キタカミベイベー (SPAM)
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キル1

キルミーベイベー復活記念です。
艦これSSでやる理由については、今は深く聞かないで下さい。
どうぞ宜しく。


 私は、その時のことをはっきりと覚えている。

 稲妻に打たれるとは、即ちこのことだと。

 

 体の震え、心のゆらめき、魂の鼓動、あの光景を思い出すだけで、今でも思い返すことが出来る。それどころか、思い出しただけであの時の感覚が蘇る。それほどに鮮烈だった。

 

 誰に言っても納得しないだろうけれど、彼女と私が”誰と誰”だと聞けば、そこに一定の理解は得られる。けれど、私にとっては理解なんて出来なかった。人が恋に落ちる瞬間、そんなもの、誰にも理解できない。あの瞬間、彼女が私の全てになったのだ。常人にとっては理解しがたい―――――狂気に包まれたのだ。私の全てが彼女のもの。神を愛するように、あの人を愛してしまった。感情で盲た私の瞳に、映るのはただ、彼女だけ。私の感覚のピント全てが彼女に定まり、他はぼかした色合いに変わる。彼女だけがフルカラーで、他は全てモノトーンの背景へと堕した。

 

 あの人しか見えない。私は、積み重ねた私全てが崩れ落ちるのが分かった。そして残ったのは、あの人への思いだけ。最早、私は私では無くなってしまった。私は彼女なしでは居られなくなった。だって、私の全ては、あの人を好きだという、そのことだけで一杯になったのだから。あの人を欠いた私は、すぐに屍のような心になってしまうだろう。核を失った星、骨を失った生物、言葉を失った人間、それが”それ”である全てを失って、何が残るというのか?何になるというのか?

 

 骨抜きになり、人格は壊れ、口は一つの言葉だけを紡ぎ出す。

 

 私は、千鳥足で三歩を踏むと、四歩目では走り出して、そして、

 

「き――――――――」

 

 彼女の、

 

「た――――――――」

 

 名前を、

 

「か――――――――」

 

 呼んで、

 

「み――――――――」

 

 それが、全てになった。

 

「さぁ――――――――ん!」

 

 だと言うのに、彼女は、

 

「ウザい」

 

 私のダイブをひらりと躱した挙句、

 

「あと、うるさい」

「へぶぅっ!?」

 

 地面にビタンと落ちた私の首筋に、無慈悲に踵落としを叩き込んだ。

 幸せ。

 

 

 ●

 

 ことが起こったのは廊下だった。日本における学校の校舎のような、義務教育を受けた・あるいは受けている人間にとって見飽きられた形式の建築物だった。

 床は薄緑のリノリウム、外側の窓枠は褪せた銀色のステンレス、そして廊下と部屋を区切る壁もステンレス。そこに嵌っている窓は磨りガラス。ステレオタイプを体現したように、そこは学校の要素で埋まっていた。しかし、名前は違う。

 

 ここは呉鎮守府。

 組織変更により”軍”という名を取り戻した、日本の持つ軍事組織、その中の海軍が保有する施設である。

 本来、”鎮守府”という名前を持つ施設ならばそこに詰めているのは海軍軍人、その中でも士官・下士官らのはずだが、

 

「北上さん……しゅき……あいしてりゅ……」

 

 居るのは大多数がこのように、少女か妙齢の女性と呼べる人間だ。

 倒れ伏した彼女はその妙齢の方の1人であり、そして彼女の首筋に踵を添えているのも、

 

「しぶといし、うるさいな……」

 

 こちらも女性。長い髪を三つ編みにし、ベージュ色のセーラー服に身を包んだ痩身の女だ。

 その女は地べたに貼り付いている女性から足を退けつつ、顎を右手で擦り、思案する。

 そしてその行為が一頻り続くと、唐突に口を開く。声色は驚きというより、セレンディピティを含んだそれであり、

 

「……ああ、大井。そっか、大井っち、ってやつか。ふーん。そういうもんなんだね」

 

 言葉が尻に向かうにつれて、彼女の関心のグラフは減衰の一途を辿っていく。トーンもついでに下がっていった。

 

 人間というものは、初対面の他人に対しては須らく関心を持つとしても、ただ一度の邂逅である限り、基本的にそれは急速に弱っていく。それは記憶と忘却の対なる現象を図示化したものと同じことであり、この出会いもそのご多分には漏れないはずだった。

 

 しかし、

 

「これが”大井”かー。……なかなか、インパクト、あるよねぇ」

 

 北上と呼ばれた女は、地面の彼女を深く記憶した。関心はともかくとして。

 当然のことだ。人と人の出会いというものはインパクトのない、つまり特別性のないイベントが大多数である。しかし、先程の彼女らのファースト・コンタクトはそのご多分から漏れた1つだった。北上は床を、そしてそこに這いつくばる大井という女を見つめ、軽く嘆息。

 

「これ、面倒だな」

 

 これ、という言葉は、彼女が何を指しているかは不明瞭だ。しかし抽象化された故に、その”これ”という言葉は多くの意味を持って響いた。

 ”大井という女”をして”これ”なのか、それともこの”出会いというイベント”を”これ”と呼んだのか、はたまたその両方とも言える”大井と自分のこれから”を称して”これ”なのか。

 

 ともかく、北上はこの出会いに関して肯定的な印象は一切持っていなかった。その対照となる大井はと言うと、

 

「ぷへぇ……」

 

 恍惚の表情を浮かべて床面に頬ずりする始末である。こちらはこの出会いに途轍もなく重大な意味を見出し、その突沸的な激情に身を任せた次第だ。

 

「キモい……」

 

 見下ろす北上の視線に、ついに蔑みすらも混じり始めた頃、テンポの速い足音がフェードインするように聞こえ始める。それを出しているモーションを推測するならば、小走りだろう。音は二種類。体重の軽い人間が出す足音と、それに比較して重い人間が出す足音。

 

 そして、それが北上の耳に付くようになると、

 

「……ああ、やっぱりだ!加賀さん、大井さんをちょっと介抱してあげて下さい……!」

「ええ、予想通りと言うか、いえ……少し予想外かもしれないわ。ともかく、大井は任せて」

 

 2人の男女の声がし始めた。片方、男は狼狽を露わにしており、もう片方、女は疑問符をそこに混ぜつつも冷静に状況を把握し対応の構えを見せる。

 

「ん……ああ、提督と加賀さんじゃん」

 

 音の方向に北上が振り向く。その目が捉えたのは2人の人。

 片方が先の男の声の主、白い詰襟を着た長身痩躯の男。髪は短く切り揃えられており、神経質なまでに整えられていた。頬は少しばかり痩けており、軟弱さが見受けられる風体だ。

 

 もう片方は、白い道着に弓術用の胸当てを重ね、スカート風の短い青袴を履いた女性。髪は左側頭部で1つに結わえられており、走る今は馬の尾のように揺れている。顔立ちは少し怜悧に過ぎるきらいがあるものの極めて整っており、控えめに言っても美女の二文字が相応しい女だ。可愛げ、表情豊かさ、愛嬌というものには欠けているが、それを補って余りある美しさだ。

 性別に反して2人の背の頃は殆ど変わりなく、中背の男性と長身の女性の取り合わせだった。

 

「はぁ、はぁ……北上君……いきなり暴力沙汰はマズいよ!?」

 

 詰襟の男性は息を乱しつつ目の前の状況に指を指し、左膝に左手を付きながら言う。どれだけを走ったかはともかく、彼の身体能力が低いことは見え見えだった。その様子に北上は、

 

「もう少し体力つけたらいいんじゃないかな、提督。もっと食べるとかさ」

「ぼ、僕は君達みたいに食べられないんだよ!というか、結構提督業ってストレス溜まるから胃が……う、あいててて……脇腹も……」

「――――――――は?」

 

 提督と呼ばれた男性は胃と脇腹の痛みを訴えながら自身の少食さを弁明したが、その言葉に聞き捨てならないものを感じたのか、加賀という女性は右に振り返る。肩を掠める程の距離に居た北上は、彼女の翻った髪に顔を打たれそうになるも、

 

「おっと」

 

 器用に身を右後ろ斜めに反らして回避。堂に入ったスウェーバックだ。

 一方、加賀は少しの無言の間を置き、そして口を開く。トーンは押し殺したような低さで、

 

「……提督。貴方は、私が大食いで、食い意地の張った、食いしん坊の、常時腹ペコで高燃費の、現役引退後も焼肉生活が止められずズブズブに太って果てには糖尿病になる野球選手のような女、と仰いましたか?」

「加賀さん!加賀さん!想像力が旺盛すぎるのは良くないと思いますけれど!?」

「頭にきました。―――――そろそろ鎮守府外周走り込みデートを提案するわ。どうかしら?……ねぇ」

「おお、怖い」

 

 美貌というものは、視線の威力を常人に数倍するものまで押し上げる。

 加賀の隣でこの、夫婦漫才のような光景を眺めつつ、北上はそのようなことを考えた。他人事である。事実、夫婦漫才と言えるだけあってこの空気は2人以外の余人を寄せ付けないのだから。

 息を尚も切らせて、提督は俯きながら、

 

「う、嬉しいけど四半周くらいで勘弁してくれないかな、うん!?」

 

 苦笑とともに顔を上げた彼の表情に、加賀は満足したらしい。

 

「良いわ。間を取って半周くらいにしましょう、提督」

「うん、うん!それはいいから大井さんをちょっと、ね!」

「楽しみにしているわ」

 

 愛する提督との会話を一頻り楽しんだ加賀は次にしゃがみ込み、地面の大井に呼びかける。

 

「大井?起きなさい」

「きぃたぁかぁみぃさぁーん……って、あれ!?」

 

 突然腕に力を入れ、身を起こす大井。北上は肩越しに後ろの大井を見下ろしていたが、それを見て肩が一度跳ねた。一方の加賀は大井が起きたことに満足して、ほう、と息を吐く。そして、

 

「元気そうでなによりだけれど。……さて、着任早々、やってくれたわね」

「え、あの、何を?」

 

 無表情で見つめられていることに困惑している大井は、本当に一体何が起きているのだ、と行った体で受け答え。問い掛けた加賀は彼女の様子に対して、呆れた、と前置き、

 

「自分の胸に聞いても分からないようなら、私が詳らかに推測を述べて差し上げるけれど?」

「えっと……どうぞ」

 

 大井が困惑の声色で、加賀に話を促す。それに頷き、加賀は表情を変えずに言葉を放った。

 

「”搬入”、その後提督への挨拶を済ませて、廊下に出た貴女は通りがかった北上を発見した。それに.01秒で発情した貴女は彼女へダイブ。それを北上は躱して貴女を取り押さえた。これで合っているはずよ。北上?」

「え、そんな、私が?まさかぁ……」

「あー、うん、それで大正解。ぱっぱらぱー」

 

 否定する大井に対し、それが正答であると北上。

 

「大井……ああいや、大井っち。……うん、この方が口に馴染むね、なんか。―――――とりあえず、大井っち。首筋触ってみ?」

 

 北上の声に反応し、大井は瞬時に正座となり、北上を見上げる。その目は爛々と輝き、いやむしろ煌々とした光を灯している。それを眼下に認めた北上はそれに辟易しつつも、

 

