Re:ゼロから始める極道生活 (勘兵衛)
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桐生一馬という男
伝説の龍は異世界へ(仮)


初投稿です。
サブタイはとりあえず仮題。


 ―― 一体どうなってるんだ?

 

 突如自身の身に降りかかった異常事態に全く理解が及ばず、男は唯々そう頭の中で反芻するしかなかった。

 咄嗟にポケットの中身を確認し、財布とそこにある少なくない札や硬貨、そしてイザという時のためのカードを確認する。

 どのような状況でアレ金銭は強い味方だ。人も物も金さえあればとりあえずは最低限何とかなる。彼の財布にはそれくらいの、少々の事なら乗り切れるだけの金額が詰め込まれていた。

 だが、それを確認してなお彼の困惑と不安は一切晴れることは無かったのだ。

 

「換金、出来るのか?」

 

 自分の見知らぬ、一瞬にして移り変わった街並みを眺め男はそう呟く。

 

 男は凡庸とは正反対の存在であった。

 精悍な顔つきに180を超える大柄な肉体。

 着慣れたグレーのスーツの上からでもわかる体つきは生半可な鍛錬では身につかないほどに筋肉質で、隙の無いその佇まいと鋭い眼光は一際男の非凡さを主張している。

例え群衆に紛れてしまっても、一目で分かるといっても過言ではないほどの存在感が男にはあったのだ。

 

 今も例にもれず、道行く人々が通りがかるたびに男に目を向ける。

 だがしかし、男に向けられる視線は彼がいつも浴びるものとは全く違った『珍奇なもの』を見るものばかり。

 

 周囲を歩く人々にスーツはおろかジャージや洋服姿なんてものはなく、ローブや鎧といった劇の登場人物の様な恰好ばかりだ。

 

 ただでさえ異質である男は今この場においてより異質な存在として一際目立っている。

 

「俺は……一体どうなっちまったんだ?」

 

 これまでの短くない人生でも経験がないほど、頼りない声で彼はそう呟き、そんな彼の前をトカゲの様な動物が馬車の様なものを引き、颯爽と横切っていくのであった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 桐生一馬は普通という言葉とは限りなく縁遠い人生を歩んできた。

 40年余りの彼の人生は、常に過酷と不運。そしてほんの僅かだけの幸運で彩られる。

 それらを語るには彼の年齢の優に倍の時間は必要であるだろうが、それでも一言で表すなら『桐生一馬はヤクザである』といったところか。

 それもただのヤクザではない。日本における最大の規模を誇る暴力団『東城会』。その四代目会長であり、その筋の人間からは『伝説の龍』として恐れられてきた

まさに生ける伝説という存在である。

 

 彼のことを俄かに知った人々は、さぞ満ち足りた人生を送っていると思うだろう。

 だがそれは大きな間違いだ。前述の通り、彼の人生において幸運というものは(本人は否定するであろうが)雀の涙よりは気持ち多めくらいのものだろう。

 両親とは生き別れ父替わりの男は跡目争いで殺され、親友もまた結果的にではあるが己の手で殺したようなものだ。

 愛した女も、自分を慕う若者たちも。彼の周りには不幸な死で溢れていた。

 

 そしてそれらを乗り越え、ようやく手に入れた小さな幸せもまた彼は手放さなければならなかった。

 複雑な権力争いに巻き込まれ、それでも己の大切なものを守ろうと命を張った結果がそれだ。

 だが男は人を憎み世界を恨む事はなく、ただ最後に一目自分の守った大切なものを見届け人知れずどこかへ消えようと――

 

「そうして、歩いていたはずなんだがなぁ」

 

 沖縄にある小さな孤児院、そこに残してきた幸せを見届けた後。喜びと未練がない交ぜになった複雑な感情を胸に歩いていたのが彼の直前の記憶だ。

 

 だが気が付くと自分が立っているのはまるでタイムスリップでもしたかのような西洋風の街並みだ。

 無意識に歩いていたとしても、自分が知る沖縄にこんな町並みは存在しない。

目に見える風景だけでなく、日差しも風も空気も匂いも。五感で感じ得る全ての感覚がここが沖縄でないことを告げている。

 

「ならここはどこだってんだ?」

 

 そう自問するが答えは出ない。

 目に見える全ての事柄が、彼にとって理解の範疇を超えていたのだ。

故に彼は――考えるのを放棄する。

 

 どう考えたところで自分の身に何が起きたかなど想像もつかない。

 ならばまずは、この状況に対応することが最優先だ。

原因など落ち着いてからいくらでも考えればいい。そう桐生一馬は判断したのだ。

 

「なぁおい。少しいいか?」

 

「ん? なんだ?」

 

「いや、少し道を尋ねたくてな。すまないがこの辺で飯を食えるところがあれば教えてほしい」

 

「なんだ観光客か? こんなご時世に珍しいねぇ。ほら、向こうの大通りの右側に看板が見えるだろう。ルグニカじゃあそこが有名どころだよ」

 

「ありがとう、助かった」

 

 近くを通りがかった男性に道を尋ね、少なくとも意思の疎通が不自由なく可能であることを確認する。

 ついでに今ここにいるのが恐らく『ルグニカ』という地名であることも知ることが出来た。

 予想はしていたが聞きなれない地名に再び頭を抱えそうになるも、桐生はもう一つ大切なことを確認するため近くの露店へ近づいて行った。

 

「いらっしゃい、何か入用かい?」

 

「ああ、この――リンゴはいくらだ?」

 

「リンゴぉ? リンガの事かい?」

 

 疵顔の店主はそう訂正すると聞いたことのない通貨を提示する。

 金貨、銀貨、銅貨……。

 どうやら少なくとも日本円は使えないらしい。この事実に桐生は僅かに焦りを覚える。

 なにせ最も頼りになるはずであった金が役立たずになるのだ。

 食事さえ賄えればどうにかなる自信のあった桐生だったが、それもままならない可能性が出てきたとなるといよいよ身の振り方を考えなければならない。

 

「おい、リンガ。買わねぇのか?」

 

「え、ああいや、すまねぇ。金を忘れてきちまったみてぇだ」

 

「あんだい冷やかしやよ。ったく、文無し小僧が店先でぶっ倒れたかと思えば今度はこれかい。ほら帰った帰った!」

 

 手を振ってぼやく店主を尻目に桐生はとりあえず街を散策しようと歩き出す。

 一文無しの天涯孤独という状況に僅かに陰る桐生の表情とは対照に、大通りの賑わいは相変わらずだ。

 あちこちから人々の喧騒が聞こえ、それらは桐生でも分かる言葉だというのに目に付く文字は見たことも無い模様の様なものばかり。

 大通りの中央、石造りの道路に目をやれば盛んに馬車―― 引いているのは大きなトカゲの様な生き物だが。が行き来し、歩道を歩く人々は桐生と変わらない人間だけでなく

人型のトカゲの様な者や犬や猫の耳が付いた者までバラエティ豊かだ。

髪の色も多種多様で、それでいて桐生の様な黒髪はとんと見かけない。

 彼が人目を引くのも、その黒髪の珍しさ故であった。

 

「持ち物は使えねぇ金にスマートフォン、タバコとライターくらいか」

 

 歩きながら改めて持ち物を確認するが、役に立ちそうなものはない。

金銭は言わずもがな、スマートフォンも電源は十分にあるが電波が無い。

 

「財布が換金できりゃいいんだがな。一応安物じゃあねえんだが……」

 

 とはいえこんな謎の土地でブランドが威光を発揮するとは到底思えないため殆ど期待はしていない。

 いっそチンピラでも絡んできていつものように――等と冗談半分に思いつつ歩みを進めていると……

 

「そーら取ってこーい!」

 

どこか抜けた声と共に、目の前の横道から『ビニール袋』が飛び出してきた。

 

「あれは…!」

 

 コンビニのビニール袋。

 近代的な街並みとは程遠い中世風の街並みには似つかわしくない文明的なアイテムを見つけ、何かの手掛かりになるかと考え駆けつけ手を伸ばす。

すると、桐生がビニールを拾おうとすると同時に2本の手がそこへ伸ばされた。

 

「あぁ?」

 

「ん?」

 

「え?」

 

 三者同様に顔を突き合わせ間の抜けた声を出す。

 どうやら桐生以外の2人もまたこのビニール袋を拾おうとしたらしい。

そうして鉢合わせになり、お互い見つめあって僅かの沈黙が過ぎ――

 

「あんだおっさん?」

 

「こいつは俺達のもんだぜ?」

 

 威嚇するように、鋭い目つきと歯茎をむき出した挑発的な下卑た笑みを浮かべて2人の男が桐生に顔を向ける。

 だが桐生はそれに臆する事無く対応する。

 

「ゴミが飛んできたもんだから拾おうと思ってな。横取りするつもりはなかったんだ」

 

「はぁ? ごみぃ?」

 

「あんのやろぉ! バカにしやがって!」

 

 そう言って二人は顔を怒りに染めながら来た道を振り返る。

 それにつられるように桐生も彼らの視線の先、路地裏へ目を向ける。

するとそこには背中を見せて逃げ出そうとするジャージ姿の少年と、その背中に向けてナイフを振りかぶる男の姿があった。

 

「危ねぇ!」

 

 咄嗟に桐生が叫ぶ。

 その大声に驚いたのか男の腕が一瞬止まり、少年は振り向きながら足を滑らせてその場に転び尻もちをついた。

 

「ひっ!?」

 

 一瞬止まった腕はすぐさま振り下ろされ、先ほどまで少年の背中があった場所。今は少年の鼻先をナイフの切っ先が間一髪で掠めていく。

 

「ちっ、邪魔しやがって……」

 

 ナイフを持った男は声の主、桐生の方へ向き直ると憎々しげにそう吐き捨てた。

その後ろでは少年が青い顔で浅い呼吸を繰り返している。

 

「おいおい、お前殺すつもりだったのかよ」

 

「血で汚れちまったら着てるもの売れなくなっちまうだろうが」

 

「仕方ねえだろ、表に逃げられて面倒になるよかマシだ」

 

まるで人を殺すことに関心の無さそうな会話を交わし、三人の興味は少年から離れ桐生へと集まる。

 

「なぁオッサン? 見逃してやるからなんも見なかったふりしてとっとと帰れや」

 

「見世物じゃねえんだよコラ」

 

「………」

 

 3人の視線には僅かな殺意が込められている。

 この場で見なかったふりをすれば見逃してやると言う事だろう。

 男の一人の手には未だに抜身のナイフが握られている。

 今はその切っ先は行き場をなくし地面へと向けられているが、ゆらゆらと揺れるそれは言外に、言う通りにしなければ桐生にも向けられる事を仄めかしている。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 奥を見ると、腰が抜けたのが少年は鼻先から流れる血を拭おうともせず、両手を後ろにつき尻もちをついたまま青ざめた顔でこちらを見ている。

 もしも桐生が言う通りにすれば、再び彼は三人の殺意に晒されるのだろう。

 その後に待っているのはリンチか、或いは先ほどの焼き直しか。

 少なくとも穏当な未来が待っているとは到底考えられない。

 

「………」

 

「おい、聞いてんのかおっさん!」

 

 小柄な男がズイと前へ出て桐生を見上げるように睨みつける。

 だがそんな脅しを受け流すどころか気にする風もなく、懐からタバコを取り出し慣れた手つきで火をつける。

 

 勿論少年に義理はない。

 人を殺す事になんの感慨も無い様な連中と事を構えるなんざ百害あって一利なし。

見逃すというのならばさっさと見逃してもらうのが間違いなく賢明だろう。

 黙って回れ右、見なかったことにすれば世は事もなし。見知らぬ少年一人の命と自分の危険、天秤に乗せるまでもないのだから。

 

 ―― そんな賢明な生き方が出来なかったが故の、桐生一馬なのだが。

 

「ふぅー……」

 

 肺一杯に吸った煙を大きく吐き出す。

 その先にいた男の顔に思い切り吹き付けられ、彼は独特の香りに顔をしかめてせき込む。

 

「ゲホゲホ! な、なんだこれ!? ど、毒か!?」

 

「おいこら、こっちが下手にでてりゃいい気になってんじゃねえぞ!?」

 

「てめーもぶっ殺してやろうか? あぁ?」

 

「―― るかったんだよ」

 

「あ? 舐めてんのか?」

 

 一番大柄な男が桐生の胸倉を掴み、自分の元へ強引に引き寄せる。

 

―― 瞬間、悲鳴が上がった。

 

「い、ぎゃああぁあああぁあ!?」

 

 悲鳴は桐生のものではなく、胸倉を掴んだ男のものだった。

掴んでいた手首は桐生の万力の様な握力の右手に握りつぶされ悶絶する。

 

「俺は今、訳の分からねえ事ばかりでよ、すこぶる機嫌が悪いんだ」

 

 たまらず手を離し逃げ出そうとする男の横っ腹に大振りな回し蹴りを叩き込むと、まるでボールの様に派手に吹き飛び壁に叩きつけられ、男の意識はそこで途絶える。

 突然の事態に驚愕し未だ事態の理解が及ばず、目の当たりにした光景に目を白黒させる残りの二人に対し、桐生は鋭い眼光で見据え言い放つ。

 

「運が悪かったんだよ、お前らは」

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 路地裏には3人の男が白目をむいて転がっていた。

 時間にして1分にも満たないだろうか、哀れ桐生に因縁をつけたチンピラ3人組は圧倒的な力の差を見せつけられ叩きのめされていた。

 

「今度からは、相手を見て喧嘩を売るんだな」

 

 そう言って喧嘩の前に火をつけたタバコを吸い終え、取り出した携帯灰皿に捨てる。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「……あ」

 

 未だ尻もちをつく少年の元へ歩み寄り手を差し伸べる桐生。

 少年はその手を掴み、よろよろと立ち上がると……

 

「す……」

 

「え?」

 

「すっげええぇぇええぇええええ!!」

 

満面の笑みと興奮でそう叫んだ。

 

「お、おい」

 

「すげえ、すげえよおっちゃん!

 いや、俺もあいつらをぶっ飛ばしたことはあるよ? でもその時の俺なんかとは段違いっつーか?

 まるで熟練者の使うトキみてえな圧倒的な技量差に感激っすよ!

 しかも喧嘩してる間左手はタバコ持ったまんまで火も消えてないとかなにそれ怖い!」

 

「……元気そうで何よりだ」

 

 先程まで青い顔をしていたのが嘘のように興奮を言葉にして捲し立てる少年。

どうやら心配はないようだととりあえず桐生は安心することにした。

 

「あ、すいません! 俺、菜月スバルって言います! この度は助太刀感謝の極みに候!」

 

「……桐生一馬だ。礼なら普通に言え」

 

「ありがとうございます桐生さん!  っと、すんません! 申し訳ないけどこれで失礼します!」

 

 大きく頭を下げた後何かを思いだしたのか、ハッとして踵を返すように背を向け走りだそうとする少年、スバル。

 どうやら随分と落ち着きのない奴だと桐生は彼をそう見る。

 

「おい、そんなザマじゃまたくだらねえ連中に絡まれるぞ」

 

「あー、大丈夫っす! 俺の予想が正しけりゃエンカすんのはこいつらだけっていうか……

 ともかく、このまんまじゃあの子を見失っちまう!」

 

「なに?」

 

 桐生の内心もよそに、スバルは慌てた様子で桐生が来た側とは反対の大通りへと走り去っていった。

 ジャージ姿にコンビニ袋を持った黒髪の少年。

 おおよそいま桐生が身を置く風景とは異質の、そう、自分と同じように異質な存在に色々と尋ねたい事もあったが、向こうはそれどころではないようだった。

 

「もしかして、あいつも俺と同じ境遇か?」

 

 とても外出の準備をしていたとは思えない着の身着のままのジャージ姿。

 そしてこの中世西洋風の街並みにはありそうもないコンビニの袋。

 先程飛んできた、恐らく彼が投げたのであろうそのコンビニ袋を拾ってみると、中には見慣れた菓子やカップラーメンが入っていた。

 

「この辺りで買った……わけではねえだろうな」

 

 桐生は道を歩いていると突然この奇妙な土地に放り出された。

 この状況を見ると彼もまたそれと同じ境遇なのではないだろうか?

 その割には知り合いがいるような言い回しではあった事に少々引っ掛かりを覚えるが……。

 

「なんにせよ、確かめてみるしかねえな」

 

 スバルが走り去っていった方向を見る。

 人間からそうでないような者も含め多くの人でごった返しているが、その中にあってスバルの黒髪はよく映える。

 かなり離れた向こうで人混みを掻き分けるように走っていくスバルを視界にとらえ、桐生は走りだした。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 スバルは駆ける。

 脳裏をよぎるのは自分に向けられた不可解な、怒りに濡れた彼女の視線。

 先程助けてもらった桐生という男や自分が現在進行形で遭遇している事態に思うことが無いわけではないが、今の彼にとって些末な事だ。

 まずは彼女の誤解を解かなければ。

 五里霧中なスバルの現状において、彼女に対するそれは明確かつ明朗な目的であった。

 大通りを駆け抜け、商店の喧騒も遠くなっていくと建物はまばらにみすぼらしい物が増え更に走る頃には大通りにいた人々とはうって変わった貧しい身なりの

人々と、湿り気のある空気とすえた臭いが漂い始める。

 

 貧民街。

 

 まるで既知の街並みであるかのようにすいすいと迷わず足を進めるスバルは、そこにたどり着いた辺りで足を止めキョロキョロと周囲を見回し始めた。

 

「多分今くらいにはこの辺にたどり着いているはずなんだけど……」

 

 どうやら目当ての人物はこの辺りにはいないらしい。

 となるともう少し先か、はたまたすでに目的地にたどり着いてしまっているか。

 

「そうなるとやべえな……」

 

 スバルは苦々しい表情で両目を抑え、大きくため息をつく。

 それからほんの少し震える脚をばしんと両手で叩いて空元気を引っ張り出し、再び前を見据える。

 

「とにかく、行動あるのみだ。まずはなにがなくともあの子に誤解されたままじゃ夢見が悪い」

 

 覚悟を決めた表情で再び歩き始めるスバル。

 その時だった、ちょうど目の前の横道から現れた人影にぶつかってしまったのは。

 

「あだっ」

 

「あらごめんなさい、怪我はないかしら?」

 

「あー、だいじょびだいじょび。こう見えて俺って頑丈なのがとり…え……」

 

 軽口は尻すぼみになり、表情には驚愕と、続いて恐怖が浮かぶ。

 

「楽しい子ね。……本当に大丈夫かしら?」

 

 目の前に立つのは妖艶に髪をかき上げ、艶めかしい声と笑顔で気遣う美しい女性だった。

 美人に耐性のないスバルは、本来であればそんな彼女に顔を真っ赤にしてあたふたしていたであろう。

 だが、そんな彼の様子は決して微笑ましいそれではなく、むしろ何か恐ろしいものを見てしまったかのように硬直していた。

 

「あ……う…」

 

 何か言わなければ怪しまれる。そうなれば……。

 根拠のない、しかし彼にとってはこれ以上ないほどに根拠のある不安が胸中を支配する。

 そんな彼を見かねたのか、スバルとぶつかった女性は薄くため息をついて笑顔を浮かべる。

 

「そんなに怖がらなくても、何もしないのだけれど?」

 

「こ、怖がってとか、そんなんありえないんすけどー? 何を根拠にビビり認定してんすか? 困るわーそして超凹むわー……」

 

 なんとか虚勢を張ろうとするスバルに、女は嫣然とした表情で一言「臭い」と言い放つ。

 

「に、におい? くさいってことっすか? いやー、初対面の人にそう言われるとビビり認定より傷つくっつーか、もう悲しいんでお暇させてもらいますね?」

 

 そういってその場を去ろうとするスバルだが、女性はその美しい鼻をすんとならして言葉を続ける。

 

「怖がっている人はね、臭いがあるの。恐怖の臭い。私にはそれが分かるのだけれど……貴方、随分と怖がっているのね。

 それだけじゃなく怒りと、敵意も」

 

 覗き込むように顔を近づけ、その双眸でスバルの眼底を射抜くように見据える。

 スバルは蛇に睨まれた蛙の様に更に硬直し、手は行き場をなくし開閉を繰り返している。

 何か軽口を叩こうと口をパクパクさせるが、急速にカラカラになった喉からは乾いた空気が漏れ出るばかりであった。

 

「私と貴方、どこかで会った事あったかしら?」

 

 つつぅと、スバルの腹部を艶やかな仕草と指先でなぞる。

 ただそれだけだというのに、スバルは恐ろしいトラウマを思い出すかのように目を見開き必死にこみ上げる嘔吐感を堪える。

 

「お、お姉さんみたいな美人、見たら忘れるわけねーし……初対面、っすよ?」

 

 何とかそんな言葉を絞り出し、射抜かれるような視線から目をそらす。

 その言葉に納得したのかどうかはわからないが、女性はもう一度鼻を鳴らすとスバルから顔を離し

 

「ふふ、お上手ね。敵意と恐怖が隠せればなお良かったのだけれど」

 

 そう言って一、二歩後ろへ下がり、そして――

 

「あ、れ……?」

 

 一筋の鮮血が、スバルの腹を横切っていた。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「あいつ、まあまあ早いじゃねえか……!」

 

 人混みを掻き分け、縫うように走るスバルを同じように追いかける桐生。

だが彼の大柄な体格では通れる隙間などほとんどなく、何度も肩にぶつかっては怒鳴られ謝罪を繰り返す。

 幸いスバルの脚は特別早いわけでもなく、桐生の100m10秒台という健脚で見失わずにはいるが、距離を開けられない様に走るのが精いっぱいであった。

 

(にしても、やっぱりあいつ土地勘があるのか?)

 

 走りながら桐生は考える。

スバルの足取りに迷いはなく、目的地までひたすらに進むものであった。

土地勘が無ければまずありえないそれが、桐生にとっては少し不可解だった。

 

(もし俺と同じ境遇だとして、あの身なりじゃあ同じ様にそう時間は経ってねえはずだが……)

 

 考えながら走っていると、段々と人は減り風景も変わっていく。

 やがて空気も湿っぽくなる頃にはスバルとの距離も大分詰まるが、同時に桐生は自分が先程までとは全く違った雰囲気の場所に辿り着いた事に気づく。

 

「ここは、スラムか?」

 

 海外のニュースなどではよく目にするスラム。

 彼自身はその目で直接見たことはないが、似た様な雰囲気は知っていた。

 覇気のない、それでいてギラついた人々の視線。雑多に打ち捨てられたガラクタとそれを糧にしているであろう浮浪者。

 彼がかつて住んでいた日本有数の繁華街、神室町にも一つ道を外れればこういった場所は少なくなかった。

 

「なんであいつ、こんなところに」

 

 追いかけている少年とは到底似つかわしくないそこで、桐生は思わず足を止め警戒するように目を配る。

 こういった場所では気を抜くと背後から刺される事も無いわけではない。まして先ほどの様な殺人に忌避感の薄いチンピラがいるような土地では尚更に。

 だが周囲の人間は特に何をするわけでもなく、興味と僅かな敵意の様なものを含んだ視線を投げかけるだけで近づいてこようとはしなかった。

 

「……誰彼構わず喧嘩を吹っかけてくるような連中ばかりじゃねえか」

 

 慣れぬ謎の土地とそこで出会ったチンピラのせいで、ここの治安はそういうものだと思い込んでいたが杞憂であったようだ。

 警戒さえ怠らなければさほど問題はないだろう。

そう思って桐生は僅かに息をつき、もう一度スバルの走っていた方向に目をやると

 

「あ……う…」

 

 小さな川を隔てた先で、スバルは立ち止まっていた。

 そしてその彼の前には美しい黒髪の女性が一人。

 美人局にでも声をかけられたか? なんて呑気な考えが頭をよぎる桐生であったが、その彼女の目を見た瞬間、そんな軽い気持ちは霧散する。

 

「なんだ、あいつは」

 

 思わず息を呑む。

 遠目からでも分かる。

 

あれは―― 真っ当な人間ではない。

 

 仕事柄桐生は多くの人殺しを目にしてきた。

 殺人を楽しむ者、仕事として割り切る者。命の重みを背負いながら殺す者。

 だがスバルの前に立つその女は、彼の知る誰とも違う恐ろしさがあった。

 

 それは病的に、偏執的なまでに殺人を厭わず楽しむ殺人鬼の目。

 彼は知らない。その女が『腸狩り』という名で名を馳せる快楽殺人者である本性を。

だが、彼は気づく。潜ってきた修羅場と多くの出会いが、あの女が普通ではないこと を。

 

 そしてその直後、桐生は後悔する事になる。

 彼は見たのだ。

 女の指がスバルの腹を横になぞるその犯行予告めいた妖艶な仕草を。

 彼は遅れたのだ。

 顔を離す女の目に、ほんの僅かに殺意がこもるその瞬間に気が付くのを。

 

「――― っ!?」

 

 女が顔を離し、一、二歩後ろへ下がったその時スバルの体はぐらりと揺れ、水音を立てて倒れた。

 女はそんなスバルを心配する風もなく屈みこむと、愛おし気に嬉しそうに

彼の腹からこぼれ出たそれにそっと手を触れその温かさを愛でると、満足げな表情で一言呟いた。

 

「ごめんなさいね、貴方がそんなにも臭うものだから、ついその気になってしまったわ」

 

「てめぇ!」

 

 駆ける桐生。

 だがもう遅い。

 女は桐生の存在を捉えることなく、満足した表情でスバルを一瞥すると人間離れした跳躍でその場を去っていった。

 

「おい、おい!」

 

 だが気にかけている暇がないのは桐生も同じだ。

 急いでスバルの元へ駆け寄った桐生は彼を抱きかかえ、そして絶望する。

 

これは、もう駄目だ。

 

 冷静に、それは自分でも嫌になる程に。

 彼はスバルのその命の灯が消えていくことを、それを止められないことを確信する。

 腹は真一文字に切り裂かれ、そこからまるで出口を求めて這い出したかのように彼の腸が漏れ出ている。

 それは傷一つなく、さながら解放してあげたとでも言わんばかりで、その卓越した技量と執念に心の片隅で感心する程で。

 

「おい、しっかりしろ! 目を開けろ!」

 

 だが、そんな現実的で冷静な判断とは裏腹に桐生は焦る。

 目の前で失われる無辜の命に対し静かでいられるほど、彼の人間は出来ていない。

 服が血に塗れるのも気を向けず必死に声をかけ、何か奇跡でも起きないかとあり得ない望みを抱き、もてる知識を総動員してどれも手遅れでしかない応急処置が浮かんでは消える。

 そしてそれら全てが無駄でしかないと冷酷に判断し、それでもなお諦めきれない。

 

 冷静と激情の狭間で彼は迷う。

 それが、桐生一馬という男の性であった。

 

「ぐぅ、あぁ……」

 

 閉じた瞼をこじ開けるように開き、スバルは虚ろな瞳で自分を抱きかかえる桐生を見る。

 いい人だ、とスバルは思った。

 先程会ったばかりでろくに言葉も交わしていないのに、彼は自分の命に必死になりその死を悲しんでいる。

 男の腕で、なんてちと華は無いがこんな風に悲しんでもらえるのなら悪くはない。

 自分の命にも価値はあったのかなぁ、なんて死に際にしては呑気な考えに喜びを感じつつ、彼の意識は遠ざかっていく。

 そして一言、『今回も』果たせなかった未練を吐き出す。

 

「約束、また……守れなかった」

 

 そう口にして、彼の意識は途絶えそれに引きずられるように彼の命は終わりを迎える。

 

「………」

 

 己の手の中で命が失われる感覚。

 桐生にとっては何度も経験し、それでも慣れる事のない不快で悲壮な感覚。

 

「ちくしょう……」

 

 守る義理などない。悲しむ縁などない。

 それでも彼は悔恨の言葉を口にし、己の不甲斐無さを呪う。

いつだって、そうなのだと。

 

「………」

 

 そして心は沈黙する。

 彼の中に確かに存在する冷酷な桐生一馬は、今の行動がもはや無駄でしかないとそう判断をつけるのだ。

 ならば彼が次にすることは。そんな無駄でしかない中でも多少なりとも意義のあるであろう行動。

 

「せめて、弔ってやらなきゃな」

 

 本来なら家族や親縁にその死を告げるのが道理だろう。

 だが桐生は、心のどこかで確信していた。

 ここには、『この世界』には自分もこの少年にも、親類縁者と言えるような人物は存在しないだろうという事を。

 

そんな不合理な確信に疑問を抱くこともなく、彼の亡骸を埋葬しようと立ち上がろうとしたその時だった。

 

「っ!?」

 

 ゾクリと悪寒が背筋を駆け巡る。

 

 その刹那の内に世界は黒く塗りつぶされ、風も空気もその流れを止める。

 まるで今この空間に己しか生命は存在しないのだと認識させるような、そんな感覚に桐生は戸惑う。

 

「な、なにがどうなってやが……る……?」

 

 言い終える前に、彼は見た。

 目の前で黒い靄が集まり、それが形どっていく光景を。

 それはまるで小さな手の様な形になり、彼が抱きかかえるスバルに近づいていきその頬を愛おしそうに撫で――

 

「が、ぁ……っ!」

 

 そして怒りと憎しみをぶつけるように、桐生の肉体をすり抜けその心臓を鷲掴みにする。

 

「あ、ぐああぁあぁぁ!」

 

 耐え難い激痛と苦しみが桐生を襲う。

 黒い手はこれがお前の罰だと、贖罪だと言わんばかりにその心臓を弄び絶え間ない苦しみを桐生に与える。

 

 それはほんの一瞬で、しかし桐生にとっては無限とも錯覚するほどの間苦しみを与え

 

『――う……して……』

 

 桐生にとっては理不尽な、非難と弾劾の呟きと共に彼の心臓は握りつぶされた。

 

 



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剣聖との遭遇

 

 

―― 一体どうなってるんだ?

 

桐生は再び。その疑問で頭が一杯になっていた。

 

突如眼前に広がった見知らぬ中世西洋の様な風景。

そこを歩くのはローブや鎧を身に纏い、およそ日本人とはかけ離れた顔立ちや髪の色の者ばかり。

それだけでは飽き足らず、まるで人型の獣の様な生き物が人間と同じように我が物顔で闊歩し、それを誰も気にすることなく受け入れている。

目の前を横切るのは馬車だ。だが引いているのは馬ではない。まるで大きなトカゲの様な、見たことも無い謎の生き物。

 

だが、今の桐生を困惑させるのはそれだけではない。

 

自分の服に目を向けると、それはまるで何事も無かったかのように奇麗なままだ。

スバルという少年の血で塗れたはずのグレーのスーツは染み一つなく、その手もまた同様に。

無限とも錯覚するほどに与えられた苦悶と激痛も跡形もなく消え、最後には握りつぶされたはずの心臓も何事もなく脈打っている。

 

突然風景が切り替わったことに関しては、もうこの場に来た時点で一度経験しているのである程度観念しよう。

だが、それに伴って全てが無かったことになっているのはどういう事だ。

度重なる理解の範疇を超えた事実に、流石の桐生も頭を抱えて困惑する。

 

「訳が分からねえ、夢でも見てんのか俺は」

 

道行く人々が桐生を奇異の目で見ては通りすがるが、最早そんなものは気にならない。

とにかく今は落ち着かなければならない。

そんな時に大切なのは会話だ。

誰かと会話をすれば不思議と心は落ち着くものだ。

そう考え、桐生は先程声をかけた近くの露店の店主に声をかけた。

 

「すまねえ、ちょっといいか?

