神殺しの刃 (musa)
しおりを挟む

第一章
序   二度目の依頼


 七雄神社――芝公園と東京タワーの程近くに細々と建立された、全国津々浦々どこにでも点在しているような、ごく普通の神社仏閣のひとつである。

 一見して特徴らしい特徴はないが、あえて述べるなら木々に囲まれた場所、その独特の清涼な空気が参拝者に心地よく感じさせるところだろう。

 また、優に二百段はあろうかという階段も、参拝者の気力を確実に削いでくれるに違いない。

 そんな階段をヒョイヒョイと気軽に登る一人の青年の姿があった。

 今は六月初旬の昼下がり。この日は春を越えて初夏に入ったものの、傍迷惑にも季節違いの暑さを記録していた。

 そんな日に、心臓破りの階段を汗一つ流さずに苦もなく登るその男の姿は、明らかに普通ではなかった。だが彼を知る者たちならば、この程度の芸当に驚きはしないだろう。

 彼の名は甘粕冬馬。日本呪術界を総括する正史編纂委員会に所属する忍者にして、東京支部長の側近という立場の人物であった。

 甘粕は階段を上がりながら深々と息を吸った。途端、澄んだ空気が肺を満たす。心労が重なった今の身にはそれが心地いい。

 甘粕自身この階段を登るのは、これで二度目であった。

 一度目は一週間と少し前だ。あのときのことを考えると、さしもの忍者の末裔といえども憂鬱になる。

 なぜなら、甘粕が初めて七雄神社を訪れた数日後に、日本を揺るがす大騒動が起こったからだ。いや、こういう言い方は語弊があるな、と甘粕は反省した。あの事件の元凶は七雄神社でもなければ甘粕でもないのだから。

 原因は全く別の場所で、別の人物から持ち込まれたものであった。とはいえ、甘粕にとっては此処から始まった感があった。

 今より一週間前、日本の首都である東京に『まつろわぬ神』が降臨した。

『まつろわぬ神』とは、禍つ神、荒ぶる神とも呼ばれる存在である。一度解き放たれるや、世界に災厄を振り撒かずにはいられない、天災に等しき恐るべき存在。それが『まつろわぬ神』である。

 それが東京のど真ん中に顕れた。この事態に日本の呪術界を取り仕切る正史編纂委員会は、震え上がった。

 荒ぶる神の強大な神力は大都市すら壊滅させることも有り得るのだ。

 だが幸いにして東京は無事であった。いや、被害は確かにあったものの、当初の予測を超えて軽微であった。

 それはなぜか? 『まつろわぬ神』が撃退されたのだ。

 ひとたび、神々が降臨すれば民衆はただ怯え、猛威が終わるその時まで耐え忍ぶことしか叶わない筈の、強壮にして無双の神が!

 それこそが、人類が神々を相手に決して無策ではないことの証明であった。

 そう、人類には切り札があるのだ。

 神を殺して、その絶大の権能を簒奪した、人類を代表する戦士。

 魔王、ラークシャサ、デイモン、混沌王、そしてカンピオーネ。数々の魔神の呼び名を冠せられる『まつろわぬ神』と戦う偉大な闘士。

 そして、ここ日本にもその神殺しの系譜に連なる者が存在した。

 名を草薙護堂という。日本出身の七人目のカンピオーネである。彼の存在故に、まつろわぬアテナは撃退された。

 だが正史編纂委員会の仕事は、それだけでは、終わらなかった。

 神は確かに撃退された。が、東京で派手に行使された神力の発露である異常現象までは、都合よく消えてはくれない。

 当然であるが、神々が実際に存在している事実は一般に流布されているわけではない。正史編纂委員会はあの夜の出来事を、ただの自然現象であったことにするために、事件の収拾を計るべく総出で奔走する必要に迫られた。

