『王女の軍師』【完結】 (OKAMEPON)
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第一話『王女と“軍師”』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「危ない所を助けて頂き有り難うございます。

 僕はロビン。軍師を志して、旅をしている者です」

 

 

 そう名乗った彼は、鮮血色の瞳を緩ませて、フワリと優しくルキナに微笑む。

 

 屍兵に襲われた村にルキナが救援に行った際に、たった一人だけ助ける事が出来た唯一の生存者。

 それが、ロビンと名乗る軍師であった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 世界は、滅びに瀕していた。

 千年の眠りより再び甦りし、神話に語られる邪竜ギムレー。

 彼の強大な力により、空は常に曇天に覆われ作物の多くは枯死し、人々は日々の口糊を凌ぐ事すら貧窮し、命が芽吹く事無き死に絶えた大地は猛烈な勢いで拡大し、そして地には人々の屍より生まれし者……屍兵が闊歩し人々を襲う。

 

 そんな邪竜の脅威を前に滅びを待つしか無い人々に唯一残された希望。

 それは、千年前に邪竜を封じたとされている、イーリスに伝わる国宝──神剣ファルシオン。

 そしてそれの担い手である、聖王を継ぐ王女ルキナ。

 

 だがしかし、未だファルシオンは完全な状態では無かった。

 かつて初代聖王がギムレーを封じた際に宿っていた神竜ナーガの力は、人の身には過ぎたモノである為か、既に無く。

 邪竜を討つ力を神剣ファルシオンに甦らせる為には、“炎の紋章”を完成させて『覚醒の儀』を行う必要があった……。

 だが、“炎の紋章”を構成する“炎の台座”と5つの宝玉の行方は杳として知れず、滅びは刻一刻と迫ってきている。

 

 そんな絶望的な状況の中で、宝玉探索の白羽の矢が立ったのは。

 かつて世界の命運を賭けて戦いその命を散らした戦士達の子供達──この絶望だけが支配する時代に於いて、『希望』と呼ばれるルキナの仲間達であった。

 

 宝玉の探索の為に、腕利き中の腕利きである彼等を……まだ年若く本来は大人達が守り導くべき子供達を、宛無き旅路へと向かわせるしか……人々の『希望』を一手に担うしかないルキナには残されていなかった。

 

 本心では、ルキナも彼等と共に宝玉の探索に向かいたかった。

 だが、彼女の立場が、守るべき国の存在が、それをルキナに赦さない。

 ルキナに出来るのは、仲間達が宝玉を見付け出して帰還するその日を信じて、少しでも滅び行く国を延命し、絶望に喘ぐ民を救う事だけだった。

 

 だが、ルキナ一人に何が出来ると言うのだろうか。

 神剣を継承しているのだとしても、聖王の血を継ぎ聖痕をその瞳に宿しているのだとしても、英雄たる父王クロムの娘であるのだとしても。

 ルキナは一人の人間であり、王族であろうと何であろうと、人一人が出来る事、その手が護れるモノなど、決して多くはないのだ。

 それでも、ルキナには泣き言一つ溢す事も赦されていなかった。

 

 大地には屍兵が溢れ、命ある者を襲い同類へと変えている。

 毎日の様に村や町が、壊滅させられている。

 ナーガの加護があり、ギムレーの侵攻が鈍いこのイーリスですらこうなのだ。

 ギムレーが復活した場所とされるペレジアは既に命ある者の居ない死だけが支配する地であるとされているし、雪と氷に閉ざされたフェリアは最早王都などの一部の都市にしか人は生き残っていないと言う。

 遠く風に聞いた噂では、ヴァルム大陸やグランベル大陸は既に滅びたらしい。

 そんな世界でたった一つ、人々がまだ生きていられる場所。

 人々の最後の希望、神剣ファルシオンを継ぐ者が居る国。

 それがイーリスであり、ルキナが背負わねばならぬモノであった。

 

 ルキナが背負うのは、今を生きる人々全ての『希望』であると言っても過言では無い。

『希望』……。

 人々は言う、『助けて下さい』と、『救って下さい』と、『死にたくない』と、『ギムレーを滅ぼしてくれ』と。

 無数の人々の祈りに、願いに、断末魔に。

 ルキナは応えなければならない。

 それが、クロムの意志を継ぎファルシオンを継いだ者としての責務だからだ。

 それなのに、ルキナには何も出来ない。

 

 滅び行く世界を前にして、死に行く民を前にして。

 救えなくて済まない、と。

 自分の力が及ばずに済まない、と。

 ナーガの力を甦らせられずに済まない、と。

 民の骸を前にして慟哭する余裕すら、ルキナには赦されていなかった。

 

 人々から背負わされた『希望』が、ルキナに足を止める事を赦さない。

 何れ程、己の無力に打ち拉がれても、背負うモノの重さに押し潰されてしまいそうになっても、心と身体を磨り減らし倒れそうになっても。

 ルキナに課せられた《願い》が、諦める事を許さない。

 

 諦める事も立ち止まる事も出来ぬルキナは、戦い続けるしかなく……、故に己の無力に苛まれる。

 一体、幾度救援が間に合わずに壊滅した村落を見たのだろう。

 一体、何れ程の死に行く人々を、何も出来ぬままに見送ったのであろう。

 迫り来る逃れ得ぬ死に怯える民が『死にたくない』と訴え掛けるのもルキナの心に傷を作るが、何よりも堪えるのは。

 ルキナを見て、『救われた』と、『まだ希望は潰えていない』と、そんな事を言われる事であった。

 

 その度に、止めてくれ、と幾度叫びたくなっただろうか。

 ルキナは間に合わなかったのだ、力が及ばなかったのだ、救う事が出来なかったのだ、使命を義務を果たせなかったのだ。

 それでも人々はルキナに『希望』を託す事を止めない。

 

 希望、希望、希望、希望、希望、希望希望希望…………。

 

 誰も彼もが、ルキナにそれを託す。

 誰も彼もが、この絶望だけが支配する世界で、ただ一つの『希望』なのだと、ルキナに期待する。

 ルキナにそれに応える力が無いのだとしても、だ。

 

 父が生きていたら、とルキナは時折思う。

 あの強く偉大な王であった父ならば。

 民の期待を背負ってもそれに見事に応えられたのではないか、そもそもこんな絶望に世界を支配させやしなかったのではないか、と。

 そして…………ルキナを護ってくれたのではないか、と。

 

 ……そんな事を想うのは全てに対する裏切りにも等しい。

 

 ルキナには、志を共にする仲間達も居る。

 だが、彼等はあくまでも仲間であり、ルキナを庇護する存在ではない。

 そして…………彼等は生きて帰る見込みすら薄い宛無き旅へと、世界を救う為に旅立ってしまった。

 ルキナを、一人この地に残して。

 

 一人きりで民を指揮して戦わねばならぬルキナは、最早限界に近かった。

 手から零れ落ちる救えぬモノを、届かぬ手の無力さを、嘆く事も出来ずそんな余裕が赦されない。

 

 それでも、何もしない訳にはいかなかった。

 仲間達が帰還するその日まで、何も出来ないのだとしても、少しでも民を救えるならばと。

 寝食すら犠牲にして方々を駆け回って、ルキナは屍兵を討伐し続けていた。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 その日も、何時も通りであった。

 

 付近の村が屍兵に包囲されているとの報告を受け、直ぐ様急行した。

 だが目の前にあったのは、何時もの様に物言わぬ骸ばかりが転がる光景で。

 最早幾度と無く目にしたその光景に、無力から膝をつく様な事も無く。

 

 ああ、また私は救えなかったのか……と。

 胸を締め付けるのは、最早噛み締める必要すら無い、諦念すら混じった後悔で。

 

 最早生きている者が居ないであろうその場所を、ルキナは去ろうとした。

 だが──

 

 

 不意に曇天に雷鳴が幾度か轟いた。

 それと同時に響く、屍兵たちの呻き声。

 

 咄嗟にルキナは立ち去ろうとしていた村を振り返った。

 今の雷鳴は自然に発生したモノではない。

 魔法を行使したその証拠だ。

 

 屍兵ばかりが蠢くこの村で一体何が……と思いつつも。

 もしかして、と。

 益体も無い希望がルキナの胸の内で頭を擡げる。

 幾度と無くそれに裏切られてきたと言うのに、それでも、と。

 ルキナは一縷の希望を胸にその音の発生源へと向かった。

 

 そこには──

 

 

 屍兵の群れと対峙する一人の男の姿があった。

 

 身に纏う黒いコートが翻る度に、放たれた雷撃が十数もの屍兵を纏めて塵へと還す。

 風に煽られて外れかけたフードから覗くのは、ルキナよりは幾分か歳上の……それでもまだ歳若い男性のモノで。

 迫り来る屍兵を油断なく見据えている鮮血色の瞳は、生者だけが持ち得る意志の輝きを帯びていた。

 

 生存者だ。

 まだ、生きている者が居たのだ。

 この死だけが残された場所にも、まだ……。

 

 ルキナの胸に去来したのは、泣きたくなる様な歓喜であり安堵であった。

 ここに来たのは、無駄では無かった。

 ルキナの行動は、無駄では無かったのだ。

 

 戦う男を痺れた様に見詰めていたルキナは、ふとその背後に忍び寄る屍兵の存在に気付いた。

 男を襲おうと血に塗れた斧を振りかざすその屍兵の前へと、ルキナは反射的に躍り出て一刀の元にその首を刎ねる。

 直ぐ様塵へと還ったそれには見向きもせずに、今度は右横から襲ってきた剣士の屍兵の一撃を往なしながらその右腕を切り落としてそのまま胴を袈裟斬りに。

 

 突如現れたルキナの姿に驚いた様に男は目を丸くしたが、特には何も言わずにそのままルキナに背を預けて残る屍兵と対峙した。

 ルキナもまた、己の背を名も知らぬ男に預ける。

 程無くして、村を襲っていた屍兵は殲滅された。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 屍兵を残らず殲滅した事を確認して、ルキナ達は漸く一息つく。

 そして、この村唯一の生存者である男は、ルキナに恭しく頭を下げてから、助けて貰った礼を言ったのであった。

 男……いやロビンは、元々はイーリスの民では無いそうだが、軍師としての修業の為に各地を巡る旅を続けていて。

 そして、自分の軍師としての才を人々の役に立てるべく、人々に残された最後の生存圏であるイーリスを訪れたのだと言う。

 

 

 軍師……。

 その言葉でルキナの胸に去来するのは、最早顔すら思い出せなくなっている、父の半身とすら言われた男の事だった。

 

 ペレジアとの戦も、ヴァルム帝国との戦も。

 圧倒的に不利な状況下で、決して少なくない犠牲を出しながらも勝利を収め続けた稀代の名軍師。

 クロムと共にイーリスの英雄と謳われた者。

 父であるクロムと共に世界の命運を賭けた戦いの中で命を落としたとされている……だが一部では彼が父を裏切ったのだとも言われている男。

 

 その名前は、ルフレ。

 

 ルキナがまだ幼い頃、……父も母も健在で、多くの人から見守られた幸せな時間を過ごせていたあの頃。

 彼とは親しくしていた……と、もう今は亡き母や臣下達から幾度と無く聞いている。

 だがもう、ルキナは『ルフレおじさま』の事を何も思い出せない。

 その顔も、その声も、何も。

 彼がどう言う風にルキナに接していたのか、彼がどんな微笑みをルキナに向けていたのか、彼がどんな声でルキナに語り掛けていたのか…………。

 何も、何も…………。

 

 きっと、大切な思い出であったのだろうとは思う。

 だけれども、この絶望に満ちた世界は優しい思い出を抱えて生きていくには過酷過ぎて。

 彼がこの絶望を招いた張本人であるかもしれない、と言う可能性もあってか、ルキナは彼との思い出を記憶の棚奥の、ルキナですら触れられない場所へと押し込めて、忘却と言う名の鍵を掛けてしまっていた。

 

 彼と共に戦った戦友が皆命を落とした今、最早イーリスには彼を知る者は一人も残っていない。

 そんな記憶の隅に名前だけ存在している彼と、目の前のロビンが、軍師と言うだけで僅かに重なる。

 ……まあ、彼とロビンでは歳が離れ過ぎているから、全くの別人ではあるのだけれども。

 

 

 ルキナは、ロビンにこれからどうするのかを尋ねた。

 イーリスに保護を求めるのか、それともまた旅を続けるのか。

 

 すると、ロビンは恭しくルキナに頭を下げた。

 

 

「ルキナ王女。

 僕は貴女に仕えたい。

 貴女の軍師となり、この世界の未来に希望を与えたいのです。

 だから、僕を貴女の軍師としてくれませんか?」

 

 

 そんな唐突な言葉に戸惑うルキナに、ロビンは続けた。

 その眼差しは、どこまでも真摯で、こんな絶望の世界では眩しい位の誠実さと意志の力に溢れていて。

 そして、何故だか泣き出したい位の優しさに満ちていた。

 

 

「僕ならば、貴女の理想を叶えられる。

 貴女が望むならば、僕は貴女が救いたいものを、民を、国を、世界を、救ってみせましょう。

 貴女一人では手の届かぬ望みを、貴女の手に届かせてみせます。

 僕ならば、貴女の傍を離れず、どんな時も貴女の為に在りましょう」

 

 

 だから、とロビンは言う。

 

 

 

「僕を、貴女の軍師にして下さい」

 

 

 

 ロビンの望みに、ルキナは──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第二話『記憶の彼方の遠い貴方に』

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「ルキナさん、この街の防衛線はこの様に布陣しては如何でしょうか?」

 

 

 各所に印や詳細な説明が記入された街とその周辺の見取図を手に、ロビンがそう提言する。

 その見取図を受け取り、その布陣に不備が何処にも無い事を確認したルキナは内心感嘆した。

 何時も何の事も無い様にロビンが献じる策は、犠牲となる者を一人も出させまいと言う意志が見てとれるもので。

 実際、その策によって救われた命はもう数えきれない程だ。

 

 

「ええ、これで問題ないでしょう。

 此度の屍兵の大規模な襲撃も、これならば凌げる筈です」

 

 

 早速ルキナはロビンの提言通りに布陣を敷く様に兵達に命じた。

 それに応じる兵達の士気も、かつてとは見違える程に活力に漲っている。

 兵達の心情としても、無辜の民の骸ばかりを目にし己の無力を嘆くしか無かった今までと違い、確かにその手で人々を救えるとなれば、気力も漲ろうというものだ。

 

 本能的に群れて散発的に人々を襲うが故にその襲撃の予測を立て辛い屍兵達の動きを、ロビンは様々な情報から予測し、襲撃を受ける可能性が高い街や村へ迅速に救援に向かう事すらも可能とさせていた。

 初動が早ければ早い程、救える命は増える。

 この手を零れ落ちるばかりであった命を掬い上げる事が出来る。

 最初の内こそ小さな変化であったが、その事実は次第にこの絶望ばかりが蔓延る世界に生きる人々の心に光をもたらしていた。

 

 それもこれも、ロビンのお陰である。

 ルキナだけでは手が届かなかったものを、ロビンは確かにあの誓いの言葉通りに、この手が届くようにしてくれていた。

 

 ロビンのお陰で、救える命が目に見えて増えた。

 ロビンが献じた策で、屍兵との戦いで犠牲となる兵や民が、殆ど居なくなったと言っても良い程に減った。

 悲哀と怨嗟と慟哭よりも、感謝の言葉をよく聞く様になった。

 どれもこれも全て、ロビンのお陰だ。

 

 ロビンのお陰で、人々の心に新たな『希望』の種が蒔かれていく。

 今この瞬間を生きるだけで精一杯であった人々に、『明日』を考える余裕が生まれつつあった。

 絶望しか知らぬ子供達すらも、笑顔を浮かべられる様になったのだ。

 

 空は今も暗い雲に覆われ、荒れ果てた大地に命が戻った訳ではない。

 

 だけれどもそれらは、ロビンに出会う前のルキナが幾ら手を尽くしても人々に与えられなかった、偉大な変化なのだ。

 だからこそルキナは、ロビンには幾ら感謝してもし足りない。

 

 だけど、そうルキナがロビンに言う度に。

 ロビンは少し苦笑しつつルキナを見詰めて。

 

 

「そんな事はありませんよ、ルキナさん。

 僕に出来る事は、貴女を支える事だけです。

 僕一人だけなら、出来る事などそう多くはない……。

 貴女が僕を信頼してくれるからこその結果ですよ」

 

 

 そう言って、「僕と貴女の二人で掴んだ結果ですね」と微笑むのだ。

 ……あんなに優しい微笑みを向けられたのは、父と母に見守られていた在りし日以来なのでは無いだろうか。

 そして、ロビンの何処か懐かしさを感じるその微笑みは、 何時もルキナの胸を強く締め付けるのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 あの日、あの廃墟と化した村で出会ったロビンを、ルキナは彼の申し出の通りに彼女の軍師とした。

 

 …………勿論、迷いが無かった訳では無い。

 ロビンの素性を怪しまなかった訳でも無い。

 だけれども。

 

 出口の見えない何時明けるとも知れぬ絶望の中を、孤独に足掻き彷徨い続ける苦しさに限界を感じていたルキナは。

 

 世界を覆う絶望を打ち払わんとする強い意志と誠実さに満ちた、その眼差しを。

 優しくて何処か胸を締め付ける程に懐かしくも感じる、その声を。

 絶望に傷付き今にも砕けそうな程に皹割れたルキナの心をそっと包む様な、その穏やかな微笑みを。

 

 彼がルキナに向けるそれらを信じようと、そうルキナは決めたのだ。

 

 軍師としてルキナを支えると宣言した通りに、ロビンは数多の戦局でルキナの為に策を献じた。

 

 それだけでは無い。

 

 父より受け継がれし類い稀なる剣技を修めるルキナのそれと遜色無い程の技量の剣技と、比類無き魔導の力を以て、戦場を駆けるルキナの背中を護っていた。

 ロビンとルキナの息は驚く程にピッタリで、言葉を交わす必要すら無く、視線一つで相手にとって最善の動きがお互いに出来る。

 

 自然とお互いに背を預けて戦う様になったルキナとロビンを、王女とその軍師としてのその関係性もあってか、人々は何時しか、イーリスの英雄の再来だと讃える様になっていた。

 ……だが、最早伝聞の中でしかその姿を知らぬ父と軍師ルフレの在りし日の姿に準えられたルキナは、その賛辞を受け取る度に、居心地が悪くなる様な……内心複雑な想いを抱えていた。

 

 敬愛する今は亡き父と同じ様であると讃えられるのは、決して嫌なだけでは無い。

 ロビンを、父と阿吽の呼吸でお互いを理解し合い常に傍らに立ち続けて支え続けていたとされるルフレと重ねられるのも、嫌なだけでは無い。

 

 だがしかし。

 

 父と軍師ルフレは、確かに数多ある英雄譚に語られる英雄達とも引けを取る事が無い程の英雄である。

 だが、二人とも世界が絶望と滅びへと向かう事を止められず……。

 そして。

 まだ幼かったルキナを置いて逝ってしまった。

 必ず帰ってくると、二人ともルキナに約束したのに。

 その約束を果たせなかった。

 

 そして、残されたまだ幼かったルキナには、人々の『希望』を一手に課される事になったのだ。

 ……母や父の臣下達が生きていた頃はまだ彼等がルキナを護ってくれていたが、彼等は程無くしてその命を戦いの中で散らせ、それも長くは続かなかった。

 ルキナは人々の『希望』に期待に応えようと精一杯の事をしてきた。

 だが、まだ幼かったルキナには力が足りぬ事ばかりであり、その度に。

『クロム様が生きておられれば』と、『クロム様とルフレ様がここに生きておられれば』と。

 そう口さがない大人達の言葉がルキナの耳に届いていた。

 

 成る程、確かにそれは事実であったのだろう。

 ルキナも幾度父が生きていれば、父とその軍師がここに居れば、と思った事だろうか。

 だけれども既に父とルフレはその命を落とし、世界を救えなかったのだ。

 そして、人々の願いの重責を“今”課されているのはルキナなのだ。

 

 力不足を感じる度にルキナは奮起して、憧れだった父を目標に鍛練を続けた。

 父の様に皆を守れるようになりたい、と。

 あの背中に追い付きたくて、ずっとルキナは走り続けていた。

 だけれども、父への憧憬やそこに至れぬ己の力不足への呵責とはまた別の所で。

 鬱屈したモノが心の奥底に澱の様に溜まっていた。

 それにルキナは蓋をして、見ない様に気付かない様にとしていたのだけれども。

 終わりが見えない絶望の中で、何時しかその澱がルキナの心をゆっくりと呑み込もうとしていたのを…………ルキナは自覚してしまっていた。

 

 だからこそルキナは。

 終わりの無い絶望を独り彷徨っていた自分の手を取って導き支えてくれたロビンを、もう顔も思い出せない『ルフレおじさま』と同一視したくはなかったのだ。

 

 もうこの世に居ない『ルフレおじさま』とは違い、ロビンはルキナの傍に居て支えてくれる。

 約束を破った『ルフレおじさま』とは違い、ロビンはルキナへの誓いを守ってくれる。

 そして、“クロムの軍師”であった『ルフレおじさま』とは違い、ロビンは“ルキナの軍師”だ。

 

 ロビンは、『ルフレおじさま』ではない。

 だからこそ、ルキナとロビンを指して『クロムとルフレの再来』と言われるのは、ルキナにとって何処か我慢のならぬ事であったのだ。

 

 

 胸の内にそんな濁った部分を抱えながら、それでも。

 ルキナは人々の『希望』に応えるべく、ロビンと共に戦場を駆け抜け続けていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ルキナにとって、ロビンとは光であった。

 

 この絶望だけが全てを呑み込もうとする世界の中で、己の無力に苛まれながら彷徨うしかなかったルキナの元に射し込まれた、一条の光そのものだ。

 もしあの日ロビンに出逢えていなかったら、と時折ルキナは想像する。

 そしてその度に、その恐ろしい“もしも”に、心も身体も……己の何もかもが凍て付いてしまいそうな恐怖に襲われるのだ。

 

 きっと、きっと……。

 ロビンが居なければ、遠からずルキナの心は限界を迎えていただろう。

 独りで背負うには重過ぎる『希望』に、己の無力を責める自分の心その物に、終わりが見えない絶望に。

 何もかもを押し潰されていた。

 でも、ロビンがそれを変えてくれたのだ。

 

 ロビンは、ルキナが背負うモノを分かち合おうとしてくれた。

 ロビンは、ルキナに守るべきものを守る為の術を与えてくれた。

 ロビンは、絶望の中で迷い立ち止まりかけていたルキナの手を取って道を示してくれた。

 

 ……ロビンは、屍兵に脅かされる人々だけでなく、ルキナの心そのものも救い上げてくれていたのだ。

 そして、それだけでは無かった。

 

 ロビンの策を以てしても零れ落ちてしまった民の命を前にルキナが涙を溢す時には、何時だってロビンが寄り添ってその哀しみを分かち合ってくれる。

 救う事が出来た民に感謝の言葉を向けられた時には、慣れぬ言葉に戸惑うルキナにロビンはそっと微笑み掛けてくれる。

 

 哀しみも喜びも、共に分かち合ってくれるロビンは、何時の間にか共に戦う仲間と言う枠を越えた存在となっていったのだ。

 故にこそ、ルキナの心の大きな部分をロビンが占める様になったのは、自然の成り行きであったのだろう。

 

 ロビンの姿が見えないと、酷く不安を感じてその姿を探してしまう。

 ロビンの声が聞こえただけで、心が軽くなる。

 ロビンの姿を、何時も目で追いかけてしまう。

 その眼差しが自分を見詰めてくれるだけで、心が温かくなる。

 

 

 ……最早、ロビンが居ない世界を、ルキナには想像する事すら出来なくなってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「? ルキナさん、どうかしましたか?」

 

 

 指示を出しているロビンの後ろ姿を、何時もの様にルキナが視線で追い掛けていると。

 その視線に気が付いたロビンが振り返って、少しだけ首を傾げて訊ねてくる。

 

 

「あ、いえ……何でもないのですが……」

 

 

 用事などが何も無い時も、ふとした拍子にルキナはロビンを目で追い掛けてしまっていて。

 その視線に気付かれてしまった事が少し気恥ずかしくて、ルキナは思わず言い淀んでしまった。

 

 だが、そんなルキナの様子を見て、ロビンは「フフッ」と小さく笑みを溢し、そして。

 

 

「僕も、ルキナさんをつい目で追い掛けてしまってばかりですから、お互い様ですね」

 

 

 と言って、まるで慈しむ様な柔らかな眼差しで微笑んだ。

 

 その微笑みに、ルキナの胸の内でドクンと鼓動が跳ね上がる。

 その優しい眼差しに、胸の奥が疼く。

 カタン、と記憶の棚の鍵が音を立てる。

 

 ロビンの微笑みに、『誰か』の微笑む姿が僅かに幻影の様に重なって見えた。

 脳裏に、『誰か』の朧気な顔が一瞬だけ過るが、それはその影を掴まえるよりも前に霧散してしまう。

 思い出せない『誰か』のその姿に、何故だか胸を掻き毟られたかの様な苦しさを覚えて。

 制御出来ない感情の奔流がルキナを襲った。

 

 

「ルキナさん?

 あの、どうしたんですか?」

 

 

 少し慌てた様なロビンの言葉にルキナが我に返ると。

 ルキナの頬を涙が零れ落ちていた。

 戸惑いながらその涙を拭うも、後から後から頬を伝う雫は零れ落ちて行く。

 

 どうして泣いているのだろう。

 悲しい訳でも無い筈なのに、何故。

 

 そう困惑するルキナの頬に、ロビンがゆっくりと右手を伸ばした。

 そして──。

 

 そっと、まるで壊れ物に触れるかの様な優しく慎重な手付きで、ルキナの頬を流れる雫を拭う。

 

 その手の温もりに、その優しい手付きに。

 何故だかもっと泣きたくなってしまって。

 声を上げて縋り付きたくなる程の懐かしさと愛しさを感じて……。

 

 止めどなく溢れる涙の所為でボヤけてしまった視界の中で、ロビンが何時に無く狼狽えているのが見えた。

 慌てた様にルキナの頬から離れようとしたその右手を、ルキナは縋り付く様な必死さを抑えながら両手で捕まえる。

 

 

「あの、ルキナ、さん?」

 

「良いんです、このままで。

 どうか、このままで居て下さい……。

 もう、私を……置いていかないで……」

 

 

 戸惑い狼狽えるロビンを捕まえたルキナのその声には、何処か懇願するかの様な色が滲んでいた。

 

 ……ロビンの温かな手が頬から僅かに離れた瞬間にルキナの心に陰が落ちたのだ。

 “喪ってしまう”、と。

 今ここでこの手を離させてしまっては、私はこの温かな手を、喪ってしまう。

 《また》、“喪ってしまう”のだ、と。

 

 だからこそ、自分でも戸惑いを隠せないままに懇願したのだ。

 《置いていかないで》、と。

 

 《置いていかないで》……?

 何故、自分はそう思ったのだろう、何故そう懇願したのだろう。

 分からない。

 ルキナ自身にも、その激情の理由が解らない。

 だけど、その感情をルキナは自分でも制御出来なかった。

 

 

 そんなルキナの姿を見たロビンは、空いていた左手でルキナの身体を優しく抱き寄せる。

 そして、よしよし、と。

 まるで親が泣きじゃくる子供をあやす様な仕草で、優しく背を擦った。

 

 

「大丈夫、大丈夫ですよ、ルキナさん。

 僕は何処にも行きません。

 貴女の傍に居ます。

 貴女が望むなら、ずっと。

 僕は、貴女の軍師。貴女の為だけに、ここに居ますから。

 だから、ほら、もう泣かないで良いんですよ……」

 

 

 ロビンの手はあまりにも優しく、その声と言葉はルキナの心を温かく満たす。

 

 ロビンさん、と呼び掛けた声は震えていた。

 何処にも行かないで、私を置いていかないで、もう二度と、と。

 

 ルキナは感情のままにロビンに懇願する。

 その懇願に、ロビンは「はい、貴女が望むなら、僕はそう約束しましょう」と優しく答えたのだった…………。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

→第三話・A『星灯無き夜に誓う』

 

→第三話・B『夜闇に二人、誓う』



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第三話・A『星灯無き夜に誓う』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ギムレーが甦ってから、夜の空から星々は姿を消してしまった。分厚い雲に覆われて陽の光が十分には届かない為昼間ですら何処か薄暗い世界では、夜になると灯された明かりの近く以外では何も見えなくなってしまう程の深い闇が世界を支配する様になっていた。

 そんな闇の中でも屍兵達は変わらず蠢き、無力な人々を襲っていく。こんな絶望の中では、人々は陽が射さぬ夜明けを生きて迎えられる様に祈りながら、死と隣り合わせの眠りの中で闇の終わりを震えて待つしか無い。

 

 そんな星も月も何も見えない闇夜を、篝火だけが頼り無く照らす野営地でルキナは一人見上げていた。

 ふと、背後から草を踏み分けながら近付いてくる足音が聞こえてくる。だが、ルキナは振り返らない。

 何故なら、その足音の主が自分を害する事など有り得ない、と。そんな全幅の信頼を彼に預けているからだ。

 

 

「ルキナさん、どうかしましたか? 眠れないのですか?」

 

 

 そう声を掛けられたルキナは、星明り無き夜空から背後の彼──ロビンへと視線を移した。揺らめく篝火に照らされたその顔は、ルキナに何時も向けている優しい微笑みを湛えて。

 その右手には温かな湯気を立ち上らせたマグカップが一つ。

 

 

「ええ、少しだけ夢見が悪くて……」

 

 

 そうは言うものの、父が命を落とし世界が絶望に包まれた日からルキナが悪夢を見ない夜は無かった。

 父が帰って来なかった日の夢、父が屍兵となってルキナ達を襲ってくる夢、仲間達が皆命を落とす夢、人々が死に絶えた世界にただ一人取り残される夢…………。

 狂いそうな程の悪夢や、そんな悪夢よりも凄惨な現実ばかりを見続けてきた所為か、最早今更悪夢の一つや二つ程度はどうとも思えなくなってきていたのだけれど……。

 だけれども、ここ最近見る様になってきた悪夢は、今まで見てきたそれらの中でも一等悪いものであると言えるだろう。

 …………ここ最近は、ロビンが命を落とす所をただ見ているしかない夢や、ロビンがルキナを置いて何処かへ去ってしまう夢ばかり見ていた。

 

 それらはただの夢、ただの悪夢であるとは分かっているのだけれど。眠る度にルキナを苛むそれらは、少しずつルキナの心を磨り減らす。……だから、眠る事が怖くて。

 ルキナは一人天幕を抜け出して、誰もが寝静まった野営地で、星一つ見えない夜空を見上げていたのだ。

 

 そんなルキナをロビンは心配そうに見詰めて。

 そして、そっと。

 その右手に持っていたマグカップを差し出してきた。

 

 

「これ、良かったらどうぞ。

 身体と気が休まる様に調合した特製の薬湯なんです。

 蜂蜜と果実で味付けしたので、飲みやすいと思いますよ」

 

 

 差し出されたマグカップを反射的に受け取ったルキナは、驚いてロビンの顔を見やった。

 食料自体が絶対的に不足し誰もが餓えているこの絶望の世界では、蜂蜜も果実も、どちらも貴重品だ。

 

 一応は王族であり食料に関しては優遇されているルキナでさえも、滅多に口に出来るモノでは無い。それを惜しみなく贅沢に使った物を、こんなにも気安く渡されては、どう礼を言って良いものか分からず、ルキナは戸惑うしか無かった。

 

 

「蜂蜜と果実は、今日助けた村の方からお礼に頂いた物です。

 ルキナさんと僕に、との事でしたので、気にせずに頂いてしまいましょう」

 

 

 そう言ってロビンは柔らかく微笑んだ。

 ……そう言われてしまっては、遠慮するのも失礼と言うもかもしれない。「ありがとうございます」と礼を言って、ルキナは薬湯に口を付けた。

 薬湯と言う事で多少の苦味は覚悟していたが、蜂蜜と果実で味付けしたとの言葉通りに、優しくスッキリとした甘い味で、とても飲みやすかった。

 マグカップの半分程飲んだ時には、悪夢の名残で冷たく強張っていた身体は温かく解され、強い不安に昂っていた心は穏やかさを取り戻していた。

 

 ルキナの顔色が良くなったのが分かったのだろう。

 ロビンは嬉しそうに笑った。

 

 

「良かった……。ルキナさんが最近あまり眠れていなさそうでしたので、心配していました。その様子なら、きっと今晩はもう悪い夢を見ずに安らかに眠れますね」

 

 

 ロビンのその心遣いが、ルキナに向けられた優しさが、ルキナの心に沁み渡る。

 ポカポカと、温かなモノが心と身体を満たしていく。

 

 

「ルキナさんは、何時も皆さんの為に……この世界の未来の為に、頑張り過ぎてますからね……。

 きっと、中々気が休まらないのでしょう。

 だけど、少しは我が儘を言っても良いのですよ? 

 他の人に言えないのなら、僕にだけでも。

 何もかもをそんなに背負い過ぎていては、何時か貴女は壊れてしまう……。だから、どうか。

 貴女が背負うモノを、僕にも背負わせて下さい。

 だって僕は、貴女の軍師なのだから……」

 

 

 そう言ってロビンは、右手で優しくルキナの頭を撫でた。

 その仕草があまりにも自然で……とても懐かしくて。

 幸せだった幼いあの日々に、ほんの一瞬だけでも戻れた様な気がして……。それでも、もう二度とは戻れず取り戻すことも叶わないあの『幸せ』とは少しだけ違うものだった。

 ルキナはこの幸せをもう二度と忘れない様に……噛み締める様に、目をそっと閉じる。

 

 

「あっ……! す、すみません、つい……」

 

 

 半ば無意識での行動だったのだろうか? 

 ルキナの反応を見て、ロビンは慌てて撫でる手を止めて離そうとする。だけど、そんなロビンに。

 

 

「あ、あの……。

 もっと、このまま……撫でてくれませんか……?」

 

 

 と、思わずルキナは頼んでしまった。

 

 言った途端にあまりにも子供っぽい事を言ってしまった事に気付いてルキナは気恥ずかしくなって顔が熱くなってきてしまったのだけれど、口から出てしまった言葉を取り消す術などこの世には無い。ルキナの『お願い』に、ロビンは少し驚いた様に目を丸くしたが。

 直ぐ様優しく頷いて、再びゆっくりと撫で始める。

 優しく温かなロビンのその手は、幼いルキナを褒めてくれた記憶の中の父の大きな手のそれに似ている様で、でももっと違う人のそれによく似ていて…………。

 胸が痛くなる程の懐かしさを、何故かルキナは、ロビンが撫でるその手に感じていた。

 不思議な懐かしさにルキナが暫し目を閉じていると、ロビンは優しく囁く様にルキナへと語りかける。

 

 

「ふふっ……貴女にこんな『お願い』をされると言うのも、悪くはないですね。

 ……ルキナさんは何時も頑張ってます。

 僕が戦えるのも、ルキナさんが傍に居てくれるからですよ。

 何時も、有り難うございます」

 

 

 ロビンの言葉は、優しくルキナの心を包む。

 温かな掌が、ルキナの心の深い場所に刻まれた傷を、そっと癒していく。でも、とロビンは呟く。

 その声には、幾許かの哀しみと痛みが混ざっていた。

 

 

「貴女は……傷だらけになってでも、誰かを、何かを守ろうとしてばかりで……。

 ……僕は、貴女を守れているのでしょうか……? 

 貴女の、力になれているのでしょうか……? 

 こんな小さな事ででも、少しでも貴女を支えられるのなら。

 それが、僕にとっては何よりもの幸いなのです」

 

 

 一通り優しく撫でられてからその手が再び離れた時は、一抹の寂しさこそ感じたもののルキナは自重した。

 だが、僅かに表情が曇るのは抑えられなかった様で。

 

 ロビンはそんなルキナの思いを汲み取ってか、「少し話をしましょうか」と微笑みかける。

 それを断る理由など無くて、ルキナは頷いた。

 

 二人して、野営地にあった篝火に照らされた切り株に座る。

 星明かり一つ無い夜闇の中。ユラユラと揺らめきながら頼り無く闇を散らす篝火に照らされたロビンの眼差しは、光の加減によって深い陰を落としていた。

 紅い瞳が焔の揺らめきを映して、燃える様に輝く。

 そんなロビンを見詰めながら、さあいざ話をしようとして。

 ルキナは急に言葉に詰まってしまう。

 思えば、ロビンとは今まで沢山話してきたけれども、その多くは戦に追われる日々の中のもので。

 こんな穏やかにも感じられる時間で何を話せば良いのか、ルキナには何も分からなかった。

 話したい事や聞きたい事は沢山ある筈なのに、言葉はグルグルと心の中で出口を見付けられないままに、確たる形もなく彷徨うばかりだ。

 言葉に詰まり迷ってしまっているルキナを見詰めて。

 ロビンは優しい笑みを浮かべながら、口を開いた。

 

 

「じゃあ、ここは僕から一つ。

 もし世界が平和になったら……。

 ルキナさんは、何をしたいですか?」

 

 

『世界が平和になったら』。

 そうロビンに言われて、ルキナはそこで初めて。

 自分が全く……平和になった世界というものを今だかつて想像した事が無く、それどころか、想像しようとしても全く出来ない事に気が付いた、気付いてしまった……。

 

 この絶望の世界を終わらせたい、人々を救いたいと願いながらも、その実、ルキナにはその光景を全く思い描く事が出来ないのだ。ルキナは確かに平和だった頃を、幸せだったあの幼い日々の事を、確かに覚えている筈なのに。

 それなのに。ルキナにとって『平和な世界』とは、言葉だけが頼り無く存在するものであり、絵に描かれた空想よりも非現実的なものにすら感じるものであった。

 それをハッキリと自覚して、ルキナは愕然とする。

 

 何と言う事だろうか。……ルキナは、世界を平和にすると、人々を救うのだと、そう口で言い続けそれを実現させる為に戦い続けていると言うのに。

『それ』が叶うなど、微塵も考えていなかったのだ。

 

 今日を生き抜く事すら容易には叶わぬ終わりの見えない戦いの中、刻一刻と滅びの足音が迫り来る中で、『平和になった世界』だなんて、何時訪れるかも分からぬ遠い未来に思いを馳せる様な余裕は無かった。

 だが……辿り着くべき未来すら思い描けぬと言うのは、余裕の有る無しなどの問題ではない。

 かつて幼いあの頃は、ルキナも確かに幸せな『平和』の中に居た筈なのに。

 それを取り戻したくて今も戦い続けていた筈なのに。

 過ぎ去ったあの日々に戻る術などとうに無く、幸せな思い出は何時しか擦り切れ色褪せていて。

 ……最早自分の人生で『戦い』が無い瞬間を、ルキナは全く思い描けなくなっていたのだ。

 絶望が終わる瞬間を、『死』と言う形以外でそれから解放されるその未来を、……『希望』を、ルキナは何時しか喪っていたのだ。

 

 なんと皮肉な事であろうか。

『最後の希望』として人々の『希望』を一身に託された自身が、自分の『希望』を喪っていたのだから。

『平和な世界を』と謳いながら、その世界すらも想像出来ないのだ。

 妄執にすらも満たないものに縋って、今までルキナは戦い続けていたのだ。

 これでは今まで何も成せなかったのは当然ではないか……と、ルキナは至らぬ自分を責めた。

 が、自責に沈みそうになるルキナの意識を、膝上で固く握りしめられたその拳を包む様に重ねられた優しく温かな手が引き上げる。

 ふとルキナが顔を上げると、ロビンが真剣な眼差しをルキナに向けていた。

 

 

「ごめんなさい、ルキナさん。

 僕が、軽率にこんな事を訊ねてしまったから……貴女を、追い詰めてしまった……。

 貴女は、『未来』を……『これから』すらも考えられない程に……追い詰められていたのですね……。

 でもどうか、そんなに思い詰めないで下さい。

 例え今思い付かないのだとしても。今は何も思い描けないのだとしても。

 今ここから考えていけば良いんです。

 僕は、……僕だけは。

 何があっても、貴女の傍に居ますから」

 

 

 そうルキナを心から想って語り掛けるロビンの目に、ほんの僅かに痛みや哀しみを堪える様な色が走った。

 だがそれはたった一瞬の事で、見間違いかと、ルキナはそう思ってしまう。

 

 そして、そんなロビンを見て。

 ふと、ルキナの胸に、『平和になった未来』で叶えたい『願い』が一つだけ生まれる。

 

 それは、どんな世界になるのか分からない『未来』でも、絶対に叶っていて欲しい『願い』で。

 ロビンが居なくては、叶わない『願い』であった。

 

 だからルキナは、やっと生まれたその『願い』を無くさない様に。

 改めてロビンに向き直った。

 

 

「……『平和な世界で何がしたいか』、とは少し違うかもしれませんが。

 でも、私にも叶えたい『願い』が、見付かりました。

 私は……。

 私は、平和になった世界でも、貴方と一緒に居たい。

 戦う必要が無い世界になっても、貴方には、ずっとずっと……私だけの軍師であって欲しい。

 ……それが、私の『願い』です」

 

 

 その『願い』を聞いたロビンは、驚きからか一瞬目を丸く見開く。

 そして、目元を緩ませつつ苦笑した。

 

 

「平和な世界には、軍師なんて本当は必要無いとは思うのですが……。

 ……でも、それも良いですね……。

 僕も、ルキナさんと、ずっと一緒に居たいです。

 それに、僕は貴女の軍師だ。

 貴女が望む限り、ずっと傍に居ます」

 

 

 ロビンのその言葉に、ルキナは湧き上がる様な嬉しさから思わずはにかんだ。

 ルキナが一方的に求めるだけでは無くて、ロビンもまた、ルキナと共に在る事を望んでくれている。

 それは、ルキナにとってはこの世の何よりも幸せな事であった。

『平和な世界』はまだまだ遠くても。

 それでも、ロビンがずっと一緒に居てくれるのなら。

 きっと、何時かはそこに辿り着けるのだろう。

 漠然としていて何処かうっすらと恐ろしさすら感じていたその『未来』も、今はもう何も恐くない。

 だって、どんな世界でも、そこにロビンが……ルキナだけの彼が居てくれるのなら。

 そこは間違いなく『幸せ』を見付けられる世界なのだから。

 

 

「では、改めて貴方にお願いします。

 ロビンさん、ずっと私の傍に居て下さい。

 それが、私の心からの、たった一つの『願い』です」

 

 

 ルキナの言葉に、ロビンは優しく微笑んで恭しくルキナの右手を取って軽く口付けた。

 

 

「誓いましょう。

 僕は、貴女を離さない。

 ずっと貴女の傍に居ます。

 如何なる時も、何があろうとも。

 それが僕の望みでもあり、貴女の願いでもあるのだから」

 

 

 熱を帯びた様なルキナの視線と、穏やかで静かなロビンの視線が絡み合う。

 篝火に照らされたロビンの紅く輝く瞳は、優しさを湛えながら、ゆらゆらと揺らめく光によって闇夜よりも尚濃く深い影を落としていた。

 

 

 夜闇は深く、かつては道に迷った人々を導いていた星の明かりすらも見えない。

 そんな闇に閉ざされた様な、頼り無い灯りだけが人々を見守る夜に。

 篝火に焼べられた薪が爆ぜる音だけが時折静かに響く中で、揺らめく光が仄かに写し出す二人の影は、ゆっくりと一つに重なるのだった…………。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第四話・A『世界と貴方を秤に掛けて』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナとロビンが巡り逢ってから、もうそろそろ一年が過ぎようとしていた。

 季節の移り変わりなどとうに喪われた世界ではあるけれども、それでも感慨深いものはある。

 

 ロビンは、あの夜に交わした誓いを守る様に。

 絶えずルキナの傍らに在り続け、ルキナの軍師として……ルキナの恋人として、常にルキナを支え続けてくれていた。

 

 まだ周囲には二人の関係を秘密にしているけれども。

 二人きりの時のロビンは、ルキナ以外には決して誰にも見せない様な笑顔を向け、そしてルキナを何処までも大切にしてくれる。

 恋人になる前ですらあれ程までに優しかったのに、あれでもまだロビンは自身を抑えていた様だ。

 

 ルキナの身も心も何もかもを解きほぐし、心の奥底の誰にも見えない場所に深く刻まれた傷すらをも、ロビンはゆっくりと癒す様に埋めてしまった。

 そうやってルキナの心をゆっくりと癒しながら、心の距離は縮めていったものの。

 ロビンは恋人になってからも決して無体等は働かず、丁重に壊れ物を扱うかの様に……決して一線を越えようとはしなかった。

 ルキナがそんなロビンと真実身も心も結ばれたのは、実はつい最近の事である。

 あまりにもルキナを丁重に……大事にし過ぎる彼に焦れて、ついにルキナから仕掛けたのがほんの数日前の事だった。

 一応はルキナも王族として『その手の知識』だけはあったのだが、何分初めての事で。

 でも、そんなルキナを気遣ってか、ロビンは終始優しく、常にルキナの事を慮っていた。

 

 ロビンは、どんな時にもルキナの事ばかりを優先し、ルキナを傷付け無いようにしてくれる。

 それは間違いなく彼から大事にされているからであり、それ自体は心から嬉しい事ではあるのだけど。

 ルキナは、ロビンになら傷付けられても良いのだ。

 きっと、ロビンがルキナを愛したが故に付いた傷痕ならば。

 それすらもルキナにとっては愛しいものになるだろうから。

 ……まあ、そんな事をロビンに言ったとしても、彼は「僕は貴女を傷付けたくはない」の一点張りなのだろうけれども。

 

 そんな少しばかり頑固で、でもどうしようも無い程に優しく愛しい恋人の事を想いながら、ルキナは今日も共に戦場に立ち続ける。

 ……決して『平和』ではないけれども。

 でも、確かに『幸せ』なこんな時間が、ずっとずっと続くのだろうと、続けば良いと……。

 この時のルキナはそう心の何処かで願っていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 その知らせがルキナの元にもたらされたのは、彼等がルキナの元を発ってから凡そ二年程の月日が過ぎ去った頃の事であった。

 

 この『絶望の世界』にもたった一つ残された『希望』。

 ギムレーを唯一討ち得るナーガの力を、人の身に得る為の『覚醒の儀』に必要な五つの宝玉。

 その行方を、仲間達が終に探し当てたと言う知らせであった。

 

 その行方の情報らしい情報も無く世界各地に散らばっていたそれを、仲間達は手分けして草の根を掻き分けてでも探し出し。

 宝玉が眠るその場所が最早人が住める地では無くなった土地であっても、決死の覚悟で侵入して宝玉を人の手に取り戻していたのだ。

 炎の台座と四つの宝玉を取り戻したのが、少し前で。

 残る最後の一つ、『黒炎』も、その行方の手懸かりとなる情報を確かに得られたのだと言う。

 

 彼等は取り急ぎ知らせだけを先に送ったが、『黒炎』を取り戻し次第、直ぐ様イーリスへと向けて再び彼らは発つそうだ。

 その知らせを受けて、ルキナは不思議な感慨に浸っていた。

 

 漸く……漸く、全てを終わらせる事が出来るのだと。

 やっとこの世界を覆う『絶望』を打ち払えるのだと。

 

 最早伝聞の中でしか知らぬ『覚醒の儀』で何が起きるのか……、ルキナは知らない。

 人の身に過ぎたナーガの力を得る為の儀式なのだ。

 命の危険をも伴う可能性もあった。

 それに、『覚醒の儀』を無事に終えたとしても、その先にルキナにはギムレーと対峙しこれを討つ役目が残っている。

 大陸の様に巨大であると言われているその邪竜を、例えナーガの力を得たとは言えども人間でしか無いルキナに、果たして討つ事が可能なのだろうか。

 

 何一つとして失敗は赦されぬ事であるだけに、不安は尽きないが……。

 

 だが、ルキナは独りでは無い。

 宝玉を手にイーリスへ帰還する仲間達と、そして──。

 誰よりも信頼し、誰よりもルキナを支えてくれる、ルキナの軍師が……ロビンが居てくれるのだ。

 

 例え相手が神話の時代より語られる災厄の邪竜なのだとしても、ルキナは決して負ける気がしなかった。

 邪竜さえ討ち滅ぼせれば、きっと世界は救われる。

 そこにあるであろう『平和』がどの様なものなのかは、まだルキナには想像は出来ないけれども。

 でも、無辜の人々が屍兵の恐怖に怯える様な事は、きっと無くなるのだ。

 

 そして──。

 

 そんな世界に、いや万が一そこが『平和』とは程遠い世界なのだとしても。

 そこにロビンが居てくれるのなら。

 ルキナはそれだけもう十分な程に『幸せ』なのだ。

 

 それに、ロビンが傍に居てくれるのならば。

 例えまだ『平和』には遠い世界になるのだとしても。

 きっと人々の幸せの為に、そしてルキナの『願い』の為にも。

 二人で一緒に、世界を少しでも良いものにしようと、共に手を取り合って進んで行ける筈だ。

 

 全く、寝ても覚めても自分の心にあるのはロビンの事ばかりだ、とルキナは思わず苦笑する。

 愛される事の幸せを、そして愛する事の幸せを。

 その何もかもを教えてくれたロビンが、こんなにも大切で、こんなにも愛しくて。

 傍に居てくれるだけでも既に満たされてしまいそうなのに、その先すらをもロビンは与えてくれるのだ。

 時々、ルキナはロビンが与えてくれたモノと同等のモノを彼に返せているのかと少し心配になってしまうけれど。

 でもそんな憂慮を僅かにでもロビンに悟られてしまう度に。

 ロビンはルキナの不安も何もかもを包み込む様な優しい笑顔で、『ルキナの傍に居られるだけで、もう十分な程に幸せを返して貰っている』のだと語ってくれるのだ。

「無欲なんですね」とルキナが言う度に、ロビンは笑って首を横に振って、「僕は、きっとこの世界の誰よりも強欲ですよ」と言うのだ。

 ロビンが強欲だなんて……そんな事は無いとルキナは思うのだけれど、彼がそう言うのならそうなのかもしれない。

 ……それにきっとルキナも、ロビンに負けない位に強欲なのだろう。

 

 だって、こんなにもただ一人の事を求めていて、こんなにもその一人に自分の事を見て欲しくて、そして、ずっと傍に居て欲しいと願ってしまうのだ。

 相手の何もかもを自分に縛り付けるかの様なそんな『願い』を、強欲と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。

 二人揃って『強欲』だなんて言うのも、何だかお似合いみたいで少し嬉しかった。

 

 そうだ、とルキナは端と思う。

 仲間達が無事帰還したら、皆にもロビンの事を伝えなくてはならない。

 きっと皆驚くだろうけれど、でも直ぐにロビンの事を受け入れてくれるだろう。

 仲間達がイーリスを発った後でロビンがルキナをずっと支え続けてくれていたのは紛れもない事実だし、何よりその人柄に触れればロビンが信頼に値する人だと直ぐに納得してくれる筈だ。

 何だったらその時に、仲間達にだけはルキナとロビンの関係性を明かしても良いかもしれない。

 益々驚かせてしまうかもしれないけれど、でも、きっと祝福してくれるだろう……。

 

 そんな事を考えていると、ルキナにはその時が一層待ち遠しくなっていった。

 

 

 絶望に疲弊仕切っていた人々も、漸く幽かに見えてきた『希望』に何処か高揚を隠せなくなってきたその頃。

 

 

 ロビンの様子に、小さな《変化》が訪れていた……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 それは、ルキナが仲間達からの知らせを受け取ってほんの少し経ってからの事だ。

 

 未だ『黒炎』が手に入っていないのか、或いは何かしらの予期せぬ事態が起きているのか。

 仲間達は未だに誰一人としてイーリスに帰還せず、何の音沙汰も無く。

 誰もが気を揉みながら仲間達の帰りを待ち望んでいたその頃。

 

 ロビンは、物思いに沈む様な顔を見せる事がとても多くなっていた。

 

 ルキナと二人きりで居る時ですら、その顔には僅かに翳りが浮かんでいて。

 それは本当に些細な変化で、出逢ったばかりの頃のルキナでは決して気付けなかっただろうけれども。

 でも、既にロビンと想いを通じ合わせたルキナには、ハッキリと分かる程の変化であった。

 

 一体何が彼をここまで悩ませているのだろうか? 

