離別の果てで、今一度。 (シー)
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神代篇
第一話:十二番目の怪物


 救われない話をしよう。
 いつかきっとに願いを託して、そのまま腐る前に潰えた願いの話を。






 混沌の中で鼓動を打つ。

 揺蕩う感覚は疑似的なもので、実際に知覚できるものは何一つ無いが、纏わりつく泥土の様な何某かは確かに存在していた。

 そこには全てがあった。全ての生命の源、その種子の全てが、混沌の塩水の中で微睡みながら揺蕩っていた。

 全てが曖昧で、知性の欠片も持ち得ない水の中。しかし、それは確かに知性を、あるいは持ちえないはずの記憶というものを保持した状態で、そこに居た。

 それを端的に表すのであれば、それは迷子と呼ばれるものだろう。幾重にも重なる平行世界の果ても果て、剪定事象の分類に放り込まれた世界に生きた矮小窮まる生命が、ビッグバンが起こる確率よりも低い可能性を掴み取り、何の因果か、死後にこの生命のプールである塩水……原初の混沌(ティアマト)の中に中途半端に溶け込んだのである。

 もちろん、ただの卑小な一生命体の魂が膨大な生命の海、地球創世記の真エーテルの中で真っ当な自我を保っていられるはずも無く、ティアマトの内部に紛れ込んだ魂はあっという間にその他の生命情報との境界を曖昧にし、魂が保持していた自我は欠片も残さず破壊された。

 しかし、記憶という情報は形骸化した魂の器にこびり付いたまま、混沌の中を『不可侵の個』として彷徨いだした。ティアマトは魂の存在を認識していたが、彼女にとって生命とは己の内側より生じるもの、つまりは生まれる前の我が子であったため、彼女は魂を『自分の中に生じた、いづれ産むべき子供』と認識した。外部からの混じり物であるとは考えなかったのだ。

 かくして、遠い世界に生きた魂は、母なるティアマトの胎の中で生まれ出る時を待つことになる。

 

 それから暫くして、ティアマトと呼称される原初の混沌、神々の母は、血ではなく毒で満たした十一体の息子を産み落とした。

 神殺しの為の化物。原父アプスーの一応の仇討ちと、愛する我が子に殺意を以って刃を向けられた悲しみの果てに狂った心で産み落とした子供たち。

 異形の姿を持つ神足らぬ子らは魔獣と呼ばれ、母の望む結末の為に生まれるや否や母の下から離れていった。

 元来は優しい女神だったティアマトの毒は、十一体の魔獣を生んだ時点で尽きた。そこでティアマトは新たな娘を、純粋に自らの混沌から生み出すことにした。

 あまりにも下らない理由から始まった家族殺しに、ティアマトの心はそうとは知らずに疲弊を感じていた。神として在るからこそ、彼女は自らの胸中にずしりと食い込む錘の存在に気付かない。重苦しい吐息を吐いて、彼女はある種の諦念を抱え込むだけ。

 精神的に追い詰められ、激情を毒を宿す息子たちに変えて吐き出した彼女は、喪失と報復で灰色に濁った心を癒してくれる存在を欲しがった。

 そしてティアマトは己の混沌……『自分の中に生じた、いづれ産むべき子供』が揺蕩う場所を掬い取り、心を込めてあらゆる生命の情報が溶けだした塩水ごと『子供』を混ぜた。

 混沌の中を泳いでいた『子供』の記憶は混ぜ合わされるごとに鮮明になり、形骸化していた魂は込められた母の力に応じて、そして自らの内に生じる力に応じて容量と格を増し、一個の器として成形される。

 曖昧に混濁し、散逸していた記憶は器の中に融け込み、他の生命と統合される。本来持ちえない記憶は与えられた性質に求められるまま、最適と思われる形質を肉体の器として提示し、混沌は示された図面の通りに血肉や骨格を形作る。

 生命を育む女神が成したものは、支配者たる男神と成したものでなければ神足りえない。だが、十一の怪物を産み落とした女神はこの十二番目に自らの血を注ぐ事で神の子と生した。

 ティアマトが産み落とした、純粋な混沌から生まれた末の神。女神が単一で生んだ、唯一無二の後継機。

 本当ならば生まれてくるはずではなかった十二番目の神格(かいぶつ)は、千の刃を鎧に纏う長大な蛇に似た姿で生まれ落ちた。

 

 原初の混沌に至り得る後継機。ティアマトとはまた違った『母体』のモデル。天地創造を成す父母の後継機。人格を持った天変地異の具現。異なる世界の理を知る稀有な神格。始まりの母(ティアマト)が存在するが故に生命の可能性を秘めたまま成長する、永遠に未完成なまま芽吹くことのない系統樹の種。

 剪定事象からの迷い子の魂が混じってしまった混沌から形作られた、神格として生まれ出でる為の生命モデル『蛇王龍(ダラ・アマデュラ)』の能力を額面通りに受け取って神代に顕現せしめた生命体。

創世を成す十四の偉業をその身に宿した、創世を成せない星の卵。

 母・ティアマトから上記の権能を受け継いだそれ(・・)は、己の持つ強大無比にして過分に過ぎる力に畏れ慄き身を震わせた。

 しかし、ダラ・アマデュラとして生まれた肉体は、否、ダラ・アマデュラの形質を得て顕現した神格は、ただの震えだけで周囲の全てを損なった。

 具体的には、生まれたばかりの己が身を自覚し、己自身に恐れ慄いた臆病で心優しい()を宥めようと首をもたげたティアマト(ははおや)の頬に傷を付けた。

 生まれては『千古不易を謳う王』、長じては『不朽不滅を謳う帝』となる生命体が神として作り直された結果、ダラ・アマデュラは文字通り決して損なわれる事のない肉体(・・・・・・・・・・・・・・)を得た。故に山肌を削り地殻変動すら起こす千刃の巨体は、己と比べることも馬鹿らしいほどより巨大で強靭な原初の混沌である母の体に一筋の傷を与えてしまう。

 神殺しの怪物を生んだ延長で生み出されたことも一因だろう。毒を満たして生まれた十一の兄たちとは比べるべくもない体躯と権能を得て生まれた妹は、神殺しを成す力をもって生まれ出でたのだ。

 

 突然頬に走った痛みに驚いたティアマト以上に、己の母を殺せる存在に生まれたダラ・アマデュラは驚愕し、そしてさらに己を恐れ、己を心配してくれた母を傷つけたことを心底悔やんで大泣きした。

 ぴゃあぴゃあと頑是ない子供の声で泣く我が子の悲痛と後悔に彩られた声に、星が降る。青白く輝く流星の雨はその一つ一つが神殺しの力を纏った凶弾だった。

 それを目にしてさらに驚いたダラ・アマデュラは、己へも母へも無差別に降り注ぐ星々に向かって身体を伸ばし、大きく口を開いて、流星と同じ色の焔を束ねた一条の熱線で星々を迎撃する。

 撃ち漏らした隕石は母に当たる前に己の身で受け、砕けた神殺しの焔は尾で振り払う。己の手で不始末にケリを付けた体に、しかし神殺しの力は全く響いていないようだった。きっとそれは、己の権能で呼び寄せたものだったが故にだろうと楽観視するには些か引っかかる結末に、ティアマトは全力で母を愛し、守ろうとした末の娘に多大なる喜悦と憐憫の感情を抱いた……抱いて、しまった。

 

 生まれたばかりの末子は、天地創造の後継機であり、天変地異の具現であり、芽吹かぬ生命モデルの母であった。

 そして何より、ティアマトが望んだ心ゆえに神として成り損ない、また神として生まれた故に不完全な人間には成りえず、竜として生きるには権能が過ぎ、神格に押し込められたが故に怪物としても堕ち損なう、そんな何者にも成り損なうが故にあらゆる致命傷から逃れられてしまう一個の生命として生まれてしまった娘を、ティアマトは心底憐れんだ。

 裏切りによって狂ったティアマトは、自分を慰めるために生み出した子供に――自愛のための被造物に、親が子を想って与えるような愛情を注ぐ理性など、この時持ち合わせていなかったから。

 故に、ティアマトは言ってしまった。千剣の肉体の守りを完璧にするための、親が肉体の次に子供に与えるべき祝福(なづけ)を飛ばして、彼女を憐れむ言葉(のろい)を吐いてしまった。

 

「――憐れな子供、お前の肉体は決して壊れず、決して朽ちず、決して変化する事のない永遠をゆく――」

「――千の刃を鎧に纏うお前の肉体は、身じろぎ一つでこの母を傷つけた――」

「――お前の叫びは凶つ星々を呼び寄せ、お前の抱く膨大な力はありとあらゆる全てを灰燼に帰してしまう――」

 

 唐突に紡がれた母の言葉に、生まれたばかりの生命は身体を強張らせ、目を見開いて母を仰ぐ。

 一筋の傷は既にないが、頬を滑る血の一滴が嫌に生々しく目に付いた。

 

「――地を成し、河を生む血肉を有し、天変地異を成し、星々を墜とす異つ星。神殺しの末仔、原初の塩水(わたし)から生まれた混沌(はは)の如きもの。不朽不滅、永遠の不壊を約束された神なる蛇龍、万物を灰燼に帰す者、混沌で形作られたが故に、万物をその身に溶かせども、何者にも成りえない……可愛い可愛い、可哀想な、(かな)しい仔――」

 

 長大なティアマトの体が、憐憫に震える。

 しかし、彼女の体躯は空間を揺らすのみで、決してダラ・アマデュラを傷つけない。

 神殺しの権能をその身に帯びない女神の鱗は、生まれた我が子とは似ても似つかないほどに滑らかだったから。

 ありとあらゆる全てを損なう為に生まれたような肉体に不釣り合いな、ティアマトと比べても優しい……甘いと言わざるを得ないような脆く儚い心の在り方は、癒しを求めた母の心に仄暗い愉悦を抱かせた。

 母を守るためならば己の身を損なう可能性を考えない(モノ)の在り方は、とても哀れで、とても稚くて、神代では考えられない程に甘い考え方は、ティアマトにとってこれ以上ない程に都合が良かったから。

 

 故に、母たるティアマトは、呪う(あわれむ)

 

 神らしくない心を持って生まれた優しい我が子を、神らしく傲慢なまでに安穏を求めてやまない頑是ない命を、憐れむことで、手元で愛玩し続けられる理由を押し付ける。

 

「――その柔い心に相応しい、脆弱な命に生まれなかった不幸を、なんとしよう。これは母の落ち度、貴女を望んでしまった……いえ、貴女の心を望んでしまった母の、間違い――」

 

 物理的な守りを成す肉体と、呪術的、あるいは思念的な力への守りとしての名を与えられる前に差し込まれた憐憫(のろい)が、ダラ・アマデュラの魂に絡みつく。

 丁寧に心を込めて紡がれたそれは、名の守りを得たとしても打ち消すことは叶わないだろう。

 なにより、今まさに丁寧に砕かれている彼女の心が、その言葉を忘れない。

 間違ったと、間違いだったと、望まれた筈の心を諦める言葉を、彼女の生まれたての魂が忘れられない。

 

「――可哀想な仔。可愛い可愛い、憐れな仔。ごめんなさい、望んでしまって。ごめんなさい、産んでしまって。ごめんなさい、殺してあげられなくて、本当にごめんなさい――」

 

 千の刃を纏う体が小さく震える。赤々と輝く瞳から光が失せ、絶望を湛えて暗がりへと落ちていく。

 見開いた瞳で()てしまった母の至純すら理解する余裕などなく、言葉の暴力の威力によって記憶の奥底へと叩き落された。

 心を千々に切り刻まれて、呼吸すら危うくなった我が子に、ティアマトはどろどろに煮詰まった慈愛(どく)を、生まれたばかりの我が子に注ぐ。

 

「――それでも、母は愛する。血脈に連なる神も殺せない(やくめもはたせない)貴女は、ただ母の手元で(わたし)のために歌っていれば良い――私の愛しい末娘、(ティアマト)の最後の子供、私の大事な『千の刃を鎧う塔の如きもの(ダラ・アマデュラ)』――」

 

 

 ティアマトの頬を滑り落ちた一滴が、いつのまにか大粒の涙を零していたダラ・アマデュラに滴り落ちる。

 表皮を滑りながら染み込んだ歓喜(のろい)が、粉々に砕けた柔らかな心を絡めとり、脆いままで在り続けなさいと囁いた。

 

――憐れなままで、可哀想な仔のままで、ずっとずっと、(いと)しいままの貴女で在ればいい。

 

 かくして、人間の心と怪物の身体を持つティアマトの十二の怪物の中でも唯一神格を持つダラ・アマデュラはメソポタミアの神秘の中で産声を上げ、母の悦びの中に囚われる事となったのである。

 

 

 







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第二話:ある兄妹の愛憐

神様だって夢を描くさ。
ただそれが叶うかどうかは他の神様との兼ね合い次第だけれどね。




 生まれ落ちた直後に与えられた言葉を脳裏で反響させながら、今日も彼女は生きていた。

 不要な枝葉として切り捨てられる世界の記憶を持って生まれた彼女にとって、魂にこびり付くそれは記憶という名の前世であり、今生は一度途切れた記憶の継続に他ならない。

 故にだろう。母に飼い殺されている現状からすれば、その前世の記憶は自分に要らない夢の残滓を見せつけるだけの害悪に他ならず、現実と夢の落差を深める要因でしかなかった。

 

 

 

 

 

 近くて遠い記憶の中で、大元の彼女は極々普通の凡愚であった。

 人であった頃のダラ・アマデュラは『××××』という凡庸な人間で、特に秀でた技はなく、自分の良い所で頭を悩ませ、欠点を聞かれれば二つ三つは特に考えないで口にできる、何処にでもいる普通の人間だった。

 外遊びは好きだが運動神経は並みで、中学高校と学年を上げていくと友達の興味関心は美容や化粧、いかに肌を焼かずに過ごすかに向き、かつてのように太陽の下で転げまわる事はなくなった。『××××』はそんな友達に合わせて童心を押し込め、対して興味のない恋愛や美容、流行のファッションの話に耳を傾けては適当に当たり障りのない返答を返す存在に終始した。

 それに伴いインドア派の一員と目されるようになった『××××』は一人でできる事柄を趣味にして興じるようになった。彼女の友達は人間から針と糸と石とピンセット、そして小さなミュージックプレイヤーになった。

 頭の中に描いた素敵なものを真っ白な紙に描き、お気に入りの音楽に作業のテンポを任せながら、指先は糸を、石を、布を操り、空想の欠片を現実に落とし込む。

 趣味は手芸と音楽鑑賞。女らしさが乏しかったお転婆娘の趣味に両親は密かに喜び、『××××』の評価は元気な子から内気な子へと変化した。

 事実、『××××』にはもう外へ向かって走っていく無邪気さは残っていなかった。成長していくにつれて見えてきた大人の世界や人の心に、平凡だが馬鹿ではなかった『××××』は持ち前の察しの良さで同年代の誰よりも早く気付いてしまった。

 知ってしまえば、もう駄目だった。昨日まで輝いていた世界が急激に色を失い、煤けた空気で覆われる。言葉の裏に隠された本音に気付いてしまえば、二度と純粋な目で人を見ることはできなくなった。

 友情を説いたその口が罵詈雑言を吐き出して親友に薄汚い色を塗り込めていく様を見せられてから、『××××』は女子の中で毒にも薬にもならない存在になるよう心掛けた。そうして自分から薄くなって煤に紛れ込むことでしか、凡庸な人間であった『××××』は自分を守ることができなかった。

 

 『××××』は平凡な人間だった。けれど一つ、ただ一つだけ、周囲にも家族にも言えない、履歴書にも書けない特技らしきものがあった。

 『××××』には、他人には見えない世界が見えた。他人には見えない世界の住人を知覚できることが、『××××』の誰にも言えない特技だった。

 彼らは一般的には幽霊や妖怪、神様、妖精、物の怪と呼ばれる類の生き物で、幼い頃はそうとは知らずによく遊んでもらったり、かと思えば興味を持たれて襲われたり、中々に濃い幼少期を過ごさせてもらった。なんでも『××××』には力があったらしい。神秘の薄れに薄れたこのご時世どころか、遥か神代の頃にも稀有とされるような、強大無比な力が。彼らが『××××』の血肉を求めたのも、『××××』と友誼を結びたがったのもその力のためであった。

 『××××』は彼らのその感情にも反応した。むしろ彼らのような自分の生死に直結する力を持つ存在がいたからこそ、『××××』の『見抜く』力は強化されていったと行って良い。

 そも、彼らのような神秘の残滓にとって、『××××』のような人間は、魂や魔力は勿論、その情動さえもが甘露であった。そのため、誰も彼もが『××××』の感情を揺り動かそうと必死になったのだ。

 あるものは不老不死という名の隷属をちらつかせ、あるものは美食家を気取って手を取り一緒になって遊んでやり、またあるものは、短絡的に手っ取り早い手段……恐怖を与えることに終始した。

 当然のように一番最後の手段をとるものが圧倒的に多かったのは、言うまでもない。

 そのため、『××××』は内気で大人しい子という評価を得た後も生傷が絶えなかった。打ち身や擦り傷は日常茶飯事で、流血沙汰は両手足の指の数を余裕で超えている。行方不明(かみかくし)もそれなりに経験しているためか、『××××』は迷子キャラが定着して迷惑そうにしていた事を覚えている。

 ほぼ死に戻りに近い状態で怪異から脱出して見せることも間々あったため、『××××』の身を案じた家族によって短い人生の後半はほとんど家から出してもらえない状況になってしまったが、それも仕方ないことだろう。

 忍耐強いが精神的に打たれ弱い『××××』が感情の処理の仕方を覚えてからは、過保護にも磨きがかかった。

 春の陽だまりのように暖かで可愛らしかった柔和な笑みが、いつの頃からか儚く透き通った、まるで死期を悟った老人の様な透明な笑みに代わってしまっていた。

 元々ため込みがちな性格だったから、泣くときは限界まで涙を堪えて、ふとした瞬間に決壊し、自分が泣いたことに焦って驚いて、怒りも悲しみも一瞬で忘れ去ってひたすらおろおろとするのに、まるで波が引くように限界手前で表情を失うようになった。

 元々喜怒哀楽の発露は緩やかで穏やかだったが、こうもあからさまに『一定以上の感情を認めない』のでは、家族が「まさか家の娘は外で、なにかよからぬ輩にしょっちゅういじめられたり悪戯されたりしているのでは?」と考えてしまうのも、仕方ないと言えば仕方ない。

 ダラ・アマデュラの姿も、その頃の記憶から抽出されている。軟禁状態の妹を案じた兄がその時の手持ちで出来る事で思いついたことが、ゲーム下手な妹に実況プレイを見せてやることだった。後々、カメラでも持って綺麗な景色を撮ってきてやったほうが良かったかと焦る事になるのだが、その時の『××××』は口下手な兄と一緒に遊べる時間ごと、彼が用意するゲームの世界を楽しんでいたため、まぁいいかと流された。

 

 こうして『××××』は年を重ねるにつれて彼らと距離を置き、人の世界へと入っていった。本能で生きているような彼らの世界は心地よかったが、命の危険と引き換えに安楽を求める程『××××』は酔狂な博打はしない。 それに、家族のいる理性の世界が『××××』の異能を排除しようと動きかねなかったのだ。怪異のような超常が跋扈する世界は、常人が理解するにはあまりにも異質過ぎた。

 徐々に遠ざかり、真白の魂に襤褸を着せていく『××××』に、彼らは嘆き悲しみ、そして閃いた。

 

「『××××』が人に成る前に」

「此方へ招いて隠して仕舞おう」

 

 そして『××××』は、齢十六でその生を終える運びとなった。向こう側の住人が意図的に引き起こした事故は『××××』の肉体を完全に破壊し、その魂を宙に飛ばした。肉の器から解放された魂は、順当に行けば彼らの手に隠され、永遠を彼らのそばで歩むはずだった。

 しかし、そうはならなかった。『××××』の魂は、現世で類まれな力を有した凡人の魂は、なんの因果か、世界の根幹、こんな枝葉の世界とは違う、継続されるべきと判断された幹の世界への穴を『見抜いて』しまった。

 神威薄れ、神秘が空想になり、あらゆる神秘の恩恵が遠くなった地獄のような苦しみの大地の中に一際輝く威容が、肉体という窮屈な器から解放された瞬間、本領を発揮した結果の発見に、『××××』は成す術も無く巻き込まれた。

 

 そうして生まれ落ちたのが、かのメソポタミア神話の世界、それも原初の混沌とも目される母なる女神ティアマトの末仔『ダラ・アマデュラ』だ。

 その『ダラ・アマデュラ』の中にある『××××』という凡庸な小娘の記憶は、全体として見れば割と煤けた色をしている。

 しかし、『××××』の見る世界は、人間は、汚くて卑小で雑多で即物的だったが……『××××』は、確かに両親から、兄から愛されていたのだ。『××××』は人間に対して苦手意識を持っていたが、決して失望してはいなかった。むしろ斜に構えたような目線でしか物事を測れなかった自分をこそ嫌悪していた。

 『××××』は、愛する人たちに愛されて育ったが故に、灰色の世界に辟易しながら、灰色に埋没することを良しとしていた。

 だからこそダラ・アマデュラは記憶を持って転生した我が身を嘆く。

 怒られることはあれども諦められることはなく、呆れられることはあれども憐れまれることの無かった『××××』の人生は……飼い殺されるままに歌を紡ぐだけの時間を送るダラ・アマデュラからすれば、その灰色は余りにも眩しすぎた。

 元々は母の疲弊した心を癒すために望まれたのだから、結果的に見れば現状は正解であるはずだ。

 唇に乗せる歌も喉を震わせる旋律も、そのほとんどは前世の記憶から生じた音だ。それを手放しに喜ぶ母の存在は、自分にとって満足のいく姿のはずだ。

 けれども、前提として望まれた心を否定された今、いくら愛する母のためとはいえ、ただ歌を紡ぐだけの存在になり下がった現状は彼女の死にかけの心を否応なしに苛むばかり。

 『視て』しまう力も神の肉体を得た事で更なる強化が施されたせいで、目と目を合わせる事を忌避し畏れるようになってしまってからは、慕う母の瞳すらまともに見返すことも出来なかった。

 その上、他の十一の兄らのように神殺しを成せるかと言えば、『××××』だったダラ・アマデュラは悄然と項垂れるしかない。

 彼女にとって、ティアマトを母とする兄弟神とその子らは血族、つまりは身内に他ならず、彼女の常識と良心に従って言うのならば、兄弟殺しも家族殺しも、彼女にとっては禁忌以外の何物でもない。

 故に彼女は役立たずの烙印を押されたのだ。末子の威容を見て神殺しに誘った兄たちも、母を超える人間じみた考え方(あまさ)に、仕方がないなと首を振って諦めた。

 母親と兄らに諦められたダラ・アマデュラは、ただ生きることしかできない現状に心を曇らせる。役割をもって生まれることが当然の神々の中で、ただ母を慰めるための歌を口ずさむだけの自分が存在していいのかと思わない日は無い。過剰なまでの力と権能を持って生まれたことが、その自己否定を加速させた。

 

 母を愛するが故に欝々としながらも呼吸を止めないダラ・アマデュラに、この日、外界から母以外の声がかかった。

 ダラ・アマデュラを溺愛するが故に強固な結界を作り、その中に彼女を押し込めたティアマトだが、子供たちとの戦いで席を外す時は必ず息子を一人彼女の傍へとおいていた。

 それは本来何物にも囚われ得ないはずのダラ・アマデュラが、万が一結界を破壊したときの伝達役であり、同時に今まさに殺し合いをしている新しい子供たちから彼女を守る守護役であった。

 ティアマトが頻繁に席を外すことは無いが、それでもティアマトを殺そうとする神々は多い。それらへの対応が息子たちでは荷が重い時は、ティアマト自らが出向くこともある。今日もそのように息子たちだけでは対応できないような戦いが起きたらしく、ティアマトは彼女の傍に十ニの子供の一柱、ギルタブリルを配置したのだった。

 神性を表す角冠に、人間の上半身と鳥の下半身、力強く羽ばたく巨大な翼に、自在に動く蠍の尾を持つ兄は、精悍な顔に備わる顎鬚を撫でながら、歪に削れた峻厳な山に巻き付く、自分よりも遥かに巨大な末の妹を見上げる。

 いかにも生気の無い様子で自己嫌悪に項垂れる彼女の様子に、十ニの子供の中では珍しく知恵者であり、真面目な性質のギルタブリルは首を捻る。

 

「何をそんなに沈んでいるのだ、十二番目の仔よ。母が居らぬは寂しいか」

 

 強固に過ぎる結界の向こうから投げかけられた疑問に、ダラ・アマデュラは首を振って否を示す。「では」とギルタブリルが口を開き「我と会うのは、気負うか」と問えば、それもまた否だと、今度は小さく口を開いて答える。

 本当の所、ギルタブリルは彼女が己の存在意義に頭を悩ませていることは知っていたが、ギルタブリルは会話することに意義を見出していたため、特に返ってくる答えに意味を求めていなかった。知恵者であるギルタブリルは、彼女が甘い考え方をすると知っている。そしてそれを捨てることが出来ない事も知っていた。

 ギルタブリルはその甘さが嫌いではなかったが、他の兄弟たちが彼女の恵まれた体躯から見てその心は不要のものだと否定する意味も、正しく理解している。優しい、といえば聞こえはいいが、この戦局において彼女の持ちえた性質は無用の物でしかない事も事実。それを口にすれば、彼女は弱弱しく透明に笑って、黙り込む。

 ……黙り込んで、小さく零れる嗚咽を噛み殺す様は、心臓に悪い。

 聞けば、ダラ・アマデュラはギルタブリルらと違ってティアマトの毒ではなく混沌から生まれた女神だと言う。であれば、強力無比な力も、堅牢に過ぎる肉体も、ある意味当然の産物と言えるだろう。

 しかし、神殺しの権能を与えられておきながら、彼女に求められたのは母を慰めるための『愛玩』。しかも、望まれて生じた筈の(やさしさ)は間違いだったと諦められたと言うではないか。

 そのうえで過剰なまでに愛され囲われる末の妹(ダラ・アマデュラ)の姿に、口々に罵詈雑言を吐き散らかしていた兄弟たちは一様に黙り込み、所在なさげに戸惑ったあと、額に青筋を浮かべた母ティアマトに追い立てられるようにして逃げ出した。

 一応、可愛い妹だとは思っているようで、時折母の眼を盗んでは一言二言、言葉を交わしているようだ。しかし、一度声高に批判した手前長居し辛いのだろう。結局、たいした言葉も交わせぬままに兄らは踵を返すのが常だった。

 ギルタブリルは、彼女の心に否を唱えなかった事から、こうして有事の際は彼女の傍で彼女と会話をする権利を得た……のだが、実際はこの神としては優しすぎて自滅の道を行く末の妹のカウンセリングだった。

 ギルタブリルとしても、この大きな妹は可愛いと思う。姿形こそ恐ろしく威厳に満ち溢れた堂々たるものだが、幼気で傷つきやすい性質が見た目を裏切るこの落差が愛しいとギルタブリルは思うのだ。

 

「ダラ・アマデュラ、お前はどうしたい。神を殺せ、とはもう言わぬが、であれば、母ティアマトへ歌を捧ぐ他にお前は何がしたい」

「どうしたいか……ですか? 私が……望むことは…………いえ、何もありません、ギルタブリルお兄様。私はお母様に歌を捧ぐ以外、成すべき事柄などありません」

 

 一瞬だけ、物思いに耽る眼に楽しげな煌めきが宿ったのに、ギルタブリルは気付く。

 常に死に体の様相で、母に歌を乞われてようやく穏やかに微笑むことが出来る妹が新たに示した好意的な反応喰いつかないのでは兄と名乗れはしまい。一も二も無く、しかし不自然ではない程度にギルタブリルは食いついた。

 

「何を言うか。成すべき事柄は成すべきだが、それは義務というものだ。義務や使命といった行動以外が悉く制限される我等ではあるまい。我等十一の兄も、戦う以外の享楽を知っているぞ」

 

 お前が望むのであれば、それは須らく叶えよう。そうギルタブリルが言えば、ダラ・アマデュラは不意打ちを喰らったかのように身体を硬直させ、まじまじと得意げな顔をする兄を見下ろす。

 まるでそのような事考えたことすらなかったとでも言うような様子に、今度はギルタブリルが面食らう。

 まさかとは思うが、母ティアマトはダラ・アマデュラに歌以外の声を求めたことがないのだろうかと不穏な考えが脳裏を過った。それを邪推だと一笑に伏すには、妹の憔悴があまりにも哀れだったのだ。

 

「神殺しの義務も果たせない私が、そのような事を望むなんて……余りにも厚かましいことです。私には、それを望む資格がありません……」

「お前は義務を果たしているではないか。その……それを義務と言えば、お前を蔑ろにしているようで気が咎めるが、少なくともお前は無用の存在ではない。お前の存在は確実に母を癒している。お前の歌声は我等も認めるほどに尊く素晴らしいものだ。それは誇るべき事柄で、決して捨て置かれるべきではない」

「ですが、ギルタブリルお兄様……私は、私の体は、あらゆる全てに害をなすものでしかありません。そんな私が、何を望んでも……それは決して、手に入ることはないでしょう」

 

 悲しそうに苦笑する妹に、息を呑む。

 まさか、と動く口がからからに乾いて、喉がひりついた。彼女の答えが予想通りならば、自分が今から口にする言葉は、きっと彼女の心を傷つけてしまうだろう。

 けれども。

 

「まさか、お前は外に出たいのか。外に出て、我らのように自由に歩き回りたいと、そう願うのか」

 

 聞くべきではない、そう思ったが、問わずにはいられなかった質問に、案の定妹は恥じ入るように後悔と諦念を滲ませた声で謝罪の言葉を口にした。高望みが過ぎましたと、己の夢を静かに磨り潰して、殺す。

 余りにも手慣れた様子で心を殺し続ける妹の痛ましい姿に、ギルタブリルは天を仰いで己の無力を恥じた。

 自分では、母たるティアマトのように彼女の身体を守り抜くことも、母たるティアマトから彼女の心を守ることも出来ないどころか、細やかで小さな彼女の願いも叶えられない。

 そして自分に彼女の願いを拾えるだけの力があったとして、それで彼女が救えるかと言えば、それは否だということも、理解した。理解してしまった。自分に妹は救えない。妹は誰かに救われる事を信じない。

 

――何故ならダラ・アマデュラは、母ティアマトに『可哀想な、憐れまれて然るべき哀しい仔』で在れと望まれ(のろわれ)ているのだから。

 

「我らの様に在るがまま振る舞うを良しとする神にとって、忍耐は身体に毒だとお前は言ったではないか! お前も神の一柱なれば、お前もまた在るがままに振る舞って然るべき存在だ。故にその忍耐はお前にとって毒だ。早々に吐き出してしまえ! お前にはそれが許されている!」

 

 呪われているから、望まれているから、ただただ純粋な憐憫と愛情で以て、その魂を縛られているから。

 だから、ダラ・アマデュラは救われず、報われない。望みのままに、望まれるがままに、哀れで在り続けるしかない。

 それでも吐き出さずには居れない激情染みた慟哭に、ダラ・アマデュラは心底嬉しそうに囁くのだ。

 兄の嘆きを、自分に向けられる心配を、望外の幸福だとでも言うように、花が咲くような声で喜ぶのだ。

 

「私が耐える事を止めれば、私の千刃はあらゆる全てを切り裂きます。私の叫びは星を落とし、お母様や兄弟たちに降り注ぐでしょう。私の心が燃え盛るのならば、その炎は万物を灰燼へと帰す劫火となるのです……そもそも、私が少し身じろいだだけでも、お母様のお体に傷を付けてしまえるのです。千古不易を謳い、不朽不滅を成すこの身を……死ねもしないこの私を殺せる術がない限り、私は耐えるしかないのです…………申し訳ありません、ギルタブリルお兄様。貴方様の御心はとても嬉しいのですが、私にはその御心に適う返礼ができないのです」

 

 喜んでいたのに、途端に項垂れる健気な妹にギルタブリルはついに両手で顔を覆い、心の中で母を詰った。

 何故望んだ、何故諦めた、あまりに哀れが過ぎたとしても、母たる貴女に否定されてしまえば、生まれたばかりの頑是ない子供は何を指針に生きれば良い。否定した本人に拾われ、愛玩され、自由すら奪われるのならば、一度諦めて否定された心の行き場は何処だ。

 優しさ故に諦められたのに、拾われてしまっては棄てられたと怨み憎むことも出来ない。

 優しさ故に怒りを抱くことも出来ずにいるのに、素直に捨てられていれば得られたはずの自由も、愛し愛されるが故に憧れのままで末仔を苛む。

 八方ふさがりで行き場のないダラ・アマデュラの現状への諦念と自己嫌悪に、ギルタブリルは思い至らなかった己をも詰った。

 

「母ティアマトは我らに毒の血液を注ぎ、神殺しとしたが……そうか、母より望まれた心が、お前の本質そのものが……他でもない、お前を殺す毒なのか」

 

――それは、あまりにも、非情だ。

 

 血を吐くように溢された言葉に――ダラ・アマデュラは、笑った。

 その笑顔は余りにも悲しく、力なく、そして儚い笑みだった。

 

 今にも消えてしまいそうな、ひどく淡い笑みだった。

 

 ギルタブリルは、初めて感じる遣る瀬無さに、生まれて初めて涙を零した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 此度でティアマトの命運は尽きるとも知らず、末の妹は健気に己を慕う。

 その無垢な心を裏切る事になった己の罪過の重さを感じながら、ギルタブリルは静かに絶望を噛みしめる。

 既に己がマルドゥク神の前に膝を折った事を……己が母ティアマトとダラ・アマデュラを裏切った事を知れば、この嫋やかな女神の失意は想像してなお余りあるだろう。

 

 これも母ティアマトの呪いの内かと、ギルタブリルは不意に笑顔を凍りつかせた妹を前にして、思う。

 

 好意がすれ違ってしまった兄と妹の耳には、悲痛に彩られた断末魔が聞こえていた。

 

 



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第三話:神話の決着

事の顛末をここに記しておこう。
といっても、まだ物語は始まったばかりだけれど。
どうせ短いお話だ、ちょっと端折っても長さはそう変わらないさ。





 事の発端は、原父アプスーが新世代の神々の騒々しさに耐えられず、彼の神々の殺害の企てた事だった。

 真水の神アプスーは新しい神々を殺そうとしたが、知恵の神エアの計略によって逆に反旗を翻されて殺された。世界の支配権を得た新しい神々に、しかしティアマトは彼らの行いを容認した。全ては子供たちへの愛ゆえの承認であった。

 だが、神々はティアマトの慈愛すら足蹴にして、母に向かって剣の切っ先を向けた。新しい神々は、古き神である母の存在を認めなかった。

 愛した子供たちに裏切られたティアマトの悲しみは凄まじく、彼女は嘆き狂い、己の毒から新たに十一の魔獣……神殺しのための怪物を産み、新しい神々との対決に乗り出した。

 そして、今日、キングゥがマルドゥクの威容に屈したことで十一の魔獣の全てが下され、ついにティアマトが表舞台へと躍り出る。

 勿論、そこに十二番目の子供の姿は無い。

 マルドゥクは己の策(ギルタブリル)が十全に成った事を喜びながらティアマトと対峙した。

 原初の神との戦いは熾烈を極めたが、ティアマトが大口を開けてマルドゥクを飲み込まんとした時、ここが攻め時と見定めたマルドゥクの操る烈風によって口を閉じられなくなり、その隙を突かれ、ティアマトの心臓は彼が放った矢に射抜かれ、絶命した。

 

 絶命の瞬間、ティアマトは断末魔を上げた。

 悲痛に彩られたその咆哮は世界の果てまで響き渡り、母の編み上げた結界内で小さな幸せに笑みを溢していた愛娘へと届く。

 竪琴を荒々しく掻きならしたような悲鳴だった。苦しげで、哀しげで、深い絶望と憤怒を秘めた絶叫だった。

 

 自らを裏切った子供たちに、母を容赦なく切り捨てた子供たちに対する、失望の音色だった。

 

 神話に語られる創世は、ティアマトの亡骸によってなされた。

 威容に屈したキングゥの血は神々の労働を代替する『人間』の創造に。子を想い子に殺された母ティアマトは『天地』の創造に。

 二つに裂かれた母の亡骸は天と地になり、豊かな乳房は山になり、慈愛に溢れていた双眸からはチグリス川とユーフラテス川が生じた。

 しかし、ティアマトの死後、その亡骸が二つに裂かれる前に、もう一つ戦いが生じた。

 母の作り出した檻から猛然と飛び出したダラ・アマデュラが、ティアマトの亡骸に手をかける神々を払いのけ、七夜八日ティアマトの亡骸を守り通したのだ。

 ダラ・アマデュラはただ守りに徹し、決して自ら手を出すことは無かった。慕う兄を斃され、信じていた兄に裏切られ、愛する母を殺されてなお、彼女の心は憎悪を抱くには弱すぎて、憤怒に身を任せるには理性が勝ちすぎた。

 難儀な在り方を強いられたダラ・アマデュラの絶望は神殺しの焔を纏った凶つ星を呼び、近付こうとする神々を遠ざけた。

 制御もままならない憤怒の焔が胸から溢れるのなんとか抑えようとしながら、散った燐光で放たれる風や水、炎を防ぐ。

 ただ在るだけで全てを威圧して止まない巨躯と備わる剣鱗は、雨のように降り注ぐ矢や槍や剣撃の全てを弾き、そして破壊する。総力戦に持ちこんだ七日目の夜には、呼ばう星から眷属として竜を成して見せ、数多の権能への牽制とする。

 

 その間に成された問答で、ダラ・アマデュラはただひたすらにこれ以上同族の血を流すことの無為を説くことと、母の亡骸を辱める意義を問う事に終始した。

 向けられた回答が罵声交じりの嘲弄や、母を無用の長物と呼ぶ心無い言葉だったとしても、彼女はただ一人、母の為にと身体を張って言葉を尽くした。

 言語によって旧神側(混沌)新神側(秩序)が対立したのはこの時である。曖昧模糊とした世界からの脱却は武力衝突から始まり、対話によって体系化されたのだが、結末は後味の悪いものに終わる。

 

 ただ一心不乱に母の亡骸を辱められまいと己が身を以って防衛に努めていたダラ・アマデュラだったが、八日目の朝、マルドゥクに下った兄らの命を人質にされたことで不意を突かれ、母の亡骸を奪われてしまった。

 善は急げとばかりに勢いよく引き裂かれる母の姿に、遂にダラ・アマデュラの絶望は奈落の底を抜け、銀の鱗は白金に煌めき、青く美しかった剣鱗は不穏に輝く赤に染まり、迸る絶叫は未だ天にならぬ空漠を焼いた。

 砂粒のように砕かれた心で言葉にならない痛みを吐き出すダラ・アマデュラだったが、駆け付けたギルタブリルの「母ティアマトは今や天地となった。お前が暴れれば暴れる程、母の亡骸は削られ、砕け、燃やされるだろう」という言葉によって絶叫を飲み込み、焔を胸の内に押し込み、身体の内側で暴れ狂う激情を心ごと押し殺してみせた。

 ぴたりと止んだ神殺しの力に、神々は好機とばかりに彼女の体にありったけの暴威を振るうが、それでもダラ・アマデュラの鱗は固く、鱗の一枚も剥がれず、結局神々が疲労困憊するだけに終わる。

 そこで神々は一計を案じ、もはや生きる気力など絶無と言わんばかりに昏い眼をして項垂れるダラ・アマデュラを、もう一度ティアマトが作った檻の中へと封じる事にした。その際、彼女の眷属である凶つ星はアヌの支配下にある星々の兵が監視することになった。

 しかし、ティアマト亡き今、壊れた檻の中に……それも封じとしての意味など殆どなかった籠の中にダラ・アマデュラを封じられるのかと言えば、当然のごとく否である。故に、神々は秩序を以って彼女を一所に留める事にしたのだ。

 まず第一に、ダラ・アマデュラは神々の許可なく檻を離れる事を禁じられた。そして第二に、彼女が生まれ持つ、役割を必要としない権能、つまり混沌の使用による生命創造、恣意的な天変地異の発生といった権能は禁止された。

 凶つ星の招来と眷属化、万物を灰燼に帰す炎と神殺しの肉体も徹底的に封じるべきだと神々は声高に叫んだが、下った兄らの懇願と、何より千剣の肉体をどうこうできる力量を持つ神が一柱も居なかった事から、完全禁止ではなく『ダラ・アマデュラと神々の間で約定を交わし、それを神々の側が犯したとき以外は禁止とする』とされた。

 一応、役割として得た権能である歌は、特に禁じられたわけではないのだが、精神的に徹底的に打ちのめされたダラ・アマデュラに他者を慰める余裕も自分を鼓舞する気力も無い。

 失意に沈むダラ・アマデュラと疲労困憊した神々が交わした約定は、ただ一つ。

 

「如何なる理由があろうとも、蛇帝龍(ダラ・アマデュラ)の庇護下にある者、友誼を結んだ者、信頼関係にある者を傷付け、貶め、損なう事があり、それが神々の恣意的に齎された直接的ないしは間接的な介入によるものなれば、千の刃に掛かる戒めの全ては意味を失う」

 

 数十年、数百年経とうとも、決して破られないだろう約定だった。千剣を纏う蛇龍の住まう檻は、峻厳を極めた山中深くに存在するものだったから。

 故に神々は安堵していた。たったこれだけの何てことない約定一つでかの威容を封じ込めるのならばと、安心しきって、慢心しきって、そして忘れたのだ。

 しかし、ギルタブリルら神殺しの兄弟は警戒し、悲観し、そして決して忘れなかった。

 

 神話に語られる事の無い、もうひとつの事の顛末。

 天地創世の概念のみを借用して成された大地の果て、母なるティアマトの真の玉体は裏側の世界ですらない、虚数世界へと捨てられ、封じられた。不要な物として廃棄されたティアマトは、失意の底で啜り泣く。

 その母に向かって、ただ一柱、ダラ・アマデュラだけが拙い声で母を呼び、戒められた身体を震わせ這いずり、太く短く剣呑な腕を精一杯伸ばしてすがった。

 全身で泣きながら母を呼ぶ幼子に、一瞬ーーそう、ほんの一瞬だけ、ティアマトの眼に理性が灯った。

 愛玩に貶めた我が子の、そうと知りながらも母を愛してやまない哀れな有り様に、ティアマトは背筋が震えるほどの歓喜と後悔、それ以上の愛を懐く。

 けれど全ては遅きに失した。母の呪詛は今更解けるようなものでもなく、理性に認められ芽生えた真の愛も、永久に別たれる二柱の間には傷しか生まない。

 けれども、と母は、怪物の兄たちは、末の妹は手を伸ばす。

 決して届かない手と手の間に、確かに繋がる何かは在ると信じて。

 

 そうして虚数世界へと消えた母を見送った兄たちは、今度こそ心を閉ざした妹を見上げて、思う。

 育つ事すら許されない、この哀れに過ぎる妹に掛けられた母の呪詛は、呪った当人が消えたからと言って解かれる類のものではないと。

 その慈愛は、色形、対象こそ違えど、喪失を恐れ哀しむ心から発せられたもの故に……今この瞬間、妹に愛を向けた母自身が失われたことで完成したが故に――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――失うべき他者の存在が、必要不可欠であることを。

 

 

 



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第四話:無辜の虜囚

思った以上に長くなりそうだ。
これでは色々と都合が悪い。
よし、ここはちょっとズルをして、未来の言葉を借りようじゃないか。





メソポタミア神話『千の剣を鎧う女神』翻訳・解釈小説『報われない話』概略

 

 

 後世において、悲劇の物語と称される説話や伝承、物語は数多く存在する。それだけ人間が悲劇というものに愛着をもつが故に、その悲しみの種類は多岐にわたり、また復讐劇や愛憎劇といった新たな物語への架け橋と成る。

 そんな数多の悲喜交々の物語の中、『最古の悲劇』と称される神話がある。

 勿論、数千年前、数万年前といった具体的な数字を示すものではなく、あくまで現存する物語の中で文章として残っている物の内で最も古いもの、という意味だ。

 神話の名はメソポタミア神話。原初の悲劇を綴った粘土板は、最古の英雄譚『ギルガメシュ叙事詩』と同時期に同じ地域で出土した。古来においては『すべてを見たるひと』と呼ばれていた十二枚の粘土板から成る英雄譚に比べ、原初の悲劇を綴った粘土板は女神の生誕と持ち得る権能や特徴で一枚、女神の辿った道筋をその末路まで綴った三枚、合計四枚と、少ない枚数で完結する。

 とある女神に降りかかった八度の裏切りと喪失を描くその物語は、物語と言うには事務的な文体で書かれていたが、五度目と七度目、そして八度目の最後の裏切りと喪失はギルガメシュ叙事詩と完全にリンクしていたため、そこから類推する形で悲劇は紐解かれた。

 

 物語の冒頭を題名と見做す習わしから言うのならば、その神話の名は『千の剣を鎧う女神』。

 

 後世、耳馴染みの良くなった通名を挙げるのならば、その悲劇の神話を万民に広める切っ掛けとなった小説の題名から――『報われない話』と、そう、呼ばれている。

 

 かの女神に降りかかる災難は、生まれた瞬間から始まっていたといっても過言ではない。

 原初の混沌、あらゆる生命が融けた塩水である女神ティアマトから生まれた女神は、いわばティアマトの下位互換とでも言うべきスペックを所持していたと考えられる。ティアマトの毒ではなく混沌から生じたかの蛇龍はティアマトとはまた違った『母体』であり、天地創造の後継機であり、新たな生命の可能性を秘めた系統樹の種であり、母なる混沌を擁する女神であるが故に、既に母たるティアマトの存在する神話世界において、彼女はそれらに成りえる資格を持ちながら、決してそう成れない宿命を負っていた。

 その上、母ティアマトが望んだ心故に天変地異の具象としてはちぐはぐで、神としても成り損ないの部類に入る。そして神格を持って生まれたために人間らしい優柔不断な心根は否定され続け、蛇としても龍としても、そう生きるには過ぎた権能故にただの一生命でも在れず、怪物としても堕ち損なう。

 『蛇王龍』の異称すら、王として持ちえた筈の権力も地位も、既に別の蛇体の神のものとなっていた為、実権を伴わない象徴的な位、『蛇帝龍』の位に押し込められ、その威容による圧倒的な畏怖によってただただ信奉されるだけの存在に成り上がった(・・・・)

 それに伴い、ありとあらゆる虚偽を看破し、真実を見定め、千里眼とも称された瞳、万物を睥睨し、心胆を据えた者でなければ呑まれてしまう威容を宿す蛇王龍の睨眼も位階を上げ、直視した者の心臓を鷲掴みにするような威圧感に満ち満ちてしまい、並の人間ならば真を見抜かれると同時に一瞥で心を壊されるような眼光を放つようになってしまったという。

 これによって女神への畏敬は強められ、敗者側の神格とは信じられない程に重要視された。彼女に関しては日本の『祟り神』への信仰に近いものを感じる。要するに『信じ、崇め、奉らせ、慰霊に勤め、神の位階を与えるから大人しくしていて欲しい。祟らないで欲しい』という意図で以て、ダラ・アマデュラという女神は信仰されるのだ。

 万物の長たるに相応しい何者にも通じるが、真実それらと定義し、一つの型に納める事が出来ない何者か。そのような者であるが故に、彼女の強靭極まる肉体以上に強固な概念、ないしは理と呼称できる超常的な宇宙の法則によって、彼女は竜殺しでも神殺しでも命を落とすことは無い。何者にも成り損なうが故にあらゆる致命傷から逃れられてしまうのだ。

 その上で彼女の悲劇を生み出す最大の要因と成ったのが、女神ティアマトが彼女に与えた憐憫という名の呪いである。

 『憐れなままで、可哀想な仔のままで、ずっとずっと、(いと)しいままで在りなさい』。

 原初の神の呪詛は、ティアマトが死した後も効力を発揮し続けた。心の底から、本心から発せられた呪詛は、彼女をより哀れむために他者の存在を必要とする。

 女神ティアマトが思う最も悲しい事は、哀れだと感じる事は『裏切られること』であった。

 故にこそ、ティアマトの呪いは他者を彼女の下へと呼び続けた。

 

――娘が好意を抱く者があれば、その者は彼女の心に傷を付けられるでしょう。

――もしも娘と心を交わした者があれば、その者は一度だけ彼女の身体に傷跡を残す権利が与えられて。

――もし、もし万が一、娘と情を交わせる者があるならば、その者にこそ、生殺与奪は委ねられる。

――これこそ、何にも侵される事のない娘に許された、とても残酷な死への希望。

――信じ愛する者の裏切り以上に、哀れな事などないでしょう?