 もちろん甘粕も例外ではなく、ここ一週間ばかり碌に休息をとっていない。

 にも拘わら、災厄の原因であり、その災厄を払ってくれた救世主でもある当の草薙護堂は、愛人でありもう一人の元凶たる美少女を侍らせて日常を謳歌しているらしく、その影で巻き込まれただけの正史編纂委員会は、未だ徹夜漬けで働いているのだから世の中間違っていると甘粕は思う。

 件の魔王さまはあれで平和主義を標榜しているらしいが、正史編纂委員会の面々からすれば立派な災厄の魔王そのものであった。

 ―――以上の事柄が、甘粕冬馬が一週間ばかり前に七雄神社を訪れた際に起こった事件の顛末である。そして、これで二回目。訪ねる人物も同じ。そして訪問の理由もまた前回と“同じ”であった。

 さて今度はどうなるやら、と内心でぐちると甘粕は最後の段を登り切り、神社の鳥居を潜って境内に足を踏み入れた。

 すると、甘粕の視界に入ってきたのは、一人の巫女装束の少女が境内の参道を箒掃除している姿だった。

 少女はまだ甘粕に気付いておらず、箒で石畳みをさっさっと掃いている。真面目な性格なのだろう掃除の仕方はとても丁寧でそれでいて早い。

 後ろ姿だがこの少女が甘粕の訪ね人だと一目で解った。後姿だけとはいえ、なかなか忘れられそうもない少女だったから間違いないだろう。

 甘粕は意識して足音を立てて少女に近付いた。いきなり声を掛けて相手を驚かすのは、甘粕の本意ではない。向こうから気付いてもらおうという意図だった。

 果たして、少女は甘粕の気配に気がついて、栗色の長髪を揺らしながら体をこちらに向けた。咲き揃う桜のような可憐さを湛える美しい少女だった。整った顔が甘粕の存在を認めて驚いたように目を見開く。

「まさか甘粕さん、ですか……?」

「いや、名前を覚えていて下さいましたか。ええ、そうです。正史編纂委員会の甘粕です。

 万里谷裕理さん。また頼みたい案件がありましてね。それで参った次第でして」

 頼みたい案件と聞いて少女――万里谷裕理は明らかな動揺を示した。だが、それも直ぐに治まる。彼女の顔には苦笑さえ浮かんでいた。

 甘粕は裕理の心情を痛いほど理解できた。以前に甘粕が頼んだ依頼は『神』と『王』に関わる依頼であったからだ。

 そのために、彼女は命の危険にさらされる羽目になったのである。そのことが脳裏に過ぎったのだろう。そして、それを直ぐに打ち消したのだ。

 神々や魔王の事件はそう頻繁に起こるものではない。特にこの日本では。考えすぎだと自分を笑ったのだろう。

 だが、甘粕は心苦しいが彼女の期待を裏切らなければならない立場だった。心中で謝罪を述べつつ、口から出たのはまったく別のことであった。

「お察しだと思いますが、実はまた鑑定の依頼をお願いにきました。とある人物がカンピオーネであるか否かについて、あなたに真贋を見極めてほしいのです」

 いっそ冷酷とも思える口調で甘粕は少女を地獄へと突き落とした。もちろん、比喩である。だが、気分的にはそんな感じだった。

 今度こそ麗しの媛巫女は凍りついた。愕然として体は震え、たちまち顔色も青くなる。

 心苦しい。それは本当に心苦しい。こんなことを押し付けた上司に文句を言ってやりたい。甘粕とて一応は真っ当な男である。こんな可憐な少女を怯えさせて喜ぶ趣味はない。だが、悲しいかな宮使いの身の上、仕事は果さなければならない。

