民間軍事会社"鎮守府" (sakeu)
しおりを挟む

第1章 厳冬


他の作品も投稿していますが、つい出来心でこれも投稿してしまった…………




「提督、そろそろ仕事を終えたらどうだ」

 

 目の前の大量の書類を捌く俺に声が降ってきた。

 

「もう、二三〇〇(ふたさんまるまる)だ」

 

 もうそんな時間か…………俺は軽く息を吐いた。

 デスクワークも中々に疲れるものである。

 いや、別に俺の仕事が遅いとかと言うわけではない。自分で言うのもなんだが要領はいい方だと思う。しかしながら、その能力を持ってしてもこの山のような書類を1日で捌くのは大変なのだ。

 今日の仕事の成果、艦娘たちの状態、装備の確認票、警護の依頼…………1日分だけでも大量の書類が届く。いかに、大変かは想像に難くないだろう。

 だが、現地で戦っている艦娘達の方が大変である。こっちはどれだけの量の書類が来ようとも命の危機に瀕することはない。しかし、実際の戦場で謎の敵ーー深海棲艦と戦う艦娘達は常に生死を伴っている。

 今日とて、貿易船の護衛に艦隊を派遣したが戻ってきたときにはある程度負傷し、入渠させた。

 ただ、秘書艦である長門の言う通り、時間ももう遅い。明日とて執務をしなければならない。俺は依頼書に目を通したところでぐったりとなり、もう一度息を吐いた。

 ふと、カレンダーに目をやり、日付を確認した。

 

「…………もうすぐ一年か」

「一年って…………あぁ」

 

 俺が呟いたことに長門は同調した。一年とはこの艦隊が組まれてから一年と言う意味である。

 最初は数名だったここもあっという間に立派になったものである。その時になったら記念祭でもやらないといけまい。

 

「変わったもんだ。ここも。俺も」

 

 急に立ち上がり、そう呟いたものだから長門は少し驚いた表情を見せた。

 

「たしかにここは変わったが…………提督は変わってないぞ」

「はは…………進歩してない、か」

「そう言う意味じゃないぞ!」

「分かってる分かってる、疲労回復のために君を揶揄っただけ」

 

 そう言うと、長門は少し微笑しながら感慨深そうに呟いた。

 

「本当に変わってないさ…………」

 

 

 

 

 補足しておこう。

 俺はこの鎮守府の提督を勤めている。鎮守府と言っても海軍の軍事機関ではなく、民間軍事会社であり、勝手にこっちがそう名乗っているだけである。そこにおいて、俺は社長、海軍ぽく言うなら司令官、提督と言ったところである。

 提督と言ったが、出身は陸軍であり、そこで色々あって今の鎮守府ーー民間軍事会社を立ち上げた。

 民間、と言えども主な商売相手は一般人ではなく国である。もちろん、平和主義を唱える日本の憲法を犯そうなど微塵に思っていない。こちらが提供するのは安全であり、武力ではない。しかし、深海棲艦から守ることができる機関はここぐらいのため多くの依頼を受けている。

 先程から、艦娘だぁ、深海棲艦だぁと言っているがこれも説明しておこう。

 

 まずは深海棲艦のことからだ。深海棲艦とは突然海から現れる敵。それだけである。他には…………艦隊を組んで仕掛けてくるとか…………うーむ、思いつかない。それぐらいに情報がない。分かるのは精々、俺たちの味方ではない。味方なら攻撃とかしてこないしね。

 

 次に艦娘。艦娘は謎の妖精さん達と人間の科学によって生み出された特殊兵士。妖精?ふざけているのかと言いたいのかもしれない。いや、まぁ…………たしかにそうだけど…………しかし、人間に艤装を取り付け、海上を滑るように移動する技術が人間で生み出すことができるだろうか?見た目は手のひらサイズの妖精さんだが…………恐ろしいテクノロジーを持っている。人間の科学とか言ったがそれは全体の1割もあるかないかだ。

 まぉ、それによって生み出される艦娘は普段は人間と相違ないが、艤装をつければ船一隻分の武力を有する。しかし、かかる燃料は艦娘1人につき艤装と人間1人の食事分。なんという低燃費。それ故に日本政府はたくさんの艦娘を生み出そうとし、表向きは希望制で人を実験に妖精さんの技術を埋め込んだ。結果から言うと成果は3分の1の確率。その結果から、政府は頭を抱えたが、実は妖精さんが指名した人のみが艦娘になれることが判明(その指名した人が全員女性だから艦娘となったんだが)。それを機に政府はじゃんじゃん艦娘を生み出した。

 しかし、それが簡単に許されるわけがない。人権侵害として艦娘達は反旗を翻し訴えた。結局、一般人に戻ったり、それでも軍に所属するものに別れたのだが…………そうは簡単に問屋がおろさなかった。人ならざる者に人々は怯えて、馴染むことはできなかったのだ。

 

 それと同時期に俺は陸軍として陸上に侵入してきた深海棲艦と戦っていたのだが…………非人道的な作戦を命令されたことで反抗。ストライキを起こし、俺も含めていくつかの部隊は解散させられた。

 いきなり無職となった俺に声をかけたのが昔ながらの知り合いの長門で、彼女とともに行き場の失った艦娘や兵士を社会復帰させるための団体を立ち上げたのだが…………もう、戦闘に駆り出されるのは懲り懲りなのではと思っていたのだが、そうではない者が多く、人を守るために戦いたいという要望の下、この民間軍事会社を立ち上げた。と言うのが、ここの概略である。

 

 ちなみに、俺はこの職場の中では年長の方に入る。鳳翔さんとかは俺よりも年上なのだが…………基本的には俺よりも歳下が多い。俺とてまだ若いのだが、そんな俺よりも若く、そして女の子達が深海棲艦に対抗できる唯一の人たちなのだから嘆かわしい。

 

 さて、と書類を小脇に抱え辺りを見回せば、当然ながら静寂が広がっていた。

 

 昼間は主に駆逐艦などで賑わう鎮守府だが、今の時間帯では完全にお休みモード。ここで目を開けているのは俺と長門くらいである。

 

 ここに所属する艦娘達は基本的にここの寮を利用している。基本的にと言ったが、全員と言うのが正しい、か。

 地方都市に過ぎないこの町にある鎮守府だが、日を追うごとに艦娘達の人数を増やしている。いずれ、全艦娘がここに来るのでは?と妄想してしまうが、現実に起きそうで笑えない。

 それぐらいに日本政府は艦娘を生み出した。

 それだけしておいてアフターケアもしないのはどうかと思うがそう言ってもキリがない。どうにかしろと言っても実情は変わらない。だから、この鎮守府を立ち上げた。やらない善意よりはやる偽善である。

 

「提督、いつまでボーッとしてるんだ。早く見回りに行くぞ」

 

 そう言い、彼女は先に寮の見回りへと行った。

 長門。俺と同い年であり、孤児院からの仲である。凛とした立ち振る舞いで軍人気質な彼女で有るが、戦場では勿論、秘書としても有能で美人な艦娘である。彼女を慕う艦娘も少なくない。

 俺は書類を机に置き、長門に続くように執務室を出た。

 

「ボーッとはしてない。今後の日本の展望に憂いていただけだ」

 

 言いながらドアを閉じれば、ライトをすでに準備していた。まことに手際が良い。

 

「ボヤくのもいいが、頭の中にしてくれ。ただでさえ、変人だと重巡達が面白がっているんだ。気をつけないと仕事に差し支えるぞ」

「部下達を思って世の中を憂う上司を変人扱いするとは…………理不尽だな」

 

 聞こえよがしに呟きながら、俺は足を進めた。まぁ、俺を面白がっている話は今に始まったことではない。俺は気にせず、それっぽい行動をしていればいい。

 長門は、苦笑を浮かべつつ俺の横を並びながら歩みを進めた。

 駆逐艦寮を過ぎ、軽巡寮へ来たところで、張りのある声が聞こえた。

 

「夜戦〜夜戦しようよ!」

 

 静寂な空間があっという間にぶち壊された。

 

「ああ、三水戦か…………」

 

 ほかの軽巡達が迷惑そうに顔を出した。声のする部屋のネームプレートを見る。言わずもがな"川内"の文字が目に入る。

 

「あー、どうにかするから、寝ててもいいぞ」

「もう、部屋を遠くにしてくださいよ…………」

「そんな余裕はないんだ、我慢してくれ」

 

 何度も注意してるのだかな…………

 

「流石に限界だな。提督、たまにはお灸を据えてやるのも大事だぞ?」

 

 そう言われながら他の部屋をちらりと見る。軽巡の熊や龍もうなずいていた。彼女達も限界のようだ。

 蛇足だが、先程の2人はここで働き始めてまだ1ヶ月も立っておらず、名前からの印象で勝手に頭の中で読んでいるだけだ。熊の方は語尾にクマーとかつけているのであながち間違いではないだろう。当たり前だが、口には出さない。

 騒ぎの部屋から神通がちらりと俺を見た。流石の妹でも限界らしい。

 

「すまないな、今回ばかりは俺から注意しよう」

「川内姉さんがすいません…………」

「神通も夜戦しようよ!提督に言えばどうにかなるって!」

 

 言っているそばから川内のやかましい声が聞こえる。声に気づいた神通が申し訳なさそうな顔をする。

 

「とりあえず、静かにさせないと…………」

 

 女性の部屋に入るのは気が引けるが今はそんなこと言っている場合じゃない。他の娘の仕事にも支障が出る。

 唯一明かりのついた部屋には、1人目を爛々に輝かせ制服を纏った彼女はいつでも出撃できると言わんばかり。しかし、俺を見つけると固まった。

 一瞬の沈黙。そしてため息。

 

「や「夜戦はしないぞ」えー…………」

 

 川内が言い切る前に俺は遮るように言った。

 

「あのなぁ…………夜戦の演習は週に1度だけと決めているんだ。それ以外の日はしっかりと寝て次の日に備えろ」

「でも、足りないんだよぉ〜」

 

 しかし、相手も食い下がらない。すると、長門も一歩出て、

 

「足りない、足りるの話ではない。そもそも夜戦は無闇にするものではない。三水戦、君が無理を言った上で週一に夜戦の演習を入れてもらったのだろう?」

「で、でも…………」

「それ以上我儘言うのなら、折檻を受けるか?」

 

 実に有能である。

 先程まで威勢の良かった川内は"折檻"と言う言葉に黙り込んでしまった。ここで言う"折檻"は周りより少し訓練がきつくなるだけだ。いや、むしろ長門と一対一で教えてもらうのだからいいのかもしれない。と思うのだが、そうじゃないらしい。

 

「分かったのなら、これからは夜は静かに、な?」

 

 俺はできるだけの注意をして、長門を顧みた。彼女は拍子抜けした顔を少し見せた後、不満気な顔をした。

 どうやら、俺の注意に不満があるらしい。

 俺は川内の部屋を後にして、まだ残っている寮の見回りへと向かった。

 部屋を出る前に、ふと時計を見る。

 二三三〇(フタサンサンマル)

 今日は比較的早く寝れそうだ。

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 眠い…………。

 一生懸命瞼を上げようとするが中々上がらない。気を抜けばすぐに閉じて夢の世界に旅立ちそうだ。

 ちなみに11日間眠らずにいたと言う高校生がいたらしい。その青年は薬も使わず自然な状態で11日間も起きていたそうだ。しかし、徐々に障害が出始め、妄想、果てには言語障害も出たそうだ。もちろん、そんなことに挑戦しようなんぞ微塵も思わない。

 いずれにせよ、この睡眠への欲求をどうにか振り切らなければと思考するが、思考すればするほど意識が彼方へと消えそうになる。

 執務室のソファに斜めに寝そべったまま時計を見るが、時刻は〇七〇〇(マルナナマルマル)少し前…………

 実は昨日の夜戦騒ぎの後、やり残した書類を思い出してそれを処理していたのだ。最初は今日に回そうと思ったのだが、気になって寝付けなかったのでついやってしまった。そして、他の書類にも手を出し…………結局、気づけば朝日が見えていた。1時間半程度仮眠を取ったが、全く足りない。

 これから執務があると思うと余計に眠気が強くなる。

 

「7時になりましてよ?ちゃんと目をお開けなさいな」

 

 いいとこの育ちを感じさせる声が夢へと出発しかけた俺を引き戻した。

 未だに開けることに抗う瞼を無理やり開き、体を起こすと栗色のポニーテールの女の子が軍事会社なのにブレザー姿を纏い立っていた。

 服装は別に自由、としているので今さら突っ込まない。

 

「すいません、お嬢様。ここは関係者以外立ち入り禁止となっていまして、貴女のような高貴な方が来る部屋ではありません…………」

「馬鹿なことを言いませんの」

 

 とお嬢様口調で返された。

 この、ただでさえブレザー姿で軍事会社とはあるはずのない組み合わせに、どこかの金持ちのごとく品のある様相を見せる艦娘が熊野である。

 昨日の熊とはまた別の熊であるこの艦娘は、この会社を設立してからの数少ない初期メンバーの一員だったりする。さらに言えば、陸軍時代にも接点があり、共同戦線を張っていたりする。戦闘中、「とぉぉ↑おう↓」と奇声を発する姿を見て、あまり関わらないようにしようと思っていたのだがどういう奇縁か、設立時に長門が連れてきたメンバーにこの熊野がいたのだ。

 

「御機嫌よう、重巡熊野ですわ」

 

 と言う自己紹介に始まり、エステだぁ、夜更かしは肌の天敵だぁなどと俺の頭を悩ませた艦娘の1人であったりする。

 

「流石、"変わった提督"ですわ。戦果は右肩上がり。感謝の手紙もたくさんありますわよ」

 

 と言いながら、馴れた手つきで紅茶を2人分淹れる。

 紅茶はお嬢様の大好物だ。

 ちなみに、俺は朝はコーヒー派である。無論、お洒落な重巡がコーヒーを淹れてくれるわけもない。長門の場合はコーヒーを淹れてくれるのだが…………彼女は見た目に反してかなりの甘党で、これでもかと言うほど多量の砂糖を投入する。やたらと甘い長門ブレンドはブラック派の俺には徹夜明けで判断力が鈍っている時以外とても飲めたものではない。

 

「また、どこかのバカが大騒ぎしていたんですの?」

 

 と、俺の向かいに腰を下ろした。

 徹夜でかなりの疲労状態である俺は、答えるのですら億劫で黙って紅茶をすする。…………いまいち紅茶は好きになれん。

 

「また、遅くまで執務をしていましたの?とてもひどい顔をしていますわよ」

「…………そう思うのなら、疲労困憊な俺を労う意味でも、コーヒーを淹れてくれた方が嬉しいんだが」

 

 聞こえよがしにそう言うものの、俺の苦情など、お洒落な重巡には全く通用しない。クスクスと上品な笑いが返ってくるだけ。

 実際、川内がここに来てから俺の就寝時間は短くなった。川内のことを他の艦娘たちは「夜戦バカ」と言って随分と迷惑がる。「川内の部屋が近いと眠れない」と、軽巡の者たちが口を揃えて言う。中には川内の夜戦騒ぎに対策するために耳栓を買った者がいるくらいだ。

 しかし、彼女は昼間はしっかりとしているため、余計に注意しづらい。

 俺はソファにもたれかかり、窓の外へと視線を向けた。

 

「だいたい政府が無闇に艦娘を生み出すから、かくも多くの者が集まって、許容を超えた仕事をしなければならないんだよ」

 

 窓からは海が見え、それなりの景色である。とそれはいいか…………

 ここは艦娘を無条件に受け入れ、艦娘が社会復帰できるようにサポートする、それが当初の目的だったはずが今では全員雇い、日々海へと駆り出す始末である。

 

「過ぎたことを言ってもどうにもなりませんわ」

 

 そう言い、手に持ったカップを下ろした。

 

「今ではどこも艦娘を怖がってまともに対応してくれませんわ。そんな中でこうして艦娘を受け入れると言う理念を貫いていることは、それだけでも素晴らしいことですわ」

「分かっているさ。俺は長門に賛同して今こうして働いている。でもな…………」

 

 漏れるのはため息ばかり。

 この鎮守府を創立して以来、誰一人拒否することもなくやってきた。最初こそは周りと馴染めず肩身の狭い思いをしてきた艦娘がやってきたが、次第に海上自衛隊の方から現役バリバリの艦娘たちがやってくるようになった。

 無論、それを受け入れるのがここの理念である。

 その結果、艦娘の社会復帰へのサポートと言う面は完全に民間軍事会社の面に隠れ、事実上の蒸発に至った次第である。

 

「そう、落ち込まないでくださいな。わたくしたちはこの国を支えている。やり甲斐のある仕事じゃありませんの」

 

 揚々とそのセリフを言う彼女を俺は少し驚きながら見た。

 

「その底抜けに前向きな思考は、熊野のいいところだな」

「あら、わたしくしに惚れましたの?」

「真に受けるな。眠気ゆえの戯言だ」

 

 そう言うのものの、熊野はどこ吹く風、相変わらずクスクスと微笑している。

 そのお嬢様が急に神妙な顔つきになった。

 

「ところで提督、聞きたいことが…………」

 

 声と小さい。先程までと打って変わり、妙にしおらしくなった。

 

「鈴谷がここに配属されると言う噂を聞いたのですけど…………本当なのかしら?」

 

 熊野の意図を汲みきれず、首をかしげる。

 

「…………鈴谷と言うのは重巡の?」

「そうですわ。最上型重巡洋艦3番艦の鈴谷ですわ」

「最上型…………」

「お気づきになりました?」

 

 最上型、ねぇ…………ああ。

 俺がようやく理解したことに気づいたのか、

 

「それが本当なら友として嬉しいことですわ」

「どうりで妙な話し方をしていたのな」

 

 熊野は最上型重巡洋艦4番艦。そりゃあ、どこか接点があるはずだ。

 鈴谷、たしかにこっちに配属されるという書類を見た。配属日は受け取って一週間後だったから…………明日か。まぁ、職場に昔からの友がいるといないでは精神的には大きな差が出るだろう。

 

「で、本当ですの?」

「ああ、鈴谷という艦娘が配属されるのは本当だ。明日にはくるだろう」

 

 それにしても、基本的にお嬢様らしく慎ましく振る舞う彼女が珍しくウキウキしてるのは面白いものである。

 

「もちろん、歓迎会をするのでしょう?今回は私が計画してあげますわ!」

 

 言っておくが、今まで歓迎会を催したことはない。紹介などはしていたが、基本的にはそのままというのが普通であった。

 

「歓迎会って、何をするつもりだ?明日はそんな暇はないぞ」

「分かってますわよ。でも、鈴谷に提督を紹介するのも悪くありませんわ」

「最初は顔と名前を知っとけりゃぁいいだろ」

「お茶会を開くのもいいですわね」

「人の話を聞け」

 

 勝手に決まっていく熊野の歓迎会をよそに 俺はカップの中の紅茶を飲み干して立ち上がった。

 昨日徹夜したと言えども、まだ業務がある。

 

「あら?逃げますの?」

「仕事だ。工廠に用があるんだ」

「そう…………明日、鈴谷と会うときは必ずわたくしも呼んでくださいな」

「好きにしろ…………」

「別に鈴谷にわたくしと提督の関係を教えてあげてもよろしくてよ?」

「関係を教えるって…………部下と上司というだけだろうに…………」

「あら、照れていらっしゃるの?」

「…………何を?」

 

 だんだん馬鹿らしくなってきた俺は、背後で頬を赤らめる重巡を無視して、執務室を出た。眠気は無くなったが明らかに頭痛が出始めた。

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 この鎮守府の従業員というか…………所属者は基本的に女性が大半である。まぁ、艦娘を採用しているのだから当たり前っちゃあ当たり前なのだが。そんな中での男は俺の他に1人いる。その人は俺のキャリアを遥かに超える超ベテランの老輩で、今は工廠で長を務めている。

 その人は橘さんという人で見た目は小柄で好々爺のような人物で、工廠を担当する艦娘達からは慕われている。

 しかし、見た目とは裏腹に驚くべき技術を持ち合わせており、かつては海上自衛隊で技術曹を務めていた。

 よって、女所帯のこの鎮守府には、俺と橘さんしか男がいない。つまり、主戦力は艦娘。ていうか彼女たちしかいない。俺だってまだまだやれるのだが…………半ば強制的に退役させられているのでどうしようもない。

 無論、最初は復帰しようとしていたが、何故だか許されず結局今の形に収まっている。

 まぁ、周りの艦娘たちからは変人扱いされたりするが、別段不満もなくこうしてまもなく1年を迎えようとしている。

 

「おや、提督さん…………見回りですか?」

 

 熊野を振り切って執務室から、工廠へと顔を出した途端、早速弱々しい声が聞こえてきた。

 工廠の片隅で、作業していた橘さんが微笑んでいた。ひょろりと手を上げ、こちらへと歩いてきた。

 

「橘さん、体調は大丈夫ですか?」

「体調?ハハ、絶好調ですよ。提督さんこそ、いつも遅くまで仕事お疲れ様。何か用事で?」

「ええ。橘さんではなく明石に用事がありますから、たまには休んでください。3日も工廠に泊まり込んでいらっしゃるのでしょう?」

「ハハ、もう3日になりますか」

 

 あまり大きな声ではないものの、しっかりとした声、年季のある振る舞い…………。橘さんと話すと、何故か敬語になってしまう。

 

「ちょうど作業も終わりましたし、お言葉に甘えて今日は休ませてもらいます」

「そうしてください。それと明石はどこにいますか?」

「彼女なら夕張さんと何かおもいついたようでずっと部屋にこもってますよ。何でも世紀の大発明らしいですよ」

 

 ハハと、笑う橘さんはまるで孫のことを話しているようだった。たしか、橘さんは結婚しておらず、子供がいない。

 ふらりふらりと歩く橘さんを見送って、俺は明石のいる部屋へと向かった。

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 工廠には様々な装備が転がっている。しかし、どの装備も俺が扱える代物ではない。

 そして、奥の部屋からは何やら作業音と話し声が聞こえる。

 ドアをそっと開け、部屋に入るとそこには2人の女性が工具を持って何やら作業をしている。あまりに夢中になっているせいか俺が部屋に入ってきたことに気づいていない。

 

「ここをもっと大きくすれば火力が大きくなりますよ!」

「うーん。そうすると爆発する可能性が…………ま、陸奥さんなら大丈夫かな?」

「そうですよ!さぁ、もっと火力を…………」

 

 また、良からぬ装備品でも開発している。この前、長門に叱られて、長門式特訓法をフルで受けたばっかりというのにまだ懲りていないのか。「二度とこんなことはしません」と泣きながら言っていたのが記憶に新しい。

 川内に続く、この鎮守府の悩みの種である2人の艦娘ーー明石と夕張はほぼ真後ろにいる俺にも気付かず魔改造を施している。

 夕張は病気的なまでに火力に執着している。彼女に好きに改造を頼むと大体火力を底上げして他の性能が捨てられる。掃除機の改造なんか吸引力が高すぎて、部屋が無茶苦茶になった上に掃除機自体が爆発した。

 対する明石はオリジナリティを求める。無論、そのオリジナリティにまともなのがないが。「研究者は探究心が大事なんです!」と、様々な創作品を作ってくるがどれも実用的ではなかった。

 言っておくが資材は会社持ちである。この鎮守府の出費は食事費が一番だが、開発費も安くはない。食事費はみんなによる出費に対して、開発費は大体この2人によるものである。

 ゆえに、これは見過ごせないことであり、注意どころか罰則を受けるべき事柄である。

 よってやるべきことは

 

「明石、夕張何をしている?」

「ひゃっ!?て、提督!?」

「こ、これは…………その…………陸奥さんに頼まれまして」

「陸奥はそんなこと頼まない。それにお前たちの会話はさっきまで聞いている」

「で、でも、これが完成すれば役に立つこと間違いなしですよ!」

「あのなぁ…………明石、それを言って役に立ったか?反省していないのなら長門に報告するぞ」

「「すいませんしたー!」」

 

 長門、恐るべし。一体どのような特訓をさせればこうなるのだろうか。

 

「次からは自分たちの費用でするように。分かったな?」

「「は、はい!」」

 

 俺は踵を返し、部屋を出た。数歩進んだところで本来の用事を思い出し、再び部屋に入った。

 

「そうそう、明石。明日新しい娘が来るから重巡用の装備を準備しておいてくれ…………って、何をしている」

「…………い、いやぁ、そのぉ…………」

 

 部屋に入ってみれば作業を再開していた。成る程、こりゃあお灸をすえないといけまい。

 

「これは橘さんに報告しておく。あと、明石さっき言ったこと忘れないように」

「た、橘さんに!?そ、それだけは勘弁してください!!」

 

 青ざめて訴える2人を後にして工廠を出て、また執務室へと向かった。

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 執務室に戻ると、電が冊子を持ってソファに座っていた。

 ここの駆逐艦は皆幼いため、毎日日替わりで日直のようなものを担当してそれぞれの体調を確認して冊子に記入し執務室に持って来るようにしている。ちなみに冊子には他にも日記なども自由に書けるようにしており、本当に日直日誌のようになっている。

 日誌を持ってきた電は人思いで健気な娘である。いつも、会う度に丁寧に頭を下げて挨拶してくれる。その可愛らしい姿ゆえにほかの艦娘からも人気がある。

 長門なんかは完全に彼女の虜(駆逐艦には基本的に虜だが)なため、いつも頭を撫でたりしている。

 

「司令官さん!日誌なのです!」

 

 とにこやかに日誌を渡す姿に、長門の言うことに賛同する。

 成る程、俺の心が洗われる。

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 電が部屋を出た後、俺は早速日誌を開き内容を読んでいた。可愛らしい字が並んでいる。

 

「何をしているの?ニヤニヤして気味が悪いわ」

 

 日誌を読み、再び心が洗われていると、前から声をかけられた。

 顔を上げると、電と同じ駆逐艦の叢雲が立っている。

 

「小さい子の日誌を読みながらニヤニヤする司令官…………変態ね」

 

 変人の次は変態ときたか…………

 それにしても、出会って早々この言い草である。

 

「微笑ましいことに対して微笑んでいるだけだ」

「そう。執務室を放っておいて何をしていたのかしら?」

「明石のところに行ってたんだ。今度新しく来る娘のために装備を準備してもらうためにな」

 

 そう、と呟いて、叢雲はソファに腰を下ろした。今日の書類を仕分けしている。

 

「それにしても、明石と夕張の開発はどうにかならんのか…………」

「また、改造でもしてたの?」

 

 俺は黙ってうなずいた。

 叢雲は幼い子が多い駆逐艦の中でも、大人びており駆逐艦の中で唯一、秘書艦代理などを務めることもある極めて優秀な艦娘である。ちなみに彼女も設立時の初期メンバーである。頭がいい上、どんな事態にも絶対に慌てない冷静さに定評がある。少々キツイことを言う時もあるが、いくつもの修羅場に、少なからず世話になった。

 その切れ者叢雲が珍しく浮かない顔をしている。

 

「どうした?」

「新しく入ってくる娘のことなんだけど…………」

 

 叢雲が少し声を落として話したことによると、新しく入ってくる艦娘ーー鈴谷は海上自衛隊の下で前線で戦っていたそうだ。しかし、そこで上司からの嫌がらせーー所謂セクハラというのを受けていたらしく、人間不信に陥っているかもしれないとのこと。

 

「なら、俺はあまり彼女と関わらないようにしてあげたほうがいいかもな」

「そういう問題じゃないでしょ。ここの真の目的は社会復帰よ?」

 

 あきれ顔の叢雲である。怒った顔も様になる。

 

「私としてはここでちゃんと克服して、社会復帰して欲しいのよ」

「ほぉ、で、ここの長である俺に言ったわけなんだな」

「そうよ」

「鈴谷、だったな。熊野の友人でもあるらしいし気に留めておこう」

 

 ふと、日誌をめくる手を止める。

 

「どうしたの?」

「いや、熊野の友人ならお嬢様っぽいのかなって」

「…………あのね、あんた、酸素魚雷でも受けたいの?人が真面目な話をしているのに」

 

 ムッとした叢雲は俺を睨みつけた。

 あまりに疲労が溜まっているせいか、考えていることがそのまま口に出てしまったらしい。

 

「あんたは、ただでさえ変な人だって言われてんだから、人の話くらい真面目に聞きなさいよ。いい加減私もフォローしきれないわ」

「俺はいつも真面目だ。むしろここまで部下を思って悩む上司を変人扱いする方がおかしいんだ」

「だいたい、死にそうな顔をして仕事しているから変人扱いされるのよ」

 

 理不尽な物言いだ。だいたい戦闘員の俺にこんなデスクワークをさせるからダメなんだよ。俺を教官にでもしたらもう少しマシだなろうに。

 

「俺とて好きで死にそうになりながら仕事してないんだ。そもそも俺が変人扱いされようが君の知ったことではなかろうに」

「ええ、そうよ。でも、私なりに…………」

 

 と叢雲は口をつぐんだ。

 

「ん?」

「なんでもないわよ!」

 

 と怒鳴りつけられた。やっぱり理不尽だ。そして、叢雲はため息混じりに

 

「心配しているのよ。戦いじゃあ、天才なのに、変なところで自覚が足りないんだから」

「戦い以外にも得意なことはあるぞ」

 

 この後の沈黙はより一層叢雲をムッとさせた。

 何か言おうとした叢雲は、しかし大きなため息と冷ややかな視線を残して何処かに行った。

 うーむ…………。

 疲労のせいにするのもよくないかもしれないが失言が増える。変なことにこだわってしまう。あとで叢雲に詫びを入れないとな。

 俺は大きくあくびをして時計を見た。

 〇九〇〇(マルキュウマルマル)

 再び睡魔に襲われるが、これからの執務を放っぽりだすわけにもいけない。

 もう一度大きくあくびをしたところで、いきなり目の前にコーヒーが置かれた。

 

「ま、せいぜい頑張りなさい」

 

 顔を上げれば、どっかに行ったと思われる叢雲だった。

 カフェインの匂いが俺の気力を復活させた。

 一口飲んで息を吐く。美味い。

 これがコーヒーだ。長門のように馬鹿みたいに砂糖を入れるものではない。

 うまそうに飲む俺を見て、叢雲は微笑していた。

 

「元気は出たかしら?」

「ああ。だが、コーヒーだけでたぶらかされる俺じゃないぞ」

 

 叢雲の微笑が凍りついた。

 身を翻して執務室を出ようとした叢雲は、振り返りもせずに、

 

「やっぱり一度酸素魚雷を撃ち込んだ方がいいかもね」

 

 カフェインで目が覚めたわけではないらしい。




気分転換と言う割にこの量である。何かアドバイス、感想がありましたらよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



思いの外見てくれる人がいたので続きを投稿します。


 青空に雲が流れている。

 今さっき、駆逐艦への授業が終えたばかりだ。前にも述べたように、駆逐艦は幼い。それ故に、まともに教育を受けた者が少ない。

 そこでこの鎮守府で教育を施そうではないか、と長門の言葉により、俺は教育をほど施す側となるために一から勉強までして授業を始めた。

 最初こそ、俺1人で授業をしていたが、艦娘が増えるにつれ、代わりに授業をしてくれる者も現れた。

 俺も時折するのだが…………今日という日はタイミングを恨んだ。

 あまりにも眠すぎて授業になったかは定かではないが、時折「司令官!」と言われたので多分寝ていたりしたんだろう。

 座学は俺、演習は長門と役割分担しているのだが、ぶっちゃけ演習の方を担当したい。一度長門にそう掛け合ったのだが、座学は苦手なんだと断られてしまった。俺も得意ではないのだが…………

 まぁ、駆逐艦によって疲れは癒されないものの、その無邪気さに心が洗われるのでよしとする。

 ソファに横になり、窓の景色を眺める。

 青い空に青い海。

 しかし、その青い海の向こうにはたしかに奴らがいる。奴らによってどれだけの命を奪われただろうか。どれだけの兵士が犠牲になっただろうか。奴らによって、少女たちは無理矢理艦娘となった。でも、今は艦娘たちのお陰で被害は抑えられている。何という皮肉だろうか。

 俺とて、艦娘のように戦場に立って戦いたい。でも、それはできない。そのことはあの日嫌という程思い知らされた。叫んでも、力を振り絞っても、どれだけ鍛えても俺では奴らには勝てない。

 どれだけ屈辱だろうか。守るべき子供たちを戦場に送り出す気持ちは。なぜ政府はそんなことも思えなかったのか。

 多分、これは罪滅ぼしなんだろう。守るべき者を戦場へ送り出す者として。

 少しずつ睡魔に飲まれて行く俺は発足したばかりの鎮守府を思い出していた。

 

「鎮守府」

 

 古びた建物にただ3文字大きく書かれた看板を掲げた。

 元々はかつて海軍が使用していた本物の鎮守府なのだったが、民間軍事会社と変わった。

 最初こそはあまりにも広大な敷地に驚いたが、今では拡張工事が必要なほど艦娘たちでいっぱいとなった。

 

 "艦娘だって人間だ。だから、艦娘が社会に戻れるようにしたい"

 

 かつて、長門が俺に言った言葉だ。その言葉は今の鎮守府を型作る礎となっている。

 

 "貴方だって苦しんでた。私も苦しかったがそれ以上に貴方は苦しんでいた"

 

 これは俺に向けて言われた言葉か…………どう思うんだろうか。昔の俺を知らない艦娘たちが昔の俺を見たら。

 あの頃は自分では孤独だと思っていなかった。そんなこと考える余裕がなかった。今となったら、孤独な奴だとはっきり言える。

 あの時の傷は未だに残っている。治ることは永遠にないだろう。できるのは隠すことだけ。

 変に感傷的になってしまった。

 一一三〇(ヒトヒトサンマル)

 仮眠を取ろうかと思ったが変に目が覚めてしまった。しかし、寝なければ午後を乗り切れる気がしない。無理矢理目を閉じて、寝ようとした。

 その時に、

 

 "テイトク、テイトク…………"

 

 と奇妙な声が聞こえた。

 思わず耳を澄ます。この声は…………ドアの方からか。

 

 "テイトク、テイトク!"

 

 とうとう大声となってしまったので俺は起き上がった。

 

「その声は、金剛か」

 "イェース!ワタシデース!金剛デース!開けてくだサーイ!"

 

 金剛、高速戦艦の彼女は戦艦として主力でして働いてくれるのは勿論ながら、他の戦艦よりも速く動くことができ回避性に優れる艦娘である。

 性格は明朗快活を具現化したような娘で、どんな時でもめげない精神力を持つ。また、四姉妹の長女であり、リーダーシップ性も高く評価している。

 イギリスからの帰国子女らしく、妙なカタコト口調で話すが英語が話せるということで、よく英語圏の国相手の対応を頼んだりしている。

 

「もうすぐ12時デース!ランチの時間ネー!」

 

 言われてみれば朝からまともに食べていない。急激にお腹が空いてきた。

 ちなみに金剛が部屋に自分で入れないのは執務室のドアに鍵をかけているからだ。鍵を開けれるのは俺と秘書艦の長門と時折代理を務める叢雲だけである。

 鍵をかけている理由は、艦娘があまりにも入り浸るのでそれを見かねた長門が執務に差し支えるとうことだ。

 

「グフフ…………どうやら長門もいないようですネー。今、1人ですよネ?ワタシとランチにしましょう!」

 

 今は睡眠不足。仮眠はとっておきたい。今日とて書類も沢山ある…………

 しかし、睡眠不足が解消されたところで空腹では意味がない。

 そうなれば答えは1つである。

 

「いいぞ。一緒に昼飯を食べよう」

「本当ですカ!?やったネー!!」

 

 喜びの声が聞こえる。しかし、なぜか前よりも遠いところから聞こえた気が…………多分、疲れだ、うん。

 俺は執務室のドアの鍵を開け、ドアノブに手をかけ捻った瞬間、

 

「バァァァニングゥ!ラァァァブ!!」

 

 そんなセリフが聞こえたのと同時に全身に衝撃が走った。

 

「テートク!早くランチに行くネー!」

「あ、ああ。そうしたいが、君に抱きつかれるとそういうわけにもいかない」

 

 バーニングラブ、彼女の口癖の1つなのだが必ずセットで熱い抱擁が付いてくる。いつも思うのだが、わざわざ助走つけてまで飛びつく必要があるのだろうか?

 

「久しぶりだからつい、抱きついちゃったデース。それじゃあ、早く行きまショウ!」

 

 金剛に腕を絡まれ、半ば引きずられる形で俺は執務室を出た。

 向かうは鎮守府の食堂である。

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 食堂にはたくさんの艦娘が集まる。

 今が昼時ということもあるのだろうが、それよりもこの食堂を経営する間宮さんの作る料理が絶品なのが一番の理由だろう。

 今も、帰投した駆逐艦やトレーニング明けの軽巡、会話中の重巡など、多様な艦娘がここの食堂を利用している。数多い艦娘と触れ合うことができるのはここぐらいなので大変貴重な場所である。

 料理の値段は良心的であり、レパートリーも豊富。もともと飲食店を経営していたなだけあり、安心して食堂を任せることができる。彼女が来るまでは長門の甘ったるい味付けの料理で我慢ならなかったからな。

 一応、ここは食券を利用するのだが、食券にはない"裏メニュー"的なものもある。俺の場合はカレーであり、甘口、中辛、辛口しかないのだが、その上の激辛をいつも注文している。

 基本的には間宮さん1人で切り盛りしているがたまに艦娘たちが手伝っていたりする。その時によって味付けが変わったりするのがまたいい。ただ、1人を除いては。

 その人物は金剛の妹なのだが、絶望的な腕であった。家事に疎い俺の方がまだマシなものができるという自信があるくらいである。

 まぁ、そこは置いといて、間宮さんの料理をいただくとしよう。いつもの激辛カレー…………ではなく、きつねうどんを頼んだ。流石に疲労時にカレーはきつい。

 料理を持って金剛を探すと先に自分の昼飯を受け取って座っていた。ちなみにスパゲティであった。イギリス生まれなのにイタリア料理とか突っ込まない。

 

「席は隣でいいか?」

「構いませんヨ!むしろ、ウェルカムネ!」

 

 と笑顔で俺に席を引いた。

 彼女はなんというか…………文化圏の違いなのだろうか、積極的である。初めて抱きつかれた時は慌てたものである。

 

「テイトクのハートを掴むのはワタシデース!」

 

 そう宣言されて、面食らったのは想像に難くないだろう。好意を向けてくれるのは素直に嬉しい。表には出さないが。

 金剛の正面に座って、焼き魚定食を食べているのが霧島である。

 黒髪のボブカットに緑色の縁の眼鏡をかけた霧島は金剛四姉妹の末っ子だが理知的な娘である。自ら"頭脳派"というなだけあり、基本的には理論的に物事を述べる。ただ、演習となると火力で押そうとするため、頭脳派なのか肉体派なのか分からん。頭はいいかもしれないが………

 金剛には霧島以外にも妹はいるのだが、今日は海上自衛隊と共に出撃中である。彼女ら四姉妹がゆっくりと仲良く暮らすためにも平和が早く訪れて欲しいものである。

 俺が物心つく頃にはすでに深海棲艦は存在しており、被害を受けていた。俺が部隊入る前か少し後ぐらいに艦娘という存在を耳にするようになった。いかに長い間、深海棲艦と戦ってきたかは想像に難くない。

 艦娘がやってきた今でこそ、陸上の平和は訪れたが海上の平和はまだまだ。漁に出るのにも護衛が必要であり、遠くまでは行けない。

 

「調子はどうだ?霧島」

「いいですよ。また、練度が上がりましたので、来月中には改装ができそうです」

 

 とにっこり微笑む。

 ここでいう練度というのはいわゆる経験点のようなもので妖精さんから随時教えてくれる。簡単に言えば、艦娘が艤装を使いこなせているかの度合い。当然、経験を積めば使いこなせていく。ある程度、練度が高くなれば妖精さんから改装を施してもらいより一層艤装を強化することができる。

 ちなみにここで一番練度が高いのは言うまでもなく長門である。海軍時代から艦隊の中核を担い、その手柄は数え切れたものではない。今でも、最強の切り札として中軸を担っている。

 

「提督の方こそ体調は大丈夫でしょうか。昨日も徹夜だったそうで」

「正直に言えば、キツイんだが泣き言言っても仕事は減らん。まぁ、忙しいというのは会社としては上手くいっている証拠なんだろうが」

 

 俺は箸を持ち、うどんを啜った。

 

「最近のテイトクは働き過ぎデース。休養も大事ですヨ?」

「そうだよなぁ。でも、依頼は尽きないしなぁ」

「また、新しい依頼が来たんデスカ?」

「政府からな。オーストラリアからくる貿易船の護衛を頼まれた」

「オーストラリア…………というと、主にボーキサイトの輸入ですかね?」

 

 さらりと口を挟む霧島。

 さすが博識なだけある。

 

「そうだとしても、お姉さまの言う通り働き過ぎです。そういえば、叢雲が少し不機嫌そうでしたよ?何があったんですか?」

 

 うっ、流石に霧島は鋭い。

 少し返答に窮したものの、今朝の失言について包み隠さず吐露した。

 

「Oh…………流石にひどいデスネー…………」

 

 金剛の言葉は容赦なかった。

 

「しょうがないです。それを含めて提督なんですから。私たちよりも付き合いの長い叢雲はそれも理解しているでしょう」

 

 あっさりと霧島の言葉にトドメを刺されてしまった。

 言い訳をしようかとも思ったが傷口を広げるだけな気がしたので、黙って再びうどんを啜った。変人というレッテルを貼られている今、どうしようもない気もするが。

 

「そういえばテイトク。テイトクが部隊に戻るという不穏な噂を聞きましタ。ワタシたちを置いて行ったりなんかしませんヨネ?」

「どこからその噂を聞いたんだ…………リストラされたところに再び戻ろうだなんて思ってないよ。今さら、艦娘たちを放っぽりだすような真似をしない。と言っても、誘いを受けたのは事実だ」

 

 ここに勤めて1年が経とうとしている俺に、しきりに海上自衛隊の方からお誘いを受けている。軍人だった頃の経験を活かしみないか、と。

 

「部隊ですか?」

「元いた部隊ではなく、海軍の方からだ」

「海軍?提督は陸軍の方でしたよね?」

「そうなんだよなぁ…………」

 

 陸上自衛隊の方からの勧誘なら分からんでもないが、海上自衛隊からお誘いはよく分からない。

 相手が言うには、かつての俺たちの部隊の戦いぶりを見ていて、ぜひ来て欲しいとのこと。あと、今俺がこの会社を経営していることから、艦娘の扱いに長けており、そっちの統率をお願いしたいとのことだ。

 しかし、艦娘の指揮とは言っても戦場においての指揮は実際に先頭に立ってやっていた長門の方に分がある。俺も時折、指示はするのだが長門のようにはいかない。

 そもそも、俺が所属していた部隊は正攻法ではなく、奇襲や敵の撹乱などをする遊撃隊だったので、俺の作戦もそっちに引っ張られてしまう。駆逐艦や軽巡のみの編成時には俺の指揮もうまくいくのだが…………あと、そのせいもあって川内に強く言えない(俺も夜戦ばっかりしてたから)。

 

「わざわざ、海軍に行って何か得があるデスカ?別に今のままでもno problemネー」

「そこに大人の事情があるんだよ。あまりに頑固に断ると、艦娘たちを使って良からぬことを考えてるのでは?と思われてしまう。」

 

 国ではなく私営企業が艦娘を雇うのでそう思われても仕方ないと言われれば仕方ないが。

 

「良からぬこと?ワタシのテイトクがそんなことするわけないネ!ワタシからすれば、あっちの方が良からぬことを考えてそうなのネー!」

 

 まさに金剛の言う通りなのだが、元々国に従事していた者として黙っておく。うどんは食べてしまったので汁を啜る。

 

「俺は艦娘の扱いに長けていて、海軍が保有する艦娘の艦隊の指揮にうってつけなんだそうよ。それに、俺は半ばリストラ同然で部隊を解散させられ無職になったんだ。国に恨みを持ってるのでは?という噂がたつ」

「しかし、今のご時世、無理矢理艦娘を生み出した政府が強く言える立場でも無いように思います。それに今は少しずつではありますが艦娘の艦隊をなくそうという話もあるそうですし」

 

 流石霧島。目の付け所が違う。

 

「難しい話だが、艦娘の艦隊はなくならない。深海棲艦が消えるまでな。今の平和だって、皮肉にも艦娘のお陰なんだ。独自に作り上げたこの会社でさえ、ほぼ艦娘たちによって成り立っている」

 

 俺は水を飲み干した。

 実際、国が保有する艦娘たちは恐ろしい強さを誇ると言う。戦艦大和に正規空母の加賀と赤城など有名な実力者たちが海軍にはいる。

 ちなみに今まで艦娘たちが名乗っている名はかつての軍艦の名であり、生み出された時に妖精さんから名を授かる。そして、性能もその軍艦に準じたものとなる。例を挙げれば長門なんかはかつてビッグ7に数えられ日本が誇る戦艦の1つであり、その強さは今の長門に引き継がれている。

 

「それに、この会社だって少なからず国からの援助を受けている。簡単に無下にはできないさ」

 

 今でこそ黒字経営だが、設立時から国の援助を受けている。それくらい重要な機関とも言えるのだが、それだけ費用もかかるのだ。

 

「ということは、国からの援助がなければここは回らないと?」

「そういうことだ。艤装用の資材や燃料は馬鹿にならん。それに新しい兵装はあっちの方から開発される。援助がなければお古の武器しか使えない」

「ムー…………なら、テイトクは行っちゃうのデスカ?」

 

 不安げな顔をする金剛。

 

「さっきも言ったように行く気はない」

「でも、国からの援助がないといけないんでショ?」

「そこで長門の存在だ。彼女はしばらくの間は海軍に勤めていたのは知ってるだろ?そこにおいて彼女は艦娘たちのリーダー的存在だったんだ。功績は山ほどあるし、彼女を慕っている娘も多い。そんな彼女が作り上げた会社を潰そうなもんなら、艦娘たちが黙っていない。主力級の艦娘たちにストライキでも起こされたらたまったもんじゃない」

 

 水を注いで、もう一度水を飲んだ。

 

「俺が仮に行ったとしても、すぐに使えないと分かるから意味ないさ」

「提督はかなり有能な方だと思いますよ?」

「付け焼け刃の知識で誤魔化しているだけだ。長門に頼っているところも多い」

 

 自慢にもならないことを誇らしげに語ってみた。

 そもそも、人には得手不得手がある。俺にとって得意なことは指揮通りに動くことで、指揮を執ることではない。不得手なことでうまくやっていけという方が無茶なのだ。

 しかし、変人扱いされながらもそこそこやっているのが、奇妙なところである。

 そうした状況で、早くも1年が経とうとしたいる。

 艦娘ばかりに目がいくにつれ、肝心の人間が不足しつつある海上自衛隊から、若輩とはいえ元陸軍の俺という人間に目をつけ、入隊をすすめてくるようになった。たまに電話がかかってきたりする。

「君も今までの経験を活かしてみないかね」と、そして、

「ここでしか守れないこともたくさんある」と。

 困ったことだ。睡眠不足の俺なんか放っといてくれたらいいのにわざわざ面倒なことだ。

 霧島が口を開いた。

 

「提督、私はまだ提督の過去もよく知りません。でも、ここにはたくさんの艦娘たちがいます。ここの艦娘と提督とには大切な関係を築き上げてきたのでしょう。それを捨ててまで行くほどの価値があるのでしょうか?」

 

 これまた核心めいたことを…………

 

「ま、いずれにせよ、俺はここから出て行くつもりはないさ」

 

 その言葉を聞いて、霧島と金剛はホッとした顔をした。

 

「さ、昼飯も済んだことだし、午後の執務へと取り掛かるとするか」

「イエス!ワタシも手伝うネー!」

「お姉さま、あまり迷惑かけない方が…………」

「いや、手伝ってくれた方が助かるかな」

「任せてくだサーイ!」

 

 金剛の朗らかな声が食堂に響いた。

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 朝の7時である。

 ほとんど昏睡状態で寝ていたオレは、熊野によって起こされた。目覚めた場所は執務室の机。

 どうやら、執務中に眠ってしまいそのまま朝を迎えたようである。

 執務室の奥に俺用の部屋があるのだが、基本的には使っていない。最近に至ってはベッドすら使用していないような気がする。

 そのまま、朝食もとらず、ふらふらと体を引きずって執務室を出た。

 やってきたのは港。デスクワークの多い俺はあまり足を運ばない場所である。

 ここの鎮守府は規模の拡大に伴い、やたらと建て増す。1年も立たずうちに随分と建て増したものである。

 

「着任予定時刻は7時半。ギリギリですわよ。今日鈴谷が着任するとご自身でおしゃっていたでしょう?」

 

 まだ肌寒い7時過ぎに室内の格好のままで来てしまった俺に熊野が言った。

 俺はと言えば、金剛と執務をしていたのだが、途中で「ティータイムにしまショウ!」と突然のお茶会によって執務が大幅に遅れた。まぁ、金剛のスコーンは美味しいのでいいんだが…………結局、当たり前のように徹夜である。

 

「久しぶり鈴谷と会うのは胸が踊りますわ…………大丈夫かしら、提督?」

 

 俺の前で鈴谷の着任を待つ熊野が振り返りながら言った。

 どうやら、俺の顔は昨日に増して酷いらしい。

 一昨日は徹夜。昨日も徹夜。3日間の合計睡眠時間は3時間程度。当然の帰結である。

 

「余計な心配は不要だ。それよりも彼女のことだ」

 

 俺はとりあえず大きな声で言った。その声がかすれているから様にならない。

 

「そう、着任したら、あなたとここで面会。そして、すぐに軽く演習してもらってテストですわ」

 

 書類を見ながら、熊野はこれからの予定を言った。

 すると、俺の無線が鳴り響いた。

 

 "提督!"

「何があった、川内」

 

 相手は川内であった。彼女には着任する予定の鈴谷の護衛艦隊の旗艦を頼んでいる。

 

 "今、そっちに向かっている途中なんだけど敵を捕捉したの"

「どのくらいだ」

 "偵察機飛ばしたんだけど堕とされちゃった。多分、戦艦はいた。あとは…………"

 

 一応、一番安全なルートを選んだはずなんだけどなぁ…………戦艦かぁ。

 

「空母もいるかもしれない、か」

 "今は近くの岩場に隠れてる。応援部隊をお願いできないかな?"

「賢明な判断だ。応援部隊は任せておけ」

 

 うん、と答え無線は切れた。護衛艦隊は駆逐艦と軽巡でしか編成していないため、戦艦と空母のタッグ相手にはきついだろう。

 

「どうしましたの?」

「鈴谷の進むルートに敵影が現れた。今から応援部隊を編成するぞ」

 

 俺の言葉に熊野は怪訝そうな顔を向けた。

 

「あのルートは安全だと向こう側言いましたのに」

「そういっても仕方がない。熊野、頼めるか?」

「承りましてよ、と言いたいけど今日は当番日ですわ」

 

 熊野に言われて、俺は携帯を取り出し日にちを確認した。

 こういう生活をしていると日にち感覚が狂ってしまう。今日は日曜日。労働法の適用されるこの会社において意味するのは、艦娘たちは基本的に休日であり、自由に外出してる者が多いということである。

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 俺は今、鎮守府にいる者は誰かと考えた。すると、ふと思い当たる顔を思い出し、すぐさま携帯を取り出し電話をかけた。

 呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声が応じた。

 

 "はい、叢雲よ"

「俺だが…………」

 "…………なによ"

 

 いきなりトーンが低くなる。まだ、あの時を引きずっているのだろうか?もしくは滅多にない俺からの連絡を不吉だと思っているのか。実際不吉なことなのだが。

 

「すまんが面倒ごとを頼みたい」

 

 手短に事情を説明した。

 

 "つまり、応援部隊に何人か集めた上で出撃して欲しいってことね"

「そういうことだ。空母もいるかもしれないから祥鳳あたりも連れてってくれ。急が急だ。君にしか頼めない」

 

 休日の日は交代制で緊急用の待機係がいる。先程熊野が当番日だといっていたものだ。しかし、それを回したらこちらを守る手段がなくなってしまう。そこで普段から外出の少ないであろう叢雲に頼んで見たが正解だったようだ。

 

 "ちょうどよかったわね。金剛も一緒よ。彼女も連れて行けばいいのね?"

「ああ、祥鳳は多分鳳翔さんのところにいるだろう」

 "そう…………分かってるわよね?"

「分かってる。だが、緊急事態なんだ。君以外には頼めない」

 "高くつくわよ"

「今度、間宮の羊羹を奢ろう」

 "あとケーキもね。パフェも食べたいわ"

「そんなに食うのか?」

 "一度に食べるわけないじゃない!分けて奢りなさい"

「そ、そうか、恩に着る」

 

 電話を切り、今度は橘さんに連絡を入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 熊野の行動が不穏である。

 叢雲たちを川内の元へ派遣して30分が経とうというのに、執務室をウロウロして、一向に落ち着かない。ソファの周りを行ったり来たりしている。

 無理もない。

 友の身に危険が及んでいるのである。派遣に行った者は叢雲を中心に比較的練度が高い者であるからあまり心配しなくても大丈夫なのだが…………

 1人で青くなったり、いきなり窓の方に行って海を眺めたりしている。しばらくは眺めていて面白かったが、だんだん見苦しくなってきた。

 

「叢雲、戦況はどうだ?」

 

 俺の声に無線から、叢雲の不機嫌そうな声が聞こえた。

 

 "はぐれ艦隊を殲滅し終えたところよ。あんたが心配してたよりは大した数じゃなかったわ。むしろ、私が暇なくらいよ"

「そうか、ならよかった。なら、今こちらに向かっているんだな?」

 "ええ、あともう少しで着くわ。約束、忘れないでよね"

 

 プツンと無線が切れた。

 ふむ、羊羹だけでは許してくれなさそうだ。

 やがて、護衛艦隊と応援艦隊、そして新たな仲間の鈴谷が到着した。熊野が真っ先に走って行ったのは言うまでもない。

 時刻は朝9時。

 日曜日なら仕事の量は少ない。幸い新たな依頼もない。

 

「鈴谷だよ!賑やかな艦隊だね。よろしくね!」

 

 と新人の鈴谷が挨拶した。

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

「へぇー…………ここが"鎮守府"って言うんだね。もっとボロッちぃのかと思ってた」

 

 鎮守府の中を珍しいもののように、鈴谷が眺めている。熊野の友人だと言うから何というか…………お嬢様っぽいのかと。

 実際、会ってみると普通の女子高校生と言った印象を受ける。というかいきなり俺にタメ口なのか、と言いたいところだが、そんなことを気にする小さな男ではない。

 

「部屋は熊野と相部屋にしておく。あと、日程などは熊野から聞くように。一応、授業をやっているが参加したいなら俺に直接言ってくれ」

「授業?なにそれ、深海棲艦について何か教えてくれるの?」

「違う、数学とか英語とかの基本的な高校生の学習内容だ。君は義務教育までは受けていると聞いているから、授業を受けるかは自由だ」

「ふぅん…………」

「あと、艤装だがそのことは工廠にいる、橘さんという人を当たってくれ」

「へーい」

「分かったならそれでいい。質問があるなら言ってくれ」

 

 と鈴谷の方を見ると俺の顔をまじまじと見つめていた。

 

「なんだ?顔に何かついているのか?」

 

 すると鈴谷はニヤニヤしながら言った。

 

「提督って陸軍にいた?」

 

 とりあえず、頷いた。

 

「へぇ、あの時の人がここで働いているだなんて意外」

「意外とはなんだ、意外とは」

「なんとなく、だよ。ま、ここは熊野もいるし、これからが楽しみだよ!」

「…………そうか、だが問題は起こすなよ。仕事が増える」

「りょーかーい。ま、そんな死にそうな顔で仕事してるなら増やしてほしくないもんね」

 

 全くもって無礼な娘であるが、死にそうな顔なんて言われ慣れているので突っ込まない。まぁ、彼女も最低限の常識をわきまえているだろう。そう願わないと俺の体がもたない。

 

「とりあえず、今日はゆっくり休んでくれ」

「提督もねー。そんな血の気のない顔色だとこっちの方が具合悪くなりそうだよ」

 

 悔しいが、疲労がマックスまで溜まっているから言い返せない。それに今日は叢雲に奢ってやる時間も作らなければならない。さっさと部屋に戻って寝るとしよう。

 

「あ、そうだ。提督の昔を知ってる人ってどれくらいいるの?」

「…………どういう意味だ?」

「なんとなく、じゃあね、"軍神"さん。あ、"死神"さんの方が良かった?」

「な…………っ!?」

 

 なんで、それを?

 鈴谷はニヤニヤ顔を変えず、そのまま自分の部屋へと向かった。




良かったら感想、アドバイスなどよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3

せ、正規空母が出ない…………


 この鎮守府には居酒屋がある。

 これは第一線を退いた鳳翔さんの願いからできた居酒屋であり、比較的大人の艦娘たちが利用している。料理は間宮さんに負けず劣らず絶品であり、どこか家庭的な味である。居酒屋というと酒がつきものだが、そこは酒飲み軽空母が選びに選んだものを仕入れているそうだ。

 カウンターの隅に落ち着いて、俺はゆっくりと牛すじ煮込みを味わった。

 トロトロとしたしょっかんが口中に広がる。やはり絶品である。

「美味しい」と呟くと、鳳翔さんがカウンターの向こうでニッコリと笑った。それだけだが、また心地よい。

 隣に腰掛けたお洒落な重巡は日本酒をあおっている。お嬢様とお酒といういささか奇妙な噛み合わせであるがそんなことよりも、熊野がお酒を飲めるということに驚いた。

 店の時計を見るとすでに夜の10時。

 今朝、演習で鈴谷の戦闘能力を確認し終えた俺は、久しぶりに自室に戻り、夕方の4時まで爆睡していた。目が覚めたのは叢雲が直々に起こしにきてからだ。

 それから、約束通りに叢雲を連れて、甘いものを奢ろうとしたところ、ばったりと熊野と鈴谷に出会った。相手も同じく目的であったらしく、一緒に行こうと言われ、一瞬躊躇った。

 

「折角の機会ですので、一瞬にいかが?」

「一応、先客がいるんだ」

「あら、叢雲さんも?ますますちょうどいいですわ」

「いら、だから…………」

「親睦を深めるのも上司の仕事ではなくて?」

 

 全くもって勝手な話だ。

 まぁ、別に奢れと言われているわけでもないのでいいか。それに熊野の言うことにも一理ある。

 そう考えていたのが間違いだった。

 女性3人がしおらしく3人分のデザートで満足すると考えたのが間違いだった。

 ケーキ一切れでは物足りず、パフェも頼み、シュークリームも頼み、そしてブラックホールのごとく次々と口へと収めていった。長門の時ではないにしろ、小柄な3人がニコニコと顔色変えずに、スイーツを口に運ぶ姿は、まさにホラーだ。止めようものなら、何をされるのか分かったものではなく、ただスイーツがなくなっていくのを見ることしかできなかった。

 勘定は熊野と割り勘にしたのに、高かった。

 そのあと、ブラックホールたちと別れ、俺は再びゆっくりしようかと思ったら、熊野だけ残り、居酒屋"鳳翔"にハシゴになったわけだ。

 

「わたくしには分からないことがありますわ」

 

 ふいに熊野がつぶやいた。いささか頰を赤く染め、涙目でじっと俺を見つめる。

 

「何がだ?」

「どうしてですの?」

 

 熊野に真っ直ぐ見つめられて思わず目をそらした。

 

「…………だから何がだ?」

「どうしてあなたは誰にも手を出さないのですの?」

 

 これは酒の飲み過ぎだな。いきなり、意味不明なことを言い始めた。

 

「飲み過ぎだ。少し酒を控えろ」

「いいえ、まだ酔ってませんわ」

「鏡を見てから言え…………」

 

 酔っ払いの決まり文句を言いやがって…………

 

「駆逐艦の幼い子たちはともかく、ここにいる娘たちは美人ですわよね?」

「美人と言う判断は主観による。強制されても困る」

「あら、では可愛くないのですの?」

「俺から見ても美人だな」

「あ、言いましたわね。長門さんに告げ口してやりますわ。部下をそんな目で見ていたと」

「美人だからと言って、好きとは言ってない」

「なら、どんな娘がいいんですのよ!」

「お前はさっきから飲み過ぎだ!」

 

 幸いにして、今日はほかに客がいない。

 カウンターの隅で大騒ぎしている、重巡と好青年のことを気にする者がいない。いたならば、この重巡を無理矢理店の外に放り出しているところだ。少々のダメージじゃあ艦娘は怪我をしないからな。

 鳳翔さんに目配せしたら、苦笑しつつコップに一杯水を入れて持ってきてくれた。受け取った水を熊野は上品に飲み干した。酔っていても立ち振る舞いは品がある。こんな娘とあの鈴谷という娘の組み合わせは奇妙のような気がする。

 

「そうでしたわ、提督。あなた、海軍の方からお呼びがあったんですって?」

 

 目の覚めるような不愉快な話題が出てきた。

 

「突然、なんだ?」

「鈴谷に聞いたんですのよ。提督が来年海上自衛隊の艦娘たちの指揮をとるかもしれない、と」

 

 そう言えば、鈴谷は海上自衛隊に所属してたんだな。しかし、そのことまで知ってるのは解せない。俺の疑問を読み取ったのか熊野が答えた。

 

「意外と人の去就は噂になるのですわ。海軍にいた時も、事細やかに噂してましたわ」

「どうでもいいことじゃないか」

「どうでもいいことを噂するのが人ってものですわ」

「ますます行きたくねーよ。だいたい俺は群れになって行動するのが苦手だ。そういうところに行くのなら、ここで死にそうな顔で働いた方がまだ気楽だ」

「そうですわね。あなたはそういう人でしたわ…………」

 

 熊野はいきなり遠い目をする。

 

「いつだって、一人でふらふらして、宴会にも来ませんし、イベントにも参加しない。そのくせ、週2のトレーニングは欠かさない…………」

「お、おい!?いつ、トレーニングのことを?」

「あら、知られていないと思ってましたの?あれだけのトレーニング、艦娘たちもしませんわよ。それだけすれば、疲れも溜まりますわ」

 

 何が言いたいのか分からん。そもそも、朝早くにやっているトレーニングをどこで知ったんだ。長門すら起きていない時間にやってるのに。心中で突っ込みつつ、考えがまとまらないのはどうしてだろうか。

 ですが!と突然熊野は大きな声を出した。

 

「提督は一度、海軍に行くべきですわ!」

 

 いきなり至近距離まで顔を近づけて、俺を真っ直ぐに見つめた。

 頭痛がしたのは、疲労なのか、熊野の酒の匂いのせいなのかは分からない。

 

「あなたは優秀な指揮官ですわ。1年も経たずにして山ほどの経験を積んでらっしゃる。頭もいいですし、艦娘受けもいい。判断力がいいですわ。何が起こっても瞬時に判断するのは、口で言うほど簡単ではありませんのよ?今日の朝の鈴谷の件だって驚きましたわ。1年も経っていない人があれだけ的確に指示ができるのは尋常ではありませんわ」

「褒めても、酒は奢らんぞ」

「たしかにあなたは変人で名の知れた人ですわ。いつもやる気のない顔で鎮守府をウロウロする、鎮守府一の奇人ですわ。今とて変は変。ですが、腕はたしかに一級品ですのよ?」

「熊野、俺の分まで払え」

「でも、それだけではいけませんわ。あそこでしか学べない高度な技術がありますわ。あなたならそれを学んでさらに高いレベルを目指せますのよ?多くの艦娘に出会い、技術を磨き、知識を深めるのよ!あなたならできますわ」

「興味ない」

「それは嘘ですわ」

 

 どきりとする。

 

「あなたは艦娘たちを置いて行くのが嫌なだけですわ」

 

 熊野は酔っ払うと、時折核心を突いたことを言う。残念ながら、明日になれば忘れているだろうが。

 

「もっと高いところを見なさいな」

「民間企業のこの鎮守府では、国営の海上自衛隊より劣ってるというわけなんだな」

「冷たい言い方をしないでくださいな。ですが、そうとも言えますわ」

 

 なら、鎮守府でいい、とはさすがに言えない。熊野が俺の身を案じていることはよく分かるからだ。

 熱弁を振るうっていた熊野の目にうっすらと涙が浮かんでいる。側から見れば、俺が泣かせてるようできまりが悪い。

 

「わたくしは海軍からこの鎮守府に来ましたわ。この会社はいい会社ですわ。この会社でずっと働きたいと思っているのですのよ?その理由はここの環境がいいと言うこともあるのですけど…………あなたが…………あなたのお陰でそう思えるのですのよ。あなたをお慕いしてるからこそ、より高いところに行って欲しいのですのよ…………あなたなら…………」

 

 呂律が回らないまま、熊野はカウンターに突っ伏してスヤスヤと寝息を立て始めた。

 俺はお金をカウンターに起き、熊野を背負って店を出た。

 

「すいません、鳳翔さん…………」

 

 鳳翔さんは黙って、微笑むだけだった。

 

 

 艦娘以外の者が深海棲艦と戦闘を行うことが禁止されたのは、それから7日後のことだった。

 艦娘たちが一度出撃して出る損害は艤装の修理や燃料に対して、人間の場合は必ず1人は死傷者を出していたためだった。俺も陸軍に所属していた際、海軍で知り合った男がいつのまにか戦死していた。俺も危険を承知で深海棲艦との戦いに参加したりしたが、全員が五体満足で帰ってくるのはごく稀であった。

 今でこそ、陸にいれば安全だとある程度言い切れるが、艦娘たちが活躍する前は海付近の住民にまでの被害は非常に多かった。

 過去に2度、深海棲艦が上陸したことがある。2度目こそは軍人のみの被害で済んだが、1度目は一般市民も巻き込む大惨事となった。俺は2度とも経験している。

 深海棲艦は、人間の最先端の武器も兵士の必死の抵抗も、市民の叫びもことごとく嘲笑うかのように、全て吹き飛ばした。

 衛生要員は頻繁に行き来し、包帯を巻き、脈をはかり、必要なら薬を投与し…………一瞬にして、地獄絵図と化した。

 戦闘要員である、俺にできることはせいぜい敵の注意をそらすぐらいで、できることはほとんどないに等しかった。

 

「どうにかできないんですか!?」

 

 1人の隊員が俺にそう言った。

 日に日に負傷兵が増えていくのを見かねて俺に声をかけたのだ。なんて答えたか、今でも思い出せない。軍人として…………云々みたいなつまらない理屈を並べたのだろう。少なくとも、目の前の戦場にしか頭になかった俺は相手の気持ちを組んでやるほどの余裕を持ち合わせていなかった。彼は冷ややかな視線を残し、俺に背を向けた。

 戦場で一番恐ろしいのは士気の喪失である。殺るか殺られるかの戦場において、初めから及び腰で挑めばあっという間に殺られるのだ。だから、戦場において、先頭に立つ者は、隊員の士気を下げないようにしつつ、指揮を執らなければならない。だが、この時は深海棲艦に押されていくに伴って皆の戦意は喪失し、いたずらに犠牲を増やしていくだけだった。

 俺とてできる限りのことをやったが事態が好転するのはなかった。

 結局、深海棲艦の攻撃が終わったのは艦娘たちを投入してから。

 試作段階とは言え、あれほどの犠牲を払った深海棲艦に対して対等に戦う姿を見て、誰もが女神だと称えた。しかし、その時の俺は今までの犠牲がまるで無駄になってしまったようで、やるせない気持ちだった。

 同僚の死が今でも鮮烈に覚えている。

 多くの家族が駆けつけ、戦いを終えた兵士の姿に涙する中で、1人の息子らしき少年がじっと俺を見つめていた。

 

「お前は何もしてくれなかった」

 

 そんなことを言われた気がした。そんなわけがないのだが、行き先のない悲しみ、怒りというのが確かにある。

 戦線を離れた今でも、それは急にやってきては、感傷という物思いに引きずり込む。

 俺は改めて実感する。

 無力だ、今も、あの時も。

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 鎮守府から出ると、風が吹き抜けた。今思うと、もう冬なのか。時が経つのは早い…………

 夜の港を歩きながら思うのは、あの時の少年の顔、同僚の顔、友の顔…………。

 そう言えば、最初の頃に会った艦娘たちの顔もどこか棘のあるものだった。怯え、敵意、憎しみ…………。別に俺は彼女らに何か危害を与えたわけではないし、自分を卑下する必要もない。

 しかし…………。

 少年と同じように、艦娘たちにとっては、偽りのない感情なのだろう。偉そうな顔で歩き回り、命令するだけ。軍人のくせに、守ってやることすらできない…………。

 役立たず、能無し、不用品…………

 俺の頭の中に、形のならないモヤモヤしたものが渦巻く。

 うーむ…………今夜は自己嫌悪がひどい。

 過労にストレス、自衛隊の問題などが加わり、いつも以上に考え込むようになっているのだろう。

 俺は暗闇しか見えないうみを見つめた。黒々とした景色のなかで、波打つ音だけが聞こえる。

 もう少し、ゆっくりしてから執務室に戻ろう。

 

 

 鎮守府の薄暗い廊下を歩いて、執務室のドアを開けたら、中には長門がいた。

 てっきり、執務室は無人だと思っていたので、いささか驚いて「うぉっ」と声が出てしまった。元軍人として少し情けない。

 

「そんなに驚かなくてもいいだろう」

 

 あっけにとられている俺を長門は可笑しそうに笑った。

 

「散歩は済んだか?」

 

 言い訳じみたようになるが、長門は海軍の応援としてしばらくこの鎮守府を留守にしていた。だから、執務室にいたことに驚いたのである。

 何度も言うようだが、艦娘は一見すると華奢な女の子たちである。長門のように、アスリートのごとく鍛えられた女性もいれば、大人の女性もいるが、それでも女性は女性。しかし、その実態はあの大きな艤装を背負って戦地へと赴く、兵士たち。

 駆逐艦たちに至っては最早、子供でありそんな風にはとても見えない。長門も中々の激戦区へと参加したはずなのだが、ちょっと信じられない。今も飄々としているもんだから本当に戦地に行ったのか疑ってしまう。

 人は見かけによらないとか言うレベルを超えている。

 

「提督、今日はお疲れだった。しばし体を休めて、明日の執務に臨んでくれ」

 

 疲れているのは君の方だ、と口から出そうになったが呑み込んだ。前にそう言ったら何故か怒られたのだ。たしかに、疲れているのを比べたところでなんの効果もない。

 執務室の机には、コーヒーカップが2つ、湯気を上げて置かれている。無論、中身はブラックではないだろう。甘党の長門による多量の砂糖が入った"長門ブレンド"。長門の気遣いなのだろうから飲まないわけにもいくまい。

 そういえば、長門がいない間に書類で散らかっていた机も綺麗に整えられている。本当に気が回る。あとはコーヒーの淹れ方がどうにかなれば…………

 そんなことをおくびにも出さず、何事もないようにコーヒーを一口飲んだ。…………甘い。

 

「戦いはどうだった、中々厳しいところだと聞いたが」

「いや、思ったほどではなかった。少し用心が過ぎたくらいだ」

「ふむ、それなら良かった」

 

 長門は微笑を浮かべた。そして、戦地の様子をこと細やかに俺に話した。俺にはもう縁のない話だが、元軍人である以上気になる話ではある。

 荒れる海の中で戦う艦娘の話、空をかける艦載機、数多の砲撃と、魚雷、そんな中の主人公はもちろん艦娘たちである。

 躍動感あふれる物語が俺の心を踊らせる。

 俺は椅子に腰をかけ、その話を静かに聞いていた。

 と、不意に長門の声が途切れた。

 

「…………また、戻りたくなったか?」

 

 俺は驚いて目を開けた。

 気がつけば、目の前に覗き込むような長門の瞳がある。

 

「黙っていても分かるぞ。あの話を聞いたんだな」

「…………別に、君の話が面白かっただけだ」

 

 俺はなんともない顔を作ってみたが、うまくいかない。

 

「フフ、そうか。なら、朝からトレーニングするのは健康のためか?」

「なっ!?…………そ、そうだ。運動不足にはなりたくないからな」

「別に誤魔化さなくてもいい」

「…………まぁ、戦場に戻りたいのは少なからずある。だが、もう俺が出る幕などもうない。戻りたいと思っても、もう戻れない」

 

 艦娘ではない以上、深海棲艦と戦うことはできない。それに今となっては、本当に運動不足解消のためになってきてすらある。

 

「それに俺はここで責任を全うする義務がある。艦娘たちを置いて戦場に行くような、無責任な真似はもうしないさ」

 

 陳腐なセリフだ。もう少し詩的な者ならマシなことが言えただろうに。在原業平でも見習って和歌でも詠んでみるか。

 しかし、根の真っ直ぐな長門は、少し驚いた顔を見せてから再び微笑んだ。普段は見せぬ表情を今日はポンポン出すな。

 それから少し考え込む仕草を見せたあと、急に立ち上がり、

 

「よし!今一度散歩へ行こう!」

 

 突然の提案である。あまりにも突然過ぎて間抜けな顔を俺はしていたに違いない。それもそのはず、時刻はとっくに12時を回ってる。

 

「俺、さっき行ったところなんだが。それにかなり寒いぞ」

「たまには2人で散歩もいいじゃないか。それに提督のことだから、空を見ていないだろ?」

 

 すでに長門はオーバーコートを羽織り始めていた。

 

「今宵の星はとても綺麗だぞ。私の息抜きも兼ねて付いて来てくれないか?」

「まぁ、いいが…………」

「ついでに貴方が背負いこんでいる重い荷物も、私が減らしてやろう」

 

 長門の決断は早い。だらだらと支度する俺に、形の良い眉をひそめて、ひと睨みし、

 

「行くぞ」

 

 と、せき立てた。ふむ、さすがはビッグ7。眼光で元軍人の俺を少しばかり恐怖させるとは。

 外に出ると、先ほどと同じ真っ暗闇。

 月はわずかに三日月が光るだけで、それ以外の光源が見つからない。お陰で、どの道を行けばいいのか分からない。

 

「長門、だいぶ暗いぞ。大丈夫か?」

 

 俺の先を迷うことなく行く長門はくるりとこちらを向き、またますが空を指した。

 

「だからいいんだ」

 

 指を指した先を見上げれば、俺は思わず息を呑んだ。

 満天の星空、と言うのだろう。

 天体に関しては疎く、どれがどれなのかさっぱり分からないが、明るい星々が散りばめられていた。雲もない冬の夜空では、星たちは暗闇を埋め尽くすかのように光り輝いている。

 この小さな町にある鎮守府の周りには、星空の邪魔となる別の光源がない。お陰で、都会ではまずお目にかかれない見事な星空が見える。幼き頃はよく友と星の観察などしていたものだが、ここ数年来、忙しさですっかり忘れていた。

 自分は芸術的感性はないに等しいと思っているが、この圧倒的な光の芸術は美しいと思う。

 

「戦場から見える星も中々いいものだぞ。戦い中で空を見上げるのもなんだと思うが、見ていると戦ってることさえ忘れてしまいそうになる」

 

 長門の苦笑の混じった声が聞こえる。

 

「だがな」

 

 ふと長門は俺の横まで来て

 

「私はここから貴方と見上げる空が好きだ。まるであの時に戻ったかのように思えるからな」

「ハハ、陸奥を忘れてやるな。だが、そうだな。子供の頃に戻った気分だ」

「…………1年に1度くらい、皆でこの空を見上げる機会を作るのも悪くはない」

 

 そうか、長門は長門なりに俺を励まそうとしてくれてるのか。

 胸に積もっていたわだかまりが流れて行くのを感じた。

 …………ますます、男として情けないな。

 俺は自分自身に言った。

 よくよく考えたら、今まで1人でに悩み、気づけば、戦場からようやく帰投した長門に労いの言葉1つかけていない。悩みにかまけて、大事なことを放っておき、その自分に酔っていただけだ。なんて無様なんだろうか。

 長門の方を見る。艶のある長い黒髪が星の光を浴びて益々輝いて見える。幼き頃から一緒にいたせいか、隣にいるだけで安心する。

俺は一瞬躊躇ったが、意を決して言った。

 

「お疲れ長門。明日も頼むぞ」

 

こちらを向いた長門は、少し驚いた顔を見せたが、すぐに微笑んだ。

 

「ああ、大船に乗ったつもりで任せておけ」




とりあえず、挿入部分はここまで。次の話に入る前に間に2、3話ほど閑話を挟みたいと思います。その閑話で提督(社長)と特定の艦娘との話を投稿したいと思っているのですが、どの艦娘がいいか、活動報告にてアンケートしますので是非リクエストしてください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話1"尊敬"


リクエストで朝潮があったので、朝潮が新たに鎮守府に、やってきました。


 ある日の朝、俺は窓から漏れる陽日によって目が覚めた。

 どうやら、今回もソファで休憩するつもりが寝落ちしてしまったらしい。それに昨日は海上自衛隊との会議があり、余計に疲れた。しかし、ここまで寝ていた以上、また起き上がるということは至難の技だ。俺はもう少し眠ることにした。

 と、がちゃんとドアの閉まる音がした。思わず眉をピクリと動かす。

 …………きっと、叢雲か長門か。

 どちらにせよ、必ず起こしてくるだろう。だが、少しの間でも長く寝たい…………起こされるまで目を閉じておくことにしよう。

 

「司令官、朝です!起きてください!」

 

 聞きなれない声に驚き跳ね起きると、

 

「おはようございます!司令官、朝のコーヒーですっ!」

 

 直立不動で真面目そうな少女が、湯気の立つコーヒーカップを俺に差し出していた。

 朝潮。朝潮型1番艦駆逐艦の彼女はつい最近、この鎮守府に入社した新参者である。対面しての印象は絵に描いたような真面目さ。どのような命令にも二つ返事で了承する。しかし、真面目すぎる故、突拍子のないことをしたりする、長門と似たような真っ直ぐで生真面目な艦娘である。

 

「それと、着替えも準備して起きました!」

「おお、そうか…………は?」

 

 流れるように言われたため、一瞬ツッコミが遅れた。言っておくが俺の着替えは執務室の隣の部屋にある私室にあり、誰もが入れるわけではない。そもそも、執務室に朝潮がいること自体、おかしい。

 思わず目を丸めて朝潮を見るが、相変わらず直立不動のままである。

 真面目さを表すかのような黒髪ストレートにサスペンダー付きのプリーツスカートという格好。一言でまとめれば小学生の格好である。

 軍事会社と小学生というあまりにもアンバランスな組み合わせ、この鎮守府ではもはや当たり前となっている。

 

「と、とりあえず、コーヒーを頂こうか」

「どうぞ、司令官!」

 

 朝潮からコーヒーカップを入れ、一口すする。…………甘い。それに濃ゆい。どうやら、インスタントコーヒーを使ったようだが、粉末の量が多すぎたようだ。それに砂糖も多い。

 

「…………コーヒーの淹れ方は教えてもらったか?」

「はい!長門さんから教えて頂きました!ついでに司令官は朝はコーヒーを飲むことが好きだということも!」

 

 あまりにも目をキラキラさせながら言うものだから、コーヒーにケチをつけにくい。それにしても、長門からかぁ…………叢雲からなら変わっていただろうか。

 

「コーヒー、ありがとな」

「はい!喜んでいただいて何よりです!」

 

 どこまでも真っ直ぐ過ぎて、こちらが心配になってくる。

 …粉末が溶け切れていないせいで、口の中がジャリジャリするが気にしていても仕方あるまい。それよりも他に気にするべきことがある。

 

「なぁ、朝潮。どうやってこの部屋に入ったんだ?」

「はい!長門さんに頼んだら部屋を開けてくれました!」

「…………長門かぁ」

 

 軍人気質な彼女ではあるが、甘党で、可愛いものが好きという意外な一面も持つ。それ故、どこか駆逐艦に甘いところがある。たしかに愛くるしいことは認めるが、息を荒げながら駆逐艦たちの演習を眺めているのもどうかと思う。

 

「はぁ…………とりあえず、朝食を食べるか?」

「はい!」

 

 朝からげんなりとする俺とは対照的に朝潮は、一切背筋を上げることなく元気な声で応えた。

 

 

 ーーーー

 

 

 かちゃかちゃと食堂で朝食を食べる音が響く。

 この食堂も人が増えるにつれ賑やかになってきたな。最近は間宮さん1人では間に合わないらしく、鳳翔さんも手伝っている。

 それにしても、この食堂で朝食を食べたのはいつぶりだろうか。というか、最後に朝食を食べた日すら思い出せない。

 

「鳳翔さん、ご飯おかわりいただけますか」

 

 はいはいと、鳳翔さんが俺の茶碗にご飯をよそう。やっぱり、ここのご飯は美味しい。

 

「あんた、会議でやらかしたんだって?」

 

 俺の向かいの席で叢雲が焼き鮭をつつきながら言った。ちなみに朝潮は横で一心不乱に朝定食を食べている。よっぽど美味しいのだろうか、頰に米粒をつけながら頬張っている。

 

「もぐもぐ…………んっ、やらかしたも何も俺は事実を述べたつもりだ。それをやらかしたと言うのは、俺からしたら心外だ」

 

 行儀が悪いと思うが、今はこの絶品の朝食を食べたく、もぐもぐしながら話してしまう。

 

「別に馬鹿正直に言わなくてもいいでしょ?世の中、正直者が馬鹿を見るんだから」

 

 と、ほぐした鮭を口に運んだ。

 それにしても、隣にその正直者の筆頭がいるのにも関わらず酷い言い様である。

 

「それで、なんであんたの隣にその新人がいるのかしら?」

 

 なんと、いきなり朝潮の方に話を振るのか。そもそも、それは俺が知りたい。

 

「…………なんでも、執務を手伝いたいそうだ」

「はい!この朝潮、司令官の手伝いを全身全霊でやらせてもらう覚悟です!」

「はいはい、ありがとな。あと、ほっぺにご飯がついてるぞ」

「はっ、ありがとうございます!」

 

 と、頰についた米粒を取って、再び定食を食べ始めた。こういうところを見ると、やっぱり子供だなぁと思う。

 

「美味いか?」

「はい!大変美味しいです!前にいたところよりも断然美味しいです!」

 

 ほんと、幸せそうに食べるなぁ…………人が幸せそうに食べる姿は見てる者も幸せにすると言うが、今回はそうだと思える。

 

「危ない匂いがするわね…………」

「は?」

「朝潮に向ける視線よ。最近は小さい子に欲情する大人が多いじゃない」

「失敬な。どちらかと言うと娘を微笑ましく見つめる父のような視線だろ」

「どっちにしろ、うちの上司がそう言うことで捕まることだけは勘弁してほしいわね」

 

 誠に理不尽な言い草だ。少し見ただけでここまでの言われようとは。

 

「それにしても、朝潮。なんで、司令官の手伝いをしようと思ったわけ?」

「はい!司令官がかつて"軍神"と言われた理由が知りたく、司令官の手伝いをすることで知ろうと思った次第です!」

 

 箸を進める俺と叢雲の手が止まる。それに対し、朝潮は目を爛々と輝かせたままである。

 

「今、なんて…………?」

「ですから、司令官がかつて…………「ストップ、ストップ!」分かりました」

「そうじゃなくて、それをどこで知った?」

 

 なるべく小声で朝潮に聞く。叢雲はまだ凍りついたままだ。

 

「前勤めていたところの司令官から聞きました。素晴らしい活躍だったと。私も軍人である以上、司令官から学びたいこともたくさんありますので!」

「そ、そうか…………だが、なるべくその話題は人のいないところでしてくれ」

「なぜでしょうか?とても誇らしいことだと…………はっ!なるほど!ご謙遜なさっているのですね!さすがです!」

「いや、そう言うことじゃぁ…………」

 

 相手が朝潮なので、妙に噛み合わない。しかし、これ以上大きな声で言われると、他の艦娘の耳に入る可能性もある。

 

「そ、それよりも、司令官、会議でとんでもないことを言ったそうじゃない」

 

 ここに来て、叢雲の助け舟が入る。できるならもう少し早めに出して欲しかったな。

 

「とんでもないことと言われてもだな、こっちは当たり前のことを言ったつもりなんだが…………」

「そりゃあ、変人にとって当たり前ことを言われてもねぇ…………」

「変人…………?」

「知らなくてもいいぞ、朝潮。この世の中は理不尽なことでいっぱいだ、と言うことだけ知っていればいい」

「はっ!分かりました!」

 

 本当に俺のことを変人と呼ばれるのに納得いかん。どこをもってしてこの生真面目な好青年を変人と呼ぶのやら…………

 

「ま、長門からこれを貰ったから、今確認しましょ」

 

 と叢雲が取り出したのはボイスレコーダーだった。たしか、会議の内容を長門が知っておきたいと言われて、俺が録音したものだが…………

 

「なんで、君がそれを持ってんだ?」

「長門が聞いておいた方がいいってね」

「そこまでおかしなことを言ったか俺…………」

 

 と、頭の中から昨日の会議の内容を探る。しかし、疲労の極みであった昨日は何をしたのかも思い出せない。てか、会議ってどこであったけ?うーん…………全く思い出せないな、これではとんでもないことを言ったのではと心配になってくる。

 

「これは…………司令官の貴重なお話なんですね!」

「うーん…………ま、そう言うことでいいわ」

 

 そして、叢雲はボイスレコーダーの再生ボタンを押した。少しのノイズの後に、会話が流れてきた。

 

 "では、本題から入らせていただきます"

 

 生真面目な声が聞こえてくる。あぁ、思い出した。たしか、黒スーツに、分厚い黒ぶち眼鏡の小男だったな。いかにも、杓子定規のような男だった。

 録音してもいいかと聞いた時に、苦笑いとともに許可を得たっけ。

 

 "まず、あなたのことで1つ。ぜひ、海上自衛隊に入隊してもらい、そこで艦娘たちの指揮をとっていただきたい"

 "それは前にも言いったように、もう戻る気はさらさらありません"

 

 少々かすれ気味の声が聞こえる。うむ、相当疲れがひどかったからな。それにしても、俺の声はこんな感じだったのか。

 

 "…………艦娘たちの戦いは激化していく一方です。もちろん、艦娘たちに頑張ってもらわなければならないことはありますが、彼女たちが悲惨な目に遭わぬように、有能な指揮官も必要なのです。そこで、あなたの出番です"

 "いやぁ…………他にも有能な人は探せばいるでしょうに"

 "深海棲艦と生身で戦う部隊の指揮をとり、そして唯一深海棲艦を討ち取ったあなた以上の人がですが?"

 "……………………"

 "こほん、すいません。しかし、実績も能力もあるのは事実です"

 "買い被りすぎです。それに一度身を引いた以上、戻るわけにもいきません"

 "そうですか…………"

 

 至ってまともな会話だ。どこをもってしてとんでもない、とかが出てくるんだ?

 

 "では、次の話に移らせてもらいます。ここの"鎮守府"のお話になりますが、最近は随分と所属する艦娘たちが増えてきたようですね"

 

 男性のトーンが変わり、雰囲気が冷ややかになった。

 

 "…………と言いますと?"

 "いえいえ、特に何も。しかし…………そこまで艦娘が増えると、妙な噂が立つんですよね…………例えば、テロとか"

 

「ちょっと、何なのよ!」

 

 堪らず叢雲が声をあげた。その気持ちは分からなくもない。艦娘たちのアフターケアもせずにふんぞり返っている自衛隊が、今度は艦娘たちを受け入れるこの鎮守府に対してテロを疑っているのだ。腹も立てる。

 

「まぁ、落ち着け」

「とんでもないことって、あんたじゃなくて相手のことだったのね…………!」

 

 創設時からいる叢雲のことだから尚更頭にきてるのだろう。いつもの冷静さを欠いている。

 

 "ハッハッ!冗談も上手いですね。うちがテロだなんて。一体どこからの情報です?"

 

 男性に対しての俺の反応は場違いなものであった。疲労も蓄積すればこうなるのか…………

 

 "いや、情報もただの噂ですので…………"

 "へぇ、一国を守る自衛隊が根も葉もない噂を信じてしまうものなんですか?"

 "…………国を守るためにも艦娘が必要なのです"

 

 ここに来て、男性のいや、自衛隊の本音が漏れ出た。つまりは、艦娘を譲ってほしい、と。疑われたくないのなら、俺か艦娘を差し出せ。何とわかりやすい要求。

 

 "それは俺にではなく、艦娘たちに聞くべきでしょう"

 "しかし、それでは彼女たちは戦ってくれないのです!ですから、彼女らの上司のあなたから説得していただきたいのです!"

 

「…………司令官、どう言うことなのでしょうか?」

 

 朝潮が素朴な質問をした。

 

「つまりは、日本は艦娘たちを欲しがってるんだよ」

「なら、どうして始めに司令官に来て欲しいなどと?」

「俺が自衛隊の方に行けば艦娘たちも付いてくる、そう考えたんじゃないかな?」

「なるほど、それほど司令官は信頼されているのですね!」

「信頼されてる、のかな?」

 

 "できません。それは俺のすることではないですから"

 "それでは、何のために艦娘がいるか分からないじゃないですか!"

 "じゃあ、艦娘は戦いだけしていればいい、と?"

 "…………そうです。そのために彼女たちはいるんですから。あなたも分からないわけではないでしょう?"

 "すいません、質問が悪かったですね。じゃあ、艦娘、ではなく人として彼女らは戦いだけしていればいい存在なんですか?"

 "……………………ッ!"

 "俺からの話は以上です"

 

 そこで録音は終わっていた。ふむ、疲れた頭にしては妙に冴え切ったことを言っている。疲労も極限まで来ると失言ではなく、核心を突いたことを言うようになるようだ。

 

「これで終わりだな。どうだ?朝潮、何か得たものはあったか?」

「はい!さすが、軍神と名高い司令官は部下のこともきちんと考えていらっしゃるんですね!感服いたしました!」

「普段もこのくらいの言葉を言ってくれたら、少しは変人と言われないのにね」

「なんだと、叢雲。それでは俺がまるでいつも変なことしか言ってないみたいじゃないか」

「そう言ってるのよ。でも…………この言葉を聞いて安心したわ。艦娘ではなく人として、ね」

 

 そんなことをしていたら、時間が迫っていた。早く書類を片付けないとまた、昨日のように冴え切った俺になってしまう。

 素早く食器類を返却棚に戻して、執務室に向かう。それに続くかのように朝潮も後ろについて来ていた。

 まぁ、こうして朝潮の手伝い、もとい観察が始まった。

 

 

 ーーーー

 

 

「この書類にサインを!」

「はいはい、えーっと、漁師から護衛依頼か…………」

 

 基本的な依頼者は国家や大手企業がおおいのだが、最近は漁師からの依頼も増えてきた。こちらとしては、着実に信頼を得ていると考えれるので素直に嬉しい。あと、お裾分けしてもらえるのもいい。

 

「こちらが報告書になります!」

「はいはい…………金剛がもうそろそろ改装できるな…………橘さんに話をつけておくか」

 

 改装するのは橘さん、ではなくて妖精さんの力を借りて行われる。なんでも、橘さんも妖精が見えるらしい。

 しばらく、書類を眺めていると、朝潮が不思議そうにジーッとこちらを見ていた。

 朝潮は朝からも変わらず背筋を綺麗に伸ばして、こちらを見つめられるとさすがに緊張して、精神的に疲れる。たしかに、邪魔をしてはいないのだが…………

 

「なぁ、朝潮、ずっと俺を見ているが何かついてるか?」

「いえ!司令官の仕事ぶりに感心していたところです!」

 

 このままだと俺の全てに感心してしまうんではないか?なんの変哲も無い執務にまで褒められてしまうとそう思う。

 

「んー、さすがに書類仕事は他の人と大差ないよ」

「いえ!司令官は書類の内容を一目見て理解していらっしゃるところがすごいんです!」

「いや、慣れたら誰でもそうなるから…………」

「…………そうでしょうか?」

「そうだ」

 

 いつの日かこの娘は俺を完璧超人と思ってそうで不安になる。俺だって人間だからな?

 

「しかし、今日は書類が少ないな…………」

「えっ」

 

 俺のつぶやきに朝潮が驚いたように反応した。

 

「これで少ないんですか…………?」

「そうだな、昨日はこれの倍はあったし」

「これで多いと思った私は…………」

「そんな思い悩まなくても」

 

 君もいつか慣れるから、うん。

 

「しかし、それでは司令官のように…………」

「何も、俺のようにならなくていいよ。自分がなりたいようになればいい」

「はい!だからこそ、尊敬する司令官のように!」

「あちゃー…………そう言うことか」

 

 上司として尊敬されることは喜ぶべき事柄なのだろうが、自分のようになりたい、と思われるとなぁ。自分の嫌な部分も知ってるからこそ自分のようになって欲しくない、と思う人も多いはずだ。

 

「別に強制はしないが俺としたら、君には俺のようになって欲しくない」

「そうですか…………なら」

 

 残念そうに顔を俯ける朝潮。そんな朝潮の頭を撫でる。

 

「あー、ちょっと待って。どうかしたいかは君が決めるんだ。俺が言ったからそうしないじゃない。俺はここでもう少し色んなことを見てから、決めて欲しい。それを踏まえてなのなら、俺のようになろうとしても俺は文句を言わない」

「色んなことを見る…………」

「ああ。ここには色んな人がいるからな。そっから、色んなことを見たらいい。ここは戦うためにあるわけじゃないんだから」

「司令官…………」

「まぁ、いつでも俺を頼ってもいいさ。何か聞きたいこと、して欲しいこと、あったらなんでも言ってくれ。できる限りのことを俺はする。そのために俺はここにいるんだからな」

 

 "鎮守府"は軍事会社としてあるだけではない。艦娘たちが社会復帰するため、すなわちやりたいこと、なりたいことを見つけるためにある。だからこそ、昨日はそう言ったんだろうし、そんな考えのもとで俺はここで働く。

 

「でしたら、1つ頼みたいことがあります」

「おう!なんでも言ってくれ」

「もう少し、頭を撫でてください!」

「…………そ、そうか!ああ、少しと言わず、もっと撫でてやるぞ!」

 

 と、朝潮の頭を撫でる。為すがままの朝潮であるが、その顔は年相応に嬉しそうだった。うんうん、子供はこのように笑わなければ。

 

「司令官、報告…………何してるのよ」

「あえ?あ、いや、これは…………」

 

 叢雲の目には、頭の位置を朝潮に合わせて頭を撫でる不審者に映ったに違いない。だって、汚物を見るような目なんだもん。

 

「と、とりあえず、報告書を!」

「はい。あまり人前でそんな行動しないことね。変人のレッテルが変態にランクアップするわよ」

「ぜ、善処する…………」

 

 うむ、最近の世間の風当たりは強いようだ。頭も撫でることすら許されないとは。

 しかし、嬉しそうに頭を撫でられている朝潮を見ると手を止めるのも気が引け、結局俺は甘んじて、変態の名を背負うことになるのだった。

 

「あ、そうそう叢雲」

「何?捕まっても私は擁護しないわよ」

「なぜそうなる。って、そうじゃなくて、俺って仕事早いか?」

「まぁ、そこそこ有能なんじゃない。変態じゃなかったら尚良しね」

「やっぱり、そこそこだよなぁ」

「もう、変態ってことも否定しないのね」

「否定したところで何も変わるまい。まったく、こんな生真面目な好青年を変態扱いする理不尽な部下を持ったもんだ」

「なら、コーヒー淹れてあげないわ」

「美人で有能な部下だ」

 

 口ではやはり勝てぬ。コーヒーを盾にするとは…………しかし、自分で淹れても叢雲のようにうまくできぬ。叢雲のコーヒーが飲めぬのと変態のレッテルだと、わずかにコーヒーに分がある。紅茶とか長門ブレンドはもう飲みたくない。

 

「報告書読んだし…………あとは暇だな」

「なら、久しぶりに演習見に行く?今日は駆逐艦たちが演習してるわよ」

「それなら彼女らの頑張りを見てあげないとな。どうだ、朝潮。挨拶も兼ねて、行くか?」

「ふぁい!この朝潮、司令官にどこまでもついて行く覚悟です!」

 

 返事がふにゃけていたが、力強く、そして明るい笑顔を見せてくれた。その笑顔はやはり、俺の心が洗われるのであった。




引き続き、リクエストをしていただきたいと思います。リクエストは活動報告にてアンケートがありますのでそちらに投稿してください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話2"心密かに"


リクエストの榛名です。



 ある日、執務室では俺と長門がそれぞれPCに向かい、デスクワークに没頭していた。デスクワークはいつものことなのだが、PCはこの執務室では見慣れない。

 このハイテクがこの鎮守府に訪れた理由は艦娘の増加に比例するかのように書類も増加したからだ。今のところはエクセルを使い、情報を分かりやすくまとめるだけ。近い未来は報告書などは全てワードで提出してもらうのかもしれない。

 

 カタ…………カタ…………カタ…………

 

 …………その前にまずは俺と長門が使いこなせないといけない。あまりにも遅いタイピング、このままだと紙でやる方が早い。

 乱雑な俺のデスクにて2人不器用に、情報を打ち込む。

 と、ドアがガチャリと開いた。長門が閉め忘れていたらしい。鍵もかけられていないドアから現れたのは金剛と榛名であった。

 長門の方はPCに夢中過ぎて気づいていない。俺も今はこちらに集中したいのであえて、特に声かけもしなかった。

 金剛はそろりそろりと執務室を歩く。どうやら、俺らが気づいていないと思っているらしい。半分ほど当たってるが。

 

 カタ…………カタカタ…………

 

 背後に気配を感じた瞬間、俺は振り返った。だてに軍人やってたわけじゃないからな、ある程度は気配を察知できる。

 

「何してるんだ、金g…………」

 

 なんと驚いたことに、後ろにいたのは榛名であった。俺と目を合わせたまま硬直して動かない榛名。

 ーーマジかよ。

 

「わ、私、金剛でーす…………」

「少し無理があると思うぞ榛名」

 

 榛名の唐突の発言に俺は驚きを隠せない。普段は礼儀正しく控えめな性格というイロモノの多いこの鎮守府ではオアシス的存在であるので余計に。

 

「…………こほん、で、どうしたんだ?榛名」

「て、提督が珍しくPCを使っているので気になってつい…………」

 

 顔を少し赤らめもじもじしながら答える。しかしながら、金剛は何処へ…………あ、紅茶の準備をしているようだ。

 

「と、とにかく、無断で執務室に入らないように。金剛もな」

「はい、すいません…………」

「Oh!?いつのまに気づいたデスカ!?」

 

 今回、突拍子もないことをした榛名だが、普段は先ほども言った通り礼儀正しく、控えめな性格でリーダーシップ性に優れる金剛とは対照的に相手を立てるのが非常に上手い。また、気遣いもでき、度々休憩を勧めてもらう時もあった。

 あと、ジジくさいかもしれないが、榛名がいれる緑茶はとても美味しい。コーヒーが叢雲なら緑茶は榛名だろう。

 

「まぁ、邪魔をしないのならいてくれてもいいぞ」

「Yes!そうさせてもらうネー。榛名も一緒にいますよネ?」

「は、はい!榛名もご一緒させていただきます!」

「む、そこの2人、なぜ執務室にいる?」

 

 ここにきて、長門の遅過ぎる反応。おいおい、戦場に出るものとして大丈夫か?

 

「俺が許可したんだ」

「そうか、しかし甘過ぎるのも考えものだぞ」

「厳し過ぎるのもな。とにかく、俺らはこのハイテク機械をマスターしないといけないだろう」

「そうだな…………この"えくせる"というのは計算させることもできるらしいが、どうしたらいいんだ?」

「え?本当か?表を作るだけじゃなかったのか?」

 

 この鎮守府の2トップが揃いに揃ってこの惨状とは情けない。しかしながら、互いに戦う事しか知らなかったのだから仕方ない。そう、仕方ないんだ。

 

「できますよ。関数を使えば合計とか平均値だって出せますよ」

「ほ、本当か?榛名?」

「ええ、これをこうして…………はい!これでこの数列の合計が」

「ほ、本当だ!長門!見ろ、これで一々計算してから打ち込む必要がないぞ!」

「そんな手があったのか…………!」

 

 今の時代においてはスマートフォンという小型PCのような代物を子供ですら持つらしいが、スマートフォンではなく銃を片手に生活していた俺にとってはこのようなことでさえ感動を覚える。

 現代のテクノロジーっていうのはすごいなぁ…………

 

「このようにすれば、どの艦娘が戦果を挙げたか一目見て分かります!」

「おぉ!ランキングされてるぞ、これで誰がMVPか一瞬で分かる」

 

 MVPについて補足しておくと、most valuable playerという意味のまんまで、1つの出撃ごとに一番活躍した艦娘に送られ、俺からの金一封が送られる。ボーナスといえばいいのか。

 

「榛名、他にも教えてくれ!」

「はい!榛名にお任せください!」

「うー、仕事もいいけどもうそろそろお昼にしませんカ?」

 

 ふと、時計を見れば12時を既に回ってる。気がつくとお腹が空いてきたな。

 

「あとは午後に回して、昼飯を食べるか」

「午後は駆逐艦たちへの授業がなかったか?」

「あ、そうだったな。なら、夜の執務に回そう。榛名、頼めるか?」

「はい!榛名は大丈夫です!」

 

 なんとも頼りになる娘だ。このままでは俺がお飾り上司になってしまう。

 とにかく、俺と長門は食堂に向かうために腰を上げ、金剛、榛名とともに執務室を出た。

 

「むー…………」

「どうした?金剛、そんな不満げな顔をして」

「納得いかないデース!どうして、提督の横にいつも長門がいるのですカー!」

 

 それなら、もう片方も空いてるんだから来ればいいだろう、と言いかけたが、3人も横に並べば通路の邪魔になる事に気がついた。なるほど、金剛なりにも考えているんだな。

 

「そう言われてもだな…………よく考えたら昔からこのような感じだな、提督」

「そうだな。子供の頃からこいつに引きずり回されて、諦めてついて行くようになってからだな」

「む、嫌々だったと言いたいのか?」

「さぁ、どうだろうか?」

「そういうことはいいデース!まるで熟年夫婦じゃないデスカ!」

 

 熟年夫婦、なるほどそんな表現もあるのか。夫婦とまでは言わないが、長門とはそれなりに長い付き合いだ。

 

「熟年夫婦とまでは言わんが、それなりに信頼はしてるぞ」

「そうだな」

「ぐぬぬ…………長門!提督のハートを掴むのは私ネー!絶対に負けたりなんかしませんヨー!」

は、榛名も負けません

「ん?榛名も何か言いたいのか?」

「い、いえ、なんでもありません!」

「と・に・か・く!提督の隣を私にも譲るネー!」

「そうか、いいぞ」

 

 長門は俺の隣を金剛に譲り、後ろに下がった。金剛はすぐさま、俺の隣に来たかと思うと腕を絡めた。

 

「「!?」」

「フフフ〜、久々の提督ネー」

「久々って…………」

「むぅ…………」

 

 榛名の顔色が変わった、気がしたが、俺が見たことに気づくとすぐに笑顔に切り替わった。気のせいか?

 と、色々してるうちに食堂に着いた。久々に激辛カレーでも食うか。

 

 それぞれの昼飯を運び、席に着く。

 

「いつも思うのだが…………そんなに辛い物を食べて大丈夫なのか?」

「全然問題ない。こんなに美味しいのに誰も頼まないのが不思議なぐらいだ」

 

 まぁ、大の甘党の長門が辛い物を食べる姿なんて想像もつかない。

 

「一口食べるか?」

「遠慮する。そんなの食べてたら舌がイカレる」

「そうか…………美味いんだがな」

 

 と、カレーを口に運ぶ。やっぱり美味い。どうして、この美味しさが伝わらぬのだろう。

 

「とにかく、PC導入の件だが扱いにくいのが課題だな」

 

 主にトップの2人が、だな。多分、ほかの娘たちは扱えるのではなかろうかと思う。いや、使えるだろう。このご時世、コンピュータの類は使えなくてはいけないと聞いている。

 

「だが、山積みの書類よりもマシなのは確かだ。あっちはまとめにくくてかなわん」

 

 仕舞ってしまった書類を再び取り出すのはかなりの時間がかかる。それにかさばる。PCの方は一目で分かるし、場所を取らない。

 

「2人とも仕事の話をするのもいいけど、休み時間なんだからもっとプライベートな話をしましょうヨー」

「プライベート、か」

「そうデス!テイトクのこともっと良く知りたいネー!」

「榛名も気になります!」

「特に面白いこともないぞ?暇なときは寝るか筋トレか…………」

 

 最近は、この鎮守府の広さに気づき、敷地内をランニングするということに凝ってるな。1周だけでもなかなかの距離になるからちょうどいい。

 

「提督、そのままだと脳みそまで筋肉になるぞ?」

「長門、君にだけは言われたくない」

 

 幼少期からいじめっ子を腕っぷしで撃退したいような女にまで脳筋と言われるともう救いようがないぞ。

 ちなみに長門の使っているPCは2台目で1台目は破壊された。

 原因は読み込み時間にイラつき、キーを連打してるうちに、バキッという音とともに大きな穴が開いてしまったから。挙げ句の果てに読み込み時間をフリーズと勘違いして、

 

「ふっ、知っているぞ!こういうときは、45度の角度で叩くといいらしい」

 

 そういい、スクラップにしてしまった。俺でも読み込み中だと分かるのだから、彼女の脳筋っぷりが分かるだろう。よって彼女の方が脳筋だ。

 

「そういえば、最近執務室にベンチプレスがありましたネ…………」

「一々トレーニングルームに向かうのが面倒でな」

「提督、お茶です」

「お、ありがとう榛名。さすがだな。よく気がきく」

「いえ、提督の傍にいるものとして当然です!」

「はは、本当に気がきく娘だ」

 

 ほかの娘たちもこのくらい気をきかせてほしいものだ。人を変人呼びしたり、脳筋と言ったり、変態と言ったり…………本当に俺をなんだと思ってるんだ。

 

「Yes!ワタシの自慢の妹ですからネ!」

「妹、かぁ…………」

「どうしたんだ、提督。感慨深そうに」

「俺にも兄ちゃんと呼ばれてた時期があったなぁと思っていただけだ。時の流れというのは何もかも変わってしまうのだな…………」

「え…………?提督はひとりっ子なのでは…………?」

 

 榛名の言う通り、ひとりっ子である。そもそも、ひとりっ子どころか天涯孤独の身である。

 

「そうだ。だが、俺を兄として慕ってくれたのがいてだな。とても可愛がった記憶がある」

「ん?それって、陸奥のことか?」

「What!?どういうことネー!?」

「小さい頃はガサツな長門とは違って繊細な娘だったんだぞ?今では想像付かぬかもしれないが、案外泣き虫で、よく俺に泣きついてk「何言ってるのよ!」おお、陸奥、いたのか」

 

 顔を真っ赤にして陸奥が俺の引っ叩いていた。うむ、この力…………成長したんだなぁ。

 

「テイトクゥ〜、詳しく教えるネー!」

「榛名は…………大丈夫じゃありません…………」

「そうか、なら幼少期の思い出の1つや2つでも…………」

「しなくていいから」

 

 ものすごい眼光で陸奥に睨みつかれてしまった。まぁ、人には話したくない過去があるかもしれん。

 

「すまんがこの話はなしだ。聞きたくば、陸奥から聞いてくれ」

「陸奥!テイトクとはどんな関係ネ!」

「教えてください!」

「関係も何も、同じ孤児院で一緒にいただけよ!」

「本当なのですか!?」

「榛名まで…………」

「いいから早く言うネー!」

「だから、同じ孤児院だった。それだけよ」

 

 ギロリと鋭い眼光とともに有無言わせぬ空気が漂った。さすが長門の妹なだけあり迫力ある。

 俺はとりあえず、茶を飲む。しかし、こうなると妙に年寄りのような気分になる。

 

「提督、余計なこと、もう言わないでね?」

「余計も何も、ただの思い出話じゃないか」

「もう言わないでね?」

「分かった」

 

 これ以上、彼女を怒らせるのもよくないだろう。俺は口を噤んだ。

 この後、数十分ほど金剛に尋問させられた。その時に榛名も訴えるような目をしていたような気がした。

 

 

 ーーーー

 

 

 駆逐艦たちへの授業を終えた俺は、約束通り、榛名にPCの指導を受けていた。長門ほどではないものの、ハイテク機械に疎い俺にも根気強く丁寧に教えてくれた。そうしてたら、いつのまにか夜となっていた。

 

「よし、榛名。休憩にしよう」

「はい、そうしましょう!」

 

 榛名がお茶をいれる準備をしている間、俺は空の月を眺めていた。月には良し悪しがあるらしいが、今日はどちらなのかは俺には分からない。

 

「提督、お茶です」

「ん、ありがとう」

 

 感性のなさを自覚するものの、この景色の下でお茶を飲むのはなかなかの風情だ。

 

「月が綺麗ですね」

「えっ!?」

「たしか、これは夏目漱石が"I love you."の訳し方として言ったらしいな。事実かは定かではないが」

「そ、そうですね…………」

「日本人の感性を表しているらしいが…………俺にはよく分からんな。愛している者になら恥ずかしがらず"愛してる"と言えると思うのだが」

「簡単なことじゃないんですよ。人に"好きです"と言うことですら難しいですから」

 

 そうか、と返事をし、再び夜空に浮かぶ月を眺めた。特に変哲もない上弦の月だ。

 

「そういえば、提督」

 

 榛名が思い出したかのように言った。

 

「提督はまた軍へ戻ってしまうのですか?」

「ふむ、最近はそれが噂になっているのか?」

「はい…………金剛お姉様から聞いたものですから…………それに、提督は毎日体を鍛えてなさってるので」

「戻る気はさらさらない。体を鍛えてるのはただの趣味だ。心配しなくてもいい」

「本当ですか?」

「男に二言はない」

「それなら安心しました」

 

 ほっと胸をなでおろす榛名だが、再び不安げな瞳を向けた。

 

「いつまでも皆さんと一緒にいられるのでしょうか?」

「突然だな。どうした?」

「いえ、ここはちょっと変わった人たちがたくさんいますので、地域の人たちからの評判もその…………」

「よくないもんな」

「提督も居心地が悪くなっていなくなってしまうかもしれません」

 

 榛名の心配も的外れではない。

 商売相手の評判は良いが、それ以外からはかなり微妙な評判だ。なにせ、所属している人々が尋常じゃない上、軍事会社だ。外部から見れば、まともな榛名でさえ怪しげな人たちに見えるのだろう。

 

「心配しなくてもいい」

 

 俺ははっきりと言った。

 

「世間がなんと言おうが俺らは1つたしかなことを知ってる」

 

 榛名の強い視線を感じ、月を見上げながら言った。

 

「この鎮守府に所属する者みんな、一生懸命に平和を切り開こうとしていることだ。無論、俺もそうだ」

 

 ここにいる艦娘たちは社会に適合できず、流れ着いた場所だ。でも、彼女らは彼女たちなりに自分の生き方を切り開こうとしている。

 これらはとても誇れることだと思う。

 

「君も金剛も、他の娘たちも、いずれはここを出てそれぞれの道を行く。そして、必ずここはいつか潰れる。いや、潰れないといけない。でも、それは祝うべきことなんだ。ここが潰れたとしても、俺らを出会わせた場所として心に刻み込まれる、そうだろう?」

 

 そう語ってるうちに、懐かしい気分になった。

 

「もうここも1年。榛名と提督が出会って半年になりますね」

「早いもんだ」

「そうですね」

「あの日は戦いが激しかったな」

 

 

 今から半年前、ちょうど梅雨頃の時期である。俺は社長としてようやく慣れてきて、鎮守府も軍事会社らしくなってきた頃であった。

 その日は軍から増援として艦娘を派遣しており、ドッグも解放していた。そして、夜は祝勝会ということで勝手に隼鷹が酒宴を開いた。

 そんな中、入り口の方からふと聞き慣れぬ女性の声が聞こえたのである。

 

「みんな随分酔ってたから、空耳だろって言われたんだが」

 

 ふと視線を榛名に向けると、優しげな瞳とぶつかった。

 

「俺は素面だったし、そうとは思えなかったんだよな。アホみたいな言い合いをした後、結局俺と長門と熊野で行くことになった」

 

 入り口までやってきた俺たちは、みんなそこで呆然としたもんだ。

 

「榛名は…………ひどい格好でしたから」

 

 榛名は恥ずかしそうに目を伏せた。

 3人が見たのは、ボロボロの状態の1人の少女だった。

 

「あの時は驚いた」

「榛名も驚きました。軍からはドッグが開いていないからと指示で向かった場所なのに、出てきた人たちはみんな様子が変で…………」

「俺以外、完全に酔っ払っていたからな」

「長門さんは壁に話しかけていましたし、熊野さんは"ここに来てはいけませんわ"と繰り返して…………」

 

 俺は苦笑した。今思い出しても、ひどい様子である。

 突然の客に戸惑った俺らは、それぞれひどい反応をしたのである。

 

「あの時、榛名は軍のドッグが開くまで待とうかなと思ったんです」

「多分、それが正常な判断だ。俺なら迷わず時間を待つ」

「でも」

 

 榛名は再び顔を上げた。

 

「提督はすぐに私をドッグに案内してくれた上に、貴重な高速修復材を使ってくれたんです。それがとっても嬉しかったんです」

 

 榛名は花が咲いたかのような笑顔とともに言った。

 この笑顔のためなら、高速修復材の1つや2つなど痛くもかゆくもない。胸中はその笑顔に破顔しつつ、外面はなんでもないように繕った。

 

「あの時に言ってくれた提督の言葉、今でも榛名は覚えています」

「何か言ったのか?」

 

 失言ではないことを祈る。その日も疲れていたような気がするからなぁ…………

 榛名は俺の声を真似るように声を低くして、

 

「ご苦労様です。ゆっくり休んでくださいって」

「うむ、普通ではないか」

「提督だからそう思うんですよ」

 

 榛名は一息ついて、

 

「ボロボロの榛名を労い、そして考えてくれてるんだなってすごく感じたんです。初めての感覚で、榛名はとても感激したんですよ」

「気くばり上手の榛名に言われるのなら、提督冥利に尽きるな」

「いえ、提督の方が皆さんのことを気遣ってます」

「嬉しいことを言ってくれる。だが、もとおりここはずっといる場所ではない。自分の生き方を見つけるための道しるべの1つに過ぎない」

 

「だが、あえて聞いてみよう。榛名はどこかに行きたいか?」

「榛名はできる限り、ここにいたいです。みなさんがいますから」

 

 迷いない声が響いた。

 俺がここを出て行くときは、深海棲艦との戦争が全て終わり、艦娘たちが自分の道を自分で歩き始めたときだ。

 

「それなら、俺も勝手にここを出れないな」

 

俺の声に、榛名の微笑が重なった。今夜の月は良い月であるらしい。

 

 

 

 

「月が綺麗ですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




閑話はここまでは、と言いたいですがもう一つ投稿したい閑話があるのでそれを投稿してから本編に行きます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話3"めりくり"


めりくり、めりくり!っと言うわけでクリスマス回です。

しかしながら、クリスマスという日はどうして浮ついたカップルが多発するのでしょうか?こんなクソ寒い中、わざわざ外に出てイチャイチャと…………ん?羨ましいだけだろって?まさか。私は熊野のサンタコスを拝めるだけで満足です。
とおおおおおおお↓おおおおおお↑おおおおッ!





 

 

 

 

「めりくりめりくり!提督めりくりだよー!」

「…………めりくり?栗の一種か何かか?」

 

 駆逐艦たちによって、華やかに飾られた執務室にサンタのコスチュームでやってきたのは鈴谷だ。もうすでにめりくりの正体など分かっている俺ではあるが、ここはあえてとぼけてみせた。

 そんな俺に、鈴谷はむーっと不満げな顔をしてみせる。

 

「冗談だ。メリークリスマス、の略なんだろ?」

「そうそう!あとは何をすべきかは分かっているよね?」

 

 不満げな顔から一転、何かを期待する眼差しをこちらに向ける。しかながら、鈴谷のコスチュームは肩を大胆にも露出しており、真冬のこの季節にはいささか寒そうである。

 

「何をすべき、とは?」

「もう…………鈴谷にプレゼント、ちょーだい?」

「…………今日は何日か分かっているのか?」

「嫌だなー、分かってるよ。12月24日でしょ?」

「そうだな。イエス・キリストの誕生日の前夜祭だ」

 

 一週間ほど前から、鎮守府では少しずつクリスマスムードになり、前日の今日は明日に向け、駆逐艦の娘たちと準備をした。クリスマスツリーもあらかじめ注文しておいたものを設置し、いたるところに飾りつけがなされている。料理は間宮さんと鳳翔さんが腕を振舞ってくれるらしく、俺も楽しみにしている。

 さらに、俺は授業を使い駆逐艦たちにサンタさんへの手紙を書かせて、欲しいものを把握し、先程長門と買いに行ったばかりだ。浮かれた顔でイチャつく、若いカップルの中を行くのはいささか不本意だったが、駆逐艦たちのためだ、しょうがない。

 そんな感じに、すっかりクリスマスムードだが、今日はまだクリスマスじゃない。明日は一日中仕事が出来ないため、その日の依頼は全て断り、一週間かけて、その日の分の仕事を消化している。今とて、執務の真っ只中であり、ここ一週間の平均睡眠時間は3時間は切る。そこにクリスマスの準備も重なり、大変疲れている。それはもう、過去最高クラスに。

 今朝も叢雲に

 

「死人の顔をしてるわよ」

 

 と言われてしまった。"死にそう"からついに死んでしまったのである。

 そんな中に、鈴谷が来たのである。それもプレゼントをせがみに。勘弁して欲しい。

 

「鈴谷、イエス・キリストの誕生日の前夜祭を世間では何というか知ってるか?」

「え、クリスマス・イブでしょ?」

「正解だ。とういうことは今日はクリスマスではない。だから、今日めりくりと言って、プレゼントをせがむのは間違いだ」

「えー、いいじゃん。細かいことを気にし過ぎだよー」

「そもそも、上司にプレゼントをせがむとはどういうことだ」

 

 変人などと呼ばれているが仮にも社長なんだぞ。

 あー…………筋トレもできていないし、仕事も捗らないし…………最近はミスが目立つから、俺の疲労の酷さが伺える。

 人を死人と呼んだ叢雲が本気で俺を心配したくらいだからな。

 と行った矢先からミスに気づいた。この一文全て書き直しだ…………俺は舌打ちして、バックスペースキーを長押しする。

 

「ぬぉ!?あぁ…………消さんでいいところも消した…………」

「もう、仕事ばっかりしないでさぁ、提督もクリスマスモードに入っちゃなよ!」

「そういうわけにもいかん。というわけで、早とちりしたサンタさんはお引き取りください」

 

 ぐぬぬ、と何か言いたげな顔でこちらを睨むが、放っておいて俺は執務に集中だ。とっとと終わらせて早めに寝ないと、明日は死に顔のままクリスマスパーティーに参加しなければならなくなる。

 

「いい加減にしろ鈴谷。提督も明日のために頑張ってるんだ、その気持ちくらい汲み取ってやれ」

「そうですわよ。大のレディがプレゼントをせがみませんの」

 

 ここに来て、長門と熊野が注意した。2人に言われてしまっては鈴谷もこれ以上、駄々をこねるわけにはいかないようだ。

 その2人も心なしか浮かれている気がする。長門はきっと明日のクリスマスパーティーに胸が熱くなっているのだろう。イベント時の子供のはしゃぐ無邪気な姿に。熊野に至っては鈴谷と同じくすでにサンタコスである。だから、一足早いって。

 

「むー、そういう熊野だって地味にサンタコスに着替えてんじゃん!」

「プレゼントを貰いに来たあなたと一緒にしてもらっては困りますわ。わたくしは提督にプレゼントを渡しに来ましたのよ?」

「…………サンタって夜にひっそりとプレゼントを置いていくものじゃないのか?」

 

 このサンタは白昼堂々とやって来てるんですが。それに、プレゼントも見当たらない。

 

「提督、おっしゃってる意味を分かって言ってるんですの?」

「はぁ?」

「レディに夜、自分の部屋に来い、と言っているようなものですわ。わたくしからしたらかまいませんけど」

「そこはかまえよっ、とそれはいい。その前にまず君の言うプレゼントやらはどこにあるんだ?」

「わたくしと一緒に過ごす、ということですわ。この上ない贈り物でしょう?」

「…………」

 

 ここまで、自信を持って言われては突っ込む気も失せる。突っ込む気力があるのなら仕事に回せ、と言う話なんだけどな。

 

「何か言いなさいな」

「…………君と一緒に過ごせて光栄だ。なんなら執務を手伝ってくれるとなお嬉しい」

「それは遠慮しますわ」

 

 あっさりと断られてしまった。サンタをやるのならもう少し徹底してほしいものだ。

 ちなみにご丁寧にも俺用のサンタコスまで準備してある。こちらは熊野や鈴谷のようにサンタ風コスチュームではなく、本物に忠実なスタイルのコスチュームだ。白髭まで用意されてる。つまりは、夜、駆逐艦たちの部屋にプレゼントを置く際、着ろということだ。

 

「とにかく、仕事を手伝う気がないのなら出てくれ。もう一度言うが、今はクリスマスじゃない。クリスマス・イブだ。俺とて暇じゃない」

「ぶー、ならちゃんとプレゼント用意してよね?」

「わたくしの分もお願いしますわ」

「どこまで図々しいんだ!お前らは!」

 

 熊野に至ってはさっき、自分からせがむのはレディじゃないとか言っただろ。

 ともかく、俺は1日早まったサンタ2人を執務室から締め出した。

 

「はぁ…………これでやっと落ち着く」

「それだけクリスマスが楽しみなんだよ」

 

 長門もな、と言いかけたが自分もそれなりに楽しみにしているので言うのをやめた。子供時代はともかく、軍隊に所属しているときはクリスマスパーティーなどしたこともない。それは艦娘たちも同じだろう。

 

「そのために明日は全面的に休暇としたんだからな。俺もゆっくりとできる」

「ああ、その前に最後の一仕事を終わらせよう」

 

 と、長門はラッピングし終えたプレゼントを手に取った。妙に静かだと思ったら、ラッピングをしていたのか。プレゼントそれぞれにわざわざ小さな手紙まで添えてある。

 

「…………なぁ、暁や夕立ならともかく、不知火や時雨とかはサンタを信じているのか?」

 

 同じ駆逐艦と言えど、全員幼いというわけではない。時雨や不知火を代表したが、響のように大人びた娘がいれば、白露や村雨などのように見た目も大人びた娘がいる。彼女らがサンタの存在を信じているか疑わしい。

 ちなみに自分は6歳の頃にクリスマスパーティーのとき、サンタの格好をした施設の人に出くわすまで信じていた。その人に出会った瞬間の衝撃は今でも忘れられない。

 

「提督、子供というのは案外信じているものだ」

「そうかなぁ…………」

 

 現代の子供は現実的だと聞いてるが…………

 

「ちなみに私は18までは信じていたぞ」

「君って、意外とそういうところあるよな…………」

 

 華やかな戦歴を誇り、ほかの艦娘たちからも絶大な信頼を得ている長門であるが妙に子供っぽいところがある。駆逐艦と触れ合いすぎて長門まで子供になってしまったのか。

 

「まぁ、何にせよ、久しぶりのクリスマスだ。楽しもうじゃないか」

「そうだな。クリスマスパーティーは何年振りかなぁ」

「ああ、胸が熱いな」

「羽目を外しすぎないようにな」

「それはそうと、提督これを着るつもりはあるのか?」

 

 と、俺の後ろにぶら下がる、サンタコス一式を指差しながら言った。これを用意したのはたしか熊野だった気が…………もしかして、あいつはこれをプレゼントというわけじゃないだろうな。

 ちなみに、俺がサンタコスを拒否でもしたらトナカイコスとなり、熊野に顎で使われる羽目になったらしい。今更だが、賢い判断ができたと思う。

 

「まぁ、楽しむには形から入るのもいいだろう。今夜からにも使わせてもらう予定だ」

 

 使う理由はもちろん、プレゼントを置くときにだ。これでもしもの場合にも対処できる、かもしれない。

 

「だが、その仕事を終えないと話にならないぞ」

 

 長門は苦笑しつつ言った。

 楽しい話でこの辛い状況をごまかそうとしたのに…………これでは再び憂鬱な気分に戻ってしまうではないか。

 

「分かってる、サンタも大変なもんだ…………」

 

 眼前のモニターに目を向けつつ、俺はボヤくように言った。

 こうして、俺はアホのように多い仕事に再び取り掛かることになった。

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

「提督、準備はいいか?」

 

 深夜、サンタコスを身に纏いプレゼントを抱える、長門は小声で言った。

 

「随分と楽しそうだな…………」

「当たり前だ、駆逐艦たちの可愛い寝顔姿を見れると思うと胸が熱くなる。彼女たちは天使だからな…………」

 

 放っておくといつまでも駆逐艦たちの良さを言い続ける勢いである。彼女を尊敬する者がこの姿を見たらどう思うだろうか。

 

「早く行こう。俺ももう限界だ…………眠ってしまわないうちに終わらせてくれ」

 

 平然としているように見えるが結構疲れがきているのだ。ジッとしていたら寝てしまう。

 

「そうだな、だがくれぐれも駆逐艦たちを起こすなよ?バレたりでもしたら、子供の夢を壊すことになる。大人としてそういうことはあってはならないんだ」

「分かってる、分かってる。俺が力つきる前に始めてくれ」

 

 俺の体がいい加減、時間外労働でストライキを起こしそうだ。しかし、そんなときに限って長門は饒舌になり、熱く駆逐艦のことを話すからたまったもんじゃない。

 

「そうか…………提督、ヒゲが取れてるぞ」

「ん…………これでいいか?」

「ああ」

 

 このヒゲにこだわる理由が分からないが、そんなことを聞いて時間をかけるわけにもいかない。

 

「よし、行くぞ」

「おー」

 

 勇み足で先頭を行く長門に俺は覇気のない声とともに後に続いた。

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

「ふぅ…………意外と疲れるな」

 

 あらかたのプレゼントを配り終え、俺は軽く息を吐いた。

 この任務、駆逐艦たちを起こさないようにかなり神経を使うので精神的に疲れる。元の仕事柄上、夜目はかなりきくのでうっかり、なにかを落とすという失態は起こさない。まぁ、昔は物音を立てれば死が来るという状況に幾度も立たされているので、今回の任務も朝飯前といえば朝飯前だが、こちらは子供の夢を抱えている。下手に手抜きもできない。

 

「それにしても、不知火は意外だったな…………」

 

 不知火のベッドにはご丁寧にも大きな靴下がぶら下げられていた。案外、そういうのを信じているのかもしれん。

 

「むっ…………」

 

 ふと、俺は胸元にあるペンを取り出し後ろに投げた。何かに当たるとともにイテッという声が聞こえた。

 

「誰だ?」

「あちゃー、バレた?気配消したつもりなのになぁ…………」

「…………川内か。問題に問わないからさっさと部屋に戻れ。あと、いくら言っても夜戦の回数は増やさんぞ」

「ち、違うよ、提督。夜の散歩をしてたら、変な人物がうろちょろしてるのを見つけて追跡してただけ」

 

 今気づいたが、俺はかなり不審者だ。何せ、サンタコスで真夜中の駆逐艦寮をうろついている。

 

「っと、思ったら提督だったんだけどね。何してるの?」

「見ての通り、サンタとしての仕事を全うしているだけだ。分かったならさっさと部屋に戻れ」

「へぇ…………私たちにはないの?」

「そういう歳でもないだろ?むしろ、俺がプレゼントを置きに部屋にでも入る方が問題だ」

「えー…………私もプレゼント欲しいなぁ」

「明日、やるから我慢しろ」

 

 駆逐艦はサプライズ形式でプレゼントを渡すが、それ以外は普通に手渡しだ。そもそも、ここ全員分のプレゼントを配り回るとか大変過ぎる。

 

「それにしても、提督よく気づいたね。夜の行動はバレないって自信があったのに」

「あれで隠密行動してるつもりなら甘いな。気配が消しきれていない上に物音を立て過ぎだ」

「え?物音なんてほとんど立てていないつもりなのに…………」

「俺は昔の職場上、音にはかなり敏感なんだよ。言っておくが、お前よりもプロだと思う」

 

 自分よりも強大な敵に立ち向かうには方法は2つ。より強大な武器を得るか、奇襲だ。奇襲は少数でも多数の軍勢を全滅させることすらできる。しかし、こちらはバレたりでもしたらあっという間に全滅する危険性が常にある。

 

「本当!?提督も夜戦が好きなの?」

「うるさい!…………好きではない。だが、仕事上夜戦が多かった、それだけだ。分かったら寝ろ」

 

 そう言い、俺は最後のプレゼントを片手に第六駆逐艦のいる部屋へ向かおうとした。しかし、裾を掴まれた。

 

「ねぇ、私にその極意教えてよ」

 

 声は小声だが、明らかに期待が含まれていた。振り返ると、目をキラキラさせて、羨望の眼差しを向ける川内の姿があった。この時、俺は口が滑ったということを今更気がついた。疲れているときは言わなくてもいいことを言ってしまう癖が出てしまった。

 

「断る。強いて言うなら、夜戦をすることがないというのが最大の極意だ」

「なにそれ、つまんないなぁ。私に物音を立て過ぎだって言ったんだからには、物音を立てない方法でも知ってるんでしょ?」

「そんなのは知らん。だから、さっさと寝ろ」

「教えて」

「断る」

「教えて」

「断る」

「お・し・え・て」

 

 なんとも、非生産的な掛け合いが続く。しかし、こちらが折れてしまえば、夜にまで借り出されてしまうという事態になりかねない。ただでさえ、今の執務にいっぱいいっぱいなのに、これ以上仕事を増やしたくない。

 

「…………!川内、静かにしろ。誰か来る」

「え?」

「いいから、静かにしろっ」

「えっ…………ふぐっ!?」

 

 廊下の向こう側から気配を感じた俺は、川内の口を手で塞いだ。

 

 コツ…………コツ…………

 

 やはり、気のせいではないな。徐々に足音が近づいて来る。音が少し軽いから、駆逐艦か?

 

「すごいね!あんな遠くから来た足音に気づくなんて」

「だから、うるさいと言ってるだろ!」

「誰…………?」

 

 思わず声を荒げてしまった。お陰で、気づかれてしまった。

 

「ん…………あ、サンタさんだー…………」

「暁?」

 

 足音の正体は暁だったか。トイレにでも行ってたのだろうか。眠そうな顔を擦りながら、覚束ない足取りでこちらに駆け寄った。

 普段の暁は、自らを"一人前のレディ"と言い、それらしい行動を心がけている。しかし、それははたから見れば背伸びをする子供のそれであり、非常に微笑ましい。

 暁は子供扱いされることを嫌がるが、こちらからすれば思わず子供扱いしてしまう。

 夜1人でトイレに行けずに俺を起こしに来ることが度々あるなどやはり子供だ。だが、俺の部屋まで来れるのにトイレには行けないというのはいささか謎であるが。

 

「サンタさん…………暁ねぇ…………1人でトイレに行けたんだよ…………えらいでしょ?」

「…………ああ、偉いぞ」

 

 俺はしゃがみ、暁の頭を撫でた。普段は嫌がるこの行為だが、今回の暁は嬉しそうに微笑んだ。

 

「じゃあ、暁はプレゼント貰えるの?」

「ああ、もちろんだとも。サンタさんは君がいい娘だということを知っているからね」

 

 四姉妹の長女として、まとめ役をしっかり務めていることを俺は知っている。

 彼女ら四姉妹には親がいない。それ故に暁は長女として親の代わりになれるように努力しているのだろう。そのことは決して馬鹿にできない、むしろ大人である俺が尊敬してしまうほどだ。

 

「本当?」

「本当だ」

 

 すると、暁はこちらに抱きついた。

 どうやら限界だったらしい。スヤスヤと可愛らしい寝息をたてて寝てしまった。そんな彼女を俺は抱き上げると、より一層抱きしめる力が強くなった。

 

「…………川内、暁のためにも今回のことは後にしてくれ」

「分かった、それじゃあ私はドロンするね」

 

 そう言い、川内は自分の部屋へと帰っていった。それなりの配慮はできるらしい。

 

「スー…………スー…………」

 

 幸せそうに眠る、暁を見ると思わず微笑んでしまう。

 父性というやつなのだろうか?まぁ、自分が親代わりにでもなれるのならいくらでもなってあげれる。いや、そんなことくらいしか彼女らにできることがないのかもしれない。

 こんな幼い娘たちを戦地へ出すということに対して、俺が返してやれることはあまりにも不釣り合いなものだ。しかし、こんな変人な俺だからこそ、やってあげれることがある。

 

「…………よいしょっと」

 

 ベッドに暁を下ろし、それぞれの枕元にプレゼントを置いた。サンタが俺だということを除けば、きっと素晴らしいクリスマスとなることだろう。

 小さな兵士たちを後に、俺は部屋を出た。

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

「めりくりめりくり!提督めりくりだよー!」

「…………めりくり」

「…………」

「おい、のってやったのにその反応はなんだ」

 

 今日こそ正真正銘のクリスマスだから、ちゃんと返事してやったのにその変な奴を見る目をやめろ。

 

「まぁ、そこは置いといて…………鈴谷にプレゼントちょうだい!」

「置いとくな、プレゼントなら…………ほい、ありがたく受け取れ」

「お?本当に貰えるの?やったー!」

 

 プレゼントの入った包みを受け取り喜ぶ鈴谷。きっちりと感謝してほしいものだ。

 

「あら、提督、わたくしにはありませんの?」

「ほら、君の分もきちっとある」

「ありがたく頂戴いたしますわ。ところで、サンタコスは着てなくて?」

「一応、昨日の晩は着たぞ」

「わたくしとしては今、着てほしいですわ」

「白昼堂々と歩き回るサンタもどうかな、と思ってだ。それにサンタは3人もいらないだろ」

「そうですの…………ならちょうどトナカイ役が空いていますわよ」

「上司に何を着せようとしてるんだ…………」

「ちゃんとソリも用意してますわよ?」

「さらにタチが悪いじゃないか!」

 

 雰囲気でもう分かるかもしれないが、今日はクリスマスである。キリスト教においてイエス・キリストの降誕祭であるが、日本では宗教的側面が完全に払い除けられただの祭りごととして、一つのビッグイベントとして楽しまれている。ただ、そこにカップルとの関連性があるのかは分からない。

 

「おはよう、司令官」

「おう、叢雲か。メリークリスマス」

「はいはい、メリークリスマス」

「ねぇ、叢雲、ノリ悪いよ?」

「子供じゃあるまいし、そこまではっちゃける気はないわ」

 

 しかし、俺は知っている。彼女は間宮さんが今日の日のために作ったケーキが楽しみだということを。他の人からは分からぬかもしれぬが、いつもより顔が緩んでいるのだ。無論、そんなこと言ったら今後のコーヒーが長門ブレンドに差し代わる可能性が高いので言わないが。

 

「叢雲、はい」

「ん、プレゼント?わざわざ準備してくれたの?」

「当たり前だ。皆の分を準備して叢雲だけ準備しないということをするわけがないじゃないか」

「そう…………ありがと」

 

 ひさびさに叢雲の感謝の言葉を貰った気がする。こういう叢雲が見れるのもクリスマスのおかげかな?

 

「あれ、長門は?」

「今は駆逐艦たちと一緒だ。あとで駆逐艦たちとこの部屋に来るらしい」

 

 今頃はプレゼントに大喜びしている頃だろう。プレゼントを開け、満面の笑みを浮かべる姿が容易に想像できる。しかし、こんなことを考えると自分ももう大分大人になってしまったんだなぁと思わず感慨深く思ってしまう。

 昔は誕生日が来るのを楽しみにしていたが、三十路を迎える恐怖のカウントダウンになりつつある。

 

「それにしても、あんた顔色がマシになったわね」

「顔色が悪い奴と一緒にクリスマスパーティーをしたいとは思わんだろ?」

「そうね」

 

 今日の朝は目覚まし時計もかけず任意の時間に起きることができた。仕事がない日がこんなにの素晴らしいとは。

 

「はぁ…………こうゆっくりできると逆に落ち着かないな」

「ワーカーホリックってやつかしら?ま、コーヒーでも飲んで一息つきなさいな」

「ありがとう。世界一うまいコーヒーが飲めて光栄だ」

「お世辞を言っても何も出ないわよ」

「お世辞も何も俺の中では叢雲が世界一だ」

「そ、そう…………ありがと」

 

 なぜか感謝された。

 叢雲はそっぽを向いて、コーヒーを渡した。耳がほんのり赤い気がする。

 

「提督、熊野の紅茶も美味しいですわよね?」

「ん?そうだな」

 

 いきなり、熊野にそう言われて、とっさに適当な返事をしてしまった。しかし、俺は紅茶派ではないので美味しいかと聞かれてもよく分からない。

 

「わたくしが世界一ですわよね?」

「なんでそんなことを聞くのだ?」

「いいですから!」

「そ、そうだな。熊野が世界一だ」

「そうでしょう?」

「一体なんなんだ…………なぜ、俺を蹴った叢雲」

「別に?」

 

 今度は蹴りですか。朝から理不尽なこったい。

 

「メリークリスマスっぽいー!」

「提督、メリークリスマス」

「おう、めりくりだ」

 

 執務室のドアから出てきた2人組。夕立と時雨だ。

 夕立は謎の語尾「ぽい」が特徴的な娘だが、一言に言うのなら犬っぽい。あ、俺まで感化されてしまってる。

 その犬っぽさは性格的にも外見的にも表されており、犬のようにじゃれついて来たりする。また、見た目はアホ毛が犬耳のように見え、より犬っぽさを促進させている。

 それに対して時雨は物静かなタイプである。確かな実力を持つものの、大変謙虚で一歩引いた娘だ。ちなみにこちらもアホ毛が犬耳のようになっている。

 そんな2人だが、この鎮守府で唯一改二まで改装されている艦娘である。2人は海軍の最前線として戦っており、その戦闘力は駆逐艦の中では突出しており、どうしてこの鎮守府に来てくれたのか分からないほどである。

 あ、蛇足かもしれんが俺は残念ながら猫派だ。それがどうしたかと言われても全く関係ないとしか言えないが。

 

「提督さん!プレゼント貰ったっぽい!」

「良かったな。いい娘にしていた証拠だ」

「そうっぽい!」

「時雨も貰えたか?」

「うん、お陰様でね」

「うんうん。君もいい娘だからな」

「ふふ、ありがとう」

 

 夕立はともかく、時雨は最近笑顔をよく見せてくれるようになったなと思う。ここに来た当時は妙に取り繕った表情が多かったが、今は心から笑えってくれるようになった、気がする。

 

「まぁ、2人ともパーティーを楽しんでくれ…………って、もう楽しんでるか」

 

 俺は苦笑しつつ、時雨の頭にあるサンタ帽に目を向けた。

 

「あっ、これは…………」

「起きた時からこの格好っぽい!」

「そうか、そこまで楽しみだったか」

「ち、違う…………わけじゃないけど、これは…………」

「別に恥ずかしがることはないだろう」

 

 と頭をポンポンと叩く。普段は滅多なことがない限り同様を見せない時雨が顔をサンタ帽の色と同じく赤くなる。

 まぁ、時雨も難しい年頃なのだろう。思いっきり楽しみたいけど周りの目もきになるような頃だろう。夕立は違うかもしれんが。

 

「間宮さんがクリスマス料理を用意してるぞ。もう、長門たちもそこにいるだろうから早く行かないと無くなってしまうぞ?」

「それなら早くしないと!時雨、行くっぽい!」

「う、うん」

 

 と夕立は慌てて執務室を出た。元気なやつだ。

 

「時雨?行かないのか?」

「行くよ、でも、その前に」

 

 と時雨は顔を近づけ耳元で

 

「プレゼントありがとう、提督」

「お、おう…………他の娘たちには秘密にしてくれよ?」

「分かってるさ。それじゃあ、また後で。メリークリスマス」

 

 そう言い残して、時雨は執務室を去った。やっぱり、時雨は分かっていたか。きっと優しい彼女だ。わざわざ言いふらして夢をぶち壊す真似をするまい。

 

「相変わらず、駆逐艦にはだだ甘ね」

「だだ甘とは?俺は1人の大人として子供たちの未来を守っているだけだ」

「はぁ…………でも、あんまり子供扱いするのもよくないわよ?」

「そうだな。時雨とかはいい加減鬱陶しく思い始めるかもしれんな。と思ったが君も駆逐艦じゃないか」

「そうね。でも、ここの駆逐艦の中じゃ最年長だし、もう大人よ?」

「…………そうだな」

「何よ。何か言いたげね」

 

 叢雲が大人だということは元々知っている上、立ち振る舞いからしても察することはできる。ここまで冷静沈着な子供なんていたら逆に怖いくらいだ。

 まぁ、どことは言わぬが時雨や夕立の方が大人だったりする部分があるが。

 

「失礼なこと考えてたでしょ?」

「まさか。非常に頼りになる部下だと思っていただけだ」

「あんた、顔には出ないけど嘘は下手ね」

「…………もう、この話はやめだ。とにかく、クリスマスパーティーを楽しもうではないか」

 

 今更気がついたが、鈴谷と熊野がいない。あいつらどこに行きやがった。執務室で好き放題していたかと思えば消えよって…………

 

「鈴谷と熊野は?」

「あんたが夕立と時雨に夢中な間に食堂へ向かったわ」

「食い意地のはったやつらめ」

「早くしないとその食い意地のはった娘たちに食べ尽くされてしまうわよ」

「それは良くない。なら、さっさと行かないとな」

「分かってるなら、早くしてちょうだい」

「いや、熊野から貰ったサンタコスの帽子が見当たらないんでな」

「コスなんて着ないって言ったじゃない」

「帽子だけでも被って、雰囲気を楽しもうと思ったんだが…………仕方ない、行くか」

 

 昨日のサンタ執務は疲労の極みでフラフラしながらやっていたものだから、落としてしまったのかもしれん。

 

「あ、そうだ。叢雲」

「何よ?」

「めりくりだ」

「…………メリークリスマス、ね」

 

 およそ数人で始まったこの鎮守府。しかし、一年近く経つうちに立派な鎮守府と変わった。今日くらい、羽目を外しても誰も文句は言うまい。

 この日、鎮守府に依頼の電話が一度もなかったのはサンタのプレゼントなのだろうか。そうなのなら、俺はありがたく貰おう。




次回からは本編へと入っていきます。その間もリクエストは受けるので活動報告にてリクエストください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む




本編再スタートです。



 現代はどんどん物事が便利になっていっている、そんなことをテレビで良く目にする。まぁ、技術が進んだゆえに言えることなのだろう。

 かつては平坦な土地であっただろう場所は現代になれば、高い建物が所狭しと並び、その間には多くの車が行き来している。長い渋滞にはひどくイライラさせられたものだ。

 こんな場所もかつては田舎と変わらなかった時期があったのかなぁ…………。

 と横須賀にある自衛隊による鎮守府への出張から戻る車の中で、そんなことを考えていた。

 季節は真冬真っ只中。

 1年というのは早いものであり、もうそろそろ来年というものが、鎮守府にも見え始めている。こんな季節になると、艦娘たちも出撃をしたがらないものだ。俺はといえば、未だに春からも愛用しているジャージ姿だ。側から見れば肌寒そうな格好だろう。もう20回以上経験する冬だが、いつまで経っても冬支度に手間取るのは、どの人も同じだろうと意味不明な考えにふけっていた。

 途中、パーキングエリアで車を停めた。早朝7時前のパーキングエリアには人影はない。そこから見える海を見渡せば、たちまち艦娘たちのことを思い出す。今は出撃している時間帯ではなく、まだ寝ぼけている頃合いだろう。

 自動販売機まで、足を運び、缶コーヒーを一つ買う。今気づいたが、吐く息が白かった。

 横須賀鎮守府に何をしていたかというと、艦娘の指揮を執る者として新人提督さんに指導をしに行っていたところだ。鎮守府の仕事は艦娘だけでなく、俺が出迎える場合もある。

 昨日は丸一日指導し、一晩泊めさせて貰ったところで朝6時に出た。横須賀鎮守府からこちらの鎮守府までは高速でだいたい3時間弱で戻れる。昼までには戻れると伝えているので、少し余裕があるわけだ。

 こういう数少ない余裕があるときに急いで戻るのは愚の骨頂だ。パーキングエリアで缶コーヒーの一つゆっくりと味わう時間ぐらいとってもいいだろう。

 ひと気のないパーキングエリアのベンチに腰を下ろし、一息ついたところで、懐から不快な携帯電話の呼び出し音が響いた。ため息混じりに取り出し、少し出るのを躊躇ったところで着信ボタンを押したとたん、聞き慣れた声が聞こえてくる。

 

 "叢雲よ。提督かしら?"

「おかけになった電話番号は、ただいま使われて…………」

「今はふざけてる場合じゃないわ!敵影を鎮守府のすぐ近くで確認したわ!」

 

 安眠しているところを叩き起こされたような感覚である。

 

「敵は攻めてきているのか?」

 "それは今のところ大丈夫だけど、鈴谷が単騎で飛び出したのよ!"

「はぁ!?本気なのか!?」

 "本気もクソもないわよ!今、呼び戻すために時雨たちに頼んだところよ!"

 

 珍しく叢雲が慌てている。雹が降ろうが槍が降ろうが、俺が頭から血を流そうが、動じない叢雲が珍しく慌てている。

 

「敵艦はどのくらいだ?」

 "戦艦2、軽空母1、他にも軽巡や駆逐艦も捕捉しているわ。今のところまだ、鈴谷は交戦していないみたい。5分前に熊野が気づいたの"

 

 空母が出ていないのはせめての救いだが、戦艦が2つも捕捉されてる。ましてや、鈴谷は単騎だ。

 

「千歳と千代田にも出撃を頼んでくれ。それから長門に連絡を取ってくれ。俺が戻る1時間ほどは、長門に指示をあおいでくれ」

 "長門に?"

「ああ、このくらいの時間なら長門は執務室にいる"

 

 とにかく缶コーヒーを一気に飲み干して、ゴミ箱に放り込む。

 

「50分で戻ると長門には伝えてくれ」

 "了解よ"

 

 電話を切ろうとしたところで、ふいに叢雲の声が聞こえた。

 

 "運転気をつけなさいよ。なんとか対処するから、慌てて事故するような真似なんてしないでよね"

 

 こういうところが叢雲の素晴らしいところだ。

 

「心遣い、身にしみるよ。だが、そのくらいで俺を誑かそうとしても、そうはいかんぞ」

 

 プツンと電話が切れた。

 

 

 ーーーー

 

 

 最近、深海棲艦が姿を頻繁に姿を現わすようになっている。

 普通に考えて、敵がこちらを攻めようとしていると考えるだろう。しかし、私の脳裏には過去のことからそれ以上に嫌なことが起きる予感がしていた。

 提督はこちらに連絡をした40分後にこちらに到着した。相当飛ばして来たのだろうが、緊急事態だ、やむを得ない。そのまま執務室に駆け入り、一通りの報告を受けしばらく考え込んでいた。

「長門」と呼び掛けられ、返事をする。

 机に広げられているのは今回の被害状況だ。いつもはやる気のない顔が、今は厳しい表情で報告書を見つめている。顔色が悪い、と言いたいところだが、いつもそうなので分からない。

 

「今、皆を入渠させたところだ。艤装は橘さんが修理をしている。鈴谷は緊急の方に回しておいた」

 

 艦娘たちは怪我を負った場合、病院ではなく、ドックに行き怪我を癒す。艦娘の特性の一つで、妖精さんによる風呂のようなところに入れば傷がたちまち治るのだ。だが、大怪我などでは間に合わないためここの専属の医師に治療を施してもらう。先ほど緊急の方とは、このことである。

 つまり、鈴谷は大怪我を負った。時雨たちがあと一歩遅かったら確実に死んでいただろう。その時雨たちも少なからず負傷している。

 それよりも、と提督はある書類を示した。

 

「こいつはまずいな」

 

 それは昨日、海上自衛隊の方から送られた鈴谷の追加の情報であった。鈴谷がここに来た理由がそこには示されていた。

 

「はぁ…………」

 

 度重なる命令違反、無理な突撃…………。

 鈴谷は過去にも同じようなことを繰り返していたらしい。山ほどの違反歴が並んでいた。むしろ、なぜ死ななかったのか不思議なぐらいだ。

 

「なぁ、この書類と彼女を照らし合わせたが…………同一人物なのか?普段の彼女からは全く想像できん」

 

 提督の言う通りだ。

 深海棲艦による被害者は数え切れない。死んだ者は当然だが、生きている者にも大きな被害を与えている。家族を失った者だって多い…………私や提督だってそうだ。消えることのない憎しみは誰だって抱えている。多分、鈴谷もそうなのかもしれない。

 だが、憎しみだけで行動し、命を落とす真似は誰も望んではいない。それでも、普段明朗な彼女からは想像できん。

 書類だけ見れば、この鎮守府に猛獣が一匹入り込んだようなものだ。

 

「長門、とにかく助かった。ありがとう」

「それには及ばん。お互い様だ。だが、鈴谷をどうする?」

「考えるさ」

「考えたところで、鈴谷の処遇はどうする?」

「処遇を考えるんじゃない」

 

 提督は書類を睨みつけたまま言葉を継いだ。

 

「鈴谷に過去のことをどうやって話してもらうかを考えてもらうんだ」

 

 彼は提督だ。

 命令だけが提督の仕事じゃない。

 

 

 ーーーー

 

 

 

 執務室を出る提督を見送りながら、私は軍に所属したときに彼に再開した日を思い出した。

 あの日、提督は包帯でぐるぐる巻きにされ、人工呼吸器に繋がれて生きているのか疑わしい状態だった。

 入院室で、私は軍からの書類を握り締めて、何もすることができず、ただ提督を見つめることしかできなかった。

 つい先日、上陸した深海棲艦を掃討し終えたばかりだった。被害自体そこまで大きくはない。それは一般人の話であって、軍隊は並ならぬ被害を受けていた。

 それでも、1度目のときよりは被害は抑えられ艦娘の有用性を示す結果となった。だが、陸上では艦娘より普通の人たちが活躍していたと私は考える。

 そんな時、入院室に1人の男が入ってきた。その男は提督の部下らしくその時の戦況を教えてくれた。

 

「僕たちは軍に見捨てられました」

 

 泣きそうな顔で男は言った。大の男がこの時は小さく見えた。

 彼は命令を記録しており、そこには「応援は不可能。各自、自由に行動せよ」と、実に簡単な言葉が綴られていた。

 自由に?どうやって?

 

「隊長に、僕たちは命を救ってもらいました。でも、僕たちは何も…………何も…………!」

 

 男は深々と頭を下げた。その下げた頭を上げもせず、

 

「僕たちはもう助からないと思ってました!救出方法がないから、自分たちでどうにかしろと言われた時、僕はもうダメだと思いました!」

 

 その声はもはや叫び声になっていた。

 提督の指揮する部隊は基本的に若い者で経験が浅いものばかりだ。そんな彼らに、いきなり「どうにかしろ」と言ったのか。

 どこの阿保な長だ!

 何が救出方法がないだ!艦娘たちは何人か余裕があり、救出に回せただろう。聞くところによれば、避難の遅れた一般市民を救出するために提督たちは最後まで残っていたと言う。そんな中、提督は1人飛び出して行った。1人の艦娘が彼らの存在に気付き、自発的に救出してくれる頃には提督は砲撃を受け、意識がなかったという。

 彼らが救出がされなかった理由、それは彼らの活躍だ。軍からしてみれば、早く艦娘を中心戦力にしたいものの、彼らの活躍が邪魔であった。特に提督の。この時すでに彼は軍神として神格化までされるほどの活躍ぶりで簡単には外せなかった。

 胸の中に溢れる怒りは、たやすく押さえられるものではない。ほとんどその紙を握りつぶそうとしていた私に、男の小さな声が聞こえた。

 

「僕、もう隊長に会えないのでしょうか?」

 

 私が何か言うよりも早く、男はさらに言葉を重ねた。

 

「また、ここにきてもいいでしょうか?」

 

 言葉とともに彼は涙を流した。

 死という恐怖が常にある中、弱音すら見せないはずの軍人が、人目憚らず慟哭していた。

 私は男の肩に手を添え、大きくうなずいた。

 励まし、慰めなどあまりにも涙に不釣り合いであり、言葉にできなかった。

 教養のあまりない私が出した言葉は、あまりにも陳腐なものだった。

 

「また、見舞いに来てくれ。彼も喜ぶから」

 

 それでも、男は手を取り、大きく頭を下げたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 ふと、窓に目をやると雨が降っていた。

 ただでさえ、明るくはない雰囲気の中、より一層陰湿にさせるような雨だ。

 

「提督じゃん、ちーっす」

 

 ベッドの上で、鈴谷はいつものように軽い口調で言った。

 その顔色は良くなく、いたるところに包帯が巻かれ血が滲んでいる。艦娘であるお陰で、死は免れたがそれでもひどい怪我だ。

 

「血も止まったらしいし、私は大丈夫だよ」

 

 大丈夫な訳がない。多分、相当痛いはずだ。それでも鈴谷は普段と変わらぬように振る舞う。俺はベッドサイドの小さな椅子に腰かけた。

 ふいに鈴谷は面白いものを見るかのようにふふっと笑った。

 怪訝な顔をする俺に

 

「提督も顔色悪過ぎて、私みたいじゃん」

 

 思わず苦笑した。そういえば横須賀に行ってからはまともに睡眠もとってない。それに朝は緊急で顔を洗っていないし、髭も剃っていない。多分、かなりみすぼらしい顔をしているだろう。

 

「で、どうするの?罰でも下しちゃう?」

 

 あまりにも唐突な問いであった。

 わずかに動揺する俺の目を鈴谷の目が見返す。黄緑がかった特徴的な色の瞳だ。少なくとも、命令違反を繰り返す問題児のような目とは到底思えない。

 俺を見つめたまま鈴谷は告げた。

 

「私は大丈夫だよ。それよりも提督はちゃんと私を罰せないと」

 

 俺はうなずき、鈴谷への罰則を話した。

 今回は法律違反とかではないため、刑事的措置はないこと。しかし、会社の示しをつけるため、3週間の出撃停止処分を下すこと。その間の分の給料はなしになること。しかし、それ以上の制限はないこと…………。

 鈴谷は最後まで黙って話を聞いていた。

 

「ま、そうなるよね…………」

「…………一つ聞きたいことがある」

「何?」

「君は深海棲艦が憎いか?」

 

 あえてなぜ命令違反をしたのかは聞かなかった。

 

「そうだね…………それなりに憎いんじゃない?」

「それなり、か。なら、どうして戦う?ここに来た以上、戦うこと以外にも選択肢はあったはずだ」

「…………」

 

 鈴谷は答えなかった。

 

「答えを強要しない。言いたいときに言ってくれ」

「私、まだここに置いてもらえるの?」

 

 俺は黙ったまま大きくうなずいた。鈴谷は少し安心したような表情を見せた。

 

「やっぱ、提督って優しいんだね」

 

 俺は黙って窓の景色を眺めた。照れ隠しではない。気が利いたセリフが一つも思いつかんのだ。こうやって、黙ってるしか方法はない。

 それからしばらくして、鈴谷は疲れたように眠った。

 いつも明るいイメージの鈴谷からは想像もつかぬ程、今の鈴谷は暗く見えた。

 

 

 ーーーー

 

 

 どうしたもんか…………。

 真夜中の執務室で、俺は頭を悩ましていた。

 鈴谷の件といい、深海棲艦の動向といい。俺の経験上、戦闘が激化するときに限って、無茶な行動をし始める者が増える。その者たちは経験の不足から"焦り"が生じてしまうのだろう。こういうときに"冷静な判断力"というのが求められる。

 そんなことを考えていたら、突然目の前にコーヒーカップが置かれた。

 

「おお、いつも気を遣わせてすまん。叢雲のお陰で…………」

 

 顔を上げて見てみれば、驚いたことにそこに立っていたのは熊野だった。いつも通り、栗色のポニーテールが良く似合ってる。いつもはその栗色を揺らし、優雅に佇む彼女がら今日は冴えない顔をしている。なにやら物言いたげな浮かない顔で、俺の顔にちらちら視線を向ける。

 

「なんだ?俺の顔に何かついてるのなら…………」

「鈴谷の件、すいませんでしたわ」

 

 いきなり深々と頭を下げた。

 あまりにも唐突だったので反応に窮する。

 とりあえず、コーヒーを一口含んだが、叢雲の味には到底及ばない。

 

「君が謝ることじゃないだろう」

「いいえ、友として私からも謝っておかないと気が済みませんわ…………それに、何人かは怪我もあったようですし…………提督にも仲間にも迷惑を掛けてしまいましたわ」

「まぁ、そうだが…………」

「でも、一つ分かって欲しいことがありますの。鈴谷にもそれなりの事情があるのですわ。もちろん、それだからと言って許してもらおうとは思っていませんけど…………でも、提督には分かっていただきたいのですわ」

「それは、理解できるさ…………理解できるが容認はできん」

 

 なんせ、他の艦娘の命にも関わることだからだ。たった1人のわがままでたくさんの命が脅かされるなどあってはならない。

 

「そうですけど…………」

「まぁ、そう気に病むな。クビにするようなことはしない。ゆっくりと心を開いて、その事情とやらを自分の言いたいときに言ってくれればいい」

 

 俺の言葉を聞いて、熊野は少しキョトンとしていたが、ふいにクスリと笑い、

 

「叢雲が言っていたことがよく分かりますわ」

 

 そのことはどうせ分からんでもいいことだろう。

 

「提督は、いつもひどい身だしなみで悪態をつきながら仕事して、小さい子にはだだ甘な変態だけど、艦娘のことはとても真剣に考えているということですわ」

「今の発言に反論したいことがいくつもあるんだが…………」

「あの叢雲が人を褒めてるんですわよ?いつもツンケンしている、叢雲がですわよ?」

 

 叢雲は本人のいない前では、ちゃんと人を褒めているんだがな。この前だって熊野のこと褒めてたし。まぁ、そんなことを言ってやるのも気がひける。

 

「変人だの、変態だの言われたところで知らん。これが俺だ。俺はいつだって真剣なんだぞ?」

「知ってますわよ。もう、短くない付き合いなんですから」

 

 熊野はにっこり微笑んだ。いくつかの誤解がある気がして、非常に不安ではあるが、熊野が納得したのならそれでいいだろう。

 これからもよろしくお願いしますわ、と熊野は明るい声で言い、頭を下げた。明るくなったことはいいことだ。コーヒーがもう少し上手くなったら尚良い。というかコーヒー淹れれるのなら普段からそうして欲しいものだ。

 ふとあることを思い出して、立ち去り側の熊野を呼び止めた。

 

「突然だが、俺は過去に君たちと会ってるのか?」

「と、突然なんですの!?」

「いや、鈴谷が妙にも俺のことを知っている風なのでな」

 

 振り返った熊野の頰は赤く染まっている。

 赤く染まっている?

 なんで?

