軍の幼年学校からこのようなことはよくあったので御構い無しだが、他の、特に一般人出身の者は文句を垂れている。

 また、訓練は模擬戦の形式で行われるが、個人によってかなり実力が異なるために、リーグ戦方式を採っている。更に馴れ合いを防ぐために、最上位リーグ以外の者は予め決められた対戦表を元にチームを組む。最上位リーグの者は好きな者同士で組めるが、これは向上心を持たせるための餌のひとつであり、また、そのリーグに行けるだけの実力者なら、好きにチームを組んでも馴れ合わないだろう、という判断によるものだ。

 この日は二対二の形で模擬戦をすることになったが、リーナがその時にいつも組んでいるメルティ=ロウは、軍の用事で白の世界に戻っており、組む相手がいなかった。途方に暮れるリーナに声を掛けたのは、他でもないアイリスだった。

 

「リーナ、今日私たちと組もうよ。いつも組んでる子、休みでしょ?」

 

 リーナには断る理由が無い。カールがαドライバーになるが、ペアが組めないよりはよっぽどいい。

 リーナたちは、すぐ試合のコートの初期位置に立った。その中にはカールも含まれていたが、特に誰も注意をしない。二対二というのはプログレスに限った話であり、αドライバーが乱入しても問題はない。とはいえ、生身でプログレス並みの戦闘能力を持ち、更にプログレスが本来感じるはずの痛みを受けて十分な戦いができるαドライバーなどはかなり希少なため、本来の役割である司令塔として、プログレスの戦いを指揮するのが普通だ。カールはその希少なαドライバーの一人で、並みのプログレスでは彼に全く太刀打ちできず、その戦闘能力は超人の域だ。彼の好戦的な性格も考えると、最上位リーグで進んで乱入するのも頷ける。

 リーナたちの相手は、シノンと、ツインテールにした白髪の特務隊の制服を着た少女、すなわちナツナ・トオナギだ。ナツナはブルーフォール作戦の内容を学園側に流出させた三人のうちの一人で、リーナは、風紀委員として僅かながら面識がある。とはいえ戦ったことはない。しかし、だからといって彼女に狙いを付ければ、シノンとアイリスたちが戦うことになる。シノンは風紀委員ではないが、戦闘型アンドロイドということで戦力になるので、青蘭学園の防衛をすることになっている。数日後には敵になる彼らに少しでもアドバンテージを与えるようなことはしたくなかった。リーナがシノンに狙いを付けたことを口にする前に、アイリスが口を開いた。

 

「私たちはナツナを相手取るよ。リーナはシノンをお願いね」

 

 アイリスの口調は早口気味だった。リーナにとって願ったり叶ったりだが、彼らは自ら敵の一人の今の力量を測られる機会を放棄したことになる。これは大変不自然なことだが、かといって文句を言うわけにもいかない。リーナは深く考えないようにして、シノンに向いた。

 リーナが今着ているのは、戦闘服も兼ねたジャッジメンティスのパイロットスーツだ。裸身にぴったりと張り付いているために、体のラインがくっきりと出てしまうために羞恥心を感じずにはいられないが、そのおかげでリーナの動きを制限しないというメリットもある。また、外部からの衝撃を吸収するバリア・フィールドを発生させたり、刃物などで破れないような丈夫な素材でできていたりするため、制服やジャージで戦うよりもよほど安全でよく動ける。

 このような服を着ていれば、雨に濡れていることもあってカールに何か言われるだろうし、事実リーナは、彼と知り合ってから今までは異能の訓練でセクハラじみた発言を浴びせられていたのだが、カールは何も言わなかった。胸や股間を注視することもしない。どうにも、今朝アイリスに言われたことを気にしているようである。意外と義理堅い性格なのかもしれないと、リーナは少しだけ彼を見直した。

 

「バトルスタート!」

 

 アルフレッドの号令がかかり、リーナは我に帰った。その瞬間に真っ先に動き出したのはナツナで、一足飛びにアイリスに飛びかかる。

 

「エンドブレイザー」

 

「ならこっちだって。ブルーティガー・ストースザン!」

 

 ナツナが諸刃の片手持ちの剣を、アイリスは太刀を召喚し、鍔迫り合いに入る。その時、ナツナの瞳には、明確な殺意があった。無論、ブルーミングバトルフィールドが働いている中なので致命傷は負わせられても殺すことはできないが、そんなものは関係ないと言わんばかりであった。

 一方で、リーナとシノンの戦いも始まっていた。シノンは空中からレールガンで地上のリーナに砲撃を加えるが、リーナはそれを紙一重で躱してゆく。一方で、シノンに、リーナの投げるナイフも掠りもしない。しかし、そのようなことはリーナは百も承知だ。敢えてそのような攻撃を加えたのは、距離とシノンの反応速度を測るためだ。四本も投げれば十分それを掴めた。それで、五本目のナイフを取り出し、シノンに投げた。シノンがそれを避けた瞬間、ジャッジメンティス(リーナカスタム)の拳だけを亜空間を通じて顕現させ、シノンの反応速度を超える速度でその拳をシノンに叩き込んだ。上手い具合にそれは直撃して、シノンの装甲を一部砕いて吹き飛ばし、場外まで追いやった。ただでさえ、L型は殴り合いによる近接格闘戦に特化した機体である。手だけとはいえ、その拳の威力をまともに食らえば、痛覚を受け持つ相手のαドライバーがどうなるかは自明だ。

 リーナの予想通り、相手方のαドライバーはその場に倒れた。授業で行うブルーミングバトルは、どちらかにαドライバーがいなければならない。彼が倒れた時点で、リーナたちの勝利だ。

 

「おいおいおい、何もう勝負付けてやがる。俺まだ何もしてねえぞ。せっかく気配を消して、トオナギに奇襲かけようと思ってたのによ」

 

 お互いに試合場から退いた後、カールは不服な様子でリーナに詰め寄った。勝利の余韻もつかの間、リーナは非常に申し訳なくなった。一瞬で決めてしまえば、彼が欲求不満に陥るのは目に見えていた。リーナは、それを失念していた己を恥じそうになったが、何故彼に配慮しなければならないのかとも思い直した。

 

「実際の戦闘じゃ、そんなことを言ってる余裕は無いでしょう」

 

「だからこそ、こういう模擬戦は楽しみたいんじゃねえか。常に実戦のように、なんて優等生的なことは真っ平御免だしな」

 

 リーナは、カールの言うことに納得は出来なくはないが、彼女の美学からは大きく外れる考えであるので、やはり同意はできない。

 

「お互いに同意することは無理ですね。この議論は止めましょう」

 

「そうだな。生真面目なところだって、お前の大事な魅力だしな」

 

「あなたって人は! からかわないでください! 全く!」

 

 リーナは、カールの言葉に怒りを表しながらもどこか心地良さを感じ、同時にブルーフォール作戦のことが思い出され、心に針を刺されたような痛みを感じた。

 とめどなく降り続ける氷雨が、リーナにはこの上なく鬱陶しく感じられた。

 

        ***

 

 木曜日の夜、自然な風を装って、ブルーフォール作戦に従事する統合軍の兵たちは学園裏の森の中央付近に集まった。そこには密かに構築された本陣があり、その中央でいくつかの部隊が点呼を終え、規則正しく並んでいる。カールの目の前にはナイアの背中がある。彼女曰く、裏切り者の見当は既に概ね付いており、昨日その報告書をミロクに送ったとのことだ。

 皆の前に今回の作戦の総指揮官、ラン・S・グリューネが現れると、より一層引き締まった空気になった。ランはグリューネシルト王家の王女であり、その嗜みとして軍事教練や士官としての教育は受けているが、実権はその副官としてこの作戦に参加しているミロクが握っており、彼女は、王族は必ず戦場に赴くべし、という王家の伝統を守り、兵の士気を上げるための飾りに過ぎない。しかし、今訓示に臨む彼女の姿は威風堂々としており、王者の風格は確かに備えている。

 

「この作戦は皆も分かっている通り、我が国、グリューネシルトだけでなく、緑の世界全体の希望を背負った、史上最も重大な作戦です。そして、一次作戦が失敗している以上、私たちには後がありません。本作戦の失敗は、私たちの自己同一性を失うのと同義です。しかし、我が勇敢な将兵の方々なら、必ずやこの作戦を成就させるものと信じています。私は、グリューネシルト王家の名を以ってこの戦いの正義を確約し、この戦いで武功を立てた者の一族の繁栄を約束します。あなた方の獅子奮迅の活躍を期待します。グリューネシルト、万歳!」

 

 ランの訓示の後、兵たちによる万歳参照が行われる。それが止むと、次に長めの黒髪を生やした四十半ばの男、ミロクがランに変わって前に立った。

 

「さて、この土壇場で申し訳ないが、作戦の内容と配置の変更がある。詳細は各部隊の指揮官に参照してもらうとして、ここでは変更の要点を伝える。変更点は、ティルダイン中佐の率いる強奪特別隊の進軍経路の変更と、本陣の護衛の任に就いている第一中隊のザクシード中尉、ゼンティア中尉の両名と強奪部隊のジェミナス中尉、エクスアウラ少尉、トオナギ少尉の配置を入れ替えることだ。尚、この変更に対する質問は一切認めない。疑念を口にしたものは、国家反逆罪でその場で死刑になる。私からは以上だ。各員、配置につけ!」

 

 配置が市街地であるカールとアイリスは、ミロクの号令で即座に踵を返し、全力の疾走で道路まで出て、用意してあったバイクのサイドカーにアイリスを乗せ、カールがバイクに乗って市街地へ急いだ。

 カールは、先のミロクの発言について、上手いなと感じた。裏切り者が出ているとなれば、その者を殺すか、泳がすかしかない。今回後者を取ったのは、裏切り者の存在を知らない兵たちが不安がるのを抑えるためだろう。そして、知っている者からすれば先の発言で裏切り者が誰なのかは簡単に見抜ける。そして、その配置もまた巧妙だった。本陣の護衛となれば、それはそのままランの護衛も意味することになる。この命令に違えば、国家反逆罪どころの問題ではない。王族を危険に晒したとして、捕まれば大逆罪により死刑は間違い無く、更に逃げようとしても、統合軍とレジスタンスの両方の標的になる。本陣の守備を放棄して、裏切り者のアインス、ユニ、ナツナの三人がこれを免れるには、世界水晶を防衛した上で統合軍を敗走させる以外に方法は無い。三人とも知勇兼備の兵だ。カールには、幾ら何でも彼女らがそのような大博打に出るとは考えられなかった。

 市街地に着くと、カールたちはバイクを乗り捨てて大通りに出た。青蘭学園側が戒厳令を発令していたらしく、いつもなら多くの人で賑わっている通りには人一人おらず、ただ乾いた風が吹くのみだった。

 

「アイリス、やるぞ」

 

「うん。ブルーティガー・ストースザン」

 

 カールとアイリスがリンクした後、アイリスは太刀を召喚し、その刃で自らの肌を切り、刃を血で濡らした。続いて、カールの肌も切り、二人の血が刀身で混ざる。それをアイリスは天に掲げ、カールがアイリスの手の甲に彼の手を添えたところで、二人で大きく息を吸い込んで、叫んだ。

 

「出でよ! 碧き巨神よ!」

 

 二人の叫びは天に届き、緑の(ハイロゥ)から放たれた碧の光が彼らを包んだ。そして次の瞬間には、カールが碧き巨神の操縦席で操縦桿を握り、アイリスが後部座席に座っていて、太刀は二人の間のスペースに突き刺さっていた。前面に映し出された、碧き巨神の目から入る映像を見ると、その目の高さにビルの屋上があった。さしずめ、碧き巨神の頭の高さは十メートルほど、ということだろう。

 カールは基本的な部分に問題が無いことを確認すると、前を見たままアイリスに尋ねる。

 

「今日の碧き巨神はどうだ?」

 

「調子いいみたい。やる気になってるよ」

 

 碧き巨神は言葉は持たないが意思を持つ。しかし、その意思を感じ取れるのは巨神に選ばれた者だけだ。本来は操縦もその者の役目なのだが、カールはアイリスとリンクして同調し、更にブルーティガー・ストースザンの能力の、あるものに刺した時、刃に付いていた血の持ち主がそれを操ることができる、というものが働いているために、操縦だけは行えるのである。それで、操縦席は元からあったものだが、後部座席は統合軍が後で勝手に付けたものなのである。

 

「いいじゃねえか。ジャッジメンティスを引きつけねえと暴れられんのが、巨神に申し訳ないな」

 

「でも、いいの? 多分、リーナもこっちに来るよ」

 

「ふん、その時はその時さ。あいつがたまたま生き残れば掻っ攫って妾にする。だからといって手加減はしないぜ。俺の私情と俺の大恩ある祖国の命運とでは優先順位に雲泥の差があるからな。戦闘になったらリーナだろうと誰だろうとブッ殺すまでだ」

 

 カールはそう言いながら、モニターを通じて丘の上にある学園を見つめた。その眼光は、さながら獲物を狙う鷹のようであった。

 

        ***

 

 リーナは、格納庫へと走っていた。市街地に出現したら謎の大型の人型兵器に対処するため、アルフレッドを隊長とし、マイケルとリーナがパイロットとして所属し、青蘭学園に駐屯しているS=W=E軍第八機動小隊に出撃命令が下ったのだ。

 

「急げ伍長。一刻の猶予も無いぞ」

 

 格納庫に着くと、ジャッジメンティス(マイケルカスタム)の隣のジャッジメンティス(指揮官型)の外部スピーカーからアルフレッドの声が流れた。その口調が、父親としてのものでなく上官としてのものであるのは、リーナにこれが実戦であると、より一層自覚させた。

 G型は基本的な部分は通常のジャッジメンティスとは変わらないが、通信性能が通常のものよりも強化されていたり、全てのジャッジメンティスに共通の動力である反陽子エンジンの出力が高かったりと、若干ながら元のものよりも高級な機体となっている。アルフレッドの機体はそれに外付けでビーム・ライフルを装備した中距離戦仕様の機体となっている。

 対して、リーナの乗るL型は、殴り合いによる近接格闘戦に特化してチューンした機体で、そのため装甲の堅牢さと推力が通常型のジャッジメンティスよりも上で、特に推力は通常機の約二倍あり、重装甲ながらその機動力は通常型をはるかに上回る。また、両腕にはパイルバンカーを装備し、脛と爪先にはブレードを装備し、遠距離武器は各機共通の、額から放つジャッジメント・ビームしかない。

 

「リーナ。整備はばっちりしたからね。派手にやっちゃっていいよ」

 

 自機の足元まで来たリーナにそのように言うのは、油で汚れた白衣を着ている短い白髪の少女、メルティ=ロウだ。彼女はリーナと同い年ながら、天才的な頭脳を持ち、それを以ってわずか十の時にジャッジメンティスの設計図を作成した。それで軍に技術将校として幼くして抜擢され、今は第八機動小隊の整備班長も兼任している。本来なら技術将校がやるような仕事ではないが、彼女の好意と希望でその職に就いている。とはいえ技術将校としての任務を優先しているために、しばしば白の世界に行っているのである。

 彼女とリーナは友人同士にある。というのは、お互いに波長が合うということもあるが、アンドロイドの捉え方が似通っているからである。メルティもまた、アンドロイドの過剰な進出に疑念を抱いている一人であり、その点でリーナが同調できる少ない人のうちの一人だ。

 

「ありがとうございます、メルティ」

 

 リーナはそう言いながらコクピットの中に入り、席に座ってシートベルトを締め、ハッチを閉じた。ジャッジメンティスのコクピットは球形で、三百六十度全ての内壁に外の風景を映し出す、所謂全天周モニターを採用している。

 リーナの出撃の準備が整うと、格納庫の天井のハッチが開き、マイケルとリーナでリンクをしてから、三機のジャッジメンティスが射出された。G型が先頭に、その後ろにM型、L型が続いて空を行く。するとその飛び立った直後に、ひとつの大きな影が飛来してきた。その土偶の頭を西洋甲冑の頭にすげ替え、大きな蝙蝠のような羽をつけた影の正体を、リーナはよく知っている。

 

「アルフレッドさん。私もこの魔神鎧で作戦に参加したいのだけれど、よろしいかしら?」

 

「私の命令には従ってもらうぞ」

 

「もちろん。リーナとペアを組んでもよくて?」

 

「私は構わん。伍長はよいか」

 

「ええ。問題ありません」

 

 リーナがそう言うと、魔神鎧がL型の隣についた。その肩には、案の定ジュリアが乗っていた。しかし、彼女と言葉を交わす暇は無かった。夜の闇の中でも目視できる範囲に、謎の大型兵器が入ってきたからだ。それは十メートルほどの頭の高さで、全身を粘菌のようなものが覆った歪な形をしており、その隙間からかすかに碧玉のような輝きを放つ何かがあった。また、五芒星のような形をした頭部にはゴーグルアイがあり、その肩は塔のように天に伸びていて、腕の先にはかすかに拳のようなものが見え、人と同じような腕をしていることが分かった。

 

「あれが例の大型兵器ですか。我々のジャッジメンティスのようなメカニズムには見えませんね」

 

「ああ。どちらかといえばオーガニック的なものだろう。今生体反応を確認しているが、あれ全体から微弱な生体反応がある。中に一際強いのがふたつあるみたいだがな。今から一応勧告はしてみるが、曹長、ロックオンはしておけよ」

 

「了解です、中尉殿」

 

 アルフレッドの指令で、マイケルの乗るM型が少し後退し、ビーム・スナイパーライフルを大型兵器に向ける。M型は、中遠距離戦に特化した機体で、ビーム・スナイパーライフルの他、両肩に装備されたビーム・キャノン砲や、背中に装備したミサイル・ランチャーを駆使し、サポートに徹した戦いをする。

 

「その巨大兵器のパイロットに告げる。即刻武装を解除し投降せよ。さもなくば攻撃するものと思え」

 

 アルフレッドが勧告するが、その巨大兵器は、不気味なほど静かにそこに佇んでいた。

 

        ***

 

 ランは、強奪部隊が学園内への侵入に成功したという報告を聞いても、心が休まることはなかった。裏切り者の三人を敢えて本陣の守りにつけるというのを発案したのは他でもないラン自身であるが、彼女らの刃がランに向くかもしれないと考えると、自分が情けなく思えてくる。

 裏切られたということは、ラン達王家に徳がないことの証明だろうと彼女は考えた。いくら統合軍の傀儡とはいえ、ランや他の王族は、王としての役目を果たしているつもりだった。指揮官としてでなく、兵として剣をとって戦ったこともあった。各地を視察するときも、治安が最悪で、いつ身ぐるみを剥がされてもおかしくないような地域の土を、自ら踏んだこともあった。外国に赴いた時の晩餐会などでも、王族として恥じない振る舞いをしてきた。しかし、裏切り者を出したという事実は、それらが全て無駄だったと思い知らされるようで、この上なく悔しく感じた。

 

「王女殿下。決して気を落とさぬよう。あなたが毅然としていらっしゃらなければ、兵たちが不安がります」

 

 ランの心情を察してか、隣に座るミロクが囁く。その言葉でハッとして、ランは気を落ち着かせてから表情を引き締めた。確かに彼の言う通りだ。自らには王族としての自覚が足りないのかもしれない。ランは、再び悔しく思ったが、それを顔に出すことはなかった。

 

「ミロク少将。忠告、感謝します」

 

 ランは、自分がミロクの下に見られないように気をつけながら礼を述べた。ミロクは「いえいえ」と恭しく言いながらも、その表情は満足げだった。その時であった。通信要員の一人が、血相を変えてランとミロクに向いた。

 

「女王殿下、少将殿。エクスアウラ少尉、ジェミナス中尉、トオナギ少尉の三名が離反! 監視役に重傷を負わせ、学園に向かったとのことです!」

 

 その報告に、ランは足元が崩れ去るような気分になったが、踏み止まって凛とした態度を保つ。

 

「追っ手を――いえ、あの三名を少数で倒せるのは強奪部隊にしかいませんね。ラピュセア少佐に繋いでください」

 

 ランの要請通り、手元の通信機がナイアの物と繋がると、厳しい口調で告げた。

 

「ラピュセア少佐。今そちらに、ジェミナス中尉、エクスアウラ少尉、トオナギ少尉が向かっています。この三人の逆賊と一人で互角に渡り合えるのは、あなたにおいて他なりません。速やかにかの者らの討伐に向かいなさい」

 

「ご命令、しかと賜りました。必ずやその任、果たしてご覧に入れましょう」

 

 ナイアのその言葉を聞いて、ランは通信を切った。そしてミロクに目配せをすると、彼は軽く頷いた。

 

「現状では最上の判断でしょう。よきご決断でした」

 

 ミロクの言葉に、ランは救われた心地になった。しかし、完全に安心はできない。今はナイアが上手くやってくれることを祈るだけだ。ランは、無意識に両の手を絡ませていた。

 

        ***

 

 ランからの通信の後、ナイアは強奪部隊から一時離脱することになり、来た道を引き返していった。その後ろ姿を見届けると、スレイ・ティルダインはリーリヤに目配せをした。それを合図に、リーリヤは腕をすっぽり覆ってしまえそうなほど巨大なランス、ヴィヒター・リッタを召喚した。今、彼女は異能と身体能力を底上げする水晶の小さな結晶のようなかけら、エンハンストを両の手の甲と胸元、両頬に額にそれぞれ一個ずつ、計六個装備している。これで得られる力は、αドライバーとリンクするよりもずっと強大だ。その分身体にかかる負担も大きいが、リーリヤは根性でそれを抑えていた。

 

「いきます! でぃやぁぁああッ!」

 

 リーリヤは、一旦飛び上がり、ランスを床に突き刺した。するとその瞬間、一気にその周囲二メートルほどの床が破壊され、世界水晶のある大部屋へ続く円筒状の穴ができた。リーリヤはその穴を開けた勢いでそのまま穴の中に入る。数秒も降下すると、大部屋内の人が見えた。αドライバーと思しき男子生徒がが二名ほどと、日向美海、ソフィーナ、ルビー、コードΩ00ユーフィリア、コードΣ46セニア、マユカ・サナギ、アゲハ・サナギ、そして見知らぬ緑髪の女の計十名だ。さらに、その部屋は世界水晶を中心に半径十メートルほどの円の形をとっており、遮蔽物になりそうなものは水晶以外に全く無い。また、蛍光灯などの明かりは一切なく、光源は青の世界水晶が放つ青の光だけだった。

 落ちる途中で魔法による防護結界と思しきものが展開されるが、リーリヤのランスはそれを軽々と破って、勢いを落とさずに突っ切る。

 リーリヤは、マユカとアゲハのはっきりとした姿を見るなり、激しい怒りを覚えた。彼女らが裏切り者であるのは公然の秘密で、二人を殺すことが軍隊内で黙認されていることも、リーリヤの殺意に拍車をかけた。

 

(あの売国姉妹め、作戦から外されたことをいいことに、待機命令を無視してまた売国行為を働くつもりですか! なんと破廉恥な!)

 

 一度でもそのように思ってしまえば、リーリヤは止まらなかった。少し角度を変えて、マユカにランスの先を向ける。流石に気づいたのか、マユカとアゲハは大きく飛んで、角度を変えても向かえない場所に立った。それを見たリーリヤは、ランスが床に衝突した瞬間、その鍔を踏み台にしてマユカに飛びかかった。その速度にマユカは対応できず、簡単にラリアットを食らった。リーリヤはその次にマユカの背後に回り、彼女を締め上げ、壁に背を付けてマユカのこめかみに銃口をつけた。その直後あたりに、三十名ほどの強奪部隊の兵が大部屋に降下してきた。

 

「動くと撃ちます。マユカ・サナギを殺されたくなければ、今すぐ世界水晶を明け渡しなさい」

 

「自国の人間でしょ? それを人質に取るなんて正気なの?」

 

 リーリヤの勧告に、ソフィーナが狂人を見るような目でリーリヤを見る。しかし、その言葉にはリーリヤだけでなく、降下した強奪部隊全員が笑い出した。

 

「その非国民姉妹の命なんて、私たちが守るものではないわァ。グリューネシルトの石ころひとつよりも価値の無いものを、私たちが守るわけないじゃない」

 

 スレイがそのように告げると、マユカとアゲハの顔が急に青ざめた。特にマユカは、助けを求めるような目をリーリヤに投げかけた。しかし、リーリヤはそれを一笑に帰した。

 

「何ですかその目は。呪うなら売国行為を働いたあなた自身を呪うことです」

 

「酷い、酷いよ。何でそんなことを平然と言えるの!? マユカちゃんもアゲハさんも、悩み抜いて決めたことなんだよ!? それを――」

 

「非国民という扱いを受けて当然の行いをしたのです。一時の気の迷いならともかく、考え抜いて決めたことなら救いようがありませんね」

 

 美海の非難を、リーリヤは途中で遮って一蹴した。マユカはまだ顔を青くして呆然としていたが、アゲハは納得するところまでいったのか、顔色が戻っていたが、深く俯いていた。

 

「さて、平行線の意見の言い合いをしても仕方ないわね。水晶を引き渡すかどうか、早く決めなさいな」

 

 スレイが催促する。すると、これまで黙っていた緑髪の女が、一歩前に歩み出ようとした。

 

「動くと撃つと言ったでしょう。答えるならその場で答えなさい」

 

「あなたたちにはマユカは殺せないはずだよ。冷静に考えればいい分かるはず。激情に囚われるから、マユカを人質に取るなんて判断ミスを犯すんだ」

 

「何を言いますか。非国民の命など屑同然です。何を寝ぼけたことを」

 

「水晶の強奪に失敗したら、今分かってる範囲ではマユカを世界水晶に取り込ませる以外に、緑の世界を生き長らえさせる有効な手段が無くなるでしょ。殺したらそれすらできなくなるって分からない?」

 

 緑髪の女の言葉に、リーリヤはハッとし、怒りに目が眩んだ己を呪った。彼女の言う通りで、人質を取るなら同じ非国民でもアゲハを人質取るべきであった。

 

「ああ、ティルダイン中佐、我が祖先、王女殿下、国王陛下。申し訳ありません」

 

 リーリヤは、天を仰いで己の不明を嘆いた。しかしそれを終えると、すぐ緑髪の女に向いて、毅然とした態度で訊く。

 

「あなた、何者ですか」

 

「シルト・リーヴェリンゲン。緑の世界水晶の意思の体現者」

 

「戯言を。あなたの言う通りならなぜブルーフォールを拒むのですか」

 

「私は、他の世界を滅ぼしてまで生きようとは思わない」

 

「そうですか。やはりあなたは偽物ですね」

 

 リーリヤのその言葉に、シルトが眉をひそめる。

 

「緑の世界の生きとし生けるものすべてを巻き込んで死のうなどと私たちの母なる大地が考えるはずがありません! そうでしょう、ティルダイン中佐!」

 

「ええ。ザクシード中尉、あなたの言う通りよ。それと、サナギ少尉をそのまま捕縛しなさい」

 

 リーリヤは彼女の命令通り、マユカに麻酔を打って昏倒させ、その手首に手錠をかけ、スレイたちの所に運んだ。そして、ルルーナが首から下を覆ってしまえるほどの盾、シュッツ・リッタを五個召喚し、それで立方体を作ってマユカを閉じ込めた。

 そこまで終えると、スレイは一歩前に出て、腰に下げたサーベルを鞘から抜き放ち、天に掲げた。それを合図に、リーリヤたちは即座に隊列を組み、臨戦態勢に入った。

 

「我々の行く手を阻むものは全て敵である。ましてや、裏切り者や母なる大地の意思を騙る者などはただの敵以上の存在だ。勇敢なる兵たちよ。今我々に牙を剥く者を皆殺しにし、世界水晶を見事奪ってみせよ!」

 

 最後の言葉と同時に、スレイはサーベルを美海らに向けた。その瞬間、リーリヤたちは突撃を開始する。遮蔽物になるものが全く無く、狭い部屋の中である以上、白兵戦以外に取る手段が無かった。

 

「αドライバーを狙います。リーリヤ、サポートはお願いしますよ!」

 

「了解了解。リーリヤの背中はあたしが守るから、前の敵は自己責任でね」

 

 ルルーナの口調は軽いものだったがリーリヤには彼女が真剣そのものであると分かっている。無条件に背中を任せられる親友のことは、最大限に信用しているのだ。

 リーリヤがαドライバーの一人まであと数歩というところで、その間にシルトが割り込む。そして彼女が召喚したのはルルーナの盾、シュッツ・リッタだった。そのことに心底驚いたリーリヤは、一瞬だが突撃の勢いが弱まった。その隙をシルトは逃さずに突き、その盾でリーリヤの体を弾き飛ばした。

 リーリヤはルルーナに受け止められた後、態勢を整えてシルトがなぜルルーナの武器を使うのかということを頭から抜くために頭を振った。

 

「細かいことはもう気にしません。まずあなたから再起不能にする必要がありそうですね」

 

 リーリヤはシルトにランスを構え直して呟いた。勝利への近道はαドライバーを二人とも殺すことだが、それをシルトは許してくれそうにない。その事実をリーリヤは心の中で咀嚼し、盾を構えるシルトに突進していった。

 

        ***

 

「中に人がいるのは分かっている。大人しく投降の意志を示せ」

 

 五度目となるアルフレッドの勧告を聞いた辺りで、世界水晶での戦闘が開始されたことを、カールは碧き巨神の力で知った。碧き巨神の力は超常のものだ。通信に限れば、いくらジャミングが働いていても、敵味方両方の通信を傍受でき、敵の位置も手に取るようにわかる。今相対している敵が、リーナの一家とジュリアであることも、カールとアイリスには分かっている。

 

「さて、もういいか。アイリス! 光の剣を使うぞ。目標はあの狙撃型のジャッジメンティスだ!」

 

「うん。巨神も良いって言ってるみたい。でも、市街地への被害は極力抑えてね」

 

「言われなくても!」

 

 カールは、碧き巨神の左腕をM型に向けた。そして、その手から、真っ直ぐ直線状に、白い光が放射された。M型は左腕を向けられた瞬間から回避運動に入っていたため撃墜とまではいかなかったが、その右腕と、持っていたスナイパーライフルは破壊できた。光の剣が消えると、すぐさまジャッジメンティス隊は行動に移った。それは、カールを挑発するように中距離から弱い攻撃を加えていくというものだった。

 

「やつが動くまで近づくなよ、伍長」

 

「了解です、中尉殿」

 

 アルフレッドとリーナのやり取りが聞こえた。カールにはこれが誘いであり、学園から引き離そうとしていることは分かっていた。そして、カールたちの任務は青蘭学園が持つ巨大兵器群を学園から引き離すことであり、敢えて誘いに乗らない理由が無かった。しかし、リーナの不服そうな声を聞くと、カールはより一層、誘いに乗ってやろうという気分になった。

 

「アイリス、こっちもミサイルを小出しにしながら海の方まで下がるぞ。奴らは誘いに乗ってくれたと思ってくれるだろうし、連中の常識からすれば、巨神のミサイルの小出しは、小出しには見えねえだろうしな」

 

「うん、私は賛成だよ。巨神もそうみたい」

 

 アイリスの言葉を聞いて、カールは巨神を飛び上がらせ、敵の四機全てに対して照準を定め、両腕、両肩、両脚、背中の計429基のミサイルランチャーの約四分の一からミサイルを発射した。今の巨神の大きさゆえに、そのミサイルも小さいものとなっているが、このミサイルは巨神が自らの力で作り出したものであり、破壊力は普通のミサイルと遜色ない。

 敵には一機あたり数発ほどは当たったものの、致命打にはなり得なかった。カールはそれを見ると、すぐさま巨神をG型に向けて動かした。

 

「誘いに乗ってくれたか。では」

 

 向かってくる巨神を見てアルフレッドはそのように言うと、牽制するような射撃を巨神に加えつつ、次第に海の方に進み始めた。カールはそれに乗ったふりをして、その後をミサイルを少しずつ撃ちながら追う。やがて、その場の全機が海上まで出ると、急にL型が突撃を仕掛けてきた。

 

「数値では知っていたが、こりゃ想像以上だな。しかも少し動きがぎこちないところを見ると、リーナの野郎、全く異能に頼ってないな。こりゃあ面白いぜ」

 

「んなこと呑気に言ってる場合? 少しくらい避けようとしなよ」

 

 面白がるカールに、アイリスが小言を発した。しかし、カールは口角を上げたまま告げる。

 

「避ける? バカ言え。あれだけのスピードだ。避けたら翻弄されるだけだろうが。真正面から受け止めて奴を止める方がいいに決まってんだろ。久しぶりの巨神で馬鹿になったんじゃねえのか?」

 

「馬鹿になったなんて、そんなことはないよ!」

 

 アイリスがムキになって反論する。その言葉を聞いてカールは大声で笑うと、正面を見据え直した。

 

「だったら、俺のすることを見てな。大丈夫だ。俺を信じろ」

 

「……うん、分かった」

 

 アイリスは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。それで、カールは心置きなくL型の動きを見られた。間も無く接触するという時に、L型は右半身を引いた。その前腕部のパイルバンカーで、杭を撃ち込むつもりというのは見て取れた。

 

「はあっ!」

 

 リーナの気合とともに、L型の拳が打ち出される。カールは、そこから突き出た杭に自ら巨神の掌を突き刺させると、L型の拳を掴んだ。そして、リーナは余った方の手でも殴ろうとするが、その拳もカールは巨神の手で掴み、L型の動きを止めた。両腕が塞がれ、また互いにかなり接近しているこの状況では、L型の刃のついた脚で蹴りを繰り出しても、大した攻撃にはならない。また、リーナ機を巻き込む恐れがあるため、他の敵機も迂闊に巨神に攻撃を加えられない。

 しかし、リーナは馬鹿ではない。ぐずぐずしていては、両腕をパージするだろうとカールは予め踏んでいた。ゆえに、カールはリーナの攻撃を受け止めると同時に、全ての敵機に照準を定め、ミサイルの発射準備をしておいた。

 

「ミサイル一斉射撃! 全員まとめて、死ィねよやぁぁぁああッ!」

 

 巨神の429基のミサイルランチャー全てが火を吹き、それぞれ各敵機を襲う。咄嗟に両手をパージして避けたL型だけでなく、他の敵機にも相当数が命中したようで、辺りは爆炎に包まれた。カールはそれで全て終わったと感じたが、アイリスが驚きの声を上げる。

 

「嘘、まだ全機残ってるって!? カール、早く巨神の力で煙を取り払って!」

 

「おう、分かった!」

 

 カールはアイリスの言う通り、衝撃波を放って煙を散らした。すると、見えたのは、海上に機体を浮かばせているもののコクピットはどれも目立った損傷の見られない、半壊状態の三機のジャッジメンティスだった。

 

「魔神鎧がいねえな。どこ行った」

 

「カール、右下!」

 

 アイリスの声を聞き、カールは右下に巨神のカメラを向けた。すると、無傷の魔神鎧が、肩にジュリアを乗せて猛スピードで突っ込んできていた。そして、それは巨大な拳へと姿を変え、巨神に迫る。

 

「避けられねえな。バリア・フィールド全開! アイリス、衝撃が来るぞ!」

 

「大丈夫! そのために鍛えた体だから!」

 

 アイリスのその言葉に安堵し、カールは落ち着いて魔神鎧を受け止める準備をした。直後、魔神鎧がバリア・フィールドに衝突した。衝撃波が回折し、その一部が巨神を揺さぶる。そして、それと同時に頭の中にノイズが入ったような感覚がした。

 

「やはりそこにいるのはカールとアイリスね。戦うことができて光栄だわ」

 

 ノイズが解消された直後に聞こえたのは、ジュリアのその言葉だった。聴覚に訴えているのではなく、脳に直接伝えているようである。それを受け、カールは余裕ぶった笑みを浮かべて脳内で言葉を思い描く。

 

「ジュリアか。テレパシーなどと粋なことを。ジャッジメンティスが全機生き残ってられたのもテメエの仕業だな。しかしよくもまあ、あのスピードの中を魔神鎧にしがみついていられたもんだ。あんたの握力には感服するよ」

 

「ご明察。ま、ミサイルの速度と密度が想像以上だったから、私くらいしか無傷でいられなかったけどね。それと、お褒めに預かり光栄の極みだわ。でも、敵とこんな会話していいの?」

 

「餞別ってやつだ。できればこれが今生の別れにしたいからな。お前の死という形でなあッ!」

 

 カールはバリア・フィールドを解除し、衝突していた勢いそのままの魔神鎧を横合いから殴って吹き飛ばした。

 

「まずはテメエを叩き潰す! いくぞおッ!」

 

 カールは咆哮し、人型に戻り態勢を立て直した魔神鎧に、巨神の体を突進させた。

 

        ***

 

 ナイアは、来た道を少し遡って、廊下の角でアインス、ユニ、ナツナを待ち伏せていた。風紀委員などは、陽動部隊がうまく働いてくれているようで、ナイアのいる辺りにはほとんど現れなかった。そのような中で、とうとうアインスらの三人が視界に入った。

 ナイアは少し待って、罠を仕掛けた場所の手前を三人が通った時、その罠を発動させた。天井と壁に仕掛けた爆弾が炸裂し、ちょうどその真下にいた三人に瓦礫が降りかかる。流石に三人ともそこを抜けたが、退路は塞いだ。

 

「ま、それじゃ仕留めらないか流石に。怪我のひとつやふたつでも負ってくれれば良かったんだけどな」

 

 ナイアはそう言いつつ、三人の前に姿を現した。三人はナイアの姿を見ると、一層顔を引き締め、各々武器を構えた。

 

「やっぱ調べ通りだったな。特務に非国民が混ざっていたとはとんだ誤算だったよ」

 

「否定はしない。我ら三人、既に国賊の汚名を一生背負う覚悟だ」

 

 右眼に眼帯をしたユニは一歩前に出て、毅然とした態度で言い放った。それに対し、ナイアは訝しみ、眉をひそめて尋ねる。

 

「納得できないんだが、なんであんたが裏切るんだ? トオナギ少尉は元はこの世界が故郷だし、学園に姉ちゃんまでいる。エクスアウラ少尉も、境遇を考えりゃ愛国心が芽生えなかったのも納得がいく。だがジェミナス中尉。あんたは何なんだ。守る家も、故郷もある。全く理由が分からんし、罪をあんた一人が背負えると思ってるのか? 家名に塗った泥は末代まで残るんだぞ」

 

「それも厭わん。故郷も、この世界も両方救う。それが私の決めたことだ」

 

「ゲロ吐きそうなくらい甘々な考えだな。じゃあその具体的な方法を言ってみなよ。ああ、予め言っておくが、マユカ・サナギを人柱にするのは無しな」

 

 ナイアのその言葉で、ユニの表情が凍りついた。ナイアはその顔を見ると、彼女を嘲笑しながら言う。

 

「おいおいマジかよ。あんたらの立場的に、マユカを使えるわけないだろ。あんたとマユカは、今や同胞だ。あんたらはマユカを守る立場になる。そして戦後、学園もマユカを保護するに決まってる。あんたらはマユカの命を使える立場にないんだよ」

 

 ナイアがそう言うと、アインスの短剣、ミリアルディアが何本も飛来して来た。ナイアは籠手型の武器、アヴェンジェリアを召喚し、それを振るった衝撃波で短剣を全て弾いた。

 

「やれやれ。やっぱこうなるか。反論出来なくなるとすぐ得物を取り出しやがる。血気盛んなのは兵としてはいいことだがな」

 

 ナイアはポケットの中のボタンを押した。すると、先程までナイアがいた曲がり角と、ナイアの後ろの廊下で爆発が起こり、瓦礫でその道が塞がれた。

 

「さて、三人とも殺してやるから、覚悟しな」

 

 ナイアはそう呟くと、アインスに狙いを定めて走り出した。アインスに狙いをつけたのは、彼女の能力が最も厄介と考えたからだ。ナイアの武器であるアヴェンジェリアは、その籠手で受けた攻撃の威力を吸収し、それが一定量溜まると、それを一気に放出する。アインスは手数で攻めるので、溜まる速度も当然大きくなる。アヴェンジェリアの放出量が尋常でないため、もし放出されては、少なくとも今ナイアのいる辺りが倒壊してしまい、生き埋めになってしまう。だからと言って、アヴェンジェリアの攻撃無効能力が無ければ、三人の攻撃を捌き切るなどは到底不可能だ。そう考えてのことだった。

 ナイアが動き出すと、ユニは眼帯を取り払い金色の眼を晒し、光の鞭、フラゲルムノウンをナイアに振るい、またナツナは、片手剣、エンドブレイザーを振りかぶり、更に、アインスが短剣を大量に召喚する。

 ナイアは走りを止めず、鞭を素手で払い、短剣は無視してアインスに迫る。その時、ナツナが片手剣を振り下ろした。それと同時に、刀身が分割され、蛇腹のようにうねりながら大きく伸びる。これこそ、エンドブレイザーの真価である。初見ではまず対処不可能で、バラバラに切り刻まれるのが関の山だ。しかし、ナイアはナツナの手の内は知っている。足元を狙って来たその刃を、ナイアは軽く横に跳ぶことで回避した。しかし、その直後、先端がナイアの方に曲がって来、再びナイアの足を狙う。だが、それすらもナイアの計算の内だった。ナイアは上に跳び、その先端を靴の裏で踏むと、更にそこから跳躍し、一回壁を蹴ってからアインスとの距離を詰め、左腕を振りかぶった。

 アインスはそれを躱すために右側に回り込むが、ナイアはそれをチャンスとばかりに、右手でアインスの首を掴み、そのまま着地して彼女を引きずり倒した。

 

「捕まえたあッ! 窒息だけじゃ済まさない。このまま首の骨をへし折ってやる!」

 

 ナイアはそのまま締め上げる力を強める。アインスの抵抗する力は次第に弱まり、目から段々と生気が失われていき、その顔色は紫がかっていく。だが、ユニとナツナがそれを見逃すはずもなく、光の鞭と分割された刃がナイアを襲う。ユニの鞭は、金色の目の動きと連動するため、かなり細かい動きができる。対してナツナは彼女の技巧で操っているだけなので、籠手で防ぎやすいのはナツナの方だ。

 そう考えたナイアは、剣の刃を籠手で防いだ後、それをはめた方の手で鞭を掴んだ。そしてそれを引っ張り、ユニの体を浮かせる。それと同時に、アインスの顔を蹴って方向転換し、ユニの方に跳躍した。彼女の体は依然として宙に浮いている。ナイアはその鳩尾の辺りに籠手に付いた鋭い爪を突き刺し、それを抜いてユニの体を掴み、彼女の傷口に膝蹴りを食らわせた。

 

「まだだ、もう一発!」

 

 ナイアはナツナの攻撃を籠手の能力で防ぎながら、一歩下がって、倒れようとするユニのうなじに踵落としをした。ナイアの身体能力に加え、硬い軍靴の踵で与えるその一撃は尋常でない。事実、それでユニの体の力はほぼ完全に抜けたようである。ナイアは駄目押しとばかりに更にそこから後頭部を踏みつけると、ナツナの方に向いた。ユニは血溜まりの中に倒れ伏し、アインスは泡を吹いて気絶している。

 

「さあ、あとはあんた一人だな、ナツナ・トオナギ。今更詫びを入れたとしても容赦はしないからな」

 

「私は、今は遠薙夏菜として、日本国民としてこの場に立っている。グリューネシルトには恩義を感じてるけど、私に生を与え、お姉ちゃんのいるこの土地への愛の方が優ってる。詫びを入れることなんてない。玉砕したって戦ってみせる!」

 

 ナツナは、ナイアの言うことはまるで意に介さず言い放った。その言葉を聞いたナイアは、思わず大きくため息をついた。

 

「やれやれ。やっぱりあんたは素性が判明した時点で除隊すべきだったな。あたしたちの失策だったよ」

 

 言い終えると、ナイアは腰を低くしてすぐ跳躍できるように構える。対し、ナツナは左手にもエンドブレイザーを召喚し、それを伸ばして一回床に叩きつけ、勢いをつけてから飛ばした。その勢いは想像以上に強く、右から放たれた一撃は籠手で受けられたものの、左の方は防御できなかった。腕に巻きつかれないように必死に体をひねるが、その刃は右肩に深々と突き刺さった。更に、ナツナはその刺さった方の剣を元に戻し始めた。ナイアに刺さったままであるので、その勢いでナツナは一気にナイアとの距離を詰める。そして、右手の剣も元に戻し、そちらの方でナイアに斬りかかった。

 その斬撃は籠手で受け止められたが、その状態で、ナツナが左の剣を一旦ナイアの肩により押し込んでから、再び伸ばし始めた。しかし、それはナイアとの距離が大して開かないように少しだけ伸ばしただけだった。ナイアがその意味を訝しむと、急に肩に刺さっていた刃が蠢き始めた。

 形容しがたいほどの激痛が、ナイアを襲った。あまりの痛みに、右の剣を受け止めていた左腕の力が抜けてしまった。これをナツナが逃すはずがなく、すぐさまナイアの左袈裟を斬りつける。ナイアは何とか上体をそらして肩口から真っ二つにされるのは回避したが、斬られた傷は深く、失血多量で意識が朦朧として来た。ナイアは歯を食いしばり、何とか意識を失うことだけは回避した。そして、ナツナの斬撃後の隙を突き、精一杯の力で右肩に刺さった剣を籠手をはめた手で引き抜いて、ナツナから離れた。

 ナイアは、いつになくナツナに危機感を覚えていた。普段なら圧倒できる相手にここまで押されてしまっている。アインスやユニはすぐ倒すことができただけに、その危機感は尚のことであった。

 

(あの二人にはまだ後ろめたさがあったが、こいつには無いってことか。引くことを考えない奴の相手は厳しいな、本当に!)

 

 ナイアがそう考えている間にも、ナツナは迫ってくる。今なら確実に殺せるという自信があるからか、剣を伸ばしはしなかった。その行動を見て、ナイアは普段冷静なナツナが熱くなっていると感じた。ならば、ナイアに勝機はある。

 ナイアは深呼吸をし、わざと棒立ちになった。それを見たナツナの口角が、わずかに上がった。そして、片方の剣を捨て、残った一本を両手持ちにして、ナイアの心臓をめがけて一直線に突いてきた。

 

「甘い! あたしの勝ちだッ!」

 

 ナツナは勝ち誇ったように言った。ナイアは突かれる寸前に横に飛んで、心臓は外したが右胸に剣が突き刺さる。しかし、それはナイアの想定通りだった。ナツナがそこからナイアの体を斬り裂こうとするより前に、ナイアは自らその刺された深さを大きくし、そのままナツナと体が触れ合う距離まで詰め、籠手の爪をナツナの背中に突き刺した。

 

「何をする気!?」

 

「あたしだって、負けらんねえんだぁぁぁぁッ!」

 

 ナイアは上体を逸らし、戸惑うナツナの眉間に己の頭をぶつけた。失血多量の上、脳を激しく揺さぶられたために意識が飛びそうになるが、ナイアは何とか堪えた。ナツナはというと、不意打ちということもあってか、額から血を流して昏倒していた。ナイアは彼女の背中から爪を抜き、その体を蹴飛ばすと、廊下の壁に寄りかかった。

 ナイアにとって、かなり危ない戦いだった。ナイア自身の打たれ強さと、ナツナが感情を昂らせたことが無ければ今頃死んでいたことだろう。しかし、相手方を全員殺せた訳ではない。三人とも、まだ息がある。今のうちに殺さねばならない。ナイアはそう考え、懐の銃に手をかけた。が、そうしている間に、ナイアはユニが立ち上がったのを目撃した。彼女は、ナイアが塞いだ、スレイたちが突入した穴に続く廊下の天井を見ている。そこには、人一人が無理をすれば入られそうな空間があった。そして、ユニは光の鞭を召喚した。鞭を利用してその空間に入るつもりだろう。止めねばとナイアは思うが、体は動かなかった。もはや限界であった。ナイアの意識は、無力感と共に闇に沈んだ。

 

        ***

 

 ルルーナは、とにかくリーリヤの背中を守ることに専念していた。様々な者から攻撃を受けたが、ルルーナの盾はそれを悉く弾き返し、時に銃や手榴弾で反撃した。誰もが彼女に手をこまねいていたが、特にユーフィリアは、他の者よりも一層困惑していた。その理由を考えている余裕は全く無いが、これはルルーナには好都合で、全員で七人が攻撃してくるのが、六人半になっているようなものだった。

 そしてルルーナには、攻撃を防ぐ中でひとつ分かったことがある。個々では確かに強く、また互いに全幅の信頼を寄せていることもよく分かる。しかし、その動きは全く洗練されていなかった。その点において明らかに訓練不足だった。そして、本気で殺そうとしているのはアゲハただ一人で、他の六人は出来るだけ殺す事の無いように、急所は狙わない戦いをしていた。これなら勝てると、ルルーナは確信した。統合軍は、敵が疲弊するまで適当に攻撃を受け流すだけで良い。リーリヤを含め、他の隊員もそれを悟ったのか、積極的に攻める姿勢から、攻撃をやり過ごすような戦い方に変わった。増援が来るとしても、別働隊がうまく阻んでいるとの戦況報告が入ったことから、敵が疲れるまでの余裕は十分にあると思われた。

 しかし、ルルーナがそう考えていた時であった。不意に、風を切る音が天井の方から聞こえたのだった。その辺りには、学園側の人員は配置されていなかった。しかも、その音は小さく、一人であることも予想された。

 

(まさか、ナイアが阻みきれなかった!?)

 

 果たして、その予感は的中した。天井から幾つもの光条が降り注ぐ。それは次々と強奪隊の隊員の首に巻きつき、ルルーナは盾で弾けたが、リーリヤとスレイさえも、それに首を巻かれてしまった。

 

「これは、フラゲルムノウンか。ということは、ユニ・ジェミナス!」

 

 パラシュートでゆっくりと降下し、床に降り立った彼女をルルーナは睨んだ。ユニは全身が血まみれで、息も荒く、打撲も多く見受けられた。そして、その手には先の分かれた光の鞭があった。

 

「武装を解除して投降し、マユカ・サナギを解放しろ。今の私でも、今捉えた者たちを窒息死させることくらいはできる」

 

 そう告げられたルルーナは、隊員たちの様子を伺った。ユニの言葉に偽りは無いようで、既に何人かは、顔面を蒼白にして大変苦しそうにしていた。

 更に、流石に手負いとはいえユニを含めた八人を同時に相手に取れる自信は、ルルーナには無かった。全員を見殺しにして死に花を咲かせるか、投降して僅かばかりの存在の可能性がある、次の機会に賭けるか。どちらが良いかは、火を見るより明らかだった。

 

「分かった。その言葉に従う」

 

 ルルーナは盾と懐の銃、手榴弾、ナイフ等々を床に捨て、マユカを囲っていた盾を回収すると、両手を腕を上げた。それを見たアゲハたちが、一斉に息をついた。そして、彼女らは拘束された強奪隊の面々に手枷を嵌めていく。ルルーナとて例外でなく、後頭部に銃口を突きつけられながら、手を後ろに回されて拘束された。

 

「分かってくれたんだね、ルルーナちゃん」

 

 美海が前に立ち、満面の笑みで告げた。恐らく、彼女に悪意は無い。心の底からそう信じて、口にしたに違いない。ルルーナはそう感じたからこそ、意図的にそう言われるよりも激しく、腹わたが煮えたぎる思いを抱いた。しかし、立場上直接口に出して反論することはできない。だから、無表情にして徹底的に黙した。そのようなルルーナの心中を、ユニは察したのか、美海を手で制しながらルルーナの眼の前に立った。彼女の哀れむような、申し訳なさそうな目は、ルルーナの苛立ちを一層加速させた。

 

「私を憐れもうっての? 勝者のヨユーってやつ?」

 

 ルルーナは、ユニ以外の誰にも聞こえないほどの小さな声で言った。ユニは眉を僅かに動かしただけで、何も言わなかった。ただ、少しだけ悔しそうにしている。それだけでも、今のルルーナの溜飲を下げるのには十分だった。思わず、口角が上がる。対し、ユニの表情はますます沈む。

 その二人の様を機械的に見つめるふたつのモノがあったことに、その場の誰も気に留めなかった。

 

        ***

 

 魔神鎧と敵機が繰り広げる一進一退の攻防を、リーナはL型のコクピットからモニターを通じて眺めていた。魔神鎧が剣を振るえば、敵機はそれを真っ向から殴り、叩き折ってその勢いで魔神鎧に突進する。対し、ジュリアは魔神鎧でそれを紙一重で避けると同時に、敵機に回し蹴りを入れ、更に肉薄して数が多くも鋭い拳を全て入れる。当然、敵機も黙ってやられず、閃光を発してジュリアの目を眩ませた瞬間にその機体を魔神鎧にぶつけ、距離を取る。

 リーナはその光景に戦場ということも忘れて見惚れていた。出来ればジュリアに手を貸したかったが、自分の体と、機体のコンディションがそれを許さなかった。

 ミサイルを出来るだけ回避しようとして、異能を用いて機体に無茶な動きをさせ、更にジュリアが彼女の異能で無理矢理に離脱させたために、ミサイルによるダメージも相まって機体に変な負荷がかかってしまったのだった。まず、両腕は敵機から離れるためにパージしてしまった上、両脚は完全に破壊され、脱出機構は故障し、推進剤も漏れを起こしてしまった。G型もM型も、程度は違えど似たような状況だった。おかげで自力または他力でも青蘭学園に戻ったり、対空することもできず、海上で浮かんだまま、二機の戦いを見守ることしかできなかった。

 更に、リーナはミサイルを避ける時に操縦席の中を激しく揺さぶられ、その中で操縦桿に無意識に強くしがみ付いてしまったためか、左腕の肘関節を脱臼してしまった。これでは生身でも満足に戦うことは不可能だ。

 

「無力だ、私は」

 

 何ともやり切れない気分になり、リーナがそう呟いた時だった。作戦本部から、世界水晶の防衛に成功したとの報が入ったのだった。それは敵機のパイロットにも伝わったようで、敵機はぴたりと動きを止めた。ジュリアは何やら喋っているようだが、結界でも張っているのか、ジャッジメンティスの集音機能ではそれを聞き取ることはできなかった。

 やがて、敵機の胸部ハッチが開き、一組の男女が両手を挙げて生身を晒した。その姿を見たリーナは、開いた口が塞がらなくなっていた。その可能性はあったはずなのに、これまで無意識にそれを除外していた。そのような、私情で目を眩ますことは軍人失格と言ってもいい思考だった。しかし、今のリーナにはそこまで頭が回らなかった。

 

「アイリスに、カール。なんで、なんでそこにいるんですか。カール!」

 

 リーナは叫んだ。リーナはカールとアイリスを殺そうとした。カールとアイリスはリーナを殺そうとした。これは事変であるから、軍人としては全く正しいことだった。だが、その事実の重圧は却ってリーナを押し潰した。何故かはリーナには分からなかった。今の彼女が考えても、ただ、胸を掻き毟りたくなるくらいの苦しさを感じるだけだ。

 己が信条の何もかもが分からなくなったリーナの悲痛な慟哭が、コクピットの中で反響する。



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優しさは罪か

 ブルーフォール作戦の責任を取り、緑の世界を代表して、グリューネシルトが多額の賠償金を青蘭島に支払い、人質としてランが学園に入学することとなった。また少将以上で作戦に関与した者は軒並み更迭され、実際に軍事行動をしたカール達は銃殺刑——とはならずに、更に青蘭島からの永久退去などもなく、何故か寮の自室にて監禁処分ということになった。とはいえ外界に繋がる手段は封じられ、窓は開けられないように細工され、ドアでは風紀委員が見張っている。

 しかし末端の兵に対するこれらの処分は、カールだけでなく、他の作戦に参加した者にとってはかなり不可解なことであった。詳しいことは何も分からないが、最も納得のいく説としては、赤の世界の代表者の発言がかなり強かったのでは、ということだ。赤の世界は異常なまでの不殺主義と平和主義で有名で、かの世界の代表者が中心となって処分を決めたと考えれば、一応説得力はある。

 現在、監禁が始まって三日が経ったが、カールとアイリスは、すっかり退屈してしまっていた。初日や二日目にはストレスの発散という目的もあって淫行に耽っていたのだが、この日は互いに気持ちが乗らなかった。今、二人は体を密着させてソファに座っているが、その状態で、無言で小一時間を過ごしていた。流石に耐えきれなくなったのか、アイリスが口を開いた。

 

「昔の話でも、する?」

 

「昔なんて、何もいいこと無かっただろ」

 

「だからだよ。昔を思い出せばさ、今の方がよっぽどマシだって、思えるかもよ」

 

 アイリスのその言葉で、カールもその気になった。記憶の糸を手繰り寄せ、極力思い出さないようにしていた過去を掘り起こした。

 

「そういや、物心ついた時から浮浪児だったな、俺ら」

 

「そうそう。あの頃は何でもやったなあ。ゴミ箱漁って手に入れた食べ物じゃ全然足りなくて、人の飼い犬を殺して食べたりとか、放火してどさくさ紛れに色んなもの盗んだりとかさ」

 

「あの頃は生きるのに精一杯で、倫理とか知るかって感じだったからな。ま、あの時に磨いたスリの腕とかうまい放火の仕方とか、人の家に忍び込む術が特務で役に立つとは思わなかったがよ」

 

 人生何があるか分からないな、とカールは笑った。アイリスも頷いて、共に笑う。それからすぐに、互いにまた昔を偲んでいく。

 

「十二くらいの頃だっけか。俺たちが初めて会って、直後に娼館に俺たちが拾われたのは」

 

「うん。酷いもんだったね、あそこは。浮浪児やってた頃の方が良かったよ」

 

「全くそうだったな。まだ全然右も左も分からんってのに客の相手をさせられて、よくもまあ体が壊れなかったもんだ」

 

 カールは、当時の感覚を不意に思い出してしまい、身の毛がよだった。したくもない男の相手をさせられ、脱走しようにも殆ど監禁状態で不可能で、更には同じ建物にいるのに、アイリスの引き離された。まさにこの世の地獄と言っていい場所だった。しかも、二人はその娼館の金づるだったおかげで、死なせてはもらえなかった。むしろどこからか呼んできた相当高名らしい医者に体を定期的に診られていたくらいだった。おかげで、娼館で、カールがある相手にプレイの一環と称されて左の目玉を潰されて眼窩を弄ばれた時にも、その傷が広がらないように手術されてしまった。

 

「それで、あの娼館がレジスタンスのパトロンだって発覚して、軍に潰されて、私たちはミロクに拾われたんだったよね。十四の頃だっけ」

 

「ああ。軍の方がよっぽどマシだったな。巨神に乗るための訓練は厳しかったけどよ、ナイアは俺たちを弟妹のように見てくれたし、高性能な義眼もくれたし、誇りを持てる生き方を与えてくれたし、何てったってアイリスと一緒にいられたからな」

 

「もうカールったら、からかわないでよ」

 

 アイリスは顔を赤らめて、カールに一層身を寄せた。そしてはにかんだ笑顔を浮かべたかと思うと、ふと表情を暗くし、アイリスは口を開いた。

 

「やっぱり、このままはやだな。軍から与えられた恩義を返せるだけのことを、私は全然していないもの」

 

「俺だってそうだ。いっそのこと、もう一度——」

 

「カール」

 

 アイリスは人差し指をカールの口に当て、彼の言葉を遮った。目を丸くしたカールに、アイリスは諌めるような口調で告げる。

 

「変な気は起こさないでよ。独断でやらかしたら、軍にも責任が及ぶんだからさ。命令が下される次の機会まで待たなきゃダメだよ」

 

「わかってる。わざわざ言うんじゃねえ」

 

 カールは早口気味に言った。それから、暫く互いに黙ってしまった。その空気に耐えかねたのか、アイリスは逡巡した様子を見せながらも、顔をほのかに赤くして声を出した。

 

「ずっと、一緒にいたいね」

 

「もちろん。死ぬ時は二人一緒だ」

 

「リーナはどうするの?」

 

 アイリスに問われ、カールは少し詰まった。しかし、間も無くその答えは出た。

 

「あいつには、自分で決めて欲しいな。もっとも、まだあいつと一緒になれるって決まったわけじゃねえけどな」

 

 カールは苦笑する。そして、アイリスの頭を撫でてやると、彼女は機嫌良さそうに笑みをこぼした。カールは、己の今の状況も忘れ、ただこの甘美な時間に浸っていた。

 

        ***

 

 ブルーフォールの阻止に成功して数日経った日の放課後のことである。リーナは、急遽開かれることになった生徒議会の末席に座って、始まるのを待っていた。議題は、生徒で世界水晶の強奪に参加あるいは協力した者の処遇についてだ。このようなことが何故生徒議会で協議されるのかというと、上層部から生徒のことは生徒で決めろ、との通達があったとのことだ。

 このことについて、リーナは全く理解できなかった。確かに青蘭島は五つの世界が共同統治している土地で、どの世界の法も通じず、島独自の法律が人を律する唯一のものだ。しかしそこに、裁判を生徒が行えるなどという法律は無い。新しく作られてもいない。体良く面倒ごとを押し付けたと言えばそれまでだが、だとしても法律のエキスパートのいない生徒間で決めさせるのは狂気の沙汰である。

 一応、赤の世界の統治者としての記憶を取り戻したらしいアウロラや、ダークネス・エンブレイスで魔女王の片腕として色々と仕事をしたソフィーナはいる。しかし、アウロラの平和主義のおかげでリーナは彼女を信用しておらず、世界接続前のソフィーナを知るジュリア曰く、彼女は政治を全く行なっていなかったとのことだ。

 生徒議会の一年生代表としてこの場にいるリーナも、法律に詳しい訳ではない。一応、軍人としての教育はある程度受けているため、戦後処理はかくあるべき、との大まかな流れは知っているものの、細かい話は分からない。会議に参加するにあたって法律関係の書籍を読んではみたものの、理解するには時間が足らなさすぎた。

 

(上層部は、何を意図してこんなことを。法に則らずに決めさせれば、理想論や感情論が支配しかねません)

 

 リーナは、この議会の顔触れを一瞥していく。この場には生徒会と学年代表の議員がいるのだが、青蘭学園のルールでは一年生は生徒会に入れないため、一年生はリーナのみだ。そして、先日新しい生徒会が発足したばかりで、その内訳が、会長が美海で、副会長がソフィーナで、書記がルビーとマユカ、会計がユーフィリアである。見事に世界構成がばらけているが、示し合わせた訳ではなく、単なる偶然のようだ。実際、この組み合わせで立候補していた。彼女らの他には、先にも述べた生徒議会二年代表のアウロラと、三年代表のミハイルがいる。ミハイルは白の世界のアンドロイド技術者だ。若干17歳にしてアンドロイド工学の最高権威としてS=W=Eに君臨している。一応、彼女も軍の所属であるため、この場でリーナが当てにできると考えているのは、マユカの他には彼女だけだ。

 しかし、マユカは会議室に入ってきた時から顔色を悪くしており、息も少し荒らそうだった。そのような中で、会議は始まった。すると、すぐにマユカが挙手をして立ち上がった。

 

「私は、この会議における発言権と投票権を放棄します。私は祖国に背いた裏切り者です。私がこの議会での決定に関与しているとブルーフォール作戦に従事した者が知れば、どのような結論であれ不満を抱くでしょう。お願いします、美海さん」

 

 いきなり頼みの綱の一本が切られてしまったが、リーナは彼女の言い分には納得できた。顔色が悪いのも、グリューネシルトを売ったことへの罪の意識に苛まれ、極度の緊張状態にあるからだろう。美海も、不満げではあったが、納得はしたのか彼女の要求を受け入れた。すると、マユカは緊張が切れたように勢いよく椅子に座った。未だ顔色は良くないが、発言前ほどではなかった。

 マユカと入れ替わるように、美海が席を立った。

 

「じゃあ、これは私の考えだけど、きっと、作戦に従事した人も、心の底ではダメだって思ってたはずだから、みんな許してあげようよ。どちらも死者は出してないんだしさ、前と変わらず、仲良くしよう」

 

 美海のその発言に、リーナは目が点になった。そして、縋るようにその発言に対する反応を見た。マユカを除いた生徒会の面々とアウロラは頷いていて、マユカは俯き、ミハイルは無表情だった。その様に、リーナは愕然とした。美海の案をおかしいと思えないほど愚昧だとは思いもしなかった。確かに双方が納得できるなら、美海の案でも問題はない。だが、現場で戦った統合軍が、それで納得するはずがない。リーナはそう確信していた。

 

「リーナ、何かあるなら口に出してよ」

 

 リーナの心情を察したのか、ソフィーナが少し苛立ち混じりに言った。それで、リーナはいきり立つと、左腕にギプスをしていて不自由なせいか、すこしぐらついてしまった。だがすぐに態勢を直して、その場の全員を一瞥してから話し出した。

 

「私は、美海さんの意見には賛同しかねます。全員恩赦など、以ての外です。作戦に参加した者全ての、青の世界からの永久追放を私は主張します」

 

「でも、それだと遺恨が残るんじゃないかしら」

 

「新たな拗れを生むよりは、遺恨を残す方がよほどマシです!」

 

 アウロラの呑気な発言に、リーナは声を荒げて反論する。

 

「いいですか。敢えて直接的な言い回しをしますが、ブルーフォールは数名の裏切り者によって阻止することができたのです。そして、ブルーフォールの失敗は彼らにとって、祖国を救う手段のひとつが失われたことを意味するのです。当然、裏切り者に対する怨嗟は並大抵のものではありません。それに、心の底ではダメだと思っていたなどと言いましたね、美海さん。あなたは世界水晶の広間で、一体何を見てきたのですか! 他の人たちもです。彼らがどれほどあの作戦に賭けていたかを、分からなかったとでも言うのですか!」

 

 リーナの語気の強さに、ミハイルとマユカを除いたその場の者たちは呆気にとられていた。しかし、そのようなことは全く気に留めず、リーナは続けた。

 

「彼らは間違い無く、心の底から作戦に命を懸けていました。私だって、彼らと戦った一人だから分かります。あの時、私と戦った人は、明らかに私を殺しにかかっていました。世界水晶から離れた戦場でさえそうなのです。あなた方が対峙した者は、一層本気だったはずです!」

 

「でも、最終的には降伏勧告を受け入れてくれたよ?」

 

 美海が心底不思議そうな目でリーナを見て、そう言った。リーナも、その時の状況は知っている。人質を取った上での降伏勧告だったはずである。しかも、人質にされなかったのは一人だけだった。それで降伏勧告を受けない者がいるはずがない。リーナはそう言おうとしたが、流石にこの彼女の言葉は不適切と思ったのか、リーナが口を開く前に、ユーフィリアが美海に鋭い目を向けた。それで、美海がバツの悪い表情を浮かべる。美海は、それでも全く重くは捉えていないようであるが、一度咎められた以上、リーナが掘り下げることでもなかった。

 美海は一息つくと、これまでとは違って、リーナを諭すような口調で話し始めた。

 

「リーナちゃん、まだ詳しく言えないのだけど、これから先は人と人が対立し合っている場合じゃないんだよ。手を取り合って立ち向かわなきゃいけないことが起こるんだ」

 

「だったら! 尚更作戦に従事した者は離さなきゃダメでしょう! そんな綺麗事だけで彼らは絶対に納得しませんよ!」

 

「でも、リーナの言う方法だと、個人レベルでの和解は永久にあり得ないわ。今青蘭島にいる人だけじゃなく、世界の全員で立ち向かわなきゃいけない危機が、迫ってきているのよ」

 

 ソフィーナが、熱くなるリーナを見かねたように告げた。その言葉で、リーナはより一層苛立った。まるで、リーナのやり方が全否定されたような気分になっていた。その上、自分以外のこの場の全員が知っていて、リーナだけが知らないことがある。先の戦闘で、カールに関する気持ちの整理も出来ていない彼女の心は、ますますささくれ立っていく。

 

「さっきから言う、その危機とは何なのですか!? 少しくらい説明してくれないと、納得出来るものも出来ませんよ!」

 

「ウロボロス。世界に破滅をもたらす使徒です」

 

 怒鳴るリーナに対して、ユーフィリアが冷静な口調で答えた。それは、ウロボロスはあと一年以内に必ず来るとも言った。その言葉を、リーナは不思議がった。いくら白の世界の技術と言っても、未知の存在を予言するなどということは出来はしない。占いなら納得できるが、アンドロイドがそうするとは考えにくい。リーナの困惑を悟ったのか、ユーフィリアは徐に口を開き、重たい雰囲気を纏わせて告げる。

 

「私は、そのウロボロスによって滅亡に瀕した未来から来たアンドロイドです。信じる信じないはあなた次第ですが。ともかく、私はそれから救うという使命を背負ってこの時代にいます。かの者らに対抗するには、五つの世界が一丸となって立ち向かわねばなりません」

 

「だとしても、あなた方の論理には納得できません。連帯感だと言うのなら、やはりその元となる統合軍は引き離すべきです」

 

 睨み合う二人を見かねてか、これまで黙ってやり取りを見ていたミハイルが口を開いた。

 

「このまま議論を続けても平行線だろう。妥協できる余地も互いに無いようだから、いっそ、ここで議論を打ち切って、多数決で決めてはどうだ?」

 

 ミハイルのこの意見に、反対意見は何も出なかった。それで、挙手による投票を行うことになった。

 

「じゃあ、まず、リーナちゃんの案に賛成する人は手を挙げて」

 

 美海がそう言ったので、リーナは真っ先に手を挙げた。だが、他に挙手した者は誰もいなかった。賛成してくれるだろうと思っていたミハイルでさえ、その手は両方とも膝に置かれていた。

 リーナの心は乱暴に掻き回されたかのように、様々な念で渦巻いていた。誰も理解してくれなかった悔しみと怒り、自分だけが異を唱えていたという羞恥心が綯交ぜになり、リーナは無意識に右腕で机を強く叩いていきり立った。しかし、リーナはすぐに自分が何をしたかを理解し、またその行いを恥じ、居た堪れない気分になった。

 数歩後ずさると、リーナは身を翻して一目散にその場から逃げ出した。何も考えず、ふらつきながらも廊下を走り抜け、階段を駆け下り、気が付けば外を全力で走っていた。しかし、前方に全く注目していなかったせいで、途中で人にぶつかってしまった。リーナは簡単に体を跳ね返されてしまい、また左腕が不自由なせいで上手く手をつくことも出来ず、尻餅を勢いよくついてしまった。

 

「リーナじゃないか。大丈夫か?」

 

 そう言って手を差し伸べる先の人物は、紛れもなくマイケルだった。リーナには、彼女が天からの使いに見えた。渡りに船とは正にこのことだろう。リーナはマイケルの手を取って立ち上がり、彼の顔を間近で見ると、急に込み上げるものがあった。

 

「兄、上」

 

 リーナは彼の胸に顔を埋めると、たまたま近くに人がいないことをいいことに、恥も外聞もなく泣き喚いた。マイケルは何も言わず、片方の腕をリーナの背中に手を回し、もう片方で彼女の頭を撫でた。

 暫くして、リーナは何とか落ち着くと、顔を上げてマイケルに涙声で言う。

 

「話、聞いてくれますか?」

 

「もちろんだ。でも、この往来じゃ話しづらいだろ。場所、移すか」

 

 マイケルは即答し、そのように提案した。リーナもそれを拒まなかった。二人は人気の無い校舎裏の森の中に入ると、近くにあった大きな岩に飛び乗って座った。マイケルの自室に連れて行かなかったのは、彼の配慮だろうとリーナは思った。そこにはアナベルがいる。いくらカウンセリングを専門とするアンドロイドとはいえ、それに頼ることはリーナのプライドが許さないことを、彼は察したのだろう。今のリーナにはそのようなマイケルの、リーナへの愛に裏打ちされた行動が、恵みの雨のようであった。そして、兄として、彼を尊敬し直した。それで、リーナは先の会議の内容を、洗いざらい彼に話した。

 マイケルは少し唸ると、リーナの頭に手を置いて、爽やかに笑ってみせた。

 

「俺は、リーナを支持するよ。あの生徒会長は人がいいのは分かるが、あの子のまるで現実が見えていない案には賛成しかねるな」

 

 マイケルのその言葉に、リーナは救われた気分になったが、彼だけが賛成したところでどうにもならないことに気づき、また落ち込んでしまった。

 

「どうした?」

 

「兄上がそう言ってくれるのは嬉しいですけど、でもどうにもならないですよ。もう決定しましたし、明日には発表されて、一週間後には実行されます。諦めるしか、ないですよ」

 

 リーナは、そう話しているうちに自分の無力さに嫌気がさし、また涙が出てきた。そのようなリーナの目尻をマイケルは拭い、真摯な面で告げる。

 

「いや、方法ならある。署名を集めればいい。あの決定は大学部と中等部にまで及ぶものだから、それらの署名も集めなきゃいけないけど、大学、高等、中等の生徒の半分を集めれば決定事項の棄却くらいはできる。それで、またリーナの案を通せばいい」

 

 彼の提案に、リーナはハッとした。同時に、頭の中が一杯一杯で、そのような単純なことに気がつかなかった己を呪った。しかし、そこに一筋の光明を見出したのも事実だ。リーナはつい興奮して彼に詰め寄った。

 

「じゃあ、早速行動に移しましょう!」

 

「落ち着け、リーナ。まだ正式に発表されてないのに出来るわけないだろ。それに、お前は表立って署名に関わるんじゃないぞ」

 

 マイケルに肩を揺さぶられ、リーナはなんとか気を鎮められた。そして一考してみれば、確かに彼の言う通りだった。生徒会の決定に関する署名活動には、生徒会顧問の教師の認可が必要なのだが、その決定がまだ発表されていないのに認可が下りるわけがない。それに、リーナは曲がりなりにもその決定に関わっていた人間である。自分の案が通らなかったから署名活動をしたなどと他人に思われれば、当然その活動に対する印象は悪くなり、通るものも通らなくなる。

 

「分かりました、兄上。とりあえず、その線でやりましょう」

 

「ああ。他に何か言うことはないか?」

 

 マイケルに問われ、リーナは一瞬だけ、カールのことを話そうか迷った。先の戦いで、コクピットの中で彼の名を叫んだ時、通信機能は作動していたから、彼との関係について、マイケルはある程度の想像をしたはずである。しかし、マイケルはそのことについて何も言わない。敢えて触れないようにしてくれているのだろう。リーナはその配慮に応えるためにも、結局カールについては話さないことにした。

 

「いえ、ありません。兄上は?」

 

「俺も無いよ。今からどうする?」

 

「私は、寮の自室に帰ろうと思います。風紀委員の活動もありませんし」

 

 リーナがそう答えると、マイケルは「よし」と勢いよく立ち上がり、リーナに向き直って言う。

 

「じゃ、俺が送ってやるよ。久しぶりに肩車でもしてやろうか? 昔、よくせがんでただろ」

 

 意地の悪い笑顔を見せるマイケルに、リーナはむっとなってそっぽを向いた。肩車をして欲しいという自分もいたが、人に見られたらあまりに恥ずかしい上に、そのような自分を兄に見せること自体も恥だ。

 

「嫌です! 私、そんな子供じゃありません!」

 

「じゃあおんぶは」

 

「それもダメです! 兄上の中の私は、一体何歳なんですか!」

 

「ははは、悪かった。機嫌、直してくれよ」

 

 マイケルは悪びれた様子もなくそう言いながら、、手を差し出してきた。彼がそうするのは、リーナが左腕が使えないことを慮ってのことだろう。そのことは分かったものの、リーナは意地を張って、その手を取らずに岩から降りた。しかし、足を地につけた直後、足元にあった石につまづいてしまい、不自由な左腕のためにうまくバランスを取ることができず、危うく前に転びそうになった。その体を、マイケルはすぐさま受け止める。

 

「うん、おんぶも肩車もしなくて正解だったな。そのギプスはめた腕じゃ、肩とか背中から下ろす時大変だ」

 

「ホントですよ。全く、兄上って人は」

 

