謹呈の世 銀嶺の今 (c.m.)
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Attack 01 プロローグであります

前書きと注意事項

 本作品は『金の彼女 銀の彼女』の二次創作になります。
 物語の都合上、原作と設定等が乖離している部分があります。
 本作品は原作9巻発売以前に最終話まで執筆を終えている状態です。9巻以降の設定、及び登場人物が盛り込まれていない事を予めご留意ください。 

また、本作は以下の内容を含みます。
・オリジナル主人公による原作主人公転生物
・オリジナル設定多数
・世界観を含めた原作設定の変更点多数(共学制移行の時期、叫びの泉の場所etc,etc)
・原作キャラの設定変更、及び捏造
・政治思想的発言
・ミリタリ・歴史要素
これらが問題ない方は、本編をお楽しみ頂ければ幸いです。

【挿絵表示】



 私立綾之峰(あやのみね)学園。

 平安、戦国より古くその名を残す日本国の象徴にして、議会開設以後、現代に到るまで当主が国家元首の地位に就く綾之峰家が、文明開化に先立ち私財を投じ創立した、日本国初の高等女学校である。

 本校は有爵者・実業家の子女が男児と同等、否、それ以上の教養を身に付け、国を代表する次世代の寵児を育成せんという理念を掲げた、当時としては非常に先進的な学び舎である。戦後も学園はその伝統を引き継ぎ、多くの富裕層が入校を希望する花園にして聖域であったが、二〇一四年現在、この伝統ある子女の聖域は方向転換を決定した。

 

 所謂、共学制の導入である。

 

 無論、反発は内外に広がり、連盟での抗議文から各所へのデモにまで発展。メディアも大きく報じたが、そこは綾之峰家先々代当主ならび当主代理双方の鶴の一声で収まり、これらの抗議を見越してか、導入に到って迅速な説明と配慮が為された。

 

 曰く、当学園が共学制に到るに当たり、編入される男子生徒は全て普通科のみとし、女子は在学生とを含め、特別科として分けるとした。

 学園が男子編入を決定したのは、あくまで富裕層という生まれからなる者のみを将来子女と引き合わせる事は、必ずしも後の世を育む子女の未来を明るくするものではないとし、庶子であれ確たる成績を修る者であれば、子女にとっても、また保護者一堂に於いても決して悪いものではないと言うのである。

 

 保護者らに関しては科を分けるに当たり、授業等での交流が最低限の物である事も加味し、多数が賛成に到るも、聡明な子女らは本件に苦い顔をしつつ、渋々ながらに首肯せざるを得なかった。

 大多数の女子にしてみれば、男そのものに対し、病的な忌避感や潔癖症があるという訳ではない。

 確かに中にはそういう手合いが居ないこともないが、彼女らは大人の裏と表を十分に読み取れるだけの才を有していたのが不幸であった。

 

 要は、男の選別なのだ。

 

 将来を担う若者として男を集めると言う事は、即ち世継ぎを含め、自分達の利となる俊英を庶子の中から発掘する事にある。綾之峰家当主は代々女性が継ぎ、その実権は平成の現代に到るまで続いているとはいえ、やはり大多数の富裕層は跡目とするなら男を選ぶ。

 蝶よ花よと育てられ、英才教育という名の品質保持に努められた子女たちは、結局のところ良家のブランド品として出荷させられるに過ぎない。

 例えそれが遅いか早いかの違いであっても、高校生活という羽を伸ばす最後の期間にまで家の思惑が絡むとなれば、辟易せざるを得なかった。

 

 加え、男もまたそれを見越しているのだから性質が悪い。

 庶子という身分から、手の届く位置に良家の子女が居るという厚遇。高嶺の花を手にせんと群がった彼らの目には、あわよくばという欲に眩んでいるのが見て取れた事も、子女が忌避感を募らせるのに大いに影響を及ぼした。

 学園に到っては俊英という原石の集め方さえ露骨であり、各校の優秀な男子を選別し、早期に推薦文を学院側から送りつけたほどであった。

 

 結果。学園・保護者側は、蓋を開ければ都合のいい見合い場が指して芳しい結果に至らなかった事は、僅かながらにも子女の無聊を慰めはしたものの、立場から現実を見ない訳にも行かなかった。

 どのみち、婚儀は結ばれる。ならばせめて、野心家といえども後の生活に細やかな彩を添えられる程度の男を見繕わねばという、良家特有の諦観が共学制となった年の子女たちの心に据えられ、男に点数をつけて遊ぶという、後ろ暗いものが子女らの間で流行って行った。

 

 

     ◇

 

 

 さて。学園そのものと、そこに鬱積した空気を語るに到り、過分に文を注いだ訳であるが、ここに来てようやくと言うべき、物語を動かす契機となる人物を紹介する。

 名を綾之峰英里華(えりか)。姓から察せられる通り綾之峰家の子女であり、先々代当主である曾祖母より直々に次期当主とすると仰せつかった、日本国の最も高貴な華である。

 気品溢れる多くの子女らにあって尚、その存在感は絶大であり、その玉体を目にせんと男らは心根に盛りの付いた獣を飼わせながら。子女らは崇敬を抱いて仰ぎ見ていたが、当人に関して言えば、その心は深く沈んでいた。

 多くの子女らと同様、英里華もやがては嫁ぐことになる。家柄を除き唯一違いを挙げるならば、彼女は他の子女らと違い、曲り間違っても庶子と添い遂げるという事はないという事で、それは他の子女より一層深く英里華の心を暗くする一因となっていた。

 

“どうせ摘まれるなら、劇的な出会いの一つでもしてみたいものね”

 

 溜息さえも吐かぬまま、内心一人ごちる。

 そのような事、所詮妄言を通り越した夢にすぎぬとは理解している。

『親衛隊』などと学院生徒から持て囃される年の同じか、或いは近い在校生の侍従らは英里華に近づこうとする(おとこ)など見逃す筈も無し、何より綾之峰の次期当主に斯様な事を行えば、不敬罪さえ適用されかねない。

 綾之峰とは象徴で有ると同時、この国にとって、否、世界全体の王族と見比べても、最も権力を握っている存在だ。

 英里華自身、その恩恵に与る身としての立場は理解している。理解しているが故にこそ、歯がゆくて仕方がないのだ。

 

「英里華様、何やら物憂げなご様子ですが」

「大丈夫です」

 

 侍従の中でも特に綾之峰家より信が置かれ、常日頃より供をする同学年生に軽く流す。

 周囲の子女からは親衛隊の隊長などと持て囃されているそうだが、その通称も、日頃の過剰とも取れる献身を見れば実に的を射ている。

 当人は到って真面目であり、職務に忠実であり、何より英里華を慕ってはいるのだが、やはり詰まる息は如何ともし難く、さりとて除け者にするには心が近過ぎて出来なかった。

 

「ただ」

 

 ふと。思わず口にしてしまった。

 相手も驚いたのだろう。微かにずれかかった眼鏡を直し、左様ですか、と下がろうとした足を止めて居住まいを正す。何でもないと言ってしまうには、英里華の口は遅かった。

 話題を探すにした所で、習い事と学業以外では特に見つからない。

 

「成績の点で、少々」

「特別科において、英里華様の右に出るものはまず居られないかと」

 

 それは他の子女が気遣いから手を抜いているという訳ではなく、あくまで英里華自身が才に驕らず己を磨いた結果に過ぎないが、特別科において、という部分に英里華の琴線が触れる。

 与えられた範囲で頂きに立てれば良いと思ってはいたものの、よもや上が身近に居るとは思わなかった。

 

「普通科ですね。推薦で引き抜かれた方ですか?」

「はい。安田(やすだ)登郎(のぼろう)と。科が異なりますので、五教科のみを比べての事ですが」

 

 成績そのものには興味など無かったが、名と顔は知っている。

 というより、生徒・教諭を含め、彼女が名と顔を知らぬ人物はこの学園に存在しない。

 

「どのような殿方なのです?」

「……英里華様がご興味を抱ける相手ではないかと。その、同級生の間でも、あれは古風で時代錯誤な男子として見られていますので」

 

“そこそこの良家から来たのかしら”

 

 思い立ったが、それはないだろうと判断する。当学園に集められた男子は、あくまで庶子に限定されている。枠から零れた元名士も居るには居るだろうが、それなら侍従の間で話題に出る筈だ。

 

「ですが、そうした部分を好ましく思う子女は幾人か居るようです。何しろ、この学園に募った男とくれば、誰も彼もが内に獣を飼っていますので、物珍しさがあるのでしょう」

 

 それはこの隊長にして一定の評価を得ているという事ではあるが、逆に言えば英里華の好みには合わないだろうとも告げていた。

 何分、他の侍従と比しても付き合いの長い身だ。幼少のみぎりより、私生活まで行動を共にし友誼を得ているこの親衛隊長にしてみれば、自ずと好みという物も察してはいた。

 口にこそ一度もしていないが、英里華の好みを挙げるならば、それはどのような相手にも物怖じせず、艱難辛苦を突き進める行動力を持った、良く言えば熱血漢、悪く言えば軽率な蛮勇を持った男だろう。

 今の生活を煩わしいと思っていることなど、他ならぬこの隊長が一番理解している。理解していながら、生まれという鎖で英里華も隊長自身も縛らねばならないのだから、世という物は儘ならない。

 

「そうですか。芹沢(せりざわ)、ありがとうございます」

「過分なお言葉です」

 

 既に興味は無くしたのだろう。生徒会室の扉を閉めると同時、奥から漏れた落胆の溜息を、芹沢と呼ばれた隊長は聴かぬことにした。

 

 

     ◇

 

 

 さて。当人の与り知らぬところで話題に挙がった、もう一人の人物を語るとする。

 名を安田登郎。当学園が共学制に移行するに当たり、推薦文を賜るに至った、選ばれた俊英の中でも五指に入る傑物である。

 が。当人に関してはそれを誇る事もなく、ましてや多くの男子が焦がれる、子女らとの交流を望む事もしなかった。

 彼が綾之峰学園への入校を決意したのは、真っ当な手段では二度と立ち入る事の出来ないであろう、一角。

 声が届かぬのを良い事に、学園の子女らが日々の鬱積を吐き出す目的で立ち入る『叫びの泉』と称される場に訪れる事にあった。

 

「私を、覚えておいででしょうか?」

 

 誰もいないその場。誰も来ないそこで、安田は明確に何者かが存在しているかのように問いかける。他に古風と言われる通り、年若い喉から出てきたのは、老躯そのものの口調であった。

 

「とはいえ、この顔と声では判らぬでしょう」

 

 息を、深く吸う。それは他の誰にも語らなかった、この風変りな少年の最大の秘密であり、おそらくこれからも、誰一人として語る事のない秘め事だった。

 

黒瀬(くろせ)……あの日、ここで忘れたくないと希った男です」

 

 何も返らない。風と共に泉に、細やかな波が出来ただけだ。

 

「貴女は仰られましたな『その存在を、これまでの信仰と歴史の全てを捧げる事でこの日ノ本を救う奇跡を授けましょう』と」

 

 一語一句、最早遙か昔の言葉を違う事なく口にして。

 

「恨み言は申しません。仮に貴女が歴史を曲げねば、陛下がご聖断を下さねば、日本国には想像を絶する血が流れた事でしょう」

 

 ただ、悔しいと。ここであってここでない国を思い、想い、かつて仰ぎ見た最も尊き御方に忠と心血を注いでいながら、結局は全てをただ一人の、仰ぎ見るべき御方に押し付けてしまった自分たちが、不甲斐なかったと思わずにいられないのだ。

 

「貴女はお見せましたな。居並ぶ私達に、起こり得る全ての結末を」

 

 広島と長崎に投下された原子爆弾も、灰燼と化した帝都も。斃れて行く同胞も。

 勝ちに浮かれ、驕り、いずれ混迷し奈落へと突き進んだであろう自分たちに。

 

「未練がましいと、それを承知の上で問います。何故、私に今生の世をお与え下さったのですか?」

 

 やはり、返らない。しかし、返らずとも察してはいるのだ。

 忘れないと。そう女々しく、誰より深く縋り付いた結果なのだと。

 例え輪廻転生を繰り返そうとも……。

 

「……憶え続けろと、言う事なのでしょうな」

 

 不甲斐無いが為に、全てを背負わせてしまったという罪を。

 永遠に記憶に刻み続けるという罰を。

 全てが忘れ去られた、この現世の中で。

 

「老人の未練に、御付き合い頂き感謝に堪えません。願わくば、千代八千代に神州を見守り下さいませ」

 

 拝礼を終え、静かにその場を去る。その背を泉から見届けた者が居ると知りながら、彼は一度として振り返らなかった。

 

 

 




注:原作の綾之峰学園はこんな鬱々としていません。
  清く正しい王道ラブコメの舞台で、普通科にも女子生徒はいます。


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Attack 02 お友達作戦なのであります

 時間は綾之峰英里華が、安田登郎を知るより前に遡る。

 高校一年目初となる中間試験を終え、学年順位一位から最下位までが、得点を含め廊下に張り出された頃である。多くの子女らは、この格付けを暇を潰す意味で覗き見ていた。

 特別科と普通科の違いはここにもあり、特別科に関しては個人のプライバシーが尊重される反面、普通科は当然の如く晒し上げられるが、やはりそこは庶子と言えども磨き抜いたもの。

 最下位であろうと赤点など存在せず、上位陣に到ってはケアレスミスが勝敗を大きく左右するところなだけに、子女らも家柄や財に胡坐をかいて見下す真似は出来なかった。

 尤も、そうした品性を疑われる行為自体、ここの子女らは慎んだだろうが。

 

“逃したか……”

 

 眼鏡をかけた理知的な少年は、歯軋りこそしないまでも、二位という位置が余程堪えたらしい。

 足早にその場を去りたい衝動に駆られはしたが、しかし試験後は子女らと交流という飴が与えられる事と、何よりここで去っては器の小ささを謗られるという事を危惧し、少なくとも表向きは泰然と構えて見せた。

 だが、一位と二位の違いは大きい。誰とて一番上から見るであろうし、自分とてそうされたいが為に努力もした。

 ならば、この位置に立つ男子はどのような人物か? それを確認する上でも、少年は件の男子へと視線を向けた。人はボロを出すものだが、それは何も挫折した時ばかりではない。

 勝ちを得、増上慢に到る者というのも当然の如く存在するだけに、ここで成績でない部分を見極める事は、この少年だけでなく子女らにとっても重要な事だった。

 

「…………」

 

 が。当人は遅れてきたかと思えば僅かに見上げ、すぐさま教室へと戻ってしまった。一七〇半ば近い身長から、人込みをかき分けずとも結果が見えた為だろう。

 あくまで確認作業に過ぎないというその態度は余裕の表れかとも思ったが、やはり醸し出す空気に、そうした功名心というものを感じない。

 あるがまま、ただ結果を受け止めるというその姿を澄ましていると見るか、自然体と見るか。おそらくは、姿を見た誰もが、この二位という位置にある少年でさえ後者だろうと息を零す。

 ここに集った男子であれば誰もが持ち得る欲求を、勝ち上がりたいという意気心胆を、あの男は持っていなかったのだと。

 

 

     ◇

 

 

 当然ながら、数少ない交流の機会にあってさえ、男……安田登郎は、一人黙々と参考書を開いていた。

 他のクラスの男子達は人付き合いが悪いのかと訝しみ、であれば、ここではやって行けないだろうと誰もが思ってたが、その考えは時間を経てすぐに消え失せた。

 どうやら自ら進んで干渉しないだけであり、決して人を寄せ付けぬという訳でも無いらしい。成績が芳しくなかったクラスメイトが声をかけ、要点を丁寧に教えた所から始まり、次いで遠慮混じりに近づいてきた子女らも、教え方の巧みさから声をかけられては応えていったが、その間にこの男は嫌な顔一つせず、寧ろ進んで鞭を取っていた。

 

「私からは以上ですが、何かご質問は御座いますか?」

 

 その口調に、思わず子女らの口端が動いたのも致し方ないだろう。この齢の庶子が己を私と呼称する所もだが、何より喋りに時代がかった感じが否めない。

 クラスメイトにしてみれば、今日という日まで幾人か会話した事がある分慣れてはいたが、この落ち着いた空気も合わされば、まるで退職した教師と会話をしているようで、現に他のクラスの男子に到っては吹き出す者もいる始末だ。

 

「少し良いか?」

 

 そうした中、ずいと前に出たのは、当学園切っての有名人であった。

 綾之峰家より、英里華の身辺警護と補佐を仰せつかった侍従の纏め役。周囲の子女から、親衛隊隊長と持て囃されており、近習の役職に違わぬ才女である。名を。

 

「構いません。芹沢さん……と、お呼して宜しいですか」

 

 ほう。と芹沢は静かに目を開く。自己紹介を覚えはなかったが。

 

“他所の会話を盗み聴いたか? であれば、随分と俗なことだが”

 

「そう眦を釣り上げず。立ち上がりこちらに来る際、幾人から名を呼ばれれば、自然と耳に入るもので」

 

 確かにその通りである。余程勉学に集中しているか、過度の狭窄視野でない限り、男の言う通り耳にも入る。

 

「確かに私の無礼だった。私を呼ぶのはそれで構わない。貴様が安田だな?」

「はい。普通科一年、安田登郎と申します。無礼と言うならば申し遅れた私にもございますので、お気になさらず」

 

 まるで好々爺だと芹沢は思わずに居られない。人の顔色を伺うのは慣れているが、謙っているような素振りもなければ、バカ丁寧な口調にも下卑た下心は伺えない。

 話しかけた子女らが、こちらの差金と気づいて尚、腹を隠しているなら大猩々と言わずにいられないが、何にも増して瞳から野心を感じられない事からして、腹を探ろうとした事自体愚かしく思えてしまう。

 

「それで、御用の向きは?」

 

 口実であれば、他の者ら同様、解りかねる部分があると言えば容易いが、実際は普通科が学ぶ範囲で解らぬところなどない。何より、同年代の侍従を纏め上げる立場にありながら、虚偽を申してまで一介の庶子から教えを請うのは躊躇われた。

 

「いや何。素直に優秀な男だと感心してな。学友として、友誼を結びたいと言うのは可笑しいか?」

 

 子女、男子らを含め、聞き違えたかと周囲に動揺が走る。

 特に子女らに関しては、あの潔癖性で知られる芹沢が、あろう事か羨望から未だ会話に踏み切れぬ子女を差し置き、庶子の男などと友情を深めたいなどと言えば、それこそ卒倒しかねぬ事態であろう。

 

「失礼を致しました。女心の機微には疎いもので、女子の口から述べさせてしまうとは」

「言った通り、恋慕でなく友誼だ。畏まる必要はない」

 

 それでもです、と安田は正面から見据えた。

 そうした面も悟れないのは甲斐性のない男のする事だと思っているのか。つくづく前時代的だと嘆息したが、芹沢自身も旧時代的価値観の持ち主である以上、他人のことは言えぬ身である。

 

「しかし参りました。世間話に花を咲かせるにも、何分、口下手なものですので」

「構わん。私とて、男と面と向かっての会話など楽しめた試しはない」

 

 事実である。幼少より姉に試練と称して、見合いの席を幾度となく強引に設けられただけに、芹沢は男というものに内心一定の距離を置かざるを得なくなっていた。

 それを弱点と姉は称しているが、そもそもにして原因は強引な姉そのものにある。

 それでもこうして曲がりなりにも会話が出来るのは、やはりこの男が、これまで見たどの若く、進んで芹沢に関わろうとした男共とは大きく異なるからだろう。

 ……何より、どうしてかこの男には、親しみというものが感じられた。

 

「では、共通の話題を出すとしよう。英里華様の事だ」

 

 さて。この男は目の色を変えるか否か。

 市井の者ならば、興味にしろ色恋にしろ、お近づきとまで行かずとも、人生で一度相見えればと思うであろうし、この男のように前時代的で、かつ保守的な空気を持つ男にしてみれば、それこそ逢瀬を交わすこと自体誉れとするに違いない。

 

「宜しいので? 男子の間でも、芹沢さんの立場は有名ですが」

「世間話だ。職務に関わらず、不敬にならぬ範囲であれば問題ない。ああ、それでも是非一目会いたいと言うならば、口聞き位はしても良い。今日は本邸に呼ばれている為、拝謁は明日以降になるがな。私がここにいるのも、姉が傍にいる為だ」

 

 このような機会、二度とないが? と暗に示し笑ってみせる。

 しかし、飛び付くどころか、さり気なく興味があるといった風さえ見せない。

 

「過分な栄誉ですが、芹沢さんにご迷惑をお掛けする訳には参りませんので」

「私に、か」

 

 てっきり英里華様のご心労となりますので、などと口にするかと思ったが。

 

「……見当が外れたな。貴様は国と主君に身を擲てる人間だと思っていたのだが」

「いいえ。確かに私は、日ノ本を想っております」

 

 微かに細められた目。そこには、今を生きる人間とは隔絶した何かがあった。

 自分自身の大望。或いは芹沢のように、綾之峰という仰ぎ見る主君に全てを捧げんとする忠義……言い換えれば、身を犠牲にしてでも守りたい何か。

 そうした人が持って然るべき全てを、どうしてもこの男からは見出せない。

 

“自身の将来の目標も、大切だと願う何かも、まだ定まっていないのなら解る。だが”

 

 この男はそれらを一度得ていながら、人生の何処かで置いてきている。もう手を伸ばそうと届かない、そんな遠い彼方に。芹沢と同じ齢の、それも庶子の男が。

 

「貴様、親兄弟は?」

「両親と姉が一人。皆息災です」

 

 穏やかな瞳。そこにある慈しみの色は、間違いなく肉親を思う心に溢れている。冷血であるという訳でなく、親への孝と家族の繋がりを忘れぬ出来た男ではあったらしい。

 ならば、置いてしまったものはそれ以外の筈で……ああ、すると益々見当がつかない。

 

「負けだ。貴様という男は判らん」

 

 素直に両手を上げる。それを癪だと思えれば良かったが、壁にぶつかるというより、柳に風であっただけに、そんな気も起きない。

 

「芹沢さんはお若く、聡明です。私のような未練がましい男に、気を揉まれる事は御座いません」

「褒めてくれるな。警護を担う侍従が、人一人の、まして未だ青い男の裡すら読めなかったんだぞ」

 

 だが、未練がましいというは収穫だ。この枯れ木めいた男にも、そうした所はあったらしい。或いは、語らずとも良い事を気遣って口にしてくれたのやも知れぬが。

 

「さて、宴もたけなわだ。次の授業もあるので、お暇するとしよう」

「ええ。その時は是非、芹沢さん自身の事をお聞かせ願えますか?」

「さらりと口説くのだな」

 

 そのようなつもりでは、と安田は一歩引く。その姿を見て、ようやくこちらも一本取れたと笑を作った。

 

「ああ、英里華様の事を話すといったが、あれは嘘だ。食いつけば切って捨てていた」

「承知しておりました。与り知らぬ場で囀られるのは、当人にしてみれば愉快な筈もないでしょう?」

「違いない」

 

 無遠慮にもどのような生活を送られているのかと内々で語らっていた男共に視線を投げ、軽い足取りで教室を後にした。

 そして、誰も居なくなった場で、芹沢はふと思い返す。

 

「『はじめまして』とは言わなかったな」

 

 それが単なる手抜かりであったかどうかを理解したのは、物語が進んでからである。

 

 

 

 




 原作がラブコメなのに、全くラブのない駆け引きな件。


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Attack 03 物語が動いたのであります

 安田登郎とは何者か。

 それを語るには時期尚早故、学園内外での彼の生活を先に述べておく。が、さりとてこの生活自体に面白みはないだろう。

 普通科の授業を時間割に従い恙無くこなし、教室移動に要する時間も含めた小休止を自習と、問われれば応える程度の同学年生の会話に当てる。昼休みは栄養と効率のみを計算し自炊した弁当を手早く平らげ、残る昼休みの時間と放課後に叫びの泉に顔を出しては帰宅する。

 中学卒業までは顔の広い母の伝手で古武道と柔道を嗜み、部活動に精も出したが、高校では部活動に入らず帰宅部の身であった。

 

 これは何も、彼が怠惰に耽っているのではない。まず一般生徒としての大義名分を挙げるなら、今年まで女子高であった綾之峰学園では、琴や花道が主流であること。

 グラウンド以外の部活動として使用する場を、男女別にするに当たって、未だ整理する目処が立っていないという問題がある。

 普通科男子は文武両道を是とする者らの集まりであり、これは学園側の手抜かり以外何物でもないが、そこは綾之峰の計らいで、目処が付くまで市の道場や運動施設を無償で提供している。

 ならばそちらに足を運べば済むのではないかと思われるだろうが、しかし安田個人としては、そうも行かぬ事情があった。

 

歌凜子(かりんこ)からは、高校では部に入るなと言われたからな……”

 

 一体何故そのような事を頼み込んだかは皆目見当がつかぬが、しかし安田登郎にとって、歌凛子なる女性は特別であった。

 故、放課後叫びの泉に赴いた後は自宅に戻り、早々に半長靴を履いて隙間なく石の詰まった背嚢を背負い、四キロ近いバーベルを手に走り込むという準備運動の後、木刀での素振りやら型やらを一通り終えるというのが日課となっていた。

 連休であれば、時間を利用した登山やロッククライミングもこれに加わる。残る時間は家事等、生活に必要な面と睡眠を除き、読書と勉学に費やされる。

 実家通いの学生が家事をするのかと思われるだろうが、両親は転勤族であり、七つほど年の離れた姉も大学院生として別居しているため、家には誰もいないのだから家事に勤しむのは当然であった。

 

 

     ◇

 

 

 生活面に文を割いた為、ここで話題を変えよう。

 何が言いたいのかといえば、要するに安田登郎なる男は、常に時間と行動の割り振りを定めて動くため、そこに変化があるとすれば、体調不良を除けば外的要因に因る物だという事だ。

 かくして、その外的要因が入り込んだ結果、その後の人生と物語を左右する一大事件に遭遇するのだが、その事件の中心人物に視点を向ける。

 

 綾之峰英里華。

 

 この物語において安田登郎より先に登場し、物語を動かす契機となる人物として語った綾之峰の、否、この世界における日本国の姫君である。

 安田登郎と同じく彼女の生活も、彩に満ちているとは言い難い。

 睡眠時間以外に隙間なく割り当てられた習い事と勉学、そしてお家の公務に忙殺される英里華にとって、この学園での生活と旧華族たる学友らとの語らいこそが、数少ない憩いの時間となっていた。

 

「…………」

 

 溜息など零さない。語らずとも心中が伝わる間柄だけに、芹沢は奥歯を噛んだ。

 どれほど仲睦まじく、絆を結んでいようと、一人になりたい時間ぐらいある。

 何とか出来ればと思う。しかし、学園の敷地内が如何に安全とは言え、近習たるお役目柄、供にしない訳にも行かぬ。

 

“せめて、心の猛りを誰に聞かれることなく叫べればな……”

 

 その様な場などあるものかと学園に入るまでは諦めていたが、今は確かにある事を知っている。しかしだ……

 

“少々有名に過ぎる。学園の子女らしか知らぬ場とは言え、男共が噂を耳にしている可能性も捨てきれん”

 

 子女らの叫びが聞きたいと、隠れ潜む獣を危惧せざるを得ないのが、二の足を踏む理由の一つ。何より綾之峰の姫が、鬱積を溜め込んでいるなど、醜聞以外の何物でもないのだ。

 

“いっそ封鎖させて、その後でお連れするか”

 

 叫びの泉までの道筋は険しいという程ではないが、安全面を鑑みれば子女が怪我をする可能性はある。無論それは、雨の後は泥濘で足が滑る程度でしかないが。

 

“……駄目だな。封鎖などすれば、他の子女達の捌け口を奪う事になる”

 

 日々の生活に不満があるのは、何も英里華だけではないのだ。そんな真似をすれば心を病むか、家を出るなどという最悪の事態になりかねない。

 

“だが、泥濘というのは妙案か”

 

 場所を知るは今のところ子女のみ。仮に知った者が居たとして、水溜りさえ避けようとする清らかな子女が、泥に足を取られる道を進む筈もない事は男共とて承知の筈。

 

「お嬢様、折り入ってお話が」

 

 運が良いとほくそ笑む。思い立ったその日の夜は、予報通りの通り雨だった。

 

 

     ◇

 

 

「ほ、本当に宜しいので?」

「はい。私はここで控えておりますので」

 

 明らかに弾んだ声に、芹沢は頬を緩ませる。ジャージと長靴という令嬢らしからぬ衣装で進む英里華は、どのような礼装より美しく思えた。

 

“足跡も無し。まず誰も近づくまい”

 

 それが大失態であったと気付くのは、全てが後の祭りとなってからだった。

 

 

     ◇

 

 

 結論から言えば、芹沢は二点の間違いを犯した。

 一つは学園の子女らの秘密を知らずとも、その場に辿り着ける人物がいたこと。

 もう一つは、その人物は決して楽な道筋を通らなかったという事だろう。特別科の棟から泉に向かうのと普通科の棟から向かうのでは、道が違うというのもある。

 無論、そちらのルートも考えないではなかったが、通り雨の勢いが殊の外強く、朽木が横倒しになっていたため、無理に来る男がいるとは思わなかったのだ。

 

 かくして、事件は起こる。

 そして間の悪いことに、声高に叫ぶ側が、一足先にその場に踏み入れてしまった。

 

「こんな人生ぇぇっ、もう嫌だ─────────────!!」

 

 天を裂き、地が割れんばかりの大絶叫。如何に人気がないとは言え、ここまで声を大にして叫んだ令嬢は英里華が初であろう。

 しかし、堰が切られた以上、溢れる濁流は止めようがない。

 

「嫌だ嫌だ、もお嫌だッ!! 何が嫁ぐことを定められた身だ!? 何が男子禁制だ共学にするなら分けるな──────!!!!」

 

 無論、その声がこの場に辿り着いたもう一人の人物に聞こえなかった筈もない。故に出直すかと踵を返すが、更なる言葉に耳を疑う。

 

「もう嫌だ、普通の女の子になりたい……ッ! どういうことだ歌凛子、あのロリババア! 学園に通えば王子様が来てくれる!?

 待てど暮らせど来ないじゃないですか第一本当に安田登郎ってあの安田登郎ですか!? 好みに掠りもしない黴臭い骨董品じゃないですか歳ですか!? 星読みの巫女姫が聞いて呆れますッ!!」

 

 当人の与り知らぬ場で──実際は背後に居るが──ボロッカスな評価であった。

 なお、芹沢にも耳に届いており、どういうことだと疑う反面、笑いが止まらなかった。安田当人が聞けば、さぞ愉快な百面相をしてくれるやもと期待した。

 しかし、その当人は真後ろで聞いていた。愉快な百面相はしなかったが。

 

「私の王子だというのなら、声を聞いて駆けつけてみろ───────!!!!」

「あー……いや、その。申し訳ない」

 

「え…………………………………………………………………………………………」

 

 ぎぎぎ、と。錆びた機械のように首が動く。顔と名前、そして芹沢からの情報でしか知らぬが、確かにそこにいたのは、件の安田登郎当人であった。

 

 ゆらり。と、幽鬼の如く英里華は体を揺らして振り返り。

 

「芹沢────────────────────────────!!!!」

 

 先程の叫びと同等の声量で、従者の名を声高に叫んだ。

 

「ふ、ふふ……申し訳御座いません。しかし、やむを得ぬのです!! かくなる上は、貴方には……」

「口外は致しませぬ故、気をお沈め下さい。何よりそこは足場が悪い。一先ず此方へ、」

 

 という至極最もな善意も虚しく、頭に血の上った英里華は耳を貸す暇もなく足を滑らせ、後頭部から泉へダイブした。

 

「見たことかッ」

 

 引き摺り上げるべく、泉に足を向ける。

 その顔は、この学園に来た者らも、彼を生んだ両親や、姉さえ見たことの無いほど鬼気迫るもので……

 

「それには及ばぬ」

 

 その、二度と聞く事はないと思っていた声に、彼は耳を疑った。

 

 

     ◇

 

 

 仙女と。泉より現れた美女を例えるならば、それ以上の表現はないだろう。

 或いは、織姫を思い浮かべるのが早いかも知れない。唐代の衣装に身を包み、羽衣を揺らす様などは、天の川にて彦星を待つ見目麗しき美女そのものだ。

 

「お久しいですな、女神殿」

「うむ。とはいえ、その声はここに赴いた際、幾度か耳にしていたがの」

 

 声は届いていたのかと安田は得心したが、それはいま指して重要なことではない。

 

「泉に身を投げた少女が居られますが、女神殿の供物ではありませぬ故、お返し願えますか?」

「無論、分かっておる。そこで問おう───」

 

「英里華様……! ご無事で、」

 

 慌ただしく。泥に塗れるのも構わず、主の為におっとり刀で駆けつけた芹沢と共に、安田は問われる。

 

「金の彼女と、銀の彼女───貴方が落としたのは、どっち?」

 

 女神の傍らには、金と銀の髪を持った、二人の綾之峰英里華が居た。

 

 

     ◇

 

 

「いえ、どちらも恋仲では御座いませんが?」

 

 至極あっさりと。未だ一人の少女が二人に別れたという事実に、口をパクパクと開いて見上げた芹沢を他所に、安田登郎は物怖じさえせず応えた。

 

「おお、何と正直な少年よ!」

「え、英里華様!!」

 

 芹沢は金の英里華を。安田は銀の英里華を地に投げ出される前に受け止めた。

 無論、重いなどと当人が意識を失っていようと口にはしない。

 

「正直な貴方には褒美として、両方の彼女を差し上げましょう」

「女神殿、」

「それじゃ頑張って! じゃ!」

「お待ちを女神殿───────────────────────!!!?」

 

 おそらく。人生で初めて、安田登郎は間抜け極まる叫び声を上げたのだった。

 

 

     ◇

 

 

「……一先ず、脈に異常はない。呼吸も安定している」

 

 そちらは? と安田は芹沢に声をかけるが、先の非常識極まる光景に思考が追いつかなかったのだろう。

 問われてから即座に金髪の英里華を確認し、問題ないと応えた。

 

「……あの女神とやらを、知っていたのか?」

「少々、因縁深い間柄でして」

 

 詳しく問いたいところであったが、詰問より先にすべき事は多い。

 

「……ん」

「……! 意識が戻られましたか!」

 

 芹沢の声に、はい。と金髪の英里華は自らの足で立ち上がる。

 

「ご加減は?」

「問題ありません。どころか、妙に心が晴れやかなのです」

 

 胸をなで下ろす芹沢であったが、問題は未だに残っている。具体的には……

 

「ど、どういう事だよ、これ……」

 

 安田の腕に抱かれた、銀髪の英里華もまた目を覚ます。しかしその顔は困惑の色に染まっており、流れるような銀の髪を、一房手に取ってもう一人の英里華と見比べていた。

 

「どういう事だよ! 第一、なんで私を抱えてんだよ安田!」

「……失礼」

 

 助けられておきながら、あんまりな発言であった。

 何より、金髪の方と打って変わり、銀髪の英里華は泉で叫んだ時の粗暴さを終始発揮しているような状態である。これが安田でなく他の男ならば、萎縮するか嫌な顔をしただろう。

 

「分かりゃ良いんだけどよ……しっかし、何で私が二人に?」

「その、お二人のどちらが本物の英里華様なので?」

 

「私です」

「私だよ」

 

 同時に告げられ、芹沢は頭を抱える。言動から察すれば間違いなく金髪の方なのだが、しかし確証がない以上そうも行かない。

 

「やれやれ……随分と騒々しい」

 

 見るに見かねてか。それとも説明の不十分さを自覚してか。再度現れた女神は、どちらの言も正しいのだと割って入った。先程までのふざけ切った調子ではなく、ここからは素で対応するようである。

 

「妾はな、そこな少女の願いを叶えたまでよ」

 

 忘れたとは言わせない。確かに綾之峰英里華は願った。

 こんな人生は嫌だと、誰かに代わって欲しいと、喉が裂ける程に叫んだのだ。

 

「とはいえ、お主の人生を歩めるはお主らのいずれか一人。代わりの務まる者など、地の果てを探したところで何処にも居らぬ」

 

 故に増やした。自分たちの世界に語られる『ジキル博士とハイド氏』なる物がある。

 善人のジキル博士と悪人ハイド氏。違って見える両者の人格は硬貨の裏表。見え方が異なるだけで同じものに過ぎず、二人の英里華もまたそれと同じだのだと。

 

「主らの体は我が秘法を用い、鏡の如き水面に映し出された、互いの似姿を取り出したものよ」

 

 多少の差異は、所詮コインの裏表。どちらも本物の綾之峰英里華であり、そこに真贋も優劣も存在しない。だが、そこに待ったをかけた者がいた。

 

「なれば、対価には何を?」

 

 望み請われれば授けられる。そんな都合の良いものは存在し得ない。それを、安田登郎はこの場の誰より理解し、経験していた。

 

「知れた事よ。代わりは二方の内一方。もう一方は縛られた余生を過ごさねばならぬ」

 

 一方の人生の対価こそ、この願いの代償。

 市井の人間としての幸福は、金と銀の何れかしか掴めない。

 

「不満か、()の子よ。かつて見届けた時との違いに」

 

 あの、身を引き裂かんばかりの結末を味わった者として。この対価を安いと取るか?

 

「いいえ」

 

 女神は決して詐欺師でも、商売人でもない。

 失ったもの。手放したものへの対価は等しいのだと。少なくとも、安田はそう受け入れている。

 

「そう。妾は叶えるだけの存在。対価もまた、硬貨の裏表であり両替よ」

 

 それを弁え続ける限り、何も言うことはないと。今度こそ女神は、静かに消えていった。

 

 

     ◇

 

 

「それで、これから如何なされるので?」

 

「その、いきなり二人に増やされても困るといいますか……」

「ああ、女神も言うだけ言って消えちまうし……」

 

 安田の問いに、二人の英里華は困惑したように顔を見合わせる。だが、いつまでもこのままという訳にも行かない。今は六月。暦の上では夏とは言え、放課後から時間が経っている以上、じきに日も落ちてしまう。

 

「一先ず、お二方ともお屋敷に戻られては?」

 

 どちらも本物である以上、芹沢の発言は正しくはある。しかしだ。

 

「説明は如何様に?」

「大刀自様の判を仰ぐ。……ああ、大刀自様というのは、綾之峰の先々代当主でな。英里華様の曾祖母に当たられる」

 

 大刀自。それは皇后陛下ならび妃に次ぐ地位を指すが、この日本国において既に皇后陛下が居られぬ以上、その呼称には違和感を覚えるべきだが、安田は追求しなかった。

 

“あのご当主か。確かに他界したと報じられてはいなかったが……よもやこのような形で関わるとはな”

 

 因果なものだと息を吐く。だが、安田にとっては過去が過去なだけに芹沢には言っておかねばならない。

 

「差し出がましい事を承知で具申させて頂きますが、如何に先々代当主と言えど、他人任せは如何なものかと。万一を考えれば、何れかが幽閉されるやも知れません」

「……分かっている」

 

 考えないようにしていたのだろうが、政略において邪魔であれば消すか、或いは利用するなどというのは当然のことだ。安田自身、身を以て体験した以上、考え過ぎという事は決してない。

 

「……大丈夫なのか?」

「ご安心を。万一の事態に備え、姉にも協力を要請します」

 

 頼むぜ、と銀髪の英里華が芹沢に手を合わす。

 

「……何かあれば連絡を。私にも原因がある以上、助力は惜しみません」

 

 確かに泉に落ちた要因は安田にもあるし、泉の事も気がかりだ。

 だが、だからといって一介の学生に出来る事など限られるだろう。サラサラと達筆な字で書かれた住所等の用紙を、使うことはないだろうがと芹沢は受け取った。

 

 

     ◆

 

 

「……泉の女神が動いたか」

 

 緞子の奥より、重い声が響き渡る。それは、現時点での日本国における絶対的支配者であると同時、最も崇敬される存在からのモノだった。

 

「星読みの巫女姫の予言通り。なれば、ここからも予言通り動くべきか?」

「歌凜子様の眼は、歴代随一に御座いますれば」

 

 控えの巫女が深々と頭を下げる。が、それを鼻白みながら、次の段階を考える。

 安田登郎……果たして巫女姫が『視た』と言う通り、綾之峰家繁栄を約束する、一介の学徒か。

 

“はたまた、黒瀬正継(まさつぐ)の同類か……そうであるならば”

 

「綾之峰を差し置いてでも、あの巫女姫は肩入れしかねぬからなぁ」

 

 

 




 欠片程度は見えたラブコメの波動が暗躍で消えた模様。


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Attack 04 真ヒロイン、ジーヤ推参であります!


 ジーヤルート? プロット段階からないです。



『頼みがある』

 

 携帯からの第一声を受け取った安田は、やはりこうなったかと胸中で嘆息した。

 

「まず何から?」

『良いのか?』

 

 頼んだ側とはいえ報酬も何も問わず、しかも一二もなく承諾されては、芹沢にしても当惑するしかない。これが世の男共なら獣欲を滾らせたか、はたまたコネや現金と言った部分で動くだろうとは予想出来るのだが。

 

「二言は御座いません。ご要件をお聞かせ願えますか」

『貴様の家を使わせてくれ』

 

“は?”

 

『聞こえているか? 貴様の、』

「通話は問題なく。ですが、その……失礼ながら、正気で?」

 

 芹沢の言葉が意図するところを読めない訳ではない。だが、余りに短慮だ。

 

“いや、短慮は私か”

 

 家を使わせろというのであって、一つ屋根の下で共に住まわせろという訳ではあるまい。おそらくは安田登郎の家庭環境を調べた上で、こちらに仮宿を与えてもぬけの殻となった家に一時避難の形を取るとも考えられる。

 

『私とて、男の家に転がり込むという破廉恥は承知の上だ。だが、お嬢様の為。何卒部屋を一つ、出来れば二つ開けて貰えないだろうか?』

「……私に、我が家を出ろとは仰らないので?」

『それも考えたが、他人の口に戸は立てられん。貴様が留守の間、空家に十代の少女が住み着いたと囁かれては困るのだ。綾之峰の力を表立って使えん以上、警察を呼ばれれば詰む』

 

 言われればその通りである。家の力が使えぬ以上ホテル暮らしは目立ち過ぎるし、芹沢を含めた侍従の家もマークされているだろう。

 

『生活費等は私の給与から出す。迷惑をかけるが、節度は守る』

「……私は男ですが」

『姉が付く。貴様は文武両道のようだが、あの姉には勝てん。如何に劣情を抱こうと、その齢で死を選ぶほど愚かではあるまい?』

 

 余程姉に信頼を寄せてのことか。確かに安田登郎が入手し得る経歴の通りであれば、それで問題はないのだろうが……。

 

“とはいえ、反故にも出来んしな”

 

 二言はないと口にしたのもあるが、片割れとはいえ()()()を路頭に迷わせるのも、綾之峰の手に委ねるのも気が引けた。

 

「生活費はこちらで用意します。返済も無用です」

『貴様は学生だろう? アルバイトの経験も見受けられんが?』

「女子一人も食わせられない程、甲斐性なしではありません」

『……無理が来たら言え。それから、姉も職務があるのでな。数日に一度は私もそちらに泊まる』

 

 そちらの方が問題ではなかろうかと思いながら、通話を切る。

 

“歌凛子からの金が、ここに来て役立つとはな”

 

 出来れば次に会うとき突き返したかったがと思いながら、安田は引出しの奥に仕舞い込んだままの諭吉を取り出すのだった。

 

 

     ◇

 

 

「よ! 話は聞いてると思うけど、ジーヤ共々世話になるぞー」

 

 爺や? と傍に控えるミディアムヘアの女性に視線を向ける。どう見てもうら若く豊満な、そして息を呑む美女であった。

 

「この度ご助力頂き、感謝に絶えません。綾之峰家、英里華様付き教育係兼専属執事を勤めてさせて頂いております、ジーヤ・芹沢・マクミランであります」

 

 ジーヤと聞き違えてしまったのだろう。知己の間柄なだけに、この間違いは頂けない。

 

「これはご丁寧に。大したもてなしは出来ませんが、家長不在故、私が代理としてお二方を歓待致します」

「うわー……安田って素で堅っ苦しいのな」

 

 

     ◇

 

 

「私はリビングを生活拠点としますので、私の部屋は綾之峰さんがご利用下さい。ミス・マクミランは、姉の部屋を使って頂けますか?」

「問題ないであります。して、安田少年は大丈夫なのでありますか?」

 

 問題ないと告げる。元より部屋には本以外娯楽になり得るものはないし、勉学は筆記用具と参考書等で事足りる。

 

「そうでありますか。ではお嬢様、先ずはシャワーでも浴びられては? ジーヤはその間、安田少年と荷下ろしをしておきますので」

「お、悪いな。じゃあ遠慮なくって言いたいけど、風呂ってどっちだ?」

「廊下を出て奥に。シャンプーとリンスは、」

「ちゃんと準備しているであります。お嬢様、こちらを」

 

 ありがと~と手を振って脱衣場に向かう銀髪の英里華を見送り、ジーヤ共々一息入れる。

 

「お久しぶりです。ミス」

「安田少年も大きくなったでありますなー。ミセス峰子(みねこ)は息災でありますか?」

「私よりミス・マクミランの方がお詳しいのでは? 海外視察中の母から、よく連絡を取り合っていると伝え聞いておりますが」

「実にその通り。ミセス峰子には、既にお嬢様の叔母に当たる万里華(まりか)様が連絡しておりますので、特に工作の必要はないであります」

 

“根回しもせず家に押しかけるほど馬鹿ではないか”

 

「となれば、叔母君は味方と考えて宜しいのですね?」

「というより、直系は大刀自様以外ほぼ味方であります。分家筋と遠戚の人間は、伏せられた情報を拾いつつ出方を伺っているようですが」

 

 派閥争いの真っ最中かと息を零す。名家という物の思考回路は、千年経とうと変わらぬ物であるらしい。

 

「聞くまでもない事とは承知していますが、大刀自殿の御裁決は……」

「『一生地下牢に幽閉』とのことです。ジーヤとしてもドン引きでありますよ、アレは。精々影武者辺りに仕立てるかと思っていたでありますが」

「巫女姫様は『視えて』いた筈。そちらから交渉を仕掛けなかったので?」

「おそらく、伝えられた上で幽閉を決断した筈であります。綾之峰家の、それも星読みの巫女姫たる歌凛子様の連絡が取れなくなっては、綾之峰家の将来に影を落とすことは確実でありますから」

 

 それもそうかと安田は肩を竦めたが、だからこそ分からない。

 

“歌凛子は良い子だ。曲がり間違っても他人の人生を摘み取るような予言はしない。隠し立てるにしても上手くするだろう……なら、何故幽閉を?”

 

「まさか、ここに来させる事を見越して……?」

「……有り得ますな。綾之峰の追手にしては、妙にガッツが足りなかったでありますから」

 

 だが、この予想には一つ問題がある。

 

「腑に落ちません。一介の学徒の家に、何故片割れ(よび)とはいえ綾之峰の姫を?」

「そっち方面を考えたら、ジーヤはスポッと何もかも腑に落ちた感じであります」

 

 

     ◇

 

 

「あのシュワシュワ弾けるお風呂……気持ちよかったぁ」

 

 恐らくは入浴剤をふんだんに使ったのだろう。シルクの寝巻きに身を包み、ソファで優雅に寝そべる銀髪の英里華に、それは良かったと包丁を振るいながら安田は笑う。

 

「ところで綾之峰さん。ミス・マクミランからは、今後お二人に分かれた綾之峰さんを判別する為、貴女を『銀香(ぎんか)』と称するよう連絡を受けたと伺ったのですが、私はこれまで通りで宜しいですか?」

「あー……、うん。そうだな、紛らわしいし。名前呼びは……、けどなぁ」

「お嬢様。一宿一飯の恩義に報いる上でも、名前で呼ばせては?」

「分かった……銀香で良い」

 

 やったでありますな、少年! とグっと親指を立てるジーヤだったが、近づけさせないために居るのではないのかと安田は苦笑せざるを得ない。

 

「……私を警戒なさらないので?」

「むしろ全力で乗って欲しいであります。多分、大刀自様もそれを狙ったであります」

 

 は? と思わず安田は包丁で指を切りかけたが、問を投げるより先にジーヤは疑問に応える。

 

「さっきマイシスターに確認を取ったであります。安田少年は英里華様、引いては銀香様の将来のお相手なのだと、こっそり歌凜子様が視てお伝えしたのでしょう。泉の方で大声を上げていたのを、安田少年も聞いたのでは?」

「……あれですか」

 

 話と違う。黴臭い骨董品など散々な言われようであったし、私の王子だのと言われもした。だが、所詮それは歌凛子の可愛い悪戯に過ぎないだろうと高を括っていたのだ。

 

「ちょ、ちょっと待て、マテって!? つまりあれか!? あのロリババア、私にだけ特別に教えるとかって言っておきながら、うちのババアにチクったのか!?」

「そう考えるのが妥当であります。第一、急に共学制にしたり推薦状が安田少年の家に送られてきたり、余りに都合が良すぎであります。

 お嬢様はご存知ないでしょうが、安田少年の母君は綾之峰学園のOGにして万里華様の同級生でありますから、そもそも庶子限定の推薦状が届く事自体可笑しいのであります。

 まぁ、ミセス峰子は家出中に知り合った市井の殿御と大恋愛を経て結婚されたので、既に庶子と言えばそうなのでありますが」

 

 マジかよ……と絶句する銀香。そして取り残された安田は、一人揚げ物などを作りつつ話を伺っていた。

 

「……正式な後継は、金髪の方の英里華にするって言ってた筈だぜ?」

「二人に増えたのでありますから、どちらであっても問題ない筈であります。素行に問題のある銀香様を庶子の安田少年とくっつけて、英里華様は他所の皇太子なり何なりと婚儀を結べば一石二鳥という事かと」

「結局道具扱いか糞ババァ……っ!!」

 

 ダン、と勢いよくテーブルが叩かれる。同時、釣り上がった瞳で銀香は安田を指さした。

 

「大体、お前ぜんっぜん好みじゃねえじゃん!? 枯れてんじゃん爺さんじゃん! 料理は美味そうだけど、私は別にそんなん求めてない!」

 

 詐欺だー! と頭を抱えながら絶叫しソファを転がる。その様子を見つつ、ジーヤも銀香の発言には肯定した。

 

「確かに、どっからどう見ても英里華様と銀香様の好みからは外れであります。むしろマイシスターとくっつくのが一番ベストでありますよ、安田少年の堅物ぶりは」

「そーだよ、安田! お前芹沢とくっつけよ! あいつがあんなに男と話してんの見たことないぞ!」

 

“……何故私は与り知らぬ処で身の振りを強制されねばならないのだろうか”

 

 世の令嬢とはこのような身の上なのだろうなぁと同情しつつ、皿に料理を盛り付けていった。とはいえ、安田にも自由恋愛の経験などないのだが。

 

 

     ◇

 

 

「料理が上手いのは良いんだけどなー……」

「はい。安田少年の食事は美味。しかもジーヤを気遣って英国料理で持て成して頂けるとは」

「出来得る限りの歓待を行ったに過ぎません」

 

 一般に英国料理は不味いと言われるが、それはあくまで店によって当たり外れがあるのと、大英帝国時代の食品偽造から来る不信感が大きい。

 確かにケチャップ換わりにペンキを混ぜていたと聞けば、中国の段ボール肉まんもかくやという忌避感を抱くだろうが、それは昔のこと。現代においてはそのような真似が横行する筈もなし、きちんと調理し日本人好みの味付けをすれば美味いのだ。

 無論、うなぎゼリーなどという金を貰っても食したくない冒涜的な一品があるのも事実だが。

 

「けどよー……なんかこう、年頃の男としてだな。グイグイ行くとか、そういうの無いのかよ」

「そうであります安田少年。これ以上お嬢様の口から言わせるのですか?」

「そういう意味で言ったんじゃないからな!?」

 

 実質出会って数刻の少女と、しかも保護者のような立ち位置のジーヤの前で何をしろというのかと安田は理解に苦しむ。

 

「……改めてお伺いしたいのですが、私は銀香さんと恋仲になると、確かに占われたので?」

「確かに安田からしたら非常識すぎるわな。けど、綾之峰が元々巫女の一族だってことぐらいは知ってるだろ? その中でも、特に力が強いのが星読みの巫女って言うグループに加わるんだ。お前の事はさ、その中でも歴代最高の巫女姫が占ったんだよ」

 

 たかが占い。そう口にするのは容易いが、巫女の力は綾之峰を支える根幹。未来視さえ可能とする巫女達が健在である限り、綾之峰の繁栄は未来永劫約束されたも同じなのだ。

 

「……と言っても。実際に女神を見た安田には、驚くことじゃないのかもな」

 

 どころか、その巫女姫とただならぬ関係でもあるのだが、敢えて口にはしない。

 

「それで? そろそろ話してくれても良いんじゃないか? お前、あの女神と顔見知りなんだろ?」

 

 そうなのでありますか? とジーヤも興味を示す。

 

「はい。私も、あの女神に願いを叶えて頂きました」

 

 やっぱりか。と銀香は得心する。

 

「それで? 何を願ったんだよ」

 

 まさか銀香のように人生を変わって貰いたいと思った訳ではあるまい。とすれば。

 

「安田少年は出来すぎる節があったであります。何でありますか? 万能型の人間になる代わりに男の欲望が根こそぎ奪われたとか?」

 

 それありそうだなぁと銀香は頷く。そうであるならば、巫女姫の予言と食い違う部分も納得出来るからだ。だが、生憎ながら彼の願いはそういった類のものではない。

 

「私が願ったのは、忘れたくないという事です」

「……物覚えを良くして貰ったでありますか?」

 

 そうではないとジーヤの予想を否定する。安田登郎が、否、黒瀬(くろせ)直真(なおさだ)正継(まさつぐ)が願ったことは一つ。

 

「思い出を、残しておきたかったのです」

 

 その結果が、これだ。死して屍を晒し、輪廻転生を経てなお、彼は忘れはしなかった。

 本来塵と消えて流れる記憶は、安田登郎として新生する筈であった肉に宿り、今の彼は人格をそのままに第二の生を謳歌している。とはいえ、そこまで深い事情を伝える義理はない。

 

「ロマンチズムに溢れていますなー」

「その結果がこの性格ってのも、割に合わないけどなー。忘れない分、歳を食うのが早かったって事か」

 

 そんなところですと誤魔化すように笑う。

 

「でもさ。思い出って残るもんなんじゃないか?」

「いいえ。人は忘れるものです」

 

 安田は知っている。自分達を生かしてくれたという事実を。未来を与えてくれた大恩を、誰一人として覚えて頂けぬまま、それでも良いと言ってくれた方がこの国に居られた事を。 

 どころか、ほんの数年の思い出さえ、人は忘れてしまう。

 

「現に、銀香さんも忘れておいでなのですから」

「え? 私?」

 

 そう。安田登郎は、綾之峰英里華が一人であった頃に会っている。それは確かに大切な思い出で、その頃自分達は名乗らずとも一時を共に過ごしたにも関わらず、彼女も、そしてジーヤの妹も覚えていなかった。

 ほんの八年。けれど、その時間でさえ思い出は掌から砂のように溢れて落ちる。

 

「だから、はじめましてとは言わなかったでしょう?」

「待った。ジーヤ……、それ本当か?」

「はい。ですから、ジーヤもお初にお目にかかりますとは申し上げませんでしたでしょう?」

「加え、私もミス・マクミランには自己紹介は致しませんでした」

「……何時会ったんだ?」

「機会があれば、いずれ。今日はもう遅いですし、お休みになられた方が宜しいかと」

 

 無理に問い質したところで、話す気はないのだろう。或いは、自分で思い出せという事か。

 

「分かったよ……」

 

 渋々ながらも引き下がる。結局、銀香はあまり眠れなかった。

 

 

     ◇

 

 

「本当に、人とは忘れ易いものでありますな」

 

 ジーヤは思う。銀香も、そして妹も。あれほど大切だと思っていた筈の思い出は、彼女らの内には既にないのだ。

 

「とはいえ、一日かぎりの逢瀬です。何より、私達はお互いに自己紹介をしませんでした」

「そういうものでありますかねぇ」

 

 幼かった頃とは言え、目鼻顔立ちを見れば、一目で分かりそうなものだというのに。

 

「安田少年は、あの日のことを覚えておきたかったので?」

 

 もしそうなら、これほど美しい話もないだろう。初めての出会い、そして恋。妹が語って聞かせてきたあの思い出の一幕が、今のこの少年を作ったのなら、それはそれで喜ばしい。

 

「……さて、ね」

 

 誤魔化すように、パタンと参考書を閉じる。それは、これ以上は聞いて欲しくないという意思表示だったのかもしれない。

 

「ミス・マクミランも、お休み下さい。追手の心配は、本当になさそうですので」

「……そうでありますな。今日は引き下がるとしましょう」

 

 軽やかに。しかし後ろ髪を引かれるように、ジーヤは安田の部屋の向かいである、姉の部屋に入っていった。 

 

 

     ◇

 

 

“……そう。人は忘れ続ける”

 

 それに耐えられなかったからこそ、安田登郎は在り続けるのだろう。

 未練を抱え、今日も、そして明日も……きっと、安田登郎で無くなった後も。

 

 未来永劫、永遠に。

 

 

 




 英国料理は美味しいんです信じて下さい! 手長エビのフライとか最高ですぜ!
 ただしうなぎゼリー、テメーは駄目だ。



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Attack 05 説明回という奴であります

 芹沢家は確認した限り、両親のどちらが英国人かは明言されていませんでしたが、父が特殊空挺であるということと、第六巻に描かれた回想シーンの衣装で、父親らしき人物のジャケットフロント部分のマガジンポーチが英国製らしき点から、当作品では母を日本人とさせて頂きました。
 おそらく父親はSAS。


 結局、何かが変わったという訳ではない。

 当然と言えば当然だろう。大刀自より次期当主たれと正式に決を下された以上、彼女は市井に下ることを許されず、綾之峰英里華として在り続ける他にない。

 

“それでも、もう一人の私ほどではないのでしょうね”

 

 理不尽だと思う。何かを悪しきを為したという訳でもなく、曲がりなりにも肉親から牢に繋げと言われれば、哀れを誘わずにはいられない。けれど同時に、己が醜いとも思った。

 

“だって、あのとき私は……”

 

 自分でなくて良かったと。そう思ってしまったのだから。

 

 

     ◇

 

 

「おはよー……」

「お早いですね、銀香さん」

 

 お前が意味深な事を言うからだと返したかったが、それ以上に安田の姿に銀香は引いた。それはもう、思わず一歩下がるほどに。

 

「……お前、どこ行くんだよ」

「日課のランニングですが?」

 

 気軽に言うが、どう見ても装備が可笑しい。

 自衛隊の戦闘時における装備は十五~三十キログラム。そこに三・五キロほどの小銃が加わるが、これは確実に三十キロを超えているし、バーベルも重量は四キロ以上ある。

 

「……自衛隊(そっち)の道にでも進みたいのか?」

「そんなところです」

 

 そういえば海外文学の原書に混じって、クラウゼヴィッツやアンリ・ジョミニやらが棚にあったのを思い出す。蔵書はシェイクスピアやゲーテぐらいしか楽しめなかったが、それ以外では、この洒脱な男の意外な一面を見る事も出来た。

 

「あ。話変わるんだけど、安田って結構オシャレさんだったのな」

 

 本以外で気になるものといえば、それぐらいだったので聞いておこうと思ったのだ。流石に学生である為にブランド品など無いし、高額な物も置いていなかったが、銀香の目から見ても中々組み合わせにセンスがある。

 

「ええ、まぁ……その、そろそろ出ても?」

 

 答えに歯切れがない。恥ずかしい部分を知られたと感じているのだろうか? だとすれば、そうした羞恥心は捨ててないようだとニヤリと笑うが、突如としてジーヤが押しかけてきた。

 

「安田少年、誠に関心であります! このご時世、弛みきった若者らにジーヤは危機感を抱いておりましたが、捨てたものではありませんな!」

 

“そういや、ジーヤの父親って空挺部隊所属だったっけ”

 

 ジーヤ自身、軍隊仕込みの猛者なだけに、共通の話題を持てる相手が近くにいたのが喜ばしいのだろう。現代日本において綾之峰家への崇敬という面であればさして珍しくはないが、安田のように軍に興味を抱ける人間というのは思いの外少ないのだ。

 

「ところで安田少年、軍に興味がお有りなら、是非語り合いたい事があるのですが、少々お時間を頂いても? 日本人の安田少年にも馴染み深い、戦前から続く日米関係の話題であります」

 

 構いませんが、と日本人らしく押されるがまま応えてしまったのが運のつきだろう。明らかに弾んだ調子の声と陰を含んだジーヤの言葉に、これは長くなるなと銀香は内心辟易した。

 

「ジーヤは英国人とのハーフでありますが、当時の話は日本人の曾祖母より伺っております! 日本国と米国との関係悪化という外交上のツケを、一身に負わされ南方諸島で散った黒瀬中将と部下らは気の毒ありましたが、何にも増して腹立たしいのは、綾之峰家にそれを告げぬまま全ての責を負わせた政界と軍部に責任があるであります!」

 

 もし綾之峰家がより踏み込めていたならば、決してこうはならなかった筈だとジーヤは憤るが、安田は気圧されたのか苦笑を零すだけだった。

 

「あまつさえ講和規定を無視し、日本の保有していた中国利権を全て占有する飽きたらず、沖縄まで一時的とは言え実効支配!