 

「そんなこと、鈴谷に聞いたらよろしいでしょうに!」

 

 怒鳴られてしまった。

 そのまま熊野はぱたぱたと走り去ってしまった。

 別に変なことを聞いたのでもあるまいし…………訳が分からん。まぁ、訳が分からんことはこの世には山ほどある。深く考えても仕方あるまい。時計を見れば12時。今日は特にすることもないし、さっさと寝てしまおう。

 しかし、明日にはその特にないと言うことが貴重なことに気づかされることになる。

 

 

 ーーーー

 

 

 今日とて、朝から執務である。

 しかし、今日はいつもとは、違う執務内容であった。手元には様々な説明の書かれた書類がある。その内容は簡単に言えば、飲酒のことだ。無論、既に成年している者はいるため、酒を嗜む者も多い。

 しかし、俺は酒を飲まない。理由がある。

 一つは社長であるが、同時に大将でもある。いざ、と言うときに上が酔っ払って機能しなければ下も必然的に機能しなくなる。そんなことは洒落にならない。

 二つ目、多分これが大きな理由だが酒飲みは基本的にめんどくさいのだ。一癖二癖もある曲者と積極的に関わりたくない。

 あと、健康にも悪いし。

 そんなわけで、俺は酒についての指導を行う。

 例えば、

 

 例①橘さん、整備士

 

「橘さん、今どれくらい酒を飲んでいますか?」

 

 書類に書かれていることを読みながら、橘さんに聞く。

 

「昔は結構飲んでいたもんですが…………今じゃ、1日に2合ぐらいですかね?」

「2合、ですか。それでもいささか、多い気がしますが…………」

「たまに3合はいったりする…………かな?」

「たまに3合?なら、4合のときもあるんですか?」

「まぁ…………それは本当にたまにですよ?」

「新しい兵装ができたら嬉しくなって5合?」

「もちろんですよ」

 

 例②鳳翔さん、元航空母艦

 

「鳳翔さん、酒の入荷量は減らして欲しいのですが…………」

 

 明らかに酒の入荷量が増えている居酒屋の入荷表を確認して、鳳翔さんを

 見る。しかし、鳳翔さんは不思議そうな顔をして、

 

「減らしましたよ、提督。少し、控えさせてもらってます」

「本当に?」

「ええ」

 

 鳳翔さんは自信ありげに答える。

 

「提督に焼酎と日本酒の入荷を減らしてくれと言われたので半分にしましたよ。その代わりに麦茶とビールを増やしましたけどね」

 

 にっこりと、微笑みながら言う鳳翔さん。耳を疑った俺は恐る恐る、

 

「今、なんて言いました?」

「焼酎と日本酒の入荷を半分に…………」

「いえいえ、そのあとです」

「代わりに麦茶とビールを増やしましたよ?」

 

 例③隼鷹、軽空母

 

「隼鷹、いい加減に酒を控えろ。アルコール中毒になっても困る」

「いいじゃん!」

 

 隼鷹は大きな声を上げる。執務室に入ってきた時点でもう酔っている。足はふらつき、椅子に座っても頭がゆらゆら揺れている。

 大人の女性がほろ酔いとなっている姿はどことなく色気があるが、隼鷹の場合、初っ端から泥酔状態である。誰これ構わず、酒に誘い朝から飲みまくる。数多くある俺の悩みの種の一つがこの隼鷹だ。素面の時がないのではと疑いたくなるほど酒を嗜む。

 

「よくない。俺は君の身を案じて言ってるんだ」

「へぇ?優しいこと言ってくれるねぇ…………でも、同情するなら酒をくれた方が嬉しいんだがなぁ」

「あのなぁ…………俺が同情するなら、泥酔状態の君ではなく、無闇に飲まれる酒の方だ」

「あぁん?あたしと酒、どっちが大事なんだよ!」

「意味の分からんことを言うな!とにかく、酒を控えろ!駆逐艦の教育にも悪い」

「大丈夫、大丈夫。反面教師として見てくれるさ」

 

 どうやら、これは禁酒令でも作らなければいけないようだ。

 

「ほら、提督も飲みなって!」

 

 隼鷹はどこから出したのか分からない酒をいきなり突き出した。

 

「お、おい!ここでは酒を飲むな!」

「いいからいいから!一口飲みなって」

「いい加減にしろぉぉぉお!」

 

 例④千歳、軽空母

 

「提督、お酒をやめるのは無理です」

 

 凄みのある顔で、千歳はポツリと、しかしながらはっきりと答える。

 彼女は軽空母であり、この鎮守府では数少ない艦載機を飛ばすことが可能な艦娘である。酒飲み軽空母とは違い、落ち着いた物腰で有能な艦娘で妹共々、この鎮守府には無くてはならない存在である。

 

「千歳、別にやめろとは言ってないんだが…………控えるようにしてくれればそれでいい」

 

 彼女の短所を強いて言うのなら、酒である。よく鳳翔さんの居酒屋で見かけ、酒を嗜んでいる。そこまでなら別段問題もない。が、彼女は少々悪酔いするのだ。具体的に言うのなら、脱ぎたがる。

 容量は大きいようだが、その容量を超えてしまうとたちまち、衣服を脱ぎ始めもんだからたまったもんじゃない。

 

「…………提督は酒を飲む人ですか?」

「飲まん。そもそも飲んだことがない」

「え!?その歳で酒を飲んだことがないんですか?」

「何度も言わせるな…………飲んだことなど一度もない」

「それじゃあ、勿体無いですよ…………なぜなんです?」

「いざ、というときに頭が酔っ払ってたら話にならん。それに自分がどう酔うのかも分からん」

 

 この職場の人は、女性が多い。酔って取り返しのつかないことにだってなり得るのだ。

 

「どう酔うのか分からない…………」

 

 俺の言葉を反芻し、しばらくの間考え込む。しかし、ふと視線を俺に向けて言った。

 

「提督、人の酔い方にはいろんなタイプがあるそうです」

「そ、そうなんだろうな」

「でも、40%の人が素面と変わらないそうですよ?」

「…………それで?」

「だから、大体の人がお酒を飲んでも豹変はしないんですよ!?」

「うん、豹変するタイプの君に言われると説得力がない」

「なら、これを機に自分がどのタイプなのか調べるいい機会なのではないんでしょうか?」

「どうしても君は俺に酒を飲ませたいのか!?」

 

 飲酒に関する指導のはずが、いつのまにか酒を勧められている。

 ゆらりと立ち上がった千歳は、そのままドアの方へ歩き出した。出て行く前に、肩越しに俺を見て一言。

 

「今度、美味しいお酒を持ってきますね」

 

 一体何なんだよ。

 どいつもこいつも、飲酒の指導なのに何と思ってるのか。

 やっぱり酒飲みは曲者揃いだ、と馬鹿げた考えをするのであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 執務室中に響き渡る高笑いに、俺は眉をひそめた。

 俺の酒の指導の惨状を聞いた長門が大爆笑したのである。

 

「おもしろい話だ。昨日見た番組では並におもしろいぞ。やはり、類は友を呼ぶ、と言うのだろうか?」

「長門、今すぐ偽装なしで沖まで行ってこい。世界中が悲しもうが、俺だけは腹の底から笑ってやる」

 

 苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけたところで、このビック7には痛くもかゆくもあるまい。

 

「海上自衛隊に行ってみろ。そうすれば、そういう艦娘もいなくなって、楽になるぞ?」

「馬鹿言わないでくれ。俺は楽をしたくてこの仕事に従事しているわけではない」

「ふふ、分かっているさ。だが、提督と一緒に話すのは楽しいものだ」

 

 俺は口を開かなかった。

 黙っていたところで、このビック7が自分の言ったことを省みるわけもない。いつものごとく激甘なコーヒーをうまそうに飲んでいる。丁寧にも俺の分まで淹れて机に置いてくれているが、今日の俺は別段疲労が溜まっているわけでもない。しっかりと機能している判断力が、このブレンドを飲ませるような選択をするわけがない。俺は一瞥してカップの存在を抹消した。

 ああ、と急に長門は真面目な顔になった。

 

「鈴谷の様子はどうだ?あれからというもの…………」

「どうと言っても、精神面で俺らができることは限られている。とりあえず、怪我は治りつつあるということだけは言っておく」

「そうか、ならよかった。やはり、艦娘というのは闇を抱えている者が多い。自分が生きてきてもしょうがない、と思ってしまって無茶なことをするのだろうか?だが、そんなことは誰も望んじゃいないのにな…………」

 

 長門がため息をついた。この艦娘、根はすごく優しい。俺としては、感傷に浸っているビック7を見ると、たちまちからかいたくなる。

 

「その理屈で言うと、君は随分と長生きして俺は早死にしそうだな。実に残念だ」

「素直じゃないな。貴方に死なれるともう会えなくなるじゃないか。それだと私も寂しいし、貴方も寂しいだ…………おい、提督!」

 

 大声で呼び止める長門を無視して、執務室を出た。

 脳筋をからかおうとしたら、恥ずかしい思いをしただけであった。





これからの展望としては、本編3話のあとに閑話3話と言うサイクルでいきたいと思います。
あと、閑話に登場して欲しい艦娘のリクエストも活動報告にてしてくださればありがたいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5

 私、長門はこの鎮守府を立ち上げた張本人であり、名目上社長を務める提督の秘書をしている。

 書類仕事にどうにも疎く、サポートと言っても書類の整理ぐらいしか出来ない。それを補うため、ここに所属する艦娘に実践的な指導を行う肉体仕事が多い。

 一年ほど前から、この体制でこの仕事を続け、度々金剛などから秘書艦を代わってくれないかと言われたりもするが、理由なしにこの仕事を続けているわけではない。

 自分で言うのもなんだが、提督のことをよく知っているのはこの長門だろう。幼き頃からの付き合いだ。彼はああ見えて、お人好しだ。日頃から不満をぶつくさ言ってはいるが、常に艦娘のことを考え、自分のことを後回しにしている。そんな彼の悩みを話してくれるのは私と2人きりのときだ。提督に言うつもりはないが、提督の悩みが少しでも減るようにするために私はこの秘書艦を易々と譲るつもりはない。

 そんな彼の今の最大の悩みの種は鈴谷だ。あの件以降、彼はずっと鈴谷のことを気にしている。私と提督と同じように、鈴谷もまた天涯孤独の身である。同じ身であるからこそ彼は気にかけるのだろう。ますますお人好しな奴だ。

 鈴谷には家族はいない、しかし誰も彼女を心配しないわけではない。多分、提督以上に心配しているは熊野だろう。そして、もう1人彼女を心配する者がいた。

 提督が、最近訪れる不思議な老紳士について話してくれたのはつい先日のことだ。

 白の皺のない軍服に、少し年季の入った提督帽を被った老紳士。鎮守府の廊下をコツコツと独特な木のステッキを鳴らして来るのが特徴的だそうだ。

 老紳士はかならず執務室を訪れ、帽子をとって挨拶をしてから、鈴谷のいる入院室に向かう。

 部屋でいつも鈴谷に丁寧に話しかけ、踏み込んだことも聞かず、1時間ほど過ごして出て行く。どうやら、家族でも親戚でもないらしい。しかし、菓子類や果物を持って来たり、鈴谷に欲しい物はないかと聞いたりと、まるで祖父のような振る舞いをしている。鈴谷も信頼している様子であり、他の艦娘の一部からはてっきり鈴谷のおじいちゃんだと思われているらしい。

 来る時間帯が、私が一番忙しい時の夕方だと言うこともあり、私は直接会ったことはないが、この日だけはそうではなかった。

 

「例の紳士、来てるぞ」

 

 と、提督が知らせてくれたのは火曜日の夜だ。普段の鈴谷の様子が知りたいと老紳士は、夕方から長い間、私が仕事を終えるのを待っていたらしい。私は驚いてすぐに紳士のいる応接室に向かった。

 

「突然訪れて本当に申し訳ない」

 

 老紳士は、応接室に入ってきた私にいきなり深々と頭を下げた。

 ふと、その顔を見るとどこか見覚えが…………あるような気がした。

 

「突然話が聞きたいと勝手なことを申してしまいました」

 

 私が先に腰を下ろしてから、老人は提督帽をとり、ステッキを置いてゆっくりとソファに腰を下ろした。物腰は柔らかく、目も穏やか、まさに絵に描いたような紳士だ。

 老人は静かに口を開いた。

 

「ずっと聞くべきか迷っていまして…………私は鈴谷の家族でもないもんですから。血も繋がってすらいません。しかし、先日から入院していると聞いて、いても立ってもいられずこうしてあなたにお話を伺いに参りました」

 

 基本的に、艦娘個人の情報は必要に応じて身内の人に話すが、それ以外の者には話すことはできない。個人情報保護法というもののおかげだ。

 だから、老人の言ってることは正しい。家族ではないのなら勝手に話すことはできない。

 しかし、法は人を守るためにあるもので、法を守って人を孤立させているようでは意味がない。そこを判断する裁量は私たち長が持っているべきことである。

 老人は鈴谷にとって家族のようなものである、と私は判断した。

 

「鈴谷のやったことは簡単には許されないことです」

 

 私の言葉を、老人は噛みしめるように頷き、聞いていた。

 鈴谷の件で、他の艦娘にも被害が出たこと、大怪我を負ったものの鈴谷は辛うじて生き延びたこと、今後同じことがあれば強制的に軍事から離れてもらうことになる可能性が高いということ、そして私の経験上、鈴谷のようなタイプは戦場では早死にするだろうとういうこと。

 

「死、ですか…………?」

 

 さすがに老紳士も驚いたらしく、目を見開いていた。

 しばらくの間、言葉を発さず目を宙に泳がしていた。そのあとつぶやくように

 

「そうですか…………いや、そうですよね。私も一応提督という身ですので分かります…………」

「失礼ですが、あなたは鈴谷のとはどのような関係で?まるで祖父と孫のようだと、艦娘の中には言う者もいるくらいですが…………」

 

 私の言葉に老紳士はとても驚いた様子だった。

 

「あの娘の祖父ですか…………とてもとてもそんな立派な者ではないですよ私は…………」

 

 老人の白髭の口元に微笑みが浮かんだ。

 

「彼女は1人の兵士を追いかけているんですよ。その兵士には私も救われたことがあります。命?とんでもない。いや…………それ以上に大切な事柄だったかもしれません。もう10年も前になってしまいましたが」

 

 老人は思い出話をするかのようにわずかに目を細めた。

 

「少しの間、鈴谷はその兵士にお世話になっていました。…………あの日まで…………」

 

 あの日、軍人なら皆共通して思い出すであろう深海棲艦の上陸による大災害のことだ。

 

「私もその被災地にいたもんでして…………兵士さんに言い残されていたんです、彼女を頼むと。いや、鈴谷だけではなかったんですけど…………」

 

 私はそれをただ守っているだけなんです、とつぶやくように言い、老人はゆっくりと立ち上がった。

 

「大切なお話をありがとうございました。聞いていなかったら私が後悔しているところでした。明日からも参ることにいたします」

 

 また、深々と頭を下げた。提督帽を被り、ステッキを持って応接室から出た。

 ふむ…………提督の言う通りだ。老人のステッキの音か、不思議と印象的に耳に響く。

 コツコツと、廊下の向こうからもいつまでも聞こえるような気がした。

 

 

 ーーーー

 

 

「ビッッグニュースだぞ、提督〜」

 

 執務室に入るなり、隼鷹が執務室にいた。第一声がこれだ。

 叢雲は手際よく、豆を挽いて絶品の一杯の準備に取り掛かっていた。

 

「ん、いい香りだな。いつものインスタントコーヒーではないのか?」

「知り合いからイノダコーヒの豆を貰ったの。2分ほど待ちなさい」

 

 イノダコーヒというと、そこそこ値段のする店だ。叢雲の腕と合わさってさぞかし美味いコーヒーになるんだろうな。

 

「まったく提督は幸せもんだねぇ…………」

「まぁ、有能な部下を持つのは幸せなことだ。お前がもっとしっかりしてくれれば、なお幸せなのだが」

「しっかり者のあたしなんてあたしじゃないよ。それにしても、提督は一年でよくもこんなに変わったもんだ」

「その通りかもしれんが、一年前の俺を蒸し返すつもりなら、コーヒーはくれてやらんぞ」

「そうじゃないそうじゃない」

 

 手をひらひら振りながら、

 

「提督たちを見ると、もう何年も過ごしたような仲間のごとき阿吽の呼吸じゃないか。もういっそ、誰かと付き合っちまえばいいのに」

「つ、付き合う!?」

 

 隼鷹の言葉に、叢雲は随分と驚いたようだ。顔を赤らめ目を丸くしている。普段、冷静さを売りにしている彼女にしてみれば珍しいことだ。

 

「隼鷹、酔っ払ってるな」

「えっ、の…呑んでなんかないよぉ?素面だよぉ」

「嘘をつかんでもよろしい。酒の匂いがする」

「少しだけだよ。ほんと少しだけ」

 

 今朝、指導したばかりだろうが。

 

「まぁ、この際はいい。そういう色事なら隼鷹こそもう恋人くらいいないのか?」

 

 歳も俺とそんなに離れていないだろう。

 

「こんな私にそんな洒落たものがあるわけないじゃん。あたしの恋人は酒だよ、酒」

「寂しいやつね」

 

 バッサリと叢雲に言われるが隼鷹は別段気落ちした様子もない。割と本気でそう思ってるのかもしれん。

 

「で、君の言うビッグニュースってのは?」

「ビッグニュースじゃない、ビッッグニュースだぜ〜?」

 

 どうでもいいことにこだわらんでもいい。それを言ってしまうと、本題に永遠にたどり着かないので言わずにうながす。

 

「新しい艦娘がこっちに来るかもしれない」

 

 俺は露骨に嫌な顔をした。

 

「デマはお断りだ。俺は、酒飲みと物事をすぐに鵜呑みするやつが、大嫌いだ」

「デマなんかじゃないぞ?確かな情報だ。なんでも驚くほどのべっぴんさんらしいぜ〜」

 

 まったくもって興味のない話だ。

 美しい女性は世の中に探せばいくらでもいる。というか、艦娘自体どういうわけが美女、美少女ばかりだ。今更、美女が来ると言われても驚くこともない。

 話の腰を折らぬよう、俺は聞いた。

 

「その艦娘というのは?」

「天龍の妹らしいぜ」

 

 俺は急に脱力感を感じた。

 

 

 ーーーー

 

 

 隼鷹曰く、ソースは球磨。

 珍しく天龍の部屋(球磨と相部屋だが)に客人が来ていたそうだ。補足すると、ここの鎮守府の寮は特に規制もなく自由に客人が呼べたりする。まぁ、そこは置いといて、俺口調の一匹狼気取りの天龍に客人だ。球磨も相当気を引かれたらしい。意味もなく廊下をウロウロしていると、ドアが開き、そこから出て来たのは、

「紫がかった黒の艶のある髪、すらりとしているが出ているところは出ている抜群のプロポーション。肩越しにこちらを見た瞳は世のすべての男を惹きこむほどの魅惑的」な女性らしい。

 隼鷹はなぜか力説してくれた。色々な寸評があったが、要約すれば信じられないほどの美女ということだ。

 

「で?」

「それだけ」

 

 女性が出て行ったあとの部屋は驚くほど静かで物音一つしない。その後、女性が戻って来ることはなかったが、球磨曰く「気味が悪いほど天龍が静か」だったらしい。実に主観的ではあるが。

 

「まぁ、天龍にも知り合いがいたのなら、よかったんじゃない?」

「そうだな。だが、あの天龍の妹ともなれば、血の気が盛んな娘かもしれん」

「分からないぞ〜?もしかしたら、お淑やかな娘かもしれないぜ?ヒヒッ」

 

 気味の悪い笑い方に少々引きつつ、

 

「なら隼鷹、直接本人に聞けばいいだろ?なんなら今から聞きに行くか?」

「それなんだが…………」

 

 隼鷹は首をかしげる。

 

「あれからそのことを聞こうとすると知らないの一点張りだとよ。あたしとしては一刻も早く真相を知りたいのになぁ…………」

「知られたくないことなんだろう。むやみに聞くのも悪い。そもそもここに配属されるのならとっくに俺の元に書類が来てる」

 

 俺のつぶやきに、叢雲は

 

「どっかにそんな書類があったような」

 

 と言ったような気がしたが、空耳だろう。

 隼鷹は首をすくめ、

 

「どうも提督は、この女性だらけという職場に不似合いな性格で困るなぁ…………こんなところ、他の男からしたら羨ましいこと限りなしなんだろうにな。せめて、誰かとくっついてくれれば酒の肴になるのに」

 

 隼鷹は聞こえよがしに言い、叢雲の淹れたコーヒーに口をつけた。

 お、美味いな。こんなコーヒー淹れれる叢雲はいい嫁さんになれるぜ、などと親父めいたことを言っている。いろいろと口出す割には能天気なやつだ。

 しかし、次の日俺は予想にしなかったことに遭遇する。

 

 

 ーーーー

 

 

 昼間、突然大声が聞こえた。

 執務室に運び込んでいたベンチプレスから起き上がった所で、「提督!」と叫び声が聞こえる。続いてドアをバンバンと叩く音が響いた。

 

「そんなに叩くのドアが壊れる」

 

 と、言い終わらないうちにバゴーンとドアが外れ派手に天龍が入室して来た。

 おいおい、冗談がすぎる。

 呆気にとられた叢雲が何か言おうとしたところ、

 

「おい、提督!なんで、オレの評価がああなんだよ!!」

 

 そのまま叢雲は金魚みたいに口をパクパクさせていた。

 

「何か言えよ!提督!」

 

 俺はただただ頭を抱えることしかできなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

 艦娘にはそれぞれ技能評価をしている。

 基本的な体力技能はもちろん、海上での移動、砲撃技術などと言った艦娘特有の技能をテストしそれぞれ評価する。それによって編成を考えているのだ。やる気があっても技能が追いついていないようでは話にならんのだ。特に戦場では命もかかってることもあるから。

 その中で天龍は基本的な運動神経ははっきり言ってここの鎮守府においてトップクラスだ。長門でさえ彼女の運動神経に舌を巻くほどだ。さらに彼女は砲撃技術も高く、それに加えて剣術も嗜んでいるらしく剣を用いて戦闘を行うなど、ここの鎮守府きっての武闘派である。

 そんな彼女に下した俺の評価はC。ABCDEの5段階のうちのCだ。

 

「ふざけるな!なんで俺がCなんだよ!」

「天龍!提督になんてことを…………」

「叢雲、いいんだ。俺もきっちりと話がしたかったところだ」

 

 叢雲をたしなめつつ、俺は天龍を見据えた。彼女はまさに怒髪天と言ったところだ。

 

「天龍、君は今回の評価に不満があるんだな?」

「当たり前だ。なんで、俺よりも球磨とか川内が上なんだよ!」

「そうだな…………」

 

 と、俺は艦娘の技能の評価の書かれた書類を取り出した。基礎体力は一般的な体力テストに準じて行なっているが…………天龍はすべての技能でトップだな。ちなみに長門は含まれていない。いたとしたら彼女がトップだろう。

 それと艦娘特有の技能。これは長門が評価する。これも天龍がトップだ。

 

「ふむ、たしかに君は技能が高いようだ」

「そうだろ、世界水準軽く超えてるからなぁ~。って違う!どうしてそこから評価がCになるんだよ!那珂でさえBだったんだぞ!」

 

 個人技能はトップ。しかし、総合評価はC。つまりはどこかが大幅に足を引っ張っていることになる。それは集団行動だ。

 陣形移動、命令の反応、あらゆるパターンを想定しての行動の仕方…………などのいくつかの評価があるが、天龍はすべてにおいてほぼ最下位。

 

「君は協調性が無さすぎる。もう少し連携を考えろ」

「はぁ?一々そんなことをしてたら相手にやられるだろ」

 

 思わず俺は頭を抱えた。

 

「一々下に合わせるような真似をしてたらいつか敵にやられるぞ!」

「…………この際だからはっきり言う。少し周りより強いからと言って自惚れるな」

「なっ!?う、自惚れてなんか…………っ!」

「たしかに君は他の艦娘よりはいい動きをしている。だが、戦場では少し動けるからといって勝てるわけではない。君の能力は一騎当千というには程遠い」

「だからといって…………」

「納得いかない顔だな…………なら、俺と一つ手合わせするか?」

「え?」

「海上ではさすがに無理があるから陸になるが構わんだろう?俺に一矢報いたのなら評価をAにしてやる」

「けっ、ならその言葉後悔させてやる」

 

 そう言い捨て、天龍は執務室を出た。まさに嵐の過ぎ去ったようである。しばらく呆気にとられていた叢雲がようやく状況を飲み込み、

 

「何考えてるのよ!?」

 

 と怒鳴られてしまった。

 

「別に考えもないわけじゃあ…………」

「そんなことはいいの!あんたもいい加減自分の身分を考えなさいよ!そこはきっぱり協調性のないやつに戦場へ出すわけにはいかないと言えば済んだ話じゃない」

「いやぁ…………そこまできっぱり言うと傷つくかなぁって」

「傷つくも何も、天龍があんたに負けた時が問題なのよ。ああいうタイプはプライドが高いんだから…………」

「ふむ、俺が勝つと思ってくれてるのか。嬉しいな」

「そりゃあ、どれだけの付き合い…………って、違うわよ!プライドが高い娘がそのプライドをへし折れたときにどうなるか分かったもんじゃないわ」

「それは問題ないだろう」

 

 天龍は少しやられたぐらいでめげるようなタチじゃないだろう。今まで何人もの指揮を執ってきたからその辺はなんとなくで分かる。

 俺は叢雲にあとから来るように告げ、執務室を出た。

 

 

 ーーーー

 

 

「鈴谷の件が落ち着いてきたと思ったら今度は天龍か…………最近はトラブル続きでまいる」

 

 私は額に手をやった。今回の騒ぎが提督も関わっていることもまた頭を悩ませる。普段は面倒ごとを嫌う彼なのだが…………どういう風の吹き回しか、騒ぎの中心となっているのだ。

 

「1年間ずっと、デスクワークだったからストレスでも溜まってたんじゃない?」

「そうかもしれんが…………社内で決闘は度がすぎる」

「でも、あんな生き生きとした表情は初めて見たわ」

 

 叢雲の言ってることは正しい。部隊にいた頃にも見せなかった表情だ。鎮守府で常に疲れた顔をしている彼がここまで生き生きしてると逆に気味が悪くなる。

 

「で、どっちが勝つか賭けてみる?」

「賭け事はやらん。そもそも、賭けにならんだろう」

「そ、長門のことだから駆逐艦の味方をするかと思ってたのに」

 

 この娘は私のことをどう思ってるのだ?まぁ、駆逐艦たちが健気にも天龍を応援してるから私も天龍を応援するとしているが…………

 

「天龍さん頑張ってなのです!」

 

 うむ、私にもあんな風に応援してほしいものだ…………

 今気づいたが、提督と天龍が決闘を行うこの武道場に艦娘たちがたくさん集まっていた。皆暇なのだろうか?

 皆の視線が集まる先には提督と天龍が向かい合う形で立っていた。提督は普段のトレーニングをする格好で呑気に準備運動まで行なっている。

 

「あ、そうそう、君は剣を嗜んでいたよな…………」

 

 そう言うと、提督は武道場の倉庫に向かった。かつて、海軍が使用していたときのままであるため、少しばかりここは古い。しばらく経って提督は1つの木刀を手に持ち、出てきた。

 

「少し埃被っているが…………構わんだろ?」

「それだと、鬼に金棒だぜ?いいんだな?」

「構わんから、渡すのだろう」

 

 と、提督は木刀を天龍にめがけ放り投げた。

 その瞬間、天龍は走り出し木刀を手にするや否や提督に向け、木刀を横に振った。随分と荒削りな振りながら、その木刀は素早く提督の腹に迫る。

 しかし、提督もまた冷静だった。急接近してきた天龍の手首を掴んだかと思えば、瞬時に身体を懐に入れ、軽々と投げ飛ばした。一方で天龍も空中で体勢を整え見事に着地した。

 おお、と感嘆の声が聞こえる。天龍の身のこなしもそうだが、提督の方もなかなかの動きだ。突っ込んできた天龍の力を上手く使って、必要最低限の力で投げる伸ばさすがだ。

 1年前まで現役だったとは言え、あそこまで肉体のパフォーマンスを維持してるのは日々のトレーニングの積み重ねか?

 

「こんなところで何してるんだ、提督」

「お、長門か。見ての通りだ」

「楽しそうだな」

「まぁな。君は君で、暇なのか?と言うか、みんな揃いにも揃って…………」

「演習が終えたところだったんだ。そうしたら、騒がしい声が聞こえてだな…………来てみたら、これだったというわけだ」

「す、すまない…………とりあえず、今日の分の執務は終えてるから心配しないでくれ」

「分かった。早く戻ってやれ。相手はやる気満々のようだぞ?」

 

 私は天龍の方を指した。彼女の表情からは余裕は消え失せ、凄まじい闘志が満ちていた。

 

「提督…………よそ見してる暇があるのか?」

「おっと、すまない」

 

 相変わらず表情を崩さない提督に対し、目を鋭くし睨め付ける天龍。

 

「天龍様の攻撃だ!うっしゃぁっ!」

「…………」

 

 再び拳と木刀が交差する。

 天龍が木刀を振るえば提督は流し、提督が拳を振るえば天龍は受ける。

 天龍の動きは今までの演習で実力を知っていたつもりでいたが氷山の一角だったようだ。やたらめったら振っているように見えるが、確実に急所を狙っている。それにしても提督だ。陸上とは言え、艦娘の攻撃を全て避け、当たりそうなら上手く受け流す。

 

「怖くて声も出ねぇかァ?オラオラ!」

「…………ッ!」

 

 上半身狙いの攻撃から急に脚を狙った。それを提督は跳躍で躱し、そのまま回し蹴りを天龍の側頭部へめがけて繰り出した。

 攻撃ばかりに集中していた天龍は反応が僅かに遅れた。

 

「うっ!」

 

 が、提督は蹴りを外した。

 

「あちゃー、外したか…………」

「な!?わ、わざと外しやがったな!」

「さぁ?」

 

 提督の言葉に天龍は顔を真っ赤にした。無理もあるまい。真剣勝負でわざと外されたのだ。

 

「クソがっ!」

 

 怒りに身を任せ、天龍の攻撃は激化した。狙いこそバラバラになったが一振りが格段に速くなった。それもあってか、時折提督の身体を掠める。

 しかし、その攻撃も長く続かず次第に天龍にも疲れが見え始めた。対して、提督は汗もかいていない。当たり前なのだが。

 

「うっしゃぁっ!」

「…………」

 

 一息で間合いを詰める2人。次の一撃で終わらせんとする気持ちが前面に押し出ている。

 しかし、決着は意外な形で終えた。

 

「そこまでよ」

「ぬぉ!?」

「うぉ!?」

 

 淀みのないはっきりとした声で、2人は攻撃を中断せざる終えなくなった。

 

「叢雲!?」

「時間よ。さすがに付き合いきれないわ」

「ふ、ふざけるな!まだ、終わって…………」

「続けて勝てると思ってるの?」

「オレはまだやれる!」

「なら、息を整えてから言いなさい」

「くぅ…………!」

 

 汗だくで肩で息をしている天龍に対して、提督は別段変わったところもない。少し顔が赤くなってるくらいか。

 

「ほら、みんなも戻りなさい。午後の演習もあるのよ?」

 

 叢雲の声だ艦娘たちはゾロゾロと武道場を出て行った。天龍はしばらく何か言いたげだったが、くそっと言った後に武道場を出て行った。

 

「おいおい、あのままだと天龍も不本意だろうに…………」

「その前に自分の身体の心配をなさい。…………って、熱っ」

 

 叢雲は自分の手を提督の額に当てそう言った。

 

「こんなに体温上がって…………あと少し続けてたら倒れてたわよ?」

「そこまでか?まだ、いけるような…………」

 

 ここまでで分かった人がいるかもしれないが、提督は汗をかかない。それに自分の体温上昇に気づいていない。

 

「あんたは自分の身体がどうなってるか分からないでしょ?」

「そうだが…………」

 

 叢雲の行動は他の者からしたら不可解極まりないが、提督のことを知ってる者なら叢雲の行動も理解できるはずだ。

 

「あとでちゃんと天龍と話しなさいよ?」

 

 その言葉に提督は黙ってうなずいた。






とりあえず、書きだめ分はここまでです。次の投稿がいつになるか分かりませんので気長に待ってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



加賀、ついに出たぞ!ついに…………うちの艦隊に正規空母が…………!てか、マジ強すぎます。思わずはえーってなっちゃいました。
艦これに疎い頃から加賀さんだけは知ってたんですよ。いや、きっかけはプロ野球の加賀さんからなんですけどね…………

加賀はムエンゴとお友達…………


加賀、加賀、加賀、加賀繁とか言ってますけど加賀さんは出ません。加賀ファン、加賀繁ファンの方すいません。むしろ天龍回です…………




「艤装の修理は終わりましたし、調整も終えました。問題ないですよ」

 

 工廠の技術者である橘さんはこの道30年越えの超ベテランである。どんな時でもどんな艤装でも修理や調整、果てには改良までしてくれる。さらに凄いのは1人1人の体格や運動能力データからそれぞれにフィットした艤装に仕上げてくれるのだ。ちなみに、橘さんが手がけた艤装には橘の花のマークが刻まれている。

 

「鈴谷さんの握力が分からないもんですから推測で調整してあります。合わなかったら私まで、と言っといてください」

「感謝いたします。修理だけでも充分ですのにわざわざ調整までしていただいて…………夜中にご苦労かけました」

 

 俺は直立して頭をたれた。

 今は夜中の3時。普段からさまざまな装備で仕事が大変なのにもかかわらず、鈴谷の装備の調達までしてくれた。

 橘さんは普段と変わらぬニコニコ顔のまま、ずらりと置かれた鈴谷の装備を一瞥したのち、俺を顧みた。

 

「久々、ど派手に壊してきたもんですねぇ」

 

 俺は黙ってうなずいた。

 橘さんは沈黙したまま、装備を再び見た。

 

「もう装備に関しては問題ないでしょう。でも、ほかにもっと大事なことがあります」

「装備よりも大事なことですか?」

 

 橘さんは顔を変えず、

 

「提督さん、兵士にとって装備が一番大事だ、なんていうのはただの幻想です。そんなことよりも大事なものなんていくらでもあります」

 

 橘さんはふいにかがみ、艤装をコンコンと叩いた。その艤装は壊れた面影はなく、新品同様だ。

 

「艤装はこんなにも立派に役目を果たしてます。でも、この持ち主が死を望むのであれば、これもただの鉄の塊です」

 

 少しの間をおいて、ため息とともに言葉を吐き出した。

 

「艦娘は機械じゃないんです」

 

 艤装は、問題ないですよ、静かにそう告げ、橘さんはそのままふらふらと立ち去った。

 残された俺はただ黙って鈴谷の艤装を眺めた。

 

 

 その後、天龍の方から話がしたいと申し出たのは、それから2日後のことだった。

 執務室に入ってきた彼女ら元来勝気な性格からは想像がつかないほど物静かな顔で、ぽつりと呟いた。

 

「この前は悪かったな…………」

「おいおい、らしくないな?それにこの前の件は俺からふっかけたんだ。君が悪いというのはドアを壊したことくらいだろう」

 

 無論、ドア代は天龍の給料からきっちりと差し引かせてもらった。

 

「そうか…………」

 

 それだけ言い、あとは沈黙が残った。ここまで天龍が暗くさせるのは、何か原因があるのだろうか?しかし、俺からは口を開かず相手から話すのをひたすら待った。

 

「あのさ、オレ別のことで謝らないといけないことがあるんだ」

「謝ること?酒を飲んで暴れん限り、天龍が謝ることはないぞ」

「そんなことしねーよ」

 

 天龍は苦笑いしながら言った。

 

「でも、提督…………」

「まだ納得しないのなら俺がいくらでも相手してやる。だが、周りに迷惑かけるの良くないぞ?」

 

 俺の言葉に天龍は小さく笑った。

 しかし、その笑いはどこか無理矢理作られたような気がした。

 

 

 ーーーー

 

 

 互いに口も開かず、張り詰めた空気のまま20分は過ぎただろうか。今日とて俺には仕事があるが目の前の彼女を放っておいてまでする気はさらさらない。そんな中、叢雲が客を連れてやってきた。

 紫がかった黒のセミロングヘアー、すらりとした身体、大人びた雰囲気に髪と同じ色の目は魅惑的な女性、である。

 執務室に入ってくる姿は気品すら漂い、どこぞの重巡も真っ青なくらいの淑女だ。

 あの晩、隼鷹が言ってた人物か。

 

「初めまして、龍田だよ」

 

 おっとりゆったりとした口調から思わず天龍の姉妹であることを忘れそうになった。

 

「天龍ちゃんがご迷惑をおかけしました」

「別に迷惑だとは思っていません。本人も反省してるようですし、謝る必要もないと話してばかりです。今日、親交を深めるためにも彼女に食事でも誘おうと思っていたところです。龍田さんがよろしければ、誘おうと思うのですが」

 

 そんな俺の言葉にも龍田という艦娘はおっとりとした笑顔を絶やさず、

 

「天龍ちゃんを呉鎮守府に連れ帰ろうと思っているの〜」

 

 この時、俺は初めて彼女が呉鎮守府に元々所属していたことを知った。

 

 

 ーーーー

 

 

 この鎮守府に所属する方法はいくらかある。1つは別の鎮守府の提督さんから預かって欲しいと依頼され、ここにやってくる。この場合、ほとんどが艦娘たちの方から提督に願い出て、依頼してもらうのが一般的である。それに対して、直接こっちに来て雇って欲しいと願い出る者も少なからずいる。そんな艦娘は大体、無所属で行き場のなくなった者ばかりだ。

 天龍は後者にあたる。ある日突然やってきて、「オレを雇え」と言ってきたのが記憶に新しい。面接では無所属と言われそのまま納得していた。

 

「オレ、呉鎮守府を抜け出してきたんだ」

 

 静かにそう言った。

 叢雲はギョッとしたように見えた。

 

「オレ、深海棲艦をぶっ倒すために必死に努力して強くなろうとしたんだ。でも、オレは遠征要員止まり。みんなはどんどん最新の装備を貰ってるのに、遠征要員のオレはいつまでも旧式。それが嫌になって飛び出してきたら、なぜかここに流れ着いたんだ」

 

 自嘲するような乾いた笑みのまま、視線を落とした。

 

「でも、今思えばオレは遠征要員で妥当だったんだな」

 

 吐き出された言葉は、痛切なものだった。

 

「お袋には会ってもいないし、連絡もしてねぇ。多分、お袋はオレが呉鎮守府で前線で頑張っていると信じて…………実際は遠征ばっかりで、挙げ句の果てに飛び出して…………」

 

 語尾が震えていた。

 

「…………いつか、頑張ってるオレの姿を見せて喜ばそうって思ったのに…………」

 

 気づけば天龍は泣いていた。

 

「もう戻ろう?天龍ちゃんは頑張ったわ」

 

 静まり返った執務室に嗚咽のみが漏れた。

 かつての強気な彼女はどこにもなく、今はこのまま消えてしまいそうなほど弱々しかった。

 

「それで、どうした?」

 

 ふいに俺は口を開いた。

 

「天龍、君が無所属ではなかったことくらいとうの昔に知ってるさ。君の持ってきた装備に呉鎮守府のロゴがついてんだ」

 

 天龍は少し驚いたように顔を上げた。

 

「だが、それがどうしたってんだ?君の努力の成果は、肩書きでもなければ出たと言えないのか?遠征要員?構わん、戦場で遠征だって必要不可欠だ。心待ちにしてる母がいるなら、胸を張ってそのことを言えばいい。何で恥ずかしがる必要がある?」

「…………でも、嘘は嘘だ。お袋を裏切ったうえに提督たちまで騙した」

「たしかに俺たちに嘘をついた。だが、母を裏切ってなんかいない」

 

 俺は自分で自分の饒舌さに驚いた。全員びっくりしてこちらを見ている。

 

「裏切ってなんかいない。君の頑張りは事実だ。呉鎮守府を抜け出していようが、剣術に通じ、実力も高く、戦地に出れば必ず素晴らしい戦果をこの"鎮守府"で上げてきた。そのことはここの提督である俺がよく知ってる」

 

 こんな分かりきったことが分からんのなら、全部俺が言うまでだ。

 

「笑いたいなら笑えばいい。だがな、君はたしかに前進してきた。俺が保証する。そもそも笑うやつなんかほっとけばいい。大切なのは体裁ではなくて熱意だ」

 

 俺の言葉に再び沈黙が訪れた。

 天龍の涙はいつのまにか乾いている。

 俺は明日の予定表を取り出し、天龍の枠内に「3日間休み」と書き加えた。

 

「休日をやるから、胸を張って一度母に会ってこい。もちろん、有給だから安心してくれていい」

 

 天龍が頭を垂れた。

 

「…………おう、ありがとな。提督…………ほんと…………」

 

 そして、そのまま痛々しい声を絞り出した。

 

「お袋、先日死んだんだ」

 

 俺は、自分の思慮の浅さに言葉を失った。

 

 

 ーーーー

 

 

 間抜けもここまで極まれば、笑うに笑えない。

 執務室で俺は苦々しい顔で頭を抱えていた。

 天龍にあの行動をさせた最大の原因は、母の死だった。

 娘が頑張っている姿を心待ちにしたまま、真相も知らないで病気に倒れた母。しかし、天龍は秘密を抱えており、見舞いにも行けず、そうこうしているうちに母は他界してしまったのだ。自責の念にかられた天龍は、せめて葬儀は出て欲しいという姉妹の声も拒絶し、罪悪感を重ねたまま日々を過ごしているうちに、せめての償いとして活躍しようとしたのだろう。案じた龍田がわざわざ出向いてくれたが、かえって天龍に厳しい現実を叩きつける結果になってしまった。

 そんなことも知らず、俺はあたかも分かっているように「母に会いに行けばいい」と。

 何でそんな気遣いもできないのか、と頭の中で自分をどれだけ責めたところで、俺のやるせない気持ちがなくなるわけでもない。

 ああ、と髪をぐしゃぐしゃに掻き毟るが毛が何本か抜けただけだ。1、2本白髪が混じってた。

 

「何やってるのよ」

 

 しばらく、俺を眺めているだけだった叢雲が業を煮やしたのか目の前に立った。

 この艦娘驚くほど働き者だ。俺を眺めつつも執務をこなしていた。

 

「見たまんまだ。自暴自棄になってるだけ」

「天龍のこと?」

「ああ」

 

 俺は抜けた毛たちを疎ましく睨みつけてから、ゴミ箱に捨てた。

 かっこよく天龍を励ましてたつもりが、知ったかぶりの的外れな説教に過ぎなかった。よくこんな奴が提督をやってるもんだ。

 

「大切なのは体裁ではなくて熱意だ」

 

 叢雲が唐突に、俺のモノマネをしてみせた。まったく…………

 

「悪くないわ」

「…………何が?」

「だから、あのセリフよ。悪くないと思うわ。あんたの言葉もたまには役に立つわね。私は少し勇気をもらったような気がしたわ」

「君に勇気をやっても意味がないだろ」

「天龍も励まされたと思うわ。ちょっと的外れだとしても、あんたの情熱は伝わってるわよ」

 

 なんとまぁ、叢雲が俺を励ましてくれてる。

 珍しいこともあるもんだ。

 

「何が狙いなんだ?」

「素直じゃないわね。たまには素直に励ましを受けなさい。コーヒー飲む?」

 

 叢雲は苦笑しながら返事を待たずして、カップを2つ並べた。

 

「もらうよ」

 

 俺は素直に白旗を揚げるしかなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

 鈴谷の出撃禁止令が解除された。

 怪我も癒え、橘さんによって修理された艤装を見に纏い演習にも参加するようなった。

 幸いあれから、前のような行動はしていない。ただ、ときどき海の水平線をぼーっと眺めているときがある。

 何を考えているのだろうか?深海棲艦?家族のこと?鈴谷の横側からは何も分からない。

 

「海、好きなのか?」

 

 ふと聞いた俺に、鈴谷は首をひねった。

 よく分かんない、あの人といつも眺めてたから、と。

 俺は長門からある程度話を聞いており、あの人すなわち鈴谷の恩人である兵士のことは知っている。

 

「その人ね、とても真面目な人だったんだ」

 

 そう言い鈴谷は思い出話をしてくれた。

 鈴谷は捨て子であった。孤児院でしばらく孤独に暮らしていた。

 

「いっつも1人でぼーっとしてさ、友達もいなかったんだ。別にそれが寂しいなんて思ってなかったけど」

 

 自分から話しかけないし、話しかけられても少し話して終わりだったと言う。

 

「それでも、鈴谷は運が良かったよ。ちゃんとご飯食べさせてもらって、生活できてたし。そんな中でね、兵士さんが来たの」

 

 鈴谷はどことなく楽しそうに話す。

 俺は黙って聞き入った。

 

「同じ孤児院の出身の人だったんだ。

 本当に優しい人で…………本当に兵士なの?ってなぐらい。だからさ、いつも1人でいる私構って…………孤独に慣れていたのに、むしろ望んでたのにね。そのせいで誰かを思いやることなんて煩わしくなって…………

 そんな私にね兵士さん、"僕らはよく似ている"って。急にだよ?普通に考えたらキモいと思うじゃん?

 私は兵士さんから逃げたんだよ。

 でも、どれだけ逃げても逃げても…………変わり者の兵士さんは着いてきたんだよ。今じゃ、不審者だよね」

 

 ふっふっと鈴谷は笑う。

 初めて鈴谷が心から笑ったような気がした。

 

「今考えるとね、兵士さんから逃げたのは兵士さんの優しさと温もりが信じられなかったのかなって思うの。

 でも、そうこうしているうちに兵士さんと一緒に過ごすようになったの。その兵士さんいっつも絵を描いて、青い絵ばっかり。海ばっかり描いて。海好きなのって聞いたら

 "大嫌い"って。意味わかんないよね?でも、そのときはなんだが妙に納得しちゃって」

 

 だんだん聞いているうちに俺の心の中に引っかかるものが出てきた。

 

「まぁ、その兵士さんのお陰で熊野にも出会えたりしたんだけどね」

 

 鈴谷は目を細めて、幼き日の記憶を思い出して楽しんでいるようだった。

 しかし、次の言葉を言うとき鈴谷は暗い顔になった。

 

「提督、あの日って知ってるでしょ?」

「…………ああ。軍人の俺には忘れられない日だ」

「私のいた孤児院、被災地にあったの。今でも思い出すのは怖いけど、兵士さんがいたからいくらマシかな。

 そのとき、私、熊野とクローゼットの中でビクビクしながらいたら、急に兵士さんがやって来て、

 "大丈夫か!?"って。

 頭から血流してそっちの方が大丈夫なの、て聞きたいぐらいだったよ。でも、怖さで泣くことしかできなかった私たちを見てね、"逃げるぞ"って、言って私を背に熊野をお腹に抱えて飛び出したの。やっぱり軍人なだけあって2人抱えても顔色変えずに走って」

 

 深海棲艦の目を掻い潜りながら、彼は走ったと言う。

 

「ずっと泣いてる私たちを"大丈夫だ、俺が守るから"ってずっと言ってくれて。全然大丈夫じゃない状況だったけど、彼が大丈夫だって言ったから本当に大丈夫なような気までしちゃった」

 

 鈴谷は1度言葉を切り、ゆっくり息を吐いた。

 

「そしたら、本当に助かっちゃった。群をなしても勝てなかった深海棲艦の群れから。救助隊の船にたどり着いたら兵士さん、私たちを下ろしちゃって。私、離れたくないってずっと泣いてたら、"大丈夫、ちょっと友達に会ってくるだけ"って。そう言われても、私は泣き止まないから、今度は懐中時計取り出して"お守りだ。また、会ったら返してくれよ?"そう言って飛び出したの」

 

 本当に幸せそうな顔を鈴谷はしている。こんな豊かな感情をしている鈴谷は初めてだ。

 

「で、その兵士さんは?」

「死んじゃったって、兵士さんの知り合いから聞いた。なんでも、1人、深海棲艦襲われているのを助けようと突っ込んだら、返り討ちにあって…………馬鹿だよね。普通の人間は1つの深海棲艦でさえ脅威なのに、たくさんの深海棲艦に1人突っ込んで…………」

 

 ぼんやりとしていたものが少しずつ形あるものへと変わっていっていた。しかし、特定にまでは至らない。

 

「なーんて、思ってたら生きてた。私が艦娘になりたての頃に、部隊の隊長さんとしてね?」

 

 そう言い、ニヤニヤしながら俺の方を見た。

 なるほど…………そういうことか。

 

「また、再び会ったら提督にまでなっちゃって、ね?」

「…………これまた、立派に成長したもんだ。無愛想な娘かと思ったらただの泣き虫で、今となっては命令違反もするような娘になって」

「そういう提督こそ、優しい人だったはずなのに、死神って呼ばれて、そしたら軍神と崇められ、今は変人と呼ばれてる」

 

 鈴谷は、いたずらっぽく笑みを浮かべ言った。

 俺も笑い返した。

 馬鹿にされてるはずだが、不思議と嫌な感じはしない。ついさっきまで自己嫌悪していたのを忘れるそうになる。

 

「やっと、思い出してくれた?」

「ああ、わざわざ俺の真似までして…………俺にそんなに会いたかったのか?」

 

 俺の言葉に一瞬不思議そうな顔を浮かべるが、すぐに

 

「そうかも。提督も命令違反の多さで有名だったからね。だということはあの日の約束も覚えてるんだよね?」

「約束…………?」

 

 逆に俺が不思議そうな顔をすると、鈴谷はたちまち不機嫌な顔に変わった。

 

「ま、いいよ。ちゃーんと思い出してよね?」

 

 鈴谷は再びいたずらっぽい笑みを見せて、海を眺めた。その海はいつもよりか穏やかに見えた。

 

 

 ーーーー

 

 

 

「やっぱり戻るのか?」

 

 俺の声に、天龍は静かにうなずいた。

 

「そりゃあ、寂しくなる」

 

 俺はそれ以上言葉もなく、黙って武道場をぐるりと見回した。

 ここはだれも使わない建物であったが、天龍がきてから天龍専用の修行部屋と化していた。唯一の使用者がいなくなるのだから、またここも寂しくなるな。

 天龍が胸の内を吐露してくれた日から2日後の夜だ。

 天龍は最初ほどの威勢ではないものの、少しずつ元気になった様子だったが、色々あった末、呉鎮守府に戻ることが決定した。

 

「明日の朝、龍田が迎えにくる。今日が最後の務めだな」

 

 静かな声が、武道場に響く。武道場も、新たな主人が立ち去ってしまうのを惜しんでいるようだ。

 天龍とは1、2ヶ月ほどの付き合いではあるものの、共に過ごしてきたことはたしかだ。

 

「短い付き合いだったな、天龍」

 

 こういうときに、俺は気の利いた言葉が出てこない。

 俺は余計な言葉を取り繕うのを諦め、右手に持っていた木刀を天龍の前に置いた。

 

「この前の決着、着いてなかったな?」

「え?」

「今生の別れとうわけではないが、次に会えるのがいつになるのか分からん。今のうちに着けてしまおう」

「…………おう、いいぜ」

 

 天龍の手が、古びた木刀に触れた。かつての軍人たちが鍛錬に使ってきた代物だ。

 

「さぁ、いつまでもかかってこい」

 

 俺の声に天龍はうなずき、一歩を踏み出した。

 木刀の先端が脇を掠める。前の時よりも格段に鋭くなっている。

 

「どうした?提督、動きがぬるいぜ!」

「ハハ、ならこれはどうだ!」

 

 すかさず手首を掴み、そのまま背負いこむように投げた。

 しかし、天龍は空中でバランスを取りそのまま着地し、木刀を俺に突きつけた。

 

「!!」

「は、甘いぜ」

「あー…………俺も老いたな」

 

 心臓に木刀を突きつけられた俺は両手を挙げ降参した。

 すると、天龍も木刀を下ろしその場に座り込んだ。

 

「スッゲーな。提督」

「おいおい、敗者に言うセリフか?」

「オレは勝ったとは思わないぜ。でも…………ありがとな」

「感謝されるようなことはしとらん。いや、ありすぎて困る、か?」

 

 俺の戯言に天龍は笑った。いかにも天龍らしい豪快な笑いだ。

 あとは武闘派のバカの話だ。

 俺が体術を語れば、天龍は剣術を語る。ならばと俺は部隊の頃の話をする。

 平和主義を語る日本では疎ましく思われるだろう。しかし、俺らはそんなことしかできない不器用な奴らだ。

 笑いたければ笑えばいい、でも不器用な俺らは、笑われたこれで前に進む。

 話していくうちに、俺らは武道場で眠りについた。

 

 

 ーーーー

 

 

 太陽の光で目が覚めた。

 朝だ。

 驚いて武道場を見渡せば、天龍はいなかった。慌てて、軍服を着て外に出ると天龍は龍田と共にいた。他の娘たちに挨拶回りしてたのだろう。

 駆逐艦たちは泣きながら、天龍に抱きついている。

 提督として恥ずかしい話だが、天龍がここまで駆逐艦に懐かれてるとは知らなかった。

 

「ここは来るものばかりだったが、そればっかりではないようだ。来るものが居れば去るものもいる」

 

 急に後ろから長門にそう言われたからたまったもんじゃない。

 

「驚かすなよ。まぁ、そうだな。だが、去るからといえども、天龍にとっては新たな一歩だ。華々しく応援しようではないか」

 

 天龍には明るく見送った方がいい。

 すると、

 

「提督!」

「ん?」

「オレ、決めた!」

「なんだ?」

「ぜってぇ、提督を驚かすほど強くなってやる!」

「そうか、ならこちらも鍛錬を怠れないな」

「だから…………オレは…………」

 

 

 

 

「この鎮守府に残るぜ!!」

 

 

 

 

 一瞬にして、周りは驚きのあまり絶句した。長門なんか目をまん丸にしてる。

 

「クッ…………アッハハ!そうか!君はそう決めたんだな?」

「ああ!」

「ちょ、ちょっと、天龍ちゃん!?」

「天龍さん、残るっていったの?」

「そうなのです!」

 

 俺の笑い声を皮切りに、皆がざわつき始める。

 

「おい!それでは呉鎮守府の提督に…………」

「安心しろ!呉鎮守府の提督は俺の元部下だ。俺から話をつけてやる」

「だが…………」

「断っても、無理矢理認めさせてやるから安心しろ!ハハ!」

 

 久々に腹から笑った。あまりにも笑いすぎたせいか、周りに引かれているようだ。

 構うものか。

 

「なら、再び言おう。ようこそ、民間軍事会社"鎮守府"へ!」

 

 俺の声に天龍は大きく笑ってみせた。




天龍と龍田は姉妹って設定してますが今後、龍田の登場が怪しいのであまり気にする必要はないと思います。

次回は正月SPをなんとか作りたいと思います!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話4"あけおめ"


あけましておめでとうございます。1月1日には間に合いませんでしたが、正月回となります。




「提督、あけおめことよろ!新年も、鈴谷をよろしくね!さぁ、お年玉、ちょうだぁ~い?」

 

 突然開かれた執務室の扉。新しい年の幕開けを象徴する言葉を発しながら、鈴谷はやってきた。

 あいにく、秘書の長門は不在。おかげでズカズカと入ってくる鈴谷を咎める者はいない。さらに俺は咎めることすら億劫であり、ちらりと一瞥したあと、再び画面に目を向けた。

 補足しておくと、今はジャスト0時。すなわち本当に新年がやってきたばかりだ。そんな中、俺は労働基準法の労働時間を大幅に超えて、仕事している俺は疲労困憊で意識も白濁しつつある。

 そんな俺にいきなり入ってきて、お年玉ちょうだいなどとぬけぬけと言う彼女はいささか配慮が足りていない。いや、かなり足りていない。

 

「…………すまんが、回れ右をして出てくれ。年末年始は仕事がなぜか殺到するんだ」

「むー…………お年玉…………」

「急がずともお年玉は昼にちゃんとやるから…………」

 

 クリスマスの件もそうだが、この鈴谷という艦娘はイベントのある日は必ず早めに来る。楽しみで待ちきれないというのも分からんではないが、火の車状態の俺からすれば迷惑もいいところである。

 

「てか、年越しなのに仕事してんの?」

「逆に年越しだからといって仕事がなくなるわけでもなかろう。なんなら、執務を手伝ってくれればお年玉も弾むぞ」

「え?マジ?」

「ああ。手伝ってくれるか?」

「うん!するする!」

 

 実に単純だ。このくらい簡単に動いてくれると、仕事も楽になるのだが。熊野とかは必ず条件を増やして来るからな。

 

「てか、この山積みの書類なに?」

「これか?艦娘の今までの活躍を記録したものだ」

 

 1年が終わることはつまり、まとめもしなければならない。それぞれの戦果などをこのハイテク機器に入れるわけなのだが…………

 

「これ、終わるの?」

「終わるさ。いや、終わらせないといけないんだ」

 

 1年という長さは伊達ではなく、相当な量の書類になっている。おかげで、生気を戻しつつあった俺の顔が再び死にかける羽目となり、叢雲に心配されたばかりである。

 

「じゃあ、鈴谷は何をすればいいの?」

「とりあえず、書類を艦娘ごとに仕分けてくれ」

「りょーかーい、鈴谷は夜型だからね、こういうのもチャチャっとやっちゃうよ!」

 

 威勢良く鈴谷は言うが、この仕事をなめてはいけない。

 延々と同じ作業をすると頭がどうにかなりそうになるのである。今までは叢雲のコーヒーによって、どうにか持ちこたえてきたが、さすがに年越しにまで叢雲に手伝わせるのも気が引けるので1人でやっている。おかげで、俺は現在進行形でおかしくなりそうなのである。

 

「とにかく、あけましておめでとう。今年は問題を起こさないでくれよ?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ!鈴谷にお任せ!」

 

 

 ーーーー

 

 

「はあぁぁ…………やっと、おわったぁぁ」

 

 今は1時15分。幾度もパソコンを投げ出したい衝動に駆られながらもなんとか持ちこたえた。いなくなってその存在のありがたさに気づくと言うが、なるほどその通りだ。今までは手際よく彼女が手伝ってくれ、さらにコーヒーで活力まで与えてくれるありがたい存在だ。

 その代わりを務めてくれた鈴谷はと言うと…………

 

「へへ…………鈴谷にお任せ…………」

 

 呑気にもスヤスヤと眠ってくれている。夜型とはなんだったのやら…………まぁ、眠くなるのも仕方ない。

 

「うわぁ…………ヌメヌメする…………」

「…………どんな夢を見てるんだ?」

 

 妙に頰を赤く染める鈴谷を抱え上げ、ソファに寝せる。風邪でも引いてるのか心配したがそうでもなさそうだ。

 寝せるだけでは寒そうだったので何かかけるものを探したがなかったので、仕方なく軍服をかけた。

 

「あぁん…………提督、そんなに触んないで…………」

「…………本当にどんな夢を見てやがるんだ」

 

 軍服をかけた途端、妙に体をくねくねさせ始めた鈴谷だが気にしても仕方あるまい。俺は一刻でも早く布団に行きたいのだ。

 

「…………おやすみ」

 

 ソファに眠る鈴谷に小声でそう告げ、俺は自室に向かった。

 

 

 ーーーー

 

 

 ピピピピピピ…………

 

「ああ?なんだよ、もう…………」

 

 誰もいない虚空に向けて悪態をつくものの、何も起こるわけでもない。

 いや、思わず悪態ついたのには理由がある。正月だから少し長めに睡眠を取ろうと思ってたらうっかり定刻通り6時に目覚ましが鳴ってしまったのだ。

 寝ようと思っても、一度起きてしまった体はもう寝ることができない。全く不便な体だ…………

 

「新年でも平常運転なのは上司の鑑だな」

 

 今年も訳の分からんことを言いつつ、俺は服を着替えた。さすがに2日間同じ服は気が引ける。

 そんなことを気にしない人もいるだろうが、俺はなんとなく嫌なのだ。

 そのまま洗面所に向かい鏡を見るが、いつもに増して酷い顔が映っていた。この顔を見て叢雲が心配するのも頷ける。

 

「…………お腹空いたな、食堂にでも行くか」

 

 俺はそのまま自室を出た。

 

「すー…………すー…………」

 

 そういえば、鈴谷が寝ていたのを忘れていた。少しいたずら心で落書きでもしてやるかと思ったが、やめておいた。代わりに前々から用意していたお年玉を置いておいた。ここの艦娘はなかなかの数なので必然的に大金になってしまうが、金を持っていても使い道はせいぜいトレーニンググッズしかないので、こういうときに使うのが良い。

 

 

 ーーーー

 

 

 間宮さんの朝は早い。俺がボヤきながら起きて来たのが6時だったのにも関わらず、間宮さんはすでに起きていて食堂の準備を終えている。

 ひょっとしたら、俺よりもハードな日々を過ごしているのでは?と、ときおり思うのが、間宮さんからは提督の方が大変です、とニコニコ顔で言ってくれた。

 常に死にそうな顔で文句ばっかり言っている俺に対して、間宮さんは弱音1つ吐かない。俺も見習うべきだなぁ。

 

「…………」

 

 食堂は正月らしく飾られているが、俺が驚いたのはそこではない。俺よりも先に先客がいたことに驚いたのだ。さらに驚いたのは机一面に並べられた料理だ。

 

「…………何これ?」

「あら、司令官じゃない。あけましておめでとう」

「ああ、あけましておめでとう。ところで、何を食べているんだ?」

 

 俺と間宮さん以外にこんな朝早くから起きる真面目な奴は誰かと思えば叢雲だった。彼女は朝から黄色い団子のようなものを食べている。

 頰に黄色い餡子までつけて、食べてるあたりよっぽど美味しいのだろう。

 

「何って、栗金団よ。あんたも食べる?」

「あとでいただこう…………いや、そうではなくてだな。この山のような料理はなんだ?」

「間宮さんが作ったのよ。この発足して1年が経つことも含めて、今年は贅沢に祝おうって」

「しっかし、これだけの量を一晩で…………俺にも言ってくれたら手伝いぐらいはしたのだが」

「提督も昨日はお忙しかったでしょう?」

「おぉ、間宮さん。あけましておめでとうございます」

「はい!あけましておめでとうございます!」

「それにしても、この量は大変だったでしょう?」

「いえいえ、提督さんこそ。昨日は夜遅くまで仕事で…………」

「もうこの話は止めにしましょう。とにかく今日は謹賀新年、お祝いしましょう」

 

 そう言い俺は懐から2つの封筒を取り出し、間宮さんと叢雲に渡した。

 

「あら、これは?」

「お年玉、です。少ないですが」

「私にも?」

「そうだ。お世話になってるからな」

「そう、悪くないわ」

「あら、叢雲さん嬉しいんですね?」

「そうなのか?」

「な、何?感謝なんかしていないし!」

「叢雲さん、嬉しいときは頭の機械がピンクに光るんですよ?」

「へぇ、そうなのか」

 

 たしかによく見ると、頭の機械がピンク色に点灯している。その機械にそんな機能があったのか。

 

「あ、え?ちょ、ちょっと…………あんた、こっち見ないでよ!」

 

 新年早々、叢雲の理不尽な物言いから始まった。うむ、今年も良い年になりそうだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 間宮さん特製のおせち料理を食べた後、俺は仕事始めとした。執務室に入るとすでに長門が待機していた。

 

「長門、あけましておめでとう。今年もよろしく頼むぞ」

「…………え?あ、ああ。あけましておめでとう」

 

 新年なのに長門の様子が少々おかしい。妙にそわそわしている。

 

「どうした?様子がおかしいようだが」

「いや、何でもない。…………駆逐艦たち、遅いなぁ…………

 

 やはり、妙だ。まぁ、気にしていても仕方あるまい。こちらは早急に執務を進めなければならない。

 すると、ドアが荒々しく開かれ、

 

「お正月っぽーい!提督、あけましておめでとう!」

「おお、夕立か。あけ…………ぬぉ!?」

 

 着物姿で登場するなり、文字通り飛んできた夕立。かなりの勢いで走ってきたのか俺の無防備な腹に突っ込んできた。

 

「…………新年早々慌ただしい奴だ。ともかく、あけましておめでとう、だ。今年もよろしく頼むぞ?」

「今年も夕立頑張るっぽい!」

 

 そのまま夕立は腕を俺の腰に回してしがみついた。なぜか妙に後ろから黒いオーラを感じるがこの際は無視しておこう。

 

「もぉ!あたしがいっちばーんに挨拶しようと思ったのに!提督、あけましておめでとう!いっちばーんたくさん入ったお年玉をちょうだい!」

「2人とも慌てすぎよ?提督、あけましておめでとうございます」

 

 と、白露と村雨もやってきた。皆揃いに揃って着物姿だ。

 

「ああ、あけましておめでとう。あれ?時雨は?」

「…………ここにいるよ。提督、あけましておめでとう」

「おう、あけましておめでとう。時雨も入ってきたらいいじゃないか。お年玉あるぞ」

「ねぇ、白露。どうしてもこの格好じゃないとダメかな?」

「大丈夫、大丈夫。時雨も着物似合ってるよ!」

 

 どうやら、俺に着物姿を見せるのが少々恥ずかしいらしい。時雨のことだから、着物姿も似合うだろうな。

 

「ほら、こっち来て!」

 

 無理矢理白露に引っ張られ時雨は恥ずかしそうに頰を染めながら出てきた。

 

「黒の着物か。よく似合ってるぞ、時雨」

「そ、そうかな?提督がそういうのなら嬉しいよ」

 

 これでいつもの仲良しこよしの4人組が揃ったわけだな。俺は引き出しからお年玉を取り出し、4人に渡した。

 

「それじゃあ、改めまして…………あけましておめでとう。今年も君たちが活躍できるように精一杯サポートさせてもらうぞ?」

「はい!あたしたちも提督のために精一杯戦います!」

「ハハ、別に俺のためではなくてもいいんだが」

 

 ここはあくまで"艦娘"のためにあるのだから。まずは自分のために戦ってほしい。

 

「それはそうと、その着物は誰に着付けてもらったんだ?」

「鳳翔さんです!早く提督に見せてあげようと思ったけど…………」

「時雨が着るのを渋ったのよね」

「僕にはそういうのを似合わないから…………」

「嘘っぽい。時雨、朝早くから『どれが似合うかな…………』って言ってたっぽい」

「そうそう!『提督に見られるのなら可愛いって言われたいなぁ』ってね」

「そしていざ、提督の提督の前になったら恥ずかしいってねぇ?」

「…………もう!//」

 

 3人に諸事情をバラされた時雨は顔を真っ赤にしている。何を恥ずかしがる必要があるのか分からんが、それが年頃の女の子と言うのだろう。

 

「ねぇ、時雨、可愛いですよね?提督」

「ん、そうだな…………可愛いというより、美しいって感じだな」

 

 この4人に共通することだが、第六駆逐艦などの駆逐艦に比べて少々年上であり、どことは言わないが成長している。

 その上、時雨は普段から落ち着いており可愛いと言うよりも大人っぽさが目立つため美しいと表現した方がいいと主観的ながら判断したのだ。

 

「提…………あ、ああ!」

「あ、時雨が逃げたっぽい!」

「逃がさないよ!」

「周りに迷惑かけるなよ〜」

 

 逃げ出した時雨を3人は追いかけて、執務室は静かになった。嵐なうな奴らだったな。

 

「白露型の娘ですらあの可愛さ…………第六駆逐艦の娘たちならもっと可愛いのだろうな…………」

「長門…………少し自重してくれ」

 

 彼女の煩悩は除夜の鐘では浄化されてなかったようだ。新年早々彼女がこうだと先が思いやられる。

 

「コホン、すまない。気が緩んでいたようだ」

「そ、そうか…………ところで君は着物を着ないのか?」

「今は執務中だからな…………そんなに見たいか?」

「うーん、見たいと言われたら見たい、かな?」

「微妙な反応だな。提督こそいい加減、提督服姿とジャージ姿以外も見せたらどうだ?」

「…………ジャージ、いいじゃないか」

 

 と力のない反論をしてみるが、ジャージ以外着ないのはただ単に俺がファッションに疎いだけなのである。

 

「ともかく!今年の執務、始めようじゃないか」

「ああ、今年もこの長門に任せておけ」

 

 すでに今年初の仕事はやっていたのだが、細かいことは気にしない。俺はすぐさまパソコンに向かい仕事を始めた。

 

 

 ーーーー

 

 

 1時半過ぎた頃、再び執務室に来訪者がやってきた。その人たちも着物を着飾っている。

 

「提督、新年もこの熊野を、よろしくお願いしてよ? 初詣には、いつ出発なさるの?」

「あけましておめでとう、熊野。初詣は行きたいのは山々なのだが…………見ての通り、仕事があってだな」

「えぇ!?深夜までしてたのに?」

「それは去年のまとめの分だ、鈴谷。今は今年初の仕事が山ほどきているのだ」

 

 鎮守府が円滑に回るようにするには俺の仕事が捌かなければ始まらないのだ。一年の計は元旦にありと言うように、初っ端からグダグダしていたら、その年はあまり上手くいかなくなるだろう。

 

「提督、初詣行ってきたらいい」

「長門…………気持ちはありがたいが…………」

「今日ぐらい私がやるさ。安心しろ、パソコンの扱いならすでに習得している」

「そ、そうか…………なら、言葉に甘えるとしよう」

 

 俺の中で、任せるか否か、かなり葛藤したがここは甘えることにした。とにかく、彼女が誤ってデータを全て消さぬよう祈るだけだ。この前のように、パソコンを破壊するのは本当にやめてほしい。

 

「よし、熊野と鈴谷、俺も初詣に参ろう」

「ほんと!?」

「ああ、とその前に…………はい、お年玉だ。無駄遣いは控えるように」

「やった!提督、サンキュー♪」

「ありがたく頂戴しますわ…………そうそう提督?」

「なんだ?」

「何か気づくことはありませんの?」

「気づく…………?はて?」

 

 何か気づく…………この場合は、彼女たちの着物について触れればいいのだろうか?いや、そうだろう。熊野が露骨に着物を見せびらかす動きをしているからな。

 少し時間がかかったせいで訝しむ顔をする熊野。

 

「着物のことだろ?似合ってるよ」

「それだけ…………?」

「えっ…………あ、あまりにも可憐すぎてつい見とれそうだよ」

「そ、そうでしょう?熊野は美容に対しては人一倍、気を使っておりますのよ?」

 

 俺の解答が正しかったのかは分からんが、熊野が満足してるのならそれでいいか。

 

「むぅ…………鈴谷は?」

「ん?いいんじゃないか?」

「テキトーすぎるよ!もっと、他に言うことがあるでしょ!?」

「他に、他に…………あー…………」

「なんでそこで詰まるの?」

 

 俺の頭の中の語彙力はもう空っぽだ。どう頑張ってもいい言葉が出てこん。

 

「なぁ、いい加減初詣に行ったらどうだ?」

「そ、そうだ、長門の言う通りだ!」

「そうですわね、せっかくの晴れ着なのですから、提督と歩きたいですわ」

「なぁっ…………!」

「了解。それならとっとと行こうか」

「そうですわね」

「え?ちょっ!」

 

 鈴谷を置いて行きつつ、俺は外出するために支度を進めた。そこで気付かされるのだが、俺の服の数が絶望的に少ない。一瞬、ジャージが頭に浮かんだがさすがにそれはひどいので、ジャンバーとジーパンを着ることにした。

 

「準備できましたの?」

「ああ、行こうか」

「ええ」

 

 と、熊野は俺の横に近づき、俺の腕に抱きつくようにピタッと密着した。

 

「えっと、これは?」

「気が利きませんのね。紳士ならレディをエスコートするものでしょう?」

「そ、そうなのか?ところで、鈴谷は?」

「待ちきれないと言って先に行ってしまいましたわ」

 

 たかが5分くらい待ってくれてもよかろうに…………

 

「とにかく、行くか」

「ええ」

 

 なんとなく丸め込まれたような気がしたが、熊野を右に執務室を出た。

 

 

 ーーーー

 

 

「A Happy New Year! テートク、New yearも 金剛型高速戦艦を ヨロシクオネガイシマース!ってテートクは?」

「ん、金剛か、提督なら熊野と初詣に行ったぞ」

「What!?」

「まぁ、とにかく金剛、ちょうどいい。執務を手伝ってくれ」

「え!?ちょっと待っテ…………」

「これを終わらせればさぞかし、提督は喜ぶだろうな」

「…………!なら、ワタシに任せるネー!」

「(単純だな…………)」

 

 

 ーーーー

 

 

 神社に到着すると午後とは言え、かなりの人が参拝にやってきていた。家族連れ、友人同士、カップル…………と多種多様な人々が今年も良き年になるように参拝にきている。

 

「これくらい人が多いと、鈴谷は迷子になってるんじゃないのか?」

「そうですわね…………でも、鈴谷のことですから御神籤でもしてると思いますわ」

「そうか、ともかく熊野、離れるなよ?」

「あら、提督にしては男前なセリフですわね」

 

 そう言いながら、腕を抱きしめる力がより強くなった気がした。そんなに迷子が嫌か。

 

 大層な行列だったが、案外早く進みそれほど時間かからず賽銭の前まで到着した。賽銭を入れ二礼二拍し、願をかけた。

 

「…………」

「…………」

「…………よし」

「何をお願いしましたの?」

「皆の安全」

「あなたらしいですわね。あなたの安全は私が願っておきましたから安心してもいいですわよ」

「そりゃ、ありがたいな」

「さぁ、ここに来ましたらやることはもう一つありますわよね?」

 

 熊野は御神籤の方向を指しながら言った。俺としては運試しはあまり好きではないので、気が引けるが…………まぁ、やるだけやっておこう。

 お金を入れ、御神籤を取りだす。それを開けば…………

 

「…………」

「あら、私は大吉でしたわ。提督は?」

「…………今年はいい年になりそうだ」

「あら、その様子だと凶でも引きましたの?」

 

 本当に今年はいい年になりそうだ。俺は引いたみくじを熊野に広げてみせた。

 

「え!?だ、大凶…………?」

「俺の人生はこの紙切れごときでは左右されんから安心しろ」

「ですが、さすがに大凶は…………厄落としでもした方がよくって?」

「大丈夫だ。それよりも熊野、鈴谷を探してきたらどうだ?」

「そうさせてもらいますけど…………あなたは?」

「ここにいる」

 

 失物がはっきりと出ないと書かれてあったからついて行かないほうがいいだろう。そこはさすがに熊野は察したのか、鈴谷を探しに人混みの中に消えていった。

 

「提督?」

「ん?誰、って榛名じゃないか!」

「提督、新年あけまして、おめでとうございます!」

「ああ、おめでとう」

「司令官、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ、よろしくお願い致します」

「おお?朝潮か。あけましておめでとう。榛名と一緒なのか?」

 

 これはこれはなかなか珍しい組み合わせだ。と思ったが容姿を見る限り意外と馬が合うのかもしれん。

 

「はい!榛名さんに着付けさせていただきました!」

「子供の頃の着物のですけど、朝潮ちゃんに似合って良かったです」

「うん、よく似合ってるぞ」

「はい!ありがとうございます!」

 

 赤を基調とし、梅の花の模様が散らばられた着物は小柄な朝潮によく似合っている。可愛らしいと表現するのが一番いいだろう。

 

「榛名もその着物似合ってるぞ」

「は、はい、ありがとうございます」

 

 漆黒の織の着物に身を包んだ榛名は、その半身は赤色に染められており、通り過ぎる男は皆一度振り返るほどだ。

 熊野や鈴谷には申し訳ないが、するりと賛辞の言葉が出る。

 

「それはそうと、はい、朝潮。お年玉だ」

「ありがとうございます、司令官!」

「榛名にも」

「いえ、榛名は大丈夫です。提督はたくさんの人にお年玉をあげてるのでしょう?」

「大丈夫。俺が持っているよりも、君たちに使われる方が福沢諭吉殿も本望だ」

「いえいえ、榛名にはもったいないです」

「大丈夫、俺が待ってても…………」

 

 この後、このやり取りを2、3回続いたところで俺の方が折れて、

 

「分かった、なら寒そうだし甘酒でも貰うか?」

「はい!」

 

 とりあえず、神社で振舞われている甘酒をいただくことにした。

 俺は酒を飲まないと言ったが、甘酒は例外だ。そもそも、甘酒にアルコールはほんの少ししか含まれていない。さらには"飲む点滴"と呼ばれるほど栄養があるのだ。健康志望の高い俺には願っても無い飲み物だ。

 俺たちは甘酒を配るおじさんの元へ甘酒を貰いに行った。

 

「いかがです、一杯」

「あ、ありがたくいただきます」

「そこの2人にもね」

「はい、ありがとうございます!」

 

 柔和な顔のおじさんは手際よく甘酒を注ぎ、俺たちに手渡した。

 

「まずは嬢ちゃんから」

「ありがとうございます!」

「はい、奥さんも」

「あ、ありがとうございます…………?」

「はい、旦那さん」

「ど、どうも…………?」

 

 …………んん?朝潮に嬢ちゃんは分かる。榛名に奥さん?俺に旦那さん?えーっと、奥さんは他人の妻を敬って使う言葉のはず…………んん?

 

「嬢ちゃん、可愛い着物だね。よく似合ってるよ。お母さんに着付けしてもらったのか?」

「??…………はい!」

「「!?」」

「奥さんも別嬪さんで…………晴れ着姿もよくお似合いですよ。旦那、いい嫁さんを貰いましたなぁ」

「え…………あ…………まぁ…………」

 

 情報処理が追いつかず、あたふたしながら榛名の方を見ると、

 

「榛名が提督の嫁さん…………//」

 

 あ、これはダメだ。こちらはフリーズしてらっしゃる。

 

「いやぁ、仲がよろしそうで。私にも娘がいるんですけどねぇ…………もう、口も聞いてくれないんですよ」

「そ、そうですか…………」

 

 とにかく、俺は思考をまとめるために甘酒を一口飲んだ。まぁ、娘が大きくなるにつれて父も大変になるのだろう。

 

「嬢ちゃん、美味しいか?」

「はい!大変美味しいです!」

「ほら、口についてるぞ」

 

 と、口周りについた甘酒を拭いてやる。

 あ、これはあかん奴や。これどう見ても親子にしか…………

 気づいたときはすでに遅く、おじさんはすっかり仲の良い親子を見る目になっている。

 

「そちらは仲がよろしそうでなにより。嬢ちゃん、両親は大切にするんだぞ?」

「はい!」

「うんうん、いい返事だ」

「ど、どうもご馳走さまでした」

「ご馳走さまでした!」

「あいよ!」

 

 甘酒を飲み終えた後、2人には耐え難い沈黙がおりた。いや、おじさんは悪くない、そもそも誰も悪くない…………

 

「司令官、あの人が言っていた両親は榛名さんと司令官のことなのでしょうか?」

「ど、どうだろうか…………なぁ、榛名?」

「はい、あなた」

「…………」

「あっ…………えっと…………そうかもしれません」

「そうですか。私は榛名さんと司令官がお母さんとお父さんでも全然構いません!」

「榛名がお母さんで提督がお父さん…………ということは2人は夫婦…………」

 

 榛名は頰に手を当てて、ブツブツと何か呟いているが、そんなことよりも朝潮の爆弾発言にどう答えたらいいのか…………否定するのもよくないかといって肯定したら榛名が嫌がる可能性も…………かといって中間の答えも…………

 

 

「やっと見つけましたわ。って、朝潮と榛名さんもいましたのね」

「本当だ」

「熊野さん、鈴谷さん!あけましておめでとうございます!」

「あけましておめでとうございます、ところでお2人は何をしてらっしゃるの?」

「お父さんとお母さんは…………」

「ん?朝潮の両親来てるの?」

「いえ、榛名さんがお母さんで司令官がお父さんです!」

「何ですって…………?」

「え…………?」

 

 

 まったくどう答えればいいのか…………朝潮に両親がいないのがまた答えを難しくさせる。

 

「提督?」

「ん?おお、熊野か。鈴谷を見つけたのか」

「それはいいですわ。少しお話を」

「私もしたいなぁ…………提督?」

「え?え?ちょっと、君ら目が据わってる、は、榛名!」

「はい!榛名は大丈夫です!()()()!」

「うぉい!」

 

 そこでその呼称は爆弾投下に近いぞ!

 

「榛名さんにあなたと呼ばせてるのですわね?」

「へぇ…………面白いね?」

「なぁ、少し落ち着こう。ここは人混みだ。下手に問題を起こすと…………」

「そうですわね。鎮守府でたっぷりお話いたしましょう。金剛さんも呼んだ方がよろしいかしら?」

「あと、叢雲もね」

「いや、そもそも俺悪いことしてない…………」

「榛名が提督のお嫁さん…………」

 

 この後、こってりお説教というかなんというか…………正月なのにも関わらずひどく疲れる1日となった。

 そもそも俺は彼女らの上司ということをしっかり頭に入れてもらいたい。

 その後、朝潮と榛名が一緒に過ごすことが多くなり、俺が通り過ぎるたびに熱い視線と冷たい視線を同時に感じるようになった。





はい、一年も過ぎるのはあっという間に…………気づけばもう2018年です。除夜の鐘でもつこうかなと思いましたが寒さで断念しました。まったく、だらしないな(他人事
新年グラ、ボイスも楽しみつつ正月を過ごしましたよ。ええ。
今後も一定のペースで投稿を続けようと思いますのでどうぞ『民間軍事会社"鎮守府"』をよろしくお願いします。

あと、登場してほしい艦娘とかリクエストも引き続きよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



本編3話、閑話3話のサイクルでいくと言ったな…………あれは嘘だ。
すいません。閑話のネタが思いつかないので、本編にさせてもらいました。本当にすいません。


 ふと思い出した。

 子供の頃に読んだ本の中に心に残った小説があった。

 戦乱の中で生きる男たちの話だ。ある男は、戦いで劣勢となり、勝ち目のない戦となっていた。その男は天下無双の強さを誇ると言えども、囲まれては勝ち目がなかったのだ。

 その強さを惜しく思った敵は次のようなことを言う。

 

「降伏してくれ、降伏して、天下を目指そう。頼む、降伏してくれ。私とおぬしが一体になれば…………」

 

 と。しかし、男は受け入れなかった。

 

「やめろ。男には守らねばならないものがあるのだ」

「なんなのだ、それは?」

「誇り」

「おぬしの、誇りとは?」

「敗れざること」

 

 不思議なことを言う。

 彼にとって"降伏"とはこれ以上ない屈辱であり、耐え難いことだったのだろう。

 子供の頃の俺はよく分からず、ただその生き方にカッコいいと、ただそう思い、その場面を何度も読み返したことを思い出す。

 

 今思えば、よく分からなかった彼の誇りに少し共感できるかもしれない。

 艦娘の方が力が強いから、俺たち普通の人間は胡座をかいていることなどただの傲慢だ。もとより艦娘たちは人間だ。力が無いから、というのはただの言い訳。力が無いのなら無い者なりに、艦娘を全力でサポートをし、彼女らがのびのびと生活できるようにする。提督とはそんな存在なのでは?

 あの男のようにカッコよく誇りを貫ければそれが一番良い。しかし、軍神ともてはやされた時期があったと言えども俺は無力だ。だからこそ、カッコ悪くても泥臭く貫くしか無いのだ。

 日々のトレーニングである、ランニングの途中に、ふと俺はそんなことを考えていた。

 冬の鎮守府の外気は恐ろしく冷たいらしく、艦娘たちは外に出たがらない。ましてや、朝早くの気温が氷点下のときに外に出てくる者は皆無だろう。

 ちらりと時計を見ると、午前6時。もうそろそろ誰かが起きている頃合いだろう。そう思った途端、電話が鳴った。

 

 "提督、おはよう"

 

 長門だ。

 

 "今日もランニングか。だが、今日も執務があるだろう?"

「ああ、まことに不本意だが、今日もある」

 

 一瞬、長門の苦笑が聞こえ、

 

 "まぁ、今日も頼むぞ。依頼がたくさんきてるからな"

 

 歯切れの良い声が続いた後、ぷつりと電話は切れた。

 この後の執務にため息をつくと、驚くほど白い。

 気が滅入ってくると、自分の吐いた白い吐息にまかれて、そのまま自分はどうすればいいのか分からなくなってしまうのではという、ネガティブな思いが立ち込める。

 まぁ、人生は色々だ。分からなくなるのもまた人生。どんな状況でも、俺はただ一つの誇りを貫き、今日も一心不乱にそれを守るだけだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 執務室に戻ると、艦娘たちの今日の体調の報告書が置かれてあった。

 この時期、老若男女構わず手当たり次第に襲い、大量の欠席を量産する恐るべき敵。すなわちインフルエンザだ。

 この鎮守府も例外ではなく、報告書にはいくつかの患者が報告されている。

 インフルエンザの娘たちはマスクをしながらも咳き込み、熱でうなされている。なるべく、接触は避けるようには言ってるが看病も必要だ。

 今の鎮守府は、戦力が大幅に削られている状態だ。今日も朝から元気にランニングでもしている俺は、部外者のように浮いている。

 なので、今日の依頼は3分の2以上断り、1、2件ほどだけ受け入れることにした。

 今、執務室にいるのは、例によって叢雲と熊野だ。

 

「とにかく、手洗いうがいを徹底すること。鎮守府のいたるところにアルコール消毒を設置すること。マスクの着用は厳守」

 

 これを厳命して、仕事に当たらせた。

 今日は演習はしなくてもいいのか、と問われたが、しないと言うしかあるまい。活動できる艦娘が少なすぎて演習などできる暇がない。

 艦娘がたくさんいて、予防もしっかりされていて、休みが出たらすぐに代わりが出る職場なら問題ないだろう。しかし、この鎮守府ではどれもクリアされていない。艦娘は海軍と比べると圧倒的に少ないし、予防摂取なども自己でやってもらわないといけない。代わりなど以ての外だ。それを少ない艦娘の中からさらに少ない艦娘たちで、かろうじて切り盛りしている状態である。どう正論を言われても、最低限にこの鎮守府を機能させるには"少しでもマシ"な選択肢を選ばざるおえないのだ。

 この戦争が終わるまでには1つくらい解決してほしいものだ。

 

「長門、今インフルエンザに罹ってない者にも注意を呼びかけておいてくれ。重症と思われる者には病院に行かせること」

 

 それだけを告げて俺は最前線に参戦した。

 実は今の鎮守府は艦娘の活力の源である間宮さんまでもがインフルエンザなのだ。果てには、工廠の橘さんまで。鎮守府の重要人物が2人も欠いている。食堂は鳳翔さんが代わりにやってくれているが、彼女は病人のお粥なども作ってもらっており、1人だけでは大変だ。工廠は夕張もダメなので明石が1人でどうにかしている状態。その中で常に鎮守府にいて、インフルエンザにも罹っていない奴は俺1人だ。おかげで朝から、俺は慣れない料理をし、装備を運び、普段も執務をこなすと言う3つのことを同時進行でこなしているという状態だ。おかげで指は絆創膏だらけで顔は油やなんやで汚れ、疲れも過ぎて、もはやよく分からん領域に突っ込んでいる。

 結局深夜の3時まで執務を行い、ことなきを得た。

 ようやく任務から帰ってきた艦娘も手伝ってもらい今は彼女らに任せている状態だ。無論、明日は全面的に依頼を断り鎮守府を切り盛りさせることに集中させる。

 とにかく、俺は自分でコーヒーを淹れ、散歩がてらに港まで出かけてみる。

 空気が乾いているせいか、今日の夜空は一段と星が輝いて見えた。海沿いにあるせいか、ここは雪はあまり降らず、積もることはほとんどない。大して美味しくもないコーヒーを一口飲み、1人夜空を眺めていた。殺伐とした鎮守府の空気を、一瞬でも忘れてしまうほど幻想的で美しい。

 あまり上を見上げない俺にとって、星というのは非日常的で神秘的なもの魅力に溢れている。子供の頃は、キラキラ光る星を見るだけで、心が踊ったものだ。軍隊に入ってからはそんなことも考える暇がなかった。

 そんな暇があるのなら目の前に集中すべきだと考えていたからだ。

 一息ついたところで電話が鳴り響いた。

 

 "提督、お疲れ様。新しい依頼が来たぞ。貿易船の護衛だそうだ"

 

 休憩していたところに依頼だ。泣きたくなってくる。

 

「断っておいてくれ」

 "そう言うと思って断っておいた。だから、もう少し休憩していてくれても構わんぞ"

 

 長門は苦笑まじりに答えた。まったく有能な相棒を持ったもんだ。

 

「なら、もう寝てもいいかな?」

 "それは私のセリフだ。だが、まだ終わらんぞ?"

 

 笑い声共に電話は切れた。

 泣きたくなる気持ちを抑えつつ、深呼吸をして、新鮮な外気で肺を洗ってから身を翻した。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府を崩壊の危機まで追い込んだインフルエンザの流行は1週間も経てば、おさまり少しずつではあるが平常運転を始めた。

 

「いやぁ、体には気を遣っていたはずなんですがねぇ…………」

 

 橘さんがいつもよりは少し青白い顔で窓の外を眺めている。

 いくら治ったとはいえ、橘さんは歳もある。あまり無理はさせれない。

 

「明日もまた冷えるそうですよ。提督さんも身体には気をつけください…………って、なんでしたっけ?」

 

 ゆらりと振り返って、橘さんは答えた。

 俺は持っていた手紙を机の上に置いた。

 

「妙なもんが届いたもんでして…………橘さんの配慮ですかね?」

 

 手紙は海上自衛隊から俺宛に来ている。

 "来週、水曜日午後1時、横須賀鎮守府にてお待ちしています"と。

 

「海上自衛隊から、最強の艦隊があると言われている横須賀の鎮守府の見学の案内が届いています。来週に来るように、と。でも、俺には心当たりがないんですよ」

 

 横須賀鎮守府は前、提督の指揮を教えるために行ったが、新人の講習会みたいなもので、そこの艦隊は見てないし、設備なども見ていなかった。

 

「私が手配しました」

 

 にっこりと橘さんは微笑む。

 

「お願いした記憶はないんですが…………」

「それとは関係なく私が手配しました」

 

 じっと俺は橘さんの顔を見つめたが、何も読み取れなかった。

 来年度、海上自衛隊に行くか否かと言うことは、曖昧にしたまま決断していなかった。どちらかといえば、という状態にしていた。

 

「海上自衛隊に行けって言ってるんですか?」

「いえ、そんなことはありません」

 

 橘さんはふらふらと歩くと、危なっかしい手つきでカップを2つ取り出し、コーヒーを注ぎ始めた。

 長門もときおり何を考えているかは分からんが、橘さんもよく分からない。どこに飛んで行くか分からない豪速球を長門は投げるに対して、橘さんはどの変化球を投げるかがまったく分からない。リリース直前までまったく分からないのだから困ったもんだ。まぁ、どっちにしろ捕るのには相当苦労する。

 

「あそこはひどいところです」

 

 悲しそうな顔をしている。

 

「常に敵に気を張らなければなりませんし、もしもの時は非難の的にもなります。敵を確認しつつ書類も捌いたりして、ゆっくりとする時間もありません」

 

 ああ、ひどい…………とつぶやきながら、ようやく無事に入ったコーヒーを俺に手渡してくれた。

 

「だから一度見て来なさい」

 

 声はいつもより弱々しいが、その中にぴんと張った緊張感がある。

 

「数日でいいんです。1回その目でしっかり見て、それから決めなさい。あそこがどんなに大変な組織だとしても、そのおかげで保たれている平和がたしかに存在し、そのおかげで生活できている人々はたしかにいるのです。提督さんが海上自衛隊に入るか否かは私には判断できませんが、ゆっくり見学してくる機会はつくれます」

 

 ふと持ち上げた右手の、日本の指を突きあげた。

 

「2日間、長門さんにお願いして休みが取れるようにしました。横須賀鎮守府を見て来てください」

 

 にっこりと笑った。

 

 

 ーーーー

 

 

「へぇ、横須賀鎮守府に?」

 

 不思議そうな顔で叢雲は声をあげた。

 いつものように叢雲はコーヒーの準備に取り掛かっている。赤いコーヒーポットのロゴの入った袋から、こなれたようにミルへと豆を移し替え、小気味好く音を響かせ、挽き始める。ふわりと心地よい匂いが広がる。

 

「橘さんがわざわざ手配してくれてんだ。真意は分からないが」

「長門はなんて言ったの?」

「それもよく分かんない」

 

 あのあと、長門に聞いてみたが、有耶無耶にされてしまった。

 

 "横須賀鎮守府?ろくでもないところだぞ。しっかり見てくるといい"

 

 ニヤリと笑ってそう言われただけ。

 来年度は行ったほうがいいのか聞いてみたが、

 

 "そうか、行ってしまうのか。寂しくなるなぁ…………"

 

 と言いながらどっかに行ってしまった。

 

「ま、実際に見ることも大事よね。決めるのも見てからでいいんじゃない?」

 

 手際よく、挽いた豆をネルのフィルターに移し、お湯の入ったポットを手に取った。

 自分ではインスタントコーヒーしか淹れれないので、ここまで本格的に淹れれる叢雲はすごいもんだ。

 叢雲は円を描くようにポットを動かし、お湯を入れた。

 

「めんどくさい話だ。放っておけば、なんも考えず適当に働くのに」

「みんな、あんたに期待してるのよ」

「前向きに考えたらな」

 

 こういう分岐点はいつも人を動揺させる。

 普通の若い隊員は喜んでそういうところに行きたがるだろうが、別にそう思わない俺は、一体どこに行けばいいのやら。もとより人混みよりも、誰もが避けたがるアウトローな方を選び続けてきた俺だが、明確な目標があって選んだわけでもない。

 軍人を務めたのが9年ほど。そして、この鎮守府に勤めてもう1年過ぎてた。そして、受け入れがたい三十路の壁も現実的なものとなりつつある。だからといって、明確な目標がポンと生まれるはずもなく、前途多難な状態だ。

 あーあ…………

 俺はごろりとソファに横たわった。ふと、見慣れない袋が見えた。どうやら叢雲が買ってきた代物らしい。

 俺の視線に気づいた叢雲が、カップにコーヒーを注ぎながら言った。

 

「それ、ケーキよ」

「へぇ、ケーキ…………か」

 

 俺は起き上がって、淹れたてのコーヒーにミルクを入れる。

 これを邪道だとする人もいるが、そんなことはない。俺はむしろ好んでミルクを加える。コーヒーはその人が1番美味しく思う飲み方が良いのだ。

 

「先日できたばっかりの店だけど、なかなか美味しくて気に入ったのよ」

「ほぉ、それで買ってきたのか」

「えぇ、あんたの分もあるわよ」

 

 やはり、叢雲は気がきく娘だ。

 

「まだ、この店の美味しさに気づいている人は少ないから今のうちに食べてた方がいいわよ」

「叢雲の舌なら確かだな。ありがたくいただくよ」

 

 叢雲はケーキを皿に移している間に俺はフォークを準備した。この執務室、ベンチプレスが置いてあるかと思えば、皿やカップもある。

 叢雲が俺にチョイスしてくれたケーキはチーズケーキだった。本当に気が利く。

 美味しいケーキと叢雲の淹れた絶品のコーヒーに舌鼓をうちつつ、俺はあることを思い出した。

 

「そうだ、叢雲」

「ん?なに?」

「鈴谷の元に一時期通っていた提督さんがいただろう?彼のこと知ってるかなって」

「あの人が良さそうなおじいさんのことね?なかなか有名な人みたいね」

「そうなのか?」

「聞いただけよ」

 

 鈴谷をよろしくお願いします。

 先日、その人から言われたのだ。

 鈴谷は少々肩の荷でも下りたのか、前のような陰りのある顔を見せなくなった。今ではいつも通り、元気な様子だ。

 ただ、艦娘の間ではあの提督さんが気になってる娘も多いらしく、鈴谷によく聞いている姿が目立つ。決まって鈴谷はただの提督だって、と答えるが。

 

「どうも他人のような気がしないのだが…………」

「ま、また会う日があったら聞いたらいいんじゃない」

 

 それもそうか。今は黙ってこのケーキとコーヒーを堪能するとしよう。

 

 

 ーーーー

 

 

 俺は2日間の休みをもらって、横須賀鎮守府を訪れた。

 その日はちょうどよく仕事も少なめの日だったので心置きなく、横須賀鎮守府まで向かった。

 横須賀鎮守府の印象といえば、広い。とにかく広い。こちらの鎮守府がお粗末に見えるほどである。ドッグはこちらの倍以上の大きさがあり、工廠の規模も規格外だ。また、人の数も規格外で艦娘だけでこちらの10割増しはある。さらに、艦娘以外の人々も多くさまざまな分野で専門的に研究や教育もしているようだ。

 俺の案内をしてくれたのは、横須賀鎮守府の提督で風貌穏やかな人だ。その顔がなんとなく慈悲深そうだったので、菩薩提督とでも呼ぼう。背も高く肩幅が広いが、目元には柔らかな光がある。想像していたような軍人特有の威圧感や圧迫感はまったくない。それに声は俺の無機質なものとは違い温かい。

 

「そちらの鎮守府のような民間企業とは全く役割が違いますからね。じっくりと見ていってください」

 

 かなり気構えていた俺だったが、菩薩提督の柔和な笑顔でなんだか拍子抜けしてしまった。

 菩薩提督のおっしゃる通り、鎮守府内は俺が経験したことのないような世界が広がっていた。

 艦隊は、1つにつき6人で構成し、その艦隊がいくつもある。さらに艦隊ごとに役割分担をしており、状況に応じて出撃させる。さらにそれぞれの装備は最新のものを一通り揃えており、見たこともない装備もちらほら見かけた。技術士も装備の種類に応じて、専門家がおりより強力な装備が日々開発されている。

 格が違うというのはこのことだろう。

 

「そちらのようなところで守っていくのも良いですが、守るだけでは根本的な解決にはならないんです。こいうところで、こちらから攻めて平和を手に入れるのもまた艦娘のためになります」

 

 菩薩提督は物腰穏やかに、俺に微笑んだ。

 俺はただ横須賀鎮守府の設備のすごさにめまいを覚えるばかりだ。決断もできようがない。

 

 

 ーーーー

 

 

「どうだったか?」

 

 戻るなり長門の第一声がこれだ。

 深夜の執務室で、1人カタカタとパソコンに向かっている。キーボードを睨みつけながら、2本の人差し指で、カタカタと打ち込んでいく。俺が不在の間は慣れないパソコンに艦娘の成果を入れていったらしい。

 果てしない作業だ。

 

「どう、って言われてもなぁ…………」

「妙なところだろ?」

「妙と言えば妙だな。人が多かった」

「たくさんの艦娘がいて、少しの依頼をこなす。莫大な金を使ってとんでもない装備を造って、とんでもない戦術で戦う。最先端の戦い方ってやつだ」

 

 ふむ、何が言いたいんだ?

 

「やってみたくなったか?最先端」

「興味がまったくない…………といえば嘘になるな」

「まぁ、そうだろうな。貴方のことだから海上自衛隊に行っても十分活躍できるだろう」

「ん?勧めているのか?」

「いいや」

 

 長門はパチパチと散々打ってからモニターを見るなり絶句した。どうやら間違えたまま打ち込んだことに気づいていなかったらしい。舌打ちとともに全部消去する。本当に果てしない作業だ。

 俺は1つため息をついて、横から乱入して、キーボードを奪い代わりに記入を始めた。待ってたら夜が明ける。

 俺のタイピングに長門は驚く。

 

「ふむ、世の中というのは日々進歩しているな。私が戦っているときは素手で殴り合いだったのに、今ではコンピュータを使って戦術で遠くからの射撃ばかり。戦術をいくら勉強しても追いつかない。とは言っても考えるのはコンピュータだがな。ハハハ…………」

 

 束の間の沈黙。静かな執務室に、俺のキーボードを打つ音だけが広がる。皆眠ってしまっているため、長門の笑いも虚しく響くだけだ。

 とりあえず、長門はもう一度ハハハと笑ってから、少し悲しそうに俺の顔を見た。ここは無視に限る。

 何事もなかったように答える。

 

「いいんだよ。長門はもっと大事になことに集中してくれ。デスクワークは俺がやるさ。1人が全部やる必要もない。向き不向きがあるからな」

 

 少々の皮肉をこめて言ったつもりが、長門は静かになった。ちらりと横目を見れば、何やらニヤニヤと笑ってる。

 

「何だ?」

「分かってるじゃないか」

「…………何が?」

「"向き不向き"だよ」

 

 長門は急に後ろに回り込み急に抱きしめてきた。これは機嫌がいいときの行動だ。

 

「提督にだって向き不向きがある。攻めから守りまで、ひとりで全部できる必要はないさ」

「…………」

「ただでさえ兵士が足りないご時世だ。それがこぞって攻めに行ったら、誰がこの国を守るんだ?私たちはそれをやっている。残念ながらひたすら守り続ける仕事が好きな奴は少ないから、みんなこぞって海上自衛隊に行きたがる」

 

 さらに抱きしめる力を強める。

 

「でも、提督は意外と嫌いじゃないだろ?こういうところ」

 

 まったくもって図星だ。

 

「昔みたいに無理なんかしなくていい。貴方がしたいことをすればいい。艦娘だって、提督のこと好きだぞ」

 

 初めての具体的な示唆だ。

 

「…………今度は残れと言ってるのか?」

「いいや」

「どっちだ」

「そんなことは貴方が決めるんだよ。私、人の進路に口出しして責任とるの嫌だから」

 

 また、ニヤニヤと笑っている。

 とりあえず、あらかた打ち終えた。

 

「まぁ、いろいろと悩めばいい。貴方ならどこでも頑張れる。それだけははっきり言える」

 

 長門は、もう一度強く抱きしめてから執務室を去っていった。

 長門に振り回されて続けてもう20年は経つのだろうか?

 まぁ、そんなことも悪くない。

 

 

 ーーーー

 

 

 俺は久しぶりにあるお寺にいた。

 ここ何年かは避けていた場所である。右手には花、左手には水の入ったバケツと柄杓。

 墓から連想されるのは死。物騒ではあるが、仕事柄ゆえに多くの者の死を見てきた。

 だが、今回の墓参りはいつもとは違う意味合いがあった。

 およそ10年前。

 それが俺の人生を大きく変えた出来事だが、恐ろしいほど一瞬でもあった。

 仲間、相棒、親友…………どの言葉にも当てはまらぬ、何か特別な関係であった。それを失ったとき、俺は自分の半分いや、ほとんどを失ったような気がした。

 それから、俺は戦いに没頭したのだろう。それが敵討ちなのか、それとも受け入れない現実を誤魔化すためなのか、それとも再び会えると思ってなのか…………

 だが、今は違う。

 今は提督だ。自分が死ぬということが、どういう意味をするのか俺はもっと深く考えなければならない。全力で戦い散ることが美徳というのはいい加減捨てないといけない。

 無論、勝てる戦なら全力で勝ちにいかないといけないだろう。問題となるのは、勝敗が分からない戦。もしくは絶望的な戦。

 つまりは、あの日の時のような戦い方だ。

 現代の驚異的な装備や戦術を用いれば、深海棲艦に対抗できるだろう。あのような状況下でも打撃ぐらいは与えれるだろう。しかしそれでいいのか?砲撃で四肢がもがれ、人工呼吸の機械で無理矢理酸素を送り込み、辛うじて生きている者もいれば、もう本人かどうかも分からない状態までやられた者もいる。

 これらの行為の結果、深海棲艦の勢力を削ることはできる。

 だが、それが本当に"正しい"のだろうか?

 広い海の中で、助けも来ず沈んでいくのは悲惨だ。今の超高度なレベルの世界では容易にそれは起こりうる。

 命の意味を考えず、ただ感情的に「平和を」と叫ぶのはエゴだ。でも、そう叫ぶ気持ちには同情できる。艦娘または兵士に意思など存在せずにただ国が提督たちのエゴが存在する。誰もがこのエゴを持っている。

 そしてあの時、俺の心中に占めていたのも、エゴだ。

 ひたすら戦い、どんな命令も受け入れ、怪我もしてきた。そうすれば、平和が訪れる。あの日のようにはならない。あいつの仇も討てる…………

 だが、そんな心を地に落ち着かせたのは、他ならぬ長門だ。

 いつものような凛とした面影はなく、ただ泣きじゃくっていた顔。

 包帯に巻かれ、人工呼吸器に繋がれて目が覚めたときに、その顔を見て心の中の何かが溶けたような気がしたのだ。

 

「…………大丈夫だ」

 

 俺ははっきりと言ったつもりだが、声は全くと言っていいほど出てなかった。しかし、長門は小さくうなずいた。

 花を供え、墓参りを終えたとき、俺は言葉にならない虚無感に囚われた。

 その心に残るのは、過去に選んだ選択肢…………今、どうこう言っても変わらないのは分かるが、もしもという選択肢が脳裏をよぎる。

 しかし、今の俺はその選択肢をかき消すかのように艦娘たちの顔が浮かび上がる。

 そうか…………俺の選択肢は初めから心の中で決まっていたのか。俺はまだ過去からのエゴに取り憑かれていただけなのか。

 いつものことながら俺は思う。

 俺はめんどくさいやつだ。そして、悲しみ方が下手くそなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 来年度、海上自衛隊に行くつもりはない。

 その旨を伝えたとき、橘さんはようやく青白かった顔も普通に戻っていた。

 

「…………いいんですか?」

 

 心配そうに首を傾ける。

 

「元から決まっていたんですよ。俺はここで働きたい、と」

「私が言うのもなんですが、苦しい職場ですよ?」

「百の承知です。だからこそ、誰よりも体が弱い橘さんを、置いていくわけにはいきませんから」

 

 俺の言葉に、橘さんは細い目を不思議そうに大きくし、それからすぐにいつもの微笑み顔に戻った。しばらく何やら思考していたが、やがてゆっくりとうなずいた。

 そうですか、とポツリとつぶやいた。

 

「橘さんにいろいろ手配してもらったのにすいません」

「私が勝手にしたことですよ」

 

 橘さんは少し首を傾けてから、今度は大きくうなずき、

 

「うんうん。実は言うと私は嬉しいんです。提督さんがこの場所を肯定してくれたことが」

 

 難しいことをおっしゃる。

 

「では、提督さん」

 

 ゆっくりと右手が出された。

 

「これからもよろしくお願いしますね」

 

 俺は橘さんの細い手を握った。

 握り返された手は、思った以上に力強いものだった。

 

 

 ーーーー

 

 

「やっぱり、残ったか」

「やっぱり、ってまるで俺が最初から残ることを確信していたみたいだな、長門」

 

 長門は前と同じニヤニヤ顔でこちらを見ていた。そんな中、熊野は意外な顔をしつつ、

 

「あら、結局残るのですわね」

「まぁ、君たちに振り回されるのも嫌いじゃない」

 

 正しいことと言われても俺には分からん。が、ここの艦娘たちと過ごすのが楽しいのは確かだ。

 そこに高度な技術など必要ないのだ。いささか、感情的過ぎると言われればそこまでだが。

 

「あら、ここにきて告白ですの?」

「どうしたら、そんな解釈になるんだ」

 

 少々心の中で不安が出てきたが、気にするまい。

 

「それじゃ、これからもあんたと一緒というわけね?」

「そうだ、嬉しいだろ?」

「そうね」

 

 叢雲からの予想外の返答をくらい、思わず黙ってしまった。

 

「…………何よ」

「い、いや、これからも叢雲のコーヒーが飲めて光栄だ」

 

 頭の機械がピンク色に光っているのだから嬉しいのだろう。

 

「おお、そうだ。提督、新たな依頼が5件きたぞ。対応を頼む」

 

 いつもの口調でろくでもないことをさらりと言う。

 

「すでに8件溜まっているんだが…………」

「じゃあ、13件か。大したもんだ。貴方が提督だと安心できる」

「俺は不安になってきた」

「安心なさい、わたくしたちが付いてますわ」

 

「それが不安なんだ」と言うより早く、熊野はエステですわ、とひらひら手を振ってどこかへ行ってしまった。お嬢様の逃亡の常套手段だ。振り回され続けて1年過ぎたが、今も凝りもせず残るのだから、俺も相当物好きなのだろう。…………これでは自分を変人だと自認しているような気もするが。

 まぁ、いい。これが俺の選んだ道だ。目標はまだないが後からついてくる。

 それに向き不向きがあるんだ。ここの艦娘たちと過ごすのが楽しいのと感じるのなら、俺はここに向いているのだろう。

 ささやかな答えをようやく見つけた俺は今日も悠々と執務につくのだった。




これで第1章"厳冬"は終わりです。次回は第2章、もしくはリクエストがあった場合は閑話を投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章 春の湊


 春も近づいてきた。

 年が変われば何かが変わるだろう、と淡い期待を寄せていた俺を見事に裏切る形で現実は何も変わっていなかった。

 俺は、相変わらず質実剛健な提督として不眠不休で働いているし、この"鎮守府"は、国内・国外、昼夜問わず依頼が殺到する大繁盛だ。

 どれほど大繁盛でも"どんな艦娘でも受け入れる"というスタンスは変えないらしく、さらに社員が増えるかのでは?と戦々恐々と仕事をこなす。社長と言えども胡座をかいているわけにもいかず、命を削り切り、幽霊のごとく働いている。

 と、云々言っているが簡単に言えば状況は何一つ変わらず、睡眠不足と勤続疲労を両手に持ち、足元にはこびる理不尽と窮屈を蹴散らして、執務室という名の戦地へ赴く日々が続いているだけだ。

 

「作戦が完了した艦隊が、入港しました!」

 

 軽空母のよく通る声が、執務室まで聞こえてきて、俺は軽く額に手をあてた。頭痛がする…………

 ちらりと時計を見れば、夜11時。先ほどの艦隊の帰投でようやく今日の依頼は終えた。しかし、艦娘たちの仕事が終えたと言えども提督の仕事はこれからだ。傍らに積み上げられた報告書やなんやらはいたずらにも高さを増すばかり。今日が終えるまで後1時間しかないのに、すでに提督は虫の息だ。どうやら神様は今宵も愛の鞭を緩めるつもりはさらさらないらしい。

 脳内で舌打ちを連発しつつ、パソコンのモニターを睨みつけても、非力な好青年のひと睨みですべて打ち込まれるはずもない。俺は無駄な努力を諦め、その日の成果をまとめ始めた。

 そんな中、元気な声で執務室にやってきたのはいかにも帰投したらしい、柿色のセーラー服に黒のミニスカート姿の艦娘だ。

 

「は…………?」

 

 彼女の告げた言葉に、思わず間の抜けた声を発した。

 

「なんて言った?」

「夜戦しよう!私はもう準備万端だよ!今週できなかったから早くしよう!」

 

 目を爛々と輝かせそう告げる。その笑顔は花の咲いたようだ。

 たしかに時刻は11時。夜戦にはちょうどいい時間だろう。が、俺には目の前にある書類を今日中に捌かないといけない。あと1時間で。俺の状態を見て、夜戦を要求するのだから驚嘆に値する。

 

「そうだ、先週もできてないからその分も今日のうちにしよう!」

「却下だ。忙しいときに夜戦なんかできるか」

「えぇー、そんなケチ言わないでさぁ、私だって夜戦したいのをずっと我慢してたんだよ?2日分したっ…………」

「忙しいと言ってる」

 

 ジロリと一瞥すると、さすがに川内は沈黙した。

 たしかに最近は夜戦の演習ができていない。

 さらに言えば、演習らしい演習もしておらず、とにかく依頼をこなすことに没頭している。ここ最近の評判がうなぎのぼりなためか、依頼が殺到している。依頼のほとんどが貿易船の護衛や漁に出る際の護衛などのビジネスに関わることだ。

 が、なかには強者がいるものでクルージングをしたいから、という理由で依頼してくるから頭が痛い。しかし、ここは民間企業だ。黙って受ける方が得策というのが、俺の学んだ結論だ。

 とにかく、うるさい夜戦主義者を追い出し、再び仕事に没頭すれば苦笑が聞こえる。

 重巡の熊野だ。

 

「絵に描いたような"塩対応"ですわね」

「美人で有能なお嬢様に感心していただければ、努力のし甲斐もあるというものです。さらに手伝っていただければなお…………」

「それはお断りしますわ」

 

 熊野はきっぱりと言い、紅茶に口をつけた。

 熊野は、創設時より働いてきた古株の1人だ。彼女がいるだけで、仕事が早くなるわけでもない。

 

「最近、あの夜戦バカの騒ぎっぷりにはみんな、辟易してましたのよ。この前の長門なんて怒鳴りつけていたぐらいですからね」

「俺はまだそこまでの器じゃないんでね。とりあえず、長門よりは優しい対応をしたつもりだ」

 

 うそぶきながら書類をめくっていけば、苦情の書類が見つかった。

 

「隼鷹の飲みっぷりに苦情がきてるのか…………」

 

 流し読みしながら、はぁとため息をつく。

 

「また飲んで、暴れてらっしゃるの?」

「暴れて…………まではいかないが、迷惑をかけてることは事実だな。真昼間から飲んで、他人にも勧めてくる」

 

 かなり気が滅入る。徹夜で働かされている上に、夜戦バカや酔っ払いにまで付き合ってやらんといけないとは。

 

「あら、まだ執務してたのね?」

 

 よく通る声を響かせて入ってきたのは、叢雲だ。駆逐艦最年長で、冷静さと判断力には定評のある頼りになる人物だ。

 

「そっちこそ、こんな夜遅くに…………何の用だ?」

「今日は一段と忙しそうだから手伝いに来ただけよ」

 

 本当、頼りなる。熊野にも見習ってほしいものだ。

 叢雲は机にある書類の量を見るなり渋い顔をした。

 

「本当に今日はひどいわね…………最近でさえ多いのに」

「やはり、わたくしの言う通り厄払いをした方がよくってよ?」

「そうかもしれん…………」

 

 今年、最初の御籤で大凶というこの上ない評価を神様からしていただいた。その日からか、普段の1.5倍の仕事が来るようになった。なんの科学的根拠はないが、実際に忙しいから反論もできない。

 

「時雨でも連れてくるか?」

 

 投げやりに冗談を言うものの、キレがない。

 と、突然電話が鳴り響いた。叢雲が応じて、何やら話したあと、苦い顔で

 

「また、依頼よ。釣りがしたいから護衛を頼むって」

「…………了解した、とだけ言ってくれ」

 

 相当苦い顔をしたのだろう。熊野の顔には同情するような感情が込められていた。同情するなら手伝ってほしいが。

 

「あなた、呪いでも受けるのではなくって?」

「そうだな…………早めにお祓いを受けるとするよ」

 

 ほとんど自棄になって、俺は執務に取り掛かった。

 長い1日もとっくに終わり、今度はより長い夜が始まった。

 

 

 ーーーー

 

 

 結局昨夜の執務は朝の5時までかかり、途中途中依頼の電話も鳴り響き、"大凶"の本領を遺憾なく発揮した。叢雲も最初は苦笑で済んでいたものの、明け方になると笑う気力もなくなり、真顔で「いい加減にしてちょうだい、提督」と言う始末。当たり前だが、神に見放された俺が神にいくら祈ろうとも、仕事の量は減らない。

 明け方から少しの間仮眠をソファで取ったものの、くたびれた頭は逆に冴えわたり熟睡もできず、ひたすら窓の景色を眺めることしかできなかった。

 執務室は古びたソファセットや叢雲が持ってきたコーヒーセット以外、執務用の机とパソコン端末が置かれているだけの殺風景な部屋だ。朝の7時では俺以外誰もおらず、寒々しい。

 今日の執務のスタートまであと1時間半はある。どうしようかと考えたところで、ドアが急に開かれた。

 視線を向けて面食らったのは、長門が入ってきたからだ。

 

「提督、おはよう」

 

 俺を見るなり、少し微笑んで手をあげる。

 

「なんだか久しぶりな気がするな」

 

 それもそうだ。彼女は1週間ほど海上自衛隊に借り出され、留守にしていた。

 

「元気にしてたか?」

「元気に見えるか?」

 

 徹夜明けの青白い顔で見返せば、長門は苦笑するだけだ。

 

「やっぱり、厄払いをした方がいいんじゃないか?」

 

 それは先ほども言われた。占いなどは信じないタチだが、周りのためにもした方がいいかもしれん。

 長門は、民間軍事会社"鎮守府"を支える大黒柱で、俺にとっては、幼き日からの顔馴染みだ。戦場では一騎当千の実力で敵を蹴散らし、その立ち振る舞いからは尊敬する艦娘も少なくない。古今東西の艦娘なら知らない娘などいないだろう…………

 

「で、何の用だ?」

「ちょっとした野暮用だよ。新入社員にこの鎮守府を案内していたところだ」

「新入社員?」

「そうだ、今週からにも加わってもらう。提督もいるしちょうどいい」

 

 また、艦娘が増えるのか…………心配していたことが現実になるとは。とことんついてない。

 

「入ってきてくれ」

 

 その声にこたえるように姿を見せたのは、黒のスーツを隙なく着こなした1人の青年だった。

 

広瀬航(ひろせわたる)、今月から赴任した我が鎮守府の新しい戦力だ。横須賀鎮守府でも提督を務めたことがあるエリートだぞ」

 

 長門の声に合わせて、青年が丁寧に頭を下げた。そして顔を上げたとき、その理知的な目がおや、と見開かれた。

 

「こっちが君の社長にあたる提督だ。変人と呼ばれているが、いざという時の判断力と生真面目さは天下一品だ。困ったときは彼に相談するといい」

 

 長門の意味不明な紹介にかさばるように青年はつぶやいた。

 

「隊長じゃないですか」

「ワタル、久しぶりだな」

 

 俺が答えながら眉をひそめたのは、目の前の青年に不快を覚えたわけじゃない。単純に頭痛がしたからである。

 

 

 ーーーー

 

 

「驚きましたよ、隊長、まさかここで頑張っていたなんて」

 

 言葉とは裏腹に、落ち着いた声で告げるかつての部下の前で、俺はおもむろにカップを手に持ち一気に冷えたコーヒーを飲み干した。

 

「退役した後、どこに行ったか分からなくなってしまったものですから心配しましたけど、相変わらず志は変わってないんですね。さすが、隊長」

「買いかぶりすぎだ。ビッグ7に振り回されているだけだ」

 

「ビッグ7?」と不思議そうに首をかしげる航に、なんでもない、と俺は首を振った。

 当の長門は、俺と航が顔見知りだと知った途端に「あとは、頼む」とどこかに行ってしまった。今では、スーツ姿の品のいい青年と、みすぼらしい姿の青年がいるだけだ。

 

「とにかく、お久しぶりです。こうして直接会うのは僕が部隊を離れてからですね」

「そうだな、3年ぶりと言うことになる」

 

 なんともないように振舞ってはいるが、心底驚いている。

 広瀬航は俺にとっては軍人時代の数少ない知人の1人だ。

 あとで知ったのだが、彼はこの街の片隅にある和菓子屋の一人息子だ。生粋の努力家で、人と接するときは常に紳士的かつ頭脳は明晰という模範的な兵士だった。銃を片手に終始戦いに明け暮れ「軍神」という名をほしいままにしてきた俺とは違う意味での評判の良さであった。

 はっきり言って俺と航は対照的なのだが、同じ部隊に所属し、軍人時代の多くをともに過ごしたのは奇縁というほかはない。途中でその優秀さから海軍に引き抜かれ、司令官として優秀な人物として名を馳せ、俺は優秀な兵士とそれぞれ道は分かれたが、こうして顔を合わせると、自然と懐かしさがこみ上げてくる。

 

「ここにくるのなら、連絡の1つしてくれてもいいだろう。いきなりやってきて驚かせるなんて君らしくもない」

「すいません。まさかここで頑張っているとは思わなかったもので…………僕もとても驚いているんですよ」

 

 口では言うものの驚いているようには見えない。昔と変わらず穏やかな風貌に、人の()さそうな笑みを浮かべている。

 

「今じゃ、"ついったー"だの"らいん"だのいうものが発達しているが、使わなければ役にも立たない典型的なタイプだな」

「そういう隊長こそ、連絡をくれたのはいつですか?」

「そうだな…………君がいなくなって2年後か。ちょうど君に子供が生まれたときだったかな?」

 

 そう言いつつ、「とにかく、座ってくれ」と目の前のソファを示した。

 

「だいたい、最強の艦隊を作り上げ、大作戦でも成功を収めた君が、なぜこんなところにいる?今頃は海上自衛隊のお偉いさんにでも出世してるはずだろ」

「いろいろありまして…………」

 

 航は微笑を苦笑に変え、肩をすくめた。

 まぁ、ワケありってなことだ。多くは語らないかつての部下に、俺も無闇には聞かない。古い付き合いだ。話したくないことを聞くのは、礼儀に反する。

 

「まぁ、いい。せっかくの再会だ。とりあえず、部下の凱旋を、心から祝福しよう」

「出世も何もしてませんから、身1つで帰郷してきた僕に凱旋と言ってくれるのは隊長だけですよ」

「出世?馬鹿か。世の中、出世すれば、責任と義務と窮屈が増すだけだ。わざわざ肩書きのために苦労するのは面倒だ」

 

 俺の言動に、航は軽く目を見開いてから、楽しそうに笑った。

 

「本当に相変わらずですね」

 

 そう言って笑えば、この鎮守府には不似合いな爽やかな風が執務室中に広がる。

 あくまでなんでもないように、コーヒーを2人分用意する俺に、航はふいに両手で構えて剣を振る真似をしてみせた。

 

「隊長、あなたと話しているとまた一戦やってみたくなりました。5年ぶりのお手合わせ、できますか?」

 

 俺は軽く眉をひそめる。

 軍人時代、一対一で取っ組みあったものだ。

 

「それとも、もう身体が動きませんか?」

「それほど衰えとらん」

 

 俺は一瞥してから、湧いたポットを持ち上げつつ、淡々と答える。

 

「辞めたとは言ってもトレーニングを欠かさなかった俺に君が勝てると思っているのか?」

 

 航は小さく笑ってから、ふいに声を低くしてつぶやいた。

 

「…………頭が良くても、その通りに身体が動かなければ意味がない」

「自分の身体が1番動きやすい戦い方が1番。よく覚えてるじゃないか」

「ええ、地面に叩きつけられるたびに、言われましたからね。もう頭にこびりついて忘れられませんよ。ただ、今の時代は艦娘たちが戦うからこの教えも広がりませんでしたけど」

「しょうがないさ。もともと俺らの部隊はアウトローな存在だ。積極的に俺らの考えを学ぼうとする奴はいない」

 

 隊員もみな若く、与えられた場所も少ない。訓練も隅っこでやっていた。ときどき、通りすがりの他の兵士たちが興味深そうに覗いてはきたが、入隊を希望するものは少なかった。当然といえば当然だが。

 

「本当に懐かしいです。たしか500回ほどやって、499勝でしたかね?」

「俺がな」

「分かってますよ」

 

 卓上に1つカップを置き、もう1つを手に持ち、目の高さまで上げた。

 

「いずれにせよ、歓迎するぞ、ワタル」

 

 一口飲んで、決まり文句を言った。

 

「ようこそ、民間軍事会社"鎮守府"へ」

 

 

 ーーーー

 

 

 前日2時間しか寝てないようが、翌日はしっかりと執務はある。

 提督業の恐ろしいところは、翌日からでも通常通りに執務が始まるところだ。夜、艦娘が「お疲れ様でした」などと達成感にあふれた顔をして部屋に戻って行くのを見ながら、俺は夜の執務をこなす。そして、「おはようございます、今日も頑張りましょう」と言われる頃にはすでに満身創痍だ。

 ずいぶんとひどい職場環境だが、この鎮守府はこのスタイルのおかげで成り立っている。いまのところ、このスタイル以外で執務をこなす方法もない。これはどの鎮守府にも言えるだろう。

 特に最近は、徹夜で働かせたあげくに寝不足から不注意が少しでも起き、問題が発生するとすぐさま非難の的になる世の中だから困ったもんだ。

 こうして、軍隊と国民の間には、心ない上部の関係が積み上げられ、互いの歩み寄りをより困難にしているんだ。

 まったくやりにくい世の中だ…………、と思ったところでハッと目が覚めた。

 顔をあげるとモニターが目の前にある。

 いつのまにか、キーボードに突っ伏してうたた寝していたらしい。モニター上には、gの文字が何ページにもわたって入力されている。突っ伏した頭でキーボードを押してたようだ。慌てて全て消す。そして、時計を見ると夜の9時。

 夜9時だ。

 日中の執務をかろうじてこなして、午後に演習の様子を見て、工廠に行って…………なんやかんやして、執務室に戻ってきたのが8時頃だ。そのままパソコン作業に入ろうとして気を失ったらしい。こんな時間では執務室に入る暇人もいない。

 

「ずいぶんと顔色が悪いですよ、提督さん」

 

 いきなり前方から声が聞こえて、声が出るほど驚いた。

 気づけばソファには、橘さんがいた。

 

「そんなに驚かなくてもいいでしょう」

 

 血の気のない顔に穏やかな笑みを浮かべる。

 

「相変わらず気配がないですね、橘さんは」

「徹夜ですか?なんだかたましいが抜けたような顔をしていますよ」

 

 どちらかというと橘さんも抜け殻のような風貌だが、そんなことは言えない。

 

「叢雲さんに聞きましたよ。依頼の電話が朝で15件。それに午後に演習も…………私も海上自衛隊のときはそれなりに忙しかったんですが、さすがに平日にそれはちょっと普通じゃないですねぇ」

「俺にとっては、いつも通りなのですが…………」

 

 できるだけの虚勢を張って言ったが、負け惜しみじみている。

 

「先生こそ、疲れの色が見えます。もう何日泊まり込みですか?」

「はて、3日…………いや4日…………いやいや5日でしたかな?」

 

 青白い顔を少しかしげて言った。

 橘さんは、艦娘の装備のためなら何日でも工廠に泊まり込む習性がある。一見するとただの老人だが、この鎮守府ではなくてはならない存在である。

 ゆっくりと立ち上がった俺に橘さんは問うた。

 

「やっとお休みですか?」

「いいえ、見回りです」

 

 一瞬沈黙した橘さんは、やがて苦笑とともに手をひらひら振った。

 

「お気をつけて」

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府をぐるりと回って、再び執務室に戻る。

 夜の鎮守府では艦娘は業務を終え、自由時間を満喫していた。

 徹夜で疲れた提督が、ひどい顔をして回ったところで、彼女らの休みに差し支えることはない。そのまま、執務室のドアを開けたところで、明るい声が聞こえた。

 

「大丈夫?ひどい顔よ」

 

 叢雲だ。切れ長の瞳が、少しばかり呆れた顔で見ている。

 

「日本語は正確に使ってくれ。顔がひどいんじゃなくて、疲れがひどいんだ」

「どうでもいいけど、いい加減休みなさいよ。提督は1人しかいないんだから」

「そういう君も一日中出撃してただろう?なんで、ここにいるんだ」

「今回はいろいろあったのよ。そしたら、ふらふらしてるあんたを見たの」

 

 軽く肩をすくめて、いつものようにコーヒーを淹れた。

 

「とりあえず、遅くまでお疲れ様」

 

 ことりと机に置かれたカップからコーヒーの良い匂いがする。ソファに座り一口飲めば程よい苦味が鈍った脳を覚醒させる。同じ原材料を使ってるのに、俺がコーヒーを淹れるとまったく別物のように感じるから不思議だ。

 

「本当に美味しいな。ありがとう」

「ん、珍しいわね、素直に礼を言うなんて」

「俺はいつも素直のつもりだが」

「"つもり"でまともに伝わったことないじゃない。わざわざ遠回しに言って…………頑固なじいちゃんみたいよ」

 

「俺がじいちゃんなら、君はばあさんだな」

「…………コーヒーいらないのね?」

「ジョークだ。叢雲は美人で有能で若くて独身の艦娘だ」

「余計に頭にくるわね…………」

 

 冷ややかな目になった。それでも手先は要領よく動いて書類を仕分け始めている。

 

「とにかくそれ飲み終わったら休みなさい。あんたがいなくなったら、私も対応しきれないから」

「そういうわけにもいかん。まだ、やるべき仕事が…………」

「あとは私がするから大丈夫よ。それよりも、あんたが倒れる方が迷惑よ」

 

 まったくもっての正論だ。反論の余地がない。

 とりあえず、表面だけでも平然を装いながらコーヒーを傾けていると、デスクワークを続けながら、何気なく叢雲は口を開いた。

 

「そういえば、新しくやってきた広瀬さんって、知り合いなの?」

「昔の部下だ。なんだ、早速やらかしたのか?」

「違うわよ、むしろ艦娘たちが夢中になってるわ。あっちこっちで、広瀬さんの噂ばかり。カッコいいとか優しいとか知的とか」

 

 航が既婚者であることをわざわざ言わない。世の中、妄想と勘違いで成り立っている。わざわざ口に出して、不評を買う必要もない。

 

「まぁ、ワタルは昔からモテるやつだった」

「珍しいわね、提督が素直に褒めるなんて」

「珍しくないだろう、熊野のようなやつと一緒にいれば、ワタルくらいなると褒めるようになる」

「わたくしがどうかしましたの?」

 

 いきなり頭上から聞き慣れた声が降ってきた。

 顔を向けてみれば、お嬢様がニヤニヤと見下ろしている。

 

「わたくしの噂ですの?」

 

 俺はたちまち眉をひそめる。

 

「重巡が執務室に何の用だ?ここは仕事する場所だ。ただ休憩しにきたのなら帰ってくれ」

「いいえ、用事があってきましたのよ」

「では、早く済ませてくれ」

「あなたに会うことですわ」

 

 答えて、俺の隣に座る。

 熊野は、俺が軍人の頃、しばらくの間共同戦線を張っていた仲だ。

 

「ワタルさんが来たのは本当かしら?」

 

 紅茶の準備をしながら、そう告げる。いつの間にやら、熊野の紅茶セットも常備されている。

 

「ああ、本当だ。一応、補佐として赴任している」

「こんな田舎にある鎮守府に同僚が3人だなんて、すごいですわね」

「外見も行動も奇妙なお嬢様とは違って、ワタルは"期待のエース"と呼ばれた男だからな。近年稀に見る朗報だ」

 

 こういう小さな鎮守府だと、補佐がいるだけで状況がかなり変わる。が、熊野は、俺の言葉とは裏腹に沈黙した。

 

「なんだ、しけた顔をしているな。ポジティブの塊の熊野にしては珍しい。気になることがあるのか?」

「いえ…………ワタルさんが元気ならそれでいいですわ。気にしなくても構いませんわ」

「余計に気になるぞ」

「いいんですわ、わたくしもワタルさんに会うのは久しぶりですので、楽しみですわ」

 

 そう告げ、先ほどの憂うような顔はなくなり、いつもの能天気な顔に戻っている。さらには、叢雲に向かってニヤリと笑った。

 

「ねぇ、叢雲さん、提督がどうしてワタルさんを褒めるのかご存知?」

「どうしてって、理由でもあるの?熊野」

「実はありますのよ、これが」

「熊野、こんなところで油を売るほど暇か?」

「暇ですわ。実はですわね、わたくしと一緒にいた軍人時代、軍隊中に有名になった"三角関係"があったんですのよ?」

 

 それまで興味なさげにキーボードを打っていた叢雲が、ふいに態度を変えた。

 

「それって、提督の恋話(コイバナ)?」

 

 冷静沈着の叢雲が珍しく、大きな声を出し、興味津々に熊野を見た。

 

「知りたいですわよね?」

「ええ、興味深いわ」

 

 身まで乗り出して答える叢雲に、俺はげんなりして言う。

 

「叢雲、やめておけ。なんのオチもないつまらん話だ。聞くに値しない」

「そんなこと、関係ないわよ。提督って、自分の昔話全然しないじゃない。口開けば愚痴しか言わないし」

「当たり前だろ。面白くない過去話をするくらいなら、今の世の中に物申す方がよっぽど建設的だ」

「はいはい、でも私はあんたの昔話が聞きたいわ」

「…………長門にでも聞け」

「そういう意味じゃないわよ」

 

 いくらか問答を繰り返したところで、叢雲はふいに我に返ったように口をつぐみ、目を細めた。

 

「…………また話を変えようとする」

 

 ちっ、と胸中で舌打ちをする。さすが、叢雲。この手の手段じゃ、通用しないらしい。

 

「で、熊野、話の続き聞かせて?三角関係」

「あれはわたくしたち艦娘と提督の部隊が協力して、ようやく慣れてきた頃でしたわ。提督たちの部隊は少々関わりにくかったんですけど、その部隊に現れたのが…………」

「川内、熊野が夜戦したいそうだ」

 

 俺が必要以上に大きな声で言った途端、ドアがバタンと開いた。

 俺の声にやってきた川内は、すでに目を爛々と輝かせている。

 

「夜戦!?熊野が夜戦したいって本当!?」

 

 夜にもかかわらず元気な声でやってきては、熊野も話を中断せざる終えない。

 

「いえ、そんなことは…………」

「そうだ。一緒に夜戦してやれ」

「やったー!行こ!熊野!」

「え?ちょっと…………提督!?」

 

 明らかに行きたがっていない熊野を引きずるように川内は執務室を出た。

 あとは呆れ顔の叢雲が残るだけだ。

 

「うまくかわしたわね」

「何度も言うが、つまらん話だ。そんなことで、有能な艦娘の時間を潰したくない」

「そ、心遣い感謝するわ」

 

 答える叢雲はなにやらひとりで嬉しそうな顔だ。

 

「…………なんで、笑ってる?」

「どっちにしろ安心したわ」

「何に?」

「提督も人並みに恋する時期があったんだってね」

 

 少し誤解しているようだ。

 

「俺をどんな目で見てるんだ」

「艦娘の状態と運動にしか目がない、トレーニングオタクね」

「なら、提督になる前は、ただのトレーニングオタクだな」

「そうね。でも、熊野の話だとそれなりに楽しんでたようね」

「冗談よしてくれ」

「で、広瀬さんと女性を取り合ったの?」

「まさか。あの時は、今以上に戦闘オタクだ。そうじゃないとしても、ワタルがモテるのは自明の理だから、驚きもしないが」

「広瀬さんが好青年なのは認めるけど、提督もなかなかものと思うわよ。隠れファンも結構いるんだから」

 

 意外な返答がきた。

 

「なら、隠れず出てきてほしいな」

 

 投げやりに言う俺を、叢雲は優しげな瞳で見下ろす。なぜかは分からんが負けた気になってくる。

 はぁ、とため息をついたところで、叢雲はふいに手をポンと打った。

 

「大事なこと忘れてた。その好青年の話になるけど、連絡が取れなくて困ってるのよ。今度会ったら気をつけるように言っておいて」

「連絡が取れない?」

「ええ、軽巡の管理を頼んだんだけど、神通が聞きたいことがあって連絡したらしいけど、全然繋がらないんだって。今はまだ大きな問題もないからいいけど、もしものときに困るから」

 

赴任初日から航は軽巡の管理や指揮を任せてある。相変わらず容赦ない職場だ。

 

「分かった」

「よろしく、それから提督、仕事は片付けたから、せめて日付の変わるまでには寝なさいよ。あんまりこき使うとファンに恨まれるから」

「どうせなら1人くらいファンを教えてもいいだろ?」

「そうね…………駆逐艦の朝潮ね。大ファンよ」

 

額に手を当てる。それは隠れじゃないだろ。

 

「ちなみにファンクラブ最年少」

「そうか、光栄だな」

 

言って俺は立ち上がった。夜10時。連続38時間労働をようやく終えた。酷使もいいところだ。

そして、何日振りの自室へと帰路である。




これからの投稿のスタンスですが、リクエストがあり次第閑話を、なければ本編を投稿しようと思います(理由は閑話の話が全く思いつかないからです)。
活動報告のアンケート欄にてリクエストをしてください。
次回もお楽しみに。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 鎮守府の一角に、鳳翔さんが営む居酒屋がある。

 もともと何もない部屋だったが、鳳翔さんの強い要望のもと貸し出したところ、あっという間に立派な店に変わっていた。軽空母の酔っ払いどもがよく通っているが、俺も時折訪れる。

 暖簾をくぐれば、落ち着いた雰囲気に飲み込まれる。そこに悠然と姿を見せたのは、頭に不思議な機械のついた艦娘であった。

 

「お、提督じゃねぇか」

 

 我が艦隊の切り込み隊長の天龍だ。

 不敵な笑顔とともに、右手の杯を持ち上げた。

 

「もちろん、飲むよな?」

 

 残念ながら健康志望の強い俺は酒は飲まん。俺はニコリともせず、首を横に振った。

 

「珍しい事もあるんだな、提督」

 

 酒の入った杯を一気に飲み干して、俺を見返した。

 

「昼間っから、ここにいるなんて」

「今日は珍しく、依頼もないんだ。電話が鳴る前にここに逃げてきた」

 

 俺としては、真昼から酒を飲んでいる方が気にかかるが今回は置いておこう。

 とりあえず、俺は鳳翔さんに腹の膨れるものを頼む。

 

「最近は、ひどい顔で仕事してみんな心配してんだぜ?まったく仕事ばっかりしてるから」

「季節が変わったところで状況が変わるほど鎮守府の問題は簡単じゃない。こんなひどい環境に飽きもせず残ってる。それでもこれからは、1人補佐がきたから救いもあるだろう」

「へぇ、その補佐が、提督の元部下ってわけか?」

「そうだ、まったく奇遇だ。頭は良かったんだが、君と同じくらい負けず嫌いな男でな、軍人時代はさんざん手合わせを受けたもんだ。横須賀鎮守府で活躍してたのにどういうわけかここに来たんだよなぁ…………」

 

 鳳翔さんの出した、鳥の唐揚げを頬張る。間宮さんのも美味しいが、個人的には鳳翔さんの作る唐揚げが好きだ。

 

「ワタルは、奇人変人の集まる我が部隊において、"期待のエース"と呼ばれてた。秀才な上に、篤実な性格のできたやつだ」

 

 ふいに天龍は杯を傾けたまま、ニヤリと笑った。

 

「もしかして、女が絡んでるのか?」

「な…………!?…………鋭いやつだ」

「褒めるなよ。まぁ、提督もそんな時代があったんだな」

「まるで、俺が隠居した老人みたいなこと言うな。ほんの数年前の話だ。"陸海三角関係"といえば、軍の同期で知らない奴はいない。戦闘狂と思われた軍人が、女性に興味を持ったと、誰もが噂してたもんだ」

 

 いくらか投げやりに告げ、唐揚げを口に頬張る。

 

「可愛かったのか?」

「俺を筆頭とした変人の集まる部隊に、物怖じせず、顔を出す魅力的な女性だった。まぁ、俺が敵を倒すことに夢中になっているうちに、気づいたらワタルと引っ付いていたという話だ。オチもヤマもない」

 

 我ながら珍しく昔話を語っていることに驚いている。

 

「提督にも青春時代ってあったんだな」

「俺をなんだと思ってるんだ…………」

「変人か、トレーニング馬鹿か…………」

「分かった、分かったから、やめてくれ」

 

 どうやら俺はロクでもないやつと思われているようだ。失礼なものだ。俺とて普通の人間だというのに。

 そんなタイミングで、1人また来客したようだ。

 

「お邪魔するクマー」

 

 暖簾をくぐったのは、栗毛色の髪でバネのようなアホ毛が特徴的な艦娘だ。もっとも、特徴的なのはアホ毛にとどまらないが。軽巡球磨は、隅っこで飲んだり食ったりしている俺たちを見つけると手を振りながらやってきた。

 

「久しぶりクマー」

「あ、ああ。たしかに久しぶりに会う気がするな…………」

 

 提督として、社長として恥ずかしい話だが艦娘たちの仕事に顔を出すことができない。そのため、球磨のようにほとんど顔を合わせる機会がない艦娘も何人かいる。

 

「提督の話は天龍から聞いているクマ」

「あえて聞かんが、まともじゃないことだけはたしかだろう」

「そうかクマ」

 

「まぁ、好きなように思っててくれ。所詮、俺が介入するところじゃない」

「あ、球磨も日本酒がいいクマ」

「…………天龍、こいつも酒を飲むのか?」

「そうだぜ?俺と同い年なんだからあったりまえだろ?」

 

 俺が思わず頭を抱えれば、球磨は受け取ったグラスをそのまま一気に飲み干した。

 

「結構な飲みっぷりじゃないか。天龍と同い年なら成人したての若者のはずだが…………そうとは思えんな」

「そうかクマ?まぁ、大きな声では言えないけど前から飲んでたクマ」

「俺としては酒を一人前に飲む前にやるべきことはいくらでもあると思うぞ。物事には順序がある。未成年が酒を飲むなど、"国のため"に戦いますと言うぐらい愚行だ」

「"国のため"じゃダメクマ?」

「"国のため"がダメなんかじゃない。よく考えずに"国のため"と言うのがダメなんだ。周りの人たちのことを考えもせずに若者はこぞって"国のため"などと言うから馬鹿馬鹿しい。国のために戦ったところで得るものはない」

「そうかクマ。ダメクマか」

「その前に、その"クマクマ"言うのをやめてくれんか?実害はないはずだが、どうも料理の味が落ちる気がする」

「そうかクマ。ダメクマか」

 

 神妙な顔つきをする球磨に声を荒げるのも大人げない。ため息混じりに言った。

 

「…………いい、好きなようにして」

 

 そんなやりとりを、天龍は面白そうに眺めている。

 

「長門が不在だと、提督は不機嫌だからな」

「ホントかクマ?」

 

 目を丸くしてこちらを見る。

 好きにしてくれとは言ったものの、やはり"クマクマ"が耳についてどうも話の据わりが悪い。まぁ、こちらも口を開けばまともなことを言っていないので、無下に押し切るのもよくない。

 

「もしかして、提督って結婚してたのかクマ!?」

「なぜそうなる。古い付き合いだが、結婚はしとらん」

「へぇ…………結婚"は"ねぇ?」

「今日はえらく機嫌がいいようだな、天龍」

 

 胸中舌打ちしつつ、水を飲み干す。いかん、酒の匂いにでもやられていらんことを言うようになったようだ。

 

「まぁ、今日からでも球磨と仲良くしてやってくれ」

「よろしく頼むクマー」

 

 2人がグラスを傾けば、たちまち俺の頭痛は増す気がする。まぁ、こうやって普段会わない、艦娘と話をするのも悪くはない。

 

 

 ーーーー

 

 

 提督ファンクラブ最年少の朝潮が最近、元気がない。

 もともと姉妹や友人がいたらしいのだが、ここへは1人でやってきている。

 

「3日ほど前にはいつもの笑顔を見せてくれてたんだが…………」

 

 ため息混じりに、駆逐艦たちの演習の様子を見れば、朝潮の表情に明らかに翳りのある。

 

「私が大丈夫?って聞いても、大丈夫の一点張りよ」

 

 告げたのは、叢雲だ。

 午前中の執務を終え、珍しく午後はのんびりできると散歩に出ようとした瞬間、叢雲に呼び出しを食らったのだ。

 

「せっかく今日はゆっくりできると思ったときに、悪いわね」

「問題ない。艦娘の状態が良くなければ、出向いてくるのが提督の仕事だ」

 

 海の上では、朝潮が1人孤立して動いているようにすら見えてくる。

 一通りの演習を終えて、朝潮は俺の姿を確認するとすぐさま駆けつけた。

 

「司令官、今日もご苦労様です!」

「ああ、朝潮もお疲れさん」

 

 この後、俺は何を言えばいいか分からなくなった。しばらく、沈黙を続け、意を決して聞いた。

 

「朝潮、寂しくないか?」

「…………大丈夫です!」

 

 大丈夫じゃないだろ、とは言えなかった。朝潮が俺のことを気遣っていることが痛いほど伝わるのだ。

 小さな瞳が、窺うようにじっと俺を見つめている。

 

「…………そうか、ならいい。これからも頑張れよ?」

「はい!」

 

 元気よく答える声は、今日に限って安心できる声ではなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

「なんとかしてあげたいわね…………」

 

 叢雲が珍しく気遣わしげにそう言ったのは執務室に戻ってきてからだ。俺は、朝潮について書かれてある書類を眺めながら、眉をひそめた。

 

「数少ないファンクラブのメンバーだ。俺もなんとかしてやりたいが…………」

「できないの?」

「できないわけではないが…………難しいな」

 

 朝潮が前に勤めていた鎮守府に姉妹がいることが分かったのだが…………どうやら、主戦力として働いている。民間企業が自衛隊から主戦力を引っこ抜くなど聞いたこともない。

 

「少し話だけはしてみる。だが、相手すらしてもらえない可能性もある」

 

 そう、と応じた叢雲のもとに、1人の艦娘が困惑顔で駆け寄った。茶髪に緑のリボンをつけた、どこか頼りない様子の艦娘だ。神通のたどたどしい報告を聞いて、叢雲は顔をしかめた。

 

「どうした?」

「軽巡にも少し見てほしい娘がいるのよ。見てくれる?」

「見るのはいいが、ワタルが担当しているだろう?」

「連絡がつかないのよ」

 

 言いながら叢雲が渡してきた書類を見れば、"那珂"と書かれている。

 俺が眉をひそめるのと叢雲がため息交じりにに答えたのは同時だった。

 

「…………また、ワタルと連絡が取れないのか?」

 

 視線を神通に向ければ、おどおどした様子で、

 

「は、はい…………休日とか平日の夜とかは、結構電話がつながらないことが多いんです。軽巡は演習とか、ワタルさんに見てもらうので、いくつか問題が…………」

「ワタルは超がつくほどの真面目なやつだ。軽巡を担当しておきながら、連絡が取れなくなるようなことが、あるとは思えんが…………」

 

 困り果てた顔をする神通に変わり、叢雲が答えた。

 

「思えなくても実際にそうなってるからしょうがないでしょ。提督の見る目を疑うつもりはないけど、最初の印象ほどまともな人じゃないみたい」

 

 珍しく叢雲が毒を吐いていることは、口に出している以上にトラブルが多いのだろう。叢雲は、小さなことを大げさに言うタイプではない。

 俺の胸の中にあるのはむしろ意外だ。

 久しく会ってなかったとはいえ、彼は志の高い男に違いはない。部隊を辞めた後も、指揮官として、才能を磨き、若輩ながら横須賀鎮守府の提督を務めたほどだ。なによりもあの男の人に向ける真摯な態度を、俺はよく知っている。

 どうも雲行きがあやしい。

 

「とにかく、那珂の演習を見よう」

 

 言えば、神通が緊張した様子で先立って案内を始めた。

 

 

 ーーーー

 

 

 広瀬航の評判が悪い。

 赴任して早々の浮ついた評判はなくなり、10日間で少しずつ、だがたしかに苦情が聞こえるようになった。

 昼間はあまり軽巡のもとへ来ない。夕方になればすぐに帰ってしまう。夜、連絡が取れないのはいつものこと。物腰は穏やかでも、明らかに現場とは距離を置いた行動が、艦娘たちの不信感を煽っている。

 担当である軽巡寮では、さすがに航も気を配っているのか、それほどトラブルはないが、比較的接点の薄いほかの寮ではすこぶる評判が悪い。艦娘によっては直接、航の問題行動を訴えてくるほどだ。

 当初は半信半疑で傍観していたが、さすがに黙ってもいられなくなった。しかし、俺は四六時中執務に追われている身であり、顔を合わせる暇もない。やっとの思いで夜に仕事のめどがついても、航は鎮守府から姿を消しているから困ったもんだ。

 かくして当惑のまま時間が過ぎていった。

 

 

 ーーーー

 

 

「どういうつもりですの、ワタルさん!」

 

 朝の7時半に鎮守府に響いたのは、熊野の声だ。

 早朝の閑散とした鎮守府内に、険悪な空気が漂う。出てきたばかりの俺は、何があったのか分からなかった。

 書類を持って歩いていた航に、熊野が見たこともない剣幕を向けているのだ。対する航は、落ち着いた様子で熊野を見ている。

 

「軽巡は貴方が担当ではなくて?」

「うん、紛れもなく僕だよ」

「なら、なぜ貴方が軽巡の演習に来ないのですか?」

「軽巡の能力はある程度把握している。だから、僕が見たところで何かできるわけでもないし、隊長に対応を頼んだからといって、不都合があったとは思えないけど…………」

「そういう問題ではないですわ。貴方は軽巡の担当ではなくて、と聞いているのですわ」

「もちろん彼女らの担当だ。担当者としての役割は十分果たしているつもりだ」

 

 平然と答える航に、さすがの熊野も戸惑ったようだ。

 

「なんですの…………貴方らしくありませんわ」

 

 論理的ではない熊野の言葉だが、今回ばかりは俺もまったく同感だ。

 

「仲間に何かあれば駆けつける、それが広瀬航ではないのですの?」

「熊野は変わってないね…………」

 

 独り言のようなつぶやきの中には、俺の知らない男の冷淡さが見えている。

 

「自分の信念に従って進む。それはいいことだと思うよ。でも、自分とは違う信念を持っている人もいることを忘れているんじゃないかな」

「ワタルさん…………」

「僕は僕の信念に従って進む。手を抜いているつもりはないよ」

 

 廊下の片隅に立つ俺からは2人の顔は見えないが、少なくとも熊野が唖然として立ち尽くしている様子は分かった。

 しばらくの沈黙は、嫌な緊張感をはらんでいた。俺はただ黙って眺めるしかない。ほかに誰もいないのがせめての救いだ。

 その沈黙を破ったのは、熊野の押し殺した声だった。

 

「ワタルさんが勤めていたのは横須賀鎮守府でしたわね…………」

 

 熊野の唐突な言葉は、意外にも大きな効果をもたらした。身を翻して、戻ろうとした航が、動きを止めたのだ。

 

「…………そうだけど、横須賀鎮守府がどうしたんだい?」

「どうもありませんわ。ただ…………」

「なら僕に構わないでくれるかな」

 

 冷ややかな声が響いた。

 その声にたじろぐ熊野に構わず、感情のない声が続く。

 

「自衛隊の頃のような身分じゃないんだ。仕事の邪魔になるから、構わないでくれと言っているんだよ」

「なんですって!」

 

 さすがの熊野のも大きな声を出した。ほとんど掴みかからんばかりの剣幕だ。

 

「止めなくてもよいのですか?」

 

 いきなり耳元に声がきこえ、仰天した。振り返ってみれば、橘さんが立っていた。

 

「び、びっくりしました。いつからいたんですか?」

「初めからですよ」

 

 邪気のない笑みが応じる。

 

「7時から、延々と同じような口論をしてるんです。理屈じゃなくて哲学の問題ですから、決着はつかないと思うんですがね」

 

 右手の湯呑から、煎茶をすする。

 視線を戻せば、ちょうど航が立ち去っていくところだった。熊野の呼び声すら無視して、廊下を渡っていく。去り際に一瞬でも俺たちの姿に気づき驚いたようだが、言葉は発さずらそのまま去っていった。

 俺が額に手を当てたのは、最近いなくなった片頭痛が再び遠くからやってきたからだ。

 ふいに目の前に、湯呑が差し出された。

 

「提督さんも飲みますか?」

 

 顔を上げれば、かすかに苦笑を交えた橘さんがいる。

 

「煎茶は頭痛に効くんですよ」

 

 俺はありがたくこれをいただいたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府の裏には港がある。

 そこは基本的に俺や長門の休息の場所であったが、今ではここに来る暇さえない。

 そんな港で立ち尽くして、一服しているのが、広瀬航だ。夕暮れの光を浴びて、煙草の煙が漏れる。これはこれで風流に見えるから、皮肉だ。

 

「煙草、吸うんだな」

 

 声をかけた俺に、航は驚いて振り返り、すぐに苦笑した。

 

「隊長。今朝はどうもすいません。ちょっと疲れていたみたいで…………」

 

 素直に謝る航の姿は、昔とまったく同じだ。

 俺は隣に並び、懐から缶コーヒーを取り出した。

 

「酒も煙草もしていなかったはずだが…………いつのまに喫煙家になったんだ?大和が見過ごすとは思えんが」

 

 大和、彼女がかつて"三角関係"のもう1人である。航が部隊を辞めたのと同時に航と籍を入れたはずだ。

 セブンスターを指に挟んだままワタルは苦笑する。

 

「こんなに早く見つかるなんて…………隊長も一服しますか?」

「結構。いたずらに肺を壊すような真似はしない」

「厳しいですね」

「加えてここの艦娘たちも、煙草の煙が苦手なんだよ」

「いい艦娘たちを持ったようですね。長門さんが言ってましたよ」

「そうだな。みんな立派過ぎて俺が霞んですら見える」

 

 ふわりと煙を吐く。

 視線をめぐらせると水平線に日が沈まんとしていた。鎮守府から賑やかな声が聞こえるのは、きっと艦娘たちが帰投したのだろう。

 

「言うまでもないが…………」

 

 おもむろに俺は口を開いた。

 

「俺はここの鎮守府の艦娘たちを自慢するためにわざわざ出てきたわけじゃない。朝の一件もそうだが、さっきは陸奥からも言われたよ。あの補佐をどうにかしてくれ、ってね」

 

 これは冗談ではない。多忙な中、合間を見つけて陸奥が執務室にやってきてみれば、その手には大きな書類の束をぶらぶらと下げていた。そして、珍しく不機嫌に言ったのだ。

 

 "これ、ぜーんぶ苦情よ"

 

 どさりと机に置かれた書類を覗くと、さまざまな艦娘たちからのクレームの書類だったのだ。

 

 "提督の友達は、仕事を減らすどころか増やしているわよ…………"

 

 ぽつりと呟くように言った。

 いつもは「あら、あらあら」と感情の読み取れない娘であるが、今回ばかりは簡単に読み取ることができた。口元には薄い笑みが浮かんでいるが、目が笑っていない。冗談など通じるわけもない。

 長門の妹なだけあり、仲間へ対する思いはとても強い。そんな陸奥の目に航の行動がどう映っているのか、想像するだけでも恐ろしい。

 

 "ねぇ、どうしたらいいと思う?"

 

 また難しい質問だ。

 

 "放ってもおけないわ。でも、私からは強く言えないわよ?もちろん、提督が忙しいのも分かっているけど…………昔の知り合いなら、ねぇ?"