 金がねえってのに声をかけるのは悪いとは思ってんだが、今はどうにも誰かと話したくてな…。

 ああ、なんだったら物々交換は出来ねえのか? タバコか、この財布はそれなりに値の張るもんだ。リンゴ一個でもいいから口にしたい気分なんだが」

 

らしくもなく饒舌に語る桐生だが、話すうちに少しずつ心が落ち着くのを感じる。

気休めではあるが効果はあったななんて思う彼だったが、声をかけられた疵顔の店主は怪訝な表情で。

 

「なんだ初対面でべらべらと。しかも金がねえってお前、もう少し取り繕うってことを知らねえのかよ」

 

「おいおい、さっき会った客の顔も忘れたのか? そりゃあこれだけの人が相手だろうが、客商売ならそいつは勉強不足じゃねえか?」

 

「ばっきゃろう、これでも記憶力はマシな方だ。それにあんたみてえな特徴的な男、一度見たら忘れやしねえよ。

 お前こそどっかの店と勘違いしてるんじゃねえか?」

 

「な……」

 

初対面だと言い張る店主に桐生は絶句する。

確かに何かしら関係を結んだ相手ではないが、それにしたってこの反応は不可解だ。

さほど時間も経っていないはずだ。

まして店主の言う通り特徴的な自分の事を完全に忘れてしまうとは考え難い。忘れるにしても、一目見れば多少なりとも思い出すのが自然というものだろう。

だが事実、店主は桐生が一度声をかけたことをまるで無かった事かのように語るのだ。

 

「はっ、いよいよ俺もヤキが回りそうだぜ……」

 

落ち着き始めた心は再びざわつき、今度は不安が押し寄せる。

もう何もかもがワケが分からない。

衝動的に叫びだし走りだしたくなるような感覚を桐生はぐっと堪え、沸き立つ不安と焦燥感溢れそうになるのを必死に押しとどめる。

 

その時だった。

どこかで聞いた声が聞こえてきたのは。

 

「衛兵さーーーーーーーーん!!!」

 

喧噪に紛れ、耳に届く頃にはか細い音になりながらも、彼の耳にはそれが届いた。

大通りの向こう側、あの路地裏の方向からその声は聞こえてきたのだ。

 

「誰かーーーー! 男の人呼んでーーーーーーーー!!!」

 

ふざけた様に助けを求めるその声は、先ほど出会った

自分の腕の中で命を落としたはずのジャージ姿の少年、スバルのものであった。

 

「どう、なってるんだ……?」

 

あそこから助かったなどありえない。

そもそも彼の死にゆく様を自分は確認したはずだ。

新たな不可解な展開に困惑するも、今度は何故か少し気が晴れる。

鍵はあの少年だ。

彼に聞けば何かが分かるかもしれない。

そんな漠然とした期待を抱き、桐生はその場から駆けだした。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「今度はダメか……」

 

残念そうにスバルはそう呟く。

僅かな期待を抱き、『前回』助けに来てくれた人がいた事から思いつき試した行動。

大通りには届いたはずのその大声はしかし、なんのアクションも無いまま僅かに静寂が場を支配した。

 

「おどかしやがって……ほんの少しばかりだが、ビビっちまったじゃねえか」

「ほんの少しだけな!」

「ほんのちょびっとだけだけどな!」

 

反応を見るに自分の行動はそう間違ったものでは無かったらしく我ながら感心するも、結果が伴わなければ減点対象だ。

こうなれば自分で切り抜けるしかないか、だが死ぬわけにはいかない。

こいつらは人を殺す事に損得以外の感情は無く、今目の前で抜かれたナイフは機嫌を損ねれば何の躊躇もなく自分に突き立てられるであろう事をスバル自身が経験している。

 

『あの時』は間一髪で助かったが、今回もそう上手くいくとは限らない。

むしろあれが出来すぎというか、平行世界というものが存在するのならあそこで背中を刺されて死んでいた自分もあるのではないか

なんてスバルは自嘲しながら、トンチンカンと勝手に名付けた目の前の三人組と対峙する。

 

「にしてもお前だけ素手かよ。武器を買う金なかったのか?」

 

「うるっせえな! 俺は武器ない方が強いんだよ! あんま舐めた口きいてっと、本気で殴り殺すぞクソがッ!」

 

「知らないとはいえ苦しい言い訳だなおい……」

 

彼が二度その素手で無様に叩きのめされた事を知るスバルは、呆れたように呟く。

それに気を悪くしたのか、男は指をゴキゴキとならしスバルを睨みつける。

 

こんな軽口に意味はない。

ただ相手を逆撫でするだけで、結果的に言えば自分の死亡率が上がるだけでしかないのだろう。

 

だがスバルにはこれが必要な時間稼ぎだと思っていた。

それは漠然とした期待。あんな風に自分の死を嘆いてくれる人なら、きっとまた助けてくれるのではないかと――。

 

そんな淡い希望はしかして、現実のものとなるのであった。

 

「言ったはずだぜ、お前らは運が悪いんだってな」

 

待ち望んだ声が、三人の背後から聞こえてきた。

 

「な、なんだてめえは!」

 

「おいオッサン、邪魔するならてめえも容赦しねえぞこら」

 

「今なら見逃してやるからとっとと消えな」

 

抜群のコンビネーションで小物ぶりを発揮する三人に目をくれず、桐生は再び絡まれている少年の姿を捉える。

 

「……やっぱり訳が分からねえな」

 

そこに立っているのはスバルだ。

凄惨な腹の傷も、光を失った瞳もどこへやら。

初めて目にした時と同じ様に(今回は尻もちをついていないが)何事もなかったかのように彼はそこに立っていた。

 

分からないのはもう一つ。

少し前に叩きのめしたこの三人もまた、桐生を初対面かの様に煽る。

あれだけやれば力の差など明白だろうに、凝りもせずに喧嘩を売ってくる三人。

神室町にもそういう途方もない馬鹿が居なかったわけではないが、ほんの少し前の事を全く覚えてすらいない様な連中は流石に初めてであった。

 

「おい、今度からは相手を見て喧嘩を売れって言ったはずだ。……まあ、その時はてめえら揃って気絶していたか

 まあいい、ともかく今度は手加減しねえぞ」

 

そう言って鋭く睨む。

例え忘れていても、喧嘩慣れしたチンピラの本能が危険を告げるのか、その迫力に三人は気圧され無意識に後ずさる。

こうなると後は実利とプライドのせめぎ合いだ。

実利を取るならば一目散に逃走。プライドを取るなら敗北必死の特攻。

後者を取るなら余程の馬鹿しかありえないが―― 残念ながらトンチンカンは余程の馬鹿であったようだ。

 

「舐めんじゃねえぞコラぁ!」

「身包み剥いで簀巻きにしてやる!」

「後悔したって遅えぞボケェ!」

 

精一杯の虚勢を張って後ずさる足を止め、引きつる顔で威嚇しながら戦闘態勢に入る三人。

桐生は呆れつつも拳を握り、せめて殺さないようにと相手を見据え――

 

「そこまでだ」

 

現れた二人目の乱入者が、それに待ったをかけた。

 

そこに立っていたのは一人の青年であった。

燃え上がる炎の様に紅い髪、勇猛さと清廉さを兼ね揃えた瞳は碧く輝きその立ち居振る舞いに隙は無い。

すらりとした細い長身と整った顔立ちはどこか頼りなさを感じさせるはずが、そんな印象は青年とは無関係であった。

 

「………」

 

皆一様に目を奪われる。

それは桐生もまた例外ではなく、特に彼を驚愕させたのが青年の全身から放たれる圧倒的な強者のオーラであった。

 

多くの強者と出会ってきた。

多くの戦いを経て、時には猛獣すらも相手にしてなお桐生はそれらを打ち破ってきた。

またある時はたった一人で百人以上の武装集団を相手取り、それでも勝利を収めたこともある。

故に伝説の龍。不敗神話の体現こそ生ける伝説である桐生一馬そのものであった。

 

だが、そんな彼をしてこの青年は―― 自分でさえ未だ手は愚か視界の片隅にさえ届かない、遥か高みにあると感じさせた。

 

「この王都で大儀無き刃傷沙汰は見過ごせない。どうか僕の顔に免じて、双方この場は矛を収めて頂きたい」

 

そんな桐生の印象とは裏腹に、青年は謙虚にそれでいて誠実な言葉をもって頭を下げる。

 

スバルと、そして三人もまた沈黙している。

その顔に浮かぶのは驚愕の表情だが、三人はスバルとはまた少し違った形で驚いているようだ。

 

「ま、まさか……」

 

一人が唇を震わせ青年を指さした。

 

「燃える赤髪と空色の瞳、そして鞘に刻まれた龍爪の騎士剣……」

 

確認するように自分の知る知識と照らし合わせ、そして最後に息を呑み

 

「ラインハルト、『剣聖』ラインハルトか!?」

 

僅かな畏怖と恐怖に濡れた声で、彼らは青年の名を口にした。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

ラインハルトの出現に恐れをなし、ようやく実利を選んだ三人は捨て台詞の一つもなく一目散に逃げだし、その場には桐生とスバル、そしてラインハルトが残った。

 

「ふぅ、どうやら事なきを得た様だ」

 

ラインハルトは心底安心したかのように息をつき、そう言葉を紡いだ。

 

「すまねえ、俺じゃあこんな風に穏便には済ませられなかった。礼を言わせてくれ」

 

「いえ、それはこちらの言葉です。貴方の様な実力者がいてくれたおかげで彼らも無駄な争いと悟ってくれたのでしょう

 僕一人では二対一……数の上ではまだあちらが有利でしたからね。

 寧ろこちらから礼を。貴方のおかげで憲兵の本懐が成し遂げられました」

 

臆面もなくそんなことを口にする。

余りの謙虚さに寧ろ嫌味にすら聞こえかねないそれだが、口にするラインハルトはまるで真実だと言わんばかりの様子であった。

 

「そんな事はないと思うんだがな」

 

そんなラインハルトに毒気すら湧かず、額面通りに言葉を受け取る桐生。

どうやらこの青年は本気でそう思っているらしい。過ぎた謙虚は毒になるとはいえ、こうまで実直だと何も言えなくなる。

 

「君も無事でよかった。助けに来るのが遅れて怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない」

 

次いでラインハルトはスバルに目を向け、怪我一つない様子を見て安堵の表情を浮かべる。

 

スバルはそんな完璧超人もかくやというラインハルトに、ほんの少しの嫉妬を覚えつつも膝をついて平伏し

 

「このたびは命を救っていただき、心からお礼申し上げる。このナツキ・スバル、その御心の清廉さに感服いたしますれば……」

 

「礼は普通に言え、スバル」

 

「ありがとうございます、ラインハルトさん!」

 

「ラインハルトでいいよ、スバル

 それに礼は不要だ。さっきも言った様に、穏当に事が運んだのはこの御仁が駆けつけてくれた事の方が大きい。

 僕一人ではこうはいかなかっただろう」

 

「え、なにこのイケメン身も心もイケメンな上にさらっと距離まで詰めるフレンドリーさとかもしかしてラインハルト主人公の俺ルート突入間近?」

 

「はは、よくわからないが面白いなスバルは。それと、申し訳ありません、よろしければお名前を伺ってもよろしいですか?」

 

「桐生一馬だ」

 

「キリュウ・カズマ様ですか。改めて、本当にこの度はご助力感謝いたします」

 

「呼び捨てで構わねえ。それにさっきも言ったが手柄はあんたのおかげだ

 連中、三対一だろうが十対一だろうが、あんたを相手にしたら一目散に逃げ出してるだろう」

 

「呼び捨てはご勘弁を。尊敬すべき人生の先達に対しその様な振る舞いは僕の道義に反してしまいますので

 それとお気遣いにも感謝を。そう言っていただければ至らぬ身も幾分浮かばれます」

 

「気遣いじゃなく事実だと思うぜラインハルト……っていうか憲兵なんだな」

 

「今日は非番で制服を着ていないがね、そう見えないのは申し訳ない」

 

「それに関しちゃ否定しねえ。しかし寧ろさっき呼ばれていた『剣聖』って肩書の方がそれらしいぜ」

 

「未だ身に余る肩書ですよ。期待に足る人間であろうと日々重圧と戦ってはいるのですがね」

 

そう言って肩をすくめ、「時には押しつぶされてしまいそうだよ」とスバルに笑いかける。

この誠実さに加えユーモアまで持ち合わせているとなるといよいよ欠点が見つからない。

スバルは愚か人生経験豊富な桐生でさえ見たことも無い完璧さに驚嘆する二人を、彼はジッと見据えると

 

「二人とも黒髪に見慣れない服装、そして名前。同郷と見受けたが出身は?

 ルグニカへはどんな理由で来たんだい?

 ああ、これは取り調べなんかじゃなく興味本位の質問だから気軽にしてくれて構わないよ。

 気を悪くしたなら申し訳ない」

 

「いや、気を悪くなんてそんな事はねえから気にすんな。

 にしても、同郷か……」

 

そう言ってちらりと桐生に目をやると、桐生も同様にスバルに目をやり二人の目が合う。

どうやら考えていることは同じ様だ。

だがスバルと違い桐生には少し困惑の表情が見て取れる。

どうやらこういった知識には疎いらしい、とスバルは判断し俺に任せろと言わんばかりに会話を続ける。

 

「ええと、なんと言ったらいいかこういう場合のセオリーだと……そう、東だ

 俺達はずっと東の向こう側から来たんだ」

 

「ルグニカより東って……大瀑布の向こう側って、冗談かい?」

 

「大瀑布?」

 

聞きなれない単語に首をひねるスバル。

同時にセオリーが通用しなかった事に一抹の残念さを覚える。

 

「俄かには信じ難いが、誤魔化している風でもないね。まあいいや、王都の人間でないのは確かだろうけど、何か理由があって来たんだろう?

 だが残念ながら今のルグニカは平時よりも慌ただしくてね」

 

そう言ってラインハルトは桐生に向き直り

 

「よろしければ先程のお礼を兼ねてお手伝いをさせて頂けますか?

 未熟な身ではありますが、何かお役に立てることもあるかと思います」

 

「……とは、言われてもな」

 

どうやら桐生を保護者か何かと判断したらしい。

だが桐生からすれば現状は何もかも理解不能な状況だ。

ましてやスバルに状況の解明を期待する始末、事今に限って言えば、スバルの方が余程頼りになるかもしれない。

 

「ああぁ、ええっと人! 人を探してるんだ!

 この辺りで白いローブを着た銀髪の女の子を知らないか?」

 

それをスバルも察したか、或いはただ欲求に従っただけか

遮るように桐生への提案にスバルが答える。

 

「白いローブに、銀髪……」

 

「付け加えると超絶美少女。で、猫……は別に見せびらかしてるわけじゃないか。情報的にはそんなもんなんだけど、心当たりとかってない?」

 

それがこの状況の解明の鍵となっているのだろうか。

それはわからないが、桐生はとりあえずスバルの判断に任せておくことにした。

 

そして尋ねられたラインハルトはスバルの質問に対し少し考える素振りを見せ

 

「……その子を見つけてどうするんだい?」

 

「落とし物、この場合は探し物か。それを届けてやりたいんだよ」

 

そのために? と桐生に目配せをするラインハルト。

全くの初耳だがとりあえず頷いて話を合わせておくことにした。

 

「すまない、心当たりはないな。よければ探すのを手伝うけれど」

 

「いや、そこまで迷惑はかけられねえよ。こっちには二人いるし気にしないでくれ」

 

そう言って両手を上げるスバル。

どうやらあまりラインハルトの同行には乗り気では無いようだ。

そういえば先ほどは貧民街へ向かっていた。ああいった場所に用があるとなると、確かに公僕であるラインハルトの存在は色々と不都合があるだろう。

 

「あー、そういうわけだ。それじゃあ行こうかスバル」

 

そう思惑を察し、少し不器用に話を切り上げようと桐生が口を挟んだ。

 

「行かれるのですか?」

 

「ああ、本当に世話になった。また縁が有ったら会おう」

 

「ええ、こちらも貴方のような御仁と言葉を交わせたことを喜ばしく思います。

 今度は貴方のお話を聞ける機会があれば良いのですが」

 

「よせ、つまらねえ話しか出来ねえ男だよ俺は」

 

「ご謙遜を。スバルも、良かったらまた会いに来てほしい。

 それに何かあったときはいつでも頼ってくれ、今度は友人として全力で手を貸すよ」

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。……衛兵の詰め所とかに行けば会えるのか?」

 

「あぁ、名前を出してもらえれば分かると思う。もしくは非番の日はこうして王都をうろついているよ」

 

「わざわざ男を探して町をうろつき回る趣味はねぇなぁ……乙女ゲーじゃあるまいし」

 

そう言って軽口を言うと、スバルは桐生の横に立ち「行こうぜ」と促した。

ラインハルトは大通りに向かって歩き出す二人を「気を付けて」と最後まで爽やかに見送りの言葉を向けるのだった。

 

―― 二人を値踏みするかのような視線と共に。



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異世界は極道と共に

「色々と聞きたい事はあるが……」

 

「ああ」

 

 人混みと喧騒で賑わう大通りを二人で並んで歩く。

 黒髪に見慣れない装束。そして揃って目つきの悪いその風貌に、すれ違う人々は親子か何かと見紛うだろうか。

 だが二人はほぼ初対面だ。

 互いの名前以外はその人となりも、出身すら知らない。

 だが不思議とお互いには奇妙な連帯感が生まれていた。

 それはおそらく、これから問いかける質問とその答えに理由が隠されているだろう。

 

「叔父貴ってどこから来たんだ?」

 

「叔父貴ってなんだ、オジキって……」

 

 そんな核心をつく質問よりも先に、唐突に呼ばれたその呼び名に出鼻を挫かれる。

 

「いいじゃん叔父貴! なんかそれっぽいし!

 なんかこう、ヤクザの組長って感じがするからさ!」

 

 的外れではないスバルの抱く印象に感心しつつも苦笑いを浮かべる桐生。

 どうやら初対面の印象通り、彼は随分とお調子者らしい。

 

「桐生組若頭筆頭! ナツキスバルでござんす! なんてどう?」

 

「それだと叔父貴じゃなくて親父なんだがな」

 

「へ、なんか違うの? ってか叔父貴ってやっぱⅤシネとかそういうの好きなの?」

 

 どうやら大分浅い知識で語っているらしい。

 まあ、そんな業界の事は知らないに越したことはないし、関わっても何も良い事は無い。

 わざわざ教えてやるのも野暮だろうと思い、桐生は「まあ、そんなもんだ」と肯定する。

 

「んで、さっきの質問だけど……」

 

 自分から話を逸らしながらも答えを早く求めているのか路線を修正するスバル。

 今度は真剣な顔をしており、茶化すつもりはないようだ。

 

「日本だ」

 

「やっぱり!」

 

 合点を得たとばかりに手を叩くスバル。

 その様子ならば、問い返さずとも答えは同じの様だ。

 

「ついさっきまで沖縄にいたはずなんだがな。気が付いたらここにいた」

 

「沖縄!? マジで!? 俺も似た様な境遇だけど、俺がいたのは埼玉の端っこの方だぜ」

 

 どうやら二人の境遇は同じだが、それ以前にいた場所は大分違うようだ。

 距離にして千数百キロ。同じ災難に見舞われるにしては距離が遠すぎる。

 

「スバルは心当たりはあるか?」

 

「全然。さっきも言ったように気が付いたらここにいたんだ。何の前触れもなく、ちょっと視界が滲んだかなーって今にしたら思うくらい」

 

「同じくだ。……どうやら考えても答えは出そうにもないな」

 

 突然の移動にお互い解明する手立ても思い当たる節もないらしい。

 ならば考えるだけ時間の無駄だ。

 そうなれば今度は別の疑問に移るのが建設的だと、そう判断し今度は桐生から質問を投げかける。

 

「ここは一体何処なんだ? ルグニカってのは分かったが、そんな名前は聞いたことがねえ。日本じゃねえのは確かだが、建物の様子じゃアジアでもなさそうだ」

 

「何言ってんだ? 異世界に決まってんじゃん」

 

「いせ……かい?」

 

 あっけらかんと答えるスバルに、桐生は若干の戸惑いを見せる。

 

「ああそうか、叔父貴そういうのあんま詳しくなさそうだもんなー……」

 

困惑する桐生に、合点がいったように一人でスバルは納得している。

どうやらスバルにとっては、割と常識的に近い事実らしい

 

「叔父貴も見たろ? 獣みたいな人間、まあ基本的にはああいうのは亜人って言うんだけど

 それに竜が引く車や魔法。どれも俺達がいた世界じゃありえないものばっかだ」

 

 前二つは見た事があるが、魔法というのはまだ見たことが無い。

 だがスバルの言葉から察するに、彼は実際にそれを目にしたのだろう。

 

「となれば、ここは異世界

 俺達はいわゆる異世界転移ってのに巻き込まれちまったんだよ」

 

「異世界、転移……」

 

 スバルにとっては馴染み深い言葉の様だが、サブカルに明るくない桐生にとっては飲み込むのに時間のかかる事実と単語だった。

 数少ないSFや漫画の知識を総動員して、これまでに苦し紛れに立てていた推論が『タイムスリップ』であった。

 よくわからないが、何かの拍子に自分はどこか違う国の違う時代にでも飛ばされたのだろうと。

 現実には一笑に付すありえない推測だが、事実目の前に広がる光景はそうとしか説明がつかないと思っていた。

 

 だが、異世界。

 

 今まで生きてきた日本、いや地球とは全く別の『世界』だと言うのだ。

 それが事実かどうかはまだ分からないが、成程。

 タイムスリップなんかよりも余程しっくりくるように思える。

 ましてまだ目にしていないが、魔法みたいなものが実在するとなれば尚更だ。

 

「随分と、冷静だな」

 

 そうして何とか情報をかみ砕き、押し込むように事実を受け入れると、今度はスバルに疑問が浮かぶ。

 見たところ年齢は青年と呼ぶにもまだ若い。体つきは思いのほかしっかりしているが、あどけなさの残るその顔は

せいぜい高校生がいいところだろう。

 そうなれば、突然こんな事に巻き込まれればパニックの一つも起きそうなものだが。

 

「まあ、色々と妄想はしてたしな。イメトレはバッチシよ!」

 

 そう言ってサムズアップするスバル。

 よくわからないが、こうなる事を常日頃から想定していたという事だろうか。

 だとすればこの落ち着きようも何となく理解できるが、しかしそんな事態を想定しているという事実の方が今度は解せない。

 それとも今の若者にとってはそれが常識なのだろうか?

 幼い頃から面倒を見ていた想い人の忘れ形見、遥という少女もまた内心で異世界に転移することを常日頃から想定していたのだろうかと疑問が沸き上がる。

 

「まあ、若い連中の考えてる事は流石に分からねえが……」

 

 両親は良いのか? と尋ねそうになり、そこで言葉を止める。

 わざわざ辛い事を思い出させる必要もないだろうと桐生は判断した。

 今はこうして明るく振舞っているが、両親の事を思い出してホームシックになればスバルとて辛いだろう。

 もっとも桐生は知らないが、今のスバルにとってはそれは杞憂であったのだが。

 

「叔父貴の方こそ良いのか? 残してきた家族とか心配にならねえの?」

 

 そんな桐生の気遣いなど知った風もなく、スバルは桐生が聞きづらかった事を何気なく尋ねてくる。

 悪気が無いのは分かるが、色々と軋轢を生みやすい性格なんだろうなと桐生のスバル像がまた一つ更新された。

 

「気になる事がない、というのは嘘になるな

 だがまあ、俺がいない方が色々と都合がいい事の方が多いんだよ」

 

 どこか遠い目で、桐生は紛れもない事実を口にする。

 そんな桐生の様子を流石に慮ったのか、スバルは茶化すようなことはしなかった。

 同時に共感も得る。

 スバルもまた、事実はどうあれ自分がいない方が都合がいいと考えていた節があったのだ。

 

(つまり、鼻つまみ者どうしって奴なのか?)

 

 期せずして露見した二人の共通点にスバルは思いを巡らす。

 対して桐生は、既に別の疑問に思考を切り替えていた。

 

「まあ、現状については異世界に来た、って事が分かっただけで大分気が楽になったぜ。ありがとよスバル」

 

「叔父貴に褒められると照れちまうぜ」

 

「だが、実はもう一つどうにも理解できねえことがある。その、なんだ……」

 

 言っても良いかどうか、非常に判断がつき辛く歯切れの悪い物言いになってしまう。

 スバルの心情がどうとかではなく、単純に質問自体があまりにも訳の分からないものだったからだ。

 

「スバル、お前……死ななかったか?」

 

 色々考えた末、結局率直に桐生はそう尋ねた。

 何を馬鹿なことをと笑われるのは承知だ。

 だって死ぬも何もこうしてスバルは生きているのだ。

 先程から呼吸をし、歩き、話、時には笑い調子のよい軽口を叩く。

 これが幽霊だというのならば、桐生の幽霊観は大きく革命を起こすだろう。

 

「あー。やっぱりか……」

 

 だがスバルは笑う事もなく、むしろ納得がいったような様子で頷いた。

 

「やっぱりだと?」

 

「いや、路地裏で二度目に会った時に俺の事を知ってた時点でもしかしたらとは思ってたんだ。

 トンチンカンとのやり取りも覚えてたみたいだし、やっぱ一緒に召喚されただけあって叔父貴は特別なんだろうな」

 

 そう言って一人で理解を深めるスバル。

 対して桐生はスバルが得心する度に混乱が深まるばかりだった。

 

「……頭が悪くてすまねえ、出来れば分かるように説明してほしい」

 

「叔父貴が悪いわけじゃねえよ、こればっかりは実際に経験して……それでも理解するには三回も死んだわけだけどな」

 

「三回?」

 

「そ。俺は……『死に戻り』をしてるんだ」

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

『死に戻り』

 

 スバル曰く、彼は何かしらの要因によって死ぬ度にこの異世界へ来たタイミングにタイムスリップしているというのだ。

 知識や記憶、持ち物さえもそのままに。

 

「俺がここにきて死んだのは都合三回。それも全部あの女……エルザって奴の仕業なんだ」

 

 あの腸に異様な愛情を見せていた殺人鬼。

 桐生をして一抹の恐怖を感じさせるあの女に、スバルは三度も殺されていると語る。

 

「叔父貴と出会ったのは三度目の周回、つまりエルザに殺された二回目の直後だな。

 叔父貴の話から察するに、多分叔父貴が転移してきたのはその、俺にとって三回目のループのタイミングだな

 ってことはあれか? もしかして叔父貴って詰んでる俺へのいわゆるお助けキャラとかそういうやつ?」

 

 そうやって頷きながら状況を把握していくスバル。

 桐生はというと、先ほどから難しい顔をして必死に理解しようとするが、やはり突拍子もない事実にまだ思考が追いつかない。

 

「死んだら、人間はおしまいだ。やり直しなんか出来るはずもねえ」

 

 故にこの期に及んで最早反論足りえない常識論を口にするしかなかった。

 

「俺だってそう思ってたさ。けど……」

 

「いや、すまねえ。わかってはいるつもりだ。状況を見ればお前の言う事が一番辻褄が合うってのもな

 大体異世界がどうのなんて理屈がまかり通ってる時点で常識なんて口にしたってしょうがねえ。

 ……だがまあ、三度も死んでるだの聞かされると流石にな」

 

 誰かの死を看取った経験は何度もあり、その度に慣れる事無く辛い思いをしてきたが、流石に自分が死んだ経験は当然だがない。

 だが少年はそれを経験している、三度も。それも一度は桐生の腕の中でだ。

 それはどんなに辛いものなのだろう。

 死にそうな目にあった経験は何度もある。

 その度に苦しい思いをしてきた。それは痛みだけではない。死を迎えかねないという状況そのものが、肉体以上に心を蝕むのだ。

 それをこの年若い少年は三度も経験してきたのだという。

 桐生の知り合いの様にそれ自体を楽しむという人種もいないわけではない。

 死と隣り合わせの境遇に喜びを覚える狂人もまた確かに実在する。

 想像だが、きっとあのエルザという女も方向は違えどそういったタイプの人種だろう。

 

 だがこの少年はどうだ?

 

 見るからに平々凡々な、命をかけたしのぎ合いとは無縁に育ったであろう普通の少年だ。

 それを三度。下手をすれば心を病みかねない経験を三度も積み、それでもこうして明るく振舞っている。

 

「おわ!?」

 

 突如頭に置かれた厳つい手のひらにスバルが驚愕する。

 無意識に、突如湧き上がった隣を歩く少年に対して湧き上がった賞賛と父性に突き動かされ頭をなでていた。

 

「……辛かったな」

 

「う……」

 

「やるじゃねえか、大した男だぜお前は」

 

「……」

 

 抵抗することもなく、ほんの少し顔を赤くし……

 顧みるつもりは無かった自分の努力や無念が報われたような気がして、スバルの目にはほんのり涙が浮かんでいた。

 

「だ、ぁー! やめやめ! このまんまじゃ偽サテラじゃなくて叔父貴ルートに入っちまう!」

 

 やがて耐え切れなくなったのか、そんな言葉を叫んでスバルは桐生の手を振り払った。

 

「悪い、ガキ扱いしちまったな」

 

「いや、それはいいよ、実際ガキだし……。ただ頭を撫でられるのは、ほらちょっと、やっぱ恥ずい

 ってかこれっておかしくね!? こういうのって俺の役目っていうか、ラインハルトの時も思ったけど俺がヒロイン!?

 ナデポする側じゃなくてされる側とか異世界セオリー無視しすぎでしょうよ!」

 

 体をくねらせ、腰に手をまわして悶絶するスバル。

 どうやら異世界に対する彼の理想とは、現状全く異なる展開に進んでいるようだ。

 

「すまん、よく分からねえが……」

 

「いや、いい!叔父貴は知らなくていい世界なのです!」

 

「そ、そうか、ならいいが……」

 

「いいんだ! それより話を戻そうぜ!」

 

 そう言ってスバルは軌道を修正する。

 気づけば、桐生の心中からは戸惑いやスバルに出会う前に渦巻いていた不安が大分軽くなっていることに気づく。

 このまま真っすぐ、それでいて分別がつくようになれば人の中心になれる才能があるなと桐生は思った。

 

「ああ、そうだな。それじゃあ一つ疑問なんだが、なんだってお前はそうエルザに殺されてるんだ?」

 

 まず真っ先に浮かんだ疑問を口にする。

 一度ならず二度までも、いや三度にわたってスバルはエルザに殺されているという。

 記憶も経験も引き継ぐのならば、出会いそのものが危険なエルザとは鉢会わないよう彼女の行動範囲から離れるのが先決なのではないだろうか。

 実際現在も、前回あのエルザと出会い殺された貧民街へと歩みを進めているのだ。

 

「その疑問はもっともだし、俺だってあいつと会いたくはねえよ。あんな歩く死亡フラグ、どんだけ美人でも願い下げだ

 殺される理由は正直よく分からねえ。多分口封じとかそんなとこだとは思うけど……

 まあ前回に至っては完全に気まぐれっぽかったし、多分会う事自体が失敗なんだろう。

 けど、俺の目的を果たすにはどうしてもあいつが立ちはだかるんだよ」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で語るスバル。

 どうやら事情は分からないが、彼にとってエルザとの出会いはどうしても避け難い出来事らしい。

 

「その目的ってのは、さっき言ってた人探しか?」

 

 ラインハルトの申し出に咄嗟に答えた内容を桐生は思い出す。

 誤魔化すための出まかせとも思ったが、それにしては銀髪だの白いローブだの具体的が過ぎる。

 これが信憑性を増すための咄嗟の後付けならば、桐生はスバルの評価をまた改める程に機転の利く人物という事になる。

 

 だが流石にそうではなかったようで、人探しは事実であったようだ。

 

「ああそうだ、ステラ……まあこれは偽名らしいんだけどさ。その子は大切なものを盗まれちまってるんだ。

 それはどうも強制イベントらしくて、何度繰り返しても同じ様に盗まれて困ってる。

 俺はそれを返してやりてえんだ」

 

「人助けか、見上げた根性だが……自分の命まで張るってのは少し行き過ぎてねえか?

 いくらやり直せるとしても、粗末にするのは褒められねえぞ」

 

「分かってるさ。そもそも次があるなんて保証もないからそれは俺だって、ちょっと怖い。

 けどさ……助けられちまったんだよ」

 

「なんだって?」

 

「助けられたのさ。この世界に飛ばされてすぐ、まだ一度も死んでない時の話だけどさ。

 あのトンチンカンの三人組に襲われたとき、その子は助けてくれたんだ。

 自分が大切なものを盗まれて困ってるってのに、一時を争う様な状況なのに足を止めて

 自分になんのメリットだってないのに無理矢理理由をつけて、俺を助けてくれたんだ」

 

「………」

 

「そりゃ俺だって自分が馬鹿だと思うさ

 知ってるか? 俺が持ってるこの携帯ってこっちじゃ滅茶苦茶高く売れるらしいぜ。聖金貨二十枚。

 それがどれくらいかはまだよく分かんねえけど、それを聞いたがめつい奴が目の色変えるくらいだしきっと相当だ。

 それを元手にすりゃ、この世界でウハウハハーレム生活だって夢じゃねえと俺は思うんだよな。

 だってほら、現代知識で常識を覆して異世界でちやほやされるのって定番じゃん?

 いやまあ、実際のところは現代の知識を再現出来るほど俺ってば賢いわけではねえんだけど……

 でも、もう少し安全なやり方ってのは実際に目の前にある」

 

「………」

 

「けどそれはあの子だって同じはずなんだ

 自分一人ならもっと効率よく探せるのに、俺みたいなのに付き合って無駄に時間を潰したり

 見捨てた方が賢明なのに放っておけなくて人助けしたり。

 そんな彼女に助けられちまったら、ほら。見なかったふりなんてしたら男が廃るって思わないか?」

 

 その表情はまるで恋する乙女の様に。

 スバルは助けてくれた少女の事を思い返し、それが自分にとってどれだけ大切で救われたのか。

 その少女がどれだけ愛おしいのか。

 桐生にはその語り口だけでスバルのその思い全てが余すことなく伝わっていた。

 

「覚えちゃいないんだろう? 死んじまったのなら、もうその子とは初対面なはずだ」

 

「それでも、だよ。例え彼女の中に俺を助けた事実が残ってなくても、俺の脳内メモリーにはしっかりと残ってる

 なら……ほら、理由としては充分っていうか」

 

 流石に少し恥ずかしくなってきたのか、最後は少し茶化して話す。

 それが妙に微笑ましくて、つい桐生はまたスバルの頭に手を置いてしまう。

 

「だから、撫でるのはやめてくれよ叔父貴……」

 

「すまねえ、だがお前の思いはよくわかった。惚れたんだな、その子に」

 

「ほ、ばっ!? 俺がそんなチョロイ男と思ったら大間違い! ……でもないです、まあそう、惚れたよ惚れちまったんだよ!

 悪いかよー! そんな理由で何度も死ぬなんてよー!」

 

「ふっ、悪くなんてねえさ。むしろ惚れた女の為にてめえの命を張るなんざ大したもんだぜ。立派だぞ、スバル」

 

「う、だからそうやって俺ルート開拓しようとするの止めてもらえません? そんな風に褒められたって嬉しくないんだからね!」

 

「だがまあ、実際に死んでるのは流石に擁護のしようがないが」

 

「あれー!? そこで上げて落とすの!?」

 

「ははは、まあいいさ。そういう事なら俺も協力しよう

 どうせ……やる事もないわけだしな」

 

「まあ、異世界に来て目的もないのは確かに辛いだろうしな。

 あれ、俺があの子の為に動くのが異世界で前を向く原動力になってる様に俺の面倒を見るのが叔父貴の原動力に?

 やべえやべえ、いよいよ洒落にならなくなってきた予感……」

 

 やる事も無い。

 スバルの軽口とは別に、桐生にとっての言葉は元の世界でも……非常に大きな意味を持つものであったが、それをスバルは知る由もない。

 

「まあでも叔父貴がいてくれるなら百人力だぜ!

 あのトンチンカンをボコボコにした実力があれば、エルザもなんとかなる! ……なりますよね?」

 

 最後は不安気にスバルはそう尋ねる。

 対して桐生は口元に手を当て、エルザの姿を思い返す。

 

 直接戦ってはいない。

 見たのはその狂気の滲む瞳と、スバルの腹を裂いた一太刀のみだ。

 

 判断材料は少ない。獲物は分厚く刃渡りの長い、こちらではどんな名前かはわからないが元の世界で言うククリナイフに近いもの。

 あのナイフの冴えを見るに、恐らくはかなり熟達した手練れだと桐生は見る。

 他に思い浮かぶのは、その場から立ち去ったときに見せた身体能力の高さ。そして殺人へ対する躊躇の無さ。

 それを鑑みて、己のコンディションと実力を照らし合わせる。

 

「……厳しいな、そう簡単にやられるつもりはねえが」

 

「えぇ……」

 

 落胆した表情で肩を落とすスバル。

 

「サシでやりあえば勝ちの目もあるだろう。だがお前を守りながらとなれば話は別だ

 それに俺はまだ見てねえが、魔法……なんてものを使われればそのサシでの条件もまた怪しくなる」

 

 百戦錬磨の強者とはいえ、魔法というものは桐生も経験がない。

 桐生にとってそれは、この世界での初めての殺し合いを想定するには不安すぎる要素の一つであった。

 

 だがそんな桐生の様子とは裏腹に、スバルは落とした肩を大きく持ち上げ、晴々とした表情を取り戻していた。

 

「サシなら勝てるってマジで? 流石叔父貴! いいぞいいぞ、ようやく光明が見えてきた!」

 

 拳を握りしめ、両手でガッツポーズを決めて満面の笑顔を浮かべるスバル。

 完全に都合のいい部分だけを取り上げて大喜びしている。

 不安要素の方が多いことを理解しているのだろうかと、桐生はスバルの不用心さに少し心配になってきていた。

 

「魔法ってのを使われればどうなるか分からねえって言ったろう。大体お前を守りながらも厳しいって言ってるじゃねか」

 

「大丈夫、俺の経験じゃあいつが使うのはナイフばかりだし、魔法を使う様子は無かった。

 俺を守るって点についてはお構いなく、自分の身は自分で守るくらいの事は何とかするぜ!」

 

 そう言ってサムズアップするスバル。

 この自信はどこから出るのだろうと桐生は不安になる。

 魔法を使わなかったのはその必要が無かったからではないのかとか、三度も殺されてる事実がありながら、自分の身は自分で守ると言い放つ自信はどこから出るのだろうか、更に言えばそもそも自分は勝てると断言したわけではないなど。

 果たして大物か或いはただの大馬鹿か。

 考えたくはないが、何となく今のスバルは後者ではないかと桐生は漠然と感じていた。

 

 だが考えても仕方がない、スバルの根拠のない自信はともかくこればかりは動いてみなければ埒が明かない。

 そもそも桐生自身リスクや手札を考え尽くして動くタイプではない。

 たまたま自分以上に無鉄砲なスバルがいるせいで、らしくもなく慎重になっているだけなのだ。

 

(いや待て、もしや俺の周りの奴らも同じ気持ちだったのか……?)