 軍も完全解体と行かぬまでも自衛隊と改め、三〇年代という帝国主義真っ盛りの時代に直接的侵攻を原則禁止されるなど、ふざけているであります! そもそも、いきなり押しかけて寄越せというのは道理が通らぬであります!」

「ですが」

 

 堰を切ったかのように捲し立てたジーヤに、冷や水を浴びせる様に安田は口を開く。

 

「日本には日露戦争時、国債購入の見返りとして米国への満鉄権益の約束をしていながら戦後反故にし、利権をロシアと分割していたという問題がありました」

 

 日本国が勝ち取った成果を、横から奪ったというジーヤ改め国内多数派の主張は、歴史認識としては現日本において概ね常識であるかのように捉えられている。

 が、安田の言うように、日露戦争での資金援助や終戦の講和という取引は、権益というリターンがあっての物であり、善意からでは有り得ない。

 国家間にある外交とは友情や信頼ではなく、利害の一致によって結ばれるものに過ぎない以上は道理がどうなどという戯言はお門違いだし、日露戦後ロシアと組んで米国も得て然るべき権益の枠から外した事が、そもそも道理に反している。

 

「何より、当時の日本は、表面上意図的に米国との関係を悪化させていた節があります」

「綾之峰家を含む、大規模な国家間陰謀論でありますな」

 

 ジーヤとて、理屈の上では安田の主張に分がある事は、自身で資料を確認しており承知している。

 それでいながら多数派の者らと同じ主張をせざるを得ないのは、曲がりなりにも綾之峰家の禄を食んでおきながら、国家間での陰謀を企てていた首謀者に綾之峰を加えたくない為だろうと安田は踏んだ。

 尤もそれは、現在の日本国に生きる大多数の人間が支持するところであり、むしろ安田の主張こそ異端であるのだが。

 

「あ。それなら私も聞いた事ある」

 

 と。会話に入れず、手持無沙汰であった銀香が手を上げた。

 

「要は、綾之峰は全部知ってたし、米国も始めから日本と組んでたって話だろ? 声高には言えねえけど、当時の綾之峰家当主はあの大刀自だからなー……」

 

 この辺り、市井の人間と違い遠慮なく言えてしまうのは銀香だからだろう。

 何にも増して、先々代当主が必要とあらば人を切り捨てられる人間だと、身を以て知っている事も大きい。

 

「帝国主義全盛の時代において、どれほど現実主義的政策を取っても、防衛上も国益上も軍拡は抑えきれません。ですが、敗戦という形ならば違います」

 

 その為に、世界に対して一芝居打ったのだろうというのが、安田を含めた少数派の主張だ。現に、当時の日本国は米国以外と外交上の失敗はない。

 ロシアでは工作員を導入しロマノフ王朝を存続させ、オーストリアでも皇太子暗殺を防ぐなど、世界に広がる筈だった巨大な火種を事前に揉み消している。

 欧州でこれ程まで精力的に動いておきながら、米国だけは露骨と言って差し支えないほど対立的構図を見せつけていた。

 

「更に言えば、本来幾らでも進出できた筈の大陸には、財閥も民間企業も最低限の出資しかしなかった事も気掛かりです」

「始めから渡してしまうつもりだったからこそ、でありますか……確かに南方諸島に送られた将兵は、黒瀬中将と副官を除いて幼年学校上がりの自称エリート気取りか、フランス軍もかくやという精神論者だったという噂はありますが」

 

 うむむ、とジーヤは唸る。が、唯一の例外が例外なだけに、納得しかねる部分がある。

 

「他はともかくとして、黒瀬中将は日露戦争以降も絢爛たる功績を上げ、大刀自様からも直々に『栄華勲章』を賜った程、綾之峰家に貢献した人物でありますよ?」

 

 綾之峰家に対し、特に功労ある個人が授与対象とされ、年金受給のみならず一代限りの有爵者とすることを認る栄華勲章は、授与基準が綾之峰家に一任される事から特に叙勲の難しい勲章とされている。

 平成の世に入ってさえ、総授与数が両の指を僅かに上回る程度といえば、判り易さが伝わるだろう。

 

「そこだよなぁ。捨石にするんだったら、その時点で星が多くても並の奴か、同格の使えねー奴を捨てりゃ良い筈なんだし」

 

 この手の話にはさほど関心のない銀香とて、黒瀬中将の事は触り程度に知っている。ジーヤの言う通り、綾之峰家にとっても少なからず関わりのある名なのだから。

 

「前渡しとは考えられませんか?」

 

 餞として、くれてやるから死にに行けという事。当時の価値観は現代以上に綾之峰に対して忠義に厚かったのは想像は難くないし、御国を思うのもまた同様だ。尤も、本当に綾之峰への忠義に厚かったかは、当人以外に知る由もないことだが。

 

「そういや、授与理由が明らかにされてねーから、死後剥奪しろって有爵者が騒いでたってのは聞いたな」

「基準が綾之峰家に一任されておりますし、直系のお命を狙われた所を救われた可能性も御座いますがね」

 

 これなら、社会不安を鑑みて明らかにしなかったという理由にはなる。が、銀香にもジーヤの主張が、声の小さいものになっているのを感じ、逆に安田のそれの方が正しいのではないだろうかと思えてきてしまった。

 何というべきか。そんな事はある筈がないというのに、安田の主張はまるで当事者が語っているように錯覚してしまうのだ。

 

「安田少年の……というより、少数派の主張が正しいとして。安田少年は、祖国に土がついた事に不満はないのでありますか?」

「敗戦は確かに屈辱だったでしょう。ですが、南方の小競り合い一つで国家安寧と綾之峰の保全は約束されるのです」

 

 現にこの日本国においては、本土を焼かれた事も、原子爆弾が投下された事もないし、過剰な造船競争を始めとした軍事費に煩わされる事も無くなった。

 大規模な流血が無かったというのなら、この時代のどの先進国も同じだが、それでも異なる歴史を知る安田にしてみれば、結果的に一番得をしたのは他ならぬ日本だろう。

 

「軍自体も、規模の縮小と侵攻に関する制限に留まりましたしね」

 

 当時と軍が大きく異なるのは、名が改められたというぐらいか。軍備の抜本的見直しと整備化に専念出来たという点も鑑みれば、お釣りの来る結果だろう。

 在日米軍は未だ沖縄に残っているし、遺恨も少なからずあるが、現在沖縄の犯罪件数から見ても彼らの行儀の良さは十二分国民の理解を得ており、無理に追い出す程ではない。

 

「三〇年代って言えば、ロシアが一番ぐらついてた時だもんなー。軍隊が小さくなっても、一番やばいところが手を出せないって判ってたら問題ないわな」

 

 中国からの撤退はロシアの南下を防げなくなるという声も当時聞こえたが、この頃のロシアは打倒されないまでも、王朝権力は弱体化の一途を辿っており、日々激化する小国家の独立運動から拡大政策には消極的だった。

 現在において、綾之峰家と懇意にしている立憲君主制小国家群は、この時期における政情不安を狙って独立を果たしたものばかりだ。

 

「結果を見りゃあ、綾之峰は小国とはいえ後々まで王族との婚姻に事欠かない。軍工場の技術者は経済畑行きで、国内のインフラ整備も充実か。こりゃ、ジーヤの支持してる多数派の主張はちょい厳しいな」

「加え、押し付けられたという建前で一部既得権益の廃止も可能になりましたからね」

「……安田少年はともかく。お嬢様は、ジーヤが綾之峰家の禄を食んでいる立場だという事を考慮して欲しいであります」

 

 先にも語ったが、安田の発言が正しいのであれば、全ては綾之峰が描いた筋書きであり、世界を裏から統べる大魔王もかくやという陰謀を企てた事になってしまうのだ。

 平安より昔から続く、神聖なる綾之峰の当主がそのような行為に及んだというのは、心情的に受け容れ難いものである事は、安田とて理解していたが。

 

“話題の振り方の強引さといい、今日のミス・マクミランには何処か分不明な点が多い”

 

「でもよ」

 

 と。ここまで会話を重ねた上で銀香が注視してきた為、安田はジーヤの心胆を推し量る事を止めて向き直った。

 

「それなら何で、安田はそっちの世界に踏み込む気でいるんだよ?」

 

 

     ◇

 

 

「それなら何で、安田はそっちの世界に踏み込む気でいるんだよ?」

 

 綾之峰家への不信。政界どころか身を置こうとする軍も、必要とあらば切り捨ててしまう事を知ってなお、安田は国に奉公すべく己を磨いている。

 

「お前だって、捨石にされるかも知れないのに」

 

 本心から安危を気遣って問う銀香だが、安田にとってみれば軍という場所は第二の我が家のようなものだし、死の危険など承知している。

 

「軍人を志すなら、死は鴻毛より軽い事を覚悟して然るべきです」

“こいつ、頭おかしいんじゃないか”

 

 銀香でなくとも、今の世を生きる人間であれば、誰とて同じように思った筈だ。

 確かに、今の日本には目に見えた危険などない。安田の発言とて強がりか、軍という場所を愛国心という妄想から歪め、死を美徳と勘違いしきって自己犠牲に酔っているとも取れる。

 だが、そうではない。安田は死ぬ事はおろか、使い捨てられる事さえ納得尽くで志している。どれほど身を粉にし尽くしても、最期は異国で散った何処ぞの中将のように。

 

「何時死んでも良いって言うのか……? 親だって居るだろ。お前が居なくなって、泣く奴は絶対居るんだぞ」

 

 本当にそれが分からないのか。勉学や運動が取り柄というだけの、頭の良い馬鹿なんじゃないのか。

 

「覚悟なんかできるもんか! 死ぬって分かったら、絶対後悔するに決まってる!」

「無論、するでしょう」

 

 事も無げに。実際そうなると、まるで経験してきたかのように安田は頷く。

 泣きはせずとも、必ず悔やむ。もがき、苦しみながら、死に際に遺した全てに許しを請いながら消えるだろうと。 

 

「そこまで……」

 

 分かってなお、進む。止まる事も、引き返す事も、違う道を探す事も出来る筈なのに。

 十六という、銀香と同じ年月を生きた、思い出を忘れずにいるというだけの少年が。

 

「がっかりだよ……お前には」

 

 知らないだけだと思っていた。関わりが浅いというだけで、この少年は自分に見せていない良い所が有る筈だと。巫女姫の予言というだけでなく、恋などとは関係なく、同い年の人間として仲良くやって行ければ良いとも思っていた。

 けれど違う。銀香はこの少年と……、安田とは決して相容れない。こんな、自分勝手に死んで、色んな親しい人が泣くのを理解して、自分すらどうでも良いなんて言える奴と、仲良く出来る筈が無い!

 

「ジーヤも何か言ってやれよ! こんなの可笑しいだろ! こんな考え、間違ってるって言ってやれよ!?」

「お嬢様には異常に見えるとでしょうが、安田少年の言いたい事は、ジーヤは判るであります。ジーヤの父も、自分らの一員に加わる上で、死は選抜過程での落第を通告する自然界特有の方法だと常々言っておりましたから」

 

 あまりに違う価値観。あまりに違う認識。

 自身の専属執事として幾年も過ごしたジーヤもまた、安田のそれを肯定する。或いはそれは、綾之峰に忠誠を尽くす人間として感じた、ある種の共感から来る贔屓なのかもしれないが。

 

「……ジーヤ。お前も……」

 

 死ぬべき時には、死ぬことを覚悟しているというのか?

 

「はい。ジーヤはそれを覚悟し、お仕えしております」

 

 全ては綾之峰の為……お家の存続のためか。歴史がそれほどまで大事で、命はそれほどまで軽いのか。握りこんだ手が震える。思わず殴ってやりたいという衝動に駆られて睨めつけてしまう。

 だが、その視線を受けたジーヤは、何処までも優しく笑うだけ。

 

「ジーヤは綾之峰家以上に、銀香様も英里華様も、マイシスターも大好きでありますから」

「は……?」

 

 だから。自分以上に大切な何かがあるから命を賭けられる。それが非業なものであれば、自分の死に嘆きもするだろう。未練を幾つも残すだろう。

 けれどそれが、擲った自分の命が、決して無為のものだとは思わない。

 

「泣かれても、恨まれても、ジーヤは大好きな人達の為なら、そうするであります。必死に足掻いて、死にたくなくても頑張って……勿論、死ななくて済むならそれが一番良いでありますけどね」 

「……当たり前だろ。ジーヤが死んだら、怒る。絶対、許してやらない」

「ははっ。では、ジーヤは益々努力せねばならないでありますな!」

 

 怒りは、既になかった。笑って応えるジーヤは、自分の命を軽んじているのでも、親しい人が泣くのを許容しているのでもない。

 ただ、大切なだけ。愛しくて堪らないから、傷つき、失って欲しくないから、自分が頑張ろうとするだけなのだ。

 

「安田少年も、きっと同じでありましょう?」

 

 でなければ、説明がつかない。

 もし彼が自分に価値を求めておらず、誰でもいいから他人の為にと……ある意味、自分自身の美徳の為だけに死にたいと、死んでも良いと思うなら───

 

「───忘れたくないなんて、願わないであります」

 

 忘れないのは、それが大切だから。見て、知って、その時得た気持ちを永遠に失いたくないから。国の為というだけではない。そこに生きて暮らす大切な人を、彼はしっかりと持っている筈だ。

 

「だから、ジーヤは安田少年の努力を応援するであります。でも、お嬢様が怒ってくれたこ事は忘れないで欲しいであります」

 

 どんなに大切でも、その為に自分が消えれば、自分を同じように大切だと思ってくれる誰かが泣く。泣かせてしまうんだと。既にそれを弁えている安田に、太く大きい釘を刺す。

 

「承知しております」

 

 絶対でありますよ、とジーヤは背を叩いて。

 

「じゃあ、そろそろ行ってくるのであります! 人は努力したらしただけ、長生きする可能性が増えるでありますからな!」

 

 

     ◇

 

 

 重い音を響かせた足音は既に遠く、見送った姿は瞬く間に小さくなっていく。

 

「てっきりお嬢様に良い所を見せたいが為に無理をしているかと思いきや、あれは本当に日課レベルになっているでありますな」

「なあ、ジーヤ。ちょっと良いか?」

 

 感心感心と頷くジーヤに、銀香は問う。

 

「あいつはさ、ジーヤの言う通り大事な奴の為に頑張ってるとして、それは誰なんだろうな?」

 

 自分では、決してないだろう。知己の存在だと安田は語ったが、銀香はどうしてもそれが思い出せない。本当に大切で、劇的な物であったら、銀香は……二人の英里華は覚えていても良い筈だ。

 

「ジーヤには判断が付きかねるであります。安田少年はあれで、女性との出会いが多い身でありますから」

「は?」

 

 本気で、心の底からあり得ないだろという顔でジーヤを見た。

 

「銀香様に英里華様。ジーヤとマイシスターと、あと……」

「うちの身内ばっかりじゃん」

 

 何でそれで思い出せないんだと銀香は頭を抱えたが、ジーヤが言うには。

 

「直接会ったのは一回きりでありますからなー。そういう意味で、お嬢様の疑問は当然であります」

 

 出会いはあっても交流はなしと。成程、それなら納得である。

 

「ん~? ひょっとして、お嬢様もお年頃でありますか? マイシスターと違って、豊かな胸を撫で下ろせた感じでありますか?」

「芹沢が聞いたら怒るぞ、絶対」

 

 一層謎が深まった気はするが、銀香自身、疑惑を向けられたところで素で返せる程度の関係だ。恋愛感情など抱けていない。それが分っているのか、からかい涯に欠けると思ってかは知らぬが、ジーヤは平静な面持ちで応えた。

 

「まぁ、ジーヤ個人としても、安田少年には不可解な点が多いでありますが」

 

 一つだけ、言える事がある。

 

「安田少年は、銀香様や英里華様を裏切ったりしないと思うでありますよ?」

「そんな事───」

 

 ───本当に、分っていたか?

 

「いや……分ってなかったな」

 

 追い出されないかと家に来た時はそう思った。邸に戻る事に内心恐怖し、気軽に話して不安を紛らわせていた。ジーヤや自分と顔見知りだと知って、安堵もしていた。

 

「きっと。安田に怒ったのも嘘の気持ちなんだろうな」

 

 居心地のいい場所を、守りたかっただけ。だから、安田に対して心配した振りを……

 

「いやいや。お嬢様は本当に怒っていたでありますよ? ジーヤは小さい時からお嬢様をよく見ておりますから、嘘と建前ぐらい見分けはつくであります」

「慰めるなよ。出会って一日の男の人生に、そんな深く関わってやるほど綺麗な女じゃないぜ? 私は」

「男女のそれは関係ないであります」

 

 ただ。純粋に心配だっただけ。自分と同じしか生きていない少年に、本当に大切な物を、知って欲しかっただけなのだ。

 

「だから、素直にしていればいいと思うであります。安田少年は、ちゃんと応えてくれますから」

「爺さんみたいな口調でか?」

 

 にしし、と先程までと違い、軽く銀香は笑う。

 

「ありがとな、ジーヤ。安田には、ちゃんと謝っとく。だから、お前もあいつを試したのを謝っとけ」

「おや? バレておりましたか」

 

 ペロリと年甲斐もなく舌を出す。

 

「綾之峰は関わってなかった? そんなのを信じたがるほど、ジーヤの頭は凝り固まってないだろ?」

 

 最初の狂信的なまでの綾之峰家と日本国への信奉発言は、安田が食いつくかを見定めるものでしかなかったし、無理に否定しなかったのもジーヤ自身本気でなかったから。

 仮に彼が同調するようであれば、その時点で見切りを付けていた筈だ。

 

「安田少年は真面目でありますが、蔵書は結構偏りがありましたので。政治的にアレな思想の持ち主と、お嬢様を近づけたくないでありますから」

 

 知己の間柄だろうが、出会ったのはあくまで幼少の頃。信用に値するか否かは、親との付き合いより今の本人そのものを見極めるべきと判断したのだろう。

 この辺り、妹が英里華を出汁に安田を試したところから見ても、似たり寄ったりな姉妹と言わざるを得ない。

 

「もし追い出されたら、その時はその時だ。大刀自が本気じゃない以上、誤魔化しは幾らでも効くだろ?」

「確かにその通りでありますな。まぁ、あの安田少年が少女を路頭に迷わせるとは思えないでありますが」

 

 

     ◇

 

 

 結果として。綾之峰銀香もジーヤ・芹沢・マクミランも安田家の居候になった。曰く。

 

「謝罪なら結構です。迷惑ならはっきりとそう申しますし、肩身が狭い中、家主の顔色を伺うのも、一つ屋根の下生活するのに、私自身に問題がないか確認するのも当然でしょう」

 

 とのこと。実に竹を割った回答なだけに、銀香は安堵よりも気を揉んだのが馬鹿らしく思えてしまった。ただ、居候に当たって、一つだけ約束事をした。

 

「言いたい事があれば、仰って下さい。私も、その方が過ごし易い」

 

 遠慮などしてくれるな。我慢なら、今まで散々してきただろうと。

 多くを述べないまでも、その気遣いは伝わってきた。知らないことは、確かに多い。それでも、不器用でも優しさというのは伝わるものだ。

 

「分かった。じゃあまず、その爺さんみたいな口調、どうにかなんねーの?」

「……これは身に染み付いたものですので」

「ふぅん。じゃあ、私とジーヤが一つ言う事聞いてやるから止めてくれない?」

 

 ジーヤや私といる時だけで良いからさ、と笑うが、女性がそのような事を口走るのは問題である気がする。

 

「……では」

「おおっと安田少年! さらっとジーヤが入っておりましたが、エロティックな要求はお嬢様のみお願いするであります!

 ……どうしてもと言うなら、マイシスターで手を打って欲しいであります」

 

 自らの主人と身内を豪快に売っていくが、生憎とそこまで飢えてもいなければ、口調一つで無理な要求は突きつけられない。

 

「……料理を頼んでも宜しいか?」

 

 台所に立つのは既に慣れたし、黒瀬であった頃にも経験しているが、三人分と言うのは盛りつけも含めれば、思いの外時間を取られてしまう。であれば、せめて朝食だけでも時間を開ければ、その分勉学に費やせると考えたのだが。

 

「えー……」

「安田少年。ジーヤはともかく、お嬢様にその仕打ちはあんまりでありますよ。自分で言うのも何でありますが、ジーヤの食事は量と栄養だけで、味は度外視でありますから」

 

 大ブーイングであった。ではこのままで、と言いかけたものの、やはり言い出した側が引き下がると言うのも気に入らないらしい。

 結果。弁当だけはジーヤと銀香が共同で作る形となった。

 

「愛妻弁当という奴でありますな、安田少年!」

「ハートでも入れて欲しいか?」

 

“……楽しんでいるな”

 

 ハートは若干迷惑であったが、この時は伝えず呑み込んだ。年甲斐もなく、女子の弁当を食いたかった訳ではない。おそらく。

 

 

 




 イベントでアメリカと戦う事になるかと思ったら、開戦直後降伏&国家方針転換とかいうプレチ全開な綾之峰家(hoi並感)


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Attack 06 七夕茶会 前編であります

 

 綾之峰学園における特別科と普通科の数少ない合同授業(週に一度選ばれるランダムでの五教科)を終え、大学の講義室に近い作りの教室から出ようとした矢先、安田は芹沢から声を掛けられた。

 

「放課後、時間を貰うぞ」

 

 ここでは人気が多い事もあるが、それ以上にお互い目を引く立ち位置である為、一時その場を離れ、HRの後、荷物持ちという名目で安田を連れ出して生徒会室に移動した。

 

 

     ◇

 

 

「そちらの生活は問題ないか?」

「娯楽のない家ですので、お二方には不自由をおかけしますが」

「それもあるが……貴様自身どうなのだ? 私が言うのもなんだが、あの姉は破天荒な面も多くてな」

 

 迷惑を掛けていないか? と生徒会役員としての仕事中故、淀みなく筆を走らせながら問う芹沢に対し、手際よく書類を整理しつつ安田はいいえ、と応えた。あくまで名目に過ぎない筈の手伝いだが、安田は手持無沙汰なのを嫌ったのだ。

 芹沢が働くのを横目に、茶を頂くというのに気が引けたのもある。

 

「充実した日々を過ごさせて頂いております。特にミス・マクミランからは、私の知りえなかった知識を多数ご教授頂いており、申し訳ない限りです」

「あの姉のスパルタ教育と無茶ぶりを受けているのか……」

 

 同情と謝罪を、双方心の底から芹沢は述べた。おそらくだが、文武両道である事にかこつけて、軍隊仕込みの教育をこの真面目一辺倒の少年に課しているのだろう。

 英里華に対しては、家の重圧などもあることから、教育係として精神面でのアフターケアにも余念はなかったが、安田のような弱音を吐きもしなければ、欠片も弱点を見せないタイプには容赦がない。無論、妹である芹沢にも容赦はないが。

 如何に鍛えているとはいえ、あれは肉体以上に精神への負担が尋常ではないし、そもそもにして一年の男子高校生に哲学やら心理学を叩き込む所からして間違っている。

 

“尤も、私の時は中学くらいだから、それを思えば良い方……とは言えんな”

 

 如何に落ち着いているとはいえ、所詮は高一。いつかは必ず限界が来る。

 

“まだ家に行った事はないが、私が交代する時には、休養を与えてやらねばな”

 

 あの姉の事である。どうせ睡眠時間は五時間あれば充分だと言い切っているだろうし、むしろ弱音を吐いてくれる様を内心悦びつつ待っているに違いない。あれは参ったと言わせる為ならば、どんな苛烈な試練でも平気で与えるサディストなのだ。

 

 

     ◆

 

 

「安田少年はガッツが足り過ぎであります。頭のネジが飛んでるでありますか?」

 

 五点着地をマスターした以上、次は命綱なしで三階ほどの高さから飛び降りろと言えば泣くか。

 

「嗚呼……、いつ泣き顔を見る事が出来るか、楽しみで仕方ないであります」

「私らが居候だってこと、忘れてないよな、ジーヤ」

 

 

     ◇

 

 

「あの姉は、無理と言わねば幾らでも難題を押し付けてくるぞ?」

「承知しております」

 

 本当に分かっているかは怪しいが、骨折や打撲はなく、精神・肉体両面での疲弊も見られないことから、訓練は初期段階なのだろう。

 芹沢の時は一週間もあれば重装備での走り込みを継続しつつ格闘訓練に移行したが、流石に素人には、最序盤という事で座学だけの対応で済ませているのかもしれない。

 いざという時の護衛役が、狼の牙を進んで研がせているという事には納得しかねるが。

 

「ところで、そちらの方は如何でしょうか? お二人に分かれた事で、何か変化は?」

「体調面でも精神面でも問題は見られんな。むしろ、精神面は二人に分かれた事で、これまでの鬱積した思いが取り除かれたように感じたらしい」

 

 とはいえそれは、あくまで人格での裏表が分かれたという形に過ぎない。綾之峰に生きる以上、今の生活が続けば英里華は必ず限界を迎える。その時には、二人に分かれるなどという真似はもう出来まい。

 

「つまり、負担の軽減が必要という事ですね」

 

 言いたいことは安田にも分かった。が、目的が分かったというだけであって、呼ばれた理由までは判らない。

 

「代役をお頼みするのであれば、ご本人か姉君と連絡を取れば宜しいのでは?」

「いや。そちらは目的の半分だ」

 

 では、もう半分とは何なのか。ここに到るまで、彼が話題に挙がらなかった事からして、安田自身に関わりのある事は間違いないが。

 

「来月の話だが、綾之峰の別邸で七夕茶会が催される。ここ数日、英里華様が学園にご不在となる事が多いのも、茶事の亭主を務める為だ」

「それ故、芹沢さんが生徒会業務等を代行していると」

「私としては、直接お側に侍りたかったがな。英里華様はご多忙の上、一つの作業に集中すれば、他が手につかなくなる傾向がある」

 

 だからこそ、こうして出来る範囲の仕事を肩代わりしているのだろう。ただ、やはり会話から己の話が出て来ない。生徒会の仕事や、周囲の雑務を手伝えというのなら、それこそ芹沢以外の侍従の手を使えば事足りる。

 同輩を外してまで、生徒会室に安田を呼びつける理由はないのだ。

 

“よもや、私に茶事を手伝えという訳でもあるまい”

 

 芹沢当人は、安田の事は調べたと以前言っていた。経歴から見れば、覚えがあるとしても、独学で身に付けた程度である筈の者に任せるとは思えない。

 とはいえ、裏千家で良ければ嗜む程度に心得はあるのだが。

 

“知っている筈も無し。そちらに期待をかけてはいないだろう”

 

「無論、フォローは私を含めた侍従が全面的に行う。貴様には、さる御方よりお声がかかっていてな」

 

“まさか、大刀自か?”

 

 一瞬身構えかけたが、こちらを伺っている芹沢の様子からして、その可能性はない。窮しているというより、反応を楽しんでいる節があるのだ。

 

「聞いて驚くな。綾之峰財閥代理当主であられる、綾之峰万里華様から貴様にお声がかかった。英里華様の叔母上にして、義母に当たる方なのでな、茶会では粗相のないように……何だ、何かないのか?」

「……驚いております」

 

 とてもそうには見えんがな、と芹沢は背を椅子に預けて息を零す。

 だが、表には出さないというだけであって、驚いたというのは本当だ。

 

“母とは同級生であった事は知っているが、直接の面識はない……ミス・マクミラン同様、こちらを見定めておきたいのか?”

 

「一つ聞きたい。有っても独学とは思うが、茶の湯の経験はあるか? 無ければ、姉から指導して貰うよう取り計らうが」

「裏千家であれば」

「そうか。とはいえ、三客であれば最低限の作法で足りる。貴様が固まる姿を見たいと思わん事もないが、恥をかけば英里華様にも飛び火するのでな。程よく肩の力を抜いて臨め」

 

 話は以上だという芹沢に一礼し、退室すべく立ち上がる。が、それより先に芹沢が動いた。

 

「茶の一つぐらい飲んで行け。家に戻れば、姉が騒がしいだろう」

 

 

     ◇

 

 

「ほうほう。マイシスターと二人きりでお茶を楽しんでいたら帰りが遅れたと。安田少年も隅に置けぬ……というより、マイシスターの行動力にジーヤは驚きであります」

「生徒会室って、特別科の最上階のとこだろ? 校則上は男子も立ち入り禁止じゃないと言っても、実質男子禁制のとこで逢引きとか有り得ないだろ。相手が芹沢ってとこも含めて」

 

“姉に振り回されている妹が、同じように苦労しているのだろうという勘違いから、情を引いたのでは? などと言えば騒がれるか”

 

 朴念仁と取られるか、はたまた余計にからかいに掛かるか。いずれにしても、藪を突いて蛇を出すほど愚かではない。

 香ばしい匂いを出し始めた青魚を盛り付け、摩り下ろした大根を小皿に分けながら、安田は今後に関して口を開く。

 

「現状、綾之峰さんの方は仕事にかかりきりだから、銀香さんには可能な限り影武者として動いて欲しいらしい」

 

 既に大刀自が本気で動いていない事は、芹沢にも叔母の万里華にも伝わっている為、細かな代理程度であれば問題ないと踏んでいる。それは同時に、将来の相手として安田が占われた事も伝わっているという事であるが。

 

「出来れば、七夕茶会の作業も分担して欲しいそうだ」

「まぁ、茶会は亭主のセンスが出るからなー」

「イメージが固まっていたら、後は配置等指示をすれば事足りるでありますがね」

 

 だからこそ、茶会そのものは無理に代理を頼まなかったのだろう。銀香にしてみれば再び御家の都合に合わせて生きる生活に戻ってしまう訳だが、それでも一時的なものであれば、そこまで拒絶はしないだろうとも見越していた。

 安田自身の出席に関しても、七夕茶会当日には期末考査を終えていることもあり、拒否する理由はない。とはいえ、拒否権など初めから無かっただろうが。

 

「私としても、英里華には幾つか話しときたい事もあったしな」

 

 骨休めは充分出来たし、息つく暇もないほど働かされない限りは問題ないとの事だ。

 

「では、そのように連絡させて頂き、」

「おい。敬語に戻ってんぞ」

「力を抜くでありますよ、安田少年」

 

 屈託なく笑う二人に、そうだなと同意する。距離を隔てぬ会話というのも、存外悪くないと思いながら。

 そして、当人の気付かぬ事であるが……その口調が徐々に丸く、少壮のものに近くなっていった事に銀香とジーヤは笑みを零す。自分たちとの間にあった、心の距離が狭まっている事に。

 

 

     ◇

 

 

 七月七日。ごく少数の綾之峰家親族と財閥重鎮らを招待し執り行われた野点にて、唯一部外者たる安田は、世辞を抜きに綾之峰英里華の亭主としての実力に舌を巻いた。

 

 白の大傘は月。藍染の敷物を川と見立て、周囲の野花に星を見る。

 ならば、織姫が何者かと問うは愚であろう。藍の敷物は英里華に届かず、彼女は晒された畳にて姿勢を正していた。

 

“そここそが対岸であると言う事か”

 

 成程、確かに七夕茶会の名に相応しいと感嘆したのもつかの間、もし、と背後より艶やかな声がかけられた。

 振り返り見れば、妙齢の女性である。年の頃は、どう多く見積もろうと見目には二十後半か半ば。それでありながら、齢を重ねた者のみが得られる落ち着き払った空気がこの女性には感じられた。

 おそらく、この女性こそが安田を招待した綾之峰万里華その人であろう。

 ただ絵となる美を備えているだけではない。匂い立つ気品も然る事ながら、佇まい一つとっても、古き良きと称される、過日に置き去られた古雅が伝わってくるようであった。

 

「本日はお招き頂き、ありがとうございます。私は、」

「安田登郎さんですね。峰子とは同級生で親友だったのだけど。まさか、彼女から貴方のような子が産まれるなんて、聞いてても驚いたわ」

 

 本当に信じられないと。驚きの中にあったのは、僅かな疑惑か。しかし、それはこれまでの人生で、両親を知る者達から幾度となく言われた言葉である。

 

「皆そのように仰りますが、こればかりは生まれ持ったもののようで」

 

 左様ですか、と気にした風でなく流されるが、関心を無くしたという訳でないのは目を見れば判る。

 

「貴方、正客をなさい」

「宜しいので?」

 

 前触れなど無く告げられた為に間髪入れず返してしまったが、それが失言だと気付いたのは後の祭りだった。

 

「出来ぬとも言わねば、戸惑いもしないのですね」

 

 結構、と。静かな足取りで去る背を見送りながら、安田は一介の学徒らしからぬ己の応対を恥じた。

 

 

     ◇

 

 

「本日、正客を務めさせて頂きます、安田登郎と申します。軽輩の身では御座いますが、宜しくお願い致します」

 

 連客一同が揃ってからの挨拶に始まり、亭主との問答から、菓子と茶を頂いた際の礼に到るまで、つつがなく進行していく。

 元より、万里華から直接招待に預かった事を客らが知り得ていた事。庶子と言えども綾之峰学園にて優秀な成績を収めており、同席した芹沢とも懇意にさせて頂いていることから、下に見るような声は上がらず、七夕茶会は静かに幕を下ろした。

 

 

     ◇

 

 

「見事なものだったな」

 

 独学ではなかったのか? と芹沢は問うが、姉から時間の許す範囲で仕込まれたのだという言葉と、平時から知る安田の物覚えの良さに納得し、それ以上追及はしなかった。

 

「芹沢さんのからのご紹介に、助けられた部分が大きかったので」

 

 固まった肩が解れましたと言うが、それが世辞である事ぐらい芹沢にも分かる。

 

「良く言う。次は着物でも褒めるか?」

「はい。実によくお似合いです」

 

 冗談のつもりであったのだろうが、先程の助けられたというものとでは、熱の込め方が違う。本心なのであろうが、だからこそ気まずい物があった。

 

「止せ。貴様が銀香様のお相手とされている事は知っているのだ」

 

 万里華様も、それを見越して主客に据えたのだろうと、芹沢は顔を僅かに顰めた。

 

「正直、私は貴様個人を好ましく思っているし、より良い関係で有り続けたいとも思う」

 

 傍から聞けば、告白かと思うような言葉。しかし、それが違うことは彼女の表情からも、場の空気からも否応なく感じられた。

 

「だから、頼む。銀香様だけでなく、私と英里華様を支えてくれ。私では立場故に出来ぬ事も、貴様ならば可能の筈だ」

 

 それは誠意であり、己の眼鏡に適った者への期待であり、また友誼を重ねた相手への信頼であったのだろう。

 芹沢自身にとって大切な、命に代えても守りたい存在。それを、己とは別の形で守って欲しいと頼まれたのだ。

 

「私は───」

 

 ───その願いを、聞き届けられるか?

 

 

     ◇

 

 

「正直、私は貴様個人を好ましく思っているし、より良い関係で有り続けたいとも思う」

 

 その言葉を聞いたとき、二人に分たれた綾之峰の姫は、告白かと思った。

 

「だから、頼む。銀香様だけでなく、私と英里華様を支えてくれ。私では立場故に出来ぬ事も、貴様ならば可能の筈だ」

 

 だが、違った。芹沢にとって安田登郎とは信用に足ると認めた存在に過ぎず、預けるのは心でなく背中だった。

 

「……ひどい女だな、芹沢は」

 

 銀香はその言葉に、落胆を覚えてしまった。確かに、男を寄せ付けぬ女なのだとは判っていたし、こういう結末も起こり得るとは考えていた。

 しかし、同じ女として見ても、振り方というものがあると思う。

 貴方には相手が居る。それは定められている事で、自分はそれを理解しているし、むしろ喜んでもいるのだと。彼女ははっきりと、そして一方的に突きつけたのだ。

 

「そうでしょうか?」

 

 だが、英里華はその言葉に、違うものを見た。

 

「芹沢は、きっと───」

 

 

     ◇

 

 

「私は───」

「安田様」

 

 応えることを阻むかのような声。ただ呼ばれたと言うだけでありながら、そこには有無を言わせぬ響きがあった。

 

「お取り込み中、ご無礼。ですが、当主代理が是非茶庵にとお誘い申し上げておりまして」

「構わん。私を気にするな」

 

 答えを示さぬまま立ち去る無礼に、後ろ髪を引かれる思いはあったが、芹沢とて立場は弁えている。次の機会で良いと告げ、また学園で、と自ら場を去って行った。

 

「……伺いましょう」

 

 

     ◇

 

 

「芹沢は、きっと───覚えています」

 

 はっきりと。茜に染まる横顔を見ながら、英里華は確信するように行った。

 

「貴女の言う、覚えていない安田さんとの出会いを。きっと思い出したんです」

 

 その上で、身を引いた。自分の気持ちも、相手の気持ちも、全て深く考えないようにしながら、綾之峰英里華と銀香の為だけを願って。

 

「……そっか」

 

 その思いを。分たれたもう一人の自分の思いを、銀香は否定しなかった。

 そして、意を決したように口を開く。

 

「思ってたんだけどさ。お前と私は、もう別人だよ」

 

 好きな物も、嫌いな物も。表に出す性格以外、きっと全部同じでも。

 

「ですが……」

 

 英里華が居た事で、銀香が生まれてしまった。

 心に抱え、澱のように濁った闇が、彼女と分かれた事で霧散した。

 綾之峰を継ぐ事を嫌がりながら、牢に閉じ込められるよりはマシだと胸を撫で下ろした。

 

「……私の不満が、貴女を生んだんですよ? 一杯、迷惑をかけたんですよ?」

「私は、銀香で良かったと思うよ。お前が願ってくれなかったら、きっと私は色んな安田を知らなかったし、違う生活を送れなかった」

 

 大切なものは、きっと同じ筈だった。今だって銀香は、芹沢を大事に思っている。けれど。

 

「私は安田の側に立って、あいつが傷ついたと感じた。お前は芹沢の側に立って、身を引いたと思った。私は、お前の知らない安田を見たよ。料理が上手くて、馬鹿みたいに鍛えて、ジーヤの無茶ぶりだってこなしちまう、真面目で出来過ぎる男だった」

 

 それだけではない。短い日々の中で、銀香は英里華の知らない多くを見た。

 梅干を嫌った自分に、好き嫌いをしてはいけないと諭しながら、好きになれるよう料理を工夫した。

 女らしい週刊誌より、恐竜図鑑が好きだと知れば図書館で借りてきてくれたし、熱心に話も聞いてくれた。

 ゲームもドラマも、興味なんてない筈なのに、嫌な顔一つせず付き合ってくれた。

 

「……今日の茶会だって、覚える事だらけだった筈なのにな」

 

 とはいえ、そこはジーヤに仕込まれずとも、始めから覚えていたのかもしれないが。

 

「私は親友として、日常をくれた恩人として、あいつを見てる。お前にとっては昔占われただけの、好みでも何でもない煩わしい奴でも」

 

 この思い出は、綾之峰英里華では、決して得られないものだったんだから。

 

「だから───お前を助けてやる」

 

 もう、綾之峰銀香は多くを得たから。

 

「今度はお前が、幸せになる番だ」

 

 

 




 原作がラブコメなのに、コメ部分が圧倒的に不足してる本作。


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Attack 07 七夕茶会 後編であります

 

「……伺いましょう」

 

 去って行った芹沢を見送った後、こちらに、と和装の美女が典雅な動作で登郎を案内する。茶庵は会場より五分ほど歩いた竹林の中、人目を憚るかのように建てられており、周囲に人影は見えなかった。

 

「ようこそお出で下さいました」

 

 凛とした音。一度でありながら、以後、人生において忘れ得ぬだろう玲瓏な響きに、安田は深く礼を取った。

 

「そう畏まらず。此度の正客としての務め、実に見事でした。その上で、あと一つ願いを聞き入れて頂けませんか?」

「私に出来ることであれば」

「茶を、点てて頂きたいのです」

 

 経験はお有りなのでしょう? と。問う目にはやはり、人を試す心根が伺えた。

 

「甚だ未熟でありますが」

 

 迷う振りを、考えなかった訳ではない。しかし、既に英里華を気遣って正客を滞りなく務めた身である以上、今更である。何より、相手が己を見定めんとするならば、その真意を問いたいと思う気持ちもあった。

 

“銀香さんの身を案じ、大刀自の決定に堂々と背いた程の御方が、私を見定めんとしている”

 

 ジーヤ同様、銀香の身を案じてのものだとは思う。しかし、仮にそれだけならば、より近い位置に居られるジーヤに任せれば片は付く。

 

「思慮深く、相手を見定めるのは貴方も同じ」

「…………」

「茶釜は沸いています。粉は既に棗に入っていますが、他はご自分で選びなさい」

 

 伊達に権謀術数渦巻く世界を渡り歩いて来た訳ではないという事か。安田とて、黒瀬であった頃より駐在武官として、そして参謀畑の人間として多くの人間を読み取って来たが、敢えて口にされるとは思わなかった。

 

“今は茶に集中しろと言う事か”

 

 確かに、亭主として客を饗すには不届きであった。それが半ば強制されたものであったとしても、客に諭されては世話はない。

 

「失礼を致しました」

 

 心より、饗させて頂こう。

 

 

     ◇

 

 

 静かに。茜の光が茶庵に入り、竹林の揺れる音が耳に届く。

 安田の動きは緩慢であるが、それは意図してのものであり、一挙一挙に無駄はない。ばかりか、その身から醸し出される風格は、万里華をして目を奪われかけたほどだ。

 

“作法を見るに裏千家……しかし”

 

 その中で、万里華が感じ入った物がある。

 

“綾之峰の紋を、敢えて隠すか”

 

 綾之峰の家紋と、彩られた華が入った棗の蓋。その境に蟻腰の茶杓を置き、華のみを客に見せていた。

 自らの側に綾之峰の紋を置き、巫女姫の予言通り、次期当主の側に侍らんと卑しき思いを抱いていると邪推する事もできる。

 しかし、それは違う。安田は予め大刀自自らが描かれた大仰な軸を外し、壁にかかる竹の花入れから、目立たぬ物を抜いて篭に詰めた後、床の間に置いた。

 

“一時とはいえ、綾之峰である事を、私に忘れよと言うのですね”

 

 ここには一人の亭主が居り、一人の客が居るに過ぎぬ。絢爛たる華の輝きは目の眩む美であろうが、篭の花ように小さなものにこそ、人は頬を緩ませ力を抜く。

 

「お点前、頂戴致します」

 

 菓子は用意がない。茶のみを手に取って頂くが、茶の泡の量と、クリームのようなきめ細かさに息を漏らす。

 泡を満たさず、月を描く表千家のそれは茶の味が際立つが、裏千家のそれは泡が空気を含む分甘味を感じる。だが、それにも増して薄い。

 

“濃茶で重くなった胃には、嬉しいものね”

 

 茶会に限らず、綾之峰の行事一切を取り仕切る万里華である。当然、今日という日まで味を聞くため英里華に幾度も指導しており、慣れたものとはいえ、胃にかかる負担は大きい。

 

“加えて、この木碗”

 

 数多く名物が揃う中、敢えて最も軽く持ち易い茶碗を選び点てたのは、茶会を終えて人心地ついた身を気遣って───

 

「───大変、美味しゅう御座いました」

 

 心配りの数々に、万里華は深く頭を下げた。

 

 

     ◇

 

 

「数々の非礼、ご容赦を。綾之峰財閥当主代理としてでなく、綾之峰万里華としてお詫び致します」

 

 綾之峰の名で頭は下げられぬ。試したは飽くまで一個人であり、謝罪もまた同様という事だろう。とはいえ、そこに不満はない。立場が逆であれば、安田とて同じことをした筈だ。

 正客としたのは教養を。亭主としたのは人となりを見る為。与えられた課題は、万里華をして及第点を十二分に超える。否、超え過ぎた。

 

「……茶というものは、余人が思う以上に、人というものが見えるものでございます」

 

 空となった木碗を手慰み、万里華は零す。言葉で多く語らぬ事も、茶を通せば見えるものだと語る万里華は、だからこそ解せぬと呟いた。

 

「登郎さん。貴方の茶には人としての礼も、気遣いもありました。口に出さぬ、優しさの溢れる時間でした」

 

 それは、久しく感じられなかった事。こうしたひとときは、安田の母である峰子と過ごす間にしか得られないものだと思っていた。だからこそ、万里華はそこに違和感を覚えた。

 

「この茶は、決して独学で身につくものではありません。いえ、正客としての問答にして、付け焼刃でない事は承知していました」

 

 であれば、誰が? 令嬢を育む、綾之峰学園で共に学んだ峰子であれば、基礎程度は教えられるだろう。だが、万里華の知る峰子はそうした子女の教養に興味を示さず、男児が行う武辺に重きを置いた。

 女子らしい行儀作法など、煩わしいと言って憚らなかった筈である。

 

「貴方が文武両道である事は得心が行きます。ですが、この茶は教えを請い初めて身につくもの」

 

 それも、近しい者が指導して身に付く類……例えば、母が幼い子に礼節を教授するような。

 

「気を悪くする事を承知で、はっきりお聞きします。貴方の母は、本当に峰子なのですか?」

「……血の繋がりを、お疑いで?」

 

 いいえ、とにべもなく返される。万里華とて、そこはしっかりと調べている。安田登郎は、疑いようもなく安田峰子の息子であり、そこに疑念の余地はない。

 

「……泉の女神。そこに鍵があると私は見ました。女神の存在は、綾之峰の直系以外知り得ぬ秘中の秘。代理当主たる私とて、英里華さんが分たれた姿を目にするまで、星読みの巫女らと同じく、所詮はお家の箔を増す為の迷信と軽んじておりました」

 

 だというのに、安田はそこに坐す女神を知っていた。学園の人間でなくば決して近づけず、近づいたとて、存在を知り得ぬ女神の事を。

 

「私が疑っているのは、血ではなく魂です」

 

 万里華が女神の存在を知り、思い至ったのは二つ。一つは安田登郎に知らぬ誰か……例えば、非業の死を遂げた者が第二の生を願い、記憶をそのままに安田登郎を演じている事。

 そしてそれは、当たらずとも遠からずと言えるものであった。

 

「貴方は既に一度人生を謳歌しており、母もまた別に居た。そう考えれば、全てに辻褄が合います」

 

 では、もう一つは何か。

 

「登郎さんが、安田登郎という人生を終えているという事です」

 

 曰く、これは二周目。既に一度全てを経験しており、起こり得る自体を察しているからこそ、聡明であれるという仮説。

 

「忘れたくないと、願ったそうですね」

 

 真実に至る鍵の一つはそこ。安田登郎が希ったものが何か知る由はないが、少なくともそう判断するだけの理由にはなる。だが、後者は前者と比べ正解からも、真実からも遠い。それは、万里華とて自覚しているのだろう。

 

「辻褄が合うと先に申した通り、私は前者に重きを置いております。貴方は、私の立ち振る舞いを見て、初めて私を万里華と認識しましたからね」

 

 ヴィクトリア朝の時代、ベイカー街の下宿を居とした創作探偵のようだ。

 訪れた依頼人の情報を、その足音や服の痕跡、視線を始めとした肉の動きから察してしまう稀代の天才。複数の情報を繋げながら、到達し得る正解に瞬時に行き着くというその人物に、思わず安田は重ねてしまった。

 

「願いについては、お話し下さらないと思います。ですから、これだけはお聞かせ下さい」

 

 気まぐれでも、好奇心からでもない。綾之峰の人間としてでなく、安田峰子の友として知りたいのだと。

 

「私は、峰子の親友です。だからこそ、峰子が苦しむところを見たくないのです」

 

 口外などしない。危害など決して加えない。だから、真実を話して欲しいのだ。

 

「峰子は、登郎さんの事を愛しておいでです。だからこそ、登郎さんが胸の裡を開けられぬ事に苦しんでいました」

 

 子供らしい我が儘も無く。常に家族を気遣って。何時だとて、自分を中心にはしなかった。それを本来誇るべき母は、母だからこそ息子の裡を知らぬ事に苦心した。

 

「自慢だと。誇らしいと笑顔で語れど、電話からの声はいつも寂しそうでしたよ」

「私は……」

 

 安田登郎は、安田峰子の息子だと、胸を張って言えて来ただろうか?

 いいや、言えなかった。常に安田登郎は、己が黒瀬正継である事を自覚し続けた。自分が生まれ変わったのだと。この逞しい父と、優しい母から産まれたのだと、快活な姉がいる長男だと、そう思って生きて来れた日は一度として無かった。

 

 輪廻転生。

 

 それが全てだと、信じ込み続けてきた。忘れていないから、意識が残っているのだと思い続けた。けれど、本当にそれを信じて来れたか?

 本当の自分は亡霊で。安田登郎として生まれ、平穏に暮らす筈だった子を、乗っ取ってしまったのではないか?

 

「自覚は、あったのですね」

 

 細まる目。未だ真実には遠い女性が安田登郎を、いや、安田登郎だと信じたがっている男を、どのように捉えたかは判らない。

 

「しばし、席を外します。ところで、電話はお持ちですか?」

 

 ただ、察しただけだ。親友とその息子は相容れず、分かり合えないのではないのだと。

 親と子としての、市井の者であれば当然のように存在しない分け隔てを、作ってしまっているだけなのだと。

 

「はい」 

「なら、連絡ぐらい取れるでしょう」

 

 親と子ならば、それぐらいは出来る筈なのだから。

 

 

     ◇

 

 

 答えが定まったなら、表に出なさいと。茶庵を出た万里華を見送りながら、取り出した携帯を弄ぶ。

 履歴を見れば、芹沢との連絡ばかり。家族との通話履歴は、その全てが受信履歴にしかなかった。

 

“コスタリカとの時差は十五時間……向こうは、午前八時過ぎか”

 

 世界中を飛び回っている多忙な身だ。そんな中で、かけて良いのかと悩みながらも、気が付けばアドレス帳に登録していた母の携帯にかけていた。

 

『グッ、モ~ニン! ジスイズ ミネコ・ヤスダ スピーキン!』

「……コスタリカの公用語はスペイン語では?」

『ふ。高一の息子にスペイン語はきつかろうという母の気心が分からぬか』

 

 まだまだ青いのう、と。あちらでは朝にも関わらず、何とも元気の良いことである。周囲から漏れ聞こえる喧騒からして、おそらくはオフなのだろう。ガチャガチャというジョッキの音まで聞こえて来た。

 

「Por favor, ¡no bebas demasiado.(お願いですから、飲み過ぎないで下さいね)」

『Te lo prometo(約束するわ)……って、話せんのか息子』

 

 知らない間に、また新しい事を覚えたんだなと感心してくれたが、思えば一度として、この母の前で子供らしい事などした覚えはなかったな。

 

『それで? 居候してる女の子と喧嘩でもした?』

「……怒らないのですね」

 

 怒鳴ってくれた方が、嬉しかったのかもしれない。母と息子ならば、喧嘩ぐらいしてもいい筈だ。とはいえ、黒瀬であった時も家庭を持つかどうかで母に泣かれた事はあっても、自分から当たった事はなかった。

 前世を含めても、一度として誰かと心をぶつけ合うような、そんな時間など誰とも過ごさなかった筈だ。

 

『万里華から聞いてたしね~。でも、出来れば息子の口から聞きたかったよ。登郎は、一度だって我が儘を言わなかったしね』

 

 それを寂しいと、口にはしなくとも、伝わってきてしまう。酷いものだ。己は、安田登郎は親子としての、そんな日常さえ母に与えてやれなかった。その影で、この優しい母がどれだけ思い悩んでいるのか知っていながら、己の事ばかりを悩んでいたのだ。

 

「ごめんなさい、母さん」

 

 本当の息子なら、母の事を気遣えた筈なのに……。

 

『───』

 

 息を呑む音が、受話器越しに聞こえた。子供のような、拙い謝罪。けれど、それを。そこから先を、口にせずにはいられなかった。

 

「だけど、困っていたんだ。銀香さんも、芹沢さんも、助けが必要だった。だから……いいや、違う。本当は怖かった。母さんに、怒られるのが」

 

 きっと、それが全て。己の秘密も含めて、きっと、拒絶されたくなかったのだ。

 声を上げ、もう知らないと。お前など息子ではないと。そう見捨てられてしまうのが、この世界で、本当の意味で孤独になってしまうことが……。

 

『プリーズ、ワンスモア』

「……は?」

『もう一度、敬語抜きで母さんて呼んでみ?』

「母、さん?」

 

 口にすれば、これほど恥ずかしいものもない。母上なり、母様なり、ご母堂なり、過去に幾度か口にはしたが、意図して多く使おうとはしなかった。どころか、母を母と呼んだ事さえ、多くなかった。

 

“本当に、大馬鹿者だ……”

 

『───良いよ、許したげる』

 

 異国の地の母は、どんな顔をしているのだろう? ひょっとして、泣かせてしまってはいないだろうか? だけど、もしそうだとしても、それから目を逸らしたくなかった。

 言葉を、聞いていたかった。

 

『けど、やっぱり登郎は父さんと母さんの子だな』

 

 やがて、ゆっくりと。泣き笑うような声で、母はそう言ってくれた。

 

『登郎は知らないだろうけど。私、昔はお嬢様でさ。家出した事があるんだ』

 

 知っている。その後、匿ってくれた父と大恋愛を経て結婚したと、ジーヤは聞いてもいないのに喋っていた。

 

『父さんがね、その時私を匿ってくれたんだよ。困ってるんだろ? 助けてやるってさ』

 

 ゆっくりと。思い出という宝箱の中身を見せびらかすように語る母に、大きく頷きながら耳を傾ける。

 

『でもさ。父さんて、他の女の子が困ってたら、同じように我武者羅に助けちゃうんだよ。全く、罪作りな奴さ。その癖、登郎と違ってスケベ野郎でさ~。ま、年頃の男って奴は基本、どいつもこいつも似た様な物なんだろうけど……』

 

 でも、間違った事だけはしなかったと。まるで、自分のように誇らしげに語る。

 

『今、登郎が何を悩んでるのか。ずっと何を悩んできたのかは判らないけど、話したくなかったら、話してくれなくても良いんだ。誰だって、秘密の一つぐらいは持ってる。だけど───これだけは絶対に約束して』

 

 これから先───絶対に、やらずに後悔するような真似だけはするな。

 

『悩むのは構わない。これまでの事で、過ぎた事を悔やみ続けるのも仕方ない。けどな、登郎。お前はまだ若いんだ。悩んだまんま立ち止まるな。足が動くなら走り通せ。私も父さんも、何時だって力になってやる』

「母さん、私は……」

『胸を張れ。やりたい事や、言いたい事を我慢するな───お前は、どんな険しい山だって登れる男で在って欲しいんだよ』

 

 その名前に込めた期待を裏切るなよと。背を叩くように声をかけて来てくれた。

 

「ありがとう───母さんの息子で、本当に良かったと思うよ」

『嬉しいよ。私も、登郎が優しい子で良かった。帰ったら、手料理食べさせてくれる?』

「勿論───」

 

 ───その為に、料理を覚えたのだから。

 

 笑顔で、静かに通話を切る。その顔には、先程までの迷いはなかった。

 

 

     ◇

 

 

「答えは、出ましたか?」

「はい」

 

 振り返る万里華は、顔を見た時から答えを知っている。だけど、それでも問うのは、この少年の声を聞きたかったから。

 

「───私は、安田登郎です。どのような過去があろうと、何を願ったとしても、これを決して否定させません」

 

 黒瀬である事を、決別すると言えれば良かったのかもしれない。安田登郎として、それ以外の何者でもないと応えるべきだったのかもしれない。

 

“だけど、それだけは出来ない”

 

 彼を、黒瀬正継を必要としている人が居る。彼にとって、誰より愛しいと思える子が、この国に確かに居るから。

 

“母さん。その子の前だけは、黒瀬である事を許して欲しい”

 

 異国の地の母に心の中で詫びながら、それでも目を逸らさず、決意も変わらず安田は告げた。これこそを、唯一無二の答えにしたい。

 

「……結局、何も明かしてはくれないという事ですか」

 

 それを、咎めようとは思わない。

 真実を知りたかったのは、この答えを聞きたかったから。彼が誰の息子で、母をどう思っていたかを知りたかったからだ。

 

「長く引き止めてしまいましたね。今日はもう、お帰りなさい」

「万里華様、貴女に心より感謝を。安田登郎は、この御恩を忘れません」

 

 

     ◇

 

 

「……恩を忘れない、か」

 

 ならば、その恩とやらに報いて貰うとしよう。

 

「もしもし。私よ」

『万里華ね。多分、そんな気はしてた』

 

 ありがとね、と告げる相手の表情は、見なくても解る。峰子に子が生まれたのを伝えられた時と同じ、本当に喜んでいる声だ。

 

「貴方の子、本当に良く出来た子だったわ」

『万里華が褒めるなんて、私も鼻が高いわ~。けど、それだけじゃないんでしょ?』

「ええ。実は、貴女の息子に無理をかけるかも知れないの」

『何ぃ? ひょっとして、再婚相手に欲しいとか?』

 

 万里華だったら構わないわよ~と、冗談なのか本気なのか分からない声で問うが、婚約云々はあながち的外れではない。

 

「貴女の息子、ひょっとしたら本土から逃げて貰わなくちゃならなくなるわ」

『……は?』

 

 ガタ、と。電話を落とした雑音が響く。しかしそれを意に介さず、拾ったタイミングを見計らって手早く告げる。

 

「貴女の家に泊めてるお姫様の片割れ、今度お見合いがあるのよ」

 

 それを、お前の息子に壊して貰うと。まるで誘拐犯が脅迫するかのような口調で伝えた。

 

『……息子は、登郎は知ってるの?』

「いいえ。恩を返すと言ってくれただけ」

 

 なら、あの子は必ず報いるだろう。自分の言葉に誰より責任を持つ、あの息子なら。

 

『恨むわよ、万里華。登郎が死んだら、絶対に許さない』

「そうね。だから、私も努力するわ」

『……一つ、聞かせて。万里華は、お姫様が可哀想だから助けたいの? それとも』

 

 果たせなかった、自分の復讐のために動きたいのか?

 

「両方よ」

 

 綾之峰に踊らされた己と、踊らされる事になるお姫様への、壮大なリベンジ。

 

『学生の頃を思い出すわね。万里華も私も、会った事もない男に嫁げってさ』

 

 相手はお互い、父と同じ程の男だったか。

 

「結果を言えば、貴女は家出先の男にキズモノにされたことにして難を逃れたけど……私は、そうも行かなかったわね」

 

 今の立場も含め、儘ならない事は、人生の中で本当に多い。綾之峰を壊したいと、それこそ口癖のように言っていた筈なのに。

 

「登郎さんの事は、ごめんなさい。けど、当主代行として後継を産めなかった私に、あの子達は守れない───それが出来る力はないから」

『いいわ。けど、登郎にはちゃんと説明なさい。隠しながらじゃ、成功するものも失敗するわよ』

「そうね。妹から預けられた大切な娘だもの」

 

 何を引換にしても、守りたいと思うのが親心というものだ。けれど、それだけではない。

 

「だから、貴女の息子に託したいのよ」

 

 巫女の占いも、隠された秘密も関係ない。彼は峰子の息子であり、純粋に他人を想える人間だと知ったから。

 

「英里華の事、お願いするわ」

『……手伝わせるのは、壊すとこまでにして』

 

 想いを親の都合で捻じ曲げたら、それこそ本末転倒だ。

 

「ふふっ、そうね。その通り」

『万里華、今笑った……?』

「これでも、笑うのは好きなのよ?」

 

 親友だというのに、知らない事も多いものだと思う。けど、だからこそ話し合うことが大切なのだと解る。

 

「英里華の気持ちは、ちゃんと尊重するわ。登郎さんの事は、私が個人的に認めただけ」

『万里華の眼鏡に適う男って、そんなに多くないと思うんだけどなぁ』

 

 そんな息子を誇るべきか。それとも優秀であったが為に目をつけられた不幸を嘆くべきか。どちらにしたところで、平穏無事とは決して行くまい。あれは自分を磨く事には熱心だが、隠すという事をしない。人目を憚るような生き方は、出来ない人間だ。

 

「また連絡するわ。帰ったら、一緒にお茶でもしましょう」

『そうね。楽しみにしとく。でも、当日は駄目よ?』

 

 帰ったら、息子が待っているんだから。

 

 

 




 この主人公、いっつも試されてんな(信用ゼロ)


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Attack 08 ミッション:インポッシブルという奴であります!

 

“靴の整い方が違うな”

 

「勝手に上がった手前、私が言えた筋合いではないが、貴様は『ただいま』も言わないのか?」

「……ただいま戻りました」

 

 宜しいと芹沢が頷くが、安田当人としては口を開かずにおいて正解だった。

 日頃の調子で銀香にフランクな挨拶などしようものなら、この忠信厚い侍従がどのような表情をしたかなど想像に難くない。

 

「姉君はご不在で?」

「ああ、喜べ。暫くは貴様も羽を伸ばせるぞ」

 

“現代戦の何たるかを学べる、良い機会だったのだがな”

 

 装備一つ取っても、本の知識と直接身に着けるのでは違う。現地に派遣される人間の苦労を身を以て体験するのは、士官候補生時代に下士官として隊付勤務を経験した時から、十二分に己を育めると理解し得ていただけに、ジーヤの不在は素直に喜べなかった。

 

“とはいえ、芹沢さんが来られた事に不満を抱くのは筋が違う”

 

 ジーヤが滞在したこと自体、予期せぬ幸運であったに過ぎないのだ。何より、自らの意思で招き入れた居候の生活を、己の都合で束縛すること自体間違っている。当面は反復練習と下地の強化を入念に行うとして、今は客を饗すべきだろう。

 

「お食事は私が用意しますので、芹沢さんはごゆるりとお過ごし下さい」

「いや、今日は私が作ろう」

 

 台所を借りるぞと、有無を言わせず進んでいく。調理器具を手際よく出しているところからして、おそらくは銀香から聞いたか、戻るまでに一通り調べたのだろう。

 途端、手持ち無沙汰となってしまっただけに何とも居心地が悪い。

 

「……手伝います」

「そうか。なら、肉を捏ねてくれ」

 

 肉を捏ねる傍ら、洗い終えたキャベツの芯を手早く芹沢が切っていく。

 

「ロールキャベツですね」

「家庭的な物の方が、お嬢様も喜ぶと思ってな。しかし、聞いてはいたが料理が出来たのだな」

「男の仕事ではないと?」

「そうは言わんが……そうだな、確かに意外だった」

 

 古風な男だと思っていたのでな、と笑いながら潰したトマトを煮込んでいく。鍋から漂う匂いが鼻腔をくすぐる中、階段を下りた銀香が顔を覗かせた。

 

「……お腹すいたー。やすだ、テレビつけるぞ~」

「……どうぞ」

 

 首だけを背後に向け、安田はソファに背を預ける銀香を見る。座る位置が、平時とは違った。

 

「銀香様に見蕩れたか?」

「……家に家族以外の女性が居る事に、未だ慣れていないものでして」

 

 無理もないな、と芹沢は納得しつつ調理を続ける。安田もまた、そういう日もあるかと同じく止めていた手を動かした。

 

 

     ◇

 

 

「芹沢さん。茶会での返事ですが」

「言わずとも良い。あれは、私の我が儘に過ぎなかった」

 

 だからもう気にするなと。忘れて欲しい事のように、芹沢は打ち切った。その意味を、安田は銀香のつけたテレビから理解した。

 

『本日は国民の皆様に、大変喜ばしいお知らせがあります。

 先程、綾之峰財閥広報部より発表があり、この度綾之峰次期当主、英里華様がめでたくお見合いの───』

 

 切られるテレビ。耳を塞ぐようにソファに寝そべる銀香以上に、安田はこの事態に驚きを隠せなかった。

 

「……今日の七夕茶会の折、内々に通達があった。見合いと称しても、実質ご婚儀を結ぶ為の段取りだ」

 

 そして、安田自身がそれを知らないという事は……。

 

「貴様とて、動揺くらいするか」

 

 芹沢の苦笑には、様々な感情が混じっていた。その一つ一つを、安田は理解しきれはしない。ただ、芹沢個人がこの婚儀を望んでいない事だけは解る。

 

「……英里華様が二人に分かれた時点で、こうなるのは判っていた事だ。綾之峰は千の時をも越え継がれし巫女の血筋。貴様に巫女姫の占い通り、片割れたる銀香様を宛てがわれたのだとすれば、英里華様もまた神託によって相手を告げられる」

 

 ───曰く、神のお告げだそうだ。

 

「まさか……」

「ああ。おそらくはあの女神だろう。私も綾之峰の文献を調べ判ったが、あれは綾之峰の祭神として祀られているそうだ。その神託を直接賜ったとすれば、巫女姫たる歌凛子様以上に重きを置かれる」

 

 だから、芹沢はもう良いと言った。もう、安田登郎には何も出来る事はないと。

 遠い世界に行くのだと。そう告げたのだ。

 

 

     ◆

 

 

 同時刻。綾之峰家、迎賓館。

 その中で最も華美たる鳳凰の間にて、綾之峰万里華は、英里華と共にある人物を待っていた。とはいえ、二人には件の人物が何者かなど知る由もない。

 彼女らに知らされているのは、迎えるべき相手が綾之峰英里華の見合い相手であり、実質婿入りを果たす婚約者となる男ということだ。

 

「緊張を、なさっておいでですか?」

「いいえ。叔母様。綾之峰に生まれた者として、既に覚悟しております」

 

 かつて、同じ事が我が身に降りかかった万里華としても不憫だとは思う。それでも当主代理として、言わねばならぬ責務がある。

 

「そうですか……この現代社会において、神のお告げなどと思われるでしょうが、お二方に分かれた英里華さんの存在から、その実存を疑う事は出来ません」

 

 そうでなければ、取れる手段は残されていたかもしれない。例えば、星読みの巫女らに再度お言葉を賜るなり、或いは当主代理として英里華には時期尚早と訴え出るなり。

 しかし、巫女姫より上位の、力そのものを授けた神の御言葉ともなれば、万里華に綾之峰の人間として出来る事はなかった。何故なら……

 

「お気遣い、痛み入ります。ですが、此度の見合いは綾之峰家先々代当主、綾之峰百合華(ゆりか)様が承認された事……生まれし時より家を司る器のこの身なれば、如何なる酒を注がれようとも、全てはお家と国家の安寧が為」

 

 この扉より、如何なる者が現れようと───

 

「───待たせたな」

 

 

     ◇

 

 

「ですが、納得はし切れていないのでしょう?」

 

 全ては決まった事。終わってしまったのだと。そう告げた芹沢に、安田は問う。

 

「だとしても……」

 

 一体どうしろと言う。若い身空で、望むことなど何一つ儘ならなかった主に何が出来る。籠の鳥も同然の主の為に、非力な従者が何をしてやれるというのだ。

 

「確かに、出来る事は多くないのでしょう」

 

 けれど、それは何も出来ないという事ではない筈だ。

 

「銀香さん。しばし家を空けますので、先に芹沢さんと夕食を召し上がって頂けますか?」

「何処へ行く……?」

「真実を問いに」

 

 それぐらいは出来る筈だと。

 いち早く現地に向かうべく、安田は備え付けの受話器を取った。

 

 

     ◆

 

 

「───待たせたな」

 

 来訪を告げるその言葉に、真っ先に反応したのは英里華ではなかった。

 

征麻呂(ゆきまろ)……よりによって、分家筋のこの男が!?”

 

 年の頃はどう若く見積もっても三十半ば。磨き上げた革靴や礼服こそ貴人のそれだが、伝法な口調からして、慎みや奥ゆかしさとは無縁の人種と分かるだろう。

 目鼻立ちこそ整ってはいても、その顔からは野心と、何よりも下卑た欲望を隠しきれてはいなかった。

 

「……国元より追放された筈では?」

「久々に会った従兄弟に随分な挨拶だな、万里華」

 

 私は悲しいよ、と。心にもない癖、大仰な動作を取る征麻呂に、万里華はその端正な顔を隠しもせず歪ませた。

 

「だが、それは不敬というものだ。私は次期当主の義父となる男だぞ? さて、紹介しよう。我が息子───綾之峰征綺華(ゆきか)だ」

 

「初めまして。綾之峰征綺華です」

 

 今度こそ。奥より現れた者に、万里華は英里華共々言葉を失った。

 

 

     ◇

 

 

「タクシー代は、こちらで持つ」

 

 何も付いて来る事は無かったろうにと、安田は食事も摂らぬまま同行した銀香と芹沢を引き連れ、学園敷地内の泉へと至る。

 

「女神殿。坐すならば是非お聞かせ頂けませんか? 貴女が下されたという、ご神託に関する事を」

 

 輝く水面。蛍火のような光が、既に星明かりしかない世界の闇を引き裂いて、麗しき女神から放たれる。

 

「───何やら、面白いことになっておるようじゃの」

 

 愉快愉快と、口元を隠し笑う女神を見据えて、安田は確信する。

 

「成程、全て与り知らぬ事でありましたか」

「なんじゃ、詰まらぬ。一人で納得しおってからに」

 

 説明せいと、王が臣下に下知でもするかのように片腕を伸ばした。

 

 

     ◇

 

 

「成程のう……それはまた、随分と不遜な輩も居った者よの」

 

 説明を手早く終えた安田に対し、明らかに機嫌を損ねた声で女神は漏らす。

 

「察するに、文献を漁った某かが謀ったか」

 

 神の名を騙る不届き者はいつの世とて多い。女神とてそれは承知しているが、見過ごしてやる理由もない。

 

「罰を与えたい所ではあるが、妾とて神として縛られる身での。とはいえ、対価さえ払えばその限りではないが?」

「いえ。それさえ分かれば、こちらで動きます」

「良かろう。呼び付けた対価は、此度の収束をもって不要とする」

 

 女神が消える。その姿を見送りつつ、良いのかと芹沢が問うが、安田としては人の力でどうにかなるのであれば、神には頼りたくなかった。

 

「神託が偽装であるなら、幾らでも手は打てます。先ずは、」

「待て。連絡だ」

 

 一旦遮って、芹沢は携帯を耳に当てる。数秒の後、携帯が安田に手渡された。

 

「貴様宛だ。当主代理からだぞ」

「代わりました。安田で、」

『恩を返して貰うわ。見合いを潰して頂戴』

 

 思わず、幻聴かと耳を疑った。

 

 

     ◆

 

 

 時間は、安田らが泉に辿り着く直前まで遡る。

 

「初めまして。綾之峰征綺華です」

 

 咲き誇るような笑みを見せた相手に、万里華も英里華も言葉を失う。

 確かに、目も眩む美貌の持ち主ではある。年の頃も英里華に近く、父と違い気品というものも動作から感じられる。

 ……とはいえ、到底その姿は、見合いの儀を執り行えるようなものではなかったが。

 

「───女?」

 

 万里華が口走るのも、無理からぬことだろう。

 腰まで届く艶やかな髪。瞳は大きく、線の細い体躯と白磁の肌は、到底男のそれではない。何より……

 

「可愛いでしょ? 初顔合わせだから、特注で仕立てて貰ったんだ」

 

 煌びやかなドレスの端を掴みながら、にこやかに笑う様などを見て、誰が男などと思えようか。

 

「確かに女と見紛うのも無理はない。だが、征綺華は確かにこの征麻呂が産ませた男子よ」

「もう、やめてよパパ、男子だなんて。そこはせめて───」

 

 ───男の娘って呼んでくれないかな?