 

 これが、愛する我が子に裏切られたティアマトが、娘であるダラ・アマデュラに強いた呪い。

 壊れず、損なわれず、変わらず、死なず、永久に滅びない存在であるはずのダラ・アマデュラに与えられたそれは、不死殺しの武器や権能(きぼう)の手から彼女を遠ざける要因ともなってしまった。

 つまるところ、彼女に与えられる死とは、愛する者からのみ与えられる、そう決定付けられてしまったのだ。

 これこそが、生まれた瞬間から彼女に約束された哀れな末路への第一歩である。

 

(中略)

 

 さて、序盤で述べたが、裏切りの系譜をここで一度おさらいしておこう。

 まず一番最初の裏切りは何度も述べた通り、ダラ・アマデュラの母、女神ティアマトによって行われた。

 原本である粘土板にも詳細は書かれておらず、かの女神も裏切ったという意識は無かったようであるが、『ギルガメシュ叙事詩』から僅かばかりの解釈の余地を与えられた『何も残らない話』では、生まれた直後に与えられた呪いの言葉、つまり生誕の否定を裏切りと捉え、これを一番目の裏切りに挙げている。

 つまり一番最初の裏切り者は『愛する母親』で、失ったものは『生まれた意味』である。

 ほとんどその身一つしか持ち物の無い女神から欠落していくのは、そういった概念的な形の無いものの他、他者の生命といったものまで含まれる。そしてそのいずれもが残酷に、無残に彼女の手から零れ落ちる。

 こういった悲劇の主役に生粋の神が選ばれるのは珍しい事で、なかでもこの女神のように何度も何度も僅かに持ち上げては奈落の底まで落とす、といった風に語られるものはそうそう無い。

 救いを見せた瞬間、僅かな心の高揚ごと強かに地に叩き付ける無残な仕打ちは、思わず「彼女が一体何をした!」と天を仰がずにはいられない。

 一番目は母親から、そして二番目の裏切りもまた、肉親の手によって与えられる。

 二番目の裏切り者は『信頼する兄』であったギルタブリルで、失ったものはメソポタミア神話で語られる通り『愛する母親の命』と『権能の自由』である。

 これらについては前節にて解説したため、ここでは割愛させていただくが、望んで良いと言ってくれた一番最初の存在に裏切られた彼女の結末は、何ともすっきりしないものになったという事だけは述べておく。

 

 さて、三度目の裏切りだが、これは神々の想定を覆し、約定の無効化を匂わせる一手となった出来事でもある。

 これ以降の裏切りは、神々ではなく人間が主体となってなされるのだが、彼ら彼女らの裏切りは常に、裏切る側である自分自身の心をも裏切った。

 そう、この『千の剣を鎧う女神』における裏切りの大部分は、数多の裏切りの物語の中でも珍しく、裏切った側にも同情の声が寄せられる程、切なく悲しい裏切りなのだ。

 その先駆けと成る第三の裏切りも、誰が悪い、と一言で言ってしまうには含む部分がある。

 愛する母を失い、信じた兄弟に裏切られ、大事な眷属は封じられ、その身を一所に拘束されたダラ・アマデュラは、失意の内にあった。峻厳な山々に囲まれた過酷な大地で、漫然とそこに在るだけの存在になり下がった女神の、その一瞥だけで万民の生命を儚くさせてしまう瞳に光は宿らず、伏せた眼窩には昏い絶望だけが横たわる。

 毎日口ずさんでいた筈の旋律は、もう二度と彼女の口から溢れることは無いだろうと、その時までは誰もがそう思っていたのだ。

 しかしある日、彼女の元を訪れる人影があった。山々の尾根を通り抜けて来たのだと朗らかに笑ったその青年は、満身創痍の身体に幾重にも傷を残しながら、遥か高みで首をもたげるダラ・アマデュラに向かって固い掌を差し向けた。

 青年の行動は蛮勇であった。古代メソポタミアにおいて蛇と牛は特別な意味を持つ聖獣であり、強大無比な力を誇る獣であった。青年もそれは骨身に染みて理解していたはずなのだが、どこでその反骨精神を培ったのか、彼は神々が束になって死力を尽くしても敵わなかった蛇龍を一目見に来たのだ。

 青年の名はドゥルバル。結び目(dur)開く(bar)者を意味する名を冠する彼が彼女の下へ至ったのはある意味必然かもしれない。

 屈託のない笑みで手を差し向けたドゥルバルにダラ・アマデュラは瞠目し、次いで山に絡みついているために動かせない腕の代わりにそろりと巨大な尾を動かし、触れても身を損なう事のない剣鱗の腹を差し向けたという。

 こうして考えなし故にダラ・アマデュラの度肝を抜いて見せた青年と、失意の底にあった女神の交流は始まったのだが、その詳細を粘土板から窺い知ることは出来ない。

 四枚程度の粘土板に纏められた女神の話は簡潔で、彼らの交流も三行の内に納められてしまっている。

 曰く「ドゥルバルはダラ・アマデュラの住める峻厳の尾根に家を構え、そこに住まいながらかの女神に自らの旅路を語って聞かせた。その返礼にダラ・アマデュラは久しく忘れていた歌を唇に乗せ、ドゥルバルの旅路を讃え、その疲労を癒した。その内に女神と青年は、友となっていた」そうだ。

 翻訳叙事詩(というには些か感情的なきらいがあるため、私は密かに翻訳小説と呼んでいる)である『報われない話』では、「神を相手にするには考えられない程に無礼な振る舞いが、ダラ・アマデュラには心地よかった。市井の出らしく、粗野で率直だが飾らない言葉、身振り手振りといった大雑把な態度に表れる気安さが、彼女にとっては新鮮で、なにより真っ直ぐ心に届いた。」と、彼らの交流を描いている。

 一番最初の、なんの呵責もない会話というものは、彼女にどれほどの歓喜を抱かせただろう。叙事詩では言葉を尽くしてその喜びが語られているが、粘土板ではご覧の簡素さ。しかし、なにも叙事詩が大げさに誇張している訳ではないと解るのは、その後に待ち構えている裏切りに打ちひしがれるダラ・アマデュラの描写が、簡潔ながらも密接な関係を匂わせる風であるからだ。

 山を越え、神々の約定を超えてきた青年は、哀れな境遇の女神と友誼を結び、そして病に伏せていた妹のために、不朽不滅を成すダラ・アマデュラの血肉に万能の霊薬という効能を求めて透かし視てしまったのだ。

 勿論、ダラ・アマデュラの血肉にそんな効果はない。彼女の身体は世界・生命の礎にこそなれるが、万能の霊薬というには生命力に満ち溢れすぎている。基本的に掠り傷すら付かない肉体を持つ神の血を受けて、人のままでいられるはずがない。

 それでもドゥルバルは弩に手を伸ばした。在りもしない可能性に縋って、病床に伏せる妹の為、無二の友に向けて弓を引いた。

 涙を流しながら放った弓は、狙い違わず彼女の胸に突き刺さった。しかし、ティアマトの紡いだ呪詛によって傷ついた身体は流血こそ許したものの、その鼓動を止めるには至らなかった。ドゥルバルは彼女にとって心を交わした者であり、情を交わした者ではなかったからだ。

 この記述によって、ダラ・アマデュラを殺し得るものがダラ・アマデュラの『伴侶』のみと判明したのだが、それは一度置いておく。

 ドゥルバルの裏切りの理由を知ったダラ・アマデュラは、傷心し呆然としながらもその罪過を許した。家族の為に辛い選択をした彼に、かの女神は尊敬の念すら抱いたという。

 けれども流される血の赤色に、陰った瞳に、身体も心も傷付けたことを理解したドゥルバルは、その赦しに頭を振って泣き喚いたとされている。良心の呵責に耐えられなかった彼は、血に濡れた鱗を抱えて山を去った。その退去こそ、何よりダラ・アマデュラを傷つける所業だと知っていたにも関わらず、彼は己が犯した罪に耐え兼ね、自分を赦した慈悲深い女神から逃げたのだ。

 これが第三の裏切り。希望を魅せつけ、そっと陰って消えた鮮やかな友情の残照は、ダラ・アマデュラに孤独の冷たさを知らしめた。

 

 それからも、彼女は裏切られた。

 四度目の裏切りは、死にたがりの兵士・シュガルによって齎された。仕えた主人の後ろ暗い秘密を知ってしまった彼は、主人から追手を差し向けられ、信じていた同僚から裏切られ、這う這うの体でダラ・アマデュラの住まう千剣の山まで落ち延びた。

 裏切りを経験した者同士である彼らの交流は、傷を舐め合う獣のようにもの哀しくはあったが、まるで父と子の間柄のような穏やかなものだったという。そこにドゥルバルとの対話のように底抜けの明るさや煌めく陽のような楽しさは無かったと想像する。しかし、きっと傷付いた二人の間には優しい時間が流れていたと私は信じたい。

 では裏切られた者同士であるはずのシュガルが、どのようにしてダラ・アマデュラを裏切ったのか。

 シュガルがダラ・アマデュラの下に辿り着くまでに負った傷が悪化し、病を患ったことが、彼を裏切りに走らせた原因であり、彼を追って主人の手の者がダラ・アマデュラの元までやってこようとしていると、遠くを見晴らすダラ・アマデュラに告げられたことが決め手であった。

 事の経緯を思えば、彼の裏切りはある種の優しさでもあったのだろう。ダラ・アマデュラは追手から彼を匿うつもりでいたのだが、病に侵されていたシュガルは己の死期を今と定めてしまった。

 故に、彼はダラ・アマデュラに向かって大剣を振りかざし、その剣鱗を僅かに削り取ったのだ。そして、ダラ・アマデュラが彼の死を気負わぬようにと、思いつく限りの罵詈雑言を彼女に向かって投げつけ、欠けさせた鱗を「せいぜい高く売り払ってやる」と背を向けた。

 全てを見抜くダラ・アマデュラは、当然シュガルの心を伴わない、形だけの裏切りに気付いていた。これは裏切りでも何でもないと、ダラ・アマデュラは彼の捨て身の優しさに哀しみ、血を吐くような声で呻いたという。

 けれども、既に述べた通り、ダラ・アマデュラは神々との約定によってその身を拘束されていた。神が絡まなければ山から離れる事すらできない彼女に、死に向かって遠ざかっていく友を留める術は無い。

 ダラ・アマデュラは数多の言葉を尽くして彼を引き留めようとしたが、既に覚悟を決めたシュガルは、ただ一言、己が欠けさせた剣鱗、大剣の如きその欠片を墓標にさせてほしいと振り向きもせずに言い放ち、そのまま山を離れ、死闘の末に鱗の大剣を抱いたまま山間の谷に身を投げて死んだ。

 千剣の山の上からその様を見ていたダラ・アマデュラは声なき声で友の名を叫び、心臓を振り絞るように泣き続けた。

 約定によって戒められた肉体を引き千切らんばかりの慟哭に、けれど神々は気付かない。どれだけ喉を嗄らしても、大気はか細く震えるだけで、彼女の悲痛を誰かに届けることなどできなかったのだ。

 もしもこの時、彼女の叫びが世界を渡っていたのならば、五度目以降の裏切りは無かったかもしれない。

 しかし、神々によって戒められた激情は、ついぞ誰の耳にも届くことは無かった。

 そうして起きた五度目の裏切りは、シュガルの追手であったある兵士が齎したダラ・アマデュラの鱗の大剣の話によって導かれた。

 死兵と化したシュガルからなんとか逃げ延びた兵士が語った、世にも稀な美しさを持つ不壊の剣鱗の話に、ある女神が興味を持ってしまったのだ。

 メソポタミア神話における愛と美の女神であり、その他に戦や豊穣、王権といった多くの強力な神性を司る女神、イシュタルの関心を引いてしまった。

 創世神話『エヌマ・エリシュ』に語られこそしなかったものの、アヌやエンリル、エアといったシュメールにおける最上位の神々に勝るとも劣らない信仰を受けた女神は、此の世の至宝とでも言うべき美しさを有していた。それは司るものから見ても当然わかるものだろう。かの女神はローマ神話のウェヌス、ギリシア神話のアフロディーテといった名だたる美貌の女神の原型ともされている。

 水神アヌの娘であり、双子の兄に太陽神シャマシュ、姉に冥界の支配者エレシュキガルを持つ――辿ればダラ・アマデュラの姉に相当する女神イシュタルは、自身の持つ『(イシュタル)』の名のように煌めく白金の鱗を欲し、120人の恋人に代わる代わる閨で囁いたのだ。

 

「生命の息吹の薄い山々の奥深く、千剣の山に住む蛇帝龍(ダラ・アマデュラ)の輝く鱗を、私に捧げなさい」

 

 愛情を持たれている内は良いが、冷めた時は惨たらしい末路が約束される女神からのおねだりに、男たちは嬉々として、あるいは恐々としながら、イシュタルのためにと山へと足を向けた。

 しかし、イシュタルは忘れていたのだ。創世神話の神々、英雄神マルドゥクですら傷一つ付けられなかった永遠の象徴に神々が手を伸ばす意味を。ダラ・アマデュラは創世神話以降、役割らしい役割すら与えられずに神話世界の片隅に存在していただけの神格だ。強いて役割を挙げるとするのならば、それは『限定された条件下での報復行動』と『歌を歌い音楽を奏でること』―神事に携わる許可―だろう。それも特に発揮されずにいたのだから、新しい神格の中にはダラ・アマデュラの不朽不滅の肉体や神殺しの力はすでに衰えたと思う者もいた。

 イシュタルもまた、それらの神格の内の一柱だったのだ。神々すら畏れるエビフ山を下したイシュタルは増長し、慢心していた。

 ダラ・アマデュラの不壊の鱗が剥がされた事実が彼女の背を後押しした。伝え聞く常軌を逸した総力戦の様子は未だに背筋を震わせるものだが、それ以上にあの美しい鱗が手に入るか否かがイシュタルにとっては重要だった。そこにダラ・アマデュラが妹だとか、そういう情や感傷は存在しなかった。

 故に、120人の恋人の内、心根が優しく気性が穏やかだった楽師の青年・バッバルフとダラ・アマデュラが意気投合し、歌と音楽を通じて親友になる事を想定していなかったのだ。

 バッバルフは他の恋人たちと違い、自分がダラ・アマデュラの下へと訪れた理由を最初から彼女に説明していた。「私の大切な、とても美しい方の為に、貴女様の鱗を一欠けら拝戴したいのです。」と正直に述べた青年に、ダラ・アマデュラは微笑んで、己の鱗を得る方法を提示した。すなわち、自分とバッバルフが真に友誼を結んだ上で、自分に刃を差し向けなさい、と。

 それを聞いたバッバルフは、たいそう悩んだという。悩んで、悩んで、悩み抜いて、一ヵ月ほど経っても悩んでいたため、ダラ・アマデュラが退治するわけでもないのに、それほど悩まなくてもと慌てたほどに。

 そうして始まった二人の交流には、旋律がつきものだったという。

 そもそもダラ・アマデュラは、神々に新しく役割が割り振られる以前より『歌舞音曲を司るもの』として生まれた女神である。舞こそ形骸化されてはいるが、女神ティアマトの慰撫には必ず彼女の旋律が用いられていた。

 古代メソポタミアにおいて祭祀には音楽がつきものであり、歌とは即ち神々へ捧げる祈りであり、賛美であった。秩序によって支配された世界で、彼女の役割は大々的に知らされるものではなかったが、祭祀において彼女の役割、権能である『歌と音楽』を用いる事そのものが彼女への信仰と同義であったと考えられる。

 つまり、人々が意識するしないにかかわらず、ダラ・アマデュラは礼賛され信仰されていた。それも、他の神々より圧倒的な人数で。なにせ彼女は『歌舞音曲を司るもの』――つまりは『祭祀を司るもの』である。いつ何時誰かが何処かでどの神に祈っても、そこに歌と音楽が存在するのであれば、それは同時に彼女への祈りでもあるのだ。

 

 閑話休題。

 つい話が逸れてしまったが、兎に角、バッバルフとダラ・アマデュラは『音楽に携わるもの』という共通項によって友情を深めていったのだ。メソポタミアにおける音律の祖ともいえるダラ・アマデュラより手ほどきを受けたバッバルフの技量の上昇は目覚ましく、彼等の関係が友人同士から師弟へと変化したのはある意味当然の帰結と言えた。

 旋律を奏でる事こそ己の命題とすら考えていたバッバルフは、やがて最初の目的を忘れたいと思うようになった。傷付けることを前提とした関係に嫌悪感すら覚え、女神イシュタルの微笑を得るか、女神ダラ・アマデュラの微笑みを守るか、彼の中で天秤は平行を描き、徐々に後者に比重が偏るようになっていったのだろう。

 

「確かに、貴女様の剣鱗は天に輝く星々のように美しい。けれども、それ以上に貴女様の心根こそ、何より尊い至宝でしょう。我が愛しの女神イシュタルの微笑も麗しく、出来ることならばこの身にそれを賜る栄誉をと望みますが……それはもう、貴女様を傷付けてでも欲しいものではないのです」

 

 そう言ったバッバルフに、ダラ・アマデュラは滂沱と涙を流した。それに慌てるバッバルフと共にあたふたしながら、それでもダラ・アマデュラは、粘土板にて語られた、まるで感情に閾値が設けられているようだと感じたような情動の制御など働かない、素の感情も露わに、泣きながら微笑んだという。

 心に鍵のかかった彼女を解き放った、なんとも和やかで心温まるエピソードだと思う。ここで物語が終わるのならば、私は満ち足りた心地でベッドに入れたことだろう。

 しかし、これは裏切りの物語なのだ。他者を慮る優しい女神を裏切り、愛しい誰かを想う来訪者自身の絆を裏切る、救いのない物語。それが『報われない話』と訳された記述である。

 故に、私は最初に彼らの末路を読み終えたとき、溢れ出る涙で紅茶を台無しにし、ついで枕を水浸しにし、夢の中でも大いに泣いた。

 バッバルフによる裏切りは、重要なターニングポイントでもある。バッバルフの訪れは彼自身の意志でもあるが、それ以前に女神イシュタルの要望あっての訪れであるのだ。これは前に書いた神々の約定を侵すものである。忘れてしまっている者は今一度ここで再確認して欲しい。

 約定の内容はこうだ。「如何なる理由があろうとも、蛇帝龍(ダラ・アマデュラ)の庇護下にある者、友誼を結んだ者、信頼関係にある者を傷付け、貶め、損なう事があり、それが神々の恣意的に齎された直接的ないしは間接的な介入によるものなれば、千の刃に掛かる戒めの全ては意味を失う」。

 ここで注目して欲しいのが後半の文脈にある「神々の恣意的に齎された直接的ないしは間接的な介入」という一文なのだが、女神イシュタルは現時点でこの約定に手をかけている状態にある。私がこの約定を引っ張ってきた時点で、もう読者もお分かりだろう――女神イシュタルは、王手をかけたのだ。ダラ・アマデュラの鱗が欲しいという発言で動いた恋人たちは「恣意的に齎された直接的ないしは間接的な介入」に相当する。そしてここで一番重要な文脈である「蛇帝龍(ダラ・アマデュラ)の庇護下にある者、友誼を結んだ者、信頼関係にある者を傷付け、貶め、損なう事」を、かの女神は行ってしまったのだ。

 これが切っ掛けで女神イシュタルは女神ダラ・アマデュラの逆鱗に触れ、以降、天敵となったかの蛇龍と殺し合う事になる。そのため、バッバルフの裏切りはターニングポイントとして数多の研究者の口に上ることになるのだが……それを抜きにしても彼の末路は悲惨極まりないと、数多の人々を涙の海に沈めた。

 ダラ・アマデュラを裏切れなくなったバッバルフは、けじめをつけると言って山を下りた。ダラ・アマデュラの下で鍛え上げられた楽器の腕前は神々すら聞き惚れるだろうと太鼓判を押された彼は、それを奏で捧げることで女神イシュタルの願いを無下にした詫びにあてようと考えたのだ。

 そんな彼に、ダラ・アマデュラは今までになく晴れやかな心持で自らの鱗を持っていってほしいと言ったという。お守り代わりだからと懇願するダラ・アマデュラに根負けした彼は、きっとこの鱗をダラ・アマデュラに返しに戻ると約束をして鱗をはぎ取り、故郷へと足を向けた。

 そしてダラ・アマデュラは約束を信じて、バッバルフの再訪を待ち続けた。

 待って、待って、待ち続けた。

 楽師である彼が、今度はどのような旅路を歩み、そしてどのような歌にして自分に聞かせてくれるのかを楽しみにしながら、ダラ・アマデュラは千剣の山でじっと待ち続けていた。

 しかし、バッバルフは戻ってはこなかった。

 いや、この言い方では語弊がある。バッバルフは、正確には戻ってきた。ただ、彼の身体は――生きる事を、止めていた。

 峻厳な山々の尾根を死に物狂いで駆ける荷馬車があった。馬を操る男の顔は恐怖をあらわしたまま固まり、かみ合わない歯の根を盛大に打ち鳴らしながら、ダラ・アマデュラの下まで駆け付けた。

 女神イシュタルの恋人の一人を名乗る男は、震える手で荷馬車の覆いを外し、息も絶え絶えに、それでも懸命に、恋敵であり友人であったバッバルフの事の顛末を吐き出した。

 曰く、「バッバルフは、女神イシュタルに殺された」と。

 バッバルフの死体は、酷い有様だった。美しい旋律を生み出していた白い指は全て潰されてひしゃげ、楽器を支える腕はぶつ切りにされてそこかしこに転がっていた。何処までも旋律を届けられるようにと、ひっそり鍛えていると言っていた逞しい脚は軟体動物のようにくねりとまがり、二つのとぐろを巻いていた。

 あまり、歌う事は得意ではないと言いながら、歌う事自体は好きだった彼の喉は、獣に食いちぎられたかのように無残に刳り抜かれ、ぽかりと空いた口腔は赤黒く汚れていた。そこに、肉厚で形の良い舌が、二つに裂かれて覗いていた。

 そしてその心臓に突き立てられた己の鱗を視認して、ダラ・アマデュラは何度目かの絶望を味わった。

 己の鱗が彼を殺したのかと、ダラ・アマデュラは運び手に問うた。が、運び手は、そうであって欲しかったと、その方がまだ楽に逝けたのにと、青ざめた顔でさめざめと泣いた。

 バッバルフは、女神イシュタルに旋律を捧げる間もなく嬲り殺されたのだと、男は言う。

 ダラ・アマデュラとイシュタルを天秤にかけて、ダラ・アマデュラを取ったことが気にくわなかったのだろう。

 「そんなにあの蛇が良いのなら、お前も同じような姿にしてやるわ」。そう言って、バッバルフの四肢は、舌は、無残に潰されて裂かれたのだ。

 咄嗟に彼がダラ・アマデュラの剣鱗を抱き込んで守ろうとしたことも腹立たしかったのだろう。自分が望んで求めたきらめきを自分に捧げるでもなく、お守りとして渡された大事な預かりものだからと、自らが傷ついてでも守ろうとする様に、イシュタルの理性は切れた。

 生きたまま四肢を潰され、迸る絶叫が耳障りだと舌を裂かれ、喉を潰された。痛みによるショックで死んだのか、失血によって死んだのか、それは解らないが、ダラ・アマデュラの剣鱗がバッバルフの胸に突き立てられたのは、彼がピクリとも動かなくなってからだという。

 イシュタルは彼の血に塗れた鱗を、まるで不浄のものを扱うかのようにしてバッバルフの死体に差し込んだ。そうして死者を辱めながら、イシュタルは恐れ戦く恋人たちに新しい綺麗な鱗を所望した。

 「こんな罪人の血肉に塗れた鱗なんて要らないわ」そう言って、無残な死体を一顧だにすることなく立ち去ったという。

 あまりにも惨い仕打ちに、神々さえ魅了する美貌に囚われていたはずの男は、それこそ百年の恋も冷める勢いで女神を恐れ、彼女の願いを叶えようとする体で彼の死体を抱えてここまで運んできたのだ。

 女神に罪人とまで呼ばれた死体が、まともに葬られる事はないだろう。そう考えた男は、お守りとして鱗をバッバルフに渡した……その鱗を以ってバッバルフの助命を暗にイシュタルに乞うたダラ・アマデュラの下であればと、馬を潰す勢いで山々を超えて来たのだ。

 

 バッバルフはダラ・アマデュラを裏切ることなく山を去った。けれど彼は、死んだ事で彼女との約束を破った。

 こうして第五の裏切りは当人たちの意図せぬ内に成された。

 そうして失ったのは『愛弟子の命』とその『名誉』。初めて己の権能による加護を与えた他者の死は、育んできた関係の眩さに比例して彼女の心を昏く染める。

 

 バッバルフの遺体を運んだ友人、サギという名の男の言葉に、ダラ・アマデュラは生まれて初めて心の底から誰かを憎悪した。神々との戦いにおいても肉親の情から決して理性を手放すまいとした女神は、一瞬で全身を駆け抜けた虚無感と悲哀に後押しされて……そして、失うものなど何一つ残されていない事も相まって、頑なに守ってきた一線を容易く越える。

 それは即ち、女神の出陣。約定によって是とされ、成就を期待された女神の報復は、彼女の怒声から始まった。

 地を震わせ、山を崩し、天を裂いた咆哮によって神代に齎されたのは凶つ星の化身、女神ダラ・アマデュラが生み出した彼女の先兵、天彗龍とも、銀翼の凶星とも呼ばれる女神の眷属「バルファルク」である。

 ウルクの人々からは「バルフルキ(〈外界への扉を開く聖なる流星〉の意)」と呼称されるこの眷属群が現れることは、ウルクにおいてダラ・アマデュラが外界へと身を乗り出した事の先触れであり、いずれかの神々がかの女神の逆鱗に触れたことの証左でもある。

 彼等は女神ダラ・アマデュラと違って慈愛や優しさとは無縁であり、人間への共感や慈悲はゼロに等しい。が、其れにも増して神々への好感度はマイナスどころか底辺であるらしく、彼らの母とも呼べるダラ・アマデュラの無意識の願いもあって人間へ配慮するだけの理性はあるとされている。

 基本的にダラ・アマデュラの為に生きて死ぬことが彼らの本望。彼女の悲しみに涙し、彼女の喜びに歓喜し、彼女の怒りでもって憤怒を示す、いわば彼女の心に寄り添い続ける存在である。

 それ故に、彼女では影響力が大きすぎるために押し殺し続ける憎悪や憤怒を代行する存在でもあるのだが、女神イシュタルとの争いにおいては代行ではなく、ダラ・アマデュラの煮詰まった憎悪の余波が形を成したものとして行動する。

 女神ダラ・アマデュラの咆哮によって凶星は流れ落ち、大地は震えて山は崩れ、木々は呼吸を止めた。飛ぶ鳥は落ち、泳ぐ魚は水底へ、走る獣はその場に固まって横倒しに倒れ、無駄と知りながらか細く震えて息を潜める。創世の神々はかつての戦争を思い出して一目散に己の住処に逃げ込んで戸を閉ざし、新しい神々は言い知れぬ恐怖に心臓を走らせて小さく縮こまった。人間はといえば、突然聞こえて来た恐ろしい咆哮に皆、一度心臓を止めて死に、生きたいと慄く心で生き返り、パニックになりながら神殿や家といった、己が最も安全だと信じる場所へと駆けこみ、家族と抱き合って流星が駆け抜ける空に怯え続けた。

 王は民を守るべく兵をかき集めて拠点の守りに当たらせ、神殿の祭祀から古の約定が破られたことを耳にして、怒気も露わに女神イシュタルを声高に罵ったという。なにせ、女神イシュタルは王の治めるウルクの都市神であるのだから、女神ダラ・アマデュラの怒りはウルクにまで及ぶと考えて当然であった。移動するだけで地形をしっちゃかめっちゃかに変える巨大な竜が迫ってくるのだから、その原因に対して怒るのは当然だろう。

 王の懸念した通り、銀の竜たちは元凶である女神イシュタルの下へ、彼女のエアンナへと殺到した。イシュタルを出せと吠える竜たちに、当のイシュタルは何食わぬ顔で罵倒の言葉を並べたと言う。

 生憎、その罵詈雑言の詳細については不明であるが、イシュタルはバッバルフを、ひいてはダラ・アマデュラを罵倒したようで、その言い様はやりとりを聞いていた巫女長が青ざめ、思わず耳を塞いでしまうほどに酷いものだった。

 当然、己の主人を扱き下ろされた眷属たちは怒り狂い、約定が保証するままにイシュタルのエアンナを荒らし回った。そして当然のように、己の寝所を滅茶苦茶にされたイシュタルも同様に怒り狂うのだが……それ以上に憤怒に呑まれたダラ・アマデュラが放った神殺しの熱線によって、イシュタルの怒りは恐怖に挿げ替えられることになる。

 危機一髪で回避したそれに込められたのは、自分は絶対に殺されないという慢心を一笑する程に濃厚で明確な殺意である。途方もない熱量を孕んだ熱線は、通り過ぎるだけで草木を焼いて空気中の水分を蒸発させ、空に浮かぶ雲すら乾かし、周囲を死の荒野へと変貌させた。

 そんな神すら殺せる太陽の如き熱線が、次から次へと放たれるのだ。イシュタルは一気に下がった血潮を凍らせながら、死に物狂いで逃げ惑った。

 天の女主人を意味するイナンナの名を持つイシュタルは、天空神アヌの代行を務められるほどの強権を持つ女神だった。女神イナンナ、つまり女神イシュタルはシュメルの女神の頂点に立つ神で、力では決して敵わず、なおかつ逆境にあればあるほど力を発揮する女神なのだが、それほどの力を持つ彼女でさえ、旧き神の持つ守りは崩せなかったのだ。

 これについては諸説あるが、多くの学者が言う事には、この力関係は偏に各々の女神を構成する要素や権能が関わってくるという。何度も言った通り、ダラ・アマデュラは芽吹かぬ星の芽であり、何者にも成り得るが完成はしない、未完成であるが故の不死性を持つ。その上、母たるティアマトから与えられた肉体と呪いで死に方を限定された女神を殺すことは、たとえ金星の化身であるイシュタルでも不可能。さらに、ダラ・アマデュラの肉体は混沌で出来ている。この生命を生み出す原初の塩水は、ダラ・アマデュラを決して完成させることは無いが、逆を言えば未完成であるがイシュタルを封殺できる何某(・・・・・・・・・・・・・)かの性質を得る事が可能なのだ。

 少々乱暴だが、粘土板で語られる通りに女神ダラ・アマデュラが女神イシュタルを圧倒するのならこれくらいの強さが必要なのだ。

 

 さて、話を戻そう。

 イシュタルに対する一方的な蹂躙に、けれど決定打となる一撃は決まらず、世界は無為に死の国へと近づいていく。これでは羊が、民が乾いて死ぬと王とその友が身を乗り出しかけた時――その女神は、姿を見せた。

 

 

 



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第五話:埋火

さて、結果はもう見えているだろうけれど、それでも語ろう。
意味も意義も見失うよう目隠しをされた、哀れな女神の怒りの矛先がどうなったのか。
第六の裏切り、その果てに失ったものは……見えたものは、何なのか。
予定調和の結末だ、どうか安心して聞いておくれ。





 悪名高い美の女神が、未曽有の大災害を叩き起こした。

 ウルクの都市神として崇められるイシュタルは、なるほど、この世の至宝と称えられるだけの美貌は持っていたが、理性的に物事を考える頭は持っていなかったらしいと、今更ながらの感想を抱きながらその兵器は遠い空を見上げた。

 神とは押しなべて我儘で気位が高い。矜持を傷付けようものならば何十倍どころではない報復が待っている。己の所有物に対して「持っている」ことに満足して見向きもしない風であるが、油断して手を出せば存在ごと全力で否定しにかかるのが神だ。

 そんな傍若無人がデフォルトの神々の中でも、特に手に負えないものがイシュタルという女神だった。

 他の神以上に我儘で矜持が高く、気まぐれで奔放な癇癪持ち。さらにこの女神はメソポタミア神話の中で権力的にも実力的にも指折りの強さを誇るのだから性質が悪い。

 そもそも神に人の心など解るはずが無いのだ。神という生き物は基本的に生まれながらに完成している。己の領分を隅々まで知り尽くし、その範囲で何の不自由なく十全に真価を発揮することを当然の権利として持ち得た彼等は、人生の果てさえ未完成のまま終わる命と同じ視点に立とうとすら思えない。

 人間が獣の気持ちを完全に理解できない事と同じだ。か細く鳴いている、腹を空かせているのだろうか。尻尾を振っている、機嫌が良いのだろう。じゃれついてくる、遊びたいのだろうな。そんな大雑把な観察と理解が、神と人の現状であった。

 彼女のみならず、神々は人の精神機構を理解しない。万が一、いや億が一の確率で神が人の心に近付くとしても、それは遠い未来に起きるかどうか、奇跡とも呼べない幻の果ての幻想に過ぎない。またその幻想すら、近付くだけであって完全に重なることは無い。

 なにせ在るべき世界も競う格も持ち得る力すら規格違いなのだ。それこそ、ダラ・アマデュラのように人の魂を持ち得てでもいなければ、神が人を同列に扱う事などあり得ない。この場合、特殊なのはダラ・アマデュラの方だ。イシュタルの方が神としてはスタンダードな部類だと言うのだから、この世界も業が深い。

 

 その神々の常識から並外れて性質の悪い女神が、神々の中でも最高レベルの変わり種と名高い女神を……大人しく寝ていた人畜無害であるはずの幼子を全力で殴り起こしたと聞いた時、同じく傍若無人だがかの女神と比較するとまだ真っ当な部類に入る時の王、ギルガメッシュはイシュタルを声高に扱き下ろし、怒りのあまり宮殿の一角を吹き飛ばした。

 女神ダラ・アマデュラといえば、創世神話に語られる堅牢無比にして強大な肉体と力を持つのに、不遇である事を強いられたような女神である。

 その身はエビフ山よりも峻厳な山々の奥深くに封じられ、生きる以外の殆どを許されていない。だのに、兄や姉である神々に盾突くことも出来ず、八つ当たりすることも出来ず、ただ時折訪れる来訪者に心を癒されては裏切りの憂き目に遭うばかり。

 ギルガメッシュでさえかの女神に関しては決して触れようとはしなかった。女神の『何者にも成り損なう』性質に適う礼装も神器も存在しなかった事と、もう一つ、ダラ・アマデュラという女神は関わり方さえ間違えなければ、あるいは関わらなければ、いずれ神々と共に伝説となり果てても人の進歩を是として黙認する珍しい神格であったが故に、女神に約束された喪失の憂き目に巻き込まれる事を厭った王は、ダラ・アマデュラに関しては生涯不干渉を貫くつもりであったのだ。

 それ程までにかの女神は人に近く、それでいて何もかもを諦めていたと言える。

 そんな女神が、野に放たれた。銀に煌めく竜を星と降らせ、神殺しの焔に殺意を込めた熱線を放つ。そうするだけの事をされたのだと、ただ感じる痛みをそのまま叫び声としたような咆哮が世界を軋ませる。

 凝縮された痛苦と悲哀、燃え盛る憤怒と凝る憎悪をぐちゃぐちゃに混ぜた声に、きっと誰もがそれを己の感情と錯覚しただろう。

 ギルガメッシュはそうではなかったのか、それとも錯覚してなお押し殺したかは解らない。けれど思うことはあったのだろう。天の鎖、ギルガメッシュ王唯一の友であるエルキドゥが横目に王を見る。

 彼の眼は相変わらず険しいが、微かに聞こえた声は確かに「憐れなものよ」と憐憫の言葉を紡いでいた。

 ふと、清々しい程に青く染まる空に紫が混じる。女神の先触れの星が空の向こう側を引き連れてきたのだろうか。夜空よりも美しい紫と藍の入り混じる宙を神殺しの焔を纏った流星の群れが駆け抜け、逃げ惑うイシュタルに追い縋っている。

 時折耳に届く聞くに堪えない罵詈雑言を掻き消すように、イシュタルのエアンナの一角が爆ぜる。どうやらイシュタルの弓撃をすり抜けた一頭が壊したようで、地に降り立ったバルフルキ……女神の眷属龍バルファルクはそのまま地上から砲台よろしく高密度の龍気を弾として打ち出し、イシュタルを狙い撃つ。

 地上に降り注ぐ彗星の銀雨、天へと上る赤い憎悪に、空を切り裂く金の一筋。いっそ幻想的でさえある殺意の応酬の合間、まるで耳鳴りのような甲高い音で舞う星の竜が、重苦しく響く声で「死ね」と鳴く。

 よくも、よくもと、喪った朋友の命を、失ってしまった主の悲しみを想って、竜が哭く。

 神の怒りに触れた後、これから大災害に見舞われる前兆にしては無性に美しい景色だった。

 

「ねぇギル。なんでダラ・アマデュラはああも憐れに生まれてしまったんだろうね」

 

 天上の宙に覆われていく世界の中でエルキドゥが傍らの友に問いかければ、ふん、と仕方なさげに息を吐かれた。聞くまでも無い事を問われたからだろう、王の眉間の谷が少し深くなる。

 

「何を言うかと思えば、知れたこと。そんなもの、あの女神がそうあれと望まれ、それを強制されたからであろうよ。まぁ、その望みもすぐさま間違いとして処理されたようだがな」

 

 「まったく、神というのも不自由よな。特にアレはそうだ」。律儀に返答する王の眼が剣呑に細められる。「学べども成長する余地も無く、全て後手に回るしかないというのは、なぁ?」。

 細められた目に宿るのは焦燥だった。女神を哀れみつつその脅威を疎み、忌むギルガメシュは、赤い瞳の奥で恐るべき蛇体の神格を見定めるが故に恐れていた。

 珍しく正直に焦っている王に、傍らの友は然もありなんと内心で深く頷く。あの女神の進行方向にはイシュタルが――ひいてはウルクがある。凄まじい速度で迫ってくる女神の蛇体が近付くにつれて、改めて実感させられる巨大さ。それはそのままウルクの脅威に直結するのだから、無関心でなどいられない。

 空漠を染め上げる宙が波と撓む。遠目に見えるようになった星色の蛇体がうねりながら哭く度に遠景に臨む山々までもが歪み捩じれて逆巻く風に哭く。

 原初の塩水、神々の母ティアマトが生んだ最後の女神。『不朽不滅を謳う帝』『千の刃を鎧う塔の如きもの(ダラ・アマデュラ)』の名は伊達ではないと見せつけてくる剣の如き鱗は、なるほどと手を打ちたくなるほどに鋭く、それでいて遠くからでも肌を刺し貫かれる錯覚を与えてくるほどに硬質な美しさで煌めいている。

 幾千もの剣鱗に蹂躙された風音が、すすり泣く声にも似た悲鳴でウルクを包み込む。女神の慟哭とすすり泣く風が、人々の胸中を暗澹とした冷たい水で満たしていく。

 これぞ歌舞音曲を司る女神の権能、その余波。声一つ、音一つで世界を安穏に導くことも、滅ぼすこともできる音の強権を持つ女神の咆哮が、ついにイシュタルの天弓(マアンナ)を捉えた。

 

「――どうして……どうして、どうして、どうして――どうしてですか、イシュタルお姉様!!」

 

 母の亡骸である大地を損なわないために空を切って泳ぐ蛇体が星々の煌めきを照り返す。滂沱と溢れる涙が山野に降り注ぎ、頭上で吠え猛る蛇龍に怯える獣たちを悲しく濡らす。

 心の底から湧き出る煮えた憎悪を持て余しながら、それでもイナンナ……イシュタルを姉と認識して呼んでしまう女神の情に、塩辛い水に溺れかけた獣が驚きのあまり女神を見上げた。

 イシュタルを姉と呼ぶ彼女に、一瞬誰もが言葉を失う。ギルガメッシュも、エルキドゥも、ウルクの民も獣も、イシュタルすらも絶句して涙に暮れる巨体を見る。

 

「どうしてあの人を……バッバルフを殺したのですか? 私の友を……愛弟子を、貴女の恋人を! あんな、あんな無残に……どうして……どうして!!」

 

 世界を揺さぶる慟哭は猛々しく荒々しいのに、嗚咽に混じる声色は幼い少女のそれであった。

 神は生まれた時から完成している。それ以上の成長も退化も知らないとばかりに生まれ出でるものが神なのだから当然だろう。

 しかし、それでも神は変化するのだ。他者との関わり、時間の経過、人の想い、その行動によって、神は変化をもたらされる。それは決して良いものばかりではないだろう。時には貶められ神格を失う事さえある。

 けれどダラ・アマデュラは変われない。いくら他者と関わり友誼を結ぼうが、いくら他者と心を結んでその言動に揺さぶられようが、それでもダラ・アマデュラの神格は、権能は、その精神は、生まれ落ちた直後の状態から決して変化する事がない。

 そうあれと望まれて紡がれた呪いは、何時まで経っても彼女の優しさを強さには変えてくれない。

 だからダラ・アマデュラは、幼子の声色で泣き続ける。親子の情を信じて愛し続ける。手元に吹き込んできた砂塵を宝ものだと愛でながら、握り潰すまいと広げた掌の上で砂をあやす。そしていつか僅かな風に吹かれては零れ落ちる砂を想って、傷ばかりを増やしていく。

 そんな哀しい生き方しか知らない子供が、怒りに吠えた。

 やはりその声色は幼くて、隠すことを知らない心根のまま素直に人の胸を打つ。

 

「同じ子供の癇癪でも、かの蛇龍の方が余程慎ましやかで聞き苦しくないな」

 

 ぽつりと嘯くギルガメッシュに、エルキドゥが頷く。

 世界を殺せる災害が放った情に満ちた言葉は、ギルガメッシュの瞳から僅かに険を削いだ。神性は、否、神霊と呼ばれるものは須らく嫌い厭い疎むギルガメッシュだったが……自分が嫌う神霊らしからぬ女神の有様は、愉悦を知るギルガメッシュに享楽よりも憐憫を抱かせた。

 自らの価値を率先して貶めていく様は無様であった。自らの国を荒らす所業は憤怒の対象である。そもそも神格であるというだけで腹立たしく忌々しい。

 けれども――願った端から奪われて、望もうものならば喪失の憂き目にあう幼子を前に愉悦を感じて高らかに笑える程、ギルガメッシュは女神ダラ・アマデュラに失望してはいなかった。冷酷無慈悲で無情だと言われもするが……友を想って自制を捨てた彼女の姿は、いかに女神とはいえその枠で一括りにしてしまうには、あまりにも人間(・・)らしいひたむきな愚かさに満ちていた。

 だからこそ、ギルガメッシュはダラ・アマデュラを例外に据え置く。何者にも成り損なう上に非情にも成り切れないからこそ、ダラ・アマデュラを幼子に区分し、憐憫の対象に入れ込んだ。気に入る気に入らない以前に、そもそも幼子なのだから何をしようが仕方がない。となれば、歌舞音曲を司る神格ゆえに語る言葉に嘘を交えない率直な有様は、むしろ彼の眼には好ましい部類に映る。

 ダラ・アマデュラを慈悲の対象と見做した手前、何とも言い難い顔をして蛇龍を見上げるギルガメッシュの視線の先では、イシュタルが敵に回した存在の威容に眼を見開き、冷や汗を垂らしていた。天駆ける天弓をもってしても引き離せない流星の化身と旧い神を下した英雄神マルドゥクさえ敵わなかった女神を前に、ようやくイシュタルはダラ・アマデュラの位階からして違う強さを理解する。

 逆境でこそ強くなるイシュタルであるが、彼我の力量差を明確に理解した今、彼女に出来る事と言えばダラ・アマデュラの憤怒を宥めるために思考をめぐらせ、なおかつ熱線や眷属から逃げながら打開策を考えることだけだ。

 必死になって逃げ道を探すイシュタルだが、焦れたバルファルクがイシュタルを掠めるように翼脚を反転させて光弾を放つや否や、湧き上がってきた苛立ちのままにダラ・アマデュラを睨みつける。

 

「こ……んのッ! ふざけんじゃないわよ! 何で私がこんな目に合わなきゃいけないわけ!? 悪いのはあの虫けらでしょうがッ!!」

「――むし……け、ら…………?」

 

 イシュタルが放った言葉に、空気が死んだ。

 この状況で聞くにはあまりにも無益な罵詈雑言に、ダラ・アマデュラすら言葉の意味を咀嚼しかねてその台詞を口に乗せた。

 むしけら。虫けら。それは何を指して言っているのだろうか。本気で意味が解らないと、怒りに水を差されて一拍の間呆けるダラ・アマデュラに、イシュタルは昂る感情のままに虫けらと称した誰かを謗る。

 

「虫けらでしょうが、あんなもの! でなければゴミよ。私の意に沿わないのなら、この女神イシュタルに背くのなら、それは罪! 私の美しさを讃えておきながら、アンタみたいな地を這う事も出来ない蛇如きを尊ぶような節穴は死んで当然なの! 罰して然るべき罪人なの! 私はあの不遜な罪人を順当に、当然の権利として罰したまでのこと! それをこんな風に悪し様に言われる筋合いも、ましてや追いかけ回される筋合いも無いわよ!!」

 