 

 奇しくも今更になってそんな考えに思い至り、ほんの少し申し訳なく思う桐生。

 

 そんなやり取りを続けている内に、二人は死せる運命の待ち受ける――貧民街へとたどり着いたのであった。

 

 




作者様回答ではスバルの家は埼玉の端っこみたいな田舎って意味だったけど、とりあえず埼玉の端っこって事にしました。


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覚悟を決めて

「……何をしているんだ?」

 

貧民街の入口へつくと、スバルは何故かおもむろにその場で寝ころび地面の泥や土を着ているジャージになすりつけ始めた。

 

「ふっふっふ、これぞナツキ・スバル渾身の策!

 繰り返す貧民街の探索で学んだ一つの攻略法よ!」

 

そう言って寝ころびながら桐生にサムズアップするスバル。

どうやら緊張と恐怖で気が狂ったわけではないらしいと桐生はとりあえず一息つく。

 

「何か考えがあるのならいいが、それは俺もやった方がいいのか?」

 

「うーん、その方が都合がいいかもしれねえけど……やっぱいいや

 なんか叔父貴の着てるスーツって高そうだし」

 

スバルの庶民的貧乏性が発揮される。

自分の一山いくらなジャージは汚れてもどうでもいいし、元々汚れるのも用途の内みたいなものなので気にはしないが、桐生の着ているグレーのスーツはスバルの目から見ても相当に高級そうな生地で出来ていた。

他人の衣装とはいえ、これを汚すのはスバルには少々気が引ける。

 

「スーツだけじゃないよなあ、中に着てる赤のシャツとか履いてる靴とかもなんかめっちゃ高そうだし、もしかして叔父貴って金持ち?」

 

桐生の足元に転がり、白い蛇柄のエナメル靴を眺める。

スバルの言う通り桐生の着ている服はどれも相当に高級なものであり、恐らく総額を聞けばスバルの目玉がショックで飛び出しかねない。

 

「まあ、仕事柄安物ばかり着るわけにもいかなかったからな。

 それよりも、本当にいいのか? 必要なら別に汚れても構わねえぞ」

 

確かに愛着はあるし気に入りではあるが、桐生にはそこまで服装に強い執着はない。

必要とあらば汚れる事も辞さないし、そもそも喧嘩の返り血で服を汚す事だって珍しくは無かったのだから。

 

「ん~、やっぱいいや。むしろ俺だけみすぼらしい方が効果あるかもしれねえし」

 

「まあお前が言うならそれでいいが……おい、そこ糞があるぞ」

 

「げっ! マジかよ!? うへぇ、なんかべっとりしてるけど何の糞だ? もしかしてあの大きなトカゲか?」

 

慌てて立ち上がるももう遅い。、スバルは尻の部分についた糞のぐんにょりとした嫌な感触に顔をしかめる。

本来なら別に転がったりまでするつもりはなく、ちょっと泥や土で汚れればいいやくらいの心持だったのだが

どうやら少しいい格好を見せようと張り切ったのが失敗したようだ。

 

「ちくしょー、せめてスニーカーにつくくらいなら俺の名誉も守られたってのに!」

 

「まあ、なんだ。泥だらけの時点で大差ねえさ。気にするな」

 

「……叔父貴ってフォロー下手だって言われたことない?」

 

桐生なりに励まそうと声をかけたつもりだったが、スバルは口をとがらせて小さく抗議する。

既に名誉も何もないと言われたようなものなのでスバルにしてみれば少々不服だったのだろう。

もっとも、それもさほど気にする風でもなく

 

「ま、逆に『ウン』がついて幸先良いって事よ!

 ともあれ準備は整った! ナツキスバル考案『オペレーション汚れっちまった悲しみに』ミッションスタートだ!」

 

気を取り直し、腰に手を当て天に人差し指を掲げながら高らかにそう宣言した。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

結論から言うとスバルの作戦は想像以上の大成功であった。

 

「サンキュー、助かったぜ兄弟!」

 

「礼は普通に言え、スバル」

 

「ご協力ありがとうございます、兄弟!」

 

「お、おう……。まあ、なんだ。強く生きろよ兄弟」

 

得意気な笑顔で礼を言うスバルだったが、言われた男の方はどこか引きつった笑みを浮かべてそれに応じる。

その瞳に宿るのは親切心や老婆心のようなものではなく、唯々スバルへ対する同情心そのものであった。

 

「これで必要な情報は揃った。……どうだい叔父貴、この完璧な作戦は」

 

「あぁ、大したもんだ。俺一人じゃこうはいかなかっただろう」

 

スバルのドヤ顔に桐生は素直に賞賛の言葉を送る。

何度かこの貧民街に来た経験から、スバルはここの住人が身なりによって態度が変わることに気づいたらしい。

一度目に訪れた時は血や泥、挫創などでかなりみすぼらしい見た目になっていたらしい。

そのため住人はそれなりに協力的だったが、対して二度目は奇麗な身なりのまま訪れたため、住人は冷たく非協力的とその対応に雲泥の差があった。

それを踏まえ、今回はわざと身なりを汚してから情報収集を始めたのだ。

その結果は良好、貧民街の人々はスバルに対しとても親身に対応してくれた。

もっとも、そんな彼らの目に浮かぶのは親近感などではなく、同情と憐憫の情であったのだが。

 

「よく分からねえけど、多分仲間意識みてえなのがあるのかな?」

 

「こういうコミュニティではそれが大切なんだ

 地位も金もねえ浮浪者やならず者にとっちゃ、人脈やそこから共有できる情報は数少ない武器だからな」

 

「それって日本でも?」

 

「ああ、俺の知ってるホームレスなんざ、地下に秘密組織を作って街中を監視して裏社会を牛耳ってたぜ」

 

「いやいやどこの漫画の世界だよ、流石にそれは騙されねえって」

 

桐生は事実を言ったまでに過ぎなかったが、スバルにはどうやら冗談か何かに思われたらしい。

流石にそこまで子供ではないと少し拗ねるスバルだったが、多少語弊はあれど概ね事実なので桐生にとっては少々理不尽な反応であった。

 

「いや、本当なんだがなあ……。まあいい、それよりも手に入れた情報でどうするつもりなんだ?」

 

「それを説明する前に、改めて作戦と目的を整理するぜ」

 

スバルが聞いて回って得た情報は、フェルトという盗人のアジトに関してだった。

 

彼の目的はある少女が盗まれた大切な物、徽章を持ち主に返す事だ。

そのために彼が講じた手段は、その盗品を自分の手で買い戻し少女に渡すという方法。

 

この手段を実行するためには、おおまかにいくつかの条件が必要になる。

 

一つ、盗品の流れつく場所を突き止めなければならない。

これは既にクリア。一度目の時点でスバルと少女は貧民街にある盗品蔵という場所に一度それらが集められる事を知り、そこを訪ねている。

 

二つ、買い戻すための資金。これもクリア。

桐生にも語ったように、日本から持ち込んだ道具はこの世界ではどれも貴重らしく、特に携帯は破格の値段で売り捌ける。

この事は盗品蔵の主にも確認を取っており間違いはない。

事実、二度目の周回でその人物立会いの元窃盗を行った本人、フェルトとの交渉は一度成功している。

 

そしてここまでの全てで、スバルとその盗品の関係者は悉くエルザの手によって殺害されているのだ。

 

三つ。これが最も重要かつ困難な条件、エルザに殺されない事である。

 

「あの女も別口で徽章の入手を依頼されてるらしい。二度目の時はエルザも同席しての交渉だった。

 ただまあ、その時の感触だとそこまでこだわっているようにも思えなかった。こちらの提示できる額で足りないのなら仕方ないみたいな感じで。

 だからむしろ、その関係者を殺す方が重要……なのかもしれない」

 

 前述の通り、二度目の周回ではスバルの交渉により徽章の入手は目前まで成功している。

 当然エルザも仕事のため粘ったが、こちらの提示した携帯の方が価値が高いという事でおとなしく引いてくれたのだ。

 だが、スバルが口を滑らせ徽章の所持者の関係者と判明した途端本性を現し、皆殺しにされたという。

 

「まあ元々殺すつもりだったのかもしれないし、そもそも前回だっていきなり殺されたわけだからな

 上手い事刺激しないようにして穏当に済ませる、ってのは期待できないと思う」

 

「厄介な相手だな。だが、それならラインハルトに来てもらった方が良かったんじゃねえか?」

 

 桐生の見立てでは、エルザも相当の使い手だがラインハルトには遠く及ばない。

 彼が居れば、まず間違いなく犠牲を出すことなく切り抜けられると桐生は踏んでいる。

 

「俺もそうは思ったんだけどさ、あの子は……」

 

 そう言ってスバルはバツの悪そうな顔をする。

 自分でも賢明とは言えない判断を下していることは自覚しているようだ。

 

「よく分からないけど、衛兵に頼れない事情があの子にはあるみたいなんだ

 だから、ラインハルトを頼るのは出来るだけ避けたかった」

 

 スバルにも理由は知らされていないようだが、少女は人に―― 特に衛兵を頼る事を良しとしなかったらしい。

 三度も自分で解決しようとして殺されているのは、てっきり好きな子の前で格好をつけたかったのだろうと考えていた桐生だが

 スバルにはスバルなりに慮った事情があったのだと知り、心の中で勝手な推測を謝罪する。

 

「まあその方が俺の手柄にもなるし? ちょこーっとだけ都合良いかななんて思ったりもしないわけではないけど」

 

「……スバル、口に出さなくても良い事だってあるんだぜ」

 

「? 何の話?」

 

「いや、なんでもねえ」

 

 スバルという少年はどうやらコミュニケーション能力に難があるようだ。

 決して低いというわけではないが、恐らく極端に人を選ぶ。

 学校でも理解者を得るには苦労したのではないだろうか。

 

「というわけでだ、一番安全に徽章を手に入れる為には盗品蔵に入る前に徽章と携帯を交換しちまいたいんだ」

 

遅く行き過ぎては犯行現場に出くわし口封じのためデッドエンド。

かといって盗品蔵の主と合流し、フェルトがやってくるのを待って交渉に臨んでもエルザと鉢合わせになってデッドエンド。

ならば盗品蔵に流れ着く前に、徽章を入手したいと考えるスバルの思惑はそう的外れのモノでもないのだが。

 

「成程な、だがそいつは難しい話だ」

 

「え、どうして?」

 

良い考えだと思っていたスバルは、予期せぬ駄目出しに目を白黒させる。

 

「お前も一度交渉したなら分かってると思うが、俺達は現金を持っていない以上携帯の価値を保証する『第三者』が必要になる」

 

「ああ。それが盗品蔵の―― 」

 

 言いながらスバルは気づいたようだ。

 そう、例えフェルトを捕まえたとしても、携帯を交渉のカードとして利用する限り、最終的にはその『第三者』がいる盗品蔵に移動しなくてはならないのだ。

 

「参ったな、やっぱりエルザとは出会う運命なのか……?」

 

 そう口にすると聞こえはいいが、実態は人の腸をつけ狙う猟奇殺人鬼だ。

 ヒロイン候補としてはスバルには少々荷が重い。

 

「だが方向性は間違っちゃいねえ」

 

「え?」

 

「要はエルザが関わる前に交渉を済ませちまえばいいんだろう?」

 

「いや、それはそうなんだけどさ……」

 

それが出来れば苦労はしないとスバルは心の中で続ける。

なにせあのフェルトという盗人はとんでもなくがめついのだ。

 

「まあ……やれるだけの事はやってみるさ」

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「えーっと、情報だとこの辺のはずなんだけど」

 

 キョロキョロと周囲を見回すスバル。

 辿り着いたのは小汚い小さなボロ屋とゴミが散乱するこれまた小さな空き地だ。

 前回エルザと出くわした地点から五分ほど歩いた先にあるその場所は、スバルの感覚ではとても人が住む場所という認識ではなかった。

 

「本当にこんなとこに人が住んでるのかあ? それもあんな小さな女の子が。

 もしかしてガセネタ掴まされたか……まさかエルザが気紛れに立ち寄ってたとか、そういうのはねえよな?」

 

 もしそうならば最悪の事態だ。

 二回目にそういった事が無かったとはいえ、今回もそうだとは限らない。

 人の気分や行動は時間を巻き戻しても全く同じになる事は余りなく、気紛れや状況に応じて大きく変化する。

 そのため、スバルの懸念も決して見当外れなどという事は無いのだ。

 

「いや、その心配はねえ。ここまで血の臭いも荒事の気配も無かった」

 

 そんな心配をするスバルを桐生が宥める。

 

「それにガセネタの心配もないだろう。

 見たところ人が住むだけなら、こういった場所じゃあ上等な部類だ。浮浪者の女の子ってんなら信憑性はある」

 

「げ、マジで? すげーカルチャーショック」

 

 桐生の感想と自分の感想に大きな隔たりがあることに驚くスバル。

 一般的な家庭で育ってきたスバルには中々信じ難いものがあった。

 

「お前の気持ちも分かる。

 いくら住むに不自由がないとはいえ、年頃のガキが生きるにはあまり褒められた環境じゃねえのは確かだ」

 

 こういった環境で暮らし盗みを生業にしているという事は、相応の事情があるのだろう。

 そういった子供を桐生は沢山目にしてきたし、幸福な末路を辿れた者が少ない事も残念ながらよく知っている。

 ここが元の世界であったならば、迷わずに桐生は孤児院へ連れ帰っていただろう。

 

「だよなぁ? こんなところで小さな体をちっちゃくして生きてるんだぜ?

 そりゃ性根も捻じ曲がるってもんだよなぁ、あぁ可哀想に」

 

「……あながち的外れでもねえが、それを本人に言うんじゃねえぞ」

 

「もう遅いよ、こんなところで捻くれちまって悪かったな兄ちゃん」

 

 声をかけられ振り返ると、そこには金髪の小柄な少女がむすっとした表情で立っていた。

 

「お前がフェルトか?」

 

「そうだよおっちゃん。あたしの名前知ってるってことは仕事の依頼か?

 それとも人のねぐらを笑いものにしにきた嫌味な野郎か?

 どちらにせよ話は手短にな。あたしは今あんまり機嫌がよくねえんだ」

 

 それはスバルの不躾な物言いが原因か。

 それとも所々に見える擦り傷や汚れが原因か。

 

「元々小汚い格好が余計に……今回の逃走劇は大変だったんだな」

 

「あぁ?」

 

「すまねえ、こいつは少し一言多くてな。代わりに謝罪する

 用件は仕事に関してだ、受けてくれるか?」

 

 これ以上神経を逆撫でしないようスバルに代わって会話の主導権を取る桐生。

 仕事の話と聞き、若干態度を軟化させたフェルトはねぐらに置いてあったボロボロのソファーに腰掛け、値踏みするように二人を見据えた。

 

「ふん、まあいい男のおっちゃんに免じて許してやるよ。

 それで? そんなざーとらしいくらい薄汚い身なりでわざわざあたしを探して何を頼もうってんだ?」

 

「え、なにお前って年上趣味? いや確かに叔父貴はかっこいいけどさあ」

 

「すまんスバル、今は少し黙っててくれ」

 

言われたスバルは指を摘まみ、唇を左から右へなぞりお口チャックアピールをする。

それがまた何となく鬱陶しかったのか、それを横目で見ていたフェルトは殊更不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「口の減らねー兄ちゃんだな。まあ何考えてるか分かんねえような奴よりもよっぽどいいけどよ。

 それで仕事の内容は? 盗みなら前金は出してもらうぜ。勿論相手次第じゃそれなりのもんを覚悟してもらうけどな」

 

真剣な顔で後ろ暗い話を悪びれろ事もなくフェルトは口にする。

それを聞いたスバルは何かを言いたげにするが、黙れと言われてしまったため口にはしなかった。

……が、表情には出ていたようでそれを察したフェルトはまた少し不機嫌そうに顔をしかめる。

 

「なんか言いたげだな兄ちゃん。同情するなら金でもよこせよ。

 言っとくがこれは生きる手段だ。これが無けりゃ体でも売るしかねーからな」

 

そんな貧相な体じゃ買い手もいないだろとかスバルが追加で考えたのは内緒だ。

 

「文句はねえさ、お前がその生き方を選ぶってなら好きにすればいい、その分こっちもその能力をアテにさせてもらうだけだ」

 

「へぇ、いいねおっちゃん。話が分かる奴は嫌いじゃねーぜ」

 

「なんか好感度に差がありません?」

 

「兄ちゃんは人の癪に障る事一々口にしすぎなんだよ……」

 

 怒りを通り越して呆れた様子でフェルトは息を吐く。

 流石にこの短時間で何度も逆鱗に触れられると怒るのも疲れた様だ。

 

「で、話を戻すけど仕事の内容は? 盗みかそれとも闇討ちか?

 悪いけど殺しまではやんねーぜ。リスクが高すぎるからな」

 

 勿論、危害を加えるなら容赦しねーけどなと付け加えつつ、どこからともなく瞬時にナイフを手元に出現させる。

 危害を加える、或いは女子供だからと言って舐めてかかるなら容赦はしないという意思表示だ。

 

「あぁ、心配するな。満足させるだけの報酬は用意してある」

 

「へぇ、いいじゃんいいじゃん。払いのいい奴は好きだぜあたしは」

 

「話が早くて助かる。それで仕事の内容だが、盗品の捜索――」

 

 本題に入り、交渉に入ろうとする桐生。だが――

 

「お前の盗んだ徽章を買い取りたい。報酬は聖金貨20枚の価値があるもの。十分破格のはずだ」

 

 お口チャックはどこへやら、遮るように前に出るスバルの一声。

 それにフェルトは呆れかえった表情でスバルに目をやり、桐生は小さくため息をついて頭に手をやるのであった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 想像とは違った二人の反応に、スバルは困惑する。

 

「あれ、俺なんかおかしな事言った?」

 

「いや、そういうわけじゃねえんだが……」

 

「おっちゃん、パートナーは選んだ方がいいぜ?」

 

 何故か桐生は頭を抱え、そんな彼に何故かフェルトは同情的だ。

 おかしい、話の内容は間違っていなかったはずなのだが。

 

「あのな兄ちゃん、何であたしが徽章をギッた事を知ってんだよ?

 依頼人以外にゃ漏らしてねーし、そもそも盗んだのはついさっきだ。小耳に挟むにゃ耳がでかすぎるとは思わねーか?」

 

 子供にモノを教えるように話すフェルトに、「言われてみれば……」と自分の失言に気づくスバル。

 

「更に言えば仕事の内容も話してねえのに報酬の内容まで話すとかさー、聖金貨二十枚は確かに魅力だけど、交渉するならもっとタイミングってもんがあるだろうよ」

 

 まさか交渉を仕掛けた相手に説教をされるとは思わず言葉に詰まりしゃがみ込む。

 叔父貴に不甲斐無いところを見せてしまったと自省し横目で桐生を見やるが、怒ってはいないようでほっとする。

 

 そんなスバルに毒気が抜かれたのか、少々気の抜けた顔でしゃがみ込みスバルと目線を合わせると「それで?」と前置きし

 

「徽章を買い取るって? 依頼主の姉さんとは別口だろ? ならどういうわけだ、商売敵か?」

 

「まぁそんなもんだ。報酬はさっき提示した通り。向こうよりも良い条件のはずだ。勿論、受けてもらえるならこれからも得意にさせてもらってもいい」

 

 気を取り直して交渉を再開する桐生。

 スバルはというと、流石に懲りたのか口を噤んだまま成り行きを見守る姿勢だ。

 

「なんだよそこまで知ってんのか。まあ概ねおっちゃんの言う通りだ。

 依頼反古にしてもまあ釣りはくる。聖金貨二十枚なんて報酬を用意できる連中と繋がれるのも悪くない話だな」

 

 そう言って口の端を吊り上げ頷くフェルト。感触は上々だが、それでもまだ交渉を纏めるつもりはないようで言葉を続ける。

 

「おっちゃん達の話はわるかねー。そうなると後は信用問題だ、悪いが甘い話だけでほいほい乗っかる程頭空っぽじゃねーからな

 まず信用出来ねーのは報酬だ。さっき兄ちゃんは『聖金貨二十枚の価値があるもの』って言ったな?

 って事は現物じゃねーんだろ? そいつを見せてもらわなきゃ、交渉としては不公平だ」

 

「用心深いな。だがそうでなくちゃあこちらも困る。むしろ好都合だ。

 まずは現物だが……スバル」

 

「え?」

 

 まさか自分の名前が呼ばれるとは思わず、面食らって立ち上がる。

 同時に何か役に立てることがあるのだろうかとやる気と期待で心を震わせる。

 

「アレを出してくれ。説明はお前の方が上手い」

 

「お、おう! 任せてくれ叔父貴!」

 

 当社比三割増しで張り切って携帯を取り出すと、スバルは身振り手振りを交えてその価値を説明する。

 これは世界を切り取り凍結させ保存する魔法器『ミーティア』

 世界に二つとない貴重な物で、市場に出せば交渉次第で聖金貨二十枚は下らない。

 などとスバルのよく回る軽口がいかんなく発揮され、さしものフェルトも感心したように携帯を興味深げに手に取る。

 

(時を凍結、なんてなぁ言い様だな)

 

 その辺りは桐生には思いつかない芸当だ。

 桐生自身は余り実感はないが、魔法というものが存在する世界ならばそう言った言い回しの方が価値が伝わりやすいのは何となくわかる。

 

「じゃあ実際に試してみるか、ほれ」

 

 パシャリとシャッターを起動すると、強烈なフラッシュと共に驚いたフェルトが「うわぉう!」と女の子らしからぬ悲鳴で体をのけぞらせる。

 写った写真を見せると、彼女は赤い双眸を見開き食い入るように携帯を食い入る見つめる。

 

「確かに、嘘じゃねえみてーだな。けど本当にこれアタシか? 世界を切り取るってんなら、アタシはもう少し美人のはずだ」

 

「意外と自己評価たけえなお前」

 

「そう思うならもう少し身綺麗にするんだな。元はいいんだ、着飾れば男が放っておかねえぜ」

 

「へえ、なら次の仕事でおっちゃんと会う時はめかしこんでやろうか?」

 

「報酬に色はつけねえがな」

 

「ちっ、ばれたか」

 

 ほんの一瞬年相応の子供らしい笑顔を浮かべるフェルト。

 どうやら二人の相性は悪くない……というよりも、桐生が女子供の扱いに慣れているようだ。

 

「説明は以上だ、今ならなんとお値段聖金貨二十枚+α! 更に更にぃ、今から三十分以内にお買い上げのお客様にはなんと!

 このナツキスバル使用モデルのこのジャージをお付けしてお値段据え置き!」

 

「いらねーよ、そんなクソくせーダサい服」

 

「あふっ! 今一番気にしてるのに!」

 

「ま、確かに価値がありそうなのは分かった。こっちにメリットもある」

 

「よっしゃ、なら――」

 

「後は、そいつが本当に聖金貨二十枚なんて値段がつくってぇ保証だな」

 

「早速……って、保証?」

 

「たりめーだろ、珍しいのは分かったけど値段については別だ。

 どんな貴重なもんだって買い手がいなけりゃただのゴミだ。

 そこに落ちてる石は世界に一つしかない形です、だからお幾らですなんて言われて大金叩いて買うか? 買わねーだろ?」

 

 足元の石をスバルに放ってそう話すフェルト。

 想定通りの流れとはいえ、この勢いで交渉が纏まると僅かに期待していたスバルは少し残念そうな表情で小石を受け取るが、桐生は変わらぬ様子でそれに対応する。

 

「言う事はもっともだ。それでそっちに保証のアテは?」

 

「ある。前もって言っておくが信用できる相手だ。偏屈な爺さんだが鑑定眼はあるし、場数も踏んでる。何より公平だからあたしに肩入れするような事も無い

 少なくともこの界隈じゃ他に適材はないぜ」

 

「そっちの言う通りにしよう。ただし少し条件をつけてもかまわねえか?」

 

「内容次第」

 

「そっちの不利になる様なもんじゃねえさ。

 俺達全員での立会と、商売敵……お前の依頼主の不在だ。

 あとはそっち主導で話を進めてもらっても構わねえ。その爺さんが言う通りの人物なら、こっちの悪い話にはならねえだろうからな」

 

「ふぅん、それは値段を吊り上げられるのが怖くてか?」

 

 探るような視線で桐生をみやる。

 だがそれに臆する事無く、表情を変えずに桐生はそれを肯定する。

 

「ああ、一応相手には気づかれたく無くてな。向こうはこっちが横やりを入れようとしている事に気づいてない。

 だから向こうも現状なら、いくら吹っ掛けたところでそこまで報酬を吊り上げる様な事はしないだろう」

 

「はっ、片棒を担げってか?」

 

「その分甘い汁は吸わせてやるさ」

 

「逆に言えば、あんたらの存在が知れたら向こうも張り合うって事だよなぁ?」

 

「そうなればこっちは手を引くまでだ」

 

「………」

 

 考え込むフェルト。

 ここまで桐生と、意外にもスバルに対して悪くない印象を抱いている彼女だが、それで交渉に手心を加える程甘くはない。

 損得を考え、その上でどちらに乗っかるべきかを判断するべく思考する。

 

「……いいだろう、その条件で受けてやるよ。

 ただし鑑定の結果が満足いかなかったら、遠慮なく依頼主の姉さんも呼ばせてもらうぜ」

 

いいんだな? とスバルに目配せをする桐生。

それに対し、問題ないと自信満々にサムズアップで応える。

 

「ああ、それで構わない」

 

「なら早速場所を移すぜ。爺さんの居場所は盗品蔵だ。依頼主との受け渡しもそこになってるからな。

 約束の時間まではもう少しあるけど、鉢合わせになりたくなきゃ急いで向かうぜ」

 

 何とか交渉の第一段階をクリアした二人は、スバルにとっては二度も命を落とした、桐生にとっては初めての盗品蔵へ向かう事になった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「ふぅーむ……」

 

 厳めしい顔を巨大な手で摘まむ小さな携帯に寄せながら、野太い声を漏らす。

 この老人こそが盗品蔵の主にして『第三者の鑑定人』通称ロム爺だ。

 

 盗品蔵に辿り着き、初めて目にした時はさしもの桐生も驚いた。

 なにせ現れたのは体格のいい桐生でさえ見上げる程の巨人なのだ。

 巨人は老体でありながら力強い筋肉質な肉体と、その鋭い眼光で初めて顔を出すスバルと桐生の二人を威嚇した。

 

 だがフェルトの客であると知ると一転態度は軟化。

 見た目とは裏腹の気さくさと見え隠れする好々爺ぶりにたちまち打ち解け、特に桐生とはウマが合う様子であった。

 

「さしもの儂も魔法器を扱うのは初めてじゃ。ましてこの様な効果の物は見た事も聞いた事もない」

 

「じゃあロム爺には扱えねーのか」

 

「馬鹿を言うなフェルト。それだけかつてない値がつくという事じゃ。

 聖金貨で十五……いや二十は下らん。儂ならばそれくらいで捌く自信がある」

 

 その答えに僅かに胸をなでおろす桐生。

 スバルは既に経験済みなせいか、特に反応はなくしきりに入り口を気にしてそわそわしている。

 

「じゃがのぉ、これではお前さん達に損が大きすぎる。

 徽章は見せてもらったが、とてもこれと釣り合う値はつかんはずじゃ」

 

盗品蔵の主とは思えない老人の忠告に桐生は感心する。

あくどい商売をしているとはいえ根は善人なのだろう、フェルトが信頼するのも頷ける。

 

「構わねえ、こっちは向こうの面子を潰せればそれで充分価値がある」

 

「ふん、まあそんなゴタゴタの争いに首を突っ込むつもりはないがの。……む、グラスが空だな。もう一杯どうじゃ」

 

「ああ、中々いける。もらおうか」

 

「ガハハ! イケる口じゃのお、男はそうでなくてはいかんぞ小僧!」

 

 ちびちびと口をつけるスバルの背中を上機嫌にバシバシ叩く。

 

「いて、いてて! いてえよ爺さん! っつーか仕方ねえだろ! 俺はまだ未成年なの!」

 

 注がれた酒を一息に飲み干して顔色一つ変えず、ミルクを口にするフェルトに目をやる桐生。

 それに気づいたフェルトはニヤリと笑い、仕事の話に戻った。

 

「なんだおっちゃん、話が纏まったと思ってんなら気がはえーぜ。

 あたしはまだ一言も交渉に応じるとは言ってねーんだからな」

 

「そう意地の悪い事を言うなフェルト、お前さんにとっても都合のいい……いや良すぎる話じゃろう」

 

「あんたの信頼する人物からのお墨付きももらった。今回の商談はこの辺で手を打ってくれてもいいはずだ」

 

「そうだぜ、あんま欲かくとその内寝首を……いや腸を狩られるぜ」

 

「なんだよその具体的な指定。ま、あたしだって本気じゃねー。この辺が引き際って事くらい承知してら」

 

 そう言って胸元から何かを取り出し桐生に向けて放り投げる。

 空中で掴み手に取ったそれは、竜を象った意匠が特徴的なバッジだった

 

「おめでとさん、晴れてそいつはあんたらのもんだ」

 

「ねんがんの きしょうを てにいれたぞ!」

 

 立ち上がりガッツポーズをしながらスバルは叫ぶ。

 そのテンションについていけず、他の三人はぽかんとして様子で沈黙してしまう。

 

「あ、いや、いいだろ! 念願が叶ったんだから! ってかなにこれデジャブ!?」

 

「ったく、はしゃぎすぎだろ。まあアタシも人の事は言えねーけどな」

 

 そう言って上機嫌にミルクを飲み干す。

 

「聖金貨二十枚は下らねーお宝に払いの良い大口のお得意さんまで捕まえたときたんだ

 こりゃアタシの時代到来か?」

 

 カラカラと笑いながら柄にもなく年相応にスバルの様な軽口を言い出すフェルト。

 そんな彼女はスバルにとって初めての様子であった。

 

 前回の交渉ではここまですんなり事が運ばなかったし、二人との関係も悪くはないがここまで良好ではなかった。

 

 ロム爺はしきりに酒を勧めては桐生の飲みっぷりに気を良くし、坊主もこうあれとちょっと力強すぎるくらいにじゃれついてくる。

 フェルトも荒々しさはなりを潜め、鼻歌なんか交えながらミルクを口にして時折桐生に他にうまい話は無いかと絡んでいる。

 

 自分が中心でないことに少し不満が無いと言えば嘘になるが、こうやって上手くいきすぎているくらい上手く事が運んでいる事にはスバルも満足している。

 ―― なにより、桐生という頼れる味方が傍にいる事が不思議と嬉しくて誇らしげになる。

 

(でも、もし次に死んだりしたら叔父貴は……)

 

 一抹の不安が脳裏をよぎる。

 

 彼の話では初めてスバルが異世界に来た時にその存在は無かった。

 これが元々この世界の人物であれば不安などないが、もし万一次に死に戻ったときに彼の姿が消えていたりしたら……。

 

(いや、考えたって仕方ねえ。要は死ななきゃいい話だ)

 

 とにかく今は喜ぼう。後はあの子に徽章を返して、それからの事は後からでいい。

 

 そんな事を考えていると、桐生がこちらに目配せをしている事に気づいた。

 どうやらそろそろ席を外した方がいい頃合いらしい。

 

 スバルはそれを察し、小さく頷くと座っていた椅子を弾く様にその場で立ち上がって――

 

「う、おぇ」

 

 クラリと揺れる頭に不快感を覚え、真っ青になりながらこみ上げる胃液をすんでで堪える。

 

「おい兄ちゃん、吐くなら外かトイレでやれよ。ここでやらかしたら蹴り出すぞ」

 

「情けないのう、紙袋持ってきちゃろうか?」

 

「いやいや大丈夫、男スバル粗相は致しません! じゃなくて、そろそろお暇させてもらってもいいか?」

 

「なんじゃ、もう帰るのか」

 

少し残念そうにしゅんとなるロム爺。

後ろ髪を引かれる思いだが、そうも言っていられないのがこちらの事情だ。

 

「あー、鉢合わせになると都合が悪いんだったな

 しゃーない、アタシも名残惜しいけどこの辺にすっか」

 

フェルトもまた名残惜しそうに、椅子を揺らしながら空になったグラスを置いて小さく息をつく。

 

「ほう、珍しいのうフェルトがそんな事を言うとは」

 

「あたりめーだ。こんな上客一生かかったって出会えるかどうかわかんねーんだ」

 

「それはこっちも同じだ。二人とも信頼できるし腕も良いみてえだ。

 ……どうだ、良かったら場所を変えて飲み直さねえか?」

 

そう言って再びスバルと目配せをする。

出来る事なら、この二人も盗品蔵から遠ざけておきたかったのだ。

 

これが根っからの悪人であったなら放っておいても気が咎める事は無いが、こうして打ち解けて相手の人となりを知ってしまった以上、エルザの毒牙にかかる事を知ってて見過ごすには後味が悪すぎる。

 

それだけでなくとも、二人とは異世界で出来た初めての友人としてこれからも交流を深めたいというのが本音だ。

 

「なんだよおっちゃん、そんな事言ったって依頼料は負けらんねーぜ? ま、飯くらいなら付き合ってもいいけどな。勿論おごりで」

 