「良いから、触ってみ」

「はぁい北上さぁん……!」

 

 それに従い、大井は右手を首の後ろに回し、北上の蹴り痕である痣に触れる。だが、

 

「……ああ!これこそは……私に刻まれた、甘美な痛み……!ああ、北上さん北上さ――――――」

「やっぱウザい」

 

 目を細めてマタタビを嗅いだ猫のように体をくねらせる大井、その左こめかみ目掛け、北上はローキックをぶち込んだ。

 かくして状況は振り出しに戻る。大井は再び地に伏したのであった。

 

 その一部始終を見ていることしか出来なかった、提督・加賀の2人は、

 

「……コレ、どこからやり直しなんですかね」

「執務室から走って来るところからよ。さぁ、もう一度」

「どうしてそこまで天丼にしたいんですか!?」

「大丈夫よ、帰りは歩いていいから」

「その有情さを他の所で活かしてくれはしませんか……?」

 

 北上の目から見て、それはやはり見事な夫婦漫才だった。

 事実、彼と彼女は恋人関係にある。ただ、お似合いかどうかと言われると疑問符は隠せない。

 あまりに虚弱な男性と、鍛え上げられた女性だ。傍目に見れば、どちらがヒロインか分かったものではない。尻に敷かれすぎの彼は、見ていて哀れみを、そして寧ろ心の和みを誘う。ほのぼのとした雰囲気で、しかしとぼとぼとした足取りで彼は執務室へと帰っていく。その三歩後ろを加賀が歩く。……足の長さが違うせいで、足音の回数が違う。明確に、加賀のほうが少ない歩数で彼と同じ速度で歩いている。そこにおかしみを感じたのか、北上は笑いを堪えようとして、代わりに鼻が鳴った。

 

 本当にやり直すつもりなんだろうか、と疑問になったが、それはさておき、と大井を起こさなければと思い至った。そこで、

 

「大井っち、起きろー」

 頬を右足、靴のつま先でつつく。するとたちまち大井は意識を目覚めさせ、

 

「北上さぁん!」

「うわぁっ!?」

 

 突如、その蹴り足に両腕を絡めて固くホールド。いよいよもって堪忍袋の緒が切れた北上はついに、

 

「くた――――――」

 

 力ずくで右足を振り上げ、大井を足ごと浮き上がらせると、

 

「――――――――ばれ!」

 

 勢い良く振り下ろし、大井を再びリノリウムの床に沈めてやった。

 そこで今度は完全にノックアウトされたのか、彼女の体からは力が抜け、北上の右足へのホールドも完全に解けた。

 

 大きくため息する北上。視線はどこか宙を向いていて、虚ろになっていた。

 誰も居なくなった廊下で、1つの言葉だけが響く。それは、

 

「全く、本当に面倒だ。これ」

 

 その言葉の意味は、全てが正しかった。

 



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キル2

2017/11/25
ちょっと修正しました。
一文字程度しか変わってませんが、意味合いは結構変わっておりますので注意願います。


 

 それからの大井は、航行練習という名目で呉鎮守府近海を掃海する任務に就くことになった。だが呉が面する瀬戸内海は平定されて久しい。強敵が居ない反面、教練に適した敵艦も極めて少なかった。その為、彼女は2週間ほど軽い任務に従事した後、一時的に佐世保鎮守府へと移籍。本格的な研修として、九州近海での掃海に励むこととなった。

 

 佐世保は呉と同様に大規模な基地だった。そしてやはり、同じような理由で移籍してきた艦娘が2人居た。そのいずれもが呉からの研修組であり、大井もその中に混じって実地研修を受けることとなった。呉の艦娘は随時着任し、そして随時研修を終えて呉へと戻る。それから彼女らはまず遠征部隊、つまりは海上護衛艦隊へと組み込まれ、遠方へ飛び回る生活に身を投じることとなる。

 

 ただしそれは駆逐艦、あるいは比較的低燃費の軽巡洋艦に期待されるルートであり、大井のような、いずれ雷装特化艦となる未来が約束されている場合は話が違った。重巡洋艦以上のクラスとなれば言わずもがなだ。その高い火力を活かすため、主力へと即時に組み込まれるのだ。よってそれに堪えうる練度を得るため、大井への教育は苛烈を極めるものとなる。

 

 そのはずだった。

 

 ●

 

 大井の教育のため充てがわれたのは、夕張という艦娘だった。薄緑の髪をポニーテールに結い上げた麗しい女だ。

 彼女は装備可能な武装の多さからマルチロールであり、雷撃戦・砲戦・対潜戦、全てをそつなくこなす熟練の戦士だった。ただし、その重装備の代償として軽巡にしては鈍足であり、取れる戦闘方法の全てが“それなり”の域を出ない。

 鈍足で器用貧乏、それが“普段”の彼女に付けられた評価だった。

 無論、特化した装備を行えば彼女はその役割に対して更に良い働きをする。それでも雷撃戦に関しては他の軽巡の後塵を拝しはするが、そこまで速度の求められない対潜戦ともなれば、彼女は軽巡の中でもとりわけ良く戦果を挙げていた。

 

 そんな彼女が大井とバディを組むのは当然のことだった。”まさか”の時、あらゆる状況に対して柔軟に”それなり”の対応が取れるからだ。そして、鈍足故にシンガリを務めて後輩を守る役になっても、彼女は熟練の艦娘だ、確実に生き残り帰って来られる。師匠役としては申し分が無かった。加えて、彼女は稀代の人タラシとも呼ばれていた。面倒見の良さから後輩らによく慕われ、勇敢さから同輩らにも一目置かれていたことからもよく分かることだ。

 

 だから、彼女は艦娘を育てることに関してたいへん重宝がられていたのである。普通の艦娘に対してであれば、彼女は研修の初期にしか立ち会わない。何故なら次に入ってくる艦娘の研修、その初期段階に立ち会うからだ。次々と取っ替え引っ替えの要領で、彼女は新しい艦娘に充てがわれる。そんな人気者の彼女が大井の研修の全期間に渡って教練を担当するともなれば、向けられた期待の大きさも測り知れるというもの。事実、大井はキツい扱きを受ける予定となっていた。それをカバーするのが夕張の人徳である。これで大井の心を折れないように支え続けるのだ。スパルタでありながらも決して無慈悲ではない、そんな絶妙の教練を行えるのは、夕張にしか出来ない芸当だ。それを裏打ちする実績も有る。幾人もの艦娘が彼女の薫陶を受け、そしてその殆どが生き残り、未だに彼女を”良き姉”として慕い続けているのだから。

 

 そして大井もまた、その幸せな後輩の1人になる。

 そのはずだったのだが。

 

 

 ●

 

 

 彼女らの最初の任務は潜水艦狩りだった。

 夕張にとって最も得意とする任務であり、大井はまだ不慣れな分野である。尤も、大井が期待されているのは雷撃能力であり、対潜能力は特に要求されているわけではない。であるからして、今回の実地研修は基本的なところを押さえるという程度に済まされる。訓練プログラムの中にはこの形式の任務を3回程度こなす、ということが含まれていた。そしてこれがその1回目である。

 

 朝9時頃、社会にとっては出社時間からしばらく頃のことだった。

 埠頭を降り、濁って光のない海面に立ち、航行開始。しかし、2人の顔は浮かないものだ。そして、その理由は2人の間で異なっていた。

 

「北上さん……ああ、北上さん……北上さん……」

「その、芭蕉の真似か知らないけれど、ものっすごく気が滅入るトーンでやるのは止めてくれないかしら……」

 

 このざまである。

 大井は北上大欠乏症に陥り、夕張はその煽りを受け、呆れと諦観で調子の出しようがない。こうなっては夕張のお得意、愛に満ちたスパルタ教育も始まりようがなかった。

 

「これ、どうしたらいいのかしら……」

 

 まずは、大井を仕事に集中させる方法を探さなければ。

 夕張の艦娘教育は、まずそこを乗り越えてから始まるものとなっていた。

 

 

 ●

 

 

 大井のこの様子は今に始まったものではない。佐世保に来る前、呉に居た頃からそうだったのだ。新人もいいところの大井は、最精鋭とも言える北上と組むことは出来なかった。当然のことだ。しかし、それに大井はひどく苦しんでいた。

 

 

 話は過去に返る。

 艦娘軍とも言える海軍の一部門、その黎明期にあったこと。

 艦娘に関して大した理解もなかった提督の1人は、比較的練度の高い艦娘の露払い、もとい”雨除け”に新人艦娘を数人付け、そしてそのいずれもを死なせたことがあった。無論、到底許されない用兵である。そもそも艦娘には莫大なカネが注ぎ込まれている。しかも大事な軍の”資産”、”備品”だ。それを提督という立場に飽かせ、好き勝手に扱ったなどというのは軍に対する明らかな背任である。すぐに懲戒免職処分となり、今は人格に問題のない青年が提督の座に就いている。

 それが呉鎮守府のことだ。

 

 そして、よりによって大井はその話を引き合いに出し、自分が北上の”雨除け”になる、と言い出したのだ。これには提督もひどく憤激し、そして勢い良く立ち上がったせいで持病の貧血に倒れた。それを引き継ぎ、秘書官である加賀は、北上と大井の目の前でこのようなことを告げた。

 

「北上、大井。貴女達……いえ、大井。貴女には”北上禁止令”を発令します。北上はそれに協力するため、接触を徹底的に避けなさい」

「ほーい」

「へ……ほあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 別段気にする様子もなく受け入れた北上に対して、大井は顎をガコンと落とすとそのまま絶叫し、直立のまま真後ろに倒れていった。その後は痙攣、泡を吹く、戦慄などの数々の症状を起こし、ついには医務室に文字通り引き摺られていき、ベッドの上で数時間ほったらかされた。

 

 この対処の効果は覿面であり、大井の人格を”ロールバック”させることに成功した。要は”北上と出会う前の大井”にまで性格・思考を戻したのだ。これにより”北上さん分”なるゲージが概念ごと消滅し、大井の精神に不足した部分が消滅したのだ。

 この原因は間違いなく、大井の無意識による自己防衛反応だった。それほどまでに大井の人格は破壊されていた。そして、その不可逆とも思われた人格の変性を見事に取り繕って見せた大井の精神構造にも、提督と加賀も呆れと感嘆で声も無い。

 ただし、それも万全では無い。全くだ。

 ”北上”という単語、あるいは”北上の姿”という視覚情報がまた大井に感知されると話は別である。”振り出し”に戻ってしまうのだ。ここで言う”振り出し”はつまり、”北上を病的に求める大井”、つまり変わってしまった後の大井のことだ。

 そのため、大井を手懐けるのは非常に難航した。

 

 一度目ではポロッと提督が口に出したことでのリセットだった。

 禁止令から3日が経過した頃。夕刻である。執務室にて大井からその日の報告、恙無く任務が遂行されたことを聞いていて、提督が、

 

「……これなら、北上君も安心だね」

 

 と宣ったので、

 

「き、た、か、み……北上さん?北上さん、北上さん……ほああああああああああああああ!!!!!!」

「うぉあ!?」

「……馬鹿な、戻ったはずじゃなかったの?」

 