 

 簡単に言えば、俺がどうにかしろ、ということだ。

 もちろん、拒否権などない。極めて難しいこの問題を俺は快諾し、半ば逃げ出すように退室したのだ。

 航は俺の顔を見て、何か察したようだ。

 

「僕の知らないところで迷惑をかけてしまっているようですね」

「夜は呼び出しても来ない。休日に至っては連絡もつかない。大量のクレームがきている。おかげで前評判にたいして、鎮守府での君の評価は最低だ。…………本来なら、俺は君の評判が下がろうが知ったことではないが、あっちこっちで君のことは信用できると言った手前もある。無視してしまうと、俺の人を見る目にも疑いがかかってしまう」

「…………つまり、隊長の期待を裏切っているわけですね」

「まぁ、そんなところだ」

 

 俺は平然と告げ、缶コーヒーを傾けた。嫌な苦味が口の中に広がる。

 航は、吸い終えたセブンスターを携帯灰皿に押し込み、新たな1本を取り出した。

 

「隊長、提督とはなんだと思いますか?」

 

 いきなり、呟くように言った。

 

「哲学は苦手分野だ。そのことついて話したいなら哲学者としてくれ」

「真面目な話ですよ」

「…………提督とは、艦隊の指揮官のことだ。作戦練り、指揮し、必要があれば自らも出向く。が、指揮するのは軍艦ではなく艦娘だ。彼女らに不安が有れば取り除くし、サポートする。辞書にどう書かれているかは知らんが、少なくとも艦娘の演習に来ないなどの態度は指揮するもののそれではない」

「…………おかしいと思いません?」

 

 俺が困惑したのは、航の言葉の意味が理解できなかったからだ。しかし、航はあくまで淡々として続ける。

 

「僕たちはただ提督であるというだけで、まともな食事も睡眠も保障されてないんですよ。おかしいと思いませんか、隊長」

「何を今さら入隊したての兵士みたいなことを言ってるんだ。そんな理不尽、俺らは百の承知でやっているだろ。それが嫌なら…………」

 

 最後まで続けることはできなかった。かつて情熱のこもった目には、完全に冷めきった、冷徹な光が浮かんでいたからだ。今朝、熊野に見せた俺の知らない男の姿がそこにはいた。

 俺が無理矢理言葉を継いだのは、立ち込めかけた嫌な空気を嫌ったのかもしれない。

 

「…………少なくとも、熊野の言いたいことは君なら分かるだろ?たとえやってあげることが無くても、指揮官がいるだけで、安心感は段違いに上がる」

「安心感、ですか…………」

 

 今度は少しではあるが、口元が歪んだ。それが笑いであることに、数秒ほど時間がかかった。

 

「面白いことは何一つ言ってないはずだが?」

「そんなもののために休みなく働けるほど、僕たちには余裕があるんですか?隊長」

「…………そんなもの?」

「艦娘の安心感という実態のないもののために、働いていられるほど余裕があるんですか?叢雲さんから聞きましたけど、隊長はこの1年間で1日ぐらいしかまともに休みがなかったらしいじゃないですか。それでいいんですか?」

「いいか悪いかではない。理不尽な環境の中で、1番マシな選択肢を選んでいるだけだ。ただ理屈を並べたいのなら…………」

「長門さんは納得しているんですか?」

 

 唐突な言葉だった。

 怪訝な顔をする俺に、航はさらに続ける。

 

「隊長に家族がいないことは知っています。長門さんや陸奥さんが隊長と幼い頃から一緒にいて家族同然だということも知っています。だからこそ、隊長は1人で生きているわけではないんでしょ?」

 

 淀みない声、淀みないからこそ、ずっしりと肩にのしかかった。

 

「問題なんてない。過酷になることは長門から告げられたし、俺も了承した」

「そんな状況自体、おかしくないですか?」

「…………大和がそう言ったのか?」

 

 出し抜けに言った俺の方に、苦いものが広がった。

 しかし、口に出した以上、退くわけにもいかない。

 

「俺が知っている限り、大和は聡明な女性だった。バカ真面目な君と比べても、平和に対する熱意は十二分に備えていた。そんな大和が、君に…………そう言っているのか?」

 

 航は答えない。

 

「君たちが横須賀で何があったかは知らない。だが、ここは少なくとも横須賀ではない。ここは…………」

「すいません、隊長」

 

 唐突に、そしてあからさまに、航は腕時計に目をやった。

 

「少し用事がありまして」

 

 それが会話の終了を伝えた。

 俺の視線から逃げるように、身をひるがえす。立ち去ろうとするその背中に、俺は大きく言った。

 

「不満を募らせる人間に、居心地のよい椅子は決して見つからない」

 

 静かな港に場違いな声が響く。

 航は足を止めて、振り返った。

 

「…………ベンジャミン・フランクリンですね。覚えてたんですか?」

「文句を言う仲間に君が投げかけた言葉だろう?」

「よく覚えてますよ」

「なら、俺の言いたいことも分かるだろ?」

 

 航は何も言わなかった。わずかの間をおき、背を向けそのまま立ち去った。

 久しぶりに再会した部下が、すっかり変わり、俺は時代の流れという得体の知れない化け物の存在を実感する。実感したところで、何も変わらず、美味しくもない缶コーヒーを飲むしかない。

 最近ひどくなってきた頭痛がして、ポケットの中を探したが、頭痛薬はとっくに切らしたことに気づいた。

 

「あら、あらあら…………珍しいわね」

 

 そんなことを言って姿を見せたのは、先刻直々に航の苦情の書類を渡した陸奥だ。

 

「提督、煙草吸ってたかしら?」

「まさか。ワタルが吸ったんだよ。あんな煙のどこがいいのやら…………ところで、今は暇なのか?」

「ええ。提督が鎮守府内にいないと電話も止むのよ」

 

 なんじゃそりゃ…………まるで、皆俺がいるのを計らって依頼しているみたいじゃないか。

 

「広瀬さん、すごく暗い顔してたわよ?」

「願ったり叶ったりだ。少しくらい悩んでくれないと、俺の立つ瀬がない」

「何があったかは知らないけど…………友達は大事にしなさいよ?」

「友達、か…………ワタルには家族はどうなんだ、と言われたところだ」

「家族…………?」

「長門と君のことだよ」

「ふーん…………そう見られているの?」

 

 そう問う陸奥の顔はいくらか赤い。

 

「さぁ…………少なくとも、ただの知人には見えないだろうよ」

「あら、今日は本当に落ち込んでるわね」

「やめてくれ」

 

 頭の中に浮かぶのは、去り際に見せた航の冷ややかな目だ。ああいう目をする男ではなかったはずだ。

 釈然としないまま、俺は頭を掻きむしった。ふいに目の前に缶コーヒーが出された。陸奥が軽く片目を閉じてみせた。

 

「こういうときに、一服したらいいんじゃない?」

 

 俺は黙って缶コーヒーを受け取った。

 まとまらない思考がさらにぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、掴みようがなくなっていく。そんな中、ただ一つ分かったことは、缶コーヒーはやはり大して美味しくないということだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 大和という艦娘に、俺が初めて出会ったのは俺が軍部の世界に入って2年目の夏のことだ。そのとき、俺は陸軍からの派遣として横須賀鎮守府に勤めていた。

 出会いそのものは至って普通なものであった。

 俺はいつものようにトレーニングに勤しみ、鎮守府内を一周し終え、一息をいれていたときであった。

 道の真ん中にいる若い女性が、何やら紙のようなものを手に持っていたが、落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見渡していた。明らかに挙動不審である。しかし、俺はこの後のトレーニング内容を考えるのに集中したく、顔を上げずに考え込んでいたのだが、女性の方は落ち着く気配がない。

 どうしたのかとふと顔を上げると、女性と目があった。合った途端に彼女は思い切ったように口を開いた。

 

「すいません。道を教えてくれませんか?」

 

 張りのあるよく通る声であった。

 俺がしばらく唖然としていたのは、唐突なことで驚いていたわけではない。その当時、俺は散々な評判で"死神"とも呼ばれるほどだった。海軍の中に陸軍の者という異端な奴が手柄を立てすぎたからだ。だから、俺に声をかける者は誰一人いなかったし、俺自身気にしていなかった。だからこそ、その生き生きとした明るい瞳に、迂闊にも怯んでしまったのである。

 ここに配属されたばかりで、迷子になってしまった、と女性は困ったように説明したのち、自らを戦艦の大和と名乗った。すらりとした四肢に膝まで伸びる茶髪のポニーテールが特徴的な女性である。凛とした雰囲気中にどこが幼さが残る顔立ちは、内から溢れる活力に満ちていた。

 まぁ、拒む理由もない。俺はとりあえず彼女に案内をしたのである。

 目的地に着いたところで「必ずお礼をします」と言って、駆け出したが、こちらは午後から訓練が控えていたので、のんびりとしていられなかった。「別にしなくてもよい」とだけ言い背を向けた。名前すら名乗らないのだから、あの時の俺は相当、冷めた奴だったのかもしれない。

 こうして運命の巡り合わせは終わりを告げたかと思われたが、それから半年が過ぎた春ーー俺が始めて隊長を務める部隊が発足したばかりの頃だ。その日はいつものように鎮守府の外に足を延ばした。混雑の激しい横須賀鎮守府の食堂では、自分の食べたいように食べれないので、昼になると近くの定食屋に寄るようにしていた。いつものように迷彩服のまま、路地を歩いていたところで「あ!」と声が聞こえ、振り向いたところ、そこには大和が立っていた。

 

「すいません、案内してくれた人ですよね?」

 

 道のど真ん中で、開口一番そんなことを言う。そして、俺の格好を見て、もう一度驚きの声をあげた。

 

「陸軍の方でしたか」

 

 半年前に比べていくらか顔は引き締まってあり、少し大人びた印象になっていたがら弾みのある声は、変わらない快活さが含まれていた。

「そうだが」とまったくもって芸のない返事をした俺に構わず、大和は、

 

「すいません、あのときはジャージ姿でしたので、てっきり海軍の方かと思っていました」

 

 と言い、迷いのない動作で俺の手を握った。その柔らかな感触に少なからず当惑しているところに、大和は華やかな笑顔で付け加えた。

 

「遅くなって、本当にごめんなさい。でも、ずっと貴方のこと探していたんですよ?」

 

 その一言なら、どんな男もあっさりとハートを撃ち抜かれたことだろう。

 こんな路上ですれ違いざまに気づいたんだから、探していたことは事実であるだろう。さらに言えば、お礼が遅くなったのは、こちらが名乗りもせずさっさと立ち去ったせいであるのに、まるで自分が悪いかのように何度もすまなさそうに頭を下げてから、

 

「兵隊さんは、もう昼ごはんは食べましたか?」

 

 明るい声で問い、いいやと答えると、

 

「それじゃあ、せっかくですからご一緒しませんか?」

 

 と告げ、目の前の店を指し示した。首を動かすと、「レストランマルハク」という、古びた看板が目に入った。

「常連客なのか?」と聞くと、大和は少し恥ずかしそうに答えた。

 

「3日に1度は来ます」

「…………そうか、友達とか?」

「たまにですけど、いつもは1人ですよ」

「1人?」

「一緒に来てくれるような人がいればいいんですけど、私、とてもせっかちで、トラブルメーカーだったりするんですよ。今日も兵隊さんに会わなければ1人でした」

 

 白い歯を見せて、大和は笑った。

 後で知ったことだが、大和はこの横須賀鎮守府の艦隊の中でもエースの1人であった。彼女に取り付けられた大きな艤装からの砲撃は、たまたま通りがかった俺を驚嘆させるには十分だった。自分でせっかちだと言うものの、聡明な感性とポジティブな性格なため、艦隊の中でもムードメーカーの役割も果たしていた。

 そんな彼女に一兵士に過ぎない俺が一緒にいるのだから、側から見れば奇妙な組み合わせこの上なかっただろう。

 いずれにせよ、その日から彼女は昼頃に必ず俺のもとにやってきて、この「マルハク」に誘ってくるようになった。

 俺を見つけては嬉しそうな顔をして、

 

「ここのカレー気に入りました?」

 

 と、問われれば俺は何も言わず、縦に首を振ったのである。その当時は、今以上に口数が少なく、愛想も良くないので一緒に食べていて楽しいのか?と疑問に思ったりしたのだが、顔を見る限りあまり案ずる必要もなかった。

 そんな奇妙な機会を繰り返していき、ある日、「兵隊さんはどんな部隊にいるんですか?」と、問われ「見に来るといい」などと、訳の分からん誘いをしたのである。あまり自分のことを語りがらない俺が初めて自分のことについて言及したものだから、彼女は目を輝かせて「ぜひ!」と言った。のちに「マルハク」の女主人が言うには、「あんなべっぴんさんといながら、黙っているなんて男失格よ」という酷評になる。

 無論、今頃反省したところで過去を変えることは不可能だし、どの時代においても、男にとって女心は解読しがたい難解な問題なのだ。

 我が部隊は、発足当時から妙な連中を従え、なんのためにあるのか側から見れば分からない、意味不明な部隊だった。普通に考えれば、そんな部隊に見学しに来いと言ったところで来るとは思えないが、彼女は興味津々に来たいと答えたのである。

 

「すごいですね!」

「…………艦隊のエースである君には全く敵わない。俺たちはせいぜい、撹乱することしかできん」

「そんなことはありませんよ」

「…………」

「みんな言ってますよ。兵隊さんの部隊のおかげで、作戦がスムーズに進んでいるって」

「大層な評価だな」

 

 俺の言葉は聞く人によっては皮肉とも捉えられるはずだが、彼女は気も悪くした様子もなく、この後も演習を終えたあと、ときおり俺たちの訓練に訪れるようになった。

 訓練とはいっても、すみっこでこじんまりと訓練しているだけだ。

 そんなところにもら彼女はいつもと変わらない明るい光を運び、真剣に見学するようになった。常日頃、妙な訓練してばかりの部隊に女性の明るい声が聞こえて来るようになったのだから、通りすがりの人たちも驚いたに違いない。唯一、まともな隊員の広瀬航と彼女が出会ったのもこの時期だ。

 後の経過については、特に面白いこともないので多くを語る必要もない。

 死神さんは、美しい艦娘にではなく、目の前の戦場にばかり目がゆき、彼女の気持ちに全く気づかなかったようである。彼が戦地で血を浴びているうちに、優秀な部下がさらりと彼女をさらっていったという次第だ。

 この一件は、熊野の言う"三角関係"として、横須賀鎮守府に有名となった。が、実際は三角関係というほどのことは何一つ起こっていない。俺を媒介として、素晴らしいカップルが生まれただけだ。2人の交際が発覚した時の俺は相変わらずトレーニングに勤しんでいた。

 その日は夏で、真夏の夜の下、いつもよりベンチプレスの回数が増えたことを覚えている。

 

 

 ーーーー

 

 

「珍しいですね、提督」

 

 カウンターの向こう側からの声な、俺は記憶の底から現実に戻った。

 居酒屋「鳳翔」のマスターである、鳳翔さんが、苦笑を浮かべてこちらを見下ろしていた。

 

「提督が煙草を吸うなんて珍しい」

 

 一本だけ3時間も前に吸っただけなのだが、さすが鳳翔さんである。的確な指摘だ。俺は水を飲み干して、肩をすくめた。

 

「随分と考え込んでいたようですけど、悩み事でも?」

「別に大したことではありませんよ」

「ふふ、その様子だと長門さんも不在のようですね」

「ええ、少なくとも今週はいませんよ」

 

 少々投げやりな応答にも、鳳翔さんは気を悪くした様子はない。

 時刻は夜10時ごろ。今夜は客が多かった。

 

「最近はこの居酒屋も繁盛しているようですね」

 

 刺身を切り分けながら、鳳翔さんは苦笑した。

 

「水ものです。今日は来ていますけど、日によっては誰1人も来ませんよ」

「1人も?」

「えぇ」

 

 鳳翔さんの細い腕が、繊細な動きで鰹を捌く。苦しいことなのに、あっけらかんとしているのはさすがだ。

 

「でも、最近は熊野さんがよく来てくれますよ」

「熊野が?」

「友人を連れてきてくれます。あの人は相変わらずワインばかり飲んでいますけど、なにせたくさん食べてくれますからね。作りがいがあります」

「熊野にワインはもったいない。ブドウジュースにしてもバレやしません。ぜひそうしてください」

 

 俺のトゲのある言葉にも鳳翔さんは、笑う。

 

「今日は殺伐としてますね」

 

 そう言って、鳳翔さんは杯を1つ取り出し、一升瓶を傾けた。

 

「長門さんの代わりになれるかは分かりませんが、今日はお付き合いしますよ」

「まさか、十分すぎるほどですよ」

 

 そこまで言うと、鳳翔さんは杯を差し出した。

 

「…………ですから、酒は必要ないかと」

「ふふ、こういう時は、お酒が1番ですよ。安心してください。飲みやすいのを選びましたから」

 

 言いながら、鳳翔さんは新しい杯になみなみとお酒を注ぎ、俺の前に提供する。普段から酒を控えろと口すっぱく言っている俺が飲むのも気がひけるが、今夜だけは鳳翔さんに甘えることにした。

 乾杯、と鳳翔さんが杯に口をつけ、俺も応じて一気に飲み干す。

 思わず「美味い」と漏れてしまい、鳳翔さんが微笑を浮かべる。ふいに「いらっしゃい」と言ったのは、新たな客がやってきたからだ。振り向けば、痩せた初老の男性が1人。年季の入った古びたジャケットを着た紳士だ。

 

「おや」

 

 と呟くのと、俺が軽く目を見張るのは同時だった。

 

「提督さんじゃないですか」

 

 そう告げたのは橘さんだった。

 

「妙なところで会いましたなぁ」

 

 俺のすぐ隣に腰を下ろして、橘さんは言った。

 いつもは俺に負けず顔色が悪いが瞳の光は澄み渡っている。ヨレヨレの作業着しか見たことがなかったが、私服姿は町の片隅の小物屋の主人みたいで不思議と愛嬌がある。

 

「それは俺のセリフですよ。ここでお会いするのは初めてではないですか?」

「そうですねぇ…………私も数え切れるほどしか来ていませんから。鳳翔さんの記憶にもあるかどうか…………」

 

 ちらりと橘さんが鳳翔さんの方を向くと、鳳翔さんはニコリと答える。

 

「満さんが来たのは6ヶ月前ですね。待ちくたびれましたよ」

「敵いませんなぁ、鳳翔さんには」

 

 嬉しそうに橘さんは肩を揺らした。

 ちなみに橘満(たちばなみつる)というのが橘さんのフルネームだ。

 

「ようやく仕事が終わったんですか?」

「ええ、珍しく仕事がすべてさばけたものですから。工廠外に出るのは4日ぶりですかね」

 

 これは冗談ではない。橘さんは相変わらず連日泊まり込みで働いていたのだ。

 

「せっかくの帰宅の日なんですが、家には誰もいませんからね。そんな時はここに寄るようにしてるんです」

 

 言いながら、「ぬる燗を1つ」と穏やかに告げる。

 届いた一杯に口をつけ、幸せそうに目を細めた。

 

「それにしても、今日は一段と冴えない顔をしてますねぇ」

「いやいや、ご冗談を」

「冗談じゃないですよ。広瀬さんの件でしょう?」

 

 何も見てないようで、相変わらず橘さんの目は的確だ。

 

「久しぶりに出会った部下が、すっかり変わってると、困惑せざるを得ません」

「変わっていましたか」

「ワタルのアホがあれほどアホになっているのは予想だにしませんでした。昔のように説教してやろうかと思いましたが、逃げ足が速くて…………」

 

 橘さんは、楽しそうに笑いつつ、お酒を水のように飲み干し、おかわりを所望する。

 

「まぁ、考えすぎもいけませんよ。彼には彼なりの信念があるかもしれません」

「橘さんは寛容ですね。俺も見習いたいものです」

 

 酒の勢いなのか、普段の毒よりもさらに強い毒が言葉に含まれる。

 

「彼には熊野さんや提督さんのような素敵な友人がいますから大丈夫です。1人じゃないことはとっても重要なことなんですよ?」

「俺の様な口を開けば愚痴を言う変人と、熊野の様なお嬢様かぶれが友人とは、ワタルも恵まれない男です」

 

 俺の言葉に、橘さんは可笑しそうに笑った。

 

「友人とは、そんな曲者ばかりですよ。私だって、まともな人なんていやしませんでしたから」

「あら、それでは私もまともな人ではないんですね?」

 

 ここに来て意外にも鳳翔さんが口を開いた。

 

「そういえば、お二人は俺に出会う前からの付き合いでしたね」

「そうなりますねぇ…………彼女が子供の頃からの付き合いですから」

 

 俺が一杯飲むうちに三杯消える。

 いくら飲んでいても橘さんの顔色は、青白い。

 

「しかし、橘さんは俺が生まれる前から延々と深海棲艦と戦ってきたことになります」

「戦うと言われると少し違う気もしますけど…………まぁ、そうなりますねぇ」

 

 まるで今気づいたかのように目を細めた。

 そのまま、「もうそんなになりますか…………」と呟きながら、三杯目をするりと飲む姿は、どこかの仙人のようだ。

 

「橘さんは、ずっと昔から日本の平和を支えてきたんですね」

「かの友人と、大切な約束をしたんです。だから、辞めるわけにもいかないんですよ」

「約束?」

 

 突然の言葉に、俺は橘さんを見返す。

 

「"この国に、誰もがいつでも楽しめるために、平和な海を"。それが私の友人の口癖でしたよ。そのために尽力しようと、学生の頃に約束をしたんです。まだ、果たせていませんが」

 

 可笑しそうに肩を揺らす。

 

「そんなことがあったんですか…………」

「肝心の友人は亡くなってしまいましたけどね。だから、私だけでも約束を果たそうと」

 

 鳳翔さん、しめサバを1つ、と告げる。理想を実現せんとするために、走り続けは橘さんの姿が、ふいに実感を伴って、胸の内に立ち上がった。ほとんど無意識に俺は言った。

 

「橘さんは、この鎮守府という船のエンジンです。橘さんが、いなくなってしまうと、もう船は進むことができません」

「過大評価ですよ。私には、そんな大きな船、支えきれません。私よりも…………」

 

 ふと目を細める。

 

「提督さんや長門さんたちの方がよっぽど大事なパーツです。私は皆さんが動かす船にちょいと風を送っているだけです」

 

 ふふっと笑う。

 

「いずれにせよ、広瀬さんも大事なパーツになることは間違いないです。そのためにも友人を大切にした方がいいですよ」

 

 その声は、温かさがあった。

 

「橘さん」

 

 俺は一呼吸おいて、

 

「なんだか愉快になってきました。今日はもうしばらく付き合ってください」

「奇遇ですね。私もです」

 

 かすかに笑ってうなずいた。

 次の一杯を、と顔を上げると、鳳翔さんの、温かな笑顔が見えた。

 俺は鳳翔さんが注いでくれた酒の取り上げた。橘さんと、せっかく献酬の、機会を得たんだ。ワタルの問題など程よい苦味だ。あいつとは一度手合わせでもすれば、分からないことも分かるようになるだろう。

 気づけばすでに橘さんが、うまそうに酒を飲み干していた。俺もまた、一息で飲み干して、美酒に酔いしれたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

「困ります、広瀬さん」

 

 気弱な声が食堂に響いた。

 ある平日の夕方のことだ。

 日中の執務で疲労困憊して、なかば朦朧と椅子に座っていた俺は、首だけを動かして振り返った。食堂の隅で航と神通の姿がある。

 ノートパソコンを持ち出して仕事をしていた航と、青白い顔で立ち尽くす神通の間合いには、ただならぬ緊張がある。とは言っても、航の前では、神通は蛇に睨まれた蛙である。

 

「別に君が困る話じゃないだろ?明日やればいいことは明日やればいいんだ」

「でも、駆逐艦たちは、不安なんです。新しい作戦について、航さんに詳しく聞きたいって…………」

 

 神通が答えている間も航は迷惑そうに眉をゆがめている。時折、時計に目をやっているが、まだ6時半だ。

 

「今回の作戦は他の鎮守府と合同なんだ。簡単に説明できる内容じゃないんだ。説明は明日の9時から。さっきもそう言ったじゃないか」

「でも、駆逐艦たちは少しだけでも説明が聞きたいって、今も待っているんです。だから…………」

 

 言いながらも声はしりすぼみに小さくなっていく。見ているだけで歯がゆい状況だ。

 とうとう見かねて口を挟んだのは、川内だ。

 

「広瀬さん、説明だって指揮官の大切な仕事だと思う。少しくらい時間とって、説明してあげてもいいでしょ?」

「僕も忙しいんだ。今日は無理なんだ」

 

 航の冷たい態度に、川内は髪を揺らして、語調を強めた。

 

「毎日どういうつもりなの?夕方になるとすぐに帰るし、夜連絡取れるときなんて少ない。その上、ちょっとした説明の時間も取れないって言われれば、私たちだって納得できない」

「もしものときの指示は全て出しているはずだろ?トラブルは生じていない」

「生じてからだと遅いんだよ!」

 

 川内の張り詰めた声が、食堂に響く。

 その後にくるのは、耐え難い沈黙だ。ほかの艦娘たちは何もないようにしているが、明らかに航と川内の方に注意を向けている。

 俺は軽い頭痛を感じ、額を押さえた。

 川内の態度はたしかに厳しい。叢雲ならそんな態度はとらないだろう。が、最大の問題は、航の冷淡な態度だ。どういう考えかは分からんが、これでは艦娘たちが納得するわけもないし、苦情がきて当たり前だ。"期待のエース"の肩書きは返上せざるを得ない。

 黙然と天井を見ても、妙案が浮かぶわけでもない。叢雲がいれば、どうにか収まりがつくかもしれないが、こういうときに限って、出撃中だ。

 しばらく、考え込んでいると、しゃくりあげるような声が聞こえた。

 

「でも広瀬さん…………暁ちゃんや電ちゃんは難しい作戦名で…………すごく不安になっていて…………」

 

 神通がポロポロと大粒の涙を流している。

 

「広瀬さんだって大変なのは分かっています。…………でも、少しくらいお話してあげてもいいじゃないですか」

「少しで済むならすぐにでも話すさ。でも、半端な説明だとかえって誤解と不安を生むだけだ」

「それでも…………」

「いい加減にしてくれないか」

「作戦は予定通り遂行する。説明も明日だ。分かったら駆逐艦たちにそう伝えてくれ」

 

 言い終わらないうちに、神通は完全に泣き出してしまった。

 泣く方も泣く方だが、航も航だ。

 再び訪れた沈黙に、神通のしゃくりあげる声だけが響く。川内がそっと神通の肩を抱きながら、キッと航を睨みつけるが、肝心の航はパソコンに向かって忙しそうに手を動かすだけだ。艦娘たちも困惑から憤りに変わり、ワタルの背中を見つめている。

 期待を込めて窓の外を見たが、叢雲は帰ってきていない。帰ってきていない以上、叢雲以外の誰かが、この場を収めないといけない。

 俺はもう一度額に手を当てた。

 それから冷めたコーヒーカップを手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 パソコンへの入力を終え、立ち上がろうとした航が、動きを止めたのは、俺が目の前に立っていたからだ。

 俺を見上げ、さすがに少し戸惑いを見せた。

 

「…………何か要件ですか?隊長」

「別に、さほどのことはない」

「言いたいことは分かりますが、今日は時間がないんです」

「そうみたいだな。でも、旧友と話すぐらいの時間は取れるんじゃないか?」

 

 俺はわずかに目を細める。

 

「すいません、今日は無理です」

「そうか、残念だな」

 

 言って、俺は右手のカップをおもむろに机に置いた。

 あっ、と短く叫んだのは神通と川内だ。俺が、左手で航の胸ぐらを掴んだのである。

 次の瞬間、俺の右の拳が航の顔にめり込み、鈍い音が響いた。食堂内の艦娘があっけにとられている一方で、倒れ込んだ航の口からは少しながら血が滴り落ちていた。

 俺は呑気にもカップを持ちコーヒーを飲み、口を開いた。

 

「…………パンチというのはただ力任せに振ればいいのではない。体重移動をしっかりすることでより破壊力を増すことができる」

「…………そんな説明を求めた覚えはないんですが…………」

 

 拳を受けた航から、淡々とした声が聞こえた。

 見下ろせば、血を流したまま、航は真っ直ぐな瞳を向けている。

 俺も黙ってそれを見返す。

 

「悪いな、あまりに君が寝ぼけたことを言うものだから、目を覚ましてあげようと、ね?」

 

 俺はカップの中のコーヒーをすべて飲み干した。

 

「目は覚めたか?」

 

 航の目がじっと俺を見つめている。その目に動揺はない。

 航はこういうとき、感情任せに動くタイプではない。何をするべきか、1人でよく考える男だ。

 無論、俺も動じない。動じる理由がそもそもない。

 人にはそれぞれ信念がある。

 その信念を道しるべとして、多難な世の大海原を進んでいくのが人生だ。その道に他の船があるとき、体当たりをかまして突き進むのは愚か者のすることだ。俺たちは人間である以上、思いやって時に船を止めなければならないのだ。

 航がどの道を進むのかは俺にはさっぱり分からないが、少なくとも船を進めるときに、前方に船があるなら、道を開けてくれと叫ぶのは必要な義務だ。それを怠っているから、彼はアホなのだ。

 ゆえに、彼は2つのうちどちらかを行うしかない。

 

「神通たちに事情を説明して帰るか、駆逐艦たちに顔を出して帰るか、選べ」

 

 静かな食堂に俺の声がよく響く。

 艦娘一同声を出すこともなく、成り行きを見守っている。神通に至っては、先刻の涙が嘘のようにあっけにとられて口を開けたままだ。

 航はしばらく沈黙したのち、口を開いた。

 

「どっちも時間がかかる話なら、駆逐艦たちの方を優先させます」

 

 言って立ち上がった。

 

「川内さん、すみませんがガーゼと何か冷やすものを持ってきてくれませんか?」

 

 川内は弾かれたように何処かへ駆けて行った。

 

「相変わらずですね、隊長。隊長の破天荒ぶりはいつも予測できませんよ」

「変人扱いはもう慣れている」

「そういうところまで相変わらずです。…………なんだか懐かしくなってきました。急にあの頃を思い出しましたよ」

「なんだと?それだと、まるで今まで忘れていたようではないか」

 

 航は少しだけ目を見開いた。

 俺はなお憮然として告げる。

 

「俺は一度も忘れたことはない。君との絆、もな」

 

 静まり返った食堂に俺の声が響いたとき、航はかすかに苦笑した。

 

「本当に相変わらずだ。でも、1つだけ言っておきますよ」

 

 口の血を拭いながら、航は静かに言った。

 

「治療代は隊長持ちですからね?」

 

 俺は大きく縦に首を振ったのである。

 

 

 ーーーー

 

 

「何考えているのよ!」

 

 開口一番、そう言ったのは、帰投した叢雲である。川内から事情を聞いた叢雲が、早速俺に事を聞きに来たのだ。

 時刻はすでに8時だ。

 

「食堂で部下を殴りつけるなんて、普通の人がやる事じゃないわよ。いくら変人の司令官でも、度がすぎるわよ!」

 

 今回ばかりは反論の余地はない。でも、過ぎたことはしょうがないのだ。

 

「君がいたらこんな騒ぎにはならなかった。軽巡とワタルがぶつかりあっていれば、見て見ぬ振りもできん」

「だからって、やってることは広瀬さん以上に無茶苦茶よ。今まで穏便に事を済ませて来た私の努力が水の泡じゃない」

 

 そう言う叢雲の眉間にシワがよる。

 なるほど、今まで大きなトラブルが生じなかったのは、航が気を配っていたのではなく、叢雲がうまく切り回していたからか。こんな有能な艦娘の手腕を見逃してたとは。

 

「…………それで、広瀬さんは?」

「駆逐艦たちに説明したら、早々に帰ったよ。ほんの10分前のことだ」

 

 6時から始まった説明は、航の言う通り1時間に及ぶものだった。

 30分ほどは待っていた俺も、それ以上は待てず、執務を行っていたら、航は帰ってしまったというわけだ。

 

「広瀬さん、よく怒らなかったわね」

「俺の思いが通じたのだろう。治療代をきっちり払えば、許してくれるらしい」

「本当に?」

「そうあって欲しい」

 

 俺がうそぶく中、叢雲はもう一度深くため息をついた。

 

「広瀬さんだって立場があるでしょ?艦娘の前でそんな扱いを受けたら、収まるものも収まらないわよ」

「その通りだが…………艦娘にだって立場があるし、なによりも、あいつの友人でもある俺にも立場というものがある」

「なにそれ、全然意味が分からないわ…………」

 

 叢雲が額に手を当てたところで、神通が執務室のドアを開け、やってきた。俺の前に来ると、いつものようにおどおどとした様子で、でもしっかりと頭を下げた。

 

「ありがとうございました。提督」

「礼を言われるようなことは何一つしていない。むしろ提督としてあるまじき行動をしたおかげで、叢雲に怒られているところだ」

 

 嫌み言わないの、と呆れ顔で言う叢雲の横で、神通は懸命に言う。

 

「で、でも、提督のおかげで、広瀬さんが説明してくれて、駆逐艦たちもとても喜んでくれて…………多分、いろんなことがうまくいったんです」

 

 何もかも解決していないのだが、先刻まで泣いていた艦娘が嬉しそうな顔をしているということは、とりあえずは収まったのだろう。

 

「それに、広瀬さんのこと、私誤解していました」

「誤解…………?」

「広瀬さんの説明、とても丁寧で、優しくて、分かりやすくて、駆逐艦たちの質問にも一つ一つ丁寧に答えて、隣で見てて、とっても胸が温かくなったんです」

 

 頰をいくらか赤く染めて、神通は真っ直ぐな目でそう言う。

 

「ひどい人だと思っていましたけど、あんな説明ができる人が、悪い人なわけがありません。私、もっと広瀬さんのことが分かるように努力します!」

 

 言うなり、もう一度頭を下げた後、駆け出してしまった。

 

「…………何なんだ?」

「若い娘にありがちなことよ」

 

 肩をすくめつつ、叢雲は言う。

 

「孤立状態のワタルに1人くらい味方ができるのはいいが…………」

「味方ができたところで、根本的な解決はしていないでしょ?連絡の取れない指揮官じゃ困るわよ」

「…………相変わらず、正確な洞察だな」

 

 再び、頭痛の足音が聞こえてきたような気がして、こめかみを指で押さえた。

 そんな俺を見て叢雲はさりげなく一笑する。

 

「そうは言っても、あんたが1人で抱え込む問題でもないわ。部下を殴るような提督がいる鎮守府だもの。広瀬さんくらい、どうってこともないわよ」

「前向きなのか後ろ向きなのか…………。だいたい、今のところなんとかなっているのは、君が骨を折ってくれているからだろ?」

「あら、高く評価してくれてるのね」

 

 静かに笑った叢雲が、妙に老成して見える。

 

「ま、少なくとも今のうちは心配しなくてもいいわ」

「ありがたいことだ。礼と言ってはなんだが、提督ファンクラブに入会させてやる」

「あら、変な事を言うのね。ファンクラブの会員ナンバー1番は私よ?」

「…………」

 

 笑顔で平然と言った。

 動揺する俺に、叢雲は「知らなかったの?」と笑顔で言ってくるくらいだ。完全に一本やられている。

 

「だから、お礼は、ケーキでいいわ。せっかくだし神通も呼ぼうかしら」

「また、高くつきそうだな」

 

 もう一度、俺は額を押さえた。

 以前、叢雲にケーキを奢ったのだが、予想以上に食べ、俺の財布を危機に陥れたのである。

 

「…………好きなだけ食わせてやる。期待しておけ」

 

 できる限りの虚勢で答えた。

 すでに日が落ちた廊下に出ると、窓の外が明るいことに気づいた。

 真っ青な月光により、海がはっきりと見える。

 人は多難な大海原を突き進む。時には迷ったり、嵐に出くわすだろう。だが、今日のように美しい景色になるのもまた事実である。

 俺は大きく伸びをして廊下を歩いて行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



『よっ!元気してっか?』

 

 海に出るたび、脳裏をよぎるこの声。どんな時でもこの声を忘れたことはない。

 短く切り揃えられた髪に、希望に溢れた眼差し、まるで自分の未来に絶対的な自信を持っているようにすら見える。

 

『今日も頼むぜ!相棒!』

 

 そう言い、背中を強く叩かれたことも記憶だけでなく、身体が覚えている。

 硝煙の臭いが立ち込める海で、俺はただひたすら深海棲艦の砲撃を避け、銃を撃つ。水上オートバイを加速させ、深海棲艦と肉壁するほどの距離を通り抜ける。

 

『ほら!さっさと来いよ!』

『待って!』

 

 そんな中でも、俺は1人の男を追いかけている。いくらスピードを上げても、追いつくことはないと分かっているはずなのに、俺は追いかける。

 なぁ、君は俺のことをまだ覚えているのだろうか?いくら叫んでも、その声は届かない。俺は君の相棒に相応しかったのだろうか?そう問いかけても、答えは返ってこない。そんなことは、最初から分かっている。でも、俺は掴みようがない幻覚を追いかける。

 俺の気持ちとは裏腹にその背中は遠ざかって、気づけば戦いも終わって、血を浴びて、帰ってきている。

 そんな姿を周りは"死神"と呼んだ。俺がいたせいで死人が出たから?違う。ただ、俺の風貌が普通じゃなかっただけだ。

 躊躇いもなく深海棲艦に向かう姿、怯むことなく引き金を引く姿、返り血を浴びても平然としている姿、なによりもその目にはらんだ狂気の光。それを総じて、周りは"死神"と名付けたのだろう。

 

『今日も無傷かよ…………』

『一体どうなってやがるんだよ…………化け物か?』

 

 俺が歩けば周りは端により、何かを言う。でも、俺にはそんなのどうでもよかった。とにかく、俺は戦っていたかった。

 敵討ち?もう悲惨なことを繰り返さないため?平和を取り戻したい?そんな大層なこと1ミリも考えてはいない。俺はとにかく、あいつの背中を追いかけているだけだ。そして、この震えを止めたいのだ。

 もうこの海原にすら君はいないことは分かっている。でも、俺は追いかけていないと…………もう、ここにいることすら辛くなってしまいそうで、戦っていないと、君がいないという恐怖で押し潰されそうで。

 

『隊長!今日もお疲れ様です!』

『兵隊さん、今日もお昼、食べに行きませんか?』

 

 そんな俺にも君たちは優しく接してくれる。戦うことのみでしか、震えを止めることができない俺に。そんな君らが少しずつ、俺の空白部分を埋めてくれて、何かが変わったのだろうか?

 

『すごいよなぁ、今日も死傷者ゼロだぜ』

『さすが"軍神"だよなぁ』

 

 本質は何も変わっていないーー震えを止めようとしているだけなのに、俺はいつしか"軍神"と呼ばれるようになった。まだ、あいつの背中を追いかけているのに。

 

『隊長、今までありがとうございました』

『兵隊さん、お元気で』

 

 いつしか2人は俺を追い越してしまって。それでも、俺はまだあいつを追いかけていて。まだ、俺には死神が張り付いていて。

 

『どこに行くんですか!隊長!』

『危険過ぎます!ここは待機しましょう!』

 

 孤立無援になっても、俺はあいつを追いかけて深海棲艦に向かって行く。たかが人間の反抗なんて分かりきっているのに。気づけば右腕は半分ぐらい千切れて、左脚も動かなくて、唯一の銃も弾切れで。その時、俺はどんな顔をしていたのだろう?笑ったのだろうか?泣いていたのだろうか?

 

『よかった…………!生きていて…………!』

『長門…………?』

 

 それでも、俺は生きていた。死ぬ気で突っ込んだ訳ではないが、確実に死んでしまうような行動は取っただろう。でも、生きていた。

 そして、今更気づいた。俺はあいつと一緒に死のうとしていることに。

 今の俺が君を追いかけていないとは言い切れない。でも、簡単に死のうだなんて思ってはいない。少なくとも震えは止まったから。

 

 

 ーーーー

 

 

「提督?」

 

 提督が執務室におらず、探してみれば予想通り港で海を眺めていた。彼は何か物思いにふけるとき、ここに来たがる。

 

「ん?長門か。出張から戻って来たてたのか」

「ついさっきにな」

 

 そうか、と顔一つ変えず言う提督。相変わらずこの人は表情の変化に乏しい。だが、かすかに彼の雰囲気は変わっている。

 この感覚は他の人には伝わらないだろう。

 室内は愚痴を漏らしながら執務をこなす提督であるが、ひとたび海の近くまで飛び出すとたちまち昔の雰囲気が漏れ出し、不思議な輝きを発する。その輝きは彼の強さを表し、そして彼の弱さを表している。そんな危険性を含んでいる光なのに私には眺めていたくなるほど魅力的だ。

 私はあえてゆっくりと提督のもとへ向かった。

 

「また悩み事か?」

 

 告げれば、提督なかすかに苦笑を漏らした。それからまた少し息を吐いた。

 

「まぁな。だが、それも解消しそうだ。長門の方はどうだったか?」

「こっちもぼちぼちだ。目立った動きもなくて、皆暇してるぐらいだ」

「それが一番だろう。むしろ、その暇さを分け与えて欲しいものだ」

「やはり、依頼は止まらないか?」

「そうだな。ま、今のところは呼び出されてもいないし、意地の悪い輩も長門が帰ってきた日くらいは気を使ってくれてるのかもな」

 

 少しばかり穏やかな口調で提督は告げる。

 

「そうだ。新人の広瀬っていうのはどうしてる?陸奥から聞く限り、いい話は聞いていないが」

「陸奥の話のまんまだ。あいつの人望は最悪。ようやく1人味方ができたぐらいだな」

 

 海の向こうを眺める提督の目にはどこか寂しそうだった。昔からの知り合いである以上、彼の噂を快く思っていないはずだ。

 

「それよりも心配なのは朝潮だ。身内もいなくて寂しい思いをさせてしまっているようでな…………どうにかしてあげたいのだが」

 

 眉を寄せながら、朝潮のことを我が事のように嘆いている。私もそのことはどうにかしてあげたいが…………相手が深海棲艦ならそれなりに相手できるのだが、説得というのは私の苦手分野だ。

 少し歩こう、と提督は言い並んで散歩につこうととしたとき、ちょうど2人の姿が見えた。

 古びたジャケット姿の痩身の男性と、薄紅色の和服を着た女性だ。

 私たちが足を止めたのと、提督が声を出したのは同時だった。

 

「橘さん」

 

 提督の声に橘さんも穏やかな笑みを浮かべた。

 

「おや、最近は工廠以外でもよく会いますね」

「いいことです。終始工廠で会うよりはとても健全なことだと思いますよ」

 

 なるほど、とうなずく橘さんに、私は頭を下げた。

 

「お久しぶりです、橘さん。いつもお世話になっています」

「そんな頭を下げなくても…………私もお世話になっているんですから」

 

 穏やかな声に私は思わずもう一度頭を下げた。

「おかえりなさい、長門さん」と落ち着いた声で告げたのは、傍の女性だ。

 

「元気にしていましたか?」

 

 ゆったりとした動きの中にも凛とした空気がある。前線を退いて、私たちのサポートに回ってくれた鳳翔さんはいつものように穏やかな笑顔を私に向けた。

 橘さんと鳳翔さんはそれなりに歳が離れているはずだが、不思議と2人の雰囲気は長年を共にした夫婦のようにすら見える。

 

「鳳翔さんには、艦娘になってからお世話になりっぱなしです。いつか恩を返してたいと思っているんですが、なかなか果たせなくて…………」

「大丈夫ですよ。提督から活躍のほどは聞いています。私よりも提督を支えてあげてください」

「そうですか…………でも、感謝の言葉だけは言わせてください。ありがとうございます」

 

 私の言葉に、鳳翔さんは少しながら戸惑いを見せるが、すぐに笑顔になった。

 

「本当にお2人は似てますね」

 

 私たちのことを「似てる」と言うのは珍しい。

 私は目線を鳳翔さんに戻しつつ、

 

「今日は2人揃って散歩ですか?」

「まぁ、そんなところです。明石や夕張が頑張ってくれてますから、工廠も落ち着いていて、ゆっくりとできるんです。こういう日も大事にした方がいいですね、鳳翔」

 

 そう言って橘さんは、鳳翔さんを見た。鳳翔さんがうなずき返すその動作が温かい。

 気のせいか、いつもは青白い橘さんの顔は血色よく見える。

 

「休めるときに十分休んでください。最近はひときわ痩せているように見えます。倒れてしまってはいけませんので、十分休んでください」

 

 提督の声に答えたのは、鳳翔さんだった。

 

「提督さんも最近忙しそうに見えますよ。顔色も満さん以上に悪いです。仕事もほどほどにしてくださいね」

「は、はい…………」

 

 逆に提督が心配されて、提督は動揺している。

 その傍で私は口を開いた。

 

「橘さんが頑張って働けるのは、鳳翔さんのおかげですか?」

「そんな、私のおかげではありませんよ。でも…………」

 

 鳳翔さんは、少しいたずらっぽい目を向けて、

 

「働きすぎる人は、仕事が来た途端他のことなんて忘れてしまうような人ですから、少し乱暴に言うくらいがちょうどいいんです」

「はは、頭が痛い話ですね。提督さん」

「そうですね、あはは…………」

 

 鳳翔さんにはただ優しげではなく、芯の強さが垣間見える。たしかな経験がその強さを生み出したのだろう。いつもは目元には深い光を持つ橘さんも、鳳翔さんの前では気の良い好々爺だ。

 

「今日はお互い、のんびりした日になると良いですね、提督さん」

 

 と、橘さんが言った瞬間、提督の懐から携帯電話がうるさい音を響かせた。はい、と提督がでる。どうやら、叢雲かららしい。話の内容は軽空母どもが朝っぱらから酒を飲みまくって暴れているそうだ。さすがに放っておけまい。

 

「苦労ですねぇ、提督さん」

「いつものことですよ」

 

 すると、今度は橘さんのポケットから携帯が鳴り響いた。

「おや、私もようですね」と細い目をさらに細くして笑う。

 

「せっかくですし、一緒に行きましょうか?提督さん」

「そうしましょう」

 

 提督は一礼をして私を見ると、少し不安げな目が映った。

 これから散歩をしようとしていてばかりだ。多分、そのことを気にしているのだろう。

 私はあえて明るく言った。

 

「頑張ってこい、提督」

「…………ああ」

 

 不安げな顔から提督はいつものような顔に戻った。

 見上げれば今日は冬晴れで、少し暑いくらいだ。おかげで、白い鎮守府の建物も映えて見える。そこへ向かう提督の背中はやはり頼り甲斐のあるものであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 ここは軍事会社である。軍事を行う以上油断は許されない。ましてや勤務中の飲酒なんてもってのほかだ。だからこそ、ここは飲酒に厳しい。

 

「飲んでませんよ、提督」

 

 執務室に入るなり、千歳は豊満な胸をそらして答えた。たしかに意識に問題が出てはいないようだ。とりあえず、胸の中で息を吐く。

 

「だが、叢雲から酒を飲んでいたと聞いているが?」

「私は飲んでませんよ。提督の言われたように、お酒は控えてます」

 

 ちょっと不機嫌そうな顔だ。美人な千歳は、そういう不機嫌な顔になっても、様になる。気勢がそがれてはいけない。

 たしかに千歳を筆頭に、酒飲み勢はお酒を控えてくれるようになった。が、日数を考えれば我慢できなくなったと考えざるを得ない。が、これを証明するには少し骨が折れる。

 アルコール検査器でもあればいいのだろうが、ここはそんなもん備えていない。だからこそ、自白させるしかない。

 

「本当に飲んでいないのか?」

「飲んでいません」

 

 整った顔を背けてきっぱりと答える。

 

「そうそう、最近は民間人でもアルコール検査ができるんだよなぁ」

 

 とりあえず、胸元のペンを取り出しつつ、

 

「どのくらい飲んだかまで、はっきりと分かるんだよ」

 

 何気ない俺の言葉に、千歳は少し頰を引きつらせた。

 

「もう君の息から調べてあるから飲んだか、分かるんだよ。嘘をついても、簡単にバレるよ?」

 

 ちらりと見ると、完全に動揺している千歳の目とぶつかる。

 

「…………ほ、ほんと?」

「嘘だ」

 

 冷ややかに答えた。

 千歳は何か言い返そうとしたらしいが、言葉につまり、やがてしょんぼりとした。

 

「…………ごめんなさい」

「禁酒しているわけじゃないからな?ただ、時と場所を選んでほしい。が、それすら守れないのなら禁酒せざるを得なくなってしまう」

 

 口調だけ厳格に告げて、千歳を退室させた。これでも随分と甘い。長門なら有無を言わさず酒屋を破壊するだろう。

 俺も廊下に出ると休憩所で誰かいることに気づいた。

 少し覗くと、日当たりの良い窓際で、朝潮が気持ちよさそうに眠っていた。その彼女を膝枕して、のんびりと朝潮を見つめているのは、金剛型の榛名である。

 榛名は、ときどき思い出したかのように首を動かして、窓の空を眺めて、それから海に視線を変え、再び朝潮に視線を戻す。

 

「最近、ずっと榛名といるのよ」

 

 廊下を通りがかった叢雲がそんなことを言った。

 

「朝潮がとても寂しそうだから放っておけないって。私がどうにかしてあげないといけないのに、榛名が優しそうな顔で言うから、何も言えないわ」

 

 俺は無言でうなずくだけだ。

 幸せそうな2人は側から見ればもう母と子にしか見えないだろう。無力な話だが、俺では彼女のようにできない。

 そのまま工廠へと向かおうとしたところで、反対側の廊下から足早に歩いてくる男の姿に出くわした。

 

「休日にも鎮守府に姿を見せるなんて驚いた変化だな。ワタル」

 

 皮肉をたっぷり込めて言えば、苦笑まじりに答える。

 

「人をろくでなしのように言わないでくださいよ。来なければ説教され、来たら来たで皮肉を言われれば、僕にも立つ瀬がありません」

「自業自得だ。何か問題でもあるのか?」

「新しい装備について少々。みんなは少しずつ慣れてきているようですが、那珂さんはまだなようで」

「ふーん…………それで神通が心配していたのか」

「でも、今は問題ないですよ。橘さんにも頼んで調整もしてもらいましたから」

 

 そう告げる航の顔には、指揮官としてのたしかな自信がある。武術においては俺に分があるが、こういう指揮能力は航に敵わない。

 

「頭のいいワタルのことだ。さぞ、万全な手を打ってるんだろ?」

 

 そんな皮肉を言うのがせいぜいだ。

 航は苦笑しつつも、ちょうどやってきた神通を呼び止めて、細かな指示を出した。必死に指示を聞く神通の様子はなかなか健気なものだ。やがて指示を受け終えた神通は、どこかへ駆け出した。

 

「今日は1日中いるのか?」

「すいません、それは無理です。指示を出し終えたら帰ります」

「うむ、相変わらず忙しそうだな。だが、まだ午前11時前だ」

 

 俺の意味深な発言に、航は足を止めた。

 俺は武道場のある方角を指して言った。

 

「向こうに武道場がある。1度お手合わせできるかな?」

 

 航は少し目を見開いた。

 

「そんなに驚くことか?」

「いえ、あのとき以来、もう僕と手合わせする気はないかと思っていましたけど…………」

「まさか、そんなに心の狭い奴ではない」

 

 そして、小さく笑い付け加えた。

 

「無論、俺に恐れをなして逃げ出すと言うのなら、諦めるが」

「…………そこまで言われたら、退くに退けませんね。6年ぶりの再戦、といきますか?」

「そうこないとな。海軍に引き抜かれて、体が鈍っていないことを祈るばかりだ」

 

 悠然と立ち上がった瞬間、航は告げた。

 

「30分後が楽しみです」

 

 

 ーーーー

 

 

 30分後だ。

 

「で、何が楽しみなのだ?ワタル」

 

 武道場に俺の低い声が響く。

 北風が入り込む、暖房器具もないこの武道場にやってくる物好きはいない。床に倒れている航を見つめるばかりだ。

 武道場には、服すら乱れていない俺と、息も上がって満身創痍の航が仰向けに倒れ込んでいる。

 

「容赦ない人ですね。僕には長い間ブランクがあったというのに…………」

「はは、それは負け犬の遠吠えというやつだ。言い訳する奴は成長しない、と言っただろう?」

 

 そうでしたね、と航は言い立ち上がった。

 航はそれなりに動けていたが、やはりブランクが響いたのだろう。昔のようなキレはなく、ただ俺に弄ばれるばかりだった。航はしばらく沈黙したのち、両手を上げて言った。

 

「降参です」

「6年ぶりというのに随分とあっけないな。もう少し粘ってもいいんだぞ?」

「久しぶりに手合わせしましたが…………勝てる気はさっぱりしませんよ。不意打ちすら効かなさそうです」

 

 時計を見ればまだ1時間も経っていない。やはり体力は落ちているようだ。ふと航の方を向くと、航の真剣な目とぶつかった。

 

「…………なんだ?」

「何も聞かないんですね、隊長」

「ん?君が弱くなってしまった理由か?」

「横須賀で何があったか、ですよ」

 

 武道場を去ろうとした足を止めて、俺は航を一瞥した。航の見つめる眼の奥に、こちらを窺うような光がある。

 

「そんなに聞いて欲しいのか?」

「そのつもりで、隊長は僕を誘ったのかと思ってました」

「…………まぁ、あわよくばとは考えていた」

 

 俺は出口の方を向き、

 

「だが、よくよく考えたら、話したがらない君に聞くのなら大和に直接連絡を取った方が早い」

 

 何気ない俺のセリフがどうやら爆弾だったようだ。航の顔は凍りついた。

 

「一応連絡先は持っているし、大和とは一応2年ほど顔を合わせた知り合いだ。久し振りに連絡をすれば、彼女も喜ぶだろう」

「た、隊長…………」

「と言いたいところだが、俺も忙してくてな。電話をかける暇すらない。まったくもって残念だ」

 

 俺は出口まで足を運び扉に手をかけたところで、顔を向けた。

 航はただ黙って俺を見ている。思案、混乱、困惑、などと様々な感情がごちゃまぜになっているようだ。

 少し間をおいて、俺は付け加えた。

 

「ま、君が話したくなったときに話してくれ。そのときくらいは暇を作るから」

 

 そのまま扉を開け、俺は武道場を後にした。

 

 

 ーーーー

 

 

 恥ずかしい話だが、俺はトレーニングをしているとき、不思議といろんな悩みを忘れていられる。トレーニングの内容はまったくと言ってもいいほど覚えてないが、その最中の風景だけは妙に鮮明に覚えていたりする。

 今も鮮明に覚えているのが、航が"期待のエース"と呼ばれるようになった頃だ。

 そのときは暑さの厳しい夏だったと記憶している。

 普段は多くの人たちが行き交う鎮守府もこの日は閑散としていて、平日の昼でも訓練などの予定がない限り、静かな空気に包まれていた。

 一方で、俺は暑さに構わずベンチプレスやダンベルやらと様々なトレーニングに勤しんでいた。この時期になると帰郷もする者も少なからずいるのだが、生憎俺にはそんなところはない。

 毎日のように朝8時には鎮守府の外を走り回り、勝手にトレーニング室を使う俺の姿は、大変珍しかったらしく、この頃には夏の風物詩と化していた。

 午前中に5種類ほどのトレーニングをこなし、その合間に訓練を行って、午後にはまた別のトレーニングを行う。この頃は航も一緒にトレーニングするようになり、たちまち手合わせをすることになるのが日課となっていた。

 

「すっかり夏ですね。向日葵もあんなに咲いていますよ」

 

 水を飲み干しつつ、航は穏やかに告げる。

 勝手に持ち出したバーベルを持ち上げつつ、鎮守府の庭を眺めると、太陽の光を浴びて、向日葵が一面に咲いている。

 

「…………誰か手入れしているわけでもないのに、あんなに咲くとは。妙なものだ」

「そうですね。横須賀鎮守府七不思議の一つに数えられるくらいですから。隊長がそんなにトレーニングしているのに疲れていないのも一つですよ?」

「…………ふん」

 

 あまり反応を見せない俺にも航は穏やかな目線を浴びせる。

 

「隊長はもうすぐ休暇が与えられますけど、どうするんですか?」

「…………さぁな」

「しかし、昔お世話になった人たちに会いに行くのも大事だと思いますよ?大事な人はいつまでも生きているわけではないんですから」

 

 航の言葉には重みがある。彼が父を亡くしたのは、この部隊に配属されたばかりの頃だ。

 今では母と2人暮らしの彼の心の中には、ときおりどうしようもない悲しみがあるようだ。

 

「なるほど…………"期待のエース"の言葉はしっかりとまで心にしまっておくとする」

「何ですか、それ?」

「皆がそう言っているだけだ」

「へぇ…………」

「君が、艦娘の待遇について異議を唱えたときから、その名が広まっている」

 

 言えば、航は「そんな大したことではないんですがね…………」と苦笑を浮かべる。

 艦娘は彗星の如く現れた新戦力だ。だが、その規格外の力が元々いた兵士たちにはよく映らなかったらしい。あまりいいとは言えぬ待遇を彼らはしてきた。

 そんな状況を改善せんと、上層部に直々に求めたのが、平等だ。しかし、なかなか実現せず、ときおり改善したなどと言って、少しばかり給料を上げるだけという焼け石に水の対応を行なっているのだ。

 そんな状態を一変させたのが、航である。

 自ら提督や事務関係の者にまで直訴し、持ち前の頭脳や弁舌をふるい、少しずつ風向きを変えた。得体の知れない部隊の一隊員がただ喚いているだけだと、誰も相手しなかったが、彼の篤実な性格と演説が、明らかに他の者のそれとは違う印象を与えたようだった。

 半年近くに及んだ活動は身を結び、ようやく艦娘もある程度平等に扱われるようになったのである。

 航はタオルで汗を拭き、微笑しながら言った。

 

「僕は、ただ差別されている状況がおかしいと思っただけです。僕たちよりも頑張っている彼女らが報われないことは、あまりに酷なことですからね」

「…………そうか」

 

 航は微笑を苦笑に変え、

 

「それにこの件は僕だけの功績じゃないですよ。隊長だって、やってたじゃないですか?」

「何かしたか?」

「覚えてないんですか?」

 

 必死に考えている風を装いながら、バーベルを再度持ち上げる。

 

「あれは大活躍でしたよ。最大の難関の司令官をやりこめたんですから」

 

 そう言って彼は声を上げて笑った。

 今でこそ、この鎮守府の司令官は変わったが、前任の司令官は堅い頭の中でもひときわ堅い時代錯誤な人物として知れていた。彼が話を求めたときも人を小馬鹿にした態度で薄笑いを浮かべるばかりで、まともに相手する様子すら見せなかったのだ。その司令官が言うには、「これまでの者はそんな環境であった」と。

 新しい意見に対して、過去の忍耐を例にあげるのは、思考が硬化したジジイの行動だ。議論すら成り立たない。

 さすがに気落ちした航を見て、俺はなんと思ったのか、ある行動に出た。作戦から戻ってきた際にそれは起こったのだ。

 たしか、その日は真冬。凍えそうな環境の中、艦娘たちは怯まず深海棲艦に立ち向かい、我が部隊の出る幕すらなかった。しかし、戻ってみれば司令官は俺らを褒めるばかり。艦娘など相手すらしなかった。そのときに俺は彼女らの活躍を報告したのだが、無視され褒賞を渡してきたのだ。その瞬間、俺は彼を殴り、褒賞を艦娘たちに渡したのである。無論、俺が凄まじい剣幕に遭った。除隊させられなかったのは、生身の人間の部隊で唯一深海棲艦とまともにやれる部隊の隊長だったからかもしれない。

 しかし、問題が無視できなくなったのも事実だった。その日から艦娘たちへの待遇が軟化していったのだ。

 

「隊長のすることはいっつも予測できません。トレーニングばっかりしてるかと思いきや、ヒヤヒヤするようなことを平気でやったりする」

「それはお互い様だ」

 

 交渉が難航する中、どの人もこの問題を諦めかけていたとき、友人から相談を受けた彼は、交渉役を自ら買って出たのである。その行動にさすがの俺も諌めたが、彼は突き進んだ。

 

「殺伐したこの場所にそんな理想を実現しようとしている男がいて、驚いたもんだ」

「隊長には敵いませんけどね」

「…………そんな立派なもの、俺は持っていない」

 

 小さく呟いたせいで航には聞こえなかったようだ。なんです?と聞いてきたが、なんでもない、と答えた。

 

「隊長さん!」

 

 不意に明るい声が聞こえ、俺らは顔を上げた。

 その先には、言わずと知れた戦艦、大和である。演習を終えたばかりなのだろう。

 

「やっぱりここにいたんですね」

「…………この鎮守府のエースがここに来て大丈夫なのか?」

 

 彼女は横須賀鎮守府でも旗艦を務める娘だ。その実力は折り紙つきだ。

 

「今日は早めに終わったんです。この後は暇なのでこっちに来ました」

 

 弾むような声だけで、むさ苦しい男どもの空間が明るくなる。

 ため息を吐く俺の隣で、航は苦笑まじりに言った。

 

「あんまり、隊長の名は出さないものだよ、大和。隊長は君の後輩たちに恨まれているんだ。先輩を変な奴のもとに連れて行かないでくれって」

「大丈夫ですよ、隊長さんは色々言われていますけど、信頼もあるんですから」

「…………はぁ」

「そもそも、見にこないかと初めに誘ったのは隊長さんじゃないですか」

 

 そんなことを言われ、俺はいささか返答に窮する。

 

「それよりも隊長さんは相変わらずハードなトレーニングをしてますよね。大丈夫なんですか?」

「その辺のヤワな輩と一緒にしないでくれ」

「でも、巷では脳筋って呼ばれているんですよ?」

「構わん」

 

 堂々と言えば、大和は呆れ顔になる。

 その横で航はすました顔で口を挟んだ。

 

「大和、これでも隊長は頭もいいんだ。ガムシャラにトレーニングしているように見えて、かなり効率的なトレーニングになっているんだぞ?」

「本当ですか?」

「ああ、だから隊長はバカと言うよりも頭脳の使い道がズレているだけなんだ」

「なんだかすごいですね」

 

 2人してバカにしているようにしか聞こえないが、この際不問にしておく。

 俺はバーベルを置いて、一息つくことにした。

 

「もう終わりでいいんですか?」

「いや、君と手合わせしようかと、頼めるか?」

「はい、402敗に1敗加わってしまいますが、相手しましょう」

「…………ふっ」

 

 2人は間をおいて立つ。

 そして、大和は側からそれを見守った。

 

「どうする、ハンデはいるか?」

「いいえ、今日はハンデなしでお願いします」

 

 真剣な顔で言われ、いささか当惑した。

 

「なんだ、やけに自信があるようだな」

「いえ、さすがに女性の前でハンデを貰うのも気が引けますから」

「ふむ、なら調子づかせたらダメだな」

「あ、本気出さないでくださいよ?」

「…………戦いに本気もクソもあるか。さぁ、こい」

「ええ、いきますよ!隊長!」

「お2人とも頑張ってください!」

 

 明るい声が鎮守府の端で響く。そんな温かい雰囲気の中、一緒に過ごすときは意外と俺は好きだったのかもしれない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 我が部隊が結成されて4年目からの秋。

 それが軍人時代、俺と航が手合わせをした最後の試合だった。520連勝がついに途切れた瞬間でもあった。

 9月と言えどもまだ夏の暑さが残っている時期だ。

 昼間は日差しがまだまだ強く、ときには炎天といっても過言ではないほど照りつけてくる。それでも日が暮れると気温が下がって過ごしやすくなるからまだマシだろう。

 いつものように航と向かい合いつつ、俺は声を響かせた。

 

「今日は動きは随分と緩慢だな、ワタル」

 

 戦況は、俺が守り一辺倒ながらも危なげなくさばく一方、攻撃ばかりする航にはすでに余裕がない。いつもは慎重な戦い方をする航にとっては珍しい。普段は、涼しげな顔をしながら攻める機会をうかがい、隙あらば攻めてくる航が、この日は精彩を欠いている。

 

「最後の最後に勝利を得たいと攻め急いでいるのか?」

 

 航を弄びながら告げる。

 

「残念ながらそういうわけにもいかなさそうだ。最後の日だというのに大和がいないのも寂しいな」

 

 航は俺の言葉に少しも反応せず、攻めてくる。やがて距離を置いて呟くように言った。

 

「…………隊長、あなたに話さなければならないことがあります」

「劣勢の言い訳なら聞かないぞ」

 

 まだ軽口を叩くオレに、航は迷いのない澄んだ目を向けた。しかし、その目の奥には俺を気遣うような、妙な陰りも見える。

 彼が冗談を言おうとしていないと悟り、俺は軽口を叩くのをやめた。

 

「…………大和のことなんですけど」

 

 大和、の言い方に何か引っかかるものがあった。

 その瞬間、俺はすべてを直感した。が、あえて口には出さなかった。それを航はすべて吐き出した。

 付き合い始めたんだ、と。

 寒さを感じないはずなのに、なぜか冷える夕暮れだと感じた。

 

「人に言いふらすことではないと分かっていますが…………隊長だけには伝えたいと思って…………」

「別に俺にいう必要もあるまい」

「大和は…………」

 

 一瞬言葉を詰まらせた航は、すぐに語を継いだ。

 

「大和はずっと、隊長のことが好きでしたから」

 

 航の顔に日没寸前の夕日が差していた。

 

「僕も応援するつもりでした…………でも」

「…………」

 

 航がいつのまにか肉壁していた。そして、無駄のない動きが俺を掴み、そのまま俺は宙を舞った。

 

「でも、隊長は大和に目を向けなかった」

「…………」

 

 大和に目を向けなかった、とは少し驚いた。だが、客観的に自分を見ればそう言われても文句は言えない。

 航は俺を起こして、向き合った。

 

「隊長、僕は大和が好きです」

 

 決然とした声であった。

 

「そして、隊長は僕の尊敬する人です。そして、友人だと思っています。だから、伝えないといけないと思ったんです」

 

「暑苦しい奴だ」と、皮肉を言ってやろうとしたが、なぜか言葉にならなかった。

 どれほどの沈黙があったかは分からない。だが、俺は抑揚のない声で告げた。

 

「めでたいことだ」

「隊長…………!」

 

 航の顔から緊張が解けたのが分かった。

 

「隊長なら祝ってくれると…………」

「君のことじゃない」

 

 一息おいて俺は告げる。

 

「俺もちゃんとした人の子だということが証明されたことを祝ってるのだ」

 

 周りの輩は少し俺を人外な奴だと思っているらしいからな、と付け加えた。この試合が初めて俺の集中が途切れた瞬間でもあった。

 

「本当にめでたいな」

 

 秋は日が暮れるのが早い。すでに人気のない鎮守府の片隅に夜の気配が訪れていた。

 

「まぁ、こんな戦い方をする男に、大和を任せるのは問題ないだろう」

「隊長…………」

「とにかく、めでたいことだ」

 

 ようやく伝えることができた言葉だった。

 どの言葉を継ぐのが正しいのかは俺には分からない。だが、俺はこの真っ直ぐな目を持つこと男を祝福しようと、半ば思ったのだ。

 美しい艦娘を前に、俺に好意を向けられていたことなど微塵にも気付かず、ただ戦いに明け暮れていた俺に比べれば、バカ真面目で篤実な彼こそ、大和を守ってやれる男だ。そんな思いすら出ていた。

 視界の片隅で、航はただ黙ってゆっくりと頭を垂れたのが見えた。

 

「君とはお別れだな」

 

 俺は静かに告げた。

 

「もうこの冬には君は指揮される側から指揮する側になる。俺もこれから忙しくなっていくだろう。いつまでも遊んでいられない。大和もそんな暇、なくなってしまうだろう」

 

 再び航に目線を戻せば、初めて会ったときよりも大きく成長した姿が見える。かすかに感慨深いものがこみ上げたが、俺は言葉にしなかった。

 まだ何かを告げようとする航を無理矢理追い返し、建物の中に入っていったのは、日もとっくに暮れた真夜中であった。

 ある部屋の前を通ろうとすると、艦娘と何人かの軍人が宴会を繰り広げていた。これは艦娘が仲良くやっていけていると喜ばしく思えばいいのか分からないが、ビール缶をいたずらに重ねるのはいつものことだし、そこに俺が加わらないのもいつものことだった。しかし、この日の俺はその風景をやけにじっと眺めていた。

 

「あら、珍しいですわね」

 

 能天気な声を出したのは、この鎮守府でも変人と名高いお嬢様であった。熊野という艦娘は、俺らと出撃することが多いという偶然だけを理由に、俺のことを友だと言ってはばからない奇人だ。

 

「今日は暗い顔ですわね。どうしましたの?」

「どうしたも何もない。この顔は生まれつきだ」

 

 愛想のかけらもなく答え、俺は騒ぎをあとにした。

 

「ほら!酒が足りねぇぞ!」

 

 そんなどんちゃん騒ぎを聞こえないふりをして、俺はいつものようにトレーニング室に足を運んだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 工廠の片隅で、橘さんと明石が将棋盤を挟んで座っている。

 夜にちょっと工廠に用事があって足を運んだ俺は、そんな珍しい光景を見つけて足を止めた。

 古びた将棋盤を挟んで、橘さんと明石が向かい合う姿はどこか微笑ましい。父と娘が久しぶりに1局指しているようだ。

 

「あ、提督。お疲れ様です」

 

 明るい声とともに明石が手を挙げる。そんな様子に俺は些か当惑した。

 

「将棋か?」

「はい」

 

 盤上には様々な駒が入り乱れている。

 

「少し部屋を整理したら出てきたものでしてね、暇ですし1局指そうという話になりました」

「久し振りですよね、橘さん。もう、かれこれ100戦はしましたよね?」

「何を言っているんだい、明石と指したことは一度もないでしょうに」

 

 明石の笑い声に、橘さんは微笑を返す。

 機械バカ同士の会話は俺に分かることなど1つもない。真面目に関わるだけ疲れるので、適当なところで話題を変える。

 

「最近は橘さんに助けてもらってばかりで、本当にありがとうございます」

「いえいえ、私は別に何もしてませんよ」

 

 細い指で銀を動かす。

 

「私には子どもがいませんから…………こう言っては悪いかもしれませんけど、提督さんを見るとなんだか息子を持った気分になるんですよ。今度は2人で釣りでも誘おうかと思ってました」

「嬉しい限りです。そのためには、まずはお互い、暇なときを見つけないといけませんね」

 

 俺の言葉に橘さんは苦笑する。

 

「なるほど、仕事に追われている状況では、招待するのも応じるのもできませんね」

「補佐ができたのに、依頼はそれ以上に増えているのが現状です」

「そういえば、その補佐の人は結構頑張ってらっしゃるみたいですね」

 

 口を挟んだのは明石だ。

 

「たまにこっちにやって来たりしますよ」

「多分、那珂の調子が良くないからだろう。普通に考えれば、ライブとやらを控えれば万事解決なのだろうが、やりたいことをやるのは悪いことじゃない。多分、ワタルもそれを理解してるのだろう」

 

 俺がそう告げれば、2人はそれぞれの笑みを浮かべる。少し不気味だ。

 

「…………?」

「いやぁ、なんだかんだ言いつつ、提督はヒロさんを心配しているんですね」

「あったりまえだ。あいつが働いてくれんと俺にツケが回ってくるんだからな。そもそもなんだよ、そのヒロさんというのは」

 

 俺の抗議に構わず、今度は橘さんが口を開く。

 

「提督さんのおかげで広瀬さんが変わったのも事実なんじゃないですか?」

「まさか。俺は何もしていませんよ」

「食堂で殴っておいて、何もしていないとは大した度胸ですねぇ」

「…………」

 

 ニコニコと笑いながら物凄いことを言う。

 

「まぁ、辛辣になるのも考えものですよ」

「広瀬さんは時間通りに来て、時間通りに帰る。別になんの変哲も無いことですから。おまけに彼が優秀であることもたしかですからね」

 

 意外な言葉が出てきた。

 橘さんに映る航は、俺のとはだいぶ違うらしい。

 

「へぇ…………橘さん、随分とヒロさんを評価してるんですね」

「そういうわけじゃないですよ。っと、油断していると、角をもらいますよ」

 

 橘さんの手がふわりと動いて、明石の角を盤上から取り去った。

 ああ!と叫ぶ、明石にも容赦なく橘さんは攻める手を止めない。

 っと、2人の将棋に見とれている場合じゃない。

 俺は挨拶をして、工廠を後にする。

 今日も護衛や共同作戦、応援要請など様々な依頼がやってきている。そんな地獄へと向かう道中に駆逐艦寮があるのだが、朝潮の部屋まで来て、俺は足を止めた。中から、澄んだ歌声がかすかに聞こえたからだ。

 

「ねーんねん、ころーりよ、おこーろりよー」

 

 懐かしいようなその旋律は、言うまでもなく子守唄だ。

 大きな声ではない。しかし、不思議とこちらも安らぐ深い響きがそこにある。

 そっと部屋に足を踏み入れると、榛名が付き添うようにして、ベッドの横にちょこんと腰掛けている。どうやら歌っているのは榛名のようだ。

 

「ぼうやはよい子だ ねんねしな」

 

 聞いているとこちらも眠ってしまいそうである。

 俺は入口脇で足を止めたまま、その唄に耳を澄ませた。

 全て歌い終わったところで、榛名は少し息を吐き、そっと目を開けた。それと同様に俺に気づいて少し驚いた表情を見せた。

 

「て、提督。すいません。朝潮ちゃんが眠れないと言うので…………」

「いいよ。俺も思わず聞き入ってしまった。朝潮もよく眠れているようだし」

「昔はよく歌ってものでして」

 

 ふいに榛名は手を口に当てた。肩が少し揺れているということは、笑っているのだろう。

 

「やっぱり、この歌は効果は抜群のようです。すぐに眠っちゃいました」

 

 榛名は視線を朝潮に向ける。

 

「1人は寂しいものですからね…………」

 

 その声には、憂う気持ちが込められていた。

 俺が答えるよりも先に、榛名は立ち上がった。

 

「いつも遅くまでご苦労様です。また明日も子守唄を歌ってあげたいのでここに来てもいいでしょうか?」

「ぜひそうしてくれ」

 

 ありがとうございます、と言って、榛名はそのまま部屋を出た。

 ベッドの上には朝潮が穏やかな寝息をたてている。榛名たちが気遣ってくれるおかげで、前よりも翳りのある表情は見せなくなったが、それでも朝潮が寂しがる状況は改善できているとは言いがたい。

 それぞれには様々な境遇がある。

 俺はただ寂しがる朝潮を見守ることくらいしかできない。

 提督には武器がない。

 昔のように銃を持って様々な修羅を打破して来た。しかし、提督の身である今はそれはない。あるのは、ただこの部屋に訪れるこの足ぐらいだ。まったくもって心もとない。

 その後、執務室に戻り仕事を再開した。すべての執務を終えたのは、夜9時頃だ。今日も遅くなるかもな。

 と、思っているとソファに長門を見つけた。

 思わずついたため息は実は安堵のため息だ。こんな夜だと、このビッグ7を見つけるとなぜかホッとする。表面には絶対に出さないが。

 

「疲れているようだな、提督」

「…………ああ、疲れてる」

 

 そう告げ、ソファに腰をおろせば、長門はすくっと立ち上がり、コーヒーの準備を始めた。

 

「随分と依頼が来ているらしいな。叢雲も言ってたぞ。さすがに提督も参ってるんじゃないかって」

「観察眼に優れた部下がいて嬉しい限りだ。長門も少しは見習ってほしい」

「そうか?なら、わたしが貴方を見るたびに神妙な顔をして"大丈夫?"と言ってやろうか?」

「やめてくれ、想像しただけで気味が悪い」

 

 ハハと能天気な笑い声をあげながら、長門は俺の前に一杯のコーヒーを置いた。どんなに苦しいときでも、彼女が弱音を吐いたところを俺は見たことがない。この点は俺が及ばないところだ。

 胸の中で感心しつつ、コーヒーを飲めば、身震いしたくなるような甘さが口の中に広がる。

 

「…………相変わらずの甘さだな」

 

 絶句とともに告げれば、長門は勘違いして嬉しそうに笑う。

 長門特製のコーヒーが、この鎮守府名物の"長門ブレンド"だ。

 せっかくだから作り方を教えよう。どこにでもあるコーヒーカップを1つ用意して、そこに市販のコーヒー粉末を適量入れる。そこに信じがたい量の砂糖を加え、お湯を注げば完成である。1杯飲めば、たちまち積み重なった疲労が吹き飛ぶ品物だが、たまに健康まで吹き飛ばすので注意が必要だ。

 そんな劇薬とも言える飲み物を美味そうに飲む長門に呆れつつ、俺はソファにもたれかかった。

 

「長門の方も忙しそうだな。何かあったのか?」

「敵の本拠地らしきものが発見されたんだ。信憑性は薄いがな」

「それで連日の出撃か。恐れ入る」

「横須賀だけに始まったことではない。日本全国、深海棲艦の動きが活発になってきたせいで大忙しだ」

「どうりで依頼が増えるわけだ。熊野も疲れ気味だしな」

 

「呼んだかしら?」とふいに降ってきた声に、振り返ると熊野がいた。

 

「まだ、ここにらしたのね」

 

 そう言いながら、静かにソファに腰をおろした。長門が「お疲れさん」と言いコーヒーセットを取り出した。熊野にも"長門ブレンド"を振る舞うつもりなのならどこかで止めなきゃいけない。

 

「そう言うのなら君も何故ここにいるんだ?」

「別に気まぐれですわ」

「気まぐれ、か」

「ええ」

 

 まったくもって自由な重巡だ。

 

「それにしても、最近の話題が深海棲艦のことばかりでよろしくないですわね」

「ああ、そうだな」

 

 熊野は時計に目をやる。

 

「何か用事があるのか?」

「いえ、最近は夜更かしが多いから早めに寝ようと考えていたところですわ」

「…………なら、ここに来なきゃいいだろ」

「毎日、提督の顔を見るようにしてますのよ」

 

 思わず俺が絶句しているところで、コーヒーカップを持った長門が出てきた。

 

「熊野、コーヒーいるか?」

「ええ、いただきますわ」

 

 あっさりと答える熊野を見て、慌てて俺は止めようとしたが、少し怪訝な顔をした熊野は、

 

「大丈夫ですわ。コーヒーを飲んで眠れないと言うわけでもないですの」

 

 と応じて劇薬を口につけた。とたんに凍りつく。多分、3秒は経って、カップを机に置いた。

 

「…………こ、これは何ですの?」

「何と言われても、コーヒーだが?」

 

 そう言いながら、長門が平然と飲み干す姿を見て、熊野はかすかに怯えたようだ。

 

「明日も早いし、私は戻る」

 

 と、長門は足早に去っていった。とんでもない劇物を残して。

 

「て、提督はこれを飲んでますの?」

「まさか、飲めるわけないだろ」

「長門さんは…………?」

「大好物だ」

 

 そう言い、俺はげんなりする。さすがの熊野と言えどもこのコーヒーの甘さには言葉を失うらしい。

 紅茶を急いで淹れて、口直しをした熊野は思い出したかのように言った。

 

「そう言えば、聞きましたわよ。とうとうやらかしましたわね」

「勘違いしているようだが、俺がたまたま手を滑らせたら、偶然そこにワタルがいただけだ」

「あら、そうでしたの」

 

 冗談が通じてねぇ…………

 

「でもワタルさんもまともになったんじゃないかしら?来ない来ないと苦情だらけでしたけれども、最近だとこの時間でも鎮守府で見かけるときもありますわ」

「まともになってくれないと俺が困る」

「それもそうですわね」

 

 肩をすくめながらら熊野はつぶやく。くたびれた俺はボリボリと頭を掻きながら天井を見上げると、何気ない様子でそのまま言葉を継いだ。

 

「色々言われてますけど、ワタルさんも大変ですわよね。せめて大和さんが一緒にいれば少しは変わっているはずなのでしょうけど…………彼女、すっかりおかしくなってしまったと聞いてますから…………」

 

 一瞬熊野が何を言っているのか分からず、天井をしばらく眺めていたが、それからゆっくりと首を動かし、熊野を見返した。

 その途端、熊野は自分の失言に気づき、口を手で覆ったが、それが俺の聞き間違えではないことを示していた。

 

「どう言うことだ?」

 

 俺は熊野を見たまま、静かに、できる限り静かに聞いた。

 

「大和がおかしくなった?」

「いえ、その…………」

「ワタルと大和の間に何かあったことは察していた。君がそのことを知っていることも、分かっていた。…………だが、さっきの言葉は聞き捨てできないぞ」

 

 ゆっくりとソファから身を起こす。

 重巡は明らかに狼狽えて、目をキョロキョロとさせていたが、俺が滅多に見せない険悪な目で睨み付けると諦めたかのようにため息をついた。

 

「別に隠していたわけではありませんわ。わたくしも横須賀鎮守府に顔を出したときにたまたま噂話を聞いただけでして、詳細は知りませんのよ」

 

 決まりの悪そうに顔を下げてから、

 

「そこでの話ですと、大和さんは横須賀鎮守府の旗艦を務めるほどの実力者でしょう?なんでも火の車の勢いで働いているらしくって、大きな作戦になると、何日でも泊まり込んで家に帰らないらしいですの。艦娘としては非常に優秀なのでしょうけど、それだと旦那さんもたまったもんじゃないのでは、と言う話ですわ。旦那さんが嫁さんを置いてここに逃げてきたのも、分からなくはない、と」

 

 熊野の言葉が、いまいち実感できない。トンネルのように言葉が頭をすり抜けていく。

 

「…………ワタルと大和は、実質別居状態なのか?」

「ええ、大和は今も横須賀鎮守府で働いていると言う話ですわ」

 

 目の前が真っ暗になった気がした。必死に頭の中を整理しようとしても、どんどん散らかって行く。

 

「かつての大和さんやワタルさんを知っている人はみんなその話を知っていますわ。知らないのは、貴方くらいですわ」

 

 半ば呆然としているうちに、熊野はもう夜も遅いと言って執務室を去っていった。

 しかし、俺は未だにその事実をうまく受け止められないでいた。

 

 

 ーーーー

 

 

「ひどい顔よ」

 

 聞き慣れた声が降ってきて、俺は顔を上げた。言うまでもなく叢雲だ。

 

「だから前も言っただろう、ひどいのは顔ではなくて疲れだって」

 

 はいはい、と言いながら、手際よく書類をさばく。

 パソコンのモニター上には艦娘の名前が並んでいる。ソファの上でしばらく呆然としていたが、それではダメだと仕事に取り掛かろうとしたが、思考はまとまらず、ただ無駄に時間を過ごしただけだ。

 

「ワタルはまだいるか?」

「さっき、工廠に向かってたから、すぐに戻ってくると思うけど」

 

 そうか、と答えて俺は立ち上がった。

 

「もし、ワタルを見かけたら連絡するように言ってくれ。話したいことがある」

 

 言えば、叢雲は何かを察したかのように、何も言わずに頷いた。

 そのまま執務室を出ようと扉を開けたところ、人影に出くわした。

 小さな子どもを連れた、初老の女性。軍事会社という慣れない空間で戸惑ったように立ち止まり、俺を見つけて丁寧に頭を下げた。

 俺が思わず足を止めたのは、その顔に見覚えがあったからだ。女性は遠慮がちに言った。

 

「すいません、広瀬航はおりますでしょうか?」

 

 俺はほとんど条件反射で頷いた。

 

「広瀬しずと言います」

 

 落し物を拾うのかというくらい深々と頭を下げた女性は、叢雲に問われるままに丁寧に付け加えた。

 

「広瀬航の母です。こんな時間に申し訳ありません」

 

 俺は合点した。航の母には軍人時代に何度か会ったことがある。だが、あの頃に比べると髪は随分と白くなっていた。

 

「今は少し用事があってここにはいませんが、すぐ戻ってくると思います」

「本当にすいません。この子がどうしてもパパに会いたいと言ってぐずるものでして」

 

 航の母が、右手に引いた女の子に優しげな目を向けた。

 

「渚ちゃん、ご挨拶は?」

 

 問われた女の子は祖母の足にしがみついたまま、じーっと俺を見つめている。目が真っ赤なのは泣いていたからなのだろうか?今は好奇心の方が強いらしく涙は見えない。物怖じしない性格のようだ。

 祖母に促されるまま、少女は首だけ少し動かして「ナギサだよ」と言った。慌てて自分も自己紹介をすると、少女は目を見開いて告げた。

 

「知ってる!パパのお友達」

「…………!?あ、ああ。よく知ってるな。パパの友人だ。よろしく」

 

 しゃがんでそう告げると、なぜか少女は驚いて祖母のスカートの後ろに隠れた。「なに怖がらせてるのよ」と叢雲の声が降ってくる。そのタイミングで、廊下の向こうから航が歩いてくるのが見えた。

 父の姿を見るなり、少女は「パパ!」と叫んで飛び出した。

 

「渚、どうしてここに?」

 

 驚きながら、駆けてきた少女を抱き上げる航の姿は父の姿である。そのまま女の子を抱えて歩いてくると、母の姿を見つけてさらに驚く。

 

「お、お母さんまで…………」

「渚ちゃんがどうしても会いたいと言ってね」

 

 柔らかな苦笑を浮かべつつ、

 

「最近は帰りが遅くなってたから渚ちゃんも随分と我慢していたみたいだけど、今日はどうしても会いたいって聞かなかったんだよ」

 

 航はそっと娘を首から話そうとしたが、娘は娘でしっかりとしがみついて離れようとしない。

 

「こら渚。わがまま言っちゃダメって言っただろう」

「わがままじゃないもん」

 

 少女は父親の首にしがみついたまま、離れない。

 

「ナギサ…………わがままじゃないもん!」

 

 一層力を入れてしがみつき、声はほとんど涙声だ。

 航は戸惑うが、それでも諭すように言った。

 

「渚、パパはまだ仕事があるんだ。だから…………」

「心配するな。パパはちょうど今、仕事を終えたところだぞ」

 

 口を挟んだのはまさかの俺だった。突然の言葉に航と母と叢雲が振り返る。先ほど俺に怯えた少女までもが泣き腫らした顔を少し俺に向けた。

 

「ワタル、君は父だろ?訳の分からんことを言う暇があったら、娘のそばにいてやれ」

「隊長…………でも」

「仕事がなんだ。ほかにもっと大事なことがあるだろう」

「隊長、いつもと言っていることが逆ですよ」

「知らん。少なくとも残りの仕事は俺が変わってやれるが、娘のそばにいることはさすがの俺でも変わってやれん」

 

 無茶苦茶な俺の言葉に、叢雲は呆れ顔だ。

 航は困った顔を見せた後、苦笑を浮かべ、母へ目を向けた。

 

「お母さん、迷惑かけてごめん。もうちょっと時間がかかるから、渚は僕が連れて帰るよ。先に帰ってて」

 

 息子の言葉に母は心配そうな顔をする。

 

「隊長とも話があるんだ。連れてきてもらいながら、勝手なことを言って悪いけど」

 

 口調は穏やかに、それでもはっきりと告げる息子に、母もそれ以上は反論しなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

 夜空に月が出ている。

 冬の空気は乾いているおかげで、鮮やかな月光が地上に降り注ぐ。

 いつもの港へ足を進める俺のすぐ前方にいるのは、娘を背負った航だ。暗闇の中で見ると誘拐犯にも見えなくもないが、れっきとした親子だ。娘の渚は、疲れがきたのか眠ってしまい、今は父の背中で心地よさそうに寝息を立てている。

 

「冴えない顔ですね」

「…………誰のせいだと思う?」

 

 憮然と答えても、航は苦笑するばかりだ。

 ようやく港に着くと、海の波が月光を受けて輝いている。航の顔を見れば、その額にうっすらと汗をかいている。

 

「3歳にもなりますとおんぶも大変ですよ」

 

 そんな呟きが漏れる。

 俺が隣に来ると航は苦笑まじりに言った。

 

「もう勘弁してくださいよ」

「は?」

「娘の前ですし、殴らないでくださいね」

「随分と根に持つんだな」

 

 そのまま地面にあぐらをかく。航の膝元には無論娘がいる。

 まだ季節は冬。夜になれば息が白くなるほど寒い。

 俺は眼前の景色を眺めつつ、大きく息を吐いた。

 すでに時刻は10時を過ぎている。

 航が仕事を終えたのは、9時半頃で、渚はすっかり眠ってしまっていた。航は手慣れた動作で背負いあげ、3人でここまで来たというわけだ。

 

「…………色々と聞きたいことがある」

「はい」

 

 ようやく出てきた言葉に、航はかすかな声で答えた。

 

「大和がおかしくなったのという話を聞いた。本当か?」

「はい、本当です」

 

 ふいに頭に舞い降りたのは雪だ。風に舞う雪が、月光を受けて青白く光り、幻想的な景色となった。

 見惚れるように眺めながら航は言った。

 

「隊長にだけは、伝えないといけませんでした。でもできなかったのは僕の弱さです」

 

 俺は答えない。そんなことはとても小さな問題だ。

 

「…………嫌な話になります」

「めでたい話なんて期待していない」

 

 しばらく沈黙したのち、海に目を向けたまま、航はそっと口を開いた。

 

「隊長の知っての通り、僕と大和は横須賀鎮守府に勤めていました。人材も兵装も最高レベルで、大きな作戦は必ずそこで行われるような鎮守府です。もちろん楽な場所ではありません。でも、やり甲斐はありました。忙しくても幸せだと思える毎日で、渚も産まれました。今思えば1番幸せな時期だったかもしれませんね」

「俺に手紙を送ってくれた頃か」

 

 小さな命を大事そうに抱え込む大和と航の写真は、今も俺の机の引き出しにおさめている。無限の輝きと可能性を秘めた家族が、小さな1枚の中に最高の笑顔で写っている。

 

「大和も、渚が産まれて1年は育児休暇を取りましたけど、そのあとはいつも通り第一線に戻りました…………」

 

 でも、と航は眉をゆがめた。

 

「僕の気がつかない場所で、大和はいつのまにか少しずつ追い詰められていたんです」

 

 ふいに海からぽちゃんと音が聞こえた。

 どうやら魚か何かが跳ねたらしい。

 

「育児休暇と簡単に言いますけど、今の軍事の世界は日進月歩。1年ぶりに戻ってみれば、あっという間に最新の装備や作戦ができて、自分のものは全て古いものになっています。でも、立場は新人というわけにもいかないので余計にプレッシャーがかかったんでしょう。ただでさえ過酷な環境なのに、そのプレッシャーは大和にはとてもきつかったかもしれません。不安や焦り、苛立ち、そう言ったものが彼女の心を蝕んでいったんです。そのことに、大和自身気づいていなかったと思います。だから、誰にもそんなそぶりを見せませんでしたし、僕自身も気づかなかった。そんな時、現場復帰してからずっと旗艦を務めた作戦中に、彼女は体調を崩して1日だけ休んだんです」

 

 航は言葉を切る。

 目の前には雪がはらはらと舞い上がる。

 

「休んだ次の日、病み上がりをおして出向いた彼女に向かって1人の隊員が言ったんです。"命を懸けて戦うのが艦娘の務めじゃないのか"って。たった1日休んだだけですよ?でも、隊員は罵倒したんです。お前に旗艦の資格はない、早く変われって」

 

 急に顔の血の気が下がった気がした。

 

「その隊員を筆頭に、何人かが旗艦の交代を申請して、夜の会議で、大和が作戦の艦隊から外されることが決定しました。ずっと休まず、必死になって戦った作戦からいとも容易く外されたんです。その日の夕方、鎮守府内で見た大和は、今まで見たことがないほど真っ青な顔でしたよ。大丈夫かって言っても、彼女は抜け殻のように乾いた微笑を浮かべるだけ…………」

 

 視線を落として、語を継ぐ。

 

「その日以来ですよ、大和がおかしくなったのは。毎日鎮守府に泊まり込んで、ほとんど家に帰ってこなくなりました。いつも海を駆け回り、まるで何かに追われるかのように命をすり減らして戦うようになったんです」

 

 深いため息が漏れた。

 

「…………いつそうなったんだ?」

「1年半前ですかね、まだ隊長が現役で戦っていた頃」

 

 1年半前…………。

 その当時、俺は艦娘との共同作戦も少なくなかったが大和と共に戦うことは一度もなく、それどころか顔すら合わせられていなかった。多分、作戦が違ったのだろう。

 

「家に帰ってくるのは週に2回。着替えを取りに来るときだけ。どんなに忙しくても欠かさなかった渚の保育園の迎えもまったくしなくなってしまいました」

 

 俺は青白い顔で海を駆け回る大和を想像しようとしたが、うまくいくわけがない。

 

「最初は一時的なものだと思いました。辛い経験のせいで我を忘れてるだけって。だからぼくが仕事を切り詰めながら、渚の世話をしていたんです。でも、2ヶ月が経っても大和は元に戻るどころか、ますますひどくなっていくばかり。鎮守府内で話しかけても上の空で、一度病院に行こうって言ったけど、虚ろな目で『大丈夫』と言うだけ…………そうこうしているうちに、僕の立場も難しくなっていく。渚の迎えやご飯の支度でどうしても早く帰らなければならないんです。そんな状態で提督が務まるはずもない…………ある時、他の提督から言われたんです。『育児の片手間で、提督が務まるのか』ってね」

 

 航の口元に自嘲的な笑みがあった。

 

「それまで築き上げてきた信頼なんてあったもんじゃないですよ。渚が熱を出して帰るたびに、無責任なやつだと罵倒されました。嫁は必死に戦っているのに貴様はサッサっと帰る。子供が生まれてから貴様はダメになった、と面と向かって言われたこともあります。そして…………」

 

 航は申し訳なさそうな目をこちらに向けた。

 

「僕は提督を辞めされました。今まで指揮してきた作戦が水の泡です。そのせいで隊長の部隊は壊滅寸前に陥って、隊長は死にかけた…………」

「俺が死のうがどうでもいい。大和は君の苦境に気づかなかったのか?」

「分かりません。でも…………」

「元の大和には戻らなかったんだな」

「戻らなかっただけじゃありません」

 

 航の声はかすかにだが震えていた。

 

「去年の末の話です。渚が風邪をこじらせてひどく弱った時期があって…………何日か仕事を休んで渚のそばにいたんですけど、大和は1日も帰って来ませんでした。もともと僕がそばにいれば、あまり泣かない渚が、そのときばかりはママに会いたいって泣き叫んで、鎮守府に連れて行くことにしたんです。少しくらい大和に会う時間があるだろう、と。…………でも、それですら会えなかった」

 

 航の手が伸びて、娘の頭を撫でた。

 

「知り合いの艦娘から連絡とってもらったら『今忙しい』って、返ってくるだけ」

 

 深いため息が聞こえた。

 

「その夜、熱にうなされながら、いつまでも泣いている渚を見て、決めたんです。このままではダメだ。渚のためにも実家に戻ろうって」

 

 航は痛々しい微笑を浮かべた。

 

「そうして、僕は逃げてきたんです…………」

 

 声が途切れた。

 あれほど降っていた雪もいつのまにか止んでいた。

 

「…………隊長」

 

 再び淡々とした声が聞こえた。

 

「昼も夜も戦い続ける大和を見て、みんな何と言ったと思います?『立派な艦娘だ』ってね」

 

 乾いた笑い声の中にはただ痛々しい感情が込められていた。

 

「…………狂っているんですよ」

「ワタル…………」

「艦娘は兵士は、命懸けで戦うべきだという。今のこの考えは狂っているんですよ。兵士が命を削り、家族を捨てて戦うことを美徳とする世界。夜も眠らずボロボロになるまで深海棲艦と戦うことが正義だという世界。艦娘?バカを言わないでほしい。僕たちも艦娘もみんな人間なんだぞ!…………それでも人々は平然と中傷するんです。夜に駆けつけなかった人に対して、なぜ来ないんだと声を上げる。みんな狂っていて、しかも自分が正しいと信じている。違いますか?隊長」

 

 血を吐くかのように言葉を継いだ。

 大声ではないが、それは間違いなく激昂だった。

 にわかに慄然としたのは、脳内に朝潮の姿を思い浮かべたからだ。

 彼女はもうどれくらい家族と会っていないのだろう。姉妹に会わせられないのは、何でだ?…………その理由を思いついたとき、俺は戦慄した。いつ何時でも大丈夫だと笑う朝潮の姿に、気づかぬままあぐらをかいている俺が見える。急に今この鎮守府に置かれている状況が、とても際どいバランスで成り立っているように思えた。

 

「無理が通らないのなら、押し通すまで…………」

 

 無意識のうちにその言葉をつぶやいた。

 

「面白い言葉だよな。周りは俺らが何をして、どこにいるのか何も知らない。だから何だ?君はいつも自分の良心に従って、文字通り無理を押し通して、やってきてじゃないか」

 

「俺らはそうやってきただろう?ワタル」

 

 いつのまにか俺を見つめていた航の目には涙が浮かんでいた。

 

「…………相変わらずですね、隊長」

「三つ子の魂百まで、君も変わっていない」

「僕も?」

「伊達に君と手合わせしてきたわけじゃない。君はいつも俺に転がされていたが、攻める手には少しも陰りは見えなかった。つまり、君はこの程度で屈するようなやつじゃない」

「隊長が言うと、無理矢理なことでも説得力があります」

「俺だって、無理矢理押し通した人間だ」

「あの日、提督を殴りつけたようにですか?」

「ああ」

 

 航は大きく笑った。それから膝元の娘を背負いあげた。

 

「行くのか?」

「渚をいつまでも夜風に当たるわけにもいきませんから。明日も早いですし」

 

 歩き出そうとした瞬間、俺は航を呼び止めていた。

 

「航、1つだけ言っておく」

 

 風邪が吹き、雪が夜空に舞う。

 

「また、手合わせしよう。そのくらいの時間は取れるはずだ」

 

 それが俺にできる精一杯の励ましだった。

 

「…………戻ってきて正解でした」

 

 強い風にかぶさるようにかすかな声が聞こえた。

 

「ここに来れば、隊長に会えると思ったんです」

 

 一瞬困惑して、その言葉の意味を理解した時、航は既に歩き出していた。

 おい、と声をかけても立ち止まらない。右手を高く上げただけだ。

 その姿は悲哀や孤独に打ちのめされていたが、それでもその足はまだ確固たる信念を突き進んでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話5 "新米艦"

はい、リクエストの吹雪です。少し他の閑話よりもストーリーが濃いめです。短編を読むつもりで見るといいっぽい。







「ここが"鎮守府"…………」

 

 地図を頼りにここにやって来た私は目の前の建物を見上げていた。

 地図を見ていて気づいていたけど、この鎮守府の周りには本当に何もない。入り口の門をくぐれば、赤茶色の建物が鎮座しており、周りに工廠やドッグなどのさまざまな建物が建ち並んでいる。

 民間企業のせいか、他の鎮守府より規模が小さい。それでも、初めて本物の鎮守府を見る私を驚かせるには十分だった。それ以上に私を驚かせたのは軍事会社と呼ばれるこの建物から漂う不思議な雰囲気だ。

 

「ヒャッハー!酒だ!酒を持ってこーい!」

「隼鷹!真昼間から酒を飲んでんじゃないよ!」

「みんなー!艦隊のアイドル、那珂ちゃんだよー!」

 

 寮から聞こえてくる艦娘たちの声。騒がしくも楽しげな雰囲気がこちらにも伝わってくる。

 

「仲良くできるかな?」

 

 胸に占めるのは期待と不安。これらを両手に待ち私、吹雪は新しい生活への第一歩を踏み出した。

 

 

 ーーーー

 

 

「はじめまして、吹雪です。よろしくお願いいたします!」

 

 緊張で周りに聞こえそうなほど心臓が高鳴らせて、私は背筋を伸ばして敬礼した。

 白い軍服姿の男性は頬杖をつきながら手元にある書類と私を交互に見る。そして首を傾げ、

 

「吹雪型…………君の知り合いになるのか?叢雲」

「初対面よ。でも、艦娘としては私の姉妹になるわね。それどころかお姉さんになるんじゃない?」

 

 そう問いかけられたのは後ろのソファで、パソコンのキーボードでカタカタと打っていた女性。緊張し過ぎで存在に気づかなかった。今気づいたけど、彼女以外にもさまざまな人がこの部屋にいた。

 

「…………何か?」

「あ、いえ!なんでもありません」

 

 思わず見つめてしまっていたようだ。それにしても、上司と部下の関係しては、とても親密な雰囲気に少しながら動揺していた。

 私がこの執務室という部屋にやって来たのはほんの数分前。目的はもちろんこれからの上司となる司令官に挨拶するため。お世話になるのだから先に挨拶をするのが礼儀だろう。荷物を置くことよりも先にここにやって来た。

 それと初めての司令官がどのような人なのか知っておきたかったから。

 

「おっと、話が逸れたな、すまん」

 

 抑揚のない声でそう告げる。

 第一印象は冷たい。軍服はきっちりと着ているが真面目さが伺えるわけではない。私を見つめる目は何を込められているのかまったく分からず、声も抑揚がないせいでより一層冷淡な感じを受ける。

 

「まぁ、そんなに堅くならないでくれ。ここでは君に不自由はさせないつもりだ。駆逐艦寮に部屋も設けている。後で叢雲ーー

「私は無理。この後、出撃の予定があるわ」

「…………なら、不知火を呼ぶか。叢雲頼む」

「分かったわ」

 

 叢雲と呼ばれる女性はテキパキと司令官に言われたことをこなす。単純な主従関係ではなく、言いたいことは言える間のようだ。

 

「案内役が来るまで少し待ってくれ…………吹雪、でいいかな?」

「は、はい!お好きなようで構いません」

「そうか、なら今のうちに聞きたいことがあるなら言ってくれ。初めてのことばかりで分からないこともあるだろう?」

「そうですね…………」

「何でもいいぞ?」

 

 司令官の好意に甘え、私は疑問を問う。

 

「その…………あの方は長門さんですよね?」

 

 この部屋に訪れてから感じるその存在感を。

 

「ああ、そうだが?」

「あ、あの長門さんが…………ビッグ7が」

 

 長門、その名を知らない艦娘なんているのだろうか。その手で上げた功績は多く、艦娘の地位を一気に上げた人物で彼女の武勇伝を探せば限りがないほど。

 そんな彼女があんな近くにいるのだ。

 

「ん?私を呼んだか?」

「いや、別に」

 

 そして、もう1つ気になるのは、司令官と長門さんの関係だ。問答を聞く限り、ただの上司と部下の関係とは考えにくい。

 

「隊長、少し報告したいことが…………って、新人さんですか?」

「そうだ。すまないが報告は後にしてくれ、ワタル」

「えっ!?」

 

 その名を聞いて私は思わず声を上げて驚いてしまった。司令官は怪訝そうな顔をして、

 

「どうした?」

「い、いえ…………ワタルさんって、広瀬航さんだったりします?」

「僕のことかな?そうだよ。僕は広瀬航。これからよろしく、新人さん」

「よ、よろしくお願いします…………」

 

 何ということだろうか。ビッグ7に続いて、今度は"期待のエース"。横須賀鎮守府で提督を務め、数々の大作戦を指揮し、成功を収めた人物までもがここにいる。話では小規模な鎮守府だと聞いているのに、この顔ぶれは…………

 

「む、どうやら、この娘は長門さんを前に緊張しているみたいだね」

「は、はい、あの長門さんと会えるなんてとても光栄です!」

「はは、そんな大層なことじゃないさ。なぁ?提督」

「まぁ、そうだな」

「長門さんと隊長はもう少し自分の功績を自覚した方がいいですよ。どちらもビッグ7や軍神やとさまざまな異名が付くくらいの活躍をしたんですから」

「ぐ、軍神!?し、司令官はあの部隊の…………」

「そうだよ、見た目じゃ変人だけど、これでも元軍神なんだから」

「所詮、肩書きだ。実力はそれほどでもない」

「こ、ここの鎮守府は一体…………?」

 

 私はとんでもないところに来てしまったようだ。今、この空間に名を馳せた3人がいる。

 

「これほどの顔ぶれだと緊張するなと言う方が難しいかもね。まぁ、すぐに慣れるよ」

「は、はぁ…………」

 

 未だにこの3人に萎縮したまま、生返事で返す。それと同時に、後ろの扉が開いた。

 

「失礼します、不知火です。新人の案内に参りました」

 

 ピンクの髪をした、私と同じ背丈くらいの女性が入室し、生真面目に敬礼をした。発言を聞く限り、この娘が案内役の不知火さんらしい。

 

「吹雪、とりあえず彼女を部屋まで案内してもらってくれ」

「わ、分かりました」

「不知火、頼んだぞ」

「お任せを。それよりも司令、今日は休んではいかがですか?顔色が悪いように見えます。昨日はどれ程寝ましたか?」

「2時に寝たから…………4時間は寝た。問題ない」

「さすがにそれは厳しいかと。依頼を受け過ぎではないでしょうか?」

「たしかにそうだな。しかし、今は新人の吹雪だ。早く案内してやってくれ」

「分かりました。不知火にお任せを。それでは行きましょう、吹雪さん」

 

 鋭い目をした不知火さん。彼女は物怖じせず、物事をズバズバと言うタイプのようである。軍神とも呼ばれた司令官にも怖じけず意見を言う。

 そんな彼女の後を追って廊下に出た。

 どうやら私が向かうのは駆逐艦寮と呼ばれる場所らしい。そこまでの道中で不知火さんは手短ではあるが丁寧にこの鎮守府について説明してくれた。

 

「軍隊に配属されるのは初めてですか?」

「は、はい。色んな方に話を聞いたらとりあえずここに来たらいいと聞いたものでして…………」

「それならあれほどガチガチになってもしょうがないわね。すごいでしょ?不知火たちの上司」

「はい…………伝説レベルの方々が揃いに揃っているなんて」

「でも、そこまで気にする必要もありませんよ」

 

 と、表情1つ変えずに言う不知火さん。この落ち着きようは私と同じくらいのはずなのに年上のようにすら感じる。しかし、気にするなと言われてもそっちの方が難しい。

 だって彼らはエリート中のエリート。艦娘なら長門さんを目標としている人は多いはずだし、広瀬さんのような指揮能力を羨む人もいる。司令官の武勇伝に胸を高らせる人だって少なくないはずだ。だから、不知火さんの言うすごい上司というのは決して誇張にはならない。

 まして、私のように実戦経験皆無でまだ艤装にすらなれていない私だ。いくら、経験を積むために配属されたとは言え緊張するなと言われてもしない方が難しい。野球の素人がいきなりプロの集団の中で練習を始めるような気分だ。

 

「ここで経験を積んで、正式な鎮守府に推薦してもらうようにするんですよね?」

「は、はい」

「そうならば、いつまでもここにいるわけではなさそうですね…………まぁ、そんなことを言ってもしょがないですね。とりあえず、これからよろしくお願いします」

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」

「不知火と歳も変わらないからそこまで堅くなくてもいいですよ」

「し、しかし…………」

 

 不知火さんも堅い印象を受ける、と言いかけたがなんとか飲み込んだ。

 

「ふむ、せっかくですのでぬいぬいと呼んでも構いません」

「ぬいぬい?さすがにそれは…………」

「大丈夫です。みんなそう呼んでいますから。と、そうこうしているうちに到着しました。ここが吹雪さんの部屋です」

 

 話に夢中になっていたせいでいつのまにか自分の部屋に到着していた。中には別途で送っていた荷物が置かれているので自分の部屋だとすぐに分かる。

 

「となりの部屋は不知火たちの部屋ですから、何かあったらいつでも聞いてください」

「ありがとうございます、不知火さん」

「ぬいぬい」

「ぬ、ぬいぬいさん…………」

「お安い御用です。それではぬいぬいは演習があるので。吹雪さんは長旅の疲れを癒してください」

 

 不知火さんーーもとい、ぬいぬいさんは踵を返して来た道を戻っていった。印象ほど堅い人ではないみたい…………だけど少し変わった人のようだ。心の中でその背中に礼をしてから私は自分の部屋に入った。

 

 

 ーーーー

 

 

 私は今まで軍基地に配属されたことがないけど、ここの鎮守府は変わっていると思う。

 鎮守府全体は特に変わったところはない。規則正しい時間で生活をして、早朝に起き、早めに消灯。昼間は依頼をこなすために出撃、または演習などを行う。まだ経験の浅い私は出撃させてもらえないが演習には積極的に参加するようにしている。少々キツイが、それは覚悟していたことだ。ただ、驚いたのは演習とは別に自主的に特訓している人が多く、私がヘトヘトになって寮に戻るときに武道場に行くというハードな日程をこなしている人もいる。

 大変なのは工廠も同じなようで毎日慌ただしく作業が行われている。そんな中でも、橘さんという人に私のサイズを測ってもらい、それに合わせた装備を与えてもらった。こんなに至りつくせりで、他の鎮守府とも見劣りしない。

 ならどこが変わっているか。それは執務室だ。もっと詳しく言うなら司令官の周り。

 

「提督?もうそろそろ約束したお茶会の時間ですわよ?」

「ねぇねぇ、今度はいつライブを開いたらいいかなぁ?」

「そんなことよりも、オレと稽古つけてくれよ!」

 

 本来はここは名の通り、司令官が執務を行う場所なのだがやけに騒がしい。いや、ちゃんと司令官は執務をこなしている。その周りを艦娘たちが騒ぎ立てている状態だ。その状態で司令官は黙々とこなしているからすごいと言ったらいいの悪いのか…………

 

「し、司令官…………今日の…………」

「「「ん?」」」

「ひっ…………!」

 

 一斉にこちらへ向く鋭い眼光。こ、これが修羅をくぐってきた者の目なのだろうか?体をビクッと強張らせると彼女たちの中心から深いため息が聞こえた。

 

「熊野、お茶会はもう少し待っててくれ。那珂、ライブの日程は依頼も何もない土曜日にしてくれ。天龍、稽古なら今ワタルが暇だろうからそっちを当たってくれ。…………とにかく、今は静かにしてくれ、分かったな?」

 

 司令官の有無を言わさない言葉に一同は押し黙った。しかし、一応、1人1人の対応は行なっている。

 

「それよりも、お疲れ吹雪。日誌を受け取ろう」

 

 そんな状況下でも私の存在を認めていたらしい。周りへの気配りができると言ったらいいのか、それともその状況に慣れてしまっていると言ったらいいのか…………

 司令官に日誌を渡す。駆逐艦たちは日誌を日替わりに書いて司令官に渡すことを義務付けられている。まるで日直のようだけど、意外なことに気づいたりするから結構やる意味もあったりする。

 

「とにかく、お前らはとっとと執務室から去れ」

「そうですわよ」

「お前もだ、熊野」

 

 長門さんの一言によってすごすごと艦娘たちは去っていった。やっぱりビッグ7。迫力が違う。

 

「すまんな、長門」

「それは構わんが、ときにはハッキリ言うのも大事だぞ?」

「肝に命じておく」

「前もそのセリフを聞いたのだが…………」

 

 呆れ顔で肩をすくめる長門さんとそうだったか?ととぼけてみせる司令官。不思議なところは2人の雰囲気だろう。他の艦娘とはどこか違う。強者同士だからなのか、それとも…………

 

「まぁ、そこは置いといてだな。吹雪、もう2週間は経つが…………ここには慣れたか?」

「はい。みなさんによくしてもらったおかげで」

 

 これは本心だ。変わったところだけど、居心地が悪いわけじゃない。むしろ、みんなが仲良くしてくれるおかげで居心地いい。それに設備もいいから、今のところ不満もない。

 

「演習も頑張っているようだな。珍しく叢雲も褒めてたし」

「む、叢雲さんが?」

「そうだ。叢雲は照れ屋だから面と向かって褒めるのが苦手でちゃんと相手のことを認めてるんだぞ?」

 

 叢雲さんには一番お世話になったと思う。分からないことは丁寧に教えてくれるし、自分のダメなところもしっかりと言ってくれるおかげで改善もできる。でも、その叢雲さんが照れ屋だなんて…………

 

「それと君ももう出撃ができると判断した。次の依頼には君も参加してもらう予定だから覚えといてくれ」

「そうですか…………え!?本当ですか!?」

「ああ、本当だ」

 

 迫るように聞き返す私に苦笑する司令官。思わぬことについ興奮していたようだ。私は慌てて後ろに下がる。

 

「と、とにかく!司令官のためにも私、頑張ります!」

「俺のために戦わなくてもいい」

「え?」

 

 思わず間抜けな声が出てしまった。一方の呟くように言った司令官の表情は少しも変わっていない。

 

「誰かのために戦うーーその誰かとは自分にとって大事な人、命を変えても守りたい人のことだろう?まだ出会って2週間ぐらいしか経っていない俺のために戦うのはおかしな話だ」

「え?それはーー

 

 その瞬間、執務室の無線が鳴り響いた。その音で執務室の空気がガラリと変わる。

 すぐさま司令官は無線に出る。

 

 "司令官!敵襲よ!それもなかなかの大物が来たわ!"

「何…………!?」

 

 無線の相手はどうやら叢雲さんのようだ。声からして非常事態のようだ。

 

「被害はもう受けたのか?」

 "いいえ、鈴谷がたまたま偵察機を飛ばしたらものの見事に発見よ"

「向こうは安全だとほざいてたな」

 "そんなこと、いつも信頼していないでしょ?"

「はぁ…………そうだな。とにかく、敵はどのくらいだ?いくらなんでも大軍はないだろ?そうなら海上自衛隊の働きを疑うぞ」

 "ま、大軍ではないけど…………海上自衛隊の働きを疑いたいわね"

 

 タ級2隻、ル級1隻、ヲ級2隻、重巡1隻。

 その編成にさすがの司令官も眉をひそめた。

 

 "多分、タ級とヲ級は1隻ずつフラグシップ級、ついでにル級と重巡はエリート級。これだと私たち全滅するわ。こっちも早く退避するけど、客船の速さだと時間の問題ね"

「久々にそこまでの不吉な報告を聞いたよ。どうやら、伊達に大凶を引いた運勢なわけではないようだ」

 "近くの鎮守府にも救護要請を出すけど、あっちは行動が遅いわ。どうする?"

「対処は任せておけ。とにかく君達は避難することを第一に。頼んだぞ?」

 

 分かったわと相手の連絡が切れてから通信を切った。それを見計らい、長門さんは進言する。

 

「私はいつでも出撃可能だ。今から召集命令を出すか?」

「ああ、緊急事態だ。ワタルも連れて来てくれ」

「全員で行くのか?」

「それだと足が遅い。今必要なのは迅速性と着実性」

「そうだな…………なら、どうするか…………」

「…………考えがある。すぐに金剛、天龍、川内、白露、村雨、時雨、夕立は出撃するように、金剛は俺と連絡を取れる状態にするように伝えてくれ」

「その編成だと、空母の絶好の的だぞ?」

「分かってる」

 

 たしかにそうだ。軽空母がいるはずなのに1人も出撃させないなんておかしい。

 

「複数の艦隊で攻める。吹雪、こんな形ではあるが君も出撃をしてもらう。しっかり準備してくれ」

「は、はい!」

 

 ということは、挟み撃ちにするのだろうか?ともかく、私は初めての出撃に心の準備をしないと。

 

「さ、吹雪、私たちも行くぞ」

「はい!」

 

 私は腕を組んで何か思案している司令官を一瞥して、長門さんの後を追いかけた。

 金剛さんを旗艦とする艦隊が出撃したのはそれから間もなくであった。

 

 

 ーーーー

 

 

「お待たせ。長門さんいつでもいいわよ」

「それにしても、長門がいるのは珍しいな」

「うっ、酒くさ…………それだけ、事態が急なのよ」

「わ、私も準備万端です!」

「そうか…………出撃するぞ!続け!」

 

 長門さんのかけ声とともに、私たちは海へ足を踏み出した。

 同時に陸奥さんを旗艦とした艦隊も同時に出撃しており、先に出撃した金剛さんたちを含めて計3つの艦隊が出撃したのだ。

 敵の編成は空母と戦艦を中心とした超火力型。油断すれば死者も出てしまうだろう。初めての出撃がこれほど過酷とは…………緊張や不安で吐きそうだ。そんな私の肩を誰かがポンと叩く。

 

「吹雪さん、そんなに緊張しなくても大丈夫です。気楽にいきましょう」

 

 しらぬ、じゃなかった、ぬいぬいさんだ。相変わらず表情は変わらないものの、私を励まそうとしてくれる。

 しかし、押し寄せる不安は大きく、

 

「で、でも、失敗したらどうしよう…………」

「不安なのは分かるけど、失敗することを考えてちゃダメよ」

 

 霧島さんが振り向きもせずに言う。

 

「私たちはできることをやる、それだけよ。それに提督の作戦よ。心配する必要はないわ」

「お堅い霧島も提督にはあめぇからな。ま、軍神とも呼ばれた提督の作戦にビッグ7の長門も付いてるんだぜ?余程のことがない限り、失敗しないさ。だから、気楽にな?」

「隼鷹は気楽すぎます。酒が入った状態で出撃するなんて…………」

「いいんだよ。あたしは素面よりほろ酔いぐらいが強いんだ」

「また適当なことを…………」

 

 今から激戦地に行くのに緊張感とは程遠い空気が流れる。

 これが実践未経験者と経験者の差だろう。いくら演習を積んでも、所詮命の危機に瀕しない。

 

「吹雪、引くなら今のうちだ。ビビってるなら戻った方がいい」

「い、いいえ!やってみせます!」

「…………フフ、そうか」

 

 長門さんは小さく笑い、ふたたび前を見る。だがな、と言葉を付け加えた。

 

「1つ君に教えておく」

「はい!」

「敵から絶対に集中を切らすな。集中が途絶えた時、死ぬと思え」

「は、はい!」

 

 初めて実感のある"死"と言う言葉を聞いた。数え切れぬほど戦い抜いた長門さんだからこそ、その言葉に重みが増すのだろう。

 そして、遠くから砲撃の音が聞こえた。もう敵もそこまで来ているのだろう。それを察したのか周りの空気もピンと張り詰める。

 

「そろそろだ。各自備えろ!」

「はい!」

「今回の作戦は一瞬よ。あっという間に決着は着く。勝とうと負けようと、ね」

「分かってるよ、霧島。が、後者はねぇーな」

「当たり前だ。とにかく、祥鳳、隼鷹は作戦通りに頼むぞ」

「任せて!」

「ああ!」

 

 霧島さんが各自の行動を伝える。でも、私は首をかしげるばかりだ。

 

「あ、あのぉ…………作戦とは?」

 

 そう、私には作戦が伝えられていなかったのだ。

 

「そうね、だってあなたには伝えてなかったから」

「ど、どうしてですか!?」

「理由はすぐに分かるわ。今は不知火とともに砲撃することを伝えておくわ」

「…………ッ!」

 

 言いたいことはたくさんあるが、もう交戦としようとしている今、聞くことはできない。私は溢れる想いを無理矢理閉じ込めて目の前に集中することにした。

 その次の瞬間、私は作戦を伝えられなかった理由を痛感することになる。

 ここの鎮守府はこれでも他の鎮守府より練度が劣るらしい。ましてや相手はフラグシップ級やエリート級。正攻法ではこちらの大損害は確実だ。だからこそ、3つに艦隊を分け、挟み討ちにして殲滅することができるようにしたんだと思った。これだと少ないダメージで済む可能性もある。

 しかし、私の思惑と司令官の思惑は大きく違ったようだ。

 司令官が言った、迅速性と着実性。その2つが重要だと。だからこそ、3つに分けた。この時、金剛さんたちの艦隊の意味を理解する。

 目の前に見える金剛さんたち。

 

「え!?」

 

 それは敵にいいように翻弄され攻撃を受けている姿だった。

 

「助けに行かないと!」

「待て、作戦通りに動け」

「で、でも!」

 

 目の前で攻撃を受ける金剛さんたち。もうすでにボロボロだ。

 

「Hey!攻撃はその程度?」

「オラオラ!天龍様の剣はどうだ!」

 

 みんな獅子奮迅の働きをしているが、それでも厳しい。何より距離が近すぎる。こんなの無謀だ。

 金剛さんたちの艦隊が少し離れた時が攻撃の合図だ。

 

「全員、撃てぇ!!」

 

 長門さんの合図とともにみんな一斉に砲撃する。私もありったけの弾を撃った。

 驚いた敵艦隊は反対側に逃げようとするが、すでに陸奥さんたちが待ち構えており、挟み撃ちの形で砲撃を受けることとなった。

 主砲と艦載機が嵐のように敵艦隊に襲いかかり、吹き飛ばす。霧島さんの言う通り、決着は一瞬だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「あんな…………あんな作戦、あっていいんですか!」

 

 自分でも信じられないほどの怒声が響く。

 肩を怒りで震わせながら、目の前に座る司令官を睨みつける。

 

「金剛さんたちを囮にして、敵艦隊がそっちに注意を向けているうちに叩く、そう言う作戦だったんですね?」

「ああ」

 

 司令官は私から目を逸らさない。いつもと変わらない無機質な目がより一層苛立たせる。

 

「それなら、最初から挟み撃ちでよかったはずです!」

「俺は最初に言った。必要なのは迅速性と着実性。ただの挟み撃ちでは練度が低い故、討ち漏らす可能性もある。それだと依頼の客船に被害が出てしまう。だから、あらかじめ金剛たちで注意を引いて、確実に殲滅できるように奇襲を行なった」

「客船に被害?でも、こっちは金剛さんたちに大きな被害が出ているんですよ!」

 

 戦闘後、金剛さんたちは全員満身創痍状態で、特に駆逐艦の被害は顕著で白露と村雨は今も眠っている。全員緊急治療が必要なほどの被害を受けているのに…………

 今も大破した人たちを心配してたくさんの人が医務室に集まっているが、作戦を考案して命令した、司令官は未だに向かっていない。

 

「出撃前に金剛さんたちにそう命令したんですか?」

「当たり前だ」

「それなのに、謝罪の1つもないんですか!」

「謝罪は過ちを犯したときにするのに、なぜ俺がする必要がある?」

「彼女たちを殺してでも過ちじゃないと言うんですか!」

「俺は感情論の話をするつもりはない。1000人か6人。答えは簡単だ」

 

 悔しさに歯軋りする。こんなの言い訳だ。正論を並べて自分を正当化しているだけ。

 

「私たちは…………私たちは立派な人間なんですよ!」

「…………俺はこれから用事があるんでな。話が済んだなら、行くぞ」

「貴方が…………貴方が軍神なわけがない!」

「まぁ、別の異名は"死神"だからな」

 

 噛み殺した言葉を司令官は聞き流して、私の横を通り過ぎて執務室を出て行く。残るのは静寂と虚しさだけだ。

 …………もっと誠実な人だと思っていた。初対面の時から冷たい印象があったが、どうやらそれが彼の本当の正体のようだ。彼が軍神と呼ばれたこともあり、ショックだった。

 虚しさばかりが残ったまま、私も誰もいない執務室を後にする。駆逐艦寮へ続く廊下の先に待ち伏せるように壁に寄りかかった叢雲さんがいた。

 

「叢雲さん?入渠してたんじゃぁ…………」

「その前にここに寄ったのよ。執務室に直訴した艦娘がいるってね」

「…………私はどうしてあんな人が司令官をやっているのか分かりません」

「ふーん…………」

「この鎮守府に司令官として誘ったのは長門さんなんですよね?ますます分からなくなってきます…………」

「誰から聞いたのかこの際は聞かないけど、私は彼しか相応しい人はいないと思うわよ?実際、執務は手際よくこなすし、戦術に通じている。地味に交渉術にも長けているし、判断力も高いわ」

「それでも、私は相応しいとは思えません。だって、あの人は人間味に欠けています。だから、あの人は金剛さんたちのことだって…………」

 

 なんとも思っていない。多分、私たちを駒としてか見ていない。自分の作戦が正しかったと言うだけ。そこにどれだけの犠牲があるかを知らず。

 しばらくの間、沈黙が続いた。叢雲さんは握りしめた私の手を見て、小さくため息を吐いた。

 

「司令官が何も言わないのなら、私も言わないつもりだったけど我慢の限界だわ。ちょっとこっちに来なさい」

「え?」

 

 叢雲さんは壁から身体を離して、私の手を取った。そして、引っ張るかのように私の手を引いて、ある場所に連れて行った。そこは人影がいなくなった医務室だった。そして、そこには長門さんと司令官の姿があった。

 

「いつも寝ている時に来るとは。変な奴だな」

「俺からしたらそっちの方がいい。こんな顔、誰にも見せたくない」

「相変わらず、君は弱い所を見せたがらないな」

「それが男心というやつだ。それに命令する側が不安な顔をしてどうする?」

「…………本当、貴方は損な性格だ」

「ほっとけ」

 

 司令官は困ったかのように苦笑する。その目は先ほど見せた無機質なものとは違い、弱々しく、悲しみに包まれた目だった。

 

「少し風を浴びて来る」

「今日も外は寒いぞ。大丈夫なのか?」

「俺にはそんな事、関係ない。知ってるだろう?」

 

 そう言い、司令官は外へ歩き出した。そんな背中を私は無意識のうちに追いかけていた。

 え?なんなの?さっきと言っていることと全然違う…………どういうことなの?

 私の心中に突如現れた動揺が私の足を進める。その後ろには叢雲さんが黙ってついて来ていた。

 着いた場所は、港だった。そこに司令官はポツンと立ち、ただ海を眺めている。

 

「何か悩むことがあったら、すぐにここに来るのよ」

「どうして…………」

「さぁ、意味なんてないだろうね」

「え!?」

「シッ、静かに」

 

 気づけば後ろに広瀬さんがいた。つけて来たのだろうか?

 

「ねぇ、吹雪さん。なぜ、隊長が"軍神"って呼ばれたか知ってる?」

「え、それだけ深海棲艦を倒したから?」

「いいや。あの人と出撃したらね、全員生きて帰って来るんだよ。絶対に」

「え…………」

 

 まぁ、あの人は心配性だから、と広瀬さんは言う。

 あの人は戦いにしか興味ないとか言われているけど、ただ誰かを亡くすのが怖いだけなんだ。でも、決してそれを表に出さない。たとえ自分が傷ついても、どんなに自分が追い込まれても。

 

「本当に損な性格だよ。助けが必要な時でもあの人は絶対に助けを呼ばない。むしろ、他の人を助けようとする。なんでもできるように見えて、結構不器用なんだよ」

 

 それでも、司令官は進む。それが彼の信念だから。

 

「そこにいるのは誰だ?」

「…………」

「なんだ、吹雪か。どうかしーー

「どうしてですか!誰かを亡くすのが怖いならどうしてあんな作戦を立てたんですか!」

 

 司令官は面食らったかのように押し黙る。さらに叢雲さんと広瀬さんも見つけ困った顔をする。

 

「ずっと誰かがつけてるなって思ったら君たちか…………」

「まぁ、またあんたが黄昏ようしてたからね」

「理由になっとらん」

「ま、とりあえず、この娘の話でも聞いてあげたら?」

 

 司令官は私の瞳をいつもと変わらない目で見つめるが、やがて観念したかのように、

 

「分かった、分かった。あの作戦は半分私情で半分は依頼のためだ」

「そ、それじゃあ、間違ってないと言うのですか?」

「結果的にそうなったのだから間違いじゃないだろう」

「でも!」

「それに作戦を今、否定したら金剛達の頑張りも否定することになる」

「それじゃあ、私情って何ですか?」

「依頼達成のためなら他にも作戦はあった。だが、艦娘たちのことを考えて、一番マシな選択肢が俺の中ではあれしかなかったんだ。金剛たちにはすまないと思ってる」

「医務室にいたのもせめての償いなんですか?」

「そこからいたのかよ…………」

 

 決まりが悪そうな顔を見せる。初めて司令官から見た人間的な表情だ。あの冷たさはどこにもない。

 だからこそ、聞かないとダメだろう。

 

「そこまでして、司令官は何を背負っているんですか?何を目指しているんですか?」

「…………2つ目の質問にだけ答えておこう。俺が目指しているのは無論、平和だ。君たちにはそれを実現するだけの力は十二分にある。それだけを伝えておく」

 

 そう言って司令官は立ち去った。最後まで弱い所を見せず。

 

「なんで…………そこまで…………」

 

 平気な顔をしていられるの?自分は泣きたくなるほど傷ついているはずなのに、気が狂いそうなほど傷ついているはずなのに…………どうして、助けを求めないのだろう。

 

「どう?何か分かった?」

「いいえ、分からなくなってきました」

「まぁ、そうよね。私だってまだ分かんない」

 

 だけど、私は1つの決断をした。

 多分、この決断は茨の道になるかもしれない。もしかしたら長く果てしない道になるかもしれない。

 

 

 ーーーー

 

 

「吹雪、君にちょうどいい話が来たぞ。ぜひ、君に来て欲しい鎮守府があった。どうする?」

「私、残ります」

「そうだな。やっぱり君はそう言う…………は?」

「だから、私はここに残ります」

 

 私の言葉に司令官は珍しく呆けた顔をする。

 

「え、君の夢が近づくんだぞ?」

 

 もちろん、私が憧れていた海上自衛隊の鎮守府の誘いはとても嬉しい話だ。でも、今はそっちよりも別の道を見つけた。

 

「私がいては迷惑ですか?」

「そうじゃない、少し動揺しているだけだ。本当にいいんだな?」

 

 動揺するのも無理がないだろう。あれだけ司令官を非難していた人が今度は急に残ると言ったから。でも、私もあの件については謝る気は無い。司令官が間違えてないと言ったように私も間違ってないと思うから…………いや、少し間違えたところはある。

 

「はい。あと、あの時軍神ではないと言ってしまってすいませんでした」

「いや、その件はいいから…………」

 

 そう告げる司令官の目はやっぱり無機質な感じだ。でも、それが決して周りを鉄の塊として見ているわけではない。

 

「テートク!ティータイムにしようネー!」

「そんなことよりも、夕立と遊ぶっぽい!」

 

 今回も司令官の両脇には艦娘がいる。

 あの出撃から、囮となった6人は無事医務室から出ることができた。が、まだ出撃することはできず暇を持て余して執務室に入り浸るようになったようである。

 

「はぁ…………今は少し立て込んでいるから、後にしてくれ」

「イタタタ!テートクに頼まれて出撃した時の傷が痛むネー!」

「夕立も痛むっぽい!」

「…………しょうがない、執務は後に回そう」

 

 安っぽい演技に司令官は半ば呆れ状態。結局、両腕に抱きつかれたままだった。

 

「ともかく、吹雪これからもよろしく頼む」

「はい、私こそよろしくお願いします!」

 

 こうして、私の長く果てしない航海が始まった。







他にもリクエストがあったら受け付けますので、活動報告の方にお知らせください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話6 "バレンタイン"

 眠い。ものすごく眠い。

 いきなりで申し訳ないのだが、俺は過去に見ないほどのレベルで眠い。いつも眠い、眠いと言っているが今回ばかりは我慢ができない。

 倒れこむかのようにソファに横になり、目を瞑る。

 今は朝。もちろん、それは理解している。雀の鳴き声も聞こえるし、窓から朝日が降り注いでいる。

 しかし、そんなことは知ったこっちゃない。一般的な人なら今から活動を始める時間であろうが、俺は眠いのだ。

 もう寝てしまおう。3日間本気で不眠不休する俺がバカだった。おかげさまで、今週の分の仕事を済ませてしまった。もう今日は依頼の電話が来ても全部無視してやる。

 ああ…………もう、無理…………

 

「提督?いらっしゃらないの?」

 

 突然、開かれる扉。この執務室はそこまで広くないため、闖入者の声は嫌でも響く。

 君は本当にタイミングが悪いな。普段ならまだ許容範囲内だが今回ばかりは勘弁してくれ。俺は眠いのだ。構わないでくれ、熊野。

 俺は体を捩って、夢の世界へと旅立とうとした。

 

「あら、まだ寝ていらっしゃるの?提督、もう朝ですわよ」

 

 闖入者ーー熊野はそのまま執務室に入り、ご丁寧にも俺を起こそうと肩を揺すった。無理矢理仰向けにさせられた俺は朝日で目が痛い。

 

「く、熊野…………」

 

 俺がもう一度眠ろうと体を捩ると、熊野も負けじと仰向けにさせる。目を少し開ければ意地の悪い笑顔が見える。

 

「目は覚めたかしら?今日も張り切っていきますわよ」

 

 普段、執務を手伝ってくれない熊野がやる気があるのは嬉しいことだ。…………普段なら。

 俺は精一杯口を動かして、やや呂律が回らないものの言った。

 

「熊野、頼む、寝かしてくれ。俺は78時間ぶりの睡眠なんだ。頼むから、頼みますから、俺を寝かせてくれ。どうか、慈悲を…………」

 

 人に懇願するのは俺の性分ではないが場合が場合だ。そんな体裁など構ってられない。

 

「み、3日間も徹夜してしてらっしゃったの!?それじゃあ、身体が壊れるのも時間の問題ですわ」

 

 そう言いつつ、熊野はどこからか毛布を取り出して俺にかけてくれた。どこから取り出したんだ、と考えようとした頃にはあっという間に闇の勢力は拡大していった。

 

「しょうがないですわ…………これはまた後で…………って、もう寝てしまったのね。…………おやすみ、提督」

 

 熊野の声が遠くなりつつ、俺はなるがままに意識を手放した。

 

 

 ーーーー

 

 

 戦うことは俺の全て。時代錯誤にも程があるし、誇張気味だが、実際戦うことは俺の半分以上は占めていた。

 提督を務めてる今でもその考えは変えておらず、場所は変われども俺は毎日のように戦っている。

 戦うことで飯を食い、戦うことで社会貢献的な何かをしている。戦いがなければ、俺には何が残るだろうか?いや、そこまで何もないわけではないだろうが、俺の大部分を占めていることは確かだ。

 しかし、人は絶対に望んだ未来を進めるわけでは無いように、俺だって好きでこの道を選んだわけではない…………はずだ。少なくとも子供の頃は別の夢を持っていたし、こんなことになっているなんて予想だにもしていなかった。

 まぁ、運命とは分からぬもので気づけば軍神と呼ばれたり、提督になっていたりして、ある程度飯を食っていける生活をしている。

 そうして、3日間の激戦を戦い抜いて、眠りから覚めたところだった。

 

「今日はお休みなんですか?」

「えぇ、さすがに4日間連続はキツイですから」

「どうりで、目の下に酷いクマがありますよ」

 

 少々呆れ顔をしているのは鳳翔さんだ。

 日付感覚とか色々狂ってはいるが、睡眠時間だけは律儀にも定刻通りで4時間後には目が覚めてしまった。まったくもってこの身体が恨めしい。

 眠りから覚めたと言えども、疲れはまだまだ残っていて、頭痛も酷いため、静かで誰も来ない場所を探した結果、昼間の鳳翔さんの店が該当した。この店は基本的に夕方から夜にかけて盛り上がるため、今は誰もいないし静かだ。

 

「少し顔がやつれたように見えますけど…………何か食べましたか?」

「えーっと…………コーヒーを何杯か、あとは…………」

「何も食べてないんですね?少し心配です」

 

 心底心配しているらしい鳳翔さん。まぁ、1日くらいは何も食べないことは結構ある。

 仕事をしている間は空腹に気づかないから、食べないことはよくある。その代わりに、仕事が終わった後に強烈な空腹感に襲われる。今もぐーっとやけに大きく腹が鳴った。

 

「おっと、すいません」

「やっぱり、お腹空いているんですね?少し待っててください」

 

 ニッコリと笑って厨房に向かう鳳翔さん。本当にありがたい存在だ。鎮守府内で割烹着が一番似合う艦娘だろう。いかん、疲れが酷すぎて変なことを考えてる。

 まぁ、基本的に艦娘は何故かは知らんが美女・美少女が多い。もっとも、彼女らは人の力を遥かに凌ぐ力を持つため、手を出すことはできやしない。

 そんな彼女らも人の子のため恋沙汰に興味がないわけがないだろう。艦娘の地位も上昇している今、そういう話も増えてきたと長門から聞いた。この鎮守府も例に漏れず、そういうのがあるらしいのだが、男と一緒にいるところなんて見たことがないから誰が相手なのやら。とりあえず、妻子持ちの航が過ちをしないことを祈るばかりだ。

 すると、入口の方から声が響いた。

 

「ここに司令官はいるかしら?」

「ああ、ここにいるぞ」

「やっぱり、ね」

 

 わざわざ俺を探し回っていたのだろうか?

 銀色の髪をなびかせ、手には何やら箱らしきもの。それは丁寧に包装されている。なんだろう、プレゼントの類なのだろうが、俺の誕生日はまだまだ先だ。

 

「どうした?何か問題でも発生したのならすぐにでも向かうが…………」

「違うわ。これを渡すためよ」

 

 俺の誕生日はまだ先だ、と言う前に叢雲は押し付ける形で俺に箱を渡した。

 

「どうしたんだ、これ」

「今日は何の日かくらい知ってるでしょ?ありがたく思いなさい」

 

 誇らしげに語る叢雲だが、こちらは少々混乱中だ。俺は3日前に時計を見ることをやめている。カレンダーも同じだ。お陰で今日は何日なのか把握していない。

 まぁ、プレゼントは貰えるなら嬉しいのだが…………これだけ丁寧に包装されてると、今日は何か特別な日なのだろう。

 中身は何だ?と聞くと、さも当然かの如く「チョコに決まってるじゃない」と答えた。

 俺は甘いのが苦手なのだが…………「安心なさい、ビターにしてるから」と言われたが、何故チョコを渡すのやら…………

 

「あら、バレンタインデーの贈り物ですか、叢雲さん」

「バレンタインデー…………ああ!今日はバレンタインデーなのか」

 

 鳳翔さんの一言によって、今日が2月14日ーーバレンタインデーだということに気づいた。なるほど、だからチョコか。

 

「え、今更気づいたの?」

「ここ3日は徹夜続きでだな、日付感覚が狂ってたんだよ。それに軍人時代はそういうのとは疎遠でな…………そういうイベントは学生以来だ」

「また徹夜してたの…………まぁ、この際そのことはいいわ。それよりも学生時代は貰ったことあるの?」

「そりゃあ、幼き頃には誰でも友人から貰っただろ。学生時代は物好きな女子がくれたりもした。まぁ、靴箱や鞄にいやと言うほど詰められて、もはや嫌がらせだったが」

「そ、良かったわね、楽しそうで」

「ん?叢雲、怒ってるのか?」

「何で、私が怒る必要があるの?」

 

 いや、怒ってるだろ。周りにドス黒いオーラを放たれたら誰だって怒ってると判断する。まぁ、俺が何か癪に触ることを言ったのかもしれない。

 

「ともあれありがたく思いなさい。ま、これからいやと言うほどチョコを貰えるだろうけど」

「甘いものは得意ではないが…………」

 

 俺の好き嫌いなど今日のバレンタインデーでは関係ないことだろう。無論、貰うからにはきちんと食べるつもりだ。

 少し頰を赤く染まる叢雲を尻目に俺は鳳翔さんの料理をいただくのだった。この後、一時チョコ恐怖症になるほどの量のチョコを貰えるとは知らずに。

 

 

 ーーーー

 

 

「フンフンフフーン♩」

 

 鼻歌交じりに廊下を歩く1人の少女。

 今日の少女ーー熊野はいつもより身綺麗だった。

 いつも着ているブレザーはわざわざ新調しており、髪も丁寧にセットされている。

 香水でもつけているのか、身体からは程よい花の香りが漂い、爪先から髪一本までくまなく気配りされている姿は、自らを自称する"おしゃれ"と言うのに相応しく、気品すら漂わせていた。

 その上、顔に浮かべる笑顔が可愛らしさを引き立たせ、誰もが振り返る「美少女」の姿がそこにある。

 熊野は普段から美容に関しては人一倍気を配っており、言動もお嬢様を彷彿とさせるが、今日は一段と気合が入っておりどこかへパーティーでも行くつもりなのか、と言うぐらいである。

 

「フーンフフン♩」

 

 そんな極上のおめかしをして彼女が向かうのは執務室。その扉を見つけると、彼女は手元に持っていた箱をぎゅっと胸元で抱きしめ、より一層期待を込めた笑顔を浮かべ、小走りに執務室へ向かった。

 

「とぉぉおおぉおぉおぉぉ~う!この熊野のチョコレートを、受け取っても!いいのよ?…………あれ?」

 

 勢いよく扉を開けたのはいいものの、肝心の人物はいなかった。

 熊野は肩を落として、落胆のため息を吐いた。

 

「なんですの…………どこかに行ったのでしたら、わたくしに一言くらい言ってくださればいいのに…………」

 

 さっさと執務室に入る熊野。こうやって執務室に入るのは日常茶飯事であり、提督がいない時にでも我が部屋の如く入り込む。

 その経験からなのか、熊野は少し散歩しに行っているのだろうから、少し待てば帰ってくると判断した。

 扉を閉め、ソファに座る熊野。

 なんだか暇になってきた熊野は、執務室の中をぶらぶらと歩き回り始めた。提督がいなければこの執務室もただの殺風景な部屋なのだ。

 机に目を向ければ山積みにされたバレンタインの贈り物。恐らくは艦娘全員から貰ったのだろう。彼のことだ、甘いものが苦手なのにもかかわらず全部食べてしまうだろう、と熊野は思う。

 箱を1つ1つ確認すると、みんな丁寧に包装して気合が入っている。一番大きくて手紙が添えられているのは金剛だろう。この可愛らしい形は暁だろうか?叢雲のが見当たらないが彼女は直接渡しに行ったのだろう。

 そんなことを熊野は考えていると、1つ透明な箱に収められたチョコが目に入った。それはバラの形をしており、細かく意匠を凝らしたものであった。誰のものかと思えば、"広瀬航"。こればっかりは熊野は少し引いてしまった。たしかに広瀬航は和菓子屋の息子で菓子作りが上手ではあったが…………感謝の気持ちを伝えたいのだろうが、これでは勘違いする輩が出てしまうだろう。巷では提督と航はホモなのでは?という噂が少し広まっている。

 

「暇、ですわね…………」

 

 しばらく経つと、熊野は立ち上がり提督の私室へ向かった。無用心にも鍵はかかっていない。

 

『別に盗まれるような物はない』

 

 と彼は言っていた。ふむ、と部屋を見渡す熊野。なるほど、ここには本が数冊くらいしかなく、大した金品もなかった。熊野とは対照的におしゃれに無頓着な提督は"飾る"という考えがない。寝る、着替えること以外は何もできない部屋だ。

 

「本当に殺風景な部屋ですわね」

 

 これなら泥棒も入る気はないだろう。そもそもこの鎮守府にやってくる泥棒がいるかどうかが怪しいが。

 スカスカの本棚に目をやると『草枕』、『善悪の彼岸』…………意外にも文学や哲学の本がある。

 その隣に鉄アレイがあるのがなんとも彼らしい。

 

「…………えいっ」

 

 30分は経っただろうか?それでも提督は帰ってこない。それをいいことに熊野はベッドに横になった。ここでやることと言えば本を読むことぐらいしかない。しかし、夏目漱石やニーチェに興味はない。

 読んだとしても理解ができるか怪しいだろう。

 もぞもぞと身体を動かし、布団の中に入り込む。長門に見られたら怒られるだろう。これだけ暇なら長門の特訓を受けた方がマシ…………でもないか。

 長門と言えば、熊野以上に提督と古い付き合いだ。よく一緒にいる姿を見る。2人とも根っからの軍人なせいか、よく話す。その時の提督の顔は少しばかりか楽しそうだった。

 普段表情を変えない提督の表情をポンポンと引き出す長門が羨ましい。

 

「わたくしも提督のお役に立ちたいですわ…………」

 

 艦娘としてではなく、1人の女性として。

 少しくらい運動が好きならば、提督と話せるだろうか。あのような顔を見せてくれるのだろうか。

 しかし、おしゃれを自称している以上、過度な運動はできない。

 でも、熊野は提督との付き合いは長い方だ、ということに気づき、少し優越感に浸った。彼の変化はよく知っている。

 初めて出会った時の優しそうな青年の姿、横須賀鎮守府で出会った時の凛々しい軍神の姿、今の気だるげな提督の姿、提督の…………

 そこで熊野は思考を停止させた。いくら古い付き合いでも提督のことばかり頭の中で考えて恥ずかしくなったのだ。

 とにもかくにも、と熱くなった顔を冷ましながら、気を取り直して考える。長門みたいに、もっと親しく提督と話したい。もっと笑顔を自分に向けて欲しい。

 せめて提督が少しくらい女性に興味があれば良かったのに…………

 ふと、執務室の扉がノックされる音が聞こえた。熊野は慌ててベッドから飛び出て、執務室に戻る。

 

「提督はいるか?」

「い、いらっしゃらないわよ」

 

 やってきたのは長門だ。その腕にはたくさんのチョコが抱えられている。

 

「ん、熊野か。少し頰が赤いようだが…………大丈夫か?」

「ええ、問題ないですわ」

「そうか、困ったな。話があると言うのに」

「いつものように散歩してるのではなくて?」

「そうだろうな。…………そういえば、熊野、お前は出撃予定があったはずじゃないか?」

「あっ…………」

 

 熊野は完全に失念していた。たしか予定は2時。今は1時40分だからすぐにでも向かわなければならない。

 

「もしかして、チョコを渡しにきたのか?」

「え、ええ…………」

「なら私が渡しておこうか?」

「け、結構ですわ!」

「ふむ、そうか。とにかく、出撃に遅れないようにしてくれ」

「了解いたしましたわ…………」

 

 早く終わらせてしまおう。そんな思いで熊野は出撃したのであった。

 

 

 ーーーー

 

 

「はぁ〜…………ツイてないですわ」

 

 盛大に熊野はため息を吐き、時計を見る。その針は午後6時を示していた。1番にチョコを渡そうとしたのはいいものの、提督は寝てしまうし、昼に渡そうとすればいない。帰投した頃には日は落ちている。これでは1番最後に渡すことになるだろう。

 

「服が汚れてしまいましたわ…………」

 

 護衛するだけの簡単な任務のはずだったが、はぐれ艦隊と遭遇して交戦。不運なことに熊野はダメージを受け、中破してしまった。せっかく新調した服もボロボロで、念入りにセットした髪もボサボサだ。

 

「熊野、大丈夫?」

「…………大丈夫に見えるのでしたら、あなたの目を疑いますわ」

 

 鈴谷が心配してくれて声をかけてくれるが、熊野は今日の仕打ちに心外なことをつい口走ってしまった。

 

「これだから、自衛隊の『大丈夫』という言葉は信用ならないのですわ」

「熊野、怒ってる?なんだか提督っぽいよ?」

「…………それなりに長くいれば、似るものですわ」

「ふふ」

「何か面白いことでも?」

「いや?熊野の気持ちも分からないわけじゃないかなって」

「??」

「あれだけ悩めばね。最初は手作りにしようかと思ったけど重い娘だと思われそうで、かと言って市販のものだと気持ちが軽いような気がして、丸2日間悩みに悩み抜いて、結局作ることにしたのはいいものの、中途半端なものは作れないと鳳翔さんや間宮さんに必死で教えてもらって、試行錯誤を繰り返しながら作ったチョコが他の艦娘に埋もれないように超早く起きて、いつも以上に念入りにおめかしして、朝早くに渡そうとしたけど提督は寝ちゃって、結局昼間も渡せず、出撃したらしたらで中破しちゃっておめかしも台無しになったらねぇ?」

「もうそれ以上何も言わなでくださいな…………恥ずかしさで死にそうですわ」

 

 ここまでここ数日の行動をくまなく説明されて、熊野は真っ赤かだ。鈴谷がここまで熊野の行動を観察していることにも驚きだが。

 

「まさか全ての行動を…………?」

「さすがにそこまではできないよ。あとは、提督のベッドに潜り込んでたことくらいしか知らない」

「ほぼ全部じゃない!」

「まぁまぁ、そこはいいとして、熊野は頑張ったんだから提督も喜ぶよ」

「…………彼は甘い物は苦手なのよ?」

「はぁ、いつもは自信満々なのに、どうしてこういう時にヘタレるかなぁ」

「へ、ヘタ…………ッ!?」

「と・も・か・く!チョコ、渡してきなよ」

「ですけれど、この格好じゃ提督に会えませんわ」

「いいから、いいから」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 提督にチョコを渡すのを躊躇う熊野を無理やり鈴谷は引っ張って執務室へと向かった。

 

「やっぱり、一度入渠してから…………」

「いいから、早く!」

 

 

 ーーーー

 

 

「お邪魔しまーす!って、甘っ!匂いが甘っ!」

「…………鈴谷か」

 

 執務室は大量のチョコによって激甘な匂いの空間とかしていた。そんな中で提督は丁寧に箱を開け、半分ほどチョコを平らげていた。ただ、その顔は仕事の疲れで死にそうな顔とはまた別の死にそうな顔である。

 甘いものが得意ではない提督にとって、大量のチョコはもはやどこかの番組の企画のようである。

 

「これ全部食べようとしてるの?」

「あ、当たり前だ。貰ったからには食べないと相手に悪い…………すまんがコーヒーを入れてくれ。甘さで舌がどうにかなりそうだ」

 

 チョコと共に相当なコーヒーも飲んでいるようだ。ただでさえ変則的な生活をしている提督がこのチョコとコーヒーでぶっ壊れないことを祈るばかりだ。

 

「はーい、それよりも熊野から話があるって」

「ん?熊野がいるのか?」

「ここに…………いますわ」

「扉に隠れて何をしてる?」

「いえ、その…………」

「ほら、出てきなよ!」

「ちょ、ちょっと…………」

 

 無理やり扉から出された熊野はすぐさま背中を向けた。こんな格好で提督の前に立ちたくない、そんな思いが熊野をそう行動させた。

 

「今日はたしか出撃だったな」

「え、ええ。護衛任務でしたわ」

「そうか。ともあれお疲れ様」

 

 おもむろに提督は腰を上げ、熊野に近づいた。そして、頭にポンと手が置かれた。

 その感触に頰が緩みそうになるが、すぐに髪の惨状を思い出して顔を赤らめた。

 

「て、てて提督。今、わたくしの髪はとても汚れてるから…………」

「ん?そんなことはないぞ。いつも通り綺麗な髪だ」

「き、綺麗っ!?」

 

 全く、この男は素でこういう台詞を吐くからタチが悪い。滅多に人を褒めるようなことは言わないくせに不意に言うからドキッとしてしまう。

 ただ褒めているだけなのだろうが、褒められた側の鼓動が速くなっていることに気づいていないのだ。

 

(せっかく、鈴谷が機会を作ってくれたんですわ)

 

 心地よい感触に目を細めながら、熊野は心中で覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 

「てっ、提督?この熊野のチョコレートを、受け取っても!いいのよ?」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 この鎮守府のある町はかつて漁業が盛んな町だった。

 しかし、深海棲艦によって漁をやめざるを得ない状況となり、その盛り上がりは影すら見せなくなってしまった。海の近くに住む人々はできるだけ内陸部に引っ越し、漁師は職を捨て、海沿いの景色は物寂しいものとなった。

 それでも、昔の賑やかさを取り戻したい人はおり、強い要望の元、俺たち民間軍事会社"鎮守府"が一役買って、漁業を制限はされているものの再開、少しずつかつての活気を取り戻しつつある。

 その昔を知る1つの建物、「甘味処ひろせ」の古びた看板が風に揺れているのを見つけ、俺は足を止めた。

 鎮守府から北へ、車も通れない小道の奥にある、木造二階建ての古い一軒家がそれだ。

 人通りは稀で、たまにその辺の野良猫がのんびりと歩くだけののどかな道だ。他にも数軒の店があるが、大体は開いているのかいないのか、よく分からない。1つの店先には、絶え間なく湧き出る水の溢れる井戸があり、心地よいせせらぎが聞こえる。

 

「久しぶりですわ。ここに来るのは」

 

 熊野が日差しに手をかざして、古い看板を見上げた。

 

「そうだな。軍人時代に何度かお邪魔させて貰ったが、何も変わってない」

「少し、この辺も寂しくなってきたような気もしますけど…………」

 

 ああ、と首肯したところで、店の格子戸がからりと内から開いた。飛び出してきた少女が、俺を見た瞬間驚いて、中に引き返し、今度は顔をだけ窺うようにのぞかせた。

 

「ちんじゅふのおじちゃん?」

 

 恐る恐るそう言ったのは、航の娘の渚だ。可愛らしい割烹着を着て、手伝っているらしい。

 

「そうだ」

 

 頷く俺の横で、熊野は丁寧に頭を下げる。

 

「渚ちゃん、ですわね。熊野といいますわ」

「熊野お姉ちゃん」

 

 今度は不思議そうな顔になったが、熊野の笑顔を見て、やがて安心したかのように渚も笑った。

 

「いらっしゃい」

 

 明朗な声と共に顔を出したのは航だ。

 店を手伝っていたのだろう。紺色の作務衣を身にまとった航は、こうして見ると全然違和感がなく、軍人だったとはとても思えない。

 しばらくぼーっとしている俺に向かって、航は怪訝な顔を見せた。

 

「どうしたんですか?」

「…………ん、あまりにも自然だったから、ビックリしてるんだ。あの不評判な補佐にはとても見えん」

「不評判は余計です」

 

 苦笑する航に、熊野はどことなくバツが悪そうな顔をした。

 

「この前は悪かったです、熊野さん」

「わ、わたくしも少し言い過ぎましたわ」

 

 ふむ、これでひとまず和解、だな。

 どうぞ、と航は店内に差し招いた。

 

「渚はずいぶんと隊長のことを気に入っているみたいですね」

「航の娘にしては人を見る目があるようだ。…………1つ気にかかるのは、俺がおじちゃんで、熊野はお姉ちゃんということだ」

「隊長の言う通り、渚は人を見る目があるんですよ」

 

 ちっと胸中で舌打ちをしつつ敷居をまたいだ。

 外装は二階建てだが、中の天井は取り払われ、大きな梁が黒々と腹をさらしている。テーブルがいくつか置かれているだけの店内に人影はなく、古民家特有の木の香りがかすかに通り過ぎた。

 

 "久しぶりに、うちの店に来ませんか?"

 

 航がそう言って俺を誘ったのはバレンタインの後のことだ。

 

 "こっちに来てから、隊長にはお世話になりっぱなしですし…………"

 

 告げる航の目には、柔らかな光がある。来たばかりの頃からずっと宿していた不似合いな冷淡さが減るとともに、見覚えのある穏やかさが垣間見えた。

 

「和菓子の1つや2つで数々の恩を返すのか」

 

 と俺は言ったが、

 

「うちの和菓子にはそれくらい価値がありますから」

 

 と爽やかに返されてしまった。

 まだ軍人だった頃「甘味処ひろせ」には何回か足を運んだことがある。ここの和菓子はどれも絶品で、甘いものが苦手な俺でも抵抗なく食べることができた。特に羊羹は絶品で、航の母が1人で作ってるのを聞いて驚いた。しかし、軍人である以上、あまりここに来ることはできなかった。

 古びた椅子に腰を下ろすと、奥から航の母が出てきて、丁寧に頭を下げた。

 

「先日はどうもありがとうございました」

 

 夫を亡くしても1人でこの店を守ってきた苦労からなのだろうか。頭髪はもうほとんど白くなっている。前ここに訪れた時は、ここまで白くなかったから、鎮守府で出会った時もすぐには分からなかった。

 航の母は慣れた手つきで、ゆったりと湯のみにお茶を入れ、また一礼して奥に消えていく。「懐かしい」とか「久しぶり」などの、おきまりの社交辞令もなければ、何か話題を振ってくることもない。そういう不思議な距離感は、相変わらずだ。

 

「ずっと1人でここを続けているのか」

「父が死んでからは閉めようかなと話しましたけど、続けていく方が楽しみがあるからいいって母さんが言ったんです。半分趣味のようなものですけど、それでも時々遠くからここの和菓子を食べたいってやってくるお客さんもいるんです」

「まぁ、ここの羊羹は美味いからな」

「そう言われると嬉しいです。今じゃ、こういう店も減ってきて、和洋折衷なカフェが流行りつつありますから」

 

 俺は不意に昔を思い出した。

 初めてここに来て、航が真剣な顔で和菓子を作っている顔が目新しく映ったものだ。

 

「たしかに流行りのものと組み合わせれば、人気が出るかもしれませんが、この店の目的はそれではありませんからね。隊長は羊羹ばっかり食べてましたから、他のも是非食べてくださいよ」

 

 航の声に頷く。ふと熊野に目をやればすでに団子を頬張っていた。

 不意にバタンと大きな音がしたのは、店の中を走り回っていた渚が、ぶつかって椅子を倒したからだ。

 

「こら渚、店の中で走り回っちゃダメだろ」

 

 航の声が飛ぶ。渚はやっと構えてもらえると思ったのか、かえって満面の笑みで駆け寄り父の足にしがみついた。

 こんな様子をだけ見れば、あの親子が抱える問題が嘘のように思える。

 綱渡りのような際どいバランスの中でも、どうにか立て直そうとしている航の心意気がたしかにある。

 熊野が立ち上がり、渚と楽しげに話し始めた。もともと人懐っこい性格なんだろう。渚は、熊野ともすっかり打ち解けいる。

 

「大和とは連絡はどうだ?」

「音沙汰なしです」

 

 答える声は、悲痛な響きを持たなかった。

 

「電話は出ませんし、メールも返事が来ません。今日もどこかで平和のために戦っているんでしょう」

 

 皮肉じゃなかった。そこには感嘆やら羨望やら苦笑やらが、入り混じった航らしい優しさがあった。

 

「今は待つしかありません」

「ふっ、何か悟りでも開いたのか?」

「隊長に話したことで、少し頭の中が整理ができた気がするんです」

 

 不意に聞こえてきた朗らかな笑い声は、渚のものだ。熊野と一緒に、格子戸の外を眺めてなにやら楽しげだ。

 

「僕が横須賀から去ると言った夜、大和は泣いたんです。声も出さず、ただ黙って泣いていました。何も言いませんでしたけど、きっと…………胸の中はいろんな言葉が詰まっていたです。今はまだ混乱しているだけで、いつかはその言葉を、口に出して言ってくれると思います」

 

 卓上に置かれた湯のみを見つめながら、穏やかな声で付け加えた。

 

「とにかく、今は待ちます。なんだって、大和は僕の"妻"ですからね」

「なんだ、独身の俺への当てつけか?」

 

 苦笑とともに言えば、航の笑い声が聞こえる。

 その笑い声は、もう翳りのない心からの笑い声であった。

 

 

 ーーーー

 

 

 また、最近海上自衛隊の方から頻繁に声がかけられるようになった。

 いや、厳密に言えば1人の人物から声をかけられている。その人名は佐久間さんというのだが、昔は前線で戦っていたベテラン中のベテランの軍人である。艦娘もいない時代にその生身の身体で深海棲艦と戦ったというくらいの猛将だ。我が鎮守府のベテランの橘さんとはどうやら旧知の仲であり、この豪快な性格の佐久間さんと何を考えているのか分からない橘さんの組み合わせだともうカオスである。

 今は最前線を退いて、海上自衛隊の左官を務めている。俺がかつて部隊を率いていた頃、俺たちを前線に推薦し、功績を上げることができた恩がある。その縁で、時々食事に誘われたりするのだ。

 そんな彼から連絡があったのは、「甘味処ひろせ」からの帰りのことだ。鎮守府の前で熊野に別れを告げ、そのまま佐久間さんに指定された店に直行となった。

 最初は服装をきちっとした方がいいような気がしたが、言われて場所が居酒屋だったのでそのままにしておくことにした。法定スピードギリギリの速さでやってきたが、当の佐久間さんが見当たらない。入り口でキョロキョロ見回していると、マスターらしき人物が手招きしているのが見えた。

 

八幡(やはた)さんですね?」

「あ、はい」

「佐久間さんはあちらです」

 

 そう言って指差した先は、1番隅っこの方だった。あ、果てしなく今更だが、八幡とは俺の苗字である。この苗字が軍神と呼ばれる一因であったりする。

 

「よお、はたちゃん。こっちだ」

 

 いきなり野太い声が飛び込んで、反射的に姿勢を正した。

 俺に呼びかけたのは、恰幅の良い体と、毛虫のように太い眉と加えて煙草がトレードマークの還暦を過ぎた着物の男性だ。いくら歳とは言え、まだまだ元気な方である。

 

「調子はどないや?」

「まぁ、皆元気にやってますよ」

「艦娘のことじゃあらへん、はたちゃんのことや」

 

 ぎょろりと大きな目を向けた。別に怒っているわけではない。元々の目つきがこれなのだ。おかげではたから見れば、ヤクザにしか見えない。

 

「ぼちぼち、と言ったところですかね。とは言っても、最近は仕事が増えてますが」

「そうやろうな。最近は深海棲艦の動きも活発やし」

 

 そう言い、すでに注がれている杯を一気に飲み干した。

 深海棲艦もだが、海軍の方もかなり積極的に動き始めている。

 

「はたちゃんは真面目やから、少しくらいサボることも覚えへんとアカンで?」

「昔は少しでも手を抜くこと鬼の形相で怒っていたような気がしますが…………」

 

 鬼の佐久間、その厳しさや風貌から付けられた異名だ。彼が怒るときは顔を真っ赤にして、文字通り鬼の形相だから兵士はとにかく彼を恐れた。

 

「ま、ええわ。とにかく飲めや」

「すいません、今日は車で来てますので」

「せやか…………」

 

 が、今回の佐久間さんにはそんな様子が微塵も感じられない。なんていうか…………何かを躊躇っている?そんな様子だ。

 豪快な彼からは想像もできない様子なので、しばらく放置するのもアリだが、そんな暇はない。俺は思い切って聞いてみることにした。

 

「それで、今日は何のために俺を呼んだのですか?」

「…………隠してもしゃあないな。今、海上自衛隊で1つの計画が立てられとる」

「計画?」

「大本営を設置しよう、とな」

「え?」

 

 俺は思わず耳を疑った。しかし、彼の野太い声から聞き間違えるとはとても思えない。

 

「安心せぇ、名前だけや。陸海軍の統帥権は全くない。あるのは艦娘のだけや」

「はぁ…………つまり、艦娘と海上自衛隊を切り離す、と?」

「せや。はたちゃんも分かってると思うけど、今までは守りに徹していたんやけど、ついに攻めに転じようとしとる。艦娘の人数も増えてきた今、きちっと分けることで、動きやすくする、という心算や」

 

 なるほど、今までは隊員と艦娘は同じところが統率していた。ところが、佐久間さんの言う"大本営"の設置で、2つに分離することで別々に統率することで統率しやすくし、また艦娘が肩身の狭い思いもしなくなるだろう。

 

「しかし、何故俺に?」

「その大本営の長ーーつまりは元帥なんやけど、わしがなる予定なんやねん」

「まぁ、今までの功績、年齢的にも妥当かと」

「せやけどな、元帥は艦娘の中でも選りすぐりの艦娘による艦隊が組まれんねん。しかしな、わしは艦娘の1度もしたことがあれへん」

「え、そうなんですか?」

「せや」

 

 たしかに佐久間さんが指揮しているところを見たことがない。どちらかというと、むさい男どもを引き連れて先頭だって戦っている印象だ。

 

「そこで、はたちゃんに元帥になって欲しいんや」

「…………え?」

「はたちゃんの噂はよう聞いとるで。部隊を解散した後、民間軍事会社でも立てて、艦娘を率いとるって」

「たしかにそうですが…………」

「指揮能力は、はたちゃんが入隊したての頃から見とるから分かる。はたちゃんの指揮能力は本物や。それに艦娘からえらい好かれとるらしいやんか、信頼も大事や」

「…………しかし佐久間さん、お言葉ですが俺は第一線を退いた身ではありますがまだ30もいかぬ若造です。いくら指揮能力が高くても、ほかの長いキャリアを持つ提督からはいいように捉えられることはないかと」

「なんや、はたちゃんは周りの視線を気にする人間なんか?」

 

 佐久間さんの声が1つ低くなる。その目つきはもはやヤクザだ。並みの人では恐ろしさで失神してしまうだろう。しかし、こちらにも退けない理由がある。

 

「今更、周りの視線なんて気にはしません。俺が気がかりなのは艦娘です。上を妬むばかりにその捌け口を艦娘にされるが俺はとても嫌なんですよ」

 

 俺は真っ直ぐに佐久間さんを見据えて言った。佐久間さんも相変わらずの目つきで返すが、俺は動じない。動じる理由がない。

 

「…………安心したわ。武器を手放して丸くなってるかと思ったけど、やっぱりはたちゃんは、はたちゃんだったわ。昔と変わらんその目、その雰囲気」

 

 いつのまにか異様な目つきは豪快な笑い声とともにかき消されていた。

 

「でも、残念やな。やっぱり、はたちゃんが適任やと思うのにな」

「買いかぶり過ぎです。俺よりも艦娘の指揮に向いている人はいますよ」

「でもなぁ、保身のために戦わへん人なんてはたちゃんくらいやで。あとは長門ちゃんもやな。今の奴らは出世や金のためにしか動かへんからなぁ」

「そうですか…………でも、俺が見てきた人は少なくとも出世や金のために戦ってなんかいませんよ」

「…………はたちゃんも成長したなぁ。昔はツンツンして他人のことなんて興味ない、って感じやったのに」

 

 もう過去のことはあまり掘り返さないで欲しいものだ。

 

「ま、ええことや。それより、ワタルの調子はどうや」

「ワタルはうまくやってますよ。最初はどうなるかと思ってましたが」

「せやろな。あないな状態やったし」

「もしかして、ワタルの件知ってたんですか?」

「せや、はたちゃんのとこに行くように仕向けたんのは、わしやからな」

「そう、ですか…………」

「ま、正解っちゅうわけやったな。うまくやってるならそれでええ」

「まぁ、そうなんでしょうが…………」

 

 しばらく俺は佐久間さんと何気ない会話をしていたが、長居するわけにもいかず、区切りのいいところで帰らせてもらうことにした。

 立とうとする際、佐久間さんから

 

「まだ、諦めたわけじゃないで。いつか気が向いたら言ってくれや」

 

 と言われた。相変わらずな人だ。そして、

 

「あと、満にたまにはわしと飲もうやと言っといてくれ」

 

 と付け加えた。俺はもちろんです、と答え店を後にした。この後、佐久間さんはすぐに橘さんに会うことになるとは知らずに。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府に戻ると俺は額に手をやり、やれやれとため息をついた。

 どうも俺は佐久間さんに弱い。嫌なら嫌とはっきり言えば、それで終わりなのだが、彼には多大な恩がある。簡単に無下にもできない。かと言って、話を呑むかと言われればNOだ。

 佐久間さんがすんなりと元帥になることを祈りつつ、何気なく航からの報告書を見ると、ここ1カ月の深海棲艦の情報や軽巡のデータが、航らしい生真面目さで、こと細やかに記載されていた。

 装備を作戦ごとに細々と変更して、最高の状態で対応できるようにしている。どうりで、川内や天龍の成果が右上がりなわけだ。

 深海棲艦はやはり活発に動いており、死者こそは出てないものの被害は少しずつ増えている。海上自衛隊では対処しきれていない模様で、討ち漏らしが多い。なるほど、そりゃあ大本営を設置したくもなる。

 そして、気になる情報がもう1つ。海外もどうやら艦娘に興味を持ち出したらしく、艦娘に関する技術やそれを指揮くる提督のノウハウを教えて欲しいと乞うている、とのことだ。名目は国際貢献だが、どう考えても軍事力として取り込もうしている。

 

「おや、広瀬さんの報告書ですか」

 

 ふいに肩越しに、橘さんが書類を覗き込んだ。いつもながら、登場は突然である。

 

「また彼と連絡つかないんですか?」

「いえ、ワタルの仕事ぶりをチェックしていただけです」

 

 俺の減らず口にも、穏やかな笑顔で、橘さんはソファに腰を下ろした。

 

「広瀬さんの書類はなかなか優れものでしょう。私も装備や艤装で依頼されるときに書類を貰うんですが、とても丁寧で分かりやすいんですよ。それでもって、詳細に書いてかつ軽巡全員分やっているんですから、大したものです」

 

 お茶を淹れながら、何気ない様子でそんなことを言った。

 俺はその横顔に目を向けて、しばらく沈黙していたが、やがて胸の中に引っかかるものを吐き出した。

 

「橘さんは、ワタルの早上がりが娘の迎えのためだということを、ご存じだったんですか?」

「ん?なぜです?」

「いえ、ワタルの評判がすこぶる悪かった頃から、どこかその心情を汲んでいるように見えましたから」

「別に深く考えていたわけでもありませんよ。ただ、彼が何か大事なもののために、あんな働き方をしているんだろうなって感じてただけです」

 

 橘さんの目は、いつでも俺とは少し違う場所にある。そしてその場所はいつだって俺の視線よりも、数段高い場所だ。

 お茶をすすりながら、橘さんがふいに語を継いだ。

 

「働く人にとって、仕事をとるか、家族をとるかというのは、難問なんですよ。特に私たちのように何かを守るような仕事だとなおさらです」

 

 見返す俺に、橘さんはかすかな苦笑で応える。

 

「両方とれるのならそれが一番ですが、現状だととても叶いそうにありませんからね」

「だからこそ、大本営の設置とか改革を行おうとしているんでしょうが、現実を見れば何も変わっていません。遺憾なことです」

「交わされる議論が、いつでも戦力や金銭の問題に終結しているからですよ。最初から艦娘や兵士を1人の人間として認識していないんです。兵士にも艦娘にも家族が、大切な人がいる。そういう当然のことが議論の中に無いのですから、人間らしい生活というものは、簡単には手に入りそうにもありませんね」

 

 ロクでもないことを、なんでもないかのように言う。

 

「はぁ、それだと希望もありませんね…………」

「希望ならありますよ」

 

 意外にも明るい声が返ってきた。

 いつのまにか湯のみを置いて、橘さんは、静かな目を俺に向けている。

 

「どんなに過酷な状況でも、私がいて、あなたがいる。そして、大切なものを抱えながらも、こうして仕事を続けている広瀬さんがいる」

 

 こんなに心強い希望はそうありません、と思いのほか芯の強い声が答えた。

 このような過酷な環境にいながら、航を全面的に肯定する橘さんの寛容さには、返す言葉は1つもない。ただただ感服するばかりだ。

 

「橘さんには敵いませんね。俺なんて1年経つともう投げやりになっているのに、橘さんはこのお仕事をもう何十年と続けていて、なお意気軒昂です」

「それは、過大評価ですよ。提督さんのお言葉を借りるなら"買いかぶり過ぎ"です」

 

 橘さんは、再びお茶をすすりつつ、

 

「私はね、提督さん。ただ臆病なだけです」

「臆病?」

「私の胸の中にあるのは、熱意とか使命感とか、そういう美しいものではありません。ただただ臆病なだけなんです」

 

 これはまた…………難しい話だ。

 

「私が泊まり込みで働くのは、どこかミスしているんじゃないか、どこか欠陥があるんじゃないか、この装備はこの調整でいいのか、そんな風にいつもビクビクしているだけなんですよ。とても胸を張って言えるような内情じゃないです」

「そうだとしても、橘さんのおかげで艦娘たちが戦えているのも事実です」

 

 橘さんはかすかな微笑を浮かべたまま、首を左右に振った。

 

「いけませんよ、提督さん。いつまでも仕事をするということは、いつでまでも家族や大事な人のそばには居られないということになりますから」

 

 さりげない一言、だがズシリと重い言葉だった。その重さを探り当てるより先に、橘さんはいつもと変わらない素振りで、のんびりと立ち上がった。

 

「さて、たまには私もゆっくりとしますかねぇ」

 

 穏やかに告げて歩き出す。

 その体が、視界の片隅でふいにゆらりと右へ流れた。

 おや、と顔を上げた先で、まるでスローモーションを見ているかのように、痩身がゆっくりと傾く。

 

「橘さん…………?」

 

 声をかけても、動きは止まらない。

 

「た、橘さん!」

 

 俺が叫んで立ち上がるのと、橘さんが音もなく床に倒れるのが同時だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 橘さんが倒れた。

 全くの青天の霹靂だった。

 夜の執務室で工廠長がいきなり昏倒したのだから、これは大騒ぎだ。

 俺が慌てて抱え起こした橘さんはひどい熱のようで、意識は朦朧としている状態だった。いつのまにこんな状態になっていたのか、直前まで話していた俺は全く気づかなかった。

 とにかく救急車を呼び、病院に運ばれて診てもらい、とりあえず点滴をほどこしてもらって落ち着きを取り戻したのが夜の11時。どこから連絡を受けたのか佐久間さんまでも駆けつけてきたのはその30分後だ。

 

 

 ーーーー

 

 

 病院の個室125号に「橘満」の名札が下がっている。

 医者が病室に入っておよそ10分が過ぎていた。ついでに佐久間さんも入って行っている。気を配って病室に入らず廊下で待っているが、それはそれで不安が募る。

 名札と窓の外の景色を、順々に眺めてきたところで、ようやく医者が出てきた。俺を一瞥してスタスタとどこかに行ってしまった。その後に、佐久間さんが出てきた。

 

「おお、はたちゃん」

 

 超然と笑む佐久間さんを見て、俺はやっと緊張を解いた。

 

「大丈夫なんですか?」

「過労や。体力が落ちとった時に、風邪をこじらせたらしい。今は落ち着いてんけど、1日2日は入院するようしといたから。意外とあいつも頑固やったわ」

 

 ゆっくりと廊下を歩き出した。

 

「思えば、満ももう60過ぎやからな。昔のようには働けへんわけやな」

「そういう意味でも佐久間さんも、橘さんの1つ上なだけでしょう。人ごとではないかと」

「わしはあいつとちごて、普段から手を抜いとるから平気やねん」

 

 大きな声で、とんでもないことを口走っている。

 いずれにしろ、無事と分かれば心持ちも全然違う。ようやく人心地だ。そんな心中を見透かしたかのように佐久間さんはニヤリと笑う。

 

「安心するのはまだはよないか?数日とは言うても、満の抜けた分をどないするんや」

「問題ないでしょう。橘さんには心強い弟子がいるんですから」

「せやか」

 

 佐久間さんの豪快な笑い声が廊下に響いた。状況のいかんにかかわらず、この豪放な笑い声を聞けば、困難も逆境もどっかに吹き飛ばされてしまう。

 

「これを機に満は健康診断でも受けといたほうがええやろ」

「そうですね。なら、佐久間さんも受けたらどうです?」

「わしか?バカ言いぃ。病気が見つかったらどないするんや。困るやんけ」

 

 とんでもない暴言を言いながら、

 

「とりあえず、はたちゃんも病室に顔を出してやってくれ。満が気にしとったからよ」

 

 佐久間さんは大きなお腹をポンポンと叩きながら、悠々と去って行った。

 

 

 ーーーー

 

 

 125号室の扉を開けて最初に視界に入ったのは、鳳翔さんだ。

 俺がこの件を鎮守府に連絡したところ、一番最初に駆けつけてきたのだ。

 

「先ほど、解熱剤を使ってもらってから、やっと落ち着きました。今は眠ってしまいましたけど」

 

 さすがに少しばかり血の気がないが、いつもと変わらない落ち着いた微笑が戻っている。うなずいて床上に目を向けると、静かな寝息を立てている橘さんが見えた。

 

「提督には大変な迷惑をかけてすいません、と言ってました」

「何かの勘違いですよ。迷惑がかかった記憶は微塵もありません」

「いえ、満さんはとても心配していましたから」

 

 鳳翔さんの手が伸びて、橘さんの布団を整える。

 

「一時とはいえ自分が現場に抜けてからでは、ただでさえ忙しい提督には大変な負担をかけてしまう、と」

「もともと火の車のような状態です。そこに松明が2、3本飛び込んでも、いつも通りの火の海。見える風景に変わりはありませんよ」

 

 俺の声に、鳳翔さんは微笑む。

 そのまま街灯がともる窓の外を眺めて、

 

「せっかくですし、しばらく橘さんの元にいてください」

 

 俺の言葉に、鳳翔さんも不要な社交辞令は述べなかった。

 

「本当を言いますと、私、少しホッとしているんです」

 

 見送りがてら廊下まで出て来てくれた鳳翔さんは、青白い頰にほのかな微笑を浮かべつつ、遠慮気味に言った。

 

「満さんと、2人きりで過ごす機会をもう何年も求めようとしましたが、ようやくしばらくは2人でゆっくりと過ごせそうです」

 

 ふいに雲間が切れたのか、薄暗いろうかに、柔らかい月光が差し込んだ。月光を受けた鳳翔さんの横顔が、白磁のような美しさを漂わせた。

 

「でも、やっと手に入れた時間がこんな形で手に入るなんて、なんだか皮肉ですね」

 

 声音のどこかに、かすかな寂寥が漂っていた。

 そんな言葉に俺は気の利いたセリフが思いつかない。下手に口出すより黙っている方がいいだろう。いつもながら、俺は力不足だと、そう実感せざるを得なかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 執務室に明かりが点いている。

 今は深夜の2時だ。

 閑静な夜の鎮守府のほとんどが真っ暗闇の中、この部屋だけ明かりが点いているのはいささか不自然だ。おまけにその部屋からは、話し声まですら聞こえてくる始末である。

 一応、俺の仕事が行われる部屋なのだが、最近は熊野や叢雲、長門のいずれかが必ずおり、段々とその3人の私物が持ち込まれつつある。熊野は紅茶セット、叢雲はコーヒーセット、長門はダンベル。ダンベルはたまに俺が使っているので、そこはなんとも言えない。

 廊下から扉を開け、中を覗き込めば、ソファで物の見事に3人が揃っていた。

 

「おかえり、提督」

 

 真っ先に声を発したのは長門だ。無論、3人とも橘さんの件は知っている。少し風邪をこじらせただけだと、告げると長門と叢雲は安堵のため息をついた。

 そうして近づくと、珍しいかな、古びた将棋盤が1つ。驚いたことに叢雲と長門が指し合っている。

 

「なんだ、長門。世界のビッグ7が随分と悲惨な戦いを強いられているじゃないか」

 

 そんな俺の声に、長門は盤上を睨みつけたまま顔を上げようとしない。生来、頭より体の方が先に動くタイプだ。テーブルゲームは得意ではないだろう。

 

「なに、ビック7ともなると花を持ちすぎるからな。叢雲にも花を持たせてあげないといけまい。それにしても、叢雲に将棋の心得があるなんて意外だな」

「あんたの方が意外よ。ま、昔少しだけ教えてもらっただけよ」

「ハハ…………口を謹んでくれないか?昔少しだけ教えてもらった叢雲に大敗しては、私の立場がなくなる」

「悪かったわね。もっと強いのかと思っていたから」

 

 相変わらず叢雲はきついことを言う。フォローのしようがないセリフを言われ、長門はいっそう顔をしかめて盤上を睨みつけるばかりだ。

 傍らでは、熊野はティーカップを手に持ったまま眠っている。普段から美容のためだと早寝しているせいか、この時間まで持たなかったようだ。あまりにも芸術的な居眠りなため、面白い。

 ふいに叢雲がすくりと立ち上がって言った。

 

「コーヒー淹れるわね」

「お、叢雲、さては敵前逃亡だな?それだと戦局に関わらず、勝利は私のものになるぞ」

「なら、勝ちを譲るわ。司令官が随分とひどい顔をしているから、それどころじゃないわ」

 

 微笑とともにそんなことを言って、コーヒーを取り出した。いくつか反論したいことがあるが、長門が叢雲の座っていた場所を指差した。

 

「やむを得ん。相手としてはいささか物足りないが、提督に続投を依頼しよう。まあ、座れ」

 

 言われるままに腰を下ろした途端、

 

「口には出さないが、みんな貴方のことを心配しているぞ」

 

 唐突だった。反射的に顔を上げると、長門は相変わらず盤上に目を向けたままだ。

 

「最近の貴方は何やら1人で鬱々と考え込んでいることが多過ぎる。艦娘のことか?広瀬のことか?それとも昔の女のことか?どれでもいいが、少しくらい相談してくれてもいいだろう」

「事情説明する前に、昔の女というのは噂になっているのか?」

「そりゃあ、海軍三角関係事件は誰でも興味があるだろう。今は広瀬と提督のホモ疑惑がもっぱら人気だが」

「おい、その噂はなんだ?」

 

 まったくもって心外な噂ばかりとかと思えば、ホモ疑惑。どうしたらそうなるんだ。

 

「それはともかく、その噂の中にまた君が出て行くんでは?という内容があってだな」

 

 駒を取りかけた俺の手が、思わず止まる。

 

「実はやっぱり、海上自衛隊に戻りたがっているんでは?と艦娘たちは気が気ではないんだ。こんな職場環境が故にその心配も大きくなる」

「そんなことを…………」

「そこまで思わせるほど、貴方は艦娘を放置気味なのだろう。おまけに、どこかに女ができたのでは?とも心配している」

「え?」

「冗談だ」

 

「時間切れだ」と長門は告げ、勝手にパチリと歩を進めた。

 呆気にとられている俺の前で、今度は自分の桂馬を進める。

 それからやっと顔を上げ、ニヤリと笑った。

 

「そんなに慌てるくらいなら、初めからしっかりしろ、提督」

「…………長門も随分と性格が悪くなったな。どこから嘘だ。ホモ疑惑からか?」

「それは本当だ。出て行くのでは?という(くだり)から全部嘘だ」

 

 両肩から力が抜ける心地がした。

 長門はいっそうニヤニヤと嬉しそうに笑っている。その笑いを少し収めてから言った。

 

「大きな荷物を1人で抱えて、助けを無視しているのが今の貴方だ。心配する気持ちも分かるが、そのままだと思わぬところで転倒してしまうぞ」

「はぁ、よく言われることだな。1人で無理し過ぎだと。それにしても、重みのある言葉だな」

 

 俺が少々皮肉を込めて言えば、再び長門はニヤリと笑う。

 

「意味深だろ?」

「そうでもない」

「そんな余裕があるかな、ほら、王手だ」

 

 長門の細い指が桂馬を前へと進める。

 どう見ても悪手だ。恐れる必要はない。

 すぐさま桂馬を粉砕しつつ、沈思した。

 振り返れば、航がやって来てから言うものの、その航の問題に駆け回り、その後は大和一件も加わって1人で考え込むことが多かった。今は今で、胸中の大半を占めるのは、橘さんの体調のことなんだから、そう見られてもしょうがない。かかる心配を見せない艦娘に対して、長門に言われるまで気づきもしない自分の狭量があまりにも情けない。

 俺は胸の中で恥じて、目の前のビッグ7に告げた。

 

「ありがとう」

「ん?何か言ったか?」

「独り言だ」

 

 王手、と俺は角行を進めた。

 

「ありがとう、と言ったそばから容赦ない一手だな」

「聞こえてるじゃないか」

「聞こえていたが、もう一回聞きたかったんだよ」

「そんなことを言ってないで、早く王を守ったらどうだ」

 

 訳の分からない問答をした後、呟くように言った。

 

「ダメだな…………俺も」

「今度は自己嫌悪か?」

「さあな…………皆は軍神と持て囃しているが、本当は無能な奴なのに…………今もこうして、自己嫌悪に陥っている」

 

 今日は疲れているようだ。普段の己からは想像もつかないほど弱気になっている。

 

「自己嫌悪に陥っているのは確かだが、無能ではないだろう。軍神の名にふさわしい実力は持っている」

「そうだろうか…………指揮も上手くないし、戦場に出たとしても艦娘に敵わない…………人付き合いも下手だし、口開けば皮肉しか言わない…………」

「かの軍神がこうだとみんなは驚くだろうな」

「はぁ…………」

 

 すでに将棋の勝敗は決している。しかし、俺の心は晴れぬまま。すると眼前にコーヒーカップが置かれた。

 

「あまり司令官をいじめるものじゃないわよ、長門」

「いや、珍しく落ち込んでいるものでな。ついからかいたくなったんだ」

 

 ここで、長門の言葉が蘇る。助けを無視しているのが提督だ、と。

 

「叢雲…………」

「謝らないで」

 

 静かな、だが芯のある声が俺の声を遮った。

 少し言葉に詰まっているうちに、叢雲ははっきりと続けた。

 

「あんたは考え過ぎなのよ。こんな時間くらい、考えるのをやめないと、休む時間がないわ」

 

 すっと手でカップを示して、

 

「それにコーヒーも冷めるわ」

 

 にこりと微笑んだ。

 こんな時、相変わらず気の利いたセリフは出てこない。

 ただ言われるがままに一杯を飲めば、豊かな匂いが鼻腔をくすぐり、頭の中の嫌悪を押し流していく。俺は心の中のいろんな言葉を捨て、ただ一言言った。

 

「やっぱり美味いな」

 

 その言葉に長門と叢雲は何やら優しい笑顔を向けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 白昼の大通りで、歩いていたら突然背後から後頭部を殴りつけられる。

 そんな経験したことがあるだろうか?