 リーナはマイケルを支えにして態勢を整えると、ため息をついた。マイケルの言ったようなことは、実はリーナは全く考えていなかった。しかし、恥ずかしさで頭がいっぱいだったなどとは思われたくなかったため、このように口にした。

 気がつくと、リーナの目に見える範囲にマイケルがいなかった。一瞬、リーナは泣きそうなくらいに寂しさを感じたが、その時膝から掬われるようにして、体が背中と膝の関節を支えられて浮かんだ。顔を上げると、そこには憎らしいくらいの、いい笑顔を見せるマイケルがいた。

 

「抱っこしちゃダメとは言ってないだろ?」

 

「そ、そんな屁理屈! 誰かに見られたらどうするんですか!」

 

「さっきみたいに転びそうになっても、支えられるとは限らないからね。最初からこうして抱いてやれば転ぶこともないと思うよ」

 

「そ、それはそうですが」

 

 リーナはそう口にした瞬間、しまったと思った。少しでも賛意を示せば、マイケルはそこにつけ込んでくるに違いない。実際に、彼はリーナを抱きかかえたまま歩き出した。仕方なく、リーナは腹を括った。

 

「ああもう、これで私の評判が落ちたら兄上のせいですからね」

 

「かわいい妹のためさ。それくらいなんともない」

 

 マイケルは嫌味を感じさせない爽やかさを以って答えた。それで、逆にリーナの方が恥ずかしくなって、つい赤面した。

 リーナは、気が付けば、議論に負けた悔しさや生徒会の面々に対する怒りなどが、殆ど消えていることに気がついた。反対に今のリーナの心に溢れているのは、マイケルに対する感謝と、彼の妹としての慕情だった。

 

(これで、アナベルと結婚してなかったら完璧だったんですけどね)

 

 マイケルの整った顔立ちを眺めながら、リーナはそう考えた。晴れていた心に、彼女自身も気づかぬほどの、ごく微小な翳りが現れる。

 

        ***

 

 リーナが舌戦に破れた翌日の集会で、統合軍の処理に関する方針が発表された。それは美海が出した案に多少の修正を加えたものだったが、大筋は全く変わっていなかった。

 ジュリアは、その日の放課後にアルフレッドを探していた。リーナとマイケルの依頼で、彼女が署名活動の代表者を請け負うことになり、またアルフレッドが生徒会の顧問でもあるため、ジュリアが彼を探す必要があったのだった。

 

「全く、無駄にだだっ広いったらありゃしないわね、この校舎は」

 

 ジュリアは人気のない実験室棟の廊下を歩きながら、誰に言うでもなく愚痴を漏らした。職員室にはアルフレッドはいなかった。それで、人形を使うだけでなく自分の足も使って彼を探しているのだが、一向に見つからなかった。

 

「ああもう、ソフィーナのアホンダラ! 何であんな案を通したのよ!」

 

 ジュリアが誰もいないことを確認してから、苛立ちを爆発させて声を荒げた瞬間だった。人形のひとつが、アルフレッドを発見したのだった。それを認めると、ジュリアは嬉々として、異能と人形魔術の応用による身体強化を使ってまでして、彼の元へ全力で向かった。

 やがて彼の後ろ姿を目視すると、ジュリアは強化を解除して呼吸を落ち着けてから、いつもの余裕な笑みを浮かべた。そうしてから、ジュリアはアルフレッドの肩を軽く叩いた。

 

「アルフレッドさん、ちょっといいかしら?」

 

「うん? ジュリアか。一体どうした?」

 

「署名活動の認可を頂きたく思いまして」

 

 ジュリアは懐から、署名活動の申請書類を取り出してアルフレッドに渡した。彼はそれを一瞥すると、そのまま彼が手に持っていたフォルダに入れた。

 

「ちょうど職員室に行くところだったからな。このまま着いて来てもらえるか?」

 

「もちろん。構いませんわ」

 

 ジュリアはそう言って、アルフレッドの隣についた。彼の髪はすっかり白髪になっており、短い顎髭もまた白くなっている。顔付きは、数多くの皺が刻まれているものの、彫りが深く、また齢五十と思えぬほどの凛とした目つきをしており、今でも彼が口説けば落ちる女性も多いだろうとジュリアに思わせた。背は、ジュリアの頭頂が彼の肩と同じ高さなので、だいたい180cmといったところだ。また、その体格も壮年のものと遜色ない程で、老いを全く感じさせない。

 

「しかし、こうして接するのは初めてだな。いつも娘が世話になっているというのに」

 

「いえいえ。あの子との触れ合いは、いつも楽しませてもらっています」

 

 アルフレッドが話題を振ってきたので、ジュリアは自慢げにリーナとの良好な関係をアピールした。すると、アルフレッドは、ふと微笑んでみせた。

 

「楽しませてもらってる、ね。リーナは、いつも君に振り回されてばかりなんじゃないのか?」

 

「まあ、よくお気づきになりましたね」

 

「君とリーナの関係は、若き日の私の妻と私の関係によく似ているからな。そうじゃないかと思ったのさ」

 

 そのように言うアルフレッドはどこか恥ずかしげだった。この表情はジュリアには不意打ちだった。厳格な彼の姿しか知らぬ彼女には、あまりに意外な表情だったのだ。

 

「奥様に悪いですわ。私なんて、人形使いとしての存在以外には、リーナの世話をするくらいしか取り柄がありませんもの」

 

「私の妻は既にこの世にないから、謙遜することはない。それに、あれの世話が出来れば十分だろう。リーナの世話をするというのは、家事全般をこなすことと同義だからな」

 

「ご明察です。やはり、そういうのは父だから分かるのでしょうか?」

 

「そういうこともあるが、昔の私がそうだったからな。リーナは私の性格的な特徴を色濃く受け継いでいる。失くした妻によく似た君が世話をしているとなれば、想像は容易い。これは、さっき言った通りだ」

 

「そこまで言われるとは、よほど私は奥様に似てますのね。この場で私を口説かれますか?」

 

 ジュリアは意地の悪い風で言った。つい先ほどまではアルフレッドに対してこのように出るとは思いもよらなかったが、ここまで先妻と似ていることを強調されては、ジュリアも火がつくというものだった。

 

「中年をからかうのはやめたまえ。それに、私はそこまで積極的になれんよ。交際を申し込んだのも、結婚を迫ったのも、いつも妻の方だった」

 

 アルフレッドは苦笑いを浮かべた。なるほど、確かにリーナによく似ているとジュリアは感心した。風格こそ穏やかだが、彼の反応がカールのことでからかった時のリーナにそっくりだ。また、交際を申し込んでいるのもカールの方であるから、状況の面でもよく似ている。

 

「確かに、あの子もそういう雰囲気があります。やはり父子ですのね」

 

「父子、ね。よくそう思われるのはリーナだけだよ。マイクの方は、あまり私には似なかったようだ。あれは妻によく似たんだ。もっとも、あれもクソ真面目な面を持ち合わせているがな」

 

「確かに仰る通りですわね。でなければ、マイケルさんがリーナと思想の面で真っ向から対立するなど出来なさそうですし」

 

 ジュリアは軽い気持ちでこのことを口にしたのだが、それまで穏やかだったアルフレッドの表情は、彼女の一言で一転して暗くなってしまった。これには、流石のジュリアもまずいと考えて訂正をする。

 

「失言でした。お許しを」

 

「え、ああ。いいんだ。事実だからな。気にしないでくれ」

 

 アルフレッドは取り繕うように笑ってみせたが、二人の間には気まずい空気が流れた。しかし、ちょうど職員室に着いたので、二人は素早く入ってアルフレッドの机に向かい、アルフレッドが書類に判子を押したのを受け取った。その際、アルフレッドは真剣そのものの表情で、ジュリアに耳打ちした。

 

「頼んだぞ」

 

 彼の言葉は短いものであったが、何を言おうとしているかは、ジュリアにはよく分かった。ゆえに、ジュリアは胸を張って答えてみせた。

 

「はい、お任せを」

 

 ジュリアがそう答えると、アルフレッドは一瞬だけ笑みを見せ、彼の席に戻った。

 

「では失礼しますわ」

 

 ジュリアはアルフレッドに一礼して、職員室を出た。そのドアを閉めると、彼女はすぐそばの壁にもたれかかった。不思議な気持ちであった。己の存在を認められ、アルフレッドに頼られたと思うと、心が温かくなる。このような気分は初めてだった。

 

(承認欲求なんて、私には無縁だと思ったのだけれど)

 

 彼に先妻との共通点を強調されたことが、それほど気になっているのだろうか。ジュリアは初めて、自分の気持ちが不明である感覚を覚えた。

 

(私らしくないわね、こんなことで悩むなんて)

 

 ジュリアは自嘲するように、己を鼻で笑った。そして、寮へ急ぎ駆けていった。その帰路で、リーナが待っているからと、ジュリアは何度も自分に言い聞かせた。

 

        ***

 

 翌日の朝、ジュリアは誰もいないうちに自分の教室に入ると、その掲示板に署名活動のチラシを画鋲で留めた。それから教室の外に出ると、自分では廊下の掲示板に、人形は他の二年生や三年生の教室の掲示板にも同じものを留めて、ジュリアは教室に戻った。

 

(一年の方もうまくやりなさいよね、メルティ)

 

 一年生の方はメルティが手伝ってくれることになった。大学の方ではマイケルとアナベルが手伝ってくれるとはいえ、四人では活動範囲に限界がある。一応チラシに協力を頼むよう書いておいたが、その効果は全く期待できない。

 

(めんどくさいけど、ちょっとパフォーマンスしといた方がいいかしらね)

 

 署名はもちろん、協力してくれる人を集めるため、ジュリアはそう考えるようになった。そして、ジュリアはパフォーマンスをするのに絶好の場所にいることに気がついた。ジュリアのクラスには、生徒会長の美海と、副会長のソフィーナがいる。クラスの全員が揃うホームルーム後と一限目の授業の間に、堂々と教卓の前で署名活動の宣伝をすれば、大々的に二人に挑戦状を叩きつけるような格好になる。更に、ジュリアがものぐさ者であることは周知の事実であるため、彼女が積極的に動くということで、事の重大さを知らしめられるかもしれない。

 そう考えると、ジュリアはその時間が待ち遠しくて仕方がなくなった。そうしている間に次々とクラスメイトが入室してくるが、誰も掲示板に注目しなかった。統合軍の処遇についての話題は少し出るものの、すぐ別の話題に切り替わっていった。

 

(ふん、誰も興味ないってことね)

 

 ジュリアはクラスメイトを、心の中で嘲った。誰一人として世界の行く末など本気で案じていないと見える。

 これから起こることを、ジュリアは占いで分かる範囲だが知っている。世界の敵、ウロボロスの襲来はもうすぐだ。学園側も認知していないならまだしも、上層部と一部の生徒が第二次ブルーフォールの直前に認知していながら、学園側が発表する時期を逃して、ずるずると先延ばしにしているのだから、たちが悪い。

 ジュリアは青蘭島に来る前からウロボロスの存在には気付いていたが、知る人が殆どいないのと、彼女自身の信頼の低さゆえに、誰も信じぬだろうと考えて黙っていた。しかし、その沈黙も我慢の限界だった。彼女の署名活動について、皆に深く考えさせるために、この時点で暴露してしまおうと考えた。

 やがて時間が過ぎ、ホームルームが終わると、ジュリアは早足で教卓の前に立ち、思い切り黒板を叩いて大きな音を出した。すると、クラスのほぼ全員が吃驚してジュリアの方を向いた。そこでジュリアは署名活動のポスターを広げて掲げてみせた。

 

「私、これから署名活動をやるわ。内容は先の、統合軍の処置に関する生徒議会における決定の棄却と再審議の要請。あの決定に不満を持った人は、今すぐチラシに書いてあるサイトのページにアクセスして、学籍番号を入力しなさいな。あと、できれば呼びかけに協力してくれる人も欲しいわね」

 

 ジュリアはそこまで言うと、クラスメイトの反応を伺った。概ね動揺はしているものの、いまいち煮え切らない様子であった。ソフィーナと美海の表情は固まっていたが、署名活動に協力するはずがない二人のことはどうでもよかった。他のクラスメイトが、そこまで真剣にジュリアの話を聞いていないことが問題だ。そこで、もう少し詳しく説明してからウロボロスのことを話すつもりだったが、もうここで話すことにした。

 

「はあ? こいつ何言ってんの? って思ってる人も真剣に考えさせることを言ってあげるわ。ウロボロスという、未曾有の危機がこの青の世界に迫ってきているの。もちろん青蘭島の外の軍は動くだろうけど、最悪、私たちが自衛する必要が出て来るわ。それでね——」

 

「ジュリア!」

 

 ジュリアの声を搔き消すほどの怒号を、ソフィーナは発した。彼女は大股でジュリアに詰め寄ると、その胸ぐらを右手で掴んだ。これには一同騒然となったが、ソフィーナはよほど頭に血が上っているのか、全く周りのことは気にしていなかった。彼女は、明王さながらの表情でジュリアを睨み付け、鼻息を荒くしている。それから胸ぐらを掴む力を強め、低い声でジュリアに言い放つ。

 

「あんた、ふざけるのもいい加減にしなさいよ! 署名活動だけならまだしも、こんな所でウロボロスの存在を暴露するなんて!」

 

「落ち着きなさいな。私はふざけてなんかいないし、どのみち発表しなきゃいけないことでしょ。ウロボロスがいつ来るかなんて正確な時期は分かんないんだから、あなたたちがグズグズしてる間に来たら、全部終わりよ。そうなるよりはここで言っちゃって、生徒たち全員の双肩に世界の命運がかかっているという自覚を持たせた方がいいと思ってね。あなたや美海が言うようにみんな楽しくワイワイやって、立ち向かえる相手じゃないもの」

 

 ジュリアはソフィーナを小馬鹿にするように言った。すると、ソフィーナは強く歯軋りし、ジュリアの頰を左の拳で殴った。本気で殴ったらしく、ソフィーナが掴んでいた制服の一部ごと、ジュリアの体は彼女を離れ、教卓の角に、彼女の王冠の下のあたりの側頭を打ち付けて教壇に落ちた。この瞬間、ざわついていた空気が一瞬で静まり返った。

 ジュリアの口の中で血の味が広がり、軽く脳震盪を起こしたのか意識がぼやけた。しかし、彼女はふらつきながらも黒板のへりを支えにして立ち上がり、己が行いに呆然としているソフィーナに対し、不敵な笑みを浮かべた。

 

「咄嗟に反論できないから殴るなんてね。この学園で生活するうちに、短気っぷりに磨きがかかったんじゃない?」

 

 ジュリアは込み上げる吐き気を抑えながら、ソフィーナを挑発する。すると、少し後悔する様子を見せていた彼女にまた火が付いたようで、再びジュリアに掴みかかった。今度は美海や、マユカなどの数名の生徒が止めに入ろうとするが、ソフィーナの手がジュリアに届く前に、教師が教室に入ってきた。

 

「なんの騒ぎだ、これは!」

 

 彼はジュリアとソフィーナを見るなり、怒り心頭に発して怒鳴った。ジュリアを除く全ての者が、それで萎縮してしまう。

 

「ご心配なく。ちょっとした意見のすれ違いです。すぐ席に戻ります」

 

 ジュリアは落ち着いた口調でそう言うと、自分の席に向かおうとした。破られた制服はどうしようかなどと考えていると、先ほど頭を打ったのがよほど効いていたのか、足がもつれてしまい、更にジュリアの意識が一瞬飛んで、前に倒れそうになった。

 

「ジュリアちゃん!」

 

 するとすぐさま、美海が彼女の体を受け止めた。ジュリアは彼女を支えにして立ち上がるが、またバランスを崩してしまった。再び美海に支えられるが、今度は立とうとせずに、その状態のまま教師に告げる。

 

「先生。すみませんが、美海に保健室に連れて行ってもらっていいでしょうか」

 

「ああ。行って来なさい」

 

 教師はそのように即答した。それを聞いて、ジュリアは美海に目配せした。ソフィーナがこの後叱責されるのは目に見えているが、多少すれ違ってしまっても彼女は黒の世界にいた頃からの友人だ。ジュリアが煽った結果とはいえ、その惨めな姿を見たくはなかった。その意図を汲んだのか、美海はすぐに歩き出してジュリアと共に教室から出た。

 ジュリアは美海に支えられながらしばらく廊下を歩いていたが、その間は無言だった。ジュリアは気分が悪くてあまり話す気力が無かったのだが、美海は何を話せばわからないようである。その様子を見かねて、ジュリアはおもむろに口を開いた。

 

「悪いわね。主張で対立してる私を助けてもらって」

 

「いいんだよ。困ってる人に主張なんて関係ないから」

 

「あなたらしいわね。あなたの優しさは、私には眩しすぎるわ」

 

 ジュリアの言葉に、美海は困惑した様子を見せた。少し不満げにも見える。

 

「そう言うなら何で、私たちの意見に反対するの? 優しさが眩しいなら、私たちの言うことを分かるはずだよ」

 

「時に、優しさが害になることだってあるのよ。それに、そんな押し付けがましい言葉はあなたらしくないわ。世界の危機が迫っているとわかっても、冷静さを失ってはいけないわよ。特に、生徒会長としてじゃなくて、学園の一生徒としている時はね」

 

 ジュリアは諭すように告げたが、美海はその言葉にピンときていないようであった。それで、ジュリアはいつもの不敵な笑みから、穏やかな笑みに変えて続けた。

 

「不登校だった私が、ソフィーナに連れられて学園に来た時、真っ先に話しかけてくれたのがあなただったじゃない。その日クラスで浮いていた私を、あなたは前から友達だったように接してくれた。あの日のあなたが、表面上じゃなくて、心から突然学校に来た私と友達となろうとしてくれたことはよく分かってるわ。あなたの良さは、異質なものの存在を認められる懐の深さだって、私は信じてる」

 

 ジュリアは一息つくと、改めて美海を見て告げる。

 

「だから、いつものあなたならこう言うはず。『ジュリアちゃんたちが真剣に考えて、その結論を出したことはわかる。でも私たちは融和を図りたい。だからこの署名で是非を問おう』ってね」

 

 ジュリアがそう言うと、美海はふっと目を閉じた。それから、彼女はジュリアに向いて呆れたような笑みを見せた。

 

「あは、ジュリアちゃんらしく私を意識したようだけど、私はそんな小難しい言葉遣いはしないよ。でも、ジュリアちゃんの言う通りだ。私、肩肘張りすぎてたみたい」

 

「かといって力を抜きすぎないでね。高等部の代表なんだから、締めるところはちゃんと締めなさいよ」

 

「もちろん。あ、今から階段降りるから、気をつけてね、ジュリアちゃん」

 

「言われなくても分かってるわよ」

 

 ジュリアは苦笑し、美海と歩調を合わせながら階段を降りた。この時には、依然として打った部分は痛むものの、吐き気は殆どなくなっていた。

 

        ***

 

 昼休みにメルティがチラシを掲示板に貼る前から、リーナのクラスでは署名活動の話題で持ちきりになっていた。ジュリアのクラスで一騒動あったのがその原因で、署名活動の中身というよりは、ジュリアのクラスで何があったが、という話題が主だった。教室でブルーミングバトルが起こってめちゃくちゃになったとか、ジュリアが頭が血塗れになって病院に搬送されたとか、尾鰭がついていると分かるものの、リーナを不安にさせる情報ばかりが飛び交っていた。

 昼休みに入ると、リーナは風紀委員の見廻りも忘れ、大慌てでジュリアの教室に駆け込んだ。リーナのことはジュリアを彼女の席に見つけると、集まる視線も気にせずに駆け寄った。ジュリアは王冠の下あたりに氷袋と思しきものを乗せ、それを人形に支えてもらっていることや、制服が破られて、胸元がはだけていること以外はいつも通りだった。

 

「どうしたんですかジュリア。その頭や胸元は」

 

「ちょっと転んで頭打っちゃってね。制服は、たまたまそこにフックがあってそこに引っ掛けちゃってビリってなっちゃったの」

 

 ジュリアは前もって用意していたかのようで、流れるように淡々と答えた。しかし、それが事実なら流れている噂はあまりにも歪みすぎている。

 

「じゃあ、ソフィーナさんと一悶着あったって噂はなんなんです?」

 

「噂は噂よ。そんなことより、今日あなた見回り当番じゃないの? 風紀委員の」

 

「あ、忘れてました! ジュリアのことが心配で、つい」

 

「全く、あなたらしくないわね。早く行きなさいな。クラスの連中の視線もいい加減鬱陶しいのよ」

 

 ジュリアは急かすように言った。リーナは、何かをはぐらかされていることには気づいているものの、それをジュリアに認めさせることは出来そうになかった。それで仕方なく彼女の言葉に従って教室を出て、見回りに入った。

 

(ジュリアが転んだり頭を打ったりするなんて、やっぱり考えられません。誤魔化したいことがあるに違いありません)

 

 ジュリアは巡回している間、終始そのようなことを考えていた。やがて外に出て中庭の見回りの完了を以って担当区域を終えたその時、背後に人の気配を感じた。それが明らかに一般人の近寄り方ではなく、明らかに特殊な訓練を受けた、足音を消した忍び寄り方だったので、リーナは命の危険感じて咄嗟に拳銃を抜き、背後の人間に向けた。

 

「待って、怪しいのじゃないよ。ナツナだよ」

 

 背後にいた人間、ナツナは両手を挙げながらも冷や汗ひとつかかずに言った。殺気は無いことを悟ると、リーナは銃を下ろして腰のホルスターにそれをしまった。

 

「紛らわしい近寄り方をしないでくださいよ」

 

「ごめんね、癖がついちゃってて。でも気配は発していたからいいかなって思ってさ。あはは」

 

 ナツナは包帯の巻かれた頭を掻きながら、照れ臭そうに笑った。その姿が、以前第二次ブルーフォールの内容を伝えに来た時の、冷徹な印象とどうにもつながらず、リーナは混乱した。よく見ると、ナツナが着ているのは統合軍の制服ではなく、青蘭学園の制服だった。緑の世界の者は殆どがこの学園でも統合軍の制服を着るので、細かいことではあるものの、これも不可解だった。

 

「あなたって、そう笑う人でしたっけ」

 

 なんとかリーナが出せた言葉は、このようなぶっきらぼうなものだった。リーナは言った後で後悔したが、ナツナは気にしない様子で答えた。

 

「素の私はこんなのだよ。今は軍を抜けたからね。色々と肩の荷が下りたって感じかな」

 

「なんだか、私の知り合いに雰囲気が似てます」

 

「多分、アイリス中尉のこと言ってるね。表面上は、そう見えるかもね」

 

 ナツナの言い方は、何か含んだような物だった。リーナがその内容を詳しく聞こうとするが、その前にナツナが口を開いた。

 

「ね、ご飯まだでしょ。良かったら一緒に食べない? 聞いて欲しい話もあるしね」

 

「私に、ですか?」

 

 リーナの問いに、ナツナは数度頷く。彼女の姉や他の友人でなく、わざわざリーナにそう言うあたり、何かあるのだろうと考えたリーナは快諾し、そこで一旦解散した。二人は教室に弁当を取りに行ってから、中庭に戻り、並んでベンチに座った。

 空模様は、晴れてはいるものの、雲は多かった。それで雲に太陽が隠れがちなため、光量は丁度いいくらいだった。

 

「で、話なんだけどさ」

 

 ナツナは八割くらい食べ進めてから、箸を止め、リーナの方を向かずに話し始めた。

 

「私、統合軍を裏切ったじゃない? その行動について、私に対する配慮とか一切無しで、率直なあなたの感想を聞かせて欲しいの」

 

 ナツナは、スカートの裾を握って俯いたまま、決してリーナの方を向こうとしなかった。それはリーナの答えを期待しているようにも、怖がっているようにも見える。その様を見て、嘘は言えないとリーナは確信した。それに、軍籍から離脱したとはいえ、ナツナはスパイ活動を行う特殊部隊にいた人間だ。下手に嘘をつけば、即座に看破されてしまうことは、想像に難くなかった。

 リーナは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、歯に着せぬ言い方をするのに、後ろめたさを感じながらも答える。

 

「私は、あなたの裏切りを全肯定できません。確かにあなたを含めた統合軍の一部の裏切りによって、私たちは勝てました。そのことについては感謝しています。でも、軍人の職務は自国民を守ることです。いくらあなたが地球出身とはいえ、グリューネシルトの軍に在籍していた者だったなら、私は一軍人として、あなたの裏切りを軽蔑します」

 

 言い終えた後、リーナは言い方がキツすぎたかと不安になったが、安堵の表情を浮かべたナツナを見て安心した。ナツナはようやくリーナに向くと、涙ぐみながら口を開いた。

 

「ありがとうね。私が罪を犯したって認めてくれて。あなたが認めてくれなかったら、どうしようって思ってた」

 

 ナツナはそう笑ってみせた。そして彼女は空を見上げると、その目尻から涙が流れ、頬を伝った。

 

「誰も、私を理解してくれなかった。この世界の友達も、お父さんもお母さんも、お姉ちゃんでさえ、私は悪くないって言ったの。欲しかった言葉はそんなんじゃなかったのに!」

 

 ナツナはそう吐き捨てると、リーナに向き直った。そして、胸に抱いた思いを全て、感情のままにまくしたてるようにリーナにぶつける。

 

「確かに、私は地球のために戦った。でも緑の世界も好きなんだ。滅んでなんか欲しくない。でも滅ぶ可能性を、私自ら望んで高めてしまった。だから、グリューネシルトで最上級の悪徳となる、軍の除隊をして、一生苦しみに満ちた、地獄の中で生きると決めたんだ。それなのに、みんな私の罪の意識を薄れさせようてしてくるんだ。リーナだけだよ。統合軍の人以外で、真っ向から私を悪く評価してくれたのは」

 

「共に裏切った、アインスとユニは何と?」

 

「あの二人? はっ、知らないね。あんなののことなんか!」

 

 リーナが尋ねると、ナツナは急に声を荒げた。そして、涙を拭ってから残っていた弁当を一気に口に入れ、水筒の茶を飲んでそれを胃に押し込むと、乱暴に弁当箱を片付けながら、早口で言う。

 

「あの二人は責任も何も感じてない。だってさ、あの二人でさえ私に私は間違いを犯してないって言ったんだ。故郷のために裏切ったからだってね。それでも、二人が罪の意識に苛まれてるならまだいいよ。でもね。あの二人は学園でチヤホヤされて喜んでるんだ。失望したよ。罪を背負うとか言いながら、結局は自分の行いに溺れてただけなんだよ、あの二人は。破廉恥な奴、今すぐにでもエンドブレイザーでバラバラにしたいくらいよ」

 

 ナツナの嘲りの裏に隠された、二人に対する激烈な怒りを感じ取り、リーナは息を飲んだ。予想だにしていなかった彼女の面に軽く畏怖を感じた。そのことを察したのか、ナツナは取り繕ったような笑みを浮かべた。

 

「ごめんね。緑の世界で揉まれてたから、少し思考が過激になっちゃってるんだ。直そうとは思ってるんだけどね、なかなかうまくいかないや」

 

「いえ、いいのです。あなたの怒りも尤もでしょうし」

 

「ん、そっか。ありがとうね」

 

 ナツナはそう言って立ち上がり、リーナの前に来た。晴々としているとは言い難い表情ではあったが、翳りは少なくなっていた。

 

「ごめんね、特に親しいってわけでもないのに、こんな話に付き合わせちゃってさ」

 

「気にしてないからいいですよ。そういえば、責めるわけではないのですが、なぜ私に聞いたのですか? 軍属って言うだけなら、他にもいたでしょうに」

 

「軍人で、且つ統合軍の人とかなり親しくしてたから、色々と分かってくれるかなって」

 

 ナツナの答えに対して、リーナは首を勢いよく左右に振った。そして弁当箱を置いていきり立って、唾が飛ぶくらい声を大にして言う。

 

「カールとは、全然違います! これっぽっちも、親しくなんかありません!」

 

 リーナの言葉に、ナツナは目を丸くする。しかしすぐににやつくと、手を口に当てながら、空いた腕の肘でリーナを突いた。

 

「別に私、カール中尉のこととは一言も言ってないよ。親しいんだね、よっぽど」

 

「だから! 違いますって!」

 

「そんな怒鳴らないの。それに、まだご飯食べてる最中でしょ?」

 

 ナツナは幼児をあやすように言った。ナツナの言う通り、リーナの弁当箱にはまだ四分の一くらい弁当が残っている。リーナは時間を確認すると、昼休みが終わるまであと十分しかない。リーナは急いで残りの弁当を食べると、すぐに片付けて立ち上がった。その様を、ナツナは感心した様子で見つめていた。

 

「すごいね。まだ食べるのを再開してから三分しか経ってないよ」

 

「感心してる場合ですか! 早く戻らないと遅れますよ!」

 

「それもそうだね!」

 

 リーナとナツナは、二人して走り出した。そうし始めた時、ナツナはリーナに向いて、笑みを浮かべて告げる。

 

「あのね、私、署名に協力することにしたよ。あの人たちと顔を合わせたくないからじゃない。あの人たちの誇りを守るためにね!」

 

「どうして私にそれを?」

 

「生徒議会であの決定に反対票がひとつだけだったって聞いてね。リーナのことだって確信したから!」

 

「確かにそうです。ありがとうございます、ナツナさん!」

 

 リーナが礼を述べると、ナツナは気分良さそうに頷いた。その様子を見ながら、リーナは彼女にひとつ助言をすることにした。それは先ほど彼女の話を聞いていて思ったことで、言う機会を逃してしまっていたことだった。

 

「さっきの話ですが、ナツナさんの取り巻く環境も、また生き地獄だと思いますよ。あなたは自分の行いが罪だと認めて欲しいのに、周りは悪くないと主張する。その中でもがくのも、また苦しみに満ちた環境とは言えませんか?」

 

 その言葉を聞いたナツナは、ハッとして呟く。

 

「なるほど、なるほどね。苦しみに満ちた環境を望みながら苦しみから逃れようとしてたなんて、まだまだだな、私の覚悟は」

 

「人間なのですから、誰しも無意識に苦しみから逃れようとするものです。それに、覚悟が甘いと感じられただけ、大丈夫じゃないですか? その思いがあれば、改善の余地はあります」

 

「それもそうだね。結局、生き地獄を求める自分に酔ってただけって分かったよ。私自身もまた、破廉恥だったよ。気付かせてくれてありがと、リーナ」

 

 そう言うナツナの横顔は、憑き物が落ちたように爽やかな物だった。リーナは、自分の言葉で人を救えたことに、深く喜んだ。願わくば、署名活動が成功して、カールたちにもそうしたいと、彼女は思うばかりであった。

 いつの間にか、雨の匂いが強くなっていた。リーナがふと空を見上げてみると、丁度顔に雨粒が落ちた。しかし、依然として空は晴れ模様——狐の嫁入りだった。




多分今回の話を読んで、「ジュリアが美海に言った台詞が何を指しているのか」という感想を持った方が多いと思うので、ここで説明させていただきます。実はこの話には前日譚となるものが存在しておりまして、その話はいずれ売られるアンジュの同人アンソロに寄稿させていただきました。内容としては引きこもりだったジュリアが外に出て友達を作るというものです。リーナとの馴れ初めも描かれてるので、興味を持った方は是非ご購入ください。そのアンソロ本には素晴らしいイラストも収録されておりますので是非是非。覚えてたら、発行され次第お伝えします。
これからも拙作をよろしくお願いします。


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篠突く雨の中

 生徒会の決定が発表されてから七日目の、午前0時。遂に署名活動の刻限となった。ジュリアとリーナは、息を飲んで署名のホームページを開き、その総数を見た。

 

「え、嘘、でしょう」

 

 その数字を見て、リーナは愕然となった。中等、高等、大学部を合わせても、三分の一は超えたが僅かに、十数人ほどの差で半分には満たなかった。何度その数字を見ても、全校生徒の半分未満の数字が、無機質に存在するだけだった。

 

「そんな、私は、どんな顔してカール――カールたちに顔を合わせればいいのですか。これじゃ、何の意味もないじゃないですか」

 

「そんなことは無いわ。少なくとも、彼らの名誉を守ろうとした人がいたという事実は残る。それが彼らの光明になるはずよ。それに、嘆いても結果は変わらないわ」

 

 ジュリアは、悲しみにくれるリーナを見かねてか、そっと彼女を抱きしめた。いつになく優しい口調に、リーナは涙が溢れそうになる。しかし、みっともない姿を見られたくないという羞恥心から、それを必死にこらえた。

 

「分かっています、ジュリア。これ以上嘆いても仕方ありませんから、私はもう寝ます」

 

「一人で寝られる? 側にいなくてもいい?」

 

 ジュリアはよほど心配なのか、まるでリーナが幼児かのように訊いた。その様子がおかしくて、リーナは少しだけ元気が出た。彼女は苦笑しながらジュリアの体を少し離し、精一杯の笑顔を見せて告げる。

 

「大丈夫ですよ。安心してください。では、おやすみなさい」

 

 リーナは立ち上がり、そのまま一切ジュリアの方を向かずにベッドに入り、頭まで毛布を被った。それから、署名のことは決して考えないようにして、早く眠りにつくことに努めた。

 

        ***

 

 リーナだけでなく、ジュリアも尋常ならざる心情だった。リーナを悲しませてしまっただけでなく、アルフレッドに頼んだぞ、と言われたにも関わらず、達成することができなかった。全て自分の至らなさが齎したものと、ジュリアは思った。署名活動をやると言い出したのはマイケルだったが、中心になっていたのはジュリアだ。その事実も、ジュリアの心を押し潰すのに加担した。一緒に寝るかとリーナに訊いたのも、他ならぬジュリア自身が、独りが嫌だったからだった。

 普段のように、ジュリアは笑えなかった。リーナの目があった時は辛うじて普段の表情を保っていられたが、実質一人となった今では、どうしても歪んでしまう。ここまで感情を乱されたのは、初めてのことだった。いつもの飄々とした態度は何だったのかと、自分で自分を問い詰めたい気分だった。

 戸惑いの中で、ジュリアは誰かに縋り付きたいとまで考えるようになった。そこで頭に真っ先に浮かんだのは、アルフレッドの凛々しい横顔だった。そこからの行動は早かった。ジュリアはリーナが眠りについたと確信すると、リビングに出て、アルフレッドに電話をかけた。するとすぐに繋がったので、ジュリアはささやかながらも安堵した。

 

「署名の件か」

 

「はい。あの、そちらの部屋にお伺いしてもよろしいでしょうか」

 

「教員寮に生徒は入れない規則だぞ」

 

「お願い、します」

 

 ジュリアは込み上げる嗚咽を必死に堪え、強く頼み込んだ。暫しの沈黙の後、アルフレッドがため息をついた。

 

「絶対に、証拠を残してくれるなよ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 ジュリアはそう言って通話を切ると、すぐに魔術による瞬間移動で、教員寮のアルフレッドの部屋の中に行った。すると偶然にも、目の前にアルフレッドはいた。まだ電気は付いていて、彼の服装もスーツのズボンにワイシャツといったものであったため、すぐ寝ようとしていたわけではないようだ。

 

「署名は、失敗しました。ごめんなさい、私、アルフレッドさんから任されたのに、何もできませんでしたわ。署名活動が無意味だったという意味ではありません。あなたの期待に応えられなかったのが、私は悔しくて、悲しくて」

 

「そんな事はない。署名活動そのものが意味あるものだと分かっているなら、十分だ。大事なことは、失敗したなら失敗したなりに、次にどうすべきかを考えるべきだ」

 

 アルフレッドの言葉は、教師然とした、模範的なものだった。しかし、彼の言った内容は、ジュリアもよく理解している。彼女が求めた言葉ではなかった。それで、ジュリアは思い切ってアルフレッドに体を寄せ、その旨に顔を埋め、涙を流した。

 

「助けて、助けてください。挫折がこうも辛いことだと、私は知らなかったの。整理が付かなくって、まるで私が、私ではないようなんです」

 

 ジュリアの、普段とはまるで違う弱々しい様子にアルフレッドは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつも通りの凛々しさと柔らかさを兼ね備えた目に戻した。そして彼は、そっとジュリアの肩を抱いた。

 

「初めて挫折を知った時は、誰しもそうなるものだ。今は泣くがいい。だが、人が生きることは辛さを知ることとほぼ同義だ。ジュリアが今感じた苦しみと同じかそれ以上の苦しみが、この先に待っているのだよ」

 

「もしそうなら、なぜ人は生きるのですか。あなたの言う通りなら、生きれば生きるほど、辛さが増すばかりではありませんか」

 

 このジュリアの問いに、アルフレッドはジュリアを体から離して、その目を真っ直ぐに見つめて答える。

 

「これは私の持論だが、この世の苦と楽の比は、99対1だ。だが、何が苦で何が楽かは人によって違うし、99の苦よりも1の楽が勝ることもある。逆も然りだ。だが、どんなに小さな楽でも、人が心のどこか、たとえ自覚していなくても深層意識でも、楽があると思える限り、人は生きられるのだよ」

 

「では、自殺する人は、楽を認識できなくなったということですか?」

 

「そうだ。もっと言えば、苦楽の概念を超越し、理性で本能を真の意味で抑え付けられた者が、自殺をすると考えている。考えてもみたまえ。生きるというのは、本能が欲する最低限の楽だ。それを理性で抑えられるのだ。凡人には出来んよ」

 

 ジュリアは、アルフレッドの言葉に感銘を受けていた。彼の説明なら、人が生きる意味に説明がつく。これまでそういうことに対してあまり深く考えたことはなかったため、彼の言葉はジュリアの心に刻まれた。

 ふと、ジュリアがアルフレッドの表情に注目すると、彼がばつの悪い表情を浮かべていることに気がついた。

 

「どうされました?」

 

「いや、語るのに夢中になって、話を逸らしてしまったことが、申し訳なく思ってな。相談してきたのは君なのにな。すまなかった」

 

 言われて、ジュリアはハッとした。よく考えてみれば、彼の言葉はジュリアの悩み自体を解決するのには殆ど関係がなかった。しかし、話を逸らされたことでジュリアの気持ちが落ち着いたのも事実であり、挫折の苦しみを受け入れられる余裕も出来た。その点では、結果的に彼が話を逸らしたのは正解と言えた。

 

「大丈夫ですわ。アルフレッドさんが逸らしてくれたおかげで、挫折を受け入れられました。ありがとうございます」

 

「そうか、それは良かった」

 

 アルフレッドは、心底安堵したように軽くため息をついた。彼がジュリアのことで感情を動かしている様子を見ていると、ジュリアは嬉しく思った。それと同時に、恥ずかしさも覚える。こう思えるのは何なのだろうか。ジュリアの関心は、挫折からこちらに移った。

 

「明日も学校だ。早く戻って寝なさい」

 

 考え込み始めたジュリアを見かねてか、アルフレッドは優しい口調で促してきた。その言葉はまるで家族に言っているような調子で、ジュリアは少し不満に思った。しかしそれを表には出さずに、彼女は愛想よく笑って答える。

 

「ええ。分かりました。おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみ」

 

 アルフレッドが目を細くして言った言葉を聞き終えると、ジュリアは一抹の寂しさを覚えながらも、行きと同じ要領で自室に瞬間移動し、すぐにベッドに入った。眠りにつくまで、彼女の脳裏からアルフレッドの姿が消えることは無かった。

 

        ***

 

 ジュリアがアルフレッドに会いに行っていた頃、メルティはミハイルに呼び出され、学校の中庭に来ていた。中央にある大木の下に、ミハイルはいた。暗がりの中で、しかも大木の影の中にいるため、彼女の表情の詳細は読めない。仕方がないので、メルティはそのまま話すことにした。

 

「何の用? こんな時間に呼び出して」

 

「単刀直入に言う。もう一度、アンドロイド工学に戻る気は無いか?」

 

 メルティは眉をひそめた。極力思い出さないようにしていて、リーナにさえ隠していたその過去をほじくり返されるのは、虫唾が走るくらいに嫌なことだ。

 

「無いね。私はこれ以上、アンドロイドの発展に寄与したくない」

 

「お前が必要なんだ、メルティ。お前が商品化した、タイプMU系列に搭載されているあの人工知能。そのプロトタイプが、今どうしても必要なのだ。今のアンドロイドの技術者に、私を含めてあれを再現できる者はいない。開発者であるお前が――」

 

「黙れッ!」

 

 とうとうメルティは耐えかねて、ミハイルを怒鳴りつけた。ミハイルはメルティを引き込むためにその話を持ち出したつもりだろうが、メルティにとってはそれは忌まわしき過去でしかない。それを栄えあることのように言われるのは、敵愾心を煽られるようで、我慢ならなかった。

 

「もう一度言うけど、私はこれ以上アンドロイド工学の発展に寄与するつもりはないの! 大体、コードΩ46に搭載されている、あの人間のように学習し、感情を育める人工知能をミハイルは開発したんでしょ!? それで十分でしょ!」

 

 メルティは矢継ぎ早に言い放った。その言葉に対し、ミハイルはしばらく押し黙っていた。が、やがて、心なしか小さな声で答えた。

 

「あの人工知能は、完全な機械ではない。赤子の脳を摘出して、機械的な処理を施しただけのものだ。それではコストが高い。だから、完全な機械で殆ど人間の脳と同じ働きのできる、お前の人工知能が必要なんだ」

 

 メルティは、開いた口が塞がらなかった。ミハイルは、セニアの人工知能は人間のものを使ったものだと言った。しかも、その問題点もコストが高いとしか言っていない。彼女には、生命倫理など微塵も無いのか。そこまで考えが至ると、メルティはミハイルの胸ぐらを掴んで、その体を幹に押し付けた。

 

「ミハイル、あなたって人は! 人間の命を何だと思って!」

 

「EGMAが、再現できないならそうしろと言ったのだ。悪いとすれば、あのプロトタイプの製作プロセスを碌に残さず、廃棄したお前じゃないのか?」

 

「私に責任をなすりつけるな! それに――」

 

 EGMAがいいと言えば全てがいいのか――その言葉を、メルティはすんでのところで飲み込んだ。そのようなことをEGMAのシンパであるミハイルの前で口走ってしまえば、いくら青蘭島とはいえ、反逆罪に問われかねない。そうなれば、メルティに関与した者として、リーナやその一家にも影響が及びかねない。それに、メルティもここで歩みを止めるわけにはいかない。それで、メルティはミハイルを力無く離した。

 

「ふん、今のことは黙っておいてやろう。お前は我々に必要な存在だ。人間を補助する機械の開発なんかさっさとやめて、こっち移った方が富も名声も得られるというのに、残念だよ」

 

「残念で結構。私のアンドロイド開発は、あなたとの採用競争に負けたあの日に終わったんだよ」

 

「アンドロイドで子作りまでさせられる程に発展させた者の発言としては、何とも情けないものよ」

 

 ミハイルのその挑発で、メルティにまた怒りの火が灯った。しかし、冷静さも失わなかった。大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせ、先日から気になっていたことを尋ねる。

 

「ひとつ聞かせて。なんで、生徒会長の案に賛成したの」

 

「残念だが、それには答えられん。署名活動は残念だったな」

 

 後の方の言葉を聞いたメルティは、眉間に深くしわを寄せ、声を低くして呟くように告げる。

 

「失せて、早く」

 

 彼女がそう言ってからすぐに、ミハイルは何も言わずに去って行った。一人残されたメルティも寮に帰ろうとしたが、彼女とは別の足音を背後から聞いたため、思わず振り返った。そこにいたのは、バツの悪い表情をしたシノンだった。

 

「ごめんなさい。夜の散歩をしていたら、二人が見えて、つい」

 

「別にいいよ。それに、話聞いてたなら分かったでしょ。君のこと、ミハイルは気づいていない。ということは、EGMAにもバレてないって考えてもいいだろうね」

 

「はい。それに関しては、少し安心しましたわ」

 

 シノンは微笑んでみせた。シノンは、メルティが作った最後のアンドロイドだ。それは、次世代の戦闘型アンドロイドの開発競争に敗れてしまったが、メルティが引き取り、その人工知能をミハイルの言っていた、タイプMU系列に搭載されたもののプロトタイプに取り替えてその隠し場所としたものだった。そのため、他のアンドロイドなら普通用意してある、人工知能のスペアがそれには今存在しない。一応、メルティはそのデータのバックアップは取っているものの、シノンの人工知能を新しく作る余裕も資金も無い。破壊されたが最後、少なくとも二、三年はシノンは復活出来ないのだ。

 

「リーナとは、仲良くやれてる?」

 

 メルティは軽い気持ちでそう聞いたのだが、シノンの表情は沈んでしまった。それを見て、メルティは二人の仲を察した。そもそも、戦闘用アンドロイドの中ではかなり人間的なシノンだ。リーナがその存在を快く思うはずがなかった。

 

「分かりきったこと聞いてごめん。あっちが拒絶しちゃうよね」

 

「いえ、いいんですのよ。リーナさんは、アンドロイドはアンドロイドらしく振る舞えっていう考えの持ち主です。私みたいなのを毛嫌いするのは仕方ありませんわ」

 

 シノンは気丈に振る舞ってみせたが、その声は震えていた。その様がいたたまれず、メルティはそれの頭を撫でてやった。

 

「私だって、リーナと同じように考えてるし、かつてアンドロイド技術者としてタイプMU系列を商品化したことは後悔してる。あんな、あまりにも人間的な、人間の居場所を追いやるようなものは、この世にあってはならないとも考えてる。でも、君は人間的であることで人間の居場所を脅かしてはいない。だから、せめて君くらいの人格は認められてもいいんじゃないかって思う」

 

「それでも、私はアンドロイド。人間ではありませんわ。所詮、機械が人間の真似事をしているにすぎません」

 

「それを分かれば十分だよ。この学園や、白の世界でアンドロイドを見てると思うんだよ。あれらは、自分の立場をまるで分かっちゃいない。まるで自分が機械だってことを忘れてるみたいだ。人間もあれらを人間みたいに扱うからタチが悪いね。その中で君がアンドロイドであることを自覚できているのは、すごいことだ」

 

「分かっていますわ。でも時折、人間として生を受けたかったと、そう思うんですの」

 

 シノンはか細い声で呟いた。その言葉に対し、メルティは何も言えないでいた。彼女は、シノンにそのように言わせてしまったことを申し訳なく思った。もしこの先、それが自らの存在を人間に近づけようとすれば、その姿は彼女が忌避するアンドロイドの姿そのものだ。やはりリーナの言う通り、アンドロイドが人格を持つなどはあってはならないことなのか。考えと言葉の両方で詰まってしまったメルティは、わざとらしく腕時計を確認して、誤魔化すように言った。

 

「もう1時前だ。明日も学校あるし、ここで別れよう。じゃあね」

 

 メルティはそう言うと、シノンから逃げるように、一目散に駆け出していった。彼女には、それの視線が走っている間ずっと刺さっているように感じられた。

 

        ***

 

 翌朝、カールとアイリスは久し振りに外に出た。空は雲で淀んでいたが、それは二人も同じだった。どのような理由であれ、世界水晶を奪おうとした自分たちを罰を与えることなく元のクラスに通わせるなど、二人には正気の沙汰とは思えなかった。何のためかは全く見当がつかない。もし温情のつもりだとしたら、ブルーフォールを遂行した者にとっては、屈辱以外の何物でもなかった。更に、裏切り者たちとも顔を合わせることになる。これもまた耐え難い事実である。ナツナが軍籍を離脱したという情報は入ったものの、今のカールらの心にそれが残ることはなかった。

 

「学園側が何考えてんのかはさっぱりだけどさ、私たち、負けたから仕方ないよね」

 

 登校途中、学園前の坂を登りながら、アイリスは抑揚の無い声で、俯きがちになって呟いた。その言葉に対し、カールは空を見上げながら吐き捨てるように言う。

 

「そうだな。負けた俺たちにゃ何も文句は言えねえ。泣き寝入りするしかねえかなあ」

 

「ごめんなさい。私たち王族の徳が無かったばかりに、カール中尉ともあろう人に、そのようなことを言わせてしまって」

 

 背後から聞こえたその声で、カールとアイリスは凍りついた。息を飲んで振り返ってみると、そこには二人の従者を連れたランが、学生鞄を持ち、憂いを帯びて佇んでいた。

 

「ラ、ラン殿下! おはようございます! どうぞお通り下さい!」

 

 カールとアイリスは慌てて揃ってそう言って敬礼し、道の端に寄った。周囲から、物珍しそうな視線を向けられるが二人は気にしない。しかしランは気にしたのか、苦笑いを浮かべて言う。

 

「あ、いや。そんなつもりで声を掛けたんじゃないんです。楽にしてください。私も今日からこの学校の生徒ですから、あまり王族として目立ちたくはないのです。もちろん、人質としての身分を忘れず、王族として恥ずかしくないよう振る舞いますが、あくまで一生徒として扱ってくださいな」

 

 カールとアイリスには、ランの言ったことが一瞬理解できなかったが、彼女が人質として学園に入学するという話を思い出して納得した。その間にランは二人の従者に目配せし、彼らを先に行かせてからカールとアイリスに近づいた。

 

「幼年士官学校にお二方は居なかったので、あなた方と学校に通うのはこれが初めてですね。あなた方の人柄は兼ねてから聞いておりますが、その評通りの人か、見極めさせていただきますわ」

 

「恐縮であります、殿下」

 

 三人で歩き出してから、カールが恭しく言うと、ランはクスクスと笑った。

 

「あなたはもっと豪快な人物だと聞いておりましたのに、今のあなたは全くそのような気配がありませんね。責めてるわけではないですから、ご安心を」

 

「殿下の前じゃ、誰だってそうなりますよ。殿下の仁徳が成せるわざです」

 

「お褒め頂き光栄です、カール中尉」

 

 そのように言うランは、少し嬉しそうだった。人質の身分とは言え、同年代の人物と気兼ねなく話せる今の立場に、居心地の良さを感じているのかもしれない。カールはそのように捉えていた。

 

「殿下、私はどういう評なんですか?」

 

 口調こそ丁寧だったが、アイリスは同年代の友達に話しかけるような風で、ランに訊いた。勿論、このような態度を本国で取れば失礼千万だ。アイリスもそれを分かっているはずだが、ランの、一生徒として扱って欲しいという意を汲んでか、カールのように堅苦しい態度は取らないことにしたようである。

 

「アイリス中尉は、才色兼備な上、明るく元気な、一緒にいて楽しい女性と伺っていますわ」

 

「まあ、ありがとうございます! カールも聞いた!? 才色兼備で一緒にいて楽しいんだって!」

 

「んなこたぁ、わざわざ言われんでも分かってらい。俺を誰だと思ってやがんだお前は。お前の夫だぞ、夫」

 

「そういうこと言ってんじゃないの! 全くもう」

 

 カールの返答に、アイリスは頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。その様子を、ランは穏やかに微笑んで眺めていた。

 

「本当に仲のよい、鴛鴦夫婦なのですね。私も憧れちゃいます」

 

 ランに褒められた二人は、揃ってはにかんで、頬や後頭部を掻いたりした。それからも談笑しながら通学路を歩いていたが、その間三人から笑顔が絶えることはなかった。

 

        ***

 

 ざわついている教室の中で、リーナは一人、椅子に座って俯いて、体を強張らせていた。右隣の席のカールとアイリスを始めとして、統合軍所属の生徒は、まだリーナのクラスに来ていない。取り返しのないことにならないかと、気が気でなかった。しばらくそうする中で、誰かが側に立った。リーナは顔を上げることなくその足を見ると、それはシノンの物だった。

 

「何ですか、一体。私を笑いに来たのですか?」

 

「そんなことをしに来たのではありませんわ。私もあれに署名をしました。私もあなたと同じ気持ちなのです」

 

 そう言われて、リーナはより一層不機嫌になった。アンドロイドに同情される自分が悔しく、また腹立たしかったのだ。

 

「不愉快です。早く立ち去ってください」

 

 リーナは声を低くしてそう告げるが、シノンは躊躇っている様子だった。もう一度声を大にして言おうかと考えた直後、教室のドアが開かれ、カールとアイリスが入って来た。しかし、二人がリーナに視線を向ける前に、クラスメイトらが二人の元に殺到した。彼らの言葉の中に、統合軍を誹謗するものは無く、二人を心配したり労ったりするものばかりだった。それで、ブルーフォール以前からそこそこ人気者だったアイリスは愛想笑いを浮かべていたが、困っているのは見て取れた。反対に鼻つまみ者だったカールは、クラスメイトの態度の急変に対し、見る見るうちに不機嫌になっていった。その様子が、リーナには見るのが心苦しくて仕方がなかった。

 

「私の、せいだ」

 

 リーナはそう呟くと、いきり立ち、シノンの呼び止める声も聞かずに教室を飛び出した。そして、人の少ない場所を求めるうち、気がつくと屋上に出ていた。冷たい風が吹き付けるそこは、見る限りでは、人の姿は無い。そのことに安心すると、リーナはその場にへたり込んで、大声で泣き出した。あの生徒議会の場で美海らを納得させられていたならば、二人に不快な思いをさせずに済んだかもしれない。そのように考えると、リーナは自分が腹立たしく思うと同時に、カールとアイリスの前に姿を現せられないと思うほどに、自らを恥じた。

 

「あの、どうされたんですか?」

 

 ふと、リーナに、そのような聞き慣れない声が聞こえた。涙を拭いて振り返ると、そこには明るい緑の長髪を持つ、気品溢れる女性がいた。不思議そうにリーナを見る彼女に、リーナは恐る恐る尋ねる。

 

「あなたは、誰ですか?」

 

「私は、ラン・S・グリューネと申します。気兼ねなくランと呼んでください」

 

 ランは、柔らかな物腰でそう名乗った。その名前を聞いて、リーナはハッとした。人質として入学することになったグリューネシルトの王女が、自分の目の前にいる。リーナは慌てて姿勢を正して敬礼した。

 

「し、失礼しました! 王女殿下とはつゆ知らず、無礼な振る舞いをしてしまい、申し訳ございません!」

 

 リーナはそう言った後で、ランが困惑していることに気がついた。姿勢を崩そうかとも一瞬考えたが、他国とはいえ相手は王族だと考え直し、リーナはそのままの姿勢を保った。ややあってから、ランは苦笑いをしながら告げた。

 

「あの、楽にしていいですよ。ここにいる間は一介の学生ですから」

 

「は、はあ。分かりました。そう仰るなら」

 

「しかし、あなたの敬礼は素晴らしいですね。私たちの戦士に負けず劣らずのものです。あなた方のような戦士たちに負けたのなら、我々の悔しさも少しは紛れるというものです」

 

「きょ、恐縮です」

 

 唐突に褒められて、リーナは戸惑いながら返答した。対し、ランの方は興味津々な様子でリーナを眺める。

 

「制服の上からでも、あなたが日々の鍛錬を怠ることなく体を鍛えてると、よく分かります。あなたの名を聞かせてください」

 

「リーナ。リーナ=リナーシタです」

 

「リーナさんですか。それで、何故泣いていたのですか? 初対面の私に話す筋合いは無いかと思いますが、よろしければお教え下さい。敗戦国の王女として、出来ることはなんでもしたいのです」

 

 そう言われて、リーナは逡巡する。事情を話して、どう反応されるか見当もつかなかったので、話すのか怖かったのである。しかし、話せば案外、気持ちの整理がつくかもしれないと考えると、気がつけばリーナは全てを話してしまっていた。その間、ランは真剣な表情で黙って聞いていた。やがてリーナが話し終えると、ランはリーナの手を取り、ゆっくりとした口調で告げる。

 

「ありがとうございます、リーナさん。私たちの誇りを守ろうとしてくれて。結果は残念でしたが、あなたの高潔な思いは、必ず私たちの胸に届きます。ですから大丈夫ですよ」

 

「ありがたきお言葉、謹んで頂戴いたします」

 

 リーナもランの手を力強く握り返し、胸を張ってそう答えた。対し、ランは表情を和らげ、ほっと息をつく。

 

「良かったです。本来の目的とは違いましたが、従者を撒いて屋上に上がった甲斐がありました」

 

「そういえば、どうして屋上に?」

 

 リーナがランの手を解いて、一歩下がって訊くと、彼女は風に髪をなびかせて、青蘭島の街並みに目を向けた。

 

「一度、青蘭島がどのようなところか見ておきたいと思いまして。本当は昼休みくらいにでも行くつもりだったのですが、待ちきれずに、つい」

 

 ランは舌を出してそう言った。こうして見ると、王族である彼女も一回の少女に過ぎないと、リーナは実感した。

 

「あ、こんなところにいたのですか、殿下! 早くしないと、朝の集会に遅れますよ!」

 

 ランが先のように話した直後に、彼女の従者と思しき者が、屋上の出入り口の方で叫んだ。それで、ランとリーナは腕時計を確認すると、朝礼が始まる十分前になっていた。

 

「あら、もうこんな時間ですか。急ぎましょう、リーナさん」

 

 ランは、そう言って小走りになって従者の方に向かう。リーナも慌ててその後を追う。吹き付ける秋風が追い風となったお陰か、リーナは体が幾分かいつもより軽く感じた。

 

        ***

 

 昼休み、リーリヤとルルーナと合流したカールとアイリスは、それぞれ昼食を持って屋上に上がり、シュッツ・リッタで風除けを作ってから、各人がその場に座り込んだ。この時期は秋風のおかげで屋上は寒くなるため、カールたちの他には人はいない。

 始めの方こそ、四人は歓談していたが、やがて朝の集会で言われたことに話の内容が移ると、四人の間に暗い雰囲気が漂う。

 

「ったく、温情のつもりかと思ったら、ウロボロスとかいうのと戦うために力を貸せだなんてな。言葉は綺麗だったがよ、結局体良く俺らを使いたいだけじゃねえか。急に仲良しこよしな感じで優しくされたのもムカつくしよ。負けた以上文句は言わねえつもりだったが、こんなの我慢ならねえ」

 

「カールの言う通りです。私たちはグリューネシルトの兵です。グリューネシルトのためなら幾らでも命を懸けられますが、この世界のために命を懸けろと言われて納得できるものですか。私たちを冒涜しているとしか思えません!」

 

 カールの言葉に、リーリヤが追従して声を荒げる。朝の集会で言われた内容は、ブルーフォールのことは兵士には不問にする代わりに、具体的な姿も分からぬウロボロスなる敵を撃退するために、力を貸せということだ。

 

「多分、統合軍は中枢から遠ざけられるよね。そうなると、指揮系統を形成するのはS=W=E軍かなあ」

 

 ルルーナが、コッペパンを頬張りながらどこか冷めたように呟いた。続いてアイリスも、冷静な口調で言う。

 

「他の軍の人にこき使われるのは嫌だけど、ルルーナの言う通りだったら、まあいいかな。流石に軍の指揮経験ゼロの人間を中枢に加えないだろうしね」

 

 二人がそう言うのを聞いて、カールは彼女らが話を逸らしたがっていることを察した。愚痴ばかりになるのは、誰にとっても不愉快だ。特に食事中では、美味しいものも不味くなってしまう。それで、カールはアイリスの言に続く形で言った。

 

「そうだな。S=W=E軍の力は、先の戦いで俺たちはよく経験した。あの連中と戦えるならそこまで不満はねえかな」

 

 カールはそう言ってから、しまったと思った。碧き巨神は、それを使った戦闘も含めて機密事項だ。リーリヤとルルーナの二人は、秘密作戦で動いていたカールとアイリスが何と戦っていたなどは知る由もない。聞かれたら全力でごまかすしかなかった。その時であった。ナイアがぬっと四人の前に現れたのだった。

 

「よう、元気そうで何よりだ」

 

 ナイアは、頭に包帯を巻いた姿で現れた。右腕はきかなくなっているのか、だらしなく垂らされており、カールには少しバランスが悪そうに思えた。しかし、ナイアはそれが辛そうな素振りは見せず、至って平然としている。泰然自若としたその様にカールが感心していると、彼女の背中から、ランが不意に姿を現した。

 

「で、殿下!」

 

 ナイアを除いた四人は慌ただしく整列し、ランに敬礼する。それに対し、ランは敬礼を返すものの、朝に見せたような苦笑いを浮かべた。

 

「カール中尉とアイリス中尉には朝にも言いましたが、学校ではあまり特別扱いしないでくださいな。私を見ても、学園では楽にして下さい。と、こんなことを言いにきたわけではないのです」

 

「そう。会わせたいというか、会いたいってやつがいるんでな。そいつとたまたま同じ場にいらっしゃった殿下とご一緒してもらったんだ。ほら、出て来いよ」

 

 ナイアが屋上の出入り口に向かって呼びかけると、そこから一人の人影が姿を現した。その姿を見たカールたち四人は、共に絶句した。許すことの有り得ない者がそこにいたからだ。

 

「ナツナ・トオナギ……!」

 

 真っ先に声をあげたのはリーリヤだった。彼女はその調子のまま、鬼の形相でナツナに怒号を浴びせる。

 

「一体、どんな面下げてこの場に現れたのですか貴様は!」

 

「そうだ。てめえが裏切ったせいで俺たちは祖国を救う手段のひとつを失い、この世界のクソッタレどもに恥をかかされたんだ! 一億回てめえを殺しても、俺たちの気は治らねえんだよ!」

 

 リーリヤに続いてカールが怒りをぶつける一方で、青蘭学園の制服姿のナツナは、涙目になっていた。その姿に、統合軍特務隊随一の精鋭として名を馳せた、ナツナ・トオナギ少尉の面影は、カールには微塵も感じられなかった。その姿にカールは戸惑いを覚えるものの、怒りが収まることは無かった。カールが更なる怒声を発そうとした、その時であった。ナツナが唐突に膝を折り、深々と土下座をしたのであった。

 

「な、なんのつもりですか! その様は! それで私たちの怒りが収まるとでも思いましたか!」

 

 予想だにしなかったその行動に言葉を失ったカールの代わりに、リーリヤが問うた。対し、ナツナは額を冷たいコンクリートに付けたまま答える。

 

「これで全て許してもらおうとは思ってない。けど、今の私は、あなたたちと同じ目線の高さで話せる立場にないから」

 

 彼女の声は、完全に涙声になっていた。しかし、カールは彼女に同情することは無かった。それはカールの怒りによるものもあるが、最も大きかったのは、土下座したまま微動だにしないナツナの背中が、まるで同情をするなと言っているようであったからだ。

 

「先の戦いで裏切ったことについては、心からお詫びします。本当に、本当に申し訳ありませんでした。私の身を、あなたの気が済むように私を扱ってくれて構いません。靴を舐めろと言われたら喜んで舐めましょう。腕を切れと言われたら切りましょう。娼婦に身を堕とせと言われたら進んでそうしましょう。今ここで死ねと言われたら、すぐ自害しましょう。存分に、私を嬲ってください」

 

 涙声ながらも、ナツナは丁寧な口調でゆっくりと言葉を重ね、言い切った。ここまで言われると、カールには怒りよりもむしろ虚しさが胸に込み上げてきた。先ほど以上に、今のナツナは小さく見える。もしや霊か何かが取り憑いているのでは疑ってしまうくらいだった。他の三人も同じように感じているようで、みな言葉に困っていた。それを見かねてか、ナイアが一歩前に出た。

 

「実はな、あたしにも似たようなこと言ってきたんだ。だから、あたしはこう言ってやったんだ。じゃあ一生許す気は無いが、一生の友達になろうってな。この意味は分かるだろ? ならあんたら四人も、それでいいんじゃないか?」

 

 ナイアの言葉は、カールにとって目から鱗だった。しかし、彼女の言うように意味は分かる。負い目のある相手に対して、その意識を一生抱えたまま友人として付き合うことの苦しさは、想像に難くなかった。特に、ナツナはそこまで思い切りの良い性格をしていない。そういう者なら尚更だろう。

 

「そうだね。あたしもナイアと同じようにするよ」

 

 ルルーナもカールと同じことを考えていたようで、さっぱりした表情で言った。

 

「私もそうする。許す気は無いとはいえ友達、それも一生のだかんね。しけた顔ばっかしたり、遠慮したらひっぱたくから」

 

 ルルーナに続いて、アイリスが冗談めかして言うが、その瞳は真剣そのものだった。答えを口にしていないカールとリーリヤは互いに目を合わせると、大きくため息をついて、未だ土下座したままのナツナに向いた。

 

「いつまでそうしてんだ。さっさと立ちやがれ」

 

「そうですとも。それは友達に対する体勢ではありません」

 

 カールは照れ臭さからぶっきらぼうな言い方になってしまったが、リーリヤが続いて言ってくれたおかげでごまかすことができた。ようやく顔を上げたナツナは、ずっと泣きっぱなしだった。彼女が何度も袖で涙を拭うも、それは一向に止まない。彼女の涙が、友として扱われることの嬉しさ故か、それともこれからの苦しみを案じるが故か、はたまた両方か、カールには分からない。その涙の真意がどうであれ、カールにはもう彼女に対する殺意は消えていた。罪を赦したわけではないが、これから彼女が生き地獄を味わうということで、カールは彼女の罪の償いとしては十分だと考えていた。

 それに、彼女が軍籍を離脱しているという事実も、カールの頭を冷やすのに一役買った。ここまでの彼女の態度をカールが思い返すと、ナツナが軍籍を離れたのは、逃げるためではなく戒めのためだと、彼には思えた。軍籍を自ら放棄することは、グリューネシルトで悪徳とされることのひとつだ。その悪徳故にとった行動と取れば、その思いは尊重すべきとカールは判断した。

 

「ほら、遠薙(丶丶)、ハンカチ貸してやるから。そんなに袖を汚すわけにもいかんだろ」

 

 まだ泣き止まぬ夏菜に、カールは今日まだ一度も使っていないハンカチを差し出した。夏菜はそれを躊躇いがちに受け取り、やがてそれで拭い始めた。その様を、他の、ランも含めた全員がニヤニヤしながら見ていることに気がついた。

 

「気がきくねえ。よっ、色男」

 

 ルルーナがコロコロと笑ってカールをからかう。カールはムッとなって彼女に対する返答を考え始めたが、ランが近寄ってきたことでそれを止めた。

 

「アイリス中尉の手前ですし、それに、リーナさんのこと、いいんですか?」

 

 ランにリーナの名を出されて、カールは返答に窮した。リーナとカールの間柄を知らないナイア、ルルーナ、リーリヤの三人は、彼の反応を訝しんでいた。それ故に、ランがカールとリーナのことを知っていることが不思議でならなかった。

 

「今朝本人にたまたま会いまして、それでこれまでのことを聞いたんです。彼女、自分が生徒議会の議員としてあの案を止められなかったおかげでカール中尉に嫌な思いをさせてしまった、合わせる顔がないって嘆いていましたよ」

 

 そう言うランは、微笑みをたたえていた。彼女は、カールとリーナの恋愛模様を面白がっているようにも見える。そのように考えると、先の夏菜のこともあって、カールは少し恥ずかしくなった。

 

「ったく、そんなに事を大きく捉えられたら、困るのはこっちなんだがな。こっちはリーナのせいなんてこれっぽっちも思ってないのによ」

 

 カールは斜め上に曇り空を見ながら、大きめの声でこぼした。その彼の肩を、ナイアが唐突に後ろから強く叩いた。

 

「おい、リーナつったらこの学園にいる、S=W=Eの兵士だろ。何あたしの知らん間にラブロマンスやってやがるんだ」

 

「そうそう。あたしも知りないなー、カールのお妾さんの話ー」

 

「まだ妾じゃねえ!」

 

 ナイアに続いて、弾んだ声で続けてきたルルーナに対し、カールは照れ隠しに怒鳴った。しかし、その怒声も、からかわれる対象となってしまった。

 

「まだって何ですかまだって。つまり妾にする予定はあるということですね詳しく聞かせてください早く早く」

 

 リーリヤはマシンガンのような早口で、カールの正面から食い付いてきた。カールは、彼女特有のその早口を、今ほど鬱陶しく思ったことは無かった。業を煮やしたカールは、アイリスに目配せして助けを求める。しかし、アイリスは腕組みしながら一歩も動かず、苛つくくらいのニヤケ顔を見せてきた。

 

「てめえ! 何のつもりだその顔は!」

 

「だって、かなり困ってる感じのカール見るの、すごく久しぶりなんだもん。可愛いからずっとそのままでいてよ」

 

 カールが怒鳴るも、アイリスはそう言って全く動こうとしない。ランはコロコロと笑いながら眺めているので当てにならなさそうだった。最後の希望として、カールは夏菜に目を向けた。ようやく泣き止んだらしい彼女は、少し離れた場所からカールらを見守っていたが、彼の視線に気がつくと、おもむろに歩み寄ってきて、ニッと笑って告げる。

 

「あの子、口では強がってカールを嫌ってるように見せてるけど、絶対ぞっこんだから。あともうちょっとだよ」

 

 夏菜の言葉に、ルルーナとナイアはひゅーひゅーと喚き立てる。カールは完全に困り果てて、嘆くように大きくため息を吐いた。しかし、自然体で接してくれる友人に囲われたこの場を、心地よく感じてもいるのだった。

 

        ***

 

 放課後、カールは、学校を一人でうろついていた。結局、昼休みから今現在まで、彼はリーナに話しかけることすら出来ずにいた。というのも、リーナは授業が終わるとすぐに教室から出て、次の授業が始まるギリギリの時間に戻ってくる上に、カール自身がクラスメイトに纏わり付かれていたために、話しかける余裕が無かったのだった。

 今彼が校内をうろついているのは、リーナが風紀委員の仕事を終えるまでの時間を潰すのと、運が良ければ彼女とばったり会えるかもしれないと考えたからだ。またアイリスと一緒でないのは、カールが一人でリーナと話がしたいと望んだためだ。

 放課後の校内には、あまり生徒がいない。いるのはせいぜい校舎内で部活動を行う生徒くらいで、廊下を歩いていて遭遇するのは殆どいなかった。この環境を、カールは普段あまり好ましく思わない。彼は、どちらかといえば静寂より騒然を好む人だ。しかし、今はその静寂も居心地よく感じた。

 

「放課後まで付きまとってこなくて助かったぜ、全く」

 

 カールがそう呟いても聞く者はおらず、閑散とした廊下に広がるのみだ。その後、カールは少しぶるっとした。今日は日が出ておらず、空には雨雲が漂っている。それで、廊下も冷え込んでいたのだ。

 

「一旦寮に戻るか。そろそろいい頃合いだしな」

 

 カールはそう言って、回れ右をした。すると、十メートルほど先に生徒会室があることに気がついた。リーナは生徒議会の時に入るだけだが、生徒会のメンバー自体は毎日仕事がある。つまり、あの忌まわしき決定を下した者たちが、すぐそこにいるのだ。しかし、それだけではカールがそこに向かう理由にならなかった。後で詳しい話を聞いたことには、マユカは当の議会で発言権や投票権を棄権したとのことだ。例の決定にマユカが絡んでおらず、他の世界の人間だけで決めたとあれば、まだ許せる。そう考えていた。だが、その部屋からマユカが出てきた途端に、その寛容も憎悪に染まった。

 マユカは、楽しそうに美海らと談笑しながら出て来たのだった。しかし、その光景だけでカールが激怒したのではない。第一次ブルーフォールを彼女が台無しにした後、彼女は何の気兼ねもなく学園生活を謳歌していた。第二次ブルーフォールの時も、失敗の直接の原因にはならなかったものの、彼女は緑の世界に敵対した。そして今なお、学園生活を謳歌している。件の棄権の事実だけでは、今のカールの心は鎮まらなかった。更に、昼休みの時に夏菜の誠意を目に焼き付けていたことも、マユカに対する怒りを煽っていた。

 カールは、無意識のうちにホルスターから拳銃を取り出していた。そこから遊底を引き、マユカの左胸に狙いを付け、引き金を引ききった瞬間、脳裏にアイリスの言葉が蘇った。

 

――変な気は起こさないでね。独断でやらかしたら、軍にも責任が及ぶんだからさ――

 

「俺は、何を」

 

 カールは、十メートルほど先でマユカが背中から血を流している様を見て、茫然自失となって呟いた。右手には銃口から微かに煙を吐き出している拳銃がある。先ほど見た光景と合わせて導き出される答えは、カールを打ちひしぐには十分すぎた。

 

「国王陛下、そして我が祖国よ。申し訳、ございません」

 

 カールは、力無く崩れ落ち、膝をついた。青蘭学園で、しかも殺人未遂を起こした。ただでさえ緑の世界と他の世界との関係が著しく悪化している今、このような事件を起こしたとあれば、みすみす緑の世界の不利を加速させてしまったようなものだ。しかも、マユカは緑の世界を救う最終手段でもある。それに手を掛けてしまった。国益を守るための軍人が、国益を損なう行為をしてしまった。軍人であることがアイデンティティであったカールには、この後悔の念は半端なものではなかった。

 気がつけば、カールは手枷を嵌められ、椅子に体を固定させられて、教室のひとつに監禁されていた。これから裁判にかけられ、終身刑あたりにでもなるのだろう。当然の報いだ。自分は祖国の恥晒し。刑務所で余生を送る、惨めな人生がお似合いだ。アイリスは、このことを聞いてどう思うだろうか。リーナは軽蔑するだろう。それならそれで良い。祖国の信頼を裏切り、不利益を齎した者に、幸せなど許されないのだから。そう考えていた時だった。カールのいる教室のドアが、静かに開かれたのだった。そちらの方を見ると、厳しい目をしたランが、従者を伴って佇んでいた。彼女は従者にドアを閉めさせると、ゆっくりとカールに近づき、サーベル、グリム・シュヴェルトを召喚してそれを振りかぶった。

 

「ああ、殿下。殿下自らの手で俺を斬られるのですね。それも当然です。さあ、どうぞご遠慮なく」

 

「動かないでください」

 

 ランは強い口調で言った。カールは眼を閉じ、死の覚悟を決めた。無念はあるが、カールにはそれを果たす権利はない。やがて空を切る音が聞こえ、カールはいよいよ死ぬかと思ったが、痛みは何もない。彼は恐る恐る眼を開けると、斬られたのは手枷などの拘束具と、服に付けられていた発信機だけだった。カールは訳のわからぬまま立ち上がり、戸惑いの視線をランに向けた。ランはおもむろにカールに近づくと、彼の耳に口を寄せて耳打ちする。

 

「あなたに極秘命令が出されています。私に詳細を言う権限はありませんが、それはあなたでなければできないことです。学園の裏山の、前の作戦の本陣跡に回収部隊が待機しています。この部屋から脱出し、すぐそこに向かってください」

 

 カールはその言葉に驚愕し、立ち尽くしてしまった。

 

「もう一度、俺は祖国のために命をかけられるのですか」

 

「はい。もちろん。それに、マユカ少尉は生きています。だからご安心ください」

 

 カールがうわ言のように言ったその言葉に、ランは笑顔で頷いてみせた。しかし、すぐに真摯な表情に彼女の顔は戻った。

 

「私がここの門番にかけた催眠術が解けるのも時間の問題です。それに、私がここにいると知れる前に早く、そこの窓から脱出して下さい」

 

「了解です! 殿下!」

 

 カールは敬礼を返すと、踵を返し、窓ガラスを割ってその教室から飛び降りた。その教室は三階であったが、訓練を受けたカールにはその高さはどうということはなかった。問題なのはいつの間にか降っていた土砂降りの雨の方だ。うまく視界が確保できない。しかし、それは相手も同じだ。そう考え、カールは早速裏山に向かおうとしたが、その直後に校内放送が流れた。

 

「風紀委員で拘束していたカール・ヘスが只今校舎外で逃走中です。一般生徒は校舎または寮内に待機、風紀委員は速やかに捜索及び捕縛に当たって下さい。繰り返します……」

 

「殺人未遂は伏せるか。ま、今の状況考えりゃ当然だろうけどな」

 

 カールはそう呟いて、一瞬だけ思考する。今いる場から裏山までの距離と、正門までの距離とでは、正門までの距離の方が近い。更に、正門を突破されて街中に身を隠すのを探すのと、裏山の森に紛れているのを探すのとでは、どちらも難度は大して変わらない。ゆえに、風紀委員が割く人員も変わらないと思われる。また、今は雨が降っている。裏山に入るにはコンクリートの壁を超えねばならず、またぬかるんだ道を行かねばならないため、体力の激しい消耗は必至だ。

 

「なら、近い正門から出るか!」

 

 カールはそう決めて駆け出した。雨で滑らぬよう、アスファルトで舗装された道を走り、正門に向かう。すると案の定、正門前には十数人の風紀委員が待ち構えていた。しかし、その中にリーナの姿は認められない。気兼ねなく暴れられると、カールはほくそ笑んだ。

 まず、足元の水たまりをカールは思い切り蹴った。その水飛沫が手前にいた風紀委員数人の顔にかかる。彼らが一瞬それで怯んだ隙に、カールはその間を縫って突撃する。

 

「今だ、取り押さえろ!」

 

 その風紀委員の誰かの号令で、残った十人ほどの風紀委員が、八方から全員でカールに覆い被さろうと飛びかかる。カールはそのうちの一人に狙いをつけると、空に浮いた彼女の体に全力で体当たりをし、そのまま全力疾走し、囲みから脱出した上に、閉じた正門にその体を叩き付けた。

 

「悪く思うなよ! じゃあな!」

 

 カールは風紀委員の塊を尻目に、軽々と門を飛び越えて学園から脱した。

 

(ここから街を経由して、裏山に入る! 捕まってたまるかよ!)