 ……ルキナには、その心当たりが全く無い。

 何故なら、世界には漸く『希望』の光が射し込もうとしている所で。

 彼を思い悩ませる様な事など何も起きてはいない筈なのに。

 

 例えその理由がルキナには分からないのだとしても。

 ロビンが悩んでいる事に気付いてしまったら、ルキナはそれを見逃せない。

 ロビンは、ルキナの心を救ってくれた、支え続けてくれた。

 ならば、今度はルキナの番なのだ。

 ロビンをここまで思い悩ませる『何』があるのなら、ルキナはそれを解決してあげたかった。

 もしそれが叶わないのだとしても、その時はせめて共に背負いたかったのだ。

 だから、ルキナは。

 

 闇夜の帳が降り、皆が寝静まったその夜に。

 戦場を巡る生活続き故に久方振りに帰還したイーリスの城の自室で。

 ロビンと二人きりになったその時に。

 思い切って訊ねたのだ。

 

 

「ロビンさん……。

 最近の貴方は、『何か』にとても悩んでいますよね? 

 もし良かったら、私だけにでも、その理由を話してくれませんか?」

 

 

 貴方の力になりたいのだ、と。

 貴方を支えたいのだ、と。

 そう言外に訴えたルキナに、ロビンは酷く迷う様に一度視線をルキナから逸らす。

 

 

「それ、は……」

 

 

 どう言うべきなのか、話すべきなのか、そう悩んでいる事が滲み出ているロビンその態度に。

 

 

「私は、ロビンさんが『何』に悩んでいるのだとしても、貴方の力になりたい。

 貴方のその悩みを、共に解決したい。

 だから、話して頂けませんか?」

 

 

 と、ルキナは再び訴える。

 すると、ロビンは観念した様に一つ息を吐き、静かにその目を閉じた。

 ──そして。

 

 ゆっくりと再び開けたその目からは、『迷い』の色の一切が消え去っていた。

 そして、静かに切り出す。

 

 

「では、そうですね。

『もしも』の話を、しようとしましょう」

 

 

『もしも』の話だと、ロビンはそう前置きをしたが。

 ルキナを見詰めるその深い深い紅の眼差しは、ルキナの全てを見通している様な、意識を全て呑み込まれてしまいそうな。

 そんな、不思議な力が宿っていた。

 

 

「ルキナさんの前に、二つの選択肢があるとします。

 一つは、『自分が今まで背負ってきたモノ』を選ぶ道。

 もう一つは、『自分が望んだモノ』を選ぶ道。

 貴女は、どちらかを選ぶ事は出来るけれど、それと同時に、選ばなかった方を喪うでしょう……」

 

 

 まるでルキナの一挙一動を視線で射抜くかの様に、ロビンは痛い程に真っ直ぐにルキナを見詰める。

 そして、「もしそうならば」、とルキナに尋ねた。

 

 

「ルキナさん。

 貴女は、どちらを選びますか?」

 

 

 ロビンの紅く輝く瞳が、ルキナを何処までも真っ直ぐに見据える。

 その瞳の輝きに囚われてしまったかの様に、ルキナは身動き一つ取れない。

 鼓動が次第に早くなって行くのを感じた。

 

 一度、二度。

 浅く深く息を吸って、ルキナは何とか瞬きは出来る様にはなった。

 それでも、早鐘を打ち鳴らす鼓動は、ルキナを急き立て続ける。

 

 ロビンは、ルキナの答えを静かに待ち続けていた。

 その眼には冗談の色など一欠片も存在していなくて。

 だからこそ、ルキナはここで間違えてはいけないのだ、と気付いた。

 

 暫しの沈黙がその場を支配する。

 ルキナも、ロビンも。

 身動ぎ一つしない中で先に動いたのはルキナだった。

 

 一度深く深く息を吸って、心と鼓動を整える。

 自分が背負わねばならぬもの、自分が望むもの。

 そのどちらもを選ぶ事が叶わないのだとすれば。

 それらが相反するものとなってしまうのならば。

 そして……そのどちらかを、ルキナ自身の意志で選ばねばならないのだとしたら……。

 ルキナはその二つを秤に掛け、迷いながらも考え抜いた。

 

 自分の背負わねばならぬもの……人々から託された希望、父から受け継いだもの、そして何時かはルキナもまた、後を継ぐ誰かに託しゆかねばならぬもの。

 それはルキナにとっては自らの生き方そのものであり、ルキナと言う存在の根幹を成すものである。

 それから背を背けて逃げる事など出来ぬものであるし、況してやそれを選ばないなど……捨てる事など、赦されて良い筈もない。

 それは、ルキナに託した人々への……連綿と続く自らの血への、裏切りに他ならない。

 だけれども……。

 

 

 自分が望むもの、欲するもの。

 それは、聖王家の末裔としてではなく、『最後の希望』としてのものでもなく。

 ただ一人の、ルキナと言う名の人間として、こんな絶望しかない様な世界でやっと見つけた『願い』を、何よりも大切な『想い』を。

 それを切り捨てる事など、ルキナには出来ない。

 ルキナ個人としての『願い』が、人々の『希望』とは相容れないものであるのだとしても。

 それを選んでしまえば、ルキナはもう今までの自分ではいられなくなるのだとしても。

 その『願い』は、ルキナにとっては何よりも大切で。

 だからこそ……。

 

 どちらも選べない様な選択を。

 何を選んでもそこに悔いが残るであろうそれを。

 ルキナは迷い悩み……そして一つの結論を下す。

 

 そして、重々しい口を開いてルキナは答えた。

 

 

「私、は──」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

→【終焉の果て】

 

→【あなたが居れば】



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END①【終焉の果て】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「私、は……。

 ……自分が背負ってきたモノを、捨てる事は……出来ません……。

 託された『想い』や『願い』を……、私は……背負い続けるでしょう……。

 きっと……。

 その『使命』を果たし終えるか、この命が尽き果てるその時まで……」

 

 

 ルキナは迷いつつも、そう答えた。

 迷いはある。

 喪いたくない『願い』を秤に掛けて尚、それでもそれを撰ぶのか、と。

 そう問い続けてくる己の心がある。

 身を縛る枷にすらなっているモノを捨てて、『願い』を選べれば、と。

 そう思ってしまう自分も居る。

 

 だが、しかし。

 選ばなくてはならないのなら。

 ……それが何れ程ルキナには重い枷であるのだとしても、そしてその為に……自分の『願い』を捨てなければならないのだとしても。

 それでも……。

 

 今ここにあるルキナを形作ったのは、今までルキナが背負ってきたモノ達だ。

 人々から託されたモノ、父より受け継いだモノ。

 それらは『希望』や『期待』……或いは『使命』と言う名でもあり、『国』と言った概念であったりもした。

 父が背負ってきたモノでもあり、ルキナが何れ誰かに託すその日まで背負い続けるべきモノ達だ。

 例えそれが今にも押し潰されてしまいそうな程に、重い枷なのだとしても。

 何時かルキナと言う人間そのものを磨り潰すかの様な『希望』であっても。

 それでも、他の誰でもなくルキナが託されたのだ。

 故に。

 ……それを自ら捨ててしまう事は、何があっても、例え何を対価に差し出さねばならないのだとしても、……ルキナには出来ない、選べない。

 

 ルキナのその答えに、ロビンは静かに目を閉じた。

 

 

「……ルキナさんらしい、ですね」

 

 

 静かにそう言って、再び目を開けた時には。

 先程までの何処か呑み込まれてしまいそうな雰囲気は、幻であったかの様に霧散していて。

 何時もの様な、穏やかで温かな眼差しで、ロビンはルキナを見詰めている。

 

 

「……僕は、貴女がどんな選択をするのだとしても、貴女の『望み』を叶えます」

 

 

 僕は、貴女だけの軍師ですから。と。

 ロビンは優しい微笑みをルキナに向けた。

 それは、何時も通りの……、何よりも愛しい笑顔で。

 ロビンを傷付けてはいなさそうな事に、何故かホッとして。

 ルキナは漸く胸を撫で下ろす。

 

 そんなルキナをロビンは優しく見詰め、そして。

 その髪を優しく梳う様にして掬い上げた。

 そこにキスを一つ落とし、ロビンはルキナの耳元で囁く。

 

 

「そんなに心配しなくても、これはただの『もしも』の話ですよ。

 でも、ルキナさんの想いを知る事が出来て、何よりです」

 

 

 ですが……、と僅かばかりロビンその目が曇った。

 哀しみすらをも内包したその眼差しで、ロビンはルキナを見詰める。

 

 

「ルキナさんが背負うモノが、貴女の『願い』を殺してしまうのだとしても尚、貴女がそれを背負い続ける事しか選べないのは……。

 少しだけ、哀しいです。

 自分の『願い』すらも自由に持てないのなら。

 ……貴女の意志は、心は、何処に在れば良いと、言うのでしょうか……」

 

 

 ……ルキナは、自ら背負うモノを捨てられはしない。

 例えその生き方が、人々の『希望』に縛られた、操り人形の様な生き方なのだとしても。

 ルキナはそれを背負い生きていく事を選ぶであろう。

 そこに、ルキナに『希望』を託す者が居る限り。

 ルキナがルキナである限りは、その生き方を変えられない。

 それを憐れだと、そう思う事も出来るのだろう。

『希望』と言う名の枷に縛られた奴隷の様だとも、そう感じる瞬間が無いとも言わない。

 しかしそれでも、託し託されて繋がる命の環の中にある者として、そしてそれに生かされてきた者としては、自らが背負うそれを捨て去る事など……やはり出来ないのだ。

 ルキナが背負わねばならぬ物は、確かに他の者が背負うそれよりも重く……故に苦しみもがいてきた。

 それでも、自らが負うべきその責から……重みから、逃げ出し背を向ける事は出来なかった。

 逃げる事は罪ではないのかも知れないが、人々の『期待』がそこにあったにせよ、どれ程苦しくともそこに踏み止まる事を選び続けたのは、結局はルキナ自らの意志である。

 だからこそ、何がその片側の天皿に載せられているのだとしても、選ばねばならぬというのであれば、やはりルキナはそれを選んでしまう。

 それこそが、ルキナ自身の『矜持』であるのだから。

 それに……。

 

 例えルキナ一人だけなら自らの『願い』を捨てねばならないのだとしても。

 ルキナは独りでは無い。

 

 

「でも、私にはロビンさんが居ます。

 だから、きっと、大丈夫……。

 貴方が私の『願い』を拾い上げてくれるのなら、私はきっと自分の『願い』を殺す事無く抱え続けていられる。

 そう、私は思います」

 

 

 その言葉に、ロビンは少し驚いた様にルキナを見て。

 「そうですね」と優しく微笑んだ。

 そして。

 

 優しくルキナを抱き寄せて、そのまま首筋に優しい口付けを残す。

 ルキナもまた、それに応える様に口付けを返した。

 二人は見詰め合い、どちらからと言う訳では無く、互いの唇を優しく愛で満たす様に塞ぐ。

 

 愛し合う恋人達の夜はそうやって更けて行き、そしてまた、厚い雲に覆われ陽の光を奪われた朝がやって来た。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 何故だか寒いと感じて、寝起きであるが故に朧気なルキナの意識はゆるゆると覚醒に向かった……。

 朝は何時も愛しい温もりの中で目覚める筈なのに。

 朝が寒いなんて、ロビンと結ばれてから一度も感じた事が無かったのに……。

 何故……? とぼんやりと考えながら、ルキナは傍らに在る筈の温もりを手探りで捜す。

 だが、何時もなら直ぐそこに在る筈の温もりは何処にも無く、冷えたシーツの手触りが返ってくるだけで。

 そこでルキナは、眠りに落ちる寸前には確かに傍らにあった温もりが、……何処にも無い事に気が付いた。

 言い様の無い不安に襲われたルキナは、寝惚け眼ながらも起き上がり、辺りを見回す。

 

 

「ロビン、さん……?」

 

 

 声を掛けても、静寂の中にルキナの声が響くのみで。

 ……ルキナを何時も包み込んでくれるその声が返ってくる事は、……無かった。

 

 居ても立っても居られない程の激しい不安に襲われ、ルキナは寝台から飛び出して、ロビンの姿を探す。

 

 だが……何れ程探しても、ロビンの姿は何処にも見付からなかった。

 ……それ処か、ロビンの私物も、その殆どが彼と共に忽然と姿を消していて。

 

 

 

 

 そうやってロビンは、ある日突然に。

 ルキナの前からその姿を消してしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ロビンが突如居なくなってから、もう二週間も経ってしまっていた。

 

 イーリスの『希望』とまで謳われた二人の内の片翼が喪われたともなれば民に与える影響は計り知れない。

 故にロビンが忽然と姿を消した事は一部の兵達を除いて箝口令が敷かれ、今はまだ多くの人々はその事実を知らない。

 そしてロビン捜索の密命を帯びた一部の将兵が手分けしてロビンの行方を追ったが、何一つとして手懸かりを得られなかった。

 

 ロビンの存在を厭う何者かの手に落ちたのか、或いは自らの意志でルキナの元を去ったのか。

 それは、誰にも分からないが……。

 ルキナにとっては、最愛の軍師が自分の傍に居ないと言う事だけが絶対の事実である。

 

 ロビンが消息を絶って一週間程が経った時には、ルキナは窶れ果てていた……。

 

 どうして、と。

 幾度そう思ったのだろう。

 何処に行ってしまったのか、と。

 幾度そう思ったのだろう。

 

 ロビンは、確かにルキナの傍を離れないと、そう誓ってくれたのに……。

 自分は、また……喪ってしまったのか、と。

 ルキナはそう思い悩み続け、食事もロクにとれず、眠る事も出来なくなってしまっていた。

 

 ロビンが居た場所に、突如大きな虚ろが生まれてしまったかの様で。

 目に映る何もかもが虚無的にすら、感じられる様になってしまっていた。

 

 ロビンが傍に居てくれるだけで彩りが甦って見えた世界は、最早灰色を通り越して色すら喪い。

 それでも尚ルキナの耳に届く人々の『願い』が、酷く耳障りにすら聴こえてきてしまう。

 

 ロビンの声を聞きたい、ロビンに名前を呼んで欲しい、ロビンの微笑みが欲しい、ロビンにただ傍に居て欲しい……。

 だが幾らルキナが願えども、ロビンがその傍に居ない事実は変わらず。

 その度に、その現実に打ちのめされる。

 

 夢の中でならロビンが傍に居るのに、目覚めてしまえばその姿は何処にも無い。

 ルキナは次第に夢から起きる事が、怖くなってしまった。

 ロビンの温もりが何処にも無い朝が、ロビンが何処にも居ない現実が、それを実感する事が……辛くて。

 

 それでも、ルキナは進まなければならない、戦わなければならない。

 戦い進み続ける事こそが、ルキナに課せられた『使命』なのだから。

 ルキナは、人々の『希望』なのだから…………。

 

 生きていく為に必要な全てに限界を迎えていても、その使命感に縋る様に、ルキナは何とか生きていた。

 もう気力も何もかもが尽き果てた身体を、ただ使命感による惰性に引き摺られる様にしながら、今日も先の見えない戦いを続けている。

 

 

 

 久方振りに、屍兵が大規模な集団を組織しているらしい、との情報がルキナの元に届けられた。

 ……ロビンが、傍に居た時は。

 屍兵の集団が膨れ上がるよりも前に、それを事前に察知しては屍兵を掃討して、被害の拡大を抑えてくれていた。

 だが、ロビンが何処かに去ってからは、どうしてもそんな所までは手が届かず。

 屍兵が群れを成す事を許してしまっていたのだ。

 

 …………。

 相手となる屍兵の数が増えれば、それだけ犠牲となる兵も増える。

 薬も治療の杖も、何もかもが足りないこの世界では。

 治療の杖が、薬さえあれば助かったであろう命ですら、見捨てなければならない。

 それ所か、屍兵となって甦るのを阻止する為にも。

 その遺体は灰になるまで焼くのが、決まりである。

 仲間の遺体に縋り泣く時間すら許してやれない。

 一体この戦いで、何れ程の兵が犠牲となるのだろうか……。

 陰鬱たる想いを抱きながら辺り一面に蠢く屍兵を睨み付け、ルキナが戦闘開始の号令を出そうとしたその時だった。

 天馬に跨がり空から戦場を遠く見渡していた哨戒兵が、緊急事態を知らせる笛をけたたましく吹き鳴らす。

 が、その直後。

 まだ誰もが、何が起きたのかを理解する事も出来なかったその瞬間に。

 

 世界が終わってしまうかの様な轟音が響き渡り、辺り一面を薙ぎ払った。

 

 それと同時に、夜でもないのに視界の全てが闇に覆われ、まるで突然大嵐の中に投げ出されたかの様な烈風がルキナの周囲に吹き荒れる。

 だが不思議と。

 ルキナには傷一つ付いてはいなかった。

 何も見えない闇と、耳が壊れそうな程の轟音の中で、ルキナは必死に兵達を呼ぶが、何も返ってこなかった。

 悲鳴すらも、だ。

 そんな世界の終わりの様な異常事態も、その大嵐の中に投げ出されていた時は何時間にも及んでいた様な気もしたが、恐らくは一分も無い程の僅かな時間で終息を迎えつつあった。

 轟々と空が唸る様な音が止むと同時に、辺りを覆い尽くす闇は次第に薄れ、ゆっくりとルキナの視界が開けていく。

 が、そこに広がっていた想像を絶する凄惨な光景に、ルキナは思わず息をする事すら忘れて絶句した。

 

 

 ルキナの周りには、『何も』、無かったのだ。

 

 

 森を抜けた草原一面に蠢く屍兵達と対峙していた筈なのに。

 ルキナ達は、森の中にあった古い砦を中心として、一個大隊による布陣を築いていた筈なのに。

 ルキナの周囲には、木々や砦どころか、草一つすら残っていない。

 ただただ、何も無い開けた大地だけが、ルキナの視界一面に何処までも広がっている。

 兵の、遺体すらも、欠片も残っていなかった。

 そこに何かが居たと言う痕跡すらも無い。

 最初から、屍兵も、兵達も、何も居なかったのではないかとすら、錯覚してしまう程だ。

 何が起きているのか、何が起きたのか、ルキナには理解出来ない。

 理解を超えた衝撃的な光景に立っている事すら出来ず、ルキナはその場にへたり込む。

 ガタガタと、抑える事も叶わず身体が震える。

 何故、ルキナだけ生き残っているのか。

 偶然なんて、そんな都合の良い事など起こり得ない。

 ルキナ以外の全てが影も形も残さず消し飛ばされているのに、ルキナだけが怪我らしい怪我するも無くこうやって無事である事が、何者かの作為でなくて一体何だと言うのだろう。

 

 神竜の加護? 

 まさか、そんな事は、有り得無い。

 神竜の力はそんな都合の良いモノでは無いし、第一そんな事が可能なら、そもそも父をむざむざと殺させはしなかっただろう。

 本当に神竜の力が万能であるならば、こんな絶望しか無い様な世界になんてならなかっただろう。

 

 ルキナはギムレーを討つ為にその力を求めている一方で、彼の存在が人間にとって全くの都合の良いものであるとは微塵も思っては居なかった。

 人を慈しむかどうかの問題ではなく、彼の存在は何の制約もなくその力を振るえるものでもないのだろう。

 絶望を直視し続けた結果、ルキナは神竜が全知全能の神では無いのだろうと結論付けていた。

 彼の神にも成せる事の限界は有るのだろう、と。

 何にせよ、ルキナただ一人が生き残ったのは、神竜の思し召しなどでは無いのだ。

 なら、一体何者なのか。

 その者が一体何の意図を持ってルキナだけを生かしたのか。

 ルキナの脳裏には、その答えとしてある一つの存在が導き出されていた。

 

 ……こんな事は最早人や屍兵などが成せる業などでは無い。

 処理能力の限界を超えた光景に、凍り付いた様に動きを止めてしまいかけている頭の片隅で、ルキナはそう思考する。

 これを成せる存在がいるのだとしたら、それは最早『神』としか言い様が無い存在なのだろう。

 ならば。

 この様な光景を産み出し得る存在、とは──

 

 

 

 世界を滅ぼさんとし、絶望を世界に満たした、彼の邪竜ギムレーに、他ならないのではないのか、と。

 

 

 ルキナ一人だけを生かした意図は、かつて初代聖王に討たれた事への復讐か、或いはまた別の意図があるのか……。

 幾ら神竜の牙に選ばれたのだとしても、所詮はただの人でしかないルキナには邪竜の真意など理解出来よう筈もない。

 何にせよ、ルキナの命運は、ここで尽きたと言っても過言では無いだろう。

 手の中のファルシオンには未だ神竜の力は宿らず、ルキナには邪竜を前にして、抵抗らしい抵抗をする術すら無いのだから。

 

 その人智を超越した圧倒的な破壊の力を目の当たりにして、ルキナは嫌でも理解してしまった。

 神竜の存在故にか今まで邪竜が直接イーリスに侵攻してきた事は無かったが。

 彼の邪竜がほんの少しでもその力を振るえば、人の身でそれに抗する事など不可能なのだと。

 ルキナはその事実を、理解してしまった。

 それと同時に、何時だって胸の中にあった反抗の意志や希望も潰えていく。

 最後の聖王を継ぐ者としては、何としてでも生き延びなければならない。

 神竜の力を得て、再び邪竜と対峙するその時までは、ルキナは死ぬ事すら許されないのだ。

 だが、逃げた処で何になると言うのだろう。

 神竜の力を得た処で、どうなると言うのだ。

 ファルシオンに神竜の力が蘇った処で、ルキナはただの人間でしかない。

 人間が立ち向かった処で、その吐息一つでルキナは跡形もなく消し飛ばされるだけだ。

 残酷な現実を直視してしまったが故に、最早この場から逃げ出そうとする気力すら、ルキナには残っていなかった。

 第一、逃げ出した所で逃げ切れる訳が無い。

 

 全ては、無駄だったのだと。

 自分が今まで必死に戦ってきて、その結果が、これだったのだと。

 最初から人間に勝ち目など無かったのだ。

 この絶望の世界でも、細々とながらも人間が生き延びて戦う事が出来ていたのは、ただの邪竜の気紛れでしかなかったのだ。

 一体、自分は何の為に戦ってきたのだろう。

 何の為に生きてきたのだろう。

 絶望の中で『希望』に圧し潰されそうになりながら必死にもがいて戦って、そして。

 こんな場所で、何も成せないまま、邪竜に嬲られて殺されるのが、ルキナの最期なのだと。

 そう思うと、乾いた笑いすら込み上げてきそうになる。

 尤も、声を上げて笑う事すら今のルキナには辛過ぎて、掠れた様な息が口から溢れるだけだったのだけれども。

 

 

 …………せめて、最期なのだとしても。

 自分の傍に、『彼』が居てくれたなら、と。

 ルキナの心に未練が灯る。

 

 

 ロビンが傍に居てくれたのなら、こんな事にはならなかったのだろうか。

 ロビンがここに居てくれたら、この胸の虚ろは満たされたのだろうか。

 ロビンが居てくれたなら……。

 死に行く運命が変わらないのだとしても、それでも。

 こんな虚ろな最期では無かったのではないか、と。

 

 どうしようも無い未練だった。

 ロビンはもう、ルキナの元を去ってしまったのだ。

 それを分かっていながらも傍に居て欲しいと願い続けるなんて、未練がましいにも程がある。

 だが、避け得ぬ死を前にしているからこそ、自分の気持ちを偽る事など出来ない。

 

 もし、あの夜に。

 違う答えを、ロビンに返していたならば。

 こんな事にはならなかったのだろうか? 

 ロビンは今も変わらずにルキナの傍に居てくれたのだろうか……? 

 

 後悔しても時は戻らない。

 時を戻す術はなく、選んだ道を『無かった事』にする事は例え神であっても不可能だ。

 あの時に違う答えを返していたのだとして、それでロビンが居なくならなかったと言う保証も何処にも無いのだろう。

 それは、分かっている。

 それでも、それがどうしようもない未練なのだとしても、ルキナはそう思わずには居られなかった。

 

 そうやってロビンの事を考え続けていたからだろうか。

 

 酷く聞き慣れた、探し求めていた……だけどそれと同時に。

 この状況でだけは聞きたくなかった、足音が。

 ルキナの背後から近付いてくる。

 

 

「ルキナさん」

 

 

 何よりも愛しいその声は、『何時もの様に』穏やかで。

 そして、この光景には何よりもそぐわないものであった。

 

 ぎこちなくルキナが振り返ったそこには、ロビンが。

『何時もの様に』穏やかな微笑みを浮かべて立っていて。

 離れていた時間など一瞬たりとも無かったかの様に。

 ルキナを、愛おし気に見詰めていた。

 そして、足腰が立たなくなってしまっていたルキナへと歩み寄り、跪いた彼は、心配そうにルキナの頬へと優しく撫でる様にその指先を触れさせる。

 

 

「ごめんなさい、ルキナさん。

 こんなに、窶れさせてしまって……。

 僕の、所為ですよね……。

 本当にごめんなさい……。

 貴女の傍を離れず、ずっと傍に居ると約束したのですが、その為にはどうしても先にやらなくてはならない事があったんです」

 

 

 こんな、こんな……。

 世界の終わりの様な光景を前にしても、そう語るロビンは『何時も通り』で…………。

 …………だからこそ、剰りにも『異質』であった。

 

 

「でも、大丈夫ですよ。

 もう、『全部終わらせて』来ましたから。

 だから、僕はずっとずっと、貴女の傍に居られます。

 もう、絶対に離れたりしませんから。

 だから、安心して下さい」

 

 

 ニコニコと穏やかに微笑みながら、そう嬉しそうに語るロビンに。

 ルキナは何とか絞り出した様な震える声で、問う。

 

 

「ロビン、さん……。

 貴方は、一体…………」

 

 

 何者であるのか、と──。

 その答えに、ルキナはもう辿り着いているのに。

 ……それを認めたくなくて。

 だって、ロビンは……あまりにも変わらなくて、『何時もの様に』優しくて。

 だからこそ『異質』で、でも、今目の前に居る彼は、ルキナの愛する『ロビン』その人で……。

 混乱し支離滅裂な思考は空回りするばかりだ。

 僅かに残された理性が辿り着いた答えを、他でもないルキナ自身の心と身体が拒絶した。

 それなのに、縋る様なその淡い妄想の様な願望は、儚くも砕け散ってしまう。

 

 

「僕は──『邪竜ギムレー』。

 人々からはそう呼ばれている者です」

 

 

 剰りにもあっさりと。

 一番否定して欲しかった答えを肯定され、ルキナは最早力無く項垂れるしか無かった。

「勿論、貴女の軍師のロビンでもあります」、と。

 彼が続けた言葉は虚しくルキナの胸を通り過ぎるだけで。

 どうして、と糾弾する気力すら、もうルキナには残されていない。

 この光景を生み出して尚、『何も変わらない』彼に。

 彼我の間に横たわる、剰りにも埋め難い溝を、ありありと理解してしまったからだ。

 それでも、ポツリと呟かれた言葉は止まらない。

 

 

「私を殺す為だけに……こんな事を……?」

 

 

 いっそ、肯定してくれるなら。

 最初からルキナを裏切り殺す為だけに、聖王への復讐としてルキナに近付いたのだったら……。

 彼から与えられた温もりも愛も、何もかもが、……全てルキナに取り入る為の『偽り』なのだとしたら……。

 何れ程、救われるのだろうか……。

 

 だが、『彼』は「まさか」と言いながら首を横に振る。

 

 

「確かに最初は、僕を害し得るナーガの眷族の末裔とファルシオンをこの世から消し去ろうと思ったのが始まりでした。

 そしてどうせなら、聖王の末裔に飛びっきりの『絶望』を与えて、絶望と虚無に沈んだその魂を喰らおうと……そう、思ったのですが」

 

 

 でも、と彼は呟いて、困った様に指先で頬を掻いた。

 

 

「ルキナさんに信頼して貰える様に、『器』のかつての人格を模倣して近付いたのですが。

 でも……かつての『器』の人格を長く模倣し続けていたからでしょうか? 

 貴女と共に過ごす内に何時しか、貴女を忌々しいナーガの眷属の末裔ではなく、この手を離したくない存在だと……、愛しい存在だと、……そう本心からそう思えてきて」

 

 

 そして、何よりも大切な宝物を見詰める様な、優しい優しい眼差しで、彼はルキナを見詰めた。

 

 

「何時しか、ルキナさんにずっと傍に居て欲しいと。

 そう思うようになったんです。

 そして貴女を、その身を縛る全てから奪い去ってしまいたい、とも」

 

 

 にっこりとそう優しく笑う彼が、ルキナには何処までも恐ろしい。

 そこに何の偽りも無い事が嫌でも伝わってきてしまうからこそ、……それは何処までも悍ましいのだ。

 そして何よりも恐ろしいのは。

 ここまで聞かされて尚、他でもないルキナ自身の心が、彼を愛しく思ってしまう事だった。

 憎い筈なのに、それなのに、ルキナは未だに彼を愛しているのだ。

 

 

「だから、ルキナさんも僕の事を愛してくれているのだと理解した時に、とてもとても嬉しくて……。

 本当は、あの場で貴女を拐って僕のものにしてしまいたかったんですよ」

 

 

 それが歪であったのだとしても、本来は相容れないものであったのだとしても。

 彼がルキナに向けてくれていたその『愛』は、『優しさ』は、…………『嘘』では無かったのだ。

 

 もし彼の全てが偽りであったのなら。

 ルキナは彼を愛しいと想う心を殺せただろう。

 例え敵う術など無いのだと理解しつつも、その結果殺されるのだとしても。

 せめて一矢報いる事で、人としての矜持を示そうと。

 父より受け継いだこの剣を、彼に向けられただろう。

 

 でも、駄目だった。

 ルキナには、もう出来なかった。

 

 例え彼が、この絶望の世界を作り出し、世界に滅びを招いている張本人であるのだとしても。

 神竜とは決して相容れない邪竜なのだとしても。

 ……それでも。

 

 ルキナが彼と過ごした時間は、彼と交わした愛は。

 たったそれだけは……紛れもない本物だったのだ。

 例えその身の上が『偽り』から始まった関係であったのだとしても、そこにあった『心』だけは、掛け値なしの『真実』だったのだ。

 

 だからこそ……ルキナの憎しみは行き場を見失う。

 屍兵を生み出し、世界を滅亡させ、ルキナを絶望の闇の中を彷徨わせたのは、確かに彼だ。

 憎い筈なのに、許せない筈なのに、なのに……。

 

 彼がくれた幸せな時間が、彼と過ごした思い出が、彼がルキナに捧げてくれた愛が。

 ルキナの心を、千々に引き裂く。

 憎しみが行き場を無くして、ルキナの胸の内で悲哀の慟哭を上げた。

 

 

「ルキナさんの事が大切で、だから、貴女に無責任に課せられた『希望』や『期待』……。

 貴女を縛るモノ全てから、貴女を守りたかった。

 貴女の心が、それに壊されてしまう前に……。

 だから、貴女が自らの手では背負わされたモノを降ろす事も出来ないのなら、……貴女が自分の『願い』を選べないのなら、僕が代わりにそれを成そうと思ったんです」

 

 

 でも……、と彼は少し辛そうな表情で、誠意を込めて謝る。

 

 

「思っていたよりも手子摺ってしまい、少し時間が掛かってしまいました……。

 少しの間とは言え貴女との誓いを破って、貴女の傍を離れて、それで貴女を苦しめてしまって……。

 本当に……すみません……」

 

 

 もう何もかもに疲れ果てたルキナを包み込む様に、優しく優しく彼はルキナを抱き締めた。

 そして、ルキナを安心させようとする時の様に、彼はルキナにしか向けない飛びっきりの笑みを浮かべる。

 

 

「でも、もう大丈夫です。

 ルキナさんが戦わなければならない『理由』は、もう何処にもありません。

 貴女が戦い続けなければならなかったのは、貴女がこの世で唯一のファルシオンの継承者だから。

 そして、ファルシオンだけが、僕を封じ得る唯一の武器だったから。

 でも、もうそんなの関係無いんです」

 

 

 だって、と彼は言葉を区切る。

 そして、花が綻ぶ様な笑みを浮かべて、恭しくルキナの手を取った。

 

 

「もう、神竜はこの世界の何処にも居ませんから。

 次代の神竜と成り得た巫女も、厳重にその魂を一欠片も遺さずに抹消しました。

 だから、宝玉を集めて《炎の紋章》を完成させても、ナーガの『覚醒の儀』は絶対に行えません」

 

 

 彼は。

 この世界から一切の『希望』が喪われた事を、無邪気に笑いながらルキナに語る。

 

 

「ナーガの力を得られない以上、その牙であるファルシオンはただの切れ味が良い剣でしかありません。

 僕を封じる事なんて絶対不可能です。

 ね? ならもう戦う『意味』なんて何処にも無い。

 もうルキナさんが身も心も傷付き果ててまで、人々の『希望』なんてものの為に戦わなくて良いんです。

 それでもまだ戦うのだと言うのなら、国を、民を。

 貴女に《闘え》と『希望』を課すモノを全て壊してしまいましょう。

 そうすればきっともう、貴女は『希望』なんてものを背負わされて戦わなくても良くなるのだから」

 

 

 ルキナの手を柔らかく……だけれども絶対に離さないよう掴んだまま、そんな恐ろしい事を言う。

 なのにそこには一欠片の悪意も無くて。

 ただただ、彼が心からルキナの為を思って言っている事が伝わってきて。

 ルキナはもう、抵抗する事はおろか、何か彼に返せる言葉も失っていた。

 何を言っても、きっとこの溝を埋める事は叶わない。

 

 そして『彼』は、「ああそうだ……、宝玉はどうしましょうか……」と呟く。

 

 

「まあ、僕は既に甦ってますし、態々『炎の紋章』を集めなおす必要は無いかもしれませんけど……。

 でも、貴女に僕の眷族としてずっと傍に居て貰うなら、あれもあった方が良いですね」

 

 

 名案だ! と言いたそうに、彼は手を打った。

 

 

「そうと決まれば、今からでも宝玉と台座を回収しに行きましょうか。

 ルキナさんの仲間達が持っているんでしたっけ? 

 ……まあ、正直僕としてはルキナさん以外はどうでも良いので、彼らは殺しても良いのですが……。

 でも、ルキナさんのお友達なんですよね? 

 なら、ルキナさんが望むなら殺しても屍兵にして傍に置きますし……。

 何でしたら、生かしたまま眷族にしても良いですよ」

 

 

 そんな事を言いながら、彼は立ち上がる気力も意思もとうに喪ったルキナを優しく抱き起こした。

 

 

 

 

「ルキナさん。

 僕はずっと貴女の傍に居ます。

 僕は、貴女をずっと守り続けます。

 僕だけは、何があっても貴女の傍に居ます。

 時の果て、世界の終わりまで。

 ずっと、一緒に居ましょうね」

 

 

 

 

 彼は心からの愛情を籠めて腕の中のルキナの唇を奪い、愛しているとその耳元で幾度も囁く。

 

 絶望の果てで、何もかもを喪ったルキナは。

 その言葉を力無く聞くしか無かった…………。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 斯くして世界は滅びを迎えた。

 

 神竜とそれを継ぎ得る者達は一人残らず殺され、世界は『希望』を喪ったままに絶望へと沈んだ。

 最早、邪竜とその眷族達の他には、死に絶えた大地に辛うじてしがみつく様に生かされた僅かな人類が残るのみである。

 

 邪竜の気紛れによって絶滅こそ免れてはいるものの、文明も文化もとうに失った人々には、希望も何も無い、その日その日を相争う様にして生きる他ない生き地獄の様な時間が永遠に続くのであろう。

 

 僅かに生き残った人々の記憶からは、かつて神竜の牙を振るう人類最後の『希望』として人々を率い、絶望に抗い続けていた一人の王女の存在は次第に薄れていった。

 最早彼の王女に『希望』を託す者など居らず、人々は邪竜に恭順し隷属する事で辛うじて生き延びるばかりである。

 

 人の世は終焉を迎え、最早人類が文明を築いていた痕跡すら碌に残されてはいない。

 怨嗟の果てに人が望んだ、終焉はここに成った。

 世界を滅ぼしただけでは無く、幾多の異界すらもその手中に収めた邪竜には、何よりも……それこそ自身の命よりも大切にしている眷族が居ると言う。

 

 如何なる時如何なる場所であっても片時もその傍を離れず幾度でも愛を告げる邪竜を、その眷族がどう想っていたのかは、彼女と同じく邪竜の眷族である他の眷族達ですら分かり様も無い事であった。

 

 邪竜と、彼が愛した眷族は、時の最果てまでもを共に過ごしたと言われているが……。

 その真偽は定かでは無い。

 

 

 この滅び去った世界では。

 時の最果てまで至る彼らのその結末を、神であろうとも観測出来ないのだから。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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END②【あなたが居れば】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「私、は……」

 

 

 ルキナは、迷っていた。

 

 ……ルキナの答えは、心は、選択は……。

 もう、既に決まっている。

 だけれども、それを口にする事は赦されるのか、と。

 その是非を迷ってしまったが故に。

 

 何故なら、ルキナの選択は……。

 ルキナの立場では決して赦される事では無いからだ。

 例え治めるべき『国』が最早国としての体を失っているのだとしても、世界が滅びる間際なのだとしても。

 いや、だからこそ、だ。

 ルキナは王女であり、そして『覚醒の儀』を行えば正式に聖王となる身だ。

 王とは、何処までも『公』の存在であり、『私』を通せる範囲は極めて限られている。

 王族として、民を、人を、世界を導かねばならぬ責務があるルキナは、自分の『願い』を優先して自分が背負ってきたモノを投げ出す事など……許されない、許されてはならないのだ……。

 それを誰よりも理解しているからこそ、ルキナは自分の選んだ答えを、言葉には……出来なかった。

 

 だけれども。

 王族も何も関係無い、一人の人間としての自分の答えは、自分の心は……。

 大切な『願い』を。

 こんな絶望しか無い様な世界で、やっと見付けたたった一つの大切な『想い』を。

 喪ってしまうなど、耐えられない。

『背負ってきたモノ』を捨てる事は、今までの自分の全てを喪うに等しい行為だ。

 

 だけれども。

 自分の『願い』を捨ててしまっては、それと同時に未来も何もかもを喪ってしまうだろう。

 後に残るのは、『課され続けてきた』枷によって無理矢理に身体を動かす傀儡の様な、そんな生だ。

 そこにルキナの意志は無く、心も無い。

 ルキナに『願い』を託す人々にとって、ルキナ自身の意志や心が何処にあるのかは、考慮する様な事でも無い。

 ただただ救世の装置としての役割のみが、ルキナに『希望』を一方的に託す人々にとっての、ルキナの存在意義であり『価値』なのだ。

 ルキナがファルシオンを振るう事が出来なくなれば、その時点でルキナの存在価値はほぼ全て消滅するであろう。

 平時ならば王族として、聖王の血を次代に繋ぐ為の胎としての価値程度ならあったかもしれないが、こんな絶望の世界ではそもそも次代などに『希望』を託すまでもなく世界は滅びるであろう。

 故に、ルキナは正真正銘の『最後の希望』なのだ。

 ……『最後の希望』として在る事だけが、ただただルキナに求められている全てなのだ。

 戦いを厭う事など赦されないし、何時如何なる時も『希望』の旗頭として誰よりも先陣を切って戦わなければならないし、『覚醒の儀』を果たしてギムレーに抗し得る力を手に入れた際には、彼の強大な存在と否応無しに戦わざるを得ない。

 無論、今日まで戦い続けてきたのはルキナ自身の意志である。

 ……そうとでも思わなければ、やっていられない。

 だが……もしルキナが逃げる事を選んでいたのだとしても、それは『人々の総意』が赦さなかったであろう。

 この世に生きるありとあらゆる人々が、そして志半ばにして死した者達が、次代に世界を託し逝った全ての者達が。

 世界を救えと、絶望に抗えと、未来を繋げろと。

 ルキナが逃げる事を赦さなかったであろう。

 ルキナは世界が絶望に沈んだ時点で、否……生まれ落ちたその瞬間から。

 戦い続ける運命からは、逃れる事が出来なかった。

 しかし、それが例えルキナが生きる上で逃れ得ぬ運命であるのだとしても、その中で何を『想い』何を『望む』のかは、正真正銘ルキナだけのものである。

 そして、それこそがルキナをルキナたらしめるものであり、例えそれが運命なのだとしても、自分の意志でそれを選ぼうと思わせるものであるのだ。

 ルキナにとってそれは、今はもう喪われたかつての『幸せ』であり、そしてロビンの存在それそのものであった。

 しかし……『人々の総意』と言うモノは酷く傲慢であり、ルキナにとっての掛け替えのないそれらを……ルキナの『宝物』を、時には傷付けるのだ。

 彼らにとって大切なのは、あくまでも自分達自身であり、自分達が救われるのならば、自分達以外の骸を幾万と積み上げようとも、自分達が『希望』を押し付けたその対象が何れ程傷付き果て何もかもを喪おうとも、構いやしないのだ。

 

 

 それが分かっているからこそ、例え他の全てを喪うのだとしても、ルキナは自分の『願い』だけは捨てられない。

 それが無くては、ルキナがルキナとして生きる意味が無いからだ。

 

 …………。

 そこまで心は決まっているのに、それでもまだ言葉に出来ないのは。

 ……ルキナが、恐れているからだ。

 

 ……民からの糾弾は、甘んじて受け入れよう。

 導くべきものよりも自らが選んだたった一つを優先してしまった咎は、ルキナが背負わなければならないものだからだ。

 今は遠い仲間達からの非難や悲嘆や憤怒も、受け入れよう。

 彼等は世界の為に、身命を賭して『希望』を繋げようとしているのだ。

 それなのに、その要となるルキナがそれを放棄してしまうのだから、彼等の怒りや嘆きは当然の事であり、彼等の権利でもある。

 今は亡き父や母から、失望されるのかも知れない。

 彼等はそれを守る為に戦い、志半ばで倒れたのだ。

 それなのに、ルキナは彼等から託されたモノを投げ出してしまう。

 …………失望されるのは、当然だろう。

 それはもう、覚悟の上だ。

 でもルキナには唯一つ、絶対に耐えられないモノがあった。

 

 民からの糾弾では無い。

 仲間達からの非難や悲嘆でも無い。

 今は亡き父からの失望でも無い。

 ルキナが恐れるたった一つとは。

 

 

『ロビンに見捨てられる』事であった。

 

 

 ロビンは、ルキナの軍師で在り続けると、ずっと傍に居ると、そう確かに誓ってくれた。

 

 だが、その選択をしたルキナは、彼にとっては。

 最早、彼が支え続けると誓ってくれた『ルキナ王女』では、無くなってしまうかもしれない。

 

 彼の誓いを、ルキナは信じている。

 彼の想いを、ルキナは信じている。

 

 だけれども。

 ほんの僅かにルキナの心の片隅にある『もしかしたら』と言う思いが、『ロビンに見捨てられる』と言う想像に幽かにでも現実味を帯びさせてしまっている。

 

 それが、恐ろしくて。

 その想像が『本当』になってしまうのに、怯えて。

 ルキナが何もかもを引き換えに喪ってでも叶えたい『願い』すらも喪ってしまう事が、怖くて。

 だから、どうしてもその先を言えない。

 言えなくなってしまっていた。

 

 

「ルキナさん……?」

 

 

 何処か怯えすら抱きながら苦悩していたのが、無意識にでも顔に出てしまっていたのだろうか。

 気遣わし気にルキナを呼ぶロビンからは、『もしもの選択』を迫った時の有無を言わせない雰囲気は欠片も残さず消し去られていて。

 ルキナを気遣う時の何時もの優しく温かな目で、ルキナだけを見詰めてくれている。

 

 その声が、堪らなく愛しくて。

 その眼差しが、何よりも尊いものの様に思えて。

 

 ルキナは、最早建前ですらも自分の心を偽る事など不可能なのだと、悟ってしまった。

 

 だから、拭いきれぬ恐怖に怯えながらも。

 ルキナは一つ、ロビンに尋ねる。

 

 もしも、と。

 

 

「もしも、私が自分の『願い』を選んだら……。

 ……いえ、もし私が『背負い続けてきたモノ』を選んだ時も含めて。

 ロビンさんは、どう……思いますか? 

 どうしますか?」

 

 

 そう尋ねられたロビンは、その意味が分からなかったのか、幾度か瞬いて微かに首を傾げた。

 

 

「どう、と言われましても……。

 ルキナさんが何を選ぶにしても、それがルキナさんの『選択』であるのなら、僕はそれを全て受け入れますよ。

 ルキナさんが何を選んでも、何を望んでも……ルキナさんは僕の大切なルキナさんです。

 それだけは、何があっても変わりませんから」

 

 

 そして、と。

 ロビンの紅い瞳が、優しい輝きを湛える。

 ロビンは少し目を細めてルキナを見詰めた。

 

 

「僕は、そんなルキナさんの傍に、ずっと居たいです。

 貴女もそれを望んでくれるなら、ずっとずっと一緒に。

 何があっても、貴女が何を選ぶのだとしても。

 僕は僕自身の意志で、貴女の傍に居ます。

 それが、僕の答えです」

 

 

 ロビンの真っ直ぐなその言葉に。

 ルキナの頬を、流れ落ちる温かな滴が濡らしていく。

 

 ああ、何と愚かな事を自分は考えていたのだろうか。

 ロビンは、彼は、こんなにも真っ直ぐにルキナの事を想ってくれているのに。

 それなのに、その気持ちを僅かにでも疑うなどと。

 ロビンがルキナの事を、ルキナと言う一人の人間の事を、確かに見詰めていてくれている事はとっくの昔に理解していた筈なのに。

 

 例えルキナが『聖王を継ぐ王女』でなくなっても、『ファルシオンの継承者』でなくなっても、『人々の最後の希望』でなくなったとしても。

 それでも、きっと。

 ロビンはルキナだけの軍師で在り続けてくれる、その傍に居てくれる。

 ルキナがそれを望むのなら、ずっと。

『何があっても、離さない』と、想いを通じ合わせたあの日に誓ってくれた様に。

 

 それなのに、有り得もしない、自分の想像の中の『もしも』に怯えるなんて……。

 ルキナはそう心の中で自嘲し、臆病だった自分と訣別する。

 

 もう、迷わない。

 もう、躊躇わない。

 ルキナは、自らの意志で、その『願い』を選ぶのだ。

 

 ルキナは、迷いを振り払って笑顔を浮かべた。

 そして、ハッキリと、何よりもの愛しさを籠めて、ロビンに答えた。

 

 

「私は、自分の『願い』を選びます。

 何を喪うのだとしても、何を捨てるのだとしても。

 それだけは……。

 たった一つのその『願い』だけは、喪いたくないですから。

 何を引き換えに喪うのだとしても。

 私は、ロビンさん……、貴方を、選びます」

 

 

 その答えに。

 ロビンは身動ぎ一つせずに、瞬きすらも忘れて、ルキナを見詰める。

 そして、次の瞬間には。

 

 ルキナですら今まで見た事が無い程の。

 この世の誰よりも幸せそうな、嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべて。

 愛しさのあまりに辛抱出来なくなった時の様な勢いで、それでも痛くない様に優しく、ルキナを力一杯抱き締めた。

 

 

「ロビンさん?! 