 もちろん言葉通りの経験ではない。それくらい驚愕するような、という意味だ。

 軍事関係の仕事に就くと、年に1度くらいはそんな出来事にあう。人生初めての仕事が深海棲艦相手だったり、昨日まで元気だった奴が次の日にはいなくなっていたなどと笑えない驚愕が溢れている。

 しかしその日の一件は、さして長くもない人生の中でもとびきりにタチの悪いものだった。

 

「えっと…………本当なんですか?」

 

 夕方の病院の一室で、俺は座ったまま、ようやく声を絞り出した。

 

「はい、間違いありません」

 

 答えたのは、橘さんの担当医の先生だ。この辺の病院では一番の腕と名高い医者だ。

 時刻は夕方の6時。ちょうど午後の執務が佳境にかかる時間だ。その多忙な時間にいきなり、この人から呼び出しを受けたのだ。

 

「本来なら、家族の方に来てもらうのが普通なのですが、橘さんにはいらっしゃらないので、貴方に。勝手ながら、家族のような関係だと判断して、お話しします」

 

 先生の配慮に頭を下げつつ、俺は目の前のレントゲン写真に目を向けた。

 

「これは午後一番に撮影したものです」

 

 先生が示したのは腹部の写真だ。医療系は全くと言っていいほど知識はないが、明らかに異物の腫大化した何かはいいものではないことぐらいは分かった。

 

「悪性リンパ腫を疑っています。全身に転移しているかと」

 

 先生の言葉に、すっと血の気が引く思いがした。どんな病気かは知らないが並ならないものだと察した。

 先生が言うには血液のガンで白血病の親戚だと考えてくれ、と言われた。そして、まだ橘さんには伝えていない。

 

「本当は勝手に知らせてはいけないんですが、状況が状況ですので電話させていただきました」

「…………ご、ご配慮、痛み入ります」

 

 答えた自分の声はかすかに震えていた。

 

「これからどうするのかを話します」

 

 先生の説明に俺はただ呆然と聞くことしかできなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

 書類だの書類だの、やたらと高く積まれた部屋の中央に佐久間さんがいる。その右手に握られているのは橘さんの診断書だ。

 夕方の多忙な時間に突然訪れた俺に、佐久間さんは一言の苦言を呈さなかった。少し不思議そうな顔をして、俺が差し出した一枚の紙を受け取っただけだ。

「橘さんのものです」とわざわざ声に出す必要もなかった。ちらりと患者目の欄に目を向けた佐久間さんは、わずかに目を細めて、そのまま何も告げずに診断書に目を通した。

 それから5分は経っただろうか。

 その間、佐久間さんは眉をピクリとも動かさず、口も開かず、診断書の1文字1文字を噛みしめるように見つめていた。

 途中1度だけ、美人な秘書が顔を出して、「そろそろ会議の時間ですので、顔を出していただけると…………」と告げた瞬間、佐久間さんは、最後まで聞かずに短く答えた。

 

「悪いけど行けへんようになった」

 

 さすがに秘書は驚いて赤い唇を開きかけたが、それよりも先に佐久間さんが続けた。

 

「風邪を引いたとでも伝えといてや。わしの代わりくらいなんぼでもおるやろ」

 

 言葉の内容に不釣り合いなほど、穏やかな声だったが、秘書は反論をせず、一礼して部屋を出た。

 

「ちょうどええ、わしも見せたいもんがある」

 

 と、一枚の写真を取り出して、俺に渡した。そこには海が写っており、その中に白髪の女性が遠くながらもいる。

 その女性の姿を見た瞬間、体が強張った。わずかながら、写真を持つ手に力が入る。

 

「なんやと思う?」

 

 佐久間さんが静かに顔を上げた。

 

「…………"姫"かと。2度も見ましたから見間違いではないと思います」

 

 自分の声が、理不尽なほど冷ややかに聞こえた。

 

「せやろな。2度の深海棲艦の上陸を許してもうた時に、その群れの中にいた奴やわな」

「いつ、この写真が?」

「今朝や。最近は妙に活発に深海棲艦どもが動きよるから、少し遠くに偵察に行ってんや」

「偵察の方は無事だったんですか?」

「全員大破。辛うじて生きとるわ」

 

 佐久間さんの眉がかすかに動いた。

 全員大破、生きていただけラッキーだろう。

 "姫"ーー戦艦や正規空母のように完全な人の形を成しいるが、今までのどの深海棲艦とは類を見ないほどの力を持つ。2度の深海棲艦の上陸が起きた直接的な原因だ。艦娘たちの力を持ってしても敵わず、被害を増やした。

 そして、その2度の上陸前に"姫"の姿が確認されている。つまりは、そう言うことだ。

 

「他に異変は?」

「あらへん、少し活発になったくらいでそれ以外は平常なんや。あの日と同じようにな」

「そう、ですか…………」

 

 ふいに佐久間さんは微笑した。いつものおちゃらけた笑いなどではない。凄絶と言っていいほどの、笑みだった。

 

「どないする?今まで全敗の戦相手にどないする?」

「全敗など関係ありません。いつも通り、勝利を狙うだけです」

「せやな。はたちゃんのお陰で、被害は抑えられたもんな。ほかの輩なら被害は増えたかもしれへん」

 

 ゆっくりと佐久間さんは立ち上がった。

 

「ついて来なはれ」

「どこへ?」

 

 眉1つ動かさず、平然と答えた。

 

「満と作戦会議や」

 

 

 ーーーー

 

 

 佐久間さんの振る舞いはかなり無茶苦茶だった。

 写真や書類を持って出た佐久間さんはそのまま真っ直ぐに病院へ行き、橘さんのいる病室に向かった。ベッドの上に橘さんが起きているのを確認すると、無造作に書類や写真を投げ出したのだ。俺が止まる暇もあったもんではない。

 呆気にとられている手前で、橘さんは診断書やら報告書やらいろいろ混ざった書類をゆっくりと1枚1枚眺めていった。その間、佐久間さんはいつもの不敵な笑みを浮かべたまま超然と腕を組んでベッドサイドに立っている。

 

「ひどいものですね」

「ひどいもんや」

「道理で最近は調子が悪かったわけです。妙に咳が出たり、背中が痛かったり、倦怠感もあって…………歳のせいかと思っていましたけど、こんな病気なってるとは」

 

 橘さんの淡々とした声が響いた。その細い瞳は、普段と変わらない。まるで明日の天気での話でもしているかのような気安さだ。

 

「症状はいつからあってん?」

「3ヶ月ほど前からですかねぇ…………」

「このアホが…………」

 

 最後のつぶやきが、泣いているように一瞬聞こえて、驚いて佐久間さんの顔を見上げた。しかし、少なくとも外面上は、少しの変化も見られなかった。

 

「ただでさえ緊急事態が起こりそうやのに、なにをアホなことをやってんのや」

「すいません。まさかこんなところで脱落するとは、私も思ってもいませんでした」

 

 答えた橘さんの目元に、なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい濃厚な病の影が見えた。

 

「ま、病気のことは医者に任せたらええ。それより、これどない思う?」

「確実に来ますね。しかし、今の私の体では役に立ちそうにもありません」

「心配せんでもええ。指揮はわしが取るさかい」

「余計心配ですよ。最近、あなたも忙しくてろくに寝れていないでしょう?」

「徹夜なんて、いつものことや」

「そうでしたねぇ…………」

 

 佐久間さんの豪快な笑い声に、橘さんの穏やかな笑声が和した。

 俺はただただ呆然と立ち尽くすばかりだ。

 

 

 ーーーー

 

 

「…………なぜ、そこまで落ち着いていられるんですか?」

 

 帰りの車の中で、俺は心中のモヤモヤとしていたものを吐き出した。

 そこにあるのは怒りではない。苛立ち、不安、驚愕といったものが入り混じって複雑になりながらも、妙に乾いた感情があった。

 少し荒っぽい運転をしながらも、目元には相変わらず不敵な笑みが浮かんでいる。

 

「そう言うはたちゃんも随分と落ち着いてんちゃうか」

「落ち着いてなんかいません。理解できていないだけです」

「わしも似たようなもんや」

 

 超然と構えて、眉一つ動かさない。

 

「せやけどな、パニックになって、大騒ぎしよる暇はないねん。大事な約束があるさかいにな」

 

 独り言めいた太い声が響いた。

 ほとんど反射的に脳裏をよぎったのは、橘さんのお酒で青白くなった笑顔だ。

 

 "この国に、誰もがいつでも楽しめるために、平和な海を"

 

 酒の席でそんな言葉を聞いたのは1ヶ月ほど前だった。

 ほとんど無意識に、その言葉を口に出して告げると、佐久間さんは太い眉を動かして、さすがに驚いたような顔をした。

 

「なんではたちゃんが知ってんのや?」

「いえ、前に橘さんと酒を飲む機会がありまして、そこで言っていました。自分を支えて来た大切な約束だと」

 

 佐久間さんがもう一度微笑んだ。それはいつもの不敵な笑みではなく、意外にも柔らかさを含んだものだった。

 

「なんや、満のやつ、まだ覚えとったのか」

 

 佐久間さんはわずかに目を細めて、静かに語を継いだ。

 

「なぁはたちゃん、どうして満に嫁がいないか知っとるか?」

 

 突然の問いだ。当然俺が知っているわけがない。

 沈黙をもって答える俺に、佐久間さんは淡々と告げた。

 

「満にも昔は彼女がいたんや。そんで、プロポーズも済ませとったわ」

 

 ただエンジンの音が響く。

 

「あとは日を待つだけやった。仕事の都合でな、満の彼女が船で移動してたんや。当時はまだ船での移動に規制はなかったやからな」

 

 すっと血の気が引く思いがした。

 船の規制がまだだったとしても、その時にも深海棲艦はいたはずだ。

 

「あん時は、海上自衛隊も深海棲艦にどう対抗するか分かっとらへんかったからなぁ…………案の定、彼女の乗った船は襲撃されたっちゅうわけや。満が珍しく慌てて駆けつけた時にはすでに船は海の底」

 

 ハンドルを握っていた佐久間さんの手は、いつのまにかきつく握りしめられていた。

 

「おまけに深海棲艦のせいで、遺体も回収でけへん。おかげで、満は最愛の人に永遠に会えなくてなってしもた」

 

 ひどい話や、と呟く声が聞こえた。

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「一応、3人はみんな海上自衛隊で同じ部隊やったから、約束しとったんや」

 

 この時、俺は初めて理解した。

 この2人の偉大な先輩たちは、本気で海の平和を目指して尽力してきたのだ。飄然たる外貌の中に押し包んできたものは、人々が思うよりもはるかに強靭な信念だ。

 

「わしらはな、そういう哀しいことは、もうナシにしたいんや」

 

 佐久間さんは目線を変えず、

 

「目の前には、まだまだ深海棲艦がぎょうさんおる。わしらの都合なんぞ、相手にとっては知ったこっちゃないねん。敵襲だって毎日のようにあるんや。要するに」

 

 わずかに目を細めた。

 

「立ち止まっている余裕なんてあらへん」

 

 圧倒的な風格を兼ね備えた、孤高の猛将の横顔だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「…………チョウ、隊長!」

 

 突然そんな声が降ってきて顔を上げると、立っていたのは航だった。

 

「大丈夫ですか、随分とぼーっとしてましたけど」

 

 言われて緩慢に視線をめぐらせると、時計は夜の11時を示していた。

 佐久間さんに送ってもらって、執務室に戻り、ソファに座り込んでから相当な時間が経過していたようだ。時間が経てば落ち着くかと思っていた頭の中は、未だに混乱しており、思考が全くまとまらない。

 机には電源の落ちたパソコンに、うず高く積み上げられた書類、いたずらに煌々と照りつける蛍光灯。そういったものが、ことごとく奇妙に浮薄なだまし絵みたいに見えた。

 

「橘さんの話は聞きましたよ。大変なことになりましたね…………」

「…………不熱心な奴が、最近は珍しく鎮守府にいるな」

「深海棲艦の動きも活発ですからね。中破する娘も多いです」

 

 言いながら、持っていたコーヒーカップのうち1つを俺の前に置いた。

 

「でも、そんな娘達よりも、隊長の方が具合が悪く見えます。今日は休んだ方がいいですよ」

「勘違いしているようだな。具合が悪いのは俺ではなく、橘さんだ」

 

 航はかすかに眉を動かした。

 

「やっぱり疲れてますよ。それを飲んだら休んでください」

「山ほどの依頼に、艦娘を放置してか?」

「たまには僕がやりますよ。それくらいの余力はあります」

「家にはもうじき3歳の娘がいるだろ。余力もクソもあるか」

 

 人のことより自分の心配をしろ、と言う前に、航が口を開いた。

 

「さっき長門さんから大まかな指示を受けました。細かな指示は全て僕がします。心配ありません」

 

 はっきりと告げて、そっと付け加えた。

 

「今の隊長を見ていると、あの時の大和を思い出すんです。こういう時に、無理をしていてもろくなことになりませんよ、隊長」

 

 言葉よりも情感に、多くを含んだ声だった。

 しばらく沈黙した後、分かった、と俺は答えた。

 航の背中を見送ると、入れ替わりに入ってきたのは不知火だ。

 

「司令、今回の依頼の件ですが、少し問題が」

「…………なんだっけ?」

「中国からの貿易船のことです」

 

 しっかりしてください、と言われてようやく思い出す。

 ふと社員一覧表を見れば、橘さんだけ休みが続いており、途端に無闇な感情が胸に溢れて、俺はしばらく呆然となった。

 

「司令、大丈夫でしょうか?かなり…………」

 

 不知火が言いかけた声を途切れさせたのは、いつのまにか去ったはずの航がそばに立っていたからだ。

 

「隊長、もう休んでください」

 

 静かな、しかし断然たる声だった。先刻とは明らかに異なる厳格な口調だった。

 

「あとのことはもういいです。今すぐ休んでください」

「…………問題ない、忙しいのはいつものことだ」

「忙しいかどうかは関係ないです」

「理不尽が重なるこの状況に、憤りを覚えて少々混乱しているだけだ。余計な心配は不要だ」

 

 我ながら不可解な強情があった。矢継ぎ早な言葉が、俺の意思を無視して飛び出していく。

 航が急に口をつぐんだ。

 わずかの沈黙ののち、

 

「隊長」

 

 静かな呼びかけに、俺が顔を上げた先で、航がすっと右手を伸ばすのが見えた。

 えっ、と不知火が短く声を発するのと、航が右手に持っていたコーヒーカップを、俺の頭の上でひっくり返すのはほぼ同時だった。直後に、濃厚な黒い液体が降ってきた。

 顔面から首筋まで、液体が一息に流れ落ち、あっという間に、白い軍服に黒いシミを広げていった。

 執務室の時間が止まっていた。不知火がただ呆気にとられたかのように口を開けている前で、カップを逆さに持って立っている男と、頭から黒い液体を被ったまま座り込んでいる男が声もなく見つめているだけだ。

 

「ちょ、ちょっと広瀬さん…………」

 

 ようやく声を発した不知火を、航は視線を動かさぬまま黙って片手で制した。

 

「代えの軍服は僕が使わせてもらってますので、もうありません。その格好で執務はできないでしょう?ですから、風呂に入って休んでください」

 

 豊かな声色だった。どこか懐かしさもあった。

 

「それとも、カフェインの効能でも説明しましょうか?」

 

 俺は妙に静かな心持ちで戦友を見上げた。口調は穏やかでも目はいたって真剣だ。

 やがて心地よいコーヒーの匂いが、蜘蛛の巣を被ったような脳内をすっきりとさせた。

 

「ひどいもんだ…………」

 

 俺のつぶやきに、航はかすかに眉を動かした。

 

「すいません、隊長を殴っても良かったのですが、それだとかえって僕の身に危険が及ぶと思ったので」

「君の所業を言っているんじゃない。自分の不甲斐なさを評しただけだ。これだと軍神の名も泣くな」

 

 にわかに溢れたのは苦笑だ。

 と同時に航も苦笑した。

 胸の奥で凍り付いていたものが、ゆっくりと溶け出していく心地がする。人の心というのは、難解かと思えば、単純な振る舞いをするものだ。

 

「こういう無茶は変人と名高い俺の専売特許だと思っていたんだがな…………」

「仕方ないです、朱に交われば赤くなるものですから」

「口の減らん奴だ」

 

 俺と航との苦笑が重なって、忍びやかな笑い声が響いた。

 俺はゆっくりと立ち上がる。

 

「普段働かない男が任せろと言うんだ。今夜は甘えるとしよう」

「そうしてください。こんなサービス、滅多にできませんから」

 

 執務室に背を向けると、そっと廊下へと足を踏み出す。

 

「お疲れ様です、司令」

 

 不知火の、そんな一言がかすかに聞こえた。








今回もあんまり艦娘を出せていませんね…………すいません。もう少し出せるように努力したいと思います。
こう、イチャラブ的な展開は残念ながら苦手分野なようです。閑話などで特訓していきたいと思います。
後、ここまでで何か疑問に思ったことがありましたら、ぜひ教えてください。アンケートも継続していきたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 橘さんの確定診断が下りた。

 

「リンパ芽球性リンパ腫」

 

 最初、先生にそう言われてキョトンしたが、リンパ腫の中でも悪性度の高いものの1つだそうだ。

 頭からコーヒーを被り、ようやく整理がつきかけたの時にこれだ。せめての救いは、先生のおかげで早めに見つかったことだ。

 

「病勢はとても強く、全身に広がっています。早急に治療をする必要があります」

 

 先生の声に、橘さんはただ淡々として頷いた。

 

「そうですか」

 

 すっかり肉の落ちた橘さんの目にはいつもと変わらない静寂がある。その傍らでは、着替えを持ってきた鳳翔さんが挙措も乱さず、端然と立っていた。

 橘さんの病状は目に見えるように進行し始めていた。初めて執務室で倒れた時は、それほど感じなかったが、入院してからは急速に痩せはじめ、食事量も減っているらしい。また、毎日熱を出すらしく、朝見舞いに行けば寝汗でビッショリになっていることもあった。総じて言えば、明らかに衰弱の気配を示していた。

 それでも橘さんは、見舞いにやってくる艦娘たちにはあくまで穏やかに接し、夜になれば工廠全体の指示をするために紙に書いていた。時には、明石や夕張を呼んで指示するくらいだ。その姿は、ほとん荘厳と言っていい風格をまとっていた。

 

「化学療法、ですか?」

 

 橘さんの声は揺るぎない。

 先生が頷いた。

 

「明日、最後の検査を行って、結果を再確認次第、4剤併用の強力な治療を開始します」

「あなたのような先生だと、とても心強いです」

 

 小さく微笑してから、

 

「お任せすると言ったからには、全てを託します。ですが、治療の開始については、少し待ってくれませんか?先生」

 

 橘さんの細い、しかし確かな声が耳を打った。

 先生は一瞬戸惑ったように目を見開いたが、すぐに、

 

「橘さん、わざわざ言う必要もありませんが、のんびりと構えていられる状況ではありません。病状は…………」

「2、3日でいいんです。少し」

 

 あくまで返答は揺るぎない。

 いつもは影の薄い橘さんが、今日ばかりは歴戦を戦い抜いた老将の存在感を示していた。

 先生が口を開くまで、少しばかりの沈黙があった。

 

「医者である私が橘さんの選択に口出す資格はありません。しかし、仕事のことを心配しているのなら、今すぐやめてください」

 

 いつもは温厚そうな先生の口調が今日は厳しかった。

 

「橘さんは、どんな仕事で働いているかは知りませんが、それ以前に人間です。そのことだけを忘れないでください」

 

 静かに先生は告げ、病室を去っていった。

 あとには俺と橘さんと鳳翔さんの3人がただ静かに佇むばかりだ。

 

「優しい人ですね」

 

 呟くように言ったのは鳳翔さんだ。

 顔を上げる橘さんに向かって、鳳翔さんは微笑とともに告げる。

 

「私が言いたかったことをあんなはっきりと言ってくれるなんて、優しいですね」

「"どんな仕事で働いているかは知りませんが、それ以前に人間です"。とても当たり前のことなのに、言えずにきてしまいました」

 

 鳳翔さんは、そっとお茶の支度を始めながら、

 

「こんな時くらい、自分を第一に考えてもいいと思いますよ。満さんがどれほど艦娘たちのために頑張ってきたのか、私が一番知っているんですから」

「鳳翔…………」

「ずーっと、振り向いてもらえなかった私が言うんですから、間違いありません」

 

 橘さんの口元に苦笑が浮かんだ。

 それを鳳翔さんの微笑がそっと包み込む。

 そんな時に、ガラリと扉が開いて静寂を彼方へ吹き飛ばす大声が飛び込んできた。

 

「お、なんやなんや、えらい静まりかえっとるやんか、どないした?」

 

 場違いな陽気をまとって入ってきたのは、言わずと知れた佐久間さんだ。

 

「調子はどないや、満」

「特に変わってませんよ。治療の開始を待って欲しいと先生に言ったら、怒られたところです」

「そりゃそうや。1日遅ければ1日寿命が縮むで、満。艦娘のことはどうでもええから、とっと始めえや」

 

 とんでもないことをさらりと言う。

 橘さんはと言うと、かえって愉快そうに笑っている。30年を超える盟友だからこそできるギリギリの会話だ。

 

「それでこんな忙しい時間帯にどうしたんですか?気遣いなら無用ですよ」

「気遣い?そんなんわしの性に合わへんよ。ただ案内しただけや」

 

 言いながら扉を振り返った先には見慣れた人影があった。俺が口を開くより先に、鳳翔さんが声を上げた。

 

「まあ、長門さん」

 

 入口で頭を下げたのは長門だった。

 

「お久しぶりです、橘さん、鳳翔さん」

「まあまあ、今は忙しいはずなのに」

「いえ、私だけ見舞いに行かないのも良くないですから」

 

 長門の答えに、橘さんは嬉しそうに微笑んだ。

 こうして、長門と佐久間さんが並ぶと、いくら大きい長門でも小さく見えてしまう。俺が並べば、より俺の小ささが引き立ってしまう。

 そして、長門は持ってきた小箱を差し出した。どうやら洋菓子店のものらしい。

 

「まあ、シュークリームですか」

「みんなで食べれば、と。橘さんも食べれるでしょうか?」

 

 長門の遠慮気味の視線に、橘さんの優しげな瞳が答える。

 

「甘いものは大好物です。早速いただくとしましょうか」

「せっかくですから、お茶を淹れなおしますね」

 

 微笑する橘さんも、手際よく準備する鳳翔さんも、何やら急に嬉しげだ。やはり人を元気にさせるのは人だ。

 

「なあ、はたちゃん」

 

 と佐久間さんが耳打ちした。

 

「なんか、居づらくねえへん?」

「急にどうしたんですか、佐久間さんらしくもない」

「だって、満も鳳翔も、長門もえろう仲が良さそうで気ぃ遣うちゃうやんか。わしたちだけ浮いてへんか?」

「佐久間さんは浮いているかもしれませんが、自分は溶け込んでいるつもりですよ。気を遣うのなら退室しても構いませんが、俺は遠慮なくシュークリームをもらいますよ」

「冷たいやつやな、はたちゃんは」

 

 言葉の内容はいささか寂しいものだが、豪快な笑い声は相変わらずだ。不思議そうに振り返った長門に、佐久間さんは満面の笑みを返した。

 

「長門は相変わらずべっぴんさんやな。はたちゃんには少し勿体あらへんかいな」

 

 そんなことを言いながら、長門の頭を大きな手でポンポンと叩く。佐久間さんと長門にも面識はある。詳しくは知らないが。

 佐久間さんの手の下で、長門は少し苦笑しながら、

 

「佐久間さんも相変わらずなようですね。いつも提督がお世話になっています」

「そんなんあらへんで。はたちゃんたちは自衛隊がやれてへん仕事をいつもやってくれる。こっちの方がいつもはたちゃんたちにお世話になりっぱなしや」

 

 そこまで言って、少し間を置いて、何気ない様子で付け加えた。

 

「大変な仕事ばっかり押し付けてすまへん」

 

 そんな声が断片的に聞こえて思わず目を見張った。長門も同様に目を見張って佐久間さんを見返した。

 しかし当の佐久間さんは、その一瞬の沈黙を持ち前の大声で叫び吹き飛ばし、さあノンアルコール宴会や、などと笑ってベッドのそばに腰下ろした。橘さんはシュークリームを取り出し、鳳翔さんが湯呑を人数分並べ始める。

 

「優しい人たちだな」

「ああ…………だから、ここまでやっていけているのだろう」

 

 平日の午後、普段は依頼の電話がうるさく鳴り響く時間帯なのに、この日は珍しく沈黙を守っていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 よくないことは続くものだ。

 漁船の護衛をしていた、朝潮が大破した。

 橘さんの化学療法を検討していた頃であった。普段の依頼任務より沿岸での任務だが、深海棲艦が姿を現したのである。艦隊が命からがら戻ってきた時は、息も絶え絶えとなった朝潮の姿が川内の背中にあった。

 漁船の方々は川内のとっさの判断もあり無事。

 

「高速修復材の使用を許可するから皆、随時入渠してくれ」

 

 静かに告げるのに対し、川内はかすかに顎を動かして頷いた。いつもは夜戦夜戦とうるさい川内だが、今日ばかりは気を遣ってくれたのか、静かに入渠した。

 報告を受けた後、俺は医務室で眠る朝潮をただじっと見つめるしかできなかった。

 

「電をかばって大破したんだって」

 

 俺がずっと朝潮のベッドの横で座っているところに、叢雲がそんな言葉を告げた。朝潮が眠ってそろそろ1時間は経つが、起きる気配はない。

 

「あんたにそっくりね、朝潮」

「そうでもない。朝潮は俺なんかよりもよっぽど立派だ」

 

 叢雲が苦笑した。苦笑した後、冴えない顔になり、そっと窓の景色を眺めた。

 

「どうした?」

「風向きが良くないのよ」

 

 短い言葉が、端的にこの鎮守府をさらにはこの海の空気を表している。

 橘さんの診断と、それに重なるように朝潮の大破。深海棲艦の動きは日に日に活発になっており、全体として嫌な空気に満ちている。特に駆逐艦は敏感に感じ取っているらしく、いつものような活気が少しなくなり、気落ちしている様子が隠せない。

 

「こういう時って、トラブルが発生しやすいから気をつけないと…………」

「なら、艦娘1人1人に頭からコーヒーをかけてやろうか?意外と元気になるもんだぞ」

 

 性に合わない軽口を叩けば、叢雲は沈黙したまま答えない。顔を上げると、思いのほか優しげな微笑に出くわした。

 

「ようやく、しっかりしてくれるようになったわね。最近のあんたは、色々と酷かったから」

「これもコーヒーのおかげか…………君もやってみるか?頭からコーヒー被るの」

「嫌よ。染みがついて取れなくなるじゃない」

 

 苦笑して立ち去りかけた叢雲が、ふいに足を止めたのは、俺の懐からやかましい音が鳴り響いたからだ。俺は慌てて部屋を出て音源を探す。

 それは依頼の電話だった。緊急の。それも海上自衛隊から。

 少しながら訝しみつつ、電話に出る。

 

 "助けてください!"

 

 女性の緊迫した声で言われ、身体を強張らせた。どうしましたかと聞くと、

 

 "こちらの鎮守府が超遠距離射撃を受けました!すでに被害は大きく、艦隊も組めない状況です!"

 

 まさに足場が急になくなった心地がした。しかし、こちらが慌てている場合ではない。俺は冷静になるよう努めた。

 

「一応、こちらの艦隊を至急送ります。今はそちらの提督の指示に従って、凌いでください」

 "そ、それが…………いないんです!いなくなったんです!早く助け…………きゃぁ!?"

 

 爆発音が耳を貫いた。嫌な汗が流れる。俺は叢雲を見ると、察したのかすぐさま、駆け出した。

 

「大丈夫か!?と、とにかく凌いでくれ!」

 "だ、大丈夫です!"

 

 俺はどこの鎮守府かを聞いた。

 どうやら、この鎮守府に近いところに位置しているようだ。連絡した女性は機転が利くらしく、すぐに助けに迎えるここに連絡したようだ。

 

「司令官!艦隊の準備はOKよ!」

「すまん叢雲、助かる。すぐに出撃してくれ!」

 

 叢雲を旗艦とする艦隊を出撃させた後、俺は執務室に向かった。いくら艦娘とも言えども、陸上では100%の力は発揮できない。最悪の事態を想定するならば、鎮守府内に深海棲艦が侵入する事だろう。

 俺は自室のクローゼットの奥にある箱を取り出して、着替えた。

 

 

 ーーーー

 

 

「大変な事になりましたね」

 

 港に立っていた私に、広瀬が声をかけた。いつでも出撃ができるように、艤装の準備を済ませた。

 

「こういう時、嫌なことを思い出す」

 

 広瀬は何も言わずにこちらを見つめる。

 提督の話を聞くには、彼も相当苦労してここにやって来たと言う。やって来てすぐは散々で先が思いやられたが、今では立派な戦力だ。

 互いに何も言わぬまま、沈黙が漂う。

 

「…………長門さんは隊長とは幼馴染なんですよね?」

 

 私はそっと首肯する。

 しかし、広瀬はそれ以上何も言わなかった。妙に納得した表情を浮かべるばかりだ。こんな時に思い出すべきではないのだが、彼と提督のホモ疑惑が浮かんでしまう。

 私が妙な事に胸騒ぎを覚えていると、広瀬はいつのまにかいなくなっていた。まぁ、彼も提督の事はよく知っているだろう。だからこそ、今の状況が嫌な予感をさせるのだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 叢雲たちが出撃して30分くらい経った後、私はとりあえず執務室に向かう事にした。多分、提督は心配で押し潰されそうになっているだろう。その途中の廊下で、熊野の急いた声が飛び込んできた。

 

「どこにいらしたの、長門」

 

 息を荒げながら、慌ただしく駆け寄ってくる。

 

「どうした?」

「提督が…………」

 

 ただならぬ様子に私はすぐに足を踏み出した。

 熊野について執務室まで足早に進む。室内に入ると、いつもは机にいるはずの提督の姿がなかった。

 慌てて提督の私室に入ると、脱ぎ捨てられた軍服に荒らされたクローゼットが見えた。

 1つの古びた箱が空になっているのを見て、私は目を見開いた。

 提督が自ら救援要請を出した鎮守府に向かっている事に気付いたのは、彼の車が無いと確認した瞬間だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「沈みなさいっ!」

 

 砲撃音とともに、1つの駆逐艦に命中して沈む。それでも攻撃を止める暇はない。

 叢雲たちはすでに救援要請が出た鎮守府のすぐ近くにまで来たいた。満身創痍ながらも、深海棲艦に対抗する、艦娘の姿も捉えている。

 

「これでは近づけません!」

 

 榛名の声が砲撃音に紛れて届く。その中にはおぞましいほどの数の咆哮が混じっている。その咆哮は止むことがなく、そして無数の巨大から顎が獲物を喰らわんと弾丸を放つ。

 

「ぽいっ!?」

 

 砲撃が夕立を掠める。

 もはや砲撃は雨のごとく降りかかってくる。注意がこちらに向いてくれつつあるのはいいものの、一斉に攻撃されてはひとたまりもない。

 

「邪魔よっ!」

 

 主砲を放つものの、焼け石に水。向こうに見える艦娘と自分たちの間の分厚い壁は貫けない。いくら沈めてもその後ろから新たな船が出てくる。

 船、船、船。鎮守府の前を取り囲むかのように覆い尽くされた漆黒の群れ。そのほとんどは駆逐艦だが、軽巡や重巡も混ざって突撃してくる。その群れの真ん中には空母も控えており、艦載機までもがやってくる。

 セオリーとしては空母を叩きたいところなのだが、それを阻むかのように駆逐艦や軽巡どもが囲っているせいで、できない。どうやら敵も戦術を身につけたようだ。

 敵の隙間からは、まだ艦娘が見えるがギリギリの状態だ。そう長くは持たないだろう。

 

「自衛隊の方はまだなんでしょうか…………」

 

 肩越しに聞こえた祥鳳の声は不安げだ。彼女も精一杯艦載機を飛ばすが、軽空母ではここを突破するには物足りない。そもそも叢雲たち、民間軍事会社は基本的に護衛や応援サービスなど、サポート役が多い。そのため、真っ向からの戦いでは火力が物足りないのだ。

 

「今はそんなことを言ってもしょうがないわ!とにかく、攻撃の手を止めないで!」

「ちくしょう!このままじゃ、こっちも危ないぞ!」

 

 天龍の言う通り、このままだとこちらも危ない。

 襲撃された鎮守府は少し辺鄙なところにあり、他の鎮守府からだと遠い。お陰で、自衛隊でもない叢雲たちが出向く羽目になっているのだ。

 

「こうなら、長門も連れて来るべきだったな…………」

 

 天龍の柄ではない弱気な発言に答える者はいない。最初は、笑顔を見せていた夕立ですら、今ではその笑顔は消え失せた。

 

「やっぱり風向きが良くないわ…………」

 

 いつもは自信いっぱいの叢雲も不安になり始めた時、後方から大量の艦載機が通り過ぎた。

 その艦載機らは、瞬く間に深海棲艦どもを轟沈させ壁を壊していく。

 

「皆さん、良く持ちこたえました、後は私たちにお任せください!」

 

 後ろには待ちに待った自衛隊の艦隊。それも主力級ばかり。そこには一航戦と名高い正規空母までいる。

 

「やっと…………」

 

 そこからはあっという間だった。叢雲たちとは比べ物にならないほどの火力で敵を蹴散らす。深海棲艦の咆哮はすぐさま悲鳴のような声に変わり、次々と海底へと沈む。敵方の空母も負けじと艦載機を飛ばすが、盾の駆逐艦どもを失い、一斉射撃を喰らう。

 

「すっげえな。あの装備、軽く世界水準を超えてねえか?」

「私たちの装備も負けてないっぽい!」

「…………そうね」

「とにかく、あの人たちを助けましょう!」

 

 祥鳳の声に弾かれるかのように、叢雲たちはギリギリのところで立っている艦娘たちの救助に向かった。特に駆逐艦の損傷は酷く、攻撃も不可能なほどだった。叢雲は群青色の髪に煙突のような帽子を被ったような娘を抱えた。

 

「安心しなさい、もう大丈夫よ」

「鎮守府に…………敵が…………」

「全て沈んだわ。だから、安心して」

「違うんです…………鎮守府の中に…………」

 

 驚愕の言葉が漏れ出た。鎮守府内に侵入されたとなれば一大事だ。

 

「中に…………満潮と荒潮が…………」

 

 叢雲の顔から血の気が引いた。

 

「天龍!今すぐ、鎮守府の中に向かうわよ!」

「お、おう?なんで?」

「いいから、早くっ!」

 

 とりあえず、救出した娘を祥鳳に預け、不思議そうな顔をする天龍を無理やり連れて行き、鎮守府内に向かった。遠くからは気づかなかったが、鎮守府はもうボロボロでどこからでも攻めれる状態だ。

 

「叢雲、何があったんだ?」

「中に、いるのよ!深海棲艦が!」

「はぁ!?ヤバくないか?それ」

「当たり前よ!」

 

 もし彼女の言う、満潮と荒潮が艤装を外している状態なら事は一刻を争う。いくら妖精の恩恵を受けていようとも、艤装を外せばほぼ人間なのだ。

 鎮守府から何も音がないのが、不安を増幅させる。

 辿り着けば、鎮守府は瓦礫と化していた。至る所に砲撃を喰らった後が残っている。

 

「天龍、あんたはドッグの方を見て来なさい」

「分かったぜ!」

 

 叢雲は少し気になることがあった。普通ならこの中に司令官がいるはずである。しかし、連絡をしたのは艦娘だった。それに中にいると言われたのは、2人だけだ。では、司令官は?

 

「…………まさか、ね」

 

 嫌な予感を無理やり心の片隅に追いやり、叢雲は取り残された娘の救助に専念することにした。

 ほぼ崩壊した鎮守府の瓦礫をくまなく探すが、姿が見当たらない。最悪の事態を頭に入れつつ、時折瓦礫を除けると、深海棲艦の駆逐艦を見つけた。

 それも頭から真っ二つにされた状態で。

 

「な、何よ、これ…………」

 

 もしかして、ここの司令官は腕が立つのだろうか?いや、それはない。艦娘でもない人が深海棲艦を倒すだなんて聞いたこともない。1人、心当たりがあるがその人は…………

 

「よっこいせ…………危なかった…………」

「無事だったのね…………ええ!?」

「ん?おぉ!叢雲か!良かった、この娘たちを…………」

「なんでうちの司令官がここにいるのよ!」

 

 瓦礫の中から出てきたのは紛れも無い、民間軍事会社"鎮守府"の司令官だった。

 

「細かい事は後だ。とにかく、この娘を。俺は別の用事がある」

「細かい?一体どんな了見なのよ!」

 

 自分たちの出撃を見送っていた人が、何故かこの場所にいる。そのことが、叢雲を混乱させた。

 

「本当に悪い。詳細は後で、じゃあな!」

「待ちなさいっ!」

 

 叢雲の言葉を聞かず、司令官はどこかへ走り去ってしまった。追いかけたいところだが、2人を残すわけにもいかず、止めることもできなかった。

 

「はぁ…………後始末が大変なのに…………」

 

 盛大なため息を吐きつつ、叢雲は満潮、荒潮と呼ばれる2人を保護したのだった。

 

 

 ーーーー

 

 

「すまへんかった、お陰で助かったで」

「一応、依頼でしたからね」

 

 深海棲艦による鎮守府襲撃は叢雲たちの活躍もあり、死者0で済ませることができた。しかし、それと同時にあの日を彷彿とさせ決戦も近づいていることを示した。

 

「で、真っ二つになった深海棲艦があってんけど、どないなことや」

「さ、さぁ…………」

「さぁ、じゃないでしょ。刀ぶら下げておきながら」

 

 叢雲の鋭い声が的確につく。

 

「せやせや、このことがバレたらはたちゃん、罰せられるで。基本的に艦娘以外の人は深海棲艦と戦ったらあかんのやから」

「いやぁ…………これしか手がなかったんです」

 

 連絡には鎮守府内に侵入されたと言っていた。しかし、艦娘は海で実力を発揮する。それに対して、俺は海よりも地上の方がまだ戦える。そもそも戦うつもりは毛頭なかった。取り残された人を助けようと思っての行動だった。

 

「ま、結果的には2人の命を救ったちゃうわけや。…………それに」

 

 持ち前の眼光で後ろに控える1人の男を睨む。あの眼で見られたら、誰でも萎縮してしまうだろう。

 

「のうのうと、敵前逃亡しよったアホも見つけたからな」

「…………」

 

 この男、深海棲艦の大群が押し寄せた時に、事もあろうか指揮を投げ出し、一目散に逃げ出したのだ。その結果、襲撃の連絡は遅れて、被害が拡大した。

 それだけではない。この男は気にくわない部下に暴力を振るっていたらしい。満潮と名乗った艦娘の顔には痣があり、部屋に監禁されていた。荒潮と言う娘が教えてくれなければ、今頃瓦礫の下に埋もれてしまっていただろう。

 

「それで、ここの艦娘たちは?」

「とりあえず、横須賀に異動や。…………やけど、その娘はえらいあんたに懐いとるやないか」

 

 と、佐久間さんは俺の背中に隠れる満潮を見た。他の艦娘と同様、我が鎮守府のドッグに向かわせようとしたのだが、俺の背後から離れようとしないのだ。

 

「うーん…………とりあえず、怪我は治そう、な?」

「…………嫌よ」

「ずっとこんな感じなんです」

「この男があかんか?」

 

 と、後ろで小さくなっている男を指し示した。満潮はその姿を親の仇でも見るかのように睨みつける。

 

「ま、安心せぇ。こいつは2度と司令官には戻れへん」

「…………」

 

 そうだろう。むしろ戻られたら困る。

 

「それにしても…………久しぶりやな。その刀は」

「まぁ…………これ5代目なんですけどね」

 

 しばらく、クローゼットの奥深くに放置してたものだから、斬れ味を心配したが、意外と悪くなかった。残念ながら、一振りで(なまくら)と化したが。

 

「ま、このことは秘密にしとくから、安心せぇや」

「ありがとうございます」

「ともかく、よかったよかった!ガハハ!」

「そうですね」

「よくないわよ」

 

 丸く収まりかけたところで叢雲の声が、制した。

 

「あんた、どうするつもりだったの?もし怪我したらどうしたのよ!」

「そ、その時は…………その時だな?」

「バッッッカじゃないの!トップがいなくなったら、組織は機能しないじゃない!」

「そ、そんなことで、怒らなくても…………」

「そんなこと、じゃないわよ!もう少し、司令官としての自覚を持ちなさい!」

「わ、悪い…………」

「珍しいやないか、はたちゃんがこんななってまうなんて」

「あんたは黙ってて!」

「お、おう…………」

 

 鬼の佐久間とも呼ばれた左官にここまで言うとは…………さすが、叢雲。

 

「もう、あんたは昔とは違う身なのよ?今はあんたを心配する人だったいることを忘れないでよ!」

「…………すまない」

 

 そうだった。今は俺の身を案じてくれる人たちがいる。叢雲もその1人なのだろう。だからこそ、ここまで怒ってくれる。

 

「…………はぁ、私も少し熱くなりすぎたわ。でも、忘れないでよね」

「ああ」

「で、その娘、いつまであんたの背中に張り付かせるの?」

「それなんだが…………うちに引き取ろうかと思っている。彼女、少し人間不信のようだから。少し調べたんだが、朝潮の妹らしいし丁度いいだろう。構いませんよね?佐久間さん」

「全然構わへん。むしろ、こっちのせいやのにそこまでしてくれてありがたい」

 

 どんな仕打ちを受けたのかは知らないが、この満潮は誰とも眼を合わせようとしない。姉の朝潮と一緒にいれば何かが変わららかもしれない。

 今回の襲撃は被害も大きかったが、艦娘と一般人の問題を浮き彫りとさせることとなった。

 

「それでいいか?満潮」

 

 俺の言葉に満潮は黙って首肯した。

 その痣が俺には痛々しく映った。

 

 

 ーーーー

 

 

 翌日の朝、俺はすぐに朝潮に満潮を会わせた。朝潮はすっかり怪我は癒え、元気な様子だった。

 

「満潮!元気でしたか?」

 

 朝潮は少々興奮気味に満潮の手を取った。

 

「久しぶりね、朝潮」

 

 しかし、朝潮は満潮の顔にある痣を見た瞬間青ざめた。

 

「そ、それはどうしたんですか?」

「これ?ちょっと、打っただけよ」

「嘘ですよね?あの人にやられたんですよね?」

 

 朝潮は食いつくように満潮に問いた。朝潮もかつては、あの鎮守府にいたらしい。どのような経緯でここに来たのだろうか?

 

「大丈夫よ」

 

 そう言い残し、満潮は部屋を出た。

 後に残るのは、沈黙だ。それを破ろうと言葉を探すが、いい言葉は見つからない。

 

「司令官、満潮にあんな怪我を負わせたのはあの人なんですか?」

 

 朝潮は思い詰めた表情で言葉を切り、思い切ったように言った。そんな彼女を俺は見返した。

 

「人の怨みはさらに怨みを呼ぶ。延々に怨みは連なっていく。だから、まだ年少な君には言うべきじゃないと思うが、あえて言う」

 

 俺は一呼吸置いてから言葉を継いだ。

 

「十中八九あいつの仕業だろう。話を聞けば、あいつはエリートらしく、プライドも高い。また、満潮はなかなかキツイ言葉を言うらしいな。それ故に、あいつの癪に触ったのだろう」

「そのことは、分かります…………見てきましたから」

「己を悲観しなくてもいい。今は、満潮が元気になるようにしてくれ」

「…………はい」

 

 俺は手を固く握り締める朝潮を後にして部屋を出た。そして、その部屋を出て向かう先は、いつも通り困った時に向かう場所だ。が、その日は先客がいた。

 

「不熱心な男が、喫煙だけは熱心だな」

 

 振り返ったのは航だ。

 くわえ煙草で肩越しに苦笑した。

 

「おはようございます、隊長。ひどい顔ですよ」

「君にしても叢雲にしても、人の顔をひどいひどいと言う。失礼な話だ」

「話を聞きましたよ。こんな時に災難ですね」

「まったくだ。だが、災難なのは俺ではない。彼女らだ」

 

 航のそばに並んで、ため息を吐く。

 

「橘さんの様子はどうですか?」

「いつも通りだ。ただ、化学療法は数日待って欲しい、との一点張りだ」

 

 航は、そうですか、とだけ小さく呟いて、それ以上何も言わなかった。

 

「君こそ、随分と朝が早いじゃないか。渚はどうした?」

「保育園の先生が、うちの事情を考えてくれて、少し早めに預かってくれるようになったんです」

 

 答える盟友の顔は、父親の顔そのものだ。そのままゆっくりと煙を吐き出した。

 

「そろそろ煙草はやめたらどうだ?渚のことを考えれば、ニコチンなど摂取している場合じゃないだろ」

「相変わらず手厳しいですね」

 

 航は少し困った顔をしたあと、まだ半分以上残っているセブンスターを眺めて、やがてそのまま携帯灰皿に押し込んだ。

 意外な諦めの早さに驚いて、訝しげに目を向ければら、なにやらさっぱりとした顔がある。

 

「隊長、1つ頼みごとがあるんです」

「無理だ。俺はそんなに暇じゃない」

「まだなにも言ってませんよ」

「言わんでいい。聞いてしまうと、断りにくくなる」

「今週末、渚の誕生日会をしようと考えてます。来てくれませんか?」

 

 軽く言葉に詰まる俺に、航は少々照れた顔をする。

 

「ずっと迷ってたんです。大和もいないのにそんなことをしている暇はあるのだろうって。でも大変な時だからこそ、渚を祝ってやりたいんです。特に、隊長は渚のお気に入りですから」

 

 俺はもう1度ため息を吐いて、それから軽く舌打ちをした。

 

「やっぱり忙しいですか?」

「ああ、だが他ならぬ渚のためなら仕方ない」

 

 航は破顔した。

 

「ただし」

 

 と俺は付け加える。

 

「俺と君のホモ疑惑を解消してからだ」

 

 最近巷で噂のホモ疑惑。この原因は航にある。そもそも俺と仲がいいからのもあるが、決定付けたのはバレンタインだ。彼からしたら、少し意匠を凝らしただけなのだろうが、バラ型のチョコはない。

 航は苦笑して、

 

「そうですね。最近は妙な目で見られてますし」

 

 俺はこれ見よがしに、深々とため息をついた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話7"夜"

だいぶ、遅くなりました。すいません。
今回は、ただ提督と川内が雑談する話です。








 ここの鎮守府は忙しい。毎日のように依頼の電話は鳴り響き、艦娘たちは出撃し、提督の顔色はみるみる悪くなっていく。そんな彼らを神様は不憫に思ったのか、今日は珍しくなにもなかった。

 依頼もなければ、出撃もない。さらに、デスクワークは珍しく早く終わっている。つまり、する事はない。

 提督ーー八幡はそう言った日を、初めこそは嫌な予感を感じていたが、そんな機会滅多にないものと考えて、ありがたくこの暇を潰そうと考えていた。

 候補として、トレーニングが真っ先に思いつくが、1日くらい寝て過ごしてもいいだろうと考えて昼寝を取ろうとした。

 しかし、その思惑は1人の艦娘にかき消されてしまう。

 その艦娘ーー川内はドアを荒々しく開けると、開口一番にこう言った。

 

「夜戦!」

「却下だ」

 

 川内の簡潔な言葉は八幡の簡潔な言葉によって取り下げられる。

 しかし、彼女のやかましい声によって、八幡の頭は冴え切ってしまう。これでは寝るにも寝付けない。

 

「今日は久々の休みだ。ゆっくりとしろ」

「えー、全然疲れてないのに」

 

 ここ最近の出撃回数は異常なほど増えており、艦娘は基本的に疲労困憊の状態である。昼間なのに鎮守府が閑散としているのはそのせいだ。

 しかし、この艦娘は他の艦娘と比べても飛び抜けて出撃回数が多いはずなのに疲れている気配すらない。

 

「俺が疲れてるんだ。気を遣え」

「でも、することないし…………」

 

 ここで八幡は頭を働かせた。このまま放置していれば十中八九、夜戦夜戦と騒ぎ立てるだろう。それは避けねばならない。

 なら、どうするか。と、1つのアイデアが思い浮かんだ。

 

「なら、世間話でもするか?」

「それよりも、夜戦〜!」

「そうか…………少し俺の昔話をしようかと思ったが…………夜戦の極意的な何かがあるんだがな〜」

「!!」

 

 八幡の目論見通り、川内は興味を示すような眼差しを向けた。

 彼女は前々から八幡の自衛隊で前線を張っていた時代の話を聞きたがった。だが、八幡は話そうとしない。

 しかし、今回は彼から話そうと言うのだ。興味も向くだろう。夜戦の極意というワードが出れば尚更のこと。

 さらに言えば、彼の過去は様々な功績を残しているが、実態は謎。

 なぜ"軍神"と呼ばれるほどの者になったのか、なぜこの世界に入ったのか…………彼への疑問は尽きないだろう。

 逆に八幡からすれば、話のネタがいくらでもあるということを意味する。1日の間、夜戦から意識をそらすことくらいできるだろう。

 

「やっぱり、やめとくか?」

「ううん、聞く聞く!」

 

 飛びつかんばかりに、食いつく川内を見て八幡は内心ほくそ笑む。

 

「そうだな…………"黒風隊"って、知ってるよな?」

「もちろん、提督の部隊のことでしょ?かっこいいよね、その名前」

「そうか?少しイタいような気がするが…………」

 

 "黒風隊"

 

 艦娘が主戦力になっていく中、唯一残っていた生身の人間の部隊。全身黒づくめの格好で、海を縦横無尽に駆け巡る姿は海に吹き荒れる"黒風"で、深海棲艦たちを翻弄した。その隊長を務めたのが八幡である。

 

「見た人はすごいすごいって言うけど、私生で見たことないからなぁ…………どうやって戦っていたの?」

「水上バイクに乗って、走り回っていただけだ」

 

 人間は艦娘のように海を渡れない。当然、生身の人間である黒風隊の隊員も例外ではない。そのため、彼らは水上バイクに乗って戦った。2人1組となり、1人は運転を1人は攻撃を担当し、運転する者は深海棲艦の攻撃を避け、攻撃する者は銃で攻撃をした。

 

「銃を撃っても、深海棲艦には少しもダメージを与えられなかったけどな」

「そうだろうね。でも、それならなんで、みんなすごいって言うんだろ」

「まぁ、深海棲艦の群れに突っ込むからだろうな。砲撃を喰らえば、俺らは木っ端微塵だし」

 

 黒風隊の役目は、敵の撹乱。あくまで、主役は艦娘で黒風隊は戦いをスムーズに進めるだけの部隊だった。

 

「なんか、それだけ聞くと大したことないね」

「昼間はな。俺らが真価を発揮するのは夜だ」

 

 彼らが使われ続けたのにも理由がある。黒風隊は夜になると、本領を発揮する。黒づくめの格好は夜になれば、見つけることは困難になり、敵からすればどこにいるのか分からなくなる。さらに、彼らは爆弾を駆使して本格的に攻撃を行うのだ。恐ろしいのは彼らは暗視装置も使わず裸眼で戦っていることだ。

 

「だから、夜後ろから尾けようとしてもバレるんだ」

「まぁ、夜目はきくほうだし気配にも敏感だからな。そうでもしないと、こっちは一撃であの世行きだからな」

 

 このように海の忍者とも言われる黒風隊は、夜戦においては艦娘を凌ぐほどの戦果を挙げた。駆逐艦、軽巡レベルは彼らには造作もなく、時には戦艦や空母レベルまで轟沈させることがあった。

 

「海の忍者…………カッコいい!」

「なんか、異名ばっかりついて訳がわからなくなってきたな」

「じゃあ、"軍神"って異名がついた提督はどんな活躍をしたの?ていうか、もう夜戦の神様だよね?」

「別に、ただその部隊の隊長というだけで周りが囃し立てただけだ」

 

 そうは言うものの、天龍との一騎打ちで只者ではないことはすでに知れ渡っている。

 

「もー、謙遜しなくていいから、自分の武勇伝語ってよ」

「残念だが、君の期待するようなのはない」

 

 これは嘘だろう。ただ"黒風隊"隊長というだけで、軍神と名付けられる訳がない。しかし、八幡はそれだけは話そうとしなかった。

 

「まぁ、それに"黒風隊"は、深海棲艦が上陸された時にほぼ全滅して、そのまま消滅してしまったしな。やっぱり、普通の人間が出る幕じゃなかった」

「残念だったね、提督」

「そうか?黒風隊がなくなったから、俺はここで働いているし君たちに出会えた。それに、今の問題にも気づくことができた。失ったものより得たものの方が多い」

「お、提督が珍しく素直なことを言ってる」

「…………俺ってそんなに捻くれ者なのか?」

「うん」

 

 あっさりと言われて、少し頭を垂れる八幡。このことは叢雲に散々言われているはずだが、他の娘に言われるとやっぱり傷つくらしい。

 

「ま、でもちゃんと相手のことを考えてくれてることは伝わってると思うよ?」

「そうか」

「じゃなきゃ、皆んな提督について行こうだなんて思わないよ」

 

 いつもは口を開けば夜戦という言葉しか出ない川内が珍しいことを言う。そのことに少し驚いた顔を八幡はしつつ、カップを傾けた。

 

「で、誰と付き合ってるの?」

「はぁ?珍しくいいことを言うなぁって、感動してたら…………」

「でもさ、提督もいい歳だよね」

 

 いい歳である。実はアラサーである。

 今までお見合いの話がないと言われれば嘘だ。自衛隊のお偉いさんたちからそんな話をいくつも持ち込まれた八幡ではあるが全て丁重にお断りしている。

 

「独身の方が気楽」

 

 と言って。自衛隊の中でも積極的に交遊しない、というかまったくと言っていいほどしなかった男だ。周りも変に納得してしまった。

 それに、彼は孫を望む親もいない。そんな環境がより一層結婚願望が薄くなっているのだろう。

 

「なんて言いつつ、長門さんといい感じだよね?」

「いい感じってなんなんだ?他の娘より距離は近いことは認めるが…………それは幼い頃からの付き合いだしな」

「あとは…………叢雲さん、熊野さん、金剛さん、榛名さん…………」

「なんの名前だ?」

「提督に気がある人」

「本当か?」

「いや、私の推測だけど…………」

 

 その言葉に呆れ顔をする提督。しかし、実際は川内の推測はほぼ当たっているだろう。

 

「そう言う君こそ恋愛に興味がある年頃だろ?」

「うーん…………私は夜戦があればいいかな」

 

 川内の言葉にげんなりする八幡。何をもってして夜戦に執着するのだろうか。そもそも、この世に平和が訪れたら彼女はどうするつもりなのだろう。

 

「あ、でも付き合うなら提督のような人がいいな」

「自分で言うのもなんだが、ろくな奴ではないぞ」

 

 一応、八幡自身も自分が少し皮肉屋であることを理解している。理解してはいるが、簡単に直せるものでもないし、急に彼が素直になったら叢雲あたりは病気を疑うに違いない。

 

「まぁ、確かに変な人だけど、優しい人だってくらい全員分かってると思うよ」

「優しい?俺が?」

「今日だって、私を無理やり追い出せばゆっくりできただろうに、わざわざ柄でもない世間話をしようだなんて、優しい人じゃないとできなくない?」

「…………そうか」

「あ、少し照れた?」

 

 別に、と八幡はぶっきらぼうに言って黙り込んだ。この男は表情こそはあまり変わらぬが存外分かりやすいところがある。

 

「むー…………たまには思いっきり笑おうよ。そうしたら、もう少しかっこよくなるのに」

「すまんな、黒風隊の特徴で嫌でも無表情になる」

 

 常に死と隣り合わせなせいで色々麻痺しちまうんだと、付け加えた。しかし、その黒風隊にいた広瀬航は八幡とは違い表情は豊かな方である。彼が無表情なのは生来もしくは何か事情があったのかのどちらかだろう。

 

「じゃあ、私も無表情になれば夜戦でもっと強くなれるのかな?」

「さぁ?」

 

 本気で悩む川内は考えているようだ。鋭いところはあるが、基本的にな単純な性格だな、と八幡は思った。

 

「そうだ、ワタルとはうまくやっていけているか?」

「まぁ…………ぼちぼち、かな?」

 

 食堂での一件以来、神通こそは航の知らないところを知れてよかったと頰を赤らめながら言ったが、川内との仲は修復してたのかは把握していない。

 

「悪い人じゃなかったみたいだし、大丈夫だよ。…………最近は、神通がいっつも彼のこと話すから困ってるけど…………そのくらいかな?」

「君らはワタルが既婚者であることは知ってるのか?」

「え?初めて知った」

 

 川内の驚く姿にたちまち八幡は顔を歪める。言う必要はないかと思っていてたが、そうではなかったらしい。神通が深く傷つく前に言っておかねばならないようだ。世の中は妄想と勘違いで成り立っているとか言っていたが、妄想と勘違いのせいで深く傷つく可能性もあるのだ。

 

「へー、広瀬さんも結婚してるんだ」

「子供までいる。まぁ、付き合っていたことは知っていたから別段驚きもしなかったが」

 

 八幡はあえて三角関係については言及しなかった。口に出してしまえば、絶対面倒なことになるからだ。

 

「提督は焦らないの?」

「え?」

「だって、部下だった人に先越されちゃったんだよ?」

「…………結婚に遅いも早いもない」

「でも、早い方がよくない?」

「提督である以上、そういうことにうつつを抜かしている暇ないんだ」

「はいはい、そういうのはいいから。で?」

「…………知らん」

「あー、また不貞腐れてる」

「知らないんだよ。そういう色事は皆無で来たから、今更結婚とか言われても知らん」

 

 八幡という男、人生で女性との付き合いはゼロである。つまりは、魔法使いの一歩手前。

 学生の頃もそういうことには無縁だったらしい。なら男ばっかりの自衛隊なら尚更のこと。艦娘もいたのだが、交流は大和と長門ぐらいだったのだ。

 

「な、なんかごめん…………」

「謝られてもこっちが惨めになるだけだ。それに気にしているわけでもない」

「そうなの?」

「そうだ。別に結婚している奴が偉いわけでもない。それに俺は1人じゃないしな」

 

 と、川内に目を向けた。

 

「今のところは君たちがいる。黒風隊の時よりも賑やかで、楽しい」

「楽しい…………?」

「なんだ、意義でもあるのか?」

「いや、楽しいのは楽しいけど、提督がそう思ってるとは思わなかった。いっつも、酷い顔をしてるし」

「それは疲れているからだ」

「そっか」

「まぁ、悔しい気持ちも少なからずはある」

「悔しい?」

「ああ、本来は男が守るべき女や子供を戦場に送り出しているんだからな」

 

 昔から戦は男の舞台とされていた。戦の理由は様々だろうが、少なからず何かを守るためというのもあっただろう。その何かの中にはもちろん女や子供も入っている。

 それは現代も変わらない。艦娘がやってくるまでは女性の自衛隊はいるものの圧倒的に男の方が多い。

 

「男女平等の時代において、戦場は男の舞台だと決めつけるのは古い考えだと一蹴されてしまうけどな…………でも、やっぱり男である以上は自分たちが女や子供を守ってやらないとって思ってしまう」

「へぇ…………提督、そんなこと思ってたんだ」

「まぁ、能力がある者を使っていくのが今の世の中だ。それに歯向かってもしょうがない」

「なんか、提督って割とあっさりしているよね。何かに執着しているわけでもないし、なんでも"しょうがない"って割り切っていそう」

「…………そうでもないさ」

 

 八幡は視線を川内から窓の方へと移した。その目は昔のことを偲ぶような、八幡にしては珍しい悲しげな目だった。

 

「俺にだって割り切れないことはある。むしろ、割り切ることが苦手な奴だと思う」

「何かあったの?」

「さぁ…………だが、人は必ず割り切ることができないことを1回は経験する。俺はそこから立ち直るのに少し苦労しただけだ」

 

 その経験が今の彼を生み出し、形付けている。

 

「まぁ、そもそも俺の人生が少し波乱なのもあるかもしれんな」

 

 物心がついた時は既に親はおらず、青年期には深海棲艦の脅威を目の前で焼き付けられ、大人になるとその深海棲艦と戦って来た。

 でも、それは自分だけではない。艦娘にだって親と亡くしている者もいるし、みんな深海棲艦と戦ってきている。

 

「川内はどうして艦娘になろうだなんて思ったんだ?」

「えーっと、カッコいいから?」

「そうか」

「あれ、何か言わないの?」

「言うって何を?」

「ほら、そんな理由で艦娘をやってるのか的な」

「別にいいと思うが、カッコいいからでも。憧れも十分な理由だ」

「じゃあ、逆に提督は何で自衛隊に入ろうとか思ったの?」

「最初は自衛隊だなんて考えもしてなかった。でも、親しい友人がそこに行くって言ったからついて行った感じだな」

「え、そんな理由で?」

「あ、あれだ。何というか…………新たな場所に自分だけ行くのも気が引けた。自衛隊には長門もいたし」

「つまり…………1人だと心寂しかったの?」

「んまぁ…………大雑把に言えば」

 

 八幡の言葉に信じられないとでも言いたげな顔をする川内。それも無理はない。軍神とも呼ばれる男の自衛隊に入隊した理由が"友達がそこに行くから"。部活動への入部動機のような気持ちである。

 

「その人も黒風隊にいたの?」

「…………いや」

「じゃあ、どこに?」

「さぁな。ただ、誰よりも正義感が強かった奴だ。多分、今も平和のために奮闘していると思う」

 

 この時、川内は気づかなかったが八幡の声色は微かに悲哀がこもっていた。

 

「昔っから、真っ直ぐな奴でな。いじめらていた子を見つけたらすぐに助けに行ったし、平和な世の中を本気で目指していたよ」

「いい人だったんだね」

「ああ、俺なんかよりも数倍はいい奴だ。少々度が過ぎたが」

 

 いつものように少しながらの皮肉を添えるが、その顔は昔を思い出して懐かしんでいるようであった。

 

「…………今日はどうやら饒舌なようだ。他にも聞きたいことがあるなら今のうちにしておけ」

「急に言われてもなー…………あ、提督はホモなの?」

 

 今までのしんみりとした話題から一転、根も葉もない噂に切り替わった。

 

「ほんっとにそれ信じてるのか?」

「私はあまり信じてないけど、どうも広瀬さんと仲が良すぎるってみんな言ってるよ。あと、こんなに可愛い娘がいるのに興味を示そうとしないのもあるのかも」

「いい機会だ。俺は断じてホモではない。ワタルとはいい友人であり、それ以上でも以下でもない。そもそも、あいつは妻帯者だ」

「でも、広瀬さんからバレンタインでバラ型のチョコを貰ったとか」

「それはワタルが駄菓子職人でもあるから、少し意匠を凝らした結果だ」

「え、ワタルさん駄菓子疲れるの?」

「…………ああ。実家は甘味処だ」

「へぇ、いつか行ってみようかな」

「まぁ、あいつの作る羊羹はオススメだ…………って、違う違う。とにかく、俺はホモではない。他の輩にも言っておいてくれ」

「分かってるよ。じゃあ、ロリコンなんだね」

「…………は?」

 

 ホモの次はロリコン。これには八幡も頭も痛めるだろう。

 

「ほら、提督って駆逐艦たちには甘いじゃん。長門さん共々」

「そ、そんなことは…………」

「じゃあ、電が"夜戦したいのです!"って言ったら断る?」

「待て、それは何か危ない」

 

 ここの鎮守府において、夜戦の裏の意味は浸透していない。しかし、八幡の第六感が危機を察知した。社会的な方の。

 

「そもそも、小さい子が好み好んで夜に出撃したがるはずかない」

「分かってるけどさー、でも駆逐艦の頼み事は断れないでしょ?」

「そ、そんなわけ…………」

「一昨日だって、暁たちが遊んで欲しいって言われて仕事を放棄してまで遊んであげてたのに?」

 

 一番忙しい昼間に、執務室に暁たちはやってきて遊んで欲しいとせがまれた八幡は、徹夜になると分かっていながらも快諾した。もちろん、次の日の顔色は真っ青だ。

 

「あー、甘いことは認める。もうこの歳にもなれば父性というものが、な?」

「あ、でもさ、時雨たちはそこまで子供でもないよね?」

「そうなのか?」

「え、あんな身体してるのに?」

 

 駆逐艦が皆同い年であるわけではない。叢雲は既に成人だし、白露型も思春期に入っている頃合いだろう。

 

「確かに、時雨とかは子供扱いは嫌がるかもしれんな…………」

「そうでもないかも。あの娘たちからしたら提督は優しい人で通っているし」

「じゃあ、君らにはどう通っているんだ?」

「変人だけど悪くはない人」

「…………」

「あ、でも金剛さんとかは思いっきりカッコいいとか言ってるし…………」

「フォローしなくていい」

 

 自分がカッコいいタイプではないことは八幡自身よく理解している。背は長門よりも小さいし、目つきも良くない。何より疲労によって蒼白になった顔と捻くれた性格がより変人度を上げている。さらに、広瀬航という爽やか系イケメンの参入によって相対的に変人度が上昇してしまっている。

 

「まぁ、いい。本題に戻ろう。俺はロリコンではない。そもそも、子供に欲情などするか」

「だろうね。なら、どんな娘が好みなの?」

「好み…………?」

「そうそう。叢雲さんのようなツンデレ系とか、熊野さんのような少しポンコツなお嬢様、榛名さんのような大和撫子系、陸奥さんのようなお姉さん系…………」

「陸奥がお姉さん系…………?」

 

 陸奥はこの鎮守府でも、落ち着きっぷりや余裕そうな雰囲気から色っぽい大人というキャラで通っている。が、この男は少々違うようだ。

 

「ん?陸奥さんがタイプなの?」

「違う違う。陸奥がお姉さん系ということに疑問があるんだ」

「え、あんな色っぽいのに?」

「うーん、幼い頃からいたせいかな?今でこそ、君たちからすれば大人っぽいかもしれないが、幼き陸奥は気が弱くていつも、長門か俺に泣きついたりしていたぞ」

「え!?」

「夜は1人でトイレに行けないって、俺を起こしたり、少し怖い事を聞けば一緒に寝たいとせがんだり…………まぁ、可愛い妹分のような奴だと思っているが。流石に今は大人だって理解はしている」

 

 八幡の言っている事は陸奥のキャラ崩壊に繋がりかねないほどの大暴露なのだが、彼は気づいていない。

 

「意外だなー、陸奥さんにもそんなところがあっただなんて」

「誰にもそういう事はあるだろ」

「そうだけど…………陸奥さんは少しビックリした」

「でさ、好きなタイプは?」

「特にない。惚れた女がタイプなんだろう」

「そりゃそうだけど…………」

 

 やはり彼に縁がないのは容姿よりも性格が起因しているようだ。

 

「とりあえず、今は平和のために尽力するつもりさ」

「その身が滅びても?」

「さぁな。ま、今は尽力するとは言っても胡座かいて指示するだけ。本当に頑張っているのは君らだ。だから、精一杯のサポートをするつもりさ」

「へぇ、軍神のサポートだなんてすごいね」

「ふっ、期待しておいてもいいぞ」

「そうだね。神様が味方してくれるうちは大丈夫かな」

 

 窓を見れば、いつのまにか日はすっかり落ちて真っ暗になっていた。電気もつけずにいたせいで、部屋も真っ暗。

 だが、八幡と川内にとっては夜こそが真骨頂である。

 2人は似ても似つかぬが、この夜が彼らの最大の共通点なのかもしれない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 俺が再び「甘味処ひろせ」に訪れたのは、冬の寒さもようやく和らいだ頃だ。

 前回訪れてから2週間ほどしか経っていないが、軒先の梅の花が開き始めていた。

 一緒に行きたいとはばからなかった熊野とともにそっと格子戸を開けると、店の奥から航の声が聞こえた。

 

「忙しいのに、わざわざすいません」

「渚のためなら無理でも来るさ。航の招きとはわけが違う」

「ハハ、なら渚も幸せ者です」

 

 笑って俺を店内に招き入れた。

 

「渚が言うには、隊長は難しい顔で難しいことしか言わないけど、きっと優しい人なんだそうですよ」

「なんなんだ、それは」

 

 気難しく答えたところで、さっそく店の奥から「おじちゃん」と叫んで渚が駆けてくる。そのまま俺の足にしがみつくと、今度は傍らに向かって、

 

「熊野お姉ちゃんも!」

「お久しぶりですわね、渚ちゃん」

 

 熊野の澄んだ声が答える。俺は、足元の少女を抱き上げようとして、思いのほか重いことに驚いた。3年と言う年月も馬鹿にはできない。

 

「鎮守府は大丈夫なんですか?」

「至って順調だ。心配する必要はない」

 

 事実を言えば、今日も大荒れだ。今もいつ呼び出されるか分からない状況だが、そんなことをいちいち話してもしょうがない。世の中、時には沈黙も大事だ。

 天井の豪壮な梁を眺めながら、俺は露骨に話題を変えた。

 

「今日は君が作る羊羹を食べれるんだろ?」

 

 航は奥の厨房に向かいつつ、肩越しに頷いた。

 

「作るのはいつぶりだ?」

「横須賀では忙しくて暇がありませんでしたからね。6年ぶりになります」

「だが、娘の誕生日に和菓子を作ってやるのは君にしかできない芸当だな」

「そんな大したことじゃありませんよ」

 

 長いブランクがある割には、手慣れた動作で腕を動かしていく。航が作る羊羹は母には及ばないものの、十分に絶品だ。部隊にいた頃は幾たびか馳走になった。

 手際よく鍋をかき混ぜ、砂糖を加え、そして蜂蜜も加える。航曰く隠し味らしい。その手際は見事なものだ。いつのまにか足にしがみついてきた渚を見ると、何やら不服そうな顔をしている。熊野が、

 

「ワタルさんが何をしているか見たいのですわね」

 

 と珍しく機転を利かせて、椅子を1つ運んでくると、渚は嬉しそうにその上に飛び乗った。

 

「今日は渚の誕生日だからね。ちゃんと渚の分もあるよ」

「うん」

 

 明るい声が店内に響いたところで、

 

「広瀬さん、お届け物です!」

 

 突然景気の良い声が聞こえて、ついでに格子戸から若い男が顔をのぞかせていた。

 

「すみません、隊長。手が離せないので、代わりに受け取ってくれませんか?」

「分かってる。せっかくの羊羹が台無しになっては残念だからな」

 

 言いながら店先に顔を出して届け物を受け取る。30センチ四方の白い箱は、バースデーケーキか。和菓子があるというのに、用意周到な奴だ。

 適当に伝票にサインしつつ、ふと目を細めて差出人の欄を見た。

「なるほど」と1人に納得して、そのままケーキを店内に運ぶと、さっそく渚が興味を示して駆け寄ってきた。

 

「渚のためのケーキだ」

「ケーキ!」

 

 と嬉しげな声が答える。

 

「ケーキ?」

 

 反対に訝しげな声を発したのは、航の方だ。

 せっかく煮詰めている鍋をほったらかしにして、厨房から出てきた。

 

「ケーキが来たんですか?」

「ああ、正真正銘のケーキだ。そんな妙な顔をしなくてもいいだろ。頼めば届けるのがケーキ屋なんだから」

 

 少し首を傾げて、航は不思議そうに呟いた。

 

「…………頼んだ記憶はないんですけど」

「ま、君に覚えがないのは当たり前かもしれないな」

 

 俺がそっと箱を開けて、真っ白なバースデイケーキを引き出すと、航が大きな目を開けた。その隣で、まぁと小さく呟いたのは熊野だ。

 少し沈黙したのち、俺は抑揚を抑えて告げた。

 

「ほぼ満身創痍な状態だったが、まだ負けてはいなかったようだな、ワタル」

 

 航が小さく頷いた。その横顔は、少しばかり高揚しているのか赤らんでいる。航は、足元にしがみつく渚を見下ろして、そっと抱き上げてケーキを見せた。

 

「渚のケーキだよ」

「渚の?」

 

 少女はとても嬉しそうな顔をしながら、ケーキの上を指差す。

 

「なんて書いてあるの?」

 

 大きな板チョコには、ホワイトチョコレートで短い文章が書いてある。

 

「渚はまだ文字は読めないのか?」

「うん」

 

 航は少し間をおいて、静かな声で読み上げた。

 

「ナギサへ、たんじょうびおめでとう、ママより」

 

 航の語尾はかすかに震えていた。と同時に、渚の目が大きく輝いていた。

 

「おめでとう、渚…………」

 

 様々な思いとともに航の声が漏れ、その手がそっと愛娘の髪を撫でた。

 後退に後退を重ねた戦況だったが、まだ負けてはいなかった。そして土壇場における粘り強い攻防は、航のもっとも得意とするところだ。それが横須賀鎮守府で、艦隊を勝利へと導き、今回のようになった。

 

「おめでとう、渚」

 

 もう1度、今度は明るさを持ち直して、航ははっきりと告げた。うん、告げる少女の声にも張りがある。

 何かがゆっくりと動き出していた。凍りついていた時間が溶け出し、目には見えない地下に確かな流れを刻み始めたようであった。

 

「お誕生日おめでとう、渚ちゃん」

 

 熊野の澄んだ声が響いた。

 まるでその声に呼応するかのように、外で舞い上がった梅の花びらが、ふわりと屋内に迷い込んで、渚の見守る卓上に舞い降りた。

 橘さんが、治療を受けると告げたのは、その2日後であった。

 

 

 ーーーー

 

 

「これをあなた達に託します」

 

 朝見舞いに訪れた俺に、橘さんはそっと分厚い紙の束を差し出した。

 朝の早い時間なのに、すでに鳳翔さんの姿があり、ベッドの橘さんも身を起こして俺と長門を待っていたのだ。橘さんの頰にはいつもと変わらない穏やかな笑顔があったが、その頰が思った以上に痩せていることに、俺はかすかな動揺を覚えた。

 

「目を通してください」

 

 言われるがままに紙の束をめくって、俺は驚いた。

 横から覗き込んだ長門もまた、目を見開いた。

 それは我が鎮守府の所属する艦娘の一覧表だった。

 ただの一覧表などではない。それぞれの経歴はもちろん、性格や演習時の分析などがこと細やかにびっしりと書きつけられていた。さらには、これまでの艦娘を使った戦術が分析とともに書き綴られている。

 

「これは…………」

「身体は弱いですけど、分析能力には自信があるんです」

 

 痩せこけた頰に穏やかな微笑がある。

 俺はやっと納得した。その納得は長門が声に出してくれた。

 

「治療を待ってくれとおっしゃったのは、これを作るためだったんですか?」

「化学療法はいろいろ副作用があると聞きますからね。大切なことを書き落としてしまう可能性もありましたから、早めに仕上げてしまいたかったのです。後半は、鳳翔に口述筆記をしてもらいました。年寄りの右腕が腱鞘炎になりそうでしたからね」

 

 鳳翔さんも格別誇る様子もなく、いつものように穏やかなままだ。2人して、ろくに休まずにこの大仕事を成し遂げたはずなのに、そこには疲労の色がまったく感じられなかった。

 

「あなた達には大きな迷惑をかけてしまうことになりますが、艦娘達をよろしかお願いします。そして…………」

 

 少し姿勢を正した橘さんが続けた。

 

「私はこれから病気との闘いになりますが、あなた達は深海棲艦との闘いに集中してください」

 

 それは小さくとも、高らかに響く鼓舞の声だった。

 橘さんの傍らで鳳翔さんも深々と頭を下げた。ほとんど同時に、鮮やかな朝日が差し込んで室内を照らし、俺たちはその眩しさに目を細めた。

 

「ともに頑張りましょう、橘さん」

 

 そう告げたのは、長門だった。日頃は冷静なこの艦娘は今は敢然として声を上げていた。その気持ちは俺も同じだ。

 

「深海棲艦のことなんか心配に及びません。橘さんが治るまでごく僅かな期間のことです。なんの支障もありませんよ」

「提督さん、あなたの言葉いつも難しくていけない」

 

 橘さんの声に鳳翔さんの柔らかな笑い声が重なった。

 橘さんの肩越しに、前見た時より少しばかり大きくなった桜のつぼみが見えた。まるで、俺たちの凱旋を祝福するために準備しているかのように。

 厳しい冬の季節は終わりを告げ、新たな春がその姿を見せようとしている。

 そして、病魔との過酷な闘いが始まったのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 病院から戻ってきた俺は、ソファに倒れこむように寝て、窓の外を眺めるとの同時にため息を吐いた。

 

「朝なのにもうお疲れね、司令官」

 

 突然の労りの声に、俺は慌てて背筋を伸ばした。振り返れば、叢雲が執務室に入ってきた。

 

「大丈夫?」

「問題なしだ。今日の執務を始めよう」

 

 俺は軍服を上から着て、椅子に座りながら言った。

 

「今日は演習だけよ」

「…………え?本当か?」

「本当よ。最近は落ち着いているみたい」

 

 どうりで今日の鎮守府の雰囲気がゆったりとしているわけだ。目まぐるしく展開する日常とは、かけ離れた雰囲気だ。

 

「すぐにコーヒー淹れてあげるから待ってなさい」

 

 そう言って手際よく作業を始めた。

 叢雲の言う通り、月月火水木金金状態で働いていた状況から一転、ここ何日かは依頼の電話も1日1、2回くらいに収まっている。今までの疲労を癒すのに絶好の機会ではあるが、ここまで落ち着いていると嵐の前の静けさのような気がして不安になる。

 

「調子はどうなの?」

 

 振り返りもせずに叢雲は聞いた。

 

「調子?」

「橘さんよ。あまりよくないらしいじゃない」

 

 お湯を注ぎながら言った。

 

「もう耳に届いていたのか」

「明石が言ってたのよ。今回はシャレになんないって」

 

 艦娘の中で一番ショックを受けていたのは、工廠にいつもいる明石と夕張だ。橘さんは2人を弟子のようにいや、娘のように接していたし、彼女達も父のように思っていただろう。それ故に、ショックは誰よりも大きい。

 

「橘さんがそんな様子なら、明石と夕張も落ち込んでるわよね」

「そうだな。最近は少し過労気味だし」

「少し義務感があるじゃないの?橘さんに心配かけたくないからって」

 

 カップを俺の前に置く。

 

「でも未だに信じられないわね。倒れる寸前まで夜中まで工廠にいたのに…………」

 

 もう1度呟いて叢雲はため息を吐いた。

 橘さんは不思議と心を許してしまう雰囲気がある。基本的には厳しい叢雲も、橘さんには穏やかな笑顔をよく向けていた。

 

「鎮守府の良心がいなくなると、ここもカオスよね」

 

 そう言って笑う叢雲に、

 

「まったくだ。夜戦バカに脳筋、お嬢様気取りに、飲兵衛…………」

「あと捻くれ者もね。…………はぁ、神様も少しくらい人情があってくれたらいいのに。死にたくても死ねない寝たきりの年寄りは沢山いるのに、よりによって橘さんを連れて行こうとするなんて」

「連れて行かれるとは、まだ決まってない」

「そうね。でもねぇ…………」

 

 再びはぁとため息を吐いたその横顔が寂しげに見えた。少々毒舌な叢雲だが、根は優しいのだ。

 

「それに死にたくても死ねないだなんて、不謹慎だぞ。生きて欲しいと願う人はいるんだ。それはただのわがままだが」

「不謹慎だって分かってるけど…………」

 

 もう1度大きくため息を吐いて、

 

「本当、わがままよね。私たち艦娘を人外だと叫んで非難するかと思えば、今度は新たな救世主だって言って、でも問題が起こればやっぱり艦娘は不要だって…………」

 

 社会的にも艦娘は認められつつあるものの、やっぱり風当たりは強い。今でも、ヘイトスピーチが行われるほどだ。

 そんな時に、電話が鳴り響いた。眉をひそめる叢雲の前で電話に出れば、平和運動団体の方からの電話だ。久しぶりかかってきたのだが、その内容はいつも通り平和の云々。

 

「相変わらず、ね」

「ましになった方だろう。発足当時はデモも起きたくらいだったろ?」

「そうね」

 

 海の平和も大事だが、艦娘と一般市民の溝も埋めるのもこれからの課題だろう。

 とにかく、俺はコーヒーを口に含み嫌な空気とともに飲み下した。

 

「本当、ここまで頑張れてこれたわよね」

 

 ああ、と答えてから、俺はコーヒーを一気に飲み干した。

 

 

 ーーーー

 

 

 橘さんがまた倒れた。

 それは病院からの連絡だった。

 倒れたとは言っても前回とは状況が違う。今回は車椅子に乗って鳳翔さんとデイルームに出ている時に、突然意識を失って昏倒したという。

 俺が駆けつけた時には、橘さんは自室のベッドに戻っていた。倒れた直後はまったく反応しなかったらしいが、CT検査をしているうちに、意識は回復し始め、病室に戻った時はほとんど元に戻っていたということだ。

 目の前には、いつもと変わらない笑顔の橘さんがいる。

 

「今日はいい天気でしたからね。デイルームから海が見えるって聞いて、見に行こうとした矢先でした」

 

 やってきた俺に向かって、呑気にそんなことを言う。

 

「今でこそは、もう誰も海に行けなくなってしまいましたが…………昔は友人たちとよく船で行ってたんです。鳳翔とも行きましたね、護衛も兼ねて。釣りをして、満天の星を眺めたりしました。今だと行ける状況でもありませんが…………」

 

 のんびりとした声が続く。口調はしっかりとしているが、気のせいか注意が散漫しているように見える。傍らに立つ鳳翔さんはただ黙って見守るだけだ。俺のとは比べものにならないほどの不安があるはずなのだが、そんなことは心のうちに沈めて、ただ時折、橘さんの声に頷き返している。

 とにかく橘さんが大丈夫なのを確認して、そっと病室を出た。

 部屋の前では、橘さんの担当医師が待ち構えていた。俺の姿を確認すると、手に持った写真とともに

 

「少しお話、よろしいでしょうか?」

「大丈夫ですけど…………よくないんですか?」

 

 差し出された写真は頭部のCT写真らしい。

 

「よくないことは間違いないんですが…………少なくとも現時点では麻痺もなければ、感覚障害もない。それにこの写真でもおかしなところはありません」

「…………どういうことなんですか?」

「何か起こっているのか、分からないという状態です」

 

 俺はもう1度視線を写真に写してみる。

 残念ながら医療の知識は皆無に等しい。何がなんなのかはさっぱりだ。

 

「…………もしかしたら、私は1つ重要なことを見逃していたのかもしれません」

 

 俺が少し混乱している中、先生は厳しい表情で、言葉を選ぶように語を継いだ。

 

「このような状態なら、当然注意すべきでした。今から1つだけ検査を追加します」

 

 先生は切羽詰まった様子で言う中、俺はただ呆然とするだけしかなった。

 

 

 ーーーー

 

 

 追加する検査というのは"髄液検査"と言うらしい。

 髄液というのは、脳や脊髄を包む液体で、とても重要な液体らしい。なんでも、人の脳は頭蓋骨の中に直接どっかりと据えられているのではなく、この髄液の中に浮いているらしい。

 髄液検査自体はそんなに困難ではないらしく、橘さんの腰のあたりから細い針を刺して少量の液体を抜き取っただけだった。結果が揃うのには、1時間はかからなかった。

 

「中枢神経浸潤?」

 

 橘さんの病室とは別の部屋で、鳳翔さんの怪訝そうな声が響いた。

 室内にいるのは、俺と先生と鳳翔さんだけだ。

 

「悪性リンパ腫の中枢神経浸潤です」

 

 感情を押し殺して答える先生の声に、鳳翔さんは音もなく2階程瞬きした。

 

「厳しい…………ということなんですね?」

「今も精密検査をしていますが…………治療内容の変更が必要です。強力な化学療法に」

「満さんはどれくらい持ちますか?」

 

 今度は先生が沈黙する番だった。俺は黙って鳳翔さんの方を見れば、ただ静まった目が先生を見つめていた。

 

「…………その新しい治療は、満さんの身体で持ちこたえられるんですか?」

 

 あくまで淡々とした声だった。先生は答えることができず、ただ沈黙して視線を落とした。

 胸中によみがえるのは、あらかじめ俺に話していた時の先生の顔だ。

 

「どういう状態なんでしょうか?」

「…………髄液中に本来ありえない細胞が見られます」

「ありえない細胞?」

「腫瘍細胞です。つまり、頭の中にまで転移しています」

 

 目の前がぐらついたかのような気がした。

 

「もっと早く気付くべきでした…………考えれば、最初に倒れたこと自体、神経浸潤のせいだったと思います」

 

 先生のその言葉も俺には実感の湧かないものであった。

 俺はそんな重い記憶をふりきって、押し沈めた。

 

「病状が厳しいことは確かです。とにかく、薬剤を変更して治療を継続します」

 

 鳳翔さんはゆっくりと一礼すると、普段と変わらない静寂をまとったまま、落ち着いた動作で立ち上がった。

 

「満さんのそばにいることにします。せっかくの大切な時間ですから、少しでも2人で過ごしたいんです」

 

 鳳翔さんが退室し、先生も退室して取り残された俺はただ頭を抱えるしかなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

「負け戦、やな」

 

 しばらく頭を抱えていた俺の元に、佐久間さんは相変わらずの豪放な雰囲気のまま訪れた。

 今、その手には検査結果が握り締められている。

 

「負け戦や…………」

「繰り返さなくても分かってます!」

 

 思わず声を荒げてしまった。慌てて頭を下げる。

 

「…………すいません」

「謝らんでええ。わしもそんな気持ちや」

 

 相変わらずブレない声が続く。

 

「あと1ヶ月ももたへんらしいな」

 

 静かな声が厳然たる響きを帯びていた。

 橘さんの胸のレントゲン写真には隆々と大きくなった異物がはっきりと写っていた。2週間前の写真はそんなのは見られなかった。つまりは、2週間の化学療法は全く効いていなかった。

 

「今日の夕方から強力な化学療法に切り替えるらしいです」

「満にはなんて言ってたんや?」

「俺からは何も言っていません」

 

 少し沈黙したあと、

 

「多分言わなくても、橘さんのことなら分かってるでしょう」

「…………せやな」

 

 小さくつぶやいた佐久間さんは、そのままどかっと椅子に座った。

 かと思えば、おもむろにポケットから煙草を取り出している。

 

「…………禁煙ですよ」

「はたちゃん、夜の海は知っとるか?」

 

 俺の言葉なんてききながして、そんな事を聞いてきた。

 夜の海なんていうまでもなく危険である。

 ただでさえ黒を基調とした深海棲艦は夜になればその姿を捉えるのは難しくなってくる。下手をすれば一方的にやられるのだ。と、生まれた時からそんな風に教えられてきた。

 

「夜の海はな、ひるとは違ごうて光源が全くないもんやから、星がよう見えた。わしらは昔はよく夜の海に繰り出したもんや。満も好きやったわ」

 

 ポツリと呟く言葉とともに、ほのかな紫煙が立ち上がる。

 

「夜の海は満にとっては忘れられないんや」

 

 ゆっくりと昇る煙を見つめながら、はるか昔を思い出すかのように続ける。

 

「満が恋をした時は夜の海やった。プロポーズしたのも夜の海。あいつが泣いたのも夜の海。鳳翔に会ったのも夜の海…………まぁ、鳳翔の時はわしらが仕組んだんやけどな。今じゃ、考えられへんかもしれへんけど、友達みんなで夜の海に星を見に行こうってなったんや。機械いじりばっかりで引き込もっとった満を無理矢理連れ出したんやけどな。そん中には鳳翔もおった」

 

 物腰は柔らかくても芯が強い鳳翔さんと、いつでも飄々としていて頼らない橘さんは、出会った時から不思議と気が会ったらしい。道中でずっと話していた2人は、星がよく見えるスポットに着いた時はすでに友情を超えた感情が芽生えていたらしい。あくまで佐久間さんの主観的な表現だ。

 いずれにしろ、佐久間さんは一計を案じた。

 みんなで2人が星に見とれている間に、彼らは船内に姿を消したのである。学生のような安易な思いつきだったが、作戦は極めて有効だったらしい。

 満天の星の下に取り残された2人。

 その間でどのような問答をされていたかは分からない。ただ確かなことは、2人の距離は友人のそれとは別物になっていたということだ。

 

「そんな思い出が…………」

「2日前のことなんやけど、何かしたいことはあるんって満に聞いたんや。そないしたら、笑いながらな、"また夜の海に行ってみたいです"と言いやがってん」

 

 佐久間さんは苦笑をしようとしたが、うまくいかなかった。

 

「無理に決まってんちゃうか、こないな状態で」

 

 行き場のない哀感に満ちた一言だった。

 

「神様も意地が悪いでなぁ…………」

 

 やがて佐久間さんは、そのまま手をひょいとあげて、部屋から出るように手を振った。俺は何も言わずにただ一礼して部屋を出た。

 廊下にそっと出て扉を閉じようとしたところで、突然ドンっと鈍い音が響いた。それに驚いて室内を顧みると、椅子に座ったままの佐久間さんが右手の拳をテーブルに叩きつけていたのだ。目はしっかりと見開かれ、口元は穏やかに結んだまま、だがテーブルの上に叩きつけられた拳だけは小刻みに震えていた。

 もう一度言う拳が振り上げられ、テーブルに叩きつけられる。

 ドンッ、

 重い響きは廊下まで響く。さらにドン、ドンと殴り続ける音のみが続く中、佐久間さんは眉ひとつも動かず、ただひたすら拳を打ちつけていた。

 やがて動かすを止めた佐久間さんの大きな方が1度だけ震えた。

 涙はなかったが、それは確かに泣いている姿だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府に戻った俺がビール缶を手に港に出たのは夜の12時頃だった。

 

「散歩か?」

 

 と長門に告げられ、俺はただ黙って頷くだけだった。

 酒を飲むなら、居酒屋「鳳翔」があるが、肝心の鳳翔さんは橘さんにつきっきりなので最近は開いていない。ここはなかなかに田舎で店を探すがどこも開いていない。それでも、遠いコンビニまで向かったのは、胸中にわだかまる感情のやり場がなく、立ち止まっていられなかったからだ。店が開いているかどうかは問題なのではない。

 気がつけば、そこら中に"死"の気配があった。

 昔は嫌という程見てきた死神が、今はすぐ背後でうすら笑いを浮かべて、気まぐれかのように大きな鎌を振り回しているような妄想が離れられない。俺がやたらとアクセルを踏むのはその妄想かを振り切るためだったのかもしれない。

 2つほどビール缶を空けて3つ目に差し掛かった。普段、酒にうるさい俺がこのようでは、周りからしたらひどいものだろう。

 大して酒が好きでもないのに、飲み続ける。唐突に不可解な苛立ちに襲われる。気がつけば、右手のビール缶が握りつぶされていた。チッと舌打ちをして、4つ目に手を伸ばそうとしたところ、人影が俺の前に現れた。

 たじろぐ俺の前に現れたのは、背の高い長門だ。

 

「健康にうるさい貴方が、やけ酒だなんて珍しいな」

 

 そんな事を言いながら、俺の横に腰を下ろす。ずっと俺のことを探していたのだろうか?

 どう答えたらいいかと思案しているうちに、長門の声が聞こえた。

 

「私も一緒に飲んでもいいか?」

 

 俺は唐突の問いに困惑する。

 

「…………こんなに飲むつもりなのか?」

「いや…………」

 

 俺はレジ袋の無駄にたくさんあるビールに目を向ける。とにかく、俺は持てる分だけ買ったのだ。その時、店員の目は怪しむ目だったが気にしてもしょうがない。

 

「ベロンベロンになるほど飲めば、少しマシになるか、と」

「さぁな」

 

 全くもっての図星なのだが、俺は誤魔化す。2つ空けたが酔いというのは感じられない。

 

「悪いな」

 

 しばらくの沈黙の後、俺は吐き出した。周りはただ波の音がするだけ。

 長門はむしろ不思議そうな顔をする。

 

「夜中にやっと帰ってきたかと思えば仕事もせずに酒を飲んでいる。本当にすまん」

「いや、私もちょうど飲みたかったんだ」

 

 笑ってビール缶を開け、そのまま飲む。思えば、2人っきりで酒を飲むのは初めてだ。

 

「橘さん、よくないんだな」

 

 俺は小さく頷いた。

 憂鬱な気持ちを振り払おうと5つ目に手を伸ばそうとすると、それより先に長門が缶を取り上げた。そして、おもむろに一気に飲み干す。思わず目を丸くした。

 

「大丈夫なのか、そんなペースで飲んで」

「今日は、貴方の分まで飲もう」

 

 空になった缶を睨みつけてそんなことを言う。

 

「苦しい酒は貴方の分まで飲もう。美味い酒は、貴方と一緒に飲もう」

 

 ドンと胸を叩いて「私に任せろ」と澄んだ声を響かせた。

 酒にあまり強くないせいなのか、無茶な飲み方のせいか、その頰はすでに朱く染まっている。いくらか潤んだ瞳が美しい。俺はじっと長門の瞳を見返し、にわかに俺は5つ目よビールを取り出し一気に飲み干した。

 

「む、よくないぞ、提督」

「苦しい酒はこれで終わりだ。今からは美味い酒で、仕切り直しだ、長門」

 

 俺の珍しく大きな声に、少し驚いた長門は、すぐに赤い頰に微笑を浮かべた。それから目の前で、ぴっと人差し指を立てて、

 

「なら、1つ愉快な話をしよう」

「そうか、なら愉快だ」

「まだ何も話していないぞ」

「君が愉快と言えば、それだけで俺は愉快だ」

 

 戯言を吐けば、長門の軽やかな笑い声が応える。

 

「朝潮が元気になった」

「そうか」

「ん、案外素っ気ないな。満潮が来てから、随分と笑顔が増えた。今の満潮は少しあれだが、朝潮がどうにかするだろう」

「やはり、人を元気にするのは人、か…………」

「そうかもしれんな。ま、入れ替わるように今度は貴方に元気がないが」

 

 俺は黙って缶を傾ける。

 

「もう少し元気になる話をしてやるか?」

「まだあるのか?これ以上愉快になると、足下の不愉快に申し訳なくなるぞ」

「不愉快とは毎日付き合ってるだろ?今日くらい遠慮してもらってもいいだろう」

 

 長門は、自信いっぱいの様子で、軽くコホンと咳払いしている。

 

「昨日、鳳翔さんから聞いた話だ。見舞いに行った時に、橘さんが寝ている横で、出会いの話をしてくれた」

 

 うん?と俺は目を細めた。

 

「夜の海の話か?」

「知っているのか?」

「今日たまたま、佐久間さんから聞いたんだ」

「満天の星空の下で、2人からなんて素敵だな。夜空を見ながら、鳳翔さんが"星が綺麗ですね"って言ったら、橘さんなんて答えたと思う?」

「さぁ?だが、橘さんのことだ。きっと軽妙な答えでもしたんじゃないか?」

「いいや。"星もですが…………海も綺麗ですね"って」

 

 思わず手に持っていた缶を落としそうになった。あの飄然とした橘さんがそんな情熱的なことを言うなんて想像がつかない。

 

「鳳翔さんは鳳翔さんもびっくりして思わず、"ありがとうございます"って」

 

 俺と長門の笑い声が和した。

 

「本当に幸せな思い出だって」

「橘さんに今何かしたいことがあるかって聞いたら、もう一度海に行きたいって答えたそうだ。また、あの夜空を眺めたいと」

「…………鳳翔さんと同じ思いなんだな」

 

 長門は少しだけ寂しげに目を細めた。手元の缶から俺に視線を移し、

 

「無理、なんだもんな」

「…………今は深海棲艦の動きが活発だ。それに自衛隊の奴らが黙って見ているわけがない」

 

 そうか、と長門は肩を落とした。

 

「どこにいるかと思えば、お酒なんかを飲んでいらしたのね」

 

 ふいに頭上から熊野の声が降って来た。

 

「なんの話をしていらしているのです?」

「夜空の話だ」

「海から見る夜空は絶景だろ?」

「そうですわね」

 

 俺はおもむろにビール缶を取り出して、

 

「飲むか?」

「あなたから誘うだなんて珍しいですわね」

 

 そう言いつつ、熊野は缶を受け取った。

 やけ酒のはずが、いつしか星空の下で賑やかな宴会へと切り替わっていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 宴会がいつ終わったのかは判然としない。

 少なくとも提督が山のように買ってきたビール缶を3人で空けたのは事実だ。提督の飲みっぷりは尋常ではなく、顔色ひとつ変えずにビールをジュースかのように飲む姿があった。

 しかし、私と熊野はそれほど酒に強くはない。2人はかろうじて執務室に戻り、ソファに横になった。なぜ私たちの倍以上は飲んでいる提督がしっかりとした足取りで歩けるのか疑問である。

 視線を横に向ければ、焦点の合わない熊野が天井を眺めていた。

 

「わたくし、とっても素晴らしいことを思いつきましたわ」

 

 若干呂律が回っていないが、嬉しそうにつぶやいた。そしてその内容を話すと、わたしは目を見張った。

 

「本気か?」

「どうだと思われます?」

「呆れた奴だ。本気でできると思っているのか?」

 

 ようやくそれだけ答えた私に、熊野は微塵も迷いを見せない。

 

「2人だけなら無理ですわ。皆さんの力を借りますのよ。借りられる人全員の力を借りますわ。きっと橘さんのためと言えば嬉々としてやってくれますわよ」

 

 真っ赤な顔でそう言う熊野に私は首肯するしかない。

 

「無理、ですの?」

「普通に考えればできないな。だが、橘さんのためと言われればやるしかない」

「ええ、やりますわよ!」

 

 言うなり立ち上がって声を荒げた。

 提督から熊野は酔うと妙に頭が冴えると聞いていたが、本当だったらしい。

 ドサっという音が聞こえて、熊野の方を見れば静かな寝息を立てていた。

 酒のせいで頭がグラグラしているが、不思議な高揚感が胸中を占めていた。











星が綺麗ですね→貴方は私の思いは知らないでしょうね
海が綺麗ですね→貴方に溺れています


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10





「被弾が多くなっている」

 

 提督の声が執務室に響いた。今回の戦績をまとめている。

 

「…………艦娘たちの士気が少し下がっているのもあるが、俺の見立てが甘すぎるのもある」

 

 提督はやや自虐的に言った。

 そんなことはないです、と広瀬は言うが提督は頭を抱えたまま。

 夕方の6時だ。この時間になると、広瀬は迎えに行かなければならない。今のところは落ち着いているため、今日は無事に迎えに行くことができるはずだが、広瀬は眉間に深いシワを刻んだまま提督を見つめている。

 提督がこんなに自虐的なのは理由がある。橘さんの状態は悪化の一途を辿っているのだ。

 そのせいで、いつもの冴えた采配も今は見る影もなく、艦娘の被害が増加する一方にある。増えて行くばかりの被害に、提督はやがて目を閉じた。

 

「笑ってくれ、長門…………」

 

 きつく唇を噛む提督の姿があった。

 

「橘さんに任せておけ、とか偉そうな言いながら、この始末だ。橘さんよりもショックを受けているから、こんな不手際をやってる…………」

「提督が落ち込む話じゃない」

 

 私の声に、しかし提督は顔を上げなかった。

 

「仮に違う艦隊を組んでいたら、戦果は絶対成功していたのか?そういうものじゃない」

「そうですよ。誰だってミスはありますから…………」

 

 広瀬が慰めの言葉をかけたがそれは逆に働いてしまったようだ。目元で指を押さえたまま、提督は続けた。

 

「俺は艦娘の命を預かっているんだ!ミスは絶対に許されない…………許されないんだ」

 

 そのまま提督は立ち上がり、肩を落としたまま執務室を出て行った。

 あとには重苦しい沈黙ばかりだ。私は、ゆっくりと執務室を見回す。叢雲と熊野は入渠したばっかりだ。

 つまりは、私と広瀬以外は誰もいない。

 

「指揮するだけが、提督の役目なのだろうか?」

 

 明後日の方向を眺めたまま、私は告げた。

 視界の片隅で、広瀬は怪訝な顔を向ける。

 私は視線を変えないまま、言葉を続けた。

 

「今の提督は、指揮官がなんたるかについて、見失っているらしい。指揮するだけが、仕事ではない」

 

 わずかに眉を動かした広瀬は、静かに口を開いた。

 

「…………何か考えてます?長門さん」

「まぁな。橘さんのための一仕事が残っている」

「一仕事?」

 

 私は少し声音を落として続けた。

 

「少し大きな仕事になる。おまけにリスクばっかりで何の報いもない」

「そんなことは、慣れっこです」

 

 広瀬の声が遮った。

 見返せば、広瀬の目元には、いつのまにか端然たる落ち着きが戻っている。

 

「話してください、長門さん」

「…………君には少し荷が重くなるぞ?大丈夫か?」

「長門さん」

 

 と広瀬は私に向き直った。

 

「僕だって橘さんにはお世話になっています。何か恩返しがしたいと常々思っているんです」

 

 目元にはかすかな笑みがある。少々融通の利かないところはあっても、土壇場ではやっぱり頼りになる男だ。

 

「提督の言う通り、口の減らない男だな」

 

 私もまたようやく笑みを返してから、腹中の計画を打ち明けた。

 

 

 ーーーー

 

 

 翌日の早朝、軽空母寮だ。

 

「ん?ビッグ7が何の用だい?」

 

 隼鷹が酒瓶を片手に振り返った。いつものように朝っぱらから酒を飲んでいる。

 

「隼鷹に相談があってだな」

「相談?」

 

 仏頂面の私に、隼鷹は意味ありげにニヤニヤと笑う。

 

「いつもは注意してくるのに、しかも朝っぱらから来るなんて…………わけありか?提督とでも喧嘩したのか」

「そんなことをお前に相談するわけないだろ。もっと愉快な話だ。軽空母たちの協力が必要なんだ」

 

 隼鷹は不思議そうな顔をする。

 

「いくらか派手な仕事になる。海軍からは目をつけられるかもしれん」

「へぇ、面白そうじゃん」

 

 にわかに興味を示した。困った奴だ。

 

「まぁ、面白いと思うぞ」

 

 私も笑みを浮かべ、静かに飲兵衛どもを差し招いた。

 

 

 ーーーー

 

 

 明石が軽く眉を動かして私を見返した。

 

「本気ですか、長門さん?」

 

 昼過ぎの工廠は、午前中ほどではないものの、機械が入り乱れて相応の喧騒ぶりだ。今も夕張が後ろで何かをいじりながら、突然やってきた私に不思議そうな視線を投げかけている。

 明石は昼食のおにぎりを食べながら、片手で器用にタッチパネルを操作している。全く画面を見ずに、モニター上を行き来する手さばきは、さすが工作艦だ。

 

「本気だ。だから、工廠のお前たちの協力が必要なんだ」

 

 ぽりぽりと頭を掻きながら、明石は私を見返した。その手がパネルの上で止まっている。

 

「橘さんのためならなんでもやりますから」

「そうか、少々大変な仕事だが大丈夫か?」

 

 明石は、おにぎりの残り一口を頬張ると、咀嚼を終えてから答えた。

 

「簡単なことですよ」

 

 

 ーーーー

 

 

 両手に腰を当てた叢雲が、私を睨みつけた。

 夜の鎮守府だ。働き者の叢雲は、昼でも夜でも鎮守府でせっせと働いてる。

 

「呆れた話だわ」

 

 大きなため息とともに言葉が放り捨てられた。

 じっと見返す私に向かって、

 

「今朝から、広瀬さんや熊野が鎮守府内をウロウロしているから、何か企んでいるってことは気づいていたけど、そういう話だったのね」

「企んでいるとは人聞きが悪い。水面下で根回ししていただけだ」

「おんなじことでしょ。いくらなんでもそれは無理に決まってるじゃない」

「無理は承知だ。責任は私がとる」

「責任って、何ができるのよ?海軍で死ぬまで働くつもりなの?」

「それは願い下げだ」

 

 即答して慌てて口をつぐむ。叢雲の形の良い眉に険が生じている。その険悪な雰囲気を破ったのは、対照的に明るい声だ。

 

「や、やりましょう、叢雲さん」

 

 いつのまにか背後に立っていた神通だ。

 

「どうしたのよ、神通さんまで」

「きっととても大事なことなんだと思うんです。私も手伝います」

 

 あの気弱な神通にしては、不自然なくらい決然たる口調だ。

 それを一瞥して叢雲が答える。

 

「神通さん、広瀬さんに何か言われたでしょ?」

 

 え、と顔を赤らめてあからさまに動揺する。叢雲は軽くひと睨みして、

 

「広瀬さんのファンになるのは別にいいけど、あんまり簡単に受けてるとあとで苦労するわよ。指揮官なんて、結局戦場のことばっかり考えていて、私たちの苦労なんて1つも頭にないんだから」

「そ、そうなんですか?」

 

 すぐに青くなってあたふたしている。まだまだ修行が足りないようだ。このままでは風向きが悪いので、たまたま通りかかった鈴谷に水を向けた。

 

「鈴谷はどう思う?」

 

 ちらと顔を上げた鈴谷は、遠慮がちに答えた。

 

「え…………いいんじゃない?」

「ふむ、賛成というわけだな」

 

 小さく頷いたのを確認して、どうだ、と叢雲に目を向けると、さっき以上に呆れ顔だ。

 

「鈴谷は熊野から話しがいってるわけね?」

 

 鈴谷はバツが悪そうに目をそらした。

 やがて叢雲が大きくため息を吐いた。

 

「ほんと、気楽なことを言ってくれるわ」

 

 その切れ長の目がじっとわたしに向けられている。ここで逃げ回っていても仕方がない。あえて堂々と答えた。

 

「鎮守府中の若手から大きな支持を得ているお前が力を入れて貸してくれなければ、この仕事は成功しない」

「人を影のボスみたいに言わないでよ。私はただの駆逐艦よ」

「ダメか?叢雲」

「ダメなんて言ってないわ。…………はぁ、このメンバーだと私1人が常識人ぶらなきゃならないから損な役回りだわ」

 

 額にかかる前髪を、さっと搔きあげから、軽く肩をすくめて見せた。

 

「で、いつまでに準備すればいいの?」

 

 わたしはすっと2本の指を立てた。

 

「2日後だ」

 

 

 ーーーー

 

 

 2日後の深夜に、私は病院に訪れた。

 時刻は日付が変わる12時前、すでに誰もが寝静まる時間だ。

 神通とともに125室を訪れる。

 扉を開けると、ベッドに身を起こした橘さんと、傍らに立つ鳳翔さんが待っていた。

 

「こんな時間にお疲れ様ですね、長門さん」

 

 橘さんが、嗄れた声で笑った。

 

「夜中に、ぜひ連れて行きたい場所があると言っていましたが、何事ですか?」

 

 さすがに深夜の12時では大変かと思っていたが、橘さんの笑顔はいつもと変わりはない。ここ何日かでさらに痩せて、頰もこけてしまったが、穏やかさはいつもの橘さんだ。

 

「出かけられそうですか、橘さん」

「ええ。せっかくの長門さんのお誘いなんですから。しかしどこへ行くんです?」

「まだ秘密です。それじゃあ行きましょう」

 

 私は微笑と共に答えた。

 神通と鳳翔さんで橘さんを車椅子へと移動させる。そんな何気ない動作の中に見え隠れする厳しい現実を振り切るように、私は廊下へ出た。

 神通が車椅子を押し、その傍らに鳳翔さんがつき従う。そのまま車に乗せて、鎮守府まで行くと、門で叢雲が待っていた。

 車から降りて、進んで行く。行先は港だ。

 1度鎮守府を通ると、中には広瀬が待っていた。

 

「お疲れ様です、橘さん」

 

 私と広瀬を見比べた橘さんは苦笑した。

 

「おやおや、広瀬さんまで共犯ですか。2人して一体何を企んでいるんです?」

 

 広瀬はそれに笑顔だけ応じ、車椅子を押してきた神通を導いて、目的地へと進んでいった。

 広瀬が行き先の港を指し示した。

 それを見た橘さんと鳳翔さんは顔を見合わせる。

 

「長門さん、さすがに大掛かりな話になっていませんか?少し心配ですよ」

 

 言葉とは裏腹に、橘さんにはどこか楽しむような気配がある。

 神通が車椅子を押し、その隣を鳳翔さんがついていく。やがて港にたどり着いた。

 

「まぁ…………」

 

 感嘆の吐息を吐いたのは鳳翔さんだ。

 

「星もあんなにはっきりと」

 

 空を見上げながら、鳳翔さんが告げた。

 誘われるように頭上を見上げた橘さんが、すっかり痩せた口元からかすかな感嘆を漏らした。

 夜空を埋め尽くしているのは、無数の星だ。

 橘さんが、車椅子の上で小さくため息をついた。

 

「もう1年以上は働いてきた場所なのに、こんなに素晴らしい場所があるとは気づきませんでした」

 

 その言葉が終わらぬうちに、鎮守府中の電気が灯りをおとした。12時を回ったからだろう。星の数がまた少し増えたように感じた。

 しばしの沈黙のうちに、橘さんと鳳翔さんは寄り添って空を見上げる。やがて橘さんが空を見上げたまま小さくうなずいた。

 

「素敵なプレゼントをありがとうございます、長門さん、広瀬さん」

「終わりじゃないですよ、橘さん」

 

 答えたのは広瀬だ。

 

「プレゼントはまだあります」

「もう充分ですよ」

 

 答えた声は、優しくも強く、落ち着き払ったものだった。

 静まり返った橘さんの瞳が、普段はないはっきりとした光を持って私たちを見返していた。

 

「これ以上、幸せだとみなさんに申し訳ないです」

「しかし橘さんがかつて見た空は、こんなものではなかったはずです」

 

 私の言葉に、橘さんは記憶を辿っていくかのように目を細めた。

 

「…………あの空は忘れませんよ。あの人と見た空。鳳翔と見た空。満天の星。もう一度見たかったんですがねぇ…………」

 

 そばに立つ鳳翔さんの袖が、かすかに震えたように見えた。その白い手がいつのまにか橘さんの肩に添えられていた。

 私はちらりと腕時計を見た。12時を数分か過ぎていた。鎮守府の明かりを全て消しても全ての光源を消したことにはならない。他の建物もあるからだ。なら、建物もないところへ行けばいい。

 するとエンジン音ともに一隻のボートがやってきた。

 不思議そうな顔をする橘さんと鳳翔さんを無理矢理、乗せて出発させる。

 先頭に人影が見える。熊野だ。

 

「長門さん、あなたって人は…………」

 

 橘さんは驚いているようだが、どこか楽しそうだ。

 次第に鎮守府を離れていき、陸の光源が遠のく。そして、ついには真っ暗な闇へと変わった。

 つまり、私たちを包んでいた無数の人工の光から逃げ出したのだ。

 

「あっ!」

 

 かすかに叫んだのは、橘さんだ。

 頭上をもう一度見上げた橘さんが、車椅子の上で身じろぎするのが暗闇の中でも分かった。トンという音がしたのは鳳翔さんが持っていた小さなバッグを取り落としたからだろう。

 私もまた、空を見上げて息を呑んだ。

 巨大な天の川だ。

 南北に天を割る星の大河が見えたのだ。

 360度にわたって広がる満天の星は陸で見たものの比ではない。星座なんてありはしない。北極星がどこにあるのかも分からない。上空全てが星屑の大海だ。

 首をめぐらせば、はるか東の空、西の空も星だらけ。その中でも一際輝くのは光の河だ。

 脳裏に熊野の声がよみがえった。

 

 "今だってその星空は見えるはずですわ"

 

 間違いない。

 これが橘さんがかつて見た最高の星空なのだろう。

 溢れる光が小川となり滝となり、大河となって星空という大海を縦断している。まばゆい河は、爛々と輝きを放ち、全天を覆い尽くしながらも流れ、それを見つめる私たちの悩みなどをゆっくりと押し流した。

 誰もが身じろぎ1つせず、山の中立ち尽くしたまま天を仰ぐ中、ボートは向きを変え、進み始めた。

 約束の1分が過ぎたのだ。

 帰路の先には、いつものように灯りがともった鎮守府。全てが何もなかったように元に戻った。先ほどの情景が、刹那の幻想であったかのようだ。わずか60秒の夢だった。

 やがて無機質な光が満ちて、慌てて目を細めた私の視界の先で、橘さんはまだ微動だにせずにいる空を見上げていた。

 いつもの星空を、未だに見上げる痩せた橘さん。その頰には、一筋の涙が流れ落ちていた。

 そばに立っていた鳳翔さんが、ふいに車椅子の横に膝をついて、橘さんの手をとった。橘さんはそれに応えるかのように、もう一方の手で優しく鳳翔さんの髪を撫でた。

 様々な思いとともに、橘さんの唇が震えた。

 

「鳳翔…………長門さん…………みなさん、本当にありがとう…………」

 

 掠れた言葉を最後に、鳳翔さんの小さな嗚咽が重なった。橘さんの枯れ枝のような手を頰に当てたまま、鳳翔さんが懸命に声を押し殺して泣いていた。あの、いつでも弱い所を見せずに微笑んでいた鳳翔さんが、今は涙をこらえることができなかった。

 誰も何も言わなかった。

 何も言えなかった。

 一瞬の幻想も刹那の感動も、巨大な時の中に生きる大河の中では無に等しい。天の川の中では星座ですら見えなくなるように、時の大河の中では、人の命ですら一瞬の夢にすぎない。だがその刹那にすべてを懸けることができるからこそ、人はその刹那に感動できる。

 私はただ、ゆっくりと身を翻した。

 

 

 ーーーー

 

 

 朝8時の鎮守府の会議室は、異様な緊迫感に包まれていた。

 この鎮守府にある会議室は今まで使ったことはほとんどなく、久しぶりに入室することとなった。その中に直立不動を保っているのが、私と広瀬と熊野だった。

 

「どういうことか、説明してもらえますか?」

 

 冷ややかな声が響き渡った。

 窓のある方を背に、2人の男が私たちを睥睨している。1人は座っており、もう1人はその傍らに佇立している。ガラス窓の向こうには朝日を従えた海の水平線が見え、なかなか絶景だ。

 ソファに腰掛けた恰幅のいい男は、先日設立したばかりの大本営の長ーー元帥の佐久間忠恭(ただやす)だ。

 元左官で、現在65歳。昔は第一線で"鬼の佐久間"と恐れられるほどの武勲を上げ、第一線を退いてからは艦娘の有用性を説き、肩身の狭かった艦娘たちを救った人の1人でもある。また、私や提督の教官であった時期もある。毛虫のように太い眉に色黒い肌、恰幅のよいお腹が特徴的で、私が密かにつけたあだ名は「ヤクザ」。もちろん外見だけの話で、裏の世界につながっているわけではない。

 そのヤクザが先刻から、窺うようにじっと私たちを見つめている。その眼光はまさにヤクザそのもので私こそは慣れてはいるが、熊野は完全に萎縮してしまっている。

 もう一方は、ヤクザの横に立つ小柄な男性だ。先ほどの声の主はこちらの方である。冷ややかな目で抑揚の無い声を響かせたのは大本営の事務長で、ナンバー2でもある重鎮だ。見た目は分厚い黒ぶち眼鏡をかけた貧相な小男にすぎないが、頭は恐ろしく切れるという噂だ。

 実際、反対の声も少なからずあった大本営の設立はこの男の手腕があってこそだという。しかし、やり方が少々強引で、美的センスに乏しいことは確かなようだ。

 

「長門さん、熊野さん、広瀬さん」

 

 私たちの名をいちいち冷ややかに告げる。

 

「なぜ私たちがやってきたのかは分かっているでしょう?」

 

 言いながら、内ポケットから分厚い手帳を取り出した。その手帳には、この世界に関わる者全ての弱みが書き込まれていると噂される虎の巻だ。

 

「昨夜の12時頃、近くの鎮守府から不審な船が偵察機から発見されるということがありました。さらにいくつかの艦載機も。しかし、レーダーには反応がない。でも、偵察隊からの報告はいくつもあります。被害はありませんが。私もこの仕事に関わって長くなりますが、こんな奇妙な出来事は初めてです」

 

 広瀬は足元を、熊野は頭上を、私は外の海をそれぞれ眺めている。一同は返答もせず、嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。

 佐久間さんは佐久間さんで何も言わない。

 

「同時に、あなた達の姿も確認されています。わざわざ夜間に出向くなんておかしい。先の一件と絡めてあなた方が、関わっているのではないかと考えざるを得なくなります。ただ問題は…………」

 

 パラリと手帳をめくる。

 

「複数の報告はありますが、どれもあやふやで確定的な情報ではない。我々としては責任ある軍人として、あなた達から釈明を願いたいのです」

 

 肝心なことは先に手を回しているから致命的なことにはならない。しかし、それなりに派手なことはしているので、全ての者に口裏を合わせることは無理があった。ましてや、よその鎮守府の者なんてもってのほかだ。

 こういう時はただ押し黙って大風がゆき過ぎるのを待つしかないのだが、熊野が余計な口を開く。

 

「はぐれ深海棲艦ではないのですの?」

「レーダーに引っかからない深海棲艦は今のところ確認できていません。それにただうろうろする深海棲艦なんて聞いたことがありませんよね?熊野さん」

 

 うっと口をつぐむ熊野に、さらに追い討ちをするかのように、

 

「ちなみにその不思議な深海棲艦のすぐ近くであなたの姿が捉えられている。これについても釈明願いたい」

 

 完全に手のひらの上だ。言わんこっちゃない。

 事務長が、眼鏡の縁を軽く持ち上げた。

 

「あなた達も非常にご多忙と聞いています。しかし夜間にふらふら出向いて遊興にふける余裕がおありですか?何をしていたのかは知りませんが、あなた達のつとめは戦うことです。それ以外の行動は慎んでいただきたい」

 

 飛んでいるカモメを1匹ずつ数えてみる。時間つぶしくらいはなるだろう、と顔だけは神妙にして、心中は窓の外をのどかに散策する。

 こういう時に理屈を並べても仕方がない。熊野はさて置いて、私と広瀬がひたすら黙っていれば、事務長も取っ掛かりがない。

 もとより私たちのやったことは、善悪の基準の外にある。極めて私的な動機だし、「杓子定規」という言葉がぴったりな事務長に、納得を与えることは不可能だ。

 心の中は超然として、押し黙っているうちに、想定外の声が室内に響いた。

 

「僕たちはただ深海棲艦と戦うことだけしていればよい、と言うんですか?」

 

 驚いて目を向けた先で、静かに口を開いたのは広瀬だ。

 

「事務長は、僕たちの役目は戦うことだけだとおっしゃっているのですか?」

 

 おい、と慌てて小声で呼び止めた私には、見向きもしない。提督のことなら今頃引っ叩いているだろう。せっかく数えたカモメの数も吹き飛んだ。この展開は予想外だ。

 私が口を開くよりも先に、事務長が怜悧な瞳を光らせた。

 

「深海棲艦を倒すのがあなた達の役目です。今さら何を言うのですか?広瀬さん」

「戦うこと以外にも私たちには役目があるのだと考えないのですか?」

 

 広瀬が唇を震わせた。再び口を開こうとしたその機先を制して、事務長が言う。

 

「広瀬さんの理想は結構なことです。納得できないのなら質問を変えましょう」

 

 眼鏡の奥の怜悧な目が、一際ギラリと光ったように見えた。

 

「理由のいかんに拘わらず、世の中には許されることとそうではないことがあります。多くの命を守る鎮守府において、勝手に船を出して、味方を混乱させるようなことが許されるのですか?私が聞きたいのはそれだけです」

 

 攻め手が大きく変わった。

 今まで攻撃一方だったのが、いきなり退いて守りを固めてきたのだ。こういう戦い方をされると、広瀬はかえって打つ手がない。わずかに狼狽を見せた広瀬に向かって、「ちなみに」と事務長は追及の手を緩めない。

 

「広瀬さん、あなたの功績は素晴らしいものがありますが、最近の業務のレベルにおいては、色々なトラブルや苦情があるようですね。その理想を語る前に、クリアしなければならないハードルがおありのようですね」

 

 広瀬は顔に血を上らせたまま唇を噛んだ。

 言葉は出なかった。ただ緊張をはらんだ沈黙だけがあった。

 わずかに目を伏せた広瀬が、にわかに決然として顔を上げた。

 

「それでも僕は…………!」

「私たちは戦うための道具なのか?」

 

 ふいに広瀬の声を遮って、別の声が響いた。

 事務長が初めて眉を動かした。

 その怜悧な視線がゆっくりと動き、発言者が私だと気づいた時、幾分呆れたような顔を見せた。

 

「長門さん、あなたまで感情論に走るのではないでしょうね。広瀬さんならまだしも、長門さんは…………」

「戦うことが艦娘の領分ならそうではないものは、何になるんだ。使えない道具となるのか?」

 

 あくまで淡々と告げる私に、事務長も揺るがない。わざとらしくため息を吐いて、

 

「残念ながら現在の状態では、あなた達のような理想を追及している余裕がありません。現在はどこの鎮守府も毎日のように出撃しています。それでも多くの深海棲艦がいるのです」

「では、戦うこと以外はするな、と?」

「あえて答えましょう。その通りですと。現実を見てください。あなた達を含めて、誰もが必死に戦って、なんとか今の平和を保っているが現状です。金銭的にも、戦力的な面からも全く余力はないんです。前者は私の領分で、後者はあなた達の領分です。十分ご承知のことでしょう」

「承知しても譲れないことがある」

「議論になりませんね。私たちにはそんな戯言に付き合っている余裕はありません」

「余裕はなくても、力を尽くさないといけない時がある」

「あなたは艦娘でしょう。もう少し艦娘として…………」

「事務長、私は艦娘の話なんてしていない!…………人間としての話をしている」

 

 この言葉が驚くほど響いた。

 さすがに事務長は、声を途切らせた。

 佐久間さんが初めて眉を動かした。

 それでも、私は口を開いた。

 

「私たちは人間だ。痛みも感じる。恐怖も感じる。それでも、私たちは戦場へ行くことができるのは確かなことがあるからだ」

「長門さん、あなたは…………」

「私たちの理想を笑うなら結構、好きなだけ笑え。でも、あえてこの馬鹿馬鹿しい理想を押し立て、かつ押し進めなければ、一体誰がこんな過酷な環境の中で、正気で戦い続けれると言うんだ?」

 

 傍らで、熊野と広瀬があっけにとられた間抜けな顔で私を見つめている。

 今さら引き止める声もない。止める声があったとしても、引くあてもない。

 

「消えることのない深海棲艦、過酷な戦況。そんな分かりきったことは、わざわざ手帳に書き留めるまでもない。はるかに大切なのは、こんな状況でも、誰かを守ることができているというそんな確信を捨てないことではないのか」

 

 私はふいに口をつぐんだ。

 工廠で働く橘さんの穏やかな笑顔が思い出された。同時にそこに、昨夜の橘さんの横顔が重なった。鎮守府に戻ってきても、ただじっと夜空を見上げていた横顔だ。

 私は一呼吸を置き、それから決然とした語を継いだ。

 

「その確信があるから、私たちは戦い続けることができる」

 

 にわかに沈黙が訪れた。

 佐久間さんも事務長も動かなかった。

 広瀬も熊野も声を発しなかった。

 ふいに日差しの角度が変わり、事務長の黒ぶち眼鏡に当たって、その奥の瞳を見えなくした。煌々と輝く陽光を背にしたまま、2人の男が眼前にあり、ただ張り詰めた静寂が辺りを圧した。

 やがてその静寂を打ち破ったのは、新たな闖入者だった。バタンと大きな音を立てて扉が開き、場違いな声が飛び込んだ。

 

「すいません、佐久間さん、いや元帥殿。遅れてしまいました」

 

 言わずと知れた提督だ。どんな緊迫した空気も一瞬で提督のペースに変わるあたり、さすが軍神だ。

 事務長が少しだけ嫌な顔をして、眼鏡を持ち上げた。天下の事務長も提督には弱い。以前に、事務長は提督に会っているが、そこで一泡吹かせらせている。事務長も頭は相当切れるが、提督はそれ以上に頭が切れるからだ。

 

「例の件ですが、何か分かりましたか、事務長」

「分かるも何もありません。彼女から事情を聴いているところです」

「事情?そんなものいりませんよ。ほら、報告書があっちこっちから来ています」

 

 言いながら無造作に持っていた書類の束を机の上に投げ出した。

 

「報告書?」

「艦載機については、隼鷹から報告が。なんでも、夜に酔っ払ってしまい、誤って艦載機を飛ばしたという報告があります。一応、始末書も出しました。"以後十分に気をつけます"ということです」

「…………それ以外にも夜中に突然あなた方の鎮守府の電気が一斉に消えたという報告があります。それについては?」

 

 事務長が攻め手を変えて来た。しかし、提督は涼しい顔で続けた。

 

「それは、明石が慣れない機械を使っていたら、電圧の関係でブレーカーが落ちてしまったんです。これも始末書、ありますよ」

 

 滔々と提督が話している。

 鉄面皮の事務長がいささかたじろぎつつ、

 

「では、この3人の姿があったという件はどうなっていますか。真夜中の海にわざわざ出向いていたのです」

「その件ならその時の秘書艦の叢雲から、報告が出ています」

 

 ひらりと取り出した1枚の紙を眺めつつ、提督が続けた。

 

「"その日の夜は漁船の護衛をしていた"と」

 

 は?と事務長が素っ頓狂な声を出した。

 広瀬と熊野までが目を丸くする。

 提督はいつもの無愛想な顔のまま、

 

「まぁ、俺たちは依頼主を選びませんからねぇ」

 

 さすがに私も声が出ない。

 思考の片隅に、肩をすくめながら苦笑する叢雲の姿が目に浮かぶ。

 なるほど、どうせ通らない理屈なら、最初っから道理なんて無視して無理を押し通せば良いというわけだ。さすが、冷静沈着の叢雲ならではの、剛腕と言うべきか。かかる剛腕に提督の頭脳が合わされば、もはや鉄壁の布陣だ。

 

「まぁ、レーダーに映らないとか言うのは機械の調子が悪かっただけでしょう」

 

 唖然としている事務長を無視して、提督は佐久間さんへと目を転じた。

 

「佐久間さん、最初は何事かと思いましたけど、これで落着ですね。よかったよかった」

「ちょ、ちょっとお待ちください、元帥。これではけじめがつきません。百歩譲って彼女らが海に行ったことはよろしいでしょう。しかし酔っ払って艦載機を飛ばすなど、完全に規定外の行動です。他の鎮守府にも示しが…………」

「いいじゃないですか、事務長。何もなかったわけだし」

「そういう問題ではありません。なんらかの処罰を…………」

「誰に処罰だって?」

 

 ふいに提督の声が1オクターブ低くなった。

 ギョッとして目を向けると、いつもの無愛想な顔に殺気じみたものがにじみ出ている。何よりその目は"死神"そのものだ。こういう提督が一番怖い。

 

「火の車みたいなこの状況で、必死に戦っているのは艦娘だ。そんな健気な俺の部下に、褒賞ならまだしも、なんの処罰がいるんですか、事務長さん」

 

 最早、その威圧感はかつての軍神と呼ばれた頃と変わらない。

 鉄壁の事務長が、一瞬ながら顔色を変えるのが分かった。わずかの間を置いて、

 

「いや、そこまで八幡さんがおっしゃるなら何も…………」

「事務長の理解が得られて嬉しいばかりです。ま、隼鷹たちにはきつく言っておきますので。心配しなくても結構です」

 

 再びいつもの提督に戻った。

 ふいに「はたちゃん」と静かな声を響かせたのは、佐久間さんだ。大きな目が真っ直ぐに提督を見つめている。さすがに提督は、姿勢を正した。

 

「世の中にはなぁ、常識というもんがあるんや。その常識を突き崩して理想ばかりに走ろうとする青臭い人間が、わしは好かん」

 

 淡々とした声に、しかし迫力がある。

 提督は静かに続きを待っている。何も答えない。答えないことも戦略だ。

 わずかの沈黙ののちに、再び佐久間さんは口を開いた。

 

「せやけど、理想すら持たへん人間はもっと好かんよ」

 

 佐久間さんの顔に微笑が浮かんだ。

 それだけだった。

 佐久間さんはゆっくり立ち上がると、事務長を連れて会議室を出た。立ち去り際、扉の前で立ち止まると、

 

「長門、これからもよろしゅうな」

 

 それだけ告げて去って行った。

 その時の、一瞬だけ見せた優しげな瞳が印象的だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「すごいですわね、長門」

 

 廊下に出て最初の声は、熊野のものだ。

 目を丸くして私を見つめている。

 

「事務長を怒鳴りつけるなんて、大丈夫ですの?」

「やむを得ないことだ。提督から広瀬のことを聞いていたがまさかここまで融通が利かないとは思わなかった。辞職を覚悟であんなことを言ったんだ。放置もできん」

 

 私の声に熊野は驚いて広瀬を見た。

 

「ワタルさん、辞めるつもりでしたの?」

「そこまで深く考えていたわけではないけど、ただ橘さんの横顔を思い出したら、急に抑えられなくて」

 

 苦笑する広瀬の目には、どこか憑き物が落ちような爽やかさがある。馬鹿な人ですわねと笑うと熊野の声を、ある声が遮った。

 

「勝手な話だ」

 

 提督の声だ。私たちは一斉に振り返った。

 

「君は何のためにわざわざここに来たんだ?横須賀での出世を捨ててやって来たのは、渚と共にやり直すためだろ?」

 

 厳しいと提督の言葉に、広瀬はさすがに笑みをおさめた。

 

「君が元来の哲学を曲げて、悪評を受けても一歩も引かずにこの2ヶ月を歩んできたのは、君なりの決意があったからだろう。それがたちまち感情に流されて、辞める覚悟なんてとんだお笑い草だ。そんな覚悟なら、3枚におろして味醂につけて、野良猫にやればいい。振り回された俺や熊野がいい面の皮だ」

 

 ほとんど吐き捨てるように告げる提督に、さすがに広瀬は口を開いた。

 

「隊長、僕は何も…………」

「ワタル、それ以上言うな」

 

 今度は優しい声色に変わった。

 

「まぁ、事務長に色々言われて頭に来たのは、君だけではないだろう」

 

 柔らかな声に、広瀬は軽く目を見開いた。

 

「だけどな、そんな感情もまとめて捨てて、黙って窓の外を眺めていたのが長門だ。なぜなら、俺たちにとって1番大事なことは、事務長とドンパチかますことじゃない」

 

 そうだよな、と私の方に向く提督に、私は冷ややかな視線で答える。

 

「遅れて来た割には、先程の状況に随分詳しいな、提督」

 

 提督はたちまち「そうか?」などと言いながら、唐突に口笛などを吹き始める。

 私が窓の外を眺めていたのを知っているとなると、最初からどこかで会議室を覗いていたに違いない。

 

「あわよくば、関わらないつもりだったろ?」

「そういう冷たい言い方は良くない。ちゃんと困った時には登場しただろ?」

「それなら、早く出てくればよかったのに。そうすれば、あんな演説する必要もなかった」

「そうか?いい言葉だったと思うぞ。橘さんも同じことを言ったんじゃないかな」

 

 唐突な言葉に、私は返答しなかった。

 偏頭痛のふりをして額に手をやったのは、ふいに胸の内に熱いものを覚えたからだ。しかしそんなことは見透かしたかのように、提督は告げた。

 

「鳳翔さんから聞いた。やってくれたな」

 

 そう言いながらも顔には笑みが浮かんでいる。

 

「しかしそんなことをするなら、最初から俺も呼んでくれならいいのに。そうすれば、こんな面倒ごとにもならなかった。銃と上司は使いようって言うだろ?」

「そんな格言、初めて聞いたぞ」

 

 ハハと笑い声が聞こえた。久しぶりに提督が笑ったような気がした。

 

「隊長、僕は…………」

「気色悪い謝罪をするくらいなら仕事を手伝ってくれ。朝から呼び出されたお陰で、溜まってんだぞ?」

「もちろんですよ」

 

 そう言って2人は足早に執務室へと進んでいった。

 橘さんが亡くなったのは、それから1週間後のことだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 市街地の北に、小さな公園がある。

 比較的急な坂道を登っていくと、住宅地の切れ目にひかえめな敷地をもっめ広がっているのがその公園だ。春ともなると桜並木の美しい公園であるが、桜の季節が終わっても、静かな憩いの場として愛されている。

 

「もう少しか?」

 

 坂の上を喪服姿の提督が振り返った。

 

「ああ」

 

 すっと私は坂の突き当たりにある建物を指差した。

 古格の漂う薬医門を従えた純日本風家屋だ。

 ふと細めると門前に、鳳翔さんの姿が見えた。やがて門前までたどり着いた私たちに、細めるさんは一礼した。

 

「忙しい時に、すいませんね」

 

 そう言って先に立って邸内へと導いた。

 母屋の縁側へと進むという、広々とした20畳ほどの和室とその奥の仏壇が見えた。

 すでに2本の線香が上げられている。

 

「初七日だなんて、いまどきの人は言葉自体を知らないくらいのに、わざわざすいませんね」

 

 鳳翔さんの声が出て涼しげに響く。

 日陰になって薄暗い広間を見回せば、ほんの7日前の夜がよみがえった。

 

 

 ーーーー

 

 

 橘さんの死は静穏なものだった。

 ほんの数時間前までは静かな呼吸をしていたが、ふいに忘れたように呼吸が止まった。そばにいた鳳翔さんでさえ、その静かな変化にすぐには気づかなかったくらいだ。

 午後2時37分が死亡時刻だった。

 気配りばかりしてくれた橘さんは、亡くなる時間まで、私たちの負担にならない日を選んでくれたように思われた。

 同日夜が通夜となった。

 もともと近親者がいないうえに橘さんの遺志で、ほとんどつうちらしきものは出さず、静かにしめやかに行われた通夜は、しかし、それでも訃報を聞きつけた人々がぽつりぽつりとやってきて、夜半まで弔門客が途絶えることはなかった。

 夕張は、棺の前で涙を流し、橘さんの急逝を嘆いた。その隣で明石はひたすら涙を堪えながら拳を握りしめていた。

 鎮守府の者は、時間をずらしながらも全員訪れ、途方にくれたように立ち尽くし、座り込み、戻っていった。

 静かな通夜に慟哭は無かった。皆が心の内で泣いていたかもしれない。誰もが、一様に静かに棺の前に額をついて去っていくのだった。

 私と提督は、鳳翔さんとともに通夜の準備をし、客人の案内を行い、終始邸内を歩き回っていた。

 ようやく客人も途切れ、邸内が完全な静寂に戻ったのは、夜半も1時を回る頃だった。

 月明かりの広間には、橘さんの棺と、その傍らに座る鳳翔さんの姿だけがあった。

 いや、事実はその広間に、もう1つ人影があった。

 通夜の間、部屋の中で一言も発せず、一歩も動かなかった佐久間さんであった。

 喪服に身を包んだ佐久間さんはまるで岩にでもなったかのように、身じろぎひとつしなかった。誰が来ても去っても、まるで根が生えたように微動だにしなかった。私も提督も、通夜の終わり頃になって、ようやくその存在を思い出したくらいだ。

 青白い月光が斜めに差し込み、きめの細かな畳の広間を照らしていた。

 どれほど時間が過ぎたであろうか。

 最後の客人を見送り、私が広間に戻って来た時のことだった。ふいに気配を感じて視線をめぐらせると、鳳翔さんが立ち上がる姿が見えた。畳の上を移動する衣擦れの音がかすかに聞こえる。そのまま棺の傍らから正面に回り込み、向かい合うように端座した。

 私たちが見守る前で、やがて鳳翔さんは、ゆっくりと三つ指を棺に向かって頭を下げた。

 

「どうも、長い間お疲れ様でした」

 

 静かな、それでも芯のある声だった。

 たったその1声に含まれる悲哀と寂寥が、私の身体と心を覆い尽くした。私はたち続けることができず、膝をついていた。

 鳳翔さんの声の余韻が消えるころ、今度はふいに低い、唸り声のような低音が聞こえた。なんの音かと見回す先で、佐久間さんの肩が一度だけ震えた。

 二度目に震えた時、先ほどよりも増して大きな唸り声が聞こえた。

 それは佐久間さんの慟哭であった。

 何時間もの通夜を、身じろぎせず、岩のごとく座り続けた佐久間さんが、今度は肩を激しく震わせた。やがて拳を握りしめ、胸中の全てを吐き出すように、ついには凄まじい咆哮を上げて泣き出した。

 そのまま橘さんの棺にしがみついて、おいおいと大声をあげて泣き始めた。

 獣のように咆哮する佐久間さんと、頭を下げたままピクリとも動かない鳳翔さん。

 ただ茫然として見守るうちに、橘さんというひとりの人間の死が、ようやく現実になったような気がした。

 死というのはそれで何かが片付くわけではない。新たな何かが生まれるわけでもない。大切な絆がひとつ、失われるということだ。そのぽっかりと空いた空虚は何物によっても埋まることはない。

 提督が拳を固く握りしめた。

 私は、ようやく泣いたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 あの、半ば夢のような影絵を刻んだ広間は、今は鮮やかな陽光の下に濃厚な陰影を刻み、何事もなかったかのように整然とした静かさを保っている。一番奥の仏壇には位牌がひとつ。写真には、見慣れた笑顔の橘さんが見えた。

 私と提督がそばに寄ると、中ほどまで燃えた線香がほのかな火を灯している。

 提督とともに手を合わせ振り返ったところで、中座していた鳳翔さんが、1つの細長い墓を持って戻ってくるのが見えた。提督の前にそっと置いて言う。

 

「受け取ってください」

 

 提督が箱を開ければ、その中は一振の刀があった。その意匠を凝らされた鍔や鞘を見れば、刀に詳しくない私でも尋常な品ではないことは分かる。

 提督が戸惑いがちに見返すのに対して、鳳翔さんはあくまで端然として乱れない。

 

「満さんの家に受け継がれて来た刀です。提督に受け取って欲しいんです」

「そ、そんな大切なもの、いただけるはずがありません」

 

 慌てて手を振る提督に、鳳翔さんの穏やかな声が続く。

 

「いえ、満さんが是非提督に受け継いで欲しい、と。それに女の私よりも提督が持っていた方がいいに決まっています」

 

 困り切っている提督に、鳳翔さんの笑顔はあくまでも優しい。

 

「満さん、本当にあなたを息子のように思っていましたから」

「で、でも…………」

「それに、これと一緒にあった手紙はあなたへのものですから」

 

 言ってすっと1枚の紙を押し出した。

 

 "拝啓、八幡様"

 

 そこには橘さんらしい、几帳面な字が並んでいる。

 

 "あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもう旅立ってしまったということなのでしょう。これから大変になっていくのに、戦場から離脱してしまった申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 私はあなたに会えたことを本当に感謝しています。ずっと神様を恨んで来たのですが、あなた方に会えたことに対して何倍ものの感謝をしています。勝手なものですね。

 あなたに初めて出会ったことを思い出します。その時のあなたの目は、光を失っていました。それはかつての私に似ていると思います。私は、幸い周りに助けてくれる人たちがいました。でも、あなたは1人でした。誰にも弱い所を見せず、ただひたすら傷を隠していましたね。それでも、あなたは1人で乗り越えることができたのでしょう。

 しかし、今のあなたは1人ではありません。広瀬さんがいて、長門さんがいる。艦娘たちがいる。そのことを決して忘れないでください。

 上に立つ者は孤独です。誰から何を言われても己の信念を変えてはいけませんし、弱い所も見せてはいけない。これからもきっと辛いことがあるでしょう。その時は、必ず誰かを頼ってください。皆さんはきっとあなたの力になりますから。

 あなたはたくさんに人の力になってくれました。私もその1人です。

 あなたといる日々はとっても楽しい時間でした。

 最後に少しでもあなたの力になれるように、この刀をあなたに授けます。

 どうかどうかご自愛のほどを。

 天国よりめいっぱいの感謝を込めて、橘"

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。提督は箱から刀を取り出して、それをじっと見つめた。

 ぽつりぽつりと、ふいに刀に雨が降った。…………馬鹿を言っちゃいけない。ここは室内だ。

 また、ぽつりぽつりと雨が降った。

 泣いているのだ。

 提督が泣いているのだ。あの日以来、涙を弱い所を決して見せなかったこの男が今、私の前で隠すことなく泣いているのだ。

 呻くような声はそのまま春の風へと消え去った。

 季節はすでに、初春であった。









これにて第2章は終わりです。第3章はまだ構想中ですので、少し待っていてください。あと、リクエストの件はまだ継続中です。何か案があれば是非活動報告の方にて、お教えください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章 黒風白雨


「すいません、護衛を依頼したいのですが…………」

 

 廊下を抜けて、休憩室で一休みしようとしたところで、そんな声が電話から響いた。

 窓から外を眺めれば、赤い夕日が海に沈もうとしているところだ。間髪入れずに駆逐艦2人が駆けていくのが見えた。

 時計を見れば、午後5時半。

 これから報告をまとめようとする時間に、いきなり依頼をしたいと言うのだ。それだけではなく、メールという形で依頼が溢れかえっている。

 金曜日の夜という、一般的社会人にとっては気分の浮かれる条件も、依頼主には、格別の感興をもたらさないらしい。今宵も全力で我が鎮守府を荒らしにやって来ている。

 私は電話を切った後、叢雲を探し出して、口を開いた。

 

「深夜に漁業を行いたいそうだ」

「…………で、誰かを誘って出撃して欲しいと?」

「そうだ。状況把握が早くて助かる」

 

 とても大変な依頼なのだが、叢雲は涼しい顔で応じる。

 

「そうそう、今日の報告は机に置いてあるからよろしくね。とりあえず、執務室には朝潮がいるから彼女にも手伝ってもらって」

 

 分かった、と応じつつ、最近掲げられた理念を思い出し、たちまち頭痛がした。

 

『海に関する依頼、なんでも受け付けます』

 

 理念は完璧なのだが…………

 今後の予定について、手帳から確認すれば、休む間も無く出撃予定が埋まっており、一層気が滅入る。

 軽く額を押さえてため息を吐く俺に、叢雲の苦笑が応じる。

 

「あんまりため息ばかりついていると、幸せの神様が逃げていくわよ」

「ため息程度で逃げていく薄情な神様なら、こっちから願い下げだ」

「そんな勝手なことを言うから、罰が当たるのよ」

 

 軽い口調で応じながら、艤装を取り付け始める。

 

「夜の出撃になるから十分に気をつけろよ」

「心配しなくても、提督がいるから安心よ。"軍神八幡"がいるからには誰も沈みやしないわ」

 

 "軍神"というあだ名には、もう何も言う気力がない。俺がいれば誰も死なないと言う、根拠のないジンクスによって固定化された名だ。

 

「やぁ、提督」

 

 場違いに明るい声が聞こえて振り返れば、歩み寄ってきたのは川内だ。ちょうど、彼女に出撃してもらおうと考えていたところだ。

 

「今夜はなんか胸騒ぎするなーって思ってたら…………夜戦があるの?」

 

 俺は一瞬眉を動かしたが、聞こえないふりをしつつ、叢雲の方を見る。

 

「やっぱり提督が夜出歩くと荒れるね。やっぱり、夜戦の神様だからかな?」

「君も段々と口が悪くなってきたな。あまり皮肉を言うと夜戦に行かせないぞ」

「それは困るなぁ。だって、今から夜戦なんでしょ?」

 

 言ってもいないのに、出撃があることが分かるとは。伊達に夜戦バカと言われてないこともある。

 

「じゃ、私も準備してくる」

 

 と、指示もしていないのに川内は踵をめぐらせた。廊下に立っていた不知火も巻き込んで艤装を取りに行く。叢雲はそんな彼女らを見送りつつ、ぽんと俺の肩を叩いた。

 

「さ、司令官。私たちが出撃している間に、1つでも仕事を終わらせなさい」

「あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んで行くのが大事です」

 

 唐突に呟くと、叢雲は2度ほど瞬きをした。

 

「何それ?」

「夏目漱石の名言だ。知らないのか?あせってはいけません。ただ牛のように…………」

 

 たちまち叢雲は呆れ顔になる。

 

「そんなことばっかり言ってるから、いつまでも変人だって言われるのよ」

 

 言いつつ叢雲は一歩前に出た。

 

「あんたの愚痴はあとで聞いてあげるから、とりあえず執務をよろしくね」

 

 まことに不本意ではあるが、俺は黙って執務室へ足を進めた。

 

 

 ーーーー

 

 

 入渠施設には、赤、黄、緑の3種類の部屋がある。

 赤が大破したなどの重傷者用、緑は少々ダメージを負った程度の者が使い、せいぜい休憩用といったところ、黄はその間といった寸法だ。

 入渠状況を確認すれば、黄に入った者が3人ほどいるようだ。

 特に重傷を負った者がいないことを確認し、近くにいた神通に早めに出てくるようにと伝える。神通は相変わらずおどおどしているが、前よりは少し堂々とできるようになってきているのかもしれない。

 そのまま執務室へ向かうべく廊下に出たところで、ふいに呼びかける声が聞こえ、足を止めた。

 黄色の部屋から、出てきたばかりの1人の艦娘が、手を振りながら駆け寄ってきた。

 俺が顔を向けると、その艦娘はニヤリと笑った。

 

「久しぶりですね、提督」

 

 その声を聞いて少し怪訝な顔をする俺に、艦娘の方は笑みを崩さず、

 

「その様子だと、私のことは忘れたのかしら?」

「職務中なのに、朝っぱらから寮で酒ばっかり飲んでいる千歳、だろ?忘れるにも忘れられん。ともかく、傷は癒えたのか?」

「ふふ、さすが提督。最近は、少し元気が無くて心配していたけど、変わっていないようですね」

 

 千歳は、目を嬉しそうに細めて笑った。

 普段から、物腰の落ち着いている彼女は、時折いたずらっぽい顔が見え隠れする。無論当方の皮肉なんぞ一切の功を奏さない。

 

「提督の辛口は健在ですね。辛いものばかり食べているせいか、淡麗辛口でめっぽう切れがいい。安心しましたよ」

「中破しておいて、安心されても仕方がない。また、飲むのか?」

「飲みませんよ。最近は提督の言う通り控えるようにしています」

 

 意外な返答だ。

 

「私たちだって、ちゃんと思慮分別くらいあります。今は飲んでいる場合ではないってことは分かってますよ」

「…………ホントか?」

「そんなに疑わなくたっていいでしょう?長門さんなら疑いなんてしないくせに」

 

 そのおどけた口調を聞けば、本当に控えているのかは怪しいところではある。

 

「ま、怪我も治っているようだし、ゆっくりしておけ。明日も出撃しないといけないかもしれないし」

「明日もですか?」

「そうだ。依頼はたっぷり来ているからな。喜ばしいことだ」

「…………冗談きついですよ、提督」

「冗談であることを願うよ」

 

 さすがに笑みを引きつらせた千歳に背を向ければ、懐からベルが鳴り響く。また、新たな依頼なのだろうか。間断ない敵軍の襲撃を受け続けて、こちらは疲労困憊である。

 今宵もどうやら、寝れないらしい。無論だが、「寝かせてくれ!」と叫んだところで、深海棲艦は消えてなくならないし、依頼の電話を止むわけでもない。そんなあり得もしない妄想に胸を膨らませている間にも依頼の電話は鳴り響く。

 俺は、一度大きく深呼吸した後、執務室に足を進めた。

 

 

 ーーーー

 

 

 窓の外を見れば、抜けるような快晴だった。4月の柔らかな日差しは、世界の色彩をより華やかにしている。2階にある休憩室から外を見渡せば、桜が咲き乱れている。そのまま視線を空へと転じれば、白雲のかけらもなく、澄み渡った(あお)一色だ。

 開け放たれた窓の内側で、淡い水色のカーテンが思い出したかのようにゆらりと揺れた。

 

「ひどい夜だったらしいですね」

 

 穏やかな声とともに、パチリと駒を進める音が聞こえた。

 ほとんど思考が停止している状態で駒を進めると、古びた将棋盤を挟んだ向かい側に、航が少し考え込むように首を捻った。

 そして、少しとがった顎を指で撫でながら小さく呟いた。

 

「最後に出撃してきた艦隊が帰ってきたのが12時ですって?忙しいとは聞いてましたけど、これほどとは思ってもいませんでしたよ」

「3時だ」

「え?」

「急遽、急ぎの依頼が入ったんだ。それで3時」

「やめてくださいよ。聞いただけで、気が滅入ります」

 

 パチリパチリと進んでくる銀を見つめつつ、俺はただ夢心地の状態で美濃囲いを組む。

 休憩室の掛け時計が示す時間は、午前10時。

 艦娘たちは3時で終わったからいいものの、俺はつい先刻ようやく修羅場の執務が終えたところなのだ。16時間ぶっ続けの執務から解放された足でとにかく休憩室に行くと、珍しく土曜日に出勤していた航を見つけたのだ。そのままたまたま見つけた将棋盤で、一局を所望した。

 

「朝、食堂で叢雲さんを見かけましたけど、あの隙のない人が、珍しく乾いた笑みを浮かべて座ってましたよ」

「1日においての出撃回数が過去最高を記録したからな。それに喜んでいたのだろう」

 

 投げやりに応じれば、航は苦笑とともに視線をめぐらす。

 

「熊野も、大変だったようですね」

 

 ソファの上に、うつ伏せになって可愛らしい寝息を立てているのは、熊野だ。

 熊野も、叢雲と同様記録を更新し、フラフラしながら去っていたことまでは記憶にあるのだが、どうやら自分の寮に戻ることが叶わず、ここに倒れこんだらしい。

 俺は角を敵陣に送り込みながら口を開いた。

 

「1日で4度の出撃だったからな。さすがに限界を超えたらしい」

「隊長の余波を受けたわけですね」

「異議あり。根拠も何もない軽率な発言だ」

「根拠なら今までの執務の統計を出せば…………」

「それも異議あり。とにかく不愉快な発言だ」

 

 爆睡中の熊野は、傍らの無意味な会話には微塵も反応せず、すやすやと眠っている。時折、ふいに「ひゃぁあっ!」だの「とぉぉ↑おう↓!!」だの叫んでいるところを見ると、夢の中で5回目の戦闘を行っているらしい。ご苦労なことだ。

 

「でも今日は土曜日ですよ。少しは休めるんですか?」

「休めるかどうかは俺が決めるのではない。所構わず電話をかけてくる依頼主と、時間にかかわらず急変する深海棲艦が決めるんだ」

「なるほど、あまり期待できそうにありませんね」

 

 苦笑しつつ、それにしても、と航は低く唸り声を上げる。

 

「隊長の美濃がこんなに堅いとは…………」

「君の中飛車の切れがないだけだろ」

 

 応じて駒を動かす。

 自身の陣中で馬へと転ずる俺の角を見て、航は腕を組み直す。

 

「徹夜明けで、頭が働かないはずなのに、いつもよりずっと冴えているように思えますね」

「ふん、悪手を重ねたあげくに負け惜しみとはワタルらしくもないな」

 

 さらに一手を進めれば、ついに航は声もなく黙りこんだ。

 そんな時に、背後で扉の開く音がした。

 

「あ、こんなところにいたのか」

 

 聞き慣れた声に顔を向ければ、立っていたのは長門だ。

 

「珍しいな、長門。君が休憩室にやってくるとは」

「またそんなのんびりとしたことを…………なにやってるんだ」

「見ての通り、将棋だ。そんなことも知らんのか」

「そういうことじゃない。いくら電話をかけても、全然つながらじゃないか」

 

 そんなはずはない、と答えてポケットから携帯を取り出すと、なるほどと納得する。

 

「電池切れだ」

 

 長門は呆れ顔でため息をついた。

 

「電話も徹夜で働き続けて疲れたんだよ。今日くらい休ませてやれ」

「携帯は休ませても構わんが、提督はそういうわけにもいかん。すぐに執務室に来い。今日の昼までしか指示の入っていない艦娘が結構いるんだぞ」

「それはいけませんね」

 

 と答えたのは航だ。

 言うなり駒を入れるための木箱を手に取った。

 

「おい、ワタル…………」

 

 と止める間も無くその長い指が盤上の駒をさらって、木箱の中へと収めて行く。

 

「勤務を終えたと思ったから一局につきあっただけなんです。指示がまだ残っているなら、そちらを優先すべきです」

 

 言い終えた時には盤上は綺麗さっぱり片付いている。勝ちが危ういと判断しての暴挙だろうが、俺の抗議の声を上げるよりも先に、長門の急き立てる声がかぶさった。

 

「みんな困っているんだから、早くしてくれ」

 

 首根っこを差し出せば、そのまま掴まれて引きずられそうな勢いだ。

 俺はただ悄然と立ち上がり、にこやかに手を振る航と、この騒ぎの中でもすやすやと眠る熊野を交互に睨みつけてから、休憩室を後にした。

 

 

 ーーーー

 

 

「ねぇ、ヤハタ」

 

 食堂に、そういう声が響いたのは、眉間にしわをよせた長門からようやく解放された後のことである。

 そっと顔を上げれば、テーブルを挟んだ向かいに座った小柄な女の子の姿がある。顎がテーブルにつく姿勢で、目だけは爛々と輝かせて当方を見据えている。

 

「ねぇ、ヤハタ」

 

 小さな口が開いて、声が響いた。俺はとりあえず聞こえないふりをして昼食の激辛カレーを食べる。

 理由がある。

 この少女は、満潮という。最近、こちらに所属したばかりの新人だ。駆逐艦の中では比較的落ち着いた性格なのだが、とにかく口が悪い。その悪い口で妙に俺にからむ。

 

「聞こえないないのかしら、ヤハタ」

 

 基本的に、艦娘は俺のことを提督や司令官という風に呼ぶ。しかし、どういうわけかこの満潮は、俺の苗字で呼ぶ。さらに呼び捨てだからタチが悪い。

 しかし、応じる気力はないので、あくまで聞こえないふりを決め込む。

 

「聞こえないふりをしているだけなんでしょ?ヤハタ」

 

 満潮には、親がいない。いるのは姉妹だけだ。で、どういう奇縁なのか彼女の姉である朝潮はこちらに所属していた。その朝潮が言うには、とても心優しい、笑顔の絶えない妹だったとのことだ。

 何があったのかは不明だが、今の、毒舌の満潮からは、容易に想像がつかない。

 

「まったく態度の悪い司令官ね」

「満潮ほどではない」

「聞こえているじゃない」

 

 俺は観念して顔を上げた。

 

「それ一口ちょうだい」

 

 ギロッと見る目は不知火といい勝負ができそうだが、こちらとて圧倒されてばかりもいられない。

 

「これは裏メニューで超激辛だ。子供の君には無理だ」

「何それ、意味わかんない。子供っていう理由だけで、食べちゃいけないの?」

「そもそも君は昼飯は食べただろ」

「ふんっ、ケチな人ね」

 

 朝潮が言うには、心優しい妹だそうだが、そんなことはないだろう。

 

「それだからいい歳して独身なのよ」

 

 ときどき支離滅裂にもなるから、困ったものだ。

 いずれにせよ、唇を尖らせて不満げな顔をする姿には、どことなく可愛げがある。

 

「何をやってるんですか、満潮」

 

 ふいに聞こえてきた声は、朝潮のものだ。ずっと満潮を探していたのか、慌てて駆け寄った。

 

「司令官、すいません。また満潮が何か言ったんですね」

「いつものことだから問題ない」

「満潮、司令官は忙しいんですから、あんまり迷惑をかけてはいけませんよ」

 

 朝潮の言葉に、満潮は、ぶすっとすねたような顔をして黙りこんだ。

 

「最近、私が忙しくて一緒にいてあげられないから、満潮も寂しいんですよ」

 

 朝潮は小声で俺に告げながら、手際よく今回の報告をした。まだここに勤務して日が浅いが、テキパキとした動きは見ていて気持ちがいい。叢雲が高く評価しているのも分かる話だ。唯一の問題といえば、たまに行き過ぎた気遣いがあることだけだろう。

 報告を聞きながらも俺は手を動かして、昼飯を食べる。そんな俺の様子を、傍の満潮はじっと眺めている。

 窓から降り注ぐ光は、ようやく午後の柔らかな光へと移ろい始めた。

 

 

 ーーーー

 

 

 俺が外に出たのは、夕方だった。

 外に出てみれば、傾きかけた春の日は、ゆるやかに暮色を帯び始めている。

 視線をめぐらしたところで、俺が動きを止めたのは、いつも立ち寄る港に先客がいたからだ。

 叢雲だ。

 彼女は海の水平線をのんびりと眺めている。昨夜は出撃していたが、ここにいるのいうことは、今夜も仕事があるのかもしれない。十分に睡眠がとれているとは言えないはずなのに、景色を眺めている姿は、相変わらず洗練されていて隙がない。と、ふいに先方もこちらに気づいたようで、顔を向けた。

 

「もしかして、終わった?司令官」

「ああ、ありがたいことにな」

「今までずっと執務室にいたの?」

「まぁ、そういうことになる」

 

 俺のくたびれた声に、叢雲は苦笑で応じた。そして、こちらに歩み寄った。

 

「でも、今はとにかく休めるわけね」

「おかげさまでな」

「じゃ、早く戻って寝たほうがいいわ。そんな顔色で働かれても、こっちだって迷惑だから」

 

 爽やかに笑ってそんなことを言う。

 叢雲の心遣いというのは、いつも心地がよい。

 

「叢雲こそ、2日連続で夜に出撃予定があったか?」

「本来なら今日はないんだけど、1人風邪ひいているのよ」

「で、駆逐艦のリーダーみずから代打を?」

「全然軽いわ。提督の徹夜よりはマシだもの」

 

 あっけらかんの返答だ。

 昨夜の修羅場を思い出せば、俺としても反論のしようがない。

 おや、と思ったのは、普段は車どころか人すら通らない鎮守府の前の道を進むんでいく大勢の人たちの姿が見えたからだ。

 

「始まったようね」

「何が?」

 

 問えば、叢雲はかえってあきれ顔になる。

 

「花見よ、いつものことじゃない」

 

 言われてにわかに思い当たった。そくういえば、鎮守府の近くに夜桜で有名な公園があった。

 鎮守府から徒歩数分くらいで着く公園へ向かう人たちが今鎮守府の前を横切っているのだ。

 

「やっと春が来たって感じね」

「はぁ、きっと今頃隼鷹どもがはしゃいでいるんだろうな」

「またそういう身も蓋もない言い方をする」

 

 言いつつも、叢雲は心なしか楽しげだ。

 しかし、ふいに叢雲が思い出したかのように俺を見た。

 

「そうだ、司令官。とりあえず鎮守府から出てくれない?司令官が鎮守府にいないと、平和になるような気がするのよ」

 

 完全な当て付けなのだが、俺は神妙にうなずいて、背を向けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 小道をわたって北側へ進めば、2分とかからぬうちに満開の桜に囲まれた公園に着く。

 見上げれば、夕方をさえぎる桜木は天高く枝葉を広げ、見渡せば、全てが桜色である。常日頃は静まり返った公園だが、今日ばかりは人の往来が激しい。

 花見とあれば当然だろう。

 特に夜桜は絶景との大評判で、この公園では夜に花見を行うのが一般的だ。

 さして広くもないはずな公園の中には、すでに多くのレジャーシートが敷かれ、桜を照らすためのライトが行き交う人々も柔らかく照らしている。

 花見そのものは、まだ本格的に始まっていないようで、すでに飲み始めているところもあれば、まだ場所取りなのか1人の人もいる。豪快にビールを飲み干す筋骨たくましい男、談笑しながら酒を飲む女たち、くわえ煙草でのんびりと桜を眺める老人、その雑多な空気に、花見特有の熱をはらんだ情緒がある。

 ふらりとその空気の中に入れば、飲んでもいないのに、なにやら陶然たる心地だ。

 そんな喧騒の中で、ふいに俺が足を止めた場所は、一段と喧しい場所だった。別にどんちゃん騒ぎしていたからではない。どんちゃん騒ぎの主に見覚えがあったからだ。

 俺の視線を感じたのか、1人の女がふりかえり、目があった途端、ちょっと驚いたような顔をしてから、気まずそうな苦笑いを浮かべた。

 

「あら、提督」

 

 誰であろう、千歳だった。

 

「午後から姿を消したかと思えば…………こんなところで何をしてる?」

「何をしているように見えます?」

「…………花見という名目でどんちゃん騒ぎを起こしているように見えるな」

「相変わらずキツイですよ、提督。花見そのものですよ」

 

 ふふふ、と笑う千歳は、すでに頰を赤く染めていて、一目で酔っ払っていると分かる。

 

「そんな怖い顔をしないでください。ただの花見なんですから」

「ただの花見に怒っているわけではない。何かやらかすのではと心配してるんだ」

 

 眉を寄せて、千歳の顔を睨みつけた。

 

「まあまあ、いいじゃないですか。こんな時に飲まなければ損なんですから」

 

 チラリと隣の隼鷹に目を向ける。目を向けられた隼鷹は、無意味に磊落な笑みを返した。当方ただため息とともに額に手を当てるしかない。

 

「しかしだな…………あまり羽目を外し過ぎるなよ?もしもの時に何かがあったら、周りから冷ややかな目で見られるようになるんだからな」

「私たちがそんな風に見えますか?」

「見えないと思っているのか?」

「まあ、提督。今日は上司と部下ではなくて、仲良しな関係です。難しいことはなしにしましょう、ね?」

 

 赤ら顔の千歳は、酒を口に運びながら、わけのわからないことを言っている。

 

「とにかく、この絶景な夜桜の下です。楽しみましょうよ」

 

 赤ら顔に、浮かべた笑みが、なにやら妖艶な雰囲気がある。しかし誑かされて、上司の本分を見失うわけにもいかない。

 

「とにかく飲み過ぎはよくないからな。次に飲むのが、酒じゃなくて死に水だと笑えないぞ」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

 

 少し誘惑的だった千歳だったが、すぐに酔っ払い特有のもの陽気を取り戻して答えた。

 

「もちろん提督も飲みますよね?」

 

 背を向けようとしたが、千歳に肩を掴まれてしまった。

 周りを見ると、軽空母たちが何やら期待の眼差しでこちらを見ている。

 俺はため息をついて、

 

「少しだけだからな?」

 

 と告げれば、隼鷹から秘蔵の酒だという日本酒をなみなみと注がれ、それを飲み干せば祥鳳から、また飲み干せば千歳から…………それを何回も繰り返した。

 さすが鎮守府一酒を飲んでいるのか、どの酒も上等なものであった。

 

「そういえばさ、提督」

 

 日も完全に沈み、綺麗に桜がライトアップされた頃、急に真面目な顔で隼鷹が話しかけた。

 

「海軍がさ、新しい兵装を開発したって知ってるか?」

 

 普段から酔っ払ていると思われがちな彼女だが、今まで酒は飲んでも酒に飲まれたことは一度もない。海軍に飲み友達がいるらしく、その人から時折情報を聞いては、俺に伝えてくれる。

 

「知らないな。どんな兵装なんだ?」

「練度の高い艦娘の力をさらに解放してくれるらしいぜ」

「へぇ…………実用化はされているのか?」

「すでにいくつかの鎮守府で実用済みだってよ。その性能は折り紙つき」

 

 ここ最近の戦況は少々厳しいので、そういった新装備はきっと役に立つのだろう。

 

「あ、それ私も知っています」

「そうなのか?祥鳳」

「はい、確かそれって指輪を使うんですよね?」

「そうそう!書類に提督と艦娘の名前を書いて、指輪渡すっという流れらしいぜ」

「うん?」

 

 祥鳳と隼鷹の言葉に俺は首を傾げた。それって本当に兵装なのか?まるで…………

 

「結婚みたいじゃないか」

「…………へぇ、提督はその兵装がこの鎮守府にも実装されたらどうするの?」

「さぁ、そもそもそんな最新装備がこの鎮守府に来るわけもなかろう」

 

 俺の答えが面白くなかったのか、隼鷹はあからさまに不満げな顔をした。

 

「…………暑い」

 

 ふいにそんな言葉が聞こえたかと思えば、千歳が自らの衣服に手をかけ脱ごうとしていた。

 

「お、おい!人前だぞ!」

「だって、暑いんですよ!」

 