 

 

     ◇

 

 

『恩を返して貰うわ。見合いを潰して頂戴』

 

 かくして時間は戻る。無論、安田には先の情報は一切伝わっておらず、困惑する一方であったが。

 

“綾之峰さんの不遇に、居ても立ってもいられなかったのだろうな……”

 

 と。相手との齟齬に気付かぬまま肉親としての絆に感じ入りつつ、電話越しに大いに頷く。

 

「承知致しました。実は───」

 

 そして、事情を説明すること数分。あちらからも息を呑む音が聞こえ、同時に万里華は形勢の逆転を確信した。

 

『事情は分かったわ。登郎さんは英里華を攫って頂戴。時間さえ稼いで頂ければ、大刀自様は私が説得します』

「お、お待ちを! それは余りに無謀です!」

 

 が、通話に割り込む形で芹沢は止める。今は迎賓館に居るとしても、最終的には大刀自の坐す奥屋敷に移ってしまう。いや、既に移動を開始しているだろう。

 

「綾之峰の御本家には、千を超す護衛官と電子機器の監視体制を敷いています。如何に安田が優秀と言えども……」

『芹沢さん。貴女とて内心は、この見合いに反対であった筈。私とて、この席の相手が英里華の幸せとなるならば、ここまで考えなかったわ』

 

 だが、あれに関しては問題外だと吐き捨てる。

 

『あの、征麻呂が義父になり得るというだけで、不愉快だというのに……』

「あの征麻呂が義父に!?」

 

 既に安田の手にはない携帯を耳に、芹沢は驚愕の声を上げる。

 

「失敬。話から察するに、件の人物は……」

「貴様の想像通りの男だ。こちらは手が離せんのでな、詳しくは銀香様から……銀香様?」

「……あ、ああ。そうか……よりによって、あの征麻呂の」

 

 頭を抱え、蹲るように視線を地に落とす。その動作のみで安田は大いに察せられたが、敢えて詳細を訊く。

 曰く、綾之峰征麻呂なる分家筋のこの男は、代々綾之峰が女系である事を疑念視し、血筋の上では最も近い己が頂点に立つべく、十になったばかりの英里華に婚姻を迫った痴れ者であるという。

 

「加えて、生粋の小児性愛者(ペドフィリア)で国元を追放される以前から海外で女児を()()()たって噂があった程だよ……」

 

 おそらくは幼い頃に体験した、好色な視線を思い出したのだろう。震える体を自ら抱く銀香には、どうしようもないほどの恐怖があった。

 

「神託の通り婚姻を結ぶに当たって、息子当人と親元の縁を切れなかったので?」

 

 それ以前に、国元から離された時点で一族の縁を切らされそうなものだが。

 

「……話に区切りがついた。そこからは私から話そう」

 

 身を震わせる銀香に代わり、芹沢が言うには征麻呂自身は大刀自の孫という事情が考慮され、財閥の保有する電子会社のUSA支部社長として国外追放されるに落ち着いたらしく、そこで多大な業績を上げた事が、本社社長として帰参する口実を与えたのだという。

 

“初めは野心と欲。今は復権の為に我が子を使うか”

 

 下衆め、と安田は心中で吐き捨てた。表面でこそ不快感を示す事はなかったが、漂う怒気を感じ取ったのだろう。二人の少女は、平時での重厚温和な立ち振る舞いとの違いに瞠目しつつ、その正しい憤怒には同意した。

 ……とはいえ実の所、こと性癖に関してだけは、安田改め黒瀬とて褒められたものではない。若気の至りといえば可愛く聞こえるが、家庭を持つ前は色欲しさに二人ほど春を買った事があるのだ。

 仔細は省くが、結果としては家庭を持った後に母と妻にバレていたことを知り、すぐさま妻には婚姻前に不浄の身であった事を、腹を切る覚悟で謝罪したという最低な過去があったりするのだが、それはさておき。

 

「その怒りは、英里華様をお救いする為に使え。今はこの場から動くぞ」

 

 

     ◇

 

 

 待たせていたタクシーから一時帰宅し、すぐさま先に動いていたジーヤから手渡された装備一式を、各々手早く身に着けて用意された大型車に乗り込む。

 

「マイシスターが用意していた夕食はタッパーに詰めたので、食べながら聞いて欲しいであります。現在、英里華様と見合い相手の息子氏は奥屋敷に移動中でありますが、到着後の流れを説明しましょう。

 互いを確認する『顔合わせの段』は既に終了。

 残る一連の流れは、まず奥屋敷到着後の小休止を挟んでからの本格的な見合いとなる『会食の段』。これが終わるまでに、奥屋敷に潜入するのが理想的ですな。

 次に大刀自様への挨拶がありますが、これは報告だけでありますし、何より大刀自様が坐す場でお嬢様を攫う事は不可能であります。

 なので、この後の沐浴からの神前での祝言結納か、初夜の儀にて掻っ攫うのが理想であります。婚姻破棄を考えれば、何としてでも祝言結納までに攫いたいところでありますが」

 

 初夜という言葉に反応してか、銀香も芹沢も耳朶まで朱に染める。

 が、安田は気にした風もなく手早くロールキャベツを汁まで腹に流し込み、口元を拭いて装具の確認などを行っていた。ジーヤのように、未通女をからかう趣味はないのだ。

 

「潜入経路はどのように?」

「距離、警備状況を含め、綾峰山北側からの崖越えが最良であります。安田少年、ロッククライミングの経験があるのは本当でありますな?」

「ええ。ですが、芹沢さんはともかく、銀香さんは如何しますか?」

 

 置いていくのも問題だが、同伴させるには崖は危険すぎる。

 

「い、行く……私にも、同じ私として責任がある!!」

「ですが、お嬢様。高所恐怖症では無いとしても、この高さは少々危険かと」

「そ、それでもだ……」

 

 決意は変わらないのだろう。ジーヤは僅かに息を吐いて、妹を見やる。

 

「マイシスター、お嬢様を頼むであります。遅れるようであれば、ジーヤと安田少年のみで行くでありますから」

「安田に銀香様をお任せしては駄目なのか?」

 

 正規の訓練を幾度も受けている芹沢からすれば、当然の提案である。しかし、ジーヤの目算では、妹より安田の方が成功率は高い。何より。

 

「お嬢様が密着する状況を、マイシスターは見過ごせるでありますか?」

「……確かに。言動で安心しきっていたが、私と同い年だった」

 

 

     ◇ 

 

 

「マイシスター。他の侍従からの連絡はどうでありますか?」

『監視網の一部は既にハッキング済みだ。ただ、長くは保たんぞ』

 

 結構であります。と無線を一旦切り、登攀を終えた後、事前に確認した警備状況と差異がないかジーヤは安田と共に双眼鏡と目視で確認する。

 

「安田少年。護衛官は全員が敵という訳でなく、英里華様個人に忠誠を誓う者も多いですが、万里華様が抱き込めた人数には限りがあるであります」

 

 腕時計を右につけた者がそうだと語り、左利きの人間は予め歩哨の道筋を確認させた。

 

「控えの広間に居られないことから、会食の儀か大刀自様への挨拶に伺っている筈。その間を利用し、先んじて広間へ到達。護衛官を無力化し、規定時刻に所定の位置に到達するヘリに乗り込んで空港まで移動。大型飛行艇で本土から脱出するでありますよ」

 

 防水の為、ジップロックに包んだ印の書き込まれた見取り図を確認し、迅速に行動を開始していった。

 

 

     ◆

 

 

“次の儀式開始まで、ここで待て。か……”

 

 安田らが屋敷内に踏み込むのと、控えの広間に英里華が着いたのはほぼ同時刻。未だ芹沢らは登攀の最中であり、安田らのように周囲を確認するには至らない。

 

“姫を閉じ込めるなら、深い森に囲まれた高い塔……古典通り”

 

「まるで、嫌がら、」

「なんだい? 高いところは苦手かな?」

 

 耳元で囁かれる。美しい筈のその声が、英里華はどうしても気に入らなかった。

 

「酷いなぁ。花婿の僕を放っておいて、悲劇のお姫様ぶってさ」

 

 虫酸が走るよ、と。愛らしい笑顔でと澄んだ瞳で少年は囁く。流石に大刀自の前でおふざけは出来ぬのか、奥屋敷に着いた時点で、初顔合わせのドレスから五つ紋の黒紋付羽織袴に着替えていた。

 

「流石はお嬢様。こんなこと言われても笑顔のまま。お家が決めた相手にだって、抵抗の一つもしやしない」

 

 白磁の手が、衣類越しに乳房を鷲掴む。細い指は、まるで肌を這う毒蜘蛛のようだった。

 

「───自分だけが、不幸だなんて思うなよ?」

「え?」

 

 耳を疑う。見目麗しい姿のまま、英里華がしてきたように、征綺華は笑みを作り続けている。嘲るような声はまるでスピーカーで、笑顔は張り付いた仮面のようだった。

 

「でも、もう良いじゃないか」

 

 君も僕も同じだと。嫌なことを、嫌と言えないままここまで来たじゃないかと。

 天使のような笑顔で、悪魔のように囁いた。

 

「誰も助けになんて来ない。愛しい王子さまなんて、何処にだって居やしない」

 

 だから。

 

「仮初の結婚の後は、お互い好きにしてやろう」

 

 たとえその後、どんな事になるとしても。

 

「僕と君が滅茶苦茶にされたように、全部滅茶苦茶にしてやろうよ」

 

 ───この家も。国さえも。

 

 

 




 男の娘が普通にヒロイン化してる昨今。
 時代は進んだな~。


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Attack 09 お持ち帰りでありますか!?

 今回は結構エロチックな描写があるので注意(サービス回とは言ってない)


『聞こえてるか、バカ姉。今到着したが、控えの広間に英里華様が見えない』

「その呼称は酷いでありますよマイシスター。となれば、禊の為の湯殿でありますな」

 

 厄介なことだとジーヤは嘆息した。沐浴となれば警邏とて近づけぬが、裸のまま連れ出す訳にも行かない。

 

「安田少年。お嬢様はおそらく入浴中でありますから、先に周囲を無力化し、逃走経路を確保して欲しいであります。お嬢様は、直接ジーヤが」

 

 首肯の後、安田はジーヤと二手に分かれる。逃走経路の確保といえば難題に聞こえるが、要は抱き込めていない護衛官を片付けるか、誘導すればいいだけだ。

 

“とはいえ、殺さずにというのも骨が折れる”

 

 背後から頚動脈を締め上げ、気を失ったところを抱き込んだ護衛官に引き渡す。落としたままにしては、そのまま死に至るか脳に障害が残りかねない。

 

“出来る限り、手早く連れ出して貰いたいものだ”

 

 

     ◇

 

 

 だが、そうした安田の期待とは裏腹に、ジーヤは思わぬ事態に臍を噛む。

 

“居ない……儀を省略したでありますか!?”

 

 おそらく、安田は既に命令通り護衛官を片付けているに違いない。となれば、如何に抱き込んだ人間が工作を手伝おうとも限界が来る。

 

「安田少年、おそらく綾峰山、山頂での寝所にて儀を執り行おうとしている筈であります。この際、バレてでもお嬢様を連れ出して欲しいであります!」

 

 

     ◇

 

 

『安田少年、おそらく綾峰山、山頂の寝所で儀を執り行おうとしている筈であります。この際、バレてでもお嬢様を連れ出して欲しいであります!』

 

“無理を言ってくれるものだ”

 

 寝所までの道は長く、それも一本道。どう足掻こうと、門扉を跨いで石段を上る限り気づかれる。

 加え、裏から回ろうと山頂までは断崖絶壁である上、頂上と寝所との間には裂け目が広がっている。運を悪くすれば、奈落の底まで一直線だ。

 

“だが、恩は返さねばな”

 

 やらず後悔するぐらいならば、死してから後悔するまでだ。

 

 

     ◆

 

 

『英里「香」……お前に次期当主である「華」の一文字を、今日より英里華を名乗ることを許します。華の一字を継ぐ綾之峰の「華の姫」よ……その身は最早人に非ず。綾之峰という家そのものであると知れ』

 

“『その身の全てをお家に捧げ、絢爛たる華開くが如き繁栄をもたらせ』、か”

 

 大刀自より華一文字を与えられた遠い日を思いながら、英里華は静かに石段を上がる。

 心を揺らすな、人で在るな。この身は家と、そして国家の安寧が為に捧ぐ供物に過ぎぬ。

 

“そう、生き続けてきたんだから”

 

「ふぅん。あれが寝所か、黴臭いとこだね」

 

 他人事のように征綺華は漏らす。そこには控えの広間で垣間見た、内に秘めたものなど何処にも感じない。目新しい物に興味を向ける、子供のような無邪気さが見えるだけだ。

 

「随分落ち着いてるね。ひょっとして、もうどうにもならないから腹を括っちゃった?」

 

 だとしたら拍子抜けだと、口笛を吹くように征綺華は語る。

 

「……どうして、禊をしなかったので?」

「だって、気持ち悪いじゃないか。どうせ湯浴みの最中ベタベタ触ってきてさ、初夜はああしろこうしろって口煩く言ってくるんだよ?」

 

 生憎、僕の方がずっとテクニシャンなんでね。と嘯いたが、どうにもそれだけではなく思えた。

 

「ひょっとして、男子ではないので?」

「まさか!」

 

 からからと、口元に手を当てて征綺華は笑う。その所作一つとっても男である事を疑いたくなったが、やはり口から出たのは否定だった。

 

「あと少ししたら、下も見せてやるけど。この腰のラインを見たら分かるだろ?」

 

 どんなに見目麗しかろうが、誤魔化しようのない部分というものはある。それは男が男である以上、女が女である以上、決して変えられぬ部分だ。

 

「ですが、その声は……」

「おっと。そこまで詮索したいなら、褥で幾らでも語ってあげるよ。とはいえ───」

 

 ───鳴く意外、出来なくなると思うけどね。

 

「いや、ここが終着だ」

 

 

     ◇

 

 

「いや、ここが終着だ」

 

 その声と、その姿に、二人は我が目を疑った。

 誰も来れない。近づくことは決して許されない筈の寝所という神聖不可侵の頂。

 そこに、有り得ぬ筈の影を見た。聞こえぬ筈の声を聞いた。

 

「安田、さん? どうやって……」

「人間、為せば成るものでな」

 

 断崖絶壁の背後を登り、僅かな足場から奈落への裂け目を飛び越えた。死の恐怖をかなぐり捨て、ただ一念を以て、不断の意思で踏破したまでの事だ。

 

「でも、いいえ、ですが……帰ってください! 私には、綾之峰英里華には勤めがあります! この国と、そしてお家の為、果たさねばならぬ責務があるのです!」

 

 庶子の身になど分かるまい。人が生まれながらに果たすべき物の重みなど。生涯の全てを擲ってでも、進まねばならぬ運命など。

 ……それを。姫となる事を、自ら選ばなければならなかった人生など。

 

「国を思う意思と義務。その何たるかを、見た事のない貴方では!!」

 

 だから、帰って欲しいと。こんなに酷い事を言ったから。貴方と私は違うのだから、と。

 

「確かに、私と貴女は違う」

 

 だが───見たことならば、ある。

 国を思い、身を捧ぐ覚悟を。そして、どうする事も出来なかった、己の不甲斐なさを。

 

「それを忘れたくないからこそ、祈り願ったのだから」

 

“え……?”

 

「何を言っているのか、分からないな」

 

 一人の少年が、一歩前に進み出る。突如として現れた、何処の誰とも知らぬ闖入者を見上げながら。

 

「君が誰だかなんて興味ないし、口上に付き合ってやる義理もないけど、これだけは言っとくよ。僕は綾之峰征綺華。綾之峰英里華を、妻とする者だ」

 

 だから、お前は邪魔だと。目的を果たす為に消えろと、更に一歩石段を上る。

 

「───悪いが。女神の神託など偽りだ」

「だろうさ。神様なんか信じちゃいない」

 

 どうでも良いだろうと、石段を上り続けていく。手が触れる位置、境界線となる相手に触れ得る距離まで詰めて、ようやく止まった。

 

「邪魔を、するんだね」

「ああ。邪魔立てする」

 

 睨み合う両者。彼我の力量は、誰がどう見たとて安田登郎に軍配が挙がると知れただろう。征綺華とて、この鍛え上げた長身の男に徒手空拳で敵うなどとは思わない。

 それでも───

 

「───押し通る。僕が、全てを壊すために」

「それが望みなら」

 

 終わらせてやると、安田は構えた。

 

 

     ◇

 

 

「が、ごほっ……」

 

 決着は、一撃だった。骨も内蔵も無事だが、一刻は食を摂れば戻すだろう。

 

「ま、て……」

 

 石段を下りる足を掴む手。胃液と吐瀉物を散らし、息する事さえ苦しい筈だというのに、征綺華は離そうとしなかった。

 

「……僕は、僕で居たいんだ……だから、必要なんだ……お願いだよ、手は出さない。ただ、結婚したって事実が欲しいだけなんだ」

「申し訳ないが、貴方に斟酌してやれる暇はなさそうだ」

 

 流石に、時間をかけすぎたらしい。遥か下からの騒ぎの声が、ここにまで響いてきている。

 

「それに、彼女は英里華ではない」

 

 え? と。信じられないものを見るように、征綺華は黒髪の少女を見た。

 

「遅くなったが、迎えに来た」

「どうして……、分かったんだ?」

 

 何もかも、同じ筈だ。髪だって、染めたのはお互い様だったのに。

 

「綾之峰さんは、貴女ほど行儀が悪くなかった」

「……は。何だよ、それ」

 

 酷い見分け方もあったものだ。

 

「どうせ来るなら、少しは気の利いた台詞でも言ってくれよ」

 

 違いない。違いないからこそ、言ってやろう。

 

「泉の事を、覚えているか? 『この私の王子というなら、』」

「『声を聞いて』」

 

 嗚呼、確かに来てくれた。声にならない声を、確かにこの男は聞いてくれたのだ。

 

「私を───攫ってくれるか?」

 

 小高い塔に、囚われた姫を。

 

「私は、王子には程遠い身だ。それでも───、貴女に望まぬ恋路はさせたくない」

 

 その為だけに、銀香を綾之峰から奪い、攫いたいという一心で安田は来た。

 誰かの欲や、野心などという悪意に呑ませはしないと。

 どんな障害が阻もうと───真に銀香が、誰かと笑い愛し合える未来を望んでいるから。

 

「うん、そうだな───お前の在り方は、王子じゃなくてナイトだ」

 

 いずれにせよ、華がない時点で似合いはしないと安田は笑う。けれど、どうだって良い。 似合う似合わないでなく、銀香の目から見た彼が、そういう男だというだけだ。

 既に足は、解かれている。伸ばされた手を恭しく掴み、まるで絵本の姫にするように、彼は堂に入った動作で一礼をしてみせた。

 

“なんだ……助けてくれる奴が、居るんじゃないか”

 

 羨ましいし、妬ましい。だから───

 

“僕と違って、幸せになるといいさ”

 

 静かに。眠るように、征綺華は冷たい石段に身を横たえた。

 

 

     ◇

 

 

 結局。そこから後は絵に描いたような脱走劇だった。

 

“上へ下への大騒ぎ。我ながら、よく抜け出せた物だと思うであります”

 

 さて、とジーヤは機内で染料を落とし、操縦席にやってきた二人の少女を見やる。

 

“……おそらくは茶会の時と思うでありますが”

 

 事情を知った銀香が、助けようと身代わりを務めたのだろう。惜しむらくは、長年教育係を勤めていた己や芹沢ではなく、真っ先に安田が気付いてしまったという事か。

 

“愛の力で有りますかなぁ……妹との三角関係に、ジーヤは複雑であります”

 

「……ジーヤ。思ってる事があんなら口に……ああいや、やっぱ良いや」

 

 どうやって弄ってやろうかとウズウズニヤニヤしているジーヤに、むしろチャックでもしとけと銀香はジェスチャーした。

 

「で? こっからどうすんだよ?」

「万里華様が大刀自様に直接説明して、お見合いを取り下げて貰う間は天鏡島(あまかがみじま)で過ごす予定であります」

「あの歌凛子様の処でですか……」

 

 確かに、他に行く宛はありませんものね、と英里華も頷く。

 

「ところで……偽の婚約者は、あの男と奥に?」

「んん? マイシスター。気になるなら見に行って来ても良いでありますよ? 安田少年が可愛い子を看病してるのが気になるなら、はっきり言ってくれれば何時でも大丈夫でありますよ?」

「黙れバカ姉。第一、男同士で何があると言うんだ」

 

 全くだと。芹沢の言葉に一同は深く頷いた。

 

 

     ◇

 

 

「なんで……連れ出したんだい?」

 

 口にはしたが、征綺華とて事情は判る。全てが実父である征麻呂の仕組んだ事であり、大刀自さえ偽ったとあれば、例え知らなかったとしても征綺華にも類が及ぶだろう。

 ……それでも。わざわざ脱出のリスクを増やしてまで、連れ出してやる義理はなかった筈だ。

 

「あの場では、斟酌する暇はなかったとお伝えした筈」

「そんな理由か」

 

 律義な事だが、同時に残酷でもある。彼の、征綺華のこの後を考えれば。

 

「結局。君は見捨てられなかっただけだろ」

 

 自分の都合で、仔猫でも拾うように征綺華を助けたつもりなのかもしれない。けれど、その後は? 大刀自からは、綾之峰からは逃げられない。どれほど手を尽くした所で、いつかは釈迦の如く掌で弄ばれ、そして花を摘むように人生を手折られる。

 

「酷いよ、本当に……。花婿にしてくれたら、英里華はどうだって良かったのにさ」

「それが理由です」

 

 もし、征綺華があの場で英里華を愛すると、守り抜くと口にしたならば、安田は身を引いただろう。

 婚姻から始まる恋愛など、家の事情で契りを交わした黒瀬とて経験がある。

 そして、どのような形であろうとも、結ばれた者同士愛し合える事も経験していた。

 

「貴方は綾之峰英里華を、銀香さんを道具にした」

「家の道具だって言うなら、僕だって同じさ」

 

 女系にしか与えられぬ華一文字を、そして親から征の一文字を賜った時点で、征綺華はいずれこうなる事を定められていた。

 そして、物心つく時から、それを察してしまっていた。

 

「……いっそ。本当に女の子に生まれたら良かったのにな」

 

 そうすれば、きっと。こんな今は訪れなかった。

 分家の人間として多少の束縛はあったとしても、ある程度は自由に生きられた筈で、安田にも、その吐露が本心からのものだと伝わった。

 初顔合わせでは、女の恰好をしていたというのも。その声も、全てはそう在りたいがためだったのだと。

 

「性同一性障害って言ってくれてもいいよ?」

 

 半ば自棄になっているのだろう。どうにもならないなら、全てを話してぶちまけてしまいたいという欲求を、征綺華は抑えようとさえしなかった。

 

「カストラートって、知ってる? オペラや聖歌隊でさ、高い声を出す為に去勢するんだけど、宦官みたいに全部切り落とす訳じゃない」

 

 男性としての機能を失わせずに、少年期の声を残す技術。現代においてカストラートは人権問題から姿を消したが、征麻呂は息子にそれをしたのだ。

 

「『障がいは認めてやるが、胤は与えられるようにしろ』ってね。万が一も考えて遺伝子バンクもあるから、膜さえ破れりゃどうでも良かったんだろうけど」

 

 不快で、本当に不快で仕方がなかった。道具としてしか見ない父も。権力欲しさに同意する母も、全てが嫌で堪らなかった。

 

「……ああ、でも。やっぱり女の子には、生まれなくてよかったかも。あの父親、英里華に求婚したって言うし」

 

 その頃にはもう自分がいた筈で。母も、家柄からの結婚でしかなくて。

 

「きっと、女の子だったら、あいつは僕を犯してた。英里華に見立てて、ずっと酷い事をし続けてた」

 

 だから、どう転んでもやっぱり絶望しかなかった。

 取れる選択なんてなくて。人生に意味なんてなくて。

 ずっとずっと、死ぬまでずっと───

 

「───後悔しながら、生きて死、」

「そのような事、口にするものではありません」

 

 そんな風に語るなと、全てを捨ててしまうなと、悲劇に酔う征綺華を遮る。

 

「何だい? 同情でもした?」

「ええ……しました」

 

 悲惨であったし、悲痛でもあった。英里華や銀香以上に、重く苦しいものを抱え生きた少年に、安田は確かに情が移ったのだろう。

 他者の悪意に弄ばれた、少年の身体の少女を、何とかしてやりたいと思ってしまった。

 

「なら……どうしてくれるって言うんだい?」

 

 一緒に泣いてくれるなら、子供にだって出来る。慰めるだけなら、何とでも言える。

 

「君が、全部壊したんだぞ?」

 

 結婚さえしてしまえば、後は幾らでもやりようがあった。英里華は浮気なり何なりすれば良かったし、自分だって不安定なまま生き続けなくても良かった。

 

「全部君が悪いんじゃないか。君がお姫様を攫って、その上僕に情なんかかけて」

 

 殺せと、力なく洩らしながら、涙を湛え懇願する。

 

「殺してくれよ……頼むよ、助けると思って」

「お断りする」

 

 はっきりと、雫を指で拭いながら、安田は願いを拒絶する。

 

「殺しなどしませんし、死なせる気もありません」

「……ずっと苦しめっていうのか?」

 

 英里華を、否、銀香を利用した罰として、苦しみながら死を待ち続けろと?

 

「いいえ───護ります」

 

 綾之峰に手出しはさせぬ。無明の生など送らせぬ。

 如何な時とて、この誓いを破りはしない。

 

「どうやってさ?」

「持てる全てを使って」

「言うだけなら、誰にだって出来る」

「果たせねば、腹を召します」

「……君さ。時代劇の見過ぎじゃない?」

 

 ふふっ、と。馬鹿みたいに真面目な顔で喋るものだからだろう。どうにでもなれと言うように、ソファに身を投げて笑い転げた。

 

「けど。本気にするよ? 本当にお腹切れるの?」

「貴方が、絶望する時が来れば」

 

 嘘ではない。きっと、この男は本気で切るだろう。頼もしい以上に恐ろしいが、気持ちぐらいは受け取ってやっても良い。

 

「そっか。なら、前渡しに」

 

 軽く。触れる程度に重なる唇。

 

「どう? 男でも、僕ぐらい可愛かったらドキドキするでしょ?」

「……酸い味がします」

 

 それは君のせいだよと、微塵にも動じぬ姿に眉を顰めた。

 

「……君。初めてじゃないね?」

「貴方も、経験が豊富なようで」

 

 歯と歯がぶつからず、唇は震えてもいなかった。ある程度回数を重ねねば、ああも上手くは行かないものだ。

 

「経験を重ねたら、男らしくなれるかもって親が押し付けてたんだけどね」

 

 やっぱり、女は気持ち悪かったと苦い口調で言葉を吐いた。

 身体が男であろうとも、心が、同性を抱く事を拒絶し続けたから。男として腕に抱くのではなく、女として身を任せていたかったから。

 

「だからさ。女連中はきっと部屋に来ないし……君さえ良かったら、して上げるよ?」

 

 細い指を頬に這わせ、耳朶を噛みながら甘く囁く。口づけを知る程度には色男でも、顔立ちから察するに所詮は十六程。よもやこちらの経験などあるまいと、首筋から舌を這わせて、されるがまま動かぬ男の唇を舌で割り、

 

「ふぐッ……!?」

 

 突如、己以上に激しく絡まる舌の動きに、思わず唇を離して突き飛ばした。

 

「え? え……? 待って。僕、男だよ? 何でそんな……」

「性別など、些細な物でしょうに」

 

 安田改め黒瀬が、過去に二人ほど春を買った事は既にお伝えした通りである。

 しかし、色欲しさに買った一人目の経験から、女というものの味が伝え聞くほどでなかったと落胆し、趣向を変えて地元で評判であった十代の陰間までも買っていたのだ。

 当時にしても西洋圏の価値観が既に入り、同性での性的行為は明治五年に鶏姦罪として罰せられてはいた物の、法自体成立してからも形骸化していた事と、黒瀬が買った頃にはこの刑罰自体廃止されていた為、男色の敷居は現代人が思うより低かったというのがある。

 尤も、黒瀬当人は男だろうと女だろうと情事自体そこまで楽しめるものではないと悟り、以来きっぱりと遊ばなくなったが。

 

「手弱女として、扱って欲しかったのでしょう?」

 

 拒絶もなく、汚れていると否定もしない。美しい花を扱うように、柔らかな腰を掻き抱いて、顎に手を添える。

 未だ操縦席で雑談など交わす子女らが見れば、間違いなく卒倒する光景であるが、当人は既に扉に鍵を掛けて棒まで挟むという徹底ぶりであった。

 

「……いいの?」

「私で不服でなければ」

 

 無理に手篭めにしたい訳ではない。情事など所詮一時の欲を発散するもので、そこに愛がなければ虚しいものだ。

 けれど、それを相手が望むなら。そうする事で荒んだ心が満たされるというなら、別段拒もうとも思わなかった。

 

「ううん。けど……後悔するなよ?」

 

 両手の指で足りぬほど女を泣かせた手練手管で、この時代錯誤な男がどのように鳴くか。女として扱われる事への悦びも混じらせつつ、征綺華はどう虐めてやろうかとボタンを外した。

 

 

     ◇

 

 

「おや? 安田少年。遅かったでありますな」

「シャワーをお借りしていたので」

 

 成程、確かに見てみれば着衣に違和感があった。

 備え付けのコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを女性陣に配りつつ、安田は何食わぬ顔で操縦席に繋がる大部屋のソファに腰掛ける。

 

「ところで、征綺華少年はどうでありましたか?」

「話す内、落ち着かれました。どうやら父に強制されたに過ぎないようです。婚約の事も、儘ならぬが故の自棄だったのでしょう」

 

 そうでありますか……と、ジーヤらだけでなく、無礼を受けた銀香も安田が細かく事情を伝えるに連れ、征綺華への怒りは萎えて行った。

 誰かの悪意に踊らされる人生など、誰にとっても聞いて気持ちの良いものではない。家という物に縛られる彼女達だからこそ、同じ境遇になり得た可能性のあった征綺華に、同情を寄せるのは時間の問題だった。

 

「その、征綺華少年はどうしてるので?」

「疲れが出たのでしょう。気持ちを整理する上でも、暫し休ませても宜しいかと」

 

 賛成であります、と一同を代表して応えるジーヤに、安田は人心地付く。

 

“染みの類はコーヒーを零すとして、残りは涙や鼻水で汚れた事にするか”

 

 黒々としたコーヒーを飲み干しながら、物的証拠を手早く片付ける目算を立てて行った。

 

 

     ◆

 

 

「英里華は逃げたか」

「追手を?」

 

 良い、と警護として侍る近衛巫女に大刀自は袖を振る。途端、その身に触れぬよう一歩巫女は後退ったが、大刀自自身それを咎めようとは思わない。何しろ、大刀自に忠を抱く彼女らでは、触れれば唯では済まぬのだ。

 

「事情は万里華より聞き及んでおる。暫くは好きにさせておけ。狂言であれ何であれ、如何なる者が綾之峰を貶めようとしたとて、儂と『鏡』が無事ならどうとでもなるでの。ああ、その方らも、もう下がって良いぞ」

 

 礼を取って退室した巫女らを見送る事もせず、気怠げに座位を崩しながら、大刀自は宙を仰いだ。

 

“今日は、特に痛むな……”

 

 ずぐずぐと、胸から全身に広がる苦痛。最早慣れたものとは言え、やはり痛みは痛みでしかない。

 だが、その痛みとて、遠い過去に比べればマシだろう。見る者全てに疎まれ、忌まれ、誰しもが己を唾棄し続けた、あの日々を思えばどうという事はない。

 

“陛下……”

 

 心中で呟く。泉の奥で光となって消え行く刹那、彼の御方は言ってくれたのだ。

 済まなかったと───どうか、後の日本国で幸福であって欲しいと。自らの治める国に、斯様な苦しみを与える風習が残されていた事に気付けなかった不実を、卑賎な忌児に最後まで詫びながら。

 

“……なんと不敬であったことよ”

 

 そのような方を、大刀自はあの日、僅かにでも恨んだのだ。どうしてこの国は、こんなに冷たく残酷なのだと。この国を治める者は、何故何も見えていないのかと恥知らずにも謗ってしまったのだ。

 大御心の何たるかを、矮小な小娘が推し量れる筈もない。あの覚悟、あの慈愛に包まれた今の世こそが、何よりの証明だ。

 

「日ノ本よ───、其方は永遠だ」

 

 綾之峰の名と共に。託された全てを、何物にも勝る栄華で満たそう。

 ───それこそが、永遠の名こそが大刀自……綾之峰百合華の唯一無二の願い故に。

 

 

 

 




最強主人公(性癖が最低)


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Attack 10 海で、思い出で、つまりは青春であります!

『天鏡島』

 本州の南、数百キロの地点に佇む南洋の島々を纏め称されるこの地は、古くから綾之峰家と深い関わりを持つ島であり、世界有数の『星のよく見える』島である事から、古代の綾之峰家が星を読み未来を占う天文方を設立。

 以来、千年に渡る天文方を統べる『星読みの巫女姫』が治める本島は厳格に立ち入りを禁止されている一方、本島より離れた離島の一部は、天文学者や極一部の富裕層が観光に訪れる、日本国屈指の避暑地として知られている。

 

「懐かしいものですね」

「あれ? 安田って、ここ着た事あんの?」

「八つの頃、長期休暇を利用し家族と共に」

 

 へぇ。と銀香が意外そうに漏らすが、ジーヤとしてはここまで言ってまだ思い出せないのかと、安田のさり気無いヒントが無に帰してしまった事に同情さえ抱いた。

 

“というか、安田少年はマイシスターと銀香様のどっちが好きなのでありますかね?”

 

 時間こそ短いが、共に過ごした日々が濃密過ぎるだけに、そろそろどちらかが泣く前に決めて欲しいものであるが、安田当人としては一日だけの幼馴染に、昔の事を思い出して欲しいという思いが優先されてしまっていた。

 

「ところで、今後はどのように?」

「本島にはジーヤが直接行って、連絡を取ってから再度飛行艇で向かうであります。まぁ、万里華様が手を回してくれている筈でありますし、歌凛子様は既に『視て』いる可能性もありますが、それでも上陸に当たって手続きは踏む必要がありますので」

 

 となれば、今日一日は離島での滞在を余儀なくされるという事だろう。

 宿に関しては綾之峰の保有するプライベートビーチ内の別荘で過ごすという手もあるにはあったが、征麻呂の息のかかった追手が先回りしている可能性も否めない為、事前に大衆の目に付くホテルに予約を入れていた。

 

「ただ、征綺華少年の分は計算してなかったでありますので、安田少年とのツインを改めて取っておくであります」

「僕としてはダブルでも良いよ~?」

 

 しなを作りながら、安田の腕に絡まって女性陣に笑みを作る男の娘改め征綺華。

 当然、女性陣は良い顔などする筈も無い。

 

「おいバカ姉。こいつだけ別荘に放り込んで、綾之峰に回収して貰ってはどうだ?」

「……芹沢ほどは言わないけど、ツインじゃなくてシングルにした方が良いんじゃないか?」

 

 と。芹沢からは過激な、銀香からは公序良俗に則った意見が出た。

 

「あ! ウソウソ! ツインでも良いからさ! ほら、僕か弱いし、この中で捕まったら一番不味い立ち位置だから!」

「……ならそういった行動を取るな。それから貴様、何故されるがままなのだ?」

 

 ジロリと芹沢が睨む。当の安田と言えば棒立ちのままであり、抵抗らしい素振りすら見せなかった。

 

「もしや、安田少年は同性愛者でありますか!?」

 

 した事を考えれば当たらずとも遠からずなジーヤの発言であるが、流石に社会的立場が潰されかねないともなれば、安田とて否定する。

 

「……ミス。日頃の私を見て言っておられるので?」

「そりゃそうだ。安田は誰が迫っても動じなさそうだもんなー」

「流石に、来る者拒まずも過ぎればどうかと思うがな」

 

 やはり信用とは日々の積み重ねである。崩れれば脆いが、地を固めれば役に立つ。

 ……実際のところは、在らぬ疑いどころか有罪だが。

 

 

     ◇

 

 

「ハードスケジュール続きでありましたし、暫く海で遊んでろであります」

 

 と。言うだけ言って最低限の荷を載せたボートで本島へと向かって行ったジーヤを見送り、チェックインを済ませる事数分。オーシャンビューが美しい、最上階のスイートという狙ってるのか判らないツインの一室で、安田は思案した。

 

“歌凜子なら確実に『視て』いる筈だが”

 

 ならばこれは報酬の一部という事か。至れり尽くせりではある物の、自ら志願しての事であるだけに、安田には何ともバツが悪かった。

 

「わ~! 見て見て、すっごい綺麗!」

「こういった場は慣れているのでは?」

「そうなんだけどさ。やっぱりロマンチックじゃない? 一夜を共にした人と居るとさ」

 

“随分と懐かれたものだ”

 

 はにかみながら笑う征綺華に肩を竦めつつ、居室に仕掛けが無いか確認していく。映画でもあるまいにと思われるだろうが、万一にも爆弾で吹き飛ばされては堪ったものではないし、そうでなくとも盗聴の怖れもある。

 

“スイートともなれば、真っ先に疑われる場だからな”

 

 結果だけ見れば仕掛けなど何処にもなかった。明日には引き払う事を考えれば、問題はないだろう。

 

「如何しますか? お部屋で休んでも良いですが」

「えー? 折角リゾートに来たんだよー? あ、ひょっとして、まだ物足りないの?」

 

 あんなに激しかったのに、と両の手に頬を添えて大仰に顔を赤める。

 

「日も高い内にというのは如何なものかと」

「あ。じゃあ今晩にでも、」

「安田ー! 海行こうぜ海ー! 芹沢も英里華も待ってるぞー!」

 

 ドンドンと響くノック音。それに顔を顰めながら、征綺華は、ちぇ、と可愛らしく舌打ちした。

 

「まぁ、良いさ。君が情で僕を抱いたのは、理解してるつもりだしね」

 

 だから、ちゃんと決めて幸せにしてやれと笑って。

 

「両方から振られたら、僕が貰ってやるよ」

 

 そんな告白を、口にした。

 

 

     ◇

 

 

 水着の用意など有る筈も無かったが、そこはリゾート地。

 現地で買えば事足りるし、土産屋での物色も楽しいもの。午前は気ままに散策して食事を摂り、本格的に遊ぶのは、正午をやや過ぎてからとなった。

 

「ちょっと本格的な夏には早いけど、充分泳げそうだな!」

 

 降り注ぐ日差しの暑さも、白い砂浜と潮風の前では苦にならない。むしろ、存分に堪能したいという欲求が、銀香の声をより溌溂としたものにする。

 

「銀香様、英里華様。日焼け止めをお忘れなく」

 

 何せ、どちらとも日に焼ければ水膨れになる体質なのだ。こうし必要物品を購入する上でも、散策を午前に回した理由の一つだ。

 

「お! サンキューな。英里華、交替で背中塗ろうぜ」

「そうですね。同じ身体を塗るというのは、少々新鮮ですが」

 

 少なくとも他人に任せるより抵抗はないし、芹沢に頼むにしても、二人分というのは結構な労働だ。

 

「しかし安田め。美少女三人に囲まれての海水浴とは、何とも贅沢なものよ」

 

 水着姿に固まるんじゃねえの? と銀香は笑うが、それはどうかなー? と征綺華は口元を吊り上げた。

 

「彼、裸だったとしても絶対動じないと思うなー。それより、君らが彼の肉体美にドギマギしちゃうんじゃない? 背筋のラインが綺麗なんだよね~。胸も荒鷲みたいに逞しくてさ」

「おい待て何故貴様が知っている!?」

 

 知りたい? 知りたい~? と言葉尻を浮かせながら流し目で芹沢を挑発する。優越感にも似た態度に芹沢は気炎を上げかけたが、意外なところから声が出た。

 

「……飛行艇でシャワーを浴びたと言われてましたし、覗かれたのでは?」

 

 若しくは水着の試着時にでも見たのだろうと、至極真っ当な想像で語る英里華に、残る二人はそれだなと納得した。

 

「ちょっと待ってよ! 人を覗き魔みたいに、」

「必死だな」

「男同士故、罪には問えないが……これは本当にシングルに分けて貰うべきだな」

 

 奴の貞操が危険だと芹沢は危惧したが、それに関しては時既に遅しという他ない。いや、奪われたのは征綺華の方だが。

 

「失礼。お待たせしました……しかし、こうしたものは女性陣が遅らせるものなのでは?」

 

 何故男児の己を遅らせたのか、安田には皆目見当がつかない。

 大胆にも黒のビキニを身に着けた銀香然り。清楚にワンピース系を纏う英里華や、フリルのついた愛らしいタンキニに身を包む芹沢然りだ。

 

「良いから良いから! 見て見て、僕も結構イけてるでしょ?」

 

 ひらひらと水着のそれでない本物のワンピースを纏い、白くつばの長い帽子を被りながら手を引く征綺華に、一同は思わず距離を詰めた。

 

「だから近いっての!? 安田! お前本当に身の危険を自覚しろよ絶対やばいってこいつ!」

「銀香様の仰る通りだ。貴様は暫く一人で泳いでいろ」

「はあ……」

 

 理解しているのかいないのか。おそらくは後者であろう気の抜けた返事に、溜息を吐きながら二人は安田を泳ぎに出した。

 

 

     ◇

 

 

「泳ぐの滅茶苦茶速いなあいつ……」

 

 勝手に泳げと伝えた直後、準備運動のつもりか浜辺をぐるりと走って入水。遊泳禁止区域限界まで全力で泳ぎ切ったかと思えば、同様の速度で泳げる水位まで戻るという往復作業を繰り返す事既に六回。

 周囲の観光客などは、専門のスポーツマンが来たのだろうと双眼鏡片手に見物する始末であった。

 

「……魚雷ですね、まるで」

 

 銀香と芹沢が呆れ交じりに呟いたのを見計らってか。それとも単に飽きが来たのか。そろそろ良いかとでも言うように、安田は涼しげな顔で浜辺に上がって来た。

 

「次は何をすれば宜しいでしょうか?」

「いや、遊べよ!?」 

 

 取り敢えず、この遊びという物を知らな過ぎる男を教育するところから始まった。

 

 

     ◇

 

 

 そこから先は、大よそ若者らしい順当な過ごし方を楽しんだ。

 近場の露店で西瓜を買って西瓜割を楽しみ、レンタル店でゴーグルやゴムボートを借りてシュノーケリングを行ったり釣り糸を垂らしたりと、それこそ挙げれば切りなどない。

 だが、何にも増して意外だったのは、安田も乗り気であったということか。

 時折、同級生というより保護者が年頃の娘を見守るような接し方をしていたのは、少女らにしてみれば少々癪だったが、それでもこの実年齢に対して異常な落ち着きぶりの男が笑う姿を見れただけでも、十分良い一日ではあった。

 

「遊んだなぁ」

「遊んだねぇ」

「遊びました」

「良い日でした」

「ええ。本当に」

 

 銀香も、征綺華も、英里華も、芹沢も、そして安田も。誰もが今日という日と夏を満喫した。海の向こうに沈む夕日を見ながら夕食を摂り、口々にその日のことを思い出しながら話題に挙げた。

 安物のデジタルカメラで撮った写真も、時間が経てば良い思い出として見返すだろう。記憶が薄れてしまうとしても、記録を残してさえいれば、思い返す事も出来るのだから。

 嗚呼、けれど。そんな物に頼らずとも───

 

「ずっと───覚えていられたら、良いですね」

 

 微かに漏らした安田の言葉に、どれほどの重みがあったのかは分からない。いや、分からなかったというべきか。掬い上げた砂の様に、掌から溢れ落ちたものの価値を、一度失い、思い出した今となってから、少女たちは理解できたから。

 

「安田。夜、少し付き合って貰いたい……出来れば、銀香様も一緒に」

「良いのか……?」

 

 良いのです、と銀香に微笑みながら芹沢は席を外す。決意するような表情の意味を察したのは、おそらくこの場にいた全員だろう。

 

 

     ◇

 

 

「君は仲間外れ?」

「私は、安田さんにそういった思いを抱いていませんから」

 

 ふぅん。と既にホテルに居ない三名を見送った後、対面で紅茶など口にしていた。

 綾之峰としての血筋以外では接点の薄い征綺華と英里華である。自然、共通の話題となれば渦中の三名か、あまり愉快ではない見合いの事になる。

 

「話は聞いたけどさ。君ら、本当に二人に分かれたんだね」

 

 隠し子とかじゃないの? と征綺華にしてみれば至極当然の疑問を口にする。英里華とて、逆の立場であれば間違いなく訝しんだ事だろう。

 イソップ童話そのものといって良い出来事が、現実に起こってしまったのだから。

 

「ええ。ですけど、私達はもう別人なんです」

 

 だから、もう一人のような思いは抱いていない。過去の思い出は確かに大切なのかもしれないが、それはあくまで大切だというだけで特別ではない。

 あの思い出を特別にしたのは、英里華とは違う時間を過ごした銀香と、小さな頃、この地で出会った男の子に恋をした芹沢の心だ。

 

「え? 何、君らってプライベートで付き合いがあったの?」

 

 おそらく、安田も含めて主従としての繋がりだとばかり思っていたのだろう。気持ちは英里華にも分かる。芹沢同様、安田のそれは同い年の人間が取るには堅苦しいし、常に一定の距離を置いていたから。

 

「てっきり、あの教育係の女性と同じで、護衛かなんかだと思ってたんだけど」

「ジーヤですね。彼女なら近くに居ますよ」

「流石でありますな、お嬢様」

 

 何時からお気付きに? と気配を消していたジーヤが問う。曲がり間違っても、素人に感付かれる事は無かった筈だ。

 

「安田さんが、征綺華さんから離れたからです」

 

 おそらくは安田も、日中浜辺を走ってから入水するまでにジーヤを見つけたのだろう。そうでなければ、彼が無防備な姿を晒すとは思えなかったし、自分たちが視界に入らない場所に居る筈も無い。

 

「本島へ行くと言ったのは、私達を気遣っての事でしょう?」

「降参です。ジーヤとしても、お嬢様方には少しでも楽しい時間をお届けしたかったので」

「ま、確かに彼が、僕らを放ったらかしにするとは思わなかったけどさ」

 

 話、戻していいかなと征綺華がジーヤの紅茶も追加で注文する。

 

「彼と君らって、どういう関係なの?」

「幼馴染なんです」

 

 名前も知らなかった、たった一日だけの。

 

「お嬢様は、思い出したのでありますな」

「この島についてからです……安田さんが、笑ったのを見て」

「じゃあさ。ちょっと聞かせてよ。秘密って訳じゃないんでしょ?」

「ええ───始まりは、八年前の夏でした」

 

 

     ◆

 

 

 八歳になった夏の日。綾之峰英里華は、身も心も擦り切れ渇いていた。

 日々続く綾之峰の姫としての教育。周囲の与える苛烈な課題と重圧は幼く、何より養子の身でありながら綾之峰の名を背負う事になった英里華には、荷が重すぎたのだろう。

 彼女は、綾之峰英里華は純正の姫ではなかった。母は綾之峰家当主代行、綾之峰万里華の妹であり、叔母は子を生せなかったが為に、母亡き英里華がその地位に就いたに過ぎない。

 所詮は代用。それでも、綾之峰の後継者と決定した以上、その象徴が積み上げた繁栄に影を落とすような事はあってはならない。

 無論、英里華とて良家の子女として教育は受けていたし、決して飲み込みが悪い訳ではなかった。

 ただ、周囲の期待だけが苛烈だっただけ。綾之峰という絶対を、地に落としたくないという必死さが、幼い少女の心を蝕んだ。

 呵責もなく、慈悲もなく。姫として他者を、国民を魅せる華であれば良い。

 ただそう在れかしと。それ以外である必要はないのだと、言葉でなく教育という鞭が、常に英里華を打ち据え続けた。

 

 だから英里華は願ってしまった。助けを、乞うてしまった。

 

 ───抜け出したいの。

 

 今にして思えば、子供らしい我が儘だったのだろう。

 行く先など考えもせず、そこから先の事など思いつきもしないまま、唯逃げたいと思ってしまった。

 そして、それを、初めて会ったばかりの一人の女の子に押し付けてしまった。

 

 ───お願い、連れ出して。

 

 一日だけでも、ほんの少しでもいいから、どうかお願いと。

 綾之峰に仕えるという、その事を漠然としか知らず、けれど綾之峰の姫を支えるよう言われ続けた女の子の立場を、特に考えもせず利用してしまった。

 愚かな事だ。綾之峰から逃げたいが為に、理解できないまま綾之峰の力に頼り、それを、自分と同い年というだけの女の子に押し付けてしまったのだから。

 女の子は困惑した。逆らうべきではないが、何をして上げればいいのかは分からない。支えて、守ってあげなさいと言われて来ただけの女の子には、何が正解だったのかは分からなかった。

 

 ───分かりました。

 

 結局、そう言うしかなかったのだ。否定する事など、拒絶する事など、始めから出来る筈が無かったのだから。

 

 連れ出して欲しいと、英里華は言った。だから、子供なりに出来ることを考えた。私有地である離島の一つから、他の近い離島までボートを漕ごう。怒られないように、ほんの短い間だけ無邪気に遊べば良い筈だ。

 その冒険心はきっと、女の子も同じように、日々に不満を感じていたからこその物だったのかもしれない。

 小さな手漕ぎのボートに乗って別荘を抜け出し、そこから観光客が集まる島に行こう。

 別荘からでも、その島が夜も明るくて楽しそうなことは、女の子も知っていた。

 二人で一生懸命に漕いでいった。途中、疲れて漕げなくなった英里華の分まで、女の子は一生懸命に。

 だけど、それが行けなかったのだろう。

 明るかった夕日は雨雲が包んで、岸に辿り着く頃には、酷くなる一方だった。

 

 帰ろう。帰りたい。

 

 英里華はそう言いたかったけれど、それが無理だと分かっていた。女の子の手はとても痛そうで、戻る事なんて無理なんだと。

 

 大丈夫、大丈夫ですから。

 

 女の子の言葉に、思わず泣きたくなった。

 自分のせいで、自分の我が儘で、こんな事になったんだと。強くなる雨音に、余計心細くなって───

 

 ───どうしたのかな?

 

 そんな声を、突然かけられた。

 ひょっこりと。まるでお巡りさんが、迷子の子供を諭すように聞くものだから、二人揃って顔を見た。

 同い年くらいの、自分たちよりちょっと背が高いだけのその男の子が、どうしてか凄く頼もしく見えた。

 

 ───ここに居たら、濡れるよ?

 

 そんな事、言われなくても分かっていた。だから、泣きたかった気持ちを抑えて、強がりを言った。

 

 分かってる。大丈夫。

 

 分かってなんかいなかったし、大丈夫だなんて思ってなかった。

 怖くて、心細くて、どうしたら良いのかなんて、全然分からなかった筈なのに。

 

 ───そっか。なら、屋根のある所に行こうよ。

 

 言葉の細部は思い出せないけれど、きっと、そういう言葉を告げた筈だ。知らない人には付いて行くな。大人はよく子供にそう言うけれど、同じ子供なら大丈夫だと思った。

 

 その後は、男の子が泊まるホテルに行った。男の子は凄くテキパキと自分達の事を告げながら女の子の擦り剥いた手を消毒すると、迎えが来るまで一緒に居ても良いかを、両親とお姉ちゃんだと言う人に伝えていた。

 だけど、英里華も女の子も、ここに居るのは嫌だった。

 帰りたいと思っても、帰って叱られるのが怖かった。

 だから、こっそり抜け出そうとして、なのに、男の子はしっかり付いてきていた。

 

 ───帰りたくないの?

 

 聞いてきた男の子に、二人はこくりと揃って頷いた。

 

 ───お家の人、心配するよ?

 

 そんな事ないと、思わず叫んだ。

 どうだって良いし、自分じゃなくたって良いんだと。子供らしい癇癪で、相手が悟れるはずも無い事を口にして。だけど。

 

 ───辛かったんだね。

 

 まるで大人のように、自分達と同じように、ずぶ濡れになりながら言ってくれた。

 

 ───でも、心配してくれる人、居るみたいだよ?

 

 言って、後ろへと視線を向けた。この雨の中、息を切らして走ってきたのは女の子のお姉ちゃんで、叔母以外で英里華に優しい、たった一人の女性だった。

 

 ───心配、したでありますよ。

 

 雨の中、抱きしめてくれたその人の温かさと優しさを、きっと英里華も妹も忘れないだろうと思っていた。

 良かったねと。優しく微笑んでくれた少年の事も───

 

 

     ◇

 

 

「───ずっと。覚えていると思っていたのにな」

 

 幼い頃、三人が歩いた砂浜を、再び同じように歩いていく。

 違うのは手が擦り剥いていない事と、心が晴れやかな事ぐらいか。ぬかるみ沈む足元も、思い返しながらなら、決して悪いものではない。

 

「雨が、酷いですね」

「ああ。あの時は傘も持たなかったんだったか」

 

 今とは違うな、と。この大雨を見越して傘を差し歩く姿に、芹沢は笑う。

 

「銀香様も、思い出されましたか?」

「……芹沢が教えてくれて、やっとな」

 

 酷い事を頼んでしまったと、銀香は思い返しているに違いない。

 けれど、それで良かったと芹沢は思う。己は綾之峰の為に、この国の象徴で在らせられる御方々の為にあれと、そう告げられた事に対する不満は確かにあったのだ。

 

「あの時、逃げ出したかったのは私も同じでした。何より、英里華様が私と変わらぬ女の子であった事も嬉しかったのです」

 

 ただの道具として、便利な従者としてしか見てくれなかったら、おそらく芹沢はここには居なかっただろう。

 出来の良い姉に全てを任せきり、英国辺りに留学して、家族とは喧嘩でもして疎遠になって暮らしていたかも。

 

「怪我をした手を、治るまで案じて下さいました。英里華様自身が、何度も傷を看て下さって……」

 

 それが、親しくなるきっかけだった筈なのに。

 そのきっかけを、作った一日だった筈なのに。

 

「───私達は、貴様だけを忘れてしまったな」

 

 雨が、止む。

 海を背に振り返る芹沢の向こうには、星空の天幕が海に映り込んでいた。

 

「鏡の星海。天鏡島の名の由来となった現象でな。嵐の後に来る大凪の夜、一瞬だけ見られる奇跡だ」

 

 この景色さえ、記憶から消えた。

 英里華と一緒にジーヤに抱きしめられた後、確かに男の子とこの景色を見ていたのに。

 

「ありがとうと言った。忘れないと言った」

 

 綾之峰である以上、英里華も芹沢も、名前は教えられなかったけれど。

 辛い事があっても、この日を覚え続けて、いつかきっと───

 

「───ちゃんと。名前を伝えに行くと」

 

 約束して、いた筈だったのに。

 

「安田───今からでも、遅くないか?」

「はい」

 

 あの人同じ。優しい笑顔で安田は頷く。多くを口にしないからこそ、心から伝わるその誠意に芹沢も、銀香も笑って。

 

「私はバヤリー・芹沢・マクミラン」

「私は綾之峰英里華……今は、銀香だけどな」

「お久しぶりです。私は、安田登郎と申します」

 

 遅すぎた自己紹介を。いつかの約束通り果すのだった。

 

 

     ◇

 

 

「因みに、実はジーヤは早い段階で発見出来ていたというオチが着くでありますが」

「そりゃ、綾之峰のお姫様と実の妹がいないって分かったらそうなるよねー」

 

 当然だねと征綺華が頷く。如何に二人に甘い所があるジーヤと言えども、見過ごして良い場面でない事ぐらい弁えている。

 それでも到着が遅れたのは、他ならぬ安田のせいであった。

 

「ある程度泣かしたら叱って帰るつもりだったのですが、当時からして安田少年はあんな感じでありまして」

 

 優秀過ぎたが為の問題だろう。既にホテルも迷子の案内を出し、警察にも連絡をしていた為、勝手には連れて帰れなかったのだ。

 

「とはいえ、そのおかげでジーヤはミセス峰子とばったり再会したりと、色々良かった事もありましたが」

「確か、初めてお会いしたのは万里華叔母様とご旅行に赴かれた時でしたか?」

「そうであります。宿泊先に強盗が押し入ったと聞いて、現地の警察隊員らと突入したのですが、既にミセス峰子が制圧済みだったであります」

 

 当時の峰子曰く。

 

『良かったな万里華───騎兵隊の到着だ』

 

「と。拳銃両手に実に勇ましいものでありました。あの母の元なら安田少年が出来過ぎなのも納得であります」

 

 獅子の子は獅子というべきか。それとも獅子の母が生むからこそ、子もまた獅子として相応しい者が生まれたか。因果というものを知れば後者だが、彼女らにそれを知る術はない。

 

「で? 今回も遅くなったら怒るの?」

「征綺華少年。ジーヤはマイシスターがどんな気持ちで安田少年を連れ出したかぐらい判ってるでありますよ」

 

 だから、今日ぐらいは良いだろうと。窓辺から見える、清澄な星空を眺めた。

 

 

     ◇

 

 

 果たされた約束。

 幼い頃、小さな感謝で満たされた胸と、同じ物を抱いた今。

 バヤリー・芹沢・マクミランは、秘めていたものを打ち明ける。

 

「安田───どうやら私は、恋をしたらしい」

 

 潮風が、決して長くない髪を揺らす。煌々とした月と星明かりを背に笑う彼女の頬は、青で満たされた世界とは逆に赤く。初めて見せた恋慕の笑顔は、言葉を失う程に美しかった。

 

「だけど。それはきっと、銀香様も同じなのでしょう?」

 

 そして彼女は、意中の相手にではなく、銀の髪を揺らす、何処か物憂げな主に向いた。

 

「初めは、身を引こうと思いました」

 

 巫女姫の占いがあり、身を分かたれたこの状況ならば、庶子であろうと愛し合えると。或いは英里華が見初めたのだとしても、争おうなどと思わなかった。

 

「ですが、私には無理でした」

 

 過ぎた思いだと弁えていた筈だった。恋に鍔競り合うには、余りに立場が違うと自分を納得させていた。

 

「私は銀香様のような、特別な時間などなかったのでしょう」

 

 出会いは同じで。再会からは目を離さぬ冒険も、涙を誘うドラマもない。進む物語の中で、バヤリー・芹沢・マクミランはどう見たところで脇役でしかない。

 それでも、この思いを抱いたのだ。

 

「負けたくない。譲りたくない。私以外の誰かが───」

 

 ───安田登郎と添い遂げる事が、我慢できないのだと。

 

「芹沢、私は……」

「愛してなどいないと、ご自分の顔を見ても同じ事を口に出来ますか?」

 

 初めは好みとは到底違う、真面目で堅苦しい奴だと思っていた。何故こんな奴が、自分に相応しい男として占われたんだと憤った。一緒に暮らして行く内、良い所もあると思った。

 助けに来てくれた事が嬉しくて、占いが本当だったんだと喜んだ。

 出会いは同じで。再会からは、目を離せない多くがこんなにも短い時間に起きて、助けられたことが、泣いてしまいそうなほど嬉しくて───

 

「───認めるよ。私も、こいつが好きなんだ」

 

 助けられたからという、一時のものだけじゃない。七夕茶会で、芹沢とのやりとりを見たその日から、きっと心は変わって行ったんだろう。

 芹沢の事は大切で。幸せになってくれたらと願う以上に、安田に肩入れした時点で。

 

「思い出したのは、お前がずっと早かった。恋をしたのも、きっとそうだ。今までだって、数え切れないぐらい、色んなものを貰ってきた」

 

 だけど。

 

「ごめんな。やっぱり、こいつは渡したくない」

「良いのです」

 

 迷ったままで、いて欲しくなかったから。ちゃんと、お互いを理解したかったから。きっと、どちらかは泣くだろう。今まで通りの関係では、居られなくなるかも知れない。

 でも、ずっと隠したまま。お互いに気持ちを押し殺したままなのは、絶対に嫌だったから。

 

「下らんメロドラマに付き合わせたな、安田」

 

 思いは伝えた。どちらかを今すぐに決める必要はないし、何だったら二人とも振っても構わない。

 

「安田が誰を好きになろうと、それは自由だ。だけど───その時は、はっきり言ってくれ」

 

 複数など選べない。添い遂げられるのは一人で、二番目なんてない事を覚えていて欲しい。

 

「貴様が、二人に分かれてくれるなら別だがな」

 

 そんな風に笑って。

 言い残す事はないというように、芹沢は踵を返して去った。

 

 

     ◇

 

 

「……良い女だな、芹沢って」

 

 小さく呟いて、銀香もまたゆっくりと帰路へと歩む。

 

「悩むなら、悩んでくれていいよ。私も、気持ちは芹沢と一緒だ」

 

 二人ともなんて選べない。ただ一人に摘まれる華で在りたいから。

 

「───判っています」

 

 短い返答に、銀香も満足げに去って行く。

 残されたのは一人だけ。星の海で満たされた世界ではなく、去って行った二人を見て思う。

 

“私は───”

 

 ───隠したままで、本当に良いのだろうか。

 

 

 

 




 告白したダブルヒロインより、既に数光年分差のつく行為をした奴がいる模様(台無し)


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Attack 11(状況に)ながされて天鏡島であります

「しっかり遊び、たっぷり寝て英気を養ったところで、ようやく本島行であります」

 

 これで暫くは安全でありますなー。と飛行艇の操縦桿を握りつつジーヤは呑気な声を上げているが、女性陣らとは異なり、安田の目元には僅かだが疲弊と焦燥の色が見えた。

 

「ねぇ。ホント大丈夫なの、君?」

「はい。問題ありません」

 

 征綺華には、とてもそうには見えなかったが、着くまでの間一寝入りするようなら、膝を貸してやればいいかとポジティブに考えながら隣に座ろうと、

 

「待て。私と銀香様で座る」

「君達だと、余計落ち着かなくなるんじゃない?」

 

 僅かに顔を顰めつつ、芹沢の提案を切る。昨夜ホテルに戻り、床に就いてから安田はこの調子なのだ。原因が誰にあるかなど、考えずとも分かるだろう。

 

「……いえ。私は大丈夫です」

「だからそうは見え……って、あれ? もしかして、本当に?」

 

 芹沢らの好意を無下にしたくないというのもあるだろうが、安田の表情には彼女らを気遣っての無理は見られず、むしろ嬉々とした様子が伺えた。

 

「正直に申しますと、この先の事で、少々」

「そういえば、安田少年は本島に行ったことがあるのでしたな」

 

 天鏡島の本島は厳格に立ち入りを禁じられている筈ではなかったかと、皆物問いたげな眼差しを送り、それを予見してか、直接疑問を口にするより先にジーヤが応えた。

 

「八年前、お嬢様とマイシスターを助けてくれた安田少年に、ジーヤが出来る限りお願いを聞いて上げると言ったのであります」

 

 無論、可愛らしい子供の願いとは言え、天鏡島は綾之峰の管理する土地である。こればかりは難しいと当時のジーヤも難色を示し、駄目元で本島の巫女に尋ねたところ……

 

「先代巫女姫様と、現巫女姫たる歌凛子様の双方が是非安田少年にお会いしたいと言ってくれた為、ご両親の許可を経て安田少年とジーヤの二人で本島に行ったのであります」

 

 所謂デートという奴でありますな、とジーヤは嘯くが、皆その冗談には反応しなかった。

 

「成程ねぇ。要するに、楽しみだから寝られなかったと」

「お恥ずかしながら」

 

 遠足か修学旅行前の子供かと銀香は思わずにいられなかったが、これもまた新しい発見と見るべきだろう。昨夜の告白そのものが尾を引いていないというのは、気が軽くなる反面複雑なものだが。

 

「……それにしては、とびきり喜んでいるという表情でもなさそうでありますが?」

 

 ジーヤは無視をされて悲しいであります、と態とらしくハンカチを目元に当てるが、途端安田の表情は暗くなり……

 

「一人、苦手な方が居りまして……」

 

 

     ◇

 

 

「後で合流致しますので、暫く飛行艇で過ごさせて頂けませんか?」

 

 そんな安田の切なる要望は聞き入れられなかった。ジーヤ曰く。

 

「燃料も電力も有限であります。というか、安田少年が何でそこまで頑なに行きたがらないのか興味があるからキリキリ歩けであります」

 

 と。嗜虐心全開のスマイルで引き摺り出され、そんな様子に一同は目を丸くしていた。

 

「あいつ、この島で何があったんだろう?」

 

 とは銀香の言であった。とはいえ、その苦手なものに関してはすぐに分かる事になる。

 

「皆様、よくお出で下さいました」

 

 風に乗る声。一体いつからそこにいたのか、黒髪の巫女が佇み出迎えてくれた。

 黒子のように垂らされた白布の覆面から表情は伺い知れないが、その声音は穏やかで心からの慈愛に満ち───

 

「───ところで」

 

 先程までの声音が、まるで空耳であったかのような冷たい音が周囲を満たす。

 

「……お久しぶりです、巫女殿」

「ええ。本当に久しぶりですこと。ですが」

 

 今は巫女大将とお呼びなさいと、この島の実質的な二番手であり、当主補佐を勤める巫女が忠告した。

 

「はい。巫女大将殿」

 

 おかしいと一同は眉を顰める。安田が慇懃であるのは今に始まったことではないが、それにも増して表情が固い。

 なんというか、萎縮しているようにしか見えない。あの万里華の前ですら泰然自若であった鉄面皮が、よもやここまで身を竦ませようとは。

 

「結構」

 

 と。おそらくは笑みを湛えながら放った廻し蹴りが、安田を桟橋から叩き落とした。

 

「「安田───────!?」」

「では皆様、お食事の用意が出来ておりますので、こちらに」

 

 唐突な暴力に目を見開く銀香と芹沢さえ意に介さず。ばかりか初めから安田の存在などなかったかのように、巫女大将は一同を先導した。

 浮かぶ安田。漂う安田。流されかける安田。

 そんな安田を助けようとしてくれる少女らの気持ちは嬉しかったが、どうせまた蹴り落とされるぐらいなら、先に行って貰った方が手間もない。

 よって、ドザエモンの如く浮かびながらも、良いから行ってくれと安田は手を振った。

 

 

     ◇

 

 

「お久しぶりです。父様」

「歌凛子か。息災で何よりだ」

 

 年の頃は十一、二程か。愛らしい笑みを浮かべた黒髪の少女が、桟橋から手を差し伸べてくる。仰向けで海に浮かぶという兎に角残念な姿での再会であったが、どのような形であろうと、再会とは喜ばしいものだ。

 

「巫女大将が、ご無礼を働いたようで」

「いや……あれは私が悪かった」

 

 片手を桟橋にかけ、もう片方の手で歌凜子の手を取ってよじ登る。苦手意識など持たず、誠意を持って向き合えたなら、少なくともここまでは……

 

「……されたな。確実に」

「それはまぁ、そうでしょうとも」

 

 くすくすと。決して人前では見せぬ人懐っこい笑みを湛えながら、歌凛子は手を引く。

 裏表のない感情の発露と、慕う思いは自然と安田の頬を綻ばせた。

 

「参りましょう、皆を待たせては悪いですから」

 

 

     ◆

 

 

 さて。件の巫女大将は、何故安田登郎に豪快な蹴りを叩き込んだか。

 何故見た目には安田より明らかに幼い歌凜子が、安田を父と慕うか。それについて説明する為、時を八年前まで遡る。

 

「着いたでありますよ、安田少年」

 

 今よりやや肌が若……これは失言であった為、取り消させて頂く。

 今も変わらぬ美貌を保つジーヤが、安田を本島に送ったのは、芹沢と英里華が離島から別荘に戻ってから翌日の事。

 先代と当代巫女姫双方の歓待によるものとは先に記載した通りであるが、ジーヤ当人には見当が付かなかった。

 

“安田少年の事が『視え』なかったのか。それとも『視えた』からこそ興味を抱いたか”

 

 どちらとも取れる可能性はあるが、当代の巫女姫のみならず、先代までも興味を示すというのは異常だろう。

 

「ようこそお出で下さいました。そちらが件の少年でございますね」

「お初にお目にかかります。安田登郎と申します」

「これはご丁寧に───」

 

 ───ですが。初めてではないでしょう? と。

 

 出迎えに来た巫女は、安田にのみ聞こえるよう囁いた。

 

「ではジーヤ殿。これより先は、私が御連れ致します。とはいえ、ジーヤ殿も手持無沙汰では何でしょう。席を取らせますので、しばし御寛ぎを」

「……? 安田少年。どうかしたでありますか」

 

 先程と違う、微かな緊張を感じ取ったのだろう。僅かに答えに窮した矢先、思わぬ方向から助け船が出た。

 

「このぐらいの齢でしたら、大人には緊張するものでは?」

「ジーヤには一切気後れしなかったでありますが」

 

 どういう事でありますか? とジーヤは半目で安田を睨むが、既に安田は先程感じた緊張の色は見えず、嘘のように平静を保っていた。

 

「その……ミス・マクミランは、母と懇意にしているようなので、安心できる女性として見ていたと言いますか」

 

 要は、母や姉のように気を遣わずいられる程信頼できる女性として見ていたという事だろう。そういう事ならばと、ジーヤがこれ以上踏み込まなかったのは、この時の安田の年齢も考慮してだ。

 

“巫女殿の言う通り、安田少年はしっかりしていても八歳でありますからなぁ”

 

 子供らしい好奇心から島に来ても、流石に見知らぬ大人を前にしては緊張ぐらいするだろう。

 

「ジーヤは暫く離れますが、大丈夫でありますか?」

「私が責任を持ってご案内致します」

 

 安田に対し気遣って言った筈だが、巫女は強引に遮ると、安田の手を引いてしまう。

 

“……まさかと思うでありますが、巫女殿は青い果実を抓もうなどと考えてないでありますよね?”