「ふむ、悪くない提案じゃがのぉ……」

 

 割と乗り気なフェルトとは対照にロム爺は少々バツが悪そうにしている。

 

「流石に依頼主との約束があるのに留守にするわけにもいくまい。

 まして説明せにゃならん事もある。良ければ三人で行ってくるといい」

 

「えー、ロム爺来ねえのかよ」

 

 フェルトは残念そうに口をとがらせると、持ち上げかけた腰を落とし手を頭の後ろに組んで不動を決め込む。

 

「爺が行かねーなら残念だけどアタシもパス。そこまでロム爺に任せっきりにするのは流石に忍びねーからな」

 

 そう言って提案を断る。

 無理もない反応だったが、焦るのはスバルだ。

 なにせこの場にいれば間違いなくエルザと二人は出会う。

 そうなると徽章はもうありません。はいそうですか、と大人しく引き下がってくれるとは思えない。

 そもそも自分もサテラの名を騙るあの子も関わっていない最初の周回でも、この盗品蔵でロム爺は殺されていたのだ。

 もしかしたらあの場にはフェルトの死体もあったのかもしれない。

 つまり、十中八九この二人は関係者として、あるいは腹いせや気まぐれでその腹や首を切り裂かれ絶命する。

 

(そりゃ、義理なんて大層なもんはねえけどさあ)

 

 スバルにとって最優先事項は彼女に徽章を返す事だ。

 その達成は目前、ここで欲をかいて失敗しては本末転倒だ。

 ……先ほど脳裏をよぎった不安要素もある。

 賢明に行動するなら、ここで彼らを見捨て、せめてエルザの気紛れか何かで生き残るよう祈るのが最善手なのだろう。

 

「あー、でもそんな事出来るわけねえよなあ!」

 

 そんな賢い選択肢を思い浮かべつつも、スバルは叫び声と共にそれを頭の中から消去する。

 突然の大声に目を丸くするフェルトとロム爺だったが、桐生だけは彼の思惑を悟った様に、どこか優し気な表情を浮かべていた。

 

 スバルはドカッとその場に座り直し、鼻息を荒げながら覚悟を決めた様子で腕を組み成り行きを見届ける姿勢をとる。

 桐生もまたスバルよりも穏やかに、それでいてはっきりと身に纏う雰囲気を一変させる。

 

「なんじゃ、行くんじゃなかったのか?」

 

「そろそろ出ねーと姉さんが来ちまうぜ」

 

 動こうとしない二人を気遣う爺と少女。

 こういう事されるから見捨てられねえんだよなあと心の中でため息をつくスバルだが、不思議と悪い気はしていない。

 破裂しそうなほどに胸で脈打つ鼓動音は自分の物だろうか。

 震えそうな足を必死で抑え桐生の方に目を向けると、まるで変わらない様子で扉を睨む姿がスバルの目に入る。

 

 それはスバルにとってはこの上なく頼もしく、そして憧れる大人の姿であった。

 ここに来るまでにスバルは何度も彼の世話になった。

 交渉がスムーズに運んだのも、フェルトやロム爺がこちらを気遣ってくれるくらいに仲良くなれたのも、全ては彼の助力の賜物だ。

 自分はと言えば何度もいいところを見せようとしてはヘマをうち、その度にフォローされている。

 それでも彼は自分を見捨てず、時にはそんな自分を頼ってくれる。そして理解してくれた。

 

 そして今もまた、彼は己の目的の為に。今度は命を張って戦いに臨もうとしている。

 それに情けないと思う気持ちも勿論ある。むしろそればかりといっても過言ではない。

 故にスバルは考える。今自分に出来る事、戦う事も出来ない菜月スバルが桐生一馬という男と並び立つ為に、最低限出来る事は無いか。

 

 刻々と時間が過ぎる。

 二人の異様な雰囲気にあてられたのか、ロム爺とフェルトも気づくと無言で扉を見つめていた。

 やがて空の色も変わり始めるかという頃、ついにその扉が叩かれたのであった。

 

 

 



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vs.『腸狩り』エルザ・グランヒルテ

なんか短いと思ってたら始まる場所間違ってたので再投稿です。


「―― 誰だ」

 

 ロム爺の表情が変わり、険しい顔つきで叩かれた扉を睨む。

 

 部屋に響き渡るノックの音は続く。

 

 それは重く鋭く、スバルの耳に突き刺さっていく。

 死神の足音、彼の脳はその音をそんな風に捉え心臓が早鐘を打つのを促している。

 

「あーもう、お前らがトロトロしてるから来ちまったじゃねーか」

 

 その緊張感を裂いたのはフェルトの呆れかえった呑気な声色だった。

 

「多分アタシの客だ。一応言っておくけど、これで契約反古とかナシだかんな。アタシはちゃんと約束を守ったんだからさ」

 

 ぶつくさと愚痴りながら扉へ近づいていくフェルト。

 その姿を見たスバルは瞬間、目の前で殺された、この世界ではありえない無残な姿のフェルトを幻視して

 

「駄目だ、開けるな! 殺されるぞ!」

 

 思わずそう叫んでいた。

 

 その悲壮な叫び声を許可としたのか、ドアノブはゆっくりと回り、絶望の権化が少しずつ姿を現そうとしている。

 開いていく扉の隙間から光が差し込んでくる。

 唯々表情を変えず静かに、それでいて鋭く、いつでも飛び出せる姿勢でその動向を見守る桐生。

 不安と絶望に顔を歪ませながら、必死にそれを押し込めようとするスバル。

 

 そうして薄暗い部屋の中を打ち払うように、夕暮れの光と共に扉の前に立つフェルトの前に現れたのは――

 

「殺すだなんて、そんなおっかない事いきなりしないわよ」

 

 仏頂面で口を尖らせた、銀髪の少女だった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「ようやく見つけたわ。今度は逃がさないから」

 

 目の前に立つフェルトの目をしっかりと見据え、銀髪の少女はそう宣言した。

 その言葉にフェルトはたじろぎながらも、唇を歪ませながら睨み返す。

 

「おい、あいつはまさか――」

 

「あ、ああ。この徽章の持ち主……俺の探していた女の子だ」

 

 近くによって耳打ちして尋ねる桐生にスバルはそう答えた。

 そう、彼女こそがスバルが焦がれ、その命を賭してでも助けたいと願った少女。

 だがスバルの顔に浮かぶのは安堵や喜色ではなく、戸惑いの色ばかりであった。

 

「な、何でこんなに早く? 彼女がここに来るのはもう少し後だったはず―― あ!」

 

 言いながらスバルは何かに気づいたように声を上げる。

 

「そうか、あの時は俺のおもりをしてたようなもんだから……。彼女一人ならこんなに早くたどり着けるのか」

 

 自分で言っていて情けなくなるが事実なので如何ともしがたい。

 初めて彼女と出会いこの盗品蔵を探したとき、右も左も分からないスバルは随分と彼女に助けられながらこの場所を見つけたのだ。

 つまり、その分の時間が無くなった結果がこの場、このタイミングでの再会という事なのだろう。

 

 ―― 更に付け加えるならば、本来フェルトが行うはずであった妨害工作も、話を急ぐ桐生とスバルのせいでおざなりになってしまったのも原因の一つであった、

 

「成程な、おっちゃん達がアタシらを連れ出そうとしてたのはこういうわけか。それならそうと早く言えよ」

 

 フェルトは好意的にこの遭遇とスバル達の提案の意味を捉えていた。

 どうやら彼女の中ではスバルらが自分たちの立場を守ろうとしてくれていた事になったらしい。

 勿論あながち間違いではないのだが、スバルにとっては心情的には銀髪の少女の味方だ。

 それでもフェルトがそう解釈してくれたのは、偏に思いの外好感度が高かった賜物だろう。

 何となくだが、スバルは自分一人で交渉して同じ状況に出くわしていたならば「よくも騙しやがって!」と怨嗟と糾弾の声を聴いていた羽目になっていた気がしている。

 

「どうしよう叔父貴、この場で徽章を返すってーのは……」

 

「盗人の仲間と思われてもいいならそれも良いぜ。幸い豚箱に入るのは慣れてるからな」

 

「マジで? っていうか流石にそれは勘弁。あの子に敵視されたら俺もう生きてけない」

 

 少し手遅れかもしれないかなと思いつつも、事態を見守る二人。

 すると銀髪の少女がスッと前に手を掲げると、淡い光がその周りを包みはじめ、凍て つく空気とひび割れる音が周囲を駆け巡る。

 

「手荒な真似はしたくない。大人しく返してくれれば危害は加えないわ」

 

 従わなければ力づくも辞さない。

 その決意と覚悟がその声には満ち満ちていた。

「全く、厄介な相手から盗んだもんじゃな」

 

 ロム爺はお手上げとばかりに大きくため息をついた。

 その顔に抵抗の意思は薄く、近くにおいてある愛用の棍棒を手に取る気配も無かった。

 

「喧嘩する前から諦めんのか?」

 

「ただの魔法使いならいざ知らず、精霊使いともなればな……」

 

 発破をかけるフェルトを横目に苦々しげ吐き捨て、敵意を露にする少女を睨むロム爺。

 その違いはよく分からないが、桐生は「アレが魔法か……」と興味深げに、感心の意を込めてそう呟いた。

 

「エルフの嬢ちゃん、すまんが徽章はもうここには無い。とっくに売り払っちまったわい」

 

「うそ。そんなに早く盗品が流れるとは思えない。それに私はハーフエルフ。エルフじゃないわ」

 

 最後の告白は、どこか痛みを伴う様なそんな苦しみと弱々しさを孕んでいた。

 

「つっても本当の事だからなあ。ってか姉ちゃん、まさかハーフエルフでその銀髪って――」

 

 何かに気づきフェルトは身じろぎする様に後ろに下がる。

 同じように反応を示したのはロム爺だ。

 残る二人は何が琴線に触れたのか全く気付かない様子で、恐怖が滲む二人の顔を見やる。

 

「他人の空似よ! 私だって、迷惑してる……」

 

 それはどうやら告白した本人にとっても辛い事の様で、苦し気な声で強く否定する。

 その意味がやはり二人には分からなかったが、どうやらこの世界において銀髪のハーフエルフというのは何かしらの意味を持つものらしい、という事は漠然と気づいた。

 

「けれど、アレを返してもらえないのなら……今だけは『そう』なったって構わない」

 

 悲壮なまでの声色で彼女はそう宣言する。

 それがスバルにはあまりにも痛ましく、そして見ていられなくて

 

「叔父貴……」

 

「……」

 

すまなさそうに首を垂れるスバルに桐生は言葉を詰まらせ、僅かに逡巡した後懐から取り出した物をスバルに手渡した。

 

「もし豚箱に入る事になっちまったら、毎日おかず一品あげるから」

 

 受け取ったそれを握りしめ、スバルはフェルトたちを睨む少女の前へと歩いていく。

 そして、彼女はスバルに気づくと彼に向き直り、掲げる腕をそちらへ向ける。

 その敵意のこもった視線にスバルは心を苛まされながら、少女の前へそっとそれを差し出した。

 

「何? 邪魔をするなら容赦は出来ない」

 

「ごめん、君の探しているものならここにある」

 

「え?」

 

 差し出されたのは少女が追い求めていた徽章。

 突然提示されたそれに少女は面食らったように眉を上げ、それとスバルの顔を交互に見る。

 

「買い取ったのは俺達だ。その、盗みを依頼した奴に一泡吹かせたくて……」

 

「……そう、でも返してくれるならそれでいいわ。ありがとう」

 

 そう言って無表情で、けれども安心したように差し出された徽章に手を伸ばす少女。

 

―― その時だった、彼女の背後に一筋の黒い影が走ったのは。

 

「―― っ! 避けろぉ!」

 

 弾丸の様に駆けだす桐生。だが、彼では間に合わない。

 彼女を救うのは桐生ではなく、無力な少年の一声に他ならないのだから。

 

「後ろだパック!」

 

 ガラスを叩いた様な快音が部屋中を駆け巡る。

 僅かに屈んだ少女の後ろには、その凶刃から身を守った魔法陣が空に浮かんでいた。

 

「間一髪だったね。君もありがとう」

 

「助かったのはこっちだよ、サンキューパック」

 

 大きく息をつき、少女の横に突如現れた猫の様な宙に浮かぶ生き物に礼を言うスバル。

 だが少女を襲った脅威は未だ去らず、運命の袋小路として立ちはだかる殺人鬼が狂気的な笑みを浮かべその場に立っていた。

 

「精霊、精霊はまだ殺したことがなかったわ、うふふ、素敵……」

 

「どういうつもりだ!」

 

 彼女の出現に真っ先に声を荒げたのはフェルトだった。

 彼女は顔を真っ赤にし、小さな体をわなわなと振るわせて突如現れた女を糾弾する。

 

「てめーの仕事は徽章を買い取る事のはずだろう!? こりゃ一体何の真似だ!」

 

 多少は覚悟はしていた。

 一方的に商談を破棄し、別の依頼人に盗んだ徽章を横流したのだ。不義理に依頼人が怒るであろうことは十分に承知していた。

 

 だがこの女はその顛末をまだ知らない。

 徽章はまだフェルトが持っていると認識しているはずだし、商売敵が横やりに入ったのも知らないはずだ。

 

「何の真似と言われても、見ての通り。

 持ち主まで持ってこられては商談なんてとてもとても。だから……」

 

 艶やかな笑みはそのままに、唇を濡らす仕草は妖艶に。

 彼女は殺意に濡れた瞳でこの場にいる全員を一人一人値踏みするように視界に捉え、愛おし気に

 

「この場にいる関係者は皆殺し。徽章はその後で回収させていただくわね」

 

 慈愛すら感じさせる優しい声色でそう口にし、その異様さにフェルトは恐怖のあまり思わず後ずさる。

 

「貴方は仕事を全うできなかった。切り捨てられても仕方ない」

 

「―― ッ!」

 

 そんなフェルトに首を傾け、エルザは首を傾けて酷薄にそう言い放った。

 その言葉を突き付けられたフェルトの表情は苦痛に歪む。それは恐怖ではなくもっと何か別の感情がそうさせている様であった。

 その感情が何なのかは分からない、分からないが――

 

「てめぇ、ふざけんなよ――!!」

 

 実力差も忘れて怒鳴りかかるくらい、スバルを怒らせる原因にはなった。

 

 突然の激昂にその場の誰もが、本人でさえも驚いた。

 いや、たった一人。桐生だけはその激情の由来を知っているのか表情を変えず、こみ上げる感情を吐き出そうとするスバルを見守る。

 

「こんな小さいガキ、いじめて楽しんでんじゃねぇよ! 腸大好きのサディスティック女が!! そもそも出現が唐突すぎんだよ、外でタイミング待ってたのか!? うまくいくかもとかぬか喜びさせやがって、超恐いんだよマジ会いたくねぇんだよ! 俺がどんだけ痛くて泣きそうな思いしたと思ってやがんだ! 刃物でブッスリやられるたんびに小金貰ってたら今頃俺は億万長者だ! それは言い過ぎた!」

 

「……なにを言ってるの、あなた」

 

「テンションと怒りゲージMAXでなにが言いてぇのか自分でもわかんなくなってきてんだよ! そんなお日柄ですが皆様いかがお過ごしでしょうかチャンネルはそのままでどうぞ!」

 

 もはや支離滅裂で自分でも何を言っているのか分からないほどの怒声に、さしものエルザも呆れたように息をついた。

 フェルトやロム爺も呆然とした表情だ。銀髪の少女に至っては状況が呑み込めず、どう動いたものかとおろおろしている。

 そんな中、労うようにスバルの肩を叩き桐生がそんな彼の前へと歩み出た。

 

「よく言ったな。まあ言ってる事はあれだが……格好良かったぜ」

 

「う、叔父貴……」

 

 激情は冷めやらず、桐生の言葉に今度は涙がこみ上げてきそうになる。

 

「そんな顔をするんじゃねえ、言いたい事は言ったんだ。後は男らしく堂々としてな」

 

「お……おうよ!」

 

 零れそうになる涙をジャージの裾で擦り付けるように拭い取り、目元を赤くしながら前を見る。

 情けないし不甲斐無い気持ちで胸が張り裂けそうになるが、よくやったと桐生は言ってくれた。

 ならばせめて言う通り胸を張ろう、胸を張ってあのクソったれな殺人鬼と向き合ってやる。

 それが、スバルなりの意地であった。

 

「お前も、嫌な思いさせちまったな」

 

「お、おっちゃん!?」

 

 金髪をくしゃくしゃにして頭をなでる桐生に困惑するフェルト。

 

「下がってな、後は―― 俺に任せろ」

 

「………あ」

 

 頭から離れていく暖かさに名残惜しさを感じつつ、フェルトは女の前へと立ちはだかった桐生を見た。

 その彼の姿に彼女は何を感じたのだろうかは自分でも分からない。

 だが何となく、それはいつもロム爺から与えられるものに似て、それでいて別物の様な気がして。

 

「ったく、親父気取りかよ……」

 

 無意識に頬を緩ませ、そう呟いた。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「あら素敵なおじさま。貴方がお相手かしら?」

 

 銀髪の少女からその殺意を遮るように、龍は腸狩りへと対峙する

 彼は胸元からタバコを取り出すとそれに火をつけ、一度煙で肺を満たしてから大きくそれを吐き出した。

 

「不満か?」

 

「いいえ、私ダンスの相手は選ばない主義なの」

 

「そいつは助かる。だが踊りは苦手でな、ちょっと手荒くなっちまうぜ」

 

「素敵」

 

 桐生は拳を、エルザはナイフを。

 互いに構えその闘志を、その実力を静かに計りあう。

 

「……あなたは」

 

 突如現れた男に困惑を隠せないのは銀髪の少女だ。

 この場にいたという事は盗人の仲間なのだろうか。

 この女が自分の命を狙ったのは彼らの指示ではないのか。

 だというのに、何故彼は自分を守るように間に立ち、この異様な殺意を滲ませる女と対峙しているのか。

 

 疑問は尽きない。その答えを尋ねようと横に目を向けると、この場で唯一、最も信頼できる精霊パックはうーんと首を捻っていた。

 

「パック、どうしよう」

 

「置いてけぼりだねリア。ねえお兄さん! よく分かんないけど、とりあえずこの場は任せていいのかな?」

 

「お兄さん扱いとは久しぶりだな。構わねえ、ガキを守るのは大人の仕事だ」

 

「僕から見たら人間なんて大抵赤子みたいなものだからねー。まあそれはともかく」

 

 パックはその小さな体をリアへと向け、スバル達のいる方向を指さした。

 

「聞いての通り。ここは大人のあの人に甘えて避難しようよ。丁度時間も近づいている。リアが危険な目にあわなくて済むなら、それに越した事は無いしね」

 

「でも……」

 

 ちらりとその大人の背中をみる少女。どうやら信用できない、というよりも心配らしい。

 

「優しいなあリアは。大丈夫、お兄さん結構腕は立ちそうだし、本気でリアを守ろうとしてくれてる。理由はよく分からないけどね」

 

「………パックの言う通りにする。えっと、ありがとう?」

 

 最後まで状況は飲み込めずとも、とりあえず自分を守ろうとしてくれている背中に礼を告げ、パックの指し示す先へ避難しようとする。

 不意に、そんな彼女に小さな声で桐生が告げた。

 

「礼ならスバルに……向こうの少年に言ってやりな。あいつはあんたの為に、てめえの命張ってあんたの大切な物を取り返したんだ。

 そうすればこの女に殺されちまうって、そう分かっていながらな」

 

「え、それって……」

 

「リア」

 

 ますます事情が分からなくなるが、パックに促されると少女は仕方なしにその場を離れる。

 

 そうして中央には二人の男女が残った。

 周囲に漂うのは張り詰めた緊張感と、呼吸音すら響き渡る静寂。

 互いは構えながら間合いを詰め、その一挙手一投足に目を光らせる。

 

 ごくりと、誰かが唾を飲み込む音がした。

 

 

「先に尋ねておくのだけれど、武器はいらないのかしら?」

 

 静寂を破ったのは女の言葉。どこまでも公平に、彼女はこれから始まる殺し合いを楽しもうとしている。

 

「構わねえ。こっちも一応聞いておくが、女を殴るのは趣味じゃねえ。手を引いてくれるつもりはねえか?」

 

「こんな素敵なおじさまに女扱いなんて随分嬉しいのだけれど、残念。男と思って遠慮なくどうぞ」

 

 空気が、変わる。

 互いに放つ闘志は静かに静寂を乱す。

 

「『腸狩り』エルザ・グランヒルテ」

 

「桐生一馬。ただの堅気だ」

 

 互いの名を告げそれを合図とする様に、二人の戦いの火蓋は切って落とされた。

 

「―― っ!」

 

 言葉にならぬ、切り裂くような声をあげて踏み込んだのはエルザ。

 脆くも無い床を踏み砕く様な力で放たれたその体は、さながら弾丸の様な速度で間合いを詰め同時にナイフを振りかぶり――

 

「―― っ!?」

 

突如眼前に飛び出してきたのは先程まで桐生が加えていたタバコ。

噴き出されたそれが顔面を焼く熱さに怯み、ほんの一瞬その踏み込みが止まった時には既に、桐生は拳を構え飛び掛かっていた!

 

「オラぁ!」

 

振り下ろす力と落下速度を加えた一撃はエルザの頭部を正確に捉え、頭蓋が軋む鈍い音、そしてそれが床を砕く音を盛大に響かせながら、彼女は頭から床へ叩きつけられた。

 

その一瞬の光景にフェルトとロム爺は目を見開き、スバルは目を輝かせそして銀髪の少女は……

 

「すごーく、卑怯……」

 

想像もつかない戦い方に率直な感想を述べていた。

 

「何言ってんだマイリトルラバ-! これぞ喧嘩殺法! 男のロマン!」

 

若干引き気味の少女とは対照的に、興奮冷めやらぬスバルは大はしゃぎ。

フェルトもまたその育ちのおかげかスバルと同じ印象だったらしく、ただただ呆然として「すげー……」と呆けた声を漏らすばかりだった。

 

 そんなギャラリーの様子を気にかける事もなく、桐生はその立ち上る闘志をそのままに

 

「来いよ、まだ終わりじゃねえんだろう?」

 

 確信を持った態度で、そう声をかけた。

 

「うそ……」

 

 少女さえもそれは予想外だったのか。

 声をかけられたエルザはピクリピクリと体を振るわせ、床にめり込んだ頭部からはくぐもった笑い声が響き――

 

「ああ、本当に……なんて素晴らしいのかしら」

 

 ゆらりと、血濡れの顔を拭おうともせずに立ち上がった。

 

「うげぇ、決まったと思ったのに……」

 

 フェルトは顔を引きつらせて、割れた額から口元へ流れる血を舐めとるエルザを見る。

 盛大に入った一撃はしかし、なんのダメージも無かったかのように彼女は平然としている。

 

「さっきの叔父貴の一発……き、効いてねえのかよ?」

 

「そんな事ないのだけれど、実際にまだ頭がくらくらしちゃうもの」

 

 スバルの呟きにそう答えると、エルザは再びナイフを構え桐生を見据える。

 

「面白い戦い方をするのね、次は何を見せてくれるのかし、ら!」

 

 再び機先を制したのはエルザだった。

 彼女は身を低くし、滑るように地を駆けると桐生の股下から胸元を切り裂く斬撃を右手に携えたナイフで放つ。

 それを小さく後ろに飛びのき避ける桐生だが、予測していたようにエルザは同時に踏み込み、回避を許さぬタイミングで左手に握られたナイフが桐生の腹を一閃する!

 

「―― っ!」

 

 その絞り出したような声は誰のものか。

 振るわれた刃は桐生の腹を、その薄皮一枚を切り裂く寸前で刀身が挟み殺され止められていた。

 桐生の、肘と膝によって。

 

「ああ、本当に……」

 

 素敵と、彼女は恍惚と呟いた。

 同時にこの上なく昂る体に頬を熱くする。

 

 彼女には戦闘狂のきらいがあった。

 純粋に殺し合いを楽しみ、命を奪い奪われるその狭間に身を置くことを喜びとする。

 それは相手が強ければ強いほど、己の命を脅かす存在と対峙するほどに大きくなり、彼女の心技体は躍動する。

 

 なれば、目の前で途方もない技量を見せつけた相手を前にしてどうして心躍らずにいられようか――。

 

「ふっ!」

 

 掛け声とともに挟んだナイフをへし折る桐生。

 エルザはそれに僅かな躊躇も見せず、大きく後ろへ跳躍し同時に小さな投げナイフを投擲する。

 

 高低差をつけて放たれたそれの回避は困難を極め、一本、二本を身を捻って避ける桐生に、三本四本と絶え間なく襲い掛かる!

 

「ちっ!」

 

 頭を傾け、正確に頭部を狙ったそれは頬を掠めてゆく。

 続くナイフは足元に、片足を上げ回避するも僅かに重心が揺らぎ、その隙をエルザは見逃さず、着地と同時に間髪入れず再び間合いを詰めんと地を蹴り、跳躍の速度を加えた斬撃が桐生を襲う。

 

 それに応じる桐生は上げた片足をそのまま振り抜き、振るわれた左手を蹴り上げ、跳ね上がった手首を掴んでその体を思い切り引っ張り壁へ向かって叩きつける。

 桐生の動きは止まらず、叩きつけたエルザの後頭部にその逞しい腕を容赦なく打ち付けた。

 

「―― は、ぁっ!」

 

 しかし、頭が壁を砕く爆音とともに漏れた女の声に苦悶はなく、さながら嬌声にすら感じる程。

 即座に体を落とし、身を捻りながらナイフを振るい反撃するその動きには衰えを感じさせず、それをかわす桐生は追撃を止めとっさに距離を取る。

 

 仕切り直しとばかりに互いの間合いは再び開き、構えた二人が向き合い対峙する。

 

 戦いは未だ、始まったばかりであった。

 

 

 

 

 



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決着

 

 桐生とエルザの攻防は熾烈さを増していた。

 

「―― しっ!」

 

 鋭い呼気と共に右手から放たれた一閃は、正確に桐生の首めがけて走る。

 それを桐生は上半身だけを傾けて回避し、体を戻す反動を加えた拳で応戦する。

 だがその拳は僅かに体を揺らしたエルザの頬を掠め空を切り、伸び切ってほんの一瞬硬直したその腕に、今度は左手から放たれる凶刃が迫った。

 

「ちっ!」

 

 短く舌打ち。腕を上げその刃を回避するが、その一撃はエルザのフェイク。

 がら空きになった横腹をめがけ、再び右手のククリナイフが薙ぐ様に放たれる。

 

(―― 殺った)

 

 エルザにとって六度目の確信。

 だが同時に、この一撃もまた失敗に終わるであろう事も確信する。

 

 当たれば絶命を免れぬ一撃に、驚くべきことに桐生が選択した行動は前進であった。

 肉を裂く一閃は胴を両断する一閃へと変化し、その命をより脅かす。

 だがその刃が彼の体へ到達するより早く、桐生の手がナイフを振るうエルザの右手首を掴んだ。

 

「ああ。やっぱり!」

 

 興奮、緊迫、発情――。

 必死の一撃を防がれたエルザは心を昂るあらゆる感情が心を駆け巡り、同時に氷の様に冷静な戦闘本能が左手での反撃を命令する。

 だが、次の瞬間彼女の体は右手首を起点に僅かに浮き上がり、直後視界は横転し桐生の体重を加えた勢いで横向きに床へと叩きつけられた。

 

「か、は――っ」

 

 叩きつけられる衝撃と共に鋭い痛みが脇腹を襲う。

 同時に感じる心地よい温かさは一体何か。

 己のダメージを把握しようと彼女が目をやると、己の右肘がくの字の様な形で固められ、自身の血で真っ赤に濡れる愛用のナイフが自分の手によって脇腹に突き立っていた。

 

 だが、致命傷にも至りかねないその傷に彼女は一切怯む事無く更なる反撃を冷静に執り行う。

 固められた腕を、刺さるナイフを抜こうともせずに体を横に倒し、その勢いと共に左手のナイフを桐生へと突き出す。

 

「くっ!」

 

 急いで腕を離し距離を取ろうとする桐生。

 間一髪で突きの射程から逃れた彼はしかし、即座に飛び上がったエルザの、横向きの回転と共に放たれる右手の斬撃によって胸元を切り裂かれてしまう。

 

「―― 浅い」

 

 屈むような形で着地し、彼女は小さくそう呟いた。

 

 前へ目を向けると、薄く汗を流して目を見開く桐生と、胸元を走る一筋の赤い線が目に入る。

 だがその傷は筋肉のほんの少しを斬り裂くに留まり、骨はおろか内臓にすら達していない。

 まだまだ戦える、とエルザは喜びに口角を吊り上げ、右手のナイフから滴る己と桐生の血が混ざったそれを淫らな仕草で舐めとると、恍惚に体を震わせた。

 

「い、イカれてる……」

 

 その一部始終を見たスバルは、吐き気すら覚えながらそう呟いた。

 

「ねえパック、やっぱりそろそろ……」

 

 そんな異常な相手をする桐生がやはり心配になったのか、考え直して加勢を提案する銀髪の少女。しかしパックは

 

「いやー、荒々しいなあ。あんな暴力的な戦い方初めて見たよ。女の子の方も凄いね、あの傷じゃ普通は痛くて動けないだろうに」

 

 などと、完全に傍観者気取りで二人の戦いを品評している。

 

「パック……」

 

「駄目だよリア、さっきも言ったけどもう時間が無い。それに僕は少し彼女を侮っていたみたいだ。

 今からじゃ―― いや、初めから彼女と戦っていたとしても仕留めきれなかったかもしれないね」

 

「偉そーな精霊様のくせに弱気じゃねーか」

 

「勘違いしないでほしいな、これは冷静な判断にゃんだよ?」

 

 ウインクしながら首を傾げる可愛らしい仕草に、むしろイラつきを覚えてフェルトはロム爺に目を向ける。

 棍棒を持ち臨戦態勢で戦局を見計らうロム爺は、余裕そうなパックとは逆に険しい表情だ。

 

「な、なあ、大丈夫……だと思うか?」

 

 我ながららしくない、と思う程に弱気な本音が口から勝手に漏れ出る。

 だがロム爺はそれを茶化す事もなく、目の前で繰り広げられる戦いから目を離さぬままフェルトに答えた。

 

「正直キリュウがこれ程腕が立つとは思わなかったわい。実力だけならあの女も化け物じゃが、見立てではキリュウの方が上でないかと思う」

 

「けど」

 

 ロム爺から目を離し、再び戦いに意識を戻す。

 その時フェルトの目に飛び込んだのは、体を屈め掴んだ腕を思い切り背負い投げる桐生と、容赦なく背中から叩きつけられ背骨が軋む感覚と共に血反吐を吐くエルザの姿。

 だが桐生の攻撃は終わらない。大きく足を振り上げ、その膂力を生み出すとは思えない細い腹をストンピング。

 最早内臓と骨がぐちゃぐちゃに混ざり合う様な衝撃に彼女は……

 

「ああ、楽しいわ楽しいわ楽しいわ!」

 

 苦痛はおろか快楽さえ感じている様子と衰えぬ速度で桐生の脚を掴み、横に大きく振り回す様に腕を振った。

 

「ぐぅ!」

 

 大きくバランスを崩した桐生の背を迎え撃つ様にエルザのナイフが突き立てるように襲い掛かる!

 だがそれを間一髪、背中を貫通したであろうその一撃を、身を捩り脇腹を裂くのみに留め一瞬苦痛に顔を歪めながらも、手をついて大きく側転しながら地に背中をつける事無く元の体勢に戻ると、小さく息を吐いて再び拳を構える。

 

 エルザもまた、そんな桐生を満足げに見届けるとゆらりと立ち上がり再び桐生を見据えてナイフを構えた。

 

 この対峙ももはや何度目になるだろうか。

 

 だがしかし、怒涛の猛攻を加えられ、その体には少なくないダメージが刻まれているはずのエルザは未だ余裕のある表情。

 対して桐生は、脇腹と胸元から血を流し、その表情には苦痛こそないものの僅かな陰りが見え始めていた。

 

「おかしい、やはりあれはおかしいわい」

 

 険しい顔のロム爺は更に顔をしかめ、女の異常性に言葉を繰り返す。

 

「だ、だよな……。あんだけやられて笑ってるなんて普通じゃねー」

 

 そんなフェルトの言葉にロム爺は小さく首を振る。

 どうやら彼が疑問を抱いたのはそこではなかったようだ。

 

 ロム爺と同じ感覚に困惑しているのは桐生。

 戦っている彼本人もまた、楽し気にナイフで空を切る目の前のエルザを見据え違和感を抱いていた。

 

(何度か手応えはあったんだがな……)

 

 都合六発。

 エルザとの戦いのさなか、勝負を決めたと確信する一撃が放たれた回数がそれだ。

 

 一発ならば勘違いもあるだろう。

 二発ならば相手の根性に感心もしよう。

 

 だが三発四発ともなるともはや気合いや執念では説明がつかない。

 まして確信を得ているのは百戦錬磨の男桐生一馬だ。

 彼の豊富な戦闘経験が、無意識に彼我の体力と実力の差を感じ取りその上で勝利への確信を桐生に抱かせていた。

 

 いや、仕留めきれなかったのならばまだ良しとしよう。

 だが全くダメージを感じさせないのはどうだ。

 戦いの中で桐生はエルザを無力化すべく、腕をへし折りあばらを砕き、足の関節すら叩き壊した。

 その嫌な手応えは未だ体に残っている。

 だがエルザは口から僅かに血を流すのみで平然と立ち、ナイフを振るう腕に淀みは無く呼吸に苦痛を感じさせる様子もない。

 痛みを感じぬ異常な感覚の持ち主、というには様子が歪すぎる。

 

(もしや、魔法……か?)