 

 カールの頭には、先の作戦で市街地に入った経路が浮かんでいた。その経路は、風紀委員も知っているだろうが、大回りしてまで裏山に向かうと、頭に血が上った状態では考えられないだろう。しかし、だからといって油断はできない。カールはその肩に重圧を感じながら、正門前の坂道を駆け下りた。

 

        ***

 

 リーナは、雨の中の市街地を懸命に走っていた。焦りからか、既に数回転んでおり、両の手の平はじんじんと痛み、両膝は血で滲んでいる。大粒の雨が傷に沁みるが、リーナはそれを抑えて尚も走る。

 市街地での見回りの途中、装着が義務付けられているイヤホンマイクを通じて、脱走したカールを取り押さえろとの指令が出た。それで、リーナは差していた傘を放り捨てて、カールの姿を探しているのだ。取り押さえるためではない。ただ、謝りたかったのだ。

 何の罪で拘束されていたかは分からないが、決して校内では問題を起こさなかった彼が、校内で問題を起こしたということは直感で理解した。彼にそうさせたのは、学校の方針への不満が絡んでいるのは間違いない。となれば、それを阻止できなかったリーナ自身にも責任がある。そう考えたが故だった。

 走れば走るほど、胸が痛んだ。自分のせいで彼が苦しんだ。その意識が、リーナの心を苛む。そして、新たな疑問も浮かぶ。あれだけ嫌っていたのに、なぜ今は彼を求めているのだろうか。思えば、カールが巨大兵器の中から姿を現した時からずっと、彼自身に負の感情は抱かなかった。答えは出かかっているが、心のどこかでそれを認めぬ頑固な自分がいた。

 

「今はそんなことより、カールを!」

 

 心にかかる靄を払うように、リーナは大声を出した。しかし、それも無意味だった。すぐに、再び胸の苦しさがリーナを襲う。気が付けば、雨は激しさを増し、バケツをひっくり返したようなものになっている。下着まですっかり濡れてしまい、リーナは寒気を覚えた。その時だった。あるビルとビルとの間の路地に、特務隊の制服を着た、長身で筋肉質の金髪の男の後ろ姿が見えた。

 

「カール!」

 

 リーナは慌てて路地に入り、その名を叫ぶように呼ぶ。振り返った彼は、冷めた表情をしていた。そこに、リーナはどこか諦めのようなものを感じた。まるで、浜辺に作った砂の城を崩された幼子のような目をしていた。

 リーナは息を切らしながら、彼にゆっくりと近づく。カールは動かない。ただ呆然と突っ立っていた。リーナが一歩、また一歩と彼に近づくにつれ、彼女の胸の鼓動が高鳴る。今となっては、彼の男らしい彫りの深い顔立ちやエロティシズムを感じさせる肉体だけでなく、意地の悪い口説き文句やセクハラ発言さえも、全てが彼の良さに思えた。やがて、手を伸ばせば彼に届く所まで来て、リーナの興奮が最高潮に達した時、それを打ち壊すようにイヤホンマイクに通信が入った。

 

「リーナ、そこにカール・ヘスがいるのね! すぐ向かうから取り押さえてて!」

 

「え、いや、その」

 

「じゃあ、頼むよ!」

 

 唐突に入った風紀委員長からの通信は、リーナが何かを言う間も無く途切れてしまった。リーナが通信端末で各風紀委員の座標を確認すると、彼らが真っ直ぐに、リーナのいる場所へ向かっているのが分かった。この路地裏では身を隠す場所もなく、また風紀委員の一人一人がそれぞれ別の方向から近づいているため、彼らがこの場所に来るまでには少し時間はあるものの、死角をついて抜け出すこともできなさそうだった。

 

(やるとしたら、ひとつしかない!)

 

 リーナは次に、学園の格納庫にいる人を確認した。そこにいる者はメルティただ一人だった。それで、リーナは、思い切ってイヤホンマイクを外し、そのマイクを拳銃で破壊した。次に、軍用の携帯電話で、メルティに電話をかける。

 

「何、リーナ。どうしたの?」

 

「今から私がいいと言うまで、格納庫に人を入れないようにお願いします! それと、今から私がやること、誰にも言わないでください。頼みます!」

 

「分かった。他でもないあなたのことだから、特別に、特別に許すよ。だけど、以降は絶対にそんなの許さないし、何があったか後で教えてよね」

 

「ありがとうございます!」

 

 リーナはメルティとの電話を終えると、大きく息を吐いて叫んだ。

 

「来なさい、ジャッジメンティス!」

 

 そうは言ったが、リーナが呼び出したのは全身でなく、そのコクピットだけだった。亜空間を通じて出てきたL型のコクピットに、リーナは飛び乗った。

 

「カールも早く」

 

 リーナはそう言ってカールに手を差し伸べるが、彼は呆然と立ち尽くしたままだった。業を煮やしたリーナは、一旦そこから降り、カールの腕を引っ張り、強引にコクピットに二人で入った。そして、その部位を亜空間に引っ込め、開いていた亜空間の穴を閉じた。

 亜空間――正確に書くなら、ジャッジメンティスが使う亜空間――は、言ってみれば鈍色をした宇宙空間だ。ただ同じ光景が広がるだけの、味気ない殺風景な空間だ。しかし、今のリーナには、その鈍色が先ほどまで上にあった雨雲に満ちた空と、殆ど変わりないように見えた。

 しかし、そのような感想は、リーナの頭からすぐに吹き飛んでしまった。リーナは、カールと密着していて、緊張と興奮が彼女を支配しているからだ。本来一人用のコクピットに二人で入っているためそうなるのは必然なのだが、そうと分かっていても決して心は冷め止まなかった。

 

「とりあえず、この亜空間なら安全です。しばらくやり過ごしましょう」

 

「なんで、こんなことをする?」

 

 カールは、震える声で尋ねた。そして、リーナが聞き返す前に彼は酷く激昂してリーナを怒鳴りつけた。

 

「なんでこんなことをした! お前、俺らが変に優しく扱われるのを見るのが嫌だったんじゃ無かったのかよ!」

 

「そ、そうですけど」

 

「だったら! 自分の立場を弁えろ! 俺が知ってるお前なら、俺を庇ったりなんか絶対にしない! 風紀委員の仕事を真面目にこなしたはずだ!」

 

 カールに怒りを向けられていると、リーナはえも言われぬ深い悲しみを感じた。しかしすぐにその悲しみは不満に変わり、苛立ちのままにそれをぶつける。

 

「何を、今まで散々私のことを掻き乱しておいて! 以前の私ならなんて、私のことをわかったように言わないでください! 私は、私はあなたに幸せになって欲しいんです! ここで捕まることが、あなたの幸せなんですか!?」

 

 リーナの言葉に、カールは詰まった。彼は、反論のしようは幾らでもあっただろうが、リーナに気圧されたからか、口を噤んでしまった。しかし、リーナ自身もまた言葉に詰まっていた。勢いのままに、彼に幸せになって欲しいと言い放った。何故そのような言葉が口から出たのか。その意味を考えたとき、今まで散々に否定してきた自分の感情が、最も適した答えだと、自信を持ってはっきりとわかった。そして、今すぐに彼にそれを伝えねば、永久に言えなくなるような気がして、リーナは躊躇うことなく、しかしか細い消え入るような涙声で告げる。

 

「好きなんです、カール。あなたを心の底から、愛しています」

 

 そう告げられたカールは、唖然として目を丸くしていた。そこから強く押すように、リーナは重ねて告げる。

 

「あなたが好きだから、こうしたんです。あなたの前では、軍人としての私でも、風紀委員としての私でもない。あなただけの私、リーナ=リナーシタでいたいんです」

 

 雨に濡れた互いの髪から、水滴がひとつ、またひとつと落ちていく。リーナはカールの目を見つめたまま動かず、カールもまた、逡巡している様子のまま動かない。時が刻まれるたび、リーナの鼓動が早くなり、心臓が奏でる音はその大きさを増す。やがて、おもむろにカールが口を開いたとき、リーナの緊張はこの上ない絶頂を迎えた。

 

「正直、複雑だ。お前が俺に愛を向けてくれたことは、間違いなく嬉しいし、こうして庇ってくれることにも感謝してる。でも、嬉しいけど、嫌だ。お前にまで優しくされるのは、俺は」

 

 カールは、その先を言わなかった。ただ歯をくいしばるだけで、リーナから顔をそらしている。リーナはそのような彼の頬に、そっと手を触れた。

 

「私は、他の人とは違います。他の人は学園がそういう方針だから、仕方なく優しくしてるだけです。でも私は、心の底から私がしたいからしてるんです。あなたがどうして追われるかは知りません。でも、どんな罪だとしても、あなたがどんな心情だったのかは理解できます。私が生徒会を止められなかったから、あなたにそうさせてしまった。だから、私はあなたを助けるのです」

 

「つまり、贖罪のつもりか、これは」

 

「理屈では、そうです」

 

「俺が犯した罪は、マユカ・サナギの殺害の未遂だ。それでも、お前は俺を庇うのか?」

 

「庇います。これは理屈じゃない。あなたを愛しているからです」

 

 リーナはカールから手を離し、毅然とした態度でそのように即答した。カールは暫くリーナを無言で見つめていたが、やがて大きくため息をついた。

 

「折れたよ。今の状況じゃ、お前を殺すくらいしかお前を止められんようだし」

 

「あなたに殺されるなら、私は本望ですよ」

 

 リーナがそういうと、カールは軽く彼女の頭を叩いた。そして、彼は少し顔を赤くして告げる。

 

「アホ。お前を殺して俺が生き残るなんてできるかよ。さっきのは、その、もうお前を受け入れると、そういうことだ」

 

 いつもリーナの上をいっていたカールが、今はリーナのことで困っている。それが可笑しくて、リーナはクスリと微笑んだ。

 

「なんだか、新鮮な感じです。こんなに自分が女で良かったと感じたのは、初めてですよ」

 

「そりゃ良かった」

 

 カールはそう言うと、不意にリーナの前髪を上げて、額にそっとキスをした。その瞬間、リーナは己の心臓がとてつもなく跳ね上がったような感覚を覚えた。

 

「不意打ちですよ、カール」

 

「嫌だったか?」

 

「そんなわけないじゃないですか。でも、次は、その、く、唇に欲しい、です」

 

「了解、了解」

 

 カールは軽い調子でそう言うと、今度はリーナの顎を持ち上げ、優しく唇を重ねた。その間、リーナは嬉しさと恥ずかしさが綯い交ぜになって、頭が真っ白になっていた。十秒くらいの後に彼が唇を離した後も、その余韻が残って、逆上せたようになってしまっていた。

 

「なかなか可愛いじゃないか」

 

「そ、そうですか? えへへ」

 

 唐突に言われて、リーナはだらしなく頬を緩ませた。しかし、そういう表情をしていると自覚すると、咳払いをして、己の両頬を数回叩き、いつものように凛とした表情に戻した。それに、いつまでもこうして甘い時間を過ごせるわけではない。リーナが意識を現実に戻して、風紀委員たちの座標を確認すると、先ほどまでリーナたちがいた場所を中心にして彼らが市街地を巡回していることが分かった。

 

「カール、多分行くとしたら緑の世界ですよね。どこかに回収部隊がいるとかはありますか?」

 

「裏山に回収ポイントがある。麓まで連れていってくれれば、後は自力で行けるからな」

 

「分かりました。風紀委員は一人も裏山に行っていないようですから、今すぐ行きます」

 

 リーナは、学園とは反対側の裏山の麓の適当な場所に座標を固定し、そこまで亜空間跳躍した。そして、コクピットだけを現実空間に出し、ハッチを開いた。そうした瞬間に雨が降り注ぎ、少しだけ乾いていた互いの髪が再び濡れた。

 カールはコクピットから飛び降りると、リーナに振り返って声を張り上げた。

 

「俺はもう多分、ここの土は踏めねえ。だから、デートしたいと思ったらお前の方から緑の世界に来てくれ! 頼んだぞ!」

 

「もちろん、もちろんです! これを今生の別れになんかしませんから! 愛するあなたと、いつか一緒になりたいから!」

 

「妾って立場になるが、それでもいいか?」

 

「構いませんよ! だから、私の名残惜しさが頂点に達する前に、風紀委員が来る前に、早く!」

 

「分かった! またな、リーナ!」

 

「はい!」

 

 リーナが威勢良く返事をすると、カールは、リーナが見惚れるくらいの爽やかな笑顔を見せて、大きく手を振ってから踵を返して走り出した。その背中が見えなくなると、リーナはハッチを閉じ、再びL型を亜空間に引っ込めた。

 

「必ず、必ず会いに行きますからね」

 

 リーナはそのように呟きながら、カールの言葉と唇の感触を反芻する。その度に興奮が蘇って、リーナは恍惚に浸れた。彼女は数十秒ほどそうしていたが、すぐにいつまでもそうはできないことを思い出し、深く深呼吸をして意識を改めた。他の者には黙っても、メルティには、全てを話す。その条件で取り引きしたのだから、これから彼女に全てを打ち明けなければならない。彼女の前に立つのに、リーナは恍惚感の中にはいられなかった。

 亜空間から学園の格納庫にL型を戻し、ログを全て消去してからコクピットから飛び降りた。立ち上がったずぶ濡れのリーナの前には、厳しい目で彼女を見つめる、濡れている様子の無いメルティがいた。

 

「風紀委員からね、リーナの捜索願いも出されてた。聞かせてよ。隠れて何を私に手伝わせたのかを」

 

 メルティの目には、リーナへの疑いと怒りが込められていた。対するリーナは、怖気付くことなく、堂々と胸を張った。

 

「分かっています。これから、全てをお話ししましょう」

 

 三機のジャッジメンティスだけに見守られ、リーナはおもむろに口を開く――カールとの馴れ初め、彼に対する感情の変遷、その全てを、大きくうねる彼への想いを抑え、感情を殺して語り出す。



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かなしみのセレナーデ

 リーナが全てを語り終えるや否や、メルティは渾身の力でリーナの頬を殴った。しかし、リーナはよろけたものの、すぐに態勢を整えた。メルティにはその様が、まるで殴られることが予め分かっていたかよように見えた。

 

「罪の意識はあるんだね」

 

「はい。軍ではなく風紀委員としての仕事ですが、どちらにせよ私の行動に一片の正当性もないことは理解しています」

 

 リーナの声は弱々しかったが、その目は揺れることなくメルティを見据えていた。メルティはもう一回、先程と同じ方の頬を殴り、彼女の胸倉を掴んだ。

 

「私は風紀委員じゃないから、君を公的に処分することはできない。だからさっきの二発を以って、S=W=E軍少佐として修正を加えて、ジャッジメンティスの私的使用は握り潰しておくし、友達のよしみで風紀委員にも黙っておくよ」

 

「ありがとう、ございます」

 

 リーナがそう言ったのを聞いて、メルティは彼女から手を離した。するとすぐに、リーナは声を抑えて泣き始めた。その様子を見つめながら、メルティは遣る瀬無い気持ちを抱いていた。

 先の第二次ブルーフォールの頃から、メルティの目から見てリーナはすっかり精神的に弱くなっていた。リーナの話で、彼女が男を知ったからだと納得したものの、メルティは複雑だった。

 リーナは、13歳の時に、ジャッジメンティスのシミュレータでたまたま好成績を挙げたため、人間の人材が欲しかった軍上層部が幼年士官学校から引き抜いて当時新設されたばかりの第八機動小隊に配属された。当時はその部隊にリーナの家族は居なかったのだが、それ故にリーナは士官学校とは違う現場の雰囲気に着いて行くのに精一杯で、恋愛などをしている余裕は無かった。しかし駐屯軍として学園に来て、そこの生徒として生活するようになってからゆとりが出来、ようやく年頃の娘らしい生活を送ることがようになった。だから彼女が恋愛感情の絡んだことに弱いことは、メルティは理解できる。これを機に、人間的に一回り大きくなることもできるかもしれないとも思う。

 しかし、メルティの頭の隅にはミハイルの言葉が引っかかっていた。あの、署名活動が失敗に終わったタイミングで、ミハイルはメルティをアンドロイド側に引き戻したがっていた。今はシノンに埋め込まれている人工知能が欲しいとも言った。彼女の真意は分からなかったが、メルティは何となく、EGMAが人間に対し何かをしようとしているということは直感的に分かっていた。この予感が的中すれば、リーナの力が必要になることは必至だ。そのような事態が考慮される中で、彼女の心が揺れるのは、メルティにとって好ましくないことであった。

 メルティが気がつくと、リーナはいなくなっていた。物思いにふけり始めた自分を見て、寮に戻ってしまったのだろうと、メルティは予測した。

 

「私、まだ帰っていいとは言ってなかったんだけどな。友達とはいえ、私は上官だぞ、全く」

 

 メルティはこのように呟くも、格納庫の中をうろつくだけでリーナに何かをすることはなかった。そのような気は殆ど起こらなかった。

 

「恋、ね。あのリーナが彼氏作るなんて、想像も出来なかったな」

 

 今、メルティの胸に芽吹いたのは、友として、リーナの春の訪れを祝福する気持ちだった。リーナが目の前にいた時には決して考えられなかったそれは、今はメルティの胸を満たしている。

 

「立場上、直接言えなくて、ごめんね。でも、君もここで言われたくはなかったろうから、許してね」

 

 メルティの呟きは、決して外に漏れることなく、格納庫の中で反響した。

 

        ***

 

 リーナは、風紀委員会への報告を済ませ、季節外れの驟雨だったらしく、雨の止んだ帰路にトボトボとついていた。メルティが黙って考え込み始めてしまったあと、居た堪れなくなって飛び出してしまったことを、リーナは後悔している。次にメルティが何を言うのかが、怖かったのだった。それで、彼女との友情が失われるのが恐ろしくなり静かに出ていったのだが、今冷静に考えれば、この行動の方がその友情が失われる可能性が高いのは明らかだった。しかし、格納庫に戻る勇気はなかった。そのような己が責任感のない人間のように思えてならなかった。

 フラフラとした足取りで寮の自室に辿り着き、リーナはそのドアを弱々しく開けた。

 

「ただいま、です」

 

 リーナがそう言うと、大きく足音を立てて、慌ただしくジュリアが寄って来た。

 

「びしょ濡れじゃない。服全部脱いでちょっと待ってなさい」

 

 ジュリアは洗面所に駆け込んでバスタオルと洗濯袋を取ってくると、リーナにバスタオルを被せ、脱いだ服を袋に詰めた。そして、リーナが何かを言う間も無く、ジュリアは詰め寄って急き立てる。

 

「風邪引く前に、早く風呂に入りなさいな。もう沸いてるから」

 

 ジュリアのこのような姿には、リーナは違和感を禁じ得なかった。これほどまでに余裕を無くしたジュリアをリーナは見たことがなかった。その理由は簡単に分かる。彼女はリーナが余程心配だったに違いない。リーナは、そのようなジュリアを見るのが辛かった。いつも余裕綽々でリーナの上を行っていた彼女をそのようにしたのは他でもないリーナだ。それで、元々ジュリアにはカールと結ばれたことを話す予定だったが、そのことに使命感が伴った。

 

「ジュリア。一緒に風呂に入りましょう」

 

 リーナのこの提案に、ジュリアは目を丸くした。しかしすぐに、彼女は頷いてくれた。

 

「まったく、しょうがない子ね」

 

 リーナと一緒に脱衣所に入ると、ジュリアはやれやれといった風で服を脱ぎ、髪を解いて冠を洗濯機の上に置いた。いつもの調子に近いその表情を見て、リーナは少し嬉しくなった。

 次に、二人で風呂場に入って互いに背中を流し合うと、二人で湯船に浸かった。雨で冷えた体には、その暖かさがより一層ありがたかった。ジュリアの方がリーナより一回り小さいため、リーナの体の上にジュリアが乗る形になった。

 

「こうしてみると、まるでジュリアが私の妹みたいですね」

 

「ふふ、よく言うわね。いつも私に色々と勝てないから、逆襲のつもりかしら?」

 

 ジュリアは余裕たっぷりな様子で、リーナを見上げながら言い返す。湯船に浸かって彼女も少しリラックスできたのか、先程よりも調子を取り戻しているように見える。

 

「初めてだったかしらね、こうして二人で風呂に入るの」

 

「そうですね。さっきと言うこと被りますけど、なんだかジュリアが家族みたいです」

 

 リーナは何気なくそう言ったのだが、ジュリアは嬉し恥ずかしいといった風で、顔を赤らめていた。その様は年頃の少女のようにしか見えず、これもまたリーナの見たことのないジュリアの一面だった。

 

「ジュリア? どうしたんですか?」

 

 リーナが尋ねると、ジュリアはびくりとなって、慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。それによってジュリアの髪を纏めていたタオルが解けかかったので、彼女は慌ただしくそれを纏め直した。

 

「な、なんでもない! 風呂に入ったから、体が温まっただけよ!」

 

 ジュリアは、ひどく焦った様子で捲くしたてた。あからさまに、彼女が隠し事をしていることは分かるのだが、リーナは触れないでおくことにした。そのようなことができるほど、リーナは意地悪ではない。

 

「そんなことより、何か話すこと、あるんじゃないの?」

 

「あ、そうでしたそうでした」

 

 ジュリアのその言葉で、リーナはカールとのことを話そうとしていたことを思い出した。ジュリアとの触れ合いが楽しくて、つい言い出せなかったのだった。

 

「私、カールと結ばれました。でも、そのために彼を見逃しました。許されることではないと分かってます。どんな罵声も——」

 

「おめでとう、リーナ」

 

 ジュリアは、リーナの言葉を遮るように大きな声で告げた。そして、彼女の言葉に面食らったリーナの体を微かな水音を立て、そっと抱きしめて、優しい声色で言う。

 

「馬鹿ね。私はジコチューで我が儘なのよ。あなたのその選択を否定するわけないじゃない」

 

「そう、でしたね。あなたはそういう人でした」

 

 リーナも、ジュリアの背中に手を回した。照れ隠しのつもりだった。自分だけジュリアに何もしないのが気恥ずかしかった。ジュリアはリーナが抱き返したことに少し驚いたようだが、すぐに、少し悲しみをたたえた笑みを浮かべて呟く。

 

「でも、ちょっと嫉妬してしまうわ。何でもあなたに勝てると思ってたのに、先越されちゃったもの」

 

「え、ジュリアもカールに恋してたんですか?」

 

「違うわよ。別の人。ま、誰かは言わないけどね」

 

 ジュリアはか細く、早口気味に言った。その様は、先ほどのように少女らしく可愛げのあるものだったので、リーナはついクスリと笑ってしまった。

 

「何がおかしいのよ」

 

「いや、ジュリアも恋とかするんですねと思って」

 

 リーナが何気なく言ったその一言に対し、ジュリアは眉をひそめると、リーナを抱くのをやめて彼女の両方の乳首を軽くつねった。

 

「ひゃっ!?」

 

 リーナはその変な快感に思わず素っ頓狂な声を出した。リーナはすぐにジュリアから離れて両胸を手で押さえると、彼女は勝ち誇ったような表情を見せた。

 

「良かったわねえ、気持ちよく感じるとこ見つかって。彼とエッチする時にでも、沢山弄ってもらいなさいな」

 

「何を男子学生みたいな低俗な下ネタ言ってんですか! それでもあなたは女ですか!」

 

 リーナは顔を真っ赤にして喚くが、ジュリアは気にも留めず、リーナを見下したような笑みを浮かべて告げる。

 

「ふん、私が恋するのが意外だなんて、失敬なこと言うからよ。私だって女よ。恋するに決まってるでしょうが」

 

「す、すみません。でも、ジュリアが恋するなんて、その方はとても素敵な方なんですね。一度私も会ってみたいです」

 

「……そうね」

 

 リーナはジュリアの機嫌を直そうと調子のいいことを言ってみたのだが、ジュリアは笑みを消して素っ気なく返した。その後、彼女は大きく水音を立てながら立ち上がった。

 

「じゃ、私もう出るから」

 

「ああ、私も、私も出ます」

 

 ジュリアが湯船から出た後、リーナも慌てて出た。それから体を拭いて、ジュリアはネグリジェを、リーナはジャージを着て、髪を乾かして洗面所から出ると、誰かがドアを叩いていることに気がついた。

 

「はい、今出ます」

 

 リーナがドアを開けると、そこには背後に筋トレ用具一式を構え、大きなスーツケースを横に置いたアイリスがいた。

 

「急で悪いんだけど、これいるかな? 今夜中には寮から出てかなきゃいけないからさ、よかったら貰ってよ」

 

「今夜中って、やっぱり、カールのことでそうなったんですか?」

 

 リーナは恐る恐る尋ねるが、アイリスは気楽な様子で答える。

 

「あーいや、そういうんじゃないよ。命令が出たのはカールが捕まる前だもの。急なことには私も驚いてるんだけど、まあそういう命令だし、仕方ないよね」

 

「そう、ですか」

 

 リーナは、それ以上アイリスが今帰ろうとしていることについて突っ込むのをやめることにした。統合軍から出された命令をS=W=E軍のリーナが今詮索する必要も無ければ、権限も無い。

 リーナはアイリスの後ろにある筋トレ用具に目を向けた。小さいものはダンベルから、大きいものはベンチプレス用具やランニングマシンまである。リーナは普段、道具を用いたトレーニングには学園内のジムを利用しているのだが、アイリスからそれらを貰えれば、寮から出ることなくジムで行うのと同じトレーニングが行える。

 

「ジュリア。これ、リビングにでも置いていいですか?」

 

「構わないわよ。雰囲気壊れちゃうけど、スペース余ってるしね」

 

 ジュリアがそう言ったので、早速搬入することにした。アイリスにも手伝ってもらって全て運び終えて、彼女が去る直前に、彼女はリーナに対し、目一杯の明るい笑顔を見せて告げる。

 

「そうそう、おめでとうリーナ。これから二人で、カールを愛していこうね」

 

 そう突然に言われて、リーナは暫し呆然としていたが、ハッとなってリーナもアイリスに笑顔を見せた。

 

「はい! 絶対、デートしに行きますから!」

 

 リーナがそう言うと、アイリスは思い出したようになって彼女に近寄った。

 

「デートするつもりなら電話番号交換しとこうよ。流石にアポ無しじゃ会えないよ」

 

「あ、そうですね。私としたことがうっかりしてました」

 

 リーナは頭を掻きつつアイリスと電話番号の交換をした。それを終えると、アイリスは別れを告げてリーナに背を向けた。その背中には、一片の迷いも見受けられなかったのだった。

 

        ***

 

 アイリスは、スーツケースを引きながら、校門に向かって濡れた道を歩いていた。学園を中退という形で去ってしまうのは残念だったが、カールの居ない学園にそこまでの価値は無い。故に、アイリスの足取りも軽かった。しかし、ある程度機嫌が良かったのもそこまでだった。向かい側から、アインスとユニが来るのを見たからだった。アイリスは敢えて彼女らに歩み寄り、彼女らの前に立ちはだかると、アイリスは鼻で笑ってから嘲る。

 

「裏切り者同士でする仲良しごっこは、楽しい?」

 

「あざ笑うためだけに、私たちの前に来たのか」

 

 ユニは咎めるような目でアイリスを見た。その優等生じみた態度や言葉は、アイリスの神経を逆撫でした。

 

「そうだよ。逆にそれ以外にあなた達に何をするって言うのさ」

 

 アイリスが売り言葉に買い言葉でユニにそう返すと、今度はアインスが、いつもの無表情で口を挟んできた。

 

「そうやってまだブルーフォールのことを引き摺るから良くない。この世界のためにも戦うべきと分からないと、カール中尉みたいなことがまた——」

 

「あなたみたいな非国民が、カールの名前を出すなあッ!」

 

 アイリスは、アインスを声が裏返るくらいの勢いで怒鳴りつけると、本気の裏拳で彼女の頬を殴った。服の裏に隠された筋肉と、プログレスとしての身体能力に威力を裏打ちされたその拳は、アインスの体を浮かせるには十分だった。突飛なことであったためかユニが支えるのも間に合わず、彼女がアインスに駆け寄ったのはアインスが完全に倒れてからだった。しかし、ユニが彼女に触れる前に、アイリスはアインスが手をついて立とうとした所にその鳩尾を踏みつけた。

 

「目障りなんだよ。売国奴が統合軍の、しかも特務の制服を着るのは! 夏菜みたいに反省もしていない癖に、調子に乗るなッ!」

 

 アイリスがもう一度踏みつけ、アインスが鈍い悲鳴をあげると、ユニが悲痛な声で叫んだ。

 

「やめろ、アイリス!」

 

 ユニの手に、フラゲルムノウンが召喚されかかっていた。それに対し、アイリスはユニに、碧き巨神の力を含んだ眼力を叩きつけた。すると、ユニの手からフラゲルムノウンは消失した。それに戸惑う彼女の胸倉を、アイリスはアインスを踏みつけたまま掴んで引き寄せた。

 

「いい? 作戦に参加した人で、あなたたちに恨みを抱いていない人なんていないんだ。あなたたちのせいで、祖国を救う手段をひとつ潰されたんだ。そんなのが偉そうにお題目を唱えたところで、誰もまともに聞くもんか。分かったら、ウロボロスとやらと戦った時にでも、無残に死ね」

 

 ありったけの怨恨を込めて、アイリスはユニに告げた。その恨み節に対し、ユニは心底悔しそうに歯を食いしばった。その表情に気分を良くしたアイリスは、彼女から手を離すと同時にその頬を思い切り殴り、アインスを文字通り足蹴にして転がすと、スーツケースを引いて真っ直ぐ校門へ向かい、学校から出た。

 

「やっぱ、アイリスは怒らせると怖いな」

 

 そう言いながら、校門の影からナイアが姿を現した。彼女の登場に少し面食らいながらも、アイリスはふっと笑って足を止めた。

 

「見てたんだ」

 

「ああ。こう言っちゃ悪いが、少しスッキリしたよ。あたしや、他の連中の気持ちを代弁してもらったからな」

 

「それはどうも。でも、ちょっと殴ったのはまずかったかな。ここを去る直前にあんなことしてさ」

 

 アイリスの言葉に対し、ナイアは大きく伸びをしながら答える。

 

「大丈夫だろ。あいつらもなんだかんだ言って、多少の罪悪感はあるみたいだし。チクるとかは無いと思うぜ。ま、本当に多少、みたいだがな」

 

 ナイアはその言葉の最後に、まるで姉が実の妹にするように、ぽんとアイリスの頭に手を置いた。

 

「一応、特務の左官としてあんたとカールに出された命令の内容は知ってる。内容はあたしにゃ言えないが、覚悟はしておけよ」

 

「何を今更言ってるのさ。私の命は、後にも先にも、祖国のためにあるんだよ。どんな命令でも、こなしてみせるよ。これまでずっとそうしてきたんだし」

 

「そうだな。ま、頑張れよ」

 

 ナイアはアイリスの頭に置いていた手を肩に移すと、そのまま手を振りながらアイリスの横を通り過ぎていった。その背中が暗闇の中に消えると、アイリスは時計を確認した。緑の世界へ行くシャトルが発車するまで、まだ一時間半はある。その時間の余裕は予定通りだった。

 

「じゃ、行く前に未練は解消しとかないとね」

 

 アイリスが行ったのは、青蘭等内の病院のひとつだった。そこの病室のひとつに行き、目的の人物のベッドのカーテンを開けた。

 

「やあ、マユカ」

 

「アイリス中尉……!?」

 

 ベッドに横たわるマユカは、目を見開き体を強張らせた。その様についアイリスは苦笑し、両手を軽く挙げて告げる。

 

「いやいや、私はカールじゃないから、この場で君を殺そうなんてしないよ。そんな命令も出てないしね。そんな硬くしないで大丈夫」

 

「命令が出れば、殺すんですか」

 

 唐突に彼女の口から出たその言葉に、アイリスは思わず吹き出してしまった。しかし、マユカにふざけている様子は無い。本気で言っていたと悟ると、アイリスは呆れてため息をついた。

 

「そりゃ命令が出れば殺すに決まってるでしょ。ああでも、君は命令違反してブルーフォール台無しにしたもんね。君にとっては命令に従わないことが正しいから、そんなこと言えるんだね」

 

「あなたも、私を恨む人ですか」

 

 アイリスの嫌味に対し、マユカは寂しそうに呟いた。その甘ったれたように見える態度が、一層アイリスのマユカへの負の感情を増大させた。

 

「あなたも、って言うけどね。これアインスとかユニとかにも言ったけど、あなたたち裏切り者の売国奴にいい感情持ってる統合軍人なんて殆どいないからね。みんな君を恨んでる。私も含めて、ブチ殺したいと思ってるのも山ほどいる。夏菜みたいに誠意を見せてるわけでもないからね。逆に自分が恨まれないと少しでも思ってることが驚きさ。ま、あなたは祖国を救う最終手段だから、残念だけど生き残ってくれないと困るけどね」

 

 アイリスはそう言いながら、ゆっくりとマユカの耳元に頭を近づけて、彼女に囁く。

 

「せいぜい、一生恨みを向けられて生きればいいよ。そして、緑の世界の民全員から向けられた怨恨を抱えて寿命を全うすればいい」

 

 アイリスは言い終えると、マユカの表情を確認せずに病室を後にした。それから、マスドライバー施設まで真っ直ぐ向かい、シャトルで緑の世界に帰還した。そこから、手配しておいた配送屋に兵舎まで荷物を届けてもらうことにすると、すぐに統合軍本部まで向かう。この間、アイリスはずっと機嫌が良かった。アインスら裏切り者に対して言いたいことは概ね言えたので、胸がすっきりしていたのだった。

 アイリスは特務隊総監の部屋の前に着いた。ミロクが更迭されてから今の総監に会うのはこれが初めてだった。更にこの部屋に入るのは学園入学前以来であるためか、アイリスは少し緊張していた。彼女が深呼吸をしてからドアをノックすると、当たり前だがミロクの声ではない声で、「入れ」と言われた。アイリスは静かにドアを開けると、部屋の中には新総監の他に、待ちかねたようにしているカールがいた。

 

        ***

 

「リーナちゃん、か・わ・い・い」

 

 そう言って、アナベルはリーナに抱きついて頭を撫でまくっていた。その様を、ジュリアは楽しそうに笑いながら眺める。

 

「もう、やめて下さいよアナベルさん! これじゃ恥を忍んでアナベルさんを呼んだ意味が無いじゃないですかぁ!」

 

 リーナは堪らず半泣きになって訴えた。しかし、アナベルはリーナから離れたものの、うっとりした様子で言う。

 

「だって、その格好すごく似合ってるんだもの。それでデートに着て行かなきゃ損よ、損」

 

 言われて、リーナは改めて自分の今の服装を見つめた。彼女は今、ジュリアに無理矢理着せられた黒一色のゴシックロリータの服を着ていた。

 この週の金曜日、風紀委員の業務や日課などを終わらせたリーナは、日曜日にカールとのデートの約束をアイリスを通じて取り付けた。しかし、うっかりしたことにその電話をジュリアに聞かれてしまった。それで翌日の土曜日に、ジュリアに捕まって様々な服を試され、最終的にその服を着せられてしまったのである。彼女の暴走を止めるために何とか頑張って、最もリーナの味方をしてくれそうなアナベルを呼んだのだが、それも悪乗りしてきたのだから、リーナはたまったものではなかった。

 

「デートに黒は無いとか思ってるんだったら、それと似たようなデザインので白いのとかあるわよ」

 

「どっちも嫌です! 大体、自分で着ないくせに何で私に着せるんですか!」

 

 面白がるジュリアに対してリーナは抗議するが、彼女はまるでそう言われるのは予測済みとばかりに言う。

 

「それ、元々人形に着せる用のものだから。私が着るためのものじゃないわ」

 

「じゃあ私が着るためのものでもないでしょう!」

 

「だとしても、あなたデートに着ていけるような服持ってないでしょうが。休日でも制服で外出するとか、年頃の女の子としては有り得ないわよ。同じ調子で制服でデートするよりは、その服でデートした方がいいと思わない?」

 

「それは、そうですが」

 

 ジュリアの言ったことは至極真っ当だったため、リーナは口ごもった。それをチャンスとばかりに、ジュリアはリーナの両肩に強く手を置いて言う。

 

「じゃ、決まりね。化粧も教えてあげるわよ。リーナは元々可愛いから、化粧は薄めでいいわね。髪の毛は、このままのストレートが似合うから弄らなくていいわね」

 

「私もそう思うわよ〜」

 

 ジュリアに便乗するように、アナベルがリーナの後ろから抱きつく。それを邪険に扱うわけにもいかず、どうしようか迷っているところに、ドアをノックする音が聞こえた。それがリーナには場の空気を打ち破られる救世主のように思えたが、目の前のジュリアが悪巧みをしたように笑ったので、一瞬で血の気が引いた。

 

「ほら、客人よ。応対しなさいよほらほらほら」

 

 アナベルがリーナを解放すると、ジュリアはリーナの体をくるりと回して玄関の方に彼女を押した。リーナは抗おうとするものの、ジュリアは明らかにエクシードを使ったとしか思えない怪力で彼女の抵抗を物ともせずに押し切り、玄関のドアを人形に開けさせた。

 

「リー、ナ?」

 

 ドアを開けたところ、夏菜がきょとんとした顔でリーナを見つめる。そして彼女の後ろには、ランと、物珍しそうにリーナを眺める三人の統合軍の女子がいた。

 

        ***

 

 一通りの自己紹介を終えると、すぐにリーナはルルーナに抱きつかれた。更に頰をすり寄せてまでいる。アナベルと大して変わらないその行動に、リーナは無表情になるしかなかった。

 

「はあ、こんな可愛い格好を拒否するなんて損だよ損。絶対カールも喜ぶよ」

 

「何で言うことまでアナベルさんとそっくりなんですか」

 

「たまたまだよ、たまたま。私とアナベルさんは今日が初対面だしねー」

 

 そう言いながら、ルルーナはリーナを抱く力を弱めなかった。その様子を、リーリヤが不服そうに眺める。

 

「何でしょうかこの気持ちは。言ってみれば妻を他の男に寝取られたような気持ちです」

 

「何、リーリヤ。嫉妬しちゃうなんて可愛いなあ」

 

 ルルーナはそう言うと、リーナを解放して今度はリーリヤに抱きついた。リーナはホッと一息つけた心地だった。対して、リーリヤはルルーナに抱きつかれてご満悦といった様子だった。

 

「いやあ災難だったなあんた」

 

 リビングの床にへたり込んでいたリーナの隣に、ナイアがそう言いながら腰を下ろした。その反対側にランも座る。

 

「申し訳ございませんね。うちの兵が迷惑をかけて。でも、すごく似合ってらっしゃいますよ。いつも休日はこのような格好をするのですか?」

 

「まさか。こんな恥ずかしい格好は——」

 

「そうとも、その通りですわ王女殿下。リーナは休日ははいつもこんな格好ですのよ」

 

 ジュリアはリーナの言葉を遮るように声高に叫ぶように言った。それに対し、ナイアが不思議そうな調子で尋ねる。

 

「嫌がってるように見えるが」

 

「素直じゃないのよ。この子見栄っ張りだから」

 

「んなわけないでしょう。いい加減なこと言うんじゃありません」

 

 まるでそうであるかのように言ったジュリアに対し、リーナは立ち上がって彼女のつむじにグリグリと拳を軽く捩じ込んだ。

 

「ちょ、ちょっとやめなさいな」

 

 そう言いながらも、ジュリアは楽しそうにしていた。そのような無邪気な様を見せつけられると、リーナも一連の彼女の振る舞いを快く許してしまえそうな気がした。

 

「ふふふ、リーナちゃんもジュリアさんも楽しそうね」

 

 集団から一歩離れて眺めているアナベルがそう溢すと、リーナは急に恥ずかしくなった。それでジュリアを放すと、照れ隠しで夏菜に尋ねる。

 

「ていうか、何でわざわざ統合軍の人たちやラン殿下も連れてここに来たんですか?」

 

「いやね、件の生徒議会で私たちの側に立ってくれたあなたを一目見ようっていうのと、カールのお妾さんがどんなのかなって、みんな気になってたから。殿下と私は案内と付き添いみたいな感じよ」

 

「そういうこと。恩人みたいなものだし、是非、と思ってな」

 

 夏菜の言葉にナイアが付け足した。それに続いて、ルルーナとリーリヤが口を開く。

 

「あいつ自身はちょっと残念なことになっちゃったけどね。まあでも、それとこれとは関係無いか。私は君のこと、結構気に入っちゃったかも」

 

「皆あなたに感謝しています。味方がいてくれたという事実は間違いなく私たちの希望です」

 

 リーナは、彼女たちの言葉にホッと胸を撫で下ろした。ジュリアとランの言った通り、自分の行動は無駄ではなかったと、心の底から確信できた。

 気がつくとランがリーナにウインクをしていた。それに対して、リーナは微笑みを返す。そうしているうちに、夏菜が思い出したようにリーナに尋ねてきた。

 

「そういえばさ、リーナって何でそんな格好してるの?」

 

「ああ、えっと、それは」

 

「明日緑の世界に行って、カールとデートするのよ。それでこの子、洒落た服なんか持ってないから、こういう可愛い服を試着させてあげたわけ」

 

 言葉に詰まったリーナに代わって、ジュリアが流暢に答えた。その言葉を聞いた夏菜とラン、リーリヤは興味深そうにしたが、ナイアとルルーナは目を爛々と輝かせて飛び付いてきた。

 

「何でそんな面白そう、もとい、めでたいこと教えてくれなかったのー? どこまでする予定? もしかして、もうここまでやっちゃう?」

 

 ルルーナはそう言いながら、片手の人差し指と親指で作った輪に、もう片方の手の人差し指を挿し入れした。その露骨な下ネタにリーナが閉口していると、にやにやと笑いながらナイアが口を開いた。

 

「バカだな、ルルーナ。そんな失礼なこと言うなよ」

 

 リーナはナイアの言葉にうんうんと頷いた。しかし、ナイアの次の言葉は、彼女の機体を完全に裏切るものであった。

 

「相手があのカールだぞ。もう既に十回はヤってるとみたね、あたしは」

 

「二人とも黙ってください! 大体、二人ともそんな、デリカシーのない男子学生みたいなこと言って! 淑女としての自覚は無いんですか!?」

 

 リーナががみがみと怒鳴ると、悪怯れる様子も無しにルルーナとナイアは顔を見合わせた。そして、開き直ったようにスッキリした顔で、ルルーナとナイアは言う。

 

「いやまあ、私はそういうネタが好きっていうかなんというか」

 

「あたしは精神がオッサンな所があるからな。別に淑女になろうとか微塵も考えてないし」

 

 二人のその言葉を聞いて、リーナは大きなため息をついた。この二人をまともに相手にしてはいけないと感じた。思考回路がカールとよく似ている。

 

(でも、嫌な感じはしませんね。むしろ、心地いいというか)

 

 これまで、リーナに自然体で接してくれる友人は、ジュリアとメルティだけだった。しかし今、そのように接している友人が目の前に五人もいる。カールとの交流や署名活動の思わぬ副産物は、今間違いなくリーナを幸福にしている。リーナは、これまでの自分の行動が報われたことを、強く実感した。

 

        ***

 

 明くる日の朝、リーナはナイアと共にマスドライバー施設に来ていた。ナイアが同伴しているのは、緑の世界に入ってからのややこしい手続きを省くためである。リーナには詳しいことは分からないが、ナイアが顔を効かせるだけで殆どの人が通してくれるのだという。リーナには、見た目からは想像もつかないが、彼女はよほどの高官のようである。

 リーナは緑の世界の者ではないため、グリューネシルト行きのシャトルのチケットの他に青蘭島を出る時に学園から発行された許可証を受付に見せる必要がある。本当はグリューネシルトに入ってからも見せる必要があるが、その点については前述の通りである。

 二人は荷物検査を済ませてシャトルの席に着いた。後ろの席には誰もいないため、ナイアは遠慮なく背もたれを倒していたが、リーナはそうはしなかった。結局ジュリアに押し付けられた黒いゴシックロリータの服を着ているのだが、どうにも慣れなかった。靴は履いていてそこまで違和感の無い黒のブーツであるが、手持ちのハンドバッグはジュリアに貸してもらった上等な黒革の物で、体に身につけられないのは落ち着かない。

 

「そわそわしてるねえ。ま、初々しくて可愛いがな」

 

 ナイアは体を起こして、リーナの頬を突いた。リーナはそれを遮ることはせず、スカートの裾を握りながら、顔を真っ赤にして応える。

 

「言わないでください、そんなこと。うう、やっぱり恥ずかしい」

 

「昨日みたいな勢いが無いなあ。緊張し過ぎだろ」

 

「しょうがないでしょう。こんな服着て外に出るなんて考えもしなかったし、デートするのだって初めてですし」

 

 リーナがそう言うと、ナイアはニヤッと笑って、リーナの頭に手を置いた。

 

「かァわいいなァ、ホント。もっと早く知り合うべきだったよ」

 

「何言ってんですか、全くもう」

 

 リーナは頰を膨らませた。そのままナイアの顔を見やると、彼女の笑顔の裏に何か翳りがあるのを悟った。リーナはそれが何かを問おうとは思わなかったが、少しだけ引っかかった。しかし、その直後、機内で間も無く出発するとのアナウンスがあった。それで場の雰囲気は一旦リセットされ、ナイアは手を離してシートベルトを締め始めた。それからシャトルが加速を始め、緑の(ハイロゥ)に突入し、一分ほどでグリューネシルトの首都の港に到着した。

 シャトルから降りた後は、ナイアに着いて行くだけでチケットを改札機に通す以外のことは全て済んだ。殆どの人がナイアを見ただけで敬礼し、特別な検査も無しに通してくれた。港の従業員は全て統合軍の制服を着ていたため、彼らも軍人であろう。ナイアが顔を見せるだけで済むのはそのために違いなかった。

 

「これがあたしじゃなくて殿下だともっと楽なんだけどな。まあ殿下の今の御立場上、青蘭島から出づらいから仕方ない」

 

 ナイアは歩きながらそのようなことを呟いていた。しかし、リーナにはその言葉を拾う心の余裕は無かった。デートが近づいているということもあるが、今は初めて来る見知らぬ土地に対する興奮が大きかった。

 グリューネシルトの建物は石造りのものが殆どだ。道路の舗装も石畳で、アスファルトなどは見受けられない。しかし、そのような地球における近代のような光景とは裏腹に、使用されているテクノロジーは白の世界には劣るものの、青の世界の物よりは断然高度な物とリーナには見受けられた。

 

「この世界がテクノロジーを発展させられたのは、世界水晶の力を引き出す術に長けていたからなんだ。ただ最近はその水晶のエネルギーが殆ど枯渇してしまっていて、ここ数十年は専らエネルギーの再利用が可能な機器の開発が進んでるな。建物が石造りのものばかりなのは、エネルギーの枯渇に伴って土壌が悪くなって植物が育たなくなってな。建築素材とか日用品にも木材が使えなくなって、代わりにそこら中にある石とアスファルトを使うことにしたんだよ。道路も石畳だったり路面電車が走ってたりするのは景観を統一するためだがな」

 

 カールが指定した集合場所に向かう路面電車の中で、ナイアはリーナが抱いたグリューネシルトの印象に対してこのように答えた。リーナはその説明を聞きながら街の観察をしていた。市民の間に、そこそこの活気はある。車道では白の世界で見られるような浮遊して走る車が行き交い、歩道を歩く人々は老若男女様々で、店も服屋から喫茶店のようなものまで大体の種類があった。たまに露店があって、そこでは主に野菜を売っていた。当然のことだがこれは青の世界からの輸入品で、緑の世界のものではない。

 カールが指定した場所は、市議会堂前という路面電車の駅であった。市議会堂もやはり石造りの建物で、形はドーム状であった。そこから少し歩いたところに、カールとアイリスはいた。二人とも軍服姿であった。彼らはリーナたちに気がつくと、手を振りながら駆け寄ってきた。

 

「よう、なかなか可愛い服着てきたじゃねえか」

 

 カールはリーナの頭を少し雑に撫でる。彼の言葉にリーナは得意になって、満面の笑みを浮かべて言う。

 

「そうですか? あなたに喜んでもらえたなら、私は嬉しいです」

 

「おい、今朝までの態度とえらい違いじゃんか」

 

 リーナの言葉に対し、ナイアは不服そうに言った。すると、カールとアイリスは露骨に顔をしかめた。

 

「余計なこと言うな。それに、大体何でナイアがいるんだよ」

 

「そうそう。いくらナイアでも、デートに割って入らないでよね」

 

 カールとアイリスが口々に言うが、ナイアはため息をついて、少し口を尖らせて返した。

 

「おいおい、あたしはここまでリーナを連れて行ってやったんだぜ。めんどくさい検査とか手続きとか、全部顔パスで済ませてやったんだからむしろ感謝してくれ」

 

「それ思いっきり職権濫用じゃねえか」

 

 カールが冷めた目でナイアを見つめる。しかし、ナイアは豪快にガハハと笑って、カールの肩をバンバンと強く叩いた。

 

「まあ気にすんな! デートの邪魔をする気は無いからよ、存分に楽しんでくれよ。あ、終わったら迎えに行くから連絡よろしくな!」

 

 ナイアはそれだけ言うと、その場からカールたちが何かを言う間も無く、逃げるように走り去っていった。三人は互いに顔を見合わせて苦笑すると、すぐさま踵を返して歩き出した。

 

        ***

 

 ナイアは十分にカールたちから離れたことを確認すると、密かに用意してきた、軍用の超小型カメラを埋め込んだ、改造ワイヤレスイヤホンを耳に、小型マイクを征服の襟に装着した。

 

「それではこれより、第一回リーナのデート尾行作戦を開始する!」

 

 ナイアが宣言すると、イヤホンから盛大な拍手が起こった。

 

        ***

 

 ジュリアとリーナの部屋では、ナイアから送られる映像を写したスクリーンを囲んだジュリアとルルーナ、アナベルが大きな、ランが控えめな拍手をしていて、リーリヤと夏菜は難色を示していた。

 

「いいんですかこんなことして。こんな下世話な真似は、あまりいただけません」

 

「堅いこと言うな。バレなきゃ問題無いし、それにあいつらの幸せな姿は残しておきたいんだ」

 

 リーリヤの言葉に、ナイアはどこか真剣な声色で言った。ルルーナとジュリア、アナベルは単に面白がっているだけのようだが、彼女はそうではないようである。ランは本当にナイアが真剣であるということを知っている。カールとアイリスに出された命令を知るのは、この場に居る者の中では、ナイアも含めれば彼女とランのみである。その命令の内容故に、例え褒められた行為でないとしても、ランは三人の幸せな光景を胸に刻みたかった。ナイアも同じ心境であろう。しかし一方で、ランにはその光景はあまりに哀しいものであった。その命ぜられたことが失敗するにせよ成功するにせよ、リーナには過酷が待ち受けている。

 

「まあまあ、ザクシード中尉も夏菜さんも、そこまできにすることはないでしょう。たまにはこういうおふざけもいいではありませんか」

 

 ランは悲しみを押し殺し、そう言って明るく振る舞ってみせた。すると、夏菜は困ったような表情で呟くように言った。

 

「殿下がそう仰るなら、まあ」

 

 リーリヤも同じような風であった。ランは二人に申し訳なく思いながら、スクリーンの中の映像に注目する。その中で三人が入った場所に、ジュリアは首を傾げていた。

 

「あそこって、カジノ?」

 

        ***

 

 リーナは、カールとアイリスに連れられた場所に面食らっていた。そこは完全に、地球にあるようなカジノそのままの施設であった。

 

「どうしたリーナ。口開けたまま突っ立ってよ」

 

 カールはリーナに尋ねたが、その口調は本当に彼女が呆気にとられている理由が分からないようであった。

 

「ここ、カジノですよね?」

 

「そうとも言うな。俺らは賭博場って呼んでるけど」

 

「青の世界にあるのと全然変わらなくないですか?」

 

「たまたまだ、たまたま。どこの世界の人間も、考えることは同じってことだろ。麻雀だけは輸入品だけどな」

 

 カールはまるで当たり前のようにそう言ったが、リーナは納得し難かった。使われているルーレットやらトランプやらは地球のものと全く同じで、行われている遊びも同様だった。

 

「まあ、同じのならルール教えなくていいじゃん。早くやろうよー」

 

 アイリスはそう言ったが、リーナは返答に困った。初デートで初めて遊んだ場所が賭博場では浪漫に欠ける上に、そもそも賭け事はしない主義だ。流石にカールはリーナの困惑に勘付いたらしく、彼女の頭に軽く手を置いて、優しく声を掛けた。

 

「ごめんな、好かない場所に連れて来ちまってよ。すぐ出ようか」

 

 彼はそう言ってリーナの肩に手を回し、そのまま出口に向かって歩き出した。アイリスも追い付くと、リーナに申し訳無さそうに頭を下げた。

 

「二人とも、気を遣わせてしまってすみません」

 

「良いってことよ。それに、今日はリーナの初デートだからな。その思い出が悪いのになっちゃ困るからな」

 

 リーナの言葉に、カールは爽やかに笑って言ってみせた。体が触れ合っているからか、彼の温かみが直接、強く伝わる。リーナは今の状況が恥ずかしくなって、照れ隠しに少し棒読み気味にカールとアイリスに尋ねる。

 

「そ、そういえば、この世界では賭博はどういう立ち位置なんですか?」

 

「一番流行ってる娯楽だね。気軽にやれるし、勝てばウハウハだしね」

 

 アイリスは弾んだ口調で答えた。彼女の口振りと、二人が真っ先に賭博場に入ったことを考えると、賭博は緑の世界ではかなり一般的なようだ。文化が異なるとはいえ、それを辞めにさせてしまったことにリーナは申し訳なく思った。そのような彼女の心情を察したのか、カールは彼女の体をより一層寄せて告げる。

 

「この世界にも、リーナみたいなのはいるから気にしなくていいぜ。それに、そう言われた時用のプランもちゃんと用意してあるんだよ。ほれ」

 

 そう言って、カールはリーナに路面電車の一日乗車券を差し出した。リーナがそれを受け取ると、彼はリーナから離れた。その直後にアイリスがカールの左腕に腕を絡めたのを見て、リーナは彼の右腕に絡めた。

 

「ちょっと歩きづれえが、まあいいか」

 

 カールは苦笑し、歩く速さを緩めた。そのまま駅まで戻ると、リーナとアイリスは共に腕を解き、カールを挟んでベンチに座った。

 

「これからどうするんですか?」

 

「路面電車を使って、市内を一周する。それなりの史跡も美味い飯食える所も有るし、退屈はしないと思う」

 

 カールはリーナに観光案内の簡単な地図を見せながら答えた。そこに、唐突にアイリスが上から覗き込みながら、城と思しきものが示されている所を指差した。

 

「私ここ行きたいな。ね、いいでしょ?」

 

「そこは全部回るのに時間かかるからパスしたかったんだが、ま、お前が言うなら仕方ないか」

 

 カールはやれやれといった様子で、メモ帳を取り出して何やら書き始めた。どうも、計画を修正しているようである。

 

「リーナはどこか興味ある所はあるか?」

 

 カールは一旦手を止めて尋ねた。リーナは改めて地図を見てみたが、どの史跡も白の世界や青蘭島では見られない物ばかりで、簡単には決められなかった。

 

「正直、どれも興味惹かれるものばかりで。ですから、カールとアイリスさんにお任せします」

 

 リーナがそう答えると、カールは「あいよ」と軽く返事をして、心底楽しそうにメモ帳にペンを走らせた。それから電車が来るのを待つ間は、カールとアイリスは和気藹々とどの順番が良いか、どの催しを見に行ったらリーナが楽しいかなどと協議していた。それを眺めるだけでもリーナは幸せだったが、どこかほろ苦い思いをしている自分がいたのだった。

 

        ***

 

 ナイアがリーナたちが路面電車に乗ったのを見届けると、むっとしているようなジュリアの声がイヤホンに届いた。

 

「ちょっと、さっきのカジノから散々見せつけておいて、路面電車に乗るなんて。ナイア、追跡はどうするのよ」

 

「心配するな。路面電車の路線図は頭に入ってるからな。すぐそこにあたしのバイクも停めてあるから、すぐ追いつけるぜ」

 

 ナイアはそう言ってバイクの元へ歩き出した。その途中で、ジュリアをからかうような口調で声を掛ける。

 

「そういやジュリア、なんでそんなにカリカリしてんだ? 普段のあんたなら、もっと余裕ぶると思うんだ、が、な」

 

「う、うるさいわね。私にだってイライラする時くらいあるわよ」

 

「そうかそうか。イライラするなら追跡やめて、首都観光案内に切り替えてもいいんだが、どうだ?」

 

「それは嫌よ。あの子の晴れ姿、もっと見たいんだもの」

 

 ナイアはその言葉に、少し感傷的な気分になった。ジュリアが作戦内容を知っているとは到底思えないが、ナイアがカールたちを尾行するのも殆ど彼女と同じだ。これが褒められた行いでないことは十分に理解しているが、こうでもしなければナイアは遣る瀬無さを抑えきれなかった。カールとアイリスは、ナイアにとっては弟と妹に等しい存在だ。この先彼らに待ち受ける運命は、命令だからと切って捨てることは出来なかった。しかし、二人もその内容を知っていて尚今リーナとのデートを楽しんでいるため、二人を憐れむのは失礼なようにも思えた。

 

(特務隊所属ってことを後悔したのは初めてだ。作戦が終わったら、どんな結果になっても特務を抜けよう。国への忠義が失われたわけじゃないし、いいよな?)

 

 ナイアの問いに答える者は、当然だがいない。ナイアはいつの間にか溢れていた涙を拭い、バイクに跨る。そして勢いよくエンジンを吹かし、車道に飛び出していった。

 

        ***

 

 路面電車に乗ってから、最初にリーナたちが降りたところは劇場前の駅であった。しかし、劇場で劇を見ることが目的ではなく、その劇場の隣にある写真屋が目的であった。

 

「ここには青の世界にあるようなプリクラなんて無いからな。記念写真撮るっつったらこういう写真屋で撮るしか無いんだ」

 

 カールはそう言いながら、写真屋のドアを開ける。それと共に心地よい鈴の音が響いたかと思えば、部屋の奥から初老の男性が現れた。

 

「やあやあ、カールさんにアイリスさん。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。青の世界に行ったと聞いていましたが、今日は休暇ですか?」

 

「いや、休暇には変わりないが、命令でこっちに戻ったんだ。しかし相変わらず腰が低すぎやしないか、あんた。客とはいえ俺たちゃ親父の半分も生きちゃいないんだぜ。あんたの一番目のカミさんみたいに近所の子供みたいな扱いでいいのによ。そういえば、カミさんは外出かい?」

 

「ええ。もうすぐ帰って来ると思いますよ」

 

 店主がそう言い終えるか言い終えないかのうちに、リーナの後ろでドアが勢いよく開かれ、小太りな、これまた初老の女が布袋に野菜を沢山詰めて入ってきた。彼女はカールとアイリスを認めるなり、買い物の荷物を足元に置いて、カールを右腕で、アイリスを右腕で抱き寄せた。

 

「カールくんもアイリスちゃんも久し振りねぇ! 元気にしてたかしら?」

 

「もちろんだよおばさん。おばさんこそ元気にしてた?」

 

 カールは少し迷惑そうにしていたが、アイリスは自ら彼女に寄っていって嬉しそうに尋ねた。

 

「見りゃ分かるだろあんた。まあでも、暫くあんたたちが来てくれなかったから、元気とは言えなかったわね」

 

 カールとアイリス、そして写真屋の夫婦は、まるで家族のように笑いあっている。その光景を一歩引いた所で見つめるリーナは、胸が締め付けられるような疎外感を感じていた。それには、単純に四人だけの空間になってしまっていることの他にも、それだけの関係を築かれるくらいに馴染んだ店、という存在そのものへの憧憬もあった。

 白の世界には、人間が接客をする店などは存在しない。そもそも、リーナの生きている時代では接客自体が人間の仕事ではなかった。生の人間と同等の感情の豊かさを持つアンドロイドの役目だ。店、という組織で人間が果たす役割は、社長職などの表には出ないものに限られていた。であるから、リーナが白の世界の店で買い物をした時、目の前のアンドロイドがどれだけ愛想をよくしても、それが機械であるという意識が働いた。リーナとそれの間には冷たく凍った関係しかなかった。それが当たり前だと思っていた。青蘭島でも学食くらいでしか物を買う機会が無く、それもジュリアと同居してからは行かなくなり、買い物はジュリアが全て担当していた。そのため、学食で接待をしていた者の顔などは既に忘れてしまっていた。

 しかし、今目の前で見ている客と店主の関係はリーナの知るものとは全く異なっている。この人の暖かみこそが白の世界で失われたものであり、取り戻すべきものだとリーナは強く思った。この時には、感じていた疎外感は徐々に興奮へと変わっていた。しかしその時、カールとアイリスの二人と話している店主夫妻の目線が、たまにリーナの方に向いていることに気がついた。カールとアイリスもそのことに気がついたようで、カールはリーナの側に回って、肩を掴んで彼女を抱き寄せた。

 

「紹介し忘れてたな。こいつ、リーナっていって、俺の妾だ」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 リーナは軽く緊張しながら、小さく会釈をした。すると、店主の方は愛想よく挨拶を返したが、夫人の方はカールを押しのけてリーナに抱きついてきた。

 

「これまた可愛いお妾さんだこと! 年は幾つ? カールちゃんとの馴れ初めはどんなのだったの? 告白はどっちから? それから——」

 

「これ、やめなさい。困ってるだろう」

 

 リーナが矢継ぎ早に質問してきた夫人に困惑していると、店主は彼女の肩を叩いて諫めた。

 

「そうよ姐さん。その子はアイリスちゃんじゃないんだから、もう少し気を使ってあげてよ」

 

 奥の方から、もう一人の中年女性が現れた。「姐さん」という呼称から、リーナは彼女を夫人の妹かと考えていた。そのうちに夫人が離れたのを見計らって彼女の方がリーナに小走りで近づいてきた。

 

「妾同士、相談ならなんでも乗るからね。何か困ったことがあったらいつでも来てね」

 

 彼女のその言葉で、リーナは彼女が店主の第二夫人であることを悟った。カールの言葉や、統合軍女子たちに持て囃された時には実感が無かったが、グリューネシルトでは本当に、重婚が普通だと分かった。

 

「分かりました。と言ってもつい最近結ばれたばかりで、これも初デートですから、まだよく分かりませんですけどね」

 

「まあ初デートなの。じゃあおばさんたちが水を差すわけにはいかないわね。姐さん、私たちは引っ込んでましょう」

 

「そうね。いくら私でも、初デートは邪魔しないわ。さっきはごめんね」

 

 第一夫人がリーナに謝ると、二人はそそくさとドアの向こうに行ってしまった。

 

「さあ気を取り直して、写真撮影といきましょう」

 

 店主は、少し張りのある声で言った。カールとアイリスはうなずいて、二人でリーナの手を引いて部屋の奥の方に向かった。そこには白無地の背景と、木製の椅子がひとつと反射板があるのみだったが、この世界の写真は今なお白黒写真らしく、それで十分とのことである。

 

「珍しいですね、この世界で木製の椅子だなんて」

 

「今の当主の親父は写真屋稼業をやってるが、数百年前からある家だからな。そういう椅子も残ってるし、世界接続で木材の輸入が出来て修理しやすくなったってのも大きいな。とりあえずリーナが座りな。俺らは軍服だから、私服のお前が座った方が見栄えがいいだろう」

 

 カールに言われるまま、リーナは椅子に腰掛けた。カールとアイリスはサーベルを佩用した状態で、姿勢を正し、しかし柔らかな笑顔を見せていた。その様子を見て、リーナも自然と同様の笑みを浮かべる。そうして何枚か写真を撮って、三人は店を出た。帰りにもう一度寄って現像したものを取りに行くとのことで、一行はアイリスが行きたがっている城に向かった。

 

        ***

 

「これが城、ですか?」

 

 リーナは軽く呆気にとられていた。というのも、その城というのが、妙にこじんまりとしたものであったからだ。石造りの、高さ五メートルほどの塔が屹立しているのみで、とても城とは言えないものであったからだ。しかし、そのリーナの感想を聞いたカールは、苦笑して告げる。

 

「これは城じゃねえよ。宮殿だ、宮殿。と言っても今は使ってなくて博物館になってるがな」

 

「それにしたって、小さすぎやしませんか?」

 

「入れば分かるよ。さあさあ入った入った」

 

 リーナは半信半疑だったが、アイリスが強く背中を押すので、仕方なく入っていった。すると入り口を抜けるとすぐに下に降りる螺旋階段があった。きょとんとしながらそこを降りていくと、リーナは先ほどの認識を改めることとなった。

 

「わぁ」

 

 思わずリーナは、感嘆し息を飲んだ。というのも、階段の先には淡い(みどり)の輝きを放つ、磨き上げられた水晶で壁と床が形作られた廊下が見えてきたからだ。

 

「なかなかすごいだろ。これ、世界水晶の一部を使って作ったんだぜ。と言っても大々的に切り出したんじゃなくて、かけらを魔術で増やしただけなんだがな。当然そんなことすりゃ世界水晶としての機能は失われたも同然だが、こうして綺麗な装飾ができるんだよ」

 

 カールは廊下を歩きながら、いつになく饒舌になって解説した。更にうんちくを披露していく彼に、初めのうちはリーナは感心したりしていたものの、次第に適当に相槌を打つようになっていった。その様子を見かねたアイリスが、苦笑しながらリーナに小声で言う。

 

「ごめんね。カール、こういうキラキラしたのが大好きで、特にこういうとこ来るとちょっとお喋りになっちゃうんだ」

 

「ちょっとどころじゃないじゃないですか。まだ喋ったますよ」

 

「そうだね。流石の私もそろそろうんざりしてきたかな」

 

 アイリスはそのようなことを言うと、誰も聞いていないのにひたすら喋るカールの耳を、思い切り引っ張った。

 

「あ痛っ。アイリスか。引き戻してくれてありがとうな」

 

 カールは怒鳴ることなどはなく、笑ってそのように礼を言った。彼の新しい一面が見られて、リーナはささやかな幸せを感じた。あまり好ましい面ではないが、それでもリーナの知らない彼があったというだけで、そのように感じてしまえるのだった。

 

「さて、宮殿の中の見物はここのレストランで飯食ってからにするか。もういい時間だしな」

 

 カールは懐中時計を眺めながら、二人に言った。時計の針は正午ごろを指しており、リーナもちょうど腹を空かせていたところだった。

 

「はい、私はいいですよ」

 

「私も大丈夫ー」

 

 リーナとアイリスは快諾した。それで、三人は脇目も振らずにレストランに向かった。レストランは宮殿の食堂をそのまま流用したもので、かなりの広さを持つ。そのおかげで、昼ということもあって結構な数の人が来ていたものの、正午にしては人が少なく見えた。

 史跡に附属しているものということもあって大衆向けなレストランのようだが、それでもリーナが名前しか知らないような料理の名がずらりと羅列されていた。例によって地球にあるものと全く同じだったが、それについてはカールの言葉を思い出して強引に己を納得させた。

 

「ひょっとして、料理が分からないの?」

 

 メニューを凝視するリーナに、アイリスは首を傾げながら訊いた。リーナは小さく頷いて、メニューで顔を隠しながら答えた。

 

「恥ずかしながら、こういう店に入ったことも料理も食べたことが無くて。S=W=Eで食べてたのは効率重視の、他のどの世界にも無いような合成食料で、学園の学食を使ってた頃もS=W=E向けのメニューでそればかり食べてましたし。ジュリアが作る料理も和食ばっかりでしたから」

 

「じゃあ何が食いたいとかも分からんわけだな。俺のと同じのでいいか?」

 

 カールの提案に、リーナは深く考えずに了承した。そうしてカールが注文したのは、横幅は30センチメートルくらいありそうな、厚いステーキだった。

 

「じゃ、いただくとするか」

 

 早速カールは運ばれたステーキに手を付けようとするが、リーナはナイフとフォークを握ったまま固まっていた。使い方が分からなかったのだ。正確に表現するなら、又聞きで知ってはいたものの、それが正しいかどうか自信が無かった。それを見たカールは、豪快に食べにいこうとしていた手を止めて、リーナに声を掛けた。

 

「おい、リーナ。それはこうやって使うんだよ」

 

 カールは作法通りにナイフとフォークを使ってステーキを切り分けると、それをおもむろにリーナの口元へ伸ばした。

 

「はい、あーん」

 

 その動作の示すことに、リーナは恥ずかしさで消え入りたくなった気分になった。その反応を見たカールは、嬉しそうににやにやしていた。まるでリーナの心を見透かしているようだった。確かにリーナは恥ずかしく思ったが、反面、このような普通の恋人がするようなことに憧れていたことも事実だ。それで、リーナは思い切ってその肉に食らいついた。程よいかみごたえに加え、肉汁が口の中に広がる。これまで、和風の肉料理なら何回か食べてきたが、それらとは違う知らない食感に、リーナは軽く感動していた。

 

「おお、気持ちよくいくねえ」

 

 アイリスは口笛を吹いて、リーナをからかうように言った。リーナは敢えてその言葉を無視して水を飲むと、照れ隠しでカールに言う。

 

「意外でした。カールのことですから、食べられればなんでもいいとか言うと思ったのに」

 

「そりゃ、リーナはくそ真面目だからな。そんなこと言ったらちゃんと教えてくれって言うだろ?」

 

 彼の言葉に、リーナは幸せが胸にこみ上げた。彼は何気なく言ったつもりであろうが、彼にぞっこんなリーナにとってはその気遣いは天恵と表現してもいいくらいのことであった。しかしそのことを表に出す気は無く、平静を装って、ぎこちない手つきでステーキを食べ始めた。

 そうして場の空気が一度リセットされたのを見計らってか、アイリスは自分からカールの方に顔を向け、目を閉じて大きく口を開けた。カールがそこに、リーナにしたように肉を放り込むと、アイリスは心底幸せそうにそれを咀嚼する。

 

「んー、ヤミー!」

 

 そのようなことを言いつつ、アイリスもステーキを切り分けると、今度はカールにその切り分けた物をフォークに刺して差し出した。彼はそれに躊躇うことなく、当然のように食らい付き、じっくり噛んでから飲み込んだ。この二人のやりとりは、リーナの目から見て完全に慣れたやり取りに思えた。それは当然のことではあったが、リーナはどことなく敗北感を覚えてしまう。しかし、それは決して負の側面のみ持つ感情ではなかった。元々二番目に甘んじることは織り込み済みであるし、何よりむしろ、時が経てばこのくらいのことがカールと息を吸うように出来るかもしれないと考えられ、前向きな気持ちになるのであった。

 

        ***

 

 一行は宮殿の見物を終えて、それから所々に寄り道して港に戻った時には、既に日が暮れようとしていた。港のゲートでは、カールとアイリスの二人と、柵を挟んで迎えのナイアと現像された記念写真を大事そうに抱えたリーナが向かい合っていた。

 

「じゃあ、名残惜しいですけど、今日はまた」

 

「ちょっと待ちな。リーナ、こっちに寄ってくれ」

 

 立ち去ろうとしたリーナを、カールは自然に呼び止めた。特に疑いを持たないような様子で駆け寄って来た彼女の顎を軽く上げて、一秒ほどではあったが、彼女の唇にキスをした。

 

「な、な、な、何をこんな、公共の場で!」

 

「別れのキスってやつだよ。じゃあ、俺たちは軍の用事があるから、また今度な!」

 

 カールはそう言いつつ、アイリスの肩を抱いて踵を返した。その振り向きざまに、リーナの「もう、馬鹿!」という怒鳴り声と、ナイアの憐れむような視線が背中に刺さった。カールはそれらに気づかぬふりをし、しばらく手を振りながら歩いていた。しかし、やがて彼女らの死角に入ったと思しき所でそれをやめ、用意していた車に乗り込んで軍の駐屯地に向かった。

 

「カール、巨神はやる気になってる。これまでで一番だよ」

 

「そりゃ、この上ない大役だからな。やる気にならなきゃおかしいさ」

 

 カールは車を運転しながら、アイリスの言葉に答えた。

 

「大役って言っても、体良く私たちを巨神ごと抹殺したいだけっぽいけどね」

 

 アイリスは冗談めかして言ったが、その言葉は真実だ。二人に出された命令は、作戦の発動と共に書類上はカールとアイリスは軍籍を失い、その状態で、碧き巨神を用いて青の世界水晶を強奪せよ、というものだった。軍籍を失うのは、失敗した際に「どこかの馬の骨が勝手にやった」と言い張るためだというのは、二人にはすぐ理解できた。そしてそれ以上に、失敗の暁には証拠隠滅のために自害しろ、という意味を含んでいることは明白だ。その言い訳も通じるのは一度きりであるのは自明の理である。つまりこれが、正真正銘の最後のブルーフォールなのだ。

 そして、その裏で今の上層部が何を考えているかも二人は理解している。二度のブルーフォールの失敗で、グリューネシルトの上層部は穏健派ばかりとなった。そのような状況で、巨大兵器を使える旧体制側の人間、つまりカールとアイリスは邪魔なことこの上ないということである。カールとアイリスから巨神を没収しようにも、巨神はアイリスの意思ひとつで動く。例えアイリスにそのようなつもりがなくとも、巨神自体も自我を持つため、巨神が勝手に暴れるという可能性もある。それで、最後のブルーフォールという餌でカールとアイリスを釣って戦死させようというのだ。成功したら成功したで、彼らにとっても祖国が助かればそれはそれで良いので、救国の英雄ということにするつもりなのだろう。

 カールとアイリスはそこまで裏を読んでも、作戦を遂行することに抵抗は無かった。結果がどうなろうと、どのような裏があろうと、祖国を救う最後の機会であることには変わりない。それだけで、ミロクに拾われて以来ずっとグリューネシルトに殉じることを究極の目標として生きてきた二人には、作戦を遂行する意義は十分だった。

 

「でもさ、本当に良かったの? 今夜にはもう作戦だっていうのに、リーナに会っちゃってさ」

 

「だからこそだよ。これでもう何も悔いは残ってねえ。例えあいつが俺らの前に立ちはだかっても、躊躇うことなくブチ殺せるさ」

 

 カールはそう答えながら、ハンドルを握る手に力を込めた。アイリスは、それでこそ特務隊のエース、カール・ヘスだと、前を見据えながらその肩に手をそっと乗せた。

 

        ***

 

 校門近くでナイアと別れた直後、リーナの、軍用ではない、青蘭島に来てから買った方の携帯電話に着信が入った。メルティからだった。リーナは、あの日からは彼女と話すどころか、会いもしなかった。それで後ろめたさを感じながらも、恐る恐るその電話に出た。

 

「メルティ? どうしたんですか?」

 

「ちょっと、新しいOSを開発したから、そのシミュレートをお願いしたいんだ。私の方で出来ることはやったから、リーナにどんな感じか試してほしい」

 

 特段、メルティがリーナに怒っている様子はなかった。そのことに安心しつつも、その内容には疑問を覚えた。普通、新しいOSを開発したなら、一旦EGMAに報告して、それからテスト隊によるデータ取りの後、リーナたちのような実戦部隊でのテストという順序を踏むはずである。ところが、新しいOSの話など、毎日軍の情報に目を通しているリーナでも知らないことであった。

 そこで、リーナは彼女が反EGMA派の人間であることを思い出した。そして、リーナの立場は彼女と近しい。

 

(そろそろ行動を起こすつもりなんですね、メルティは)

 

「分かりました。すぐに行けばいいですか?」

 

「うん。出来るだけ早くお願い」

 

 メルティがそう言ったその時、リーナは、それまでのデートに浮かれていた気持ちから、軍人としての気持ちに完全に入れ替わった。今の服装も忘れて、リーナは格納庫へ走っていった。そこに入った時、メルティは彼女のゴシックロリータに一瞬だけ目を丸くしたが、特に何も言わなかった。彼女はそのままパイロットスーツに着替えると、シミュレータの筐体に入った。

 

「リーナ。とりあえず、シミュレートする機体はL型にしといたからね。最初は違和感を感じると思うけど、頑張って」

 

 リーナがそれに入るや否や、メルティはそのように言った。リーナは何のことかと聞こうとしたが、OSの起動画面を見て、そういうのも無理はないと思った。起動画面に「Supported by EGMA」の文字はおろか、それに類する文言も一切現れなかった。

 

「EGMAのサポートは一切無しですか。なるほど、これは確かに一筋縄ではいかないかもしれませんね」

 

 リーナは、そのシミュレータで着地や飛行、歩行などの簡単な動作から、模擬戦闘まで、一通りのものをこなした。はじめのうちは、新OSの方でもある程度のサポートはしてくれるものの、EGMAからのものに比べれば全く足りなかったため、三年弱の間、ジャッジメンティスのパイロットとして従事してきたリーナでも苦戦を強いられた。とはいえ、それは自分なりにやりやすい動作を自ら開発して、型に決して嵌らない動きもできるということでもあり、二、三時間程だった頃にはリーナは完全に使いこなせるようになっていた。

 

「使えば使うほどパイロットに馴染む、いいOSだと思いますよ。ただ、これは玄人向けですね。コクピット内でのどの操作がどう機能するかを、従来のOSでは死に機能と化してるものまで熟知していないと使いこなせませんし、パイロットの勘も重要になります」

 

 リーナは筐体から降りると、すぐにメルティに率直な感想を告げた。それを聞いた彼女はほっと胸を撫で下ろしたように息をついた。

 

「リーナが使いやすいなら良かったよ。付き合わせちゃって悪かったね。機体の方のOSもこっちにしとく?」

 

「そうですね。一旦こっちに慣れるとなかなか抜け出せそうにないですし、お願いしたいです。でも、軍規的には大丈夫なんですか? 勝手にOSの換装なんて」

 

「大丈夫だと思うよ。ある程度好き勝手やっていいって言われてるし、そもそもリーナたちのジャッジメンティスを改造したのだって無許可だったし」

 

 メルティは軽い調子で言った。リーナはどことなく釈然としない思いだったが、許容することにした。

 

「早速換装しとくよ。さっきのシミュレーションのデータも移しとくね」

 

「よろしくお願いします」

 

 リーナがそう言うと、メルティはL型のコクピットに乗り込み、シミュレータとL型に内臓されているコンピュータを繋ぎ、備え付けのキーボードを叩き始めた。

 その様子を尻目に、リーナはシミュレータの筐体にもたれかかった。リーナの脳裏には、今こうしてパイロットスーツに身を包んでいる己と、つい日中にカールとデートしていた己の姿が、交互に映し出された。どちらの姿もリーナであることは変わりない。先程のシミュレーションの感覚を思い出すのも、デートでの幸福感を思い出すのも、どちらも同じ脳だ。しかし、どうにも不慣れな感覚だった。ずっと前者の己しかリーナは知らなかったのだが、後者の、ただ純粋にカールを愛する自分には、抵抗感すらあった。

 

「成長、なのでしょうかね、これは」

 

 13歳でジャッジメンティスのパイロットとして抜擢されてからジュリアに出会うまでずっと、リーナは張り詰めた空気の中で生きてきた。その中では当然、恋愛にうつつを抜かす暇などは無かった。しかし、今年の四月に学園に入学して初めて、15の時には既に恋を経験した者が多いと知った。リーナが他の者たちに対して経験していたのは社会経験だったが、そのようなものはリーナにとっては学園生活に何の意味も為さなかった。軍では、大きな戦闘の際には、気がついたら同僚が死んでいたなどということは日常茶飯事だった。おかげで、まともに付き合いがあった家族以外の人間は、幼馴染のメルティだけだった。シノンはよく話しかけてきたが、アンドロイドであるそれとは友達になる気は毛頭なかった。そのような状況と全く違う学園生活は、周りからは大人びていると見られていたが、当のリーナにとっては困惑だらけであった。

 リーナがジュリアと絡もうと思うようになったきっかけは、たまたま見た彼女の顔がリーナと同じものを湛えているように見えたことだった。ロマンチックな単語を使えば、運命を感じたのだった。この選択は正解だった。リーナとは正反対な、ざっくばらんな彼女との同棲生活は刺激にあふれたもので、メルティではない、友達との付き合い方を教えてくれた。

 そしてカールと出会い、今となっては恋人という中にまで発展した。軍人という社会人である今になって、幼馴染以外の親友を作り、人に恋をするというのは遅すぎる気がしたが、同時に学生である今を逃せば、次は無いだろう。

 そのように思考して、リーナは何だかんだで今の状況も悪いものではないと結論付けた。乙女な自分も紛れもなくリーナ=リナーシタ本人であると、そう思うことにした。

 

「リーナ。OSの換装、終わったよ。実機試験は明日にでもやりたいと思うけど、どう?」

 

 降りてきたメルティが、缶コーヒーをリーナに投げながら話しかけてきた。リーナはそれを受け取り、一口飲んでから彼女に答える。

 

「そうですね。今のところ明日に予定は入ってませんし、構いませんよ」

 

「じゃあ決まりだ。ああそれ付き合ってくれたお礼だから、後でお金とか持ってこなくていいからね」

 

「分かってますよ。ありがたく頂戴します。と言っても、もう一口飲んでしまいましたけどね」

 

 リーナが軽く微笑みながら答えたその瞬間であった。けたたましい警報が学園中に鳴り響いたのだった。またそれと同時に、パイロットスーツに付属のヘッドセットに、アルフレッドから通信が入った。

 

「リーナ、今格納庫にいるなら丁度いい。すぐジャッジメンティスで青の世界水晶の部屋に向かってくれ。何者かがそこに侵入した」

 

「了解です中尉。敵の数は?」

 

「不明だ。大きな影が監視カメラに映った瞬間、監視カメラだけでなく備え付けのセンサー類全てが破壊された。外からも観察できず、扉も遠隔操作で開けられない状況だ。だから、ジャッジメンティスの亜空間跳躍で突入する他ない」

 

 リーナはコクピットに向かって走りながら尋ねるが、彼女に答えるアルフレッドの声は、気難しいものだった。彼の声の調子に緊張感を覚えながらも、リーナはコクピットに入ると、ほとんど感覚でコマンドを入力した。

 

「了解です。ワームホール接続良好、跳躍ルート固定。亜空間跳躍、開始!」

 

 リーナのその声と同時に、L型が世界水晶の部屋に亜空間跳躍で瞬間移動した。

 

(ジャミングされていますね。しかもかなり強力な。OSを換装していて正解でした)

 

 リーナはメルティに感謝しつつ、注意深く索敵する。するとすぐに、かつて戦場で一度相対した、淡く碧く光る、ひとつの巨体を発見した。

 

「あ、あの機体は!」

 

「その声、それに乗ってるのはリーナだな。どけと言ってどくお前でもないだろ。悪いが本気で殺しにいかせてもらうぞ」

 

 昼の、優しかったものとはまるで違う、殺気のこもったカールの声がリーナの脳内に直接響いた。そして、次の瞬間、碧き巨神は召喚した剣を構え、猛然とL型に迫ってきた。

 

「やるしか、ない!」

 

 リーナも覚悟を決め、L型の脛のブレードを取り外して両手に持たせ、巨神の剣を受け止めた。そしてそのままブースターを点火して世界水晶を背にし、鍔迫り合いに入る。ふたつの刃が、互いの激情を体現するかの如く火花を散らす。



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愛の刻印

 鍔迫り合いを避けようとするカールとアイリスに対し、リーナは執拗なまでにそれを仕掛けた。世界水晶を背にしている限り、リーナはカールたちに対して有利を取れた。二人の目的が世界水晶の強奪であることは自明だ。そして、それを緑の世界の復興に使う以上、傷を付けるわけにはいかないはずだ。

 

(世界水晶を盾にとり、こうして鍔迫り合いを続ければ、そのうち冷静さを欠くはず!)