 誰の事を指しているのか。その事に理解が及んだらしいダラ・アマデュラの瞳から、光が失せる。

 炯々と憤怒と悲哀に輝いていたはずの眼に昏い何かが満ちていくのに、イシュタルはよほど腹に据えかねたのか、己の感情を吐き散らずばかりで不穏な気配に一向に気付かない。

 ギルガメッシュとエルキドゥは頭痛を覚えたような顔をして、一瞬、手に取った武器の矛先をイシュタルへと向けた。気付かれる前にすぐさま下ろしたが、それでも湧き上がる殺意は如何ともし難く、その眼はダラ・アマデュラを警戒しつつも心はイシュタルを足蹴にして罵倒していた。

 「言うに事欠いて、それか」。ギルガメッシュの口から零れ落ちた言葉に、居合わせた兵士たちすら無言で首を縦に振った。神を畏れ敬うを良しとする民ですら、この死体蹴りと癇癪と煽りのコンボに顔を覆って畏敬の念をそっと水に晒して薄めた。恐れるが故に敬いはするが、今後決して畏れはできまいと思うウルクの民のなんと多かった事か。

 自らの言動が首を絞めている事に気付けないイシュタルは、なおも言葉を連ねようと口を開く。

 

「お使いも出来ないゴミの奏でる音に何の価値があるの? それならまだ虫の羽音の方が上等な音色に聞こえるわよ! そもそも――」

 

 だが、それ以上は続かなかった。

 そもそも、の後に続くはずだった言葉は、ダラ・アマデュラの瞳の中で黙殺された。

 かつては煌めく命の色をしていた灼眼に金が踊る。凍てついた色で瞬くそれは、輝かしい色合いとは裏腹に昏く煮詰まって凝った何かを彷彿させる。憤怒、憎悪、悲哀、殺意、およそ言葉に出来ない激情までもが冴え冴えとした黄金に転じて、ダラ・アマデュラの心が流した赤色をより重く染め上げる。

 物理的に加重さえ感じる程の濃密な殺意に、大気も大地も小刻みに震えて怯え、その身に宿す生命の息吹を急激に衰えさせていく。

 局地的に死に近付く世界に、一枚下の死の世界、冥府が何事かを勘違いしてガルラ霊がそっと草葉の陰から顔を出す。

 けれど底冷えのする冥府よりもなお重苦しく冷たい空気を放つ女神を前に、ガルラ霊はその身にありえない死を予感した。生前経験した絶望とはまた違った死の温度に、不用意に顔を出してしまった彼らは一目散に冥府に逃げ帰っていった。

 そんな一幕になど一瞥もくれずに、ダラ・アマデュラは壊れた心を宿す眼で、イシュタルの心を壊す。

 自尊に塗れていたイシュタルの心は、今やすっかり打ち砕かれていた。これは単純に気合いやその場限りの激情でどうこうなるほど生易しいモノではないと悟った女神は、大気と同じように青ざめ震えながら蛇龍の眼に晒されていた。

 

「――確かに、美しいです」

 

 ふと、幼い声で、けれど子供が発するにしてはやけに温度のない声色で、ダラ・アマデュラはイシュタルを賛美した。

 イシュタルが暴言を発した時とはまた違った意味で呆気にとられる面々を前に、ダラ・アマデュラはもう一度「イシュタルお姉様、貴女は美しい」と言葉を重ねた。

 

 確かに、美しいとしか言えない存在だった。遍く世界に賛美されるもの。そう在れと望まれ生まれて、望まれるがままに美しく在る、「美」という概念を権能として戴く女神は、なるほど、美麗という言葉を形にしたならばこうなるだろうと万人をして言わしめる程の美の極致であった。

 「けれども、其れが如何したというの」と彼女は呟く。断続的に散る神殺しの焔を限界まで抑制しながら、胸に燻る憤怒とは裏腹に底冷えする単調な声色で、彼女は権能にまで至るほどの美麗を、ただそれだけの事と切り捨てる。

 

「イシュタルお姉様、貴女は確かに美しい。神々が貴女の言動を、自由な振る舞いを赦すのも理解できるほど、貴女の容貌、その肢体、目に映る何もかもが美しい――けれども、それはあくまで外見だけを見ての感想です。貴女が誇る美しさ(ソレ)は、私にとって、何の価値も成さないのです」

 

 淡々と紡がれていた言葉が、僅かに震える。

 いくら押さえつけても消えない熱が、彼女の自制を少しずつ削っていく。抑制することなく吐き出したいと思う心は、殺しても殺しても湧いてくる。

 

「貴女の内面が気にくわない。誠実で優しいバッバルフを貶める貴女の言葉に、行動に、表情に顕れる貴女の心根を、私は嫌悪せずにはいられない!!」

 

 そしてとうとう放たれたイシュタルを否定する言葉に、バルファルク達は奮起する。成すがまま、されるがままだった主が放った憎悪は、たとえわずかに杯から毀れた水の一滴だとしても、自ら溢した水ゆえに意味を持つ。

 いざ、いざ、いざ、かの女神に報復を。漣のように伝播する純色の殺意に――待ったをかける者がいた。

 

 その女神の出現は唐突だった。張り詰めた緊張の糸を撓ませた女神は、大地から湧き上がるようにして姿を見せる。

 あまりにも空気の読めないタイミングでの顕現に、誰もが呆気に取られた後に眉根を寄せる。

 破壊こそされないものの、荒れ狂う風に肌を嬲られる大地に足を付け、黒髪を風に巻き上げられながらも立ち続ける神格。神威の暴力とも呼べる二柱の天災の視線に晒されてなお崩れないその女神もまた、荘厳な神の気配を立ち昇らせてそこに佇む。

 豊穣を表す豊満で嫋やかな肢体、滑らかで瑞々しい肌は大地の色で、伏し目がちな瞳に宿すのは大地が育む森の緑。豊かな黒髪には優美な角の付いた頭飾りが乗せられ、幾重にも布を重ねたスカートを纏っている。そのうえに背負った矢筒、鎖に繋がれたライオンの子とくれば、その正体は自ずと知れた。

 

「まさか……あれはニンフルサグか? 何故子守の神がこの場に来た?」

 

 今まさに開かれようとしていた戦端の出鼻をくじいた存在に、露骨に怪訝な顔をしてギルガメッシュが疑問を口にする。

 女神ニンフルサグ。シュメール神話における大地の女神にして土地の豊饒と繁殖を司る女神であり、歴代シュメール王をその乳房で養った、「王の母」と称される女神である。天の実権こそ握ってはいないものの、「天における真に偉大なる女神」の称号を獲得している神格でもある。

 そんな大地の女神が、何故今ここにいるのか。誰しもがそんな疑問を抱く中、ニンフルサグは青ざめた顔で中空に浮かぶ二柱の女神を見上げた。

 

「もうおやめなさい、女神イシュタル。これ以上は貴女でも生きていられなくなります。そして女神ダラ・アマデュラ、貴女もです。これ以上の暴威は大地への虐げ、これを看過することは出来ません」

 

 震える大地そのもののように、震える声で告げられたのは両者を諫める言葉だった。

 その言葉に真っ先に反応したのは、やはりと言うべきかイシュタルの方であった。イシュタルは自分を戒めようとする自分よりも弱い存在を、先ほどとは打って変わって力強い目で睨みつける。

 ニンフルサグも、戦いを司る女神でもあるイシュタルの鋭い眼光に僅かに怯む。けれど自らの役目を自覚する彼女は手足に力を込めてそれに抗い、ひたむきな目でイシュタルを見返した。

 

「おひきなさい。これはもはや貴女と彼女だけの問題ではないのです――既に我ら運命を決する七柱の神、そしてアヌ神とエンリル神によって採決は成されました。貴女の罪を認めなさい、イシュタル。神々の議会は既に、貴女はあの女神達(・・・・)を相手に生き残れないと判断しました」

 

 唐突に頭を押さえつけられるような台詞に激昂しかけたイシュタルだったが、採決は成されたとの文言に虚を突かれて呆けた顔をする。

 エンリルの神殿内にある聖所(ウブシュウキンナ)で開催される神々の議会。その決定は神にとって何よりも重い意味を持つ。その決定は天命の石板(トゥプシマティ)に書き込まれ、それはそのままエア神の管轄の下、エリドゥの掟として規定される。

 神の運命を刻む石板に刻まれたのは「イシュタルとダラ・アマデュラの正面衝突を不可とする」文言である。戦いを司る女神と天変地異の具現たる女神、その直接の対決はウルクどころかメソポタミア自体を崩壊させると判断されたのだ。

 

「ふ……ふざけるんじゃないわよ! この私に向かって罪を認めろですって!? 一体何の罪よ、私は何も悪い事なんて……」

「お黙りなさい、イシュタル! 創世の神々が封じる以外の手を打てなかった女神を野に放った、それが貴女の罪です!」

 

 お前は絶対に蛇龍に勝てない。そう神々から太鼓判を押されたイシュタルは湯気が出る程に顔を赤くし、怒気も露わに吠え猛るも、それ以上の怒声で以て返したニンフルサグの鬼の形相に口を噤む。

 神々の中でも比較的温和な女神が見せた怒りに、ダラ・アマデュラの口元がひくりと揺れる。

 けれどニンフルサグに目がいっていたイシュタルは勿論、イシュタルに怒りを向けていたニンフルサグもそれに気づかない。ただ、未だ外野として様子見をしていたギルガメッシュとエルキドゥは呆れてものも言えないとばかりに目元を覆った。

 火のついた油に水をぶちまけた上でさらに薪を足すような所業に、ギルガメッシュの神への嫌悪が増した。

 

「もしもこれ以上、この諍いが続くのならば、その時はエンリル神と……エア神が、動きます」

 

 自分の言動がダラ・アマデュラの怒りを煽っているとも知らないニンフルサグが、青ざめ、震えながら指し示したのは――頭上。

 そこに在ったのは、宙色の天蓋にさんざめく満天の星々――否。

 悲嘆の女神、その眷属、天彗龍バルファルクが、満天の星と見紛うばかりにさんざめいていた。

 

「まさか……うそ……うそよ、そんな――あの星全部がバルフルキだなんて、そんなの……!」

 

 全身から血の気を引かせ、その美貌を青に染めたイシュタルが認め難い光景に慄いて叫ぶ。

 幾千、幾万の凶星が滞空し、その全てがひたすらにイシュタルとニンフルサグを見据えている。イシュタルにとっては地獄のような光景だった。勿論、ウルクの民にとっても笑えない光景だ。家々から、神殿から、王宮から覗く人の眼は一人残らず丸く見開かれていた。

 ギルガメッシュもまた例外では無かった。王は民よりもマシな顔をしていたが、空を覆い尽くさんばかりの龍の群れの場違いな美しさに、そして脳髄を凍らせるように冴え冴えとした殺意に息を呑む。

 どうして今までこの異様さに気付けなかったのか。それは偏に、ダラ・アマデュラの巨躯が放つ威圧が、漏れ出る不穏な気配があまりにも強烈に皆の心を絡めとっていたからだろう。

 そうでなければ、こんなに空に満ち満ちる龍の群れに気が付かないはずがなかった。

 

「……何故、私が止まらなければならないのです? 秩序を説いたのはそちらでしょう? でしたら、交わした約定は守られて然るべきです」

 

 誰も彼もが空を覆い尽くす彗星の群れに恐れ戦く中、沈黙していたダラ・アマデュラが口を開いた。

 

「イシュタルお姉様はたかだか私の鱗一枚のために、貴女自身の益体無い欲のために、私の大事な愛弟子を使い捨てた。その結果、約定は破綻し、私は野に放たれた。それを罪と呼ぶのならば、まずは私の報復を赦した創世の神々を罰しなければならないのでは?」

 

 一周廻って感情が上滑りしたような、なんの心も伴わない声だった。

 愛弟子を奪った暴虐を罪と感じるダラ・アマデュラに打ち込まれた神々の規定は、彼女の言葉によってその効果を削られ、濾され、意味を失っていく。

 

「そもそも、私がお母様のお体である大地を削れるはずがないでしょう? 眷属たちもそれは同じです。この子たちは私の意を汲むもの。そんな子たちがお母様の御遺体を傷付けるなど……侮辱も其処までになさってください。この子たちは私のように誰彼構わず傷つける程、成り損なってなどいません」

 

 神を基準にした善悪に水を差された女神の怒りは果てしない。それは今まさに天を占領する眷属郡を見れば一目瞭然だろう。

 罵倒されている時も、そして今こうして耐え忍んでいる時も、憤怒も憎悪も絶え間なく湧き出ていた。それを押し留める労苦も知らずに好き勝手保身に走ろうともがく神など、いかに兄姉だとはいえ愛想も薄れる。

 家族の情も、それゆえの甘さも未だ胸の内にある。けれど、それは尽きないだけで減らないとは言っていない。目減りしていく愛情の隙間を埋めるモノが何か、もう言葉にするまでもないだろう。

 故にダラ・アマデュラは二柱の神を睥睨する。我が身可愛さに道理を否定する姉たちを殺せないまでも、せめて一矢報いることは出来ないものかと、世界を殺せる災害の化身は首を擡げてうっそりと笑った。

 

「どうぞこちらへ、イシュタルお姉様。私は数多の神々によって貴女への報復が許されています。それを許さないというのならば、どうぞ、お兄様方もおいでくださいな――創世の頃より燻っていた埋め火に薪を足す勇気があるのならば、この星を焼く覚悟だってあるのでしょう?」

 

 壊れかけの心で泣き笑う蛇龍に、バルファルク達の翼が煌々と輝く。

 今度こそイシュタルを圧殺せんと狙いを定める流星群たちだったが。

 

「――申し訳ないけれど、此処で終わりにさせてもらうよ……『人よ、神を繋ぎとめよう(エヌマ・エリシュ)』!」

 

 緑色の髪が風に靡いて、黄金の鎖となってダラ・アマデュラの下へと殺到する。

 予想だにしなかった存在の予期せぬ一撃に、虚を突かれたダラ・アマデュラが瞠目した。

 

 時は少し巻き戻る。

 ダラ・アマデュラが約定の上書きを削った瞬間、ギルガメッシュはエルキドゥを差配した。

 王も兵器も民も、本当の所はダラ・アマデュラに手出ししたくなどなかった。それが叶わないなら黙って事の経緯を見守っていたかった。

 けれど、彼等はそれを是とする選択が出来ない。なにせイシュタルは此処ウルクの都市神。ダラ・アマデュラがイシュタルに報復するという事は、それはウルクに対して攻撃をしている事と同義なのだ。

 故に王とその兵器は自然と重くならざるを得ない腰を上げた。神々の約定により正当化された彼女の報復にケチをつけなければならない事は、エルキドゥをして心苦しいと思わせたが、彼にとっては友の守るウルクを守る方が重要だったから。

 

「さて、僕の鎖は果たしてあの女神にどれだけ効果があるかな……?」

 

 何者にも成り損なう神格故に決定打にはなれないけれど、言い換えれば何者かを極めてある事が出来ないだけで、何者にでも触れている彼女に対して、エルキドゥの鎖はどれだけの効果を発揮するのだろう。

 ともすれば数秒も持たないかもしれない。そんな兵器の不安を、担い手である王はハッ、と勢いよく鼻で笑う。

 

「どれ程効果があるのかは知らんが、あの女神の性状から言って無関係のお前が殺される事はなかろう。お前の役目はダラ・アマデュラを縛る事ではなく、ダラ・アマデュラの理性を取り戻す事だ」

 

 頼んだぞ、我が友。ギルガメッシュはそう言って城の外へと飛び出した。事が無事成る成らないに関わらず、エルキドゥを上手く運用するためには彼と共に相手の懐近くまで寄る必要があったからだ。

 一拍遅れて飛び出したエルキドゥは、友の意図を理解して顔を歪めた。

 怒り狂うダラ・アマデュラの理性を取り戻す。それはきっと、想像以上に容易く叶うのだろう。彼女の幼く純真な感性は、己が他者を傷付ける事に何より敏感に反応する。一番最初に母親を傷付けてしまった、その事が彼女の心に影を落としたのは想像に易い。

 エルキドゥが彼女を止めたら、理性を取り戻した彼女は澱みを抱えたままでいるしかない。そういう選択をしてしまう女神だからこそ、ダラ・アマデュラとの戦いは他の神々を相手取る以上に気が引けた。

 

 理不尽に奪われた彼女から、正当な報復の機会も奪う。

 女神ティアマトの呪いは想像よりもずっと重たくて苦しいものだった。

 ……それを実感したのは、鎖に転じた体がキィンと甲高いを立てて引き千切られた後だった。

 如何に成り損なっていようとも、その身は原初の女神の手によって成された正当な神格である。エルキドゥが神を律する鎖である以上、その効果は九割近い威力で発揮される。

 けれど、エルキドゥの鎖を千切ったのは神性に依らない単純な力と、蛇龍が生まれながらに持つ剣鱗の切れ味であった。

 高らかに響く破壊音に、ダラ・アマデュラが小さく「あ……」とこぼす。

 数秒も持たなかった身体の損壊に顔をしかめながら、それでも理性を取り戻す事には成功したらしいと考えていたエルキドゥだったが、直後、聞こえた言葉に己の不理解を恥じ入る。

 

 

 

 

 

 

「いまの、かんしょく……おかあさま、また、わたしは――あなたに、きずを……?」

 

 

 

 

 

 エルキドゥの身体は神が捏ねた粘土で出来ている。粘土、つまりは大地より齎された、神の土。神造の宝具として作られたエルキドゥの材料がそんじょそこらの泥であるはずは無く、天の鎖たるエルキドゥは、死んだ神が転じた「力の粘土」から作られていた。

 神々の王アヌを父に、創造の女神アルルを母に持つ彼は、彼らがより力の濃い、天地のいずれもにほど近い場所の土を選んで捏ねたことで生まれ落ちた。

 その大地こそ、女神ニンフルサグですら自らの領域と呼べない大地の果て、ニンフルサグが得た神与の大地(ティアマトの肉)よりももっと純然たる力に溢れた母ならぬ大地(ティアマトのおくりもの)。女神ダラ・アマデュラが住まいとする、生命を拒む歪なる霊峰・千剣山である。

 エルキドゥはその麓の土と、神与の大地を掬い取り、混ぜ合わせて造られた。

 そも、この時分の神々にとって死した神の血肉は「大いなる力と可能性を秘めた粘土」に他ならない。そこに以前の人格や神格を見出す事無く、全てはただの形を持った純粋な力に還元される。それをどう捏ね、どういう物を形作ろうと、誰に憚ることは無い。そういう風に考えるものが神である。

 けれどダラ・アマデュラにとっては母の亡骸から生じた、母の忘れ形見のようなものである。

 そこに母親の神格も権能も、ましてや声も眼差しも憐憫も、僅かに感じた体温らしき名残さえなかったとしても、彼女にとって大地とは永遠に「お母様の御遺体」であり続ける。

 

 故にこそ、二度と傷付けまいと神経質なまでに気遣った母親の遺体を……忘れ形見のように思えるエルキドゥの肉体を傷付けた時、彼女の精神は生まれた直後まで返り咲いた。

 あの日、あの時母の頬に一筋の傷を付けた時の絶望と悪寒がフラッシュバックする。眼を見開いたままがちりと固まる蛇体の威容に暗澹としたものが混じりだす。

 ここにきてギルガメッシュはニンフルサグを送り出した神々の意図を悟る。要は現状を招きたかったのかと、知らず知らずのうちに神の意図を汲んだ己を心の底から罵倒し、見下げ果てた下種の行いを是とした神々をこれ以上ない程嫌悪した。

 エルキドゥが意図せず行った死体蹴り。自らが母を傷付ける悪夢を想起させる行為を、神々は大地の女神ニンフルサグを用いて行おうとしたのだ。

 チッ、とエルキドゥは神々に向けて舌打ちをする。そして大地に落下していく自分を縋るような子供の眼で見るダラ・アマデュラに、彼は努めて優しく見えるよう、細心の注意を払って微笑んだ。

 兵器である自分が、まさか人間でも獣でもなく神を気遣うことになるなんて。

 そんなことは一生無いだろうと、考える事すら思い浮かばなかった事柄を思う。そうさせてしまう女神に、嫌悪ではなく憐憫が湧く。何者にも触れているのならば、彼女は人間でもあって獣でもあるのだろう。そう考えて思考回路に逃げ道を用意してしまうのは、やはり「神」という属性そのものへの敵愾心が健在であることの証左だろう。

 それを差し置かせた上で上回ってくるダラ・アマデュラの精神性の、なんと哀れで悲しいものか。

 エルキドゥは兵器でありながら、彼女と友誼を結んでは去っていったという人間たちへ理解の灯をともす。

 そうだ、彼女は哀れだ。なにせ兵器をして言わしめるほどに可哀想なのだから、情の(こわ)い人間が彼女を見過ごすはずがない。

 

 最早正常な呼吸すら儘ならない女神が、焦り切った顔から止め処なく大粒の涙を零す。

 銀の鱗をしゃらりと鳴らせ、わざわざ優しい風を生み出して自分の落下を留め、必死に目を凝らして損傷(キズ)の程度を確かめてはぴゃあぴゃあと甲高く幼い声で謝罪を繰り返す姿は、人間たちの心をきつく絞り上げて巨大な影を落とした。

 

 そうしてギルガメッシュの予想通り、そして神々の計画通り、女神ダラ・アマデュラは理性を取り戻した。

 理性を取り戻した彼女はエルキドゥを回収しに来たギルガメッシュにも謝罪し、沈痛な面持ちで項垂れる眷属群を引き連れてウルクを去った。

 交わした約定すら身勝手に破却された女神の憔悴は著しく、行き場を失った感情の矛先は切っ先を向ける先を見失い、結局は己の心の深い所に刺さる事で矛を収める鞘とする。

 じくじくと膿む様な倦怠と無力感に打ち拉がれる女神にもはや覇気など無く、剣鱗の煌めきさえ翳って見える始末であった。

 イシュタルはと言えば、自分が醜態をさらした事がよほど許せなかったのだろう。自身の危機が去ったとみるや否や、性懲りもなくダラ・アマデュラへの報復を画策しようとして、星々が去った天上に顕現した天空神アヌと生贄役を回避して安堵するニンフルサグに引き取られていった。きっと天上の世界で創世の神々にしこたま怒られるのだろう。それで反省するような可愛げがイシュタルにあるとは思えないが、「それでも一時落ち着くのであればそれでも構わん」とギルガメッシュは言う。

 これで一件落着。けれど残された人々の心には靄がかかり、あのギルガメッシュでさえ今日の酒は不味いと言って早々に寝所に脚を向けた。

 確かにウルクは救われた。けれどその傍らで、ダラ・アマデュラの心は僅かにも晴れることなく、否、むしろ余計に傷を負って終わったのだ。

 

「ウルクには……貴方の都には、我が友ドゥルバルと彼の妹がおりましょう? 同胞シュガルの生家、愛弟子バッバルフの兄弟の家もウルクにあると聞きました。彼等は皆ウルクを愛していました……私が憎んだのはイシュタルお姉様であって、ウルクの民ではありません。ましてや我が友らの愛しい者たちを、如何して私が傷つけられましょう」

 

 女神が住処へ帰る前、彼女はギルガメッシュ達に声を掛けた。

 か細い声で、泣いていた。震える声で、微笑んでいた。

 今にも儚く消えてしまいそうな風情で、巨大な蛇龍の姿をした女神は、人の王に頭を下げる。

 

「謝罪します、ウルクの王ギルガメッシュ。そしてその友エルキドゥ。私の怒りで貴方の都を荒らしたこと……貴方の身体を傷付けてしまったこと――ほんとうに、ごめんなさい」

 

 幼い少女の声で泣きながら謝る彼女に、貴女は悪くないと何度言いかけただろう。

 呆然としながら虚数世界に消えた母に問い掛ける様は、思わず目を反らしてしまう程に切なくて、耳の奥で反響する言葉の響きの痛ましさに背筋が冷えた。

 けれどそう言ってしまえば、彼女は再びイシュタルに、ひいてはウルクに牙を剥く事を赦される。そうなってしまっては本末転倒だからと口を噤む彼らに、ダラ・アマデュラは理解を示して「それで良いのです」と人間の卑怯さを許した。

 彼女の優しさから生じた忍耐。荒れ狂う憤怒を殺しきれぬままに心の底へと沈めた彼女は、バッバルフの命と名誉を損なわせた事に対するイシュタルの謝罪を落としどころにして、満身創痍の心を抱えて己を戒める千剣の山へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……帰り際に、彼女がウルクの街を眩しそうに眺めていた。きっと、そこにいるはずの友たちと、その家族を想っていたのだろう。

 けれど彼女は何も言及しなかった。彼等のその後にも、残された家族たちについても、何も聞かなかった。

 聞けなかった、が正しいのだろう。ダラ・アマデュラは理解したのだ。何も喪うのは自分だけではないと、喪失は彼女に関わった者たちにも降りかかるのだと、彼女はこの一件で頭と心で理解した。

 彼女には酷な事だが、それでも――ウルクの民は、安堵していた。

 去り行くその背中に向けて、彼女の一番最初の友とその妹がどうなったか、裏切り者として追われていた同胞の家族がどうなったか、女神の怒りに触れた愛弟子の兄弟がどうなったのか……その末路を唇に乗せる非道さを、誰一人として持ち合わせていなかったが故に。

 

 けれど、もしこの時、誰かが勇気を出して彼女に真実を告げていれば……いや、どちらにしろ変わらないのか。

 遅いか早いかの違いで、彼女たちは必ず同じ道を辿っただろう。

 

 

 なにせ全てが始まったとき、既に終わりとの約束は交わされていたのだから。

 

 

 



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閑話・語られぬ残照

 さて、折り返しも順当に通り過ぎたけれど、気分はどうだい?
 うん? 優れない? 心が疲れた?
 ……まぁ、悲劇だからねぇ。そこは仕方ないと思って諦めてほしい。
 けれど、そうだなぁ……ここいらで小休止を挟むのも悪くはないか。
 それでは今回は幸福を語ろう。なにも彼等は不幸にばかり愛されていた訳じゃない。
 これは碑文に語られない物語。彼等の絶望を深めた、優しい時間のお話だ。
 存分に愛で、そして……どうか、覚えていてあげてくれないかな?



「――と、こういう訳で、僕は無事に貴女の下へとやってこれたのです」

 

 抜けるような青を広げた空の下、真白の雲が悠々と泳ぐ穏やかな昼下がり、彼らは穏やかに笑い合って牧歌的な時間を愛でていた。

 峻厳を極めた山の頂には良く使い込まれた竪琴を膝の上に置き、岩の上に片膝を立てて座る青年と、そんな彼を遥か高みから――ではなく、心持ち身体を乗り出すようにして首を擡げ、青年の声や表情をはっきり窺えるようにと微笑ましい努力をする巨大な蛇龍の姿があった。

 千剣山の頂、普段は決して晴れない暗雲と不気味な雷鳴が轟くそこは、青年……バッバルフへの音楽指導の間だけ穏やかな光が差す安息の地へと変わる。

 それは偏にバッバルフと、蛇龍こと女神ダラ・アマデュラの奏でる旋律が生み出す権能の余波が原因であるのだが、それは特に重要ではないので置いておく。ただ、師弟の時間は二人の関係の如く清涼で清々しい、心躍るものだったと思ってもらえたならそれでいい。

 さて、歌舞音曲の女神による親身な直接指導によってめきめきと実力を伸ばす青年だが、今は休憩中ということもあって修行中に見せるひたむきさが滲む真剣な顔はなりを潜め、ほわりと風に浮く綿毛のように柔らかでほのかな幸せを感じる笑みを湛えていた。

 修行中は両者共に真剣に、そして楽しく充実した時間を過ごすのだが、休憩中は与太話や思い出話に花を咲かせ、やはり楽しく充実した時間を過ごす。

 今回の話題はバッバルフがダラ・アマデュラの下を訪れる以前の話で、彼と死した親友の話であった。

 飴色の肌に砂漠の色をした長髪を持つ青年がはにかみ乍らも誇らしげに語って聞かせてくれた話では、彼はなんとガルラ霊を音楽の腕前でいなしたという。

 バッバルフにはとても仲のいい男友達が居たのだが、彼は酒を飲んで酔っ払った帰り道で派手に転倒したところを、運悪く通りかかった女神の駆る天弓にアッパーカットをくらい、跳ね飛ばされたところが水瓶で、頭からすっぽりと入り込んでそのまま気絶している内に溺死してしまったらしい。なお彼を撥ねた某金星の女神はびっくりし過ぎてそのまま逃げたという。世界最古の轢き逃げである。碑文には載らない。

 なんとも言えない死に方に、ダラ・アマデュラの胸中が色々な意味で大変なことになったが、それはさておき、バッバルフも親友の間抜けとも悲惨とも言えない、笑ってやった方が良いのかどうかもわからない死に方に心が慄いたらしい。

 

「僕ならこんな死に方、死んでも死にきれない。そう思っていたら、当人が『ビールで死ぬならまだしも水で死ぬとか、死んでも死にきれねぇよチクショウ!!』と、半泣きで現れたのですよ……ガルラ霊になって」

「ガルラ霊になってまでビール!?」

「ええ、ガルラ霊になってまで。僕はこの時、本気でどんな顔をすれば良いのか解らなくて、取り敢えず声をかけたんですよ。生前と同じように『やぁ、一曲聴いていくかい?』って」

「ガルラ霊相手に!?」

「ええ、ガルラ霊相手に」

 

 その時の、あのシーナの顔といったら! 思い出し笑いをしてくすくすと小さく口元を抑えて笑うバッバルフに、ダラ・アマデュラは麦を飲む者(シーナ)の名に「生まれた時からビール好き……」と不意打ちで腹筋を刺激されていた。

 そしてバッバルフの生前と変わらない振る舞いに呆気にとられたらしい飲兵衛(シーナ)もまた、つられて生前と同じように是と応え、そのままバッバルフの演奏に耳を傾けたと言う。

 余りにも呆気なく死んでしまった親友の為に奏でるは、生前彼と共に酒を酌み交わしながら歌った酒飲みの歌。

 汗水たらして働いた男たちが、酒場で肩を組み合いながら好き勝手に歌った、その日一日の疲労も鬱屈も忘れさせてくれるビールを讃える歌である。

 

「僕もシーナも大声で歌いましてね。それを聞きつけた酒飲み仲間がビールをもってやってきて、ガルラ霊がシーナだと気付くとバカだアホだと罵倒しながら嬉しそうに歌うんです。それからは皆笑いながら大号泣ですよ。そして皆でビールを飲みまくりです。サギなんて大甕を二つも抱えてやってきましたからね。あいつもアホです」

 

 人間はどれだけビールが好きなのだろうか。思わずくすりと笑う稚けない女神に、青年は高揚する心の儘に身振り手振りまで交えて情感たっぷりに語る。

 手を取り合っては「お前冷てぇなチクショウ」と罵倒され、冥府の食事事情を語っては「飲めやぁ! 今ここで好きなだけ飲めやぁ!」と文字通りビールを注がれるシーナと、陽気に竪琴を掻き鳴らして思わぬ再会に花を添えるバッバルフ、そして酔っ払いたちの宴は一晩中続いた。

 夜明けの光が差す頃には、ガルラ霊となったシーナと、途中から演奏の方に熱が入ってあまり酔わずに済んだバッバルフだけが立っていたという。

 冷え込む街中に朝靄が立ち込める中、ひとしきり泣いて、飲んで、大いに笑ったシーナが、バッバルフの手に礼だと言って黒く艶めく石をのせた。

 広げた掌より一回り小さいそれは、聞けば冥府に住まう竜の鱗だと言う。

 こんなものを一体どうやってと聞けば、抜け毛宜しく転がってたから貰って来た。とのたまうシーナに、このアホ実は最強なのではないかと一瞬考えたらしい。

 そんなアホと豪胆が紙一重なシーナは、あからさまに困惑するバッバルフに笑って言う。

 

「これはお守りだよ。冥府のにおいがする竜鱗だ、獣どころか魔獣も怖がって近付かなくなるだろうよ……千剣山はかのエビフ山より厳しく、生命あるものを拒む。けれどそれさえあれば、道中の獣からも、千剣山の脅威からも、死のにおいがお前を守る」

 

 だからお前はあっさりこっち来るなよ? と言い残して、馬鹿で間抜けで酒好きで、それから陽気で仲間思いの気持ちの良い男は冥府に帰っていった。

 ここで話は冒頭の台詞に繋がる。「これがそのお守りです」と見せてもらった鱗は、なるほど、薄れているとはいえそれなりに香る死の冷たいにおいと、強靭な竜の魔力残滓が見て取れた。

 当然ダラ・アマデュラには遠く及ばないが、それでも道中の雑多な魔獣程度ならばにおいを嗅ぎ取る前に生命体としての本能で危険を察して逃げ出すだろう程度には強い竜気だ。これを得るためにシーナはどれ程の危険を冒したのだろうかと、近くて遠い冥府に思いを馳せる。

 

「良い友を持ったのですね」

 

 そんな言葉が自然と口を突いて出た。柔らかな微笑を伴う言葉に、バッバルフは少しだけ何かを堪える顔をして、それから「ええ、本当に僕には勿体無いくらい、気持ちの良い友です」と笑む。

 けれどやはり気恥ずかしかったのか、バッバルフは誤魔化すように咳ばらいをすると、ダラ・アマデュラに話をねだった。

 

「もう何度も聞いたのに、ですか?」

 

 ころりと微笑を苦笑に転じたダラ・アマデュラに、バッバルフは大きくうなずく。もう何度も、というのに、何度話しても言葉尻に喜色が滲む女神の喜悦が嬉しくて、青年は何度でも彼女の話を聞きたがった。

 それは世に悲劇と伝えられる女神と裏切者たちとの、世に語られる事のない交流譚。

 誰もが悲劇の裏に思い描きながら、影に葬ってしまった淡い光。

 原初の母、ティアマトに歌声を褒められたところから始まる優しい話は、後の離別を思えば確かに哀しかったが、それ以上に花が綻ぶような喜びを両者の胸に抱かせた。

 

「お母様は優しい旋律がお好みだったのですけれど、ムシュフシュお兄様は荒々しい歌がお好みでした。だからでしょうか、お母様の前ではしおらしい顔で子守歌に耳を傾けておられましたが、お母様が席を外した途端に『末仔、末仔よ、もっと熱く激しく、魂を揺らすような曲を頼む! このままでは眠気に負ける!』とおっしゃって……」

「それで、兄君の依頼には?」

「勿論応えました。ですが、今度は昂りすぎてしまってですね……お戻りになられたお母様に『おいババア! 俺をガキ扱いするんじゃねぇぞ! なんて言ったって俺は神殺しの怪物ムシュフシュ! バビロンの竜たぁ俺の……』と叫んだ所で、お母様の愛情に満ちた抱擁(サバ折り)の餌食になってしまわれて……羨ましかったです」

「羨ましかったんですか!?」

「お母様の抱擁ですよ!? 羨ましいに決まっているでしょう? 羨ましすぎて他のお兄様たちにもムシュフシュお兄様の黒歴史(ぶゆうでん)をお話ししてしまったくらいです! ……お兄様には悪いことをしてしまいました……」

「道理で祭りの時期はムシュフシュが街から遠ざかるわけです……自制してたのですね……」

 

 神話に語られる原初の女神と、その子供たちは一様に恐ろしく、創世を邪魔した悪役として有名である。

 けれど彼女の口から語られる神々の姿は人間の家族とあまり変わらなかった。怪物として生まれたが故に神としての傲慢さより獣の野性味の方が強いからかもしれないが、彼女たち兄妹の交流は微笑ましいと思いこそすれ、恐ろしい等とは欠片も思わないまま、ただ会話の楽しさだけが募っていく。

 

「貴女の話に聞くドゥルバル殿はシーナのようですよね。陽気であっけらかんとしていて豪胆なところなどが特に」

「そうですね。ですがドゥルバルは実は結構頭が良いのですよ。なにせ彼は行商人ですから、計算は元より時期を計る事も得意でした」

「はぁ、行商人。意外ですね、私はてっきり兵士か、職に就いていない若者かと……」

「なんでも病床に伏せる妹さんの為に色々な物を見て、色々な話を聞いて回るには行商人が最適だと判断したそうです。私に会いに来たのもその一環ですよ」

「家族想いな良い方だったのですね。いやぁ、そういう話は実に僕好みで良い。やはり愛は良いものです」

「確か妹さんはウルクにお住まいだったはずです。もし機会があればドゥルバルの旅話を聞けるのでは?」

「それは良い! ドゥルバルの方は欝々としてそうですので、貴女の弟子として……いえ、ここは女神懐柔の後輩として喝を入れて差し上げなければ」

「そうですね……って、あれ? 今『懐柔』って言いませんでした?」

 

 緩やかに、けれど確実に絆を深めていった彼らの交流は、ダラ・アマデュラではなく関わる相手によってその気質を変える。母ティアマトであれば夜半の揺り籠のように穏やかに。血の気の多い兄らであれば大通りの喧噪に似た賑やかさで、理知的な兄であれば風の遊ぶ木陰のような涼やかさがあった。

 母と兄との交流を失った後は、人間が彼女に新しい風を吹き込んだ。

 暗雲を払ったのは突風めいた勢いで意気揚々と乗り込んできたドゥルバルで、彼は思うがままに振る舞う事で彼女の呼吸を止めた感情に息を吹き込んだ。ドゥルバルの剛毅さがなければ、きっと彼女の心は今なお暗がりで震えていたに違いない。

 生命力に満ち溢れた外界の色彩を言葉と感情にこれでもかと詰め込んで、行商人は彼女の知らない世界を彼女の脳裏に展開した。

 街中にひっそりと咲く花の健気さも、魔獣の闊歩する野をゆく恐怖も、良く熟れた果実の滴るほどの瑞々しさも、病床に伏せる心細さも……その手を握る、誰かの存在の心強さも、女神ダラ・アマデュラが到底知りえない、今を生きる人間の情動は全てドゥルバルが丹精込めて彼女に注いだ。

 自分が如何に残酷な事をしているのか気付かない程愚かな男ではなかったが、彼は「知らないからこその安穏」よりも「知っているからこその愛慕」を優先して、永久の無為の慰めにと彼女に人の心を余すことなく思い出させた。

 いずれ神ならぬ身の自分は死ぬだろう。所詮、人間は労働力の代替でしかない。そういう生き物として作られた自分たちは、彼女の傍には長く在れない。けれど自分という一個人が死んでも、人間という種は変わらず命を繋いで続いてゆく。連綿と続いて、神に奉仕していく。例えギルガメッシュ王が神との訣別を選択したとしても、ダラ・アマデュラという神格はきっとその網を潜り抜けてしまう。

 だから彼女は、立ち位置を変えて人と共にあり続ける。

 それを知るドゥルバルは、後世の人間に彼女を託したのだ。そして彼女に、ドゥルバルという「個」への依存ではなく、人間という「全体」への愛着を望んだ。

 その目論見は最善の形で失敗し、最良の形で成功したと言えるだろう。それは現状が説明している。

 懐かしく愛おし気に友の名を唇に乗せながら、彼を起点に広く人間への理解とある種の憧憬を滲ませる彼女は、神と呼ぶにはあまりにも人間に近い精神構造をしている。それをより研磨したものがドゥルバルなら、その功罪はあまりにも大きい。

 そしてその功罪を土台にダラ・アマデュラの懐に潜り込んだシュガルもまた、「裏切られたもの同士」という抗いがたい共感で以て彼女の心を穏やかに温めた。

 ドゥルバルとの交流が嵐の様なものだとすれば、シュガルとの交流はドゥルバルが耕した肥沃な大地をせっせと整える作業に近いものだった。

 荒れに荒れて傷付いた胸中を穏やかに癒し合う彼らの交流は至って朴訥としたものだったと彼女が言う。

 

「シュガルはとにかく穏やかでした。言葉ではなく目で語る人でしたから、あまり会話らしい会話はありませんでしたが……『おやすみ』と『おはよう』は、決して欠かさない人でした。そういった何てことのないありふれた言葉で日常を作ってくれた、とても……とても、優しい人でしたよ」

 

 「実は、話に伝え聞く『父親』というものの理想像は、シュガルなのです」とはにかむ女神に幾度目かも知れない温かさを感じ取りながら、バッバルフは穏やかに笑む。

 実はバッバルフはウルクにいた頃の彼を遠目に見た事があった。自分よりも濃い色の肌に、年老いて鋼のような色になった黒髪を持つ筋骨隆々とした戦士こそがシュガルであった。

 あの冴え冴えと冷たく底光りする黒曜の眼に見詰められた荒くれ者が喉奥でか細く鳴いて失神する様を見た事が有る身としては、あれは罷り間違っても穏やか、や優しい、といった形容詞とは仲良く出来ないと思っていた。

 しかし、そういった「穏やかな日常」とは無縁の存在だと思っていた人間が、その実この幼気でそういったものに疎い女神をして「父親の理想像」と言わしめる程に出来た「父親」だったことに、バッバルフは素直に驚嘆し、次いでその為人を知れた幸運を喜ぶ。

 

「それはそれは……驚きました。けれど納得もしましたよ。そうですか、貴女の『父君』であるのなら、それはさぞかし得難い御仁だったのでしょうね」

 

 だからこそ惜しい。もしあの時の出会いをやり直せたなら、自分は一も二も無く彼に駆け寄り、その眼光の鋭さと武勇を褒め称えただろうと、バッバルフは悔しがる。

 

「貴女に同胞と言わしめた御仁という事は貴女に似ているという事。であればあの時駆け寄ってありったけの言葉を尽くして賛美すれば、きっといい感じに照れて狼狽えてくれたでしょうに……!」

「バッバルフ、貴方もしかして私で遊んでいませんか?」

「髪も程よく鋼色でしたし? 大剣使いとして見劣りするどころか見惚れる程の筋肉でしたし、男としても一級品とか、流石ダラ・アマデュラの父君、鋼の髪に鋼の肉体とか解っていらっしゃる!」

「ねぇ、目を逸らさないでこちらを見てください。ねぇ……!」

 

 女神の拗ねた声に、バッバルフの笑い声が弾けて重なる。

 腹を抱えて頽れる笑いのツボが浅くて広い愛弟子の情けない姿に、拗ねていた女神もくすりと笑うと、彼の笑い声につられてきゃらきゃらと高い声で笑いだした。

 何が面白いかも解らないけれど、とにかく腹の底から笑い声が湧き上がってくる。そのくせぽかぽかと春の陽気に似た温度で満ちる胸の奥に、全身で身に染み入る幸福を噛み締めた一人と一柱がなんとか収めた笑いの衝動がまた元気に動き出す。

 予定していた休憩時間をとうに過ぎても、彼らは「まぁ、そういう日もあるでしょう」と笑い合った。

 やがて夕暮れに染まる空が夜の薄絹を纏いだした。その頃になって長い休憩を終えた彼等は、和やかに笑い合って「また明日」を約束して眠りについた。

 バッバルフとの交流は、何時何時でも和やかで、それでいて明るい笑い声に満ちている。

 嵐が耕した大地を、寡黙で優しい男が整えたなら、後に続いた楽師は花の種を植えたのだ。

 いつか花咲く希望の色を夢想しながら、鼻歌を歌って種を撒く。

 誰にも知られる事のないその花の色が美しいと最初から予見している彼の足取りも歌声も軽やかだからこそ、大地も楽し気に歌ったのだ。

 ティアマト、十一の兄、ドゥルバル、シュガル、そしてバッバルフ、その誰か一人でも欠けていたら、誰か一人でも功罪を成せていなかったなら、大地は……ダラ・アマデュラの傷付いた心は、これ程までには生を感じさせなかっただろう。

 確かに彼らは裏切者である。けれど同時に彼らは与える者であった。決して奪うばかりでも失うばかりでもない、揺るぎない幸福を共有し合って笑いあった時間は、確かに彼らによって与えられたものだった。

 

 けれど幸せな時は長く続かない。バッバルフもまた、彼の事情でダラ・アマデュラの下を去ろうとしていた。

 だが、以前の別離と比べると断然悲哀の少ない別れだった。少なくとも、彼が千剣山の領域を抜けるまでは、バッバルフもダラ・アマデュラも再会の約束に希望をもっていたのだから、哀しいと言ってもそれは喪失の悲哀ではなく一時的な別離の哀惜だった。

 

「それではダラ・アマデュラ様……いえ、ここはお師匠様と呼びましょう……お師匠様、それでは行って参ります――貴女から預かった剣鱗(おまもり)は、土産話と共にお返ししましょう」

「ええ、楽しみに待っていますよ。ですが、お守りに関してはどうなっても構いません。その代わり、貴方は無事でいて下さいね、私の愛弟子」

 

 女神イシュタルとのけじめを付けに行ってくる。そう言って飛び出しかけたバッバルフを縋りつく勢いで留め、なんとか鱗を剥ぎ取らせて持たせたダラ・アマデュラは、他の神々が持つ底抜けの理不尽さを危惧していた。

 鱗は平たく言ってしまえばご機嫌取りの供物だ。お守りというのは嘘ではない。バッバルフが生還する為のお守りなのだから、その身と引き換えになるならばお守りも本懐を遂げられて満足だろう。そのお守りの大元が言うのだから間違いないと、ダラ・アマデュラは旅立つ愛弟子に念を押す。

 そうして無事を祈る為の剣鱗を持たされたバッバルフは、山を下りながら密かに夢を描いた。

 世に伝わる裏切りの伝承、その末路は確かに悲劇であったが、それでも彼らの間には確かな絆が、温かく尊い幸福があったのだ。それを世に遍く広めよう。この女神直々に鍛えられた旋律と歌声で、このメソポタミアに彼女たちの愛おしい物語を語り継ごう。

 憐憫と共に語られる稚けない女神の名が、いつか穏やかな心で唇に乗せられるようにと願って。

 

「それでは、まず手始めに兄弟たちに聞かせてあげますかねぇ……ふふっ、まずは怒られるのが先でしょうが、まぁ、それはそれで次の土産話になるでしょう」

 

 「土産話にはなりますが、その前に兄弟に何も告げずに訪れた件について弁明を」……なんて、頭の中でお師匠様がため息を吐くものだから、笑いの底が浅いバッバルフは千剣山を抜ける間、口元を軽く押さえて酷く楽し気に笑いながら足を動かしていた。

 その背を千剣山の頂から見送っていたダラ・アマデュラも、愛弟子の背中が細く震える様を見て、「また何か勝手に想像して笑っているのですか……最後まで締まりが無いのですから、私の愛弟子は困りものですね」と、つられて笑った。

 

 

 

 

 これが語られる事のなかった、彼らの物語。

 楽師の青年が旋律に乗せるはずだった、彼らの他愛のない幸福の物語。

 

 紡ぎ手たる楽師を喪失(なく)した温かい歌は、青年の鼓動と共に潰えて消えた。

 

 



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第六話:未知の絶望


 さて、小休止も済んだことだし大筋に戻ろう。
 うん? 休みが休みじゃなかった?
 それは運がなかった……いや、君の感性が優しかっただけの話さ。
 それよりも覚悟は出来た? 第七の裏切りは少しばかり難しいのだけれど、さて。

 この裏切りはね、彼女の意図しない所から、不意を突いてやってきたんだ。
 だから、後世ではこれを裏切りとは呼んでいるけれど、実際彼女がそうだと認識したかどうかは怪しい。
 だって、これは純粋な好意と善意が、低俗な悪意に唆されて生まれただけの事件だったのだから。