 

 だとすれば、安田の態度が硬化した事も含め、危惧せねばならないが……

 

“流石に巫女姫様達が黙ってないでしょうし、大丈夫だと信じる事にするであります”

 

「少年。何かあったら一番年の近そうな巫女さんに泣きつくでありますよ」

 

 小さく耳打ちしつつ、何食わぬ顔で安田を見送る。少々、この島に彼を連れて来てしまった事を後悔しながら。

 

 

     ◆

 

 

「……お久しぶりです、と言い直すべきでしょうか?」

 

 無論それは、この巫女の言葉を信じるなら、というのが前に来る。確かに一度耳にした声ではあると思うし、他に心当たりはないが、確証はない上、黒瀬であった頃から幾分も年月が流れてしまった。返答がなかった為、続けざまに問う。

 

「……随分と。お若いようですが」

「これは秘事ですが、星読みの巫女は、その力を託さぬ限り老いぬのです」

 

 ジーヤと分かれてより、巫女からは不穏な空気が伝わる。しかし安田……否、黒瀬当人との面識こそあれど、先代の巫女姫との関わり以外では、この巫女と接点はない筈だ。

 無論、先代の巫女姫に忠誠を誓うこの巫女にとって、種馬としての分を弁えず、先代の巫女姫に夫として接した以上、黒瀬は許されざる無礼者なのだろうが。

 

「私が黒瀬と、何時からお気付きに?」

「……まず、言いたい事があります」

 

 くるりと振り返る。覆面の下で、花咲くような笑みを巫女は作り───

 

「───この顔に、見覚えが御有りでは?」

 

 見える様、ずらされた覆面。

 二十前半ほどの、その見目麗しい相貌を見た途端、先程までの安田の表情が脆く崩れた。全身に夥しいほどの汗をかき、顔からは一気に血の気が引く。

 

「……実に、お美しいと」

「世辞は結構」

 

 大丈夫だ。全ては忘れられた過去にして消えた歴史。この巫女との接点は、先代巫女姫との僅かな時間だけだと言い聞かせたが、巫女は追い打ちをかけるように安田へと間合いを詰めた。

 

「この顔に。見覚えは?」

 

 ずい、と。更に顔を近づける。知っているだろう。分かっているだろうと。滝の如く汗が滴る安田に囁き。

 

「一晩中抱いておきながら、それほどの物でもなかったなどとよくも抜かしおったな糞たわけがぁ……っ!!」

 

 豪快に。未来の安田と寸分違わぬ位置に回し蹴りを叩きこむ。

 吹き飛ぶ安田。転がる安田。石庭の白石が無残な姿を晒すが、それさえ知った事かとばかりに巫女は安田に追撃を入れた。

 

「何か、申し開きは?」

「……何故、今の世の貴女がそれを……」

 

 は! と巫女は鼻で笑う。

 

「確かに私も『忘れて』おりましたとも。ええ、何せ全て『無かった』ことになったのですからね」

 

 ならば、一体何故綾之峰が統べる以前の世において、黒瀬が家庭を持つ前に春を買った一人目となる筈だった巫女に、その記憶があるのか?

 陛下がその玉体と歴史の全てを捧げた事で今の綾之峰があり、異なる歴史の中でそれぞれが別の人生を送った筈。つまり、この歴史と言うべき今の世において、黒瀬とこの巫女には肉体的な関係など一切ない筈だ。

 

「貴方と……いえ、黒瀬正継が不敬にも、先代巫女姫様に種馬としての分を弁えず言の葉を交えた事をお忘れか?」

 

 そう。確かに安田は皆が異なる歴史を生きているという事に瞠目し、妻もまた星読みの巫女姫となっていた事に気付かぬまま、過去の通り妻と接した事で、この巫女が引き剥がそうと……。

 

「腕を掴んだ折、『忘れなかった』貴方の記憶を『視』ました」

「……妻以外は、『未来視』が精々の物と思っていました」

 

 安田の予想は正しい。確かにこの島の巫女らは皆未来視の力こそ宿しているが、それ以外に関しては巫女姫以外、然したる能力はないのだ。

 

「私は少々特殊でして。『先』でなく『人』を視る事に長けているのです」

 

 だからこそ、常に巫女姫の傍に侍っているのだというし、理屈は安田にも分かる。人を見る事が出来るという事は、他者の悪意や好意を知る事が出来るという事だ。

 

「説明はこの程度で良いでしょう」

 

 丁度良いお白州の如き石庭ですが……と。ぐりぐりと頭を踏みつけながら巫女は笑うが、安田とて言いたい事ぐらいある。

 

“……相場より高値で買った割、こちらよりすぐに達してへばるのが早かったし、声も生娘のそれより大きく騒がれては、萎える一方だったのだがなぁ”

 

 無論、高値であった分一夜中は使えた事もあり、静かになれば溜まった欲を吐き出す程度には良いだろうと明け方までしたが、当人は激しすぎるだの休ませて欲しいだのと懇願するばかりで、まるで強姦魔のように言われたとあって、そう思うのも無理ないだろう。

 結論を言うならば。

 

“マグロ過ぎて詰まら、”

 

 ゴシャァッ!! と頭が石榴の如く割れるのではと危惧するほど豪快に踵が落ちた。人を視る事に長けた巫女に対し、余りに心中が無防備すぎたのと、開き直った安田の二重の落ち度と言う他ない。

 

「貴様が猿の如く盛っていただけだ……! 断じて、断っじて私が大したものでなかったマグロなどと言われる筋合いはないッ!!」

 

 既に虫の息にも関わらず追撃をかます巫女に、ぴくぴくと痙攣しながら安田は理不尽だと思わざるを得ない。そもそも、出世頭なのを良い事に粉を掛けて来たのは、この女の方ではなかったか?

 

「……まぁ、良い。これ以上しては死にかねん。私としても勤めがある故、今日のところは許してやる」

 

 死に体となった安田の首根っこを掴みながら、ズルズルと引き摺って行った。

 

 

     ◆ 

 

 

 とはいえ、流石に首根っこを掴んだままでは無体に過ぎると感じてか。或いは自らの暴力が露見する事を恐れてか。衣服の汚れを落とし、表面上は礼節を保った態度で奥の間へと安田を通した。

 

「お久しぶりです。それにしても、随分とこっ酷くされたようで」

 

 くすくすと、老いた女性が口元に手を当てる。その挙措、その笑い方を、誰より安田は知っていた。誰よりもその仕草を、愛おしいと思っていた。

 

「───(りん)

「はい。貴方も私も、随分変わりましたが」

 

 既に通した巫女はこの場にない。あの時と違い、ここからは水入らずで過ごさせてくれるという事だろう。……バレた事を察して逃げた可能性もあるが。

 

「そうだな……妻と睦言を交わすには、少々無様な姿だ」

 

 家庭を持つ前に買った女に蹴られて来たなど汚点以外の何物でもないが、それでも妻は笑って流してくれた。

 

「構いませんよ。あの巫女も、これで少しは溜飲が下がった事でしょう」

 

 無論、私もと告げられ、やはり口では許しても怒っていたのだなぁと安田は粛々と頭を下げる。八歳という外見を除けば、見事なまでのダメ亭主であった。

 

「……長い間、待たせてしまった」

「大丈夫です。貴方の事は、ずっと『視て』いましたから」

 

 だから、決して心細くはなかったと凛は、先代巫女姫にして、黒瀬正継の妻たる女性は笑う。

 

「それに、歌凛子もすくすくと育ってくれましたからね……これ、父上にお逢いするのを待ち望んでいたでしょうに」

 

 見れば、奥から様子を伺うよう十代前半……凡そ十二かそこいらの少女が、こちらを覗き見ていた。

 

「本当に……、父様なので?」

「『視た』ままを信じなさい、歌凛子」

 

 それが全てですと告げると共に、粛々と歌凛子は安田の元へ参った。

 背は、当然ながら安田の方が低い。妻が老いている事もあり、祖母と孫従姉弟が初めて引き合わされているようですらあった。

 

「父、様?」

「───歌凛子」

 

 大きくなったなと、まるで弟が姉にじゃれつくような形になってしまったが、それでも安田は構わなかった。

 

「もう会えぬと……私は、今のお前に何一つしてやれなかった」

 

 幼いながら、己のように無骨で、決して口数の多くない父に懐いてくれた愛娘を抱きながら、安田は我が身の不徳を謝した。

 

「今のお前が……生まれる前に死んでしまった」

 

 座敷で馬となり、娘を背に乗せた記憶も。正月に凧を上げた記憶も。二人で一つの筆を執って書を教授した記憶も。それらは全て、潰えた歴史の中での事に過ぎない。

 今の、綾之峰の世においての黒瀬は、巫女姫が子を生す為の種馬として選ばれたに過ぎず、娘を腕に抱く事もないまま、異国の地で呆気なく死んでしまった。

 

「───いいえ。歌凛子は、知っております」

 

 夜な夜な帰りの遅い父を待とうとして、祖母に明日会えると寝かしつけられては、父が帰って来たのを狸寝入りしながら待った事も。帰った父が、こっそり襖を開けて髪を撫でてくれた事も。

 腕に抱かれてあやし付けられたり、肩に乗って縁日ではしゃいだ事も。

 

「歌凛子は、父様をずっと覚えております。母様から、力を引き継いだその時から」

 

 だから、決して歌凛子は父の居ない事を不遇とは思わなかった。思い出の中の父は優しく温かで、そんな父に、いつの日か会えると知っていたから。

 

「こうして───再会出来ると知っていたのですから」

 

 

     ◆

 

 

「歌凛子。父様と貴女に、大事なお話があります」

「はい」

 

 涙を湛えながら、互いに抱き合った腕を解いて向き直る。粛々と膝を付く娘を見て、貞淑に育ってくれた事を喜びながら、安田も同じく腰を下ろした。

 

「これより、私は全ての力を歌凛子に注ぎます。それは、私が星読みの巫女で無くなるという事。そして───」

 

 ───今日を以て、綾之峰 凛は死に至るということ。

 

「待て……待て!!」

 

 ようやく会えた。ようやく親子が揃ったのだ。まだ出来ていない事は多い。夫婦として、家族として決して多くを与えられなかった黒瀬正継にとって、今という奇跡を何故手放さなければならない理由がある!?

 

「継がせねば老いぬのだろう? なら、」

「それは誤りです。巫女は、確かに力を他の者に託せば、人と同じ生を全うできます」

 

 だが、そうではない。巫女が不老足り得るのは、力そのものが理由なのではないのだ。

 

「老いぬのは、初代巫女姫が泉の女神に対価を払ったからです。異性と交わらず、愛を育まず、肉親以外の誰とも心を通わす事のないまま、力を振るい続ける事を定められたからこそ、巫女は不老足り得るのです」

 

 歌凛子を宿した時点で、既に老いる事は定められていた。現に妻は今の世で契りを交わした頃より順当に老いているが、それさえ誤魔化しがあったのだという。

 

「本来なら、当の昔に癌で潰えた身です。生き永らえているのは、私自身が与える力を抑え込んでいたからと、泉の女神に対価を払ったからです」

「あれに……手を出したのか」

 

 確かに女神は詐欺師ではない。対価を支払えば、その分だけ望む物を与えてくれる……そうまでしなくてはならなかったのは、そうしなければ、今日に辿り着けなかったからか。

 

「はい。私が払ったのは、今日という日を……この再会を以て、命数を終える事。そして───」

 

 ───黒瀬正継と安田登郎とに、来世の愛を誓わせない事。

 

「きっと、貴方は私の死を認めないでしょう。私が死しても、私を探し続けた事でしょう」

 

 だから、泉の女神はそれを対価にした。安田登郎に綾之峰 凛を愛させない。一度の世で満たされた愛を、決して次に持ち越すなと。

 

「もし……」

 

 それを、安田登郎が認めなければ?

 

「過去は捻じ曲がるでしょう」

 

 綾之峰 凛との再会は果たせず、ここに来ると共に冷たい墓標が安田を出迎える。今という時間に喜びはなく、別離の悲しみが胸を引き裂いたに違いない。

 

「───それでも」

 

 愛しては、探してはいけないのか? 忘れない存在となった安田ならば、それは決して苦にならない。何千何百と輪廻の輪を潜ろうと、妻と再会するその日を夢に見れば───

 

「いけません。私は、貴方だけでなく歌凜子も愛しています」

 

 今日という日を除いて三人が揃う日は、二度とない。娘が父と。妻が夫と会う奇跡があるとしても、この三人が揃う事は決して……。

 

「『視た』のだな……」

「はい。私にも歌凜子にも、そのような未来は視えませんでした」

 

 ならば、仕方ない。

 

「私は、お前と歌凜子以外二度と、」

「私は、別の私として誰かを愛する事になるのです。貴方だけを、私が知らぬ間に縛る事は出来ません」

 

 だから、それ以上は口にしなくていいのだと笑う。

 

「お気持ちだけ、受け取らせて頂きます。貴方は安田登郎として、別の誰かを愛して下さい」

 

 それを以て、綾之峰 凛は先立てる。新しい世界、新しい人生を迷いなく渡ることが出来るから。

 

「ですから、今だけを。今の私を愛して下さいますか?」

「勿論だ。歌凜子、お前も来なさい」

 

 老い朽ちる間際の妻を、手放したくないと幼子の夫が、年上の愛娘と共に優しく腕に抱く。ちぐはぐで、どう見た所で可笑しな光景に違いない。

 けれど、この親子にとって、これは何にも代えがたい奇跡の時間だ。未来永劫、二度と手には出来ない、そんな小さな奇跡なのだ。

 

「……最期に、謝らせて下さい。貴方が命を落としたのは、私が視たままを伝えてしまったからなのです」

 

 綾之峰 凛が黒瀬正継と直接相見える前。綾之峰に影を落とす因子に為り得ると、深く視ないまま当時の当主に伝えてしまった。

 もし、それを伝えるより早く深く視ていたなら。凛が真実を告げなければ、きっと黒瀬は……

 

「良いのだ。歌凜子にも、凛にもこうして逢えた。だから、そんな顔をするな」

 

 どうか笑ってくれ。泣き顔のまま消えてくれるな。お前が笑ってくれることが、何よりの幸福なのだから。

 

「ありがとう、貴方」

「母様……後は、父様の事は歌凜子が……」

「はい、全て託します。この人、お堅いようでつい遊んでしまうと思いますから」

 

 そんな風に笑って。綾之峰 凛は息を引き取った。

 幸せな、二度と得られない奇跡を噛み締めて。

 

 新しい人生を、これから歩むのだ。

 

 

 

 



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Attack 12 すれ違いなのであります……

「思えば、懐かしいと感じてしまう程、月日は早いものだな」

 

 歌凜子に手を引かれて向かう間際、真新しい墓石が安田の視界を横切った。

 もう、あそこに妻は居ない。前世の愛しい人は今、別の人生を歩んでいる。

 

「はい。歌凜子も、そう感じます」

 

 懐かしく、寂しく。けれどそれだけではない思い出を噛み締めて、より強く手を握る。

 そして、その手が離れた時、安田は目的の場所に着いた事を悟った。

 

「父様。これより先、歌凜子は父様に無礼な態度を……」

「言うな。私も、歌凜子の立場を知っているつもりだ」

 

 だから、何を言われたとしても気になどしないと、そう娘の頭を撫でた。

 

 

     ◇

 

 

「遅くなってしもうたが、悪く思うてくれるな。そこな小僧が海に浮いておったのでな、連れて来たのじゃ」

「歌凜子様。息災で何よりです」

 

 うむ、と礼を尽くす英里華に、先程まで父に見せた愛らしい姿は欠片も見せず、傲岸不遜な面持ちで応えた歌凜子が上座へと腰を下ろした。

 女神を祀る巫女の一族として始まり、今も当主が巫女を務める綾之峰家であるが、次期当主たる英里華も、そのしきたりに倣い幼少の頃より本島で修行していた経験を持つ。

 歌凜子に対しこのような態度を取るのも、次期当主を見守る巫女姫と言うだけでなく、所謂師弟としての間柄がそうさせていた。

 

「しかし、よもや泉の女神に身を分けさせるとはのう。ちと英里華姫の教育が厳しすぎたか」

 

 それはもう、と出かかった言葉を英里華は飲み込む。泣き言など洩らそうものなら、修行が足りぬとここぞとばかり虐めるに違いない。

 

「さて。銀の髪の姫。名を問うても?」

「銀香です……」

 

 ほうほうと頷く歌凜子に対し、銀香でさえ小動物の如く身を縮める。

 

「侍従と教育係も息災で何よりじゃ。時に……」

 

 まるで値踏みでもするかのように、歌凜子の視線が安田へと向いた。言うまでも無く、下座の中で一番低い位置にある。

 

「随分と分家の息子と仲が良いではないか」

 

 征綺華の事を言っているのだろう。確かに綾之峰の人間である以上、ジーヤや芹沢より上座に居るべき人間が、安田を見るなり席を動いたとあっては思うところがあるのも分かるが……。

 

「両刀か」

 

 ピシィッ!! と、一気に空気が凍りついた。

 嘘でないだけに性質が悪いというのも有るが、よもや実の娘に堂々と性癖を暴露されようとは安田とて思わなかった。

 

“やはり、歌凜子も怒るか……”

 

 当然と言えば当然である。家庭を持つ前とはいえ、母に先んじて男にまで手を出していたなどと到底許容できる筈も無い。絶縁状を叩きつけられても文句は決して言えぬ上、性懲りも無く今生でも似たような真似をしたとあっては、言いたくもなる。

 

「「安田!?」」

 

 ウソだろお前と言わんばかりに銀香と芹沢が振り向いたが、安田としてはバレた以上腹を括るしかない。いっそ殺せとも思わなくも無かったが。

 取り敢えず、膳と共に出された茶をずず、と啜る。

 

「いや何か言えよ! てか否定しろ!!」

「そうだ安田! 幾ら何でも男に取られるなどというのは認められん!!」

 

 銀香然り芹沢然り、激昂も主張も当然なのだが、事実は事実である。

 性癖ばかりはどうしようもない。手遅れだから性癖なのだとダメ男らしく開き直ろうかと思ったが、それもあんまりかと呑み込んだ。

 

「征綺華さんは、女性としての心を持っています。それを否定するのは、流石に憚られます」

「いや、確かにそうなのだがな……」

 

 芹沢とて征綺華の事は訊いているし、そちらに関してはある程度理解もある。だが、だからと言って取られても良いかと言えば別なのだ。

 

「いや待てよ。それならそれで問題だろ」

 

 主にホテルで相部屋だったり、覗きだったり結構やりたい放題だったぞコイツと、銀香が指差す。確かにその通りであり、女として扱うならその通りにすべきだと安田からずるずると引き剥がす。

 

「認めてやるにしても、取り敢えずお前は女連中と相部屋な」

「え~? でも僕、巫女姫様の言う通り両刀だから、女の子でも行けちゃうよ?」

「「お前の事かよ!?」」

 

 騙されたー!? と叫ぶが、安田だけは心の中で征綺華のさりげないフォローと、首の皮一枚が繋がった事に感謝した。

 

「ち」

 

 そして、そんな状況に盛大に舌打ちしたのは歌凜子である。周囲にしてみれば、他愛のない悪戯がバレたと思うだろう。

 が、安田からしてみれば、娘の容赦ない叱責に震える心地だった。いやまぁ、原因は全てこの男にあるのだが。

 

 

     ◇

 

 

 それからのらりくらりと、しかし危うい所で芹沢や銀香らの追撃を交わし、通された部屋で息を着いたのもつかの間。

 

「歌凜子様が御待ちだ」

 

 とっとと動けと巫女大将から蹴りを入れられ、奥の間へと通され現在に至る。

 

「その……すまなかった」

 

 このような父親では、幻滅されても仕方ないと承知しているが、それでも娘に嫌われたくないという父心が頭を下げさせる。

 家庭を持ちながら夜遊びを止められない、ダメ親父以下の姿がそこにあった。

 

「いえ。母様から生前、もしふしだらなら容赦なくする様、言い付けられておりまして……その、まさか父様が本当に()の子とそのような事をするとは夢にも……」

「全面的に私が悪かった……!!」

 

 殺せ、いっそ殺してくれとばかりに全力で娘に謝り倒す。娘にそういった力が備わっていることを知りながら、その場の流れでやる事をやってしまったダメ男を叩き切ってくれと、額を畳に擦り付けた。

 だが、二度としないと誓えない所がダメ男である。征綺華から先程の借りを返せと言われれば断れないのも有るが。

 

「あ、頭をお上げ下さい! 父様のそのような姿は見たくありません!」

「本当に、済まなかった……」

 

 二十は年を取ったかのように、げっそりとした面持ちで項垂れる。

 娘に性癖を晒された挙句、諭されるなどというのは本当にダメ過ぎて哀れにも見えるが、結局全て身から出た錆でしかない辺り、救いがなかった。

 

「……では、何用だろうか?」

 

 巫女大将が辛辣なのは最早どうしようもないと割り切っているが、滞在にあたって何かあるのだろうか?

 

「その、父様と話がしたいと思いまして」

 

 行けませんか? と上目遣いになる娘に、だらしなく頬を緩ませた安田。

 完全に娘に甘いダメ親父であるが、こればかりは父親の性である。娘に愛情以上に辛く当たる父親という物を、伝え聞いては居ても想像できない類であった。

 

「いや、私も歌凜子とは、傍に居たいと思っていた」

「まぁ!」

 

 声を弾ませながら、パァ、と日向のように明るい表情で席を勧める歌凜子に、されるがまま腰を下ろす。見れば、卓には徳利と共に猪口が二つほど置かれていた。

 

「……そうか。もう大人なのだな」

「はい。父様より、ずっと」

 

 それが寂しくも有り、同時に嬉しくも有るのだろう。互い、肉体的な年齢はさておき、精神的には老躯と言って差し支えない身だ。

 娘と談話を交わす時ぐらいは良いだろうと、平時であればこうした事には厳格な安田も気を緩めた。

 

「どうぞ」

 

 と。傾く徳利から透き通った御神酒を注いで貰い、満たされた後に安田も歌凜子の手を止めさせて注いでやる。

 

「父様に、そのような……」

「良いのだ。凛にも同じように言われたがな」

 

 懐かしいものだと一口煽る。前世から酒は進んでは飲まなかったが、今は思いの外美味く感じた。

 

「島での生活は、辛くないか?」

「日々の勤めは然程。父様にも、『視れ』ば会えますから」

 

 便利なものだと思う反面、決して寂しくなかったという事も無いだろう。姿は見えても声は返らず、ただ息災なのだという事が分かるだけ。手を触れ合い、心を分かち合う事ばかりは、島に居る限り叶わない。

 

「何時まで居られるかは判らんが、出来る限り、歌凜子の傍に居てやれればと思う」

「嬉しい」

 

 掴まれた手。八年越しの再会と、これから先に続く日々に夢想しながら、歌凛子は強く手を握る。けれど、どうしてだろう。再会を、これからの日々を心から喜びながらも、歌凛子の顔には翳りが見えた。

 

「父様は、母様を今も愛しておいでで?」

「……愛するなと言われてもな。既に安田として好意も寄せられてはいる手前、割り切らねばと思ってはいるのだが」

 

 ピクッ、と歌凜子の顔が引き攣ったのを見て取る。流石に、娘の前で亡くなった妻に代わり、新たに嫁をと考えているというのは、良い話題ではなかった。

 

「済まないな……今日は謝ってばかりだが」

「いいえ。言い出したのは、歌凜子ですから」

 

 とはいえ、心苦しい事に変わりないのだろう。僅かに力を込めて握られた手に、安田とて思わぬ所が無い訳ではないのだ。

 

「銀香姫と侍従に、愛されておいでなのですね」

「二方とも、私には過ぎた女性だ」

「父様は、立派な御方です!」

 

 言い切る娘に嬉しく思う反面、やはり己というものを知っているだけに、安田は苦笑を浮かべるしかなかった。それは何も、つい先程まで立て続けに晒した醜態の事ばかりではない。

 

「……だがな。黒瀬正継は忘れてしまうのだぞ?」

「承知していたのですね」

 

 ああ、と頷く。大切にしたいと、手放したくないと思いながら、安田登郎として得た全てを零してしまう。安田登郎として得た記憶。手にした幸福は、決して次に持ち越せない。

 黒瀬正継が願ったのは、忘れたくない過去とは消え去った歴史(かこ)であり、黒瀬正継として得たものだけ。

 安田登郎として得たものを失いたくないと願わなかった以上、今生で得た全ては来世で消える。それこそが、女神の課した真の対価なのだろう。

 

「妻との再会も。歌凛子との二度目の出会いも。そして───あの二人に想われたのだということさえ、きっと私は忘れてしまう」

 

 今生の母は優しく愛おしかった。新たな家族は温かかった。老いた妻は、若りし頃と変わらず美しく愛しかった。娘は清く優しい子に育ってくれた。

 出会ってきた全ての者が、善なる人間だけだった訳ではない。けれど、今生で得た十六の歳月からなる思い出は、その全てが輝ける宝石そのものだった。

 

「女神に、再び願う事も考えた」

 

 だが、それは叶わない。叶う筈もない事は、誰よりも安田が深く分かっている。

 愛した記憶を残したいなら、違う愛を手放さなくてはならないと。

 では、輝く宝石(おもいで)の対価はなんだ? 違う愛とはなんなのか? それを、口にはせずに、今も安田は見ている。

 

「……尤も、それをする気はない」

 

 歌凛子こそ、この最愛の娘こそその対価。彼女が娘なのだという記憶。彼女という存在を心から消し去り、無かったものとして二度と触れ得ぬようにしなければ、決して対価には成り得ない。

 手放したくないものの対価は、同じ大きさか、それ以上の愛を以てしか精算される事はないから。

 

「歌凛子は、構いません。父様が歌凛子を忘れても、歌凛子が父様を───」

「馬鹿を言うな」

 

 止めてくれと。そんな顔をするなと娘を抱きしめる。己の都合で、己の満足の為に、どうして娘を傷つけられる。そんな事をする親は、親などと称する資格はない。単に産み落としたというだけの、血の繋がりさえ投げ捨てた他人だ。

 

「良いのだ……父は、お前が生きているという事さえ覚えていれば」

 

 安田登郎が得た全てを手放して───救われた全てが消えるのだとしても。

 

「お前の幸福こそ、父の全てだ」

「では……」

 

 ずっと。黙っているのか? 自分を想ってくれている少女に。愛してくれた多くに、安田登郎が何者かを、そこにある本当の真実を伝えないまま?

 

「いや……黒瀬正継である事は、いずれ話す」

 

 それを隠すと言うんだと、思わず歌凛子は父を睨んでしまう。

 きっと、この父は安田登郎として愛してくれた人を愛し続けるだろう。幸せを与え続けるんだろう。

 でも、その影できっと父は苦しみ続ける。未来永劫、手に入れた幸福を零しながら、こうして娘と、過去に妻と再会したことさえ忘れて、何もしてやれなかったと勘違いしたまま……。

 

「なら、歌凛子は生き続けます。ずっとこの島で、父様を待ち続けます」

 

 そうすれば、父は勘違いをせずに済む。記憶に残っていなくとも、安田登郎であった事を覚えていなくても、綾之峰歌凜子が生き残り続ける限り、この父は必ず新しい人生を、その都度救われて生きて行ける。

 

「それでは、お前の幸せは何処に行く?」

 

 恋をせず、愛を育まず、父以外の男を知らぬまま、ただ遠い島で待ち続けるのか?

 一度死ねば、すぐに生まれ変われる保証などない。現に、安田とて何十年も待たせてしまった。その孤独、その空虚さを、黒瀬が生まれ変わる度、娘に味わわせろと?

 

「父様、歌凛子の幸せは───」

「歌凛子」

 

 優しく。抱きしめた身体を離しながら、父は囁く。

 

「お前の幸せは、お前だけのものだ。決して、父の満足を幸福と偽ってはいけないよ」

 

 良いね? と諭すように。けれど、もうこれ以上口にする事を拒むように立ち上がる。

 

「お前は、お前の人生を歩みなさい」

 

 ───それがきっと、正しい事なんだから。

 

 

     ◇

 

 

「正しいこと……?」

 

 嗚呼、あの父は一体何を言っているのか。親が苦しむ姿を見て、何も思わぬ子が子なものか。

 

「父様は、馬鹿です」

 

 親の心を子は知らず、けれど親もまた子というものが分かっていない。

 誰も居なくなった一室で、歌凛子は残った酒を飲み干した。

 

 きっと。これはすれ違いなんだろう。お互いがお互いを、想ってしまったが故の齟齬なのだろう。

 救いたいと願った娘と。救われなくとも良いと言ってくれた父。

 どちらもきっと正しくて、それが胸を突くように痛かった。

 

「───どうして、子が親を救いたいと想う事を否定なさるのですか?」

 

 対する答えは、聞かずとも判る。

 自分より、お前の方が大切だと───そんな風に、父はきっと笑うのだろう。

 

 それは自分も同じだと言えないまま、歌凛子は俯く事しか出来なかったのだ。

 

 

 




【おまけ。酷すぎてボツになったネタ】

「何時まで居られるかは判らんが、出来る限り、歌凜子の傍に居てやれればと思う」
「本当ですか……?」

 知らず、掴まれた裾。八年も前より待ち望んだその時が来たのだと、歌凜子は感涙に目元を濡らす。

「ああ、本当だとも。お前がどんな我が儘を言おうと、父はお前を嫌いはしないよ」
「嬉しいです! 歌凜子は幸せです! だから───」

 ───しばし、お休み下さいと。

 言葉が耳に届くより先に、安田は猪口をひっくり返した。

「歌、凜子……?」
「我が儘を言っても、嫌わず居て下さるのですよね?」

 艶めかしい音が、耳に届く。幼く、無邪気に話しかける思い出の中に居た娘では、決して出せない声が。

「歌凜子は、いつも父様を『視て』おりました。母様の記憶の中の凛々しい父様を、歌凜子を腕に抱く優しい父様を、生まれ変わりながら変らず逞しい父様を」

 こうしてずっと、触れたかったのだと馬乗りに跨る。

「父様。母様が今の世の父様を選んだのは、その種が最も私を強くさせたから」

 巫女姫として、次代の巫女姫により強い力を託させたのが切っ掛けだと言う。

「歌凜子も、それに倣い相応しい相手を占わねばなりませんでした」

 それが、どうしても嫌で仕方がなかった。母はその相手ならば幸せになれるという事を知っていたし、現にそうなった。だが、歌凜子もそうなれるという保証はなかった。

「だけど、歌凜子は幸せ者です。一番のお相手が、父様だと知ったのですから」

 この世で誰より愛しくて堪らない父が、その相手なのだと知っていたなら───

「───絶対に。綾之峰の姫に相応しいなどと伝えなかったのに」
「あの、占いは……」
「出任せではありませんよ? 現に父様は姫を助け、その心を射止めたのでしょう? とはいえ『視た』のは『綾之峰の姫君を、その縛鎖より解き放つ』という点のみでしたが」

 いずれにしても、失敗だったと歌凜子は語る。

「父様。歌凜子は父様と同じく、業深い女なのです」

 娘でありながら、父を愛さずにいられない。そんな子なのだと語るが、確かに可笑しいとは思っていた。年頃の娘ならば父を嫌うというのは知っていたし、何より歌凜子は前世を併せても安田以上に生きている。そんな娘が、ああまで父を慕い甘えるだろうか?

「いや、待て……流石にそれは待て!?」

 如何に男にも躊躇いなく手を出す屑親父のダメ男と言えど、溺愛する娘に食われるのは望んでいない。屑は屑でも、家庭の中では良き夫、良き父で有りたかったのだ。

「待ちましょう。歌凜子は、我慢できる良い子です。一秒? 十秒?」

 それは待つとは言わない!! と全力で身を捩ったつもりだが、僅かに腕が動いたのみだった。

「巫女大将───!!? 今こそお前の出番だ! 私を半殺しどころか、簀巻きにして沈める絶好の機会だぞ───!!」
「駄目ですよ、父様。あんな大した事のなかった、乳だけ無駄にデカい女に助けを乞うては」

 当人が訊けば、巫女姫だろうと全力で蹴りを入れかねない発言だが、乳に関しては肉体年齢が止まった時期に寄る所が大きいだけだろうと思う。少なくとも凛は巫女大将と比べても差のない乳だった。どっちも揉んだ事があるから知っている。

「あらあら、歌凜子の身体は父様と同い年なのですよ? 子供のように見られたくありません」

 若干恨みがましく首を締め上げながら、訂正しろと目で訴える。本島での食生活が母譲りの身体になる事を阻害したのかもしれない。思えば、確かに膳は美味だったが肉は少なかった。

「か、歌凜子は……充分、母譲りの美人に……ぐえ!?」
「まあ、御上手!」

 締め上げられたアヒルは、きっとこんな声を上げるのだろう。頸動脈でなく気道が閉まっているだけに、落ちてこれから起こるであろう痴態を見ずにいるという事さえ出来なかった。何より、目元が怒った時の母譲りなのが怖い。とにかく怖い。

「な、なあ。歌凜子? 父と添い寝がしたいとか、そういう口に出せない愛らしい理由で一服盛ったのだろう? これは悪戯なのだろ?」

 というか、お願いだからそうであってくれー!! と全力で叫びたかった。
 しかし、歌凜子は笑いながら頭を振る。

「既に分家の息子と一夜を共にしておきながら、娘と褥に入るのを躊躇わずとも」

 確かにどちらも社会的にアレであるが、安田にとっては男より娘の方が不味い。何が不味いって父としての尊厳が不味い。
 征麻呂に対して憤ったり、征綺華を慰めたりした諸々が全部台無しになるのが不味い!
 屑なのは性癖である以上致し方ないとしても、娘に手を出す外道になるのだけは不味い!

「私はだな、歌凜子を愛して……」
「相思相愛ですね!」
「娘として、だ」

 流石にもう叫ぶ気力もないのか、息が荒い。荒いのは馬乗りのまま衣擦れの音を立てる娘の身体を見たせいではない。決してだ。

「でも、父様も私が嫁に行くのは嫌だったのでは?」
「……そこは否定できないが」

 少なくとも、己より出来ぬ男に嫁がせる気は絶対になかっただろう。帝大出か、そうでなくとも同じ恩賜組や陸大でこれはという男の中から、性格の良い者を選りすぐったに違いない。
 それでも居なければ海さんにだって頭を下げる。娘の幸福はあらゆる問題を優先させるのが親バカなのだ。

「それは、偏に歌凜子の幸せをだな……」
「歌凜子は今、幸せですよ───だから、受け入れて下さい」

 若しくは、大人しく諦めろと、ムードも何もあった物ではない言葉のまま、安田登郎は正真正銘の屑の仲間入りを果たす事になるのだった。


没ネタを見た友人の反応

キリ○タンな友人「近親相○とか最低だと思います」
作者「お、そうだな」(ソドムとゴモラ読みつつ)




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Attack 13 嫁いびりは酷いのであります

「巫女大将殿……」

「よくも歌凜子様を悲しませてくれたな」

 

 奥の間を出ると同時、開口一番憎々しげに詰め寄られたが、安田とて節を曲げる気はない。親は子の幸せを願うものであって、子の未来を閉ざすものではないのだ。

 

「子が親を想ってはいかんのか?」

「嬉しくは思います。ですが、思うに留まって貰わねば」

 

 子の幸せにならぬ姿など、親にとって不幸以外の何物でもない。目に入れても痛くないほど愛おしいからこそ、苦しむ姿は耐え難いのだ。

 恋を知り、愛を育み、生まれて良かったと笑いながら息を引き取る人生こそを、誰より望んでこその親なのだから。

 

「言っても無駄か……まぁいい、引いてやる。が、その辛気臭い面のまま島で過ごされては敵わんのでな」

 

 着いてこいと、強引に安田の腕を取った。

 

 

     ◇

 

 

 その場を表すならば、巫女らの修練場というより、格技場と称する方が相応しいだろう。壁には幾多もの武具がかけられ、丁寧に磨き上げられた床には、幾重にも刻まれた疵が見えた。

 

「貴様は知っているだろうが、我ら巫女の力は泉の女神より賜った物でな。祈祷や星読みなどという物は、まぁ外聞を誤魔化す飾りだよ」

 

 尤も、だからと言って綾之峰の為に未来視による報告のみ行い、惰眠を貪る訳にも行かない。曲がりなりにも巫女として綾之峰の庇護下にある以上、相応の挺身が要求される。

 

「とはいえ。それが役立った事など、一度として無かっただろうがな」

 

 未来を視るという事は、外敵の芽を未然に摘み取れるか、或いは先手を常に打ち続けられるという事であるし、何にも増して貴重な巫女を、むざむざ使い捨てるほど綾之峰も馬鹿ではない。

 

「時間だけは有る我らだ。より素養のある者と代替わりするのが大凡半世紀。長い者は百年ほどにもなる」

 

 その間、唯々研鑽を重ね続けた。使いもしない芸を磨き、育ちもしない全盛期の肉体に、ひたすら戦の技術を仕込み続けたのだと。

 

「貴様と初めて会った時は、巫女として日が浅かったが───」

 

 ───こと武芸に関しては、今は私が上だと笑った。

 

 

     ◇

 

 

「うーむ。良い機会なのでマイシスター共々稽古をつけて貰うつもりだったのですが、やはり本島の巫女は違うでありますな」

 

 ぶっちゃけ、化け物でありますとジーヤは両手を軽く上げるが、彼女とて息一つ切らしてない上、無手に限っての事である。得物を持てば話は変わるし、正面切っての尋常の立会いでなければ幾らでも勝ちを拾える事は、巫女らも十二分に弁えていた。

 

「こ、の……無駄にデカい乳揺らしてる癖に、何で元気なんだ……」

「マイシスターと違って、ジーヤも巫女さん方も動きに無駄が無いのでありますよ」

 

 翻弄され続ける側と動かぬ側。消耗が激しいのがどちらかなど論ずるに足りず、故に芹沢だけが息を切らす形となった。

 

「芹沢ー! 疲れたら休んで良いと思うぞー?」

「いいえ! 銀香様と英里華様の前で無様は晒せません!」

「おお! 安田少年にも劣らぬガッツに、ジーヤは目を輝かせながらマイシスターを千尋の谷に突き落とすのでありますよ! 具体的には夕餉までの残り三時間、ぶっ通しで乱取りであります! ジーヤと巫女さん方で回しに回すで有ります!」

 

「ジーヤ殿。申し訳ないが小休止だ」

 

 その声に、ジーヤはおや? と目の色を変えた。

 巫女大将。紛れも無い本島最高の実力者が、木刀片手に進み出て来たのだ。

 

「手心を加えず居られる相手は、ジーヤも大歓迎でありますが」

「ナイフを仕舞え。ジーヤ殿が相手では本身を抜かざるを得ん」

 

 残念と戦闘ナイフを鞘に納め、巫女大将の陰に隠れていた男を見やる。

 

「安田少年が相手でありますか」

「母は古武道。父は空手を嗜むそうだ」

 

 尤も、安田個人はいずれも親の勧めで嗜んだに過ぎない。父の空手は幼少時に、防具を纏い兇器を握る相手には不利と断じたし、何より己に合わぬと早々に見切りをつけた。

 母の古武道は確かに学ぶところこそ多かったし、安田自身母の為と真剣に打ち込みはしたが、結局母の道場仲間の伝手を借り、前世に学んだ父と同門の剣と、士官学校時代に熱を入れた柔道に落ち着いてしまった。

 

「私自身は(これ)も含め、いずれも言葉通り嗜む程度ですが」

「構えろ」

 

 謙遜か否かは、見れば判るという事か。あれだけ熱が籠もるほど犇めき合っていた格技場の者らは、既に英里華ら同様壁際に下がっている所からしても、見物だと思っているに違いない。

 礼を取り、互い正眼に構えた。防具は互いになし。素面素籠手で木刀による地稽古。

 寸止めとの取り決めこそしているが、万一があれば大惨事になる事は確実である。

 

「せめて鉢金を巻かれては?」

 

 と。木刀を取る前に伺いはしたが、要らぬと一蹴されては致し方ないと安田も諦めた。

 

“傷を負わせず、終わらせれば良いが”

 

 難しいだろうなと、安田は巫女大将の構えから悟るのだった。

 

 

     ◇

 

 

 礼を取り、正眼に構える安田を視界に収めた直後、巫女大将のみならず、居並ぶ巫女らもまた、この若さでと息を漏らした。

 視線を読ませぬよう開かれた半眼。上体に揺れはなく、力みのない構えと根を張るかの如き重心が、安田の力量を物語る。

 

“柳生に似ているな”

 

 当たらずとも遠からず。確かに黒瀬の父は柳生の門下として教えを乞い、彼自身も父から直々に手解きを受けていた。

 正調の柳生でないのは、士官学校以降剣道の場でしか剣を執る機会が殆どなかった為だ。

 両手軍刀術制定は大正元年。第一次世界大戦を二年後に控えるこの頃、既に日露戦争で実績を収めた黒瀬正継は将校として多忙の日々を送っていたし、柳生厳長が近衛供奉将校団師範を勤める近衛師団に配属されてからも、やはり剣を執る機会には恵まれなかった。

 あくまで柳生は土台。上に積み上げたのは剣道である為、石垣から城まで古流で固められた巫女大将には、少々ちぐはぐに思えてしまう。

 

“だが、人を斬った事はある”

 

 そういう眼を、安田はしていた。しかし、安田にそれを問えば不快な顔をしただろう。

 確かに斬った事はある。が、それは『忘れていない』事を知った先々代当主が彼を死地に送り、最早自決か突貫かを最後の最期で選んだ先に得た奇跡に過ぎない。

 足駆けの途中斃れれば良いものを、腹から(わた)を零しながら卑しくも一矢報いたいという我が儘で食い下がり、死なせる事のなかった者を二人も殺めたのは、彼の生涯では誉れでなく恥とすべき汚点だった。

 

「打たんのか?」

 

 静止したままの安田に問う。同時、安田の剣が巫女大将の右籠手……否、右指を捉えていたが、果たしてそれをこの場の幾人が見て取れたか。

 水面を滑るかのような歩法で詰めた斬り間もさる事ながら、動けば必ず眼や肩に生じる『起こり』を見せぬ手管は、齢十六では到底為し得ぬ技芸である。

 

 斬られた。と、芹沢と若輩の巫女らはその瞬間、真剣であれば巫女大将の指が落ちただろうと幻視した。

 だが、それを否と見たのはジーヤ含む古参巫女であり、彼女らの読み通り、正確に刃筋を立てて打った安田の剣は、半身となって下がった巫女大将の剣に絡まり釣られ、返す刃を喉に放たれる。

 

“平突きか”

 

 これを動じず、打たれながらも目を開き続けるボクサーが斯く在るように、安田もまた確と目を開いて、横に躱さず下に潜った。

 仮に安田が半身を開いて紙一重で躱したならば、平突きはそのまま横に薙いで頸動脈を掻き斬ったに違いない。

 

涎賺(よだれすかし)!”

 

 剣を担ぎ、懐に潜り込んで神経と血脈の溜まり場である腋下を斬る柳生の妙技を、巫女大将が知らぬ筈も無い。正調の剣士たれば、この瞬間勝ちを譲らねばならぬ事を、巫女大将は弁えていた。が、弁えられるほど巫女大将は潔い女ではない。

 

「このッ……!!」

 

 強引に繰り出された足蹴が、安田の股下を捉えんとする。

 だが、巫女大将がそうであるように、安田もまた正調の剣士でなく、軍人として勝ちを狙いたいという欲と、女には負けたくないのだというプライドから剣を手放した。

 

「武のみであれば、確かに私が劣ったでしょうが」

 

 勝利を欲する意地汚さは、安田が上であったらしい。

 繰り出された足を素手で掴み、残る軸足を払うと、そのまま足首を捻って俯せに返し、背を踏みつけて無力化した。

 

「続けられますか?」

「いや。負けだ……だからとっとと足を離せ」

「……失礼を致しました」

 

 捲り上がった袴の内を見ないようにしながら、安田は手早く足を離す。

 

「うわ。巫女さんってホントに穿いてないんだ」

「貴様は少し黙っていろ」

 

 空気を読まず漏らした征綺華に、芹沢がツッコんだ。

 

 

     ◇

 

 

 ジーヤ殿以外では初黒星だと漏らした巫女大将だが、安田とて本気でない事ぐらい判る。 仮に巫女大将が本当になり振り構わず出れば、それこそ安田を『視』通す事で全ての出方を予見し得た筈なのだ。

 フォローがてらにその事を話すも、巫女大将は武という己の土俵で眼を使って負かすというのは論外らしい。

 

「だが、勝ち逃げされるのも気に食わん」

 

 負けず嫌いなのは結構だが、安田としても()()()()()()にはあれが精一杯である。

 何しろ、彼自身は決して武で身を立てようとは思っていなかったし、衆目を集めたかった訳でも無い。

 黒瀬として生きた当時は、文武両道が国是の如く尊ばれていた為と家柄故に努力していたに過ぎず、個として武芸を磨くより、将校としての質を高める事に重きを置いていた。

 不断の努力が実を結び、古流の門下や講道館仕込みの柔道家とも互角に立ち回れた事に喜びを感じない訳ではなかったが、宝蔵院で免許皆伝にまで到った、山縣有朋元帥ほど直向きであったかと問われれば否だろう。

 

 余談が過ぎたが、何が言いたいかというと、現条件下での先の結果は安田にとって大金星であり、そのような結果が後に続く筈も無いという事だ。

 見せられる小技にも限りがあるし、動きも眼が慣れれば追い着けぬほどではない。

 序盤は拮抗。後に優勢から常勝まで巫女大将が漕ぎ着けるのには、指して時間はかからなかった。 

 

「体力は巫女大将が、力は安田少年が上。動きの精彩も概ね互角。しかし手札の数が、その後の明暗を分けたでありますな」

 

 とはジーヤの弁であり、安田にとっても否定し得ぬ事実であった。

 

「気を落とす事はないで有りますよ。ああ見えて、巫女大将はジーヤより年上で有りますから」

「へー。若そうだけど、実はオバ、」

 

 と。軽率にも口にしかかった征綺華の髪を掠めながら木刀が飛んだのは余談である。

 

「歳は関係ありません。私が未熟であったのです」

 

 そもそも、齢云々を言うなら安田も反則なのだ。前世を含めれば二十そこいら程度の差でしかないにも関わらず、女人に打ち負かされたとあっては安田とて面白くなかった。

 

「明日以降、私も稽古に参加しても?」

「安田少年は二重の意味で歓迎されると思うであります。本島に殿方が参られるのは非常に珍しいで有りますから」

 

 七ツ口男をおいしそうに見る……などと大奥で詠まれた事があるというのは安田も耳にした事があるが、この島もそのようなものなのだろうか?

 

「一応僕も男だけどねー」

「征綺華少年も参加したいのでありますか?」

「え~? やだよ、爪割れちゃいそうだし。汗で肌が蒸れちゃう」

 

 実に年頃らしい意見である。身体的構造が男である事を除けば、と付くが。

 

「……そもそも。なんで貴様はここに居るのだ?」

「だって暇だったんだもん」

 

 これもまた、実に現代っ子らしい発言であった為に、聞いた芹沢は深く息を吐くのであった。

 

「とにかく、安田は女ばかりだといって目尻を下げんようにな」

「それだけ聞くと、旦那さんを信用しない奥さんみたいだよね」

「……うるさい」

 

 先程と違い、声に覇気がなかったのを征綺華は笑った。

 

 

     ◇

 

 

 逢魔時を過ぎるまで鍛錬を続けた後に夕餉を摂り、残すは入浴と就寝となった間際。

 銀香、芹沢両名は巫女姫たる歌凜子に呼ばれ、奥の間へと通されていた。

 

「……何の用だと思う?」

「英里華様でない事からして、家がらみでない事は間違いないかと」

 

 鬼の居ぬ間に小声でやりとりを交わすが、この組み合わせというのが少々気掛かりである。具体的には、話題に挙がって欲しくない人物(おとこ)を出される可能性があった。

 

「『視た』通りの時間に来ておるようじゃの」

 

 感心感心と老婆のように頷くが、それを肯定しようものなら雷が落ちること請け合いである為、両者とも粛々と押し黙っていた。

 しかし、空気が重い。声ばかりは明るい歌凛子だが、その機嫌が何時にも増して悪い事を二人は目聡く感じ取る。

 

「銀香姫とバヤリー嬢。其方らを呼びつけた理由は判るかえ?」

 

 判らぬと言えば察しが悪いと罵られ、判ると言えば、仮に正解であろうが無かろうが色恋に絆されおってお叱りを受けるに違いない。しかし、言わねば進まず一層機嫌を悪くするに違いないと、口を開いたのは芹沢からだ。

 

「おそらく、本島に参った部外者の事ではと」

「うむ。しかし銀香姫、侍従が盾となってくれるのを良い事に押し黙るのは感心せんの」

 

 そう来たか、と銀香のみならず裏目に出てしまった結果に芹沢も内心舌打つ。

 一体何が気に食わないのか。巫女大将を下がらせた歌凜子は豪快に胡坐など掻いていただけに、今日は厄日かと二人は我が身の不運を嘆いた。

 

「それで、安田がどうかしたのですか?」

 

 英里華とは違い、ややぎこちない敬語で問う銀香に、歌凜子は一層深く渋面を作った。

 

「……もしや、安田が何か粗相を?」

 

 有り得ると芹沢は思い口を開く。巫女大将がやけに辛辣であるのも、おそらくはそうした理由かと思ったが……。

 

「馬鹿な事を申すな。あれは出来る事なら、終生この島に繋いでおきたいぐらいじゃ」

 

 それはそれで多大に問題であると思う。具体的には貞操的な意味で。

 

「あれ? でも、巫女大将には凄く嫌われてたような」

「あれは致し方あるまい。巫女大将の怒りは尤もなのでな、我も厳しくは言えんのじゃ」

 

 出来ればその辺り深く聞きたい所ではあったが、それは本題ではないので今は置いておけと脇に退けられる。

 

「まぁ、呼び付けたのは確かにあの者の事よ。銀香姫は、昔占ってやった事を覚えておるかの?」

「ええ、まぁ……正直、騙されたと思いましたけど」

「何を言う。あれ以上の男子を見繕えなどと、無茶も良い所じゃぞ?」

「いや、確かに歌凜子様ぐらい保守的な人なら受けるんでしょうけど、どう見ても王子様って感じじゃ……」

「知らん。我が占ったのは『綾之峰の姫君を、その縛鎖より解き放つ』という事だけじゃ。

 理想の男児とは付け加えたし、綾之峰の学園に通えば会えるとも伝えたが、其方と英里華姫が妄想して止まぬような、窮地に参る白馬の王子などとは一言も言っておらん」

 

 ここでそれバラすんじゃねえ……!! と長年抱えていたヒロイン願望を暴露された事に羞恥の入り混じった苛立ちを込み上げたが、芹沢にしてみれば隠していた積もりだったのかと僅かに目を瞬かせた。

 不敬は承知であるし、主が居る手前間違っても口にはしないが、シェイクスピア吟じたり、夜な夜な窓を開けて星に向かって手を組んでるようなメルヘン全開の痛い女が、今更何を言っているのかという感じである。

 

「なんじゃ? 不服なら捨て置いて他を当たれば良かろう。何なら占ってやっても、」

「い、嫌だ……!」

 

 思わず叫んでしまったが、こればかりは仕方ないと芹沢も思う。そう簡単に手放せるようなら、彼女とて恋敵としては見なかった筈だ。

 

「……そんなに良いか。あの者が」

 

 しかし、銀香の心からの叫びを聞いても歌凜子は渋面を深く刻んだままであり、これには芹沢も眉を顰めた。確かに歌凜子は厳しいが、同時に優しさも持ち合わせている事は、幼少の頃よりここに通っていた彼女も知っていたからだ。

 

「歌凜子様は、銀香様の幸せを願われないので?」

「バヤリー嬢はそれで良いのか?」

 

 不覚にも、言葉が詰まった。綾之峰銀香の幸せを願っているかと問われれば、確かに願っている。だが、即答するにも、胸に抱えた想いが大きすぎた。

 

「良いって、気を遣わなくてさ」

 

 何も思わなかった筈がない。ただ自分の幸せだけを求めていたら、きっと芹沢はあんな事をしなかっただろう事ぐらい、銀香にも分かる。

 報われるのも、願いが叶うのも一人だけ。きっと、どちらの想いが届いたとて、これまでのような関係を続けられないのだとしても。

 

「歌凜子様。私達は───、後悔だけはしない」

 

 それだけは、どんな未来になったとしても確かだと、銀香は胸を張って答えた。

 

 

     ◇

 

 

「そうか……ああ全く、これでは我が悪者のようではないか」

 

 いや、どっからどう見ても終始悪者だったじゃないかと二人は顔を見合わせかけたが、歌凜子が眦を吊り上げた為に目を逸らした。

 

「まぁ、許せ。正直に言うとだな、これは嫉妬という奴じゃ」

「え……? 歌凜子様、今お幾つでしたっけ?」

 

 歳の差考えろよどんだけ若いツバメ食いたいんだババアという言葉を、寸での所で飲み込むが、ダンッ! と歌凜子は勢いよく立ち上がる。

 

「女子同士とはいえ、齢を問うでないわ……ッ」

 

 陰でロリババアと幾度となく囁かれていたが、流石に当人も気にしていたらしい。次第、落ち着いたように置かれた茶をずず、と啜る。

 

「何か、飲み方が安田と似ているような……」

「ん? ああ、もう良い。どうせ其方らには話すつもりじゃったからの」

 

 何を? と怪訝な表情で言葉を待ち。

 

「あれは我の父様じゃ」

「「は……?」」

 

 思わず。敬語さえ忘れて首を捻った。

 

「おい……これってあれじゃねえの? いい年こいた大人が、店でパパとかママとか言って、甘えたがるのが居るって週刊誌とかドラマで目にするアレ」

「見た目が幼い分マイルドになっていますが、最低でも十数歳は離れているだけに、犯罪臭が漂いますね」

「陰口なら聞こえぬように言え……!! 正真正銘の実父じゃ!!」

 

 いやいや有り得ないだろと二人は首を振る。万里華が学生であった頃から既に懇意にしていた星読みの巫女姫だ。十六の安田が親になるには明らかに無理がある。

 

「こやつら、ここぞとばかりに言いたい放題言いおってからに!!」

「だって」

「ねぇ?」

 

 からかいたいというのも有ったが、流石にこんな事を大真面目に言われては戸惑いの方が先に来る。無論、言われた通り日頃の鬱憤を晴らしたかったのも否定できないが。

 

「……荒唐無稽は承知の上じゃが、泉の女神絡みとなれば別じゃろ?」

 

 確かに肉体が二つに分かたれた銀香自身、言えた事ではないのは事実だが。

 

「じゃあ何か? 安田はタイムスリップでもしたか、前世の記憶でもあるってのか?」

「正解は後者じゃ。其方らとて、心当たりが無い訳でもなかろ?」

 

 確かに、銀香は知っていた。安田登郎は忘れない事を女神に願ったのだと、他ならぬ彼自身の口から聞いていたから。

 

「確かに、安田は一介の学徒にしては出来過ぎる嫌いがありましたが……」

 

 認めたくない、というのが芹沢の本音だろう。歌凜子の言葉が真実ならば、数十年も歳が離れているというのもあるが、それ以上に娘の居る既婚者でもあるのだ。

 

「その件に関して案ずる事はない。父様は既に、今の世で新たな人生を歩むと亡くなった母様と誓うておるでの───まぁ、諦めてくれるなら我も嬉しいが」

「それだよ。歌凜子様が娘なら、何で安田の恋路を……ああ、別に可笑しくはないのか」

 

 要するに、父親が好きで堪らなかった娘の元に、父親が再婚相手に自分より年下の女を連れてくるようなものだと考えれば、歌凜子が不機嫌になるのは何となく銀香にも判る。

 

「でも。だったら何で私の相手として占ったんだよ?」

「……一つは、諦めかの。占い自体に嘘偽りは無い。だからこそ我も断腸の思いで、綾之峰の姫ならば父様に相応しかろうと、そう言い聞かせた」

 

“父親への愛が重すぎる……”

 

 初恋の相手がお父さんで止まったまま、拗らせ切ったファザコンの娘というのはこんな感じなのだろう。

 親離れ出来ない娘と、親馬鹿な父が見事なまでにダメな方向に進んだ結果がこれだ。

 当の父親は娘に対して思春期に嫌われるという経験を経ず、昔のままの愛娘でいてくれる事に何の危機感も抱けないまま可愛がっている事が、一層拗らせる要因となっている事に気付けていないのが哀れですらある。

 

「ですが、それなら何故私まで御呼びに? 歌凜子様の占いでは英里華様……というより、銀香様がお相手だったのでしょう?」

「今の世の未来は、決して確定されたものではない。だからこそ、ここには幾人もの巫女が詰め、絶えず新しい未来を『視て』おる。バヤリー嬢。幼い頃父様に初恋をしても、再会した後では恋心など抱く筈のなかった其方が良い例じゃ」

 

 誰かが未来を知り介入すれば、そこから変化が起こる。だからこそ、星読みの巫女は一度だけでお役御免にはならぬし、定まらぬからこそ介入した先で勝者となれる。

 

「大まかには理解出来ました。しかし、今の世とは?」

 

 初恋云々は少々照れ臭かったが、過去と同じ気持ちを抱いた今、そこは重要ではない。芹沢が口にした問いこそが、星読みの巫女姫が自分らを呼んだ核心なのだと感じ取った。

 

「……今も、結末は定まらぬ。それが良い事か悪い事かは判りかねるが」

 

 芹沢と銀香。二人のどちらが安田と結ばれるか。それは、歴代で最も強大な力を持つ歌凜子にさえ見通せぬ未来だ。

 

「其方らには、等しく父様の夫となる道はある。

 故に、問おう───これより先、語る真実を受け入れる覚悟はあるか?」

 

 この問いに意味がない事を、歌凛子は二人の眼差しを見て笑った。

 

 

 

 




 原作の巫女はちゃんと(ちゃんと?)褌着用しています(図解有)
 なお、単に巫女大将がそういう趣味だった可能性も微レ存。


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Attack 14 過去回なのであります

 日露戦争以後、国内……少なくとも軍部は大いに沸き立った。

 賠償金を得られず、国民の生活が貧しくなったことも、戦争費用による借款も多大であったことも、まるで存在しなかったかのように、陸海は共に拡充の道を進むことになる。

 それが、後の世に負担を強いることになる前借りという事実が隠された物であることを知っていたのは、急死した児玉源太郎大将を代表とした幾ばくかの現実主義者と、国防方針に意見を組み込むことを許されなかった、政治家・閣僚の有識者達だろう。

 加え、日本という国は折り悪くというべきか、第一次大戦によって日清戦争後、ドイツに略奪された青島を占領。列強が骨肉の争いを繰り広げる最中、中国利権をほぼ一国で得られたために、財政面で逼迫しながらも国家基盤が崩れず維持し得る程度の資金を稼げてしまった。

 だからこそ、というべきか。国家も国民も、或いは危機を知っていた政界さえも、この音なく国家に走る亀裂が、修復可能なのだと過信してしまった。

 

 故。だからこそ、と重ねて言わざるを得ない。運によって得られた光明など、所詮一時のものでしかないのだと、彼らは否応なく知る事となるのだ。

 陸海両軍が自らの基盤拡充の為に敵を求め、南北併進という現実を無視した方針を打ち出した時点で、こうなると判りきっていたツケは、世界恐慌という最大級の荒波によって虚飾に塗れた覆いを流し、危機を白日の元に晒してしまった。

 それだけなら、良い。晒したのならば、縮小という手さえ打てれば良かった。

 しかし、それを快く思わない者も、当然ながら存在した。

 何しろ、予算を削減するということは、栄達の道が狭まるという事である。また、政戦一致を図らず来たことが、政界という内部に敵ありという軽率短慮な者を生み出してしまった。

 軍部のツケという形で出た錆を認めたがらず、国家困窮を己の価値観のみで作り上げた敵に向けた結果が、更に自らの首を絞めるとも分からずに。

 

 

     ◇

 

 

「…………」

 

 紫煙を燻らす。殊更好きという程でもないが、遣りきれぬ事を悩むなら、出来る事をすべきだと意識を切り替えるための一服だったが、失敗だったと苦いる他ない。

 幼い娘は、口にしないだけでこの匂いを嫌っていたフシがある。道を歩けば誰も彼もが紙巻やら煙管やらを咥えているのを目にするが、だからとて好き好んで愛娘に嫌われたいとは思わない。

 

“不思議なものだ。家庭など、持とうとは思わなかったというのに”

 

 元は、父が喀血し、床に就いた事が原因だったと思う。血が途絶えることを、誰より危惧したのは母だ。慶応生まれの父に若くして嫁いだ母は、当然ながら保守的思想を父より染められており、国家以上にお家の大事に重きを置く母にとって、父が結核だと診断されたことは、奈落に突き落とされる心地だったに違いない。

 子を生せと。お小言に過ぎなかったそれが、鬼気迫る物になったのはその頃だ。

 一方、己はそうした幕府存続の時代ではなく明治生まれであった事と、士官学校出という立場から、この頃既にお家にではなく日本国そのものを拠り所にしていたし、北清事変といった騒ぎもあったが為に、耳を貸そうとはしていなかった。

 軍に身を置くは、既に死したるを覚悟しての事であったし、それを尚武の血として肯定したのは、他ならぬ己の父である。

 故、国家大事の今、一個人・一家の行く末などという瑣末に気を揺らすなどあってはならぬ事ですと反駁した。

 病床の父には、来る露西亜との戦いは生る。まずはこの未曾有の窮地を乗り切らねば、少なくとも家庭に時間を割くことは出来ませんと申し立て、父の言質を取らせた上で黙らせた。

 主を持つ以上の、より深い大義に生きよと納得した父と違い、親不孝と陰ながら母に泣かれた事は堪えなかった訳ではないが、この頃は陸大での勉学でそれどころではなかったのだ。

 

 ただ。これに関しては己のみでなく、軍人として身を立てる者であれば、ある程度肯定される意見であったし、誉れある恩賜組の一員として、忠勤に励んだ事が間違いであったなどと毛ほどにも思わない。

 日露戦争による国民の批判は確かにあるが、あれによって列強は立場を変え、日本国は五大国の一員にさえ加われたのだ。

 若かりし頃の己は、今振り返れば天狗となっていたのやもしれない。大日本帝国の輝かしい歴史の一助となれたこと。直属の上官のみならず、多くの将官から期待を向けられ、部下から羨望の眼差しを向けられた事。

 そうした中で、ただ酔い切っていた己は何と愚昧であっただろう。確かに勝利は極上の美酒であったのだろう。しかし、その酔が醒めた後を、どれほどの者が理解していたか。

 

「貴方?」

 