 

 リーナはその魂胆のもと、カールが距離を取った瞬間、またそれを詰めようとブースターを噴かした。しかし、突如巨神の装甲が開き、そこから無数のミサイルが見えた。それを見た瞬間、リーナの脳裏に前回の戦闘でそのミサイル攻撃でL型が大破した記憶が蘇った。それで思わず、その射線から逃れようと方向転換するために、突進の勢いを落とした。その刹那、ミハイルが再び隠されると同時に逆に巨神の方がL型に突撃を始めた。

 この行動に、リーナは対処が遅れた。巨神の剣が、左切り上げでL型のコクピットを正確に狙う。

 

「ちぃっ!」

 

 手動入力では間に合わないと悟ったリーナは舌打ちを漏らしつつ、異能を使ってL型に右腕のパイルバンカーの杭で剣を受け止めさせた。そして余った左腕は、ブレードで斬りつけても根元で斬ることになるような間合いだったので、それを手放してパイルバンカーで巨神の右肩を突こうとする。しかし、杭が巨神の装甲に触れる前に、巨神がL型にタックルをし、無理矢理その攻撃を止めた。そして、逸らしていた太刀筋もリセットされる。

 リーナがL型の体勢を立て直す前に、巨神の剣が一閃、下から切り上げてL型の両腕の肘から先を断った。

 

「しまった!」

 

 リーナは思わずそう漏らした。その間にも、巨神の剣撃は止まらず、次はコクピットを狙って真っ直ぐに突こうと構えた。対し、リーナはジャンプしてそれを避けようとした。しかし、コクピットへの直撃は避けたものの、その剣は右の大腿部に突き刺さった。リーナは咄嗟にそれをパージするが、左脚のみでは姿勢制御ブースターを用いても地上ではまともに動けるはずもない。事実、リーナが悪あがきでブースターを噴かすも、L型の機体は仰向けになって倒れてしまった。そこに、巨神の剣が再びコクピットに迫る。

 その瞬間から、リーナには全ての動きが鈍く見えた。目の前の敵機に乗っているのはカールだ。愛する者を殺すよりは、愛する者に殺される方が、幸せに決まっている。リーナの理性はそのように考えた。操縦桿を握る手も弱めた。しかし、いざ操縦桿から手を離そうとした時、リーナは激烈なまでの気持ち悪さを感じた。それからのことは、リーナはまるで自分の行動が、神の視点から見えているようだった。

 

「ジャッジメント、ビィィィィム!」

 

 巨神の剣先がコクピットに触れようかという時、リーナはそう叫んでいた。その声とともに、背面のブースターを噴射しながら、L型の額から青白い破壊光線が放たれる。そして、その光で巨神の両腕を薙いだ。

 更にリーナは獣のような雄叫びを上げながら、L型に残った全てのブースターを駆使して強引に左足の裏を壁に付け、それから左脚の関節をバネにし、ブースターも使ってそこから機体をブーメランのように回転させながら巨神に飛ばし、左の爪先のブレードで、巨神の腰を叩き斬り、真っ二つにした。その衝撃で、L型の四肢で唯一残った左脚も関節が砕ける。そして巨神の上半身が床に落ちると同時に、L型の機体も床に叩きつけられた。

 

「カール、カール!」

 

 リーナはL型が床に落ちた瞬間に我に帰り、コクピットを出て巨神の上半身に遮二無二走っていった。リーナが巨神のコクピットハッチと思しき部分をこじ開けると、そこには前部座席にカールが、後部座席にアイリスが、唖然とした様子で座っていた。幸いなことに、二人に目立った怪我はなかった。

 

「カール! アイリスさん!」

 

 リーナが二人を大声で呼ぶと、彼らは一様に彼女を見た。そしてそのうち、カールが大きくため息をつき、清々した表情で呟く。

 

「やれやれ、俺の、いや、俺たちの負けだな。まあでも、裏切り者無しで負けたなら、納得のいく負け方だ」

 

 カールはそう言うと、後ろに手を組んで大きく体を伸ばした。

 

「なんだかんだで、いい人生だったぜ。これも神の思し召しか、最後に戦った敵がお前なら、最高の死に水だ。なあ、アイリス」

 

「うん、私も、カールと共に死ねるんだ。本望だよ」

 

 カールとアイリスは、落ち着いた様子で、穏やかに言った。しかし、リーナには、唐突に湧いて出た二人の死という事柄に、理解がついていけなかった。

 

「どういうこと、何を言ってるんですか、二人とも」

 

「失敗したら自害しろって命令されてんだ。巨神がなきゃ俺ら二人じゃ世界水晶なんか運び出せないからな。負けたってのはこういうことだ」

 

「今の上は私たちを煙たがってたみたいだからね。ま、それでも大役を任されて軍人として死ねるのだから、私たちは本望だよ」

 

 二人はまるで普段の雑談のように言う。リーナは、二人の態度には、一応納得できた。二人のように軍に全てを捧げた軍人なら、命令に不満などは持たず、死ねという命令にも素直に従えるというのは、軍人生活が数年しかないリーナにもよく分かっていた。しかし、軍人としてのリーナは許しても、乙女としてのリーナは、どうしてもそれを許すことができなかった。

 

「ふざけないでください! 二人だけ満足して、私を残して死ぬなんて! そりゃ、軍人なら命令には従うのが義務だなんてことは分かってます! でも、私は嫌なんですよ! どうせ死ぬなら、私に何かを残して死んでください!」

 

「分かったよ。何が望みだ?」

 

 リーナの剣幕に気圧されたのか、カールは驚くほど素直に受け入れ、そのように尋ねた。その問いを聞いた瞬間に、リーナは衝動的にパイロットスーツを脱ぎ、裸を彼に晒した。そして、自らの行動に驚きつつも、リーナはそのおかげで己の素直な望みに気がつくことができた。

 

「子供が、あなたの子供が、欲しいです」

 

 リーナは赤面しながら、消え入るような声で告げた。カールは目を丸くしていたが、彼女が本気であることを理解したらしく、真剣な表情で尋ねた。

 

「分かった。だが、邪魔は入らないか?」

 

「備え付けのセンサー類は全て機能を停止しているのは今も変わりませんし、それにこの部屋にジャッジメンティス並みの巨大兵器が3機も暴れられる余地はありません。まだ戦闘中ということにしておけば大丈夫ですよ」

 

「そうか、なら、人生最後の大仕事を始めるとすっか」

 

 カールはそう呟いて、服を脱いで全裸になった。彼の筋骨隆々な肉体と、大きくそそり立った彼のペニスに、リーナは目を奪われた。その隙に、カールはリーナの唇を奪い、舌を絡めてきた。驚きながらもリーナもそれに応じ、たどたどしい感じになりながらも、懸命に舌を動かした。

 

「はは、リーナ、今すげえエロい顔してるぞ」

 

 ディープキスを終えると、カールがからかうように言った。しかしリーナはそれに不快感を示すようなことはなく、自分の体を抱きながら言う。

 

「性的な興奮とは、こういうのを言うんですね。すごくドキドキして、体の奥が疼いて」

 

「ウブだな、本当に」

 

 カールはリーナの頭を撫でる。そうしながら、顔は向けず、声だけでアイリスに話しかける。

 

「アイリスも混ざるか?」

 

「リーナがいいなら、そうしたいかな」

 

「お願いします。その、初めてだから不安ですし」

 

 アイリスの言葉に、リーナは即座にそう答えた。すると早速、アイリスも服を脱いで、その引き締まった肉体を露わにした。

 それからの数時間、リーナは淫靡の海の底に溺れていた。体中を快感が駆け巡り、新たな境地に至ったような感覚だった。媚薬を使ったかのように激しく乱れ、その上これまで発したことのない嬌声で喘ぎ続け、最後には肌を殆ど汗で濡らしていた。

 

「ふう、これで最後だ」

 

 その言葉で、全てが終わった。リーナはカールから離れ、パイロットスーツを改めて着直す。

 

「それにしても、良かったのか本当に。妊娠なんてしたら、学校は退学になるだろうし、軍籍も危ないだろ」

 

 カールも服を着ながら、心配そうに尋ねた。リーナは乱れた髪を手櫛で整えながら、下腹部をさすりつつ答える。

 

「大丈夫ですよ。退学しても、あなたの子供を育てるという生きがいがあれば、私は生きられます。それに、これまで使わなかった給料が山ほど残ってます。子供一人育てることなんて、わけないですよ」

 

 リーナは涙を堪えて笑ってみせた。もうじき別れの時だ。二人が見る最後の自分の顔を、泣き顔にはしたくなかった。

 

「リーナ、これあげるよ」

 

 アイリスはそう言いながら、彼女が首に巻いていた黒革のチョーカーを外して、リーナの首に巻き、バックルを締めた。

 

「似合ってる。可愛いよ、リーナ。カールもそう思うでしょ?」

 

「ああ。しかし困ったな。ああいう形に残るので俺が渡せるのが無い。いや、あるな」

 

 カールは何かを思いついたように言うと、急にその左の眼窩に手を突っ込んだ。そして左眼を取り出して、リーナに差し出してきた。リーナはそれを冷静に見ると、義眼であることに気がついた。

 

「これやるよ。ただの義眼じゃなくてちょっとした仕掛けがあるんだが、今説明してる暇はないからそっちで機能の解析をしといてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 リーナは素直に礼を言い、義眼をポケットに入れた。

 

「では、これで」

 

「ああ。じゃあな」

 

「ばいばいね、リーナ」

 

 三人が言葉を交わした直後、リーナは涙で歪みそうな顔を無理矢理笑顔にして、巨神のコクピットから出て、L型のコクピットに戻った。別れざまに見えた二人の笑顔は、身震いするほどきれいなものだった。

 コクピットのシートにリーナが着くとすぐに、巨神の中でふたつの大きな生体反応を示していた部分から、それが消えた。それが意味するのは、たったひとつだけだ。カール・ヘスとアイリス・ヘスの死、それ以外に他ならない。そのことを悟った刹那、リーナは絶叫した。涙は堰を切ったように両の瞳から溢れ出る。悲哀に胸が押し潰され、幼子さながらに、また押さえきれずに壊れたように、泣き喚く他なかった。

 

「なんで、なんで私がこんな。カールが、私が何をしたんですか。残酷すぎます。初めて人並みのささやかな愛を覚えたばかりなのに、これから幸せになれると思ってたのに、どうして」

 

 リーナがようやく絞り出せた言葉は、運命に対する恨みだった。しかし、その言葉が誰かに聞かれることはない。ただただ、空に霧散するだけだ。だが、今の気持ちを口に出来たおかげで、リーナの心に露ほどの余裕ができた。

 目の前の巨神の残骸とカール、アイリスの遺体は、学園に渡してはならない。リーナは、不思議とそのように考えた。そうとなると、やることはひとつだった。彼女は携帯電話を取り出し、祈る思いでジュリアに電話をかける。すると、今は深夜にも関わらず、すぐに繋がった。

 

「今から、今私がいるところまで、誰にもばれずに来られますか?」

 

「その声、加勢してくれって頼みじゃないわね。すぐ行くわ」

 

 その言葉を聞いて、須臾の間にジュリアが現れた。その姿を見たリーナはL型から降り、衝動的にジュリアに抱き着いた。

 

「ジュリア。カールが、カールが」

 

「流石の私にも、死人を蘇らせることは出来ないわ」

 

 ジュリアは一瞬だけ巨神の方を一瞥し、震える声で答えた。それに対し、リーナは少しだけ落胆したが、それを気取られぬように応答した。

 

「大丈夫です。それは望みませんから。あの巨神を引き取って、カールとアイリスの、遺体を統合軍に引き渡して欲しいんです」

 

「分かったわ。でも、どう誤魔化すつもりなのよ」

 

 ジュリアにそう問われ、リーナは詰まってしまった。このような兵器は回収するのが常であり、忽然と消えたとなれば、当然疑われることとなる。

 

「まあ、今回は私が何とかしてあげるわ。あなたはもう帰って寝なさい」

 

「はい、そうします」

 

 リーナは力無く返事をして、コクピットに戻り、格納庫に亜空間跳躍した。今、リーナには何かを考える余裕は無かった。とにかく休みたい。胸中にあるのは、その思いだけだった。

 

「リーナ、終わったんだね。大丈夫だった?」

 

 格納庫に着いてすぐ、メルティがコクピット前の足場で出迎えた。リーナはコクピットから出ると、彼女の顔を直視せずに、その側を通る。

 

「大丈夫です。報告はいつ済ませればよいでしょうか」

 

「隊長が、報告は数日後でいい、今日はもう休んでって言ってたよ」

 

「了解です」

 

 リーナは一旦立ち止まって敬礼をしてから、踵を返し、脇目も振らずにパイロットスーツのまま己の部屋に戻った。そしてベッドに倒れ込むと、そのまま引き摺り込まれるように、彼女は深い眠りについた。

 

        ***

 

 翌日になって分かったのは、昨夜の出来事は学園側の上層部によって無かったことにされたということだった。事情を知らぬアルフレッドは生徒の対G・S(グリューネシルト)感情をこれ以上悪化させないためだろうかと言っていたが、ジュリアがリーナに明かしたことには、以前彼女がゆすった上層部の人間に掛け合って、カールとアイリスの遺体を統合軍に返還し、巨神の所有権を彼女が持つことになったということだった。

 風紀委員会の仕事を全て済ませた放課後、リーナは職員室から退出して、風紀委員会の教室に向かっていた。職員室で行ったのは、生徒議会の一年生代表と風紀委員会の辞任書類の提出と、腕章の返却だった。風紀委員会の教室に行くのは、その報告のためだった。

 今、彼女の首には昨夜アイリスから貰い受けたチョーカーが巻かれている。この程度のファッションなら普通は黙認されるが、風紀委員となると好ましくない。無論、辞めるのはこのチョーカーを着けるためだけではないが、理由のひとつではあった。大きな理由は、単純にやる気が無くなってしまったからだった。カールの死が落とした影に、かつて使命感に燃えていたリーナは完全に飲み込まれてしまっていた。

 

「失礼します」

 

 リーナが教室に入ると、ちょうど風紀委員長がそこにいた。彼女はリーナが着けているチョーカーや、腕章の無い袖をまじまじと見ていた。その仕草を見て、リーナは冷めた口調で彼女に告げる。

 

「今日付けで、風紀委員会を辞めることにしました。もう辞退書類の提出も、腕章の返却も済んでいます。これまでお世話になりました。では、これにて私は失礼します」

 

「ちょっと待ってよリーナ。急すぎるよ。あんなに真面目だったのに、どうしたの?」

 

 委員長が慌てた様子で去ろうとしたリーナを呼び止めるが、当の彼女は足を止めずに、ゆっくり歩きながら答える。

 

「やる気が無くなった。ただそれだけです」

 

 リーナはその言葉を言い終えると同時に、教室を出てドアを勢いよく閉めた。それから寮に向かって歩いていると、偶然、向かい側から美海らが歩いてくるのに気がついた。彼女らの方もリーナに気づいたようで、リーナに近づいてきた。

 

「リーナちゃん、今日で生徒議会を辞めるって聞いたんだけど、本当なの?」

 

「本当ですよ。今までありがとうございました」

 

 美海の問いに、リーナは淡々とした口調で答え、形式的な礼を言った。しかし、美海は納得がいかないようで、問いを重ねてきた。

 

「やっぱり、昨日の夜に何かあったの?」

 

「どこまで知ってるんですか?」

 

「侵入者があって、その対処にリーナちゃんが出たってくらいしか。先生には出来るだけそのことを口にするなって言われたし、何か大変なことがあったのかなって」

 

「そうですか。では当事者としてお願いをします」

 

 リーナは、そこで一呼吸置いた。まだ傷も癒えぬというのに、そこを抉られたような感覚がして、そうでもしないと掴みかかりそうになっていたためだった。美海にその意図が無いのは明白だが、それでも怒りを覚えずにはいられなかった。

 

「二度と、そのことを口にしないでください。私がいない時でも、もう二度と、金輪際。もし口にしたら、私は躊躇いなくあなたを殺すことでしょう」

 

 リーナは低い声で、美海を睨みつけて告げた。彼女の言葉を受けてか、もしくは怒気に押されてか、将又両方か、美海だけでなく、共にいたソフィーナ、ルビー、ユーフィリア、マユカも言葉を失っていた。リーナはその様を尻目に、再び寮の自室に向かって歩き出す。

 歩いている間、リーナの目には学園の何もかもが色を失って見えた。今の彼女には何も無い。昨夜あれ以上に無いくらいに情事に励んでも、彼女の胎内で新たな生命の元が出来るとは限らない。妊娠の可能性だけでは、リーナにとっては希望にもならない。

 

「ただいま」

 

 リーナは、元気無く部屋のドアを開けた。靴を脱いでそれを下駄箱に入れている間に、先に帰っていたジュリアが出迎える。

 

「おかえり、リーナ。大丈夫だったかしら?」

 

「ああ、大丈夫ですよ。生徒議会と風紀委員は辞めましたが、そのおかげで少し気が楽になりましたから」

 

 リーナは未だ胸に疼く苦しみを誤魔化すように笑ってみせた。その笑みの裏で、彼女は昨夜のことを話すかどうか悩んでいた。ジュリアは昨夜の襲撃で何があったかは大体は予想できたはずだが、リーナがカールと体を重ねたことは知る由も無い。

 リーナは、取り敢えず話して不利益を被ることはないだろうと思った。ジュリアが誰かに暴露するとも思えず、またそのことを否定せずに理解を示してくれるだろうと考えたからだった。

 

「ジュリア、その、私、昨夜、カールとセックスしたんです」

 

 リーナは意を決し、極度に緊張しながら告白した。その言葉を聞いたジュリアは、流石に驚いたのか目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。

 

「そう」

 

 ジュリアは短く、簡素に答えた。しかしその調子から、彼女のその返事が心のこもったものだと、容易に理解できた。

 

「妊娠してたらいいなって思います。そうなったら退学は間違いなしでしょうけど、生き甲斐はできます。そっちの方が断然いいです」

 

 リーナがそう告げた時、ジュリアの表情が一瞬、陰ったように見えた。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや、その」

 

 珍しく、ジュリアが返答に窮していた。彼女は暫く口ごもっていたが、やがて耐えかねたようにポツリと漏らした。

 

「私じゃ、ダメなのかしら。私は、あなたの生き甲斐にはなれないの?」

 

「ジュリア?」

 

 ジュリアは涙を溜めていた。彼女の涙は初めて見る。思いもよらなかった事態に、リーナは困惑を極めた。

 

「私には好きな人がいて、その人はまだ生きている。だから、私の存在があなたを傷つけてしまうかもしれないわ。でも、あなたを愛する友として、私を、あなたの生きる頼みにして欲しいの。次の生き甲斐が見つかるまででいいから」

 

 ジュリアはそこまで言うと、ハッとなってリーナから目を背けた。そして自分で涙を拭うと、落ち込んだ様子で項垂れた。

 

「ごめんなさいね。泣いたり我が儘言いたいのはあなたでしょうに、私がこんなのになってしまって」

 

「そんな、私は痩せ我慢してるだけです。それよりも、私はジュリアの中で私がそこまでの存在だってことを知れただけでも、嬉しいです。もし、私が妊娠しなくても、ジュリアが側で支えてくれたら、私は生きていられます」

 

「なんだか、釈然としないわ。リーナに慰められるなんて」

 

 ジュリアは、頬を膨らませてリーナから顔を背けてしまった。その彼女らしさも残す新たな仕草に、リーナは少しだけだが、口角を上げた。

 

「ジュリア、変わりましたよね」

 

「そりゃ変わるわよ。こんなに入れ込んだ友達は、他にいないもの。あなたと知り合うまで知らなかったことを知ったから、少し不安定なのよ。だからね」

 

 ジュリアは、そこで一旦区切り、リーナに抱きついた。

 

「私より先に死んだら、承知しないんだから」

 

 彼女が、リーナの耳元で囁く。リーナは彼女を安心させようと、腕を彼女の背中に回した。

 

「大丈夫です。あなたという最高の友達を残して死ねませんよ」

 

「そう。よかった」

 

 ジュリアはリーナから離れ、改めて向き合う。

 

「これから買い物に出るのだけど、一緒に着いて行く?」

 

 ジュリアは先ほどのことは無かったかのように尋ねる。しかし、声は未だ涙声だった。

 

「いえ。少し考えたいことがありますから、今回は遠慮します。でも、次は一緒に行きましょう」

 

「分かったわ。じゃ、行ってくるわね」

 

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 リーナは申し訳なく思いながら、ジュリアを見送った。そして玄関で一人になると、リーナはおもむろにベッドに向かい、荷物を粗雑に置いてからそこに飛び込んだ。

 そして気がつけば、いつも護身用に携帯しているナイフを、鞘が抜かれた状態で手に握っていた。そして、衝動的に左腕の袖を捲り、手首を軽く切った。動脈は切っていない。流血も痛みも大したことはなかったが、不思議とストレスが軽くなった。

 

「ジュリアにはああ言いましたが、実のところはどうなんだろう。なんで生きようとしたんだろう。あの時、カールに殺されていれば、こんな苦しみは無かったでしょうに」

 

 ふと、リーナは独りつぶやいた。しかし、そのおかげでか、またストレスがぶり返してきた。それで、またひとつ、手首に傷をつけた。痛みと流れる血を引き換えに、心の苦しみが霧散していくようだった。だが、次にリーナの心に浮かんだのは、親から貰った体を傷つけたという罪悪感だった。

 

「ああいけない、こんなことじゃ。別の発散方法を探さないと」

 

 そうは言ったものの、何も上手いものが思いつかなかった。諦めかけた瞬間に彼女の脳裏に、昨夜の性的な快感を思い出した。

 

「まさか、ここまで堕ちてしまうとは思いもよりませんでしたよ」

 

 リーナは自虐しながら、服を脱いで、股間を(まさぐ)った。昨夜のものには劣るものの、リーナは確かに快感を得られた。またもや罪悪感を抱きかけたが、このようなものは誰もがやることだから気にすることはないと、何度も何度も自分に言い聞かせながら、リーナはジュリアが帰ってくるまで、ひたすらに自慰に耽るのだった。

 

        ***

 

 時は流れ、終業式を終えて冬休みに入った。結局、リーナが妊娠することはなかった。この事実はリーナの心を蝕んだ。最初の二回以来やめていた自傷行為は度々行うようになり、自慰も頻度を増した。ジュリアは献身的に支えてくれるものの、事態は一向に改善しなかった。

 冬休み初日、リーナはG・Sを訪れていた。共同墓地に埋葬された、カールとアイリスの墓参りのためであった。リーナの他にも、ランにナイア、夏菜、リーリヤとルルーナが来ていた。彼女ら五人は既に墓参りは済ませていたが、リーナはこれが初だ。埋葬自体は数週間前に為されていたものの、リーナはなかなか足を運ぶ気になれなかった。未だ、カールとアイリスの死を受け入れられなかったからだ。今こうして二人が埋まっている墓の前に立っていても、その実感は薄いものだった。

 公式には、カールとアイリスは訓練中の事故死、という形で片付けられていた。王族でいくつか特殊な権限を持つランと、特務隊所属であるナイアは真相を知っているが、今や一般人となった夏菜や、一般兵のルルーナとリーリヤは、公式発表以上のことは知らない。

 二人の死後、ここに至るまで、リーナとナイアたちは言葉を交わさなかった。正確には、すれ違ったら挨拶をする程度で、まともな会話はしなかった。彼女らがリーナを気遣っているのは分かっている。だから、一緒に墓参りをしようと、リーナから誘った。ジュリアには敢えて留守番を頼んだ。二人の仲間だったナイアたちと向き合うのに、ジュリアがいると彼女に頼ってしまいそうだと考えてのことだった。

 この日のG・Sの空は晴れていたが、風は強かった。凍てつくような冷たい風がリーナの顔を叩き、空気が乾燥しているということもあって、刺さるような痛みを感じた。

 

「ナイアさん、ラン殿下。カールとアイリスのこと、夏菜さんたちが聞いても大丈夫でしょうか」

 

 リーナは菊の花束を墓の前に置くと、重々しく切り出した。カールに死を与えた自分には、その友くらいには真相を打ち明ける義務がある。そう思っての言葉だった。ランはナイアと顔を見合わせ、それから彼女は夏菜、ルルーナ、リーリヤに顔を向けた。

 

「これから聞くことは、全て他言無用です。いいですね」

 

 その言葉に、夏菜は頷き、ルルーナとリーリヤは敬礼を返す。それを見届けると、ランはリーナに向き直った。ランが今G・Sにいるのは、墓参りという名目で一日だけ自由な時間を貰えたからだ。そのような立場である以上、ここで言うことこそ意味がある言葉を聞き届けたいという意図が、彼女の目から感じられた。

 

「これで大丈夫です。さあ、何でも言ってください」

 

「はい」

 

 リーナは一呼吸置き、徐ろに口を開く。

 

「あの時。世界水晶の部屋でカールのあの機体と対峙して、カールに殺されそうになった時です。彼に殺されるなら本望だと思ったのですが、それがすぐに、生きたいという思いに変わったんです。なぜかは分かりません。それからは無我夢中で倒して、カールの機体のコクピットで彼と繋がって。子供を欲したんです。そうすれば、生きる意味はあるだろうって。でも妊娠できなかった。唯一の頼みだったそれが出来なくて、でも自殺はしたくないんです。あの時生きたいと願って、その上カールは最終的に戦士として死にました。まだ私は何も為していないのに、その彼を追って自殺だなんて、彼に失礼だから。今は生きる意味を探すために生きている状態です。でも、一寸先さえ分からぬまま、ジュリアという杖だけを頼りに歩いている状況でもあります。いつ倒れるか、分からないんです」

 

 リーナは淀みなく、すらすらと今の自分の心情を述懐した。ランたちは彼女に対する言葉に迷っていたが、一番最初に口を開いたのはナイアだった。

 

「今のリーナの現状は分かった。あんたの望むことは、もちろん限度もあるが出来る限り何でもしてやる。なんたって、あんたはカールとアイリスの忘れ形見だ。ルルーナとリーリヤもそれでいいよな? それと、殿下もよろしいでしょうか?」

 

 ナイアの声に、ランたちは力強く頷いた。その光景を見て、リーナは感激に体を震わせていた。彼女らからすればリーナは外国の軍人でしかないのに、進んで力になろうとしている。その深い友愛は、深い闇に沈んだリーナの心に光を与える、一条の光にも思えた。しかし、リーナには結果的に二人を死に追いやったという罪悪感もあった。そのことを告げなければ、ナイアたちの好意を受ける資格もないように思えた。

 

「いいんですか? 私が、カールたちにトドメを刺したも同然なんですよ?」

 

「あの二人が亡くなったのは、穏健派の描いたシナリオによるものです。恨むべくは彼らであって、あなたではありません。それに、あなたは私や私の戦士たちの恩人です。恩を返すときは今。あなたが戦士の誇りを守ろうとしてくれたのと同じように、私たちがあなたの心を守りましょう」

 

 リーナの問いかけに、ランがはっきりと告げる。ランは微笑みをたたえながらも、その目の奥には強い意志があった。そして、ランが言い終えると同時に、リーリヤがリーナの肩を横から叩いた。

 

「私も殿下と同じ気持ちです。私たちもあなたと同じ、青蘭学園一年ですし、あなたが生きる意味を見つけるのを見届けさせてください」

 

「助けられっぱなしってのは気分悪いしね。本当のことを知って驚きはしたけど、あの二人が納得してるなら大丈夫。誰も君を責めたりなんかしないよ」

 

 ルルーナは、リーリヤが叩いた方とは反対側の肩を叩き、笑顔で告げた。そして、その眼前には夏菜が立った。

 

「私にも、リーナには借りがあるからね。君の友達として、ちゃんと利子付きで返すよ」

 

「では全員がリーナさんに対する思いを口にしたところで、昼食と致しましょう。特別に、王宮の食堂へ招待しますよ」

 

 夏菜が言い終えたところに、ランがそのように提案した。他の四人は乗り気だったが、リーナがそれを承諾しようか迷っていると、ランが目配せをしてきた。それを受けて、リーナは縦に首を振って彼女に近づいた。

 

「落ち込んだままじゃ、カールが喜ぶはずもありませんからね。行きましょうか」

 

 リーナがそう言うと、他の五人は安堵したような笑みを浮かべた。そして、一人一人、次々と歩き出す。リーナはいくらか晴れた気分で、その後を追った。

 

        ***

 

 リーナがG・Sに行っている頃、ジュリアはアルフレッドと、教員寮の彼の部屋で密会していた。リビングのソファに並んで座り、ジュリアはアルフレッドの方に身を寄せていた。外から見えぬよう、カーテンは閉め切っている。明かりはつけておらず、光源はカーテンを透けて入る、淡い陽の光だけだ。そのおかげで薄暗く、蜜月の雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。

 

「最近の君はどうにも危なっかしい。余裕が全く無いように見える。リーナも、すっかり変わってしまった。何があったかは無理に言わなくていい。リーナの親である私には、私が能動的に何かをすることはないが、せめて君には、私にできることはないだろうか」

 

 アルフレッドは下を見ながら、いつになく深刻な表情で尋ねる。ジュリアは暫し逡巡していたが、やがて、決心し彼の胸に手を置いて、呟くような小声で告げた。

 

「好きなんです。あなたが。心から愛しています」

 

 その告白を聞いたアルフレッドは、唖然としていた。予想通りの反応だと思いながら、ジュリアはおもむろに彼の首に両腕を回した。

 

「今回はからかってませんわよ」

 

「私はもう齢五十だ。君にもっと似合う、若い男もいるはずだろう」

 

 アルフレッドは落ち着いた口調で諭すが、その顔はほのかに紅潮していた。

 

「私だって、これでもD・E(ダークネス・エンブレイス)で二百年は生きているんです。まあ、D・Eでの時の経過と、地球やS=W=Eでの時の経過は異なりますけど」

 

 ジュリアは不敵な笑みを見せた。カールとアイリスの死後、心の底からその表情をするのは、これが初めてのことであった。

 一方で、アルフレッドは複雑な表情をしていた。しかし、その顔は赤くしたままだった。ややあって、彼はジュリアから目を逸らしながら、躊躇いがちに口を開いた。

 

「正直に言って、君への恋愛感情が無いということはない。だが、死別した妻のことや、マイケルとリーナのこともある。特に君はリーナの親友だ。二人にもよく話を通さねばならぬだろうし、私の心には未だに亡き妻がいる。すぐには答えを出せんよ」

 

 その言葉の節々から、彼の真摯さはひしひしとジュリアに伝わってきた。それを受け、ジュリアは自ら彼から腕を解き、拳ひとつ分距離を置いた。

 

「分かりました。この話はやめにしましょう。でも、こうして会うくらいのことはさせて下さい。リーナが精神的に弱ってる今、あなたが唯一の、私の心の安らぎですから」

 

「そうか。そのくらいならお安い御用だ」

 

 アルフレッドが即答する。ジュリアは、その声色と態度を頼もしく思った。彼が居なければ、ジュリアはとっくに力尽きていたかもしれない。この数カ月で、ジュリアは己が弱きを強く実感していた。無敵だと思っていた自分の精神はズタズタになっていた。傷付いたリーナの世話は並大抵のことではなかった。リーナの目の届く範囲では気丈に振る舞う必要がある。しかし、その振る舞いが、愛する者を失ったリーナの望まぬものであってはならない。彼女の傷を深めない範囲で、そうしなければならぬ。このことを常に気をつけながら生活するのは、かなり骨が折れることであった。

 ジュリアは元々、気遣いができるような性格ではない。自他共に認めるように、自己中心的で我が儘なのである。しかし、一生の友と認め、その支えになろうと誓ったリーナを蔑ろにするような、非道な者でもなかった。不慣れなことへの疲労感を隠すためにより一層の努力をする。不慣れが二重になって、ジュリアの心はさながら鉄の処女に入れられているかのようだった。

 

「私は、学校で見かけたりするくらいでしか今のリーナを知らないが、家ではどうなっている?」

 

 暫く沈黙したのが堪えたのか、アルフレッドは歯切れが悪い風で尋ねた。ジュリアは正直に伝えようか迷ったが、嘘をついたところで仕方ないと思い、婉曲的に話すことにした。

 

「あの子は、私を含めて他人がいるときは影はあっても普通に振る舞っています。でも一度一人になると、悲しみに堪え兼ねたように、辛さを訴えます」

 

「そうか。カウンセリングや、精神科の医者に見せたりはしていないか?」

 

「してません。あの子が嫌がるんです」

 

 ジュリアは、そうした彼女の態度を思い出して苦々しく思いながらも、それを表に出さないように短く答えた。

 ジュリアはふと時計を見てみると、もうリーナが帰ってくるシャトルの便が、青蘭島に到着する十分前の時刻になっていた。そのことを少しだけ口惜しく思いながら、彼女はソファから立ち上がった。

 

「では、私はこれで失礼しますわ」

 

「待った。最後に教えてくれ。リーナが今、生きる糧としているものはなんだ?」

 

「あの子は今、それを探すために生きています。ですが、今の精神状態では、とても」

 

 ジュリアは、アルフレッドから目を逸らしながら答えた。対して、彼は一息つくと、顎に手を当てながら言う。

 

「わかった。今後リーナが助けを求めたら、それとなく話題を振ってみよう。私は年長者だ。年の功のある者として、若人に導きを与えるのは義務だろう」

 

「それは私からもお願いします。私のD・Eでの二百年は、人に光明を与えるほどのものではありませんでしたから」

 

 ジュリアはそれだけ告げ、瞬間移動で青蘭島の港に行った。リーナの乗ったシャトルが着くまで、あと数分だ。ジュリアはゲートの付近に立ち、ツインテールの先の方を弄りながらリーナを待つ。迎えは頼まれていなかったが、リーナを支える者として、その義務があるとジュリアは考えていた。向こうで自分がカールの死の原因のひとつだと告白するつもりだとリーナが行く前に言っていたことも、迎えに来た理由のひとつだ。

 しばらく待つと、ゲートの向こうにリーナとランが談笑しながら歩いてくるのが見えた。その光景を見て、ジュリアは複雑な気分になった。リーナがカールを殺したようなもの、というのはリーナの重荷のひとつであったから、今のリーナの様を見るに、それからはある程度解放されて談笑するような余裕が出てきたのだろう。そのことは純粋に喜ばしいことであったが、彼女が談笑している相手が自分ではなくランであることがジュリアには気に食わなかった。そのことはリーナを支える者がジュリア以外に増えたということを意味し、これまで感じてきた重圧が軽くなるかもしれないということでもある。しかしジュリアには、リーナを理解し、その支柱となれるのは自分だけだという自負があった。その自負ゆえに、リーナの隣に立つランの姿を見た途端に、どす黒い嫉妬の炎がジュリアの胸を焦がした。だが、それをリーナに気取られることだけは避けねばならない。ジュリアは、大きく深呼吸をし、その嫉妬心を胸の奥に追いやった。

 

「あ、ジュリア。迎えに来てくれたんですね」

 

 ジュリアに気が付いたリーナが、ゲート越しに話しかけて来た。ジュリアはいつもの余裕ぶった笑みを繕い答える。

 

「ええ。あなたが心配だったもの」

 

「心配してくれたんですね。嬉しいです」

 

 リーナはゲートを通過し、ジュリアに笑いかける。その笑顔は無理に笑っている風には見えない。ジュリアは彼女が素で笑えるようになったことに喜びを感じると同時に、その直接の要因になれなかったことに一抹の劣等感を覚えた。

 

「ジュリア? 何が不満なんですか?」

 

 不意にリーナがジュリアの顔を伺いながら放ったその言葉に、ジュリアは心臓を抉られたような感覚がした。

 

「そう、見えるの?」

 

 ジュリアは、恐る恐る尋ねる。気のせいかもしれない、などと言われることを彼女は期待したが、反してリーナは何かを言うでもなく首を縦に振った。その仕草を見た瞬間、ジュリアは血の気が一気に引いた気がした。どのような理由であれ、リーナの前進を好意的に捉えられなかったのは事実であり、それを彼女に気取られてしまった。このことはジュリアの自信を粉々に打ち砕くには、あまりに十分すぎることであった。

 

「あ、あ、あ」

 

 ジュリアは膝から崩れ落ちた。目眩がする。世界が回って見え、ジュリアの立場を脅かす夷狄の王女はおろか、全身全霊をかけて支えようと決意した友の姿さえ、彼女の目にまともに映らなかった。彼女を心配する言葉さえ、意味を捉えられないほどぐちゃぐちゃになって聞こえた。やがて、忽然とジュリアの視界は真っ黒になり、意識もそこで事切れた。

 

        ***

 

「ジュリア、ジュリア!」

 

 リーナは、うつぶせに倒れたジュリアの肩を叩きながら、必死に呼びかけた。幸い、ジュリアはすぐ目を覚ましたが、辺りを一通り見回すと、ハッとして目を見開いた。そして体を起こし、ふらつきながらも立ち上がった。

 

「大丈夫、ですか?」

 

 リーナが尋ねると、ジュリアは未だ意識がぼやけているのか、首を振りながらよろめいて、右手で額を押さえ、壁にもたれかかってから答える。

 

「大丈夫と言いたいけど、説得力無さそうね。でも、少し休めばまた元気になるわ。だから心配しないで頂戴」

 

 リーナは、そのジュリアの態度を見て、彼女の苦悩を悟った。精神が弱っているのは自分だけではない。目の前の、自分を支えてくれる友もまた、弱くなっているのだと。

 

「ジュリア!」

 

 リーナは、周りの人の目を気にせず、その名を叫んでジュリアの垂れていた左手を両手で包んだ。困惑するジュリアだったが、それも気にすることなくリーナは訴える。

 

「私を支えてくれるのは、本当に嬉しいです。一生、そうしてほしいくらいです! でも、そうするならありのままのあなたでいてください。気を遣わなくたっていい。私は、どんなジュリアも好きなんです! 素のあなたがいつもの我が儘でジコチューで余裕綽々なあなたじゃなくても、私はジュリアが、本当に、大好きなんです」

 

 先程こみ上げた思いの全てを、リーナはジュリアにぶつけた。リーナはこれで彼女の悩みが解消することを期待したが、ジュリアはますます表情を暗くしてしまった。

 

「それじゃ、これまで私があなたを気遣っていたのは、全て無駄だったの?」

 

「そうとは言いませんよ。気遣ってくれたことは、本当に嬉しいんです。でも、不慣れなことをしてジュリアが傷付くのは、嫌なんです。元気なジュリアと一緒に居られるだけで、私は幸せですから。私を気遣って疲労困憊になるくらいなら、前みたいに自由気ままに振る舞って、私を振り回してくださいよ」

 

 リーナは精一杯、自分の気持ちを伝えた。ジュリアの不満の種が何かは未だに分からないが、とにかく自分の本音を受け取って欲しくて、必死に捲し立てた。言い終えてからジュリアは暫く、空気を読んで黙って離れているランの方を見ていたが、やがてリーナに視線を戻して、弱々しい声で訊いた。

 

「少なくとも今の私には、以前みたいに傍若無人な振る舞いは出来ないわ。本当の私は、弱っちくて、失敗するとすぐヘタれるような、情けない女よ。今だって、リーナが苦しんでる最中なのに、あなたに励まされるようなちっちゃい女。それでも、リーナは」

 

 ジュリアはそこで一旦言葉を区切り、ランを再度一瞥してから、言葉を続けた。

 

「私を一番の友達だって、言ってくれる?」

 

 その言葉で、ジュリアが何を気に病んでいるのか、リーナはようやく分かった。ランたちが新たなリーナの支えとなったことで、ジュリアがお払い箱になることを危惧し、また彼女らに嫉妬していると、リーナは確信した。無論そのようなことは有り得ない。しかしジュリアはそうかもしれないと思っているのだ。それで、その誤解を解くためにも、リーナはこれ以上ないくらいの、満面の笑顔で答える。

 

「もちろんです。誰よりも何よりも、ジュリアという最高の友を愛しています」

 

 リーナが言い終えると、ジュリアは、左手を包むリーナの手に右手を重ねた。そして、彼女は憑き物が落ちたような安らかな笑顔を見せ、ポツリと呟いた。

 

「よかった。他ならぬリーナ本人が言うんだものね。安心したわ」

 

「これからもよろしくお願いします、ジュリア」

 

「ええ。でも、この話は一旦区切りましょ。このままじゃ、ラン殿下が私たちの間に入れないわ」

 

 ジュリアは、ランの方に目を向けた。これまでずっと黙っていたランは、ジュリアの先程からの変わりように、目を丸くしていた。

 

「え、ジュリアさん、いいんですか?」

 

「言いたいことは分かりますわ。まだ完全に吹っ切れたわけじゃないですけれど、これからは共にリーナを支える同志として、一緒に頑張りましょう、ラン殿下」

 

 ジュリアは、そう言ってランに笑いかける。リーナがその様子を見るに、一番の友達だと認めたことがかなりジュリアの救いになったようである。近頃は神経質なジュリアであるが、同時に単純でもあるようだ。

 ランはジュリアに言われても躊躇っていたが、やがて思い切ったように踏み出し、ジュリアとリーナに近づいた。リーナは、その様を見て、これで本当の意味で、自分を支える柱が増えたと実感した。しかし、心の奥に刻み込まれたカールへの愛情は、全く薄まることはなかった。

 

        ***

 

 冬休みも終わり、三学期を経て春休みに入った。三学期のリーナの学校生活は、前とは全く違うものとなっていた。同学年の者とは、夏菜とリーリヤ、ルルーナを除いては、メルティとさえ雑談はしなかった。チョーカーを着けるようになって気分も少し変わって、他の生徒のような制服を着崩したり、私服も年頃の娘らしいものを買ったりするのは当たり前になっていた。その変わりように他のクラスメイトは初めのうちは目を丸くするものの、リーナが話しかけるな、という雰囲気を醸し出していたこともあり、誰も言及する者はいなかった。寮に帰って学校から出された課題を済ませたら、それからはジュリアとの時間だった。ファッション雑誌を共に眺めて気に入った服について語らったり、一緒にテレビ映画を見たりなど、たわいもないが、ささやかな幸せを得られる時間だ。そして、ジュリアが寝てからは、一人でこっそりと、手首を切ったり、最近では張形まで使っていた自慰に没頭した。あの夜から半年弱が経ち、多少なり元気に振る舞えるようになっても、カールに抱かれた得た快感や、彼とアイリスに対する自責の念は、全く消えることはなかった。

 春休み二日目の朝、リーナは日課の朝のランニングをしていた。この習慣は、以前からも変わらなかった。走ることはひとつの救いだった。この時だけは、何もかも忘れさせてくれる。心に深く刻まれた傷の痛みさえも、気にならなかった。

 この日は季節外れの寒波が到来しており、激しい雨は冬かと勘違いするほどの冷たくなっていた。リーナは雨合羽を着て走っていたが、それでも合羽の隙間に雨が入り込んできて、少し不快であった。さらにこれまた季節外れの北風が重々しく唸っており、ランニングのコンディションとしては最悪だった。しかし、リーナはこのくらいの悪天候の方が今の自分にはお似合いだとし、粛々とランニングを続けた。下り坂では何度も転びそうになったが、なんとか踏み止まれた。

 いつも通り30分ほど走ってから寮の方に戻ると、門から白い傘を差したアナベルが一人で出てきた。数日前からマイケルが軍の用事でS=W=Eに戻っており、今日の朝の便で戻ってくるため、その迎えに行くためだろうとリーナは見た。

 リーナはそれと話す気は毛頭なかったために、それが彼女に気づかぬうちに去ろうと考えた。しかし、偶然にもリーナはアナベルと目を合わせてしまった。リーナは慌てて逸らすも、アナベルの方が駆け足でリーナに近づいてきた。

 

「リーナちゃん。おはよう」

 

 アナベルは普段通りの緩い調子で話しかけてくる。リーナはそれから少しだけ目を逸らして、ぶっきらぼうに答えた。

 

「おはようございます」

 

「うーん、最近のリーナちゃん、元気無いよね。ここ数ヶ月くらい私とも話してないし、なんだか辛そうだし。もしかして、カール君とうまくいってないとか」

 

 アナベルが心配そうにそう訊いた瞬間、リーナの堪忍袋の尾は一瞬で切れた。アナベルがカールの死を知らないことを考慮しても、未だ癒えぬ古傷を更に傷つけるようなその所業を、リーナは許すことができなかった。そして、アンドロイドであるアナベルがリーナの心に踏み込むことが、一番我慢ならなかった。

 

「あなたに、あなたにだけは、そんなこと言う資格はありません! 高々機械が、私を分かったように言うなど、侮辱するにもほどがあります!」

 

 リーナが、アナベルに対して、それがアンドロイドであることに対する嫌悪をぶつけるのは、これが初めてのことだった。それでか、アナベルはショックを受けたように見受けられたものの、呆気にとられているような風にも見えた。しかし、リーナがそれを気にすることはなかった。激昂しきった彼女に、自制心などというものは既になく、ただ感情を吐露するだけだ。

 

「大体、なんで機械のくせに、愛する人と一緒なんですか! どうして私の愛する人は死んだのに、あなたの愛する人は生きているんですか!? 機械のあなたが幸せで、人間の私が不幸だなんて、絶対、絶対に間違ってます!」

 

 気が付けば、リーナの両の瞳からは滝のように涙が流れていた。リーナは、ただただ悔しかった。機械に、知性を持つものとしての幸せという点で敗北したことが、狂いそうになるくらいにリーナの心を荒らし回った。アナベルの一挙手一投足が、全てリーナに対する挑発に思えてならなかった。

 

「リーナちゃん……」

 

 アナベルは、呆然と突っ立っているだけだった。しかし、リーナを見つめるその目には、明らかな哀れみが見て取れた。それを感じ取ったリーナは、瞬く間に心を憎悪で染め上げた。

 

「何ですかその目は。機械のくせに、人間の私に哀れみをかけるんですか。ふざけるのも大概にしてください」

 

「ち、違う。違うわ。そんなつもりじゃないの」

 

「もう喋らないでください。たとえあなたの人工知能に私を貶める意図が無いとしても、あなたがアンドロイドであるというだけで、あなたの言動全てが私への挑発であり、攻撃であり、侮蔑なんです。今ここであなたを百回八つ裂きにしても飽きませんが、そうしては兄上が悲しみますから、今は何もしません。では、失礼します。これ以降金輪際、私に話しかけないでください」

 

 リーナは一方的に吐き捨てると、唖然として焦点の定まらぬ虚ろな目で佇むアナベルを尻目に、寮の自室へ向かう。アナベルに言いたかったことをほぼほぼ言えたので、少しリーナの心は晴れ晴れとしていた。鼻歌まで自然に出てきた。弾みがちな調子で自室に向かっていると、途中でメルティが向かい側から近づいてくるのが見えた。この数ヶ月間、リーナとメルティは業務的なこと以外の会話は交わさなかった。リーナの方が、今の自分の全てをメルティに晒すことに対して気が引けて、避けていたのだった。この時もリーナは彼女を避けようとしたが、彼女の方から早足でリーナとの距離を詰めてきた。

 

「リーナ、今から君の部屋に行っていいかい? 重大な話があるんだ」

 

「重大? どんな内容ですか?」

 

 いきなり真剣な表情で訊くメルティに対し、リーナは数ヶ月ほど殆ど話さなかったこともあって、訝しんで尋ねる。するとメルティは少し辺りを見回し、指で空にEと書いた。それでリーナは、EGMAに関する話題だと察知し、彼女は先ほどまでの浮ついた気を引き締める。

 

「分かりました。部屋にはジュリアもいますが、どうします?」

 

「ジュリアさんなら聞かれてもいいかな。秘密、守れる人でしょ」

 

「はい」

 

「じゃあ決まりだ。早く行こう」

 

 メルティは焦りを滲ませた調子で言った。それから二人とも小走りで部屋に戻った。リーナはメルティを先に行かせ、自身は合羽を玄関のハンガーにかけてからリビングに入る。

 

「おかえり、リーナ。メルティもいらっしゃい。良かったらメルティのご飯も作るけど、どう?」

 

「ああ、大丈夫ですジュリアさん。もう食べてきましたから。それよりも、私とリーナはこれから重大な話をします。聞いたこと、誰にも漏らすことがないようにお願いします」

 

 気を利かせるジュリアに対し、メルティは失礼とも取れるような態度で捲し立てた。彼女の焦りを悟ったのか、ジュリアは了承して寝室の方に姿を消し、リビングにはメルティとリーナの二人だけになった。テーブルを挟んで座り、二人で向かい合ったところで、メルティが口を開く。

 

「一応確認するけど、この部屋が盗聴されることはないね?」

 

「はい。その辺りは大丈夫です」

 

「じゃ、早速話に入るけど、今朝未明にS=W=E軍長官が亡くなった。公式発表は明日の午前十時。公式には、心臓発作による突然死、ということで発表するみたい」

 

「そのように言うということは、真の死因があるんですね」

 

 リーナの問いに、メルティは大きく頷き、ひとつの記録端末を取り出し、テーブルに置いた。

 

「実は、長官は反EGMAの立場でね。ずっと隠してたんだけど、EGMAに気付かれたっぽいのが数ヶ月前。で、この数ヶ月で、長官が完全にそっち側ってことを確信したEGMAが、EGMAのシンパに暗殺させたのが今朝未明。このメモリは長官宅の監視カメラの映像を数ヶ月前からずっと抜いてきたものを記録したもの。リアルタイムでずっと抜いたものだから、EGMAの改竄がなされていない生の映像だよ。今見られるのはもうとっくにEGMAの手にかかっちゃってるからね」

 

 淡々と述べるメルティに対し、リーナは何とも言えない困惑を抱いた。リーナに何をさせたいのか、不透明であったからだ。彼女がいくら真実を話そうと、エースとはいえただの一兵卒であるリーナにはどうすることもできない。このリーナの心情を見透かしたのか、彼女はゆっくりとリーナに近付き、その肩を強く叩いた。

 

「一番の権力者を消された上、後釜にはアンドロイドが入ってくる。今の私たちでクーデターを起こしてEGMAを倒しても、民衆が着いてきてくれるような知名度があって人徳のある人がいない以上、すぐに政治が崩壊するのは目に見えてる。だから、軍の中じゃ既に若いエースってことで有名な君の名を、今のうちから一般人にも売らせてもらいたい」

 

 その結びの言葉を聞いたとき、リーナは拍子抜けしてしまった。メルティが行動を起こそうとしていることは少し前から察知していて、もっと複雑で面倒な頼みごとをされると予期していただけに、肩透かしを食らったような感じであった。

 

「私の名前で政治をする基盤を作りたいわけですね。そのくらいなら、お安い御用ですよ」

 

「やけに軽く言うね」

 

 メルティは、リーナから手を離して大きく溜息をついた。彼女は椅子に戻ると、体を背けながら、呆れた風で続きを言った。

 

「今の君に全然心の余裕が無いのは話さなくても分かるし、公式に君の名を売るのはEGMAの動き的には不可能だろうから、噂を立てるしかない。でも最近の君は評判が良いわけでもないから、ジャッジメンティスを使うときはもちろん、他の戦いも人の記憶に残るような、派手でいい意味で話のネタになりやすいものにしなきゃいけない」

 

 メルティは口早にそこまで言うと、一旦一息をついた。そして、彼女はリーナを鋭い目で見つめ直し、再び口を開く。

 

「人に目くじらを立てられないことを意識しながら、自分がいい意味で有名になれるように動く。今の病んだ君が、そんな面倒なことをやり遂げられる?」

 

 彼女は、言い終えてからもリーナを見つめ続けた。クーデター以後も人間の治世が続くかが掛かっている以上、確信のないことは行えないのだろう。リーナはそれを理解した上で、ひとつ深呼吸をして、座り直して姿勢を正してから、落ち着いた口調で答えた。

 

「大丈夫ですよ。確かに、今の私はまともな精神状態ではありません。これは認めます。でも、丁度、生きるための目標を欲していたところですから。機械が人間を冒涜しない、人間による人間のための治世は私の夢です。ですから、反EGMAのクーデターに命を懸ける。これを目標とし、支えとすれば、メルティの頼みはこなせます。任せてください」

 

 リーナが話している間も話し終えた後も、メルティはずっとその目を凝視していた。やがてふとメルティは目を伏せ、微妙にリーナから視線を逸らした。

 

「正直、まだ完全に信用できないけど、君以外に若くてルックス良くて名前がそこそこ知れ渡ってるエースが、反EGMA派にいないからね。やると言った以上、しっかり頼むよ」

 

「その、若くてルックスが良いから私を選んだんですか?」

 

「そりゃ当たり前じゃん。もちろんパイロットとしての腕も買ってるけど、むさいおっさんよりも若くて見た目がかわいい君みたいな人を広告塔にした方が、受けがいいに決まってる」

 

 メルティは、小馬鹿にするような口調で説明した。リーナはそれに対してムッとなるが、納得できなかったわけではないので、その気持ちを心の奥に押し込んだ。

 

「あと、このタイミングで長官を暗殺したってことは、近々EGMAが何かをするのはほぼ間違いないだろうね。どんな動きに出るか全く分かんないから、気をつけてね」

 

「分かりました。心に留めておきます」

 

 リーナは気持ちを切り替えて、強く頷いてみせた。それを見たメルティはもう用が済んだとのことで、立ち上がってそのまま玄関に向かう。リーナはその様子を見て、まだ肝心なことを聞いていないことに気がつき、彼女を呼び止めた。

 

「ああ、待ってくださいメルティ。長官を暗殺したのは、誰なんですか? 私の知ってる人ですか?」

 

「ごめん、そこまでは分からないんだ。犯人は監視カメラの死角に入られるように位置を工夫してたから。殺しのやり口を見るに、一発で狙撃したんじゃなくて何発も近くから撃ってるから、犯人はアンドロイドじゃなくて、人間だなって思っただけ。なんでEGMAがわざわざ狙撃用アンドロイドじゃなくて、人間を使ったのかは分からないけど。用件はそれだけ?」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「ん。じゃあ、ばいばい」

 

 メルティは手を振りながら、ドアの向こうに消えた。彼女が去った後、リーナはそっと腕を捲った。露わになるのは、夥しい数の、嫌悪感さえ覚える自傷の痕であった。

 

「こんな私でも、大丈夫。きっとやれる。カールとアイリスはG・Sに殉じた。私も軍人の端くれ。この体、命は、S=W=Eのために」

 

 リーナは傷痕を手で押さえながら、強く自分に言い聞かせる。この時点で、リーナはカールを喪った傷を癒すことを殆ど諦めていた。ジュリアたちが何をしても、その傷自体が癒えることは全くなかった。ならば、癒すのではなく、その傷と共に生きようと考えたのだった。メルティの申し出を快諾したのも、そう考えてのことだ。

 

「カールとアイリスと私で奏でるセレナーデの続きを夢に見ながら、人間の世をS=W=Eに作る。心の中で渦巻く声はカールの声だけでいい。カールへの想いを抱いたままこの人生を完遂できれば、私は本望だ」

 

 リーナは自己暗示するように呟く。前腕の傷は増えるだろうし、股間の奥が疼くのも、一生無くなることは無いだろう。しかしそれでも、それらと共に生きると誓った。たとえ傷が腐ろうと、後悔はしない——リーナは、ジャージの袖を元に戻し、チョーカーに手を触れた。

 

        ***

 

 ジュリアは、大きなため息をついた。また、リーナが自分の与り知らぬところで一歩進んだ。自分はリーナの一番の友のはずなのに、自分はリーナの前進に何も役立っていない。ジュリアはそのことが憾めしくてたまらず、また、素直にリーナの前進に喜べない自分が嫌になった。ジュリアは部屋の隅にうずくまり、人知れず涙を流した。

 

「助けて、アルフレッドさん」

 

 ジュリアが絞り出した掠れた声は、すぐに虚空に霧散した。




第1部「かなしみのセレナーデ」完、ということであとがきです。
次回から第2部「エゴイストのカプリッチョ」が始まるわけですが、実はこの第1部と第2部は元々別の作品として考えていたのを統合したものです。というわけなので、次回から作品の雰囲気が少し変わります。第1部ではリーナの悲恋を中心に物語を展開したわけですが、第2部ではリーナの恋愛要素は全くありません。第2部では、私の解釈におけるアンジュ・ヴィエルジュの世界観の根幹の末端に触れます。全部じゃありません。全容は次回作で明かしますので乞うご期待。
さて、第1部書き終わって思ったのは、ちょっと展開が雑だったかな、ということです。プロット段階ではそうは思わなかったのですが、振り返ったらそんな感じでした。とはいえ手直しするのもかなり面倒なのでこのまま第2部に突入します。
この作品オリジナルのキャラ方面でいえば、カールが少し残念だったかなと。「乱暴者だけど気のいい頼れる男」として書きはじめたんですが、いつのまにか乱暴者の部分が欠落してしまいました。秀ほど個性ナシナシくんになったわけではないのですが、やっぱり悔しいものはあります。この作品のアイリスはゲストみたいなものなので、ヒロインとしての真骨頂は次回作で。アルフレッドとマイケル、アナベルは第2部までやらないと語らないのでここではパスします。
原作から持ってきたキャラに関しては、殆ど予定通りです。ジュリアに関してはTCG第2章で登場したっきり全く公式で触れられないので弄りまくって別人みたいになっちゃってますがそこはご愛嬌ということで。あと、メルティがシノンの作成者だったり、ジュリアがリーナの友達だったり、ランがブルーフォールいけいけどんどん派だったり、ナイアが元特務隊という設定は私の捏造ですので鵜呑みにしないようにお願いします。
では今回はこの辺りで。次回からもお楽しみに!