 

 

 一体、何が何処まで許されて、何を何処まで制限されるのだろう。

 

 正当な復讐の機会を奪われたダラ・アマデュラは、千剣の山の頂で呆然とそんな事を考えた。

 外界への出陣は許された。眷属を群れと引き連れ、イシュタルのイナンナに嗾ける事も許された。

 失うものがないというのは酷く身軽だ。後先考えずに殺意だけで動く身体は自制を振りほどいて暴走しかけたけれど、何の遠慮も呵責も無く胸の澱を吐き出すように放った熱線は、自分自身の良心さえも焼き消すようにひたすらに熱くて心地良ささえ感じた程。

 じくじくと膿む心を嬲るように絞め殺すより、余程爽快だった。一瞬で焼き消えたものが自分の感傷だったとしても、いや、自分の心だからこそ、一瞬で殺されるのは気分が良かった。

 けれど疑似的な自死の恍惚もすぐに冷めた。目の前で逃げ回るイシュタルに殺意こそ溢れる程に湧くものの、さりとて未だにイシュタルを「姉様」と呼称する自分の性根に嘘が吐けるかと言えば、ダラ・アマデュラにとってそれは否であったので。

 それからは虚しさと殺意の鬩ぎ合いだった。脳裏を白く染める程の憎悪に紛れてはいるが、確かに感じる空白に無意味に暴れる自分を淡々と観察される。それは余りにも無駄な行動だと無言で諭してくる諦念に、今度は自らに向かう怒りを煽り立てられる始末。

 全てが徒労に終わり、無駄に心に傷を負い、更には他者に怪我を負わせて迎えたものは、復讐と言うには余りにもお粗末な結末で。

 胸中に凝るどろりとした感情を持て余しながらすごすごと身を引いた今、ダラ・アマデュラには報復の意志が決定的に欠けていた。

 実のところ、ダラ・アマデュラを千剣山に戒める契約は解かれたままでいる。つまりダラ・アマデュラはイシュタルへの報復の機会を失ってはいないのだ。けれど彼女が再び咆哮を上げないのは、偏に自らの薄弱極まる意思が彼女の出陣を「否」と留めているからである。

 たった一度の出陣で自らが動いた先に待つ末路を思い知らされたダラ・アマデュラは、バッバルフの無念を晴らせない己を呪い、魂の安寧を祈りながら永遠を生きようと考えた。

 誰かと関わるだけで何かを失い、喪わせる。それを嫌という程味わった彼女は、呪いに誘われて(きた)る誰かを遠ざけなければとまで考え、徹底的に他者を拒もうと、千剣山の入り口にバルファルクを据え置くことにした。

 これならばティアマトの紡いだ呪いに誘われてきた人間が居ても関わる前に追い払う事が出来る。例えイシュタルが報復の報復(・・・・・)に訪れたとしても、千剣山を己の領域とするダラ・アマデュラの前には無力。冥界の理と同様に千剣山には千剣山独自の理がある。

 ダラ・アマデュラを閉じ込めていた結界はティアマトが天地となった時に無くなっている。だが、物が残っておらずとも「この地において神霊に属するものがダラ・アマデュラ及び彼女に属するものに害成す事は能わず」という、原初の母が()いた娘を守るための理は概念として今なお千剣山に根差して生きていた。

 不壊属性のうえに不朽を重ね、さらには不死まで獲得している身としては正直、過剰に過ぎる守りだと思う。そして千剣山の外に出れば効力を失う辺りが片手落ちだとも思った。「属する」や「害する」の定義も限定的すぎる。もう少し応用が効けば拾えた命があったのだと、女神は何度目かの嘆きに重苦しい吐息を溢す。

 自らの悲嘆は兎も角として、眷属たちは十全に仕事を果たしてくれるだろう。彼等は些か、否、自分でも驚くほどに良く尽してくれるのだから。そう信じたダラ・アマデュラは、腐るように痛む心を抱えて静かに目を閉じる――けれど。

 

「……る、じ……主ッ――疾く逃げられよ、主ッ!!」

 

 このまま二度と開けるまい。そう思っていた瞼が数年越しに持ち上がった。久方ぶりに光を受容した瞳が眩さに回る。

 初めて聞く眷属の切羽詰った声に主として反応を示した肉体は、その身に備わる高性能な身体機能で異常事態を察知する。

 

――千剣山の麓に、何かがいる(・・・・・)

 

 如何してここまでの接近を赦してしまったのか。頼りにしていた眷属の予想だにしない失態に虚を突かれるダラ・アマデュラが漠然と感知した何者かの存在に向かって、女神の巨躯をなぞるようにして眷属たちが急降下していく。

 にちゃり、ぬたりと粘着質な水音が山肌を這いあがる音が聞こえる。彼等はそれに向かって龍気を雨のように打ち出すが、それは堪えているのかいないのか、進行速度こそ緩めるものの歩み自体は留まることなく、ゆっくりとだが確実にダラ・アマデュラの下へと進んでいた。

 神すら焼き焦がす眷属の猛攻を受けてなお邁進するそれに、ダラ・アマデュラは瞬時に覚醒した頭でその正体を理解する。

 姿形は海に住む軟体生物を思わせた。ダラ・アマデュラをして巨大と思わせる頭に、「双頭の竜」にも見える二本一対の触腕が軋む様な音を立てて蠢く。緩く呼吸するように開く口腔に強靭な牙を覗かせ、青黒い粘液に塗れた体を震わせながら山肌にしがみ付いている。

 粘着質な音の出どころはあの粘液だろう。それを勢いよく噴出させて周囲を音速で飛び交うバルファルクに攻撃を加えては避けられているから、当たり損ねた粘液が山肌に勢いよくぶちまけられて不愉快な音を立てたのだ。

 

「主、主よ、起きられたならば疾く逃げられよ! こやつは最早……ッ!」

 

 甲高い金属音が耳元を掠めたかと思うと、ダラ・アマデュラの顔の前に他の眷属よりも二回りほど大きな身体を持つバルファルクが滞空しながら主である女神に逃走を乞う。

 彼は一番古い眷属だった。ダラ・アマデュラが生まれ落ちた直後、母を傷付けた嘆きと驚愕によって流れた星の欠片から生まれた、一番古いバルファルク。

 遠く空に在る時から、一時たりとも目を離さずに主の全てを見守ってきた、誰より無力を噛み締める眷属群の長の忠言に、果たしてダラ・アマデュラは逃げるどころか身じろぐ事さえ出来なかった。

 

 傷つかないはずだ。退(しりぞけ)けられないはずだ。なにせそれが身に纏うモノには覚えがある。それが宿すものには親しみがある。

 眷属たちは寧ろ良くやってくれていた。失態などと思ったダラ・アマデュラの方に非があった。

 なにせ相手が悪すぎる。ダラ・アマデュラにとってもバルファルクにとっても、それの存在は余りにも分が悪かった。

 

 それはダラ・アマデュラの記憶通りであれば、捕食した生物の骨を纏う龍である。捕食する事に特化した肉体。捕食のみを目的とするような生態。竜種に墓場が存在するのならば、それを有無を言わさずに生き物として仕立て上げたような外見をしている。

 まるで双頭の竜、その屍。自らが捕獲し、捕食した生物の骨格をより強く硬くしながら身に纏う最悪の古龍種。

 「奈落の妖星」の呼び名を持つ異形の古龍「骸龍オストガロア」――その劣化版。

 設計図通りの肉体(カタログスペック)にすら至らなかった、形質と性質だけを写し取った紛い物。

 龍でありながら竜気を用いた攻撃すら出来ず、ひたすら己の体液と体を振り回すだけの肉塊。見掛け倒しの骸だ。姿形が異様なだけの張りぼてだ。本来ならばダラ・アマデュラやイシュタルどころか、バルファルク一頭の足下にも及ばない性能しかない、形だけが立派な何か(・・)だった。

 しかし、それでもオストガロアは攻撃を耐えた。女神イシュタルすら畏れ慄き逃げ惑った流星の瀑布を、出来損ないの竜擬きごときが耐えながらいなす様は、まさしく異様な光景だった。

 けれどこの場にいる誰しもが気付いていた。誰もがあり得ない光景を当然のものとして受け止め、それ故に焦燥も露わに眷属たちは「逃げよ」と吠え猛り続けた。

 「逃げよ主、疾く、疾く、この場より脱せよ」と、バルファルク達が鈴なりに叫ぶ。輪唱に似た懇願はダラ・アマデュラの耳に届くが、頭には届いても心には響かない。それを重々承知で健気な眷属たちは繰り返す。「頼む、我等が主よ。どうか疾く、此れなる命から離れよ」と、効きもしない攻撃で主への到達を遅らせるべく奮起する。

 けれどやはり、ダラ・アマデュラは動かない。否、動けないと言うべきか。

 ダラ・アマデュラは理解していた。眷属たちが理解しているのだから、当然主であるダラ・アマデュラも解っていた。神にとって数年は瞬きの間に等しい。僅かばかりの微睡みを甘受していた彼女にとって、イシュタルへの報復も、バッバルフの惨殺もシュガルの死も、ドゥルバルの裏切りとて昨日今日の話である。

 

 オストガロアの姿をした竜擬きの外殻から、血の臭いがした。それは非常に馴染み深く、そして忘れ難い臭いだった。

 骸として纏う骨が纏う、粘液由来ではない光沢にも嫌という程見覚えがある。それは女神が嫌悪しながらも誇らずにはいられない色で星の光を照り返す。

 粘液の青に見覚えは無いが、その青さの原料であったものの色が赤色だったことは覚えている。ここ最近よく目にする色だ。蛇龍たる女神の背筋を凍らせる、命が流れ出た色だ。

 そして何より、聞こえるのだ。

 か細い声で、張りのない弱々しい声で、無慈悲な咢の奥から確かに聞こえるのだ。

 一体どれほどの生命を喰らい歩いて来たのだろう。一体どれほどの嘆きを産み落として来たのだろう。

 生臭い吐息が漏れ出す口腔から吐き出される声は、確かに――ダラ・アマデュラを、呼んでいた。

 

 その呼び声に覚えがあった。その呼称に覚えがありすぎた。

 故にこそダラ・アマデュラは硬直する。癒える間どころか膿む間もないまま割り裂かれた傷口に塩を塗り込める声色は、幾度となく己と言葉を交わした存在たち(・・)と重なった。

 

――女ー神さん、蛇の女神のダラさんやーい。

 

「…………ぃ、あ」

 

――デュラ嬢、聴いて……くれる、か。

 

「ぃ、ゃ…………い……ゃ、あ」

 

――まぁそう言わずに。お願いしますよ。

 

「まっ、て、まって、まって、ねぇ、まって」

 

――ダラさんにさぁ、頼みがな、あるんだわ。

 

「まって、おねがい、まって、やだ、まって、ねぇ、いや、ねぇ」

 

――私たちの悲願……は、言い過ぎか。だが、悲願に近い、願いだ。

 

「やめて、いやな、いやなよかんがね、するの。ねぇ、まって、おねがいだから、ね? ……ね?」

 

――僕らを想って嘆く貴女が(かな)しい。この想いは嘘ではありません。ですから。

 

「ねぇ……ねぇ、やめてって、いってるの。ききたくない、ききたくない、ききたくないの!」

 

――ダラさん。頼む。

 

「なんで、どうして、わたしがっ、わたしがわるかったから、だから、いわなっ、いわないで!」

 

――デュラ嬢。聴いてくれ。

 

「やだ、やだ、やだやだやだやだやだ! ききたくないの、いやなの、やなの、やなの!!」

 

――お願いします。ねぇ……。

 

 星が降る。銀色の星が、甲高い音を立てて粘性を持つ骸に向かって光弾を撃つ。

 当たれば金星の女神すら穿つ星龍の一撃は、しかし張りぼての鎧を削らない。

 なにせそれは不壊の鎧。永遠に朽ちる事ない、星を呼ぶ女神から削がれた外殻で出来ている、久遠の守り。

 触腕の左に張り付く鈍色。それは愛を知る青嵐が剥ぎ取った鱗だった。

 触腕の右を彩る銀色。それは悪役を演じきれなかった同胞の墓標となった鱗だった。

 本体を覆う鉄色。それは加護を与えた詩人を守り切れなかった、お守りにも成り損なった鱗だった。

 青い粘液からは自らの血の臭いと、それから優しい時を過ごしてきた裏切者たちの懐かしい匂いが立ち上る。口腔の生臭さの中に紛れるそれに、鋭い切っ先を避けて触れて来た硬い掌の温度まで思い起こされるようで。

 

 流星たちが吠えている。言葉の意味は最早女神の脳裏にさえ届かない。ただ必死に叫ぶ姿が、どこか遠い国の絵物語を見ているようだと、益体も無い事ばかりが心に浮かんでは立ち消える。

 

 バルファルク達の抵抗も虚しく、遂にダラ・アマデュラの身体に到達したオストガロア擬きが歓喜に震える。

 湧き上がる悔恨と鮮やかな懐古に心を奪われていたダラ・アマデュラは、頭が受け入れる事を拒否した現実を受け止める間もなく、赤黒い泥土と化して身体を這い上がるソレに全身を戦慄かせてか細く鳴いた。

 先ほどまでの怠惰とさえ感じる鈍重さをかなぐり捨てて登ってくる血肉色の泥土は、聳える剣鱗の合間を縫うようにしてダラ・アマデュラの頭部を目指す。主の身体を這うソレにバルファルク達が各々の感情で吼えたてるも、例え傷一つ付かないとはいえ主に向かって攻撃など出来ないと、眷属たちは臍を噛みながら悲痛に彩られた声で主を呼び続けた。

 ただ一頭、一番最初に生み出されたバルファルクだけが他よりも並外れた忠心によって主の危機を救おうと龍気を放つも、泥土と化したそれは嫌に俊敏な動きで光弾を避け、一心不乱に彼女の頭部……鋭い牙が備わる口腔へと駆けあがっていく。

 龍擬きの正体は知れても、泥土の意図を把握できるものはいなかった。だからこそ眷属たちは降って湧いた主の危機に混乱しながら立ち向かい、女神は傷口を抉られる感触にばかり気を取られていた。もしもこの時、泥土の意図を知れたとしたら、眷属たちは身命を流れる血肉に変えてでもダラ・アマデュラに突貫し、その体を滑り落ちる血の河となって泥土の進行を阻んだだろう。

 けれど懐かしい声で鳴く泥土の意図は、最後の最後になるまで決して誰にも悟られなかった。彼等と交流のあったダラ・アマデュラでさえ、嫌な予感こそするものの、それは彼等が死に際に抱いたかも知れない己への負の感情が凝ったものだろうと思っていた。故にダラ・アマデュラはいやいやと痛ましく幼い声色で繰り返しはしたものの、泥土を振り払う事はせず、怖気を催す感触を甘受しながら、彼等が成さんとしているだろう報復までも受け入れようとしていた。

 

 その予想が裏切られたのは、泥土が遂にダラ・アマデュラの口元に手を掛けた瞬間、今まさに口腔に転がりこもうとしていた泥土が、確かな形を持ったその時だ。

 ぐじゅるぶじゅると耳の奥を舐るような嫌な音を立てて、泥土は人の形を取った。

 口元に在るが故にその姿を視界に納められなかったダラ・アマデュラだったが、周囲に滞空していた眷属の美しい鱗に写りこんだ後姿を見て、美しい琥珀色の瞳を驚愕の色に染め上げた。

 ほどほどに小柄な背丈。決してふくよかとは言えない痩身は薄いが、華奢な骨格も丸みを帯びた細い手指も、確かに女性の身体そのもので。

 やや傷んだ黒髪が絡まりながら風に靡く。煤けて見える肌が不健康な土気色をしてダラ・アマデュラの口内に向かって傾いでいく。

 聞き覚えのある声たちが形作った見知らぬ女性の姿に瞠目するダラ・アマデュラの耳に、女性の声が転がり込む。

 蚊の鳴くような細く頼りない声とは裏腹に多大なる喜悦を孕んだ言葉が女神の脳に意味を刻み込んだ瞬間、ダラ・アマデュラは絶望しながら女を拒絶した。

 けれど慄くダラ・アマデュラの咆哮を誰よりも近い位置で聞いていた女は、その音の衝撃で身体を泥土と弾けさせ、そのまま口の内側をなぞるようにして女神の喉奥へと注がれていった。

 誰もが予想しなかった事態に困惑し狂乱する中。身も世も無く泣き喚きながら身を捩り、涙をまき散らしながら声にならない叫び声を上げ、なんとかして注がれた泥土を吐き出そうと足掻くダラ・アマデュラの耳に、女が直前に吐いた言葉がこだまする。

 知らない女の喉が紡いだのは、全く聞き覚えの無い声だった。

 か細く、弱々しく、久しく使っていない喉を無理に震わせたような、掠れた声だった。

 その声が吐いたのは、たった一言。たった一言の言葉だけで、ダラ・アマデュラは絶望には底が無いと思い知らされた。

 ダラ・アマデュラが抱えた異界の記憶。その中に埋もれた、竜が空を舞う世界の生命体。ありとあらゆる生命を喰らう事が己の命題だと言わんばかりに触腕を伸ばす、古きを生きる強き龍。

 捕食活動を根幹に据えて想像され、形作られた其れが発したのは、いかにも骸龍らしくありながら、同時に骸龍であるならば決して思考に至ることもないだろう言葉。

 

 

 

 オストガロアは、泥土は、女は、ただ一言こういった――「たべて」、と。

 

 

 

 その時泥土は確かに「たべて」と言って。

 そして、女神を「お師匠様」と呼んで、彼女の喉奥へと飛び込んだ。

 

 



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第七話:偽物の幸福

 事の全容が知りたい。そう思う気持ちはよく解る。
 けれどもう少しだけ付き合ってほしい。
 せめて彼らが何を思ってあんなことをしたのか、それだけは聞いてくれ。
 全ては夢の中の幸福。曖昧で抽象的な、何てことのない幻の話。
 けれど彼らが抱えた心だけは、誰にも否定できない真実であったはずだから。




 今日も世界は美しい。

 天上の青は果てしなく遠く澄み渡り、清々しい透明さで、一分の隙もない程に地平線まで彩っている。

 遠景に望む雄大な山の白茶けた山肌は雄大で、どっしりと構えたその佇まいは威厳に満ち溢れていた。

 勿論、足下に広がる野辺の緑も美しい。背丈の違う雑草だが、合間に咲いた名も知らぬ野花と共に風に揺れる様は愛らしく、思わず微笑みを湛えてしまう程に心をくすぐる。

 小花の柄を添えた緑の絨毯の向こうから、嗅ぎ慣れない……しかし懐かしさを煽る匂いがした。どこか心を落ち着かなくさせる、少しだけぺたりと肌に張り付く感覚を覚えさせるそれは所謂「潮風」というものだろう。

 真水の清涼な匂いとはまた違った水の匂いは命に満ちている。

 これはお母様の水だと、その娘は漠然と悟った。これは命の水の匂い、あらゆる命の可能性に満ちた、原初の塩水の匂い。空の青を映してなお、その奥底に混沌とした暗澹を抱える、お母様の香り。

 ほろほろと蕩けるように娘の心を温めるその匂いに、娘は馥郁たる香りを楽しむが如く目を細め、鼻孔を満たして胸に満ちる母の欠片を慈しむ。

 

――ああ、今日も世界は美しい。

 

 娘は恍惚の表情で世界を満喫する。幾重にも紗を纏って色模様を変える空の移ろい、永久を眺める厳格な山峡と、それに対して儚い一瞬を魅せるように生きる萌芽の強かさの、なんと美しいことか。

 遥か彼方に嗅ぎ取る海の青さに想いを馳せるこの時間さえもが心地良い。漣を立てて飛沫を上げているだろうその色は、きっと、いや、絶対に美しいに決まっている。

 そして、娘はやがて己の視線を周囲に廻らせ、己の背後で目を止める。

 奇妙に削られ、螺子のような螺旋を描いて天に牙を剥く千剣山の中腹、荒々しい山肌に偶然出来た平らかな台地には、この場には有るはずもない神殿がひっそりと佇んでいた。

 砂礫の色に良く似た灰色の岩壁に埋もれるように建つ、真新しく繊細なのに何処か古ぼけた印象を抱かせる、とろけるような白を纏う石窟の神殿。

 峻厳極まる過酷な山肌に不意を突いて現れたそれには、要所要所にある女神を讃える文言をさりげなく模様に隠した装飾や、威厳溢れる蛇龍のレリーフがひっそりと息を潜めるように刻まれている。

 威厳を湛えた神威が問答無用で畏怖を抱かせるこの地に、微睡む様な幽玄さを以って佇む石窟の神殿に、娘はただただ目を細めるばかり。命あるものの背筋を凍らせ、神経を張り詰めさせる厳かな山稜にあってなお、夢見るように儚い姿で建つそれが確かに己のものであると感じ取った娘は、ゆるりと小首を傾げて朱金に輝く瞳でその奥を見通す。

 神威を吸って不可思議に輝く岩々を越え、控えめだが精緻な意匠をこらされた、どこか置き去りにされた子供の様な、秘密基地に喜ぶ子供の様な不可思議な感覚を思い起こさせる石窟を抜ければ、其処には幻想が広がっていた。

 紗を通したように柔らかく砕けた光の中、十数段の短い階段を降りたなら、其処には視覚にも柔らかな、瑞々しく青い緑。山の中腹に広がるのは、石窟神殿の防壁に隠され埋もれた箱庭であった。視界の大半を埋める澄んだ水面は淡く凪ぎ、ふと風が囁く声で漣を生み出す。

 娘の足首は越えても、決して膝までは届かない。けれど青い青い空の下、不可思議な月白色の花が蕾と揺蕩いながら、小さな浮島と共に浮かぶ。その程度の水深はある、そんな大きな水溜りが広がっていた。

 いくつかの浮島には淡い青紫色の燐光を放つ透明な岩が花と咲き、指先の温度で溶けて消えてしまいそうな薄い花弁に風を受けて浮島を泳がせる。突き出た岩々のいくつかは原石と思しき輝石を抱き込み、ひび割れた隙間から小さく愛らしい幽玄の花を育てている。

 花開いた瞬間に時を止めた石花の葉陰がそのまま水面に映り込むほどに透明度の高い水の底、青褐色の岩盤は磨き抜かれたように滑らかで、降り注ぐ陽光を受けて色を変える様は、螺鈿細工にも虹色の魚が泳ぐ姿にも似て見えた。

 青紫を基調とした水面の庭を過ぎた最奥には、山肌と同化して見えるがそれなりの奥行があった。幾重にも紗が掛けられた道程のその奥には、きっとこの地の主が座すべき玉座があるのだろう。

 娘はそこまで察して、最奥を見通すことをやめた。代わりに視線を手前に戻せば、紗の通路の出入り口にやや大きな東屋が水面に浮かぶようにせり出していた。此方側は雪花石膏(アラバスタ―)で出来ているのだろうか、神殿外観の古式ゆかしさを感じさせる風体とは違い、真実、真新しい純白で作られたそれは空気に溶けるような柔らかさでほのかに輝いて見えた。此方も控えめながら施された装飾が美しい陰影を生み、溶けかけの雪を見るように儚さを助長する。

 もしも此の地を垣間見るものがあったなら、どれ程の人間がこの景色の中で息を引き取れるのならばと願うだろう。

 まさしく夢幻の光景だ。この地を与えられた存在に……娘にこれ以上ないほど相応しい住処はそうそうない。

 底光りする炯眼で自らの神殿を見定めた娘は、徐に己の両手を眼前に掲げた。

 

 柔らかな蝋燭の灯に似た色の眼の前、そこには――細く、小さく、それでいて柔らかな繊手が、両手で十指を数える人間の少女の指を備えて掲げられていた。

 

 やや青ざめた、抜けるように白い肌。幼気な手指の造形は美しく、指先に備わる爪は貝殻の薄さに青を帯びる。

 視線を徐々に腕を辿って身体の方へと向けると、淡い銀糸で幾何学模様が刺繍された生成り色の布が掌の半ばから肘の上、二の腕の下部まで、嫋やかで頼りない細腕を隙間なく包み込んでいる。

 首から下はどうかと言えば、案の定身に着けた覚えのない衣服を着ていた。

 成長途中の少女そのものの上半身には、襟がやや広がっている、手袋と同色同素材の布で出来た膝上丈のホルターネックのワンピース。下半身にはそれと比べると僅かに白が強い、銀糸で模様が織り込まれた布が腰に巻かれている。腰回りを一周して前で開く白布とは別に、その一枚下に垂れる前掛けは見覚えのある薄い銀灰色の布地にグラデーションがかかった青糸と銀糸の素朴な刺繍が踊っていた。

 細い鎖骨、なだらかな丘を成す胸を越え、薄い腹、まろやかな曲線を描く腰と視線を下げていくと、穏やかな風に翻るワンピースの向こう側にすらりと伸びた細くしなやかな二本の脚が、銀に青を帯びた金属質なサンダルに包まれて大地を踏みしめていた。

 呆然と己の脚を見下ろす娘の視界を、ふと銀色の糸が掠める。

 恐る恐る手指を動かし、顔の造形を辿るようにして頭に触れる。此処には鏡など無いが、触れた感覚から察するにそう悪くない顔をしているらしいと客観的に判断した娘の顔が困惑を帯びる。辿る指先に感じる冷たい感触が自分の毛髪であることは解るのだが、どれだけ触れても返ってくるのは薄い青を帯びた硬質な白銀を裏切る滑らかさと柔らかさばかりで、鋭利な刃物染みた底冷えのする冷たさなど感じ得ない。

 否、本当はそうある箇所もある。己の額よりやや上、側頭部と頭頂部の丁度中間に、一対二本の大角が生えていた。

 肘を緩く伸ばせば最上部を握れる程度の大きさの角は、娘の想像通りであれば前に伸びた扇状の、文字通り刃で出来た見目のものであるはずだ。触れた感覚から言っても思った通りのものである事は確からしい。

 だが、その刃角の鋭さを指先に感じることは無い。何故なら角の刃に相当する部分は己の毛髪によって幾重にも巻かれ、鞘に収まったようになっているのだから。

 触れたものは何であれ切り落としてしまう其れでも切れない、柔らかな銀糸の髪。何重にも巻かれてなお余る毛先は、安全になった刃角の後端で一度髪留めごと固定された後、三つ編みにされて腰の下で揺られていた。余りにも不可思議な鞘に一時考える事を放棄した娘は、角に置いた手を後頭部に回し、掴めるだけの長さがある事を確認するや否や、掴んだ髪束を右肩を通して己の眼前に持ってきた。

 角に巻き付いている部分が相当に長い事は解っていたが、背中に流れていた髪もまた、想像以上に長かった。背中の中ほどから緩く編まれた青銀の髪は、娘の小さな手の中で日に透けると、神々しい白金に艶めく。その色に嫌という程覚えの在る身としては、同時に想起される感傷も相まってあまり好ましいものでは無い色に映った。

 編まれていなければ引き摺っていただろうそれを、僅かな忌避でもって背に放る。

 どこか浮かない顔をして、そしてある確信を持って、娘は己の背中と腰に意識して力を籠めた。

 そよと吹く風が、僅かに娘の髪を浮かせ、しゃらりと繊細な細工が遊ぶ音に似た音を鳴らす。先程までは無かった感覚が背中と腰に生まれているのを感じた娘は、見ずとも解ったという風に疲れた顔をして僅かに項垂れる。

 そこには娘が思った通り、背中には鋭く大きな扇状の剣鱗が一対生え、腰の辺りからは娘を縦に二人並べた背丈を優に超える長さの立派な尻尾が悄然と地面に伏せていた。

 見る者に死を想起させる扇刃と、先端に行くにつれて剣呑さと残虐さ増していく自らの尾が娘の意思によって何処かへ消える。娘の意識としては格納した事になっているのだが、傍から見れば光に溶けて消えたようにしか見えない。

 

 美麗な顔に影を落として重苦しいため息を吐く娘だったが、不意に視線を感じて顔をあげ、神殿に向いていた身体を捻って後方に目を向ける。

 

「――え?」

 

 果たして、そこには人がいた。ぱかりと口を開けて呆ける娘に、彼等はひどく気安い態度で娘の驚嘆を笑った。

 

「よぅ、久しぶりだなぁダラさん。元気にしてたか?」

 

 ひょいと片手を上げて、柔らかな癖毛を風に遊ばせた男が屈託なく笑う。ありふれた黒髪に茶色の瞳が楽し気に輝く様は、記憶に在る笑顔と欠片も違わないからこそ胸を突く。

 思わず胸を抑える娘に、鋼の色に褪せた黒髪の偉丈夫が厳めしい顔を心配そうに歪めて手を彷徨わせた。心配だが、どう声を掛けて良いのか解らない。気遣いが一周して結局中途半端にしか動けないのだと自己嫌悪に浸っていた男性の変わらない性質に、最早娘は泣けばいいのか笑えばいいのか解らなかった。

 そんな三者三様の再会を苦笑しながら見守る砂色の髪の青年に、娘は無性に泣きたくなった。五体満足で欠けたところも無く、穏やかに笑う声は記憶のまま。ほんの少し見目に変化が見られるものの、柔らかに細められた灰色の目が血に濁っていない事に、娘は誰に祈る訳でもなく、ただただ感謝した。

 

「ちょっと兄さん、笑って誤魔化そうったってそうはいかないんだからね」

 

 いっぱいいっぱいになってしまった胸を抱え、引き攣れた呼吸をしていた娘の喉がからりと乾く。

 声質は違うが確かに聞き覚えのある声色に、娘の脚は自然と声を発した女の方へと向いた。

 本来ならば……否、男たちが望んだ通りであれば、その美しい白い脚は情動の抑圧と行動制限からの解放によって軽やかに地を蹴るはずだった。

 どこまでも続く吸い込まれそうな青い空の下、そよ風に靡く草木の心地良い音色を聞きながら歩いてほしかった。

 

 恐る恐る踏み出した一歩が踏みしめた大地は小さな足を柔らかく受け止め、肌に触れる一切は切り刻まれることなく確かな感触を持ってそこに在り続ける。

 最初の一歩は多大な勇気で。二歩目で恐れは薄れ、三歩目で驚愕に変わり、四、五、六歩は呆然と、しかし七歩目は、確かな歓喜の囁きを聞きながら。八歩目に囁きは大きくなり、九歩目に喝采が、そしてとうとう十歩目は、好奇心が溢れるままに大きく跳ねて、そのまま風と共に駆ける足取りへと変化する。

 風を切る感触、足を動かす感覚、急速に流れていく景色、際限なく高揚する心、全てが新鮮で目眩がするかもしれない。

 心臓が跳ねてうるさいのに、いつまでも全力の鼓動を聞いていたくなる、不可思議な感覚を知って欲しかった。

 そのままどこまでも行けてしまいそうな程の、自由という全能の感覚に、大声で笑い転げたい心地を知って欲しいと願っていた。

 けれど実際は、そんな夢物語の様な期待は切り捨てられた。

 

 出だしの一歩目から、女に到達する十数歩の間全て、娘に――ダラ・アマデュラにあったのは純然たる恐怖と絶望、それから言葉に出来ずに燻り続けた罪悪感と無念だけだった。

 

 今にも死にそうな顔をして女の前で脚を止めたダラ・アマデュラに、女はと言えば、酷く情けない顔をして己よりも小さな背丈の女神と目を合わせる。

 膝を抱えてしゃがみ込めばちょうど同じ高さになる視線に、女は一層悲壮さを増した顔で小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 え、とか細い声で狼狽えたダラ・アマデュラに、女はもう一度謝罪の言葉を口にする。

 静かに混乱の極致に追いやられていくダラ・アマデュラに、見かねた男たちが手を伸ばす。女神の玉体に許可なく触れる事の意味を知らない彼等ではなかったが、他の女神ならば兎も角、相手がダラ・アマデュラであれば、彼らは許可など得ずとも容易に彼女に手を伸ばせる存在になっていた。

 それが何を意味するのか、彼らは一体何なのか、それをダラ・アマデュラが知るのは、彼らの手で神殿に運ばれ、用意されていた玉座に降ろされた後だった。

 

 放心しきりだったダラ・アマデュラが混乱から抜け出した時、彼女は自分が滑らかな椅子に坐している事に気付く。それが先程見るのをやめた玉座であるのは、遠くに紗のかかった通路が見える事から察せた。

 なんとか呼吸を整え、疑問の尽きない頭を一時的に落ち着かせる事に成功したダラ・アマデュラは己の膝に縋りつくようにして泣き伏せる四人の人影に、誰何の問いを投げかける。

 彼らが何者か、なんて本当はもうわかっていた。彼等の容姿や態度、声、仕草、瞳の色、全てに覚えがあった。正体不明の女とて、黒髪の男を兄と呼んだ瞬間からその真実は既に明かされている。けれど彼女は皆の口から各々の言葉で答えを聞きたがった。

 彼らは皆、その求めに難を示した。これを聞いた女神の心がどうなるか、知らない彼等では無かったからだ。

 しかし彼女は後悔しないと背筋を伸ばす。炯々と輝く美しい瞳に悲壮な決意を宿した彼女は、その答えが自分の予想通りのものだとしても、臓腑を焦がす絶望に苛まれこそすれ真実を求めた事は決して後悔しないと宣う。

 何故なら彼女は喜んでいた。哀しみながら、憂いながら、傷付き苛まれ絶望しながら、それでも彼女は喜んだ。

 それがいかに残酷な再会で、僅かな残照の欠片だったのだとしても、彼女はもう二度と会えないと思っていた存在に触れられた事が、心の底から嬉しかったのだ。

 故に彼女は、浅ましい喜びの裏ですすり泣く。己の性根の醜さを嫌悪しながら、真っ直ぐな目で彼らの真実を見定める。

 幼子の視線の先、黒髪に焦茶色の瞳を持つ青年は、どこか愛嬌のある顔立ちをしていた。眉はきりりとしているが瞳は大きく、好奇心にきらきらと輝く様は彼の年齢を一回りも下に見せるのだ。

 今は悲壮感に満ちた顔をしているが、笑えば底抜けに明るく輝く剛毅な青年に、ダラ・アマデュラは泣き笑いの顔で小首を傾げた。

 

「ドゥルバル。貴方は――死んで、しまったのですね」

 

 彼の気質そのままに愉快に跳ねる癖毛が懐かしい。言ってしまってから後悔する駄目さ加減も好ましい。それでも誠心誠意、相手に向き合う姿は本当に頼もしくて格好良かった。

 けれど、今目の前にいる彼には決定的に欠けているものがある。あんな大事なものを一体何処で失くして来たのか……察しはつくけれども、認めたくはない。

 案の定、黒髪の青年……ドゥルバルは所在無さげに俯いて、暫く言葉に迷うように呻いた後、こくりと一度だけ頷いた。

 玉座に坐している彼女の目に、膝を突いて俯くドゥルバルの背中が映る。背骨に沿うように生える黒紫色の鱗と、丁度心臓の位置でぽかりと空いた風穴に言い知れない虚しさを抱きながら、ダラ・アマデュラは視線を滑らせ、この場の誰よりも体格に恵まれた偉丈夫を見定める。

 彼の末路は知っていた。なにせ最後まで見ていたのだから、知らないとは口が裂けても言えないだろう。

 「シュガル」とその名を口にした女神に、硬質な顔立ちをより固くした壮年の男性、シュガルは、目を伏せながらも素直に己の異形を曝け出す。

 とはいえ、彼の異形は真正面から見ても解りやすい程堂々と曝け出されていた。額の上に生える一対の角、赤銅色の甲殻に包まれた手足は隠されてはいなかった。故にシュガルは己の腰から生えた尾をそっと彼女の前に晒した。鮮やかな青に輝く、刃に似た形状の尾。それは当然、生前の彼には無かった部位で。

 あぁ、とか細く息を吐き、こみ上げてくる嗚咽を堪える女神に、シュガルは心底申し訳なさそうにしながらも、逸らしていた視線を彼女に合わせた。

 後悔はしていない。決して口には出さないが、それでも雄弁に語る瞳の強さに女神はさらに呻く。覚悟を決めた武人の強さは、今の彼女を救いはしない。

 苦悶の表情を浮かべた女神は、次いでその隣に坐す青年を見た。ころころと表情を変える女神をじっと見つめていた青年は、自分を目にした途端に目の端に涙を浮かばせた女神にふは、と笑う。

 

「何をそんなに悔やんでいるのですか。ここは僕を詰るところですよ? 『如何して言う通りにしなかったのですか、この音楽馬鹿!』って」

「そっ、ん、な、ことッ……言える訳が、無いでしょうッ……! この、ばか弟子ッ!」

 

 「馬鹿弟子は言えるじゃないですか」なんてのほほんと笑うバッバルフに、とうとうダラ・アマデュラは両手で顔を覆って泣いた。

 滂沱と溢れるそれを両手で受け止めながら、彼女は狼狽える男たちを放って慌てる女に「ねぇ」と声を掛ける。

 

「ねぇ、あなた……貴女でしょう? 私が、私のせいで、貴女は、貴女が……ッ」

 

 言葉が喉に詰まって出てこないのだろう。要領を得ない女神の言葉に、手を左右に揺らしていた女は、途端に空中を彷徨わせていた手でダラ・アマデュラの肩をそっと包み込み、落ち着かせるように優しい声色で「いいえ」と笑った。

 

「いいえ。いいえ、違います。もし貴女様の言葉に続くものが――『私が貴女を殺した』という言葉であるのなら、それは違うと答えましょう」

 

 何故なら、私は兄さんが事を起こす前に、呆気なく死んでしまったのですから。そう言って笑う女は……ドゥルバルが心底助けたがった、彼の最愛の妹、シュミは、頑是ない子供さながらにしゃくりげる女神を抱きしめた。

 骨と皮ばかりの痩せこけた女の腕は固く、病床に伏せていた事も相まってどこか陰鬱なにおいが鼻を掠める。

 しかし、それでもダラ・アマデュラは肩の力を抜いた。

 骨の硬さ、荒れた皮膚、病床のにおいに、死のにおい。そのいずれもが不安を煽るものであるのに、幼い女神は人間の女の固い腕の中で確かな安心を味わった。

 

 脆い人間の身体は、確かにこわい。けれど、はじめてだ。はじめて女神は人肌の温もりを知った。はじめて誰かを傷付ける事のない触れ合いを交わした。

 こんな状況でなければ、あのような過程でなければ、きっと狂喜乱舞していた。男たちが夢想したように、女神でも蛇龍でも何でもない、ただの普通の子供のように転げ回ってはしゃいだに違いない。

 

 見知らぬ場所の美しい風景。

 どう動いても何も損なわない身体。

 自分の存在を肯定してくれる場所。

 

 そして何より、自分の傍に寄り添ってくれる、確かな温度。

 

 幼子がダラ・アマデュラとして生まれ落ちた瞬間に手のひらから零れ落ちて消えたモノ。それを丁寧に拾い集めて与えてくれた存在が愛しい彼らであった喜びをなんとしよう。

 僥倖、そう、僥倖だ。望外の喜び、空前絶後の奇跡、本来ならば決してあり得ない、まさしく夢物語のような幸福だ――けれども。

 

「それでも……こんな、どうしようもない……泥濘に浸かるような幸福なら」

 

 

 

――私は、一生、誰の温もりも知らないままで……寒がりのまま、ずっと凍えていたかった。

 

 

 

 震える声で、さざめく音で、幼い女神は絶望を吐いた。

 彼等の瞳の奥にある真実を見抜いた女神は、知れて良かった、会えて良かったと低く呻く。

 正体を見抜かれてしまった彼らは、無残に磨り潰される心に確かな喜びを偲ばせる女神に伸ばしかけた手を下ろす。正体が露見した今、彼らに残るのは憂いではなく、押し潰されそうなほどに重く苦しい慙愧の念ばかり。

 無論、後悔はしていない。彼らは彼らの本分を果たした。その事に何を憂えと言うのだろう。

 だが、それでも恥は感じた。生前の彼らが――否、彼らの大元(・・・・・)が願った奇跡を、このように捻じ曲がったカタチでしか成せない自分たちを、彼らは心の底から恥じた。

 

 全ては彼らの大元、真に彼女の親友であり、同胞であり、愛弟子であった魂が残した願い。

 最愛の妹のように世界を知らない幼子に。

 雨風を凌ぐ家も家庭の温もりも奪われた仲間に。

 身体に心を裏切られる悲しいひとに。

 

 死にぞこないの自分なんぞの為に、傷を負ってしまった、同類に。

 

 どうか、どうか――優しい世界を、どうか。

 

 死ぬ間際、あるいは生前常に抱き続けた願望。

 それ(・・)が、女神の血を受けた玉体の欠片を依代として顕現したものが、彼らの真実。

 

 過ぎた力を依代にしたせいで人の身に成り損なった泥土たちは、出来損ないの化物故にとある女神の入れ知恵を誤解した結果、歪曲した。あれほど幸せにしたがった女神の心の柔らかい所を切り刻む所業だとは理解できなかった泥土たちは、願望に眩み奇跡に曇った眼で女神を追い求め、歪んだ手足と捩じれた願いを胸にひた走った。

 そのために犠牲にした命の数、種類、その重さは、泥土に宿っただけの願望では測れなかった。

 だから彼らは用意した。その身に宿る残照の如き記憶の海原から最適な生命を一つ選出して、道行きに連れ歩いて果てを目指した。

 所詮この場は夢幻。築き上げた神殿と組み上げた儀式、そして抱えた願いこそ本物だが、それ以外は風景も自分たちの肉体も体温も、全ては束の間のまやかしに過ぎない。

 今ここで示した夢、希望、景色の全てを本物にして捧げるには自分たちでは役不足だ。そうだと知る彼らが用意した命に、きっと女神は喜ばない。

 

 それでも願望の現身である泥土の化物たちは、崩れていく夢現の世界で幸福を知る。

 誰も望まない形での願望の成就は酷く滑稽で無様で、無残な傷跡を残して終わる。

 だが、それでも彼女は喜んだ。本物が残した残滓を、そうと知りながらも喜んだ。

 それだけで彼らは救われた。女神の心は救えなかったけれど、それでも一時は温められた。

 歪んだ形質を抱えた彼等は、紛い物の楽土の終わりを感知する。やがてこの夢幻も覚めるだろう。その後に残る現実の冷たさに彼女が凍えてしまうことは如何しようもないが、少なくとも結果だけは残った。それを良しとするには、あまりに酷い話だが……成り損ないの自分たちに傾けられた心は、そう酷いものでは無いはずだ。

 そう信じる彼らは、だからこそ未だに泥土の温もりに泣き縋る幼子に微笑みかける。

 これが最後の贈り物だと、願望達は出来損ないなりに心を込めて、愛しい幼子に夢の終わりを告げる。

 

「なぁダラさんよ、俺たちはどう足掻いても偽物だ。心こそは本物だが、言ってしまえばそれ以外は全部ウソ。皮も肉も全部、あんたの血肉を台無しの泥土に変えた挙句に出来損なったウソの化物だ」

「それでも私達は、心の底からデュラ嬢の幸福を望んでいる。本物が抱いた純粋な願いが、願いだけで突き進んできてしまったものの成れの果てが、私達だ……だから、貴女のその悲壮な顔を見るまでは、その過程が歪んでいると気付けなかった。所詮は魂の残照、願い以外を置き去りにした私達は、真実化物でしかなかったのだろうな」

「けれどお師匠様は僕達の存在を喜んで下さった。本物が抱いた願いを、捻じ曲がってしまった願望(ぼくたち)ごと喜んで下さった……望外の、喜びでした」

「わたしは……ううん、生前のわたしは、貴女様と直接の関わりはありませんでした。けれど、死の間際に兄さんから貴女様の話を聞いて、畏れ多い事に、わたしは貴女様と自分を重ねました。何処にも行けない貴女様と、病床から起き上がれないわたしを重ねて……どうか貴女様は、と、わたしの夢を貴女様に押し付けた。その結果がコレなのですから、本当に、人間は、わたしたちは、浅ましい……」

 

――けれど、その浅ましさを好ましいと貴女様がおっしゃるから。

――貴女様を散々傷付けておいて、裏切っておいて、泣かせておいて。

――それなのに、貴女様は喜んでしまわれるから。

――だから、わたしたちは今、こんなにも幸せに終われてしまうのです。

 

 世界が消える。夢が終わる。不意にやってきて、散々蹂躙していった願いの残滓が、消える。

 どこか遠くで声が聞こえた。風が唸るような、大地を揺るがす豪雨のような、あるいは頑是ない幼子がわけもわからず泣き喚いているような、どうしようもなく不安になる声。

 それは誰の声だろう。不思議に思って首を傾げるも、既に親友も同胞も愛弟子も、それから情愛深い、同類も、瞬きの間に腕をすり抜けて、灰色の砂礫となって夢幻に消えた。

 崩壊する幸福の合間に、今度は誰かの呼び声が聞こえた。

 必死になって何事かを叫んでいるのだけれども、さて、この声は一体何を呼んでいるのか。女神は二度、三度と周囲を見渡して、それから漸く顔を上に持ち上げる。今まで見下ろす側だった彼女は、その時久方ぶりに誰かの存在を見上げた。

 亀裂の入った空の青、その隙間に見えるものが確かならば、その褐色の手はダラ・アマデュラに伸ばされていて、その乾燥した唇はダラ・アマデュラの名を紡いでいる。

 

――呼ばれたのなら、行かないと。

 

 泣き疲れてぼんやりとした幼子が、何かを考える間もなく褐色の手に青ざめた手を差し伸べる。

 己の根幹にほど近い場所、創世の女神が紡いだ呪詛の隙間を掻い潜って妥協させ、より悲惨な形に癒着し合った末の歪曲は、不変であるはずのダラ・アマデュラを、より憐れな方へと改良した。

 その衝撃を消化しきれない内にかき混ぜられた心は、自制を思い出すより先に安寧を求めていた。

 それが後に続く悲劇を約束するのだと気付く前に、全てを理解する褐色の腕が女神を捕らえる。

 

 願望達が思った通り、きっと女神はこの出会いを喜ばない。

 けれど何時か、これから過ごす時間だけは、幸せだったと思ってもらいたいと、褐色の腕の持ち主は、願う。

 眼下に見下ろす偽物の世界で、本物の心だけがか細く悲鳴を上げていた。

 

 それでも、「今日も世界は美しかった」と、女神は泣いて笑うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただそれだけの一日にしたかったと打ちひしがれる少年の傍らで、少女は笑って、泣くのだろう。

 

 

 

 



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第八話:最後の演者

 地味に長かった七番目の裏切りも、これでおしまい。
 それと、おめでとう。これで役者は出揃った。遂にヒーローの登場だ。
 それでは堪能しておくれ、これは七番目の裏切り、その全容。
 そしてこれは、八番目の裏切りに繋がる……赤い糸の、結び目だ。




 こんなはずではなかった。こんなものが見たくて此処に来たわけでは無かった。

 けれど、こうなる可能性を考えられなかったかと言えば、それは「否」だ。少年はその可能性を……今目の前で起こった最悪のカタチこそ想像できずにいたけれど、それでも歪んでしまった彼らが時折溢す言葉の断片から、現状より二つ三つ格を落とした最悪の存在を予感してはいた。