 羽目を外し過ぎるなと、言っただろうに。だが、それを言葉にしなかったのはすでに頭痛の気配が濃厚だったからだ。

 

 

 ーーーー

 

 

「あれ、戻ってきたんですか」

 

 夜半の休憩室で俺を迎えたのは、日中と同じ場所で、黙然と詰将棋を解いていた航だった。

 時刻は夜10時。

 結局、軽空母たちは浴びるように酒を飲み、千歳に至っては酔い潰れて寝てしまったおかげで、俺が運んでひと段落ついたかと思えば、すでにこの時刻だった。

 夜半の休憩室は随分と薄暗い。その薄暗い休憩室の片隅で、月明かりの下、ゆるりと盤上の駒を進めながら、航は独り言のように告げた。

 

「花見があってるとは聞いてましたけど…………」

「相変わらず、だ。いかんせん彼女らは度を知らない」

「そんな彼女らに、いちいち付き合うなんて、隊長らしいというか、物好きというか…………」

 

 詰将棋の本をパタリと閉じて、航が苦笑した。乱暴な言葉の割に、その笑みは柔らかい。俺は向かい腰を下ろしながら、

 

「そういう君こそ、随分と遅い時間に…………」

 

 言いかけた途中で口を閉じたのは、航の膝上に、幼子の眠っているのを見つけたからだ。3歳になる航の娘の渚が、父の胸にしがみつくようにして、すーすーと心地よさげな寝息を立てていた。

 沈黙した俺を見て、航が淡々とした口調で答えた。

 

「僕も公園に連れて行こうとしたところで、呼び出しを受けたんです。どうしても一緒に行くと言って聞かないから、やむを得ず連れてきたんです。さっきまで、艦娘たちが遊び相手になってくれたけどさすがに疲れたようです」

「呼び出しの方は片付いたのか?」

「装備について、指示が伝わっていなかったところがあっただけです。今は、特に何もありません」

「そうか」

 

 俺は静かにうなずいてから、航を見返した。航は航で、俺の言わんとしたことを正確に汲み取ったようだ。微笑を浮かべたまま、

 

「大丈夫です、無理はしていませんよ」

 

 その長い指は、優しげに娘の髪を撫でている。

 

「渚の面倒を見ながら仕事をするのは大変ですが、できることはできるときにやっていきますよ。それでもどうしようもないとき、全部隊長に押し付けて逃げるつもりです」

「発想の転換は結構だが、驚くところは、押し付けられる俺には、なんの了解も得ていないところだな」

「そうなんですよ。いつ打ち明けるか、ずっと考えていたんです」

 

 ふふっと笑う航の顔には、屈託がない。

 その小さな笑声に呼応するかのように、膝の上の渚がかすかに身じろぎをした。なにやら小さく呟く声が聞こえるが、寝言なのだろうか。3歳児がどんな寝言を言うのかは俺には分からない。

 

「大和の方はどうなってる?」

 

 唐突に投げ出したその名は、航が横須賀に置いてきた妻の名だ。家族ではなく戦地を選んだ航の妻は、今も横須賀鎮守府で働いているはずだ。

 俺の無遠慮な不意打ちに、しかしそれを予測していたかのように航は動じなかった。

 

「少しずつ連絡を取っています」

「帰ってくるのか?」

 

 ストレートな質問を、航はあくまで微笑で受け流した。

 

「まだ、分かりません」

 

 苦境にあっても悲観することはない、現実から目をそらしているわけでもない。そこにはかつて"期待のエース"とまで呼ばれた頭脳明晰な旧友の姿があった。

 あせらず、ゆっくりと、牛のように、図々しく…………。

 今の航の歩みそのものだろう。

 

「飲むか、ワタル」

 

 おもむろにポケットから取り出したのは、2本の缶ビールだ。将棋盤の上に、ことりと2本並べてみせる。

 

「隼鷹たちの宴会から少しばかり拝借してきた。俺らの休日をぶち壊してくれた深海棲艦に乾杯だ」

「もう少し魅力ある乾杯をしましょうよ。それにここは休憩室ですよ。ビールを楽しむ場所ではないかと…………」

「問題ない。ドライゼロだ」

「僕には純然たるスーパードライに見えるんですが…………」

「ゼロということにしておけ」

 

 また小さく肩を揺らして航が笑ったその声を遮るかのように、休憩室のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは、熊野であった。

 

「あら、提督にワタルさんではありませんの」

「熊野、とりあえず黙るか、喋らないかのどちらかにしてくれ」

「黙るか、喋らないか…………?」

 

 真剣な顔で悩む熊野を見て、俺の方がぐったりする。

 

「つまり、静かにしろと言ってるんだ」

「あら、渚ちゃんじゃないの」

「俺の話は聞いているのか」

 

 お嬢様は上機嫌で航の膝の上で眠っている少女を見下ろしている。「可愛いですわね」と嬉しそうな声に、渚の方は少しだけ眠そうに目を開けたが、すぐに夢の中に戻っていった。

 

「熊野はまた出撃だったのか?ここ最近の忙しさは尋常ではないようだけど、大丈夫なのかい?」

「改二になってからは、より艦隊に必要不可欠な存在となってしまいましたわ。だから、出撃回数も増えて…………」

 

 と、俺の方を見る。

 俺はバツが悪くなり顔を背けるが、すぐに降参して、

 

「すまない。だが、休みをあげようにも、今はそういうわけにもいかんのだ。いつか埋め合わせはする」

 

 その言葉に、熊野はふふふと笑って応じた。

 連日の出撃にことごとく対応しても、なおこのように元気であるから見上げたものだろう。

 逆境を転じて己の力に変える能力は、俺や航よりも、この熊野ははるかに上だ。

 

「熊野、とりあえず、君の底なしの気力に乾杯しよう、飲め」

 

 航がさすがに呆れ顔になる。

 

「隊長、ポケットには一体何が入ってるんですか?」

「必要なもんが必要なだけ入っている」

 

 泰然と応じて、自らの1缶に手を伸ばす。

 

「ろくでもない日常ではあるが、愚痴を言っても仕方がない。依頼がくれば、応じるのがこの鎮守府だ」

 

 半ばは意地のセリフだが、道理が通らない世界なら、意地で現実をはっ倒すくらいの気概を待つしかない。道なき山も、橋なき川も、意地で無理やり舗装して、行けるところまで進むのが、俺らの歩みだ。

 

「来る者は拒まずって言うことですわね。やっぱりいいことを言いますわ」

「感心する前に声を小さくしろ。渚が起きてしまうだろ」

「いいですよ。熊野の声を聞くと、不思議と元気になりますからね」

「あら、嬉しいことを言ってくれますわね」

 

 脈絡のないやりとりのうちに、3つの缶ビールが同時に開く。

 乾杯だ、と誰からともなく声を上げれば、軍隊時代から同期3人のささやかな酒宴が始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 休憩室を出たのは、日付が変わる頃だった。

 執務室の前までたどり着いて、おや、と俺が首を傾げたのは、執務室の電気が消えていたからだ。つけっぱなしで出てきたはずだが…………叢雲あたりが気を利かせて消してくれたのだろうか。

 ドアを開けて、入ろうとしたところで、にわかに電気がついて目がくらんだ。

 

「お帰りなさい、提督」

 

 普段の執務室では聞きなれぬ澄んだ声が部屋に響いた。

 一瞬まばゆさに目を細めたが、気がつけば目の前に寮で寝ているはずの榛名がにこやかに立っていた。寝間着ではないことから、最初からここで起きて待つつもりだったようだ。当惑のまま2、3度瞬きをしている間に、今度は背後からけたたましいクラッカーが鳴り響いた。

 

「やっと戻ってきたな、提督!」

 

 大きな声に振り返れば、案にたがわず俺よりも背の高い女が、引いたばかりのクラッカーを片手に悠揚たる笑みを浮かべている。

 

「え、ちょ、榛名、長門、夜中に何を?」

「何って、言うまでもないだろう。とにかく座れ、提督」

 

 背を押されるままに部屋に入り、ソファに腰を下ろす。

 榛名が細い腕を、目の前の机に置かれた白い箱に伸ばした。

 箱から取り出されたものを見た、俺はようやく合点した。

 

「誕生日、おめでとうございます、提督」

 

 真っ白なケーキの上に、榛名の優しい声が降り注いだ。

 

 

 ーーーー

 

 

「まったく榛名の優しさには敵わんな」

 

 榛名が切り分けたケーキをうまそうに頬張りながら、長門が告げた。

 深夜の執務室が、にわかに活気づいている。

 榛名のような娘がいれば、殺伐たるこの執務室も、花が咲いたかのように色づくが、そこに長門が加われば、ことごとく混沌へと導かれる。

 

「最初は、私1人でこっそりと祝おうとしたんだがな、たまたま榛名に見つかってどうしても一緒に祝いたいと」

 

 榛名の気遣いには感謝しかない。

 

「しかし提督も、もう30か。随分と歳をくったものだな」

「29だ。そう言う君は俺と同い年だろ。人のことは言えん」

「まだ、28だ」

 

 真顔で答える長門を見て、傍らでコーヒーを淹れてくれていた榛名がびっくりしたような顔をした。

 

「お二人とも、もうそんな歳なんですか?」

「そうだな。私たちもいい歳だからな、身を固めることも考えないと」

 

 ええっ、と薄い唇に手を当てて驚く榛名である。俺は、2切れ目のケーキにこっそりと手を伸ばそうとする長門の前に、とんとフォークを突き立ててから、一瞥をくれる。

 

「そんな暇があればいいけどな」

「おや?提督は身を固める機会などいつでもあるだろう?」

 

 俺の妨害など意に介さず、するりと手を伸ばして2つ目のケーキを皿に運びながら、

 

「世界平和のために戦い続けたおかげでそこそこ地位もある。さらに今は周りは女だらけではないか」

「念のために聞いておくが、部下に手を出す上司はどう思う?」

「そうだな…………」

 

 ペロリと2つ目を平らげて笑う。

 

「最低なやつだな」

 

 食えない戦艦だ。

 榛名が楽しげに笑いつつ、淹れたばかりのコーヒーを卓上に並べた。

 

「そういえば、また最近忙しくなってきましたね」

「ああ、忙しい。忙しいが仕方がない。依頼主が昼夜構わず電話をかけてこようが、俺たちがやるべきことは、忙しいと大声で騒ぐことではない」

「相変わらず貴方の責任感には舌を巻く。たまには現実から目をそらして逃げ回ればいいではないか」

「逃げるのも一手だが、逃げた分だけ追いかけてくるのが現実だ」

「なら、追いかけてくる現実より速い速度で逃げ続ければ、いつまで経っても現実は追いつかなくなるぞ」

 

 どんと胸を叩いて意味不明の助言を放り出す。

 榛名がさも感心したかのように、

 

「長門さんはそうやって、ずっと全力で現実から逃げてきたんですね」

 

 にわかにがっくりと長門は肩を落とした。俺の皮肉より榛名の感心の方が、長門にとっては痛手らしい。

 俺は苦笑しつつ、話題を変えた。

 

「榛名、明日落ち着いているようなら、桜を見にいかないか?」

「ほ、本当ですか?」

 

 大きく目を見開いた榛名だったが、すぐに我に返ったように2、3度首をふる。

 

「やっぱり遠慮しておきます。提督はきっと無理をするんです」

「無理などいつものことだ。一息つく意味でも行こうじゃないか、朝潮も連れて」

 

 俺の声に、榛名は嬉しそうに笑った。

 ころころと変える表情を見て、俺の方が励まされる。

 

「まだ春で涼しいかと思ったがそうでもなかったらしい。なにやら暑くてかなわん」

 

 パタパタと手扇をしながら、わざとらしい声で長門が割り込んだ。

 

「暑いのなら、いつでも退出して構わんぞ、長門」

「そうはいかん。幸せそうなん2人を見ると、邪魔したくなるのが人情だろ?」

 

 コーヒーに大量の砂糖を入れながら、迷惑千万なことを言っている。

 

「提督たる地位と軍神たる名誉と、二物を手に入れているのが貴方の人生だ。あまりに満たされた日々ではその大切さには気づかないだろう。とりあえず、妬みと嫉みの対象であることを教えてやろうとしてるんだ」

「妙なことを言う。ビッグ7と名高い長門の名を授かって、艦娘たちから羨望の眼差しで見られている君の方こそ、満たされているんじゃないのか?」

「じゃあ交換するか?」

「斬り死にしても断る」

 

 俺と長門の建設性もないやりとりの向こうで、榛名はおかしそうに笑っている。しかしひとしきり笑ってから榛名は、ふいに声と視線を落とした。

 

「榛名?」

 

 顧みれば、榛名は慌てて微笑を戻して言う。

 

「いえ、なんだかとても楽しくて…………」

「楽しくて、笑うのをやめる話があるまい。心配事か?」

「いいえ、みんなこうして笑い続けらればいいのに、と」

 

 はにかみとともに首を傾げるその姿に、俺と長門も自然と、神妙の感を覚えた。

 俺たちは生まれた時から深海棲艦がいる。軍学校時代から深海棲艦と戦うことを使命にここまでやってきたが、進展は無しだ。

 

「"姫"が確認されてからもう2ヶ月近くになるが、何もなしか」

「今もこうしてどこから攻めるか虎視眈々と狙っているのだろうか」

「心配はいらないと思います」

 

 かえって力強く答えたのは榛名だ。

 俺と長門は揃って榛名を見返した。

 

「心配はしていないんです。むしろ平和を取り戻したとして、私たちがもう二度と会わなくなってしまうようになると寂しくなると思っただけなんです」

 

 怪我をする艦娘を、誰よりも案じていたのが、榛名であった。その榛名の言葉だからこそ、俺も長門も異論なく頷くのだ。

 

「提督…………」

「言わずともよい、長門」

 

 力強く立ち上がり、俺はカップを手に取った。

 

「戦いが終わっても、俺たちの絆は簡単には失われない」

 

 コーヒーをグイッと一飲みして、

 

「だから安心しろ、榛名」

 

 胸中には、期待や不安などが、混沌として温かくうずくまっている。

 今、榛名と長門がいて、コーヒーがある。

 万事が困難ばかりの日常でも、かかるひと時にかけがえのない愉快がある。

 俺はただ淡然として、この至福の時を楽しむだけだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 29歳になったからといって、朝日が格別の便宜をはかって、俺の人生を明るく照らしてくれるわけでもない。

 美しい海の風景と、息苦しい窮屈な日常は、相も変わらず目の前を埋めている。

 子供の頃は、20歳は充分に大人で、30歳はおっさん、40以上にもなればことごとく神仙の類だと思っていたが、いざ30目の前になってみれば、悟りも発見もあったもんじゃない。

 もとより不自由の大地に理不尽の柱を立て、憂鬱と圧迫の屋根をかけたものが、人生というハリボテ小屋である。わずか29年の営みでは、まだまだ住み慣れた住居にはならないらしい。せめて、この重苦しい屋根くらいは、風通しの良いものに掛け替えたいものだ。

 胸中に他愛もない哲学を吟じつつ、鎮守府内を徘徊していたのは昼前だ。日曜日とはいえ29歳の初日から、すこぶる冴えない執務になったことはさておいて、徘徊中に俺は、思わぬ人物と遭遇した。

 黒のスーツに隙なく身を固め、小脇に書類の束を抱えた小柄な男性だ。幾分白いものが混ざった頭髪と、分厚い黒ぶち眼鏡の奥に異様に鋭い目が印象的なその人物は大本営の事務長だ。

 その事務長がこの小さな民間軍事会社の応接室から出てくるのは、随分と奇異なことだ。

 俺が一礼すると、先方は眉ひとつ動かさず、怜悧な一瞥とともに頷いただけで、一言もなく去って行った。

 

「お、はたちゃん、御苦労さん」

 

 直後に、応接室の奥から聞こえてきた陽気な声は、大本営の元帥を務める佐久間さんだ。ソファに腰かけた佐久間さんが、気楽に手を振っている。

 

「日曜日も勤務だなんて、御苦労なことやな」

 

 朗らかな声を上げる佐久間さんに、もちろん俺は油断しない。

 

「大本営の2トップが、日曜日のこの鎮守府でなんの陰謀を巡らしていたんですか?」

「陰謀だなんて人聞きが悪いなぁ。はたちゃんが事務長に嫌われてんのやさかい、わしが一生懸命かばってやってんのや」

 

 わっはははと大声で笑っている。

 こちらとしては一向笑えない。

 確かに2週間ほど前に事務長と正面衝突があったばかりだ。その時は無理矢理な辻褄合わせで事なきを得たが、この鎮守府が事務長のブラックリストに載ったことは疑いない。

 ちらりと窺うように見返すと、佐久間さんは、「冗談や」ともう一度大きな声で笑った。

 向かい側のソファに座ると、佐久間さんが、大きなお腹を撫でながら、窓外を見上げてため息をついた。

 

「晴れた空、静かな日曜日、休みなく働くはたちゃん…………わしがゴルフに行く理由は完璧に揃うてんのになぁ…………」

 

 ろくでもないことを、しみじみとつぶやいている。

 

「…………この鎮守府に何か用事が?」

 

 いささか気を利かせて問うてみれば、ここぞとばかりに返答が来た。

 

「あるんやでこれが。せっかくの休日に事務長と顔を合わせてここでせえへんとあかんことがあるんや。はたちゃん、代わってくれへん?」

「代わるのは結構ですけど、山のような執務を行いお願いしなければいけなくなりますよ」

「事務長の方でええわ」

 

 あっさりと手を振って、

 

「ああ、せや、はたちゃん」

 

 とふいに思い出したかのように手元の書類の束をポンと叩いた。

 

「これ新しい艦載機の設計図や。特別にやるわ」

 

 思わぬ配慮に当惑を示せば、佐久間さんは、当然のように付け加えた。

 

「依頼の相手、大変やろうけど、よろしゅうな」

 

 何も考えていないように見えて、全てを把握している。これが佐久間さんの凄いところだ。

 こちらとしては、実は寝坊していて、理由が夜更かしのせいだとは口が裂けても言えない。ただ黙然として一礼した。顔を上げたところで、ふと佐久間さんの手元の書類が見えて、俺は軽く目を見開いた。

 

『正規空母、派遣について』

 

 実に興味深い文字だ。

 

「もしかして、こちらに助っ人をくれるんですか?」

 

 問えば佐久間さんは一瞬俺の顔と書類を見比べてからニヤリと笑った。

 

「まだナイショ」

 

 楽しげに笑って、ポンポンと腹を叩いてみせた。

 その仕草は佐久間さんの機嫌がいいことの証だ。俺が少なからず驚いたのは、それが全く久しぶりに見る光景だったからだ。

 我が鎮守府は、2週前に、工廠長を務めていた橘さんを失ったばかりだ。ただでさえ激務の工廠において、長を務める橘さんを失ったばかりだことは痛恨の一事であり、以来、工廠の現場は火がついたかのように多忙になっている。

 だが、多忙であること自体は問題としてはたかが知れている。

 案ずるべきは、明石と夕張の落胆ぶりのほうだ。2人は今も頑張ってはいるものの、どこか上の空である。

 さらに落胆していたのは2人だけではない。橘さんの親友の佐久間さんもだ。

 無論、鬼の佐久間さんであるから、外面だけは平静である。しかし、新兵の頃から見てきた俺からすれば、その覇気の低下は否めない事実だ。ときおり遠くを眺めている姿は、これまでの佐久間さんには見られなかった姿なのだ。

 それが今、久しぶりに大きな腹をポンポンとやっている。

 

「なんや、はたちゃん。ヒミツかて言うてんのに嬉しそうに笑うてもうて」

 

 佐久間さんが拍子抜けしたような顔をした。

 知らぬ間に安堵の笑みをもらしていたらしい。俺は慌てて表情を改めて、

 

「なんでもないですよ。正規空母が来てくれれば、これほど嬉しいことはないと思っただけです」

 

 静かに応じて立ち去ろうとしたところで、ふいに「はたちゃんやい」と佐久間さんが呼び止めた。

 振り返れば、存外に優しげな笑みが見えた。

 

「すまへんかったな、心配かけて」

 

 深みのある声だった。

 俺はにわかに言葉につまったが、数秒置いてようやく口を開いた。

 

「なんのことでしょうか?」

 

 そのいささか無理矢理な応答に、佐久間さんはニヤリと笑って頷いただけだった。

 

 

 ーーーー

 

 

「ねぇ、ヤハタ」

 

 午後の執務室に、いつもの乱暴な可愛らしい声が響いた。

 ため息混じりに顔を上げた俺が、おやと目を見張ったのは、いつもの2人にもう1人追加されていたことだ。

 俺に気づいた朝潮が、丁寧に頭を下げた。

 

「すみません、司令官。また妹が…………」

 

 と申し訳なさそうにもう一度頭を下げる。

 性格は全く似ていない2人だが、顔立ちはどことなく似ていなくもない。

 大丈夫と手を振れば、返ってくるのが満潮の声だ。

 

「暇よ、ヤハタ」

「いけませんよ、満潮ちゃん」

 

 後ろから慌てて制するような声を上げたのは、軽巡の神通だ。いささかまだ頼りないところのある神通は、満潮の前にもしゃがんで言う。

 

「どんな風変わりな人でも八幡提督は、満潮ちゃんの提督なんです。そんな風に呼んではいけませんよ」

 

 神通の発言は、無自覚なだけに、満潮以上に乱暴だ。

 随分な言われようだと嘆息したものの、傍らの朝潮はいつもの生真面目な声で応じた。

 

「いつもすいません、神通さん」

「いいえ、朝潮ちゃんのおかげで、私たちも助かってます」

 

 親しげな様子を見るに、よく会っているのだろう。

 

「いつも満潮が迷惑をかけてすいません」

 

 また深々と頭を下げれば、話の渦中の満潮は、いつもの仏頂面のまま、それでもとりあえずは静かになった。そのまま朝潮は満潮を連れて執務室を出た。

 

「ほんと、立派な姉さんね」

 

 ふいに背後から降ってきた声は、叢雲の声だ。

 

「1人の時は心配するほど元気がなかったけど、満潮からきてからはあんな感じよ」

 

 ソファに腰をおろす叢雲に、俺は黙って頷く。

 

「まだ子供なのに、すごくしっかりしてるわ。満潮に対するお世話は少し度がすぎるけど…………不機嫌の塊みたいな満潮が、あの娘の前ならあんまり文句を言わなくなるくらいよ」

「前、満潮が所属していた鎮守府の提督とはえらい違いだな」

 

 何気なく呟いた俺の言葉に、叢雲は諦めを含んだ声で応じた。

 

「まぁ、艦娘を出世の道具だと思っている人も少なくない話よ」

「艦娘といっても女子供ばっかりで、出撃させるのも心苦しいはずなのだがな…………」

「そういう単純な話でもないわ」

 

 叢雲がため息をついた。

 俺が目だけで問うと、叢雲は「ちょっと嫌な話になるけど」と声音を落としつつ、

 

「最近の士官学校の子たちは、自衛隊の将校の話を断って、提督になりたがるの」

 

 妙な話だ。わざわざ出世コースを蹴ってまで、この火の車のような仕事に就くなんて。

 眉を寄せて問い返せば、叢雲は少し迷うような口ぶりで、

 

「この前、長門がぽろっと話してくれたけど、嫌なこと言っていい?」

 

 叢雲は、ちらりと俺に目を向けてから、もう一度ため息ついた。

 いくらかの困惑してを抱えたその白い横顔を見て、俺はにわかに合点した。

 

「大本営か」

「正解」

 

 叢雲は細い肩をすくめて答えた。

 年功序列の根強い自衛隊では時が経てば出世できるものの、若いうちはいつまでも下っ端だ。ところが、今回設けられた大本営はまだまだ人員不足で、年功序列など言ってられない。

 

「つまり大本営に所属して、提督に入ってから出世した方が早い。そういうことか」

 

 俺のあからさまな応答に、叢雲はもう一度肩をすくめただけで、確答は避けた。

 若い男が、海軍の士官になることを断って大本営に行こうとする姿は熱意があると捉えられるだろうし、それが嘘だと思えないが、女だらけの職場に嬉々として行けば、いやでも勘繰りたくなってしまう。

 

「まぁ、実際問題、海軍の方から人を割いてくれないから士官学校から連れてくるしかないわ」

「困ったものだな」

「嫌な話だって言ったでしょ」

 

 叢雲は仕分けを終えて立ち、何やら準備をし始めた。

 満潮の件からも、叢雲の言うことも1つの真理だろう。

 守るべきであるはずの女や子供を戦場に送り出すことを苦ともせずに、ただ己の欲望のために進む者。その存在を否定したかったが、実際に出会ってしまった。

 初めて満潮に出会った時、彼女の目は幼い娘には持ちえないはずの深い憎悪の感情が込められていた。

 ふいに「はい、どうぞ」と言う声とともに、コーヒーカップが卓上に置かれて振り返ると、いつのまにか戻ってきてた叢雲が立っている。と同時に、心地よい香りが立ち上がった。

 

「嫌な話の口直しよ。まだまだ仕事があるでしょ?」

 

 よく通る明るい声は、いささか滅入りかけていた我が心に活力を与えてくれる。

「ありがたい」とあえて鷹揚に応じつつカップに手に取り、

 

「今回の出撃はこれまでにしておくか…………」

 

 俺の声に、叢雲がほのかに微笑した。

 

「情に流されたんじゃないでしょうね」

「厳然たる労働基準法に基づく判断だ」

「じゃ、いいわ。なら、今日は終わりと伝えていいのね?」

 

「ああ」と応じてカップを傾けると、口中に広がったのは、俺のよく知るまろやかな味わいだ。

 

「イノダコーヒか?」

「流石にわかるのね。前、美味しいって言ったから、わざわざ買ってきたのよ」

「本当か?」

「嘘に決まっているでしょ。私が飲みたかっただけよ」

 

 いつもながらの軽快な切り返しには、応じるすべがない。沈黙した俺に、叢雲が軽やかに付け加えた。

 

「でも、今日はハッピーバースデーだからね。特別よ」

 

 再び虚を突かれて顔を上げた。

 叢雲は薄い唇に柔らかな笑みを浮かべている。

 

「20代卒業まであと1年ね、司令官」

「…………卒業試験も受けていないのに、勝手に追い出される不本意極まる話だ」

「そうやって憎まれ口を叩いているうちに、いつのまにか40歳ってわけね」

「言うまでもないが、その時は君も30半ばというわけだ」

「心配しなくても魅力的な30代になって見せるわよ」

 

 揺るがぬ笑顔で応じつつ、とにかく、と付け加える。

 

「29歳おめでとう、司令官」

 

 幾分面白がるように言ってさらりと身をひるがえしてしまった。応じる隙もありはしない。まったく有能極まる艦娘だ。

 俺は静かにコーヒーを味わった。

 眼前には問題が山積みだが、積み上がった山の頂だけを見上げても、問題は片付かない。結局登らなければいけない山ならば、一歩一歩、前に進んでいくしかない。

 俺はカップを卓上に戻すと、あえてゆっくりと席を立った。

 

 

 ーーーー

 

 

 軍事を扱う会社と言っても、提督である俺はほとんどがデスクワークだ。

 書類に目を通したり、キーボードをカタカタ打ったりで、むしろ肉体を使う仕事の方が少ない。下手すれば軍人なのにだらしない身体になり得る。

 とりあえず、そうにはならないように散歩がてら鎮守府内をうろついてみる。

 そうして歩き回るうちに、工廠にて旧友の背中を見つけて、足を止めた。

 

「珍しいところにいるもんだな」

 

 振り返った補佐は、軍服ではなく作業着であった。

 

「そういう隊長も相変わらずご苦労ですね」

「昨日に続いて今日も渚を放置していては、揺るぎない父親の座も、遠からず瓦解するんじゃないのか?」

「そうならないように、早く片付けようとしているんですよ」

 

 作業中の手を止めて、航は小さく笑った。

 中に入れば、艦娘たちが快活な声とともに一礼を返してきた。

 

「機械にも強いのか」

「橘さんが抜けてからは、僕も軽巡の管理だけするわけにもいけませんからね。隊長の比ではないですが、それなりに大変です」

「艦娘の方も大変そうだな」

 

 なんとなく落ち着きのない工廠内を眺めつつ言えば、

 

「2時間後にまた出撃らしいです。数少ない重巡がそこで仮眠を取っているところですよ」

 

 ちらりと航が指差したのは、すぐ近くの休憩スペースだ。カーテン越しに首を伸ばして覗き込むと薄暗いスペースの中で、熊野が丸くなって眠っているのが見えた。

 

「ここのところ、起きているより寝ている方が多いようですが、大丈夫なんですか?」

「最近はまた海が荒れていてな。どうしても航空巡洋艦が必要だから、今しばらくはこの状態だな」

 

 作業を再開しながら、航が嘆息するのが聞こえた。

 

「よくもまあこんな状態で働いてきましたね。まったく大した人ですよ、隊長も熊野も」

 

 男手一つで子育てをしながら鎮守府に勤めている航も大した男だが、むやみに褒めるのも癪なので、黙っておくことにした。

 

「そういえば隊長、新しい艦娘が派遣されてくる話を聞きましたか?」

 

 航の声に、俺は一瞥して答える。

 

「知っているというほどでもない」

 

 脳裏に浮かぶのは、応接室で見た佐久間さんの書類だ。と同時に、"まだナイショ"とニヤニヤ笑っていた佐久間さんの顔が浮かんだ。

 

「僕たちの働きが好評なようで、自衛隊の方からも動いてくれるらしいですよ。朝、応接室で長門さんと元帥、事務長が顔合わせて話をしていました」

 

 つまり今日の昼間に事務長に出会ったのは、その話が終わった後だからか。

 事務長は間違っても好感の持てる人物ではないが、切れ者であることは疑いようがない。あの御仁が本気でそのことを考えてくれるのなら、佐久間さんの満足げな笑みも含めて、かなり具体的な話があるのかもしれない。

 

「朗報が聞ける日が楽しみだな」

 

 そんな何気ないつぶやきをにわかに遮ったのは、無粋な電話のベルである。ほとんど無意識のうちに着信ボタンを押すと、駆逐艦の聞き慣れた声が出て飛び込んできた。

 

 "今、大丈夫、司令官?"

 

 冷静沈着の叢雲が、いくらか切迫した声を発している。

 なんだ、と問えば、すかさず叢雲の声が応じた。

 

 "事務長が、鎮守府の調査を始めたのよ"

 

 俺は軽く額を押さえてから、ため息とともに立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 事務長が調査を始めた。

 別にやましいことは一切ないのだが、あの事務長が調査をするというのだからこれは大騒ぎだ。

 鎮守府内を歩き回り、どこか不審なところがないかと探して回ったいるらしい。

 自らの足で事務長を探したものの甲斐なく、とりあえず執務室に戻ろうとした俺は、空母寮で場違いな光景を発見して足を止めた。

 空母寮に、事務長が立っていたのだ。管理職らしい年配の女性と守衛の男性を引き連れ、不必要に威圧的な空気を振りまいている。

 異様な緊張感に押し返されるように足を止めた俺のもとに、叢雲がそっと駆け寄った。

 

「遅いじゃない、司令官」

 

 声を落として告げる。

 

「なんでこんなことに?」

「知らないの?事務長は、艦娘管理局長も兼ねているのよ」

 

 思わず知らず、舌打ちが漏れた。

 艦娘管理局とは、艦娘関連の軍事以外のトラブルに対応しその解決に乗り出すところだ。艦娘の人権を守るために作られたものだ。その局長があの事務長なのだから困ったものだ。

 

「しかし日曜日の午後に、事務長自ら抜き打ち調査というのは、いささか大げさな話じゃないのか?」

「私に言わないでよ。やっぱり目をつけられてるんじゃない」

「叢雲がか?」

「司令官が、よ」

 

 身も蓋もない応答だ。

 

「では、今のこの鎮守府にはなんの問題もないんですね、千歳さん」

 

 警察の尋問かと思われるような冷ややかな声が空母寮に響いた。

 事務長が刃物のように鋭い目を向けている相手は、軽空母の千歳だ。今日はたまたま休みで空母寮にいたがための不運だろう。

 千歳は、元来が生真面目な性格だから、事務長の鋭利な眼光に射すくめられても、蒼い顔で懸命に応答している。だがな千歳がいくらか懸命さを掲げたところで、事務長に遠慮の二文字は存在しない。

 

「最近の出撃状況を聞く限り、十分な休息が取れていないようで…………今日も他の軽空母の方は出撃、いささか無理をされているのでは?」

「い、いえ…………」

「八幡さんに無理やり出撃させられている、ということは?」

 

 事務長の目がぎらりと光る。

 いかにも挑発的な態度に、当方思わず背後から口を開きかけたが、これをとどめたのは叢雲であった。

 やがて千歳の震えを帯びた声が、それでもしっかりと応じていた。

 

「提督はそんなことしません。きちんと休みをくれますし、無理な出撃は一切しません。むしろここで一番働いているのは提督です」

 

 はっきりと言い切った。傍らの叢雲が、千歳を見守りながら、静かに頷いている。なるほど、俺が口を挟む必要もない。

 胸中そっと微笑したところで、にわかに事務長が、俺に気づいて矛先を転じた。

 

「いらしたのですね、八幡さん。千歳さんはこうおっしゃっていますが、提督として何か言っておくべきことはありますか?」

 

 いちいちが、無意味に威圧的なのが事務長だ。慌てるべき理由はない。

 

「千歳の言う通り、受ける依頼は俺たちができる範囲内のものにしています。それに艦娘には必ず2日は休みの日があるように調整もしてありますから、問題は一切ありません」

「よろしいでしょう」

 

 事務長は頷いて、

 

「では、ここの鎮守府はなんの問題もないと判断し、これからも援助を続けさせていただくことにします。これからも頑張ってください」

 

 重々しく宣言して、事務長とその御一行は空母寮を去っていった。

 空母寮の緊張感が一時やわらいだ。

 

「できる範囲内、ね」

 

 寮内の逼塞した空気を振り払うように、張りのある声で叢雲が問うた。

 

「どの依頼もこなしているから、できる範囲内だろ?」

「だいぶ無理はしているけどね」

 

 いくらか呆れ顔の叢雲だ。

 

「そうだ。少し外れていいか?」

「いいけど…………」

 

 叢雲が視線を巡らした先に、青白い顔でなかば呆然とした千歳がいる。ほぼ放心状態だ。

 

「こういうときは、連れ出した方が、彼女のためってわけね」

 

 うなずいた叢雲は、立ち尽くしている千歳を差し招いた。

 

 

 ーーーー

 

 

 居酒屋鳳翔に行くのなら、日が落ちてからがよい。

 まだ駆逐艦たちが元気な夕暮れより、とっぷりと日が暮れてからが落ち着く。

 

「なんだか久しぶりにここに来た気がします」

 

 千歳が遠慮がちに口を開いたのは、ちょうど居酒屋鳳翔の目の前まで来た時であった。

 

 

「橘さんが亡くなって、鳳翔さんに気を遣っているつもりなのなら、それは間違いだ」

 

 ふふっとかすかな笑い声に振り返れば、千歳がおかしそうに笑っている。

 

「いえ、やっぱり提督って、厳しい人です」

「厳しい?それは心外だ」

 

 千歳はまたおかしそうに笑った。

 先刻までの憂い顔が笑顔に置き換わったことは結構だが、なにやら釈然としないものが残る。当方のそんな胸中には気づきもせず、

 

「でも、提督の言う通りです」

 

 と千歳は、看板の文字に目を細めた。

 

「提督と2人っきりで飲みに行くのは、初めてですね」

「それは気が重い話だ。2人っきりでいたなどと千代田が知ったら、憤慨するだろう。爆撃されるのは勘弁だから、黙っていてくれ」

「ええ、もちろんです」

 

 頓著しない俺の声に、千歳の存外真面目な声が応じた。

 

「本当にいいんですか?」

「いいんですかって、俺が誘ったんだからいいも悪いもない」

「いいもないんですか…………」

 

 さすがに当惑気味の言辞が戻ってきた。

 

「嘘だ。君くらいの女性と飲む酒はきっとうまいんだろう」

 

 俺の言葉に千歳はなにか言いかけたが、俺がそっと手で制したので言葉を継ぐことはできなかった。

 居酒屋鳳翔の中には、いつものように鳳翔さんが準備している。

 そして、鳳翔さんは俺らの存在に気付き、

 

「いらっしゃい、提督さん、千歳さん」

 

 とにこやかに言った。その微笑みはいつもの、寂しさを感じないものであった。

 その笑顔に俺と千歳は、ただうなずいて席に座ったのである。





投稿ペースですが、これからもそんなに早くないと思います。どうか気長に待ってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む








 鎮守府のある町の東方、鎮守府から車で20分ばかり山の手に上ったところにある、ゆるやかな西向きの斜面に広がるのは、温泉だ。

 湯屋の数はけして多くはない。が、湯の質は良い。最近、旅人の足が遠のいているのが唯一の気がかりだが。

 かかる小さな温泉街の一角に、静かに佇むようにして、「旅館みさき」はある。

 母屋のつくりは今時珍しい木造三回建て、そこに増築が重ねられて、それぞれの建物が不思議な連絡を保っている。不用意な足を踏み入れると、どこにいるのかわからなくなってしまうような造りだ。華美でなく閑雅(かんが)絢爛(けんらん)でなくとも洒脱(しゃだつ)といった評が当てはまる。

 そんな湯宿の、離れの大広間を借り切るのが、佐久間さん主催の宴会の定番となっている。

 俺が温泉街でタクシーを降りたのは、夜の9時を過ぎた頃だ。会の開始は7時と通達されていたが、無論そんな時間に鎮守府を出られるわけもなく、これでもずいぶんな努力の結果だ。

 5月。

 常ならば過ごしやすい気候が続く時期だが、今年の春は妙に暑いらしく、艦娘たちもやや疲弊気味だ。

 飛び石を踏んで敷居をまたぎ案内を乞うているうちに、どこからか賑やかな笑声が聞こえてくる。細い廊下を抜けて広々とした座席に通された時には、宴はすでにたけなわであった。

 30はある座卓は雑然として乱れ、スーツや私服、軍服といった雑多な装いの人間が、杯やグラスを片手に往来し、そこかしこに輪をつくって熱論を繰り広げている。

 一部に事務長やその幹部が混じってはいるが、多くは艦娘である。

 

「お疲れ様です、隊長」

 

 と真っ先に俺に気づいて酒杯をあげたのは、片隅だ静かに一献を傾けていた広瀬航だ。

 頰がいくぶん赤くなっているのは、この男にしては珍しく、相応に杯を重ねたせいなのだろう。とりあえずその隣に座を見つけて腰を下ろせば、航はするりと右手を伸ばして、膳の上の酒器を手に取った。

 

「仕事は片付いたんですか?」

「まったく。依頼こそはまだないが、いくらかの執務はほったらかしてきた」

「ご苦労様です。すいませんね、こっちはずいぶんと楽しませてもらっています」

「君は今宵の主賓の1人だ。遠慮することはない」

 

 俺の差し出した杯に、そっと酒を注ぎながら、航は苦笑する。

 

「主賓だなんて…………僕はどちらかといえばおまけですよ」

「ひがむな。言うまでもないことだ」

「相変わらず容赦ないですね、隊長は」

「それも言うまでもない。で、本物の主役は?」

 

 俺の問いに、航は視線で答えた。

 めぐらせた先は、宴の上座だ。

 姦しい話し声と、もうもうたる熱気の向こうに、悠然と座卓に正対した長門の姿が見える。俺がいない間は、こちらの代表として佐久間さんたちと飲んでいたのだろう。そのかたわらに、すらりとした女性が、にこやかに話しているのが見えた。

 

「正規空母赤城。5月からこっちに派遣された新しい艦娘です」

 

 航の言葉に、俺は黙って目を細めた。

 人手不足で過労死寸前の我が鎮守府を救うために、大本営が派遣してきたのが、この女性であった。

 

「派遣される前は、横須賀鎮守府の第一艦隊に所属していた話です」

 

 俺は軽く目を見開いた。

 

「第一艦隊って、日本では最強クラスの艦隊だろ」

「そうです。つまりは第一線の戦力ですよ。おまけに、さっき挨拶を交わしましたけど、人当たりのいい気持ちの明るい人です」

「艦娘歴は8年だと聞いたが…………」

「その通りです。よくそんな戦力を派遣してくれましたよ。おまけに5月からなんて微妙な時期に来てくれたもんです。佐久間さんの影響力の凄さ、推して知るべし、ですね」

 

 噂で聞いたところ、佐久間さんの発言がものを言ったらしい。

 たしかに8年目の空母をいきなり引っ張ってくるのだから、鬼の元帥の影響力は、尋常じゃないだろう。

 

「隊長は、まだ挨拶はしてないんですか?」

「最近は鎮守府を留守にすることが多くてな、まともな会話はしていない。だが、快活な雰囲気は伝わってくる。これで真っ暗だった鎮守府の空気も変わるかもしれん」

「変わりますよ。なんせ、赤城さんは、空母で、人当たりが良くて、おまけに…………」

 

 航はくいと杯を干してから付け加えた。

 

「美人ですから」

 

 ちらりと旧友の横顔を見る。

 生真面目と良識だけでできているようなこの男が、かかる軽率な発言をするとは珍しい。その横顔は常とはさほどに変わらないが、やっぱり酔っているのだろう。

 そうだな、と適当にうなずきつつも酒杯を傾ければ、たちまち豊かな芳香が口中に立ち上る。深い旨味とコクがあるが、だからといって重くはない。切れ味は抜群で、かえって涼しい酒だ。

 これなら航が柄にもなく酩酊するのもわかる。

 

「いい酒だ。初めて飲む酒だな」

「結構いいでしょう?」

 

 航の声なかぶさって、にわかな大笑が響き渡った。

 腹を叩いて笑っているのは、佐久間さんだ。赤城となにやら愉快げに話しているが、よほど嬉しいのだろう。腹をポンポンと叩くのは、佐久間さんの機嫌がいい証だ。

 赤城の方は、朗らかな笑顔で、佐久間さんの話に耳を傾けている。

 化粧っけはなく、長い黒髪は束ねてはいないが、その飾らない風情がかえってすずしげな印象だ。8年目ということは、おそらく20代であるのは間違いないはずだが、大人の美しさがある。貫禄充分の佐久間さんを相手に、落ちつき払った振る舞いは微塵もゆるがず、長門とは違った落ち着きがある。

 今夜はその赤城の、歓迎会なのだ。

 金曜日とはいえ、平日にこれだけ豪勢な宴になったのだから、彼女の戦力の高さを感じる。

 

「それにしても、見事にとってつけたような扱いだな」

 

 ジロリと航を見れば、旧友は苦笑を浮かべるだけ。

 赤城の歓迎会を開くにあたって、すでに赴任していた航の歓迎会を開いていなかったことに、今さらながら長門が気づいたらしい。今夜の宴会は一応「赤城、広瀬歓迎会」なのだ。いかにも「ついで」の感は否めないのだが、期待で終わったエースと実際のエースの差なのだろう。

 

「まぁ、春先からこっち、橘さんのことで鎮守府内は大騒ぎでしたからね。僕の方は忘れてもらっても構わないんですが」

「そうはいくまい。この会社にとっては貴重な戦力だ」

 

 それはどうもです、と航は肩をすくめる。

 

「しかし、不気味な一言に尽きる景色だな」

 

 俺は酒杯を傾けながら、上座を見やった。

 先刻から当の赤城は長門につかまって、さかんに献酬を重ねている。不気味と評したのはこっちではない。その傍らだ。

 顔色ひとつ変わらない無表情の事務長が、豪快な笑声をあげる佐久間さんから繰り返し杯を受けている。幾分干しても事務長の血の気のない顔面はかすかな朱が差すこともない。まるで水のようにするすると受けている。一方で佐久間さんは真っ赤な顔で、愉快そうに腹をゆすっている。まったく対照的に見える2人だが、目だけは素面である点は同様だ。真っ赤に見える佐久間さんとて、微塵も酔っていないことを俺はよく知っている。

 

「まったく不気味だ…………」

 

 つぶやく俺の隣で、航がいつのまにか取り出したマッチで、俺の膳の鍋に火を入れている。

 

「熊野はまだ来ていないのですか?」

「熊野の件より、君のその、妙に気が利きすぎることの方が問題だ」

 

 俺の言に、航は怪訝そうな顔をする。

 

「最近、俺と君が危ない関係じゃないのかという噂が鎮守府に流れてる」

「別に隊長の鍋に火をつけてあげたくらいで、僕と隊長が恋人同士にはなりませんよ」

「気色悪いことを言うな。だいたいそんな軽率な発言が、不愉快極まる噂の源泉になるんだ」

 

 酔い心地の航の軽薄な行動に、せっかくの美酒にまで胃にもたれる感がある。

「八幡、広瀬ホモ疑惑」とは、いかにも噂話に飢えている艦娘たちの好みそうな話題だ。叢雲に言わせれば、男同士で仲がよすぎるからよ、ということになるのだが、当方としては、殴りつけた記憶はあるが、格別仲の良さをアピールした記憶はない。

 

「鎮守府一の変人提督が、世評を気にする男とは知りませんでした」

 

 さして気にした風もなく卓上の酒器を取り上げて、

 

「気が利きすぎるのが問題なら、せっかく取っておいたこの酒も隊長には注がない方がいいようですね」

「冗談だ。君と気配りの細やかさには、常日頃から感謝している。ホモでもなんでも言いたいやつには言わしとけ」

「絵に描いたような手のひら返しですね。ところで、熊野は?」

「今は鎮守府の警備だ。鎮守府をガラ空きにはできん」

「なるほど、それで重巡の娘たちは誰もいないんですね。頭が下がりますよ」

 

 航は軽く肩をすくめてから、そう言えば、と唐突に続けた。

 

「熊野が大本営に行くかもしれないと聞きましたけど、知ってますか?」

 

 寝耳に水だ。

 

「熊野が大本営に?」

「考えてみれば、熊野ももう中堅レベルの実力者です。呼び出しされてもおかしくはないと思います」

「そういうものか」

 

「そういうものです」と言ってから、航が細めた目を俺に向けた。

 

「熊野がいなくなると、さすがの隊長も寂しいんじゃないんですか?」

「なぜ?」

 

 敢えて平然と投げ返せば、航は一瞬目を見開いてから、すぐにおかしそうに笑った。

 

「さぁ、なぜでしょうね」

 

 その穏やかな笑みが癪にさわるが、いちいち応じると余計に癪にさわるから聞き流した。

 ふいに宴席から電話を片手に立ち上がったのは、工廠長の明石だ。2代目の工廠長は、膳あったトウモロコシをかじりながら、淡々と携帯に応答しつつ廊下に出た。また工廠でトラブルかなにかがあったかもしれない。これもまたこの鎮守府らしいと言えばらしい。

 酒杯を干せば、いつの間にかに酒器を手に取ったワタルが、次を注いでくれる。

 

「困ったものだ」

「何がですか?」

「こううまい酒が多いと、毎回何を飲めばいいか、迷ってしまう」

「心にもないことを…………迷わず全部飲んでしまうのが隊長でしょう?」

「…………酒が入ると随分と口が達者になるな」

「疲労困憊でも、飛車の動きが鋭い隊長と、同じようなものですよ」

 

 にわかに反論せず、俺は心中舌打ちしてから、また酒杯を仰いだ。

 空けた酒杯を卓上に戻してにわかにギョッとしたのは、眼前に、上座にいたはずの正規空母が端座していたからだ。

 

「赤城です、よろしくお願いいたします、八幡さん」

 

 にこりと笑った目元に、ただ優しいだけでない鋭利な光がある。

 

「八幡さんの噂は色々聞いてますが、まだゆっくり話す機会はありませんでしたね」

 

 切れのある微笑を浮かべたまま、俺の酒杯にゆるりと酒を注いでくれる。当方も慌てて注ぎ返そうとすると、軽く片手を上げて、

 

「すいません、お酒はダメなんです」

 

 と柔らかく断りを入れた。

 では、と形式上、烏龍茶の小瓶をとって、赤城のグラスに傾けた。

 遠方からでは華奢で穏やかな女性に見えたが、こうして面を合わせると、ゆったりとした挙措の中に凛と筋が通ったものがある。

 いかにも尋常じゃない修羅場をくぐってきた人物のようで、若干ぬるま湯に浸かっていたような俺にしてみれば、ある種の衝撃だ。

 

「佐久間さんから聞いた話なら、話半分にしておいてくれ、赤城」

 

 応じれば、赤城は、口元に手を当てて小さく笑った。

 

「変わっていないようですね、佐久間さんは」

 

 その言葉に俺は一瞬返答に窮した。代わりに航が口を挟んだ。

 

「赤城さんは、元帥とはどういった関係で?」

「佐久間さんは、私が新人の頃の教官よ」

 

 赤城はさらりと応じて、我々を驚かせた。

 

「佐久間さんが第一線を退く直前の話ですよ。私が新人の頃ですから、今から7年前ということになりますね」

「は、はぁ…………」

「つまりは、お互い、鬼の佐久間の弟子同士になりますね。よろしくお願いしますね、八幡さん」

 

 赤城は、伸びやかな指先でそっとグラスを持ち上げて微笑した。

 俺は、当惑を酒で押し流すべく、丁重にこれを受けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 吐き気。

 滅多に姿を現さないこの知人は、今日は気合を入れて俺の頭の中に乱入してきて、好き勝手に暴れまわっている。俺としては、この不埒な輩を招き入れるつもりはないのだが、彼は俺の頭蓋骨の合鍵を持ってるかのように、平然と上がり込んで居座る。

 俺は、とりあえず水を飲み干した。

 早朝の6時だ。

 黎明の窓外はまだ薄暗く、鎮守府はまだ静まり返っている。

 静寂と水が、吐き気を抑える最良の布陣なので、俺としては好都合だ。とりあえず、俺は恐る恐るパソコンを立ち上げた。

 途端に、いきなり執務室の扉が開いて大声が飛び込んできた。

 

「あら、随分と早い時間にいるじゃありませんの」

 

 執務室中に響き渡る声が、吐き気の友である頭痛も呼び起こした。俺は額に手を当てつつ、顔を上げる。入ってきたのは、言わずと知れた熊野だ。

 

「てっきり明け方まで『みさき』で飲んで、遅刻寸前まで寝ていると思っていたら…………」

「急に連絡が入ったんだ。とにかく声を小さくしてくれ」

 

 俺は顔をしかめつつ、低い声で応じた。

 昨夜は「旅館みさき」で、航を相手に散々献酬してから夜半に床についた挙句、朝の3時に依頼の電話が鳴ったのだ。

 相手は大本営で、内容はドックと工廠を貸して欲しいとのこと。

 

「貸して欲しい?大本営が?一体どういう風の吹き回しですの?」

「それがわからんから、話し込んだんだ。結果は本格的な深海棲艦への攻撃による自軍の被害増加。大破した者が多くて大本営の持つドックじゃ足りないということだ」

 

 投げやりに応じて、俺は頭痛の薬を飲み込んだ。

 結局、俺はひどい顔で負傷した艦娘たちを迎えて、ドックに案内して、指揮官殿と話を済ませ、まともに眠れてない。

 かたわら何気なくパソコンを覗き込んだ熊野が、軽く眉を動かした。

 

「地方鎮守府…………大変ですわね」

「年中頭の中が晴れ晴れの君に比べれば、天下万民ことごとく大変というのだろう」

 

 そんなことより、と熊野を見た。

 

「君こそ、昨夜は交代してもらってから来ると言っておきながら、結局顔を出さなかったじゃないか」

「その交代してくれる人が帰って来ませんでしたのよ。わたくしだって『みさき』で美味しい料理を食べたかったですわ」

 

 徹夜で警備しながら、クスクスと微笑をする姿は疲労のかけらも見えない。かの嬢様の無尽蔵の体力は、今日も健在らしい。

 熊野はそのまま執務室の隅から紅茶セットを取り出して、紅茶を淹れ始めた。

「提督も飲みます?」と問う声に、遠慮しておいてからポケットから缶コーヒーを取り出した。

 

「そう言えば、熊野。大本営からお呼び出しがあったと聞いたが、本当か?」

 

 問えば熊野は、勝手に嬉しそうな顔をして応じる。

 

「あら、心配してくれてますの?」

「心配しなくても、何も心配していない」

 

 2、3度まばたきして熊野は首をかしげる。

 当方もさして大した意味を含めたつもりもないので、構わず語を継ぐ。

 

「まぁ、その様子だと今のところは異動はないわけだな」

「1月に1度そんな話がありましたわ。結局、その話は立ち消えになりましたけど。せっかく提督も広瀬さんもいるんですわ。願ったり叶ったりって感じですわ」

「残念なことだ」

「え?」

「独り言だ」

 

 胸中のかすかな安堵感をねじ伏せて、俺は無造作に皮肉を投げつけた。いかに場違いな明るさでも、この熊野という艦娘の持つ空気感は、他の艦娘では補い難い貴重なものだ。

 

「それよりも、赤城さんという人はどんな人ですの?わたくしはまだまともに挨拶もしてませんわ」

「君とは違って常識と社交性を兼ね備えた大人の艦娘だ。経験もさながら人当たりも良く、おまけに…………」

「美人なのですわね!」

 

 ニヤリと笑う熊野に、俺はいささかげんなりする。

 航が酔って告げる言葉を、この艦娘は素面でおまけに大声で口走る。俺は嘆息してから言い直した。

 

「おまけに、佐久間さんのもとで学んでいたことがあるらしい」

「それはすごいですわね」

 

 慢性の睡眠不足の頭に熊野の一言一言が、金槌を下ろすように響く。とりあえず適当な相槌を返しつつ、缶コーヒーを喉に押し込んだ。

 

「元々は横須賀鎮守府にいた人ですよね」

 

 不意に別の声が聞こえた。

 驚いて視線をめぐらせれば、ソファからむくりと起き上がった人影がある。工廠長の明石だ。大ベテランの橘さんの跡継ぎにして、鎮守府随一の技術者だ。ソファに寝ていることに全く気づかなかった。

 

「すまんな、明石。いるとは思わなかった。起こしてしまったか?」

「いいえ、大丈夫です」

 

 最近の口癖は大丈夫です、だ。

 

「どうせこれから仕事がありますし、問題ありません」

 

 脳裏に浮かんだのは、昨夜の宴会の最中に静かに席を立って行った明石の後ろ姿だ。

 

「トラブルでもあったのか?」

「まぁ、そんなところです」

 

 いつものことですから、大丈夫です、と当たり前のように応じる。

 工廠はただでさえ人が少ない。だが、その少ない人数で、この鎮守府全艦娘の艤装の修理をしなければならない。この過酷な仕事を、明石は夕張と2人で背負っている。

 熊野がいつもながらの遠慮のなさで話題を転じた。

 

「明石さんは、赤城さんのことを知っていますの?」

「記憶に間違いなければ、私がまだ横須賀鎮守府にいた時に、最初の正規空母として、随分と期待されてましたよ。しとやかな風貌で優秀な人でもありましたから、上の方からもずいぶんかわいがられてた気がします」

 

 少し言葉を切ってから、付け加える。

 

「実際に期待以上の活躍と聞いてます。すごいですよね」

 

 立ち上がった明石を見て、熊野が手元のカップを持ち上げた。

 

「飲みます?」

「もらいます」

 

 とカップを受け取って、

 

「いずれにしても、正規空母の存在はとても心強いですね」

 

 そう言って明石は、満足げにカップを傾けた。

 俺もまた共通の感慨に頷いたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 佐久間さんのもとで鍛えられ、しかも最先端の鎮守府を経験してきたというだけあって、赤城はたしかな正規空母であった。

 戦場のみならず、夜間の警備の当直、日頃の鍛錬、ことごとくにおいて、隙がない。その上、日中の出撃が終われば、弓道場にこもって、延々と弓の鍛錬を行なったり、戦略の文献を読んだりしているらしい。

 すっかり活気を失っていたこの鎮守府にとって、かかる人物の登場は、甚だ鮮烈なものであり、鬱々と沈みがちだった鎮守府内の空気が、大きく変わったことは疑いない。

 

「おまけに気さくな人だから話しやすいし、駆逐艦たちにとってもありがたいわ。空母って時々男よりもとっつきにくいところがあるから」

 

 良く通る声でそう言ったのは、叢雲だ。

 とある日の執務室でのことだ。

 

「で、赤城さんってどのくらいすごいのかしら?」

「艦載機の積み方によって、圧倒的な制空力を持ったり、戦艦並みの火力を持ったりと、強い上に臨機応変に対応できる」

「もうちょっと簡単に言えないかしら?」

「主力でも脇役でも一流の仕事ができる、そういうタイプだ」

 

 へぇ、とつぶやいた叢雲が不思議そうに俺を見た。

 

「良く知ってるわね」

「まぁ、実際に戦場で空母の活躍を見るとそのすごさに驚いたものだ」

 

 執務をこなしがら応じる俺に、叢雲が微妙な視線を向けている。

 

「なんだ?」

「提督も高評価ってわけね」

「高評価も何も実際のことだからしょうがない。欠点を挙げるとするならば、なぜか信じられないほどの大食い、というところか」

 

 艤装の燃費が悪いのはしょうがないとして、その食事量の多さはあまりにも奇怪だ。

 

「大食いってどのくらい?」

「少なくとも1回の食事で君の3日分は食う」

「…………1回で?」

「なんだ、見たことがないのか?彼女の食べるシーンは一種のホラーだぞ」

「意外な話ね。ま、腕のいい艦娘が来てくれたことは嬉しい限りだけど」

 

 叢雲の声に重なるように、俺の電話が鳴った。俺はそれに出て二言三言話したあとに、再び叢雲を顧みた。

 

「叢雲、ドッグを借りている艦隊の指揮官が、これから来るそうだ」

「はいはい、地方鎮守府のでしょ?」

 

 ああ、と俺は応じる。

 

「厄介な人なのかしら?」

「話した限りでは、かなりまともな人物だ」

「そう、満潮がいた鎮守府の提督のようなタイプじゃないことを祈るわ」

 

 甚だ消極的な会話をしているうちに、神通が「お客さんです」と言いながら執務室にやってきた。話の渦中の人物がやってきたのだ。

 俺はすぐさま応接室にその人物を案内し、相対した。

 その男性は36歳とのことだが、歳下の俺に深々と会釈をした。クセのある黒髪には白いものが目立ち、痩せた頰は少々艶を失っており、血色も悪い。目元には生活に疲れたような諦観が垣間見え、一見すると40をとうに越しているような印象だ。

 やはりどこの提督も大変なのだろう。ましてや下っ端の地方鎮守府ならなおさらだ。

 

「調子はどうですか?」

「だいぶ落ち着きましたよ。八幡さんのおかげです」

 

 顔色は悪くとも、応答は穏やかで、挙措も正しい。

 

「だいたいの艦娘は入渠を終えたようですが、まだ何人かは入渠中のようです。しばらくはうちでゆっくりとしていてください」

「すいません…………」

 

 もう一度、男性は小さく会釈した。

 客を連れてきた神通は、すでに自分の仕事に戻っている。お茶を出そうと、お盆を持って応接室に入ってきた叢雲は、俺と相対している客の前にお茶を置こうとして、ふいに動きを止めた。おや、と顔を上げれば、冷静沈着の秘書艦が、珍しく切れ長の目を見開いて立ち尽くしている。

 どうした、と問うより先に、叢雲の薄い唇が動いていた。

 

「ソウちゃん…………?」

 

 聞き慣れた声で、聞き慣れない言葉がもれた。

 応じるように、男性がかすかに顔を上げた。

 視線が宙をさまよい、やがて叢雲に帰着したとき、ただならぬ驚きがその目に生じた。

 

「ナナミ…………?」

 

 ナナミというのが叢雲の本当の名だということに気づいた時には、叢雲は、ほとんど呆然としていた。

 

「ソウちゃんよね、やっぱり…………」

 

 冷静さには定評のある叢雲が、こんなに驚きを見せるのは珍しい。

 艦娘と客は、そばにいる提督には目もくれず、互いに言葉なく見つめ合っている。

 にわかの不可思議な沈黙の中、どうしたものかと思案しているうちにポケットから再び電話が鳴り響いた。出てみれば、赤城だ。

 今日は午前から、演習を見てほしいということだったのだ。

 来られるか、と問う歯切れの良い声に、俺は速やかにイエスと応じて席を外した。

 いつまでも、見つめ合うナナミとソウちゃんを眺めているわけにもいけないのだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 冷静沈着の叢雲が驚く姿を、以前に一度だけ見たことがある。

 この鎮守府が出来てまだ1ヶ月しか経っていないときの話だ。

 慣れぬ仕事に苦心していたある夕暮れ時、少々ドジをして廊下でこけてしまった時のことだ。

 ふいに何にもないところでつまづいて、倒れただけなのだが、ほとんど悲鳴のような声を上げながら駆け寄ってきた叢雲の姿を覚えている。倒れた時、ろくに受け身もとらず頭を強く打ったようで、血が流れていたのだ。その真っ青な叢雲の顔に、怪我をした俺の方が驚かされたものだ。

 今回の叢雲の驚きようは、その時以来の印象的なものだった。

 互いの名の呼び方からして浅はかならぬ仲なんだろうが、相手の驚いた顔と立ち尽くす叢雲の姿というのは、色々と憶測を呼ばずにはいられない。無論、いくらか憶測を張り巡らせたところで、答えに辿りつけるわけもないのだが。

 

「真剣な顔で…………考えことですか?提督」

 

 ふいの声に我に返ると、すぐ目と鼻の先に、赤城の笑顔が見えて、おおいに戸惑った。

 

「人の顔を見てそんなに驚かなくてもいいでしょう」

「顔に驚いたわけではない。距離に驚いたんだ」

 

 ふふふ、と赤城の楽しげな笑い声が、部屋に響いた。

 場所は執務室だ。

 秘書艦の叢雲がアレなので、とりあえず赤城に少し手伝いを頼んだのだが、驚くほど手際がいい。

 さらには、彼女はいくつかの文献も持ってきており、その飽くなき向上心には頭が下がる。

 

「その様子だと、女性のことでも考えてたのでしょうか?」

 

 笑いながら言った。

 

「いけませんよ。まだ執務の最中なのに、頭の中が女でいっぱいだなんて」

「すまん」

「否定しないことは、本当にそうだったんですか?」

 

 赤城は面白そうに笑いながら、にわかにどこからか、握りこぶしほどの白い塊を取り出した。そのままそれに、いきなりかぶりついた。

 呆気にとられている俺に、むしろ赤城の方は不思議そうな顔を向けた。

 

「どうしましたか?おにぎりがそんなに珍しいんですか?」

「いや、おにぎりが珍しいわけじゃないが…………」

「私の実家、米農家なんです。いつも沢山のお米が送られてくるんですよ。提督も食べますか?」

 

 もぐもぐと咀嚼しながら、もう一つ懐からまた大きなおにぎりを取り出した。

 昨今稀に見る常識人の艦娘かと思っていたが、やはり佐久間さんの教え子というだけあって、相応に奇矯な人らしい。

 慌てる当方の思惑を、赤城は勝手に解釈したらしく、おにぎりをかじりながら、

 

「あ、具はないですよ。おにぎりは塩だけが一番なんですから」

 

 と涼しげに応じて、俺の眼前に一個を置いた。

 ますます当惑する俺を、この明朗な空母は一向意に介する風もなく、もぐもぐと瞬く間に一個を平らげてしまった。

 

「それでは、執務を再開しましょう!」

 

 告げたと同時に、赤城の目元には、すでに切れ者の空母の光がある。

 コロコロと印象の変わる、まったく不思議な艦娘だ。とりあえず口元についた米粒は、執務が終えてから指摘しようと思案しているうちに、赤城はすでに執務に取り掛かっていた。慌てて俺も、自分の仕事に取り掛かったのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 ふっと、辺りが暗くなったのは、鎮守府の電気が夜間灯に切り替わったからだ。

 執務室で相変わらず、デスクワークをしていた時のことだ。

 時刻は夜9時。つい先ほど、艦娘たちが「お疲れ様でした」と明るい声を響かせてそれぞれの寮に戻り、監視の担当の艦娘は、監視塔に出て行ってから、辺りは急に音と気配を失い、ただ俺の仕事する音だけが執務室に嫌という程響いた。

 その静けさのせいか、遠くからかすかに足音が聞こえてきて、俺は顔を上げた。

 

「お、提督、遅くまでご苦労だな」

 

 予想に違わず姿を見せたのは、長門だ。鎮守府内の見回りから戻ってきたらしい。

 

「依頼の方は落ち着いてるのか?」

「珍しく、ここ最近は落ち着いている。長門こそこんな時間にどうした?」

「なに、あいつの様子はどうかなって思ってだな。ちゃんと働いてるのか?」

 

 そう言い、ソファに腰を下ろした。

 

「赤城ならついさっき空母寮に戻って行ったぞ」

 

 俺は真っ暗闇の窓の外を眺めたが、なんの気配を感じない。

 

「いくらか風変わりだが、能力についてはまったく…………」

「ばか、誰も赤城のことは聞いてない」

 

 さすがに仕事の手を止めて、長門を顧みた。

 

「わざわざこっちに来てくれた以上、あいつの仕事の内容に口を挟むものでもないだろう」

 

 揺るぎないその信頼感に若干驚きつつも、当方の当惑は別にある。

 

「赤城じゃないのなら、誰の話だ?」

「叢雲だよ」

 

 さすがに面食らった。

 長門はニヤリと笑って、声音を落とした。

 

「ゆうべ、叢雲の"男"が来たんだろ?鎮守府中、噂でもちきりだぞ」

 

 ぎゅっと親指を立てて、悦に()った笑い声をもらした。

 相変わらず噂だけは早い。

 まぁ、噂というのは、あっという間に伝播するものだ。昼間の件を、長門が知らない方がおかしいというものだ。

 

「これまで叢雲のプライベートは完全に闇の中だったからな。おまけに相手の男は36だって?叢雲は24歳だから12歳も離れていることになるじゃないか。これは一大事だって、鎮守府中の艦娘が固唾を呑んで見守ってるぞ」

 

 戦果の報告より、はるかに熱っぽい口調で述べてる。

 

「提督は見たんだろ?そのシーンを」

「まぁ、見たことは見たが…………」

「急襲だろうと、奇襲だろうといつでも落ち着き払っている叢雲が、声もなく立ち尽くしている姿を、私も見たかったな」

「いい趣味とは言えないな」

「ふふ、そうやって達観して。で、話は聞いたのか?叢雲に」

「聞くも何も、赤城から呼び出しがあったから、俺は途中退場したよ」

「はぁぁあ…………ダメだな、提督は。ほんとダメだ」

 

 今度は心底呆れたような顔になる。

 こういう空気感の演出は長門の得意とするところで、聞いてる側はまるっきり自分が阿呆のような気になってくる。

 

「ダメ、か…………」

「ああ、ダメだ。それじゃあ、いくら頭が良くても、強くてもダメ。だいたいだな」

 

 とにわかに身を乗り出して言う。

 

「提督に心を射抜かれてしまったために、次の男に踏み出せない可哀想な美人艦娘に、そんな無関心な態度でいること自体ダメなんだ」

「誰が誰に心を射抜かれたのかしら、長門」

 

 にわかに底冷えのする声が背後から聞こえて、俺と長門はそのままの姿勢で凍りついた。

 恐る恐る首をめぐらして見れば、いつのまにやら(くだん)の駆逐艦が、細い腰に手を当てて、冷やかな目で俺ら2人を見降ろしている。

 豪放磊落の長門が珍しく視線を宙にさまよわせながら「お、叢雲、久しぶりだな、元気か」などとわけのわからん応答をしている。

 

「ええ、おかげさまでね。で、鎮守府中でもちきりになっている噂って何かしら、私は初耳だけど」

 

 薄い唇に笑みを浮かべてはいるが、目はまったく笑っていない。珍しい事に叢雲の虫の居所がひどく悪いらしい。

 

「さ、さぁ、なんの話だったかな、提督」

 

 絵に描いたような無茶振りに、俺が答えられるわけもない。

 一瞬の気まずい空気の直後には、長門はいきなり携帯を持ち出して立ち上がっていた。

 

「おお、呼び出しじゃないか!」

 

 誰がどう見ても鳴っていない携帯を片手に、そそくさと廊下へと足を向ける。軽くため息をついた叢雲が、その背に向けて良く通る声を響かせた。

 

「長門、ひとつだけ言っておくわ」

 

 肩越しにちらりと振り返った長門に、叢雲が腕を組んだまま微笑んだ。

 

「私、まだ23歳だから」

 

 執務室の扉の前で、長門は神妙にぺこりと頭を下げたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

「ごめん、司令官」

 

 静かな執務室に、叢雲の遠慮がちな声が響いた。

 長門を見送ってしばらく経った後のことだ。

 視線をめぐらせば、ソファから、叢雲が思いのほか真剣な目を投げかけている。

 しばし彼我(ひが)の間に奇妙な緊張を伴った沈黙が生じた。

 先に口を開いたのは叢雲だ。

 

「今日の昼間のことよ。変に取り乱しちゃってごめん」

「取り乱すことなんて、俺にとっては日常茶飯事だ。そんなことで謝ってたら、取り乱す暇もなくなるぞ」

 

 神妙な顔をしていた叢雲がかすかに苦笑した。

 

「相変わらずね」

 

 一呼吸置いて、

 

「昔、とてもお世話になった人なのよ。まさかこんなところで会うとは思わなかったから」

 

 お世話になった13つ年上の男性を「ソウちゃん」呼ばわりするものなのかは、甚だ難しい問題だ。かくも取り乱すものも解しがたい。

 

「あまり納得してない顔ね」

「納得はしてない。が、納得しなければならない問題でもないんだろう」

「あまり興味を持ってくれなさすぎるのも、いい気はしないんだけど」

「興味を持っていないとは言ってない。ただ大声で興味があると言うような無粋な言動は慎んでいるだけだ」

 

 叢雲はちょっと驚いた顔をしてから、机に両肘をつけ、手の上に顎を乗せて興味深げに微笑んだ。

 

「心配はしてくれてるんだ?」

「優秀な艦娘が悩んでいる姿というのは、鎮守府の雰囲気にもよくない影響を与えるものだ」

「またそんな芸のないことを言う」

 

 ひどい言われようだ。

 が、叢雲の方は、探るような、面白がるような顔をしている。

 

「で、何か聞いたりしないのかしら?」

「聞けばいちいち答えてくれる内容なのか?」

「そうね…………」

 

 意外なことに叢雲は、少し考え込むように視線を天井に向けた。

 しばらく白い人差し指を顎に当てて思案していたが、やがてにっこりと微笑んだ。

 

「やっぱり教えてあげない」

 

 そう言って立ち上がった。

 

「だいたい、わざわざあんたに話すような内容じゃないもの」

 

 言葉には幾らかの朗らかさが戻っている。

 気持ちを切り替えるように、叢雲は大きく伸びをしてから、それに、と付け加えた。

 

「心を射抜かれたまま一歩も前に進めない美人艦娘としては、少しくらい秘密は持っておきたいものなのよ」

 

 さらりと告げると、一歩も前に進めないわりには、躍動感ある足取りで執務室を出て行った。








目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 江下宗一(えのしたそういち)、というのが、叢雲の言う「ソウちゃん」の本名だ。

 彼が提督を務める鎮守府のドックが満杯なため、こちらの施設の借りていたが、ほとんどの艦娘の治療などは終えていた。問題はその江下さんが、我が鎮守府を参考にしたいと申し出て、しばらくここに留まることになったことである。

 

「地方の小さな鎮守府なので、そこまで激戦にはならないと思いますが、やっぱり勉強はしておかないといけませんからね」

 

 ソファに座る江下さんは、いたって穏やかな様子だ。

 

「俺もまだ勉強不足ですが、何か参考になればいいです」

「いえいえ、噂に聞いていた通り、かなりの敏腕ですよ」

 

 褒められることにあまり慣れていない俺は、少し黙り込んでしまった。それを見て、江下さんは微笑みつつ、

 

「最近、私たちへの出撃命令が減ってきていましてね…………やはり、私たちの実力が足りないのでしょう」

「いえ、出撃命令が減ってきたからこそ、警戒すべきだと思いますよ。その後に、必ず嫌という程出撃させられますから」

「なるほど、今は束の間の休息、と言うことですね」

 

 いくぶん諦めに似た微苦笑を浮かべた。

 その時俺がふと目を留めたのは、江下さんの手元にある一冊の書物だ。表紙には漢字2文字が書き添えられており、長い間読んできたのかいくらか、くたびれている。

 

「『葉隠』、ですか」

 

 問えば、江下さんは目元に嬉しげな光を浮かべた。

 

「私の愛読書です。八幡さんもご存知ですか」

「ええ。武士道の奥義を説いた本ですよね」

「さすが軍神さんです」

 

 そういうものではないのだが、わざわざ応じるのも面倒なので、俺は何も言わずに江下さんが差し出してくれた書物を手に取った。

『葉隠』は、鍋島藩士の山本常朝が武士としての心構え口述し、それをまとめたものである。現代と武士道とでは、なんの関係もなさそうに見えるが、処世術などもあり読んでおいて損はないものだ。

 

「相当読み込んでいるようですね。これが中巻なら、あとの2つもあるのでしょうか?」

「下巻はあるんですが、上巻はどこかで失くしてしまいました」

 

 ははっと小さく笑ってから、江下さんはふいに表情を改め、やがて思い切ったように語を継いだ。

 

「ナナミは…………、失礼、叢雲さんからは何か言ってませんでしたか?」

「何か、とは?」

 

 俺も存外意地の悪い返答をするもんだと思いつつ、先方を見返す。江下さんはしばし困惑してから、

 

「いえ私が来てから、彼女、一度も顔を出してくれませんから」

「叢雲は駆逐艦たちのリーダーもやってますから多忙なのでしょう。顔を出すように伝えておきますか?」

「いえ…………いいえ、結構です」

 

 戸惑いがちに、江下さんは手を振った。

 

「会ったところで、情けない姿を見せるだけですから」

「情けないことはないでしょう。地方の鎮守府だとしても、立派に提督をやっています。なんら恥じる必要はありません」

 

 静かに答えれば、江下さんは、少しだけ目を見開いてから、かすかに微笑んだ。

 

「優しい人でよかったです。よろしくおねがいしますね、八幡さん」

 

 安堵のため息とともに、そんな言葉が聞こえた。

 

 

 ーーーー

 

 

「いい人じゃないか、江下さんは」

 

 夕暮れ時の食堂で、叢雲を見つけた俺の第一声がそれだった。

 

「なによ、唐突に?」

「唐突なもんか。江下さんは叢雲が来てくれないと寂しがっていた。どういう関係かは知らんが、久しぶりの再会に挨拶くらいしてやるといい」

 

 速やかに答えれば、叢雲はむしろ胡散臭そうな顔をする。

 

「随分急な話ね。どうせ、いい提督だとかなんとか持ち上げられたんでしょ?」

 

 相変わらず頭の回転の速い駆逐艦だ。返す言葉もない。

 

「でも、江下さん、ほんとにいい人ですよ」

 

 傍らから遠慮がちに口を挟んだのは、叢雲と休憩していた吹雪だ。

 

「どんなに騒がしくても全然嫌な顔しないですし、廊下ですれ違っても笑顔で挨拶してくれますし、いつも静かに本を読んでいたりして…………。なんか紳士って感じですよね」

 

 どこか夢見るようなその大きな瞳で、めいっぱい幸せそうにそんなことを言う。

 

「でも結構いい加減なところもありますよ、あの人」

 

 と今度は食堂にやって来たばかりの不知火が口を開いた。

 

「昨日の夜、消灯時間の後に、鎮守府を歩き回っていたんです」

 

 初耳だ。

 不知火がため息混じりに付け加えた。

 

「司令官に連絡しようか悩んでいるうちに、部屋に戻ったのでよかったのですが。なんだか眠れなかったので、歩き回っていたらしいですが…………」

 

 なるほど、それはなかなかに迷惑な話だ。

 横で端然と聞いていた叢雲がポツリと言う。

 

「昔からそうなのよ。頼りになるように見えて、結構抜けてるんだから」

 

 思わぬ意味深な発言に、俺と不知火が同時に叢雲を顧みた。見られた方の叢雲は、気にした風もなく淡々としている。

 いまいち分かっていない吹雪は、相変わらず目をキラキラさせて、

 

「そこがまたいいんです。難しそうな本を読んでいる姿と、なんだかギャップがあって、支えてあげたいって感じじゃないですか」

 

 勝手なことを言っている。

 難しそうな本というのは『葉隠』のことだろう。

 

「それにしても、江下さんは艦娘との接し方には慣れているようだな」

「そりゃそうよ。彼、艦娘がいく学校の先生だったもの」

 

 再び投げ込まれた爆弾に、今度は吹雪もいれて、3人ともが反応した。

 叢雲はあくまで平然と、

 

「彼、もともと国語の先生なのよ。昔は剣道もしていたけど、あの様子じゃね…………」

 

 面食らう俺たちに、ようやく叢雲は顔をあげた。

 

「そんなに驚かなくてもいいでしょ」

「そんなに驚かさなくてもいいだろう」

 

 ようやく応じるので精いっぱいだ。

 恐る恐るといったふうに、不知火が口を開いた。

 

「でも、江下さんは、提督ですが…………」

「今はそうよ。とっくに先生を辞めたんだもの。私が高校生のときの国語の先生。3年の時は担任もやってたわ」

 

 一旦息をついてから、声もなく見つめる俺に目を向けた。

 

「もう一度言うけど、そんなに驚かなくてもいいでしょ」

「江下さんが国語の先生だったということに驚いたんじゃない。叢雲にも女子高校と称する時代があったということに驚いてるんだ」

「怒るわよ」

 

 冗談だ、ととにかく沈黙を埋めつつ、

 

「しかし担任の先生をソウちゃん呼ばわりか?」

「あの頃はみんなそう呼んでいたもの」

 

 一般的にそういうものなのかは別として、にわかに俺の脳裏に占めたものは、高校生の叢雲と、教師の江下さんの姿だ。先日の意味深な態度といい、勘ぐらずにはいられないのが人情というものだろう。

 同じ想像をしていたらしき吹雪が、いつのまにやら耳まで赤くして、小さな声で問うた。

 

「む、叢雲さん…………、も、もしかして、先生だった江下さんとなにかあったのですか?」

 

 俺と不知火が遠慮するような質問をあっさりと口にする。

 

「単刀直入に聞くわね」

 

 さすがに少し驚いた叢雲は、腕を組んで考え込むような顔をする。それから首を傾げて、一呼吸おいてから口を開いた。

 

「ま、何もないと言えば嘘になるかしら」

 

 ええっと、背後からかすかな声が聞こえて振り返れば、いつのまにやら食堂の艦娘たちが全員こちらを向いて、興味津々の目をしている。

 叢雲は額に指を当てて、ため息をついた。

 

「冗談に決まっているでしょ。そんなことより…………」

 

 突然、甲高いサイレンが叢雲の声をかしけしていた。

 このアラームは鎮守府の警戒範囲内に深海棲艦が侵入したことを示す。

 艦娘が悲鳴にも似た声をあげた。

 

「提督!」

 

 声が終わらぬうちに、俺と叢雲は食堂を飛び出していた。

 

 

 ーーーー

 

 

 深夜の1時。

 本来なら静まり返っているはずの鎮守府が、その日はまだ慌ただしい雰囲気を醸し出していた。

 くたびれた顔のままモニターを眺めているのは航だ。

 

「大変でしたね」

 

 ソファで寝っ転がっている俺の耳に、旧友の声が届いた。

 

「大変だったのは俺じゃない。艦娘たちだ」

「それでも隊長も大変そうでしたよ」

 

 その夕刻、深海棲艦の艦隊が警戒範囲内に踏み込んできた。

 

「最近敵も攻めるようになりましたけど、まさかここまで来るとは思いませんでした」

「誰も予想できるような急変じゃない。未知のものを予測しろというのが難しい。殲滅できたのは、ひとえに運が良かっただけだ」

 

 敵の艦隊は大したものではなく、赤城の活躍もあってすぐに殲滅ができた。だが、まだ骨のある艦隊なら、この鎮守府にも被害があった可能性もある。

 

「あれは偵察の役割があったと思います。多分、今後はもっと強力な艦隊が来るでしょう」

 

 脳裏に浮かんだのは、2年ほど前の深海棲艦上陸のことだ。まさに地獄絵図がそこにはあった。

 

「厳しい、な」

「厳しいですけど、今回は充分に対策は取ってあるはずです。前回のようなことにはなりませんよ」

 

 まっすぐな目でモニターを見つめる航の横顔は、かつての"期待のエース"にふさわしい懸命さと真摯さを兼ね備えている。俺は黙ってうなずくだけだった。

 

「隊長こそこんな時間まで大丈夫ですか?長門さんも心配しますよ」

「長門は昨日からまた出張中だ。新兵器の話とかで、行ったり来たりと忙しい」

「まぁ、こちらとしてはいい話じゃないですか」

 

 航はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をする。

 俺はソファから起き上がり、椅子に座る。

 

「例の見学者がまだいたいというのも気がかりだ」

 

 江下さんの件だ。

 夕方の叢雲の爆弾発言も気になることは気になるが、それ以上に、まだここで勉強したいと言うことに少し疑問を持っている。そもそもこんな民間企業なんかよりも横須賀の方に行った方がはるかに有意義なはずだ。

 

「まぁ、今度赤城に話を聞きに行ってもらおうと考えているところだ」

「私の噂話だなんて、嬉しい話ですね」

 

 涼やかな声が聞こえて振り返ると、ちょうど当の赤城が執務室に入ってきた。

 

「こんな時間にどうしたんですか」と問う航に、軽く肩をすくめつつ、

 

「今日は監視の担当なんです。ほんとここの鎮守府って、これでもかというくらいに働かされますね」

 

 さらりと答えつつ、右手に提げていた袋からおにぎりを取り出す。これを無遠慮にかぶりつく姿は、なかなか見慣れるものではない。多分、ずっとこの奇行は続くだろう。

 

「まったく佐久間さんも、こんなに大変な鎮守府なら、最初っから言ってくれればよかったのに。相変わらず都合のいいことしか言いませんね…………」

「ここが忙しいところだと言われなかったのか?」

「多彩な戦況を体験できて、勉強になるところだって聞きました。おまけに私が存分に実力を発揮できるところだとも」

 

 確かに嘘は言ってない。

 

「でもまさか、『多彩な戦況』の半分以上が、護衛と偵察とは思いませんでした。民間企業だとは分かっていたんですけどね」

 

 呆れ顔ではあるが、口で言うほどの不満がある様子ではない。この辺りの打たれ強さは佐久間さん直伝なのだろう。

 ぼやきながら、赤城は袋からさらに2つのおにぎりを取り出して、俺たちの前に並べた。黙礼とともに受け取った航は、1つを手に取って早速口にしている。

 

「まったくこんなに忙しいと、日々の鍛錬もままになりませんね」

「すごいな。ただでさえ激務なのに鍛錬だなんて…………」

「別に褒められることじゃありませんよ。敵だってどんどん強くなっているんですから、やらなきゃやられるだけなんです」

 

 耳が痛い話だ。

 俺など、ただ日常業務に追われて過ぎていくだけの日々だ。むしろこの多忙を極める鎮守府で、鍛錬と業務を同時並行させている赤城の精神力こそ尋常じゃないものだろう。

 俺は机のおにぎりを取って、一口食べる。

 

「ん、うまいな。だが、具が欲しい」

 

 言えば、赤城は呆れたような顔をする。

 

「提督って、意外と舌バカだったりするんですか?」

 

 舌バカとは何度か言われたことはあるが、これしきのとこで判断されても困る。

 しかし、それ以上口を開けば、地雷原を突っ走るような気がしたので、話題を、江下さんの話まで押し戻した。

 話を聞いて、赤城は、2、3度うなずいてから答えた。

 

「ああ、あの叢雲さんの彼氏ですね」

 

 どうやら鎮守府内では勝手にそうなっているらしい。

 

「叢雲自身は何も言ってない。おまけに11つも歳が離れてる」

「11つくらいなんともありませんよ。私だって同じくらい離れていた人と付き合ってましたから」

 

 俺と航はぎょっとして、思わず顔を見合わせた。

 赤城は、そんな反応見向きもせずに、

 

「まぁ、話くらい悪くありませんが…………」

 

 ぽんぽんと話が飛んでいくだけに、俺たちはついていくのが大変だ。しかし赤城は元来そういう性格らしく、当方の困惑など一切意に介していない。

 

「でも多分、その人には必要ないと思いますよ」

 

 また唐突な結論が飛び出てきた。

 

「赤城は、彼に何か心当たりでもあるのか?」

「どうでしょう。でも、しばらく様子見ていいような気がするんです」

 

 根拠があるのかないのか、しごくさらりとした応答だ。

 赤城はコーヒーカップを取り上げて、そこにバサッとコーヒー粉末を投入し始めた。どこかで見たことがある光景だなと思い当たるより先に、今度は次々と多量の砂糖を放り込む。

 

「あ、赤城、何を…………?」

「何って、コーヒーですよ?この前長門さんにおいしいコーヒーの作り方を教わったんです」

 

 黒と白の粉を大量に放り込んだカップに、平然とお湯を注ぎ始めた。

 

「長門さんって、ちょっとガサツなイメージですけど、意外と味覚にうるさいんですね。人は見かけによらないって言いますが、その典型です。幼馴染なのに知らなかったんですか?」

 

 価値観の多様性を痛感せざるを得ない。少なくともこの劇薬を、このように評する人に出会うとは予想もしなかった。

 再び航と顔を合わせているうちに、赤城は身を翻して、

 

「明日も早いのでこれで」

 

 淹れたばかりの劇薬を一気に飲み干すと、それでは、とそのまま執務室を立ち去った。

 後に残るのは静寂だけだ。

 まさに台風一過の感だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 息抜きに外に出たのは深夜の2時過ぎだ。

 今宵は雲が多いようで、あまり月が見えない。そのせいか鎮守府の光が妙に明々と見える。音もなく風が吹いて、一石を投じた水面(みなも)のように、海にさざ波が立って広がっていった。

 昼はそこそこ気温が上がるが、日が暮れるととたんに急激な冷え込みを見せる。赤い太陽が沈んでいけば、世界は夜の領域となり、気温は、どんどん下がっていく。

 しかしあまり、寒冷を感じぬ俺は、この厳しい温度変化よりも風の心地よさの方がより感じる。呆けた脳も落ち着かない心も、風が運んでいってくれるような気がする。

 買い置きしておいた缶コーヒーを片手に執務室に戻ろうとした俺は、とある人物を見つけて足を止めた。

 少し遠くに、歩く軽巡の姿が見える。

 

「おいおい、もう就寝時間は過ぎてるぞ、川内」

 

 俺の声に、川内が振り返る。

 

「ちょっと寝付けなくって。提督もこんな時間までお疲れ様だね」

 

 そう言う川内の顔に、珍しくかすかな疲労の色が見える。

 何気なく誘われるように、俺は川内のもとへと足を進めた。

 

「そういう君も、少し疲れているじゃないか?」

「あちゃー、提督に見透かされるようじゃ、ダメだね」

 

 苦笑しつつ、

 

「なんか最近は出撃も増えてきて結構忙しいし、仲間にも悩み事が増えてるんだよ」

「俺もどうにかしたいのは山々なんだがな…………」

 

 苦笑を浮かべつつ、俺は川内の隣に立った。

 

「そんな余裕かましてるけど、叢雲の方は大丈夫なの?」

 

 俺は開けたばかりの缶コーヒー持ったまま、動きを止めた。

 

「大丈夫、って?」

 

 川内は心底呆れたような顔をする。

 

「何も聞かされてないの?」

「何も、というわけでもないが、本人は秘密だと言って話さん」

「バカだなぁ…………」

「全くだ。ひとりで悩むくらいなら、話してくれれば…………」

「バカって言ったのは提督の方だよ」

 

 遠慮のない声に顔を向けると、川内はこれ見よがしにため息をついた。

 

「女に、秘密だって言われた時は、意地でも聞き出さなきゃダメだよ」

「矛盾に満ち溢れた注文だな…………」

 

 顔をしかめれば、再びため息をついた。

 

「相当な切れ者って言われるわりに、女心はまったく分かってないんだね、提督は」

 

 随分な言われようだ。

 少なくとも軍略などに精通しているからと言って、女心に詳しくなる話は聞いたことなどない。俺が必死に頭を働かせてわかるのは、せいぜい女というものが、極めて難解な生き物であるということだけだ。

 

「ま、叢雲のことだから大丈夫だと思うけど、意外と悩んでるみたい。気が向いたら、酒の一杯でも付き合ってあげなよ」

「そういう役割なら君の方が適任だと思うが…………」

「バカだね、こういうデリケートな問題だからこそ、夜戦バカの同僚より、頭は切れるけどいまいち鈍感な提督の方が相談しやすいんだよ。なんだかんだ言っても、あいつ私に気を遣うんだもん」

 

 バカなのか切れ者なのか分からん論評だ。

 さて、と川内は踵を返し、

 

「そろそろ戻らないと、監視の仕事があるからね」

「のようだな」

 

 脳裏に浮かぶのは、嵐のように立ち去って行った赤城の後ろ姿だ。

 

「ま、赤城さんがいるし、問題はないかな。あの人、仕事もできて快活だし、私たちも働きやすいし。提督もそう思うでしょ?」

 

 振り返って川内が雑談がわりに投じた言葉に、俺はすぐには反応しなかった。

 その姿に川内は、不思議そうに眺める。

 しばらく沈黙した後、俺は川内にとっては心外な言葉を吐き出した。

 

「君も意外と人を見る目がないんだな」

 

 川内が口を開こうとするよりも先に、俺は片手を上げて背を向けた。

 

「ま、大した問題じゃない。お疲れ様」

 

 半ば呆然とする川内を置いていき、俺は歩を進める。その途中、俺は視界の片隅に別の人影を捉えた。

 ちょうど鎮守府の裏口から、背の高いオトコが出ていくのが見えた。

 カーディガンを羽織ったその人物は、ここに滞在中の江下さんだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 夜7時。

 それが翌日の執務が終わった時間だ。

 橘さんがまだいた頃は9時、10時まで当たり前のように執務をしていたから、これでもかなり早い時間だ。赤城が来てくれたおかげで、少し仕事の片付く時間が早くなったのだ。俺はその足で、真っ直ぐに客室へも向かった。時間はすでに夜勤帯ではあるが、例によって叢雲は、秘書艦として忙しげに立ち働いている。いったいいつ休みを取ってるのか不思議なくらいだ。

 

「お疲れ様。やっと終わったのね。見回りは?」

「これからだ。が、その前に1つやらなきゃいけないことがある」

 

 憮然と応じれば、俺の声の底にある常とは違う空気を、叢雲は敏感に感じ取ったらしい。

 かすかに切れ長の目を細めて、俺を見返した。

 

「どこかに個室の部屋は空いてないか?」

 

 叢雲は理由も聞かずに書類に目を向けてすぐに答える。

 

「ここなら、空室よ」

「ふむ、そこに移動してもらおう」

 

 一瞬、間を置いた叢雲が静かに、だが確かな口調で答えた。

 

「…………江下さん?」

 

 私は小さくうなずいた。

 迷いがなかったわけではない。だが、放置することは断じて許されなかった。俺は叢雲を伴って執務室を出、客室に足を向けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 江下さんの部屋は本来艦娘用の2人部屋だ。

 もうひとつのベッドは誰も使ってないので、夜の8時にいきなりの来室に不満をぶつけられることもない。

 江下さんは、この遅い時間にいつものように椅子に座って、書物を読んでいた。

 突然の俺と叢雲の訪室には、さすがに驚いたようだ。

 

「こんばんは、八幡さん。遅い時間まで大変ですね」

 

 驚いたなりにも、すぐにいつもの穏やかな笑顔になる。

 その視線は、俺のすぐ後ろにいる叢雲に気づいて、わずかに戸惑いを見せたが、直接声をかけることはしなかった。

 

「江下さんこそこんな時間まで読書だなんて、精が出ますね」

「習慣、のようなものですから」

 

 読んでいたのは『葉隠』だ。

 

「勉強のほうはどうでしょうか?」

「順調です。今日も素晴らしい執務を参考にさせてもらいました」

「そうですか」

 

 俺の抑揚のない声に、江下さんはいくぶんか警戒した様子になった。

 

「なにか問題が発生したんですか?」

「ええ、それなりに。だから、少し強硬な手段に訴えざるを得なくなりました」

 

 強硬な?と不思議そうな顔をする。

 

「申し訳ないことですが、江下さんにも協力して欲しいんです。よろしいでしょうか?」

「それはもちろんです。私が何かできるなら教えてください」

 

 穏やかで、かつ殊勝な返答だ。その表情は、嘘をついているようにはとても思えない。とても思えないことが、しかし、恐ろしいことなのだ。

 俺はわずかに間を置いてから、口を開いた。

 

「では部屋を移ってもらっていいですね?」

 

 俺の問いの意味を、江下さんは正確には理解できなかったのだろう。少し首を傾げて叢雲を見たが、叢雲とて状況を理解しているわけではない。

 

「部屋の移動ですか?」

「はい」

「それはいいですが、今すぐはちょっと困ります。荷物の準備もありますので…………」

「荷物は艦娘たちに運ばせます。江下さんは身ひとつで構いません」

 

 すみやかに告げた時、江下さんはかすかに表情を硬くした。

 

「いえ、荷物の移動くらい自分でできますよ。大した量もありませんし」

「なくてもこちらで移動させます」

「しかし、そんな迷惑を…………」

「迷惑なのは、あなたがしている行為だ!」

 

 我知らず、強い語調で発していた。

 すぐ背後の叢雲は、驚きつつも状況を飲み込めず沈黙を保っている。

 江下さんがなにか答えるよりも先に、俺は速やかに語を継いだ。

 

「あなたは身ひとつで上の個室へ移動しろ。無論、あなたが隠し持っている、メモリースティックもだ」

 

 江下さんの顔色がさっと変わった。

 背後で叢雲がかすかに息をのむ様子が伝わった。

 束の間沈黙が続いたのち、俺は静かに、しかし底冷えするような声だ付け加えた。

 

「心配なら、『葉隠』くらいは自分で持っていっても構いません」

 

 視界の片隅で、『葉隠』の文字が妙にはっきりと見えた。

 

 

 ーーーー

 

 

 江下さんの部屋から予想通りメモリースティックが複数見つかった。

 中身を調べれば、どれも軍事機密ばかりだ。要するに、江下さんが見学と称してここにやってきたのは、どうにかして軍事機密を持ち出し、隠れるためだったのだろう。

 

「夜に出歩いていたのは、その情報を渡すためだったのですわね」

 

 夜の執務室に、熊野の呆れて声が響いた。

 

「驚きましたね。全くそういう人には見えませんでしたが…………」

 

 つぶやくように言ったのは、航である。

 

「人は見かけによらんということだ。分かっているようで、いつも後手に回るものだな」

 

 ようやく仕事が終わったというのに、まるでこれから執務があるような重い気分だ。

 ただ淡々と先刻のことをまとめるしかない。

 

「で、どうするんですか?」

「佐久間さんに連絡するしかない。だが、いきなり引き渡すもいかんだろう。とりあえず、ここで監視するしかない」

「鎮守府は大丈夫何ですか?」

「一応、補佐がいるらしいからどうにかなるだろう」

 

 熊野と航が同時にため息をつくのが聞こえた。

 やがて立ち上がった熊野が、しばらくしてから、紅茶を淹れて持ったきた。

「まぁ、とりあえずゆっくりしなさいな」と言って出されたら紅茶を今夜ばかりは黙って受け取る。

 カップルに口をつけたところで、電話が鳴り響いた。

 ほとんど無意識の状態で着信ボタンを押したところで、飛び込んできた声は、神通のものだった。

 

 "提督、すぐに来てください。叢雲さんが…………"

 

 俺はカップを机において立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

「いったい、なにやってるの」

 

 冷えた声が、部屋の外にまで聞こえてきた。

 江下さんを移動させた個室の前だ。

 神通たちが入り口周辺にいるものの、室内の異様な空気に圧倒されて入ることをためらっている状態だ。顔をのぞかせて納得した。

 椅子に腰かけた江下さんと向かい合うように叢雲が屹立しているのだ。その横顔はかつて見たことのないほどに厳しいものだった。

 細い両腕を組み、仁王立ちで眼前の男性を見下ろす姿は、声をかけるのをためらわせるのに十分な、気迫と威厳を備えていた。

 

「いったいなにをやってるのって聞いてるんだけど」

「大本営の機密情報を持ち出して、逃げてきた」

 

 淡々とした声とともに、江下さんが自虐的な笑みを浮かべつつ顔をあげた。

 

「そう言えば、納得してくれるのか、ナナミ」

 

 叢雲は微動だにしなかった。眉ひとつ動かさず、黙って江下さんを見下ろしていた。俺はそっと個室に入り、神通に扉を閉めるよう目だけで指示した。他の艦娘たちにも、とにかく持ち場に戻るように、と。

 

「ずっとそんなことしてたの?」

「ああ、学校を辞めてからね」

「平和のためならどんな形でも尽力するって言ってたのはどうなったのよ?」

「無茶言うなよ」

 

 小さく漏れたため息は、痛々しいと称するしかない乾いた笑いを含んでいた。

 

「あんな形で学校を辞めた僕を、誰が雇ってくれるんだい?行くあてもなし、働く場所もなし。おまけにひ弱なこの身体じゃ、何にもできない」

 

 江下さんは諦観を含んだ無気力な笑みとともに、叢雲を見返した。

 

「ナナミ、これは僕が選んだ人生だ。君と出会ったことが原因じゃない。君が責任を感じる必要はないよ」

「…………責任なんて感じてないわよ」

 

 静かな声だった。

 江下さんはかえって少したじろいだように肩を動かした。

 

「私はね…………、あんまり情けなくって呆れ果ててるだけなの。なんでこんなことになってるのかって」

 

 かすかにその声が震えて聞こえた。江下さんはしばし叢雲を見上げていたが、やがて疲れたようにため息をついた。

 

「どうしてかな…………。今じゃ、僕にもよくわからない」

 

 小さく咳払いし、再び語を継いだ。

 

「いつのまにかこんなことになっていた。君の言う通り、随分情けない話だ。でもどちらにせよ君はこんなに立派な艦娘になって頑張っている。僕は見ての通りだ。2度と交わることのない人生なら…………」

「人生は短い、だからこそどんな困難も喜んで、勇んで立ち向かうべきだ。そう言ったのはソウちゃんじゃない」

 

 江下さんが口をつぐんだ。

 

「あなたがどんな困難に阻まれているのかはわからないけど、私は、艦娘になってから一度も困難から逃げてないわ。どんな困難だって、私は真正面から向き合ったわ。なぜだかわかる?」

 

 一瞬沈黙して、叢雲は言葉を噛みしめるようにして告げた。

 

「あなたが、そう教えてくれたからよ。それなのにあなたは…………」

 

 声が途切れた。

 再びの沈黙は、以前にも増して深く病室を包んだ。

 静寂の彼方で、かすかに廊下を人が通り過ぎて行く足音が聞こえる。足音が近づいて、やがて遠ざかった時、叢雲の手が上がった。

 

「ほんとに、情けない話だわ」

 

 何をするのか俺が直感した時には、叢雲は力一杯、江下さんの頰を叩いていた。制止の声をかける暇もあったものではない。

 俺はもとより、江下さんも声なく、あっけにとられている。

 一瞬の沈黙の後、軽く髪をかきあげた叢雲の凛と澄んだ声が響き渡った。

 

「ここは鎮守府です。たくさんの艦娘が闘っている場所です。戦う気がないのなら、今すぐ提督をやめてください」

 

 再び訪れた沈黙の彼方から、かすかに水の音が聞こえた。

 外はいつの間にか雨になっていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 雨はしとしとと降りしきり、一滴ごとに夜が深まるようだった。

 

「どんな困難も、か…………」

 

 かすかにつぶやいたのは江下さんだ。

 叢雲が部屋から出て行ってすでに30分以上は経っているが、江下さんは、椅子に座ったまま、身じろぎもせず、足もとを見つめていた。

 

「山本常朝の言葉ですね」

 

 俺の声に、ようやく江下さんは顔を上げた。

 

 "大難大変に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり"

 

 それは、困難の中で平然といるのではなく、喜び勇んで立ち向かっていこうという、山本常朝の言葉であった。

 

「よくご存知ですね、八幡さんは」

 

 江下さんの頰に疲れた笑みがあった。

 

「私の好きな言葉でした。ナナミもよく覚えてくれていたものだと、驚いています」

「こんな戦場に立つ者だからこそ、胸に響く言葉ですね」

 

 江下さんは、かすかにうなずいてみせた。

 ふいに窓がふるえたのは、風が出てきたせいだろう。降りしきる細雨が、風を受けて窓ガラスを濡らし始めていた。

 

「先程の話ですが…………」

 

 俺は胸中のためらいをゆっくりと押しのけて、遠慮がちに口を開いた。

 

「話を聞くに、叢雲のせいで学校を辞めたかのようにも聞き取れました」

「違いますよ」

「違うか否かのあなたの判断ではなく、何があったのか、伺わずにはおれません。なんせ彼女は、俺にとって大切な友人でもありますから」

 

 俺の声に、江下さんは少しだけ探るような目をしたが、やがて小さくうなずいた。

 

「半分事実で半分嘘、といったところです」

 

 一呼吸置いて、語を継いだ。

 

「私はナナミが高校3年生の時の担任でした。彼女はとても私のことを慕ってくれて、おそらくただの尊敬する教師以上の感情を持ってくれていたと思います」

 

 江下さんの頰にかすかに照れたような微笑が浮かんだ。それが本当のこの人物の表情であるかのようにみえた。

 

「ですが、私はあくまで教師。おまけに彼女は高校生でかつ将来の貴重な戦力。うかつに近づきすぎてはいけないと充分に気をつけていたのです。しかし、ただ1度だけで…………、1度だけ2人だけで食事をする機会を持ちました」

 

 そこで、一度ため息をついた。

 

「今まで艦娘たちの教師としての実績が認められて、私も前線に呼び出された日です。ナナミが、どうしてもお祝いしたいと言ってくれましてね。夜遅く、町中のレストランに出かけて、そこで…………」

 

 江下さんはかすかに眉をひそめたが、すぐに続けて言った。

 

「士官に見つかったんです」

「食事だけでしょう。弁明はいくらでも…………」

「あなたもご存知でしょう。昔は艦娘との関わり方は厳しいんです。誰にも何も告げずに艦娘を食事に連れに行くというのは、言葉で語る以上に、大きな波紋を呼ぶんです」

 

 教師生命は終わり、同時に士官としての道も閉ざされました。

 ほとんど独り言のように、付け加えた。

 

「でも、後悔しているわけではないんです。ナナミのせいだって一度も思ったことはありません」

 

 江下さんは、いつもの穏やかな笑顔を見せた。

 

「あの夜は、私にとっても確かに特別な夜でした。ナナミが心底喜んでくれて、まだ決まったばかりなのに、いつでも前線で戦うことができる。そんな気すらしたんです。ただ…………」

 

 ふいに江下さんは目元を覆うように、額に手を当てた。

 

「つまづいたあとに、うまく立ち上がることができなかったんです」

 

 人生なんて、そんなもんじゃないですかねぇ、八幡さん…………。

 あくまで静かな声は、今度こそ虚飾を脱ぎ去ったものだった。

 窓外の雨は少し勢いを増して、時折窓ガラスを強く打つように風邪が吹いている。

 時計はすでに夜の9時を回りつつあった。

 俺に応じる言葉のあろうはずがない。善と悪を取り分けるには、あまりにたくさんの課題を含みすぎていた。

 

「葉隠にはこんな言葉があります」

 

 俺は叢雲が出て行った扉に視線を移して続けた。

 

「人間の一生は誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦しみて暮らすは愚かな事なり」

 

 江下さんが、掌を動かしてかすかに俺を見上げた。

 

「正確にこの言葉が正しいかはわかりませんが…………」

 

 俺は一旦言葉を切って、小さく息を吐いた。

 

「叢雲は、こう言いたかったんじゃないでしょうか」

 

 もう一度大きな風がふいて、窓ガラスに細やかな雨粒がぶつかる音が聞こえた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



今回は少々短いです。




 風が落ち着き始めたのは、夜の11時を回るころだった。

 五月雨は、徐々に勢いを失いつつもなお止まず、音もなく路面を濡らし続けていた。風の静まった闇の中を、天から地へ、薄絹の膜が舞い降りるように、細雨は降りしきっている。

 結局部屋を出て行った叢雲は、その後どこへ行ってしまったか姿は見えなかった。とりあえず平手打ちされた江下さんに治療を施せば、他にすることはない。徒労感を抱えつつ、鎮守府を出てぶらぶらと外を歩き回っている。

 北へ、雨の路地を抜けて歩くと、やがて街灯の光を受けてぼんやりと神社の鳥居が見える。

 こういうロクでもない日は、とにかくこの地の祭神に参拝しておくのがいいだろう。問題が起こるたびに参拝される神様も、随分迷惑な話だろうが、当方は非力な一個の人間なので、仕方がない。人と神との領分というものだ。

 濡れた鳥居をくぐり、砂利を敷き詰めた境内を本殿近くまで歩いてきたところで、にわかにパンパンと場違いに明瞭な柏手(かしわで)が響いて、俺は足を止めた。

 目を凝らすと、薄明かりのともる拝殿前に、人が1人、一心に祈りを捧げている。雨の降る深夜の神社に、先客がいたことなんて未だかつてないことだ。参拝者は随分と長く祈りを捧げていたが、俺が拝殿前まで来たところで、ちょうど身を翻して、石段から降りてきた。

 降りてきたところで先方がふいに眼前で足を止めた。おや、と傘を持ち上げたところで、俺と相手の目があった。

 叢雲だった。

 雨の中、傘もささずに歩いてきたのだろう。艶のある青みがかった銀髪がすっかり濡れて額に張り付いている。戸惑うように俺を見つめているその目が、あきらかに泣きはらしたあとを示して真っ赤だ。

 どこかで何かの予感はあったのかもしれない。俺は自分でも意外なほど、驚かなかった。

 静まり返った林中の境内に、雨音だけが響く。

 さらに数瞬の沈黙ののちに、俺はおもむろに傘を差し出した。

 

「雨だぞ、叢雲」

「知ってるわ…………」

 

 叢雲は、つぶやくように言ったきり、立ち尽くすばかりだ。

 俺はなかば強引に彼女の手をとって、傘を握らせた。その手が氷のように冷たい。

 

「持っていけ」

「いらない。あんたが濡れちゃうでしょ」

「やむをえん。ここには人間が2人いるが、傘は1つしかない。おまけに雨はまだ降りそうだ」

 

 俺の言葉に、叢雲はぎこちなく微笑んだ。微笑んだ途端に、その目にうっすらと涙が浮かんで叢雲はあわてて手の甲でそれをぬぐった。

 

「ごめんね、司令官」

「軍事機密を持ち出した輩をビンタしたことなら謝る必要もない。君がやるか俺がやるか、それだけの問題だ」

「相変わらず、変な慰め方」

 

 もう一度、今度は少しだけ緊張を解いた微笑を、叢雲は浮かべた。

 

「もう遅い時間だ。とにかく、さっさと帰れ。俺は先に戻る」

「…………嫌よ」

 

 立ち去ろうとした俺の腕を叢雲が掴んだ。思わぬ行動と返答に、当方が戸惑う。

 

「タクシーでも呼ぶか?」

「あんたって、ほんとに野暮で気が利かないわよね」

 

 最近同じようなことを言われたばかりだ。どうも周りの女性たちは俺のことを勘違いしているらしい。

 にわかに闇が深くなったような気がしたのは、遠のいていたはずの雨脚が、再び増したからだ。

 ふいに叢雲は、大きく呼吸をして見せ、それからまっすぐな目で俺を見た。

 

「ね、司令官、一杯付き合ってくれない?」

「今からか?」

 

 さすがに唐突だ。

 

「夜の12時に、雨にぬれた泣き顔の女を連れて行って、問題なく迎えてくれるような店がどこにある」

「あんたなら1つくらい知ってるでしょ」

 

 勝手な言われようだが、心当たりはすでに1つついている。

 

「連れて行ってくれないと、明日からコーヒー淹れてあげないわよ」

「それは困る」

 

 俺は眉をしかめて、空いている手で額に当てた。鎮守府で叢雲のコーヒーにありつけなくなるのは、執務に差し支える重大事だ。

 俺はおもむろに携帯電話を取り出した。

 

「店が開いていたらの話だからな」

 

 うん、とうなずく叢雲は、いつもの堂々たる秘書艦とはあまりに雰囲気が異なって、なにやら調子が狂う。

 いつのまにやら、左手は叢雲の冷たい手に握られ、空いている右手で番号を打ち込み、発信ボタンを押した。

 店は開いていたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 居酒屋「鳳翔」は、鎮守府の片隅にあるごく小さな店だ。

 前線を退いた鳳翔さんが黙々と日本酒を提供してくれる店で、食事も美味しいので、事あるごとに通っている。夜の11時頃には閉めることの多い店だが、客が遅くまでいると、それに合わせて開けてくれる。

 この日もそうだった。

 灯りを半ば落とした店内に足を踏み入れると、客は、カウンターの隅にある隼鷹だけだ。

 俺に続いて叢雲が入ってきたのを見て、わずかに不思議そうな顔をしたが、すぐに何事もなかったかのように飲酒を再開した。

 鳳翔さんの方はというと、一貫して眉ひとつ動かさず、店の奥からタオルを1枚持ってきて「どうぞ」と手渡してくれた。叢雲がタオルで髪を吹いているうちに、俺たちの上着を手早く干してくれている。手際はいいし、余計な言葉もない。

 

「食べますか、飲みますか?」

 

 明らかにキッチンの火を落としているのに、こういう聞き方をしてくれる。

 ほとんど即答で、

 

「飲みます」

 

 と言ったのは、俺ではなく叢雲だ。

 

 

 ーーーー

 

 

 叢雲の話しは尽きなかった。

 1杯を飲み、2杯を飲み、夜は更け、隼鷹がいなくなっても酒杯を傾ける速度は変わらなかった。

 これほど酒に強いとは予想してなかった。

 俺はひたすら聞き手に徹していただけだ。

 多くの言葉が、後悔や自己嫌悪やその他数えきれないほどの複雑な感情の波に乗って流れていった。

 時間がどのくらい過ぎたかはわからない。

 

「大丈夫ですか?」

 

 柔らかな声が聞こえて、顔をあげれば、鳳翔さんの穏やかな顔が眼前にあった。その細い腕がコップになみなみと水を注いでくれる。

 これを受け取りつつ、ふと傍らを見れば、卓上に突っ伏して静かな寝息をたてる叢雲の横顔があった。すっかり乾いた銀髪が、白い頰にさらりと流れ落ちた。

 

「大丈夫では、なさそうですね」

 

 かすかに鳳翔さんは苦笑する。

 俺はちらりと叢雲の横顔に視線を落としてから、鳳翔さんを見上げた。

 

「みんなには内緒にしてください」

 

 言われた鳳翔さんは、少し意外そうな顔をしてから微笑んだ。

 

「提督さん、ここは居酒屋鳳翔ですよ」

 

 それだけの応答だった。

 鳳翔さんはいつもの湯のみに酒を注ぎ込む。俺は受け取ったコップを持ち上げる。

 言わずもがなのことを口にする無粋な客に、あくまで端然とかまえた鳳翔さんが、乾杯と応じてくれたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 午後の鎮守府の前に一台の車がすべりこんできた。

 俺と、江下さんは、鎮守府の入り口前のフロアで、ガラスごしに静かにこれを眺めていた。数人の艦娘が、車に駆け寄り、こちらへと誘導している。太陽が燦々と差し込む昼下がりで、今から行われることが想像できないほど穏やかだ。

 文字通り通り抜けるような快晴だった。

 

「本当によろしいので?」

 

 俺の問いに、江下さんは穏やかにうなずいた。

 

「ええ。今更、ナナミに何か言うことはありません。それに、顔を合わせる度胸もありませんから」

「また平手打ちされても困りますからね」

 

 俺の声に、江下さんはかすかに肩を動かして笑った。

 俺が見つけ出したメモリースティック、そして江下さんが引き渡した相手も明らかとなり、逮捕が決まったのだ。

 それにしても、と首だけめぐらして、江下さんが俺を見上げた。

 

「車椅子だなんて、必要ありませんよ、八幡さん。私は普通に歩けます」

「それだけ青白い顔で言われても説得力がありません。反論は健康になってから聞きましょう」

 

 喘息を持っていたようで、昨晩は倒れたのだ。今こそ落ち着いてはいるが、精神的にも肉体的も安心できる状態ではない。

 

「貴方が務めていた鎮守府には新しい提督が着任する予定です。心配はいりません」

「問題は、私が立ち直れるかどうか、だけですからね」

 

 俺は黙ってうなずいた。

 こうして話していれば、軍事機密を持ち逃げしたような人物とはとても思えない。思えないことが恐ろしいことだ。

 しばし陽ざしの心地良さをゆだねるように沈黙していた江下さんが、やがてそっと口を開いた。

 

「八幡さん、ナナミはどうなってます?」

「休暇をとってます。鎮守府でも姿を見ていません」

「そうですか…………」

 

 格別落胆した様子もない。

 

「かわりに預かり物があります」

 

 俺の声に、江下さんは首を傾げるように視線をあげた。

 小脇に抱えていた紙袋を何も言わずに差し出せば、江下さんもまた黙ってこれを受け取った。カサカサと袋を開ける音に続いて、かすかに息を呑む様子が伝わってきた。

 明日さんの手中で震えたのは、一冊の書物であった。

 

「これは…………」

「あなたがずいぶん前になくしたとおっしゃっていたもののようですね」

 

 鮮やかな陽光のもと、表紙の上の文字が見えた。

 

 "葉隠"

 

 その上巻であった。

 

「ナナミはずっとこれを…………」

「あなたの大切な本が借りたままになっていたことを案じていたようです」

 

 江下さんの青白い手が、そっと上巻の文字を撫でた。何度も読み返したであろう中、下巻に対して、この上巻は、よほど大切に保存されていたのか、皺1つなく、傷1つ見えなかった。

 俺はポケットから缶コーヒーを取り出して、これを開栓した。

 

「叢雲は、あなたに会えたことを感謝している、と言ってました」

「ナナミが?私は彼女に何ひとつ…………」

「艦娘でめげずに戦えているのは、あなたに出会ったからだそうです」

 

 江下さんは軽く目を見張った。

 

「喘息を持ちながらも、懸命に剣道をしているあなたを見て、決心したそうですよ」

 

 あの夜、叢雲自身が語った言葉だった。

 さしたる将来の夢もなく、ひとりの教師に恋心を寄せていただけの叢雲に、艦娘として戦う具体的な決意をもたらしたのが、江下さんの存在であったのだ。

 叢雲がどんな困難にも立ち向かい続けられたのは、このひとりの教師のすがたがいつも胸のうちにあったからに違いない。あの、いつでも端然とかまえて揺るがぬ叢雲の態度の根底には、5年前の思い出が確かに息づいているのだ。

 江下さんは俺の言葉に何も答えなかった。

 左手をあげて、そっと両の目頭を押さえただけであった。

 訪れた静寂の中で、俺は黙って缶コーヒーを傾けた。

 

「俺もひとつ、聞いておきたいことがあります」

 

 そんな問いかけに、江下さんは何も答えず沈黙をもって先を促した。

 

「あなたは、5年前、叢雲との件で学校を辞めさせられた時、弁明の余地などなかったと言いましたね」

 

 江下さんはかすかに目を細めてから、静かにうなずく。

 

「しかしどうやら、叢雲の話とはいくらか齟齬(そご)があるようです」

「齟齬?」

「はい、あなたは叢雲と会っているところを見つかって、ただちに弁明の余地がないほど窮地に追い詰められたわけではなかった。むしろ、弁明すべきときに、口を閉ざし、学校長や目撃した士官たちに対して、事情を話す責務をおこたった。結果、状況は窮迫し、学校側もあなたをかばいきれず免職になった。違いますか?」

 

 穏やかな時間の中で、江下さんは細めたままの目でじっと俺を見上げていた。

 

「なぜ、弁明しなかったんですか?」

「自分には嘘はつけなかったのです」

 

 静かな声が応じていた。

 一呼吸置いて、江下さんはすぐに語を継いだ。

 

「たとえ、すべての人を騙せても、自分には嘘はつけません」

 

 深みのある、胸の奥底にまで響く声であった。

 

「たとえ、どんなに困難な状況でも、私は嘘をついてまで目を背けることはできません。誰も気にしない些細なことだろうと、私は目を見開いてそれを見たいのです」

 

 江下さんは、ゆるりと窓外へと視線を戻し、まぶしげに太陽を見上げた。

 

「ナナミに会えて、俺は本当に幸せだったのですよ」

 

 八幡さん!と聞こえてた声は、車から降りてきていた男だ。入り口を抜けて、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。どうやら時間はここまでらしい。

 

「お別れの時間ですね」

 

 江下さんは、ゆっくりと車椅子を動かし始めた。

 その背に日が差して、なにやら江下さん自身の背が輝いているようにすら見えた。

 駆け寄った警察に、何か告げたあと、すぐに車の方へと進み始める。

 俺はその背に向けて、にわかに明らかな声で告げた。

 

「武士道の根本は、死ぬことにつきると会得した」

 

 俺の声に、江下さんは車椅子を進めていた両手をピタリと止めた。やがてゆったりと肩越しに振り返り、朗々と響く声で応じた。

 

「死ぬか生きるか、二つに一つという場合に、死をえらぶというだけのことである」

 

 言って江下さんは破顔した。

 その大きな手が、まるでこれからの困難を切り開くかのように、大きく振り上げられた。

 

「また会える日を。八幡さん」

 

 車の扉が開き、江下さんの姿を隠した。

 俺は車が立ち去った後もその後ろ姿を捉えていた。

 

 

 ーーーー

 

 

「大切な人を見送りもせずに休暇を取るというのは、らしからぬ行動だな、叢雲」

 

 ガラス越しの景色を眺めつつ、俺はため息混じりに告げた。

 

「休みを取らないと、ゆっくり見送ってあげられないでしょ」

 

 淡々とした応答に、俺はそっと背後を振り返った。いつのまにか立っていたのは、叢雲だ。

 黒のジーンズに藍のセーターという地味にな私服で、ポケットに両手を突っ込んで立っていた。

 周りの艦娘が不思議そうな顔を向けているのは、叢雲の私服姿と言うのが相当珍しいからだろう。

 

「ちゃんと渡してくれたわよね?」

「葉隠なら心配ない。それにしても君があんな書物を、わざわざ借りてまで読むやつだったとは思わなかった」

「読むわけないじゃない」

 

 あっけらかんとした応答に、思わずまゆを寄せる。

 叢雲は肩を軽くすくめて当然と言わんばかりに、

 

「本って、借りたからには返しに行かないといけないでしょ?つまりはソウちゃんに会う口実をつくるために借りたのよ。あんな難しい本、私が読めるわけないじゃない」

「胸を張って言うような内容じゃないだろ。道理で、10年も経ってるのに傷1つない新品同様の本だと思ったが…………」

「あ、そんな呆れ顔をして。あれは一生懸命傷がつかないように大切にしていたからよ。一項も読んでないわけじゃないんだから」

 

 わけのわからない言い訳がかえってくる。

 

「せっかくの休暇だ。いつまでも鎮守府にいないで、ゆっくり休め」

 

 俺の声に、叢雲は切れ長の目を俺に向けて、にっこりと微笑んだ。

 

「そうするわ。今日はゆっくり休ませてもらって、明日からまた頑張って働かないと」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃない、なんて、2度と言わないわよ」

 

 思いのほか、活力のある声であった。

 見返せば、叢雲はかすかな微笑を浮かべて付け加えた。

 

「それに、変人に、これ以上、振り回されるわけにもいかないからね」

「意味深にも聞こえなくない言い方だな」

「意味深に聞こえるように言ってるのよ」

 

 例によって切れ味のよい駆逐艦だ。

 右手の缶コーヒーを飲み干してから、俺は静かに執務室へと足を向けた。

 とたんに背後から、

 

「ありがとうね、司令官」

 

 聞き慣れた声で聞き慣れぬ言葉が届いた。

 思わず振り返れば、まっすぐな目を向ける叢雲の姿がある。

 その目元に言葉にはならない多くの感情が垣間見えた。かける言葉なんて持ち合わせているはずもない。数瞬戸惑って、とりあえず偉そうに応じてみた。

 

「例なら、山本常朝に言ってくれ」

「嫌よ、軍神八幡に言ってるんだから」

 

 再び切れのいい応答が聞こえて俺は苦笑した。この場ではどうも頭の回転の速さは、向こうに分があるらしい。

 じゃあね、と告げて叢雲は身を翻した。

 そのままフロアを抜けて、ドアをくぐり、陽ざしの下へと抜け出していく。

 俺はただ目を細めてこれを見送るばかりだ。

 5月の陽光に溶けていく叢雲の足取りは、まばゆさと優しさと律動感という、彼女らしい輝きを、わずかも失っていなかった。






次回からは赤城視点中心となります。また、少しずつ提督である八幡の正体が少しずつ明るみになっていきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 何気なく見た窓の向こうには、海が穏やかに波打っている。

 その海は光を反射してきらきらと輝く。一見、穏やかな海ではあるが、それとは裏腹に実態としては、一番危険な場所である。こんな時代に生まれた人たちはもう生で海を見る機会もないと思うと、気が滅入り、知らず、嘆息した。

 今年の春は到来が遅いと言われていたが、5月に入れば春らしく不安定な気候が続いている。しかし、今日はいつにも増して気温が高く、過ごしにくい。

 私は半ば陶然としつつ、窓の外の景色から今いる食堂へと視線を移した。

 多忙のこの時間帯は、食堂には人はほとんどいなくて閑散としている。今は、わたしともう1人のかちゃかちゃと食器の音が響くだけだ。

 眼前には、山盛りのご飯にたくさんのおかずが並んでいる。初めこそはこの量に周りの人はとても驚いていたが、時が経つにつれ大して反応もしなくなった。

 

「あれ、赤城さん?」

 

 ふいに降ってきた大声は、黒髪ツインテールの女の子のものだ。

 ゆっくりとこちらに歩み寄り、

 

「戻ってきているのなら、1つくらい連絡してくださいよ〜」

 

 ごめんね、と応じれば、瞬く間に彼女ーー瑞鶴は嬉しそうな顔をする。

 そして、彼女の視線はわたしの目の前の女性に注がれた。

 

「何?」

「いつもなら、声を小さくしろとか何とか怒るのに、今日は何も言わないなー、と…………」

 

 目の前の女性ーー加賀さんは、一度ため息を吐いてから、

 

「今日は幸い機嫌がいいのよ」

 

 また目を閉じて、続けて言う。

 

「それにせっかく赤城さんが久しぶりに戻ってきたのだから、五航戦ごときで大騒ぎするのは時間の無駄よ」

 

 返事はない。

 いつもは加賀さんにこう言われると、噛み付くのが瑞鶴であるが、この日ばかりはおとなしかった。

 

「…………気色が悪いわよ」

「私だって、その辺の弁えはちゃんとありますぅ!」

 

 瑞鶴は大声で言った。

 

「はぁ…………でも、赤城さんがいないとやっぱり寂しいです。なんで、あんなところに派遣なんか…………」

「上からの命令ですから、仕方ありませんよ」

 

 上、と言っても、大本営という艦娘にとって最大限に上ではある。艦娘にとって、大本営の指示を無視するというとこは、艤装なしで海に出ていくようなことだ。つまりは甚だ危険な行動になる。あとで大変なしっぺ返しを食うだろう。

 ゆえに私は、5月から派遣として、あの民間企業にいる。

 

「五航戦」

 

 加賀さんは再び告げた。

 

「今日は赤城さんが帰ってきたのよ。とりあえずは、赤城さんと静かに過ごしましょう」

 

 にわかに返答はなかった。

 視線を向ければ、この五航戦が柄にもなく、静かに何度も大きくうなずいていた。

 

 

 ーーーー

 

 

「5月からここに行ってくれ」

 

 ある日突然、出し抜けに提督がそう言ったのは、4月の頭のことだった。

 深夜に執務室に呼ばれた時の話だ。

 驚く私に対して、提督はじっと私を見据えたまま付け加えた。

 

「あそこの働きは私たちも随分と助けられている。そこで戦力の援助として赤城に行ってもらいたい」

「しかし、なぜ私が…………?」

「あそこの提督は佐久間さんの知り合いらしいんだ。で、君は佐久間さんの教え子。つまり、弟子同士だから、すぐに打ち解けられるだろう、というわけだ」

 

 そのことを、加賀さんは元気のない顔でうなずいた。

 

「急な話ですね」

「ええ、でも命令には背けません」

 

 ですが、いきなりあそこに…………、とため息混じりに加賀さんは応じた。

 そして、今、民間軍事会社"鎮守府"の提督、もとい社長の八幡さんから、休暇をもらい、一時的にこの横須賀鎮守府に戻ってきたというわけである。

 いきなり戻ってきたのにも関わらず、加賀さんはいつものように昼食に誘ってくれた。

 

「向こうでの調子はどうですか?」

「いつも通り、と言った感じですかね。みんな優しくしてくれます。ただ、ここよりは忙しいですけどね」

「無理はあまりしないでくださいよ、赤城さん」

「大丈夫ですよ、その辺は八幡さんがしっかりと管理してくれてます」

 

 八幡さん?と瑞鶴は首を少し傾げて、少し思案したのち、

 

「あっ!八幡さんって、前ここに戦闘部隊として所属してた人ですよね!」

「あの人が、優しい…………?」

 

 今度は加賀さんが首を傾げた。加賀さんは、まだ現役の頃の八幡さんを見たことがあるらしいが、その時の印象はまるで機械のようだったらしい。加賀さんも似たようなものな気がするが、口には出さない。

 

「そういえば、前に八幡さんがここに見学に来てましたよ。その時は、なんか呆けていて、軍神とも呼ばれた人にはとても見えなかったなぁ…………」

 

 私の八幡さんに対する印象は、加賀さんのよりも瑞鶴の方に近い。指揮などを見る限りは、優秀な人ではあるようだが、なんだかいまいち覇気がない。

 

「そういえば、赤城さん」

 

 加賀さんが少し改めて、言った。

 

「軍事機密が持ち出された件について、気になる噂を耳にしたんですが」

「噂?」

 

 その件は、地方鎮守府の提督を務めていた男が軍事機密を持ち出し、誰かに渡そうとしたことだ。八幡さんがそれを見透かして、あらかじめ手を打ち、なんとか漏洩は防がれた。持ち出した当人は、叢雲さんと何か関係があったらしく、一悶着はあったものの、無事逮捕された。

 逆に、すんなりいかなかったのが受け取る側の方だ。その人物は、どうやら日本で最大規模の企業である"ユウナギ"の社員だったらしい。このユウナギという会社は、とにかくあらゆる事業に手を伸ばしており、よくない裏のことにも手を出していると噂されている。

 そのユウナギ社は、この事件は社員個人がやったとして、関連を否定。証拠もないので、そう処理するしかなかった。

 

「なんでも、その八幡さんはユウナギと繋がっているとか」

「いやいや、先輩。いくらなんでも、そんなことありえませんよ」

「どうかしら。そもそも、その八幡さんが事件を解決したらしいけど、ただ鎮守府に滞在していただけで、そんなこと分かるかしら?」

「八幡さんが言うには、たまたま見つけただけらしいですけど」

「それでも、少し怪しいということは確かです、赤城さん」

 

 加賀さんは少し人見知りなところがある。きっも、私のことを心配して言っているのだろう。

 

「大丈夫ですよ、少し変わった人ですけど、戦場を経験しているせいか、指揮もものすごく的確なんですから」

「…………そう、ならいいけど」

「あ、航さんは元気してました?」

 

 瑞鶴はにわかに身を乗り出して聞いた。

 広瀬さんは瑞鶴の指揮官でもあったから、その分気にかけているのだろう。大和さんは相変わらず、戦場に出てばかりだ。

 

「ええ、元気ですよ」

「そう、よかった…………」

「航さんがいなくなってから、指揮官はおっさんばっかりでつまんないですよ。戻ってこないかな…………」

 

 広瀬さんは、指揮の才能もさながら、器量もよく、人当たりも良かったため、艦娘からの人気がとても高かった。それに年も若いことも親しみやすくさせたのだろう。彼が大和と結婚した時は、それなりの波紋を呼んだが、彼への信頼は揺るぎないものだった。

 ただ、上の人との仲は良くなく、彼に子供ができてからはより風当たりが強くなってしまい、そのまま指揮官を辞めてしまった。

 

「広瀬さんは、八幡さんと仲がいいみたいだから、戻ってくることはなさそうよ」

「なら、八幡さんがこっちに来たら広瀬さんも来るのかな?」

「ふふ、それも諦めた方がいいかもね。もう戻る気はさらさらないって言ってたから」

 

 ちぇ、と瑞鶴は少し不貞腐れたような顔をしたが、すぐにいつもの明朗な顔に戻った。

 

「ん?赤城じゃないか」

 

 今度は柔らかな男性の声が後ろから降って来た。

 

「あ、提督、お久しぶりです」

「お久しぶり、調子はどうだい?」

 

 柔らかな笑みを見せながら、提督は尋ねた。

 

「いつも通りです」

「ふむ、どうだ?八幡くんの指揮はすごいだろ?」

「ええ、さすが生身で前線で戦っていただけに、判断力はどの人よりも優れてます」

「そうだろう、是非ともこの鎮守府に来てほしいものだが…………」

「断られたんですね」

「はは、一時期は迷ってくれてたみたいだけど、今はきっぱりと断られてしまったよ」

 

 すると、提督は少し陰りのある顔を見せた。

 

「どうしたんですか?」

「いや、まぁ、来てくれないなら、せめて応援として来てくれないかと依頼したんだが、それすら断られてしまってね。彼の応援もあれば、作戦もスムーズにいくのだが…………。もしかしたら、私が彼の癪に触ることをしてしまったのかもしれないね」

 

 ほんと参ったよ、と苦笑とともに提督は言った。

 加賀さんと瑞鶴の方は少し怪訝な顔をした。噂をの件も重なり、八幡さんを疑っているのだろうか。

 

「ですが、あの会社のスタンスとしては、どんな依頼も引き受けていると聞いています。たとえ、どんなにプライベートなことでも」

 

 加賀さんの言う通り、八幡さんはどんな依頼も引き受けてきた。その内容が、クルージングや、釣りのためだとしても。なのに、鎮守府の方からの依頼を拒否するのは少し疑問が残る。

 

「それなら、私から彼に頼みましょうか?」

「本当か!?頼む。今度の作戦では、どうしても彼の応援がほしいから」

「はい」

「ありがとう。それじゃあ、私はこれで。久しぶりに戻ってきたんだから、他の娘にも顔を出してやってくれ」

「分かりました」

 

 提督はそのままスタスタと食堂を去っていった。

 そして、再び私は久しぶりの友と楽しく談笑しながら、過ごした。

 

 

 ーーーー

 

 

 雨という日は、艦娘にとって厳しい気候だ。

 なかでも梅雨も近いこの時期は、天気も変わりやすく、雨や風に翻弄されながら戦うことで、被弾も増加して、昼夜問わず、ドッグは満員御礼を掲げることになる。

 当然、被弾はしなくても疲労は普段よりも多く積み重なるが、出撃命令が無くなる気配はない。

 

「お疲れですか?赤城さん」

 

 食堂でぼーっとしていた私の耳に、祥鳳さんの声が聞こえた。

 朝からノンストップで働きづめでありながら、テキパキとした挙動には微塵も衰えが見えない。ここの艦娘は、注意力が低下しがちなこの夕方でも、一糸乱れず緊急事態に対応できる。

 

「ま、まぁ、10分前に帰投したばかりですから…………それより祥鳳さんこそ、今日は出撃予定はなかったんじゃないですか?」

「突然の依頼をで、急遽出撃になったんです。提督の話だと、漁の護衛だそうです」

 

 思わずため息が漏れる。

 

「漁、ですか…………ほんとうにいきなりですね」

「いつものことですから。こればかりは、赤城さんが悩むことじゃないですよ」

 

 祥鳳さんのさりげない声が、慰めを与えてくれる。

 たしかに漁士にとって、海に出られないことは死活問題だ。しかし、多忙を極めるこの鎮守府で、突然依頼をするのは困ったこと。あらかじめ予約してくれれば、こっちもキチンと対応できるのに、突然依頼というのは、どうにも理不尽にすぎて言葉が出ないが、騒いだところで、どうにかなる話でもない。ここの戦力をうまく使って切り盛りして成り立っている状態だ。

 

「それより少し手伝ってほしいことがあるんです」

 

 見返す私に、祥鳳さんがため息混じりに答えた。

 

「さっきやってきた呉鎮守府の提督さんが…………」

 

 私は眉をひそめて、疑問を持ちつつも、立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 北川龍三(きたかわりゅうぞう)、というのが呉鎮守府の提督を務める人の名前だ。

 いきなり秘書艦とともにやってきた82歳の男性だ。

 

「し、司令官さん、いい加減、帰った方がいいと思いますよ…………」

 

 応接室で聞こえた声は、秘書艦の羽黒という重巡の声である。

 中をのぞけば、龍三老人が、ちょこんとソファの上に座っている。薄くなった頭髪は真っ白で、穏やかな笑顔で座っている姿はどことなく仙人めいた趣がある。が、その穏やかな笑顔とは裏腹に目には鋭い光を持ち合わせており、只者ではないことを告げている。

 今は、提督は不在、それに長門さんも、さらには秘書艦の叢雲さんは出撃中、それで祥鳳さんは私を頼ったわけだ。

 応接室に入ってきた私を見て、すぐに羽黒が上ずった声をあげた。

 

「あ、赤城さん、ご、ごめんなさい!司令官さん、ここの提督に会うまでは帰らないと、聞かないんです」

 

 秘書艦の方は、いかにもか弱そうな艦娘だ、飄々と構えている指揮官に比べれば、とても頼りない。成人ではあるようだが、色白の頰にどことなくまだ10代の幼さが窺える。

 ソファの上の龍三老人は、少し困ったような苦笑を浮かべて、

 

「今は不在ということは重々承知してます。ですが、今日は八幡さんが戻ってくるまで、ここで待たさせてください」

 

 丁寧な口調だが、そこには一歩も引く気は微塵もないという強い意志が込められていた。龍三老人にとって、何か大事なことがあるのだろう。

 

「待つことくらい私がやりますから、司令官さんは戻った方がいいです」

「羽黒、お前も忙しい身だろう。このことくらい、わしがやる」

「今の司令官さんの状態で放っておくことが心配してなんですよ」

「えっと…………北川さんはどこか具合が?」

「最近、やっと具合が良くなったばかりなんですけど…………」

 

 困惑気味の艦娘に向かって、あまり威圧的な問いただすのも気がひけるので、私はため息を胸に仕舞いつつ、もう一度龍三老人の方に目を向けた。

 たしかによく見れば、頰は痩せこけていて、腕も枯れ木のように細い。しかし、精神までは衰えていないようで、目はしっかりとこちらを見据えている。

 

「司令官さん、昔、八幡さんという人と何かあったみたいで…………」

 

 傍らからためらいがちな秘書艦の声が聞こえた。ちらりと目を向ければ、困惑気味の羽黒が続ける。

 

「その"ケンカ"というか…………、そういう感じらしいんです。もちろん、殴り込みに来たわけではなくて、ただ話がしたいだけなんですけど…………」

 

 なるほど、と、ここは黙ってうなずくしかないようだ。

 

「ですが、今日はもう遅いですし、日を改めたらどうでしょうか?」

「そうですか、しかし…………」

 

 と老人は首をかしげ、

 

「普段この時間帯は執務していると聞いたものですから」

「今日は突然出張が入ったみたいなんです」

 

「そうですか」ともう一度軽く首をかしげた。

 その穏やかな風貌は、一目見ればただの好々爺のように感じるが、あの目を見ると八幡さんと何かあったのか気になるところだ。

 

「とにかく、八幡さんに連絡しておきますから、また後日来てください。そうした方が確実ですから」

 

 告げれば龍三老人は、なおも困ったよう顔で首をかしげたが、いくらか甲高くなった羽黒の声を受けて、ようやく「そうかい」と諦めたようにうなずいた。

 

 

 ーーーー

 

 

「やっと帰ってくれましたね」

 

 空母寮に戻った私に、祥鳳さんの安堵した声が聞こえた。と同時に、とんと卓上に置いてくれたのは、お茶だ。

 

「とりあえず、一服してください」

 

 こういう心遣いは本当に嬉しい。

 ここの鎮守府は、横須賀とは勤務体系が異なり、基本的に夜の監視は、昼間の出撃とは別仕事となっている。

 つまり、横須賀では夜の監視と昼間の出撃が被らないようになっているのだが、ここは昼間の出撃と、夜の監視のシフトは別となっているのだ。この制度の問題点は、運が悪ければ一日中働く羽目になる。さらに、運が悪ければ突如出現命令がきたりするから困った制度だ。しかし、提督である八幡さんはシフトなんてものはないため、基本無休で働かなければならない。

 要するに、私たちだけが疲れているわけではないのだ。そもそも死にそうなくらい顔色が悪い八幡さんを見れば、口に出して「疲れた」だなんて言えない。

 祥鳳さんはそれを知って、私に気遣いをしてくれているのだ。

 私はお茶を飲みつつ、帰ったばかりの龍三老人の顔を浮かべて、あることに気づいた。

 

「どうしましたか?赤城さん」

「北川龍三さんって、結構有名な人ですよね」

 

 応じた声に、祥鳳さんは首をかしげた。

 私は頭の中の記憶を探して、ようやく思い出した。

 

「あの人、艦娘による艦隊の初めての指揮官じゃないですか!」

「え、そんな人ならどうしてまだ提督業を?」

 

 祥鳳さんのつぶやいた疑問に、私は静かにうなずいた。

 初の艦娘の指揮をして、多大な功績を残したはずだ。なんなら今佐久間さんが就いている元帥だってなれるほど。

 そういえば、と祥鳳さんは思い出したかのように口を開いた。

 

「そういえば、3日前に八幡さんに連絡したらしいんですけど、出てくれなかったって」

「3日前?」

 

 思わず視線を向ける。

 

「はい、羽黒さんが言うには」

 

 言葉に誘われるように、私は軽く目を寄せた。昨日、提督が言ったことと重なるものがある。

 

「まぁ、あの人も少し抜けてるところもありますからね」

 

 祥鳳さんはそう言うが、私はそうだとは思えなかった。

 

 

 ーーーー

 

 

「お疲れ様、赤城」

 

 夕方の執務室に八幡さんの、無機質な声が響いた。

 監視明けの午後のことだ。ちょうど出撃から帰投したところだった。その出撃の内容としては、貿易船の護衛。この依頼のルートでは、タ級などの比較的強い深海棲艦と遭遇しやすいのだが、八幡さんは、特に緊張した様子もなく、的確に指示してくれていた。

 

「ご苦労様、赤城。見事な活躍だったな」

 

 執務の手は止めずに、八幡さんは言う。

 

「私は言われた通りに動いただけです」

「そんなことはない。さすが佐久間さんに教わっただけあって、いちいち読みが正確だから、安心して指示ができた」

 

 褒められて悪い気はしないが、これだけ非の打ち所がない指示をされては、単なる社交辞令にしか聞こえない。

 私は「どうも」と気の無い返答をしてのち、話題を転じた。

 

「…………北川龍三さん?」

「4日前に、連絡したらしいですが」

 

「3日前ね」と八幡さんはつぶやきながら、懐から携帯を取り出した。私が少し驚いたのは、出てきたのがいわゆる"ガラケー"であったからだ。

 

「どうした?」

「いえ、今どきガラケーも珍しいな、と」

「ああ」

 

 答えた八幡さんは、携帯を見下ろしてから、すぐに苦笑した。

 

「スマートフォンとか勧められたが、別に電話やメールができさえすればいい」

 

 青色のガラケー無造作に開き、

 

「それにあまりハイテク機器には強くないんだ」

 

 パソコンを使っておきながら、と言いたいが、ここはそんなことを言ってる場合ではない。「で、何だっけ?」と問う八幡さんに私は短く応じる。

 

「北川龍三さんです」

「1日で山ほどの連絡がここにくるんだ。そのうちの1人なんて記憶にない」

 

 パソコンを立ち上げ、打ち込みを始めながら告げる。

 

「呉鎮守府の提督で、あなたに会いたいと連絡した方です。昨日訪れたんですが、昨日は八幡さんが不在でしたので」

 

 八幡さんが動かしたばかりの手を止めて、こちらを顧みた。

 今朝上がった報告書の中に、その件が記載されている。

 

「叢雲さんから伝えられているはずですが」

 

 わずかに眉を動かした八幡さんは、しかしその直後には、参った、といった顔で肩をすくめた。

 

「すまん、忘れてた」

 

 携帯をしまい、ため息をついた。机の片隅にあるコーヒーは、自分で淹れたのだろうか。今はそれを気にしている場合ではない。

 

「そうか、呉鎮守府の提督か…………」

 

 と頭をかきつつ、嘆息する。

 ちょうど「司令官!」と澄んだ声をあげて、顔をのぞかせたのは、朝潮だ。

 

「報告に来ました」

「そうか、悪いが報告は長門にしといてくれ。ちょっと今忙しいんでな」

 

 はい、と歯切れのよい返事とともに出て行く朝潮を見送ってから、八幡さんは私に視線を戻した。

 

「で、同じ鬼の佐久間の弟子としては、先輩のこの体たらくに、苦言を呈したくなったと?」

「いえ、そういうつもりはありません。もとよりここはどの鎮守府より忙しいですし、1つ1つ気にしてはきりがありません」

「お?かばってくれるて嬉しいな。先輩は一安心だぞ」

 

 おどけた様子で笑う。

 その不敵な笑みの底には、実績と自信に裏打ちされた揺るがぬものが確かにある。

 

「ただ…………」

 

 私は一旦言葉を切って、頭の中を整理した。

 

「昨日、叢雲さんに頼んで、ここ一週間の依頼を洗いざらい調べてみました。すると、何件か断っている依頼があります」

「…………まぁ、さすがに全部が全部受けるわけにもいかん」

「その断っている依頼は基本的に大本営に所属する鎮守府からのものです」

「へぇ…………」

 

 ため息をついて、ふいに気づいたように恨みがましい目を私に向けた。

 

「なんだ、結局赤城、俺を無能扱いしにきたのか」

「違いますよ。むしろ、他意を勘ぐってるんです」

 

 八幡さんは口元だけは笑みを浮かべたまま、窺うように私を見た。

 私は心中で粟立つものを覚えつつ、あくまで超然たる面持ちを崩さぬように心した。

 

「もう少し分かりやすい言葉で言ってくれないか?」

「最初は北川さんのことはお疲れだったのだろうかと思っていました。しかし、八幡さんは横須賀からの依頼も断ってます」

 

 束の間の沈黙にも、八幡さんは表情を一切変えなかった。

 再び頭をかきむしりながら、

 

「つまり?」

「八幡さんが、海軍関連の人を毛嫌いして、意図的に避けているように見えるということです」

 

 再び沈黙が舞い降りた。

 廊下の方からは、艦娘たちがバタバタと次の出撃の準備を始めている音が聞こえてくる。扉一枚挟んで、際どい対話がなされていると気づく者はいない。

 あくまで無表情を貫く私に対して、八幡さんは卓上の書類を眺めるだけだ。

 

「失礼は承知の上ですが、八幡さんほどの人が、北川さんの連絡を忘れただなんてことは、どう考えても不自然です」

 

 書類を眺める八幡さんは、なおも口を開かない。これだけのことを言われながら、口を開かないことが、すでに問題なのだ。

 

「納得できる説明をいただけませんか?」

 

 自分の声が、明日甲高く室内に響くような心地がした。

 八幡さんは、やがてゆっくりと頭をあげ私を見据えた。

 束の間私を見返して、かすかなため息とともに唇を動かしかけたその時、

 

「あれ、どうした?」

 

 ガチャリと扉が開いて、そんな能天気な声が響いた。

 

「貿易船の方は、終わったのか?」

 

 室内の緊迫した空気を一瞬して破壊したのは、ビッグ7こと長門さんである。

 とたんに八幡さんは、まるで何もなかったかのように、飲みかけのコーヒーを手に取った。そのまま、せっかく何か言いかけた口元にカップを押し付けて、そのままコーヒーを飲み干した。

 

「特に何もない。ちょうど赤城と一息ついていたところだ」

 

 にっこりと笑ってそう答える。

 

「それはお疲れだな」

「長門こそどうした?緊急でもないのに、執務室に顔を出すなんて」

「いや、たくさんの依頼がやってきてだな。急ぎのものがあるから、知らせに来たわけだ」

 

 おお、ありがとう、助かるよ、と微笑んで、八幡さんは立ち上がると、一瞥もくれずにあっさりと執務室を出て行ってしまった。呼び止める隙なんてありもしない。

 にわかに荒涼たる砂丘に放り出されたような心持ちで佇立したいる私に、長門さんが不思議そうな顔を向けた。

 

「あれ、何かあったのか?赤城」

 

 私は、飄然と構えたビッグ7の顔をジロリと見て答えた。

 

「長門さん、わざとやってません?」

 

 言われた方の長門さんは、なんのことだ?といつもの顔で、ニヤリと笑って見せたのだった。









ここまでで、何か疑問やおかしな点がありましたら教えてください。また、この艦娘を出して欲しいやこんなシチュエーションがいいなどと要望がありましたら活動報告欄のアンケートにてお教えください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



前回から大幅に遅くなってしまいました。すいません。





 "つまり、こっちからの依頼を断っていたのは、海軍が嫌いだから、というわけね"

 

 電話から加賀さんの怪訝そうな声が聞こえた。

 夜半のことだ。ようやく部屋に戻ったすぐに、このモヤモヤした気持ちをどうにかしたくて加賀さんに連絡したのだ。

 

「いえ、本当にそうなのかは分かりません。ただ、どんな個人的な理由の依頼だって受け入れているのに、ピンポイントで他の鎮守府からの依頼を断るというのがとても不自然なです」

 "だから、海軍関連を嫌っているんじゃないか、ということになるのね」

「ええ…………でも、全部が全部断っているわけでもないんです。その場合は、最低限の対応は行ってはいるけど…………」

 "最低限、では、困ります"

 

 私は静かに頷きつつ、先ほど使っておいたコーヒーに口をつけた。長門さんに教えてもらったコーヒーの淹れ方は、こんな時に飲むのが一番だ。

 

 "ですが八幡さんという人は、艦娘たちからの評判もいい人なのよね?"

「そうです。軍人としての経験は申し分なくて、他の人の意見も軽視しない。おまけにどんな依頼にも手を抜かないから、常に被害は最小限にとどめられている。ほとんど非の打ち所がない人って言っても過言ではないです」

 "だから余計に気になるのね。そんな人が海軍を嫌う理由が…………"

「欠点と言えば、味覚が人よりかなり変わっているところくらいですから」

 

 私の言葉に、味覚が?と不思議そうな声を出したが、多くは問わなかった。

 

 "彼のことに関しては私も少し気になってたから、ちょっと調べてきたわ"

「本当ですか?でも、そう簡単に八幡さんの情報だなんて…………」

 "大丈夫よ、青葉に頼んできたから"

 

 青葉、というワードが出てきて、なんとなく信頼できるものと思ってしまうから不思議だ。彼女はパパラッチまがいな行動をしているが、嘘はつかないのだ。

 

 "八幡武尊(ほたか)、っていうのが彼のフルネームよ"

「名前だけだと随分と勇ましそうな人ですね」

 "実際の戦績も勇ましいものよ。艦娘でもないのに、相手を轟沈させた数は100を超える。一方で、自軍の被害はほぼ0。一時期は艦娘よりもずっと実用的だと言われてたわ"

「は、はぁ…………」

 

 轟沈数は100を超える?それなのに自軍の被害は0だなんて、一体どのようにしたらできるのだろうか?

 

 "これだと悔しいけど軍神と呼ばれるのは納得よ。まあ、私が気になるのは他のところだけど"

「気になるところ?」

 "彼、軍学校出身じゃないのよ"

「え?」

 

 基本的に軍人になるには、軍学校などの専門の学校を通わない限りなることはできない。ただ一つ例外として、艦娘になればそんな学校も行かなくてもいいのだが、艦娘になれる人はほんの一握りだし、そもそも男性は艦娘にはなれない。

 

 "通っていたのは、至って普通の私立高校。しかも、卒業はせずに中退しているわ"

「んん?」

 

 ますます分からなくなってしまった。あれほどの真面目な執務をしておきながら、高校を中退?それで、どうやって軍隊の世界に?加賀さんが言うには、軍学校などには一切通わず、ある日ぽっと入隊してたらしい。

 

 "さらに不審なのは、軍隊に入って1ヶ月足らずで前線に出ていることね"

「その時は何歳なんですか?」

 "20歳よ。高校は2年生の途中で辞めているから、その間に何があったかが重要ね"

「そうですか…………私も少し調べてみることにします」

 

 それじゃあ、無理はしないようにね、と加賀さんは告げ、電話は切れた。

 疑問は増える一方だが、加賀さんに話したおかげかいくらか肩が軽くなったような気持ちだ。今日は、とりあえずぐっすりと眠ろう。

 

 

 ーーーー

 

 

「ありがとうこざいました」

 

 そんな明るい声に誘われて顔を上げると、港で、白髪の混じった男性と、その息子らしき人の姿が見えた。その2人を囲むようにして艦娘たちの笑い声を響かせている。

 漁師の人たちなのだろう。

 午後の陽光が彼らを照らして、明るい声と重なって妙にまばゆく見える。雨の多いこの時期に束の間の晴れで、絶好の漁日和だったのだろう。

 ただひたすら戦うこの海では、心休まるひと時と言えるだろう。

 

「あの人たち、この鎮守府のお得意様なのよ」

 

 見つめている私の耳に、叢雲さんの声が降ってきた。

 

「この前、たくさんの魚を送ってくれたから、覚えてるんじゃないの?」

 

 なるほど、と納得した。

 その大量の魚を間宮さんと鳳翔さんという、料理においての最強タッグで調理されたから記憶に新しい。ここにきてからは、食べる量が増えてしまっている。

 

「あれ、でも、今日は出撃予定にありましたっけ?」

「まさか。いきなり、依頼してきたに決まってるわ」

 

 その景色に微笑みながら、叢雲さんは言う。

 

「最近は、天気が悪くてまともに漁師ができてなかったんだって。流石に今日やってきた時は、広瀬さんが断ろうとしたんだけど、司令官が無理やり依頼を受けたらしいわ」

「広瀬さんは何も言わなかったんですか?」

「広瀬さんのことだから、司令官が受けたからには文句は言わなかったわ。もちろん、私たちも言わないけど」

 

 叢雲さんの言う通り、八幡さんが言ったことは艦娘たちは素直に従っている。でも、それは無理を強いられているのではなく、むしろすすんで従っているように見える。ある意味、理想の上下関係なのかもしれない。

 

「広瀬さんも頑張っているようですね」

「そうね、時々夜の電話がつながりはしないけど、いざって時の指示は細かすぎるくらいに細かく入っているから、なんとか回ってるわ」

「抜かりのない人ですね」

「ちなみにそれでもって時は、司令官に頼るようにと指示しているらしいわ」

 

 思わぬ言葉に叢雲さんに目を向ける。

 

「聞いたことがないの?最近の話題は、"八幡広瀬ホモ疑惑"なのよ。男同士で気持ち悪いほど仲が良すぎるからね」

「はは、分からなくもない話ですね」

 

 心中に浮かぶのは、2人で話し合っている姿だ。

 その時は別に意識もせずに見ていたが、よくよく考えると2人の距離感は相当近い。

 

「赤城さんも、もうここの鎮守府の空気に慣れたんじゃない?」

「ええ、初めは少し驚きましたけど、慣れたら心地がいいものですよ」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」

「ただ、もう少し八幡さんのことは知りたいんですけどね…………」

「司令官のことを?」

「昔は凄かったとかは聞いてますけど、詳しくは知りませんから」

「昔のことね…………実は私もさっぱり知らないのよ。聞こうとするたびに上手くはぐらかされるから」

「そうですか」

 

 でも、とふいに小さく付け加えた。

 叢雲さんは港の艦娘と漁師たちを眺めつつ、

 

「たまに変な感じがするのよ、初めて会った時から」

「変な感じ?」

「なんて言ったらいいかしら…………、そう、顔は普段と変わらないはずなのに、目はまったく笑ってない感じ。いつもの司令官のはずなのに、一瞬近づきがたくなる感じ…………」

 

 白い指を顎に当てて、少し首を傾げてから、

 

「ま、私たちよりも死を間際にして戦ってきたんだから、そのくらい当たり前なのかもしれないわ」

 

 港を眺める叢雲さんの横顔を見つめたまま、私は黙考した。

 叢雲さんの評は、私自身の八幡さんな印象と一致するものだったのだ。

 無愛想は置いて、基本的には優しく対応する八幡さんが、しかし時々その目に硬い光を宿す時がある。そのきっかけも分からなければ、誰もが気づくほど明らかな光でもない。それでも確かに、冷ややかな光がよぎるときがある。ついに先日の執務室で話した時も、その光を確かに垣間見たのだ。

 心の中でため息をつけば、以前横須賀での加賀さんの言葉が思い出される。

 "少し怪しいということは確かです"

 その言葉が、少しずつ実体を持ち始めているようであった。

 しばらく考え込むうちに、ふいに目の前に缶が差し出された。

 

「ま、そんなに深く考えなくても司令官は悪い人じゃないわ」

 

 少し戸惑って見上げれば、なにやら誇らしげな笑顔が見える。

 

「昔の司令官のことは知らないけど、今の司令官のことなら誰よりも知ってる自負があるから安心なさい」

「随分と信頼してるんですね」

「そうね、司令官の前では絶対に言わないけど」

「たまには正直になってみるのもいいんじゃないですか」

「嫌よ、もう弱い私は見せないって決めたんだもん」

 

 微笑を浮かべながら、叢雲は踵を返し、屋内へと戻っていった。

 これを眺めながら、私の手は、なんとなく、缶コーヒーを開けていた。

 コーヒーの苦味は好きではないが、今日はなんとなくその苦味すら良いもののように感じられた。

 

 

 ーーーー

 

 

 その日の午後、八幡さんの口から驚くべきことが告げられた。

 

「明日から、呉鎮守府の応援部隊として出撃する予定だ。今から呼ぶ者は、呉鎮守府へ派遣となるから、各自準備をしておいてくれ」

 

 あまりにも唐突な命令に、艦娘たちは多少動揺はしていたが、すぐに理解したようだ。応援部隊として派遣される艦娘は、ここの鎮守府の中で最高戦力とされる人たちだった。つまり、相当骨の折れる出撃となるのだろう。もちろん、私も参加する予定となっている。

 

「それと、俺も呉鎮守府に行く。1、2週間ほどはワタルにここを任せるから、残る者はワタルに指示を仰いでくれ」

 

 何気なく付け加えたその言葉は、大きな衝撃をもたらした。どよめき始めたが、質問する者は現れなかった。しかし、なにも聞かないわけにもいかないだろう。私は手を挙げ、訊ねた。

 

「どうして、八幡さんが?」

「あー、それは向こうからの願いでだな、どうしても俺も来て欲しいって」

 

 龍三老人の希望なのだろうか。

 

「ま、俺としても、自分の艦隊は自分で指示したいからな。それに今回の出撃は多分激戦になることが予想される」

「何か見つかったんですか?」

「一応、"姫"らしきものが見つかっている。あと、呉鎮守府にやたらと深海棲艦が攻め入ってくるから、おそらくいるだろう。呉鎮守府にはあらゆるの応援艦隊がやってくる予定だ」

 

 姫、という言葉に体がわずかに硬直した。

 その様子を見て、八幡さんは、俺らはサポートの役割だからそこまで心配しなくてもいい、と言ってくれたが、不安は積もるものだ。

 かくして、私たちは呉鎮守府へと派遣されることになった。

 

 

 ーーーー

 

 

 八幡さんもこの呉鎮守府に来る。

 挨拶をしにやって来たついでにそう告げる私に、派手な応答したのは、龍三さんではなく秘書艦の羽黒の方だった。

 

「八幡さんが来るんですか、赤城さん」

 

 呉鎮守府の提督室に、秘書艦のうわずった声が響いた。

 

「今はまだ来ませんが、今夜中には来るそうです」

「し、司令官さんが無理を言ったせいですか?」

「いえ、龍三さんのせいじゃありませんよ。ただ1つの艦隊を貸し出すわけですから、八幡さんが付いていた方がいいだろうとのことです。まぁ、せっかくの機会ですから、八幡さんともお話ししたらどうでしょう?」

「そ、それはいいかもしれませんが、八幡さんは大丈夫なのですか?なんでも海軍の人をひどく嫌ってるって聞いてますから…………」

 

 にわかに落ち着きを失う羽黒に比して、龍三さんは両肘をついたまま、あくまで穏やかそのものだ。

 

「赤城さん」

 

 と骨ばった頰を撫でながら、のんびりと口を開いた。

 

「この時期は、漁も盛んで、ここに戦力を割くのは大変でしょうなぁ」

「まぁ、大変ですが、今回は山場となりそうですから、応援を渋るわけにもいきませんよ」

「この老いぼれが、今回の作戦の総指揮官であるばっかりに、すいませんなぁ」

 

 痩せた肩を揺らして、龍三さんは笑った。

 

「し、司令官さん、笑い事じゃありませんよ。今回の作戦は、いつものようなものじゃないんですよ。もともとそんなに丈夫じゃない司令官さんの体じゃ、無茶もできないんですから」

 

 口調はまったく冷静ではないが、言っていることは正しい。

 

「なぁに、もうそろそろ戦友に会ってもいい頃合いです。最後くらい無理をしたってバチはあたらないよ」

 

 にこやかに、縁起でもないことを言う老人の目もとに悲壮感はない。私はただ粛然としてうなずいた。

 ゆるやかな夕暮れの陽ざしを背にしたまま頭を下げた老人は、丈夫ではないと言う割に、なにか不思議な存在感を漂わせていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 提督室を出て白い廊下を歩き始めた私を、すぐに呼び止めたのは、追いかけるように提督室から出てきた羽黒だ。

 

「赤城さん、少しよろしいでしょうか?」

 

 いくらか声音を落としつつ、少し言いにくそうな顔で、

 

「もし八幡さんが来ても、司令官さんには会わないようにしてくれませんか?」

 

 沈黙のまま先を促す私に、秘書艦は懸命に言葉を選びながら続ける。

 

「司令官さん、82歳にしては確かにしっかりしているかもしれませんが、ああ見えてもそんなに丈夫じゃないんです。いつも無茶して来た人ですから…………」

 

 これまでの龍三さんの戦績を含めて言っているのだろう。

 

「それに最近は多忙なせいか、気持ちも少し弱くなってきてるんです。昔、因縁か何かがあった八幡さんとは、会わない方がじいちゃ…………司令官さんのためにもいいと思うんです」

「気持ちは分かりますけど…………合同作戦でもありますから、会わないというのは難しいかもしれません」

「そう、ですよね…………」

 

 よろしくお願いします、と頭を下げて秘書艦もとい孫は提督室へ戻って行った。

 もう会話から分かるかもしれないが、羽黒と龍三さんの関係は祖父と孫である。話によると、龍三さんの息子夫婦は交通事故で早くに亡くなったとのことだ。すなわち、あの艦娘が両親を早くに失い、祖父である龍三さんの手により育てられたということなのだろう。いくらか戸惑うほどに甲斐甲斐しく龍三さんの周りに控えているのは、そういった複雑な背景があるからかもしれない。

 いずれにしても…………、

 私は軽くため息をついた。

 今回の呉鎮守府への応援は、人間関係までにも気を遣わないといけないということだ。

 やれやれと嘆息しつつ呉鎮守府から貸し出された寮に戻ってきたところで、なにやら困惑顔の祥鳳さんを見つけた。

 それだけで、なにか問題が起こったということを察せてしまうのは、あの鎮守府の雰囲気に慣れてしまったからなのかもしれないが、見て見ぬ振りもできない。「どうかしましたか?」と聞いてみれば、祥鳳さんはホッとしたかのように口を開いた。

 

「すいません、赤城さん、少し困ったことが…………」

 

 やっぱり、そういった感があった。

 案内されるままについて行った先は、呉鎮守府のとある個室だ。

 部屋の中を覗けば、何人かの軍服姿の男性たちが不機嫌そうに座っている。

 

「今回の作戦に参加する提督たちです。今から作戦会議をするために集まっているんですが…………」

「八幡さんが来てない、ということですか」

「はい…………」

「連絡は?」

「今日はどうしても外せない用事があるからって、午後は出かけているんです。夜には戻ってくると言ってたんですが、電話が繋がらなくて…………」

 

 ちょっと迷うような顔をしてから祥鳳さんは続けた。

 

「電話が繋がらない可能性もあるから、何か問題があったときは、叢雲さんか、赤城さんに相談しておいてくれ、と言われてて…………」

 

 一瞬気分が萎えそうになる。

 どうも民間軍事会社"鎮守府"は使えるなら最大限にまでこき使うらしい。しかし、現に丁度いいタイミングでいたのは私だから、八幡さんの読みは的確だと言わざるを得ない。

 

「ほかに何か言ってませんでしたか?」

 

 私の声に、祥鳳さんはすぐに「メモをもらいました」と紙切れを差し出した。ざっと目を通せば、八幡さんの微に入り細を穿つ精密な指示が記されている。

 

「このメモの通りにしていれば問題ないですよ」

 

 メモを祥鳳さんに返して、もう一度部屋の中を伺う。

 

「とりあえず叢雲さんを呼んで、代理を頼みましょう。それでも問題が起きたら、私を呼んでください」

 

 私の言葉に、祥鳳さんは「ありがとうございます」と答えて駆け出して行った。

 作戦会議が終わったのは、その2時間後のことだ。

 叢雲さんが会議の内容を淡々と告げ、確認し終えたあと、祥鳳さんは小さくため息をついた。

 

「提督は確かに海軍にこき使われて大変な思いをしたかもしれませんが、こんな時に、用事があるからって席を外すなんて少し無責任過ぎませんか?」

 

 その、単純すぎる感情の吐露に、しかし私はすぐにはうなずけなかった。

 背景の如何に関わらず、トラブルなく落着したことは確かだ。

 が、容易に落着しないトラブルが発生したのは、その日の夜のことだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 電話が入ったのは、休憩していた夜の10時のことだ。艦載機の整備を終えて、机に突っ伏していたところに、着信音が高々と鳴り響いたのだ。

 聞こえないふりもしようか、と一瞬思ったが、そういう小細工は問題を先送りにするだけでなく、かえって面倒も引き起こしかねないので、やむを得ず、これを手に取った。

 

 "赤城さん、ちょっといい?"