 

 その異質さを説明できるとあれば、それは別の異質によるものかと桐生は思い至る。

 異世界であるこの世界には、元の世界でいう超能力の様なものが存在する。先程その片鱗を桐生も目にした以上それは疑うべくもない。

 ならばこの女も、怪我を治す何かそういった魔法を使っているのではないだろうか。

 

 ぺろりと、口から零れる血を舐めとるエルザ。

 既に傷は塞がっているのか、舐めとられた血はそれ以上口から流れる様子はない。

 

「そんなに熱心な目で見つめられると火照ってしまうのだけれど、勿論まだ終わりではないのよね?」

 

「ああ、女を満足させる前に果てちまうつもりはねえ」

 

「素敵ね。あんなに力強く私の体を滅茶苦茶にしてくれたのに、まだまだ元気。

 やっぱり殿方に力と体力では敵わないみたい。だから……」

 

 どこか色っぽい言葉を交わしながら、女は地を這うような姿勢で大きく身を屈める。

 

「今度は、私のテクニックで楽しませてあげるわ」

 

 軽く膝をたわめ、跳躍の姿勢を取るエルザ。

 瞬間、彼女は疾る黒い影へと姿を変えた。

 

「なっ!?」

 

 真っ先に驚いたのはスバル。

 彼は注視していたはずのエルザの姿を、一瞬にして見失ったのだ。

 

「上!」

 

 銀鈴の声が響く。

 その動きを辛うじて捉えた銀髪の少女は、天井へと跳躍するエルザの姿を追うが、しかし。

 

「驚いた、アタシと同じくらいはえー奴なんて初めてみたぜ……」

 

 最早目で追えるのは、その身に持つ加護の恩寵によって同じような身のこなしを可能とするフェルトと、見た目とは裏腹に圧倒的な力を持つパックのみ。

 天井へと跳躍したエルザは身を翻し、今度は天井を大地に見立て再び跳躍。

 壁へ床へ、天井からまた壁へ。

 縦横無尽に不規則に黒い影は疾り、それはやがて殺意をもって桐生へとすれ違う!

 

「ちっ!」

 

 間一髪で見切る桐生だが、その肩口には血が一筋。

 決して深い傷ではないため即座に反撃を開始しようとするが、既に黒影は再び天井へと移動していた。

 

 超高速の一撃離脱。深追いはせず、追撃もせず。

 しかして本来ならば必殺の一撃を、桐生はその超人的な感覚と戦いへの本能をもって致命傷を回避するが、完全には避けきれずに僅かながらも体を切り裂かれる。

 

 だがそこに光明は無い。

 種もわからぬ異常な回復力を持つエルザのスタミナが尽きる事を期待するのは余りにも楽観的。

 蜘蛛の様に壁に飛びつき、疾る黒い影は糸となって桐生を搦めとる。

 

 ―― ならば、もはや桐生は巣にかかった獲物に他ならず。

 

 唯々、じわじわと嬲り殺されるのを待つばかりであった。

 

「くそ、こうなったら……!」

 

「待って、どうするつもり?」

 

 一つ、また一つと傷を増やしていく桐生の姿に堪えきれず渦中へと飛び込もうとするスバル。

 その足は小刻みに震えているが、彼の中に芽生えた意地と覚悟は恐怖を麻痺させ抑え込む。

 せめて一矢報いて、一瞬でも隙を作れれば……。

 そんな無謀な蛮勇を諌めたのは銀髪の少女であった。

 

「決まってるじゃねえか愛しい君! もう見てらんねえんだよ! 自分が情けねえんだよ! だからせめて――」

 

「自分を犠牲にしてでも、おっちゃんを助ける、だろ?」

 

 スバルの横に並び立ち、同意見だとばかりにフェルトが口を挟む。

 

「アタシも同じだ。もう駄目だ。なんかよくわかんねーけど、駄目だ。心がぞわぞわして落ち着かねー」

 

 身を屈め、足に力を籠めるフェルト。

 だが今度はロム爺がそれを諌めた。

 

「いかん、今お前さんらが行っても巻き込まれて無駄死に晒すだけじゃ。じゃから――」

 

 儂が行く、とロム爺はその手に携えた巨大な棍棒を構えた。

 

「儂ならば体もでかい、無駄に体力もある。一撃でも壁になれれば、キリュウならばなんとかできるじゃろう」

 

「って、爺さん死ぬ気かよ!?」

 

「ふざけんな! ロム爺が死んだら意味ねーだろが! アタシは却下だ!」

 

「同じことをしようとしてたお前さんらに言われたくはないがな……」

 

「待って、あなた達じゃ無理。私ならもっと確実に援護出来る」

 

「僕はあんまり乗り気じゃないけどねー」

 

「そんなやる気のねー精霊連れてる精霊使いの言葉なんて信用できるかよ!」

 

 互いに庇い、意地をはり合うやり取りの応酬もどこ吹く風とばかりに、飄々とした態度を崩さないパックに苛立ちを覚えるフェルト。

 だが激昂されてなおパックは変わらぬ様子で続ける。

 

「何度も言ってるけど、僕はリアを危険な目に合わせたくないんだ。これは何よりの最優先事項。

 もうすぐ日は沈んで僕は顕現出来なくなる。そうなったらリア一人じゃあの女の子の相手は荷が重い。

 本当なら、この隙に全力で逃げた方がいいとさえ思ってるんだよ僕は」

 

「パック」

 

「分かってるよ、ぎりぎりまでは君の意思を尊重する。ぎりぎりまでは、ね」

 

「ふざけんな! だったらアタシらと協力して一気に勝負をつければいいじゃねーか!」

 

「戦力になりそうなのはあのお兄さんだけだと思うけどね。

 それに、あの女の子はちょっと普通じゃないのは分かるだろ? 一気に決めるとなると、全員巻き添えになっちゃうと思うけどそれでもいい?」

 

「て、めぇ……」

 

 不甲斐無さと焦燥感に言葉が詰まり、フェルトの目じりに涙が滲む。

 パックの言葉には事実しか含まれておらず、そのスタンスは彼女が同じ立場であったならば全く同様に振舞うであろうものであった。

 分かっている。パックの、他人の実力をあてにするなど誰よりも自分が嫌う唾棄すべき考えだ。

 今の自分の方が余程理不尽でらしくない事など、自分でさえわかっている。

 だからこそ、何よりもそんな自分に苛立ち、パックへその漏れ出る残滓を口汚くぶつけてしまうのだろう。

 

 

 

「大丈夫だ」

 

 

 

 不意に、どこからかそんな声がした。

 

 真っ先に気づいたのはスバル、そしてフェルト。

 その言葉の出所を必死で追うと、そこには全く怯む様子無く拳を構え、黒影を迎え撃つ桐生の姿があった。

 

「叔父貴! でも!」

 

「大丈夫だ!」

 

 今度ははっきりと、力強い声で彼はそう叫んだ。

 

「心配するな、子供は子供らしく大人を頼れ」

 

 今度は優しく、安心させるように。

 命を張って助けに入ろうとするスバル達を、彼はそう窘めた。

 

 その言葉に僅かに落ち着き、飛び出そうとする足を止めるスバル達。

 唯一未だ飛び出す姿勢を崩さないロム爺だったが

 

「爺さん、あんたも子供を守るのが役目だ。そっちは頼んだぜ」

 

「馬鹿者が……」

 

 悪態をつき、呆れた様子で棍棒を下げる。

 

 黒影は更に速度を増し、もはや獣の様な俊敏さで部屋中を飛び回っている。

 その姿は既にフェルトや、対峙する桐生ですら追いきれない。

 そんな絶体絶命の状況の中、桐生は――

 

 構えをといた。

 

 拳を下ろし、目を閉じ、泰然自若としたその様子はまるで諦めすら感じさせる。

 では本当に諦めたのか? 無論、違う。

 彼のその耳には、地を蹴り空を切る音が断続的に飛び込んでくる。

 それは時に遠く、時に近く。

 己の呼吸すら止め、減らした五感を聴覚へと集中し研ぎ澄ます。

 やがてそれはどこで、どの方向へ地を蹴ったかさえも聞き分ける事を可能とし――。

 

「勝機!」

 

 一喝と共に目を見開き、ほんの僅かに身を捩る。

 

 それは、その戦いを見届ける全ての者にスローモーションに映ったであろう。

 

 黒影はエルザへと姿を戻し、すれ違いざまに振り終えた刃を躱した桐生を後ろ目で追う。

 桐生もまた、その視線を交差させ、己の勝利だとばかりに薄く笑う。

 その全てが、真っ白な空間で、長い時を経て訪れた様に錯覚し――

 

 世界が色を取り戻した瞬間、桐生の膝がエルザの鳩尾へと深々と埋まっていた。

 

「が、は――っ!」

 

 その声には興奮と、初めての苦悶が溶け込んでいる。

 自身の高速移動による推進力への反動が加わった膝蹴りは、かつてないほどの威力を発揮し、彼女は滑るように両足を地に着けたまま数メートル後方へ吹き飛ばされた。

 

 その衝撃にエルザはナイフを落とし、両手で鳩尾を抑えて込み上げる胃液を堪え、漏れ出る唾液にも気を向けず、呼吸すらままならぬ己の体を必死に立て直そうとする。

 

「これで、終わりだ……!」

 

 闘志を秘めた双眸がエルザを捉える。

 彼を見たものは幻視したであろう。その体を纏う炎の様な闘気が。

 そしてそれは煌々と燃え上がり、握られた桐生の腕へと集りその勢いを増していく!

 

「おおおおぉぉおぉおおぉぉ!」

 

 怒号と共に空気は震え、圧倒的な気迫が周囲を支配する!

 刹那、桐生の姿が全ての目から消失した。

 踏み込む足に音は無く、一切の矛盾を孕まぬ動作は桐生を世界から消失させエルザの目前へと体を運ぶ。

 

「せいやああぁぁあぁぁ!」

 

 放たれた拳は鉄さえ砕く暴力の権化となって彼女の腹へとめり込んでいく。

 肉を、骨を、腸をも砕き、魂さえも貫かんと力を籠め続ける拳に慈悲は無く、振りぬかれた一撃にエルザの体は弾かれるように、壁をぶち破って遥か後方へと吹き飛ばされた!

 

 

 

 

 

究極の――。究極を極めた拳の一撃が今、死の運命を打ち破った瞬間であった。

 




戦闘むずかしい

感想、評価、ご指摘ありがとうございます!
中々コメント思い浮かばず返信遅くなってすみません。


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ただそれだけの為に

 

 

 日の落ちた暗い貧民街を、一人の青年が歩いていた。

 燃える様な赤髪と青い瞳は闇の中でもその存在を主張している。

 

『剣聖』ラインハルト。

 

 おおよそこの街に相応しいとは思えぬ彼の姿はやはり、住人たちからは疎まれ僻むような様子で遠巻きから観察されていた。

 

「すまない、少しいいかな?」

 

 足を止め物陰に隠れる少年に声をかける。

 しかし少年はびくりと肩を震わせると、一瞬眉を吊り上げてその場を走り去っていった。

 

「参ったな、やっぱり協力は仰げそうもない」

 

 そう言って小さくため息をつき、周囲を見渡しながら再び歩く。

 この街に入ってからというもの、好奇と警戒、或いは羨望ややっかみの視線に晒されながら先ほどの様に話しかけてはすげない態度を取られる彼であったが、その表情に落胆や怒りは無い。

 彼は貧民街がどんな場所であるかは当然知っている。ならば、自分の様な人物が歓待されない事くらいは容易に予測できる。

 それでもわざわざこうしてやって来たのは、ある人物を探すためであった。

 

 キリュウ・カズマ。そしてナツキ・スバル。

 

 しばらく前に王都の路地裏で出会ったこの二人は、素性こそ怪しいものの決して悪い人間には見えなかった。

 スバルは真っすぐでユニークな人物だったし、キリュウは祖父と比較しても遜色ない実力と貫録を兼ね揃えた傑物だった。

 スバルとはいい友人になれると思ったし、キリュウは人生の良き先達として敬うべき人物だと、ラインハルトは心の底からそう思っていた。

 

 ではそんな彼が二人を探しているのは親交を温めるためかというとそうではない。

 

 彼らは去り際に、気になる事を口にしていた。

 

『人を探してるんだ! この辺りで白いローブを着た銀髪の女の子を知らないか?』

 

 あの時ラインハルトは心当たりが無いと言ったが、それは嘘だ。

 彼にはその人物の人となりをある程度は知っていたし、王都にいるであろう事も、世界広しと言えどそんな風貌の人物はおそらく一人しかいるまいという事も知っていた。

 

 では、何故彼は嘘をついたのか。

 

 それは、スバル達が探しているであろう人物が、今のこの『ルグニカ王国』にとって非常に重要な人物だからである。

 そんな彼女を探している人物が、貧民街へと向かったという。

 ラインハルトはお人よしではあるが能天気ではない。

 善人がやむおえず悪を為すこともあるし、悪人が善人を装う事もわきまえている。

 二人がそのどちらかはわからないが……、心情的には最悪でも前者であると思ってはいるが、ともかく。

 貧民街と尋ね人の関係。そして二人の思惑を、彼は確かめる義務があったのだ。

 

 とはいえ、さしもの彼も全くの協力なしでは人探しもそう簡単には終わらない。

 さて、次はどこを探そうかと彼は軽く空を仰いだ、その時だった。

 

 木材が軋み破れる音が、夜の静寂を乱す様に響き渡った。

 

「今のは……」

 

 直感で確信する。

 今のは自分の目的に関連する何かである事に。

 

 音のした方向へ彼が駆けだした時、もはや彼の姿をその目で捉えられるものは一人もいなかった。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「終わった……のか……」

 

 盗品蔵に空いた人間大の穴に目を向け、スバルは恐る恐るそう呟いた。

 

 既にエルザの姿は見えない。まるでゴム毬の様に派手に吹き飛んだ彼女は相当遠くへ弾き飛ばされたであろう事は想像に難くない。

 だが幾度となくゾンビの様に立ち上がる彼女の姿が目に焼き付いているスバルには、再び彼女が平然とした様子で戻ってくるのではないかと気が気でなかったのだ。

 

 桐生に目を向けると、未だその残身に熱が残るかのように、一撃を放ち終えたその姿勢のまま静かに呼吸を繰り返している。

 そんな桐生に真っ先に近づいて行ったのはフェルトだった。

 

「おっちゃん!」

 

 風を切る様な速さで桐生の元へ近づき、小さく首を上げてその姿を見上げる。

 体には至る所に裂傷が刻まれ、血と泥や埃にまみれ汚れ切っている。

 だが拳の先を見つめるその表情に苦悶や憂いは無く、構えを解きフェルトの姿をその視界に捉えると、彼は優しく微笑んだ。

 

「おう、大丈夫か?」

 

 そんな桐生の姿に安心したのも一瞬、次には自分でも分からない理不尽な怒りがこみあげて

 

「ひ、一人でかっこつけてんじゃねーよばか!」

 

 なんて心にもない悪態をつきながら、軽く脛を蹴ってしまうフェルトだった。

 

「や、やったぞーーーぉぉ!」

 

 そんなフェルトを皮切りに、堰を切ったようにスバルの叫びが盗品蔵をこだまする。

 

「やった、やったぜハニー! 叔父貴の勝利だ! やっと生き残れたんだ! グッバイトゥデイ! ハロートゥモロー!!」

 

 銀髪の少女の手を取り、息もつかせぬハイテンションと満面の笑顔で、くるくると回りながらステップを踏むスバル。

 そんなスバルのテンションについていけず、顔を引きつらせて笑う少女も内心は安堵に胸を撫でおろしていた。

 

「よ、よかったね、私もその、すごーく助かった」

 

「助かったなんてもんじゃねえよ! 手は、足は!? 首は勿論ついてるよな!?」

 

「当たり前でしょ? 恐い事言わないでくれる?」

 

 彼女にとって意味不明な問いかけに答えると、スバルはそれに満足したようにうんうんと頷き、親指をグッと立ててウインクを送る。

 

「そうだよな、当たり前だよな! 君も俺も、首も手足もついてるし腸だって漏れてない! これも全部叔父貴のおかげだぜ!」

 

 そう言って思い出したかのように、少女の手を取って桐生の元へと駆け寄るスバル。

 

 その一連の様子を眺めていたロム爺は、やれやれと頭をかきながらその後ろをついて行く。

 

「全く、騒がしい奴だな……。だがまあ、あれだけ喜んでくれれば、体張ったかいもあったってもんだ」

 

 はしゃぎまわるスバルの姿を見て、桐生は満足気にほほ笑んだ。

 そうして張り詰めていた気が抜けたのか、大きく息を吐くと彼はその場に胡坐をかいて座った。

 すると背中を突然ばしんと叩かれ、後ろに顔を向けると不満げな表情でフェルトが頬を膨らませていた。

 

「なにやりとげたみてーな面してんだよ! ほら、腕! 血ぃ出てんぞ!」

 

 そう言って首元のマフラーをほどくと、ぶっきらぼうに、一際大きな腕の傷口を縛るように巻き付ける。

 

「おい、血で汚れるぞ」

 

「いいんだよ! 元々きたねーんだから!」

 

「いや、それなら尚更……」

 

「う、うるせー! 細かい事は気にすんな!」

 

「叔父貴! 俺のジャージも使ってくれ!」

 

「すまんスバル、クソがついたジャージは……」

 

 差し出されたジャージの上着を苦笑いと共に突き返す桐生。

 気持ちは嬉しかったが、流石に許容範囲は超えていたようだ。

 

「ごめんなさい、ちょっとどいてもらっていいかしら?」

 

 そう言ってスバルとフェルトに割り込んできたのは銀髪の少女。

 彼女は桐生の元へ近づくと、彼の傷にその白魚の様な指をそっと重ね

 

「……これは、取引。そう、あなた達の真意を尋ねるための取引だから。決して守ってもらったお礼だとか貴方のためとかそういうのでは決してないから」

 

 そんな、聞いてもいない言い訳を語りつつ静かに目を閉じると、ふわりとその美しい銀髪が僅かに浮かび、桐生の傷を淡く青い光が包み込んだ。

 

「これは……」

 

 その光景に桐生は息を呑んだ。

 先程までぱっくりと開いていた傷跡が、光に包まれるとみるみるうちに塞がっていく。

 その不思議な光景に桐生は一種の感動さえ覚えているように目を見開いていた。

 

「そういえば、精霊の姿が見えんようじゃが」

 

「パックなら時間が来たから帰ったわ。本当なら日没には限界が来ていたから、大分無理させてしまったもの」

 

「最後まで役に立たねー奴だったな……」

 

「そんな事言わないで、パックは私の為に色々考えてくれてるんだから」

 

「肝心な時にいないような気もするけどな……」

 

 彼女が殺されていた可能性もあった事を知るスバルがそう呟く。

 そんな話をしている間にも傷は次々と塞がり、最後にフェルトのマフラーが巻かれた傷口へと手を運び

 

「ああいや、こっちはいい」

 

「? どうして?」

 

「あー、もう治った」

 

 そう言って治療と断り立ち上がる。

 言われた少女は首をかしげながらも、そう言うならばと桐生から体を離した。

 

「ふふふ、お前さんも粋じゃのう。のう? フェルト」

 

「うっせー!」

 

 表情を隠す様に下を向き、照れ隠しとばかりにスバルにケリを入れるフェルト。

 

「あいた!? なんで俺!? この流れだったら爺さんを蹴るんじゃねえの!?」

 

「蹴りやすいんだよ、兄ちゃんの足」

 

「何その評価! そんなものを目指して体鍛えていたわけじゃねえからな!」

 

 そんな軽妙なやりとりを見ていた少女は堪えきれなかった様に、クスリと声を出して笑っていた。

 

「あ、今笑った、やべー、やっぱかわいい……」

 

 思わず唇を綻ばせる少女の笑顔に見蕩れ、スバルは顔を赤くしながら、柔和な笑顔を浮かべる少女の姿にくぎ付けになる。

 そんなスバルの視線に気づくと、彼女は慌てて表情を戻し毅然とした様子を取り繕う。

 

「わ、笑ってません」

 

「いや、笑った!」

 

「笑ってないもん!」

 

「絶対笑った! ってかもんってなんだよ! 俺をキュン死させようってのかこの天使め! 可愛すぎるだろコンチクショー!」

 

 いつしか張り詰めた緊張と殺伐とした空気は霧散し、先程まで殺し合いの渦中にあった盗品蔵には和やかな雰囲気に包まれていた。

 その場にいる誰もが、誰一人欠ける事無く無事に終わったことに感謝し喜んでいる。

 とりわけ桐生は自分の手で守ることが出来た手応えを確かめるように己の手のひらをじっと見つめ、スバルはエルザという死の運命を打破できた事、そして少女とこうして再び友好的に接することが出来た事に感動しつつ、その喜びを噛み締めていた。

 

「あ、そうだ、すっかり忘れてた」

 

「え?」

 

「ほら、君に渡そうと思っていた……」

 

 きょとんとする少女に、本来の目的である徽章を渡そうとしたその時だった。

 

 ガタリと、桐生の空けた大穴から物音が聞こえたのは。

 

 瞬間、緊張感が再びその場に走り、全員がほぼ同時にそちらに目を向ける。

 武器を取り、拳を構え、手をかざし、各々が臨戦態勢で崩れ落ちる木片を払いながら現れた人影に注視し――

 

「参ったな、敵のつもりではないんだけど」

 

 困ったような笑顔を浮かべたラインハルトの姿がそこにあった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「成程、そんな事が……」

 

 スバルから事情を聴いたラインハルトは、神妙な面持ちでそう呟いた。

 

「『腸狩り』エルザ・グランヒルテ。王都でも名前が挙がっている危険人物だ。報告されている武器と風貌も一致している」

 

「そんなやべー奴だったのかよ……」

 

 先程まで敵対していた人物が想像以上に有名人であったことに驚きつつ、スバルは自分の腹に手を当てて顔を引きつらせる。

 

「特徴的なのはその犯行手口だね。殺された相手は皆例外なく腹を切り裂かれ、その腸を引きずり出されていたと聞く。

 凄腕の傭兵だという噂もあるが……なんにせよ、皆さんがご無事で何よりです」

 

 そう言ってその場にいる全員を見渡し、最後に桐生へと目を止める。

 

「貴方が腸狩りを撃退したとお見受けいたしますが」

 

「まぁ、何とかな」

 

 そう答えた桐生にラインハルトは深々と頭を下げると

 

「ご協力感謝いたします。今回この場にいる王都の民に腸狩りの犠牲者が出なかったのは、偏に貴方の尽力によるものです。

 よろしければ、当家にお越しいただき然るべき報酬と感謝を示させて頂きたいのですが……」

 

「気持ちだけ受け取っておくぜ、好きでやった事だ」

 

 そう言ってラインハルトの申し出を断った。

 

「あの、ラインハルトはどうしてここに?」

 

「それは……彼らの導きというところでしょうか」

 

 少女の問いかけに、ラインハルトは桐生達に目をやりながらそう答える。

 

「え、ラインハルトってその子と知り合いだったのか!?」

 

 初対面とは思えぬやり取りを交わす二人に驚愕するスバル。

 同時に、愛しいあの子がイケメンと知り合いという事実に嫉妬と焦りまで覚える。

 

「ああ、その事については謝らなくてはいけないね。実は――」

 

「おい! いつまでそんな奴と話してんだよ!」

 

 そう言って荒々しく会話を遮ったのは、未だ警戒の姿勢を崩さないフェルトであった。

 

「なんだよフェルト、そうかりかりして……」

 

「そりゃかりかりもするだろーよ! その、そいつは剣聖ラインハルトなんだろ!?

 そいつと知り合いって事はだ、兄ちゃんと、その、おっちゃん達はもしかして……アタシ達を」

 

 信じたくない想像に、衝動的に涙がこみ上げそうになりつつ、それを堪えてスバル達を睨む。

 その様子を察してか、ラインハルトは安心させるように

 

「いや、彼らとは今日偶然街で会ったばかりだよ」

 

 そう言って彼女の恐れる関係を否定した。

 

「そう言われても、疑問は尽きんがのう……」

 

 ロム爺はその答えにも納得いかない様子で険しい顔を続ける。

 

「おいおいなんだよ二人とも、別にラインハルトは……って、あそうか」

 

 そういえばラインハルトは憲兵だった、とスバルは思い当たる。

 成程確かに、叩けば埃が出るどころか盗品蔵というこの場は、その名の通り悪の組織のアジト、或いは犯行現場そのものだ。

 

「その、もしかして……」

 

 気づいたスバルは恐る恐るラインハルトに尋ねる。

 もしかして、この場で彼女たちを捕まえてしまうつもりなのかと。

 それは正しい行いだというのは分かっているが、感情的には納得出来かねるものであった。

 スバルの不安を受け、ラインハルトは気まずそうに頬をかくとほんの少し目を逸らしながら

 

「まあ今日は非番だからね……。加えて特別被害届も出されていない。だからまあ、今の僕にはどうする権限もない……という事でどうかな?」

 

 そう言って肩をすくめるラインハルト。

 その言葉に安堵してスバルはほっと胸を撫でおろす。

 

「随分と悪い騎士様じゃねえか」

 

「恐れ多くも、これが騎士の中の騎士なんて呼ばれている男の本性ですよ」

 

 桐生の軽口にそう返すと、ラインハルトは自分の入ってきた穴へと目を向けた。

 

「腸狩りは、向こうに?」

 

「多分な、大分手応えはあった。普通ならまだ目は覚めてねえはずだ」

 

 普通ならば。

 手加減なしで放った一撃は、ともすれば彼女の命すら戦いと共に終わらせていたかもしれない。

 だが何となく桐生には、彼女があれくらいでは死ぬはずがないという確信があった。

 

「そうですか、では僕はまず腸狩りを連行します。詳しい話はまた後で、という事で」

 

 そう言ってその場を離れ、エルザを探しに外へ向かうラインハルト。

 その姿が見えなくなると、フェルトははぁと大きくため息をついた。

 

「なんだよそんなため息ついて。いいじゃねえか見逃してくれるって言うんだからさ」

 

「兄ちゃんはいいなあ単純でよ。そりゃ今は、の話だろ? 明日になって突然豹変すっかもしれねえだろ」

 

「ラインハルトはそんな人じゃないよ」

 

 疑うフェルトを窘める少女。だが未だ不安は晴れないようで、どうしようとロム爺に目を向ける。

 

「まあどちらにせよ、盗品蔵は場所を移さねばなるまいな。剣聖に知られているアジトなんざ恐れ多くて使えんわい。

 ……ま、こうも派手に壊されては初めからそれしか選択肢はないんじゃがな」

 

 そう言って桐生に笑いかける。

 言われて桐生が周囲を見渡すと、戦っている最中は気にも留めていなかった惨状が目に入る。

 

 床や壁は血で汚れ、戦いの余波で家具や備品はどれも散々に破壊されている。

 中には商品もあっただろうか。床には至る所に剣や調度品といった恐らく盗品であろうものが散々に散らばっている。

 極めつけは桐生が壁に開けた人間大の風穴だ。

 

「ったく、派手に壊してくれたよなおっちゃんもさー」

 

 両手を後ろにあて、呆れたように呟くフェルト。

 桐生も少しバツが悪かったのか

 

「す、すまん……」

 

 と謝罪の言葉を口にする。

 

 そんな桐生が可笑しかったのか、ラインハルトの登場で不機嫌そうにしていたフェルトはぷっと吹出し

 それにつられる様にスバルも笑いだす。

 

―― 次の瞬間。

 

「危ねぇ!」

 

 緊迫の表情で桐生が叫ぶ!

 その言葉に驚き振り向いた先には黒い影が再びこちらへ向けて疾走していた。

 

「てめぇ――!」

 

 目を見開いてスバルは叫びエルザを刮目する。

 彼女のその瞳に宿るのは衰えぬ漆黒の殺意。

 その矛先は当然桐生、だが彼女は既にナイフを振りかぶり攻撃の姿勢に入っている。

 まだ早い、何故だ? 今その刃が振るわれれば犠牲になるのは――

 

 丁度、桐生の前に立つ銀髪の少女。

 

 接触までのわずか数秒、スバルの思考は目まぐるしく回転し、そして――

 

(間に合わねえ――!)

 

 桐生もまた心の中で叫ぶ。

 咄嗟に立ち上がろうと動かしたその体は、戦いの疲労でその命令を僅かに遅らせ

コンマ数秒の致命的な遅れを生み出していた。

 

 桐生の脳裏に最悪の想像が浮かぶ。

目の前に立つ銀髪の少女の腹は切り裂かれ、返す刀は桐生一馬の腸を――

 

 だが、その想像はスバルの決死の行動によって実現することは無かった。

 

「狙いは腹狙いは腹狙いは腹ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 何もかもを叔父貴に助けられていた。エルザとの戦いだって自分は何の役にも立てなかった。

 けれど―― この少女を守る事だけは、叔父貴だけには任せられない!

 そんな決意を胸に、スバルは咄嗟に足元に転がっていた剣を手に取り、それで腹を守りながら少女を突き飛ばす様に庇う。

 

 衝撃が走る。

 

 ナイフとぶつかり合った剣はガラスの様に粉々に砕け、スバルはその衝撃でゴロゴロと床を転がり壁へ叩きつけられる。

 それでも気をしっかりともち、慌てて顔を上げてエルザを見ると、彼女は憎々し気に舌打ちし、もはやこれまでと不意打ちを諦めて大きく距離を取る姿があった。

 

「最後のチャンスだと思ったのだけれど……とんだ邪魔が入ったわ」

 

 そう言って、ちらりとスバルに目をやり、次いで既に少女を庇うように立ちはだかる桐生を見る。

 

「名残惜しいけど、潮時ね。楽しかったわキリュウ・カズマ。いつか必ず貴方の腹を切り開いてあげる」

 

 そう言い残し、エルザは大きく跳躍して闇夜にその姿を溶かした。

 

 それを確認した桐生は、少女と共に急いでスバルの元へと駆け寄る。

 

「おい、大丈夫かスバル!」

 

「無茶しすぎよっ! どうしてあんな!」

 

「へ、へへ、叔父貴の弟分面目躍如ってとこかな……?

 それにどうしてって、あの場で間に合いそうなの俺しかなかったし、狙いも大体予想ついてたからさ……」

 

 そう言って、心配する少女に自分の腹を見せるスバル。

 そこには強烈な衝撃で真紫になった肌と打撲がくっきりと現れていた。

 想像以上の見た目にスバルはうげっ、と舌を出して、それでも大丈夫だとばかりに立ち上がった。

 

「まあ、これで完全にいなくなった、かな?」

 

 エルザが逃げていった壁の穴に目を向ける。

 流石にあんなセリフの後に戻ってくるとは思えない。そこまできたらもはやコメディだ。

 

「ったく、馬鹿野郎。あの場に剣が落ちていなかったらこんなんじゃ済んでねえぞ」

 

「そこはほら、結果オーライって事で。叔父貴が派手に暴れたおかげで色々散らばってたのが功を奏したってとこかな。それに、それよりもさ……」

 

 スバルは自分が守る事の出来た銀髪の少女に目を向ける。

 心配する少女の姿にまた心を奪われつつも、スバルはこみ上げる満足感で胸がいっぱいになる

 改めて、思う。

 ここまで来るのにどれだけ苦労したか。

 何度痛い思いをし、何度辛い目にあったか。

 けれど、辿り着いた。

 桐生一馬という男がいてくれたから、自分はここまでこれた。

 そして、彼女の事を自分の手で守る事も出来た。

 上出来すぎる、これ以上を望むならば罰が当たるというものだろう。

 

 だが、菜月スバルは欲深いのだ。

 

 まだもう一つ、やらなければならない、いや、知らなければならない事がある。

 

 突如瞑目するスバルに困惑し、何事かを問いかけようとする少女。

 だがスバルはそれを遮るように目を見開き、左手を腰に当て、右手を天に向けて伸ばし、そして高らかに宣言した。

 

「俺の名前はナツキ・スバル! 色々と言いたいことも聞きたいことも山ほどあるのはわかっちゃいるが、それらはとりあえずうっちゃってまず聞こう!」

 

「な、なによ……」

 

「俺ってば、今まさに君を凶刃から守り抜いた命の恩人! ここまでオーケー!?」

 

「おーけー?」

 

「よろしいですかの意。ってなわけで、オーケー!?」

 

「お、おーけー……」

 

「命の恩人、レスキュー俺。そしてそれに助けられたヒロインお前、まあ叔父貴の方が割合としては高いわけだがそこはそれ。ともかくそんなら相応の礼があってもいいんじゃないか? ないか!?」

 

「……わかってるわよ。私にできることなら、って条件付きだけど」

 

「なぁらぁ、俺の願いはオンリーワン、ただ一個だけだ」

 

 ごくりと、少女が息を呑む。

 桐生も目を丸くしてその行く末を呆然と見守る。

 そしてスバルは歯を光らせ、親指を鳴らすと精一杯のキメ顔を作り

 

 

「君の名前を教えてほしい」

 

 

 呆気にとられたような顔で、少女の紫紺の瞳が見開かれた。

 桐生も言葉を失っている。

 僅かな間が流れ、その間にもキメ顔を維持し続けるスバルはやがてプルプルと震えだした。

 

 今更になって羞恥がこみ上げてくるが、もう遅い。

 

 ロム爺の呆れた顔も、フェルトの馬鹿を見る目つきも最早気にすまい。

 スバルはただひたすらに、少女の言葉を待つ。

 

「ふふっ」

 

 やがて少女は堪えきれなかった様に顔を綻ばせ

 

「―― エミリア」

 

「え?」

 

「私の名前はエミリアよ。ただのエミリア。そして……助けてくれてありがとう、スバル」

 

 にこりと笑って、エミリアは手を差し出す。

 スバルは差し出されたその手を、万感の思いで握る。

 白く華奢なその手は温かく、血の通う女の子の手だった。

 

 助けてくれてありがとう、だなんて。そんなのはこっちのセリフだ。

 だって、目の前にいる彼女は、エミリアは知らないだろうけど、本当なら先に助けられたのはこっちなのだ。

 だからこれは、その恩を返しただけの事、ただそれだけで、お礼なんて言われるまでもない。

 

 それでもきっと自分は、この瞬間の為に頑張ったのだろう。

 三度も嘆き、苦しみ、傷ついた。

 死ぬ思いをしたなんてものじゃない、文字通り死んでさえいるのだ。

 そんな辛い戦いを乗り越えて、その報酬が彼女の名前とお礼の言葉だけだなんて……。

 

 「ほんと、割に合わねぇ……な……?」

 

 鋭い痛みがスバルの腹部を走る。

 

 「あ、これって、もしかして……」

 

 「スバル?」

 

 首をかしげるエミリアから目を外し、彼女の手を握ったままもう片方の手でジャージをめくる。

 そこには先ほど見た真紫の肌と、打撲痕。そして―― 一筋の赤い線が引かれていた。

 

 「あ、やべ――」

 

 

 なんて呑気な声も束の間、慌ててエミリアから体を逸らすと次の瞬間、その赤い線は血飛沫となって噴き出し、その腹が横一文字にぱっくりと開いた。

 

 「うそ! スバル!?」

 

 「坊主!」

 

 「兄ちゃん!」

 

 「スバル!」

 

 四人が慌ててスバルへと駆け寄る。

 スバルは力なく倒れ、その体を、いつかの再現の様に桐生が受け止め、その腕の中で意識が薄くなっていく。

 