 突然の叫び声に驚嘆する提督、その左後ろで加賀が耳を塞ぎながら呟く。大井の咆哮にかき消され、それを聞く者は誰も居ない。ともかく、加賀は耳を塞ぐのを止めて、目の前で発生している騒音に険しい顔で耐えつつ、

 

「ちょっと寝ていなさい」

 

 叫びながら震える、ムンクの”叫び”さながらの大井に近寄り、首筋へ手刀を一発。

 スイッチが切れたように雄叫びは止まり、大井は前のめりに受け身も取らずビタンと倒れ伏した。

 

「やりました」

「殺ってはいませんよね……?」

「お望みとあらば、やりますが」

「別にそこまで望んではいません……」

 

 本人が聞いていないとなると彼らも遠慮がない。何しろ一番割を食っているのはこの2人だ。北上はそれに準じる苦労を背負っているが、直接武力行使に走れるだけマシなのだ。彼らにこそ大井を謗る権利があった。

 ともかく、状況を読みきった加賀は背中に掌底を一発入れて大井を蘇生する。

 

「起きなさい」

「……はっ!」

 

 詰まっていた空気を吐き出すように呼吸すると、すぐに腕に力を込めて上体を上げる。そして、

 

「北上さんは!?北上さんがいらっしゃるんですか!?」

 

 起きて第一声がこのとおりである。

 

「……提督。私、起こしたことを後悔しているわ」

「ええ、その気持ちは分かるんですが……」

 

 大きく肩を落として、そのまま提督は机に突っ伏した。それに加賀も溜息。一方の大井はと言うと、

 

「提督!加賀さん!北上さんはどちらに!?」

 

 そんな様子だったので、迂遠に”取り次ぐつもりはない”と加賀は、

 

「……北上なら出撃中――――――――」

 

 言ったのだが、大井はいきなりシャンと立ち上がると敬礼し、

 

「こうしちゃいられません、今すぐ私も出撃します!」

「ちょ、ちょっと待ってくだ――――――――」

「北上さぁ―――――――」

「待ちなさい」

 

 加賀の鮮やかなハイキックで行く手を塞がれ、そして顔面を薙ぎ払われる。彼女はラリアットを受けたプロレスラーの如く、蹴り足と顔面を支点として逆上がるように半回転、そして背中から垂直に落ちた。

 

「―――――へご!?ふぐ!?」

「―――――さい、ってええ!?」

 

 提督が机越しに手を伸ばして制しようとした時には、全てが終わっていた。

 

 そして彼は口を開き、

 

「……す、少し、はしたないですよ。加賀さん……」

「貴方になら、見られても構いませんけれど」

 

 頬を少し赤らめた加賀の言葉に、ああすっごく愛されてるなぁ、と項垂れた。

 

 

 ●

 

 

 その後、大井は再び”北上禁止令”を言い渡され……最早言うまでもない。

 人格が”ロールバック”されて至って真人間となった大井は再び実直に任務に励むようになった。

 

 一方、当の北上はこの件を知らず、そもそも接触しないようにとだけ言われていたため、大井の現状をよく知らなかった。大井がどういう精神状態の変遷を辿っているかなど知る由もなかった。

 それが大変にマズかった。

 

 大井が佐世保へ研修に向かう段取りが決まり、彼女は佐世保所有の車に乗って移動することとなった。

 そこで北上が人情を起こしてしまったのだ。

 

 北上のことなど頭にない状態の大井、その見送りに出てきてしまったのである。

 禁止令とは言われているものの、少々可哀想な面もあるのは確かだと思っていた。迷惑千万でも、別に嫌いというわけではない。だから彼女は気まぐれを起こし、大井の見送りに出て来た。

 

 そしてタイミング悪く、大井がバンに乗ってドアが閉まった時、彼女はスモークガラス越しに北上の姿を認めた。

 

「き、き、き、北上さん!」

 

 またである。再び北上キチガイの大井の出来上がりである。

 彼女の乗り込みをドアの前で見届けた提督と加賀は、大井の絶叫で顔色をさっと青ざめさせて、後ろへ振り返る。

 北上は無表情に手を振っていた。

 

 そこで大井は突然暴れだし、同乗していたスタッフの制止も振り切り、スライドドアを開け、呆然とする提督と加賀の間を突っ切り、

 

「きぃたぁかぁみさぁ――――――――ん!

 

 北上へとダイブだ。そして後は言うまでもなく、

 

「早く行け」

 

 北上はそれをひらりと躱し、地面にキスした大井の首筋に一発踵落とし。

 

 ……かくして、失神したままの大井は佐世保のスタッフと加賀に担ぎ上げられて車にブチ込まれ、佐世保へ移送された。

 

 

 ●

 

 

 そして、佐世保でのガイダンスを心ここにあらずの状態で受けた後、こうして夕張と共に出撃の段と運んだわけである。

 

「北上さん……ああ、北上さん……」

 

 更に『北上さん』と続けて再び川柳を完成させようとしている大井に対して、夕張は、

 

「あなた新人でしょ?よく知りもしない人によくそこまで入れ込めるわね」

 

 そう言ったが、大井はそこで航行を停止。海の上で立ち尽くした。直立不動だ。先行していた夕張はその様子に気付くと、すぐに転進し、大井の側に寄る。

 

「え?どうかしたの?」

「……りませんよ」

「ん?」

 

 俯いたままで譫言のように呟く大井。それに様子がおかしい、と夕張は顔を覗き込むが、

 

「私にだって分かりませんよ!!!」

「わっ!?」

 

 いきなりの大音声にバランスを崩しかける。が、そこは熟練の艦娘だ。すぐに立て直す。そして少し離れた位置に立ち、大井の話を聞くことにした。

 

「耳、痛い……ソナー音聞けなくなりそう……で、分からないの?」

「分かりません……分からない……私、なんで北上さんのことが好きなんだろう……」

 

 改めて聞かれると、大井にもその理由はわからない、それに悩んでいるようだ。まるで結果があって、それだけかのように。理由という中身が無いのだ。それをすっ飛ばしてしまっているのだから。

 夕張はやっぱりか、といった顔で、

 

「それは……やっぱり、”北上”と”大井”だからじゃない?私、他にも”大井”を見てきたけど、やっぱり何故だか”北上”を好きになってたもの。理由なんてなくって、そういう生き物なのよ。きっと」

 

 あっけらかんとそう言った。しかし、大井は承服しかねる。それは違うと。きっと何か、好きになるだけの理由があったはずなのだと。

 そこで抗議しようとするも、

 

「……えっと」

 

 大井は口ごもる。その理由は、

 

「……あれ?」

「どしたの?」

「お名前、なんでしたっけ?」

「あのさぁ……自己紹介したよね!?小っ恥ずかしいのにメロンネタまで使って印象に残るように工夫したつもりだったんだけど!?」

「ごめんなさい、全然覚えてないです……」

「マジかー……」

 

 夕張にとって、誤算続きだった。上層部にとっても誤算だろう。最優の教育者を与えてみたものの、教え子はと言えば北上に現を抜かし、あげく教育者の名前さえ覚えていないのだから。

 

「これ、面倒だな……」

 

 彼女の感想もまた、御尤だった。

 

 



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キル3

 夕張の悩みは深かった。

 非常に深かった。

 何しろ、こんな例は初めてなのだ。

 彼女は優れた教導者だ。現在に至るまで、数々の艦娘の巣立ちを助けてきた。色々な艦娘がいたが、誰もを”使える”レベルまで引き上げてきた。心を折らないための”切り札”だって持っていた。そんな彼女が、こんなたった一人の艦娘、この大井にお手上げなのである。

 

 問題を整理すると。

 まず彼女は話を聞かない。現に自己紹介があったことを完全に頭の外に置いている。せっかくの親しみポイントを作ったところで、それでもなお記憶に引っかかることが無かったのである。

 この”話を聞かない”原因は、異常なまでの北上への入れ込みようだ。頭の中は北上で一杯だ。

 

 ちなみに夕張は、”呉の北上”のことを知っていた。

 彼女が教導役としての立場を完全に確立する前のことだ。その頃もやはり呉は教練場所に乏しく、多くの艦娘をこの佐世保に送り込んでいた。北上もその中の1人だった。僅かに先任だった夕張は、彼女に対潜戦のイロハを教えていた。彼女は掴みどころこそないが従順であり、よく教えを吸収した。加えて終始精神を平静に保っていた。なので夕張の”切り札”は出しどころもなかった。そして他の実践訓練でも詰まることなくスムーズに教練を終えて呉へと帰っていった。そのように記憶している。

 そして時は流れて夕張は熟練の艦娘となり、教導を主に仰せつかる役目に収まり、一方の北上は他の基地にも勇名轟く精鋭として知られるようになった。それを夕張は誇りに思っていた。そうなるまで更に多くの艦娘を導いてきたが、彼女はとびきりの出世頭だった。

 

 さて、夕張が担当してきた中には、反抗的な艦娘も従順な艦娘も、言ってしまえばどちらにも当てはめがたい”変な”艦娘だっていた。それもなんだかんだでどうにか使えるレベルまで叩き上げた。

 そしてこれは、その”変な”艦娘である。中でもとりわけエクストリームな。夕張の”切り札”は言うことを聞かせることにも有用だったが、大井に対しては全く通用しないだろう。むしろ彼女の神経を逆撫でる。それを夕張はよく理解していた。だからこそ、こうして悩んでいる。

 

 こちらに関心を向けさせられていない、

 それが問題を総括して出た結論だった。それへの対処は難しい。おそらく北上本人を連れてきて担当させたとしても、関心のベクトルが明後日へ向かうため難航するだろう。かと言って夕張が普通に接しても、さっきのように僅かに正気を取り戻したときしか話の相手にならない。その瞬間を見計らって教育を施すのを繰り返すというのも、非現実的だった。何せ、上層部は気を長くして待つ気などこれっぽっちもない。夕張が全期間を担当するということは、それだけ早く仕上がることを期待されているのだから。その期待に答えるため、なんとしても北上を大井の頭から追い出す必要があったのだが、

 

「ああ、北上さん……あなたは何故北上さんなの……?」

「ロミジュリもちょっとねぇ……」

 

 出来ない。現実は非情である。

 

 夕張の発想力は決して貧困ではなかった。だからこの北上脳を改善するのではなく、利用する方法を考えていた。よって、夕張は情報収集をすることでその方策を考えようと切り替えた。

 

 要は、雑談するのである。北上に関連する話題に絞り込まれるとしても、それはそれで良いのである。その話題の中で利用できるポイントが出てくる可能性は非常に高い。加えて、自分が北上を知っていると言えば、誘い込むのは楽だ。

 

 というわけで、

 

「呉の北上は、私も知ってるわ」

「北上さんをご存知で!?」

「おおう……」

 

 釣れた。まさに入れ食いである。楽だとは思っていた夕張だが、こうも一瞬で食い付かれると仕掛けた側が面食らっている。

 気を取り直し、夕張は話を始める。自分の誇りでもある立派な艦娘だ。その話をするのは嫌いではないし、何より目の前の大井は喜ぶだろう。そう考えながら、エピソードを選ぶ。