 

 聞こえてきたのは、五航戦の元気な方だ。実は、瑞鶴と加賀さんが横須賀鎮守府からの応援として、私と同じく呉鎮守府に召集されているのだ。

 その瑞鶴の声は、いささか切迫していた。

 

「いいですよ。どうしたの?」

 "実は深海棲艦が警戒範囲内に現れたんだけど…………"

 

 スマホを耳につけたまま、配られたばかりの夜の監視当番表を見れば、今宵の当番は瑞鶴が所属する艦隊だった。つまり、私は今夜は当番ではない。その一瞬の沈黙を、普段は空気をお世辞にも読めるとは言えない瑞鶴が、珍しく正確に汲み取った。

 

 "今夜は休むはずだとわかってるんだけど…………"

「それなら、八幡さんに連絡した方がいいんじゃないの?午後は用事があるとは言ってたけど、戻ってきてるはず…………それともいたずらか何か?」

 "連絡はしたよ"

「よかった。いましたか?」

 "うん。顔も出してくれたけど、とりあえず刺激はせずに朝まで様子を見ればいいって言われた"

「…………悪いかどうかはわかりませんが、八幡さんが言うならそれでいいんじゃないんですか?」

 "敵艦隊の中には、空母もいたの。それにそこそこ数が多い"

 

 流石に応答に窮した。おまけに瑞鶴の口調には、常にはない緊迫したものを感じた。

 どうしたものか、とひと思案したところで、瑞鶴が語を継いだ。

 

 "それで、何人かがやっぱり出撃しようって…………"

「…………!!今からそっちに行きます。とにかく、出撃させないようにしておいて」

 

 私はため息をいったん吐いてから、駆け出した。

 

 

 ーーーー

 

 

「はぁ?出撃するな?」

「ええ、八幡さんもそう言ったはずです」

「敵が攻めてきてるのに、黙ってやられろって言ってるのか!」

「敵は攻めてきてはいません。わざと警戒範囲に出入りして、こちらを誘き出そうとしてるんです!」

「そ、そうか…………」

「ですが、警戒はし続けるべきです」

 

 港で、数々の怒号が飛び交う。今にも出撃しそうな彼女らをやっと抑えて、私は戻ろうとした。

 

「ごめんなさいね、赤城さん」

 

 少し疲れたような声は、叢雲さんのものだった。彼女も急に呼ばれたのだろうか。

 

「まだ安心するのは早いわ。いくらこちらを誘き出そうとしてるとは言っても、攻撃しないとは限らないから」

 

 身もふたもないことを言ってるのは、加賀さんだ。

 

「それにしても、どうして赤城さんが来たの?今夜は当番ではないのに…………」

 

 やっぱり叢雲さんは鋭いところをついてくる。

 

「赤城さんは巻き込まれた側なのよ」

 

 補ってくれたのは加賀さんだ。

 不思議そうな顔をした叢雲さんが、何か言おうとしたところで、その背後から、瑞鶴が姿を現した。

 

「ごめん、赤城さん、助かったよ」

「やっぱり深海棲艦は引いたようね。夜戦は危険だから、瑞鶴の判断は正しかったわ。それより他の娘たちは大丈夫なの?」

「うん、ちゃんと説得した」

 

 少し咳払いをしてから、

 

「赤城さんのお陰で助かったよ」

 

 頰をかきながら、率直な態度で言う。こういうところは瑞鶴の長所だ。

 しかし、瑞鶴はすぐにぐったりとため息をついた。

 

「だけどひどいよ、今夜の指揮は八幡さんなのに、あんな態度は…………」

「ええ、そうね。でも、明日にでも私が事情を確かめるから、あまり事を荒立てないでね」

「荒立てるなと言われても…………」

 

 瑞鶴がふいに言葉を切ったのは、近くの扉が開いたからだ。のみならず、開いた先に、コーヒー缶を傾けていた八幡さんが立っていたからだ。

 一瞬しんと静まり返ったが、八幡さんの方もずいぶん驚いたようだ。

 

「ん?赤城、何してんだ?」

 

 いささか場違いな、緊張感のない声が響いた。

 どこかで何をしていたのかは定かではない。ただ分かるのは、こちらの修羅場には全く気づいていないという事だ。

 どっちにしろ、出てきたタイミングは最悪だ。

 瑞鶴がめずらしく険しい顔をした。

 私は黙って額に手を当てた。

 そんな私と瑞鶴を見比べて、八幡さんもいくらか状況を悟ったようだ。

 とりあえず、とずいぶん落ち着き払った顔で、

 

「中で話す?」

 

 長い指が、奥を指差した。

 

 

 ーーーー

 

 

 卓上に、コーヒーカップが2つばかり並んでいる。

 いずれも八幡さんが淹れたものだ。

 私はソファに腰を下ろしたまま、カップの中の黒い液体を眺めていた。部屋の隅では、椅子に腰おろした八幡さんが、さすがにくたびれたような顔で、天井を見上げている。右手に持ったカップは、一口飲んだだけで、そのまま放置されている。

 机の上には山のような資料が積み上げられ、それぞれにメモ書きがなされている。

 すでに室内に瑞鶴の姿はない。

 沈黙の中、八幡さんの小さなため息が聞こえて、私は口を開いた。

 

「だから前も言ったはずです。どういうつもりなのか納得のいく説明をしてくださいと」

「意外と、容赦ない言い方をするんだな、赤城は」

 

 告げれば、八幡さんは、格別困った顔もしておらず超然と構えている。

 

「まさか赤城が俺の代わりに出てくるとは思わなかった」

「そういう問題ではないということ、前に言ったはずですよね」

「それもそうか」

 

 八幡さんが軽く肩をすくめて見せた。

 

 "私には、八幡さんが何を考えてるか分かりません"

 

 瑞鶴が大声を張り上げたのは、ついさっきのことだ。

 

「八幡さんの評判は、どんなことでも完璧に対応してくれるって聞いてるけど、今回はまるで艦娘を見捨てるような行動をしたように見えます。私には、八幡さんが何を考えてるか、さっぱり分かりません!」

「今回のことはすまないと思ってる。みんな理解してくれると思ったんだ」

「八幡さんの艦隊ならそれでいいかもしれませんけど、今回は初対面の艦娘の指揮だったはずなのに、そんな無責任な行動は許されないんです!」

 

 陽気な瑞鶴がこれほど明確に怒りを表出するのは、珍しいことだ。

 しかし瑞鶴に対する八幡さんの応答も、事態を収拾するどころかむしろ悪化させただけだった。

 

「君に言ったところで、分からないだろ?」

 

 平然とそう告げたのだ。

 さすがに私と当惑したのだが、もっとも驚いていたのは瑞鶴だろう。

 昨今稀に見るほど激していたが、すぐに呼び出されて出て行った。今の深海棲艦は過去に見ないほど活発に動いているから、仕方のないことだろう。

 おかげで後に残された私と八幡さんの間には、妙なわだかまりが堆積し、とても雰囲気が悪い。今頃、瑞鶴も不完全燃焼のまま駆け回っているんだろう。しかし、大声を出すタイミングを誤ったのも事実だ。

 

「で、赤城もあの瑞鶴という娘と同意見?」

 

 八幡さんが口を開いた。

 見返せば、この期に及んで私の反応を面白がる気配がある。

 どうやらこの人は、最初の印象に反して、相当食えない人のようだ。今更ながら、加賀さんの人物眼には頭が下がる。

 私は一考してから、あえて平然と答えた。

 

「今日の夕方までは瑞鶴と同意見でしたけど、少し変わりました」

「面白い事を言うんだな。好き嫌いで、指揮の質を変えている俺の肩を持ってくれるんだ?」

「八幡さんがそんな短絡的な基準で動いていないと分かった以上は、考えを変えざるを得ませんよ」

 

 八幡さんは再びカップを傾けようとしたところで動きを止めて、目を細めた。細めた目の奥で、あの鋭利な光が灯ったようか気がした。

 

「へぇ、どういうことだ?」

「八幡さん、大本営所属の鎮守府からの依頼を全部が全部断っているわけではないんですよね。断っていない鎮守府に対しては、非の打ち所がない対応をしています。他の鎮守府と比べれば、雲泥の差です。つまり…………」

 

 一旦言葉を切ってから、八幡さんの表情を消した目を見返した。

 

「海軍を嫌っているから、そんな理由で相手を選んでいるわけではないということです」

 

 返答は沈黙だけだった。

 その意識的な沈黙を嫌って、私は先日と同じ言葉を繰り返した。

 

「どういうことか、納得のできる理由をしてくれませんか?」

 

 八幡さんの右手は、一口つけただけのコーヒーカップを握ったまま動かなかった。

 

「…………赤城ってさ」

 

 ふいに八幡さんが口を開いた。

 

「やっぱり面白い人だな」

「答えになってませんよ」

「褒めてるんだ。佐久間さんの下で鍛えられただけある。観察力があるし、なによりもお節介だ」

「人は、敬服している人物が、理解できない行動をとったとき、その背景にある哲学を知りたくなるものじゃないんですか」

 

 おもむろにコーヒーをすする音が響いた。

 

「敬服だなんて、光栄な話だ」

 

 でも、と続けた。

 

「赤城や瑞鶴には、難しい話になる」

 

 またこの言葉が出てきた。

 最初から説明を放棄した、上から投げつけるような論評に納得できるはずがない。

 

「私や瑞鶴には説明に値しない、と言ってるんですか?」

「分かりやすく言えば、そうなる」

 

 肘をついたまま静かに私を見下ろす八幡さんの目には、あの冷ややかな光がはっきりと灯っていた。

 それは普段の八幡さんとはかけ離れた、相手を切り捨てるような容赦ない冷徹さを備えていた。

 少し言葉が途切れたところで、八幡さんは、平然とコーヒーを飲み始めた。

 私は答える言葉もなく、ただ見守るばかり。

 なかば以上飲み干したカップを眺めてから、おもむろに八幡さんは口を開いた。

 

「夜警当番の艦娘たちは、なにか言ってたか」

 

 唐突に話題がつき戻された。

 

「ただ命令だけするだけしといて、いなくなる無責任な指揮官だ、とか」

 

 頭に思い浮かぶのは、説得した後の艦娘たちの不満げな姿だ。

 答えない私の顔を見て、八幡さんは悟ったように苦笑する。

 

「君や瑞鶴はきっと、目の前に深海棲艦がいれば、どんなことも放り出して、立ち向かっていく人なんだな。それがああいう空気を作ってきたんだろ?」

「褒めているわけではなさそうですね」

「ああ」

 

 一旦言葉を切ってから八幡さんは言葉を継いだ。

 

「バカじゃないかと思ってる」

 

 口調は穏やかでも強烈な言葉だった。

 

「ただの兵士なら立派だと言えるだろう。敵も少しずつ強くなっているとは言え、それを上回る速さでこちらも強くなっている。おかげで、こちらが攻めている状態だ。その結果、敵を殲滅することが平和、ということになった。自分の生活を奪われたり、家族を失ったりしている人はいくらでもいるのに、それを無視して戦い続けて、"平和のために戦っている"という輩なんて、俺からしてみれば、信じられない偽善者だ」

 

 こんなに饒舌な人だったのかと、場違いな感慨が胸をよぎっていた。

 

「俺はな、今まで平和のために戦ってきたことはない。大切な人を守るために戦ってきた。君たちはそんな基本的な事を忘れてるんじゃないのか」

「私だって、漠然と平和のために戦ってきたわけじゃありません。私にも…………」

「君たち、艦娘は年に何回大破する?」

 

 冷ややかな声が漏れた。一瞬口をつぐんだ私に間髪いれずに言葉を継ぐ。

 

「君たちは艦娘だから、大破で済むのだろう。仮に普通の人間からどうなっている?君は何回死んだ?小破ならセーフなのか?」

 

 立て続けに突き立てられた問いに、まったく私は歯が立たなかった。

 

「よくそれで、戦場に行けるな」

 

 衝撃的な言葉だった。

 ただ激烈なだけでなく、救い難い軽蔑を含めた嘲笑がそこにあったが故にらより一層心にこたえた。のみならず、続いた言葉は、先にも増して苛烈なものだった。

 

「赤城には失望してるんだ」

 

 声なく見上げた先にある八幡さんの笑みは、相変わらず穏やかで、目もとは相変わらず冷ややかだった。

 

「佐久間の下で学んで、あの佐久間さんが一目置いていると聞いたから、どんな人か楽しみにしてたんだが、空母だから、他よりも少し強くて、ちょっと頭がいいだけの、どこにでもいる偽善者じゃないか」

 

 八幡さんの手が再びカップを傾けて、全て飲み干した。

 

「まぁ、心配しなくても、最近は赤城みたいな艦娘は世の中には溢れている。日々の戦闘に追われてどんどん本質を見失う人。よりタチが悪いのは、それでも自分は平和のために戦ってると思い込んでいる連中かな。艦娘という特殊能力に頼り切って平気でダメージを食らう人、ちょっと深海棲艦を沈めれば、平和のためだと思い込む人。そういうやつらが平気で戦場に赴いている。毎日薄氷を踏むような状況にいるはずなのに、自覚もないから、平然とその氷の上を走り回る。いつ氷が割れて冷水に突っ込むか、見ているこっちがヒヤヒヤする。驚くより呆れしかないな」

 

 深々とため息をついて、

 

「兵士はだな、目的を見失うとき、ただの道具でしかないんだ。俺はそんな覚悟で来ている」

 

 息を呑む思いだった。

 いまだかつて、これほど戦いにかける意義を、厳格に規定した言葉を聞いたことがなかった。

 

「…………だから、八幡さんは他の鎮守府から断ってるんですか?」

「当たり前だろ。大切な人をそんな中途半端な思いでやっているやつらに預けられない」

「じゃあ、逆に依頼を受けた鎮守府があるのは…………」

「そこの人たちは本気で守ろうとしていた」

 

 私は口をつぐんだ。その沈黙を八幡さんの無感動か声が埋める。

 

「そこの人たちは、自分が死んでも守ろうとしていた。たしかに戦力はあまりにも少なすぎたけど、それでも戦おうとした。そうであるなら、俺も全力で対応する、当然のことだ」

 

 非の打ち所がない哲学の提示だった。

 しかし、非の打ち所がなくても、現実の戦場は、かほどに明瞭に割り切れるものではない。

 

「では…………、私たちは平和のために戦っていない、ということになるんですか」

「さぁ、平和のために戦ったことがないから分からない」

 

 即答だった。

 

「だが、君たちを見ると平和のために戦いたくはないな」

 

 見返せば、そこにあるのは憫笑だった。

 

「分かるだろ?赤城と俺では、目的があまりにも違う。そういう人に、俺のやり方は理解できまい」

 

 私は応じる言葉を持たなかった。

 胸中にあるのは、喜怒哀楽のいずれでもない。

 純粋な驚きだった。

 眼前のひとりの兵士の、苛烈な哲学のあり方に驚いただけではない。戦う理由をどこか忘れていたのではないか、と驚きでもあった。

 形容しがたい沈黙が降りた。

 その沈黙から私を救ったのは、八幡さんの無線機だ。

 はい、と応じた八幡さんは、「了解、すぐに行く」と答えて無線機を切った。

 

「悪いな、呼び出しだ」

 

 言うなり、カップを置いて、立ち上がった。

 

「コーヒー、飲んでもいいぞ」

 

 たち去り際に、いつもと変わらない声が降ってきた。

 もちろん飲む気になんて、なれるわけもなかった。





次も遅くなるかもしれませんが、見てくださる人がいれば嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話8"噂"

久しぶりの閑話です。
少しシリアスが続いていたので、ちょっとほのぼのとしたものを。





 噂。

 それはなんの根拠がないにも関わらず、部分的な情報のみで形成されるものである。無論、本人の確認なんてあるものでもないし、噂の本人が知らずのうちに広がったりする。かくもこの八幡武尊も散々噂にはお世話になってきた。

 この最近での俺の噂といえば、"八幡広瀬ホモ疑惑"であるが、もちろんそんなわけがない。俺は決してホモではない。広瀬の方は知らんが。

 しかし、人の噂も七五日と言うように、どんな噂も日がたてば自然と消え去るものである。今ではすっかりとその話も聞かなくなった。俺としては万々歳なのだが、このろくに娯楽施設もない鎮守府では艦娘は噂に飢えている。またすぐに言われもない噂がたつだろう。

 それに噂というのは基本的に本気で聞くわけでは無く、話半分に聞くものだ。艦娘たちも俺と広瀬のあらぬ妄想をしつつも、そんなことはないと思っているはずだ。というか、そうであってほしい。

 と、ここまで噂について色々語ったが、この話は残念ながら大人にだけしか通用しないものだ。人に騙されたり、はたまた嘘をついたりと、酸いも甘いも知る大人だからこそ、その噂が事実かどうか判断する能力を持ち合わせているのであって、まだ純粋潔白な子供たちはどんな話も鵜呑みにしがちだ。ましてや普段から一緒にいる大人からの話ともなれば。

 

「や、やぁ、提督」

「ん?時雨か、どうした?」

 

 ある日の昼下がり、少し躊躇いがちな様子で時雨が執務室に入ってきた。普段、ここに来室するのは秘書艦を務める叢雲か、冷やかしにくる長門か特に意味もなく訪れる熊野や航くらいだ。上司という身分ながら、あまり部下とコミュニケーションを取れていないのはあまりに恥ずかしい話だが、幸い彼女らは大きな不満も持っていないようだ。

 だからこそ、今回時雨が入室してきて、少々身構えてしまう。ましてや、遠慮がちな様子を見ると。何か不満なことがあるのだろうか?

 

「えっと…………その、なんというか…………」

「い、言いにくいのなら、叢雲に通してでも構わんぞ?」

 

 ここまでしどろもどろされては、相当なことがあるのではないかとこちらも不安になってくる。

 

「きょ、今日はいい天気だね」

「そ、そうだな」

「あっ…………」

 

 会話の糸口を見出そうといい天気だと言ったのだろうが、梅雨真っ盛りのこの時期の外はあいにくの大雨である。

 

「雨が好きなのか。俺も雨は好きだ。ジメジメして嫌だとか言う者もいるかもしれんが、俺は落ち着く。あと、依頼が来ないからね」

「…………うん、僕も好き」

 

 粗末なフォローではあるが、なんとか場を持たせることに成功したようだ。

 

「まぁ、もう少し弱い方が好きだがな」

「ふふ、そうだね。でも、止まない雨はないとも言うじゃないかな」

「ああ」

 

 微妙な空気からやっと落ち着いた空気へと変わった。心なしか時雨の様子もリラックスしているようだ。そして、時雨は意を決したかのように深呼吸をして、こちらを見据えた。

 

「て、提督はロリコンなのかい!?」

「…………は?」

 

 あまりにも唐突で脈絡のない発言に自分の耳を疑った。気づかぬうちに身体が衰え始めたのだろうか。だが、時雨の勇気を振り絞って言ったような様子からそうではないことが分かった。

 

「…………誰から聞いた?」

「え、隼鷹さんから…………」

 

 思わずため息が漏れる。

 あの酒飲みめ。そもそもここの鎮守府の噂の元は隼鷹にあるのではないだろうか?

 時雨はこの鎮守府の中では数少ない落ち着きがあり、かつ真面目な娘だ。ただ、彼女は真面目すぎるらしい。隼鷹の話を本当のことだと思ったのだろう。

 

「時雨、隼鷹の話は8割はウソだ。本気にしてはダメだ」

「えっ!?そうなのかい?」

「そうだ、そもそも俺はロリコンではない」

「そ、そうなんだ…………なら、あの話もウソなんだね?」

「あの話?」

「朝潮にキスしたという噂」

「はぁ?また、ピンポイントな噂だな」

 

 本当に噂の内容はなんでもいいのか。噂を話す側は楽しいかもしれないが、こっちからしたらいい迷惑だ。

 

「失礼します!」

 

 噂をすればなんとやら。ちょうど渦中の人物がいつものように生真面目な声と共に入室してきた。最近では、きちんとノックして相手の許可を得てから執務室に入ってくれるのはごく少数派となってしまった。

 

「どうした、朝潮」

「はい、何か手伝えることはないかと思い、ここにきた所存です!」

 

 この健気さに俺の心が洗われる。

 

「うむ、その心意気はとても嬉しいが、今日は仕事が少ない。手伝えることといえば…………」

「役に立てるのなら、なんでも!」

「少し待ってくれ…………そうだ、コーヒーの淹れてくれないか?叢雲から習ったと聞いたから是非とも飲みたい」

「はい、この朝潮にお任せください!」

 

 力強い返事の後、少し不慣れではあるが、きちんと手順を踏んでいるあたり、ちゃんと叢雲に習ったのだろう。

 

「僕も手伝おうか?」

「あ、時雨さん、ありがとございます」

 

 なんだか、2人の様子を見ると微笑ましい気分になってくる。娘を持ったならこのような感じになるのだろうか。自分自身、家族というのものがいなかったため、こういうのに少し憧れたりする。

 

「できました、司令官」

「ありがとう」

 

 渡されたカップに口をつける。朝潮が凝視してきて、少し気兼ねしてしまうが、この際だ、何も言わずにいよう。

 

「…………美味い」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、前よりもずいぶん美味いぞ」

 

 前は長門が指導したがために悲惨なものとなっていたが、やはり指導者が変われば味はこうも変わる。残念ながら、叢雲には及ばないが十分すぎるほどに美味しい。

 キラキラと目を輝かせる朝潮を見て、何を思ったのか右手が朝潮の頭を撫でていた。

 

「司令官…………?」

「あ、いや、なんでもない」

 

 なんでもない、と言いながらも撫でる手は止まらない。朝潮も最初は不思議そうな顔をしていたものの、次第に嬉しそうに目を細めた。

 

「むぅ…………」

「ん?どうかしたのか、時雨」

「別に、なんでもないさ」

 

 少し不満げな表情から、なんでもないはずがないのだが、詮索するのよくない。時雨は子供と大人の中間という非常に難しい年頃なのだ。下手な行動は不快感を与えかねない。

 

「ところで、いつまで頭を撫でているつもりだい?」

「ん、そうだな。あまり撫ですぎると綺麗な髪が傷ついてしまう」

「私はまだ大丈夫なのですが…………」

 

 ちょっと名残惜しそうな表情を見せたが、すぐに切り替えいつもの生真面目な引き締まった表情になった。こういう切り替えもまた朝潮の美点だ。

 

「朝潮、"提督とキスした"という噂があるんだけど、本当かい?」

「「!?」」

 

 今日の時雨はたしかに少しおかしかった。妙にしどろもどろしたり、かと思えば普段通りになったり、かと思えば急に不機嫌になったり、と。ここまで落ち着きのない時雨も珍しいと思ってはいたが、この時雨の発言にはさすがに驚かざるを得ない。コーヒーを口に含んでいたら噴き出していただろう。

 

「時雨、だからさっきも言っただろう。隼鷹の話の8割はウソだと」

「それは、朝潮の方を見たら分かるんじゃないかな」

「はぁ…………そんなことはないだろう?朝潮…………」

「は、はい…………そ、そそそそうです」

「…………朝潮?」

 

 は、はい、わわ私は大丈夫です!と、明らかに狼狽した様子で答える朝潮。どこも大丈夫じゃない。朝潮は大変真面目な娘だ。真面目過ぎると言っても過言ではない。それ故に、ウソをつくのがとても下手だ。

 …………つまり、"朝潮とキスをしていない"ということは、朝潮からすればウソとなっているのだ。

 …………あれ?

 

「提督」

「ま、待て。そんなことはした記憶がない」

「じゃあ、朝潮の態度はなんなのさ!」

「…………そんなことはないよな、朝潮」

「は、はい…………」

「…………別に怒らないから、正直に言ってくれ。そっちの方がありがたい」

「…………し、しました!」

 

 耳まで真っ赤にしていう姿は、可愛らしいのだが状況が状況だ。俺の頭はものすごい速度で過去を走り回っている。しかし、そんな記憶やっぱりない。

 

「提督、さすがに手を出すのは…………」

「待て待て、そんな記憶本当にないんだ」

「でも、朝潮がこう言ってるんだよ?」

「だから、無意識のうちにやったのではないかと思い始めた。だがな…………酔っ払ってというのはまずないし、いくら疲れても最低限の思考はできる」

 

 しかし、考えれば考えれほど心当たりはなく、可能性として多重人格も疑ったが限りなくありえない。

 

「ねぇ、朝潮いつしたんだい?」

「えっと、先週です!出撃する前に…………」

 

 先週…………。

 

「ああ!」

「思い出したのかい、提督」

「そうだ。だが、"キスをした"となると少々語弊がある」

「どういうことだい?」

「君たちが想像するようなことはしてないということだ」

「??」

「いや、話せば少し長くなる…………」

 

 

 ーーーー

 

 

 俺は非常に多忙なときを除いてできるだけ出撃する艦娘たちの見送りをしている。

 もちろん、指示や装備に手抜きをしているわけではない。いつも状況や発見された敵を考慮して考える限りの最善の手を打っているつもりだ。しかし、それでも不安なものは不安なのだ。かつて橘さんが"自分は臆病なだけなんですよ"という言葉が頭によぎる。なるほど、俺も相当な臆病ものなのかもしれない。

 そんなことをふと考えながら、俺はいつものようにもう少しで出撃する艦娘の元へ足を運んでいた。

 

「…………朝潮?」

「…………」

 

 ふと工廠までやってきて、足が止まったのはその出撃するはずの朝潮がぼーっと立っていたからだ。普段からテキパキと動く彼女にしては珍しい。俺の声にも反応しない。

 

「朝潮」

「は、はいぃぃ!」

「どうした、そんなにぼーっとして」

「いえ、何もありません!」

 

 すぐにいつものように引き締まった表情に変わるが、どことなく不安そうな感情が垣間見える。

 

「本当か?」

「は、はい!」

「…………何か悩みがあるなら聞くぞ?」

「だ、大丈夫、です…………」

 

 やっぱり大丈夫じゃなさそうだ。

 俺はしゃがんで目線を朝潮に合わせた。そしてそのまま頭の上に手を置いた。

 

「別に我慢しなくていい。不安なのか?」

「は、はい…………」

「ふむ…………やっぱり深海棲艦は怖いか」

「いえ、私が怖いのは皆さんと離れ離れになってしまうことです」

「離れ離れ、に?」

「はい。この戦争はいつか必ず終わります。でも、そのときにもう司令官や榛名さん、長門さん…………皆さんとはお別れてしまいます。だから、本当はこんなこと考えてはいけないと分かってますけど…………戦争が終わらなければいい、と思ってしまうんです」

「…………ふむ」

「ご、ごめんなさい!私はなんて酷いことを…………」

 

 俺は朝潮の頭を胸の方に抱き寄せた。

 

「司令官…………?」

「この戦争が終わっても、俺たちは離れ離れにはならない。たしかに身は離れてしまうかもしれない。だが、身が離れただけで俺たちの絆は切れてしまうものなのか?」

「司令官…………」

「俺は切れないと確信している。それでも君が不安なら俺が一緒にいてやろう。君の不安がなくなるまで一緒にいよう。…………これで大丈夫か?」

 

 朝潮は初めはキョトンとしていたが、すぐに笑顔を見せて、

 

「はい!大丈夫です!」

 

 と、俺に精一杯抱きついた。

 朝潮は、真面目で責任感のとても強い娘だ。この責任感は親がいないため長女としてしっかりとしなければならないという意識から生まれたものであろう。この責任感は朝潮のいい点ではあるが、このせいで誰かを頼るという子供なら誰もが持っているはずの能力を封印してしまう。なぜ、こんなことが分かるかと言われれば、俺も同じだからだ。

 なら、俺の前だけでも精一杯甘えてくれれば彼女の心の不安も少しながら減らすことができる。

 

「司令官、もう少しこのままでいいですか?」

「ああ、いつまでも、と言いたいが出撃時間までで頼む」

 

 はい、と言いまた腕の力を強めた。自分が彼女の父親の代わりなど烏滸がましいが、それに近い存在にはなれたらいい。

 ふと、俺はいつ読んだかは定かではないが、ある文献の内容を思い出した。たしか…………額にキスをするのは親愛の情を表す、と。それを思い出したときには、あまりにの愛おしさのせいかすぐに行動に移していた。

 

「し、司令官?」

 

 あまりに唐突な行動だったせいで朝潮が驚いた顔をしていた。そこで俺はハッと正気に戻った。

 

「あ…………これはあれだ。験担ぎみたいな何かだ。君が沈まぬように」

「なるほど!これは"軍神のキス"なんですね!!」

「あ、ああ」

 

 これほど真っ直ぐな目で見られると、非常に罪悪感が…………。

 

「…………も、もう一度してもらえませんか?」

「え?」

「1度だけでは効果がないかもしれません!だ、だからもう一度…………」

 

 正気である状態でやるのは、なかなか気恥ずかしいものだが、朝潮の頼みだ。この際、関係ない。

 俺は軽く朝潮の額に唇をつけた。

 

「よし!頑張ってこい!」

「はい!この朝潮、戦果を挙げてみせます!」

 

 力強い返事を残して、朝潮は走り出して行った。

 

 

 ーーーー

 

 

「…………つまり、キスはしたわけだね」

「いや、そうなるが…………別に性的な意味合いはない。ただ、朝潮に元気になってもらいたくて」

「そうなんだ…………」

 

 理解してくれたのだろうか?いや、理解しろという方が難しいかもしれない。だが、きっと聡明な時雨なら理解してくれるはずだ。だから、話したんだ。長門や隼鷹なら絶対に言わないが。

 

「僕も、出撃するとき結構不安なんだよ?」

「そ、そうか…………」

「僕だって、みんなと離れ離れになりたくはない」

「ああ、俺も同じだ」

「…………僕も朝潮と同じように安心させて欲しいな」

「そう…………は?」

 

 自然な流れでつい頷きかけてしまったが、この艦娘、とんでもないことを口走らなかったか?

 

「だ、だからさ、僕にも朝潮と同じように…………」

「い、いや、しかしだな…………」

 

 朝潮はまだ幼いと言える。それ故に、俺はあんな行動をとったのだろう。しかし、時雨はある程度成長しており、問題になりかねない。

 

「だ、ダメかな…………?」

 

 だからと言って、日々頑張っている彼女の願いを無下にできるわけもない。しかし…………

 

「俺は上司だ。だから、彼女たちとは最低限の距離は保たなければならない…………だが、同時に保護者でもあるんだ…………」

「提督?」

「保護者なら不安にさせるような真似もしてはいけない…………かと言って…………」

「…………提督?」

「だが…………でも…………」

 

 俺はなんて難しい立場なのだろうか。上司と保護者を両立させるには、必ずどちらかの妥協が必要になる。

 

「よいしょ、と」

 

 と、そんな掛け声と同時に膝元に妙に柔らかい感触が。さらに胸元にも同じような感触が…………

 

「…………時雨?」

「なんだい?」

「どうして膝の上に座って抱きついているんだ?」

 

 朝潮の方もぽかんとしている。

 

「…………僕からこうしたのなら問題ないでしょ?」

「いや、そういうわけでも…………」

「問題ないでしょ?」

「…………ああ」

 

 腑に落ちたわけではないが、とやかく言ったところで時雨が離れるとは思えない。それに時雨の方は満足そうに顔を埋めているので、いいのだろう。

 

「ん?時雨、背が伸びたか?」

 

 ふと時雨の頭の位置が高かったような気がした。無論、時雨の方は成長期なはずだから、背が伸びるのは当たり前だ。だが、自分の身長に追いついて行くのを見るとなんだか寂しい気分にもなる。

 

「そうかい?もしかしたら、提督を追い越しちゃうかもしれないね」

「冗談でもやめてくれ…………ただでさえ、長門とはともかく妹分だったはずの陸奥にまで身長を追い越されたんだ」

 

 背中にひっついていたはずの陸奥が、小学生の頃には同じ目線となり、気づけば俺が見上げる側となった時のショックといえば…………

 

「…………ああ。俺ももう少し背があればなぁ」

「提督は今のままが一番だと思うよ」

「ありがとう。しかしだな、"軍神"とかいう大層なあだ名のせいで会うたびに驚かれるんだよ。と言うか、軍人なのかと面と向かって言われたこともある」

「それでもだよ」

「そうか。まだ、このままがいいか?」

「うん」

 

 先ほどから朝潮の羨ましそうな視線が気になる。これは後からせがまれるな。

 さらにそのまま3分くらい過ぎようかとするときに、執務室の扉を軽く叩く音が聞こえた。ノックをすることから誰が入ってくるかはだいたい察せる。きっと不知火か祥鳳あたりだろう。

 

「失礼します、司令」

「不知火か、どうした」

「今日の報告を。それと白露さんが時雨さんをお探しでしたので。やはり不知火の予想通りでしたね」

 

 今この状況を見て尚、淡々としているその冷静さは子供とはとても思えない。

 

「時雨さん、夕方は白露さんと約束があったようですが?」

「あ…………忘れてたよ」

「ならば、早く行った方がよろしいかと」

「うん、そうするよ。ありがとう、不知火」

 

 ようやく俺から離れた時雨は、

 

「それじゃあ、また」

「ああ」

 

 と、小走り気味に執務室を出て行った。今日の時雨には色々と驚かされたが、少しでも元気になったのならそれでいいだろう。

 側で、朝潮がいつ時雨と同じことをしてもらおうかとタイミングを見計らっている。

 

「では、司令官、報告をさせてもらいます」

「ああ」

 

 と、報告書を受け取ろうと右手を出したが、紙が出されることはなかった。

 

「それでは、失礼します」

「…………ん?」

 

 報告書を出さずにいた不知火は、こちらへ歩み寄ったかと思えば、先ほど時雨のいた場所に収まった。朝潮がまた驚いた顔をする。

 

「し、不知火?」

「今日は駆逐艦は5人ほど出撃しましたが、いずれも無傷のまま帰還しています」

 

 戸惑う俺を無視して、不知火はあくまで淡々と報告を続けた。

 

「それと、何名か改装可能な練度に達しました」

「そ、そうか…………」

「どうかなされましたか、司令?何か不備がありますでしょうか」

「不備というか、どうして君は俺の膝の上に座ってるのかを説明してもらいたい」

「空いていたから、です」

「そんな理由か?」

「いえ、寂しさを感じているのは朝潮さんや時雨さんだけではないのです。司令が多忙なのは十分承知していますが、それでも最近は特に私たちとのコミュニケーションが減っているように思われます」

「やはりそうか…………」

「ですから、司令からこないのなら私たちからいこうという話です」

「はぁ…………ダメだな、俺は」

「そう思うのでしたら、後ろから不知火をギュッと抱き締めてください。ハグはストレスを解消してくれますから、是非ともやるべきだと思います」

「な、なるほど」

「分かっていただけたなら、行動に移してください」

 

 言われるがままに、軽く抱きしめた。

 その身体は本当に海に出て戦っているのか疑問になってしまうほど華奢で、少しでも強くしてしまったら壊れそうだ。

 

「どうだ、ストレス解消になりそうか?」

「…………」

「不知火?」

「ひゃい!?…………こ、こほん。そ、その耳元で囁かれると…………」

「む、すまん」

「だ、大丈夫です。惜しいですが、もう時間ですので私はこれで」

 

 再びいつもの冷静沈着な不知火に戻ったと思ったが、それは声だけのようで、顔は少し赤くなっている。

 

「ありがとう、不知火」

「はて、何か感謝されるようなことをしたのでしょうか?」

「さぁ、とりあえず言っただけだ。さ、今日は珍しく依頼もないからできるだけゆっくりしとけ」

「??」

 

 よく分かっていない様子のまま不知火は退出した。

 今日は、時雨といい不知火といい意外な一面が見れたので良かったのかもしれない。それに、俺は部下とのコミュニケーションが不足していることも自覚できた。

 ふと視界の片隅に、朝潮がもじもじしている様子が映った。

 

「朝潮」

「は、はい!司令官!」

「ここに座るか?」

 

 膝の上をポンポンと叩いて、朝潮に聞いた。

 

「よ、よろしいのですか?」

「ああ、構わないぞ」

「そ、それでは、失礼します」

 

 トン、と朝潮が座るが、不知火と同様にとても軽い。

 こうしてみると、やはり朝潮たちは子供なのだと嫌でも実感する。そんな彼女らを俺は戦場へと送っているのだと思うと、なんだか自分が嫌になってくる。

 

「司令官」

「ん?」

「私は今とても幸せです!」

「…………そうか、だがもっと幸せなことはこの先にもあるぞ」

 

 そうだ。俺の仕事は、平和のためではない。この娘たちの未来のためにあるのだ。だから、俺は彼女らが幸せになれるようにサポートしてあげなければならない。彼女たちの親の代わりとして。

 

 

 ーーーー

 

 

「テートクー!!」

 

 翌日の朝、若干寝ぼけてながら執務をしていたとき、荒々しくドアが開かれるとともに、大きな声が響いた。

 やはり扉をノックしてくれる者は少ない、か。

 

「どういうことか、説明を求めマース!」

「説明?なにを?」

「昨日、駆逐艦たちとお楽しみだったと聞きマシタ!なにをしたのか白状しなサイネー!」

「だ、誰からそんなことを?」

「隼鷹デス!」

「へぇ…………面白い話ね、司令官」

 

 秘書艦として、そばにいた叢雲も冷ややかな目線とともに反応を示した。

 あの酒呑みめ。いったいどこからのぞいてたんだ?

 

「未成年に手を出すなんて…………最低ね」

「待て、それは誤解だ。そんなことをするわけがないじゃないか!」

「それはどうかしら?あんたって子供には甘いからね。時雨と、何かあっても仕方ないわじゃない?」

「ただ膝に座って抱きしめられただけで、それ以上それ以下もない」

 

 はぐらかしても、事態をただややこしくするだけなので正直にことを話した。が、

 

「「…………」」

「ん?」

 

 どうやら正解ではなかったらしい。妙な沈黙が疲労状態の俺に深く突き刺さる。

 

「ふぅん、時雨も子供かと思ってたけど、なかなか侮れないわね」

「そうデスネ、あの娘もなかなかアグレッシブネ」

 

 2人でコソコソと話してはいるが、全て俺の耳に入っている。大人の君らが子供と張り合ってどうする。

 

「おはよう!提督さん!」

 

 今度は元気な挨拶とともに夕立が入室してきた。朝から元気なようで結構結構。

 今にもスキップをしそうなほど上機嫌な夕立はこちらへと近づいて、

 

「ぽいっ」

「「「!?」」」

 

 昨日の時雨とまったく同じ行動をしてみせた。

 あまりに唐突な行動に俺たち一行は呆気にとられている。

 

「な、なにをしてるんだ、夕立」

「時雨が言ってたぽい!提督の膝に座って抱きしめたら、心地いいって!」

「…………それって、みんなに言いふらしていないだろな?」

「駆逐艦の娘はみんな知ってるっぽい」

 

 時雨と不知火は基本的に簡単に言いふらすような娘でもない。朝潮も同様だ。が、聞かれたら多分包み隠さず言ってしまうだろう。

 

「ず、ずるいネー!ワタシも同じことを…………」

「今から出撃でしょ?さっさと行くわよ」

 

 叢雲は何かを読み取ったのか、金剛を無理やり引っ張って執務室から出て行った。

 が、夕立の方は離そうとするどころかたちまち眠ってしまっている。

 結局、提督に頼めば膝の上に座らせてもらえるという噂があっという間に伝播して、かなりの頻度で幼い娘を中心に膝の上に来るようになった。無論、その時の大人の艦娘から白い目で見られたのは言うまでもない。








この話の時間軸は赤城の登場から呉鎮守府への派遣の間に起きたこととして考えてください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



「起きないか、赤城」

 

 聞き慣れた声に目を開けると、眼前に提督の姿の顔があった。いつもは柔和な表情なのだが、今日は何処へやら、少々不機嫌そうな顔をしている。

 私は背筋を立てて、周りを見渡した。机がたくさん並んではいるが人一人も見当たらない。

 私はようやく食堂の机に突っ伏して寝ていたことに気づいた。

 

「…………どうして、ここに?」

 

 私の声に、提督は冷ややかな一瞥を投げかけてから、向かいの椅子に座った。

 

「たまたま、ここを通ったら赤城を見つけたんだよ。どうしてここで寝ているのか少々心配だがね」

「…………大丈夫です。ちょっと疲れていただけです」

 

 深夜の0時に、例のごとく深海棲艦が警戒範囲内に侵入してきたのだ。

 夜警の当番であった私は、出撃こそはしなかったものの鎮守府内を走り回ってかなり大変だった。ようやく交代したのが夜の2時。そのあと一息つこうとここまで来たところまで記憶にあるが、そこから先は曖昧だ。よだれも垂らして寝ていたのだから、瑞鶴に見られなかったのが、唯一の救いだ。

 チラリと提督の方に目を向けると、ただ1人の目撃者はくたびれた様子で、頬杖をついている。私の視線に気づいたようで、提督は顔もあげずに告げた。

 

「疲れているなら寮に戻るといい」

「お気遣いありがとうございます」

 

 ただし、と提督が付け加えた。

 

「もう2度とこんなところで寝ないように」

 

 うっ、と返答に窮する。

 今夜の提督には元気がない。もともと瑞鶴のように元気を振り回すタイプでもないが、今夜はそれが甚だしい。今夜の指揮を務めているから、という単純な理由ではない。

 

「今も荒れているんですか?」

「いいや、今夜はいつもと比べたら、深海棲艦の動きは活発じゃない。けれど…………」

 

 一度ため息をついてから、

 

「おおいに荒れている」

 

 落ち着いている夜警が、荒れている。

 理由がある。

 今回の作戦の旗艦を務めることとなった加賀さんが数日前から休みを取って、現場にいないのだ。

 表向きは「病欠」だが、ことはそんなに簡単ではない。

 ほんの1週間前、八幡さんと加賀さんが、指示に関して正面衝突をしたのだ。

 八幡さんが、1週間前からちらほらと姿を見せていた深海棲艦について、出撃した方がいいのではないかと意見を言った艦娘を一瞥もくれずに追い返したことが、衝突の発端だった。

 

「大きな艦隊ではないのなら夜に出撃なんてしなくてもいい、夜が明けてから出撃すれば済む話だ」

 

 というのが八幡さんの理屈なのだが、さまざまな鎮守府から寄せ集められた艦娘が全員納得するわけではない。

 

「追い返したことに怒ってはいません」

 

 翌朝、いまだに怒気冷めやらぬ加賀さんが、珍しく眉間にしわを寄せながら口にした言葉だ。

 

「追い返すにしても、一度、説明してから追い返すべきです。説明して、それでも出撃しようとするのなら、無闇に夜戦をするべきではないと、思いっきり怒鳴りつければいいはずです」

 

 "思いっきり怒鳴りつければいい"かどうかは別として、加賀さんの話はたしかに筋が通っている。

 

「指揮官の大変さは、十分に理解しています。でも、こんな状況下で深海棲艦一つ見逃してはいけない。ましてや、夜なんて厳重に注意すべき。そういう緊張感の中でやっているんです。それなのに、あんな態度は話にもなりません」

 

 大きなため息をついて、語を継いだ。

 

「それに、あんな風に言われると…………」

 

 加賀さんの逆鱗に触れた一言は、八幡さんの最後の応答にあった。

 辛抱強く道理を並べる加賀さんに対して、八幡さんは語気を強めて応じた。

 

「俺の判断に口を挟まないでくれないか」と。

 

 その場の空気が凍りついたことは言うまでもない。

 戦を人間に例えると、指揮官はたしかに頭脳の役割だ。だが頭脳のがいくつ集まったところで、握手するのは手であるし、歩くのは足だ。右足をもって左足を蹴飛ばせば、転んで頭を打つだけの話だ。

 八幡さんの発言は、まさにこれだ。

 

「みんなが必死で戦っている中で、あんなことを言われると、手の打ちようがありません」

 

 拳を強く握りしめて、加賀さんはまだ薄暗い朝の空を見上げた。

 

「本当に、くたびれました…………」

 

 しみじみとした嘆息が、黎明の空に消えていった。

 加賀さんが風邪をひいたのは、その翌日からだ。

 以来、艦娘の指揮官に対する態度が、険悪な空気をはらむようになった。きっかけは八幡さん個人の暴言であるが、それが指揮官というひとつの集団に対する抵抗に変じてしまったのは事実だ。

 

「加賀の気持ちもよくわかるが、指揮官との口論くらいで休むのは、一航戦らしくない軽挙だな。指揮がやりにくくてしょうがないよ」

「口論で休んでいません。風邪で休んでいるんですよ」

「そうだったね。八幡さんと口論した翌日から発症した風邪で休んでいるんだった」

 

 普段は優しい提督の声に、珍しく険がある。

 

「やはり空気は相当悪いんですか」

「悪いよ」

 

 提督は、久しく吸っていなかった禁煙パイポを取り出してくわえた。

 

「あれなら喫煙所の空気の方が、まだましだよ」

 

 提督は、まるでタバコを吸っているかのように、大きな吐息を天井に向かって吐き出した。

 

 

 ーーーー

 

 

「で、正義感に溢れた赤城は、再び俺に苦言を呈しに来たのか?」

 

 コーヒーを口につけながらモニターに向かっていた八幡さんが、肩越しに一瞥を投じて告げた。

 八幡さんに割振れた部屋である。

 夜1時。

 私が食堂で居眠りした翌日のことだ。

 ようやく業務を終えたあとに八幡さんを訪ねてみれば、深夜というのにまだ宵の口のような集中力で作戦を考えているようだった。傍に積み上げられた資料は、以前に増してその標高を高め、八方に飛び出した付箋には細かな書き込みも見える。かかる多忙な指揮の業務をこなしつつ、なおこれだけの気力を維持している八幡さんは、やはり尋常な人ではない。

 

「加賀になにか言われた?」

「いえ。場の空気が悪くなって、ギクシャクし始めていることは事実ですが」

 

 私の言葉に、八幡さんは小さくため息をついて、頭を掻いた。

 一見すると恐縮したように見えるが、事実そうではない。その瞳には面白がるような光がちらついている。以前は気づかなかったが、先日、過激な言葉をもらってからは、かえってこの人の特質が見えるようになってきた。要するに、相当食えない人物だということだ。

 しかし、食えない人物でも、今夜は関係ない。

 訪問の理由は、明確に戦場に関係することだ。

 

「八幡さんに相談したいことがあります」

 

 言って私は、持ってきた報告書と写真を取り出した。八幡さんは、面白がるような光を収めて、1人の指揮官の目になった。

 

「今日の偵察のことです」

「ああ、偵察機も飛ばしたんだっけ?」

「報告は敵の本拠地を見つけた可能性あり、でしたが、目立った敵影はありませんでした」

 

 前々から警戒していた場所ではあるが、敵影はまだ確認できていない。

 

「現在、何回かの出撃のおかげで深海棲艦の動きはおさまってはいますが、討ちもらした敵がここへと移動していることから、ここに本拠地か何かがあると考えますが、それ以外の敵影が確認できていないことが、問題です」

「偵察なんて、あまりあてにならんだろ。確認できなくても、実際はいることなんてよくある」

 

 画像を眺めながら、八幡さんは言う。

 正論だ。

 しかし、私はとりあえず反論してみる。

 

「これだけ深海棲艦が向かっておきながら、ほかの敵影は全く見当たらないと、少し気になります。ましてや、大きな艦隊を動かすとなると…………」

 

 言葉を途切れさせたのは、八幡さんがこれ見よがしに大きなため息を吐いたからだ。「これだからダメなんだ」と言わんばかりに、肩をすくめてから口を開いた。

 

「赤城の判断は?」

 

 問う言葉と視線に、鋭利な刃物の閃きがある。

 臆せずに私は答えるだけだ。

 

「いる、と思います」

「他の所での敵影は?」

「確認されてません」

「艦娘たちの状態は?」

「基本的に良好です」

 

 八幡さんは目を細めて、語を継いだ。

 

「それで出撃しないのなら、軍法会議じゃないか?」

 

 非の打ち所がない論法だった。情報を整理すれば、選択の余地のないことが際立って明確になった。

 

「そこから先は軍略的な話じゃないな。艦娘たちと指揮官たちの気持ちしだい。むしろ赤城たちの得意分野だろ、俺に聞く必要もない」

「得意分野?」

「哲学の問題だってことだ」

 

 少し癪に障らなくもない。

 

「私の職責は、艦娘であって哲学者じゃありません」

「ああ、そうだったな。すまんな、あまりにも初歩的なことを聞きにくるもんだから、少し混乱した」

 

 左頬に小さな笑みを浮かべて言う。相変わらず容赦ない。容赦ないことが、しかし不快じゃない。苛烈であっても皮肉であっても、この人は逃げることを絶対にしない。常に最良最善の作戦を、揺るぎない知識と経験の先に提示する。

 沈思する私を面白そうに眺めながら、八幡さんは「飲む?」と新しいカップを取り出した。

 

「いいえ、八幡さんのコーヒーより長門さんの方が好みですから」

「はぁ、あれを美味いというのは君が初めてだ」

「八幡さんが理解できなくて残念です」

 

 少しの皮肉を置いて、そのまま退出しようとしたところで、八幡さんの意味ありげな視線にぶつかって私は足を止めた。

 

「なにか?」

「加賀の件、何もないのか?」

 

 怜悧な瞳の中に、うかがうような気配がある。

 

「何もない、というわけではありません。あの件に関しては、私は加賀さんに賛成です」

「なのに辛口の赤城は、何も言わないのか。この前はあんなにはっきりと言いにきたのに」

 

 意外に、少し気にしているのかもしれない。

 私は一考してから、静かに口を開いた。

 

「八幡さんは、どういう理由であれ最低限の説明はしてきました。どんなに反発する艦娘にも説明はしていましたし、必要であれば資料も提示していました。しかし今回は違います。意見を持つ艦娘を、聞く耳を持たずに無視しています。最初から議論する余地がありません」

「相手がたとえただの戦闘狂であっても?」

「そうかどうかは話さなければ分かりません」

 

 八幡さんは少し虚を突かれたかのように目を見開いた。

 

「真摯に守ろうとしている人なら、八幡さんはいつでも全力を尽くすと言っていました。しかし今回は、その判断材料でさえ用意されてないように見えます」

「…………」

「八幡さんがいくら優れた知識と観察眼を持っていても、艦娘たちに伝えなければその能力を発揮できません。まことに残念なことです」

 

 八幡さんは飲みかけのカップを片手にしたまま、しばし考え込むように目を細め、やがて、軽く目もとに手を当ててから、鎮めたこえで答えた。

 

「今回ばかりは、赤城の…………、というより加賀の言う通りかもしれんな」

 

 意外なことに、率直な応答が返ってきた。

 

「さすがに少し、疲れてたかもしれん」

 

 モニターの電源を切り、ゆったりと椅子に背をもたせかけながら、独り言のようにそう言った。その横顔を見て私は気がついた。

 八幡さんの目もとに、普段以上の疲労感が漂っているのだ。改めて観察すれば、いつもよくない顔色もより一層ひどく、頰の肉が少し落ちたようにさえ見える。

 

「今回は参謀としても参加しているから、提督業と兼務しているんだ。どっちも後回しにできないから、食事と睡眠を後回しにしてる」

 

 ずいぶんと乱暴な論法だ。

 

「だが赤城に気を使われているようでは、本末転倒だな。赤城いじめも、説得力がなくなるってものだ」

「部下をいじめることに労力をそそぐ暇があるなら、ご自分の食事と睡眠に時間を割くべきです。ひどい顔色をしていますよ」

「いつものことだ。それに、その言葉は上司に向かって言うセリフじゃない」

 

 呆れ顔をしたものの、さすがに気になったのか、細い顎を撫でつつ、

 

「ま、少し気をつけよう。人に好かれようとは思わんが、無能と言われるのは、耐えられんからな」

 

 涼しげな、と言ってもいいほどの貫禄がある一言だ。

 私は飲み込んだ気遣いの代わりに、外面だけは、あくまで丁重に告げた。

 

「無敵に見える八幡さんにも、不得意な分野があると知って、いくらか安心しましたよ」

「不得意な分野?」

「"人付きあい"という分野です」

 

 八幡さんが、片眉をピクリと動かした。

 

「知力も論理も八幡さんには遠く及びませんが、この分野はまだ私に分がありそうです」

「言ってくれるな」

 

 余裕の笑みに、かすかに苦笑が混じる。

 

「言いすぎついでに付け加えるなら、加賀さんとは早めに和解しておくべきです。提督としての仕事を効率よく遂行し、参謀としての仕事に充てる時間を確保するための、論理的帰結だと思いますよ」

「知ってるか?赤城。頭の回転の速い部下って、たまに癇に障るものなんだぞ」

「狙い通りの効果が出て、嬉しいです」

 

 憮然として応じれば、今度こそ、八幡さんは小さな笑い声をあげた。

 構えたところのない、ごく自然な笑い声だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 今月中に本艦隊による深海棲艦の殲滅作戦。

 それが会議室にいる私たちに言い渡されたものだった。

 本艦隊のみならず、複数の艦隊も組んでの出撃の予定だ。つまり、ここに集められた艦娘はほぼ全員出撃すると考えてもよい。

 

「つまり、判断はやはりあそこにいる、ということですか」

 

 龍三老人の穏やかな声が、会議室に響いた。

 説明をしていた男性が、老人に視線を移して、静かに、しかしはっきりと頷いた。

 

「判断はそうです。現状なら殲滅は不可能ではない」

「それで、出撃ということなんですな」

 

 龍三老人は、白い眉の下の目を細めて考え込むような顔になった。

 その傍らでは、龍三老人の秘書艦の羽黒がただでさえ色の白い顔からさっと血の気が引いている様子だった。そのまま倒れるのではないかと心配になるくらいだ。それでも気丈な態度でいる。

 

「出撃はせず、様子見っていうのはダメですかな?」

 

 老人の微塵も平静さを失わない声が、問いかけた。

 さすがに昔から修羅場を見てきた人物だということだろうか。羽黒に対して、動揺すら見せない。

 

「たしかにこの場所は、まだどのように敵が現れるかはわかりません。しかし、ここに艦娘を集められているのもそれほど長くはないんです」

「つまりは、出撃できるとしたら、今しかないということですか」

 

 男性は黙って頷いた。

 傍らの羽黒は、何かに耐えるような青白い顔で、一心に祖父の横顔を見つめている。

 

「出撃しなければ、ここが火の海になるかもしれない。出撃したらしたで、より危険かもしれない」

 

 老人は軽く目を閉じたまま、読経するかのようにつぶやいた。

 

「こいつはなかなかの難問ですな」

 

 しばしの沈黙ののち、目を開けた老人はほのかな笑みとともに言った。

 

「少しばかり、考える時間をいただいてもよろしいかな?」

 

 柔らかな声に、ただ一同頷いただけだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 正解はない。

 それが戦の難しいところだ。

 いるかどうかも確定的ではない場所へ出撃するのが良い結果に繋がるのか。誰も答えを知らない。

 決断を下すのは人間。しかしその先は、神様の領分だ。しかし、神様にゆだねる前に、出来得ることを尽くしておくのが、私たちの領分なのだろう。

 私は、まとまりのつかない思考にため息をつきながら、頬杖をついた。

 カチャンと小さな音に、思わずびくっとして下を向くとペンを落としただけだった。少し、神経が疲れているかもしれない。

 私はもう一度ため息をついてペンを拾い上げ、再び頬杖をついた。

 私はなけなしの気力を鼓舞して、立ち上がった。

 月光の描く幾何学模様を踏み渡るようにして廊下を抜ければ、灯りのない外に出る。海の近くまで足を進めると、人影が見えた。

 ステッキに顎を乗せ、身じろぎもせず眼前の事実夜空を見上げている。近くまで行くと、老人がゆっくりと首を巡らせて振り返った。

 

「おや、赤城さんでしたか」

 

 深みのある声とともに微笑んだのは、予期したとおり龍三老人だった。

 

「こんな時間までご苦労様ですな」

「眠れないのですか?」

「いやなに、柄にもなく月夜に惹かれて出てきただけです」

 

 ゆっくりの空の星々に視線を戻す。

 

「格別、怖くて眠れんわけではないのですよ。正直に言うと、この歳になれば、死というものに対して恐怖が薄れていくものでして」

 

 傍らに腰を下ろしたわたしに、ほのかな笑みを浮かべつつ続ける。

 

「ましてや、何度も死にかけたとなると。今はただ周りにとって一番都合のいい選択は何だろうかと考えるばかりです」

「都合のいい選択ですか?」

「出撃した方が、事が丸く収まるならそれで良し。しない方が誰も傷つかぬなら、それもまた良し、ということですかな」

 

 さらりとそんなことを告げていた。

 胸中にあるのは、当惑だ。驚きとも言っていい。

 龍三老人は悩んでいた。

 だがそれは平和のためにどうすべきかを悩んでいるのではない。この艦隊にとってどれが最善なのかを悩んでいるのだ。出撃した方が平和が訪れるのか、しなかったらどうなるのか。そういう私の思惑の埒外に、最初から老人はいたのだ。

 

「ただ気がかりは孫のことでしてな」

 

 私の戸惑いに気づいた様子もなく、老人は苦笑まじりに嘆息する。

 

「なかなかジジイ離れのできん孫でして。赤城さんたちにもずいぶんと迷惑をかけているでしょう?」

 

 不意打ちである。いささか面食らいつつも、どこか面白がるような様子さえ見せる龍三老人に、慌てて私は答えた。

 

「迷惑なんてとんでもない。むしろ昨今まれに見る情愛深いお孫さんの心根に、私が多く反省させられてます」

「あれは優しい子なんですよ」

 

 私の返答を微笑で流しつつ、老人は続けた。

 

「早くに両親を亡くしてましてな。当時はわしも子を顧みずに戦場に行ってばかりいましたが、あの子を育てるために一念発起してここに来たんですよ。おかげで今は、こんなロクでもない老人を、親以上の親として大事にしてくれるんです。そんな可愛い孫だからこそ、危ない目に会わせたくないと思いつつ、羽黒ももう20過ぎたかと思えば、ジジイ離れをしてもらわないといかんと思うのです」

 

 ポツポツと語り続ける老人の横顔を青い光が照らしている。

 この世界には色々な家族がある。

 私のように親も祖父母がいる人がいれば、親ともにいない人も多い。それでも親戚などがいる分まだ良い方で、八幡さんのように若いのに天涯孤独の人さえいる。

 それに比すれば、北川家の祖父と孫の関係は、少し奇妙な感はあると言えども、愛すべきものと言っていいかもしれない。

 

「出撃をしてみても良いのではないでしょうか?」

 

 ほとんど無意識のうちに流れ出た言葉に、龍三老人が振り返った。

 

「お孫さんを思うのなら、戦う道を選ぶべきではありませんか。その道のりが険しくとも、いや、険しければ険しいほど、あなたがそれを選んだ事実が、いつかお孫さんにとっての励みになるのではないかと思います」

 

 老人は、小さな目を見開いてる私を見つめていた。

 やがて訪れた沈黙の中、骨ばった頰に手を当てて何か思案していたが、

 

「気難しい顔をして黙々と考え込むでいるかと思えば、こんなロクでもない年寄りに、親身になってよりくださったりする」

「私にとって大事なことは、龍三さんがロクでもない年寄りかどうかではなくて、深海棲艦をどう倒すかです。言うまでもありませんが」

 

 こんなときに私は気の利いた言葉が出てこない。心中やれやれとため息をついたところで、ふいに傍らの老人の痩せた肩が小刻みに上下した。おや、と思った時には、龍三老人は堪えかねたように、笑い声を響かせた。

 

「あなたは……、いや失礼、赤城さんは実に愉快な方だ」

「不快と言われるよりは愉快の方がいいかもしれませんが……」

「いや、勘違いしなさらないで。面白がっているのではないのです。たまらなくわしは嬉しいのですよ」

「嬉しい?」

「さよう、嬉しいのです」

 

 少し蒼さました月光の下で、老人は、奇妙なほどに愉快そうに笑っていた。

 

「深海棲艦をどう倒すか。なるほど……」

 

 言葉をとぎらせて、あはは、と笑い声をあげている。

 その声が消えていった後には、いつのまにか目の前に、鶴のように細い手が差し出されていた。

 

「ならば戦場の方をお願いしてもよろしいですかな、赤城さん」

 

 力のある声であった。

 

「もうひと頑張りしてみようかという気になってきました。年寄りのわがままに、力を貸してもらえますかな、赤城さん」

 

 透徹した目が私を見ていた。

 老人の目というより、歴戦の猛者の瞳であった。少なくともこの戦地から退場する老人の目ではなかった。

 そっと痩せた手を握りかえせば、応じるても力強いものだった。

 

「はい、お任せください」

 

 私も敢えて力を込めて答えたのだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 瑞鶴がかなり多忙である。

 元来、空母は多忙なのだが、装甲空母という特殊な存在であるゆえに、より一層忙しい。

 そんな時に、

 

「この作戦が終わったら大本営直属の艦隊にに配属されることになりました」

 

 と瑞鶴が、出し抜けにそんなことを言ったのだ。

 どうやら艦娘の1人が結婚を機に退役し、人が足りなくなったためのようだ。

 瑞鶴や加賀さん、私などが所属する横須賀鎮守府は、それこそどの鎮守府よりも多くの空母がいるが、体力や仕事量が、常人と比べてはるかに多い瑞鶴が去る影響は、無視できないだろう。

 

「それよりも、結局出撃することになったんだってね」

「耳が早いですね」

「だって、久しぶり大きな作戦になるから、みんな気が気じゃないんだもの」

「……瑞鶴も緊張しているんですか?」

 

 まぁね、と笑いながら、ソファに腰を下ろした瑞鶴は、しかし妙に落ち着かない様子でいる。

 

「どうかしましたか?」

 

 さして意味もない言葉に対して、瑞鶴の反応はいつもと違う。少し考えるような顔をしてから、答えた。

 

「今回の作戦の旗艦、私がすることになったの」

 

 私は思わず瑞鶴の方を顧みた。

 頭の中で、今聞こえてきた言葉を2度繰り返して、それから瑞鶴をもう一度見返した。

 

「横須賀から出ていくための卒業試験だって。さっき、提督から言われたんです装甲空母として横須賀でやってきたことの成果を見せてくれって」

「瑞鶴が旗艦を?」

「そんな不安な顔をしないでくださいよ。私だって緊張しているんですから」

 

 なるほど、こうして相対してみれば、常ならずぎこちなさが垣間見える。

 横須賀一能天気さに加えて、楽天家という、緊張とは無縁のようなこの艦娘が、とても塩辛い緊張感を醸し出している。

 

「まぁ、艦娘にとって、旗艦をやり遂げるのは登竜門ですからね。いつかはやらないとっては思ってたんだけど、こんな大きな作戦でだなんて思いませんでしたよ」

 

 後輩にとって、これは1つの試練なのだ。

 私が想像のつくものではないが、その横顔を見れば明らかだ。

 黙って見守る私の視線に気づいて、瑞鶴は困ったような顔をした。

 

「だから、そんな心配そうな顔をしないでくださいよ」

「心配はしてませんよ」

 

 敢えてはっきりと応じる私に、瑞鶴がかえって戸惑い顔をする。

 

「提督が任せたのではあれば、そういうこと。微塵も不安はないですよ。きっちりと深海棲艦を倒してくれればいいんです」

 

「うん」と瑞鶴は、大きくうなずいて見せた。

 私は瑞鶴から視線を外したものの、背後の気配が妙に希薄なせいで、そっと肩越しに振り返った。

 瑞鶴はソファに腰を下ろしたまま、視線を眼前の机に投げ出し、じっと考え込んでいる様子だ。頭の中で、きっとすでに戦地へと向かっているのかもしれない。

 "第一次攻撃隊。発艦始め!"の一声とともに、戦闘が繰り広げられているのだろう。

 瑞鶴は焦点を失ったまま沈黙し、脳裏に描く手順をひとつひとつ進めている。

 私は後輩の頭の中の戦闘を中断させぬように、そっと立ち上がった。

 瑞鶴は瞬きすら忘れたかのように、微動だにしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これからの投稿頻度ですが、月2話を目標にしていきたいと思います。もちろん、これよりももっと多い頻度になるように努力はしますが……少々厳しいかもしれません。とりあえず、ゆっくりと次回をお待ちください。

※一応、第3章のシナリオは頭の中では終わっています。で、早すぎるとは思いますが、次の章にいくつか候補があってどれから始めようか迷っています。そこで、活動報告の方にてアンケートを取りたいと思っています。回答してくださると大変ありがたいです。また、忘れている人も多いかもしれませんが、もう一つのアンケートも受け付けています。そちらの方も何かあれば回答してください。よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 猛暑となる日が続いている。

 夏は暑いものだと言うが、さすがにこの気温が毎日続くのはきつい。

 日中、燦々と日が照っているおかけで、海の上にいる私たちは気温以上の暑さを感じる。太陽の光と海が反射した光のおかげでより熱せられているのだ。

 その上、ジメジメとした空気も相まってより私たちの戦意を削がれつつある。入る分には海は最高なのかもしれないが、ただ上で滑っている私たちにとっては砂漠かそれ以上の厳しい環境となっている。

 そんな暑さを遮断している鎮守府内で、私はとある部屋へと足を進めた。

 この殺伐とした状況の鎮守府の中で、のびやかな空気の漂う部屋は、気分転換の趣さえある。

 

「あ、お久しぶりです!赤城さん!」

 

 部屋の扉を開けたところで、そんな大声で出迎えたのは、私と同じ空母の飛龍だ。橙色の緑色の袴姿でショートカットの女性だ。

 もともと横須賀鎮守府で一緒に戦っていた艦娘で、私たちとともに修羅場の横須賀を支えていた主力だ。瑞鶴に劣らずの元気っ娘で、常に動いているか食べているような印象がある。それとは対照的に訓練はスパルタ気質で、どこか佐久間さんと似てなくもない娘だ。今は別の鎮守府に勤めている。

 この飛龍も同じようにこの鎮守府へと招集されていたのだが、なかなか顔を合わせる機会がなかった。

 

「どうです、少し一服していきますか?」

 

 言いながら手招きしつつ、奥の方へと誘ってくれる。

 

「明日は瑞鶴の初めて旗艦として出撃するんですよね?」

 

 先に立って歩く飛龍が明るい声で告げた。

 

「耳が早いですね」

「この前提督が連絡してきたんですよ。瑞鶴が大本営に行く前に、大将首をあげさせたい。でも、旗艦は荷が重すぎるかなって」

 

 私たちの提督は、猪突の人物ではない。慎重に慎重を重ねる人だ。迷いがあったときに、気負いなく私たち艦娘に相談を持ちかけるのは、昔から変わらない風景だった。

 

「なんと答えたんですか?」

「知りません」

「え?」

「知りませんって言ってやりましたよ」

 

 あはは、と大声で笑いつつ、

 

「私が見たことあるのって、艦娘になりたての頃だけですから。今の瑞鶴なんて見たこともないのに、そんなこと知りませんって言ってやったんです」

 

 なかなか乱暴な人だ。乱暴ではあるが、声の温かい人だ。

 でも、と肩越しに振り返りながら続けた。

 

「私も赤城さんたちも、今の瑞鶴の頃にはすでに旗艦は勤めましたよ。そう言ったら、勝手に納得しましたよ」

 

 飛龍と私たちの頃のことが今と同じようにいくわけでもない。でも、心意気は同じなはずだ。

 大切なことは、指揮官や先輩、教官たちの誰もが、面は笑顔で背中に冷や汗をかきながら、後輩や部下の育成を行なっているということだ。

 かくいう私も、佐久間さんから受けてきた指導の数々は、言葉にはならない重みがある。重みがあると言いつつも、その本当の重さは、なお歳月を経なければ分からないだろう。

 

「ところで赤城さん」

 

 ふいに飛龍の声が、私を記憶の泉から引き揚げた。

 

「そちらの方も大変そうですね。提督が言ってましたよ。せっかく引っ張ってきた軍神が、結構な暴れっぷりだと。私には手に負えませんって嘆いてましたよ」

 

 苦笑しつつ、奥の部屋の扉の向こうに足を踏み入れると、先客があったことに気づいて足を止めた。思いのほか広い部屋のソファに、のんびりと腰かけた長身の女性がいる。のんびりと羊羹を頬張っている先方は、私を見ても驚きもせず軽く肩をすくめただけだ。

 

「こんなところで何やってるんですか、加賀さん」

 

 ごくんと飲み込んでから、

 

「一息です」

 

 端的な言葉をが応じた。

 そのしなやかな声に重なるように、

 

「赤城さん、コーヒーでいいですか?」

 

 飛龍の声が響いた。

 

 

 ーーーー

 

 

「まだ病状が芳しくないって聞いてましたが」

 

 加賀さんの向かい側に腰をおろしながら、つい皮肉がこぼれてくる。

 言われた方の加賀さんは、細い眉を片方だけ動かしたから、再び羊羹を口にした。

 

「今日、やっと解熱したんです」

「解熱したばかりの身体で、そんなに食べるなんて、加賀さんらしからぬ軽率な処置ですね」

「もう一度体調を崩して、復帰先伸ばそうと考えているんです」

「艦隊の娘たちは、加賀さんの復帰を心待ちにしているんですが…………」

 

 少し声音を低くして、眉を寄せれば、さすがに加賀さんは軽口を収めた。

 

「冗談です。赤城さんに怖い顔は似合わないわ」

「加賀さんの言うとおりですよ。赤城さん、そんな不機嫌な顔をしないで」

 

 自らも羊羹に口をつけながら、飛龍が傍らのソファの傍らの椅子に腰をおろした。飛龍にたしなめられては、ぶらさげた不景気面も片付けざるを得ない。しかし、

 

「どうしてここに加賀さんが?」

「ガス抜きですよ」

 

 答えたのは飛龍だ。

 

「珍しくくたびれた様子で、ここに顔を出しに来たんです」

 

 言われて改めて得心した。

 たしかにこういう時、飛龍のような明るい娘といると普段から溜まってきたストレスが解放されるような感覚に陥る。

 

「おまけに飛龍、あなたが異動になった時に蒼龍までも連れ出して行ったから、私には、こっちの方が居心地がいいかもしれないわ」

「そうですね。私たちの鎮守府は楽天家な人が多いですから。色んな人が顔を見せたりしますよ」

「私は別に、好きで来ているわけでもないわ」

「そんな恨めしそうな顔をしないでくださいよ。だから異動するときは、加賀さんも一緒に来ませんかって誘ったじゃないですか。横須賀よりも楽ですよ」

「私は楽をしたくて艦娘になったわけじゃないの」

 

 お茶を一口飲んでから、湯呑みを置いた。その手で、すぐにもう一切れの羊羹に手を出す。

 

「あ、今日はまたたくさん食べますね。せっかくだからもう一本持って来ますよ」

 

 そんな言葉にさすがの加賀さんも慌てたが、飛龍は明るい笑い声とともに出て行ってしまった。

 部屋に残ったのは、空の皿と、微妙な沈黙だけだ。

 

「意外と…………」

 

 私はおもむろに口を開いた。

 

「愛されていますね、加賀さん」

「意外と、は余計です」

 

 軽くため息をつきながら、卓上の湯呑みを再び手に取る。

 

「言っておきますが、赤城さん。風邪というのも本当ですし、今朝から解熱したのも本当です。最近はいそがしいから免疫力が低下していたかもしれません。明日にはきちんと復帰します」

「何よりです。加賀さんのいない戦場で戦うのは、片手で弓を扱えと言われているようなものですから」

「なんですか、それは」

「やれと言われればできないことはないかもしれませんが、大変な上にまともに狙いを定めることができません。要するに、そんなことはしない方がいいんです」

 

 かすかに加賀さんは苦笑した。

 

「おまけに加賀さんが休んでからの現場は、とても雰囲気が悪いんです」

「それは仕方ありません。旗艦と指揮官が真っ向からぶつかった後ですから。我ながら、今思い出しても頭にくる話です」

 

 "俺の判断に口を挟まないでくれないか"

 八幡さんの暴言が思い出される。

 

「八幡さんの発言は、少々度を越しています。加賀さんが怒らないと、他の艦娘たちの収まりがつきませんよ」

「頭にきたのは、八幡さんに対してではありません」

 

 加賀さんは湯呑みに視線を落として、

 

「あの程度のことで、本気で頭にきた私自身に腹が立ったんです」

 

 意外な応答に私は口をつぐんで見返した。

 

「提督たちは提督たちの色んな事情があります。それを全てひっくるめて現場を回すのが旗艦の仕事です。そんなことはわかりきっているのに、八幡さんの言葉に本気で頭にきた私に頭にきました」

 

 結局、ともう一度大きくため息をついて言った。

 

「自分の未熟さにへこんでいるんです」

 

 少し厳しすぎる自己評価だ。しかし、そんな見地に立脚してこそ、今の加賀さんがいるはずだ。私が浮薄な論評を加えれる話ではない。

 

「はぁ、私が提督になっていれば、こんなことで悩むこと必要もなかったのに…………」

 

 何気なく投げ出された愚痴に、むしろ私は驚かされた。

 

「加賀さんは提督を目指してたんですか?」

「高校生の頃の話です。士官学校に行くには、英語と数学と国語と理科と社会の点数が少し足りなくて」

「念のため、何が足りていたのか聞いておきたいんですが…………」

「気合いです」

 

 うまくはぐらされたようで気勢をそがれたが、ふと思い当たったのが、今はその立場の八幡さんも歳上とはいえ、相当若いということだ。

 かつて加賀さんが、提督を目指していたのなら、加賀さんの目に映る八幡さんの姿は、また違う意味を持つかもしれない。

 

「まぁ、うじうじしているのも私らしくありませんね。六根清浄六根清浄」

 

 唐突に念仏などを唱えて、加賀さんは湯呑みの中のお茶を全て飲み干した。

 そんな姿を眺める私の胸中には別の想念がある。

 加賀さんが、指揮官にでもなっていれば、それはそれで現場に大きな存在感を示していただろう。しかし、加賀さんが正規空母であるからこそ、この厳しい戦場の中でも戦い続けれる人もいることは事実だ。何より私がそうだ。自然と生じる謝意の数々は、簡単に言葉にはできない。

 ゆえに私は、ただそっと感謝を込めて言い添えた。

 

「早く戻ってきてください。いつまでも片手でいるのは大変なんですから」

 

 ちらりと一瞥を投げかけた加賀さんが、かすかに微笑んだ。

 束の間満ちた沈黙を、にわかに押し流したのは、外から聞こえてきた飛龍の笑い声だ。壁越しの笑い声は、扉が開くとともに、室内に飛び込んできた。

 

「加賀さん、もう1人お客が来てますよ」

 

 飛龍がそう告げた。

 私と加賀さんが顔を動かした先にちょうど入って来たのは銀髪ロングの女性だ。

 あら、と私がつぶやくのと、先方が私を見つけて軽く目を見張るが同時であった。

 

「これは…………いつのまにか横須賀の空母寮が、ここに移動していたんですか?」

 

 五航戦の翔鶴であった。

 飛龍が渡した湯呑みを受け取りながら、加賀さんは気のおけない口調で迎えた。

 

「よくここにいるのが分かったわね」

「昨日、加賀さんが見ないなと思ったら、病欠だと聞いてまして。だとしたらここにしか居場所はありませんよね」

「いろいろ反論したいことがあるんだけど…………」

「でもまさか、赤城さんまでいるとは思いませんでした。2人っきりの方がよいですよね?」

「私も反論させてもらってもいいでしょうか?」

 

 思わず口を挟んだ私に、翔鶴は愉快げに笑う。

 

「赤城さんはたまたまここに来たんです」

「そうですか」

 

 ずいぶんとお気楽な会話が交わされている。

 飛龍は、またもう一つの羊羹を持ってきて、

「はいどうぞ」と机の上に置いた。

 いつのまにやら飛龍の部屋に、加賀さんや翔鶴と、横須賀鎮守府のかつての同僚たちが机を囲む格好になっていた。

 

「で、どうなんですか、軍事会社からきた八幡っていう人は?佐久間さんの教え子って聞いてましたけど加賀さんを怒らせるぐらいなら、佐久間さんに似て豪傑な方なんですか?」

「私の知る限りでは…………」

 

 と翔鶴が言う。

 

「とても素晴らしい指揮官だと思いますよ。指示は正確で分かりやすいし、優しい人です」

「あなたって本当に人を見る目がないわよね」

「私は加賀さんの味方ですよ。いつでも私たちのところへ…………」

「楽をしたいわけじゃないと言ったはずだけど、飛龍」

 

 ジロリとひと睨みする加賀さんに、翔鶴が穏やかに続ける。

 

「飛龍さん、妙な勧誘は困りますよ。加賀さんが移ってしまったら、士気に関わります。横須賀鎮守府は加賀さんがいるから成り立っているんです」

「あら、五航戦にしては、気の利いたことを言うのね」

「後輩の私たちは、加賀さんたちの背中を見て育ってますからね」

 

 臆面もなく告げる言葉に苦笑しかけた私が、そのまま笑みを保留したのは、翔鶴の言葉のどこかに、不思議な熱を含まれているように感じたからだ。

 おや、と視線を巡らせれば、加賀さんの珍しく戸惑う様子を見せている。対する翔鶴は穏やか笑顔のまま、加賀さんを見つめているだけだ。

 一瞬な複雑な沈黙のあと、ため息が吐き出された。

 

「よく言うわ、軽薄五航戦」

「軽薄とは心外です、戦闘時もプライベートも真摯であるのが、私のモットーなんです」

 

 複雑な顔をする加賀さんと、にこやかな翔鶴の間に、目に見えない何かが往来しているらしい。

 私がいなかった間に何かあったのか、と胸中で思案しているところで、飛龍がこっそりと耳元で囁いた。

 

「ね、こういうところは、いろいろ面白いことが見れるでしょう?」

 

 アハハっと笑ってから、飛龍はすぐに何事もなかったかのように、好物の羊羹を口に運んだ。

 私はとりあえず、沈黙のまま、湯呑みを傾ける。中身はすでにない。すでにない湯呑みを傾けながら、眼前の、2人を眺めやった。

 

 

 ーーーー

 

 

 加賀さんが復帰した日の夕方6時。

 自分の業務を終えて、軍港に足を運んだ私は、海を見渡して、かすかにため息をついた。瑞鶴を含め、多数の艦娘がこの鎮守府にいない。

 まだ戦闘は終わっていないらしい。

「お、赤城、おつかれ」と太い声をあげてたのは、海の方を向いてタバコを吸っている佐久間さんである。普段なら元帥として忙しい身であるはずなのに、こんな場所にいるのは大変珍しい。

 

「出撃した艦隊はどないなった?」

 

 何気ない口調の中に、ささやかな気遣いを含んだ声が聞こえた。

 

「4時過ぎの報告では、まだ終わる気配もありませんでした。その後の経過は分かりませんが、まだ戦闘中だと思います」

 

 そう、この日は瑞鶴を旗艦とし大艦隊による、殲滅作戦が実行されたのだ。私は鎮守府の護衛として出撃はせずにこの場所に残っている。

「そうか」と呟きつつ、佐久間さんは、手元の資料をパラリとめくっている。それを覗き込んで驚いた。

 

「佐久間さんが作戦の考案者なのですか!?」

 

 そこには今日の作戦の内容がこと細やかに書かれていた。本来なら、指揮官たちが持つものであり、今日来たばっかりであるはずの佐久間さんが持っている。それなら、この作戦を佐久間さんが立てたと考えるが、そんな話は聞いていない。

 

「わしのちゃうで」

 

 私の疑問を汲み取った佐久間さんが、表紙を見せた。

 

「八幡さんですか?」

「なんや、赤城、知らへんの?今回の作戦を含めて、ほとんどはたちゃんが考えてん」

 

 再び私は驚いた。

 たしかに八幡さんは参謀の役を担っていると言っていた。しかし、この資料を見る限り、八幡さんがやって来てからの作戦全てを彼が考えていたことになる。

 

「さすがのはたちゃんも連日連夜、働いて限界に達したんやて。今夜一晩だけ休ませてくれってわしに泣きついたわけや」

 

 はたと思い当たったのは、先日、私が相談しに行ったときの、八幡さんの妙に疲れ切った様子だ。あの日の時点で相当疲労が溜まっていたのだろう。

 それにしても、元帥であろう人が直々に代打に出てくるなんておかしな話だ。それほど、八幡さんが信頼しているのか、頼る人がこの人しかいないのかはわからないところだ。

 中に入ろうや、と指をさして佐久間さんは踵を返した。向かう先は、鎮守府内の広間だ。

 広間に移動し、ソファに腰を下ろしながら、

 

「赤城も一緒に電話番やらへん?こないな時、わし1人じゃ怖うな」

「言葉と表情が一致してませんよ」

 

 ニヤリと笑った佐久間さんは、「冷たいなぁ、赤城は」などとぼやきながら、机の下から将棋盤を取り出して、無造作に並べ始めた。どうして将棋盤の在処を知っていることは、何も言わずにしておく。

 要するに「相手をしろ」ということだ。

 私は6時半を示す掛け時計を一瞥してから、佐久間さんの向かい側に腰を下ろした。

 

「はたちゃんからの賄賂」

 

 と佐久間さんが駒を並べつつ、傍らのコーヒー缶を示した。私は黙って赤い缶を手に取る。

 

「駒落ちにしますか?」

「余裕やんけ、赤城」

「これでも自信がありますので」

「じゃ、一枚落とすで」

 

 言いながら、佐久間さんは私の陣中から飛車を取り上げた。のみならずそれを龍へと返してから、自身の王将をのぞいた場所にパチリと指した。

 王の代わりに龍がいることになる。

 

「これ、わしの王将な」

「随分と強力な王ですね」

「なに、赤城には敵わへん」

 

 ひと睨みする私を意に介さず、佐久間は飄然と笑って、歩を進めた。

 私は軽く額に手を当ててから、とりあえず櫓を組むべく、金将を動かした。

 

 

 ーーーー

 

 

「八幡さんは、なぜ軍隊を辞めて、あの会社に勤めているんですか?」

 

 攻めよせる佐久間さんの先鋒部隊に構わず、私は地道に守りを固めながら、声を鎮めて問いかけた。

 なるべく何気なく問うたつもりだが、佐久間さんはニヤリと意味深に笑う。

 

「はたちゃんになんか言われたんか」

「なぜです」

「自分が派遣されたばっかりの時は、何にも聞かへんかったやんけ。もともとそないなことには首を突っ込まへん赤城が、今更はたちゃんの昔話を聞きたけどるなんざ、なんかあったと考えるのが筋やろ」

 

 相変わらず鋭い。

 

「手厳しい論評を受けました」

「どうせ、1人の軍人として覚悟が足りへんやら、そないな話やろ」

 

 困った奴や、と佐久間さんは笑う。

 その指が、自陣の桂馬を大きく動かす。悪手だ。守りの要を自ら崩した佐久間さんの陣営は、隙だらけなのだが、王将だけは飛車の動きで縦横無尽に動くから、攻めにくいことこの上ない。

 

「あいつが軍隊に入ってきたのは、わしが左官のころやった。あの頃は優しゅうて懐の広い上司の下で、のびのびと鍛えとったもんや。元来が生真面目なやつで、今よりもツンケンしとったけど、とにかくどないな命令も二つ返事でうけとったさかい、上にはえろう気に入られとったもんや」

 

 真剣な話にもあちこち狸芝居を入れてくるのはいつものことだが、黙殺する。私は攻め込んできた角を袋叩きにしてから、問うた。

 

「その、気に入られてた八幡さんが、突然退役をして、民間軍事会社を立ち上げるなんて、ずいぶんと奇異な気がします」

「ま、普通に考えれば変やな」

「何かあったんですか?」

「もちろん、あったさ」

 

 さらりと言ってから、意味ありげな一瞥を私にくれて、

 

「聞きたい?」

 

 私は一瞬躊躇する。

 

「…………聞きたくないと言えば、嘘になりますが」

「教えてやらん」

 

 ニヤリと笑った。

 

「聞きたければ、はたちゃんに直接聞くとええ。わし、個人情報を流してはたちゃんに恨まれんの、いやさかい」

 

 はぐらかす言葉に、私はあくまで動じない。この程度で動じていては、佐久間さんのもとで何年も乗り越えれるわけがない。

「そうします」と答えて、先程討ち取った角を指した。

 

「私にとって大事なことは、八幡さんの過去ではありません。八幡さんの論評に対してどうするべきか、ということの方ですから。兵士は、目的を見失って、道具に成り下がってはいけない、と。目を覚まされるものがあります」

「まじめやなあ」

「八幡さんのことですか?」

「2人とも、や」

 

 遠慮せずに攻める私を、佐久間さんはおどけた笑みで返した。

 

「古風なんやで、あいつは」

 

 ポツリとつぶやくように佐久間さんが言った。

 その手はいつのまにか盤上を離れ、その目は盤上に向けられつつも、ここではないどこかを見つめている。

 

「八幡はああ見えて、恐ろしゅう古風な男なんやで」

「古風、ですか」

「戦士は、人生を捧げるくらいの覚悟が必要かて本気で考えとる。平和主義っていう鉄砲玉が飛び交う戦場で、いまだに日本刀を振り回してるようなものや」

 

 奇妙なたとえ話でありながら、不思議と違和感を覚えなかった。時代遅れの侍に、佐久間さんはたしかに共感していた。いや、共感にとどまらない。佐久間さんもまたら侍の1人であった。それも、自分自身の理想を実現するために、大本営という最前線で戦い続ける孤高の侍であった。

 

「こないなせんない現場やさかいこそ、あないな奴がおらへんとあかんのや。あいつの振り回す刀は相手を選ばへん。戦士としてなってへん思たら、たとえ相手がわしであっても遠慮のう斬りかかって来るやろう。負け戦ばっかりの戦場に、あないな奴がおってくれると、意外に心強いもんなんやで」

 

 意想外の言葉に軽く目を見張ると、佐久間さんは缶コーヒーに手を伸ばしながら、ちらりと目を向けて、付け加えた。

 

「こんなんわしが言うたなんて、はたちゃんに言わんといてや」

「言いませんよ、言ったところで八幡さんは信じないでしょう」

「なるほど、そらそうだ」

 

 笑いながら、再び盤上の上の龍を手に取った。

 

「ま、外から飛んでくる鉄砲玉くらいわしが防いだれる。赤城は自分の信じる道を歩けばええ。ただし生き急いだあげくに、勝手にこけて大怪我だけはせんようにな」

 

 ほとんど何気なく投げ出された最後の一言が、わずかに遅れて胸を打った。まるで打ち上げた花火の轟音がら光に一瞬遅れてから届くように、深く、重く、殷々と心の奥底を打ち鳴らした。

 思えば、佐久間さんの親友が亡くなってから、半年も経ってない。

 よく私に話していた親友と歩んできた期間は、30を超える。つまり私が生まれる前から戦い続けてきたのだ。その戦場で、唐突に佐久間さんは、右腕どころか半身を失ったのだ。

 少なくとも外面上は大きな変化はないものの、佐久間さんの受けた衝撃は計り知れない。

 

 "鉄砲玉は防いだれる。ただし、勝手にこけて大怪我だけはせえへんように"

 

 そのささやかな一言に秘められた切実な何かを、私は直感していた。打ち上げ花火の影響は、なお空気を揺らしながら、ゆっくりと遠のいていくようであった。

 しばしの沈黙は、しかしある人物の闖入により中断された。

 

「お邪魔でしたか」

 

 そう言ったのは、提督だ。頭を自分の右手で撫でながら、遠慮がちに広間を一望する。

 

「珍しいですね、元帥殿。こんなところに顔を出すなんて」

「まあな、瑞鶴はまだ時間がかかるかいな?」

「ええ」

 

 提督が柔らかな微笑を浮かべた。

 

「提督が、自分の部下を心配してるんですかい?」

「心配というほどではありません、ただ」

 

 顎に指を添えながら、

 

「それなりの年月をともに過ごしてきた仲間ですからね。瑞鶴の卒業試験を無事乗り越えた暁には、ぜひ祝いの一言も添えてやりたいと思っただけです」

 

 仲間、という表現が、いかにも提督らしい涼しげな響きを持って聞こえた。

 佐久間さんが面白そうな顔を私に向けて、

 

「なんや、瑞鶴もずいぶん愛されてるやんけ」

「そのようですね」

 

 なにやら不思議な面々が揃ったものだと見回すうちに、またもう1人やってきた。

 今度こそ瑞鶴が来たかと、全員が振り向けば、案に相違して私服姿の広瀬さんであった。

 佐久間さん、提督に私と、異色の3人組が一斉に振り返ったことに、広瀬さんの方が驚いたようだ。

 

「な、何ですか?」

「何というほどでもありませんよ」

 

 とりあえず私が応じる。それを引き継ぐように佐久間さんが言う。

 

「広瀬こそどないしたんや。今ははたちゃんのもとで働いてるんちゃうんか」

「いえ、その瑞鶴が今回の作戦の旗艦だって聞いたものですから…………」

 

 ソファをかこむ3人が思わず顔を見合わせる。その反応に、広瀬さんはますます訳がわからないといった顔をする。

 

「そういう佐久間さんたちこそ、何かあったのですか?」

 

 広瀬さんの当惑もやむを得ないだろう。

 日頃は、顔を合わせることも少ない面々が、所在無げに支えを囲んでいるのだ。ここに広瀬さんも加われば、はたから見れば奇異に違いない。

 

「各別、問題はありませんよ」

 

 困惑気味の広瀬さんに、おもむろに応答したのは提督だ。

 

「それよりも、こんな時に、娘さんを置いて来て大丈夫ですか?」

「大丈夫です。娘も訳を話すと分かってくれる歳になってきましたし、僕の母親もついていますから。それよりも佐久間さんたちこそ大丈夫なんですか?」

「問題ありませんよ。仲間を送る大切な日なんですから」

 

 そんな言葉に、落ち着いた笑声が和した。

 瑞鶴が旗艦を務める大作戦が終わりを告げたのは、それからおよそ2時間後のことだ。




引き続き活動報告にてアンケートをしていますので、よかったらお答えください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10

 瑞鶴の旗艦としての初陣は容易なものではなかった。

 敵の強さの問題ではない。環境の問題だ。もともと小さな島々が点在する場所であったため、深海棲艦が突如現れることが多く、いちいち目的地まで行く手を阻まれる困難な出撃だったのだ。その上、昨日は一段と暑い日であったためなおさら大変だっただろう。

 脳裏に、昨夜の光景が思い出される。

 その時の、工廠には、まことに奇妙な沈黙が満ちていた。

 佐久間さん、提督、広瀬さん、私と最後にやってきた加賀さんと、共通の話題を持たない集団であるから、落ち着かない。加賀さんと話をしている私の横で、提督は夜食を取っている。佐久間さんはコーヒーを飲んでいたが、途中から目を閉じ、仏像のように瞑想に入ってしまった。その背後で広瀬さんは、ノートパソコンを開いて忙しげに指を動かしている。

 そうして8時を回った頃、ところどころ損傷し、汗まみれになった瑞鶴と、同じ艦隊の艦娘たちが戻ってきたのである。

 作戦は成功であった。

 あの無尽蔵のスタミナを誇る五航戦が、ほとんど放心状態の体ではあったが、一同起立してこれを出迎えて、喝采を送ったことは言うまでもない。にわかに賑やかなる工廠の中で、どこからともなくビール一箱を取り出したのは、他でもない佐久間さんだった。まだ艤装を外したばかりだというのに、祝宴の開催を宣言したのであるから、佐久間さん自身も、瑞鶴の出撃を案じていた者の1人だったということだろう。

 乾杯ののちに、嬉しげに缶ビールを飲む五航戦の後輩の横顔は、なかなかに貫禄のある空母の風情だった。

 それを見守る私に、同じ艦隊であった1人の艦娘がそっと告げた言葉がある。

 "一度も集中力は切らさなかった。大した人だ"と。

 その人は、顎に指を添えて、かすかに微笑した。私は一礼してのち右手の缶ビールを飲み干した。昨今まれにみる旨い缶ビールであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 大作戦が成功した次の日は、大雨であった。

 海辺ではあるから天候が変わりやすいのはいつものことだが、今日はいつもにも増してひどい大雨であった。

 風とともに降り注ぐ大粒も雨はたちまち外に水のカーテンを広げる。

 このようでは、海に出ることは言わんや、外に出ることも憚れる。そのおかげで、今日の呉鎮守府は驚くほど静かであるという、奇妙な副産物が生じたのだ。

 作戦終了後、提督を含む首脳陣からは報告は後日行うとして、とにかくしばらくは休んでよいとの通達があった。本来ならこの日に調査隊を送り出して、深海棲艦の調査を行うはずだが、この雨だ。もちろん、調査隊を護衛するのは艦娘であるから、しばらくはここに滞在しなければならないだろう。

 だが、せっかくの休みだ。私は手に一冊の本を持って、足を進めていた。

 降って湧いたような静寂の日であるから、誰もいない広間のソファにでも寝転がって、久しぶりに読書にいそしもうという算段である。

 夜の8時に珍しく愉快な構想をかかえつつ広間のそばまで行けば、そこには意外な先客を見つけて、足を止めた。

 電灯を半ば消した広間の隅で、ソファに身を預けながらテレビを眺めていたのは、誰であろう、八幡さんであった。

 

「お、相変わらず遅くまでお疲れだな」

 

 肩越しに振り返った八幡さんを見て、いささか当惑する。片手に缶ビールを持っていたからだ。

 

「酒には厳しい人だと聞いていましたが」

「厳しいからと言って飲まないわけじゃないさ」

 

 くすりと笑った目元には、普段からは見られない陽気さがある。顔色などは普段から変わらないが、妙に明るい雰囲気が漂っている。要するに酔っている。缶ビールの出所は、先日の、瑞鶴の祝宴の残り物だろうか。

 

「なにか良いことがありましたか?」

「やっと参謀としての仕事が終わったんだよ」

 

 常にない朗らかな口調に、むしろ私が姿勢を正した。

 2ヶ月にも及ぶ仕事がようやく終わったのだ。表では大きな損害もなかったのは、彼の綿密な計画があったからだろう。

 

「お疲れ様でした」

「疲れた。疲れたが…………」

 

 缶ビールに口をつけてから続ける。

 

「作戦が大成功したってもんなら、そんな疲れも吹き飛ぶさ」

 

 さらりと独り言のように告げて、そのままゆっくりと缶ビールを傾けた。

 不思議なものだ。

 時に依頼者を選び、時に説明さえ拒否する人物が、連日で作戦を練り、作戦の成功を喜んでひとりで祝杯をあげている。どれほど哲学が異なっても、いかほど法論が一致しなくても、結局、八幡さんも私も目指しているのは同一なのだ。

 

「飲む?」

 

 ぽんと卓上に差し出された缶ビールを「結構です」と丁重に断って、八幡さんの向かい側に腰を下ろした。

 

「いつも忙しそうな赤城が、のんびりしてるなんて珍しいんじゃないか?」

「今夜は雨が大暴れですから。雨が止むまでは、静かなものです」

 

 淡々と答えつつ、ポケットから缶コーヒーを取り出す。1本は眼前に置き、もう1本は八幡さんの前に置いた。

 

「俺に?」

「加賀さんから、お疲れ様でしたということです」

 

 告げた途端に八幡さんが微妙な顔をしたのは、私が苦笑していたからだろう。

 

「なんだよ。早めに和解しろって言ったのは、君じゃないか」

 

 少しむっとしたその素振りが、なにやら少年めいてかえって微笑を誘う。私はこぼれる笑みをおさえつつ、告げた。

 

「とりあえず、八幡さんの頭脳に乾杯です」

 

 八幡さんは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに苦笑して缶ビールを持ち上げた。

 アルミ缶とスチール缶のぶつかる情緒のかけらもない金属音が、妙に華やかに響いた。

 

 

 ーーーー

 

 

「なに?佐久間さんから俺の昔の話、聞いたのか?」

「聞いたというほどではありません」

 

 素っ頓狂な声をあげる八幡さんに、私はあくまで静かに応じる。

 傍らのテレビでは、プロ野球が流されており、1人の男性が快音を鳴らして打球を飛ばして、そのボールを別の人が追いかけている。

 窓外の雨は相変わらずの豪雨の様相で、視界は限りなくゼロに近い。二重サッシのおかげで音が聞こえない分、砂嵐のテレビモニターのようだ。

 

「佐久間さんが言うには、優しい懐の広い上司のもとで、八幡さんがのびのびと鍛えていた、とのことでした」

 

 目を丸く開いて、八幡さんはほとんど呆気にとられたような顔をした。

 

「違うんですか?」

「違うどころじゃない。ほんと、ひどい時代だったんだぞ。佐久間さんが教官の頃は、言うなれば俺の暗黒時代だ」

 

 パタパタと手を振って、あぁ思い出したくもない、とつぶやいた。

 驚く私の顔を見て、八幡さんは眉をひそめる。

 

「赤城はいいよ。あんなに優しい佐久間さんのもとで学べるんだから」

「佐久間さんが怖くないということはありませんが、そんなに?」

「とんでもなく怖かったぞ。まだ入隊したてなのに、少しぼーっとをすると、いきなり頭殴るんだよ。びっくりして振り返ると今度は、"訓練中に動きを止める奴があるか!!"ってもう1発」

「滅茶苦茶ですね」

「"鬼佐久間"といえば、ほかの同業者なら知らない奴はいない」

 

 昔のことは外国よりも遠い、そんなものだろう。

 

「かと思えば、いきなり俺を対深海棲艦の部隊の隊長に指名するし、艦娘との出撃に同行させるし、でほんと訳のわからん時代だった」

 

 でもな、と八幡さんは、飲み終えた缶ビールの中を覗き込みながら、少しばかり声音を落とした。

 

「佐久間さんの目は本物だった。今は分からないかもしれんが、どんな困難な状況でも、正確に指示をして、かならず結果を出していた。荒いように見えて、繊細な人だったよ。今思い出しても鳥肌が立つくらいに」

 

 ソファにもたれながら、思いをはせるようにそっと微笑む。

 

「暗黒時代とは言ったが、軍人にとっては、黄金時代でもあったかもしれない」

 

 鬼が丸くなっても、慧眼は変わらない。

 その佐久間さんのもとで、かつ最前線で戦っていたということは、八幡さんにとってはたしかに黄金時代と言ってもいいのかもしれない。

 

「その黄金時代を、しかし八幡さんは途中で捨てたというのが、不思議です」

 

 何気なく問うた言葉に、八幡さんはそっと目を細めた。

 陽気な雰囲気が消えたのは、気のせいだろうか。

 

「立ち入った話であれば、話題を変えます。せっかくの乾杯の席に…………」

 

 地雷の気配を感じて撤退の構えをとったところで、八幡さんは突如、迫撃砲を打ち込んできた。

 

「親友が死んだ」

 

 簡潔な一言だった。

 簡潔であるにも拘らず、ただ1発の砲撃音が、雷鳴のように響き渡っていた。

 私は八幡さんの顔を見て、それから手元の缶コーヒーに目を落として、また八幡さんに視線を戻して、ようやく口を開いた。

 

「失礼しました。別の話に…………」

「俺、軍人の時は孤高な奴とか騒がれてはいたが、親友はいたんだ」

 

 プシュッという緊張感のない音は、八幡さんが2本目のビールを開けた音だ。

 

「背が高くて、優しくて、頭もいい。こんな根暗な俺とは対照的な男だった。あいつが偵察部隊として、出撃していた時に、深海棲艦の襲撃を受けて死んだ」

 

 夏の夜であるはずなのに、すっと温度が下がったように感じた。

 私は言葉を持たず、ただ沈黙する。

 八幡さんは、立ち往生の私に「隠すような話じゃないさ」と、また語を継いだ。

 

「俺が軍人になってまだ3、4年ぐらいか経ったくらいかな。はっきり言ってその時の深海棲艦の動きは不審なものがあった。だから偵察部隊を送り出して、様子を見させていたんだけど、上層部の判断はもうしばらく偵察を継続」

 

 今でこそ偵察は、偵察機を用いるため、人が直接赴くことはない。

 しかし、その当時は人間の部隊がわざわざ偵察し回っていたという。

 

「その時の偵察部隊は異変に気付いていた。何か異形のものがいるって。だけど、上層部の指示に従った。そうしたら…………」

 

 かしゃと乾いた音がしたのは、八幡さんの手元でビール缶が、少しばかり変形していたからだ。

 

「いつのまにか、深海棲艦に囲まれていた」

 

 ひしゃげた缶ビールを再び口元に持って行きながら、

 

「慌てて救難信号を出して、脱出しようとしたけど、なんの意味もなかった。全滅するのに20分もかからなかった」

 

 テレビでは、どこかで聞いたことのあるようなCMの音楽が流れていた。

 

「俺はいまだにその時の隊長が許せないんだ」

 

 今度の声には熱があった。

 ぐしゃりと八幡さんの手が、まだ原形をとどめていた空き缶を大きくつぶしていた。そのつぶした行為に自ら驚いたように手元を見た八幡さんは、壊れた缶を卓上に戻しつつ続けた。

 

「現場にいるからこそ分かることがあるはずなのに、ろくに考えもせず、命令を聞き入れてしまったんだ。考えもない隊長は、容易に人殺しになるっていう生きた見本」

 

 だから、と後頭部をかきむしりながら視線を宙空へとあげた。

 

「俺は絶対に一流の軍人になるって決めたんだよ。誰にも恥じない、誰も傷つけない超一流になるって」

 

 少し疲れたようにため息をついてから、どこかを遠く眺めやるように目を細めた。

 口元に浮かんでいたのは苦い笑みだった。形容しがたい多くの激情をなんとか丸め込み抑え込むための際どい笑みであった。

 

 "兵士はだな、目的を見失うとき、ただの道具でしかないんだ"

 

 そういった八幡さんの言葉が、初めて実感を持って感じられた。

 

「まぁ、偉そうなことを言ってるけど、結局最後の出撃でヘマして大怪我を負って、そのまま引退したんだけどな」

 

 口調を少し軽くして、そのまま話してくれた内容は、退役する時のことだ。

 言うまでもなく退役することには、多くの反対意見があった。ただでさえ数多くの功績を残している上、まだ20代だ。なんとかして、彼をとどめようとする人が後を絶たなかった。しかし、彼の元教官たる佐久間さんは、まことに超然たる態度であったという。

 

「正直、鬼佐久間の逆鱗に触れるかと思っていたが…………」

 

 こじんまりとした居酒屋の片隅で、佐久間さんは穏やかに言ったのだという。

 

 "おつかれさん"

 

「それだけですか?」

「ああ。ただでさえ人員が不足しているのに、勝手を言ってすいませんでしたと言ったら、ひどい言われようだった。"はたちゃんの抜けた穴くらい、艦娘が埋めてくれる"ってな」

 

 佐久間さんらしい言葉だ。

 

「だから」

 

 ふいに八幡さんの声に力がこもった。

 

「俺はあの会社にいる」

 

 過去を現在につなげる一言だった。

 

「俺と同じ経験をしなくてもいいように、俺はあそこで働いている。これからも手を抜くつもりはない」

 

 いつもの堂々たる自信に裏付けされた力強い声だった。

 ふいに胸中で頭をもたげたものは、焦りとでも称すべき感情であった。

 覚悟においては、八幡さんに引けを取るつもりはない。だが覚悟だけでは追いつかないものもある。事実、眼前にそびえる軍神は、艦娘という特殊な能力を加味しても、今の私をどれほど延長しても乗り越えれるものだとは到底思えなかった。

 

 "赤城には失望してるんだ"

 

 そう告げた、八幡さんの言葉が今も耳の奥底で鳴っているのだ。

 私は手元の缶コーヒーをしばし見下ろして、やがてにわかに口を開いていた。

 

「私は一度、大本営に行くべきでしょうか?」

 

 自身の発言に、自身が当惑を禁じえなかった。

 唐突な発案であった。

 唐突でありながら、しかし、はるか以前から心中にくすぶり続けた思いでもあった。それが八幡さんという聞き手を得ることで、形を持って投げ出されたのだろう。

 ソファにもたれたまま、八幡さんが目だけを私に向けている。

 

「1人の軍人として、知識や技術を補って、いずれ八幡さんの信用を挽回したかと思っています」

「大本営に行ったくらいで俺に追いつけると思ったら大間違いだぞ」

「たとえ追いつかなくても、追い続けることに意味はあるでしょう。少しでも強さだけでも八幡さんに近づけば、おのずと答えは変わってくるはずです。戦場は総合力で勝負でしょうから」

「総合力?」

「人望なら私の完勝です」

 

 ちょっと驚いた顔をした八幡さんは、今度は明るい声を立てて笑った。

 3缶目のビールに手を伸ばしたところを見ると、思いのほか興に乗ってきたらしい。一時は消えていた朗らかな雰囲気が戻っている。

 

「となると、赤城が最先端な場所で修行している間に、俺はその不得手の分野を克服しなきゃいずれ軍人として追い抜かれるってわけだな。ほんと、君っておもしろいな」

 

 心底愉快な八幡さんに対して、当方は、そう面白がってもいられない。

 なお迷いを抱えたまま思案していると、八幡さんが口を開いた。

 

「その問いに俺は答える資格を持たない。資格があるのは佐久間さんだけだろう。でもあえて行くって決めた時は言ってやるよ」

 

 唇にキレのある笑みを浮かべて、続けた。

 

「"君の抜けた穴くらい、他の奴が埋めてくれるさ"ってね」

 

 私は、反駁(はんばく)せず、ただゆっくりと(こうべ)を垂れた。

 1人の艦娘が抜ける穴を埋めることは尋常なことではない。それを(うけが)うというのだ。裏を返せば、決断の責任は誰にも帰することはできない。自身ひとりのものだということだ。

 これもまた、自分にも他人にも遠慮会釈のない、八幡さんらしい応答だった。

 

「あ、これだと他力本願だな。困ったもんだ」

「酔ってますか、八幡さん」

「そうかもな」

 

 愉快げに笑う八幡さんは、再びビール缶に口をつけた。その素振りが、軍神とは思えないほど、無邪気さを漂わせている。私はただ笑って見守るばかりだ。

 答えなどない。最善の選択もない。

 そんなものがあれば、生きることに苦労はしない。

 最良の軍人と言っても、生き方は様々だ。

 ふいに廊下から足音がした。

 無遠慮な足音に振り向けば、なんのことはない、五航戦の瑞鶴であった。

 

「何をやってるんですか?」

「何ってわけでもないんだけど…………」

 

 瑞鶴の方が驚いたような顔をしている。

 

「昨日は夜遅くまで騒いでいたのに、彷徨い歩いているのは穏やかではありませんね」

「いや、解散になったら、私直接大本営に行くことになってて。色んな人に挨拶しに行くがてら、散歩していたんです」

 

 無粋な瑞鶴が何なら情緒的なことを言っている。

 

「そんなことより、どうして赤城さんと八幡さんがサシで飲んでるんですか?」

「ちょっとした宴だ。君も一緒に飲むか?」

「いいんですか?」

「いいに決まっている。せっかくだし今回の成功に、乾杯しよう」

 

 とんと、缶ビールが差し出されば、昨日飲んだばかりであるはずなのに、喜んで応じるのが瑞鶴だ。

 いつぞやの深夜に、八幡さんに向けて激昂したことなど、とうに忘れているらしい。いやむしろ、かかる些末(さまつ)な問題で、横須賀一単純な五航戦に長期記憶を求める方が無理なのかもしれない。

 

「何ですか、赤城さん。元気ありませんね。私と赤城さんの仲なんですから、朝まで付き合いますよ」

「どうせ翔鶴が夜警で、時間を持て余していないだけなんでしょう?」

「なんでわかるんですか?すごいです赤城さん」

「本当なんですか…………」

 

 がっくりと脱力する私を見て、八幡さんが楽しげに手を叩いている。

 

「ほんと、君たちって仲がいいな」

「いえ、誤解と誤謬(ごびゅう)の産物です」

「そうなのか?なら、加賀と方はどうなんだ。噂だと危ない関係とか聞いているが」

「ええ!?赤城さん!?」

「あなたが驚いてどうするんですか。否定する側に回ってください!」

 

 柄にもなく大声をあげてしまった。

 瑞鶴ひとりが1人飛び込めば、かくも空気は一変する。

 この娘が横須賀を去るのは、この一事をもってしも相当な痛手と言わざるを得まい。言わざるを得まいが、ここはあえて口にしない。瑞鶴の態度が大きくなるのが目に見える。

 渋い顔をしている私の横で、八幡さんがいきなり、

 

「お、いいところじゃないか!」

 

 言いつつテレビのリモコンを手に取り、ボリュームがあげた。

 

「柳田だ。チャンスで柳田だぞ」

 

 当方、いささか当惑する。その当惑に敏感に反応した八幡さんがすかさず、

 

「もしかして柳田も知らないのか?」

 

 完全に呆れ返ったような視線を向けたものの、すぐに画面に視線を戻した。

 無論当方が驚いたのは柳田選手に対してではなく、八幡さんがファンだということだ。まったく人は見かけによらない。

 

「やっぱ見ていて気持ちいいスイングだな」

「翔鶴姉も野球をよく見ますよ」

 

 とこれもまた、突拍子のない合いの手が入った。

 

「そうなのか?どこのファンなんだ?」

 

 八幡さんは心底嬉しそうだ。

 目を輝かせた八幡さんの、陽気な瑞鶴とが、にわかに会話の花を咲かせ始めた。

 およそお茶の間の雰囲気には不似合いな2人の間で、能天気な空気が立ち上がる。ここに参加するには、私は、まことに不適切だ。

 眼前の奇妙なひとときに、しかし当惑も懊悩(おうのう)も押し流されて、やがて苦笑が漏れた。

 時はまもなく24時。

 私はそっとソファを立ち上がって、キッチンに足を運び、カップを3つ並べて、インスタントコーヒーを淹れにかかる。

 背後に華やいだ声を聞きつつ、粉末一杯をカップに放り込んだところで、はたと思案した。

 しばし首を傾げてから、振り返れば、缶ビールを掲げた軍神と五航戦が、興奮した様子でテレビにかじりついている。

 私はさらに一呼吸考えてから、一旦は置いたスプーンをまた手にとって、ばさりばさりと粉末をカップに追加した。それからそばの棚から今度は砂糖を取り出して、これも同様に大量に放り込む。

 白と黒の粉末がカップの中ほどまでに積み上がったそこに、ポットの湯を流し込むころには、背後ではホームランでも打ったのか大盛り上がりだ。

 私は自分の分のカップを手にとって一口飲んだ。

 

「…………やっぱりこれね」

 

 言葉とともにこぼれたのは、笑みだ。

 ちらりと外を見れば、窓外は稀に見る大雨だ。おかげで鎮守府内は驚くほど沈黙を保っている。

 私は盆を持って、静かに踵を返した。

 この大雨はしばらく止みそうにもない。

 

 

 ーーーー

 

 

 軍港は、普通艦娘たちが出撃し、帰投する場である。

 艤装を装着してすぐに出撃できるようにと工廠が、帰投してきた艦娘たちをすぐに治療できるように入渠施設が近くにある。

 そのため軍港から見える景色を気にかける人は少ない。しかし、こうやってゆっくりと眺めると驚くほど景色がいい。

 眼前を埋め尽くす海は、静かに波打ち、その度に太陽の光を反射してきらりきらりと宝石のように輝く。

 この時代、普通の人々は深海棲艦を恐れて、海付近に近づかなくなった。今では海に出るのは、私たち艦娘や漁師くらいだ。こんな綺麗な景色を見れないなんてずいぶん勿体無いことだと思うが、厳しい戦場に赴く、私たちの特権だと思えばいくら気も楽になる。

 しかし、いつまでも艦娘たちがその海の景色を独り占めするのもよくない。一刻でも早くこの海に平穏をもたらして、再び人々が海を眺める機会がくるようにしなければならない。

 記録的な大雨が止んだのは、あの出撃が成功してから2日後のことであった。

 雨のせいで深海棲艦の残骸はもうどこかにいっているだようから、調査はしなくても良いのでは、という意見が少なからずあったが、予定通り調査隊の調査は行われることとなった。

 瑞鶴が言うには、あまりにも視界が悪くて、どんな敵かは判然としなかったとのことだ。それでも、一瞬で畳み掛けて敵を蹴散らしたのだから、瑞鶴の手腕には頭が下がる。

 

「昨日の雨が嘘みたいですね」

 

 軍港で海を眺めていた私に、声をかけたのは加賀さんだ。

 いつもの加賀さんは、傍らに並んで私と同じように海を眺めた。

 昼下がりである。

 普通なら出撃やなんやらでにぎわう時候だが、今日もこの呉鎮守府は静寂を保っている。聞こえてくる音といえば、波の音くらいだ。鎮守府内も今までの活気が嘘のようになくなり、今でも元気なのは瑞鶴や飛龍くらいだ。

 一度加賀さんの方見たが、彼女も私と同様に海に見惚れていた。その姿に思わず笑みが漏れつつ、私ももう一度海の方へと視線を移した。

あいも変わらず、海と空の青一色の世界だがそこに少しだけ白い雲が加わっていた。

 

「こんな綺麗な海に、あんな深海棲艦がいるとは思えません」

「…………」

 

 加賀さんは空を見上げながら言う。

 

「だからこそ、私たちは早く深海棲艦を倒さなくてはなりません」

「相変わらず、ですね」

「赤城さんも同じ考えでしょう?」

 

 加賀さんは微笑した。しかし、すぐに真面目な顔になって、

 

「悩みごとですか?」

「そういうわけでもありません。こうやって戦い続けると、やっぱり人の手でどうにかなることなんてあまりにも少ないってことに気づかされるんです」

「少ない中でも私たちは、精一杯やらなくてはなりません」

「…………加賀さんは真面目ですね」

 

 と言うと、加賀さんは苦笑した。

 

「真面目とは実行することだ、と誰かが言ってました。その意味では、私の真面目もまだまだ不足が多いようです」

 

 本当に八幡さんに劣らずの真面目な人だ。

 穏やかな空気に包まれたところで、その空気をぶち壊すかのように甲高い音が鳴った。加賀さんがため息をつきながら、懐から携帯を取り出した。

 

「呼び出しですか?」

「そのようです」

 

 答えて、加賀さんは電話に出る。聞こえてきた声に思わず加賀さんは眉を寄せた。

 

「なんだ、五航戦ね」

 "なんだはひどいですよ、加賀さん"

 

 大本営に配属が決定したばかりの瑞鶴が呆れ声をかえしてくる。

 

 "今、大丈夫ですか?"

「大丈夫でしたが…………あなたの声を聞いた途端大丈夫じゃなくなりました。今は赤城さんと休憩中です。急ぎでないなら、後日にしてください」

 "急ぎじゃないんですけど…………"

「なら後日に…………」

 "でも、とても大事な話なんです"

 

 加賀さんが沈黙したのは、瑞鶴の声に、常ならぬ重い響きがあったからだろう。天下一の楽天家には不似合いな声だ。

 

 "調査隊の件なんだけど…………"

「襲撃でもあったの?」

 "いや、そんなことはなかった"

「もったいぶって私と赤城さんの貴重な時間を邪魔するのが目的なら、ただじゃすまないわよ」

 "その調査隊の調査結果がさっき出たの"

 

 瑞鶴がまた一段と声を低めた。

 私と加賀さんはさすがに口を閉ざして次の言葉を待った。待った結果、出てきた内容は、容易に了解できるものではなかった。

 

「本拠地ではなかった?」

 

 おうむ返しに私と加賀さんは応じていた。瑞鶴は、私たちに言葉を噛みしめさせるかのように、すぐには声を発しなかった。

 

「…………どういう意味なの?」

 "そのまんまの意味ですよ。本拠地なんてどこにもなかったんです。私たちが沈めた場所からは戦艦が何体かいたくらい。少なくとも"姫"はいなかった"

 

 一瞬の沈黙ののち、瑞鶴が絞り出すように付け加えた。

 

 "初めから本拠地なんてものなかったんです"

 

 衝撃はすぐにはこなかった。

 私は、携帯を片手に呆然としている加賀さんを見つめた。

 軍港の脇でポツンと立っ2人、そのすぐ近くに広がる大海原。先刻と変わらない風景が、静かに横たわった。

 

 "加賀さん?加賀さん、大丈夫ですか?"

 

 瑞鶴の声に、加賀さんがなんて答えたのかさえ、記憶にない。

 見上げれば雲ひとつない夏空は、横切る鳥の影さえ見えず、どこまでも静謐な蒼一色であった。

 風さえはたと止んだようであった。












あと2〜3話で第3章も終わると思います。
次の章について、活動報告にてアンケートを取ってますので是非ともお答えください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11

1ヶ月ぶりの投稿になります。遅れて本当に申し訳ありません。






 戦艦タ級。

 そういう深海棲艦がいる。

 戦艦とあるように、他の深海棲艦と比べて硬い装甲と高い火力を誇る敵ではあるが、決して"姫"と分類されるタイプではない。つまりは"姫"ではない。かつてはその防御、攻撃ともに優れた難敵だと知られていたが、現在では艦娘の増加や、装備の進化とともに、ある程度の力を持つ鎮守府なら苦戦することなく倒せる敵となっている。

 同じ戦艦であるル級の上位互換と認識されているが、その実態はいまだに不明な点が多い。ただ、ひとつ明らかなことをあげるとすれば、ル級とは違って白髪であることと、慢心せずにいけばきっちりと倒せる敵であるということだ。

 要するに、怯えるほどの敵ではない、ということだ。

 

「その、普通の艦隊でどうにかなる敵を、わざわざ色んなところから集めて、出撃させたということですな」

 

 広々とした会議室に、1人の男性の低い声が響いた。

 呉鎮守府の会議室である。八幡さんのところの会議室とは違い、大きな楕円の樫の木の机に向かって、革張りの黒いソファが20ばかり取り巻いた豪勢な部屋だ。

 気難しい顔で、先のセリフを吐いた男は、上座に近いソファの1つに身を沈めている。下座のソファでわずかに身を固くした提督を見て、男は、にわかにあごひげを撫でて、笑った。

 

「というのが、相手方の言い分だ」

 

 大雨も止んだ、8月初旬の早朝だ。

 会議室には、今回の作戦に関わった人全員が向かい合って座っている。佐久間さんからの非公式の呼び出しで「議題は召集後に伝える」とのことだが、今回の出撃の件であることは言うまでもない。

 召集者たる元帥の席は、一番奥の巨大なガラスを背にした上座であるが、その姿は見えない。また同様に来る予定の事務長も未着であった。

 私と提督はただ黙って腰をおろしているだけだ。ソファはさぞかし上等なのだろうが、座り心地を楽しむ気分にもなれない。

 ガラス窓の外は、いまだ黎明(れいめい)のうすぼんやりとした明るさで、彼方の海と空は判然としない。我が心情のごとく、まことに曖昧にして茫洋(ぼうよう)たる景色だ。

 

「海の様子はどうでしょうか?」

「問題ありません」

 

 もう1人の男性の応答は端的かつ簡潔である。

 沈みがちな場の空気を盛り上げようとした上座の男性に対して、端的と簡潔は厄介だ。その厄介を自覚したのか、別の男がおもむろに提督に向かって口を開いた。

 

「今回の出撃は君の提案とは言え、君個人の問題ではない。出撃に踏み切る前に、私たちも話し合い同意した上で行なっているのだ」

 

 そう、あの出撃を提案したのは私たちの提督だ。いや、厳密に言えば、その提督に出撃の進言をしたのは他ではない私だ。だからこそ、今回の空振りが衝撃的だった。

 ふいに無造作に扉が開く音がして思わず姿勢を正したが、開いたのは、上座ではなく背後の扉だ。姿を見せたのは八幡さんだ。

 

「八幡も呼ばれたのか?」

「呼ばれていませんけど、この出撃の作戦は私が考えましたから。同席する義務があるかと」

 

 八幡さんは、神妙な口調とは裏腹に、いつもの飄々とした態度である。軍服を翻しながら、右手はポケットに、左手には飲みかけのコーヒー缶がある。緊張感がないのは、佐久間さんといい勝負だ。ソファに座る前に、缶を傾けて飲み干した後、空き缶をひょいと投げると、見事な放物線を描いて、隅のゴミ箱に収まった。ゴミの分別の精神とは無縁の人だが、今は環境問題について論ずるだけの余裕も、当方にはない。

 缶が収まるのを待っていたかのように、ようやく上座の扉が重々しく開いた。

 最初に入ってきたのは事務長だ。続いて佐久間さんが顔を見せる。

 

「おそろいですね」

 

 事務長の感情のない声が、今日ばかりはひやりと腹の底を撫でるような心地がした。

 会議はもとより査問会ではない。

「通常の艦隊で対処できる海域に対し、姫がいると判断して大作戦を決行した件につき、大本営で情報を共有しておく。それが目的である」とは事務長らが冒頭に口にした言葉だった。

 

「まず現状を把握しておくという意味ですが、海の様子はどうですか?」

 

 口火を切った事務長に、提督の右側の男性が応じる。

 その男性は、太い腕を組んだまま、経過が問題ないこと、調査も終了し、現在は深海棲艦1つも見当たらないことを説明した。

 

「作戦的には、極めて順調、と報告させていただく」

「作戦的には、という限定的な表現の理由は?」

 

 事務長らしい鋭い指摘だ。わずかに男性が細めた目を動かした。

 

「作戦的でない部分で、順調とは言い難いところがある、という意味でしょうか?」

「この作戦に関わった者の中から数名ほど、作戦前の判断と後の結果の相違について、少なからず意見が出されている」

「具体的に説明いただけますか」

 

 なお踏み込む事務長を一瞥して、男性ははっきりと告げた。

 

「いたずらに艦隊を動かしたのか、とお怒りだ」

 

 低い声はむしろ淡々とした語調で響いた。淡々としていただけに、厳しい内容との対照がかえって際だった。

 いきなりの核心に、事務長はむろん眉ひとつも動かさない。血の気の薄い顔で静かにうなずいただけだ。

 事務長が、胸元から黒い手帳を取り出した。

 

「私のところにも、艦娘たちの方から、今回の判断の相違について抗議の声が出されていると報告が来ています」

「事務長、あんまり人をいじめるもんじゃありませんぜ」

 

 にわかに能天気な声で遮ったのは、佐久間さんに負けず図体の大きい男性だった。大げさに肩をすくめたその人は、右手でボリボリと頭をかきながら、

 

「"姫"だなんて、そうそう出くわすような敵じゃない。ちゃんと殲滅できたし、姫じゃなかったんだから、それでいいじゃないですか」

「そういう感覚的な説明では、納得しないと思いますが」

「具体的な説明なら、私の方がしよう」

 

 提督の右側の男性が再び腕を組みながら、

 

「姫という存在は極めて稀な存在で、未だにその動向はつかめていない。今回、ここまで慎重になったのは、深海棲艦が今までとは違う動きをしていたという、特殊な背景があったからだ。1つの鎮守府だけで対処しようとすれば、混乱していた可能性もある」

 

 事務長は再び静かにうなずいだけだ。

 この間、佐久間さんは、頭を微動だにせず、目を閉じ、まるで瞑想するかのように沈黙している。八幡さんはと言うと、何を今さら、と言わんばかりの態度でソファに片ひじをついて、欠伸をひとつ噛み殺している。気づいたこちらがひやりとするほどの、緊張感のなさだ。

 

「そちらの方の意見も聞きたいですね」

 

 ふいに事務長が矛先を変えた。

 変えた先は、我が提督だ。

 

「判断し、出撃すべきと意見したのは、あなたでしたね。そのように判断のした根拠と、誤判断についての考えをお聞かせいただきたい」

 

 誤判断、と言う言葉が、金属バットで脳天を殴られるような衝撃を受けるが、ここで参っていてはいけない。

 私は隣で、外貌だけはあくまで端然と構えた。

 深海棲艦の動き、出現頻度、艦隊の様子、そして過去の記録。様々な情報を順に述べて、最後に提督は総括した。

 

「以上より、総合的に"姫"を疑うべき結果です」

「しかし偵察において、その"姫"の存在は、確認されてませんね」

「…………偵察だと言っても、正確に把握できるものではありません。偵察では敵影が全く確認されなくとも、艦隊に遭遇したということは珍しくなく、これを決め手に判断を行うわけではありません」

「しかし、姫が確認されていないのにも拘らず、大艦隊で大作戦を行い、結果として姫はいなかった」

「…………理屈だけでは戦えません」

「理屈ではなく、良心によって、無駄足を踏ませるのですか?」

 

 ざくっと何かを切り裂くような音が聞こえた気がした。

 周りの人たちなや顔から一斉に感情が消えた。

 満ちたのは、かつてないほどの緊迫した空気であった。

 図式は現場と事務との対立であった。

 元来が、危険を排除するためにはときに運営を度外視して多額の資材を注ぎ込む現場と、健全な運営のために尽力する事務とは、対立の要素をはらんでいる。その中で、事務長が、明確に現場に対する影響力を強めようと乗り出した瞬間であった。

 きわどい沈黙が広がった。

 言葉はなくとも、言葉以上に激しい何かが、室内を往来した。

 息の詰まるような膠着状態は、しかしさしたる時間も置かずに解除された。

 

「少し、しょうもない論戦やなあ」

 

 それまで一言も挟まなかった佐久間さんの声であった。

 元帥の口から放り投げられた言葉には、失望と失笑と諦観(ていかん)とが多くの部分に含まれていた。傍らの事務長は、自身の行き過ぎた発言を自覚したように、一歩退いて頭を下げた。

 

「理論でと良心でもええ。ワシが知りたいのは、この出撃は正しかったのか、ちゅうことだけなんやで」

 

 太い指を動かして、佐久間さんは顎を撫でた。

 

 "この出撃は正しかったのか"

 

 いかようにも解釈できる、摑みようのない問いであった。

 判断が間違っていた以上、出撃が正しいということはあり得ない。それでも問うたことに、佐久間さんの真意がある。

 

「出撃の是非についてなら、議論の余地はありません」

 

 応じたのは意外なことに、恰幅の良い男性でも提督の隣の人でもなかった。一貫して傍観者の風を決め込んでいた八幡さんであった。

 事務長の感情のない目と、佐久間さんのギョロリとした目が、同時に下座の闖入者に向けられた。恰幅の良い男性が「何を言うつもりか」と眉を動かしたが、八幡さんはわずかも頓着(とんじゃく)せずに言う。

 

「この場合だと、今回の出撃はもっとも安全で確実な選択肢であったと判断します」

 

 誤解の余地のない明瞭な応答に、しかし事務長は、その無感動な態度をわずかも崩さなかった。

 

「説明を願います、八幡さん」

「先ほどもそちらの方が言ったことですが」

 

 髪を掻きつつ、

 

「今まで"姫"の出現は、突然でした。つまり、まったく予測できていなかったんです。ゆえに正確に予測するのはほぼ不可能。くわえて"姫"が出現したときは必ず大被害を受ける。今回、深海棲艦の動きは前例のないものでした。その異常性と姫による被害の考えれば、先手を打って、殲滅するためにも出撃することがもっとも妥当な判断であったと言えます」

「その不穏な動きをしていたのは大したものではありません。1度様子を見るという選択肢は…………」

「まったく安易、かつ無責任な選択ですね」

 

 ばっさりと切り捨てるように八幡さんが告げた。さすがに事務長が血の気のない頰をピクリと動かした。

 

「過去に、そういう安易な考えのおかげで、大被害を受けたことは少なくありません」

 

「しかし八幡さん」とわずかに熱を帯びた事務長の声が続く。

 

「今回の艦隊はかなり規模の大きいものです。"姫"の証拠もなく、ただの一艦隊の可能性もあるのなら、大きな出撃に踏み切る前に…………」

「小さめの出撃でもしますか?」

 

 八幡さんの目もとに怜悧な光がきらめいた。

 声音の奥に、底冷えするものが加わったことを私は聞き逃さなかった。

 

「"姫"の疑いが2割あるから、8割くらいの出撃にしておきますか?6割くらいの敵なら、こちらも6割の力にしておきますか?」

「そういう揚げ足取りは…………」

「戦いは投資信託じゃないんですよ、事務長」

 

 有無を言わせぬ一言であった。

 早朝の会議室に、より冷たい空気が立ち込めたようであった。

 見れば、いつのまにか足を組んだ八幡さんは、その目もとに冷ややかな光を浮かべている。普段の気だるげな挙措からはかけ離れた冷然たる態度だ。

 

 "赤城には失望してるんだ"

 

 そう告げたときの、あの、刃物ように冷たい瞳であった。

 第三者の位置に立って、初めて了解したことがあった。

 八幡さんがこの冷たい目を向ける対象は、戦いを甘く見ている全ての人間だということである。相手の立場など関係ない。同僚であろうと部下であろうと、たとえ事務長であろうと、戦いの厳しさを忘れ、ときに軽んずる者に対して向けられる根源的な嫌悪であり反発であった。

 八幡さんにとっては、戦っている理由を見失った艦娘も、多忙を理由に自らの研鑽を忘れる人も、特殊な背景を理由に深海棲艦の恐ろしさを軽視する事務長も、皆がことごとく同じなのだ。

 

「我々の仕事は常にゼロか百かのどちらかです」

 

 八幡さんの落ち着き払った声が続く。

 

「"姫"が出てくる可能性が80パーセントだからって、80パーセントの出撃なんてないんです。10体の深海棲艦のうち8体倒しても誰も褒めてくれません。10人、人がいて8人しか救えなかったら、大失敗です。10体が10体、全て殲滅し、10人が10人とも確実に、絶対に、誰も死なずに、助けられないと、軍人として失格なんです」

 

 事務長は沈黙のままである。佐久間さんも他のみんなも、それぞれの態度で沈黙のままである。

 その圧倒的な沈黙の中でさえ、八幡さんな語調は微塵も揺るがなかった。

 

「たとえ1パーセントでも被害が出る可能性があるのなら、我々はそこに100パーセントの力を注ぐんです。そして、すべての責任を負うんです」

「今回の出撃は、もっとも妥当な選択肢であったと?」

 

 応じた事務長の声が、心なしか当初の勢いを減じている気配があった。その撤退する殿軍に対して、八幡さんのとどめの一撃が繰り出された。

 

「同じケースが100回あっても、100回今回と同じ判断です」

 

 ふいに会議室が明るくなったのは、朝日を隠していた雲が消え去って、その光が会議室に差し込んだからだ。

 

「結構」

 

 しばしの沈黙は、その坦懐(たんかい)な一言によって埋められた。

 佐久間さんだ。

 

「どうやらわしが口を挟む必要はあらへんようやなあ」

「心配ないって言ったじゃないですか、元帥」

 

 恰幅の良い男性はソファにもたれまま、能天気な笑みを浮かべている。

 

「ま、相変わらず礼儀はなってへんが、軍人としての仕事に口を挟む必要もあらへんようやな」

「ええ、そうです」

 

 告げたのは隣の男性だ。

 

「ただし」

 

 と佐久間さんは口を動かす。

 

「あんたらの哲学と、他のやつらの心理とは同一ちゃう」

 

 ちらりと傍らの事務長を見た。事務長は機械的な無駄のない動作で、手帳をはらりとめくる。

 

「一部の艦娘から、今回の件に関して、説明を希望する旨の連絡が入っています。本日の午後6時を希望しています」

 

 佐久間さんがゆるりと視線を動かして提督を見た。

 

「できれば最初に進言したあんたからの説明を求めてる、とのことだ」

 

 太い眉の下の2つの光が真っ直ぐに提督を見つめていた。

 

「責任を持って対応します」

 

 起立し一礼した提督に、佐久間さんは、かすかに頷いただけであった。

 

 

 ーーーー

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 気使うようなその声が、私を現実に引き戻した。と同時に、白い腕が伸びて眼前にコーヒーカップが置かれた。

 豊かな芳香が鼻孔をくすぐり、散漫だった思考と視界とがゆるやかに舞い戻ってくる。視界の先にあるのは、柔らかな夕刻の差し込み始めた窓だ。

 日中の仕事を早めに切り上げ、寮に戻ってきたところで、いつのまにか思考の沼に嵌まり込んだいたらしい。我に返るとともに、腹の底に沈殿していたずっしりとした疲労感を、自覚することになった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 もう一度先の言葉を繰り返した加賀さんは、そのまま腕を組んで、広間のテーブルに腰をもたれかけさせた。

 私は軽く指で目もとを押さえながら、

 

「会議の件なら、これから説明会が開かれることになりました。判断が違ったからといって、方針が間違っていたわけではないので大丈夫です」

「そのことを心配しているのではありません」

「事務長さんなら、八幡さんがどうにかしてくれましたので、恐れる必要もありませんよ」

「私が心配しているのは、会議の件でも事務長でもありません。今私の目の前にいる、すっかり意気消沈した赤城さんです」

 

 あきれ顔のどこかに、本気で案ずる気配がある。

 私は一瞬沈黙したが、すぐに偉そうにコーヒーカップを手に取った。

 

「意気軒昂の言い間違いじゃないんですか?」

「提督も赤城さんも間違ってないわ」

 

 力のある言葉が返ってきた。

 思わず手を止めて見上げれば、加賀さんの澄み渡った目が見返している。

 

「誰がなんと言おうとも、私はいつでも大声で言ってあげます。赤城さんは間違ってない。間違っていたって間違っていないんだから、こんなことで変にへこんだりしないください」

「理屈が破綻してますよ」

「理屈なんてくそくらえです」

 

 ずいぶんと品のない言葉が飛び出してきた。

 通りかかった艦娘の1人が少し驚いたような顔をしたが、事情の一端は知っているのか、そのまま何も言わずに通り過ぎていった。

 

「みんな私たちを便利な小道具か何かと勘違いしているんです。昼も夜も戦わせて、土曜にも日曜も呼び出して、散々頼っておきながら、失敗したと知った途端、あっさり掌を返して、やっつけようとする。こんなことをしていたら、真面目な人から順に、壊れてしまいます」

 

 親身になって案ずるがゆえの憤りが、ぬくもりとなって胸にしみていく。

 まったくこの親友の声に、どれほど救われてきたか。

 

「ありがたい言葉ですね、加賀さん」

 

 素直に述べれば、かえって加賀さんは、気味の悪そうな顔になった。

 

「そんな気色の悪い言葉を口にしたいは時点で、へこんでいるって言ってるんです」

 

 的確な指摘の語尾に、艦娘の加賀さんの呼ぶ声が重なった。

 

「すぐ行くわ」と応じてから、すらりと肢体を机から起こしつつ、

 

「もう一度言っておきます。たとえ間違っていたって、赤城さんは間違ってません。それくらい胸張っていいほど、赤城さんは頑張っているんです」

 

 言い置くと、身をひるがえして寮から姿を消した。

 日が暮れて徐々に暗さを増していく窓外とは対照的に、不思議なほど眩いその背中を、私は声もなく見送った。

 

「優しい人だね、加賀は」

 

 聞こえてきた声に、首だけ動かすと、いつのまにやら背後に提督が立っている。

 

「立ち聞きなんて、いい趣味ではありませんね」

「私も同意見だよ、赤城」

 

 提督が苦笑を浮かべつつ、隣の椅子に腰をおろした。

 

「加賀の言葉じゃないが、私も同意見だ。結果的に適応外ではあったとはいえ、私たちの選択は間違っていない。気に病むことはない」

「"姫"なんていなかったのに、わざわざ大きな艦隊を出撃させる判断をしたのに、気に病むなというのは、少々気安い応答だと思います」

「100回同じケースがあったのなら、100回とも出撃するのだろう」

 

 会議室で、八幡さんが放った言葉をもう一度提督が放った。

 

「私も八幡くんと同意見だ。安易に様子見だなんてするとかえって命取りの可能性がある。出撃は妥当な判断だ」

「問題は結論ではないんです」

 

 私はにわかに絞り出すような声で遮った。

 怪訝な顔をする提督を見返し、それから視線を足下に落とした。

 

「私はレーダーからの情報を考えもせずに出撃と判断しました。可能性を考えて出撃を選ぶのと、やみくもに突進するとでは、まったく重みが違います」

 

 提督が軽く目を見開いてから、眉を寄せた。

 

「しかし、偵察機による写真があったじゃないか。君はそれを考えて…………」

「その写真は実は八幡さんが、私が知らないうちに、指示して撮らせてたものだそうです」

 

 さすがに提督が当惑を示した。

 軽く額に手を当てて、ため息をついた。

 

「これが私と八幡さんの差なんです」

 

 他に向かってついたため息に、そのまま引きずられるように、ずっしりと重いものを両肩に感じた。

 

「どうにも埋めがたい、大きな差なんです」

 

 "やられたな"

 

 早朝、会議室を出た直後の八幡さんの言葉が蘇った。

 

 "正直タ級とは思わなかった。可能性も考えはしたが、総合的には俺も"姫"がいると思ったんだがな"

 

 黒髪の下の額に険しい皺を寄せて、唇を噛んでいた。事務長の前ではあれほど悠然と構えていたものの、これが八幡さんの心情だった。

 だが私の衝撃は、これ以前の問題であった。

 自分で様々な情報を集めて、判断材料を揃えていた八幡さんに対して、私は十分な判断材料を持たずに出撃への道を直進していたのだ。

 言うなれば、私の立場は八幡さんの親友の上司と同じであった。無知ゆえの浅薄な判断であったと言うしかない。私が無自覚のまま歩いていた薄氷を、八幡さんが割れるぬようにと、氷の裏から支えてくれていただけなのだ。

 

 "戦場は総合力で勝負ですから"

 

 そう告げた己の軽薄が、ほとんど滑稽であった。

 ただただ戦場を駆け回る艦娘と、毎回毎回全力で戦場に挑み、常に耳と目と研ぎ澄ませている軍神との間の落差の大きさを、私は完全に読み違えていた。

 ふいに時計の音が私を思考の泥沼から現実へと引きずり上げた。

 5時半の鐘だ。

 

「顔色が良くないぞ、赤城」

 

 時計を見上げる私の耳に、提督の声が聞こえた。視線を転ずれば、提督は気遣わしげな目を向けている。

 

「大丈夫か?」

「妙なことを聞くんですね…………」

 

 私はあえて傲然(ごうぜん)と応じた。

 

「私が大丈夫かどうかなんて、今、考えることではないでしょう?」

 

 傲然たるはずの口調は、しかしずいぶんと力のないものだった。

 私はおもむろに加賀さんのコーヒーを飲みほして、立ち上がった。

 おいしいとで有名なはずの加賀さんのコーヒーが、香りも苦味もなく喉を通り過ぎて行った。

 

 

 ーーーー

 

 

 説明会の開かれる部屋を訪れた私を最初に出迎えたのは、窓の向こうに広がる夕景(せっけい)であった。

 

「なかなか良い景色でしょう、赤城さん」

 

 穏やかな声は、隅に座る龍三老人のものであった。

 会釈をした私に、老人はにこやかな笑みでうなずいた。

 作戦による消耗は、さすがに隠しきれるものではないのだろう。今朝は体調不良で会議を欠席していたが、今もずいぶんと頰の肉は落ち、首筋も痩せている。それでも老人の変わらぬ和やかな声に、私は人知れずら安堵の吐息を胸の中に落としていた。

 

「すいません。うちの鎮守府ではなかなか見れない景色なもので、少し驚きました」

「ここの鎮守府で一番景色のきれいに見える部屋なんです」

 

 調子はどうかという問いに、上々ですよと老人はあくまで穏やかだ。

 部屋の中にいるのは、静かにたたずむ老人と、その傍らに立つ穏やかならざる重巡であった。

 羽黒は言葉を探しているのか、険しい表情のまま、すぐには口を開かない。その隙にというわけでもなかろうが、龍三老人は世間話をするかのような口調で続けた。

 

「会議の件は、ずいぶんと丁寧な説明を聞きました。わざわざ説明会を開く必要もないと思ってるんですが、孫を筆頭にどうしても直接話しを聞きたいと譲りませんでな。申し訳ない」

 

 身じろぎする孫に構わず、さらに言葉を重ねる。

 

「まあ、赤城さん、わしとしては、"姫"なんていなかったと聞いて、一安心というところです。それ以上それ以下もありません」

 

 温かな声に、私はただ、いたずらに大きく頷くだけであった。

 束の間の穏やかな静けさを破ったのは、言うまでもなく孫の声だ。

 

「赤城さん、私は納得なんかしてませんよ」

 

 射るような視線とともに、切迫感を含んだ声が向けられた。

 見返せば、色白の羽黒が、額まで上気させて険のある目を向けている。

 

「いなかったっていうのはどういうことなんですか?」

「いたのは、タ級でした」

「つまり意味がなかったんですね」

 

 龍三老人が、何事か制止の声をあげたが、まことに頼らないものである。その頼りなさが、より一層、孫の苛立ちを刺激したようだ。

 

「タ級って、わざわざ大艦隊を組む必要がない敵じゃないですか。なのになんで、大掛かりな出撃になったんですか」

 

 私は、瞬きせず、羽黒を見返していた。これ以上はないほど強く握りしめられた彼女の右の拳から、目をそらすことはできなかった。

 羽黒のその言葉を、予期していなかったわけではない。ただ予期していた以上の衝撃を私は受けていた。

 私は波立つ心を抑え、静かに理路を説き始めた。

 たとえ判断が間違っていたとしても、出撃はもっとも確実な手段であった。その事実を明示し続けることでしか、この困難な結果を了解してもらうことはできないだろう。

 

「いろいろ考えたんですけど、大本営の業績をあげるために、無理やり出撃に持っていったことはないんですか」

 

 さすがに驚くような発想の飛躍であった。

 

「あり得ません。説明はあったと思いますが、現時点で振り返っても、出撃がもっとも妥当な選択肢であったことに間違いはありません」

「それが、どこまで信用できるんですか?だいたいその旗艦をやった瑞鶴って空母も、赤城さんと同じ鎮守府所属だっていうじゃないですか。判断が判断なら、出撃も出撃ではないんですか」

 

 にわかに凍りつくような言葉が飛び出した。

 さすがに私は言葉を失った。

 判断は誤った。だが旗艦としての瑞鶴の顔に泥を塗るのは、筋違いだ。あの複雑な海域をほぼ無傷で乗り越えた瑞鶴の手腕は、賞賛こそすれ、このような場に取り上げて乱暴に切り刻んで良いものでは、絶対にない。

 絶句したままの私に、羽黒はなお何事か詰め寄ろうとしたその瞬間、異様な声が場を圧していた。

 

「やめねぇか、羽黒」

 

 大声ではない。だが背筋が寒くなるような、底冷えのする一言だった。

 羽黒は、口を開いたままの状態で金縛りにあったように動きを止めた。

 誰の声かと驚いてる室内を見渡したが、今は3人しかいない。私と羽黒と、龍三老人である。その3人目がゆっくりと痩せた頰を動かした。

 

「羽黒、出撃を判断したのは赤城さんじゃねぇ、俺だろう」

 

 ほとんど凄絶と言ってよいほどの、重く分厚い声が響いた。

 信じがたいことだが、それは龍三老人の声であった。同時にまぎれもなく、かつての勇猛な将の声でもあった。

 見守る私の背に冷たい汗が流れたくらいだから、孫の驚きは想像を絶するものであろう。

 

「すまねえなぁ、赤城さん」

 

 静寂の中で、老人がゆっくりと首を巡らせた。

 痩せた体は椅子に預けたままでも、その眉の下には、炯々(けいけい)と光る両眼があった。

 

「可愛い孫なんだが、どうも甘やかしすぎちまったらしい。礼儀知らずでいけねえや」

 

 くつくつと、小さな笑声が聞こえる。

 当方は無論笑うゆとりもありはしない。傍らの孫に至っては、呆然として声も出ないまま祖父の横顔を見ている。

 

「このロクでもない年寄りのことを、くそまじめに案じてくれるのは、世間知らずの孫くらいだと思っていた。だが世の中には、存外、物好きもいるもんだねえ、赤城さん」

 

 楽しげに告げた老人が、光る両目をそっと細めて私に向けた。

 

「深海棲艦を、どう倒すか…………」

 

 戸惑う私に、老人の深みのある微笑が応えた。

 

「正直、この世知辛い世の中で、あんな青臭いことを生真面目に口にする人に出会えるなんて思わなかった」

 

 また二度三度、小さく肩を揺らして笑ったのち、そっとつけくわえた。

 

「有り難い言葉でしたぜ、赤城さん」

「北川さん…………」

「忘れたのかい、赤城さん。出撃するかは赤城さんたちが手前勝手に推し進めたものじゃねえ。わしも賛同したうえで決めたことだ」

 

 そうでしょう、と問いかける老人の笑顔は、いつのまにか見慣れた好々爺のものに戻っていた。

 

「あの夜、わしは本当に嬉しかったのですよ」

 

 龍三老人は静かに頭を下げていた。

 答える言葉があるはずもない。

 私はただ部屋の中で、瞬きも忘れて立ちつくしていた。

 気がつけば、窓の外は夜であった。








活動して報告の方にてアンケートを2つ実施してますので、よければご回答ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12

 "来月から大本営直轄の鎮守府に行きたい"

 

 その旨をはっきりと提督に伝えたのは、9月初句のある夜のことだった。

 深夜に提督室を訪ねた私を、提督は飄々たる態度で出迎えた。

 

「やっぱり行くのか。寂しくなる」

 

 さして驚く様子も見せないでそんなことを言う。今までの私の様子からある程度は察していたらしい。

 あくまで生真面目な顔で立ったままの私に、提督はようやく笑みを少し収めて、向かい側のソファを示しながら問うた。

 

「八幡くんの下にいて、考えが変わったんだね?」

 

 私は静かにうなずいた。

 八幡さんの下に派遣されたのが5月。およそ4ヶ月の日々が思い出される。

 

「そうだ、北川さんからは何か言われた?」

 

 いえ、と答えつつも、脳裏をよぎるのは呉鎮守府を去る日の昼間の光景だ。

 

 "どうもお世話になりました、赤城さん"

 

 鎮守府の入り口で杖をついた龍三老人は、にこやかな笑顔で告げたものである。

 その眩しげに空を見上げる姿はまるっきり人のよい好々爺で、あの日、部屋で見せた迫力が嘘のようだ。

 傍らの羽黒はというと、私に対してはいささかのぎこちなさを残しつつも、祖父に付き添う横顔には喜びが溢れている。祖父への態度が少しは変わるかと案じていたが、祖父思いの少女にとっては、そういうものでもないらしい。

 瑞鶴に呼ばれ、立ち去ろうとした私に、龍三老人は私に近づいて、そっと右手を差し出した。

 

「本当にありがとうございました」

 

 腰をかがめてそっと骨ばった手を握り返した。乾いた手が私の右手を握りつつ、

 

「赤城さんに会えて、本当に良かったと思っておりますよ」

 

 身に余る言葉にただ頷くしかない。

 そんな私に対して、老人は左手も添えて、両手で私の手を包み込んだ。まったく過分な感謝だと恐縮した次の瞬間、驚くほど強い力が私の手を握りしめていた。80を超えるとは思えぬ膂力(りょりょく)に引きずられるように寄った私に、太い声が聞こえた。

 

「あんたはいい戦士になる。しっかり頼むぜ」

 

 太く、腹の底まで響く声であった。

 あの、孫を一喝した豪傑の声であった。

 慌てて視線をあげれば、しかしそこにあるのは、相変わらず人のよさそうな顔だけだ。傍らの羽黒も、他のひとも、一瞬の出来事に気付くはずもない。

 呆気にとられたままの私に背を向け、老人は愉快な笑声とともに去って行ったのである。

 提督室へ足を運んだのは、そのしばらく経った日の夜半であった。

 

「大本営に行きたいだなんて、赤城も真面目だね」

 

 卓上のカレンダーを手にとって眺めてから、

 

「まぁ、頑張って」

 

 実にあっけらかんとした態度だ。

 我ながら、勝手と猛進を足したような乱暴きわまる希望であることは十分理解している。怒鳴られるかどうかは別として、煙に巻かれるか、聞こえないふりをされるくらいの反応は覚悟していたが、それすらない。かえって途方にくれる感がある。

 

「理由の一つも聞かないのか、って思っているだろう?」

「おわかりなら、聞いていただけると、私の頭の中の整理がつきます」

「嫌だね」

 

 にべもない応答だ。

 

「赤城の愚痴聞いてあげるほど、物好きじゃないからね」

「愚痴、ですか」

 

 いささか乱暴なその表現が、しかし思いのほか的を射ているような気がする。

 もとよりなぜ大本営か、と問われてそれほどはっきりとした答えがあるわけでもない。散々悩んだわりには、理由ははるかに見えにくく、根源的で、衝動的なものだ。

 

「それでいいんじゃないか」

 

 手元の書類を捌きながら言う。

 

「あの場所が、赤城の希望に叶うかどうかは分からない。しかし行ってみることに意味があるはずだ」

「提督は読心術ができるんですか?」

「そんなわけないじゃないか。心なんて読まなくても、赤城の場合は全て顔に書いてあるさ」

 

 これも身もふたもない返答であった。

 

「連絡は私がとっておく。来週にでも元帥に頭をさげてくるといい」

 

 広げていた書類をとんとんと整えながら、あくまで恬淡(てんたん)とした口調だ。

 唐突な申し出を、大本営が受けてくれるかどうかという問題は口の端にも上らない。そのために必要な、手続きや交渉の面倒といったものも、一切話題に出てこない。こないものを色々問いかけれる立場でもないので、これは提督に任せるしかない。

 私が案じるべきは、もっと別のことだった。

 

「空母たちの負担は…………」

 

 恐る恐る口にすれば、提督は意味ありげな笑みとともに、

 

「みんなでカバーしてくれるさ」

 

 それだけだった。

 悩みぬいた私の決断が、まるで予定調和のごとく速やかに進行していく。

 叱責も混乱もないどころか、引きとめる素振りすらない。拍子抜けして、少し窅然(ようぜん)たる心持ちだが、やがてそれも良いと腹を決めることにした。

 艦娘になってよりまもなく9年。この提督には振り回され、時には振り回してきた。最後振り回されても今さら慌てる必要もない。

 私は無理やり納得して、提督室を辞したのである。

 この間、提督は終始、上機嫌な笑みを浮かべるだけだった。しかし上機嫌に見えつつも、その目にはどこか寂しそうな気配があったことに気づくのは、はるか後のことだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 今年の夏は容易に立ち去るつもりはなさそうだ。

 10月に入っても、昼間の暑さはほころびを見せず、時に大雨が続いたかと思うと台風が接近し、まだまだ夏だと叫ぶような風が吹き荒れていった。

 小雨の日の中、大本営を訪ねて行った私を出迎えてくれたのは、空母たちの取りまとめを務める大鳳という人であった。

 大鳳さんは、装甲空母と呼ばれる空母で、私なんかよりもずっと先をゆく人であった。驚くことは、その体格が私よりもずっと小さいことだが、戦果は私のよりも数多いことだ。

 大鳳さんは穏やか笑顔で私を迎え、「空母」の表札がさがった広々とした部屋へと導いた。

 彼女らのプライベートスペースとはいえ、室内はまことに整然としたもので、横須賀のように、飲みかけの湯呑みや、食べかけの羊羹などが転がっているということもない。壁際の本は多彩な本が隙間なく並び、窓際のポットからは湯気が立ち上っている。1人の艦娘が、起立して私に軽く会釈した。

 

「ここに来るのは、初めてですよね」

 

 テーブルに腰を下ろし、対面する私に続けた。

 

「話は元帥から聞いています。心配はありませんよ」

 

 その穏やかな声が、返答の全てであった。

 もう一度、深々とさげた頭の中に、つい先刻見学してきたばかりの演習の様子が思い出された。

 広い海で、10人は超える艦娘の影。

 陸には、気難しい顔で演習を眺めている男性や、いかにも切れ者めいた指揮官の姿がある。腕組みをして涼しげな目を向ける壮年の男性もいれば、いささか場違いな茶髪の下に悠々たる笑みを浮かべた少壮の指揮官もいる。それらの視線の中央で、激しい演習が行われている。

 まことに多様な人々の集団であった。

 その多様な集団の中に、私も加わるということなのだ。

 

「それにしても、あの佐久間さんから目をかけられるというのは、赤城さんも隅には置けませんね。一緒にいる私の方が、身の引き締まる思いがします」

 

 あくまでにこやかに告げる大鳳さんに対して、私は笑ってもいられない。

 

「佐久間さんにはご迷惑をかけてばかりでした。ただ恐縮するばかりです」

「"姫"の判別について、1つ私から」

 

 大鳳さんは、目もとの笑みを少し抑えて、

 

「"姫"はそもそも発見すら困難です。時には突然現れることも少なくありません。大本営でも確定できないまま、出撃になるケースもあります。それが今私たちの限界なんです。艦娘として、その限界を充分に理解しておくのも、大事です」

 

 諄諄(じゅんじゅん)と説く声が続いた。

 

「誰もが最先端の技術を身につけるためだけの大本営ではありません。最先端の限界を知り、最低限の被害に収めるのも、それは意味があることだと思いませんか?」

 

 眩しい言葉だった。

 新鮮と言ってもよい。

 ふいに冷たい外気が流れ込んだのは、誰かが窓を少し開けたからだ。

 

「実はですね」

 

 大鳳さんの声に、いつのまにか少し楽しげな空気が混じっている。

 

「赤城さんのことは、横須賀の提督さんからだけでなく、八幡さんからも頼まれてるんです」

 

 意外な言葉だ。

 

「もしかしたら面白い奴が行くかもしれないから、よろしくしてくれって。9年も艦娘を務めている人を捕まえて、面白いって表現はどうかと思いますけど」

「大鳳さんは八幡さんとお知り合いで?」

 

 問えば、ああ、知らなかったですよね、と頷いて説明を加えた。

 

「まだ八幡さんが現役だった頃は、よく一緒に戦っていたんです」

 

 彼女が言うには、その戦い振りは今でも鮮烈に覚えているものらしい。

 生身の身体でありながらも、深海棲艦に肉壁し、殲滅する様はまさに軍神であった、と。

 

「その時のメンバーは、今でもここに残っています。そこに佐久間さんの弟子とも言われる赤城さんが加わってくれるということは、私としても嬉しいです」

 

 できるのなら、と大鳳さんはほのかに苦笑を浮かべた。

 

「ここに八幡さんが戻ってきてくれれば、すべてが安泰なんですが、こればかりは厳しそうです…………」

 

 当方が戸惑うような言葉が漏れた。

 と同時に、大鳳さんの苦笑の中に、複雑な感情が含まれていることを私は聞き逃さなかった。

 なるほど、大鳳さんの立場からすれば、八幡さんに戻ってきてほしいと考えるのは当然の発想かもしれない。しかし…………、

 脳裏をよぎったのは、あの夜に見た、八幡さんの険しい横顔だ。

 八幡さんにとっては、現役時代の辛い過去を思い出させる場所でもある。その過去が八幡さんの中では過去になっていない以上、ここに戻るというのは考えにくい話だ。

 

「その様子だと、八幡さんの事情は聞いているようですね」

 

 ふいな言葉に顔をあげれば、大鳳さんが、凪のように静まった目を向けていた。いささか難しい顔で思案に沈んでいた私の表情から、おおかた察したのだろう。

 私はただ静かに頷くしかない。

 

「八幡さんのような人には、ぜひ指揮官としてここにいてほしいと思って、声をかけたこともあるんですよ。にべもなく拒絶されましたけど。彼の気持ちを考えれば、無理もないことだと思います…………」

 

 大鳳さんは、そっと遠くを眺めるような目をして、ため息をついた。

 

「悠々と構えているように見えても、昔の自分のミスに、いまだに決着をつけれずにいるかもしれない」

 

 何気ないその言葉を、私は危うく聞き逃すところだった。

 短い言葉の中に紛れ込んだ異質な一言を、私はかろうじて引き上げることができた。

 

「自分のミス、ですか?」

「彼の部隊が壊滅しかけたことです。判断を遅らせてしまった自分の…………」

 

 言いかけた大鳳さんがふいにつぐんだ。

 そっと見返す瞳に、問いかけるような色がよぎり、やがて嘆息が漏れた。

 

「どうやら余計なことを言っちゃったみたいですね」

「八幡さんの親友が、誤った判断をしたために亡くなったという話は聞いていましたが…………」

 

 私はその先に続く問いを、発することができなかった。

 その発することのできなかったのものを正確に汲み取ってくれたのだろう。目を閉じ、それからゆっくりと開くと、黙っていてもいずれ分かるでしょう、と断ってから、静かに告げた。

 

「八幡さんの親友が所属していたところの隊長は八幡さん自身だったんです」

 

 電撃のような一言だった。

 

「若くしてその才能を認められた八幡さんは、すぐに隊長を任せられたんです」

「では、様子見として判断したのは…………」

「八幡さん自身です」

 

 言葉を失ったのは、私の方だった。

 

「たしかにあの状況は難しいものでした。あの結果となってしまったのは、運が悪かったんです。でも、敵の動向を掴むのが難しいということは分かってた上で、あの判断は、たしかに軽率だと言わざるを得ませんね」

 

 大鳳さんの述べる言葉が、どこか遠くを通り過ぎていくような気がした。

 にわかに事態を了解できなかった。

 心中には、あの言葉が鳴り響いていた。

 

 "俺はいまだにその時の隊長が許せないんだ"

 

 八幡さんが吐き捨てるように言ったその言葉は、ほかでもない自分自身に向けたものだったのだ。凍てつくようなあの怜悧な目は、自身に対する悔いと憤りと悲哀そのものであった。

 過去に決着をつけるどころではなかった。八幡さんは、今も昔の自分の影と全身全霊で戦い続けている。

 どれほどの苛烈な道を歩んできた人なのだろうか。

 

「赤城さん、どうかしましたか?」

 

 大鳳さんの気遣う声に、私はなんとか自制を得た。

 絶句したままそれで何か返答をした私の態度は、お世辞にも自然であったとは言えない。にも拘らず、大鳳さんは多くを問わぬまま、ただうなずくだけだった。

 その奥の瞳に、かすか悲哀の色を見せたまま、つぶやくように語を継いだ。

 

「もしかしたら」

 

 そっと窓外に目を向けた。

 

「八幡さんは自分にできなかったことを、あなたならやってくれると、思ったのかも」

 

 ふいにまた、冷たい風が流れた。

 私はいまだ落ち着く先を見いだすことができない動揺を抱えたまま、彼女の視線を追うように、窓外を眺めやった。

 いつのまにか小雨もやみ、空は鮮やかな紅に染められつつあった。

 

 

 ーーーー

 

 

「出撃の準備を!」

 

 明朗な声が工廠に響き渡った。

 目の前を、数人の艦娘が駆け足で駆けて行く。その中には祥鳳さんらしき姿も見えたが、無駄口を叩く余裕はなさそうだ。

 この日も民間軍事会社"鎮守府"は大繁盛らしい。

 それを眺める私に、しかし落ち着きがあるのは、もうここの一員ではないからだ。

 

「ずいぶん余裕だな」

 

 皮肉っぽい声が聞こえて振り返れば、ポケットに手を突っ込んだ八幡さんが、面倒臭そうな顔をして立っていた。ちょうど指示をしようとしていたらしい。

 

「ほんと、八幡さんって、よくこんなところで長い間やってきましたね」

 

 私が皮肉を返すうちにも、背後から指示を仰ぐ声が聞こえて、八幡さんは肩越しに振り返った。

 

「戻ってきた者は、全員休んでいい。今から出撃の予定の者は、広瀬に聞いてくれ。何かあったらすぐに報告するように」

「いつも通りみたいですね」

「くだらないこと言ってないで早く行け。今日は送別会なんだろ?」

 

 その通りである。翔鶴たちが町中で送別会を企画してくれているのだ。

 

「ドッグは中破している者が先だ。で、大本営には顔を通したのか?」

 

 器用な人だ。

 

「先週、大鳳さんに挨拶をしてきましたよ。問題なく来月から大本営所属です」

「あいつ一見頼りなく見えるが、いざって時は相当な切れ者だから、信用してもいいぞ」

「信用してって…………、大本営の主戦力ですよ?」

「大本営の主戦力だろうが、お偉いさんだろうがダメなやつはダメなんだ。そういうやつらもいるんだから、ちゃんと見極めろよ。ほら、君の艤装はあっちだ」

 

 話の間に振り返りながら、次々と指示を追加していく。

 これに対応する艦娘も、迅速で無駄がない。

 

「ま、もう赤城は依頼のことなんて気にしなくていいから、死ぬほど飲んでこい。それが君の仕事だ」

「そのつもりです」

「結構。飲みすぎでやらかして、クビになっても、俺が引き取ってやる」

 

「そんなことしませんよ」と苦笑しつつも、その言葉に表れた変化を私は見逃さなかった。

 

「安心しました。ダメな人でも助けてくれるつもりなんですね」

「相変わらずくだらんところは、注意力があるんだな」

 

 にこりともせずにそんなことを言う。そのまま、じゃあな、と一言放り出して、八幡さんは身を翻した。

 その去りゆく背を思わず呼び止めたのは、具体的な理由があったわけじゃない。胸中に去来するいくつかの感情を整理できないままに発した、多分衝動的なものだった。

 ゆえに振り返った八幡さんに、伝えることができた言葉は、これ以上はないほど平凡なものだった。

 

「短い間でしたが、御指導、ありがとうございました」

 

「御指導?」と八幡さんは不思議そうな顔をした。

 

「何言ってんだ?教えたことなんて、一つもなかっだろ」

 

 この期に及んで遠慮も会釈もない人だ。

 その語尾に重なるように、八幡さんを呼ぶ声が聞こえる。その声がした方に目を向けてため息をついた八幡さんは、

 

「くだらないこと言ってないで、さっさと行け。赤城がいると依頼が増える」

 

 ひどい当てつけを投げ出して背を向けた。その意外にたくましい背中を、太陽が照らした。

 

「言っとくけどな、赤城」

 

 不意の声に顔をあげれば、八幡さんが顔を向けていた。

 

「向こうで少し学んだからって、俺に追いつけると思ったら大間違いだ」

 

 涼しい声が、喧噪の工廠を貫いて届いた。

 

「戦場は総合力で勝負、だからな」

 

 軽く頭の上で手を振ると、そのまま八幡さんは、声の方へ飛び込んで行った。

 刹那に、唇の端にひらめいて見えたのは、微笑であったのか。

 確かめる暇さえなかった。

 また、その必要もなかった。

 私は、往来の激しい工廠の中央で、姿の見えなくなった八幡さんに向かって、静かに頭を下げたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 横須賀鎮守府周辺の町は、比較的活気のある場所だ。

 指定された店は、その町の中にあるので、この鎮守府からもそう遠くはない。

 車道から小さな路地に足を踏み入れ、両手を広げれば左右の塀に触れるほどの小道に入った時は道を間違えたかと思ったが、渡された地図を見れば間違いない。

 鎮守府の近くにこんな場所があったのかと戸惑いながらも路地を奥へと進めば、ふいに視界が開けて、豪壮な破風を有した古民家風の小料理屋が建っていた。

 話には聞いたことはあったが、私が訪れるのは初めてだ。

 戸口へ続く飛び石の前で足を止めたのは、入り口脇の軒の陰で、のんびりと空を見上げている友の姿を見つけたからだ。

 

「思ったよりも早かったですね、みんなだいたい集まっているわ」

「加賀さんはここで何を?」

「中はうるさくて」

 

 ふう、とため息を吐き出せば、なるほど、店の中からはいつものような喧騒が聞こえる。

 

「正直、本当にこの時期で大本営に行くとは思いませんでした」

「同感です」

「赤城さんまで同感なら、話の続けようがありません」

 

 すでに日の暮れた夜空をみあげたまま、加賀さんはもう一度ため息をついた。

 

「あの件、よほどこたえたようですね」

「関係ない」

 

 私は一度息を吸って、大きく吐いてから言った。

 

「はずがないです」

「まぎらわしい人ですね、赤城さんは」

 

 加賀さんは苦笑しつつ言ったが、ふいにそれをしまって、

 

「艦娘になったばかりの頃から、赤城さんに支えてもらってばっかりで、ようやく借りを返せると思ったときに、赤城さんの転属です」

「心配しなくても、大本営に行ったからって、踏み倒してもいいとは言ってません。機会を見つけるたびに貸し与えた分は、きっちり請求します」

「赤城さん、私たちは、どこへ向かって歩いていくべきなの?」

 

 ぽつりと吐き出された言葉が、どこかに痛みを持っていた。

 

「私はあなたという人を誇らしく思っているんです」

「加賀さん…………」

「私は平和を何よりも優先する人です。仲間か平和かと問われれば、平和を選ぶ人です。ですが、あなたはそうではない。いつでも決然と理想に向かって走り続けた人なんです。間違いなく、誰にも恥じることのない戦士なんです。その赤城さんがどうして横須賀を出ていかなければならないんですか」

 

 加賀さんがゆっくりと私に視線を巡らせた。

 

「今の赤城さんではダメだと言うの?」

「そうじゃないんです」

「でもあなたは、ここを出ていく。それはつまり、今まで積み上げてきたやり方を否定することと同じよ」

「そうじゃないんですよ、加賀さん」

 

 私は敢えて傲然と応じた。加賀さんが一瞬戸惑いを見せるほど、強く飛び出した応答だ。

 まったく熱い人だ。

 熱い言葉のうちにも、そこにあるのは私のよく知る旧友の姿だ。その清らかな熱が伝わってくるがゆえに、私もまた皮肉も諧謔(かいぎゃく)も交えぬ真っ向からの言葉で応じるべきだ。

 

「今の私には、加賀さんと対等に話すだけの資格さえないんです」

「資格?」

 

 眉を寄せる加賀さんに、「まあ、聞いてください」と私は語を継いだ。

 

「私たちは兵士です。それも平和を支える兵士です。その兵士が、まるで安物のラップのように、無造作に切り取られては使い捨てられている。捨てられるならまだしも、少し油断すればたちまち吊し上げられるのが今の世の中なんです」

 

 休日という概念が遠のいてずいぶんな月日が経つ。夜に呼び出されれば出撃することがごく当然のように認識されている。その過酷な環境の中で、ただ躍起になって戦い続けるだけでなく、強敵に対応していくための能力や知識を常に更新しなければならない。

 これは尋常ではない世界なのだ。

 

「加賀さん」

 

 私は知らぬ間に呼びかけていた。

 

「私は加賀さんの生き方に感服しているんです」

 

 友は驚いたかのように私を見た。

 返答を待たずに言う。

 

「加賀さんはこの過酷な現場で戦いつつも、平和を守るという揺るぎない信念を持っています。その結果、生じる歪みに対して決然と責任を取る覚悟もある。でも私は…………」

 

「私は、どうあるべきかを、考えることすらしませんでした。懸命でさえいれば、万事がうまくいくと、手前勝手に思い込んでいたんです。しかし戦場は、そんな生易しいものではないんです」

 

 声もなく見守る旧友に、私は目を向けた。

 

「私は加賀さんのように、何においても平和を選ぶという揺るぎない覚悟を持ち合わせているわけでもありません。翻って、八幡さんのように、崇高なまでの使命感もあるわけではない。つまり加賀さん、道を選んだ加賀さんに対して、私は選んでさえいないんです。それでは加賀さんと対等に話すだけの資格もないんじゃないんですか」

「赤城さん…………」

 

 加賀さんは目を細めて、遠慮の2文字を捨てて問うた。

 

「大本営に行けば、その答えは見つかるんですか?」

「それはわかりません。でもこのままではダメなんです。自分がどう歩むべきなのか、答えを探しに行きます」

 

 秋の少し冷たい風が吹き抜けた。

 

「それが私の答えです」

 

 加賀さんはしばらく無表情で、こちらを見据えていた。それもやがて苦笑を浮かべた。

 

「納得してくれましたか」

「冗談じゃありません」

 

 友の目には微笑があった。

 

「勘違いしないでください、赤城さん。私は納得なんかしてません。でも、私の納得の有無で赤城さんの判断が変わるとも思ってません」

「頭のいい友人を持って、私は幸せです」

 

 応じれば、互いの小さな笑声が、軒先に響いた。

 

「あれ、やっぱりこんなことろに」

 

 ふいに明るい声が聞こえて振り返れば、料理屋の戸から、翔鶴が顔をのぞかせている。

 

「来ているなら声をかけてください、赤城先輩。みんな待ってますよ」

 

 すみません、と笑いながら、私は店内へと入っていった。

 

 

 ーーーーーー

 

 