 

 峻厳なる千剣山を駆け上がりながら、少年は歯を食いしばって道行きの険しさを耐える。

 これまでの旅路でどれ程の傷を負っただろう。足は血と泥に塗れ、身体は長旅の汚れで煤けた色をしている。必死になって振る両腕もまた血と泥に汚れていて、剣タコで硬くなった手を嫌な温さでふやかす。

 既に指先の何本かからは爪が消えている。きっと山肌を登っている途中でどこぞに引っ掛けて置いてきてしまったのだろう。痛みを感じないのは、いつだったか獣に襲われて半死半生で生還した時と同様の理由であるはずだ。痛みも苦しみも何もかもを置き去りに、心が逸って仕方がない。引き攣れるように軋む心臓さえ、もっと早くと全力でがなり立ててくるのだから、目的を果たさない事にはどうしようもないだろう。

 少年の切れ長の目がちらと上を向く。目的地と定めた千剣山の中腹で蜷局を巻く蛇龍の姿に、とうに限界を迎えているはずの少年の足に力がこもった。

 

――こんなはずじゃなかった。

 

 幾度となく繰り返す思考に靄がかかる。脳に回る酸素が少ない。けれど進まなければという意思が少年を限界の向こう側へと押しやっていた。

 

――こんなはずじゃなかった。

 

 溺れる人のようにもがきながら、地を駆ける。滲む視界に銀色の流星が幾条も掠める様に目を眩ませながら、少年は思考の外で彼女の名を口にする。

 

――こんなはずじゃなかったんだよ、本当は。

 

 何事かを聞き取る事すら出来なくなった頭の外で、鼓膜を揺らす低音にハッと枯れた吐息を吐く。理解どころかまともな返事も出来ない少年の有様に、外側から吠え猛る星の竜は悔し気に呻く。

 

――本当は、ただあんたに会えたらそれでよかったはずなのに。

 

 けれど、少年が蛇龍の下へ辿りついたとき、その胸元に揺れる黒に、星の眷属たちは一様に目を剥いて息を呑んだ。

 少年はわき目もふらず蛇龍の鱗に手を伸ばす。殺意が凝ったとしか思えない剣鱗の造形に臆することなく突っ込んでいった少年に最年長の眷属が声を荒げて危険を叫ぶも、少年の耳はそれを意味の在る音だとは捉えられなかった。

 少年の血に塗れた褐色の腕が銀色に重なった時、眷属の誰もが少年の死を信じた。あの勢いで突っ込めば、剣鱗の一枚はまるっと赤に染まるだろう。そう信じて、脳裏に細切れ肉と化した少年の姿を思い描く。

 しかし、彼らの予想に反して少年の腕はそれ以上の赤に染まる事はなかった。

 目いっぱい伸ばされた腕が蛇龍の鱗に触れた瞬間、僅かにも身じろぐ事なく、死んだように倒れ伏していた蛇龍の鱗が淡く輝き、鋭い切っ先は燐光の集合体となって少年の身体を取り巻いた。

 あまりの事に放心し、滞空姿勢を解いてしまって墜落する星龍の視線を尻目に、まろぶようにして燐光の奥に身を乗り出した少年は、蜷局の内側に展開された夢幻の世界を垣間見て……心の底から、後悔した。

 

 「なんで、こうなっちまったかなぁ……?」

 

 か細く震える掠れた声で少年が泣く。戦慄く唇は青ざめ、いまだ幼さの残る顔がぎゅうと顰められる。

 美しい星の果ての景色の中で、見知った誰かの形を歪めた真心と見知らぬ被害者が悲壮な幸福を前に泣き笑う。俯瞰して見る紛い物の再会の優しさは、少年の罪悪感をここぞとばかりに煽った。目を瞑り、頭をふって眼下の光景を脳裏から消そうと試みるも、再び目を開ければ、そこには変わらず束の間の幸福が虫の息で佇んでいて。

 そこに自分が行けない事は重々承知で、それでもどうにかあの被害者を、あの美しい鱗を纏うあどけない少女を夢から引き揚げなければと、少年は罪の意識に折れかけた心を必死に奮わせて傷だらけの腕を伸ばした。

 黒い首飾りと褐色の肌を持つ少年……バッバルフの弟であるナムカラングは、今度は目の前の悲惨な夢幻から目を背ける為ではなく、眼のふちに溜まった涙を振り払うために頭を振ると、明瞭になった視界の中心に少女を据える。それでもほんの少し足りない勇気を補おうと、彼は今までの旅路で心の支えとなった首飾りを確と握りしめた。

 ナムカラングの胸元で揺れる黒は、彼の兄が生前身に着けていた冥府の竜の鱗だ。それを知るからこそバルファルク達は少年を見て驚愕を露わにしたのだ。「バッバルフの忘れ形見がやってきた」と、まるで幽霊でも見たかのような反応を示した。

 肺一杯に酸素を取り込み、切羽詰まっていた脳に若干の余裕が生まれると、少年は視界を流れた龍の群れの声を思い出す。彼らは皆一様に少年に驚き、そして案じていた。女神にしか傅かず、女神を第一とし、二番も三番も無い様な在り方を是とする眷属群が見せたあの女神に属するものらしさ(・・・)に心臓がきゅうと音を立てて絞られる。

 こみ上げてくる嗚咽をなんとかいなし、兄が紡いだ奇跡に感謝する。兄との縁がなければ、ナムカラングは今頃龍の爪に引っかかれて千剣山のシミになっていた事だろう。今更ながらに己の幸運を自覚した少年は、しかしそもそもは兄との縁があの哀れな女神を不幸の底へ突き落としたのだと思いあたって歯噛みする。あまりに不幸の配分が多すぎやしないかと憤りを覚える程に、壊れた天秤の不合理を嘆く。

 

――あぁそうだ、そもそもは縁が引いた導線だ。不幸の入り口が幸せだと知りながら、手を伸ばして結んだ糸が連れて来た、くそったれな結末だ。

 

 良い事の後にはとびきりの悪い事が待っている。それが運命付けられた生き物がダラ・アマデュラという女神だと教わったはずなのにと、少年は自らの思慮の浅さを唾棄する。

 

 そもそもの事の発端は、ドゥルバルがダラ・アマデュラの剣鱗を携えて妹の下へ戻った時だと、ナムカラングは掌の先に存在する死に絶えた筈の過去を想う。

 現状を成す全ては此処から始まったと、ナムカラングは涙に曇る瞳の奥で荒れ狂う感情を噛み締める。

 ドゥルバルが女神を裏切って帰ってきた時、ウルクの人々はそんな事情など知らずに彼の帰還を概ね好意的に受け入れた。行商人としての彼は有能であったし、その人柄は昔なじみの多いウルクでも評判の好青年だったからだ。

 しかし、彼が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で自分の犯した罪を告白した瞬間、ウルクの民はドゥルバルとその血縁を嫌悪し、忌避した。古代メソポタミア世界における人間とは神々の労働力であり、神に仕える事を当然と考える文化の中で生きていた。神の為に働き、神の為に生き、神の為に死ぬ。その合間に娯楽を楽しみ、愛を語り、悲しみに伏せ、怒りに叫び、幸福に笑む生き物が人間であった。

 そうあれかしと創造された彼らは、故にただの人間でしかないドゥルバルがしでかした大それた……否、想像の埒外にある愚挙に恐れ戦き、ありもしない女神の報復を思ってドゥルバルの血族をウルクの街から追放した。

 そして当然の流れで、ドゥルバルは血族から袋叩きにあった。彼が生きて帰ってきている以上、女神の報復など街の人々の妄想でしかないのだが、それはそれ。よりにもよって創世に語られるメソポタミア神話最強にして最も愛情深い神格を裏切ったのだ、格別の配慮で逃された命だとしても、一般的なウルクの民であった血族はせめて半殺しにはしないと気が済まなかったのだ。

 勿論、ドゥルバルはその暴行を真摯に受け止めた。誰かに責められる事が今ばかりは有難いと、自分の犯した罪の深さを痛みの中で噛み締めた。

 けれどそうまでして手に入れた剣鱗と血は、結局彼の妹であるシュミの命を救うことは無かった。当のシュミが、その申し出を固辞したからだ。女神相手に不遜だが、彼女は病床にある自分と千剣山に封じられたダラ・アマデュラを重ねて見ていた。

 その時の様子をナムカラングは詳しく知らないが、それはそれは盛大で一方的な兄妹喧嘩が勃発したと伝え聞いている。ドゥルバルの裏切りが発端で出来た小さな寒村、人々に「裏切者の村」と称される名も無き新興集落で語られるそれは、大人たちの間で鉄板の酒の肴である。

 酒の肴。そうだ、裏切者はなんだかんだでそれなり幸福に生きていた。後ろ指を指され、生まれ故郷に帰る事が難しくなっても生きる事は許されていて、きつい仕事の後にはたまにだが酒も飲めて、食卓は貧しくとも温かくて、子供たちだって泣いたり笑ったりしながら健やかに育っていた。そう生きる事をダラ・アマデュラに許されて……いや、あるいは求められていたのかもしれない。

 裏切られたシュガルの家族が逃げ場を求めてやってきた時も、彼らは息子を信じてやれなかった己を責めながら、それでも必死に生きて実直だったシュガルの魂を想っていた。冥府にいるだろう彼の魂に謝りながら、死後の彼に聞かせる話を増やそうと充実した日々を過ごそうとしていたのだ。

 それは勿論、自分たちバッバルフの血族だって同じである。

 お守りと称して渡された剣鱗を大事に抱えて生家に顔を出した兄の顔を思い出したナムカラングは、記憶の中の兄と眼下に見下ろす兄の姿の齟齬に心が軋む音を聞く。

 あの日、やたらと暢気な顔をして数年ぶりに帰宅した兄を見た時、まずナムカラングは真っ先に兄の腹に拳を入れて、頽れた所で頭を強く叩いて地面に落とした。音信不通でどこぞに消えた兄を案じる心は、とうの昔に自由気儘過ぎる兄の放浪癖に対する憤怒に取って代わっている。

 だからこれは当然の報いだと地面に転がり呻く兄を詰れば、それでもへらりと笑って脂汗をかきながら「ただいま」と言った。「思った以上に強くなったね」なんて喜ぶ兄の変わりない能天気さに、結局ナムカラングもふは、と噴き出して「おかえり兄貴。あと二ヵ月遅かったら葬式あげられてたぞ」と告げて兄を慌てさせたのをよく覚えている。

 ナムカラングが首から下げている黒鱗はその時兄から譲り受けたものだった。歌い手の兄と違い、弟は身体を動かす方に才能を開花させていた。その腕前は既に大人顔負けで、一度狩に出れば確実に一匹二匹の獣を無傷で狩って帰れる程に勘も良い。そんな弟からすれば魔獣すら退ける冥府の竜の鱗など有難迷惑でしかなかったが、何故か兄は弟の手に強引にそれを握らせた。

 

「ナムカラング、どうかこれを預かっていておくれ。僕はこれからイシュタル様に謁見しなくてはいけないんだけれど、あの方は珍しいものが好きだから……強請られてしまっては、恋人としては差し出すほかないからねぇ」

 

 「だからこれは一旦お前に預けて、帰ってきたら返してもらうよ」と、兄は優しく微笑んだ。「それで帰ってきたら、今度はそれとお前を連れてお師匠様の所に行こうか」なんて目を煌めかせながら、バッバルフは自分の師匠がいかに素晴らしく偉大で愛情深く、それから可愛らしいかを怒涛の勢いで捲し立てた。

 結局、母が買い物から帰ってきても、父が仕事から帰ってきても、兄は両親を言葉巧みに丸め込んで一晩中「お師匠様」の話をナムカラング達に語り聞かせたのだから、あの兄は本当に好きなものには全力投球だなと皆して呆れながら笑ったものだ。

 思えば、あの時既に兄は己の末路を覚悟していたのだろう。助命嘆願のお守りを命がけで守ろうとした救い難い馬鹿な兄のことだ、親友からもらった黒鱗もイシュタルの目に触れれば奪われると考えたのか、結局バッバルフは親友と師匠の願いを己の我儘で台無しにした挙句、その命を無残に散らした。

 ウルクで千切られた兄の遺体を千剣山に運んだのは村人全ての意思だ。余りにも惨たらしい姿で帰ってきた兄を如何葬ればいいのか解らなかったナムカラングは、突然遠くに放られた心を拾いに行く間もなく兄の遺骸を見送った。

 その時の彼の背中を如何語ろう。心此処に在らずといった風で村の出入り口から僅かにも動かず、茫洋とした目で数日前の兄の笑顔と血に塗れた苦悶の顔を重ねられずにいる彼の背中は、語り尽せない虚しさを纏ってただそこにあるばかり。

 両親は死んだ息子の有様に生きる気力を奪われたのか、一気に老け込んで口数もめっきり少なくなり、神を崇めることもぴたりと止めた。ただ、あの蛇龍の女神には感謝していたのか、日に一度は彼女の名を呼び、小さく感謝の言葉を溢しているのを村人たちが耳にしていた。

 村中が仄暗い空気に包まれ、誰もがイシュタルの所業に鬱屈とした心を募らせる中、本当に突然――ある女が、発狂した。

 

 

 

 

 

 シュガルの血族の一人に、チカという女がいた。

 彼女は何処にでもいる凡庸な人間で、額に汗をかき、手に肉刺を作り、羊飼いの妻として精一杯夫を支え、日々を堅実に生き、些細な幸せに頬を緩ませる女だった。それこそ狂気とはまるきり無縁であるような、心穏やかな女だった。

 裏切者の血縁として放逐されはしたが、女は幸福だった。

 恋を経て結ばれた夫は能天気なきらいがあるものの、優しく頼りがいがあって愛情深く、女の子と男の子、両方の子宝にも恵まれた。村での毎日は大変だが、それはどの家も同じこと。ささやかながらも毎日餓えない程度の食事が用意できる暮らしは、一日の終わりに心の疲れを慰めるのも、何処の家も同じである。

 毎日が苦労の連続で、悩みの種は潰えない。けれどそのいずれもが過剰なものでは無く、頑張ればどうにか出来る程度の問題で、夫や子供の手を借りればすぐさま立ち消える壁だった。

 終ぞ史実に語られる事のない常民の歴史。幾千万、幾億ものおおよそ幸福な凡民の内の一人だった女が狂ったのは、それこそ突然のことだった。

 

 ある日、女は何時もの様に夫に付き従って僅かに連れて出られた羊たちの世話をしていた。遠景には悠然と雲が泳ぎ、柔らかな日差しが緑の牧場を長閑に照らす。

 どこか間延びした夫の声に追い立てられる羊たちすらものんびりして見えた、穏やかな昼日中。夫の傍で仕事を遊ぶように学ぶ息子の楽し気な声に向かって、我慢しきれなくなった娘がわぁっと駆け寄るのを見送る。花嫁修業もそこそこに羊の群れに飛び込む娘に、夫の隠しきれない笑いを多分に含ませた怒鳴り声が届く。

 夫も娘もその怒りが形だけのものだと解っているのに、未だ幼い息子がぴゃっと涙目で跳ねる。

 不意を突かれた夫は腹を抱えて高らかに笑い、娘は弟を泣かせてしまったと思って息子に向かって突進して、勢い余って二人揃って野を転がった。びっくりして目を丸くする二人に、夫はといえばさらに笑い声を大きくするばかり。

 なんとなく「幸せだなぁ」なんて唇に乗せてから、夫に向かって声を張る。ちゃんと子供たちを助け起こさなかったら、今日のビールは無しにするからね、なんて怒ってみせれば、機敏な動作で子供たちを助け起こす夫に女までもが噴き出した。

 あぁ、本当に幸せだと、女は愛おしい家族と共に、緩やかに流れる時間を生きていた。

 けれど凡庸極まる幸せは長く続かなかった。いや、続かせてもらえなかった、と言うべきか。

 ほんの瞬きの間だったように思う。女にとってそれ程の短い時の間で、一瞬後の世界は劇的な変化を遂げていた。

 

 空の青が綺麗だった。

 夏が近いからだろう。濃い青色をして広がる空は、冬の空より人に近い気がして大好きだった。

 雲が白が眩しかった。

 羊に似た雲の群れを指さして、家の羊たちの方が可愛いと笑う娘たちが可愛らしかった。

 波打つ緑が綺麗だった。

 思い切り寝転がっては度々羊に埋もれていた夫の笑顔が何故か脳裏に浮かんで消えた。

 少し黄色っぽい羊たちが倒れていた。

 ごわついた毛束を豪快に洗う子供たちに何度拳骨を落としただろうか。

 夫から赤い何かが溢れていた。

 子供たちに伸ばした手が無かった。子供たちに向けていた笑顔が無かった。というか、顔がなかった。

 子供たちは居なかった。

 そこには大きな穴があるばかりで、あの子たちの手も、足も、声すらもなかった。

 

 顔と手の削げた夫が穴に向かって倒れる。

 赤い糸を引いて視界から消える大きな体を、確かに夫だと認識している。なのに作り物めいて見えたのは何故だろう。女は疑問を脳裏に浮かべながらも微動だにすることなく、傾いでいく夫を見続ける。

 腕と顔のない夫が完全に穴に消えて暫くたって、耳に鈍い水音が響いた。思いのほか深い穴だったな、そう過った瞬間、女は半狂乱で駆けだしていた。

 何が起こったのかを理解した訳では無かった。何を失ったのかを理解した訳でもない。

 女を動かしたのは愛だった。ありとあらゆる感情が置き去りにされる中、現実を理解できない頭ではなく、力いっぱい心臓を殴りつけた愛情が、女の身体を突き動かしていた。

 そう長い距離を走ったわけではないのに息が上がるのは、心臓の方が早く走っているから。全力で走っているのに遅く感じるのは、気持ちの方が自分の前を走っているから。真白に染まる脳裏が冷たく感じるのは、手足に力を込める熱量に全てを持っていかれたから。

 僅か数秒で別人のような面差しになった女が穴の淵に辿り着き、勢いを殺しきれないまま身体を乗り出すようにして穴の奥底を覗き込み、そして。

 

「――――あぇ?」

 

 そして、女は正気を失った。

 

 青々と草木の茂る穏やかな午後の空気の中で、一人の女が狂いながら泣き喚く。

 遠くからそれを眺めていた女神は、空の青と同じ清々しさで天高く腕を伸ばし、小さく欠伸を溢しながらにんまりと微笑む。

 大地を抉る一撃であの生意気な女神への鬱憤は晴らした。髪を振り乱して狂乱する女の悲嘆であの無礼な女神への苛立ちは薄れた。となると、後はこの煮え滾る憤怒を、与えられた屈辱を晴らすだけ。

 

「それじゃあさっさと動きましょうか。少し回りくどいけれど、要は『真正面』からじゃなきゃいいのよね」

 

 ならばいくらでも手はある。なにせこの地上には使い勝手の良い(にんげん)が吐いて捨てる程有り余っているのだからと、傲慢に笑みながら独り言ちる。

 そうして女神は先程まで弓として使用していた船に乗り、狂乱する女の横っ面を殴りつけた。

 鬱憤まで晴らせた上に、己の要望を叶えるには丁度いい労働力も手に入れる。「一石二鳥ならぬ一射二鳥ね」。などと考える女神に、女は一瞬呆けた後、陰惨な表情でほの暗くわらう。

 ここで女神は下手を打った。禁忌に触れ、天災を起こしただけでは飽き足らず、女神は更なる災厄の種を芽吹かせた。女神がただの労働力と侮った人間が、束の間取り戻した理性で何を感じ取ったのか。そもそも、チカがどの神を奉じる者か、それを知れたら良かったのに、などとは決して言うまい。

 全ては女神の撒いた種。自らを愛する女神が哄笑するその後ろに悲嘆に暮れる者がいるならば、蹂躙された大地に芽吹くものが何であるかは想像に難くない。

 チカの砕けた心に、女神はある計画を囁く。人間は全て同じもの。多少の違いはさておいて、その真価は神に奉仕する労働力でしかないのだ。例えその女があの忌々しい元恋人の羽虫と同じくダラ・アマデュラと関わる血筋にあったとしても、チカという人間は「普通の人間よりちょっとムカつく人間」でしかない。

 だからイシュタルはその「普通の人間よりちょっとムカつく人間」を苛めてから、「普通の人間」にするように命じたのだ。

 

「そこのアンタ。ウルクの都市神、戦いと豊穣の女神であるイシュタルが命じるわ。あの忌々しい蛇龍の女神ダラ・アマデュラの依代を作りなさい。あの女神を私達と似た形に押し込めるのよ。勿論できるわよね?」

 

 だって、それは神々の聖像を造るという行いなのだから、とまではイシュタルは言わなかった。そこまで言えば解るだろうと、今しがた己が狂わせた人間に正常な判断と理解を強要し、それを確認することなく立ち去った女神は、己の凶行を棚に上げて人生を台無しにされた女を愚図と罵って急かして消えた。

 もしもその時、常人ではなくなった女の頭の中が覗けていたのならば、イシュタルは顔を青くして女を殺して逃げただろう。

 そもそもイシュタルは人間の想像力を甘く見ていた。ダラ・アマデュラに人の似姿を……頭脳体を与える、という案自体は悪くない。けれど、イシュタルが思い描いた工程は神の姿を写し取った聖像を用いた疑似的な神降ろしによる頭脳体の生成であって、かつてティアマトが真体と頭脳体とに別たれた時の様なものすら考えてすらいなかった。

 そこまでしてしまえばイシュタルの目的である「聖像の破壊による疑似的なダラ・アマデュラへの攻撃」が果たせなくなってしまうからだ。

 聖像は神の依代だ。神は聖像を通して人間から衣服や装飾を受け、食物を饗される。奉仕されるための端末こそが聖像というものであり、そのため聖像への無礼は神への無礼に直結する。

 であるならば、ダラ・アマデュラも聖像を介してならば攻撃が通るのではないかとイシュタルは考えた。勿論自分が直接聖像を壊してしまっては神々の契約を侵してしまうので、そこは偶然を装って己の恋人をけしかけるか、それこそ今しがた地面を這わせた女にやらせてもいい。

 十割全ての攻撃が通らずとも、せめて一割程度の不快感を与えることくらいは出来るだろう。当然そんな事をしても上手くいく保証など何処にも無い。だが、せめてあの女神の顔を歪めるくらいはしないと収まらなかった。

 要は回りくどい嫌がらせだ。直球な女神にしては珍しい手の込みようだが、口にしてみれば実に安直な報復である。

 そんな安易な発想を、狂ったチカは誤解した上で歪曲し、捩じれたままに実行した。

 その結果があの骸龍オストガロアの成り損ないだ。女神の命令を歪んだ心で受け止めた結果の産物は、その材料に村人の命と裏切者たちの願い、そして女神が残した剣鱗で出来ていた。

 制作過程を間近で見ていたナムカラングは、あの光景を思い出すたびにこみ上げる吐き気を抑えられずにいる。

 チカがやったことは単純だ。女神の鱗と血で泥を捏ね、捏ねた泥を鱗に纏わりつかせてから己の命を捧げた。捧げられた命は鱗の表面にへばりつく泥と同化し、葬られたシュミの亡骸を喰らってその姿を得た。

 人間の姿を手に入れた泥土であったが、それだけでは聖像(・・)足りえない、あの蛇龍の女神に人の姿を与える(・・・・・・・)には程遠いと、今度は失意に沈むドゥルバルを飲み込んだ。そうして次々と逃げ惑う村人を捕まえては捕食し、その身の内に「人間」というものの形を覚え込ませていく。

 捕食と学習の過程でチカではなくドゥルバルの願望が形を持ったのは、偏に彼の方が女神との親和性が高かったからであろう。

 それから泥土はドゥルバルの姿と声と仕草で人をおびき寄せ、チカの妄念で人を喰らった。

 ナムカラングが一人生き延びたのは兄が残した黒鱗のおかげ以外の何物でもない。冥府のにおいがする鱗は泥の塊と化した生命でさえ遠ざけたのだ。

 その頃には自失した心も急ぎ足で帰りつき、泥土への嫌悪と悲哀、そしてイシュタルへの尽きぬ憎悪で生きる気力を思い出す。

 それからというもの、ナムカラングは必死になって泥土を追った。それはあの醜悪極まりない生命への冒涜に満ち溢れた泥が何を成さんとしているのかを危惧しての事であり、さらにはあの金星の厄病神の思い通りにはしてやらないという反骨精神の表れであり、泥土となってさえ愛し哀しと思えてならない仲間への思慕の念であり、なによりナムカラング自身がダラ・アマデュラに一目会いたいという、強迫観念染みた衝動故の行動だった。

 そんな自分から逃げるソレは目的地である千剣山を目指しながら、近隣の村々でつまみ食いをしては「人間」を溜めこんでいった。

 まさしく醜悪な有様に、国から討伐隊が派遣された事もある。しかし、その時分には既に剣鱗と結合した泥土はダラ・アマデュラの持つ強固な守りをそのまま身に着け、逆に餌が来たとばかりに喜び勇んで触腕を伸ばす。

 ナムカラングの役割はオストガロアの食欲、あるいは知識欲からそういった人々を守る事であった。黒鱗の守りによってオストガロアの忌避を煽る彼に何十人もの命が救われた。

 だが、もとはと言えば裏切者の村が生み出した怪物だ。救われたものは誰一人として彼に感謝することなく、どころか罵倒の言葉と石を投げつける者の方が圧倒的に多かった。

 けれどナムカラングはそれを耐えた。彼にとって大多数の人間とは臆病な裏切り者だ。今更優しい言葉を掛けられる方がぞっとする。

 討伐隊の派遣が一度きりで良かったと、ナムカラングは半神半人の王に感謝する。無駄に命を消費させることなく静観の構えを取った事にウルクの民こそ気が気でなかっただろうが、オストガロアの途轍もない食欲と、それ以上に重苦しいダラ・アマデュラへの思慕の念を知っている身としては、目の前で人間が生きたまま喰われる様と泣き言を延々と五感に届けられる苦行は出来る限りご遠慮願いたかった。

 

 

 

 

 

 そんな風に一心不乱に人間とダラ・アマデュラを求めるオストガロアを追って数年の時を経た。道中は血肉の臭いと形容しがたい汚泥の悍ましさに塗れていたが、それでも耐えて彼らはようやく目的地である千剣山へとたどり着いた。

 やっとここまで来たと面を上げ、遠方に見える星の輝きを目にした瞬間、ナムカラングはただ一言、「まちがえた」と口にした。

 まちがえた、そう、間違えた。ナムカラングは選択肢を間違えた。

 遠目に見える銀の鱗は剣のように鋭く剣呑で、近付く者どころか此の世の全てを損なわんとする、在りもしない意図を感じ取ってしまいそうであるのに、ナムカラングの目にはその比類なき殺意を秘めた美麗な塊が、何故か、途方に暮れた子供が探し人に見つけてもらおうと光をちらつかせている様に見えたのだ。

 暗い暗い夜の底で、冴え冴えと輝く剣を星の導と変え、「ここにいるよ」、「だからおねがい、わたしをみつけて」と、重苦しい夜の闇の中で精一杯足を踏ん張って震えているように見えた。

 傷だらけの心を抱え、必死になって闇夜の寒さに耐える子供の下に、自分は雷雨を引っ提げて訪った。

 そうと気付いた瞬間には、もう既に災厄の雷雨(オストガロア)は猛然と山間を駆け抜けていて。

 はっとして駆け出して瞬きを一つ二つ重ねる間に、世界は狂乱の嵐に見舞われていた。

 故に、ナムカラングが満身創痍になったとはいえ、五体満足で命を落とす事無くその声を聞ける位置にまで辿り着けていた事は奇跡に近い。

 疾駆する合間にシュガルとバッバルフの墓と墓標の鱗を拾い食いしていた泥土が、冥々と濁る世界の中で淡く輝く冷たい刃の間を這い登り女神の口元に手を掛け、人型を取る。チカではなくシュミの姿をとったオストガロアが放った一言は、確実にその場にいる全ての生命の鼓動を一瞬止めた。

 原初の母が持つ生命の種を抱えた海などとは比較する事すらおこがましい、血肉色の命の器がぱしゃりと蕩けて女神の口腔に滑り込む。あんなにも穢れきったものを敬愛して止まない主人の口に放り込まれた眷属たちはたまったものでは無いとばかりに絶叫するが、それを掻き消す大音声の悲鳴にナムカラングの心臓が嫌な音を立てて凍り付く。

 愛おしい存在を口にする。それも無理やり注がれて、呑み込まされて、胃の腑に溜まるぬるい感触を想像しながら嫌悪と悍ましさに身を捩って泣き喚く女神の姿に、ナムカラングは沸き立つ感情の赴くままに咆哮した。

 不明瞭な感情を言葉にするのは難しい。胸中で荒れ狂うそれに名前を付けることすらできない彼は、一心不乱に女神を目指して駆け抜けた。

 暴れ狂う女神が降らせる流星も落石も目に入らないとばかりに手足を動かす彼は、女神が身体の内側に染みた泥土によって強制的に意識を駆られて倒れ伏した途端、それまで僅かに考えていた身体の限界を懸案事項からすっぱり切り捨てる。

 

 そうして山の中腹に倒れる女神に辿り着いた彼は、死を恐れぬ一過性の蛮勇の果てに、憐れな夢を垣間見た。

 

 ほのかに光を放っていた銀色がほどける。見上げる程に巨大な鋼の身体は、陽の光に当たるとどうやら淡い白金色を帯びるらしいと、ナムカラングは空っぽになった頭で考える。

 夢幻の先で現を掴み、引っ張り上げて腕におさめた。褐色で血と土と埃で汚れた腕とは対照的な透明な白が、檻に囲われるようにして此処にいることに途方もない充足と罪悪感を覚えた。

 自分と同じか少し幼い見目の人型を取った女神に、少年は天を仰いで肺に溜まった息を吐き付ける。

 燐光に巻かれながら夢幻を脱した時、偽物の中の真実は少年に女神を託すと同時に女神の行く末を予想してみせた。刹那に満たない間に叩き付けられた思念は暴力以外の何物でもなかったが、それでもナムカラングは与えられた予言を飲み下し、理解し、絶望しながら希望に満たない兆しを食んだ。

 ダラ・アマデュラという女神は、壊れない。

 朽ちず、壊れず、死なず、変わらずを約束された存在。永遠に成り損なう運命を背負った哀れな子供がダラ・アマデュラである。

 しかし、原初の女神がその理に抜け道を作った。永遠に変わらずにいて欲しいと願った母が植えた、変化を是とする矛盾の呪いは、果たして蛇龍の精神こそ不変としたが、肉体に限っては変化を許容したのだ。

 要は永遠に無垢で幼い心の儘、母を慕っていればいいのだ。その根幹さえ変わらなければ、肉体の変容は許容範囲内だと呪詛は泥土の懇願を受けて、妥協した。

 そもそも他者の裏切りによって発生する瑕疵は母が呪ったからこそ生じた「変化の許容」であるのだから、妥協というよりも連結、結合、あるいは提携、だろうか。それらに類する言葉が相応しい。両者はともに歩み寄り、蛇龍に更なる地獄を強いた。

 すなわち、頭脳体の形成という外部端末の創造。ナムカラングが抱き込んで離さない華奢な身体は、より深い人との繋がりを渇望する人間たちの祈りと、それ以上に深い喪失の絶望を求める歪んだ母の愛を背負わされている。

 けれど、それがどうしたとナムカラングは思うのだ。

 爪のない指で硬質な輝きを放つしなやかで柔らかな髪をぎこちなく梳きながら、少年は薄く黄緑を刷いた灰色の瞳をゆるりと細め、脳裏に焼き付いた女神の瞳を何度も何度も反芻する。

 

 率直に、なんの隠し立ても取り繕いも無く言えば、ナムカラングはダラ・アマデュラの瞳に堕ちた。

 

 堕落したとか、性根が腐ったとか、そういった類の話では無く、単純に彼は一人の男として一人の女に恋をしたと、ただそれだけの話に過ぎない。

 勿論、そこにティアマトの呪詛が絡まないかどうかといえば、まぁ、がっちりと絡んできたと言うか、絡めとられたと言っていいだろう。

 しかし、呪詛がナムカラングに恋情を抱かせたのかと言えばそうではなく、陳腐な言い方をすれば、ティアマトの呪詛は「運命」を運んできたと言える。

 要するに、一生に一度出会えるか出会えないかという程に惹かれあう魂の伴侶を、強制的に引き合わせたという事だ。

 故にナムカラングがダラ・アマデュラに恋をするのは必然であり、その逆もまた然り。怒涛の展開に一人溺れて取り残された彼女が、呼ばれたからというだけで手を伸ばしたのも、偏に理性とは違う場所が彼の存在を心のとても重要な部分に置いたからに他ならない。そうでなければ、ダラ・アマデュラは伸ばされた手を掴む事なく永い眠りの淵に落ちていたはずだ。

 無意識に、何かを考えることなく手を伸ばせるひと。それを赦して、受け止めて、望んでくれる、唯一無二の相手だと、彼女は誰に教えられるでもなく理解していた。

 きっと、目を覚ませば彼女は後悔するだろう。安寧を求めて自制を忘れた己を責めて、ナムカラングを被害者だと言って遠ざけようとするに違いない。

 けれどナムカラングは絶対に彼女の傍を離れないだろう。既に彼の心は決まった。今まで勢いだけで誤魔化してきた諸々を、心に追いついてきた瞬間に呑み込んで覚悟する。中には未だ飲み下しきれなくて喉元に引っかかっている物もあるが、それでも今しがた見つけた唯一無二の至上の存在を前にすれば、それらは等しく彼の足を止める力を失う。

 恐怖も絶望も憤りも、全て彼女を前にすれば些事である。そう言えるだけの熱量が生じた心を、一体誰が止められようか。

 いまだに青年に至らない年若い無謀さをそのままに、深い悔恨に引き出された先を考える力を得た少年は、女神の手を掴んで離さない喪失の未来に自らの全てを上乗せする。

 

「多分、あんたは泣くんだろうな……私のせいでとか言ってさ」

 

 ひょいと軽く、とは行かなかったが、満身創痍の身体にしては滑らかに女神の身体を抱き上げた少年は、腕の中の頭脳体と同様に横たわって気を失っている真体をくるりと大回りして向こう側へと足を向ける。

 その間、なんとか態勢を立て直したはずの眷属群が少年に抱きかかえられた少女の姿……をした、自分たちの仕える女神の玉体に再び銀の残像を生み出して落下していく様を横目に見ながら、少年は蛇龍の方の女神にも慕情を灯して口角をあげる。

 異形の女神でも相手は同じ運命の女であるのだからと考えるあたり、どうやら初手でかなり手遅れな所まで墜ちたらしい。

 

「でもおれ、後悔しねぇから。あんたが泣いて縋っても、絶対何処にも行かねぇし」

 

 そうして愛しい女の寝姿を見ながら回り込んだ先で、少年は彼女の為に設えられた神殿へと足を踏み入れる。

 虚構の世界で見た時は天然石で出来ていたように錯覚したが、どうやらこれは泥土が道中人間と一緒に取り込んだ家屋や施設、そして取り込まれた剣鱗と、神殿を造るために穿った千剣山そのものを用いて形作られているようだった。

 精緻な装飾に彩られた通路も、幽玄で美しい水面の庭も通り過ぎ、紗の道を抜けて玉座に至った少年は、玉座の足下に腰かけて胡坐をかき、その上に女神を収めてほぅと満足げに息を吐く。

 

「早く起きねぇかな……おれ、早くあんたと未来の話がしたいんだけどな……」

 

 なあ、と眠りこける女神のまろやかな頬を突きながら、少年は瞳に溢れる程の愛と僅かばかりの寂寥を滲ませて笑う。

 

 全部が全部仕組まれた出会いだとしても、少年がそれを否定する事は生涯無い。

 結末の解り切った物語だとしても、彼は全て承知でそれはそれは丁寧に頁を繰るだろう。

 少年は少女の開眼を待ちわびる。きっと最初は笑いながら泣く。自分に人の姿を与える為だけに歪んで間違えて突っ走ってきた馬鹿どもの為に、彼女はきっと笑い泣く。

 その後は多分、少年を想って泣くだろう。そして彼を突き放しにかかるに違いない。

 けれど少年としてはそれはいただけないから、そう上手くもない口と、馬鹿ではないが聡明とも言えない頭を必死に回転させて少女を言いくるめる他ない。

 さて、大変だと少年は一人気合いを入れて、目覚めた彼女が並べるだろう言葉を想像し、それらに対する反論を探す。

 

 全てはダラ・アマデュラに寄り添い、幸福な過程を歩むために。

 終わりが約束された関係なんて世に溢れた当然の道理だ。別れと約束しているのは彼女に限った話では無い。なんなら人間の方がよほど多くのものと離別の約束を交わしている。

 彼女の離別は、呪詛によって裏切りに行き着くから悲惨なのだ。

 だから、自分の裏切りで最後にしよう。自分の裏切りを、最期にしよう。

 生存と永遠が彼女の心を苦しめるのなら、死と刹那で彼女の心を慰めよう。

 

 ダラ・アマデュラが自分をみた瞬間、彼女の瞳に滲んだ安穏を希う色に心を奪われた少年は、ふるりと震えた白金の影を落とす銀の睫毛に一つだけ唇を落として、寂寥の滲む顔で微笑んだ。

 

 



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第九話:幸せの約束


 綺麗な花には棘がある、とは言うけれど。
 その綺麗な花を綺麗に咲かせるための努力は、棘以上に痛いし辛いと思うんだ。
 だからそんな棘のある花を愛する方も、実は結構な素質を備えているんじゃないかなあ。




 

 ナムカラングと名乗った少年は、案の定彼をなんとか自分から遠ざけようと躍起になる女神の両手を苦も無く捉え、そのまま引き上げるようにして玉座に据えた。

 女神は突然自分の身体が浮き上がった事に驚愕し、折れそうなほど細い手首に感じる熱と力に、浅ましくも心臓が歓喜を叫ぶ音を聞く。

 小さな身体、小さな手、小さな足、小さな顔は、遠い前世で馴染みある造形であるのに、長年蛇龍として多くを俯瞰してきた身からすると酷く頼りなくて、思うように動かしづらい。力加減の練習もしていない身体では、下手に動けば何かを損なってしまいそうだった。あるいは、あり得ないがこの人間の身体もふとした瞬間に欠けさせてしまいそうだと、己が身であるはずの頭脳体の淡い姿にすら恐怖する。

 自身の身体の操作に四苦八苦しているダラ・アマデュラを見下ろす(・・・・)少年は、女神の苦悩を察するからこそ、今しかない機会をふいにするまいと先手を打つ。

 

「なぁ、あんたはおれが嫌いか?」

 

 ゆるく指先を動かし、ほとんどおっかなびっくりで掴まれた手を引き抜こうとしていた女神の身体がびくりと跳ねた。

 反射的に動いた身体にもナムカラングの台詞にも驚いたダラ・アマデュラは咄嗟にナムカラングの身体に視線を走らせ、そこでようやく彼が満身創痍の身体である事に気付くと、ただでさえ青白い顔を青ざめさせながら緩慢に首を振った。

 「あ」だの「う」だのと音をこぼしながら、女神はナムカラングの傷だらけの身体を前に狼狽える。何を如何すれば彼の傷が癒せるのだろうかと、治癒の権能を持たない女神は瞳を潤ませて己の無力を噛み締める。

 

「嫌いじゃないなら、別におれがあんたの傍にいても良いよな。うん、良いな。間違いない、これが最良で最善で、最高だ」

 

 哀れな生き物そのものの体で佇む女神に、しかし少年は自分の身体を見て途方に暮れる女神を前にして、ここぞとばかりに畳みかけた。

 

「いやぁ、流石にあんたが嫌ならおれも引き下がるしかないが、嫌じゃないなら話は別だ。治るまで居座るのは確定だったが、両想いならもう永住決定だ。当然これはもう一生一緒にいるしかないだろ」

 

 戸板に水を掛けるが如く、調子の良い言葉を怒涛の勢いで並べ立てるナムカラングに、ダラ・アマデュラは思い切り虚を突かれて息を呑んだ。

 心惹かれてやまない少年の身を心の底から案じていたら、何故か同居の約束が取り付けられそうになっていた。

 何を言っているかよく解らないが、などと茶化す空気すら置いてけ堀で、ぱっと顔を上げて呆気にとられた顔を晒す女神に、少年はもう止まらないとばかりに大仰に身振り手振りまで加えて朗々と言葉を紡ぐ。

 その言い回しがどこか愛弟子の語り口を思わせるのは血の繋がりの成せる業か、自分を心底楽しそうにおちょくる青年の姿が一瞬だけ目の前の少年に重なって、すぐさま霧散する。

 違う、この人はあの馬鹿弟子のように人を揶揄うのが楽しいだなんて理由で言葉を重ねているようには見えない。どちらかと言えば、ふざけているふりをして、虎視眈々と結果をもぎ取ろうと相手の思考を翻弄しているように見えた。

 あのおっとりのほほんとした愛弟子と似ているようで似てない、獣染みた狩人だなんて矛盾した姿を思わせる少年の在り方に、どうしたことか女神の心臓がきゅんと甘やかに鳴く。

 

「おれはあんたを運命だと思った。一生に一度、いや、おれのこの魂に一人だけの唯一無二だと、そう確信しているわけだが、あんたは? いや皆まで言うな、解ってる。あんたもそう(・・)だな? でなければあんたがおれの手を取るはずが無い。人を遠ざけようとしたあんたが他人(・・)だったおれに手を伸ばした意味が解らないほど、おれの頭は悪くない」

 

 「なんだ、おれって実はすごく愛されてるんだな」などと照れてはにかむナムカラングの言葉に、漸く自分が無意識に愛を叫んでいた事実に気が付いたダラ・アマデュラは言葉にならない絶叫を上げて一気に顔を赤に染め上げた。

 そもそも彼に惹かれているという自覚すら薄かったと言うのに、一息に他ならない恋慕の対象から暴かれた心の裡は荒れ狂うばかりで纏まらない。まぁ、纏まるはずが無いと言うか、纏めさせないために少年は言葉を弄しているわけだが、さて。

 実は流血が過ぎて少年自身も何を言っているのかよく解っていなかったりするのだが、それは兎も角として。

 そんな切羽詰まった状態でも決してこの女と離れまいと本能で足掻く少年に、とうとう女神は半泣きで折れて「もう同居でも永住でもなんでもいいから、早くその怪我を治さないと永眠しちゃう」と、頭脳体と化した女神は言質を取った瞬間に昏倒した少年を抱えこみ、一目散に山の尾根へと駆け下りた。

 なんだかんだで思考回路がショートしてしまったらしい女神の行動に、少年は本気で呆気に取られた後に深く深く落ち込んだ。いかに見目が幼くとも、力量自体はそう変わらない。だのに蛇龍と少女の肉体の激しい差異をすっかり失念していたナムカラングは、自分よりも身体の小さな女の子にしっかり抱きかかえられるという屈辱と情けなさを痛感する。

 神殿の出入り口でハラハラしながら女神と少年のやり取りに耳を澄ませていた眷属達はといえば、非常に困り切った様子で佇むばかり。女神の意を汲むものとしては少年の存在は当然看過出来るものでは無かったのだが、女神の本心を余すことなく知ることが出来るが故に女神の本心を知る彼らは少年の処遇について持て余しても居た。

 そこは女神が仕方なくとはいえ「なんでもいいから」と彼の永住を許可したので問題は解決したのだが、今度は彼ら自身が抱える心が少年の存在に不安を訴える。

 どう足掻こうとも、彼がいずれダラ・アマデュラの下を去るのは決定事項だ。少年は女神の心に傷を付ける。それは今までの比ではない深さである事は想像に難くない。だからこそバルファルク達は今の幸福と未来の喪失を天秤にかけて、手を拱く。

 二人が深く想い合っていると理解しているからこその葛藤は、女神がその手に少年を抱えて飛び出してきた瞬間により大きく重く彼等の心に伸し掛かった。

 頑是ない少女の無垢な身体に、鋭い所を探す方が難しい手指。巨大な角は柔らかに鳴る銀の髪に包まれて微睡み、淡雪の儚さで燐光を残す姿はまさしく彼ら眷属たちが守ろうとして守り切れなかった、彼女の心根そのもののようで。

 そんな無防備な心そのままの姿で少年に触れる様は、いつか夢見て虚空に捨てた優しい世界を見ているようで。

 あぁ、自分たちはこの光景を見たかったのだなと、そう思ってしまえば、もう駄目だった。

 喜びと悲しみが綯交ぜになった眼で駆け下りてゆく二人の背を見送るバルファルク達は、たなびく銀燐の軌跡に目を細め、「あぁ、眩いなぁ」と、瞳に雫を浮かべて、酷く優しい顔で微笑んでいた。

 

 さて、そうして少年の矜持に傷を付け、眷属たちの心を揺らした女神はといえば、目指した場所を見つけた喜びでほぅと息を吐いて安堵した。

 白い脚が柔らかく大地に降り立ち、傷だらけの少年の足をそっと地につけて肩を支える。ジェットコースター並の速度での自由落下染みた下山に目を回しかけていた少年は、目の前の人工物に僅かに息を呑み、次いで何某かの理解の灯をともしてあぁと納得した風に声を漏らした。

 二人の子供が辿りついたのは、千剣山の尾根にぽつねんと建つ一軒の小屋だ。それはかつてドゥルバルが建て、以降シュガルとバッバルフが住み着いた来訪者の仮宿である。

 外観も内観も掘立小屋と言う他ないのだが、其処には一時生活するのに困らない最低限の道具と設備がある事を聞き及んでいた女神は、ならば当然治療のための道具もあるだろうと一縷の望みをかけて訪ったわけだが、果たして、其処には女神の望み通り、応急処置が施せる程度ではあるが、確かにちゃんとした治療道具が一揃い残っていた。

 ただし、人の手が入らなかった小屋は先のオストガロア襲来の騒動もあってかボロボロで薄汚く、女神はこの場で彼の傷口に触れる事を躊躇った。当時の文明レベルで言えば多少汚い程度の場所でも、根底に遥か未来の記憶を持つ女神にとって、この場はあからさまに不衛生であったのだ。

 故に、女神が少年の住処を己が神殿に定めたのは必然であり、少年にとっては棚から牡丹餅とでも言うべき幸運であった。

 ちゃっかり同居の幸運に恵まれた少年は露骨に拳を握って喜んで見せる姿に、とうとう女神も顔を綻ばせて小さく噴き出す。そう遠くない昔にそうであったように、人との関わりの中で花を咲かせる彼女の心は、この時ばかりは優しく凪いでいた。

 

 なにせ、何を言っても聴かないし、何をしても無駄なのだ、このナムカラングという己の半身(・・・・)は。

 女神の為を思うのに、結局自分の我も取り入れようと手を入れる。あれこれと理由を探してしまう女神の優柔不断さを先読みして、問題を提示する前から「これが正解だ」と言わんばかりに堂々と我を通し、さも当然のように胡坐をかいてどんと構えて仁王立つ。