 みんなの焦る声が聞こえてくる。

 その中でも、やっぱりエミリアの声は一際輝いて響いている。

 次に聞こえるのは叔父貴の声。

 必死に自分の名前を呼びかけるその声は悲哀に満ちて、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。

 

 「叔父貴、ごめん……」

 

 「馬鹿野郎! 喋るんじゃねえ!」

 

 「最後まで、迷惑かけちまって……、でも俺、嬉しかったよ……叔父貴が、俺なんかの為に、戦ってくれて……。それで、最後のお願いなんだけどさ……。俺の事、叔父貴の弟分なんかに、してくれちゃったりなんか……してほし、かったり……」

 

 「いいから喋るな! しっかり目ぇ開けろ! そんなのいくらでもならせてやる! だから!」

 

 「ほんと? はは、嬉しいな。やっぱ、俺の、叔父、きは……さいこう……だ、ぜ……」

 

 「スバル……? おい、スバル……。なに勝手に目ぇ閉じてんだ! おい! 俺の弟分なんだろ! だったらさっさと目ぇ開けろ!」

 

 「………」

 

 

 

 

 「スバルうぅぅぅぅぅぅうぅぅぅ!!!」

 

 

 

 

 桐生の悲痛な慟哭が部屋中に響き渡る。

 

 エミリアは目を閉じ、そして全てが終わったように立ち上がり……。

 

 

 

 

 「よし、これで大丈夫」

 

 

 

 

 「え?」

 

 

 

 

 「何とか傷は塞いだから、どうにか峠は越えたでしょ」

 

 「………」

 

 「どうしたのカズマさん?」

 

 「いや、なんでもねえ……」

 

 嬉しいのは間違いないはずなのに、何故か複雑な気分になる桐生であった。

 

 



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変わらぬ月と

 桐生は馬車――この世界では馬ではなく地竜という生き物が引くため竜車というらしい。に揺られながら、今日一日の出来事を思い返しながら、幌の隙間からぼんやりと月を眺めていた。

 

 本当に、長い一日だった。

 40年以上の人生の中で、一二を争う程に長く濃厚な一日だったのではないかと思う程に。

 

 異世界の存在や死に戻る少年スバルとの出会い、そして腸狩りという偏執狂の殺人鬼との戦い。

 そしてその戦いを終えた後の一悶着経て、ようやく桐生とスバルは一日の終わりを迎えようとしていた。

 

「ところで、ロズワールってのはどんな人なんだ?」

 

 何の気なしに向かい合わせに座っていたエミリアに話題を振ると、彼女は馬車の揺れに揺り籠のような心地よさを感じていたのか、既にうつらうつらと舟をこぎ始めていた。

 だが桐生の声で目が覚めたのか、エミリアは「ふえっ!?」と間の抜けた声を出すとびくりと体を震わせた。

 

「あ、ご、ごめんなさい。ちょっとうとうとしちゃって……」

 

「いや、こっちこそすまねえ。あんたも大変だったから疲れてるだろう」

 

「エミリアでいいですよカズマさん。私なら大丈夫だから気にしないでください、それでええと……ロズワールの事、だったかな?」

 

「ああ。それと俺も一馬で構わねえぜエミリア」

 

「ありがとうカズマ。ええと、彼については何といえばいいのか……。うん一言で言うなら、変態?」

 

「なんだって?」

 

「あ、心配しないで。とっても優秀な人には違いないから。ただ、そのちょっと……ううん、すごーく変わってる人で、悪い人ではないんだけど」

 

 そうやって困ったように笑うエミリアは、そのロズワールという人物の人となりを把握しきれていないかのように歯切れが悪い。

 ただその言い草から相当な曲者であろうことは何となく予想できる。と同時に、エミリアに対してもちょっとした親近感を桐生は覚える。

 もし彼が誰かに「真島吾朗ってどんな人?」と聞かれて詳しく説明しようとすれば、きっと彼女の様に言葉に困るだろう。

 

「でも客人を、ましてや大恩ある二人を無下にするような人じゃないからそこは安心して。まあ、変態だけど……」

 

 強調するように変態を重ねて付け加える。

 

「大恩と言われても、そう大したことをしたつもりじゃねえんだがな」

 

「そんな事、キリュウには命を救ってもらったし彼には……」

 

 エミリアの視線は桐生の肩に頭を置き、安らかに眠るスバルの顔へと移動する。

 

「大切な物を、取り返してもらったから」

 

 ぎゅっと、先程からずっと手に持っている大切な物、徽章を握りしめるとエミリアは静かに目を瞑った。

 その心中は安堵や感謝、そして自責と後悔の念だろうか。

 少なくともその様子から、彼女にとってそれは相当、それこそ命と並ぶくらいに大切な物であろう事が桐生には見て取れた。

 

(お互い、その徽章に振り回された一日だったな……最後までな)

 

 右には徽章の為に命を懸けて戦い抜いたスバルの姿があった。

 そして左には……いたはずの金髪の少女の姿が無いことに小さくため息をつき、その顛末を思い返し始めた。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「申し訳ありません、彼の負傷はすべて僕の不徳の致すところです」

 

 桐生とスバルへと深々と頭を下げ、隠された表情には後悔と悔恨に塗れている。

 

 エルザの姿を見つけられず、戻ってきたラインハルトの目に飛び込んできたのは倒れ伏すスバルと、心配そうにその彼の傍につくエミリアと桐生であった。

 何故あの時気安くその場を離れてしまったのか。

 騎士として許されざる油断か慢心か、あるいはその両方。それらがスバルの犠牲を生んでしまったと、ラインハルトは心の底から悔やむ。

 

「気にするな、元はと言えばトドメも刺さねぇ俺の油断だ」

 

「いえ、ですが……」

 

「もー、誰が悪いかなんてどうでもいいの! スバルは助かったんだからそれで充分です!」

 

 埒のあかない後悔合戦を終わらせようとエミリアが一喝する。

 その目論見は上手くいったようで、ようやくラインハルトは謝罪の言葉を口にするのを止めた。

 

「お心遣い感謝いたしますエミリア様」

 

「別に心遣いってわけじゃなくて……もう、貴方もあの子くらい素直だったらいいのに。

 助けてくれたんだからお礼をよこせーなんて言われた方がよっぽど気楽な事だってあるんだから」

 

「そう、なのでしょうか?」

 

「そうなのです。まああの子のは全然欲張りなお願いじゃなかったけどね」

 

 スバルの欲張りなつもりの細やかなお願いを思い出し、つい笑ってしまうエミリア。

 そんな彼女につられる様に、ラインハルトの唇も思わず綻びかける。

 

「ともかく、私から貴方におくるのはありがとうって感謝の言葉だけ。罰なんて思い当たらないから与えようもない。それでも納得できないのなら、次に活かしてくれればそれでいいから」

 

「分かりました、その言葉ありがたく」

 

 そんな二人のやり取りを見ていた桐生はエミリアの器量に感心する。

 エミリアとラインハルトの立場がどういったものかは分からないが、主従関係やそれに近いものであるならば、エミリアは人の上に立つに相応しい才能を持っているのかもなと

 

 そう感心していたのは桐生だけではなかった。

 

 ラインハルトもまた、自分よりも小さな少女がずっと大きな存在に感じ、器の違いなのだろうと己の狭量さを推し量る。

 加えて『選ばれている』だけの事はあるのだと再確認していた。

 

 そうしてエミリアとの問答を終えると、ラインハルトは改めて桐生へ目を向けた。

 

「ところで、キリュウさんはこれからどうされますか?」

 

「どう、とは?」

 

「先程は断られてしまいましたが、彼の事もあります。治療は終えたとはいえ安静にするに越した事は無いないでしょう。

 こちらで滞在のアテがないのであれば、是非当家にお越しいただければと思うのですが」

 

「そうだな……」

 

 柔和な表情のエミリアに見守られ、壁に寄り掛かって安らかに眠っているスバルを見る。

 大きく開いていた腹の傷はすっかりと癒え、頬にも赤みがさしている。

 恐らく体力的にはもう問題はないだろう。だが、精神的にはどうだろうか。

 

 右も左も分からない異世界で何度も死にかけて、いや何度も死んで。例え死に戻りで体は元に戻っても、彼を取り巻く全てが元に戻ったとしても。

 苦痛や恐怖で蝕まれた彼の心だけはきっと、元には戻らない。

 今の彼には、自分の様に境遇を共有できる理解者だけでなく安全も必要だろう。

 先程は断ったが、やはりまずは衣食住を確保するのが先決ではないだろうか。異世界での身の振り方を考えるのはそれからでも遅くはない。

 

 桐生はそう考え直してラインハルトの提案を受けようと口を開くが、エミリアの言葉がそれを遮った。

 

「それならラインハルト、彼らの身柄はこっちで預からせてもらってもいいかしら?」

 

 エミリアは恩を受けたのは自分であり、それを返すのもまた自分の責務だとラインハルトに告げる。

 ラインハルトは少し残念そうに「エミリア様のお心のままに」と返すと、再び桐生へと向き直った。

 

「すみません、そういう訳ですのでキリュウさんさえよろしければロズワール様の邸宅へ逗留して頂いてもよろしいでしょうか?」

 

「それは構わねえが、男二人が転がり込んでも大丈夫なのか?」

 

「ええ、ロズワール様はこの国でも有数の名士であらせられます。エミリア様の命の恩人とあれば相応の持て成しと謝礼で迎えていただけるでしょう」

 

「謝礼か……」

 

 その言葉に桐生はふと考える。

 エミリアの命を救ったというのが、そのロズワールにとってどれだけ感謝に値するのかは分からないが、ラインハルトの口ぶりからすれば決して小さくは無いのだろう。

 ならば、多少の無茶を口にしても許されるのかもしれないと。

 

 勿論謝礼に目が眩んだわけではない。

 ただ、その謝礼の対象を自分ではなく……別の人物に変えてはもらえないかと、そう思ったのだ。

 

「フェルト」

 

「ん?」

 

 口を挟めず、手持ち無沙汰に桐生の近くをうろうろとしていたフェルトに桐生は声をかける。

 

「お前、ここから出るつもりはねえか?」

 

「は? どういう意味だよ?」

 

 突然の質問に訳が分からないと首をかしげる。

 だがそれを聞いたロム爺は桐生の思惑を察したかのように目を見開いた。

 

「キリュウ、お前さん」

 

「俺はそのロズワールって奴から礼を貰うつもりはないんでな。かと言って、いらねえと突っぱねられても向こうにだって立場がある。だからお前がその礼を受け取るのはどうかと思ってな」

 

「おっちゃん正気かよ、アタシは徽章盗んだ犯人だぜ? むしろとっちめられる側じゃねーか」

 

「その辺は、アレだ。少し口裏を合わせてもらえばいい」

 

 そう言ってちらりとエミリアに目配せをする。

 その桐生の目に少し困惑しながらも、「まあそれがお礼になるなら……」と歯切れ悪く返す。

 

「う~ん、まあ金が貰えるってんなら別にいいけど」

 

「いや、金はダメだ」

 

「は、はぁ?」

 

 心の中で幾らほどせしめられるか強かに計算を始めたフェルトは、突然の否定に驚愕する。

 そんなフェルトを桐生は真剣な面持ちで見つめ諭す様に語り掛ける。

 

「降って沸いた様な金ってのは身を持ち崩すもんだ。まあお前がどうしてもって言うなら無理には止めねえが……出来るなら、お前にはもっと別な事を頼んでもらいたい」

 

「別な事?」

 

「ああ、そのロズワールって奴がそれだけ偉い立場なら、そいつの下で色々と学べることもあるだろう」

 

「もしかして、アタシにメイドの真似事させようってのか?」

 

 困惑は不機嫌へと移り変わり、苛立った表情と睨む目つきを桐生に向ける。

 だが桐生はそれに動じることなく言葉と続ける。

 

「そういうわけじゃあねえ。客人の立場でもなんでもいいからここでは学べない様な事を教えてもらえって事だ。裏稼業を続けるのは構わねえが、知識のねえ奴がある奴に食い物にされるのはどこだって同じだ。

 お前が食い物にされる側でいいってなら話は別だがな」

 

「舐めんなよテメー、アタシがそう簡単に騙される馬鹿だとでも思ってんのか? アタシはここでガキの頃から上手くやってきてんだ」

 

「今まではな、だがこれからも上手くいくとは限らねえ」

 

「んだとぉ?」

 

「例えばだ、もしもある日突然爺さんがあの女みたいな奴に殺されたらどうする? あるいは爺さんが突然病気で動けなくなることだってあるだろう。そうなったらお前は一人でやっていける自信があるか?」

 

「ぐ……」

 

 桐生の言葉に睨みつけていた視線を泳がせ、僅かに言葉を詰まらせる。

フェルト自身にも言われるまでもなく思うところはあった。

 盗品の扱いや交渉など、ロム爺の世話になっている事は少なくない。悪人ひしめく世界で生きていく術を教えてくれたのもロム爺だ。

 それに本人の前では絶対に言わないが、フェルトは彼の事を祖父の様にさえ思っている。

 もし桐生の言う様に彼がいなくなったら、或いは彼を守らなければいけない立場になったなら……、上手くやっていけると、そう言い張れる自信は無かったし、見栄を張れる程身の程知らずでも無かった。

 だが、だからと言って大嫌いな貴族の世話になるなどフェルトには到底了承できない。

 

 そうして正論とプライドの狭間で苦々し気に顔を歪めるフェルトは、助けを乞う様にロム爺の方へと目を向ける。

 しかしロム爺はそれには応えられないといった風に小さく首を振り

 

「まあ確かに、儂もお前さんを貴族に預けるなぞ反対じゃ」

 

「だ、だろ!?」

 

 ほっとするフェルトだが、ロム爺の言葉はそこでは終わらない。

 

「じゃが知識がモノを言うというのは……残念ながら事実じゃフェルト。儂も昔はそのおかげで身を立てることが出来た。そういう意味では、キリュウの提案も吝かではないと儂は思っとる」

 

「……ロム爺」

 

 ロム爺のどっちつかずの言葉にフェルトはほんの少し弱々しく名前を呼んで応じる。

 彼の真意は分かっていた。要するに、自分で選べという事だろう。

 どちらを選んでも自分は味方をする、だがその選択だけは自分でやるべきだと。

 

 フェルトは悩む。上昇志向の強い彼女は元々この貧民街でちんけなコソ泥稼業で一生を終えるつもりはなかった。

 いずれは独り立ちし、ロム爺への恩もそれなりに返して掃き溜めから去る貧民街脱出計画だって心に秘めていた。

 だがそれはこつこつと資金をためて実現するつもりだったわけで、突然こうして実現の機会が訪れるとなると心の準備が追い付かない。

 

「……ロム爺は、チャンスだと思うか?」

 

「さてな。じゃが、二度は無い機会ではあろうな」

 

 悩む。悩む。悩む。

 時間にしてみればほんの僅かだが、直感と感覚で生きてきたフェルトにとっては長く長く思考を巡らせた。

 

 そして――

 

「おっちゃんって、お節介って言われるだろ」

 

「まあ、な」

 

「アタシは嫌な事はしねー主義だ」

 

「そうか」

 

「貴族なんてのも大っ嫌いだ」

 

「それでも利用できるならした方が良い」

 

「すぐ投げ出すかもしんねーぜ? アタシ勉強とか嫌いだし」

 

「それはお前の自由だな」

 

「本当なら金だけ貰っておさらばしてーんだけど」

 

「さっきも言ったが、お前がどうしてもって言うならな」

 

 何度か問答を繰り返し、毅然と返す桐生にフェルトは観念したかのように大きくため息をつき観念した様に両手を上げた。

 

「あーもうわかったよ、ったく今日会ったばっかだってのにどうかしてるぜアタシも」

 

「決まったのか?」

 

「口車に乗ってやるよ、さっきも言ったように嫌な事はやらねー主義だが、ちんけな盗賊で終わるのもまっぴらごめんだ」

 

 そう言って仕方なさげに笑う。

 こうして、ロズワール邸へと向かう桐生とスバルにフェルトが同行することになった。

 

 ここまでは順調だったのだ。そう、ここまでは――。

 

 事が起こったのはロム爺を残した盗品蔵を出て、王都で竜車を手配するべく真っ暗な貧民街を出ようと道を歩いている最中であった。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 先頭を歩くフェルトを見守るように、スバルを背負った桐生が後ろにつき、その後ろをエミリアが、そして全員を守るようにラインハルトが殿を歩いている。

 そんな彼らに、コツコツと足音を立てて近づく人影が一つ。

 

「お嬢さん」

 

その人影は盗品蔵の方向から、桐生達を大きく回りこみ先頭のフェルトの前へと辿り着くと彼女に声をかけて立ち止まった。

 

「ん? なんだアンタ」

 

 立ちはだかったのはフードのついたローブを着た怪しげな男であった。

 目深にかぶったフードとダボついたローブはその容貌と体の線を隠しているが、長く伸びた顎髭としわがれた声は彼が老人である事を示している、

 

 老人はごそごそとローブのポケットを漁ると、何かを取り出し

 

「これを、落としましたよ」

 

 そう言ってフェルトに手渡されたのは、先ほどまでスバルが持っていたはずの徽章であった。

 

「落としたって、これ……!」

 

 振り返ってエミリアを見ると、彼女は焦った様子で桐生の背中で眠るスバルの体をパンパンと叩いて検める。

 

「無い、もしかしてあの騒ぎで落としちゃってた!?」

 

 危ないところだったと顔を青くするエミリア。

 フェルトは呆れた様子で老人から徽章を受け取ると、エミリアの元へと近づいて行った。

 

「ったく、大切な物なんだったらもう少し気をつけろよな。そんなんだからアタシに盗まれんだよ」

 

「う、うん……貴方に忠告されるのはすこーし変な気分だけど」

 

 そう言って申し訳なさそうにフェルトから徽章を受け取ろうとするが、その時だった。

 不意に、エミリアへ手を伸ばすフェルトの腕が掴まれたのは。

 

「え……?」

 

 突然の事態に驚き、己の腕を掴む手の持ち主を探そうと腕を伝って視線を移動させると、その先にいたのはラインハルトであった。

 彼は驚愕に目を見開き、呼吸さえも忘れた様子でフェルトの手にある、ほんのりと赤く光る徽章をじっと見つめている。

 

「いて、いてて、おい、ちょっと、離して……!」

 

「おいラインハルト、フェルトが痛がってるだろう。一体どうしたって……」

 

「なんてことだ……」

 

 手を引き離そうと近寄る桐生に目もくれず、ラインハルトは震えるようにそう呟いた。

 

「ちょ、ちょっと待ってラインハルト! 確かにお咎めなしなのは難しい話なのは分かるわ。でも彼女は徽章の価値を知らなかったのだし、盗られた私にも責任はある。だから――」

 

「いえ、そうではありませんエミリア様。僕が問題にしているのは、そういう事ではありません」

 

「待てよ、どういう事だラインハルト」

 

 ただならぬラインハルトの様子に警戒を強める桐生。

 だが彼は一言、申し訳ありませんと首を振って答え、フェルト顔へと視線を移すとその双眸を見つめるように覗き込んだ。

 

「……君の名前は?」

 

「ふぇ、フェルト……だ」

 

「家名は? 年齢はいくつだい?」

 

 矢継ぎ早に質問するラインハルト。その鬼気迫る様子に不安気にフェルトは瞳を揺らす。

 

「か、家名なんて大層なもんはねーよ、年は十五くらいって話だ、誕生日なんてわかんねーし、ってか、いい加減離せよ!」

 

 ようやく調子を取り戻し暴れるフェルトだが、未だ驚きを隠せないラインハルトは歯牙にもかけずその腕を離さぬままにエミリアと桐生へと向き直った。

 

「エミリア様、キリュウさん、彼女を見過ごす事、その約束は守れなくなりました。彼女の身柄は自分が預からせて頂きます」

 

「随分と急な話じゃねえか、せめて理由を聞かせてもらいたいもんだが」

 

「申し訳ありません、こればかりは部外者である貴方には話すことは出来ません」

 

「そんなんではいそうですかと引き下がると思ってるのか?」

 

「思いません、ですから――例え力づくでも」

 

 二人の間に流れる空気が一変する。

 互いに交わる視線は宙で交わり、火花を散らして周囲を緊張させる。

 その空気にあてられるように、エミリアは思わず息を呑んだ。

 

 桐生の放つ闘志を涼し気に、しかし真剣な表情で受け止めるラインハルト。

 そんな彼から滲むのは、桐生のそれを飲み込むほどに圧倒的な強者のオーラであった。

 

 桐生の頬を一筋汗が伝う。

 心臓が掴まれたかのように胸が詰まり、呼吸すらもままならない。

 戦えば間違いなく死ぬと、桐生はこれまでで初めてそう確信した。

 

「……やめましょう、貴方を傷つけるのは本意ではない。非礼はお詫びします、ですからどうかこの場だけはお見逃しを」

 

「おい、アタシを無視すんじゃねー! いい加減に……っ!?」

 

 自分の意思を汲もうともしないラインハルトに業を煮やし再び暴れだそうとするフェルトだが、ラインハルトがすっとその手を首筋にかざすと糸が切れた様に彼女の体から力が抜ける。

 そうして完全に意識を失ったフェルトの体を横抱きにして持ち上げると、再び桐生へと向かって頭を下げた。

 

「……そうしてまで連れ帰る理由ってのがあるのか?」

 

「はい、罪を見逃す事よりも、今目の前で起きた光景を見逃す事の方がよほど罪深い」

 

 そう言って桐生の顔を見据えるラインハルトの表情に嘘や後ろめたさは一切ない。

 ただひたすらに己の正義と使命に殉じているのだと、青い双眸は言葉なく、力強くそう語っていた。

 

「……こいつを傷つける様な真似だけはするな」

 

「不本意を強いる事はあるかもしれません、ですがそれだけは必ず。剣聖の名に誓って」

 

 桐生はそれを聞いて息をつく。

 納得をしたわけではないが、こんな馬鹿正直な物言いをする彼がフェルトに危害を加える事だけはしないだろう。

 それだけは間違いなく信用できる。

 故に今はお前を信じると、そう言外に示しながら桐生は後ろへと一歩下がった。

 

「ありがとうございます、それとエミリア様、これを。」

 

 フェルトの手に握られた徽章をエミリアに返すと、徽章は持ち主の元へ帰ったことを喜ぶように眩く輝く。

 ラインハルトはその輝きを見届けると、空を仰いで浮かぶ月を見た。

 つられる様に桐生も空を見上げると、真円を描く月は怪しく蠱惑的に夜空に浮かび、何かが始まる事を予感させるかのように、その月明かりは演者を照らすスポットライトとなって桐生達を照らす。

 

「月は、変わらねえんだな」

 

 異世界にも変わらぬものはあるのだと、そんな思いを胸に彼はぽつりと一言呟いた。

 

 

 

 老人の姿は、いつしか消えていた。

 

 

 

 

 




ようやく一章が終わりました。
予想よりも遥かに多くの方に読んでいただけて大変うれしく思います。
読んでくださった、感想を書いていただいたみなさん、本当にありがとうございます。
2章はまたこれから、ある程度書き溜めてから投稿させていただきますのでもしかしたら一旦一週間以上間が開いてしまうかもしれませんはこれからもよろしくお願いいたします。


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道化の屋敷
ロズワール邸


「私が、彼を?」

 

 ロズワールの屋敷へ向かう道中、竜車の中でスバルと徽章に関する事の顛末を桐生から聞いたエミリアは、きょとんとした表情で首を傾げた。

 エミリアに助けてもらった恩を返すため、という理由に心当たりを探る彼女だったがいくら頭を捻っても思い当たる節は無い。

 腕を組んで可愛らしく唸り、いい加減そのままコテンと横に転がりそうなほどに体を傾けたあたりで桐生はエミリアに声をかける。

 

「まあ、自分でも知らねえ内に人に恨みを買うってのはままあるもんだ。なら、恩にだってそういう事もあるって事だ」

 

「そういう、事なのかなあ」

 

「そういうもんだ」

 

 そう言って桐生は、不憫な物だとスバルの境遇に思いを馳せる。

 エミリアと出会い助けられ、その恩を返すために彼女の大切な物を取り返した。本来ならば一つのロマンスとして成立するであろうその過程からは、エミリアにだけすっぽりと出会いの部分が失われているのだ。

 

 積み重ねた出会いも交わした言葉も感情も全て、自分以外の全てが、世界そのものにすら忘れられてしまう。

 死に戻りとはある意味、死よりも残酷なのではないかと桐生は思う。

 

 そんな辛い経験を重ね、ようやく目的を遂げ今は桐生の体に寄り掛かって安らかに眠るスバルを見て桐生は目を細めて薄く笑う。

 そして今度は窓から竜車の外へと目を向けると、既に白み始めた景色は先程まで走っていた森を抜け、周囲にはまばらに民家が見え始めていた。

 

「もうアーラム村まで来たのね、ロズワールの屋敷まではもう少しよカズマ」

 

「随分と早いんだな、竜車ってのは。四時間は走るって聞いたからてっきりもっとゆっくり進むもんだと思ってたぜ」

 

 流れる景色の速さに舌を巻いて桐生は感心する。

 正確な時速までは分からないが、これならば自動車と比べても遜色ないのではないだろうか。

 

「え、カズマは竜車に乗ったことが無いの?」

 

 そんな桐生の感想にエミリアは驚いた。

 それもそのはず、この世界における一般的な移動手段は竜車だ。

 今エミリア達が乗っている客車付きの豪華なものはともかく、幌で覆われた一般的な竜車にすら乗ったことが無いという人間はまず存在しない。

 

「え? ああいや、それはだな……」

 

 失言に気づき言いよどむ桐生。こう言った時に上手く誤魔化すのは桐生の苦手な部類だ。

 少し前まではその辺りをスバルが上手くやっていたのだが、そのスバルはむにゃむにゃと目の前の少女の名前を呟いて呑気に眠っている。

 

「ええとだな、俺達の地元では別の動物を使ってて……」

 

「そうなんだ? そういえばカララギの方じゃライガーが主流だって聞いた事があるわ。もしかして二人もそっちの方から?」

 

「あー、まあその辺りだ」

 

 ライガーもカララギも全く聞き覚えも無いし想像もつかないが、とりあえず桐生は相槌を打って誤魔化す。

 少々苦しいが異世界から来たなどと説明するよりはマシであろうとの判断であった。

 

「エミリア様、お屋敷が見えてまいりました」

 

 そうやって苦し紛れに質問をかわしていると、御者台の方から声がかけられた。

 そこにはメイド服を着た桃色の少女が手綱を握って座っており、彼女がぴしりとその手綱を叩くと、地竜はその速度を緩めて門の前で止まる。

 

 その門を隔てた先には手入れの行き届いた広大な庭園が広がり、その中央にはまさに貴族の屋敷といった大きな洋館が鎮座しており、ロズワールという人物はどうやら想像していた以上の大物なのかもしれないと、竜車を降りてその光景を見た桐生はそう考えを改める。

 

「お荷物をお持ちしますわ、エミリア様」

 

「ありがとうラム、でも大丈夫。それよりもスバルを運んであげて」

 

 御者台から降りてエミリアに傅くラムと呼ばれた桃色の髪の少女はそう言われると、桐生の元へと近づき手を差し伸べた。

 

「おにも……失礼、スバル様をお持ちするわ、お客様」

 

「それは構わねえが……」

 

 差し伸べられた腕はどう見ても細い。

 力を籠めればぽきりと折れてしまいそうな華奢なその腕で六十キロはありそうなスバルを運べるのかと桐生は心配そうにラムを見た。

 

「大丈夫よカズマ、ラムはすごーく力持ちなんだから」

 

「とのことですので、お気遣いなく」

 

「いや、だがあんた大分疲れているように見えるぜ」

 

 王都からここまでラムは四時間休憩も入れずに御者台に座って手綱を握っていた。

 あまり表情には出していないが、隠しきれない疲労がその顔にほんの僅か浮かんでいる事に桐生は気づき、心配する。

 だがラムはその心配は見当違いだ、といった風に

 

「お気遣いいただきありがとうございます。ですがお構いなく」

 

 そう言ってラムは返事を待たずに桐生からスバルを受け取ると、軽々と彼の体を担ぎ上げて屋敷の方へと歩いて行った。

 

「ではスバル様は客室の方へとお連れしておきます。後の事はレムの方へなんなりと」

 

 そう言ってスバルの重さを問題にもならないようにぺこりとお辞儀をすると、入れ替わるように門の内側から別のメイドが現れた。

 

「お帰りなさいませエミリア様、ええと、こちらの方は」

 

「カズマよ、王都でお世話になった命の恩人。丁重におもてなししてくれると嬉しいわ」

 

「そうでしたか。私ロズワール様にお仕えしておりますレムと申します。カズマ様、この度はエミリア様をお助けいただき主に代わってお礼申し上げます」

 

 恭しく礼をするレムの姿は所作も佇まいも完璧で、なによりその容姿はラムとうり二つであった。

 違いと言えば髪の色、ラムは赤くレムは青く、その短い髪で前者は左目を、後者は右目を隠しているといったところくらいか。

 

「桐生一馬だ。……しかしそっくりだな、双子か?」

 

「はい、レムは姉さまの妹です」

 

 どこか嬉しそうにそう言いながら、背筋をピンと伸ばし一糸乱れぬ装いでレムはエミリア達を屋敷の敷地へと招く。

 その後ろについていく桐生は門をくぐり中に広がる庭園を見て再び感嘆する。

 門の隙間から見えていた様子でもそれは見事な物であったが、内側から見るとそれはまた別ものであった。

 芝生や生垣は丹念に切り揃えられ、花壇から顔をのぞかせる美しい花々が目を安らがせる。

 噴水から流れる水はその庭園の美しさを一際輝かせ、その庭園を構築する全てが完璧なまでに調和していた。

 ロズワールという人物は大分変わり者とのことであったが、美的感覚においては随分と趣味が良いように桐生は思えた。

 

「見事なもんだ、よっぽど腕のいい庭師がいるんだな」

 

「ありがとうございます、ですが当家では庭師は雇っておりません」

 

「え?」

 

「このお屋敷に勤めているのはね、レムとラムだけなのよ」

 

 エミリアのその言葉に桐生は再び驚く。これだけ広大な庭を手入れするだけでも大変だろうに、今自分が向かっているのは数十は客室が用意されていそうな広大なお屋敷だ。

 彼女の言葉が本当なら、それらを全てこのレムとラムという二人のメイドが切り盛りしている事になる。

 

「大変だな、そいつは」

 

 桐生も一時とはいえ孤児院の面倒を見ていたため、一つの家の管理という苦労はよく分かっていた。

 あれは大変だったと思い返すとつい笑みがこぼれそうになってしまう。

 どれだけ奇麗に掃除をしても汚れはすぐに出てくるし、ちょっと目を離せば雑草なんかはすぐに伸び放題だ。

 決して大きいとは言えないあの孤児院でさえ、桐生にとっては一苦労だったのだ。きっと一人では間違いなく手が回らず四苦八苦していただろう。

 

「はい。ですがこうしてお客様に喜んで頂けたのならば苦労の甲斐もあります」

 

 と、何事もないかのようにレムはそう言うが、やはりこれだけの屋敷で二人だけなど常識的ではない。

 これだけの屋敷に領地まで持っていながら金欠とも考えづらく、何故他の家政婦を雇わないんだ? と桐生は尋ねようとして、寸前でその言葉を飲み込んだ。

 普通では考えられないが、そうしているという事はそれだけの理由や事情があるのだろう。

 出会ったばかりの自分が、不満を口にもしていない相手にそれを口出しするのは不躾だろうと判断しての事であった。

 

「……ありがとうございます、それでは改めまして、ようこそロズワール様のお屋敷へお客様。そしてお帰りなさいませエミリア様」

 

 桐生の配慮に気づいたのか小さく礼を返し、屋敷の入口まで辿り着くと、構えられた大きな扉を開き改めてレムはエミリアと桐生を招き入れる。

 

 その内部に桐生が再び感心したのは、言うまでもないことであった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「ふぅ……」

 

 泳げそうなほどに広い湯船に体を浸し、桐生は大きく息を吐いた。

 ひとしきり屋敷の中を案内され、客室をあてがわれた後にエミリアに勧められたのは体の汚れを落とす事であった。

 あまり気にしてはいなかったが、体は泥や血で汚れ、同様に汚れた愛用のグレーのスーツは至る所が切り刻まれてそれは無残な姿になっていたのだ。

 

 そんなエミリアの気遣いに感謝し、桐生は身が溶けるような思いで湯船に肩まで浸かる。

 

 思えばこの異世界という場所に来てようやく一息付けた気がする。

 こちらに来てもう半日以上は経過し、その間はひたすら困惑し気が張り詰めていた。

 だがこうして気を緩めて安らげるとなると、今度は疑問や不安が首をもたげる。

 

 何故この世界に来たのか、どうやって戻るのか。……正直なところ、この二つに関しては桐生は余り重要視していない。

 元々、元の世界では様々な事情から書類上は死んでいる事になっているし、それ故に突然姿をくらませたところでそれを理由に心配する人物は殆どいないだろう。

 来た理由に関しても、この世界に関して何の知識も持たない自分が今考えたところでどうしようもない、と結論付けての事だった。

 これらに関して悩むとすれば、精々スバルの為に元の世界に帰る方法を探す必要があるだろうか、程度の事だ。もっとも、幸いかどうかは不明だがスバル自身は余り望郷の念を感じさせない。

 時間が経てば分からないが、少なくとも火急の案件ではないだろう。

 

 であればまず真っ先に考えなければならないのが、これからの生活に関してだ。

 なにせ桐生もスバルもこの世界では現状天涯孤独の素寒貧。働き口を得ようにもその伝手もあるはずもなく、なにより問題なのは文字が読めない事であった。

 王都の中を歩いていた時に散見された、看板や張り紙に書き込まれた奇妙な模様はおそらくこの世界で使用されている文字だろう。

 どうやら言語は不自由なく通じるが識字に関しては保証の対象外らしい。

 街中に張り紙や看板で情報が掲示されているとなると、恐らく民衆の識字率もそう低いものではないのだろう。

 そうなると、やはり文字も読めない常識もありませんではますますこの世界で生きる術が失われてしまう。

 

 スバルの言っていた異世界転移というのも随分といい加減な物だと桐生は心の中でため息をつく。

 

 そんな不運続きの桐生達であったが、同時にそれを補って余りある幸運にも恵まれたと桐生は確信している。

 それがエミリアとの出会い、そしてロズワールという人物との伝手だ。

 エミリアの話や屋敷を見る限り、ロズワールはやはり相当裕福な人物なのだろう。

 であれば、そういった人物と知り合えることは今の桐生達の状況を考えると非常に心強い。

 