 宴は豪奢なものだった。

 皿いっぱいの馬刺しに、やや時期をはずれた山菜は天ぷらとなって盛られ、そこに鍋や刺身、そばまである。

 かかる馳走を取り囲むのは、横須賀の艦娘たちだ。見慣れたはずの面々が、しかし皆、見慣れぬ私服姿であるためか、いささか当惑を覚えるほど華やかだ。

 私たちの宴会は、堅苦しい挨拶とは、もともとあまり縁がない。それでも加賀さんが形ばかりの乾杯の一言をのべれば、たちまちグラスは往来して、酒杯が打ちあわされた。

 酒は上々、出される料理は美味だ。おまけに古民家を土台とした店は、ふと見上げれば堂々たる梁を見渡せる味わい深い風情がある。お疲れ様でした、と交互に注がれる酒を飲めばら自分の送別会とも忘れてたちまち陶然となった。

 途中から提督も加わりら場は一層の活況を呈した。

 

「提督が、宴に来るなんて、珍しいことですね」

 

 頰を赤く染めた翔鶴が明るい声で言いながら、徳利を傾けた。

 瑞鶴はどうしてる、と問うまでもなく、

 

「赤城先輩が来るって聞いて、とても喜んでましたよ。やっぱり、運命の赤い糸だって」

 

 瑞鶴の阿呆さの加減は、大本営に行っても変わっていないらしい。

 苦笑しつつも、酒杯を干す。すると、翔鶴は思い出したかのように机の下に手を伸ばし、なにか小さな紙袋を取り出した。

 はい、と手渡された袋を意味もわからず受け取ってしまう。

 

「八幡さんからです」

「八幡さんから?」

「暇なときに渡してくれって」

 

 傍らの艦娘が続けて、

 

「赤城さんがいらないって言ったら、そのままゴミ箱に捨てといてくれって」

 

 ますます難解だ。

 とりあえず受け取った袋を開けてみる。格別な包装をしているわけでもない。ありふれた紙袋をセロテープで留めただけなので、すぐに中身にたどり着いた。

 出てきたものを見て、私は苦笑した。

 手中にあるのは、『葉隠』であった。

 こんなときに、この本を渡すなんて八幡さんらしい。

 

「何か言ってましたか?」

 

 メッセージひとつもない贈り物を見つめたまま問う。

 返答はない。

 のみならずにわかに静かだ。おもむろに顔をあげれば、いつのまにやら宴席のみんなが、ことごとく静まり返って、それぞれの笑顔を私に向けていた。

 いささかたじろいで、なんですか、と声を発する前に、翔鶴がすくっと立ち上がって頭を下げた。と同時にみんなが叫ぶ声が聞こえた。

 

「赤城さん、ありがとうございました!」

 

 驚く暇もありはしない。

 ただ呆気にとられている間に、今度は一同一斉に拍手喝采だ。

 これはいけない。

 大変いけない。

 ただ一献を交わしてさようなら、と投げつけられれば、それで問題ない。それをこうも面と向かって送られては…………、

 私はにわかに卓上の徳利を手にとってらそのまま一息に喉に流し込んだ。いまだに、このような酒の飲み方をしたことがない。しかし今夜ばかりはやむを得ない。こんな過分な送別を、素面で受けられるほどに私の神経は太くない。

 とんと徳利を卓上に戻せば、たちまち誰かが一杯を手渡した。受ければただちに次の一杯が注がれる。かと思えば、別の人が「乾杯」と叫んで杯を飲み干した。

 あとは前後不覚の宴会の再開だ。闇雲な酒宴の果てに、店を出たのが何時であるか、判然しない。

 ただ一つ分かることは、私にはこれほどの力強い味方がいることであった。








これにて第3章は終わりです。ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回のことですが、アンケート2を10月16日(火)までとって、そこから決めたいと思います。よければ活動報告にてお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第0章 Live on each story
MelodyFlag・前編


アンケートの結果から、八幡たちの過去の短編をいくつか投稿していきたいと思います。
手始めに、まだ鎮守府ができる前の話を広瀬航を中心にお送りしたいと思います。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数輪の花が咲いている。

 とある鎮守府の寮の庭先である。

 8月初句の眩い日差しが降り注ぐ庭に、花弁が、時折頷くように揺れ、ときに考え込むようにぴたりと止まる。

 白い光の中に色の映える、色鮮やかな夏景色だ。

 広瀬航(ひろせわたる)は、食堂の椅子に腰かけたまま、その夏の象徴のような花を眺めやった。

 そうしながら、こうしてこの庭先を眺めるのも、今年で最後だという淡い感慨が胸をよぎった。

 航は、この鎮守府の指揮官補佐で、来年には補佐が外れ指揮官になる予定である。

 夏というのは、艦娘たちもとびきり忙しい時期で、今も室内に視線を戻せば、大きなテーブルを囲んで、黙々と昼食を食べている。かくも航も、日々の業務に加え、勉学に励んでおり、艦娘に負けず忙しい。

 

 "もっとも、提督になったら、毎日の大変さはこんなものでは済まないだろうけど…………"

 

 航は、目の前な積み上げられた書物を眺めて、小さく苦笑した。

 

「気色の悪い男だな、なにをひとりでにやけている」

 

 ふいの声は、よく知った者の声であった。

 分厚いファイルを持った八幡武尊(やはたほたか)が、いたずらに怜悧な視線を向けている。

 

「大の男が、庭先の花を眺めてにやにや笑っているのは、あまり気持ちの良い景色じゃないな。せっかく綺麗に咲いている花が枯れるんじゃないのか?」

 

 武尊が毒舌を振る舞うのはいつものことだ。

 "黒風隊"隊長のこの友人は、華奢な見た目に似合わず、筋トレマニアで、下手すれば1日トレーニングをしているというほとんど異常な特技の持ち主だ。変人が多い黒風隊の中でも、ひときわ変人だが、航とは入隊以来の長い付き合いがある。

 

「それは悪かったです。花に謝っておきますよ」

「お気楽で結構。じき司令官の余裕か」

「やっかむんじゃないですわ、武尊さん」

 

 口を挟んだのは武尊の隣にいた上品な艦娘である。自称お洒落な重巡、熊野だ。

 

「航さんは、わたくしたちと頭の出来が違うのですわ」

 

「ちょっと待て熊野」と武尊が、冷ややかな目を重巡に向ける。

 

「ワタルの頭の良さにケチはつけないが、君と俺を『わたくしたち』でひとくくりされるのは、心外だ」

「照れているのですの?何度も一緒に戦った仲じゃありませんか」

 

 オホホ、と上品に笑う熊野の横で、武尊がため息とともに額に手を当てている。

 

「お気楽というのなら、みんなそろってお気楽よ。私なんか、艦娘なのに試験があるんだから」

 

 航のすぐ隣に座っていた艦娘が、肩肘をついたままぼやいている。

 大鳳。装甲空母という少し特殊な空母で将来の主力を期待されている艦娘だ。武尊と同じく運動神経は抜群だが、少々頭脳が足りず、

 

 "少しくらいの問題なら、どうにかなるわ"

 

 などと発言しておきながら、しばしばどうにもならなくなって、航に泣きつくことも珍しくない。

 

「頭脳明晰、容姿もまあまあ、おまけに美人な彼女がいるんだから、羨ましい話よ」

 

 ちらりと航に目を向けて、そんなことを言う。

 

「"まあまあ"というあたりは賛同できないね」

「余裕かましちゃって。どうせ、花眺めているふりをして、彼女のことでも考えていたんでしょう?」

「そんなことを考えていらしたの?」

 

 にわかに熊野の声が飛び込んできた。

 

「大和さんは、ほんと美人ですわね。この前、会った時に挨拶されましたけど、あの笑顔は犯罪ですわ」

「犯罪は君の存在だ、熊野」

「そんなこと言ってますけど、武尊さんだって大和と話しているときは楽しそうだったじゃないの」

 

 熊野の言葉に、武尊はこれ見よがしに、ファイルをめくりながら、

 

「言いがかりも甚だしい。俺が楽しいのはトレーニングだけで、あとはどうでもいい」

「強がっちゃって。嬉しかったくせに」

 

 無遠慮な大鳳の言葉が飛び込んできて、武尊が鼻白む。

 大和は、最終兵器とも呼ばれるほどの実力を秘めた戦艦である。大鳳の1つ下の後輩であり、大鳳と大和は特別仲が良い。

 

「横恋慕でなくても、甲斐性なしは確かね。大和とあんだけ一緒にいながらら結局広瀬君に全部持っていかれてるんだから、ざまないわ」

 

 容赦ない大鳳の言葉に、武尊が珍しく絶句している。

 航と武尊が、大和とを挟んで三角関係を築いていた、という話は、昨年のトップニュースであった。事実を言えば、三角関係らしいことは何も起きておらず、武尊がそっぽ向いていただけであったのだが、この場合、細やかなことはどうでもいい。

 

「大鳳、君こそ人のことどうこう言う前に、自分のことはどうなんだ?荒木(あらき)とはあまりうまくいってないと言う話を聞いてるぞ」

「いつの話をしてるのよ。あんなエロ士官、もう半年も前に振ったわ。相変わらず世の中の情報に疎いのね」

 

 武尊は渾身の反撃を、あっさりと大鳳の鼻息に吹き飛ばされて、再び絶句している。

 

「青春ですねぇ…………」

 

 ようやくぼそりと呟いたのは、それまで黙って一同の騒ぎを眺めていたもう1人の男だ。

 すっかり薄くなった頭髪の下に、人の好さそうな笑顔を浮かべた男性は、どうみても軍人には見えないが、れっきとした提督である。杉田正憲(すぎたまさのり)は、一度社会人として管理職まで出世してから提督になったという風変わりな経歴の持ち主で、52歳と言う年齢で、新人提督である。

 

「やっぱり皆さんと一緒に仕事をするのは、いいものですね。1人でやるより不思議と進みます」

 

「だといいですけど」と遠慮がちに航が答える。

 

「半分はこの馬鹿騒ぎです。マサさんの邪魔になっていなければいいですが…………」

「楽しくやってますよ。おかげでもうお昼です。今日はそろそろ店じまいですかね」

 

 朝から始めて昼に終わるのが、この集まりのいつもの流れだ。マサさんは剛毛の太い腕で書類をしまいながら、

 

「仕事仕事と言いつつも、時にはこういう楽しい話がないと長くは続きません。男女の問題は、いつだって人間生活の最大の関心ですからね」

 

 ふふふと意味深な笑みを浮かべている。

「マサさんてさ」とにわかに大鳳が振り返った。

 

「まだ彼女はできないの?」

「また大鳳さんは、ハゲの中年に向かって、ひどいことを聞きますなぁ」

 

 あははとマサさんの応答はひどく陽気だ。

 

「だって、マサさんは優しいし落ち着きがあるし、年っていってもまだ50過ぎだし、全然射程範囲内よ」

「嬉しいことを言ってくれますね。でも脳の方は確実に劣化してきていますから、今は目の前の執務で精一杯です。恋愛はもう少し落ち着いてから。現場で可愛い艦娘を探します」

「出た、犯罪者マサさんの野望!」

 

 品のない大鳳の高笑いと、意味ありげなマサさんの忍び笑いが和して不気味なことこの上ない。傍らでは武尊がげんなりとした顔で、缶コーヒーを傾けている。

 ほとんど混沌としたその空気を、航はしかし貴重なものだと思う。

 こうして集まれるのは、今年が最後。

 生まれも、経歴も、これから進む道も、まったく異なる人間たちが同じ机を囲むことは、おそらくもうないことなのだ。

 

「ワタル」とふいに武尊の声が聞こえて、航は顔を上げた。

 武尊が、窓の外を目で示している。

 振り返れば、鎮守府の前の小道に、グレーのジムニーが入ってくるのが見えた。

 玄関前の駐車場で止まったジムニーの窓が開いて、身を乗り出した女性が大きく手を左右に振っている。生き生きとしたその動作が、真夏の太陽の下で眩しいほどだ。

 

「あのバカ、ほんと遠慮ってものがないんだから」

 

 大鳳の呆れ顔に、航も苦笑するしかない。

「デートですか?」とにこやかに問うたのは、マサさんである。

 

「お互い、なかなか時間が取れなくて…………」

 

 苦笑まじりに、手元の書籍を片付け始める航に、マサさんは笑顔で続ける。

 

「一緒に過ごす時間は大事ですよ。気持ちさえあれば通じ合えるなんて、言うほど簡単なことではありませんからね」

「マサさんが言うと、重みがありますわ」

「あーあ、私も気持ちが通じ合える男が欲しいわ」

 

 熊野と大鳳が勝手なことを言っている。

 その傍らで、ファイルに視線を落としたままの武尊の、淡々とした声が聞こえた。

 

「明日も9時からだ」

「了解です」

 

 うなずいて航は、立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 8月の灼熱の暑さにも関わらず、街中の黒い道路の上をたくさんの車が往来している。そんな中に、入っていけば、たちまち渋滞につかまってしまうのだが、ジムニーのハンドルを握る大和の心はいつになく弾んでいる。

 訓練生を卒業した大和はすでに実戦が始まり、戦場と鎮守府を行き来する多忙な毎日を送っている。一方で航もまた提督の補佐を務めながら、同時並行で指揮官の勉強もこなしていかなければならないから、なかなか互いに時間が取れないでいたのだ。

 

「大和、実戦は大変か?」

 

 航の声に、大和は前方を向いたまま明るい声で応じた。

 

「見るもの全部が初めてだから、大変は大変ですけど、結構楽しんでます。たぶん、ひたすら書物とにらめっこのワタルさんよりは楽ですよ」

「大和らしいな。今は第5艦隊だっけ?」

「うん、朝が早いのが辛いけど、いかつい顔の司令官たちが、意外にみんな優しいから面白いです」

 

 ひどいことを言ってるよ、と航はおかしそうに笑う。

 

「ワタルさんの方はどうですか?毎日大変そうですよ?」

「まあ毎日毎日大変だけど、半分はお祭り騒ぎだよ。なにせメンバーがメンバーだからね」

「武尊さんに、大鳳さんに…………」

「熊野とマサさん」

 

 思わず大和は笑う。

 

「個性派ぞろいの鎮守府の中でも、最強のメンバーだって、噂になってますよ」

「それはまずいな。僕まで変人扱いをされてしまう」

「ワタルさんだって、あの武尊さんとずっと付き合ってますもの、十分最強メンバーの1人ですよ」

「大和、隊長と大鳳さんから悪い影響を受けてるな、昔はそんなに毒を吐かなかったぞ」

 

 ひとにらみする航に、大和は声をあげて笑った。

 口の悪いことは言っているが、大和は航のことを結構本気で尊敬している。

 実家の和菓子屋を手伝いながら学校に通うという苦学生の時代を経て、今に至りながら、人柄は穏やかで、優秀だ。初めは士官候補生にですらなかったのに指揮官補佐まで務めているのは、やはり彼が有能だからということは、大和にも容易に想像つく。

 すごい人と付き合っているのだ、と大和は時々ふいに実感することがある。と同時に、胸をよぎるのは、かすかな不安だ。

「広瀬さん」と呼んでいたのが「ワタルさん」になるまで、ずいぶん時間を積み重ねた気がするが、まだ1年程度だ。その短い時間のうちに航は指揮官になってしまう。

 なんとなく、ちらりと大和は助手席に視線を走らせた。

 航はいつもと変わらぬ寡黙さで、静かな目を窓の外に向けている。

 

「横須賀での研修の件、どうすることにしたんですか?」

 

 できるだけ自然体のつもりで尋ねたが、それでもかすかに陰りを隠しきれなかったことを、大和は自覚した。

 航は、そんな不安に気づいているのかいないのか、少しだけ考え込むように沈黙してから答えた。

 

「まだ、迷っているところ。僕も案外、優柔不断だ」

 

 横須賀鎮守府は神奈川にある大きな鎮守府だ。

 士官の教育にも力を入れていて全国から多くの希望者が殺到するが、鎮守府の水準を維持するために人数枠に制限がある。その枠に挑んだのは、まだ桜も艶やかだった3ヶ月半前。そして、合格の通知が来たのが、つい先日だった。

 

「横須賀の研修は水準が高いだけに厳格だ。行けばしばらく帰ってこれなくなる。それも年単位の話だ」

「ワタルさんのお母さん、1人なっちゃいますもんね」

「それは覚悟していたことだよ。だけど今の僕には、大和もいる」

 

 てらいのない一言に、大和は思わず助手席に首を巡らせた。「前を見て、前を」と苦笑まじりに航が声をあげる。

 

「そんなに驚くことはないだろ」

「驚きますよ。だってせっかく合格した横須賀と私なんかを比べて…………。だいたい、そんなことは初めから分かっていましたよね?」

「いや…………、正直受かるとは思ってなかったんだよ」

 

 困惑顔で首をかしげる航の様子に、大和は呆れるしかない。

 

 "ワタルは頭がいいわりには、阿呆な男だ"

 

 たしか、八幡さんがそんなことを言っていたな、とふいに思い出して、大和は今さらながら妙に納得した。

 

「せっかく手に入れたチャンスをこのまま手放したら、ワタルさん多分後悔すると思います」

「なるほど、大和はむしろ、横須賀行きを勧めるわけだ」

 

「それは…………」と大和は返答に窮する。ため息まじりに大和は航に一瞥を投げかける。

 

「…………そういう言い方って、ワタルさんも結構性格悪いですよ」

「自覚はあるよ。あの集まりに居続けて、朱に交わりすぎたんだろう」

 

 思わず大和は小さく肩を揺らして笑った。

 ちょうど赤信号でジムニーが止まったところで、大和は、とんとハンドルを叩いてから、

 

「私は何も言いません。ワタルさんの思うようにやってください」

「あ、大和得意の"問題先送り"だね」

「いいんです別に。どっちにしたって私が横須賀に行くわけではないんですから」

「違ったか。先送りというより、"投げやり"だな」

 

「その代わり」と大和は少しだけ声を大きくして遮った。

 

「その代わり、横須賀に行くまで時間はあんまりないから、もう少しだけ時間をつくってください」

 

 唐突な大和の要求に航は2度ほど瞬きする。

 

「補佐の仕事もあって大変だと思いますけど、少しくらいワタルさんとどっかに出かけたいんです。そうしたら気持ちよく送り出してあげます」

 

 返事がないからちらりと見返すと、航は思いのほか真面目な顔で考え込んでいる。

 

「それは構わないけど、どこに行きたい?」

「どこって言われても…………」

 

 意外に大和は細かいことは考えていない。

 

「どこでもいいけど、どこかに行きたいです」

「なんだよ、それ」

「なんでもいいんですら何か珍しいもの見に行くとか、綺麗な景色のある場所とか、とにかくワタルさんと一緒の思い出を作りたいんです」

 

 勝手なことを言っているのは、大和にも自覚があるが、たまに会ったときくらい勝手を言ってもいいだろうという思いもある。

 

「なんとか考えてみるよ」

 

 そんないつも通りの穏やかな声がかえってきたことが、かえって少し悔しくて、大和はさらにつけくわえた。

 

「それからもうひとつ」

 

 とジムニーのギアを勢いよく入れる。

 

「今日はたくさんお肉食べますけど、全部ワタルさんの奢りですからね!」

 

「おいおい」と笑う航に、じゃあ出発!と大和は張りのある声で答えて、アクセルを踏み込んだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府の夏から秋にという時期は、艦娘や士官たちにとって試練の時期である。

 深海棲艦の情報収集や研究を通して活路を模索しつつ、果てなく続く戦いを順次、こなしていかなければならない。しかもそれらは、一番暑い時期に行われることが多い。

 

 "艦娘とて人間である"

 

 それは、指揮する者たちの、心得るべき言葉である。

 かかる重圧が続けばこそ、鎮守府の人々もいろいろな予期せぬ変化が生じてくる。

 それまで仲の良かったカップルが唐突に破局を迎えたり、疎遠であった男女がにわかに交際を始めたり、といった恋愛上の波乱は言うまでもなく、過酷さに耐えきれず睡眠薬に手を出す者や、がむしゃらに戦いに没頭する者、ふいに寮にこもって休んでしまう者など、笑い飛ばすにはいささか苦しい話にも事欠かない。

 

「いろいろ予想外のことが起こる時期だけど…………」

 

 航は「重巡寮」の一室で、ため息交じりに壁際のベッドを眺めやった。

 

「天下の熊野が風邪で寝込むっていうのは、さすがに誰も予想しなかっただろうね」

 

 灯りを落としたベッドの中で、お洒落な重巡が珍しく赤い顔になって丸くなっている。額に乗せた濡れタオルの下に、ぐったりとした熊野の目がうるんでいる。

 

「言ってくれますわね、ワタルさん…………」

 

 声まで弱々しい。

 航は卓上のポットでお湯を沸かし、コーンスープをつくってやる。

「すみませんわ」という弱々しい声は、普段が明朗なだけに一層哀れを誘う。

 熊野が風邪で倒れたのは、夏の日暮れにかすかな秋の気配が漂い始めた9月初句のことである。

 最初は微熱と軽い咳だけであったのが、航が集まりで会うたびに具合が悪くなるようで、結局しばらく寝込むことになってしまったのだ。

 

「これだけ長引くと、肺炎だったりするんじゃないのか?」

「それは大丈夫ですわ…………。今朝、武尊さんが薬をもらってきてくれましたし」

 

 ならばあとは待つしかない。

 せいぜい航にできるのは、スープをつくってタオルを換えてやるくらいだ。

 

「まあしばらく静養だね。幸いここ2週間は大きな出撃もない。タイミングはむしろ良かったくらいだ」

「ワタル、あまりそいつに近づかない方がいい」

 

 部屋の外から武尊の声が聞こえてくる。そこまで空き部屋がないため、武尊の部屋は熊野の隣で、壁が薄いためそのまま声が届くのだ。

 

「体力とポジティブ思考だけが取り柄の重巡をやっつけるような病原体だ。きっとロクでもない変異体に違いない。自分の身を守ることが先決だ」

 

 航が苦笑したのは、武尊が口の割には、いろいろと熊野の世話を焼いていることがわかるからだ。部屋にはペットボトルの水やパンが置いてあり、今航がつくっているインスタントスープも買い置きがしてあったものだ。

 

「なにをまた、ニヤニヤ笑ってやがる」

 

 唐突に、扉の向こうから顔をのぞかせた武尊が、そんな言葉を投げ込んできた。いかにも不快げな顔で、これ見よがしにマスクまでつけている。

 

「いや、熊野にもいい友人がいるものだと思いまして」

「それは初耳だ。ぜひ紹介してくれ」

 

 部屋に入ってきた武尊は、そばの座布団に腰を下ろすと、無造作にマスクをとって、ポケットから取り出した缶コーヒーに口をつけた。

 

「みなさん、わたくしの方は大丈夫ですから、いつもの集まりに行っても構いませんわ」

「そうしたいとこなんだけど」

 

 航は出来上がったカップスープを熊野に渡しながら、

 

「いろいろ面倒事が重なっていてね」

 

 カップを受け取った熊野がすぐには問い返さなかったのは、いくらか事情を悟っているからであろう。航はため息交じりに続けた。

 

「マサさんがだいぶ荒れているんだよ」

 

「やっぱり…………」と熊野が心配そうに、武尊に目を向ける。

 

「酒、増えていらしていますのね」

「バカみたいな量の執務は、年配者にはどう考えてもキツイ。おまけに最近は妙に深海棲艦が出てくるせいで、普段の倍以上の執務をこなしているって話だ」

 

 最近、なんとなく暗い顔をしていたマサさんは、どうやらストレスで飲酒量が増えているようで、朝から酒の匂いを漂わせていることも稀ではなかった。ここ数日はそれが顕著で、集まりそのものに来なくなることも多くなっている。

 

「1人抜けただけでも、空気は寒くなるものだ」

「1人じゃなく、2人ですわ。大鳳さんも何かあったんではないですの?」

 

 熊野の突然の問いに、武尊が迷惑そうに眉をしかめる。

 

「普段は鈍感きわまりない君が、妙なときに敏感になるんだな」

「昔から世話焼きで面倒見のいいあの人が、一度も見舞いに来ないのですのよ。おかしいと思いますわ」

「荒木とより戻す戻さないの話で、なにやら面倒になってる。あの、図太い神経の持ち主が、ここのところ集まりに顔を出しても、上の空だ」

 

 荒木(まこと)は、大鳳が"半年も前に振ってやった"と言っていた、年上の男性だ。もともとは同じ鎮守府に所属していたことから、武尊と熊野は面識がある相手だ。その知り合いが、2週間ほど前に、突然大鳳の部屋を訪れたのだと言う。

 最近、大鳳の様子が変わったことは、航も気づいていたが、事情を知ったのは今日が初めてだ。

 

「荒木さんというのは、そういう人なんですか、隊長」

「そういう人、とは?」

「こんな大変な時期に、相手の生活をかき乱すようなことをする人って意味です。今は僕たちにとってはもっとも大変な時期ですよ。本当に大鳳さんのことを大切に思っているなら、あと少し待てばいい話です」

「驚いたな」

 

 武尊が軽く眉を動かした。

 

「珍しく航が怒っている」

 

 言われて航の方がかえって戸惑った。

 

「別に怒っているわけじゃないです。だいたい僕が怒っても仕方ないでしょう」

「その通りだな。よしんば荒木さんがろくでなしであっても、誰かがお白州(しらす)に引き出して、島流しにしてくれるわけでもない」

 

 武尊の毒舌が今一つ切れが悪いのは、元同僚という繋がりがあるからだろう。武尊からすれば、航のような身軽さは持ちようがない。

 

「じゃあなんですの。結局、わたくし抜きで集まれと言っても、あなたたち2人しかいないってことではありませんか」

 

 熊野の呆れ声が、空しく天井に響いた。武尊は座布団の上で黙って缶コーヒーを傾け、航は所在もなく窓の外を眺めるのみだ。

 おもむろに武尊が立ち上がり、熊野の額からずり落ちたタオルを手にとったのは、いつのまにか熊野が静かな寝息を立てていたからだ。さすがの熊野も、今回はよほど消耗しているらしい。

 武尊は、「手のかかるやつだ」などとつぶやきながら、淡々とタオルを洗面器に浸し、しぼってそれを熊野の額に乗せる。そんな友の心配りを微笑とともに見守っていた航に、ふいに武尊の声が届いた。

 

「横須賀の研修に、合格したらしいな」

 

 唐突な話だ。

 航は軽く肩をすくめて答えた。

 

「情報が早いですね。先月、通知が来たばかりです」

「とりあえず、おめでとう、と言っておこう」

 

「ありがとうございます」と応じた航の声が、わずかに迷いを含んでいたことに、武尊は敏感に反応した。

 ベッドのそばに膝をついたまま、鋭い視線を航に向けた。

 

「まさかとは思うが、行くか行かまいかで悩んでるんじゃないだろうな」

「隊長はすごいですね。僕の頭の中が見えるんですか?」

 

 冗談混じりの航の応答に、しかし武尊は目もとの冷ややかな光を湛えただけだ。

 

「通知が来てから、1ヶ月も黙っていたからまさかと思ったが、どういう料簡(りょうけん)だ?」

「貴重なチャンスだということは分かってます。でも、どうしてもどこかに迷いが…………」

「迷い?」

「うまくは言えないんですが…………」

「大和か」

 

 直截(ちょくさい)な武尊の切り込みに、航はわずかに言葉に詰まった。

 しばしの沈黙をおいて、ため息とともに答えた。

 

「自分の中で、思っていた以上に大和の存在が大きくなっていた。そういうことです」

「だから迷うと言うのなら、君は天下一の阿呆だな。熊野よりもよっぽど阿呆だ」

 

 悩んだ末に吐き出した言葉を、バッサリと切り捨てられ、航はさすがに苦笑した。

 

「相変わらずはっきりと言う人です。僕は大和を大事にしたいと思っているだけですよ」

「阿呆め。君の迷いは、論点そのものがおかしい」

「論点そのもの?」

「じゃあ聞くが、大和はそばに居てくれる優しい男なら誰でもいいと思って、君と付き合っているのか?」

「そんなわけがないじゃないですか、彼女は…………」

 

「なら」と武尊の小さな声が遮った。

 

「しっかりと自分の足で自分の道を進め。大和はそういう君を選んだのだろう」

 

 つと胸をつくような言葉であった。

 淡々とした口調の中にも1本のぴしりとした筋道があって、それがまっすぐにワタルの心に飛び込んできた。航は、黙って旧友を見返した。

 やはりすごい男だ、というのが率直な感想だった。

 答えは最初から航の中にあったのだ。おそらく誰かが背中に押して欲しいと願っていただけであろう。そういう航の心情を正確に汲み取って、遠慮のない一撃を加えてくれる八幡武尊という味方は、得がたい存在だと痛感する。

 もとより航には、武尊に対して大和を話題することに若干の気遅れがある。

 昨年鎮守府を席巻した"三角関係事件"は、けして根も葉もない与太話ではなかったと航は感じている。おそらく大和はもとより、武尊も心を寄せていたのではないかと。

 今は確かめるすべもなく、また確かめる必要もない話だ。

 しかしそういう航の思惑や気遅れなどを一切無視して、必要な言葉だけを、武尊は投げかけてくれる。

 この男は確かに友だ、と航は胸の内で静かに(こうべ)を垂れた。

 いつのまにか部屋の中が少し赤く染まっていたのは、傾いた日差しが室内を照らし始めたからだ。窓外に目を向ければ、いつのまにか西の空は茜色だ。

 空に雲はなく、どこまでも眩い夕日の下には、同じ色に染められた勇壮な水平線が続いている。

「ありがとう」などという軽薄な言葉を、航は口にはしなかった。

 ただ短く独り言のようにつぶやいただけだ。

 

「明日はきっと晴れますね」

 

 何事もなかったようにゴミを片付けていた武尊は、肩越しに振り返り、眩しげに眼を細めながら頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

MelodyFlag・後編

 マサさんが救急搬送。

 そんなとんでもないニュースが鎮守府を駆け巡ったのは、9月も半ばを過ぎたある朝のことだった。

 早朝の鎮守府の階段で、散乱した書類に重なるように倒れているマサさんを、通りかかった艦娘が発見したのだ。呼びかけても反応が弱く、意味不明の発言もあるために、ただちに救急車が呼ばれて、近くの自衛隊病院へと搬送されたのである。

 鎮守府中を驚かせたこの事件が、大和にとって、ひときわの大事件となったのは、マサさんが航と一緒にいる友人だからではない。彼女がまさにその倒れたマサさんを見つけたからである。

 折しも、1日休みで朝早くに鎮守府を訪ねていた大和が、航を探していたところであった。

 白い軍服から、大和はマサさんではないかと思い当たったが、救急車が来てしまえば、あとはその人たちに任せるだけだ。余計なことを考えずに済んだことは、大和にとってむしろ幸いだったかもしれない。

 

「お疲れ様、大和」

 

 ぐったりとして広間の椅子に座っていた大和は、懐かしい声を聞いて顔をあげた。

 廊下から手を振ってやって来たのは、久しぶりに会う先輩の大鳳であった。

 

「久々にここに来て、マサさんが倒れるなんて、あんたも災難ね」

 

 そう言って、大鳳は大和を朝食に誘ったのである。

 朝食とは言っても、大鳳が連れ出した先は、鎮守府の端の方の、日当たりのよいベンチであるし、袋から取り出したのは、鎮守府ないの売店で買って来たサンドイッチである。そんなざっくばらんな大鳳の態度が、しかし大和にとってはむしろ有難い。まだジャージ姿の大鳳から、大和はハムサンドを受けとった。

 大鳳は野菜ジュースにストローを突き刺しながら、

 

「マサさんはどんな感じ?」

「頭を強く打っていたらしいですけど、命に別状はないそうです」

「良かった。それさえ聞ければ充分よ」

「でも、肝臓は良くないみたいで…………」

 

 大和の言葉に、大鳳は眉を寄せる。

 

「お酒か…………」

「多分…………。みんなからの話だと、昨日今日の話じゃなくて、最近はずっと飲んでいたらしいです。多分、倒れていた時も酔っ払っていたんじゃないかって…………」

「つまり、酒飲んで酔っ払ったあげく階段から転げ落ちて、倒れていたってわけね」

 

 ひどいもんだ、と大鳳が小さく呟くのが聞こえた。

 最近マサさんが、執務のストレスで飲酒量が増えてきている、という話は大和も航から聞いていた。しかしこういう事件を起こすような状況にまで発展しているということは、さすがに予想だにしていなかった。

 

「マサさんて、そんなに弱っていたんですか?」

「さあね、無責任な感じになっちゃって悪いけど、私もここんとこ、集まり休みがちだったから…………」

 

 大和が、思わず口をつぐんだのは、大鳳の身辺についても、航からいくらか話を聞いていたからだ。

 

「とりあえず入院?」

「はい、数日は入院だそうです」

「待つしかないってことね」

 

 ほら早く食べたら、と大鳳は控えめに笑って大和をうながした。

 サンドイッチを頬張る大和は、なんとなく辺りを眺め、砲撃音の聞こえる海を方に目を留めた。

 青い空を背景に、静かに波打つ海が見える。元気な声をあげて駆け回っているのは、また戦線に参加できない訓練生たちだ。大和にとっては、つい先日まで居た居場所だというのに、ずいぶん昔のように感じられる景色である。

 視線を止めた大和に気づいて、大鳳も目を細めた。

 

「懐かしいわね、あの空気」

「ええ、こうして大鳳さんと後輩たちの演習を見るなんて、2年ぶりくらいですね」

「2年、か…………」

 

 大鳳の声に重なるかのように、砲撃する音が聞こえてくる。

 

「たかが2年の間に、ずいぶんいろんなことが起こるものね」

 

 大鳳の静かなそのつぶやきに、大和は少しだけ間を置いて答えた。

 

「荒木さん、帰ってきたんですね」

 

 大鳳が軽く苦笑する。

 

「広瀬くんから聞いたの?あなたたちって、なんでも話しているのね」

「ワタルさんも八幡さんもみんな心配してますよ」

「大丈夫。酒飲んで階段から落ちて救急車に運ばれたりしないから」

「当然です」

 

 大和の咎めるような声に、大鳳は小さく肩をゆらして笑った。

 大鳳のかつての交際相手、荒木誠は、大和にとっても見知らぬ他人ではない。昔は、大和も一緒になって食事や買い物に出掛けたことがあったのだ。

 

「別の鎮守府に出てたんだけど、人事異動でこの9月からここに戻ってきたのよ。戻ってきた途端、いきなり寮までやってくるとは思わなかった」

「なんて言われたんですか?」

「よりを戻そうって言われた。やりなおそうってさ」

 

 大和はまるで自分に言われたことのように、困惑顔になる。

 

「すごく急な話ですね」

「急な上に、勝手な話よ」

 

 野菜ジュースのパックを飲みほすと、大鳳はくしゃりと手の中でつぶしてしまった。

 

「なんて答えたんですか?」

「答えが出ないから、困ってるんじゃない」

 

 ビニール袋からカツサンドを取り出して、無造作に食いつきながら、

 

「バカな話よね。愛想が尽きて、ようやく別れて、気持ちなんてかけらも残っていないつもりなのに、顔を見たら、急にいろんなわだかまりが消えちゃった気がしてね…………」

 

 淡々と、ときおり考えるような間を挟みながら話す大鳳を見返して、大和は軽い当惑を覚えた。その瞳には、同じ同性の大和すら惹きこむような、深く温かい光が溢れている。

 本当は、今もたくさんの想いを抱えたままでいるのだ。

 そのことが大和にもわかる。

 

「あのバカ、あんな攻撃して…………」

 

 ふいに大鳳が彼方の海に向かって、舌打ちをした。

 思わず大和は笑う。

 海で演習をしているのは、大和と大鳳の後輩だ。現在は訓練生の中でも1、2番の実力だと言われているが、大鳳の目には、ずいぶんと頼りなく見えてるに違いない。

 

 "鉄壁の大鳳"

 

 それが訓練生時代の大鳳のあだ名だった。

 装甲空母という特性から、硬い防御を持つのはもちろんのことだが、その由来は別から来ている。

 どんな攻撃も確実に先読みして正確に指示、回避し、徐々に相手を消耗させて自滅へ導く、というのが彼女の戦い方であった。

 派手な戦い方ではない。むしろどこまでも静かなやりとりだ。だがその背景には、大鳳の驚くほどの怜悧な観察能力と先を読む洞察力がある。大和も何度か演習の相手をしたことがあるが、なかなか効果的なダメージが与えられず、相手の攻撃を受けていると、まるで空気に撃っているような重い徒労感に襲われたものだった。

 そんな心理戦を得意とした"鉄壁の大鳳"が、今はたった1人の男性の登場に戸惑いを隠せないでいる。

 大和はハムサンドを飲み下して、口を開いた。

 

「がんばってください、大鳳さん」

「頑張るったって、まだ何も決められないでいるのよ」

「でも、大鳳さんならきっと大丈夫です。苦しい戦いなら、これまで何度も乗り越えてきたんですから」

「戦いってあんたね…………」

 

 呆れ顔に笑いを交えた、大鳳はどこか嬉しそうだ。

 大和は構わず、握った拳でとんと拳で膝を叩いてから、

 

「それから荒木さんのことだけじゃなくて、ちゃんと勉強の方も頑張ってください。せっかく本艦隊になれるチャンスがあるんですから」

「わかってるわ。なんせ、あなたのワタルさんからノートまで借りているんだもの」

「ノートですか?」

 

 大鳳はカツサンドをくわえたまま、

 

「最近あんまり私が顔を見せないもんだから、広瀬くんが虎の巻のノートを貸してくれたの。最低限、これだけはとにかく頭に入れておけって」

 

 初めて耳にする話に、ちょっと驚いた大和は、いくらか微妙な顔になる。

 

「どしたの?」

「なんだかちょっと妬けます。ワタルさんが知らない間に、大鳳さんにノート貸してるんなんて」

「あんたって…………」

 

 目を丸くした大鳳は、すぐに左手を伸ばして大和の髪をくしゃくしゃにした。

 

「ほんっと、可愛いやつね」

「それってなんか、子供扱いしてませんか?」

「してるわよ。こんな可愛い女を彼女をしてる広瀬くんがうらやましくなるわ」

 

 明るい声で告げて、大鳳は立ち上がった。

 

「さて、マサさんの無事も確認したし、たまには勉強するかな」

「たまにじゃダメですよ」

「はいはい、あんたこそ毎日忙しいんだから、なるべく早く寝なさいよ。徹夜は女の天敵なんだからね」

 

 張りのある声でそんなことを告げると、さらりと背を向けて歩き出した。

 暖かな木漏れ日の下、遠ざかっていく背中に向かって、大和はかつて一緒にいた時と同じようにら丁寧に頭を下げた。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府にある売店の周囲は、昼下がりということもあって、人通りがにぎやかだ。

 人々の往来の中を静かに歩いてくる友の姿を見とめて、航は椅子から立ち上がった。

 

「マサさんは?」

「無事だ。今は寝ている」

 

 武尊はポケットから2本の缶コーヒーを取り出し、1本を航に渡してその隣に腰を下ろした。航がマサさんの救急搬送を知ったのは、つい昼間のことだ。武尊からの連絡を受け、驚いていたが持ち場を離れることができず、鎮守府で待っていた。

 

「頭部打撲については問題ないそうだ」

 

 武尊、カチリとコーヒーを開栓した。

 

「が、肝機能に問題ありだそうだ」

「だいぶ悪いんですか?」

「肝硬変までではないにしろ、異常があるらしい。話によれば立派な"アル中"だそうだ」

 

 投げやりな武尊の声に、航もため息をついて、窓外に目を向けた。

 入り口の窓の向こうには、晴れ渡った空が見える。2人の間の沈鬱な空気など我関せずの、心地よい日和だ。

 

「マサさん、そんなに参っていたんですか…………」

 

 手元の缶コーヒーに視線を落としたまま航がつぶやいた。

 武尊は、ゆったりと缶を傾けて飲み、しばし沈黙したままだ。眼前を足早に艦娘が通り過ぎていく。

 

「戦果がダメだったんだ」

 

 ふいの言葉に、航は友人を顧みた。

 

「最低限の戦果を出せなかったらしい。降格が確定した」

 

 航はゆっくりと往来に視線を戻して、そのまま目を閉じた。

 

「俺も知らなかった。ついさっき、マサさん本人から聞いたばかりだ。いつもの控え目な笑顔で、黙っていてすいませんでした、などと言っていた。謝るくらいなら、もう少し早く言ってもらいたいものだな」

 

 各鎮守府には達成すべきノルマが課されている。

 最前線のところはやや高めに設定しているところもあるが、この鎮守府がその点格別厳しいわけでもない。だが規定の戦績を出さないかぎり、そのまま指揮官を続行、などということはあり得ない。その厳しさが、年々深海棲艦の勢力を削るのにつながっているのだが、ともに歩んできた者が脱落していくという事実は、どうしても心の奥底に冷え冷えとしたものを感じさせる。

 

「せっかくここまでみんなで一緒に来たのに、マサさんとはお別れか…………」

「お別れというなら、来年になれば我々だってお別れだ」

 

 武尊のさらりとした応答に、航は軽く眉を動かした。

 

「やっぱり行くつもりなんですか?」

「とりあえずそのつもりだ。確定、というわけではないが」

 

 武尊は最前線の戦場に赴くことになっている。彼らは艦娘とは違い、特別な力こそは持たぬが、使い勝手の良さから重宝されている。しかし、一撃でも喰らえば簡単にこの世から去ることになるのに、敢えてこういう道を歩もうとする姿は、いかにも友らしいと航は思う。

 

「百戦錬磨の指揮官がいる場所です。隊長に怪我をさせるようなヘマはしませんよ」

 

 そんな言葉に、武尊はにこりもせず、

 

「いずれにせよ、このままいけば俺は最前線へ、熊野は別の鎮守府、そして君は横須賀で、見事にバラバラだ。格別マサさんとの別れだけを惜しんでやる義理もない」

「それもそうですね」

 

 航は苦笑する。

 

「今年の脱落だって、マサさんだけとは限らない。存外大鳳などは、際どいところにいる」

「そうでした」

 

 ため息をつきながら、どっちにしても、と航は声音を落として続けた。

 

「寂しいものですね」

「…………そうだな」

 

 沈黙が訪れた。

 ふいに往来の騒がしさが、より増したように思われた。

 

「隊長の言う通り、自分の道を自分の足で進んでいくしかないんですね」

 

 航の一言に、しかし返答はない。

 おや、航が傍らを見ると、武尊がいつになく驚いたような顔で、遠くを見つめている。

 視線の先は、売店の脇にある小さな薄暗い廊下だ。その少し奥に、親しげに言葉を交わし合っている男女が見えた。

 背の高い士官と、軽巡の艦娘だ。士官の方は整った顔立ちにさわやかな笑みを浮かべた好青年で、それを艦娘の方は無警戒な笑顔で見上げている。

 ただの仲間同士というにはいささか近すぎる距離感だ。さりげない動作のところどころで、2人の手が触れ合うのが目に痛い。

 

「覗き見は良くないですよ」

 

 苦笑まじりに航は、手元の缶コーヒーに視線を戻しながら続ける。

 

「あまり褒められたことじゃないですけど、咎め立てすることもないです」

「荒木だ」

 

 武尊の応答に、航は一瞬間を置いてから、友を顧みた。

 

「大鳳さんの部屋に来た荒木さん以外に、別の荒木さんがいるんですか?」

「俺が知っている荒木は1人しかいない」

 

 冷然たる武尊の応答に、航はにわかに言葉が出ない。

 航は、やがて軽く額に手を当てて、

 

「大鳳さんは、あの人のことで、悩んでいると聞いてましたけど…………」

「そのはずだが、世の中には知らない哲学のもとに生きている人もいるからな」

「知らない哲学、ですね…………」

 

 小さくつぶやいた航は、そのまま黙って廊下に目を向けて、眉を寄せた。

 そんな航の胸中を汲み取ったように武尊が口を開いた。

 

「なんにしても、ほんの覗き見の一場面だけを見て、人を判断するものではないぞ、ワタル」

「ではそうならないためにも、はっきりと確かめた方がいいんじゃないですか?」

 

 立ち上がりかけた航を、武尊が珍しく慌てて止める。

 

「君の正義感も、こういうときは考えものだ。相手が悪い。さっきも言ったが荒木は俺にとっても顔見知りだ」

「隊長にとってはそうでも僕はにとっては関係ないです。なにより大鳳さんは大和にとって一番大切な先輩です」

「わかった。わかったからとりあえず…………」

「なんだ、八幡じゃないか!」

 

 唐突な明るい声は、通路から出てきた荒木本人の声だった。激論の渦中の本人が、さわやかな笑顔とともに歩み寄ってくる。

 軽く舌打ちした武尊は、「とにかく黙ってろ」と囁いてから、のそりと立ち上がって一礼した。

 

「マサさんが救急搬送されたってな。聞いたぞ」

 

 武尊の当たり障りのない挨拶に、荒木は心配そうな顔でそんなことを告げた。

 少し深みのある低い声、明るい瞳、余裕のある物腰。たしかに魅力的な男性だと、航は当惑を禁じ得ない。

 そんな荒木に、武尊は淡々と答え、当たり前のように航を紹介する。

 

「マサさんは、ちょっと不器用だけどいい人なんだ。よろしく頼むよ、広瀬くん」

 

 そんな言葉を、嫌味のない自然体で口にする。先ほどの光景とのギャップが激しい。

 武尊は相変わらず完璧な社交辞令で対応しているから、このまま素知らぬ顔で撤退するつもりであろう。

 しかし、それを見守る航の心情は、穏やかでない。

 こういう問題は、武尊の言う、見て見ぬふりが穏当なのだという理屈はわかる。しかし、と沈思する航の脳裏に、大和の明るい笑顔が浮かんだ。

 大和ならどうするだろうか。

 そう考えたとき、航はほとんど無意識のうちに口を開いていた。

「荒木さん」と遠慮がちに告げた航に、そっと微笑を浮かべて、先刻の廊下を目で示した。

 

「あそこ、結構見えますから、気を付けてください」

 

「お」と軽く目を見開いた荒木は、すぐに苦笑を浮かべた。

 

「やべ、見られちゃったか。気をつけるわ」

 

 へへっと笑う姿には悪びれる様子は微塵もない。

 

「可愛らしい人でしたね。彼女さんですか?」

「彼女?そんなもん作らないよ。せっかく楽しい士官生活が身動きとれなくなるじゃん」

 

 傍らの武尊がかすかに頰を引きつらせたことに、荒木は気付かない。

 

「女の子との付き合いは、"広く、浅く、楽しく"が俺のモットーだからさ」

 

 少年のような無邪気な笑顔でそう告げると、荒木は「じゃあまたな」と手上げて去って行った。広い背中は悠々と廊下を渡り、はるか向こうの角に軍服を翻しながら消えて行った。

 

「黒風隊の良心とも呼ばれたワタルにしては…………」

 

 武尊はいくらかくたびれた調子で口を開いた。

 

「ずいぶんと作為的な話術だったな」

「覗き見のひと場面だけを見て、人を判断するわけにはいけませんから」

 

 思いのほか冷ややかな航の声に、武尊はため息をつく。

 

「言ったはずだ。世の中には、我々とは違う哲学で生きている人間もいる」

 

 航は答えない。

 

「何を考えてる?」

「何も考えてませんよ」

 

 航は、廊下の彼方を見つめたまま、抑揚のない声で答えた。

 

「頭に来ているだけですよ」

 

 いつのまにか時刻は午後となり、いくらか人通りの減ったロビーの片隅で、2人の男はしばし言葉もなく立ちつくしていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 航が怒っている。

 武尊と熊野にとって、これはなかなか珍しいことである。と同時にいささか怖いことでもある。

 

「よりによってこんなタイミングで、聞きたくない話ですわ」

 

 熊野の部屋に響く明るい声も、心なしか遠慮がちだ。

 その日、武尊と航が、あからさまに憂鬱な空気を背負って部屋に姿を見せたのは夕刻のことだ。2人して大量の缶ビールをぶら下げて戻ってくると、そのまま問答無用で熊野の部屋に乱入して、酒盛りが始まったのである。

 夏風邪から回復してからはむしろ体力を持て余し気味だった熊野は、願ったりと大喜びしたのもつかの間、航の機嫌の悪さにいささか閉口している。

 

「荒木さんて、確かにそういう噂はありましたわ」

 

 熊野のつぶやきに、酒を飲んでいくらか顔が白くなった航が眉を寄せた。

 

「そういう噂?」

「同僚が荒木さんの女関係を、酒の肴にしているのを聞いたことがありますの」

「有名な話なのか?」

 

「そうでもない」と口を挟んだのは、武尊だ。

 

「あちこちに噂の断片はあるが、真実は闇の中。尻尾をつかませないという意味では、よほど立ち回りがうまいんだろうな」

 

 航の機嫌をなだめたい心持ちがあるだけに、今夜の武尊はいくらか多弁だ。

 

「いろいろ問題ある人ではありますけど、頭は切れるし、面倒見もいい。わたくしもお世話になりましたわ」

「おまけに背は高くって男前、笑顔も話術も隙がないとくれば、みんなが集まるのも当然ですわ」

 

 ぐびぐびと熊野はその日4本目の350ml缶を傾けている。

 

「大鳳さんは何も知らないんですか?」

「何も知らんということはないだろう。半年前に別れたのも、荒木が浮気したからという話だ。だがあそこまで度を越した人だとは知らんかもな」

 

 深々とため息をついてから、武尊は航に目を向けた。

 

「大鳳の部屋に、御注進と駆け込むか?」

 

 無造作に放り込まれた爆弾に、熊野がひやりとしたように肩をすくめた。

 ここの寮は、最上階の5階が空母部屋である。原則的に艦娘の部屋に男性が出入りすることは禁止だが、関門があるわけでもないし、艦娘の方には行動制限もないから、呼べば熊野の部屋にだっていつでも顔を出せる。

 壁に身を預けたまま静かな目を向ける武尊と、缶ビールを口につけたまま上目づかいにそれを迎え撃つ航の間に、声にならないなにものかが往来する。

 

「そうしたいんですが…………」

 

 先に口を開いたのは航の方だ。

 

「君たちが無関心を装うのを、ひとりで大騒ぎするわけにもいかないです」

 

 そのまま一気にビールを空けて、

 

「見守ることにします」

 

 あっさりと告げた航は、もう面倒くさくなったと言わんばかりに、次の1缶を手にとって背後の座布団に身を投げ出した。のみならず、もうこの話は終わったとばかりに取り出したスマホを手元でもてあそび始めた。

 武尊としてはむしろ拍子抜けだ。

 

「おもいのほか、割り切りがいいな」

 

 缶ビールを掴んだままの武尊は、まだ警戒を解かない。

 

「君のことだから、俺や熊野が止めたところで、大鳳の部屋まで乗り込んでいくかと思っていた」

「荒木さんに義理があるといったのは、隊長の方でしょう。いくら僕が知り合いじゃないとはいっても、僕が大暴れしたせいでその、"とってつけたような義理"に迷惑が及ぶのは本意じゃないです」

 

 普段は穏当な人間だけに、その言葉はひときわ毒で、熊野は軽く引きつっている。

 

「大鳳さんだって、強い人です。隊長の言う通り、あまり男女の問題に外から口を挟むものじゃない。言いたいことは山ほどありますけど、隊長たちが、"見当違いの良識"を発揮して沈黙すると決めたものを、1人勝手に騒ぎ立てるわけにもいきません」

 

 スマホから顔も上げずに、また缶ビールを傾けて、

 

「まあ、大鳳さんの身になってみれば随分と辛い話でしょうけど、そういうことに隊長たちが納得するのなら、関係のない僕は何も言いません」

「ちょっと待て、ワタル」

 

 思わず知らず応答したのは、武尊だ。

 

「納得したとは言ってない」

「納得してもないのに、それだけ冷静でいられのはたいしたものです。さすが、軍神ですよ」

 

 航は酒を飲むと色が白くなるタイプである。その血の気が引いた青い顔で、淡々と毒を吐く様は、ときに武尊の毒舌よりも毒だ。

 

「俺は荒木には世話になったこともあるから、告げ口するような不義理はしたくないと思っているだけだ。あの品のない所業に納得していると思わられるのは不本意だ」

「品のない所業を見て見ぬ振りするのも、随分と品がないじゃないですか」

「品がないからと言って不義理が通るわけもない。俺だって、荒木が縁もゆかりもないなら、とうに大鳳のところに行って、屑っぷりを演説してやってもいいくらいだ。屑と復縁するなど、自らゴミ収集車に乗り込んで焼却場に行くようなものだとな」

「落ち着いてくださいな、武尊」

 

 熊野が小さな手を伸ばして制した時には、いつのまにかスマホをしまった航が、白い頰に苦笑を浮かべて見返していた。

 

「少し、安心しました」

 

 航の穏やかな声に、武尊は小さく舌打ちをした。

 

「勝手な男だ」

「隊長があまりにもおとなしいのが悪いんですよ。本音が聞けて安心しました」

 

 航のそんな言葉に対して、武尊も格別、驚いた様子もない。

 

「せっかく建前の門扉を閉じて、本音を奥に閉じ込めているのに、門扉も木戸も取り払って上がり込んでくるなど、野暮なことこの上ない男だ」

 

 にわかに冷静な言葉を交わす2人を見て、熊野は呆れ顔だ。

 

「なんですのよ、驚かさないでくださいな。本気で喧嘩を始めたかと思いましたわ」

「熊野、呑気な顔しているが、君だって俺と同じ品のない傍観者だ。部外者じゃないんだぞ」

「それはわかってますわ。だからとりあえず、大鳳さんが、いつかちゃんとした人に出会えるように祈ることにしますわ」

 

 ぱんぱんと手を当てて、熊野は大げさに天井に向かって祈りを捧げている。

 航は笑って、缶ビールを武尊の前に掲げて見せた。もう一度小さく舌打ちをした武尊はそれでも黙って受け取って自分の缶をカチリと航の缶を当ててから、これを口につけた。

 ちょうどそのタイミングで、トントン、とドアをノックする音が聞こえ、熊野の返事とともに扉が開いた途端、3人が3人とも凍りついた。

 

「なに?どうしたの?」

 

 ひょっこりと顔を見せたのは、噂の渦中の大鳳であった。

 微妙な空気の中を、不思議そうな顔で眺めまわす。

 

「なんだか、ずいぶん楽しそうにやってるじゃない、なんの宴会?」

 

「宴会ってほどのものじゃありませんわ」と部屋の主人の熊野が慌てて答える。

 

「それよりも大鳳さんこそ、わたくしの部屋に来るのは珍しいことではありませんこと?」

「広瀬君に借りてたノートを返そうと思って来ただけよ。ここで飲んでるって聞いたから」

 

 うわっ、散らかりすぎよ、といつもの無遠慮な声が降ってくる。

 熊野は引きつった笑顔で「す、すみませんわ」などと不自然きわまりないリアクションをしているが、大鳳は格別気にも留めない。

 

「広瀬君、ありがと。とりあえず全部コピーしたわ」

 

 自信満々でそんなことを言う大鳳に、航は白い顔ですぐに笑い返した。

 

「コピーしたからって頭に入るわけじゃない。最低限の知識を書いてあるんだから、全部丸暗記が必要だよ、大鳳さん」

「了解、そのつもりよ」

 

 肩をすくめてから、武尊に目を向けた。

 

「明日も同じ時間に集まるのよね?」

「来られるのか?」

 

 思わず問うた武尊に、大鳳は軽く眉を動かす。

 

「なんで?来ちゃダメなの?」

「そんなことはない」

 

 珍しく慌てる武尊に、航はすぐに助け舟を出した。

 

「明日の9時だよりマサさんは来られないけど、とりあえず4人で続けよう」

「了解。じゃ、よろしくね」

 

 言ってパタリと扉が閉じ、一挙に室内の緊張が緩んだ。

 

「今日は仏滅かなにかか?」

 

 ようやく武尊がそんなことを言う。

 

「朝から驚かされっぱなしでいい加減、心臓に悪い」

「同感です。マサさんに、荒木さんに、大鳳さんと。この分じゃまだあるかもしれませんね」

 

「冗談じゃありませんわ」とぼやいた熊野は、しかし幾分か心配そうな目を扉に向けた。

 

「大鳳さん、この後一波乱来ますでしょうか?」

 

 一瞬の気づまりな沈黙を、武尊がそっと押しのけるように告げた。

 

「来るかもしれんし、来ないかもしれん。だが俺らにできることは、こうして酒を飲んで、大鳳の分までの毒を吐いてやるくらいだ」

 

「だから」と航は缶ビールを持ち上げた。

 

「飲み直しましょう」

 

 武尊が黙然と、熊野がいたずらに景気良く、それぞれの缶ビールを掲げて見せた。

「乾杯」と3人の声が室内に響く。

 いつのまに日は落ちて、窓外からかすかに聞こえてくるのはヒグラシの声だ。

 いささか時期遅れの涼しい声が、静かな秋の日の暮れを歌い上げていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 ドライブに行こう。

 大和が航から、そんな唐突な声を聞いたのは、9月末のある週末のことだ。

 ドライブに行こうと言われても、大和はどこへ行くのかはわからない。

 ただ"君を連れて行きたい場所だ"という航の声を聞けば、大和にはそれがどこでも構わない。

 航の案内するままに早朝6時に市街地を出たジムニーは、上高地へつながる道を進んだ。1時間ばかり国道を進んでから脇道に逸れ、さらに山中に分け入り蛇行する林道をゆくこと1時間、小さな看板のたった駐車場には、人里離れた奥地だというのに存外に車が多い。

 車を降りた航は多くを説明せず、朝の陽光の差し込む山道へと大和を導いた。

 

「大丈夫か、大和」

 

 航が振り返って告げたのは、そんな山道に入って10分ばかりが過ぎたところだ。

 秋の山中は涼しいが、晴れ渡る日差しが照らすせいで、少し歩くとうっすら汗がにじむほど暖かい。

 

「誰に言ってるんですか、ワタルさん。私は戦艦ですよ」

「そうだった」

 

 笑って航はまたゆっくりと歩き出す。

 黒風隊を除隊してからはほとんど運動してないように見える航だが、こうして歩いてみると、意外な頑健さが見える。

 

「大鳳さんが、ワタルさんにありがとうって」

 

 大和の声が、森に響いた。

 航は振り返ることなく答える。

 

「怒ってたかい?」

「いいえ。むしろ、みんなの本音が聞けて良かったって言ってました。武尊さんも熊野さんも、ちょっと変わったところがあるけど、面白半分に人の悪口とかは言わない人たちだから」

 

 木々の間から明るい木漏れ日が落ちて来る。

 その光を目で追いながら、大和は数日前の、大鳳からの電話を思い出していた。

 

 "広瀬君にありがとうって伝えて"

 

 返答に窮する大和に、大鳳は丁寧に教えてくれたものであった。

 マサさんが救急車で病院に運ばれた日の夕方、突然、航から携帯電話にメールが来たのだと言う。

 "熊野の部屋にいるから、この前貸したノートを返しにきてくれ"と。

 妙なメールだと思ったものの借りているものは返さねばならないと思って熊野の部屋に出掛けて行った大鳳は、廊下で、部屋の中から聞こえて来る武尊や熊野の話を聞いてしまったのだ。

 話の内容は衝撃的なものであった。にもかかわらず、それは大鳳にとって、まったく予想外の事柄ではなかった。むしろ予感のあった内容であった。

 しばしば耳にする荒木誠の評判。それはいいものと同じくらい悪いものがあった。その後者について、大鳳が耳を傾けなかったのは、世評というものを大鳳があまり信用していなかったということ以上に、やはり心のどこかが冷静ではなかったということであろう。

 

「必ずしもいいことをしたとは思ってないんだ」

 

 頭上から降ってきた航の声に、大和は顔をあげる。

 

「だけど見て見ぬ振りもできなかった」

 

 本当に、優しい人なのだ、と大和は思う。

 そういう優しい心で、この嫌な役回りを演じた航は、きっと大和が思う以上に色々なことを考えたに違いない。

 

「きっと武尊さんも熊野さんも、このこと知っても怒りませんよ」

「ありがとう、大和。だけど熊野はともかく、隊長は気づいているよ」

 

 え?と大和は顔をあげる。

 と同時に、急に明るくなったのは、林を抜けたからだ。

 

「武尊さんが気づいているってホントですか?」

「あの日の夜、帰り際に言われたんだ。"器用なことをする奴だ"って」

 

 大和は軽く瞬きをした。

 

「怒ってましたか?」

「そうでもない」

 

 航は微笑した。

 あの夜、珍しく鎮守府の玄関先まで見送りにに出てきた武尊が、前置きもなく、ぼそりと呟くように告げたのだ。

 

 "まったく君は、器用なことをする奴だ"

 

 その友が、かすかに笑っていたことを航は知っている。

 余計なことを武尊は一言も言わない。だから航も答えない。それで良かったのだと思っている。

 航が歩みを止めたところで、大和もまた歩みを止めた。

 航が遠くを見つめる姿を見て、どこを見ているのだろうかとその先に目を向けた大和は、大きく目を見張った。

 はるか先まで広がる青い海が見えるのだ。

 

「いい景色だろ?」

 

 眺めたまま、航が告げた。

 

「大和が言っていただろ。どこか一緒に行きたいって。遠くへ行けるわけでもないし、海も見飽きているかもしれないけど、こういう景色なら、大和と一緒に見たいって思ったんだ」

 

 2ヶ月前、勢いに任せに口にしただけのわがままを、航はしっかりと覚えていてくれたのだ。そうして色々考えた末にこんな場所に連れてきてくれる。そんな航の優しさが、ちょっと胸が熱くなるくらい、嬉しかった。

 

「横須賀に行こうと思う」

 

 ふいの航の声に、大和は驚かなかった。

 それどころか、航が話すタイミングまでわかっていた。

 

「横須賀鎮守府で研修を受ける。しばらく会えなくなるけど、待っていてほしい」

 

 相変わらず優しい声だと、大和は微笑んだ。

 

「よかったです…………」

「よかった?」

「本当はワタルさんが残るって言ったらどうしようかって思ってたんです。でもやっぱりワタルさんでした」

 

 ちょっと言葉を切り、そして大和ははっきりとした口調で付け加えた。

 

「私も横須賀に配属されるように頑張ります。早く主力になって、ワタルさんの後を追いかけます」

 

 見返せば、珍しいほど驚いた航の顔に出会った。

 こんなに驚かせることができたのはいつ以来だろうかと考えて少し笑ってしまう。

 

「追いかけていったら邪魔ですか?」

「邪魔なものか。でも、大変だぞ?」

「それはワタルさんもでしょう」

 

 大和は空に視線を移す。

 しばし大和を見守っていた航も、やがて天を振り仰いだ。

 

「厳しい道のりになるよ、大和」

「わかってます」

「途中で引き返すのも簡単じゃない」

「それもわかってます」

 

「じゃあ」と航が一度言葉を切ってから続けた。

 

「再来年、向こうで会えたら、結婚しよう」

 

 おお!と何人かの声が重なって聞こえた。

 団体で登ってきた人たちが、山からの景色を見て感嘆の声を上げていたのだ。

 

「聞こえた?大和」

 

 航が少しだけ遠慮がちに問うたのは、反応がなかったからだ。

 見返せば、頰を上気させた大和がじっと空を見上げたまま動かない。

 

「大和?」

 

「うん」とようやくうなずいたその目に、にわかに溢れ出すものがあった。

 視線が曇って、喉が熱くなって、うまく声が出せないまま、それでも大和は航に向かって微笑んで、もう一度、今度は大きくうなずいてみせた。

 航の大きな腕が、そっと大和の肩を抱く。

 

「待ってる、大和」

 

 その声を、大和は宝物のように胸の奥にしまった。

 

「待ってて」

 

 大和の声は、吸い込まれるように空高く昇っていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話9"闖入者"

 早朝の鎮守府の執務室は異様な雰囲気に包まれていた。

 

「お、お茶です…………」

「あら、ありがとう」

「…………」

 

 祥鳳はなんとかこの気まずい空気を脱却しようと、お茶を出したが、効果は示さなかった。

 原因はこの民間軍事会社"鎮守府"の提督である八幡であろう。

 普段から彼は愛想はよくない。滅多に感情を大きくは出さない彼が、今は露骨に不機嫌そうな顔をしている。

 どうしてそんなに不機嫌なのか。

 参謀としてしばらく別の鎮守府に赴き、何日も作戦を練り続け、そして帰ってきたら帰ってきたで、普段と変わらぬ執務を1週間し、ようやく昨日ベッドにつき、熟睡できるかという時に朝早くから起こされたのが原因なのだろうか。現に、彼の頭はボサボサで、服装は寝巻き用のジャージ姿、そしてなによりもひどい顔色である。

 ただ祥鳳はそんなことが不機嫌な理由ではないと知っている。疲れているのはいつものことであるし、いくら疲労が酷くても鎮守府の雰囲気を悪くするような行動はとらない。

 では、何が原因なのか。

 

「久しぶりに会ったのに、そんな態度はないんじゃない?武尊」

「なら、わざわざ定休日の朝早くから訪ねてくるんじゃない、大鳳」

 

 この大鳳と呼ばれる女性に原因があるらしい。

 

 

 ーーーー

 

 

 

 事の発端は朝の6時である。

 八幡は帰ってきてからいつまで経っても休もうとはしないため、艦娘たちが気を使って依頼を断り、提督である八幡を半ば強制的に休ませることにした。

 当の彼も、相当な疲労だったらしく格別反発せずにその休みを受け入れた。そして、夕飯をこれでもかと食べた後、彼はジャージに着替えて、そのままベッドに倒れこむように眠りについたのである。

 目覚まし時計もかけず、任意で起きることができるはず…………であったが、その幻想は6時に打ち破られた。

 鎮守府に客が訪れたのだ。

 

「武尊はいるかしら?」

 

 その姿はとても小柄で一見、少女と見紛うほどだ。

 その客は鎮守府にやってきて早々、そんなことを大きな声で言った。普段は提督が対応するが、今は爆睡中。なら長門だが、彼女は不在であったさらには、秘書艦の叢雲は昨日の夜遅くに出撃しているのでまだ休憩中。広瀬は朝早くはいない。結局対応することになったのはそこにたまたま居合わせた祥鳳であった。

 

「すいません、今提督はお休みですので日を改めて…………」

「あら、ここにいるのね?」

「いるにはいるんですけど、今はお疲れなので…………」

「大丈夫、あいつタフだから」

 

 強引、という言葉がぴったりなほどその客は八幡に面会しようとした。無論、提督を休ませてあげたいと思う祥鳳は止めにかかるが、少々押しが弱い性格が災いして、大鳳に押し切られてしまい、渋々執務室まで案内する羽目となった。

 そして、執務室の奥にある私室の扉まで足を運んだ。

 

「て、提督、お客さんです…………」

「…………んぁ、いま出る」

 

 ほぼ掠れている声を聞いて、祥鳳はとても申し訳ない気分となった。

 

「とりあえず、ロビーで待たせといてくれ…………」

 

 そう言うと同時に彼は扉を開けた。

 そして開けた瞬間、

 

「久しぶり、武尊」

「…………」

 

 すぐさま武尊は扉を閉めようとしたが、客が素早く足を入れ、それを阻んだ。

 

「久しぶり、武尊」

「…………何の用だ、大鳳」

 

 ここまで露骨に嫌そうな顔をする提督を祥鳳は見たことがなかった。それと同時に、そんな顔をさせる大鳳という艦娘はどんな人物なのか、とも思った。

 

「久々の再会よ?もう少しは喜んだら?」

「…………なら、こんな朝早くからくるんじゃない」

 

 やっぱり今日の提督は不機嫌なようだ。言葉の1つ1つに棘がある。

 

「この時間は起きてたでしょ?朝からトレーニングするために」

「それは昔の話だ。今も前線でバリバリ戦っている君と違って、今の俺は身を引いて指揮する立場にいる。そんな暇ありやしない」

「そういえばそうだったわね。でも、想像つかないわ。武尊がデスクワークやってるなんて」

 

 言葉の端々から伝わる2人の親密さ。祥鳳もこの八幡という男と出会って1年は経つが、未だに敬語でしか話さないし、彼の前に立つと緊張してしまう。無論、彼のことを怖がっているわけではないし、彼が見た目や言動の割に優しいことを知っている。しかし、彼の功績を知ってるとどうしても体が固くなってしまうのだ。

 だが、この大鳳と呼ばれる女性はどうだろうか。

 いかにも不機嫌そうな八幡に対して、固くなるどころか軽口を叩いている。祥鳳が知る限り、彼に対して物事をズケズケと言える人物は、幼き日から一緒に育ってきた長門か、一時期は同じ鎮守府にも務め、一緒に戦った熊野、秘書艦の叢雲ぐらいだ。

 

「すまない祥鳳、お茶を淹れてきてくれないか」

「は、はい!」

 

 急に名前を呼ばれた祥鳳は、弾かれたように執務室に備えられた小さな台所へと足を運んだ。

 

「それで、何の用だ?まさかここで働きたいとかいうんじゃないだろうな」

「それも悪くないけど、一応大本営直属の艦隊の主戦力だからね。簡単に辞められないわ」

 

 大本営直属、という言葉を聞いて祥鳳は危うく湯呑みを落とすところであった。大本営直属の艦隊といえば、選りすぐりの艦娘によって構成され、さらには装備や訓練は最新のものであるし、何人もの指揮官が支持するようなものだ。その主戦力ともなれば、並々ならぬ実力者であるということだ。

 

「それにあんたが直々にお願いしてきた赤城の指導役でもあるから」

「ふむ、どうだ?なかなか切れる奴だろ?」

「ええ、ちょっと真面目すぎるのがたまにキズだけど、充分な戦力よ」

 

 赤城。

 一時期はこの鎮守府に派遣として、やってきてとてもお世話になった人だ。祥鳳も同じ空母として彼女からは色々学んできた。

 そんな彼女をまるで教え子のように話せるのは、この2人が実績と実力ともに充分なほど持ち備えているからこそだろう。

 

「そうか。なら、いい」

「あんたにしては珍しく気にかけているのね」

「珍しく、は余計だ。一応、一緒にいたからな」

 

 他愛のない会話が、しかし祥鳳にとってはとても興味深いものであった。

 事務的な会話以外はほとんど彼と交わしたことがないものだから、いったいどんな風に話すのだろうかと、聞き耳を立てながら彼女は急須にお湯を入れる。

 別に彼のことを全く知らないわけではない。仲間からは色んな話は聞いているし、少なくとも悪い人ではないことも十分承知している。しかし、こんなにトゲのある話し方をする人だとは思わなかった。

 

「お茶です」

「あら、ありがとう」

 

 礼を言いながら大鳳は湯呑みを受け取る。

 朝早くから突然訪ねたり、八幡を叩き起こしたりと少々豪放な部分が目立つが決して悪い人ではなさそうだ。

 

「それで、本題に入るけど」

「ああ、そうしてくれ」

「最近、新装備ができたと言う話、知ってる?」

「いや、聞いたことはない。祥鳳、君は聞いたことがあるか?」

「わたしも知りません…………」

「ま、そりゃそうよね。で、実はその装備持ってきているの」

 

 持ってきている、と大鳳は言ったもののそれらしきものは何一つ見当たらない。ほとんど手ぶらの状態のはずだ。

 もしかしたら、大掛かりな装備なのかもしれない。と、考える祥鳳の思惑とは大きく異なるものが彼女の懐から取り出された。

 

「これよ」

 

 そう言い、ことんと小さな箱を机の上に置いた。

 てっきり外に置いてあるから取りに行くのだろうと考えていた祥鳳は、かなり拍子抜けしていた。それは八幡も同じなようで、怪訝そうな顔でその箱を見つめている。

 

「…………すまんが、ここにきて俺を揶揄っているわけではないんだな?」

「失礼ね、これ持ち出す許可取るの大変だったんだから」

 

 大鳳の手が、その小さな箱を開けた。その中にはさらに小さい輪っかが一つ。

 その形を祥鳳は見たことがあった。

 

「指輪、ですか?」

「ええ、そうよ。これが妖精さん自慢の最新の装備」

「…………あ。思い出しました!確か練度の高い艦娘がつけると、さらに力が解放されるって話ですよね」

「そういや隼鷹とかが言ってたな。結婚みたいだなと俺が言ってたのも覚えてる」

 

 花見の時に少しながらその話題が出ていたのだ。千歳が脱ぎ始めようとして、有耶無耶になっていたが。

 

「あなたたちの言う通りよ。正確に言えば、練度は99に達している人。つまり、相当な手練れな艦娘ね。そして、その相手となる人とセットで指輪をつけて書類に名前とかを書くのよ」

「それだけでいいのか?」

「それだけって、その書類なんて言われてるか知ってるの?」

「さあ」

「"ケッコンカッコカリ"、よ」

 

 その言葉を聞いてたちまち八幡は眉をひそめた。

 

「なんじゃそりゃ」

「妖精さん曰く、絆によって能力をさらに解放するんだって」

「絆って、また…………」

「不思議な力なんて今に始まったことじゃないでしょ?私たちだって、謎が多いんだから」

 

 当たり前の話だが、艦娘が一体どのようにして人知を超える力を得ているのかは科学的に証明できない。いわゆる、超能力とか言う、オカルトの領域だ。

 

「それで、そんな大層な装備を持ってここに何しに来たんだ?わざわざそれを見せびらかすために来たんじゃあるまい」

「そうね、もう単刀直入に言うわ。私と"ケッコン"してくれないかしら?」

「え!?」

 

 思わず声をあげたのは祥鳳だ。対して八幡は表情を変えない。

 

「理由は?」

「この指輪、実はそんなに多くないの。今使っているのも3組だけ。もちろん、その3組の様子だと効果はバッチリ」

「なら、わざわざ俺に頼む必要もないだろ」

「でも、3組だけじゃまだその効果は本物なのかはわからないでしょ?研究者の話だと、艦娘の相手の強さにも関係があるんじゃないかって言われてるの」

「それとこれとでなんの関係がある」

「しらばっくれてるんじゃないの。生身で深海棲艦と戦う部隊を率いていた知り合いなんてあんた以外誰がいるのよ」

「はぁ…………それは君が使わないといけないのか?」

「そうね、最初は大和が候補に上がったけど既婚者だし、それに色々あってるから却下。他の娘は"カリ"だなんてついているけどやっぱり抵抗はあるみたい。それで白羽の矢が立ったのが私」

 

 まるで面倒ごとを押し付けられたかのような口調だ。

 

「相手は自分が選んでいいとは言われたけど、そんなに男の知り合いだなんていないのよ」

「それで俺か」

「そ、ダメかしら?」

 

 大鳳の言葉に八幡は答えない。ただ黙って考え込むばかりだ。

 祥鳳には一抹の不安があった。

 もし大鳳の話を受け入れるのであるのなら、"カリ"とはいえケッコンするわけだ。それがこの事情も知らない他の艦娘が知ればどうなるだろうか。

 無愛想、変人などと言われてるが八幡を慕う者は少なくない。金剛のように明確な好意を向ける者はもちろん、叢雲や熊野だって好意があるのは周知の事実だ。榛名だってあるかもしれない。そんな彼女らが黙っているわけもない。

 もし彼女らが動くのであれば大騒ぎでは済まないだろう。

 しかし、八幡はそんなことを知る由もない。

 祥鳳はひとりはらはらしながら自分の提督がどのような答えを出すのかを待っていた。

 

「狙いは本当にその新しい装備の効果を調べることなのか?」

「そうよ」

「本当に、か?」

 

 八幡は目を鋭くして大鳳に問うた。

 その瞳の奥は疑いの様子がこもっている。

 大鳳はしばらくはその目を見つめ返していたが、やがて両手を挙げて、

 

「はあ、あんたに嘘は通用しないわね」

「わかってたのなら初めから本当のことを言え」

「だって本当のこと言ったら絶対あんた受け入れないんだもの」

「俺が受け入れたくなくなるような内容なのか」

「そんなところ。この指輪の性能を調査したいというのは建前。私とケッコンさせて、あんたを大本営に引き込むのが本命よ」

 

 いとも容易く大鳳はことの内容を話してしまった。

 聞いている祥鳳と八幡が困惑するくらいだ。

 

「大本営としては、あんたくらいの人は戦力として欲しいだろうし、佐久間さんとしてもいい後継者なのよ。それにあんたさえ来れば、長門や叢雲とかの実力のある艦娘も引き込まれるわけだし」

「その件は前も話した。そんな気は毛頭ないと」

「まあ、あんたにとって酷な話だとは知ってるわ。でも、いい加減乗り越えたら?」

 

 大鳳の言葉に、八幡は若干表情を曇らせた。

 八幡は過去に親友を含めた部下を全員失くす経験をしている。

 

「君は納得してないだろ?望んでもないケッコンなんぞする必要があるものか」

 

 切れ者と知られる八幡にしては随分と露骨な話の逸らし方だった。

 

「こんな仏頂面で、捻くれ者なものを好いているほど、君も物好きじゃあるまい」

「そんなことはないわよ」

「そうだろ、だから…………は?」

「私も案外物好きかもね」

 

 偽りのないまっすぐな言葉に八幡は絶句していた。

 普段表情の硬いこの男も、こういう直球な言葉には弱い。

 

「ね、問題ないでしょ?あとはあんたが意思を固めるかどうか」

「なっ…………」

 

 この話は"断る"と一言だけ言えばそれで終わるのだが、彼の根底にあるお人好しが彼を返答しづらくさせた。

 無論、少し振られたくらいでめげるような人ではないと八幡もわかっている。が、真正面から拒否するのもなんとなく申し訳ない気分にさせるのだ。

 

「お、俺は、この仕事に誇りを持っているし、何より責任がある。簡単に辞められるものか」

「なら、みんな一緒に大本営に来たらいいじゃない。前とは違って、私たちが身の狭い思いをしなくてもいいし、あんたと反りの合わない連中もいない。なんの問題もないわ」

「それだと意味がない。俺らは民間軍事会社"鎮守府"だからこそ、一般の人にも頼られるし、艦娘が集まる。それが大本営所属になってしまえば本末転倒だ」

「ま、たしかにいい評判ばっかりね。こっちと違って身が軽いから迅速に対応してくれるし、何よりも依頼料が安い」

「ああ」

「でも、その代償はあるんじゃない?」

 

 この時、祥鳳は大鳳が言わんとしていることを一部理解していた。

 この鎮守府は、さっき大鳳の言った事柄から依頼する人が後を絶たない。基本的に出撃はローテを組んで行ってはいるが、空母の人数が少ないため必然と祥鳳たちに負担がかかりがちだ。それでも毎日毎日海に赴く必要がない分マシではあるが。

 もっともしわ寄せが来ているのは提督の方だ。日々装備の確認や艦娘たちの状態、編成などはもちろん、戦いの指揮や依頼人への対応をしなくてはならない。さらに、ここには事務長のような金庫番もいないため、燃料や弾薬の管理も彼が一切合切行なっている。

 秘書艦である叢雲や補佐の広瀬が手伝ってはいるが、酷使されているのは間違いない。

 

「あんたのその顔。疲れ切ったあんたなんて初めて見たわよ。頑張りすぎじゃない?」

「生まれつきの顔だ」

「馬鹿言わないの。本気で心配してるのよ」

「ならいらん心配だ。命を賭けて戦っている艦娘と比べて俺の執務は可愛いもんだ」

「あんたの場合は命を削ってるから問題なのよ」

「…………」

 

 両者の間に何とも言えない沈黙が広がった。

 祥鳳からしてみれば大鳳の言葉を否定も肯定もできなかった。

 

「何故、そこまで俺に構う?」

「さあね。いろいろ助けてもらったから、とだけ言っておくわ」

 

 この時、大鳳の目に何やら熱っぽいものがあった。それがなんなのかはわからないが、少なくとも八幡に伝わったとは言いにくい。

 

「そうか。が、心配もいらん。たしかに今のデスクワーク中心の仕事は大変だ」

 

 八幡は青白い顔に微かに笑みを浮かべて言った。

 

「だが、それ以上にここで過ごす時間が楽しい。戦場しか知らなかった俺からしたら、とても得難いかけがえのない場所なんだ」

 

 祥鳳、大鳳ともにこの八幡という男がこれほどまっすぐな目で、まっすぐな言葉を発した瞬間を初めて見た。

 呆気にとられている2人をよそに八幡は、

 

「だから、ケッコンカッコカリの件は申し訳ないが受けられない」

「…………」

 

 いつまでもぽかんとしている大鳳に怪訝な目を向けながら、

 

「なんだ、そんなに俺の言葉がおかしかったか?」

「違うわよ。あんたもそんな顔するのね」

「どういうことだ。顔は生まれてから一度も変わってないと言っていただろ」

「ま、いいわ。今回のこと断られたって伝えておく」

「ああ、そうしてくれ」

「気が変わったらいつでも言ってちょうだい。元帥も大歓迎するわよ。もちろん私もね」

 

 そう言い彼女は微笑を浮かべた。

 

「また昔みたいに広瀬君や熊野と馬鹿騒ぎできる日が来たらいいわね」

「…………そうか」

 

 そう言い大鳳は立ち上がり、執務室から出ようとした。

 

「帰るのか?」

「んー、そう思ったけど、少しここを見学していくわ。熊野や広瀬君にも会いたいしね」

「ふむ、なら案内役を。祥鳳頼めるか?」

「は、はい」

「あと、俺はしばらく寝ているから困ったら叢雲に言ってくれ」

「分かりました」

 

 祥鳳が応じるのを聞くと、八幡はふらふらと私室に入っていった。少し八幡の健康状態が気になるが、祥鳳はとりあえず大鳳の案内をすることにした。

 

「大変そうね、あいつも」

「やっぱりそう見えますか?」

 

 自分たちの提督はいつも顔色が悪い、このことは祥鳳たちの知るところだ。ただいつもそんな顔色のために、それが普通なのではないかと少しながら思っていたのも事実だ。

 

「あれでも、疲れ知らずな人って言われてたんだけど…………さすがにデスクワークは話が違うのかしらね」

 

 廊下を歩きながら、大鳳は呟くように言った。

 

「私たちも力になりたいと思ってはいるんですが、なかなか提督の負担を軽減させられなくって…………」

 

 一部の艦娘は自分の艤装の管理くらいは自分で行なっているし、演習は全て自分たちで行うようにはしている。

 

「ま、あいつのことだから、全部やっちゃうのよね?」

「そ、そうですね」

 

 やっぱり変わらないわね、と苦笑しつつ、大鳳は祥鳳の方を向いた。

 

「1つ頼めるかしら?」

「私にできるのなら…………」

「なら大丈夫ね。これからも武尊を支えてあげて。時には強引に手伝ってあげなさい」

「強引に?」

「ええそうよ。あいつは絶対に自分から助けてだなんて言わないのよ。だからみんなが知らないうちに追い詰められたりするの」

 

 そのとき祥鳳はどきりとした。普段は何もないかのように執務をしている提督の姿は急にいつ壊れるか分からない危ういものではないかと。

 

「あいつは何も言わなかった。私にも広瀬くんにも熊野にも。表面だと泰然自若としてるけど中身はいつのまにかボロボロで」

 

 大鳳は昔を思い出すかのように、しかしどこか悔やむ様子があった。

 

「大鳳さん?」

「あ、ごめん。とにかく、頼むわよ。何も言わないとぶっ倒れるまで働くから」

 

 そう告げると、熊野と広瀬の姿を見つけてそちらの方に駆け寄って行った。広瀬と熊野は思わぬ友の再会に驚いた顔をしたが、すぐに会話に花を咲かせ始めた。そうなれば祥鳳が入り込む余地もない。

 

「提督のことは任せてください」

 

 祥鳳は小さく、大鳳に向けてまた自分に言い聞かせるように告げた。

 その姿は普段のおどおどした姿とは違い、凛とした1人の艦娘であった。









もう一つ閑話を投稿してから、次の話に移りたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話10"忘年会"

 忘年会をやろう。

 そう言ったのは、この鎮守府の中で一番酒癖の悪い隼鷹であった。そんな彼女の提案に眉をひそめたのは言うまでもない。

 

「そんな嫌な顔しないでくれよ〜」

「日々の行いが物を言うんだぞ、隼鷹」

「まあまあ、そんな堅いこと言わないで。今年1年は色々あって大変だったから、その慰労の意味も込めて、ね?」

 

 たしかに彼女の言うことも一理ある。

 今年は航との再会から始まった。その再会も良い風をもたらすことには至らず一悶着もあった。その上、橘さんとの別れもあった。叢雲の昔の教師がやって来たり、横須賀からの派遣で赤城が来たかと思えば、今度は俺が派遣に出たり。その派遣先でも色々あった。

 こうして振り返ってみると、今年1年はなかなかに濃ゆいものであった。それにこの会社が設立してから一番忙しい年でもある。評判がうなぎ登りであることを証明するのだが、しかしこの少ない人手だとやはり大変だ。だから隼鷹の言っていることも理解できる。

 

「まあ皆に疲れを癒してもらいたい、と言う気持ちは常からある」

「そうだろそうだろ?」

「だが」

「だが?」

「その忘年会の主催者が君であることが不安なんだよ」

 

 そう、隼鷹の提案の最大の問題点は主催者が隼鷹であるという点なのだ。

 別に俺は隼鷹のことを嫌っているわけではない。この鎮守府では比較的年配、つまり俺と歳も大して変わらぬ彼女は、後輩の面倒見がよい。頼れる先輩という評判も耳にするくらいだ。現場でも彼女の経験が活きる場面も少なくない。

 しかしその良い所も打ち消してしまうほどに酒癖が悪い。ほぼ毎日、アルコールが入っているし、ひどい時は朝から匂わせているくらいだ。まだ実害はないが、いつか酒が入ったまま戦場に飛び出すんじゃないかとこちらがヒヤヒヤしている状態だ。

 

「大丈夫だって、鳳翔さんにも話をつけといたからさ。あとは提督が許可してくれるだけなんだぜ?」

「そういう所は手際がいいんだな」

 

 少し睨みながら言ったものの、隼鷹は意に介した様子もなく、

 

「だろ?いい酒もたくさん仕入れたし、みんなでパーっとやろうぜ?」

「…………はあ、わかった。こっちも執務室にこもりっぱなしで皆と話をする機会すらなかったからな。いい機会だろう」

「よし!そうなれば、あとはいつやるかを決めるだけだ。そこは提督が調整してくれるよな?」

「ああ。決まり次第、君に伝える」

 

 ヒャッハー、とどこぞの世紀末の人のような声を上げながら彼女は執務室から出て行った。

 さっきは簡単に隼鷹の頼みを聞いたが、言うほど簡単じゃない。既存の計画を崩しながら、忘年会をねじ込まなければならない。2日酔いも予想されるので、最低でも2日は休みを作らないといけない。

 と、あれこれ思案しているうちにその日の執務を終えたのであった。

 

 

 ーーーー

 

 

「みんな!酒は持ったか?」

「ああ、全員に飲み物は渡ったぞ」

 

 すでに酒の匂いを漂わせている隼鷹は、食堂のど真ん中に立ち上がって周りを確認した。

 

「あいつもう酒飲んだのか?」

「いつものことでしょ、今更気にする必要もないわ」

 

 俺の横で叢雲が呆れながらそう告げた。

 主催者は自分だからと、隼鷹がすすんで音頭を務めたがこの有様だ。

 

「よっしゃあ!行くぜ、みんな!かんぱあああい!」

「「「乾杯っ!」」」

 

 隼鷹が高らかな声とともに多くのコップが上がった。

 全員参加、ということで広い食堂を使うことになったが、こんな時も料理を振舞ってくれる間宮さんと鳳翔さんにはただただ頭を下げるしかない。

 

「それにしても、忘年会の会場が鎮守府内とはな」

「仕方がないことだ。赤城の歓迎会の時とは違って、佐久間さんの懐から金が出ているわけじゃない」

「だが、ここで皆と騒ぐのも悪くないだろ?」

「ああ、そうだな」

 

 こくこくと酒を飲みながら騒がしい景色を眺める長門に俺は軽く苦笑した。長門の言う通りに、鎮守府内の食堂で忘年会は開催されている。金銭的な事情もあるが、この時期はどこも考えていることは同じらしく、どの店も予約が埋まっていたのだ。

 とは言え、鳳翔さんと間宮さんというプロレベルの料理人がいる。それに今回の酒は隼鷹が選びに選んだものばかりらしい。そうなれば、下手な店なんかよりもずっと豪華な宴になる。

 

「ん、やっぱり美味しいわね。あんたも食べなさいよ」

「ああ、そうするよ」

 

 叢雲に取り分けてもらった料理を受け取るが、俺の顔を見ると、

 

「なんだか乗り気じゃないわね。宴会好きじゃないの?」

「そんなことはない。だが、溜まっていく仕事を考えると、素直に楽しめなくてな」

「仕事のしすぎで、楽しむことを忘れたってわけね」

「そうだな…………」

 

 叢雲の言葉に本気で考え込む俺の口に何かが無理やり詰め込まれた。驚きながらも、それを噛むとサクッとした食感のあとに肉汁が広がった。

 

「叢雲、こういう仕事人間には無理やり楽しませるのが一番の薬だ。どうだ提督、間宮さんの作った唐揚げは美味いだろ?」

「ん…………ああ、美味い。さすが間宮さんだ」

 

 どうやら長門が無理やり俺に唐揚げを食べさせたらしい。

 提督、とまた誰かに呼びかけられ、振り返ると千歳が一升瓶を手に待機していた。

 

「長門さんの言う通りです。今は自分が楽しんでください」

「それもそうか。そうするよ」

「では、一献」

 

 と、千歳はコップになみなみと酒を注いだ。さすが隼鷹の選んだ酒なのか、辛口であるもののとても飲みやすいものだった。

 

「おっ、いい飲みっぷりだな」

「楽しめ、と言ったのは君らだろう」

「そうですよ。はい、もう一杯どうぞ」

 

 空になったコップに再び千歳が酒を注ぐ。千歳自身はまだ飲んではいないようだ。

 

「…………君は飲まないんだな」

「提督が酔う姿を見たいので」

 

 笑顔でそう告げる千歳に、俺は酒をまた一息に飲んでから、

 

「そう簡単に酔わないからな、俺は」

 

 俺の軽口に、千歳は気分を害した様子もない。ふと隣をちらりと見ると、すでに顔を真っ赤にしている長門がいた。

 

「長門さんは違いそうですけど」

「放っておけ。昔っから、図体の割にアルコールには弱いんだ」

 

 1杯飲めばたちまち顔を真っ赤にし、2杯飲めばもう完成するのが長門だ。今までサシで飲んで、まともに会話ができたこともない。

 

「どうだ、千歳も」

「あら、いいんですか?普段は口うるさく酒を控えるように言うのに」

「今日は特別だ。ほら」

「ありがとうございます」

 

 千歳から一升瓶を受け取り、彼女は代わりにコップを手にした。返杯すると、千歳はコップと俺を交互に見てから、コップに口をつけた。

 

「ん…………ん…………、ぷはっ」

「やっぱり隼鷹と飲んでるせいか、いい飲みっぷりだな」

「…………」

 

 返答がなく、妙だと思って千歳の肩を叩いた。

 その頰はすでにほんのり赤く染めていた。少し嫌な予感がする。

 

「おい、飲んでるか?」

「ああ、しっかり飲んでるぞ。隼鷹」

「あれ、もう千歳に飲ませちゃった?」

「そうだが…………」

 

 その瞬間、俺の手に持っていた一升瓶が何者かにかっさらわれた。驚いてその奪い取った主を見ると、それは一升瓶に直接口をつけた千歳が映った。

 

「ち、千歳?」

「いやぁ…………。千歳はさ、実は酒あまり強くないんだよね。だから一緒に飲むときは後半からなんだよ」

「暑ーい!」

「あと飲むと脱ぐよ」

「…………」

「あれ?どっか行くの?」

「皆の様子を見てくる」

「なら、ついでにみんなから酌をしてもらいなよ。いい機会だしさ」

「ふむ、いい考えだな。そうさせてもらおう」

 

 隼鷹は酒飲んでばっかりだが、気がきくやつでもある。脱ぎ始めている千歳を俺が対処できるわけもないので隼鷹に任せて、俺はその場を離れた。

 ため息を漏らしながら、周りを眺めると、ここ最近は仕事が多かったせいか、ずいぶんな盛り上がりだ。

 

「あ、司令官!何をなさってるんですか?」

「おう、朝潮か。少し様子を見に回っているだけだ」

 

 朝潮が座る席の周りを見ると、暁を筆頭とした第六駆逐隊がともに座っていった。朝潮はその中にしっかりと馴染めている様子だった。

 俺が黙ってその様子を眺めていたせいか、朝潮は不思議そうな顔をして、

 

「どうしましたか、司令官?」

「いや、みんな仲が良さそうで安心してるところだ」

「はい!みんな友達です」

 

 すると、横から電がジュースの入った瓶を持って、

 

「お酌をするのです」

「お、ありがとう」

「あ、ずるーい。私もするわ!」

「私からもこのロシアのお酒を」

「ちょっと待て、響今なんて?」

「冗談だよ。ただのジュースだ」

 

 人のことを言えた立場ではないが、この響という子は冗談を真顔で言うから困る。

 とにもかくにも、俺は第六駆逐隊と朝潮から一杯ずつジュースで酌をしてもらい、俺がお返しにと一人一人に酌を返そうとするが、暁の時に、

 

「ちょっと待って、司令官」

「ん?どうした、暁。オレンジジュースは嫌か?」

「違うわ。レディにふさわしい飲み物をちょうだい」

「レディにふさわしい飲み物?」

「そうよ」

 

 暁の言う"レディにふさわしい飲み物"と言うものは、当方皆目検討もつかない。とりあえず、ぶどうジュースに手を伸ばし、暁のコップに注ごうとするが、

 

「違うわ!もっとふさわしい飲み物があるじゃない」

「あー、暁の言うその飲み物ってどんなのだ?」

「えーっと…………、熊野さんと同じ飲み物よ!」

 

 この時、心の中で頭を抱えたのは言うまでもない。どうやら、このレディが理想とする人物は、この鎮守府でもひときわ変人と名高い熊野であるらしい。

 そして、現在その彼女は瓶を片手に、「とぉぉ↑おう↓!!」と声を上げている。一体どんな掛け声なんだ、まったく。

 

「そうだな…………このぶどうジュースも十分レディにふさわしいと思うぞ」

「でも、熊野さんはお酒を嗜んでいるわ」

「暁、熊野を目標にしていると、本物のレディになれないぞ?」

「え…………?」

 

 どうやら、俺の言葉が相当衝撃的だったらしく、暁はそのまま絶句してしまった。

 

「い、いや、そう言うわけじゃなくてだな、暁は別の人を目標にした方がいいってことだ。熊野は少しハードルが高すぎるかな、って」

「むぅー…………。じゃあ、司令官はどんなレディがいいのよ」

「どんなレディって…………。頼り甲斐があるとか?」

「じゃあ、長門さんなのです」

 

 と、横から電が答えた。たしかに頼り甲斐はあるが、レディかと言われれば…………

 

「そうよね。いつも落ち着いていて、全然動じないし…………、立派なレディよ!長門さんは!おっぱいも大きいし!」

「んー、胸は関係ないと思うぞ?」

「長門さんはよく飴をくれるのです」

「へー、そうなのか。初めて聞いた。あいつがそんなことをするとは…………」

 

 待て待て。俺の脳内ビジョンだと、ただの不審者にしか映らないぞ。飴玉を手に駆逐艦の前で息を荒げているビッグ7が。

 

「そうなったら、長門さんみたいに…………」

 

 と、暁が決意を固めた矢先、俺が先ほどいた場所から大声が聞こえてきた。何事かとその方向に首を動かせば、顔を真っ赤にしたビッグ7が、何を話しているのかもわからん声を上げながら隼鷹と肩を組んでいる。

 

「…………」

「べ、別の目標を探そうか?」

「う、うん」

 

 願わくば、長門の評価がマイナスまでいかないでほしいものだ。

 

「なら、天龍さんはどうかしら?」

 

 と、今度は雷が。普段の立ち振る舞いからは、レディとは程遠いような気もする。言葉遣いもいいとは言えないし、下着姿で歩き回るなどどちらかと言うと男勝りなタイプだ。

 

「そうよね。最初は怖い人かなって思ったけど、実はとても優しい人だし…………、きっとレディよ!おっぱいも大きいし!」

「だから、胸は関係ないと思うぞ?」

「怪我した時はおんぶもしてもらったわ!」

「意外な話だな」

 

 てっきりこの鎮守府きっての武闘派と思っていたが、違うらしい。こればかりは、隼鷹の言う通り"いい機会"だ。それにしても、暁の言う"レディ"像がどうも胸に集中している気がしてならない。

 

「提督」

 

 後ろから声をかけられて、振り返った俺はギョッとした。一升瓶を片手に俺を見下ろすように立っている天龍がいたからだ。

 

「ど、どうした?」

「提督…………」

 

 普段には見られぬ威圧感に不覚にも怖気付いてしまったが、なんとか見た目だけは冷静を装った。そんな俺に襲いかかった出来事はあまりにも予想外であった。

 

「…………グスッ」

「え、どうした、天龍?」

「提督ぅ…………」

 

 突然泣き出してしまったのだ。

 

「提督ぅ。オレ、オレェ…………」

「ど、どうしたんだ。急に泣き出したりなんかして」

「オレ、お前の役に立ってるか?」

「当たり前だ。君の働きにはとても感謝してる」

「お前はいつも死にそうなくらい働いてんだぜ?でも、オレそんなに頭良くねぇし、できると言ったら深海棲艦をぶっ倒すことだけで、お前の役に立ててねぇじゃねぇかよぉ」

 

 と言った後、ついに大声で泣き始めてしまった。当方困惑している最中、天龍の後ろから、

 

「やっほー、調子はどう?提督」

「…………俺の調子よりも天龍の方を心配してくれ」

「いやぁ、天龍って泣き上戸なんだね」

「原因は君か、川内」

 

 ほんとびっくりだよ、と呑気に笑うがこっちは笑ってもいられない。

 川内が言うには、どっちが夜戦で強いかを話し合っているうちに、どれだけ酒が飲めるかで決着をつけようとしたらしい。そうしたら、6杯目くらいで様子が変わって、急に席を立ったということだ。

 

「ま、勝負は私が勝ったんだし、いいか」

「良いわけがなかろう。どうしてくれんだ」

「うぅ…………。オレはどうやったらお前の力になれるんだよぉ」

 

 なぁ、と俺の服を掴みながら聞いてくる。どうしたら良いのかも分からず、とりあえず天龍の頭に手を置き、

 

「君は十分役に立ってくれている。戦果はもちろんだが、子供たちの世話までしてくれてるそうじゃないか。俺が死にそうなのは、手際が悪いだけであって、君がいなければここもまわらなくなってしまう」

「ほんと?」

「ここで嘘をついてどうする」

「う、うぅ…………よかったよぉ」

 

 と再び泣いてしまった。いやもうどうしたらいいんだ。

 

「はいはい、あとは私に任せて」

「当たり前だ。タネをまいたのは君なんだからな」

 

 川内は泣きじゃくる天龍の手を引きながら、

 

「ま、これが天龍の本音かもね。やっぱりみんな心配してるんだよ」

「…………そうか」

「根を詰め過ぎるのも良くないからね。だから、その分今日はハッチャケてよ」

 

 じゃ、また飲んでくる、と空いている手をひらひら振りながら、天龍とともにもとの場所へと去っていった。

 

「…………」

「…………」

「意外な一面だったな」

「う、うん。あんなにカッコいい天龍さんもああなるんだ…………」

「だが、ちょっとレディとは違うんじゃないか?」

「うん」

 

 酔いが覚めたときに、天龍が恥ずかしさで暴れないことを祈るばかりだ。またドアを破壊されても困る。

 

「なら、叢雲さんならどうだい?」

 

 と響が。戦場では冷静沈着で、予想外の展開にも動揺しない。命令に柔軟に対応し、時には臨機応変に自己判断をくだす能力もある。はたまた鎮守府内では、秘書艦として執務のサポートをしてくれ、彼女のおかげで執務の終わるスピードが格段と上がっている。それにコーヒーを出すタイミングも絶妙で、まことに有能で気がきく"できる女"だ。

 

「そうよね。頭も良くて、強くて、なによりも"くーるびゅーてぃー"な人だから、レディよ!おっぱいは…………そんなに大きくないけど…………」

「それ絶対に本人の前で言うなよ?」

「いつも司令官のお手伝いしてるのを見てるよ」

「まあ、たしかにだいぶ世話になっているな」

 

 やはり子供たちからも叢雲への信頼感は絶大らしい。ただ暁がレディを胸で判断してるのがあまりにも気がかりだ。そもそも熊野だって言うほどなかろうに。

 

「あんた」

 

 再び後ろから声をかけられたが、俺はすぐさまは振り返らなかった。声と呼び方からして、叢雲で間違いはないのだが同時に酔っていることも察した。

 叢雲は酔うと残念ながら豹変するタイプだ。酔うと途端に様々な不満を吐き出す。これは"江下さん"の一件で知ったわけだが。

 

「私が呼んでるでしょっ!」

 

 と強引に肩を掴まれて面と面を向けられた。予想に違わず頰を赤くした叢雲が映る。

 

「や、やあ…………」

「どうして、あんたがここにいるの?」

「どうしてって、隼鷹が酌をしてもらえと言ったから、まわっているだけだが…………」

「どうして、一番最初に私から酌を貰わないのよ!」

「そ、それは…………」

「やっぱり、あんたってロリコンだったのね!?」

「違うぞ!?」

「じゃあ、なんで来ないのよ」

「いや、子供たちは前半までしか参加できない…………からだ」

「なによ、その取ってつけたような理由。だいたい、女性に対していっつも無関心を装ってばかりだからあんたの好みも分からないじゃない」

「別に無関心なわけではないが…………」

「…………胸、ね」

「は?」

 

 いきなり何を言っているんだこの秘書艦は。

 

「胸が大きければ、あんたも関心をむけるのよね?」

「そんなことはないぞ?日々の君のサポートにはとても感謝している」

「そう…………なら、私の酌を貰ってくれるのよね?」

「ああ、もちろんだ」

 

 俺はコップを手に持ち、叢雲から酌を貰おうとした。しかし、そのコップにお酒が注がれることはなかった。叢雲が手にしていた瓶の行く先はコップではなく、叢雲の唇へ…………

 

「ま、待て!ここには子供たちもいるんだぞ!?彼女らの前で手本である我らがそんなふしだらな行動をとることは…………」

「ん!」

「ん、じゃないじゃない!」

 

 俺の制止の声も虚しく、叢雲は俺の頭をキッチリとホールドした。こっちは叢雲の肩を掴んでどうにかして防ぐしかない。

 

「こ、これがレディ…………」

「ち、違うぞ?」

「ふむ、叢雲さんは酔うと大胆になるんだね」

「響、冷静な考察も結構だが制止する方を手伝ってくれ」

 

 暁を筆頭とした子供たちは、年頃なのか顔を赤くしつつも興味津々にこちらを見ている。

 朝潮、手で顔を覆うのは賢明な判断だが、指の隙間から覗いては意味がないぞ。

 

「本当に頼むから、冷静に…………」

「ん!」

 

 こっちは座っている状態、対してあっちは立っている状態からこちらの顔をホールドしているため、こちらに不利な状況だ。

 誰か助けになりそうな人をどうにか探し出そうとしているときに、ちょうどよくこちらに近づく人が見えた。

 

「は、榛名!いきなりで悪いが叢雲をどうにかしてくれ」

 

 きっとこの鎮守府きっての常識人の榛名なら…………

 

「はい、榛名はだいひょうぶれしゅ!」

「やっぱり戻ってくれ」

 

 ベロンベロンではないか。叢雲以上に顔を赤くし、呂律はままならず、ふらふらとこちらに近づく榛名はこちらの制止する声も聞かない。

 

「叢雲しゃん、何をしてるんでしゅか…………?」

「ん、んん」

「なるほど!」

「え、分かったのか?」

 

 ん、しか言ってないぞ、こいつ。

 榛名は手に持っていた一升瓶をおもむろに口に含んだ。どうして、どいつもこいつも酒を手に歩き回ってるんだ。

 この後、榛名が叢雲と同じ行動に出たのは容易に想像できることだろう。無論、大人である我々が子供たちの前でそんな不埒な行動をするのはあってはならないことであり、まだ理性のある俺が全力でそれを阻止したのである。さらに金剛も混ざってよりひどい様相を呈したが。

 兎にも角にも、重なる出撃で疲労が見えていた鎮守府も久々に活気を見せたのは良いことなのであろう。未だに迫る叢雲たちをかわしながらそう思っていたのであった。

 

 

 ーーーー

 

 

「提督、少し付き合ってくれねえか」

 

 子供たちを部屋に戻し、大人どもも酔いつぶれあっちこっちで寝ている中、珍しくそれほど酒を匂わせていない隼鷹に声をかけられた。

 

「…………不可思議なこともあるんだな」

「酔っ払ってないことがそんなにおかしいか?」

 

 そうだ、と答えても隼鷹はニヒヒと笑うだけ。

 

「付き合っても構わんが、こんな場所でか?」

 

 みんながみんな大暴れしたおかげで、食堂ははちゃめちゃだ。とてもサシで飲む雰囲気ではない。

 

「ここじゃなくて、鳳翔さんのとこでだぜ」

「初めからそうする気だったのか」

「まあね。提督と飲み会う機会なんてそうそうないし」

 

 さっさと行こうぜ、と隼鷹に催促され、俺は彼女の後についていくように居酒屋"鳳翔"へと足を進めた。

 暖簾をくぐれば、まるで俺らが来るのを待っていたかのように鳳翔さんがキッチンで支度をしていた。

 

「鳳翔さん、料理は適当に頼むよ」

「はい」

 

 隼鷹の適当な注文にも鳳翔さんは二つ返事で引き受ける。酒の方は隼鷹の自前のようだ。

 鳳翔さんから受け取ったコップに隼鷹は並々と注ぐ。

 コップは3つ。

 初めは鳳翔さんの分かと思ったが彼女は手が空いていない。少し思案したのち、俺は一つの答えにたどり着きそれと同時に、俺は軽く目を見開いた。

 

「乾杯」

 

 と、隼鷹は俺のともう一つ誰も持たぬコップに向けて言った。いや、そこにはいるのだ。我が鎮守府のもう1人の仲間が。

 

「この酒はさ、橘さんから教えてもらったものなんだぜ?」

「…………そうか」

 

 この時、ふいに目頭が熱くなったが隼鷹には悟らぬように酒を口に含んでごまかした。

 忙しさで感覚が狂っていたが、橘さんがいなくなったから随分と経つ。かつて橘さんのいた工廠はすでに明石がその代役を務めているし、夕張のサポートもあって、どうにかやっていけている。

 1番近くにいた鳳翔さんも弱気なところを微塵も見せず、日々裏方で精力的にサポートしてくれている。

 

「橘さんがいなくなってから、もう半年以上か…………」

「ああ、時が経つのは早い」

「その間に色々変わっちまった」

 

 隼鷹のその言葉に俺は目を細め、何か言おうかと思ったが酒で無理矢理飲み込んだ。

 その様子を隼鷹は察したのか、

 

「別に悪い意味じゃないぜ?」

「わかっている。それよりも君がそんなに感傷的なのは意外だ。見ている分には面白いが」

「あたしだってそんな日もあるんだよ」

 

 そういえば隼鷹はなぜここに来たのか、ということを俺は知らない。記憶を辿れば、いきなり長門が"新しい仲間だ"と連れてきたということだけだ。

 

「一つ聞きたいことがある」

「なんだ?」

「どうして君はここに来た?」

「…………」

「俺が言っちゃ悪いが、お世辞にもここは環境がいいと言えない。君が来た時はもっとひどい。海の平和のためならここよりも向こうにいた方が理にかなっているだろう」

「あたしには合わないんだよ。あんたと同じで」

 

 意外と真面目な答えがかえってきた。ただ俺と同じということが腑に落ちない。

 

「俺と同じだなんて、どういう意味だ?」

「なんて言えばいいかなぁ…………国に尽くすのに疲れた、みたいな?」

「艤装を装着して、海に出て、深海棲艦を倒して、戻って、ドッグ行って、また艤装を装着しての繰り返し。余裕だなんてありやしない。そうしていると命のやり取りをしていることも忘れていたりする」

 

 それに気づいた時、何か見失った気がするんだと遠くを見つめながら隼鷹は言った。

 

「ここはいいとこだぜ?微力にしろみんなの力にはなれるし、いい仲間もいるし、酒もある」

「最後に関しては、俺が許可したわけでもないのだがな」

「んなこと言わないでさ。目的もなくただ機械的に、そこまで仲の良くない仕事仲間と出撃するよりも、飲み仲間とたしかな報酬を手に入れながら戦うことの方がよっぽどいい」

 

 こいつが言うと少し引っかかる部分もあるが、概ね俺は彼女と同意見だった。

 

「だからさ、これからも頼むぜ。あんたがいないとここはうまくいかないからさ。あたしの好きな場所がなくなるのは嫌だぞ?」

「言われなくともそうするつもりだ」

「心強いねぇ、軍神さんがいるのは。ま、疲れたらあたしが付き合うし、問題はないさ」

 

 そうか、と一言告げて俺はもう一口酒を口に運んだ。

 それにしても、隼鷹がここまで思っていてくれているとは考えもしなかった。日々の姿はあれだが、やっぱりしっかりと考えてくれているのだ。

 

「…………ありがとう」

「ん?なんだって?」

「ありがとう、と言ったのだ」

 

 俺の素直な言葉に隼鷹は目を丸くした。

 

「そんなにおかしいことか」

「おかしいもなにも、あんたに面と面を向けてありがとうって言われるなんて…………色々と気味が悪いぜ?」

「上司の感謝の言葉を気味が悪いだなんて、失礼なやつだ。俺だってありがとうの一つや二つは言える」

 

 実際今回のことはそれなりに理解している。連日出撃して、俺は執務室にこもりっぱなしのせいで、鎮守府全体が陰鬱とした雰囲気になりかけていた。隼鷹がこの企画を考えやしなかったら、陰鬱さが増してひどいことになっていたかもしれない。

 

「はは、こりゃあよかった。酒を飲ませてみるもんだな」

「俺としてはもうこりごりだ」

「まあまあ、今日は飲め飲め」

 

 隼鷹が注いだ酒を俺は一息に飲み干す。そんな俺を隼鷹は満足そうに眺めていた。

 いつまで飲んでいたかはわからない。ただ言えることは、鎮守府一の酒豪の隼鷹の飲みっぷりは尋常ではなく、俺が二日酔いで苦しめられることとなった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銷夏・前

 この鎮守府から見える朝日はとても美しい。

 昇りゆく太陽が、海の水平線からのぞくころ、空は目もくらむほどに朱に染まる。東を染め抜いた朱の色は、少しずつ上へと進み、やがて真っ青な空になる。

 日常を彩る束の間の非日常は、光と色の饗宴だ。

 軽空母祥鳳が、しばし身じろぎもせず艤装を身につけたまま空を見上げていたのは、その見事な朝日に心を奪われていたからではない。ただ単純に、眼前の現実から目をそらしたかったのだ。

 当たり前だが、目をそらしたところで、事情は変わるわけもないので、ゆるりと首を巡らして、ろくでもない現実へと舞い戻る。ろくでもないない現実とは、すなわち突然の出撃命令と、これから出会う多くの深海棲艦だ。

 

「今日もよろしく、祥鳳さん」

 

 後ろから顔を出してそう言ったのは、今回の艦隊の副旗艦を務める軽巡川内だ。覗き込んだ川内は、ぐったりとした祥鳳に苦笑する。

 

「戦闘前から、疲れていない?」

「戦闘前だから、疲れるんだと思います」

 

 そんな祥鳳のささやかな皮肉もあっさり押しやられるように、鎮守府からの連絡がやってくる。

 応答した川内がしばらく話した後、「少し寄り道するよ」と告げるのを聞いて、祥鳳は軽く息を吐いた。

 

「どこかで深海棲艦が発見されたんですね」

「説明が省けて助かるよ。今のところ、駆逐艦と重巡が2つずつ。今夜も"引きの強さ"は、十分だね」

「引きの強さ?」

「知らないの?祥鳳さんが旗艦だと、深海棲艦との会敵率10割になるジンクス」

 

 祥鳳は眉をひそめる。

 

「私はまだここにきて1ヶ月も経ってませんよ…………」

「新人だろうとベテランだろうとずっと戦闘なんだから仕方ないよ。勤務およそ1ヶ月で、絶対夜戦までできる魅力的なジンクスを築き上げた祥鳳さんに、みんな感心してるし」

 

「もっとも」と、偵察機を飛ばしながら続ける。

 

「他の艦娘にとっては、感心もしていられない、死活問題らしいけどね」

 

 当の新人にとっても充分死活問題だが、その点は考慮されないらしい。

 

「8時の方向に敵を発見!」

 

 と周りを警戒していた駆逐艦が振り返った。

 

「臨戦態勢にはいります」

 

 川内もすぐに気を切り替えて、構える。

 

「どうする?今日待機しているのは隼鷹だけど、最初から呼ぶ?」

「つい先ほど、隼鷹さんに、"あたしがあんたの頃には、1人でどうにかしてたぜ"と言われたばかりでして」

「頑張れってことだね」

 

 肩をすくめた川内に、祥鳳は弓を構えながら答えた。

 

「少しでも不利になったらすぐに応援を呼んでください」

「もちろん」

「頼りにしてます」

 

 答えた祥鳳は、すぐに艦載機を飛ばした。

 

 

 ーーーー

 

 

 祥鳳は鎮守府にやってきて間もない軽空母である。

 所属する鎮守府は、国内で唯一の民間軍事会社だ。護衛から緊急応援など深海棲艦がらみなら幅広くこなす軍事会社である。

 軽空母として艦娘となった祥鳳が、自衛隊ではなく小さなこの鎮守府への所属を選択したことに、格別の志があったわけではない。ただ一線で戦う正規空母たちの活躍を見て自信をなくしたことと、どんな依頼も受け入れているこの鎮守府の、いささか無謀とも言える働きに惹かれるところがあったからだ。

 無論、その高い働きぶりはそれを支える艦娘のたゆまぬ努力によって成り立っているのであって、ここに所属するということは、まさにその努力の側に回ったこととなる。

 時候は降り注ぐ陽光も鮮やかな8月。

 祥鳳は、この鎮守府では数少ない軽空母として、驚きと困惑と緊張に満ちた目の回るような日々を送っている。

 

 

 ーーーー

 

 

「やっぱりさぁ…………」

 

 すぐ目の前を歩く背の高い女性が、肩越しに祥鳳を顧みながら口を開いた。

 

「祥鳳、お祓いに行ってきた方がいいんじゃない?」

 

 祥鳳の先輩でもあり、かつ、軽空母のリーダーでもある隼鷹だ。つんつんとした紫髪を揺らしながら磊落な笑い声を響かせている。

 その隼鷹が、しかしぐったりとした顔で眩しい朝日に目を細めながら、歩道を歩いていく。

 

「結局、あたしも出撃して、夜までかかっちゃったじゃないか」

「ここの鎮守府はそういうものだと思ってましたが…………」

 

 ああそうか、と隼鷹は得心したようにポンと手を叩く。

 早朝の、まだ人気の少ない歩道に、妙に景気の良い音が響く。

 

「そっか。祥鳳は毎回引いているからわからないよな。もう少し楽な日もあるんだぜ」

「すいません。隼鷹さんには迷惑をかけます」

「まじめに謝る奴がいるか。川内なんかすごく嬉しそうだったぜ。祥鳳と出撃すると絶対夜戦できるってよ」

「なんでしたら、私が出撃のない日もこっそり艦隊に参加しましょうか。他の艦娘たちの恨みを必ず買うことになると思いますが」

 

 祥鳳の精一杯のユーモアに、隼鷹はまた豪快に笑った。

 そんな他愛もない会話をしながら、早朝の町を散歩するのが、隼鷹と祥鳳の出撃のない日の日課だ。

 鎮守府がある町は小さな港町だが、今は漁を行う人は少ない。さらに言えば高齢化が進み、過疎化が懸念されている。また、まだこの鎮守府が受け入れられているとは言えず、ほとんどの人が挨拶もくれずに走り去っていく。

 初めてここを回ったときは、人の視線の冷たさに、祥鳳も随分と驚かされたものだ。

 

「相変わらず、あたしたちの風当たりは強いねえ」

 

 歩きながら、隼鷹は無遠慮なつぶやきを漏らしている。

 

「ま、たまには優しい人もいるけど、やっぱり世間としてはこういうもんなんだよ」

 

 いちいちひやりとする言葉が飛び出してきて、祥鳳としては返答に窮するが、事実は事実だ。いくら反論しても、町の人が突然優しくなるわけでもない。

 少なくとも、退去の段幕を掲げ、鎮守府の前に集まり、時には石を投げながら出て行けと叫ぶ人々を、受け入れてくれているとは言い難い。

 

「おはようございます、隼鷹さん、祥鳳さん」

 

 散歩中に、そんな明るい声をかけてくれる人も、もちろんいる。

 それがこの老人だ。この町で75歳という高齢ながら漁師を続けている人物で、過去に何回か鎮守府に依頼してきた人だ。

 

「調子はどうです?」

「おかげさまで、なんとかやっていけてるぜ」

「なんでしたら、隼鷹さん。また依頼させてもらいますよ。家にいても話す相手もいないもんで…………」

「そうしてくれると嬉しいな。漁れた魚で酒も飲みたいし」

 

 祥鳳の横で、そんな会話が交わされている。信頼があるからこその会話だろう。祥鳳がこういう会話をするには、まだ足りないものが山のようにある。

 

「いいですねえ、鳳翔さんのところでですか」

 

 そんなことを横から言ったのは、もう1人の老人だ。72歳の男性である。しかしまだ壮健で姿勢は提督よりもいいかもはしないほどだ。

 この人も漁師さんで、私たちのお得意様だ。

 

「どうですか、漁の調子は?」

 

 祥鳳の声に、穏やかな笑みでうなずく。

 

「すっかりいいですよ。なんで漁れなかったのか、よくわからないくらい」

 

 頭髪には年相応の白いものがまじり、目じりには深い皺が刻まれているが、目元の光は明るい。

 

「深海棲艦が食っちまったりしてな」

 

 とまた隼鷹がひどいことを言っているのに対しても、愉快そうに笑いながら、

 

「ここのところは台風をきたものですから」

「大丈夫でしたか?」

「ええ、台風はどうにもなりませんが、深海棲艦なら大丈夫でしょう」

 

 粋な返答がかえってくる。

 

「また漁がしたいなら、あたしが提督に言っておくよ」

 

 隼鷹が、ポンと祥鳳の肩を叩きながら続けた。

 

「新人の祥鳳もいるし。真面目だから心配いらないぜ」

 

 唐突な言葉に、軽く祥鳳は目を見張った。

 まだこの鎮守府に所属して1ヶ月弱。偵察や小さな艦隊の殲滅などでさんざん経験は積んだが、護衛経験は皆無だ。無論、何事にも"最初"は付き物だが、それにしても不意打ちだ。

 しかし、隼鷹はいつもの磊落な笑顔のまま構えもしない。

 

「漁をしているうちに、あたしたちが勝手に深海棲艦追っかけ回すだけだから簡単なことだ。なんなら明日でもいいぜ」

「そうですか、なら祥鳳さん、お願いします」

 

 おじいさんが丁寧に頭を下げる。

 当たり前だが、依頼を受けるのは提督が判断するはずなのだが、ここではそんな常識も通用しない。

 祥鳳は精一杯の平静を保ったまま「はい」と答えた。

 この鎮守府は、相変わらず困惑と緊張に満ちている。

 

 

 ーーーー

 

 

 "艦娘は最後の希望"

 

 かかるこの言葉を、私は艦娘となってから幾度となく浴びせられてきた。

 しかし、今深海棲艦と現場で戦っているのは艦娘だけである以上、事実なのかもしれない。

 

「何か悩み事ですか。ずいぶんと考え込んでいるようですが」

 

 広間のソファで座っていた祥鳳は、柔らかな声に背後を振り返った。

 声をかけたのは、緑のフレームの眼鏡の女性だ。

 

「ここに来てもう1ヶ月くらいですか。少しは慣れたでしょうか?」

「はい。皆さんによくしてもらったおかげで」

「私は何もできてませんよ。むしろ隼鷹さんの方が」

 

 広々とした広間に、落ち着いた声が響いた。

 眼鏡の女性は民間軍事会社"鎮守府"に所属する、戦艦霧島だ。

 今いる広間は鎮守府内にある寮の1階にある。かつては正規の鎮守府として機能していただけに、若干古びてはいるものの快適な場所だ。

 夕方に寮に帰ってきた祥鳳は、広間でゆっくりしているところで、霧島と顔を合わせた次第であった。

「お茶いれますね」と言った祥鳳に、霧島は「ありがとうございます」と会釈する。

 祥鳳は湯のみと急須を取り出して卓上に並べた。

 

「今日の寮は静かですね。隼鷹さんと千歳さんはどうしましたか?」

「隼鷹さんならあちらに」

 

 霧島が少し声を落としてソファの向こうに目を向ける。

 一升瓶が置かれた机の横に、大の字を書いて心地好さそうに眠っている隼鷹がいた。朝の散歩の後、祥鳳は演習に参加し、そのあと個人でも練習をしていたが、隼鷹はすぐに寮に行ったきりだった。無類の酒好きで、こうやって酔いつぶれているのも格別珍しいことでもない。

 

「祥鳳さんと酌み交わすと言って待ってましたが、ひとり飲んでつぶれました。千歳さんも待つって言ってたんですが…………」

「まだ飲んでませんよ」

 

 不意の声にふたりは振り返る。

 

「あら、どこにいらしたんですか?」

「ちょっと提督のところに」

 

 霧島の問いに対して、微笑みながら千歳は答えた。

 

「提督のところに…………ですか?」

「うん。なにか珍しい?」

 

 同じ鎮守府にいるのだから提督に会いに行くのはおかしい話ではない。だが、どうも祥鳳の中では提督という人物は事務的な、言うなれば冷たい人と言った印象がある。

 

「思っているよりも全然悪い人じゃないわよ、あの人は」

「えっ、いやそれは分かってますけど…………」

「ふふ、案外あなたもわかりやすいよね」

 

 なんだか子供として見られているようで、いい気分ではなかった。

 

「とは言っても、私たちの提督の第一印象は祥鳳さんと大体同じだと思いますよ」

 

 と、湯呑みを持った霧島が言った。

 

「でも、ちゃんと話してみると冷たい人じゃないって分かりますよ」

「そうなんでしょうか…………」

 

 注いだ湯のみに祥鳳は視線を向けた。

 祥鳳のような反応は少なくない。むしろ祥鳳の反応が一般的であると言える。

 ここの提督ーー八幡武尊は無表情が多く、愛想もあったものではない。そんな彼をよく知っている者なら問題はないのだが、初対面の者からしたら不機嫌に見える。

 

「ま、あいつが無愛想なのは今に始まったことじゃないさ」

 

 ソファの向こうからの突然の声に一同は驚いて振り向いた。

 

「あら、起きたのね」

「まあな、千歳。それより面白そうな話してるじゃないか」

 

 寝ていたはずの隼鷹は、相変わらずのにやけ顔でいる。

 

「提督が怖いってか?」

「いえそんなわけでは…………」

 

 そんなわけがある。

 彼の目を見れば睨まらているように感じ、彼の無機質な声を聞けば萎縮してしまう。そう祥鳳はわりと提督を怖がっていた。

 

「仕方がないわ、千代田もあんまり好きじゃないって言うくらいだし」

「皆さん、一応提督は上司なんですよ?」

「上司とか関係ないさ、霧島。たしかにあいつの無表情っぷりは良くない」

「ま、私はあのままがいいわ」

 

 ここに来てようやく提督を肯定するような意見が現れた。

 

「そりゃまた、なんでだ?」

「これ以上ライバルは増えない方がいいからよ」

「へ?」

 

 あっけらかんと言ってのけた千歳に、祥鳳は気の抜けた声をあげた。

 ライバルとは好敵手や宿敵の意。すなわち競争相手だ。鎮守府においては戦果を競うこともあるかもしれないが、千歳の様子からしてその意味はない。

 

「提督のような人は好みが分かれやすいんです」

「そ、そうなんでしょうか?霧島さん」

「千代田さんのようにあまり好きになれない人もいれば、金剛お姉様のように好きになる人もいます」

「私だってそうよ」

「知ってるぜ」

「わ、私は知りませんでした」

「その逆でひどく嫌ってる人もいます」

「嫌ってる?」

「そうだな、あいつが自衛隊時代はあんまり上から良い印象は持たれてなかったな。せいぜい佐久間のおっさんくらいだぜ、真っ当な評価をしていたのは」

 

 佐久間というと鬼と言われるほどの豪傑さで有名な人物だ。同時に海軍の中ではそれなりの影響力も持ち合わせている。

 

「で、でも提督は軍神と言われるほどの活躍をしていたんですよね?」

「活躍はしてたが…………分かるだろ?ただでさえ愛想がないのに、歯に衣着せることを知らないから」

 

 間違っているのならどんなに偉い人でも真正面から物を言っていたようで、そのまま口論に発展することも珍しくなかったという。

 

「退役するときも佐久間のおっさん以外は引き止めようとはしなかった。長門と真逆だぜ?普通はありえねぇ話なんだがな」

「そうだったんですか…………」

 

 ほんと酷い話よ、と千歳がお茶を注ぎながら言った。その様子を眺めながら、その頭の中に浮かんでいるのは、初めて提督に顔を合わせたときだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 薄暗い廊下である。

 執務室の方から、中に入っても良いという声が聞こえたところで、祥鳳は入室した。

 扉をあけて、殺風景な部屋が目に入る。

 少しぎこちなかったのか、案内してくれていた隼鷹が、「そんな緊張しなくてもいいぜ」と声をかけてくれたが、目の前の男を前には無理な話である。執務中であったらしい提督は、常日頃なのかは定かでは無いが緊張感がある。

 軽く自己紹介をして、この鎮守府についての説明を受けた。スムーズてしかも分かりやすい説明であった。とりあえずそんなに酷い環境ではないことに安堵を覚えつつ、力を緩めたところで、しかし突然、射られるような視線を受けた。

 無論、それは目の前の提督から向けられたものであった。

 

 "どこの鎮守府にも属さずにここに来るのは、君が初めてだ"

 

 射るような視線とは裏腹にその声はいたって、穏やかだ。

 

 "なぜなんだ?"

 

 しばし硬直していた祥鳳は、慌てて答えた。

 

 "知人からここの活躍を聞いて、私もその人達と一緒に戦いたい、と思ったんです"

 "活躍、ね"

 

 静かな声とともに提督は、少しあくびをした。

 

 "残念だけど、ここは君が思っている以上に大変だから"

 

 そう告げる軍神の目は、まるで自分の心も見えているようであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 これも自分が選んだ道だとすれば、ずいぶんと茨の道を選んだものだと、祥鳳は思う。

 湯呑みを手にとって、嘆息した。

 祥鳳はすでに、主力としてさまざまな戦場へ赴いている。作戦を実行するのも、旗艦としてしじすることも、まだまだ祥鳳は不慣れであるから、一つ一つのことに戸惑い、隼鷹からは笑われ、怒られ、からかわれ続けている最中だ。

 

「よし、ちょうどいい時間だな」

 

 いきなり隼鷹が声を上げて一同は注視した。

 

「ちょうどいい時間、とは?」

 

 祥鳳の言葉に、隼鷹は悠然たる笑みで応じる。

 

「人も集まって日も暮れたことだ。やることといったらひとつしかねぇだろ?」

 

 ほら、とどこに隠していたのか一升瓶を持ち上げた。

 

「漁師のおじさん達からいいものを譲ってもらったんでね」

 

 霧島がたちまち呆れ顔になった。

 

「最近、提督から注意されてませんでしたか?」

「大丈夫、普段よりは控えるって言ったから。霧島も一杯やるか?」

「明日は出撃予定なので遠慮しておきます」

「私も同じく」

 

 と千歳も立ち上がった。

 祥鳳はしばし沈思していたが、やがて隼鷹に椅子を勧めて答えた。

 

「一杯だけ、いただきます」

 

 隼鷹が軽く目を細めてから、ニヤリと笑う。

 

「そうこなくっちゃ」

 

 こうして密かに、小さな晩酌が始まった。

 

 

 ーーーー

 

 

「これはまた派手にやられましたね」

 

 ぽつりとつぶやくように言ったのは、工廠の長の橘さんだ。

 一見すると、痩せすぎで顔色も提督と同じくよくなく頼りない印象だが、技術者の少ないこの鎮守府を支えてきた大黒柱の1人だ。

 その大黒柱が顔をしかめた見つめているのは、大破した艤装たちである。

 昼頃、工廠には、祥鳳の他に、艤装を修理し始めている橘さんとそのすぐ横で腕を組んでいる提督がおり、後ろには、同じ艦隊の艦娘たちの姿もある。毎週水曜日は、偵察の係なのだ。

 提督が目で合図をしたのを機に、祥鳳は海の状況を説明した。

 

「今日はいつも通り、この海近辺のパトロールをしてました」

「この近辺ですか…………」

 

 橘さんが小さくため息をつく。

 

「空母のelite級を2つ、戦艦のeliteを1つ、他にも複数の敵影はありました」

 

 祥鳳が敵を報告していく間に、「ひどいことになってますね」と橘さんがつぶやいた。

 腕を組んでいた提督が口を開く。

 

「報告を聞く限り、出くわしたのは主力艦隊とみて間違いない。普通は奥の方までいかなきゃ出会うはずないんだがな」

 

「でも」と少し驚いたように駆逐艦の1人が言う。

 

「それ以外は見てないから、たまたまってことは…………」

「さあな。だが、知らぬ間に向こうが前線を押し上げた、と考えるかな」

 

 淡々とした声が淡々としているだけに、今の状況が危険に変わりつつあることを伝えている。

 祥鳳は黙って眉を寄せる。

 一見穏やかそうな海に、恐ろしいやつらが迫っている可能性があることを突きつけられているからだ。

 

「祥鳳、君ならどうする?」

 

 唐突な問いに、しかし祥鳳は背筋を伸ばしてすぐ答えた。

 

「あの主力艦隊は放置すれば、こちらまで攻めてくると思います。殲滅するのは困難ですが、その艦隊だけでも撃破したうえで、牽制をしつつ、自衛隊の応援を要請するのが安全だと思います」

「それじゃ間に合わないかもな」

 

 あっさりと提督が告げた。

 

「セオリーとしては悪くない。が、この場所に関しては、この鎮守府に1番近い他の鎮守府ですら応援が到着するのに2日はかかる。ましてやこちらから要請してから、はいどうぞとは向こうは応援をやれない。そう考えると5日はかかる。するとどうなる?」

「…………」

 

 絶句してから、祥鳳は眉を寄せた。

 

「こちらが壊滅、ということですか?」

「まあ、そうだ。主力やって一安心ってやってる間に、別の艦隊が来れば一巻の終わりだ」

「最初から全力で潰しにいくしかないですね」

 

 橘さんが作業しながらそう付け加えた。

 慌てて祥鳳は答える。

 

「では…………」

「俺らだけでするしかないな。一応、応援を要請してはみるが」

 

 戸惑う祥鳳に、提督の鋭い視線が向けられる。

 

「君に今回の旗艦を務めてもらう」

「わ、私ですか?」

 

 祥鳳が戸惑ったのは、殲滅作戦もまだ経験がなかったからだ。今まで出撃はしてはきたが、このような苛烈な戦いは経験していない。まして旗艦だなんて。

 

「自分が見つけた艦隊だ。きっちりお返しをしてやれ」

 

 指揮官の静かな言葉に、祥鳳はただうなずくだけであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 何事にも最初というものがある。

 別に旗艦に限らない。出撃から遠征まで、艦娘になる以上は数年間は初めてばかりが繰り返される。もちろん、初めてに当たった仲間の側こそ迷惑な話だが、初めてを変えなければ次はないのだからこればっかりは仕方がない。

 その点八幡武尊という提督は、稀に見る冷静さと判断力を持ち合わせた人物であった。

 厳しい状況にも関わらず、祥鳳が報告したその日には大まかな作戦は完成しており、応援の要請まで終えていた。

 他の仲間たちは多少は動揺は見せていたものの、提督の指示を聞くとすぐに切り替えて各々の役目を果たすことに集中し始めた。

 情けない話ではあるが、この中で1番動揺しているのが旗艦を務めるはずの祥鳳自身だったかもしれない。

 提督の話を書き終え、高速修復材でドッグを早々に出て、広間で作戦内容を再確認し終えたのは、すでに夜の8時も過ぎた夜であった。

 

「お疲れ様。祥鳳さん」

 

 そんな声とともに、ことりと卓上に置かれたのは、コーヒーカップである。

 顔をあげた祥鳳の前に立っていたのは、少し心配そうな様子の駆逐艦であった。

 勤め始めてまだ1ヶ月過ぎたばかりの祥鳳は、この鎮守府全員の名を把握しているわけではない。しかし、叢雲という名前を覚えていたのは、彼女がてきぱきと仕事をこなし、時に適切なアドバイスをくれる心強い存在だからだ。

 

「大丈夫?だいぶ疲れているみたいだけど」

「もうこんな時間でしたか…………」

 

 つぶやきながら、祥鳳は軽く目を指で押さえる。

 

「すいません、コーヒーまで…………」

「隼鷹に、一杯入れてやれって言われたのよ。なんにも考えてないようで、意外といろんなこと見ている人だから」

 

 微笑しながら言う。

 

「提督は相変わらずだったわね」

 

 執務室の方に目を向けた叢雲の言葉に、祥鳳は深くうなずき返す。

 

「いきなりのことに、あれだけ冷静でいられるのは見習いたいです。それに私の要領を得ない報告でもすぐに理解してくれる」

「さすがは軍神、てとこね」

 

 叢雲の声に、祥鳳はうなずいた。

 どことなく落ち着いた雰囲気と、理解の速さや物静かさは、祥鳳のイメージしていた軍神とは異なる。

 

「明日には出撃よね?」

「ええ、一応私が旗艦ということですが…………」

「大変な役任せたわね」

「大変ですが、どの道通らないといけません。あとは提督を信じるしかありません」

 

 祥鳳はあえて力強く告げてから、コーヒーカップに口をつけた。

 一口飲んですぐに目を見張る。

 叢雲の方が戸惑いがちに首を傾げた。

 

「どうかした?」

「いえ、とても美味しいですね、こんな美味しいコーヒーは初めてです」

 

 率直な言葉に、叢雲はほのかに照れ笑いを浮かべる。

 

「ただのインスタントよ」

「ただのインスタントでこんなに美味しくなるとは知りませんでした」

「あまり褒めないでちょうだい。慣れてないんだから、そういうのに。ま、時間があったらいれてあげる」

 

 にこりと笑って、叢雲は身をひるがえした。

 祥鳳はしばしその背を見送ってから、またカップに口をつけた。

 

 

 ーーーー

 

 

「なーにが、"こんなに美味しいコーヒーは初めてです"だ」

 

 夜の広間に、隼鷹の面白がるような声が響いた。

 

「祥鳳って、案外、口がうまいな」

 

 作戦内容の書かれた紙に向き合っていた祥鳳は、ちらりと先輩に目を向ける。

 

「どこで聞いた話ですか、隼鷹さん」

「そこら中からわいてる話だ。おまけにあの、提督ぐらいにしかデレない叢雲が、"時間があったらいれてあげる"って言ったらしいじゃないか。大したもんだねぇ、祥鳳は」

 

 ドンドンと祥鳳の背中を叩いている隼鷹の横で、祥鳳は額に手を当てている。

 

「この鎮守府をなめちゃダメだぜ、祥鳳。この町なんにもねぇから、そんなことをしたらたちまち噂になる」

「何が噂の種かしら?」

 

 唐突な声に振り返れば、まさに話の渦中の叢雲が、コーヒーカップを2つ持って立っている。その目元に険があるから、空気が凍りつく。

 

「お、叢雲、なんか聞こえちゃった?」

「そうね、もうコーヒーはいらないって聞こえた気がしたわ」

「いやいや、祥鳳と一緒に、いかに叢雲のコーヒーがうまいかって話してたんだよ。な、祥鳳」

 

 な、祥鳳、は酷い話だとは閉口しつつも、新人たるものは先輩を立てるのが原則なので、うなずくしかない。

 どうだか、と冷ややかな目線でありながら、叢雲はそれでもコーヒーカップを卓上に置いた。隼鷹はさっそく一口飲んで、「たしかにうまいな」などと気楽なことを言ってる。

 

「旗艦の話に戻しても良いでしょうか?」

 

 祥鳳の声に、隼鷹はようやく笑みを収めて祥鳳に視線を戻した。

 今回の旗艦を祥鳳に任せる。

 それが祥鳳にとって最大の懸念だ。

 昼間に提督がいきなり祥鳳に旗艦を任せると言ってから、祥鳳に初めての重責を担うことになっていた。

 まだ経験不足であるから現場においての全権を渡されたわけではないものの、多くの役割は祥鳳が担うことになっている。

 

「で、金剛たちと話はしたのか?」

「一応、川内さんとは話したんですが…………」

「だめだ。今回は複数の艦隊に分けて出撃するんだから、金剛にも話つけとけ」

「分かりました」

 

 こういう時に、隼鷹という先輩の存在は心強い。

 

「しかし、金剛さんはどこにいらっしゃるんでしょうか。さっき、部屋を訪ねたときはいませんでした。隼鷹さんや叢雲さんは心当たりはないでしょうか」

「心当たり、ねぇ」

 

 少し苦笑しながら隼鷹は叢雲の方を見た。

 

「なによ」

「叢雲が知ってんじゃないのかなー、って」

「そうなんですか?」

「なんで私になるのよ」

 

 その通りだ。いくら先輩と言えども、どうして叢雲が知っているなんて言えるだろうか。

 

「だって祥鳳にあげたコーヒー、ほんとは提督にやる予定だったんだろ?」

「な、なにを言ってるのよ」

「でも先客がいたからやれなかった、てな」

 

 一体この軽空母はどこまで知っているのだろうか。

 

「はあ、知ってるならいちいち私にふらないでよ」

「さっきのお返しだ」

「あの…………つまり、どういうことなんですか?」

「つまりは、金剛は執務室にいるのよ」

 

 祥鳳は少し首を傾げた。

 

「さしずめ、提督に構いにもらいに行ったところだな。本来なら明日は金剛たちは全休なんだが、無理やり出撃してもらうことにしたからな。提督が何か褒美をやるとでも言ったんだろう」

 

 叢雲と祥鳳は、思わず顔を見合わせた。

 

「隼鷹さんって、この鎮守府全体を監視してるんですか?」

「…………さあ、どうだろうねー」

 

 ここの提督は食えない人だとは隼鷹は言っていたが、その隼鷹も相当食えない人物であると祥鳳は思ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いろいろ忙しくて、非常に遅くなりました。なんとかして最後まで続けたいと思っていますので、これからもよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銷夏・後

 私は戦っていた。

 砲弾が雨のごとく降り注ぐなかで。

 横で叢雲さんが何かを叫んでいる。しかし、私はそれが何かは聞き取れなかった。みんな艤装がボロボロだ。それは自分も同じ。

 私は何もできない。

 手にした弓は壊れて、艦載機も飛ばせない。目の前で仲間が今にも倒れそうだというのに。

 川内さんに砲撃が命中した。

 

「川内さん!」

 

 そんな自分の叫び声も幾多のおぞましい咆哮に掻き消される。

 煙の中から川内さんの姿が見える。しかし、その身体は糸の切れた操り人形のように力なく倒れていった。急いで彼女の元に駆けつけようとするが、何故か彼女の元にたどり着けない。

 そうしている間にも、轟音とともに敵の攻撃が嵐のごとく襲いかかる。

 また一人、また一人……

 取り残されたのは自分と絶望だけだった。所詮、他の艦娘に劣等感を抱きながら逃げるようにこの場所に来た自分が、旗艦を務まるはずがなかったのだ。

 もしかしたら、自分も旗艦を務めることができる……そんな甘い考えを持っていた自分が愚かだ。身の程をわきまえれない自分が……

 目の前には黒い波が押し寄せていた。ただただ呆然と立ち尽くしていた。

 自分には才能がないのだ。

 目を開ければ口を開いた深海棲艦が見えた。

 ああ…………

 

 

 ────

 

 

 軽空母祥鳳の朝は6時から始まる。

 布団から出た祥鳳はすぐに着替えると、歯ブラシをくわえて部屋を出る。2階の奥の部屋から、うっすら明るみ始めた廊下を歩いて1階のキッチンに向かう。

「おはようございます、祥鳳さん」という涼しい声は、誰よりも早起きな霧島のものだ。

 コンロで湯を沸かしながら、片手で本を開いて読書にいそしんでいる。

 

「おはようございます、霧島さん」

 

 歯ブラシをくわえたまま窓の外を見上げれば、夏の空は雲ひとつなく晴れ渡っている。

 

「今日もいい天気になりそうですね」

「空は晴れども、心は晴れず…………」

 

 そんなつぶやきに、霧島が苦笑する。

 

「相変わらず、緊張しているんですか?」

「ええ、情けないことですが」

 

 祥鳳も苦笑しつつ答えながら、祥鳳は広間に向かう。広間の1番隅の天井に神棚が祀られている。以前は埃まみれになって忘れ去られていたのが、先日、祥鳳が数時間かけて拭き掃除をして、今は多少、見た目だけは往時の威厳を取り戻しつつある。

 その古びた神棚に向かって、祥鳳は手を合わせた。

 

「神頼み、ですか」

「せっかく艦娘になったのに、神頼みだなんて、恥ずかしいですが…………」

 

 ため息混じりにキッチンに戻って歯磨きを再開する。

 

「とにかく数時間、艦隊が持ちこたえればいいんです。ただそれだけのお願いだから、意地悪な神様も、今度ばかりは聞き届けてくれるかもしれません」

 

 不思議そうな顔をした霧島はしかし多くは問わない。元来が細かな詮索はしない人だ。

 歯ブラシを洗ってうがいをして、ありがたくお茶を手に取ろうとした祥鳳は、霧島が広間の神棚に向かって手を合わせているのに気づいた。

 顔を上げた霧島がにっこりと笑う。

 

「何かできるわけでもありませんが、どうせ祈るなら、ひとりよりふたりの方が良いでしょう」

「ありがたいことです。私はあまり神様には好かれていないようですから、霧島さんの参戦はとても心強いです」

「あら? どうしたの、霧島さんがお祈りなんて」

 

 声の主は、千歳だ。

 パジャマ姿で、寝癖だらけの髪を無造作にかき回しながら、眠そうな顔を向けている。

 

「なんのお祈りなの?」

「いえ、大したことじゃありません。それよりも、少し身だしなみをきちんとした方がいいんじゃないんですか。せっかく綺麗な髪が勿体無いですよ」

「大丈夫よ。ちゃんと提督の前ではバッチリ決めてるんだから」

「そういう表とからの使い分けって、意外と外から見てバレるものですよ」

 

 霧島の的確な指摘に、うっ、と言葉に詰まりつつ、千歳はそれでも勢いを失わない。

 

「女は中身よ。絶対、私の提督、捕まえるんだから」

 

 そんな平和な捨て台詞に、祥鳳と霧島は思わず顔を見合わせて笑った。

 

 

 ────

 

 

 祥鳳の戦場での懸念は、自分の拙い指揮で自軍がやられるということなのだが、そのことばかり考えても、何か起こるわけでもない。

 索敵をしつつ、肉眼でも周囲を警戒する。なるべく"引きの強さ"が発揮される夜前には決着をつけたい。

 

「敵影は?」

 

 昼の2時に隼鷹の声が響く。

 

「10時の方向に…………、おそらく航空部隊だと思います」

 

 緊張で青白い顔で応じる祥鳳に対して、隼鷹は余裕の笑みがある。

 

「なるほど、そこで軽空母が2隻いる自分たちで迎撃するのか。しかしあそこに集中するのもどうよ。敵影はあそこしか見えてないんだぜ」

 

 隼鷹は、あくまで笑顔のままであるから、かえって表情が読めない。

 祥鳳は言葉を選びつつ、

 

「過去のケースで、同じような場面があったようです。そこでは、その艦隊に近づいた途端、取り囲むように深海棲感が出てきたようです」

「じゃ、どうすんの? むやみに近づいたらあたしたち全滅だぜ?」

「そのために3つほどの艦隊にすでにそのことを指示…………」

 

 祥鳳が言葉を切ったのは、傍の隼鷹がニヤニヤと面白がるような視線を向けていることに気づいたからだ。

 

「私の顔よりも、戦場に集中していただきたいのですが…………」

「十分だ」

 

 隼鷹はひとつ大きくうなずいた。

 

「まだここに来て1ヶ月。しかしもうだいぶものが見えるようになってるみたいだな」

 

 隼鷹は再びあたりを警戒しながら、「陸奥」と横に声をかけた。すぐに陸奥が返事をする。

 

「突っ込むってさ」

「大丈夫なの?」

「優秀な旗艦が、適切な判断を下すさ」

 

「なら大丈夫ね」と陸奥は祥鳳に笑顔を向ける。

 まだまだ立ち回りのぎこちない祥鳳に対して遠慮のない批評をくわえる陸奥だが、こういう時は絶対的な信頼を寄せる。

 

「この前も、提督が褒めてたし、結構な活躍ね、祥鳳さん」

「陸奥、余裕をかましていられるのも今のうちだぜ。今はちっこい艦隊だがじきに援軍がわんさか出る。大破しないようにしとけよ」

 

「了解」と再び陣形に入る陸奥を横目に、隼鷹は少し伸びをした。

 とりあえず、他の艦隊の準備ができるまで待機だ。

 

「昨日の夜は遅くまで起きてたようだな」

 

 警戒を維持しつつ、そんなことを問うた。

 

「はじめてのことですから。準備をしっかりしないと…………」

「そりゃ結構なことだ。いろんな人に尋ねているらしいな」

 

 隼鷹の言葉に、祥鳳は遠慮がちにうなずく。

 

「少し出すぎたことでしょか?」

 

 そんな問いに、隼鷹はすぐには答えない。

 この鎮守府は小さくともいろんな人がいる。

 これまで意識していなかったが、気がついてしまえば周りの人々は相当な修羅を乗り越えた人たちだ。提督や長門は言わずとも、隼鷹や叢雲、千歳からの話も自分にとっては価値のあるものばかりである。

 

「別にいいんじゃね」

 

 ニヤリ、と隼鷹は笑った。

 

「そんなことも新人の特権さ。みんなきっと喜んで協力してくれる。自分のやりたいようにすればいい」

 

 先輩の声には不思議な温かさがある。

 応援するわけでもない。かといって突き放しもしない。その独特な距離感の中で、しかし確かに見守られている安心感がある。

 叢雲の言っていた言葉が祥鳳の心によぎった。

 

 "何も考えていないようで、よく見ている"

 

 そういうことなのだろうか。

 

「まあ、この戦いを終えても、そのあとにも戦いは続く。そんなに明るい未来があるわけでもないんだ。思うようにやればいいさ」

 

 隼鷹の口調は穏やかでも、言葉は相変わらず冷厳なものだ。

 未だに謎が多い敵である。いくつかの試練を乗り越えても、また多くの試練が出てくるだろう。まだゴールは見えていないのだ。祥鳳の中でざわめきがあるのは、この穏やかな海と、深海棲艦と、戦いという言葉が連続性を持たないからだろう。これでいいのか。ふわふわとした不安がいつも祥鳳の中にはある。

 ふいに、ドンと背中を叩かれて、祥鳳は我に返った。

 

「みんなの準備は万端だ」

 

 先輩の悠々たる笑みがある。

 

「旗艦さんよ、頼むぜ」

 

 祥鳳はうなずいて、指示を出した。

 

 

 ────

 

 

「川内たち、だいぶやばそうだな」

 

 夕方となった海に、隼鷹の声が響いた。

 作戦通りに、深海棲艦に突っ込んだところ、案に違わず、他の敵もかおをだした。予想していなかったのは、その多さだろうか。

 

「まだいけますか?」

 

 祥鳳は艦載機を飛ばしつつ、隼鷹を振り返る。

 

「昨日からの連日の出撃のはずですが…………」

「お互い様だろ? あたしには優秀な旗艦がいるからほどほどに休みながらやってるのさ」

 

 絶え間なく艦載機を飛ばしているはずの隼鷹が休んでいるとは思えないが、そこは自分が口を挟むところではない。

 

「川内さんたちですが、大破している者が多いようです。もうそろそろ撤退させるべきだと思います」

「提督が言っていた応援は?」

「すでに向かってはくれているらしいですが、道中で会敵したようです」

 

 そうか、とうなずいた隼鷹はすぐに向かうの海に目を向ける。その先には、多数の深海棲艦が近づいており、おぞましい声を上げている。

 

「祥鳳はどうだ? さっき被弾しただろ」

「大丈夫です。まだ小破で済んでますから、まだ艦載機を飛ばせます。それに陸奥さんも無傷ですし」

「そりゃいいことだ」

 

 と景気よく笑いながら言う。

 

「こんなタチの悪い深海棲艦相手に、ここまで耐えてるんだ。祥鳳の思いが通じて、神さまが奇跡の1つくらい起こるかもしれないな」

 

 ポンポンと愉快気に笑っていた隼鷹の顔が、凍りついた。その目線の先には今までより大きな艦隊がいたのだ。

 軽く目を細めた隼鷹は、束の間の沈黙ののちに語を継いだ。

 

「eliteか…………」

 

 祥鳳は黙ってうなずく。

 先ほどまでは見せなかった敵が、目の前に真っ赤に並んでいる。

 

「flagship級はなしか。だがやべーな」

 

 もう一度、祥鳳はうなずく。

 脳裏には、昨晩夢で見たあの景色が浮かんでいる。

 みんなはやる気を出しているように見えるが、やはり疲労は隠せきれていない。それに弾薬や艦載機もそれほど残っていないだろう。

 

「応援はまだなのか?」

「予想以上に苦戦しているようです。なんとかして1時間以内には来ると言っていますが…………」

 

 どのみち、今の戦力での戦闘は避けられない、ということだ。

 

「神さまは奇跡が嫌いらしい」

「神棚にばかり日参してましたが、次から教会にします」

 

 祥鳳のかろうじて吐き出した皮肉が、空彼方に消えていく。

 

「どうする? 退却するか?」

「いいえ」

 

 祥鳳の応答に、しかし隼鷹は眉ひとつ動かさなかった。

 

「だろうな」

「提督はいつも無理をしているんです。私も少しくらい無理をしてもいいかな、と」

 

 出来るだけ落ち着いた口調で言ったつもりだが、実際に出た祥鳳の声は、ずいぶんと頼りないものだ。

 隼鷹もしばし何も答えず、空を見上げている。

 

「間違った判断でしょうか?」

「それは分からねえ」

 

「だけど」と隼鷹は深海棲艦に目を向けている続けた。

 

「あたしが祥鳳の立場でも、たぶん同じ判断をしたと思うぜ」

 

 よし、と構える。

 

「ぜんぶ自分で背負い込むなよ。あたしたちがいるんだ。祥鳳の判断が間違ってるって思ったときは、遠慮なくぶっ飛ばすから」

 

 そんな声も深海棲艦の声に消されかけた。

 近くの音さえかき消されたとき、祥鳳は大きく息を吐き、弓を構えると、隣で同じく構えている隼鷹に心の中で深く頭を下げた。

 

 

 ────

 

 

 重巡、戦艦、空母。

 大本営からの応援が来れば、敵の深海棲艦もあっという間に片付いてしまった。自分たちがあれだけ苦戦したのに…………。応援が敵を一掃するのをただ呆然と祥鳳は眺めることしかできなかった。

 旗艦の差なのだろうか? 色々考えても答えは出ない。

 帰投してドッグに入ってから、いつのまにかそのドッグの時間も終わっていたが、日の暮れた食堂で呆然と天井を見上げる祥鳳は、なおも虚脱の中にある。叢雲が先ほどコーヒーを1杯持ってきてくれたが、それも手をつけずに卓上ですっかり冷えている。

 夜警のために、いつもよりみんなの動きが慌ただしい。つい先刻は、橘さんがいつもの青白い顔で工廠の奥へ足早に過ぎて行ったから、ほかにも中破ないし大破した者がいるのだろう。

 

「どんな様子だ、祥鳳」

 

 唐突に降ってきた声は、言うまでもなく隼鷹のものだ。隼鷹もドッグから戻ってきたのだろう。

 隣の椅子に座った隼鷹の様子は、常と変わらぬ堂々たるものだ。その頰にはいつもの笑みさえある。その変わらなさが祥鳳にとっては、あまりにも遠い。

 

「深海棲艦はあれから姿を見せてません。提督はもう警戒する必要ないとおっしゃってますが、応援の方がまだ警戒しろとうるさいので…………」

「そのことじゃなくて、祥鳳の方さ」

 

 へ? と我ながら間の抜けた声が出てしまう。

 

「そっちは、やれることはもうやった。今さら確かめることもない。心配なのは戦場より、真面目すぎる軽空母だよ」

 

 思わぬ言葉に、祥鳳は1度2度ほど瞬きする。

 

「あんなに美味しいと言ってた叢雲のコーヒーをほったからして呆然としてんだ。心配にもなる」

「大丈夫です」

「本当に具合の悪い奴は大体そう言う」

 

 無造作に伸ばした手で、コーヒーカップを手に取り、そのまま一息に飲み干した。

 

「飲もうぜ」

 

 突然の言葉だ。

 

「こんな時にですか?」

「こんな時にだからさ。疲労困憊でやつれた顔で食堂に居座るくらいなら、酒飲んで寝て、明日に備えるのがあたしたちの仕事」

「でも…………」

 

 言いかけた言葉を隼鷹が遮るように言った。

 

「たまには先輩らしいことをさせろって」

 

 隼鷹の手が、祥鳳の肩を強く叩いた。

 

 

 ────

 

 

 飲みに行くのだからてっきり、鎮守府から出るものだと思っていた祥鳳だが、隼鷹の連れて行った場所は、鎮守府の中だった。

 鎮守府の隅っこにこじんまりと構えているのは居酒屋だった。

 店内は、全体に灯りを落とし気味だが、暗いというわけではない。

 

「来たことがあるか?」

「初めです」

「だろうな。教えてないもん」

 

 ニヤリと笑って隼鷹は座った。

 お客は自分たちだけだ。

 奥から出てきた女将らしき人を見て、祥鳳は目を見張った。なんとその人は鳳翔であった。

 

「めずらしいですね。人を連れてくるんなんて」

「刺身と揚げ物、あと酒。全部任せるよ」

 

 乱暴なその注文に、鳳翔は微笑ともにうなずいただけだった。

 

「隼鷹さんはよく来るんですか?」

「まあね。最近は提督に注意されてからあんまり行けてないけど」

「提督は隼鷹さんのことを思って言っているんですよ」

「だけどなぁ、週2に抑えろはきついんだよ」

 

 大げさに肩をすくめながらも、そんなやりとりを楽しんでいる。

 ふいに祥鳳の背中をとんと叩きながら、

 

「鳳翔さん、あたしの後輩だ。これからもちょくちょく来るかもしれないから贔屓にしてやってくれ」

「ありがたいですね」

 

 普段から物腰が穏やかな鳳翔さんは、この場所では流麗なものである。

 

「提督も忙しくなって、あまり足を運んでくれませんから。ぜひご贔屓にお願いしますね」

「だったら、提督の言いつけを律儀に聞かずにあたしに酒を飲ませてくれたらいいのに」

「はい、祥鳳さん。知り合いからいいのを貰ったんです」

 

 隼鷹の言葉をあっさりと遮って、鳳翔が酒を届けてくれる。

 遠慮と無遠慮が絶妙に混ざって、振る舞いに隙がない。

 さっそく飲めば、お酒が得意な方でない祥鳳でも飲みやすく、たちまちにして陶然となる。

 

「うまいだろ」

「危険です。酔って呼ばれたら大変です」

「素面で駆けつけてもできることは限られてるんだ。酔ってるくらいがちょうどいいんだよ」

 

 めちゃくちゃなその問答が、なぜか不思議に温かく胃の底に広がっていく。さらりと2人で一杯を飲み干せば、いつのまにやら次が注がれている。

 酒の味も、鳳翔さんの挙措も、爽やかでありながら隙がない。いい店なのだと、祥鳳はカウンターに置かれた一升瓶を眺めたまま素直に嘆息した。

 

「提督は、私を旗艦に抜擢してくれました」

 

 祥鳳の唐突な言葉に、隼鷹はグラスを片手に悠然と箸を運びながら黙って聞いている。

 

「しかし私のような経験が浅い人間が正しい判断を咄嗟にできるものではないんです。これで良いのか、もっと良い選択肢があるんじゃないか、そんなことばかり考えています」

 

 なお隼鷹は答えない。

 ゆったりと酒を飲み、しめサバを口中に放り込む。

 しばし咀嚼し、また一杯飲み、それから口を開いた。

 

「戦場には、シナリオがあるんだ」

 

 唐突なその声に、祥鳳は顔をあげる。

 

「なんですか?」

 

 冗談かと思ったが、隼鷹はあくまで真面目な顔だ。

 

「戦の神さまかなんかがそれぞれの戦場にシナリオを作ってんだ。あたしたちはそのシナリオをなぞっているだけなんだよ」

 

 声をなく見返す祥鳳に、隼鷹は静かに続ける。

 

「戦いは、勝つときは勝つ。負けるときは負ける。祥鳳がいくら真面目に考えても、その戦いが大きく変わることはない。その戦いにはそのシナリオが準備されてるんだよ。それを書き直すことはできない」

「それは…………、ずいぶんと無力な話じゃないですか」

「そうさ」

 

 隼鷹がゆったりと笑った。

 

「艦娘でもできることなんざ、限られている」

 

 言いながらグラスを傾けて、「いい酒だぜ」などとつぶやいている。

 

「あたしらみたいな小さな鎮守府に渡されるシナリオなんて、そうそうにいいものなんてないさ。みんなが平等なシナリオなんて渡されない。あたしたちが一生懸命殲滅したはずの深海棲艦が次の瞬間には倍に増えてる。そういうことさ」

 

 静かだが重みのある声が響いていた。

 束の間の沈黙の中、とんとんとん、とまな板の音だけが聞こえる。

 

「だとしたら、私たちは何をしたらいいんですか?」

「それを考えるのが、あたしたちの仕事」

 

 とんちのような答えが返ってくる。

 

「と言いたいけど、その仕事はな、もうやってくれてる奴がいるんだ」

「誰ですか?」

「さあ? ヒントを言うなら、そいつはシナリオを覗けるんだ」

 

 ますます分からなくなってきた祥鳳に隼鷹が語を継いだ。

 

「大切なことは、傲慢にならねぇことだ。シナリオそのものの形を変えられない。限られた戦力の中で何ができるかを真剣に考えることだ」

 

 ゆっくりとグラスを傾けて、そっと付け加えた。

 

「その意味じゃ、祥鳳はいい仕事をしたぜ」

 

 そのさりげない一言が、隼鷹からの労いの言葉だと気づくのに、数十秒かかった。

 再び静寂が舞い降りた。

 わずかな時間をおいて、いつのまにか鳳翔が現れ、新たな酒を注いでいく。客の会話に興味がないように見えて、その呼吸のひとつひとつまで拾い上げたような見事なタイミングだ。

 

「ありがとうございます」

 

 祥鳳は、ほとんど無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。

 故に隼鷹も何も言わなかった。

 刺身が運ばれ、串カツが届けられ、黙々と2人は飲み、食した。

 陶然と酒に酔い、しばしの無言の献酬が繰り返されるうちに、ふいに祥鳳の携帯電話が不吉な着信音を響かせた。

 隼鷹が「おいおい」と呆れ顔だ。

 その場で祥鳳が応答する。2言3言かわして携帯を下ろすと、隼鷹がため息混じりに問うた。

 

「またでたのか?」

 

 祥鳳は目の前のグラスに視線を落としてから答えた。

 

「いえ、もう何もいないそうです」

「いない?」

「いくら索敵しても駆逐艦ひとつも見当たらないようで、応援の方は引き上げるそうです」

 

 答える祥鳳の方が、困惑顔だ。

 

「提督が珍しくイライラしていること以外は、もう大丈夫だそうです」

 

 数瞬の沈黙を置いてのち、隼鷹が愉快そうに笑った。

 

「言っただろ。シナリオにはそう書いてあるんだよ」

 

 笑いながら空にしたグラスを持ち上げて、「鳳翔さん、もう一杯」と告げた。

 隼鷹の聞きなれた快楽な笑い声が響く。

 祥鳳はしばし言葉もなく、グラスに満ちた澄んだ液体を見つめていたが、やがて手を伸ばし、静かに傾けた。

 

 

 ────

 

 

「おはようございます、祥鳳さん」

 

 キッチンに顔を出した祥鳳の耳に、いつもの霧島の声が響く。

 

「おはようございます」

「昨日もまたずいぶんと遅かったですね」

 

 霧島の案ずる声に、しかし祥鳳はきまりが悪い。

 遅くなったのは、隼鷹と飲みすぎたのだから、あまり胸を張って言えるものではない。

 

「お茶でも飲みますか」という霧島の言葉にうなずきつつ、歯を磨く。束の間歯ブラシを動かして祥鳳がおやと思ったのは、いつもならそろそろ部屋から出てくるはずの軽空母が顔を見せていないからだ。

 

「千歳さんはどうしたんです?」

「不在です。ちょっと用事があるんです」

 

 霧島の遠慮がちな言葉に、祥鳳は歯ブラシを止めて眉を寄せる。

 

「用事ですか?」

「ええ、今回の戦闘で提督のやることが山盛りですから。加えて、長門さんも不在。叢雲さんもまだ休憩中なんです」

 

 霧島は、湯のみにお茶を注ぎながら、苦笑とともにそんなことを言う。

 祥鳳はさらに沈思してから、ようやく問うた。

 

「つまりは、秘書艦代理ですか?」

「平たく言うとそうなります。千歳さん本人の言葉にすると"神様のご利益があった"ということになりますけど」

 

 思わぬ展開に、祥鳳は言葉がない。無闇に涼しげな桔梗が一輪、花瓶に入れられて飾ってある。

 

「とりあえず、お茶でも飲みますか?」

 

 呆けている祥鳳に霧島は優しく声をかけた。

 その提案に祥鳳はゆっくりとうなずくのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

変哲お嬢と鉄仮面隊長

前回から4ヶ月くらい経ちましたがまだ生きてます。








「合同訓練、ですって?」

 

 やや怪訝そうな顔で熊野は聞き返した。

 昼飯時も過ぎ、出撃予定もない熊野にとってこの時間は紅茶をゆっくり味わうのにうってつけなのである。

 

「そう。明日の昼からってさ」

 

 臙脂(えんじ)色のセーラー服に、ショートカットに切りそろえた緑がかった髪の艦娘は合同訓練の内容が書かれた紙を熊野に渡した。

 

「とても急な話ですわね」

「僕も提督に急に呼ばれてびっくりしたよ。もしかしたら、この前の演習でまた衝突しちゃったせいで怒られるかもって」

「ふふ、ありそうな話ですわ」

 

「もー、そんなこと言わないでよ」と最上は言うがどことなく楽しそうである。

 最上と熊野、ともに最上型であり姉妹艦に当たるのだが、血縁関係は全くない。しかし、同型艦ということ、一緒に出撃することが多いことから自然と仲が良く、友達のような関係である。

 

「それで、どこの艦隊と訓練するのかしら?」

「黒風隊だってさ」

「黒風隊‥‥? 不思議な名前の艦隊ですわね」

「うん。でもかっこよくない? 全員黒で統一された精鋭部隊、みたいな感じで」

「全身黒ならまるで深海棲艦みたいですわ」

「あはは、それもそうだね」

 

 そんな他愛のない話をしている2人の元に白い軍服を着た男が現れた。その姿を見るや否や最上は身体を固くした。対して熊野は相変わらず紅茶を啜っている。

 

「どうしたんですか、西住さん」

「お前ら、明日黒風隊との合同訓練なのだろう?」

「はい。提督からそう伝えられました」

 

 この西住という男、艦娘たちの間ではすこぶる評判が悪い。

 と言うのも、彼は基本的に艦娘たちに対してどこか見下している節があるらしく、常に彼女らに高圧的な態度であるからだ。それだけならまだいいが、理不尽な説教やめちゃくちゃな作戦などで艦娘たちのやる気を削いでいく。それが提督の補佐役を務めてるからタチが悪い。

 

「我が鎮守府の顔として情けない姿を見せるなよ」

「はい、分かってます」

 

 この鎮守府の古株の方である最上は彼の対処の仕方もこなれたものである。が、同じぐらい一緒にいるはずの熊野はいつまでもカップを片手に窓の景色を眺めている。

 

「ときに熊野」

「何かしら?」

「お前も明日訓練であるはずなのに、呑気にお茶とはいい身分だな」

「おかしなことかしら? わたくしは休憩の時間なのですから、何をするのも自由じゃなくて?」

 

 基本的には自由なお嬢様の熊野は、最上のような対応はできない。ただ思ったことをありのままに口にする。その結果、西住と衝突ないし彼が激する羽目になる。

 

「そんな体たらくで明日の訓練で無様な姿を見せたらどうするのだ!」

「安心してくださいな。このわたくしがそんな姿を見せるはずがありませんもの」

 

 彼も彼だが、熊野も熊野でどこから湧いてくるかも分からない自信を持っている。 戦場での熊野といえば、素っ頓狂な声を上げることで有名なはずであるのだが。

 