 知らず、戸を潜った自分を妻は夜分遅くにも関わらず、出迎えてくれた。

 いつ戻るか分からぬし、帰る事も出来ぬ日とて多いので、寝て構わないと常日頃より言っているのだが、この妻が出迎えぬ日はなかった。

 

「ああ、済まないな」

「滅相もありません」

 

 このやりとりとて、何時もの事だ。謝意を素直に述べても、殿方にそのような事を言わせたくないと妻は恥じる。

 だが、家庭を顧みれぬのは己の不徳である以上、述べずにいるのは道理が立たぬと思うし、己自身が許せぬのだから、我が儘と聞き入れて貰いたい。

 

「睦まじいこと」

 

 そんな自分たちを見てか、母はコロコロと嗄れた喉で笑う。

 

「母上、歌凜子は寝ましたか?」

「ええ。(なお)を待ちたいと駄々を捏ねていましたが、早く寝れば朝に会えると言えば、それはもうころりと」

 

 直と未だ幼名で呼ぶ母の顔は穏やかなもの。真っ直ぐ伸びよという願を掛けて付けた直真の通り、四尺六寸(約一七五センチ)の長躯となり、天井にぶつけかねぬ身となって尚、この母にとって己は稚子のままなのだろう。

 そうですか、と笑みを返し、灯りをなるだけ入れぬよう薄く戸を開けて入り込む。

 薄い布団で寝息を立てる娘の髪を、ただ静かに撫でた。

 

 歌凜子……『歌』は母から、『凛』は妻より一字を貰い、それで良いかと思うたが、妻は他の子らと仲間になれるよう、流行りの『子』を入れた。

 当世風とも言えぬ変わった名だが、今は愛しくて堪らぬのだ。

 

「人は変わるものですね」

 

 嫌味ではない。本心のものとして漏らした母に、己も頷いた。

 

「今は妻も娘も、愛しくてなりません」

 

 母を相手にとは言え、斯様に軟弱な言葉を漏らす男と知られれば、周囲より落胆と怒声が聞こえかねぬが、聞き咎める者など居る筈もなし、相好を崩して本心を吐露する。

 日露戦の後には家庭を持つと父母共々と約定し、家宝『吉岡一文字助光』にて指を切って血判を押した程であり、要はそれほどまで家庭を持つ事に消極的であった。

 それが今やこれなのだから、この母には頭が下がり通しである。

 

「そうでしょうとも。凛様は、本来ならば我ら黒ノ瀬の主たる御家のご息女なのですから」

 

 全くその通りでありますと一二もなく頷く。明治以降、士族の多くが事業に手を出しては倒れて来たが、妻である凛の家もまた、その例に漏れず自転車操業で糊口を凌いではいたものの、いつまでも続く筈もなし。

 かといって、出自卑しい成金の世話になるには、御家柄が邪魔をしたのだろう。

 結果。地元の士族でも、父が師範学校を難なく出た為に地に足が着いていた黒瀬家と……より正確には、将校として出世頭となった自分に縁談が回ってきたのだ。

 藩閥でないにも拘らず恩賜組の一員となった事から、地元では時の人として扱われていたのも大いに買われたのだろう。

 世が世であれば、それこそ平身低頭でご奉公せねばならぬお家のご息女を妻に迎え入れるなど考えられぬ話である。

 如何に数多く勲章を頂き、年金も含めた銭を持っているとは言え、それで喜ぶのは親だけの話。決して色男でもなければ面白みもない男を、うら若いご息女が好くとは到底思えずいたのだが……。

 

「一体私の何が良いやら、未だ皆目検討が付きません」

「直や。巷では恩賜組だの、神算鬼謀だのと煽てられているようですが、頭が固う御座いますね」

 

 お恥ずかしいと、お叱りに粛々と頭を下ろす。

 

「妻に問うても、ただ笑われるだけでして」

「凛様は、心の裡が解るお方で御座います。直は仕事以外で口を上手く回せませんが、それは嘘をなるだけ伝えたがらぬ、一途さである事を承知しておいでなのです」

 

 男尊女卑が罷り通る時代である。常に妻子を案じ、慕い、囁かなものであれ睦言を交わし、遠方に赴けば絶えず文を送る。

 それだけでも、母の時代からすれば十分と言われればそれまでだが、それは軍部の方針で海外留学に赴いた傍ら、他国における夫婦の在り方というものに感化されたからに過ぎない。

 

「私は、斯様な男では御座いません」

 

 元より、他者に対し横柄に振舞うことを嫌っていた事も大きい。嘘を吐きたがらぬのも、軍人としてはともかく、私人としては譎詐奸謀の働かぬ男でる事を自覚している為だ。

 

「知っております」

 

 ピシャリと言われ、背筋に氷柱が突き立ったかのように、心なしか一層ピンと背が張った。じとりとした汗が、軍人刈りの頭からコメカミヘ伝う。

 

「ですが、それは家庭を持たず居た頃の話。凛様にも、ご納得頂いております……とはいえ、女人ならばいざ知らず、陰間まで買ったのは頂けませんが」

 

 女も男も一度だけです、と口に仕掛けたが飲み込んだ。一度であろうが三度であろうが、不純不潔に相違ないのだ。

 一体若い頃の己は何を考えていたのか……いや、単に色を欲していただけだろう。そして買った女というものが指して上等でなかったが為に趣向を変え、陰間でも特に若く麗しい者を買い、結局そこまで楽しめるものでもなければ、時間も金も馬鹿にならぬと仕事に精を出したのだったか。

 思い返せば、悉く愚かさが目に付き、目に余るものであったが、己の恥以上に問題なのは母の言である。

 

「その、妻は知っておいでで……?」

「売れ筋の陰間を腰砕けにした挙句、岡惚れさせたと有名でしたよ。男の甲斐性ですのでと、凛様は流しておいででしたが、その日は懐刀を忍ばせておりました」

「……妻の元へ出向かせて頂きます」

 

 そうなさい。と半目となった母の言を背に、その場を心なし足早に後にするのだった。

 

 

     ◇

 

 

 かくして。洗い浚い過去の不純をぶちまけ、許せぬなら腹を召しますと匕首を置いた己に、妻は過ぎた事ですと笑うが、しかし目が笑っていない事は判っていた。

 女子より少年がお好みのようで、と小言を言われた方が何倍もマシである。或いは素直に腹を切った方が楽ですらあったが、母の言う通り、妻は心の裡というものが解るのだろう。己の胃と良心が、斯も痛くなる方法を心得ていた。

 楽に終わると思うてくれるなと。釘を深々と木槌で打ち込まれる心地であったが、全ての非は家庭を持つと約定を結びながら、清い身に在らず一時の情欲に流された己にある。

 

「貴方」

 

 声をかけられ、居住まいを正す。見れば、妻の視線は置かれた匕首にあった。

 やはり気が変わったので、腹を詰めろと申すのだろうかと考えたが、目が先程までとは違う。

 

「……何やら、御加減が優れぬご様子ですが」

「判るか……」

 

 そうだ。いっそ腹を切れればと、妻とは関係なく、そう思っていた。

 それが卑怯な逃げであると、誰より分かっていた為に出来なかっただけで。

 

「先日、陛下の行幸に扈従させて頂いた」

「はい。近衛の配属のみならず、侍従武官に任官されて以来の、喜ばしい事で御座いましたね」

 

 そうだ。己は他の武官らと同様、天にも昇るかの心地で同行し、そして……

 

「ここから先、他言無用に願う……言った処で、気狂いと思われるだろうが」

 

 歯切れ悪く、しかし目を逸らさず、起きた事を語る。己自身でも信じられないがと念を押しながら。

 

「あの日、皇紀元年の頃より湧く泉に、皆で足を運んだ。陛下が、呼ばれたのだと仰られたのが理由だ」

 

 朱塗りの鳥居の奥に湧くその泉は澄み切っており、その輝きは西欧、ドイツに伝わるニーベルンゲンの歌に描かれたラインにも勝る見事なものであったが、しかし、その場にいた誰しもが、陛下と共に足を運べたのだという歓喜に胸を沸き立たせる事は出来なかった。

 

「私は……、あの泉にいた皆が、そこで仙女を見た」

「は……?」

 

 聞け、と口を閉じさせる。

 

「誰も疲れていた訳ではない。目に異常があった訳でも、集団で毒を吸った訳でもだ。陛下でさえ、その光景に目を奪われた。ソレは、己を女神だと宣ったのだ」

「泉で? 高天原に坐のではなく?」

 

 だから仙女と言ったのだ、と応える。

 

「織姫を思い描くが早い。唐代の衣装に身を包み、羽衣を揺らす様などは正にそれであった」

「美貌に目を……?」

「いや、私には凛の方が眩い」

 

 お上手な事と笑う。釣り上がりかけた眉根が下りたのに内心人心地つき、本題に戻る。

 

「その仙女がな、見せたのだ……これから先、二十余年程までの先行きを」

「……良き事では、無いのでしょうね」

 

 ああ、と頷いた。でなくば、このような事を語らず、胸に秘めたまま忠勤に励めば良いだけだ。少なくとも、世界大戦と称された大戦(おおいくさ)は終わり、大日本帝国は青島を占領下に収めた。大恐慌とて、高橋是清蔵相による歳出拡大で徐々に持ち直しつつある。

 

「誰も、信じようとはせなんださ。陛下が居られた故、凶行に走る者は無かったが、それは幸いであったやも知れぬ」

 

 あの女神は言った。信じぬならばそれで良し。なれど、全ては真実であると。

 

「変えようとすれど、主らのみでは変えられぬ。日が東に降りぬのと同じ事だとな」

「では、何を以て、そのような先を見せたのですか?」

 

 既に妻は理解している。これが妄言の類ではないのだと。そして、それを見せた事には確たる意味があるのだと。

 

「察しの通りだ。仙女は……」

 

 口になどしたくはない。耳と目を、脳髄を抉り忘れ去りたいと、そう願わずにはいられない。だが……話す。後には引けぬ。引けるならば、このような事を口にはしない。

 

「……仙女は、陛下ご自身を、その御家の歴史を供物とせよと」

「……!!?」

 

 息が詰まったは、当然であろう。当世の日ノ本において、そのような事を許容する国民が居る筈もない。居たとすればそれは既に日ノ本の民草に非ず、畜生にすら劣る国賊である。

 

「『その存在を、これまでの信仰と歴史の全てを捧げる事でこの日ノ本を救う奇跡を授けましょう』と」

「泉を潰しては?」

 

 仙女が黒幕とあらば、それを考えるべきだろう。だが、そうではない。

 あの仙女は、確かに日ノ本を救済するために対価を提示したのだ。

 

「ならば、陛下以外の血では……」

「違うのだ。あの仙女はな、不遜にも陛下を劫殺したいのでも、人が苦しむ事を愉悦としているのでもないのだ」

 

 でなければ、帝国将兵全て枕を並べ泉の御前にて腹を切り、五臓六腑を投げ入れる事さえ辞さぬ構えであっただろう。

 

「仙女はな、奇跡を起こすには己の力では足りぬと申したのだ。だからこそ、陛下に白羽の矢が立った」

 

 この国で、神州大和において、今最も奉じられているのは何方か。論ずるに足らぬその問こそが答えなのだ。

 

「大日本帝国臣民九千万。その全ての忠誠と信仰を仙女が糧とし、定まり切った歴史の筋道を定まらぬ物として捻じ曲げる。その機は、二度目の世界大戦が起こった後には存在し得ない」

 

 何故なら敗戦の後、陛下は日本国の象徴にして実権を伴わせぬという横暴を受け、国民の意識すら変わる。皇室への敬意が薄れ、君民離別すれば国体は自然、崩壊し、信仰を糧にすることは不可能となるのだ。

 それ以前に、大戦が起これば泉そのものすら、米国の爆撃で吹き飛ばされてしまう。

 見せられた未来では、全てが後の祭りとなる。

 

「……陛下は」

「判っているだろう。慈悲深く温厚な陛下が、民草と保身の何れを選ぶかなど」

「ですが……!」

 

 ああ、そうだ。だからこそ、その場にいた全てが乞うた。ある者など、泉に入るならば、この場で腹をと軍刀を抜いた程である。

 とはいえそれは、その場にいた者ら全員の総意であった。

 

「だからな。仙女の言が正しいかをご確認して頂く事で、その場を収めて頂いた。

 仙女のお告げでは、今年の五月一五日、犬養総理が暗殺されるとの事だ」

「つまり、」

 

 そう。一週間後だ。

 前もって未来を見た以上、事件に直接関与した人間は全て満州に送り、首謀者も内密に処理した。既に総理官邸では、海軍内で不穏な動きありと、陸を中心に厳戒態勢を取らせている。

 

「あの仙女の通り、変わらぬというのならばそれで明らかとなる。蟻一匹とて入れぬ中、同月同日同時刻にて、青年将校に暗殺が出来るならば、な」

「もし……」

 

 それが出来てしまえば、どうなるか。口にするには、あまりに悍ましい未来である。だが……

 

「案ずるなとは言えん。正直、私とて震えが止まらんのだ」

 

 全てが真実であるのならば、この帝都は焼け野原となるのだろう。

 そこには、この妻と娘が……

 

「……貴方?」

「明日から、私も警備に穴がないか動く。寝食も、全てあちらで行う。だから、今日と明日の朝は」

「はい。歌凛子も、早く起こします……それから」

「いや、いつもと同じであってくれ」

 

 この平穏を。最も愛すべき日々を、噛み締めたいと願っているから。

 

 

     ◇

 

 

 その日以降、日露戦争の頃から常に険悪であり続けた陸海は、統帥部の号令下、総力を挙げて暗殺妨害に取り組んだ。作戦指揮には将官らが集い、犬養総理にも陛下より直々に先の一件を伝えられた。

 当日犬養総理には、総理官邸には一歩として近づかぬという措置を取って頂き、代わり陸軍参謀本部に待機して頂いた。

 知らぬ者からすれば、総理大臣といえどもこれ程までの厳戒態勢を取る事に、しかも政界という少なからず軍部との軋轢のあった存在に対し行うことに疑念を抱く者は多かっただろうが、大元帥たる陛下直々の勅命とあらば、誰とて嫌は言えぬ。

 

「参謀本部周辺に、それらしい動きはあったか?」

「いえ。警邏からは、そのような報告はありません」

 

 宜しいと下がらせる。例え参謀本部に乗り込めたとしても、侍従武官らは既にその時間、直接犬養総理に侍っている上、扉と通路にも兵を配置している。実現し得る残された手段を挙げれば空爆だが、観測の任に就いている者らからも、それらしい動きはない。

 残り五分。しかし、兜の緒を緩める訳にはいかない。

 

“残り、一分”

 

 銀時計の針を確認する。心の中で秒を刻んだのは、おそらく真実を知る全員だろう。

 

“五、四、三、二”

 

 瞬間、陸にとって聴き慣れた音が、参謀本部に轟いた。

 

 

     ◇

 

 

「総理は、総理はご無事か!!?」

「……残念ながら」

 

 こんな、こんな馬鹿な事があって堪るかと崩れた壁を殴る。

 総理が居られた部屋を知る者は限られている。限られていながら、警備に付かせた戦車から堂々と凶弾を撃ち込まれた。

 

「他に、犠牲者は」

「室内に居られた侍従武官は、全員」

 

 分かったと頷き、現場を見やる。

 撃ったのは陸の人間でこそあったが、年若い如何にもな青年将校であった。

 事前に配置についていた人間ではない。だが、詳細に関してはどうでも良かった。

 

「同月同日、同時刻……か」

 

 誰がやったか。どのような方法かは瑣末なことなのだろう。結果として犬養総理は暗殺された。結末を知る者らが如何な努力を重ねても、歴史という歯車には太刀打ちできない。

 

『小川を塞き止めることは出来ても、後の世にまで動かす津波は、人の手では遮れぬ。塞いだ小川とて、いずれまた流れよう』

 

 仙女が告げた言葉の一つを思う。個々人の運命を曲げる事は出来ても、大勢を動かす流れは変わらず、救った命も別の形で消えてしまうのだと。

 歴史を知った者達にとって、最も訪れて欲しくない、残酷な真実を目の当たりにした瞬間だった。

 

 

     ◇

 

 

 ご聖断は、迅速に下された。

 この日本国の国民(くにたみ)の、後の幸福の柱となれるならばこれに勝る喜びはないと述べられた。

 将官ならび、侍従一同は滂沱の涙と共に崩れたが、陛下は己も含め、彼ら一人一人の肩に手を置いて下さった。

 

“この御方こそ、紛れもなく日本国そのものであった”

 

 ならば、このお方を忘れてしまう己は、果たして日本国の人間であろうか?

 陛下を忘れ、安穏に生きる国民は、果たして日本国民なのだろうか?

 泉に入る陛下を見届ける多くは、その光景に涙した。

 こうあって欲しくはないと。代わらせてくれと。いっそ死なせろと。

 誰も彼もがこの現実に絶望する中、自分は違う事を願ってしまった。

 

“忘れたく、ない……!!”

 

 この結末を覆せぬのなら、変えられぬならば、自分だけは覚えさせて欲しいと。

 地獄に落ちて剣の山を登り、或いは永劫業火に焼かれようとも覚えさせて欲しいと。この場にいる皆と見届けて。

 

 ───それが、お主()の願いか?

 

 ああ、そうだとも。たとえこの後、どのような事が巻き起ころうと。誰一人、覚えていないのだとしても。

 

“私はこの国を、妻子を陛下がお救い下されたという大恩を───”

 

 ───その願い、聞き届けて進ぜよう。

 

 

     ◇

 

 

 目が覚めた時、最初に見たのは妻の横顔だった。

 

“何が、起きた……?”

 

 幸せな笑みを浮かべ眠る妻は一糸纏わぬ姿であり、それがあの事件から一週間前の夜であったのは確かだろう。

 ならば、これは過去ということなのか?

 

「……黒瀬様?」

 

 己が動いた為だろう。身を起こした妻は、先程までの夢心地と打って変わり、こちらの心を読み取ったらしいが……何故、姓で呼ぶ?

 

「少々、夢見が悪く……どうした?」

「いえ……その、ですが、これは」

 

 おかしい。己が狼狽えるならばともかく、何故妻がこのような顔を……

 

「すまんが、問いたい事がある」

 

 もしやと。一縷の望みを賭け、妻に問う。

 

「陛下を、覚えておいでか?」

「───いいえ」

 

 だが、返った言葉は否定であった。それに、その事実に。奇跡が成った事が胸を締め付けたが、ふと思い至る。

 

「何故、いいえなのだ?」

 

 陛下とは何方かと問うならば解る。だが、否定するという事は……

 

「先程までは、知りませんでした。陛下の事も、黒瀬様……いえ、貴方の身の上も全て」

「それは、どういう……」

「では、私から問います。貴方は、私の苗字をご存知で?」

「何を、」

 

 言うのかと口にしかけ、脳に激痛が走る。本来経験した筈の生涯。ここに至るまでの全てと、経験した筈のない己自身の記憶が混ざり合う。

 

「那須か、綾之峰か……」

 

 恐らくは後者。源氏の頃より続いた性を、この妻は持っていない。そして、この妻はもう、黒ノ瀬の性を名乗ってはくれまい。

 

「はい。どちらも正しいですが、後者で御座います。そしてここは、泉の女神より力を与えられし綾之峰家の中で、特に才ある者が星読みの巫女として生きる天鏡島。貴方はここで、」

「ご無礼。巫女姫様」

「下がりなさい。これが、最後の逢瀬なのですよ?」

 

 突如として現れた闖入者を見やる。黒子のような覆面を顔に垂らした巫女は、しかし、と躊躇いがちに口にした。

 

「ご当主がお見えになられております。如何に巫女姫様と契りを交わした殿御とはいえ、所詮は優秀な種を残すと見通された結果に過ぎませぬ」

「時間は取らせません。子の名付け親となって頂きたいのです」

 

 二人目かと思うたが、記憶を手繰った瞬間、自身でも狼狽したのが解る。巫女には、自分が乱心したかに見えただろう。

 

「歌凛子は、歌凛子は何処か!?」

「ご安心を。子は確かにここに。歌凛子……良き名です」

「凛……、」

「無礼な! 巫女姫様と呼ばぬか!!」

 

 我慢ならぬということなのだろう。思い上がりも甚だしいと腕を掴むが、所詮は女のそれである。分かっているとすげなく立ち上がり、非礼を詫びた。

 

「名付け親とさせて頂いた栄誉、私は生涯忘れませぬ」

「はい、貴方。どうか……息災、で」

 

 ふと見た妻は目を腫らしていた。それがどうしてなのか、この時の自分は、その真意を理解し切れてはいなかった。

 

 

     ◇

 

 

 綾之峰家。それが改変以前の歴史に代わる、日本国の天子様なのだと知ったのは、妻と別れ、別室で着替えながら記憶を整理してのことだった。

 

“日清・日露の戦いまでの歴史は、流れそのものは然程変わらぬ……違いはその後か”

 

 児玉源太郎大将は急死せず、陸は現実主義的思想を貫き、海軍も軍備整理に努め、陸・海・政は完全に一致した上で国家を動かしている。

 これは陛下が立憲君主制を重んじたのとは違い、絶対王権のそれに近い形で綾之峰家が舵取りを担ったのが大きいのだろう。

 常日頃から干渉するのではなく、あくまで有事に限る形なのだろうが、この点だけでも己が知る日本国との違いは大きい。

 

“何にも増して大きいのは、星読みの巫女の存在か”

 

 人の心を読むだけでなく、限られた範囲とは言え未来をも通すその術。

 それも、己が泉で経験したものと違い、定められた道筋を見るだけでなく、見通した後は干渉さえすれば変化させる事も可能となれば、歴史を動かす上で最強のカード足り得る。

 世間一般には神事を担当するのみと伝わっている様だが、その実、綾之峰家が国を動かす上で最大の協力者と言えるのがこの島の巫女達という訳だ。

 

“その巫女姫の子を為すのに選ばれたのが私というのは、皮肉だな”

 

 選ばれたのは、先に述べられた通り種馬として、最も優秀だという結果が占われたに過ぎぬとの事だが、それだけで無い気がしてならない。

 

“妻の寝顔を見るに、こうなる事を予見していたのではないか?”

 

 ここで、自分と出会い、契りを交わして異なる記憶を得る事。単なる夜伽の相手でなく、最も幸福な相手として……

 

“シェイクスピアの読み過ぎだな”

 

 ロマンチズムに走るにも程があったと自重し、軍服に袖を通す。

 これもまた本来の記憶と大差はないが、帽章が魔除けの星でなく、また近衛の桜葉も無かった。金メッキの施された華の帽章は、綾之峰家の家紋に与ってのものだろう。

 

“銀飾緒も侍従武官章もなしか”

 

 だが、鏡に映る己は五十近く、短冊型の肩章も記憶と同じ大佐のそれだった。

 

“私自身は日露以後、短期間の海外留学を経て政情不安も鑑み、参謀本部付から工作任務従事も視野に入れた露西亜の駐在武官に転身。世界大戦の方は……成程、皇太子暗殺は日本の派遣大使によって食い止められたか”

 

 歴史を知る強みが遺憾無く発揮されている。戦争がない分、技術の進歩は多少なりとも遅れるだろうが、少なくとも現状日本国は軍事より経済に力を注いでいる。

 

“独逸皇帝は未だ健在。露西亜もニコライ二世が在位したままか”

 

 十月革命は成らず。これを良しとするか否かは知れぬが、少なくともこの一件でも日本国は抜け目なく貸しを作っており、実感はないが駐在武官を務める傍ら、己も一役買っていたらしい。

 

「ご当主がお待ちです。お早く」

 

 戸を開け、急かされる声に分かっていると言外に示し、軍帽を脇に携えて部屋を後にした。刺すような女の視線は、妻の件以上に何処か個人としての私怨が混じったように感じたが、こちらの己の記憶を探れど、思い当たる節はなかった。

 

 

     ◇

 

 

「此度の伽、大儀であった」

「勿体無きお言葉」

 

 綾之峰家当主への拝謁の栄に与ると知り、妻がいるかと思ったが、どうやら既にそちらの用向きは済まされたらしい。

 緞子の向こうには、不自然に声を作っているが、何処となく若い声色である事が伺えた。

 

「貢献に報いる故、近う寄れ」

「はっ」

 

 示された場。緞子から伸ばされた手が届く位置まで歩を進める。

 

「……覚えているのだろう?」

 

 その瞬間、己以外聞こえぬ声で、当主は笑うよう口にした。

 

「良い良い。この場でどうこうしようとは思わぬでな、警戒してくれるな。さて」

 

 控えた巫女が、恭しい所作で掲げられた勲章を、当主は己の胸につけた。

 二匹の龍が円をなし、その中心に家紋が描かれたそれは、幕府が作成を企図していたという葵勲章に近い。

 

“綾之峰家に対し、特に功労ある個人が授与対象とされ、年金授与のみならず一代限りの有爵者とすることを認る、だったか”

 

「餞よ。お主にもまた、この国の礎となって貰わねばならぬ故な」

 

 妻の時と違い、言葉の心理を読み取るのに、然して時間を要しなかった。

 

 

     ◇

 

 

“ここが、年貢の納め時か”

 

 当主の言から解っていた事であるが、本土へ戻り、かねてより確約されていた少将でなく中将への特進が言い渡された時点で、この結末は納得済みだった。

 日本軍は殉死等の例外を除き、他国のように功績に対し特進するなどという事は無い。あくまで進級は成績と年功序列であり、その枠を逸した時点で他の者らからしても何事かあるのは容易に察せられただろう。

 

 対米関係の悪化に伴い、米国は日本国に対し中国利権の一切を手放すよう勧告したが、日本国はこれを拒絶。

 結果、南方諸島へ米国軍が奇襲攻撃を仕掛けたのは、中将への特進が決定すると同時に島流しも同然の憂き目に遭い、この地の司令官に任ぜられてから、僅か数日の事だった。

 

“星読みの巫女が居ながら、外交に手抜かりがあったとは考え辛い”

 

 実に壮大な嫌がらせと思わなくはないが、流石に己一人を処理したいが為の物ではなかったのだろう。ここに集められた者は、皆現実主義的立場から軍の禄を食む者でなく、精神論的行動を主軸とする者や、幼年学校出身という立場を誇るばかりで実務には役立たぬ石頭ばかりであった。

 

“統帥部から、一度として派遣された参謀はなし。幾度電報を打てども『目下交渉中故、防衛に務められたし』の一点張り。各方面軍の連絡も沈黙”

 

 単純明快さもここまで来れば清々しい。そもそもにして、味方艦隊の艦影さえ一度として拝めぬ始末だ。

 

“おそらく、世論とは異なり、本国は米国と共謀関係にある”

 

 中国利権の一切合切は初めから米国に委ねる気であり、インフラ整備や外国工場を最小限に止めていた事からも、これは確実。中国利権を欲しているのは欧州も同じだろうが、日本が実効支配している地域だけでも米国の旨みは大きい。

 

“日本は膨張の可能性を持つ軍備を敗戦という形で縮小。最悪沖縄まで食い込む可能性はあるが、これを機として敗者であることを理由に法整備まで手を出せば採算は取れると踏んだか”

 

「閣下、最早……」

「ああ。生きて虜囚の辱めを受けずと、自決するのは容易いが」

 

 それでは詰まらぬだろうと、拳銃を抱いた中佐に笑う。

 

 掃き溜めに集められた者らと違い、この中佐は優秀だった。

 立案する作戦は具体性を伴い、作戦が決定した後の各隊長への監視と指導、連絡は何れも充分であり、情報整理も申し分ない。兎角挙げれば切りがないほど、何故このような僻地に飛ばされたのかと首を傾げたくなる男だった。

 

「負け戦に付き合わせた。私の首を手土産に、白旗を上げても咎めんが」

「ここは中世では有りません。何より、自分にも意地があります」

 

 これである。既に靖国に向かった者共同様、この中佐も実に愛国心に厚い。

 何より、負け戦に腰を砕かぬ骨の太さも実に好ましく、歴史が変われど、この中佐が己の知る男のままであった事が、誇らしく喜ばしかった。

 

「侍るなら一兵卒として死ぬが、覚悟に変わりないのだな?」

「お供致します」

 

 宜しいと、己にとってはどうでも良い、綾之峰の勲章を胸につけてやる。

 

「参謀飾緒を無駄にさせたな。誇れ、辻口(つじぐち)中佐。今より貴様は、最も勇敢な一兵卒だ」

「……」

 

 だが、どうした事だろう。この少佐は、胸につけた勲章を、まるで無価値なもののように弄ぶのを見て、そこで気づく。

 

「中佐……まさか貴様も」

「閣下。願わくば、綾之峰の勲章でなく大佐殿と呼ぶことを、お許し頂けますか?」

 

 不覚にも、目尻に浮かぶものを抑えきれなかった。

 嗚呼、居たのか。こんなところに。こんなに近くに、同じ事を願った者が。そして、だからこそだろう。この男ほどの参謀が、捨石にされた理由は詰まる所そこなのだ。

 

「覚えているか? 同じ侍従武官であった頃を」

「はい……得難い時間でありました」

 

 私もだと軍刀を携え、死の行軍を開始する。

 このような愚行は、軍歌の中だけと常日頃より思っていた。

 後方支援に欠けた突撃など愚か者のする事であり、平時であれば散々なじる死に様を、自分自身でするとは夢にも思わなかったが……。

 

“捨石には、相応しい末路だろう”

 

 心残りは、妻の最後の言葉か。

 あの日、声を詰まらせた妻はおそらく、今日という日を予知してしまったのだろう。この、馬鹿馬鹿しい死を。逃げ場のない檻となった土地で、屍を晒す己の事を。一度として、産まれる子に顔を見せず消える己を見てしまったのだ。

 

「済まなんだな……」

 

 つくづく、己は不徳な男であったものだ。

 

 

     ◆

 

 

「いいえ」

 

 夫と離れてより数刻。これから起こる未来を両の目で見通し、凛は謝意を述べながら散る夫に、そう声をかけた。

 

「不徳であったは、私の方」

 

 彼女は契りを結んだ後の結果を知らなかった。ただ占い、綾之峰に影を落とすやもと現当主に事前に告げてしまったが為に、夫は部下共々死地に投げ込まれた。

 より深く。より広く未来を見通していたならば、きっと夫は……

 

「ですが。いずれお会いできます。私は老い、貴方は若くなって」

 

 言葉の聞こえた者がいたとして、理解できるのは島の者と当主だけだが、当主の身は既にこの島にない。

 

「巫女姫様。そこは冷えます故、お体に障ります」

「見送らせても、くれないのですね」

「あれは種馬。夫とは認められませぬ」

 

 分かっている。だからこそ、本来婿養子として綾之峰の性で呼ぶべき所を、黒瀬と呼び続けたのだし、戸籍の上でも決して夫婦とは認められない。

 

「ですが、娘は父を思うでしょう」

 

 この未来視の力を。泉の女神の力より授かった引き継ぐとき、母の記憶を読み取る事で。

 あの、日向の日々を心に刻むだろう。

 

「……陰間を買う不埒ものが父と知るのは不幸かと」

「おや? こちらの黒瀬様は、そのような事をしておらぬ筈ですが」

「……目を合わせた折、記憶を。正直、後悔しております」

 

 それは、不埒なもの見たからという意味ではあるまい。彼女の言葉は、己自身を支えていたものが揺れる音でもあった。

 

「信じられませんか? 全てを捧げ、この国をお救い下さった御方が居られた事が」

 

 夫が奉じ、忘れぬと誓った、日ノ本全てにとっての象徴たる大恩人の居た事が。

 

「であれば、綾之峰に尽くす我々は何なのでしょう……? いえ、我ら国民(くにたみ)の全て、授かった大恩を忘れながら日ノ本で幸福を得る権利はあるのでしょうか?」

「無論、御座いますよ」

 

 それが陛下のお望みになられた未来であり、それを壊したくないが為に、夫もまた死する時まで綾之峰に恨みの一つも零さなかった。

 

「捧げられた事で、得られたモノを無碍には出来ません。我らが尊き御方々意志の上に立ち、幸福を食み続ける以上───」

 

 ───この力を以て、日ノ本に尽くさねばならないのだから。

 

 

     ◇

 

 

「ところで、温厚な貴女らしくもありませんが、何故黒瀬様を毛嫌いなさったので?」

「……あちらの日本国で種馬に買われた女人は、この私に御座いまして」

 

 ぴきりと、告白する巫女のこめかみに青筋が浮かび。

 

「指して、上等なものではなかったなどと思われては……、その、苛立たずには居れぬと申しますか……」

「……それは、夫に非がありますね」

 

 過ぎた事と流した為、深く思い起こさなかったが、成程確かに若い頃に夫が買った女人と、この巫女の容姿は一致する。夫が顔を覗き見ていれば、間違いなく思い出しただろう。

 

「その猛りは、来る日にぶつける事を勧めます。何、百年もせず会えますよ」

「その間、現役でいろと仰るのですね……」

 

 向こう五十年もすれば新たに才気ある者に力を託した後、下野し殿御と家庭を築く事も可能な筈だが、それをせずここに留まれとこの巫女姫は言うのだから、理不尽という他ない。

 如何に巫女が力を持ち続ける限り、老いぬ身であるとはいえ、だ。

 

「ですが、貴女は少なくとも数十年見通しても、浮ついた話は……」

「……お許しを。巫女姫様のお言葉は言霊も宿ります故」

 

 口にすれば、それだけである程度の力を宿すほどに強大な異能。ただ、これは見通す術ほどのものではなく、あくまで気休め程度のそれでしかないのだが。

 

「何にせよ、この子をお願い致しますね。夫が居ないと、すぐにぐずってしまう子でしたから」

 

 未だ見ない筈の子を宿した胎を撫で、消え去った過去を思い返す。力を授けた巫女は、後は唯人並みの寿命を得て老いる。

 数十年の先。親子三人が揃うのは、ただ一度きり。死を控えて臨まねばならないのだと承知している。けれど、その日を幾度となく見通しながら妻は待つ。

 姿形も、声も変わってしまう夫を───

 

 ───これからずっと。ここで待っていく。

 

 

 

 




 蛇足ですが、主人公が送ってた妻へのラブレターは多聞丸閣下みたいな感じでございます。


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Attack 15 男を信用? ナイスジョークであります

 語る事は、一先ず終えた。

 芹沢も銀香も、息一つ呑む間もなくよく聞き入ったと歌凛子は感心した反面、やはり受けた衝撃は、石像の如く身を固めても仕方のない物だったのだろう。

 安田登郎の、否、黒瀬直真正継という人間の生きた異なる歴史は、綾之峰の名の下に生きる両名にとって、余りに酷だったのかもしれぬと労りの声を掛けようとし……

 

「「まさか、あいつも両刀の変態だったなんて……」」

「そこか!?」

 

 もっとあるだろう! 日本国の隠された歴史とか、祖国を御救い下さった陛下の存在とか! 南方諸島に散った後、戦後最後の軍神として祀られた黒瀬中将が安田登郎だった事とか他にも色々!

 

「いや、そっちは何かもう追い付かない感じで……取り敢えず、安田を真っ先にぶん殴ろうかなって」

「ええ……何であんな性癖の男に焦がれてしまったのか……目を覆いたく」

 

 もう百年の恋も冷めるとかそんな感じで肩を落としていたが、それならそれで歌凛子も構わない。一生手放す気はないので、むしろ存分に振って貰いたいものである。

 

「でもなー……惚れた弱みって、こういうのを言うんだろうな」

「奥方への謝り方を聞く限り、流石に懲りているでしょうし、若気の至りと諦めるべきなのでしょうね」

 

 ち。と内心歌凛子は舌打ちした。何なら分家の息子が腰砕けになるまでがっつり喰った事も暴露してやろうかと思ったが、この二名に振られた場合、最悪父親がそちらに取られかねない為、口を噤まざるを得なかった。

 歌凜子の目から見ても及第である二人になら、まだ父親を託すのは許容できるが、流石に男には渡したくない。

 

「でも、あれだ。征綺華とは念の為に引き剥がしとこう」

「前科が前科ですから、当然ですね」

「散々な言い様じゃの……まぁ、父様に限らず男なんぞ信用できる生き物ではないが」

 

 歌凜子が言うのも何だが、父親に関しては特にその傾向が強い。

 遊び歩いたりしなければ酒乱の気が有る訳でも無く、平時であれば一途に妻子を想い、仕事に励む実直な男だったのは確かだ。

 が。一度据え膳を置けば、自分から手を出す訳でないからと開き直って綺麗さっぱり、しかも他人の見えない所で食い尽くしてしまう。

 その癖、根が真面目なだけにバレた時は誠心誠意謝るのだから始末が悪い。

 

「婚姻するなり、将来の相手を見定めれば、後は真面目に生きてくれるのが救いなのじゃがなぁ……」

「その言い方だと……それまでは結構」

 

 据え膳されたら平らげるな、とアッサリ銀香の危惧が正しい事を暴露した。

 

「巫女大将辺りが過去の事を水に流して、責任を取る必要はないからと粉などかけた日には、即座に手を付けるぞ」

 

 何なら賭けても良いと歌凜子が平たい胸を張るが、全く褒められた物ではない。はっきり言って最低なダメ男である。

 

「あの野郎、普段は枯れたジジイみたいな態度してやがる癖に。いや、本当に中身ジジイだった訳だけども」

「……いえ。ちょっと待って下さい」

 

 その理屈であれば、手を出させてから責任を取れと迫れば、簡単に攻略できるのでは?

 

「いや。其方らは本気で告白したから、どちらか決めるまでは絶対手を出さんと思うぞ? 父様はそういうとこ真面目じゃし」

 

 面倒臭ぇ……!? と二人仲良く絶叫した。

 

 

     ◇

 

 

「何やら、知らぬ所で株を下げられている気が……」

 

 巫女らと取り決め、ゆったりと空いた時間に征綺華と共に湯に浸かる安田であったが、嫌に背筋がむず痒い。

 

「結構今更じゃない? それ」

 

 実にあっけらかんと返されたが、安田の人生を鑑みれば否定できる立場ではあるまい。平時こそ真面目な堅物として見られている分、一度地に落ちればそれまでである。

 

「僕からしても、お姫様のついでに攫った奴と一夜を共にするって、結構アレだと思うし」

 

 節操無しだのダメ男だの言わぬだけ優しいものだが、結論から言ってしまえば安田がぐうの音も出ないほどアレな男である事に変わりはない。

 

「ま。登郎が悪く言われたって、僕の評価は変わらないから安心して良いよ」

 

 そう言ってくれるなら、少しは気が休まるという物か。或いは、この程度の言葉で己の恥を流せてしまえるぐらい面の皮が厚い事を自覚すべきか。

 

「それよりさ。君、僕に助けて貰った事、忘れてないよね?」

 

 にんまりとした表情で征綺華が寄る。大浴場と呼ぶに相応しい、十分な広さの湯船にも関わらず、肌が触れかねないほど距離を縮めた。

 

「……何をお望みで?」

「ん~? 行けないなぁ。そうやって他人がしてくれるのを待ってるようじゃ」

 

 世の女と比べても、十二分に美しい白純(しらずみ)の肌に水が滴る。例え男と分かっていても、余人がその艶姿を見れば唾を飲み込んだに違いない。

 

「ちゃあんと。僕の訊きたい事に応えて」

 

 ゆっくりと、首に腕を回しながら耳元で囁き。

 

「───登郎は、あの二人のどっちが好きなの?」

 

 

     ◇

 

 

「ところで、男の入浴時間は決めたようじゃが、分家の息子はどちらに入るのかの?」

「「あ」」

 

 二人の少女は、脱兎の如く駆け出した。

 

 

     ◇

 

 

「───登郎は、あの二人のどっちが好きなの?」

 

 思わぬ問いかけに、言葉が詰まる。それは、自分にとっても相手にとっても大事な事で。

 本当なら、ちゃんと考えなくてはならない筈なのに。

 

「決めてなかったんだ」

「……考えないように、していたのかも知れません」

「嘘だね」

 

 それだけはないし、有り得ない。安田はずっと、離島での夜から二人を見ていた。

 自分の事。伝えなくてはいけない答えを、ずっと出せずにいた筈だ。

 

「登郎、何か隠してるでしょ?」

 

 それが何なのかは判らない。けれど、その何かが心にある物を押し込めている。

 

「言っちゃえよ。抱えた物は押し付けちゃえば良い。一緒に生きるなら、半分預かって貰えばいいんだ」

「簡単に、言うのですね」

 

 己の秘密も、過去も。一人で抱えるべきものを伝えて、そんな自分を愛せるのかと問えと? 苦楽を共にする相手だからという言い訳を使って、自分が楽になりたいが為だけに?

 

「言うさ。君を本気で好きなら受け入れてくれるし、君が本気で好きなら、絶対言える」

 

 ───そのどちらも無理なら、それは愛していないか愛が足りないのだと鼻で笑う。

 

「受け入れられない? こんなのは信じた貴方じゃない? は! 馬鹿馬鹿しい。心に描いた理想の相手が好きなら、ずっと一人で妄想してりゃ良いのさ」

 

 人間なんて、崇高でも完璧でも居られない。誰にだって秘密にしたい事はあるし、思い出したくない恥なんて山ほど抱えて生きて行く。

 

「そんな女なら、別に振られたって良いじゃないか。

 けど、受け入れてくれるなら───」

 

 ───君も、相手の半分を背負って生きろ。

 

「預けて貰った分は、別のものを背負えばいい。秘密とかそういうんじゃなくても、生きて行くなら色々ある」

 

 たとえばそれは、必ず守ると誓っても良い。

 たとえばそれは、一生愛すると誓っても良い。

 どんな形であろうと、相手に応えて貰った分は返して行けと訴えた。

 

「お強いのですね……貴方は」

「身体は男の子だからね。何より、君を負かせて見たかった」

 

 言われたからと、それですぐに気持ちが切り替わる訳もない。きっと、どちらかに思いを伝える日まで、安田登郎は悩み続けるだろう。

 けれど。いつか、その日に打ち明けたら─── 

 

「───貴方への感謝を、終生忘れず居ようと思います」

 

 良い返事だ。と征綺華は笑う。

 

「じゃあ本題だ。振り出しに戻るけど、君はどっちが───」

 

「「安田─────────ァァァァッ……………………!!!!」」

 

 スパァッン!! と豪快に引き戸を開きながらガサ入れの如く踏み込んだ二人の少女に、何事かと安田は目を丸くしたが、只ならぬ空気に声を掛ける事すら忘れて息を止めた。

 

「……もう。折角いま大事な話をしてたのに」

 

 空気読みなよ、と征綺華は口を尖らせながら湯船に沈み、ぶくぶくと泡など作っていた。

 

「うっさい! いま重要なのは安田の貞操なんだよ! お前手出して無いだろうな!?」

「いえ、むしろ安田が手を出す可能性を危惧すべきです! この男ならやりかねません!」

 

 一体どうしてこうなったのか。築き上げた信用が与り知らぬところで一気に瓦解したが、そもそもにして信用が崩れれば脆い事を承知して悪用したのは安田である。

 何より、やった事が事だけに、遅かれ早かれ露見はしただろうと早々に諦めた。こういう所も性質が悪い。

 

「え? え……?」

 

 だが、征綺華にしてみれば今の状況は異常に尽きるだろう。フォローは出来ていたし、安田の方からそれらしい素振りを見せた事はなかった筈だ。間違っても安田自身が口外する筈も無し、何処から情報が漏れたのか。

 ……というより、こういう場面に狼狽えるべきなのは逆ではなかろうか? 何諦めた顔して腹括ってんだと恨めし気にダメ男を睨む。

 

「おい征綺華。ちょっと聞くけど、安田にヤラシイ事とかされてないよな?」

「銀香様。少々ストレート過ぎです。せめて誘導尋問をですね……」

 

 成程。発言を聞く限り、一線を越えた事までは分かっていないのだろう。そうなら、炊き付ける意味でも色々出来る。

 

「ふぅん。そのヤラしい事ってのはさ───」

 

 ───こういう事かな? と安田の背後に回って耳朶を噛んだ。

 

「ふぎゃぁぁぁっぁっ…………!!!!?」

「……、っ…………!!!? ……!!?」

 

 奇天烈な声を放つ銀香と、魚のようにパクパクと口を開きながら、瞳を大きく見開く芹沢は、共に頬を紅潮させながら指差した。

 

「お、お、おま、え」

「随分と可愛い反応するなぁ。僕が色々した時と全然違うじゃないか」

 

 今の方が可愛いよ。と銀香に笑いながらも、過激なスキンシップを止めようとしなかったが、流石に芹沢はブチ切れた。

 

「やすだ…………っ!!!!」

 

 バカーンッ! と湯桶でぶん殴った豪快な音が浴場に響き渡る。余りにベタ過ぎて安全圏に退避した征綺華は笑いを噛み殺していたが、何にも増して当人がされるが儘だった事に芹沢は一層切れた。

 

「貴様っ、貴様という奴はホンっ当にダメ男だったんだな! そうやってされるが儘なら自分で手を出す訳じゃないから役得なだけだし、怒られたら謝ろうというのだろうッ!!」

「え……っ、」

 

 途端、押し黙っていた安田が初めて頬を引き攣らせた。心なし視線が泳いでいるのが銀香にも分かる。

 

「うわ……マジで図星かよ」

 

 サイッテーだなおい、と冷め冷めとした視線に晒され、穴があったら入りたくなる思いで一層深く湯船に沈む。出来れば溺れ死にたいなどと考えていたら、その通りにしてくれるわと言わんばかりに銀香が踵を落とした。

 

「湯の中だろうが耳の穴かっぽじって良く聞け安田。懲りもせずにフラフラしてる奴を許してくれる都合の良い女なんて世の中多くいる訳ないんだよっ! 他人に甘えず誠意を持てよ自分の行動に!!」

 

 きつい様で正論しかなかった。むしろ散々謝り倒してる人生の癖に、今の今まで同じ失態を繰り返し続けてきた馬鹿には、薬をつけるより反省を覚えさせるべきだろう。

 特に、安田のようにその場の雰囲気とかで結構人生エンジョイしちゃうダメ男には。

 

「あははは!」

 

 そんな中、一人腹を抱えて笑う小悪魔(ゆきか)に、二人はギロリと睨みを利かせた。

 

「そもそも、何故当然のように貴様が入っている!?」

 

 中身(こころ)は女の筈だろうが! と火を噴く勢いで吠え立てる。

 

「だってぇ、一緒に入ろうって冗談のつもりで言ったらOKしてくれちゃったんだもーん」

「「安田ァアアアアァァァアァァァァッァァァァァッァァァア………………!!!!」」

 

 化けの皮というかメッキというか、諸々が完膚なきまでに剥がれ切ったダメ男を徹底的に叩いて叩いて叩き叩きのめす。

 このまま行ったら浴場が赤くなるんじゃなかろうかと思ったが、もう二人は完全に頭に血が上り切っていた。流石にこのままでは暴行から殺人事件にまでシフトするのが秒読みになりかねない。

 

「はいストップ。言いたい事は多いと思うけど、一応登郎からも弁護の機会を与えて上げたら?」

 

 今更何言ってんだコイツ? と二人は征綺華に振り向く。どうでも良いけど肌白いな。タオルで隠してると本当に女に見える。

 

「でもこいつ、絶対自己弁護とかしないぞ?」

 

 言い訳をしないというのは美徳だが、嘘と腹芸が下手な分、それを逃げの手口に使ってきた前科があるだけに了承しかねた。が、征綺華は得意げに腕を組む。

 

「弁護ってのは弁護人がやるもんでしょ。だから、僕が弁護したげるのさ」

「おいこら、うちの安田を甘やかすな。何時まで経ってもダメ男のままだぞ良いのか」

「いや、うちのって……」

 

 何かもう芹沢が恋人候補から母親みたいになっているが、言わないで置くのが吉だろう。ただ、母への過剰とも言える思慮を見るに安田は若干マザコンの気があるので、そういうのは逆に来るポイントなのかもしれない。

 性癖に関しては本当に度し難いダメ男である。

 

「そもそもさぁ、登郎が二人をそういう眼で見たのって、二人が離島で告白したのが原因なんだよね? ならさ───」

 

 ───君達、本当に好きな相手として見られてるの?

 

「な、何を……」

「だって、そうじゃん。一方的に好きだって言って、何かもうどっちかが選ばれて当然みたいな感じだけど、登郎にも違う選択肢があったって良いんじゃない?」

「そんな事は、初めに言っている!」

 

 誰を好きになるのかは自由だと。ただ、その時はちゃんと誠意をもって伝えて欲しいと。

 

「でも、答えは聞いてないんでしょ? もう心に決めた相手が居て、それなのにフラフラしてるって言うなら、そりゃ分るよ?」

 

 僕だって同じことされたら絶対怒るね。とさり気なく二人に対してもフォローを入れながら言葉を続ける。いや、続けるつもりだったが正しいだろう。

 でも、けれど、と。二人にも言いたい事はある。

 

「それなら、尚更だろ。他を選ぶって言うのは、そもそも私ら以外を考えてるってことで、そうじゃないなら……」

 

 こんな浮気のようなこと自体不誠実だと銀香は盛らし、芹沢もまた同調する。自分たち以外を考えているなら、せめて口にぐらいするべきだ。少なくとも告白を蔑にするのは違うだろうと。

 

「確かに、お二人の仰る通り、」

「はい登郎は黙ろうね~。被告人は黙って弁護人に任せなよ。

 で? なんだっけ。うんうん、確かにその通りだ。目移りするならさっさと決めるべきだし、そうじゃなくても誘惑に弱いよね~。

 でもほら、登郎も男の子だし、相手の好意って断り辛かったりするじゃない? 告白されたから応えるまで待ってって言われたとしても、相手からすりゃ知ったこっちゃないんだよ。僕以外の子でも、まだチャンスはあるって思うんじゃない?」

 

 長々と語りはしたが、何が言いたいのかというと。 

 

「君らさ。こんな変人には自分達ぐらいしか居ないとか自惚れてるだろ? 口調は古いし遊びも知らない、融通の効き辛い変な男だって」

 

 それは、そうだろう。はっきり言って、安田登郎は学園でも浮いていた。常に礼節を守って接しながら、何処か周囲から離れた雰囲気を持っていたから。

 

「それ。本当に株を下げるほどの物? 文武両道で真面目で、顔だって別に悪くないんだよ?」

 

 言われるまでも無い。学園では五教科に限定すれば英里華を越えていたし、茶道の心得だってあった。

 料理も出来て気も利けば、いざという時にはどんなに困難でも、たとえ綾之峰が敵に回るとしても厭わず駆けつけてくれた。良い所など、銀香や芹沢の方がずっとよく判っている。

 

「つまり、こう言いたいんだ。『後から来た奴が出しゃばるな』」

 

 図々しいし、随分酷い扱いじゃないか。

 

「僕なら、そんな風に扱わないな。駄目な所ぐらいは、まぁ……酷いと怒るけど多少は大目に見るし。それに、一番大事な相手には尽くしてくれるだろ?」

 

 だったら、と安田の顔に手を当てて強引に振り向かせる。

 

「僕にしちゃえよ。僕なら、この二人みたいに乱暴しないよ? 男だからって君は差別しないし、満更でもないだろ?」

 

 ゆっくりと、腕を絡めながら、わなわなと震わせる二人に挑発するように言う。

 

「ねぇ登郎? もういっそはっきり言っちゃえよ───」

 

 ───正直、お前らなんて迷惑だって。

 

「そん、」

「そんな事は、有りませんよ」

 

 そんな筈はないと、そう苦し紛れに言いかけた二人を遮るように、安田は吐露する。

 

「正直に申し上げます。私は、自分が幸せ者だと思いました。お二人が、そのように想って下さることが、私の身の丈には合わぬほどの幸福だとも」

「なのに、ふらふらしてたんだ?」

 

 パァン! と、乾いた音が響く。頬に紅葉の如く赤い痕をつけた後、征綺華はフン、と鼻を鳴らした。

 

「それなら僕と遊んでないで、さっさと選んでやれ───じゃないと、泣かせる子が増えるだろ」

 

 はいと、頷く声が聞こえたかどうか。足早に去るその背を、誰も追う事は出来なかった。

 

 

     ◇

 

 

 呆然と、立ち去って行った征綺華の背中が見えなくなってから、安田は後頭部をグシグシと掻いた。

 

“役を、押し付けてしまったな……”

 

 不甲斐無く、情けない。きっと、本当に一生かけても返せないだけの恩を、今日の内に受け取ってしまった。

 

「お詫びの言葉など、意味を為さないかもしれませんが」

 

 もう二度と、浮ついた思いで過ごしはしないと安田は固く誓って頭を下げた。

 

「一生、守るんだな?」

「はい」

「来世でも、守るんだな?」

「……心に刻みます」

 

 なら、良い。もうしないというのなら、はっきりとそれを口にしたなら、安田は金輪際する事はないだろう。そういう男である事ぐらい、二人は誰より判っている。

 全く。どうして前世の妻は始めからこうしてくれなかったのかと二人は首を傾げたが……家庭を持ってからは良き夫であり父だったし、安田として生まれ変わってからも、妻と死別するまでは操を立てていた。

 次の相手を持つだろうと弁えていながら気を回さなかったのは、同じように苦労をしろという、前妻としての意地悪も入っていたのかもしれない。

 ……振り回される方としては、堪ったものではないが。

 

「所で……そろそろ上がっても宜しいでしょうか?」

 

 ここが浴場だという事を失念したまま居座る少女らに、安田は立ち上がって良いかと問う。幸い湯気は多いが、幾ら何でも至近距離で立ち上がれば見えるだろう。

 

「良い訳あ……いや、まぁ、のぼせてもいけないし……」

「芹沢ぁ!!?」

 

 思わぬところで年頃らしい一面を見せた侍従を、銀香は瞠目しつつ全力で止めた。

 改めて思えば、歌凛子との会話中、既成事実を安田の攻略法に入れてたりと、実はアグレッシブな女の子だったらしい。

 

 

     ◇

 

 

「貸し、これで二個目だけど返して貰えるかは微妙だなぁ……」

 

 浴場を出た後、身体を拭いながら征綺華は零す。

 

“奥屋敷から連れ出して貰った分で、チャラって事にしたげても良いんだけど”

 

 やはり、どうしても逃がした魚が大きく思えて仕方ない。

 きっと、あれだけの大魚は二度と釣り上げられないだろう。

 

「いや、釣られたのは僕か」

 

 言ってて虚しいが、失恋も恋の内だろう。元々、相手の心の中に自分が居ない事ぐらい弁えていた。それでも───

 

「───もう少しぐらい、続けていたかったんだけどなぁ」

 

 

 




 両刀でマザコンの浮気性とかいうダメ男の見本市な主人公(なお能力は反比例)


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Attack 16 なんとこれはエマージェンシー

 七夕茶会終了から前回までの日程。
 茶会終了(夕方)→お見合い妨害&拉致(当日夜)→飛行艇搭乗(当日深夜)
 天鏡島離島到着(2日目朝)→本島上陸(3日目朝)→入浴からの修羅場(3日目夜)
 強行軍ってレベルじゃねえ。


 時間を僅かに戻す。

 見合いの儀が失敗し、ばかりか英里華と息子まで消えたという、最悪と称すべき報告が征麻呂へ届いたのは、彼らが飛行艇に乗り込んだ直後の事。

 本来であれば問題が露見次第、子飼いの人間から寄越される一報が遅れた事も含め、これが偶然だと考えるほど、この男は無能ではなかった。

 

“女神の存在そのものは、万里華は綾之峰の姫が分かれるまで知らなかった筈だ。大刀自が気づいたか?”

 

 可能性はそれが最も高いが、だとすれば息子同様征麻呂自身も拉致されるか、直接消しに来ても良い。無論、唯で殺されてやるほど征麻呂とて甘くはないが、やはり動かせる規模は逆立ちした所で大刀自には劣る。

 

“息子が首尾よくやれば、悩まず済んだのだがな”

 

 責任転嫁も甚だしいが、善悪によって己を顧みる事をしていたなら、この男とて今この場で思案に耽る事はなかっただろう。

 今の状況は、単に征麻呂自身が己の目的に他者を巻き込み、利用する事を躊躇わなかったが為の自業自得に過ぎない。

 

“……こんな気分では酔えん”

 

 物によっては億単位の値で取引される美酒(ロマネ・コンティ)も、心地次第では安酒と同じだ。裡に猛るものを鎮めたいなら欲を発散させればいいと判っているが、流石に日本で、それも帰国したばかりでは捌け口に出来る少女は見繕えなかった。

 

「おまけに、あの妻ときたら……」

 

 口に出す気はなかったが、思わず漏れてしまった。

 彼の妻は息子が消息不明となった事を知るや否や、綾之峰の権勢というお零れに与れぬ事を憤り、真っ先にぶつけてきた。

 度し難い女だとは思う物の、元より婚姻はおろか子を生したことさえ、全ては互いの利害が一致したからに過ぎない。

 世間から見れば若いとはいえ、見てくればかりで内面は目を覆いたくなるような女が妻となった理由はそこであるし、妻とてそれは同じだっただろう。

 息子の教育はほぼ家令任せであり、妻は別荘で優雅に好みの男を侍らせるか、或いは会社を玩具のように使って道楽の限りを尽くしている。

 親子としての繋がりで言うならば、まだ()()()に虐待を続けた征麻呂の方が上だと言えば異常性が判るだろう。

 

“まぁ、いい。遅かれ早かれ、綾之峰は潰すつもりだった”

 

 備え付けられた呼び出しボタンを押す。程なくして現れたのは、異様な気配を湛えた男だった。身の丈は一七〇程と月並みだが、恰幅の良さと座り切った瞳が、暴力で鳴らす者だという事を言外に強調している。

 

『用向きは?』

 

 などと、家令か部下のように口にする事はしない。黙して侍り、やれと言われた事を忠実に行う猟犬ぶりを見込んで側に置いたのだ。

 

「仔細は任せる。天鏡島から『鏡』を持ち出せ」

 

 一礼の後、退室しようとするが、その背に声を掛けて先程まで口にしていたワインのボトルを手渡す。

 

「今回は特に重要だ。早急に行え」

「……畏まりました」

 

 これまでの仕事で、そのように男が応えた試しはない。何故なら、征麻呂が念を押す事など一度としてなければ、餞別を寄越す真似もしなかった。

 征麻呂が小賢しくも、出費を惜しむ男だからではない。仕事に応じ、幾らであろうと糸目をつけず望む物を与えたし、商売道具は常に一級の物を揃えて来た。

 念など押さずとも、征麻呂は成功の見込みがあって初めて事に及ぶ、経営者としての才覚も十二分に持ち合わせている事も大きい。

 

 今でこそ猟犬たる男を始め、各国からこれはという選りすぐりが大多数を占める民間軍事会社(PMC)とて、征麻呂が買収するまでは数多い零細企業の一つだったに過ぎない。

 電子会社の社長だという明らかに畑違いの征麻呂から、男の会社が専属警備役という大義名分得てからというもの、不名誉除隊で軍籍を剥奪された烏合の衆は劇的な変貌を遂げた。

 それこそ、収入を度外視してまで入れ込むほどであったが、善意からではないのは最古参たるこの男も承知している。

 既に周知されている性的暴行を行う上でこうした組織を手元に置けば、やり易いというのもそうであるし、何にも増して暴力というものの必要性と利便性を、征麻呂は熟知しきっていた。

 電子会社社長という、表向きの顔こそ征麻呂の隠れ蓑ではないかと思わせるほどで、直属の子飼いである本社(せんぞくけいび)から派生した子会社は、今や世界中にオフィスを構え、そのシェアは裏帳簿(よごれしごと)も含めれば最大手(G4S)さえ凌ぐだろう。

 

“その社長が、念を押すとなれば……”

 

 失敗は許さないというだけではない。征麻呂自身の首もかかっていると見るべきだが、猟犬たる男も飼い主から逃げようという考えはない。

 この手の仕事上、国境違反等の犯罪に手を染めるのは珍しくもないが、専属警備の社長として勤める傍ら、男が表向き職務を別とする子会社にも頻繁に顔を出して仕事を請け負っていたのは、感を鈍らせない以上に趣味の度合いが大きかった。

 政府側の顧問として教練を行う傍ら、難民キャンプの焼ける臭いを嗅ぎながらの葉巻(モンテクリスト)は実に芳醇であったし、壁際に立たせた敵の命乞いを聞きながら短機関銃で一掃するのは心が躍った。

 女を抱く時は、顔や身体以上に苦痛の叫びが裡を満たして止まない。

 征麻呂の庇護下にあってこそ、際限なく猖獗(しようけつ)を究める事が出来たのだ。再び惨めな零細企業を立ち上げ、糊口を凌ぐ気は毛頭なかった。

 湯水の如き快楽に別れを告げるぐらいなら、いっそやれるだけやって、あわよくば今以上の物を得たいと思うのは強欲の性だろう。

 

“早急にとは言われたが、日本というのが問題だな”

 

 本社は表も裏も人員以外は純然たる警備会社として機能しているし、何よりアメリカに張り付いたままだ。

 子会社を含め、状況に応じた適正な人間のリスト化と必要装備は確保しているが、当日すぐ大規模行動を行うのは不可能だ。

 

「私だ。韓国に招集しろ。用意出来る限りで良い」

 

 備え付けの受話器を取り、指示を出す。まずは沖縄へ米軍の伝手を辿って輸送。そこから装備を整えるとして……

 

“本島への上陸は最短で三日か”

 

 仔細は任せると言われたが、プランを提示しない訳にはいかない。作戦行動中に邪魔者が入らないようにするには、飼い主(ゆきまろ)の力は必要不可欠なのだ。

 手早く書類を作成すべく、男はデスクに着いた。

 

 

     ◇

 

 

 草木も眠る丑三つ時から一時間後。午前三時という奇襲の教本たる時刻に、それは起きた。

 

“よりによって、父様の居るこの日か……!”

 

「歌凜子様!!」

「わかっておる! 巫女大将、英里華姫らを奥の間へ! 残りは日頃の訓練通り動かせろ!」

 

 

     ◇

 

 

 臭うと。そう真っ先に感じたのは、ジーヤと安田だった。

 

「おや? 安田少年。こんな時間に何用でありますか?」

「ミス・マクミランこそ、夜風に当たりたいという面持ちではありませんが」

 

 言ってみれば、ただの勘という域を出ない。が、日露戦争で砲弾を叩き込まれかけた時と同じ臭いを、安田は確かに感じてしまうのだ。そしてその予感は、悪い意味で的中した。

 微かに届きかけたヘリの音が炸裂音に掻き消され、次いで矢継ぎ早に巫女らの声が響いて来る。

 

「こちらに居られましたか」

 

 手間が省けたと駆けつけた巫女大将は胸を撫で下ろすが、その姿に二人は目を剥く。平時の巫女服はなりを潜め、ウール地の戦闘服と分厚い防弾ジャケットに身を包んだ巫女大将は、即座に二の句を告げた。

 

「すぐ英里華姫らを奥の間に。黒……安田殿もです」

 

 思わず前世の性で呼びかけたものを取り消し、言い終わる前に寝所へと歩を進めていた。

 

「安田少年は、すぐに行くであります。皆はジーヤが」

「お任せします」

 

 自分も共にとは言わない。巫女大将が既に向かっている以上、現状を把握すべきだという現実的選択が、安田の行動を決めた。

 

 

     ◇

 

 

「歌凛子。賊でも踏み入ったか?」

「はい。歩哨からの情報では、小型の上陸用舟艇が七。ヘリと中型船舶は水際で食い止めましたが、少なく見積もっても六十余名は本島に潜り込んだと見て間違いありません」

 

 他が到着するより早く奥の間で問う安田に、歌凛子は広げられた本島の全図を指で示す。副官の姿すらなく、無線機のみでやりとりを行っているらしい。

 

「被害は?」

「海上の警邏は全滅。沿岸部の歩哨は死亡六、重傷三。この社に到着するには、最短で十五分程」

「狙いについて知りたい。それから、連中は『未来視』への対策があったのか?」

「狙いは間違いなく本殿の『鏡』でしょう。こと、それに関する限り我らの眼は役に立ちませんから」

 

 未来視が使えるなら、そもそも奇襲など成立する筈もない。『鏡』とやらも含めた細かい事情を問いたいが、今すべきは賊の排除と安全の確保だ。 

 

「『鏡』を持って逃げる事は?」

「大き過ぎます。『鏡』そのものは綾之峰の当主と巫女姫以外、見る事は叶わぬ為、相手も同じように思っているでしょうが……」

 

 事実を知れば、皆殺しにしてから輸送を考える筈だと歌凛子は歯噛みした。

 巫女も歌凛子も逃げ出す気はない以上、逃亡による安全の確保はジーヤに任せるべきだろう。ならば。

 

「殲滅戦だな。歌凛子、使える物は……」

「安田少年、ちゃんと待ってたでありますか!?」

 

 英里華らと共に踏み入ったジーヤは、胸を撫で下ろしつつ安堵した。

 彼の性格上、事態が分かれば勇ましく打って出ると思ったからだろう。事実、その考えは間違っていない。

 

「これから行く所でした。ミス・マクミランは巫女姫様らを、」

「馬鹿を言うものではないであります! 幾らミセス峰子の息子と言っても、アクション映画とは違うのでありますよ!」

 

 ジーヤとて、相手が武装しただけの素人であれば安田を戦力に加えても良かった。

 だが、あれは違う。正規の訓練を受けた精鋭である事は、ここに来る前に巫女大将から聞き及んだ限りで、充分に理解出来てしまった。

 

「動きから察するに、あれは大半が海兵隊上がり。加え、外部からの応援に時間がかかるこちらと違って、相手が持ち駒を投入する可能性は装備の質からも充分想像出来るであります」

 

 一般に戦力の逐次投入は愚策と言われるが、これが威力偵察でない保証は何処にもない。現時点でも侵入を許している以上、長くは保たないと判断すべきだ。

 

「歌凜子様。申し訳ないでありますが、安田少年や英里華様達を死なせる訳には行かないであります」

 

 だから、と。その先が予想できた為に、安田は頭を振った。

 

「私は残ります。巫女姫様を置いては行けません」

「……良いのでありますか?」

 

 薄情だが、ジーヤにしてみれば争ってでも安田を助けてやろうと思わない。

 綾之峰に仕える身として、英里華らを守る為に安田が邪魔となってしまうなら、これまでの恩を踏み躙ってでも安田を見殺しにするだろう。

 不穏な空気から察してか、英里華は前に出て懇願する。

 

「歌凜子様、どうか一緒に。確かに『鏡』は綾之峰唯一無二の秘宝。ですが、次期当主たる私を守る為だったと言えば面目は立ちます」

「気持ちは嬉しいがな、英里華姫。我にも我の役割がある。それを果たさず逃げるぐらいなら、この場で喉を突いて死ぬよ。

 あれが奪われれば、日ノ本は終ったも同然じゃからのう」

 

 懐刀を机に置いて示された意。英里華はそれを、老いた価値観からなる覚悟としか受け入れられず首を振ったが、巌のような意志は動かせない。

 今は口にこそしないが、日本が終わるという歌凜子の言葉は比喩でないのだ。

 

「安田少年。もう一度だけ訊くであります。他人の命でなく、綾之峰の道具の為に死ぬ女と心中する気でありますか?」

 

 幼い頃、面識があったのかもしれない。ひょっとしたら、ジーヤが知らないだけで深い絆があるのかもしれない。だが、それでも死ぬ事を覚悟した人間の為に、他人でしかない安田が命を賭ける必要はない筈だと諭す。 

 

「ミス・マクミランの立場と、仰りたい事は理解しています。その上で、皆をお願いします」

 

 対する答えは、やはり変わらない。目の前で、日は浅くとも接した人間が命を落とす事に耐えられないのは判る。十代の少年なら、それも仕方ないのかもしれない。

 けれど、それは余りに無意味で愚かだ。何が出来るでもない子供が、力不足を弁えずに勇気と無謀をはき違えているだけだ。

 

「……銀香様、マイシスター。なんでこの馬鹿少年を止めないのでありますか?」

 

 普段の彼女らであれば、真っ先に安田を叩き、否定し、連れ出す為にジーヤに肩入れしただろう。なのに、この二人は押し黙ったまま、悲痛な面持ちで安田を見るばかりだ。

 

「……無理だ。安田は、歌凛子様が居る限り、絶対残る」

「マイシスターらしくもない。普段なら、安田少年と歌凛子様を()()()でも引っ張って行こうとするでしょうに」

 

 ジーヤとて、妹が巫女姫だけを諦めるなら納得できたかもしれない。綾之峰に仕える者として、己が役割に殉じる事を否定出来なかったのだと。だが、何故安田まで諦める?