(……あまり好きな考え方じゃあねえが、エミリアには恩も売れたからな)

 

 打算的な考えや人助けは桐生は好まない。否定はしないが自分では決して目的としないだろう。

 だがこの状況ではそうも言っていられない。受け取れるもの、返してもらえるものは返してもらわなければ明日も分からぬ状況なのが本音だ。

 ましてや自分だけではない、スバルもいる。

 彼のためにも、今だけは自分の矜持には拘らず、ロズワールかエミリアに対して何かしら取引を持ち掛けるべきだろう。桐生はそう決心していた。

 

「―― カズマ様」

 

 そんな風に思索にふけっていると、不意に入口の扉の向こうから声がかけられた。

 シルエットでは分からないが声色からして恐らくはレムだろうか。

 

「お召し物を置いておきます、先ほどまで着られていた衣装は現在修復中ですので、こちらで別のものを用意させていただきましたのでご容赦ください」

 

「構わねえ、何から何まですまねえな」

 

「いえ、それと……スバル様がお目覚めになりました」

 

「本当か!?」

 

 バシャりと大きな水音を立てて思わず立ち上がる。

 

「はい、庭の方でエミリア様とご歓談されています。言伝などございましたらお伝え致しますが」

 

「いや大丈夫だ、俺ももう出る」

 

「そうですか、では用件が済みましたのでレムはこれで失礼します。じきに主もお戻りになられるので、その時になればまたお呼びいたします」

 

 そう言って少女のシルエットは屋敷の向こうへと消えていく。

 それを見届けた桐生は最後に一度湯で顔を洗うと、スバルへ会いに浴室を後にした。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「で、最後に両手を掲げて、ヴィクトリー!」

 

「び、びくとりー」

 

 着替えを終えた桐生が庭へ着くと、そこでは元気そうにぴんぴんしたスバルがエミリアと共に奇妙なポーズを決めている真っ最中であった。

 

「何をしてるんだスバル?」

 

「あ、叔父貴!」

 

 桐生が声をかけると、それに気づいたスバルは嬉しそうに桐生の元へと駆けつける。

 

「いやぁ~、丁度今異文化交流をしていたところで、ラジオ体操を教えてたんだ」

 

 今日から俺はラジオ体操の伝承者となるのだ!と張り切りつつ大きく屈伸運動をする。

 相変わらずのテンションの高さと落ち着かなさに、僅かに残っていた桐生の心配は霧散した。

 

「元気そうで何よりだが、病み上がりなんだ、あまり無茶はするなよ」

 

「心配センキュー! けれどご無用! エミリアたんのおかげで腹の傷もこれこの通り!」

 

 サムズアップしながら片手でジャージをめくると、そこには傷一つ残っていなかった。

 大分深い傷だったはずなのだが、この短時間で跡一つ残らず治療できるとは、やはり魔法とは大したものだと桐生は思う。

 

「カズマも大分奇麗になったわね」

 

「お、そういえばさっぱりしてるな。風呂にでも入ってきたのか?」

 

「ああ、服も体も大分汚れていたから、お前が目覚める前にな」

 

「道理で服が変わってるわけだ。あー、でもいいよなー、叔父貴みたいに体格いいと何着ても似合うんだから」

 

 桐生に用意されていたのは元の世界で言う燕尾服に近いものだった。

 丁度館の主が桐生と同じくらいの身長のため、以前戯れに用意したというそれを引っ張り出してきたらしい。

 そのため丈は問題なく入ったのだが、肩幅や腕周りに関しては桐生にとっては少々窮屈だ。

どうやらロズワールは割と線の細い人物らしい。

 

「でもスバルだって結構鍛えてるわよね?」

 

 不意にエミリアがそう呟くと、スバルはうっと声を漏らして顔を真っ赤にする。

 それは決してスバルの体をまじまじと見るエミリアの視線からくるものではなく、 もっと何か別の記憶を思い出して赤面している様子であった。

 

「そうだな、それは俺もそう思っていた。何か部活でもやっていたのか?」

 

「いや、帰宅部……ていうか学校にも、ほらいわゆる……引きこもりってやつで」

 

 エミリアにはあまり気にならないが、桐生に対しては少々バツの悪そうにカミングアウトするスバル。

 話を聞くにどうやら学校にもいかず、ひたすら筋トレとしょうもないスキルの習得に日々を費やしていたようだ。

 

「ぶかつ? ひきこもり?」

 

 そんなスバルと桐生の会話が理解できず、聞きなれない単語に首をかしげるエミリア。

 桐生はまたやってしまったと内心思ったが、スバルはそんな様子はおくびにも出さず

 

「俺の故郷の文化みたいなもんでさ、こっちじゃ聞きなれないかな? まあ地図にも乗ってない片田舎だししゃーねーか」

 

 なんて、用意していたように即座に切り返す。

 

「そうなんだ、でもスバルって結構良い家柄の出だと思ってたんだけど」

 

「え、そう? なんでまた?」

 

「だってほら、手も奇麗だし、肌だって。筋肉も仕事でついたものとは少し違う感じだから」

 

 そう言いながらエミリアはスバルの手を取りふにふにと弄ぶ。

 スバルが真っ赤になって硬直してるからやめてやれ、と桐生は言おうかと思ったが、嬉しそうに口元を緩ませ鼻の下を伸ばしたスバルを見てその気が失せる。

 

「それに比べてカズマはスバルとは真逆よね。手とか筋肉もそうだけど、顔つきなんかも堅気って感じじゃないし」

 

「堅気ってきょうび聞かねえな……」

 

 少し古い言い回しに突っ込みを入れるスバルと、思いの外的を射た推理に苦笑する桐生。

 そんな二人をよそにエミリアはうーんと考え込むように口元に手を当て

 

「ねえ、二人ってどういう関係なの?」

 

 そう質問した。

 

「お、それ聞いちゃう? それ聞いちゃうエミリアたん?」

 

「なんかスバル、すごーくうざい……」

 

 肩を摺り寄せニヤニヤしながら問いかけるスバルに若干の鬱陶しさを覚えるエミリアだがそんなものはどこ吹く風。

 スバルは両手を大きく広げ、芝居がかった口調で演説を始めた。

 

「どういう関係と申されましても、説明するにゃあしがらみだらけ。東の国に生を受け、共に海千山千死地窮地を乗り超えて、結んだ絆は鎖の如く! そう俺と叔父貴は兄弟と言っても過言ではありますまい!」

 

「え、全然似てないけど」

 

「そりゃそうよ! 兄弟は兄弟でも義兄弟! 血ではなく魂で繋がったソウルブラザーなのだよエミリアたん!」

 

 な! とばかりに桐生に向けてサムズアップするスバル。

 少し距離を詰めすぎだろうと突っ込みたくなる気持ちもあるが、ここで否定するほど野暮でもないので桐生は曖昧に肯定する。

 

「まあ、杯は交わしてねえが……そんなもんかな」

 

 だがその返答にエミリアは納得していないのか、渋い顔で二人を見やる。

 

「ねえ、カズマはここに来る途中カララギの方の出身って言ってたわよね? でもスバルは東の国って言ってた。これってどういう事?」

 

「え、何それ初耳!?」

 

 エミリアの疑問に驚いて桐生を見るスバル。

 桐生はしまったといった表情で首の後ろを掻いて言い訳を探すが、上手い言葉が思いつかない。

 同時に、その質問で明らかに挙動不審になった二人にますます疑問を深めるエミリアは、じっとりとした目つきで次の言葉を待つ。

 

 スバルの脳裏には観念して異世界から来ましたとカミングアウトする事がよぎるが、こういう場合間違いなく頭のおかしい奴扱いされるのが相場だ。

 自分だってもし海に漂着した人間を助けて、そいつが異世界から来たなんて主張したら放送禁止用語なレッテルを貼り付けるだろう。

 まして問いかけるエミリアの表情は真剣だ。ふざけた答えと思われては氷の彫像にされかねないような感じですらある。

 

「くそ、設定のすり合わせを怠ったのが敗因か……、ならばいっそパターンBで……」

 

「ぶつぶつ言ってるなんて、すごーく感じ悪い。答えるつもりないの?」

 

「いやいや、ある! ありますとも! 実は俺記憶喪失で自分の事が何にも分からねえんだ! そんな時叔父貴に拾われ、故郷の星の名スバルを与えられ……」

 

「さっき東の国で生まれとか言ってたじゃない」

 

「あっふ墓穴ぅ!?」

 

「スバルはまともに答えるつもりは無しと……カズマも?」

 

「そういうわけじゃねえんだが、色々と複雑でな。ただスバルも嘘ばかりってわけじゃねえんだ。こいつなりに真摯に答えようとしてるのは分かってやってほしい」

 

「ふーん、まあ事情があるって言うなら詮索はしないでおくわ」

 

 真剣に問い詰めていた割にはあっさりと二人を見逃すエミリア。

 窮地を逃れたかとほっと胸を撫でおろすスバルを横目に、彼女は「さて」と一言残し、懐から緑色の結晶を取り出した。

 

「じゃあ次のお話。二人にお礼をしたいって言う人がいるの」

 

「礼?」

 

 桐生が辺りを見回すが、周囲に人影は無い。

 だがスバルはそれに心当たりがあるのか、エミリアが取り出した結晶を興味深げに覗き込む。

 

「あ、それって」

 

「そう、精霊が身を宿す精霊石。……パック」

 

 呼びかけに応じるように、結晶は淡く輝き始め、次第に光は輪郭を形作る。

 頭部、胴、四肢。そして体毛が光によって生み出されると、数秒後にはエミリアの掌に小型の二足歩行猫が現れていた。

 

「やあ二人とも、ご存じとは思うけど一応自己紹介させてもらうよ。僕の名前はパック、エミリアと契約を結んだ精霊だ」

 

 そのモフモフとした愛くるしさにスバルは目を輝かせ、桐生はこの世界でもう何度目になるかは分からない驚きで、その精霊の出現を迎えたのであった。

 

 



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常識知らずの二人

大変お時間いただきました!
投稿再開します。


 

「よう、肝心な時にいない居眠り猫」

 

 現れた猫型の精霊、パックを迎えたのはスバルのそんな容赦のない一言であった。

 

「いやあこれは手厳しい」

 

「駄目よスバル、パックにも事情があるんだから」

 

 そんな物言いに苦言を呈するエミリアだが言われた本人は気にする風もなく、こりゃ参ったとばかりに自分のおでこをぺしぺしと叩いて笑っている。

 

「いいんだよリア、最後の最後、肝心な時に君を守ってもらったのは事実だからね」

 

「なんだ、エミリアたんの命を救った俺の活躍知ってたのか?」

 

「君が眠っている間にね。だから君には感謝してもし足りないくらいだよ、大事な娘の命を救ってもらったんだからさ」

 

 そして、と前置きしパックは桐生の方へと向き直る。

 

「お兄さんにも。リアの代わりに戦ってくれた事、とても嬉しかったよ」

 

「よせ、礼を言われるような事じゃねえ。好きで勝手にやった事だ」

 

「君にとってはそうでも、僕にとってはそうじゃないんだ。掛け値なしにこの子の為に体を張ってくれる人なんて殆どいなかったからね。命を救ってもらった事だけじゃなく、色んな意味で僕は君たちに感謝しているんだよ」

 

 ふざけを感じさせない真摯な声色でパックは二人に向けてそう答えた。

 スバルと桐生はそんなパックの言葉に少し面食らい、互いに顔を見合わせて少し困ったか、あるいは照れくさいかのように頬をかいた。

 

「そういうわけで、二人にはお礼をしたいんだ。何かしてほしい事があれば何でも言ってほしいな。大抵の事なら叶えられると思うよ」

 

「気にするな、さっきも言ったが好きでやった事だ」

 

「んじゃ、好きな時にモフらせてくれ」

 

 小さな体に見合わず大きく出たパックに対し、二人とも銘々の答えで即答する。

 エミリアがそれに目を丸くしたのはその返事の速さだけでなく内容だろうか。

 再びこりゃ参ったとばかりに首をかしげるパックの横で、彼女は少し慌てた様子で二人へ問いただし始める。

 

「ちょ、ちょっと、もう少し考えて決めてもいいんじゃない? 見た目は可愛いだけで頼りないかもしれないけど、パックは凄い精霊なのよ?」

 

「うん、リアの言い方はちょっと引っかかるけど置いといて。自分で言うのもなんだけど僕って結構偉いんだよ? だからちょっと欲張ったっていいんだけど」

 

「おいおい、そんな偉いなら尚更だぜ。俺みたいな一流のモフリストになるとモフりたい対象をいつでもモフれるのはこの上なご褒美なんだぜ? それが本来ならば触れるのも烏滸がましい高貴な血統書付きみたいなもんとなれば尚更に! そう、俺にとってモフモフ権は巨万の富にも匹敵する贅沢余りある願いなのだ! モフモフモフ……」

 

 力説して返事を待たずにパックをモフり始めるスバル。その顔はパックのふさふさの毛並みを心底堪能しているかのように幸せそうで、成程巨万の富に匹敵するというのも彼にとってはあながち間違いではないのかもしれない。

 

「おおう、この耳のとこなんかもうね、柔らかくてふさふさでね……」

 

「うーん、凄いなこれは本気で言ってるね」

 

 とろけるような表情でパックの体に陶酔しているスバルだが、嘘をついていないと判断したのはその様子からではないようだ。

 

「僕はある程度相手の心が読めるからねー、と言っても本心かどうか程度だけど。で、スバルはどうやら、まあ読むまでもなさそうだけど本心だ。けどお兄さんは少し違うみたいだね?」

 

 スバルに耳を弄られながら、真剣な表情で桐生へと丸い目を向ける。

 そんなパックの言葉にスバルは少し意外そうな表情で一旦手を止めると、パックと共に桐生へと目線を移す。

 

「おいおい、叔父貴が礼や恩のためにエミリアたんを助けたってのかよ」

 

「別に悪い事じゃないさ。まああの時はそんなつもりは無かったのは分かってるけど、今はまた少し事情が違う、そうでしょ?」

 

「まあ、な」

 

「ねえカズマ、なにかしてほしい事があるなら言ってみて? 私はカズマに恩があるんだから、それを返せるような要求をしてくれた方がすごーく嬉しいんだから」

 

 桐生を慮ってか、或いは心からの本心か。エミリアのそんな言葉に桐生は少し考えるそぶりを見せ小さく首を振った。

 

「いや正直言うとな、そのしてもらいたい事がいまいち思いつかねえんだ。だからまあ、そいつは保留って事にしてくれねえか?」

 

 パックが凄い力を持った精霊という存在である事は承知したが、正直なところそんな精霊が一体何が出来るのかと言われると何も分からないのが桐生の本音だ。

 勿論当面を凌ぐ資金や知識も彼の言った大抵の事の範疇に入るのだろうが、今のところその辺りはロズワールに要求するつもりである。

 打算的な物言いをすれば、桐生としてはパックにしか出来ない事を頼みたいのだ。

とはいえそれがいまいち思い浮かばず、出した結論がこの保留である。

 

「うーん、お礼が思いつきもしないだなんてカズマはほんと欲が無いのね」

 

「そういうわけじゃねえさ。俺だって人並みには欲がある。ホントに欲のねえ答えってのはスバルみたいなもんだ」

 

 そんな桐生の真意をより良い方向に解釈するエミリア。

 対してパックはある程度桐生の真意を読み取ったのか、しょうがないなと一息ついて

 

「保留もいいけど僕の気が変わらないうちにね。猫は気紛れなんにゃから」

 

「大丈夫よカズマ、精霊は約束は絶対に破らないもの。何百年経ったって気なんて変わらない」

 

「そいつは有り難いが、何百年も経っちまったらみんな死んじまうだろう」

 

 そうやって冗談めかして返すが、エミリアは何故か不思議そうに首を傾げた。

 何を言ってるんだろう? といった表情に自分の発言を反芻してみるが、桐生には自分がそんな態度を取られるような言葉に心当たりは無かった。

 だがスバルの方は何か思い当たる事があるようで、パックの毛並みを堪能する手を止めて「あー、成程」と呟いた。

 

「やっぱアレか、ファンタジーのお決まりらしくエルフとかは寿命が長いとかそういうやつ?」

 

「お決まりかどうかは知らないけど、まあ常識だね。精霊である僕は寿命なんてものは基本的にないし、リアも似た様なものさ」

 

「どういう事だ?」

 

 困惑する桐生に、私はハーフエルフだけど、と前置きをしてエミリアが説明を始める。

 

「エルフやその血を継ぐハーフエルフは基本的に寿命が長いの。というよりも殺されるまで死なないと言っても過言ではないかもしれないのかな? えっと、本当に知らなかったのカズマ?」

 

「ああ、初耳だ。あー、この辺じゃ常識なのか?」

 

「この辺って言うか、世界の常識だけどね」

 

 少し呆れたような様子のパックを見るに、知らない方がおかしなレベルでの常識なのだろう。

 エルフやハーフエルフといった単語そのものは桐生もどこかで聞き覚えこそあるが、それがどういったものかというと知識は殆ど皆無と言ってもよい。

 そもそも異世界の知識なのだから知らなくて当然だろうと反論したくなるが、その前提を知らないエミリア達にそう反論しても全く無意味なうえ、何故か同じ境遇のスバルは物知り顔で頷いている。

 

「スバルは知ってたのか?」

 

「まあほらラノベやゲームじゃよくある話だからな。エルフにドワーフ、ホビットや獣人とかはオタの必須科目みたいなもんだし」

 

 何がどう必須項目なのかは分からないが、この場においてはスバルの言が正しさを持っているので大人しく「お、おう……」と頷いておく。

 

「本当に不思議、この世界に生まれてハーフエルフを知らないなんて……どういう生活をしてたの?」

 

 本気で不思議そうに、同時に何故か少し嬉しそうにエミリアは問いかける。

それに桐生は答えあぐねる。『この世界に生まれて』というところからして間違っているのだから当然だ。

 とはいえそこを安易に正すには色々と考えなければならない事も多く、かといって先程から散々に誤魔化しを重ねているため、下手な答えはいい加減疑念を抱かれかねない。

 見ればスバルも困った様子で目をキョロキョロさせながら考えている。

 

(こ、こういう事態に備えてそういった文化にも触れるべきだったか……)

 

 スバルへの申し訳なさと不甲斐無さに余りにも前提が無茶な後悔を始める桐生。

 「いつか異世界に召喚されたときの為に勉強してんだ」などとアニメを見ながら秋山や伊達といった親しい人達にそう答えたらどんな顔をされるだろうか。

 

 十中八九取り乱される気がしないでもない。

 

 いや真島の兄さんなら意外と乗ってくれるのかも知れない。あの人は実際にゾンビが出た時のためとか言って古今東西のゾンビ映画を漁っている。

 

 ―― なんて焦りで混乱しながらとりとめもない想像を巡らせていると、他でもない問いかけたエミリア本人からの助け船が出された。

 

「あ、ごめんなさい。さっき詮索しないって言ったばっかりなのに」

 

「いや、こっちこそすまねえ。上手く説明出来ねえ事ばかりで悪いとは思ってるんだが……」

 

「ううんいいの、詮索はしないって……約束、したんだし。悪意が無いって言うのはパックのおかげで分かってるから」

 

 約束という言葉に不思議と重い感情を感じさせつつ、この話はこれで終わりましょうとばかりに小さく笑いながら首を振る。

 

「ただそれとは別にして、ハーフエルフや精霊の事を知らないのは色々と困ると思うわ。スバルはある程度の知識はあるみたいだけど」

 

「いや、正直俺も触りの部分だけっつーか……肝心なところはイマイチ知らねーんだけどさ」

 

「どういう生き方をしてればそんな風になれるのかは分からないけど、リアが約束した以上僕も詮索はしないよ」

 

 まあ僕らも人の事言えないしね、なんて小さい呟きながら自嘲するパックを見て、桐生は一つ思いついたようにハッとする。

 

「なら、さっきのお礼にその常識を教えてくれるってのはどうだ?」

 

 それが予想外の答えだったのか、先ほどまで飄々としていたパックも驚いたように目をぱちくりさせる。

 

「どうした、そんな顔して」

 

「いやー、流石に意外というかさあ。やっぱり欲が無いよお兄さんも」

 

「そうか?」

 

「そうだよ、そんなのその辺で子供用の本でも買って読めば分かる話だ。ある意味精霊の体を玩具にしたいなんてスバルの願いの方がよっぽど欲深い」

 

「なんかそう言われるとそこはかとないエロスと感じるな……」

 

「えろす?」

 

 スバルの言葉に反応するエミリアに「リアはまだ知らなくていいの」と一言置いて桐生に言葉を続ける。

 

「命を救ってもらった代償がそれじゃあ返す方も報われない。そのお願いは承ったけど、これはサービスって事にしといてあげるよ」

 

 桐生の無欲な願いに気を良くしたのか或いは呆れたのか、パックは短く息をついてやれやれと首を振るのであった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 それは何の事は無いおとぎ話であった。

 

 かつてこの国―― いや、この世界には嫉妬の魔女と呼ばれた恐ろしい女がいた。

 世界の全てを憎み殺戮の限りを尽くした彼女は、『賢者』『剣聖』『龍』によって封印され、四百年経った今でも名前を呼ぶことすら恐れられている。

 

「とまあ、これが嫉妬の魔女のお話さ。聞いた事ない?」

 

「どうだったか……いや、ないな」

 

 はぐらかそうとして、ある程度パックが心を読めることを思い出し桐生は正直に答える。

 その判断に満足したのか、パックはうんうんと頷いてそれでいいよと返事を返した。

 

「不思議ではあるけど、まあそうだろうとは思ったよ。その様子じゃスバルも同じなのかな?」

 

「そんなに有名なのか?」

 

「子供だって知ってるお話さ。誰だって悪い事をすれば嫉妬の魔女がやってくる、なんて躾けられてはそれを語った母親と一緒に泣いてしまうくらいにはね」

 

 冗談めかして語ったパックの言葉はしかし、それだけその嫉妬の魔女への恐怖が人々に根差しているという意味だろう。

 四百年前の、それもそんな漠然とした物語が例え事実とは言えそこまで恐れられているというのは、桐生にとってはイマイチ実感しがたい事であったが。

 

「成程な。だがその話がハーフエルフや精霊ってのとどう関係するんだ?」

 

「精霊は少しずれるけど、ハーフエルフは大いに関係があるよ。なんていったって、その嫉妬の魔女がハーフエルフだったんだからね」

 

 完全に無知を隠すことを止めた桐生の問いに、パックもまた探る様な素振りも見せず簡潔にそう答えた。

 今も恐れられている嫉妬の魔女。その魔女はハーフエルフであり、そしてエミリアもまたハーフエルフである。

 

「ああ、成程な」

 

「?」

 

 合点がいった桐生とは対照的に、スバルはきょとんとした表情で首を傾げている。

 

「おや、今度はスバルの察しが悪くなったみたいだね?」

 

先程とは立場の入れ替わったスバルに悪戯な笑みを浮かべると、パックは腕を組んでうんうんと嬉しそうに頷いた。

 

「な、何で勝手に満足して頷いてんだ? 叔父貴、どういう事さ」

 

「そうだな、説明してやってもいいが……」

 

 ちらりとエミリアを見る。

 彼女はどこか安心したような、嬉しそうな表情を浮かべ息を吐いていた。

 スバルには見当はついていないようだが、桐生にはその気持ちがよくわかる。

 そんなエミリアを見て、桐生の袖を引いて「なあ叔父貴~」と頼りない声で頼るスバルにわざわざ答えを教えてやるのも野暮なのだろうと桐生は思う。

 

「分からねえならそれでいいんだよ、お前はな」

 

「おいおい、それって答えになっちゃ……わっ」

 

 反論しようとするスバルを押し付けるようにぶっきらぼうに頭を撫でる。

 そんな桐生にスバルは若干の抵抗こそするがその手を跳ねのけようとせず、どこか心地よさそうですらある。

 そんな二人の様子をパックは微笑ましく、そしてエミリアはそれと同時にどこか羨ましいと……そう心の片隅で感じるのであった。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

「「ご歓談の中失礼いたします」」

 

 ロズワールの庭園の中、桐生達がこの世界についての知識を交えつつ、桐生が顔に似合わずとぼけた素顔が有ったり、スバルがエミリアの魅力を再確認してドギマギしたり

エミリアは意外と怒ると苛烈だったりが判明したやりとりの最中、二人のメイドが足並みを揃えて四人の元へ現れた。

 

「お、レムにラムじゃねえか」

 

 現れた二人に声をかけたのはスバルだ。

 どうやら彼も既に面識があるらしい。

 相変わらずフランクというか、距離感を感じさせない態度は相変わらずだ。

 

「「当主、ロズワール様がお戻りになりました。どうかお屋敷へ」」

 

 そんなスバルに表情一つ変えず、寸分違わぬタイミングの礼とステレオ音声で対応する。

 

「そう、ロズワールが。じゃあ迎えに行かないとね」

 

「「はい。それからお客様方も。目が覚めているなら、ご一緒するようにと」」

 

 どうやら桐生達も出迎えに向かわせるよう申し付けられているらしい。

勿論桐生に異論はない。これから世話になる可能性が、いや既に十分に世話になっている。

 ならば彼にとっては、その程度の礼を尽くすのは当然だろう。

 スバルの方もエミリアとの会話が中断されたのは少し残念そうではあるが、特段不満な様子もなく降ろしていた腰を上げる。

 

「しかしなんだな、急にそんな恭しい態度になられると調子狂っちまう」

 

 瀟洒な貫禄ある様子のメイド二人に戸惑ったのか、スバルは二人へそんな言葉を投げかけた。

 

「ん? スバルと会った時はこんな感じじゃなかったのか?」

 

「ああ、最初に会った時はこう……もっと砕けた感じというか、ふざけた感じというか。叔父貴の時は違ったのか?」

 

「そうだな、そう違いは無かったと覚えてるが」

 

「うーん、仕事モードって奴か? でも叔父貴には仕事モードなのに俺の時はそれを解除するってそこんとこメイドとしてどうなん?」

 

「貫禄ですわ、お客様」

「人徳ですわ、お客様」

 

 レムは声色を変えず、ラムはどこか小馬鹿にした声色でそう答える。

 顔を引きつらせるスバルの横で、この二人も中々いい性格をしているようだと桐生は小さく笑った。

 




誤用でも言いそうなら誤用のまま


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食卓を囲んで

 

 ロズワールとの初謁見を終えた桐生の感想は……『変人』この一言に尽きた。

 

 詳しい話は食事でもとりながらと食堂に案内され、席について屋敷の主の登場を待つ最中、桐生はそんな風に先程の出会いを思い返していた。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「あはぁ、二人とも目が覚めたんだぁねぇ。よかったよかったぁ」

 

 二人のメイドに恭しく迎えられて現れてたのは、桐生と変わらない長身の、それでいて線は細くどこか繊細で儚げな印象を受ける男性であった。

 ロズワールは親し気な笑みを浮かべ、鼻が引っ付きそうなくらいに顔を近づけると黄色と青のオッドアイの瞳が値踏みするように二人の双眸を覗き込む。

 青白い肌は近づくとより透けて見える様で。先ほど感じた印象と相まってどこか耽美な風情さえ感じさせる。

 

 勿論二人にはそういった趣味は無いので、桐生は少し顔を引きスバルに至っては嫌悪感を隠そうともせずに顔を逸らす。

 そしてそんなスバルの態度に寧ろ好感を抱いたのか、彼はスバルの顔から離れると満足そうにうんうんと頷いた。

 

「なぁ叔父貴、こういうのって意外と切れ者ってパターンが王道だけど、どう思うよ?」

 

「あはぁ、嬉しい評価だぁねぇ。もっとまじまじと見て評価してくれてもいいんだぁよぉ?」

 

 独特の間延びした口調でそう言うと、ロズワールはその場でくるりと回り奇麗にポージングを決める。

 軽やかなその足取りは、そんな道化の様な振る舞いが日常的なのだろうと二人に容易く想像させた。

 

 エミリアが変人だと称する意味が、桐生にはようやく実感できた。

 

 見たことのないタイプというわけではない。

 元の世界での桐生の交友関係は広く、その中でもとりわけ深く長い付き合いでもある人物なんかはロズワールとよく似ているとさえ思う。

 道化のような振る舞いと妙な口調は決して諂う処世術の類ではなく、むしろ己への絶対的な自信から零れ出る傾奇に近い。

 

 だが、そんな既知の友人と照らし合わせてなお、ロズワールという男は『変』だ。

 

 それは背格好や立ち居振る舞いからくるものではなく、言葉にはしづらい印象と言うべきか。

 とにもかくにも、桐生が歩み積み重ねてきた人生経験では測りきれないほどの『深み』をロズワールは桐生へ抱かせた。

 

 桐生がそんな大袈裟かもしれない印象を受ける一方、スバルは単純明快にロズワールを気持ち悪い奴と結論を出していた。

 そんな二人の心中を読み取ってか、或いは与しやすさに軍配が挙がったか。

 桐生へのあいさつはそこそこに、主の柔和な笑みと歓待の態度はスバルへと向けられる。

 

「んーん、他人から理解されない気持ちよさ、異端とは心地いいねぇー。んふ」

 

 気持ち悪い笑みをこぼして恍惚に浸る大男。

 慣れるには時間がかかりそうだと、そんな主を見慣れているであろうエミリアが顔を引きつらせているのを見て、桐生はそう思った。

 

「その、なんだ。お前が言っていた意味がよく分かったぜ」

 

「やっぱりカズマもそう思う? スバルも相当だけど、やっぱりロズワールには敵わないよね」

 

「ちょっと!? 俺とあいつが比べられる位置にあるのは心外なんだけどエミリアたん!?」

 

 いつの間にか定着した妙な呼び名で愛する者の名を叫ぶスバル。その表情は心底心外だと訴えてはいるが、助け舟を出す者はこの場にはいなかった。

 対照的に自分と比べられる人物が現れて上機嫌なのか、ロズワールは嬉しそうに体をくねらせてスバルへ親愛を向ける。

 

 そんな様子にさらに辟易するスバル。

 いい加減埒が明かないとエミリアがロズワールに話の続きを促すと、これまた彼は嬉しそうに、タイミングよくラムから手渡された手帳とペンを受け取ると

 

「タンムズの月、十五日。――エミリア様が自分から私に話しかけてくれたよ。ロズワール、嬉ぴー。この調子で仲良くなっちゃうぞぉ、おー。……と」

 

 言葉通りの文章を猛烈に書き込むと満足げに手帳を閉じ、これまた手慣れた様に差し出されたラムの手に手帳を置いた。

 

「いやぁ今日はいい日だぁねぇ。ただちょーっと残念なのはぁ……二人ともふつーの人ってところかぁなぁ?」

 

 再び桐生とスバルへ目を向けるロズワール。

 そんな彼に何故か対抗心を抱いたのはスバルだ。

 

「おいおいおい、俺が普通ってどういうこった! 撤回を求める!」

 

 何か譲れないモノでもあったのだろうか、断固として抗議するスバル。

 

「俺と叔父貴に前言の撤回を要求する!」

 

「いや、俺は別に普通でいいんだが」

 

「皆まで言わんでくれ叔父貴! さぁ撤回を要求するぅ!」

 

 聞く耳は無いようだ。

 

「あはぁ、ごめんごめん。普通ってのは種族的な意味だぁよぉ。ほら、私ってば『亜人趣味』で名が通ってるからねぇ」

 

 そう言って両脇に立つ双子のメイドを抱き寄せ、ラムの顎を人差し指で艶やかになぞる。

 その様子は妙に手馴れ、ラムの方も抵抗もせずむしろ頬を赤く染めて身を任せているものだから、スバルにとっては気が気でない。

 

「なあ、亜人ってのはなんだ?」

 

「人間に近い見た目だけど人間じゃない種族って奴かな? その分類だとエミリアたんも含まれるんだけど……」

 

 お決まりとなった桐生へのスバルの異世界講座をさっくり済ませ、スバルは湧き出た不安に心を震わせる。

 もしやこのメイド達は既にこの変態の毒牙にかかり、或いは既に愛しの彼女も――

 なんて心配そうに思わずエミリアに視線を向けるスバル。

 そんな彼の思惑に気づいたのか、エミリアは慌てて手を振ると

 

「勘違いしないっ! 私は変態に惹かれる趣味はないから!」

 

 と即座に否定。スバルはほっと胸を撫でおろした。

 

「んんー、スバルくんは中々面白い子だねぇ。さぁてぇ、それではもう一人はというとぉ?」

 

 桐生へと目を向けるロズワール。

 気のせいだろうか、スバルへ向けられるそれとは違い、その眼光には隠し切れない警戒を感じさせる。

 いや、警戒は当然だ。突然現れて身元不明の男性二人。警戒しない方が不思議なほどだ。

 だが、そんな常識と照らし合わせてなお感じる妙な感覚。

 

 それは或いは警戒ではなく……嫌悪。

 

 そう思い至った瞬間、偶然かはたまた見計らったのか。

 ロズワールの顔はやおら崩れ、スバルへ向けられる柔和な笑みへ戻った。

 

「カズマくんだねぇ、ラムから話は聞いてるよぉ。特に君には助けてもらったようで、特別にお礼をしなくちゃぁねぇ」

 

 姿勢を正しよろしくとばかりに手を差し出すロズワールに、会釈と握手を返す桐生。

 

「桐生一馬だ。……よろしく」

 

 傍から見ると礼儀正しい大人同士の初対面。

 だがしかし、ロズワールのその笑みがどこか貼り付けたようなものに感じるのは、桐生の気のせいであろうか……。

 

 その答えはきっと、本人にしかわからない。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 回想を終え改めて食堂を桐生は見回す。

 

 食堂に現在座っているのは三人。

 スバルと桐生、そして見覚えのない巻き毛の少女が一人。

 座っている位置からして屋敷でも重要な客人であろうか。

 少女は慣れた様子で緊張もなく席に着き、こちらに興味を示す風もなくグラスに注がれた食前酒を傾けている。

 

「お、何々それ?」

 

 そんな少女に持ち前の好奇心と無礼さで、桐生の隣の席から立ちあがったスバルが興味を示す。

 どうやら二人は既に面識があるようで、少女ははぁとため息をついてスバルをあしらう。

 

「なぁに、飲みたいのかしら?」

 

「え、でも間接キスになっちゃうし、友達に噂されると恥ずかしいから……」

 

「からかった筈がなんなのかしら、この屈辱感は……」

 

「スバル、その子とはもう知り合いか? 紹介してくれると助かる」

 