 

 その、はずだったのだが。

 

「えっと……」

 

 彼女の挙げた戦果を理由に、”自分が教えた”という記憶が残ったというだけであり、特筆すべきエピソードは無かった。それも彼女の個性が見えるようなところは何一つとして。いや、強いて言うならば無いことはない。そして捻り出したのは、

 

「北上はね、その、優秀だったわ。うん」

「……それで!?どのように!?」

「うん、なんでも覚えた、多分。……それくらい」

「それ、だけ……?」

 

 つまり、無いということは、という話だ。

 これは夕張にとって大誤算だった。話を振る前によく思慮すべきだったが、彼女はそこまでには至らなかった。事実、彼女は北上を知っていた。知っているから話せると考えた。しかし、エピソードが少ないことは話し始めるまで分からなかったのだ。思い出せなかったとも言っていい。

 

「それだけなんですか……?」

 

 期待を裏切られたとばかりに、大井が夕張を見つめる。睨むような目つきではないことに夕張は感謝したが、それでもご期待に背いたのは事実だった。

 だから夕張は手を合わせて苦笑し、

 

「……ごめん。彼女を教えたのは私だけれど、あんまりにそつなく物事を覚えていった……はずだから。手が全然掛からなかったんだと思う。当時はスルスル研修が進んだことに疑問も無かったんだと思うけど、彼女、もしかして天才ってやつだったのかもね」

「やっぱり北上さんは凄いんですね!?」

「あ、うん。でもあんなになるほどとは全然思わなかったのよ。手は掛からなかったのは確かだけど、実際そこまで出来が良かったかって言われると、それも疑問……あれ?」

 

 突然疑問符を浮かべ宙を見つめる夕張に、大井は食い気味に聞く。

 

「何か、思い出しましたか!?」

「いや逆……おかしいのよ」

「覚えてないんですか……?」

 

 あっという間に盛り上がり、そしてしゅんとなる大井に罪悪感すら感じながらも、夕張は、

 

「……うん。はっきり言うとそうなるわ」

 

 ハッキリと、そう言ったのだ。

 それに異常を感じた大井はすぐに食って掛かり、

 

「え?……でも、北上さんを教えたのはあなたじゃ……」

「うん。……分からないけれど、なんでこんなに覚えていないの?下手すると、彼女の存在自体を覚えていなくてもおかしくない。でも、私達の間で有名になったから、結果的には今覚えているわけで……」

「それで……覚えているんですか?覚えていないんですか?」

 

 大井が続けて問い掛ける。しかし、夕張はしっかりとした答えを出せない。

 

 夕張は困惑していた。

 大井の扱いを悩んでいたと思ったら、北上のことを思い出すのが難しいことに悩み始めていた。

 何故?こんなにも覚えていない?つまり、記憶に引っかかるところがない?関心の対象にならなかった?

 ということは、そう、北上はそれほどまでに、

 

「彼女は……印象に残らない、そんな艦娘だった」

 

 北上は、艦娘の中でも確かに“変な”艦娘だった。それは、

 

「彼女は確かに……いや、多分優秀だった。けれど、どういう人なのか、私にはわからない」

 

 まさしく、謎の艦娘だからだった。

 

 

 ●

 

 

 それから夕張と大井は北上の奇妙さに悩み続け、結果として何一つの戦果も挙げず、昼前に佐世保鎮守府へと帰投した。この精神状態で戦闘を起こすのは危険だと夕張が判断したのもあった。出来たのはせいぜい海上のパトロール程度だった。しかし、今日日の日本近海は掃海が進んでおり、敵潜水艦の不安もそこまで無いというのもあって今回の無成果について咎められることはなかった。

 

 便りがないのは良い便りである。戦闘が起こらないことは平和の証左だ。

 佐世保鎮守府の提督はその程度にはオプティミストだった。

 

 ともかく、艤装を整備班に預けた彼女達は、尚もバディとして行動を続ける。これから2人揃って昼食に向かう。そして昼休みの後は実戦訓練の代わりに座学をやろう、と夕張は決めていた。大井と接する時間をできるだけ取って対策を練りたいという狙いもあった。それ以前に、自己紹介のやり直しをする必要も出てきていたのもある。食事はうってつけの機会だった。

 2人は工廠を出て身軽になり、差し込む昼の日差しを身に浴びて、夕張は大きく伸びをする。太陽に向かうその姿は光り輝き、まるで月のようだった。大井はその隣で、やはり北上のことを考えていた。今度は盲目的な愛情に支配されるのではなく、北上の謎めいた面について真剣に思索している様子だ。

 

 それを横目に見ながら、夕張はとりあえず、

 

「お昼にしましょ。せっかく佐世保まで来たんだから、佐世保のご馳走を食べなくちゃ」

 

 そう言って、大井を食事に誘った。それに彼女はやや考え込むと、

 

「佐世保のご馳走……グルメ……もしかして、佐世保バーガーですか?」

 

 顔を上げて夕張の方を見る大井。それをいい反応を感じた夕張は破顔し、

 

「お、その通り。佐世保の名物として一発目はそれがいいかなってね」

「軍の食堂にもあるって、凄いですね……」

「まぁね。ウチの提督、食には結構こだわるから。今の恋人にも手料理で落とされたって言ってたわよ。もうすぐ結婚じゃない?だとしたらとんだスピード婚だけど。おふくろの味・バージョン2、って感じが良かったんだってさ。熱いったらありゃしないわ。出会ってそんな経ってないのに長年連れ添った夫婦の域入ってるし、ああいうのを幸せって言うんだよねって感じ」

 

 言い回しはイマイチ大井には理解できないが、ともかく料理上手の女房候補をもらってホクホクだということは、彼女にも分かったことだった。上官ではあっても直属ではないし、そこまで関心は湧かなかったが、一般的感性としての返しとして、

 

「へぇ……いいなぁ」

 

 いつしかコンクリートの埠頭を歩きだしていた2人。夕張が踊るようなステップで大井の右斜に歩み出して顔を覗き込む。表情は意外な答えを聞いたといった趣で、

 

「あれ?恋愛とか結婚とか憧れる?」

 

 それに少々の苦笑いで大井は、

 

「まぁ、人並みにそういう願望ありましたし……」 

 

 右の人差し指で頬を掻きながら、明後日の方向に視線を向ける。そんな仕草に夕張は姿勢を戻し、再び大井と肩を並べ、花のように微笑む。

 

「うん、まぁ普通の女の子ならそうよね」

「でも今は北上さん一筋ですけどね!」

 

 本当に、北上のこととなると元気が良いのが大井である。夕張は何度目か分からない苦笑を浮かべて、そしてとある事に思い当たる。

 

「なるほどね。……素質はあったけど気付かなかったのかな」

「素質? 何のことですか?」

「レズ。つまり女の同性愛者。女の子のこと、好きになったことあった?」

「……これが初めてですよ。男の人は……素敵な人にはときめいたりもしましたけど」

「付き合ったことは?」

「モ、テ、ま、せん、でした!……もう、いいですか?未だに恋愛経験ゼロなんですよ、くぅ」

 

 いきなり話が下世話になったので、大井は少しツンとした顔になる。そこで機嫌を損ねたと分かった夕張は御免、と前置き、

 

「話変えよっか。そろそろ真面目な方に。―――さて、察してるとは思うけど、あなたは呉の主力として相応の実力が求められてる。だから、今回の研修はそれなり以上の成果を持ち帰らなくちゃいけないの。その覚悟は出来てる?」

 

 打って変わって真剣な顔つきになった夕張は、確かに教導者だった。今回大井が派遣されてきた理由についても、正しく理解している。だから、大井と目的を共有することが必要だと考えた。お互いの意思の行き違いは正しておくのが定石であるからだ。それさえ擦り合っていれば、ある程度の厳しさは容認されるべきものとして考えていける。加えて前触れ無く急激にスパルタに移行するという、ショック療法的な訓練は大井に向いていないと思っていた。そうでなくとも、夕張はそう言った無理に適応を迫る教え方を好んでいない。元々彼女のプランにそれは組み込まれていなかった。

 一方、大井はそれに些か胡乱さを感じたのか、怪訝な表情となる。

 

「イマイチ、ピンと来ませんけど……」

 

 それもそうである。何しろ、

 

「まぁ新人だし、自覚がないのは分かるわ」

 

 いきなり『主戦力として期待しています』と着任早々で言われるのもなんだか面映いというか、重いものがある。それも夕張は理解していた。彼女は栄えある”第1ロット”の艦娘である。つまりは最古参だ。ただし、着任からはまだ半年を過ぎてしばらくと言ったところ。その程度で熟練というのも、それだけ密度の濃い戦争生活を送っていたことが原因だった。比較できるものがなく、その中でも最先任であるとなれば、彼女が熟練と呼ばれるのも仕方のないことだ。

 

 一般的な軍隊で言うと新兵に相当するとは言え、しかし相当の修羅場の数々を潜り抜けて生き抜いている艦娘である。さらに彼女は教導役としての才能を遺憾無く発揮して地位を確立している。そんな先輩の重要なお言葉ともあり、大井は耳を傾けていた。今朝とは全く違う態度である。……とは言っても、彼女が北上を教えた・北上と知己であるという事実が無ければ、やはり脳内の北上に没入して妄想から帰らぬ人となっていたのだが。

 真面目な顔で夕張の顔を見つめる大井。それに気分を良くしたのか、夕張はにたりと笑む。そして続けた。

 

「うん、今度は話聞いてくれてるね。さて、私の予定、というかお偉いさんの期待だけれど……あなたの練度を上げて、重雷装艦装備が可能なくらいまで持っていくのが最低ライン。それ以上ならなお良し、それ以下は用無しってわけ。厳しい言い方だけど、理解してね」

 

 装備の変更、それに大井は並々ならぬ興味関心を発現させた。今の装備は標準的な軽巡洋艦の装備だ。雷撃装備、砲撃装備共に程々の積載状態。それが、

 

「重雷装艦装備ってことは、北上さんと同じような……?」

「そそ、良いわね。わかってるじゃない。さすが北上マニア」

 

 大井の察しの良さに更に機嫌を良くして、夕張は尚も説明を続けた。

 

「要するに、あなたもほぼ同型の装備をして同じように活躍することが求められてるってこと。……まぁ今の北上のような改二艤装はまだちょっと無理だけど、改艤装は射程内……ってか、それを最低ラインなんだけどね」

 

 大井の目標は具体的に提示された。だから、夕張の目的、”認識を同じくする”という点はこのとき達成された。そして目標の内容が”北上と肩を並べられるようになること”ともなれば、彼女のやる気ゲージは上限一杯まで振り上がった。

 右手を振り上げて、一発ソウルフルに咆哮し、

 

「―――――――頑張ります!超頑張ります!」

 

 目の光り輝きは尋常ではない。狂信者のそれである。しかし、度合はともかく関心を正しい方向に向けられたという結果に夕張は満足し、右手のサムズアップとウインクで大井を褒める。

 

「良し、その意気。―――ん?」

 

 それに、ダメ押しをすることを思いついた。

 

「北上と早く組みたいよね?」

「勿論です!」

 