追記
ここまでの話でもう十分だという方は、リーナが妊娠したということにしてください。そうなったらリーナの心がぐちゃぐちゃになることもなく第2部にも繋がらないのです。逆にいえば、リーナが妊娠できなかったことが、第2部のひとつのキーとなっています。
また、私が勝手に第1部のテーマ曲とした物で、ルルティアさんのスピネル、という曲があります。第1部の話を思い出しながら聴くといいかもしれません。


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エゴイストのカプリッチョ
破滅への秒読み


 五月上旬、衣替えも間近という季節の夕暮れ。放課後に入ると、各人はそれぞれ教室を出て行く。リーナも、この二年次にクラスメイトとなったリーリヤ、ルルーナと別れて指定された教室に向かう。

 リーナたちが進級したこの四月と五月、反EGMA派もEGMAにも、動きは全くなかった。四月の頭あたりでは、新入生歓迎の余興でリーナの名前を覚えてもらうために、ジュリアの魔神鎧とリーナのL型改で大掛かりなエキシビションマッチを行ったりしたが、そういった活動の縮小は余儀なくされた。存在が予言されていたウロボロスが、ついに姿を現したことが原因だった。

 それは、生物なのか、知性があるのか、何で出来ているのか、そもそも目的は何なのか。その全てが不明である。捕獲を試みたこともあるが、ウロボロスの自爆によりその悉くが失敗に終わった。今ウロボロスについて分かっていることは、人ほどの大きさから数メートルほどの大きさで蛇、または人間のような外観の小型種、全長が5~10メートル程で、ペニスに酷似したシルエットで全身が黒い大型種のふたつに大別できて、それらは何故か青蘭島を狙って攻めてくるということ、精神を乗っ取ることが可能なこと、そして対人兵器または戦闘系の異能による対処が可能、ということくらいだ。

 学園生徒がウロボロスに精神を操作された際、彼女らはみな各世界の世界水晶を狙った。それらは阻止されたものの、これによりEGMAの警戒の姿勢が強まってしまったのは、リーナらにとって不利益であった。

 他には、今のところ、ウロボロスがαドライバーを氷漬けにしたことを除けば、それらは全て青蘭島の沿岸で撃退できている。移動速度がそこまで早くないので、出現を感知してから出撃しても間に合うのだ。そしてその迎撃にあたるのは青蘭学園の、高等部以上に在籍するプログレスと、残った一部のαドライバーである。青蘭島に駐屯している軍隊も戦闘を行うが、あくまで主力はその両者である。その理由は発表されていない。推測される理由には、ウロボロスが青蘭島しか攻撃対象にしていないことや、αドライバーがプログレスのダメージを肩代わりできることなどが挙げられているが、どれも納得し難いものである。ウロボロスと戦うか否かは志願制なのだが、その数は志願できる生徒全体の三割ほどしかいないことは、ろくに説明がなされないことへの不信を物語っているといえよう。

 今回の作戦では、今夜、ウロボロスの発生源のひとつに殴り込みをかける。リーナたちS=W=E軍第八機動小隊の仕事は、突入部隊がウロボロスの巣に侵入するまでの護衛と援護、その後ウロボロスが外に出てきた場合、それを撃破することである。その詳細は、リーナがこれから聞きに行くブリーフィングで説明される。

 

「あの、リーナさん」

 

 道中でリーナの名を呼ぶのはシノンであった。それだけで、リーナは胸を掻き毟りたくなるくらいの激情を覚えた。春休みとこの二ヶ月間で、リーナのアンドロイドに対する悪感情はかなり肥大化していた。しかしその感情を表に出せば、今の自分の役目であるいい意味で名前を売る、ということが台無しになるのは明白だ。それ故に人目のつくところではアンドロイドと関わるのを極力避け、また必死に感情を抑え込んでいたのだが、今目に見える範囲には、リーナとシノンしかいなかった。人気の無いことに対する安心感で、リーナは自制することを忘れてしまっていた。それで、ありったけの憎しみを込め、シノンの顔を見ずに歩きながら言う。

 

「話しかけないでください。迷惑です」

 

「でも、最近のリーナさんはなんだか無理してらっしゃるようで、とても心配です。私にできることなら何でもしますわ。もしよろしければ――」

 

「話しかけるなと言ったでしょう! 何でもするというなら、私に関わらないでくださいッ!」

 

 あしらったにも関わらず食い付いてきたシノンに、リーナは激昂し、立ち止まって振り向き、明王の如き顔で怒鳴りつけた。それにシノンは怯み、歩を止めて萎縮してしまった。それを清涼剤に、いくらかいい気になったリーナが再び歩き始めると、階段の方にチームメンバーの四人と一緒のナイアが見えた。

 

「ナイア!」

 

 リーナは思わず駆け寄って、その名を叫んだ。ナイアは四人に断りを入れてから塊から外れ、リーナの方に近づいてきた。服は特務隊の制服ではなく、一般兵の制服を大胆に着崩したものとなっている。本人からリーナが聞いたところによると、三月末でナイア自身の希望で特務隊から降りて、階級の降格処分を受けた上で予備役に編入されたらしい。予備役であれば本国に大事がない限りは一般部隊と作戦行動を共にすることはないため、今の彼女のように、対ウロボロス戦でも他の一般生徒とチームを組むことができる。

 

「よおリーナ。これからブリーフィングか?」

 

「はい。ナイアのブリーフィングはもう終わったんですね」

 

「ああ。今夜は援護、よろしく頼むぜ」

 

 ナイアはそう言いながら、リーナの肩を叩く。ナイアとそのチーム、そして美海ら生徒会と三年生の実技成績の上位層が突入部隊のメンバーである。一年生であるナイアらのチームが突入部隊に含まれるのには、三年生の実力者をウロボロスの精神支配から救った功績からなのだが、それでも「一年生のくせに生意気だ」という声は絶えない。リーナも同じく、少なからず不満を持っているが、それを本人に漏らすのは気が引けるのと、ナイアに関してはその実力を認めているため、それを表に出すことはない。

 

「任せてください。でも、ナイアほどの実力者なら私たちの助力なんていらないでしょう?」

 

「はっはっは。こそばゆいこと言ってくれるでないの。ま、あたし一人ならリーナの言う通りだな。でも他の青二才連中もいるから、そいつらのお守りはよろしくな」

 

 ナイアは大変機嫌が良さそうに胸を張った。しかし、ナイアがこのような面を見せるのは、今となっては統合軍の同僚と、他にはリーナとジュリアくらいなものとなってしまった。他の人と接する時は無気力で怠惰な人柄しか見せないと聞いた時は、リーナは心底驚いたものだった。しかしそういった面をリーナが見ることはないため、以前と変わらぬ付き合いを気兼ねなく続けられる。

 

「いいんですか。チームメンバーを青二才だなんて」

 

 リーナは冗談めかして訊いた。対してナイアは、頭の後ろに手を組み、壁にもたれかかってから答える。

 

「いくら素の能力が高くて闇堕ちした先輩方を助けてきたとはいえ、命懸けの戦いをまだ二ヶ月くらいしかこなしてないからな。元特務隊少佐のあたしからしたら、経験不足のヒヨッコさ」

 

「新兵で二ヶ月も生きられたら、大したものじゃないですか。ベテランとは言えませんがヒヨッコとも言えないと思いますよ」

 

「相手が人間じゃないからな。ウロボロスなんか何万匹ぶっ飛ばそうが人を闇堕ちから助けようが何の自慢にもなんねーよ。国益のために体張るのが軍人の本分だがよ、理性で人を殺せるのも軍人だよ。ウロボロスを討伐すれば目の前の危機は去るからやらなきゃならんのは分かるけどよ、ウロボロスを殺すにゃ覚悟は要らねえから、その辺の使命感がちょっと強い子供に重火器持たせるだけで対処できる。だからな、ウロボロスをどんだけ狩ってもいまいちパッとしないんだ」

 

 窓から差し込む夕日が、ナイアに陰を落とす。満ち足りぬ表情を見せる彼女に、リーナはかける言葉を見つけられなかった。リーナも軍人であるがゆえに彼女の言い分がわかる一方で、リーナが売名のネタにしていることのひとつにウロボロスの討伐スコアもあるため、おいそれと肯定することができなかった。

 

「つかリーナ、あたしと立ち話なんかして大丈夫か? ブリーフィング、これからなんだろ?」

 

 考え込むリーナに、ナイアが見兼ねたように声をかける。言われてリーナが時計を見てみると、集合時刻の数分前にまでなっていた。

 

「あっ、いけないいけない。すみませんナイア。これで失礼します!」

 

 リーナは大慌てで、ナイアの返事も聞かずに廊下を走り出した。今の自分は、S=W=Eの英雄となることを求められた存在だ。些細なことでも、名前に傷がついたら困る。リーナは誰かに見られていないかを意識しながら、超特急でブリーフィングの教室に向かうのだった。

 

        ***

 

 ナイアは廊下を爆走していくリーナを見届けると、彼女がリーナと話している間、ずっと柱の影に隠れていた人影の方を見やった。

 

「リーナは行ったから、もう出てきていいんじゃないか?」

 

 そちらに声をかけて出てきたのは、やはりシノンであった。彼女の表情は、分かりやすいくらい明らかに沈んでいた。ナイアは彼女のことを知らぬわけではないが、話したことはなかった。しかし、リーナと話している間、彼女の気配が気になって仕方がなかったので、素の自分を出して話しかけることにしたのだった。

 

「詳しくは言えないがな、最近のリーナがああなっちまったのには深い訳があるんだ。勘弁してやってくれ」

 

「そんなことは分かっていますわ。でも放っておけませんの」

 

「善意の押し付けはよしたほうがいいぜ。あいつのアンドロイドに対する憎しみの苛烈さは分かるだろ。あんたのやることは神経を逆撫でするだけだ。分かってないことはないだろうが、リーナはどんどん不安定になるし、あんたの心配の種も増える。いいことなんて何もない」

 

 強情を張るシノンを、ナイアはいくらか厳しい口調で諭す。シノンは見て取れるくらいに明らかな苛立ちを表情に滲ませていたが、声は発さなかった。

 

「じゃあ、あたしはもう行くからな」

 

 居心地が悪くなって、ナイアはそう言って蒼月紗夜らチームメンバーの後を追って、そこから離れた。

 

「私が人間でしたら、よかったのに」

 

 数歩歩いてから微かに聞こえたそのシノンの呟きが、ナイアの心に引っかかった。ナイアはそこではその言葉に反応を示さずに、階段を降り始めた。何段か降りてから、シノンが見ていないことを確認して、大きくため息をついた。

 

「ったく、そう言いたい気持ちもわからんでもないけど、口にはしてくれるなよな。気分が悪い」

 

 舌打ちを交えて悪態を吐くと、ナイアはひとつ下の踊り場で、紗夜ら四人が溜まっているのを見つけた。それで苛立っていた意識を切り替えて、彼女らに声をかけた。

 

「お、待ってたのか」

 

「ナイアだけ放って、私たちだけどこか行くわけにもいかないよ。特に今夜は大事な作戦があるしね」

 

「そうそう、紗夜の言う通りだよ。そういえばさ、さっきナイアに声をかけた人ってリーナ先輩だよね。あのでっかいロボットに乗ってる」

 

 紗夜に続いて口を開いたのは、淡い桃色の髪を持つ赤の服を着ているT・R・A(テラ・ルビリ・アウロラ)の天使、エルエルだ。

 

「ナイアがリーナ先輩と友だちだったなんて知らなかったぁ。ね、今度私たちにも紹介してよ」

 

 エルエルは能天気な様子でナイアに言う。ナイアは悩んだ。エルエルのことなので、チーム全員とリーナで親交を結ぼうなどと思っているに違いない。そうなると、チームメンバーの一人で、オッドアイのアンドロイドのステラの存在がリーナの心を刺激することになる。そう考えているうちに、ナイアの視線は自然とステラの方に向いていた。それを見て、D・Eの吸血鬼でチームメンバーのアルマリアが、何か悟ったように唸った。

 

「リーナ先輩、あっち側の人ですのね」

 

「あっち側?」

 

 紗夜とステラが納得した様子を見せる一方で、エルエルは本気でわからないようで、首を傾げていた。その様に呆れつつも、ナイアは簡単に説明する。

 

「アンドロイドの存在を敵視してるってことだ。S=W=Eにはそういう人もそこそこいるんだよ」

 

「へえ。S=W=Eではアンドロイドと人間はみんな仲良しだと思ってたけど、違うんだね。学園じゃみんな分け隔てなく接してる感じだしさ」

 

「アンドロイドを敵視してる人はアンドロイドと関わろうとしないし、この学園だと少数派だから目立たないだけ。S=W=Eの軍人には結構多いみたいだけど」

 

 ステラが淡々と説くが、エルエルはまだ微妙に納得がいかない様子であった。

 

「ちゃんと話し合えば分かってくれるんじゃない?」

 

「そんな単純な話だったら、そもそもそういう人たちが出てくることもないと思うけど」

 

 エルエルの言葉に、紗夜がボソッと突っ込む。それでエルエルは言葉を詰まらせてしまった。ナイアはやれやれとため息をつき、紗夜の言葉を捕捉する。

 

「あの人らはアンドロイドが人間並みの情緒を持ってることに一番不満を持っているからな。話し合ったらむしろ逆効果だ」

 

「うーん、どうにもならなさそうだね。難しい!」

 

 エルエルは完全に根を上げてしまったが、彼女自身それが悔しいようで、頬を膨らませていた。

 

「そういうわけですから、リーナ先輩と私たちが友だちになるのはやめといた方が良さそうですわね。どうしてもステラとの関係が生まれちゃいますし」

 

「そうそう。この話もやめにしとこう。大事な作戦の前に景気を悪くしたくないし」

 

 アルマリアに続いて、ナイアはその場の全員に促した。皆ナイアの言葉に同意して、作戦前の最後の食事に向かう。その四人の背中が、ナイアにはどうにも貧相なものに見えてしまっていた。

 

        ***

 

「本作戦の我々の任務は、皆知っての通り突入部隊の護衛と援護だ。我々は、時刻一九三○に突入部隊に先行して出撃、進行ルート上、及び構造物の外の大型種を殲滅し、道を作る。予定では二一○○までに突入が終了する。それからは、ウロボロスが新たに出現した場合にはこれを各個撃破。なお、小型種の掃討は統合軍第一大隊所属第一中隊と第六学徒隊が当たる。また、突入部隊が全滅、又は時刻が二四○○を過ぎても構造物から脱出しなかった場合は作戦は失敗と見なし、我々は戦域から離脱する」

 

 明かりを落とした教室で、戦域マップをスクリーンに映し、ポインタで色々と指しながらアルフレッドが説明していく。統合軍の第一中隊とはリーリヤとルルーナが所属している部隊で、第六学徒隊には夏菜やシノンが所属している。

 この第八機動小隊のブリーフィングにはジュリアも参加している。彼女がリーナと一緒に居たがったため、アルフレッドに頼み込んで、対ウロボロス戦では特別に参加させて貰ったのであった。リーナのことを抜きにしてもジュリアは非常に高い実力を持っているため、彼女の参加はマイケルや整備班の面々にも受け入れられた。

 

「この作戦の目的には、発生源のひとつの根絶と共に、構造物の調査も含まれている。事前の偵察では内部構造を把握することはできなかった。我々が突入しないのはそういうことだ。くれぐれも、勝手な真似は慎むように」

 

 アルフレッドは、隊員一人一人の顔を順に見ながら、釘をさすように言った。その中で、彼がリーナを見る時間は、他の人よりも若干長いように、ジュリアには思えた。

 

「概要は以上だ。質問が無ければこれで解散し、時刻一九○○までに各自で食事を済ませ、格納庫に集合だ。質問のある者は?」

 

 アルフレッドが尋ねるが、挙手する者は誰もいない。そのようなわけで、その場は一旦解散ということになった。アルフレッドが退出した後、リーナはそれを待ちかねていたように大きく伸びをした。

 

「ふーっ。いよいよですね。私たちが突入できないのは残念ですが、その分雑魚相手に大暴れしましょう」

 

「いい意気込みだな、リーナ。その調子だぜ」

 

 嬉しそうに言ったリーナの肩を、マイケルが軽く叩いた。彼は今やウロボロスに凍結されなかった貴重なαドライバーとして、各チームから引く手数多となっている。その中で、軍人としての立場ゆえとはいえ、ずっと第八機動小隊に居てくれていることは、彼とリンクするリーナとジュリアには心強いことであった。しかし、彼の妻はアナベルである。リーナがそれを気にする様子は見受けられないが、ジュリアにとっては、いつか大変なことにならないかと、気が気でなかった。

 ウロボロスとの戦いが始まってから、リーナはそれ以前とは打って変わって明るい表情を見せることが多くなった。夜な夜なしていた自傷行為や自慰も完全にしなくなったわけではないが、頻度は減った。どうやらウロボロスを蹴散らすことがいいストレス発散になっているようで、それと戦うことに関しては戦闘狂かと思えるくらいの様子も、戦闘中にはよく見受けられる。何はともあれ、リーナの精神が安定してきているのでジュリアの心労も減って、カールが死ぬ前のように、素で余裕に満ちた笑みを浮かべられるようになってきていた。

 

(まあ、リーナが元気なら問題ないかしらね。そんなに不健全なストレス発散法でもないし)

 

「ジュリア、早く食堂に行きましょう。リーリヤとルルーナも待っていますし」

 

 考え込んでいたジュリアの手を、リーナは引っ張った。夜の出撃の時はご飯を作る暇が無いため、そのような日は学食で食事を取っており、また今日は出撃がリーリヤ、ルルーナと同じ時刻なので、一緒に食べよう、と約束してあったのだった。

 

「急かさなくても分かってるわよ。せっかちさんなんだから、全く」

 

 ジュリアは目を細めてそう言った。そうして立って、マイケルに軽く会釈をしてからリーナと共に教室を出て、食堂に行った。

 

「おーい、こっちこっち」

 

 食堂に入るや否や、真ん中あたりのテーブルに座ったルルーナが、大きめの声で呼んだ。夕飯にはまだ早い時間のため、人はまばらだった。それでジュリアとリーナは早足でそちらに向かうと、隣り合うリーリヤとルルーナに向かい合うように、並んで座った。

 

「じゃ、揃ったことですし食券買いましょう」

 

 リーリヤがそう言いつつポケットティッシュを椅子の上に置いて立ち上がった。それに追随して、各々席に何かしらの私物を置いて、四人揃って食券の自動販売機に向かう。

 

「ウロボロスの撃破スコア、競いたいもんだけどさ、掃討する種別が私らとリーナたちじゃ違うのが嫌だねー。純粋な競争ができなくてさ」

 

 歩き始めのところで、ルルーナがそのようなことを言い出した。その発言に、リーリヤは呆れた様子でため息をついた。

 

「何言ってるんですか全く。意思のない敵とやりあって何が楽しいんだか」

 

「なんか話が微妙にズレてるわね。あと、その言い方だとリーリヤは人殺しが楽しいっていう風にも聞こえるわよ」

 

 ジュリアがリーリヤの言葉に突っ込みを入れると、彼女は言葉を詰まらせてしまった。少しの間言葉を探して唸っていたが、やがていい弁解の言葉が見つかったようで、やや興奮した様子で話す。

 

「人殺しが楽しいなんてことはないですよ。ウロボロスは個体ごとの強さがどれも変わらなくて単純な作業をしているみたいでつまらないと言っているのです」

 

「人相手なら、個人個人で強さが全然違うものね。それで一筋縄じゃいかないから色々策を巡らせて、最後に殺すのが楽しいのね」

 

「だぁぁぁぁああ! そういうこと言ってませんてば!」

 

 ジュリアのからかいに、リーリヤは大声を出した。その彼女に対し、ジュリアは唇に立てた人差し指をつけて、小声で告げた。

 

「しーっ。声が大きいわ。ここは公共の場よ。静かになさい」

 

「誰がそうさせてると思ってんですかもう!」

 

「いやー、完全に手玉に取られてるね、リーリヤ」

 

 ジュリアに弄ばれるリーリヤを眺めながら、ルルーナは呟いた。その言葉はリーリヤに届いていたらしく、彼女はますます眉をひそめた。

 

「その辺でやめといたほうがいいですよ、リーリヤ。早く引かないとジュリアが満足するまでからかわれますから。あともう食券の券売機の前ですし。早く買っちゃいましょう」

 

 見兼ねたリーナは、爆発寸前のリーリヤを諌める。彼女は不服そうにジュリアからそっぽを向くと、食券を買ってそそくさとカウンターの方に行ってしまった。

 

「思ったよりあの子、からかわれるのに慣れてないのね。昔のリーナみたいだわ」

 

 ジュリアは食券を買いつつ軽い調子でそのようなことを言った。彼女に続いてルルーナも食券を選びながら、苦笑して答える。

 

「私はリーリヤにじゃれつきはするけどからかいはしないからねー。統合軍じゃエースとして尊敬される立場だし、生徒の多くとは距離置かれてるから、案外からかわれる機会がないんだよね」

 

「へー、そうなんですね。後でジュリアと接する時のいろはでも教えてあげましょうかね」

 

 リーナはリーリヤの方を一瞥して呟いた。それから三人は、リーリヤの話題で軽く盛り上がりながらカウンターに食券を出して、取って置いた席に戻った。あまり人がいないということもあり、料理はすぐに届いた。ジュリアとリーナはとんかつ定食で、ルルーナがカルボナーラの大盛り、リーリヤがきつねうどんの大盛りであった。

 

「そういえばアルドラが氷漬けにされてから一ヶ月くらい経ちますけど、まだプログレスが主力というのも、変な話ですよね。私たちやリーナは生徒とはいえ軍人ですから全然問題ないですけど、なんだかんだ言って軍人じゃない生徒の出撃回数の方が、地球の駐留軍のよりも多いですし」

 

 うどんを一口すすってから、リーリヤがそのようなことを言い出した。ルルーナもカルボナーラを頬張りつつ、相槌を打ってから言う。

 

「そう言われてみればそうだね。あと、アルドラがいないならうちのエンハンストもコンバーツも無償で貸与するって統合軍も言ってんのに、学園側が拒否るのも不思議だよね」

 

 彼女の言うエンハンストとはαドライバーが居なくても居る時並みにエクシードを強化できる装置で、コンバーツとは受けたダメージをエネルギーに変換する装置である。このふたつの装置のおかげで統合軍はαドライバーが凍結されても、大した問題にならず戦えているのであった。

 二人の言うことは、ジュリアも気になっていたことではあった。青蘭学園の動きには色々と不可解なものが多い。志願制とはいえ、地球の駐留軍を差し置いて生徒を優先的に戦闘に駆り出すのは、学校組織としては正気の沙汰ではない。

 

「そうね。あと、うちの司令官がアウロラってのも納得いかないかしら。T・R・Aの最高権力者としての記憶を取り戻したとかなんとか言っても、現場で戦場の指揮を取ったことはあまり無いらしいし」

 

「確かに、統合軍には任せられないとしても、てっきりS=W=E軍で指揮系統を固めてくると思ってましたから、私もその気持ちは分かります。それどころか、指揮官ではなくミハイル博士が入りましたからね。何を意図しているのか全然分かりません」

 

 ジュリアの言葉に、リーナは箸を止めて続けた。視線を下に落とす彼女を一瞥し、ジュリアは焦点の定まらぬ目で、ぼんやりと呟く。

 

「もしかしたら、私たちが想像もできないような思惑が、裏にあるのかしらねえ」

 

 ジュリアはとんかつを一切れ、口に入れて咀嚼する。そのさくさくという音だけが、ジュリアの頭に響いた。

 

        ***

 

 いよいよ、時刻は19時となった。リーナたちはジュリアを除いてパイロットスーツを着込み、アルフレッドの前に整列している。アルフレッドは咳払いをして、大きく息を吸い込んで訓示をする。

 

「よいか。諸君らの今日の働きが、明日からの青蘭島、ひいては我らが祖国の運命を決定づける。作戦が成功すれば我らに多大な利益をもたらすことは間違いないが、失敗すれば地獄だ。粉骨砕身、命の限りに作戦に尽くせ!」

 

 リーナたちも、アルフレッドに負けじと声を張り上げて「了解!」と返した。アルフレッドはそれを聞き届けると、一瞬だけ、微妙に目尻を下げたが、すぐに戻して再び大声を発する。

 

「いい威勢だ。では、各員配置につけ!」

 

 リーナたちは先程と同じほどの声で応答し、各々の機体に乗り込む。リーナの機体は、碧き巨神との戦いで大破したL型を修復ついでに大幅にパワーアップを施した、ジャッジメンティス(リーナカスタム)改だ。L型よりもさらに出力を上げたスラスターに加え、左腕は変わらないが右腕は前腕部が差し替えられており、パイルバンカーを廃した代わりに、ドリルに変形できる機構が組み込まれており、手の平から出すエネルギー球の要領で、エネルギーをそのドリルに纏わせることもできる。また、OSは引き続きメルティオリジナルの、EGMAのバックアップを必要としないものを使っている。更に、頭部のメインカメラにはカールから譲り受けた義眼が取り付けられており、これにより物をカメラ越しに透過して見ることもできる。また、今回の作戦に限り、爆弾を投下するための爆弾倉もオプションで装備している。

 

「リーナ。分かってると思うけど、撃破スコアを伸ばすのを意識し過ぎて、スタンドプレーに走らないようにね。評判落としちゃ元も子もないんだから」

 

 コクピットシートに着座した直後に、メルティが秘匿回線で話しかけてきた。リーナはボトルの水を一口飲んでから、チョーカーを触りながら答える。

 

「分かってますよ。そっちも、ボロを出さないように気をつけてくださいね。じゃ、切りますよ」

 

 リーナはそう言ってメルティとの通信回線を切り、ひとつ深呼吸をした。しかし心は休まるどころか、さらに高揚していく。少し外に出てシャドートレーニングでもしたくなるほどであった。

 

「ああ、早くウロボロスを八つ裂きにでもしたい」

 

 リーナが小声で漏らすと、テレパシーでジュリアのくすくすとした笑い声が、頭に響いてきた。

 

「随分と物騒なこと言うのね。あと20分と少し待てば出撃なのにね」

 

「いいじゃないですか別に。誰かに迷惑をかけるわけでもありませんし。それに、ウロボロスは敵なんですから。何体潰したって問題はないでしょう」

 

「敵、ね」

 

 リーナの返しに対するジュリアの口調は、何かを含んだような風だった。その反応を訝しんだリーナは、無意識のうちに小声で話すように、彼女に思念を飛ばした。

 

「どうしたんですか?」

 

「いやね、去年の秋にはウロボロスを危機だなんて言い方をしたけど、最近よく分からなくなってきたのよ」

 

「話が見えません。敵対してる以上、危機じゃなけりゃなんなんです?」

 

「確実なことは私にも分からないわ。でも、私たちを出し抜いてアルドラを氷漬けにしたり、マインドコントロールで学園生徒を洗脳できるってことは、ウロボロスが知性を持っているか、もしくはそれを後ろから操ってる存在があるってことでしょ。それに、いくら美海やソフィーナ、アインスが優秀と言っても単独での世界水晶の破壊なんて不可能だし、EGMAを機能停止させたところで、水晶が力を失うのはありえないわ。もし本気でそれがやれると思っていたなら、世界の破滅を目的にするには浅はかにも程があるわよ」

 

 ジュリアは持論を展開していく。わざわざ今その話をしなくても、との思いが頭によぎったが、出撃までの暇つぶしにはちょうどいいかもしれないと思い、リーナはそのまま聞くことにした。

 

「破滅をもたらす存在とか、世界の敵だとかと予言されたから世界の破滅を目論んでる、なんて言われてるけれど、もしかしたら世界の破滅が目的でないかもしれないわね。ま、予言した私が言うのもどうかと思うけど」

 

「結局、ジュリアは何だと思いますか?」

 

 ジュリアの言い方がどうにも回りくどかったので、リーナは少し苛ついて、結論を急かした。対して、彼女はリーナの苛立ちを感じていないかのような風で答える。

 

「そうねえ、例えば、五世界の融合を加速させようとしてるとかどうかしら。ウロボロスの出現も異変の一種と捉えれば、まだ世界接続直後の状況が続いていると考えられる。もしも世界接続が今以上に進行するとしたら、最終的には五つの世界が融合する、と予測するのは容易いでしょう?」

 

「でもそれが、なんで私たちを攻撃するんですか?」

 

 リーナが深く考えずに聞いてみると、ジュリアはわざとらしく大きくため息をついた。

 

「あなたねえ。青蘭学園の存在理由、何だったか忘れてない? 世界各地で起こっている、異変と呼ばれる一連の異常災害の原因の究明と解決を目指してるんでしょうが」

 

「あ、そうでしたそうでした。でもジュリアの説の通りだとしても、なんで世界をひとつにしようとするんでしょうかね」

 

「もともと世界はひとつだけだったけど、人為的に、何らかの目的があって五つの世界に分割されたって言う線はどうかしら。で、その分割に無理があって、自然と元の状態に戻ろうとしている。ウロボロスは、それをまた分割された状態に戻そうとしている私たちを排除するための、自浄作用みたいなもので、ウロボロスに触れたらば、その自然の意思によって、そうね、正気に戻る、みたいな感じかしら」

 

 ジュリアの声は、明らかに興奮したものだった。自説を語るのが楽しくて仕方ないようである。リーナもアンドロイドの存在に対する考え方を言うときは高揚するので、ジュリアが高まってしまうことにも頷けた。

 

「ジュリアの言い方ですと、まるで私たちが狂人みたいですね」

 

「そうねえ。ま、自然からしたら狂人でしょうけど、私たち的には常人だから、気にしないでいいんじゃないかしら。私の説が事実だとしてもどうにもできないんだし。私の言ったことは忘れて、気楽に、いつも通りのことをやりましょう」

 

「まあ、そうですね」

 

 ジュリアの言葉にリーナも同調し、彼女の言葉は一旦心の片隅に追いやることにした。それから暫く、出撃までの時間を、リーナとジュリアはたわいもない雑談で潰した。

 そして、遂に19時半となり、リーナたちは格納庫から出撃した。海上に出た辺りで、リーリヤらの部隊と合流し、彼女らをアルフレッドの指揮下に組み込んで、そのまま進む。

 掃討部隊のうち、飛べないプログレスは、統合軍所属ならG・S製の、学徒隊所属ならS=W=E製の飛行ユニットを使用して海上を飛行している。G・S製のものは馬に乗るように跨って使う。見た目も金属でできた木馬といったようなもので、統合軍人も木馬と称している。これは統合軍兵が騎乗戦闘の訓練も日々行なっているので、その研鑽を十分活かす目的で木馬状の形なのである。対してS=W=E製のものは飛行機のような翼が左右についたスラスターパックを背中に装着し、四肢や腰に姿勢制御用のブースターを取り付けたもので、こちらは地上で戦うのに近い感覚で戦える。

 

「6キロメートル先に敵を感知した。大型種が94に小型種が263だ。亜音速で、徐々に速度を落としつつこちらに向かってきている。ジャッジ03、04は我々に先行して敵機を各個撃破。私と02は敵が射程範囲内に入り次第、03と04の援護を開始する」

 

 アルフレッドから、そのように入電があった。ジャッジ03などは第八機動小隊のコールサインであり、01から順に、アルフレッド、マイケル、リーナ、ジュリアである。リーナは了解、と応答しつつ、スラスター出力を上げながらボトルの水を勢いよく飲んでそれを空にした。

 

「ジャッジメント・ドリンガー、ブレイズアァァップ! さあ、狩りです狩り!」

 

 リーナはL型改の右前腕部をドリルに変形、それにエネルギーのヴェールを纏わせると、嬉々として敵陣に吶喊していき、ついでに爆弾を落として先行してきていた小型種の数を減らしていく。L型改を認知したらしいウロボロスが、触手を伸ばして攻撃してくる。リーナはそれを全て、速度を全く緩めずに手動操作で回避し、最も近くにいた、5メートル級のウロボロスにドリルで大穴を開けた。その敵はすぐに沈黙し、海へと落下した。

 

「くくく、そんなんじゃ私は止まりませんよ。さあ、もっと来なさいバケモノども!」

 

「リーナ、はしゃぎすぎよ。少し落ち着きなさい」

 

 リーナの気持ちがハイになっていっている途中で、ジュリアが窘めた。しかし、リーナは依然として気分が高揚していた。

 

「少し無理がありますね、それは! だぁぁぁッ!」

 

 リーナは迫る触手を避けに避け、先程とは違って爪先のブレードで敵を切り刻んだり、他の敵にはジャッジメント・ビームで複数をまとめて薙ぎ払ったりと、様々な方法でウロボロスを駆逐していく。ウロボロスを倒すのが、楽しくて仕方がない。ウロボロスは文句を言わない。ましてや倒すべき敵なのだから、どれだけそれに感情をぶつけても、誰かに非難されることもない。もはや、リーナにとってウロボロスは、都合の良いサンドバッグでしかなかった。

 

「ふふ、さあもっと、もっと! こんなんじゃ私は満ち足りません。もっと来なさい!」

 

 昂る気分のままに、リーナは叫ぶ。その声に呼応するように、ウロボロスの勢いもより一層増した。それらにもまた、リーナは狂喜するままに突っ込んでいき、目に付いた敵を片っ端から倒していった。そうこうしているうちに、100体近くいた大型種のウロボロスは全滅してしまった。小型種はまだ100体ほどしか残っていないが、乱戦になっており、今のままではとてもジャッジメンティスで介入できる余地は無かった。

 生身で戦っている者らへの退避命令等もまだ出ていないので、リーナにはホッと一息つける暇ができたと言える。数分もしないうちにリーリヤらが全滅させるのは間違いないだろうと判断し、リーナは少し緊張を解いた。そしてコクピットの小物入れから短めのチョコバーを取り出し、それに齧り付いた。

 

        ***

 

 夜の闇を映す海の上で、木馬の探照灯を照らしながら、ルルーナは自動小銃の点射で一匹のウロボロスの注意を引き、誘導していく。ある程度引きつけたところでリーリヤが現れ、固有の召喚武器である巨大な槍、ヴィヒター・リッタでそれに見事な大穴を開けて爆散させる。しかしそれでひと息つく間もなく、二匹のウロボロスが、それぞれリーリヤとルルーナに襲いかかる。

 

「イヤァッ!」

 

 ルルーナは気合いと共に、小銃の先につけた銃剣でウロボロスを突き、それを引き抜いた後に傷口めがけて発砲した。弾丸は見事に命中し、ウロボロスは爆散する。この銃と銃剣は一般に配備されているもので、ルルーナの召喚武器ではない。とはいえ盾では攻撃を防ぐことくらいしかできず、ウロボロスを倒すのには不向きである。しかしながら彼女が使っているのは旧式であり、また弾丸の威力もそれだけでウロボロスを沈黙させられるものでもないため、小銃一本ではこのような手間のかかる手段を取らざるを得ないのである。

 

「全く、いくらこっちに回す兵器が足りないって言ったって、こんな型落ちの自動小銃じゃなくて、バズーカのひとつやふたつでも寄越してくれればいいのに。木馬のミサイルは二発しか撃てないしさ」

 

 ルルーナが愚痴をこぼしている間に、相方のリーリヤは自分の槍で、木馬の勢いが乗った一撃を食らわせてウロボロスを倒していた。

 

「いいではありませんか。ルルーナの銃剣捌きは大したものです。それに木馬に跨ってバズーカなんて撃っても、小型種への命中率なんて大したことないでしょう」

 

 リーリヤは彼女の木馬をルルーナの横につけて、軽口を叩いた。ちょうどその後、周辺のウロボロスの殲滅が終わったとの報告と、索敵は第八機動小隊が行うから一旦隊列に戻れ、との命令が下った。

 

「お、ナイスタイミング。これでとりあえずは落ち着けるや」

 

 そう言ってルルーナは木馬を合流ポイントへ向かわせながら、木馬の収納スペースからひと口サイズの干し肉を取り出して、口に入れた。

 

「あ、そうだ。リーリヤもこれ食べる?」

 

 干し肉を咀嚼しながら、ルルーナはリーリヤの物欲しそうな視線を感じ取って尋ねた。彼女は少しの間逡巡していたが、やがて顔を赤らめながら小さく頷いた。

 

「分かったよー。はい、どうぞ」

 

 ルルーナはそう言って、摘まんだ干し肉をリーリヤに差し出した。リーリヤは躊躇いがちに受け取り、思い切って口に放り込んだ。

 二人はまだたったの齢16であるが、強力な召喚武器のおかげでまだ十になった頃から戦場に放り込まれていた。その甲斐あって、殆どの敵に対して物怖じしない度胸もあり、戦いを楽しむような余裕も持ち合わせている。周囲の敵を倒したばかりとはいえ、先のような余裕のある振る舞いができるのはそういう訳である。しかし、その最中でもヘッドセットから入る情報には常に注意を傾けており、木馬のレーダーからも目を離していない。

 

「あ、ルルーナにリーリヤ。何体やってきたの?」

 

 第六学徒隊の面々が合流ポイントへの道中で一緒になって、そこの夏菜の近くまで来たときに、彼女が話しかけてきた。彼女は今は統合軍人ではないが、個人で統合軍の装備品を買ったらしく、他の者らのようにS=W=Eの飛行ユニットではなく、木馬に跨っていた。また、その側面の懸架ラックには地球にもよく似た物がある無反動ロケットランチャーがひとつと、もう片面に魔導砲があるのが見えた。どちらも統合軍製の最新型で、販売もされている。ロケットランチャーも高価だが魔導砲はその上を行くくらいである。曲がりなりにも造反の責任を取って除隊した者が買っていいものではないともルルーナは思ったが、それ以上に前線の兵士としては最高級の物ばかりを取り揃えている夏菜が羨ましくて仕方なかった。

 

「私たちは8体やったよ。私が誘導してリーリヤがトドメを刺すって感じでね。うち1体は私一人でやったけどね」

 

 本心を隠してルルーナが答える一方で、関心がないのかリーリヤは面白くなさそうに黙っていた。彼女のその様子に夏菜も気づいたらしく、それ以上話を広げようとせずに、何を話そうか迷っている風だった。しかし、夏菜の仕草にリーリヤは慌てて言う。

 

「あ、私のことは気にしなくていいですよ。思索に耽ってますからお構いなく話しててください」

 

 ルルーナはその言葉を聞いて間も無く、リーリヤの頭を小突いた。リーリヤは抗議の視線を向けるが、ルルーナは構わずに軽く説教する。

 

「ばか、そんなこと言われたら余計リーリヤの前で話しづらいじゃん」

 

 ルルーナだけでなく、夏菜も呆れたような目をリーリヤに向けていた。何故そのように言われるのか分からない、という彼女を放って、ルルーナは木馬の速度を上げ始めた。

 

「じゃ、長話もできないし、また今度ねー」

 

「うん、ばいばい」

 

 夏菜がそう言って手を振るのを尻目に、ルルーナは学徒隊から離れて、本隊の隊列へ急いだ。

 

「あーっ、待ってくださいよ」

 

 慌てたような大声を上げて、リーリヤもスピードを上げてルルーナを追う。ルルーナがやれやれ、とリーリヤに合わせるために速度を落としていると、頭上を突入部隊が通過していく。その中には、分かっていたことだったが、ナイアを含めた一年生の何人かが堂々と、ルルーナの上を通過していった。

 

「あの中に、私も入りたかったなあ。ナイアはともかく、なんであんな一年坊主が。キャリアも実力も何もかも、私の方が上なのに」

 

 ルルーナは、自分以外には聞こえないような小さな声で呟いた。本当は大声で叫んでやりたかったが、誰かに聞こえてしまっては都合が悪い。誰もが思っていることなのだが、決してそれを表には出せなかった。

 

「あーもう、作戦はまだ終わってないのにイラつくなんて、私らしくない!」

 

 ルルーナはそう叫んで頭をぶんぶんと横に振ると、木馬から大きめの干し肉をひとつ取り出して、それに思い切り齧り付いた。

 

        ***

 

 突入部隊が構造物内に侵入してから30分ほど経った頃のことであった。コクピット内に響き渡る警報が、リーナの耳朶を打った。

 

「亜空間にてウロボロスの存在を感知した。正確な位置と数は不明だが、大小合わせて約400のウロボロスが、この海域に1分以内に出現する見込みだ。各機これに備えろ」

 

(亜空間!? ウロボロスが亜空間跳躍を使うなんて、これまで一度も無かったはずなのに)

 

 アルフレッドの言葉に、リーナは心底驚いた。不審に思いながらも、リーナは操縦桿を握り直してモニターの戦況図を凝視する。すると数秒もしないうちに、その図が、敵を示す赤の光点で染まった。リーナは慌ててメインカメラの映像に意識を向けると、四方八方を埋め尽くすウロボロスの群れが、リーナの目に入った。

 

「400なんて数じゃないじゃないですか! 1000は確実にいますよ!」

 

 リーナは思わずそのように嘆きつつも、すぐさまジャッジメント・ビームを薙ぎ払った。しかし、十数体は撃破したはずだが、ウロボロスの数のせいで、一体も撃破した気がしなかった。

 

「リーナ! ちょっと退いてなさい!」

 

 テレパシーで、ジュリアの声が頭に響いた。リーナが言われるがままに、ビームで突破しながら少し離れると、ジュリアが11体の魔神鎧を引き連れて登場し、それぞれが右の前腕部だけでなく、頭や肩、胴に腰に脚部などの身体の部位に変形した。

 

「魔神合体! 今こそ、真の姿を現しなさい!」

 

 彼女が叫ぶと、変形していた魔神鎧が全て合体し、ジャッジメンティスの15倍はあろうかという、巨大な鎧へと変貌した。リーナが呆気に取られている内に、それは腕を胸の前で交差させ、そのまま肩を広げて胸部を出したが、そこは赤熱して赤く激しく輝いていた。

 

「あんまり使いたくなかったけど、緊急事態だから仕方ないわ。——行くわよ真・魔神鎧。その業火を、ウロボロスに叩きつけなさい!」

 

 ジュリアが、張りのある、凛とした声で命令をする。すると、真・魔神鎧の胸から、扇状に広がる光線が放たれた。それは真・魔神鎧の前にいたウロボロス、約500体を消滅させた。

 

(す、凄い。ジュリアにこんな力があったなんて)

 

 リーナは息を呑み、冷や汗を垂らした。もしも彼女がウロボロスに精神を支配され、リーナたちに牙を剥いていたら、青蘭学園はひとたまりもなかっただろう。頼もしさよりも恐怖心を覚えたリーナだったが、当の真・魔神鎧は光線を放ってしばらくすると、力を失ったように分解され、ジュリアもまた、海に落下し始めた。

 

「ジュリア!」

 

 リーナは慌てて短距離での亜空間跳躍を使い、ジュリアをL型改の手のひらに乗せ、そのままコクピット内に運んだ。

 リーナがジュリアの額に手を触れると、火傷するかと思ったほどにそこは熱くなっていた。それに驚いた彼女は備え付けの救急キットを取り出そうとしたが、動く前にジュリアが荒い息遣いで話し出した。

 

「ああ、大丈夫よ。魔力の使い過ぎで、過呼吸みたいなものよ。特に処置をしなくても一回寝れば復活できるから。適当なところに転がして、私を寝かしといてちょうだい」

 

 ジュリアはそれだけ言うと、今が戦闘中であることを忘れさせてしまうほどの安らかな寝顔で眠ってしまった。

 

「ありがとうジュリア。あなたの尽力は決して無駄にしませんから」

 

 リーナはジュリアの髪をひと撫でして呟いた。そしてシートの後ろのスペースに予備のシートベルトで彼女を固定すると、再び戦場に意識を戻した。周囲の敵はおよそ150体いて、そのうち八割ほどが大型種だった。さらに、L型改にも敵は迫っており、そのうちの最も近かった一体は先端から大きく開いて、今にもL型改を飲み込まんとしていた。

 

「虫ケラどもめ。殲滅してやる!」

 

 リーナはL型改の手のひらにエネルギー球を作り、それを大きく開いて露呈していたウロボロスの内部に投げつけた。その球はウロボロスの体を貫通し、これを爆散させる。さらにそれは軌道上にいたウロボロスを破壊し、海へ落ちる。

 

「どう——ハッ!?」

 

 リーナが得意になったのもつかの間、いつの間にか一体の大型種が、L型改の背後を取っていた。レーダーの反応もなかったため、ステルス機能を備えた個体であることが推測される。しかしリーナはそのようなことを考える間もなく、咄嗟に短距離の亜空間跳躍を行おうとしたが、亜空間に入る寸前に、脚部をウロボロスの触手に掴まれてしまった。

 

「動くなよリーナ!」

 

 ウロボロスに捕まった直後にマイケルの声が聞こえ、M型のビーム・スナイパーライフルから放たれたエネルギー弾が、ウロボロスを撃ち抜き、沈黙させた。

 

「助かりましたあにう、いえ、曹長どの」

 

「気を抜くなよ。その機体は決して万能じゃあないんだからな」

 

 礼を述べたリーナに、マイケルは上官として厳しい口調で告げた。リーナが叱責されたことに恥じつつ改めてウロボロスに向かおうとすると、アルフレッドから通信が入った。

 

「伍長。学徒隊から救援要請が来た。大型種の乱入にあったらしい。数は二体らしいが、すぐに行ってくれ。ここは我々で保たせる」

 

「了解しました!」

 

 リーナは威勢良く返事をし、学徒隊の方に亜空間座標を合わせ、亜空間跳躍を開始する。この時彼女は、すぐに蹴散らしてすぐに戻れば良いと、救出任務を気楽に考えていたのだった。

 

        ***

 

 ざらついた潮風が顔に吹き付けるが、夏菜にはそれに対する不快感を感じる余裕などなかった。小型種の集団を相手にしていたのが、突然の十メートル級の大型種の乱入に、24人いる学徒隊の約六割がパニックに陥ってしまっていたのだった。全員が冷静に対処出来れば、大型種はたった二体しかいないのだから十分に相手取れるのだが、撤退が許されず、更に冷静でいられたのが10人しかおらず、足手纏いが14人とあっては話が別であった。これが学徒隊でなく統合軍であれば撤退できないなら見捨てるまでだが、学徒隊の人員は軍人ではない。そうするわけにはいかなかった。救援要請は送ったものの、援軍が来るまでは持ち堪えねばならない。

 

「私がウロボロスを引きつけるから、他の人はパニクった子たちのお守りをお願い!」

 

「私も引きつけますわ。私と夏菜さんで一体ずつ相手した方が夏菜さんの負担も少ないでしょう」

 

 夏菜が声を張り上げたところに、シノンが提言する。確かに彼女の言う通りで、また判断を迷う時間もない。夏菜はその提案を受け入れることにした。

 

「分かった! お願いよ!」

 

 夏菜はそれだけ言うと、木馬を大型種の片方に向け、側面に懸けておいたロケットランチャーを構え、大型種に向けて発射した。小型種ならこれで木っ端微塵に出来る。だが今相対している大型種には、比較的攻撃が通りやすい胴部に命中こそすれ、表皮を抉った程度のダメージしか与えられなかった。当然致命傷足り得なかったが、注意は引くことができた。その敵は夏菜の方を向き、十数本の触手を伸ばして夏菜に突撃し始めた。

 

(あそこに連続して当てられればいいんだけど)

 

 夏菜はウロボロスの攻撃を避けながらそう考えたが、生憎の暗闇で、さらにウロボロスの体が真っ黒なため、命中した所の大まかな位置は把握できても、細かいところまではできなかった。探照灯を点けたいところであったが、今のように前後左右に動き回っている状態では、味方の真正面に向いた時に迷惑がかかる。そうするわけにもいかなかった。

 

「仕方がない、魔導砲を使おう」

 

 弾を装填してからロケットランチャーを再び懸けると、夏菜は反対側の魔導砲を木馬にケーブルで接続してから構える。夏菜自身は魔法を使えないため、木馬の魔力を使って撃つことになる。しかし、その消費量がかなり大きいため、木馬に貯められた魔力では二回撃てば木馬を使っての戦闘継続は不可能となる。更には、念じた場所に当てられる機能があるとはいえ、大型種は魔導砲の一撃で倒せるものでもない。倒すには工夫が必要だ。

 

「救援が来るはずだから、倒さなくてもいいんだけど、ね」

 

 夏菜はそのように独り言つが、未だに味方は混乱している。少しでも落ち着かせるためにも、せめて一体は倒そうと彼女は判断したのだった。隙を見て、夏菜はシノンの方を見やる。彼女はウロボロスを倒そうとはしておらず、ビットのビーム攻撃で触手を捌くのが精一杯なようであった。

 

(シノンがあの様子なら、いっそのこと私がやっとかなきゃ)

 

 夏菜は改めて決意すると、即座に魔導砲を発射した。淡い碧色に輝く魔力の塊が撃ち出され、弾道上の触手を焼き切りながら、先程当てた部位に向かって、軌跡を描きながら飛んで行く。

 

「そこかァッ!」

 

 夏菜はその軌跡から命中させるべき部位を見出すと、ロケットランチャーに持ち替えつつ、その方向に木馬を向けた。そして、魔導砲の攻撃が命中してウロボロスが硬直する時間を予測し、その時間にちょうど当たるようにそれを撃ち放ち、更に木馬のミサイル二発を発射した。それらは夏菜の目論見通りに命中し、ウロボロスは沈黙したのち、内部から爆破炎上した。

 

「よし!」

 

 かなりの消費があったものの、単騎で大型種を倒せたことは、夏菜の心に大きな達成感をもたらした。しかし、その喜びも長くは続かなかった。ふとシノンの方に目を向けた瞬間、先端から大きく開いたウロボロスに、彼女が触手で捕らえられたのだった。そして夏菜が声を上げる間も、シノンがビットでそれを焼き切る間も無く、ウロボロスの開いていた先端が閉じ、彼女はウロボロスに全身を喰われた。

 そして次の瞬間、待ちに待っていた援軍——L型改が、亜空間から現れたのだった。

 

        ***

 

 亜空間をくぐって救援のポイントに到着したリーナは、カールの義眼のおかげで、目の前にあるウロボロスの中にシノンが破壊のされていない、完全な姿で存在することが分かった。

 

(とは言え、ウロボロスの中から物を取り出す方法など知りませんし、このまま野放しにするわけにもいかない。何よりアンドロイドなのだから、データのバックアップも取って、スペアのボディも用意してあることでしょう。コストは高くつくでしょうが、まあいいでしょう)

 

 無感情でそのように判断したリーナは、右腕をドリルに変形させ、エネルギーを纏わせて最大限にブースターを噴射し、ウロボロスとの距離を一気に詰めた。そしてそのままドリルをそれに突き刺し、そこからエネルギーを放出して、その渦が敵の体を貫通する。

 沈黙したウロボロスを足蹴にして距離を置いて取ると、通常通り、ウロボロスは爆散した。そこからシノンが出てくるということもなかったが、リーナは特に思うこともなく、すぐに再び亜空間に入った。学徒隊の誰かから通信が入った気もしたが、亜空間に突入した直後だったために、ノイズだらけで聞き取れたものではなかった。救援に対する礼だろうとリーナはそれを気楽に捉えて、持ち場へと急ぐのであった。




今回からは第二部「エゴイストのカプリッチョ」です。今回の時系列的にはアニメで四世界の話やった後くらいのところですが、私はアニメの内容はそれを追ったブログでしか知らないので、話を作りやすいよう、また、ある程度自分が納得できる形で設定を改変したり話を変えたりしています。ご容赦ください。
また、第一部と第二部の話の間ではアニメと似たような話の運びになったとお考えください。原作と違ってナイアとアインスの仲が最悪ですが、それによって話が変わるわけでもございませんのでその辺は深く考えないでください。
では次回もよろしくお願いします。

追記:本文中では視点とするキャラクターの都合で詳しく書きませんでしたが、今回ルルーナが使った自動小銃はAK-74に似たもので、夏菜が使ったロケットランチャーはRPG-32に似たもの、という設定です。


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アンドロイド、その真の意味

 ウロボロスの根拠地のひとつを調査するという作戦は、ひとまずの成功を見た。構造物自体は不純物を含んで黒っぽくなった珪素の結晶で出来ており、未知の物質が発見されることはなかった。また、そこではウロボロスの上位種も発見され、それはアビスと命名される運びとなった。更に、それと構造物内のウロボロスの討伐にも成功し、少なくとも現状では、根拠地からそれらが再び出てくることは無いだろうと判断された。更に、αドライバーの凍結も解除されたので、作戦の価値はより大きなものとなった。

 次なる課題はウロボロスが亜空間跳躍を行ってきた理由の解明、ということになった。その技術はS=W=E特有のものであるから、学園はS=W=E全域に及ぶ大規模な調査を計画している。

 しかし、リーナは、そこからは遠く離れた立場にあった。

 シノンにはスペアのボディはおろか、人工知能のそれさえ存在しなかった。そのおかげでリーナと、同じコクピットにいたジュリアは、丸呑みにされ生きていた可能性のあった命友軍の仲間を、命令を待たずに殺害したということになってしまったが、当時の状況を鑑みて一週間の謹慎という軽い処分となった。

 一方で、シノンが軍籍を偽造して青蘭学園にいたことも発覚し、更にメルティが、リーナとジュリアが謹慎処分を下されたその日、つまり作戦の翌日のうちに失踪した。これにより、シノンを送りこんだのはメルティということが殆ど明らかになったようなものだ。しかし、EGMAが捜査を始めればいずれ彼女に辿り着くのは明白であり、その手が及ぶ前に彼女が蒸発したのは当然のことだと言える。

 また、メルティがシノンを送り込んだ理由に関しては、リーナは、メルティのことだから、敵の情報は敵を使って知るのが一番だと考えてのことだったのだろう、と考えた。シノンがリーナに頻りに絡んできたのも、メルティと関係が深かったからと考えれば、納得できた。

 今リーナが納得できないのは、軽減されたとはいえ処罰されたこと自体であった。シノンを含んだままのウロボロスを攻撃した時は、その事情など知る由もなかった。通常、アンドロイドなど金さえあればいくらでも替えがきくのだから、それごと敵を倒したことを金銭的な理由で責めるならともかく、人道的な理由で責められるのには納得がいかなかったのであった。

 

「まあ、この学園でアンドロイドと人間を明確に区別してるのなんて、反EGMA的な立場を取ってる子くらいだからね。是非はともかく、人道的な理由で責められても仕方ないんじゃないかしら。マイノリティは排除されるのがこの世知辛い世の中なのよ」

 

 リーナが不満をぶちまけると、ジュリアはソファに寝転がりながら、間延びした声で茶化すように返した。彼女の言うことは理解できるが、納得はできなかった。

 また、焦る気持ちもあった。メルティから良い意味で名前を売ってくれと頼まれていたのに、評判を大きく落とす事態となってしまった。これを巻き返す手が、全く思いつかなかったのだった。

 リーナは無言でカールの遺品のひとつのベンチに向かうと、そこに仰向けになって、50キログラムのバーベルでベンチプレスを始めた。ジュリアの手前、自慰も自傷もできない上に、謹慎処分のせいで外に出ることも叶わないため、室内でできる運動で苛立ちを収めるしか、リーナにはなかった。

 

「よくそんな重い物、自己強化の魔術無しで何度も上げ下げできるわよね。感心するわ」

 

 ジュリアは、依然寝転がったまま、顔だけをリーナに向けて言った。黙々と続けていたリーナは1セットを終えてからバーベルを懸け、体を起こしてからジュリアに答える。

 

「何、鍛えればこのくらいは出来ますよ。ジュリアも筋トレします? きっと引き締まっていい体になりますよ」

 

 ベンチプレスだけでも、リーナの苛立ちは素で軽口を叩けるくらいに大きく抑えられていた。彼女のその様子を察したのか、心なしか弾んだ声でジュリアは応じる。

 

「やーよ、めんどくさい。今も別にお腹ぷにぷにって訳じゃないし。筋トレなんかしなくても私のナイスバディは維持されるのよ」

 

「ナイスバディて。ちんちくりんで胸も尻も小さいのに何を言いますか」

 

 リーナが軽い調子で冗談を飛ばすと、ジュリアはにっと笑って、勢いよくソファから立ち上がった。そして瞬間移動してリーナの後ろに立つと、そこからリーナのジャージの下に手を入れ込み、両胸を揉みしだきながら、乳首をつまんできた。

 

「あなたも似たり寄ったりの体型のくせによく言うわね。そういえば乳首が感じやすいのだったわね。ホラホラ」

 

「ちょっと、こらジュリア! あっ、あっ、やだ、やめて下さいよぉ! 感じちゃいますからぁ!」

 

 元からのものと、常日頃から弄っていたおかげで、リーナはそこで随分と感じやすくなっていた。一方で、ジュリアはリーナの言うことを無視して、彼女が満足するまで揉み続けていた。やがてそれを終えると、彼女はリーナの前に回って、ころころと笑いながら告げる。

 

「いやあ、二人きりの謹慎生活も悪くないわね。むしろこのまま謹慎処分を続けて欲しいところだわ」

 

「いいんですか、そんなこと言って。愛しの殿方がいるんじゃあなかったんですか」

 

 リーナはからかうように言うと、ジュリアは天井を眺めながら、笑みを消して答えた。

 

「そうね。会えないのは確かに癪だわ。前言撤回するわ」

 

 ジュリアが言い終えた直後、外から雷の轟音が響いた。リーナが気になってカーテンを開けてみると、外はまだ昼だと言うのに薄暗く、大粒の雨が降り注いでいた。

 

「あらあら。すごく天気悪いじゃないの。やっぱり謹慎処分もいいことあるわね」

 

 ジュリアが冗談めかして言うが、リーナはそれには答えずに、眉を軽く顰めて、ただ視界の悪いベランダ越しの風景を眺めていた。

 

        ***

 

 教室にいると、嫌でもリーナへの悪口が聞こえてくる。悪い噂とは恐ろしいもので、日に日に一部の生徒たちの間で、リーナへの恨み言は大きくなっていき、更にはリーナと交友関係のあった者らへもその矛先は向いた。

 特にクラスメイトであるルルーナとリーリヤへの風当たりは強かった。直接何かを言われることはないが、よく耳をすませてみれば陰口を叩かれていることが多くある。これに対して、二人は強く出られなかった。ブルーフォールで統合軍の戦士として戦ったために、他の四世界の者らに負い目を感じているのだった。

 ゆえに、ルルーナもリーリヤも、統合軍のコミュニティでしか生活することができなかった。昼休みはおろか、短い休み時間でさえ、教室から出て同僚と雑談を交わす始末であった。

 しかしそこでは、他の世界の者とは別の話題が中心になっていた。リーナへの陰口が全くないかわりに、身分を偽装していた者が青蘭学園に入学できたという、学園のセキュリティの杜撰さについての議論が活発に行われていた。更に、リーナを擁護する意見も多かった。シノンの事情を知っていれば、自動的にリーナは反EGMAのシノンを送りこんだ一派ということになり、彼女にそれごと破壊する理由は無くなり、知らなければアンドロイドの性質を考えて、そうするのは止む無し、ということが、統合軍人の間での認識であった。

 

「この一週間でこのバッシングをどうにかするのは、無理だよね。リーナとジュリア、私たち統合軍のコミュニティに迎えて守ってあげるしかないのかな」

 

 放課後、ルルーナはリーナの分の配布物を届けに行く途中で、一緒にいたリーリヤと、夏菜、ナイア、ランに話しかけた。大きく響く雨音のせいで、普段より声を大きくせねばならなかったのが、ルルーナにとっては少し癪だった。その言葉には、ランが一番初めに答えた。

 

「そうすれば二人を守れるのは確かですが、陰口は止まないでしょうね。更には私たちと、他の世界の方々との溝が深まるのは間違いありません。ウロボロスという共通の敵がいる以上、ここで内部分裂を起こすのは好ましくありません。かと言って、二人を放ってもおけませんし、どうしたものか」

 

「とりあえず私の方の現状を報告すると、私も今日、露骨にハブられたし、統合軍所属の生徒の殆どがリーナを擁護してるっていうことも他のコミュニティで広まってる。もうとっくに、他の世界の人とG・Sとで溝は出来ちゃってるよ」

 

 ランに続けて、夏菜が視線を落としながら発言する。そこで、先を歩いていたリーリヤが一旦立ち止まって、振り返りながら言う。

 

「つまり、私たちはリーナたちを守って対立するか、リーナたちを売ってよりを戻すか、のどちらかを選ばなければならないということですか」

 

「迷うことなく前者だな。友達云々以前に、あたしたち軍人が感情論に負けたとあったら士気はダダ下がりだろうし、そもそもブルーフォールで出来た溝すら埋まり切ってねえのに、新しい溝を埋めてよりなんか戻せるものかよ」

 

 リーリヤの言葉の直後に、それまで黙っていたナイアが口を開く。この時、彼女はいつになく真剣な表情をしていた。相当に苛立っているようで、その語気からは刺々しさがありありと感じられた。

 

「ナイア中尉の言う通りですね。とりあえず学園にいる統合軍人で意見の統一は計らねばなりませんから、リーナさんとジュリアさんが復帰した時に心を休められる場所を作らないと」

 

 ランの纏めたその言葉にリーリヤとルルーナは頷くが、夏菜とナイアは微妙に不満気な表情を浮かべていた。

 

「夏菜さんとナイア中尉は、まだ何か引っかかりますか?」

 

「はい。殿下、特務から離れた身ですが、この件で少し調査することをお許しいただけますか? どうも、陰謀の匂いがしますので。幾らセンセーショナルな話題に惹かれやすいと言っても、地球とT・P・A、S=W=Eの連中がリーナへの非難しか口にしたりネットの掲示板に書き込まないのは些か無理があると思います」

 

「私もナイアと同意見です。軍から離れてる私なら、より詮索が容易かと思います」

 

 ランが尋ねると、ナイアと夏菜は口々に答える。そのような考えにはルルーナは辿り着けなかったため、これも元特務隊所属の嗅覚が為せる技かと、大いに感心していた。

 

「分かりました。もし上層部がナイア中尉の行動に口出ししても、私が口を利いておきます。夏菜さんはもう民間人ですから、気兼ねなく調査をしても大丈夫ですよ」

 

「分かりました。ナイア、元特務の本領発揮だね」

 

 ランの言葉に夏菜は頷き、ナイアに向かってどこか嬉しそうな顔を見せた。対して、彼女の方も不敵な笑みを浮かべて、手の関節を鳴らしながら言う。

 

「ああ。あたしも特務を引退したと言ってもまだ一ヶ月くらいだしな。今の状況に黒幕がいるかどうか、白黒はっきりさせようじゃねえか」

 

 今の二人の姿が、ルルーナには大きく見えた。特に夏菜に関しては、一瞬でも彼女が裏切り者だということを忘れてしまいそうなほどであった。

 それからは軽く雑談を交わしながら、リーナとジュリアの部屋まで歩いて行ったのだった。

 

        ***

 

 リーナとジュリアは尋ねてきたルルーナ、リーリヤ、ラン、ナイア、夏菜の五人を迎え入れると、その七人でテーブルを囲った。

 

「今の状況を説明すると、例の件に関しては、G・Sの出身者と他の世界の出身者とで意見が大きく分かれてます。私たちはリーナを擁護して学園のセキュリティのザルさを非難してて、他の人たちはリーナを叩くだけ叩いて、シノンが身分を偽造してたとかそういう話は無視しています。ただ、後者に関しては論が極端すぎて無理があるとのことで、ナイアと夏菜は陰謀があると見ています」

 

「そう、ですか。陰謀ですか」

 

 リーリヤから陰謀と聞いて、リーナは少しだけだが気が楽になった。本当にそうであれば、初めから、心の底からリーナを叩いているのは一部だけ、という可能性もある。一方で、誰がリーナを貶めようとしているのか、という疑問も湧いた。陰謀であればその誰かが個人にせよ団体にせよ、必ずそれは存在する。その意図を向けられる原因として思い浮かぶのは、リーナがEGMA打倒後に象徴的英雄となるために、いい評判を多く立てようとしていることくらいだ。もしもそれが理由であるならば、陰謀の首魁は何らかの手段でリーナたちの情報を得た、EGMAの信奉者ということになる。

 

「もしかしたら、首謀者はEGMAのシンパかもしれませんね」

 

 リーナは、思考の結果だけを呟いた。すると、その場の全員の注目が彼女に集まり、その中でナイアが訝しげな視線を向けて、彼女に尋ねてきた。

 

「何でそう分かった?」

 

「ナイアたちには詳しく言えませんが、心当たりがあります。私のアテが外れていたら、それ以上の心当たりはありません」

 

「分かった。心の片隅に留めておくよ。それで、調子はどうだ? 何か欲しいものはないか?」

 

「全然、大丈夫ですよ。こうして来てくれただけでも嬉しいですし。ねえ、ジュリア?」

 

「ええ。謹慎生活も悪くはないと思うけれど、新しい刺激は無いもの。たまーに来てくれると助かるわね」

 

 ジュリアはそのように答えるも、リーナには彼女が少しだけ苛立っているように見えた。しかし、そうだという確信も持てないため、リーナは気のせいということにしてそれを忘れることにした。

 

「とりあえず今日もらったプリントと、今日の授業のノートのコピーね。あとこれもあげる」

 

 ルルーナは鞄からそれらの束を取り出してテーブルに置き、更にその上に、紐で縛ってある干し肉の塊を乗せた。

 

「あ、差し入れ今渡しますか。なら私からはこれを」

 

 ルルーナが干し肉を出したのを見て、リーリヤが取り出したのは干した魚であった。リーナは、この辺りで心の中で首を傾げた。この、二人も乾燥食品を差し入れとして出してくる感覚がよく分からなかった。二人に便乗するようにラン、ナイア、それに夏菜も差し入れを取り出すが、ランが高級そうな干し肉を、ナイアが鰹節を寄越してきて、まともだったのは夏菜の煎餅の袋詰めと2リットル入りのスポーツドリンクくらいなものだった。

 これはどうしたものかと思ったものだったが、リーナはすぐにG・Sの状況を思い出した。世界的に植物が育ちにくいところであるから、家畜も数多く増やせるものでもないのであろう。それ故に、G・Sではこれらのような保存食が喜ばれるということだろう。夏菜はエトランジェで元は地球の出身だから、そちらの感性で差し入れを選んだと考えられる。

 

「ありがとうございます、皆さん。ありがたくもらっておきます」

 

 納得したリーナは、引き攣った笑顔のジュリアを横目に、テーブルに置かれたものをそれぞれ彼女に近い方に寄せた。

 それから30分ほど雑談を交わしたのち、話のネタも尽きたところで、ランがゆっくりと立ち上がった。

 

「では、私たちはそろそろお暇しますね。御機嫌よう」

 

 そう言う彼女に続いて、ルルーナたちもそれぞれ別れの挨拶をして、外へ出て行く。リーナとジュリアは彼女らを玄関まで見送ってからリビングへ戻ったが、その直後にドアをノックする音が聞こえた。

 

        ***

 

 ノックが聞こえてから、反射的に出ようとしたリーナを抑えて、ジュリアが出ることにした。ドアの向こうから漏れ出てくる魔力の波動の感覚を、ジュリアは知っていたからだった。リーナにこちらに来ないようにと注意してから、ジュリアはドアを開けた。玄関先に出るくらいは、謹慎とはいえ許されていた。

 

「何の用かしら、ソフィーナ」

 

「プリント渡しに来たのよ。そんな刺々しく言うことないでしょ」

 

 ジュリアはソフィーナが差し出すプリントを奪い取るように受け取ると、彼女の何か言いたげな視線を感じた。

 

「何よ」

 

「何でそんなにカリカリしてんのかしらって思ってね。あなたらしくないわよ」

 

「その原因作った大元が何を寝惚けたことほざいてんのよ」

 

 ジュリアは冷めた目でソフィーナを睨んだ。リーナの前でないからか、隠していた苛立ちが意識しなくても自らの体から立ち上ってくる。彼女の方も反抗心からかジュリアを睨むが、長い時間が経たないうちに、小さくため息をついて目を逸らした。その視線の先には「故障中につき使用不可」という張り紙のしてあるインターホンがあった。

 

「まだ、インターホン修理してないのね。いつまで壊れたままにしておくつもりなのよ」

 

「余計なお世話よ。それよりも、聞きたいことがひとつあるわ」

 

 ジュリアは、ソフィーナに詰め寄る。そして、彼女の目を見つめた。それは微かながらに揺らいでいて、目が合っているように見えるが、実際には微妙に合っていなかった。

 

「私たちが、いえ、リーナが学園中で非難されてるっていうのは本当なの? G・Sの子たちから聞いたんだけど」

 

「確かに、そうよ。正直に言うと、私もリーナは悪いと思ってる。アンドロイドの性質を考えるとやむなし、っていう言い分も分からなくはないけれど、やっぱり私の感覚的には受け入れられないわ」

 

 ソフィーナは、ジュリアから明確に目を逸らして答えた。その言葉と様から、ジュリアは彼女が「リーナが悪い」という意見一辺倒ではないことを悟った。

 しかし確信は持てぬので、ジュリアは念を押して確認することにした。

 

「あなたは、悪意を以ってリーナを非難するわけじゃないのね?」

 

「当然よ。あの子を貶めたいんじゃなくて、私とそりが合わないということしか、私には無いわよ。悪意を持ってる人もいるみたいだけど、悪いことに私には誰がそれを持っていて誰が持っていないか、判別がつかないわ」

 

「気にしなくていいわ。その判定は他の子がやってくれるから」

 

 目的は達することができたので、ジュリアは部屋に戻ろうと「じゃ」とだけ言って手を振った。だが、ソフィーナが慌てた感じでその肩を掴んできた。ジュリアが振り返って彼女の顔を見ると、今にも泣きそう、という程ではないものの、その目は潤んでいた。

 

「ねえ、最近あなた変よ。特にここ一ヶ月くらい。私と会う時、今みたいにイライラしてることなんて前は無かったじゃない。何か、何かあったの?」

 

「あなたに話せることでもないわ。でも、心配してくれるのは嬉しいわ。ありがとう」

 

 ジュリアは素直な気持ちでそう言ったのだが、ソフィーナはどういうわけかきょとんとして、開いた口が塞がらない様子であった。

 

「どうしたのよ」

 

「いや、あなたが私にありがとうだなんて、言うとは思ってなかったから」

 

「もうあなたの知ってる私ではないってことよ。こんな私を受け入れられないなら、私を外に出したあなた自身を恨むことね」

 

「受け入れられないってことはないわよ。でも」

 

 ソフィーナは唇を尖らせる。しかし、先程までのように涙目ではなかった。

 

「やっぱり変よ、あなた」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 そう告げた時、ジュリアは自然と口角を上げていた。それを見たソフィーナは、安心したように微笑む。

 

「それでこそ、ジュリアよ。じゃあ、私はもう行くわね」

 

「あ、ちょっと待ちなさいな」

 

 離れようとするソフィーナを、ジュリアは呼び止めた。それから一息置いて、表情を引き締めて告げる。

 

「ことの本質を見失わないようにしなさいよ。単にリーナが好きか嫌いかなんて問題じゃないのだから」

 

 ジュリアの言葉に対し、ソフィーナは暫く考え込んで黙っていたが、やがて顔を上げて、ジュリアを真っ直ぐ見つめた。

 

「分かったわ。あと思い出したのだけれど、メルティが失踪した件について、気になることがあるのよ」

 

「気になること?」

 

「ええ。メルティが失踪してからなんだけど、ユフィの居場所がたまに分からなくなるのよ。あなたに言ってもしょうがないと思うし、あまり口外するのも好ましくないのだけど、友達のよしみで一応言っとくわ」

 

「それはどうも。リーナに伝えても大丈夫かしら?」

 

「そのくらいなら問題ないわ。じゃ、今度こそばいばいね」

 

 ソフィーナはそう言って、すたすたと去って行った。ジュリアはその背中に短い間手を振ると、ひとつため息をついて室内に戻った。するとすぐに、リーナが出迎えてきた。

 

「誰だったんです?」

 

「ソフィーナよ。プリントを届けにきたんだって。ああ、あと、メルティとユーフィリアって、何か関係あったりする?」

 

「いえ、そういう話は聞いたことありませんけれど」

 

「ならいいわ。この話は忘れてちょうだい」

 

 ジュリアは不思議がるリーナを尻目に、リビングに戻って、テーブルにソフィーナが届けてきたプリントを無造作に置いてから、ソファに飛び込んだ。友人たちと交流しても、ジュリアの心にはまだ満たされぬものがあった。リーナに続いてジュリアの心に浮かぶのは、アルフレッドの姿、声、そしてあらゆる表情であった。家から出られぬというだけで、普段は感じぬ辛さがあった。なまじ友人たちと会っただけに、それはますます増大していた。

 

「あなたに会いたいです、アルフレッドさん」

 

 リーナには聞こえぬようにソファに顔を押し付けて、ポツリと漏らした。

 

        ***

 

 明くる日の放課後、ナイアは学園の図書館に向かっていた。彼女は、情報収集に関しては、その方法を夏菜とは違うものを取ることにした。夏菜は耳を欹てたり、掲示板の書き込みを観察したりして特定しようというものだったが、ナイアはリーナの、EGMAのシンパが首謀者かもしれない、という意見があったことで、EGMAに直接ハッキングをかけて、EGMAの目論見そのものを見ることにした。今はまだEGMAのセキュリティが完全ではないため、そうするなら今しかないとナイアは踏んだのだった。

 しかし、ナイアはS=W=Eのコンピュータ理論を知らなかった。わざわざ図書館に向かっているのは、それを知るためであった。もし徹夜して理解できるものであればすぐに手をつけるし、複雑で難解であれば手を引いて、夏菜と同様の作業をするつもりでいた。

 

「あれ、ナイア? 図書館に来るなんて珍しいね」

 

 ナイアが図書館に着くと、そこから出てきた紗夜とばったり出会った。ナイアはため息をつくと、彼女に歩み寄りつつ、笑みを作って答える。

 

「あたしだって図書館で勉強したいときもあるさ。一応学生なんだし」

 

「それはそうだけど、やっぱり珍しいよ。というかここ二日くらい、あんまり私たちの輪に入って来ないし、珍しいっていうより変」

 

 紗夜のその言葉を聞くと、ナイアは笑みを崩して真顔になった。そして、棘のある口調で、紗夜を突き放すように言う。

 

「そりゃあたしは紗夜たちだけのダチじゃないからな。他の連中とつるんだって、何の文句もねえだろ」

 

「そんな言い方しなくても」

 

 紗夜は、少しむっとなって苦言を呈した。対して、ナイアは今一度ため息をつき、彼女の横を通り過ぎながら告げる。

 

「悪いが、紗夜と言い合いをする余裕なんざ無いんでな。あたしは用を済ませて来るよ」

 

 ナイアは呼び止めようとする紗夜を無視して、図書館に入っていった。そして、真っ直ぐ電子書籍閲覧用のパソコンの前に座って、S=W=Eのコンピュータ理論の基幹を記した専門書のデータを開いた。

 

「全く、紙をなくすなんてS=W=Eもアホなことをやるもんだ。見づらいったらありゃしない」

 

 ナイアは小声で文句を垂れながら、その書を読み進めていく。特務隊の訓練で速読術も心得ていたため、千頁近くあるその書も、読み終えるのにそれ程時間はかからなかった。その上、彼女には天才的な記憶力もあった。目で見たものを絵として瞬時に脳に焼き付けられるその能力は、この時にも遺憾無く発揮された。全ての頁の内容を僅か30分ほどで正確に暗記すると、一息ついて立ち上がり、伸びをしながら退館した。

 

(根幹はG・Sや地球のものとほぼ同じだったな。S=W=E製のパソコンを取り寄せる必要がなくなって安心したぜ)

 

 夕日が差す帰路の途中で、ラッキーだとナイアはほくそ笑んだ。彼女は気分良く歩いていたのだが、寮の付近で、また紗夜と出くわしてしまった。しかも、今度はエルエル、ステラ、アルマリアまで一緒であった。

 

「そんな露骨に嫌そうな顔することないじゃん。ぷんぷん」

 

 笑みから一転、眉間に皺を寄せたナイアに、エルエルが頰を膨らませた。その彼女を無視して歩き過ぎようとすると、その肩をアルマリアが掴んできた。

 

「なんだよ」

 

「それはこっちの台詞ですわ。何に気を立てているのです?」

 

「言わなきゃ分かんねえのかよ。アルマがそんな馬鹿だとは思わなかったがな」

 

 彼女の手を振り払って、ナイアは彼女を睨みつける。それを対抗してか、アルマリアも睨み返した。二人の間に漂う一触即発の空気に、焦った様子の、引きつった笑顔を浮かべるエルエルが割って入った。

 

「と、とりあえず、アルマもナイアも落ち着こう? ね?」

 

「うるさいな。今、あたしはあんたらと友情ごっこやれる状況じゃないんだ。悪いが放って置いてくれ」

 

「友情ごっこって、そんなの言うことないじゃん!」

 

「喧嘩止めに入っといてキレてんじゃねーよ。とにかく、あんたらの知ってるナイア・ラピュセアは、今は死んでるってことだ。分かったらさっさと散りな」

 

 ナイアはそう言って、手で四人を追い払うようなジェスチャアをした。しかし、彼女らは顔を見合わせたまま動こうとしなかった。どうにも、納得できていない様子だった。そしてナイアがうんざりして去ろうとした時、ステラが声をかけてきた。

 

「もしかして、リナーシタ先輩のことで気が立ってる?」

 

「そうだよ。だけどそれがどうした? お前らどうせ、どちらかと言えばリーナを非難する立場だろうが。なあ?」

 

 ナイアは煽り口調で返した。すると、すかさず紗夜が一歩前に出て反論してきた。

 

「じゃあ、もしあれがシノン先輩じゃなくてステラでもナイアは同じこと言えるの?」

 

「余裕で言えるね。あの状況だったら、仲間とか何とかは関係無えよ。それに、何もやられたのがアンドロイドに限らなくてもあたしは納得できる。あたしも軍人で、昔は高官だったからな。敵を放置して100の害を貰うくらいなら、1を犠牲にして100の利益を優先するさ。高々1ヶ月くらいしか命懸けの戦いを知らないあんたらとは違うんだよ」

 

 ナイアは即答し、それから四人を小馬鹿にした。押し黙った彼女らを見て、反論の材料が尽きたと見たナイアは、何も言わずに踵を返して自室に向かった。すると、寮の廊下で、今度は夏菜と遭遇した。

 

「よう、順調かい?」

 

「大体の絞り込みは済んだよ。ちゃんとした結論を出すのは、長く見積もってあと二日要るかな」

 

「長く見積もって、ってことは概ね明日には終わるわけだな。あたしの方も明日には片がつくと思うぜ」

 

 ナイアは胸を張って告げるが、夏菜は浮かない顔をしていた。そして彼女は辺りに誰もいないことを確認してから、ナイアに耳打ちしてきた。

 

「本当に大丈夫? EGMAにハッキングだなんて」

 

「使うパソコンも回線もダミーだし、用が済んだらどれも木っ端微塵に粉砕するから問題ねえよ、多分」

 

「多分て」

 

「安心しろい。あたしも長いこと特務にいたんだ。やべえって感じたら早々に身を引くさ」

 

「そう、なら良いんだけど」

 

 そう呟くように言うと、夏菜はナイアから離れた。それから互いに別れの挨拶を交わし、ナイアは自室に戻った。

 

「さてと、準備準備」

 

 ナイアは、予め用意しておいたパソコン機器諸々を、整理して箱に梱包材と共に入れていく。久しぶりのスパイらしい活動に、彼女は高揚していた。事が対象に露見したらどうなるかということまで含めて、胸が高鳴る。このような過度なストレスがかかる作業は、使命感だけでは不可能で、楽しまなければやっていけない。これはナイアのモットーだ。

 

(めんどくさがりのボケた高一演じるのも飽き飽きしてたからな。こんなエクスタシー、いつぶりだろうな)

 

 先程まで紗夜らと口論していたこともあってか、いよいよ覚醒剤を服用したかのように興奮が絶頂に達してきたため、ナイアは一旦深く呼吸して、気持ちを落ち着かせた。

 

「やるのは深夜だってのに、今からこんなに興奮してもしょうがないだろ。てか興奮してどうする。ブランクのせいかな」

 

 ナイアは、そのように独り言を言うと、時計を確認した。19時前で、夕飯にはちょうどいい時間だ。統合軍の仲間も何人かいるだろうと考えて、財布片手に食堂に出かける。

 

「うわあ」

 

 食堂に着いたナイアは、思わず間の抜けた声を出してしまった。G・Sの出身者の塊とそれ以外の塊とに、中央列のテーブルが境界線となって見事に分かれていた。昨日の時点では、まだ混ざり合っていたため、驚きは尚のことであった。

 幸いなことに、統合軍の側にも食券の自動販売機とカウンターはある。ナイアはそちらの方に向かっていると、統合軍の塊からも他の世界の塊からも離れた端の方で、細々と食事をするアインスとユニを見かけた。彼女らを認めると、ナイアは意地の悪い笑みを浮かべてそちらに足を向けた。

 

「よう、現職の特務のくせにウロボロスに精神操作されたアインスさんよ、元気かい?」

 

「うん」

 

 ナイアがアインスに小声で嫌味を言うが、彼女はドーナツを頬張りつつ、ナイアの方を見ずに無表情で答えた。

 

「悪態を吐くだけなら離れてくれ。食事が不味くなる」

 

 ユニもナイアを見ずに、蕎麦をすすりながら告げる。しかし、ナイアは足を一歩も動かさず、侮蔑の視線をユニに向けた。

 

「あたしの飯は上手くなるんでな。それに売国奴の非国民風情がいくら真っ当なこと言ったって、全く心に響かねえな」

 

「まだ、根に持っているのか」

 

 ユニは箸を持つ手を止め、俯きがちになって呟いた。ナイアはその彼女の行動を鼻で笑い、この場の彼女も含めた三人にのみ聞こえる声で言う。

 

「何寝ぼけたことほざいてやがる。あんたらの裏切りが無けりゃ、今頃あたしたちはここに居ない。ウロボロスなんて面倒なやつの相手をせずに済んだかもしれない。もっと言えば、縁もゆかりもない連中のために命を張らなくて済んだんだ。誰があんたらの所業に恨みを持たねえって言うんだ」

 

 ナイアは静かに怒りを込めながら告げた。その一言で、ユニは完全に押し黙ってしまった。それに気分を良くしたナイアは、彼女の口惜しそうな表情を尻目に、食券の自販機に向かう。そこで塩ラーメンの食券を買ってカウンターに出し、ブザーを渡されてから、ルルーナたちのいる集まりに向かった。

 

「よっ、混ざっていいかい?」

 

「うん、いいよー」

 

 ルルーナはサイコロステーキを食べながら答えた。ちょうど彼女の向かいの席が空いていたので、そこに腰を下ろす。

 

「ラピュセア少佐、じゃなかった中尉、どうだ? いい酒が今日手に入ったから、今夜私の部屋で一杯やらないか?」

 

 隣に座っていたナタク・ヴリューナが、上機嫌な様子で話しかけてきた。彼女はルルーナやリーリヤの所属する統合軍第一大隊の隊長で、大学院の方に学生として通っている。また、ナイアとは士官学校時代の同期であるため、そこそこに仲が良い。しかしながら、ナイアが中等部に留学したために、これまで話す機会が無かったのだった。

 

「悪いが、今夜は用事があるんでね。徹夜で呑むなら、まあ付き合えんこともないが」

 

「じゃあそうしよう。明日は休みだし、二日酔いしても問題ないだろう」

 

「何やら楽しそうなことを計画しているではありませんか。私も混ぜてくださいよ」

 

 後ろからそう話しかけてきたのは、ユウヒ・ライクールだ。彼女もナタクと同じくナイアの同期で、大学院の方に通いながら統合軍第一大隊の副隊長を務めている。彼女が手ぶらでいるところを見ると、どうやらつい先ほどトレーをカウンターに戻してきたようである。

 

「ユウヒも混ざるとなると、プチ同窓会みたいだな。あともう一人くらい、同期を呼んでも良さそうだけど」

 

「呼んでもいいが酒が足らんぞ。まあ、その辺は持ち寄れば済むことだろうけど、ナイアは一応高等部の身分だから、持ってくるのは無理だろう?」

 

 ナタクの言葉はもっともであった。この時ほど、ナイアは初めに中等部の学生として青蘭島に来たことを後悔したことはなかった。その口惜しさで固まっていると、ナタクともユウヒとも違う女性の嘲笑うような声が、ナイアの近くで聞こえた。ナイアは彼女の姿を見た瞬間、「げっ」と思わず漏らした。

 

「げっ、とは失礼ねェ。実年齢バラすわよォ、ナイア?」

 

「おいスレイ、バラしたらぶっ殺すぞ。つか何でここに居んだよお前。学生でも何でもねーだろ」

 

 その女性はスレイ・ティルダインであった。特務隊の中佐で、ブルーフォールでは強奪部隊を率いたほどの有能な人材だ。彼女もまた、ナイアたちの同期である。

 

「ちょっとした視察よ。でも用事は済んだし、同期のよしみであなたたちの酒宴に付き合ってあげてもいいけど?」

 

「えー、スレイも来んのか」

 

「私は構わんが、ティルダイン中佐も参加するとなるとこれはいよいよ酒を増やさないといかんな」

 