「ああ、こいつはベアトリス。この屋敷の、えーと、なんの主だっけ?」

 

「禁書庫なのよ、鳥頭」

 

「てめー今俺の頭の事サザエさんみてーだって言ったな!?」

 

「言ってないのよ!? というかサザエさんって誰なのよ!」

 

 声だけ迫真に詰め寄るスバルに身を引いて避けるベアトリス。

 二人の関係はともかく、どうやらベアトリスという少女は想像通り食客の様なものらしい。役目がある以上厳密には違うだろうが、その振る舞いは雇われた使用人とは一線を画すため、やはりそちらの方が近いだろう。

 

「桐生一馬だ、縁あって屋敷に招待してもらった」

 

「……ふん、慣れ合うつもりはないから挨拶なんていらないのよ」

 

「てめぇ! 叔父貴に向かってなんて言い草だぁ!」

 

「ニヤニヤしながら言ったって迫力無いのよ! っていうか叔父貴ってなんなのよ!」

 

「叔父貴は叔父貴! ソウルブラーザ!」

 

「……前言撤回、こいつをベティーから引き離すのよ」

 

 わきわきと巻き毛を掴もうとするスバルを手で制しながらベアトリスは桐生へ助けを求める。

 

「スバル、その辺にしとけ」

 

「アイ、ダディ!」

 

 恐らく間違っているであろう掛け声でスパッとベアトリスから離れるスバル。

 ほっとしたのか乱れた巻き毛を整えて一息つくと、席へ戻るようにとスバルをしっしっと手で追い払う。

 

「こんにゃろ、俺を虫扱いとは……叔父貴の命がなけりゃ即刻粛清してるところだぜ」

 

「はいはい、また吸われたいのかしら」

 

「ノゥ! あれは勘弁!」

 

 相当嫌な思い出でもあるのか、差し出された手のひらから逃げるようにスバルは桐生の隣へと駆け戻る。

 そうこうしていると大きな開扉音が部屋に響き、次いで二人のメイドが姿を現した。

 

「失礼いたしますわ、お客様。食事の配膳をいたします」

「失礼するわ、お客様。食器とお茶の配膳を済ませるわ」

 

 そう言って淀みない動作で配膳台から食器と料理がテーブルの上へ並べられていく。

 

「おおぉ! いいねいいね! 異世界だからゲテモノとか並べられたらどうしようかと思ったが中々いいじゃん!」

 

 瞬く間に彩られた食卓にスバルは目を輝かせて色めき立つ。

 並べられたのはオムレツやサラダ、ベーコンといった(名称や製造工程は違うかもしれないが、見た目は概ね変わらない)オーソドックスな物だ。

 他にも見覚えのない料理が数点並ぶが、決して桐生やスバルの食の常識から大きく離れない様なものばかりであった。

 

「スバル、行儀が悪いぜ」

 

 立ち上がって興奮するスバルを窘めるが、桐生も内心は心が躍る。

 なにせこの世界に来てからここに来るまで碌な物を口にしていない。

 ロム爺のところで頂いた酒と粗末なつまみくらいだろうか。

 それから数時間は経ち、更には命を懸けた激しい戦闘までこなしているのだ。

 

 そんな彼が目の前に並べられた、視覚から楽しませてくれる様な上等な料理とそこから沸き立つ芳醇なバターや油の香りに鼻腔をくすぐられ、緊張と不安で忘れていた空腹が首をもたげて期待感を煽られるのは道理である。

 顔に出さないのは年の功、まだまだ子供であることを考えればスバルの興奮も微笑ましいものでもあるのだろう。

 そう思う桐生だが、やはりそれとこれとは話は別。

 子供であっても分別のつく年齢である以上、あまり行儀の悪いことはさせられない。

 

 孤児院で小さな子供の面倒を見続けてきた、桐生の癖の一つであった。

 

「そうは言っても待ちきれねえよ!ほら早く! メーシメーシ!」

 

 そんな桐生の親心を知ってか知らずか、スバルはカチカチと配膳されたフォークとスプーンを打ち鳴らして催促を始める。

 

「……躾がなってないわね。もって優雅に典雅に待てないのかしら」

 

 非難するような視線を桐生へ送るベアトリス。

 無論謂れのないものなのだが、一応現状保護者の立場にある桐生としては反論できない。

 

「スバル、ガキじゃねえんだ。もう少し我慢しろ」

 

「えぇー、叔父貴って意外とそういうの厳しいのな」

 

 口を尖らせてスバルは手を下ろす。

 元からこうなのか、異世界という非常感が背中を押して暴走しているのかは分からないが、スバルはどうにもお調子者が過ぎるというかせわしない。

 

「あはぁ、いいんじゃなーいかぁい? 子供は元気な方がいいって言うしねぇ?」

 

 そうこうしていると、この屋敷の主であるロズワールが装いを新たにして現れる。

 その姿を見た桐生とスバルの感想は一言『悪趣味』であった。

 良くも悪くも目を引くような色合いとデザインの服装。端正な顔にはピエロの様なメイクが施されている。

 装いまで道化を演出したような出で立ちは、まさに変人といったところだろうか。

 そんなものだから、それに続いて姿を現したエミリアの姿は、特にスバルにとっては一層美しく見えたことだろう。

 

「ガキだからってなんでも許してちゃあ大人になってから困るもんだぜ」

 

「んん~、厳しい言葉。それは経験談かなぁ?」

 

「まあな」

 

 一般的な常識や礼儀を知らずに苦労した経験は桐生には何度もあった。

 そういった経験を誇らしげな武勇伝として語る人間も多く見てきたが、少なくともスバルにはそういう人間にはなってほしくは無いのが彼の心情だ。

 

「なるほどなるほどぉ、しかと心に刻んでおかなきゃねぇ。にしても――」

 

 桐生への返答はそこそこに、今度は上座に近い席で静かにグラスを傾ける少女に目を向ける。

 

「おややぁ、ベアトリスがいるなんて珍しい。久々に私と食卓を囲む気になってくれたのかなん?」

 

「頭がお花畑なのはそいつだけで十分なのよ。ベティーは……」

 

「やぁベティー」

 

「にーちゃ!」

 

 言い終える前に、パックの声が遮る。

 ベアトリスはそれを不快に思う事もなく、親愛に満ちた声色を上げて立ち上がると愛嬌たっぷりの笑顔でパックの元へ走り抱き着いた。

 

「あはは、くすぐったいよベティー。いい子にしてたかい?」

 

「勿論! にーちゃに会えるのを心待ちにしてたのよ! 今日は何処にも行く予定は無いのかしら?」

 

「うん、大丈夫だよ。今日は久々に二人でゆっくりしようか」

 

「わーいなのよ!」

 

 少女の変貌ぶりに目を丸くする桐生とスバル。

 さきほどまでのクールな装いはどこへやら。すっかりと見た目相応の子供らしい様子でパックを抱きかかえくるくると回っている。

 

「なんだありゃ、猫の前で猫を被るとか狙いすぎじゃねぇ?」

 

「あはは、ベアトリスはパックにべったりだから」

 

 パックを取られたエミリアはいつもの事だといった風でそう言うと、ベアトリスの向かいの席へ腰を掛けた。

 

「あ、エミリアたんそこに座んの? じゃあ俺も!」

 

「スバル、座る場所ってのは決まってるんだ。勝手に動くもんじゃねえ」

 

「えぇー、いいじゃんいいじゃん! 形式にとらわれてると、大事な物が見えねえぜ叔父貴!」

 

「あのなスバル……」

 

 言おうとして口を噤む。

 座る位置というのは社会では、更に言えば桐生が身を置いた極道の世界では非常に重要な物だ。

 スバルのような態度をとってみようものなら、下手をすればその場で鉄拳制裁。むしろそれで済めば温いくらいかもしれない。

 そしてベアトリスやエミリアの位置を見るに、異世界とはいえこの場でもそういった決まりごとは不思議と共通しているようだ。

 ならば守らせるのが常識だろうと桐生は考えるが……。

 

「いーんじゃなぁい? スバルくんはエミリア様の隣の方がおーいしくご飯を食べれるようだしねぇ」

 

「な、ロズっちもそう言ってる事だしさ!」

 

「やれやれ……」

 

 好きにしろばかりに首を振る桐生。

 考えてみればこの場は極道の世界ではないし、まして屋敷の主が良いと言うのならば桐生からは何も言えないし言うべきでもない。

 

「ところでロズっちというのは私の事かな?」

 

「そうロズっち! いいじゃん色々と整いそうで!」

 

 サムズアップを決めていそいそと移動を始めるスバル。

 これには流石に桐生のみならずエミリアさえ憮然とした表情を浮かべるが、当のロズワールは何を気にする風でもなく

 

「いーぃじゃない、お二人とも。礼節は大事だけど、身内しかいない場で気にしすぎるのも食事を楽しめない。ああ、彼の言う通りだ」

 

 それが屋敷の主の決定として決着がついた以上、誰にも文句を差し挟む余地は無い。

 桐生とエミリアは小さくため息をつくと、気を取り直して配膳された食事を前に姿勢を正す。

 

 やがてベアトリスも席に着き直し、しばし静かな間が流れると厳かな口調でロズワールが口を開いた。

 

「では、食事にしよう。――木よ、風よ、星よ、母なる大地よ」

 

 真剣な様子で手を組み何事かを呟くロズワール。

 食事への祈りは世界共通なのだろうか、見よう見まねで手を組む桐生とスバル。

 ちらりとスバルが周囲を見ると、皆熱心に祈りを捧げているのに気づいた。

 意外と信仰に厚いんだな、もしエミリアたんと結婚したら入信しなきゃいけないのかな、でも家は無宗教だしなーなんてとりとめも無いことを考える。

 ちなみに視界の端に映ったベアトリスの所作は至極ぞんざいなものであったため、この世界の誰もが信仰に厚いわけではないのが見て取れた。

 

「それじゃ二人とも、召し上がれ。こう見えてレムの料理はちょっとしたものだからね」

 

 やがて儀式も終えたのか楽な姿勢になると、ロズワールは二人へ食事を勧める。

 待ってましたとばかりに逸る心を抑えて食器を手に取る桐生の前に並ぶのは、ちょっとしたものなどと謙遜が過ぎる程見事な料理の数々だ。

 あまり得意ではないフォークとナイフを使い、大昔に仕込まれたテーブルマナーの知識を掘り起こして恐る恐る料理を口に運ぶ。

 

「……美味い」

 

 思わず出る一言。

 メニューこそ元の世界でも一般的な洋食とほぼ同一だが、その味は格別だ。

 一流のホテルと比べても遜色ないと確信するほどに素材も調理も一流なのが桐生にもわかる。

 

「普通以上にうめえ!」

 

 スバルも桐生と同様に、こちらは一般家庭の様に気取らず、オムレツを乗せたトーストを素手で掴んで頬張ると素直な感想を口にする。

 飲み込んでから喋るよう桐生は言おうと思ったが、スバルの賞賛に指で作った狐(恐らくVサインのようなニュアンスだろうか)で嬉し気に応える青髪のメイドを見るとそれも野暮だと思った。

 同時に、我ながら随分と口うるさくなったもんだと自嘲する。

 

 そしてそんなスバルの無神経さがむしろ新鮮で心地よいのか、ロズワールも気を良くしているようでメイドを交えた四人の会話が弾む。

 

 そんな様子を眺め、桐生はふっと笑うとナイフとフォークを置いてトーストを掴むと慣れた様にかじり頬張った。

 

「ふふ、カズマもそっちの方が楽なんだ?」

 

「まあな。色々と教えられてきたが、こういう根っこだけは変わらねえみたいだ」

 

 スバルはロズワールたちと、パックはベアトリスとの会話に夢中になり手持ち無沙汰になったのか、気づくとエミリアが桐生の隣へやってきていた。

 

「ふふ、でもその方がカズマらしくていいと思う」

 

「おいおい、それじゃあさっきまではどうだったんだ?」

 

「んー……」

 

 顎に人差し指を当て、小さく上を向いて可愛らしく思案すると、ふふっと笑う。

 

「なんていうか、怒らないでほしいんだけど……、おっきな手で不器用にナイフとフォークを使ってて……熊さんが食器を使って食事してるみたいで……ふふっ」

 

 言いながら再び笑いを溢すエミリア。

 どうやら自分では上手くやっていたつもりが、周囲には随分と滑稽に映っていたようだ。

 

「……やめてくれ、恥ずかしくなってきた」

 

「ふふふ、いや、あのね、変じゃないんだよ? ただ、顔に似合わず仕草が可愛らしくて、く、ふふっ!」

 

 さり気に失礼なことまで言いながら笑いをこらえきれないエミリア。

 だがむしろ桐生には顔が怖いよりも可愛らしいなんて言われる方が余程珍しいし気恥ずかしい。

 

「……勘弁してくれ」

 

 余りの気恥ずかしさにそれくらいしか言葉が出ず、顔を背けて笑いをこらえるエミリアの横で、桐生はぶっきらぼうにトーストの横に添えられたリンガを齧る。

 

 リンゴに似たそれは味もまた、桐生の心中のように甘酸っぱかった。

 

 

 

 



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二人の要求

 

「それで、お二人はこの国の事情についてどの辺りまで把握してるのかなぁ?」

 

 歓談も落ち着き、各々が元の席で食後の紅茶を楽しみ、或いは首を傾げては落ち着いた時間に身を浸していた頃。

 ロズワールは桃色の髪のメイド、ラムから受け取ったナプキンで優雅に口を拭きながらおもむろにそう口を開いた。

 

「正直何一つ」

 

 紅茶を口に含んで舌の上で転がしては、渋い顔をして首を傾げるスバルはあっけらかんとそう答えた。

 それで大丈夫なのかと桐生は少し心配になるが、ロズワールはその答えを予想していたようにうんうんと笑顔を崩さずに頷く。

 

「まぁラムから君たちについて多少聞いていたからそうだろうとは思ったけどねぇ。にしても不思議だ、よくもまあそんな状態で入国審査を通ったものだぁねぇ?」

 

「まあある意味密入国みたいなもんだしな……」

 

「おいおい、間違っちゃいねえが……」

 

 言い方ってもんがあるだろうと桐生は口を挟む。

 

「カズマの言う通りよ。もしも私が管理局に通報なんかしたりしたら、二人ともぎったんぎったんにされて牢屋に入れられちゃうんだから」

 

「ぎったんぎったんって今日日聞かねえな」

 

 お決まりの文句で茶化すが、エミリアはいつも以上に真剣だったらしく、むぅっと顔をしかめる。

 どうやら本気で心配してくれていたようで、スバルは少しバツが悪そうに頭を掻いて内心反省する。

 

「あんたの質問にはスバルが答えたとおりだ。それで、そんなことを聞いてきたからには、色々と教えてくれるって事か?」

 

 黙ってしまったスバルの代わりに今度は桐生が口を開く。それもスバルの様に単刀直入に。

 色々と探りながら会話を進めようかとも考えていたが、どうもロズワールが相手だと言い包められる予感しか無い。

 ならばいっそ、彼の様に遠慮なく核心に触れながら話す方がマシだと判断しての事だ。

 

「んん、切り込んできたねぇ。そっちの方がらしいんじゃないかぁい?」

 

「まあな。こいつがこんなもんだから、柄にもねぇ事ばかりしなきゃいけねえと思ってんだがな」

 

 ポンと隣に座るスバルの肩を叩くと、口を尖らせて目線だけで静かに抗議してくる。

 桐生はそれを無視して話を続けた。

 

「で、どうなんだ? 予想通りって事は、今更通報されるなんて事はねえんだろう?」

 

「あはぁ、それはどうかな? ロズワール・L・メイザースと言えば王国きっての変人だ。犯罪者を歓待して気分良くしたところを突き出して愉悦に浸る、なんて事もあるかもしれないよぉ?」

 

「もう、ロズワール!」

 

 趣味悪く笑うロズワールをエミリアが窘める。

 

「ははは、まあ概ね君の言う通りさぁカズマくん。今更君らを密入国者として扱うつもりはないよ。例えそれが私の義務であっても、ねぇ?」

 

 言い終えたロズワールがにたりと不敵に笑う。

 この意味が分かるだろう? という挑発さえ感じさせる表情だ。

 

「……その分働いてもらおうってわけか」

 

「今この国の情勢は非常に厄介な事になっている。そんな中現れた身元不明の密入国者。もし見つかれば――」

 

 こうだ、とばかりに首に手刀を当ててぐえっと舌を出す。

 おどけた仕草であるそれはしかし、和やかだったその場に独特の緊張感をもたらした。

 

「………」

 

 スバルはじっとりと背中が濡れるのを自覚する。同時にエミリアも、その発言がどこまで本気なのか量りあぐね口を挟めずにロズワールの表情から目が離せない。

 両脇に控えるメイドに変わった様子はない。だがその奇妙な空気の中微動だにせず侍るその姿は、より一層異質な雰囲気を演出する。

 そんな中静寂を切り裂く様に口を開いたのは――。

 

「ぷっ、あはははは!」

 

ロズワールだった。

 

「ろ、ロズワール?」

 

 エミリアは突然の爆笑に困惑する。

 彼女の向かいで、ベアトリスは

 

「下らない茶番なのよ」

 

 と一言吐き捨てた。

 

「いやぁごめんごめん、ほらぁこういう真剣なお話になるとつい茶化したくなっちゃうのが私の性癖でねぇ」

 

「んだよロズっち! 本気でビビりかけちまったじゃねえか!」

 

「というか本気でビビってたよねー。ね、リア?」

 

「あ、おいパック! プライドがあるんだぜ男の子にはよぉ!」

 

 趣味の悪い悪戯と判明して堰を切った様に賑やかになる食堂。

 だがしかし、そんな喧騒の中桐生ただ一人だけが緊張を崩せずにいた。

 

「ま、そーいうわけだからぁ」

 

 立ち上がり、スタスタと桐生の元へロズワールが歩み寄る。

 何事かと注意を向けるスバルを尻目に、彼は二人にしか聞こえない様な声で耳元でそっと呟いた。

 

「お呼びじゃないよ」

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「つまり、王族の関係者が軒並み死んじまった今何かしらの方法で王様を選出しなきゃいけないって事か」

 

「そのとぉり、中々賢いねぇ君」

 

 スバルを中心とした状況確認はトントン拍子で進んでいく。

 ロズワールの話を纏めるとこうだ。

 

 現在、このルグニカ王国には国を纏める王が不在である。

 本来ならば直系、或いは傍流の血縁者が跡を継ぐのが慣わしだが、不運な事に流行病によってその悉くが根絶やしにされてしまったのだという。

 現在は賢人会と呼ばれる組織で王国を恙なく運営しているものの、王不在の王国などあってはならないという事で新たなる王の選出を計画している。

 というのが、先ほどロズワールが述べていた『厄介な事』のあらましである。

 

 それを聞いていた桐生はある一つの予想へ辿り着いていた。

 それは、何故ロズワールがエミリアに対し敬称を用いているのか。

 初めて聞いた辺りから気にはなっていた事だが、これらの事情を聴いてようやく合点がいく理由が思いついた。

 それはきっと、自分たちが今これだけの厚遇を受けている理由、そしてこれからの身の振り方について大きく関る事柄であることは間違いない。

 

 ……だが、桐生はそれを口には出さない。

 それをこの屋敷の主は望んでいないだろうからだ。

 

「えっと、エミリアたんってばつまり」

 

「今の私の肩書きは、ルグニカ王国第四十二代目の『王候補』のひとり。そこのロズワール辺境伯の後ろ盾で、ね」

 

 桐生に一足遅れて辿り着いた答えをエミリアは肯定する。

 そのやり取りを見るロズワールの表情は心なしか満足げ。そしてそれを見る桐生の心中は穏やかではない。

 

 理由は分からないが、彼は桐生の主導による事の進展をよしとせず、スバルによるそれを望んでいる様に見える。

 それが何を意味するのかまでは彼にも考えが及ばないが……

 

「んで? わざわざそんな重要な話をしたって事は、叔父貴の言う通り何かしらの意図があるんじゃねえか?」

 

「その通り、やっぱり優秀だねぇ君は。その通り、さっきの女王様候補のお話と君の―― ああいや、君たちの処遇に関しては大いに関係がある。エミリア様」

 

「うん、わかってるわ」

 

 そう言ってエミリアが懐から取り出したのは竜を模った徽章。

 スバルと彼女を結びつけた縁の品でもあるそれは、持ち主の手の上で飾られた宝石が淡く輝いている。

 

「この国は『親竜王国ルグニカ』と呼ばれていてねぇ、竜は様々なシンボルに使われている。だがその徽章はとりわけ大事だ。なぁにせ……」

 

「王選参加者の資格。それを持つ者を選び、与えられる王候補の証なの」

 

「なっ……!」

 

 エミリアの口から放たれた衝撃の事実に、口を噤んでいた桐生も思わず驚愕の声が漏れる。

 スバルも同じようで、目を剥いて口を開いたまま絶句している。

 

「じゃあ、なんだ? そんな大事なもんを無くしちまってたって事か?」

 

 桐生の問いにエミリアは気まずそうに目を逸らす。

 それがある意味命と同じくらい彼女にとって大切な物だろうことは、取り返すために命を張った二人も想像はついていた。

 だがしかし、彼女にとってどころか一国の命運さえ左右しかねない一品だとは思いもよらなかった。

 

「その、無くしたんじゃなくて……手癖の悪い子にとられただけ、だから」

 

 叱られた子供の様に、バツの悪そうな顔で言い訳をするエミリア。

 そんな彼女に「一緒だーー!」というスバルの渾身の突込みが入ったのも無理からぬことだろう。

 

「成程な、エミリアたんが孤独のロンリーウルフに徽章を探していた理由にようやく合点がいったぜ。そんな大事なもん無くしちまってたらテヘペロなんかじゃすまねえし、そんなのが知られたら王候補としての資質まで疑われちまう。……ん? もしかして俺らってば滅茶苦茶ファインプレーだったんじゃね?」

 

「ふぁいんぷれぇ?」

 

「いい仕事したって意味だよエミリアたん!」

 

「うんうん、いい仕事って意味ではまさしくその通りだねぇ」

 

 ロズワールの肯定と共に自分たちの功績の大きさを再確認したスバルの気分は一気に有頂天になる。

 彼はその場から立ち上がり、エミリアの元へ近づくと彼女の顎を指先でくいっとひいて

 

「ふっふっふ、これはもう何を要求されても文句は言えませんなぁエミリアたん?」

 

「……うん、スバルとカズマには命を救ってもらうよりもずっと大きな恩を貰った。だから……私に出来る事なら、なんだってする」

 

 軽薄に迫るスバルとは対照的に覚悟さえ感じさせる真剣さで答えるエミリア。

 その温度差を感じ取ったスバルは反射的に(しまった)と心の中で呟いた。

 彼は空気を読む事は苦手だが、『空気が読めていない時の空気』に対しては非常に敏感なのだ。

 

「あぁ、いやぁ……その」

 

 どうしたものかと目を泳がせ、その視線の終着点は桐生へ行き着く。

 その視線の意味は「何とかして叔父貴!」の意だ。

 それに対して桐生は「自分のケツは自分で拭け」とため息交じりに目を伏せて答える。

 

「あ、あはは、女の子が何でもなんて言っちゃあいけないぜ? まして思春期の男の子にそんな事言っちゃあムフフやでへへな事をされちゃうかもよ?」

 

「……いいよ、スバルがそれを望むのなら」

 

 目を伏せ、拳を握りしめて答えるエミリア。その様子はもはや悲壮感すら感じさせる。

 軽薄な空気に持ち込もうと軽口を続行したスバルの思惑は完全にドツボにはまってしまったのである。

 

「う~ん、お邪魔なら退席しようかぁ?」

 

「いらねぇよ! ってか初めての場所が食卓とがどんだけだよ! この銀食器を何に使わせようってんだ変態悪徳貴族!」

 

「いや、私もそこまでは言ってないんだけどねぇ……」

 

「うるせぇよ! 大体お前はなんなんだ! エミリアたんにこんな顔をさせるなんて元はと言えばお前の職務怠慢が原因と言えなくもないんだぜ! 事と次第によっちゃ労働基準局への通報も辞さない!」

 

 最終手段として責任転嫁でお茶を濁そうとするスバル。

 その場の誰もが一言突っ込みたくなったであろう事は想像に難くないが、このままでは事態が進まないと思ったのか、水を差す者は誰一人いなかった。

 

「まぁエミリア様のお顔を曇らせた犯人が誰かはひとまず置いといて……、スバルくんの言う事にも一理あるねぇ」

 

「だ、だろ! 大体俺が初めてエミリアたんと出会った時は王都で一人だったんだぞ! 仮にも王候補なんてVIPを単独行動させるとか防犯意識に欠けるとは思わないかね!?」

 

「あれ? 私とスバルが初めて会ったのって盗品蔵だったよね?」

 

「似た様なもん! はい次!」

 

 とりあえず進展した状況を勢いで押し込もうと捲し立てる。

 苦し紛れから飛び出た発言だが、その内容は確かに的を射ていた。

 

「いや全くその通り。……一応、ラムが護衛として傍についていたはずなんだけどねぇ?」

 

 苦笑交じりに襟元を弄りながら脇に侍るラムに目を向ける。

 彼女は桃色の髪の分け目をひっくり返し、レムに扮した体で平然とたたずんでいた。

 

「いや、髪の分け目を変えても色で丸わかりだからな。なに『しめしめ、誤魔化せたぞ』みたいな顔してんだお前」

 

 一連の流れは冗談交じりではあったものの、非難と怒りだけは真剣だった。

 なにせスバルや桐生が現れなければ、真実エミリアは殺されていたのだ。

 それを誰よりも身をもって知るスバルにとっては、ラムの職務怠慢は軽々しく看過する事は出来ない。

 そんな気持ちでなんとか謝罪の一言でも引き出そうと二の句を告げようとするスバルだったが、その前に反応したのは他ならぬエミリアだ。

 

「あの、悪いのはラムじゃなくて……私なの。その、好奇心に負けちゃってっていうか、フラフラとラムから離れて」

 

 スバルは心の中で即座に前言撤回。防犯意識に最も欠けていたのはエミリアだったようだ。

 

「ま、エミリア様の軽率さはさておき、ラムが役目を果たせなかったのは事実だ。そしてその尻拭いを君がしてくれたのもまた事実」

 

「おいおい勘違いしちゃいけねえ。尻拭いしたのは俺と叔父貴だ」

 

「……失礼。つまり君たち二人にはエミリア様ならず我々ロズワール家の失態さえも救ってもらったわけだ」

 

「そういう事になるな。って事はつまりだ、俺と叔父貴にはエミリアたんだけでなくお前らにも恩を返してもらう権利があるわけだ」

 

「認めよう。全く持ってその通りだ。ではその上で問いかけよう」

 

 ロズワールは真剣な面持ちで立ち上がり、その長身でスバルを見下ろす。

 負けじと見上げるスバルもまた臆する事無く彼と向き合う。

 強張った空気が場を支配していた。

 はらはらと手を組んで成り行きを見守るエミリア。

 謝意と敵意がない交ぜになった目でスバルを睨む双子。

 我関せずといった様子でパックと戯れるベアトリス。

 

 そんな中、当事者の一人でもある桐生もまた、口を挟まずにスバルの動向を見守っている。

 

「君は私に何を望むのかぁな? 君の言う通り君たちには権利が、そして私には恩を返す義務がある。金銀財宝、酒池肉林。いかなる要求にも答えようじゃないか」

 

「男に二言はねぇな?」

 

「凄い言葉だ。いいだろう、男に二言は無い、全くその通り」

 

言葉の撤回さえ許さぬ言質を取り、いよいよ緊迫する二人を取り巻く空気。

果たして一体何を要求するのかと一同が注視する中、スバルは――

 

「よし、じゃあまず俺をこの屋敷で働かせてくれ」

 

あっさりと、そう言い切った。

 

「す、スバル……?」

 

 不愉快そうなベアトリスと、唖然とする残る女性陣、中でも驚いたのがエミリアだった。

 彼女は口をパクパクさせて困惑する。

 

「ん、なんだいエミリアたん?」

 

「な、なんだじゃなくて!」

 

 変わらぬ調子で振り向くスバルに、エミリアは思わず机を叩いて立ち上がってしまう。

 だが彼女の感情の爆発は収まらない。勢いもそのままに彼女はスバルの元へと詰め寄ると、彼の胸先へ人差し指を突き付けて捲し立てる。

 

「今もそう! パックの時もそう! ううん、私の名前を聞いた時だってそう! スバルには、カズマだってそう! 欲が無さすぎるの! 二人とも私の感謝の気持ちが全然分かってない! そんなんじゃ私、いつまでたっても恩を返せないのに……」

 

「エミリアたん……」

 

 最後には弱々しく俯いてしまうエミリアにスバルは自省する。

 彼女の感謝、そして負い目を自分はくみ取ってあげられなかったのだと。

 僅かな間気まずい空気が流れる中、ロズワールの咳払いが響く。

 

「ごほん、エミリア様のお言葉ももっともだ、私だって驚いている。……ちなみに、カズマくんの望みは?」

 

「金銀財宝ってのも魅力的ではあるが、今のところは俺もスバルと同じ望みだ」

 

「……っ!」

 

「だが、勘違いしないでくれエミリア。少なくとも俺は、打算抜きでこんな事を言ってるわけじゃねえ」

 

「……どういう、意味?」

 

「この際だからはっきり言うが、俺もスバルも今は色々と厄介な身だ。探られたくねえ腹を探られるのを避けるためには、金よりも後ろ盾が欲しいのが現状だ」

 

「なぁるほど、一理ある。そして運がいい。君達は知らないだろうが、宮廷魔術師の後ろ盾は身元の保証としてはこれ以上ないモノだ。安心すると良いエミリア様。彼の要求は私達の恩と充分に釣り合っている」

 

「なら――」

 

「だが、君らの要求を飲むのには一つだけ条件がある」

 

 唐突に突き付けられた言葉に桐生の言葉が遮られる。

 だが、その事に誰よりも驚いたのはエミリアだ。

 彼女は目を見開き、ロズワールの言う条件など想像もしていなかったといった様子だ。

 

「ちょっとロズワール!?」

 

 思わず声を荒げてしまうエミリアを横目にロズワールは言葉を続けた。

 

「まずスバルくんの願いは承った。当家の使用人として快く迎えようじゃぁないか。だが――カズマくんの願いを聞き入れる事は今は出来ないねぇ」

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「おいおい話が違うじゃねえかロズっち!」

 

「ロズワール、カズマはスバルと同じくらい私の命を助けてくれた恩人なの。なのに一体どういうつもり?」

 

 突然の拒絶の言葉に我先にと食って掛かったのはスバル。次いで真意を確かめようとエミリアが問いかける。

 対して冷静なのは桐生本人だ。

 彼は何となくではあるが、こうなる事、或いはそれに近しい状況になる事を半ば予想していた。

 さて、そんな二人の糾弾を受けたロズワールは「勘違いしないんで欲しいんだぁけど」と前置きして

 

「願いが聞けないというのはあくまでも『今は』の話さ。いやいや、金銀財宝程度なら今すぐにでもプレゼントしてあげられるんだぁけど」

 

 そう言うと彼は両脇の二人のメイドを両腕で抱き寄せた。

 

「見ての通り、当家はこの二人の働きで切り盛りしている。そしてそれはエミリア様も知っての通り生半な負担じゃぁない」

 

「つまり、これ以上客が増えると二人じゃ回らなくなるって言いたいのか?」

 

 スバルの問いに深い頷きをもって返す。

 そんなロズワールに疑問の声を上げたのは意外にも先程まで基本的に沈黙を保っていた二人のメイドの内の一人、レムであった。

 

「ロズワール様、レムは――」

 

「レム」

 

 メイドとしての矜持か、或いは見くびらないでほしいという自負か。問題は無いと言いかけたレムであったが、その言葉はラムの一言によって遮られる。

 

「姉様……」

 

「……」

 

 それきりラムは再び先程と同じ様に口を閉じる。

 そこに何かしらの思惑を感じ取ったのか、レムもまた意見を取りやめ沈黙する。

 

「もぉちろん二人なら何の問題も無いことは分かっているよ? けれど負担が大きくなるのは事実だ。まして新人が一人増えるとなるとねぇ?」

 

「あ……」

 

 気づいたエミリアは声を上げてスバルを見やる。

 その視線に首を傾げるが、ワンテンポ遅れて気づいたスバルは

 

「もしかして、俺のせい……?」

 

「そこまでは言わないけどねぇ?」

 

 白々しく否定するロズワールだったが、言いたい事はまさにそれだろう。

 

「ま、そぉいうわけだからぁ、今すぐカズマくんを受け入れるのはこの子たちの負担になる。だから、それはスバルくんがせめて半人前になるまで保留って事でどうかなぁ?」

 

「待ってロズワール、それじゃあそれまでの間カズマはどうするの?」

 

「心配ご無用、アーラム村へ手紙を送っておくからしばらくはそこの宿で滞在してもらうさ。いいかなカズマくん?」

 

「……構わねぇ、スバルがさっさと仕事を覚えてくれりゃあいい話だからな」

 

「お、おうよ! 任せてくれ叔父貴! 黄色いハンカチ掲げて待ってるぜ!」

 

 ポンと肩を叩く桐生に空元気と微妙に古いネタで応える。

 エミリアも申し訳なさそうにしているが、桐生としては全く気にはしていない。

 彼にとって気になるのは自分の処遇よりもむしろ、ロズワールの真意であった。

 

 桐生は先程のロズワールの言葉を嘘だと考えている。

 勿論負担が大きくなるのは事実だろう。だがそれはあくまでも理由付けの為に引っ張ってきた適当な理由だ。

 彼が桐生の逗留を断った理由と真意はきっと、別のところにあるはずだ。

 

 だがきっと、そんな考察さえも彼は良しとしないだろう。

 彼の発言と態度には、まるでスバルを取り巻く物語から桐生を極力排除したがっているような、そんな様子さえうかがえた。

 

(ま、考えすぎって線もあるが……)

 

 断言するには材料が少ない。

 単に桐生の考えすぎという可能性も否めないし、変人特有の気紛れという可能性も大いにある。

 

 改めて桐生は雑念を排除した瞳でロズワールを見据える。

「どうしたんだい?」と答える彼の表情には初対面で感じた警戒も嫌悪も感じさせない。客人へ対する至って普通の穏やかな表情だ。

 そこから何かしらの思惑を読み取ることは出来ない。だが、たった一つ……。

 深い深い、深淵の様な瞳だけは、道化の装いの奥にある彼の本性の一端を隠しきれていないように桐生は思えた。

 

 

 

 




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