 欲しいものほど口にして望めない彼女とは真逆だった。欲しいものは何が何でも手を伸ばして手に入れて、抱え込んで離さない少年の在り方は、傲慢なのにどこか優しい。

 

「貴方は、本当にそれでいいのですか?」

 

 それでも際限なく言葉を求めて確認したがるのは、そんな幸福があるものかと認め難く思う気持ちが捨てきれないからだろう。なんて面倒くさい性分だと自分の女々しさに呆れながらも、女神はこれから先の未来でも不安を捨てきれないに違いない。

 先ずは治療が優先と、生活に必要なあれそれは一旦その場に残して必要なものとナムカラングを抱えて神殿に舞い戻ったダラ・アマデュラは、言外にいつか来る離別を匂わせる。

 玉座の間にある太い柱の陰に隠れるようにして作られていた幾つかの通路と部屋の先、恐らくは浴室と思しき場所で手早く洗った布で血や泥と言った汚れを丁寧に拭いながら放たれた問いかけに、ナムカラングは一度ゆっくりと目を瞬かせたかと思うと、若干青ざめた顔を仕方なさげに綻ばせて「ばか、それ()良いんじゃなくて、それ()いいから此処に居るんだよ」と彼女の懸念を笑い飛ばす。

 鋭い三白眼に堅い表情、少年であるのにどこか鋭く尖った印象を抱かせる面差しが、愛しい女の為にゆるりと綻ぶ。一気に年相応の幼さと生意気な雰囲気を溢れさせた少年は、綺麗に拭われた手を不安に強張る女神の頬に沿えると、緊張を(ほぐ)すように努めて優しく蟀谷に手を這わせ、鈴のように鳴る美しい髪へと指を差し入れた。

 

「確かに、おれは死ぬよ。だっておれは人間だ。あんたほど頑丈にも強くも出来てない、永遠を生きられないそこいらにいる人間の内の一人でしかない」

 

 「でも、今はここにいる」。ぴくりと震えて瞳を揺らした女神に真摯な眼差しを向けながら、もう片方の手で彼女の手を握る。自分の手よりも一回りも二回りも小さくて細い指先に己の武骨で硬い手指を絡ませ、無意識に逃れようと揺れた手を抑え込む。「ここにいるし、まだ生きてる。ほら、あったかいだろ?」と、狼狽えて泳ぐ視線を逸らさせはしないと後頭部にまで辿りついた片手でしっかりと女神の小さな頭を固定すれば、心の底まで見通してしまう蛇帝龍の瞳がどうしようもない期待を滲ませて揺れていた。

 

「いつかきっとなんて、今考えても仕方ないことは放っておけよ。誰だって最後は別れて終わるんだ、おれとあんただけの特別じゃない。誰にでも訪れる、何てことのない『当たり前』なんだよ。怖いのは解るけどさ、だからって逃げちまうのは勿体無いだろ」

 

 自分の有り余って仕方のない熱が、彼女に伝わればいい。柔らかいのに凍り付いてしまった手指を通って全身を廻って、心臓に辿り着いて、骨の髄にも髪の先にも、彼女のずっとずっと深い所までおれの想いが届けば――いいや、いっそそのままおれの想いに溺れてしまえと、少年は昂る心の儘に熱の籠った眼で最愛の少女に心を吐露する。

 神々が畏れ慄き逃げ惑った女神を恐れも敬いもしないナムカラングの言葉は、まるで甘露のように甘やかに女神の全身を痺れさせた。脳髄から犯しにかかる少年の誘惑の前に、もはや女神はただの少女と成り果てる。

 それでもこれまでの悲惨な離別が残した傷が癒えていない少女は、明確に言葉を欲しがって頑是ない子供そのままに絡まる褐色の手に縋る。自らの意思で少年を求めて来た少女に、ナムカラングはもう堪えきれないとばかりに破顔し、湧き上がる喜びのままに少女の額に自らの額を押し当て、誰よりも近い位置で少女の心を覗き込んだ。

 

「それでもあんたがおれとの別れを怖がるなら、おれがあんたに死をくれてやる。だから、あんたはおれに死を寄越せ。そうすればあんたはもう誰とも別れずに済むだろう?――まぁ、でもそれは一番最後だ。それまではおれと一緒に面白おかしく幸せに生きて……幸せなまま一緒に終わろうか」

 

 「だから、安心しておれのお嫁さんになればいい」。陶然と笑むナムカラングの求婚に、ダラ・アマデュラは言葉では応えなかった。

 ただ真っ直ぐに切り込んできたナムカラングの想いにふるりと身体を震わせ、それから顔を真っ赤に染めた後、言葉にならない感情を持て余した彼女は多大なる羞恥と罪悪感、それから抑えども抑えども溢れて止まない歓喜に震える手をナムカラングが自分にしたようにそっと彼の髪に差し入れる。

 自分の髪とは違って硬い髪質にきゅうきゅうと鳴く心臓を宥めながら、ダラ・アマデュラはすり、と自分から合わさった額を擦り合わせ、芽吹いて花咲いたばかりの恋心を隠す事無く瞳に乗せて恥ずかしげに微笑んだ。

 

 そうして此処に婚姻は成った。

 二人きりで結んだ赤い糸に、流星の眷属たちは二人の末路を見届ける覚悟を決めた後、盛大に二人を祝福して喝采を叫ぶ。

 結婚したといっても、二人はいわば恋人になったばかりだ。一目惚れからの電撃的な結婚は本能に後押しされたもの故に、互いに心の裡を悟れども其々の趣味嗜好や来歴といった細やかな情報までは知りえない。

 この結婚は二人の魂が早急に明確で確固たる結びつきを欲したが故のものである。

 一息に燃え上がった恋心は冷めるのも早いという。けれど魂が求める伴侶は、熱が穏やかになる事はあるだろうが、それが立ち消えることはあり得ない。恋はいずれ愛になるだろう。そしてその愛は永遠だ、少なくとも、その魂が消滅するまでは。

 この関係に「何故」や「どうして」といった問いは無意味だ。神がそうあれかしと定めたわけでも、世界の意思がそういう物として定めたわけでもないが……強いていうなれば、これ(・・)は云わば魂レベルでの融合に近い。損傷と言っても良いくらいに互いの魂が互いの深い部分に根を張り、境目なんて消えてしまうくらいに堅く強く結びついてしまっているのだから、離れてしまえばどちらも崩れて消えてしまうのだ。

 事故のようなものに思えるだろうが、これはそういう不可抗力の果ての欠損ではない。

 これは、そのように成ってでも離れたくないという、理論や理性では説明不可能な両者の間に生じた狂おしい程の希求によって生じる現象なのだ。事故だなんて言葉で片づけてしまうのは余りにも風情がない。

 ならば、これはまさしく「運命」なのだろう。あらゆる道理も柵も理性も置き去りに、ただ目の前の存在と共に在る事を全てとする、ただの「運命」。

 触れたいのも、声が聴きたいのも、傍にいたいのも、笑顔が見たいのも、視線も体温も心も未来も、命すらも全て欲して止まないのも、それは偏に互いが運命の相手なのだから、仕方がない事なのだ。

 

 治療の途中で歓喜のままに少女を抱き上げ、くるりと回って傷を悪化させた少年は、痛みに呻いて転がりながらも笑っていた。何の遠慮も呵責も無く少年の掌に身を委ねていた少女はといえば、そんな少年を見て涙腺を決壊させながらも、やはり笑っていた。

 少年の前では幼い女神はただの少女になって、少女の前では幼い狩人はただの少年になった。

 互いに年相応の顔で、年相応の恋に心を弾ませる様は余りに稚けなくて、大人から見ればさぞ馬鹿らしい光景に見えただろう。児戯同然のままごと染みた恋愛は、微笑ましい触れ合い程度の距離を保って歩き始めた。

 視線を合わせるだけで心は満ちる。指先の温度で心臓は温まり、寄り添う重みは心地良い充足を感じさせてくれる。

 それでも時折熱が灯りすぎて、近付きすぎて頭の芯から茹る時は、そっとお互いの唇を重ねればいい。途方もない熱は羞恥と幸福に変わって、穏やかに全身に満ちるだろう。お互いに顔を赤らめながら、それでも握った手だけは離すまいと、くすぐったいと感じる喜びに笑みを溢し合えたならそれで幸せなのだから。

 

 

 

 穏やかに、緩やかに、二人の時間は過ぎていく。それでもナムカラングの傷が癒える頃には、追い付いてきた現実がそっと二人の肩を叩くものだから、二人を愛で守っていた眷属達は怒りも露わに舌を打つ。

 もう少し空気を読めと遥か遠くを睨みつけるバルファルクに、心身ともに満ち足りた時間を過ごしたダラ・アマデュラは、遠く追いやっていた感傷を再びその眼に宿して苦笑する。ナムカラングが傷を癒せるだけの時間が確保できただけでも僥倖だと言う女神に、伴侶となった少年はバルファルク達に混じって盛大な舌打ちをかましたばかりか、嫌悪も露わに顔を歪め、眷属たちに「今のうちにアレ、撃ち落とせねぇの?」と物騒な言葉を吐き連ねていた。

 眷属たちは心揺さぶられたようにそわっ、と身じろぐも、呆れたように自分を見る主の眼に耐え兼ねて大人しく地に伏せた。

 

「アマデュラ、玉座に戻るぞ。わざわざあんたが出迎えなくてもいい相手だ、アレは」

「けれどナムカラング、そうは言っても今からこちらに来られるのは、私の……」

「伴侶殿の言う通りだ。主よ、彼奴はそもそも招かれざるもの。もっと言うならば、彼奴は敵だ。彼奴は迎え撃って殺さないだけ有難いと思わねばならんのだ。出迎えなどしてはつけあがる」

「そうそう。だからアマデュラ、戻れ。あとついでに真体の方もしっかりがっつり隠しとけ。何されるか解ったものじゃねぇ」

 

 さぁ戻れすぐ戻れ今すぐ戻れと、ぐいぐいと背中を押す伴侶と眷属にダラ・アマデュラは僅かに慌てながら、それでもされるがまま、言われるがままに神殿の奥へと足を進めながら、蛇龍の方の身体に意識を割いて千剣山の奥深く、千剣山を内側から穿って作った山中の寝所へと納めた。

 水面の庭も紗の通路も抜け、玉座の間に辿り着いた瞬間ナムカラングはダラ・アマデュラを横抱きにして颯爽と彼女を滑らかな石造りの玉座に降ろ――さずに、そのまま自分が玉座に腰かけて片足だけ胡坐をかくと、そのまま胡坐を組んで出来た窪みに女神を据え置き、酷く太々しい態度で背後からがっちりと女神を抱きしめた。

 流石に虚を突かれて目を丸くするダラ・アマデュラに、ナムカラングは満足げに息を吐く。すっかり嫁馬鹿が覚醒して真正の馬鹿に成り果てたナムカラングの行動に、さしもの女神もそう簡単には理解が追い付かず、完全に思考を止めて膝の上で凍り付く。

 その直後、俄かに外が騒がしくなったかと思えば、紗の通路の向こう側からぺっと吐き出されるようにして一柱の女神が玉座の間に転がり込んできた。

 おそらく眷属たちが蹴り入れたか尻尾で打ち込んだかしたのだろう。しきりに臀部をさすって声にならない声で呻く女神の姿に、意図せずして座布団代わりにしてしまった伴侶の身体が小刻みに震える。

 

――まさか、此処からが正念場で修羅場だと言うのに、このままいつも通りの体勢で始めるの?

 

 女神にばれる前に何とか笑いの衝動をやり過ごそうとする伴侶を背に、ダラ・アマデュラは冷や汗を流す。

 けれど、事態はダラ・アマデュラが思った以上にややこしい方向に進むらしい。

 なんとか臀部の痛みをやり過ごした女神は、自分より高い位置から感じる視線に向けて殺意を込めた目を向け、次いでダラ・アマデュラとナムカラングの体勢に目を丸くした後――血管がブチ切れる勢いで「それは私に対する当てつけなの!?」と、物理的に神殿が揺れる程の大音声で叫んだのだ。

 

 ダラ・アマデュラは知らなかったのだが、実はナムカラングが完治するまで女神が……女神イシュタルが彼女にちょっかいを出さなかったのには訳がある。

 二人が穏やかに恋人生活を楽しんでいた間、イシュタルは何をトチ狂ったのか知らないが、何故か冥界に下り、案の定冥界の女神であるエレシュキガルの逆鱗に触れて殺され、吊るされていたのだ。

 ナムカラングはそれを、イシュタルを警戒して外界を見張っていたバルファルク達から聞き及んでいたのだが、この時彼はある意趣返しを思いつく。本当ならば、眷属はこの話をダラ・アマデュラに持って行ったはずなのだが、彼らはナムカラングが提案した意趣返しに全力で乗ったが故に、イシュタルの冥界下りを己の喉元に留めた。

 別にこれだけで叛意ありとは見做されないことが幸いした。ダラ・アマデュラはバルファルク達に侵入者の排除を命じはしたが、情報の収集と報告までは命じていない。これは彼らがちょっとした趣味(・・・・・・・・)で聞くに至った、他愛のない噂話(・・・・・・・)であるのだから、わざわざ主の耳を汚す必要もないだろうと、冥界下りの与太話(・・・・・・・・)は一切ダラ・アマデュラの耳に入ることなく、今日まできた。

 だから当然、ダラ・アマデュラはイシュタルが身ぐるみを剥がされた事も、怒り狂ったエレシュキガルに刺殺された事も、そして夫であるドゥムジにその死を連日連夜祝われた事も、何一つ知らなかった。

 知っていれば、ダラ・アマデュラは即座にその膝を飛び降りてナムカラングを玉座の背に隠しただろう。あるいはあの小屋に隠したかもしれない。

 けれど彼女が全てを知ったのは、その当の女神が「当てつけか!」と叫び、困惑するダラ・アマデュラを心底愛おしげに抱きすくめるナムカラングが「当てつけとはどれのことです?」と慇懃無礼にイシュタルの失態を論っている最中であった。

 ダラ・アマデュラとしては全て初耳なのだが、目の前で怒りに震える女神にダラ・アマデュラの困惑は欠片も伝わらない。ただ、ナムカラングの愉悦はしっかりと伝わっているらしく、イシュタルは視線で人が殺せるのならばと言わんばかりの形相で二人を睨む。

 そんな女神の視線に晒されてなお平然としていられるのは、偏にダラ・アマデュラの瞳を毎日見続けたおかげだろう。瞳自体に権能染みた力を宿すダラ・アマデュラの眼を毎日真正面から延々と見続けたナムカラングは、神威や威圧に対してそれなりの耐性を備えるに至っていた。

 そうして一頻り扱き下ろすだけ扱き下ろしたナムカラングは、肩で息をするイシュタルに向けて僅かに口角を上げると、二人の仲を見せつけるように無防備なダラ・アマデュラの片手を己の指と絡ませ、己の口元に運んで小さな爪に口づける。

 

「――それで? 旦那に玉座を掠め取られたばかりかその死を喜ばれたイシュタル様は、伴侶に愛されて日々幸せを噛み締めているおれの女(いもうと)に、一体何の御用でしょう?」

 

 喜悦に塗れた声が、耳朶を打つ。言いながら艶然とダラ・アマデュラの矮躯をいっそう強く抱き込むナムカラングの様は、まさしく恋人を溺愛する男そのもので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ナムカラング、実は貴方も相当頭にきてましたね?

 

 見ずとも解る。彼が真実ダラ・アマデュラを溺愛しながらも、その様を見せつけることで家も家族も村も失った怒りを煮え滾らせていることが。

 だから、最初は彼を止めなければと思っていたダラ・アマデュラは、自分からナムカラングの胸に頬を寄せて心底幸せだと甘やかに微笑んだ。

 

 

 同じ怒りを抱えるもの同士、何を恐れる事が在るだろうと、幼い二人の恋人は怒れる女神を見下ろした。

 



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第十話:再生の呪い

 とても長くお待たせしてしまってすまないね。
 さて、早速だが皆お楽しみの断罪の時間だよ。
 まぁ、お別れ前の……身辺整理? 憂さ晴らし? も兼ねているけどね。
 皆、心の準備は出来ているね?
 何があっても狼狽えないでおくれよ。
 だって最初から解っていただろう?
 この話は……彼らの過去には。

 ハッピーエンドなんて、ありはしないって。




「ようこそおいで下さいました、イシュタルお姉様。私の愛しい眷属たちの歓待はお気に召されましたか?」

 

 僅かな衣擦れの音でさえ耳に痛いほど響く一触即発の空気の中、火蓋を切り落としたのはダラ・アマデュラだった。至って普通の顔をして、小さな唇から皮肉を吐いた少女の眼に温度は無い。

 苛烈な女神の嫉妬が炎のように燃え上がり、イシュタルの目が人ではあり得ない黄金に染まっても、ダラ・アマデュラは平然とその視線を真正面から受け止めて毒を吐く。

 常になく冷やかな目で己を見下ろす妹に、一瞬だけイシュタルの背を氷塊が滑り落ちる。

 だが、つい先日冥府にて土の下で悲嘆に暮れる自分を笑った夫の姿を知った彼女は、昨日今日の出来事だという事も相まって、常以上に自分を見下ろす存在の全てが憎らしかった。

 故に一瞬の緊張と危機感は瞬きの間に遠くへ放った。あの女神ダラ・アマデュラが伴侶を得たと聞いた時から湧き上がるこのどうしようもない妬心と憤怒は、死を知って恐れを知ったイシュタルの背を思い切り押したのだ。

 一度駆けたら止まらぬ様はまさしく猪。粉砕されたグガランナも、この女神の有様を見たならば頭を抱えて諦めるだろう。例え横腹をど突いて転がそうとも、目先の怒りに囚われた女神はむしろ横腹に触れた瞬間その勢いだけで相手を跳ね飛ばしてしまう様が容易に浮かぶと、彼の雄牛は角を下げて大人しく嵐が去るのを待っていたに違いない……イシュタルにハンカチを落とすレベルのうっかり具合で落とし物になっていなかったならば、の話だが。

 

「あれを歓待と呼ぶのなら、そうね、とても気に入ったわ……思わず見知らぬ誰かにもやってやりたいくらいよ……!」

 

 九割九分九厘は自身のせいであることを棚に置いて、烈火の如き怒りも露わにイシュタルは乱雑に言葉を吐き捨てた。

 自身の皮肉を当て擦った台詞に、思わずダラ・アマデュラの眼が据わる。逆ギレも良い所なその様に、前々からくすぶり続けていた怒りを再燃させた少女に、ナムカラングもつられてぎちりと奥歯を噛み締めて陰惨に笑う。

 

「ならやって見せろよ。この千剣山を出て、無関係の誰かに手を出してみろ。おれは止めねぇよ? だってあんたはおれが殺るまでもなく、おれの嫁の眷属が喜び勇んであんたを灰にするもんな? それを受けてなお生きていられんなら、きっとあんたもその誰かを歓待できるんじゃねぇの?」

 

 どうせ無理だろうと露骨に顔に出して宣うナムカラング。その気になれば容易く人間の時代を閉じる事ができる女神相手にするには、恐れ知らずの域を超えた振る舞いである。

 だが、その態度もある意味当然のものだ。何せナムカラングは本当に女神イシュタルを恐れる心を失ってしまっていたのだから。

 今の彼は精神的には無敵に近い。彼にとって忌み嫌い、憎悪し殺意を叫ぶ神は数多あれど、畏れ敬い愛する神はダラ・アマデュラただ一柱のみ。

 彼が幸福を感じるのも、悲しみを感じるのも、楽しさを、苦しみを、穏やかさを、愛を、恐怖を感じるのも全て、感情が発露する根元と向かう先に愛おしい女であるダラ・アマデュラがいるからこそのもの。心身の全てを余すことなく妻に捧げた彼にとって、ダラ・アマデュラ以外の神の怒りなんぞは恐怖にすらならなかった。

 

「こ……んの、無礼者が! 神ならぬただの人間の分際で天上の女神たるこのイシュタルになんたる言い草! 妻が妻なら夫も夫ね、こんな礼儀知らずの野蛮人、蛇の化物と番ってるのがお似合いよ! 所詮人間なんて使い捨てだもの、あのお使い一つ出来ない下女も、詩人気取りの虫もみんな、母さんに一時使われただけの蛇人形にお似合い――ひっ」

 

 常人が持っているべき心の機構のいくつかを狂人のそれに作り変えた彼の売り言葉に、反射の如き自然さでイシュタルは買い言葉を叩きつける。

 露骨にダラ・アマデュラ以下だと人間に断言されたイシュタルは、己が引く弓の如く鮮やかに、そして比類なき速さと精度で以て、千剣山の夫婦の地雷を打ち抜いた。

 今この場にギルガメッシュ王が居たならば、きっと無言で頭を抱え、静かに宝物庫を開帳しただろう。あるいはエルキドゥならば、輝かんばかりの笑顔で砕け散ったグガランナの破片を手当たり次第に投げつけただろう暴言である。現実にこの場にいない彼らは置いておくとしても、神殿の外で耳を欹てていた眷属群は煮え滾る憤怒に脳裏を焼かれて理性と本能の間で揺らいでいる。けれどやはり、本能の方が戦況的に有利であるらしく、身体の芯を凍らせるほどに美しい銀鱗は苛烈な怒りで燃えていた。

 万に一つどころか億に一つも勝機など見出せない敵地のド真ん中、それも土地の恩恵と契約の守りを得た絶対者を前に放つ台詞にしては、あまりにも蛮勇が過ぎた。

 一息の間に冷えた世界で、重苦しい空気が女神の足首を漂い、金の装飾が躍る白く長い脚を這い掴む。

 小さく息を飲んでさっと顔を青ざめさせたイシュタルに、ダラ・アマデュラは湛える微笑など最初から無かったと言わんばかりの冷徹さを瞳に乗せて差し向ける。血反吐を吐いても許さない。言葉ではなく雰囲気でその一言を感じ取ったイシュタルは、ここにきて漸く己の立ち位置というものを正確に把握した。

 怒りに我を忘れていた、というのは余りにもお粗末な言い訳だ。彼女は既に憤怒に身を焦がされながらも頭を働かせてダラ・アマデュラへの意趣返しの策を練っている。頭に血が上った程度で死地に飛び込むのなら、イシュタルは既に死んでいるし、そもそもオストガロアなんて生まれていなかった。

 嫉妬と、怒りと、傲慢と、楽観。それがイシュタルの女神としての常識を曖昧にして、その瞳を曇らせた。

 「どうせダラ・アマデュラ(あのこ)は何だかんだ言って甘さを捨てきれない」と、高を括っていた。もっといえば彼女の良心と情に胡坐をかいて、慢心しきっていたのだ。

 だから迂闊にもイシュタルは増長したまま彼女の領域へと踏み入ったのだ。自分が薄氷の上に立っていただなんて気付きもしないまま、イシュタルは龍の逆鱗を殴りつけて足蹴にした。

 故にダラ・アマデュラは一時だけ家族の情を削ぎ落とす。そこまでされて何も思わず何もしないのでは、それこそ情のない振る舞いだろう。心を傾けたものを蔑ろにされて笑うことを優しさとは呼ばないと知るからこそ、彼女は心の底で蟠っていたイシュタルへの殺意を引き摺りだす。

 

「……私、が」

 

 あれは一体何だ。イシュタルは声もなく目を見開く。

 いつぞやあの女神を扱き下ろして罵倒した時とは比べ物にならない、濃密な殺意。殺したい気持ちではなく、殺してやるという意志で底光りする瞳に睨まれて、イシュタルの体は石のように固まった。

 僅かにでも動けば、殺られる。じっとりと滲み出す汗が鉛の重さで肌を伝う感触に、イシュタルは目の前の脅威を正しく理解する。

 

――これは、この()()()()は、はかれない。

 

 あらゆる計測、あらゆる謀略、その全てを問答無用で無意味に落とす埒外の女神、神話世界を構築する絶対の道理ですら縛れない番外の龍を前に、綴じられつつある神代のサナトリウムに舞うイシュタルは、幾度目かの増長を完膚なき迄に磨り潰された。

 

「私が悪し様に言われる事は、許します。だって私も貴女を馬鹿にした。貴女を貶める意図で、言葉を吐きました……けれど」

 

 何度押さえつけられようとも学ぶ事無く、省みる事無く、他の誰よりも神らしくあり続けたイシュタルに、この時漸く例外が生まれた。既に遅きに失した学習だ、それをわざわざ拾い上げて誉めそやしてやるほどの寛容さ、否、妥協を、ダラ・アマデュラは既に手放している。未だに会話が出来ていることは、奇跡だった。

 

「また、貶しましたね? 私の愛弟子を、私の友の家族を……あれほど惨たらしい目に、合わせておいて……あれほど、無残な姿にしておいて……その上、私の伴侶まで、馬鹿にした。ねぇ、貴女、そろそろ――本気で、殺します、よ?」

 

 溺れる程の怒りで言葉をうまく繋げられないダラ・アマデュラに、イシュタルは気圧されるがままに一歩足を引く。蛇龍の感情によって動く眷属群の理性は既に本能に屈してしまったらしく、イシュタルの背後では耳鳴りの様な甲高い風の悲鳴と、大地を抉る轟音を思わせる低音で咆哮する龍たちの怒りが響いている。

 遠い異邦の地で言うところの「前門の虎、後門の狼」の状況に自らを据え置いてしまったイシュタルの顔に、最早常の自信も輝きも無い。顔を蒼白に変え、手足を震わせ、恐慌をきたす脳と早鐘を打つ心臓を持て余す姿は、彼女が陥れては嘲ってきた「無様な人間」そのものだった。

 ふ、とダラ・アマデュラの矮躯がナムカラングの膝から軽やかに降り立ち、そのまま無言でイシュタルへと歩を進める。愛する女を膝に抱え込んでいたナムカラングは一瞬だけ不服そうな顔をしたが、徐に腰を上げたかと思うと、玉座の裏から一張りの弓と矢、そして短剣を引っ張り出し、短剣を腰布に引っ掛けてから弓に矢を番え、イシュタルを睨み据える。

 人間であるナムカラングが曲がりなりにも神であるイシュタルの玉体を傷付ける事は難しい。出来ない訳ではないのだが、彼の弓や剣は、神性や魔性を帯びていない至って普通の狩りの道具。天弓に乗っていないイシュタルを狙い撃って外すことは無いだろうが、致命傷に届かないどころか血を流させられるかどうかも怪しい。

 だが、もしもダラ・アマデュラとイシュタルが矛先を交えることになったならばと思えば、夫としては黙ってみている訳にはいかなかった。

 さて、目の前には神話世界を崩壊させたとしても決して殺せない怪物(ダラ・アマデュラ)。後方には雲霞の如き大群を成して控える凶星の龍(バルファルク)たち。斜め前には直接的な脅威にはならないとはいえ、害せば確実に蛇龍の殺意を今以上に煽る生きた逆鱗(ナムカラング)と、確実に自分を殺せる布陣を敷かれたイシュタルはじりじりと後ずさりながら、真っ白になった頭の中で恐怖を叫ぶ。

 こんなはずではなかった。そんな無責任な思考が生まれるも、現状を打破する手は一つも出てこないまま、小さな歩幅で確実に自分に近付いてくる死の姿にただただ怯える。歯の根も噛み合わず、もはや呼吸すら覚束ない有様のイシュタルにとって、ダラ・アマデュラのゆっくりとした歩みは焦燥を掻き立てる一因でしかない。

 生まれて初めて実感する極限状態に、イシュタルの目に涙の膜がかかる。一度冥界で死んだときでさえ、これまでの恐怖は抱かなかった。こんなじりじりと焦げ付く殺意に巻かれたのは初めてで、嬲り殺されると怯えたのも初めてだった。

 蹂躙する側であった女神が、蹂躙される側の精神を理解する。本来ならばあり得ない状況だ。神が人間に近しい感性を芽生えさせるなど、他所は兎も角として人間を労働力と割り切るメソポタミアの神からすれば考えつく事すら出来ない異常事態である。

 天の女主人としての矜持も、戦いと美の女神である自負と実力も、全てを無に帰された。前に立つ者全ての上に在る事を当然とする星の龍を相手にするには、高々一柱の女神では荷が勝ちすぎた。

 

「っ、ぁあっ……い、やぁ……いや、いやぁあ……」

 

 青ざめながら身体を震わせ、細い腕で己の身体を掻き抱くイシュタルに、ダラ・アマデュラは小さく首を傾げて目を細める。それはまるで、人の娘のようではないか。これから無体を強いられるような少女さながらのイシュタルの様子に呆れ果てながらも、ダラ・アマデュラの歩みは止まらない。

 

「なぃ、で……こない、でよぉ……」

 

 怯え縋る眼。女神としての矜持などもはや今のイシュタルにありはしない。ダラ・アマデュラの怒りの前では、全ての命は等しく同じ場所に立たされる。生殺与奪は蛇龍の手にのみ在った。

 

「こない、で……って、い、言ってるっ、の、ぉおおおおお!!!」

 

 けれど、反撃の機会は何時だって彼らの手にある。ただそれを実行するだけの精神力が、彼女を前に容易く死ぬだけで。

 だが、それでもイシュタルは腐っても女神であるらしい。万夫不当の大英雄であろうとも晒されたならば呼吸を止めて凍り付くその睥眼に一心に見つめられてなお、イシュタルの手は弓を取った。

 

「あああああああああああああああ!!!!」

 

 恐怖に負けて、矢を放つ。涙と汗に塗れた顔には一切取り繕われる事のない蛇龍への恐怖と生への執着が浮かぶ。

 何故自分が遠回りな嫌がらせという手段を取らなければならなかったのか、その理由である神々との制約など頭に無い。契約違反の代償にさえ頭が回らないのは、そんなもの以上に蛇龍を恐れたからだろう。

 ただ己が今この場を生きていたいが為に放った、命を長らえるための本能の一矢。そこには文字通りイシュタルの全身全霊が込められていた。

 

 けれども。

 

 

 

 

 

「あー……んっ。んむ……う……美味しくない、です……」

 

 

 

 

 

 けれども、その一矢も――()()()()()()()()()()()()

 恐慌の果てに放った決死の抵抗は、ダラ・アマデュラの手ではしっと掴み取られたかと思うと、そのまま自然な流れで彼女の()()()()()()()

 ダラ・アマデュラの頭脳体は、モドキとはいえ骸龍オストガロアの肉体で出来ている。捕食を業に背負う龍の特性を帯びた矮躯は、確かに捕食したものの性質を鎧うほどの変異を許容されてはいない。

 しかし、その代わりとばかりに彼女の身体は捕食したものを単純なエネルギーに強制的に変換する機構を得ていた。思わぬ副産物、否、置き土産に一時絶望を深めたダラ・アマデュラだったが、きっとその時の彼女以上にイシュタルの絶望は深いだろう。

 え、とか細く一つ音を吐いて驚愕に目を見開くイシュタルの前で、ダラ・アマデュラは眉根を寄せてイシュタルの起死回生の一矢を無慈悲に食む。

 

「正確には、自己主張が激しい。権能、魔力、意志、単体なら濃くてしつこくて大味で尖ってはいるものの、まぁ美味しいです。ですが、それらが互いに譲ることなく我も我もと主張し合い、殴り合って調和しないので、個々の主張の激しさもあって非常に不味い」

 

 小さな赤い舌が桃色の唇からぺろりと覗く。ひどくげんなりした様子で眉根を寄せるダラ・アマデュラに、イシュタルはとうとう腰を抜かして膝も尻も地に付けた。

 あ、あ、と最早何事かを考える事すら出来なくなったイシュタルに、凍てついた眼差しが注がれる。手も足も出せなくなった彼女だが、投了は許されていない。手札が尽き、心が折れても、神の怒りは収まらない。そういう世界だと懇切丁寧に教えてくれたのはイシュタルだ。前回まではダラ・アマデュラだったが、今回はイシュタルにその役回りが回ってきただけ。ただそれだけの事だ。

 

「とても食せたものではありませんでしたが、()()()は頂きました……えぇ、アレは手土産ですよね。攻撃ではなく、菓子折り。貴女が私に攻撃したように見えたのは白昼夢です。女神も夢を見るのですね、一つ学びました」

 

 良かったですね。と小首を傾げるダラ・アマデュラに、番えた矢を放ちかけていたナムカラングはひっそりと安堵の息を吐く。彼女に下手物を食ませてしまったのは業腹だが、彼女の意に沿わない道を辿らなくて良かった。

 もしイシュタルの一撃を攻撃と処理していたならば、神々の約定によってイシュタルは他の神によって罰を下されただろう。そしてイシュタルは速やかにダラ・アマデュラの下から離されたに違いない。天罰によってその場は解決した、そう判断されて全てがまた零から始まる事を、幼い夫婦は認めたくなど無かったから。

 だから、良かった。要らない置き土産による功績に思うところは多分にあるが、横槍を入れられた挙句に獲物を掻っ攫われるのは夫としても狩人としても、非常に面白くない。

 冷徹にイシュタルを獲物のカテゴリに入れたナムカラングの視線の先で、愛しい妻が憎らしい女に肉薄する。僅かにでも手を伸ばせば触れる位置にまで寄った蛇龍に、イシュタルはと言えば失神寸前でギリギリ持ちこたえてしまっているらしく、美しい瞳を極限まで見開き、魂を凍てつかせる程の鋭さで冴える龍の眼に呑まれていた。

 

 漸く。漸くだ。漸く報復が叶う。

 奪われるばかりだった女神が、漸く奪う側に回る。

 念願の、と言っても良いのだろうか。心の底から湧き上がる憎悪も憤怒も尽きないどころか、今がまさに盛りの時とばかりに煮え滾り荒れ狂っているけれども、やはり根底に善性を有する蛇龍の感傷は頭の片隅で絶えず自己主張を繰り返すから、事此処に至っても、ダラ・アマデュラはイシュタルの命を刈り取る勇気を持てないでいた。

 殺意は本物だ。ダラ・アマデュラはイシュタルを殺したい。けれど、だからと言って死んでほしいかと言えば、それは……大きな声では決して言えないが、否、となる訳で。

 だから腕の一本や二本、いや四肢を奪うくらいで何とか溜飲を下げるべきかと、ダラ・アマデュラはイシュタルの身体に視線を這わせながら思案する。

 イシュタルはその性根こそ腐っているが、一応れっきとしたウルクの都市神で、彼女の死は即ち国土の疲弊に直結する。神は憎いが人間に恨みは無い彼女は、人間を人質に取られている気分になりながら最善の報復を考える。

 土地神としての権能を削る真似は出来ない。ならば他の権能、つまり美しさと強さを削るしか無い。

 となると、潰すべきは四肢と天弓、そして長く美しいその頭髪かと、ダラ・アマデュラは彷徨う視線を髪に留める。先ずは、切りやすい髪から。エビフ山を下した戦いの女神としての強さより、美の女神としての矜持に手を掛けようとしたのは、そんな理由だった。

 不本意ながらその様子をつぶさに観察していたイシュタルも、何をされるのかは解らないが、これから何かをされると理解したのだろう。ゆったりと四肢を這っていた視線が一点で固定されたのを見て取ると、死期を悟った身体が自然と震えを止め、次いで女神の思考も止まる。他人の死に様こそ散々見て来たイシュタルだが、人間がするように死を己がものとして想像できなかった彼女は、それ以上先の未来を、己の死の形を想像する事が出来なかったから。

 完全に抵抗を止めて曇った眼を、幼い少女が無感動に見下ろす。小さく白い手が気負いなく滑らかな髪に伸ばされて、そのまま髪を梳くように首の裏まで手が回る。

 このまま手だけを本体と重ねたら、彼女の髪は肩口にかかる程度になるだろう。それはそれで似合いそうな気もするが、この時代、()()()()で、尚且つ()()()髪を保つためには現代の比では無い金と時間と手間がかかる。一つだけなら平民でも多少の工夫と金銭で満たせるだろうが、三つとも全てとなると有力者や大商人でもなければ満たせない。

 そんな、人間がわざわざ金と手間暇と労力を十分に用意しなければ手に入らないものを、生まれながらに標準装備している夢物語にしか出てこないような理想の美女(イシュタル)は、性根が厭らしくとも正しく美の女神である。つまり、如何に似合っていようが、美人の条件、理想の女性の型に()()が無いのであれば、髪の短いイシュタルは美の女神として落伍したと判断されてしまうのだ。

 

 命を獲らない代わりに矜持を削ぐ。ともすれば殺されるよりも非情な選択肢を選んだダラ・アマデュラに、彼女の意志を感じ取った眷属群は物足りなさを感じはしても納得はしたのか、ひとまず傲慢な女神に土を付けた事実で僅かなりとも溜飲を下げる。

 ナムカラングも、出来ることならば自分の兄がされたように惨たらしく四肢を裂いて、無様にのた打ち回らせてやりたかったのだが……彼も眷属群と同様に、一応の納得を示して弓を下げた。

 人間である彼には理解できないが、神というものは時に己が命よりも矜持に重きを置くもの。神々の中でもとりわけ自信に満ち溢れすぎた自己愛の激しいイシュタルのことだ、彼女もきっと例に漏れず己の優位性を損なわれるのを最も厭う性質だろう。

 恵まれ過ぎてしまった権能に鼻を高くしていた女を、泥の中に突き落とす。全てを失わせる事は出来ないが、多少損なう事は出来る。高く育ってしまった花を刈り取ってしまえば、その下に隠された汚泥は成す術もなく白日に晒されるのだ。所詮は神も感情の生き物。皮一枚剥いでしまえば、その下には汚らしい本性が巣くっている。免罪符となっていた美貌を欠けさせた女神は、さて、本性を覗かせたままで一体どれだけの男を誑かせるのか。

 顔を赤くして怒り狂い、けれども足りない姿故に何も言い返せないその無様を拝めるのなら、この憎悪も一時宥めておけるだろう。

 まぁ、自分の妻はどんなに髪が短くても愛おしいが。なんて惚気を胸中で吐きながら、ナムカラングは静かに腕を組んで静観の構えを取る。ほんの少しだけ……否、割と本気で、珍しく愛しい妻が加減を誤って髪だけでなく首もさぱりと落としてしまう事故(ハプニング)が起きやしないかと期待しているが、兎に角彼は全てを彼女に委ねる。

 

 そして、嗚呼――事故は、起きた。

 

「――……ぇ」

 

 ぱきり、と、何かが固まる音がした。それはまるで製氷された氷が時折立てる音に似ていたのだけれど、それを知るのはダラ・アマデュラただ一柱であったから、彼女以外の誰もがその音を何かが割れる音と思い違った。

 ぱき、ぴきと、音は続く。イシュタルの聞き間違いでなければ、その音は己の頭の後ろに添えられた目の前の女神の手から鳴っているようだ。

 彼女はそれをダラ・アマデュラの手が本性に転じた音だと思ったのだが、どうにも目の前の少女の様子がおかしい。

 先ほどまでの冷厳さは何処へやら。不意打ちを喰らった獣のような顔をしている少女の手が、徐にイシュタルの髪の中から引き抜かれた。通り過ぎ際に数本だけ女神の髪の毛が切り落とされたが、誰もそれに気づかないまま、ただ目の前に晒された()()に眼を奪われていた。

 

「え…………あ、アンタ、それ、その、手……」

「――ッ、アマデュラ!!」

 

 絶えず割れた音を立てる、幼い手。中途半端に本性に転じたそれは、音を立てて人外の表面積を増しながら……見間違いで無ければ、鈍く曇って、ひび割れていっている。

 からからに乾いた喉から、イシュタルは声を絞り出す。目の前で起きている事が何なのか、彼女は凍り付いた思考回路をじわじわと溶かし解きながら、不可解極まりない現象の原因を探る。

 静かに混乱するイシュタルとは対照的に、ナムカラングは焦燥も露わにダラ・アマデュラの下へと駆け下りた。

 彼は階段を一気に飛ばして飛び降りた勢いのままダラ・アマデュラに抱き着いたかと思うと、イシュタルの方を向いていた身体を己の方へと向けさせ、鋭い目で彼女の異変を観察する。

 

「痛くないか? 気分は? まさかイシュタルに何かされたのか? なぁ、アマデュラ、これは、この変異は一体何だ!?」

 

 これが単にイシュタルの髪を削ぐための変異ならば、こうも焦らない。だが、これは明らかに異常事態だ。彼女の変異はそもそも音が鳴らない。音もなく転じた刃が風を刻む事はあっても、彼女の身体が音を立てて、()()()()()()()()()()変化するなど、それこそ裏切られた時以外ではあり得ない。

 眩い銀鱗が生じた端から曇っていく様に、ナムカラングから冷静さが根こそぎ奪われていく。訳の分からない現象に冷や汗を流しながら、少年はこの場で明確に敵であるイシュタルを睨みつけた。

 焦りと恐怖で血走った眼光と威嚇するように剥き出された歯、悪鬼羅刹もかくやという程の形相で睨みつけられたイシュタルが一瞬だけ怯む。彼が首から下げた冥界の竜の威圧もあるのだろう、半歩分尻で下がった女神は、急速に巡りだした血を頭に集中させて思考を加速させる。

 

「あたっ、あたしじゃないわよ! こ、こんな状況で、こんなの相手に、そんッ、そんなこと、ッ、出来る訳ないじゃない!!」

 

 あたしじゃない。自分にそんな権能は無い。だったら、何故この女神はこんな風になったのか。

 あのオストガロアという化け物が理由か。否、それはない。原初の女神、母さんの呪いは確かにあの子の身体を変質させただろうけれど、それ以上は許さないはず。こんな石のようになっていく変化は、母さんの望んだ哀れな姿には重ならないから。

 故に、この異変はティアマトの呪いでも、オストガロアの置き土産でも何でもない。だとすれば、これは一体何処から来た呪いか。この不変の化物が、何物にも成り損なう、蛇龍の帝、が…………。

 

「あ」

 

 ふと、イシュタルは何事かに思い当たったのか声を漏らす。

 そうだ、蛇龍だ。この女神は、この幼気な頭脳体の本性は、千の剣を鎧う蛇体の龍で……。

 

「蛇、の女神……蛇達の王の、上に在るもの……蛇の帝、蛇を統べる姫……蛇の、(おう)

 

 「あんたが蛇の皇なら、蛇も、あんたの眷属、よね?」。イシュタルは、青ざめた顔でダラ・アマデュラの顔を覗き込む。静まり返った玉座の間に、イシュタルのか細い声が嫌に大きな音で響く。「それなら、あんたの眷属が取り込んだ不死の霊草(シーブ・イッサヒル・アメル)は……あんたにも、適用、されるんじゃない、の?」。

 

 束の間、風が止む。シーブ・イッサヒル・アメル、不死の霊草、原初の深淵アピスに生えているという若返りの薬草は、そういえば蛇がその腹に納めたと、イシュタルの冥界下りの話の合間に聞いた覚えがある。

 その時は王様も気の毒にと思うだけだったが、そうか、蛇が食ったのならダラ・アマデュラと無関係では無い。不死の霊草を食んだ事で脱皮による永遠の生を得たのなら、逆説的にダラ・アマデュラもその不死性を持っていることになる。

 元々死ねない身体ではあるが、蛇体である以上、()()()()()()()()()()という認知から逃れる術は無い。

 これは脱皮だ。古い細胞を捨て去って、新しく強い身体へと転じるための行為。

 

 それならば、今、捨て去られようとしている()()()()とは、一体――?

 

 誰もがそこまで考えた所で、ダラ・アマデュラは自分から剥がれていく()()に気付いて、大きく目を見開き、そして叫んだ。

 

 

 

 

 

「ッ、ナムカラング! 今すぐに――()()()()()!!」

 

 

 

 

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()!!