 もう、突然だとびっくりしちゃいますよ」

 

 

 普段はどんな時でも穏やかなロビンが、こんなにも喜びを全身で露にするのは、初めての事で。

 その喜びが自分に向いている事が嬉しくて……少し気恥ずかしくて。

 その何れもに驚いていると。

 

 ロビンはルキナを抱き締めたまま、愛しくて堪らないとばかりにその頬を擦り寄せてくる。

 

 

「こんなにも嬉しくなるのは、生まれて初めてで。

 もう我慢なんて、出来る訳が無いじゃないですか。

 ルキナさんの事が愛しくて愛しくて、堪らないんです。

 一秒も我慢など出来ません、一瞬だって離れたく無いです。

 僕も何があっても、貴女を喪う事だけは耐えられない……」

 

 

 そんなロビンの言葉に、感極まったルキナもまた、力一杯に抱き締め返す。

 

 

「私も、です。

 ロビンさんを喪う事だけは、耐えられない……」

 

 

 父を喪った、母を喪った、誰かの優しい手を喪った、国を喪った、数多の民の命を喪った、未来を喪った、未来への希望を喪った、ほんの些細な幸せを幾度と無く喪った。

 喪い続けてきたルキナは、もう喪う事にすら慣れてしまっているけれども。

 それでも。

 たった一つ、たった一人。

 ロビンだけは、喪えないのだ。

 もし、そうなったらもう……ルキナはルキナとして生きていけない。

 

 何もかもを喪っても、そこが地獄の様な世界であっても。

 たった一人、ロビンさえ自分の傍に居てくれるのなら、それで良い。

 ロビン以外の何もかもを捨て去ってしまえるルキナは、きっとロビン以外の誰からも赦される事は無いのだろう。

 でも、それで良いのだ。

 

 その選択の先に煉獄を彷徨い続ける事になるのだとしても、地獄に堕ちるのだとしても。

 ロビンが共にそこに居てくれるのなら、それならば如何程の事も無い。

 ロビンと一緒ならば、どんな闇の中でだって迷わずに歩んで行ける、ルキナの目に映る世界は彩り鮮やかに輝いてくれるのだから……。

 

 お互いだけを選んだ二人は、そのままお互いの熱を分け合う様に唇を重ねる。

 

 

 

「もしも僕が、ヒトと相容れない存在なのだとしても、ヒトの敵なのだとしても。

 それでも、僕を愛してくれますか?」

 

 

 

 耳許で懇願する様に囁かれたその言葉に、僅かに驚いたが、ルキナは迷わずに頷いた。

 

 

「例えそうなのだとしても。

 ロビンさんが確かに私の愛するロビンさんであるのなら、私は迷いません。

 ええ、愛します、愛し続けます。

 例え貴方が何者であったのだとしても」

 

 

 それは人として許されない事なのかもしれない。

 だが誰に許されなかろうとも、最早ルキナはそれでも構わないのだ。

 

 ルキナをルキナとして見詰めてくれる、ただ一人ルキナだけをここまで求めてくれる、この愛しい彼を。

 愛する理由に、人々の許しなど要らない。

 

 人々の総意が、ルキナからロビンを奪うと言うのならば。

 ルキナが背負い続けてきた全てに刃を向けなくてはならなくなるのだとしても。

 それでもルキナは、人々の総意に抗うだろう。

 ルキナは沢山苦悩するだろう、沢山傷付くだろう、最早傷だらけのこの心に消えぬ傷が刻まれるだろう。

 それでも。

 

 その傍に、ロビンが居てくれるのなら。

 そして、彼がルキナを愛し続けてくれるのなら。

 最早、その苦悩や苦痛すらも、彼への愛を深める媚薬にしかならないのだろう。

 

 ルキナの返答に、ロビンはその口付けを以てその心を返した。

 

 

「ええ、僕は僕です。

 僕は、ヒトとは相容れない存在であるけれども。

 それでも、貴女を愛しく想い、焦がれるこの心に、一片の偽りも在りはしない。

 貴女に向けた心は、貴女の目に映る『僕』は、全て紛れもない真実です」

 

 

 ロビンの紅い瞳は、何処までも真っ直ぐな優しさと愛しさを湛えてルキナを見詰め続けている。

 

「ヒトに絶望をもたらす僕であっても。

 ただ一人、貴女だけは幸せにしたい。

 その笑顔を、その心を、貴女を傷付ける全てから守りたい。

 その為ならば、僕の全てを賭けても構わない位に。

 貴女の事を、愛しています」

 

 だからこそ、とロビンは囁いた。

 

「貴女が、人々から『希望』を『期待』を…………背負わされて戦い続けているのを、見ているのが辛かった……。

 例え、絶望を生み出したのが僕自身なのだとしても。

 人々が見ているのは貴女では無く、《ファルシオンの継承者》と言う象徴でしかなかったから、尚更に許せなかった」

 

 

 ロビンの紅い瞳が、憤りすらも秘めて輝く。

 

 

「貴女が望まずして背負わされたそれらの為に、何れ程戦い傷付き続けてきたのか、誰も顧みない。

 それを当然として、誰も彼もが一方的に貴女に自身の『希望』を身勝手に押し付けていく。

 貴女の意志を、想いを。

 磨り潰す事に、誰も疑問も躊躇いも持たない」

 

 

 語気が僅かに荒くなり、その目には剣呑とした光が混ざる。

 それでも、ルキナを抱き締める腕は、何処までも優しいものであった。

 

 

「そんな身勝手さこそが、その醜さこそが、他者に『希望』や……『怨み』を押し付けるヒトのその行為が、憎しみと怨みの連鎖を作り出し、狂信へと駆り立ててきたと言うのに。

 それが僕を甦らせたと言っても過言では無いのに、ヒトはそれすら気付かずに繰り返す。

 ヒト同士で争っている余裕も無い筈なのに、それでも同族で殺し合う事は止められない……。

 そしてそれを、『世界が絶望に満ちているから』と、『自分達が救われていないから』だと、そう恥じる事すら無く堂々と宣い、そればかりか。

 貴女がナーガの力を未だ得られていないからだと、そう声高に叫ぶ。

 自分達は、僕に立ち向かおうとした事すらも無いのにも関わらずに……!」

 

 

 そして、ロビンは。

 ルキナが今まで見た事が無い程に冷たい目で吐き捨てる。

 

 

「知っていますか? ルキナさん。

 ギムレーが甦ってもう随分と経ちましたが、甦って数年の間でヒトが激減したのは、ギムレーが手を下した訳でも屍兵の仕業でも無く。

 ヒトとヒト同士の争いが、一番の原因だったのですよ? 

 もしも、ギムレーが甦った直後に。

 ヒトが同族で争うのを止めて、手を取り合って屍兵に対処していれば。

 ここまで屍兵が横行する様な事は無かったでしょう。

 そしてもしかしたら……貴女がここまで追い詰められる事も無かったのかもしれない」

 

 

 でも、とロビンは冷たい目のまま続けた。

 

 

「僕は、『そうなる事』を分かっていました。

 分かっていたからこそ、甦ってからも暫くの間は、屍兵を放つだけでした。

 ヒトが、勝手に自分達で潰しあい、絶望を深めていくのを、静観していたんです」

 

 

 だってそうでしょう? とロビンは僅かに口元を歪ませる。

 

 

「僕が直々に手を下すまでも無く、ちょっとした切っ掛けさえ与えれば、ヒトは勝手に自滅するんですから。

 僕はそれを……自分達が自らの手でより拡大させた絶望に沈んでいく人々を、愚かな虫けらどもだ、と嗤って見ていたんです。

 勿論、屍兵に立ち向かおうと、僕を倒そうと抗う人々も居ましたよ? 

 でも、そんな戦士達の多くは、ヒト同士の争いに巻き込まれ志半ばで倒れたか、または他者に縋る事しか出来ぬ『無力な』ヒトを守って散っていきました。

 ヒトは誰も彼もが、目先の利益や些末な柵に絡め取られ、その時に本当に必要な事を理解出来ぬままに相争う……。

 僕からすればヒトなんて、特には何もせずとも勝手に吹き飛んでいく塵芥だったんです」

 

 

 ヒトと言う存在をそう語るロビンのその表情は、人間のものとは隔絶された……まさに超然とした存在のそれであった。

 しかし、ヒトの事をそう語る一方で、ルキナの髪に触れる手は何処までも優しくて、慈愛の様な温かさに満ちている。

 ルキナの髪を優しく手で梳く様に掬い上げて、ロビンはそこに静かに口付けを落とした。

 そしてロビンは、僅かに躊躇う様に視線を逸らしながら、「ですが」と、昔を思い出す様に僅少し遠い目をした。

 

 

「ヒトが最後に縋った『希望』。

 僕を害し得る神竜の牙──ファルシオンとその担い手たるナーガの眷族の末。

 それだけは、僕も捨て置く訳にはいきませんでした。

 かつて僕を封じたナーガの眷族である聖王。

 その末裔……。

 僕は、最初はルキナさんを疎ましく思っていました。

 憎き聖王の末裔だからこそ、絶望を与えようと思った……。

 僕を信頼させて、その上で裏切って殺そうと、そう思って。

 だからこそ、貴女に信頼して貰えるだろう人格を模倣して、貴女に近付きました。

 そう、貴女に出逢うまでは。

 僕は貴女の事を疎ましく想い、憎んでいたんです」

 

 

 ロビンが自分を『ギムレー』であると告げた言葉以上に、『憎んでいた』と言う言葉に、ロビンの本性を察し覚悟を決めていた然しものルキナも動揺を隠せなかった。

 

 だが、そんなルキナを安心させる様に、ロビンは優しくルキナの頬を撫でる。

 その手には、疑いようもない愛情が宿っていた。

 

 

「言ったでしょう? 

『貴女に出逢うまでは』、と」

 

 

 そう言って目を閉じたロビンは、きっと出会ってからのルキナの姿をその瞼の裏に描いたのだろう。

 ポツリと、その口から言葉が溢れた。

 

 

「初めて出会ったあの日。

 僕の目に映る貴女は……今にも傷付き倒れそうな、一人の人間であった。

 とてもでは無いけれど、人々が『希望』を押し付けて戦わせ続けるべきだとは、思えない程に。

 こんなにも追い詰められた人間に、何もかもを背負わせて磨り潰す程に、ヒトは身勝手な生き物だったのかと……思わず驚いてしまった程に。

 貴女がとても脆い存在に……見えたんです」

 

 

 守りたいんです、と。

 ロビンはルキナに囁く。

 

 

「最初は確かに、『ロビン』と言う存在は、貴女に信頼させる為にかつての器の人格を模倣しただけの、偽りの存在でした。

 でも、人格を模倣し続けていたからでしょうか? 

 それとも、貴女と共に在り続けていたからでしょうか? 

 演技であった筈の『ロビン』は、次第に僕自身になっていきました。

 それと同時に、貴女を守りたい、と。

 そう強く想い始めたんです」

 

 

 そして。と。

 ロビンは真っ直ぐにルキナの瞳を覗き込んだ。

 紅い彼の目には、ルキナの瞳が、そこに刻まれた聖痕が映し出されている。

 

 

「僕はギムレーだ。

 貴女が人々から『希望』を押し付けられて戦わなくてはならない世界になった原因は、他でもない僕自身です。

 なのに、それでも。

 僕は、貴女を守りたかった。

 この手で、貴女を傷付け得るモノ全てから、守りたかった。

 貴女の傍に居たくて、貴女を手離したくなくて。

 そして、……貴女に、僕を好きになって欲しかった」

 

 

 矛盾していると思いますか? と。

 そうロビンはルキナに訊ねる。

 

 ……ロビンの言っている事は、滅茶苦茶だ。

 矛盾どころの話では無い。

 ……だけれども。

 ルキナが戦わなければならなくなったのは、確かにギムレーの所為だろう。

 ギムレーの所為で、世界が滅び行こうとしているのだし、それ故にルキナは傷付き倒れそうになってでも戦い続けねばならなくなったのだ。

 それは、揺るぎようも無い事実で。

 ルキナがギムレーを、……ギムレーであるロビンを愛する事など、絶対に有り得無かっただろう。

 ……もし最初から彼の正体を知っていれば、の話になるが。

 

 敵であると、憎い仇であると。

 そうは知らずに接し続けていたロビンは。

 ルキナがそれまで求めていても決して得られなかったモノを、惜しみ無く与えてくれたのだ。

 それまでは、ルキナが戦う事に、重荷を背負い続ける事に、誰も疑問など持たず、それを顧みる事も無かった。

 

 でも、ロビンは違った。

 彼は何時だって、ルキナが戦う事や重荷を課され続けている事に憂慮し、ルキナの心を顧みてくれていた。

 

 最初の内こそ彼が打ち明けた様に、ルキナに彼を信頼させる為の演技であったのかもしれない。

 が、少なくとも結ばれてからは。

 そしてきっと、それよりも前から。

 当初こそ演技であった筈のそれらは、彼の本心になっていたのだ。

 ならば、彼が与えてくれた愛は、温もりは、真心は。

 決して偽りでは無かったのだろう。

 

 そして。

 確かにこんな世界になった原因は、ギムレーにあるのだけれども。

 ルキナを戦場に向かわせたのは、有無を言わさずにその背を押し出したのは。

 ルキナに『希望』と言う名の枷を与えたルキナが守るべき人々であり、そして受け継がれたものから逃げ出さないと決めたルキナ自身であった。

 ギムレーが直接ルキナを戦場に引き摺り出した訳では無い。

 

 そして、何よりも。

 最早どんな言葉で着飾ったのだとしても。

 どんな理屈を以て語るのだとしても。

 もう、ルキナは自分の心に、嘘は吐けない。

 だから──。

 

 

 

「確かに、矛盾しているとは、思います」

 

 

 そう答えたルキナの言葉に、ロビンは力無く「そうでしょうね……」と答えた。

 その眼差しは哀しみを湛え、静かに揺れている。

 

 

「貴女が傷付かなくてはならない原因である僕が、貴女を守りたいと思うなんて、とんでもない矛盾だ。

 でも、僕は自分の心に嘘は吐けない……。

 貴女が、ナーガの眷族の末裔であるから戦い続けねばならないと言うのなら……。

 無理矢理にでも貴女を僕の眷族にしてしまえば良い……とも、考えてもいました」

 

 

 だけど、と。

 彼はそれを否定した。

 

 

「僕が、こんな事を言うのは可笑しいのかもしれませんが。

 僕は、貴女の想いを、貴女の心を、貴女自身の意志を、尊重したかった。

 ヒトから誰にも顧みて貰えなかったその心を、僕だけは。

 だから、貴女の心を無理矢理殺してまで、無理に貴女を眷族にする事だけは、出来ませんでした……」

 

 

 だから、とロビンは愛しさを籠めてルキナの髪を撫でる。

 

 

「あの日、貴女が僕を望んでくれた事が。

 僕と居る未来を『願って』くれた事が。

 そして、今日。

 貴女が僕だけを選んでくれた事が……。

 何よりも、嬉しかったんです」

 

 

 でも、とロビンは僅かに不安そうにその眼差しを揺らす。

 

 

「後悔していませんか? 

 僕を……ギムレーを、選んだ事を。

 貴女は本来、僕と交わってはいけない存在だ。

 貴女が僕を望む事は、即ち、貴女が生きてきた世界全てを否定し拒絶する事にも繋がる……。

 ……でももう、もし貴女が後悔しているのだとしても。

 僕は、貴女を手離したりは出来ません。

 だから、もし貴女に悔いがあるのだとしても。

 僕には謝る事しか出来ない」

 

 

 そんな事を言って、手離せないと言う言葉を雄弁に語るかの様にルキナを抱き締めるロビンに。

 ルキナはキスで返事をする。

 

 

「私の言葉の続きも聞かずにロビンさんが話すから、つい言うタイミングを逃してしまったじゃないですか……。

 私も、自分の心は偽れません」

 

 

 何故なら、と。

 そう言いながら、ルキナはロビンの頬に手を当てて、彼の眼差しが自分から決して離れない様にして、その紅い眼を真っ直ぐに見詰める。

 

 

「貴方がギムレーであるのだとしても。

 私のこの気持ちは、欠片も変わらない。

 ……全てを裏切る事になっても、私は、貴方さえ傍に居れば、もうそれで良いんです。

 私も、貴方を手離してはあげられません」

 

 

 ルキナのその言葉に、ロビンは薄くその目に涙を浮かべてルキナを強く強く抱き締めた。

 

 

「好きです、愛しています、貴女を、貴女だけを。

 だから僕は、僕に捧げられるもの全てを賭けて、貴女を何者からも守ります

 それだけは、何があっても、変わらない。

 だから……。

 僕と一緒に、生きてくれますか?」

 

 

 その言葉に、ルキナもまた目に涙を浮かべて頷いた。

 

 自分は、今から『全て』を裏切る事になる。

 それでも、この愛しい彼が居てくれるのなら、それで良い。

 この世の全てから恨まれても、決して未来永劫赦されないのだとしても、それでも。

 

 チクりとこの胸を刺す痛みは、決してこの先一生涯消える事は無いだろう。

 けれど、もうルキナは迷わない。

 そこが無限に続く地獄なのだとしても、永遠に終わる事のない後悔を抱え続ける事になるのだとしても。

 そこがどんな地獄であっても、ロビンがそこに居てくれさえするのならば、そここそがルキナの望む場所、帰り着きたい未来、望んだ明日なのだ。

 幾万幾億の怨嗟と骸がそこに積み上がるのだとしても、その罪も罰も全て背負っていこう。

 もうロビン以外は、何も要らない、何も望まない。

 そこにあるのがかつて何を引き換えにしてでも取り戻したかった『幸せ』とは全く違う『地獄』でも、ロビンが居ればきっとルキナだけの愛しい『幸せ』がそこにあるのだから。

 

 

 

「私は、貴方が居れば、それだけで良いんです」

 

 

 

 ナーガの元に在れば共には居られないと言うのなら。

 ルキナがそこを去る事に躊躇いは無かった。

 誇りであったこの身に流れる血の全てを裏切っても良い。

 ロビンと生きる……その願いが叶いさえすれば。

 ルキナの想いに、ロビンは深い深い口付けを贈る。

 そして、この世の何よりも愛しい『宝物』へと、何度も何度も愛の言葉を囁く。

 それはいっそ『呪い』の様ですらあるけれど、この世で最も愛しい『呪い』であった。

 

 

 

「僕も、貴女が居てくれるのなら……それだけで良いんです。

 貴女と共に生き続ける為ならば、何だって出来る。

 だからどうか、ずっと僕の傍に居て下さい……」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 斯くして、世界から『最後の希望』が失われた。

 最後の『聖王の末裔』は邪竜の手に堕ち、最早人々に滅びを免れる術は無かった。

 邪竜と堕ちた王女は、彼等を傷付け得る神竜と神竜を継ぐ者達を討ち滅ぼし、世界は彼等を止める術を完全に喪った。

 

 だが、ある時を境に屍兵が人々を襲う事は無くなった。

 

 僅かに生き残っていた人々は、同じく僅かに残された生存圏で、細々とした営みを始める事を邪竜に許されたのだ。

 全ての『希望』を喪った人々に邪竜に抵抗する意志などは無く、最早邪竜にとってはヒトは脅威とは成り得なかったからなのかもしれない。

 

 それと時を同じくして、空を厚く覆い尽くしていた雲も時折は晴れる様になり、荒れ果てた死の大地もほんの僅かだが甦った。

 ヒトへの興味をとうに喪っていた邪竜であったが、その眷族となった王女の事を想っての行動であったのかもしれない。

 邪竜の真意が何処にあるのかなど、ヒトの考えの及ぶ処では無いのかもしれないが。

 何にせよ、人は滅びの瀬戸際で踏み止まったのだ。

 その後の邪竜については、その眷族となり最早人ではなくなった王女と、その間に生まれた子供達を何よりも大切にしていたとだけは伝えられている。

 だが、ある時を境に邪竜達は姿を消した。

 この世界に飽いて新天地を求めて異界を渡ったとも、或いは単にヒトの前に姿を見せなくなっただけとも言われているが、その真実は誰にも分からないままである。

 

 ただ──

 

 

 邪竜と王女が、どんな時であってもお互いに決して離れる事が無かった事だけは、確かな事実である様だ。

 彼等が何処に居るのだとしても。

 遠い遠い時の最果てまでも、きっと彼等は共に在り続けるのであろう。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第三話・B『夜闇に二人、誓う』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ギムレーが甦ってから、夜の空から星々は姿を消してしまった。

 分厚い雲に覆われて陽の光が十分には届かない為昼間ですら何処か薄暗い世界では、夜になると灯された明かりの近く以外では何も見えなくなってしまう程の深い闇が世界を支配する様になっていた。

 そんな闇の中でも屍兵達は変わらず蠢き、無力な人々を襲っていく。

 こんな絶望の中では、人々は陽が射さぬ夜明けを生きて迎えられる様に祈りながら、死と隣り合わせの眠りの中で闇の終わりを震えて待つしか無い。

 

 そんな星も月も何も見えない闇夜を、篝火だけが頼り無く照らす野営地でルキナは一人見上げていた。

 ふと、背後から草を踏み分けながら近付いてくる足音が聞こえてくる。

 だが、ルキナは振り返らない。

 何故なら、その足音の主が自分を害する事など有り得ない、と。

 そんな全幅の信頼を彼に預けているからだ。

 

 

「ルキナさん、どうかしましたか? 眠れないのですか?」

 

 

 そう声を掛けられたルキナは、星明りなき夜空から背後の彼に──ロビンへと視線を移した。

 揺らめく篝火に照らされたその顔は、ルキナに何時も向けている優しい微笑みを湛えていて。

 その右手には、温かな湯気を立ち上らせたマグカップが一つ。

 

 

「ええ、少しだけ夢見が悪くて……」

 

 

 そうは言うものの、父が命を落とし世界が絶望に包まれた日からルキナが悪夢を見ない夜は無かった。

 父が帰って来なかった日の夢、父が屍兵となってルキナ達を襲ってくる夢、仲間達が皆命を落とす夢、人々が死に絶えた世界にただ一人取り残される夢…………。

 狂いそうな程の悪夢や、そんな悪夢よりも凄惨な現実ばかりを見続けてきた所為か、最早今更悪夢の一つや二つ程度はどうとも思えなくなってきていたのだけれど……。

 だけれども、ここ最近見る様になってきた悪夢は、今まで見てきたそれらの中でも一等悪いものであると言えるだろう。

 …………ここ最近は、ロビンが命を落とす所をただ見ているしかない夢や、ロビンがルキナを置いて何処かへ去ってしまう夢ばかり見ていた。

 

 それらはただの夢、ただの悪夢であるとは分かっているのだけれど。

 眠る度にルキナを苛むそれらは、少しずつルキナの心を磨り減らす。……だから、眠る事が怖くて。

 ルキナは一人天幕を抜け出して、誰もが寝静まった野営地で、星一つ見えない夜空を見上げていたのだ。

 

 そんなルキナをロビンは心配そうに見詰めて。

 そして、そっと。その右手に持っていたマグカップを差し出してきた。

 

 

「これ、良かったらどうぞ。

 身体と気が休まる様に調合した特製の薬湯なんです。

 蜂蜜と果実で味付けしたので、飲みやすいと思いますよ」

 

 

 差し出されたマグカップを反射的に受け取ったルキナは、驚いてロビンの顔を見やった。

 食料自体が絶対的に不足し誰もが餓えているこの絶望の世界では、蜂蜜も果実も、どちらも貴重品だ。

 

 一応は王族であり食料に関してはやや優遇されているルキナでさえも、滅多に口に出来るモノでは無い。

 贅沢にもそれらを惜しみなく使ったものを、こんなにも気安く渡されては、どう礼を言って良いものか分からず、ルキナは戸惑うしか無かった。

 

 

「蜂蜜と果実は、今日助けた村の方からお礼に頂いた物です。

 ルキナさんと僕に、との事でしたので、気にせずに頂いてしまいましょう」

 

 

 そう言ってロビンは柔らかく微笑んだ。

 ……そう言われてしまっては、遠慮するのも失礼と言うもかもしれない。

「ありがとうございます」と礼を言って、ルキナは薬湯に口を付ける。

 

 薬湯と言う事で多少の苦味は覚悟していたが、蜂蜜と果実で味付けしたとの言葉通りに、優しくスッキリとした甘い味で、とても飲みやすかった。

 マグカップの半分程飲んだ時には、悪夢の名残で冷たく強張っていた身体は温かく解され、強い不安に昂っていた心は穏やかさを取り戻していた。

 

 ルキナの顔色が良くなったのが分かったのだろう。

 ロビンは嬉しそうに笑った。

 

 

「良かった……。

 ルキナさんが最近あまり眠れていなさそうでしたので、心配していました。

 その様子なら、きっと今晩はもう悪い夢を見ずに安らかに眠れますね」

 

 

 ロビンのその心遣いが、ルキナに向けられた優しさが、ルキナの心に沁み渡る。

 ポカポカと、温かなモノが心と身体を満たしていく。

 

 

「ルキナさんは、何時も皆さんの為に……この世界の未来の為に、頑張り過ぎてますからね……。

 きっと、中々気が休まらないのでしょう。

 だけど、少しは我が儘を言っても良いのですよ? 

 他の人に言えないのなら、僕にだけでも。

 何もかもをそんなに背負い過ぎていては、何時か貴女は壊れてしまう……。

 だから、どうか。

 貴女が背負うモノを、僕にも背負わせて下さい。

 だって僕は、貴女の軍師なのだから……」

 

 

 そう言ってロビンは、右手で優しくルキナの頭を撫でた。

 その仕草があまりにも自然で……とても懐かしくて。

 幸せだった幼いあの日々に、ほんの一瞬だけでも戻れた様な気がして……。

 それでも、もう二度とは戻れず取り戻すことも叶わないあの『幸せ』とは少しだけ違うものだった。

 ルキナはこの幸せをもう二度と忘れない様に……噛み締める様に、目をそっと閉じる。

 

 

「あっ……! す、すみません、つい……」

 

 

 半ば無意識での行動だったのだろうか? 

 ルキナの反応を見て、ロビンは慌てて撫でる手を止めて離そうとする。

 だけど、そんなロビンに。

 

 

「あ、あの……。

 もっと、このまま……撫でてくれませんか……?」

 

 

 と、思わずルキナは頼んでしまった。

 

 

 言った途端にあまりにも子供っぽい事を言ってしまった事に気付いてルキナは気恥ずかしくなって顔が熱くなってきてしまったのだけれど、口から出てしまった言葉を取り消す術などこの世には無い。

 

 ルキナの『お願い』に、ロビンは少し驚いた様に目を丸くしたが。

 直ぐ様優しく頷いて、再びゆっくりと撫で始める。

 優しく温かなロビンのその手は、幼いルキナを褒めてくれた記憶の中の父の大きな手のそれに似ている様で、でももっと違う人のそれによく似ていて…………。

 胸が痛くなる程の懐かしさを、何故かルキナは、ロビンが撫でるその手に感じていた。

 不思議な懐かしさにルキナが暫し目を閉じていると、ロビンは優しく囁く様にルキナへと語りかける。

 

 

「ふふっ……貴女にこんな『お願い』をされると言うのも、悪くはないですね。

 ……ルキナさんは何時も頑張ってます。

 僕が戦えるのも、ルキナさんが傍に居てくれるからですよ。

 何時も、有り難うございます」

 

 

 ロビンの言葉は、優しくルキナの心を包む。

 温かな掌が、ルキナの心の深い場所に刻まれた傷を、そっと癒していく。

 でも、とロビンは呟く。

 その声には、幾許かの哀しみと痛みが混ざっていた。

 

 

「貴女は……傷だらけになってでも、誰かを、何かを守ろうとしてばかりで……。

 ……僕は、貴女を守れているのでしょうか……? 

 貴女の、力になれているのでしょうか……? 

 こんな小さな事ででも、少しでも貴女を支えられるのなら。

 それが、僕にとっては何よりもの幸いなのです」

 

 

 一通り優しく撫でられてからその手が再び離れた時は、一抹の寂しさこそ感じたもののルキナは自重した。

 だが、僅かに表情が曇るのは抑えられなかった様で。

 

 ロビンはそんなルキナの思いを汲み取ってか、「少し話をしましょうか」と微笑みかける。

 それを断る理由など無くて、ルキナは頷いた。

 

 二人して、野営地にあった篝火に照らされた切り株に座る。

 星明かり一つ無い夜闇の中。

 ユラユラと揺らめきながら頼り無く闇を散らす篝火に照らされたロビンの眼差しは、光の加減によって深い陰を落としていた。

 紅い瞳が焔の揺らめきを映して、燃える様に輝く。

 

 ただ黙ってロビンの事を見詰めているだけで、そしてロビンが自分を見詰めていてくれるだけで。

 ルキナは、もうこれ以上に無い程に満ち足りてしまう。

 篝火から時折パチパチと木が爆ぜる音が聞こえてくる他は、小さな物音一つしない静かな夜の中で。

 でもそんな静けさが、傍にロビンが居てくれると言うたったそれだけで、何よりも心地好いものに感じてしまう。

 

 まるで世界にたった二人取り残されている様にも感じてしまう程に、こんなにも穏やかな夜だからか。

 ルキナは、幼いあの日にふと眠れなくて部屋を抜け出して、夜の空を眺めた時の事を思い出した。

 

 あの頃は。

 父が居て、母が居て、ルキナの世界は優しさや希望でキラキラと輝いていた。

 夜空を見上げれば何時だって満天の星々がルキナを優しく見守ってくれていて。

 そんな星達を指差しながらその逸話や名前の由来などを幼いルキナにも解る様に優しく語り掛けてくれた、大好きな『あの人』が居てくれた。

 優しい優しい……儚い夢の様な、そんな日々であったのだ。

 

 思い出してしまう度に、今の現実との落差に傷付いて。

 だから今となってはもう思い出す事すら少なくなっていたその幸せだった日々を、今こうやって思い出してしまうのは。

 ロビンに時折感じてしまう、泣き出したくなる程の優しい懐かしさが故の事なのだろうか。

 

 

「何ででしょうね……。

 ロビンさんと居ると、こんな星も何も無い夜だって、素敵な時間に思えてしまいます。

 それに、貴方と居ると……何処か懐かしい……。

 幸せで満ち足りていた、小さな頃の事を、思い出してしまう程に……」

 

 

 空を見上げても、星灯など一つも見えないのに。

 もう父も母もここには居ないのに。

 それでも、確かにあの頃は感じられていた『幸せ』が、今この手の中にもまだ残されている様にすら、ルキナには感じられていた。

 

 それはきっとロビンが居てくれるからで。

 傍に居てくれるだけでこんなにも満たされてしまう人は、ロビンが初めてだった。

 この気持ちの名前を、ルキナはまだ知らない。

 だけれども、暖かく胸の内に灯されたその光の様なそれを、ルキナは優しく抱き締めていたかった。

 

 

「懐かしさ、……ですか」

 

「ふふ、少し可笑しいですよね。

 でも、どうしてだか、私はずっとずっと昔から貴方を知っていた様な……。

 そんな風に感じる事が時々あるんです」

 

 

『懐かしい』と言う言葉に目を瞬かせたロビンに、ルキナは少し笑って答える。

 

 きっとこんな事を言っても、ロビンを当惑させてしまうだけだろうけれども……。

 そうルキナは思っていたのだが、ロビンの反応は予想していたモノとはかなり異なっていた。

 

 まるで戦術を練っている時の様な、真剣な眼差しで。

 だけれどもその瞳には困惑と……何故かそれと同時に哀しみと。

 そんな不思議な色を瞳に映しながら、ロビンは何事かを深く考え込んでいた。

 

 

「ロビンさん……?」

 

 

 一体、どうしたと言うのだろうか? 

 ルキナは自分の発言を思い返してみるも、別段何か考え込まねばならない様な事は言ってないとしか思えない。

 

 ルキナが囁く様に名を呼んだからか。

 ロビンはハッとした様にルキナに顔を向ける。

 そこに浮かんでいたのは、何故か今にも涙を浮かべそうな、苦痛を堪える様なそんな表情で。

 だがルキナが驚いて瞬いた後には、それは幻であったかの様に霧散してしまっていた。

 

 

「あの、えっと……。

 大丈夫、ですか……?」

 

 

 ロビンがそんな表情を浮かべていたのが衝撃的で、ルキナは思わずそう訊ねてしまう。

 だが、ロビンはそれにはキョトンとした顔で首を傾げるばかりだ。

 

 

「大丈夫、とは……? 

 確かに考え事をしていましたが……。

 そんなに心配させてしまう程でしたか?」

 

 

 ロビンのその様子は、無理をしている様にも演技をしている様にも見えなかった。

 一瞬だけとは言え、あんなにも……今にも死んでしまいそうな程に悲痛な表情を浮かべていたのに。

 あれは、一体何だったのだろう……。

 

 心当たりが全く無さそうなロビンを深くは追及出来ずに、ルキナは自分が見たモノを胸の奥深くに仕舞う事にした。

 

 

「いえ、気にしないで下さい。

 私の勘違いです」

 

 

 そうルキナが言っても、ロビンは些か納得出来ていなさそうであったが。

 彼もまた、この件に関しては追及する事を諦めた様だ。

 一つ溜め息を吐いて、ロビンは夜空を見上げた。

 

 

「懐かしい……と言う感覚は僕には分からないのですが。

 でも。

 僕も、小さい頃のルキナさんに会ってみたかったな……とは思います」

 

「小さい頃の私、ですか?」

 

 

 小さい頃のルキナと、幼いロビン。

 もしも出逢えていたら、どうなっていたのだろうか。

 友達になっていたのだろうか? 

 そして、彼を幼馴染として一緒に育っていたのだろうか? 

 

 想像してもしきれず。

 そもそも、ロビンの幼い頃と言うものが想像出来ない。

 何故か幼い頃と言われても、幼いルキナが今と全く同じ容姿のロビンにじゃれついてる光景しか想像が出来なかった。

 まあ勿論、誰しも子供の頃があるのだから、ロビンにだって子供の頃があるのだけれども。

 何故だかロビンに関しては、どんな子供だったのか想像が全く出来ないのだ。

 

 

「ええ。

 きっととても可愛らしい子供だったんだろうな、と。

 ……いえ、今のルキナさんも素敵な方なんですけどね」

 

 

 ふわっと笑いながら言ったロビンは、ルキナが何も言ってないのにも関わらずに慌てた様に付け足した。

 そんなロビンの様子に、思わずルキナは笑ってしまう。

 

 

「今の私には、子供の頃の無邪気な可愛さとかは……残念ながらもう無いですからね、別に気にしてませんよ。

 ……ロビンさんは、昔どんな子供だったのでしょう?」

 

「僕の、子供の頃……?」

 

 

 昔の自分の事を訊ねられたロビンは、眉根を寄せながら昔の自分について考え始めた。

 だが中々思い付かないのか、とうとう頭を抱え出す。

 そんなに考え悩む程の事だったのだろうか? と少しルキナが焦っていると。

 まるで独り言の様な、熱に浮かされた譫言の様な……。

 そんな曖昧な言葉がロビンの口から漏れだしてきた。

 

 

「僕の、子供の……頃……。

 僕、の……。

 ……『僕』は、母さんと、旅を……して……いて……。

 それで、そう、……『僕』は、旅をしながら、母さんから、軍師として……学んでいて……。

 母さんが……死んでからも、旅を……。

 そう、それであの日、『僕』は……出会って……」

 

 

 頭を抱える様にして譫言の様にそう呟くロビンの目は何処か茫洋としていて。

 そして、苦悶に呻く様に唸った後には。

 

 

「……? 

 あれ、僕は今何を……?」

 

 

 紅い目を瞬かせる『何時も通り』のロビンが其処に居た。

 そう、『何時も通り』に見える。

 だが。

 先程の尋常では無かったロビンの様子に、ルキナの胸にゆっくりと不安の影が蠢き出す。

 

 もしかして、と。

 自分にとって何よりも大切な、自分だけのこの軍師は。

 酷く……脆く曖昧な存在なのでは無いか、と。

 

 今までルキナはロビンに幾度と無く支えてきて貰った。

 それにルキナは感謝してはいたのだが。

 当たり前の様にルキナを支え続けてきたロビンは。

 本当は、ルキナの方から支えなくてはならなかった存在なのではないか、と。

 ルキナは、そう感じてしまった。

 そしてそれは当たらずとも遠くは無い事実なのだろう、と。

 そう己の直感が囁いていた。

 

 

「ロビンさん」

 

 

 名を呼びルキナからその手を取ると、ロビンは驚き戸惑った様にルキナの手と顔を交互に見やる。

 ……思い返せば、何時だって彼の方から触れてきて貰ってばかりで。

 ルキナから手を伸ばした事は一度も無かったのだ。

 その事にも気付き、ルキナは愕然とした。

 

 こんなにも大切な人なのに。

 こんなにも大事で、傍に居て欲しいのに。

 ルキナは、彼からただ与えられるばかりで。

 それを享受するだけであったのだ。

 でももう、そんな受け身だけの自分とは訣別しよう。

 

 ロビンが曖昧で儚く脆い存在なのだとしたら。

 それを繋ぎ止める為に、ルキナの方から手を差し出し、彼を支えよう。

 大切な存在を、もう《二度と》喪わない様に。

 この手を離さない様に。

 

 求めるだけでは無い、与えるだけでも無い。

 お互いに、お互いの胸にある空白を埋めていける様に。

 ロビンがルキナの心を救い上げ支えてくれた様に。

 今度はルキナが彼を支え守ろう。

 

 

「私は、貴方の傍に居ます。

 ロビンさんはロビンさんです、何時如何なる時も。

 私だけの軍師で、私の大切な、ロビンさんなんです。

 貴方が私を助け支えてくれた様に、私も貴方を支えます。

 私達は、独りじゃない。

 貴方には私が居て、私には貴方が居る。

 私達は、『半身』なんです」

 

 

 ルキナのその誓いを込めた言葉に、ロビンは衝撃を受けたかの様に固まる。

 そして──

 

 

「半……身……。

 そうか、僕が……、ルキナさんの……」

 

 

 茫然としながらもそう呟いて。

 そして、今にも泣きそうに表情を歪めて。

 苦しそうな、だけれども優しく、そして何よりも愛しい『宝物』を前にしている様な目で。

 ロビンは、ルキナを見詰めた。

 

 

「僕、は……。

『僕』は……。

 ルキナさんを、貴女を……。

 何があっても、守ります。

『何者』にも、貴女を……傷付けさせたりは、しない……。

『僕』が、『僕』である限りは、……絶対に」

 

 

 俯いて身を震わせたロビンは、絞り出す様な声でルキナにそう告げる。

 自分の手を取るルキナの手を、優しく取って。

 そして、誓う様にそこに口付けた。

 

 

 人々を導いてきた星灯りは、絶望に満ちたこの地には届かない。

 星の光一つ無い夜闇の中で。

 二人が誓ったその言葉が、想いが、決意が。

 如何なる未来を導くのか、それはまだ誰にも分からない。

 

 それでも、きっと二人で居れば。

 どんな未来であっても切り開いていけるのだろうと。

 

 そう、ルキナは信じていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第四話・B『貴女の想い、僕の望み』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 あの夜から暫くの時が過ぎ去った。

 

 相変わらずに屍兵は地を蠢いているし、ルキナ達は人々を襲うそれらを討伐しながら戦場から戦場へと渡り歩いていて。

 そんな中で、ロビンは以前と変わらない様に、その傍でルキナを支え続けてくれている。

 だけど、ほんの少しだけ以前とは違う所があった。

 

 ロビンがルキナを見詰めるその目に、何時もの優しさや穏やかな暖かさ以外にも、時折ではあるが、何処か……酷く何かを渇望する様な輝きが浮かぶ様になり。

 そしてそんな色が目に宿った直後には、ロビンはそれを振り払おうとしているのか、何処か必死そうな顔でその目を覆って、そして再び目を開けた時には、また何時もの穏やかさを湛えた眼差しをルキナに向けるのだ。

 

 よく観察していないと分からない程に、ロビンの様子がおかしくなるのはほんの一瞬だけだ。

 でも、彼の半身であると誓ったあの日から、ルキナはずっとロビンを真っ直ぐに見詰めてきたから……。

 その変化も、直ぐに気付いてしまった。

 ロビンを支えると誓ったあの日の想いは、今も何一つ変わらずにルキナの胸にある。

 だからルキナは、そんな何かを思い詰めて苦しんでいる様なロビンの力に、なりたかった。

 だけど、そうルキナが言う度に。

 ロビンは静かに首を横に振って、そして、何処か弱々しく優しい微笑みを浮かべるのだ。

 

 

「有難うございます、ルキナさん……。

 だけれども、僕を心配してくれるそのお気持ちだけで十分なんですよ? 

 これ以上は、……きっと僕は貴女を求め過ぎてしまう……」

 

 

 ポツリとそう呟かれた言葉に、ルキナは。

 

 

「それでも良いんです。

 それでロビンさんの助けになるのなら……」

 

 

 と、そう答えるのだけれども。

 ロビンはその言葉に益々少し苦しそうに笑って、首を横に振るのだ。

 それは、優しさに溢れてはいるけれども、ハッキリとした拒絶の意志であった。

 その拒絶の壁を越えてロビンの心に触れる事は、叶わなかった。

 ルキナは今までロビンに何をしてあげられたのだろう……。

 そして、何をしてあげられるのだろうか……。

 助けを求める事すら躊躇わせてしまうなんて、ルキナの不徳の致す所だ。

 

 支えると、誓ったのに。

 そしてロビンはその誓いを違う事無く、変わらずルキナを支え続けてくれているのに……。

 ままならぬ自分が、その力不足が、……ルキナにとっては何よりも辛かった。

 半身の様に大切なロビンが、そしてきっと、それよりも、もっともっと『特別』な彼が。

 悩み苦しみ、そしてきっと無意識にでも助けを求めているのに……。

 なのに、ルキナは……。

 それに気付いているのにも関わらず、ロビンに何もしてあげられないのだ。

 

 どうにかして、ルキナはロビンの力になりたいのに。

 だけれども、ルキナが差し伸べようとしたその手を、ロビンは決して掴もうとはしない。

 それ処か……。

 ルキナが手を差し伸べようとする行為自体が、ロビンを苦しめてしまっている様にも見えてしまう。

 どうすれば、良いのだろう……。

 考えても答えは出ず、良い方法など思い付かず、ただただもどかしさばかりがルキナの胸を焦がす。

 

 何故そんなに悩み苦しんでいるのか、ロビンは決してルキナに明かそうとはしてくれない。

 もし、その理由を話してくれるのなら。

 例え、ルキナではどうしようも無い悩みなのだとしても、ルキナもロビンと共に抱えて悩みたいのだ。

 

 どんなに苦しい時でも、独り悩み続けるよりは、例えその手が頼り無いものであったとしても、共に悩み歩んでくれる人が居てくれる方が良い。

 孤独は人を追い詰め、何れはその心を磨り潰すようにして歪ませてしまう……。

 ルキナは、それを良く分かっていた。

 他でも無い、ロビンに出逢うまでのかつての自分がそうであったのだから。

 あの日孤独に絶望の中を彷徨い続けていたルキナの手を掴んでくれたロビンが今、独り何かに苦悩し思い詰めている。

 誰の手も取ろうとはせずに、独り孤独へと沈み行こうとするロビンを、どうやったら助けられるのだろう……。

 

 大切な人の力になれない己の無力さが、ルキナには何よりも辛いのであった……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ロビンと共に屍兵を討伐する戦いを続けて如何程の時が経ったのだろうか。

 ある時から数で圧倒する屍兵に押され続けていた戦線を、僅かばかりだが押し返す事が出来る様になっていた。

 それにはロビンの策が大いに貢献していたのだが何にせよ。

 戦い続きで疲弊した兵達の為にも、ルキナ達は一旦王都に戻って僅かばかりの休息を取る事になったのだった。

 

 

 生まれ育ったイーリス王城であるが、ルキナがここに帰ってくるのは実に久方振りの事である。

 一年以上は各地を転々としながら戦い続けていたのだから、懐かしいなどと感慨に耽る前に、最早そこが自分の居場所では無いかの様な何処か落ち着かなさを感じてしまう程だ。

 王都が直接屍兵の被害を受けた事はナーガの加護もあってなのか今の所は無いのだが、こんな御時世だ。

 城の整備も細かい所までは行き届かず、それ故にか何処か荒れている様な印象すらも受けてしまう。

 父も亡く母も亡く……、そして主だった臣下達も最早既に居ない城は、何処か空虚な場所の様にも感じてしまって。

 そして、何よりも。

 この城には、『幸せ』だった頃の記憶が多過ぎる。

 父に剣の稽古を付けていて貰った時にうっかり壊してしまったまま直されていない壁の穴。

 母とかくれんぼをしていた時に、しょっちゅう隠れる先にしていた大きな衣装箪笥。

 幼い頃に従兄弟のウードと一緒に登って、二人して降りられなくなってしまった事があった庭の大きな木。

 父の忠実な臣下であったフレデリクにせがんで、彼の愛馬の背に乗せて貰った時に見た衛兵の訓練所の庭。

 そして──。

 幼いあの日々に事ある毎に忍び込んでは、その部屋の主に構って貰っていた、『彼』に与えられた執務室……。

 

 もう戻って来ない『あの日々』の欠片が、『幸せ』だった頃の思い出達が、この城のあちらこちらに散りばめられている。

 それを、ハッキリと意識してしまうのが……辛くて。

 だから、何時の間にか、ルキナは王城を避ける様にして戦場を渡る様になってしまっていた。

 それが逃げであると言う事は、誰に言われるでもなく、自分自身がよく分かっているのだけれども。

 

 ルキナは、そんな感傷に浸る心を、誰にも聞こえないような小さな一つ溜め息を吐いて切り換えた。

 そして、何処かに居る筈のロビンの姿を探してうろうろと城内を歩き始める。

 

 王都に帰った所で帰る家も寄る辺も無いロビンの為に、ルキナは王城にある部屋を仮の住まいとして提供した。

 どうせ部屋の数など腐る程余っているのだ。

 掃除もろくに行き届かせられていない今、使われる事の無い数多の部屋たちには埃ばかりが降り積もっている。

 それを有効活用した処で誰に咎められると言う事も無い。

 最初こそロビンはそれを遠慮して辞退しようとしていたが、ルキナが一歩も引く気が無いと見ると素直にそれを受け入れていたのだが……。

 王城に着いて暫くすると、ロビンの姿が何処かに消えていたのだ。

 案内した貴賓室にはロビンの数少ない私物が荷解きもせずに置かれていたので、ここに来て遠慮してしまったロビンが何処か別の場所で寝泊まりしようとして逃げ出したのでは無いと思うのだけれども……。

 しかし、ならば一体何処へ行ったのだろうか、と。

 ルキナは彼を探し始めるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 方々を探し回ったルキナは、もしかして、と。

 ロビンが行く可能性がある場所として、最後に残ったその場所へと向かうと、探し人の姿は正しくその場所に在った。

 

 埃まみれの部屋に独り佇むロビンの表情は、彼が部屋の扉の方向に背を向けている事もあって、何も分からない。

 

 

「あの、ロビンさん? 