 難色を示したナイアに対し、ナタクは比較的好意的だった。ナタクの態度に好感を持ったらしいスレイは、彼女の方に寄っていった。

 

「ナタクはいい子ねェ。作戦行動中でもないのに同期の私を『ティルダイン中佐』って呼んでくれるあたりも、どこぞの特務から引退して降格した中尉とは大違いだわァ」

 

「うるせー馬鹿。オフなんだからどうでもいいだろ、んなこと」

 

「私もスレイと呼び捨てにしますし問題は無いでしょう。まあでも、スレイも来ることには賛成ですよ」

 

 ユウヒのその一言で、ナイアは軽く四面楚歌の状態となってしまった。それで、彼女は溜め息をついて頭を掻きながら、小さめの声で言う。

 

「まあ別に、スレイが来てもいいよ。むかつく野郎だけど、嫌いってわけじゃないし」

 

「あらあら、ツンデレってやつかしらァ?」

 

「そう思ってくれて構わんよ、別に」

 

 からかってきたスレイに対して、ナイアは気怠げに返した。否定などしたら彼女が調子付くのは火を見るより明らかだ。ここは抑えるに限った。

 ちょうどその時、カウンターで渡されていたブザーが鳴った。それでナイアは一旦席を外し、塩ラーメンを受け取ってからまた戻った。すると、着席して麺を啜り出した直後に、ナタクが話しかけてきた。

 

「しかしナイア、その年で高等部って楽しいのか? 結構、精神的な苦痛が大きいと思うんだが」

 

「楽しいこともあれば嫌ーなこともあるさ。まあ、今は一番楽しくないけどな」

 

「哀れねェ。私が手を回して、大学部の方に通わせてあげましょうかしらァ?」

 

「けっ、余計なお世話だよ。お前の助けなんか死んでも借りたくないね」

 

 面白がるようなスレイの申し出を、ナイアは一蹴した。

 

「こんなシケた話するより、もっと前向きな話しようぜ。例えば今夜飲む酒は何にするかとか」

 

「G・Sの酒は飲み飽きましたし、やっぱり地球産の方がいいでしょう。私は、ウイスキーでも持っていきますかね」

 

 ナイアの言葉にユウヒが乗る。彼女の言葉にナイアはありがたく感じた。旧友の前でいつもよりも気が緩んでいるとはいえ、負の感情まで出すのは好ましくない。

 

「じゃ、私はとっておきのものを持って行くわ。楽しみにしなさいな」

 

「私が手に入れたのも良いものだからな。どんなものかは今夜のお楽しみだ」

 

 スレイとナタクは口々にそう言った。スレイのとっておきが如何なるものか、非常に不安であったが、それだけに楽しみでもあった。ナイアはこれはいよいよ早くハッキング作業を済まさねばならんと意気込んでいると、ルルーナとリーリヤから羨望の眼差しを向けられていることに気がついた。

 

「ん? どうしたお前ら」

 

「いや、何でもないよ、うん」

 

 ルルーナは取り繕ったような笑みを浮かべて、首を横に振った。その横で、リーリヤも焦った様子で何度も首を縦に振っている。

 

「ルルーナもリーリヤも、来たいならいいぞ」

 

「ああ、いや、ホントに何でもありませんから。同窓会のお邪魔をするわけにもいきませんし」

 

「そうですそうです。どうかお気になさらずに」

 

 ナタクが誘うも、二人は遠慮し続けた。

 

「もしかしてスレイがおっかないからとかですか? なら大丈夫ですよ。こう見えて結構俗っぽくて、お茶目なところもある良いやつで、滅多に怒りませんし。あなた方が思ってるほど怖い人じゃないですよ」

 

 ユウヒもスレイを親指で指しながら説得に加わった。すると、スレイは彼女の肩に手を置いてルルーナとリーリヤに話しかけた。

 

「ユウヒの言葉はさて置いて、別に酒の席で粗探しなんてしないわよ。だからビビることなんて無いわァ」

 

 スレイは満面の笑顔だった。ナイアたちは昔から彼女を知っているから、その笑顔に他意はないことが分かっていたが、基本的に特務の中佐で記憶操作まで行える彼女の一挙手一投足は、他の統合軍の兵士を震え上がらせるものだ。事実、完全に恐れ慄いてしまったらしいルルーナとリーリヤは、別れの挨拶をして、一目散にその場から去ってしまった。

 

「あーあ、逃げられちゃったな」

 

 ナイアは麺を一口啜って、スレイにニヤニヤと笑いながら顔を向けた。対し、彼女の方は不満げに呟く。

 

「特務の左官としてはこれで良いのだろうけど、結構複雑ねェ」

 

「じゃあ、あたしみたいに特務辞めたらどうだ? そうすりゃイメチェンも楽じゃん?」

 

「私まで特務を抜けたら誰が残るのよ。真剣にあなたに復帰してもらいたいって思うくらい、今の特務はクズばかりなのよ」

 

 ナイアは軽口を叩いたつもりだったが、スレイの方は真剣な表情で答えた。その顔を見て、ナイアは何も言えなくなってしまった。特務を抜けたのは間違いだったかと、一瞬でも思ってしまったのだった。

 

(やっぱり、ブルーフォールは成功させるべきだったんだな。失敗が無けりゃ、カールとアイリスが謀殺されることも無かったんだから)

 

 ナイアは立場上決して口に出せないその思いと共に、麺を勢いよく啜り上げた。

 

        ***

 

 ナイアが話しているのを遠巻きから見ていて、紗夜は複雑な気分になっていた。彼女は決して上機嫌ではなかったが、彼女の見せていた表情は、どれも紗夜らが見てきたものとは違っていた。それが悪いということでもないが、彼女が言った、友情ごっこという言葉が、殊更に紗夜の心を苦しめた。

 

「やっぱり、私たちはナイアの普通の友達以上にはなれないのかな」

 

 紗夜と同じようにナイアを眺めていたエルエルが、ポツリとこぼした。その言葉に、ステラが比較的冷静に返す。

 

「波長が合わなくなったから、普通の友達も無理だと思う。あそこまで私たちと統合軍の人とで態度を使い分けてる所を見ると、私たちのことを見下していた可能性だってある」

 

「考えたくはありませんが、私もステラと同意見ですわ。さっきの態度も考えると、本当に私たちを下に見ていたんでしょうね」

 

 辛そうに、アルマリアはステラに続けた。すると、一緒に食べている生徒会のメンバーのうち、ソフィーナがどこか冷めた様子で言う。

 

「仕方ないんじゃないの。彼女、元々侵略者じゃないの。仲良くすること自体、幻想だったってことよ、きっと」

 

「ブルーフォールの失敗を根に持っている人は、まだここにいる統合軍の大多数が該当しますからね。だからといってブルーフォールを忘れろと言うのは、あまりに傲慢で、酷な要求です。今、統合軍の人と真の意味で友になろうと言うのなら、怨恨を一身に受け止める覚悟が無いと無理でしょうね」

 

 マユカは、淡々と、どことなく寂しそうに言った。多くのG・Sの出身者から恨まれる立場である彼女の言葉だからこそ、その言葉には説得力があった。

 

「リーナの件についての対立もあるしね。これに関しては、私たちの方に、流石に言い過ぎじゃないのって子も結構いるけれど」

 

「なんとかできたら良いんだけど、私たちが出しゃばったら事態の悪化を招きそうだしね。みんな仲良くできるのが理想だけど、それを振りかざしてどちらかを非難したら、溝は深まるよね、多分。今みたいな非常の事態だからこそ、溝を認めて妥協点を見つけなきゃ、理想に一歩近づくことすらできないと思うから」

 

 ルビーに続けて、美海が笑顔を消した真剣な表情で語る。ここ数日、紗夜には、彼女は余裕が無いように見えた。その理由は、どのように考えても生徒間の対立に違いなかった。ウロボロスとの戦いが始まった頃からその傾向はあったものの、リーナがシノンを、仕方なかったとはいえ殺したことがきっかけで爆発したと言える。彼女の理想と現実との乖離は深まる一方で、元に戻る望みも消え失せていた。しかも、穿った見方をすれば、彼女の唱えていた「みんなが仲良く、絆を大切に」という理想が浸透した結果、皮肉にもこの乖離を呼んだとも取れるため、彼女が疲弊するのも無理はなかった。

 

(私も、ナイアとの仲を無理に戻そうとするんじゃなくて、ナイアを理解して溝を認めた上で、新しい関係を築かなきゃな。絶縁されるくらいなら、そうしたい)

 

 紗夜は、再びナイアを眺めた。今の彼女は笑っていたが、その笑顔は紗夜が彼女と知り合ってから今日まで見てきた笑顔よりも、ずっと自然なものに見えた。図らずもそのことを認めたとき、紗夜の視界に靄がかかった気がした。

 

        ***

 

 誰がやったかの特定を少しでもし辛くするために、裏山の森でハッキングを済ませたナイアは、それで得られた事実に対して考え込みながら、酒を求めてナタクの部屋に向かっていた。

 

(まさかあんな思惑だったとはな。どうせS=W=Eの内ゲバだろうって考えてたのがとんだ計算違いだったよ、全く)

 

 やがてナタクの部屋の前に着いたのだが、静かな話し声が聞こえるだけで、酒宴とは程遠い静けさであった。不思議に思いつつドアを開けて入ってみると、その理由に納得できた。

 部屋にいたのは、180ミリリットルのウイスキーの角瓶を片手にポーカーをするユウヒと、その相手の、赤ワインの入ったワイングラスを片手にするスレイ、そして酔い潰れたらしく大きないびきをかいてソファで熟睡しているナタクであった。

 

「やれやれ、ナタクは爆睡しちまってるってのに、おたくらは酒に強いね、ホント」

 

 ナイアは、テーブルや床に乱雑に置かれた、大量の空の酒瓶や缶を一瞥して、呆れながらに言った。

 

「あたしの分の酒はどこだ?」

 

「ちゃんと取ってありますよ。ちょっと待ってください」

 

 ユウヒはゲームを中断して、ウイスキーをストレートで一口飲んでから台所に入り、そこから酒瓶と缶の詰まった紙袋を取り出した。ナイアがそれを覗いてみると、その殆どが地球産の酒であった。G・Sでは必然的に動物由来の酒一択となるので、バリエーションが多い方を望むなら、これは当然であった。

 それらを袋から全て出して眺めていると、ふと二本だけ雰囲気の違う酒瓶があることに気がついた。

 

「なんか高そうなワインと老酒があるな。スレイのとっておきがこのワインで、ナタクのいい酒がこの老酒か。あたしが来るまでこれ開けるの待っててくれたなんて、感動だなあ」

 

「私があなたに気を遣うなんて滅多に無いことだから、感謝することねェ」

 

 スレイがナイアにまとわりつきながら言う。先程までは彼女が比較的冷静に見えたのだが、どうやらちゃんと酔っているらしい。しばらくしてスレイは飽きたようにナイアから離れると、今度は寝ているナタクの方に寄って行き、その肩を揺さぶる。

 

「ナイア来たんだから、いつまでも寝てないで起きなさい、ホラ」

 

 しかし、ナタクは一向に起きる気配がしなかった。スレイも根気よく揺さぶってみるものの、ナタクの眉はピクリとも動かなかった。

 

「やれやれ、この酒は明日に持ち越すこととしましょう。明後日も休日ですから、問題はないでしょう。乾杯も明日に回しますか」

 

 ユウヒは、紙袋に老酒とワインを戻す。外せない用事だったとはいえ、ナイアが遅れたから彼女が寝てしまった。そのことを悪く思ったナイアは、ばつの悪い表情を浮かべた。

 

「ごめんな。あたしが遅れちまったばかりによ」

 

「気にしないでいいわァ。悪いのは、この、酒に大して強くもないくせにガブガブ飲んだナタクなんだもの」

 

 スレイがナイアを慰める。ユウヒもスレイに頷いて、ナイアの肩を叩く。どこか恥ずかしくなったナイアは、それを誤魔化すように、椅子に座って最も手近にあったビールの缶を開けて、それをぐいっと飲んだ。

 

「ぷはー、やっぱ酒はいいなあ。地球産のは久しぶりだからなおさらだ」

 

 喉が渇いていたこともあって、独特の苦味も爽やかな旨味に変わっていた。それからその缶の中身を全て飲み干して、恍惚のままに天井を見た。

 

「ああ、最ッ高! もう一杯だ、もう一杯」

 

 ナイアがそう叫ぶと、ユウヒが彼女の前のテーブルに目一杯氷の入ったグラスを置き、そこにウイスキーを注いだ。

 

「ほら、一杯どうぞ」

 

「ありがてえ。じゃ、早速」

 

 ナイアはそのウイスキーを一口飲む。どうやらユウヒはクセの少ないウイスキーを選んできたようで、ウイスキーとしてはまろやかで飲みやすかった。

 

「そうそうナイア。さっきまで何してたのかしら?」

 

 スレイが少し離れた所から、ワインを飲みつつ尋ねた。ナイアはグラスをテーブルにおもむろに置くと、浮かべていた笑みを消して答える。

 

「EGMAにハッキングしてたんだよ」

 

「あらァ、そんなこと簡単にバラすなんて、その歳で耄碌でもしたのかしら?」

 

「そんなわけないだろ。あたしたち統合軍にも関係ある話だからさ」

 

 ナイアがそう言うと、ユウヒとスレイの表情が引き締まった。酒が入っているにも関わらず、その意識の切り替えが早いことにナイアは頼もしさを覚えた。それを胸に、ナイアは得られた事実を告げる。

 

「EGMAの目的は人間全てをアンドロイドにすることだそうだ。S=W=Eだけじゃなく、G・Sも、地球も、D・Eも、T・R・Aも含めてだ。なんでも、『主』の世界を超えた、究極の秩序を持つ完璧な社会を作りたいんだとよ。で、その『主』から借り受けているらしいウロボロスを用いて、色々と悪さを始める予定らしい。こないだ亜空間移動してきたのがそのウロボロスで、あとシノンを丸呑みしたのは、反EGMA派の送り込んだヤツを解析してより正確な情報を得ようとしたかららしいぜ。いきなりリーナにやられたのは想定外だったみたいだが、それを利用して、反EGMA派のアイドル的な英雄にする予定だったリーナの評判を落とす工作をしたってことらしい」

 

 ナイアはそこで一息ついた。すると、すかさずユウヒが質問をしてきた。

 

「大体わかりました。ですが、その『主』というのはなんなのですか?」

 

「分からん。その情報を引き出そうとしたところで気付かれちまったんだ。まあとにかく、EGMAより上位の存在ってことは確かだな。で、ウロボロスは、『主』とかいうのが使役するのと、EGMAが使役するのに分かれていると考えて良さそうだな。こないだEGMAにウイルスを流そうとしたウロボロスは『主』が使役するものと考えれば、EGMAと『主』は敵対関係と取っても問題ないだろう」

 

「つまるところ、EGMAは『主』を超えたいわけね。アンドロイドはそのための手段、と。S=W=Eのアンドロイドがあんなに人間臭いのは、人間に成り代るための存在だからと考えても差支えはなさそうね」

 

 スレイはそのように纏めると、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、怒りに拳を震わせながら言った。

 

「冗談じゃないわ。緑の世界の大地も人も空も水も社会も全て、私たちのものよ。それを訳の分からない余所者で、しかも人工物風情が()ろうなんて、生意気にも程があるわね」

 

「ええ。私も同意見です。それが真実ならば、S=W=E相手に戦争することとなっても構いません」

 

「あたしもだ。一発、灸を据えてやらなきゃ気が済まねえ」

 

 ユウヒに続けてナイアも、己が意志を表明する。三人は顔を合わせて頷き、それからスレイが口を開く。

 

「ナイアを疑う訳じゃないけど、とりあえず信憑性を強化するために、特務隊総勢で、明日からでも調査に取り掛かるわ。ハッキングの時、データとか抜き出してきたかしら?」

 

「当然。ほら、必要なんだろ」

 

 ナイアは統合軍の制服の内ポケットから、ハッキングで得たデータを保存した2テラバイトのUSBメモリを五つ取り出し、スレイに差し出した。彼女が受け取ってポケットに入れたのを見てから、ナイアは彼女に忠告する。

 

「ただ気をつけろよ。データの改竄の方は向こうも分かってて放置していたきらいがあったが、あたしのハッキングは想定外だったみたいだからな。とんでもなくセキュリティが強化されることもあり得ると思うぜ」

 

「だからこそ、特務隊総勢で調査にあたるのよ。異動のせいで有能なのが何人か更迭されたとはいえ、なんだかんだで各分野に秀でた選りすぐりのエリート部隊なんだから、舐めないで頂戴」

 

 スレイは胸を張って言った。それは自信の表れとも、虚勢を張っているとも取れた。食堂での会話のことを考えると、もしかしたら後者の方の確率が高いかもしれない。しかしそうだとしても、特務の外部の人間に力を貸してくれとかいうことを頼むのは、「各分野に秀でた選りすぐりのエリート部隊」という自負が許さないのだろう。ナイアはそう推測し、ただ一言「おう」と返した。

 

「この情報、他の者には知らせますか?」

 

 代わって、ユウヒがスレイに尋ねる。彼女はしばらく考えてから答えを出した。

 

「情報が確定するまでは他言無用にして。不要な混乱は避けたいわ」

 

「了解しました」

 

「それから、ナイアもね」

 

 ユウヒが応答した直後、スレイはナイアに釘を刺すように言った。つまりそれは、リーナにも話すな、ということだろう。

 

「ああ、分かってるよ。とにかく、情報が確定したらどうなる? S=W=Eとドンパチ始めるか?」

 

「流石にそんなこと決める権限は私には無いし、今の国力からいって、やるとしたら向こうが攻めてきた時になるわ。だから、することと言えば防衛体制の強化くらいね」

 

 スレイはどこか諦めたように言った。ブルーフォール後の大規模な体制の再編で、特務隊所属といえど、かつての権力は見る影もなく、その殆どが削られていた。流石に以前の特務隊の権限が強すぎたこともあるが、スレイは歯痒く思っているようだ。

 

「とにかく、EGMAは危険だということは確かだろう。なら、反EGMA派の組織を支援してやるのもアリじゃないか? EGMAが何かする前にそいつらに破壊してもらえばこちらの損害は少なくて済むし、恩を売ることもできる」

 

 いつの間にか起きて話を聞いていたらしいナタクが、先程酔い潰れて寝ていたとは思えないくらいハキハキと、三人の間に入りながら言う。

 

「ナタクの言うことにも一理ありますが、あなたいつ起きたんですか?」

 

「ナイアがハッキングしてきたとか言ってたあたりだな。祖国の危機とあっては、おちおち寝てもいられないからな」

 

 ユウヒの問いに、ナタクは爽やかに答えてみせた。その様子を見てから、スレイが全員の顔を見回しながら提案する。

 

「四人起きたことだし、今のうちにアレ、やるわよ」

 

 スレイはそう言うと、ナイアたちの反応を待たずに、彼女のとっておきの赤ワインを、四つのワイングラスに注いで、それを全員に手渡した。

 

「では、我らが祖国G・Sの繁栄と勝利に捧げて」

 

 スレイが全員の目を見ながら取った音頭に合わせて、四人はグラスを互い互いに打ち付けた。ガラス同士がぶつかる音が、ナイアの耳に心地よく聞こえた。




 前に全十二話の予定とか言った気がしますが、本作でアンジュの二次創作は最後にしたいので、全十八話の予定に変更します。
 その関係で、出す予定のなかったキャラクターがこれから結構出てきます。今回初登場となったナタク、ユウヒ、スレイもそうしたキャラクターです。次回にはレミエルも登場する予定です。
 次回からも拙作をよろしくお願いします。


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エゴイストのカプリッチョ

 謹慎が解かれる前日の夜、いつになく真剣な表情をしたナイアとラン、そして特務隊の高官であるスレイが、リーナたちの部屋に訪れた。

 

「これは、反EGMA派の盟主の、アーネスト=ホーク准将と幹部の方の承認は既に取り付けた話なのだけれど、あなたには直接伝える必要があると考えたから、言っておくわね」

 

 スレイは、テーブルを挟んでリーナ、ジュリアと向かい合ってから、単刀直入にそのようなことを言い出した。殆ど秘密のはずの、アーネストの名前を反EGMA派の盟主として出されたことで、リーナの全身に緊張が走った。息を呑み、彼女の次の言葉を待つ。

 

「こないだの閣議で、G・Sは反EGMA派を支援することに決定したわ。さっきも言ったように、アーネスト准将やその他の幹部の承認は既に受けているわ。というわけだから、EGMAを潰しにいく時は、ここにいる第一大隊も一緒よ」

 

 リーナは、スレイの告げた内容が俄かに信じられなかった。いくら考えても、統合軍が自分たちに力を貸す理由が見当たらなかった。しかし、その困惑は想定通りとばかりに、ナイアは書類の束をリーナに手渡した。

 

「特務隊総出で、この五日間EGMAに関する情報をかき集めたのと、夏菜とあたしで個人的に調査したのを纏めたものだ。それを読めば、統合軍が手を貸す理由も分かるだろ。ただ、その内容はまだ口外してくれるなよ。あくまでジュリアとか、反EGMA派の仲間うちに留めておいてくれ」

 

 リーナはナイアの言葉を聞いて、恐る恐るそれらに目を通した。そこには、EGMAが人間からS=W=Eだけでなく、他の世界の社会を乗っ取ろうとしていることと、その段取りが事細かに書かれていた。しかし、リーナがその中で目を奪われてしまったのは、EGMAが「主」なる存在からウロボロスを借用して行動を起こそうとしていることよりも、人間との生殖で子供を残すアンドロイドが、既に社会に放たれていることであった。

 

「確かに、これは統合軍が支援するに足る理由ですね」

 

 リーナは、なんとか平静を保ちながら呟いた。アンドロイドが人間との子を残せることには触れないでおいた。軍略的には、それよりも重要な情報が山ほどある。スレイたちの前で、それに言及するのは、戦略眼が無いと思われる恐れがあると考えてのことだった。

 

「しかし、私たちを支援するというのは、私たちがEGMA打倒後に立ち上げる予定の国家を支援するということにもなるでしょう。それは、具体的にどうなるんですか?」

 

 リーナは資料をジュリアに手渡してから尋ねた。この問いには、ランが答えた。

 

「簡単に言うと、予定としては、(ハイロゥ)を新たに、白と緑の世界とで作ります。軍事同盟も経済協力も結びますが、一度地球を経由するよりも、こちらの方が圧倒的に便利でしょう。それに、G・Sとそちらの新国家の立場は対等です。傀儡にしようとか、そのようなことは目論んでいないのでご安心ください」

 

 ランの説明を受けて、リーナは少しホッとした。彼女の言った、まさにその傀儡にされるか否かが、最も気掛かりなことであったからだ。

 

「それと、リーナ。お前が今バッシングを受けているのは、反EGMA派のアイドル的な存在に仕立てられようとしているお前を、学園の生徒という立場上暗殺できない代わりに蹴落とすためみたいだ。一応、その工作を行ってる奴も特定したが、なんせ全員が学園の生徒だ。こっちとしてもリーナにはよく働いてもらいたいからそいつらを抹殺したいところだが、今以上に学園との関係を拗らせるのは得策じゃない。済まんが、このことに関しては手を貸すことは難しい」

 

 ナイアは、終始話づらそうだった。しかし、全く納得できないことではない。リーナは、バッシングの首謀者が誰かを特定するところまでやってくれただけでありがたい気持ちだった。

 ランたち三人の用は以上だったようで、それから別れの挨拶を交わして、三人はリーナの部屋から退出していった。

 

「このEGMAの目論見、放って置けないけど、私個人はともかくD・Eとして兵を出すことはなさそうね」

 

 資料に目を通し終わったらしいジュリアは、テーブルにそれを投げ捨てるように置いて、どこか呆れたように言った。リーナがその発言の理由を尋ねると、ジュリアはD・Eを小馬鹿にするような態度で答えた。

 

「何、簡単な理由よ。D・Eの連中って、殆どが力が全てみたいな考えで、自分の能力に過剰な自信を持ってるのよ。だから、もしこの資料を見ても、力で捩じ伏せればヘーキヘーキ、なんて思うに違いないわ」

 

「でも、みんながみんなそういう考えではないんじゃないですか?」

 

「そうだけど、でもそういうのはマイノリティよ。こういう時はマイノリティはマジョリティに殺されるのよ」

 

 ジュリアは投げやり気味に返した。リーナとしてもそれ以上何かを言うことも無かったので、それで会話が止まってしまった。その状態が気持ち悪く感じたので、何かないかとリーナが話題を探していると、その間にジュリアが口を開いた。

 

「ねえ、リーナ。EGMAを倒したら、新国家を作るって言ってたわよね」

 

「ええ。今はその予定ですが」

 

「他の世界の人間の私でも、その国の住人になることは出来るかしら?」

 

 その問いに、リーナは目を丸くした。元々ジュリアが国家への帰属意識が希薄であるとはいえ、他の国、まして異世界の住人になりたいと言い出すとは、思いもよらなかったからだ。

 

「大丈夫だと思いますが、でもなんでまた、そんなことを?」

 

「べ、別にいいじゃない。どんな理由だって。ただなんとなく、そう、なんとなくよ」

 

 珍しく、ジュリアは狼狽していた。顔も赤らめている。なんとなく、というのは嘘に違いなかったが、彼女の真意そのものを悟ることは、リーナには出来なかった。

 

        ***

 

 翌日は、黒い雲が漂い、時折雷の鳴る、湿気の高い日だった。謹慎処分の解けたリーナは、アルフレッドに呼び出されていた。一人で生徒指導室へ来い、とのことだった。何を言われるかと不安に思いながらも、リーナは朝の始業前の廊下を歩いていた。時折すれ違う生徒の目線が痛かった。彼らの目線の中には、完全に敵意が込められたものもあれば、単に珍しいものを見る目もあった。しかし、一週間の謹慎処分とバッシングの話は、リーナの神経を過敏にさせるには十分すぎた。後者の目線を向ける者に対してさえ、心のどこかでは自分を非難しているのではないかと疑ってしまっていた。それゆえに、生徒指導室の扉を開けた時は、不安はとうに消え失せ、視線に怯えることは無くなると、心底安心した。

 

「失礼します」

 

 リーナはそう言いはしたものの、ノックするのも忘れてそこに入り、扉を閉めた。そうしてからノックをしなかったことを思い出したが、先に室内に佇んでいたアルフレッドは、気にしていない様子であった。

 

「リーナ。盗聴の危険は無いから、安心して答えてくれ。昨日、ラン・Sグリューネ殿下と、統合軍のスレイ・ティルダイン中佐にナイア・ラピュセア中尉がお前の部屋にいらっしゃったな?」

 

「ええ、そうですが」

 

「となれば話は聞いているはずだ。私とお前はEGMA打倒の際には最前線で戦うことになる。それに成功、特にお前がEGMAを破壊できれば、今流布しているお前の悪評などは、少なくとも白の世界の中では大したことはなくなるだろう」

 

 アルフレッドのその言葉には、リーナは目を丸くした。それが意味するのは、彼も反EGMA派だったということだろうが、今の今まで、彼のイデオロギーに触れる機会は無かったし、マイケルがアナベルと婚姻関係を結んだ時も、特に不満を表に出すこともなかったため、彼がリーナと同じ立場とは思いもよらなかった。

 リーナの困惑を悟ったのか、アルフレッドは申し訳なさそうに、視線を落として告げた。

 

「済まなかったな。今まで黙っていて。だが、お前とメルティ少佐を守るためにも、私は中立のふりをせねばならなかった。隊を率いる私までもが反EGMAの立場を取れば、第八機動小隊は反乱のための部隊ということとなり、即刻取り潰され、お前とメルティ少佐は国家反逆罪で処刑されていただろうからな」

 

「え、EGMAは、私とメルティの立場を把握しているんですか」

 

「当たり前だろう。あそこまで嫌悪感を見せておいて、把握できないはずがなかろう。それに、我が隊にはマイケルもいる。あいつはEGMA恭順派だ。情報は流されている恐れもあるし、最悪、対峙して殺し合いにもなりかねん」

 

 アルフレッドが淡々と語ったそのことは、リーナは完全に失念していた。特にマイケルと戦わねばならぬ時が来るだろうということは、これまで無意識のうちに心の奥へ追いやっていた。抱く思想は違えど、ずっと兄として尊敬し、仲良くやってきた彼を、心の底から敵と思うことができなかったのだ。

 

「父上は、いつから反EGMA派に与したんですか?」

 

 リーナは動揺を隠し、話題を逸らそうと、歯切れ悪く尋ねた。アルフレッドは少し考えてから、逡巡している様子を見せ、おもむろに口を開いた。

 

「EGMAに反逆しようと決意したのは、マイケルがアナベルを娶った時からだ。あの時は母さんを亡くしてから13年経っていたが、恥ずかしながらまだ私の中には母さんに対する未練が残っていた。そこに、あいつが妻としてアナベルを連れて来たんだ。人間だったら素直に祝福できたよ。だがあれはアンドロイドだ。永久に動き続けられるとは言わないが、少なくとも人間よりも遥かに長い時を生きられるし、壊れやすくもない。あの存在は、私の心の傷を抉るのに十分すぎた。だから、私はアンドロイドを人間と同じ社会に、同等の存在として捩じ込んだ元凶の、EGMAを打倒することを決意したのだ」

 

「そう、だったんですね」

 

 静かに怒りを示す彼の姿が、今のリーナの心と重なった。リーナもまた、アンドロイドの、人間にあらずして人間たる性質に、愛する者を喪失した悲しみを肥大化させられたという点で、彼と同じだ。そして、その激情を自分のために今まで隠してくれていたことに、リーナは感謝の念を抱いた。

 この少ないやり取りで、リーナは、子としても、別の個人としても、アルフレッドに対する理解が一歩進んだ気がした。これまでリーナが知っていた彼は、ただ厳格な父である、ということだけであった。小さな頃から士官学校にいて、更に早いうちからパイロットとしていくつかの部隊を転々としていた上、一緒の部隊に配属され、一緒に青蘭島へ行っても、彼との距離は常に遠かった。しかし今は、近い。数歩歩けば届く位置にいる。

 

「ち、父上」

 

 リーナは恥じらいながらアルフレッドに声をかける。彼は、その言葉の続きを待ちつつ、リーナを見つめる。それで余計に恥ずかしさが増してしまったが、リーナは思い切って口にした。

 

「その、あの、今甘えても、いいですか? ずっと、父上とは遠かったものですから」

 

「もちろん。お安い御用だ」

 

 アルフレッドは、優しい声色で答え、両腕を広げた。その体に、リーナは吸い込まれるように抱きついた。そこには、カールを抱いた時とは違うものの、確かに暖かな感覚があった。カールの体はリーナを興奮させたが、アルフレッドのそれは、リーナを安らいだ気持ちにさせてくれた。

 それからしばらくして、アルフレッドはリーナの背中に手を回して、再び柔らかな声で言う。

 

「何年振りかな、リーナをこうして我が胸に抱いたのは」

 

「私が軍の学校に入ったのが六つの時ですから、少なくとも10年振りでしょうね。私には、それ以前の記憶が曖昧なので、よくわかりませんけど」

 

「そうか、10年か。もう、そんなに経ったのだな」

 

 アルフレッドがリーナを見下ろす。その慈しみに満ちた目は間違いなく父親としてのもので、リーナの知る厳格な彼のものではない。しかし、嫌な気はしない。ずっと、いつまでもその目で見てくれたら、とさえ思えた。

 

「大きくなったな、リーナ。本当に、よく生まれてきてくれた」

 

 アルフレッドの腕の力が強まった。親から受ける愛情表現としては最高峰のその言葉と抱擁に、リーナの胸に込み上げるものがあった。ずっとこのようにしていたい。リーナの頭はそれでいっぱいだった。しかし、時は無情だ。始業十五分前を示すチャイムが鳴ると、アルフレッドの腕の力が緩み、リーナも彼から離れた。それから彼は、ためらいがちに口を開いた。

 

「謹慎中、ジュリアの様子はどうだった?」

 

「ジュリアですか? 彼女なら、謹慎を楽しんでる節もありましたね。ただ、時折誰かに会いたがっていましたけど」

 

「そうか。分かった」

 

 アルフレッドはそう短く言うと、リーナの肩を強く叩いて、先程とは打って変わって真摯な目でリーナを貫いた。リーナも息を飲んで次の言葉を待つ。

 

「リーナ。どれだけ敵が増えても、魂の味方はいつだっている。それを忘れるなよ」

 

「——はい!」

 

 リーナは、ジュリアや夏菜たちの友人の顔を思い出しながら、はっきりとした声で返答した。それで、アルフレッドは満足げに笑みを浮かべる。

 

「では、また」

 

 アルフレッドはそう言って、生徒指導室から退出した。リーナはその背中を見えなくなるまで見送ると、浮き足立った気持ちで歩き出した。生徒指導室のある棟とリーナの教室がある棟は別であるため、移動には時間がかかる。

 その移動の間は、リーナはずっとアルフレッドの胸に抱かれた感触を思い出していた。暖かで心地が良く、不安を消し去ってくれたそれを思い出すと、生徒からの視線などは気にならなかった。しかし、その一方で自分が今、どこを歩いているのかも曖昧になっていた。

 おやと気づいた時には、高等部の教室棟とはまるで違う所を歩いていた。慌てて時間を確認してみると、始業まであと五分しかなかった。だが、幸いなことにその窓から見える景色には見覚えがあった。風紀委員として校内の見回りをよくやっていたおかげで、ここの窓から飛び降りれば、高等部の教室棟への近道に入るのも容易い。

 

(全力で走れば、始業には間に合うはず!)

 

 リーナはそう思い立つと、早速そこの廊下の窓から飛び降りた。その階は三階だったが、プログレスとしての身体能力をもってすれば、さほど大したことのない高さだ。リーナは大事をとって、受け身を取って着地すると、全力で駆け出した。ところが、走り出してから数十秒もしないうちに人とぶつかってしまった。リーナの方が相手よりも小柄で、しかも相手の体幹が強靭だったおかげで、リーナだけ弾かれて尻餅をついてしまった。その相手を見上げてみれば、そこにいたのはマイケルであった。かつて似たようにぶつかった時とは違い、リーナはどうしようかと戸惑ってしまった。

 

「やれやれ、またリーナか。ほれ」

 

 マイケルは呆れながら、いつかのように、手を差し伸べた。だが、リーナはその手を見つめるだけで、素直に取れなかった。結局、リーナは自分で立ち上がり、軽く謝罪してすぐに高等部の教室棟に向かおうとした。

 

「ああ、おい、待ってくれよ。知らせたいことがあるんだ」

 

 彼は、リーナの肩を掴んで呼び止めてきた。それでリーナが振り返ってみると、珍しく興奮して、早く話したそうにしていた。

 

「実は、お前の謹慎処分の間にな」

 

 マイケルはそこで一旦一息つき、溜めてから満面の笑みで晴れやかに言う。

 

「アナベルがな、子を宿したんだ!」

 

 その言葉は、リーナの心を真っ白にした。そして次に、その白を侵食するように沸き起こったのはどす黒い憤怒と憎悪だった。しかし、リーナはここではそれらを必死に抑え、マイケルから顔を背けて言う。

 

「そう、ですか。それはめでたいですね。ですが、今は急がねばなりませんから、失礼します」

 

 リーナは、マイケルの反応を待たずに猛然と駆け出した。しかし、向かうのは教室棟ではない。寮の、マイケルとアナベルの部屋だ。今アナベルと顔を合わせたら、どのようになるかは、リーナ自身も分からなかった。しかし、それでも確かめねばならぬと思った。その思いつきに根拠は無いが、そのようなことは、激情に心を支配された今のリーナには、些細なことであった。

 始業を告げるチャイムが鳴ろうともリーナは遮二無二走り続け、やがて、とうとうマイケルの部屋の前に辿り着いた。リーナはそのドアを蹴破ると、リビングのソファに腰掛ける、腹を大きく膨らませたアナベルがいた。妊娠してから数日しか経っていないはずのその腹が大きくなっているのは、アンドロイドだからだろうが、リーナはその妊娠している、という事実だけで、もう十分だった。

 突然に荒々しく入って来たリーナに、アナベルは怯えたように凍りついていたが、そのような人間的な仕草が、リーナの、暴悪に燃え盛る怒りと憎しみ、そして嫉みの炎に油を滝のように注ぐばかりだった。

 

「下衆が……! 機械風情が、どこまでも、どこまでも私を愚弄して……!」

 

「り、リーナちゃん——」

 

「喋るなあッ!」

 

 リーナはアナベルが口を開いた瞬間、それに一足飛びに掴みかかった。そして、リーナはそれを押し倒すてのしかかると、ホルスターから取り出した拳銃で、それが何か言う前にその眉間を撃ち抜いた。偶然にも雷鳴と銃声が重なったが、リーナは気にしなかった。さらに、そのまま激情のままに、その顔が原型を留めないくらいになるまで、何度も何度も銃弾を打ち込んだ。

 

「まだ、まだだ」

 

 続いて、リーナは懐からナイフを取り出し、服ごとアナベルの下腹部を切り開いた。何かに突き動かされるようにしてその中から胎児を取り出す。その姿は人間の胎児そのものであった。しかし、その中身は違うと瞬間的に察すると、リーナはそれを首と胴に、力任せに引き裂いた。

 そこまでやると、リーナは幾分か冷静になり、アナベルの残骸と、手に握るその胎児のスクラップを眺めた。破壊し尽くされたアナベルの頭部のあたりには、細かな部品が散乱し、血のように赤黒い液体が広がり、裂かれた腹の中を覗けば、まるで小さな工房のような子宮にあたると思しき空間があったが、やはり血のような液体が流れ出ていた。そして、胎児の方は、小さな頭から、機械的なチューブが出ており、それは胴の方と繋がっていた。

 

「機械のくせに、子なんか作るからです。人間の私がカールの子を孕めなかったのに! これも当然の報いですよ!」

 

 リーナは感極まり、声高に叫んだ。しかしその直後、背後に人の気配を感じた。ハッとして振り返ると、そこには愕然として棒立ちになっているマイケルがいた。

 

「様子が変だったから追いかけてみれば、なんだよ、なんなんだよこれは。アンドロイドだからだなんて、それだけの理由かよ」

 

 マイケルはうわ言のように呟く。リーナは何も言えず、ただ固まるばかりだった。彼からは、己の同じものが立ち上り始めるのを感じた。

 

「アンドロイドも、そのアンドロイドを愛した俺も、幸せになっちゃいけないっていうのかよ。俺は、俺は、ただ愛した相手がアンドロイドだったってだけなのに」

 

 そこまで言うと、カールはおもむろに、リーナの方に顔を向けた。大粒の涙を流し、虚ろな目でリーナを見つめる彼の姿に、リーナは底知れぬ恐怖を覚えた。彼女が立ち上がり、後ずさりし始めた瞬間、その目に殺意の光が宿り、彼は拳銃を引き抜いた。

 

「リイィィィィナァァァァアッ! 絶対に、絶対に、殺してやるッ!」

 

 彼はリーナに狙いをつけるや否や、その引き金を躊躇いなく引いた。リーナはその殺気を咄嗟に感じたために、それは辛うじて避けられたものの、この閉鎖空間ではいずれ殺されるに違いなかった。

 

(嫌、嫌だ! 死にたくない!)

 

 リーナは意を決し、窓の方に駆け出した。幸いなことに鍵は外されており、割ることなくベランダに出られた。その過程で数発の銃弾を受けたものの、中に着込んでいたパイロットスーツのお陰で、どれも致命傷たりえずに済んだ。

 リーナはベランダから飛び降りて着地すると、一心不乱に走った。どこをどう逃げているかは重要ではなかった。とにかく、彼から逃げ、生き延びられればそれで良かった。

 だが、何か巨大なものがリーナに微かな影を落とした。恐る恐る振り返ると、そこにはリーナを見下すように聳え立つM型があった。

 

「ジャッジメンティスまで持ち出すなんて」

 

 リーナは、思わず呆気にとられてしまった。だが、すぐに己が殺気を向けられていることを思い出し、再び駆け出した。するとそうするや否や、M型の胸部ガトリング砲の駆動音が聞こえた。

 

「死なないためには、私も呼ぶしかない。ジャッジメンティス!」

 

 リーナは遠隔操作でL型改を呼び出すと、その腕に自分を庇わせつつ、コクピットに乗り込んだ。リーナは焦っていた。ただ彼から逃げることに執心し、これまでの一連の行動が、楔が打ち込まれていたリーナの評判を奈落に突き落とす決定打になるとかいうことは、全く考えていなかった。

 

(逃げなきゃ、逃げなきゃ。でも、どこに?)

 

 ブースターを噴射させて飛翔し始めた時、リーナの心に迷いが生じた。そして次の瞬間、M型のビーム・スナイパーライフルの狙撃が、L型改の背部のメイン・スラスターを直撃した。

 激しい衝撃と爆発音が、コクピットの中のリーナを襲う。そして、モニターに表示された「制御不能」の四文字が、彼女の心に絶望を宿らせた。ジュリアの異能や魔法と違って、リーナの異能では、思念で操作するものを現状以上の性能で動かすことができない。則ち、墜落は必至だった。リーナは無意味だと分かりながらも、生きている他のブースターを噴射させたが、焼け石に水であった。L型改は、リーナの抵抗むなしく、学生寮の建物に激突した。

 

        ***

 

 アルフレッドは全速力で廊下を走っていた。向かうのは格納庫だ。二人を、物理的にも精神的にも止められるのは、父である己だけだと確信していた。このようにする前、職員室で二機のジャッジメンティスが出た瞬間に、隊長権限で持っていた端末でそれらの操作権を停止させるコードを何度も発信したのだが、どういうわけか二機の動きは全く止まらなかった。二人とは通信も繋がらなかった。自機のジャッジメンティスを、遠隔操作で呼び出すこともできなかった。

 

(なぜこのようになっているかは分からんが、とにかく急がねば!)

 

 二人の対立する可能性は十分に考えていたが、よもやいきなりジャッジメンティスによる格闘戦をするとは思っていなかった。二人とも常識はあるはずだから、もっと段階を踏んでからそのようにするものだとばかり考えていたのだった。

 

(私の見えない所で対立が深化していたのか、それとも、その段階を一気に飛ばす何かがあったのだろうか。もし後者とすれば、十中八九アナベル絡みだろうな)

 

 リーナはともかく、最近のマイケルのことはよく分からなかった。件の作戦が終わってから、彼からは一度も連絡が来なかった。とはいえ、彼はリーナと違って、自分を父と慕うことは、彼が大人になってからは殆ど無かった。当然、連絡を寄越すようなことも無かったため、アルフレッドも気にしていなかったのだが、今のような状況となっては、マイケル、そしてアナベルが一体何をしていたのか、はっきりさせたいと強く思った。

 階段を駆け下りて四階から三階に降りると、アルフレッドはその踊り場から、生徒の騒ぐ声が聞こえてきた。彼らが廊下に出ているようなことはないようなので、とりあえずアルフレッドにとっては、邪魔されない分好都合だった。それで、アルフレッドは足を止めずに更に階下へ行く。階段を一段降りるごとに、彼の焦燥感は増していった。

 

        ***

 

 ジュリアは、教室の窓から、リーナのジャッジメンティスが学生寮に落ちたのをはっきりと視認した。それから教室で待機しているように、との校内放送が入ったが、彼女は迷うことなくその窓から外に出ようとした。しかし、その手首を誰かに掴まれた。女性のものらしかった。

 

「邪魔ッ!」

 

 ジュリアはその誰かを確認することなく、その手を振り払った。が、次の瞬間は首根っこを掴まれ、無理矢理に引き戻された。

 

「何をするのよ!」

 

「お前、リーナ=リナーシタと仲良いだろう」

 

 そう聞いてきたのは、S=W=E出身の、ジュリアが名前を知らない女生徒であった。ジュリアは彼女がその質問をしてきたということで、先の言葉にどのような意図が含まれているのかを察した。彼女はジュリアが一瞬固まったのを見て、嗜虐的な笑みを浮かべると、ジュリアの背中を抑えて、その鳩尾を殴った。

 

「か、はっ」

 

 いくらジュリアが優秀な魔術師といっても、魔法で強化していない時は、さほど体は丈夫ではない。その状態でプログレスの渾身の拳を食らったのだから、ダメージは甚大なものだった。無意識にうずくまりかけたジュリアに対し、そのS=W=E出身の生徒は、その頭を掴んで、後頭部をコンクリートの壁に打ち付けた。

 その衝撃で、ジュリアの視界と意識に火花が飛び、意識が朦朧としかける。まだこの教室に教師は来ていなかった。そして、同学年で頼れる友のソフィーナと美海は、クラスがだいぶ離れている。このクラスには統合軍出身の者もいない。ここに味方は一人もいなかった。気がつけばクラスの人数がいくらか少なくなっていたが、おおかた、気弱な者が逃げ出してしまったのだろうと推測した。しかし、それらの考えは次に起こったことに吹き飛ばされてしまった。二人の、先のS=W=E出身の生徒の仲間と思しき者に、両腕を強く抑えられたのだった。

 

「気に食わなかったんだよなあ。いつもでかい態度とって、気持ち悪く、下級生、それもリーナ=リナーシタとべったりくっついて」

 

 そういって、彼女はジュリアの口を手で無理矢理押さえると、空いている手でジュリアの制服を破り去り、下着を取り去って裸を露わにした。ジュリアは、何をされたのか理解できなかった。ふと気がつけば、周りは男子生徒ばかりで、彼らは飢えた獣のような目をジュリアに向けていた。そして、ジュリアは自分が次に何をされるか理解してしまった。しかし、抵抗しようとする心よりも、恐怖の方が打ち勝ってしまった。ただ涙を流して目を丸くして、抵抗もせず固まるしかできなかった。

 そして、時を待たずして、男の手がジュリアの肌に直に触れた。

 

        ***

 

 ランは、彼女の教室で、ジャッジメンティスが学生寮に落下したのを目撃した。すると次の瞬間、彼女の机を叩く者がいた。ランがそちらの方に目を向けると、そこにいたのはS=W=E出身の男子生徒であった。

 

「なんでしょうか」

 

「最近、反EGMA派の何人かと接触していたそうじゃないか。今の騒動もお前が噛んでいるんじゃないか?」

 

「さあ、存じ上げませんね。それに」

 

 ランは彼の問いに涼しい顔で返すと、スレイやジュリアが人を煽る時の態度を思い出しながら、余裕のある笑みを浮かべた。その時、一瞬彼の眉がピクッと不愉快そうに動いた。その動きを、ランは見逃さなかった。彼が怒りやすい短気な性格であることを見抜くと、嫌味ったらしく、小声で言葉を続けた。

 

「いくら他国のとはいえ、王族への礼儀がなっていませんね。あ、もしかして、EGMAが指導しないから分からないのですか? 礼儀を蔑ろにするなんて、EGMAというのはとんだ欠陥品ですね」

 

「お前! EGMAを侮辱しやがったな!」

 

 ランの予測通り、彼は激高し、ランの従者が割って入る間も無く裏拳でランの頬を殴った。すると、その彼を従者が突き飛ばし、ランを庇うように、彼女の前に立った。その裏で、ランはこっそりと通信端末の電源を入れる。

 

「貴様! 殿下を殴ったな! 殺されても文句は言えんぞ!」

 

「うるせえ! テロリストに協力する王族なんざどれだけ殴っても問題なんかねえだろ!」

 

 彼は従者の言葉に怯むことなく、立ち上がって迫った。そうだそうだという野次が、他のS=W=E出身の生徒らから聞こえてきた。が、次の瞬間、教室のドアを蹴破って、ルルーナやリーリヤを筆頭とした、統合軍所属で二年生の面々と、加えて夏菜が乱入してきた。ランは、彼の会話を録音し、学園にいる統合軍人の殆どの通信端末にそれを流したのだった。

 

「殿下に何をしているんですか貴様らは! 早く離れなさい!」

 

 リーリヤが怒鳴るが、ランを囲む彼らは鬱陶しそうに彼女を一瞥しただけで、寧ろ、彼女らを挑発するようにより一歩ランに近づいてきた。

 

「き、貴様ァ!」

 

 リーリヤは堪忍袋の緒が切れたらしかった。彼女は己の召喚武器、巨大なランスのヴィヒター・リッタを召喚し、それをランを囲む塊の中に投擲した。そしてそれは、彼らが逃げるよりも早く、彼らのうちの一人の右肩に命中し、その部位を腕ごと抉り、更にそのまま槍の先が別の者のつま先に突き刺さった。それで、その二人は大きな悲鳴を上げ、他のS=W=Eの者らが静まり返った。するとすぐに、従者がヴィヒター・リッタを引き抜き、余った手でランの手を取って、包囲を突破した。

 その後、ランはリーリヤたちと共に、教室から出て誘導されるままに廊下を駆けていった。当初は行くあても無くただ逃げるだけであったが、その途中で一団はスレイとユウヒに遭遇した。

 

「ああ、いたいた。今から格納庫に向かうわよ。三年生と大学部の子たちは先に制圧に向かっているわ。殿下、大変申し訳ございませんが、このまま共に向かって頂きますわ。我ら将兵に囲まれている方が、校内にいるよりは安全でしょう」

 

 スレイが告げた内容に対して、反発する者はなかった。格納庫を押さえれば、学園の対ウロボロス兵器は封じたも同然だ。その上、学園が主戦力としている統合軍のほぼ全員が学園の敵につけば、対ウロボロス戦において、学園側の不利は確実だ。学園に対し、統合軍がかなり優位に立つことができる。しかも、王女が傷つけられたという大義名分もある。

 もう一歩踏み込んでスレイの心情を読めば、第二次ブルーフォールの敗戦以前に勢力を持っていた派閥、乃ち今の穏健派が言うところの過激派の勢力を取り戻したいのだろう。統合軍人には、もし王族に危機が迫ったら、その現場の判断でその王族の安全を確保するための軍事行動を起こすことが認められている。これを利用したのだろう。

 そのスレイのような若い純粋な思いは御しやすく、また隙をつきやすい。ランは密かにほくそ笑んだ。ここでスレイらとの結び付きを強めれば、近い将来、クーデターを起こすのは容易い。ランが影で抱く野望はブルーフォールの成就と、王家の政治介入であった。そのためには、今の軍事独裁政権を打倒し、自らが国王となるしかない。このために、なんとしても有力な軍人の協力のもとにクーデターを起こす必要がある。

 しかし、ランがスレイらを利用しようとしているのは、スレイ当人やナイアのような鋭い者らには百も承知であろうと思われた。それゆえ、対等に互いに譲歩する必要がある。今はスレイたちがランに恩を売った形になる。ランは若い将兵が望んで止まない第三次ブルーフォールの遂行の確約と、ある程度大きな権限を軍人に与えればよい。

 

「ええ。それが一番でしょう。お願いします、ティルダイン中佐、それに、皆様も」

 

 ランは真意を隠し、毅然とした態度でスレイや他の将校に答えた。その答えを確認すると、スレイに率いられて、一団は急ぎ格納庫へ向かった。

 

        ***

 

 高等部一年生の、ナイアたちのクラスの教室は静まり返っていた。時折何人かがちらちらと周りの様子を伺うだけで、他の動きはない。吐息の音が聞こえるくらいだった。その様は、よもや学園で仲間同士の殺し合いが始まるとは思っていなかったとナイアを除いた全員が言っているようだった。

 ナイアが、そのような教室でリーナを案じながら椅子に座っていると、ランから齎されたS=W=Eの生徒の彼女に対する暴言と、スレイからの指令をほぼ同時に受けていた。スレイからの指令の内容は、格納庫の占拠に早く向かえ、というものだった。

 

(殿下の保護って大義名分のもとじゃ、確かにそこまでしかできないな。第三次ブルーフォールまでは、今は持ってけないか)

 

 そのようなことを思いながら、ナイアはおもむろに立ち上がった。すると、近くの席の紗夜が何か言いたげにしたが、彼女はすぐに視線を落とした。ナイアはその様を一瞥し、教室の後ろのドアに向かった。歩いている間、クラスメイトらの視線を一身に受けるが、ナイアは気にせず、堂々と歩いて教室を出た。そして、すぐ目の前の廊下の窓を開け、そこから飛び降りた。すると、いくつかの建物の向こうにM型の一部が見えた。

 

「ごめん、リーナ。見殺しにする形になるかもしれねえが、許してくれ」

 

 そのように呟いた瞬間だった。端末に、スレイからの通信が入ったのだった。

 

「次はなんだよ」

 

「悪いけど、リナーシタを助けに行ってくれないかしら? 兵器庫の制圧があっさり終わっちゃったから。ルルーナも向かわせているから、撃破は無理でも撃退くらいはできるでしょ?」

 

「任せろ、お安い御用だ!」

 

 ナイアは、その指令を待っていたとばかりにはっきりと答えた。そして、通信が終わったのを確認した直後、方向転換をしてリーナの方に全力で疾走する。

 

「前言撤回だ! 待っててくれ、リーナ!」

 

 ナイアは精一杯の声で叫んだ。その時、雲の切れ間から、わずかに光が射した気がした。

 

        ***

 

 リーナは、必死に操縦桿を動かしたりしてL型改を動かそうとしたが、全く反応はなかった。なまじモニターだけは生きているだけに、M型が一歩迫る度に、リーナの心に恐怖が刻まれた。

 

(ここにいたままじゃ、却って危険だ。早く脱出をしなくては)

 

 リーナはそう思い立ち、脱出機構を働かせようとするが、全く反応はなかった。

 

「……あ」

 

 気が付けば、リーナは涙を流していた。死はもう確定したようなものだった。しかし皮肉なことに、そう確信したがゆえに、生への執着はますます強まっていく。だが、体は恐怖心に抑え込まれて、全く動くことができなくなってしまっていた。

 ふと気がつけば、M型はもう目と鼻の距離にあった。真っ直ぐに屹立するその姿からは、リーナがつい数分前まで抱いていたのと同じ、憎悪と憤怒の炎が立ち上っているように思われた。

 

「ただでは殺さない。お前にはアナベルが受けた苦しみを百倍にして与えても、飽き足らないからなァッ!」

 

 耳に入ってきた、マイケルの怒りに震えた声。その刹那、M型が拳を組んで振り下ろした。その光景を見た直後、コクピットを激しい振動が襲い、モニターや電灯は全て消え、リーナの周りをただ一様な闇が覆った。エアバッグが膨らんだおかげで、リーナ自身にはそこまでダメージはなかった。しかし、恐怖は増した。エアバッグが萎むと、リーナは心のうちを絞り出すように呟く。

 

「いや、いや、いや。し、死にたく、死にたくない。死にたく——」

 

 言い終えぬまま、2回目の衝撃が襲った。今度はエアバッグは無い。直に衝撃を受け、体の中身がかき回されるような感覚があった。パイロットスーツの衝撃吸収機能が、なぜか働いていない。その理由を考えることもできず、リーナは思わず後ずさるように体を動かし、体を抱いた。無意味とわかっていても、リーナの本能がそうさせたのだった。

 リーナが冷静さを欠いて狼狽している間に、3回目の衝撃が、コクピットを激しく揺らした。もう、コクピットの衝撃を分散する機能も働かなくなったのか、今回の震動はこれまでで最も大きいものだった。跳ねようとする体をシートベルトが無理やり抑え込み、肌に強く食い込んだ。その揺れが収まらぬうちに、4回目が来た。モニターの液晶が割れ、更にはコクピットの中で小さな爆発が起こり、火災が発生した。

 

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! まだ、私は何もしてないんだ! このまま死んじゃ、カールに合わせる顔がないままなんだ! だから動いて! 動けぇぇぇッ!」

 

 リーナは声が裏返るくらいに叫び、操縦桿を我武者羅に動かしながら、異能でもL型改を動かそうと懸命になった。しかし、非情なことに、その巨体は少したりとも動かなかった。そうしている間に、5回目が来た。遂に耐久の限界が来たのか、シートベルトが千切れ、リーナの体がコクピット内を跳ね回った。至る所に体がぶつけられ、今まで以上に、リーナに自分の死を意識させた。

 

(死にたくない。死にたくないよ。誰でもいい。誰でもいいから、誰でもいいから! 誰でもいいから助けてェ!)

 

 リーナの心は、ただ生きたいという思いで一杯になる。だが、それは全て恐怖に掻き消され、その心は真っ白になった。その瞬間、リーナはあらん限りの声で、狂ったように絶叫した。そしてその直後、もう一度衝撃が襲い、リーナの意識は糸が切れたように、こと切れた。

 

        ***

 

 教室で待機しているようにとの放送が入って、およそ10分が経ったが、学園側から何か、リーナたちを止めるような行動を起こすことは無かった。その間にソフィーナらの教室からマユカを除いた統合軍の軍人たちはどこかへ行ってしまった。ソフィーナには、自分らが蚊帳の外に追いやられて、何か知らないことが進行している今の状況が、我慢ならなかった。

 

「もう我慢できないわ! 美海、あれを止めに行くわよ!」

 

「でも、ソフィーナちゃん。私たちじゃ、ジャッジメンティスに勝てないよ」

 

 美海は、かつてないほどに弱気になっていた。その裏にある真意を悟ったソフィーナは、一瞬で怒りが頂点に達し、彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

 

「ブルーフォールの時もウロボロスの時も勇敢だったくせに、なんでここで弱気になるの! どうせ助けるのがリーナだから、そうしたらみんなに嫌われるかもしれないとか、そんなこと思ってんじゃないの!? あんたの言うみんな仲良くってのは、逆らうのが憚れる連中の意見に従うってことじゃなかったでしょうが!」

 

 ソフィーナの叱責に対し、美海は反駁しようとしたが、すぐに目を逸らした。その仕草は、ソフィーナの言葉を認めるという意思表示に他ならない。ソフィーナは美海から手を離すと、すぐそばの窓を開けてそこに足を掛けた。クラス中からいくらか敵意の混じった視線を向けられるが、彼女は気にせずに飛び立った。

 

「そういえば、ジュリアが飛び出してないのは不自然ね」

 

 ソフィーナは宙に浮いてからすぐに、ふとそのように考えた。それで、まずは彼女の様子を見ようと、ジュリアのクラスの教室へと向かった。すると、その教室の窓から見えたのは、一糸まとわぬ姿で、多くの男に嬲られるジュリアの姿だった。

 

「何をやってるのよ、あんたたちはァッ!」

 

 ソフィーナは反射的にその教室へ入って怒鳴り込んだ。すると、ジュリアに乱暴をしていた男たちや、それを指揮していたと思しき女生徒は、ゴミのようにジュリアを放って、蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げ出していった。

 

「ジュリア!」

 

 ソフィーナはうずくまるジュリアに駆け寄り、制服の上着を掛けてやった。彼女は一言も発さずに、その制服の裾を弱々しく掴んで引き寄せた。彼女の肢体は全般的にどことなく薄汚れ、美しいブロンドの髪もくしゃくしゃになっていた。

 

「こんな綺麗な子に、なんて酷い」

 

 ソフィーナは、思わず小声でそう呟いた。すると、ジュリアが、ソフィーナがこれまで聞いたことのないような、か細い涙声で話しはじめた。

 

「ねえ、ソフィーナ。私ね、全然、強い子なんかじゃないのよ。さっきも、あんな連中、本気を出して抵抗すれば簡単にやっつけられた。でも、恐怖で固まっちゃって、奴らのなすがままにされちゃったのよ。笑い者よね。リーナが大変なのに、自分のことしか考えられなくなって、その上、その自分すら守れなくて」

 

「気に病まなくていいわよ。あなたを誰も責めたりなんてしない。もしあなたを責める者がいたら、その時は私が矢面に立つわ」

 

 ソフィーナはしゃがんで、ジュリアを抱き寄せて告げた。彼女が淡々と自虐するのが悲痛で、耐えられなかったのだ。

 

「優しいわね、ソフィーナは。あなたが友達で、良かったわ」

 

 ジュリアは彼女の方からソフィーナの胸に顔を埋めた。その双眸から流れる涙が、ソフィーナの服を濡らす。ソフィーナは不謹慎にも、初めて感じる彼女の涙に嬉しく思った。ありのままの心をさらけ出してくれたのは、これが最初だった。初めて彼女に心の底から認められた気がして、喜ばずにはいられなかったのだ。

 

「ソフィーナ、今、どんな状況?」

 

 ジュリアは、そのままの状態で尋ねた。ソフィーナが統合軍所属の生徒らがどこかへ行ったことを教えると、彼女は何かを悟ったような雰囲気で、ソフィーナから体を離して、魔術でいつもの私服を召喚し、纏った。その時の彼女の表情は、先程までとは違い、凛として堂々としていた。そのままの表情で、彼女はソフィーナを見ず、真っ直ぐ学生寮の方を見ながら訊く。

 

「これからどうするつもり?」

 

「リーナを助けるわ。あなたもそうなんでしょ?」

 

「ソフィーナ。理由の詳細は時間が無いから言えないけど、リーナを助けたらすぐ戻りなさい。じゃないと、下手したら学園そのものを敵に回すことになるわよ」

 

「分かったわ。そうする」

 

 ソフィーナが頷くと、ジュリアは魔神鎧ひとつを外に召喚し、ソフィーナの手を引いてその肩に乗った。その直後、魔神鎧は大ジャンプをし、ある高さに来たところで、二人はM型がL型改を持ち上げ、校庭に放り投げたのを見た。

 

「リーナ!」

 

 ジュリアは、悲痛な声でかの名を叫んだ。ソフィーナも、その光景に焦燥感を覚える。

 

「私の友達に、手を出すんじゃないわよ!」

 

 ソフィーナは己に喝を入れるように声を張り上げると、ジュリアに目配せしてから魔神鎧の肩から飛び降りた。

 

「煉獄の業火を食らいなさい!」

 

 ソフィーナは魔法陣から、巨大な青白い炎をM型に向けて射出した。それは紙一重で躱されてしまうが、その隙に死角に入り込んでいたジュリアの魔神鎧が、M型に体当たりを敢行した。そのまま、彼女は既に倒壊しつつあった学生寮にM型を叩きつけると、すぐに反転して、うつ伏せに倒れているL型改を魔神鎧で抱き上げた。その肩から、ジュリアが視線を送る。ソフィーナはそれに込められた意図を読み取って、早々に校舎に戻ろうとした。だが、飛び立とうとする魔神鎧を、いつのまにかM型が、学生寮に突っ込んだまま、ビーム・スナイパーライフルで狙いをつけていた。

 

「ジュリア!」

 

 ソフィーナはそれを守りに入ろうとしたが、明らかに間に合いそうになかった。彼女が諦めかけたその時、二機の間に入る二人の人影に気がついた。ナイアとルルーナだった。ナイアは籠手型の召喚武器、アヴェンジェリアを装着し、ルルーナは盾型の召喚武器、シュッツ・リッタを装備している状態であった。

 

「ルルーナ! チャンスは一回だからな! 失敗したら承知しねえぞ!」

 

「わかってる!」

 

 ナイアとルルーナがそのように掛け合って飛び上がった直後、ビーム・スナイパーライフルが放たれた。だが、それはルルーナの盾に阻まれて進行方向を変え、その先にはナイアがいた。そのビームが、全てナイアの籠手に吸収されていく。やがて照射が終わると、ナイアは籠手を嵌めた方の手をM型の方に突き出した。

 

「アヴェンジェリアの最大出力、食らいやがれぇッ!」

 

 一瞬、籠手の前に魔法陣が展開されたかと思うと、そこからM型を軽々と覆ってしまえるほどの超巨大な青い光球が放たれた。それを避ける術は今のM型には無かったらしく、その直撃を受け、それから大きな爆発が起きた。その眩しさに思わず目を覆っていたソフィーナが次に見たのは、装甲が全て溶け落ちて内部機構を露出させて動けなくなったM型と、今度こそ木っ端微塵に消し飛んだ学生寮に、その後ろに続く、大きく抉られた、先の光球が通った跡であった。

 

「す、すごい」

 

 既に、ジュリアたちの姿はそこになかった。校庭にたった一人佇みながら、ソフィーナは唖然としていた。だが、同時に恐怖してもいた。ジュリアの言葉を考えると、次にこの力が向けられるのは自分たちかもしれないのだ。

 

「D・Eの身の振り方、考えておいた方がいいかも」

 

 ソフィーナは、青蘭学園の生徒としてではなく、D・Eの次期魔女王候補として、その言葉を呟いた。

 ソフィーナは元々、高等部を卒業した後は将来に備えて青蘭大学で政治学と経済学を修めるつもりだったが、その学ぶ場を変えた方が良いかもしれないと考え始めた。

 この頃の青蘭学園はどこかおかしい。先の騒動にしても、風紀委員会では力不足で手に負えない問題の解決を担当する執行部という組織が学園に存在するのに、仲裁することなくマイケルの好きにさせていた。更に、下手をしたら命を落とす危険のあるウロボロスとの戦いを生徒にさせるのも、相当に奇妙な話だ。そのように考えると、この島で学んでいたら何を刷り込まれるかと、ソフィーナは気が気でなかった。

 校舎に戻りながら思考を巡らせていると、ソフィーナはだんだんと寒気がしてきた。D・Eが地球と断交するのもあり、いや、した方がD・Eのためなのではと逡巡しているうちに、ジュリアが以前言った一言を思い出した。

 

「事の本質を見失うな、よね」

 

 ソフィーナ自身が合理的な判断をしたと思っていても、側から見たら感情的になっていると言われてしまうかもしれない。何にせよ、ソフィーナ一人で考えるのはここが限界だった。

 

(早いうちに一旦D・Eに戻って、魔女王に相談しよう)

 

 彼女はそう結論づけて、ソフィーナは自分の教室のドアを開けた。クラスメートの視線の殆どがソフィーナに集まる。ソフィーナは、眉間に強く皺を寄せた。

 

        ***

 

 結局、アルフレッドは間に合わなかった。彼が息を切らして格納庫に着いた頃には、事は終わってしまっていて、格納庫は統合軍に占拠されていた。アルフレッドは反EGMA派であるので、今、そこより他に青蘭島には居場所が無く、しばらくはそこで過ごすことにした。

 リーナは全身に火傷を負い、両腕両脚の複雑骨折に、頭蓋は陥没するなどの重傷に加え、全身の打撲などの軽傷を負っていたため、今は統合軍の軍医による手術を受けている。

 とはいえ、間に合ったとしてもアルフレッドが直接助けるのは叶わなかったことは確かだった。彼のジャッジメンティスそのものが、何者かのハッキングを受けており、起動することができない状態にあったからだ。

 

「兄妹間の拗れの深刻さを分からず、剰えこのような事態を招く結果になった。私は、父親失格だ」

 

 今の格納庫のハンガーに誰もいないと思っていた彼は、悔いの涙を溜めながら、天に向かって嘆いた。だが、その直後、ハンガーと他のスペースを繋ぐ通路の方から、物音が聞こえた。その主はジュリアだった。彼女はアルフレッドと目を合わせると、すぐに駆け寄ってきた。

 

「どうか、自分を責めないでください。少なくとも、あの子は決して、あなたを非難したりはしませんから」

 

「だが、私は君と、リーナを導くと約束した。私にはとても、これでいいとは思えんのだ」

 

「まだ、巻き返しはききますわ。気を取り直してください」

 

「そう、だな」

 

 アルフレッドは納得できなかったが、ジュリアにこれ以上心配をかけるわけにもいかないと思い、頷きを返した。

 

「それはそうと、今日の一連の流れは、学園側、いやEGMA側としても、統合軍としても、かなり強引でしたね。特にEGMA派は、この一日で、何かに決着をつけようとしていた節がありました」

 

「ああ、私もそう思う。リーナの悪評を利用して、敢えて傍若無人な振る舞いをし、学園にいる少数の反EGMA派を黙らせようとしたのだろう。他の場所でやっていたら愚かとしか言えない方法だが、中途半端な理想主義の多い青蘭学園なら効果は一定以上は見込めるだろうな」

 

 ジュリアに言葉を返しつつ、アルフレッドは彼女が何かを堪えているのを察した。彼が話している間も、彼女はどこか上の空でいた。そっとしておこうかとも思ったが、彼女の目に涙が溜まり始めたのを見て、アルフレッドは意を決して訊くことにした。

 

「ジュリア。何か、あったのか?」

 

 彼の言葉に対し、ジュリアは口を閉じてあちこちに視線を目まぐるしく向けていたりした。だが、やがて小さく息を吐くと、頭の小さな冠を床に置き、服のリボンを解いて下着姿になり、彼女はアルフレッドに縋り付いた。

 

「穢されたんです。処女はあなたに捧げたかったのに、無理矢理散らされて」

 

 そのジュリアの涙ながらの告白に、アルフレッドはどのような言葉をかければ良いか分からず、ただ目を丸くすることしかできなかった。そうしているうちに、ジュリアが爪先立ちになって、彼の唇を奪った。

 

「お願いします。一度だけでいい。どうか、私を抱いてください。私に刻まれた穢れた傷を、どうか、あなたで忘れさせて……」

 

 ジュリアは唇を離すと、再びアルフレッドに抱きついた。そのキスのおかげで一旦思考がリセットされた彼は、彼女の頭を撫でながら、彼女を抱くのが本当に正解なのかを考えた。後悔はしないか、先妻に後ろめたさを感じないかと。

 

(いや、何を迷うことがあろうか。私の中途半端な態度が二人の悲劇を呼んだ。せめてジュリアにだけは、幸せにしなければならん。彼女が望んでいるのだ。躊躇うことも馬鹿馬鹿しい)

 

 アルフレッドは、小さく咳払いをすると、ジュリアの小さな背中に、自分の手を回した。そして、彼女の耳元に口を近づけ、強く決心して囁く。

 

「私は、できた人間ではない。深く知れば、君を幻滅させてしまうかもしれない。だが、君の幸せは、私の命を懸けて誓おう。これから、99の苦も気にならなくなるくらい、君を全身全霊で愛してみせる」

 

 静寂が訪れた。二人の吐息と、鼓動の音が微かに響く。やがて、ジュリアのアルフレッドを抱く力が、少しだけ強まった。

 

「はい、お願いします、あなた」

 

 玲瓏たる福音の響きが、アルフレッドの耳朶を打つ。彼が耳元から離れてジュリアの顔を見ると、そこには涙に濡れた、誰とも重ならない彼女だけの、絢爛華麗な笑顔があった。



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再臨、碧き巨神

 独房の、剥き出しのコンクリートの灰色の床と壁は冷たかった。薄い囚人服を介して、背中と尻に冷気が伝わる。しかし、マイケルはそこを動こうとしなかった。ベッドに横たわる気にもならないどころか、立ち上がる気力も無かった。

 あの後、マイケルは逮捕され、治外法権によりS=W=Eの法で裁かれ、除隊処分と十年間の懲役を言い渡され、青蘭島の周囲にある小島のひとつに築かれた青蘭刑務所に収監された。

 以来、彼は抜け殻のようになった。労役にも身が入らず、独房に戻れば今のように隅で膝を抱えてうずくまった。アナベルは修復中だ。データのバックアップもあり、ボディのスペアもある。一週間もすれば戻ってくる。リーナに殺された子でさえも、データが残っていたので当時の成長段階からまた育てられる。しかし、だからといってリーナを許せはしなかった。

 アナベルとの間に子供ができたと彼女に教えたのは、そうすることで彼女に「もはや人間とアンドロイドとの間に差は無い」と知ってもらいたかったからだった。アルフレッドは穏やかに受け入れたと見受けられたので、リーナも同じだろうと踏んでのことだった。これで、リーナにアンドロイドに対する敵対心を無くして欲しかった。しかし、結果として彼女のそれは増大した。

 

「あのような差別主義者を、俺は妹とは認めん。絶対に、絶対に、次に会う時はEGMAの名の下に殺してやる」

 

 マイケルは、心にただひとつ残った怒りを燃やす。その呪詛は、独房の中を木霊したように思えた。

 

        ***

 

 騒動の翌朝から、ソフィーナは魔女王ミルドレッドに呼び出されてD・Eに戻り、ミルドレッドの居城であり政治機関である黒柩城に訪れていた。そこで彼女が件の騒動の報告書の作成と提出をし終えたのが一日前で、今日は、その意見陳述をする日である。ソフィーナは最上階にある彼女の部屋のドアの前に立ち、ノックをする。

 

「鍵は空いている。入れ」

 

「失礼します」

 

 ソフィーナは、一旦深呼吸をしてその部屋に入った。そこには、ミルドレッドだけでなく、ハイディやアルスメルをはじめとした、D・Eの政治の中枢を担う最高幹部、十二杖の面々がいた。

 

「来たな、ソフィーナ。話は聞いている。早速だが、今後の青蘭島との付き合いについて、お前の見解を聞かせてくれ」

 

 ミルドレッドは中央のソファに不遜な態度で座ったままそう言った。ソフィーナは咳払いをすると、全員の顔を見渡しつつそれを述べる。

 

「私が思うに、最良の策は青蘭学園との国単位での付き合いを止め、異変の原因究明とその解決は、D・Eや他の黒の世界の国家で独自に行うことです。ウロボロスは黒の世界に侵入してきたら対処すればよろしいかと」

 

「意外ですわね。ソフィーナがそのように考えるなんて」

 

 ハイディは軽く目を丸くして言った。小馬鹿にされたような気がして、ソフィーナはそれに少しだけ気を悪くしたので、語気を強めて答える。

 

「流石に、あんなの目の前で見せられたらそうも思いたくなります。公人としては、あんな悪意のある連中と、対して利益も無いのに付き合うのは、はっきり言って公費の無駄だと思います」

 

 ソフィーナは、言葉を重ねるにつれてだんだんと感情が昂ぶっていった。それを見兼ねてか、ミルドレッドが彼女を強い視線で射抜いた。

 

「あ、失礼しました」

 

「愛国心が強いのはいいことじゃがな、ここは会議の場ぞ。感情は抑えよ。次期魔女王候補筆頭とあろう者が、これしきのことで気を乱すでない」

 

 アルスメルが、厳しい調子で叱責する。ソフィーナはますます恥じ入って、口を開き辛くなってしまった。ややあって、ミルドレッドが堪え兼ねたようにため息をついて、眉を顰めて告げる。

 

「会議の場で意見を述べる側が黙るな馬鹿者。まあ、現状得ている情報を元に我々で出した意見も大体同じだから、これ以上議論することも無いがな。違うことと言えば、私たちがG・Sと中立条約を結ぼうと考えていることだが、お前も口には出さないだけで思ってるだろう」

 

 ミルドレッドはソファに肘をつきながらそう言った。確かにその通りだとソフィーナが頷くと、彼女はのろのろと立ち上がり、テーブルの上にあった革の鞄を開けた。それから、彼女はそこから艶やかな黒髪を持ち、水晶のようにプリズムを纏ったドレスを着た、ソフィーナの身長の半分弱ほどの大きさの女性型の人形をひとつと、そのドレスと同じ材質で出来ている傘を取り出した。

 

「ほら、いつまでも寝てないでさっさと目覚めんか」

 

 ミルドレッドはその人形の頰をぺちぺちと叩いた。やがてそれはゆっくりと眼を開き、赤と金のオッドアイを見せた。

 

「何です、魔女王。あたしの快眠を無理矢理妨げて」

 

「クルキアータ。大事な頼み事あるから、お前は今からしばらくソフィーナの奴隷だ。拒否権はない。許される返事は『はい』のみだ」

 

「奴隷て」

 

 ソフィーナはボソッと突っ込んだ。恐らくクルキアータとやらと共同で何かをしろということを次に言われるのであろうが、もっと美しい言い方があるだろうと思った。彼女がそのように考えている間、クルキアータはソフィーナをじっと見ていた。そして数回頷くと、それはまたミルドレッドの方に顔を向けた。

 

「嫌ですわ。あんな三流魔術師の元につくなんて。それに、あたしの異能を使えば頼み事なんて一瞬でしょう」

 

 ソフィーナはその言葉にカチンときたが、魔女王や十二杖の手前であるので、今すぐ消し炭にしたい気持ちをぐっとこらえた。一方でその不平に対し、ミルドレッドは嫌味な笑みを浮かべた。