 

「お嬢様の───、為でありますか?」

「……そうだ」

 

 嘘だと、ジーヤにもはっきり分かった。だが、それはきっと口にしてくれない。

 この妹は、秘密を隠す安田と同じ顔をしていたから。

 

「銀香お嬢様……命を無為に擲つ事を、安田少年に怒った貴女も?」

 

 同じ気持ちなのか? 大切で、大好きで、一生を共にしたいと願った男の子が、死んでしまうかもしれないのに。

 

「……こればっかりは、怒るに怒れねえよ。ホントなら、私だって残りたいけど」

 

 銀香とて、自分が足手纏いになる事ぐらい嫌でも判っていた。何よりジーヤが絶対に認めてくれない事も。

 

「安田……貴様が残るというのなら、私は何も言わない。銀香様も同じ気持ちだ。

 だが、無理なら逃げろ。貴様なら、巫女姫様を連れて逃げるぐらい訳ない筈だ」

「……聞いたのですね。歌凛子から」

 

 このお喋りめ、と安田が歌凛子を見据えた途端、彼女はびくりと身を縮込ませてしまった。暴力に怯えるというより、子が温厚な父に怒られ、嫌われる事を恐れるような表情で。

 

「まさか、歌凛子様のそんな姿を見るとは……」

 

 思わず英里華が洩らす。それに関してはジーヤとしても同じ思いだが、これ以上は時間の無駄だ。

 

「勝手に話を進めるでありますが……飛行艇は確実に潰されている筈ですし、ボートも使えた所で、網にかかる可能性は捨てきれないであります」

 

 つまり、と念を押しながら、ジーヤはこれからの事を説明する。

 

「現状、本島脱出は現実的ではありません。なので、一旦地下シェルターに移って貰うであります」

「なら、歌凛子様達もそこに移れば……」

「無理じゃよ、英里華姫。元々は、其方ら綾之峰を匿う為のものじゃからな。備え付けの通信機以外で外界からの連絡が取れん以上、あそこで指揮は執れん」

 

 どう足掻いた所で、ここでお別れだ。だから、さっさと行ってしまえと追い払うように歌凜子は手を振った。

 

「達者でな、皆の衆。何、雑兵程度パパっと蹴散らしてやるわ」

 

 強がりだと、そんな事は誰にでも判っている。それでも、この女性は決して無様を晒す真似はしなかった。

 

「安田少年───」

 

 去り際、ジーヤは彼に顔を向けさせて。

 

「この、頑固者がッ!」

 

 思い切り、頬骨が砕けかねぬ程の力で殴った。

 

「今のは、妹を泣かせた分であります」

「私は……」

 

 泣いてなどいないと。嗚呼確かに、芹沢は泣いていない。妹は強いから、人前でなど、決して泣きはしないから。

 

「まだ銀香様の分は殴ってないで有ります」

 

 だから、もう一度殴りに来させろ。 

 たとえ死体だろうと顔が残っていれば殴るが、出来れば苦しむ面を拝ませろと笑う。

 

「もし生きてたら、泣いたり笑ったり出来なくなるまで扱いて、ついでに顔が面白い形になるまで殴って、病院行になったら介抱してやるであります」

「ご期待に添えるよう、努力致します」

「遠慮します、って言う場面で有りますよ。そこは」

 

 では。と教育係らしい典雅な動作で一礼し、頬に軽く唇を当ててやる。

 

「こ、このバカ姉!? 何を……何をしている!?」

「大人のお姉さんからの、ちょっとした餞別であります。生きてたら大人なキスをして上げても良いですよ?」

「……遠慮させて頂きます」

「おいこら少年、そこは努力しますって言う場面でありますよ」

 

 それから、と二人の少女に目をやる。

 

「一分ぐらいなら待ってやっても良いで有りますから、一回ずつしてはどうでありますか?」

「悪いが、時間切れじゃよ。若いのは次に持ち越しじゃ」

 

 ジーヤはまだピチピチでありますが!! と歌凜子に力強く訴えるが、取りつくシマも無く腕を振られる。

 

「分かった分かったよ。じゃあの、ジーヤ。それから、そこの二人は恨めしげに見てくれるな」

 

 時間がないのは本当だ。こうしている間にも、賊は距離を狭めている筈なのだから。

 

「この小僧は死なせんよ───言いたい事は、次の機会に言わせてやる」

 

 

     ◇

 

 

「話の続きが出来るな。歌凜子、使える物はここにあるか?」

 

 去るべき者らが去った後、無線機からの情報を頼りに地図に賊のルートを書き込んでいく。

 

「はい……ですが、父様。ここに残って頂けませんか?」

 

 ぴたり、とコンパスを持つ手が止まる。確かに黒瀬として将であった経験は幾度もある。だが、今の彼は自軍の兵力も装備も練度も知らない。まして、現代戦という物に関しては各国の教本や戦史による独学の、それも机上の論理でしか得ていないのだ。

 僅かに止まった手を動かし、己がこの場で出来る仕事を続けながら一考する。

 まず疑うべきは歌凜子の能力だが、無線からのやりとりからして、現代戦に関しては己以上に造詣が深い。おそらくだが、島に専門の将校を派遣し指南を受けたのだろう。

 次いで使用兵力の士気と練度。士気は間違いなく高い。これも無線での隊長らの受け答えや、背後の音声からでも充分理解出来たし、練度も同様だ。

 きちんと位置・損耗等の情報を伝え、次を考えた上で動けている。前線指揮官が無能でない証左だ。

 ここまで考えた限り、こと能力に関して問題はない。副官として侍るより、一兵卒だろうと数を増やすべきではと思ったが……

 

“邪魔だと言外に告げている可能性あるな”

 

 隊の指揮下に練度が未知数の人間を入れる事もそうであるし、遊撃に使うにも流れを予期しない方向に生みかねない事を考えれば、そこは否定できない。

 闇雲に動いて掻き回される事が如何に迷惑かは、安田自身、身を以て経験済みだった。

 

「相分かった」

 

 よもや娘に諭されるとはな、と意固地に残った己の愚鈍さに悔みかけたが、そうでなかったと気付いたのは、女だてらに優秀な娘の、安堵の表情を見てしまったためだ。

 

“馬鹿か、私は”

 

 古い空気に当てられた為に、あろう事か娘を娘として見なかった。ただ能力のみで判じ、その内を覗く事を怠った。

 

「落ち着け。歌凜子は間違っていない」

 

 お前がしている事は正しい。だから悩むなと、震える指先を取ってやる。如何に己より長く生き、学ぼうとも心根まで一端の将に成り切れる筈も無い。元より歌凜子は繊細で、つい何か悩む度に立ち止まる癖のある娘だったのだ。

 

「父はお前の傍に居る。違えば叱ってやるから案ずるな」

「はい!」

 

 勢い良く頷いて無線機を取る。歌凜子が求めていたのは、動じない帥だったのだ。

 児玉源太郎と大山巌。或いはルーデンドルフとヒンデンブルグか。いずれにしても、安田に求められるのは泰然として留まる事だ。

 

“出来れば、幾人か副官も欲しい所だがな”

 

 そこは自分がすべきだろうと、手持無沙汰にならぬ事を内心喜びつつ作業に移った。

 

 

     ◇

 

 

「状況は?」

「上陸した七分隊の内A・B・Dが全滅。残り四の内、E・G分隊は分隊長(SL)射撃班長(FTL)一名が損耗。C・F分隊と合流し、行動中です」

 

 結構。と敵に与えた被害を考慮せず、後詰を投じるべく指示を出す。

 

“若い女がここまで動けるとはな”

 

 猟犬として征麻呂から指示を受けた男は、本島で交戦しているのが年長でも二十代前半。最年少に到っては十代半ばを過ぎた辺りだという報告に、初めは耳を疑った。

 日本人の歳は西洋人には読み辛いとしても、少年兵部隊同然の相手にここまで削られるとは思っていなかった。

 

“ベトナムでは侮った馬鹿が鉛で頭を刳り貫かれたが、あれとは違う”

 

 相手の士気は高く、行動も迅速だ。若手の中で選りすぐりを島に置いており、司令官が老練な本職だとしても、やはり感受性の高い若手の、それも女となれば引き際を見誤るか、手元を狂わせる。

 本来なら、そうした人間の暴走を止める為に古参の人間を分隊長に置くものだが、どの分隊も一様に若く、しかも常にこちらの動きを読み切っている。

 

“未来が視えると言われても、信じてしまいそうなほどだ……社長(ゆきまろ)の言葉に嘘は無かった訳だ”

 

 言われた時は度の過ぎた警告か、入念に片付けろという激励とばかり思っていたが、これで敵の脅威ははっきりした。

 

「スカートを覗く紳士の時間は終わりだ。強姦魔らしく股を裂け」

 

 女共を叫ばせろと、猟犬は牙を覗かせて笑った。

 

 

 

 




 現実のPMCは今だと現金輸送とか要人警護ばっかりでダーティなお仕事は減ってるらしいですが、フィクションなので大目に見て頂けると幸いです。
(ブラックホークとかヤベーとこもありますが)


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Attack 17 ロリコンがラスボスでありますか!?

 綾之峰家、奥屋敷。

 天鏡島が襲撃を受けるより七時間前、そこに傲岸さが伺える靴音と共に敷居を跨いだ男に、誰しもが眼を背けるか、或いは柳眉を逆立てたい思いを抑えながら応対する。

 

「これは征麻呂様。本日は何用でございましょうか?」

「先の見合いの儀にて、息子が攫われた事は承知しているだろう。これでも人の親として心を痛めているのだが、それでも此度の事件から、綾之峰の未来を憂う大刀自様のご心労を和らげればと参った次第だ」

 

 白々しい事を、と給仕は内心吐き捨てる。男子こそ綾之峰を継承すべきと公の場で宣った男が、厚顔無恥も甚だしく先々代当主の拝謁を願い出るなどと許されようか。

 

「失礼ながら、大刀自様はご多忙の身。何より、当主代理より先の見合いの儀には疑念の声が上がっております」

 

 例え御目通りが叶ったとして、何も利する所は無い。むしろ首を絞めるだけだからさっさと失せろと言外に告げたつもりだったが、どうやらこの男は言葉の裏さえ聞く耳も持たなかったらしい。

 

「故にこそだ。従兄弟が何を吹き込んだかは知らぬが、息子の名誉の為にもあらぬ誤解は解かねばならん。何より───」

 

 ───給仕如きが指図する気か、と露骨なまでに言の葉に恫喝を含ませた。

 

「っ……覚悟の上です」

「流石は奥屋敷の給仕、躾が行き届いている」

 

 だが邪魔だと。悠然と、まるでこの屋敷の主であるかのように征麻呂は踏み込んだ。

 

「お待ちください」

 

 ぴたりと、正面より現れた初老の給仕に足を止める。

 

「日の浅い給仕が失礼を致しました。大刀自様へ取り次がせて頂きますので、しばし御寛ぎを」

「結構。整い次第知らせろ。ただし、俺とて暇ではない。次の日が昇るまでには呼べ」

 

 おそらくは何時間とて待たせるであろう事は承知していた。

 それこそ征麻呂自身、最も嫌がる時間に呼び出されるであろう事も。

 

 

     ◆

 

 

 そして、草木も眠る丑三つ時。予想より一時間ほど早かったなと思案に耽りながら、征麻呂は侍従らに着付けをさせられていた。

 名目上は正装にて面会を所望されたという事だが、警戒の色が濃い所からして、大刀自を害する類の物を帯びていると思っていたのだろう。

 下着を最後の一枚まで剥ぎ取られ、髪さえ櫛を入れるという徹底ぶりだが、これ自体は予想の範疇に収まっている。

 X線や金属探知機のスキャンも考えていただけに、少々拍子抜けと言わざるを得なかった。

 

“とはいえ、ここまで手が込めば当然か”

 

 緞子の向こう、辛うじて大刀自の影が見えた物の、その背後にある気配を征麻呂は読み取った。

 

“加え、側面の壁にも六名。材質からしてすぐに崩せる”

 

 ああ。全く持って完璧だ。そして、何処までも予想通りで味気ない。 

 

「……さて、征麻呂。此度の見合いの儀にて、当主代理より二、三、愉快でない内容を耳に挟んだ」

 

 言い逃れはあるか? と言の葉に険を混じらせて問う。瞬間、先程までの不遜さとは打って変わり、大刀自から炯々たる眼光を浴びた途端には全身に汗を滲ませ、その表情を狼狽から引き攣らせていた。

 あれほど息巻いておきながら、いざ格上を相手にした途端身を怯ませる様は、仮に給仕が居ればいい気味だと腹を抱えて笑ったに違いない。

 

「こ、此度の件は全て、従兄弟(まりか)が息子を入婿にしたくないが為に大刀自様を誑かせた過ぎません!」

「女神の神託をどう説明する? あれは狂言だと当主代理は宣ったが、だとすれば女神を知らぬ筈の外部か、分家の何某かが存在を察知した上で手を回した事になるな」

 

 それも。ただ一人が得をする様に。

 

「なぁ、征麻呂よ。当主代理の言が正しいとして、どのような策を練ったと思う?」

「私如きには、見当が……おそらく、文献を漁った上で手を回したかと。ですが、誓って! 誓って私めはそのような企ては致しておりませぬ! 女神とやらを知ったのも、息子を次期当主のお相手とするとの報を受け取ってからです!」

 

 語るに落ちるとはこの事か。汗を滴らせ、泡を食いながら言い繕う全てが、己がそうしたと自供しているも同然で、余りに滑稽だった。

 

「もう良い。下がれ」

「しかし、大刀自様……」

「聞こえなんだか? 下がれと言った筈だ」

「お、お待ちください! 何卒、何卒発言の機会を……っ」

 

 くどい、と一喝し、緞子の奥から二名ほどの巫女が寄る。彼女らの眼は座り、体幹の揺れも無い。どう足掻いた所で、素人同然の足取りであった征麻呂とは雲泥の差である。何より袖に忍ばせた銃がその後の征麻呂の未来を決めるだろう。

 態と袖をちらつかせたのは、或いは巫女の慈悲だったのかもしれない。黙って立ち去れば、いま命を失う事はないぞと。言葉にこそしないまでも、綾之峰の血筋たる男への最低限の義理として腕を掴み───

 

「─── 一番、愚かな手に出たな」

「……!?」

 

 ぐりん、と差し込んだ腕から二名の巫女が宙を舞い、あろう事か袖の拳銃さえ各々から魔法か手品師の様に奪っていた。

 

「では、御機嫌よう」

 

 まずは大刀自の背後に侍る残り二名の巫女を両手の拳銃で射殺。

 次いで態勢を立て直さんとした巫女も頭部に二発ずつ撃ち込んだ上で緞子へと潜り込んで壁越しからの一斉射を回避し、大刀自の頭部に拳銃を突きつけた。

 

「……まさか、」

「まさかと思うが、俺を馬鹿な小悪党だと思っていたのか?」

 

 

     ◇

 

 

「ここなら安全でありますし、水と食料も数ヶ月は保つ筈であります」

 

 シェルターに着いた後、落ち着かせるようにゆっくりと語りつつ、ジーヤは備え付けられた緊急用の通信機器を取る。

 

「ジーヤ・マクミランであります。正体不明の賊が天鏡島に。ええ、確かに英里華様も。処罰は覚悟の上で有りますが、こちらの責を問える程猶予はありません」

 

 いいから早く援軍を送れと急き立てる。万里華には既に連絡を入れているし、歌凜子とて真っ先に同じ事をしただろうが、我が身可愛さに連絡を怠る愚は出来ない。

 賊の規模や装備など、伝えられるだけ伝えた後に切る。

 

「征綺華少年、何処に行く気でありますか?」

「判ってるだろ……こんな事するのは、あの父親だよ」

 

 タイミングからしてもそれは確実だろう。問題は露見したのが余りに早く、かつ出来過ぎている事だが、そこはジーヤらの見通しが甘かったに過ぎない。

 

「行った所で、連中が止まるとは思えないで有りますがね」

 

 親子の情で息子を救出に来るほど、征麻呂が殊勝な人間でない事はジーヤとて知っている。何より、連中の狙いは『鏡』だと歌凜子が口にした以上、それは事実の筈だ。あの巫女姫が如何に甘くとも、苦楽を共にした巫女と分家の息子を天秤にかけはしないだろう。

 

「……やらないよりマシさ。何より、綾之峰に捕まるのも似たようなものだろ?」

「そっちに関しては万里華様が口添えするので、身の危険は絶対に無いであります」

 

 父親の方は知らないで有りますが、と付け加えるが、そちらに関しては別に庇おうとは思わない。どのような男であれ父は父だ、などという安い美辞麗句で誤魔化せる程、征麻呂の所業は生易しい物ではない。

 

「でも!」

 

 それでも、残ってしまった人間がいる。こんな、どうしようもない状況で、女の子の為に残ってしまった大馬鹿野郎が。

 

「……全く。ホントにモテモテでありますな、あの馬鹿少年」

 

 肩を竦めつつ、奥から装備一式を取って装着していく。だが、その前に言うべき事がある。

 

「何してやがりますかマイシスター。貴女はお嬢様達の護衛として居残りであります」

 

 己同様、装備に身を固めようとする芹沢に釘を刺す。

 

「行かせては、くれないのだな」

「侍従のお役目を放棄するなど、以ての外でありますからな。ジーヤはちょっと外の様子を見て、念入りに安全確認するだけであります」

 

 だから周囲を落ち着かせる為にココアでも配ってろ、と食器の収められた棚を示す。

 

「……すまない。正直に言うと、助けてくれると思ってなかった。安田を見捨てると言った時、私は心の中で口汚く罵ったんだ。薄情な姉だとな……」

 

 姉の方が正しいのだとしても、やはりこればかりは駄目だったと。どうしても、止められない自分の代わりに止めて欲しかったと吐露する妹に、ジーヤは笑う。

 

「安田少年にも繰り返し言ったでありますが、こういう時は言うべき言葉を選ぶべきであります」

 

 安田のように間違えるなよ、と念押す。しばしの逡巡の後、口を開いた。

 

「うん。ありがとう───、お姉ちゃん」

「ワンスモア」

「さっさと行け、バカ姉」

 

“言ってみるものでありますなぁ”

 

 照れ臭そうにする妹を見て、ジーヤは口端が上がるのを抑えきれなかった。

 

 

     ◇

 

 

“思ったよりやる”

 

 携えた鉄拵えの鞘で肋を突き、骨が肺に刺さって倒れた男の頸椎を踏んで砕く。

 安易に抜いて斬らない。敵の数が未知数である以上、弾であれ刀身であれ節約するのが巫女大将のスタンスだ。

 

“だが、風向きも変わったな”

 

 歌凜子の指示に淀みがないのは訓練時から変わらないが、声に何処か活力というか、これで良いのかという迷いが消えていた。

 

“察するに黒瀬が傍に居るのだろうが、ここから優勢になるかは別だな”

 

 本島に詰めている巫女は総勢三百。海上警邏に割いたのが内三十であり、現時点での死亡及び幾許も無い重症を合せ、五十近く逝ったか。

 如何に練度が高くとも数で押されてはどうにもならぬし、その練度とて純粋な兵士として見れば相手もさる者だ。

 

“やはり『眼』が勝敗の鍵か”

 

『鏡』に関しては視えぬが、それ以外の──例えば己の危機──であれば使用は問題ない。斥候を用いずとも己がどのように通ったかを視、その上で介入すれば少なくとも奇襲を受ける心配はないのだ。

 

「巫女大将、敵は持ち駒を注ぎ込んだようです」

「ストライカーは動くな? 後詰が散兵戦に移る前に叩け」

 

 

     ◇

 

 

“自走砲まで出したか”

 

 投入した兵力の一角を崩された事に舌を巻く。いよいよ本格的な戦争らしくなってきたものだ。

 

「生き残りから順次、中央の建造物を目指せ。目的は飽くまで『鏡』だ。迂回出来るなら越した事はない」

 

 さて、と無線を部下に渡し、肩を回す。出せるだけの指示は出した。そろそろ己も楽しんで良い頃合いだ。 

 

“叔父は南方諸島でクロセとかいう猿に斬り殺されたそうだが、学のない一兵卒に将の剣は過ぎた栄誉だろう”

 

 流石に今のご時世、刀剣で死ぬ事はないだろうが、どうせ死ぬなら楽しめる死に方をしてみたいものである。

 

 

     ◇

 

 

“ヒット”

 

 心中で呟きながら、スターライトスコープをジーヤは覗き込む。

 観測手が居ない為、命中率は八割と言った所だが、それでも賊の動きを止める上で狙撃というのは心理的に大きな要因になる。

 誂え向きな林といい、建造物からの位置取りといい、防衛側には打ってつけと言える立地に、ジーヤは楽なものだと口元を吊り上げた。

 

“尤も、ここまで踏み込まれている事を考えれば、楽観視できる状況ではないで有りますが”

 

 随分と長い安全確認になりそうだと、不用意に頭を晒した賊のヘルメットに第二弾を叩き込む。頭部そのものが無事だったとしても、弾の衝撃は脛骨を強引に持って行くのだ。

 

「しかし、随分ワラワラと。どんだけ居るのでありますかなぁ」

 

 ふと、口にして気付く。幾ら何でも、この一帯に集まり過ぎではないか?

 

 

     ◇

 

 

“やはり威力偵察だったか”

 

 無線での連絡を盗み聞きつつ、次の動きを考える。予想外だったのは敵の行動に迷いがなかった事と、ここまで派手な戦闘を行いながら海自等の組織が近づかない所か。

 後者に関しては、根回しをされている可能性は無論あるだろうが。

 

「応援は連絡済みですが、賊の装備が良すぎますね。最寄りの者が駆けつけるにも、()()の準備を終えて来るには、早くとも一時間」

 

 神妙に頷きこそしたが、安田には少々見通しが甘く見えた。平時こそ不遜に振る舞ってはいても、父にしたように助力に頼りたがるのは悪い癖だ。

 

“外側の対策として船舶が本島を囲んでいるとするなら、もう一時間は見るべきだな。加え、機雷など撒かれた日には……いや、機雷に関しては流石に無理か。如何に質が高くとも、水雷艇まで用意しているとは考え難い”

 

 最悪に備えてこそという思いで思考をめぐらしたが、態々伝えて動揺させる事も無い。内部の賊を一掃するという方針が変わらない以上、そちらに意識を集中させるべきだ。

 

「外部に気を揉まず、すべき事を積極に努めろ。他は何かあるか?」

「ジーヤ殿が応援に来たようです。現在はこの地点で狙撃を行い、敵行動を遅滞させています」

 

 良い位置取りだと含み笑う。無暗に苦しめるのは信条には反するが、賊に対してまで軍人としての誠意を持ち合わせてやる義理はない。

 

 

     ◇

 

 

 マスクを装着して場所を移せ、と防護服に身を固めた巫女から手旗によるモールス信号を受け取ったジーヤは、やっぱりかと嘆息した。

 

“こういう時日本では何というのでありましたか? スタコラサッサ?”

 

 古い、と妹が訊けば駄目だししそうな発言を心中でしつつ、銃を担いで即座に離脱する。とはいえ、狙撃手の原則として場所を変えつつ行動しているので、指して難題でもない。

 何より、味方は安全圏に逃れた事を確認してから行動してくれている為、マスクの着用は保険程度の物でしかないし、仮に危険であったとしても解毒剤と防護服は支給されている為、すぐにでも着用可能だ。

 

「うわ。思いっきり化学兵器を使用してるでありますな……」

 

 農薬散布用のヘリを改造してまき散らしているのは、確実に致死性のものだろう。装着の遅れた賊がバタバタと斃れて行く様は爽快な反面、決断できる人間の神経を疑う。

 

“いやまぁ、非正規の人間は国際法の対象にはならないのでありますが”

 

 拷問されようが何をしようが知った事ではない。が、それは立場的にジーヤ達も同じである。彼女らとて、国の庇護下にある正規軍人という訳ではないのだ。

 

“敵が同じ手を使わない保証も無いですからなぁ”

 

 核の撃ち合いにも似た大惨事に発展しては堪らないが、それを今考えても仕方ない。

 この地が地獄と化す前に、賊を残さず本物の地獄に叩き込むべく、銃を構えた。

 

 

     ◇

 

 

“……まさか敵に使われるとはな”

 

 これは良い。ここまでやる相手は本当に絶えて久しかった。なんて素晴らしい地獄を用意してくれるんだ! 

 

“嗚呼全く、ヘリを落とされたのは痛かった”

 

 化学兵器の類は空中散布の為に、全て積み込んでいた。後詰のヘリも優先的に落とされた以上、海の底から拾い上げる訳にも行かぬし、仮に出来たとしてもタイムアップだ。

 何より、連中は準備が良い。自分がする事を相手がしないと考えるような素人なら、威力偵察の時点で片が付いている。

 現状、中央建造物に辿り着いているのはゼロ。ワンサイドゲームの様相を呈しつつあるのは猟犬としても()()()()()が、やはりプロとして頂けない。

 

「入手が不可能なら壊せとの仰せだ。射程内に入った時点で携帯型地対空ミサイル(スティンガー)をあるだけ撃ち込め」

 

 命じた直後、九死に一生を得た隊員は命じられるが儘に行動する。

 車載型の多連装ロケットを使えれば楽だったが、敵もそれは一番に警戒していたらしく、残された手段はこれしかなかった。

 ただ壊し、ただ崩す。直接的な殺傷や有効な破壊という訳でなく、牙城に傷を与える事で揺らぎが出来れば良いという思いがあったし、何より派手な花火は囮に使える。

 現に、ここまで潜り込んできた隊員は居場所を晒した為に狙撃手や敵分隊の餌食になっているが、構いはしない。

 

 ───そう、構わない。死のうが生きようが、目的を果たした側が勝者なのだから。

 

 

     ◆

 

 

「……殺した所で、次期当主の座には遠いが?」

「言葉を選ぶべきだな、大刀自。俺の未来と己の数秒後。どちらの心配をするのが建設的かな」

「正面の巫女が見えんのか? 一寸先の身を案ずるべきは同じであろう」

 

 確かにその通り。無数の銃口がただ一人に対し、殺意と共に向けられる現状は、王手をかけた征麻呂自身も、一時の勝利の後に敗北する未来を描いている。

 

「成程、現実的に見ればそれが道理だろう。だが───」

 

 ずるりと、背後に回っていた征麻呂が、後頭部に銃を突きつけたまま大刀自の頭巾を取る。

 流れるような銀の髪が零れ、十代半ばといううら若い美貌を、巫女らは正面から見据えて息を呑む。

 

「───不老不死。泉の女神に願ったか?」

「それを当てにしたなら外れだ。巫女もそうだが、これは不老であって不死ではない」

 

 本当にそうならば、銃の脅しになど屈しはしないし、護衛をつける意味も無い。とはいえ、それも征麻呂にしてみれば予想通りだ。

 

「知っているとも。そもそも、俺に『死ねなくなる』などという願望はない」

「ならば……」

 

 何だというのか。一体何故、このような暴挙に及んだのだ?

 

「綾之峰の秘宝たる『鏡』。あれは何だ?」

「唯の宝だ。売り捌くとして、金銭など貴様とて湯水のごと、」

「違うな。あれは泉の女神から賜ったものだ」

「……」

 

 どの文献にも記載はない。仮にあったとしても、大刀自自ら残らず燃やし尽くした筈の秘事を、何故この男は知り得たのか?

 

「そう、何処にも記述がない。本来宝物として箔をつけるべき文献が、綾之峰の血筋たる俺の目にすら届かず失われている。その時点で曰く付きと見て然るべきだろう」

 

 加え、押し黙った事も悪手だ。あれでは肯定しているに等しい。己の憶測が正しかった事に満足しつつ、征麻呂は一層饒舌になる。

 

「では『鏡』とは何なのか? それを語る前に、巫女共、貴様らはどうして俺が『こうする』事が視えなかったと思う?」

 

 未来視を持っていながら、見通せなかった今。巫女らはそれが『鏡』を付け狙ったが為と考えていたが、そうではない。

 

「大刀自自身の運命も視えんのだろう? いや、こう言い換えた方が適切か」

 

 ───『鏡』と大刀自は繋がっている。

 

「……何処まで、いや。どうやって知った?」

「俺が餓鬼を買っていたのは、唯の幼児性愛だとでも思っていたのだろう?」

 

 ああ、確かに抱きはした。無残に扱った事とて、両の指どころでは足りぬ程だが、それはフェイクだ。

 

「泉の女神は対価と引き換えに願いを叶える。餓鬼に命じるのは簡単だった」

 

 視力や聴力。当人らにとって掛け替えのない物だったとしても、貧しい人間というものは金銭如何で幾らでも切り売りする。征麻呂程の財を持つものであれば、操るなど造作もなかった事だろう。

 ……とはいえ、必要以上に叶えて貰っては困るのも事実。情報の流出を防ぐ面も兼ねて、終わった後は速やかに処理したが。

 

「あの、女神……っ、何を考えている!?」

 

『鏡』が砕ければ、この国がどうなるか。あの女神とて、生き残れる保証はない筈だというのに!?

 

「神は公平でなくてはならない。たとえ神自身の意に反するとしても、差し出された以上は公正であるべきだろう? とはいえ、女神もルールの範囲内で情報を出し渋ったのは事実だ。そう責めてやるな」

 

 だからこそ、征麻呂は断片的な情報を自ら組み立てるしかなかったし、息子を使って安全な方法で綾之峰を飲み込む事を第一に動いていた。

 ここに来たのは、飽くまで第二プランだったに過ぎない。

 

「第一、あの『鏡』とて、女神にとって博打に過ぎる代物だ。出来る事なら渡したくなどなかったろうさ」

 

 ……ああ、確かにその通り。綾之峰が安泰である限り国家永遠を保証する神器は、それを失うと同時に全てが無に帰す諸刃の剣。

 願い欲した大刀自自身、それを誰より弁えていた。

 

「話を変えよう。そもそも『未来視』とはどういう物だ?」

 

 泉の女神の存在を知り、そこから賜ったとして、疑問が一つだけ残る。

 ───その『眼』の対価は何だったのか。

 

「未来を見通し、介入し、常に勝者で在り続ける。そんなもの、この世の何を引き換えに払えば得られる? 答えは簡単だ。『払っていない』」

 

 そして、それこそ征麻呂が凶行を達成できた理由でもある。

 

「巫女共が視えずとも当然だ。あれは誰かの手によって『壊される』事を前提としている。それを以て、『前借り』した全てが降りかかる」

 

 古来、鏡とは冥界を繋ぐ門だと言われた。綾之峰の秘宝の正体とは、本来勝者に成り得たであろう誰か。有り得たであろう勝者の未来を閉ざし、吸い、封じるための呪物。それが砕かれれば最後、決壊したダムのように濁流が流れて行くだろう。

 

「それを知って、こんな真似をしたというのか!?」

 

 この国を、綾之峰を、全てが滅ぶと知りながら何故……、

 

「何故……? 何故、何故だと?」

 

 くつくつと、けたけたと。征麻呂は愉快気に、何処までも残酷に笑い続ける。

 

「───陛下の統べぬ日本など、最早日本ではないだろう」

「貴様、貴様は……まさか」

「そうだとも。そうなのだよ、大刀自。俺は───」

 

 ───忘れはしないと、そう願ったのだ。

 

 

 




 征麻呂さんが小物だと思った人、挙手。


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Attack 18 ジーヤのSAN値がピンチであります!?

「突破された!?」

「案ずるな、歌凛子。内部に踏み込んだなら報告が来る」

 

 よもや、砲撃で一人余さず全滅したという訳もあるまい。それがないという事は、恐らく外からの砲撃か。奥の間を含め、社は見た目こそ白壁と木材だが、内側は強化コンクリートと鉄骨鉄筋という要塞同然の作りだ。

 無論、使用されたのが現代兵器である以上損害は免れないが、直ちに落城する訳ではない。少なくとも安田はそう踏んでいる。

 

「そうですね。被害を避ける為にも、突入は砲撃が一旦止んでからでしょうし」

 

 歌凛子の発言は現実的なものであり、鉄則鉄板を地で行っている。まさか味方の砲撃と同時に突っ切るなど、自殺願望でもある馬鹿でなければ実行すまいと息を吐き。

 

『歌凛子様、賊はラインを突破して社に侵入! ご指示を!』

 

 その予想が裏切られた事を、瞠目せずには居られなかった。

 

「な、」

「息を止めるな。社に侵入したというが、鉄条網は敷かなかったのか?」

「は、はい。いいえ、父様。確かに鉄条網も塹壕も……ですが、父様達が来ると聞いたため、一部は開けておく必要が……」

 

 つまりは、そこを狙われたということか。流石に責めるのは酷というものだろう。安田たちが着いて一夜を迎えた日の内に事が起こったのだ。元に戻すにしても、不完全だったのは無理からぬ事である。

 

「一旦落ち着いて聞け。これは何も未知の戦術という訳ではない。

『這う射撃』と言って、フランス軍総司令、ロベール・ジョルジュ・ニヴェルが『勝利の秘密を知っている』と豪語し編み出したものだ」

 

 寧ろ、安田にしてみれば黒瀬として戦場に生きた時代に使われた物。第二次どころか、第一次世界大戦すら存在しない今の世であろうと、ニヴェル当人が存在する以上、何処ぞの戦場で使われたのだろう。

 歩兵の前進に合わせ、砲撃を延伸させるこの戦術は、理論上歩兵の被害を押さえた上で敵陣に切り込めるという画期的なものとして見られたが、タイミングを誤った歩兵は砲撃に巻き込まれ、却って犠牲を増やしてしまったという何とも間抜けで、しかし順当な結果をもたらした。

 第一次大戦後、黒瀬も敵味方両陣営の作戦を研究する傍らこの作戦を知ったが、当時としても、不謹慎ながら思わず苦笑してしまったのは今でも覚えている。

 砲の弾道も、歩兵の移動も、機械の如く寸分違わぬ事など有り得ないし、何より砲の爆発範囲が均一である筈もない。

 それを懇切丁寧に語って聞かせたのは、歌凜子が己の予想を超えられたという精神的動揺を覚えてしまわないようにするためだ。

 人は常に未知を恐れる。一度揺らげば迷いは続き、己の正しさを疑い続ける一方、敵を打ち倒せぬ怪物として捉えてしまう。

 それを支える為にこそ、安田は帥として敵を冷静に見続け伝えた。恐るべき怪物の影を追わず、飽くまで唯の人間として相対する。

 

「賊とて被害は出ただろう。こちらに人的被害の報告がない以上、室内戦に専念すべきだ」

 

 

     ◇

 

 

“良い、実に良い大将だ。カエル野郎(フランスじん)の戦術は冗談半分のつもりだったが、建造物に潜った後も敵の動きの迅速さときたら……”

 

 読み切っている。理解しきっている。氷のように冷たく、大樹のように動じぬ将だ。

 こちらの被害が多い事も、手早く片付ければ『外』に専念出来ることも判断した上で、より多くの兵力で対処してきている。

 

“だが”

 

 壁際からのクレイモアで挽肉になった分隊員を見殺しにしつつ、奥から奇襲をかけた巫女二名を拳銃で撃ち殺す。

 奇襲は効かず、故に損耗は免れないが、純然たる兵としての実力は、猟犬を超える者は見当たらない。

 

“尤も。質と勝ち負けは別だが”

 

 一本道の折れ曲がった通路を分隊員が先行した瞬間、夥しいまでの鉛を浴びて無様に踊る。それを見て、猟犬はルートが正しい事を確信した。

 

“ビンゴ”

 

 予め仕込んでおいた発信機のスイッチを入れ、残りの兵に教えてやる。

 通り道は一つのみ。ジグザグに折れ曲がった通路は常に巫女が待機し、その都度銃火を浴びせられるに違いない。

 

“到達に要する人数はジャスト。一人でも欠ければ終わる”

 

 つまりは賭け。損耗は強いられるが、何も『生きている』必要はない。

 

()()()なっても役には立つのでね”

 

 押されるスイッチ。地に倒れた一人目の分隊員が、巫女を道連れに爆発した。

 

 

     ◇

 

 

「狂っていますな……」

 

 異なる爆発音を聞いて駆け付けようとするも、間に合うかどうか。

 曲りくねった通路は破られた。賊にしてみれば一人道連れにできれば御の字だったのだろうが、結果としては通路の一部が崩れ、破片で二人目も重傷を負った。

 これまで使って来なかったのは、隠し玉として取っておいたに過ぎず、ほぼ全ての賊が内側に爆発物を仕込んでいたのだろう。

 

「異常に見えるかね? だが、それが我々の仕事なのだよ」

 

 殺すのは好きだし、殺されるのも楽しい。そういう気狂いを優先的に、世界中から集め続けたのだと、先を急ぐジーヤに敢えて猟犬は姿を晒す。

 

“親玉の登場でありますかッ!!”

 

 瞬間、ジーヤは銃の引き金を立て続けに引くも、猟犬は転がりつつ回避し、自らもまた銃火を交えた。

 

“くっ”

 

 他の賊とは明らかに違う。バラクラバを着用し、目元もドーランを塗っているため判別は難しいが、少なくともロートルであることは間違いない筈だというのに!?

 

「介護施設にでも入っているべきであります!」

「殺しは好きだが、飼い殺しは嫌いでね。楽しいなぁ。そうだろう? 殺しは楽しい」

 

 歌うように。囀るように。唯々子供が遊ぶように、玩具を振り回すように猟犬は銃を撃ち続ける。だが、対するジーヤは忌々しげに通路の先を見るしかない。

 

“このままでは、本殿が……!”

 

 脇を抜ける余裕はない。賊とて誰か一人くらい応援に駆けつけても良いだろうに、誰一人としてジーヤを殺そうとはせず、自ら進んで巫女を巻き添えに死にに行っていた。

 

「こ、の!!」

「どうした、生理が来てるのか?」

「余計なお世話でありますセクハラジジイ!!」

 

 殺してやると片方は目を、もう片方は口元を釣り上げる。

 拳銃の残弾が半数を切ると同時、互いナイフを抜いた。再装填などすれば、その瞬間にナイフで仕留められたに違いない。

 距離を詰め、互い肉薄しながらナイフを急所めがけて振るうが、やはり決めきれずにジーヤは歯噛みした。

 この瞬間にも、爆発音が絶え間なく響いていく。誰も彼もが、死ぬ事を楽しむように今も道連れにし続けているのだ。

 

「あの音が聞こえるか? コツェブー曰く、世界はオーケストラに他ならず、我々はその中の楽器だそうだが、彼らは極上の音色だろう?」

 

 お前も楽しめ。人の死ぬ音に酔い痴れろ。

 殺人こそ、殺し合いこそが、この世の何者にも勝る極上の快楽なのだから。

 

「ならば───貴様はどんな音を奏でる?」

 

 

     ◇

 

 

「ならば───貴様はどんな音を奏でる?」

「こ、ふぁ……?」

 

 背後から、頚椎を割って口内まで真っ直ぐ突き出る刀身を、猟犬は不思議そうに見据えて振り返ろうとするが、上手く行かない。

 腕は上がらず、足が崩れて地に落ちる。巻き添えにしてやろうにも、指一本動かない。

 

“嗚呼、こういう……これが、刀か”

 

 痛みはなく、ただ熱い。燃えるような感覚が、首から上にだけ広がっていく。

 

「こ、れは、良ひ、い、た、み……だ……ジッ!?」

 

 引き抜かれた刀身に舌を巻き込んだか。蛇のように分かれた舌を突き出しながら、猟犬は息絶えた。

 

「巫女大将……」

「急ぐぞ、ジーヤ殿」

 

 ただ駆け抜ける。どうか間に合ってくれと、祈るような面持ちで。

 

 

     ◆

 

 

「終わったな」

 

 ピキリ、と。大刀自の胸から亀裂の走る音を、確かに征麻呂は耳にした。

 

 

     ◇

 

 

 ジーヤと巫女大将。両者が駆けつけるのと、本殿に最後の賊が辿り着いたのは同時だった。

 諦めろ。動くな。そうした言葉に意味はない。ただ、己もまた転がる巫女や分隊員のように、死ぬ前に為すべき事を為すのだと銃を『鏡』へと向け───

 

 

     ◆

 

 

「あ、あ。嗚呼……アアアアアッ、アァッァァアアアァッァアッァァァァァ!!?」 

 

 胸を中心に広がる亀裂。そこから溢れる『何か』を抑えるように大刀自は両手で塞ぎ屈もうとするが、征麻呂は髪を掴んで盾にし続ける。

 

「苦しいか? 苦しいだろう」

 

 良い、実に良い。この姿が、その声が聞きたかった。

 

「きさまぁ───────────────────────ッ!!」

 

 唱和する巫女の怒号。しかし、それさえ意に介さぬまま征麻呂は指を鳴らす。

 

「時間をかけすぎたな」

 

 揺れ、崩れる。これが地震など自然現象の類ではなく、人為的なものなのだと真っ先に気づいたのは、他ならぬ大刀自だった。

 

「征、麻呂……女神と取引したな……」

 

 学園の泉は、都市全体に根を張る水脈の一部が地に溢れていただけに過ぎない。

 その源流こそがこの奥屋敷の建つ綾之峰山の地下であり、女神の命の源泉にして生命線となったのは、今の世において()()()()()女神が己が版図を広げた為だ。

 

「確かに爆薬は運び込んでいたがな。これは女神の意志だ」

 

 誰だとて、死にたくはないのだろう。例えそれが、二千年以上の時を生きるモノであっても。

 

「余興だ、話してやろう。かつて、日本国の歴史を歪める為に女神が提示した対価。

 綾之峰の世に歴史が変わったとき、最も得をしたのは何者か?」

 

 原子爆弾も大空襲も経験しなかった国家? 国民? いいや違う。女神自身が語った事を、今も征麻呂は覚えている。

 

「何故、陛下を誘導してまで願いを叶えさせたか。何故あの時でなければならなかったか?

 答えはな───戦火による空襲で、泉が消える筈だったからだ」

 

 払われた対価の結果、最も多く恩恵を得たのは女神自身。

 単純に命を拾っただけではない。綾之峰に国を治めさせる事で、泉一帯の土地を神聖視させ信仰を集め、力を増した女神は版図を広げた。

 今となっては、陛下の捧げた全てが歴史を切り替えるために使われたかどうかさえ怪しいものだ。何せ『鏡』などという物を作り出せる力があるのなら、その力で固まった運命に綻びを与えるだけでも、祖国そのものを救う事は出来た筈だ。

 

「おそらく、空襲などなくとも泉は枯れただろう。だが、今の世では決してそうはならない」

 

 己の永遠を望む事。死という恐怖を永遠に消失させることこそ、女神の望みだと征麻呂は語る。

 

「星読みの巫女も含め、万事が上手く行き続ける限り女神は安泰だっただろうが……」

 

 破滅に転がった途端これだ。既に女神は綾之峰山の地下水を地上にまで噴出させ、奥屋敷を飲み込もうとしている。

 

「時を置かず、綾之峰が得、その分け前を得た国もまた等しく厄災が降り注ぐ」

 

 それが地震か、津波か、或いは世界が書き変わる以前の、核によって吹き飛ばされる筈だった歴史の二の舞となるかは定かではない。だが、それならばこの地そのものを巨大な泉にする事で、生存の可能性を広げているのだろう。

 

「まぁ、それはどうでも良い」

 

 女神が死のうが生き残ろうが、征麻呂自身には関係ない。たとえ女神が詐欺師であったとしても、全てが終わってしまった以上、取り返しは付かないのだ。

 

 さて、と銃を構えていながら、案山子も同然に立ったまま手を出せぬ巫女らに問う。

 

「選択肢を与えてやる。俺ごと大刀自を殺し、厄災が広がるのを早めるか───」

 

 ───今、溢れる泉に入り、女神と取引を行うか。

 

「やってみる価値は、あると思うが?」

「……!」

 

 確かにその通り。ここで手を拱くぐらいなら、我が身を引き換にしてでも……

 

「よ、せ……」

 

 だが、その自暴自棄に、大刀自は待ったをかけた。それは無駄だと、そんな事をしても意味はないのだと。

 

「お前たちの……命では、対価にならない。ここを離れろ……一人でも多くの国民(くにたみ)を救え」

「っ……」

 

 奥歯を噛み締め、後ろ髪を引かれながらも巫女らは奥の間を後にする。

 慌ただしい音が遠ざかるのを確認し、征麻呂は大刀自の髪を手放して床に転がす。

 

「偽善者が」

 

 元より、貴様が欲をかかねば済んだものを。

 

「何が国民(くにたみ)だ。何が救えだ」

 

 我が身の栄達しか頭になかった女が、よくもこの国の王であるかの如く宣えたものだ。

 

「儂は……期せずとも、陛下から国、」

「痴れ者が……ッ」

 

 臓腑が破裂しかねないほどの勢いで、大刀自の腹部を蹴り上げる。鞠のように体が跳ねて転がるが、怒りは収まらず立て続けに爪先で蹴り続けた。

 

「貴様如きが陛下を騙るな……! 盗人に大御心の何が判る……ッ!?」 

 

 栄光も、存在も、歴史も、国民(くにたみ)の為に全てを躊躇なく擲ったこの国で最も貴き方を、欲深い女に騙られて堪るか!!

 

「二度と汚れた口で陛下を騙るなッ!! 次に口にすれば厄災が降り注ぐ前に私兵をこの国に放ち、貴様の一族を真っ先に殺し尽くしてやる……ッ」

 

 息を切らし、頭に血を上らせながらも、やがて息を整えてゆったりとした口調で語りかける。

 

「だが……今はまだ止めておいてやろう。貴様も殺しはしない……その苦しみが終わるまで、一族には手を出さないでおいてやる」

 

 だから───精々長く耐えて見せろ。

 

 

     ◇

 

 

「あ、嗚呼……」

 

 賊は殺した。狙い過たずジーヤの弾丸は頭部に命中したものの、既に引き金にかかっていた指は死して兇弾を散らし、僅かながらの弾丸が『鏡』に亀裂を入れると同時、覆いを地に落として全容を顕にさせた。

 

「巫女大将殿……()()は、何でありますか……?」

 

 天井に届くほどの威容もさる事ながら、ジーヤはその『鏡』を見た瞬間、込み上がる嘔吐感を抑えられなかった。

 ドロドロと。まるで融け滴る蝋のような歪な枠。それに嵌め込まれた本体たる鏡は人を映さず、黒々と湛えられた瘴気が、黒煙のように亀裂から漏れ出ている。

 

「逃げろ……逃げるんだ、ジーヤ殿ッ! 英里華様達を連れて、早く国外へ!!」

「落ち着くであります! 一体何なのでありますか!? あれは綾之峰の宝なのでは無かったのでありますか!?」

 

 強引に腕を引かれ、本殿から連れ出されるジーヤは、内心助かったとさえ思った。

 もし、巫女大将が腕を引いてくれなければ、ただ呆然と止まり、足を竦ませ続けたに違いなかったから。

 

 

     ◇

 

 

「……、ッ……ッ!!!!」

 

 言葉に出来ず、歌凛子は何度も机に拳を叩きつける。どうして、こんな事が起きてしまったのかと。何故止められなかったのだと悔いるように。

 

「落ち着け、落ち着くんだ歌凛子!!」

 

 強引に腕を掴み、安田は娘を取り押さえる。息を荒げ、焦点が合わず泳ぐ眼が安田と重なった時、震えながら安田を抱きしめた。

 

「逃げて、逃げてください、父様……何処か遠くへ、この国から早く」

「まだ賊が残っている。指揮を続けるんだ」

 

「いや、そちらは既に片付いている」

 

 海自を含めた応援も到着しているよ、と巫女大将はジーヤの腕を掴んだまま、息を荒げながら伝えてきた。

 

「確かですか? 伏兵も居ないと?」

「居たところで無駄だ。『鏡』が既に罅割れた以上、遅かれ早かれ日本国は地獄と化す」

 

 この島とて『鏡』がある以上真っ先に飲み込まれるだろうと語る巫女大将の背後には、生き残った巫女らに連れられた銀香らの姿があった。

 

「どういう事だよ……そもそも、『鏡』って何なんだよ」

「銀香様。貴女も覆いの上からでしか、『鏡』をご覧になった事はありませんでしたな」

 

 尤も、あんなものを見た日には発狂しかねないのは、ジーヤの反応を見れば分かるため、当然といえば当然だが。

 

「あれは……宝物などではない。いや、確かに泉の女神から先々代当主が賜った以上、紛れもない神器なのだろうが」

 

 歯切れ悪く、動揺を隠しきれないまま巫女大将は震える歌凛子に代わって説明を始めた。

 曰く、綾之峰の庇護下にある星読みの巫女は、星占いを行っているのではなく、泉の女神の力を得て未来を見据え、綾之峰が干渉する事を生業としていたこと。

 女神の願いは常に対価を要し、正と負の天秤を保たねばならないが、大刀自は女神に賜った『鏡』に負の力を封じる事で、『未来視』の力を際限なく使っていたこと。

 

「お待ち下さい。貴女方の眼は、陛下が玉体と歴史を捧げた対価ではないのですか?」

 

 未来を見通し、歴史に干渉することで起こり得たであろう悲劇を回避する事。それこそが、今の世を形作ったのではないのか?

 

「……確かに、父様の仰る通りです。我らの力は、起こり得る筈だった歴史の悲劇を回避する為の物。だからこそ『第二次世界大戦』という危機が過ぎ去った時点で、潰える筈だったものなのです」

 

 ゆっくりと。胸に顔を埋めたままだった歌凛子が離れ、訥々と語る。

 如何に日本国全ての臣民の祈りと、最も貴き御方の存在と歴史をかけたとしても、それは飽くまで固定化された歴史を介入可能なものとし、悲劇を回避する為のものだったに過ぎない。

 大刀自は綾之峰の繁栄の為、未来視の力を後の世にまで利用すべく、女神に『鏡』を賜った。それは本来、綾之峰が介入しなければ恩恵を得られた筈だった敗者の未来を蓄積するものであると共に、いずれは払わなくてはならない『負債』を溜め込むものだった。

 

「だからこそ、我らは『鏡』に関する未来だけは視えなかったのです……いずれ払わねばならぬ物だからこそ、壊れぬようにする事は出来ないから」

 

 そうでなければ、やりようは幾らでもあった。土に埋めるなり、コンクリートに固めるなり、或いは地下に巨大な金庫を造るなりだ。

 だが、それは決して出来ない。鏡は常にその場に留まり、誰かの手が触れられるようにしなければならなかった。

 

「なら、どうやって『負債』を返すつもりだった?」

 

 未来を書き換え、歴史を意のままにする力。そんなものを、一体どうすれば返済できる?

 

「それこそが、大刀自様の対価……我らと同じ不老の身にありながら、常に幸福を享受出来ぬ綾之峰の姫の運命です」

 

 

 

 




 本殿でこの世ならざるものを見てしまった貴方はSANチェックです。
 成功で1D6。失敗で1D10のダイスロールをお願いします。


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Attack 19 結局どっちが好きなのでありますか?

 遠い昔。誰にも知られぬ過去の話を語ろう。

 ある寂れた村に、一人の少女がいた。

 頬は痩け、肋は浮かび、肌は罅割れた少女は、しかし北風と共に積もる新雪の如き髪から、雪女だの化生だのと蔑まれながら生き続けていた。

 少女を生した両親は、既に村の総意で葬られている。にも拘らず少女が生きているのは、やはりその髪から化生と見られ、殺せば祟られると思われたからだ。

 

 ───寒い、冷たい、苦しい。

 

 嗚呼、なんて……地獄。誰も来ない。誰も触れない。少女自身は薄暗い小屋に閉じ込められ、生きるには厳しい食事で糊口を凌ぎ続ける日々が、十年近く続いていた。

 

 ───出たい。触れ合いたい。 

 

 いっそ、積もる雪のような願いは溶けてしまえば良かった。水に流され、風に消え、ただ眠るように終われたなら良かったのに。

 

 ───助けて下さい。ここには居たくない。苦しいのは、もう嫌なの。

 

 胸を打つ嘆きと叫び。しかし誰も、それには気づかない。

 だから、少女は狂った。ガンガンと、腐った壁に頭を打ち付けながら、血が溢れるのも構わず繰り返した。

 傷ついて、傷ついて、傷ついて。胸の痛みに比べれば、体の痛みなどどうでも良いというように。そして───

 

 ───嗚呼、やっと。

 

 抜け出せたのだと。全身をカチカチに凍えさせて、雪に埋もれる足が凍傷にかかる事さえ、少女には開放の喜びだった。

 宛てもなく歩く。空腹に腹が痛むが、気にはならない。

 この一時の自由が得られるのならば、得られ続けるのならば、たとえ死んだとしても後悔は───

 

『居たぞ!』

 

 誰かが、そう叫んだ。見つけろ、いっそ殺せ。古い村の慣習(めいしん)は、叫喚と共に一人の少女を急き立てた。

 無我夢中で逃げ続けた。転んだ拍子に足の爪が剥がれ、裏が血だらけになっても構わず逃げて、逃げて、逃げて。

 

 そして少女は───崖から落ちた。

 

 ───痛い。痛い。痛い。

 

 腕も、足も、あらぬ方向に曲がっていた。それでも、少女は這って進んだ。

 ずるずると、ずるずると進み続けて、やっとそこに着いたのだ。

 

 ───水だ。

 

 雪では乾きを癒せない。泉の湧水は冷た過ぎず、喉を甘く潤してくれる。

 助かったと───そう思いたかった。けれど、だけど。胸に空いた穴が痛い。

 

 ───死ぬの、かな?

 

 誰にも知られず。誰にも見られず。唯、一人で……?

 

 ───嫌だ。

 

 いやだ、いやだ、イヤだ、イヤだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!

 

 ───お願い。忘れられたくない……

 

 どうか、誰か自分を覚えて欲しい。愛されなくても、触れ合えなくても、覚えてくれるぐらい良いじゃないか。一体どうして、自分が知られないまま死ななくてはならないのか。何も、何一つだって、良い事も悪い事も出来なかったじゃないか!?

 

 ───たすけて、だれか。

 

『その願い、叶えて欲しいか?』

 

 ふと、顔を上げた。羽衣を揺らし、宙に浮くその姿は、まるでおとぎ話の仙女のよう。

 

『触れ合えず、愛されず───しかし誰にも知れ渡る名が欲しいか?』

 

 仙女は問い、持ちかける。もし、それをお前が受け入れるなら───

 

『───その願い。この綾之峰山の女神が叶えて進ぜよう』

 

 これは遠い昔の話。最早当人達の中にしか残されていない、小さな記憶の欠片のお話。

 

 

     ◇

 

 

「それこそが、大刀自様の対価……我らと同じ不老の身にありながら、常に幸福を享受出来ぬ綾之峰の姫の運命です」

 

『鏡』と己の身体を繋げ、『鏡』の呪詛を己の苦痛として一人請け負い、霧散させて行く事こそ、綾之峰先々代当主が『鏡』を賜った際の対価だと歌凛子は言う。

 

「誰とも触れ合えず、愛し合えず、唯一人苦しむことで……」

「待てよ。大刀自は私と英里華の曾祖母だぞ?」

 

 子を生し、育んだからこそ自分たちは生きているし、ここに居られる。触れ合えず、愛し合えない等というのは有り得ない。

 

「有り得るのじゃよ、銀香姫。要は其方らと同じよ」

 

 一人の人間を二人に分かつ。その片割れ、同一人物に子を産ませれば良い。

 

「とはいえ、子を生す事が役目というだけじゃ。銀香姫のように人生を謳歌出来る存在ではない」

 

 鏡写しの存在は、飽くまで孵卵器のようなもの。そこに銀香のような意識はなく、子を生すと同時に霧と消えた。

 

「今生、二度と子を生せぬ身体となる事を対価としての」

 

 血を分けず。愛を与えられず。写し身に産ませた子は、それに気づかぬまま当人の手を離れて教育係に育てられた。だからこそ子を宿し、触れ合い愛し合えば自然に老いる巫女と違い、大刀自は不老を維持できている。

 

「もし、好きな奴が触れようとしたらどうなるんだ?」

「触れられんよ。誰しもが、本能から触れようとはしなくなる。仮にじゃが……、好意から無理にでも触れようとすれば呪いは移る」

 

 移した呪いは、あくまで宿した者を傷つけ苦しめる為の物に過ぎない。呪いを己に敵対する者に移してしまえるなら、そもそも対価としての意味がない。

 愛されれば傷つけ、また自らの心も傷つける。触れようと近づけば呪詛が移り、時を置かず全身を蝕む猛毒だ。

 或いは事故。或いは病魔。或いは通り魔……栄華を約束し続けた正の力は反転し、愛した者を殺すだろう。

 

「大刀自様は、不老の身に宿した呪詛に耐え続ける事で『鏡』を保たせておる」

 

 いずれ、『未来視』を用いずとも綾之峰と日ノ本の永遠が約束されるまで耐え続ければ良い。どれ程永き時を苦痛が蝕むとしても、生き続ける限りはいずれ払える。払い切ってみせると誓ったからこそ、女神は『鏡』を与えた。

 一体何が大刀自をそこまでさせのか。何故、そうまでしなければならなかったかは、今の世に生きる者には計れない。そう、今の世に()()生きる者には。

 

 

     ◇

 

 

「話は分かったであります……巷の伝奇小説じみた内容ではありましたが」

 

 泉の女神の事はジーヤや征綺華も聞き及んでいたが、やはり荒唐無稽な絵物語だと、そう思いたい気持ちを押し殺していたのは巫女大将や歌凜子の言葉が、真に迫る物だったからだろう。ただ、芹沢や銀香はともかくとして、それ以外の人間にはまだ判らない事は多い。

 何故、巫女姫である歌凜子が安田を父と呼び慕うか。安田の語った陛下とは誰なのか。一度として世界全土を覆う大戦すら起きていないというのに、第二次世界大戦という単語が出てきたのは?

 それらに対し、安田は全てを話すと切り出した。最早ここに来て隠す意味はない。一個人が抱えたまま世を去るには事態が動き過ぎていたし、何より芹沢らも既に知っている事だ。

 

「少々長くなります……」

 

 そう切り出して安田が語るうち、ジーヤのみならず征綺華や英里華も一様に、呆けたように口を開けた。時折細かい部分に説明を求められたものの、そこは時間がある内に語ると言って聞かせ、重要な点のみを伝える。

 特に、巫女大将との馴初めなどは全力で省いて逃げ切った。事実を知っている芹沢らと、巫女大将当人は冷め冷めとした視線をその都度送っていたが。

 

「……安田少年の前世という奴も含め、俄かに信じ難い話で有りますが」

 

 これも、事実なのだろう。確かに齢十六に見合わぬ洒脱な風格を備えていたし、振り返ればそれらしい部分があったのも確かだ。

 

「だろうな。私や芹沢も、初めて聞いた時はジーヤみたいな感じだったし」

「出来れば、こうした状況になる前に、お二人には直接お話しすべきでした」

 

 不実であった事を許して欲しいと頭を下げたが、銀香と芹沢にしてみれば真実を知るのが早すぎた事もあり、責めようとは思わなかった。

 

「良いって。それより、これからどうするかが先だろ?」

 

 銀香の言う事は尤もである。『鏡』に穴が開き、亀裂が走った以上いずれ厄災は振り撒かれる。『鏡』のある天鏡島に何時までも留まる訳には行かない。

 

「ですが、銀香様。『鏡』の厄災は恩恵を受けていた日本国以上に、綾之峰の人間に降りかかるのでは?」

 

 敢えて考えぬようする事は出来たが、それでは意味などないと悟っていた為だろう。芹沢の疑念に、一同は目を伏せた。

 

「バヤリー嬢の言う通りじゃ。国から逃げた所で、助かる人間は限られる」

 

 それは、眼を使用していた巫女らも同じ事。確かに彼女らは籠の鳥であったとはいえ、役目を終えれば下野した上での安泰した生活が待っている。綾之峰の禄を泉の女神の力で食んでいた以上、厄災からは逃れられない。

 

「この場で逃げられるのは父様と、真っ当に働いておった芹沢姉妹ぐらいか……その姉妹とて、綾之峰に忠を抱いている以上どこまで持つかは判らんが」

 

 とはいえ、日本国民である以上、遅かれ早かれ厄災を待つしかない。例え何処に逃げた所で、負債は必ず取り立てに来る。

 

「なら、行くしかない」

 

 何処へ? と。安田の言葉に一同は問う真似をしない。『鏡』を物理的に修復する術がない以上、取り得る選択は限られている。

 

「父様───、たとえ我ら全ての命を泉の女神に差し出したとて、対価にはなりません」

 

 何故なら自分の命より国が亡ぶ事の方が、遙かに重いと差し出す側が判っているから。天秤は均等でなければならず、自分の命が軽いと理解していながら差し出したとて、それは対価として成立しない。

 

「……何より、奥屋敷から連絡がありました。綾之峰征麻呂が大刀自に反旗を翻し、謁見の間にて銃を突き付けていると」

 

 何を考えての事かは判らないが、大刀自が命を落とせば本当に全てが終わってしまう。今、こうして天鏡島で会話を続けられるのは、大刀自が強引に呪詛を抑え込んでいるからだ。

 

「そうか、それなら───」

 

 ───すぐ助けに行くべきだと。当然のように安田は提案した。

 

「大刀自様を……? あの方は、父様を死地に送ったのですよ!?」

 

 父だけが苦しんだ訳ではない。母も、娘である歌凜子も、黒瀬正継を慕った人間全てが、その別れに苦しんだというのに?