 

 悲痛な声で耳を劈いたその言葉に、ナムカラングは何事かを考える間もなく仕舞った短剣を手に取った。

 そうして呆然とこちらを見上げるイシュタルなんて思考の外にも追いやって、鈍く煌めく銀色を頭上高く振り上げる。

 

 ティアマトがダラ・アマデュラに掛けた、原初の呪い。

 彼女が生まれながらに持つ不完全さ故の不死を覆す、唯一無二にして残酷な抜け道。 

 

 『憐れなままで、可哀想な仔のままで、ずっとずっと、(いと)しいままで在りなさい』。

 

 壊れず、欠けず、損なわれず、変わらず、そして如何なる力をも己の物として取り込む力を得てしまった彼女は、もはや不死殺しすら恐るるに足りない。母の呪詛によって『死の概念』を定義された彼女は、最早大元の呪詛など無くとも不死殺しでは死ねない身体になってしまった。

 けれど、そこに脱皮による再生の概念まで付与されてしまうと、話は大きく違ってくる。

 確かに彼女は不死殺しでは死ななくなる。彼女の死は愛する者の手によってなされる、そういうものだと定義されているのだから、彼女は決して『不死』ではない。

 だが、彼女は既にいくつもの不死の要素を備えている。永遠、不壊、不朽、不滅、そして不変。そこに再生まで加えられてしまっては、いかに唯一無二の『死』といえど、心臓の一突きで息絶えられるかどうか。

 順当に理をなぞるのならば、確実に死ねた。そういうルールになっているのだからと、彼女は死ねた。

 けれども彼女は事実上、神話世界の理に縛られていない。一応属してはいるが、適応されるルールの境界は曖昧で脆い。それは偏に彼女の魂が正しく世界の外側から来たもの故の弊害と言えるのだが、今回もまた、例に漏れずに理から外れた。

 だからこそダラ・アマデュラは叫んだのだ。新たに舞い込んできた『再生』の概念は、呪詛による『離別』の傷すら何事も無かったかのように再生させてしまうだろうと、本能的に理解してしまったから。

 

 呪詛が完全に剥がれてしまえば、ダラ・アマデュラはこの先も永遠を生き続ける事になる。

 それは最愛の伴侶と交わした約束を違える事になる。誰とも別れない未来が、夫婦で共に微睡む幸福が、死ぬ。

 

 それだけは絶対にみとめない。

 それだけは、絶対に、いやだ。

 私から、おれから、愛しいひとを、とらないで。

 

 夢が終わる。

 束の間に煌めいた幸福な時が、目を閉じる。

 

 蛇龍の鱗とは比べる事すら烏滸がましい安い銀色が、血を吐くような絶叫と共に振り下ろされた。

 

 



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第十一話:悲劇の終幕

 遠い過去だった今が始まる前のこと。
 畳んだ本を後ろから開こうか。そう、まだ本で言うところの本編だよ、ここは。
 そして、現在が彼等にとってのエピローグで、僕らにとっての……そうだな、第七章ってところかな。
 さあ、それじゃあ心して聞いておくれ。
 彼らの末期、その様を。
 そしてよくよく考えてこれからの事を決めるんだ。
 僕の話は『既に終わった神代の話』ではない。

 これは、『これから始まる、神代の終わり』の為の話なのだから。



 白く細い足首が水面に遊ぶ。とろけるような白を纏う花がそうであるように、彼女の眩い程白い脚にも青紫色の輝石が照り返した光が、そのまま水面の模様を彼女の肌に纏わせる。

 ぱしゃりと跳ねる水音は軽やかで、小さな水の粒が宙を舞う度に彼女の口から毀れる笑い声は密やかだった。

 此処には二人しかいないのだから、きゃらきゃらと声高に笑っても良いものを。そう思っても、彼はそれを口にしない事を選ぶ。

 遠い空の青は暑い季節程の濃さは無いが鮮やかで、そよと吹く風はひたすらに穏やかだった。それだけの理由で、彼はこの物語のような静謐を守るべく沈黙を選んだ。

 彼の視界には幻想のように美しい風景と、それを心穏やかに慈しんで楽しむ愛しい少女が一人。

 それだけの景色であるのに、なんと心充たされる光景か。少年は少女のいる世界の一幕を切り取っては、滴るほどの愛で蕩けた目で美しい時間を噛み締める。

 ほぅ、と持て余す程の充足感に小さく息を吐けば、耳聡く呼気を聞き取った彼女がゆるりと振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。

 白金色のしなやかな髪が、刃を鞘から引き抜いた時のような硬質な音を立てながら滑らかに彼女の肩口を通る。

 そのままおずおずと伸ばされる白く幼い腕。未だに遠慮があるのだろうか、そんな自分に自信がない所が愚かしくてもどかしい、けれどそれ以上に愛おしい彼女の控えめなお誘いに彼は迷わず腰を上げ、それから酷く丁寧な所作で少女の柔らかな手に、発展途上ながらしっかりと男らしい硬さと武骨さを備えた手を絡めて、快活に笑った。

 

「……うそだ」

 

 どこもかしこも滑らかで繊細な造りの神殿の中、一等丁寧に心と執念を込めて創られた玉座に腰かけた彼の膝の上に、本来の玉座の主である少女が座る。

 酷く居心地が悪そうに身じろぎながらも、心なしか嬉しそうに頬を染めて彼の肩に手を添える様は、文句なしに愛らしかった。

 だから彼は心の底から彼女を賛美し、口説き、ぎゅうぎゅうとその矮躯を抱きしめて猫可愛がりする。歯止めが効かないどころか、そういった機構など最初から存在しないとばかりに振る舞う彼に、流石に少女も羞恥が過ぎたのだろう。薄紅に色付いた頬の赤は顔どころか全身にまで及び、肩に添えられていた手が流れる水のように止め処なく愛を吐く彼の口を塞ぐ。

 けぶる睫毛に囲まれた宝玉のような瞳を涙で潤ませた少女が非難の声を上げる。か細く震えるそれは、哀れさよりも愛らしさを掻き立てる要素になったのだが、そうとは知らない少女は必死になってどもる口を動かしては切々と彼の羞恥心の薄さを指摘する。

 けれど彼は、己の口を塞ぐ手をすぐさま外しにかかり、そのまま指を絡めて瑞々しい少女の手の感触を楽しみながら、切なく微笑む。

 

「こんな、まさか……こんなこと、うそだ」

 

 彼自身、自分の言動が傍から見て行き過ぎている自覚はあった。二人きりでなければ、否、二人きりでも相当恥ずかしい言葉を朗々と垂れ流していると、彼は顔にこそ出していないが、羞恥してもいた。

 けれど、と、少年は僅かに染めた頬を自覚しながら、真っ直ぐに膝の上で目を丸くする少女の耳に言葉を流す。

 羞恥心が無い訳ではない。歯止めが効いていない自覚もある。けれど、この()が僅かに許された夢だからこそ、それを永遠に近付けるためなら、おれは言葉も行動も惜しまない――と。

 瞠目を強める少女に、少年はより一層握る手と矮躯を抱え込む腕に力を込めた。

 離さない。逃がさない。何処へもやらない――だから何処にも消えないでと、全身で叫ばれるのは、切羽詰まった懇願で。

 どれ程言葉を重ねても、やはり一生分には程遠い。

 一秒の密度を深めても、積み重ねていけた筈の人生と比べてしまえば点でしかない。

 少年にはあまり学がない。運動能力と根性こそ目を瞠るものがあるが、兄の頭に入っているような美辞麗句は、少年の頭の中では点在する浮島の如き様相を呈しているだけで、埃を被った言葉たちはもう彼の中で意味を主張する力もなかった。

 

「いやだ……こんな、こんなのは、いやだ……いやだッ」

 

 その中でも辛うじて意味の解る言葉だけを、彼は必死になって重ねた。何度も何度も、風情も情緒も無いが、それでも尽きせぬ想いがここに在るのだと愚直に示し続けた。

 これが今口にできる言葉の精一杯ならば、いつ潰えるとも知れない時ならば、おれは馬鹿にでも何にでもなってあんたに心を注ぎ続ける、と。

 情熱的な言葉だった。けれど、その眼に宿る熱は彼女への愛一色には染まらない。

 渦巻く感情は、怒りと不満、そして不安。二人の幼い恋人に安穏を約束してくれない世界に対する、少年の心からの、憎悪。満ち足りた時間の中でも、不安は常に付きまとう。いつ終わるとも知れない幸福の中に、首を擡げて此方を窺う不幸の影を見出しては、それがうっそりと嗤う様に慄いた。

 

 別離は普遍。誰にでも訪れる絶対の約束。そう説いたあの日から、少年の心には闇が巣食う。

 

「こんなはずじゃ、なかったのに……もうすこし、あと、もうすこし、なのに……ッ」

 

 眠りを必要としない少女が、自分に合わせて微睡みを得て、安らぐ姿をみる度に。

 寒暖に害されない少女と二人、一枚の布の暗がりに潜んで暖を取る度に。

 食事を必要としない身体で、共に分かち合った果実を美味しそうに頬張る顔を見る度に。

 暮れ泥む空を見送りながら、不意に沸いた寂しさにそっと寄せた肩の小ささを想う度に。

 世界の彩を知らない少女が、少年が語る世界の厳しさと美しさを知る度に。

 朝に、昼に、夕に、夜に。

 錆びついた宝箱からそっと感情を取り出しては、恐る恐る指で拭って、ようやく本来の色で煌めくそれに、少女と二人で心を震わせる度に。

 目覚めの瞬間、彼女の「おはよう」で一日が色を付ける、その度に。

 

 少年の奥底で、闇は泣いた。

 

 泣いて、喚いて、もがいて、叫んで、引っ掻いて。

 そうして闇は、遂に限界の閾値を超える。

 最愛の少女、誰より尊敬して、誰より信じて、誰より憐れんで、誰より愛した彼女に刃を振りかざした、その瞬間。

 少年に巣食い、少年を満たしていた闇は我慢していた言葉を、愛惜(いとお)しくて仕方がない記憶(かこ)と共に吐き出した。

 

――あんたが死にたがっている事は知っていた。

――あんたが寂しがりなのも、よく知った。

――あんたの優しさは、甘い。甘いが、あんたには苦いんだよな、それ。

――それでも変われも報われもしないあんたを心底哀れに思うよ。

――そして、そんな自分を嫌いながら、それでも人を愛せるあんたが、愛しい。

――愛しい。うん、愛しい。愛しくて、可愛くて、眩しくて。

――そんなあんたの伴侶であることが、誇らしくて仕方ない。

 

――……(かな)しくて、仕方が、ない。

 

――仕方がない。仕様がない。如何しようもない。

――だってあんたと約束した。おれが、あんたに約束した。

――あんたの最期を、おれが、あんたにくれてやるって、言った。

――…………。

――……、…………。

――…………。…………でも、さ。

――でも、おれ、本気だったけど……あの時、本気でそう言ったけど。

――それでも、おれは、あんたともっと、生きたい。

――あんたの笑顔を、支えていたい。

――あんたの涙を、守りたい。

――あんたの怒りを、拾いたい。

――あんたの楽しみを、共有したい。

――ずっと、ずっと、もっと、ずっと。

――おれは、あんたと、生きていたい……生きて、いたかった。

――なによりも…………死んでほしく、なかった。

――……生きていてほしい。死なないでほしい。生きて生きて、生きてほしい。

――あんたの全てが、命が欲しいってのは、蓋を開ければ、そういう事で。

――笑って、泣いて、怒って、また笑って……そうやって、生きてほしい。そういう命であってほしい。

――そうだ。そうだよ、おれの願いは。おれの、本当の、心は、想いは、願いは。

 

「何で、おれは……あんたとの約束を、守れないんだよぉッ……!」

 

 何時だって、何処でだってそうだった。あの日、あの時、少女と出会った瞬間から()()だった。

 

「ああ、くそッ、くそがッ! なんで、あと少しッ、あと少しだけなのにッ!」

 

――あんたと一緒に死ぬことよりも、命も心もひっくるめた、あんたの全部を守りたい。

 

「あと少し……あと少しで、叶うのにッ! 大好きなあんたを、殺してやれるのに……ッ!」

 

――例え、それがあんたの願いを砕く、あんたにとって何より手酷い裏切りだとしても。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()――なんでおれはこんな時に、()()()()()()()()()()なんて気付いちまうんだよぉ…………!!」

 

――おれがおれである限り、おれはあんたを殺せない。

 

 だって、生きていてほしいから。

 殺したくないとかではなくて、大好きだから。

 命も魂も欲しくて焦がれて仕方がないのは、その末期の先すら欲しての事ではない……訳ではないけれど、本当は、欲しがって手元に抱え込んで、ずっとずっと守って、守り切って、その先もずっと生きていてほしかったから。

 終わるためにと理由を偽って、それを本心だと思い込んだ。けれど、本当の本心は何時だって心の奥底から必死に愛しているを叫んでいた。終わるためだなんて後ろ向きな愛ではなくて、例え彼女が独りぼっちになったとしても、終わりに夢を見ない――本当の意味で、前向きな生を歩んで欲しいという、どうしようもなく独り善がりで絵物語染みた、展望の無い理想を、叫んでいた。

 愛しているから、生きていてほしいから、殺せない。

 子供に許された無鉄砲なまっすぐさで神様に手を伸ばした少年は、共に朽ち逝く下心(こい)の奥底に、底なしの理不尽(あい)を抱えていた。

 これが大人であれば、また違った結末もあっただろう。抱えるものは同じでも、より多くの柵と壁にぶつかってきた大人ならば、もしかすると躊躇いを振り切るために『責任』や『良心』が最後の一押しを買って出てくれたかもしれない。

 だが、現実として少年は子供だった。大人顔負けの狩人で、一人前に独り立ちできるだけの技量を持っていても、経験と研鑽という点において、彼はまだまだ未熟な子供だった。声高に恋だ愛だと叫んだとしても、育ち切っていない理性はそれらに振り回されるばかり。そもそも制御しようとすらしていないのでは、大人とか子供とか言う以前の話。自分の感情に溺れて振り回されて突き動かされて……それが最良だった段階は、出会いの時点で終わっている。

 愛は全てに勝るという。その通りだ。愛は何にでも勝る。

 悪意にも、不条理にも、倫理にも、道理にも、困難にも、正義にだって勝つだろう。

 美しさで、清々しさで、潔さで、鮮やかさで、愛らしさで、清らかさで、哀しさで、惨さで、浅ましさで、しつこさで、穢さで、醜悪さで――愛は、他の何か誰かを圧倒して、潰して、足蹴にして、踏みつけて、上に立って、喝采を叫ぶ。勝利を、叫ぶ。

 

 そうして響く雄叫びは、自分以外の誰かを傷付けて止まない。誰かの屍の上でしか叫べない愛は、足下の誰かの愛を、ともすれば、それを捧げたかった誰かの心までも傷付ける。そんなどうしようもなく哀しいものだって、数多ある愛の形の、ありふれた一つでしかない。

 ナムカラングが選んでしまった愛は、それだった。

 何処までも大人ぶった子供(ガキ)でしかなかった少年は、今の今まで子供でしか在れなかった少女の願いを足蹴にした。

 

 これが、最後の裏切り。

 不朽不滅の永遠に絶望する幼子の唯一の希望が与えた、尋常ならざる理不尽。

 きらきらしい刹那を現と酔わせておきながら、その全てを夢にした、愛溢れる無情の一手。

 斯くして、最愛の夫、魂の伴侶であるナムカラングに裏切られたダラ・アマデュラは唯一の逃げ道を失った。

 子供同士の他愛のない口約束でしかないと、言うのは簡単だ。けれど、神と人、夫と妻、魂と魂の間で交わされて結ばれた約束を破るという行為は、子供の口約束だからと言い訳できない程に重い。

 積み重ねた時間を鎖に変え、語った夢を騙りにして、たった一度だけ許された機会をふいにした代償に、両者は消えない傷跡を掻き抱く。

 

 ナムカラングが滂沱と涙を流し、震える声で血を流す心を晒す、その数瞬前。

 彼が突き立てた刃は確かにダラ・アマデュラの矮躯を突き刺したが、ナムカラングの身体を支配した(こころ)は、刃の切っ先が僅かに心臓に触れた所でそれ以上の侵入を止めた。

 どんな鈍でも、どんな小さな得物でも、伴侶であればただ一度だけその命に届かせることが出来る呪いは、心臓(いのち)に触れた僅かな一瞬を()()()と解釈する。実際に彼女の命が奪われた訳では決してないが、それでも呪いは心臓に刃が触れ、そして手指の震えによって僅かに()()()瞬間に成就する。

 

 『ダラ・アマデュラは、伴侶の手で心臓に刃を突き立てられて、()()()()』。

 

 例え彼女の心臓が未だに鼓動を刻んでいても、一滴だけ血を溢して再生した心臓の傷が塞がりつつあったとしても、ティアマトの紡いだ呪詛は、剥がれ落ちていく彼女の()()()()ごと脱げてゆく。

 彼女を哀れむために、母に縛り付けるために紡がれた愛の言葉が、仄暗い希望が、ナムカラングの幼い恋情を道連れに剥がれて、逝く。

 事を静観していたバルファルクらの羽搏きも失せた無音の空間。しかし、すぐさま吠え猛るようなナムカラングの慟哭が静寂を割いて神殿を揺らす。

 火が付いたように泣き喚く彼の叫びに、しかしダラ・アマデュラは呆然と己の肉に埋まる刃を見下ろすばかりで、彼に対する反応が無い。一滴の血を溢したきりの胸を見下ろすダラ・アマデュラの身体から、ぬらりとした光を放って硬質化した皮膚が落ちる。

 あ、と声を上げたのは、イシュタルだった。悲恋の末路、悲劇の語り部に選ばれてしまった女神は、不意に感じた悪寒に身を震わせて白金の尾を引く皮膚を見送った。

 それが地面と触れ合う直前、千剣山の地下深くで蜷局を巻いていたダラ・アマデュラの本体からも、相応に巨大な外殻がぼろりと剥がれ落ちて、千剣山を大いに揺らす――否。

 

 ぼろぼろと外殻をふるい落としながら、ダラ・アマデュラの眠れる本体が――千剣山を大きく()()()()()

 

 剥がれていく呪いへの歓喜か、あるいは永遠の孤独への絶望か、頭脳体を介して齎された『死』によって始まった『再生』に、ダラ・アマデュラの本体はのた打ち回りながら己の住処である千剣山を抉り、削り、切り刻んで押し潰す。

 当然、千剣山の地下深くとはいえ、千剣山の内部で暴れられたなら神殿も無事では済まない。

 美しい白亜の世界は、今や瓦礫の雨に降られて見るも無残な様相を呈していた。

 けれども、誰もがその場を動けなかった。イシュタルはその場の空気に呑まれて、ナムカラングは泣きながら、それでも何か他に手は無いかと優しさ故の殺意と愛しさ故の無力さに挟まれて。そしてダラ・アマデュラは、受け入れがたい現実に打ちのめされて。

 三者三様の理由で、彼らは己の足を崩れゆく地面に乗せていた。

 

 ナムカラングの裏切りによって、ダラ・アマデュラの中で世界が急速に色を失っていく。

 彼の慟哭を耳にした時、彼女が最初に感じたのは途方もない罪悪感だった。彼の絶望を、彼女は誰より知っていた。多少の差異はあれど、彼の胸に巣食った絶望はきっと、あの日、ダラ・アマデュラが人の身体を得た時とほとんど同じ色形をしていたに違いない。あの泥濘に浸かるような幸福を、空々しい虚飾で塗り固めた癖に、ともすれば本物以上の柔らかさと温かさで虚しさを深めた幸福を、彼も食んでしまったに違いない。

 

「ごめん、なさい」

 

 天上の一部が崩落して、寝室へと続く道を一つ殺す。

 穏やかに体温を分け合って、呼吸を混ぜ合わせた柔らかな寝台へはもう戻れないのだろう。手を握り、肩を寄せ合い、時折唇を重ねるだけの児戯だったけれど、そこには確かな安堵があったのに。

 

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」

 

 崩れ落ちる白の中、褪せていく視界とは裏腹に脳裏に映し出される映像(きおく)は鮮やかだ。

 滝のように自分に与えられる愛の言葉は稚拙だったが、必死になって連ねられる言葉の重さは、むしろ重ねるごとに増していくようで、面映ゆいと同時に切なさを覚えて泣いてしまったことを思い出した。

 きっと、あの時も彼は今この時を思い描いていた。ダラ・アマデュラの命を奪う瞬間、重ねた言葉も心も己の手で最愛ごとふいにする今を恐れて、泣きそうな声を溢れる愛で誤魔化していた。

 

「解ってたのに、本当は誰より、解ってたはずなのに」

 

 ナムカラングは、優しかった。我儘で、傲慢で、強かに自分の我を通そうとするけれど、目指して切り開く道はいつだって誰かの為の道だった。

 誰かの為に切り開いて均した道の先で、臆病さ故の必死さで強さを取り繕って、そうやって彼は笑っていた。そういう優しさを持っている人だからこそ、彼は今の今まで、あるいは今なお本気でダラ・アマデュラを殺してやろうと必死に思索を廻らせてくれている。

 そんな彼に、自分は一体何を強いてしまっていたのか。ダラ・アマデュラはいよいよ己の身勝手さに嫌悪以上の殺意を抱く。

 

「幸せに痛みを伴うのは、哀しいと……寂しいと、解り切っていたはずなのに」

 

 こんな優しい人の優しい心を傷付けてのうのうと笑っていた自分が信じられない。

 もう二度と味わいたくないと思った感傷を強いていた自分が殺したい程憎い。

 最愛の伴侶との永遠の別れが確定したことへの絶望が虚脱感となってダラ・アマデュラの身体に圧し掛かるけれど、それに潰されてへたり込んでしまうには、彼女の身の内を焦がす遣る瀬無さと自己嫌悪は余りにも大きく深かった。

 黄昏色の瞳に塩辛い水が満ちて零れる。確かな絶望で静かに白い肌を滑り落ちるそれに、ナムカラングの顔がくしゃりと歪む。

 まるで迷子の子のような泣き顔だった。寂しい、哀しい、辛い、痛いと訴えかけてくる顔。強がりな彼が見せた何一つ取り繕えていない顔は、心臓に届かなかった刃以上にダラ・アマデュラの胸を抉った。

 同時に、ナムカラングもダラ・アマデュラの涙に心を締め付けられていた。失意の淵どころの話では無い。まさしく失意の底、期待も希望も裏切られた彼女の泣き顔は、静かだからこそ自分のしでかしてしまった失態を浮き彫りにした。

 何もかもを諦めた顔で泣くダラ・アマデュラに、とうとう良心の呵責に耐えられなくなったナムカラングは震える身体で彼女をその腕に掻き抱く。

 「傷付けてしまってごめんなさい」と謝りながら自分の心を殺していく少女に、それは違うと言えたらどれほど良かったことか。

 しかし、心が追い詰められたナムカラングに彼女を気遣うだけの余裕なんてある訳もない。

 ダラ・アマデュラを傷付け、孤独を深めて地獄を深めたナムカラングは、これまでの幸福の過程こそ後悔しないが、自分がオストガロア擬きたちと同じだけ、否、ともすればそれ以上に酷い置き土産を残して逝ってしまうことを後悔しながら、ダラ・アマデュラの矮躯を己の全身で抱え込んで泣き喚く。

 

 これは獣の遠吠えか。それにしては酷く乱暴で切羽詰まった、聞くに堪えない泣き言だ。

 そんな事を思いながら、イシュタルはただただ静かに二人の永遠が終わる様を見ていた。

 望まぬ結末を運ぶための、いわば狂言回しのような役割を割り振られていたのだろう。イシュタルは一つの愛が恋を殺す様をじっとその目に焼き付ける。

 彼女には確信があった。ナムカラングの愛が、ダラ・アマデュラの恋が、こんな所で終わるはずがないと。

 

 こんな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 イシュタルの予想は正しい。二人の物語は、まだあと少し残っている。

 生誕直後に産声を上げたティアマトの呪いが、漸く巡ってきた己の最後の舞台を今か今かと待ち侘びている。

 待って、待って、待って、待って、待ち続けて。

 そうして、天井どころか玉座の間自体が轟音を立てて崩落した、その瞬間。

 ちょっとずつつまみ食いをしながらも待ち侘びていた()()は、「もういいよ」の声も無いままに「もういいね」と二人の運命に手を伸ばし――『最愛の少女を取りこぼした少年』は、『千剣の蛇龍を殺した英雄』に()()()()()

 

 呪詛にとって、脱ぎ捨てられた外皮、外殻こそが女神ダラ・アマデュラの『死』の形だと、つい先ほど触れたと思う。

 ティアマトの呪詛はダラ・アマデュラの全身を余すことなく巡っていたが、その力がより強かったのは裏切りの切っ先を受け止める外殻であることは想像に難くない。

 でなければ、役目を終えた呪いは解かれて消えて然るべきであるのに、染み付いて定着するなどあり得ない。

 ダラ・アマデュラの死に方(おわり)がティアマトの逸話(おわり)と重ならない限りは――ダラ・アマデュラの死骸がティアマトのような末路をなぞらなければ――あまりにも無理が過ぎる。

 であるならば、剥がれた外殻と呪詛の行く末は、ただ一つ。

 

 殺され、剥がれ落ちたのは原初の姿。

 千古不易を謳う蛇龍の()()()()()()少年に、原初の母(ティアマト)祝福(のろい)()の位階に至った蛇龍の(いのり)が降り注ぐ。

 滞空できるイシュタルは、千剣山の最下層に倒れ伏すダラ・アマデュラの本体に頭脳体が溶け込む様を目にして、それから褐色の腕から最愛の少女を失った少年の顔が歪に歪む様を見た。

 決して少女を放すまいとしていた少年の周りを取り巻くのは、ダラ・アマデュラの()()()

 頭脳体を吸収して意識を取り戻した蛇皇龍が目にしたのは、絶望の底を飲み干した顔で笑む、()()()()()であることを止めた()()の姿。

 

 ただの人間の子供に過ぎなかったナムカラングは、壊れた笑顔でダラ・アマデュラの抜け殻に手を伸ばす。

 

「認めるよ。おれは弱い。あんたの全部を守りたいのに、あんたの全部を守れないほど、おれは弱い。だから、惜しい。悔しい。あんたの命が惜しい。あんたを残して逝っちまうとか、悔しくて悔しくてやりきれねぇ。そんなおれの弱さが、あのクソみてぇな神どもよりも腹立たしくて仕方がねぇんだよ」

 

 ナムカラングは、ダラ・アマデュラを殺した。正確には殺し損ねていても、確かに彼は彼女の心臓に刃を触れさせて、呪詛はそれを認めて剥がれた。

 

「ずっと思ってたんだ。優しくて、柔らかくて、あったかくて、愛おしい。そんな時間をあんたと過ごす度に、おれの奥の方で声がするんだよ。『殺したくない。笑っていて欲しい。だけど、例え泣かせてでも生きていてほしい、死なないでほしい。殺したくなんかない』ってさ。そんな風に泣き喚くオトナになれないガキの心抱えたまんまで、お前を殺してやれるのかって、心配だった……結果は、案の定こんなもんだったんだけどさ」

 

 ナムカラングが殺したのは蛇龍の王だ。

 原初の呪いが染み付いた王をその手に掛けて、蛇龍の帝に恋慕して、蛇龍の皇を心底愛した少年は、その手に「龍殺し」の栄光と「神殺し」の不敬を宿す。

 

「だから、こうしよう。おれはあんたを殺さない。殺したくないし、どうせもう殺せない――代わりに、()()()()()()()()()()()()()()()。だって、ほら、こうしてここに、それを叶える()()()()()()()()()()

 

 ダラ・アマデュラの抜け殻、蛇王龍の()()が――()()()()が、その身を相応しい姿に変えていく。

 己の弱さに泣いた少年が、非力なままで力を欲した。その末路、想像するに難くないだろうが、それでも彼は本気だった。

 本気で己の弱さを嫌って、けれど今から強くなる時間などなくて、だから目の前にぶら下がってきた力に安易に飛びついた。

 その代償に何を失ったとしても、彼にはもう、それしか道に見えなかった。

 

「いらねぇよ、人間で在ることの誇りなんて。あんたを殺し損ねた今となっちゃあ、そんなのはただのゴミだ。ゴミの為にあんたを失くしてたまるかよ……あんたの隣を手放してたまるかよ……ッ!」

 

 最初に成ったのは、大剣だった。

 次に片刃の太刀、小刀と盾、対の剣に、巨大な鎚、楽器、大ぶりな槍に、不可思議な機構を備えた槍のような武器、戦斧と続いて、また不可思議な機構の斧が、ナムカラングが触れた先から生じていく。

 巨大な羽虫が付いたような棍、形状からして王の持つ弩砲(ディンギル)に近い使い方をするのだろう二つの砲撃武器ときて、馴染み深いながらも特異な形状が目を引く大弓が成る。いずれも見覚えのある色形だ。親しみのある外見をしたそれらが命を刈り取る姿を取る様を目の当たりにしたダラ・アマデュラは、あぁ、とか細く息を吐く。

 一つ成る度に目減りしていく力の粘土はまだ半分以上も残っている。

 けれどその半分はこれ以上何かを形作ることなく、どんどん内へ内へと収束し、凝縮される。

 

 蛇王龍を屠った英雄には、祝福と呪いが刻まれる。

 それはかつて人間だった頃のダラ・アマデュラが見聞した設定でしかなかったはずなのだが、その設定を見事に準えて上回って見せた彼女の身体は、やはり設定に忠実な部分があったのだろう。であれば、魂から滲み出したその設定だけが都合よく除外されているなんて事もなく。

 ティアマトが原初に刻んだ呪詛は、嬉々として謳った。

 ダラ・アマデュラの外殻に染み付いて産まれた怨嗟と歓喜を叫ぶ詩を、しめやかに武器の中へと織り込んだ。

 

 蛇龍の王を屠った恐るべき斬撃の恍惚と恐怖。

 ――■■――

 必殺となった一太刀への希望と絶望。

 ――■■――

 ありもしない、めまぐるしい攻防の記憶。

 ――■■、■■――

 愛おしい骨肉を切り裂く快感と激痛。

 ――■■、■■、s■――

 あまりにも無慈悲な打撃の破壊と創造。

 ――■■、s■、■■、■■■■■e――

 耳を劈き心を割いて止まない狂おしい咆哮の歓喜と慟哭。

 ――■n■■s■■■e――

 呪詛を得るに至ってしまった鉄壁の守護への尊敬と侮蔑。

 ――■es■s■■■s■……siね――

 芽吹くなかれと必死に秘めた力の解放と封印。

 ――si■でし■え――

 哀憐に溺れたとこしえの秘術の発見と忘却。

 ――よkuも、よ■も■ろしteくれta――

 遠く輝く有為転変への恐れと憧憬。

 ――わたしの■を、わたしの■とsiごを――

 無垢な幼子には持ち得ない狡猾な知恵への憧れと嘲り。

 ――わたしのiっとuあわ■な、こども――

 裏切りによって齎される癒えぬ古疵への疼きと愛しさ。

 ――しね。の■われろ。のろ■れてしね――

 美しいばかりで終われなかった総毛立つ双眸への勇気と怯懦。

 ――ゆruさない。みとめない。ゆるsaない――

 ……安穏を求めて絡みつく身体への、愉悦と、後悔。

 ――こんどはおまえがなくしてしまえ――

 

 愛娘(ダラ・アマデュラ)を屠った怨敵(えいゆう)へと送られるそれは、所有者の魂までも殺し尽さんとする母の愛に染められている。

 しかし、当の蛇龍は己の身を貫いた英雄を愛している。故に、蛇龍の外殻に残り香の如く染みた恋慕の情が、母の紡ぐ新たな呪詛を宥めすかして混ざり融け合いながら、怨嗟の矛先を外側へと向ける。

 蛇龍の恋は、切に祈った。

 少年に、己の命に手を掛けた伴侶の魂に、どうか、どうか、どうかと……他の誰でもない、残骸である己自身に願う。

 

――安らぎあれ。

 貴方の一手に恍惚なんて無かった。貴方の心を占めた恐怖に生かされたのだから。 

――誇りあれ。

 あの輝かしい日々は、絶望に転じてしまう前、確かに希望だった。貴方は私の心を守ってくれていた。

――栄光あれ。

 攻められずとも、責められずとも、防げないものを防ごうとして泥濘を這った貴方は眩しい。

――寧日あれ。

 快感など無く、ただ激痛に苛まれるばかりだった貴方の心には休息が必要なのでしょう。

――誉れあれ。

 壊してしまうばかりの命に、この柔らかい手が花冠を作れると教えてくれたのは、貴方でしょう?

――癒しあれ。

 かつては歓喜に綻んだ心なのに、血を噴き出して慟哭する様は余りに哀しいから。

――義心あれ。

 この身の守りを侮蔑する私に、それは尊い贈りものなのだからと叱ってくれた声が嬉しかった。

――勇気あれ。

 自分を信じきれないと泣いた私の手を握ってくれた。震える硬い手は暖かくて、力強くて、哀しくて。

――叡知あれ。

 忘れることは寂しいけれど、悪い事ではないと語ってくれた貴方の眼には、私の知らない貴方が居た。

――革命あれ。

 変われない私が語る憧憬に、貴方は変化の恐ろしさを思って顔を伏せたけれど、否定しないでいてくれた。

――礼節あれ。

 悪知恵を働かせる貴方にはちょっと呆れるけれど、それでも悪い事はしなかった。悪い事にはしなかった。

――慰みあれ。

 胸の上を這う傷痕は疼いて止まないけれど、それでもこの記憶は愛おしいと泣く私に寄り添ってくれた。

――幸いあれ。

 殺してしまうかもと怯える私の眼を、ただ綺麗なものとして見てくれた幸福が今も胸を焦がす。

――繁栄あれ。

 共に熱を分け合った事を悔いはしないなら、あの実を結ばない、温いだけの悦びを覚えていてほしい。

 

 そんな、願い事。祈りと呼ぶには俗物で、欲というには一途な色で瞬く声が、ティアマトの呪詛と鳴き合いながらナムカラングに染みていく。

 ああ、と、ダラ・アマデュラは再度か細く鳴く。ぷつりと切れた心の糸は、始末の仕方が悪かったのか端っこに色々と感傷を引っ掛けてはほつれを加速させる。

 ダラ・アマデュラは白金色の蛇体をくねらせ、ゆっくりと降りてくる少年と粘土に首を伸ばす。正確にはその向こう側、千剣山の外側へと、蜷局を巻いていた身体を伸ばしてゆく。

 すれ違う瞬間、目と目を合わせた。出会った当初のように人の身同士での邂逅ではない、人間と神の邂逅。色形どころか生まれも存在も何もかもが異なり隔たり合う二人は、切れた糸の端を触れ合わせるように微笑みを交わした。

 これが最期だからと、ナムカラングは優しい顔に寂寥を滲ませてふうわりと儚く笑む。

 届かないことは百も承知で、離れてしまった手にもう一度あの熱を望むように、手を伸ばす。

 対して、ダラ・アマデュラの泣き顔は静かだった。蛇龍に戻ったからだろう、表情に大きな動きが無い。だが、美しい黄昏色の瞳から溢れる雫は止め処なく、時折喉奥から聞こえる嗚咽は悲壮そのものの声色で世界を揺らす。嫋やかに伸ばされた褐色の腕に、けれど蛇龍に戻った少女の剣呑で巨大な腕は、伸ばされない……伸ばせない。

 

「謝っても許されないことだって、解ってる。謝って済む事じゃないのも、解ってる」

 

 応えの無い腕もそのままに、ナムカラングは仕方がないなと小さく笑った。裏切りの憂き目に会ってなお少年の身体が欠ける事を恐れる少女の心の裡を察して、本当に仕方がないなと苦い言葉が零れ落ちる。

 けれど、祈りに犯されつつあるナムカラングは、それすら幸福だと言いたげに徐々に歪んで行く己の身体を抱きしめる。

 皇の位を得たダラ・アマデュラの白金色ではなく、王だった頃の白銀に、形見の黒鱗から溢れる冥府の陽炎を纏っていく彼の眼は至極穏やかだった。

 

「それでも、おれはあんたを誰にも渡したくなかった。あんたは、おれのお嫁さんだから――神様なんかに、一欠けらだってくれてやる気は、ねぇから」

 

 まるで死に瀕した老人のような透徹な目。己の死期を正しく見定め、受け入れた者の透明な眼が、転変しつつも変わらない淡く黄緑を刷いた灰色を湛えたまま、泣きじゃくる伴侶を前に心底愛し気に撓る。

 

「何時になるか解らないけど、一回死んじまうけど……ちゃんと、あんたの為に目覚めるよ。それまではおれを恨みながらでいいから……泣いても怒っても、どんなに辛くても……どれだけ待たせてしまっても、それまではどうか、生きていて」

 

 愛してるよ、おれの可愛い、たった一人のお嫁さん。

 そうして落下してく龍殺しにして神殺しの英雄(ナムカラング)を、神与の大地、千剣山の残骸が包み込むやいなや、そのまま荒れ果てた大地の奥深く、冥界に至らぬ場所に少年を誘い、匿った。

 千剣山はダラ・アマデュラの領域。例え千々に崩壊しようとも大地が大地として在る限り、千剣山は主であるダラ・アマデュラの意志に沿う。

 バルフルキ達と同等の時を過ごし、ナムカラングが訪うまでは誰よりも何よりも密接に彼女に触れていた大地は、己の上で育まれた愛情を慈しむが故に、己を夫君の墓標と定め、いつか還り来る彼のために墓守りの任を負う。

 千剣山の奥深くに抱え込まれた女神ティアマトの血肉を含まない大地の卵に、ダラ・アマデュラの残骸である粘土が染みた。成るべき形を持たないままでいた粘土は、圧縮に圧縮を重ねた末に一個の真珠ほどの大きさにまで小さくなっている。だが、もう既に粘土は己の行く先を定めていたのだろう。粘土の真珠はそのまま千剣山の卵の殻を抜け、内側で人間としての死を迎え、再編されつつあるナムカラングに溶け込んで消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私も、愛していますよ、私の格好良くて、格好悪い……優しい優しい、旦那様」

 

 ナムカラングの静かな死を見送った女神が呟く。

 地に落ち行く伴侶を尻目に天を目指す彼女を、今度はイシュタルが見送る。

 通り過ぎ様に翻った尾が、風に嬲られた女神の艶やかな髪を幾房か切り落とすも、イシュタルは僅かに欠けたそれを無視して、ただ只管にダラ・アマデュラの行く末をその眼に映す。

 この場におけるイシュタルの役目は、記録者だ。物語の読者、あるいは奇跡の目撃者。誰も見た事のない真実を余すことなくその眼に映し、それは確かにかくの如く在ったのだと、夢幻に淘汰されかねない存在を証明するための、証言者。

 

 その日、イシュタルは一人の少女の終わりを見た。

 白金色に煌めく巨大な凶つ星が、数多の流星を引き連れて大地から天へと遡る様を見た。

 逆流する滝。夜天を染め上げる光の瀑布。それはまるで太陽が夜を殺し尽さんと燃え盛るようにも見えた。

 蛇龍の胸殻が朱の線を引く。明滅を繰り返す光は次第に星の内海の色に輝き、漏れ出る燐光はそのまま触れるもの全てを虚無へと変えた。

 この時、自分は、美の女神である自分は、初めて自分以外の誰かが持つ美しさに涙を流した。

 甲高い音を立てて空に殺到するバルフルキが敷いた白銀の河を、か細く精緻な刺繍のように繊細な白金色の蛇体がうねりながら泳ぐ。蛍火さながらに残される内海の燐光と、消えてゆく世界の色と、消えた後から顔を出す虚数空間の寂し気な色が、ダラ・アマデュラのぐちゃぐちゃになって置いてけぼりにされた心の裡を表しているようで、どこかもの哀しい。

 

 けれど、少女の愚直さで煌めくそれらは、哀しいけれど、美しくて。

 

 イシュタルは誰よりも神らしい女神だから、人間の心の機微なんて欠片も解らない。

 けれど、どんな人間の心にも寄り添えないからこそ、観賞し批評する()()()()としての視界で、イシュタルはダラ・アマデュラの突き抜けすぎていっそ尊くすらある愚かしさを賛美する。

 

「確かに、あんたは気に入らない女だけど――その卑屈さを抜きにしたら、案外嫌いじゃなかったわよ、この愚妹」

 

 最初は、恋人に取り立ててやった人間に蛇龍より下に見られたことが気にくわなかった。

 怒り心頭で顔を合わせた時は、自分に敵うものなんて殆どいないと驕っていた所で無様を晒す羽目になったから、嫌いになった。

 嫌いだった。馬鹿にした。実際今も馬鹿だと思っているし、間抜けだとも思っている。純然とした神として生まれておきながら、何物にも成り損なう有様は哀れであるけれど、イシュタルに言わせてみれば馬鹿も馬鹿、大馬鹿だ。弱者の代表格である人間の精神性に寄ってしまっているからそんな風に無様を晒すのだと、何度声高に扱き下ろしたかしれない程、イシュタルはダラ・アマデュラの在り方が大嫌いだ。

 命の危機に瀕するほどの怒りを叩きつけられ、嫌という程格の違いを明確にされても、イシュタルは『イシュタル』であるが故に、蛇龍を下に見て足蹴にする事を止められない。

 なにせ気にくわないのだ。力あるモノの癖に、卑屈になって現状を打破しようと足掻かないダラ・アマデュラの卑屈に甘んじた生き方は、艱難辛苦は踏破するものだと当たり前に思っている女神イシュタルを苛立たせる。

 けれど、言ってしまえばそれだけだった。イシュタルが心底気にくわないのは、その一点だけ。それ以外のあれそれは言ってしまえば些末なことで、一度憂さ晴らしをすればそれで終わるだけの、その場限りの怒りだった。

 だからバッバルフを八つ裂きにした時はそれで満足したし、聖像の破壊を唆した時は多少燻るものは残っていたが、余裕綽々で慢心していた。

 尾を引いたのは、偏にお互いの性格の不一致が致命的なレベルだっただけ。一方的な敵視ではあったが、純正の女神であるイシュタルは、同じく純正の女神である癖に、ただの自鳴琴(オルゴール)に甘んじていたダラ・アマデュラが理解できなくてむかついていただけの事だった。

 

 究極的に前向きな女は、破滅的に後ろ向きな少女を見送る。

 両者が多少なりとも中庸に近寄れていれば、あるいは姉妹仲良くじゃれ合い程度に喧嘩(ころ)し合う未来もあったのかもしれない。誰に語るでもなくそう独り言ちるイシュタルの視線の先で、最期の悲劇を彩る小さな絶望が花開いた。

 

 逆流する流星の群れの先、天上を覆う夜の帳には星々の代わりに数多の神々がさんざめいていた。

 皆、いずれもがダラ・アマデュラの死を見越して、骸の粘土を捏ねようと集まってきた者どもである。後世に名も姿も伝わらない雑多な神々のさらに上、彼らの頭上に足の裏を見せる創世記の英雄神たちの姿を前にイシュタルが失笑を溢す。

 誰もが手を拱いていた怪物の死を予見して喜び勇んで来た者共の、あの呆気にとられた間抜けな顔と言ったら! ぬか喜び此処に極まれりといった様子の彼らに、ダラ・アマデュラの敵にすらなれないと太鼓判を押されたばかりか、今まさに見殺しにされかけた女神は愉悦に満ちた顔で彼らの絶望を嗤う。

 

「ざまを見なさい、お偉方。私を捨て駒扱いするから自分たちも牙を剥かれてしまうのよ。それに、この程度で絶望するなんて情けないったらないわ。あの子の絶望の深さを知ったら、もう消滅してしまうのではないのかしら?」

 

 まぁでも、私達は神である以上、あの子のこれまでの悲哀も、これから負ってしまう心の傷も、何一つ真に理解する事なんてできないのだけれど。

 詮無いことを考えてしまった。イシュタルは一呼吸おいて厭らしい笑みを収め、問答無用でマルドゥーク神に吶喊する蛇龍と――その蛇龍から、身を挺してマルドゥークを守ろうとするムシュフシュを見た。

 ティアマトの十二の怪物の一匹、バビロンの竜・ムシュフシュ、改め、神々の瑞獣・ムシュフシュは、神々より巨大だが妹と比べれば何回りも小さい身体を全て使い、己の主と定めたマルドゥークを突き飛ばす。

 けれど、ダラ・アマデュラはマルドゥークに向かって突っ込みはしたものの、報復にと持ち出したのは己の千剣の鱗ではなく、神を殺し世界すらも殺してしまえる、星の内海を凝縮した熱線で。

 結果として、ダラ・アマデュラは己の兄であるムシュフシュの長大な角を一角と、斧を振り上げた英雄神マルドゥークの腕を熱線で焼き飛ばした。

 周囲に集る神々はバルフルキの大瀑布が上昇途中で神威を自分たちの威圧を咆哮で打ち砕き、返す刀で襤褸雑巾に仕立て直した。

 意図せず兄の身体を削ったダラ・アマデュラと削られた兄はといえば、お互いにこの結末が解っていたのだろう。ただ一度、小さく苦笑を交わして手を伸ばし合ったかと思えば、その冷たい温度が交わらない内にムシュフシュは余りの痛みに恐慌をきたして泣き喚く主を落ち着かせるため、己の命を八つ当たりで散らす。

 ささやかな報復を成したダラ・アマデュラは、そのまま神々の血肉に塗れて舞い戻ってきた眷属群たちと同じように、再び千剣山の大地へとその身を落としていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、幾千万もの剣鱗を纏う蛇体が大地を抉る事はなかった。

 ダラ・アマデュラとバルフルキらは、蛇龍の胸郭の内から溢れ出す燐光が導くままに、燐光が綻ばせた世界の隙間へとその身を落として以降、二度と神話の舞台に立つことはなかった。

 

 

 世界が焼かれる、その時までは。

 

 




 これで、おしまい。
 これでメソポタミア神話でのダラ・アマデュラの記述は絶える。
 その後、イシュタルは見届けた者の義務としてこの顛末を石板に残せと人間に命令したんだ。それが君の時代に伝わる世界最古の悲劇『千の剣を鎧う女神』さ。
 この話が彼女がメソポタミアで生きた最後の存在証明。
 千剣を鎧う蛇体の女神、ダラ・アマデュラは、これ以上の逸話を生み出さない。

 けれど、何の因果か世界は焼けて、神代は再び日の目を拝んだ。
 だからきっと、彼女の夢も陽の光に目を覚ました。
 彼女の夢は、実のところとても小さい。
 未だ癒えない悲しみに震える、他愛のない、小さな夢だ。
 僕としては叶ってほしいものではあるんだけどね。
 ほら、僕そういうの好きだし。

 でも、今は事が事で、敵が敵だから、ちょっと覚悟しておいてほしい。
 彼女の夢そのものではなくて、彼女の夢を叶ようと足掻く者と、叶えるべく目覚めるだろう彼女自身と、そして何より、彼女の夢が叶った先に待つものを。

 今回の特異点は一筋縄ではいかない所の話じゃないってことを、よく肝に銘じておくんだ。

 ねぇ、人類最後の希望。星見台の子。数多の英霊を従えるマスター。

「君は、覚悟を決めた幼子の前に立つ覚悟はあるかい?」

 活気づくウルクの喧噪を遠くに聞きながら、人でなしと称された稀代の魔術師は、人類の未来を背負った少年の青い瞳を何時になく真剣なまなざしで見据えていた。





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覗聴・肉色の集会場


 これはきっと、まだ話すべきじゃない事柄なのだろう。
 あるいはいずれ予見し得る裏側とでも言うべきか。
 もっと言えば、既に予見した事象を裏付ける証拠か。
 それでも現状、彼等には話せなくても君は言っておくべきかな?
 一応、君は僕のマスターであるわけだし。
 人は死の間際に夢を見るか、なんて聞かれても困るけどね。
 けれどこれは、彼らが実際に見聞きした悪夢なのだろう。
 まぁ、僕はそれをちょっと覗いて聴いただけなのだけれどもね!


 

 血腥い悲鳴が聞こえる。

 情け容赦ない殺戮の音が聞こえる。

 命乞いの声が、命が潰れる音が、命を差し出す声が、命を奪う音が、聞こえる。

 溢れる赤色は黒く濁るけれども、絶え間なく流れるならば、その赤は厚みを増して彼女の周囲を惨たらしく彩るのだろう。磨り潰された肉片は、脳漿や臓腑に紛れて白も桃色も一緒くたに巻き込んで赤色のペーストに変わる。

 そこに命は無い。尊厳も無い。そして意義もないのだろう。

 彼女は幾千万の命のペーストを肥やしと称し、神殿の素材と称した。故にこそ意味はあるのだろう。逆に言えばその程度の意味と使い道しかないという事なのだが。

 

 見上げる程に巨大な彼女が己が蛇体で粗方命を蹂躙すると、そこに新たに二つの人影が生まれる。

 赤色の惨劇、咽せかえり、吐き気を催す程の臓物の臭いに満ちたそこに、けれど人影は動じない。

 呆れかえるような言葉、諫めるように聞こえるもののそう聞こえるだけの言葉に、今しがた磨り下ろされた命を憐れむ色は無い。

 交わされる言葉の応酬は気安い。だが、その内容は殺伐としていて、ある種の喜悦に満ちてさえいた。

 命の価値、とりわけ彼女たちが足下に踏みつけている赤色が持っていた価値などあって無きが如しなのだろう。皆等しく下等だと巨大な彼女は断じる。

 

 ふと、そこに少年の若々しい声が響く。

 これまでも人影の、張りのある女の美声が三つほど響いていたのだが、そこに新たに混じった声はどこか皮肉気な色を纏って安堵の言葉を紡いだ。

 その声色に蛇体の女は母親として少年に声を掛け、少年も息子として母の声に応じる。

 少年は母親が他の二つの人影……他の女神と単独で会う事が気にくわないらしい。蛇体の女神、異邦の女神、土着の女神と三柱の女神が集い、同盟を結んだこの時勢であっても、母親を殺せるだけの力を持つ彼女たちの存在は少年にとっては不安要素以外の何物でもないのだろう。

 けれど、そんな少年の懸念を他の女神は一蹴する。神の契約はそれほど安いものでは無い――因果応報、他の女神への攻撃は天罰として己に帰るのだと言うが、少年は皮肉さを隠そうともしないままその言葉を鼻で笑う。

 

「ええ、これはそういうゲームです。ウルク王が隠し持つ聖杯。これを手にした女神が、人理焼却後の世界を支配する。それが聖杯をこの地に送ったモノ――魔術王が示した、ただ一つの契約です」

 

 少年はさらに言葉を繋げる。各々の女神が取る、聖杯争奪戦の手段、過程を朗々と語り、最後にちっぽけな脅威の予感を、歯牙にもかけないままに口にした。

 そして嘲弄で彩られた言葉を吐いた口で、今度は遅すぎる邪魔者の存在を言葉にした時とは打って変わった声色と笑みで言葉を紡ぐ。

 

「けれど目下の脅威は彼でしょう。僕らにとっては願ったり叶ったりですが、貴女達にとっては違う。彼はちっぽけな人間で、許し難い裏切者ですが……人でなくなった彼ならば、目的を達した暁には存在を許してやっても構わない。そうでしょう? 母上」

 

「腹立たしくはあるがな。奴は都合が良い。聖杯を手に入れるのが先か、それとも我らが家族を取り戻すのが先か……いずれにしろ、奴が事を成せば聖杯は手に入ったも同然よ」

 

 くすくすと母子が笑う。家族を取り戻すのが待ち遠しいと、楽しみだと、くすくすと笑い、他の女神を嗤う。

 異邦の女神はその様に眉根を寄せ、土着の女神は心底嫌そうに唇を歪めた。

 けれど彼女たちの額には一筋の冷や汗が流れる。家族、と母子が呼ぶ存在と、彼と呼ばれる脅威を知る彼女たちは、聖杯探索と並行して成さねばならない仕事があった。

 すなわち、『彼』の捜索及びこれの無力化。殺害は悪手以外の何物でもない。彼は生きても死んでも『彼女』の呼び水として優秀過ぎる。特に、彼の死によって顕現した彼女は、きっと最悪以外の何物でもない。確実にこの世界は滅ぶだろう。それでは折角の景品(せかい)が台無し……いや、それ以前に自らの命が無に還される。

 

「僕らとしては、彼の生死はどうでもいい。彼の後に続く彼女こそ――何物にも、何事にも、それこそ貴女達が恐れる契約ですら縛れない女神、歌い奏でる千剣、()()()()()()()()()()()こそ、僕らの勝利を確定させる重要な存在なのですから」

 

 美しい緑髪をさらりと揺らして、少年はそれこそ歌うようにして、愛しい()の名を口にした。

 

 





 まぁそんな訳で、彼の参戦は確定だね。
 自軍に引き込めたら有利だけど……うん、今は手出し無用が最善だ。
 彼はそもそも彼女以外眼中に無いしね。例外はあの女神くらいのものか。
 だったら今のところは害獣駆除に精を出していて貰おう。
 いずれは相対しなきゃだけど、それまでは、うん、触らぬ神になんとやらだ!