 こんな所で、どうかしましたか?」

 

 

 ルキナがそう声を掛けると、ロビンは弾かれた様な勢いでルキナに振り返る。

 

 

「…………ム?」

 

 

 囁く様にロビンは何かを言うが、ルキナには彼が何を言ったのかは聞き取れなかった。

 だが、ルキナを見たロビンは、一度驚いた様に目を見開き、そして悲しみと後悔をそこに映して、俯く。

 だが、それもほんの僅かな間の事で。

 直ぐ様ロビンはゆっくりと顔を上げて、ルキナも見慣れた穏やかな眼差しで、ルキナを見つめ返してくる。

 

 

「あっ……すみません。

 何だか、お貸しして貰った部屋が僕には豪華過ぎて、ちょっと落ち着かなくて……。

 本当は良くないと分かっていたのですが、ちょっとお城の中をウロウロとしていたんです。

 それで、偶々この部屋の扉が少し開いていて……。

 つい、入ってしまいました……。

 ごめんなさい、ルキナさん」

 

 

 そう言って頭を下げてくるロビンに、ルキナは慌てて「良いんです」と答える。

 

 

「この部屋は使われなくなって随分と経つ部屋ですから……。

 機密とかそんなモノはもう、ここには残されていませんし、そんなに気にしないで下さい」

 

 

 掃除もロクに行われず放置されたその部屋は至る所に埃を被っていて。

 在りし日に部屋の主が二度と帰らぬ戦いに赴いた時のままの姿で遺されていた。

 

 恐らくきっと、偶に掃除を行う女中が、扉を閉め忘れてしまっていたのだろう。

 それを偶々、ロビンが見付けてしまっただけなのだ。

 

 

「この、部屋は……」

 

 

 ポツリと、ロビンが呟いた。

 そして部屋を見渡し、本棚どころか床にまで積み上げられている戦術書の数々に目を留める。

 ルキナにはよく分らぬが、同じ軍師であるからなのか、何か感じるものがあるのかもしれない。

 

 

「父の軍師であった、ルフレさんの執務室でした……。

 ですが、二人とも今は、もう……」

 

 

 ふと、ルキナは床に些か乱雑に積み上げられた戦術書の中に、そこには不釣り合いな……子供に読み聞かせる為の様なお伽噺を集めた本を見付けて、胸を締め付けられる様な感覚を覚える。

『彼』の膝の上に乗せて貰いながら本の読み聞かせを強請った遠い幼い日々の想い出が、哀しい程に鮮やかに蘇る。

 ……もう、『彼』はこの世の何処にも居ない……。

 

 あの日、父を喪ってから、ルキナがこの部屋にちゃんと入ったのは初めてであった。

 ……それは、『彼』を思い出してしまうのが、辛かったから。

『彼』を思い出させる縁となるモノを遠ざけていたのだ。

 

 

 もう帰っては来ない人を、想うのが辛かった。

 もしかしたら、大好きだった『彼』が、大好きな父の仇であるのかもしれないと言う可能性が、恐ろしかった。

 だからもう、辛いのならばいっそ忘れてしまえば良いと、『彼』の事を、忘却の彼方に押しやってしまっていて……。

 

 でも結局の所、『彼』の縁となるモノの何もかも全てを本当に忘れる事なんて、出来る筈が無いのだ。

 何故なら、今のルキナを形作るモノの中には確かに、『彼』との思い出が、あんなにも『幸せ』だった時間が、沢山沢山消そうとしても消しきれない程に含まれているのだから。

 

 声はもう思い出せない。

 顔も、もう朧気で分からない。

 ルキナの頭を撫でてくれたその手の温かさすら、もう覚えていない。

 だけれども。

 

『彼』と過ごした時間は、『彼』がルキナに向けてくれた無償の愛は、そこに在った『幸せ』は。

 どんなにそれを思い出すのが辛いのだとしても、決して忘れられる筈なんて無かった。

 

 ルキナは、『彼』の事が好きだった。

 本当に……大好きだったのだ。

 執務室に遊びに行くと、何時も本を読み聞かせてくれたり、時には勉強を教えてくれたり、ルキナが知らない沢山の事を、『彼』は教えてくれた。

 父と母が外交の為に城を離れていた時には、寝付けなくなったルキナの為に子守唄を歌ってくれたり、眠れるまでその手を繋いでいてくれたりもした。

 

 ルキナを何時も優しく見守ってくれていた。

 何時も優しい微笑みを向けてくれていた。

 ルキナが仕掛けた悪戯に困った様に笑っていた。

 ルキナを抱き締めてくれるその温かさが大好きだった。

 ルキナを呼ぶその声やその優しい響きが、とても大好きだった……。

 きっと、ルキナの初恋だったのだ。

 

 ……あんなにも、大好きだったのに。

 あんなにも、大切にされていたのに。

 

 ルキナは、もう『彼』の顔も声も思い出せず、そして。

『彼』の事をまるで最初から存在すらしていなかったかの様に、記憶から何もかもを消したままにしていた。

 

 もう『彼』は、記憶の中にしか居られないのに……。

『彼』を直接知っている人は、もうルキナ位しか残っていないのに。

 何て、酷い事をしてしまったのだろうか……。

 

 ルキナは思わず自分を責めた。

 そして、あんなにも大好きだった『ルフレおじさま』の事を忘れてしまっていた事が、哀しかった……。

 

 

「ルフレ……」

 

 

 ロビンの口から溢れ落ちたその名前に、ルキナの意識は引き戻される。

 ロビンは、まるで何かに引き込まれているかの様に部屋を見回していた。

 ルフレの名前も、無意識の内に思わず零れたものなのかもしれない。

 

 

「ロビンさんも、知っていらっしゃいますか?」

 

 

 ルフレは、稀代の名軍師として世界中にその名を轟かせていたのだ。

 当時はまだ子供であったであろうロビンも、軍師を志す者として何処かでその名を聞いていたのかもしれない。

 そう思えば、伝説の様に語られる軍師の部屋に居るのだ。

 ロビンには、同じ軍師として思う所があるのかもしれない。

 

 

「知って、います……。

 僕が軍師としてここに居るのも、『ルフレ』の存在があったから、ですから……」

 

 

 そう答えたロビンは、何故か痛みを堪える様に瞼をギュッと瞑る。

 そして、ロビンはポツリと、呟く様にしてルキナに訊ねた。

 

 

「ルキナさんは……『ルフレ』の事を、どう思っていますか?」

 

 

 そう問われ、どう説明するべきなのか、ルキナは少し言葉に詰まった。

 

 大切な人であった、大好きな人であった。

 だけれども、それと同時に、もしかしたら父の仇であるのかもしれなくて。

 今のルキナが『彼』に抱える想いは複雑であった。

 

 でも、これだけは確かに言えるのだと、ルキナは心に決めた想いを正直に答える。

 

 

「ルフレさんは、……とても大切な人でした。

 私に沢山素敵な『思い出』を、『幸せ』をくれた……、とても大切な……」

 

 

『彼』がもう居ない事が、とても哀しい。

 やっと素直に、ルキナは今ならそう思えた。

 幼かったあの日に流せなかった涙は、いつの間にか枯れてしまって、もう流れる事は無いけれど。

 苦く切なくこの胸に静かに波紋の様に広がる哀しみを、やっと自分の感情だと認めてあげられる。

『彼』と過ごした時間が『幸せ』であったからこそ、そしてその『幸せ』な想い出が抱えきれない程に沢山あるからこそ。

 数年の年月を掛けて追い付いたその哀しみは、深く深く響く様に心に満ちた。

 それでも、どんなに哀しくても。

『ルフレおじさん』の事を思い出してあげられた事が、嬉しいのだ。

 大好きだった人、大切だった人、……もうこの世の何処にも居なくても、思い出の中で見守ってくれている人。

 

 ……何時か。

 この世界の絶望を討ち祓ったその時には。

 彼の墓へと花を手向けに行こう。

 そして、沢山伝えたいのだ。

 忘れてしまってごめんなさい、と。

 でも本当に大切な人だったのだ、と。

 答えてくれる『彼』はそこに居ないのだとしても。

 それでも、伝えなくてはならなかった。

 

 ルキナの答えに、ロビンは一度目を僅かに見開き、そして。

 悲しみと喜びが綯い交ぜになった様な、複雑な感情が表れた様な儚い微笑みを浮かべた。

 

 

「そう、ですか……。

 ルキナさんにそう思って貰えて、きっと『ルフレ』も。

 ……幸せ、だったのでしょうね……」

 

 

 そして、込み上げる想いを抑える様に胸の辺りをギュッと強く掴んで、ロビンは静かに目を閉じた。

 

 

「有難うございます、ルキナさん……」

 

 

 何故か、ロビンは感謝を伝えてきて。

 そして、緩やかに目を開けて再びルキナを見詰めるその眼差しには……。

 優しさと同時に、何かの強い決意の輝きが抱かれていたのだった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

→第五話・A『永久に叶わぬ恋夢』

 

→第五話・B『在るがままに愛しき人へ』



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第五話・A『永久に叶わぬ恋夢』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『僕』と言う存在は、一体『何』であるのだろう、と。

 最近は時折、そう思う様になった。

 

 ……『僕』は人々から邪竜と呼ばれる存在、『ギムレー』だ。

 人の様な姿形で過ごしているのは、目的があるからで。

 その為には竜の身体よりは、人の姿の方が良いので、竜の魂を人の肉体でありながらも受け入れる事が出来た、かつての器の姿形をしているだけに過ぎない。

 

 そもそもこうやって『僕』が、ファルシオンの当代の担い手であるルキナの傍に居るのは。

 ギムレーを封じ得るファルシオンにナーガの力を宿らせない様に、彼等が行おうとしているナーガの『覚醒の儀』を妨害する為と。

 かつてギムレーを封じた、憎き聖王の末裔である彼女を、絶望の深淵に引き摺り落として、その魂を穢して壊し尽くしてから喰らう為であった。

 

 無害な人間を装って彼女に近付き、そして軍師として働く事でその信頼を勝ち取る。

 彼女が『僕』に依存する程までに信頼を寄せたら……。

『覚醒の儀』を行おうとした瞬間に、全てを明かして裏切って殺す……。

 その瞬間の、絶望する聖王の末裔を見る為だけに、こんな茶番の様な日々を過ごしている……。

 

 そう、そのつもりであった。

 そのつもりであった、筈だったのだ……。

 

 軍師として傍に居る事を選んだのは、かつての『ルフレ』がそうであったからで。

『ロビン』としての人格は、かつての『ルフレ』のそれを模倣して演じているだけに、過ぎない。

『ロビン』の名前に至っては、適当に付けた名前であり、『ギムレー』にとってはただの記号でしかない。

 そう、その筈であったのだけれども。

 

 だが…………。

『僕』は彼女を裏切る為に、絶望させる為だけに近付いたと言うのに……。

 

 彼女が、死に行く人々を前にしてその瞳に哀しみを浮かべていると、意識するまでも無くその傍に寄り添ってしまう。

 彼女が、人の身には過ぎたモノの重さに押し潰されそうになっている時には、その重みに彼女が壊れてしまわない様に、その手を取って支えようとしてしまう。

 彼女が何れ程傷付き擦りきれそうになっているのか、気付きもせず顧みる事も無いままに自分達の『希望』を押し付ける人々に、何故か怒りを感じてしまう。

 彼女が、『ギムレー』が撒き散らした絶望を前にして、身を震わせて慟哭する時には……。

 本来ならばこの胸に湧き起こるのは『愉悦』である筈なのに、鋭い『痛み』を感じてしまう。

『ギムレー』が与えた絶望が、彼女を傷付けている事が…………耐えようがない程に苦しい。

 彼女が絶望に立ち向かうその横顔が、人々の『希望』を背負って足掻くその姿が。

 この胸を掻き乱し、『僕』を揺るがせる。

 

 最初は、演技だったのだ。

『ギムレー』が、彼女に信頼される為に、彼女が望んでいるであろう反応を行動を、予想して演じていたに過ぎない。

『偽り』の優しさに、溺れる様に縋ってくる彼女の姿が、憐れで滑稽で……愉快だったのに。

 その変化は、『ギムレー』が意図しない内に始まっていた。

 

 演じようと思うまでもなく、身体は動いている、この口は言葉を紡いでいる。

 意識する事も無く紡がれた言葉は、『ロビン』としては何の違和感が無いモノであっても、『ギムレー』であるならば決して無意識であっても思う筈も無いモノばかりで。

 なのに、『僕』は……それを当然の様に受け入れていた。

 何時しか、彼女が哀しむ姿を見るのが、傷付いている姿を見るのが……『愉しい』とは、思わなくなった。

 それ所か、胸を締め付ける様な感覚を……。

 ヒトが、『哀しい』などと名付けるのだろう感情が、この胸を支配する。

 傷付く彼女を、彼女を傷付ける全てから守りたいと、そう願う様になっていった。

 彼女がふとした瞬間に浮かべる笑顔に、何時しかどうしようもなく惹かれていた。

『僕』の些細な行動で嬉しそうに笑ってくれるのが、『嬉しい』と、そう思う様になった。

 そしてそれと同時に。

 こんな細やかな気遣いすら、彼女は人々から掛けて貰っていなかったのかと想うと、憐れみの様な哀しみの様な……。

『僕』自身ですらハッキリとは説明出来ない感情を、抱いてしまう。

 

『僕』が彼女に取る気遣いの多くは、かつて『ルフレ』が、まだ幼かった彼女に向けていたモノを模倣しているだけに過ぎなかった。

 その頭を撫でる手付きも、彼女に微笑む時の表情も、その名前を呼ぶ時の声音も。

 それは、かつて彼女が想い慕っていた『ルフレ』のそれで。

 

『ギムレー』としての意識の中に千々に壊れて消えた『ルフレ』の記憶を浚って、模倣していただけだったのに。

 何時しかそれは、最初は模倣以外の何物でも無かった筈だったモノは、『偽り』であった筈のソレは。

 紛れもなく『僕』の『本当』になっていたのだ。

 

 何時からそうなっていたのかは、思い返そうとしてみても、『僕』自身ですらも分からない。

 表面上の行動こそ変わりはしなかったけれども。

『偽り』が『真実』になり、『演技』は『本心』へと変わっていた。

 

 ……『僕』は、『ギムレー』である筈なのに。

 心の底から、彼女を想う様になっていたのだ。

 

『僕』はヒトでは無いから、この想いをヒトがどう名付けるモノであるのかは、分からない。

 だけどきっとそれは。

 彼女を大切なのだと、幸せで居て欲しいと、幸せにしたいと、傍に居たいと、傍に居て欲しいと、そう想うこの『心』は、きっと。

『恋』や『愛』……と、そう言った心なのだろう。

 

 それを自覚した時は、『僕』は大いに驚いたし戸惑った。

 何故、憎い筈の相手に、そんな感情を懐くのかと。

 だけれども、何れ程それを否定しようとしても。

 彼女と過ごす内に『僕』の心に降り積もるソレが無くなる事などは無くて。

 それどころか、日に日に大きく育ってゆく。

 

 その『心』が、最早消したりする事など叶わぬモノなのだとハッキリと理解してしまった時。

『僕』はそれを受け入れていた。

 彼女を、ルキナを。

 愛している事を、『僕』は認めた。

 

 認めたからと言っても、『僕』と彼女の関係が変わる事は何一つとして無かった。

 

『僕』は彼女の軍師であり、『ギムレー』であった。

 彼女は人々の『希望』を背に絶望に抗い戦う者であり、ファルシオンを受け継ぐナーガの眷族の末裔であった。

 

 愛していても、大切であっても。

 

『僕』と彼女の道が交わる事など、有り得ない事だ。

 その筈なのだから、勘違いなどしてはいけないと『僕』はそう自分に言い聞かせ続けていた。

 

 だけれども。

 そう自分に言い聞かせ続けていても。

 彼女を愛しいと想う『心』は止まらなかった。

 彼女から離れ難くて、当初の目的を果たせるかも怪しくなっても、その傍を離れる事が出来なくなって。

 傍に居て欲しい、傍に居たい、『僕』を見て欲しい、『僕』を……好きになって欲しい、と。

 そんな想いが『僕』を支配する。

 その内に、『彼女をギムレーの眷族にすれば、ずっと一緒に居られる』のだと。

 そんな考えが頭の片隅に居座る様になって。

 

 だけれども、『僕』はその決断に踏み切れずにいた。

 確かに、彼女を『ギムレー』の眷族にすれば、何の憂いも抱く事も無く共に在れるだろう。

『ギムレー』の力を使えば、その意志や心を無理矢理奪う事だって、例え彼女がナーガの眷族であるのだとしても造作もない事である。

 意志を奪われた人形の様な彼女を傍に置く事も、『僕』だけを愛する様にその心を縛ってしまう事も。

 何れもとても抗い難い程に魅惑的であったけれども。

 ……それでも。

『僕』が愛しいと心から想うのは。

 意志の輝きに満ちた眼で絶望の世界を真っ直ぐに見据えて抗う、誇り高くも何処か哀しい彼女なのだ。

 彼女の姿をした人形を愛したい訳では無い。

 それに……。

 彼女は、剰りにも多くの人々から顧みられないままに、その心を磨り潰しながら戦い続けているのだ。

 それを『僕』は哀しいと思っているのだから。

 そんな『僕』が、何よりも彼女の心を蔑ろにする様な手段を取れる筈は無かった。

 何を選ぶにしても、そこに彼女の『心』が『意志』が、在って欲しいと思うのだ。

 

 それは傲慢な事であるのかもしれない。

 よりにもよって、彼女を絶望の中で戦わせ続けているその原因たる『僕』がそんな事を思うだなんて、矛盾どころの話でないのかもしれない。

 

 それでも、それこそが『僕』の本心であった。

 

 ……もし。

 彼女もまた『僕』を望んでくれるのならば、『僕』と共に在る事を選んでくれるのならば。

 きっと『僕』は、躊躇う事も何も無く、彼女を『ギムレー』の眷族にしていただろう。

『僕』はナーガの眷族にはなれないし、幾ら姿形を真似ようとも竜でしかない『僕』では彼女と同じヒトにもなれない。

 共に傍に在り続けるなら、その方法しか無いからだ。

 

 だけれども『僕』は。

 もう、その手段を取ろうとは、思えなかった。

 

 切っ掛けは、何だっただろうか。

 その予兆は、ずっと前からあったのかもしれないし、そうでも無かったのかもしれないけれど。

 

 ある時、『僕』は。

『僕』としての心と、『ギムレー』としての意志との解離を、認識してしまったのだ。

 そしてそれと同時に。

『僕』と言う存在の曖昧さにも気付いてしまった。

 

『僕』はルキナを愛している。

 それは、その『想い』だけは……『真実』だ。

 

 だけれども、その『想い』の切っ掛けは。

 その『心』の出発点は。

 何処から来たモノであったのだろうか? 

 

 原点に立ち返ってもう一度考えてみれば、『ギムレー』が彼女を愛する事などは有り得ないのだ。

 憎い聖王の末裔であると言うのもその理由の一つではあるけれど、それ以上に。

『ギムレー』にとってヒトは有象無象の虫けらなのだから。

 彼女でさえも、『ギムレー』には、ナーガの力の欠片を持つ虫けら程度にしか感じられない。

 ならば、何故『ギムレー』である筈の『僕』が、ヒトである彼女を愛する事が出来たのか。

 それは、きっと。

『僕』の中にある、『ルフレ』の心の欠片が故だったのだ。

 

『ルフレ』が彼女に向けていた想いは、『僕』が彼女に向けているモノと同じではない。

 それは例えるならば、親が子供を想う様な、そんな愛情であったのだろう。

 最早『ルフレ』の心と記憶は千々に砕け散っている為、その心や記憶の欠片から類推するしかないのだけれども。

 何にせよ、『ルフレ』が彼女を大切に愛していたのは真実であり、砕け散ってしまっても尚、その想いは消えたりはしていなかった。

 だからこそ、『ルフレ』を模す内に、『僕』と『ルフレ』の欠片の境界が曖昧になり、同時に彼女を想う『ルフレ』の心の欠片が『僕』に反映されたのだ。

 

 愛したのは『僕』の意志だ。

 だけど、その切っ掛けは『ルフレ』であったのだ。

 そして。

『僕』と『ルフレ』は、自分でも気付かぬ内により深く強く結び付いていた。

 ふとした瞬間に、『僕』が経験した訳では無い光景が甦る。

『僕』が感じた事の無い想いが、心を押し潰す様に胸を掻き乱していく。

 それは、かつて『ルフレ』が見て感じていたモノで。

 砕けても尚残った、記憶と想いの欠片であった。

 

 そして……『僕』は、何時しか。

『ギムレー』から解離しつつあったのだ。

 

 

 彼女を幸せにしたい。

 

『ルキナに幸せになって欲しかった』

 

 彼女に笑顔になって欲しい。

 

『ルキナの笑顔を守りたかった』

 

 彼女の心を、大切にしたい。

 

『ルキナの心に、何時も希望の輝きが灯っていて欲しかった』

 

 

『僕』の想いと、『ルフレ』の想いが、混じり合って一つになっていく。

 そして、最後に残ったのは。

 

 

『ルキナが、在るがままの自分で、自分の意志で自分の幸せを掴んで欲しい』と言う想いだった。

 

 

 それは、無理矢理に『ギムレー』の眷族にしてしまえば叶わなくなる想いだ。

 だからこそ、『僕』はその欲望を捨てた。

 ……その筈だったのに。

 

 ふとした瞬間に、凶暴な衝動に襲われる。

 自分のモノにする為に彼女のその心全てを踏み躙ろうとする凶悪な欲望は、自らの内から湧き起こっている様であって。

 そして、『僕』の想いとは懸け離れたその意志は。

 ……『僕』のモノでは無かった。

 それは、『ギムレー』としての本性が掻き立てる欲望だったのだ……。

 

 ……『僕』は、『ギムレー』だ。

 その事実は変わらないし変えられない。

 だけれども、この『心』は、この『想い』は。

 例え『ギムレー』としての自分自身に逆らうモノであるのだとしても、絶対に譲れない。

 ……『僕』は最早、『ギムレー』ではないのかもしれない。

 勿論、幾らその欠片が混ざり合ったとは言っても、『ルフレ』でも無い……。

 ならば、『僕』は何者なのか。

 その答えは、『僕』自身ですらも解らない。

 

 だけれども。

 自分の存在全てが不確かになりそうな中でも。

 それでも、彼女への『想い』は絶対に変わらなかった。

 そして、彼女を守りたいと願う心は、彼女の『幸せ』を祈る『想い』は。

『ギムレー』としての本性にすらも侵される事は無かった。

 

 ……『僕』は。

『彼女の軍師』だ。

 彼女がそれを望む限りは、『僕』は『僕』で在り続ける。

『僕』で在る限り『ギムレー』にも彼女を傷付けさせない。

 

 …………。

 だけれども、『僕』が『ギムレー』である事が絶対に変えられない事を示す様に。

 日に日に、『ギムレー』の本性が彼女に牙を剥きそうになる。

 無理矢理に自分のモノにして、その心も何もかもを奪ってしまおうと……。

 そんな衝動が、次第に強く激しくなっていく。

 その衝動を追い払おうとして様子がおかしい『僕』を心配した彼女が、『僕』に手を差し伸べようとする度に。

 その衝動は凶悪な程に『僕』を蝕んでしまう。

 

 ……その手を取る事が出来れば、どんなに良いだろうか。

 そう想いながら、そして彼女が『僕』を想って差し伸べてくれた手を振り払う事に痛みを覚えながらも。

『僕』は必死にその手を拒む。

 一度でもその手を取ってしまえば、『僕』の内に巣食うこの本性が、彼女を壊してしまうのが分かりきっていたから。

 その度に、彼女は思い悩む様な顔をして。

 それが、……何よりも心苦しかった。

 

 ……そんな有り様であっても。

『僕』は、彼女の傍を離れる事が出来なかった。

『僕』と言う存在の曖昧さが、その理由の最たるモノである。

 

『僕』が『僕』として居られるのは、『ロビン』と言う人格のその中心にある彼女の傍でだけだからだ。

 彼女が『僕』を、『ロビン』と言う存在を求めてくれるからこそ、『僕』は『僕』として『ギムレー』の中に存在出来る。

 もし彼女から離れてしまえば、彼女を手離してしまえば。

 きっとそう時を置かずして、『僕』と言う人格は跡形もなく『ギムレー』の本性に呑み込まれる。

 元々『僕』は『ギムレー』から生まれた存在ではあるのだからそれが自然なのかもしれないが、『僕』としての意志や意識は消え去るのだから、人格としては死ぬに等しいだろう。

 

 それが、恐ろしくて。

 人格の死もそうではあるけれど、それ以上に。

 

『僕』が消えた後に、『ギムレー』が彼女をどうするのかが未知数であり、何よりも恐ろしかった。

 

『僕』が懐いた彼女への執着のままに、心を踏み躙って無理矢理に眷族にするのかもしれない。

 それとも、彼女を愛する心すらも消え去って、煩わしい虫けらとして殺そうとするのかもしれない。

 

 分からないからこそ、彼女を守る為にも『僕』は『僕』を手離す事が出来ず、限界が近付いている事を自覚しながらも彼女の傍に在り続けている。

 

 だけれども──

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 久方振りに王城に帰還する彼女と共に、『僕』もイーリス王城に足を踏み入れる。

 ナーガのお膝元の一つとも言えるここに、『僕』が直接立ち入ったのはこれが初めてだ。

 だけど、『僕』の内にある『ルフレ』の欠片にとっては、慣れ親しんだ懐かしい我が家の様な場所である。

 

 その部屋を『僕』が訪れたのは、『ルフレ』の記憶に導かれての事だった。

 かつて、『ルフレ』がクロム達と過ごしていた日々を思い返す様に、『僕』の足は自然とそこに向かっていて。

『ルフレ』の記憶の欠片の中の部屋と、積もった埃以外は全く同じである部屋の様子に、『ルフレ』の記憶が溢れ出す。

 かつての『ルフレ』の部屋に立ち、『僕』は酷く『懐かしくて』胸が締め付けられる様な想いを覚えたのだ。

『ルフレ』の記憶の欠片が呼び起こされて、『僕』の記憶との境目が曖昧になって。

『僕』であるのか、『ルフレ』であるのか。

 その認識すらも曖昧になりかけていた。

 だから、背後から声を掛けられた時に。

 視界に映った蒼が、『ルフレ』の記憶の中の彼に重なって。

 彼女の姿に重なる様に、彼が其処に居る様にすら……。

 

 

「クロム……?」

 

 

 そう囁く様に呟いたのは、『僕』ではなくて『ルフレ』の欠片であった。

 

『ルフレ』の記憶の欠片は、『ルフレ』が『ルフレ』として居られた最後の瞬間。

 その人格と記憶が砕かれる寸前の、自らがクロムを殺してしまった瞬間で止まっている。

 

 ……クロムがここに居る筈が無い事は、『ルフレ』にもよく分かっていたのだろうけれども。

 そこに刻まれた深い深い後悔故にか、『ルフレ』はクロムを幻視していた。

 だが直ぐ様、『ルフレ』も其処に居るのは違う存在だと気が付いたのだろう。

 深い深い後悔と哀しみを『僕』の胸に残して、『ルフレ』の欠片は再び『僕』の中に溶けていった。

 

『ルフレ』の哀しみに少し引き摺られながらも、『僕』は『ルフレ』の部屋に立ち入った言い訳を彼女にする。

 彼女にとっても『ルフレ』は大切な人であったので、無断で立ち入ったともなれば、意図していなかったとは言え気分を害してしまったかもしれない。

 だが、彼女は気にしていないと首を横に振る。

 

 そして、『ルフレ』の事を、彼女は話してくれた。

 とても大切な人だったのだと、沢山の幸せをくれた人だったのだと。

 そう語る彼女は、懐かしそうな顔をしながらも、切なく悲し気な微笑みを浮かべていた。

 その言葉に、その想いに、酷くこの『心』が痛む。

 彼女から沢山の幸せな時間を、大切な『ルフレ』を奪ってしまったのは、『ギムレー』……いや、『僕』だ。

 その事を、これ以上に無い程に痛感してしまった。

 

 

「そう、ですか……。

 ルキナさんにそう思って貰えて、きっと『ルフレ』も。

 ……幸せ、だったのでしょうね……」

 

 

 絞り出す様にそう言うのが、精一杯になる程に。

 胸が、苦しい。

 そして、それと同時に。

 

 もうこれ以上、『僕』が彼女を傷付けるのは赦されない、赦したくないと。

 そう、心に決意を懐いた。

 

 

「有難うございます、ルキナさん……」

 

 

 だから、『僕』は何よりも先に感謝の言葉を伝える。

 そして、その先を。

 

 

「貴女に出逢えたから、貴女が居てくれたから。

『僕』は『僕』として存在する事が出来ました……。

 本当に、有難うございます」

 

 

 一度、言葉を区切る。

 言うべきか否か、僅かに迷って。

 

 伝えるべきでは無いのかもしれない。

『愛』とは、【呪い】だ。

 それを望んでなくとも、彼女の心を縛ってしまう。

 だけど、この『想い』は。

『僕』が『僕』である為の証だったのだから。

 せめて、伝えておきたかった。

 彼女の記憶には、残らないのだとしても。

 

 確かに『僕』は、貴女を、『愛していた』のだ、と。

 

 

「ルキナさん。

『僕』は、貴女の事を愛しています。

 この世の何よりも。この世の誰よりも。

『僕』が『僕』である限り、絶対にこの想いは変わらない。

 ……だからこそ、『僕』は。

『僕』の全てを賭けて、貴女を守ります。

 だから……、さようなら、『僕』の最愛の人よ」

 

 

 彼女が何かを言おうとする前に。

 その目を『僕』が手で覆う様にして塞ぐと、彼女の身体はグラリと崩れ落ちる。

 それを優しく抱き留めて、…………そのまま彼女を自分の想うがままにしたいと言う己の本性が吼え叫ぶ欲求を、なけなしの理性と彼女への想いで何とか押さえ付けて。

 

 彼女の部屋のベッドまで抱き抱えて、そして優しくそこに横たえさせる。

 

 安らかに眠るその横顔が愛しくて、彼女の意志なんて無視してでも自分のモノにしてしまいたくなる破壊衝動に似た凶暴な衝動が、『僕』の心に忍び寄る。

 でも、『僕』は……。

 彼女には彼女のままで、彼女が望むまま思うままの、在りのままで居て欲しいから。

 だから『僕』は優しく、眠る彼女の瞼に口付けを残しただけで、直ぐ様その傍から離れる。

 

 ほんの少しの触れ合いですら、本性が持つ凶悪な欲望に負けてしまいそうになる。

『僕』が『僕』で居られる限界が近付いているのを、心で感じてしまう。

 

 …………そもそも、『僕』の存在自体が、『ギムレー』が持つ人格の仮面の一つでしかなく、それが偶々個我を得ている様に振る舞えているだけなのだから、仕方がない事であるのかもしれないが。

 

 それでも。

『ギムレー』の本性が、ルキナを傷付ける事しか出来ないと言うのなら。

『ギムレー』の存在が、彼女の『幸せ』の何もかもを奪う事しか出来ないのならば。

 そして、『僕』が『ギムレー』の本性に抗い切れなくなる時が一刻一刻と近付いてきているのなら。

 

『僕』が消えるのだとしても。

『僕』でなくなるのだとしても。

 

『僕』にその決断を躊躇わせる理由は、最早何も無かった。

 ……だけれども、この優しく愛しい人は、傷付いてしまうのだろう。

『半身』だと誓った『僕』を、守れない事に。

 …………もしかしたら、『僕』が『ギムレー』である事を知っても、尚。

 彼女が一度懐に入れてしまった存在を、切り捨てられない人である事は、『僕』はよく分かっている。

 だからきっと『僕』のこの選択は、彼女を傷付けてしまう。

 それが分かっているから。

 それが『僕』のエゴなのは十分に分かっているけれども。

 

『僕』は。

『僕』との時間を、彼女から奪ってここを去るのだ。

 

 目覚めた時には、彼女は『ロビン』と言う名の軍師の事を、共に過ごした時間の事も、何も覚えてはいない。

『僕』が居た場所は他の何かに置換され、『僕』の存在は彼女の中から完全に消え去る。

 それならば、『僕』が居なくなる事で彼女が傷付く事は、無い筈だから。

 

 ………………。

 その事に未練が無いと言えば、流石に嘘になるだろう。

 幾ら『僕』でも、そこまで無欲ではない。

 

 せめて彼女の記憶の中には居たいと言う欲は確かにある。

 忘れないで欲しいとも思う。

 だけれども、そんな『僕』の細やかで我が儘な願いは。

 

 彼女に『幸せ』になって欲しいと思う『願い』には、彼女を守りたいと願う『心』には、何一つとして勝てないのだ。

 その笑顔を曇らせない為ならば。

『僕』との思い出が、全て彼女の中から消えても良い。

 

 ただただ、彼女には幸せで在って欲しいのだ。

 

 何時か、彼女と『ギムレー』は対峙する日が来るのだろう。

 その時にはもう『ギムレー』の中に『僕』は居ないだろうけれど。

 もし、この『祈り』が叶うならば。

 この愚かな邪竜の願いが僅かにでも叶うのならば。

 

 どうか……。

『ギムレー』が彼女を殺す事が無い様に。

 そして……『ギムレー』に止めを刺すのが彼女であって欲しいのだ。

 そこに『僕』がもう居ないのだとしても、最期にこの目に映るのは、誰よりも愛しい彼女の姿であって欲しいから。

 

 

「さようなら、ルキナさん……。

 せめてどうか、良い夢を……」

 

 

 眠る彼女の髪を、一度撫でる。

 そして、名残惜しさを振り切って。

『僕』は彼女が眠る部屋を立ち去った。

 

 

 

 願わくば、どうか幸せに。

 どうか、貴女は貴女のままで、自らが望むがままに自分の命を生きて下さい。

 

 

 

 永久に叶えてはならぬこの『想い』と共に、『僕』は消え行きましょう。

 

 

 

 さようなら、世界で一番愛しき人よ──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

→【旅路の果てに時よ廻れ】

 

→【掛け違えた道の先で、君と】



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END③【旅路の果てに時よ廻れ】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何時からだろうか。

 ルキナは、大切な『何か』を忘れている。

 ……そんな気がしてならなかった。

 だけれども、何れ程それを探し求めようとしても。

 記憶には何も見通せぬ程の深い霧がかかり、その輪郭すらをも覆い隠してしまう。

『何』を忘れているのかすらも、そもそも本当に忘れているのかすらも、定かではないのに。

 自分が『とても大切な事を忘れている』と言う感覚だけが残っている。

 だけれども。

 何れ程思い返してみても、自分の記憶に欠けた所は無い。

 

 父の事も、母の事も。

 そして、幼い頃に大好きだった『ルフレおじさま』の事も。

 彼等との思い出を、ルキナはちゃんと覚えている。

 幾つかの思い出は擦り切れ、朧気になってきてしまってはいるものの。

 それでも、忘れたりなんかしてはいない。

 仲間の事、守るべき民の事、自らの使命の事。

 それらも、ルキナの胸には何時も変わらずに其処に在る。

 それなのに。

 どうしても、違和感を拭えないのだ。

 

 ふとした瞬間に。

 自分の傍らに誰も居ない事に。

 戦場を駆けるその背を預ける人が居ない事に。

 戦術を示してくれる人が居ない事に。

 酷い違和感を、感じる。

 

 ふとした折りに。

『誰か』の優しい微笑みを。

『誰か』の穏やかな声を。

『誰か』の温もりを。

 探し求めてしまう。

 

 まるで、『半身』をもぎ取られてしまったかの様に。

 ルキナは足りない『何か』を何時も探していた。

 

 この胸の何処にも欠落など在りはしないのに。

 もう何にも埋める事が出来ない程の虚ろが、心の何処かに在る様な気がしてならない。

 そこを埋めている『何か』が、確かに在ったと思うのに。

 それを、ルキナは思い出せない。

 何も思い出せないのに。

 ルキナは、『何か』を喪ってしまった気がしてならないのだ。

 

 それはモノなのか、ヒトなのか、思い出なのか、感情なのか、心なのか……。

 その正体すらも分からないけれど。

 

 喪ってしまった『何か』が、そしてそれがもう何処にも無い事が、どうしようも無く、哀しい。

 もう取り戻せない事が、辛く苦しい。

 

 そんな息苦しさと哀しみともどかしさを抱えながら。

 それでもルキナは世界を救う為に、その『希望』たるべく戦い続けていた。

 でも、どうしてなのだろう。

 それがルキナの『使命』である筈なのに。

 それこそがルキナの戦う理由である筈なのに。

 それすらも、何処か虚しく感じてしまうのだ。

 …………自分は『   』を守れなかったのに、と。

 そう責める自分が居る。

 しかしその自分に何を問い返した処で、存在しない筈なのに確かに其処にある『欠落』の正体が返ってきたりはしない。

 

 ……大切な『何か』を、そうと気付けぬままに喪ってしまったのだとしても。

 それでも、ルキナは。

 戦い続けるしか無かった。

 それしか、生き方を知らなかったからだ。

 

 その背を支える手が無くとも。

 共に苦楽を分かち合う『半身』が居ないのだとしても。

 それが、ルキナの『使命』であるが故に……。

 

 

 

 

 

 そして、『宝玉』の捜索の為に仲間達がイーリスを発ってから、凡そ二年半程の年月が過ぎ行こうとしていた…………。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 仲間達が宝玉と台座を携えてイーリスに帰還した、との報告を受けたのは、ルキナが王都に程近い場所にまで出没した屍兵を討伐していたその時であった。

 

 近頃は、一時鳴りを潜めているかの様にその活動が緩やかであった屍兵の襲撃がより活発になり、王都の近くまでもが侵攻を受ける様になっている。

 最後の砦であるイーリス城が落ちれば、最早世界の滅びは決定的なモノとなり、人類も絶滅を免れ得ない。

 だが、その《終焉の時》は刻一刻と迫ってきていて。

 ルキナは時々、自分達の戦いは滅びるまでの時間の先延ばしに過ぎず、人々の苦しみを無駄に延ばしているだけなのではとすら思ってしまう。

 

 勿論、その様な弱音をルキナが誰かに溢せる筈も無い。

 ルキナに求められているのは、最後の瞬間まで『希望』として絶望に抗う事だけだ。

 

 だからこそ仲間達の帰還が、そして完成した『炎の紋章』を以て『覚醒の儀』を遂げれば、この絶望に抗う力を得られると言う……確かにこの手に届いた『希望』が。

 何よりも嬉しかった。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 急ぎ王都に戻ったルキナを出迎えた仲間達は……。

 何故かそこに使命を果たし帰還した喜びや安堵は無く、皆一様に何かに絶望した様な顔をしていた。

 何かを深く悔やむ様に、拳を固く握り締めて震わせている者も多かった。

 

 どうして、その様な顔をしているのだろう。

 宝玉を、台座を、取り戻してきたのではないのか、と。

 だが、ルキナが彼等に『何か』を問える筈も無く。

 場には重苦しい沈黙が落ちる。

 

 そんな中で真っ先に口を開いたのは。

 ルキナの従兄弟であるウードであった。

 

 仲間達は確かに『炎の台座』を奪還し、宝玉も手に入れた。

 しかし、彼等が見付け出せた宝玉は、四つ。

 最後の一つ、『黒炎』は、何れ程方々を探し回っても、終ぞ見付けられなかったのだと言う。

『黒炎』の探索に時間を掛け過ぎて、激化する屍兵達の度重なる襲撃によって全滅する可能性すらも出てきた時に。

 仲間達の意見は二つに割れたのだと言う。

 

 このまま『黒炎』を探し、五つの宝玉を揃えて『炎の紋章』を完成させてからイーリスに帰ろうとする者。

 そして、台座と四つの宝玉すらも喪う事だけは避ける為に、『黒炎』の捜索は諦めて一旦イーリスに帰還しようとする者。

 真っ二つに別れた彼等の意見は。

 最終的に、『黒炎』を諦める事で決着が着いたのだ。

 

 そう説明したウードは、ルキナに深く頭を下げた。

 自分が『黒炎』を諦めるように仲間達皆を説得したのだと。

 だから、不完全な状態の『炎の紋章』しか持ち帰られなかった責は、自分にあるのだ、と。

 そう謝罪するウードを、ルキナが責められる訳が無かった。

 

 五つの宝玉が揃った完全な『炎の紋章』でなければ、ギムレーに抗するための『覚醒の儀』は行えない。

 だけれども、『炎の紋章』を完成させる事に固執して、その全てを喪ってしまえば。

 最早全ての『希望』の芽が摘み取られてしまう。

 

 何としてでも『黒炎』を探そうとした者も、例え『炎の紋章』が不完全な状態でも一旦帰還しようとしたウードも。

 

 どちらも、正しいのだ。

 ウードは、正しい選択をした。

 それを、責められる筈が、無い。

 だが、この状況は決して良いモノでは無かった。

『覚醒の儀』は未だ行えず、そしてイーリス王都が陥落する日はそう遠くは無い未来となってしまっている。

 再び仲間達を『黒炎』探索に向かわせる猶予は、もう無い。

 

『   』ならば、こんな時にどうするのだろう。

 

 ふと、ルキナの胸の内に、『思い出せない』、『知らない』『誰か』の事が過る。

 一体それが『誰』なのか、ルキナには分からない。

 だけれども。

 ルキナが行き詰まってしまった時に、道に迷ってしまった時に。

 何時だって、道を指し示し導いてくれた『誰か』が、居た気がする。

 それはルキナの願望が見せた妄想だったのだろうか……? 

 

 …………。

 何にせよ、今のルキナの傍にはその様な者は居ない。

 ルキナが、皆に道を示さねばならないのだ。

 

 ルキナは考え抜き、そして。

 一つの決断を、下す。

 

 

「『覚醒の儀』を、行いましょう」

 

 

 その言葉に、仲間達は騒めいた。

 揃った宝玉は、四つ。

 完全な『覚醒の儀』は、それでは行えないのだから。

 

 確かにそれはそうだ。

 だが、例え《完全な》『覚醒の儀』は行えないのだとしても。

 五つの内四つまでもが揃っているのだ。

《不完全》ながらも、『覚醒の儀』を行えば、ギムレーに対抗する何らかの力を得られる可能性は、0ではない筈だ。

 

 それに、最早人々には『黒炎』捜索を行う猶予も余裕も残されてはいない。

 このまま何もしなければ、完全になる筈など有り得ない不完全な『炎の紋章』を抱いたまま、滅びるしかなくなる。

 ならば、その可能性が如何に低かろうと。

 ルキナがやるべき事は一つであった。

 

 そうと決まれば、『覚醒の儀』を行う為にも『虹の降る山』の山頂に設けられた祭壇に向かう必要があった。

 だが、ナーガの領域である『虹の降る山』はまだその力が及んではいないと信じたいが、イーリス王都から『虹の降る山』までの道中は、既に屍兵の領域だ。

 厳しい行軍になるのが、目に見えていた。

 それでも、やり遂げなければならない。

 まだ、絶望を前に膝をつく訳にはいかないのだから。

 

 ルキナは、仲間達に出立の時までを休養にあてる様に厳命し、兵達には行軍の準備を行う様に指示する。

 世界はまだ、『絶望』に染まりきってはいない筈だと、ルキナは『何か』に縋る様に信じていた。

 

 

 

 だが、『覚醒の儀』を行う事を決めた、その日の夜に。

 イーリス王都は、かつて無い程の大規模な屍兵の襲撃を受けたのだった…………。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 世界が、燃えている。

 こんな絶望の世界でも、それでも必死に生きていた人々の営みが、命が、塵芥の様に吹き飛ばされ燃えていく。

 

 屍兵の襲撃に、ルキナや仲間達と兵達は必死に抗った。

 だが、圧倒的な数の暴力を前にして、兵達は傷付き倒れて行き、そして屍兵となって甦っては敵となって味方であった者達に襲い来る。

 

 地獄だった。

 ここは、紛れもなく、絶望と暴力が支配する地獄だ。

 そんな地獄の様な世界を、必死に駆け回って。

 ルキナは少しでも屍兵を減らそうと、一人でも多くの無辜の人々を救おうとして戦い続けていた。

 

 一体何れ程の屍兵を斬ったのだろう。

 切れ味が落ちる事の無いファルシオンの刀身に曇りは一つも無いが、それを振るうルキナの心は疲弊しつつあった。

 この場を切り抜けられた所で最早滅びは避けられないのではないか、全ては無駄なのではないか、と。

 そう、心が折れそうにもなる。

 

 それでも、まだ絶望する事は、ルキナには出来なかった。

 まだ、ルキナは生きている、まだ戦える。

 だから、『希望』は、途絶えてはいない筈なのだと。

 それだけを支えに、ルキナは戦う。

 

 王城に入り込み始めた屍兵を斬って斬って斬って…………。

 押し寄せる濁流の如く視界一面を埋め尽くしていた屍兵が僅かばかり減り始めた時に。

 

 

 

 世界に、終末を告げるかの様な轟音が轟いた。

 

 

 

 ただ一息で、跡形もない程に吹き飛ばされた王城の壁の穴から覗いたのは。

 頭部だけでも、イーリス王城を丸呑みにしても尚余りある程に巨大な。

 邪竜、と呼ぶに相応しいその異形の姿だった。

 

 

「『ギムレー』……」

 

 

 世界を滅ぼさんとするその竜の姿をルキナがこの目で見るのは、これが、初めてであった。

 剰りにも強大なその存在が、人の身で抗う事など不可能な存在である事が、誰に説明されるでも無く、理解してしまう。

 理解して、しまった。

 これは、『絶望』そのものだ、と。

 

 抗えない、勝てない。

 自分は、ここで『ギムレー』に殺されるのだ。

 何も成せないまま、人々の『希望』に応えられないままに。

 

 それを理解して。

 そして、そうであるにも関わらずに。

 ルキナは、ナーガの力の宿らぬファルシオンを『ギムレー』に向けて構える。

 

 こんな抵抗は『ギムレー』には何の意味も無い事だろう。

 ナーガの力が宿らぬファルシオンでは、『ギムレー』を討つ事は出来ないのだから。

 

 だが、それでも。

 ルキナは、最期の瞬間まで『自分で在り続ける』為にも。

 ここで屈しはしない。

 一瞬後には食い殺されるのだとしても。

 その瞬間まで抗い続ける。

 

 

「来るなら、来い! 

 私は、『希望』は、お前なんかに屈したりはしないっ!!」

 

 

 そう啖呵を切ったルキナに襲い掛からんと。

 ギムレーの巨大な顎がルキナの視界一杯に迫る。

 臆しそうになる心を必死に律しながら、ルキナはそれを真っ直ぐに見据えた。

 

 

 だが、ルキナなど容易く丸呑みに出来るその顎は。

 

 

 ルキナを呑み込もうとした寸前に、まるでそこに見えない壁があるかの如く。

 不自然に、急停止する。

 そして、何かに抑えられているかの様に、ガタガタと細かく震え始めた。

 

 一体何が起きている? 

 まさか、ナーガの加護なのか? と。

 ルキナが自分の認識を超えた状況に当惑していると。

 

 

 

『…………ナ……。ニゲ…………』

 

 

 

『誰か』の、必死な声が、ルキナの耳に確かに聞こえた様な気がして……。

 そして、『何か』に引っ張られる様な感覚と、『誰か』に押し飛ばされた様な感覚と共に。

 

 

 

 

 ルキナの目に映る世界は、一変した。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ルキナが気が付いた時には、目の前に迫っていた『ギムレー』の姿は何処にも無く、そこはイーリス王城でもなかった。

 周囲には、仲間達がルキナと同じく、何が起きたのか理解しきれない様な表情で周りを見回していて。

 

 

「ここは……」

 

 

 一体、何処なのだろう、と。

 その疑問に答えたのは、予想外の存在であった。

 

 

『ここは、私の領域です。

 人の子に、『虹の降る山』と呼ばれる場所……。

 私が、貴女達をここに招きました』

 

 

 フワリと。

 中空から突如現れた様にして姿を見せたその存在は──

 

 

「神竜、ナーガ……」

 

 

 ファルシオンを人に与えし存在。

 初代聖王に、『ギムレー』を討つ為にナーガの力を与えた者。

 そして、ルキナもまた、その力を得ようとしていた者の一人である。

 

 だが、ルキナは『覚醒の儀』をまだ不完全なものですら行ってはいない。

 なのに、何故……。

 

 そんな疑問に答えたのも、やはりナーガであった。

 

 

『もう、時間が無いのです……。

『覚醒の儀』を行っていない為、私がこの世界に対し直接出来る事は限られている。

 それでも、あのまま最後の『希望』を潰えさせる訳にはいかなかった。

 干渉するまでに時間が掛かってしまいましたが、……何とか間に合った様ですね……』

 

「王都は、王城は……。

 彼処に居た人達は、どうなったんですか……?」

 

 

 恐る恐ると、ナーガに訊ねたのはウードだ。

 寸前まで戦い続けていた事を示す様に、その身体には幾つもの生傷が刻まれている。

 ナーガはその問いに、何処か茫洋としている様にも見える目を、憂う様に伏せた。

 

 

『ギムレーがあの場に現れた以上は、最早誰も生き残ってはいないでしょう……』

 

 

 そして、ルキナを含めた12人を、この場に連れてくるのが精一杯であったのだと、ナーガは語った。

 

 …………たった、十二人。

 それだけしか、生き残らなかったのだ……。

 ルキナはナーガが語るその事実を、茫然と聞くしか出来なかった。

 

 そして、ナーガは、ルキナに。

『炎の紋章』を持っているかを尋ねた。

 

『黒炎』が納まるべき場所は空白のままだが、仲間が命懸けで持ち帰った不完全な『炎の紋章』は、ルキナが肌身離さず所持している。

 それを差し出すと、ナーガは『希望はまだ繋がった……』と溜め息を溢した。

 

 こんな状況で、何の『希望』があると言うのだろうか……。

 そう訝るルキナに。

 ナーガは《時を越える》手段を提示した。

 

 最早この世界は終焉を迎える。

 だが、時を越えて過去に向かい、この滅びの原因を、『ギムレー』の復活を阻止出来れば。

 世界を、滅びの運命から救う事が出来るかも、しれないと。

 そうナーガは語った。

 

 過去を変えれば、未来は変わるのか。

 もし未来を変えられたとして、変わる前の未来から来たルキナ達は、どうなるのだろう。

 過去が変わり未来が変わった瞬間に、存在が消えるのだろうか。

 それとも、時の迷い人として、過去にも未来にも居られずに彷徨う事になるのだろうか……。

 

 …………。

 何が起こるのか、分からない。

 何が出来るのか、分からない。

 

 それでも。

 そこに、こんな……誰も望んでなどいない終焉から、この世界を救える可能性が僅かにでもあるのなら。

 ルキナには、迷いは無かった。

 

 二度と帰る事は叶わないであろう旅路に、仲間達は皆各々に迷い悩んでいたが。

 それでも皆、時を渡って過去へ向かう事を決めた。

 そこには様々な葛藤が、理由があったのだろう。

 それでも、自分が独りでは無い事がルキナには嬉しかった。

 

 過去へと渡る為の『道』を作る為に、ルキナは不完全ながらも『覚醒の儀』を行う。

 その時に、不完全ながらもファルシオンにはナーガの力が与えられた。

 

 ……帰れぬ旅路を往く者への、ナーガからのせめてもの餞であったのだろう。

 それを有り難く受け取ったルキナは、一つ、気になっていた事をナーガに訊ねた。

 

 ルキナが『ギムレー』と対峙したあの時。

 食い殺される寸前で、『ギムレー』からルキナを守ったのは、ナーガであったのか、と。

 

 だが、ルキナの問い掛けにナーガは静かに首を横に振った。

 

 ナーガに、『ギムレー』を押し留める程に直接的に干渉する術は無い。

 自分に出来たのは、ルキナ達を転移させる事だけだと。

 ならば、あの時に。

 ルキナを助けたのは『何者』であったのだろうか。

 

 ナーガならば知っているのではないかと、そう思ったが。

 ナーガですらも、預かり知らぬ事であるらしい。

 ナーガですらも出来ぬ事であったのだとすれば。

 それを成す事が出来たのは、……『ギムレー』自身なのではないかと。

 一瞬、そんな考えが頭の片隅を過ったが。

 

 ……直ぐ様そんな馬鹿馬鹿しい考えは捨てた。

 ルキナを食い殺そうとしていた『ギムレー』が、ルキナを助ける理由なんて、何処にも無いのだから。

 

 あの時聞こえた『誰か』の声も、きっと気の所為なのだ。

 

 ルキナは、そう結論付けた。

 

 その胸に、消えぬ『虚ろ』を抱きながら。

 

 過去を、未来を、運命を。

 ルキナ達が変えられるのかは分からない。

 だけれども。

 必ず、この使命は果たさなければならないのだ。

 その為に、何を犠牲にしなくてはならないのだとしても。

 何としてでも、『ギムレー』の復活を阻止する。

 この世界を、救って見せる。

 

 

 その決意を胸に抱き、ルキナは二度とは帰れぬ過去への道に踏み出したのであった。

 

 

 

 旅路の果てに、この胸に巣食う『虚ろ』もまた、消える事を願いながら……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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END④【掛け違えた道の先で、君と】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何時からだろうか。

 ルキナは、大切な『何か』を忘れている。

 ……そんな気がしてならなかった。

 だけれども、何れ程それを探し求めようとしても。

 記憶には何も見通せぬ程の深い霧がかかり、その輪郭すらをも覆い隠してしまう。

『何』を忘れているのかすらも、そもそも本当に忘れているのかすらも、定かではないのに。

 自分が『とても大切な事を忘れている』と言う感覚だけが残っている。

 だけれども。

 何れ程思い返してみても、自分の記憶に欠けた所は無い。

 

 父の事も、母の事も。

 そして、幼い頃に大好きだった『ルフレおじさま』の事も。

 彼等との思い出を、ルキナはちゃんと覚えている。

 幾つかの思い出は擦り切れ、朧気になってきてしまってはいるものの。

 それでも、忘れたりなんかしてはいない。

 仲間の事、守るべき民の事、自らの使命の事。

 それらも、ルキナの胸には何時も変わらずに其処に在る。

 それなのに。

 どうしても、違和感を拭えないのだ。

 

 ふとした瞬間に。

 自分の傍らに誰も居ない事に。

 戦場を駆けるその背を預ける人が居ない事に。

 戦術を示してくれる人が居ない事に。

 酷い違和感を、感じる。

 

 ふとした折りに。

『誰か』の優しい微笑みを。

『誰か』の穏やかな声を。

『誰か』の温もりを。

 探し求めてしまう。

 

 まるで、『半身』をもぎ取られてしまったかの様に。

 ルキナは足りない『何か』を何時も探していた。

 

 この胸の何処にも欠落など在りはしないのに。

 もう何にも埋める事が出来ない程の虚ろが、心の何処かに在る様な気がしてならない。

 そこを埋めている『何か』が、確かに在ったと思うのに。

 それを、ルキナは思い出せない。

 何も思い出せないのに。

 ルキナは、『何か』を喪ってしまった気がしてならないのだ。

 

 それはモノなのか、ヒトなのか、思い出なのか、感情なのか、心なのか……。

 その正体すらも分からないけれど。

 

 喪ってしまった『何か』が、そしてそれがもう何処にも無い事が、どうしようも無く、哀しい。

 もう取り戻せない事が、辛く苦しい。

 

 そんな息苦しさと哀しみともどかしさを抱えながら。

 それでもルキナは世界を救う為に、その『希望』たるべく戦い続けていた。

 でも、どうしてなのだろう。

 それがルキナの『使命』である筈なのに。

 それこそがルキナの戦う理由である筈なのに。

 それすらも、何処か虚しく感じてしまうのだ。

 …………自分は『   』を守れなかったのに、と。

 そう責める自分が居る。

 しかしその自分に何を問い返した処で、存在しない筈なのに確かに其処にある『欠落』の正体が返ってきたりはしない。

 

 ……大切な『何か』を、そうと気付けぬままに喪ってしまったのだとしても。

 それでも、ルキナは。

 戦い続けるしか無かった。

 それしか、生き方を知らなかったからだ。

 

 その背を支える手が無くとも。

 共に苦楽を分かち合う『半身』が居ないのだとしても。

 それが、ルキナの『使命』であるが故に……。

 

 

 

 そして、『宝玉』の捜索の為に仲間達がイーリスを発ってから、凡そ二年程の年月が過ぎ行こうとしていた…………。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 仲間達が宝玉と台座を携えてイーリスに帰還した、との報告を受けたのは、ルキナが王都に程近い場所にまで出没した屍兵を討伐していたその時であった。

 

 近頃は、一時鳴りを潜めているかの様にその活動が緩やかであった屍兵の襲撃がより活発になり、王都の近くまでもが侵攻を受ける様になっている。

 最後の砦であるイーリス城が落ちれば、最早世界の滅びは決定的なモノとなり、人類も絶滅を免れ得ない。

 だが、その《終焉の時》は刻一刻と迫ってきていて。

 ルキナは時々、自分達の戦いは滅びるまでの時間の先延ばしに過ぎず、人々の苦しみを無駄に延ばしているだけなのではとすら思ってしまう。

 

 勿論、その様な弱音をルキナが誰かに溢せる筈も無い。

 ルキナに求められているのは、最後の瞬間まで『希望』として絶望に抗う事だけだ。

 

 だからこそ仲間達の帰還が、そして完成した『炎の紋章』を以て『覚醒の儀』を遂げれば、この絶望に抗う力を得られると言う……確かにこの手に届いた『希望』が。

 何よりも嬉しかった。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 取り急ぎ王城に帰還したルキナを出迎えた仲間達は。

 旅立つ前よりもかなり草臥れてはいたが、皆壮健そうであった。

 少なくとも、目に付く様な大きな負傷は無さそうに見える。

 その事が、皆が誰一人欠ける事無く帰還してくれた事が、何よりも嬉しくて。

 ルキナは思わず涙ぐんでしまう。

 長い長い旅路の末に漸く帰還を果たしたからか、仲間達の顔には疲労の色が見えるが。

 それでも、『成し遂げた』のだと。

 彼等の目は、何よりも雄弁に語っていた。

 

 かつてイーリスから奪われた『炎の台座』と『白炎』。

 フェリアから喪われた『緋炎』。

 ヴァルム帝国との動乱の際に、ヴァルム大陸から行方知れずとなった『蒼炎』と『碧炎』。

 そして、ペレジアに隠されていると密かに囁かれ続けていた『黒炎』。

『炎の台座』と五つの宝玉を、仲間達の手から受け取ったルキナは。

 感動に打ち震えながら、宝玉を台座に納めてゆき、『炎の紋章』を完成させた。

 漸く、これで……。

 漸くこれで、『ギムレー』を討つ為の力を手に入れる事が、出来るのだ。

『希望』が。

 長い間ルキナ達が求めて戦い続けたそれが、やっと……。

 この手の届く所にまでやって来た。

 その事が、どうしようもなく、嬉しい。

 

 

「皆が無事でいて……何よりです。

 そして、有り難う……。

 これでやっと、『希望』が、この世界にも……」

 

 

 感謝の言葉は、嗚咽となって最早言葉としての形を成していなかったが。

 それでも、この想いを伝えるべくルキナは感動に震える唇を動かして言葉を紡ごうとする。

 

 無駄では、無かった。

 諦めず、皆の帰りを信じて戦い続けた日々は。

 決して、無駄では無かったのだ。

 諦めずに戦い続けたからこそ。

 今この瞬間が訪れたのだから。

 

 勿論、ルキナにとっての真の試練はこれからだ。

『覚醒の儀』を行い、『ギムレー』を討たねばならない。

 だけれども、ルキナが『孤独』に戦い続けていた日々は、今この瞬間に報われたのだ。

 だがそんなルキナの想いとは裏腹に、胸の内の何処かに抱えた『虚ろ』は囁く。

 

(ただ待つ事しか出来なかった日々でも、自分は『孤独』では無かった。

 私の傍には、何時だって『   』が、私だけの『  』が、居てくれたのだから……。

 なのに、私はそれを喪ってしまったのだ)

 

 胸の『虚ろ』がそう囁く度に、どうしてか酷く苦しくなる。

 あの日々に、私の傍には誰も居なかった筈なのに、ずっと『独り』で戦ってきた筈なのに。

 

 違うのだと。

『   』との日々を忘れるな。と。

『   』の事を忘れ、『孤独』であったのだと偽ってはいけないのだと。

 そう、心は叫ぶ。

 

 今は、漸くこの手に届きそうな『希望』の事に注力するべきなのに。

 ナーガの力を得て『ギムレー』を討ち、世界を覆う絶望を晴らす事を考えなくてはならないのに。

 何故か。

 このままでは『   』を永遠に喪ってしまうのだと。

 取り戻す事も、思い出す事も出来ぬままに、『   』は消えるのだ、と。

 そんな焦燥が、訳もなくルキナの胸の内に渦巻き、出口も見えないままに荒れ狂う。

 

 でも、ルキナにはどうする事も出来ない。

 思い出す事も出来ぬ『何か』に囚われて、手が届く場所にまで辿り着けた『希望』を喪う訳にはいかないのだ…………。

 

 だからこそルキナは、『虚ろ』の囁きに耳を塞ぐ。

 気付かない振りをして、見なかった振りをして、聞かなかった振りをして。

 

 自分には、忘れてしまった『何か』など無いのだと。

 思い出せない『何か』など、在りはしないのだと。

 そう自分に言い聞かせて、胸に根深く巣食ってしまった『虚ろ』から、必死に目を逸らすのだ。

 

 そうやってルキナが、心の『虚ろ』の囁きを追い払おうとしていると。

 

 感極まって言葉を喪ったのだと勘違いしたのだろうか? 