 食い気味だった。既に釣れているというのに、手応えは底なしだ。どこまでも食い付いてくるだろう。なので夕張は続けて、

 

「じゃあ……スペシャルコース行っちゃう?」

「なんでもやります!」

「ほぉーう、今なんでもって、言ったわね?」

「北上さんに誓って!」

「そこは神じゃないんだ……」

 

 既に慣れてきた北上マニアック振りにはさておき、大井のやる気は本当に頼もしい。それにいよいよ笑みを深くした夕張は、

 

「じゃあ明日は潜水艦狩り、徹底的にやっちゃうからね!根こそぎ行く勢いで行くわよ!?今日の座学で深海棲艦をフルボッコにする方法を全ッ部叩き込んであげる!一音も聞き漏らさないように!」

「はい!北上さんの先生!」

 

 ……そして、夕張はその呼び方に脱力し、

 

「北上基準で物事を考えるのも、程々にね……?」

 

 自己紹介のやり直しを早急にするべきだった、と自戒した。

 

 

 ●

 

 

 そして1週間が経過した。

 その時既に、夕張の予想は10段ほど裏切られていた。

 



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キル4

 

 食堂は暖房が心地よく、艦娘達が溜まり場としてよく選んでいた。今は食事の時間ということもあって当然人の集まりは多いのだが、飯が終わったからといってすぐに居なくなることはない。休憩時間いっぱいをそこで過ごして、そして九州とは言え寒い外界へと仕事に出る。非番の輩は更に居残って駄弁りに夢中になる。

 

 そんな立派な食堂の一角、窓際のちょっと特別視されている場所。そこに一組の男女、そして向かい合う一人の女性。こちらは夕張だ。いつもの制服の上に赤い色の薄いダウンジャケットを羽織っていて、外から伝わってくる寒さに備えているといった塩梅だ。その姿勢はピンと伸ばされているものの、少し俯いている。そこに、

 

「で、どうだね。大井の様子は」

 

 黒の豪奢な軍服を着た男性が、食堂のテーブルを挟んで向かい合う彼女に問い掛けた。

 

 軍服の肩章は少将の階級を表す彩りであり、彼はその階級に見合った地位をこの場で持っていた。

 彼こそ、佐世保鎮守府の提督である。件のオプティミストな提督だ。

 

「はい……提督」

 

 夕張の声は、傍目から見ると浮かない感じだ。

 提督は、そこに一抹の不安を感じた。何かマズイことでも起きているのだろうか、と。

 

 大井の教練開始から1週間が経ったということで、提督としてはそろそろ指導者・夕張の意見も聞きたい頃だった。毎日目を輝かせて、しかしボロボロの風体で報告に上がってくる大井の様子を見ていると、激しい教練が行われていることは窺い知れたことだった。そこに特に不安要素を感じることは無かった。しかし、この夕張の様子だ。何かがおかしい。夕張の表情は何やら固い。どういうことだと内心で提督は動揺していた。

 

 大井・夕張のバディに期待されているのは、主力・あるいは主力候補となるだけの実力の養成である。それが難航しているというのだろうか。提督は思わず左隣に目を遣る。

 そこに座ってお茶を啜っていたのは、薄い朱色の着物、黒の袴を穿いた可憐な女性だった。長い黒髪は高い位置で後ろに纏めており、他人を萎縮させない程度に清潔感を感じさせている。

 彼女が提督の視線に気付き、微笑みを返した。

 

「提督、ご安心下さい。まだ1週間しか経っていないんですから」

「うん……そうだな、鳳翔。俺らしくなかったな……」

「あなたはそれが取り柄なんですから、しっかり」

「お前にはかなわんよ……舌も心もメロメロだからな……ではお茶を失礼して」

 

 そこで落ち着かされた提督は、手元の湯呑みを持ち上げ、ぐいと中身を飲み干す。

 

「う熱ッ!」

「あらあら、淹れたてですよ……もう、慌てん坊さんなんですから、あなたは」

「はぁ、はぁ……すまん、おまえ……」

「ほら、落ち着いて息を吸って……」

 

 長年連れ添った夫婦のようなやり取りだが、彼と彼女は出会ってそこまで月日が経っていない。1年未満どころか半年すら経っていない。それでここまで相性が良いのだから、これは運命的と言って良い組み合わせだった。遠目にそれを見つめる艦娘らは、またやってる、と微笑ましい表情だ。一方、夕張はその前で縮こまったままで、それも見ていた彼女らは、やりづらそうだなー、などと他人事である。

 

 息を整えた提督は鳳翔に、すまん、と軽く頭を下げて謝罪し、彼女と目を合わせる。それに頷いて、

 

「まずは夕張さんのお話を聞こうじゃありませんか。それからですよ」

「……ああ、そうだな。―――――それでだ、夕張」

 

 提督は再び夕張の方に向かい合う。どうやら夕張は机の下で手を遊ばせているようで、話をし難そうだ。だが、聞かねばならない、と果敢に提督は、

 

「大井の練度はいくつになった?」

「…………じゅうです」

 

 声が小さい。聞き取れなかった提督は尚も続け、

 

「……すまん、聞こえなかった。……もう少し大きな声で頼む。どうせ食事時だ。誰も聞いちゃおらん」

「あなた、私は10と聞こえました。……これなら十二分な成果じゃありませんか」

「おまえ……うん、そうだな、10か……ふむ」

 

 改艤装装備の条件には達している。さすがは夕張と言ったところか、と提督は伸びてきた顎髭を右手で擦りながら、満足げに溜息を吐いた。なので夕張を褒め称えるべく、彼は言葉を続けた。

 

「10なら既に目標達成だ。1週間でそうなら、加えて驚異的と言っていい。最高の仕事ぶりだ、よくやった。……それはともかく、確かに10なんだな?」

 

 少し気遣いを見せつつ、やはり答えを要請する。何か口がモゴモゴして聞き取りづらかったのもあり、確かな数字ではない。10というのも、そう聞こえた、という鳳翔の一意見に過ぎない。

 そして、夕張はようやく顔の強張りを取って、

 

「あの……50です……」

「ほう、50か――――――――んっ?」

「えっ」

 

 提督、そして鳳翔の唖然とした顔を目の前にして、夕張は表情が固かった理由を明らかにした。

 

「ぷっ、く、ふふふ……あっはははははは!」

 

 笑った。

 馬鹿笑いだ。

 つまり今までは笑いを堪えていたというわけである。

 

「あっはははははははは!なんですかあの子、意味わかんないんですけど!あはははははは!」

 

 背もたれに肩を回し、随分とリラックスした様子に変わった夕張。その姿はバラエティ番組の笑い所で素直に大笑いする視聴者と変わらない。

 その様に堪忍袋の緒が切れたのか、提督は椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、

 

「そりゃこっちの台詞だ!まるで意味がわからんぞ?!どういうことだ!何をやった夕張!その……数値詐称だったらもう少し控えめにやれ!流石にサバの読みすぎだ!」

「あなた、落ち着いて……」

「止めるな鳳翔……ええいこれが落ち着けるか!」

 

 驚きと憤慨が混じった声色で夕張を問い詰め始める。その左袖を摘んで制しようとした鳳翔だが、特に効果は出ていない。そんな叱責一歩手前の状況でも夕張は馬鹿笑いを止めようとしない。加えて机を右の平手でバンバン叩きだす有様で、

 

「やだ提督、詐称なら笑える話じゃありませんよ、もー!」

「はぁ~!?」

「えぇ……?」

 

 夕張のこの様子を見る限り、彼女自身に自覚がない嘘をついているか、それとも事実なのかである。

 

 ……提督は夕張に関して一定の信頼を置いていた。彼女の功績あってのものだ。そもそも、だからこそ大井に関する呉や上層部の要求に速やかに応えるために彼女を教導者として担当させたのだ。彼女がホラ吹きであったならそうはしない。そして、教え子の成長を見誤るような眼力をしていないことも重々承知のことだった。……つまり、提督は夕張の言を信じることにしたのである。

 どうやら信じがたいことに大井は本当に練度50に達したらしい。

 しかし、解せない。

 前々から訓練内容は内々で取り決めてあった。それは練度10を最悪でも越えられるように作ったものであって、全て上首尾に運んだとしても50に達するほどのものではなかった。何故なら、そういう風には作っていない。

 だから、提督の疑念は大井の練度が50に達したという事実ではなく、50へ達するに至る訓練内容とは何か、というところへと向かった。

 だから彼はこう問い掛ける。

 

「何をやった?……ああ、いや、分かる。分かってるとも。――――――――お前が報告していない戦闘があったということは簡ッ単に推し量れる」

「……あ」

 

 夕張がたちまち表情をこわばらせる。……普通、問いかけとしては十分予想されて然るべきものだ。

 つまり、彼女自身これほどまでに浮かれていたということだ。上首尾な結果に皆で大笑いしてハイ、サヨナラとでも行けるつもりだったんだろう。そのつもりだったんだろうな、と提督は一度鼻を鳴らし、溜息の代わりとした。更には腕を組み、背もたれに背筋を押し付けて軽いストレッチだ。座ったままでの軽い背伸びを終わらせて落ち着くと、彼は続けて問い掛ける。

 

「まぁ参考までに聞いておこうか……どこに行って、何をやってきた?」

「えっと……そのぉ……EEZ(排他的経済水域)のギリギリを攻めつつ2人ではぐれ深海棲艦を撃滅、というか……」

「やりすぎだ」

「あー、あとソナーに反応があって爆雷落としたら、”本物の潜水艦”が浮かんで来たっけ……アレ、敵国の潜水艦でしたし、いいですよね?」

「本当にやりすぎだな!お前達はスツーカ大佐か!?んン!?……まぁ、いや、その、確かに国益に寄与することではあるんだがな……というか来てるんだな、潜水艦……うん……当然か……戦時下だしな……」

 

 あーうー唸っている提督の左腕に、軽く鳳翔の腕が絡む。そして軽く揺すりながら、

 

「あなた、お茶をもう一杯淹れましょうか?ぬるめで」

「うん、頼む……」

 

 提督が請うと、鳳翔は席を立って新しくお茶を用意しに行った。

 ……このカカア(予定)には頭が上がらないのが提督だった。

 それはともかく、自身のオプティミズムも程々にしなければ、と自戒したくなっていた。だが、そんなことはどうでもいい。深海棲艦との戦争だけではなく、”人間同士の戦争”も目下続行中なのだから。

 

 しかし、これはやりすぎだ。全くその通りだった。夕張もそれは承知の上だったろう。

 彼女の言う”スペシャルコース”と言うのは、つまるところ超実践主義的な訓練だった。いや、それは最早普通の実戦と言ってもいい。それを1週間フルに使って、ストイックというか執拗に出撃を繰り返して行っていたということだろう。彼女達は軽巡洋艦だ。入渠時に消費する資源も軽微なものだ。無論塵が積もればなんとやら、で決して馬鹿にしていい量ではないのだが。

 

 それはさておき。

 ……提督の内心では、この不始末というか、未報告の戦闘についてどうけじめを付けさせるかという考えを走らせている。だが、罰を与えようにも功が勝ちすぎていて、どうにもやりにくい。資源消費の記録を当たらせれば申請や予定と帳尻が合わないことはすぐに明らかとなるし、それを理由に咎めるのは簡単だった。浪費するな、と。ただし、これを浪費と断ずるには夕張の挙げた成果は大きすぎた。