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嗅餌・神与の大地

 いや、確かにアレについては教えなかったよ?
 けどね、実際活発に行動してるのは彼であってアレではないから……。
 うん、ごめん、僕が悪かった。本当にごめん。
 いやだってホント基本的にアレは無害だから、いいかなって。
 わかった、話す。話すから落ち着こう。
 ちゃんとアレについても話すから、だからそれを降ろすんだ。


 生ぬるい水の温度。纏わりつくそれは僅かな粘度を帯びて彼を包む。

 深く穏やかな呼吸に息苦しさは微塵も感じられず、あどけない寝顔には苦悩の皺など一つも見受けられない。

 心地良い微睡みだ。誰も彼もが一番最初に感じる、絶対の安心を約束する場所。

 けれど彼は、その微睡みの中に悲しみを見た。

 赤ん坊は大抵、母親の腕を揺り籠に育つ。柔らかな愛情を注がれながら、温かい腕の中で絶対の安心を享受して、向けられる慈愛の表情に喜びを得る。

 それが至って普通の、当たり前の親子の姿であるはずだ。少なくとも、彼はそう思って生きて来た。

 けれど、と、丸まった身体を伸ばしながら呼気を吐く。水泡にすらならないそれに、そういえばおれの肺はすっかり羊水で満たされていたな、と、彼は思い出す。

 ああ、そうだ、話の続きだ。けれど、そう、けれどだ。

 けれど、彼女にとってはその絶対の揺り籠の中にこそ、地獄は広がっていたのだ。

 柔らかかったろう、温かったろう、慈愛に満ち満ちたそこは、彼女にとって極上の寝台であっただろう。

 千剣の大地は母が彼女に与えた安息の場所。娘に触れられない母の、疑似的な(かいな)

 

 だが、それは紙一重の温度、紙一重の愛情、そして紙一重の楽土だ。

 

 言葉にならない感情を持て余しながら、それでも彼は明確に形を持つ名前を口にする。

 揺り籠の中で地獄と化した母の愛に翻弄された最愛の名を、形を変えた地獄の中で叫び続ける。

 何度も何度も、彼は意識が浮上する合間にその名を殻の中に溢れさせた。

 紙一重の天上楽土。その裏側に描かれた地獄は、何時だって鮮やかな憧憬を背に仄暗く翳り、揺り籠の中で幼子を泣かせ続けていた。そして今は彼を内側に囲い込み、彼女には与えなかった穏やかな微睡みを惜しげもなく注いでいる。

 解っている。彼女は愛されていたが故に地獄に抱かれ、彼は愛されていないが故にちょっかいを出されていないだけに過ぎないと。

 それでも彼は泣きたい気持ちになる。彼女が求めたものを、結果的にとはいえ自分が与えられている現状に遣る瀬無い気持ちが湧き上がって止まなかった。

 殻はそんな彼に応えるように、何度も何度も溢されるその名を拾っては、何度も何度も殻の中で響かせた。

 そうして何千、何万、いや、何億の名を紡いだだろう。もう一つたりとも入る隙間のない程に満ち満ちた名の響きに、彼は万感の思いを込めて、もう一度とその名を生んだ。

 

――ダラ・アマデュラ……おれの……()の、一番大事な、お嫁さん――

 

 極限まで満ちたその名は、彼が知るあらゆる愛の言葉の中でも至上の愛の言葉だった。

 彼女に向かう尽きぬ愛で満ちた殻は、ついに飽和を越えた極限を迎え、伝える先を求めて外へ外ヘと彼を急かす。

 時が来た。そう殻は、神与の大地は歓喜した。彼女は何処だ、彼女に会いたいと己が主人を求めて止まない伴侶殿の目覚めに、千剣の大地は喝采を叫んで鳴動する。

 瓦礫の山と化していた地平の奥深く、巨大な卵と化していたそれは嬉々として罅割れていく身体を享受した。

 

 ああ、ああ、諸人(もろびと)よ、天を仰げ。

 尽きせぬ蒼穹を蹂躙する星の群れを見よ。

 それはお前たちを睥睨する尖兵にして、お前たちを灰に返す天火である。

 おお、おお、罪人(つみびと)よ、地を望め。

 見果てぬ大地に聳える螺旋の頂きを見よ。

 それはお前たちを拒む峻厳苛烈な城塞にして、お前たちを無力と化す地獄である。

 

 けれど、空を駆け抜け夜を呼び、神罰の先触れにして神罰そのものである天彗龍は蛇龍の随伴として虚空の世界に消えた。

 ならば、と千剣の大地は、かつて山としてあった己の姿を再び現世に顕現させる。

 ダラ・アマデュラの母、ティアマトの愛の具現ともいえる千剣の大地は、兎角娘の安息を願うもの故に裏切者たる伴侶殿を許す。彼が彼女を求め続ける限り、大地は彼に協力を惜しまない。

 伴侶殿が……ナムカラングがダラ・アマデュラを求めるのなら、己の姿を歪めることすら惜しまない。

 剥がれ落ちていく卵殻から溢れていく羊水と混ざり合って泥土になりながら、大地は己の上でナムカラングが思いきり喉を反らせ、大きく息を吸い込んだことを知覚する。

 

「――ぉ――ぉぁ、あ、ァァぁァアアアあアアアアAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!」

 

 空の高殿の奥の奥まで、其処でふんぞり返る貴様らを殺すと言わんばかりの、凄絶な咆哮。

 たった一つ、大事な者の為ならばその他全てを殺してみせると叫ぶ、弱者も強者も選ばない無差別の宣戦布告。 

 生まれながらにして己の命の使い道を決めている彼の宣誓に、大地は身震いするほどの高揚と共にその身を今以って相応しい姿へと転じる。

 空を焼き、神を殺す星の輝きは女神の下へ。

 ならば、女神の寝所は、女神を守り育む大地は――外敵を撃滅する一助として、伴侶殿の下へ!

 

「――――ギ、ギギギィぃィィイイイイYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!」

 

 女神の泥が教えてくれる。女神の血が知っている。

 この姿は盾持つ者。偉大なる龍の骨を背負い、巨大な腕を盾にして身を守る者……その異なる道筋を辿った者。

 それを基盤に据え、より鋭く、より凶悪に、より千剣山らしい変化を遂げた者。

 女神が居たならば、彼女はその姿をどう評しただろう。大地は愛しい女神に想いを馳せる。

 きっと彼女は血の記憶に大きく逆らう名づけはしない。ならばこの身は「センケンザザミ」とでも仮称すべきか。崩壊以前の姿、巨大と評する事も今更過ぎて馬鹿らしい程の巨体さと長大さを誇るダラ・アマデュラが、難なく巻き付ける程に大きく高く、尚且つ中腹に神殿を抱え持つ、間違いなく崩壊するまでは圧倒的大差で世界一の高さと峻厳さを誇った山……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()は、己が背に負った……否、己が背に構築し直した千剣山を眺めながら、そんな事を考える。

 

 対して、今まさに生まれ直したナムカラングはといえば、生まれたての小鹿のように震えながら、人間だった頃の身体との差異を確認すべく手足を伸ばしたり、思い切り()()()みたりと、現状確認に忙しい。

 そうして幾許かの時間が過ぎ、漸く手足の感覚が馴染んできたのだろう。最後に大きく伸びをして、ついでに再び天高くその()を伸ばし、口腔から滴るような青白い炎を溢したかと思うと、遠慮容赦なくそれを一番近くをうろついていた魔獣にぶちあてた。

 指揮官たる魔獣の命令で近辺を警戒していたその魔獣は、その数日ばかりの命を呆気なく溶かす。

 そう、燃えるでも、飛び散るでも、焦げるでも何でもなく、当たり前のようにその魔獣は肉の一片、骨の一欠けらも灰の一粒も残さず、蒼焔に触れた端から溶かされて消えた。

 もしもガルラ霊がこの場に居たならば、ナムカラングが吐き出した炎を見て度肝を抜かしただろう。

 なにせその炎は冥府の灯。冥府の女王が揮い、冥府の竜が纏う、命を昏く燃やす冷たい死そのもの。

 それが生者の世界で吹き荒れるなど、彼等にとっては悪夢以外の何物でもない。

 けれど現実として、ナムカラングはそれを造作もなく扱った。偏に彼が再編され再誕する折、兄の形見も一緒に融けて混じったからか。

 けれども冥府の黒鱗はただの使用権へと転じたらしい。彼が纏うのは冥府の竜の黒ではなく、ほの青く発光する真白の鱗。頭部に戴く一対と、背骨の両脇にほぼ等間隔で並ぶ角こそ黒を纏っているものの、実のところ鍍金と然程変わりない。

 強かな四肢に大きな翼、純白に輝く身体は生まれたての無垢さを思わせ、頭部や前脚、尾の先で揺らめく鰭は美しいが、その白さは無垢な幼子、というよりはむしろ幽玄の淵から這い出た者特有の何とも言えない空恐ろしさを掻き立てた。

 胸部の奥で輝く赤色は一体何のエネルギーか、内部からの光を透過する肉体は蒼天から降り注ぐ光を反射してほの青く煌めき、胸の赤に青を足して怪しく輝く。

 橙色に染まる眼球らしき六つの器官を淡く揺らし、ナムカラングは……冥灯龍ゼノ・ジーヴァの姿を得た英雄は、しかし命を静謐に導く炎を吐いて、ひどく不満そうに眉根を寄せた。

 実のところ、今現在のナムカラングは未成熟な幼体に等しい。真の完成形、到達点と呼べる姿を得るには、どうしたって記録が足りない。千剣山やナムカラングに馴染んだ彼女の粘土から拾える情報には限度があった。

 ナムカラングは己の巨体を見下ろしながら、重苦しいため息を吐く。脳裏に描かれた冥灯龍の基本性能(カタログスペック)通りならば、彼の身体は放つべきは愛しい伴侶と同じ正体不明のエネルギーであるはずなのだが、現在彼の身体が帯びているのは冥府の炎で、ダラ・アマデュラの龍気や星の力ではなかった。

 よりナムカラングの精神に相応しく、尚且つダラ・アマデュラの恩恵を受けたと解る姿と性能を得るためには、当の女神からの認知が必要なのだと、彼は己の足らぬ様を心底嘆く。

その点で言えば彼が冥府の炎を扱うのは越権行為なのだが、そこは鍍金に纏った黒鱗がアカウントもパスワードも提供してくれている。冥府側に組み込まれない瀬戸際のラインに達するまでは乗っ取り行為を敢行する所存であった。過去現在未来を問わず、なりすまし行為は蛇蝎の如く嫌われる行いであるが、ナムカラングには意図的にそこを考え無いようにした。多少の罪悪感はあるが、できるだけ自分の持つエネルギー、再編の折に得た千剣山と蛇王龍由来のエネルギーはこれから探す嫁の為にも温存しておきたかったからだ。

 

 ぐるる、と低く鳴いて、ナムカラングは龍と化した身体を空に浮かばせる。

 千剣山……いや、千剣蟹(センケンザザミ)の山肌を滑るようにして滑空し、大きく羽ばたいて青空を泳いだ巨体が、千剣蟹の足下で狼狽える魔獣の尖兵の真ん前に舞い降りる。

 突如として現れた脅威を前に、人間に対しては強力無比な力を発揮する魔獣たちだったが、如何せん相手が悪すぎた。毒の滴る尾を下げ、情けない声を上げながら足を引いた魔獣は、ナムカラングの強烈な尾の一撃で容易くその命を刈り取られて終わった。

 回数にして二度。少し力を入れて尾を一往復させただけで、数匹の魔獣の尖兵は肉塊と化した。

 ナムカラングはその結果を何とも思わなかったのだろう。意外そうにも不満そうにもせず、彼はのしのしと余裕のある足取りで今しがた肉塊と成り果てた魔獣に鼻先を寄せる。

 

 においを嗅いで、ほんの少しだけ舌に乗せて……それから口内の唾液ごと肉塊を涙目で吐き出す。

 

 べっ、げぇ、と心底嫌な顔をして肉を吐き出したナムカラングは、己の舌先に乗った肉の原材料からしてコレらは彼女の兄たちでは無いと判断し、必要な情報だけを抜き取ると必死で口内の不快感を拭おうと数度嗚咽を繰り返した。

 勿論、彼らが彼女の兄で無いことは殺す前から解っていた。何せ彼女の兄たちは、彼女の話ではもっと大きく凶悪で、何より神殺しなだけあって強かったそうだ。罷り間違っても生まれたての龍の一撃で死に絶えるような軟な身体の組成はしていない。

 コレらは量産品だ。ダラ・アマデュラの兄たちを模しただけの、悪辣極まりない量産品。正直、とても食べられたものではない。

 それでも口に含んだのは、偏に情報を得るためだ。何の因果か再び神代で目覚めた彼らは、あまりにも陰惨な血の臭いに満ち満ちた世界の違和感の正体を知らない。神々の気配の薄い世界。蒼天を彩る悍ましい熱量の円環。遠く聞こえてくる人々の悲鳴と、ついぞ聞いたことのない程の化物の群れの咆哮。それら全てが彼等にとっては未知のものだった。

 だからこそ手っ取り早く情報を得るために、未知の一つである魔獣の血から情報を辿った。

 すると出るわ出るわ。到底魔獣一体分ではあり得ない、それこそ人間数人が各々別々に見知って体験しただろう特異の数々。生まれて間もない魔獣一体が持つにしては分不相応な量のそれに、ナムカラングは苦々しさを隠しもしない顔で大きくため息を吐いた。

 

「コレは駄目だな。いただけない。俺がコレを喰っちまえば、絶対にアイツは泣く」

 

 ただでさえトラウマを抱えているのに、わざわざそれを刺激してやるのは余りにも非道な行いだと、ナムカラングは肉塊に変えたティアマトの子供たちを食む事を諦め、その肉塊から立ち上る命の残滓を胸部に取り込む。

 神でも何でもない魔獣故に力の粘土と化すことも無い魔獣たちから、彼らが生前抱えていたあらゆるエネルギーを根こそぎ奪うと、ナムカラングは塵と化して風に流されるそれらを眺めながら独り言ちる。

 

「しっかし、何がどうなってこうなってんだ? 俺を呪ったティアマトなら、こんな回りくどい真似はしない。なら、此処に居るのはティアマトに似た誰かなのか? それとも、ティアマトはティアマトだけど、自分の復讐に目を眩まされたティアマトとか?」

 

 長い首を回らせ、背後に悠然と佇む千剣蟹を見上げるも、彼なのか彼女なのか解らない大地はナムカラングと同様に頭を悩ませながら、少なくとも()()()()()()()()()はそのような真似はしないと告げる。

 ナムカラングも明確な回答は期待していなかったのだろう。そうか、とだけ口にすると、彼は徐に己の内側に蓄えたエネルギーを全身に回し、それを「ぎゅっ」と内側に押し込めた。

 

「だが、まぁ、どっちにしろ俺らは現状味方無しだな。んで、どっちにも欠点と利点があるから泳がせて貰える……か。」

 

 一瞬、辺りに眩い光が満ちて、溶ける。

 目を眩まされ一瞬の間に、あの巨大な純白の龍の姿は消えていた。代わりにそこに立つのは、一人の少年――否、青年の姿。

 しなやかな筋肉に覆われた、均整の取れた褐色の身体。それなりに高い上背だが、どこか幼さを残した張りのある肌と顔立ちは彼が少年と青年の境目にいる事を示唆している。大きな手指が煩わし気に掻き上げた髪はまっさらな白で、光に透かすと淡く青みを帯びた色を反射した。

 つり上がった眼はきつく、寄った眉根は険しく深い。けれど眼窩で炯々と燃える橙の瞳は、ふと思い出したように一瞬だけ黄緑色を泳がせた。刹那の間だけ和んだ彼が視界に映したのは、己の衣服だ。ナムカラングが纏う衣装は、色こそ違えど確かに愛しい伴侶の頭脳体が纏っていた衣服と全く同じ意匠と造りであったから。

 

 束の間、懐かしい感傷に引き摺られたナムカラングは、ぐっと強く瞳を閉じ、己の中で確ひっそりと佇む宝具の存在を知覚する。

 その数、全部で十四と二つ。

 後者二つは『冥府の竜の黒鱗』と『短剣』で、前者は言わずと知れた蛇王龍の外殻から生じた武器である。

 ダラ・アマデュラの認知の下、成熟した身体で真名を解放すれば創世を成す十三の御業を顕現せしめる、まさしく神の器とも言うべき武器群なのだが、現状では『不滅不壊の人造兵装』以上の能力は無い。それでも大元が大元なので、そこらの宝具と打ち合ったならば真名を解放せずとも打ち合える。相手のランクが低ければ破壊も可能だろう。

 いずれにしろ、これらの出番はまだまだ先の話。ナムカラングは武器群から放たれる怨嗟の声とそれを宥めすかして包み込む柔らかな音色から無理やり意識を剥がし、『短剣』のみを取り出して己の腰に備え付ける。

 懐かしい重さは、未成熟とはいえ成長した身体には余りにも軽い。

 けれど、この『短剣』は重かった。物理的な荷重の話では無い。ずしりと足腰を地に埋めそうだと思う程の重さを感じさせるのは、この『短剣』が愛しい伴侶の心臓に切っ先を埋めた凶器に他ならないからだ。

 何の変哲もない、いっそ武骨とさえ言えるだろう短剣には、以前は存在しなかった装飾が刀身に施されている。

 切っ先を染める生々しい赤色と、其処から柄まで伸びる幾筋かの赤い線。

 それは、女神の心臓から僅かに毀れた血が刀身を這った痕そのもの。彼が犯せなかった罪の名残が、彼の罪悪感を煽るように刻まれていた。

 

 ナムカラングはしばらくの間、その赤い筋を指先で辿る。

 けれどいくら筋をなぞっても、そこに彼女の温もりは既に無い。

 それでも何度か同じ動作を繰り返し、名残惜し気に指を剥がす頃にはそろそろ陽が沈もうかという時間帯だった。

 もどかしいほどゆっくりと刀身を鞘に納めたナムカラングは、嫌に重たい短剣を腰に差すと、そのまま再び眩い光に包まれ、瞬きの間に龍へと転じる。

 

「……何はともあれ、まずはやるべき事をやってからだ。他所の事は用事が済んだら考えりゃいい。それまでは向こうさんも手出しできねぇだろうしな」

 

とりあえずここから。まずは一歩、確実に。

 誰に言うでもなく、自分の心を落ち着かせるために言葉を吐いたナムカラングに、千剣蟹も巨大な鋏を打ち鳴らして同意を示す。

 まるで星でも落ちて来たかのような轟音に、夜空に燦然と輝いていた天彗龍たちを思って彼は笑う。

 彼女の眷属は何かにつけて騒がしい。本人たちの気質の問題では無く、彼らの持つ形質の問題で、彼らは意図せずして騒がしく賑やかで、だからこそ延々と落ち込んでいられるほど静かでもなかったのだと思うと、なんだかとても似合いの主従だと思えたのだ。

 ならば、とナムカラングは思い切り音を立てて巨大な翼をはためかせる。

 似合いの主従の、似合いの伴侶になるために、彼は僅かに浮いた心で世界を揺らす。

 

 そう、とりあえずは一歩、確実に、だ。

 久遠の別れとなってしまった伴侶を、今一度神代に呼び戻すために。

 そして永い探訪でろくに食事も摂っていないだろう伴侶が、きちんと今あるべき姿に成長するために。

 

「腹が減ってはなんとやら。散々傷付けて泣かせちまったから、愛想を尽かされてても仕方ない。でも、それとこれとは別だ。殺したいほど嫌われたとしても、衰弱したあいつはもう二度と見たくねぇからなぁ」

 

 その場を飛び上がって千剣蟹の頂を二度、三度と旋回したナムカラングは、そのまま暮れ泥む夕日を背に受けて、伴侶の為の獲物を求めて飛び立った。

 




 はい、という訳で、アレ、もとい千剣山は可動式になりまし――ッたあ!?
 ちょ、痛いじゃないか! 杖は鈍器なんだぞぅ!
 まったく、酷い目にあった。言うべき事は伝えたのになんて扱いだ。
 うん? 千剣山については別に知らなくてもいい情報だろう?
 だってアレは今のところただの移動要塞だ。後々敵対する事になっても、アレは他の女神にぶつければいい。具体的にはあの金星の女神に。
 なにせアレは『ダラ・アマデュラ以外の神性』を悉く無力化するからね。対三女神同盟にはもってこいの代物なんだ。あの傍若無人の化身を封殺するならアレが一番適している。
 ……うん? 先にこちらを潰しにかかってきたら?
 そこはほら、王様の腕の見せ所じゃない? 口八丁手八丁であの超巨大な化け物要塞を都合よく女神の方に誘導――痛い!?


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魔獣戦線篇
第一話:夜半の兆し



 人類史の始まり、世界がまだ一つであった頃。
 文明の興隆、その先駆けにして原点、多くの文明に影響を与えた最古の文明。
 神代の末期、つまりは人代の初期――紀元前2600年のメソポタミア、あるいはバビロニア。
 地球最後の幻想紀と――未来に評される、時代(いま)
 夢を見た。あるいは、夢に視た。
 今が過去と語られ、現が夢と煙に巻かれる、そんな先の時代の会話を、夢で見た。
 さて、ならばと彼は笑った。
 ならばもてなさねば。遠い未来より訪れる旅人をもてなさねば、と。
 どこか芝居がかった口調と身振りで笑う彼に、呆れる自分。
 けれどまぁ、確かにもてなしてやらねばと思ってしまうのは自分も同じである訳で。
 きっとそこの岩陰でそわそわと身じろぐあやつも同じだろうと思えば、とるべき行動は一つだけ。

――もてなそう。

 異邦の客人を。あるいは異端の落人を。
 たった一人の人類を。あるいはありふれた筈の凡人を。
 未来に手を伸ばす幼子を。あるいは過去を受け止める勇猛を。

 これから先の()が未来に語られぬ空白に埋もれるのならば。

 その空白の時を歩む自分たちが何を想い何を成そうと――誰にも文句は、言わせない。





 

 見下ろす世界は果てしなく、海の向こうに限りはなく、山の稜線は宝石のように輝いて見えました。

 けれど、濃密な魔力の渦巻く神代の空気と美しさに目を奪われたのは一瞬の事で。

 気付けば遥か空の高みから自由落下を強制されていた俺は、兎に角五体満足で地上に降り立つべく、震える声でマシュに……ええと、俺の仲間なんですけど、彼女に指示を飛ばしていたんです。おかげでなんとか助かりました。本当にマシュは頼りになる……。

 

「おおゥ、それはなんともはや……出だしからしてぶっとんでるなァおい」

 

 その後も散々でした。都市の防衛結界に阻まれ、神代に実在していなかったと思しき魔獣と戦闘し、あまつさえそれが生物の本能としての敵意ではなくて。明らかに人間への殺意に溢れている化け物、それが街を廃墟にした張本人かもしれないと忠告を受けて数秒後、まさかまさかの空襲である。

 男の子の諸事情でちょっと色々アレな事態になりかけましたけれど、盛大に事故った女性は鬱憤晴らしに魔獣の群れを一掃してくれました。見た目お嬢様風でしたが、気の強さが前面に出た面差しは俺とそう変わらないくらいだったでしょうか、ちょっと言葉を弄したら見事に詐欺に引っかかりそうなチョロさを感じて悪戯心が疼いてどうしたものかと。

 けれど、彼女は徹頭徹尾自分本位で動く事を良しとしていて、それが様になるものだから、俺が何かを口にする間もなく彼女は遥か天高くへと飛び立って行ってしまいました。

 

「……このご時世に、天を飛翔する……女? 男の方ではなく?」

 

 いえ、はい、女性の方です。男性も居るんですね、飛ぶひと。

 あっ……そういえば、飛翔する時にやたらと焦った顔をして「それに、さっさとここから離脱しないとアイツが来るじゃない……ッ!」と言っていました。もしかして落下の原因となったエネミーに追われているのかと若干不穏な気配を感じた所で、またもや突然の来訪者の助力を得て窮地に次ぐ窮地を脱したと思ったら……!

 

「その突然の来訪者が、実は敵方でしたーッてか。エルキドゥは今や人間の間では厄ネタさね。あのヒト相手に良く生き残ったなァ。もしかして悪運強かったり……するのか。すげェ強運……でもない? んん、爆死? カケバデル? ヨビフタンパツ・エンシュツスキップ=キョウ? なんかの呪文か? ……呪文か。運にも色々あんだなァ」

 

 ――わっ、と顔を覆って泣き真似をする俺に、赤ら顔の青年がしみじみと何かを噛み締めながらおざなりにどうどうと手を揺らす。先程まで酒を嗜んでいたという彼は紛う事無き酔っ払いだ。風に乗ってこちらに流れてくるアルコールの匂いにほんの少しだけ身体が揺れる。

 建物の間を抜ける風が青年の短い三つ編みを撫でると、大きな口からくすぐったいと笑みを溢し、子供のように大きな茶色い瞳が弓なりに撓って煌めく様が、なんだかとても穏やかなのに艶めいて見えて。

 夜のにおいで満ちる静寂を押しのけて、俺は「お隣さん」と笑みを交わした。

 

 

 レイシフト直後から始まった三日がかりの強行軍を終え、今日、ギルガメッシュ王と面会した。

 突如現れたという『三女神同盟』、雲霞の如く押し寄せる『魔獣』と、裏切者の『エルキドゥ』。多くの都市は滅ぼされ、這う這うの体で生き残った人類はウルクにて大城塞『バビロニア魔獣戦線』を構築し、波のように押し寄せる脅威に目を回しそうになる。

 その一方で想定外に活気に満ち満ちたウルク市に圧倒され、ギルガメッシュ王の冷やかな態度に脅かされ……いや、現地の協力者がすんなり得られないのはもう十分経験したからいいんだけれども、それなりの修羅場を乗り切ってなお未熟だと断定されると、それなりに堪えもするわけで……。

 シドゥリさんの手配で与えられたカルデアの拠点、マシュ曰くカルデア大使館に到着し、一呼吸吐いたら途端に湧き出て来たごちゃごちゃとした感情。自分がすごい訳ではないと解っている。自分の無力さも弱さも足りなさも至らなさも身に染みている。いくら馬鹿をやってやられて、許容されていても、相手は人類史に名を残す英雄たちだ。彼らを前にすれば自分が思っている以上に自分はちっぽけなんだと感じずにはいられない。

 これに劣等感と名を与えるのは容易い。実際、言葉に当てはめるとしたらそれが一番近いのかもしれない。

 何も出来ない、とは言わない。ただ、何かを出来たと、何かを成せたと、そう言って胸を張るのも半ば虚勢みたいなものだから、最後まで意地を張り続ける事でしか突き進めない自分が情けなくて、悔しい。

 どうしようもない、けれど向き合わなければならない感傷を王に突かれた。王様のあの眼に射抜かれて、心が小さく悲鳴を上げてしまった。

 日よけの布を退けて、日干し煉瓦の窓枠に肘をついて大きく息を吐く。あれだけ身体を酷使したのに、嫌に耳に響く心音が煩わしくて眠れない。

 

――このままではいけない。

――眠らないとダメだ。

――無理やりにでも意識を落として、明日に備えて身体を休めないと。

 

 思考は睡眠を是として走るのに、肝心の疲れ切っているはずの身体がそれを遠ざける。自分の中で矛盾が起きる。いらいらする。ああ、だめだ。本当にダメだ。不快にけぶる脳裏に眉根が寄る。こういう時は、大抵ろくな事を考えないのに。

 ぐるぐると思考は廻る。堂々巡り、という単語が先ほどから浮かんで消えない。ぐるぐる、ぐるぐる、同じところを周回する頭の中は、けれど一つ二つと暗くなる出来事を拾ってきては逸る心に薪をくべる。

 

――多機能ゆえのエラー。イシュタルという女神が有する権能は数多く、それ故に彼女は多くを愛するのだとエルキドゥは語った。

 

『考えるな』

 

――神らしからぬ、というのは、彼の主観での話なのだろうか。人間を愛する事が余分故の性質だとするのならば、権能を一つに定め極めた神は人を愛する……彼の言うところのエラーを起こさない、ということなのだろうか。

 

『考えるなってば』

 

――それならば、目の前の彼はどうなのだろう。彼自身は神ではなく、半人半神でもない、意志を持つ宝具と称される彼がギルガメッシュ王と育んだ友愛は、エラーの一言で片づけられてしまうものなのだろうか。

 

『……考えるな』

 

――なんだろう、それは、なんだかとても……寂しい、気がする。

 

『……考えるなよ、俺……』

 

 不意に胸中を突いた感傷に少しばかり視線が泳ぐ。あの時、ロマンは彼を信用していいと言ったが、どうにも俺には違和感が拭えなかった。人を愛する事と友を愛する事は決してイコールではないけれど、近しい感情であるとは思う。なのに、それをエラーだと、頭がおかしいと……無駄なものだと切り捨てた彼の言葉には、一切の躊躇いがなかった。

 俺は本物のエルキドゥを知らないけれど、カルデアでふんぞり返っているアーチャーの王様が時折口にするエルキドゥは、なんというか、その言動の容赦の無さの中にもちゃんと彼自身の心が滲んでいるように感じた。だから、敵になったという()()と俺が王様から聞いた想像のエルキドゥが、重ならない。このエルキドゥは王様のエルキドゥじゃない……とまでは言わないけれど、そうだと断言するには妙に引っかかっていた。

 

 けれど、考えても考えても解らなかった。

 どうしたって同一にならない想像と現実の差異に混乱した。敵対する側にいると明確に示された時、驚いたと同時に納得してもいた。やっぱりこのエルキドゥは王様の言っていた彼と違うんだと。

 ……いや、実際がああいう風だったのなら、俺の想像した虚像が間違いだという事なのだろうけど、これまでに培われた勘がそんな()()()()を否定する。

 だから、焦る。今考えなくてはいけない事では無いのだろうけど、疲れ切った身体を裏切って働き続ける頭に苛つきが増す。

 

 それに……それにだ。

 天を駆る美しい女神は、あの魔獣たちを()()()()()()()()と呼んでいた。

 ティアマトの子供たちを示す名を冠した魔獣たち、毒で満たされた殺意の獣。

 ティアマトの子供たちが敵ならば、マーリンから聞いた、あの哀しい女神の立ち位置は……。

 

「んんん? おッと、もしかしてアンタ、お隣さん? 引っ越し早々に夜更かしとか? どうしたよ、そんな湿気た面して。景気悪ィなァ、ビール飲むか?」

 

 暗く沈んでいく心に引き摺られていた頭に、ふと陽気な声色が刺さる。

 思わずぽかんとして声の出どころを探せば、その声色の持ち主はにこにこと笑いながら杯を持った腕を掲げて窓に肩肘をついていた。温かな手燭の火が彼の赤ら顔を一層赤く火照らせている。

 酔っ払いだ。まず真っ先にそんな感想が出て来た。次いで、俺はそんなに辛気臭い顔をしていたのかと両手で頬をむにむにとつまむ。 そんな動作に何を刺激されたのか、楽し気にけたけたと笑う青年が窓際に椅子を引っ張てきて腰を据えた。これは……絡まれるやつだ!

 

「お隣さんはどっから来た? おれは五日前にここに辿り着いてなァ。クタから来たんだが、途中ヘマしちまってね。兵役にも付けねェもんだから、仕方なしにダチの家に泊めて貰ってんだ。今はほれ、ここでビール卸してんの」

 

 心底楽し気に酔っ払いは笑う。ずっと笑ってる。俺に問いかけているようで聞いてきてはいないらしく、青年の口は止まらない。先ほどまで下で嗅いでいたビールと同じ匂いだ。昔はお隣さんがここの酒場にお酒を卸してたのだろうか。

 

「いやァ、しっかし、やッぱり人の気配があるッてのは良いねェ。心が活気づくよ。クタは随分人が減っちまっててね。寂しいったらありゃしねェ。ビールの一つも酌み交わせないんじゃあ、空元気だってだせねェってもんさね」

 

 言うなりごっごっと喉を鳴らしてビールを流し込む青年に、筋金入りの飲兵衛だと呆れて……あまりにも美味しそうに飲むものだから、ふと、吐息を吐くような笑みがこぼれた。まるで仕事終わりの父さんみたいだ。嬉しそうにお酒を飲んで、楽しそうに息を吐く。辛く生きた日々を楽しく(ねぎら)う幸せそうな姿。ほんと、懐かしい。

 

「おっと、おればっかり喋りっぱなしで悪いね。それで、どう? お隣さんここでやっていけそう?」

 

 妙にキレの良い喋り口とは裏腹にとろりと蕩けた赤い顔を突き出し、青年はやっと会話をする気になったらしく、夜闇の冷たさに身を乗り出す。

 不意に訪れた感傷に不快な感覚は一切なかった。寂しさと切なさが胸中を埋めたのも一瞬で、懐かしさは目の前の青年の笑み一つで温もりに変わった。

 

「ええと、そう、ですね……ちゃんと、やっていかないと……俺が、やらなくちゃ、だめで……」

 

 けれど、口を突いて出たのは、先ほどまで巡り巡っていた不安の尻尾で。

 自分でもびっくりするくらい、弱い声が出た。思わず目を見開いて口を押さえる。青年は「んー」と顎に手をやって何事かを考えていたかと思えば、二ィ、と悪い顔をしてアルコールの匂いをさせる杯を俺に向けて傾け、わざとらしく潜めた声で「なァ、ちィとばかし夜更かしと洒落こもうぜ」と囁いた。

 

 

 ……そうして、冒頭に繋がる訳で。

 わぁ、と突っ伏した頭に大きく硬い男らしい手が乗って、犬にするみたいに撫でられた。

 何処からか頑丈な長い板を持ってきた青年はお互いの窓の淵に板を掛けると、その上に胡坐をかいて腰を据えた。随分と距離が近くなったお隣さんは、自分よりも遥かに背が高く、ガタイも良い陽気なお兄さんそのものだった。

 お兄さんはビールを、俺には果実水を。時折近くを通る警邏中の兵に呆れられながら、俺はお兄さん相手に愚痴を聞いてもらっていた。

 

「……お隣さん、中々に波乱万丈だな。それに前途多難だ。若いうちの苦労は買ってでもとはよく言うけどよォ、お隣さんの旅路は苦労とかそんな次元の話じゃなさそうだ」

 

 ひとしきり吐き出した俺に、お兄さんは神妙な顔をして何度か頷く。酔っ払い相手に何をマジに相談なんかしてるんだ、とほんの少し冷静になった頭が冷めた目を寄越すけれど、胸の中は不思議と軽くなっていた。

 勿論、不安が零になったわけではない。けれど言葉にして吐き出して、それを否定も肯定もされないで、ただ優しく聞いてもらえた事が、今はただただ有難かった。

 ほぅと小さく息を吐いた俺に、お兄さんは杯を置いた。底の見えない杯が月を浮かべて揺れている。

 月から何かが生まれそうだ。そんな感想が過る。酒気を帯びた空気に中てられでもしたのだろうか、漣に形を変える月の揺らぎが、緩やかな胎動のように見えただなんて。

 しゃべりすぎて……いや、やっと疲労が眠気を連れて来て、ぼうっと思考に靄が掛かる。強烈な眠気。瞬きするだけでも持って行かれそうなほどの、睡魔。

 

「安心しなお隣さん。今のところ天駆ける女神は人間にかまってる余裕なんざ欠片もねェし、ティアマトの魔獣に()()()()()の存在は確認されてねェ」

 

 うつらうつらと船を漕ぐ俺の耳に、お兄さんは言葉を注ぐ。

 まるで子守唄のように睡魔を助長する声色は、けれど不思議なくらい鮮明に耳に、頭に焼き付いて。

 

「永遠不変の大女神。此の世で最も恐るべき生命にして、此の世で最も哀憐深き乙女。混沌の種、成らぬ報復の代名詞。呪愛の幼子、祭祀を司る慰撫の楽神、蛇皇龍ダラ・アマデュラ――あの女神が敵方にいないってだけで、俺たちはどれだけ安心したことか」

 

 恐怖を押し殺した、声。けれど確かな畏敬の念と共に込められた親愛の情を隠せるものではなく。

 

「彼女の話はマーリンから聞きました……えと、その……最後の場面、も……」

 

 だったら話は早いと、隣人は乗り出した身体とは裏腹にひっそりと潜めた声を風に乗せる。

 出会うのは怖い。敵対するのは恐ろしい。けれど、口にする名は愛おしい。本当に愛されている女神様だなと、単純な思考しか回らない……いや、もう吐き出すだけで回ってはいないか。ぼんやりと浮かんだそれらを引っ掴んで留め置く手は真っ先に寝入ってしまったようだ。

 

「さっき天駆ける女神は余裕が無いっつったろ? それな、女神以上の速さで天を切り裂く龍がそこらを飛び回ってるからなんだよ。で、その龍は魔獣を襲い、()()を回収してまた魔獣を襲うんだが……それと並行してな、天駆ける女神を見かける度に殺そうとするんだよ」

 

 瞼が重い。お兄さんが視界の中で半分になる。顔が見えない。黒い化粧を施された筋骨たくましい褐色の肌を晒した胸板が見える。すごい、かたそう。ジークフリート並の筋肉だ。ただし筋肉(マッスル)ほどはない……、……?

 

「自己中で傲慢な女神を恨む奴は結構いるさ。その中でも明確に敵対できる奴で、龍と縁深く、人型もとれて、なおかつ千剣山を根城にするって奴は、考えるまでもなくあいつ一人さね」

 

 あれ……? うん? えっと、りゅう……わいばーん……ああ、流星群みたいな、りゅう……の、ひと? うん? だれのこと? なんの、あれ、へんだな、おにいさん、なんで、こんなに。

 

「禍つ星は虚空の彼方へ、言祝(ことほ)ぐ大地は守りの殻へ。そして生まれ直した龍の()()()()は、さて、誰が為の命と()()()かねェ?」

 

 こんなちかく、いるのに……なんで、おにいさんのいき、かからな――……

 

 

「おーい、聞こえるかい?お隣さーん」

 

 かくりとおちた頭に問いかける。小さな頭。子供の頭だ。おれの手ですっぽり覆えるくらいの、小さな子供。こんな子供の肩に世界が乗っかってる、だなんて笑い話にもならない。

 一度、杯を子供の方の窓辺に寄せてから彼をひょいと抱え上げる。両脇に差し込んだ腕にはそれなりの重さが掛かるが、青年にとっては大した重さでは無かった。

 座したままの膝に一度乗り上げさせてから、背中と膝裏に腕を回して立ち上がる。足元の床板が軽く軋む音を立てた。そのまま足を進め、子供に宛がわれたらしい部屋に踏み入り、寝台の上に彼を寝かせて毛布を掛ける。この時期にウルクで凍えることはないだろうが、腹を冷やしてはいけないと思って。

 

「あー……お隣さん? そのまま眠りながら聞いてくれ。おれのダチ……つっても、ここん家とは別のダチな? そいつから伝言があるんだ。夢の中でいいからさ、ちょっと耳貸してくれや」

 

 暫くあどけない寝顔を眺めて、罪悪感を上乗せされて、若干凹みながら()()()()声を掛ける。

 現実に子供は聞こえていないが、夢の中で彼の意識がこちらに向いたのを確認してから再度口を開いた。

 

「『目指す場所は重なれども、血の繋がりでは軛にならず、想いの深さは種類を違え、然して臆病な子供は目指す果てを涙で燻らせた。星を見る子供、貴方が見上げた空の中にこそ、希望の星があるのなら――どうか、雲間を割いてうたって見せて』――だとよ。確かに伝えたからな」

 

 自然と固くなってしまった声色に、内心「この台詞、おれよりもっと似合うヤツいたろ?」と思いながら、与えられた役目を無事に遂げられたと安堵する。何気にとんでもなく大胆な侵入を果たしている自分に喝采を送るが、そろそろ退却しないとあのクソいけ好かない好色夢魔野郎の御目こぼしの範囲から逸脱してしまう。

 飄々とした掴み所のない整った面構えの夢魔を脳裏から追い出し、まぁ、これくらいは良いかともう一度子供の頭に手を伸ばし、労りを込めて優しく撫でる。掌で感じる癖毛の柔らかさに思わず笑み毀れる。

 

「未成年じゃなかったら酌してやったのになァ。残念残念……いや、未来ならもっと酒の種類もあるだろうから、むしろお隣さんにとっちゃ僥倖なのかね? あー、でも古代のビールが初の酒ってのが特別だと思えばやっぱ残念? まぁいいか、お隣さんの周りにゃおれ以上の酒好きはザラに居そうだし、古今東西の英霊さんらがその辺の特別は用意してくれるだろうさ」

 

 だからまぁ、おれお薦めはかるであとやらに居るらしいちょっと前のギルガメッシュ王が用意して下さるかもな……だなんて考えながら、最後にくるりと毛先で遊んでから腰を上げる。

 子供の部屋から見上げる空からは月が見えた。濃い夜の中に溺れるようにして浮かんでいる月に、やっぱり世界は眩しいなと目を細めて窓から窓へと渡した板に足を掛ける。

 不思議と僅かにも軋まないそれを、向こう側の窓辺で回収して部屋の中に引き込み、そのままトンと軽く跳ねて屋根へと上り、深く寝入っているお隣さんを一瞥した。

 

 幼い寝顔。幼い寝息。触れた髪は、過酷な旅で少し軋んではいたが柔らかくて。

 

 その柔い髪が、ふと、親友が喜んで自慢して回っていた産まれて間もない赤子の髪と重なって。

 

「……ああでも、お隣さんの周りには、居ねェかもなァ――溺れ死んだ後でも『どうせなら酒に溺れて死にたかった』なんぞと宣う大馬鹿野郎は、流石にザラにゃあ、居ねェかもなァ……」

 

 クタから……一夜にして消滅したはずの都市からやってきた青年は、郷愁を吐いて目を覆う。

 子供に厳しい世界なんざクソだな、クソ。笑みの消えた口元が引き結ばれて、覗く犬歯がぎちりと鳴る。

 

「はやいとこ終わらせねェとなァ……大の大人が子供(ガキ)共に寄りかかりっぱなしってのは、それこそクソだろ」

 

 月の中に影が立つ。月光を背負った青年にもはや酒気は無く、表情の失せた顔の中で黒い瞳だけが熱を帯びて輝いていた。

 不意に青年の髪が靡く。砂礫を巻き上げるほどの風がウルクの街を駆け抜ける。

 

 

 夜の冷たい風が一陣吹き抜けた後、窓辺には内側を酒で湿らせた杯だけが、夜の名残を抱えていた。

 

 





 天にほど近い頂で青白く輝く龍がひくりと鼻を鳴らす。
 遠い記憶で嗅ぎ慣れた酒精のにおいが一瞬だけ風に乗ったような気がして、首を傾げた。
 酒で思い出すのは、あの女神に轢き殺された酒好きの男の事だ。いや、轢き殺されたと言えば彼は思い切り顔を顰めて悔しがるだろう。末期の水はビールであって欲しかった、などと世迷言を本気で吐き散らすに違いない。
 不意にこみ上げて来た笑いにくつくつと喉が鳴る。そういえば、あの男の馬鹿話は兄の十八番だった。

 ふと愉快な心地のまま面を上げれば、そこには水面の如くに揺らぐ月がある。
 冴え冴えと照る月は美しいのに、無粋に輝く光の帯が邪魔で邪魔で仕方がない。濃密な神代の魔力と光帯の夥しい熱量が鬩ぎ合って生まれる魔力の漣が、月の発する魔力で可視化されることで揺らぎが生まれる。
 ああ、いや、本当ならばこうまで鮮明に揺らぎが観測されるはずはない。神代に満ちる魔力、月より降る魔力、光帯の発する魔力の他に、もう一つ二つ、世界を揺らす力が潜んでいるからこそ、大気は震えて月は揺れた。
 余波だけでこれだ、大元が現界した暁には、さて、如何に神代と言えど悲鳴の一つは上げるだろうか。
 世界を軋ませる魔力の鬩ぎ合いに、けれど龍はいかにもご機嫌な様子で目を弓なりに撓らせる。
 「悲鳴だろうが断末魔だろうが、知った事か」龍は哂う「その後に響く音色が白金に輝いているのであれば、どんな音だって凱歌に変わるんだよ」。

 うっそりと微笑む龍に、同意とばかりに打ち鳴らされる巨大な槍腕が空気を撓ませて一際大きく月を揺らす。
 どれほど大きく揺らせば、内側で微睡む子供は目覚めるだろうか。
 月を揺籃に見立てた二頭に、冷たい風が吹き付ける。

 酒のにおいは、もうしなかった。



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