 仲間達が次々に旅の中での出来事を語って聞かせてくれた。

 曰く、仲間達は途中で三手に別れて、各々に手分けして台座と宝玉の行方を追っていたのだと言う。

 宝玉と台座は、どれもバラバラの場所に、強力な屍兵達に守られる様にして厳重に保管されていた。

 それを何とかして奪還して(ここでウードが大袈裟な身振り手振りと語り口で語ろうとしたが、他の仲間達によって口を塞がれた)、屍兵の追撃を受けながらもこうやって帰還を果たしたらしい。

 

 説明しながら、ふと気になった事でもあったかの様に、シンシアがポツリと呟く。

 

 

「そう言えばさ、『蒼炎』を奪い返した時に。

 弓兵の屍兵も一杯居た筈なのに、追撃してきた屍兵の中には弓兵が一体も居なかったんだよね」

 

 

 それで逃げ切れたから良いんだけど、不思議だよねと。

 そうシンシアが言うと。

 似た様な事が他にも思い当たったのか、俺も私もと、その『不思議な出来事』を口々に話していく。

 

 

 屍兵の勢力圏であった筈なのに何故か襲われる事が無い夜が幾度となくあったと、シャンブレーは語る。

 

 水と食料が尽きかけた時に偶々見付けた廃村に十分な量の保存食と新鮮な飲み水を見付ける事が出来た事が数回あったのだと、ブレディが語る。

 

 武器が摩耗して心許なくなった時に限って、倒した屍兵が自らの得物となる武器を残して消える事が多かったのだと、デジェルが語る。

 

 倒木や落石で道が塞がっていた為迂回するしか無かった時に限って、結果的に屍兵の集団を回避出来た事が多かったと、セレナは語る。

 

 厳重に宝玉を守っていた屍兵達がふとした瞬間に巡回するルートを変えた為に、無駄な損耗も無く宝玉を奪還出来た事があったのだと、アズールが語る。

 

『白炎』奪還時に、追撃してくる屍兵だけを巻き込む様に土砂崩れが発生した事があり、それによって追撃を辛くも振り切る事が出来たのだと、ロランは語る。

 

 仲間達との合流前に立ち寄った廃墟で一泊しようとした時に、偶然にも火事が起こって廃墟から出て行かざるを得なかったのだが、実は広い廃墟には大量の屍兵が潜伏していて、結果として火事が起こって屍兵が一体残らず燃えた為に、辛くも窮地に陥らずに済んだのだと、ノワールが語る。

 仲間との合流前に峡谷を通過した時に屍兵の大集団に追撃を受けたのだが、ウードと同行していたアズールとシャンブレーとブレディが吊り橋を渡り終えた直後に、吊り橋に雷が落ちて、追撃しようとしていた屍兵を巻き込んで橋が落ちた為に、絶体絶命の危機であった所を乗り越えられたのだと、ウードは語る。

 

 そんな一度や二度ならばまだしも、とても『偶然』や『幸運』によるものなんて考えられない程の『不思議な出来事』の数々によって、仲間達は帰還を果たしたと言うのだ。

 

「見守っててくれてたのかな」と溢したのは、誰だったのだろうか。

 それは分からないが。

『何者か』に守られていたとしか思えない様なその『不思議な』出来事の数々に、今は亡き父や母達が自分達を見守ってくれていたのであろうかと思うのも、当然の心理なのだろう。

 

 すると、それまで黙していたジェロームが、何事かを考える様な素振りを見せた後に、口を開いた。

 

 

「時折だが、……『何者か』の視線を感じる事があった。

 ミネルヴァが警戒する素振りも無かった為、気の所為なのかと、思っていたのだが……」

 

 

 もしかしたら、自分達を見守っていた『何者か』が実際に居たのかもしれない、と。

 そう語るジェロームにンンも、もしかして、と呟く。

 

 ノワールが語った、廃墟での出来事の時の事だ。

 火事が起きる直前に、遠目に人影の様なモノを見た気がするのだ、と。

 それはほんの一瞬の事であったし、その後直ぐに離れた場所とは言え火の手が上がってしまったので、その時はその人影の事を気にする余裕は無かったのだが。

 もしかして、その人影こそが、自分達を見守っていた『何者か』であったのではないか、と。

 ンンはそう少し自信無さげに語った。

 

 …………。

 彼等を見守っていた『何者か』が実在していたのかそれともそうで無いのかは、今となっては確かめようも無い事ではあるのだが。

 何にせよ、その『不思議な出来事』の数々に助けられ、仲間達は皆無事に合流を果たしたのだと言う。

 

 …………だが。

 

 それまでの道中での加護が途切れたかの様に、合流後のイーリスまでの旅路は苛烈を極めるモノとなったのだ。

 無限に現れる屍兵達の追撃は執拗に繰り返され、ロクに休息を取る事も出来ないままに王都への強行軍を敢行するしか無かったのだと言う。

 仲間達の誰もが窶れて見えるのは、その疲労の為なのだろう……。

 

 一通りの話を聞き終えたルキナは、とにかく今は休む様にと、仲間達に伝えた。

 

『炎の紋章』が完成した今、ルキナ達は可及的速やかに『虹の降る山』の祭壇へと向かい、『覚醒の儀』を執り行ってファルシオンに神竜の力を取り戻す必要がある。

 だが、ナーガの領域である山の周辺はまだしも、その道中は既に屍兵の蠢く領域だ。

 そこを突破せねばならぬのだから、十分に英気を養う必要がある。

 

 王都防衛の為にも、兵達の多くは残していかねばならないので、実際は少数精鋭で祭壇まで辿り着かなければならない。

 そして、その道中の困難も然る事ながら、何よりも。

 不気味な程に直接的には表に出ようとはしない『ギムレー』が、『覚醒の儀』の気配を察知すればどう動くのかが未知数である。

 自分を害する力を人が得ようとしているのに、幾ら何でも静観し続けると言う事もあるまい。

 屍兵によって妨害しようとするのならまだしも、『ギムレー』自身が乗り込んでくる可能性もあった。

 最悪の場合、『虹の降る山』が決戦の場となるだろう。

 それ故に、準備は万全を期しても足りない程である。

 

 だが、何れ程困難であろうとも。

『希望』の足音はもう直ぐ其処にまで近付いているのだ。

 だからこそ、ルキナ達が負ける訳にはいかないのであった。

 

 

 

 数日間の休息で完全に回復した仲間達と共に、可能な限りの支度を整えたルキナは。

 完成された『炎の紋章』を携えて、一路『虹の降る山』を目指すのであった……。

 

 

 

 

 

 

■■■■■■

 

 

 

 

 

 

 遠くに見える彼等の小さな背中がもう視認出来ない程になって、漸く『僕』は一つ息を吐いた。

 その途端に己を蝕む『ギムレー』の衝動を、歯を食い縛って何とか耐える。

 

 まだだ、まだ、『僕』は、消える訳には、いかない。

 せめて、彼等が、もっと『僕』から離れる、までは──

 

 ルキナの元を去ってから、『僕』が『僕』で居られる時間は既にとても短くなっていた。

 それは最初から承知の上の事であったのだけれど。

 それでも、『僕』が消えていくのを、本来の『ギムレー』に溶けていこうとしているのを自覚しながらも、こうやって未練がましくしがみつこうとしているのは。

 偏に、何よりも大切な、彼女の力になる為だ。

 

『僕』が『僕』自身で決着を付けられるのならばそれが一番なのは、分かっているけれども。

 

 幾ら乖離していようとも所詮は、『ギムレー』の中の人格の一欠片に過ぎぬ『僕』では。

 自殺と言う形で、『ギムレー』を終わらせる事は、出来ない。

『ギムレー』の意志の中で、『僕』がそれに抗って成せる範疇を超えてしまっているからだ。

 

 ルキナを守る為にその傍を去った『僕』は、消え行く中でルキナの為に一体何が出来るのかと考えた。

 自殺は……残念ながら出来ない。

『ギムレー』の力を大きく使うような事をすれば、益々『僕』が完全に消えるまでの時間が早まってしまい、それは結果としてルキナを殺してしまいかねない。

 時間を稼ぐと言う観点では、このまま『僕』が完全に消えてしまうその時まで、『ギムレー』を抑え続けると言うのが一番なのであろう。

 それならば恐らくは……一年は叶わなくても、半年以上は『ギムレー』を抑え込んでいられるだろう。

 それもまた一つの道だ。

 ……だけれども……、その半年の間に『覚醒の儀』を行えなければ、結局ルキナを待つのは死の運命のみとなる。

 だから、『僕』は……。

 消え行く『僕』に出来るせめてもの手助けとして。

 彼女が『炎の紋章』を完成させられる様に……。

 そして『覚醒の儀』を行って、『ギムレー』を……『僕』を、殺せるように。

 宝玉と台座を捜索している彼女の仲間達の旅路を、陰ながらに見守り、可能な限りの手助けをしていた。

 

 ……彼女から離れて程無くして、『僕』は次第に『僕』では居られなくなった。

『ギムレー』の侵食は止まらず、もう『僕』としての意識も記憶も、欠片程にしか残ってはいない。

 彼女と過ごしてきた時間を、その時の心を。

『僕』は、もう、殆ど、……思い出せない。

 それでも、まだ残っているモノはある。

 

 彼女を守りたいという『想い』は、そして彼女を愛しその幸せを願う『心』は。

 何れ程『ギムレー』に削られてしまっていても、まだ、『僕』を繋ぎ止めていてくれた。

 ほんの僅かな時間であっても、『僕』が『僕』として彼女の仲間を助ける為の時間を与えてくれた。

 彼等の旅路を見守り、『ギムレー』が仕掛けた罠や追っ手から彼等を守る事が出来たのは、そのお陰だ。

 そして今、彼等は全員無事に合流を果たし、イーリスへ向かおうとしている……。

 

 それを、最後まで見守れたら……。

 いや、出来るならば。

 彼女が『覚醒の儀』を行い、この身にその刃を突き立てる瞬間。

 その時まで、『僕』が『僕』として、彼女を『ギムレー』から守れるのならば。

 そんな淡い『希望』を、抱いてしまう。

 そしてそれと同時に、『奇跡』も願ってしまうのだ。

 

 彼女がナーガの力を得れば、きっと『ギムレー』を封印する事が出来る。

 ……それを、『僕』が見届ける事は、きっともう出来ないだろうけれども。

 ……もし何かの『奇跡』が起きて、その瞬間に『僕』が存在出来れば。

 ルキナに、本当の意味での決着を……封印ではなく、『ギムレー』の消滅を、果たさせてあげられるだろう。

 ……それはきっと叶わない夢物語なのだろうけれど、それでもそんな『奇跡』を祈ってしまう。

 

 

 だが、もう……。

『僕』に、時間は残されていない。

 

 もう間も無く、『僕』は完全に消え、そして恐らくは、二度と表に浮かび上がる事は無いだろう。

 …………彼女から離れた時点で、遠からず『僕』に訪れる結末だ。

 だから、その事自体には未練は無いのだけれども……。

 

 それでも。

 彼女と『ギムレー』が相対した時に。

 もし、『奇跡』が起こるのなら…………、と。

 そんな事を考えてしまう。

 ……全く、未練がましい事だ。

 

 ここから先を、『僕』が見届ける事は叶わない。

 だからせめて、祈りを捧げよう。

 

 この先の未来に。

 彼女が『ギムレー』を討った未来に。

 彼女が彼女の思うがままに生きて、そして『幸せ』で在れる事を。

 彼女が、大切な『誰か』と笑い合える日々が訪れるであろう事を。

 

 彼女の旅路に、幸多からん事を……。

『僕』は、願おう──

 

 

 

 

 

 

■■■■■■

 

 

 

 

 

 

 屍兵の大群を何とか潜り抜けて、漸く辿り着いた『虹の降る山』は……。

 かつての面影の一切を喪った地と化していた。

 ナーガの領域であるにも関わらずに屍兵は蠢き地に満ちて。

 美しい森林が拡がっていた山裾はもう見る陰も無い。

 まさか、既に『ギムレー』の手に陥落してしまったのかと。

 そう思ってしまいそうになる程の惨状に、仲間達は皆絶句している。

 

 だが、まだだ。

 まだ、諦めるには、早過ぎる。

 ナーガはまだ応えてくれると、そう自分達が信じなくてどうすると言うのだ。

 

 そう仲間と自分を叱咤して、ルキナは山頂への行く手を阻む屍兵達へと突撃する。

 それに続く様にして、仲間達もまた手に武器を取って屍兵達と斬り結び始めた。

 

 屍兵の呻き声と仲間達の怒号、剣や槍等が打ち鳴らす音が響く戦場で、ルキナ達は善戦していて。

 徐々に徐々に、屍兵達を圧して山頂へと近付いていく。

 そんな中で、その異変に真っ先に気が付いたのは。

 タグエルであるが故に人よりも遥かに耳の良いシャンブレーであった。

 彼は暫し立ち止まり、不安気に辺りを見回し始める。

 

 次にそれに気付いたのは、騎竜であるミネルヴァと彼女を駆るジェロームだ。

 落ち着き無く周囲の警戒を始めたミネルヴァの様子に、尋常ならぬ何かが起きているのだと察した。

 

 次いでンンが、ペガサスを駆るシンシアもまた異常に気付く。

 そしてそれからかなり遅れてルキナ達もソレに気が付いた。

 

 

「何よ……アレ……」

 

 

 セレナの口から溢れ落ちたのは、そんな言葉で。

 そしてそれは、この場の全員に共通する思いであった。

 

 厚い雲が重苦しく何処までも続く空は、薄暗いものである筈なのに。

 夕刻でもないのに、まるで空全体が燃えている様に紅く紅く染まっている。

 そして、その空を悠々と泳ぐ様に飛ぶ『ソレ』は……。

 未だ彼方に居る筈なのに、それでいても尚視界を埋め尽くす程に巨大な、三対六翼を持つ竜であった。

 人智を越えたその強大さに、誰もが呑まれた様にそれを見やる事しか出来ない。

 アレは、正しく……。

 

 

「邪竜、『ギムレー』……」

 

 

『覚醒の儀』の気配を察知してなのか、それとも他の理由なのか。

 それは分からないが。

 何にせよ、邪竜『ギムレー』が、この地を侵攻しようとしているのだけは事実だ。

 

 

「急げルキナ! 

 世界に混沌をもたらすあの邪竜がここに辿り着く前に、秘められし力を解放させる儀を執り行うんだ! 

 道は俺達が切り開く!! 

 ルキナは、山頂だけを目指して走れ!!」

 

 

 ウードがそう声を上げ、仲間達も皆それに頷いて。

 その道を阻もうと群がっている屍兵達へと武器を向ける。

 

 ルキナは、仲間達の想いに力強く頷き、駆け出した。

 

 今は一刻も早く『覚醒の儀』を行わねば、そしてファルシオンにナーガの力を甦らせねばならない。

 そうでなくては、ここで全てが終わってしまう。

 仲間を助けたいのなら、急ぐしかないのだ。

 

 大丈夫、『覚醒の儀』の手順は頭に叩き込んである。

 この手には、『炎の紋章』も、ある。

 だから、後は間に合わせるだけだ……! 

 

 

 山頂を目指してひた走るルキナの姿を、『ギムレー』が彼方から静かに見詰めているのを。

 ルキナは、気付く事が出来なかった……。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 死に物狂いで走って辿り着いた山頂の祭壇は、少し荒れてはいるものの未だ健在で。

 その事に安堵したルキナは、走り続けた為に切れ切れになった息を僅かに整える。

 

 そして、祭壇に完成された『炎の紋章』を捧げ。

 聖王家に代々伝わる『誓言』を述べた。

 

 

「神竜ナーガよ……我、資格を示す者。

 その火に焼かれ、汝の子となるを望む者なり。

 我が声に耳を傾け、我が祈りに応えたまえ……」

 

 

 その言葉を捧げると共に、激しい焔がルキナの身を包んだ。

 焔に包まれる痛みに耐えルキナは一心に祈りを捧げ続ける。

 

 どうか、私に『ギムレー』を討つ力を……! と。

 

 焔が何れ程の時間、己の身を包んでいたのかはルキナには分からないが。

 ふとした瞬間に、その焔は掻き消えた。

 

 そして──

 

 

『【覚醒の儀】を行いし者よ……。

 我が炎に洗われた心に残った願いは、ギムレーを討つ力を欲す──。

 我が炎にも焼き尽くされぬ強きその想い、確かに私に届きました』

 

 

 フワリと。

 虚空から姿を現したのは、神竜ナーガだ。

 

 

『その願いに応え、力を授けましょう。

 私の加護を受けた貴女は……我が牙……ファルシオンの真なる力を引き出す事が出来ます。

 その剣があれば、私と同じ力を使う事が出来ましょう』

 

 

 その言葉にルキナは、やっと一つ成し遂げたのだと打ち震えた。

 

 

「これで、……これで、やっと……。

 あの邪竜を討ち滅ぼす事が……」

 

 

 出来るのだ、と。

 そう感極まって呟いたルキナに。

 ナーガは静かに首を横に振る。

 

 

『いいえ、ギムレーを滅ぼす事は出来ません』

 

 

 全ての前提を覆しかねないその言葉に、ルキナは瞠目した。

 

 

「そんな、貴方は神竜ナーガなのでは……。

 力を、授けると……」

 

 

 それに、千年前に初代聖王はナーガの力を得てギムレーを討ったのではないのだろうか……。

 混乱するルキナに、ナーガは滔々と説明する。

 

 曰く、強大な力こそ持ってはいるが、自分は神ではなく、そして万能でも無く万物の創造主でも無い。

 故に、自分と同格の存在である『ギムレー』を滅する事は出来ない……正確にはその方法が分からない。

 だが、『ギムレー』を千年封じる事ならば出来るのだ、と。

 

 そう、神竜ナーガはルキナに説明した……。

 

 …………。

『ギムレー』を討ち滅ぼす事が叶わないのだとしても。

 今、滅びに瀕した世界を救う事ならば、出来る。

 ……千年後の世にその禍根を引き継がせる事になるのは、遣る瀬無いが。

 ルキナは、今成せる最善の事を成さねばならない。

 ならば、成すべき事は、一つ。

『ギムレー』の封印だ。

 

 しかしそうは言っても。

 まるで一つの大陸の様に巨大な竜を相手に、どう対処すれば良いのだろうか。

 幾らファルシオンにナーガの力が宿っているとは言え、それを振るうルキナは人間だ。

 闇雲に攻撃を重ねていた処で、塵を払う様に薙ぎ払われるだけである。

 

 そんな時、ナーガが驚いた様に目を見開いた。

 

 

『これは……一体、何故……。

 ……ですが、この機を逃す訳には……』

 

 

 ルキナには知覚する事も叶わないが、ナーガは何かを察知したらしい。

 そして、改めてルキナに向かい合った。

 

 

『今は僅かな時間も惜しい……。

 今から、貴女を貴女の仲間達の前に……、ギムレーの前へと、送ります』

 

 

 そして、と続けて説明する。

 

 

『そこに居る者に、ファルシオンで止めを刺せば。

 ギムレーを封じる事が出来るでしょう……』

 

 

 どう言う事なのか、何が起きているのかはまだルキナには分からないが。

『ギムレー』を封じる千載一遇の機会がやって来ているのだと言う事だけは、肌で感じた。

 だから、ルキナはナーガの言葉に頷く。

 

 

 そして、次の瞬間には──

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 ルキナの目の前に広がっていたのは、全てが焼き払われた後の焼け跡の様な、そんな何も無い様な場所であった。

 そこが確かに『虹の降る山』の中腹である事を示す様に、崩れ落ちた遺跡が地面にしがみつく様に僅かに残されているが……。

 それがなければ、ただの荒野としか認識出来ない程の惨状であった。

 至る場所で地面が抉られた様に陥没し、大穴を開けていて。

 そして、重傷一歩手前まで追い詰められた仲間達が。

 武器を支えにしながら、必死に立ち続けていた。

 そして、そんな仲間達が対峙しているのは。

 

 見慣れぬ【でもよく見知った】黒いローブを身に纏い。

 冷え冷えと【そこに宿る優しい輝きをよく知っている】紅い紅い瞳を輝やかせて。

 悠然とその場に佇む。

 見知らぬ【誰よりもよく知っている】、一人の男であった。

 

 彼の姿を目にした瞬間。

 ルキナの胸の内に巣食う『虚ろ』が、今までに無い程に叫びだす。

 思い出せ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、と。

 彼を見ていると、割れる様な痛みを頭に感じる。

 知らない筈なのに何故か泣きたくなる程に懐かしくて……。

 いや、これは、『懐かしさ』ではなく、もっと、別の──

 

 思考がそれに囚われそうになった瞬間に、仲間達が上げた大声によって、ルキナは現実に意識を引き摺り戻される。

 

 

「気を付けて、ルキナっ!! 

 コイツが、『ギムレー』なんだ……!」

 

 

 そう叫んだアズールを、『彼』は虫を見る様な目付きで一瞥し、そして。

 軽く左手を払った。

 たったそれだけで、アズールの身体は大きく吹き飛ばされ、そのままアズールは身動きが取れなくなる。

 そんなアズールに構う事すらなく、『彼』は一歩ルキナに近付いた。

 それを見た仲間達は、『彼』に襲い掛かろうとするが。

 武器を向けた瞬間に、上から強い力で叩き潰されたかの如く、地に臥せたまま動けなくなる。

 全員まだ死んではいないけれども、もう、意識は無い。

 

 瞬く間に仲間達全員を無力化した『彼』は。

 また一歩、ルキナに近付いた。

 そして──

 

 

「……初めまして、ナーガの眷族の末よ。

 我は『ギムレー』。

 汝らが、『邪竜ギムレー』と呼ぶ者だ」

 

 

 そう名乗った『ギムレー』は、チラリと。

 ルキナが携えるファルシオンを一瞥した。

 

 

「『覚醒の儀』を行ったか……。

 その牙から忌々しいナーガの力を、感じるな」

 

 

 だが、と。

『ギムレー』は冷笑する。

 

 

「ナーガの力を得た所で、汝らに何が出来る? 

 ナーガの末よ、貴様の仲間は成す術も無く我に敗れたぞ。

 如何にナーガの力を得ようと、我に傷一つ付けられぬのならば、その力には何の意味もない」

 

「そんな事は……!」

 

 

 大きく踏み込んで、ファルシオンを一閃させるが。

『ギムレー』はそれを軽く避けてしまう。

 

 

「無駄だ、聖王の末よ。

 我が身にその牙を届かせる事すら、汝には不可能だ」

 

 

 そう言いながら『ギムレー』は軽く手を翳し、凶悪な程の威力の黒炎を生み出す。

 そしてそれを、ルキナに向けて放った。

 咄嗟にファルシオンで受けるが、あまりの威力に大きく後退させられてしまう。

 

 

「…………汝らの命運は、ここで潰える。

 滅びの定めは、変わらない」

 

 

 ポツリと呟いた『ギムレー』は。

 静かにルキナを見据えた。

 

 

「それでも、尚。汝は我に抗うか?」

 

「当たり前です! 

 私達は、邪竜なんかに……絶望なんかに、屈しない!! 

 ここで、あなたを討ちます!」

 

 

 そのルキナの返答に。

 ……何故か、『ギムレー』が。

『満足そうに』微笑んだ気が、した。

 だがそれは瞬きよりも短い時間の事で。

 自分の見間違えなのだと、ルキナはそう思ったが。

 

 心の何処かは、胸に巣食う『虚ろ』は。

 煩い程に警鐘を打ち鳴らし続けていて。

 それに耳を塞ぎながら、ルキナは『ギムレー』にファルシオンを向けた。

 

 

「成る程、抗えぬ現実に絶望し果てる事を望むか……。

 良いだろう、興が乗った。

 その魂を奥底まで絶望に染め上げようではないか」

 

 

 酷薄そうな笑みを浮かべた『ギムレー』は、闇を凝縮した様な魔力で周囲を薙ぎ払う。

 それをファルシオンの力で防ぎ、ルキナは『ギムレー』へと連擊を繰り出した。

 その攻撃は避けられてしまったが、それでも諦めずにルキナは食らい付く。

 

 一進一退の膠着状態が何時までも続いた。

『ギムレー』は未だ余裕を見せていて、その底は全く見えない。

 ルキナの攻撃を避け、往なすその動きは舞っているかの様ですらあった。

 反面ルキナはと言うと、圧倒的な力の差に心を削られそうになりながらも、何とか『ギムレー』に食らい付いている。

 そうやって『ギムレー』と斬り結ぶ中で、ルキナの心の内に一つの違和感が纏わり付いていた。

 

『ギムレー』から、ルキナは確かに攻撃されている。

 それは避けなければ、防がなければ。

 一撃で死んでいたであろう攻撃ばかりである。

 だが、それはどれも避けたり防いだりする余裕がある攻撃ばかりなのだ。

 

 例えば、ファルシオンが弾かれた時に。

 絶好の隙である筈なのに、『ギムレー』は絶対にルキナを攻撃しない。

 それだけでは無かった。

『ギムレー』が本気でルキナを殺そうと思っているならば、殺せる瞬間など幾らでもあった。

 それなのに。

『ギムレー』は一切その機会には攻撃しないのだ。

 必ず、ルキナが避けるか防ぐ余裕があるタイミングでのみ、攻撃してくる。

 

 態と甚振っているだけなのかもしれない。

 ここまで手加減されていても尚、傷一つ付けられない事に絶望させようとしているのかもしれない。

 

 だけれども。

『本当にそうなのか?』と。

 疑問がルキナの胸の内を支配していく。

 

 ルキナを絶望させたいのなら、そんなまどろっこしい手段など、取るのだろうか? 

 もっと圧倒的な力を見せ付けることだって……、『ギムレー』が人智を越えた存在である事を考えれば容易い筈だ。

 ならば、何故? 

 何か、別の目的があるのだろうか……? 

 

 考えた所で答えなど出る筈もなく、それを目の前の『ギムレー』に問える筈もない。

 だが、考えれば考える程、不可解な程の疑問と違和感が噴出してくるのだ。

 それと同時に、何かを叫び訴え続ける胸の『虚ろ』が、ルキナの意識を揺さぶってくる。

 

 分からない。

『ギムレー』が、何をしようとしているのか、何をしたいのか、が。

 ルキナには、分からないのだ。

 

 思考がそんな風に疑問と違和感に支配されていても、身体は最早無意識に動き続けていた。

 

 

 ── 『僕』は貴女を、何があっても、守ります

 

 ふと、脳裏に『誰か』の言葉が響く。

 

 ── 『何者』にも、貴女を傷付けさせたりはしない

 

『誰か』の温もりが、ルキナの心をそっと撫でる。

 

 ── 『僕』が、『僕』である限りは、絶対に

 

『誰か』の微笑みが、『虚ろ』の奥底に朧気に浮かぶ。

 

 ── 『僕』の全てを賭けて、貴女を守ります

 

『誰か』が遺した想いが、ルキナの心を震わせる。

 

 

 その時。後退した『ギムレー』が僅かに、対峙している者でなくては分からない程微かに、体勢を崩した。

 そして、それを認識した瞬間に。

 最早思考がそれを命じるよりも先に、身体は、動く。

 

 

 ── だから……、さようなら、『僕』の最愛の人よ

 

 

 そして……。

 ファルシオンの切っ先は。

 過たず『ギムレー』の身体を貫いた。

 その途端に『ギムレー』は苦悶の声を上げる。

 

 ルキナは、『ギムレー』に致命傷を与えた。

 自らに課せられた『使命』を『希望』を、果たした。

 

 だが、そんな事は。

 ルキナにとっては、最早どうでも良い事であった。

 

『虚ろ』であった場所が、そこにあったモノが、そこに居た存在が。

 一気にルキナの思考を支配する。

 

 思わずファルシオンを手離してしまったルキナに倒れ掛かる様にして、『ギムレー』が……いや、『ロビン』が。

 ルキナの、何よりも大切な人が──地に、膝を付いた。

 

 

「ぐっ…………。抜かった、か……。

 忌……いましき、聖王め……。

 一度、ならず、二度までも……」

 

 

 そんな、口では呪詛の様な言葉を紡いでいるのに。

『彼』の目は、とても穏やかで……。

 それは、『ロビン』の。

 ルキナだけの軍師の、ルキナの『半身』のそれと、全く同じで。

 

 ルキナはその瞬間に何もかもを忘れて、『彼』の身体を抱き締めた。

 

 

「どうして、どうして、ロビンさんが……」

 

 

 何でこんな事に、どうして? 

 どうして、自分は。

 ロビンの事を忘れていたのだ? 

 どうして、思い出せなかったのだ? 

 

 

 せめて、せめてこの剣が『彼』を貫く前に思い出せていれば、こんな事には──。

 

 ルキナがその名前を呼んだ事に驚いたのか。

『彼』は一瞬呆気に取られた様にルキナを見たが。

 直ぐに哀しそうな、寂しそうな、そして何処か……幸せな程に嬉しそうな。

 そんな優しい目をして、ルキナの頬を優しく撫でた。

 

 

「あぁ……、何で、こんなタイミングで。

 記憶が、戻ってしまったんで、しょうね」

 

 

 その時。

 ルキナは、ロビンの身体がサラサラと砂の様に端から崩れていっている事に気付いてしまった。

 

 

「困った、なぁ……。

 貴女を、哀しませたくないから。

 そんな顔を、して欲しくなかったから……。

『僕』は、記憶を持って行った、筈だったのに……」

 

 

『彼』の胸は、ファルシオンに貫かれたままだ。

 本来ならば、話す事も辛いのかも、しれない。

 それなのに。

 涙の向こうに曇る『彼』は、困った様に優しく微笑んで、自分を抱き締めるルキナの背をあやす様に撫でる。

「『僕』にはもう、記憶を封じる力も、残っていないから……。

 その記憶を……持って行く事は、出来ませんが」

 

 だから、どうか。と、『彼』は優しく囁いた。

 ……それは、優しい……だが何よりも残酷な【呪い】だ。

 

 

「『僕』の事は、忘れて下さい……。

 貴女は、ロビンなんて名前の軍師には、出逢わなかった。

 そして、世界を、滅ぼそうとした、邪竜を、討ち滅ぼした。

 それで、良いんです」

 

 

 サラサラと崩れ行くその身体を、どうする事も出来ずに。

 ルキナはただ看取る事しか、出来ない。

 

 

「ナーガは、『ギムレー』を滅ぼす事は、出来ない、と……」

 

 

 そう、呟くと。

『彼』は優しく微笑んだ。

 

 

「確かに、ナーガの力だけでは、『ギムレー』は、滅ぼせない。

 ですが、『僕』自身が、それを望めば、そしてそこに、ナーガの力が、加われば。

『ギムレー』は、無に消える。

 もう、二度と、甦りません」

 

 

 そして、止まらぬ涙に頬を濡らすルキナを。

 優しく抱き締め返した。

 

 

「『僕』は、『ギムレー』なんです。

 紛れもなく、『僕』は、『ギムレー』以外には、なれない。

 だから、貴女が、気に病む必要なんて、何処にも、無い。

 貴女は、正しい事を、した。

 世界を、絶望から、救ったんです、から」

 

 

 でも、と『彼』はルキナだけに聞こえる様に、その耳元で囁いた。

 

 

「だけれども。ルキナさん、貴女を想うこの気持ちは、『僕』だけの、ものでした。

 それだけは、『本当』なんです。

 貴女が居てくれたから、『僕』は『僕』で、居られた……」

 

 

 有難う、とそう微笑む彼の左手は。

 もう解ける様にして消えてしまっていて。

 

 何が起きたのか、どうしてこうなったのか。

 ルキナは何一つとしてまだ理解出来ていないのに。

 

 待って、と。逝かないで、と。

 その手を掴む事も、もう出来ない……。

 

 

「もしも、『僕』が、『ギムレー』では無かったら。

 貴女と共に、生きて行ける、存在だったのなら。

 ずっと、その傍に、居られたのでしょうか……」

 

 

 そうだったら良いのにな、と夢を見る様に呟いた彼は、瞬きの間にすらもう消えてしまいそうで。

 

 そして、辛うじて残っていた右手で、ルキナの頭を優しく一度だけ撫でた。

 

 

 

「さようなら、ルキナさん。

 どうか、貴女の、未来に。

 幸多からん事を──」

 

 

 その言葉だけを、その想いだけを。

 優しくて残酷な【呪い】をルキナに遺して。

 

 

『彼』は。

 この世界から、その欠片一つ残す事なく完全に消え去った。

 

 

 後に残されたのは。

 

 呆然と、彼が確かに居た場所を掻き抱きながら涙を溢すルキナと。

 彼が確かに存在していた筈の場所に落ちた、曇りなき刀身を耀かせたファルシオン。

 そして気を失っているが故に、二人のやり取りを何一つとして知らぬ仲間達だけであった。

 

 

 こうして、世界は救われたのだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 あの戦いの後、イーリス王都へと帰還したルキナは。

 救世の英雄であると、悪しき邪竜を討ち滅ぼした救世主であると。

 そう、人々に奉り上げられた。

 仲間達と共に、復興に尽力するルキナに寄せられるそれは、日に日に大きくなっていって。

 それは、熱狂とも狂信とも言える程のモノになっていた。

 

 あの戦いの真実を、ただ一人知っている当人からすれば。

 英雄などと奉られるのは酷く居心地が悪く。

 そして、自身を讃えるその声が。

 耐え難い程に、苦痛であった。

 

 ……幾度、違うのだ、と。

 そうルキナが声を張り上げたくても、それは誰にも届かず、届ける事すらも許されない事で。

 

 忘れられないのに、忘れたくなんて、ないのに。

 ルキナはまるで、『ロビン』の事など知らなかったかの様に振る舞う事しか出来なかった。

 それは、『彼』の最後の【呪い】通りで。

 ……そしてそれが、どうしようも無い程に、哀しい。

 ……一体、『ロビン』は何を想っていたのだろう。

 何を想って、『彼』はルキナの傍に居たのだろう。

 何を想って、ルキナから記憶を奪ってまでその傍を去ったのだろう。

 そして、その最期に。

 何を想って、逝ったのだろう……。

 

 …………。

 この世の何処にも居ない人の心の内など、最早誰にも分かりようが無い事だ。

 それでも、きっと。

 

『ロビン』が最期に伝えた言葉は、その想いは。

 きっと、紛れもなく真実だったのだ。

『ギムレー』だったにせよ、『ロビン』は心からルキナの事を、想っていた。

 傍に居たかったのだと、そう想ってくれていた。

 

 ……それなのに。

 

 …………ルキナは、『ロビン』のその想いに何も返せないまま、『彼』を逝かせてしまったのだ。

 消える瞬間の『彼』は。

 ルキナの目に映った『彼』は。

 満足そうに、幸せにそうに、微笑んでいたけれど。

 

 

「私、は…………」

 

 

 貴方に、ずっと、共に在って欲しかったのだ……。

 

 最早伝える術など無いその想いを、届く筈などない祈りを、永久に叶わぬその願いを。

 それでも忘れる事など出来ずに抱いたまま。

 もう二度と逢えぬ人を想って。

 ルキナは独り、満天の星空を見上げた。

 

 あの日『ロビン』と見上げた夜空と違って、星々はこんなにも輝いているのに。

 それなのに、こんなにも寂しい。

 この傍らに、貴方が居ない事が、何よりも哀しい。

 もう記憶の中にしか存在しない『彼』に、何度も何度も手を伸ばすが、その手が『彼』に届く事はない。

 

 忘れて欲しい、と。

 幸せになって欲しい、と。

 

『彼』が最後に遺した優しい【呪い】が、少しずつルキナの心を包む様に、記憶の中の『彼』の姿を隠していく。

 それでも、決して忘れる事など出来ないから。

 忘れたくなど、ないのだから。

 せめて『彼』の存在だけは、その名だけでも、最期まで忘れずにいられる事を願いながら。

 

 

 

 月と星が見守る中、ルキナは『彼』の名を呼びながら独り涙を溢す。

 

 

 

 それだけが、彼女以外の誰にも知られずに消えた『ロビン』への、手向けであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第五話・B『在るがままに愛しき人へ』(上)

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『覚醒の儀』を、執り行いましょう。

 

 

 埃が降り積もったかつての『ルフレおじさま』の執務室で。

 揺るぎ無い決意を、その瞳に灯しながら。

 そう、ロビンは言った。

 

 ルキナは唐突なその言葉に少々面食らったが、直ぐ様に 「勿論です」と頷く。

 

 元々、『覚醒の儀』を行う為に。

 その為に必要な『炎の紋章』を手に入れる為に、仲間達はイーリスから旅立って行ったのだ。

 彼等が今何処で何をしているのか。

 それはもう、遠く離れた地への連絡手段が殆ど失われている為に分からないが。

 それでもきっと、仲間達は今も宝玉と台座を捜索している筈なのだから。

 だからこそ、『覚醒の儀』を行う事自体には当然ルキナも否とする訳が無い。

 

 だが、しかし。

 その儀式の要となる肝心の『炎の紋章』は、ルキナの手元には無いのだ。

 だから、やろうと言われて直ぐ様やれる様なモノでも無い。

 少なくとも仲間達が『炎の紋章』を持ち帰るその時までは。

 

 そう説明してもロビンは、それは承知しています、と頷くばかりで。

 自分のその意見を変えようとはしなかった。

 

 

「ですが、もう、時間が無いのです……。

 今は、一刻も早く『覚醒の儀』を行わなくては……」

 

 

 何処か焦る様にそう言葉を連ねるロビンに、ルキナは思わず、何故なのかと訊ねた。

 何故、そう急かすのだろうか……? 

 普段は冷静そのものであるロビンがこうも焦るその理由が気に掛かってしまう。

 少なくともルキナの目から見ては、急に世界の情勢が悪化したなんて事はない。

 相も変わらずに絶望の中で急なれど緩やかに滅びの道を歩んでいるだけだ。

 

 するとロビンは、一度僅かに目を伏せる。

 そして──

 

 

「ここ最近の屍兵の活動の頻度などから、……今は。

『ギムレー』が何らかの理由によって、あまり積極的に活動していない、と思われます……。

 ですが、それも何時まで続くのかは分かりません……。

 きっと、『ギムレー』が活動を再開した時……。

 この国は、世界は……。

 完全に、滅びてしまいます……。

 そして、貴女も……。

 無事では、済まない」

 

 

 だからこそ、と。

 ロビンは必死にルキナに訴えた。

 

 

「『ギムレー』がまだ動いていない内に、『炎の紋章』を完成させて……『覚醒の儀』を行う必要が、あるのです……」

 

 

 屍兵達の行動を誰よりも細かく分析して把握していたロビンの言う事だ。

『ギムレー』が積極的に活動していない、と言うのは恐らくは間違った推測ではないのだろう。

 だけれども。

 

 

「ですが、『炎の紋章』が無い以上は……」

 

 

 そんなルキナの言葉にロビンは頷き、そして。

 

 

「ええ、ですから。

『僕』たちで、『炎の紋章』を完成させに、行きましょう」

 

 

 そう、言った。

 その予想外の言葉に、ルキナは瞠目する。

 

 

「私達でって……。

 いえ、あの……仲間達が今も宝玉の捜索を行っている筈ですし、私達はこの地を守らねばなりません……。

 それに、宝玉が何処に在るのか分からないのですよ?」

 

 

 ルキナも、仲間達と共に宝玉の捜索を行いたいとは幾度も思ってはいたけれども。

 だが、こんなに急に言われても、それに頷く事は出来ない。

 そんなルキナを横目に、ロビンは「借ります」と呟きながら、埃被った『ルフレおじさま』の机の上の本の山の中に埋まっていた地図を引っ張り出した。

 そして──

 

 

「大丈夫です、ルキナさん。……『宝玉』と『炎の台座』の在処は、『僕』が知っていますから」

 

 

 そう言いながら、ロビンは地図の各地に印を付けていく。

 五つの宝玉と台座の在処が、そこには示されていた。

 何れ程ルキナ達が求めても得られなかった情報が、あっさりと、そこには提示されていて。

 驚きのあまり、ルキナはロビンと地図とを言葉もなく交互に見やるばかりである。

 ロビンは目を伏せたまま、ポツポツと続けた。

 

 

「前々から、独自に調べていたのです……。

 もし、何らかの事情でルキナさんの仲間達が宝玉の捜索を完遂出来なかった場合にも、支障が無い様に、と。

 在処を確定させてからも黙っていたのは、謝ります」

 

 

 そう言ってロビンは頭を下げたのだが。

 ルキナは慌ててそれには首を横に振った。

 

 ロビンの事だ、黙っていたのにはきっと色々な考えがあったのだろう。

 それを一々謝る必要なんて無い。

 それに、ロビンと出会った時点で既に、仲間達が旅立ってかなりの時間が経っていたのだ。

 連絡手段が殆ど途絶えた今では、居場所がハッキリとしているルキナに向けて仲間達が知らせを送るのはともかく、何処に入るのかも定かでは無い仲間達に向けてルキナが知らせを送る事は実質不可能である。

 もしロビンに宝玉の在処を知らされていても、ルキナにはそれを仲間達に伝える術なんて無かったのだ。

 

 

「今から出発しても、二人だけでなら取れる最速の手段ならば、早ければ二月程度で、何れ程遅くても三月もあれば、全ての宝玉と台座を集めて『炎の紋章』を完成させる事は、可能な筈です。

 道中でルキナさんの仲間と合流出来たら、もっと早く事は済むかもしれない……」

 

 

 それに、とロビンは続ける。

 

 

「今の屍兵達の活動頻度ならば、三月程度ならば、僕やルキナさんがその場に居なくても、事前に策や布陣を伝えておけば、十分以上に持ち堪えられます。

 …………これが、最期のチャンスかもしれないんです。

 だから──」

 

 

 ロビンは真っ直ぐにルキナを見詰めた。

 その紅い瞳に、ルキナは引き込まれる。

 

 

「『炎の紋章』を完成させて、『覚醒の儀』を行う為に。

『僕』と、共に。

『宝玉』を探しに行って、くれませんか?」

 

 

 ロビンの真剣な眼差しには、強い決意と共に、懇願する様な色も含まれていた。

 ルキナは暫し、熟考する。

 

 こうして宝玉の正確な在処を知った以上、捜索隊の第二波を送る事にはルキナとて異存は無い。

 そして、道中の困難さを思えば、余程の腕利きで無くてはならないから、現在のイーリスに残された戦力としてはツートップになるロビンとルキナにその白羽の矢を立てるのも、道理には叶っている。

 そしてロビンの言う通り、三ヶ月程度ならば二人が不在でも何とか持ち堪えられるのだろう……。

 だが、しかし……。

 

 ルキナは国を任された身だ。

 それなのに、ここを離れても良いのだろうか……。

 

 

「……本来ならば、『僕』一人で捜索しに行くべき、なのでしょう……。

 ですが、『僕』だけでは……。

 貴女から離れてしまっては、『僕』は、絶対にそれを成し遂げられない。

 無茶なお願いだとは、分かっているんです。

 それでも、お願いです、ルキナさん。

『僕』と一緒に、来て下さい……」

 

 

 ロビンはそう言って深く頭を下げる。

 

 ロビンがこうやって明確にルキナを頼るのは、これが初めてであった。

 何よりもその力になりたい人が、漸くこうやってルキナの助けを求めてくれているのだ。

 それに、ルキナが応えない訳など、何処にも無かった。

 

 

「分かりました。

 それで、ロビンさんの力になれるのなら。

 そして、それで世界を救えるのなら。

 私に否はありません。

 行きましょう、ロビンさん!」

 

 

 そう答えてロビンの手を取ると。

 ロビンは今にも泣き出しそうな程に、嬉しそうに微笑んだ。

 

 

「有り難う、ございます……。

『僕』が、絶対に、貴女を守って見せます。

 必ず、何を、引き換えにしてでも……」

 

 

 感極まった様にそう答えるロビンに、ルキナもまた胸の奥が熱くなる。

 

 

「私もです、ロビンさん。

 私が、貴方を守ります。

 絶対に、どんな困難があるのだとしても。

 二人なら、きっと──」

 

 

 ロビンが居れば。

 ルキナだけの『軍師』が、何よりも大切な『半身』が。

 ルキナと共に在るのであれば。

 

 何事が待ち受けていようとも、どんな運命が訪れるのだとしても。

 抗い、それに打ち克てる筈だ。

 ルキナは、ロビンとの『絆』を信じているのだから……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 イーリスを発ったルキナは、荒れ果てた大地をロビンが操る飛竜の背から見下ろしていた。

 少しでも早く移動する為に、馬ではなくて飛竜をロビンは移動手段に選んだのだ。

 乗り手を失ったまま王城の厩舎に保護されていた飛竜をロビンは手懐け、そして危う気も無く操っている。

 

 基本的に主と認めた相手以外は背に乗せようとはしない飛竜は、馬や(根本的に男性を忌避する)天馬よりも扱いが難しい。

 主を失った飛竜が、その後二度と主を持たない事は珍しくも無い程だ。

 ルキナの仲間であるジェロームが、問題無く先代の主を喪った後のミネルヴァと心を通わせられるのは、彼が先代の主とは親子であり彼自身も幼い頃からミネルヴァに慣れ親しんできたからだ。

 そう言った特殊な例でも無い限り、先代の主を喪った飛竜を扱うのは、まだ飛竜としての調教が済んでない若竜を相手取る時よりも困難であるとすら言われている。

 それなのに、ロビンはあっさりと飛竜を手懐けたばかりか、ルキナもその背に乗せて飛ばせる程にまで完璧に操っていた。

 

 この人は本当に色々と出来るのだなとルキナが沁々と思いながらも、確かにこれならば馬で各地を巡るよりも早くに事が済むであろうと、彼が算出した『最速で二月』の言葉の意味を理解したのであった。

 

 荷物も必要なモノだけを最低限に纏めたので、飛竜に過剰な負荷が掛かるでもなく。

 飛竜は軽々と、ルキナとロビンを背に乗せて大空へと舞い上がる。

 その背に自分を抱き抱える様にして飛竜を操るロビンの温かさを感じながら。

 ルキナは、最初の目的地であるフェリアの山中に在る『緋炎』を一路目指すのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 かつてフェリアの西の王に代々伝わっていたとされていた『緋炎』は、西の王バジーリオがヴァルム帝国との戦の最中にヴァルハルト皇帝と対峙し命を落とした時から行方知れずになっていた。

 予てより宝玉と台座を執拗に狙っていたペレジアの手に落ちたのかもしれないが、結局その真相は定かでは無い。

 

 フェリアより喪われた宝玉が巡り巡ってフェリアに隠されていると言うのも、一つの運命の巡り合わせと言うものなのかもしれないな、とルキナは思う。

 まあ、最早その地は人が住める様な場所ではなく、ギムレーの領域……正確には屍兵ばかりが蠢く地と化しているのだけれども。

 

 こうやって空路を行く分には、屍兵との戦闘など殆ど無い。

 時折休息を取る為に地に降りるが、ロビンがその都度屍兵達の目の届かぬ場所を探してくれるので、戦闘になった事など一度か二度程……。

 しかも、ほんの数分で終わる程度の小規模なモノで止まっていた。

 その為、今の所ルキナもロビンも、全くと言っても良い程に消耗していない。

 しかし、『緋炎』が隠されている地には、恐らく生半な事では突破出来ないであろう程の屍兵が待ち構えているであろう。

 そこを突破し、『緋炎』を手に入れられるのか……。

 そして、残りの『宝玉』と『炎の台座』を無事に手に入れられるのか……。

 不安は尽きないが、それでも。

 ロビンが共に居るのであれば、ルキナには恐れる事など何も無かった。

 

 

「もうそろそろ、『緋炎』が隠された神殿跡が見えて来る筈です……。

 ルキナさん。準備は、大丈夫ですか?」

 

 

 身を裂く様なフェリアの冷たい風に吐息を白く棚引かせながらロビンがルキナに訊ねる。

 身を包むロビンの温もりを感じながら、ルキナは頷いた。

 

 

「大丈夫です。

 どんな相手が待ち構えていても、私は……私達は、負けません……!」

 

 

 その言葉に、ロビンもまた、力強く頷く。

 

 

 

「ええ、『僕』とルキナさんが居れば、絶対に大丈夫です。

『僕』が、貴女を絶対に守りますから」

 

 

 

『緋炎』が隠されていると言う、廃墟と化したかつての神殿は、もう目の前に迫っていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 凍り付いた地に、人影は何処にも見当たらず。

 屍兵の上げる呻き声すらも、吹き荒ぶ雪風に浚われてゆく。

 そんな最果ての様な地にひっそりと取り残された様に佇むその神殿に、『緋炎』は隠されていた。

 

 騎乗していた飛竜を、屍兵に見付からぬ様に注意しつつ、雪風を凌げる様に近場の洞窟へと隠す。

 そして、足を呑み込んでしまいそうな程に積もった雪を掻き分けながら、ルキナとロビンは廃墟と化している神殿へと辿り着いた。

 

 ギムレーが甦った時にはもう既に廃墟であったとされているその神殿跡は、かつて……それこそ英雄王達の時代では、竜の力を祀るモノであった…………らしい。

 そうルキナに説明しながら、ロビンは神殿跡の周囲を隈無く調べる。

 

 朽ち果てつつあるその神殿跡は、それでも尚何処か厳かな雰囲気を留めていて。

 在りし日の威容を静かにルキナへと伝えていた。

 

 

「どうやら誰かが侵入した形跡も無さそうですし……。

 恐らく、ルキナさんの仲間達と行き違いにはなっていないのでしょう。

 …………中には屍兵が配置されている様ですが、問題はありません。

 このまま『緋炎』を奪還してしまいましょう」

 

 

 ロビンはそう言いながら、神殿の朽ちかけた扉を開く。

 

 所々で崩落しながらも、冷えきった石畳の床はまだどうにか往時の姿を留めていて。

 光も射し込まぬ深い闇に閉ざされたその中を、カンテラの灯りだけを頼りにルキナとロビンは進む。

 ルキナよりも夜目が利くのか、ロビンはそんな薄明かりの中でも迷う事無く進んでいて。

 そして、ルキナを導く様に、その右手をルキナの左手と繋いでいた。

 

 ロビンは時折立ち止まっては、カンテラの灯りを落としたり、音を立てない様にとルキナにそっと合図を送る。

 その度に、闇の向こうを何かが蠢いている音がし、それはゆっくりとこちらに近付いてこうとするのだが。

 ロビンがその紅い瞳で油断無く闇の向こうを睨み付けていると、次第にその気配は遠ざかっていくのだ。

 そうやって何れ程の時間を歩いていたのだろうか。

 突き当たりにあった大扉を開くと、そこは広間の様な空間であった。

 ロビンが掲げたカンテラの光が闇をゆっくりと払い除けて。

 そして、部屋の最奥、まるで祭壇の様に整えられた場所に。

 カンテラの光に緋く輝きを返すモノが安置されていた。

 

 

「あれが、『緋炎』……」

 

 

 思わずルキナの口から、そう言葉が溢れてしまうのも致し方無いだろう。

 長い間探し求めたモノが、遂に目の前に現れたのだから。

 

 暗がりからの奇襲を警戒しながらも、ルキナとロビンは『緋炎』に近寄る。

 そして、ルキナが思わず『緋炎』へと手を伸ばそうとしたのをロビンは片手で制した。

 ルキナを制したまま、ロビンは近くにあった『緋炎』と同じ位の大きさの瓦礫を拾い上げ、祭壇に安置された『緋炎』とその瓦礫を素早く入れ換える。

 暫しの沈黙の後に、何も起きなかった事を確認してロビンは、ゆっくりと一つ息を吐き、そして手にしていた『緋炎』を恭しくルキナへと手渡した。

 

 

「良かった……。

 この祭壇には、重さを感知して発動する罠が仕掛けられている様でした。

 あのまま『緋炎』を取り上げていれば、罠に掛かっていた事でしょう」

 

 

 ロビンが罠がある事を見抜いてくれて事無きを得た様だ。

 あのまま『緋炎』に手を伸ばしていたらどうなっていたのやら……。

 ルキナはそれを想像して、思わず身震いした。

 そんなルキナの手を取ってロビンは再び来た道を引き返す。

 

 

「恐らくそう時を置かずして、『緋炎』を奪われた事を察知されるでしょう。

 この神殿に潜む屍兵達の追撃が予想されます。

 その前に、早くここを出ましょう」

 

 

 暗い道をそれでも迷う事無く足早に行くロビンに導かれ、ルキナもまた駆け足で神殿跡の中を駆け抜けた。

 走り去るその背後から、夥しい程の悍ましい気配が蠢き迫り来ようとしているのを肌で感じてしまう。

 こんな暗闇の中で戦いになってしまえば、夜目が利かないルキナ達に圧倒的に不利だ。

 だからこそ、その追撃者達の手から逃れようと、ルキナはロビンの手を固く握り返して、その導きに従った。

 何れ程走っていたのだろう。

 暗闇の中、そして追われていると言う状況では、その時間は何時間にも及んでいた気がする。

 そんな引き延ばされた時間の逃走の果てに、漸く、外の光が見えてきた。

 そして、そこでロビンは掴んでいたルキナの手を離し、後ろへと振り返る。

 

 

「ルキナさんはこのまま外へと走って下さい。

『僕』は、ここで一度追っ手の数を減らします!」

 

 

 ロビンは魔導書を取り出して、暗がりに蠢く夥しい数の屍兵達の影に手を向けて、魔法を発動させる準備を行った。

 

 

「そんな、ロビンさんを置いてなんて!」

 

 

 そんなルキナに、ロビンは安心させる様に微笑んだ。

 

 

「大丈夫ですよ。

 一撃、特大のモノをぶちかますだけですから。

 それに、『僕』が居ないとあの飛竜は言う事を聞きませんからね。

 ルキナさんを置いてなんて、絶対に行きませんから。

 巻き込むと危険なので、ルキナさんは先に行って下さい」

 

 

 そう言われては、ルキナもロビンを信じるしか無い。

 だからルキナは外へと全力で走った。

 神殿跡の外は、相変わらず雪風が吹雪いていて、来た道すら見失ってしまいそうだ。

 そして、ルキナが神殿跡から脱出したのとほぼ同時に。

 

 その背後で、凄まじい雷鳴が鳴り響いた。

 幾千もの雷が一度に落ちたかの様なその音は、廃墟と化していた神殿跡に響き渡り、そして何処かで崩落が進んだ様な音もルキナの耳に届く。

 

 思わずルキナが神殿跡を振り返ると。

 ロビンが急いでこちらに駆け寄って来ているのが見えた。

 

 

「ロビンさん!」

 

「追っ手の屍兵の数はかなり減らせました! 