 

「過ぎた事だ。何より、『鏡』の崩壊を抑えるには、生きて貰わなくてはならない」

 

 打算交じりのものでしかないと善意を否定したが、それが嘘なのは誰の目にも明らかだった。他人を助ける事を、安田登郎は迷わない。

 たとえそれが、仇と呼ぶべき相手だったとしても。内心では、娘が憎いと思っている相手だったとしても。

 

「お止めしても、無駄なのでしょうね」

「ああ」

 

 誰にも愛されないのなら───、一人くらい、味方になる者が居ても良い筈だ。

 

 

     ◇

 

 

「安田少年。もしかして、前世ではそんな感じで女の子を口説き落としてたでありますか?」

「いえ。妻とは見合いで、婚姻から愛し始めた関係ですが?」

 

 つまり、これが安田登郎の素という訳だ。

 

「にょほほ。どうじゃ銀香姫、父様は実に其方好みの()の子じゃろ?」

「……いやさ。確かにカッコイイとは思うよ、そりゃ」

 

 どのような相手にも物怖じせず、艱難辛苦を突き進める行動力を持った、良く言えば熱血漢、悪く言えば軽率な蛮勇を持った男。安田登郎は、確かにそういう男ではあった。

 

「けどさぁ……それに救われるのは、自分だけで良いって思っちゃうんだよなー」

「同意します。誰彼構わぬというのなら、それは唯の節操無しです」

 

 ぼそぼそと芹沢と話し合う。ただ、もしここで尻込みして逃げるような男だとしたなら、銀香も芹沢も安田を捨てていたに違いない。

 男だというのなら、それを魅せてこそ女は焦がれるものなのだから。

 

「だが、一つだけ私と銀香様に誓え───絶対に死ぬな。死ぬ事だけは選ぶな」

「はい───約束します。芹沢さん」

 

 淀みなく返された答えに、芹沢は内心胸を撫で下ろした。既に歌凜子が否定しているとはいえ、いざとなれば命を対価に女神に交渉しかねないという疑念があったが。

 

“約束だけは、破らない男だからな”

 

 惚れた弱みか信頼か。それとも見込んだ男は間違いないという己の目への自讃か。

 いずれにしたところで、惚気以外の何物でもない。

 

「父様モテモテじゃのう」

 

 実の娘としては少々面白くない光景である為、脇腹を軽く抓ってやる。

 

「歌凜子、機嫌を直してくれ」

「こればかりは無理です」

 

 やれやれと肩を竦める。出来ればこうした穏やかな空気に浸り続けていたい所だが、時間というものは残酷なものだ。

 

「では、奥屋敷に参るという事で宜しいのですね?」

 

 巫女大将の問いに、一同は強く頷いた。

 

 

     ◇

 

 

「父様。是非、これをお召しに」

 

 恭しく差し出された革張りのトランクと刀袋。最早二度と目にする事はないと思っていた品々に、思わず目を丸くした。

 

「どうやって、これを?」

「母様の形見を対価に。出来るなら、思い出の品としてお渡ししたかったのですが」

「いや、嬉しく思う」

 

 母譲りの出来た娘だと頭を撫でて、錠前を外す。

 これは今の世にない筈の物。置き去られた歴史の中で、知り得ぬ真実と共に闇に葬られて行く筈だった軍衣に袖を通して気付く。

 

“サイズが合っている”

 

 首も肩も、オーダーメイドであった以上、どうしたところで合わぬ部分は有る筈だろうに。

 

「これも女神に?」

「はい。次にお会いする時の身体に合わせて頂くよう、お頼み申しました」

 

 気を回してくれた事に感謝しつつ、母のように着替えを手伝ってくれる娘に、少々戸惑いながらもされるが儘でいる事にした。

 

「母様にも、いつもそうして遠慮しておいででしたね」

 

 こうする事が好きだったのですよと笑う娘に、確かにもう少しぐらいは甘えても良かったと、今にしてみれば思う。

 

「ああ、後悔している」

 

 だが、それを引き摺るばかりでも居られない。今を生きる以上、前を向いて行くべきだと他ならぬ亡き妻から諭されたのだから。

 刀袋から軍刀を取り出す。重みのみならず、鞘の長さが記憶と違った事に気付き、怪訝な面持ちで鯉口を切る。金色の(はばき)が顔を覗かせ、そこから伸びる刀身を目で追った。

 

「これは───」

「お気に召して頂けましたか?」

 

 クスクスと笑う娘に、父は唯々頭を垂れる。

 吉岡一文字助光。黒ノ瀬の家宝たる一振りが、主の腰に収まった。

 

 

     ◇

 

 

「馬子にも衣装とは言いますが、安田少年は着慣れた感じでありますね」

 

 何より、似合っているでありますというジーヤの賞賛に、安田は面映く感じながら頬を掻く。料亭どころかバーやダンスホールにも行かぬ為、同僚からは遊びを知らぬ男と見られていたが、昔は柄になく洒落者を気取っており、軍衣にもそれが如何なく出ていた。

 襟の高いカーキ色の昭五式に、トップの高いチェコ式の制帽。刀帯は本来騎兵が装着すべき轡鎖(グルメット)と、五十近くにもなって青年将校(わかもの)の真似事なんぞしていたのだ。

 

“おかげで、若手とは話が弾んだがな”

 

 気恥ずかしくも懐かしいが、今は肉体だけは本当に若いのだ。久々に袖を通した事もあり、安田自身、内心では浮かれているのやもしれない。

 

「後は、告白するだけですな」

 

 元よりそのつもりだと、安田は二人が控える場に足を向けようとして。

 

「安田少年! どっちを選ぶにしても幸せになって、相手も幸せにするのでありますよ!」

 

 その激励に、制帽を脇に携えたまま頭を下げた。

 

 

     ◇

 

 

 居並ぶ二人の少女は、安田を見て会話に花を咲かせた。

 

 似合っている。ありがとうございます。

 何所で買うんだ? 将校は仕立てて貰うのです。

 

 銀に輝く侍従武官飾緒を手に取って弄んだり、桜葉のついた近衛の制帽を被って敬礼してみせたり。

 そんな二人を、初めて軍服という物を知った時の歌凜子のようだと笑いながら、私らは娘かと臍を曲げられては宥めたりした。

 三人で笑って、楽しんで、嗚呼けれど───それはもう、ここで終わらせなくては駄目だろう。もう、待たせる事をしては行けない。この優しい時間に、甘え続けてはいられない。

 

 お二人に、大事なお話があります。

 

 その言葉が、何を意味するのか悟ったのだろう。

 居住まいを正し、真剣な眼差しで見据えた二人に、安田は目を逸らさず想いを伝える。

 

 私は────をお慕いしています。

 

 名を、短く告げる。呼ばれなかった少女は僅かに目を伏せながら、それでも涙は見せなかった。

 

 お幸せにと。笑いながら、短く告げて見せた背は凛として美しく、歩く姿は颯爽としたもので……それを見送った二人は、もう二度と先程のような関係ではいられないのだと、知ってしまった。

 だけど、それを二人は後悔しない。

 恋とは一途で、直向きで、純粋だからこそ二番目などないし欲しくない。

 結ばれ、睦言を交わすとき、他の誰かを想うのは不純だから。

 いずれ生まれる子に、父は母を、母は父を愛したからこそ、掛け替えのないお前が生まれたのだと胸を張って伝えたいから。

 

 誰かを愛するという事は、心に決めるとは、こういうこと。

 去った相手に謝意を示し、地に足をつけて生きるのだ。

 温くて甘い、楽しい時間(ラブコメディ)に別れを告げて───

 

 ───選んだ道を、選んだ相手と歩いて行こう。

 

 それが、前に進むということなんだから。

 

 

 

 




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Attack 20 これが効率厨でありますか……

「思い残すことは、ないでありますか?」

「死にに行くような言い草ですね」

 

 これは失敬と笑うジーヤに、安田もまた笑い返す。来た時とは逆に、空港からヘリで向かう形となったが、以前と違うのは民間ヘリでなく二〇一四年現在、自衛隊に配備されて間もない最新機(オスプレイ)で向かえるというところか。

 旧日本軍の軍人であった安田が、米国製の輸送機で本土に舞い戻るというのは皮肉な話だが、元より彼は使える物は使う主義であり、道具に対して差別意識など持ち合わせてはいない。

 

「流石に速いですね」

「万里華様にお礼を言わなくてはなりませんな。綾之峰の権力フル活用でありますから」

 

 現在、この輸送機に乗り込んでいるのはジーヤ、安田らといった天鏡島の来訪者六名。そして生き残った巫女の中でも、精鋭たる古参巫女が十と、それを率いる巫女大将に歌凛子である。

 巫女たちは誰もが一様に得物を磨き、火器を隈なく点検していた。

 

「戦地にでも赴くようでありますな」

 

 確かにと皆笑うが、事実その通りであることは、口にしたジーヤとて理解していた。征麻呂の私兵が、規定の時間に奥屋敷に踏み込む事は目に見えている。未だ奥屋敷から連絡がないのは、恐らくは既に制圧されたからか。

 或いは、予期していない()()があったか。

 

「見えましたね……ですが」

 

 それを見た誰もが、英里華同様に息を飲んだ事だろう。

 壮麗にして歴史情緒ある奥屋敷は、地が割れ溢れた地下水に飲まれ、また人為的な破壊によって見るも無残な姿に成り果てていた。

 

「叔母様は、ご無事で……?」

「心配ないでありますよ、英里華様。幸運にも財閥関係のお仕事で、奥屋敷どころか市を離れていましたので」

 

 思わず胸を撫で下ろしたのは、安田も同じ。たとえ一日だけの関わりであったとしても、母の友人を死なせては目覚めが悪いし、何より親子の仲を取り持ってくれた恩人なのだ。

 

「ですが、食い止めねば何処に逃げたとしても同じ事です」

 

 ああ、分かっている。巫女大将の言う通り、破滅に転がり進む全てを食い止めねば、後にはただ厄災が待っている。

 

「でも……本当にいいの? 登郎」

 

 彼にとって、大刀自は仇で。何より、陛下に成り代わって日本国を手にした存在の筈だと征綺華は問う。もしやすれば、ここで死に至るかも知れないというのに。

 

「迷いはありません」

 

 助けると決めた。ここに来るという事を選択した。

 ならば後は進むのみ。狂にして愚。後先など考えぬ無謀極まりない馬鹿者に、二人の少女は静かに笑う。

 これが、この少年がこうだからこそ、自分たちは好きになれたのだと。

 報われた少女も。選ばれなかった少女も。 

 好きであった事そのものに、決して後悔などしない。

 

「ほれ、父様の戦勤めじゃぞ。きっちり嫁として仕事をせんか」

 

 そして、歌凛子は選ばれた少女にある物を渡す。

 

(たすき)……?」

「付け方は教えてやる。将来の伴侶なれば、父様の覚悟を形にしてみせい」

 

 胸に交差するよう巻きつけた白襷。それを背中で縛り止めるのを見届けてから、よしと満足げに頷いた。

 

「初めてにしては上出来じゃ。さて、其方も」

 

 私も? と、もう一人にも白い布を渡す。襷と比べ短いそれは、おそらく鉢巻なのだろう。

 

「できれば我がしたいところじゃが、背が足りんでな。何より、父様には死んで欲しくなかろ?」

 

 願掛けという奴じゃよ、と。制帽の上から巻かせてやる。

 文字も何もないそれからは、前世で妻に送った香水の香りがした。

 

「母様も、この国の何処かで生きております。父様、どうかその事をお忘れなく」

 

 出会えず、知らず、分からずとも。かつて愛したその人が、何処かで幸せになれるか否かは、この戦いにかかっていると。

 それが何処かを見通せながら口にしないのは、歌凛子もまた母との決別を誓ったからだろう。

 

「居たのか……」

 

 遠い異国でなく、この日本に。

 

「はい───もう二度と、お会いする事は叶いませぬが」

「構わない」

 

 そこに後悔など、決してない。

 今という世に生き、幸せなって欲しいと願うのは、安田もまた歌凛子と同じだった。

 

「準備は済ませたでありますか?」

 

 着陸するというジーヤに、一同は顔と心を引き締めた。

 

 

     ◇

 

 

 敵影は何処にもない。護衛を任せた攻撃ヘリからも奥屋敷内での動きは見えない事から、内部に潜んでいるのかと訝しんだが……

 

「手を拱いている訳にも行かんじゃろう。巫女大将、頼めるな?」

 

 御意、と歌凜子に命じられるまま、白刃を抜いて巫女らを率いる。それに続くべく芹沢らも後を追い始めたが、待てと腕を掴まれた。

 

「其方らは駄目じゃ。我と一緒に残っておれ」

 

 戦力外だと言う事なのだろう。奥に進むにしたところで、安全が確保されない限りは絶対に認めんからなと歌凜子は口を酸っぱくして聞かせる。

 

「ですが、」

「信じて待つのも、女子の度量ぞ」

 

 良いな、と有無を言わせぬ口調で、しかし彼女らしい優しさからなのだと判ってしまう。

 後ろ髪を引かれながら、残る事を決めた女たちから一歩、違う影が前に出た。

 

「……登郎」

「男だから、行くなどとは言わないで下さいね」

 

 そうではない。そんな事、応えた安田自身だって判っている。

 きっと、これから安田は普通の親子であったなら恨まれる事をしてしまう。例え直接手を下さなかったとしても、それは彼自身がしなかったというだけなのだ。

 

「恨んで頂いて、構い───」

「───誤魔化さないで」

 

 だが、それも違う。本当に征綺華が聞きたくて、伝えたいのは……

 

「君を好きなのは、君に恋した女の子たちだけじゃ、ないんだよ」

 

 だから。嫌になったら、逃げても良いから。

 どうしようもなくなったら、諦めたっていいから。

 

「死んじゃ、駄目だよ……僕は、泣きたくないんだ」

「はい。私も、征綺華さんには泣かれたくはありません」

 

 これ以上は留まれないというように、安田は背を向けて行ってしまう。

 それを、ちゃんと見送れたら良かった。真っ直ぐ去って行く背を見届けられたなら、きっと綺麗に別れられたんだろう。

 

“駄目だな……前、見えないや”

 

 きっと、彼は約束を守ってくれる。そう信じていながら、どうしても不安を拭いきれなかった。傷つくことに───耐えられなかった。

 

 

     ◇

 

 

 門より踏み入った先にも、人の気配はない。

 木々は折れ、庭は崩れ、広がる景色は上空から垣間見たのと同様、唯々無残に死に絶えている。

 

「巫女大将、駄目元で訊くでありますが、『未来視』は使えるでありますか?」

「……使用そのものは問題ないが、使えば大刀自様に負担を強いる。巫女姫様が残られたのも、そういう事情だよ」

 

 一度使えば、それこそ『鏡』は亀裂どころではなく完膚なきまでに砕け散る。だからこそ天鏡島の時と違い、慎重な足取りで踏み込んだのだが……。

 

「静かに過ぎる」

「確かに。大刀自様の命で早々に脱出した者らはともかく、護衛官ぐらい残っていても良さそうなものでありますが」

 

 残っているというのは、何も生きている者だけを指している訳ではない。

 如何に敵が精鋭だとしても、両陣営いずれかの遺体一つは有って然るべきであるし、そうでなくとも交戦の痕は残る筈だ。

 ちゃぷ、と踝まで水に浸かる。湧き出た水は長靴の上からでも冷たさが伝わるが、そこに不快感はなかった。ばかりか、この水の感覚を、安田は知っている。

 

「……泉の女神」

「綾之峰山の水脈は、市街地一体にまで及んでいますから。安田少年の知る女神様の泉も、ここが源流の可能性があるであります」

 

 成程と、ジーヤの応えに感心したように屋敷へと更に歩を進め───

 

 ───途端。込み上げる吐き気と不快感に、誰もが地に伏しかけた。

 

「これは……」

 

 進むべき足を固めかねない程、警鐘を鳴らす防衛本能。ここに留まるべきでないと判って居ながら、それでも眼前の脅威に足を竦ませてしまう小動物にも似た心境。

 この感覚の正体が何なのか。既に経験し知り得ているジーヤでさえ、喉元からせり上がる吐き気に思わず口元を抑えかけた。

 

「……、っ」

 

 脈打つ心臓の音が響く。『鏡』と直接相対した時程ではない。だからこそ身を固めても、先に進むという意思を揺らがず己を保てている。だというのに、あの時と違う『何か』がある。

 明確に異なるそれが何かは分からず、しかし進まぬ訳にも行かないのだと奮起した所で、悠々と背後から前に出た男が一人。

 

「安田少年は、大丈夫なのでありますか……?」

「恨み辛みの類は、慣れていますので」

 

 身に叩きつけるような、全身を縛るような感覚。

 憎悪、怨恨、悲痛、悔恨……これは人の怨念であり、他者を妬む負の発露。何故、どうして自分がと嘆きながら、同時に他人を恨まずにはいられない人の感情そのものだ。

 綾之峰に奪われたもの。綾之峰に阻まれた可能性。未来に介入さえされなければ、勝者になり得ていた者達の想念が、意思を持って阻んでいる。

 

「おそらく、我々が大刀自を救出しようとしているからでしょう」

 

 行かせるものか。諦めて戻れ。渦巻く凶禍は天鏡島のそれと違い、無作為な呪いが指向性のある妨害へと変質していた。

 

「ミス・マクミランらが、進もうという意思を持てているのも、そういった理由かと」

 

 これが、誰をも狙わぬ無秩序な災害のような力であれば、思わず身を怯ませたのかも知れない。だが、これには確かに人の持つのと同じ意思がある。来る者を阻み、汚し、否定しようとする悪意がある。

 

「……成程。通りで」

 

 動ける筈だ。進める筈だ。人の悪意など誰であろうと体験するし、ましてジーヤは綾之峰に敵対する多くと相対してきた身だ。

 如何に恐ろしく強大であれ、それが抗うべきものであるなら乗り越えられる。

 安田が誰より先んじて前に出て来たのは、やはり乗り越えた修羅場の多寡が如実に出た為か。日露から世界大戦まで、生きる事がドラマであった激動の時代を潜り抜けた猛者にしてみれば、不条理に蝕まれた人間の怨恨など、日常であったに違いない。

 お前達は確かに不条理に敗北したのだろう。本来ならば、栄達を約束されていたのかもしれない。

 だが、それが何だ? 人生とは争いで、生きるという事は必ず他者を踏み越えていく。それは非日常の世界でなく、日常でこそ多くを味わう。

 或いは受験。或いは就職。己より上を行こうとする意思が、己の未来を阻む事は往々にしてあるのだろう。

 無論、綾之峰の方法が理不尽であった事は否定しない。努力の上にある物でない事は承知しているし、これが敗者の正当な反逆である事も理解していた。

 

 それでも───恨まれようと、相手が正しいのだとしても。己の目的の為に進むことを、決して安田は止められない。自分には既に、奪われた者たち以上に大切な物があるから。手放したくない多くが、お前達の阻む先に待っているから。

 

 だからこそ───影から身を躍らせる障害に、安田は一切の容赦をしなかった。

 

「────」

 

 交差する視線。意識の失せた表情と、繰り糸に手繰られたような手足を踊らせながら凶刃を振るう男の頭蓋に、安田は肩より提げた拳銃嚢(ホルスター)から素早く抜いた銃口を向け───

 

「───巫女大将殿。刃があらぬ方に向いているようですが?」

 

 ぴたりと。首筋に当てられた白刃に、引き金を絞る指を止めた。

 

「貴様は動くな。我らがやる」

 

 巫女らは複数人がかりで正気を失った護衛官を押さえ込み、手錠を手足にかけて転がしている。随分と準備の良いことだが、おそらくは『鏡』から溢れた呪詛が、このような効果を及ぼすことを予見していたに違いない。

 

“人を操る事もするのか”

 

 未だ首筋に刃を添えられたまま、視線だけを下げる。さながら悪霊。手足を封じられた護衛官は、未だ憑かれたように狂い猛り、犬歯を剥き出しにして巫女らの足首を噛み切ろうと身を捩っていた。

 犬歯は既に即席の轡を噛まされている為に砕けず済んでいるが、完全な無力化と同時に護衛官は床へと身を沈め、湧き上がる水で溺死しようとした。

 拘束している巫女が止めなければ、そのまま死んでいたに違いない。

『鏡』の呪詛にしてみれば、綾之峰の犬が何匹死のうと知った事ではない。むしろ、役に立たぬなら疾く死すべきだという呪怨の叫びが耳に届くようでさえあった。

 

「連れ戻るので?」

 

 真に無事を願うなら、そうすべきだろう。だが、輸送機まで運ぶには最低でも二名を要する。未だ先に幾人が潜んでいるかも分からぬ状況下で、戦力を削ぐ愚行は承知しかねた。

 

「……いいや。そこまで甘くはない」

 

 少なくとも、大刀自の救助までは壁にでも繋ぐだけに留めるつもりだということだが、それにしたところで巫女大将は甘すぎると安田は感じざるを得なかった。

 今のように一人であったのは、呪詛の漏れ出ている大刀自から遠いために過ぎず、近づけば近づくほどに重みを増す。

 強まる力に支配された者が、この護衛官のように緩慢な動作である保証も、ましてや自分達が満足に動ける保証もない。

 

「何か、言いたそうだな?」

「いいえ」

 

 巫女大将の問いを、敢えて否定する。白手袋越しに白刃を摘まみ、物打ちを下げさせてから先へと進もうとしたが、ジーヤが安田より一歩強引に先んじた。

 

「安田少年は、殿をお願いするであります」

「承知致しました」

 

 巫女大将の時同様、不平不満の色はおくびにも出さない。

 ここで仲間割れを起こすぐらいなら、多少の不手際程度飲み込んだ方が良いという考えであり、当然そこには巫女大将とジーヤも気付いている。

 安田登郎は、平時でこそ少年らしく──見た目の上では──年長である者らを立てるし、同年代であろうと礼節を保って行動する。

 譲れないものでなければ一歩引くし、極力諍いを起こさぬよう努めもする。

 だが、そうした聞き分けの良い少年とは別に、安田登郎には黒瀬正継という軍人としての顔も持っている。

 私人として、人を助ける為に己を省みぬ直向きな姿は、確かに紛れもない安田登郎の一面であり、粉飾に満たされた偽りの姿という訳ではない。

 単に、人としての善性を持ちながら、同時に軍人としての意識に切り替えられるというだけ。己という人間を状況に応じて使い分けているに過ぎず、そうした部分は軍隊仕込みのジーヤにも共通している。

 ただし。天鏡島では綾之峰家に仕える人間として合理的に判断しつつも、結局は所々情で動いていたジーヤと異なり、安田は徹頭徹尾合理性というものを追求してしまう。

 助けられるなら助けよう。助力が必要なら惜しみはしない。尤も、それらは飽くまで『特別な人間』を除けば、『無駄にならない』事が前提だ。

 先ほど柱に縛り付けられた護衛官とて、まず殺して動かなくなるか()()し、死体となっても動くようなら、手足を落として達磨にしてからこの場を後にしただろう。

 危険な芽は早々に摘むに限る。下手に手心を加えた結果、窮地に陥る愚は犯さない。

 軍人とは誰しも功利主義者(プラグマティスト)の性質を備えているが、安田は人一倍その思想が強いタイプなのだろう。

 巫女大将は安田が拳銃を抜いた動作からそう手早く判断して止めたし、ジーヤも同様に判断して前に出た。

 

 命の重さは、個々人によって大きく異なる。

 

 ジーヤにとって、奥屋敷に勤めていた者らは一人残さず顔も名も知っている。先ほどの護衛官には幾度となく口説かれた事があったし、無事に逃げ果せた給仕らも、休日に食事を共にした事がある。

 賊に、見ず知らずの敵には兵士の心で排除出来ても、共に釜の飯を摂った者らに非道になる事は難しい。

 正規の訓練を受けた軍人でさえ、いざ敵兵と目が合えば殺人を躊躇してしまうことを考えれば、彼女らの心的負担は推して知るべきだろう。

 だが、安田にしてみれば奥屋敷に残った人間というものは赤の他人だ。彼と屋敷の人間を繋ぐのは日本国民という点だけであり、軍人であったなら守るべき対象であったというだけ。

 彼らが自分達の目的を妨げる事で、結果として国を脅かす存在になり得てしまうのなら、安田は即座に排除を選ぶ。

 

“恨み辛みには慣れている、でありますか”

 

 ああ、成程。確かに慣れているのだろう。己が下した決断一つ、立てた作戦一つで幾人の犠牲が出たか。それが今の世という本来と異なる歴史の中にあっても、黒瀬正継の人生に屍山血河が付き纏ったのは知っている。

 それを乗り越える中、どれほどの痛みを背負ったかをジーヤは知らないし語る気もない。確かなことは、安田登郎にとって障害とは脇に退けるものではなく、踏み越え踏破するものに過ぎないということ。

 見合いの儀で綾之峰征綺華を対話でなく拳で沈めたように。彼は行く手を遮る物が自らの命と同等、否、それ以上でない限り決して躊躇しない。

 

 だから───

 

 ずしり、と邸内に一歩を踏み締めた瞬間に加わる重圧。先程まで不可視であった呪詛が黒々と色付き、悪意の声が風鳴りのように耳へと届く。

 天鏡島の『鏡』を目にした時と変わらぬそれが、今緩やかに自分たちへと迫るのを自覚した瞬間、全員が安田を前に出さぬよう陣を整えた。

 

「申し訳ないでありますが、殺させてやる訳には行きません」

 

 年配の給仕がいた。壮年の護衛官がいた。ああ、誰も彼も頼りになる同僚で、だからこそジーヤは涙さえ出そうになる。

 結局、征麻呂の息のかかった人間は居なかった……ここにいる誰もが、この呪詛に当てられたがために意識を奪われたのだろう。

 生きているのか、死んでいるのかさえ定かではない。ただ、奪われた喉から迸る怨嗟だけしか届かない。

 

「黒瀬、ここからはジーヤと二人で行け」

 

 元より、大刀自の救出は貴様の案だろうと巫女大将は顎で示す。

 

「突き当りを右だ。後は階段を上がって桁橋を渡れば着く」

 

 巫女大将の言葉に、嘘はないのだろう。先程までに見せた応酬からしても、安田を戦力として数える訳に行かなかったというのも有る。

 だというのに、安田は進めるべき足を止めた。軍人としての判断だけでなく、戦力の上でも二人程度であれば消えた所で問題はない。そうでなくとも、平時であれば唯々諾々と従った筈である。

 

「……彼らを抑えた後は、引き返すべきです」

 

 何を言わんやだ。今更敵と見做し、殺す事さえ厭わなかった相手に情を抱きでもしたのかとジーヤは怪訝な表情を浮かべたが、安田はその答えを示すように、強引に巫女大将の覆面を引き千切った。

 

「何を……っ」

 

 ジーヤが安田の蛮行を咎めようとした瞬間、そこに見た真実に顔を青くした。

 綾之峰の名の下、力を使い続けた巫女もまた、綾之峰同様真っ先に蝕まれる対象なのだろう。呪詛の影が手の形を取り、巫女大将の首筋を締め上げていた。

 

「……いつから、そうなっていたでありますか?」

「今は目の前の事に集中しろ」

 

 言われるまでも無い。現に、この会話の最中でさえ他の巫女らは同僚というべき者達を拘束すべく動いているし、ジーヤも同様だ。

 人手は充分で、加減も申し分なし。少々数が多い、力任せに動くだけの連中など、いとも容易く組み伏せた。

 

 

     ◇

 

 

「……何時気付いた?」

「歌凛子が輸送機に残った時から」

 

 当惑する巫女大将と違い、安田のそれは至極あっさりとした物だった。戦力にならない事や銀香らの身を案じての居残りであるのは正しいだろうが、それならここに来るまでも避難した他の巫女らと同じ船に乗せれば済んだ話だ。

 わざわざ奥屋敷に入らぬよう止めさせたのは、綾之峰に連なる者に、この領域は厳しいと見たためだろう。

 

「他の巫女も、同じような症状が……?」

「いや、私は古参の中でも特に年季が長くてな」

 

 年寄りが無理をするなとジーヤは口走りかけたが、流石に冗談を叩けるほど巫女大将のそれは軽くない。

 

「ですが、他の巫女も大刀自に近づけば同じようになるのでしょう?」

 

 ならば、どの道ここまでだと安田は肩を竦める。操られていた者は誰も彼もが手錠なりロープなりで拘束を終え、一先ずの安全を確保し得たものの、これが本来の目的という訳ではない。

 

「だが……」

 

 引き返せと言われた。そうすべきなのは巫女大将達とて判っている。それでも。

 

「……貴様は、同僚を殺す」

 

 それだけは、絶対に駄目だと。許されないと巫女大将は一同を代表して睨めつける。

 その瞳には仲間の安危以上に、安田への猜疑の念があった。

 

「───殺しはしません」

 

 そう誓う事で、貴女方が離れるのなら、そうしようと。

 口にするだけならば容易く、しかし確実に果たすという意志を込めて、一同を見渡した。

 

「貴様が、死ぬとしてもか?」

「私が、道半ばで斃れるとしても」

 

 偽りなどない。欺瞞の仮面を被り、台本を読むように言葉を紡いでいるのではない。

 ただ純粋に、真っ直ぐに見つめ返して、安田は巫女大将らにそう誓う。とはいえ、その言葉の裏にはこの程度の相手ならば、殺さずとも後れを取る事はないという意味合いも隠れているのだろうが。

 

「ミス・マクミラン、巫女大将をお願いします。巫女の方々は、拘束した方々を連れて輸送機に」

「……信用しろと、言うのでありますか?」

 

 目付は確かに必要だろう。ジーヤならそれが最適だというのも判る。だが、安田はそれに頭を振った。

 

「戻ろうとする相手を襲う事も考えられます。ミス・マクミランなら、対処は容易かと」

 

 随分と高く買ってくれるものだが、それとこれとは話が違う。ジーヤが危惧しているのは、自分達の身の安全以上に、安田が殺めるべきでない者を打算と合理性のみで殺め、傷つけてしまう事だ。

 

「安田少年は……、冷た過ぎるであります」

 

 例えそれが、正しい事なのだとしても。間違っていないのだとしても。

 そんな少年に、妹が恋をしたとは信じたくなかった。

 彼にとっては赤の他人なのだとしても、ジーヤ達には大切な仲間だという思いを、どうして汲んでくれないのだ。

 ほんの一欠片。細やかなものであっても構わない。するしないではなく、小さな優しさを垣間見せてくれたなら、後を信じて託せたのに。

 

「……彼らを、人と思わない訳ではありません。私には、貴女方の方が大切なだけです」

「…………」

 

 結局、安田にとってはそれが全てだったのだろう。命の重みは、個々人によって異なる。人を人と思わなかった訳でも、彼自身が冷血漢だった訳でもない。目の前に現れた見知らぬ誰かより、ジーヤや巫女大将の命が大事だったというだけだった。

 

“きっと、そうやって生きてきたのでしょうな”

 

 複数の命を天秤に乗せながら、常に最良を選び続ける。選択一つ、命令一つで多くを死に至らしめてしまう地位にあった安田にとって、それでしか自らを受け入れる術がなかったのかもしれない。

 彼らの命には意味があった。決して無駄ではないのだと、そう誤魔化しながら天秤にかけ続ける事を受け入れなければ、きっと安田は自分を保てなかったのかもしれない。

 華々しい経歴。彩られながら後世に語られる英傑もまた、一人の人間でしかない。若々しい見目も、揺るぎ無い姿も剥ぎ取った後には、ただ重圧に潰されぬよう抗う老人だけが残るのだろう。

 ある者は敵を憎悪し、ある者は全てを数字と割り切り。またある者は自らの為に使われる道具として他者を見做して生きた戦乱の時代に、彼はそうする事で己を壊さず守り続けたに過ぎない。

 

「何か、言いたそうですが?」

「いいえ。全く」

 

 察していても、理解しても、安田と同じようにジーヤは返した。ここで安田の内に抱える全てを語って見せて、お前は悲しくて寂しい男だったけれど、それは時代のせいだ。きっとやり直せるし、考えを改める事も出来るだろうなどとは決して言えない。

 そんなご高説を語れるほどジーヤは聖人君子でも、ましてや安田程人生経験を積んでいる訳もない。

 

「……信じられないのであれば、」

「信じるで、ありますよ」

 

 万の労りも、同情も今は無意味だ。だから、求めているものだけを差し出す。

 同時に、この男が決して折れないようにする為の、誓いを貫かせる為の、魔法の言葉も。

 

「少年は、マイシスターと銀香お嬢様に、恥じない男の子でありますからな」

 

 破ることは許さない。もしそうでないのなら、二人に二度と関わるな。言葉に重みのない男が、愛などという生涯をかけて守るべきものを誓えるものかと言外に告げた。

 

「これはまた───」

 

 ───随分と、痛い所を突いてくれる。

 

「勿論、ジーヤ達の思いもしっかり受け止めてくれる位の気概も持っているのでありましょう?」

 

 その上、更にハードルを上げてくるなど嫌がらせにも程があるが……思えばこの姉妹に関わらず、綾之峰に係わる者と言えば、誰も彼も安田を試したがっていたか。

 信用のない事だと、己を嘆いても良い。目を覆いたくなる日々だったと、恨みがましく漏らしても良い。だけど、今はそうすべきではないだろう。

 

「期待に応えるべく、奮励努力致します」

 

 後ろ向きで、振り返るばかりでは進めない。今は前に、ただポジティブに受け止めて進むべきだ。後悔など、失敗した後から幾らでもできる。今は笑いながら、迷わず進むべき時だ。だから───

 

「後を、任せて下さいますか?」

「宜しく頼むでありますよ、少年。もし、無事に戻れたら───」

 

 ───今度は、冗談じゃなく大人なキスをして上げますから。

 

「前にも言いましたが、遠慮します。いえ、貴女に魅力を感じない訳では無いのです。浮気紛いな事をするなと、そう二人に言いつけられていますから」

「ああ、それで……」

 

 堅物な割、何処か誘惑に弱そうな少年が遠慮したのはそこだったらしい。頬への口づけを避けなかったのは、あれぐらいなら挨拶程度だからという判断からか。

 

「安心したであります。安田少年にまで、マイシスターの様に肌年齢を気にしろなどと思われているのではないかと」

「ミス・マクミランは、大変魅力的ですよ」

 

 冗談でも、真っ赤な嘘でも、見え透いたおべっかでもない。

 安田登郎にとって、ジーヤは理想的な女性だった。ただ、恋をするにはお互いの距離や立ち位置が不味かっただけだ。

 

「こらこら。浮気紛いの事をするなと言われて口説く奴がありますか」

 

 油断も隙もありゃしない。もうさっさと行ってしまえと、プレイボーイを手で追い払う。

 

「では、どうか健やかで」

「死にに行くようには、言わないで欲しいで有ります」

 

 お互い、別れ際に笑い合う。きっと、これが一番良い関係で楽しく続けられた時間の最後だ。だけど、何故だろう。背を見せた安田の背が、まるで別れを告げる様に感じてしまって……

 

「すぐに戻るでありますから、無理せず進むでありますよー!!」

 

 そんな言葉を、背中に大きく告げたのだった。

 

 

     ◇

 

 

「ところで、巫女大将と少年ってどういう関係だったので?」

 

 そこだけは訊かされてないのでありますが、とジーヤは予てからの疑問を当人が居なくなってから問い質す。

 

「下らん事だ……奴が無事に戻ったら、訊かせてやる」

「今訊かせろであります」

 

 でなきゃ置いてくぞ、と脅迫同然の問答に、巫女大将は渋面を作り……

 

「……黒瀬が家庭を持つ前、一夜を共にした」

「あ……いや、その。申し訳ないで有ります」

 

 吐き捨てるような口調と共に出た真実に、思わず頭を下げた。

 てっきり、前世で先代巫女姫と三角関係なラブコメディでも送っているとばかり思っていたのだが。

 

“予想外に生々しかったであります……”

 

 同時に思う。あいつ、お堅いようで結構ダメ男だったんだなぁ、と。

 

 

 

 



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Attack 21 鏡合わせのような二人であります

 巫女大将に肩を貸しながら去るジーヤらを見送る事も無いまま、安田は先を急いだ。

 長い廊下には、既に人の気配はない。だというのに、悪意と殺意は力を増して安田の身体を縛っていく。

 来ルナ来ルナ死ネ消エロ……耳を聾する呪詛の言葉。不可視の怨念は既に赤黒い霧となって目に留まり、壁は紫色をしたゲル状の粘液に塗れている。

 唯一、無事なのは床だけだろう。源泉より溢れた水は怨念の泥を寄せ付けず、清いまま保っている。如何な怨念とて女神の力には叶わぬという事か。

 ともあれ、足を取られぬというのは助かるものだと、安田は先を急いだが、思うように息が出来ない事に気づく。

 肺が重い。酸素を上手く取り込めない。この赤黒い霧のせいだと分かった時には、足元の水で口を濯いだ。

 

“幾分かは、楽になったが”

 

 それも何時まで持つか。地獄のように塗り変わった景色を捉える目が、チリチリと灼けるような痛みを受けた。この分では、光を奪われるまで長くはないだろう。

 鼻は既に噎せるような臓腑臭で潰れているが、嗅覚など今はどうでもいい。

 

“巫女大将達を帰したのは、正解だったな”

 

 心から、ジーヤ達が同伴せずにおいて良かったと安堵しつつ安田は謁見の間へと急ぐべく階段へ足を掛け───

 

 ───津波のような泥が、嘲笑うように獲物を呑み込んだ。

 

 

     ◇

 

 

 不定形の泥が、無数の手を作る。腕を、足を、首を、顔を、底なしの沼へ引き摺り込むべく自由を奪って奥底へと誘う。

 ここは仮初の地獄にして呪いの坩堝。あらゆる災いが混沌となって、形と際限のない苦しみを与える場所。

 その……渦巻く悪性の直中で、安田登郎は覚醒する。

 まず感じたのは激痛。皮膚が溶け、肉が破れ、骨が内側から腐ってぐずぐずになって行く。無論、錯覚だ。これは憎念であり呪詛。サリンや王水の類でない以上、直接的な暴力で殺す物ではない。

 影の手が首を絞めるのは、締められていると錯覚した自身が呼吸を止めているだけ。痛みも幻覚であり、事実手足は形を保っている。

 だからまず、視界を取り戻すべきだと安田は思った。全身の腐敗が錯覚に過ぎないというのなら、眼球さえ取り戻して視認すればいい。

 事実を事実として受け入れる事こそ、この無明の地獄を抜ける糸口だと思い至って───直後、強引に見開いた眼球に焼き鏝を当てられた。

 

「……、…………!? ……! ……!!!!!!」

 

 声に出せない。口から胃まで流された泥が声を封じ、ばかりか眼球同様、赤熱する銅柱を突き入れたかのように熱を持って内側から焼いた。

 

「…………!!!!!!」

 

 殺してくれと哀願しかけた。もうどうしようもないこの激痛を、一刻も早く終わらせてくれと願いたかった。

 だが、それをしなかったのは安田登郎が忍耐強い男だったと言うだけではない。おそらく、この泥に呑まれた者は皆同じように願ったのだ。

 死なせて欲しいと。苦しみから解放してくれと願って、願って、願った先に見た『コレ』に命を差し出したのだ。

 

 ───ドウシテ死ナナイ───

 

 泥が蠢く。発声器官などないソレが鼓膜にまで流れ込んで振動し、音を脳へと響かせてくる。

 

 ───死ネバ救ワレルゾ───

 

 我慢などしなくていい。解放の時間は一瞬であり、一呼吸を置かずとも彼岸に到達させてくれる救済(じさつ)を、拒む理由が何処にある?

 甘く優しい猛毒の囁き。愛おしく撫でるように頬に泥が触れれば、その瞬間には頬肉が削げて舌が外気に晒されたと錯覚する。

 終わらせたいなら、ただ願え。助けてくれでなく、死なせてくれと一声上がれば全てが終わる。

 

───サァ、サァ、サァ。サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ!サァ! サァ! サァ! 死ンデシマエェッ!!!!───

 

“断る”

 

 怨嗟の叫びは、ただ一言で断ち切られた。

 

 ───何故!?───

 

 呪詛は、決して問いなど投げるべきではなかった。より深く、唯々悪辣に人を地獄に突き落とす存在(もの)でしかなければ、少なくともこの怪物(にんげん)を泥の檻から出す事は出来なかった筈だ。

 だというのに、泥は意思を持ってしまった。他者の心を食いつぶす最後の一押しとなる筈だった言葉は、対話という形を用意してしまった。結果、泥は己の恩縁をも上回る意志を自覚してしまう。

 

“私が、己の命()()の為に諦めるとでも思ったのか?”

 

 滑稽なり。愚昧なり。高々数百数千万如きの怨念など、己を苦しませる程度の雑念など、一体何程のものであるという。

 

 ───馬鹿ナ!? 馬鹿ナ!? 馬鹿ナ!? 人間トハ己ガ大切ナ生キ物ダ! 利益ヲ求メテ止マナイ存在ノ筈ダ!!───

 

“そうだ。私は己の願い(ソレ)を、今も変わらず求めている”

 

 自分が大切だと想うものの為に、苦痛からの解放を拒んだように。

 安田登郎の求めるものが先にある以上、ここで屈する事だけは決してない。

 故に───

 

「消え失せろ───貴様に大刀自は奪わせない」

 

 ───混濁する憎悪の海から、安田登郎は生還した。

 

 

     ◆

 

 

「地獄のようだな、大刀自……とはいえ、貴様はこれを常に己の内に留めていたのだったか?」

 

 大したものだ。そこだけは尊敬するよと、心にもない事を征麻呂は伏した相手に向けて言う。呪詛によって作り替えられた景色は、まるで魔獣の腹か悪夢そのもの。

 いずれにせよ、正気でいられるような光景ではない。未来を見通し、他者の栄光を食い潰しながら辿り着いた先。綾之峰が築き上げた帝国の末路を、征麻呂は満足げに眺めていた。

 

「だが、こいつらは憐れだな……貴様を助けようと、勇み入った途端にこれだ」

 

 口から血の泡を吹き、白目を剥いて狂死する幾人かの男女を爪先で蹴り転がす。

 善意から助けたいと思って大刀自に触れようとした彼ら彼女らは、皆大刀自が湛えた呪詛に抗えず死に至った。

 仮に、大刀自が完全に『鏡』の呪詛を抑えきれていれば、或いは『鏡』が無事であったなら、こうはならなかっただろう。

 呪詛によって不幸が触れた者らを襲うとしても、それは幾分か先の未来であり、直接的な死因になる可能性は低かった筈だ。

 

「俺としては愉しめたがな」

 

 何しろ、触れようと手を伸ばした先で誰も彼もが死に至るのだ。征麻呂にしてみれば命に背いて駆けつけた者を影から一方的に殺してやるつもりだったが、思わぬ副産物だったと言わざるを得ない。

 呪詛も、大刀自の契約もある程度察してはいたものの、精々苦しむ程度に過ぎないだろうと思っていたのだ。

 

“とはいえ……俺も限界は近いが”

 

 如何に呪詛が満ちる事を望み、綾之峰と日本国全てを狂乱の坩堝に叩き込むことが目的だったとは言え、征麻呂自身もまた綾之峰に名を連ねる存在だ。

 呪詛にしてみれば、目的を果たす上で都合のいい存在だからこそ見逃していたに過ぎず、大刀自の命脈が尽きると同時に、用済みとなった征麻呂にも牙をかけるだろう。

 

“それがどうした”

 

 今日という日を望み続けた。全てを地獄に変え、偽りの日本を地の底へと沈めるこの日を望み続けた。その結果、綾之峰などという汚れた血肉で編まれた己もまた死に至るというのなら、それは本望というものだろう。

 

「だが」

 

 呪詛などという、負け犬の集まりに殺されてやる気はない。

 すらりと、初めに殺した巫女の腰から日本刀を抜く。

 刃長一尺九寸程の同田貫。刀身の肉は厚く、重みも鋭利さも申し分ない。これならば、腹を突けば背骨まで楽に達するだろう。

 

「ころす、気か……?」

「馬鹿を言え」

 

 そんな気はないと既に言った。生前に磨いた技前であれば、首の皮一枚残して斬る事自体は造作もないが、そんな慈悲をかけてやる程征麻呂は決して甘くない。

 

「死ぬなら、苦しんで死ね。それが貴様に出来る唯一の、」

 

 償いだと、そう唾を吐く口を一旦止めた。

 誰かが、来る。謁見の間を満たした呪詛の猛毒。常人であれば確実に狂死する悪意の波が室外へと流れ遠のき、桁橋から階下へと向かって行った。

 

「……貴様も、存外に幸運な女らしい」

 

 意味が分からぬと言うように、大刀自は伏したまま首を傾げる。今の彼女には、外界に意識を向ける余裕すら失われていたらしい。

 

「精々足掻け。死ぬ間際、貴様の為に来た者の首を添えてやる」

 

 刀を担ぎ、短機関銃を拾い上げながら、征麻呂は謁見の間を後にした。

 

 

     ◇

 

 

 謁見の間へと至る、最後の通路。幅にして八メートルにもなる桁橋を前に、征麻呂は刀を床に突き立て銃を構える。

 濛々と立ち込める、荒野の土煙にも似た赤黒い怨念は桁橋の屋根と板張りの壁に纏わり付き、周囲を一望するための隙間さえ、紫色の粘液が土壁のように埋めていた。

 密閉された空間。外気を閉ざされた中の唯一の救いは、消えず保たれた僅かな電灯の明かりだろうが、それさえあとどれだけ持つか。

 どろり動く壁の粘液。夥しい悪意が質量を持った波となり、征麻呂が引き金を絞るより早く、相対する筈だった存在を飲み込み───

 

「退け」

 

 ───鎧袖一触とばかり。悪意など何するものぞと言うように振り払った。

 

「────」

 

 そして、威風堂々と歩を進めた男に、征麻呂は知らず、銃を落として息を止めた。

 現れた男の、悪意など意にも介さぬ揺るぎない意志に心打たれたか。

 或いは、己では敵わぬという本能からの恐懼がそうさせたか。

 否。どちらも断じて否だ。敵への感嘆に得物を落とす不手際はしない。如何な相手であろうと、怯まず迎え打てる自負はある。だが、この相手は……。

 

「まさか───」

 

 声に混じったのは、恐れでなく敬意。軍帽こそ白布の鉢巻に隠されているものの、銀に輝く飾緒と、侍従武官章は断じて今の世に存在するものではない。

 

「───その鉢巻、取って頂けまいか?」

 

 知らず、零れた言葉。あらゆる怨念が、憎悪が溢れ出る混沌とした場にあって、征麻呂はその全てを忘れた。

 見たい、知りたいと。その一心から震わせた言葉に応えるように、若者は白純の鉢巻を取り払うと、それを刀緒同様猿手に結んだ。

 

「あ、嗚呼……」

 

 金に輝く星と桜葉。紛れもない近衛の星章に、声の震えが止まらない。幸運な女と大刀自を嗤ったが、今の征麻呂とて他人の事は笑えまい。

 身に沸き立つ歓喜と高揚。いずれ日本国全てを包む呪詛の源泉地にあって、征麻呂は今生最高の時を得た。

 忘れ去られた過去。置き去りにしたかつての思い出が胸を焦がす。

 

「大佐殿……、名をお伺いしたい」

「安田登郎。今生では、そう名乗っている」

 

 だが、知りたいのはそうではないのだろうと。

 含む物言いで一歩、また一歩と距離を詰めた。

 

「大日本帝国陸軍近衛師団大佐、黒瀬正継。貴様は?」

「大日本帝国陸軍参謀本部第一部・第二課所属、辻口基明(もとあき)少佐であります」

 

 踵を合わせ、旧軍式の敬礼を取る少佐に、安田もまた黒瀬として答礼する。

 

「二度……、いや三度目の再会か」

 

 逢瀬を喜ぶには酷い場だと安田は笑ったが、征麻呂にしてみれば出会う場所など瑣末な事だ。むしろここで良かったとさえ思う。

 綾之峰に送られた階級でも、綾之峰に付けられた名でもなく、かつて父母より与えられた名と、国に尽くさんとした日々の階級で語り合う蜜月の時を、今ようやく手にできたのだ。

 

「大佐殿……折り入って申し上げたい事があります」

「済まないが、今は急を要する。大刀自に用があるのでな」

「その、大刀自のことです」

 

 歩を止めて、征麻呂を見やる。歓喜に歪む口元は微かな悦の色が見え、その瞳には暴力と狂気を宿していた。

 

「……変わったな、少佐」

「姿であれば、大佐殿もです」

 

 そうではない。そんな他愛のない談笑を交わしたい訳ではないというのに、征麻呂はまるで生涯の友であるかのように、かつての上官に手を差し延べる。

 いいや、安田とてそう思っていた。年こそ違えど、この部下とは竹馬の友であり続けたいものだと───今日、変わり果てたその顔を見るまでは。

 

「大佐殿、時間がないのは私も同じなのです……南方諸島で斃れた後、綾之峰に生まれてしまった私には」

 

 微かに上がる眦。それを見た征麻呂は、致し方のない事だと傷ついた心を抑えた。綾之峰という稀代の奸賊。陛下の後釜として日ノ本を支配し続けた汚濁の名を、あろう事かかつての記憶をそのままにした帝国軍人が、おめおめと名乗り生き存えているのだ。

 目の前の大佐であったなら、そのような恥辱には甘んじず、物心付けばすぐさま腹を切って陛下にお詫びしたに違いない。

 だが、それは征麻呂とて同じだ。この汚れた血肉に魂を注がれて尚それをしなかったのは、偏に綾之峰への復讐心がそうさせたに過ぎない。

 

「お怒りはご尤も。ですが、遂に綾之峰は亡びます。私は今生においてそれを目にする事は叶いませんが、大佐殿は違います」

 

 これより先、数多の悲劇が日ノ本を襲うだろう。かつての大恩を忘却の彼方に追いやり、仰ぎ見るべき大君の存在を無に帰して生き存えた国賊達は、綾之峰の約束した繁栄の報いを受けることで、罪を浄化されるのだ。

 

「綾之峰の血族は一人残らず死に至るでしょう。しかし、綾之峰を信奉し続ける侍従らは残り続けます。故にこそ、大佐殿」

 

 その全てに、死をもたらして欲しいのだと。その方法は確かに残されているのだと、征麻呂は拳を固めて力説する。

 

「電話をお持ちではないでしょうか? 無ければ紙とペンを。本来は私が死した後に動く予定の者らでしたが、大佐殿であれば後を託すに───」

「───もういい」

 

 戯言はここまでだと言うように、立て続けに引き金を引かれる。足元に転がる短機関銃を真っ先に壊してから、胴と頭部に残る弾丸を叩き込もうとしたが、それらは壁を覆う紫色の泥が視界を阻んだ為に、飛び退いた征麻呂には届かなかった。

 

「ち」

 

 舌打ちと共に拳銃を投げ、軍刀を抜く。目の前の人物の凶行を理解しきれていないのか、或いは理解しても信じられはしないのか。征麻呂は開ききった口元から、掠れたような声を出す。

 

「……大佐、殿」

「何故と問えば参謀の名が泣くぞ、少佐」

「何故です大佐殿ッ!? 何故奸賊たる綾之峰を助けるのです!? 何故、大御心を、」

「大御心に従うなら、何故陛下から託された日本国を滅ぼさんとしたッ!!?」

 

 初めて見る、上官の赫怒。生涯一度として、どのような失態を演じた部下にも、陛下の赤子を見るも無残に殺めた敵将にも見せなかった怒りを、誰より慕った部下へと向けた。

 

「大佐殿に、怒りは無かったのですか? 陛下の治める日本を、愛しておいでではなかったのですか?」

「……怒りはあったとも。かつての日本を、愛おしくも思った」

 

 けれど、それはもう戻らない日々だ。

 失った以上、取り返せはしない過去だ。

 

「だがな。私にはもう今生で愛する者が居る。前世から、生き続けている娘も」

「成程……ですが、私はそれを奪われた」

 

 不退転の決意。今を生きる者として、前へと進まねばならないという意思。過去の全てを思いながら、今を生きるという誓いを込めて示した言葉は、思わぬ吐露に打ち消された。

 

「陛下の治める世であれば、妻子は死せずとも済んだでしょう……ですが」

 

 殺された訳ではない。戦火の犠牲となった訳でもない。ただ、運が悪かっただけ。歴史の歯車が切り替わった先で、下らぬ事故に巻き込まれたというだけの事だったに過ぎない。

 それでも。

 

「綾之峰の治めぬ世であれば、私の家族は生き存えた筈でした……ええ、判っています。元より私は、国に全てを捧げていた。家庭など蔑ろにしていたも同然でしたし、綾之峰以外の誰が治めたところで関係などないと承知しています」

 

 そんな悲劇がなかったとしても、征麻呂は綾之峰を憎悪し、今生でも復讐に動いただろう。だが、もしも。

 家族が、笑顔で居続けてくれていたら? 征麻呂の、辻口の手を握り、次の世も一緒に笑おうと願ってくれていたら、彼はこうならなかったのではないか?

 何より───

 

「もし、大佐殿のご家族が───」

 

 同じように、綾之峰の治世に移った事で、悲劇を辿ってしまったら?

 黒瀬正継も、辻口基明同様、綾之峰への不満が無かった訳ではない。陛下なき日本国に、内心憤りを感じていたのは事実だろう。

 それでも彼が復讐などという名目の我が儘に走らなかったのは、偏に家族あっての事だ。妻子の未来を、彼女たちの過ごす日本という国の安寧を慮ったからこそ、黒瀬は己の運命に悲嘆せず、綾之峰に捨石にされた事さえ受け入れたのではないか?

 

「───そうだな」

 

 主君も、国も、家族も……全てを失い、絶望に呑まれた果てに、辻口と同じ事をしなかったどうして言える?

 捻じ曲がった歴史の全てを打ち壊し、そこから新しい日本を夢見る事を、望んで止まなかったのではないか。だけど。けれど。

 

「やはりそれは、望んではならない事だ」

 

 全てを失い、全てを忘れられたのだとしても。

 

「今を生きる者達を、過去に生きる者が犠牲にしていい道理はない」

 

 正面から向けられた敵意。純粋なる気概に対し、征麻呂は笑うように、泣くように澱んだ天井を仰ぎ見た。

 同時、周囲に満たされた呪詛の汚泥が安田を襲うも、やはり唯の泥となって床に落ちる。呪詛のそれは、確かに驚異的なものなのだろう。狂わせ、呪い、絶望の淵に精神を落とすものなのだろう。

 だが、それはあくまで唯の憎悪だ。形を持ち、力を持とうと、それに抗える人間である限り決して飲まれない。

 

「……ならば、何故軍服を纏うのですか?」

 

 過去より今を選ぶというのなら。昨日より明日を選ぶというのなら。

 

「何故、陛下の赤子たる証を纏う!? 貴方に、その資格があるのか!?」

「既に応えた筈だ、少佐」

 

 陛下より託され、綾之峰に続いた未来を。

  ───全ては、謹呈の世の後に続く、銀嶺の今を護らんが為に。

 

「少佐───貴様は何の為に私を阻む」

 

 綾之峰を亡ぼし、日本国を地獄に変えた先に何を見る?

 

「私は、かつての祖国と陛下に仕える」

 

 在りし日、在りし時代、永遠に失われた過去の仇を討つ為に。

 それを阻むというのなら、忠勇烈士を喰らう悪鬼にも成り果てよう。

 

 過去と今。同じ時代の、異なる世界に生きる事を選んだ両者は、ここに鎬を削り合う。

 

 

 

 



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Attack 22 女の子に甘すぎであります

 握り込まれる柄頭。ゆらりと歩を進めながらも、互いに一挙一動さえ見逃さぬよう視線が動く。

 

「シィ……ッ!」

 

 カチャリという鍔鳴りが合図となったか、滑るような足運びで安田が踏み込んだ。

 苛烈を極める一手は、鋼鉄すら断たんという渾身の物だったに違いなく、征麻呂とてそれを完全には捌き切れず、寸での所でいなして距離を取る。

 

“何だ、この剣は?”

 

 怒りに呑まれているのでも、素人が我武者羅に振り回すのでもない。だが、かつて。否、今をも敬愛する大佐と竹刀を交えた時とは、明らかに何もかもが違い過ぎた。

 練達の使い手と判る刃筋。刀身諸共身を断ち割る剛剣。しかしそれは、征麻呂の知る大佐の動きではない。音もなく、動きを読ませず、僅かにも隙を見せればするりと入り、息の根を止める精妙の剣こそ大佐の骨頂だった筈。

 

“剣術徽章を胸に息巻いていた、鼻垂れの天狗鼻を幾本もへし折ったあの老獪さは何処に行った?”

 

 修羅とも、獣とも思えるその様。呼吸を正し切れず息を吐く姿を見て、ようやく征麻呂は推量した。

 

“大佐殿は、最早……”

 

 先の一撃は、最後に燃え上がる蝋燭の灯と同じなのだ。視界は既に茫洋としており、五体は刻一刻と芯から崩れてきている。夥しい呪いを撥ね退け続けた身体はしかし、意思の力で抗っているだけに過ぎない。

 肺腑に、血管に、眼球に……力を増していく泥が、徐々に精神のみならず、直接肉体を犯しにかかっていた。

 保って一刻。三間を容易く一息で詰める安田に今背を見せれば間違いなく斬られるとしても、時を稼ぎ、足が衰えた瞬間を見計らって全力で謁見の間へと引き返し、銃器を手にすれば征麻呂は確実に勝ちを拾える。

 耐えて、耐えて、唯一時を耐え忍び続ければ、虎は老猫の如く衰えよう。

 

“ふざけるな”

 

 その、策を用い、無様に去れば得られる勝利を、征麻呂は唾棄すべきものをして抹消した。それが、誰より合理性を求める安田には不思議でならなかった。

 

「……少佐、勝ちを拾わんのか?」

「前世でも申し上げた通り、私にも意地があります。この戦い、斯様に醜悪な幕引きで終えて良いものではありません」

 

 過去に囚われた亡者二人が、幽明境を異にするというだけではない。

 この立合いこそ、日本国の命運を決する天王山。過去と今、それぞれの日ノ本を奉じ剣を執り、雌雄を決さんと相克したのだ。

 外道に窶し、玉藻前の如く国を荒らさんとする身である事は重々承知。

 されども、未だ手放していないものはある。この大佐と正面から相対するに値するだけの誇り(もの)を、五分にも満たぬ欠片とはいえ抱いている。

 その誇りを、雌雄を決すべく握った刀と共に捨てる事が勝利だと笑えるほど、綾之峰(つじぐち)征麻呂(もとあき)は安くない。

 おめおめと背を向ける恥辱に甘んじるような、帝国軍人の名に恥じる振る舞いがどうして出来る!

 

「そうか……」

 

 青く、愚かだと。馬鹿だと安田は笑う。たとえそれが、己を生かすものであったとしても、どうして笑わずにいられよう。復讐に駆られ、自らを止める術を持たぬ悪鬼になり果てたとて、やはりこの少佐は少佐だったのだ。

 

“だとしても”

 

 認め、敬意を示そうとも。魂までは堕ちていない事に歓喜の昂揚を抱こうとも。安田登郎は、綾之峰征麻呂を殺さねばならない。

 過去を選んだ征麻呂が、安田を殺めねば全てを終わらせられないのだと悟ったように。

 今を選んだ安田が、征麻呂を殺めねば救うべき人を救えないのだと理解したから。

 

 

     ◇

 

 

 噛み合う刃が火花を散らす。欠け毀れた鉄粉が微かに粉雪の如く散るが、次の瞬間には距離もそのままに急所めがけ一閃した。

 

「ッ……!」

 

 息を呑んだは果たしてどちらか。共に必殺・必勝を期して放たれた剣閃は、首筋と頬を浅く裂いたに留まった。

 汗が冷える。魂が凍る。古の剣豪たちが味わった死の境地とは、こういったものだったのだろうか? 銃火轟く後の世に生きた二人にしてみれば、尋常の立合いなど経験はない。

 されど、潜り抜けた死線であれば、二人とて古の武人にも引けは取るまい。

 征麻呂の繰り出す逆胴の一閃。それを鍔元で受けつつ刃を滑らし、首を狙う安田に距離を開けるべく征麻呂は後退したが、安田は逃さぬと追い縋る。

 

“かかった”

 

 引いたのは誘い(フェイント)。振り下ろさんとした刀身と受けると同時に手首を掴み、征麻呂は巴投げを見事に決めた。

 

「……ッ!?」

 

 体勢を立て直すべく、受身も碌に取らず起き上がろうとしたが、既に征麻呂は先程と立場を入れ替えるように、安田へと大上段に構えた刀身を下ろしていた。

 

「……ッ、ぐ」

 

 棟に右手を添えつつ耐えるが、受けた際の体勢もあってか、安田は徐々に押されていった。ギリギリと音を立てる刃。悪鬼の如き笑みを浮かべながら、刀と共に顔を寄せる征麻呂が視界一杯に広がっている。

 

“押し切られれば、そのまま頭蓋を割られるっ”

 

 ならば、押し返すより他に活路はなし。

 既に押され、口元まで迫る己の刀が息吹で白ずむ。刀身の欠け方から紋様さえ正確に知れる程迫り切った刃を、呼吸を整えながら丹田に力を入れて押し返した。

 

「ぬぅ……!?」

 

 今度は偽装ではない。渾身の一手に足が縺れ、後方に揺らいだ征麻呂へ、猛る肉食獣の如く安田は飛び掛った。

 

「ぐぁ……っ」

 

 叩きつけられる征麻呂の背。板張りの壁は脆くも破れ、勢いもそのまま、二人は地面へと落ちて行く。

 死ねと、落ちる瞬間さえ両者は思った。同時、己は死なぬと両者は信じた。

 ばしゃあ!! と。女神の水が飛沫を上げたその時になってようやく、互いは落ち切ったのだと気付く。受身は互いに取った。この程度の高さで死ぬとは互いに思っていない。

 板の破片が足や腕に深々と刺さってはいるものの、それはどちらも同じことだ。

 

「安田少年!」

「手を出すな! これは私()の戦いだ……!!」

 

 死に物狂いで駆けつけてくれたのだろうジーヤに、敬語さえ忘れ言い放つ。

 この程度の傷、満身創痍と呼ぶ程でもない。

 

「来い……、少佐。まだやれるだろう?」

「無論です」

 

 手招くと同時、火花と鮮血が飛び散った。水に重く足を取られるが、それでも剣は揺るぎなく冴え渡っている。

 

「……ィっ」

「フッ…!」

 

 正気か狂気か。互いの剣が互いの肉を引き裂き、血が湧水に混じる度に、互いは笑っていた。痛みもない。苦しみもない。唯、己の全てを賭すという覚悟が熱となって血潮を駆け巡っていた。

 強く、強く、柄巻の糸が切れて柄そのものまでが潰れるのではないかと危惧するほどに、互いは刀を握り締めて。

 

「あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 

 魂魄を揺るがす程の絶叫。互いの刃が絡み押し合い、それでもなお引かなかった両者の意志は、刀身の破壊という結末に行き着くまで止まらなかった。

 

 

     ◇

 

 

「あ、……」

 

 再び、溢れる水が大きく跳ねた。桁橋から落ちた時と違うのは、最早立ち上がるような余力は無いということか。

 

「……少佐」

 

 何を、言うべきなのだろうか。肩口から脇下まで袈裟懸けに断ったかつてに部下を思わず呼んだものの、その言葉には何も返らなかった。

 

「長く、国に尽くしたな……」

 

 七生報国。国に仕える者ならば、否、かつての日本国であれば誰もが心に留めるその言葉を、この男は体現したのだろう。

 まだ二度。しかしその二度は、誰も成し得ないであろう、険しく長い道のりだったに違いない。

 

「貴様は、きっと靖国に行けるだろう……しかし」 

 

 もしも、再び新たな人生を送れるとしたら。

 

「願わくば……新しい世を、家族と笑いながら生きてくれ」

 

 仰向けに直して目を閉じさせ、上衣を脱いで顔へとかけた。

 

「安田少年……この男は、征麻呂では無いのでありますか?」

「私と同じ身の上です」

 

 それ以上は聞いてくれるなと。刃の毀れ切った軍刀を、墓標のように突き立てた。

 

「先に行きます……謁見の間へは、私以外は入れないでしょうから」

 

 

     ◇

 

 

「行っちゃったんだね……」

 

 遅れちゃったか、と一人ごちる征綺華に、何故ここに居るのかとジーヤは問う。

 

「僕だけじゃないよ。ほら、あの子も」

「ちょっと、待つでありますよ!!」

「行かせてやりなよ。どうせ、もう誰も居ないんだろ?」

 

 征麻呂がこうして倒れても、誰一人として出てこない時点で既にここには直接的な危険はないのだろう。それなら、思いを遂げた女の子が、男の子の所に行くぐらい良い筈だ。

 

「……歌凛子様は?」

「許してくれたよ。僕は、父親の死に顔を見たいっていう理由だからここまでだけど」

 

 よく許したものだと思ったが、安田とジーヤが居るなら多少の事は何とかなるし、呪いに関しても危うくなれば安田を連れて必ず引き返せと念を押したらしい。

 

「どちらかといえば、安田少年の身を案じたという訳でありますな」

「そうとも言えるね」

 

 くすくすと笑いながら、征綺華は父であった男の亡骸の傍に腰を下ろす。服は濡れたものの、正直構わなかった。

 

「ごめん。ちょっと、二人きりにしてくれるかな?」

「……なるべく、早く輸送機に戻るでありますよ」

 

 ジーヤは無鉄砲な若者を捕まえに行ってくるでありますと、笑いながら背を向けた。

 それを目で追うこともせず、征綺華は物言わぬ骸を上衣の上から撫でた瞬間───

 

「──っ!? 征綺華少年!!」

 

 起き上がれる筈もない男。父であった存在が、幽鬼の如く立ち上がるのと、異変に気付いたジーヤが振り返るのは同時だった。

 

「死んでる……嘘だ、死んでるのに」

 

 肋を断って心臓を破り、背骨にまで刃の達した人間が、一体どうやって生きていられるというのか。

 

「兎も角、離れるであります!!

 

 だが、これこそ呪詛の真骨頂と言うべきか。足りぬ部分は泥が補う。屍となった存在を乗っ取るのは、意思を持った人間を操るより簡単だと嗤うように、死して尚握り続けた同田貫を振り上げた。

 

「この──ッ」

 

 轟く銃火。既に半ばから断たれた刀身は弾雨を浴びて右手諸共ミキサーにかけたように粉微塵に散ったが、残る左腕が安田の残した刀を握る。

 

「ぃ──っ」

 

 歯を噛み締めて、目を閉じる。数秒後に訪れる惨劇が脳裏に浮かぶも、それが訪れる事はなかった。

 

「……?」

 

 そっと開かれた目が、大きく開いてしまう。

 呪詛に操られ、死をもたらす筈だった父の屍は、その刃を自らの胸に突き立てて押し込んでいた。

 

「どうして……」

 

 元より、子を子とは思わぬ男だった筈だ。家族の絆などなく、ただ己の目的の為だけに全てを利用するだけの存在だった筈だ。

 それが綾之峰征麻呂という男だと、ジーヤだけでなく、征綺華も思っていたのに……

 

「俺は敗れたのだ……なら、大佐殿の言うように、家族というものの為に動いてもいいだろう」

「……今更だよ」

 

 散々利用して、弄んで、いざ最期になったら良い奴みたいになるのか?

 

「理不尽だろ! 無責任だろ! そんな風に笑えるなら、なんでそうしてくれなかったんだよ!?」

「そうだな……その通りだ」

 

 だから、もし次の世を生きるなら。

 

「───その時は、お前の為に生きてやる」

「無理だよ、そんなの」

 

 生まれ変わったからといって、一緒になれる筈もない。安田がそうであったように、異なる人間として生きていく。

 

「お前は、僕じゃない誰かに優しくするんだ」

 

 きっと、笑いながら。幸せになって生きていくんだ。

 

「だけど……それで良いよ」

 

 自分の人生は、確かに滅茶苦茶になってしまった。どいつもこいつも、憎くて堪らなくて、それ以上に滅茶苦茶にしてやりたかったけれど。

 

「僕は僕で幸せになるんだ。お前は、一人で勝手に満足してればいい」

「そうか……」

 

 なら、お前も勝手にしろと手を振った。

 

「……もう行け。長くは保たん」

「そうするよ」

 

 最低限、子としての義理は果たしたのだ。父親も、同じようにした以上はお互い言う事はもうないだろうと、征綺華は輸送機に戻ろうとして───

 

「───もし。もしもさ。綾之峰なんて家に生まれなかったら、僕ら、どうなってたのかな?」

 

 綾之峰征麻呂が征綺華を虐待したのは、綾之峰の人間だからと言うだけではない。全ては綾之峰を乗っ取り、その権威を失墜させることで綾之峰を滅ぼうとしたからこそだ。

 征綺華の心を磨耗させたのも、全てを壊そうとした征綺華自身の意思さえ征麻呂の掌の上。どころか、征綺華を生したことさえ道具として利用する為だったに過ぎない。

 だから、もし。もしもと思う。

 平凡な家庭で、平凡な親子で。何事もなく過ごす日常だったら、きっとこんな事にはならなかったのではないか? 過去を受け入れられないとしても、続く今を、不幸な形に歪めようとはしなかったのではないか?