「まあまあ、西住さん。なんやかんや熊野は戦績をあげてるからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

 なだめる最上に対して、西住は「ふん」と鼻を鳴らして踵を返し、戻っていった。後に残るのは相変わらずお茶を嗜む熊野とやや疲弊した最上だけだ。

 

「はあ〜」

「あら、随分とお疲れですわね」

「誰のせいだと思ってるんだよ」

「さあ??」

「……はあ〜」

 

 一連のやりとりが西住の理不尽な物言いに対して、熊野が憤ったのではなくただ天然なのだから最上も大変だ。ただ最上は何も言わずにため息をつくだけである。

 

「それで合同訓練の相手の黒風隊はどんな方達かしら? 名前だけだとなんだか屈強な人たちの集団のような感じですけれども」

「うーん、結構有名らしいけどね。提督も驚いたって言ってたぐらいだし」

「それで西住さんはあんなに気が立ってらっしゃったのね」

「そうかもしれないね。ただ言いがかりをつけるのはいつものことだけど……」

「そこはただ我慢、ですわ。それに慣れたらどうってこともありませんわよ」

 

 慣れる慣れないの問題で済む問題ではないはずだが、重巡熊野にはそんなことも通用しない。

 それも熊野の強さだ、と最上は内心感服していた。

 

「ま、どんな人たちかは明日実際に会えば分かるさ」

 

 それもそうですわね、と首肯しながら熊野は飲み干したカップを静かに置いた。時間も時間なので、お茶の時間をお終いにしようと熊野は立ち上がる。その直後だった。廊下から足音が聞こえてきたのは。

 黒い髪の男が夕方の光に当たる。

 背丈はそれほど高くなく、体型もやや細いがいたって普通。白い軍服が基本的なこの界隈では異様なラフなトレーニングウェアをまとっている。

 なによりも熊野が印象に残ったのはその目だ。どこか無機質で、何を考えているのか捉えづらい、そう言った印象を熊野は抱いていた。

 いくら多種多様な艦娘がいるこの鎮守府でもその男は初見だ。

 何かを探している様子で歩くその男は熊野たちの姿を認めると、真っ直ぐに向かってきた。

 熊野と最上は突然の見知らぬ客に少し体を硬くした。新しくやってきた人なのだろうか。それにしてはいささか格好がラフすぎる。もしくはどこからか迷ってきた変人……

 近づいてきた男は、真一文字に結ばれたその口を開いた。

 

「この鎮守府の提督はどこですか?」

 

 抑揚ない、低い声だった。

 

「えっと、うちの提督に用があるのかな?」

「ええ」

「ちょっと待っててね。提督を呼んでくるから」

 

 と最上が言うと、熊野に耳打ちした。

 

「少しこの人の相手してもらえないかな?」

「わたくしが?」

「だって見るからに怪しい人じゃん。軍の関係者ならいいけどそうでもなかった時に備えてさ、ね?」

「はぁ〜、別に構いませんけど」

 

 最上は顔を上げると男に笑顔を見せてからその場を立ち去った。残されたのは熊野の怪しい男と沈黙だけである。

 

「つまらないことをお聞きしますけど、軍の関係者かしら?」

「そうです」

「……それにしては随分と軽装ですのね」

「そうですか」

「…………」

 

 この男よほど口下手なのか単純に会話を嫌がってるのか。熊野の質疑に対して端的にしか答えないから会話が続かない。

 熊野は男の顔を見たが、まるで彫刻のように変化がない。歳は若いようだが、それにしては目があまりにも冷たすぎる。

 

「その……最上が帰ってくるまでお茶でもいかがかしら?」

「お気遣いありがたいが、紅茶は苦手で。遠慮させてもらう」

「そ、そう……」

 

 この後も熊野はさまざまな話題を探しては話すが、返ってくるのは「そうですか」のみ。ここまでくると流石の熊野も困惑しかない。

 ただ最上が戻ってくるのを心待ちにするだけだ。そんな矢先、

 

「おーい、提督を連れてきたよ」

「も、最上!」

 

 最上と人の良さそうな顔をしたやや老齢の男性がやってきた。

 

「あれ、どうしてそんなに疲れてるの熊野」

「それは……ってこれは後でいいですわ。それよりも彼を」

「そうだね。提督、この人が提督を探してたよ」

「おお! 八幡さんじゃないですか!」

 

 提督が声を上げると、八幡と呼ばれた男は頭を下げた。

 

「いきなり訪ねてしまって大変申し訳ありません」

「いえいえ、こちらこそ無理を言って来てもらったんですから」

 

 どうやら一応軍の関係者らしい。まだ八幡という人物をよく知らない2人はただ彼を見つめるしかない。

 

「おっと、君たちは知らなかったかな?」

「うん。八幡さんはここの補佐に就任するの?」

「いいえ、応援としてやってきました」

 

 応援というと、よその鎮守府の提督か何かかなのだろうか。

 

「うむ、ちょうどいいか。紹介しよう、明日からうちの応援としてしばらくここにいることになった、"黒風隊"の隊長を務める八幡武尊殿だ。君たちが一番お世話になるかもしれないから今のうちに挨拶しなさい」

「よろしくお願いします」

「よろしく、八幡さん」

「よろしくお願いしますわ」

 

 黒風隊の隊長──のちの民間軍事会社のトップとなる八幡武尊とその社員となる熊野の最初の出会いであった。

 無表情で何を考えているのかわからないこの男と、自由奔放で少々人とずれてるこの艦娘の関係が長くなることをまだこの2人は知らない。

 

 

 ────

 

 

「上から応援の必要があるかと聞かれてね。最近は出撃も多いし、ダメージを負う娘も増えてきている。このままだと少しきついだろ? だから是非お願いしますと言ったんだ」

「まあ、たしかにそうだね」

「その応援がまさか黒風隊とは思ってもいなかったよ。とても心強い応援だ」

「わたくしはあまり、その黒風隊のすごさを知りませんわ」

「あら、そうだったか」

「僕も名前だけかな、知ってたのは」

「まあ、うちは少し辺鄙な場所にあるからな。あまり聞きなれないかもしれない」

 

 提督は少し苦笑いを浮かべながら言った。

 さて八幡が訪問を終え、帰っていってから数十分後。提督についていくような形で熊野と最上は執務室に顔を出していた。無論、その用件は八幡武尊と黒風隊についてだ。

 提督が喜ぶこともあって、その戦果は生身の人間であるはずなのに艦娘たちと引けを取らない。ただ、人智を超えた能力を持つ艦娘に肩を並べるのにはそう簡単なものではない。彼女らと同じ舞台で戦う──深海棲艦と戦いでは、犠牲も払った。大から小までの怪我は日常茶飯事で、死という存在は遠くはなく、実際にほぼ壊滅したこともあった。彼らがここまで来たことは一言二言では足りない。

 ゆえにまだ若手であるはずの八幡が乗り越えてきた修羅場は数知れない。あの無機質な目もその過程でそうなってしまったのだろう。だからこそ、あまり期待しないで応援を要請した提督は柄にもなく喜んでいたのだろう。……残念ながら熊野たちは知らなかったが。

 

「そんなお方がここに来るなんて、不思議ですわ。言っては悪いですけど、ここはあまり重要だと思われていませんでしょう?」

「ま、まあ」

「優秀な人たちは大きな鎮守府に引き抜く、これが今までの流れでしたわ。それがいきなりこんな小さな鎮守府に名高い部隊が来るなんて、不思議に思っても仕方がないですわ」

 

 こういう時に、熊野は核心をつく。

 提督はあはは、と力なく笑う。

 

「ま、まあ、これから一緒に戦うんだから、仲良くしていこうじゃないか」

「それができたらいいのですけれど…………」

「僕はちょっと苦手かなあの人」

 

 むしろあの初対面で好印象を持つ者がいるかどうかも怪しい。最上が苦手とするのも無理もない。

 

「とにかく、頑張っていこうよ。熊野」

「ええ、そうするしかありませんわ」

 

 

 ────

 

 

 合同訓練の日は晴天に恵まれた。

 黒風隊を一目見ようと、休みのはずの艦娘たちまでもが顔を出して、にわかに活気付いていた。

 

「見世物ではないんだがな…………」

「何かおっしゃいましたか?」

「いや、ただの独り言だよ」

 

 その提督の発言に、秘書艦を務める高雄は一瞬不思議な顔をしたものの、そこは気配りができる彼女である。言葉のニュアンスを感じとり、それ以上の追及はしなかった。

 その腕にはバインダー。そこには数枚の紙が留められており、記入事項がこれでもかとある。

 

「いきなり、記録員をさせてすまないね。本来なら西住くんの仕事なんだが…………」

「西住さんも今日は張り切っていましたから。黒風隊が来たということで」

「せっかく今日は休みだったろうに」

「これも秘書艦の仕事です。それに今日は予定もなくて暇でしたから」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

 

 そう言い、軍帽を外し、白髪の混じった頭を掻いた。

 

「それはそうと、今日の主役が来てますよ」

「お、ついにお披露目か。高雄、頼むよ」

「了解しました」

 

 高雄はバインダーから海へと視線を移す。その真剣な眼差しにつられるように、提督もまた海に視線を移した。そこには青い海に異様な黒い5つの水上オートバイが見える。

 黒風隊の名の通り黒で統一された装い。2人1組で水上オートバイに乗っている。

 全員ヘルメットを装着し、綺麗に隊列を組む様子はまるでアンドロイドの集団かのようだ。艦娘たちとは全く異なる集団。

 しかし、彼らは艦娘たちに負けず劣らずの強さを有している。

 

「八幡さん、準備の方は?」

「できてます」

 

 相変わらずの低い声が無線機から返ってくる。艦娘たちとは違い生身では海に立たない彼らは水上オートバイに跨り、武器を手に深海棲艦たちと戦う。いったいどんな戦い方をするのか──ここにいる誰もがそれに興味を示している。

 一瞬の静寂の後に、提督は高らかに告げた。

 

「始めッ!」

 

 直後に提督の声に反応して、5個の人型の的が出現した。それらの位置は規則性もなく、間隔はバラバラだ。

 それらは八幡たちには豆粒程度にしか写っていない距離だ。艦娘なら偵察機を使って距離を把握することも可能だが、彼らはどうするか。どのようにまず位置を把握するのか。

 そう考えていた時だった。

 黒風隊は八幡を先頭に全速力で走り出していた。

 

「ほお…………」

「いきなり突っ込みますか」

 

 彼らは迷わず、エンジンを全開に突き進んだ。的の場所や数は伝えていない。本来ならまずはある程度接近し、数や位置を把握してから攻撃をはじめるものだ。しかし、彼らはそんなそぶりも見せずに攻撃を開始しようかとしている。

 そして、おそらく的の射程距離圏内と思われる距離に達した瞬間、あれほど綺麗に組まれていた陣形がいきなりバラバラとなった。1組は、そのまま蛇行をしつつもまたの正面へ、1組は右側面へ1組は左側面へ…………まるで敵に的を絞られないようにしている動きであった。

 バラバラの方向から的に接近していくとついに後ろに乗った隊員がそれぞれ短機関銃を構えている。射程距離に入った瞬間、乾いた連射音とともに的に弾痕を作っていった。

 側から見れば、それぞれが縦横無尽に動く彼らが衝突しそうでヒヤヒヤものである。しかし、そんな心配をよそにスピードを緩めることなく的の間をすり抜けつつ攻撃を続ける。

 一見適当に走り回っているように見えるが、攻撃のタイミングはそれぞれ規則性がある。誰かが距離を置いたかと思えば、別の誰かが距離を詰め攻撃する。彼らの攻撃には間がないのだ。

 気づけば的は原型をとどめないほどに撃ち込まれ、黒風隊は何事もなかったかのように再び綺麗な陣形に戻っていた。

 迅速かつ正確な動き。見事なものだった。提督の傍らでは高雄が忙しなく手を動かし、記入している。

 しかし…………

 

「これからはどうだろうか」

 

 黒風隊の向かい側から5人の艦娘が姿を現した。

 これからが本番であり、今までのはちょっとしたレクレーションだ。ただ浮いている的とは違い、彼女らは無論動くし、攻撃もする。

 スタートの合図はない。どちらかが動けばすぐさま、攻撃が始まるだろう。

 

「どう思う、熊野?」

「どう思う、って言われましても…………」

「僕はちょっとビックリしたかな。噂と現物は違うね」

「でも、わたくしは負けは嫌いですわ」

「うん、僕もだよ」

 

 熊野と最上を筆頭に艦娘たちは主砲を黒風隊に定めた。

 当たり前だが主砲に込められているのは実弾ではなく、ペイント弾。相手は生身の人間だ。一発でも当たれば即死は免れない。

 

「全員撃て!」

 

 最上の掛け声とともに一斉に主砲を放った。

 黒風隊は一気に加速し、躱し、そして直進してくる艦娘たちに正面から突っ込む進路をとる。

 

「結構好戦的だね」

「言ってる場合ですの? もうすぐそこまで来ていてよ」

「分かってるって」

 

 最中も最上たちは主砲を乱射する。いくら素早い黒風隊と雖も雨のような攻撃はひとたまりもない。

 近づくに近づけず、彼らはとにかく徹底的に回避をし続けた。右へ左へと不規則に動き回り、避ける。時々、すぐ横に着弾はするものの、あれだけの量の弾幕に対して直撃は未だにない。

 

「なかなか当たらないっ!」

「焦る必要はありませんわ。避けるだけなら、相手に勝ちはありませんわ」

 

 熊野の言うとおりである。避けるだけなら、負けもないが勝ちもない。しかし戦場で生き残る術は勝つのみ。故に勝たなければ意味がない。

 それは彼らも理解しているのか、回避一辺倒だった黒風隊は意を決したように急速に距離を詰めてきた。それと同時に彼らも攻撃を開始する。

 艦娘たちの主砲とは違い、短機関銃の攻撃は小さな弾をこれでもかと放つ。

 

「うっ…………」

「鬱陶しいですわ!」

 

 的の時と同じように、それぞれがバラバラの向きから突っ込んでくる。それに対して、最上や熊野らはなかなか的を絞りきれない。

 大したダメージはないものの、積み重なれば相応のダメージとなる。1組に狙いを定めようたすれば、別の組がすかさず攻撃し、それに反撃しようとすれば離脱される。翻弄されてばかりの彼女らは徐々に押され始め、連携も疎かになり始めた。

 

「これが黒風隊…………」

 

 提督はただ圧倒されるだけだった。比較的平穏な場所で過ごしてきと言っても、激戦をくぐり抜けた彼らの洗練された動きを見て何も思うわけがない。

 

「みなさん! 翻弄されてはいけませんわ! 確実1つ! 1つ当てましょう!」

「わ、分かった」

 

 熊野の一声でがむしゃらに撃っていた彼女らは狙いを定めて撃っていくようになった。いくら邪魔をされようと無視。とにかく1つ。

 熊野は攻撃するために近づく1組に狙いを定めた。

 相手が攻撃する瞬間に撃つ。後ろに座る隊員が銃を構えたとき、熊野もまた主砲を構えた。構えている隊員のヘルメットの向こうには記憶に新しい無機質な目が。

 

「とぉぉ↑おう↓!」

「!!」

 

 しかし、熊野の放った砲撃はヘルメットを掠めただけであった。お返しと言わんばかりに雨のように銃を打たれる。

 勝負は明らかだった。

 ほとんどペイント弾の汚れがない黒風隊、ペイントまみれの艦隊。ただの人間に艦娘が相手した筈だ。だが、それの差を凌駕するほどの統率力、戦術、経験を彼らは有していた。

 

「さすが、としか言いようがない」

「…………はい」

 

 提督も高雄も想定外であったのだろう。しばらくなただ唖然とその様相を眺めていた。

 艦娘が意気消沈する中、熊野はただ1人、黒風隊を、自分が外したその無機質な目を見つめていた。

 

 

 ────

 

 

 惨敗を喫した熊野たちを待ち構えていたのは額に青筋を浮かべた西住であった。

 

「貴様ら! あれほど無様な姿を見せるなと言っただろッ!」

「…………」

「艦娘でありながらこの体たらくを恥ずかしいと思わんのかッ!」

「面目ありませんわ」

「なんだあのふざけた攻撃は。よくそんな姿を見せれるな」

 

 ただでさえ敗戦で意気消沈している彼女らに、弾幕のように西住は罵声を浴びせ続けた。

 怒鳴りつけるのはよく見る光景だが、今日は一段と憤っているようだ。さらにひたすら俯いている彼女らの姿がまた癪に触ったらしく、

 

「貴様ら、俺をバカにしているのか!」

「そんなつもりは…………」

「ならなんだ! その舐めきった態度は!?」

 

 なだめようとしても焼け石に水だ。西住はだんだんヒートアップしていく。

 

「第一に、日々の鍛錬がなっとらん! 週3のみの訓練だと? 俺が現役だった頃は毎日だったぞ!」

 

 次第に話は今日の訓練からも逸れていく。こうなると長くなってくる。日没まで終わるのだろうか、そんなことを熊野が考えていると、意外な人物が西住の話を遮った。

 

「すいません」

「なんだッ!」

「黒風隊の広瀬と言うのですが…………」

 

 その声の主は隊長の八幡とは違い、物腰穏やかな好青年であった。

 

「はっ、申し訳ない。少し熱くなってしまいまして」

「お取り込み中ならすいません。しかし、しばらくこちらにいる以上、西住さんにも顔を合わせないと思いまして」

「そうでしたか」

「ええ、時間があれば隊長と交えて話でもと思ったのですが…………」

「いえいえ! 少々彼女らに喝を入れていただけですから。その隊長殿はどちらに?」

「今は会議室で今日の反省を行ってます」

「なら、今からでも向かいましょう」

「本当ですか? お願いします」

 

 と西住はさっきまでの怒りも何処へやら。そそくさと会議室へ足を進めていった。その後をついていくように広瀬という人物も向かったが、途中で止まると振り返りウインクした。そして、そのまま廊下の奥へと行った。

 

「…………よかった〜」

 

 西住の姿がなくなるのを確認すると、ひとりの艦娘がそう呟いた。

 

「優しそうな人だったね、あの広瀬さんと会う人」

「そうですわね。少々キザな人のようでしたけど」

「そうかなぁ? わざわざ怒鳴っている人に話しかけたってことは、僕たちを気遣ってくれたんじゃないかな。そうならとってもかっこいいと思うけど」

「あら、最上はああいう人がお好み?」

「やだなあ熊野。そういう意味じゃないよ」

 

 そういう最上だがその声はどこか浮ついているようだった。他の娘も同様らしく、さっきコテンパンにやられた相手そのものにも関わらず、かっこいい人だなどと言っている。

 

「それにしても、今日の西住さんは機嫌が悪かったね」

「まあ、あれだけ惨敗したらあの人は怒りますわ」

「いつも思うけどそこまで怒らなくてもいいのに。僕みたいな志願して艦娘になった娘ならともかく不承不承ながらやってる娘もいるんだから」

 

 艦娘になるには誰でもいいわけではない。艦娘になるには適性がいるのだ。それは戦闘能力でも頭脳でもない。妖精が見える、艤装を装着できる。そういった"バカらしい"と言われるようなことを求められる。

 

「そうですけど…………。わたくしとしては今日の敗戦はなかなかに応えましたわ」

「たしかにあそこまで黒風隊が強いとは思わなかったね」

「それもあるのですけれど…………あそこまでわたくしたちが連携を取れなかったのが驚きでしたわ。わたくしも含めて、訓練を怠ったつもりはありませんわ。曲がりなりにも艦娘として一所懸命に頑張った自負がありましてよ。それなのに、あんなに簡単に一方的にやられるなんて…………」

「そこまで気を病むこともないよ。たしかに悔しいけど…………僕たちの仕事は深海棲艦を倒すことだから」

「…………それもそうですわね」

 

 それでも熊野は悔しさを隠しきれなかった。たしかに最上の言う通り、やりたくて艦娘をやっているわけではない人もいる。しかし、熊野はなりたくてなった側の人間だ。艦娘ということに誇りを持っているし、今まで妥協してきた記憶もない。

 

「っと、もう時間だね。僕は戻るよ」

「ええ、また後で」

「うん、じゃあね」

 

軽く手を振ってから最上は小走りで去っていった。こうなれば熊野もすることがなくなる。ここは大人しく部屋に戻ろう、そう思い彼女もまた歩を進めた。

 

「ところで八幡さん、今回うちの艦娘たちと演習がありましたがいかがでしたか?」

 

その路の途中、西住の声が部屋から聞こえた。思わず熊野は歩みを止め片耳を立てた。

 

「うちの艦娘では物足りなかったでしょう」

「そんなこともありませんよ」

 

西住の言葉に返答したのは広瀬であった。肝心の八幡の声は聞こえない。

 

「しかし、彼女らは艦娘でありながらその立場に甘えて鍛錬を怠っている。恥ずかしながらもそれが今日出てしまいまして」

 

鍛錬、鍛錬と西住は口に出すが実際に彼がその鍛錬の場にいることは少ない。文句を言うだけ言って後は何処へやら。

 

「………もう時間でしょう。これ以上は西住さんの執務に支障が出てしまう。今日はここまでで」

 

言葉こそは丁寧であるが、早く終われと言っているようにも聞こえるくらい冷たい口調であった。だが西住にはそう聞こえなかったらしく、

 

「そこまで気にくださって………噂お聞きしましたが、本当に有能な方達でありますね」

「ありがとうございます」

 

西住が立ち上がったを察すると熊野は慌てて、その場から立ち去った。

 

「………思ったよりもひどいようですね」

「はなから期待していない」

「しかし、ここまで艦娘たちをバカにしている人がいるとは」

「だからって、俺たちがどうこうする話ではない。だから、何かしようとは思うな」

「………善処します」

「頼むから、ことを立てないでくれよ。また飛ばされてはかなわん」

「それは隊長でしょう。何割かは自分にも非があることは認めますが、決定打を打ったのは隊長ですからね」

「わかってる。それよりも今日の相手だが………」

「ちょっと、実戦不足なのは感じましたけどね。でも鍛錬不足ではない感じだと思います」

「概ね君と同じだな。1人気になる奴もいたが」

「へえ、誰です?」

「名前は知らん。栗色の髪だったような気もするが」

「えーっと、その娘は………」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話11"ちび"

 鎮守府において工廠はとても重要な場所である。装備の開発や修理など、工廠がなければまず鎮守府として成り立たない。

 その重要さ故、この鎮守府では開発関しては提督の干渉もほとんどなく、ほぼ任意で行うことを許可されるほどである。

 それは橘さんと言う人物を八幡が信頼している証でもある。彼亡き今、その工廠をまとめるのは彼の教え子である明石と夕張である。

 彼女らは技術は確かではあるのだが、少々好奇心が暴走してとんでも機械を生み出すところがある。だから、最初こそは提督は心配していたものの、明石たちは至って真面目に工廠を回していた。今では完全に任せっきりである。

 そこで長門は困惑していた。

 それは不測の事態や未曾有の危機を想定し、実際に対応してきた彼女にとってもそれは予想外であったからだ。

 工廠に顔を出すと執務室を出て行った以来、なかなか帰ってこない提督を不審に思って工廠に顔を出しただけなのだが。

 

「ふむ…………」

 

 暫く思考が停止していたようだ。

 どうしたものか。

 

「…………」

「…………うう」

 

 彼女と見つめ合う目がそこに。

 その目はとても警戒しているようだった。

 提督の目は彼女よりも低い位置にある。

 それ自体は悲しいがいつものことだ。しかし、違和感があった。

 その違和感とはその低さが普段よりもっと低いことである。

 

 

 

 提督はちっちゃくなっていた。

 

 

 

「…………ふむ、提督よ。これは何の真似だ?」

 

 とりあえず長門はたずねてみた。

 

「…………し、知らないよ」

 

 幼い頃の提督そのままだ。

 しかし、不思議だ。どんなことも動じず怖いもの知らずとも思われた男が、今ではこんなにおどおどした子供になっている。

 

「な、撫でないで…………」

 

 全く威厳もへったくれもあったものではない。

 というか、正直。

 可愛い。

 

「とりあえず、これはどうしたものか…………。肝心の明石と夕張はいないしな。叢雲あたりに相談するか」

「お、おろして! 肩車しないで! うう…………」

「安心しろ。危害は加えん」

「ほんと? ほんとに? 落ちない?」

 

 肩でビクビク怯える提督(小)を肩車したまま、彼女は歩き出した。

 

 

 ────

 

 

 広間の前を通ると隼鷹と千歳がいた。

 

「隼鷹」

「おお!? いやいや、の、飲んでねーよ!」

「落ち着いて隼鷹。余計怪しくなっちゃうじゃない。今は少し暇なだけよ」

「わかってる。別に暇な時に飲んでも構わんだろう。提督が怒るのは、飲んで暴れることだ」

「それはそうか」

「それで、長門は何か用があるのかしら? というか…………」

 

 これが見よがしに肩に担がれた小さな男の子に千歳と隼鷹は気づいた。長門に担がれているちび提督は、長門の頭に隠れるようにして覗いている。

 

「…………」

「そこの坊主は誰の子だい? よく見ると…………、提督に似ているような…………。って、もしかして! まさか?」

「何を勘違いしているかは知らんが、私の子ではないぞ」

「なーんだ。てっきり、あんたと提督の子かと思ったんだが。それだったら面白いのに」

「何が面白いんだ。そんなことなら一大事だぞ」

「いやまあ、そうなんだけど。それよりも、誰の子なんだよ」

 

 幼き頃からの仲であることは周知の事実である。

 しかし、それイコール恋仲というわけでもないのだ。加えて、2人とも根っからの軍人気質であるため、それらしい噂をほとんど聞かない。

 とはいえ、2人の気の知れた会話をしているところを見ると、他の娘は気が気でない。

 

「今はそんな話をしている場合わけじゃない」

「にしても、随分と人見知りだね」

 

 提督(小)は隼鷹に目線すら合わせようとしない。

 

「それで一体全体なんなんだい」

「そもそもこれは誰だ?」

「あたしが知るわけがないだろ」

 

 残念ながら問題の解決とはならなかった。

 とは言え、3人は思い当たる節はある。

 

「やっぱり、あいつらの仕業かね」

「最近は真面目だなぁ、と思ってたんだけどね」

「ふむ。妙な機械を作ったのかは知らんが、迷惑な話だ」

 

 3人の頭には、ご都合主義な機械を生み出す2人の機械バカの顔を思い浮かべていた。

 

「一番簡単な推測すると、提督が小さくなったってことだろうねえ」

「確かにそうだな」

「にしてもずっと長門さんの頭に隠れてますね」

 

 ちび提督に威厳がなければ、長門も真剣味が削げてくる。それにしても締まらない状況。

 

「しっかし、可愛いなあ。普段あんだけ無愛想だから余計」

「な、なに…………」

 

 ちび提督は隼鷹を警戒している。子供は警戒心が強いものだが、提督は人一倍警戒心が強いらしい。

 

「じゃあ、便宜上この提督をタカちゃんと呼びましょう」

「お、いいねえ。ほーれ、タカちゃーん」

「タカちゃん…………?」

「か、可愛い!」

 

 普段とのギャップのせいか、可愛らしくなってしまった提督に千歳は興奮している。

 

「面白いもんだねえ。あの提督がこんなになっちゃって」

「そうか? 今も昔も変わらないと思うが」

「いやあ、全然違うよ。特に目とか。こんなにつぶらな瞳だったなんて」

「こんな時代も提督にあったのね」

「そりゃあるだろ」

「それより、私にも抱っこさせてよ」

「別に構わんが…………」

 

 提督(小)は長門の頭から離れようとしない。無理に引き離そうとすると余計に長門の頭に絡みつく。

 

「離そうとするとこの通り、足で首を絞められるのだがな。たかが子供だからたいしたこともないが」

「顔が青い青い」

 

 駆逐艦たちなどで子供の扱いはある程度慣れている。しかし、その正体が提督であれば話は別だ。気の使い方が半端ではない。

 

「とりあえず引き離すか」

「無理すんなって! 閉まってるって!」

「ぐう!」

「顔青いって!」

「結構長門に懐いているのね。タカちゃん」

「うー…………」

「そんな感じだな。もういっそ何か分かるまで長門が母親代わりでいいんじゃない?」

「ぞっとしないな」

 

 この鎮守府のトップがいないのと等しい状況なのだ。早めに解決しなければならない。

 

「でもさ、明石たちがやらかしたのならいつ戻るかもわからないんじゃない?」

「それもそうだな」

「じゃあ元に戻らない可能性もあるよな」

「それは困る。そうならぬように、あいつらに色々言わなきゃならん」

「そもそも明石たちが原因じゃないならどうするつもりなんだよ」

「そうなったら、あいつらに頼んで元に戻してもらうしかない」

「調子がいいのか、顔の面が厚いのやら」

「状況が状況だ。手段も選んでおれん」

「そんなことよりも、頭の上でうとうとしているタカちゃんをどうにかしましょうよ」

 

 疲れたのか提督(小)はこくりこくりと船を漕いでいる。

 

「今なら肩から下ろせるんじゃない?」

「ふむ、そうだな」

 

 と隼鷹がゆっくりと提督(小)を長門の肩から降ろした。そして、そのまま近くのソファに寝かせた。すぐに提督(小)は目を閉じた。

 

「はあ〜、可愛いわ。昔ってこんなに可愛かったのね」

「これがどう成長したら、あんな鉄仮面になっちまうのやら」

「別にいいじゃない。大人の提督も十分素敵よ」

「へいへい。それでこん時の提督ってどんな感じだったんだ? 長門」

「どんな感じと言われてもだな…………」

 

 何せ幼い頃の記憶だ。不明瞭なところもある。

 

「無口だったな」

「それは今と変わんねぇじゃないか。あたしが聞きたいのは違うところだよ」

「そう言われてもな…………。このくらいの時は、随分引っ込み思案で身体もそんなに丈夫ではなかったな」

「身体弱かったのか。確かに痩せすぎだとは思うが」

 

 長門と隼鷹が会話している中で、千歳はひたすら提督(小)を見つめていた。

 

「可愛いのは認めるけど、さすがにデレデレしすぎじゃねえの?」

「やばいわね」

「はあ…………やばいってのは?」

「ただでさえ子供は可愛いのに、提督が子供ならもう凶器よ」

「すぅ…………」

「…………」

「さすがにそこまでじーっと見ていると、気味悪いぞ」

「今なら母乳が出る気がするわ」

「前言撤回、今のあんたは気持ち悪い」

 

 すると長門の懐から電話が鳴った。すかさず長門は電話に応答する。

 

「すまん、提督を頼めるか。隼鷹と千歳」

「いいぜ」

「もちろんよ!」

「本当に頼むぞ、隼鷹。今はお前だけが頼りだ」

「任せとけ」

 

 そう言い残し、長門は足早に去っていった。残されるのは3人のみ。

 

「よし執務室に運ぶか」

「ちょっと待って。執務室の前に私の部屋に連れてかない?」

「はあ? 騒ぎの起きる前に執務室に入れとかないとやばいだろ」

 

 今日の隼鷹は至って正論を言っている。こんなに隼鷹がまともに見えるのは酒のないせいなのか、千歳が暴走しているせいなのか。

 

「いいでしょ? 少しだけ! 少しだけだから」

「少しだけって何だよ!? 金剛とかに見られたらどうするんだ!」

「……どうしたの?」

「あ、起きちゃった? ごめんね、騒がしくして」

「…………大丈夫」

「あーもう、可愛いっ!」

 

 そう言うなり千歳は提督(小)をギュッと抱きしめた。明らかに痩せ気味の身体は簡単に壊れてしまいそうだ。しかし、肌は大人の頃よりも明らかにきめ細やかで、女の子のようだ。

 

「そんなに強く抱きしめたら…………」

「く、苦しい…………」

「あ、ごめんね」

 

 そうは言うものの千歳はその腕を緩めはするが、そのまま持ち上げてしまった。

 

「自分の名前は言える?」

「や、八幡武尊」

「よかった。自分の名前は覚えているようだな」

「あー、肌ももちもち」

「そんなに頬をすりすりすんなって。早いとこどうにかしねえと」

 

 驚くほど提督(小)は軽い。孤児であることは幾度か聞いてはいるが、子供時代に何があったのかは長門と陸奥しか知らない。

 

「広間で何を騒いでるのかしら」

「お、叢雲か。今日は非番じゃないのか?」

「ええ、だから司令官の手伝いでもしようかと思ったんだけど執務室にいなかったのよね」

「そ、そうか」

 

 このとき、提督のことを話すか隼鷹は迷った。無闇に今の提督の状態を知っている人は増やしたくない。でも、叢雲くらいのしっかり者なら知られても問題はない──むしろこちらも助かるだろう。

 少しは話す話さないの両者は拮抗していたが、元来の面倒くさがりな性格が自分も負担を減らしたいと言う欲望をかき立てた。結果、話してしまおうとなったのは言うまでもない。

 

「その千歳が抱いてる子は誰かしら? 千歳の知り合いの子?」

「その…………聞いてもあんまり驚くなよ?」

「はあ、もしかして千歳の子とか?」

「それはそれで衝撃だけど」

「それにしても、なんだかとても見覚えある顔ね」

 

 そりゃそうだ。なんせその子はいつも見ている提督そのものだから。

 

「そいつ提督だよ」

「は? 何を意味の分からないことを…………って、もしかして」

「ああ、そのもしかしてだよ」

 

 すると叢雲の目からすーっと光が消えていった。

 

「司令官に…………子供…………いたの…………?」

「え? だからその司令官だって」

「恋愛に興味がないって、散々私のアピールをスルーしてきて他の女と子供作ったの?」

「ちょっと落ち着け、叢雲。話が飛躍している」

「どうして? 最近はこの鎮守府じゃ、わたしか一番距離が近付いてるって思ってたのに…………」

 

 徐々に叢雲から不穏な雰囲気が漂っている。というか、もう声がどんどん無機質になっている。

 

「ちょ、落ち着けって。おい、千歳からも教えてやれ」

「何か食べたいのある?」

「…………アイス」

「よし! お姉さんと今から食べに行こう!」

「いつまでもデレデレしてんじゃないよ! あーもう二日酔いでもないのに頭痛がしてきた…………」

 

 眼前には真っ黒なオーラ全開の叢雲が、後ろには顔が蕩け切っている千歳が。隼鷹もこの鎮守府きってのイロモノ枠ではあるが、それは酒が入っている時の話だ。素面であれば意外と真面目である。

 

「叢雲! あれば提督の子じゃない」

「じゃあ誰の子なのよ! 見てよあの顔。司令官に瓜二つじゃない! あれが司令官の子じゃないわけないじゃない!」

「だ・か・ら! あれは提督そのものなの! あれは八幡武尊なの!」

「そ、そうなの…………?」

「そう言ってるじゃないか!」

「ご、ごめん。少し取り乱したわ。それもそうよね。あいつが誰かと寝るなんて想像もつかないし」

 

 まだ叢雲は多少は取り乱しているようだ。

 

「じゃあなんで、あの姿に?」

「それは知らない。が、長門が工廠に行ったらこの姿の提督見つけたって言ってたから十中八九明石と夕張だと思うけど」

「はあ〜〜。それじゃあどうするのよ。うちは司令官なしじゃ回らないわよ」

「それをゆっくり考えるため執務室で作戦会議でもしようかと」

「ならなんでここではしゃいでるのよ」

「やめてくれよ。はしゃいでんのはあの胸タンクだぜ」

 

 いまだに千歳は提督(小)にデレデレしている。その様子を呆れ顔で見る。

 

「それで、早いとこ司令官隠さないでいいの?」

「ああ、やっと話が通じるやつが出たよ」

「はあ? こんな姿の司令官見られたら暴動が起きるわよ」

「そうだぞ、千歳」

「さ、早く司令官をこっちに」

 

 そう言い叢雲は手を差し伸ばすも、千歳は微塵も動かない。

 

「提督は渡さないわよ」

「…………司令官、行くわよ」

 

 ずいと叢雲は提督(小)に顔を近づけるが、怖がっているのか提督(小)は千歳を少し強く抱きしめた。

 

「あら残念。提督は私がいいみたい」

「司令官? いつもお世話してあげてるじゃない」

「し、知らないよ…………」

「おいおい叢雲、今は子供なんだぜ? そんなに強い言葉をかけたらびびっちまうよ」

「くっ…………」

「そうよ。それにこの子は人見知りだから優しく接してあげないと」

 

 ね、提督? と言いながら千歳は叢雲に見せつけている。

 千歳は人当たりも良く、雰囲気的にも接しやすい。しかし、叢雲は確かに仕事もできるがどこか近づき難い空気がある。まして小さい子供はそういう空気を敏感に感じる。

 

「んまあ、叢雲はちょっとなあ…………」

「何よ」

 

 隼鷹は叢雲のある一点を見つめる。

 駆逐艦の中では大きい方。しかし、一般的な女性では…………。ましてや魅力的な女性が多く、体のプロモーションもモデル並みの娘が多い鎮守府の中では圧倒的に戦闘力不足のそれ。

 隼鷹がどこを見ているのか叢雲は少し顔を赤くして、

 

「ばっ! そこは関係ないでしょ!」

「でも、提督も男だぜ?」

「今は子供じゃない」

「子供だからこそ、そういう母性溢れる女がいいんじゃないの?」

「あら私ってそう見える?」

「そんなのどうでもいいわ」

「強がっちゃって。知ってるんだぜ? 毎晩毎晩マッサージしてんの」

「は、はあ!? どこでそんなこと…………」

「そりゃあ企業秘密だ。千歳、このツンデレ秘書艦はいいから執務室に連れて行くぞ。もう満足しただろ?」

「しょうがないわね。ま、私が提督の好みだとわかったしいいわ」

 

 そんなことは隼鷹は一言も言っていないが、そんなことを言わない方が千歳も幸せだろう。

 

「あ! いました!」

 

 ふと遠くから声が聞こえる。

 

「明石!」

「いやあ、探しましたよ」

「探したって…………原因はやっぱりあんたかい」

「やっぱりとはなんですか!」

「こんなことを起こすのは明石ぐらいしかいないでしょ」

「いやまあそうなんですけど…………」

「そんであんたの処分は提督が戻った後として、何があったんだい?」

「ちょっとした事故なんです!」

「ちょっと? 司令官がこうなっているのに?」

「これには少し深いわけが…………」

 

 

 ────

 

 

「おーい。明石はいるか?」

「はーい。ここにいますよ」

 

 昼前の工廠に提督は顔を出していた。今日も今日とその顔色はひどく、ゾンビに近い何かになっていた。

 

「相変わらずひどい顔ですね」

「それよりも、君がくれた書類だが少し不備があったんだ。訂正を頼む」

「了解です。ついでにここで少し休んだらどうです? お茶くらいしか出せませんけど」

「いや、そこまで気を使わんでもいい」

「気を使わなくていいと言われても…………」

 

 はっきり言って今の提督を気遣うな、という方が難しい。

 

「また徹夜ですよね? いい加減身体を労ってくださいよ。もう30なんですから」

「まだ20代だ」

「そこに意地を張らないでくださいよ…………。もう身体の衰えは始まってるんですから、気をつけないと本当にぶっ倒れますからね」

「無駄なお節介だ…………、と言いたいが君のいうことも一理ある。最近はどうも疲れが抜けないし、なによりも眠れん」

「あー、夜も起きてるから身体がおかしくなっちゃってるんじゃないですか?」

「そうかも知れん」

「そうだ。丁度よく最近作った栄養ドリンクがあるんです。少し試してみませんか?」

「断る」

「そんな迷いもなく言わなくても」

「君が作ったものはろくなものがない。その被験体にされてたまるか」

「大丈夫ですよ! ベースは高速修復剤ですから」

「ますます安心できないじゃないか! そもそも、艦娘に使う代物を人間に使う発想がおかしい」

 

 明石はどこにしまってあったのか1つの小瓶を取り出した。

 

「ここにありますから、1本…………」

「飲まん」

「頑固な男性は嫌われますよ?」

「その手で俺が飲むと思ってるのか?」

「わかってますよ。ちぇっ」

「わかってるなら初めからしまっとけ。ふあぁ…………」

「じゃあ、書類の訂正しますね」

「ああ、頼む」

 

 書類を受け取ると、明石はすぐさま取り掛かった。

 しばらく沈黙が続く。さて、今の提督の状態は極度の疲労状態である。それに加えて重度の睡眠不足。今のところまでは不屈の精神でどうにか堪えていた。しかし、今は静かな空間がある。そうなると提督は一気に睡魔に襲われる。

 重くなってきた瞼を必死に上げようとするも、まるで気絶するかのように眠ってしまった。

 

「…………よし、できましたよって、寝ちゃったんですか」

「…………」

「さすがの提督もキツかったみたいですね」

 

 表面上は提督を気遣う健気な艦娘だ。が、頭の中では恐ろしいことを思いついていた。

 

「今なら飲まさせられるわね…………」

 

 

 ────

 

 

「それで司令官にその栄養ドリンクという名の劇薬を飲ましたのね」

「え、ええ…………」

「で、どうしたらその大丈夫な栄養ドリンクであの結果になるんだ?」

「ど、どうしてでしょうね」

「ああ? わからないっていうんじゃねえよな?」

「ひいい…………」

 

 今日の隼鷹は一味違った。酒が入ってないこともあるが、元はかなり真っ直ぐな性分である。この鎮守府の心臓と言っても過言でもない提督には、尊敬と多大な感謝を抱いている隼鷹にとっては今回の騒動は少し許せないようだ。

 

「ほ、本当に提督の疲労を取るために使ったんです! ただ…………」

「ただ?」

「疲労どころか色々失ったようです」

「よし歯ぁ食いしばれ」

「ごめんなさいごめんさい! 身体が一瞬で治る高速修復剤を上手く使えたら便利だと思ったんですぅぅぅう!」

「隼鷹、少し落ち着きなさい」

 

 少し我を失いかけていた隼鷹を引き戻したのは千歳であった。

 

「たしかに明石のやったことは褒められたことじゃないけど、別に悪気があったわけじゃないわ」

「悪気があるないと、やったことは別問題だ。上司を実験台だなんて聞いたこともないぞ」

「そうだけど、今ここでそんなに怒らないで。今は子供いるんだから」

 

 千歳の胸に抱かれた提督(小)は怒気の迫る隼鷹に怯えていた。その様子を見せられると隼鷹も鼻白む。

 

「…………はああ。今は提督に免じてあたしからはもう何も言わない」

「本当にごめん」

「それはあたしに言うことじゃないだろ。提督を元に戻してから、本人に言え」

「…………ええ、そうする」

「それで、明石は元に戻す方法を知ってるのかしら?」

 

 叢雲の問いに明石は答えた。

 

「多分、数日すれば元に戻るんじゃない? 高速修復剤を使ったと言ってもごく少量だから…………、すぐに効果も消えると思う」

「戻るのか。それは良かったが…………数日提督なしで切り盛りしないといけないわけだな」

「その辺は私たちが頑張ればいい話よ。問題は誰が提督の子守をするかよね」

「それはこの千歳に任せてほしいわ!」

「んまあ、千歳の動機が多少下心ありでも千歳に任せた方がいいと思うぜ。提督もなついてるし」

 

 隼鷹の言葉に少々叢雲は不満があったようだが、口には何も出さなかった。秘書艦という立場である以上、仕事を放棄して子守はできない。ましてやこれ以上、提督(小)の存在を広げてもいけない。誰が子守するかで戦争が始まるのが目に見えている。

 

「異論はないのよね?」

「私はありませんよ」

「あたしもだ」

「…………ないわ」

「よし、しばらくお姉さんといようね」

「うん」

 

 あれほど警戒心丸出していた子供が、今ではすっかり安心している。ならば、それを守ってやるのが大人の役目だ。今まで提督がしてきたように。

 

 

 ────

 

 

 翌朝。

 昨日のことがまるでなかったかのように、提督は普段通り執務をしていた。

 

「提督、あたしはどっから突っ込めばいいんだ?」

「んなことを考えてる暇があったら仕事をしてくれ。結局昨日は何もしなかったのだろ?」

「それはお互い様だけど…………。やっぱり昨日のことは覚えてんだな?」

「そ、そんなことはどうでもいい! 早く持ち場に戻ってこい!」

「へいへい」

 

 威厳もへったくれもあったものではない。

 しかし回復するのは提督にとっては急務だ。すでに昨日の失態は明石に説教をすることで取り返しているつもりである。

 それで威厳が戻るのかは怪しい話だが。

 

「調子が戻ったようですね」

「う、千歳か。昨日は、本当にすまなかった」

「何の問題もありません。提督に非はないんですから」

「そう言ってもらえると助かる」

 

 今日の提督は素直だ。

 その時の出来事を提督はきっちりと覚えていたのだ。その時、いかに心細かったことか。怯え、警戒したことやら。

 そして、千歳にずっと甘えていたことを。具体的なことはご想像にお任せする。

 

「無事で何よりです」

 

 そして、彼女は悪戯っぽい笑顔を提督に向けた。

 

「子供の提督さんはとっても可愛かったですよ」

「な!」

 

 あの提督が珍しく顔を赤く染めた。よっぽど今回のことが恥ずかしいらしい。

 

「そ、そそそそんなことを言わないでくれ…………」

「あら、気を悪くしちゃいましたか?」

「いや、そういうわけでは…………」

「それは良かったです」

 

 千歳はまた笑った。

 今までは誰にも頼ることもなく、弱みを絶対に見せたがらない男という印象が、昨日の出来事を経て大きく変わった。

 か細く感じた、小さな小さな提督を前にして、優しく包み込みたい気持ち。

 あの提督のおどおどした性格は大人になってから無くなったわけではない。成長するにつれ、強がりで隠してきただけなのだ。その隠された部分は今もきっと提督の奥底にあるはずだ。

 

「今回の件は君たちのおかげで大きくならずに済んだ」

「隼鷹のおかげでもありますけどね」

「ああ、分かってるさ。埋め合わせというわけでもないが、今度3人で飲みに行かないか」

「お酒に厳しい人が飲みに誘うなんて」

「なんだ、嫌なのか」

「いいえ、とっても嬉しいわ!」

 

 嫌なはずがない。千歳にとっては願ったり叶ったりのお誘いだ。

 

「楽しみにしてますからね」

「…………ああ、いい店を紹介するよ」

 

 叢雲が入室したのを見計らって、千歳はお暇するとこにした。

 偶然の出来事とは言え、提督の意外なことを知れたのだ。絶対に忘れないことだろう。

 

 

 

「あら熊野。今から執務室へ?」

「ええ、暇ですから顔を出そうと思っていたところですわ。…………ところで随分と今日は嬉しそうですわね」

「あらそう見える?」

「見えますわ。何か良いことが?」

「んー、そうね」

「あら、何があったのかしら?」

「秘密」

「え?」

「だから秘密よ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4章 化膿


 PTSDという病がある。

 

 日本語で心的外傷後ストレス障害、と言うらしい。心的外傷──すなわちトラウマによって、精神に異常をきたす病気だ。この病は命に関わる出来事が原因であることが多いらしい。

 

 無論、俺や艦娘たちのように戦地へ赴く者にとってはとても関係が深い。仲間の死や攻撃を受けて海の藻屑と化す恐怖などといった精神的ダメージが大きいのだ。

 

 まだ艦娘たちへのサポートが不十分だった時代はこの症状に陥る娘が後を絶たなかったらしい。当然だ。屈強な男たちですらその障害に陥り、苦悩する。ましてや、つい此間まで普通の女の子たちだった艦娘だ。そう耐えられるものではない。

 

 金切り声を上げ、体を震わせすすり泣く艦娘の姿を見たことがある。その艦娘はそこそこ経験を積んだ者だったらしいが、その瞳には恐怖の色しかなかった。目を閉じれば、仲間が海に沈む光景が広がり、まともに眠ることも叶わなくなった。

 

 もちろん、今では艦娘たちへのメンタルケアはとても厚くなった。兵装の進化や深海棲艦への調査が進んだことで、艦娘たちが轟沈することもほとんど聞かなくなった。そのお陰か、PTSDとなる艦娘も減っていると言う。我が鎮守府もその点については手を抜いてはいない。しかし、いかんせん小規模な鎮守府だ。なかなか手の届かないところもある。ひとりひとり手厚く対応するのは難しい。だが、今もこうやってやれているのは、この鎮守府の艦娘たちが優秀である他ない。それどころか彼女たちに自分が助けられている始末だ。

 

 夜も深まり、ただ波の音しかしない港で突っ立ている。

 

 黒い波が月を揺り動かす。押して、返して、静寂の中を波の音が響く。この景色を眺めていると、とても心地が良い。

 

 波の音が自分の記憶さえ押し流してくれる気がする。

 

 恐怖、悲哀、憤怒、そう言った負の感情を巻き込んで消してくれる。

 

 目の前で仲間が吹き飛んだ瞬間、鼻の先に深海棲艦がいた瞬間…………、提督としてそのような死地に年端もいかない娘たちを送り込むこと…………そんな苦悩も。

 

 この海を眺めていると、そういったものから解放される感覚になる。自分は波に飲まれ消えていく…………。誰も気づかぬうちに。

 

 ある日、精神科かどっかの医者からこのPTSDという言葉を聞いた気がする。親友を失い、仲間を失った俺がそうではないかと。俺はそれを認めなかった。ひたすら戦地に赴き、暇があれば鍛錬を積んで、その傷を押さえ込もうとした。無用な感情を徹底的に排除し、戦いに支障が出ないようにした。それが他人から見れば異常だったらしい。

 

 自分自身、おかしいとは思っていた。

 

 傷を隠しても次第に膿んでいく。布を当てて誤魔化しても、その傷から徐々に膿が出てくる。その膿は膨らみ傷を広げていく。膿を出さなければ大変なことになる。

 

 だから、俺は自分で膿を出すしかない。無理やり仕事というメスを入れ膿を出す。しかし素人では、ただ傷を増やし、膿も増やす。

 

 ダメだと分かっていても止めることはできない。何か仕事をしていないと、その膿に取り込まれる気がして。それで熟睡を何年もできていないのだから、きっとPTDSなのかもしれない。

 

 こうやって港に来るのも、何度目であろうか。

 

 いつもただぼーっと海を眺めている。

 

 波によって傷を洗い流した後、部屋に戻る。

 

 だが昨日はそうしなかった。いや、できなかったのが正しいのか…………。戻ろうと足を踏み出したのだが、平坦な地面を踏み外した。

 

 簡潔に言うと、俺はぶっ倒れた。慢性的な睡眠不足、過度な労働、艦娘がら傷つつくたびに自責の念に駆られる…………、よくよく考えれば立っていられているのも不思議なくらいではある。長たるものが情けない。

 

 民間軍事会社"鎮守府"ができて、初めて自分が医者の世話になった。

 

 何年ぶりかに病院のベッドの上で目覚めた。腕には点滴がつけられている。外傷もないのに病院送りなのは初めかもしれない。

 

 司令官? と言う声が聞こえる。

 

 ベッドの脇にある椅子に座っていた叢雲のものであった。まだ状況を把握できていない俺の顔を見て、叢雲は顔を少し歪めた。

 

「…………倒れたのよ、あんた。過労だってね」

 

 ため息まじりにそうこぼした。それに対して、俺は何も言わずにただ天井を眺めた。何か言うべきかもしれないが、言葉がなにも浮かばない。

 

「司令官…………、無理しすぎなのよ」

 

 叢雲がそう言う。

 

「自分の体調もわからないとはな…………。面目ない」

「あんたのせいじゃないわ。私たちがあんたに甘えてたせいなのよ」

「…………」

 

 違う、その言葉がなぜか出ない。

 

 はあ、とため息をつく。すると叢雲は俺の頭に手を置いた。長い銀髪が微かに揺れる。

 

「ごめんなさい」

「君たちのせいでは…………」

「私たちのせいなの。あんたは絶対、私たちのせいにはしないから。それに私たちが甘えていたから…………」

 

 普段、ズバズバともの言う叢雲が珍しい。ただ粛々と自分のせいだと言う。それが俺にとって、非常に苦痛だった。こうなったのは他でもないこの俺のせいなのに。

 

 ごめん、を繰り返す叢雲に対し、俺はなにも言えなかった。なぜ俺はこういった肝心な時に、必要な言葉をかけられないのか。どうして、こんな時に口を噤んでしまうのか。

 

「とりあえず鎮守府の方は大丈夫だから。広瀬さんが切り盛りしてくれてる」

 

 そうか…………。

 

「あんたはとにかくゆっくりして」

 

 そうか…………。

 

「司令官、聞こえてる?」

 

 ああ、聞こえている。

 

「…………大丈夫だ」

「嘘つき。大丈夫ならこんな風になってないでしょ」

 

 叢雲の呆れ顔がそこにはあった。

 

「大丈夫じゃないでしょ」

「すまない」

「謝らなくていいから、今は休んで。みんな心配してるのよ」

「そうか…………」

 

 迷惑をかける、そう言いかけて俺は口を閉じた。急激に吐き気を感じたのだ。だが腹の中には出すものがない。ただ咳き込むだけだった。

 

「大丈夫? 司令官」

 

 心配そうに叢雲が覗き込む。それに対してジェスチャーで大丈夫だと伝える。

 

「しっかり寝てちょうだい。仕事に復帰するのは全快になってから」

「ああ…………。そうしよう」

「元気になってね」

 

 そう言って、叢雲は微笑む。その可愛らしい笑顔に、一抹の不安を垣間見たような気がした。少し頭がぼやけているのかもしれない。なんだか視界も…………。

 

 なんだか、ぼーっとしてきた。おそらく睡魔がやってきたのだろう。睡眠薬か何かの類のせいだろう。波のように襲いくる睡魔に対抗することもなく、俺は意識を手放した。

 

「おやすみなさい、司令官」

 

 そんな声が聞こえた気がした。

 

 

 

 ────

 

 

 

 穏やかな寝顔。

 

 司令官が眠る瞬間がまるで息を引き取ったように見えて、私は一瞬焦った。

 

 初めて見る司令官の熟睡姿。本来ならこの寝顔を独り占めできることに喜びを感じるはず。だが実際は違う。心を占めるのは後悔や申し訳ない気持ち。

 

 ここには私以外誰もいない。長門が私に秘書艦なのだから付き添ってくれと言った。着替えや暇つぶしとなるような物を持って行き、私だけが見舞いに来た。

 

「司令官…………」

 

 2人っきりの空間。

 

 私にとっては願ってもない空間のはず。それは熊野や榛名たちにとっても…………。普段なら誰が見舞いに行くかで、一悶着もあってもいいはずだろう。

 

 私は安らかに眠る司令官の頭をゆっくり撫でた。堅い髪の毛の感触が手に。

 

 その顔色ははっきり言ってとても悪い。

 

「全く、少しくらいは休むと言うことを知りなさいよ。あんたが倒れたらみんなが心配するでしょ」

 

 そう言いながら、どの口がそう言っているのだとも思っていた。

 

 少なくとも司令官に異常があることは心のどこかで感じてたはず──。

 

「分かっていたはずなのにね。どうして言えなかったのかしら」

 

 司令官が倒れていたのに気づいたのは長門だ。港で倒れていたらしい。

 

 その時間は2時過ぎ。もちろん夜のだ。秘書艦の私はというと、呑気にも眠っていた。そのことを責める人は誰もいない。港に行く時、司令官は何か悩んでいる。そう教えてくれたのは長門だった。

 

 ああ。あの時、あんたは悩んでいたと言うの? なにをあんたを悩ませたの? 

 

 おかしな予兆はあった。最近は仕事の効率化が進んだこともあり、その日の執務は夕方には終わるようになっていた。しかし、司令官は前のように夜遅くまで働いていた。今すぐやらなくてもいいこともやり、工廠にも顔を出したり、何故か彼は常に何かの仕事をしていた。相変わらず寝る時間も削って。

 

 司令官の頬を撫でる。その手を止め、ここに向かう前に長門から聞いた話を思い出す。

 

 あいつは病気なんだ──。

 

 なら何故、司令官を助けなかったの? 

 

 私ならそれを知っていたらすぐにでも助けるのに。こんな姿に絶対させなかったのに。

 

 本当にそうだろうか? 

 

 後から言うのは簡単だ。それに長門が何もしていないわけでもないだろう。でも怒りがないわけではない。なんで教えてくれなかったのか。彼女にとって私は信頼できる人物ではないのか。いくら考えても答えは出ない。

 

 今はその答えは重要ではない。

 

 今は司令官の傷をゆっくり癒そう。傷があるまま復帰しても、また膿ができて今回のようになる。

 

 だからこそ秘書艦の私が、付き添ってケアをしよう。話をすればきっと心も軽くなるかもしれない。好きなことをすれば忘れることもできるかもしれない。

 

 司令官が、過去を忘れ…………、いや、しっかり向き合い、乗り越えることでその傷は治るのだろう。

 

 今は、とにかく私がそばにいることだ──。

 

 あせってはいけません。 ただ、牛のように、 図々しく進んで行くのが大事です──司令官が前にそう言ったように、今はゆっくりしよう。

 

「私がそばにいるわ」

 

 司令官の顔はピクリとも動かない。今こうして司令官を見ると、とても昔は前線で異形と戦ってきた者とは思えない。現役はとにかく鍛えていたと聞いた身体も細い。

 

 司令官はいったい何者か。

 

「…………」

 

 もう短くない時を共にしているのに、この人のことを何も知らない。

 

「司令官…………。どうしてそこまで隠すの?」

 

 何故伝えてくれない? 

 

「私はいつまでも待つわ。…………でも、あんたが壊れてしまうのは見たくないの。だから…………教えて。あんなの傷を…………。それとも私じゃダメなのかしら?」

 

 

 

 ────

 

 

 

 司令官が退院するのは1週間後と伝えられた。まだ夜は冷え込むこの季節。

 

 たとえ司令官がいなくとも鎮守府に依頼がなくなることはない。地道に築き上げた信頼である以上、簡単に壊すわけもいかない。とにかく今は司令官なしでどうにかしていく他ない。

 

 それ故に司令官に大勢で見舞いに行くこともできないため、私が代表として行くことになった。広瀬さんが代役として指揮し、長門や熊野を筆頭に古株が引っ張って鎮守府を回している。ただ司令官の不在はこの鎮守府によくない流れを作る。

 

 ある日、護衛任務を依頼され、霧島を旗艦とした艦隊を送ったが、その艦隊が手ひどくやられた。幸いにも護衛する貨物船に被害はなかったが、千歳と黒潮が大破、他も中破ないし小破という有様であった。もちろん大破した経験はあるこの鎮守府だが、最近は大破どころか中破もあまりなかったので、今回の件は鎮守府全体に不穏な空気を送った。

 

 戻ってきたみんなの艤装はボロボロ、大破した2人は重症で、特に千歳が酷かった。

 

「ごめんなさい…………。こんな時にこの様じゃねぇ…………」

 

 立つこともままならず、霧島に肩を借りてやっとの状態だ。装甲はほとんど剥がれ落ち、肩から(おびただ)しい量の血が流れていた。

 

 広瀬さんは慣れた様子で、指示を始めた。大破の者は赤、中破の者は黄色へ──。黒潮と千歳に関しては手の空いてるものが連れて行くように。

 

「千歳、横にするわよ」

「霧島ー! 担架を持ってきたぞ!」

「隼鷹、千歳さんを乗せるわよ」

 

 担架で運ばれる千歳と黒潮を見送った後、広瀬さんの方を見た。横須賀で指揮官を務めた経験もあるだけのこともあり、とても冷静で正確な指示をしている。それに呼応するように皆も動く。

 

「あ、あの、叢雲さん…………」

 

 神通がおどおどした様子で声をかけてきた。彼女が何が言いたいのかは言わずとも分かった。

 

「分かってるわ。司令官のことね」

 

 私は、司令官の容態を説明した。過労や寝不足によって気絶したということ。当面は病院で様子を見るから1週間は戻らない。

 

 すると長門が姿を見せた。彼女もまた忙しいはずだが、なんとか終わらせてきたらしい。普段は自信に溢れ、明朗な彼女も今はどこか余裕がなくなっている。長門にも神通と同じように説明した。長門は終始、深刻な表情で話を聞いていた。

 

 1週間戻らない、それだけで著しく鎮守府の士気がさがる。さらに今回のように任務で大きな被害を受けるとなると嫌な流れができてしまう。最悪の事態にならぬように気をつけなければならない。

 

 思っていた以上に司令官の存在が大きかった。精神的支柱の存在はとても重要であることを再確認せざるを得ない。

 

「このことはみんなに伝えたほうがいいんじゃない? 長門」

「ああ、そうだな。…………今夜みんな集めて緊急会議を開く。叢雲の方からも伝えておいてくれ」

 

 低い声で長門はそう告げた。

 

 快活な口調も潜め、司令官にも似た、抑揚のない声であった。しかし、その目はどこか決意に満ちた強い何かが灯っていた。何かあるのだろうか。

 

 それとも──。

 

 司令官の"病"とやらを伝えるのだろうか。

 

「詳しい話は会議でだ。今はとにかく状況を乗り越えることが先決だ」

「それもそうね」

 

 兎にも角にも、疑問は頭の片隅に追いやろう。もちろん長門にはまだ聞きたいことが山ほどある。しかし、今それをぶつけたところで何もならない。今はやるべきことが多い。それを消化してから、じっくりと長門から話を聞こう。

 

「神通、ちょっといいかしら? 手伝って欲しいことがあるの」

「は、はい!」

 

 私は踵を返して、持ち場に戻ることにした。神通は慌てて返事をして、後を追ってくる。2人の容態も心配だが、そんな暇もない。それにしても…………。

 

「司令官の病、ね…………」

 

 

 

 ────

 

 

 

 普段はあまり使われない部屋──会議室に今宵は艦娘でいっぱいになっていた。大破の千歳や黒潮はこの会議に出席していないが、中破だった者は入渠を終えている。肝心の長門がまだ姿を見せていない。いったい何をしているのか。

 

 私はふと病室で見た光景について思い返していた。何度思い返しても陰鬱な気分に陥る。その光景は汗をかいていた司令官の身体を拭こうとした時だった。

 

 汗を拭くのだから、もちろん司令官の肌を見ることになる。そこであることに気づく。私は彼の肌をほとんど見たことがない。当たり前だがそれは別に卑猥な意味ではない。彼は滅多に肌を露出していなかった。年がら年中、彼は長袖であり、着替えている姿も見たことがない。

 

 そのせいか、少し自分のドキドキしていたことを白状する。それを置いといて、彼が何故肌を見せないのかはすぐに分かった。その身体には幾多の傷が刻まれていた。弾痕であったり、火傷の跡であったりと、至る所に痛々しい傷を残していた。そりゃあ、生身の人間が深海棲艦と戦ったのだから無傷の方が不思議ではあるが、それでもこの傷は少なからずショックを受ける。ただそれよりももっと気になる傷が手首にあった。

 

 それを見つけた瞬間に、長門がやってきた。その時の長門は苦虫を噛んだような顔だった。

 

 おそらくこの"傷"は誰にも知られたくなかったのだろう。でなければ常に長袖である理由もつく。それに長門の口から、“司令官はこの傷を誰にも見られたくなかった"と言った。そして、彼は「PTSD」であるということも聞いた。

 

 この病気事態、私たちの耳にはよく入る言葉ではある。なにせ戦場に出るたびに命の危機に瀕する環境だ。いやでも大きなストレスを抱える。自分だってそのストレスに押しつぶされそうになったことは何度もある。

 

 世界にはいろいろな恐怖がある。しかし、命の危機に直接関係する恐怖体験はなかなかない。私たちはいつもその恐怖を味わい、時には身近な人が実際に死ぬ瞬間を目にすることさえする。

 

 だから体だけでなく、心にもものすごく負担がかかると言える。長門曰く、司令官がそうなったのは自分の部隊が壊滅した時からだと言う。その中には親友とも呼べる人物もいたらしく、その人が深海棲艦に喰われる瞬間を間近で見たらしい。その時を境に、司令官は周りからおかしくなったと言われ始めたという。表情を変えず、ただ淡々と戦地に機械の如く赴く。寝る時間も削り、鍛錬に打ち込んだという。とにかく戦い続けないと、その瞬間を思い出し、恐怖や後悔、憤怒といったごちゃ混ぜな感情に呑まれ、どうにかなりそうなんだ、と彼は言っていたらしい。

 

「PTSD」の患者は、不眠症に陥ったり、感情の麻痺が起きたりするという。昔の司令官がまさにそうだったらしい。しかし、そのトラウマを刺激する戦場からは逃れることもできなかった。

 

 今もなお、彼はそうなのだろうか。

 

「…………違う」

 

 そうだとは思えない。

 

 だってあの人は…………。

 

 その時、会議室のドアなった。コンコンという音が響いた後に長門が姿を現した。

 

「すまない、遅れた」

「ずいぶん遅かったわね」

「ああ、少し佐久間さんから電話が来てな」

 

 つかつかと歩き、会議室の上座まで行ったところで、話を始めた。

 

「みんな知っていると思うが、提督が倒れた」

「…………ええ、過労と聞きましたわ」

 

 熊野が沈んだ様子で答えた。

 

「テートクは大丈夫なのデスカ!?」

「とにかく体調のほうはしばらく休めば大丈夫だそうだ」

 

 何やら引っかかるような言い方だ。無論、その理由を知る叢雲は何も言わなかった。

 

「体調のほうは、ね…………。まるで他に異常がある言い方じゃねぇか」

「鋭いな、隼鷹」

「そんな言い方されれば、いやでも勘ぐる」

 

 隼鷹の表情には普段見られる陽気な様子は微塵もない。今までの隼鷹からは想像つかぬほど深刻な顔をしていた。それもそうだ。うちの司令官に何か異常があることが分かれば、そう冷静にもなれない。

 

「簡潔にいう。提督はPTSDという病気を昔から患っている」

 

 その病名を知っている者は顔を顰め、知らぬ者はただならぬ響きに動揺していた。ただその中で熊野や広瀬さんは表情を変えなかった。知っていたのだろうか。ざわつく会議室の中、隼鷹が切り込んだ。

 

「そのPTSDと提督が倒れたのには何か関係あるのか?」

「ああ」

 

 長門は少し息を吸ってから続けた。

 

「それになってから、提督は慢性的な不眠症や感情の麻痺に苦しんでいる」

「感情の麻痺って…………、今は感情の起伏が少ないけど、しっかり笑ったりしてくれるじゃん」

「今はな、川内よ。今はいくらか改善している。ただ相変わらず不眠症は治ってはいない。それに、あいつは無理やり働いて昔のことをフラッシュバックすることを回避し続けている」

 

 長門は堅い顔を崩さない。それに対して、他の皆は司令官の初めて聞く側面に少なからず動揺しているようだった。当然だ。今まで一緒にいた人が精神病を患っていると聞かされれば。ましてや、今回は倒れた要因にもなっているとなると。

 

 長門は咳払いをする。

 

「それよりもこれからの話が重要だ。しばらくは提督なしでやっていかないといけない。今回の被害で分かったと思うが、提督の存在は大きい。いない、それだけでこのような結果となるくらいだ」

「ええ、それは分かり切ったことでしょう」

 

 沈黙を続けていた広瀬さんはここで口を開いた。その声色は厳しいものだった。そして、どこか非難めいた目線を長門に向けている。

 

「今が正念場というのは、長門さんが言わずとも皆理解しています。皆が知りたいのはそんなことではない。知りたいのは隊長の詳細でしょう」

「…………」

 

 長門は何も答えない。

 

「わたくしも、ワタルさんと同意見ですわ」

「僕たちがかつていた黒風隊は…………、いわば対深海棲艦の特殊部隊でした。しかし、その存在意義は僕がいた頃とその前では大きく違ったんですよ」

「…………」

「ワタルさん…………」

「最初の頃は、本当にただの捨て駒だったんですよ」

「え?」

 

 皆、驚くどころか、絶句している。

 

「ちょっと待ってよ。艦隊のサポートをする部隊じゃなかったの?」

「僕が所属する頃はそうでしたよ、川内さん」

「で、でも、そんな話聞いたこともないよ? 第一にそんなひどいことをこの時代にできるわけないじゃない」

 

 驚愕する川内とは違い、広瀬さんは驚くほど冷静であった。そして、細い顎に指を添えて答えた。

 

「できたんだよ、それが」

「は?」

 

 ますます驚く川内に広瀬さんは説明した。

 

 そもそも黒風隊に配属される人物はどんな人だったのか。それは親族がいない孤児であった者たちだった。例え、死んでもそれを悲しむ者はいない、気づきもしない、問題もない、とても都合がいい存在だったと。彼らに与えられる任務は常に特攻に近い。真正面切って深海棲艦に立ち向かい、奴らが黒風隊に気を取られている間に黒風隊もろとも砲撃する。そんな扱いであったと。

 

「よくここまで生き残りましたよ」

 

 広瀬さんは苦笑しながら言うが、私たちは笑ってもいられない。黒風隊の存在は知っていても、そんなことは知らなかった、そんな表情だった。

 

「あの人は何度も見ているんです。仲間が死ぬ瞬間を。生身の人間が砲撃に当たる瞬間を。簡単に人が弾け飛んだと、言ってましたよ。そんな瞬間を何度も見て正気でいられる方がおかしいと思うんですよ」

 

 私は司令官がふと見せる表情を思い出した。ただ遠くを眺める司令官を。その目は無機質を通り過ぎて、本当にガラス玉なのではと思うくらい濁りきった目だった。その自嘲めいた司令官の表情が、私は好きではなかった。

 

 まるで生きたくないと言わんばかり。今いることを後悔しているのか。そのまま海に身を投げ出してしまうのではないか、と不安になる。

 

 その姿は軍神ではなかった。死神だ。死神が彼に纏わりついているように思えた。

 

 彼には希望がないのだろうか。生きているとこを悔いているのか。その瞬間だけを切り取るなら、彼は間違いなくPTSDを患っているのだろう。でも、そうではないと思えることもある。

 

 彼には、彼には表情が──。

 

 しっかりとある。

 

 そうじゃないのか。感情の起伏が少ないと(いえど)も彼の柔らかな笑みを知っている。苦笑する時も見ている。それご全て作られたものであるはずがない。それが嘘なら…………。

 

 いや、そんなことはない。PTSDだったとしても、彼はそれを癒つつあるはずだ。

 

「隊長は常にギリギリの状態で戦っていたんです。でも、それも親友を失ったことで決壊してしまった。全ての感情に蓋をした」

「広瀬、もういい」

 

 長門がそう静止する声を上げるが広瀬は止まらない。

 

「そんな隊長に、僕は何もできなかった。僕はあれほど隊長に救ってもらったのに。でも、今がその恩を返す時だった思ってます」

「もちろんだ。あたしたちだって、提督に恩返しの一つや二つする気満々だぜ?」

 

 隼鷹の言葉に呼応するかのように、沈んでいた空気が変わりつつあった。やはりここは民間軍事会社"鎮守府"だ。一人一人の癖は強いが、こうなったときの結束力はどこよりも強い。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

 俺のこれまでの人生は、自分の性格が良くも悪くも強く作用してきたものだと言える。

 

 俺は記憶がある頃には親はおらず、消極的な性格が災いして孤独なものだった。体格も同年代の子たちに比べれば小さく、他の子からしてみれば絶好の虐める対象であった。いくら殴られても、仕返しすることもできず、助けも求めれなかった。大事にしてきたクレヨンを捨てられたこともあった。

 

 昔からだ。こういう時に声をあげればいいのに、それができないのは。

 

 そんな俺に手を差し伸ばしてくれる者がいた。

 

 そいつは、女であるのに誰よりも快活で、なによりも腕っ節が強かった。忘れもするまい。いじめっ子に立ちはだかり、男顔負けの強さで追い返したことを。そして、何よりも明るい笑顔で俺に手を差し伸ばしてくれたことを。

 

 それが長門との出会いだった。いつもただ、ぼーっと空を眺めている俺のもとにいつも来てくれ、"何してるんだ? "と声をかけてくれた。あまり動かない俺を引っ張って遊びに無理やり参加させたこともあった。それからは俺は頻繁に彼女と一緒になることが増えた。

 

ただ、うまくいかないこともある。自分たちは里親を待つ捨て犬だ。しかし、時代が時代だった。深海棲艦のせいで、子供を引き取る余裕がある家庭などほんのわずかだ。いつまで経っても俺たちに新しい親が来ることはなかった。だが引き取る子は増え、成長していく。そうなると孤児院の負担は半端ではない。そんな時、自衛隊の方から深海棲艦に対抗するための隊員養成所の募集がその孤児院に来た。

 

その話によれば、入るのは無料だといい、それどころかお金がもらえるとのことだった。高校生であった俺は、迷わずその話に飛びつき、高校を中退しそこへ入った。

 

手続きが完了し、俺が孤児院から立ち去る際、明るい長門は泣きじゃくっていた。そして、こちらが少々痛いほど、力強く抱きしめてきた。

 

「どうして………、どうして行くんだ?私たちはいつも一緒だったじゃないか………」

 

高校生になり、面持ちは凛とした雰囲気を持つようになった長門が子供のように泣きじゃくっていた。そんな長門に対して、俺はただ笑顔を見せた。

 

「そんなに泣かなくてもいいだろ?今生の別れでもないんだから」

「言ってたじゃないか。どんな困難も一緒なら乗り越えられるって………」

 

俺もそう思っていた。どんなにきつい状況であっても彼女の笑顔を見れば、どうにかなると。しかし、少しずつ"将来"というものが近づき、意識し始めると途端に、その思いが瓦解して行くように感じていた。言ってしまえば自分たちは世間から見れば"弱者"だ。だが、守ってくれる親はいない。

 

かと言って、防衛手段にも乏しい。そんなと不安を抱きはじめた時に舞い込んできたのが自衛大丈夫からの話だ。そんな美味しい話には裏がある。そうは言うが、まだ子供な俺がそこまで見えているわけでもなかった。

 

長門は一頻り泣いたあと、その涙を拭い、その目で俺をじっと見据えた。

 

「お前は一度決めたら強情だからな。いくら私が言ってももう変えないだろう。だから、もう止めやしない。この先辛いこともある。そんな時は、思い切ってやめてしまってもいいんだぞ?」

 

「………長門は過保護だなぁ。もう昔みたいないじめられっ子ではないんだ。辛いことも苦しいことも乗り越えてやるさ」

 

「そうか………。なら、言うことはもう一つだけだ。絶対に私たちのことを忘れないでくれ」

 

「ん?そんなこと、君の印象が強すぎてやろうとしてもできないよ」

 

「………次会った時に、すぐに思い出さなかったら承知しないからな」

 

「はは、それは恐ろしいな。まあ、そんなことはないさ。自衛隊は楽な道ではないことは分かっているし、あとは気持ちだけだ」

 

これから自分は、慣れたこの場所から去っていく。新しい場所で、自分がどうなるかはわからない。だからこそ、自分に言い聞かせるように言い放った。

 

「………きっと、明日はいいことばかりさ」

 





また、間隔空きましたがまだ投稿してます。
次も長くなるかもしれません。気長に待ってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



しばらくは、八幡提督の過去話が続きます。


 身体はお世辞にも恵まれてるとは言い難く、日々の鍛錬で鍛えられた男たちの中では、俺は随分と異分子であった。訓練についていくのがやっとで、毎日胃の中を吐き出しながらもどうにか他の隊員と肩を並べるように食らいついた。いつもなら辛い時に長門の存在が救いになっていたが、当然だがいない。

 

 いなくなって初めてその存在のありがたさを知る、と言うことはよく聞く話だが…………なるほど、まさにそうだとこの身をして実感した。

 

 しかし、自衛隊としての生活が全て苦しかったわけではない。自分の周りの訓練生はみな同じく孤児院の出身であったのだ。どうやら俺に舞い込んできた話はいろんなところでされていたらしい。

 

 やはり境遇が似ると、話が合うらしい。今までの生い立ちや苦労、孤独…………親がいない者同士だからこそ腹を割って話せる友と呼べる仲間ができたのはかけがえのない財産であった。

 

 孤児院や学校で話す相手といえば専ら長門か陸奥しかいなかった自分だが、その養成所で初めて男友達というものを手にした。そうなるとたとえ苦しくとも、不思議と乗り越えれるものであった。早く訓練生を卒業して、隊員となって活躍しよう、そんな約束もあの時みんなで結んだ。

 

 そして、その約束であり目標であった"隊員になる"というのは自分たちが思っていた以上に早く達成することとなる。

 

 あの時こそ、喜び合い、自分たちの鍛錬が身を結んだと思っていた。だが、今となって考えると生身で深海棲艦と戦いたがる人がいなくなったから、訓練生でも構わず連れてきただけだ。

 

 待ちに待った、自分たちの初陣。その初陣が俺の傷の始まりであった。

 

 敗戦であった。それも大敗。 

 

 当然だ。1年間徹底的に鍛錬し、幾度も集団演習もやってきた。しかし、人間の力を遥かに超える深海棲艦相手に、1年間という期間はあまりにも短すぎた。演習での敗戦とは違い、実戦の敗戦には犠牲が伴う。16人で編成されたできて間もない部隊は、たった一戦でその数を3人に減らした。何人かは相手の砲撃で木っ端微塵に吹き飛び、海の藻屑と化した。爆風で海に放り出された者は、そのままイ級になす術もなく飲み込まれるか、カ級に海底に引き摺り込まれた。自分含め3人生き残っただけでも奇跡に近かった。

 

 運が良かったのだろう。いや、どうだろうか。この運は悪運と呼ぶべきか。兎角もこの運に俺は幾度も命を助けられることとなる。そしてそのたびに、死んでいった者たちの顔を脳裏に焼き付けられていく。

 

 そんな満身創痍な俺らを待っていたのは、戦場に出やしない上官たちの冷遇だった。

 

 彼らからしたら俺たちは死んでも誰も困らない、ただの捨て駒だったのだろう。でなければ、わざわざ全員が孤児院出身で構成するわけない。しかし、それが分かったところで何の後ろ盾もない俺らが、名家の血筋を持つ彼らに歯向かえることもない。いくら大声で助けを求めても、あいつらに有耶無耶にされる。

 

 もはや、俺らは人間ではなかった。ただの使えない道具だ。ぶくぶく太った上官どもに、顎で使われ、捨てられる。いくら功績あげたところで、その功績の行先はあの豚どもだ。俺らに残るのは"何もない"。

 

「明日は…………きっといいことばかりさ」

 

 毎日そうやって呟かないと気が狂いそうだった。常に命の危機に瀕し、こき使われ、罵倒される日々。明日に何かをかけなければ生きている意味さえなくなってしまう。

 

 俺は耐えた。どうにか正気を保ち、戦場からは必ず生きて帰った。そうできたのもあの時生き残ったうちの1人──親友とも呼べる存在がいたからだ。その男は門叶(とが)龍弥(りゅうや)という名前だった。どんなに苦しいときでもその男は膝を折らなかった。それどころか今にも倒れそうな俺や他の者に手を差し伸ばすまであった。

 

 仲間が死ねば悲しみ、仲間が活躍すれば手放しに喜び、落ち込んでいるものがいれば相談にのったり。俺と同じように死地を何度も行き交い、仲間の死をその目に焼き付けてきたはずだ。戦うたびに死に対して鈍感になり、感覚が狂ってきた俺とは違い、いつまでも変わらずお人好しなまでの優しさを龍弥は決して失わなかった。

 

『機械』。いつしか周りは俺のことをそう呼ぶようになった。

 

 どんなに傷つこうが、仲間の死を見ようがなんの、表情も見せなくなった俺にはぴったりだった。ただ戦場に行き、故障したなら修理し、もう使い物にならなければ捨てればいい、そんな存在なのだからそうだろう。

 

 機械だと、呼ばれようが、疑問に思うこともなくなった。受け入れた。

 

 龍弥はその考えをなくそうとしてくれた。「お前は人間に決まってる」と、いつも俺に言い聞かせていた。それでも、度重なる戦いで破壊され尽くした人間としての尊厳は、もはや修復もできしない。

 

 それでも彼はめげずに、俺のために色々してくれた。

 

 話だけでなく、彼はいろんなことを教えてくれた。彼の話に対して、俺はあまり反応を見せなかったが、彼の話す内容は常にとても興味深いものだった。その中でも彼は兵法に詳しかった。

 

 龍弥はそういった類のものが元々から好きだったらしく、本を借りては読んでいたらしい。実際に、戦場での彼はその膨大な知識を活用し、たびたび俺たちの活躍を導いていた。俺はあまりその内容を理解できていなかったが、それでも戦局の機微がわかるようになってきた。

 

 その結果、今までただの烏合の衆に過ぎなかった俺らの部隊は徐々に頭角を表すようになってきた。犠牲も少なくなり、顔ぶれが固定され、部隊としての結束力も強まった。もしかしたら、ようやく俺らも認められる存在になれる──そんな一抹の期待を俺たちは抱き始めた。

 

 そんな時に、海軍に1つの転機が訪れた。急速に艦娘が頭角を表したのだ。艦娘──その存在自体は元々から知ってはいたが、その適性が誰にあるのか、どのように扱ったらいいのかがほとんど分からず実用性は皆無だとされていたため、実戦で目にしたことは一度もなかった。しかし、いきなり実戦に出てきたかと思うと、たった1人の少女が戦艦1つに匹敵するような力を見せ、深海棲艦に対抗できる存在だと認識させた。

 

 そうなるとイ級一体を倒すのに一苦労する俺らの立場は再び弱くなる。それなら艦娘1人の方がまだ強いからだ。

 

 しかし、俺と龍弥はどこか安堵の感情を抱いていた。もう俺らは戦場に必要じゃなくなる。つまり、この先の見えなかった地獄からようやく解放されるのだと。人間に戻れると。

 

 これから職を失う羽目になるのだというのに、俺ら2人は実に呑気なものだった。不安なんかより、もうこんな苦労はしなくてもいいんだ、という小さな期待感の方が大きかった。

 

 しかし、現実はそのささやかな期待も打ち砕くことになる。

 

 

 ────

 

 

 艦娘たちは俺らとは違い、座学で戦場での心構えなどを学びはするが、それでも根本的に軍人になりきれない。それもそうだ。ついこの間まで普通の女の子だったのだ。人としての意識を捨て去り、道具になることを強要され続けた俺らと同じになるはずもない。

 

 これから戦う羽目になるのだというのに、彼女らには少し緊迫に欠けていた。結局、ただの女だ。

 

 しかし、彼女らに俺らほどの覚悟が必要ないことを思い知らされる。何故なら、彼女らは人間の比ではないほど強いのだ。命に危機に瀕することもないのなら、俺らみたいなことになることもない。兵士が狂うのは、戦場というものが人の命がいとも容易く失われる理不尽の極みであると否応にも理解させられるからだ。理解しなければ狂わぬ。

 

 そうなれば、俺たちのやってきたことが真っ向から否定されたような気分に襲われる。ただ、否定されて残るのは虚無ではなく、解放感であった。俺たちは戦場に縛り付けられていた。しかし、艦娘の存在が俺たちを結ぶ鎖を断ち切るのだ。

 

 人は終わりが見えると不思議と頑張れるものである。皮肉にも艦娘の活躍と同時に俺らも少し活躍するようになった。しかし、俺らと艦娘の仲はお世辞にも良いとは言えない。普通の人々からすれば俺らから滲み出る異様とも言える、負のオーラのせいだ。常に何か張り詰めているせいで近付き難い。

 

 食堂では一番安くてまずいと評判のメニューを黙々と食べたり、整備室の片隅で自分たちで装備の手入れをしたり、戦場から血塗れで帰ってきたかと思えば、次の日平気な顔でまた戦場に赴いたり、など。

 

 俺たちの部隊は、完全に浮いていた。それでも隊員全員が気にはしなかった──いや、気にする余裕なんぞない、という方が正しいか。

 

 だが、必ず例外というものがある。

 

 普段は龍弥と飯を食べるのだが、生憎怪我でしばらく入院しているため1人で食べていた。相変わらず味見をしたのかと疑いたくなるほど、味のしない野菜炒めを口に運ぶ俺のもとに、1人近づく者がいた。

 

「ねえ、相席してもいい?」

 

 実に明朗な声だった。常に無口で、口を開けば陰気臭い声の俺と正反対だ。

 

 俺は一瞬惚けていたと思う。まさか、俺に声をかける人なんぞいるか、と思ってからだ。他の人もそうだったらしく、ギョッとした様子で俺らに視線を注ぐ。

 

 口も開かないので、彼女はムッとした。無視したと思われたらしい。流石に、何も言わないはひどいと思い、俺は「どうぞ」とだけ言った。

 

「どうも。いつも一緒に食べる友達が出撃中で。暇を弄んでたのよ。話し相手になってくれる?」

 

「…………こんな俺で良ければ。大鳳さんの暇つぶしになれるかどうか」

 

 大鳳、と呼んだ俺に、彼女は驚いた表情を見せた。

 

「私の名前、知ってくれてたのね」

 

「最近有名だからだ」

 

 実際そうなのだ。装甲空母という種類らしいのだが、現在の艦娘では戦績を伸ばしている。おまけに気さくな性格から人望も高く、よく旗艦として出撃している。

 

「あら、そうなの?」

 

「まあ、そうだ。艦娘の見本だとよく聞く」

 

「見本だなんて、照れるわね」

 

 大鳳は少し頬を赤くして、その頬をかいた。裏表がない、ざっくばらんとした性格なのだろう。それがまた他の評価が高い理由かもしれない。

 

「意外といい人なのね。あ、私もあなたのことは知ってるわよ。えーと、八幡さんだっけ? フルネームは八幡武尊」

 

 俺は頷く。

 

「あなたも結構有名人よ。個人的に面白そうな人とは思ってたわ」

 

「はあ」

 

「そうそう。ねえ、ところであなたって何歳なの? それなりに長い間戦場に出てるって聞くけど」

 

「21」

 

「21、ね。…………21!? あ、あまり私と変わらないじゃないの!」

 

 バンと机を叩いて身を乗り出す大鳳。周りの視線が少し痛い。

 

「落ち着け。まわりが見ている」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 小さく謝りながら大鳳は戻った。

 

「それにしても、あたしと3歳違いだなんて。てっきり、10歳は上かと思ってたわ」

 

「自分もそれほど変わらぬと思わなかった。まぁ、ここにきて長いとは言っても5年くらいだが」

 

「え? 16の時から?」

 

「16…………で戦場…………」

 

 大鳳が、ジロリと俺の顔を見渡した。

 

「見た目より老けてるって言われる?」

 

「…………まあ、歳の割にそれなりの苦労はしてるだろう」

 

「そりゃそうだろうけど」

 

「そっちこそ、なんと言うか…………」

 

「言わなくてもいいわ」

 

「見た目より若く見える?」

 

「言わなくていいって!」

 

 少し怒られてしまった。

 

 別に見た目と実際の歳の乖離だなんて気にする必要もない気がする。それを口には出さないが。

 

 どうして周りは俺の歳を聞くとそんなに驚くのだろうか。貫禄があるとか言うが、実際はただ色々麻痺しているだけの話だ。大人っぽいとも言われるが、大人なろうが、大きく変わることもない。

 

「ま、いいわ。私はまだ成長するはずよ」

 

「だと、いいな」

 

「何よ、大人のヨユーってやつ? ムカつくわね」

 

「悪い」

 

「謝らなくていいわよ、ただの冗談よ」

 

 そう言って、大鳳は楽しそうに笑った。俺もそれに釣られて頬が緩んだ。

 

「ん、あなたの笑顔を見るのは初めてね」

 

「え」

 

「笑うと男前ね。その笑顔を見せたら、何人かは惚れてくれるわよ」

 

「…………」

 

 そういうことか。

 

 なぜ大鳳のような人が俺に声をかけたがわかった。友人が出撃中だから話し相手が欲しい、だなんてただの方便だ。彼女のような人なら、誰でも快くその話し相手になるだろう。わざわざ話しかけにくい俺に話し相手になってもらう必要はない。

 

 どこからも孤立している俺らの部隊を気にかけていたのだろう。誰も関わって行こうともしないから、自分が出向くことで俺たちと艦娘のパイプになろうとしてくれているのだ。

 

 なんていい人なのだ。俺が人に対して感心したのは久しいような気もする。彼女の笑顔が、久々に人の暖かさに触れたような気がした。

 

「…………大鳳さん」

 

 急に名を呼んだせいで、彼女は少し驚いた顔をした。しかし、すぐに元の優しい笑顔に戻った。

 

「何かしら?」

 

「…………あ、ありがとう」

 

 久しく感謝の言葉を述べていないせいか、ぎこちない言い方になってしまった。

 

「別にお礼されるようなことはしてないわよ。…………ま、お互い、頑張りましょ?」

 

 と、席を立ち俺の肩をトントンと叩いてからその場を後にした。たったそれだけだが、その小さな行動から人の暖かさを感じ取った瞬間だった。

 

 

 ────

 

 

 その後、大鳳は頻繁に声をかけてくるようになった。1人で来ることもあったが、友達や後輩を連れてくることも増えてきた。俺の方も仲間も連れてきて、ガヤガヤとすることも少なくない。

 

 大鳳は、俺に友達を紹介してくれた。龍驤という軽空母であった。近寄り難く、威圧的な存在だと知られていた部隊の隊長に会わせられた彼女の顔は最初引きつっていた。

 

 しかし、何度か会うと、龍驤も警戒を解くようになっていった。俺たちに対する偏見も無くなったようだった。特に龍弥とは、馬が合うようでよく話しているのを見た。

 

 大鳳が俺たちと普通に接しているのを見てか、少しずつ俺たちに近づいてくる者も増えていった。今まではすれ違っても顔も見ず、挨拶なんて、な状態だったのが、今では歩けばたくさんの人に挨拶されるようになった。

 

 全ては大鳳のおかげだ。感謝しきれない。

 

 大鳳が切り開いた道に、俺らは足を踏み出した。相変わらず上からの扱いはぞんざいではあるが、艦娘たちと良い関係を築き上げたことで、俺たちは"人間"として生きてきることを実感することができた。

 

『地獄の出口は近い』。皆、そう思った。

 

 俺はますます活躍するようになった。経験の積み重なりもあるかもしれないが、それだけでは深海棲艦の圧倒的な力の差は埋まらない。しかし、艦娘たちとの連携がうまくいくようになると、それは覆る。

 

 すると、俺たちの経験を知りたがって訪れる者も現れ始めた。戦場での心構えや、戦法などと俺らは頼られる存在にもなった。

 

 ものすごく嬉しかった。軍隊の世界に入って、初めて感じた感情だ。同時にやりがいも感じ、初めて明日を楽しみに過ごせるようになったのかもしれない。

 

『きっと明日はいいことばかりさ』。そんな言葉が現実になった。

 

 

 ────

 

 

 

 桜が咲く季節になると、上の者は慌ただしくなる。

 

 その時期は毎年編成の見直しが行われ、配置転換が頻繁に行われるのだ。下っ端の俺らからしたら関係のない話のように聞こえるが、割と無視できないことでもある。

 

 艦娘の方はと言うと、こちらも上官たちほどにはないにしろ、ちらほら所属が変わる娘もいる。一緒に戦った戦友との別れともあって、涙を流していた。それなりに関わった艦娘からわざわざ俺に挨拶してくる者もいた。

 

 さて、そんな中、俺が所属している鎮守府にも大きな配置転換が行われた。

 

 前任の男は俺らの安全よりも、自分の名誉と地位の保身を大事にするようなやつだった。常に俺らに嫌味を言う奴ではあったが、戦闘自体にあまり文句は言わなかったので、どちらかと言うとやりやすかった。まあ、ろくに運動もしていない、知識もない奴に口出されても困るだけだが。

 

 いつものように戦場から戻り、報告を済ませて一休みしようと歩く俺のもとに龍驤が現れた。軽く挨拶して一緒に歩く。

 

「なあ、聞いた? うちらの鎮守府の司令官が変わるっちゅう話」

 

「ああ。誰が来ようがやることは変わらん」

 

「せやなあ。まあ、あの司令官は気持ち悪くて仕方なかったし、うちらとしては願ったり叶ったりやで」

 

 まあ、あの男のセクハラはよく聞いた話だ。いい歳こいて何してんだとは思うが、こちらが言ったところで、の話だ。

 

「ま、あいつはうちには目もくれんで、重巡とか戦艦の女ばっかりに絡んどったから関係もないか。それで、また今年度もうちと一緒で嬉しいやろ?」

 

「…………そうだな」

 

「なーんや、その微妙そうな態度は」

 

「そっちも、また龍弥と一緒にいれて嬉しいんだろ?」

 

「ち、違うわ! アホ!」

 

 からかってきた龍驤に意趣返しをすれば、彼女は面白いくらいに顔を赤くした。これほど、からかいの甲斐ある娘もいない。

 

 龍驤と雑談しながら、食堂まで向かっていると道中の廊下で壁に背を預ける大鳳がいた。彼女は俺たちの姿を見ると、小さく手を振った。

 

「待ってたわ、武尊」

 

「うちは?」

 

「あんたは待ってないわ」

 

「ひっどいなー」

 

 龍驤は少し頬を膨らませた。

 

「昼間一緒に食べたじゃない、龍驤」

 

「ま、せやけど」

 

「武尊は出撃してて、話せてなかったからね。ちょっと話したかったのよ」

 

「ふうん」

 

 大鳳の言葉を聞いて、龍驤はニヤニヤし始めた。そして、俺と大鳳を交互に見た。

 

「うちはお邪魔みたいやな」

 

「…………悪いわ」

 

「いいっていいって! じゃ、後は2人でゆっくりしてや」

 

 龍驤はニヤニヤしたまま、俺の背中をドンと叩き、足早に去っていった。

 

 後には、俺と大鳳だけが残った。大鳳は何も言わずにただ外の景色を眺めていた。いつもは幼い印象を与える大鳳だが、今の憂いを見せる表情は艶かしさがあった。

 

「南の方に行くんだな」

 

 俺が沈黙を破って口を開いた。大鳳は困ったような、寂しいような顔を見せた。

 

「そう言うあんたは、ここに残留ね」

 

「俺らは所詮捨て駒だ。だが君は違う。実力を認められたんだ、もう少し明るい表情をしてもいいだろう?」

 

「…………そうね」

 

 今日の大鳳は少しおかしい。何か思い詰めたような感じだ。だがどうしてそこまで、思い詰めるのだろう。今回の異動は間違いなく、彼女にとっては良いことだ。

 

「あんたって、最初はものすごく近づきにくかったけど、どんどん雰囲気が柔らかくなって…………。途中でみんな気づいたの。誰よりも強くて、かっこいい人たちだって」

 

「…………」

 

「武尊」

 

 スッと、大鳳は右手を出した。俺は何も言わずにその手を握った。

 

「私はあなたと戦ったことを誇りに思うわ」

 

「…………大鳳」

 

「だから、絶対に死なないでね」

 

「…………何を今更。俺は何度も死地から這い上がった男だぞ」

 

「それもそうね」

 

「向こうでの活躍を祈る」

 

 俺は右手に少し力を込めた。大鳳は鼻を赤くし、目に涙を浮かばせていたが、俺の手を強く握り返した。一瞬、本当に少女の力なのかと思うほどの強さだった。

 

 大鳳は強い。それは艦娘だから、と言う理由ではない。人として強い。どんな過酷な状況でも、折れず、立ってきた。"鉄壁の大鳳"と呼ばれる所以は、その装甲だけではない。決して折れない精神も指している。が、今も彼女はただの1人の女性だった。

 

「また、機会があれば会おう」

 

「…………できるなら、戦場以外がいいわね」

 

「だと、いいな」

 

 手を離し、俺は大鳳と同じように窓の景色を見た。それはあの化け物たちがいるとは思えぬほど穏やかで、美しい海の姿だった。

 

 

 ────

 

 

 大鳳が去ってから1週間が経ち、基本的には変わらない顔ぶれで新しい提督を迎えることとなった。桜も咲き乱れ、新しい者へ彩りを加えているようだった。ただ、あまり変わらぬ身からしたら、その美しさもなんとなく白々しさを感じる。

 

 配属されたばかりの提督に形だけでも挨拶しておこうと、俺は滅多に足を運ばぬ執務室へ向かっていた。

 

 これまではこのポジションにつくのは4、50過ぎたおっさんが多かったが、今回の提督はえらく若かった。おそらく30はいっていない。中背の痩せた男ではあったが、印象的だったのは目だった。きつく尖った目で、なんとなくエリートなんだろうなと思った。

 

 俺が挨拶を済ませても、彼は鼻を鳴らすだけでろくに返さなかった。前任と同じく、孤児院出身の俺らを見下しているらしい。

 

 この時点であまり彼にいい感情は抱いていなかった。しかし、元々から俺らは捨て駒扱いなので、今更見下されようと変わらないのだが。今回の提督は、まあ立派な血筋をお持ちでいるらしい。なんでも、大佐である北方龍三の息子だそうだ。そりゃ、どこの子すら分からない俺を見下すだろう。

 

 それに俺は代えがすぐできるし、偉ぶったエリート様というのは、大きな組織になればどこにだっている。変わらず俺らはやってけばいい。10円ガムでハズレだった程度のがっかりさだ。

 

 退室すると、龍驤と出会い、話題はその新しい提督になった。龍驤は大きな声で「あーあ、またはずれやなぁ」と言ったので、慌てて口を塞いだ。

 

 しかし、あの若さで提督になるのも珍しい。よっぽど家柄の力があるのか、それとも能力が高いのか。もちろん、後者が良いに決まっているがあの腐敗しきった組織じゃ、前者だろう。

 

 後は実戦で俺らをどう扱うか、艦娘をどう指揮するかを見極めればいい。一度の戦闘で、彼の技量ぐらい分かるし、どのような人物も計れる。

 

 

 ────

 

 

「どいて! 急患よ!」

 

「痛い…………痛いい!」

 

 怒号と苦悶の叫び声が鎮守府に飛び交っていた。昼下がりの鎮守府は、緊迫した空気に包まれていた。

 

 身体中を包帯で巻かれた少女が運ばれる。しかしその包帯はすでに真っ赤だ。あまりに痛さのせいか、少女は暴れている。担架の横の艦娘がなんとか抑えている。

 

「しっかり! あと少しだから!」

 

「死にたくないぃぃ! 助けてええ!」

 

 そんな叫び声が響き渡る。

 

 少女を乗せた担架の姿が見えなくなったところで、俺は息を吐いた。

 

 何度目だ。まだあいつが来てから1ヶ月も経っていない。それなのに、多くの負傷者を目にした。俺としてはああいう景色を幾度も見てきた。しかし、それは全員同じ部隊の隊員で、艦娘があそこまで怪我をするのはそれまで見たこともなかった。

 

 あの地獄の光景は見慣れている。見慣れているはずなのだが、少女であることのせいか、酷く動揺していた。

 

 俺は視線を手元に戻し、中断していた武器の点検を再開した。

 

 かく俺もすぐに出なければならない。そのために装備品の最終チェックをしていた。先ほどの騒動は朝の偵察任務で出撃していた艦隊が帰還したことによるものだ。

 

 チェックが終わったので、俺は足早に集合場所へ向かうことにした。その道中で龍驤と会った。その後ろには駆逐艦の娘がついてきている。どちらも暗鬱な表情だった。龍驤は先程帰還した艦隊のメンバーだから負傷した娘のことを考えれば、当然だ。

 

「おつかれ」

 

「…………うん」

 

 

 

 俺に気づいた龍驤が、疲れ切った顔で返事をした。笑顔を取り繕うが、隠し切れていない。

 

 ぎこちなく釣り上げた口元。そこが青くなっていることに気づいた。

 

「…………何かあったんだな?」

 

 尋ねては見たが、予想はついている。

 

「はは…………気づくよなあ。司令官に殴られてもうた」

 

 

 やはり…………。

 

「敗戦のせいか?」

 

「それもあるけどな、別のものある」

 

「一体何が…………」

 

 龍驤は下唇を噛み、目に涙を浮かべた。何かを堪えるように両手を強く握りしめていた。

 

 押し黙った龍驤を見かねて、後ろの娘が代わりに口を開いた。

 

「帰投して、すぐ報告したんだけど…………。負けたことを言ったらとても怒って…………。『どうしてあの程度すら倒せなかったんだ!』って」

 

 その様子がありありと浮かぶ。新しい提督は癇癪もちだった。重度の。少しでも思い通りに動かなからば、怒り、艦娘たちに当たり散らす。もはや理不尽だ。

 

 しかし、今回の龍驤たちの敗北は致したかない。道中で奇襲を喰らったのだ。全員が中破以上。そして1人はあんな状態だ。あれで続行しても被害が増えるだけ。そのまま帰投すると判断した旗艦は正しい。

 

「なるほど、説明したのか?」

 

「したけど…………。言い訳するなって怒られるだけ」

 

 俺は龍驤に目をやった。

 

 彼女の小さな身体が震えている。大きな涙粒を流し、声を震わせながら言った。

 

「あいつ…………あいつ! 『それがどうした』ってぬかしよった! 下手したら死ぬかもしれへんのにやで!?」

 

「龍驤…………」

 

「確かに相手の奇襲に対しての対応はええとは言えへん。せやけどあいつは、駆逐艦の娘を庇うて…………それで戦艦の砲弾をもろに喰ろうて、肉が焼けて、えぐれたんやぞ! そんなあの娘に一言くらい労い言葉をかけてくれたらええのに、あいつは! あの野郎は!」

 

 その声は怒り、そしてどうしようもない悔しさに満ちていた。

 

「あいつ、うちらを道具としてしか見てへんのや…………。許せへん!」

 

「…………ああ」

 

 龍驤がなぜ殴られたのかわかった。彼女は誰よりも真面目だし、なによりも仲間思いだ。大怪我を負った艦娘に対しても歯牙にもかけぬ態度に頭に来て反抗したのだろう。そして、あの癇癪持ちの提督もブチ切れた、と。

 

「…………今は落ち着こうよ、ね?」

 

 事情を説明してくれた娘が優しく龍驤の肩に手を置いて微笑んだ。しかし、その微笑みも陰りを隠し切れない。提督の罵倒によるものもあるだろうが、やはり出撃の疲れも相当きているのだろう。

 

 興奮気味の龍驤ではあったが、その声で落ち着きを取り戻した。目元を拭いながら、「かんにんな」と言った。

 

「謝らなくていい。龍驤は間違ってない」

 

 龍驤は少しだけ嬉しそうに笑う。

 

「おおきに、武尊。やっぱうちは間違うてへんでな」

 

「ああ。だが、下手に反抗するのも止したほうがいい。今後は少し我慢の時だ。あの癇癪持ちに目をつけられると、自分が損するだけだ」

 

「そうやな、気ぃつける」

 

「龍驤さん、行きましょう。医務室で湿布もらいましょう。八幡さんもこれから出撃ですよね? 気をつけてください」

 

「武尊、頑張ってや」

 

「ああ」

 

 

 その後、龍驤たちとわかれた。医務室に向かう彼女らを見送り、再び集合場所へ足を進めた。

 

 歩きながらもその頭の中はこの後の戦いではなく、北方提督についていっぱいだった。

 

 あいつが来て1ヶ月の間、連日の戦闘をこなしながら、あの男を見定めた。1ヶ月はあの男の性質を知るのに十分すぎる時間だった。

 

 はっきり言えば、現在の上層部の腐敗を象徴するようや男だ。兵士を自分の功績のために使い、とにかく己の名誉と保身にしか興味がない。

 

 その結果、今まで以上の重労働が艦娘たちや俺たちに課せられることとなった。前任の時も良かったとは言えぬが、今はさらにひどい。

 

 出撃ペースは1日複数回あるのはいつものことだ。だが、調べれば規程として定められている出撃ペースは2、3日に1回程度だ。これは艦娘たちの疲労の蓄積度合いだけでなく、ストレスも加味している。

 

 戦場に出ることは、それだけで疲労が溜まるし怪我もするが、精神的にもダメージを受ける。いつ敵襲があるかわからないから、気も抜けない。いくら強い艦娘と雖も、中身はついこの間まで女の子だったんだ。その重圧は計り知れないダメージを与える。俺たちのように、訓練生の時から人間性を捨てることを強制され続け、毎日のように戦闘しているような者でも、出撃が終えた後の心労はものすごく大きい。だから、あのような数字を設けている。

 

 当然だがそのストレスは数時間で解消できやしない。艦娘たちは1日でも足りないくらいだろう。まして、1日何度も出撃にするなんて論外だ。

 

 他にもそれぞれの鎮守府には遠征を行うことが許可されている。一応、それぞれの鎮守府に資材や資源を割り振られているが、出撃の量が増えれば足りなくなってくる。そこで、遠征を行うことで自分たちでその資材と資源を賄うのだ。これも規定があり、1日に2〜3回が限度とされている。が、あの男はそれも無視してガンガン行なっている。

 

 あの男が勘違いしているかはわからんが、遠征はおつかいなんかではない。なるべく深海棲艦のいないルートを通るようにはするが、当然出会(でくわ)すときもある。出撃ほどにないにしろ、負担はやはり大きい。

 

 そもそも一度戦場に出た者は1日休暇を与えることを推奨されている。だが、今のこの鎮守府では守られることもない。

 

 北方提督からすれば、数をこなせば功績も増えるとでも思っているのだろう。だが、それなりの場数を踏んだ者ならわかるはずだ。結局艦娘も道具にはなり切れない。過重労働を課せば当然モチベーションも下がり、ミスも増えるから、敗戦や失敗も増える。それに加えて、失敗すれば北方提督からの罵倒などが待ってるからプレッシャーもかかる。そのプレッシャーもいい方向に働くこともなく、また敗戦や失敗に繋がっていく。

 

 この点で言えば、まだ前任の方がマシだった。前任も自分のことにしか興味がないという点では同じだが、それでも下手にやりすぎると効率が落ちることも理解していた。だから、高圧的な態度やセクハラが多いと言えども、艦娘たちが疲弊していくこともないし、それなりに功績も挙げていた。

 

 だが、この北方提督はそれすらも理解できていない。結果、負の連鎖は止まることなく続き、艦娘たちへの負担は計り知れないものになっている。前任が道具の扱いを心得ていたと言えるのなら、この男はそれすらも知らない本当の無能だ。

 

「やっと来たな」

 

「…………ああ」

 

 龍弥に声をかけられたが、気の抜けた返事しか返さない。龍弥も何か気になるような視線を向けたが、何も聞きやしなかった。

 

「今回は少し奥まで行くそうだ」

 

「そうか」

 

 俺の頭の中はこれからの戦闘ではなく、まだ今の鎮守府の現状ばかりだ。

 

「行こう」

 

 そう言って、足早に進む龍弥たちの背中を見つめる。

 

 兵士とはこんなもの。艦娘が来るまで、ずっとそう思ってきた。その時は自分たち以外の者の顔を見なかったから勝手にそう思い込んでいた。

 

 だが、今の艦娘たちを見て、その思いが揺らいだ。

 

 自分は心が壊れている、そう思っていたが違うのだ。本当の本当に心が壊れてしまわないように、自分たちは壊れたと思い込んでその状況を無理やり納得し、防衛していたのだ。

 

 目から光が失いつつある艦娘たちを見て、ようやく気づいた。

 

「…………」

 

 俺は鎮守府にある執務室の窓を睨みつけた。そこには鎮守府の歪みを生み出す、腐敗の部分があった。腐敗の中心である北方提督は、顔を出し、冷ややかに俺たちを見下ろした。

 

 ──屑が。

 

 内心そう吐き捨てる。

 

 あの男がリーダーでは、この鎮守府は腐り落ちる。今の疲弊した状況を突破するには、今の鎮守府の制度を変えていくしかない。だが、中心に腐敗の元凶がある限り、腐り続ける。

 

 取り除かなければならない。自分の本質が空っぽで誰からも尊敬されぬ者であると、この鎮守府の膿であると思い知らせてやる。

 

 俺は銃を握りしめ、嗤った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 怪我をして膿ができたらどうするか。

 

 おそらく誰もがその膿を取り出すだろう。放置すれば化膿がひどくなり痛みが増してくる。大きくなる前に取り出す必要がある。

 

 俺がやろうとしてることはまさにそれだ。膿を取り出すことは、すなわちこの鎮守府の諸悪を取り除くことである。そして、その膿は劣悪な環境、慢性的な疲弊、そして北方提督。それら全てだ。

 

 だが膿はすっかり化膿しまくって取り出しにくくなっている。すぐには治せないだろう。丁寧にやる必要がある。下手を打てばさらにひどくなる可能性もあるし、中途半端に出してもまた再び膿はできる。だから、時間をかけてでも綺麗さっぱり取り除かなければならない。

 

 では、どこから切開していくのか。そこから考えなければならなかった。

 

 俺は激戦を増す戦場を潜り抜けつつ、思案し続けた。今まで興味を持たなかった鎮守府の仕組みを洗いざらい調べ、今の立場で一番踏み込みやすい場所を探った。そして、今なら効果的であろう改善点を見つけた。それは"秘書艦"であった。

 

 アホみたいに多い遠征回数、適当な編成、杜撰(ずさん)な健康管理。

 

 ここを選んだ理由だが、簡単に言えば提督に近い役職だからだ。実際、編成と運用を担当している者が提督ではなく、まさかの秘書艦である戦艦の艦娘なのだ。

 

 驚いたことだが、北方提督は本来なら自分の仕事を専門ではない艦娘に丸投げしていた。何故かというと、「これごときに頭を使う必要ない」だそうだ。では、どこにその自慢の頭脳を使っているのか疑問ではあったが、それよりもここまで無知かつ無能であることに一瞬頭が真っ白になった。こんな馬鹿が存在していたのかと疑うくらいに。

 

 そもそも提督の仕事は、遠征の運営や艦隊の編成、艦娘の健康管理など多岐にわたる。俺たちは提督という頭脳の指示のもとに動く手足であるので、その頭脳がちゃらんぽらんならそのしわ寄せは当然俺らにくる。

 

 実際前任の提督ですら、きちんとやっていた。いや、もしかしたら前任が思っていた以上に有能だったのか。だが、戦闘だけしかやらなかった俺ですら、そのことは理解している。それを、仮にも士官学校を卒業したはずのエリートが知らぬなんて…………。しかし、実際に知っていないのだ。

 

 こんな無能が提督を務めれるのも、他ならぬ大佐の北方龍三の子息であり、その血筋も栄華であるから。名家の出身であることをいいことに、胡座をかき、大した努力もせぬまま上がってきたはず。そうでもなければ、あの能無しが提督なんてなれるはずがない。そもそも上に立つ器ではない。

 

 …………少し話が逸れた。

 

 とにかく重要なのは、現在鎮守府を回しているのは提督ではなく艦娘である秘書艦であるということだ。

 

 今の自分が手をつけれるのはここだ。提督よりも戦場を共にする艦娘の方がこちらも如何様にもできる。意見を具申し、運営を改善するようにしてもらうのもよし、交渉次第でその役職を譲ってもらうのもよし、と攻め手は色々ある。だからこそ、俺は目をつけた。

 

 改善してもらうにしろ、譲ってもらうにしろ、その秘書艦との信頼がなければ何も始まらない。大鳳のおかげで艦娘と仲は悪くはないのだが、それでも全員が全員仲が良いわけでもない。まだ、こちらと溝のある娘もいる。

 

 運が悪いのか、秘書艦は扶桑というまだ溝のある娘だった。今までの俺ならコミュニケーションを取ることすら難しかっただろう。しかし、今は違う。

 

 俺は扶桑に近付き、意思疎通を図った。ただ、あちらもこちらも忙しくなかなか機会に恵まれない。短い会話しかすることができなかったのもざらだし、長くて30分程度の会話が限度だった。俺はその限られた時間で、早急に信頼を得なくてはならない。時間がかかれば犠牲者も増える上、こちらの身も持たない可能性がある。

 

 俺は少し急いでいたが、しかし慎重に扶桑と接していった。幸いなことに、扶桑という娘は、とても物腰が落ち着いた人で、話が分かる人であった。最近は激務に駆られ、鬱憤も溜まっていたこともあり、話すたびに信頼してくれるようになっているようだった。2週間後には一瞬に食事をする程度の仲にはなった。

 

 頃合いを見計らい、俺は質問をした。

 

「扶桑さん」

 

「どうしましたか、八幡さん」

 

 扶桑は微笑んだ。誰が見ても美しいと思うような笑みだ。しかし、そこに一抹の陰りも見える。それに、陶磁器のように白い肌ではあるが、目元には目立つほどの隈が見える。

 

「扶桑さんは、今の鎮守府ってどう思います?」

 

 彼女の表情が、ピタッと固まった。

 

「どう、と言われても…………、具体的に聞かれないと少し分からないわ」

 

「これは失礼。鎮守府の運営はうまくいってると思います?」

 

「…………うまくいってるんじゃないかしら。それなりに戦果も出てるし、資材も回収できているわ」

 

 扶桑の目線が俺の目から逸れ、床に移されている。嘘だ。当初、俺は扶桑のことを掴みにくい人だと思っていたが、意外と行動に出て割とわかりやすい人だ。つまり、今の彼女は運営がうまくいっているとは思ってない。

 

 俺はすかさず語を継いだ。

 

「数字ではそうでしょう。だが、素人目に見てもその数字を確保するための苦労の数が明らかに釣り合っていない。そのせいか、失敗や艦娘たちの負傷も多く見受けられる」

 

「…………」

 

「負傷者増加のせいでドッグに空きがないことなどの、問題が付随して発生している。…………下っ端部隊の俺が言うのもなんですが、提督の運営方針は些かおかしいとは思いません?」

 

 俺は白々しくも、秘書艦がほとんどの運営している事実を知らないフリをした。

 

 表向きは提督の批判であるが、実際に運営しているのは扶桑であるため彼女を批判していることになる。

 

 少しひどいことをしているように見えるが、これは彼女のためでもある。奥底にしまったであろう、不満や苛立ちなどを吐き出させる。俺は指摘されたら困るであろう部分を刺激する。

 

 案の定、扶桑の表情は曇っていった。

 

「そう、ね。八幡さんの言う通り…………だと思うわ」

 

「秘書艦の扶桑さんもそう思いますよね。提督は一体何を考えてるのやら。真剣にやってくれてるのでしょうか」

 

「八幡…………さん。その、提督じゃないのよ」

 

「え?」

 

 出てきた。

 

「だから、提督じゃないの。私が運営しているのよ」

 

「そ、そうなんですか?」

 

 俺は知らなかったフリをした。

 

「なぜです? 普通に考えて運営や編成とかは、提督がやるはずでしょう。補佐ならわかりますが、それを貴女がやってるとなるとこの提督の存在意義すら…………」

 

「そう思うわよね…………。提督に"この程度くらいならお前でもできるだろう"って言われて。…………私はそういうことは学んでないから、全く知らのよ。かと言って、あの人に聞くのも怖くって……。みんな指揮官になるために艦娘になったわけじゃないから、知っている人もいないわ。なんとか、1人でやるしかなかったのよ…………」

 

「そうだったのか…………」

 

 光の消えた瞳から一筋の涙がこぼれた。

 

「私がちゃんとやっていれば、みんなあんなことには…………。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい…………」

 

「扶桑さん」

 

 俺はそっと彼女の肩を掴んだ。「え…………」と小さく溢した扶桑がこちらを見た。

 

 微笑んだ。不器用なりに。

 

「自分を責めなくてもいい。むしろ、よく頑張ったと思う」

 

「でも…………私は」

 

「たとえ皆が知っても貴女を責めやしない。ただでさえ貴女は主力としてほぼ毎日戦いながら、秘書艦をやっているんだ。それなのに、さらに運営などの提督業も任された。慣れぬことをするのは大変だ。勉強する暇もなかったんだろう?」

 

「八幡さん…………」

 

 張っていた糸が切れたように、彼女はボロボロと大粒の涙を流した。そして、誰にも言えなかった胸中を吐き出した。

 

 あまりにも無謀な命令を繰り返す北方提督への不満。

 

 それに対して何一つ言えない自分への自己嫌悪。

 

 自分の采配で傷つく仲間たちへの罪悪感。

 

 そんな中で誰にも頼ることができないという苦悩。

 

 今まで隠してきたであろう言葉を俺は何も言わずに聞いた。

 

 彼女はとても心優しい人だ。常に他人を思いやり、尊重する優しがある。しかし、同時に自己主張に乏しい。自分の意見が言えず、他人に流されやすいところもある。さらに優しさが仇となってやや決断力にも欠ける。

 

 ──厳しい言葉で言えばリーダーには向いていない人だ。そして北方提督からしてみれば、自分の言いなりになる、いい駒だと思ったに違いない。

 

 だからといって俺は扶桑を責める気にはなれない。元凶は彼女の性格につけ込んだあの腐れ野郎だ。

 

 もうこれ以上彼女をあいつの操り人形にさせてはおけない。

 

「扶桑さん。貴女はよく頑張った。もうこれ以上頑張る必要はない」

 

「八幡さん…………。わ、私、誤解していたわ、貴方のことを。こんなに優しいだなんて」

 

 俺はその褒め言葉には反応しなかった。

 

「そこで1つ折り入って頼みがある。扶桑さんの仕事を俺に手伝わせてもらえないだろうか?」

 

 

 ────

 

 

 俺の提案を扶桑はすんなりと聞き入れてくれた。

 

 北方提督への不満や恨みが積み重なっていたのもあるだろうが、自分のせいで仲間が傷ついているのが相当堪えているようだった。一緒にやってくれる人がいるとなれば、彼女への負担もなんとか減らせるだろう。彼女からしてみても願ったり叶ったりなはず。

 

 最初は手伝うだけだと考えてはいたが、予想以上に扶桑の精神がすり減っていたため、俺がその仕事を引き継ぐことにした。扶桑がすんなりと話になってくれたあたり、信頼はしてくれているようだ。しかし、その引き継ぎに1つ問題が発生した。

 

 扶桑の話から、どうやら北方提督は全く何もしていないわけではないらしい。ご丁寧にも上へ送る報告書といった重要な書類に関しては彼自身が作成しているらしいのだ。それを書き上げるには、当然だが運営の内容にある程度目を通す必要がある。つまり、今までの扶桑の采配をあいつは把握している可能性がある。

 

 それならば、いきなり俺が運営をしてしまうとすぐにバレるだろう。運営を改革してもその効果が現れる前にダメ出しをくらえば意味がない。だからこそ、不本意ではあるがあいつに認めてもらう必要性が出てくる。

 

 バレてあいつの態度が悪化してしまうよりは、こちらから出向いてしまう方がいいだろう。多少のリスクはあるが、なんとかして認めさせるしかない。

 

 それでも無理なら最悪は…………、よそう。そういったことを考えているとその通りになる、というのが自分の経験則だ。根気強く説得するほかない。

 

 滅多に足を運ばない執務室へ扶桑と向かい、彼女の仕事を引き継ぎたいという旨を北方提督に伝えた。

 

 大方こちらの予想通り、北方提督は難色を示した。そして、扶桑に対して「この程度の仕事すらままならんのか」と無意味に辛辣な言葉を殴りつけた。

 

 ただでさえ、出撃などで扶桑は多忙だ。それに加えて運営を投げやるなど、どう考えても北方提督に非がある。しかし、彼は肩を震わせ、顔を赤くして扶桑に罵声を浴びせ続ける。扶桑の様子を見る限り、いつもこのように叱責していたのだろう。

 

 ここまで無責任な態度を見せつけられると、怒りもわかずただ呆れるだけだ。こんなに器の小さい男にこの鎮守府が振り回せられているのかと、少し情けなさを感じるくらいだ。しきりに大声を上げ続ける提督に対して、ただ傍観するだけだった

 

 4、5分罵声を浴びせ続け、よくそんな体力があるなと思い始めたところで、怒りの矛先がこちらに切り替わった。

 

「たかが一捨て駒が、ぬけぬけとそんなハッタリをかませれるな」

 

 狐のような鋭い眼光でこちらを睨むが、別段怯みはしない。それよりも恐ろしいものは知っている。

 

「ハッタリではありません。自分ならより多くの功績をあげることができます」

 

 はっきりと断言すると、さすがの北方提督も目を白黒させた。少し気圧された様子で口ごもった。

 

「…………テメェ、随分な自信だな。ああ?」

 

「ええ。下っ端兵士と雖も、それなりの経験は積んでいます。下手な艦娘よりは鎮守府の運営はできるかと」

 

 そんなわけがない。だが、ここでは嘘を押し通させてもらう。

 

「ただの一兵が言うのもなんですが、秘書艦に運営を任せるのは良くないのでは。戦場における期待値が彼女らが高い分、彼女らは戦場に集中してもらって、"その程度の仕事"は戦場での貢献度の高くない私に任せてしまった方が得策ではないでしょうか?」

 

 名一杯の虚言を並べて、最後にもう一言告げた。

 

「…………提督、どうか検討を」

 

「…………」

 

 眉間にシワを寄せ、顎を撫で始めた。どうもどこの馬の骨かもわからぬ人間に意見を言われるのが気にくわないらしい。だが、特に反論する言葉も見つからないらしい。それに上辺だけを見れば彼にはメリットがある。

 

 ただ静寂だけが執務室を支配した。

 

 北方提督の冷ややかな目がギョロリとこちらを睨んだ。罵倒を吐き出し続けた口が静かに動く。

 

「…………貴様が。もし貴様が運営をしたら、こちらにどれだけの利益を生めるんだ?」

 

「2ヶ月もあれば、2倍近くは戦功をあげることができましょう」

 

 北方提督は眉をかすかに動かした。

 

「2倍? 貴様如きがか?」

 

「現在の運営状況を省みて、改善した場合の予想される功績がこのように…………」

 

 俺はポケットにしまってあった数枚の紙切れを机に広げた。そこには効率化の過程とその結果である、資源の消費量や獲得量、艦娘たちのパフォーマンス能力の数値を掲載している。

 

 その資料をもとに、いかにして戦績の向上させるかを説明した。出来るだけ、どれだけ戦果をあげれるかだけを話すようにして、艦娘たちに対する重労働の改善については触れないようにした。どうせこの男は表面上の数字にしか興味がない。

 

 説明を終えると、俺は静かに北方提督を見据えた。

 

 彼は腕を組み、静かに吟味しているようだった。

 

 さあ、どう答える。学のない俺が必死に練り上げた案だ。所々粗い部分があることは十分な承知ではあるものの、悪くない内容のはずだ。これを全面的に却下するならただでさえ小さい彼の、上立つ者としての器が粉々に吹き飛んでしまう。

 

 そして、彼は静かに唇を動かした。

 

「…………名を何という」

 

「八幡です」

 

「八幡…………なるほど、貴様があの八幡か。捨て駒にしては未だに長く戦い続けているだけはある。それなりにできるようだな」

 

 我らの部隊は表面上は対深海棲艦特殊部隊である。実情は捨て駒であるのが事実ではある。一応褒めているつもりなのだろう。しかし、根底にある差別意識を隠そうともしないのが彼らしいっちゃ彼らしい。

 

 北方提督は聞くだけでも虫唾が走るような声で笑って、

 

「下級兵士如きがな…………。ふん、まあいい。やってみろ。貴様の宣言通り2ヶ月で2倍までに戦果を増やして見せろ」

 

「…………ええ、お任せを」

 

 俺は無表情に敬礼をした。ここに来て、乏しくなった表情が役に立った。

 

「だが」

 

 北方提督はドスを利かせ、

 

「うまくいかなかったら、どうなるか…………分かるだろう?」

 

「…………」

 

 わかりやすい脅しだ。三白眼で睨みをきかせた。扶桑が真っ青な表情をしている。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

 そんな脅しで俺が恐れ慄くと思っているのだろうか。失敗したらどうなるか、よくて監獄行きで、最悪は深海棲艦の餌なりにされるだけだろう。だが失うものがない俺からしたら恐怖の対象ですらない。

 

 ただ俺以外にこの現状を打開する人物がいない。俺の失敗は、この鎮守府の完全崩壊に直結する。だからこそ、失敗は許されやしない。

 

 ただただ軽蔑するだけだ。

 

「ええ、もちろん」

 

 自分でも分かるほどの生気のない声で、そう言い放った。

 

 

 ────

 

 

 能無しの北方の坊ちゃんから引き継ぎの許可を貰うなり、すぐに俺は改善へと努めた。

 

 とにかくやることはただ一つ。"出撃を減らし、かつ戦功を増やす"。

 

 一見、ありえないようなことに見えるが、実際はそんなことはない。元々行われていた出撃の効率が悪すぎたのだ。ただ疲労が溜まるだけの出撃もあるくらいに。ならばその問題点を少しずつ洗い出し、そしてそれを改善すれば自然と出撃は減り、戦功は増える。さらに無駄も取り除いていけば、ハッタリで提督に言ったことを達成することだって可能だ。

 

 さて、俺がまず取り掛かったのが出撃する艦娘のローテションの管理だ。1日に複数回出撃したり、出撃する日程が不規則であったりと艦娘に非常に負担がかかっている状態だった。そこで週ごとにそれぞれの出撃する日を設定し、1日に重複して出撃する艦娘がいないこと、出撃した次の日は必ず休みにするようにするなど調整して過重労働の改善を図った。だがこれは土台に過ぎない。

 

 次に手をつけたのが出撃する"内容"だ。出撃の失敗が多かった理由として、まず過労があるがそれ以外に、実力が足りていない、敵に対してこちらが不利になるような編成がある。もちろん扶桑を責めようとは思わない。彼女は艦娘だ。どの軍艦がどの深海棲艦に強いかだなんて知っているはずもない。

 

 だが俺もそこまで知識があるわけではない。どれが適材適所なのかは分からない。そこで龍弥の出番だ。彼はいろんな知識を持っているが戦艦にも明るかった。相手の編成によって、どの編成を組んだらいいのかを丁寧に教えてくれた。あと実力不足だが、これはやることは一つしかない。演習をする、それだけだ。実力が無いうちに出撃しても戦果は出ない。ならしっかり経験を積み、簡単な出撃から始める。

 

 運営の方針がガラリと変わったこともあり、艦娘たちは困惑していたようだった。「自分たちは演習だけでいいのか」や、「こんな簡単な出撃だけでいいのか」と、不安の声が絶えなかった。

 

 しかし、それは予想の範囲内だ。

 

 俺は艦娘たちにしっかり説明して、その不安を解消した。

 

 みんなはしっかりと理解してくれたし、なによりも北方提督への憎悪は皆同じ。あとは結果が出ればよし。

 

 そして結果は意外にも早く出てくることになった。

 

 俺がメスを入れてから1ヶ月ほど経ち、皆が変化に慣れ始めた頃になると、なんとなく艦娘たちの顔に疲労の色が薄くなり、余裕が見えるようになった。ダメージも減少し、轟沈はもちろんのこと、毎日のように出ていた大破者も見なくなるようになった。連戦連勝になったおかげか、みんなの士気も高まっているようだ。

 

 予想以上の結果だ。もちろん自分の改革に自信がなかったわけでは無いが、ここまでうまくいくと驚く。だが、ここで満足してはいけない。俺は次の手を次々に打つことにした。

 

 艦娘はある程度、戦い方については教えてもらっているが付け焼き刃もいいところだ。そこで、龍弥に頼んで彼女たちにも陣形や、状況によってどのような行動が有効なのか教えてもらうようにした。俺はと言うと、今まで隊長をやってきた経験を活かして、個々の連携や旗艦における指示の仕方や判断の仕方を教えることにした。もちろん、他の隊員も協力して、様々なことをして、全体の戦力の向上を図った。

 

 そして、もう一つ力を入れたことがある。それはメンタルケアだ。

 

 大きな鎮守府にもなれば専門のカウンセラーを雇って、メンタルケアを図っているだろう。しかし、当鎮守府にそんな人はいない。だからといって、あの男がカウンセラーを雇う許可を下すとも思えない。

 

 ならばどうするか。

 

 自分たちでやるしかない。ただ俺は、そういった相談事をされるのは得意ではない。だからこそ龍弥の存在は大きかった。普段から無愛想な俺よりも、物腰柔らかく人の良さそうな笑みを携える彼の方が、艦娘たちも話しかけやすいようだった。もちろん俺とて彼に任せっきりにしているわけにもいかないので、頑張って彼女たちの相談や愚痴に付き合ったりした。

 

 次第に頼られるようになると、この世界に入って初めての感覚に襲われるようになる。今までは捨て駒として扱われ、生きる屍のような存在だったのが、今やこうして頼られる存在になっている。なんとも言えないむず痒い気分だ。だが、それが嫌ではなく、むしろ快感に近いものだ。ああ、これが人間であることなのだろうか──。

 

 腐れ切ったこの鎮守府で、初めて俺は充足感を味わった。

 

 

 ────

 

 

 2ヶ月間はあっという間であった。

 

 改革の結果は、大成功だ。負傷や膨大な出撃数の減少によって、消費資源量は大幅に減り、それに反比例するがの如く戦功は膨れ上がっていた。

 

 下級兵士の俺がここまでうまくやるとは思っていなかったのだろう。北方提督は俺の報告書が信じれないのか、何度も目を白黒させていた。そうして面白くなさそうに、見下していることは変わらないものの、一応の労いの言葉を投げた。そして、これからも運営は俺がするようにと命令した。

 

 報告を終え、次の用事が艦娘寮にあるため、そこへ足を進めた。

 

 本館を出ると、照りつける日差しと暑さが俺を襲った。思わず太陽を手で隠す。提督が変わって気づけば4ヶ月。季節も外にいるだけで汗が止まらなくなるような暑さの8月になっていた。こうなってくるとますます体調面に気をつけなければならない。

 

 セミの泣き声が耳を貫く。セミの鳴き声を聞くと、どうして余計に暑く感じてくるのだろうか。

 

 

 その騒音に混じって、こちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえた。こんな暑い中…………誰だろうか。

 

 俺が振り返ると扶桑が駆け寄ってくる姿が見えた。何か急用があるのだろうか。彼女は近くで立ち止まり、呼吸を整えると、今までは滅多にみせなかった笑顔を見せた。紅潮した頬や、汗で張り付いた髪の毛なども相まって、とても艶かしい雰囲気で、思わずドキッとした。

 

「その…………八幡さん…………」

 

 今にも消え入るような声で、何度か目配せをして俺の様子を伺っているようだった。最初の頃からは考えられないほど、いじらしい彼女の様子に、こちらもなんとなく緊張する。

 

「どうかしましたか? 扶桑さん」

 

「そのね、私…………お礼が言いたいの」

 

「そんな、俺は別にそんな大層なことは…………」

 

「そんなことはないわ!」

 

 彼女らしかぬ大きな声で言われ、多少驚いた。

 

「い、いきなり大声出してごめんなさい。でもね、実際にあなたのおかげで、いい方向に向かってると思うの」

 

「それはきっとみんなのお陰ですよ」

 

「あなたは素敵な人よ」

 

 彼女は無意識なのか、俺の手を握り、やや興奮気味に語を継いだ。

 

「私…………あなたがいなければ、どうにかなってたと思うわ。今こうして目一杯戦えるのも、あなたのおかげなのよ」

 

 さすがにここまでの美人に、褒めちぎられると、照れてしまう。

 彼女も自分がかなり大胆なことをしているのに気付いて、

 

「あ! ご、ごめんなさい。私ったら、つい…………」

 

「だ、大丈夫ですよ。それに褒められて嫌な気分になる人はいませんから」

 

「それなら、よかったわ…………」

 

「兎にも角にも、まだやることはたくさんです。互いに頑張りましょう」

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

 扶桑は再び俺の手を握った。そして、笑顔を見せた。とても大人びて美しい、そしてどことなく儚い、笑顔だった。

 

 その笑顔を見た瞬間、心臓の鼓動が早まった気がした。それは、緊張でもない恐怖でもない、今まで感じたことのないものだ。ただ彼女笑顔を見て、こちらもなんとなく嬉しいのだ。

 

 この世界に入ってもう何年も経つが、環境は悪化しているはずなのに、俺はなぜか満たされていくような感覚に陥った。

 

 

 ────

 

 

「元気か? ホタカ」

 

 夕暮れ時の部屋のベッドでうつ伏せに寝ていた俺に、そんな言葉が降りかかった。言うまでもなく、その声の主は龍弥だ。俺は顔を上げることなく答えた。

 

「…………元気に見えるか?」

 

「はは、すまんすまん。最近は忙しそうで」

 

 俺らの寝泊りする寮はだいぶ年季がいっているようで、かなりボロい。それに加えて、部屋も広いとは言えない上に、2人で共有する。お世辞にも快適な場所とは言えない。まあ、寝れればいいのだが。

 

「あのアホはどうにかならんのか。報告するたびに無理難題を押し付けやがって」

 

「また、何か言われたのかい? ご苦労だねぇ」

 

「失礼するで〜…………、ってどないした? 八幡」

 

 今日は来客がいるらしい。ただでさえ狭い部屋に3人ともなると肩身が狭かろうに…………。龍驤なら別に変わらないか。

 

「ホタカは今日もお疲れみたいだよ」

 

「また、あのアホ提督に嫌味でも言われたんか?」

 

「…………まあ、そんなところだ」

 

 今日も朝から出撃して、帰ってきたら明日の出撃の予定を組む。それが終わったら戦績の確認…………ここまでは、はっきり言って龍弥がほとんどやってくれてたりするからそれほど苦にもならない。問題はここから、あのクソ提督に報告する時だ。絶対ただでは帰してくれない。必ず無駄に長い説教をかましてくる。燃料の消費が多すぎる、攻略が遅い、もっと数をこなせ…………ただでさえギリギリで運営されてるのに、どうしろと。

 

 扶桑があんなにやつれてたのもうなずける。

 

「ほんまにお疲れ様やで。急に、自分が運営するやら言うさかいびっくりしたけど、今じゃすっかり良くなって」

 

「そうだよ。ホタカの評判もうなぎ上り。みんな口々にカッコいいとか言ってるよ」

 

「…………そうか」

 

 俺としてはカッコいいと言う言葉は聞いたことがないのだがな。俺よりも頭一個分くらいは大きくて、性格もいい龍弥に言われるとなんだか嫌味に聞こえてしまう。

 

「あんた、実は提督業の方が向いとったりするんちゃうん?」

 

「冗談はよしてくれ。今は状況が状況だ。必要がないならこんな仕事したくない」

 

「俺も龍驤の言う通りだと思うけどなー。一戦を引いたら、なってみたらどうだい?」

 

「…………それまで生きていたら、な」

 

「そんな物騒なこと言うもんちゃうで」

 

 龍驤の言う通り物騒ではある。しかし、引退するまで生きていられるかはこっちとしては分からないのだ。除隊した隊員は漏れなく海に消えていっているのだから。

 

「そういえば、なんか最近よう扶桑とおるらしいやんか」

 

「…………? まあ、そうだが…………」

 

 あまりにも急な、そしてよく意図のわからない質問だ。

 

「え、そうなのか?」

 

「そんなに驚くことか?」

 

 そりゃあねぇ、と少しニヤニヤしながら目を合わせる龍驤と龍弥。こう言う時の、龍コンビは少々めんどくさい。

 

「うちもびっくりやで。めっちゃ親しげに食事しとったらしいやん?」

 

「おお…………。ついに、ホタカにも女が…………」

 

「せやけど、浮気ちゃうん?」

 

 そら見ろ。噂の渦中の人物を置き去りにして話が進み始めた。一体どうしたら、飯を一緒に食べただけで、女ができて、浮気したことになる。

 

「勝手に話を進めるな。扶桑とは仕事とか色々話すことが多いんだよ」

 

「じゃあ、ただの仕事仲間とでも言うのかい?」

 

「そうだと言ってる」

 

「ほんまか〜? 昼間に扶桑と手ぇ握っといてそらないやろ〜」

 

「本当かよ!?」

 

「ああ、せや。うちはばっちり見てもうたさかいな〜。照れてる武尊の顔もな」

 

「な、なんで…………」

 

「あーあ、こら大鳳が聞いたら嫉妬が爆発してまうな」

 

「へぇ…………、ホタカって意外と大人っぽい女性が好きなんだ」

 

「ちゃうちゃう。きっとあれやあれ」

 

 と、龍驤はない胸の前でジェスチャーをした。

 

「結局、男は胸部装甲なんや。………どいつもこいつも胸ばっかり。ぐすん」

 

「なーんで、言った本人が傷ついてんだ。傷ついてんのはこっちだぞ」

 

「龍驤、俺はそんなところで人を好きなったりしないから」

 

「…………せやな。龍弥がうちの味方やもんな」

 

 

 ここで俺は少し違和感に気付いた。なんだか妙に2人の距離が短い。それによく目があっている。仲が良いことは知っていたが…………。

 

「…………もしかして、付き合ってるのか?」

 

「あ、ばれた?」

 

「まあ、隠すことでもあらへんよな」

 

「…………なら、俺はお邪魔だったり?」

 

「いやいや、違うって! 今日はお前が元気なさそうだったから、龍驤と一緒に元気付けてやろうとな」

 

「せやせや」

 

「それはどーも。お陰で元気MAXだ」

 

「で、実際のところ扶桑とはどうなの?」

 

「大鳳のことはどう思てんねん? まさか、あんとき何もなかったんか?」

 

「…………君ら、本当に元気付けにきたのか?」

 

 なんだか、頭痛がしてきた。

 

 だが、今こうしてふざけれるのも余裕が出てきた証拠だ。やはり、良い方向へ傾いている。俺はゲンナリしつつもそう確信めいた感情を抱いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



久方ぶりの投稿です。一応、続けていくつもりです。




 暑さも少し和らぐ9月となった。

 

 運営を見事に改善させ、想像以上の成果をもたらした俺は引き続きその役目をこなしていた。

 

 とはいっても、この功績が表沙汰に出ることはない。当たり前といえばそうだが。だがしかし、俺はそれが気に食わない。

 

 その成果は丸々あの北方提督の元に行っているからだ。

 

 皮肉にも艦娘や俺たちの環境を改善するためにやってきたことが、そのまま提督の評価に直結してしまっているらしい。あいつの能力に見合わない評価を今はつけられているわけだ。

 

 どうしてこんなことになっているのか。至極簡単なことだ。そもそも俺たちは世には伝わらぬ部隊だ。

 

 俺たちは捨て駒と評されるほど下等に扱われる人間だ。だが、この時代にそんな人権を度外視したような扱いができるわけがない。世間に知れ渡れば非難轟々間違いなしだ。だが、軍隊の秘匿性や一般人の不干渉と言う性質から色々と隠し事はできる。つまり、俺らは世の中からはほぼ抹消されている。そんな人間が、功績を挙げ名を残すなどもっての外であろう。それに加えて、あの男は外面を取り繕うことは人一倍努力する。

 

 俺らのような下等な人間が、功績を挙げること自体が気に食わない違いない。北方提督は代々この軍事世界で名を挙げてきた栄華なる血筋を引くもの、それに比べて俺はどこの誰の子なのすらわからない孤児。はっきりいって俺らは真逆の位置にいる。

 

 今や艦娘たちはこの困難極まる深海棲艦に対しての唯一の希望としてその名を広めている。対して俺らは存在すら知られることはない。

 

 俺たちは影へと押しやられた、というわけだ。でも、こんな扱いを気分よく思うはずがない。時代錯誤もいいところの差別だ。

 

 ただ、今さらこの差別的な待遇に対して格別の感情は出てこない。だからこそ、このような扱いであっても腹が立つことはなかった。

 

 そもそもこの程度で憤りを見せてはキリがない。これ以上に腹立たしいことが多すぎて、慣れてしまった。燃え盛る炎に松明を入れても変わらないのと同じだ。

 

 俺らを追い詰めたいのならそうすればいい。栄光、名誉、地位、そのような輝かしい言葉をつけられる人間ではないことは理解している。真っ暗闇の中、ただ一つ光を灯す、小さな小さな蝋燭の火のような──そんな灯にしか触れることができぬ脆弱な存在。それが俺だ。

 

 受け入れてやる。その扱いを。しかし、俺も一人の人間だ。そう易々と消されてたまるか。

 

 貴様も引き摺り込む。闇へ。希望すら見つからない闇の中に。

 

 俺は、あの憎たらしい顔を思い浮かべるたびに、対面するたびに、あいつの絶望する表情を思い浮かべながら、日々を過ごしていた。

 

 腹の底に沸々と煮え渡るドス黒い感情を抑えながら、表は至って淡々と役割をこなした。

 

 時折、北方提督から無理難題を押し付けられたり、艦隊に被害が出たりはしたものの、それでも北方提督がやってきた当初よりはずっと平穏な日々が続いていた。ただ、それも長くは続かないわけで。

 

 10月頃に、異変が起こり始めた。

 

 9月の終わり頃から北方提督は少し奥の海域の制圧に着手していた。それができるようになったのは、この鎮守府の戦績を認められてのことだ。陸から離れれば離れるほど敵は手強くなるが、上からはそれを倒せると判断したらしく、めでたく許可されたわけだ。

 

 今まで通りなら、それほど苦戦することもないだろう。

 

 ただそう簡単に問屋が卸さない。いくら練度を鍛え上げたといっても、まだ中堅レベルの鎮守府だ。

 

 今まで稀にしか相手をしなかったelite級やflagship級が当然のように出てくる海域では、常に苦戦を強いられた。また、今までは見られなかった奇襲戦法や囮などといった高度な戦法を相手も取るようになった。がむしゃらに突っ込んできた相手とは違い、統率の取れた敵に相対するようになってからこちらの被害は爆増した。

 

 それに倒しても倒しても底なしのように湧き上がってくる。ただただ徒労のみが積み重なっていった。

 

 こんな困難な時にこそ、指揮官の手腕が問われる。適切な編成、作戦を練り上げるのはもちろんだが、日によって大きく変わる海の状況も把握する必要がある。当然だが、作戦通りに物事が進まない方が多い。それ故に、その場面場面での臨機応変な対応も求められる。

 

 一般に多大な功績を挙げている人物は、対応力や判断力がずば抜けている。前提督は、人間性などは置いて、その点は優れていた。俺や艦娘たちが不覚にも感嘆してしまうくらいに。

 

 だが、北方提督はその才能が一切なかった。一体士官学校で何を学んだのだと言いたくなるほどに、悪手を打ちまくる。そのくせ、失敗の原因を艦娘たちに押し付けた。

 

 彼の暴力や罵声自体は、もうこの鎮守府の名物のようなものだ。ただ、その度を最近は超えている。今までは素手で殴りつけるのが多かったのが、物を使い始めた。どこから入手したのかも分からぬ精神注入棒でぶん殴ってくる。しかも尻にではなく側頭にフルスイングしてくるのだ。それによって入渠していく艦娘を見たことがある。陸でも大破するなんて……。鎮守府に安らぎがあったもんじゃない。

 

 そもそも、我が鎮守府はわざわざ奥地まで赴く必要がない。ただ許可が下りているだけであり、命令ではないのだ。それなのにどうして北方提督はあそこまで焦っているのだろうか。

 

 疑問は残るが、それを考えている暇はない。

 

 今までどうにか保ってきたバランスがたった今崩壊しようとしている。一度亀裂が入ればそれは止まらない。

 

 艦娘たちの顔から表情が、生気が消えていった。虚な目で戦場を行き来する日々。戦友の安否も案じるほどの余裕もない。この地獄のような景色を俺は知っている。少し前の俺らだ。年端もいかぬ娘たちが俺たちのようにただ戦う屍と化している。こうなると……、

 

 

「あは……、あははははははははははははは!」

 

 唐突にある重巡が壊れたラジオのように笑い声を上げた。異様な様子に他の娘が声をかけるが、聞こえてないのか笑うのをやめず頭を掻き毟り始めた。

 

 結局、医務室へ連れて行きその場を収めはした。が、当然だが状況は最悪だ。ああいうふうに心が壊れていく娘はどんどん増加していくだろう。身体先か、心が先か。

 

 どうにかしないと。物事を推し進める際は慎重派である俺も焦りが出てきた。

 

 しかし、まだ序の口であることを俺は知らなかった。

 

 

 ────

 

 

 鎮守府に怒号が響き渡った。

 

 地獄が始まって1週間ほどのことだ。あの暴虐の提督がついにとち狂ったかのような作戦を打ち立てた。その内容を聞いたとき俺は耳を疑った。囮作戦と彼は言った。囮作戦自体はそれなりに使われるものだ。リスクが高いが一定の戦果を挙げやすい、そんな作戦だ。だが、彼レベルになってくるとその内容も恐ろしいものになる。

 

 足の速い駆逐艦を囮にするのはよくあることだが、北方はこう付け加えた。"練度の低い"と。何故それをわざわざ付けたのか分からなかったが、内容を聞くにつれ、理由が見えてきた。囮を完全に捨てるのだ。本来、このような死ぬことを前提をした作戦が、倫理的に道徳的にあってはならない。この時代、生きて帰ることを第一とするはずなのに真っ向から否定したのだ。

 

 そりゃあ、指示するだけの指揮官の気は楽であろう。ほぼ死刑宣告に近い役割を告げられた艦娘はどう思うのか? 肉食獣の群れに放り投げられた草食獣の如く、食いちぎられていくだろう。

 

 そして、それを目の前にし救うこともできぬ人間へのダメージもでかい。恐怖に染められた顔をのまま死んでいく姿を目に焼き付けられ、悲鳴を耳に焼き付けられ、それでも作戦を遂行しなければならない。普通なら耐えうるわけもない。

 

 間違いなく、完全にこの鎮守府は崩壊する。だが、いま逆らえば今まで積み上げてきたものが悉く瓦解するだろう。しかし、それにかまってもいられない。

 

 なんとしてもやめさせなければならない。

 

 俺は真っ向から北方提督に反対の意を示した。執務室で、北方が出撃する扶桑らの艦娘たちに作戦を伝えたところで、口を開いた。

 

「……なんだと?」

「その作戦は今すぐ取り下げるべきと言いました」

 

 同じことを繰り返した。

 

「は、はははは……」

 

 怒髪天を衝いたようだ。気味の悪い笑いが耳にこびりつく。

 

「下っ端の分際で……、少し甘やかしたら、調子に乗りやがって……」

「出過ぎたことだとは承知です。しかし、その作戦だけは許容できません。それを遂行されては──」

「喧しい!!」

 

 俺が言い終わる前に、北方は激した。

 

 愛用の精神注入棒を掴むと、ズカズカと俺のそばまで歩み寄り、側頭をフルスイングした。ゴッ、と鈍い音が響き、鋭い痛みとともに視界が揺らいだ。

 

 強烈な痛みだ。辛うじて踏ん張った。

 

 そして今度は頭頂部に振り下ろしてきた。視界に火花が散る。今度は流石に耐えきれず、膝をついた。

 

 手をついた地面にぼたぼた、と赤い液体が落ちる。

 

 いくら鍛えようが頭へ強烈な攻撃が耐えられない。脳震盪も起きているだろうし、これ以上殴られると命が危ない。

 

 だがここで引くわけにはいかない。俺たちと同じ轍を踏ませやしない。たとえ使い捨ての駒であろうと、一端の軍人だ。守り切ってみせる。

 

 未だ収まらないフラつきと戦いながら、どうにか立った。

 

 そして眼前の北方を見据える。

 

「多少使えるからと、のぼせよって……。お前はここでもう用済みだ!」

 

 金切りに近い声を上げて、北方は精神注入棒を目一杯振り上げた。

 

「やめろぉお!!」

 

 ドアから龍弥が飛び出して、俺たちの間は割って入った。両手を広げ、俺を守るかのように、北方に立ちはだかる。

 

「いい加減にしろ……! 俺たちは人間だ! どうしてそんな惨いことができる!」

「……人間だぁ?」

 

 北方は嘲笑う。

 

「何処の馬の骨かも分からぬ奴らを生かしてやっているのは誰だと思っている! 貴様らはただ俺の命令だけを聞けばよい! くだらぬことを言うのならば、貴様ら全員深海棲艦の餌にしてくれるわ!」

 

 中背で痩せた北方と180を超えるバリバリ深海棲艦とやりあう龍弥が対峙すれば滑稽に見える。

 

 その迫力に触発されたかのように他の艦娘たちも俺の前に立った。扶桑は俺に寄り添ってくれた。

 

「道具の分際で……!」

「……もうやめてください」

 

 扶桑が静かな、しかしはっきりと告げた。普段のオドオドした様子からは想像もつかぬほどの鋭い眼光であった。

 

「黙れぇい!」

 

 再び振りかぶり今度は扶桑へ振り下ろした。それを庇うかのように龍弥が飛び出す。

 

 再び鈍い音が響き渡り、血飛沫が舞う。

 

「いい加減にしろよ……」

「ホタカ!」

 

 我知らず龍弥の前に立ち北方の攻撃をもう一度受けていた。3発目ともなると思考もままならない。だが、俺は立っていた。

 

 俺の様子に少し怯んだ北方が見えた。その瞬間、俺は無意識のうちに右手をその憎たらしい顔にめり込ませていた。

 

 日々の戦闘がそうさせたのだろうか。少ない好機を逃さないと言う意識があったのか。

 

「き、貴様ァ! 何をしたのか分かってるのか! 上官に楯突くと……」

 

 北方の言葉が終わる前に俺は告げた。

 

「俺が行く」

 

 全員の目が見開く。

 

「俺が囮になる。お前の作戦が終わるまで」

「や、八幡さん!」

 

 扶桑が悲鳴のような声を上げた。

 

 狂ったような提案をしているのは理解している。言ってるのはほぼ自殺しにいっているようなものだ。

 

 しかし、これ以外に手はない。彼女らに被害が出て精神を崩壊させられてしまうのなら、俺がやる。俺が死んだとて悲しむ人はそういない。だが、作戦が終える前に俺が潰れれば、結局艦娘が捨て駒にされる。無駄死にもいいところだ。

 

 そもそもあの男がこの提案を易々とは呑むまい。激戦区の海域にたかが人間1人が耐えうるはずもない。そのことは北方も十二分に分かっているはず。

 

 案に違わず北方は鼻で笑った。

 

「何をふざけたことを……。艦娘以下のゴミ屑では何もできぬであろう」

「作戦が成功する可能性は限りなく低い……。だが、0じゃない」

「話ならん! 貴様はここで消え失せろ!」

 

 再び北方は振り上げた。

 

「今更命など惜しくはない!」

 

 俺は声を張り上げた。

 

 この鎮守府で大声などあげたこともない。そのせいか、扶桑も龍弥も、北方も俺の怒声に気圧されたようだった。

 

「殺すなら殺せばいい……。だが、俺は軍人だ。お前にゴミ屑と揶揄されようが。だからこそ、死に場所は戦場がいい」

「なんだと?」

「俺がどれだけ持つかはわからない……。しかし、その作戦をどうしても遂行するのなら、最初に連れていくのは俺にしてくれ。俺なら、下手な駆逐艦よりは長くやれる。鎮守府の被害も抑えてみせる」

「……ふん」

 

 北方の顔が残虐に歪んだ。

 

「自ら処刑方法を述べるとはいい度胸だ。……いいだろう、お前は確かに使えたからな。望み通り使い潰してやる」

「取り消すんだ、ホタカ! お前が死にゆく必要はない!」

「黙れ! 今頃貴様らに、決定権があるわけがないだろう! 異論があるのなら貴様も同じ目に合わせるぞ!」

 

 龍弥がぐっと歯軋りをした。いくら無能でどうしようもない北方だが、龍弥や俺のような低身分ではどうしようもない。

 

 龍弥の悔しそうな顔がこちらに向く。俺は右口角を少し上げ、首を少し縦に振った。龍弥は一層顔を顰めた。

 

「なら……俺の提案は受けるんだな?」

「ああ、いいだろう。貴様があと何日の命か見ものだな」

 

 こいつはもう人ではない。暴虐の化身だ。あいつの中では俺は掌で踊る人形のように見えているのだろう。途端に、俺はふらつきを感じ、よろめいた。すかさず、扶桑が俺を抱き寄せるように支えた。その身体は少し震えているようだった。

 

 もう立っているのもやっとだが、怒りは尽きない。単純な嫌悪、屑に弄ばれているという屈辱、そして自己矛盾。この一つ一つの渦が重なり大きな怒りの渦を形成している。

 

 今この手に銃があれば迷わず、引き金を引いただろう。なんなら、今もあいつの首を噛みちぎりたいぐらいだ。しかし、その殺意を無理矢理封じ込めた。

 

 いずれは殺す。しかし、今はこの後に控える、大地獄をどう乗り切るかを模索しなければならない。

 

 生き残ってやる。そして、お前の命を消し去る。

 

 

 ────

 

 

 私は病室に足を進めていた。

 

 提督が倒れて5日目のことだ。彼の着替えやら必要なものを持ち、彼の様子を見に。

 

 しかし、その日は見慣れない人物が見舞いに来ていた。2人いたのだが、どちらも小柄で幼い印象を受けた。黒髪のショートボブと焦茶色のツインテールに独特なサンバイザーをつけた娘。

 

「あら、確か貴女は……」

「……叢雲です」

「そうそう、秘書艦のひとよね」

 

 ショートボブの方は見覚えがある。確か大鳳と言う艦娘だったはずだ。提督がまだ現役で戦っていた頃の同僚だったと聞いている。熊野や広瀬さんとも顔見知りのはずだ。

 

「うちははじめましてやな。軽空母の龍驤や」

「はじめまして。……うちの提督とはどういった関係で?」

「なんか随分他人行儀やなぁ。全然タメ口でええで」

 

 なかなかクセのありそうな人だ。

 

「ま、うちも大鳳と似たようなもんや。昔の同僚」

「大分久しい気もするがな」

「そうやな、あんたが大怪我してからは会うてへんもんな」

「……まあな」

 

 何かあったのだろうか。龍驤と大鳳は提督の昔を知る上で重要な人物だ。是非とも話を聞きたい。

 

「にしても、おもろい話や。あの武尊が倒れるなんて」

「何回も聞いたぞ、その言葉」

「しょうがないわよ、どんだけ怪我しても戦場に行っちゃってたんだから。影では艦娘より人間離れしてるって言われてたわよ」

「甚だ心外だな」

 

 なんだか、自分がこの中では邪魔者な気がする。そんな気持ちを察したのか提督が話しかけた。

 

「で、叢雲は服とか持ってきてくれたのか」

「え、ええ。あとシェーバーも買ってきたわ」

「おお、ありがとう。毎度気が利くな」

「あら、そのひげ生やしてたわけじゃないのね」

 

 そう、今の提督が無精髭が生えている。これだけで大分印象が変わるから驚きだ。

 

「ここはカミソリが使えないからな。まあ、生やすのもありだが」

「嫌よ、ダサいわ。あんたに髭は似合わないわ」

「そこまで言われると傷つくぞ」

 

 と、提督と大鳳は笑い合った。

 

「にしても、大鳳のテンション高いやろ?」

 

 ふと、龍驤が小声で私にだけ聞こえるように話しかけた。

 

「そうなんですか?」

「あ、そうか。普段の大鳳を知らなもんね。普段は結構な真面目ちゃんなんやで。昔っから、武尊にだけはあんな感じ」

 

 心のどこかで妙な焦りが出てきた。私は知らない。こんな提督を。

 

「ちょっと、2人で何をコソコソ話してるのよ」

「なんでもあらへんって。少し互いのこと知ろうとしとっただけや、な?」

「ええ、そうね」

「あ、そう」

「いつまでもおしゃべりはいいが、他に用事があるんじゃないのか?」

「そうだけど、あんたはどうするの?」

 

 すると今まで穏やかだった様子の提督の顔が強張った。

 

「……いや、俺はいい」

「……そう」

 

 なんだが鈍重な雰囲気が漂う。

 

「ええってええって! うちらだけで行ってくるさかい」

 

 そう言って2人は軽く提督に挨拶してから病室から去って行った。

 

「賑やかな人たちね」

「……ああ」

「どうしたの?」

「俺もいい加減進まなきゃいかないのかな」

「提督?」

「……みんな知りたいんだろ? 昔のこと」

 

 急に提督は爆弾とも言えるような発言をした。それに私は狼狽える。

 

「だが、俺からはまだ言えないや。知りたいならあの2人に聞いてみてくれ。まだ病院からは出て行ってないはずだから」

「どうして、そんなことを?」

「……俺にとって今日は重要な日、だから」

「重要な日……」

「あいつらについて行けばわかるだろう。……まだ自分では話せるほど整理ができていない」

 

 そう言い、彼は視線を落とした。何年の月日をもってしても整理できてない過去。それが今、提督を苦しめているものに間違いはない。それを知れば、何かが変わるのか? 

 

「……分かったわ、着替えとかこのバッグに入ってるから」

「……ありがとう」

 

 そう言い、私は大鳳たちの後を追うことにした。知らぬより知った方が変わる可能性がある。その一心だった。

 

 

 ────

 

 

 11月初旬。

 

 

 気狂いとも言える作戦が幕開けて1週間。

 

 なんとまあ天気にも恵まれ7日間連日の出撃だった。1日に数回と出撃することも珍しくなく、その数は10を超えた。そして、その回数分死にかけた。

 

 たとえ、イ級だとしても生身の人間の俺からしたら、その砲撃は脅威的だ。雷撃、水平爆撃、急降下爆撃……、ありとあらゆる攻撃が目の前から、空から、海から襲いかかってくる。

 

 それを全て交わすのは困難だ。たとえこちらがスピードに長けているとは言え、相手の手数が手数だ。致命傷となる攻撃は避けてるとは言え、無傷とはいかない。

 

 無論、元々の作戦が"俺が死ぬ"ことは前提条件のため、どれだけ怪我をしようが撤退は許されない。敵の戦闘機の機関銃に肩を撃ち抜かれ、爆風によって大火傷をおっても敵の懐まで向かったことがあるくらいだ。あの時は、死を覚悟した。

 

 俺は今までにない死地を何度も歩いた。

 

 その甲斐あってか、作戦の成果は確実に出ていた。深海棲艦が徐々に後退していっているのだ。俺が囮になることで、自軍の被害が減少して、確実に攻撃が通っているのだ。

 

 それだけが要因ではない。指揮する者に大きな変化がある。大まかな指揮自体はあの北方が執っている。しかし、龍弥が密かに艦娘たちに無線を渡し、細かな指示をしていたのだ。膨大な知識を持つ龍弥と自らの身分に胡座をかいていた北方ではその采配能力の差は大きすぎる。正確な指示が成功へと導いていた。

 

 また、出撃艦隊自体の士気向上も大きい。それまで風前の灯火であった彼女たちの気持ちは、北方への反骨心によって再び燃え上がり、深海棲艦殲滅へ力を尽くすのだった。

 

 鎮守府の皆は、修羅の如く戦場に赴く俺に畏怖の念を持ちはじめたようだった。前までは、気安く話しかけていた娘ですら、声をかけるのも躊躇うようになり、口を聞く者も減っていった。

 

 日を追うごとに鎮守府の雰囲気が殺伐としていった。しかし、それは重苦しいものではない。北方に対する憎悪と憤怒が、力に変えているだけ。しかし、その力は絶大だ。

 

 そして10日目となった。

 

 ついにflagship級の旗艦も退け、大金星をあげた。鎮守府からボロボロの艦隊を出迎える鐘がなる。

 

「隊長!」

 

 黒風隊の声が聞こえる。しかし、その声に応えるほどの余裕がなかった。戦艦や空母に担ぎ上げられた俺は、自分の足で立つこともままならなかった。

 

 今までは機関銃や爆風ぐらいのダメージを負わなかったが、ついに砲撃が直撃した。厳密にいえば水上バイクに直撃したのだが、至近距離で爆発したのだ。ありとあらゆるところが火傷し、破片が体に入り込み、大量出血も起こしている。せめての救いは四肢が残っていたぐらいか。

 

「医務室へ! 早く!」

 

 誰かが叫ぶと龍弥が担架を持ってきた。すでに連絡はいっていたらしい。

 

「ホタカ! しっかりしろぉ!」

「早く運んで! 出血がひどすぎるわ! このままだと──」

 

 艦娘たちが叫び、龍弥が怒鳴っていた。なんて言っているのだろうか。近くにいるはずなのに遠くいるかのようだ。視界が霞み、徐々に暗くなっていった。最後に悲痛に歪んだ龍弥の顔を捉え、意識は黒に塗りつぶされた。

 

 意識を取り戻したのは、それから数時間のことだ。

 

 俺は医務室のベッドの上にいた。目を開けて最初に捉えたのは龍弥だった。

 

「気が付いたか!」

 

 安堵した表情の龍弥。ずっとここにいてくれてたのだろうか。

 

「大丈夫か? 起き上がれるか?」

 

 体を起こそうと力を入れた途端、ありとあらゆる場所が痛む。それに頭がぼーっとする。

 

「あんまり無理して動くな。火傷はそこまでひどくないらしいが、背中の傷が特に深いらしい。それに輸血しばっかりだ。動けないのも無理はない」

「……どのくらい寝てたか?」

「4、5時間くらいだ」

「そんなにか……」

 

 龍弥は顔を顰めて、言った。

 

「明日の出撃は中止になったから今は休んでくれ」

「そうなのか?」

「ああ」

 

 あの男をそう容易く説得できるのだろうか。そんな俺の疑問を読み取ったのか、

 

「みんなが、交渉してくれたんだ。今日の成果を理由に」

「……みんなが、か」

「だから、休まないと彼女たちに申しわけがつかない」

「はは、それもそうだ」

 

 それと、と龍弥は1つの紙切れを取り出した。

 

「大鳳から手紙が来た」

「……俺にも来たよ、2日前に」

「そうか、なんで書いてあったんだ?」

「いろいろ大変だけど、頑張っているってさ」

「俺も同じようなものだ。大鳳はああ見えてマメだよ。月に1回は送ってくれるから」

「まあ、あいつは情に厚いやつだから、心配なんだろう。それに俺たちとは手紙でしかやりとりもできん」

 

 軍人である以上、当然手紙にも検閲がある。大鳳は相当苦心したらしく何度も書き直した痕跡があった。

 

「そうだな……」

 

 言葉は静かだったが、手には力が入った様子で手紙にシワができている。

 

「だから、大鳳は知らないままなんだろうな。まさか自分がいた鎮守府が地獄みたいになっているだなんて」

「……龍弥」

「なあ、ホタカはいつもなんて返事をしているんだ? "こちらも相変わらず頑張ってます"ってか?」

 

 俺は黙って頷いた。真実を赤裸々に語れるはずもない。

 

「なあ、俺は慣れていたんだと思っていた」

「……?」

「ホタカ、俺らは何度も仲間の死を見てきただろう? 最初のメンバーはもう俺ら2人だけだ」

 

 笑える話ではない。しかし、龍弥は笑っていた。

 

「今のメンバーもあとどのくらいもつだろうか? 北方に変わってからまた随分入れ替わりも早くなってしまった」

 

 龍弥の様子がおかしい。

 

「そういうもんは慣れっこだって思ってた。でも、違うんだよな。気づかないふりをしてただけなんだ。もうとっくに精神がズタボロで、戦うことで誤魔化してただけなんだって。今更気づいた。あの娘たちが……、お前が傷ついてようやくだ」

 

 この表情を俺は知っている。度重なる戦いで心が折れかかっている者が見せるものだ。その行先は廃人だ。

 

 俺は勝手に龍弥を完璧超人だと思い込んでいた。俺とは違うと。だが、龍弥も人間だ。俺と同じように狂いかけていたのを堪えていただけだった。

 

「すまん」

「……なぜお前が謝る」

「龍弥がそこまで追い詰められているのを気づけないだなんて」

「違う」

「いや、もう我慢するな」

「違う」

「だが」

「違うと言ってるだろ!」

 

 龍弥の怒鳴り声が響いた。あの温和な男の初めての怒声だった。

 

「今……、今一番苦しいのはお前だろ! ホタカ! あんなふざけた作戦の犠牲の……お前が……」

「……」

「もう嫌なんだ。友達が……お前が、傷つくのを眺めるだけなのは……」

「俺も、そうだ」

「……代わってくれ、ホタカ。もうこのまま見るだけなのは耐えられない」

「無理だ」

「なぜ! もうお前は十分に頑張った、もう十分だ!」

「俺が言い始めたことだ。俺がやるしかない」

「なら、あのクソッタレを……!」

「無理だと分かってるだろ? 俺らみたいな身分じゃ、どうしようも無い」

 

 冷たく言い放った。だが、これが事実なのだ。

 

「心配するな。俺はやり切ってみせる。今までそうだろう?」

「心配しないわけがないだろ」

 

 龍弥は絞り出すように言った。その手は一層力が込められている。

 

「俺たちは黒風隊だ。今はまだ、ただの使い捨てかもしれない。だが、いつかは誰もが憧れる部隊にする」

「ああ、そうだ」

「その黒風隊は俺とお前がいなきゃ始まらない、だろ?」

 

 俺は右手を差し出した。目を赤くした龍弥は、

 

「……ああ!」

 

 右手を強く握りしめた。もうこれ以上の言葉はいらない。この握手だけで俺らは十分だ。

 

 

 ────

 

 作戦開始から3週間後。

 

 怪我を負いながらも身体に鞭を打ち、なんとか攻略を進めていき、目標の3分の2ほどの前線を押し上げることに成功した。ここまで行くと相手も恐ろしいほどの強さを見せ、鎮守府も火の車であった。

 

 だが、この作戦が突如中止されることになった。

 

 北方が折れたとか、俺に情けをかけたとかそんな優しい理由ではない。そうせざるを得ない事態が発生したのだ。

 

 それはある艦娘の告発により、腐敗した海軍の実態が明るみに出たのである。そうなれば国民が許さない。結果、主要人物の大幅な入れ替えが起こったのだ。

 

 その入れ替わった人物の中でも、佐久間という人がいっきに幹部まで上がったらしい。

 

 その人物が鎮守府の内部調査を始め、提督のパワハラや汚職の摘発を始めたのだ。その結果、いくつもの提督が処罰されているようだ。

 

 そのことに北方は恐れている様子であった。そして、これが大きな機転となる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 5~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。