 この分なら、何とかここを脱出するまでは持ちそうです。

 急ぎましょう!」

 

 

 そして、ルキナよりも大きな歩幅であっと言う間に距離を詰めたロビンは、そのままルキナの手を取って飛竜を休ませている洞窟へと急ぐ。

 主が戻ってきたのを察知して既にその場を発てる様な体勢を取っていた飛竜に、ロビンは素早く飛び乗り、そしてそのままルキナを抱き上げてその背に乗せた。

 

 

「行きますよ、ルキナさん。

 しっかりと掴まっていて下さい!」

 

 

 そう声を掛けるや否や、ロビンは即座に飛竜を飛び立たせる。

 吹き付ける雪風を切り裂きながら、どんどんと地面が遠くなってゆき。

 遥か下に屍兵と思われる影が見えたが、最早天高く舞う飛竜に手を出せる筈も無く。

 

 こうして、ルキナ達は『緋炎』の奪還に成功したのであった。

 

 漸く、一つ。

 だが確実な成果に、ルキナは漸く手の中にある『希望』を実感するのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

『緋炎』を手に入れたルキナとロビンは直ぐ様神殿跡を離れ、次の目標である『蒼炎』を求めて、今度はフェリアとペレジアとのかつての国境付近へと向かう。

 最早ヒトが住まう領域では無くなった其処では国境など何の意味も成さないモノではあるけれども。

 それでも眼下に広がるかつての国境沿いに設けられた関所の残骸などを見ていると、ルキナは人の営みの虚しさの様なモノを感じてしまうのであった。

 

 ロビンが掴んだ情報によると。

『緋炎』と『蒼炎』はフェリアに。

『炎の台座』と『白炎』と『黒炎』はペレジアに。

 そして『碧炎』は、ヴァルム大陸との航路の途中にある島に隠されているらしい。

 一番遠くに在るのは『碧炎』ではあるが、手に入れるのが最も困難であろうとロビンが言うのは『黒炎』であった。

『黒炎』が隠されているのは、『竜の祭壇』……。

 父が帰らぬ戦いで命を落とした地であると共に、『ギムレー』が甦った地とされている場所だ。

 最も『ギムレー』の力が強い地に隠されたそれを手に入れるのが如何に困難を極めるのか、ルキナにも想像に容易い。

 それでも、行かぬ訳にはいかないのであるけれども……。

『緋炎』を手に入れた神殿跡を発ってから、数日が経ち。

 その間、ルキナとロビンはかつて人が住んでいた廃屋などを見付けてはそこで暖を取って休息を取りつつ進んでいた。

 ロビンが何かと気を遣ってくれているお陰で、強行軍であるにも関わらずルキナへの負担は少ない。

 食料や飲み水の確保から薪の確保まで、全てロビンがやってくれるのだ。

 

 全てをロビンに任せっきりにしている様で、ルキナとしては申し訳無いのだけれども。

 ロビンは決まって「『僕』の我が儘に付き合わせてしまっている様なものなのですし、これ位は『僕』に任せて下さい」と言って譲ろうとはしてくれないのだ。

 そう言われてしまっては、ルキナも強くは言えなかった。

 

 外では吹雪が荒れ狂う音が響き、暖炉にくべられた薪の光に照らされる中で、ロビンと寄り添う様に過ごす時間は、何だかとても心地が良くて。

 

『宝玉』奪還を終えて、『炎の紋章』を完成させても……。

 そして、『覚醒の儀』を行って、無事に『ギムレー』を討った後も。

 こんな時間を、ロビンと過ごしていたいと。

 そうルキナは思っていて。

 そしてそう思う度に。

 きっとそれはもう間もなく叶う筈なのだから、と。

 その為にも、今は一刻も早く『炎の紋章』を完成させなければならないのだ、と。

 そう、ルキナは固く決意し直す。

 

 

 吹雪は未だ止まず、凍り付いた大地を白い死で覆い隠しているけれど。

 きっとこの地を支配する長い長い『冬』も、終わる時が来るのだ。

 その日を少しでも早く迎える為にも。

『覚醒の儀』は必ず成し遂げなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第五話・B『在るがままに愛しき人へ』(下)

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『緋炎』に引き続き『蒼炎』も無事に奪還したルキナとロビンは、今度はペレジアへと向かっている。

 荒れ狂う吹雪を抜けた其処に広がっていたのは、見渡す限りの荒野であった。

 ペレジアは、ギムレーが復活して真っ先に人々が屍兵に駆逐されてしまったと言われている。

 

 ルキナがかつての敵国を実際にこの目で見るのはこれが初めてであったが……。

 人影どころか屍兵と思わしき影すら殆ど見当たらない荒野と砂漠だけが広がっている光景を見ると、『ギムレー』がもたらす滅びの果ての世界を見ている様な気すらした。

 

 もし、『ギムレー』の手に落ちてしまえば。

 イーリスも、何時かはこうなってしまうのだろうか……。

 

 かつての光景からすれば荒れ果てていると言えるイーリスではあるが、それでもまだ人々が生きていける土地ではある。

 こんな、死すらも消え去った『虚無』だけがそこに顕現しているかの様な大地とはまだ程遠い。

 ぺレジアの大地の様に変わり果ててしまったイーリスを想像して、ルキナは身震いする。

 そんなルキナを安心させる為にか。

 飛竜を操りながらも、ロビンはルキナを優しく包む様に抱き締めて。

 そして、大丈夫だと。

 そうルキナを安心させる様に、囁いてくれた。

 

 

「大丈夫です、ルキナさん。

『覚醒の儀』を遂げれば、貴女を苦しめているこの絶望の『全て』が、終わるんです」

 

 

『覚醒の儀』を終えても、『ギムレー』を討たねば、この世界を覆う絶望を祓う事は出来ない。

 でも、ロビンが居てくれるのなら。

 そして、ロビンがそう言ってくれるのなら。

 

『ギムレー』にだって負けないのだ、と。

 絶望を全て祓えるのだと。

 ルキナはそう、思う事が出来る。

 

 ロビンの言葉は、何時も不思議とルキナの心の奥深くにまで沁み渡っていく。

 どんなに不安で押し潰されてしまいそうな時も。

 ロビンの「大丈夫です」と言う言葉一つで、抱き締めてくれるその温かさで、繋いだその手の優しさと頼もしさで。

 不安も恐れも、何もかもが溶ける様に消えてしまうのだ。

 だからこそ、ルキナは……。

『宝玉』探索を始めてからずっと、何かに苦しんでいるロビンを、助けたかった。

 ロビンが抱える不安や苦しみを、今度はルキナが……。

 だけれども、ロビンは決してそれは口には出さない。

 ルキナもロビンを守りたいのに、……守られてばかりだ。

 それが、心苦しい。

 

 だから、ルキナは。

 背中越しに、ロビンに訊ねた。

 

 

「ロビンさんは、私にして欲しい事とか叶えて欲しい事って、ありますか?」

 

 

 そう訊ねられたロビンは、暫し黙った後に、「一つだけ」と静かに答える。

 個人的な要望を言った事が殆ど無いロビンが、『宝玉』探索以外で、やっとそう言った『お願い』を他でもない自分にして貰える事が嬉しくて。

 

 

「何でも言って下さい! 

 私が出来る事ならば、何でもしますから」

 

 

 やっとロビンの力になれるのだ、と。

 ルキナは胸を弾ませながらロビンに訊ねる。

 そんなルキナを見たロビンが、背後で優しく微笑んだ様な気がして。

 そして。

 

 

「ええ、では。

『覚醒の儀』を終えた時に、改めてお願いしますね」

 

 

 と、そう柔らかな声でルキナに頼むのであった。

 

『覚醒の儀』を成功させなければならない理由がまた一つ増えたが、ルキナにはもう不安は無い。

 何故なら、ルキナにはロビンが居てくれるのだ。

『緋炎』・『蒼炎』と、この短期間で二つもの『宝玉』を奪還出来たのだ。

 

 だから、世界が滅びるよりも先に『炎の紋章』を完成させて『覚醒の儀』を行う事も。

 そして、ロビンの『お願い』を叶える事も。

 きっと、いや、必ず。

 成し遂げる事が、出来る筈なのだから。

 

 二人だけの旅路の中で。

 ルキナは、きっと訪れる筈であろう『近い未来』を想って。

 そして、それを現実にする為にも。

 より一層、気力をその身に漲らせるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 眼下に見えるその人影に、先に気が付いたのはロビンであった。

 

 

「おや、あれは……」

 

 

 と、そう小さく呟いたロビンの声に、ルキナもまた眼下に目を凝らす。

 そして、その人影の正体に直ぐ様気が付いた。

 

 

「あれは……! 

 ロビンさん、彼処に降りて下さい!」

 

 

 そうロビンに言うや否や、飛竜は眼下の人影に向かって降下して行く。

 眼下の人影も、接近する飛竜の存在に気が付いたのだろう。

 応戦しようと、手に武器を構えたのが見えた。

 そんな人影に、ルキナは呼び掛ける。

 

 

「待って! 私です! ルキナです!」

 

 

 その言葉を聞いた途端に、人影は──仲間達は。

 戸惑った様に武器を下ろした。

 

 

「えっ、ルキナ……? 何でこんな所に……」

 

 

 飛竜から降り立ったルキナに、困惑する様にそう声を掛けて来たのはシンシアだった。

 

 

「私も、『宝玉』を集める為の旅をしているんです」

 

 

 そう答えるや否や、仲間達全員から驚愕の声が溢れ落ちて。

「イーリスはどうしたの」やら、「ルキナが居ないとダメなんだから、こんな危険な場所に居ちゃダメじゃない」やら。

 そう口々に詰め寄られ、ルキナが事情を説明する暇が無い。

 

 ルキナに詰め寄る仲間達を制したのは、傍で見守っていたロビンであった。

 仲間達は見知らぬロビンに、警戒する様な眼差しを送る。

 

 そんな突き刺さる様な視線は意に介さずに。

 ロビンは手短に、『宝玉』の正確な所在を掴んだ事やルキナと二人で『宝玉』奪還に向かった経緯を説明した。

 やはり、自分達が何れ程探しても未だ掴めていなかった『宝玉』の所在を、既に全て掴んでいたと言うのはかなり衝撃的であった様で。

 仲間達は皆言葉を無くしてしまう。

 

 

「ところで、ルキナさんの仲間は全員で11人居ると聞いていたのですが……」

 

 

 この場にいるのはその半数だけである。

 ルキナも気にはなっていたのだが、詰め寄られていた為にそれを訊いている余裕が無かったので、ロビンが訊いてくれて正直助かった。

 

 シンシア、デジェル、ンン、ノワール、セレナの五人はロビンの言葉に顔を見合わせる。

 そして、チラリとルキナを見やった。

 見知らぬロビンを信頼して良いのか、まだ判断しかねているのであろう。

 幾らルキナがその傍にいるのだとしても、だ。

 

 その態度が仕方の無いモノであるのは分かっているけれど、でも。

 ルキナは、大切なロビンが、こうやって大事な仲間達からの疑いの視線に晒されるのが辛かった。

 だから、ルキナは何とか仲間達にも信じて貰おうと、必死にロビンについて説明しようとする。

 

 

「ロビンさんは、私の『軍師』で……そして何よりも信頼出来る人なんです。だから──」

 

 

 信じて、欲しいのだと。

 そうルキナが続けようとすると。

 

 セレナが、大きな溜め息を一つ吐いた。

 そして、降参とでも言いたそうに手を上げる。

 

 

「あー、もう。

 ハイハイ、分かったわよ。

 ルキナにそんな顔をされちゃ、信用出来ないとか無理とか何とか言えないじゃない」

 

 

 そして、セレナはグイグイと有無を言わさずに迫る様な勢いでロビンに近付き、その胸に右手の人差し指を突き刺す様な勢いで押し当てた。

 

 

「良い? あたしはあんたを信用した訳じゃ無いわ。

 あんたを信じているルキナを信頼しているだけよ! 

 ルキナにあんな顔させる位に想われているんだから、その信頼を裏切るのだけは絶対に許さないんだからね!!」

 

 

 そう釘を刺す様にセレナがロビンに言い放つと。

 セレナの剣幕に驚いたのか幾度か瞬きしていたロビンは、その言葉に穏やかに紅い眼を細めて頷いた。

 

 

「ええ、勿論です。

『僕』は、絶対にルキナさんを裏切らない。

 ルキナさんを、『僕』の全てを賭けてでも守り通します」

 

 

 その答えに、セレナは憮然と噛み付く様に返す。

 

 

「そんなのは当たり前よ。

 あたしが言いたいのは、ルキナを置いていったりしても絶対に許さないって事よ。

 例えそれがルキナの為であろうと、あんたがした事でルキナの気持ちを傷付けたりした時も。

 あたしはあんたを絶対に許さないし、地の果てまでだって追い詰めてやるんだから。

 分かった!?」

 

 

 そう気焔を吐く様な勢いで言い捨てて。

 セレナはフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。

 そんなセレナの言葉に、ロビンは……。

 何処か寂しそうに、「そうですね……」と頷いた。

 

 説明する気が無さそうなセレナに代わって、ここまでの事情を説明したのは幼い外見に反して仲間の中でも一・二を争うしっかり者であるンンだった。

 

 

 曰く、『宝玉』の所在の手掛かりとなる情報すらそれらしきモノが殆ど掴めないままであった仲間達は、このまま11人全員で纏まって捜索していても埒が明かないと判断して、危険も伴うものの男女で二手に別れたらしい。

 そして、ンン達はペレジアの何処かにある事だけは掴んである『白炎』を捜索しているのだとか。

 

 ルキナとロビンはこれから『炎の台座』を奪還しに行く所であったので、丁度良いかとばかりにルキナは『白炎』の在処をンン達に伝える。

 その情報の信憑性を疑っていたンン達であったが、既に『緋炎』と『蒼炎』の奪還に成功している事とその証拠となる二つの『宝玉』を提示すると、流石に信じてくれた様だ。

 

 

「皆さんは『白炎』の奪還に成功したら、直ぐにイーリスへと向かって下さい。

 そのまま『虹の降る山』を目指して貰った方が良いかもしれません。

『僕』とルキナさんは、残りの『宝玉』を奪還し次第直ぐに『虹の降る山』に向かいます」

 

 

 二人だけの飛竜での空路と、女性五人での陸路。

 比べるまでも無く、ルキナとロビンの方が先に目的地に到着するだろう。

 

 流石に残り三つを集めるのには時間が掛かるだろうが、ンン達が他の『宝玉』も集める場合よりは、早くに事が済むであろう事は間違いがない。

 途中で運良くウード達を見付けられたら、もっと早くに集め終わるかもしれない位である。

 だからこそ、ンン達には『白炎』を奪還したら直ぐにそれを持って、確実に『虹の降る山』まで届けて欲しいのだ、と。

 

 そうロビンが説明すると。

 やや完全には納得は出来なかった様だが、それでも皆が頷いたのだった。

 

 

『炎の台座』へと向かうルキナとロビンが、再び出立したその後で。

 遠ざかって行く飛竜の影を見送りながら、セレナはポツリと呟く。

 

 

「あんた、ルキナにあんなに愛されているんだからね……。

 その想いを裏切ったら、絶対に承知しないんだから……」

 

 

 その言葉が、遠く離れてしまったルキナとロビンに届く事は、無かった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 仲間達と別れて程無くして、ルキナ達は押し寄せる砂に埋もれる様に佇む神殿から『炎の台座』を取り返した。

 かつて、先々代の聖王であったエメリナが暗殺された際に奪われてしまっていたイーリスの国宝は、今漸くイーリスの民の元へと還ってきたのだ。

 

『白炎』の奪還をセレナ達に託した今は、残すは『碧炎』と『黒炎』のみ。

 後少し、後少しで。

 やっとルキナは、自分に託された『希望』を世界の未来へと繋ぐ事が出来るのだ。

 

『緋炎』と『蒼炎』を納めた『炎の台座』……いや不完全ながらも紛れもない『炎の紋章』を抱き抱えて。

 ルキナは、ここまで辿り着いた事に、そしてそこまで自分を導いてくれたロビンに、止め処無い感謝を抱いていた。

 

 ロビンが居なくては、ここまで来れなかった。

 ロビンが、ここまで自分を連れてきてくれた。

 その事を何度も何度も噛み締めて、ルキナはその度にとても言葉では伝えきれない想いを、ロビンに感じる。

 

 ルキナはロビンを支えられているだろうか? 

 ロビンの『半身』であれているのだろうか。

 

 ルキナは、何が在ってもロビンの手を離さないと誓った。

 ロビンは、何を賭けてでもルキナを守ると誓ってくれた。

 ロビンは、その誓いを守ってくれているけれど。

 ルキナは、自分の誓いを守れているのだろうか。

 

 確かにルキナはロビンの傍にいる。

 そしてロビンと繋いだその手を、絶対に離さないだろう。

 だけれども……。

 

 ロビンを苛む『何か』が、日増しに強くなっているのを、ルキナも感じていた。

 

 夜眠るルキナの横で、ロビンは時折『何か』に必死に耐える様な小さな苦悶の声を溢す事がある。

 ロビンが胸を押さえて『何か』に必死に抗おうとしている事もある。

 

 一体『何』がロビンを苦しめているのか、苛んでいるのか。

 ルキナには、分からない。

 何度訊ねても、ロビンは決して話してはくれなかった。

 そして、決まってこう言うのだ。

 

 

「『僕』は、大丈夫です。

 ルキナさんが傍に居てくれるなら、『僕』は絶対に貴女を守ってみせます。

『覚醒の儀』が成功すれば、『全て』終わるんです」……と。

 

 

『覚醒の儀』を成し遂げれば、ロビンを苦しめている『何か』から、ロビンを解放出来るのだろうか? 

 ならば、ロビンを苦しめているモノとは……。

 

 ……ルキナは、ロビンを苦しめているその『何か』に対して、ある種の確信を持っていた。

 ルキナは、この『宝玉』奪還の旅を始めてから一度だけ。

 ロビンが何時如何なる時も決して外さない右手の手袋の下を、見てしまった事があった。

 

 ……あれは、『炎の台座』を奪還した時の事だ。

 追っ手の屍兵が放った矢からロビンがルキナを庇った時。

 放たれた矢が、矢を避けようとしていたロビンの右手の手袋を切り裂いた。

 その下に隠されていたモノをルキナが目にしたのはほんの一瞬だけであったが。

 

 そこにあったモノ。

 三対の目を模したかの様な……まるで何かの烙印の様な痣。

 それは、ルキナの目にハッキリと焼き付いていた。

 最早信徒の誰もが邪竜へとその命を生け贄として捧げてしまった為に、既に壊滅してしまったとされるかつてのギムレー教団。

 その、象徴とされていた紋章に酷似したそれは。

 そしてそれがロビンの右手の甲に刻まれている意味は……。

 

 …………。

 だけれども、ルキナはその推測をロビンに話す事が、出来なかった。

 その右手に刻まれた痣を、見てしまった事も含めて……。

 

 ロビンを信頼していない訳では、勿論無い。

 もし、ロビンの本来の立場が、役割が、ルキナの推測通りであったとしても。

 ロビンが今も尚、彼方側の存在であるのだとしたら。

 

 こうやってルキナに『宝玉』を集めさせる筈が無いからだ。

 寧ろ、それを全力で妨害しなければならない筈なのだから。

 ルキナ達に『覚醒の儀』を行わせようとしているのは、何よりもの背信行為に当たる筈なのだから。

 

 そんな危険を犯してでも、そして自らを擲ってでも。

 ルキナを守ろうと全力を尽くしてくれているロビンの誠意と真意を、ルキナは疑えない。

 

 ……なのに、そこまでロビンを信じていて尚それを言い出せないのは。

 偏にルキナが恐れているからだ。

 

 もしロビンがルキナに頑なに隠し続けてきたモノを、ルキナが無理に暴いてしまったら。

 ルキナは、ロビンを喪ってしまうのではないか、と。

 ……ロビンが裏切るとは欠片も思ってはいない。

 だが……。

 ロビンが、ルキナの元を去ってしまう可能性を、否定は仕切れなかった。

 

 だからこそ、ルキナは。

 ロビンを苦しめているモノが、『ギムレー』なのであろうと。

 そして、ロビンが元々は『ギムレー』の手の者であったのだろうと。

 そう半ば確信しながらも、口を閉ざしているしかなかった。

 

 そして、だからこそ、と。

『ギムレー』を討ちさえすれば、ロビンは『ギムレー』から解放される筈なのだからと。

 そうすれば、もう何の憂いも無く、ルキナとロビンは共に在れる筈なのだと。

 

 そう、固く信じるしかなくて。

 

 

「……必ず、『覚醒の儀』を成功させましょう。

 そして、『ギムレー』を討つんです。

 そうすれば、きっと、全て……」

 

 

 この絶望も、ロビンを苦しめる『全て』も、きっと終わる筈なのだから、と。

 そして、ロビンの『お願い』を、やっと叶えてあげられる筈なのだから、と。

 

 ルキナがそう自分に言い聞かせる様に呟く度に。

 ロビンは、「必ず、成功させましょう」と頷くのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 恐らく最も奪還が困難であろう『黒炎』よりも先に『碧炎』を奪還しようと、二人がかつてのペレジアの港町があった場所へと向かっていた時の事だ。

 

 眼下に見える沿岸部にある街は、もう既に生きている者など存在しない廃墟と化していて。

 長い事人が住んでいなかった事を示す様に、遠目から見ても荒れ果てていた。

 長らく襲う人間など最早一人として残っていないからか、屍兵の姿すらも見えない。

 かつてはヴァルム大陸との交易などで潤っていたのであろう名残も所々に残されている為、それが一層この光景の悲惨さを際立ててしまっていた。

 

 そしてそんな廃墟となった街中に、ルキナはよく見知った人影を見付ける。

 それは、ルキナの仲間であるウードであった。

 

 以前と同じ様にそこに降りて貰う様にロビンに頼み、ルキナはウードに声を掛ける。

 

 

「なっ……! 何でルキナがここに!?」

 

 

 驚きのあまりにか、何時もの口調を忘れてウードが叫ぶ。

 そしてその声を聞き付けたのか、他の仲間達もその場に集まってきた。

 

 そしてルキナがここに居る事に驚くと共にロビンへの不信感を隠さない仲間達に対して、以前セレナ達にしたように、ロビンが手短にこれまでの経緯を話し始める。

 ロビンへの警戒は解いて貰えなかったが、ルキナが仲間達にこれまでの経緯を聞き出した所によると。

 

 どうやらウード達は『碧炎』が正確な所在は不明ながらも海の向こうにある事を掴んだらしく、外海に出る為に船を探しにこの廃墟となった港町を訪れたらしい。

 

 ウード達が『碧炎』を探していたのなら丁度良い、と。

 ルキナとロビンはウード達に『碧炎』の在処を伝え、船を探す手伝いをすると申し出た。

 ウード達もロビンの言葉には疑心を抱いていたものの。

 セレナ達と同じく、既に集めた『宝玉』と『炎の台座』を見せれば、渋々信じてくれた……のだが。

 

 ただ一人、ジェロームだけは訝る様にロビンを見ていた。

 いや、ジェロームが気にしているのは、正確にはロビンを見て何事か反応しているミネルヴァの様子であるが。

 チラチラと幾度もロビンを見ては、どう反応するべきか迷う様な仕草を見せるミネルヴァを、ロビンもまたジッと見詰める。

 ミネルヴァは警戒している訳でも無く、かといって懐いている訳でも無い。

 その態度を人のモノに当て嵌めるのなら、正しく『困惑』と表現するしかなかった。

 

 

「…………ミネルヴァが警戒はしていない、と言う事は貴様が私達やルキナを害そうとはしていないのは確かなのだろう。

 だが、貴様を信頼する事も出来ない」

 

 

 そのジェロームの言葉に、ロビンは「分かっています」と頷く。

 

 

「それで構いません。

 貴方からすれば、急に現れた『僕』に信頼を置けないのは当然の事ですから。

 しかし、それでも。

『僕』が『覚醒の儀』を成功させようとしているのは、紛れもなく本当です。

 信じてくれ、とは言えませんが……」

 

 

 そう答えたロビンに、ジェロームは一つ溜め息を吐いた。

 そして、困惑するミネルヴァに寄り添う様に、その頭を撫でる。

 

 

「『碧炎』の手掛かりが無かったのは事実だからな。

 貴様を信頼した訳では無いが、その情報に従ってみるとはしよう。

 ……罠ではない事を、祈りながらな」

 

 

 そう言ってその場を立ち去るジェロームとミネルヴァを、ロビンは黙って見送った。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 程無くして、船は見付かった。

 ルキナとロビンが偶々立ち寄った造船所の倉庫の片隅に、隠される様にして安置されていた船を発見したからだ。

 放置されてもう十年近く経ってはいるものの、船としての機能に問題は無さそうで。

 六人と一頭の飛竜を乗せる位ならば十分どころかお釣りが来る程の大きさだ。

『ギムレー』復活後に沿岸部では数多の船が徹底的に破壊されてきた中で、これ程の船が破壊される事無く無事に残されていたのは、本当に幸運であるとしか言い様が無い。

 見付けた時には、ルキナのみならずロビンまでもがかなり驚いていた程だ。

 

 

 その船を仲間達総出で倉庫から引っ張り出して海に浮かべ、錨を下ろした時には。

 船を見付けたのが昼過ぎ辺りであったのに、もう日が暮れてしまっていた。

 ここで一泊する事に決めたルキナとロビンは、引き続き船に食料や水などの物資を搬入する作業を手伝う。

 それが終わる頃には、当初のウード達のロビンへの不信感もかなり薄れていて。

 ジェロームはまだかなり距離を置いてはいたが、ロランなどはロビンから船の操り方を熱心に教わっていた。

 そしてロラン達がロビンから操舵について太鼓判を捺される頃には、すっかりウード達はロビンを受け入れる様になっていたのだ。

 

 本来は、操舵技術があるロビンの方こそ『碧炎』の捜索に行くべきであろうし、その方が確実だ。

 

 だが、ロビンは。

『黒炎』の奪還だけは、決してウード達には譲ろうとはしなかった。

 幸い『碧炎』はペレジアから海に出て二・三日もあれば辿り着ける島にあるのだから、と。

 ウード達を『碧炎』の奪還へ送り出そうとする。

 

 ルキナは、その理由をロビンに訊ねた。

 どうしても『黒炎』はロビンの手で取り戻さねばならないのだとして、『碧炎』を奪還してから『黒炎』を奪還しに行っては駄目なのか、と。

 

 すると、ロビンは重々しく頷く。

 そして、「もう時間が無いんです」とだけ呟いた。

 

 

「『黒炎』だけは、『僕』が奪還しなくてはなりません。

 ですが、恐らくはもう……。

『碧炎』を奪還してから向かう程の時間は、無い……。

 そうすれば、『虹の降る山』に辿り着けるまでの時間は、残っていないでしょう。

 だからこそ、『碧炎』はウードさん達に任せてでも、『黒炎』の方へと行かなければ、ならないんです……」

 

 

 ロビンを苛む『何か』──『ギムレー』が、刻一刻と強くなってきているのかもしれない。

 

『時間』がもう無いのだ、と。

 ロビンは時折そう辛そうに呟く。

 一体その『時間』とは何なのか、そしてその『時間』が終わった時にロビンがどうなってしまうのか…………。

 ルキナには、何も分からない。

 訊きたいのに、訊けない。

 訊いてしまえば、全てが終わってしまう様な、そんな気がするのだ。

 

 そして、そんなロビンが。

 今も尚『ギムレー』に苛まれているのであろうロビンが。

『ギムレー』の力が最も強い地である『竜の祭壇』に向かえばどうなってしまうのか……。

 とても、嫌な予感がする。

 もしかしたら、ロビンがそこで、『残された僅かな時間』を使いきってしまうのではないのかと、そう感じてしまって。

 それなのに何も出来ない自分の無力が、ルキナは辛く苦しかった。

 

 ルキナが一人で『黒炎』を奪還出来るのならば、そうしたいのだけれども。

 ……『緋炎』を奪還した時も、『蒼炎』を奪還した時も、『炎の台座』を奪還した時も。

 ルキナは、ロビンに守られてばかりだった。

 ロビンが居なくては、そもそもの『緋炎』の場所にすら辿り着けず、奪還などとてもではないが叶わなかっただろう。

 

 そんなルキナに、何が出来るのだろう。

 

 ロビンを守りたいのに。

 ここに居る『彼』を、ルキナだけの『軍師』を、ルキナの『半身』を、守りたいのに。

 

 ルキナに出来るのは、どんな時でも何があっても、その手を絶対に離さない事位しかないのだ…………。

 たったそれだけで、何れ程ロビンの力になれていると言うのだろうか……。

 

 そんな想いを抱えつつも。

 ルキナはウード達の出航を見送ってから、『竜の祭壇』へと。

 最後の『宝玉』である『黒炎』が隠されている地へと、向かうのであった…………。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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END⑤【たった一つの、冴えたやり方】(上)

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何処までも広がる砂漠を越え、ルキナとロビンは着実に『竜の祭壇』へと近付いていく。

 そして、それと同時に。

 

 ロビンを苛む『何か』が、より一層強くなっていった。

 

 時折、苦悶の呻き声を上げて『何か』に耐えているロビンから、ルキナの肌を粟立たせる様な恐ろしい『何か』を感じる様になって。

 それはほんの一瞬の事であり、直ぐ様その恐ろしい『気配』は霧散し、何時もの優しいロビンの気配に戻るのだけれども。

 ロビンが『何か』に苛まれる間隔が、どんどんと短くなっていた。

 

 まだ『竜の祭壇』に辿り着いていないのに、これなのだ。

『竜の祭壇』に足を踏み入れた時、ロビンはどうなってしまうのだろう。

 ロビンは、ロビンのままで居られるのだろうか……。

 

 そんな不安が、ルキナの胸を押し潰す。

 だが、一番辛いのは、一番苦しいのは、ロビンなのだ。

 それが分かっているから、そして、そんなロビンを救いたいから。

 ルキナは何も言わずにただロビンに寄り添い続ける。

 

『何か』に苛まれている時に必死に耐えているロビンの手をルキナがそっと握ると、それに縋り付く様に……だけれどもルキナを傷付けない様な優しい力で握り返される。

 恐ろしい『何か』と必死で戦いながら、ロビンはルキナを傷付けない様にと、守っているのだ。

 それが、胸を締め付ける程に分かってしまうから。

 

 もしかしたら、ロビンが何時か『ロビン』では居られなくなってしまうのかもしれなくても。

 ルキナは、その手を離す事は出来ない。

 

 ロビンを苦しめる『何か』を討ち祓う力が自分には無い事が、耐え難い程辛くても。

 ロビンが、『ロビン』であり続けようと、戦い続けてくれているのならば。

 ルキナもその傍で、例え何も出来ないのだとしても、支え続けたいのだ……。

 

 

 自分が傍に居るのだと、この手を絶対に離さないのだと、何があっても貴方を独りにはしないのだと。

 そう語る様に、祈る様に、誓う様に。

 ルキナはロビンの傍に在り続けた。

 

 どうか、と、ルキナは祈る。

 それは神竜ナーガに対しての祈りなのかもしれないし、今は亡き父や母などへの祈りなのかもしれないし、大好きだった『ルフレおじさま』への祈りなのかもしれないし、誰でもない『何か』への祈りなのかもしれない。

 

 どうか、私からこの人を。

 何よりも大切で、ずっと傍に居て欲しい、掛け替えのないたった一つの『宝物』の様な愛しいこの人を。

 奪わないで下さい、と。

 彼が『彼』で在り続けられる様に、守って下さい、と。

 そう願い、祈り。

 

 そして。

『覚醒の儀』を終えて『ギムレー』を討った後も、ずっとずっとロビンと居られる事を、心の支えとして信じて。

 ルキナは、『何か』に蝕まれつつあるロビンを支えている。

 

 

『竜の祭壇』は、もう目前に迫っていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 まだ『竜の祭壇』の内部へと足を踏み入れていないにも関わらず、ルキナは身に突き刺さる様な嫌な気配をひしひしと感じている。

 少し離れた場所へ飛竜を降り立たせ、ロビンとルキナは砂漠の只中に静かに立つその神殿を見上げた。

 自分達の他には、周りには誰も居らず屍兵の姿も見えない。

 だが、この地に染み付いた怨念が、渦を巻くようにルキナ達を取り囲み見詰めている様な気すらも起こる。

 

『竜の祭壇』に向かうロビンの顔色は、悪い。

 立っている事すらも辛そうな顔なのに。

 それでも、ロビンは立ち止まろうとはしなくて。

 ルキナに出来るのは、そんなロビンを繋ぎ止めようと、その手を繋ぐ事だけであった。

 

 そして、二人は『竜の祭壇』の入り口に立つ。

 何かの呻き声と、怨嗟の声が。

『竜の祭壇』の奥地から流れてくる風に乗って、ルキナの耳に届いた。

 それを追い払おうと、ルキナは微かに頭を振る。

 

 

「ルキナさん、もしも、『僕』が──」

 

 

 ポツリと、ロビンが言おうとした言葉の続きを、ルキナはその手を強く握り直す事で止めた。

 何を言われようと、何が起ころうとも。

 ルキナには、その手を離すつもりが無い事を、ロビンに伝える為に。

 

 

「ロビンさんが、何者であっても私は構いません。

 例え、本来の貴方が『ギムレー』の手の者であったのだとしても……。

 ロビンさんは、ロビンさんです。

 私の『軍師』は、私の『半身』は…………。

 貴方だけなんです。

 どんな時でも、何があっても。

 私は貴方を信じます。

 だから、この手は絶対に離しません」

 

 

 だからこそ、『ギムレー』に負けないで、と。

 何度でもこの手で貴方を引き留めるから、何があっても絶対に諦めないで、と。

 そんな想いを籠めて、ルキナはロビンの横に立った。

 

 そのルキナの言葉に、ロビンは辛さを隠せていないまま、それでも嬉しそうに優しい微笑みを浮かべる。

 

 

「有り難うございます、ルキナさん。

 貴女のその言葉が、その想いが。

 何よりも『僕』の力になる、『僕』を引き留めてくれる……。

『僕』はこんな所で消える訳には、いかない。

『覚醒の儀』を見届けるまでは、絶対に……。

 大丈夫、です。

『僕』は、何があっても、貴女を守ります」

 

 

 そっと握り返されたその手は、温かくて。

 この手を喪いたくないと言う気持ちが、溢れ出してしまいそうになる。

 だが、今は。

 進まなくてはならないのだ。

 

 だからルキナとロビンは、繋いだ手を決して離さない様に固く結んで。

『竜の祭壇』の内部へと、足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

『竜の祭壇』の内部は、不気味な紫炎によって、明るくも怪しく照らされていた。

 一体あの紫炎は何なのだろうか、と。

 ルキナはそう思うのだが。

 それを確かめようと目を凝らそうとすると、ロビンはその目を優しく塞ぐ様にしながら強くそれを押し止める。

 そして、「見てはいけません」と低く抑えた声音で忠告するのであった。

 

 

「あれを見続けていれば、魅入られてしまうかもしれません。

 だから、ルキナさんは前だけを見て下さい。

 あの炎に意識を向けてはいけません」

 

 

 揺らめくその紫炎の中に、一瞬だけ怨嗟に満ちた人の顔の様なモノが映った様な気がして。

 ルキナは慌ててロビンの言葉に頷いて、その紫炎の事から意識を逸らした。

 

 アレは、屍兵などよりも遥かに悍ましい何かだ。

 炎の様に見えているが、そんな生易しいモノでは無い。

 ルキナはそう本能的に理解してしまった。

 そして、ロビンに導かれるままに、奥へ奥へと進んで行く。

『ギムレー』の領域の中心地であるだけに、『竜の祭壇』の危険さは他の場所とは文字通り桁が違った。

 徘徊する屍兵も、ルキナでは太刀打ち出来そうにも無い程に強力な個体である事が遠目にも分かるモノばかりで。

 そんな屍兵がそこらかしこに蠢いているのだ。

 ロビンの道案内無しだと、ルキナは直ぐ様命を落としていたであろう。

 立ち止まって時折物陰に身を隠したり、隠し通路の様な場所に潜り込んで屍兵を回避したり、と。

 ロビンは屍兵と戦わずに済む様に、細心の注意を払いながら進んでいた。

 

 だがしかし、そうやって着実に奥へと進んではいるものの。

 ロビンの顔色は刻一刻と悪化していた。

 時折発作を起こした様に息を荒くして胸を押さえたり、目をきつく瞑って『何か』に耐える様に苦悶の呻き声を上げる。

 ルキナに出来るのは、ロビンの名を呼びながら彼を抱き締める事位だった……。

 

 ルキナの目には見えぬ『何か』が。

 この場所に満ち満ちている『ギムレー』の力が。

 ロビンを急速に蝕んでいる。

 

 仕えるべき『ギムレー』を裏切り、神竜ナーガの力を受けた聖王の末裔のルキナに手を貸している事への報復なのか。

 それとも、もっと別の何かなのか……。

 それはルキナには分からないけれど。

 この場所に留まる事自体が、ロビンを苦しめ苛んでいるのは疑いようも無い事実であった。

 

 早く、早く、早く、早く──

 

 そう祈る様に進み続ける内に。

 ふと、とても広い空間に出た事に、ルキナはその空間の中程まで進んでから漸く気付いた。

 

 

「これで、やっと……」

 

 

 その空間の最奥。

 そこに設けられた祭壇に奉られた闇色の輝きを放つ『宝玉』を見て、ロビンは苦し気ながらも息を吐く。

 

 あれが、最後の『宝玉』、『黒炎』。

 妖し気な輝きを放つそれは、確かに『宝玉』であるのだろうけれども。

 この場が『ギムレー』の力に支配されているからだろうか。

 何処か、底知れない恐ろしさがそこに渦巻き、ルキナを静かに見つめ返している様にも感じてしまう。

 そして、黒炎を護るかの様に。

 あの悍ましい紫炎が、祭壇には灯されていた。

 

 

「『僕』が、『黒炎』を取ってきますから。

 ルキナさんは、ここで待っていて下さい。

 この先は、とても危険なんです……。

『僕』が、貴女を守れないかもしれない程に……」

 

 

 全てを呑み込もうとするかの様に揺らめくその炎を睨みながら、ロビンはそう言ってルキナの手を離そうとする。

 

 ロビンのその言葉に、ルキナは僅かに迷う。

 恐らく、ロビンの言う通り、『黒炎』の近くには、今までの道で見掛けた屍兵なんかとは比べ物にならない程の危険が待ち受けているのだろう。

 ルキナはまだ『黒炎』からは離れていると言うのにも関わらず、ビリビリと背筋を凍らせそうになる程の悍ましい力がそこに集まっているのを感じるのだ。

 きっと、ロビンはルキナを守る為に、その手を離そうとしている。

 それは、一々言葉で言われるまでもなくルキナにも分かる。

 だけれども……。

 

 ここで、この手を離してしまえば。

 

 ルキナは、もう、二度と。

『ロビン』の手を掴む事が出来ないのではないか、と。

 そんな、予感もするのだ。

 

 

「ロビンさんは……」

 

 

 ルキナは、思わずロビンに訊ねる。

 

 

「そんな危険があるんだとしたら。

 ロビンさんは、どうなるんです……?」

 

 

 例えロビンが本来は『ギムレー』の側に属する人間なのだとしても。

 現にここまで『ギムレー』と思わしき『何か』に蝕まれているロビンが、あの祭壇に近付いてただで済むとは、ルキナには到底思えないのだ。

 既に酷く『何か』に蝕まれているロビンが、祭壇に渦巻く恐ろしい力に耐え切れるのか。

 もしかして、『黒炎』を手に入れる事と引き換えに。

 ロビンは…………。

 

 そんな最悪の予感が、ルキナの頭から離れない。

 

 恐ろしい予感に苛まれているルキナに、ロビンは。

 その右手を繋いだまま、左手で優しくルキナを抱き寄せた。

 そして、「大丈夫です」と優しく囁きながら、ルキナを安心させる様に頭を優しく撫でる。

 

 

「『僕』は、何があってもルキナさんを守ります。

 何をしてでも、貴女だけは絶対に傷付けさせない。

 そして、その為にも。

『黒炎』は、絶対に貴女の手に届けます。

 だから、『僕』を信じて下さい……」

 

 

 そう言って、辛そうにしつつもロビンは優しく微笑む。

 ルキナを、安心させるその為だけに……。

 

 途端に、あぁこの人は、と。

 ルキナは、泣き出したくなる様な激情に駆られた。

 

 分かってない。

 ロビンは、分かっていないのだ。

 ルキナが失いたくないのは、ロビンなのに。

 ロビンが居なくては、意味がないのに。

 ルキナの事ばかりを優先して、『黒炎』なんかをルキナの手に届ける為に。

 その身を削る事も、厭わない。

 厭おうとは、してくれない。

 こんなに蝕まれて、今にも倒れそうで。

 そんな状態で、あんな場所に近付いて無事で済む筈が無いのに、それを分かっているのに。

 それなのに、独りで行こうとする。

 そして、辛い筈なのに。

 ルキナを安心させる為だけに、微笑むのだ。

 そんな微笑みでルキナの不安が消える筈なんて、無いのに。

 ルキナを守る為に、ルキナを傷付けない為に、と。

 ロビンはそればかりを気にしていて。

 傷付き苦しむロビン自身を見て、ルキナが傷付き苦しまない訳が無いのに。

 それに、気付けないのだ。

 

 だからこそ、ルキナは決めた。

 絶対に、この手を離してなんてあげられない。

 危険なんて、そもそもこの旅に出た時に百も承知の事だ。

 今更、そんなモノに臆したりなんてしない。

 そんな『危険』なんかよりも、もっと恐ろしい事をルキナは知っている。

 もっと辛い事を、ルキナは知っている。

 

 大切な人を守れない事。

 大事な人を苦しみから救えない事。

 苦しむ『半身』に何も出来ず、寄り添うしか出来ない事。

 誰よりも大切で愛しい人が、消えてしまうかもしれない事。

 それ以上に恐ろしい事、辛い事、苦しい事など、無いのだ。

 繋いだその手の先を、永久に喪うかもしれないのなら。

 何れ程危険であろうと、共にこの先に進む事に躊躇いなどある筈も無い。

 ロビンがルキナを守ると言うのなら。

 ルキナがロビンを守り抜こう。

『ギムレー』なんかに、ロビンを奪われてたまるか。

 この手を離してなんて、やるものか。

 ロビンがルキナを守る為に自分勝手にこの手を離そうとするのなら。

 ルキナだって、自分勝手でもこの手を絶対に離さない。

 

 だから、ルキナは。

 繋いだ手を離そうとしたロビンのその右手を。

 ギュッと、力強く繋ぎ直した。

 

 戸惑った様にルキナを見るロビンに、ルキナは宣言する。

 

 

「私は、絶対に貴方を独りで行かせない。

 私がロビンさんを守ります。

 だから、ロビンさんが私を守って下さい。

 だから、二人で、一緒に、行きましょう」

 

 

 そして、ロビンに反論を許さずに、ルキナはその手を繋いだまま先へ進んだ。

 ロビンは慌ててルキナの前に出て、そして……。

 ルキナの意志が梃子でも動かない事を認めて、一つ溜め息を吐いた。

 

 

「……それが、ルキナさんが自分で決めた事であるならば、『僕』はそれに従います。

 だから、絶対に。

 この手は離さないで下さい。

 必ず、『僕』が貴女を守りますから」

 

 

 そう言って、ロビンはルキナと共に『黒炎』が奉られた祭壇へと近寄る。

 一歩進む毎に、悍ましく異様な威圧感がルキナの肌に突き刺さってゆくが。

 それでもルキナは顔を上げ続け、ロビンと繋いだ手を離さなかった。

 

『黒炎』の前に立ったロビンは、一つ息を吸って集中しようとしているかの様に目を閉じる。

 そして、目を開けると同時に、徐に『黒炎』へと手を伸ばした──。

 

 

 途端に、ルキナの背筋を粟立たせ身体を凍り付かせる程に恐ろしい『何か』の気配が、一気に膨れ上がる。

 

 

 傍に灯されていた紫炎が揺らめき、『黒炎』を手にするロビンへと襲い掛かろうとするが。

 ロビンの、息を吹き掛ける様な仕草一つで。

 紫炎は跡形も無く霧散してしまう。

 紫炎が消える時に憎悪と怨嗟の声が響いたが、ロビンはそれすらも意に介する事はなく。

 ルキナに振り返ったロビンの紅い瞳は、ゾッとする様な輝きを放っていた。

 

 どんな時にだってその瞳に浮かんでいた優しさや穏やかさなどは、何処にも無くて。

 何よりも、纏う気配が。

 この空間に満ちる恐ろしい『何か』その物のモノであった。

 

 違う、これは、ロビンでは、無い。

 今目の前に居る『ソレ』は、断じてルキナの『半身』などでは無かった。

 まさか、ロビンは、もう……。

 

 一瞬、そんな弱気な考えが頭に浮かぶ。

 だがその程度でルキナが諦める事など出来る訳が無かった。

 ルキナはロビンの手を強く引き、全力で呼び掛ける。

 

 

「ロビンさん! しっかりして下さい! ロビンさん!!」

 

 

 戻って来て、と。

 そう叫んだ瞬間に。

 

 ロビンの目に穏やかで優しい輝きが甦り、途端に咳き込む様に胸を押さえて苦しそうに喘いだ。

 まだ恐ろしい気配はロビンに残ってはいるが、それも先程と比べるとずっと弱くなっていて。

 ロビンは必死に、『何か』に抗っていた。

 だからこそ、ルキナはその身体を強く抱き締めて、ロビンを連れていかせまいと引き留める。

 

 

「ロビンさん、大丈夫です、私が此処に居ます。

 絶対に貴方を離しません。

 貴方を蝕み苦しめているのが、『ギムレー』であるのなら。

 この剣で、それを断ち切ってみせます……!」

 

 

 手に握ったファルシオンには、未だ完全なる力は戻らない。

 それでも、それが神竜の牙であると言うのなら。

 どうか、どうか……! 