 なにせ練度50である。歴戦の艦娘と肩を並べられる程の練度である。最強の新兵の誕生は、夕張の施した訓練の賜物だった。それに、どれほど資源を消費したかに関わらず、わずか1週間で化物を作り上げたというのは掛け値なしの大功績である。つまり、資源量に糸目をつけなければ、夕張は1週間という短い期間で怪物を量産できるということだ。これに気付いた提督は目を見開き、そしてニヤリと細めた。他人が見れば悪巧みの前触れだが、彼をよく知る者に言わせれば、これは単純に”いいことがあったんだろう”で済む。

 

 彼は、ついに口を開いた。

 

「もう一度聞く。何をやった?いや、聞き方がちょっと違うな……。練度50に至らせる腕前には感服させられた。次の新人もこの調子でやってもらいたいんだが……どうだ?」

 

 彼の楽観主義は、物事を悪く捉えないこと、即ち”良かったところ”を探すことに長けていた。だから資源の過剰な使用も許容範囲と考えることが出来たし、それで生まれた結果に色眼鏡をつけることは無かった。それに、時間という資源をコレ以上無いくらいに節約したのだ。浪費の見返りにしては大いなる実りだ。

 このように彼は楽観主義者であり、またそれとコンフリクトしない範囲での合理主義者だった。

 よって返す言葉には夕張のやる気を感じたいところだったが、彼女を見ると胡乱な顔で、

 

「あー……いや、ちょっとそれは……」

「ん?」

「私自身訳の分からない手応えだったんですよ、その……だからもう一度やれって言われても……」

 

 答えを曖昧に留めようとする。……いよいよ本当にワケが分からない。いやしかし待て、と提督は考えた。

 彼女は過剰な訓練を大井に施した。それによって期待したものはなんだったのか?本当に夕張はそれで練度50を目指すつもりだったのか?いや、それはないだろう。彼女はこの事態に笑うことしかできなかったのだ。おそらくだが”いけるとこまで”という、基準を撤廃したものに違いない。そして”どうなってるの”は彼女こそ言いたい言葉だった。そうだ、夕張は大井にそんな要求はしていない。ならば、誰がこの結果を必要としたのか?

 つまり、この事態の根本的原因は、夕張の独断による訓練の過剰化ではなく、

 

「……お前、本当は……逆に乗せられた側なんだな」

 

 夕張はため息のあと苦笑いを沈んだ表情に変えて、

 

「……はい、まぁ、仰る通りで……」

「そうだったか……」

 

 そう、大井がこの結果を望んだのだ。その結果、こんな奇跡が起きた。それで正解だ。ようやく合点がいく。

 しかし、それでも実用を諦めたわけではない。夕張がこの手応えを覚えて、新しい訓練方法を見つけ出すことも可能かもしれない。なので提督は、

 

「理由は?」

 

 それを問いかけた。すると夕張はすぐに笑顔を取り繕う。苦味の走ったそれだったが、彼女の快活さはよく読み取れるものだった。

 

「あの、呉の北上とすぐにでも組みたいか、って聞いたら上手いこと食い付いたので……」

 

 なるほど、と提督は軽く頷いた。よくある話だ。”大井”と”北上”のことだ。特に、”大井”が”北上”に入れ込む例は全く稀でも何でもない。しかし、ここまでくると異常だった。何せ、北上と組むためなら命すら惜しまない所業をやってのけたのだから。

 夕張への労り、哀れみを込めて溜息一つ。提督は、

 

「それでお前は訓練のカリキュラムを無視”させられ”、書類にない謎の戦果を挙げ”させられ”、戦争中とは言え水域侵犯の危険を背負わ”され”たわけか」

「まぁ、端的に言うとそうなりますね……」

「……これで大井が沈んでいたら呉に申し訳が立たんだろうが。そこらへんの手綱捌きも期待していたんだがなぁ」

「それについては、弁明のしようもありません……」

 

 再び淀んだ表情になった夕張に、少し意地悪な言い方をしたな、と反省する提督。そして、居心地の悪さを感じたからか、自分の居場所たる隣の伴侶にの席に視線を遣る。

 ただし、そこにはまだ鳳翔の姿はない。しかし彼女ならばこう言ってフォローするだろう。彼の楽観主義を肯定する彼女ならば、

 

「まぁ、結果オーライということでいいか。……本当に、そういうことに出来て良かったな」

「本当に、全くで……」

 

 そういうフォローが来るだろうな、と少し落ち込みながら言う言葉は、夕張の苦笑いを深めさせた。

 

 それはともかく、少しナーバスになりすぎていたか?と思った提督だが、このくらい落ち込めば反省した内に入るだろうと思い直し、彼は思考を明るいものに変えようとすぐに考え直した。楽観主義過ぎるのを戒めようと思っていたのにこれである。筋金入りのオプティミストだ。そこに合理主義を取り込めたのはよくやったほうだろう。……このように沈んでも浮き上がるのが早いのが彼の美点であり、また殊勝さを欠いているとも見られる欠点だった。

 ともかく、呉と上層部の要求は果たされた。それで良しとしよう。問題は、

 

「ちょっと、このまま帰すのは惜しいなぁ……」

 

 そんな、ノホホンとした彼に似合った悩みだった。

 

 



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キル5

 

 一方、そのころの大井はしばらくぶりの休暇日ということで惰眠を貪っていた。既に午後を回っている、というのにである。借宿でなんと図々しいことだと思われるのは必然だったろうが、彼女は鳴り物入りの新人だ。そのことが半端なやっかみの視線を遠ざけた。遠巻きにさせただけだと言えばそれまでだったが、彼女はこの上ないほど出世株の一人だった。寧ろ株としては既に育ちきっている感すらある有様だ。

 

「……あぁ……北上さぁん……」

 

 しかしそんな彼女だが、寝ても覚めても頭の中が北上で一杯である。寝言へ漏れ出すあたり、彼女はもう手遅れと言ってもいい北上中毒者だった。あいにく、それを咎める人間は部屋の中には居なかった。大井が出張り過ぎて出来た暇の分だけ出撃に出ている。彼女もまた呉からの研修組の一人だった。

 何しろ大井は本当に根こそぎやってしまっていた。しばらくは出撃の意味がないということで、大井の研修が始まると仕方なしに休みが降って湧いてきたのである。そして彼女のほうは仕上がったので休みに入り、対してもう一人の研修生はこれから休んだ分を取り返すためのシゴキに遭うこととなった。

 

「ああ……北上さんが一杯……どれが本物かな……」

 

 どうやら夢の中で無数の北上に囲まれているらしい。それでどれが自分の北上かを探しているといったところだ。夢はしばらく続きそうな趣だった。なにしろそれだけ多くの北上に囲まれているらしい。

 午後になっても延々眠り続けていた彼女だが、休息を得る権利は十分あったし、それに彼女自身そういう気分だった。なにしろ練度50へと至り、一山越えたのである。寧ろ一般的な艦娘からすればそれは大した一山だと言わざるを得ないが。ただし彼女は北上のためならばいくらでもストイックになれたから、それでも一山と言ってのけられるのだろうが。

 

「いや……ちがう……私の北上さんじゃない……ッは!」

 

 背を丸めて布団に包まっていた彼女は、突如目を見開く。夢から覚めた。彼女の北上は現実の方にしか居ない。それに気がついたということだろう。そして、

 

「はーあー……呉に帰りたいなぁ……」

 

 今の彼女は、その権利があった。訓練の内容は終えた。いやむしろ越えた。とっくに一線級の活躍も見せた。しかし、

 

「大井!起きてる!?」

 

 乱暴なノック、それと焦りの滲んだ声。これは、

 

「……夕張さん?」

 

 呼びかけに応えながら、大井は布団を剥いで素早く身を起こす。声の主、彼女の名前をなんとか覚えた大井は名を呼ぶことが出来た。そしてその応えを入室の許可と捉えた夕張は、ドアを乱暴に開け放ち、

 

「休みにごめん!でもちょっと司令部まで来て!」

 

 大きく右手を振るモーションで大井を手招く。それに眠い目を擦りながら、

 

「……あの、休みなら司令部に行かなくても……ああ、司令部に行くくらい大変なことが……大変なことが?」

「寝ぼけてんじゃないわよ、大変なのよ!」

 

 あーもう、と毒づく夕張を余所に、大井はまだまだ血圧が上がりきらない。血の巡りが本調子ではないのか、起こした体がゆらりと不安定に揺れている。船を漕いでいるようだ。

 それに短気を起こした夕張は大井の寝床に駆け寄って引きずり出そうとする。

 

「早く着替えて!40秒!」

「ふぁーい……」

 

 夕張の手を解くと、とりあえず先輩の言うことは聞こう、とそんな適当極まりないことを考え、寝間着を乱雑に脱ぎ捨てて制服に着替えていく。それを見守っている夕張の足先は忙しなく跳ねてまるでタップダンスのようだ。

 しかし、ゆったりとした動きに反して、大井は確かに40秒程度で着替えを終わらせた。髪の繕いなどはともかく。

 

「着替えました……」

「よし、じゃ行くよ!」

「……え、うわあ」

 

 靴を履いて爪先で床を叩いていたら、夕張は大井の手首を掴んで走り出した。いよいよこれは大変だ、とそろそろ目が覚めてきた大井は、夕張に問い掛ける。

 

「あの、これって何が起きてるんです……」

「とにかく大変なのよ!……ちょっと今言うとあなた話聞くどころじゃなくなるから後で!」

「えー?」

 

 寮の入口のドアも乱暴に蹴り開けた夕張は、高くなってきた太陽の眩しさも構わずに司令部へと進んでいく。大井はやはり引っ張られていくばかりだった。

 

 

 ●

 

 

 かくして、司令部の執務室の前に立つ。

 佐世保の提督が詰めている鎮守府の中心に、2人は馳せ参じた。

 

 一度深呼吸をして夕張が息を整えると、ドアを4度ノック。震える右手を汗が伝っていく。

 

「し、失礼します!」

「……ああ、うん。入ってくれ」

 

 入室を促されて、夕張は勢い良くドアを開き、踏み込む。大井を伴って。

 

 そして提督が就く立派なデスクの前に並んで立ち、ビシリと敬礼。

 

「夕張、大井、参りました!」

「ふぁ……おはようございます……」

 

 夕張の敬礼とは比べるべくもないルーズな敬礼の大井。それを左目で見ていた夕張だが、それをこの場で咎める勇気は彼女にはなかった。上官の前でこれ以上の無作法をするのは余計に良くないと思ったのだ。

 一方、そんなものを向けられた提督は至って平静だ。気にしている様子はない。寧ろ、少しそわそわしている。両肩が不規則に浮き上がっている。加えて両手は指をほぐしているように見えて、その実手遊びの真っ最中だ。彼は明確に浮かれていた。咳払いすると、

 

「……さて、呼んだのは他でもない。まずは夕張。先程も言ったが、よくやった。よくぞここまで大井を鍛え上げてくれた。上層部の連中もさぞやお喜びだろうと思う」

「は、恐縮です!」

 