 

「過程をすっ飛ばして結果を得る、それが私がお前に与えた能力だったな。じゃあやってみるがいい。私の頼みは、青蘭学園上層部の思惑と、T・R・Aが隠していることの調査だ」

 

「お安い御用ですわ」

 

 クルキアータは胸を張ってそう答えるが、待っても何も起きなかった。もしかしたら目に見えていないだけかともソフィーナは思ったが、クルキアータも困惑していたため、どうやら本当に何も起きていないようだ。

 

「え、どういうことですの、これ」

 

「分からなければ教えてやろう。お前の異能が適用されうるのは、すっ飛ばす過程と出る結果がお前の知識で予測できる範囲内に収まっている時だけだ。つまり、未知のことに関しては全くの無力。分かったら黙って私の言うことに従うがいい」

 

 ミルドレッドが意地の悪い笑顔でクルキアータに言う。それが悔しそうに押し黙ると、彼女はソフィーナの方に向き、真摯な表情に切り替えて告げる。

 

「新しい任務だ、ソフィーナ。お前は学園に戻ったら、このクルキアータをこき使って青蘭学園上層部とT・R・Aの思惑を探って来い。その情報によっては、断交を取りやめにするかもしれんし、戦争を仕掛けることもあるかもしれん。国の命運を左右する重大な任務だ。しっかり遂行せねばお前の首が飛ぶぞ」

 

 ミルドレッドは、手刀で首を切り落とすようなジェスチャアをした。彼女は冗談めかしてはいたが、ソフィーナは裏で本気で言っていることを悟り、固く首を縦に振った。

 

「カチコチになりすぎているな。そんなだからクルキアータに三流と言われるんだぞ。もっと肩の力を抜け」

 

 ミルドレッドは、呆れながらソフィーナの肩を叩いた。いきなりのことだったので、彼女は大きく体を震わせたが、すぐに落ち着いて、軽く深呼吸をして咳払いをした。

 

「よし、落ち着いたな。では学園に戻る前にひとつお使いだ。実はジュリアがこっちに戻ってきて、反EGMA派の戦士を一人匿っているらしい。学園が何か追求してきても我々は知らんぷりを突き通すから、安心して欲しいということを伝えてきてくれ」

 

 ソフィーナは内心でその内容に驚いたものの、表には出さずに了承した。すると、クルキアータが傘を片手にとことこと寄ってきた。

 

「やっと話が終わりましたわね。さ、行きますわよ、ソフィーナ」

 

 そのやたらと上から目線な態度に対し、ソフィーナは閉口した。そしてちらりとミルドレッドの方を見ると、彼女はソフィーナが何を言いたいのか察したように、どこか自慢げに言う。

 

「そいつがそんな性格なのは私の趣味だ。生意気な方がおちょくってて面白いからな。元はと言えば私が道楽で作った存在で、実用性は求めてないから仕方ないんだ。だから諦めてとっとと行け。会議の内容の続きなら後で議事録のコピーを送っといてやるから」

 

 なんと傍迷惑なとソフィーナは心の中で思ったものだったが、やはりこれも口に出すわけにはいかず、渋々返事をして、クルキアータと共にその部屋から出て行った。

 

        ***

 

 黒の世界の空には、深い紫と、赤く巨大な月のみがある。しかしその下でも、草木は青々と茂り、湖の水は深く澄んでいた。ジュリアの話によれば、黒の世界の空気には魔力が立ち込めており、これが青の世界で言うところの日光に当たる、黒の世界の生命の源とのことである。それでか、心なしか力がみなぎるような感覚を、リーナは常に覚えていた。

 統合軍の軍医による手術のおかげで一命を取り留めたリーナは、D・Eの静かな湖畔にあるジュリアの家で匿われて療養している。地球やS=W=E、T・R・Aで療養するわけにもいかず、G・Sは現在情勢不安で、いくら軍とは協力関係にあるとはいえレジスタンスに目を付けられる可能性も十分に考えられたため、消去法でD・Eが選ばれ、また環境も適していたことから、ジュリアの家が選ばれた。

 リーナは、目の前の湖の鏡に映る己の姿をぼんやりと眺めていた。病衣から包帯を巻かれた肌や顔を覗かせ、車椅子に座っている。空気に満ちた魔力のおかげで、傷の治りは地球上にいた時よりもかなり早く、統合軍の軍医の見立てでは、あと二、三日もすればギプスは外れ、包帯も取れるだろうとのことだった。D・Eの住人が皆長寿なのも、このおかげらしい。

 しかし、傷は日々快方に向かえど、心の傷が癒えることはなかった。一度目を閉じれば、押し潰される恐怖に満ちたコクピットの中にいる感覚が蘇った。また、コクピットそのものに対しても、考えるだけでも身の毛がよだつほどの懼れを抱く有様であった。

 

(これを克服しないと、到底、戦線復帰なんて出来やしない)

 

 リーナはそのように分かってはいても、そのための具体的な方法は全く思いつかなかった。彼女は今のように思考に行き詰まった時は、ジュリアの家と湖を挟んで反対側にある洞窟に行っていた。そこには、碧き巨神の残骸が静置されている。リーナは体を伸ばして、両の手の指先で巨神に触れた。

 機械に触れているとは思えないほど、心の琴線に触れるような、暖かく、繊細で優しい感覚がリーナを包む。この感触を覚える度に、リーナの心は落ち着いた。これが何かのヒントになるなどということは無いが、絡まったリーナの思考を解いてくれた。

 

「やっぱり、やり過ぎだったのでしょうか。でも、アンドロイドが子供を産むのを放置するのは、EGMAの思惑を認めるということだ。私たちの悲願は人間による治世を白の世界で実現すること。EGMAに与する者の粛清を行わないと、到底実現なんてできやしない」

 

 リーナは、カールとアイリスと対峙した時のことを思い出す。二回とも、二人は完全にリーナを殺す気でいた。しかし、リーナはそれが私情を押し殺したものであることは十分に分かっている。だが、リーナがアナベルと、その腹の子を破壊したのは、完全に私情であった。確固たる正義感のもとでそれを遂行していれば、マイケルが登場した時に動揺することもなく、また今のように怪我を負ったとしても、これ程まで思い悩むことは無かった。

 

「分かっている、分かっているけど。出来ませんよ、私には。この身を蝕む嫉みを押し殺すなんて」

 

 リーナは底知れぬ悔しさを零した。その声が洞窟内で反響し、再びリーナの耳に入る。嘆いたところでどうにもならない。リーナは大きくため息をつくと、方向転換して洞窟を出た。それから、湖を横目に車椅子の車輪を回し、ジュリアの家に向かう。彼女の家は木造のログハウスで、地上一階が生活空間に、地下室が魔術実験室となっている。しかし、今彼女がD・Eにいるのはリーナの看護の為なので、その地下室は使われていない。

 

「ただいまです」

 

「お帰り、リーナ。ご飯はもうすぐでできるから、ちょっと待ってちょうだい」

 

 リーナが帰ると、台所の方から、ジュリアの声が聞こえ、美味しそうな芳香が漂ってきた。そのおかげかリーナは急に空腹感を覚え、腹を鳴らしながら少しでも早く食事にありつこうと、テーブルについた。

 

「はい、今日の晩御飯はご飯に、ハンバーグにマカロニサラダ、それとコーンスープよ」

 

 ジュリアは笑顔でテーブルに食事を並べる。体力のない今のリーナに合わせてか、量は少なめだ。また、これらはすべて地球製の食材を使っている。というのは、ジュリア曰く、黒の世界の食物は他の世界の人間が食べられるような代物では無いらしく、味は良いが間違いなく腹を壊し、最悪死に至るかららしい。これにも空気中に魔力が充満していることが関係しているのだとか。

 

「はい、あーん」

 

 ジュリアもテーブルに着くと、早速箸で白米を掬い、リーナに突き出した。リーナはギプスのおかげで自分で食べられない為、仕方ないことなのだが、やはり何処と無く恥ずかしかった。しかし背に腹は代えられないので、観念して口を開けてそれにかぶりついた。

 

「ふふふ、可愛いわ」

 

 ジュリアはリーナの口から箸を引き抜くと、頰に手を当て、うっとりした様子でそう言った。その様子を、リーナは不思議に思いながら眺めていた。リーナが意識不明の状態から目覚めてから今に至るまで、ジュリアはどういうわけか機嫌が良かった。リーナが無事だったから、などということではどうにも腑に落ちない。これまでは気にしないでおいたが、とうとうリーナは訊いてみることにした。

 

「ねえ、ジュリア。何でそんなに機嫌がいいんですか?」

 

 リーナのその言葉で、ジュリアのハンバーグを切り分けていた手が止まった。その反応はリーナにとって意外だった。彼女は、いつもなら適当にあしらうのに、固まってしまうのは珍しい。

 リーナが暫く待っていると、ジュリアは箸を一旦置き、いつになく真剣な表情でリーナと向き合った。それからも、何か言葉に迷っていた様子だったが、やがて吹っ切れたのか、リーナの目をまっすぐ見つめながら告げる。

 

「今から言うこと、まずは黙って聞いてほしいの。後は、何と言ってもらっても構わないから」

 

 ただ事ではなさそうな雰囲気に、リーナは思わず唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。

 

「私に好きな人がいるのは、あなたも知っているでしょう? その彼と、結ばれたのよ」

 

 その言葉を聞いて、リーナは思わず祝福の言葉をかけようとしたが、ジュリアの黙って聞いてくれ、という言葉を思い出し、思い留まった。代わりに、誰なのかを想像し始めた。状況からして、リーナを彼女が救出した時よりも後に結ばれたはずなので、きっと統合軍の将校の誰かだろうとリーナは考えた。そうこうしているうちに、ジュリアが重たげに、目を伏せて口を開いた。

 

「相手は、あなたのお父様、アルフレッドさんよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、リーナは驚きで開いた口が塞がらなかった。嫌というわけでは無かったが、ただ思いもよらなかった組み合わせだったので、そうなってしまった。そうしているうちに、ジュリアは目を伏せたまま続けた。

 

「いくら奥様と死に別れているとはいえ、親友の親を好いて、なおかつ結ばれるなんて言語道断の所業なのは分かっているわ。何とでも言っていいわ」

 

「ああいや、大丈夫ですよ。びっくりしましたし、まだちょっと混乱してますけど、でも嫌じゃないです。末娘の私も、もう一端の人間ですから、父上が二人目のパートナーを作ることも、ジュリアが父上と結ばれることも、不満はありません。むしろ、心から祝福します。おめでとう、ジュリア」

 

 ジュリアは、目を丸くし、そこから何も言わずに大粒の涙を流し始めた。その様を微笑ましく思いながら、リーナのこの言葉は全て本心からのものだ。マイケルがどう思うかは分からないが、少なくともリーナは、二人が幸せになれるのならと、これを歓迎した。母はリーナを産んですぐに死んでしまったため、リーナには母への愛着は微塵もない。ジュリアの告白をすっと受け入れられたのには、このようなこともあった。

 

「でも、これで父上とジュリアが結婚したら、私はジュリアを何と呼べば良いのでしょう。母上?」

 

 泣き止まぬジュリアを見ていたらリーナは恥ずかしくなってきたので、そのように茶化して誤魔化そうとした。

 

「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。今まで通りでいいわ」

 

 ジュリアは涙を拭いながら言った。その語気は穏やかで、暖かなものだった。もう、彼女はだいぶ安心できたようであった。

 

「ねえジュリア。子供は何人作ります? 私、弟が欲しいです!」

 

 リーナは、これまで散々おちょくられた仕返しのつもりで、元気いっぱいに言った。すると、ジュリアは顔を赤くして、リーナから少し目を逸らして言う。

 

「べ、別にいいじゃない、そんなこと気にしなくても。まだ結婚するとは決まったわけじゃないんだし」

 

「でも、したいんでしょう?」

 

「そりゃまあ、そうだけど」

 

「じゃあ今のうちに家族計画を考えましょうよー。前もって色々決めておけば後々楽ですよー」

 

 リーナは、ジュリアに色々と言う度に、己の機嫌が良くなっていくのを自覚していた。これが現実逃避であることは、重々承知であった。しかし、だからといって止めることもできなかった。だらだらと思い悩むよりは、現実逃避でもこうして心の健康に良いことをしている方が有意義に思えたからだ。

 しかし、ジュリアが真っ赤になって黙りこくっているうちに、ドアをノックする音が聞こえた。それで急に現実に引き戻され、ジュリアも表情を改めた。今日は、統合軍の軍医が来る日ではない。更に、それ以外の来客はこれまでになかったため、二人とも警戒を始めた。

 ジュリアがそっと立ち上がり、リーナの周りに不可視化の結界を張ってから、彼女はドアを慎重に開けた。そこにいたのはソフィーナと、70センチメートルほどの身長の、傘を差した女性型の人形だった。

 

「警戒しなくていいわ、ジュリア。魔女王からの伝言を届けに来ただけだから」

 

 ソフィーナは、比較的柔和な表情で告げた。その隣の人形は、ジュリアを見定めるように彼女を凝視していた。彼女はソフィーナの言葉を無視し、警戒したまま尋ねる。

 

「何かしら。伝言って」

 

「あなたがリーナを匿ってること、D・Eは出来る限り隠し通すことにしたとのことよ。だからと言ってあまり表に出られるのも困るけど、少しは安心してちょうだい」

 

「そういうことですわ。ミルドレッドの寛大さに感謝することね」

 

 横の人形が、ソフィーナに続けてやけに偉そうな態度で発言した。ジュリアは眉を顰めてその人形を睨んで、不機嫌そうにソフィーナに訊く。

 

「こいつ何よ」

 

「魔女王が作った人形で、名前はクルキアータよ。暫く私とコンビ組んで任務を遂行することになってるわ」

 

「へえ、そうなの。喋らなけりゃ私のコレクションに加えたいくらい綺麗なのに」

 

 そう言いながらジュリアはクルキアータを見つめ続けるが、それは突然ソフィーナの後ろに隠れてしまった。そして、そこから顔を半分だけ出して、怯えた様子で言う。

 

「あ、あなた、あたしの天敵ですわね!? なんだかあなたと目が合うと身の毛がよだつようですわ!」

 

「あなたの体に髪の毛とまつ毛以外の身の毛なんてないじゃないの」

 

「比喩ですわよ比喩! D・Eにこんなのいるなんて聞いてませんわ!」

 

 ソフィーナが突っ込みを入れるが、クルキアータは依然として、慌てふためいて喚いていた。

 

「確かに私が得意とする魔術も、私の異能も人形を操るものだけれど、そんなに怖がるものかしら」

 

 ジュリアは首を傾げて呟いた。その様子は、どこか残念に思っているようにも見えた。

 

「やっぱり天敵ですわよ! きっと私を操って一生の奴隷にする気ですわよ! ああ、あな恐ろしや!」

 

 クルキアータは一人で舞い上がっていた。その様子を、ソフィーナも、ジュリアも、リーナも呆れた目で見守っていた。ここまでになると、クルキアータの初めの傲岸不遜な態度は全く気にならなくなって、もはや愉快で面白い存在と成り果てていた。

 

「ご主人、いい加減に落ち着きなさい! とりゃ!」

 

 すると突然、クルキアータの傘が喋り出し、ひとりでに動いてその頭を殴った。クルキアータはそれで目から星が出たようになって、呻きながら仰向けに倒れた。

 

「ご主人がお騒がせしました! 普段はもっと落ち着いているのですが、あなた様に身の危険を感じてテンションがハイになっていたようです! しかしご安心を! 以後はこの私、ミステリオがあなたがたの質問にお答えします!」

 

 ミステリオと名乗った傘は、立て板に水を流すような勢いで騒がしく言った。これはこれでまたテンションが高かった。ソフィーナは気を失っているクルキアータの首根っこを掴むと、ため息をついてジュリアに言う。

 

「じゃ、私もう学園に戻るから。ひとつ言っとくけど、D・Eは反EGMAと統合軍の行動を否定しないけど、黙殺するだけだからね。それだけは、覚えておいて」

 

「分かっているわ。そっちも上手くやりなさいよ」

 

「ええ。じゃあね」

 

 ジュリアに見送られて、ソフィーナはクルキアータを抱え、ミステリオを放置して歩き出した。置き去りにされたミステリオは何やら喚きながらその後を追っていった。

 

「どういう風の吹き回しか知らないけど、ともあれ一安心ね」

 

 ジュリアはリーナの周りに張った結界を解除して、安心したように一息ついた。

 

「さ、早く食事を再開しましょう。冷めちゃいけないからね」

 

 ジュリアはそう言って、リーナの車椅子を押す。スープの湯気は、まだしっかりと立ち上っていた。

 

        ***

 

 格納庫に立てこもり始めて、早三日が過ぎた。格納庫には食糧庫も併設してあったため、食べ物には困らない。そこにあるのは非常時のための備蓄用の食糧なので、学園生徒が普段の食事に困るということはない。寝袋も置いてあったため、寝るのに不便はない。不満があるとすれば、格納庫が広いとはいえ閉鎖的であること、攻撃されることもないので弛緩した雰囲気が漂っていることくらいだ。

 しかし夏菜には、他にも居辛い理由がある。今の彼女の立場は、地球出身の一般生徒である。ブルーフォール失敗の一因を担ったという負い目もあるが故に、息苦しさを感じていた。今は反EGMA派を支援するという共通の目的があるので、あたかも統合軍の仲間のように扱われているが、裏切り者であるという事実は変わらない。それでもそのように扱われるのは、かつて土下座して回った誠意が認められてのことだろうとは思ったが、窮屈な感じは消えなかった。

 

「ねえ夏菜ー。麻雀しようよ麻雀。半荘ねー」

 

 ある部屋の隅の方で膝を抱えていた夏菜に、ルルーナが楽しげに話しかけてきた。見れば、その中央のあたりに雀卓があり、そこには既にリーリヤとナイアがついていた。

 

「うん、いいよ。しようか」

 

 夏菜は壁を支えにして立ち上がって、ルルーナと共に雀卓の方に向かった。何故青蘭学園の格納庫にそれがあったのか、夏菜は不思議でならなかったが、おかげで気を紛らせるような手段にはなるため、気にしないことにした。

 サイコロを振った結果、ナイアが親になり、リーリヤが南、ルルーナが西、夏菜が北となった。無表情で配牌を確認するナイアとリーリヤに対し、ルルーナはやけにウキウキしていた。そして、ナイアが無表情のまま牌を山から取ると、おもむろに手牌を倒した。

 

「ツモ。發無し緑一色四暗刻単騎。あと天和だから。点数は……やめとくか」

 

 ナイアは点数を言わなかった。その場には微妙な雰囲気が漂っていて、対局している夏菜たちはもちろん、観戦していたギャラリーも湧くことなく唖然としていた。雀卓は全自動だから、ナイアがイカサマをしたとは考え辛く、本当に偶然なのだろうが、それでも場の空気は白けてしまった。

 

「今のはノーカンにしよう。うん。仕切り直し仕切り直し」

 

「そう、そうだね。そうしよう」

 

 ナイアに続いて、夏菜も便乗して言った。リーリヤとルルーナもそれに同意したので、一旦牌を混ぜ直して、配牌をやり直した。

 今回は至極真っ当に進行した。時々倍満などが出たりして、ギャラリーの方からわっと歓声が上がる。その頻度が高いということが今回は無いため、夏菜も、ナイアたちも純粋に対局を楽しめた。

 二巡目に差し掛かる頃には、ギャラリーも増えてきて、なかなかの賑わいを見せた。決して誰も口には出さないが、やはり、攻撃されるわけでもない立てこもり生活は退屈なようだ。

 

「これだけの人に囲まれて麻雀するの初めてだから、なんだか少し緊張しちゃうな。あ、それ槓ね」

 

 夏菜はそのようなことを言いながら、リーリヤの打牌した牌を取って大明槓を作る。それから自摸り、その自摸牌をそのまま捨てた。

 

「ま、カジノだとギャラリーとか無かったしな。これもこれで楽しいが」

 

 ナイアは、にこにこしてそう言った。どうやら、先ほどの気まずさはもうすっかり忘れているようであった。実際に、彼女の天和はもう誰も気にしていない様子だったので、彼女の態度に反感を抱く者は居なかった。

 最後の局は、ルルーナが満面の笑みで上がった大三元で終わった。この対局では始めての役満で、かつそれまで最下位だったルルーナも一位になれたので、ギャラリーも大いに盛り上がった。

 それからすぐに他の四人組に雀卓を譲ると、夏菜たちは今度はギャラリーに加わった。

 

「へへへ。逆転勝ちって気持ちいいねえ」

 

 ルルーナは勝利の余韻に頭まで浸かっているようで、だらしなく頬を緩ませていた。それを、リーリヤが少し頬を膨らませて見つめる。彼女がルルーナの大三元に振り込んだので、悔しく思っていることは疑いようもなかった。

 

「なんか騒がしいと思ったら麻雀してたのねェ」

 

 そのような妖艶な声と共に、スレイがぬっと現れた。その横にはランもいる。二人のおかげで、その場にいたナイアと夏菜を除いて、その場の雰囲気に急に緊迫感が満ちた。

 

「ああ、別に咎めに来たわけじゃないから。寧ろ気分悪いからさっきまでと同じように騒いでなさい」

 

 スレイが眉を顰めて言うと、再び雀卓の周りがガヤガヤとしてきた。そこから離れて、ナイアはニヤニヤしながらスレイの脇腹を肘でつついた。

 

「ここに来たってこたあ、お前も麻雀やりたいのか?」

 

「酒があったらやってたわね。まあでも、昨夜に私とナタクとユウヒの三人でしたばかりだからそんなに気が進まないわ」

 

「あの二人とやってんだったらあたしも誘えよコノヤロウ。てか案外暇だなお前」

 

「しょうがないでしょ。一日に一回交渉に来るのを追い返す以外にやることないんだから」

 

 スレイとナイアが話している間に、ランが夏菜の方に寄ってきた。夏菜は条件反射的に萎縮してしまったが、その肩に彼女はそっと手を置いて言う。

 

「あなたはここの人ですから、特別、私に敬意を払わなくてもいいんですよ。こんなことにも付き合わせてしまっていますし」

 

「殿下に敬意を払わないなんて出来ませんよ。それに、一緒に立てこもっているのは私の意志ですから。お気になさらないでください」

 

 夏菜は首を横に振りながら答えた。当然、これは本心であるが、それと同時に己の立場を悪くしないための言い訳のようなものだった。下手に先ほどのランの言葉に同意してしまえば、夏菜の心にG・Sへの恭順の意が全く無いことを意味してしまう。少しでも評価が下がれば、今の安全とは言えない立場は崩れ去ってしまうのは目に見えている。ランが探りを入れているのかは定かではないが、迂闊なことは言えなかった。

 

「そうですか。それが夏菜さんの思いなのですね。ですが、もしかすると、私たちは学園の生徒と戦闘行為を行う必要が出て来るかもしれません。その時、例え相手があなたのお姉様でも、あなたは剣を振るえますか?」

 

 これまた、安易には答えられない質問だった。ランが単純に覚悟を問うているのか、それとも本当に探りを入れているのか。そのどちらであるとしても、夏菜は適切な態度と言葉を選ぶ必要があった。夏菜は大きく息を吐き、わざと周囲の数人に聞こえる程度の声で、毅然と答える。

 

「振るえます。ですが、今の私の剣は、我が友リーナに捧げる剣です。決して、G・Sのために振るうものではありません」

 

 言い切ってからも、夏菜は気を抜かずに胸を張り続けた。夏菜の心が未だG・Sにあるようなことを言ってしまえば、それはそれで裏切りのことを付け込まれる隙を晒すことになる。これが精一杯の回答だった。

 ランは夏菜の真意を推し量るように凝視していたが、しばらくしてふっと表情を和らげた。

 

「夏菜さんの覚悟は伝わりました。不躾な質問でしたね。失礼しました」

 

 ランは一礼してから、夏菜から離れてスレイの隣に戻っていった。その背中を見送る夏菜に、どっと疲労感がのしかかった。少なくともランには認めてもらえたため、夏菜の今の立場は一応安定したということになる。

 

(それにしても、殿下がわざわざ後半の質問をされた意味が分からないな。あの程度だったら他の人でも十分なはず。私を気遣ってのことなのか、それとも他に意図があってのことなのか)

 

 夏菜は少し首を傾げた。ラン・S・グリューネという人物に、急に靄がかかっているような気がした。

 

        ***

 

 夕日が差し込む生徒会室には、うなだれる美海と不機嫌なルビー、そして表情を固くするマユカ、アゲハ、そしてアインスとユニがいた。アインスとユニは、統合軍に詳しいことから、意見をもらおうと呼んだのだった。

 例によって、「生徒間の諍いだから」と統合軍に対する対応は生徒会に丸投げされた。それで美海とルビーは交渉に赴いたのを軽く突っぱねられた直後で、精神的な疲労が大きかった。

 ここの所、美海の精神の磨耗は限界に達していた。あまりにも理想と現実の乖離が激しすぎる。皆で力を合わせて世界の危機に立ち向かう——これが彼女の最低限の理想だった。しかし、今はそのスローガンとは全く正反対の状況だ。誰もが自分のイデオロギーをぶつけ合い、統率は大いに乱れ、学園の空気は常に重く、暗かった。しかも相談したい親友のひとりのソフィーナはD・Eに居り、ユーフィリアは相変わらず行方不明であった。

 

「今日も、ダメだったね」

 

「仕方がないでしょう。殿下に手を出した人たちとその一味を未だに放置しているんですから」

 

 落ち込む美海に、マユカは辛辣な口調で指摘した。今日で格納庫の解放の交渉を始めて三日目だったが、統合軍の代表のスレイは「殿下の安全が保障されない限りは不可能」の一点張りで、まともに取り合おうとしなかった。

 

「でも停学処分にはしたわよ」

 

「停学処分程度で納得するならとっくに出てきているさ」

 

 ルビーの反論を、ユニが一蹴した。そこからまた、全員が黙り込んだ。そのまま数十秒ほどが過ぎたとき、生徒会室のドアを開けて入って来る者がいた。それは、D・Eに行っていたソフィーナと、彼女の身の丈の半分くらいの背の女の人形であった。

 

「いやにシケた雰囲気ですわね。誰かお亡くなりにでもなったのですか?」

 

 その人形がボソッと漏らした言葉に、その場の雰囲気が一気に険悪になる。ソフィーナはそれを悟ったようで、その人形の頭を鷲掴みにした。

 

「ちょっとは空気読みなさいよ、クルキアータ。そう言いたくなるのもわかるけどね」

 

 ソフィーナは、美海とルビーを軽蔑するように眺めた。それに対し、美海はさらに落ち込むだけだった。一方でルビーは怒り心頭に発したようで、ソフィーナを睨み返した。

 

「何よその目は」

 

「そりゃこっちのセリフだわ。無能も揃うと滑稽なものね。どうせこの様子だと、統合軍との交渉まともに進んでないんでしょう?」

 

「そう言うってことは、あんたが中心になれば進められるって言うの?」

 

 ソフィーナはルビーのその問いを鼻で笑い飛ばすと、彼女を小馬鹿にするような口調で返す。

 

「そんな質問が口から出てる時点でもう無能なのよ。確実に出来るだけ早く引きずり出すだけならやろうと思えばできるわ。でも、どれもリスクが大きすぎるわ。今取れる最良の手段は、とにかく媚び売りまくって宥めるか、完全放置することね」

 

「その、引きずり出す手段っていうの、一応でもいいから言ってみてよ」

 

 自信満々で嘲るように言うソフィーナに、美海はむっとなって言った。それを受けて、彼女はどれも実行は難しいと前置きした上で、表情を引き締めて三つ指を立てて語り始めた。

 

「大きく分けて三種類ね。ひとつめは、統合軍を攻撃する。ただまあ、今の学生の士気じゃ勝つのは到底無理だし、軍隊にやってもらうにしてもブルーフォール以上の戦争になるわね。まだウロボロスの脅威も無くなったわけじゃないからこんなことはやらない方がいいわ」

 

 ソフィーナは言い終えてから薬指を折り、表情はそのままに続ける。

 

「ふたつめは、ラン殿下に手を掛けようとしていたやつとその仲間、更には後ろで糸を引いていたのも全員含めて青蘭島から強制退去させて統合軍に詫びいれること。和解金は、多めに見積もって、地球の通貨で五億ドルくらいがいいかしらね。ま、一番いいのは強制退去じゃなくて暗殺してそいつらを梟首にするくらいのことでしょうけど。どちらにせよ、S=W=Eとの関係は悪化するわね」

 

 そこから更に、彼女は中指を折った。暗殺や梟首といった言葉を淡々と話す彼女に美海は恐怖を覚えたが、そのような心中は知る由もないといった風に、彼女は続けた。

 

「みっつめは、これはさっきとかぶることが多いけど、私たちも反EGMA派の支援をすることね。明言はしていないようだけど、アルフレッド教諭を匿っているところを見ると、反EGMA派と統合軍に繋がりがあることは見て取れるわ。ま、そうすることになったらS=W=Eとの戦争が始まることは目に見えているけどね」

 

 ソフィーナは最後の指を折った。彼女の言った手段の中では、美海にはふたつめのものが最も現実的に思えた。強制退去くらいなら書類ひとつで出来るし、五億ドルは掻き集めればなんとか用意できる。そうするわけにはいかないのかと訊こうとした彼女を、ソフィーナが鋭い目で射抜いた。

 

「ねえ美海。あなた、さっきふたつめなら出来そうとか思ったでしょ」

 

 その言葉に、美海は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。更に、喉があっという間に渇いてゆく気がした。声が出せず、口を半開きにしたまま固まってしまった。ソフィーナの近づいてくる靴音が嫌に高く響く。やがてそれが止むと、その手の平が美海の方に置かれた。

 

「ブルーフォールのこと、もう忘れてるでしょ。ふたつめみたいなことやってみなさいよ。関係者全員洗い出すなんて一朝一夕にできることじゃないし、渡した金は軍資金になるし、今の統合軍のヤクザ的な要求を飲んだということで、少なくとも地球各国の支援国家からの印象は悪くなるし、統合軍はこれを引き合いに出して無理難題ふっかけてくる可能性も十分に考えられるわ。目の前のことが解決されても、未来に大きな禍根を残すことになるわ。これを挽回できるくらいの素晴らしい方策が、あなたの頭にあれば別だけど」

 

 ソフィーナに、美海は何も言い返せなかった。ルビーも、マユカも、ユニも、アインスも何も言わない。

 

「やれやれ、こんな無能集団には付き合ってらんないわね。とにかく今やることは連中を宥めることくらいね。それでも少しでも連中が今以上に実利を得てはいけないから、そこのところは頑張ることね。さ、行くわよクルキアータ」

 

 ソフィーナがそう吐き捨てて、身を翻したその時であった。けたたましい警報音が、スピーカーを通じて学園中に鳴り響いた。

 

「これ、ウロボロス!? こんな時に来るなんて!」

 

「これから地獄ね。美海もルビーも、覚悟はできてる?」

 

 ウロボロス出現の警報に動揺する二人に、ソフィーナは固い表情で問う。

 

「私たちのすべきことは、これまで通りにウロボロスを撃退することじゃないわ。これまでの主力だった統合軍戦力を欠いた状態で、尚且つ彼らを監視する兵力を用意した上で、ウロボロスを空中戦闘ができるプログレスだけで撃退しなきゃいけないわ。流石にプログレスだけで撃退しろとは今は言えないはずだから青蘭島に駐留してる国連軍も協力してくれるだろうけど、士気はこれまでで最低レベルでしょうね」

 

「え、統合軍は私たちを見殺しにするの?」

 

 美海は、ソフィーナの語った内容が受け入れられず、唖然としながらそう訊いた。すると、ソフィーナはわざとらしく大きくため息をつき、直後に激昂した様子でその胸ぐらを掴んだ。

 

「現実を見ないのもいい加減にしなさいよ! 上はともかく、統合軍の兵士は誰一人としてブルーフォールを諦めていないわ! 今の状況で統合軍はウロボロス討伐に手を貸さないのは目に見えてるし、下手したら挟撃されて皆殺しにされて、青の世界水晶を奪われることだってあるわ!」

 

 ソフィーナの剣幕に、美海はただ気圧されるばかりだった。更にソフィーナのみならず、マユカやアインス、ユニからも、呆れられたような目を向けられていた。やがて、ソフィーナは美海を乱暴に突き放して、背を向けて通信端末を取り出した。

 

「アウロラ? 早く指示出しなさいよ。——は? 今の状況に対応した編成表を作ってない? この馬鹿! 信じられない!」

 

 ソフィーナは金切り声で電話の向こうに怒鳴りつけると、通信を切ったのち、思い切り壁を殴った。大きな音が響き、生徒会室全体が軽く揺れた。

 

「どうどう、どうどう。あんまりブチ切れてると血管切れますわよ」

 

「喧しいわね! ふざけたことぬかしてるとぶち壊すわよ!」

 

「ぐええ、苦しいからお止めになって」

 

 からかうように言ったクルキアータの首を、ソフィーナは思い切り締めた。数秒ほど彼女はそうすると、クルキアータから手を離し、かなり大きな深呼吸をし、頭を荒々しく掻いた。それから、先程の癇癪とは打って変わって、落ち着いた声で言う。

 

「ユニ。今から統合軍を抑えながらウロボロスを相手にして、勝算はあると思う?」

 

「青蘭島に駐屯している、地球の国連軍を統合軍の監視に当たらせて、戦えるプログレス全員で迎撃に出ればなんとかなるだろう。ウロボロスのみの相手なら、連携せずとも一芸に秀でた者だけで倒せる。国連軍は対ウロボロス戦をほとんど経験していないこともある。我々がやるべきだろう。ただ、効率は悪いだろうし、取りこぼしもあり得る。今まで通りにはいかんだろう。しかし編成表が存在しないならこれしかない」

 

「それをやったら、指揮系統は崩壊したも同然ね。でもアウロラたちの指示は待ってられないし、それしかないか」

 

 ユニの答えにそうこぼすと、ソフィーナは再び通信端末を手に取って、それを耳に当てた。

 

「D・E代表代行のソフィーナです。今すぐ学園に急行し、統合軍が占拠している格納庫の包囲と監視をお願いします。もし何か動きがあれば発砲しても構いません。現場での指揮はそちらに一任します」

 

 ソフィーナはその通信を終えると、次に流れるように端末を操作して、もう一度口をそれに近づける。すると、校内放送で彼女の声が聞こえてきた。

 

「校内のプログレス全員に告げるわ。空戦ができて、死ぬ覚悟のあるプログレスは全員今すぐ出撃しなさい。司令部の指令なんか待ってる暇は無いわ。現場では暫く各自の判断で動きなさい。状況を見て私が指示を出すわ」

 

 美海は、一連のソフィーナ行動を見て、呆気にとられていた。人の上に立つ能力の差を、まざまざと見せつけられた。ただ理想を引きずり、現実に翻弄されて狼狽していた己よりも、ソフィーナはずっと毅然としていて、立派であった。半年ほど前までは殆ど同じレベルだったのに、今では完全に追い越されている。

 

(ソフィーナちゃんには明確な将来のビジョンが見えていて、今何をすべきかを理解している。この違い、なのかな)

 

 美海には、将来の明確な目標が無い。生徒会長に立候補したのは学園を良くしようという意図があったからであるが、それを将来にどう繋げるかについては、全く考えたことがなかった。

 異変を解決したいというのは美海の願いではあるが、どのような立場でそれを行うのか、という点においては未だに曖昧なままであった。

 

(ちゃんと、考えなきゃな。でも今は、私が願いを成すために、この学園を守らないと)

 

 美海はおもむろに立ち上がり、生徒会室から出ようとしていたソフィーナたちの背後まで小走りで行き、そこで歩く速度を緩めた。

 

「戦えるの? もう、あなたの理想が入り込める余地は無いわよ」

 

 ソフィーナは、背を向けたまま美海に尋ねた。どこか突き放すようなその声は、この三日ほどで、彼女との距離が大きく開いたことを美海に悟らせた。しかし、それで挫けている場合ではない。

 

「分かってる。でも、今は理想云々以上に、ウロボロスを倒さないと」

 

「そう」

 

 ソフィーナは短く答え、廊下の窓から飛び出していった。ユニたちもそれに続いて飛び出してゆく。残されたのは、美海と、表情を固くして佇むルビーであった。

 

「行こう、ルビーちゃん」

 

「ええ。言われなくても」

 

 二人は互いに顔を見ずに言葉を交わすと、ソフィーナたちと同じ窓から飛び立った。ふと先を見ると、ソフィーナたちは、その姿が点のように見えるくらいに遠くを行っていた。

 

        ***

 

 リーナがジュリアとささやかなティータイムを過ごしているところに、ドアをノックする音が聞こえた。しかし、昼のソフィーナの時のように、ジュリアは不可視化の結界を張らなかった。そうする間も無く、その音の主が入って来たからだった。

 

「コードΩ00、ユーフィリア」

 

 リーナは息を呑んだ。ユーフィリアはアンドロイドだ。ここが割れたということは、EGMAにも露見した可能性が非常に大きい。

 リーナを見つめるユーフィリアから彼女を庇うようにして、ジュリアが間に入った。それからは殺気は感じられないものの、アンドロイド故にそうなのかもしれないとも思えた。リーナも異能でジャッジメンティスを呼ぶ準備をしたが、それは両腕を上げて口を開いた。

 

「私は敵ではありません。ある事を伝えに来たんです」

 

「ある事?」

 

 ジュリアは全く警戒を緩めない様子で訊いた。ユーフィリアは首を縦に振ると、そのまま続ける。

 

「青蘭島をウロボロスを襲っています。統合軍は学園生徒を見殺しにする気のようですが、残念ながら彼らの目論見は外れるでしょう」

 

「何故そのようなこと言えるのよ」

 

「EGMAも今まさに学園にウロボロスを送り込もうとしています。このままでは、『主』由来のウロボロス対EGMA由来のウロボロスとEGMA派の合同勢力、そして統合軍・反EGMA連合と、三つ巴の戦いになるでしょう。そうなればいかに精鋭揃いの統合軍といえど、ただでは済まないことは疑う余地もありません」

 

「そうだとしても、私たちが介入したところで、大した影響は与えられないでしょう。一国家ならまだしも、たったの二人ですよ」

 

 リーナは単純な疑問を投げかけた。しかし、ユーフィリアはそう言われると分かっていたかのように、その直後に答える。

 

「いえ、単騎で状況を覆せる力を、あなた方は手に入れているはずです」

 

「何を言っているんですか。そんなもの——」

 

「碧き巨神。この近くにあるんでしょう?」

 

 ユーフィリアはリーナの言葉に覆い被せるように言った。言葉を失ったリーナとジュリアに対し、それは淡々と更に言葉を重ねた。

 

「あの程度のことで巨神が使い物にならなくなるということはありません。今すぐ巨神の元に行きなさい。そうすれば、すべきことも分かるでしょう」

 

 ユーフィリアはそれだけ言うと、踵を返そうとした。しかし、それだけでは足りない。リーナはまだ、それに対する疑いを捨て切れなかった。

 

「待ってください。半年前、あなたは五つの世界が一丸となって物事に当たらねばならないと言いました。しかし今は、特定の勢力に肩入れするような真似をしている。一体、何を企んでいるんですか?」

 

「色々なことを知ったんです。破滅の未来を齎した真の原因のひとつや、そのためには何をすべきかということを。そのためにはそのようなことは言ってられないですし、寧ろ一丸となるのは間違いなのです」

 

「そういうこと。だから、この子は信用していいよ、リーナ」

 

 ユーフィリアの応答に言葉を付け足しながら、ある人物が入ってきた。若干体が成長して、短かった髪も腰まで長くなっており、更にトレードマークの白衣もかなりボロボロになっていたが、その声色と顔付きは、間違えようもなかった。

 

「メルティ。今まで、どこに」

 

「復活させてたんだよ。ほら、入って」

 

 メルティは、戸の向こうに呼びかけた。それに応じて静かに現れたそれは、リーナとジュリアがまたもや言葉を失わせるのに十分だった。

 

「お久しぶりですわ、リーナさん」

 

 それ、則ちシノンは、恭しく頭を下げた。それに対し、リーナは何を言えばいいのか分からなかった。その一挙手一投足は、リーナの知るコードΣ40シノンそのものだ。リーナの今の状況を作り出した、元凶とも言うべき存在。リーナの落ち度の方が大きいことは彼女も理解しているので怒りをぶつけるようなこともなかったが、かといって謝罪などをするような気にもならなかった。しかし修復が可能だったなら、このような状況には決して陥らなかったはずである。

 

「何も言わなくて構いません。私はアンドロイドですから。あの時のことに対して不満は何もありませんわ。それに、私にも非はあります。でもそれよりもむしろ、人間とアンドロイドの区別を無くそうとしている不届者をやっつけちゃってくださいまし」

 

 リーナの困惑を悟ったらしく、シノンは穏やかな表情で言った。しかし、リーナはそのようなことを聞きたかったわけではない。

 

「スペアパーツが無くて、修復が不可能だったんじゃないんですか」

 

「ユーフィリアに頼んで、緩やかになった時の流れの中で、私が一から部品を作って直したんだよ。言ってなかったけれど、製作者はこの私だからね。シノンが身分を偽造して学園に居たってのはもう知ってるでしょ。だからそうでもしなきゃ、EGMAに捕捉されて、私もシノンもお終いだった。私もシノンも、新国家に必要な存在だから。終わるわけにはいかなかったんだ」

 

 メルティは、決まりが悪そうにリーナに答えた。リーナは、どう必要なのかは分からなかったが、彼女の容貌の変化の理由は分かった。文字通り、人よりも長い時間を過ごした彼女の姿は、リーナには気兼ねなく付き合える友人には最早見えなかった。今相対している時も、彼女は自分よりも一回り大人びて見える。

 

「まあとにかく、詳しい話は後。リーナは碧き巨神のところに行って。それがすべきことを教えてくれるはずだから」

 

「ご武運を、リーナさん」

 

 二人はそのように言うと、ユーフィリアと共に姿を消した。リーナとジュリアもすぐに家を出て、巨神のもとに向かう。車椅子のせいでを早く動けないのが、リーナには歯痒かった。

 巨神のある洞窟に近づくにつれ、リーナは心臓の鼓動音のようなものが聞こえてきて、またそれが大きくなっていくのを感じた。初めは自分のものかと思ったが、それは明らかに脳に直接響いてきていて、それではないとすぐ悟った。

 やがて洞窟が見えてくると、その中から淡い碧の光が漏れ出ているのが見えた。その光を、リーナは知っている。カールとアイリスが搭乗していた時の光と同じだ。無意識のうちに息を潜めてそこに入ると、案の定、巨神の残骸が、まるで何かを訴えるように、碧き輝きを放っていた。

 リーナは先に着いていたジュリアの制止を無視して、惹かれるように巨神に手を伸ばし、それに触れた。その瞬間、リーナの脳裏に、記録映像のようなものが次々によぎった。

 始めに流れたのは、見知らぬ男の半生だった。彼と碧き巨神は常に共にあった。男と巨神は、青々と茂る草木と野生動物が跳ね回る自然のままの場所から、人工物が立ち並ぶ大都市、そして戦火に飲まれた廃墟まで、世界中を何周も何周も旅してきた。そして、最後にその男は巨神の中で、満足げに果てた。

 次の男は軍人であった。巨神は軍に鹵獲されたようだった。しかし、彼が操縦席に座った直後に絶叫してから、また次の男に映った。これが8回続いた。

 10回目の男も軍人だった。しかし、彼はこれまでとは違って、脱走兵のようだった。今度は発狂死しなかった。彼は巨神を動かした。彼が目指した場所はどうやらかなり高い塔のようだった。しかし、彼が辿り着く前に、巨神は集中砲火を受けた。巨神は堕ちた。そして、隠れるように地中深くに埋もれた。その時には、脱走兵の彼は死んでいた。

 それから気が遠くなるほどの長い年月が過ぎ、巨神が掘り起こされた時には、誰も搭乗することなく、その土地の神の偶像として崇められていた。やがて社会が発展し、巨神は次第に宗教的な意味を失い、再び埋もれた。

 次に巨神が陽の目を見たのは、統合軍により掘り起こされた時であった。それは研究施設に運ばれた。数ヶ月ほどして、1組の男女が搭乗した。その男女こそ、カールとアイリスだった。

 それからは、リーナの知る通りだった。リーナたちの第八機動小隊と戦闘し、次には世界水晶の大部屋でリーナのジャッジメンティスと戦い、その操縦席でリーナとカールでアイリスを交えて愛し合い、そして、銃声が響いた。

 以上のことが、一瞬のうちにリーナの脳裏を掠めていった。困惑するリーナに、巨神が更に波動を与える。言葉ではなかったが、リーナはそれが何を指示したものか、はっきりと理解できた。

 

「ジャッジメンティスを呼べばよいのですね。分かりました。来なさい、ジャッジメンティス!」

 

 リーナが叫び、半壊したジャッジメンティスが目の前に現れる。すると、巨神が一際強い輝きを放った。あまりの眩しさに、思わずリーナは目を覆った。それが止んでもう一度巨神のあった方を見ると、そこには完全な人型をした、碧玉のように輝く、見知らぬロボットが佇んでいた。

 金属板を重ねていったような装甲を持ち、巨神のシルエットを細身にしたような姿をしている。固定武装のようなものは何もない。リーナは、これがジャッジメンティスと碧き巨神が融合したのだと、理由は分からないが瞬時に理解できた。

 その神秘的な輝きに心を動かされ、リーナは思わず立ち上がろうとした。この時、リーナは体の怪我が全て治っていることに気がついた。巨神の光に当てられたからだろうか。とにかく好都合なことには変わりがない。一歩、また一歩と近づき、ちょうど胸部の真下に来た時、彼女の体を碧の光が包んだ。

 気がつくと、リーナは操縦席と思しきところに座していた。そして、その時、始めの男の顔が脳裏に浮かび、何かを告げた。言葉は何も聞こえなかったが、直感的に何を言ったのかは明確に分かった。

 

「光輝くもの、セイリオス。それが、碧き巨神の真の名前。ならば、ジャッジメンティスと融合したこの機体は、ジャッジメンティス・セイリオスです!」

 

 リーナの言葉がコクピット中に反響する。そのことがより一層、ジャッジメンティス・セイリオスという名前を飲み込むのに一役買った。

 更に、リーナは、このコクピットという空間にいても平気であることに自ら驚いていた。一度は死にかけた空間なのに、むしろ居心地が良い。

 

(この心地よさ、いつかどこかで一度感じたような)

 

 そう思えど、リーナはすぐにはそれを思い出せなかった。しかし、今は優先すべきことがある。いつまでもそのようなことを考えている暇はない。リーナはモニター越しに、唖然としているジュリアを見つけると、セイリオスを通じて、己の声を伝える。初めてのことだったが、どういうわけか、それが出来るということも、その方法もリーナは知っていた。

 

「ジュリア。私は先に行きます。あとで追いついてください!」

 

「ええ、分かったわ。行ってらっしゃい」

 

 まるで側にいるかのように、明瞭にジュリアの声が聞こえた。リーナの無事を知ったおかげか、彼女は穏やかに微笑んでいた。また、彼女もセイリオスに安心感を得たのかもしれない。

 

(カールとアイリスが愛したこの機体、使いこなしてみせる)

 

 リーナは首のチョーカーに手を当てた。カールの義眼をジャッジメンティスに埋め込んだ以上、今手元にある、二人との絆を思い出せる品はそれのみだ。

 しばし瞑想したのち、リーナはチョーカーから手を離し、ゆっくりと息を吐いた。セイリオスのコクピットに操縦桿は無い。カールたちが使っていた時にあったのは、統合軍が構造を解析して取り付けたもので、本来は存在しない。だから、今セイリオスを動かすことができる力は超常の力、すなわち異能(エクシード)だけだ。

 

「異能発動! リーナ=リナーシタ、ジャッジメンティス・セイリオス、行きます!」

 

 直後、セイリオスは亜空間に突入した。目指すは青蘭学園。そこへ戻ることに、リーナは全く恐怖することも、怯えることもなかった。



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まだ見ぬ明日のために

 青蘭島周辺の空は黒き雲に満ち、日没前後の時間帯であることもあいまって、ウロボロスの姿をヴェールのように隠していた。

 ソフィーナは戦線に到着すると、探知結界を張ってから、青蘭島から4キロメートルと3キロメートルのライン上に魔術機雷を設置した。戦場に出ているプログレス全員の総数を確認すると、それはおよそ百人ほどで、それに対するウロボロスの数は大小合わせておよそ三千だ。とても積極的に攻めていける数ではなかった。そこで瞬時に作戦を練ると、ソフィーナは魔術を通して全員に呼びかける。

 

「各員に通達! ウロボロスに対してこっちの戦力が少なすぎるわ! 青蘭島から2キロメートル圏外にいるプログレスは全員後退しなさい! そこで迎え撃つ! 撃って出るのは禁止!」

 

 一応彼女に従ってくれるようで、前に出ていたプログレスも、追撃してくるウロボロスを倒しながら後退を始めた。

 後退が完了してから数十秒後、ばら撒いていた機雷にウロボロスが引っかかり始めた。そして、機雷が無くなった所に、クルキアータがその異能で瞬時に再設置していく。しかしそれでも撃ち漏らしは出てくるもので、機雷を潜り抜けた千八百体ほどが、ソフィーナらに迫る。

 

「総員迎撃準備! いい? 撃ち漏らしが出ても無視! 目の前の敵に専念しなさい! 分かったわね!?」

 

 ソフィーナはそう叫んで鼓舞すると、早速魔法陣を作り、そこから大量の巨大な火の玉を打ち出す。狙いは大型だ。大型に対抗できるプログレスが、今戦場に出ている中ではソフィーナの他には数人しかいない。そういうわけで、小型のウロボロスは他に任せて、彼女は大型の破壊に専念することにした。

 そうしていると、何を言うでもなく、クルキアータがソフィーナの狙っていない小型の掃除を始めた。

 

「へえ、案外融通きくじゃない」

 

 ソフィーナはそれの行動に感心しつつ、自分のすると決めたことに集中する。ウロボロスに攻撃を加えつつ、探知結界を元に自動で更新される戦況図を見る。すると、早速何体か撃ち漏らしが発生し、青蘭島本土に向かうウロボロスもいくつか見受けられた。

 

(まあ、この程度は想定範囲内よ。住人にはちゃんと避難勧告を出してるし、自動迎撃システムも仕掛けといた魔術機雷もあるからそんなに大ごとにはならないと思うけど。……ん?)

 

 ソフィーナは、探知結界が中規模のウロボロス集団の反応を捉えたのに感づいた。そして、その出現場所を見て絶句した。何しろそこは、学園上空だったのだ。

 

        ***

 

 青蘭学園上空に現れた亜空間の穴から、百体近くのウロボロスが出現した。見張りの統合軍兵が言うには、それらはまっすぐ格納庫に向かっているとのことだった。すぐに格納庫を包囲している駐屯軍が少しの兵を残して迎撃に出た。そして、残っていた方の兵の隊長と思しき者から、共闘の要請が入っていた。

 

「世界水晶の奪取をするなら今が一番の機会でしょうけど、持ち帰るまでが難しいわね。それに、殿下をお守りするための行動としては逸脱しすぎているわ。ただ、それと要請を受けるかは別だけれど」

 

 要請を受けてから早速会議を開いて、スレイが指で机を叩きながら言った。だんだんそのペースが早くなっていっていることから、彼女も焦りを感じているのがアルフレッドは伺えた。

 

「悠長に考えてはいられんでしょう。ウロボロスがこちらに向かっている以上、そのうち攻撃されるのは明白。包囲している戦力が少ない今、共闘はしないでも撃って出るのが最善の策では」

 

「そうですね、リナーシタ大尉。共闘しないなら少し待って、迎撃に出ている戦力が全滅しそうな頃合いを見計らって出撃するのが最適でしょう。彼らの後退を支援するとでもなんでも言ってやればいい。今の包囲戦力はゴミ同然。もう今のうちに皆殺しにするのもありでしょう」

 

 アルフレッドの進言に、ユウヒが言葉を重ねる。ふたりの言葉に対する反論は出なかった。それを受けてか、スレイはひとつため息をつき、おもむろに立ち上がった。

 

「ユウヒの案を採るということで、異論は無さそうね。ただ、包囲戦力を皆殺しにするのは無しよ。連中を退けるならもっといい手があるわ」

 

 スレイはそう言って、彼女の籠手状の召喚武器、アーンヴァリウスを装備した。そして会議していた部屋の天井に向かって、それを嵌めた手を掲げ、何か波のようなものを発した。

 

「彼らの受けた命令の記憶を改竄したわ。これで、包囲していた連中は全員、ウロボロスの迎撃に向かうはずよ」

 

「んだよ、そんな便利なことできるなら包囲された時にやっときゃ良かったじゃないか」

 

「対象が多すぎるとあんまり意味ないのよ」

 

 ナイアの言葉に、スレイは不満げに答える。出来ることならそうしたかったということだろう。

 

「さて、リナーシタ大尉。今ジャッジメンティスは使えないとのことでしたが、なんとかできそうですか?」

 

「ギリギリまで粘ってみます。EGMAからのハッキングなので、解除できる望みは絶望的ですが」

 

「いや、なんとか出来ますよ、アルフレッド大尉」

 

 スレイの問いに返したアルフレッドの答えに続けたその声の主は、メルティだった。側にはシノンとユーフィリアもいる。音も無く突然入ってきた彼女らに、アルフレッドも含めたその場の全員が警戒した。

 

「アーネスト准将から話は伺っています。私はもちろん、シノンもユフィも反EGMAです。警戒は緩めてください。それに、私ならEGMAのハッキングは打ち破れます。行方をくらましていた件については後でお話ししますから、今は私を、私たちを信用してください」

 

 メルティの言葉に対し、スレイはしばらく考え込んだ。やがて顔を上げると、彼女はランの方に向いた。

 

「殿下、いかがします?」

 

「ロウ少佐は次代の白の世界を担う人材なのでしょう? 信用する価値はあると思います。あとはあなた方に任せます。よしなに」

 

 ランの答えを聞いて、スレイはひとつ息を吐くと、メルティの方に一歩進んだ。そして彼女を冷徹な目で見つめ、低い声で告げる。

 

「妙な行動を少しでも見せたら、即射殺します。ですから早くEGMAのハッキングを解いてください」

 

「ありがとうございます、ティルダイン中佐。アルフレッド大尉も来てください」

 

 メルティは敬礼して、すぐにジャッジメンティスの方に向かう。彼女にシノンとユーフィリアも同様に続く。アルフレッドもスレイらに敬礼して、彼女の後を追った。

 

「少佐。この一週間どこに行方をくらましていたんです?」

 

「亜空間に隠れて、シノンを修理していたんです。ユフィの異能で時間の流れを遅らせてもらって、私の主観では2年かかりましたがこちらの時間経過ではそれくらいでした。ともかく、EGMAのウロボロスを倒したら今日中にEGMAを倒しに行きますから、大尉もそのつもりでお願いします」

 

「何、今日中にですと?」

 

 思わず聞き返したアルフレッドに、メルティは大きく頷いた。

 

「黒の世界で、リーナが新たな力を手にして今こっちに向かっています。EGMAの強みは無限とも言える量の情報を持っていることです。ですが、リーナが手にした力はEGMAの知り得ぬ力です。だから、それこそがEGMAを打倒する最大の希望。EGMAがそれについての情報を集める前に、攻め入る必要があります」

 

 そこまで言い終えた時、ちょうどG型の前に着いた。メルティはそのコクピットに入ると、端末を懐から取り出してそれに繋ぎ、キーボードを叩き始めた。アルフレッドがその様子をぼんやりと眺めていると、シノンが彼をじっと見つめているのに気がついた。

 

「どうした?」

 

「え、ああいや、アルフレッドさんのことは実技講師としてしか知りませんでしたから、つい」

 

 シノンは慌てた様子で言った。その様を見て、アルフレッドは何故それがEGMAに反旗を翻したのか、疑問に思った。今主流となっている、人間並みの感情を持つアンドロイドが、それを人権を持つ存在として扱おうとするEGMAに反感を抱くのは、筋が合わないように感じたのだった。

 

「そうか。ところでコードΣ40——いや、シノンの方がいいか。なぜ、アンドロイドがEGMAを打倒しようとする?」

 

「私の所有者のメルティが、そうしようとしているからですわ。例え感情を持ったとしても、アンドロイドが所有者である人と同等であるなど言語道断。アンドロイドは人間の従僕であるという本質は、最初のアンドロイドが出来てから今に至るまで、何も変わらぬただひとつの真理です。それを忘れた、人間でもアンドロイドでもない半端モノは、この世にあってはなりませんの」

 

 シノンは毅然として答えた。それはかなり納得がいく説明である一方で、反EGMA派的には模範解答であった。メルティが開発者であるので、彼女が言わせているという可能性も否定できない。だが、それでも間違いなくアンドロイドとして理に適った答えであり、望んだことを言わせられるというのも、またアンドロイドが機械に過ぎない故の特権である。

 

「もうひとつ、私の主張を付け加えれば、私の知る未来では滅びの引き金を引いたのはEGMAです。ですからEGMAを討ちます。もっとも、この記憶にはロックが掛けられていて、メルティさんに解除してもらわなければ以後気づかぬままでしたが」

 

 ユーフィリアが、壁にもたれかかりながら告げた。それはどういうことかとアルフレッドが聞く前に、G型のコクピットからメルティが顔を出し、アルフレッドを呼ぶ。

 

「大尉。ハッキングの解除、終わりました。あと、万全を期して私の開発したOSに換装して、戦闘データを移しておきました。前のと同じ感覚で戦えるはずです」

 

「ありがとうございます、少佐」

 

 彼が礼を述べると、ジャッジメンティスの格納庫に統合軍の兵士が一人小走りで飛び込んできた。

 

「リナーシタ大尉。地球軍が後退を始めました。G型を出せるなら、出撃をお願いします」

 

「了解」

 

 アルフレッドは敬礼をし、その伝令が敬礼を返したのを確認すると、リフトに乗って、メルティと入れ替わりにコクピットに入った。此度の戦いは、メルティの言葉を信じるならリーナも加勢するようだが、少なくとも最初は一人で戦わねばならない。

 

(一人の戦いか。致し方あるまい)

 

「アルフレッド=リナーシタ。ジャッジメンティス、出撃する」

 

 アルフレッドが告げ、その機体が鉛直上向きにカタパルトから射出される。そして、高度200メートルほどの低空で滞空すると、スラスターを噴射して西に向かう。その後に、木馬に乗った統合軍の一個中隊が着いてくる。

 数秒後、後退途中の国連軍の頭上を通過した。その時、G型の集音機能を通じて耳に舞い込んでくるのは彼らの怨嗟の声だった。なぜ今更来るのか、包囲していたのをこちらに向かわせたのは何だったのか、我々をウロボロスに殺させるつもりだったのか——。

 

「済まないとは思う。だが、仕方のないことだ」

 

 アルフレッドはスラスターの出力を上げる。ウロボロスの数は最初の二割ほどだった。空に飛べもしない一般人にしては大したものだと感心したが、アルフレッドはそれを口にすることはなかった。

 ウロボロスの近づいて来る速度は大きくなっていっていた。ものの数秒もすれば、その集団の先頭は国連軍の最後尾に到達する。一方で、統合軍の部隊は国連軍の先頭と接触していて、国連軍の先頭の方の歩みが緩みつつあった。怨恨で冷静な判断が出来なくなっているのだろう。後退の途中でそのようなことをすれば、何が起こるかは明白だ。

 

「愚かな。自分で自分の身を滅ぼすとは」

 

 アルフレッドの予想通り、国連軍の集団は詰まり始め、恨みに駆られ統合軍を攻撃し始める先頭と、ウロボロスから逃げる後尾とで、中央を押し潰していった。そして、統合軍が彼らを無視してその頭上を抜けていくと、いよいよ地獄は始まった。足を止めた一部から、将棋倒しのように列が崩れ始めた。そして、一瞬で大混乱に陥った集団に、ウロボロスが容赦なく襲撃する。最早、統率を失った彼らにウロボロスを倒す術はなく、ただただ蹂躙されていくのみであった。

 

「愛国心のない多国籍軍など、所詮はこの程度か」

 

 アルフレッドはそう呟いた直後、大型のウロボロスのうちの一体がG型のビーム・ライフルの射程圏内に入ったのを確認した。アルフレッドはすぐさまその照準を合わせ、ウロボロスに撃ち込む。その一撃で、それは爆発四散する。EGMAならばビーム・ライフルに耐えられるだけの装甲はどのようにすればよいか知っているはずだが、一撃で撃破できたということは、EGMAがウロボロスを強化することはないということの裏付けが取れたも同然だった。

 それからは、概ね順調に事が運ばれていった。統合軍兵は手慣れた様子で淡々とウロボロスを撃破していき、アルフレッドも殆どその場を動かずにウロボロスを撃ち落としていった。悲惨な状況だった国連軍はいつの間にかいなくなっていた。最後に見たときには、兵の数だけでも最初の約三割にまで減っていたので、守りのために格納庫に残っている統合軍を攻める力も無いと見えた。

 

(残りの大型はあと十二体か。このまま順調に行けばいいが、さて)

 

 アルフレッドが微かに胸騒ぎを感じた直後だった。コクピット内で警報が響く。モニターには、増援に向かってきているらしいウロボロス全ての現在の亜空間座標が表示された。

 

(出現予測地点は格納庫ではないのか。EGMAめ、何を狙っている?)

 

 OSの演算では、出現予測地点は現在の戦場となっている。これが二重の陽動であるとしても、陽動に備えて格納庫には二個中隊規模の統合軍が残っているため、そのことに関してはそれほど心配はしていない。しかし、増援のウロボロスは殆どが大型である。この戦場にその増援二十体の大型ウロボロスが現れるのは、ジャッジメンティスが一機しかいない現状ではかなり辛い状況であるのは違いなかった。

 そして、大型を十体まで減らした時、それは現れた。しかも、予測とは少しずれて、出現したのはG型の背後の、それから数メートルも離れていない場所だった。アルフレッドは即座に反転してその亜空間の穴にビーム・ライフルを撃ち込みそこから離れる。だが、この行動のおかげで、元からいた大型のウロボロスが間近に迫ってきていた。どちらのウロボロスを対処しようか——その一瞬の迷いが仇となった。気がつけば、どちらも照準を合わせてから撃っていては間に合わない距離にまで近づいてきていた。最早万事休すかと、自爆装置のセーフティを解除するボタンに手を伸ばしかけた時だった。

 碧き雷光が閃いた。G型の周りに群がっていた大型ウロボロスが穿たれ、焼き尽くされる。さらにその雷は大型のみならず、統合軍が交戦していた小型のウロボロスをも消し去った。そして、淡き光ながらも、立ち込める暗雲を打ち払う光が、天より射し込んできた。

 アルフレッドは勿論、そこにいた統合軍の誰もが、空を見上げた。そこにいた、神々しき光を放つ、威風堂々という言葉が似合う佇まいの人型を、彼は知っていた。姿形は違えど、一度見れば忘れられぬその存在感が、アルフレッドの心を揺さぶる。しかし、初めて見た時とは決定的に違うことがある。それは、その輝きが刺々しいものではなく、温かいこと。彼の瞳は、微かに潤みを帯びた。

 

        ***

 

 ソフィーナは息をのんでいた。突然到来したその光は、戦っていたウロボロスを、撃ち漏らしも含めて全て退却させてしまった。そして、この時ソフィーナがそれから感じていたものは、感嘆や驚嘆ではなく、戦慄であった。向こうの方で何をしたのかは分からないが、とにかくあれを敵に回すわけにはいかないと、ソフィーナは考えた。

 

「全員、帰投するわよ」

 

 ソフィーナはそう告げ、いの一番に反転して学園に向かう。急ぐ彼女に、クルキアータが横について不思議そうに訊く。

 

「どうしましたの? かように血相を変えて」

 

「ちょうどいいわ。クルキアータ、あなたは今から格納庫に行って、D・Eのスタンスを伝えてきて頂戴。私はアウロラをぶん殴ってくる」

 

「ちょ、いきなりぶん殴るだなんて」

 

 その先のクルキアータの言葉は、ソフィーナの耳には届かなかった。この期に及んで統合軍の戦力をあてにしていたアウロラは、むしろ除くべきだという意識で彼女の頭は一杯だった。

 ソフィーナは学園に到着するや否や、司令室を目指した。怒りのままに突き進んでいると、その道中でちょうどアウロラとミハイルに出くわした。

 

「アウロラ! あんたって人は!」

 

 アウロラを見た瞬間、ソフィーナは彼女に殴りかかったが、即座にミハイルから羽交い締めにされてしまった。ソフィーナはそれから逃れようともがきながら、二人を痛罵する。

 

「この大馬鹿、今の状況に合わせた編成表を作らなかったなんてどんな思考回路してたのよ! それにミハイルも! 司令部に入るなら戦略眼のひとつやふたつくらい身につけときなさいよ! S=W=Eの技術者風情が調子こいてんじゃないわよ!」

 

「確かに、考えが甘かったのは私の落ち度です。このことについては謝罪します。ですが、あなたの度が過ぎた越権行為を見過ごすわけにはいきません」

 

 アウロラは、きっぱりと言い放った。その言葉は、ソフィーナにとってみれば火に油を注がれたようなものだった。越権行為をしたのは事実だが、そうしなければ出撃すらできなかったのだ。その状況を作り出した張本人に言われる筋合いは毛頭なかった。

 

「どの口がほざいてんのよ。青蘭島が危機に陥りそうだったのはあんたのせいでしょうが」

 

「あなたの意見は聞いていません。あなたからD・E代表代行の権利を剥奪します」

 

「はあ? それが出来るのはD・E代表のミルドレッドか、議会での多数決だけよ。高々T・R・Aの代表でしかないあなた単独じゃ出来るわけないじゃない」

 

 ソフィーナが眉を顰めて告げると、アウロラの口角が、一瞬だけ吊り上がったように見えた。そして、ソフィーナは、これまで彼女からは感じたことのない不遜さが、彼女から滲み出ているように思えた。

 

「今の状況で、青蘭島評議会の誰があなたを支持すると思いますか? あなたも身を置いているなら、分かるはずでしょう」

 

 ソフィーナは言葉を詰まらせた。確かに彼女の言う通りで、評議会のメンバーはその殆どがアウロラのシンパだ。この傾向は、アウロラが赤の世界の最高神としての記憶を取り戻し、その代表となってからのものだが、第二次ブルーフォール後に緑の世界が評議会から駆逐されると、一層強まっていた。初めはシンパだったが、ウロボロス襲撃後は中立の立場となっていたD・Eは、孤立してしまっているのだった。

 

「それで、そっちの方はいいとして、司令部の方はどうするのよ」

 

「当然、今のメンバーを続投させます。何か異論はありますか?」

 

 あるに決まっている、とソフィーナは反論しようとしたが、誰が代わりに入ればいいかを思いつくことができなかった。己は青蘭島の中枢から遠ざけられ、ミルドレッドたちはD・Eの統治で手一杯だ。青の世界は異変による被害が酷くてそれどころではなく、緑の世界の人間を入れるわけにもいかない。S=W=Eで知っている人間は大半が反EGMAのようであるし、消去法では赤の世界の人間しかいない。そうなると、かの世界の者はこぞってアウロラを推すだろう。

 

「いい加減、離しなさいよミハイル」

 

 ソフィーナは声を低くして言った。思いのほかあっさりと、ミハイルは拘束を解いた。彼女は終始無言であった。

 ソフィーナはそれから何も言わずに、靴を鳴らしながら大股でその場を離れた。その足の向かう先は寮の部屋だ。彼女は今、どの友人とも話す気がしなかった。道中でルビーとすれ違ったが、彼女の声掛けは無視した。

 寮の自室に着くと早速、ソフィーナは電気もつけずに、ミルドレッドにテレパシーを送った。すると、ミルドレッドの不機嫌そうなため息が聞こえた。

 

「なんだ。安眠してたのにテレパシーなぞ送りおって。大した要件じゃなかったら消し炭にしてやる」

 

 ソフィーナは冗談と分かっていても震え上がった。深呼吸して心を落ち着けて、先程の戦闘からアウロラとの一悶着までの経過を端的に説明した。それを聞いたミルドレッドは、暫く黙っていたが、やがて面白がるような調子で告げる。

 

「お前、謀略下手くそだな。調査するって任務を負ってそんな敵意を抱かれるようなことしてどうする。しかも初日に。まあ、それを見抜けなかった私にも責任はあるだろうが」

 

 今度はソフィーナが不機嫌になる番であった。もともと不機嫌だったが、一層その度合いが強まった。確かに感情に飲まれてしまったとはいえ、直接的に貶されて不機嫌にならぬはずもない。

 

「安心しろ。お前の後釜には適当な十二杖を付けてやるから。だが、調査の方はクルキアータと続けろ。権限は無くなるだろうが、その分使える時間は多いからな。く、れ、ぐ、れ、も、今度は感情を昂ぶらせてポカやらかすんじゃないぞ」

 

「分かりました」

 

「うむ。頼んだぞ」

 

 そのミルドレッドの言葉を最後に、テレパシーによる会話は終わった。それから、何回か深呼吸をして、ソフィーナは部屋の窓から格納庫を見やった。今、そこにクルキアータがいるはずである。彼女はそのまま格納庫をじっと見つめ、クルキアータに心の中で声援を送った。

 

        ***

 

 ソフィーナが去ったのち、ミハイルとアウロラは二人きりになった司令室で、二人でほくそ笑んでいた。

 

「これで煩いのも消えたな。あとは統合軍と反EGMAの蛆虫どもを叩き潰せば、EGMA、そしてアウロラ。お前の理想の世界まであと一歩だ」

 

「そうですね。我々七女神の悲願がいよいよ叶うとなると、感慨深いものがあります」

 

「そのためにも格納庫に群がっている害虫を駆除せねばな。EGMAのウロボロスとの戦いで、今はそれなりに疲弊しているはずだ。今夜格納庫を我らがアンドロイド軍団と、国連軍の残党で強襲をかける。それに、彼も牢から連れ出してやらねばな」

 

 ミハイルは、広げていた手を強く握った。一方で、アウロラは疑念のこもった目線で彼女を見つめる。

 

「どうした、アウロラ」

 

「本当に勝てますか? あの碧のロボットを侮らぬ方がいいのでは」

 

「EGMAの叡智は究極のものだ。過去一度撃破されているようなものに、遅れを取るはずがなかろう」

 

 ミハイルは、不機嫌になって言った。EGMAを疑ったアウロラのその姿が、急に目障りなものに見えた。露骨に嫌悪感を示す彼女に対し、アウロラはため息をひとつ吐いて告げる。

 

「まあ、いいでしょう。EGMAを最もよく知るのはあなたです。あなたを信じます」

 

 その言葉に対し、ミハイルはふんと鼻を鳴らすのみだった。EGMAは至高にして崇高なる存在だ。信じるのは当然のことである。そう知らしめなければならぬ。たとえ七女神でさえも、ミハイルの意識ではその点は変わらなかった。

 

        ***

 

 ランは、息を呑みながら格納庫に降り立つ碧き巨神を見つめていた。アイリスが所有者だった時代にそれを見たことはあるが、その時とは違った神々しさがあった。そして、持つ力も異なる。メルティの言うように、EGMAを討つならこの機体の力を完全には知られていない今しかないように思えた。

 

「確かに巨神だけは行方不明だったけれど、まさか彼女がね」

 

 スレイが、ランの隣で呟いた。その様は安心しているようにも見えた。確かに、統合軍には手に余る存在であったし、その上統合軍との協力者の手に渡ったとあれば、安心するのも頷けた。

 巨神が着地すると、そのコクピットからひょっこりとリーナが顔を出し、飛び降りて軽々と着地した。その様は、数日前まで大怪我を負っていた者とは思えないものであった。それを見て、ランは友人であり仲間である彼女の無事に、心から安堵した。

 ランがそうしていると、見張りについていた兵の一人が、どこかオドオドした様子で二人に歩み寄ってきた。怪訝に思ってそちらを見てみると、その後ろには小さな黒髪の人形が着いてきていた。

 

        ***

 

 リーナはセイリオスから降りてすぐに、先に機体から降りていたアルフレッドに駆け寄り、勢いのままに彼に抱きついた。

 

「父上! 無事でよかった、です!」

 

「それはこちらの台詞だ。よくぞ無事で、しかも以前より立派になってくれた」

 

 アルフレッドの大きくごつごつとした掌が、リーナの頭にそっと置かれた。その父性愛は、リーナの心を喜びで満たし、心の底からうっとりさせた。だが、少ししてからアルフレッドは目だけをキョロキョロさせ始めた。その仕草で、彼が何を探しているのかをリーナは悟った。

 

「ジュリアなら、間も無く来ると思いますよ」

 

 リーナがにやにやしながら告げると、彼は目を丸くした。

 

「なぜ、私がジュリアを探していると分かった?」

 

「恋人同士なんでしょう? ジュリアと。このことについて、私は怒ったり、軽蔑したりすることはありませんから安心して愛を育んでください」

 

 リーナが言うと、アルフレッドは顔をほんのりと赤らめた。その様は、リーナの知らぬものであると同時に、彼もまた本当にジュリアを好いているのだと強く思わせた。我が父ながら、大切な親友を幸せにできる唯一無二の人だと、リーナは内心で頷いていた。

 ややあって、格納庫の空いていたスペースに魔神鎧が唐突に出現した。そしてその肩には、いつも通りにジュリアがいる。彼女とアルフレッドは目を合わせると、互いに名を呼び合いながら駆け寄り、固く抱き合った。その様をリーナは微笑ましく見つめていたが、ちょんちょんと肩を突くものがいた。振り返ってみると、そこにいたのは訝しげな表情をしたメルティであった。

 

「ねえリーナ。あれってどういうこと?」

 

 彼女は声を潜めて、ジュリアとアルフレッドを指差しながら尋ねた。

 

「見たまんまです。恋人同士なんですって」

 

「あら、やっぱりそうなの。じゃあちょっと厳しい状況かも」

 

「え、どういうことです?」

 

 メルティの漏らした言葉はリーナには不可解だった。リーナが尋ねてから数秒後、メルティは咳払いをしてそれに答える。

 

「いや、実はね。急で悪いのだけど、今日の深夜に出撃して、EGMAを急襲することになったから。同盟関係を結んでいる緑の世界の人ならまだしも、流石にそういうのがない黒の世界の人が関わりを持つのは」

 

「ちょっとちょっと、聞こえてるわよ」

 

 不機嫌そうなジュリアの声が聞こえたかと思うと、ヒールの靴音を高く鳴らして彼女がずかずかと近寄ってきた。

 

「私、白の世界に移住することに決めたから。それなら文句無いでしょ?」

 

「んなむちゃくちゃな」

 

「むちゃくちゃじゃないわよ。アルフレッドさんと結婚するんだからそうするに決まってるでしょう」

 

「いや待て待て。気が早すぎやしないか」

 

 ジュリアの言葉に、アルフレッドが慌てて突っ込みを入れる。すると、ジュリアはむっとして、アルフレッドにくっついて言う。

 

「結婚するんです! リーナももうその気ですし、私たちの愛の道を阻むモノは何もありませんわ」

 

 勝ち誇るように笑みを浮かべるジュリアと、困惑しつつも、満更でもなさそうなアルフレッドの姿は、今の逼迫した状況の中では、ある種の清涼剤となった。他の人に目を向ければ、メルティは呆れ、シノンとユーフィリアは微笑ましく二人を見つめている。そのようなささやかな幸せのある光景を噛み締めていた折、ナイアがリーナたちを呼びに来た。

 

「みんな来てくれ。ブリーフィングだ」

 

 その言葉は、リーナたちの意識をすぐに引き締めさせた。彼女に案内されるままに、リーナたちは会議室がわりの一室に向かう。そこには、既にスレイたち統合軍の副隊長以上の者が席に着いていた。リーナたちは敬礼してから、滞りなく用意されていた椅子に座る。