 ロビンを蝕む『ギムレー』を、祓ってくれ、と。

 そう願い、剣を強く強く握り締める。

 

 ……一瞬だけ、ルキナの想いに応えるかの様に、僅かにファルシオンが輝いた様な気がした。

 そして、懐かしい父の気配を少しだけそこに感じる。

 その途端に、ロビンの荒い息が幾分か穏やかになった。

 苦しそうにしながらも、ロビンはしっかりとルキナの手を握り返す。

 

 

「ルキナさん、有り難う、ございます。……これ、を」

 

 

 喋れる程にまで回復したロビンは、手にしていた『黒炎』をルキナへと差し出した。

 それをルキナが受け取るや否や、ロビンは力尽きた様に倒れそうになる。

 それを慌てて支えると、ロビンはまだ辛そうな顔で困った様に言った。

 

 

「すみま、せん……。

 どうも、抑えるのに、精一杯で。

 今は、動けそうには……」

 

「なら、私が貴方を背負います!」

 

 

 ロビンの方が背は高いが、幸いルキナはかなり鍛えているし、ロビンはどちらかと言うと華奢よりの体格である。

 ロビンが動ける様に回復するまで、『竜の祭壇』の外へ辿り着く位までなら、きっと背負って行ける筈だ。

 今はとにかく、一刻も早くこの場を離れなければならない。

 急場は凌いだとは言え、ここに居続けてはロビンに負担が掛かり過ぎてしまう。

 

 ルキナはロビンを背負って歩き始めた。

 大丈夫だ。

 ロビンと共に来た道は、ちゃんと覚えている。

 

「すみません」と謝るロビンに、「良いんです」と首を横に振る。

 何時だってロビンに助けて貰ってきたのだから。

 今度は、ルキナの番なのだ。

 

 ルキナ達を探して徘徊する屍兵に見付からない様に警戒しながら、確実に確実に、ルキナは外への道を辿って行く。

 

 幾度となく危うい場面があったが。

 背に感じるロビンの温もりと重みが。

 そして彼の命を預かっているのだと言う責任感が。

 そこを切り抜ける知恵と勇気を与えてくれた。

 

 そして、行きよりもずっと長く感じる道程の果てに。

 漸く、ルキナとロビンは。

『竜の祭壇』からの脱出を果たしたのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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END⑤【たった一つの、冴えたやり方】(中)

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

『竜の祭壇』から『黒炎』の奪還に成功したルキナ達だが、直ぐ様『虹の降る山』へとは向かわなかった。

『竜の祭壇』での出来事の影響なのか、ロビンが酷く弱ってしまっていた為、『竜の祭壇』から程好く離れた場所にあった、まだ人が住める建物が残されたオアシスの畔の廃村で、暫しの休養を余儀無くされたのだ。

 

『竜の祭壇』内部に留まっていた時と比べると、遥かに良くはなっているのだが。

 それでもロビンが『何か』に苛まれる事が無くなる事は、無かった。

 

 ……ロビンを苦しめ苛んでいるモノが『ギムレー』であるのならば。

 彼の邪竜を討たない限り、ロビンがその苦痛から解放される事は無いのだろう。

 根本的な解決の為には、一刻も早く『虹の降る山』で『覚醒の儀』を行う必要がある。

 だが、少なくとも。

 ロビンが満足に動ける様に回復するまでは、ここで休む必要があった。

 

 砂漠の夜は、寒い。

 その寒さはフェリア程では勿論無いのだけれども。

 熱を地に留めておく草木などが何も無いが故の寒さは、雪と氷に閉ざされたフェリアの凍り付く様な寒さとはまた少し違った辛さがある。

 

 ロビンに寄り添う様にして、ルキナはここに来て四度目の夜を過ごしていた。

 

 この廃村に辿り着いた時は今にも倒れてしまいそうだったロビンも、四日も経てばかなり回復してきていて。

 

「明日の朝には『虹の降る山』へ向けて出立出来そうです」、と。

 ここで足止めさせてしまって申し訳無いとでも言いたそうに、ロビンはそう言った。

 ルキナとしては、もっと休養に当てても良い位なのではあるけれど。

 ロビンを助けるには『覚醒の儀』を行わなければならないので、どの道急いで『虹の降る山』へと向かう必要はあった。

 

 二人きりで過ごす時間は、本当に穏やかで……。

 とても心地好く、幸せな時間がゆっくりと流れていた。

 だが、こうやって穏やかな時間を過ごせるのは、少なくとも『覚醒の儀』を終えるまでは今夜が最後なのだろう。

 だから、それを少し惜しみながらも……。

 そして、全てを終わらせたら、ロビンとこんな時間を沢山過ごせる筈なのだから、と。

 ルキナは、最後の穏やかな夜を、噛み締める様に過ごす。

 そして……。

 

 

「ロビンさんは……」

 

 

 これを訊ねるべきなのか、訊ねても良いものなのか。

 そう少し迷いながらも……。

 ルキナは、ずっと訊ねたかった事を、ロビンに訊ねる。

 

 

「ロビンさんは、どうして、私を助けてくれるんですか? 

 どうして、ここまでして私の為に……」

 

 

『何か』……恐らくは『ギムレー』に苛まれながら、その苦痛に耐えながら。

 どうして、ロビンはここまでしてルキナを助けようとしてくれるのだろうか。

 

 ロビンが元々は『ギムレー』側の存在である事はもうルキナも知っているし、ロビンもそれは否定はしなかった。

 右手に刻まれていた痣を見てしまったのだと明かした時には、驚いてはいたが。

 それでも、ロビンはルキナの元を去ろうとする素振りは見せなかった。

 それに安堵して。

 だからこそ、ルキナは訊ねずには居られなかった。

 

 本来は、相容れない筈だったのだ。

 ルキナは神竜ナーガ側の人間で、ロビンは邪竜『ギムレー』側の人間なのだから。

 それなのに、ロビンは『ギムレー』を裏切ってまで、ルキナに尽くしている。

 命懸けで、身も魂も削る様にして。

 泣き言一つ溢す事も、弱音一つ吐く事も無く。

 自分の何もかもを捧げる様に……。

 どうして、そこまでの献身をルキナに捧げてくれるのだろうか、と。

 そう、思わずには居られない。

 

 

 ルキナの問い掛けに、ロビンは穏やかに目を瞬かせる。

 そして、フワリと。

 優しい優しい笑みを浮かべた。

 

 

「ルキナさんの事を、『愛』しているから、ですよ」

 

 

 静かに、ロビンはそう答える。

 そこに、嘘偽りは、無くて。

 

 

「本来ならば、『僕』には貴女を愛する資格なんて無いのでしょう……。

 それでも、『僕』は、この『想い』に、この『心』に。

 嘘なんて、吐けない。

 この世の何よりも、この世の誰よりも。

 貴女を愛しいと思うこの『心』は、『偽り』なんかではない。

『僕』が『僕』である限りは、何があろうとも、何れ程の時が経っても、この『想い』は絶対に変わらない……」

 

 

 触れ合った指先から伝わる柔らかな温もりが、ルキナの心へと沁み渡る。

 ルキナを見詰めるその紅い瞳には、何処までも優しく穏やかな想いが満ちていて。

 

 貴女を、『愛』しているのだと。

 どんな言葉よりも雄弁に。

 それを向けられたルキナが泣き出してしまいたくなる程に、ロビンの『心』を、その『想い』を。

 何一つ余すことなく、伝えていた。

 

 

「『僕』の全てを賭けてでも、『僕』が差し出せる全てと引き換えにしてでも。

 貴女を傷付ける全てから、貴女を守りたくて。

 貴女の意志を心を踏み躙ろうとする全てから、貴女のその『心』を守りたくて。

 貴女には、思うがままに、望むがままに、在るがままに、『幸せ』になって欲しくて……。

 その為ならば、『僕』は。

 何だって、出来るのです……」

 

 

『ギムレー』に苛まれる事を承知の上で、『ギムレー』に背いてまでこうやってルキナを助けていたのも。

『覚醒の儀』の為に、『炎の紋章』を完成させようとしてくれているのも。

 全ては、ルキナを想うが故であると。

 

 そのロビンの言葉に、その想いに。

 ルキナの胸に、苦しくなる程の想いが溢れた。

 

 大好きで、大切で、愛しくて。

 ルキナのロビンへの想いも、決して偽りではないし軽くもないけれど。

 こんな、ここまで純粋で、ここまで真っ直ぐな想いを。

 ルキナは、ロビンに返せているのであろうか。

 何もかもを捧げる様なこの献身に、ルキナは応えてあげられているのだろうか。

 

 

「私も、……私も貴方の事が、大切なんです。

 誰よりも、貴方の事を想っています。

 愛して、います」

 

 

 ルキナには、救わねばならない世界がある。

 果たさねばならない、使命がある。

 ルキナはルキナ自身の意志で、それを全うする事を何よりも優先するだろう。

 だけど。

 

 

「世界を救った後に、其処に貴方が居なくては、意味がない。

 だからこそ、絶対に。

 私に、『幸せ』になって欲しいと願うのなら。

 何処にも行かないで下さい。

 ずっとずっと、私の傍に……。

 私だけの軍師で、私の『半身』として、ずっと一緒に……。

 この世界で一番、貴方の事を、愛しています」

 

 

 ルキナはロビンの右手をそっと両手で取る。

 そして、そこに刻まれた『ギムレー』の烙印を手袋越しに包む様に、その手を繋いだ。

 

 愛している。

 ロビンを、心から愛しているのだ。

 

 例えロビンが、『ギムレー』の側の存在であるのだとしても、そんな事はもう関係無い。

 自分が在るべき在り方を全てを投げ捨てて『ギムレー』を裏切ってでも、ロビンはこうしてルキナの傍に居る事を望んでくれるのだから。

 ロビンは『ロビン』としてルキナの傍に居る事を望み選び、そしてルキナもそれを求めたのだ。

 

 例え誰がロビンの存在を許さないのだとしても。

 ロビンがルキナの傍に在る事を、自分達以外の誰もが糾弾するのだとしても。

 ルキナは、彼を排斥する全てから守り続ける。

 未来永劫、ルキナの『軍師』は、ルキナの『半身』は。

 ロビン、ただ一人だけなのだから。

 愛しい人を奪おうとする全てと、戦う覚悟がルキナにはあった。

 

 

 ロビンの優しい眼差しと、ルキナの視線が絡み合う。

 ロビンの左手が、ルキナの頬を優しく撫でて。

 ルキナの右手が、ロビンの身体を抱き締める。

 そして、ゆっくりと。

 この瞬間を永遠のものにするべく互いへ刻み付けようとするかの様に。

 二人の唇が静かに重なりあうのであった……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ペレジアを越えてイーリスに入ると、人の気配が何処にも見付けられない程に荒れ果てた光景から一転して、やや荒みつつはあるものの人々が日々を営むその光景が目に入る様になっていった。

 空から見ている分には、ルキナ達が旅立ってからはまだどの町も壊滅的な被害を受けていない様だが、それでも急がねばならないだろう。

 今は一刻も惜しいから、と。

 ルキナとロビンは王都に立ち寄る事無くそのまま『虹の降る山』を目指す。

 

 セレナ達は『白炎』を手に出来たのであろうか。

 ウード達は『碧炎』を奪還出来たのであろうか……。

 

 それを確かめる術はない為。

 きっと大丈夫だから、と。

 ルキナはそう自分に言い聞かせながら、『緋炎』・『蒼炎』・『黒炎』を納めた『炎の紋章』を強く抱き締める。

 

『虹の降る山』は、もう目前に迫っていた……。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

『虹の降る山』は未だ屍兵の襲撃を受けた形跡も無く、聖域としての美しい姿を保ったままであった。

 滅びや絶望に包まれた世界の只中にあっても、この地には常に清涼な気配が満ち満ちている。

 その麓には、ナーガの加護を求めて各地から逃げ延びてきた人々が村落を作っていた。

 

『ギムレー』の手がまだ及んでいない事に、そしてその影響も無い事にルキナは安堵するが。

『ギムレー』の影響がこの地には及んでいないのにも関わらず、ロビンの顔色は何処か悪い。

 それでもその眼差しは優しさと意志の輝きに満ちていて、その手はルキナを力強く支えてくれていた。

 

 麓へは降りずに、そのまま一直線に山頂の祭壇を目指して飛竜は飛んで行く。

 そして山の中腹に差し掛かった時だった。

 

 

「おーい! ルキナー!!」

 

 

 と、誰かに名を呼ばれ、慌ててルキナが下を見ると。

 中腹に広がる林を抜けた場所で、シンシア達が大きく手を振っていた。

 笑顔の彼女らが掲げる様に手にしているのは、白い輝きを放つ『宝玉』──『白炎』だ。

 急いでそこに降り立つと、一斉にシンシア達はルキナに駆け寄ってくる。

 

 

「やったよ! 取り返したよ!!」

 

 

 そう成し遂げた顔で興奮する様にシンシアは語り、他の皆もまた笑顔で頷いている。

 

 

「間に合って、本当に良かったわ……」

 

 

 ホッとした様に胸を撫で下ろしたノワールは、『白炎』をルキナに手渡す。

 残るは、『碧炎』のみだ。

 

 ウード達は、今どの辺りにいるのであろうか、と。

 ルキナが考えたその時。

 上空から何かが羽ばたく音が聞こえ、皆が上を見上げた其処には。

 

 

「ジェローム! ミネルヴァも……」

 

 

 ジェロームが愛竜のミネルヴァに乗って、ルキナを追い掛けてきていたのであった。

 その手には、しっかりと『碧炎』が握られている。

 

 どうやら『碧炎』の奪還に成功したジェローム達は、急ぎ『虹の降る山』へと向かっていた様なのであるが、途中でセレナ達が先に行っている事を知った為、ウード達はジェロームとミネルヴァに『碧炎』を託して先に『虹の降る山』へと急がせたらしい。

 そして、ここで幸運にもルキナに追い付いたと言う訳だ。

 

 相変わらずミネルヴァはロビンをジッと見詰めているのだが、以前会った時の困惑の色はもう何処にも無かった。

 そして、何処か気遣わし気にロビンにその頭を擦り寄せる。

 その反応にロビンは少し苦笑しながらも、優しくミネルヴァの頭を撫でた。

 何故かジェロームは何も言わずにその様子を見守っている。

 

 

「『碧炎』を届けて下さって有り難うございます、ジェロームさん。

 ミネルヴァさんもかなり疲労している様ですし、ジェロームさんはここで一旦休息を取って下さい」

 

 

 そして、強行軍でここまでやって来てくれたセレナ達にも礼を言い、ここで一旦休む様にとロビンは言った。

 それに反対意見は挙がらない。

 ここまで来れば、『覚醒の儀』を成し遂げるだけであるし、『覚醒の儀』にはそう人手は必要ではない。

 ここでルキナが『覚醒の儀』を果たし戻ってくるのを待っていても何の問題も無いのだ。

 

 ルキナとロビンはそのまま山頂を目指し、再び飛竜に乗り飛び立つ。

 

 その後ろ姿を、ミネルヴァは何時までも見送っていた。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 山頂に降り立つと、静謐な清涼さを湛えた空気と、厳かに佇む祭壇がルキナを出迎える。

 やっと、ここに辿り着いたのだ、と。

 深い感慨がこの胸の内に湧き起こるが。

 まだ、ここからなのだと。

 ルキナは決意を新たにする。

 

『覚醒の儀』を行って、それで終わりではない。

『ギムレー』を討たねば、世界を救う事は出来ないし、ロビンを助ける事も出来ないのだ。

 

 祭壇へと意気込みも新たに進もうとするルキナとは反対に、ロビンの足取りは重い。

 そして、祭壇の入り口の手前で、ロビンは立ち止まった。

 

 

「すみません、ルキナさん。

 僕は、ここで待っていても良いですか?」

 

 

 何処か辛そうにそう言ったロビンに、少し戸惑いながらもルキナは頷いた。

 …………ここから先は、真に神竜ナーガの領域とも言える場所だ。

 幾らもうそれを裏切っているとは言え、本来は『ギムレー』の側の存在であるロビンには、辛いものがあるのだろうか。

 それに、『覚醒の儀』に人手は不要なのだ。

 だから、ここで待っていたいとロビンが言うのであれば、それに反対する理由も意思も無かった。

 

 一人祭壇の内部へと足を踏み入れたルキナは、最奥に設けられた祭壇に完成した『炎の紋章』を捧げる。

 そして、代々伝わる誓詞を述べた。

 

 

「神竜ナーガよ……我、資格を示す者。

 その火に焼かれ、汝の子となるを望む者なり。

 我が声に耳を傾け、我が祈りに応えたまえ……」

 

 

 その誓詞を捧げると共に、激しい焔がルキナの身を包んだ。

 焔に包まれる痛みに耐えルキナは一心に祈りを捧げ続ける。

 

 どうか、私に『ギムレー』を討つ力を……! 

 私に、ロビンを救う為の力を……! 

 

 痛みに耐えながら祈りを捧げ続けていると。

 焔が何れ程の時間、己の身を包んでいたのかはルキナには分からないが。

 ふとした瞬間に、その焔は掻き消えた。

 そして──

 

 

『【覚醒の儀】を行いし者よ……。

 我が炎に洗われた心に残った願いは、ギムレーを討つ力を欲す──。

 我が炎にも焼き尽くされぬ強きその想い、確かに私に届きました』

 

 

 フワリと。

 虚空から、静謐な気配を纏った存在が姿を現した。

 神竜教の教会の絵姿で何度か目にした事があるその姿は、まさしく神竜ナーガそのものであった。

 

 

『その願いに応え、力を授けましょう。

 私の加護を受けた貴女は……我が牙……ファルシオンの真なる力を引き出す事が出来ます。

 その剣があれば、私と同じ力を使う事が出来ましょう』

 

 

 待ち望んでいたその言葉に、ルキナはやっと一つ成し遂げたのだと打ち震える。

 後は、『ギムレー』を討つだけだ。

 そうすれば、世界は救われ、ロビンを『ギムレー』に蝕まれる苦しみから解放出来る。

 やっと、ロビンを救ってやれる。

 

 

「これで、……これで、やっと……。

『ギムレー』を討ち滅ぼす事が……」

 

 

 出来るのだ、と。

 やっと、ロビンをこの手で救えるのだ、と。

 そう感極まって呟いたルキナに。

 ナーガは静かに首を横に振った。

 

 

『いいえ、ギムレーを滅ぼす事は出来ません』

 

 

 全ての前提を覆しかねないその言葉に、ルキナは瞠目する。

 

 

「そんな、貴方は神竜ナーガなのでは……。

 力を、授けると……」

 

 

 それに、千年前に。

 初代聖王に力を授けて、『ギムレー』を討ったのではないのか、と。

 

 混乱するルキナに、ナーガは滔々と説明する。

 

 強大な力こそ持ってはいるが、ナーガは神ではなく、そして万能な万物の創造主でも無い。

 故に、ナーガと同格の存在である『ギムレー』を滅する事は出来ない……正確にはその方法が分からない。

 だけれども、人の身では封じる事も復活を阻止する事も出来ぬ『ギムレー』を、千年封じる事ならば出来るのだ、と。

 

 そう、ナーガはルキナに述べた……。

 

『ギムレー』を封じれば、今全てを滅ぼさんとしている絶望から世界を救う事は出来るのだろう。

 千年前に、初代聖王がそうした様に。

 例え千年の後に再び『ギムレー』が甦る事を避けられないのだとしても。

 千年間の平穏を、与えられるのだ。

 そして、千年後の人々が、『ギムレー』に抗えないと決まっている訳ではない。

 だからそれが決して無為な事では無いのは、分かっている。

 

 だが、ロビンは。

 ロビンは、どうなるのだろうか……。

 封じられていれば、『ギムレー』がロビンを苛む事は無いのだろうか。

『ギムレー』を滅ぼせないのだとしたら。

 ロビンは、ルキナの元を去ってしまうのではないか、と。

 

 

「本当に、『ギムレー』を滅ぼす方法は、無いのですか……?」

 

 

 僅かな希望を求めて、ルキナはナーガに訊ねた。

 それが何れ程困難な事であるのだとしても、何れ程低い可能性であるのだとしても。

 完全に『ギムレー』を滅する方法が、あるのかもしれないのなら。

 ルキナは、それを選ぶつもりであった。

 

 だが、ナーガはゆるゆると首を横に振る。

 

 

『あるとすれば、それは。

 ギムレー自身が、消滅を望んだ時でしょう……』

 

 

 つまりは、自殺。

『ギムレー』の意志がそれを望まない限り、彼の存在を滅ぼす事は出来ない。

 ……『ギムレー』が自ら死を望む事など有り得ないだろう。

 万が一にもそんな事があるのだとしても、それならとっくに『ギムレー』は自ら命を絶っている。

 ルキナ達が何をした所で『ギムレー』に自ら死を選ばせる様な事は不可能であるし、そんな事がもし可能なのだとしても『ギムレー』の心変わりを待つ様な時間は世界には残されていない。

『ギムレー』に死を与える事は不可能だ。

 ……ルキナに残された方法は、『ギムレー』を封じる事だけであった。

 嘆いていても、仕方は無い。

 やれるべき事を、成せる事を。

 ルキナは成さねばならないのだから。

 

『覚醒の儀』は、終えたのだ。

 外で待っているロビンの為にも一度此処を出る必要がある。

 何よりも、ルキナはロビンの顔を見て安心したかった。

 

 何をどう話せば良いのかはまだ分からないが。

 もしかしたら、ロビンなら何か良い手を示してくれるかもしれない。

 そうでなくとも、ロビンが傍に居れば、この何処か遣り切れない思いも鎮まってくれるであろうから。

 

 

 

 祭壇を立ち去るルキナをナーガは憂う様な眼差しで見詰めている事に、ルキナが気付ける筈も無かった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 祭壇から少し離れた場所に、ロビンは独り佇んでルキナを待っていた。

 厚い雲の向こうでは陽がゆっくりと傾きつつあり、世界は燃える様な茜色に染まりつつある。

 

 

「ロビンさん!」

 

 

 そう声を掛けると、夕焼け空を見ていたロビンは振り向き、そして優しく微笑んだ。

 夕焼けの光に、ロビンの紅い瞳が穏やかに輝く。

 

 

「ルキナさん……。

 ご無事で良かった、です。

 無事に、『覚醒の儀』を遂げたのですね」

 

 

 ロビンは、ファルシオンに目を向ける。

 それに頷いて、ルキナはファルシオンを手に取った。

 

 

「はい。

 ……ナーガ様の御力を以てしても、『ギムレー』は討ち滅ぼせず、封印する事しか出来ないそうですが……。

 この剣で止めをさせば、『ギムレー』を千年封じられると」

 

 

 ロビンはそれに静かに頷いた。

 そして、一度ゆっくりと目を閉じて、深く深く、息を吐く。

 再び静かにルキナを見詰めるその眼差しには。

 決意と覚悟が、そこに灯されていた。

 

 

「ルキナさん。

『覚醒の儀』を終えた時に、叶えて欲しい『お願い』が。

 一つだけある、と。

 以前言ったのを、覚えていますか?」

 

 

 ロビンの言葉に、ルキナは頷く。

 忘れる筈が無い。

 それは、『覚醒の儀』を成し遂げたい理由の一つでもあったのだから。

 

 ルキナの答えに、ロビンは「良かった」と、心から安心した様に笑った。

 そして、一歩。

 ルキナへと歩み寄った。

 

 

「では、ルキナさん。

『お願い』、します。

 その剣で、ナーガの力を宿したそのファルシオンで」

 

 

 そこで、ロビンは一度言葉を止める。

 ロビンは、ルキナから目を逸らさない。

 優しさを湛えるその目には。

 安堵と、そして……寂しさが浮かんでいる。

 夕暮れ時の中で、優しくルキナを見詰めるロビンには。

 今にも消えてしまいそうな儚さが、あった。

 

 

「『僕』を、殺して下さい」

 

 

 そう言って、ロビンは。

 穏やかに優しく、微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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END⑤【たった一つの、冴えたやり方】(下)

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「なに、を……」

 

 

 言葉が、続かない。

 ロビンが何を言っているのか、何故そう願うのか。

 理解出来ないし、それを頭が拒否する。

 

 そんなルキナに、ロビンは。

 哀しそうに、微笑んだ。

 

 

「『僕』は、ルキナさんに『ギムレー』の手の者であるのか、と言われた時に、否定はしませんでした。

 …………でも、それは正しくは、無かったんです。

『僕』、は……。

 ……僕こそが、『ギムレー』、なんですから……」

 

 

 そう言って、「黙っていて、ごめんなさい」と。

 頭を、下げる。

 

 

「そんな、何で……、だって……」

 

 

 何が言いたいのか、何を言うべきなのか。

 ルキナ自身にも、もう分からなかった。

 ただただ。

 ロビンの言葉を理解出来なくて、理解したくなくて。

 ロビンが「冗談ですよ」と言ってくれる事を、期待して。

 でも、ロビンの眼差しは、真剣そのもので。

 そして、心の何処かでは。

 ロビンの言葉を静かに聞いてしまっている自分が居る事に、ルキナは気付いてしまった。

 

 

 

「『僕』は『ギムレー』です。

『僕』が、貴女から沢山の『幸せ』を奪ってしまった……。

『僕』が、貴女の大切な父親を、クロムさんを殺しました。

『僕』が、貴女の大切な人であったルフレを殺しました。

『僕』が、貴女の大切な人達を、殺しました。

『僕』が、貴女の仲間達の大切な人を、殺しました。

『僕』が、貴女が守るべき世界を、絶望に陥れました。

『僕』が、貴女を戦いの運命へと引き摺り込みました。

『僕』の、所為で……。

 貴女は、傷付き苦しみ、重荷に潰されそうになって。

 それでも立ち止まる事も出来ずに、戦い続けなくては、ならなくなったんです」

 

 

 苦しそうに、哀しそうに。

 ロビンは、そう吐き出す。

 その顔は今にも泣き出しそうな程に哀しみに沈んでいた。

 

 

「『僕』の、所為です。

 全て、何もかも……『僕』の所為なんです。

『僕』が、『僕』の存在こそが……! 

 貴女を、何よりも傷付け、苦しめてしまっていた……」

 

 

 心から悔いる様に、ロビンは慟哭する。

 魂を傷付け吐き出している様なその叫びに。

 ルキナも胸を締め付けられた。

 

 

「ロビンさんが、『ギムレー』だと言うのなら……! 

 どうして、どうして……! 

 私に『宝玉』を集めさせたりなんかしたんですか……! 

『覚醒の儀』を行わなければ、『ギムレー』を傷付け得る手段なんて、何処にも存在しないのに……」

 

 

 そうだ、ロビンが『ギムレー』であると言うのなら、そんな事をする筈が無いのだ。

 有り得ない、有り得ないのだ。

 だから、ロビンは、『ギムレー』なんかではなくて。

『ギムレー』に操られて、ルキナの心を傷付ける為だけに、そう言わされてるだけなのだろう……。

 だって、これでは。

 ロビンが『ギムレー』であると言うのなら。

 これまでのロビンの行動は……それは……。

『ギムレー』が、自ら死のうとしているみたいでは──

 

 

「だからこそ、ですよ」

 

 

 ロビンは哀しそうに俯いた。

 そして、両手で顔を覆って、その心の全てを絞り出す様な声で自らの想いを吐露する。

 

 

「『僕』が『僕』である内に。

 貴女を愛しいと『想う心』が、『ギムレー』としての本性を抑え込めている内に。

『僕』は、『僕』を止める必要が、有りました。

 ……『僕』の意志だけで、『ギムレー』を殺せるのなら……。

 貴女を傷付けると分かっているこんな方法を取る必要も、無かった……」

 

 

 だけれど、と。

 苦しそうに、ロビンは続ける。

 

 

「『ギムレー』の中の人格の一欠片に過ぎない『僕』では。

『僕』がどんなに本来の『ギムレー』から乖離してしまっているのだとしても……。

『ギムレー』を殺しきれない、消滅させられない。

 そして、このまま『ギムレー』に侵食されて『僕』が消えてしまえば……、きっと、『ギムレー』は貴女を……」

 

 

 その先は言葉にはならず、微かにその唇を震わせただけであった。

 そして「ごめんなさい」と、ロビンは力なく呟く。

 

 

「『僕』が『僕』である内に、ナーガの力が完全に解放されたファルシオンで『僕』を殺せば。

『ギムレー』は完全に消滅します。

 もう、二度と、復活する事も有り得ない。

 ……全て、終わらせる事が、出来るんです。

 そして、その機会は、もうこれが最後なんです……」

 

 

 どう言う事なのだ? 

 ロビンは何を言っているのだ? 

 どうして、『ギムレー』が自ら死を望んでいる様な事を言っているのだ。

 だって、ロビンは、人間なのに……。

 

 そう言い掛けたルキナに、ロビンはそっと首を横に振る。

 

 

「『僕』は、人間じゃ、ないんです。

『ギムレー』が人間のフリをして、貴女と接している内に、何時の間にか『ギムレー』の中に生まれていた、ただの人格の仮面……、『偽り』の存在……。

 それが、『ロビン』と言う存在の。

 今、貴女と話している『僕』の、正体なんです……」

 

 

 違うのだと、自分は人間としては在れないのだ、と。

 ロビンは悲痛な声で話す。

 

 

「『僕』は、『ギムレー』だ。

 どんなに貴女を大切に想っていても、どんなに貴女を愛しく想っていても……! 

 それでも、『僕』は、『ギムレー』以外には、なれない……」

 

 

 その叫びは、心からのモノで。

 だからこそ、ルキナは問わずにはいられなかった。

 

 

「ロビンさんが『ギムレー』なんだとしても……! 

 そして、『ギムレー』の中の人格の一つなのだとして……! 

 ここに居るロビンさんが、それを望むのなら……! 

 共に生きていけるんじゃ、ないんですか……」

 

 

 分かっている。

 ルキナだって、本当は、分かっているのだ。

 

『ギムレー』としての本性がどうであれ。

 ロビンは。

 少なくとも、ルキナをずっと支え導き、共に居てくれた、ルキナの『半身』は。

 ルキナを傷付けた事なんて一度たりとも無かったし、全てを擲ってルキナを守っていた。

 そんなロビンが。

 ルキナをこの上なく傷付ける様な、こんな『お願い』を。

 何の意味も理由も無く、してくる筈がない事位は、分かっている。

 

 ロビンを苦しめ、苛んでいたモノは。

 それは間違いなく『ギムレー』だったのだろう。

 そう、ロビン自身がその身の内に抱える、『ギムレー』としての本性。

 それが、ロビンを蝕んでいたのだ。

 

 

「……そうであれば、どんなに良かったか……。

 だけれど、『僕』は……もう、持たないんです。

『ギムレー』から乖離し過ぎた『僕』は……。

 遠からず『ギムレー』の本性に全て呑み込まれ、完全に消えてしまう……。

 こうして話している間にも、『ギムレー』の本性は、貴女を傷付けようと、『僕』の中で荒れ狂っている……。

 貴女を想う気持ち一つで、何とか『僕』として踏み止まっているだけなんです」

 

 

 ルキナの言葉に静かに首を振って。

 泣き笑いの様に、ロビンは顔を歪めた。

 

 

「……少しずつ、少しずつ。

 今この瞬間にも。

 貴女と過ごした時間が、消えていっているんです。

 貴女と過ごした時に感じた想いが、欠けていってしまっているんです。

 貴女の事が何よりも大切なのに、何よりも愛しいのに……。

 段々、愛しいと感じるこの『心』ですら、……消えていってしまって……。

 何時か、貴女を想う『心』が完全に喪われれば、『僕』は……『ロビン』と言う人格は、消えます……。

 そして、きっと、その時は……。

『ギムレー』は、貴女を殺そうと、するでしょう。

 その時にはもう、『僕』は貴女を守る事も、出来ない……」

 

 

 だからこそ、と。

 ロビンはルキナに嘆願する。

 

 その表情は苦しみと哀しみに歪んでいるが、その眼差しには何者にも……『ギムレー』にすらも侵されない、強い強い意志の輝きが灯されていた。

『愛』しているからこそ。選ばねばならないのだと。

 その選択は、苦しくて、辛くて、哀しくて、それでも。

 そこに、ルキナを……最愛の人を守る術があるのなら、と。

 ロビンの眼差しは、そんな決意に満たされていた。

 

 

「『僕』は、貴女を傷付ける者全てから、貴女を守ります。

『僕』の全てを捧げても、何を引き換えにしても……! 

『僕』が、『僕』である内に。

 貴女を守れる内に……! 

『僕』は……! 

 それが、『僕』が、消えた後なのだとしても……。

『僕』は、ルキナさんを、絶対に殺したくない……っ。

 だからどうかその前に、『僕』を、殺して下さい……」

 

 

 殺してくれと、そう心から願うロビンを前にして。

 ルキナは──。

 

 手に固く握りしめていたファルシオンを、取り落とした。

 

 そんなの、選べる訳が無い。

 だって、そんな事は……。

 

 

「貴方を、この手で殺せと……。

 そう、言うんですか……? 

 私は、貴方を助けたくて、貴方と共に、生きたくて……。

 だから、ここまで……。

 それ、なのに……」

 

 

 そう願い進み続けた結末が、これなのか。

 世界で一番愛している相手を。

 たった一人の、何よりも大切な『半身』を。

 この手で、殺す事が。

 ルキナに与えられた、運命だとでも、言うのか。

 

 もう、涙で前が見えない。

 

 ロビンの言葉を、想いを。

 分からない訳じゃなかった。

 痛い程に理解してしまったから……。

 だからこそ、ルキナは選べないのだ。

 

 誰よりも愛しているのに。

 何よりも、大切な人なのに。

 何と引き換えにしても守りたいのに。

 

 愛しているからこそ。

 守りたいからこそ。

 

 ルキナがこの手で。

 殺さなければ、ならない。

『ギムレー』を討つ力を持つファルシオンを扱えるのは。

 もうこの世には、ルキナしか……居ないから。

 

 

「ルキナさん、お願いです。

 ……『僕』の、たった一つの『お願い』を。

 どうか、叶えて下さい……」

 

 

 地に取り落とされたファルシオンを拾い上げて。

 ロビンは、それをそっと優しくルキナに手渡す。

 その仕草の一つ一つに、ルキナへの思い遣りが溢れていて。

 だからこそ、ルキナは言葉すらも無くしてただただ涙を溢す事しか出来ない。

 

 分かっている。

 分かっているのだ。

 それしか、もう方法が無いのだと。

 それが、最善の道なのだと。

 それを、選ぶべきなのだと。

 

 ここでルキナが決断しなければ。

『ロビン』は完全に『ギムレー』に呑み込まれて消え、ルキナは『ロビン』を永遠に喪う。

 そして、『ギムレー』は、ルキナを殺そうとするだろう。

 ……ロビンの姿をした『ギムレー』を、ルキナは、きっと。

 それが最早『彼』ではないのだと理解していても、そこに『彼』の面影を見てしまえば、絶対に討てない……。

 そして、ルキナは殺され、世界は滅びてしまうだろう。

 ここでルキナが決断して『ロビン』を殺せば。

『ロビン』がルキナを殺す様な最悪の結末は訪れず、『ギムレー』も完全に消滅するのだ。

 世界だって、救われる。

 

 選んでも、選ばなくても。

 ルキナが『ロビン』を喪う事だけは、……一番受け入れたくないそれだけは、絶対に変えられない……。

 ならば、どうするべきかなんて、誰に諭されるまでもなく、ルキナだって分かっている。

 だけど…………。

 

 

「ルキナさん」

 

 

 泣き腫らすルキナの頬を、その涙にそっと指先で触れる様に、ロビンが優しく撫でる。

 頬を零れ落ちる涙を優しく拭い、ロビンは優しく微笑んだ。

 そして、そっとルキナを抱き締める。

 

 

「『僕』を殺す事が辛いのなら。

『僕』は貴女から、『僕』との記憶を奪いましょう。

 そうすれば、貴女を苦しめずに済むのなら、『僕』は……」

 

 

 それはロビンの優しさが故の提案だったのだろう。

 それは、分かる。

 だけれども、ルキナはそれだけは受け入れられなかった。

 

 

「いやです、それだけは、絶対に、嫌です……! 

 私から、貴方との思い出を、貴方への想いを、貴方の存在を、奪わないで……! 

 どれも、大切な、私の宝物なんです。

 貴方と過ごした全ての時間が……。

 その思い出がどんなに苦しくても、どんなに辛い物であっても、その全てが……大切なものなんです……! 

 だから……」

 

 

 そう懇願すると、ロビンは驚いた様に目を見開いて。

 哀しそうに微笑んで、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 

「すみません、ルキナさん……。

『僕』は貴女をより傷付けてしまう所だったのですね……」

 

 

 そして、柔らかく抱き締めたままルキナの背を優しく擦る。

 その手はあまりにも、優しくて。

 この手を喪ってしまう事が、耐えられない。

 なのに、ルキナは……。

 

 

「でも、有り難うございます。

『僕』との時間を、宝物だと言ってくれて……。

 これ以上なんて無い……『僕』にとって最高の、餞です。

『僕』も、貴女と過ごした全ての時間が、……もう思い出せない時間も含めて、何よりも愛しい。

 だから……」

 

 

 ロビンは、ルキナの唇に触れるだけの優しいキスを落とす。

 

 

「『ギムレー』に、これ以上貴女との思い出を、貴女への『想い』を、『僕』の宝物を。

 奪われてしまう前に、『僕』を救って下さい。

 ルキナさんは、『僕』を殺すんじゃない。

『僕』を救う為に、ファルシオンを使うんです……」

 

 

『ロビン』を、救う為に……。

 

 その言葉に、ルキナはファルシオンを握り直した。

 

 迷いが消えた訳ではない。

 躊躇いはまだ胸の内にある。

 他の方法は無いのかと、心は慟哭を上げている。

 だけれども。

 

 これが。

 こんな事が。

 こんな事でしか。

『ロビン』を救えないと言うのなら。

『ロビン』が、その救いを望むと言うのなら。

 

 ルキナが再びファルシオンを握り締めたのを見て、ロビンは抱き締めていた身体を離す。

 そして、それを受け入れる様に。

 優しく微笑みながら、両手を広げた。

 

 

 

「お願いします、ルキナさん……」

 

 

 

 ルキナは、ロビンの顔を見ていられなかった。

 ファルシオンを構えて、慟哭を上げながら、ロビンの胸に飛び込んだ。

 

 そして──

 

 ファルシオンの切っ先が、何かを貫いた感触と共に。

 ルキナは優しく抱き締められる。

 

 

 

「有り難う、ございます。

 そして、ごめんなさい……。

 貴女に、こんな辛い役目を、任せてしまって……」

 

 

 ファルシオンの切っ先は、過たずロビンの胸を貫いていた。

 ルキナが震えるその手を離しても、ファルシオンはロビンの胸に突き刺さったままで。

 

 それなのに、ロビンは。

 穏やかで優しい微笑みを、ルキナに向けていて。

 その眼差しは、ただただルキナを気遣っていた。

 優しい手が、震えるルキナの背を慈しむ様に撫でる。

 

 サラサラと。

 まるで血が零れ落ちる代わりの様に。

 ロビンの身体が端から、砂の様に崩れ落ち始めていて。

 崩れ落ちた端から世界に溶ける様に消えてしまう。

 その崩壊の速さは、徐々に加速する様に進んでいって。

 それなのに、ロビンは幸せそうに微笑んでいる。

 

 

「貴女を、守り抜く事が出来て、……良かった。

 だからどうか、泣かないで下さい。

『僕』は、貴女に救われたんですから……。

 だから、どうか……。

『幸せ』に、なって下さい……」

 

 

 ロビンの優しい【呪い】の様なその言葉に、ルキナは力無く首を横に振った。

 

 

「私に、幸せになってと、望むなら……! 

 どうか、逝かないで下さい……! 

 私の傍に、ずっと、ずっと居てください……! 

『ギムレー』を討ったって、世界が平和になったって……! 

 そこに、あなたがいなかったら、なにも……」

 

 

 意味が無いのだと、ルキナはそう続けたいのに。

 そう言ってやりたいのに。

 溢れる涙で、声がもう出ない。

 ただただ嗚咽が溢れるばかりだ。

 

 そんなルキナを、優しくあやす様にロビンは抱き締めた。

 崩れ落ちるその身体からは次第に温もりが消えていく。

 

 

「『僕』も、叶うなら……。

 貴女の傍に、ずっと居たかった。

 貴女の軍師として、貴女の『半身』として、共に。

 同じモノを見て同じ時を過ごして……。

 そして、一緒に歳を重ねて行きたかった……」

 

 

 絶対に叶わない夢を、永久に叶わない想いを。

 ロビンは夢を見る様に優しく語る。

 

 

「もしも『僕』が『ギムレー』でなければ。

 貴女と共に在れる存在であったなら。

 叶った願い、なんでしょうかね……」

 

 

 そうだったら良いのにな、と。

 ロビンは呟いた。

 

 

「もしも、また、遠い遠い時の果てで。

 ……そこで貴女とまた出逢う『奇跡』が叶うなら。

 その時は。

 今度こそ、貴女の傍に、ずっと居たいですね……」

 

 

 そう溜め息を溢すように、叶わないと知りながらも殺せなかった、願いの様な想いを語るロビンの身体は。

 もう今にも、夕焼け空の中にその全てが溶けて消えてしまいそうだった。

 

 

 

「さようなら、ルキナさん。

 ずっと、ずっと『愛』して、います。

 だからどうか、『幸せ』に──」

 

 

 

 優しいキスをルキナの額に残して。

 ロビンは、消えてしまった。

 

 ルキナの身体を包んでいた温もりは、もう何処にも無い。

 振り返っても、何れ程名前を呼んでも。

 もう、ロビンは何処にも居ない。

 

 ロビンが居た場所取り落とされたファルシオンだけが、彼が其処に居た証になっていた。

 

 

 夕日が沈み行く山頂には。

 ロビンの温もりが残された身体を抱き締めながら。

 天を仰ぎ慟哭するルキナ独りが、残されたのであった……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 世界は、救われた。

『ギムレー』を討った事は瞬く間に知れ渡り。

 民達は皆、ルキナを、そして仲間達を讃え。

 救世の英雄であると、悪しき邪竜を討ち滅ぼした救世主であると。

 そう、奉り上げた……。

 

 

 ロビンは、『ギムレー』との戦いの中で命を落としたと。

 公には、そう言う事に、なっている。

 民は皆英雄の死を惜しんだが、それですらも流れ行く時間と共に次第に忘れ去られてゆき。

『ロビン』の名前は、今や幾つかの書物に残されるばかりとなっていた。

 

 あの後、山頂に辿り着いた仲間達は、泣き続けて憔悴しきったルキナから、事の次第を聞いた。

 その反応は各々であったが、何れにせよ仲間達は誰も『ロビン』の真実を公表する事は無かった事だけが事実だ。

 セレナなどは、憔悴したルキナを抱き締めて。

「馬鹿ね、アイツってば、本当に馬鹿なのね」と、繰り返し呟きながら、泣きそうな顔で怒っていた。

『ロビン』が何を想っていたのか、何を望んでいたのかは、仲間達も詳しくは知らない。

 無理に尋ねようとしてくる者は居なかったし、万が一居たとしてもルキナが口を割る事は無かっただろう……。

 

『ギムレー』を討ったあの日から、世界は急速に復興へと向かっていった。

 荒れ果てた不毛の地であった場所には、若芽が生い茂り。

 痩せ衰えていた地には実りが満ちて。

 溶けぬ氷に閉ざされたフェリアには、雪解けが訪れ。

 この世の命は喜びを唄い。

 屍兵は一体残らず消え去り、新たに現れる事も無い。

 

 世界は、平和になったのだ。

 

 人々は、それを『ギムレー』を討ったルキナのお陰だと、ナーガの御心がもたらした恵みなのだと。

 そう口々に讃えていたが。

 きっと、恐らくは違うのだろう、と。

 ルキナは……密かにそう思っていた。

 

 ……きっと、彼が。

 他の誰でもなく、『ロビン』が。

 ルキナ達に遺した、せめてもの贈り物であったのだろう。

 

 そうは思ってはいたが、ルキナはそれを絶対に口にする事は無かった。

 

 邪竜は滅び、世界は救われた。

 絶望に喘いでいた人々に必要なのはその事実のみであり、そこにあるルキナやロビンの想いは、そこにあった『真実』などは、関心の外であろうから。

 それらはきっと、何時かルキナ達の戦いや旅路が英雄譚として語られる様になる程に遠い未来で、誰かが勝手に想像して描くものなのだろう。

 ……それで、きっと、良いのだ……。

 

 

 

 あの日以来、ルキナは夕暮れ時の頃合いになると、何時もロビンの姿を探して彷徨い歩いてしまう。

 もう、『彼』が何処にも居ないのは分かっている。

 もう二度と逢えないのは、分かっているのだけれども。

 

 あの日、夕暮れの中に溶ける様に消えてしまった『彼』が、この夕暮れの何処かにまだ居る気がして。

 優しいあの手に、『彼』の温もりに。

 何時か夕暮れの中で巡り逢える様な、そんな気がして。

 それが叶わぬ祈りだと分かってはいても。

 ルキナは、『彼』を探さずにはいられない。

 また、逢いたい、と。

 ロビンはそう願っていた。

『彼』自身、それが叶わぬ事と思ってはいたけれど。

 それでも、信じていれば何時かきっと、と思ってしまう。

 

 それは遠い遠い時の最果ての事になるのかもしれない。

 それでも、何時か其処で、もう一度出逢えるのなら。

 今度こそ…………。

 

 それが永久に叶わぬ願いであると知りながら。

 それでも、決して消す事など出来ないその想いを胸に。

 

 

 彼の名前を呼びながら、ルキナは独り夕暮れの中を歩き続けるのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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断話『葬送の花』

2019/10/20に開催された『刻印の誇り8』にて発行した再録本に収録した書き下ろしの短編です。


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 この絶望の世界では、誰もがその日その日を生きる事に必死であった。

 何もかもが崩れ、壊れ果てたこの世界では、多くのものが切り捨てられ喪われてしまった。

『花』も、喪われてしまったものの一つだ。

 かつては人々の生活に彩りを添え、そして見る人の心に豊かさを与えていた花達は、世界が絶望に沈んでから真っ先に消えてしまった。

 

 陽の光すら十分に行き届かず、そして大地はかつての肥沃さの面影など何処にも無い程に枯れ果て荒地となって。

 野に咲く名も知れぬ様な小さな花々は瞬く間に枯れ落ちてしまっていった。

 僅かに残った木々も、次第に痩せ衰え最早花を咲かせる程の活力はなく、若木でさえも枯死寸前の老木と大差無い様な有り様であった。

 人々がかつては肥料を与え手塩を掛けながら丹念に育てていた花達も、こんな人々が日々を凌ぐ為の食料にすら困窮するこの絶望の世界であっては食料にもならないただの鑑賞用の花を育てる様な余裕など誰にもなくて。

 かつては花畑が広がっていたそこには、痩せた麦の穂が風に揺れている。

 かつては鑑賞用としてあれ程持て囃され贈り物として重宝されていた薔薇などは、最早この世界には一株たりとも残ってはいないだろう。

 祝い事や祭りなどこんな終末の世界では既に絶えて久しく、新たな命の誕生でさえ言祝がれる事なく、寧ろただ苦しむだけの生を与えられた事を嘆く声が響くのみ。

 その生を祝福されない程度ならまだマシで、この困窮した世界では赤子を養う余裕は無いとばかりに打ち捨てられ、屍兵に貪り喰われる命すらあった。

 それならば子供など作らなければ良いと言う話になるのだけれど、こんな『希望』も喜びも絶えた世界では、唯一この現実から逃避する為の手段がそれしか残されていない者は剰りにも多い。

 それを止める手立てなど、無いに等しかった。

 

 そして失われたのは祝い事だけでなく、葬儀と言う習慣も、世界が絶望に沈んでから数年経った今ではもう既に喪われていた。

 死体が出たら屍兵に変貌する事を防ぐ為に速やかに荼毘に付さねばならないので、故人との別れを惜しむ様な儀式をやっている余裕など無く、故に葬儀など余程の事がなければ行われない。

 

 そして、死者に花を手向けるなどと言う風習も肝心の花がもう存在しない為廃れ、当然の事ではあるのだが、墓前に花を供えると言う事も無い。

 イーリス王都の一画に存在する歴代の聖王家の者達の墓にすら、最後に花が手向けられたのは何時の事だったか……。

 父母の墓前には、今や申し訳程度の造花が供えられているだけであった。

 

 ……何時か二人の墓前に……そしてこの絶望の世界で喪われた全ての者の墓前に、両手一杯の花を手向ける事が、ルキナにとって密かな目標であった。

 ……その為にも、先ずはこの絶望の世界を生み出した邪竜を討たねばならないのだけれども。

 

 

 かつてはイーリス国内でも有数の花畑が広がり四季に応じて色とりどりの花達が人々の目を楽しませてきた筈の……しかし今となっては痩せた地の所々に芋の苗が植えられているだけとなった場所を、ルキナは静かな感傷と共に見詰める。

 幼きあの日にたった一度だけ、父母に連れられて訪れた思い出の花畑は、今や見る影もなく変わり果てていた。

 それを、その変化を、仕形の無い事なのだと、人々が生きる為、その糧を得る為なのだからと。

 そう理解はしているのだけれども。

 それでも心の何処かは膿んだ様な痛みを訴える。

 人々から不要として切り捨てられてしまったその花達が、まるで幼いあの日の思い出その物である様な気がして。

 緩やかな風に微かに葉を揺らす芋の苗の影に混じって、踏み潰された花達の幻影が過る様な……そんな錯覚すら感じてしまう。

 余計な感傷だとは分かっているけれども、ルキナはそれを切り捨てられない。

 

 

 

 

「ルキナさん、どうかしましたか?」

 

 