 先程賛辞の言葉を述べたが、今繰り返すのは大井も相手取っているからだ。加えて、これはある種の形式と言うべき意味があった。だから次に、

 

「大井。よく夕張の訓練をやり遂げた。賞賛に値する」

「へ……あ、いえ!北上さんのためですからぁ!」

 

 訓練の目的を思い出した大井は眠気の漂っていた表情を消し去り、爛々とした笑顔になる。そして、提督は、

 

「それで、だ。こっちの方が前線に近いというのもあるし、お前には是非このまま正式に佐世保に転属してもらいたいんだが」

「へ?」

「待遇に関しては最高と言ってもらえるよう努力しよう。当然報酬も弾むし……ん?」

「……へ?」

「ああ、こうなると思ってたのよ……」

 

 大井が、固まった。隣の夕張はこうなることを既に予期していたらしく、既に諦めの境地にある。両手で耳をふさいでこれから起きることに備えている。

 提督はそれに”何が始まる?”といったところか、口を半開きにして呆然としているだけだ。

 そして、

 

「なんですかそれはぁーーーーーー!」

「ぬおっ!?」

 

 いきなり大声で怒りを表明すると、大井は瞬きほどの間に提督に近寄り、そして胸倉を掴み、

 

「呉に早く帰りたくて頑張ったんですよ!?それをなんですかそれはぁーーーー!」

「うお、お、落ち着け!おち、落ち着け大井!」

「……って、手が出たらダメでしょ!」

 

 分速200回転程度で提督をぐわんぐわん揺する大井、されるがままの提督、そして実力行使には出ないと踏んで油断していた夕張。

 夕張は大井を背中側から制しようと飛びつくも、

 

「言わなかったあなたも悪いんですぅ――――――――!」

「ぬあっ!?」

 

 すぐさま身を翻してタックルを躱し、そして夕張の制服の襟を掴み、さらに豪快に揺すり始める。

 

「もー全員グルでやったんでしょー!?私を北上さんから引き離すためにぃ――――――――!」

「ご、ご、ご、ご、誤解だ、あ気分悪くなってきたうおぅ!」

「私もちょっと気分がむぐッ!」

 

 あまりに高速な揺さぶりを受け、2人が吐き気を催してきたところ、ノックが4度鳴る。

 他の来訪者だ。それを大井は耳ざとく聞きとがめ、

 

「……次に入ってくる人もグルなんですねぇ――――――――!?」

「お、ちょ、ま、誤解だ誤解……うぇッ」

「ダメです提督もうこの子見境ない、おえッ」

 

 提督を椅子に叩きつけ、夕張は解放してその場に置き去りにし、大井は続いてドアからやってくる彼女の敵へと向かっていった。

 そして入ってきたのは、

 

「提督?……お茶をお持ちしましたけれど―――――――」

 

 左手に盆を持った鳳翔だ。濃く湯気の立った湯呑みが3つ載っている。提督、それと今回招かれた2人のために用意したものだった。

 提督はこの話が短く済むとは思っていなかった。色よい返事が貰えれば段取りの話になり、そうでなければ熱烈に説得する気でいたのだ。ただし、大井がこのような蛮行に走るとは思っていなかったのである。

 その意図を汲み取り、そしてそのどちらかで話が進むと思い込んでいた鳳翔は先の大井の絶叫を聞いていながら多少の心構えしか持っていなかった。だから当然反応は、

 

「へっ?」

 

 こんなものである。呆けている鳳翔に向けて提督は机に這いつくばりながら叫ぶ。

 

「あ、鳳翔!避けろ!いいから!」

「あの、その、これは――――――――」

 

 戸惑いを隠せない鳳翔は立ちすくむばかりで、そしてそこに大井が、

 

「あなたも敵ぃ―――――――!」

「……なるほど」

 

 無辜の人間にまで襲いかからんとする大井を認めると、そこで鳳翔は状況を大まかに把握し、さっと目つきを変えて、

 

「――――――――大人しくしなさい」

「あぶっ!?」

 

 湯呑みの載せたままの盆を、神速で持ち上げ大井の顎に叩きつけて迎撃。

 そして、跳ね跳んだ3つの湯呑みは何故か狙いすましたかのように中身を大井の頭上へぶち撒け、

 

「あ゛づぅい!?」

 

 当然、茶とは即ち湯である。そのあまりの熱さ、加えて先のお盆アタックによる脳震盪で大井は崩れ落ち、床上で転がりもんどり打つ。

 それを見下ろしつつ、大井に打ち付けた盆を左の小脇に抱えると鳳翔は困った顔をして、

 

「ああ勿体無い……せっかく丁寧に淹れたのですけれど……」

「その割に全く躊躇無かったですね!?」

 

 一瞬の反撃に目を奪われていた夕張はその言葉で正気を取り戻すと、提督の側で項垂れながら抗議、しかし鳳翔は妙に達観した表情で、

 

「後悔は後からするものです。それが小さくなるように日々努力しているだけで、結局は毎日後悔しているのですから。今日はこうして小さい後悔を取れたことに感謝して……そうして人は生きるのですよ」

「いいこと言ってますけどやったことは過激派ですよね!?ね、提督!?ね!?」

「いやぁ……シビれるなぁ……」

「……提督?」

 

 振り向いて椅子に座る提督の方を見ると、やけにツヤツヤした、というか陶酔した顔色。先程まで吐き気に唸っていたとは思えない。それになんだか嫌な予感がするなぁ、と夕張が思っていると提督は直球で、

 

「あのなぁ、俺なあ、鳳翔に初めてビンタされたときちょっと顎の方から抉るようにやられたんだよなぁ、背が低いからなぁ。可愛いよなぁ。うん。それでなぁ頭が顎からクイってなって、クラってなっちゃって、ちょっと気持ちよくてな、うん、そこで更に惚れた……」

「照れてしまいますから……あの、お茶を淹れ直して来ます……」

「あのお二方なんでそこでエクストリーム入った惚気になるんですか!?」

 

 鳳翔は床に転がる大井を放置して執務室を去り、それを夕張はわけがわからないとばかりに提督に詰め寄る。しかし、彼は鷹揚な雰囲気で右手を振り、

 

「こまけぇことはいいんだよ!……さて、呉と交渉に入ろうかなぁー」

「なんでここまで来て諦め悪いんですか!?無理ですよ!さっき私言いましたからね!?無理だって!」

「いや、これで大井がこっちに来れる条件はわかったじゃないか。―――――つまり北上ごと引き抜けばいいだろうが」

 

 何を当然のことを、とばかりに開き直って言う提督。夕張は一瞬絶句すると、こぼれたように、

 

「……提督、呉がブチ切れますよソレ」

「うん、だろうなぁ。でもまぁ言うだけならタダだしちょっと電話してみようかなぁ」

「なんでそんなに思い切りはいいんですか!?」

 

 そう言って夕張が制しようとしたときには、彼は呉鎮守府への短縮番号を執務机の電話に入力済みだった。そして回線が繋がった音がすると受話器を取って、

 

「もしもぉーし」

「え、嘘、始めちゃってる!?ちょっと待ってぇーーーー!」

 

 

 



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キル6

 

 その頃、呉鎮守府、その執務室。

 執務机に携帯電話を放り出してノートパソコンと書類で睨めっこをしながら職務に励む呉の提督がいた。

 

「……はぁ、何も起きてないといいけど」

 

 不安げな声は佐世保にいる大井に思いを馳せてのものだ。大井があちらに移ってから一週間。それなりにあちらにも慣れてきたころだろう。そう信じている。未だに佐世保から大井絡みの連絡が来ないのはきっと、何も問題が起きていないからだろう。そう信じていないと彼の胃は壊滅する。それほどに神経虚弱なのが彼の短所だった。それと引き換えに彼は無類の慎重さを手に入れていた。賭け事の一切を好まない彼は、勝ち筋一本になった勝負しかしない。安全管理という一点においてなら彼に及ぶ者は居ない。その証明として、前提督のように艦娘を散らせたことは一度たりともなかった。彼の指揮下にある艦娘は、これからも轟沈の憂き目に遭うことはないだろう。

 

 そこに三回のノックの音が転がる。

 入ってくるのは決まっている。彼の隣に今居ないならば、ここで入ってくるのは彼女しかしない。

 

「不安になるのを休んでもいいのではないかしら……そろそろハーブティーの時間です。今日もセント・ジョーンズ・ワート。流石に飽きると思うのだけれど」

 

 返事も待たずに入ってきたのは加賀だ。ガラスのティーポット、陶器のカップが2つ載った盆を片手にしている。そして相変わらずの無表情を顔に貼り付けて、平坦な声でそう声を掛けてきた。提督はそれに苦笑し、

 

「うん、ありがとうございます。やっぱり僕はこれがないとちょっと……それで大井さんのことですけれど、まぁ、出発がアレでしたし」

「便りがないのは良い便り、そう思っていればいいじゃない」

 

 机の上の書類をガサガサと動かして除けると、加賀がそこに盆を置いてカップにハーブティーを注ぎ始める。

 特徴的な香りが部屋に漂い始める。加賀はこの匂いがあまり好きではなかった。彼女の生来の無表情はそれを余人には気取らせないが、呉の提督はそれもなんとなく理解していた。彼は加賀の表情より、声のトーンの微妙な差異で感情を読み取ることにしていたからこそ、それが分かる。

 

「佐世保の提督ならそう言うでしょうけどね……僕はああまで楽観的にはなれません。アレは才能ですよ」

 

 彼はカップを右手で取ると、静かに傾けて口にする。……彼は慣れていた味だが、少しばかりクセが強いのは分かる。そろそろ麻痺してきた頃だが、少し間を空ければまたこの人を選ぶ味に苦戦するだろう、と彼は考えていた。ただし、間を開けられるほどストレスから解放される時間が取れれば、の話だった。

 彼が茶を口にしたのに合わせて、加賀はポットからもう一つのカップに茶を注ぎ始める。そして僅かに息を詰めると、

 

「何度か顔を合わせたことはあるけれど……それは同感です」

 

 加賀の声は平坦だが、先程息を詰めた理由が思案していたからだ、と提督には分かっていた。

 表情のない彼女、しかし所作の一つ一つの意味を丁寧に汲み取っていくと、雄弁なまでに感情の表れが見える。彼は加賀のそういった、決して冷たいわけではない、むしろ豊かな内面を愛していた。椅子に座ったまま、彼女の立ち姿を見上げて彼は微笑み、

 

「うん。だから僕は僕の出来ることをしていくだけです。……それしか出来ない、というだけなんですが」

 

 尻すぼみの語尾を誤魔化すように再びカップに口をつける提督。加賀は執務室の隅に置いてあった丸椅子を彼の傍らに寄せると、そこに座ってカップを手にし、

 

「それでいいの。そのままで居て」

「そう褒められても、僕にはあまり応えられませんよ」

 

 苦笑する提督の隣、加賀は一口茶を含んで、そして憮然とした表情で飲み下すと、

 

「今ので褒められているとは随分傲慢になったのね」

「あっれェ今そういう流れじゃありませんでした!?」

「そういうところダメね、あなたって」

 