 

「さて、な……想像も出来んよ」

 

 だろうね、と征綺華は笑う。見れば、征麻呂も僅かに笑みを湛えていて、口の釣り上げ方が、何処となく自分と似ている気がした。

 

「じゃあ、今度こそお別れだ。本当のゾンビなったら、そこの教育係さんにもう一度蜂の巣にして貰うよ」

「……」

 

 そうしろと言うつもりだったが言葉が出ない。嗚呼全く、運命の女神とやらは気が利かないが、元々女神は好きではなかったなと征麻呂は心中で含み笑う。

 唯一、目だけはまだ生きているのが幸いか。物言わなくなった征麻呂に、征綺華はきちんと離れてくれたらしい。

 ふと横を見れば介錯のつもりか、教育係の女(ジーヤ)が銃口を向けていた。

 

“家族、か……”

 

 もう、前世の家族は思い出せない。子の泣き声も、妻の笑顔も、全ては遠い所に行ってしまった。

 失われてしまった歴史と同じ───遠い遠い、もう自分の帰れない向こう側に。

 

“生まれ変わったとき、少しは、この日の事を覚えていられるだろうか?”

 

 きっと、無理だろう。安田登郎と同じように、綾之峰征麻呂は、辻口基明として忘れたくないと願ってしまったから。

 彼はきっと、過去を覚え続ける限り、新しい世界を生きられない。

 もし、彼が新しい世界を生きられるとすれば、それは───

 

 

     ◆

 

 

 その感触がなんなのか、大刀自───綾之峰百合華は分からなかった。

 何かが自分に触れている。虫か、或いは理性なき動物かとも思ったが、そうでない事は茫洋とした意識の中でも理解は出来た。

 

「誰、だ……?」

 

 声が出せたのは、奇跡に近かった。

 掠れ、罅割れた音は古びたレコードか老婆のようで、嗚呼けれど、確かに己は老婆だったなと百合華は自嘲した。

 

「貴女の、味方です」

「────」

 

 喉がつかえる。言い表せない思い。決して得られないと思っていたモノを、百合華は命の灯が消えゆく間際の幻だと疑った。

 人の冷たさと恐ろしさは知っている。身の凍える雪の寒さも、光のない閉じた世界も知っている。

 知りたくもない多くを知りすぎて、知りたかった温かいものを、知らないまま生きてきた百合華には、それが悪意以外で誰かが触れたのだと理解するのに、時間を要した。

 権力欲しさに愛を囁いた男はいた。綾之峰という名のしがらみから、抜け出そうと言ってきた者もいた。だが、それらの全ては欲望を粉飾する偽りに過ぎなかった。

 綾之峰への忠義を嘯く者たちとて、飽くまでお家の威光そのものに、蛾のように纏わりつくばかりであって、決して百合華を慕っていたのではない。

 誰しもが、綾之峰の名や権力や財を欲しがった。直向きで一途な思いなど、欠片ほども有りはしなかった。

 それも当然だ。対価として払った百合華には、最早『名』を永遠に残す以外、得られるものなど何もないのだから。

 だけど、嗚呼、だからか。悪意と欲望。人の心の裏側を、飽き果てるほど見続けた百合華だからこそ判ってしまう。

 こんな、どうしようもない穢れた塊を。己の名を永遠にする為に、黒瀬や辻口だけでない多くの人間を犠牲にしてきた女を───

 

 ───この声の主は、心から味方だと言ってくれたのだ。

 

「に、げろ……」

 

 なら、せめて伝えなくては。

 この世界で、たった一人。綾之峰への畏敬でも、欲望でも無く、本心から己の味方だと言ってくれた何者かを、遠い、安全な所に逃がしてやらなくては。

 

「呪いが移る……穢れるぞ」

「存じています。だから───私はここに来ました」

 

 腕を回し、亀裂の走る胸を抱きとめて塞いだ。

 

「だめ、だ。離れろ」

 

 黒々とした怨念が男に移る。この温もりが、嬉しい筈なのに。心から慕う気持ちを、待ち望んでいた筈なのに、百合華はそうしてくれる事に耐えられない。

 

“初めてなんだ。嬉しいんだ……生まれてきた時にしか、決して許されなかったこの温もりが”

 

 だから、それをくれた人を死なせたくない。罪深くて、自分の事ばっかりだった女だけど、だからこそ、大切なものを壊したくない。

 

「ずっと、この痛みを耐えてきたのですね」

 

 嗚呼、なのに。どうして優しくなどするんだ。どうしてこんなに欲しかったものをくれたんだ。

 

「これは、儂だけが……」

 

 耐えなくては、行けないものだ。誰かに押し付けていいものでも、肩代わりして貰うものでもない。身の丈に合わないものを望み続けた人間の、当然の債務だ。

 

「それは違います」

 

 名前も知らない誰かは、心から、そう否定した。

 

「貴女の治世は正しかった」

 

 貧困、飢餓、犯罪……、それら全てが、皆無であったとは言わない。人の悪性や世の不条理が消える事など、それこそ空想の楽園だけだろう。

 

「今の世は、多くの人が笑っていました」

 

 失われた歴史。失ってしまった多くにも、決して劣らない国。それが私欲から始まったモノであったとしても、託されたものの意味を理解していた筈だ。

 

「───だから貴女は、『大刀自』と名乗ったのでしょう?」

 

 皇后でも、妃でも無く。大君に仕える者としての名を用いて、今の世の安寧を祈り続けた。手放しても良かった。進んで苦しむ必要など、初めからなかった筈なのに。

 

「まさか……」

 

 覚えているのか? 全てを知りながら、失ったものを理解していながら、それでも来てくれたのか?

 

「私が何者かなど、どうでも良い事です」

 

 過去に起きた事など、水に流せばいい。された事など、今となってはどうでも良い。

 それ以上の多くを、彼はこの世界で得て来たから。

 この女性の、銀の髪のように清く美しい今を生きて来れたから。

 

「御恩を、返させて下さい」

 

 過去に生きた者として。陛下と同じく、責を負わせてしまった愚か者として。

 この女性が、苦難の中で得られなかった温もり(もの)を渡したい。

 

「少しだけでも、僅かでも、楽になりますか?」

「なら、ない」

 

 知らず、頬に熱いものが伝っていた。傷つく事も、苦しい事も、恐ろしい事も慣れていた。だけど、優しい事には、慣れてない。胸が張り裂けそうなぐらい痛い。

 なのに、これを───抱きしめて貰う事を拒めない。

 

 Frailty, thy name is woman.(弱き者よ、汝の名は女なり)

 

 そう綴った作家は、一体誰だったか? 初めて目にしたとき、何を愚かなと鼻白んだ。男にも負けぬと意気込みもした。だが、その一節は正しかったと今は思う。

 

「……っ、ひ、っ」

 

 強く、深く抱かれた体に、知らず腕を回していた。溢れるものが止まらなくて、唯ひたすらに泣きじゃくっていた。

 まるで稚児だ。ただ喚いて、掠れながらも大声を出さずにいられない、弱虫だ。

 だけど、もう無理だ。ずっと、ずっと我慢していた。こうして縋りたくて堪らなかったんだ。

 

「辛かったんだ……ずっと、一人だったんだ」

「もう、一人ではありません」

 

 あやす様に、叩かれた背。顔は見えないけれど、きっと彼は笑ってくれているんだろう。温もりは何処までも優しくて、つい眠ってしまいそうになる。

 

「疲れたでしょう───だから、お休み下さい。目が覚めたら、きっと、辛い事は無くなっていますから」

「そう、だな。だが、まだ儂は聞いてない───」

 

 どうでも良いと言われたけれど、それでも、知りたい事がある。

 

「───名を、教えてくれ。きっと、目が覚めたら礼を」

 

 重くなる瞼を堪えながら、顔を上げて熱くなった眼で、男を見る。

 口から零れた名前は、記憶には無かった。

 

「お礼など、要りません。ただ、幸せな世界を生きて下さい」

「……馬鹿め」

 

 もう充分に幸せだと、そう告げられないまま眼を閉じた。

 けれど、それを口にする必要はなかった。幼子のように微笑んで寝る彼女の顔は、彼でなくとも、幸せなのだと分かったから。

 

 

     ◇

 

 

「女神殿、見ておいでなのでしょう?」

 

 眠りに就いた大刀自を抱えたまま、桁橋の壁に空いた穴から、地面に流れる水に問う。

 

「───何用かは、問うまでも無い事か」

 

 泉の女神。この綾之峰山にかつて贄として捧げられ、以来この地の神として祀られた女神は、溢れた水を纏いながら宙を舞い、安田の前へと姿を見せた。

 

「言わずとも判っておる。『鏡』の譲渡は、綾之峰の姫が一人苦痛を耐え忍ぶという契約の下で成立したもの。主が今なお苦痛を一方的に請け負っている以上───」

 

 ───『鏡』の譲渡は()()()()事になる。

 

 綾之峰 凛が、夫との再会に二度と己を愛さぬ事を誓わせたように。取り決めが果たされなければ因果は捻じ曲がり、結果としてこれまで得た全ての恩恵も、また、ここから降り注ぐ厄災さえ消失する。

 

「だがな、()の子よ。それで日ノ本を救えたとして、綾之峰百合華はどう救う?」

 

 綾之峰の当主として生きる事になった少女。彼女は他者と触れ合えぬ事を対価として、閉鎖された社会の忌児から抜け出した。

 

「お主は百合華を抱き締めた。二度と得られぬ愛を与え、温もりを与え、救いを与えて()()()()

 

 ならばどうする? 眼を閉じ、耳を塞ぎ、今知り得た真実すら口を閉ざして、再び一人の少女を地獄の底に突き落とすか? それとも───

 

「───やはり、女神殿はお優しい」

「いま、何と……?」

 

 悪魔と誹られると思っていた。征麻呂がそうであったように、安田とてかつて陛下に支払わせた対価に、不満を抱いている筈だと内心訝しんでいた。

 なのに、その口から漏れ出たのは紛れもない賛辞と、慈しみからの想いだった。

 

「聞かせる必要など無かった……ただ、私に満足させたまま終わらせる事さえ出来た筈」

 

 だというのに。女神はそこで終わらせなかった。本来、契約を果たされなかった時点で因果を捻じ伏せ、この時間軸を消失させる事さえ出来る筈の存在が、今もこうして救いの道を残してくれている。

 

「妾を、憎まぬのか?」

 

 詐欺師と、悪魔と多くが真実を悟った時、口にはせずとも思う事を、何故……

 

「ご自身を卑下なさるな。女神殿が何故生き永らえたかったか。安田登郎は理解しております。大刀自と同じく───この国を、愛しておいでなのでしょう?」

「馬鹿めが……」

 

 ……一体何処まで御人好しだと言いたくなったが、確かにそうだ。

 生き永らえたかったのは、生き続けていたかった始まりの理由はそれだった。

 幾千という年月を唯一人過ごした理由はそれで……嗚呼けれど。そんな理由、今の今まで忘れていた。人々の安寧を望み、自ら身を捧げて女神となった筈なのに、それさえいつの間にか忘れていた。生きる目的を失いながら、死の恐怖に怯えるだけの女になっていた。

 

「……優しいのは、主だ」

「いいえ。甘いだけです」

 

 嗚呼、その通り。この男は、単に女に甘いだけだ。

 自らを死地に追いやった(ゆりか)を許し、詐欺師も同然の行いをした(めがみ)も許した。

 何時だってこの男は、女と見れば甘くしてきたに違いない。

 本当に碌でもない、どうしようもないダメ男だ。

 

「……だが、許せ。対価は天秤に釣り合う物でなくてはならん」

 

 どれだけ救われても、女神自身が満たされたとしても、そこだけは決して曲げられない。

 それは女神自身が定めた物でなく、この世界に神を求めて止まなかった人間たちの総意だ。

 

「だから妾は───」

 

 ───お主に、最も残酷な対価を伝えよう。

 

「黒瀬正継として得た、全てを手放せ」

「それは───」

 

 本当に、対価になり得るのか?

 黒瀬正継として得た全て。それは陛下の存在も、過去に受けた大恩さえ忘れ、手放さなくてはならないという事。妻子との再会も、これまで黒瀬正継としての経験があったからこそ歩んできた人生も失ってしまうという事。

 それだけを聞けば、確かに失うものは多いかもしれない。陛下への忠節を誓いながら、その恩義を忘却の彼方へと追いやることは耐え難い苦衷であり、許されざる不忠だろう。

 だが、同時にこれは、黒瀬正継への救済でもある。

 彼はもう、来世に記憶を引き継ぐ事はない。安田登郎として死した後、黒瀬正継としての記憶のみを抱いて転生しないならば、彼は未来永劫、妻子との別れに苦しまず、また過去の人間として、今を生きる者たちとの狭間を感じる事も無い。

 他者と同じく、陛下に救われた今を歩む事が出来るのだろう。それを、本当に対価と捉えられるのか……?

 

「対価だとも。何故なら───」

 

「安田……!!」

 

 ───安田登郎は、真実の愛を失ってしまうから。

 

「あ……」

 

 知らず、一筋の雫が頬を伝う。

 忘れてしまう。手放してしまう。

 好きだといってくれた少女を。少女を慕う自分の心を。

 黒瀬正継として、安田登郎を生きた彼だからこそ、得られた今日までの想いを。

 呪いすら耐えて、駆けつけてくれた愛しい少女を。

 

「……っ」

 

 失いたくない。抱きしめて、離れたくないと縋りたい。嗚呼、だけど。

 

「────」

 

 腕の中で、眠る百合華に視線を落とす。女神がそうさせたのか、迫害を受けた彼女の記憶が流れてくる。愛を知らず、人として得るべき権利も知らず、明日に希望を抱けなかった少女を見捨てられるのか?

 眼を閉じ、耳を塞ぎ、今知り得た真実すら口を閉ざして、再び一人の少女を地獄の底に突き落とすか?

 

「済まない」

 

 償いは、愛した少女に。たとえそれが、好きだといってくれた想いを踏み躙る物であったとしても───陛下は、この女性の幸ある世を願われたのだから。

 

「今からする事を、許してくれとは言わない」

 

 これは、女に甘い、ダメな男の我が儘だ。

 

「───必ず会いに行く。忘れてしまうとしても、何時の日か、必ずもう一度好きになる」

 

 この誓いさえ、忘れてしまうのだろう。

 今日という日までの道は、全て無に消えてしまう。

 それでも、謝意を示そうと、彼の選択は覆らない。

 愛したいという思い。忘れたくないという思い。それら全てを擲ってでも、彼は果たさなくてはならない。憶え続けるという自己満足ではなく、陛下から託された後の世が、一人でも多くの幸福で満たされてこそ、大恩に報いるという事だから。

 

「何をっ!?」

 

 言っているのか。何をしようとしているのか。

 消えて行く景色。流星のように流れ行く世界と、薄れてしまう記憶に、少女は全てを察してしまった。

 

「それなら───」

 

 手を伸ばしながらの言葉は、世界と共に消えて行く。

 後には何も残さず、一柱の女神だけが全てを見届けた。

 

 

 

 

 



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Attack 23 エピローグ! なのにジーヤは不在でありますか!?

 歴史は変わった。黒瀬正継はかつて日本国を治めた陛下を思い出せず、故に天鏡島に赴いた後、南方諸島に散る事も、後の世に軍神として祀られる事も無かった。

 彼は当時の綾之峰家当主の計らいにより、天鏡島に滞在した唯一の男として、当時の巫女姫と正式に祝言を挙げた。

 各国の帝国主義的政策の終焉と時を同じく、綾之峰家は星読みの巫女らの縮小と、本島への日本国民への立ち入りを許可。

 観光名所として多くの旅行客を饗したのは、黒瀬と当代星読みの巫女たる凛との間に儲けられた一人娘、歌凜子であり、彼女は祭事を勤める傍ら、良き男性と出会い子を儲けた。

 

 そして、時は流れ二〇一四年。

 天鏡島の本島で曾孫達に囲まれながら、歌凜子は終生仲睦まじく、死後も同じ墓に入った両親の墓地を清めている───

 

 

     ◇

 

 

 ───同年、春。

 

 じゅうじゅうと音を立てるフライパンから、香ばしい匂いが漂う。

 こんな日くらい自分が料理をすると峰子は申し出たのだが、どうにも息子は聞き分けが悪い。

 

「昨日まで海外だったんだから、ゆっくり休んどけって」

 

 これである。粗野な物言いだが親子の、それも思春期の息子である事を考えれば、充分過ぎるぐらい良い子だろう。

 敬語など使われては背中がむず痒いし、何より似合わないと笑ってやるところだ。

 

「そう言えば、万里華が褒めてたわよー。登郎は筋が良いし、本格的に(こっち)の道に進んだらって」

「へぇ。暫く来なくていいって言われてたけど。そっか、母さんと一緒のとこに出てたのか」

 

 偶然にしては同じような海外視察(こと)が多いものの、そうでもしなければ財閥トップと一緒に食事など、そうは出来ないだろう。彼自身、茶道の先生として時折指導して貰っているが、それさえ傍から見れば度の過ぎた厚遇だ。

 トーストを齧りつつ、テレビをつける。画面を観れば、穏やかな笑みを讃えた老婆が、多くの子供たちに囲まれていた。

 

『昨日、めでたくも百十歳を迎えられた綾之峰先々代当主、百合華様の誕生日を祝うべく、全国の小学校から代表として集まった生徒たちが花束を贈呈されました。

 百合華様は入学式を明日に控えるこの日に、自らの為に新たな門出を控える生徒たちを集めるのは心苦しいとの事でしたが、生徒らと保護者から是非にとの希望により、快く受けられたとの事です』

 

「長生きなお婆ちゃんよねー」

「優しそうな顔だよなー。苦労も多かったろうに」

「若者がなに知ったような口利いてんだか。それより、ちゃんとしときなさいよ。入学式、その百合華様も来席されるんだから」

 

 判ってるよ、と手早く平らげて空になった食器を洗い終え、身嗜みを確認する。

 カラーの付いた昔ながらの学ランは少々古めかしい気もするが、伝統的な気風漂う高校には、この手の制服はらしいと言えばらしいだろう。

 

「しっかし、よくあの倍率で受かったもんだわ。何? そんなにお嬢様の花園に突撃したかったの?」

「何度も言ったけど、近場だし学費も安いから狙っただけだっての」

 

 勿論、峰子の言う通り、年頃の男として高嶺の花に憧れていたというのも無い訳では無かったろうが。

 

「ただ……そうだな。何でか分かんないけど、何となく受けなくちゃ駄目な気がしたんだよ」

「何々。運命とかそういう奴? 女の子じゃあるまいし、正直気持ち悪いわよ? 第一、お嬢様って言っても現実はそんなに憧れるようなもんじゃないし」

「そりゃあ、母さんはあそこのOGだもんな」

 

 元はお嬢様だったという話だが、たまの電話は酔っぱらいながらの物が多いし、いざ帰っても夜にはビールと安い肴に舌鼓を打つ様を見れば、その手の幻想など容易く砕け散るものだ。

 

「今日は早いんでしょ? 夕ご飯は私が作るから、さっさと帰りなよ」

「判ってるって。じゃあ、行ってきます」

 

 行ってらっしゃーい、という明るい声に送られて、玄関を出る。

 うららかな陽光の下、小春日和の優しいそよ風と、爛漫の桜が出迎えてくれた。

 

 

     ◇

 

 

「だーかーらー! もう着いて来ないでって言ってるじゃんか!」

「冷たいこと言わないでくれよぉ。パパは征綺()が心配なだけなんだってば!」

「…………」

 

 目の前の光景に、思わず本能的に携帯を開いて一一〇番をプッシュしかける。

 どこからどう見ても胡散臭げな中年が、美少女にベタベタとしているのだから当然だが、それを目聡く見つけたのか、中年が全力でダッシュしてきた。

 

「ちょっと待ちたまえ少年! 俺とこの子は紛れもない親子だ! だから本日三回目になる通報は勘弁してくれないかね!?」

 

 だったら懲りろよ、と見るからに駄目さ加減が際立つ父親に、辟易しながらも携帯を仕舞う。

 

「あれ? もしかして君、入学生?」

「そうだけど……ひょっとして同い年か?」

 

 うん! と力強く頷かれる。学園案内のパンフレットで見た女子の制服と同一であった事から同じ学園の生徒だろうとは思っていたが、一歳差程度であれば顔立ちからでは判別しづらい為、先輩なのではと勘ぐってしまった。

 

「じゃあ、パパ。エスコートは彼にして貰うから、ちゃんと仕事に行ってよね」

「うぅ……気を付けて行くんだぞ。それから君! ()に手を出すんじゃないぞ、出したら会社の怖い警備の人たちを呼んで酷いからな!」

「はいはーい、露骨に脅したりしないの。じゃあ行こっか。僕、征綺香。君は?」

()は安田。安田登郎って言うんだ」

「俺か……うん、君らしくて良いと思う」

「俺らしいって……」

 

 まさか、名前でなくそちらを褒められるとは思わなかった。このごつい(なり)で僕だの私だのという一人称を、高校デビューに使うとでも思われたんだろうかと首を傾げる。口にしても良いが、絶対に笑われるだろう。まず似合わない。

 

「ああ、安田君……だったか。ちょっと良いかな?」

「まだ居たの?」

 

 さっさと仕事行けと征綺香は半目で睨むも、先程とは違い、真剣な面持ちの父親に安田は背筋を正して振り返った。

 

「えっと、何か?」

「いや……何故だろうな。君とは、何処かで会った気がする」

「パパ、そういうのは僕の台詞だと思うんだけど?」

「話の腰を折らないでくれ……それで、な。正直に言うと、お礼を言わなくてはならない気がするんだ。やっと───、本当の意味で生きて行けると」

 

 どうしてか。胸を打つその言葉に込み上がる物を抑えながら、ゆっくりと安田は返す。

 

「……気のせいでしょう。俺は娘さんとも、お父さんとも初対面です」

「え!? 今のプロポーズ!? お義父さんって言ったよね今!」

「パパは認めんぞ! 会って間もない男に……あー、すまんね。娘はいつもこうなんだ」

 

 そうですか、と何となく安田はこの親子とどう接するべきか分かった気がした。

 

「それで……ああ、確かにそうだな。忘れてくれ」

「はい。でも───」

 

 安田も、何故か言いたい事があった。

 

「───娘さんと、ずっと仲良くして下さい」

「勿論だ。ああ、言われるまでも無いさ」

 

 家族は宝物だからねと頷く父に、安田も笑う。もし、自分が父親になったら、彼にように在りたいと思ったから。

 そして、そう返してくれた彼の笑顔が、本当に嬉しかったから。

 

 

     ◇

 

 

「それでね。ママは浮気性だし元々家同士の縁談だったから、パパは離婚した後で強引に小さかった僕を連れて渡米しちゃったんだ。その後は必死にやりくりして、今じゃ社長さんになっちゃったんだよ」

 

 だから、所謂帰国子女って奴だね、と聞いてもいないのに征綺香はペラペラと身の上を語ってくれたが、どうしてか安田自身も聞いておかなくてはいけない気がした。

 

「登郎の家族は、どんな感じ?」

「親父が空手バカなのと、母さんが綾之峰のOGだった以外は普通かな? あと、この町に慣れてないのは俺もなんだよ。親父も母さんも転勤族で、この町にも親の仕事と姉さんの志望大学が重なったから引っ越したんだ」

 

 だから、道案内とかは期待してくれるなと苦笑交じりに頬を掻く。

 同い年の、それも可愛らしい女の子と肩を並べて歩くというのは気恥ずかしい筈なのだが、何故か彼女とはそうした壁を感じなかった。

 

「そこは別に大丈夫かな? 道やお店はスマホとかで調べられるし、新しい発見があって楽しいじゃん」

 

 そうだな、と並木道を歩きながら笑い合う。傍目にはまるで恋仲のようだが、お互いに、そういう感情は湧いてこない。ただ、一緒に楽しめる日常を噛み締めている事が、嬉しいという気持ちが大きかった。

 

「着いたみたいだよ?」

 

 言われ、白亜の城のような校舎と、門の大きさに息を呑んだ。

 綾之峰学園。歴史あるこの学び舎に、一歩足を踏み入れようとして───

 

 ─── 一陣の風が、桜吹雪と共に少女らを運んだ。

 

 容姿端麗。正にそう呼ぶに相応しい()()の少女は、舞い散る花弁の中で凛と歩を進める。

 

「なぁに? 僕よりあっちの子達が言いの?」

 

 可愛らしく口元を尖らせながら、顔を抓ってくる征綺香に、奪われかけた視線を戻す。

 

「いや……ちょっと、気になってさ。ほら、綾之峰の」

「ああ、そっか。英里華はともかく、銀香は普段テレビとかに出て来ないもんね。綾之峰の次期当主の英里華と、隣の銀髪が双子の妹の銀香。それにあっちの眼鏡の子が、侍従の芹沢ね。

 ここだけの話、英里華は公務でテレビにもよく出るけど、結構銀香と入れ替わって羽を伸ばしてるんだ」

「随分詳しいんだな。ていうか、お姫様を呼び捨てかよ」

「そりゃそうさ。だって僕も、元は綾之峰の人間だったからね」

 

 今は遠戚の名字を使ってるけど、と何食わぬ顔で征綺香は言ってのけた。

 

「マジか。じゃあサインとか貰えちゃう訳?」

「はっはっは! こやつめ! 傍に居る可愛い女の子を出汁にしようとは!」

 

 多少なりとも加減していたが、もう容赦は要らぬとばかりに思い切り爪を立てた。

 

「いだだ! 悪かったって!」

 

 フン、と鼻を鳴らす。そんな様を見てか、三人の少女はこちらを見やり───

 

「───え? あれ?」

 

 瞳が、熱いもので潤んだ。

 

「ど、どうしたの登郎? そんなに痛かった?」

 

 ごめんね、と思わず抓った手を離されるが、大丈夫だと安田は宥めた。

 

「いや、大丈夫。多分、花粉かなんかだと思うからさ」

 

 もう、涙は出ない。きっと、春の陽気にでも当てられたのだろう。

 

 

     ◇

 

 

「では最後に。本校に入学し、新たな門出を迎えた入学生と在校生一同に、綾之峰百合華様よりお言葉を賜りたいと思います」

 

 一同、起立。という英里華の良く通る声に立ち上がる。

 ゆっくりと歩を進めた百合華は、その齢にも拘らず、杖すら突かずに壇上にて生徒を見渡した。

 

「皆様。ご入学、おめでとうございます」

 

 ゆっくりとした、しかし、滑舌の良い声だと安田は思った。同時に、テレビで観たのと同様、優しい御方なのだとも。

 

「今日という日を迎えられた事。()も、心から喜ばしく思っております。今日という日まで私が生きて来れたのは、偏に日本国民の皆様と、私の心を支えて下さった、()()()の御陰なのです」

 

 ふと、微笑みの形が変わった気がした次の瞬間に、思わず視線が合って安田は萎縮してしまう。そんな若者らしい姿を見取ってか、百合華は笑みをより深く、そして穏やかなものにしながら話を続ける。

 

「その方が何者かは、私は生涯申せません。ですが、私は今生の限り、その御恩に報いたいと思っています。託された国を護り、そして、その方が私にして下さったように、明るく、優しい思いに満ちた人々で溢れる国であって欲しいと思っております。

 皆様。皆様には、大事な方が居られますか? 在校生の子女の皆さんは、人生を親や、生まれついたしがらみに定められたものと考えてはいませんか?」

 

 それは違いますよ、と。百合華は静かに窘める。

 

「本校が共学制となったのは、新しい風を吹き込む為です。閉ざされた場所でなく、他者と、異性と触れ合い、互いに練磨し、新しい世界を知って頂く為なのです。

 どうか、心を閉ざさないように。人生を悲嘆しないように。希望を抱いて、一歩を踏み出して御覧なさい。そうすればきっと、思っていたものとは違う未来も有る筈ですよ」

 

 一同、礼。と英里華が締めた後に、着席する。満足げに席に戻る百合華を目で追っていると、横に座っていた征綺香が肘で小突いて来た。

 

「ある方って誰かな? 浮気相手だったりとか?」

「邪推してやるなよ。多分、そういうのとは違うと思うしさ」

 

 あれはきっと、恋心からの物ではない。ただ、本当に恩を返したかったのだろう。

 それが何なのかは、今を生きる安田には判らない。ただ、綾之峰百合華を大きく変えた切っ掛けなのだろうという事を除いて。

 

 

     ◇

 

 

 何気ない一日の時間は、流れるように過ぎて行く。

 教室や授業の説明も、校内での規則も、その全てがどうにも聞き覚えがあるしてならない。

 

“既視感ならぬ、既知感って奴かな?”

 

 荒唐無稽な事で、誰かに話せば笑われてしまいそうなものだが、それでもそう感じずにいられないのだから仕方ない。

 

「ねぇねぇ、登郎! 折角だしさ、帰りに寄り道して行こうよ!」

「入学初日から補導とか洒落にならないっての」

 

 むぅ、とリスの様に愛らしく頬を膨らませたが、駄目なものは駄目だと突っぱねる。

 唯でさえ両親に武道漬けにされたせいで、居並ぶ男子生徒の中では成績が宜しくない身だ。ここで下手に問題行動を起こして、入学一年目に退学などという破目になるのは不味すぎる。

 

「ほれ、携帯番号とメアド。休みとか時間のある日なら何時でも付き合ってやるから」

「わぁ! 積極的!」

 

 ほっとけと言いたくなる。第一、安田以外の男子にも片端から友誼を結んでいた女が、何を今更という話だ。

 

「じゃあな。また明日」

「え~? 一緒に帰ろうよ~?」

「いや、そうしたいとこなんだけどな」

 

 悪い、と両の手を合わせてから視線を誘導する。征綺香が釣られて見た教室の入り口には、一人の少女が立っていた。

 

「あれ? 何であの子が居るの?」

「分かんねぇけど、顔貸せってさ。校門で見てたのがバレたらしい」

「うわ。ご愁傷様」

 

 骨は拾っといたげるからね~、と。本気なのか冗談なのか判らない声で手を振って別れる征綺香を見送った後に、振り返る。

 

「待たせたな」

 

 既に衆目を集めてはいたが、構わない。

 着いてこいという言葉に従って、教室を後にした。

 

 

     ◇

 

 

 訪れたのは、一応は学園の敷地内になっているという、それなりの大きさの泉だった。

 特に曰く付きという感じでも、また、何かがあるという訳でも無い。

 なのに───

 

「───懐かしいか?」

 

 嗚呼、そうだ。確かに懐かしいと、安田は思わずに居られなかった。

 だろうな、と。少女は淡く微笑む。何故だろう? 一体どうして、初めて逢う筈の少女は、こんな儚げな顔をするのだろう?

 

「やっぱり、忘れたんだな」

 

 寂しいけれど、判っていた事だと。微笑みの中の諦観に、どうしてか安田の胸が締め付けられた。

 

「良いさ。だから、今度は私が覚えておく事にしたんだ……今生に限って、な」

 

 何を、とは問えない。けれど、それが危ういものだと。どうしようもなく、取り返しのつかない事をさせてしまったような気がしてならなかった。

 

「待てよ……何を、一体何を払ったんだ!?」

 

 自分が何を言っているのか、口にした安田すら判らない。だが、それがどうしても怖かった。この少女が、どんなものを犠牲にしてしまったのかが怖くて耐えられなかった。

 

「違う。これから払うんだ」

 

 そうだろう? と振り向いた先。彼女の背後には、この世のものでない存在の姿があった。

 仙女と。泉より現れた美女を例えるならば、それ以上の表現はないだろう。

 或いは、織姫を思い浮かべるのが早いかも知れない。唐代の衣装に身を包み、羽衣を揺らす様などは、天の川にて彦星を待つ見目麗しき美女そのもので……その存在を、安田は理解するより先に口を開いていた。

 

「……奪うなら、俺から奪え」

 

 掠れる声で、女神にそう呟く。その様を見てか、感じ入ったように女神は手招くも、少女は間に割って入った。

 

「駄目だ、安田。これは私が───」

「なれば、両人とも泉に入るが良い」

 

 拒否権はないと。そう言外に告げた女神の元へ、横並びに進み出る。ふと、温かな感触が伝わった手は、少女が繋いできたものだった。

 

「睦まじいものだな」

 

 湛えられた微笑み。揺れる羽衣が泉に入った二人を包み、そのまま泉の底へと引き摺り込まれた。

 

「「…………!?」」

 

 ───深く、深く。

 

 息すら忘れるほど唐突に沈む中で、女神は見届ける様に両人と共に落ちて行く。

 

“これは……何だ?”

 

 潜る度、底に向かい沈むごとに、自分の中の何かが拾われ集まって行く。水底に沈めたまま忘れてしまった何かを、ある日突然拾い上げて思い出す様に。

 それが、安田自身の、本来経験しなかった過去と未来なのだと知った時、脳裏に様々なものが蘇って行く。

 

 たとえばそれは───初めての出会い。

 たとえばそれは───学園での再会。

 たとえばそれは───告白をされた日。

 たとえばそれは───想いを伝えた時。

 たとえばそれは───別れの間際に伝えた言葉。

 

 ステンドグラスの様に、鮮やかに色づく全て。

 失う事を選んだ筈の安田自身が、二度と取り戻せないと知りながら、泉に投げ入れた宝石の時間。

 

「どうして……」

 

 抱え上げられた宝石(おもいで)の全てが、胸に仕舞われると共に浮上する。

 これは、安田自身の意思で差し出したものの筈なのに。

 

「一度くらい───女神らしい事をしても良かろう?」

 

 童話に見る慈愛の女神の様に、淡く微笑むその姿を美しいと思いながらも、同時に安田は納得できない思いもあった。

 女神の法は、女神自身すら破れない。対価となるものは、それに見合うものを差し出さなくてはならない筈だ。

 

「そうじゃな。だから、妾が払ったのよ。美しい(もの)を見たいとな」

 

 時間を、運命を、あらゆるものを乗り越えても繋がる想いを見たいと願った。

 青く拙く、けれど穢せない想いをその瞳で見届けたかった。

 

「願いは叶った───対価は主ら二人分の命数じゃが、何。合わせた所で二百にも届かんよ」

「ですが……」

 

 命数を差し出すという事は、永遠ではなくなるという事だ。幾千の時を経ようと、定めぬ限り終わりの見えない筈の存在に、何時かは打たねばならないピリオドを定めてしまう事だ。だが、それさえ構わないと女神は笑った。

 

「人はいずれ死ぬ。国も世界も星も、いずれ死に絶える。ならば、神とていずれ消えゆく定めにあるのは当然じゃ」

 

 悠久ではあれど永遠(とこしえ)でなく。

 限りあるからこそ、何かに誓いを立てて懸命に生きて行ける。

 輝くものがいつか消えるのだとしても、そこに放たれた光を見た誰かは、それを美しいと感じるだろう。

 泉の女神が、己の生涯と比べれば、余りに儚く短い二人の恋に胸を打たれたように。

 この二人の、長くも短い人生が、幸福なものであって欲しいと願ったように。

 

 ───これこそが、人を見守る神の在り方だと女神は定めたのだ。

 

「末永く笑い、最期まで添い遂げるのじゃぞ」

 

 そうして女神は、光の泡となって消えて行く。

 二人はそれを見届けて、やがて示し合わせたように互いを見つめた。

 春の風に誘われてか。浮かぶ薄紅が二人を囲む。

 

「もう一度、君に告白しても良いだろうか?」

 

 叶えてくれた女神の願い。

 最後の言葉を形にする一歩として、安田は少女に問いかけて───

 

「勿論」

 

 ───私も、そう言おうと思っていたと少女も笑う。

 

 これから先。穏やかな世界の中には、きっと過去のような目まぐるしい事件は無いのかもしれない。

 平凡で、平穏で、在り来たりで愛しい時間。誰もが送り過ごす日々を、二人も生きて行くのだろう。

 互いに手を取り、肩を貸し、時には喧嘩をする事もあるだろう。

 けれど、その日々を二人は輝く宝石(おもいで)にしながら、終わりの日に笑って眠ろうと誓い合う。

 

 陛下(だれか)が託し、綾之峰(だれか)が受け継ぎ、女神(だれか)が見守る───この、優しい国で。

 

 

 

 謹呈の世 銀嶺の今     完

 

 

 




 ご愛読、ありがとうございました!


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Attack EX 登場人物紹介であります

 本稿は謹呈の世 銀嶺の今の登場人物の設定や裏話を、おふざけを交えつつ赤裸々に語って行くコーナーとなります。
 ネタバレ等を含む上、読了後である事を前提としておりますので、予めご了承頂ければ幸いです。


綾之峰(あやのみね) 英里華(えりか)

 

 原作『金の彼女 銀の彼女』の金の彼女にしてメインヒロイン。

 笑顔を絶やさぬ才色兼備なご令嬢であり、一年生ながらに生徒会長を務めているところからもその辣腕ぶりが伺える。

 八歳の折に本家に引き取られてから、次期当主としての公務と英才教育で多忙な日々を送っており、その鬱積した感情が銀香という鏡写しの存在を生むきっかけになった。

 

 平安・戦国より古く続く綾之峰家次期当主にして、綾之峰学園に通う一年生。

 お淑やかな物腰の深窓の令嬢らしく、悲劇のお姫様な自分を救って欲しいと憧れちゃう乙女回路全開なヒロインなのだが、原作では黒彼女などと言われたり『銀の彼女 パールの彼女』にタイトルを改題されかけたりと扱いのアレさが目立つヒロイン。

 本二次創作(以下、本作と記載)でもそんな原作をリスペクトすべく……という理由ではないが、出番どころかヒロイン枠でもない脇役ポジになってしまったキャラ。

 

 ヒロインにならなかった理由は、実のところこの作品自体『作者がエタらないために、どれだけ無駄なく最短ルートでゴールできるか』という部分に重点を置いた試験作だったという事情が大きかったです。

 綾之峰の後継として主人公と物理的に距離を取らざるを得ない以上、攻略するとなると日常パートを合間に挟まざるを得ない事も含め、プロットを組む前から早々にヒロインルートから外れましたとさ。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 歌凜子(かりんこ)

 

 天鏡島の巫女として、綾之峰家の未来を占う星読みの巫女を統べる巫女姫。

 本作では主人公の前世の娘として登場したが、彼女も含め本作の登場人物の大多数に主人公と何らかの関わりがあるのは、主人公補正というだけでなく、これもまた物語を最短ルートで終わらせるための手段。

 TRPGとかでキャラ同士に関わりがあった方が進めやすいのと同じ理論である。

 

 安田登郎の前世、黒瀬正継の娘であり、一度目の歴史改変後の世界では一九三〇年代に生まれた事を考えて年齢を逆算すれば、大変アレな事になるので実年齢は伏せさせて頂く(本編スタートは二〇一四年)

 星読みの巫女を統べる立場であるだけに、未来視の力が非常に強いだけでなく、読心術を始めとした複数の術を用いるが、父親絡みを除いて必要以上に力を使おうとはしない。

 

 実は武芸もそれなりにこなせるのだが、姫として巫女を取り纏める立場である事から、そちらの方面で活躍する事は本作ではなかった。得意なのは弓と薙刀。

 

 父以外の男を知らず本島で過ごしたために、初恋の相手が父親で止まったまま重度のファザコン化したが、父親は父親でマザコンの気があるので、普通の暮らしをしていてもファザコン化していた可能性が高い。能力面だけでなく、ダメな性癖まで存分に遺伝してしまった模様。

 父の前では一人称に名前を使い、御淑やかにしている反面、他の巫女らを取り纏める立場になれば傲岸不遜になるが、どちらかというと前者の方が素で、後者は威厳を保つために無理にアピールした結果、ああなっただけだったりする。

 

 他の巫女と同様、泉の女神との契約によって身体年齢は一定の年齢で停止。当人も十六(数え)で止まっており、本作でのヒロインや主人公と同年齢の筈なのだが、外見は十二程の為に英里華らにはロリババアと陰で囁かれる。

 母親はバインバインだというのに。どうしてこうなった……。

 

 エピローグの歴史においてはきちんと結婚したが、選んだ基準が父親と似ているからという点であった辺り、業の深さが伺える。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 銀香(ぎんか)

 

 英里華の鬱積した感情と、泉の女神の願いを叶える力によって英里華と存在が分離した少女。

 英里華の鬱積した感情を体現するかのようにざっくばらんな物言いをしたり、色々と怠けちゃう女の子だが、好みや根本的な部分は同一人物であるためか、英里華と同じで恐竜好きの乙女回路全開だったりする。

 

 原作メインヒロインである銀の彼女にして、本作でも二大ヒロインの片割れを務める少女。原作での同棲ポジションである事や、キャラクターそのものの動かしやすさから、金の彼女とは真逆に早々にメインヒロインに決定。

 敬語ばっかりで感情の読み辛い主人公と違い、終始動かし易いポジションで居てくれるに違いないと書く前までは思っていたが、利便性においてはジーヤとかいう超絶チートポジションキャラが居た為に、思ったより動かなかったなというのが作者の感想。

 

 原作における恐竜好きという設定から、主人公の姉と絡ませれば面白い事になるのではと思ったが、本筋と関係ないし、姉自体メインで関わる事はないよねとバッサリカット。

 徹底的に削って行く本作のスタイルに結構割を食ってしまった感がある。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 万里華(まりか)

 

 英里華の叔母にして主人公の母、峰子の同級生。

 綾之峰家の当主代理にして行事全般を取り仕切るという多忙な身だが、何だかんだで峰子と楽しくやっている。

 本作においては夫と別れたという部分があったが、これは飽くまで本作のオリ設定。今のところ(原作八巻まで)は夫との細かい設定は明言されていない。

 七夕茶会では主人公をガッツリ試したが、これは主人公が綾之峰家の婿養子に相応しいか、という部分より、主人公の人となりを知って親子の関係を改善させたかったというところが大きい。単に作者が『へうげもの』にどハマりした結果というのもあるが。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 征綺華(ゆきか)

 

 綾之峰家の分家筋に生まれた息子にして、父である征麻呂によって英里華の婿になるべく仕組まれた少年。年齢は主人公や英里華と同じ十六歳(誕生日不明の為、数え年)。

 

 原作での男の娘というサブヒロイン? 枠にして、本作では唯一主人公とキスからその後まで行った実質メインヒロインの一角。

 本作における主人公はメインヒロインにキスすらしてないのにこの差である。

 

 原作での女装は当人の趣味だが、本作では性同一性障害だったり、父親からの意図的な虐待を受けたりと、兎に角設定が重い。

 ていうか、綾之峰学園のオリ設定と言い、本作の闇は妙に深い。

 

 綾之峰の人間であった為に綾之峰の全てを壊したいと父親の企てに乗ったが、そもそもにして彼のこの思想自体、父親が意図的に誘導した物。

 父の征麻呂にしてみれば、ここで綾之峰の地位を完膚なきまでに失墜させたならば綾之峰を信奉する人間は激減するであろうし、将来的にはお家そのものを潰す為、長期的に考えていたが、まさかの主人公による妨害&ダイナミック拉致によって計画は失敗。

 結果として日本の物理的崩壊にカウントダウン入れた事を考えると、主人公も結構功罪大きいが、関わらなかったら関わらなかったで不幸な人間が続出していたので結果オーライともいえる。

 

 男として生まれた事に悩みつつも、何だかんだで主人公とイチャつくには性別なんぞ無問題と分かった矢先に男である事を利用しつつ迫るので結構強か。

 お悩み相談からベッドインまで務めてくれるとかマジ正妻ポジじゃねえのと疑うレベル。

 

 エピローグでは綾之峰の直系に許される『華』でなく『香』を名乗り、女の子として登場したが、一人称の僕は性別が変わろうと変わらない魂の僕っ子。

 性転換したのは親馬鹿と化した征麻呂が性転換手術させたのか、はたまた生まれた時から女の子だったのかは想像にお任せする。

 どっちにしても、主人公には生涯の親友としてこれからも接していくのだから。

 ……そしてたまに浮気騒動に発展して、主人公がヒロインに怒られるまでがお約束。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 征麻呂(ゆきまろ)

 

 原作におけるお見合い事件の主犯(裏で糸を引いてたのは大刀自)にして本作のラスボス。前世である辻口(つじぐち)基明(もとあき)に関してもこの項で説明する。

 

 原作での変態(ロリコン)&小物ぶりから、本作でも似たようなもんだろうと読者を誤解させることを意図していたが、あんまり小物らしくし過ぎると、後半とのギャップが激しすぎるので、暗躍キャラという形に落ち着いてしまった。

 

 電子会社の社長として辣腕を振るう傍ら、傭兵企業(PMC)を使い世界を股に掛けて悪事を行うアクション映画のラスボスみたいな事を平然と行ったり、綾之峰を潰す為に息子を計画的に虐待したり、女神から情報を仕入れる為に幼女を犠牲にした挙句、私欲とカモフラージュな為に性的な意味で食って殺しちゃったりと、挙げたら挙げた分ドン引き待ったなしのガチ外道。

 PMCの人間から専門の訓練も受けており、本作で巫女らを相手に無双したのも日頃の努力の賜物だが、努力する外道とか性質悪すぎである。

 

 前世は辻口基明として旧日本軍にて参謀本部に勤務し、主人公とも侍従武官時代以前から交友があったエリート少佐。

 愛国心から仕事の関しては非常に精力的である反面、中々家族サービスの出来ない立場だったが、本人は家族を真剣に愛しており、主人公にも家族関係で相談していた。

 

 歴史が改変された為に、陛下の存在どころか本来生存する筈だった家族を失い絶望したが、復讐の引き金になったのは百合華が主人公同様、過去を覚えている事から南方諸島に送った為。

 もし百合華が彼に対して真摯に向き合い、胸襟を開いていれば、忸怩たる思いはあったとしても本作程の行動を取らなかった事を考えると、百合華が受けた暴力は結構順当なものであったかもしれない。

 歴史の改変によって結果的に救われた主人公と対を為すキャラクターであり、結果如何によっては真逆の立ち位置になり得た存在でもある。

 

 エピローグの世界では改変前の歴史の記憶を失ったが、これは主人公に敗北したことを潔く受け止め、家族の為に生きる事を誓ったために女神に認められた為である。

 エピローグに見せた姿こそが本来の意味での彼であり、復讐に囚われなくなった後は、娘の幸せの為に働きつつ、幸せな人生を送るだろう。

 ……たまに娘に近すぎる主人公に当たりながら。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) 百合華(ゆりか)

 

 綾之峰家先々代当主。齢百歳を超えており、原作でも銀香からは妖怪みたいなババアと言われるほど。

 

 本作の黒幕なようで、実際は悲劇のヒロインだった女性。

 綾之峰山の一角にある閉塞的な寒村にて、銀の髪を持って生まれた為に村ぐるみで親を殺され、本人は忌児として閉じ込められていた。

 彼女が殺されなかったのは、殺めれば呪われるのではないかという狂気じみた迷信からであって、決して温情によるものではない。

 誰とも触れ合えず、関わりを持てないまま死の運命を辿る筈だったが、泉の女神によって生存……というより、記憶を持ったまま転生しており、陛下の存在を覚えているのもその為。

 誰とも触れ合えないのであれば、名前だけは永遠であって欲しいという願いから綾之峰家を恒久の物にすべく泉の女神と契約し『鏡』を得たが、主人公が語った通り、その根幹には託された国を護りたいという感情も確かにあった。

 ただし、主人公や辻口だけでなく、多数の人間をその過程で犠牲にしている為、彼女自身いずれは報いを受ける事は理解できていた。

 

 本作の表紙絵として主人公と対をなす形で描いたが、これは別にヒロイン偽装とか読者諸兄に深読みさせたかったとかではなく、過去と今の人間というポジション柄、ダブルヒロインを描くより構図的に美味しかったのと、征麻呂(ラスボス)を描いちゃうと、野郎と中年の組み合わせとか絵的にアレ過ぎんぞという理由からです。

 そして描かれる事のないメインヒロインぇ……。

 

 エピローグの世界では順当に歳を取っただけでなく、主人公の事も覚えているが、これも征麻呂同様女神との契約。

 対価は『人生を賭けて日本と人々の為に尽くす』事であり、彼女はその誓いに相応しく、受け継がれた国の未来を護り続けた。

 

     ◇

 

綾之峰(あやのみね) (りん)

 

 歌凜子の母にして、主人公の前世たる黒瀬正継の妻。

 娘である歌凜子の力は歴代随一と称されたが、これは凛の力が弱いのではなく、代を重ねるごとに継承される力が多くなるため、必然的に後継が歴代最強になるという仕組み。

 

 歴史が改変される前の姓は那須であり、そのルーツは源氏のゴルゴ13こと那須家。

 実は弓の腕も一人前だが、それ以上に男を射止める腕も百発百中。

 主人公とはかなり年が離れており、見合いがあった時点で一周り以上の差もあった為、いくら主人公が出世頭だからと言って無理に嫁がなくてもと周囲に言われていたが、見合いの際にアレコレ気遣ってくれる主人公に逆にハートを射止められて婚姻。

 主人公も一目惚れしてたので、実質恋愛婚みたいなもんである。

 

(当時の人間にしては)なんて一途で紳士的な方! とメロメロになってた新婚生活の矢先、主人公の過去の不純が発覚して懐刀を手に無理心中かましてやろうかという残念過ぎる過去が有ったりする。

 結婚してからの主人公は一途かつ真面目な旦那としてクラスチェンジしたために最悪の事態は回避できたが、その恨みは死ぬまで忘れなかった所にヤンデレの資質を感じる。

 

 本作の女性の中でもトップクラスのスタイルで、巫女大将とジーヤが二位、三位争いをする中で僅かに一歩出ての一位である。主人公もげろ。比喩とかじゃなくてガチでもげろ。

 

 実は早めにお亡くなりさせてパールの彼女として復活させようかと思っていたが、例によってカット祭りな本作のスタイルの憂き目にあい、敢え無くご退場となった。

 

     ◇

 

泉の女神

 

 皇紀元年より古くから湧くという泉に祀られる(ここはオリ設定です)、由緒正しい女神さま。

 原作のメインヒロイン二名を用意してくれた素晴らしい女神さま。

 だけど本作では結構やってる事のえげつ無さが際立つ女神さま。

 原作での谷間が実に美しい女神さ…おや? 誰か来たようだ。

 

 対価と引き換えに願いを叶えるのは『XXXHOLiC』の侑子さん形式だが、その内部に自分の寿命を延ばすという究極の漁夫の利スタイルが隠されている事は本作で語った通りである。

 

 元は国の安寧(自然災害の類)の為に自ら人身御供となる事を選んだ巫女であり、泉というより綾之峰山全体に祀られた祭神。祀られた直後は多大な力を有していたが、一度目の歴史改変を行う前までは、信仰が廃れた為に力の大半を失っていた。

 泉が枯れると同時に死する運命を変えたいと願い、歴史改変の為に陛下を誘導した事から、日本国の救い手であると同時に、ある意味黒幕とも言える存在。

 歴史の改変と共に綾之峰家のバックアップによって信仰を集め、綾之峰山一帯どころか都市全域にまで根を張っている為、まず死ぬ事はなくなったが『鏡』の呪詛は綾之峰の恩恵を受けた対象が強ければ強いほど発動する為、厄災に巻き込まれていずれは女神も亡んだ可能性が高い。

 

 エピローグではいつか死ぬしそれで良いと語ったが、何だかんだで長く生きるのは間違いない。将来的には学園に通う、ある日突然泉に落っこちた男子生徒とかと恋仲になったりして清く正しいラブコメディとか送ったり送らなかったりしそう。

 

     ◇

 

ジーヤ・芹沢(せりざわ)・マクミラン

 

 英里華の教育係にして専属執事。年齢不詳だけどピッチピチで、語尾が長州弁チックな英国ハーフ。

 多分語尾に関しては親が長州人だったか、軍人さんだったかに違いない。でも妹は喋り方が普通だから、本人の趣味とかキャラ付けの可能性もある。

 本作各話の語尾に『~であります』と付いているのは、作者にタイトルセンスがない為、リリカルなのは(無印)のタイトルコールっぽく語尾に付けたら誤魔化しが利くだろうという超安直な考えのもとに生まれてしまったが、タイトルと中身がどう考えても合っていない。タイトル詐欺とかそんなレベルじゃないぐらい合っていない。

 

 教育係として安田家に銀香共々居候してくれたり、軍隊仕込みで何でも可能なチートスペック故に、本作ではぶっちぎりのMVPを飾ってくれた(作者にとっても)万能お助けキャラ。 

 蛇足だが、天鏡島の襲撃時に主人公が大人なキスを断ったのは彼女が守備範囲外でバッターボックスにも立てねーよ年増、とかいう理由ではなく、つい先程まで浮気とかしないって誓った矢先であった事は作中で語った通りだが、そこまでされたら抑えが利かなくなってガッツリ食べちゃいそうだったからというのもあったりする。

 

 主人公にしてみたらマジで神ゾーンレベルだったので、決して彼女に魅力が無い訳では無いのです。遠慮しときますって言った時の三点リーダーは、主人公の欲望と理性の葛藤の狭間だったりするのさ。

 ヒロインにしなかったのも、頼れるお姉さんのポジションが便利過ぎたからだしね!

 

     ◇

 

バヤリー・芹沢(せりざわ)・マクミラン

 

 原作での英里華の親衛隊隊長にして、同級生。本作メインヒロインの片割れ。

 本作では親衛隊という役職を通称とした上で、侍従という役職を正式なものとして変更した訳ですが、これは親衛隊という呼称が、どうにも本作の雰囲気には合わないのと、ちょっとステレオタイプ過ぎないかな? という作者の疑問というか我が儘による物です。

 後はまぁ、親衛隊って言うんだから他の隊員にも見せ場用意しないとなー。けど、尺を使っちゃうんだよなーという理由で改称したのもあります。

 

 銀香が物語にある日突然訪れる非日常ヒロインだとするならば、彼女は昔から付き添ってくれる幼馴染系日常ヒロインのポジション。

 銀香と違い特別なイベントがある訳でも無ければ、征綺華のようにぐいぐい押しもしない。ただ主人公を傍で見て「あの時の私もきっと今と同じような気持ちにだったんだろうなー」と。ある日再会した男の子と過ごす中で恋心とか抱いちゃう乙女系女子を狙ってみたのですが、どうだったでしょうか?

 スペックが高いにも拘らず、本作では常に有事の際に置いて行かれたのは、姉であるジーヤが強すぎるという以上に、あくまで日常系ヒロインとしてのポジションを貫きたかったというのがあります。

 物語にドラマはつきものだけど、ドラマがなくたって恋愛は成立しちゃうものなんだぜ旦那! ってな感じで。

 

 物語終盤で彼女と銀香のどちらを選んだのかはっきりさせなかった事にご不満がある読者も居られると思われますが、どちらを選ぶかは完全に読者に任せる、というスタイルも実験としてやりたかった部分があるので、ご了承頂ければ幸いです。

 

 日常系幼馴染と、非日常系ヒロイン、どちらを選んだとしても、主人公は生涯を賭けて幸せにするでしょうし、報われなかった方も、思い出を大切にしながら新しい恋をして幸せに生きて行くでしょう。 

 

     ◇

 

巫女大将

 

 原作では奥屋敷の警護を勤める近衛巫女さんと一緒に登場。

 原作では奥屋敷にて警護に当たっているのだが、本作での巫女大将は歌凛子の補佐兼天鏡島のNo.2として出演させて頂いた。

 

 天鏡島において歌凜子の補佐をしつつ、有事の際には前線に赴く切り込み隊長な巫女さん。巫女さんってなんだ……?(混乱)

 本来であれば未来視の能力がメインな巫女たちの中で、相手を読む読心に長けた特殊なタイプだが、そうした能力も含めて、歌凜子の護衛として側に侍るには申し分ない人物だったといえる。

 本作では巫女さんが完全武装して八面六臂の大活躍だったわけだが、別にこれ、本作オリジナルという訳でなく原作でも軍事訓練を行っていた描写があったので、戦いの舞台にするには都合がいいな~という理由で、終盤の大事件と相成りました。

 もしあのワンシーンが無かったら、戦いの舞台は奥屋敷で、物語は十八話ぐらいまで短縮してたかと思われます。はい。

 

 一度目の歴史改変以前では売春婦として主人公と一夜を共にした訳ですが、今にして思えば歩き巫女とかにしても良かったかもしれない。

 そんで主人公が「今日お金持ってないんだけど」とか寄ってきた巫女大将に話しかけて半殺しにされたりする展開とか、どうだろうか? まぁ、確実に凛に殺されただろうけど。

 主人公はマグロじゃねーかと言ってたけど、それに関してはご想像にお任せします。

 

 あ。エピローグ後の彼女は凛に占われた時と違って、ちゃんと若くして結婚しています。

 

     ◇

 

安田(やすだ) 峰子(みねこ)

 

 主人公の母にして万里華の同級生。

 綾之峰のOGだが、元お嬢様というのは本作のオリ設定。ただ、原作での綾之峰学園は二〇一四時点で近年共学になったという説明があるので、お嬢だった可能性も否定できない。

 単に女子高時代から普通科と特別科に分けられていた可能性もあるが。

 

 旦那とは家出中にキズモノになっちゃった~という形で実家を誤魔化したが、実のところヤる事はガッツリやってた模様。

 その辺のエロ談義は隅に置いとくとして、高校卒業後に実家を離れてとっとと結婚。元々成績優秀でバイリンガルだった事から、専業主婦にはならず外資系の大手にとっとと入社。旦那より手堅く稼いでいた辺り、一家の大黒柱は実質彼女だったといえる。

 勿論、旦那は旦那で彼女の脛を齧って大学に行くなんてことが出来る筈も無く、高校卒業と同時に就職してちゃんと出世街道を邁進しているが、その分家庭が疎かになりがち。

 

 子供である姉と弟は七歳差(原作通り)であり、ある程度姉がしっかりするまでは海外視察等は極力しない方針だったのだが、弟の中身が親より年上とかいう訳判らん内情を抱えており、結果として物心ついた時には姉以上のしっかり者だった為に、そこに甘えた結果が本作で語った通り、親子の溝を構築する結果になってしまった。

 とはいえ、仮にちゃんと親子として生活していたとしても、主人公が事情を語れる筈も無いので、どの道溝が出来ていた可能性は高い。

 

 実年齢を計算するに、どう少なく見積もっても四十代である事は確実なのだが、原作での外見はどっからどう見ても二十代。

 主人公にしてみたら、余裕でストライクゾーンな女性が母親だった訳で、そりゃあ息子として接するには無理がある。

 

 本作での万里華との電話で、万里華になら息子を再婚相手にしても良いといったのは半分冗談で半分本気。

 常日頃から見ている母親にしてみたら、心の距離を隔てていても息子のストライクゾーンの把握なんぞ造作も無く、まぁ、あの息子なら余裕で付き合えるでしょうし恋愛も無理だし良いんじゃない? といった感じで話していた。

 実際、主人公の好みのトップ3をフラグとか立場抜きに並べるなら。

 一位:凛

 二位:万里華

 三位:ジーヤ&峰子(同率タイ)

 だったりする。メインヒロインが上位三名に入ってないってのはどういうことなんですかね?

 

 エピローグではちゃんと息子が息子してくれているので、明るく楽しく健全な親子関係を築けている。ただ、若干息子がマザコン気味なのを気にかけてもいるが。

 

     ◇

 

安田(やすだ) 登郎(のぼろう)

 

 綾之峰学園普通科一年生。特技はロッククライミングで高い所が大好き!

 健全な男子高校生らしいエロガッパで、小さい頃のあだ名はセクハラ王子さ!

 ……というのは、あくまで原作主人公の設定だから、別にエロガッパでもセクハラ王子でも無い。

 しかし、健全な少年誌の伝統たる由緒正しき寸止めの掟を何食わぬ顔でブチ破る点を考えれば、本作の主人公の方が遙かに危険でヤバい。R-18に移行させられるレベルでヤバい。

 そんなどうしようもない本作の主人公を、ここから語らせて頂く。

 

 綾之峰学園が共学制に移行するに当たり、俊英の中で限られた一握りの男子が手にする推薦枠を勝ち取り、五教科に限っては英里華さえ抜いてトップに躍り出た、飛ぶ鳥落とす期待の新星。

 両親の勧めによる武道と生来のスパルタ気質によって肉体的にも魔改造されており、何だこの野郎チートでも使ってんのかと理不尽なスペックに周囲は憤りを隠せないが、あながち間違ってもいない。

 

 その正体は、かつて大日本帝国にてエリート街道を邁進していた旧日本陸軍大佐であり、一度目の歴史改変が行われた綾之峰家の治世において、対米戦で南方諸島に散った黒瀬正継その人。

 

 改変前の歴史においては日露戦争にも従軍しており、その経歴を語るならば。

 陸大卒(恩賜組)→日露従軍→海外留学→駐在武官任官→WW1従軍→侍従武官任官→近衛師団配属(侍従と兼任)

 と、正に絵に描いたようなエリートだが、藩閥(薩摩・長州出)でない為、藩閥の恩賜組と比べると若干出世が遅かったりする。

 ただし、藩閥でないという事は純粋に優秀だったという事の証左でもあり、部下や上官からの信頼は厚かった。

 事実将官コースは確実であり、年齢を考えれば(主人公の年齢は逆算すれば四十後半から五十前半)、後僅かな期間で少将になることは確約されていた。

 

 一度目の歴史改変によってWW2を経験していない訳だが、仮に彼が従軍していたとしたら、将官として何処かの戦場で散ったか、或いは終戦時に自決していた事は確実である為、妻子だけでなく彼自身も歴史改変によって救われた人間であるといえる。

 

 元は家庭を持つことに消極的だったのだが、妻に内心一目ぼれして家庭を持ってからはマイホームパパにクラスチェンジ。

 これまでの駄目さ加減なぞ無かったかのように完璧な夫兼父として妻子に尽くし、激務に追われながらも暇を見つけては娘と遊びつつ、妻に教育を任せっきりにしたりせず英才教育を手取り足取り施したり。

 妻には仕事で帰れない日が続けば見ていて恥ずかしくなるレベルのラブレターを綴ったり(この辺は海外留学時に外国人の手管から学んだ)と、兎に角明治生まれの男とは思えない献身ぶりには、妻子共々メロメロだった模様。

 

 博打を嫌い、夜遊びを好まず、酒も付き合いと祝い事だけ。喫煙はしてもヘビースモーカーというほどでなく、止めようと思えば何時でも止められる程度。

 正に完璧っぽい真面目人間に見えるが、やはり天は二物を与えずという事か、長所を打ち消すレベルのダメさも抱えており、それこそ本作で語り切った女関係のだらしなさに集約される。

 若気の至りと言えば可愛いものだが、据え膳されたら即座に平らげてしまう様は、正に草食系などという言葉のない時代の人間らしいダメさ加減であり、同性だろうが容赦なく食える辺り手に負えないレベルの雑食ぶりである。

 無論、家庭を持ってから不純は一切なく、妻にもしっかり土下座対応したものの、それでダメさ加減が消えた訳ではないのは転生後の素行からお分かり頂けると思う。

 

 性格に関しては平時は重厚温和で敬語を使い、分け隔てなく接するが、部下や同僚・妻子には敬語を使わない。

 これは彼にとって横柄に扱っても良い相手として見ている訳では無く、むしろ命を預かる相手や大切な人間だからこそという彼なりの信頼だったりするのだが、本人がそれを語る事は決してない。

 

 蛇足になるが、征麻呂に貴様呼びしていたのは別に嫌っていたからという訳ではなく、当時の方々は軽い感じで貴様という呼称を使っていたから。

 どんなに憎かろうと嫌っていようと、決して怒鳴ったりしなければ呪詛の言葉を吐く事も無いが、本当に大事な人間が間違っていると感じたら本気で怒る。つまり彼にとって征麻呂改め辻口は、そういう人間だった。

 

 一方で、有事の際や人命の関わる場面においては非常に冷徹な対応を取り、助けられないか、事態を悪転させる状況に陥る可能性があれば、即座に命を天秤に乗せて状況如何で切り捨ててしまうが、これは将校として命を預かる立場であった所に起因する為、根っからの冷血漢という訳では無い。

 

 安田登郎として転生した後は周囲の人間との隔たりを感じていたが、前世で母を泣かせてしまった事を悔いており、その反動から母親の為に料理を覚えたりと、何だかんだで真面目に充実した日々を送っていた。

 仮に綾之峰学園に通わなかった場合は間違いなく工科学校からの防衛大学という進路になった筈だが、当人が通わなくなりそうだったら歌凛子があれこれ工作した可能性があるので、そうなる可能性は低いと思われる。

 

 エピローグ終了後、過去の記憶を取り戻してからは黒瀬と安田の人格・知識を両立した状態で有しており、口調こそざっくばらんで一人称も俺のままだが、成績や知識量が爆上がりした半チートの様相を呈している。

 急激に上がった成績等は、カンニングではなく間違いなく入学式早々出来た彼女の影響だろうと男子に血涙を流されながら恨みを買っているとか居ないとか。

 

     ◇

 

猟犬

 

 征麻呂が経営する電子企業の専属警備として買収された民間軍事会社(PMC)の社長。

 会社自体は本来数多い零細企業の一つに過ぎなかったが、征麻呂が買収してからというもの、各国からこれはという選りすぐりが大多数を占め、そのシェアは汚れ仕事も含めれば最大手(G4S)さえ凌ぐほど。

 

 ナム帰りという経歴から結構な老齢。それでも買収直後に征麻呂が実行した大規模な人員の入れ替えの際でも外される事も無く社長の椅子に座り続けた事から、実力はかなりの物で、あのジーヤを押し留めていた所からもその技量が伺える。

 

 親族を黒瀬に殺されていた事から、決着を主人公と着けるのかなーと思われたでしょうが、そこは単に戦争&人殺し大好きなマジキチ野郎をアピールするのと、用意した死に方に合わせるためというだけの事でした。

 

 いわゆる中ボスにして、最終ステージに移行するためのイベントキャラ。

 始めから死亡する事が前提であったし、島の巫女さんとかも殺さなくちゃならないんだから良い奴にする必要は皆無だわなと外道キャラ一直線になりました。

 今にして思うと、もうちっと死に方は惨くても良かったと思うキャラです。

 

 



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