 ふと声を掛けられて振り返ったそこには、ロビンが気遣わしそうな目でルキナと、ルキナが視線を向けていた畑を見詰めていた。

 

 

「いえ……大した事ではないのですが……。

 かつてここには花畑が一面に広がっていたんです。

 今では、芋の畑になってしまっていますが……」

 

「花畑、ですか……」

 

 

 ロビンは微かに首を傾げる。

 ロビンは元々はイーリスの民ではなかった為、幾らイーリス国内では有名であったとしても、ここに花畑があった事を知らなかったのだろう。

 そんなロビンに、ルキナはかつての思い出を掘り起こす様にして思い出しながら、説明していく。

 

 

「ええ。イーリスでも有数の花畑として有名だったんです。

 季節ごとに違う花々が色鮮やかに咲き誇る……そんな花畑でした。

 王都に卸される花の多くがここで育てられているものであったと、聞いた事があります」

 

「ルキナさんは、その花畑を見た事があったんですか?」

 

「一度だけですが……。

 父と母と、そして父の臣下達と……。

 両親と共に城の外に出られる機会はあまりありませんでしたから、とても嬉しかったのを今でもよく覚えています」

 

 

 ルキナにとっては『幸せ』な時間ではあったけれど、当時も戦争の動乱の中の日々で。

 父母共に城に居ない時間も多かったし、親子で何処かに出掛けられる機会など殆ど無かった。

 それ故に、その貴重な時間はルキナにとっては何よりもの『宝物』であったのだ。

 大好きな父が居て、母が居て。

 そしてそこには大好きだった『ルフレおじさま』が居た。

 彼等と過ごす時間はあまりにも楽しくて幸せで、だから帰り際にはまだここに居たいなどと、子供らしい我が儘まで言ってしまった。

 その我が儘に、父も母も、そして『彼』も笑って。

『また皆で来よう』と、そう約束してくれた。

 幸せな……もう二度と戻れない幸せな時間、もう二度と叶わない……幸せな約束だった。

 あの日見た花の名前はもう思い出せないけれど、そこにあった『幸せ』は今でも忘れずに覚えている。

 

 

「……そう、だったんですね……」

 

 

 ロビンは僅かに痛みを湛えた目でかつての花畑を見回した。

 そこに思い出のあの景色は何処にも残ってはいない。

 豊かな花畑は、痩せ衰えた芋の畑になってしまっている。

 肥料を与える余裕も無い土地は痩せ衰えるばかりで、そんな土地で育てられるのは痩せた地でも育つ芋位しか無いが芋は土地を更に痩せさせてしまう。

 それを補う為には土地を休ませたり肥料を与えなければならないのだが、人々が少しでも飢えを凌ぐ為には痩せ衰えた地で芋を育て続けるしかないのだ。

 その結果土地は更に荒れ果て、肝心の作物も痩せ細って収穫数も減っていく。

 自らの首を真綿で絞める様なその行為を、人はそうと知りながらも止める事が出来ない。

 確実な破滅を誰もが予期しながらもそれを回避する術もなく、ただその日を生きる為だけにその緩やかな自滅への道を歩んでいく。

 それを愚かと嗤う事は容易いが、その行為を一体誰が責められると言うのだろう。

 明日の死を回避する為に今日死ぬだなんて、本末転倒にも程がある。

 

 結局の所、ギムレーを討ちこの絶望の世界を終わらせるしか……。

 再び陽の光を取り戻し、大地に実りを取り戻させるしか、人間の滅びを逃れる術はない。

 今のままでは数年もしない内に完全に食糧が尽きて、屍兵やギムレーの手によらずとも人間は飢餓の中で滅び去る。

 痩せた芋の畑は、その事実をまざまざとルキナに見せ付けた。

 食糧事情の困窮は日々ルキナ達の生活に大きく影響を与えているからその深刻さは分かっていたつもりであったが、やはりルキナ達が身を置くのは戦場やその拠点である王都であり、それは食糧を供給される側の立場の人間である。

 

 実際の生産の場の悲惨さを、こうして突き付けられる様に認識する機会などそうは無い。

 ここで育てられた痩せた芋も、そのかなりの部分はこの地の人々の腹にではなく、ルキナ達の腹へと消えてしまうものであろう。

 餓えた人々は、僅かな食糧が自分達ではない見も知らぬ誰かの腹に消えるのを、どんな目で見送っているのだろう。

 必ずやギムレーを討ち、この世に『希望』をもたらしてくれと……そう『期待』する眼差しなのだろうか。

 それとも或いは、諦めと絶望に支配された虚ろな眼差しなのか。

 それをルキナが知る事はない、出来ない。

 ルキナに出来るのは、一刻も早く『炎の紋章』を完成させ、そしてギムレーを討つ……ただそれだけだ。

 

 

「……あの」

 

 

 変わり果てた地を悲しみと共に見詰め、託されたものの重さを再確認していると。

 ロビンが、ふと何かを言い淀みながらルキナに声を掛ける。

 

 

「どうかしましたか?」

 

「……ルキナさんにとって、ここでかつて見た花は……その景色は。

 大切なもの、だったんですよね……」

 

 

 何故か、その手をギュッと固く握り締め微かに俯きながら、ロビンはそう言う。

 その様子を少し不思議に思いつつも、ルキナは頷いた。

 

 

「ええ……。

 正確には、花畑それ自体と言うよりは……お父様達と一緒に過ごせた時間と、その景色が大切なのだと思いますが……。

 ……どうであっても、私にとっては、この地は……そしてかつてここにあった花畑は、……とても大切なものでした。

 ……もう、あの花達は何処にも咲いていないのでしょうけれど……」

 

「そう、ですよね……。

 この世界がこうなって、花はもう殆ど何処にも……」

 

「城の庭師達が丹念に世話をしていた花壇や大庭園でさえも、とうに枯れてしまっていますからね……。

 昔はよく城の庭園で花飾りなどを作って遊んだりしたものなのですが、……もうそれは二度と叶いませんね……」

 

 

 イーリス城の敷地内にある広大な庭園や中庭等と言った至るところに植えられていた花は、もう手入れをする人もなく、いつの間にか枯れ果ててしまっていた。

 幼い頃に父と母と共に多くの時間を過ごした思い出の庭も、母やルキナの為にと植えられていた数々の花達と共に荒れ果て、もうかつての面影は殆ど残ってはいない。

 思い出の景色が変わり果ててしまった事は寂しく悲しいが、こんなご時世に腹が膨れる訳でも戦いの役に立つでもない花を手間を掛けてまで維持など出来ないのはよく分かっている。

 故にそこにあるのは諦めと寂しさだった。

 

 

「…………」

 

 

 ロビンのその静かな眼差しに翳りが揺らめいている事に、ルキナは気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 あの変わり果てた思い出の花畑を訪れてから、数日が経ったある日。

 付近に巣食う屍兵を掃討する為にここ数日はあの花畑の村の近くへと逗留していたルキナ達であったが、もう目ぼしい屍兵の群れは一掃し終わった為明日にでもこの地を離れてまた別の地域へと出立する予定であった。

 今回の作戦でこの一帯の屍兵を概ね片付ける事が出来たとは言え、屍兵達はそう時を置かずして何処からともなく現れては人々を襲い始めるだろう。

 何れ程ルキナ達が手を尽くしても、屍兵達を本当の意味で討滅する事は不可能であった。

 屍兵達の被害を完全に無くす為には、奴等を産み出し続ける呪いを世界にバラ撒いたギムレーそれそのものを討たねばならない。

 しかし、焼け石に水程度の効果にしかならないのだとしても、今この瞬間に屍兵の被害に苦しむ人々にとっては確かな救いではある。

 現に今回の屍兵討伐でも、ルキナ達は村人達から多くの感謝の念を向けられていた。

 

 そして、ルキナ達が出立の為の準備を始めている時の事。

 

 

「あの、ルキナさん。

 少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」

 

 

 手早く自分の荷物を纏め終え、軍の備品などの梱包作業を手伝っていたルキナをそう呼び止めたのはロビンであった。

 

 

「ええ、構いませんよ。何か問題でもありましたか?」

 

 

 手にしていた荷物を手近な所に置いて、ルキナはロビンへと向き直る。

 確か今日明日は出撃する予定もなく、明日の行軍路はもう話し合われていたが……何かあったのだろうか? 

 ロビンはゆるりと首を横に振った。

 

 

「いえ、特には問題は起きていません。

 予定通り、明日にはここを発てるでしょう。

 少し、ルキナさんにお見せしたいものを見付けたんです」

 

 

 見せたいものと言われ、一体何なのだろうと考えるが、特には思い当たるものは無い。

 こちらです、と歩き出したロビンに付いていく様にしてルキナはその後を追う。

 畑の奥に広がっていた立ち枯れた木々が目立つ林を越え、山へと入っていく。

 日がそろそろ傾き始めつつある事を考えると、あまり遠出は出来ないのだが……。

 思いの外遠くまで来てしまったルキナは、一体ロビンが何を見せようとしているのか気になった。

 

 

「結構歩きましたが、見せたいものって一体何なのですか?」

 

「それは……。いえ、もう直ぐそこなので」

 

 

 答えようとして僅かに言い淀んだロビンは、そのまま枯れ藪を掻き分けるようにして奥へと進む。

 その様子が気にかかりつつもロビンの後を追って藪を進んだそこには。

 

 

 なだらかな谷間一面に真っ白な花が一面に咲き誇った光景が、ルキナの視界一杯に広がっていた。

 

 

「これは──」

 

「……偶然、見付けたんです。

 ルキナさんの思い出の中にある花畑には遠く及ばないかも知れませんが……。

 どうしても、貴女にこれを見せたくて……」

 

 

 思いもよらぬその光景に言葉も忘れて見入っていると、ロビンは何故か少し目を伏せながらそう言う。

 しかしそんなロビンの様子も意識の外に置いてしまう程に、ルキナはその光景に目を奪われていた。

 この絶望の世界で、こんな光景を目に出来るとは欠片も思っていなくて。

 花なんて、もう目に出来ないものとすら思っていたのだ。

 それがこんな、視界の全てを埋める程の花畑を成しているなんて。

 西日に照らされた真白の花園は、何処か夢の中世界の光景である様にすら思える程に幻想的であった。

 視界一杯に広がる花は何れも同じものである様で、しかしルキナが見た事も無い花だ。

 何にも汚れていない、まさに降り積もった白雪の如しその花には、この世のものとは思えない程の美しさがあった。

 

 しかしどうして、ここに花が咲いているのだろう。

 もうこの世界には、花なんて咲ける場所も無いだろうに。

 

 

「この花は……」

 

「……正式な名前は、分かりません。

 ですが、ペレジアの荒れ地の様な……他の草花が育たない様な過酷な環境でも咲く事が出来る花だと。

 どんな場所にでも、どんな環境であっても咲く事が出来る事から、『不屈の花』だと……そう呼ばれ、祝い事や神事などに捧げられる事が多い花でした」

 

「『不屈の花』……」

 

 

 過酷な環境でも咲く花だからこそ、こんな滅びが蔓延した様な世界でも絶える事無く咲いていたのだろうか。

 元はペレジアの様な地域に咲く花がどうしてこんな所で群生しているのかは分からないが、そんな細かい事はどうでも良くなる程に、この花畑は美しかった。

『不屈の花』……。

 まさに、この絶望の世界に足掻き生きる全ての人々に贈るに相応しい花だ。

 どんなに荒れ果て死に絶えた様な大地でも、こうして芽吹き花咲く命があると言う事は、確かな希望になる。

 これからの世界を、絶望の源を絶ったとしても尚闇の中を進まねばならないであろうこの世界を、そしてそこに生きる全ての命を、祝福してくれているかの様であった。

 咲き誇る花々を見詰めている内に、胸が詰まる程の様々な想いに、知らぬ内に涙が溢れてくる。

 それを見たロビンは途端に狼狽えた。

 

 

「えっ、あの……何か、辛い事でも、思い出させてしまいましたか……?」

 

「いえ、そうではないんです。

 ただ嬉しくて……、言葉に出来ない位に、色んな感情が押し寄せてきて……。

 この気持ちを、どう言えば良いのか……」

 

 

 嬉し涙、とは少し違う……もっと尊い気持ちから溢れ落ちた結晶である気がする。

 ただ、それをどう言えばロビンに伝わるのかは分からない。

 

 偶然見付けたのだとロビンは言っていたが、こんな所に偶然ロビンが足を運ぶ訳もない。

 恐らくは、ルキナの想像が外れていないのであれば、ロビンはきっと花を探してここまで来たのだろう。

 それはきっと、ルキナが『花』へと強い感傷を懐いている事に、気付いていたから……。

 それはルキナの為であったのだと、もし自惚れなのだとしても……そう思っても良いのだろうか? 

 

 ロビンの気持ちが、そしてそれを自分唯一人の為だけにしてくれた事なのだと言う思いが、そしてこの奇跡の様な光景が、そしてこの奇跡の光景をロビンと二人で見る事が出来た事が。

 そのどれもが強い感情のうねりを生み出して、ルキナから言葉を奪っていた。

 ただ、この気持ちを十全に伝えられる言葉なんて無いのだとしても。

 どうしても伝えたい、伝えなくてはならない言葉はある。

 

 

 

「有り難うございます、ロビンさん」

 

 

 

 この先何があっても、どんなに時が過ぎても。

 この気持ちは、この思い出は、絶対に忘れたりしない。

 

 涙に視界を滲ませながら微笑んだルキナは、ロビンがこの時どんな顔をしていたのか……、それを知る事はなかった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 この世界を絶望に堕としたのは、他ならぬ『僕』……『ギムレー』だ。

 それは、分かっている。誰よりも分かっている。

 ……それなのに。

 ルキナが苦しんでいる姿を見る事が、何よりも辛い。

 もう取り戻せぬ過去に想いを馳せる度に残酷な現実がその心を傷付けていく様を見てしまう度に、どうしようもなく苦しくなる。

 ……ルキナのその苦しみも絶望も、全ては『僕』の所為であると言うのに。

 それでも……。

 ギムレーとしては狂ってしまっている『僕』は。

 ……最早『ギムレー』ですらない『僕』は。

 ルキナのその苦しみを、絶望を、どうにか取り除いてやりたいと、心から思うのだ。

 だが、その苦しみを生む要因となる、ルキナにとっての『幸せだった日々』の記憶を奪う様な短絡的な手段は取れない。

 それは当然だ。

『僕』は既にもうこれ以上に無い程にルキナから多くを奪い尽くしてしまっているのに、その上更にルキナにとって唯一残された……誰にも汚されていない『宝物』を奪う事が出来ようか。

 最早、『僕』が何をしても、ルキナのその苦しみを晴らしてやる事は出来ないのだ。

『僕』は剰りにも無力であった。

『僕』の命を、『僕』が捧げられる全てを捧げたとしても、ルキナが喪ってしまったものを返してやる事は何一つとして出来ないのだ。

 それ処か、贖罪にすらならないのだとしてもせめてもの償いとしてこの命を捧げる事すら、『ギムレー』の欠片でしかない『僕』には出来ない。

 

『ギムレー』が死ねば、そしてその魂ごと完全なる消滅を果たす事が出来るのならば。

 この世界がこれ以上滅びの道を進む事はない。

 死ぬ間際に持てる限りの『竜の力』を捧げれば、この滅び果てた大地にも少しは命を養う力を与えてやれるだろう。

 そうすればルキナの苦しみも少しは癒してやれるだろうに。

 …………それすら、『僕』には叶わない。

『僕』が何れ程『死』を、『消滅』を渇望していても。

『僕』は所詮はギムレーの中の一欠片、ただの人格の仮面の一つ、紛い物の心だ。

 ギムレーと言う全てを、『僕』が願う程度で殺せる筈も無かった。

 それどころか、ギムレーとしての本質から乖離してしまったばかりに、『僕』と言う人格……紛い物の『心』は、ギムレーの本性からの浸食を受けて消滅しつつある。

 ギムレーとしての本性……破壊を望み世界を滅ぼそうとする衝動に抗って、この世界の空を覆い光を閉ざしてしまっている雲を払ってやる事すら、もう叶わない程に。

 今の『僕』には、新たに屍兵を生み出す事を抑えるだけで精一杯であった。

 だからこそ、神竜の力を得たルキナに殺される日を待ち望みながら……そしてその瞬間まで『僕』が『僕』としてギムレーの本性を抑え込みルキナを守れる事を願いながら、『僕』はルキナの傍にいる。

 

 

 

 

 

 かつては『花畑』だったと言うその痩せた畑を見ても、それ自体には『僕』は何も感じなかった。

 もしかつての『花畑』が目の前に広がっていたとしても、やはり『僕』には何も感じられなかっただろう。

 綺麗だとか美しいだとか、ヒトがそう感じるらしいものが『僕』には分からない。

 ……それはやはり『僕』がギムレーだからなのだろう。

 だが、ルキナがその『花畑』に心を動かしているのを見ると、『僕』の心にもやはり漣の様に波紋が広がっていく。

 ルキナにとっては、かつてここにあった『花畑』は大切なものであったのだ。

 花自体がその主体ではなく、そこにあった『思い出』こそがルキナにとっての『宝物』であったのだろうけれど。

 いや、だからこそ。

 その『思い出』の場所が……かつての『幸せ』の縁であったそれが、こうも変わり果ててしまっていた事に、ルキナは深く傷付いていた。

 その『思い出の場所』を奪ってしまったのは、やはりギムレーで。

 そしてこの場所どころか、『花』にまつわるルキナの『宝物』の尽くも、ギムレーは奪ってしまっていたのだ。

 それはもう苦しい程に理解していたけど、それを……そしてその事に苦しむルキナの姿を目にすると、償う事も叶わないその罪深さが一層重く圧し掛かる。

 …………だからこそ、それは何の償いにもならないと分かっていながらも、『僕』は……。

 

 

 

 

 

 眼前に一面広がる白い花の光景に『僕』は、果たして本当にこれで良かったのかと、幾度目とも知れぬ自問自答を繰り返した。

 ルキナが喪ってしまったかつての思い出の『花畑』とは、きっと似ても似つかぬその光景。

 ルキナの記憶の中では彩りに溢れていたと言うそれとは違い、白だけしか無い『花畑』の紛い物。

 寧ろ、下手に『花畑』と言う形を準えてしまっては、余計にルキナを傷付けてしまうのではないかとも、思う。

 だが、もうこの地域一帯に残っていた花は、『不屈の花』だけしかなかったのだ。

 

『不屈の花』と呼ばれていたその花は、神事の際などによくギムレーに捧げられてきた花だった。

 いや、神事だけではない。

 祝い事の時にも、そして葬儀の時にも『不屈の花』はペレジアの人々の傍らにあった。

 死後はギムレーの御許へと魂が還る、と言う宗教的死生観を持っていたペレジアの人々は、死者を『不屈の花』と共に送り出すのだ。

 ギムレーに捧げる花としての側面があった花など、ルキナにとっては忌々しいだけのものであるのかもしれない。

 幾ら絶大なるギムレーの力とは言えども、無から有を生み出す事は叶わず、何かを元手として増やす事は可能だが、無から作り出す事は出来なくて。

 結局、何れ程探し回っても枯れかけた一輪の『不屈の花』だけしか見付からず、それを何とか増やして、ここまでの『花畑』にしたのだけれども。

『不屈の花』の花畑が、ルキナの心を慰められる様なものなのかは『僕』には分からなかった。

 それに、そもそもルキナが望んでいるのは、思い出の中にしかもう存在しない花畑であって、こんなまやかしで出来た紛い物ではない。

 ……そして、例えこの『花畑』が一時でもルキナの心を慰める事が出来たとしても、それで『僕』の行いが赦される訳では何一つとしてないのだ。

 それでも、こうして『花畑』を作ってしまったのは、本当の意味ではルキナの望みを何一叶えてやれない事実からの逃避なのか、或いは無意味と知りつつも贖罪を求める衝動が故なのか。

 それはもう、『僕』自身にも分からない事であった。

 

 後ろめたさと罪悪感と後悔と……そんな感情に苛まれつつも、結局『僕』はルキナを『花畑』へと連れてきてしまった。

『花畑』を見たルキナが、ボロボロと涙を溢してしまった事には驚き焦ったけれど、それは負の感情からの涙ではなかった様であった。

 しかし、ルキナが喜べば喜ぶ程、苦い痛みがこの胸に走る。

 有り難うなどと、ルキナから感謝される資格など『僕』にある筈は無いのに……。

 だがそれをルキナに言う事は出来なかった。

 

 

 思い出の縁にと、ルキナは『花畑』の中から一輪だけ花を選んで摘んだ。

 一輪とは言わずここにある花は全てルキナの為のものであるのだけれど、こうして芽吹き懸命に花咲く命を無闇に摘み取りたくないのだと、ルキナは言う。

 

 ……それはギムレーには持ち得ぬ感覚であったが、今の『僕』なら少しだけ分かる様な気がした。

 たった一輪の花を愛し気に胸に抱くルキナの姿が、『僕』にとってはこの世で何よりも尊いものに思えるから。

 

 ……しかし、『僕』がこのままギムレーに浸食され消えてしまえば、今この瞬間に感じているこの想いも、やはり消えてしまうのだろう。

 ギムレーは、『僕』にとっての大切なものを、愛しい存在を、踏み躙る事に何の躊躇いも持たないだろうから。

 ……そうなってしまう前に、どうか──

 

 

 

 そっと願った祈りが叶うその時を、この花が『僕』にとっての葬送の花となるその日を……『僕』はずっと待っている。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 邪竜ギムレーは消滅し、世界は救われた。

 死した人々が還る事は無いが、それでも今この瞬間にこの世界に生きる人々は間違いなく救われた。

 命無き荒野と化した大地には緑と実りが甦り、この世の全ての命を再び育み始めた。

 枯れ果てた大地には、地中に残されていたのだろう種から多くの草木が芽生え生い茂り、最早既に絶えていたと思われていた花々も甦った。

 

 

 彩りに溢れた花畑を……かつての思い出の花畑と同じ場所に再び作られたそれを眺めて、ルキナはそっと目を伏せる。

 視察として各地を巡っている最中に偶然立ち寄ったその村は、かつての絶望の世界でのあの荒廃しきった芋畑の面影すら無く、美しい色とりどりの花が四季を彩る花畑の姿となっていて。

 それは、間違いなくこの世界が救われた証であると同時に、『彼』との思い出の縁がまた一つ喪われた事と同義であった。

 ……それに、何れ程美しい花畑なのだとしても、これはかつてのあの思い出の花畑でも無い。

 人々の都合で捨てられた花は、再び人々の都合でそこに植え直された。

 それを人の傲慢と言うのは乱暴に過ぎるが、やはり少し心に引っ掻き傷の様な小さな痛みの様な何かを感じてしまう。

 だが、そんな感情を感傷を、表に出せる訳もない。

 ルキナは、『世界を救った英雄』なのだから。

 息苦しさと遣る瀬無さを感じるその称号を、捨てる事はルキナには赦されていない。

 この世で何よりも大切だった存在と……『彼』と引き換えにして得たこの世界に対して、ルキナには負わねばならぬ責任があるのだから。

 背負うものの重たさに押し潰されてしまいそうになった時に支えてくれたあの温かな手は、もうこの世の何処にも無い。

 ……それでも。

 どんなに苦しくても、辛くても、ルキナは生きなければならない。

 それだけが、あの日夕暮れの中に消えてしまった最愛の人へ、ルキナが唯一してやれる事なのだから。

 

 

 かつて『彼』と共に見たあの真白の花園は、もう何処にも無い。

 世界が救われて、そしてルキナが心の整理を付けた後に再びあの谷間を訪れた時には、もう『彼』が『不屈の花』と呼んだその花は何処にも残ってはいなくて。

 あの白の思い出を上塗りするかの様に、様々な色とりどりの花々が風に揺れているだけであった。

 その後、博識なロランから聞いた話によると。

『不屈の花』は確かにどんな過酷な環境であっても花を咲かせる事が出来る花ではあるが、逆に他の花々が繁茂する様な環境では次第に数を減らしてしまうのだと言う。

『不屈の花』は、過酷な環境であっても花を咲かせるのではない。

 ……過酷な環境の中でしか花咲く事の出来ぬ、……ある意味ではとても儚い花なのだ。

 世界に恵みが満ちかつての世界に比べても過酷な環境が減ってしまった今、ペレジア国内でも『不屈の花』は数を減らし、もうペレジアとフェリアの一部地域にしか『不屈の花』は咲いていないらしい。

 そして、『不屈の花』がギムレーへの捧げ物として好まれていた花であった事もあって、ギムレーを忌み嫌うイーリスではおろか、崇めていた筈のギムレーによって生き地獄を味わう事になったペレジアの民にとっても、『不屈の花』は忌まれる対象になってしまっていた。

 花をギムレーに捧げていたのは人の勝手な行いであり花に罪は無いと言うのに、それでも人々は花に悪意を向ける。

 それは人の業と言うものなのだろうか? 

 ……それはどうしようもなく哀しい事だと、ルキナは思うのだ。

 

 あの日一輪だけ手折った花は、今も押し花にしてルキナの手に残されている。

 たったそれだけしか、あの日の縁となるものはこの世には無い。

 今も尚あの日の美しさを残すその白い花弁を眺めていると、不意にどうしようもない程の哀しみと苦みに襲われる。

『不屈の花』が葬送の花でもある事を、『彼』は知っていたのだろうか。

 あの真白の花園を見詰めている時、その心にあったのはどんな感情だったのだろうか。

 あの花園を、どうしてルキナに見せようなどと思ったのか。

 

 何度胸の中で問い掛けても、答えなど返ってはこない。

 記憶の中にしかもう居ない『彼』が、答えを返せる訳もない。

 

 それでも、何時か。

『彼』の縁となるこの花を手離さなければ。

 ……例え遠い遠い未来であっても、死者の世界に渡ったルキナの魂が再びこの世に生を受けた先の……そんな遥か遠くの事になるのだとしても。

 また何時か、『彼』に巡り逢える様な、そんな気がして。

 

 ただ一つ遺されたその縁を、ルキナはそっと優しく抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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【後書き】

出来れば、後書きの後書きまでお目を通して頂ければ幸いです。



◆◆◆◆◆

 

 

 

 

【初めに】

 

 この物語を最後までお目を通して頂き、誠に有難うございます。

 二人の『結末』は如何でしたでしょうか? 

 この物語をお読み頂いた方の心に、『何か』を残せれば、と願います。

 

 最後に、物語を完結させた証として。

 この場を借りて、物語全体への雑感や、キャラクターの設定、各話について少しお話ししたいと思います。

 この後書きはEND①~⑤を全て読んだ事を前提として書かせて頂いておりますので、ネタバレが多く含まれている事には御留意下さいませ。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

【物語全体への雑感】

 

 Twitterの相互さんとのやり取りから始まった即興小説が元となったこの物語ですが、様々な方々にお読み頂き、再録するに当たって全体的に加筆修正している為、大筋は全く変わっていませんが細かい所では当初公開したものとはかなり変わっているかと。原文版を既にお読み頂いた方にも楽しんで頂ければ幸いです。

 

 ギムレーとルキナのCP小説ではありますが、この物語の『ロビン』はギムレーそのものとは少しだけ異なります。

 ある意味、ギムレーの別人格ですね。

 それでギムルキと言っても良いのかな? とは少し思いましたが、それ以外に二人の関係性に関して当て嵌まるものは無いので、この物語はギムルキです。

 

 この物語にテーマがあるとすれば、それは『愛』です。

『愛』は時に全てを壊してしまう程の【呪い】になってしまいますが、それによって救われるものもあるのでしょう。

 バッドENDでルキナの全てを奪ってしまったのもギムレーの『愛』故ですし、メリバENDでルキナが何もかもを捨ててロビンを選んだのも『愛』の為。

 ビターENDでロビンがでルキナの記憶を奪ったり……或いは自分を殺させる為に行動したのも、それもやはり全て『愛』故です。

 ある一方向から見れば『愛』は何かを破滅させたり滅ぼしたりしていますが、また別の方向から見れば何かを救ったりしています。

 何が正解なのか間違っているのか、それはどの立場に居るのかでやはり異なるモノなのでしょう。

 なので、便宜上バッドだのメリバだのビターだのと分けていますが、私にとってはどれも等しく、二人が自身で選んだ結果至った結末であります。

 また、ロビンはルキナを真実『愛』していますが、その『愛』がルキナ達人間に理解出来るものであるのかと言えば話は別ですね。

 ある意味純粋過ぎる程の『愛』は、やはりロビンが人ではないからこそです。

 ギムレーを滅ぼす事が出来るのは、『愛』と言う【呪い】だけだと思います。

 二人の『愛』の結末を、見届けて頂ければ幸いです。

 

 何時かまた、覚醒を題材にした物語を書くかもしれません。

 その時もまた、お目に掛かる事が出来れば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

【キャラクター設定など】

 

 

『ロビン』

 

 ギムレーがルキナと接する内に生まれた人格の仮面──心理学的用語で言う所の『ペルソナ』です。

 ギムレーの中に欠片として残っていたルフレの記憶や想いの影響を多く受けています。

 心の底からルキナを誰よりも愛し、ルキナを傷付けようとするものから彼女を守りたいと思っています。

 それだけは、BADルートでもビタールートでも変わりません。

 

 BADルートではギムレーとしての自身と本質が全く変わらない為に、ルキナが傍に居たいと願ったのだからと、その心を無視してでも眷族にしてしまいます。

 ビタールートでは、BADルートよりも強くルフレの影響を受けた結果、ギムレーとしての本質から乖離してしまいました。

 演じている役と自身の境界が曖昧になるのがBADルートのロビン(=ギムレー)なのだとすれば。

 役そのものが自我の様なモノを得て動き出したのがビタールートの『ロビン』(≠ギムレー)です。

 

 BADルートのロビンはギムレーとしての本質から乖離していないので、消滅する可能性はありません。

 どちらの結末でも心の底からルキナをずっと愛し続けますし、ルキナとの間にマーク達が産まれると思います。

 

 しかしビタールートの『ロビン』は、何れ程本質から乖離しようとも『ロビン』がギムレーである事は変わらず、寧ろ乖離してしまったが故に本来のギムレーとしての自分に侵食されて『ロビン』は消滅の危機に陥ります。

 乖離してしまったビターの『ロビン』は、本来の自分(BADルートのロビン)に近付けばルキナの意志を踏み躙って眷族にしてしまいますし、今の自分を貫こうとすればギムレーに侵食されて『ロビン』そのものが消えてルキナを殺そうとしてしまいます。

 そして、ルキナから離れると、ルキナの為の人格の仮面であるが故に自分を保てなくなります。

 割りと八方塞がりな状態でした。

 

『ロビン』は、ルキナを一番大切にしていますし、その意志や心を尊重します。

 ルキナの為なら何でもしようとしますし、自分の全てを文字通り捧げます。

 だけれども、誰よりも自分勝手です。

 それが結果として最善だと判断したら、ルキナの意見も聞かずにそれを選んでしまいます。

 自分や、自分に向けられた想いを顧みる事がありません。

 だからこそ、ルキナを傷付け無い様にとルキナの記憶を奪う事や、そして自身を殺させる為だけにルキナと共に「宝玉」を集める様な事が出来ます。

 誰よりもルキナには優しいけれど、誰よりもルキナに残酷なのです。

 

 

 ロビンの名前は、海外版のマイユニットのデフォルトネームの『Robin』より取りました。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

『ルフレ』

 

 幼いルキナを、もう一人の父親の様な気持ちで優しく大切に見守っていました。

 結婚相手は居ません。

 ギムレー復活の際にその人格と記憶は粉々に砕かれてしまった為に、ルフレも既に死んでいます。

 それでもルフレの想いや記憶はギムレーの中に欠片として残り、ギムレーがその記憶を参考にしてロビンを演じている内に『ロビン』の人格が生まれました。

 なので、ある意味『ロビン』はルフレの子供の様なモノなのかもしれません。

 

 この物語では、ルフレの容姿をしっかりと覚えているのはミネルヴァだけです。

 絵姿なども残っておらず、ルフレの名前と功績だけが人々の記憶に残っている状態です。

 

 ギムレーが消滅したEND④とEND⑤では、ギムレーから解き放たれた後、クロムと共に彼岸からルキナを見守っています。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

『クロム』

 

 ファウダーに操られたルフレに殺された後、魂だけはファルシオンに宿ってルキナを見守っていました。

 END⑤で『竜の祭壇』でギムレーに呑み込まれかけた『ロビン』を助ける為に一瞬だけファルシオンが応えたのは、クロムのお陰です。

 ギムレーを討ち消滅させたEND④とEND⑤では、ギムレーから解き放たれたルフレと共に、彼岸からルキナを見守っています。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

【各話への解説など】

 

 

【第一話『王女と軍師』】

 

 全てはここから始まった、そんな第一話でした。

 

 個人的に、『最後の希望』なんてモノは、人一人が背負いきれる様なモノでもないと思います……。

 何よりも強い使命感を抱いているのがルキナの魅力の一つではあると思うのですが、時折痛々しく感じてしまいます。

 そんな、無理が限界に達しかけていた時に、『ロビン』に出逢ってしまったのが、全ての始まりですね。

 

 この時点では、『ロビン』は100%ギムレーの演技です。

 それに気付けない位に、ルキナが追い詰められていたと言う事でもあり。

 それを気付かせない位に、ギムレーの演技は完璧でありました。

 演技が完璧であるが故に、次第にギムレーの内に『ロビン』と言う人格が芽生えていく事になります。

 

 また、時間経過としては、仲間たちが旅立ってから三ヶ月位の時です。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第二話『記憶の彼方の遠い貴方に』】

 

 まだ演技の部分も少なくはありませんが、この時点で既に『ロビン』の人格がかなり育っています。

 まだギムレー自身は自覚はしていませんが……。

 

 ルキナがどんどん『ロビン』に絆されて依存していく話です。

 無意識の内に、かつて大好きだった『ルフレおじさま』を『ロビン』と重ねています。(『ロビン』自体がルフレを参考にして演じているものなのでそれも致し方無しです)

 

 時間経過としては、二人が出会ってから三ヶ月(仲間達が旅立って半年)位です。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第三話・A『星灯無き夜に誓う』】

【第三話・B『夜闇に二人、誓う』】

 

 この時点で、『ロビン』の人格が完全に出ています。

 最早演技の部分は0です。

 しかし、まだ『ロビン』自身はギムレーとしての本質と『ルフレ』から影響を受けた部分が混在している状態です。

 ルキナが『ロビン』に“何”を求めるのか……。

 それがBADとビターとの分岐点となっています。

 

『ロビン』がギムレーとしての本質から乖離していないここで『ずっと傍に居て欲しい』とルキナが言ってしまうと、誓い通りに『何があっても絶対に離さない』結末へ……BADエンドへと分岐してしまいます。

 それが第三話・Aの方です。

 なお、BADエンドだとルキナの中から完全に『ルフレ』の存在が消えてしまいます。

 ちなみに、この直後に恋人になりました。

 

『ロビン』の中にある『ルフレ』の欠片を揺さぶると、『ロビン』がギムレーとしての本質から乖離するビタールートへと突入します。

 それが『第三話・B』の方です。

 自分だけの軍師で居て欲しい、と言うのはAの方と変わりませんが、Bのルキナはそれと同時に半身として自分も『ロビン』を支えたいと思っています。

 

 時間経過としては、出会ってから九ヶ月(仲間達が旅立って一年)位です。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第四話・A『世界と貴方を秤に掛けて』】

 

 二つのBADエンドへの分岐点です。

 因みに、もし『ロビン』が何もしなくても、仲間達が「黒炎」を入手するのはほぼ不可能でした。

 

 ロビンとしては、ルキナを眷族にするのは既に確定事項だったのですが、いきなり無理矢理に眷族にするつもりも無かったので、一年近くも「恋人」生活を続けていました。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第四話・B『貴女の想い、僕の望み』】

 

 ギムレーと乖離した『ロビン』が苦悩する話、でもありますが。

 ルキナが『ルフレ』の事をちゃんと思い出すのがメインです。

 時間経過としては、二人が出会ってから一年と三ヶ月強(仲間達が旅立って一年半強)です。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第五話・A『永久に叶わぬ恋夢』】

 

 初めての『ロビン』視点です。

 

『ロビン』がルキナから記憶を奪ったのは勿論ルキナを苦しめない様にと想っての事でしたが、だからこそ『ロビン』は間違えています。

 結局、END④では最後の最後の最悪な状況で記憶は戻ってしまいますし、END③でもルキナは絶対に消えない「虚」を抱えてしまいます。

 記憶を奪うと言う行為の間違いに『ロビン』が気付くのは、END⑤でルキナの想いを聞いてからです。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【第五話・B『在るがままに愛しき人へ』】

 

『ロビン』が、記憶を奪ってルキナの元を去るのでは無く、自分が自分で居られる内に「覚醒の儀」を済ませて殺して貰う事を選択した場合の展開です。

 ギムレーである『ロビン』が同行している段階で、「宝玉」集めはスーパーイージーモードです。

 ギムレーが仕掛けた罠を、『ロビン』が解除してしまうので、ルキナにはほぼ危険はありません。

 

 移動手段に飛竜を選択したのは、DLCの『絶望の未来』でマークがドラゴンマスターになっていた事も反映しています。

 FE覚醒に出てくる飛竜は、元を辿れば獣と化して知性を喪った竜族の成れの果ての様なモノなので、ギムレーと通じるモノもあるのかな……と少し思います。

「緋炎」が隠されていた場所は、FE紋章の謎などにあった『氷竜神殿』を少し意識しています。

 

 セレナが何と無く察したのは『女の勘』です。後は、恋とかへの察しの良さ。

 ミネルヴァに関して言えば、ルフレそのままの容姿だけど、ルフレじゃないし人間でも無い『ロビン』にどう反応するべきか戸惑ってます。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【END①『終焉の果て』】

 

 BADエンドの内の、悪い方です。

『希望』や『使命』を捨てられないルキナの為にも、ルキナがそれらを背負わねばならない原因となっているナーガを消滅させます。

 なお、ロビンは完全に善意でやってます。

 ナーガの抹消と、ナーガの後を継げる神竜族(チキとか)を一人残らず魂も残さずに抹殺するのに、形振り構わないギムレーの全力でも二週間掛かりました。

 二週間以上ルキナと離れていても『ロビン』が消えなかったのは、ギムレーと乖離していないからと言うのも有りますが、ルキナの為だからと言う想いでずっと居たのも大きいです。

 

 ルキナ以外は本気でどうでも良いと思っているロビンが、仲間達も眷族にしても良いよと言ってあげるのは、心の底からルキナを愛しているからです。

 仲間達を眷族にしたのかどうかは不明、と言う事にしておきますが。

 ロビン的に仲間は心の底からどうでも良い存在なので、眷族化した段階で完全に洗脳されています。

 尚、ルキナは、眷族にされても洗脳はされてません。

 ロビンには、誰よりも愛しているからこそ、ルキナの心を無理矢理縛るつもりは全く無い為です。

 

 ルキナが最終的にロビンをどう想っているのかは分かりませんが。

 元々誰よりも愛している相手ですし、千年単位でずっと愛され続けていたら、少なくとも絆されているとは思います。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【END②『あなたが居れば』】

 

 解説不要なメリーバッドエンド。

 とにかく二人はずっと幸せです。

 可愛い子供たちにも恵まれますし。

 確実にロビンは親馬鹿になります。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【END③『旅路の果てに時よ廻れ』】

 

 この物語に於いて「黒炎」は、ロビンが取りに来るか、ロビンがギムレーの仕掛けた罠を解除しない限りは、誰にも入手出来ません。

 END③の『ロビン』は、ギムレーを半年間強抑え込む事に精一杯で、そこまで手が回りませんでした。

 だから、「黒炎」だけが未回収になってます。

 

 最早完全に消滅したも同然であった『ロビン』がギムレーを僅かでも押し留める事が出来たのは。

 ルキナが、諦めずにギムレーに立ち向かおうとしたからです。

 誰よりも守りたかったルキナのその姿を見たからこそ、『ロビン』は僅かに表に出る事が出来ました。

 諦めたままですと、ルキナはあの場でギムレーに食い殺されています。

 また、この時に『ロビン』は今度こそ完全消滅してしまったので、二度目はありません。

 

 跳んだ先の過去で、ルキナはルフレと結ばれるかもしれませんが、ルキナの胸には「虚」が死ぬまで残ったままです。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【END④『掛け違えた道の先で、君と』】

 

 ルキナの元を去った後で『ロビン』が、仲間達の「宝玉」探索を陰ながら全力でサポートしていた場合の結末です。

 ルキナの元を去って四ヶ月弱で、全ての「宝玉」の回収が終わってます。

 仲間達が合流する辺りまでは何とかギリギリ表に出続けられていましたが、それ以降はもう『ロビン』は表には出られず仕舞いでした。

 

 しかし、『虹の降る山』でルキナの姿を見付けた辺りから少しずつ『ロビン』の意識が再び表層に出ていました。

 ルキナと話し始めた辺りで50%位。

 ルキナの答えに微笑んだ辺りで75%。

 戦い始めた辺りで85%。

 そして、態と止めを刺された辺りでは、100%『ロビン』です。

 

 ルキナが後腐れなく邪竜を討てる様に態と見え見えの攻撃をしたりと、『ロビン』は茶番を演じていましたが。

 それで戦いが長引いてしまったが為に、封じた筈のルキナ記憶が戻ってしまう結果になりました。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【END⑤『たった一つの、冴えたやり方』】

 

 紫炎は、生け贄とかの恨みとか、そう言うモノが集まって出来てるものです。

 呪術師などの耐性が高い相手以外がこの炎を見ていると、魅入られてしまい、その紫炎に取り込まれてしまいます。

 勿論ギムレーである『ロビン』には効きませんが。

 

「黒炎」は、ギムレー以外が取ろうとすれば、強制でSAN値0にされた挙げ句の果てに洗脳されてその場のギムレーに敵対する者を全員殺した後に生け贄として紫炎に呑み込まれる、そんな呪術が掛かっていました。

 サーリャとヘンリーが居れば、もしかしたら解除出来たかもしれませんが、子世代では先ず無理です。

『ロビン』には罠自体は効きませんでしたが、強烈なギムレーの力によって一気に自我の侵食が進んでしまいました。

 

 どの結末よりも、ルキナにとっては残酷な結末になってしまった話ですね……。

 この結末はビターENDですが、個人的にはGoodENDでもある気がします。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

【断話『葬送の花』】

 

 再録に伴って書き下ろした、ビターENDに分岐した時間の何処かでの出来事です。

 作中に登場した『不屈の花』は、『メイドインアビス』と言う作品に登場するそれを元にしております。勿論、『メイドインアビス』を知らなくても全く問題なく楽しめますが、もし知っていましたら「あっ……」と思って頂けるかな? と。

 楽しんで読んで頂ければ幸いです。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

【最後に】

 

『ロビン』がギムレーであるからこそ。

『ロビン』とルキナが、二人一緒に幸せになれる可能性は殆どありません。

 それでも。

 犠牲ENDで、竜の心に打ち克って、ルフレが戻って来れた様に。

 ルキナと『ロビン』の心が確かに結ばれているのなら。

 小さな小さな奇跡が起こり得るのかもしれないと、そう思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆




【願い叶わねども、想い満ちれば】

◆◆◆◆◆






 それが、決して叶わない夢である事は、ルキナは誰よりも分かっている。
 死者は蘇らず、この世から消えた存在に現世の者が逢う術など存在しない。

 それでも、愛しいあの人への想いは。
 何れ程の時が過ぎ去ろうとも、決して薄れゆく事も無く。
 夜空を古の時代から変わらずに彩る星明かりの様に、何時もルキナの胸の中に在った。

 ふとした瞬間に、彼との思い出が色鮮やかに甦り。
 もう逢えぬと、それが叶わぬと理解しながらも。
……また逢いたいと、そう心から想う。

 夕暮れの紅に、彼の面影を探して。
 月を仰ぎ見ては、彼を想って。
 星の輝きの中に、彼と過ごした日々を映して。
 眠れぬ夜は、忘れる事など出来ぬ彼の姿を想い描いて。
 夢の中で、彼の腕に抱かれて眠る。
それはいっそ【呪い】ですらあるのかもしれないけれど。
ルキナにとっては何よりも愛しい【呪い】であった。

 何時かまた逢いたいと、消え行くその間際に彼もまたそう願っていた事だけを微かな望みとして。
 叶わぬ望みであっても、もう逢えぬ定めなのだとしても。
 この想いが満ちゆけば、何時か。
 この祈りを失くさずに懐き続けていれば、何処かで。
 時の環の彼方で、この命が廻りゆく何処かで。
また……再び『彼』に逢えるのではないか、と。
 夢の様なその願いを、信じ続けて。



 ルキナは、『彼』だけがいない優しくて残酷な救われた世界の中で、『彼』が守った命を懐いて、生きていた。






◇◇◇◇◇






 その日の夕暮れ時は、とても美しく悲しいものであった。
 まるで、あの別れの日をそのまま焼き写したかの様に。
 沈み行く夕日によって世界は紅に染まり、穏やかなその色はまるで彼の眼差しの様で……。
 
 視察の為に訪れたその地で、ルキナは独り夕暮れを歩く。

 世界の輪郭が曖昧になりそうな黄昏時に、ルキナは何時もの様に、天を仰いで愛しい人の名を呼んだ。
 その声に応える者は、何処にも居ない。

 それを何時もの様に寂しいと……そう想いながらも、『彼』を探す事を諦められず、独り夕焼けの中を彷徨う。
 そして、ふと──

 今歩いているその場所が、かつて彼と初めて出会ったあの廃村の跡地なのだと、何処か見覚えのある木々や地形によって気が付く。

 それは、ほんの偶然で。
 意識してそこを彷徨っていた訳ではない。
 だけど、何故か。
 行かなくてはならない気がして。
 ルキナは、己の心が導くままに駆け出した。
 そして、あの日の出逢いが鮮明に脳裏に描かれる。


 あの日、ルキナは『希望』や『期待』と言う名の底無し沼に今にも溺れそうになっていた。
 そしてそんな、何もかもに溺れかけていたルキナの手を取ったのが、『彼』だった。

 優しい眼差し、優しい声……。
 その時の『彼』にルキナが見出だしていたそれらは、『彼』の演技だったのかもしれないけれど。
 『彼』と過ごした時間は、交わした言葉は、与えられた温もりは、そこにルキナが感じた全ては。
 どれも、本物であった。

 愛していた。
 そして、今も愛し続けている。
 どれ程時が過ぎても。
 傍に居て欲しいたった一人は、『彼』だけであった。


 そして、あの日、『彼』と出会ったその場所に。
 今は林となっているその場所に。

 泣きたくなる程に見覚えがある黒いコートが、そしてそれを纏った何者かが。
 茂みの中に埋もれる様にして倒れていた。


 夕暮れが世界を紅く染める中。
 ルキナは、ゆっくりと慎重に、だけど逸る気持ちを抑えきれずに。
 そこへと歩み寄る。


 そして、倒れている何者かの顔を見て。
 ルキナは──
 顔を覆って、泣き崩れた。


 あの日夕焼け空に消えた愛しい人が、其処に居た。
 もう逢えぬ筈の人が、静かに息をして、眠っていた。

 愛しい想いが込み上げてきて。
 嗚咽が、ルキナの口から溢れる。
 愛しいその名前を、繰り返し呼んだ。

 すると、その声に反応してか。
 眠っていた『彼』は薄目を開けて、周りを見回していた。
 その瞳は、何処かぼんやりとはしているけれども。
 探し求め続けていた、優しく穏やかな、愛しい紅色で。

 今にも泣き崩れてしまいそうな自分を何とか抑えながら、ルキナは彼に手を差し出した。


「立てますか?」


 どこかぼんやりとした眼差しまま、『彼』は目の前に差し出されたルキナのその手を、そっと握り締める。
 思い出の中の温かさそのままの温もりが、其処にはあった。

 彼の身体を起こし、そして耐えきれなくなったルキナはそのまま彼を強く抱き締める。
 もう、二度と離したくなくて。
 もう、何処にも消えて欲しくなくて。


 漸く、逢えたのだ。
 漸く、この手の中に戻ってきたのだ。
 叶わない筈の願いが……『奇跡』が叶ったのだ。
 今度こそ、もう……ルキナは絶対に彼を喪わない。


「ロビンさん、ロビンさん、ロビンさん……」


 ルキナが縋る様に繰り返しその名前を呼んでいると、『彼』は何故か少し戸惑っていた。
 そして──



「あの、……。
 僕の名前は、『ロビン』、と言うのですか……?」



 困惑した様に、そして何処かおずおずと、『彼』はそうルキナに訊ねる。


「えっ……?」

「どうやら、僕は……何も思い出せないのです。
 ここが何処なのかも、僕が誰なのかも……。
 貴女は、僕の事を知っているのですか……?」


 『彼』は、記憶の一切を喪っている様であった。
 ルキナと過ごした日々も、抱え続けていた苦悩も。
 『彼』には、何も無い。
 まっさらな『彼』は、それでも何一つとして変わらない、あの穏やかな瞳でルキナを見ていた。

 彼から記憶が喪われたのは何故なのだろうか。

 消滅の定めを覆し、ルキナの元へと戻ってきた代償なのだろうか。
 それとも、『ギムレー』からの侵食が進み過ぎてたが故なのだろうか。

 それは、分からないけれど。
 それでも。

 共に過ごした記憶が無いのだとしても。
 彼は、ルキナの愛しい『半身』であった。
 だからこそ、ルキナは。
 もう二度とこの手を離さない。

 記憶を喪ったと言うのなら、また初めから積み重ねれば良いだけなのだ。
 彼を喪ったあの日を想えば、そんなモノはルキナにとっては如何程でも無い。

 だから──。


「……初めまして、私は、ルキナです。
 そして貴方は、『ロビン』。
 私の、誰よりも大切な人です」


 そう答えると。
 彼は僅かに目を瞬かせた。
 そして、そっと優しく微笑む。


「ルキナ、さん……。
 ……どうして、でしょうか。
 何も、思い出せないのに。
 貴女の事が、とても大切だった様な気がするんです。
 きっと、記憶を喪う前の僕にとって……。
 貴女はとてもとても、大切な人だったんですね……」


 そう言って、彼はルキナの手を優しく握り返した。
 その右手の甲には、もう。
 あの烙印の様な痣は、何処にも無い。

 フワリと、優しく吹き渡る風がルキナの頬を撫でて行く。
 何故か其処にルキナは、とてもとても懐かしい誰かの微笑みを感じた。
 想いが満ちゆき、叶わない筈の祈りは、確かに届いた。
 最早『彼』は邪竜の定めからは解き放たれ、『彼』として生きる事を、世界から赦された。
 それは、世界を救った者への、そして『彼』への。
 世界からの一つの餞であるのかもしれない。
 
 あの日止まってしまった二人の時間は、今再びこの時より動き出した。
 その未来には、幸も不幸も等しく存在するだろう。
 未来がどうなるのかは、誰にも分らない。
 二人の結末も、幸せなものになるとは限らないのだろう。
 
 だが、例えそうであっても。
 諦めさえしなければ。
再び巡り逢えた二人が、繋いだその手をもう二度と離さずに居られる事だけは、ただ一つ確かな事である。

 ずっと傍に居たいと言う、細やかで愛しい願いが、今漸く叶ったのであった……。






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