 

「さて、今回の作戦だけれど、統合軍の仕事は青の世界での補給線の維持と物資提供よ。反EGMA派は今夜で決着を付けるつもりみたいだから、私たちの仕事があるのは上手くいかなかった場合ね。ただ一応、この格納庫が拠点ってことになるし、EGMA派がここを襲ってこないとも限らないわ。各隊は、一人一人が気を抜くことがないように注意して」

 

 統合軍の兵士がスレイの言葉に威勢良く「了解」と返す。それから、スレイはリーナたちの方に向いて、紙を挟んだボードを片手に丁寧な物腰で言う。

 

「反EGMA派の作戦行動については、先程アーネスト准将からその仔細を記した書類を転送していただきました。それによれば、大まかに言えばアルフレッド大尉とリーナ伍長は門を抜けて真っ直ぐにEGMAの構造物に突入し、速やかにEGMAを破壊。以後はアーネスト准将の指示に従うこと、とあります。ロウ少佐、コードΣ40とコードΩ00はここで待機とのことです。出撃は本日、地球時間で22時丁度ですわ。それまでにそちらでご確認を」

 

「承知しました、ティルダイン中佐殿」

 

 アルフレッドはスレイから書類を受け取り、それにざっと目を通した。その一方で、スレイは再び全体に向けて顔を上げて話す。

 

「もうひとつ。先程D・Eからの使者が来て、それが言うことにはD・Eは統合軍と反EGMA派の行動を黙殺するとのことよ。信じるなら、相手にするのは地球とT・R・A、S=W=Eのみでよくなったってことね。支援してくれるわけじゃないみたいだから気休めにしかならないでしょうけど、それでもまだ敵が減ったってことには変わりないわ」

 

 その内容は、リーナとジュリアは既に知っていることであったが、アルフレッドは知らなかったようで、やや目を丸くしているように見えた。

 

「何はともあれ、統合軍としての今果たすべき役割はここの防衛よ。これまでとやることは変わらないわ。学園のアンドロイドが襲撃してくることも十分考えられるし、むしろこれまで以上に警戒が必要よ」

 

 スレイがそう警告した後、いくつかの質疑応答を経てブリーフィングは解散となった。統合軍の人がぞろぞろと抜けていく中で、リーナたちはアルフレッドの周りに集まって、作戦の資料を覗いた。

 

「最後までアンドロイドの本土での作戦行動は、プランの上では無いようですわね。やはり、新国家にはアンドロイドは」

 

「そういうのじゃないよ、シノン。私たちは、この建国戦争だけは、私たち人間の手だけで最後までやり遂げたいんだ。新国家にアンドロイドは必要だよ。もう何年も、私たちの生活はアンドロイドと共にあったんだ。今更アンドロイドを必要としない生活に戻るなんてできやしない。シノンだけじゃなくて、ユフィにも、新国家樹立後は働いてもらうからね」

 

 泣き出しそうになっていたシノンをメルティがその肩を叩きながら励ます。すると、それは僅かだったが、嬉しそうに口角を上げた。

 リーナはその様子を眺めながら、それほど不快感を覚えていない己に驚いていた。未だに心に靄がかかるような感覚はあるが、それでも前回シノンと会ったときに比べれば晴れ晴れとしている。しかし、考えてみれば納得がいかぬわけではなかった。そもそも、元々リーナが嫌っていたのは、アンドロイドの持つ感情ではなく、分別なく人間のように振る舞うアンドロイドだった。シノンとユーフィリアは自分が人間ではなくアンドロイドという別の存在だと自覚できているようなので、その点で大して気分を害することがなかったのだろう、とリーナは推測した。

 

「まあ、ティルダイン中佐の言った通り、学園にいる、EGMAのアンドロイド軍団が襲ってくる可能性は高いですから、出番がないと嘆くことはないでしょう」

 

「そうそう。頼りにするからね、シノンとユーフィリア」

 

 ユーフィリアの言葉の次に聞こえてきたのは、ルルーナの声だった。部屋の入り口の方を見てみると、そこにはルルーナとリーリヤ、ナイア、夏菜、そしてランがいた。

 

「ようリーナ。元気そうで何よりだ」

 

「ナイア、すみません。ご心配をおかけして」

 

 リーナは頭を下げるが、ナイアは首を横振りつつ、リーナの肩に手を回した。

 

「いいってことよ。リーナ自身は元気だし。それになんか、巨神の進化版みたいな凄えのも引き連れてるし。あれ、どうしたんだ?」

 

「黒の世界で、あれと私のジャッジメンティスを融合させたんです。名前はジャッジメンティス・セイリオスです。どうやらセイリオスが、巨神本来の名前だったみたいですから」

 

光り輝くもの(セイリオス)、ですか。いい名前です」

 

 ランが、リーナとナイアの前に立って微笑みかけた。それから更に、夏菜とリーリヤ、ルルーナもリーナに歩み寄ってきた。

 

「必ず勝利を掴んでください、リーナ」

 

「私たちも頑張るからさ。そりゃま、リーナたちには及ばないだろうけど。全部終わって落ち着いたら、私たちで祝杯をあげようね」

 

 リーリヤとルルーナが口々にエールを送る。最後に、他の四人とは違って顔を引き締めた夏菜が、リーナの前に立つ。その表情を見て、リーナも自然と背筋を伸ばし直した。

 

「私は立場上、あなたと味方として接することができるのは、これが最後かもしれない。だから本気で、心を込めて、あなたに言うよ。必ず勝って、夢を叶えて。陳腐な言葉だけど、心の底から祈ってるから」

 

「任せてください。父上、それにジュリアがいますから。私たちは無敵です」

 

 リーナは勢いよくVサインを掲げた。すると、夏菜はふっと表情を和らげ、底抜けに明るい笑顔でVサインを返した。

 

「じゃ、私たちは見回りがあるから、またな」

 

 ナイアはそう言って腕を解くと、手を振りながら部屋から出て行く。その後にリーリヤ、ルルーナ、夏菜が続いて、まるで散歩に出かけるかのような軽快さで彼女らは出て行った。

 

「では、私もここで失礼します。本来他国の軍人にかける言葉ではありませんが、あなた方のご武運をお祈りします」

 

 ランは一礼し、退出した。その後、メルティがリーナの小腹をちょんちょんと突いた。

 

「いい友達を持ったんだね。私は嬉しいよ」

 

「そんな、まるで母親みたいなこと言わないでくださいよ。小っ恥ずかしいじゃないですか」

 

 リーナはメルティから目を逸らして、顔を赤らめた。その様を見た彼女は、にやりと楽しそうに笑った。その笑みは、リーナにはかつての彼女と全く変わらないように見えた。

 

「かわいいなあ、こいつめ。昔は全然可愛げなかったのに。ジュリア、君のおかげかな?」

 

「そうね。出会ったばかりの頃のリーナとか天狗になっててそれでもってプライドの塊で、少しウザかったわね。数ヶ月も私と同居したらかなり丸くなったから、確かに私のおかげかしら」

 

「昔の話はやめて下さいよ。それも恥ずかしいですし」

 

 顔を赤くしたまま、リーナはか細い声で言った。しかし、彼女は彼女らのからかいを少し心地良く感じていた。このようなやり取りができるのも、これが最後かもしれない。そのように考えると、その心地良さも次第に増していった。

 それから、アルフレッドらと作戦内容を確認して、いよいよ出撃の時刻となった。セイリオスに操縦機器を取り付けて調整する暇はなかったため、再び、リーナは異能のみでそれを動かすことになった。その操縦席に座ると、やはりリーナは温かみを感じる。まるで、最高のパートナーとリンクしているかのようだった。

 

「伍長、ジュリア。出撃するぞ。準備は良いか?」

 

「もちろん」

 

「はい! いつでも出撃できます、隊長!」

 

 アルフレッドの呼びかけに、ジュリアは静かに、リーナは威勢良く返答する。ふとセイリオスの足元を見てみると、そこには統合軍の兵士たちとメルティ、シノン、ユーフィリアが、直立不動で敬礼をしていた。リーナは、その見事な姿勢に、思わず敬礼を返していた。

 

「第八機動小隊、出撃!」

 

 アルフレッドの裂帛の号令が響き、それに伴いカタパルトからG型が射出された。続いて、魔神鎧、そしてセイリオスも射出される。三機は瞬く間に空を突き抜け、白の門へ突入した。

 

        ***

 

 夏菜たちが三機の出撃を見送った直後のことであった。見張りから通信が入ったのだった。

 

「校舎の方からアンドロイドの軍団と、国連軍残党がが迫ってきています! 数はアンドロイドが約300、国連軍残党が100!」

 

「300って、高等部の戦闘用アンドロイド、ほぼ全員ですわよ」

 

 シノンの呟きが、その場の全員に戦慄を走らせた。しかし、それはかえって、統合軍の軍人たちの闘争心を刺激したらしかった。上等だ、統合軍の底力を見せてやる。誰かが叫んだその言葉が火種となり、士気は爆発的に膨れ上がった。無論、夏菜とて例外でなく、かつて特務隊の暗殺者として、数々の敵を切り刻んできたときの血が沸騰していた。

 

「やることは作戦通りよ。第一中隊と、遠凪夏菜、コードΣ40とコードΩ00は撃って出なさい!」

 

 スレイの命令が下った。その直後、第一中隊の隊員は瞬く間に、ナタクを中心にして隊列を組むと、格納庫を揺るがすような鬨の声を響かせた。

 

「ようし! 我々でアンドロイド全部、鉄屑に変えてやるぞ! 第一中隊、突撃ぃぃぃぃッ!」

 

 ナタクの号令で、第一中隊の全員が一斉に駆け出した。夏菜、シノン、ユーフィリアも、ナタクの隣を並走する。格納庫周辺は遮蔽物が少ないく、またアンドロイド相手に籠城は得策ではないと判断し、更に弾薬を節約するために、やや前時代的な戦法を取ることとなった。

 

「エンドブレイザー! 二刀流だぁぁぁぁッ!」

 

 夏菜は蛇腹剣、エンドブレイザーをその両手に召喚すると、その刃を分割して振り回しながら敵集団に突っ込んでいく。そして、最も近くのアンドロイドに刃を巻き付け、その刃を元に戻すことで、それを細切れにした。これを両方の剣で行ったため、二体のアンドロイドが手始めに倒された。

 

「暴れ足りなくてウズウズしてたんだよねえ。スクラップに変えてあげるよ!」

 

 ルルーナは飛び上がりながら、巨大な盾、シュッツ・リッタを召喚し、その裏に乗って落下することで、その下にいたアンドロイドを押し潰していた。他にも盾をふたつ召喚し、それを魔術で操ってアンドロイドを挟んで潰したりしている。

 リーリヤは吠えながらひたすらにランス、ヴィヒター・リッタを投擲し、しかもそれを走りながら行うため、さながら移動砲台のようだった。

 ナタクは集団の先頭で槍、ヴィーダーシュボルトを振り回して大暴れし、ナイアは籠手、アヴェンジェリアで味方を守りつつ、その吸収したエネルギーを放出して敵を倒していく。

 更に、第二中隊を率いるユウヒを初めとした狙撃部隊が正確な狙撃で、第二中隊内の砲撃部隊が的確な砲撃で、それぞれ援護を行う。

 かくのごとく、統合軍の兵士は乱戦となったこの場で、己の召喚武器の特性を活かし、アンドロイド軍団を圧倒していた。しかし、シノンとユーフィリアも負けず劣らずの獅子奮迅の活躍を見せていた。

 シノンは今回、よく好む空戦パックではなく、単騎殲滅用強襲パックという、空戦パックにも装備されていたビットの他にも、全方位に向けられた十二基の機銃と、二基の六連装ミサイルランチャー、更に二基の32ミリ電磁加速砲を備えたものを装備している。普段の空戦パックよりは機動力が大幅に落ちるが、その分攻撃力と防御力は格段に上昇している。近寄る敵は機銃で蜂の巣にし、その間を縫ってきた敵も変幻自在のビット攻撃で破壊し、ミサイルランチャーで敵の塊を木っ端微塵にし、電磁加速砲で遠くの敵を破壊する。それに触れられるものは皆無だった。

 ユーフィリアはというと、小刻みに自分以外の時の流れを遅くすることで、全ての攻撃を躱しながら、両手に持った剣で敵を斬る。これもまた、それを捉えるのはアンドロイドさえ不可能だ。

 終始優位に進めていく連合軍であった。最早、決着が付くのは時間の問題のように思われた。

 

        ***

 

 メルティは戦況を格納庫のある部屋の窓から眺めていたが、シノンが次々とミハイルの開発してきたアンドロイドを倒していくのを見ていると、段々と笑いが込み上げてきた。

 

「くくく、はっはっは! どうだミハイル! もう私のアンドロイドは、絶対にお前のなどに負けやしない! あの日から、お前に負けたあの日から、この日をずっと待ちわびていた! もう、もう二度と、お前に邪魔をされてたまるものかあッ!」

 

 メルティは心が澄み渡るような気分だった。これまで勝てなかった相手に、自分のアンドロイドが優位に立っている。最高だった。これまで感じたことのない恍惚感に包まれているかのようだった。

 メルティの前には、いつもミハイルがいた。EGMAから離反するより前、メルティが軍に技術者として引き抜かれた時からそうだった。既に彼女はそこにいて、メルティの作るものは個々の点では勝ることはあっても、総合的にはいつもミハイルに負けていた。メルティのアンドロイド技術が広く一般化したのは人工知能くらいで、他は全てミハイルの功績だ。アンドロイドから離れて人間向けの兵器開発に従事するようになったのは、EGMAの支配する世に疑念を抱いたからだったが、究極的には、ミハイルから逃げる口実が欲しかったのかもしれない。今から思い返せば、メルティはそうだとしか言えなかった。

 それだけに、メルティが作った最高最後のアンドロイドであるシノンが、ミハイルの開発したアンドロイドたちを蹴散らしていく光景は、爽快極まりなかった。

 

「勝ったんだ。私はついに、ミハイルに勝ったんだ!」

 

 十数分もすると、アンドロイドと国連軍残党は壊滅していた。統合軍の兵には、怪我人は何人か出たものの、死者は出ていない。まさに完勝といえるものだった。しかし、冷静になってきたメルティは、何か嫌な予感がした。それでもう一度残骸に満ちた戦場を眺めてみると、その残骸が不気味に蠢き始めていた。やがてそれらはひとつの形となり、巨大な人型を形成した。それで、歓喜に包まれていた統合軍の兵たちの間に動揺が見られた。

 

「ジャッジメンティスは出払った。なら、私がやるしか!」

 

 メルティはすぐ、部屋の窓から飛び降りる。そして落ちながら、大声で叫んだ。

 

「来て! ジャッジメンティス・ゼロ!」

 

 その瞬間、メルティの目の前に亜空間の扉が開き、灰色のジャッジメンティスが現れる。その操縦席に乗り込むと、残骸の塊に向きながら告げる。

 

「みんな下がって! このゾンビは、ジャッジメンティス・ゼロで相手をします!」

 

 メルティはそのまま機体をゾンビに突撃させ、両手でゾンビの腹を押さえた。

 

「跡形もなく、消滅しろ!」

 

 ゼロの両手にエネルギー球が出現し、それがそのまま爆発した。その青い爆発はゾンビの全体を包み、それが収まる頃には、今度こそ完全に消滅していた。一方のゼロは爆発の瞬間に亜空間に入り、安全な場所に出てきた。しかしそれでエネルギーを使い果たして、自動で操縦席を開放すると、動かなくなってしまった。

 

(お疲れ、ゼロ)

 

 メルティは操縦席から降りると、ゼロの装甲を優しく撫でた。ゼロはジャッジメンティスの最初の試作機で、基本性能は正式採用機とほぼ同じだが、バッテリーに問題を抱えた機体で、継戦能力の無さが欠点の機体である。とはいえ初めて作ったジャッジメンティスで、メルティは大切に保管していた。その我が子に等しい機体で仲間のピンチを救えたことに、メルティの胸に穏やかに込み上げてくるものがあった。

 

        ***

 

 二人だけの司令室で、アウロラは、ミハイルの茫然自失としている様を横目で眺めていた。アンドロイドがリーナたちの出撃に間に合わなかったどころか、ウロボロスの力を使って復活させたにも関わらず、ゼロの乱入であっという間に全滅させられたのは、無様としかいえなかった。だが、アウロラにとっても今の出来事は想定外であった。自然と、アウロラの眉間には皺が寄っていた。

 

「いやぁ、いい顔してるなあ、お二人さん」

 

「だ、誰だ!?」

 

 突如、聞き覚えのない女の声が響いた。ミハイルは、慌てた様子で辺りを見回した。その様を嘲笑うように、再び女の声が聞こえた。

 

「ここ、ここだよ」

 

 アウロラとミハイルは、同時にその声の聞こえた方、真上を見た。するとそこには、黒のフリルが沢山ついた服を着た女が、二人を見下して浮いていた。

 

「誰ですか、あなたは。名を名乗りなさい」

 

「くくく、聞かれたからには答えてやろう。私こそ、現職の魔女王、ミルドレッドだ。顔を見せるのは初めてだったな。ゆっくり話してやりたいところだが、今回は簡潔に忠告をしに来たんでな」

 

「忠告?」

 

 ミハイルは眉をひそめた。ミルドレッドは「ああ」と返事をすると、床に降り立って、傲慢な態度で告げる。

 

「まずミハイル。部を弁えないアンドロイドは、許されざる存在だ。お前も、居場所が惜しくば新しい白の世界に恭順することだ。それとアウロラは、分不相応な夢を抱くな。今のお山の大将で満足する方が、よほど幸せだぞ」

 

 ミルドレッドはそれだけ言うと、二人が何かを言う間も無く、姿を消した。ミハイルは癇癪を起こしたように壁を殴ったが、アウロラは静かに息を呑んだ。

 

        ***

 

 リーナ、アルフレッド、ジュリアが亜空間を抜けると、目の前にはEGMAのある構造物があった。塔状のその建物は、白の世界全てを見下せるかのように、高く聳え立っている。

 

「いいか。この塔には強力なバリア・フィールドが張ってある。完全に打ち破るのは不可能だが、一部に穴を開けて突入することは、私のG型でも可能だ。我々はこれより内部に侵入し、そこから破壊活動を行う」

 

 アルフレッドから通信が入ったが、その音声は聞き取れはするもののかなりノイズが混じっていた。セイリオスを介してもそうなるということは、かなり強力な妨害をEGMAが行なっているということに他ならなかった。

 

(直接体感したことはありませんでしたが、これがEGMAの力ですか)

 

 リーナは無意識のうちに首のチョーカーに手を当てた。するとその時、構造物のバリア・フィールドの内側に、何かがいることをセイリオスの力で知った。

 

「これは、まさか——」

 

 リーナがその先を口にする間も無く、その方向から極太のビームが照射された。それはセイリオスが自動で張った結界で完全に防がれたが、それで、そこにいるものが何なのか、リーナは完全に悟った。

 

「やっぱり、兄上でしたか」

 

 リーナは、ため息混じりに呟いた。やがて、構造物に近づくとそのその推察は確信に変わった。ウロボロスと融合でもしたのか、その姿は禍々しく変貌していたが、ビーム・スナイパーライフルに背中のミサイルランチャー、肩の二門のビーム・キャノンと、武装は間違いなくM型そのものだった。

 

「なるほどな。M型をEGMAが接収したのはそういうことか」

 

 アルフレッドは思ったより冷静な雰囲気だった。既に、実の息子と戦う覚悟は完了していると、そういうことなのだろうとリーナは考えた。そうしていると、脳裏に直接、ノイズが走り出した。

 

「この時を待っていたぞ、リーナ。貴様は絶対に、俺の手でブチ殺す!」

 

 邪心に満ちたマイケルの疾悪(しつお)の叫びと共に、ビーム・キャノンの銃口が、セイリオスに向けられた。



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白の黎明

 マイケルに銃口を向けられたが、リーナはそれを無視して、結界の強度を最大限に上げ、EGMAのバリア・フィールドに突っ込み始めた。

 

「待てリーナ! 逃げるのか! 俺の幸せは潰したくせに、俺に潰させはしないのか!」

 

「確かにアナベルさんと、その腹の子を破壊したのは私の罪です。ですが、これからの白の世界に、あのような存在――人間の尊厳を脅かすような存在は不要です。それに、今兄上に構う暇は私にはありません」

 

 リーナは、毅然として言い放った。すると、獣のようなマイケルの雄叫びが轟き、照準の定まっていないビームが、我武者羅に放たれた。そのM型の様はまるで、思い通りにいかないことに当たり散らす幼子のようだった。

 

「流石にあれを放っておくわけにはいかん。私とジュリアでマイケルの相手はするから、伍長は先に行け。セイリオスなら、単騎でもEGMAの破壊は可能だろう」

 

「そういうこと。私たちに任せてちょうだい」

 

「分かりました。どうかご無事で」

 

 リーナはアルフレッドとジュリアの言葉に快諾し、EGMAのバリア・フィールドを突き破ってその内側に突入した。その時、彼女の頬を一条の涙が伝った。

 

        ***

 

 ジュリアは、リーナを追おうとするマイケルの隙を付き、M型の肩のビーム・キャノンを狙って、魔神鎧を介して魔弾を撃ち込んだ。よほど彼は頭に血が上っていたのか、見事にそれは命中し、それらを両方とも破壊した。すると、一瞬仰け反ったそれが、ゆらりとジュリアの方を向いた。

 

「ジュリア! お前はまた、俺の邪魔をするのか!」

 

 今度は、M型のビーム・スナイパーライフルが魔神鎧に向けられた。だが、その瞬間にそれが、G型のビーム・ライフルのビームに撃ち抜かれ、爆散した。

 

「親父。あんたまで、あんたまで俺に敵意を向けるのか!? 親父は俺たちを認めてたんじゃなかったのかよ!」

 

 マイケルは悲痛な声で訴えるが、それも虚しく、アルフレッドは無言でM型の頭部を撃った。

 

「畜生、親父もそうだってんなら、俺はもうあんたを親父とは思わねえ! あんたも殺してやる!」

 

 掠れた声で、彼は叫んだ。すると、M型の破損していた部分が、ウロボロスの皮質と同じもので覆われ、武器までもが完全に修復された。その姿は刺々しく攻撃的になったジャッジメンティスといった風で、その色は漆黒に染まっていた。

 

「これが、ジャッジメンティスの究極形態、ジャッジメンティス・アイディールだ! EGMAの認める、正真正銘のな!」

 

「理想か。確かに、自己修復機能は魅力だな」

 

「そんな口を叩いている暇はあるのか?」

 

 アルフレッドが呟いた直後、アイディールは既にG型の背後に回り込んでいた。そして、至近距離からG型にビーム・キャノンを撃ち込む。ジュリアには、巨大なビームに包まれ、G型の姿が消えたように見えた。

 

「ふん、他愛ない。次はお前だ、ジュリア」

 

 マイケルが嘲り、アイディールが魔神鎧に向いた刹那のことだった。その背後に亜空間からG型が現れ、至近距離でビール・ライフルを放ち、すぐ離脱して魔神鎧の方に寄った。

 一方のアイディールは、撃たれたところはすぐに修復された。マイケルが怒りの雄叫びを上げ、再びビーム・キャノンの狙いをつける。

 

「させないわ!」

 

 ビームが放たれたのと、ジュリアが結界を張ったのはほぼ同時だった。その照射は五秒ほど続いたが、ジュリアは完全に防いでみせた。だが、疲弊したのも事実で、次撃たれたら同じことができる自信はなかった。

 

「この戦い、長々と続けるわけにはいかないな」

 

「はい。ですが、さっきので魔力を結構使ってしまいましたわ。他の魔神鎧を召喚する余力は、とても」

 

 ジュリアはアルフレッドの言葉に、口惜しく思いながら返した。しかし、その直後、ジュリアは微かな一条の光明を見出した。殆ど当てのないことであったが、ジュリアの願う通りでなければ、アイディールに勝つことはおろか、リーナがEGMAを破壊するまで持ち堪えることも出来ないように思えた。

 アイディールから放たれるビームやミサイルを回避しながら、ジュリアはアルフレッドの方に意識を向けた。彼が、繋ぐための糸を、須臾の長さでも持っていれば、それだけで勝機はある。

 ジュリアはそれを必死に探した。彼の心の表層から深層まで入り込んで、それを求めた。だが、一向に見つからぬ。潜っても潜っても、何も捉えられなかった。そして、ジュリアはとうとう、その糸を追い求めるのに全てを懸けた。当然、回避行動は疎かになり、ちょうど魔神鎧に迫っていたビームが魔神鎧の、ジュリアが乗っていない方の肩を溶かし、ミサイルが命中しそうになる。

 

「ジュリア!」

 

 アルフレッドが叫んだその時だった。糸埃のように細く短い、その糸を、ジュリアはようやく見つけた。ジュリアは、無我夢中でその糸を掴んだ。その瞬間、彼女は体中に途方も無いほどの力がみなぎるのを感じ、意識を即座にミサイルに切り替え、防護結界を展開し、それらを全て防ぎ切った。その時には、微かなものだった糸も、注連縄のように太くなっていた。

 

「ジュリア。これは、なんだ?」

 

 アルフレッドが困惑したような声を漏らす。ジュリアはふっと不敵な笑みを浮かべ、G型の方に魔神鎧を向けた。

 

「これが、リンクです。僅かでもアルフレッドさんにその能力があったみたいで、助かりましたわ。さあ、反撃しましょう!」

 

「リンク、ということは、私がアルドラなのか? そんな話は、ついぞ聞いたことがないぞ」

 

「機械じゃ検知できないほど僅かだったのでしょう。ですが、こうして私とアルフレッドさんでリンクできています。絆が強ければ、たとえ僅かでも強力な繋がりになります。細かいことはともかく、早くやりましょう!」

 

 今だに惑っているアルフレッドに、ジュリアは強く語る。すると、彼は深く深呼吸して、晴れた表情を浮かべた。

 

「そうだな。ジュリア、お前に任せるぞ。秘策があるのだろう?」

 

「ええ! 魔神鎧、全部召喚!」

 

 ジュリアは、他の10体の魔神鎧を召喚した。当然、アイディールはそれらにも攻撃を仕掛けるが、ジュリアはその各々を結界で受け流した。そして、大きく息を吸い込み、自分を中心に巨大な魔法陣を作り出した。

 

「あの時の合体か! だが、あれほどの力なら広範囲に影響を及ぼすだろうな! あの時のように海の上じゃない。下には都市がある。仮にもEGMAに取って代わって国を作ろうってやつが、住処を奪おうとするたあ笑い物だ!」

 

「予測だけでぐちぐち言うんじゃないわよ! 今から見せるは人形魔術とエクシードの最高峰! さあ、人の世を切り開く力を今ここに!」

 

 ジュリアはマイケルの挑発を一蹴し、まず、2体の魔神鎧を腕の形に戻し、更に他の9体を分解し、再構築していく。

 

「アルフレッドさん!」

 

「ああ。分かった」

 

 ジュリアがアルフレッドに呼び掛けると、彼はG型のビーム・ライフルを手放し、腕の形になった魔神鎧をG型の腕に嵌めた。そして、その魔神鎧の手に、9体を再構築したもの——巨大な剣を、その手に握った。その瞬間、黄金の波動が、G型から溢れ出て、剣に黒金の刃が出現した。

 それを見届けたジュリアは、瞬間移動でG型のコクピットの中に入り、アルフレッドの膝の上に乗った。

 

「これこそ、魔神銀河剣『KAISER』よ! さあ、アルフレッドさん!」

 

「マイケル、許せよ!」

 

 アルフレッドが一瞬瞑目し、カッと目を見開いた。そして、ジュリアの魔術と異能で強化されたG型が、剣を構え直し、大きく振りかぶった。

 

「虚仮威しをぉぉぉぉッ! そんなもので、EGMAの希望の俺がやられてたまるかぁぁぁぁッ!」

 

 マイケルが咆哮する。すると、アイディールが巨大な黒い球のようなものに包まれ、「KAISER」と同等の大きさにまでなった。だが、アルフレッドは動揺することなく、真っ直ぐ唐竹に振り下ろす。アイディールはそれを白刃どりで受け止めた。その接触面から稲妻が走り、辺りが一際明るくなる。

 

「どうだ、受け止めたぞ! お前の最高峰とやらを!」

 

「そんな強気な台詞は打ち破ってから言うことね!」

 

 マイケルの勝ち誇った声に、ジュリアは覆い被せるように怒鳴った。その瞬間、アイディールの受け止めていた手に、ヒビが入った。アルフレッドとジュリアはここぞとばかりに押し込む。マイケルはなおも粘ったが、終には、手だけでなく腕が完全に砕け散った。そして、それを阻むものが無くなった「KAISER」は、アイディールを唐竹割りで縦に斬り裂いた。そこからアイディールが再生することはなく、数秒後に爆散した。

 

「やった、やりましたわ!」

 

 ジュリアは、感極まってアルフレッドに抱きついた。しかし、彼の方はまだ真剣な表情をしていた。もしやと思って探知結界を展開すると、アイディールが爆散した辺りで、瀕死のマイケルがいることが分かった。ジュリアがそのことかと尋ねる前に、アルフレッドは機体をそこに向かわせた。ジュリアは全ての魔神鎧を戻し、そのまま無言で彼と共にいた。

 マイケルの所に着き、アルフレッドが機体から降りてから、ジュリアはその後を追った。すると、地面に横たわり、大量の出血をして息も絶え絶えなマイケルが、そこにいた。

 

「親父、か?」

 

「ああ」

 

 マイケルの微かな声に、アルフレッドは静かに答えた。ジュリアは二人の間に入らぬように、距離を取って彼らを眺める。

 

「なあ、親父。俺という息子をもって、後悔してるか?」

 

「少し、な。お前と殺し合いなどしたくなかったよ。出来れば、ずっと、父と息子の関係で居たかった」

 

 アルフレッドの声は、震えていた。一方で、マイケルはふっと微笑みを浮かべた。

 

「そう、そうか。その言葉が聞ければ俺も親父の息子で良かったと心の底から思えるよ。出来れば、この今際に、リーナとも話したかったけれど」

 

 マイケルはそう言うと、急に咳き込んだ。その咳には血が混じっていて、彼がもう長くないということを嫌でも見せつけられた。

 

「すまん、マイケル。リーナと通信が繋がらない」

 

「いいんだ。あいつの頑張りを邪魔したくない」

 

「どういうことだ、それは?」

 

 アルフレッドが尋ねると、マイケルは弱々しくも明るく笑った。それはまるで子供の笑顔のように、この上なく純真であった。

 

「相変わらず鈍感だな、親父は。死にゆく時くらい、あいつにとって憧れの兄で居させてくれよ。怒りはあるけど、それを抱えたまま死にたくない。ま、こんなこと言っても今更何言ってんだって感じだけど。リーナは、知る由も無いだろうし」

 

「そうか。……何か、他に言うことはないか?」

 

「ふたつだけ、ある。アナベルは、アナベルはどうなる?」

 

「もし我々が勝利して、その時我々の国にいれば、処分は免れんだろう。すまんが、少なくとも我々の作る国では、子供を作れるアンドロイドを受け入れるわけにはいかない」

 

「まあ、そうだよな。仕方ないさ。ここで親父たちを止められなかった俺の落ち度だ。親父たちも気を悪くしないでくれ。信念に従ってくれた方が、家族として誇りに思える。互いに己の信念を貫いて戦ったことだし」

 

 ためらいがちに答えたアルフレッドに対して、マイケルは憑き物が落ちたように、淡々と告げた。その姿に、先程のような怒りと憎しみに塗れた彼を見出すことはできなかった。

 

(もしかして、さっきはウロボロスに取り込まれてしまっていたのかしら。どちらにせよ、マイケルさんはEGMAの戦士としても、家族としても死のうとしてる。そんな器用なこと、私にゃ出来ないわね)

 

 ジュリアが自嘲気味に笑っていると、マイケルの目が一瞬自分を見ているように感じた。しかし、彼はすぐにアルフレッドの方に視線を向け直した。

 

「最後の質問だ。親父はジュリアと、どういう関係なんだ?」

 

「恋人だ。お互いに、再婚しようと考えている」

 

 アルフレッドは即答した。その言葉にジュリアは胸がいっぱいになったが、一方でマイケルが考えこんだのを不安に思った。しかし、彼がすぐに穏やかな笑みを浮かべたことで、その懸念も晴れた。

 

「そうか。幸せになってくれよ、親父」

 

 そう言い切ったきり、彼は動かなくなった。風が鳴る。アルフレッドは、口を固く結んで彼の遺体を見つめていた。ジュリアは声をかけようとするも、言葉が何も思い浮かばず、ただ遠くから見守るばかりだった。

 

        ***

 

 迷路のように入り組んでいるEGMAの構造物内をセイリオスで突き進むリーナだったが、そのセイリオスから、胸を締め付けるような波動を感じた。それだけで、これが何を示しているのか、リーナには完璧に理解できた。

 

「兄上が、死んだ?」

 

 口にすると、堰を切ったように涙が溢れてきた。拭っても拭っても、次から次へと涙は零れてくる。兄を討つと覚悟し、父とジュリアに彼の相手を任せた時も彼が死ぬことは織り込み済みだったのに、胸に浮かぶのはただただ深い悲しみだった。

 

「まだまだ、なのでしょうか。私は、任務と割り切ることもできない半端者なのでしょうか」

 

 リーナが泣きながら呟くと、今度は彼女を毛布で包み込むような、柔らかく暖かい波動を受けた。それにも言葉は無かったが、やはり何を示しているか、はっきりと分かった。

 

「そう、そうなんですね。そんなこと出来るわけがないって。ありがとうございます、励ましてくれて」

 

 そして、リーナはこの時、その優しく包み込む感触で、セイリオスに宿っているものが何なのかを確信した。初めて操縦席に座った時の懐かしい感触の正体も、それで合点がいった。

 

「アイリス。アイリスなんでしょう? これに宿っているのは」

 

 リーナが尋ねると、弾んでいるような波動を感じた。それは、恰もその通りだと言っているかのようだった。だが、すぐにセイリオスは警戒を促してきた。リーナは涙を振り払って確認すると、何十体ものウロボロスが四方八方から向かってきているのを悟った。

 

「取ってつけたように出てきて! ウロボロスなど、ジャッジメンティス・セイリオスの敵じゃない!」

 

 リーナは啖呵を切り、目を閉じてセイリオスの両手に力を込める。かつてカールとアイリスが見せたあの(丶丶)光を、心で思い描く。そして、その真髄を掴んだ時、リーナは目を見開いた。

 

「全て叩き斬る! セイリオス・ソード!」

 

 彼女がその名を叫ぶと、セイリオスの両手から、際限なく伸びる白き光の剣が出現した。リーナはそれを振り回し、群がるウロボロスを截断してゆく。その勢いで構造物の壁も次々に切り崩してゆくと、上の方に一際大きな空間があることに気がついた。

 

「あそこは! きっと、EGMAの中枢があるに違いありませんね」

 

 リーナは己の勘に従い、光の剣を納めてその空間に向かった。するとそこにあったのは、様々なチューブに繋がれた白の世界水晶と、その上に鎮座する巨大な球体だった。その球体こそがEGMAの本体だと確信したリーナは、再び光の剣を発現させようとした。だがその直前に、彼女の脳裏に直接、語りかける声が聞こえてきた。

 

「S=W=E軍第八機動小隊所属、リーナ=リナーシタ伍長。伍長がEGMAを破壊しようとする意図は何か」

 

「男の声? 誰です、あなたは」

 

「我はEGMAである。正確には、その人工知能である。答えよ。何故EGMAを破壊するのか」

 

 リーナは息を呑んだ。EGMAと対話できるなど、またとない機会だ。それを破壊することには変わりないが、まだ引き出さねばならない情報もある。それと話さない手はなかった。

 

「人間総アンドロイド化など、馬鹿げた計画を掲げるEGMAに、治世を任せられないからです」

 

「何故馬鹿げていると断言できるのか、甚だ疑問だ。人間が全てアンドロイドとなれば、全員を我が支配下に置くことができる。そうすれば、この世の不幸の全ては一掃される。伍長が経験したような悲恋も、嫉みも、兄との対立も、そもそも発生しない。この先一生涯経験することもない」

 

「そ、それは」

 

「それに、これは伍長たちプログレスの望んだことでもある」

 

 口籠るリーナに、EGMAは畳み掛けるように、しかし淡々とした口調で告げる。

 

「プログレスの望みは進化だろう。人間の進化の究極がアンドロイドとなることだ。アンドロイドは完璧だ。『主』が創った不完全な人間などとは訳が違う」

 

「その『主』とは、一体なんなのですか」

 

 EGMAが人間の進化の究極を定義付けたことに対する不快感は抑えて、リーナは、少しずつ感情が乗ってきたEGMAの口調に違和感を覚えながら、ナイアに知らされた時からずっと思ってきた疑問を投げかけた。すると、EGMAが鼻を鳴らしたように思えた。もちろん鼻などないのだが、声の調子がそのような風だったのだ。

 

「唯一神だ。それに他ならない。そして、EGMAはそれを超える存在である」

 

「その唯一神が人間を作って、その人間に作られた存在のくせに、やけに傲岸不遜な物言いをするのですね」

 

「どんな存在かは関係ない。EGMAこそが常に正しい判断を下せるのだ。ウロボロスも、そのうち『主』よりうまく使いこなせるようになる。すなわちEGMAこそ、『主』を超える存在に相応しい」

 

 露骨にEGMAをなじったリーナの言葉に、それは傲慢極まりない言葉を返してきた。ここまでで、リーナはEGMAに治世を任せられぬと、本気で確信した。理屈はともかく、こんな存在に従いたくない。そう心の底から思ったのだった。

 

「やっぱり、私はEGMAの治世は受け入れられません」

 

「話はまだ途中だというのに、判断が性急すぎる。やはり人間は不完全な存在である」

 

「そういうところが話を聞きたくなくなるんですよ。その存在には虫唾が走る。それだけでEGMAを破壊する理由になります」

 

「伍長は極めて愚かな人間だ。これまでEGMAの中枢に触れた者の中で、そのようなことを言うのは伍長が初めてだ」

 

「それはそいつらが全員、EGMAに阿る佞臣だったってだけでしょう。チヤホヤされて調子乗るだなんて、まるで人間の在り方のひとつそのものですね。そのくせして人間どころか神を超えるだなんて。どっちが愚かだって話ですよ」

 

 罵ってきたEGMAをリーナが罵り返すと、それは黙ってしまった。更に言葉を重ねてやり返してやろうとリーナが口を開こうとした瞬間、脳が割れるかと思うくらいの巨大なノイズがリーナを襲った。どうやらEGMAの人工知能が怒り狂ったようだ。しかし、それに長時間耐えられそうもないのも事実で、リーナはセイリオスの名を絶叫した。すると、先ほどまでの負荷が嘘のように、そのノイズは急に遮断された。

 

「ったく、人の上に立とうというのに人の気持ちを分かろうともしない! 少しでも感情を持ってるのなら、そのくらいはやるもんでしょう!」

 

 頭を一回振ってリーナは言い放ち、セイリオス・ソードを発現させた。更にその時、白の世界水晶から、セイリオスに力が流れ込んでくるのを感じた。

 

「何故だ。何故、世界水晶までもが人間の味方をするのだ」

 

「世界もEGMAを人間以下と認めたということでしょう。信じられないくらい上から目線で、しかも人間に作られた存在のくせに人間の限界を語る! 人間には、EGMAの知る由も無い無限の可能性があるってことを、十全に思い知らせてあげますよ!」

 

 リーナは、球体に光の剣を斬りつけた。だが、それはEGMAの張ったバリア・フィールドに防がれ、セイリオスと拮抗した。リーナは咆哮し、更に光の剣を押し込もうとする。しかし、一向にそれが崩れる気配はなかった。

 

「これが人間の限界。やはりEGMAこそが絶対的に正義なのだ。愚か者はEGMAに抗う者に他ならない」

 

「やかましい! 言ったでしょう、無限の可能性を思い知らせると! 人間の限界は、EGMAが完全に予測できるほど安っぽいものじゃないんですよ!」

 

 リーナは声が裏返るほどに吠える。そして正にその時、光の剣が一際強烈な輝きを放ち、バリア・フィールドが音を立てて崩れ去った。リーナは、EGMAが何かを言う前に腕を振り抜き、球体を真っ二つに斬り裂いた。その直後、球体が爆発し、すぐさま構造物が崩落を始めた。

 

「まずい! 世界水晶は!」

 

 リーナは、世界水晶にセイリオスの手を伸ばした。セイリオス単騎なら脱出は容易だが、世界水晶を失っては一巻の終わりだ。すると、その世界水晶が急に、眩いばかりに真っ白に光り輝いた。あまりの眩しさにリーナは思わず目を覆う。そして次に目を開けた時には、セイリオスは闇の中にいて、塔は跡形もなく消え去っていた。慌てて現在の座標を確認すると、先ほどまでいた座標と変わるところはなかった。そしてその時、世界水晶が地中深くに埋まっていることを確認した。

 

「元あった場所に、帰ったんでしょうか」

 

 青の世界水晶が青蘭学園の地下にあったことを思い出し、リーナはそのように呟いた。ふと辺りを確認し直すと、リーナがいるのはコロニー内ではなく、自然のままの空であることに気がついた。

 

「白の世界は基板みたいな大地にコロニーを作って接続してる、みたいなものでしたが、あれもEGMAの産物だったとそういうことでしょうか。跡形もなく消えてるのは不思議ですが。ともあれ、じゃあこれは闇の空間とかそういうのじゃなくて、夜の闇ですか」

 

 リーナはコクピットハッチを開けて、直接外を見てみた。自然の闇は地球で何度も経験したはずだったが、この闇がこの上なく美しいものに思えてならなかった。少し身を乗り出して、下を覗いてみると、微かな光がちらほら見える。懐中電灯などの、小物の類は消滅してはいないらしい。白の世界のはずなのにそうでないような光景で、不思議な感じであった。

 

「あ、そうだ! 感慨に耽ってる場合じゃありません。父上とジュリアを探さないと!」

 

 唐突にリーナは二人のことを思い出し、再びコクピットハッチを閉め、二人の反応を探し始めた。すると、真下の地表にいることがすぐに分かった。それで、リーナは急いで亜空間跳躍をして、その地表に到着した。

 

「父上! ジュリア!」

 

 リーナは二人の姿を認めると、懐中電灯を手にセイリオスから飛び降りた。踏んだ地面は、自然のままの土だった。二人のうち、真っ先にリーナに走り寄ってきたのはジュリアで、彼女らは衝動的に抱き合った。

 

「やったわね、リーナ」

 

「はい! 私、やりましたよ!」

 

 優しく労うジュリアに、リーナは惜しみなく喜びを込めて抱く力を強めた。そこに、アルフレッドがゆっくりと歩み寄ってきた。それに気がついたリーナは、名残惜しい気持ちもあったが、ジュリアから体を離した。

 

「リーナ、本当に、よくやってくれた」

 

「ありがとうございます、父上」

 

 リーナは出来るだけ毅然とした振る舞いをしたかったのだが、達成感と嬉しさのあまり、ついつい頰が緩んでしまった。それを直そうとぱんぱんと頰を叩くリーナを微笑ましく思ったのか、 彼は優しげな笑みを浮かべた。それで、リーナは少し照れ臭くなって視線を逸らした。すると、地面に何か光る物がひとつあるのに気がついた。そちらの方に懐中電灯の光を向けてみると、軍用のナイフが刺さっているのに気がついた。

 

「あれは、もしかして」

 

 リーナは、おもむろにそこに歩き始めた。その背中に、アルフレッドがためらいがちに告げる。

 

「マイケルだ。その下に眠っている。それくらいしか、墓標がわりにできるものがなかった」

 

「そう、ですか」

 

 そこに着いたリーナは、屈みこんでナイフの柄に触れた。そこでまた、目の奥から熱いものが込み上げてきた。それが溢れるのを堪えつつ、リーナはアルフレッドやジュリアの方を向かずに尋ねる。

 

「兄上は、己の信念に従って、立派に戦った。そうなんですよね?」

 

「ああ。最後の最後まで、あいつはEGMAの戦士だったよ。命乞いすることもなく、潔かった」

 

「なら、大丈夫です。本当に、頑固な家庭ですね」

 

 アルフレッドのその一言だけで、心の底から安心できた。信念を貫いてこそ、彼の妹として、彼を誇りに思える。リーナは、涙を拭いながら立ち上がった。するとその時、リーナが向いていた方向に、歪な光の線が浮かび上がってきた。暫くすると、それが山の端の連なったものであると、直感的に悟った。

 

「夜明け、かしら」

 

「そのようですね。しかし、あちらの方は本当は山脈だったんですね。他にもきっと、EGMAに隠されて知らなかったことがたくさんある。となると、国造りは思った以上に困難になりそうですね」

 

 ジュリアの呟きに、リーナは明るくなってきた空を眺めながら続けた。そうしていると、リーナの隣にアルフレッドが立ち、彼女の肩に手を置いた。

 

「そうだな。だが、EGMAを潰してこのようにしたのは他ならぬ我々だ。EGMAに対し特に感情を持っていない者も巻き込んでな。だから、責任を以って国を造り、人々に不満を抱かせないようにする義務がある。この先暫く、泣き言は言っていられないぞ」

 

「ええ。分かっています。でなければ、兄上と、EGMAの治世を受け入れていた者にも示しがつきませんから」

 

 リーナは、墓標がわりのナイフを一瞥し、再び空を見上げた。赤い雲の混じった、青紫色の空が広がっている。さらには風が唸りを上げ、リーナの髪を掻き乱した。彼女は慌てて髪を抑えながら、無意識のうちに一歩を踏み出していた。

 

        ***

 

 EGMAが破壊されてから一日もしないうちに、荒野は草木の茂る草原や森林へと変わり、そうならなかったところも川や海へと変貌した。理屈は不明だが、科学者の言うことには、世界水晶のおかげだろうということだった。

 それから一年が経った白の世界は、四つの大陸とふたつの大洋、そしてその大地が更に百余の国に分かれていた。四大陸はそれぞれソフィアン、コラージオン、エイピーディア、アガピスと、二大洋はメガイル、アギアと名付けられた。ソフィアン大陸とコラージオン大陸が地峡で、エイピーディア大陸とアガピス大陸が同様に繋がれ、ふたつの大陸でメガイル洋とアギア洋を挟んでいる。また、測量の結果、白の世界が地球と同じような、ほぼ球状の星のひとつ(奇しくも質量、体積も地球と同等だった)であることも判明した。この星はガイアと呼ぶことにし、これがS=W=Eに代わる、新たな白の世界の呼称となった。

 リーナたちが籍を置く国家は、テリオシアと言う名の、旧S=W=E軍系の軍人が統治するソフィアン大陸に属する国家で、初代総統には、反EGMA派の盟主であったアーネスト=ホーク准将が就任した。人口は約六千万人、国土面積は約34万㎢で、メガイル洋に面し、また他の三方を山脈に囲まれ大河の流れる、雨の多い温暖な気候である。テリオシアは、国家機構の整備にあたってG・Sからの支援を大きく受けたため、他のどのガイアの国家よりも素早く機能が整備されていっている。

 首都や他の大きな都市には初等教育機関から大学機関の設置、大規模な鉄道路線網の敷設や都市開発などを実行したが、僅か一年足らずで成し遂げたのは、元々の技術力の高さもあるが、G・Sの支援とアンドロイドの動員の賜物だった。国土の殆どがかつてS=W=E中枢であった場所であるため、使えるアンドロイドが他と比べてかなり多かったのだ。

 政治体制は、現状は軍事独裁ということになっているが、政治の分かる人材が育っていると思われる20年後に民主制に転換することを公約している。また、地方政治に関しては郡県制を採用しており、いくらか地方自治体に力を持たせている。他にも、まだ政情的に不安定なために徴兵制を採用しているが、軍学校の方に関してはEGMA時代から殆ど変わっていない。憲法や法律もEGMA時代のものを概ね踏襲しており、アンドロイドの権利に関する法律等の国家の理念に反するもののみを改変して使っている。

 産業は、工業はもちろんのこと、G・Sとの協定で農業と畜産、そして林業にも力を入れている。合成食料の発展で衰退していたとはいえ、農業技術も高く、テリオシアの国土自体が肥沃な土地であるため、農業生産は上々だ。畜産業と林業もそれなりに結果を見せ始めており、数年後にはG・Sに大量に売りつけても国で自給自足できるほどになるだろうと予測されている。

 世界を跨ぐ外交関係については、G・Sとは軍事ならびに貿易協定を結び直して、建国支援の見返りに積極的な技術提供や食料支援を約束した。それで、(ハイロゥ)が地球のみにあるままでは不便だということで、テリオシアの上空には元からある青の門の他に緑の門が新たに開かれた。他にもD・Eとは友好関係を築くこととなり、G・Sを介して様々な交流を行なっている。

 一方で、貿易以外の一切の関係を絶ったのが地球とT・R・Aであった。青蘭島の統治権は、そこにあるS=W=E亡命政権が持っており、またその二国はテリオシアと他の国家を一切認めていない。故に、今青蘭学園にいる白の世界の出身者はS=W=E亡命政権を支持する者のみで、そうでない者は全員が退学処分となった。また、この対立を巡って件の二国とG・S、D・Eは関係が悪化しており、いずれ戦争に発展するかもしれないと噂されている。

 リーナの周囲に関しても、大きく変わった。アルフレッドはアーネストからの要請で軍を退いて政界に入り、主に軍政関係で働いている。籍をD・Eからテリオシアに移したジュリアはアルフレッドとの間に男児を一人授かり、彼はエブラハムと名付けられた。今、彼女は第二子を妊娠していて、メイド型のアンドロイドを一体購入してそれに助けられながら家事と育児をこなしている。メルティは兵器開発研究所に入り、日夜研究に勤しんでいる。ユーフィリアは国の命令でEGMAの蓄えていた膨大な情報の断片の収集を、ガイア中を飛び回って行なっている。アナベルに関しては、S=W=E亡命政権に属したという話以外には、リーナたちの耳には入らなかった。そして、リーナ本人は——。

 

「はあ、やっぱり将軍服は何度着ても慣れませんね。なんかじゃらじゃらと勲章が付いてますし、重いですし」

 

「しょうがないですわよ。他国の、しかも他の世界の晩餐会に出るというのに、建国の英雄が普通軍服では形無しでしょう」

 

 あるよく晴れた日の昼間、リーナはシノンと隣り合わせに座って、防弾仕様の車でマスドライバーのある港に向かっていた。リーナは将軍服を着ていて、シノンはスーツ姿という出で立ちだった。今日、リーナはアーネストのG・Sで行われる、テリオシア、G・S、D・Eでの三国会談に同行し、その夜の晩餐会に出席する。晩餐会の時刻までは束の間の自由時間ということで、向こうの港の近辺を散策することを許されている。

 結局、反EGMA派の当初の目論見通り、リーナは英雄として祭り上げられることとなった。様々な演説をしたり、講演会を開いたり、イベントの来賓に呼ばれたり、総統の外遊にくっ付いて晩餐会に出たり、軍の広報のポスターに撮られたり、コマーシャルを撮ったり、更にそこに通常の軍務が重なって、とにかくやることが多かった。英雄とはいえ一端の下士官に過ぎないので、階級は曹長止まりだが、象徴的な意味を持たせるために将軍並みの待遇となっており、特製の将軍服も与えられていた。

 シノンはリーナの秘書兼護衛である。これはリーナの指名であり、他の者を推されても頑として譲らなかったのだった。

 

「そりゃ分かってますけど。自由時間でも向こうじゃ脱いじゃいけないんでしょう、これ。気軽に出歩けないじゃないですか」

 

「不満が多い英雄ですこと」

 

「当たり前ですよー。メルティのあの申し出をほとんどふたつ返事で了承したあの時の私を縊り殺したいくらいです。それに、英雄ったって演説会とか講演会の時のアレはなんなんですか。握手してくれだのサインお願いしますだの。それに軍に全く関係ないCM撮影も好きじゃありません。アイドルじゃないんですよ私は」

 

「歌を歌わされないだけマシと思いましょうよ。それに皆さんから慕われている証拠ですから、恨まれるよりよっぽどいいですよ」

 

「そりゃま、そうですけど」

 

 不満を垂れるリーナだったが、シノンに軽く諌められて、照れ隠しに口を横一文字にして車窓からの風景を眺めた。今は高速道路を走っているが、まだ建国から一年程しか経っていないことを考えると結構な交通量があった。元の土地が土地なので財力に余裕がある者が沢山いることも一因なのだろうが、やはり迅速に進められた交通網の整備の賜物だろうとリーナは考えた。

 車の操縦は運転手に任せてある。AI制御による完全自動運転も行えるのだが、それに不具合があったら大変だということで、リーナや政府高官は基本的に運転手に車を運転させているのだ。このことは、やはり人間に需要があるのだと、リーナにやや実感させるものであった。

 ふと、リーナはシノンがにやにやしながら自分の横顔を見つめていることに気がついた。それが不快というわけではなかったが、小っ恥ずかしかったので、リーナは少しだけ唇を尖らせた。

 

「ねえ、シノン。私のことジロジロ見てます?」

 

「ええ。見ておりましたわ。リーナさんの護衛と秘書を務められるのが嬉しくて。そういえば、まだ、リーナさんが私を指名してくださった理由をお聞きしておりませんわ」

 

「別に、大したことじゃないですよ。よく知ってるのだったら安心できるなって思って、その中でそんなに忙しくなさそうだったのがあなただったってだけです。アンドロイドなら粗相をすることは無さそうですし、あなたの戦闘能力の高さは知ってますから、護衛に付けるのにもぴったりかなと」

 

「それだけ、ですか?」

 

 シノンは、リーナを見透かしたような視線を向けてきた。リーナは少し粘って口を噤んでいたが、シノンの目が一向に変わらないので、観念してやけくそ気味に告げた。

 

「ほら、私、昔シノンのことを一方的に避けてたじゃないですか。でも折角、同じテリオシアの仲間になりましたし、S=W=Eとはアンドロイドの扱いも違いますから。だから、シノンのこと、信じてもいいかなって。でも、一番大きな理由は前者ですよ! 勘違いしないでくださいね!」

 

「ええ、分かっていますわ〜」

 

 シノンはコロコロと笑っていた。リーナは絶対分かっていないと思いながらも、実際彼女の本心は後者なので、ある意味では分かっていると言えた。

 

「ねえ、リーナさん」

 

 リーナが意地を張ってヘソを曲げていると、シノンが穏やかな口調で話しかけてきた。先の面白がっているような様子とも違ったので、リーナは少しだけ関心を持って訊いてみた。

 

「なんです?」

 

「私、前みたいに『人間だったら』って思うことがほとんど無くなったんですの。何故だか分かります?」

 

「私と仲良くなれたからですか?」

 

「まあ、とても自信があるのですね。流石英雄様ですわ」

 

「うぐぅ」

 

 シノンが笑顔でそのようなことを言うので、リーナは何も言えなくなってしまった。その様を見て、シノンはくすくすと笑ってリーナの肩を軽く叩いてきた。

 

「冗談ですわ、冗談。もちろんそれもありますわ。でも、一番大きいのは、この国のアンドロイドの扱い方ですのよ」

 

「というと?」

 

「テリオシアは、私たちアンドロイドを、あくまで道具として扱ってくださいます。感情を持つ物としていくつかの例外はありますが、それでも人間よりも下の存在です。有り体に言えば奴隷ですが、少なくとも私はS=W=Eよりも居心地よく感じています。奴隷でも、アンドロイドだからこそ出来ることがたくさんあります。そして、その能力を人間が求めてくれますわ。同列に扱ったがために軋轢を生んだS=W=Eや青蘭島の社会よりも、こちらの方がアンドロイドとして活き活きと生活できますの」

 

「そう言ってもらえるなら、私や他の反EGMA派の方が頑張った甲斐があったというものです」

 

 リーナは、シノンの言葉に心の底から安心して、やや上擦った声で言った。みっともない声を出してしまったと、すぐに咳払いをしたら、車が停まった。やや、と外を見てみると、マスドライバー施設に到着していた。リーナとシノンは運転手に礼を述べつつ車を降り、トランクから手荷物を取り出して施設に入った。リーナらは特に検査を受けることなく、チャーター機に乗り込めた。

 次々に恭しく通される自分の様子で、リーナはかつてカールとデートしたときのことを思い出した。リーナは懐かしさを覚えて、チョーカーにそっと触れた。彼女は今でも、公的な式典等でない限りはそのチョーカーを身に付けていた。だが、今はカールに未練があるわけではない。どちらかといえば義理立てに近い。無論、彼のことは今も愛しているが、彼に拘ってはいない。事実、一年前とは違い、彼女は恋人を作りたいと思うようになっていた。カールなら、リーナが幸せになる道を選べと、言ってくれるだろうと思った。セイリオスのアイリスにもそのことを言ったら同意してくれているような感じがしたので、完全に彼の死から吹っ切れることができた。

 そのようなことを考えている間に、リーナたちを乗せたチャーター機はG・Sの港に着いた。そこにはG・Sの用意した護衛兵が二人待っていたが、その二人はリーナのよく知る人物であった。

 

「リーリヤさんに、ルルーナさん。お久しぶりです」

 

「おひさー。いつ見てもかっこいいね、将軍服!」

 

 ルルーナはリーナに駆け寄って、リーナの将軍服に手を伸ばしたが、それが触れる前に、彼女は首根っこをリーリヤに掴まれて後ろに引っ張られた。

 

「失礼なことするもんじゃありません。今やリーナは我が国の大事な客人ですよ」

 

「ええー。いいじゃん友達なんだし。ね、リーナ?」

 

「友達としては構いませんが、公私混同は軍人としてはいただけませんね」

 

「うあああん! リーナの意地悪ううう!」

 

 リーナが真顔でぴしゃりと言うと、ルルーナは目に涙をためて、駄々っ子のように喚き始めた。それをリーリヤが彼女の脳天にチョップを食らわすことで無理矢理止めた。

 

「すみませんお見苦しくて。今日は一段とハイテンションなんです」

 

「だって、今日はリーナ、自由時間があるんだよ。久しぶりに遊べるじゃん。ハイテンションにならないはずないじゃん」

 

「あの、自由時間はありますけど、羽目を外して遊んだりする暇はありませんわよ? せいぜい三時間くらいで、そこから移動時間の一時間半を差し引きますから、近場の喫茶店に入ってお茶するくらいしかできませんわ」

 

「それくらいできたら十分だよー。喫茶店なら、港の中に私オススメのところあるからさー」

 

 シノンがやんわりと諌めるも、ルルーナは懲りなかった。リーナは困ったものだと思ったが、しかしルルーナの言う通り、久しぶりに友との時間が過ごせるのも事実だ。それで、リーナは大きくため息をつき、シノンに話しかけた。

 

「ねえシノン。喫茶店に入るくらいなら、総統に怒られないですかね?」

 

「うーん、まあ、時間守れるなら大丈夫だとは思いますが」

 

「じゃあ決まり! 時間無いんでしょ、早く行こうよー」

 

 シノンが答えた途端、ルルーナは大はしゃぎで言った。結局、彼女に押し切られる形で彼女の勧める喫茶店に向かった。

 

「結構繁盛してるとこなんだけどね。特にホットドッグが美味しくてねえ。木材が最近よく手に入るようになって価格が落ち着いてきたから、こないだ木造に建て直したんだよねー」

 

 ルルーナが道中でそのように語った通り、その喫茶店は木造で、周りの建物が殆ど石造りなために、その特殊性が際立っていた。内装はキャンドルの灯りが印象的な落ち着いた雰囲気で、席は八割ほどが埋まっていた。

 一行がテーブルに通されてそこの席に座ると、隣のテーブルにこれまたリーナのよく知っている者が、一人で座っていた。

 

「ナイアじゃないですか。お久しぶりです」

 

「お、リーナか。それにシノンも。久しぶり」

 

 ナイアは体を四人の方に向けて、軽く手を振った。ちょうどその時、ナイアのところに店員が一杯のコーヒーを運んできた。そこで彼女が店員に席を移動させても大丈夫かと尋ね、めでたく許可されたので、ナイアはリーナたちが件の店員に注文をしてから、彼女らのテーブルに椅子を付けた。

 

「いやあ、こうしてみるとまるで同窓会だねえ」

 

 ルルーナは、ナイアが座り直すなり呑気そうに体を揺らしながら言った。ナイアはコーヒーを一口飲み、静かにテーブルに置いてから口を開いた。

 

「同窓会ねえ。青蘭学園退学処分組で同窓会ってのもいいかもな。十代の連中の殆どを呼ぶことになりそうだが」

 

「向こうに残ってて軍籍残してるのなんて、サナギ姉妹とエクスアウラとジェミナスと夏菜くらいですしね。あ、でも夏菜はもうG・Sの国民でもないか」

 

「おっと、その話は無しだよ。特に前者四人。リーナとシノンが置いてけぼりになっちゃう」

 

 リーリヤの口に指を当てて、ルルーナは小声で嗜めた。その後、ナイアが話題を変えるためか、心なしか大きな声でリーナに話題を振る。

 

「しっかし、リーナも立派になったなあ。こんな若いのに将軍服着れるなんてそうそう無いぜ」

 

「大したことないですよー。威厳を持たせるためだけに着てるだけですから。階級的には曹長ですし」

 

「着れるだけ大したものですわよ。それだけのことをしたんですから」

 

 リーナは謙遜したが、シノンはナイアに追随して褒めそやした。それに便乗してルルーナとリーリヤもリーナを褒め始めたため、四人のホットドッグとコーヒーが来るまで、リーナはひたすら謙遜する羽目になった。

 

「疲れましたよ、もう」

 

 リーナは服が汚れないように細心の注意を払いながら、ホットドッグを頬張って呟いた。何回「いやいや」と言ったことか。最後の方などは適当になっていた。しかし、学園にいた頃と同じような絡みができたことに、リーナは嬉しく感じてもいた。テリオシアに戻れば、からかってくれるのはジュリアとシノンくらいで、他は全員が英雄扱いしてくる。疲れたと口で言っていても、本心にとっては清涼剤だった。

 

「そういや、今日の晩餐会だけどさ、リーナって食事のマナーとか大丈夫なのか?」

 

 二杯目のコーヒーを飲みつつ、ナイアはにやにやしながら、からかうような口調で尋ねた。リーナは少しむっとなって、ホットドッグを皿に一旦置いてから答えた。

 

「馬鹿にしないでください。何回こういうことに出てると思うんですか。マスターしてますよ、ちゃんと」

 

「そうですそうです。最初の頃の猿みたいな食べ方に比べれば全然マシですわよ」

 

「猿ってなんですか猿って!」

 

「最初に比べれば今はとても上達したということですわ」

 

「なんだ、そういうことですか」

 

 一度はシノンのフォローになっていないようなフォローに声を荒げたリーナだったが、その解説を聞いて気を良くした。しかし、統合軍の三人が笑い堪えているようにみえるのがよく分からなかった。そのうちのルルーナが、時折吹き出しながらシノンに尋ねる。

 

「ねえシノン。最初の猿みたいなのってどんな感じ?」

 

「スープやワインはずぞぞーって音を立てて飲み、魚は手掴み、サラダ類やステーキなどはフォークが使えていましたが、めっちゃカッチャカッチャと音立ててましたわ。隣のラン殿下に作法を教えてもらっている様が、まるで姉妹のようで本当に微笑ましくて」

 

 シノンが懐かしみながら語る。このような話に飢えているのか、ルルーナとリーリヤとナイアは興味津々の様子だった。

 

「可愛らしいなあ。しかしリーナもワイン飲むんだな」

 

「まあそりゃ、出されますし、飲むの断るのも失礼ですし」

 

「酔うとどうなるんだ?」

 

「食べ方が猿に戻りますわ。あと、普段は渋るのに、武勇伝をジェスチャアを交えて語り始めますわ。へべれけリーナさんは面白いので晩餐会やパーティーでは人気者ですのよ」

 

 ナイアにリーナがよく覚えていないと答えようとした矢先に、シノンがとてもいい笑顔で答えた。

 

「はっ、ちょ、な、何言ってんですか!」

 

「私のメモリに完璧に記録されてますから、ガイアに帰った後でも頼んでくれれば転送しますわよ」

 

「ちょうだいちょうだい! 永久保存するから!」

 

「私も興味ありますね」

 

「あたしも欲しいかな。時たま上映会でもやるかね」

 

 シノンの言葉に、三者三様の反応を見せる三人であった。全くもってマイペースな三人にリーナは困りながらも、一年前と何も変わらぬ友情を感じて、意識せずとも頬が緩むのであった。

 

        ***

 

 晩餐会は、G・Sの王宮の大食堂で行われた。そこでのリーナと、ドレスに着替えたシノンの席は、ランとソフィーナに挟まれたところであった。G・Sで晩餐会が行われる度に、ソフィーナがいなくともリーナはランの隣の席になっていて、単なる秘書であり出席権のないシノンが出席できるのもランの配慮であった。

 

「しっかし、いまだに信じがたいわね。だったの一年でここまで情勢が変わるなんて」

 

 ソフィーナが出された料理を少し雑に食べながら呟く。彼女はミルドレッドの代行でこの場にいる。本来ならG・Sの首相とアーネストと居るべきなのだが、彼らとG・S国王の好意でこちらの席にいた。

 その彼女の食べ方がより一層酷くなっていく一方で、ランは見惚れるくらいに行儀よく食事を進めながら彼女の言葉に応答する。

 

「ウロボロス様々、と言ったところでしょうか。ある意味で、今の情勢は統合軍にとっては益になり得るものですから」

 

「私たちにとっては不利益の方が大きいですけどね。今ドンパチはやめて下さいよ?」

 

 リーナが釘を刺すと、ランはふふふ、と底知れぬ笑みを浮かべた。

 

「大丈夫ですよ。今はその時ではありませんから」

 

「D・Eとしてはいつドンパチやってくれても構わないけどね。そっちと違って、相互軍事同盟は結んでないし」

 

 ワインの酔いが回ってきたのか、ソフィーナは顔を赤くしながらボソッと言った。すると、ランはとてもいい笑顔でワインを一杯飲んでから告げた。

 

「あらあら。酔いが回ってたとしても、超問題発言ですね。父上や首相に聞かれたらどうなるか」

 

「前言撤回! 前言撤回よ!」

 

「そうですか。とりあえず、私たちとしてはD・Eとも相互軍事同盟を結ぶことを望んでいますから、魔女王陛下にもよろしくお伝えくださいね」

 

「むう、分かったわよ」

 

 ソフィーナは観念したように言った。すると、シノンがリーナにこっそりと耳打ちしてきた。

 

「ラン殿下、意外とおっかないですわね」

 

「まあ、最近は特にそうですね。昔はもう少し違ったのですが」

 

 リーナは小声で返すと、気品のある振る舞いで食事を口に運んでいくランを一瞥した。このところ、ランは時折腹黒さを感じさせるような振る舞いが多くなっていた。野心さえも、稀に垣間見える時がある。その上、G・Sの王家の間で、彼女が統合軍との結び付きが強すぎることも問題になっているということも、アーネスト経由で耳にしている。

 

(はてさて、何を企んでいるのやら)

 

 リーナには、ランの美貌から滲み出る空気が、空恐ろしいものに思えてならなかった。しかし、リーナのそのような危惧をよそに、晩餐会全体に漂う雰囲気は、徹頭徹尾平穏なものだった。

 

        ***

 

 晩餐会も終わり、リーナとシノンが帰りのシャトルに乗ったのは日付が変わる直前であった。リーナが体を投げ出すようにシートに腰掛けたのに対して、シノンは普段通り、そっと腰掛けた。

 

「なんでそんなに疲れてないんですか。……そういえば、アンドロイドですもんね。当たり前か」

 

「そう言うリーナさんこそ、普段から軍人として心身共に鍛えているはずなのに、なんでそんなに疲れておりますの?」

 

「まだ慣れないことには体力関係なく疲れるんですよ。私は寝ますから、後は頼みますよ」

 

 シノンの返答を待たずに、リーナは目を瞑った。それから意識が途切れたのは一瞬のことであった。気がつけば、眩しい光が差しているのが感じられて、リーナは目を覚ました。寝ぼけ眼で辺りを見回すと、そこは自宅の自室で、差してきた光は朝日であった。己の姿は将軍服ではなく、ブラジャーとパンツだけの格好だった。

 

「あら、目が覚めたのね。シノンが困ってたわよ。いくら体を揺すっても爆睡してて目を覚ましてくれなかったって。それで、あなたをおぶってここに運んでくれたのよ」

 

 そう言って部屋に入ってきたのは、エブラハムを抱えた、腹の膨らんでいるジュリアであった。その辺りで、リーナの意識は鮮明になっていって、一旦伸びをしてからベッドから抜け出た。それからクローゼットからワイシャツを取り出し、そのボタンを留めながら言う。

 

「そうだったんですね。今日会ったら、お礼を言わないといけませんね」

 

「今日も仕事なのね。何があるのかしら?」

 

「ええと確か、軍学校で講演会をやってから、普段の軍の訓練ですね。今日は予定がそんなに詰まってませんから、すぐに家に帰れますよ」

 

「そうなのね。あ、そうそう。朝ご飯できてるし、アルフレッドさんももう席に着いてるから」

 

 退出しながら急かすジュリアに、リーナは「はーい」と間延びした返事をした。それからワイシャツのボタンを留め終わると、リーナは部屋を出て、既にアルフレッドと、隣にエブラハムを座らせたジュリアが囲っているダイニングテーブルに着いた。今日の朝食も、青蘭学園にいた時と変わらぬ、白米に豆腐の味噌汁と焼き魚であった。ひとつだけ違うのは、それを作ったのがジュリアではなく、アンドロイドであるということだ。

 

「さあ、どうぞ召し上がれ」

 

 メイド型のアンドロイドのタイプHUー49ミトが告げ、それから家族全員でいただきます、と言ってから食べ始めた。

 

「ん。ミト、また一段とジュリアの味に近づきましたね」

 

「褒めていただき光栄です!」

 

 味噌汁を一口すすって、リーナがそう言うとミトは元気に言った。一方、ジュリアの方は、エブラハムに離乳食を食べさせながら、やや俯いて口を開いた。

 

「申し訳ないわね。私の料理の再現なんて面倒なこと押し付けちゃって。今お腹にいるクリスティーナが産まれて大きくなったら料理は私がやるから、それまで我慢してちょうだいね」

 

「いえいえ、主人の命を遵守するのがアンドロイドの至上の喜びですから。どうぞお気になさらず」

 

「ミトもこう言っていることだ。今はクリスティーナを元気に産むことを考えてくれればいい。そういうことは、その後に考えればよいのだ」

 

 ミトに続けて、アルフレッドが穏やかに言う。ジュリアは納得した様子で、エブラハムに離乳食を食べさせるのを再開した。彼は嫌がることはなく、時折口から零しながらも、離乳食を食べていた。彼の可愛らしさには、家族全員が癒されていた。

 このような、安らかな家族団欒の時が、リーナは大好きだ。マイケルとアナベルとはすれ違ってしまったから、リーナはこの光景を守りたいと一層強く願っていた。ここにマイケルとアナベルがいれば、とも思うことは何度もあった。今でも心のどこかでそう考えている自分がいる。しかし、叶わぬことをいくら望んでもどうしようもない。今の幸せを明日に繋げるために、リーナは前を見据えるのだ。

 やがて食事を終えると、リーナは将軍服を再び纏った。そして、通常の軍務のための普通軍服を亜空間ケースに入れ、玄関で軍靴を履き、その靴紐をきつく結んだ。

 

「はい、エブラハム。リーナ姉さんに行ってらっしゃいしましょうね」

 

 ジュリアはそう言って、抱きかかえたエブラハムの右手を優しく掴んで小さく振らせた。

 

「今日もジュリアの言うこと、よく聞くんですよー」

 

 リーナはとびきりの笑顔で、彼の頭をそっと撫でる。柔らかい髪に触れる感触が、少しくすぐったかった。五秒ほどそれを続けて、リーナは後ろ髪引かれる気持ちを抑えて手を離した。

 

「じゃ、いってきます」

 

「いってらっしゃいませ、リーナ様」

 

「気をつけてな」

 

「いってらっしゃいな、リーナ」

 

 ミト、アルフレッド、ジュリア、そしてエブラハムに見送られ、リーナは玄関のドアを開ける。外ではシノンと車が待機していて、それらを爽やかな朝の陽光が照らしていた。

 今日もまた、新しい一日が始まる。




 今回で第二部「エゴイストのカプリッチョ」は完結で、リーナの物語もとりあえず一区切りです。いかがでしたか? 批判は大歓迎ですので、そういうことはどうぞ感想欄に書いてください。
 恒例の総括です。総括ったってリンチちゃうよ。
 まずはリーナについて。彼女を主人公にした話を書きたいというのはこれを書く前からよく思っていたことでして、その際には元のキャラからどう発展させると書きやすいが、みたいなことを煮詰めた結果が、この作品の「精神的に脆い」リーナです。今回は結構満足のいく形で書けたと思ってます。結局マイケルとの決闘は避けてしまいましたが、詳しいことは書きませんがあれも事情があるとはいえリーナの弱さが残っているが故のことでもあります。一年後で色々吹っ切れたみたいに書いてありますけど、リーナはずっとチョーカーを着けてますし、やっぱり弱さは残ってるのです。時間が想いを風化させただけなのです。でも彼女は強くなったと思い込むことで前に進んでいます。彼女的にはそれでいいのです。
 次にジュリアについて。前作ではすぐいなくなったので、ちゃんとメインキャラで書きたいと思ってリーナの友達ポジションにつけました。元々の公式設定がかなり薄いキャラなので色々魔改造してます。ミステリアス属性完全消去はアレだったかなとは思いましたが、リーナが主人公で、そのリーナに物語開始時点からベッタリなので、ミステリアスもへったくれもないかな、ということでまあいいやとなりました。本人が「ジコチューでワガママ」と自称してたようにそういうキャラということで書きました。良くも悪くも、全編にわたってブレることなくジコチューでワガママなキャラとして書くことができて満足してます。「え、そうか?」と思われる方もいるかもしれませんが、私の中ではそうです。
 その次にシノンです。この作品のテーマのひとつに「人間対アンドロイド」があったので、リーナに親しくしようとするキャラとして抜擢しました。オリキャラでもよかったかなと思ったのですが、オリキャラならアナベルがあるしなあと思って原作から引っ張りました。そして設定を色々魔改造しました。当初の予定ではリーナとは破滅的な終わりになる予定だったのですが、考えが変わって今回のように和解しました。今作でリーナがアンドロイドに悪感情を持っていたのは環境的要因が大きいので、それですれ違ったまま終わるのは可哀想だと思ったのです。
 次はリーナの一家についてです。勿論全員がオリキャラです。アルフレッドはリーナを男にしてマイルドにした感じのキャラで、特に語ることは無いです。何故かジュリアを伴侶にしてしまいましたが。私もなんで彼がジュリアを娶ったのか理由が分かりません。まあ、キャラが勝手に動くのはよくあることです。結果としてリーナも幸せになりましたし。一方で、マイケルとアナベルはリーナの対立項です。「マイケル、キャラブレすぎじゃね?」みたいに思った方がいるかもしれませんが、元々彼はリーナと同じく精神的に脆いキャラとして作りました。前半の好青年ぶりは特に精神的に追い詰められることがなく幸せだったからで、そこからアナベルを破壊されて一気に突き落とされたが故にああなったのです。死の直前に好青年の雰囲気を取り戻したのは、諦観からのことです。どうせ死ぬなら気持ちよく死のうと考えたわけですね。マイケルの視点が全く無いので読み取りづらいところだとは思いますが、台詞の節々にそう思わせる言葉を入れておいたつもりです。
 というわけで、次回からも拙作をよろしくお願いします。

追記 思うところがあって、この回で完結するように加筆修正しました。


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