 隣からじとりとした視線を送られ驚愕のあまりカップを傾けすぎて、

 

「あ、熱っ!」

 

 右足に滴る茶の熱さに身動ぎする彼を横目に見据えて加賀は溜息一つこぼし、

 

「本当、あなたってダメね」

 

 立て続けに貶しを受ける提督は肩を大きく落とすとティーカップを一度机に置いた。今は手に持っていたくなかった。これ以上リアクションで茶をこぼすことが無いように。

 一方加賀はもう一度茶を口に含み、ほう、と息を吐く。匂いも味も未だ苦手ではあったものの、効能のせいか、それとも温かい飲み物を口にしたからか、彼女はひと心地ついた様子だった。泰然自若とした自分の恋人の姿に暫し見惚れ、だがあんまりだと思い、提督は、

 

「加賀さんって、僕には殊更容赦ないですよね……」

「そうね……そうかもしれないわ」

 

 加賀はどこ吹く風で素っ気ない。しかし、確かに彼女は彼の方へと体をもたれ掛からせていく。

 加賀の体重が自分にゆっくりと染み渡っていくのを感じて提督は、それに小さく、恍惚で震えた。

 背中にしたガラス窓は風に震え、カタカタと静寂の中に波紋を落としていく。

 彼と彼女の呼吸、暖房の駆動音、窓の震え。環境音だけの完成された空間。全てが淀みない。

 その水面のような音の世界をひと搔きするように、

 

「ねぇ、提督」

 

 加賀は提督に呼びかけて、少し息を詰めた。

 

「……なんです?」

「好きよ」

 

 雫が溢れるような、か細い声で、彼女はそう言った。

 

「……僕もです」

 

 彼は柄にもなく彼女を抱き寄せて、透き通った氷のような顔、その唇に口づけようとして――――――――電話のコール音が鳴った。執務室直通、それを示すコール音のパターンだった。

 それを認識した提督はすぐに加賀を椅子に元のように座らせ、

 

「はい、呉鎮守府です」

 

 受話器を取って電話に出た。それに一息の間程呆然とすると、加賀は大きく溜息し、

 

「……本当、あなた、ダメね。無視してくれたら満点をあげたのに」

 

 普段と変わらぬ鉄の表情、しかし赤らんだ顔で、消え入るように毒づいた。

 

 

 ●

 

 

「でなぁ、うん。君のところの大井はよくやってくれているんだな、これが」

『それは何よりです……こっちはいつ何時もヒヤヒヤものなので』

 

 佐世保の提督の陽気な声に続いて、スピーカー越しに呉の提督の安堵の声が響く。かなり大きめの音量だ。

 佐世保の提督はこの話が大井や夕張にも聞こえるよう、スピーカーからも声が聞こえるようスイッチを押していた。夕張としては、これ見よがしに……と憤懣遣る方無い。かと言って口を挟むのは不敬がすぎる。あまりにバカバカしいこととは言え、この通話は鎮守府2つのトップ会談だ。さしもの夕張とて間に入るのは困難だった。

 

「それでな、大井をこのままこっちで使いたいんだよ」

『え?それは一体どういうことで……』

「うん。だからついでに北上もくれんかな」

 

 一瞬間を空けると、大きく息を吸う音とともに机を叩く音が電話越しに聞こえてくる。そして、

 

『……何を言ってるんですか!そんな―――――』

 

 突然、呉の提督の声は途絶え、何かが床に落ちる音がした。加えて重い物、そして空洞のあるプラスチックの物体が落ちる音。通話の音そのものにもガサつくようなノイズが走る。

 にわかに起きた事件らしき物音に、夕張が焦燥を覚え、

 

「え?ちょっと、あっちで何が……」

「ああ、心配要らん。いつものアレだ」

「いつものアレ……?」

 

 至って平静を保っている佐世保の提督に対して、彼女は疑問符を隠せない。どう考えても電話の向こうではただならぬことが起きているのだ。不自然なまでに自然体を崩さない上司はいっそ不気味である。

 それから数秒経つと、

 

『もしもし?』

 

 女性の声がこちらに返事を問う。夕張にとっては馴染みの無い声だ。呉に知り合いと言えば、水雷戦闘が可能な艦くらいだった。他所の鎮守府の大型艦に知己はいない。一方で佐世保の提督は通話の相手をしっかりと認識しているようで、誰何を問うことはなかった。代わりに、

 

「ああ、そっちの提督はまたかね」

『またです。……あまりこの人を興奮させないで欲しいのだけれど。そちらは佐世保の提督でよろしかったかしら?』

「いかにもだ。久しぶりだが……君も苦労してるなぁ、加賀」

『お久しぶりです。苦労と言ってもそちらの鳳翔さんほどではありません。自重してください。私、これでも少し頭にきているので』

「お前の『頭にきている』はかなり怖いなぁ……。ともかく、そっちの提督はいきなり立ち上がったもんだから貧血起こして倒れているんだろう」

『ご明察です。今は動けませんので、私が代わりにご用件を承ります。それで、何を仰ったのですか』

「うん、お前もそっちの秘書官だから話をしたほうがいいよなぁ。ま、話というのは何を隠そう、お前のところの大井をこのままウチで使いたいんだな」

『使えるとは思いませんが。今現在大井がマトモに働いているのは“帰れる”ことが前提にあるからです。……それくらいご理解いただいていると思っていましたけれど?』

「おう、分かってる。だからついでに北上も貰いたい。セットでくれんか」

 

 そのやり取りを聞いている夕張はドン引きしていた。人間とはこうまで厚かましくなれるものか、と。

 事実、大井をここで使うならば北上を連れてくればいい。別に呉という場所に特別の思い入れがあるわけではない。北上が呉にいるから帰りたがっているのであって、彼女がここ佐世保に来たならばそれで大満足のはずだ。なんの問題もない。ただし、それが実現不可能ということに目をつぶればの話だ。

 とどのつまり、佐世保の提督のやろうとしていることは、

 

『呉の戦力を削ぎたいのですか?』

 

 呉に対して泥を投げつけているのと同様のことだ。

 それを指摘されてもなお佐世保の提督の面の皮は厚い。表情に焦りなど欠片も見当たらない。

 

「こっちのほうが前線に近いし、いいと思うんだが」

 

 夕張は再びドン引きした。その論で行くのか、と。要するに“前線に近い基地のほうが偉い”とマウンティングしているようなもので、多分提督にそこまでの悪意や野心はないにしても、いやむしろ自覚がないからこそ質の悪い一言だった。

 

 電話の向こうで加賀がため息を吐いたのがわかった。息が送話器を鳴らす音がノイズになって響く。

 ……おそらく加賀はそこまで理解したのだろう。怒るわけではなく、かなり呆れが混じった音だった。先程の会話の流れで、加賀と提督が知己であることはわかっていた。秘書艦をやっているとこういう横のつながりに巻き込まれるということなのだろうか。ともかく、彼女もこの提督の悪癖を理解している。だからこそ、彼女は感情的になるわけでもなく、冷静だった。

 

『……瀬戸内海はもちろんのこと、四国周辺海域の鎮守もこちらが請け負っています。佐世保ではカバーできません。我々の戦力が削がれればこちらでの実施も覚束ないこととなります。それとも、あなたはこういう意図でいらっしゃるのですか?「徳島・愛媛・高知・うどん県は涙をのんで海を深海棲艦に明け渡してくれ」と?』

 

 彼女が選んだのは呉への愚弄を責めることではなく、業務上立ち行かなくなる、という根本的な指摘だった。が、アレ?と夕張は思った。提督も思ったのか、眉を顰めて首をかしげている。

 

「……おかしいな、俺が知っている四国はうどん県の代わりに香川県があったはずだが」

『うどん県が何か?』

 

 夕張はその場で耳をトントンと叩き、耳がおかしくないことを確認した。そもそも、提督も同じく聞こえていたのだから疑問を差し挟む意味もなかったことに気づき、更に首を深く傾げた。

 彼女は耳が良く、それが密かな自慢だった。その長所を存分に活かせるのが対潜である。他にも機微に聡くなるといった利点があったし、だからこそ彼女は教官役に落ち着いていられるのだ。機微に疎くては務まらない。

 ともかく、この押し殺してもなお通る声は“香川”ではなく“うどん”と言っているらしい。それは確かだった。

 

「いや、うどん県じゃなくて香川県だろ」

『うどん県じゃなくてうどん県?……イントネーションの話かしら?』

「お前の耳は本当に器用だなぁ、んン!?」

 

 どうやら”香川県”という単語が”うどん県”に置き換わって聞こえているらしい。夕張はそれにも引いたが、どこか納得していた。彼女達の食い気は物凄いからだ。

 

 航空母艦組は艦娘の中でもとりわけ大食いだ。それは使用する物資の量を揶揄しているだけではなく、本当に大食いなのだ。消耗が激しいのか、本当によく食べる。艦娘は皆それなりによく食べる方だとは思うが。夕張自身も佐世保バーガーを平らげた後にデザートを頂いてしまうくらいには食う。

 ……あれは二航戦だった。一航戦は配備されてから呉で練度を高め、その過程で瀬戸内海の平定に成功したのだが、遅れて配備された彼女たちはやはり佐世保に研修、いや今はそういう名目だがかつては違う、増援に来ていた。

 ……あの二人は本当によく食べた。聞けば一航戦はそれ以上に食べるというのである。この時点でもう一航戦は途轍もない大食いと分かった。だから彼女達は一見マトモに見えても一皮剥けば食欲魔神なのだ。これもその表れだろうか……と夕張は下世話なことを考えていたのだが、

 

『冗談です。……まさか本気で言っているとでも?』

 

 夕張はずっ、と足元が滑りそうになるものの、そこをなんとか踏み止まる。新喜劇じゃあるまいし、と体勢を立て直すが、一方提督は椅子からずり落ちそうになっていた。

 

「……本気に聞こえるからやめたほうがいいなぁ!?」

『少しはユーモアを覚えたほうが愛嬌は身に付く、と赤城さんが言っていたのですが……どうも私には向いていないようですね』

「ああ向いてないな!何言っても本気に聞こえるからな!」

『そうですか。そちらは冗談が似合いますね、先程のも御冗談ということでよろしいかしら?』

「うん……うん?あ、いやこっちは本気――――」

『ジョークを披露して頂けて大変嬉しく思います。それでは、ご健勝で』

「あ、いや、ちょっと待ってくれ」

『失礼します』

「ちょ……あ」

 

 提督が食い下がろうとするも、あちらからの音は無機質なツー、ツー、という音。切られたらしい。

 執務室に不通の音が響き渡り、ややあって提督は受話器を下ろした。

 沈黙が場を包み込むが、それもしばらくのこと。提督は口を開き、

 

「…………まぁ、言う分にはタダだ!」

「時間は無駄になりましたけどね!」

「た、タダで手に入るものに限りはあるって学習できた!無駄じゃなかったな!」

「今までの人生で何を学んできたんですか提督!?」

 

 と、大井が気を失っている間、鎮守府の人気者と馬鹿者はこうしてワイワイと騒いでいるが、無論だが大井はそんなことは知らず、夢想の中で北上を探し続けているだけだった。



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