 何より霊視に長けたこの媛巫女は、今回の依頼を完遂する上で最適の人材なのだ。私情だけで外すわけにはいかなかった。

 しばらくして、ようやく裕理は重い口を開いた。

「そ、それは草薙さんではないのですね。つまり別の人物がこの日本に……」

 さすがは聡明な少女である。動揺しても物事の本質はきちんと掴んでいる。

「はい。草薙護堂さんは晴れて本物のカンピオーネだということは、まつろわぬアテネとの戦いで証明されました。万里谷さんに確認してもらいたいのは『八人目』の人物です」

「そんな……! 八人目と仰るのなら草薙さんの後に誕生した方なのですね? そんなにも早く? それもまたもやこの日本で! そんな偶然が……」

 媛巫女が驚きは当然だ。

 賢人議会の報告を信じるのなら、草薙護堂が神を殺めて七人目のカンピオーネと成って、まだ3ヵ月と経っていないのである。

 これ程の短い期間で新たな魔王が誕生するのは異例中の異例だろう。それも同郷の人間が……となると尚のことである。

 歴史を紐解けば世界でも百年に一人いればいい方なのだ。それを考えれば今世紀はまさに異常ともいえる豊作の時だろう。最も『八人目』が本物であるのならば、であるが。

「ええ、驚かれるのも無理はありません。ただ必ずしも、偶然であるとはいいきれないかもしれませんがね・・・・・」

 甘粕は語り口にいろいろと含みを持たせて裕理に投げかける。

「どう言うことです? 羅刹の君と成られる方は、途方もない運命が生み出した偶然の産物のはず。それが必然などと、あり得るはずがありません!」

 裕理は、屹然と問いかける。

「それが有るかもしれないのです。……神無月家。勿論、聴いたことがありますよね?」

「!!」

 敢えて確認するまでもなく、彼女の反応でそれが既知であることが知れた。

 神無月家―――

 日本呪術界でその名を知らぬものはいない。古来より呪術界に厳然とした権勢を持つ四家のような権力を握り続けたわけではない。そもそも国に仕える『官』の術者の家系ではなく、権力とは無縁の『民』の一族である。

 にも拘らず、日本にその雷鳴が轟いているのは、かの一族が数百年に亘って、ある“秘儀”の研鑽を積んでいたことに他ならない。

 その“秘儀”の名を、神殺し生誕法といった。人為的に魔王カンピオーネを生み出す恐るべき儀式である。

「神殺しを人為的に生み出す……。そんなことが本当に可能なのですか?」

 裕里は緊張を含んだ硬い声で言う。

「まあ、『王』を生み出すとはいっても、要するに、神を無理やり招聘して、神無月家の術者がそれを倒すというモノなのだと思われます。成否は兎も角、それだけならば、決して珍しくはありませんよ」

 飄々とした声色で、甘粕は言った。それは貴方もご存じでしょう、と言外に祐理に告げる。

 そう、彼女は四年前に欧州で実際にその儀式を経験しているのである。

 魔王の一人である東欧の老王が引き起こした“ジークフリート招聘”の儀式は、その驚天動地な顛末とともに日本でも今尚語り継がれている。

「コーンフォールの黒王子も、その儀式関連の末にカンピオーネに成られたとか。勿論、細かい術式などは違うのでしょうが、大筋では差異はないでしょうね」

 裕里は何故人がそんなことをするのか理解できない、とばかりに首を振る。甘粕も同意するように頷いた。

 神などというものは、好き好んで近付くものではない。ましてや、それを倒そうなどとは考えるだけでおぞましい。

 だからこそ、それを成し遂げた『王』を、ヒトは『愚者』と呼ぶのだろう。

 すると、何かに気付いたように裕里は眼差しを甘粕に向けた。

「……先程甘粕さんは八人目の方と草薙さんが関係あるかのように言われましたね。それはどう言う意味で?」

「ああ、それですか。いやね、これは上司とも議論して推測した事なのですけどね」

 そして甘粕は勿体つけるように咳払いを一つして説明を始める。

「神無月家は数百年に亘って神殺しの誕生を目指して一途に努力をしてきました。それがですね……神無月家としては何処の馬の骨ともわからない無名の日本人が、神殺しを成し遂げてしまったという事実は、あまり面白くない事態なのではないかと思いまして。それで儀式を強行したのではないかと考えてみたわけですよ」

 甘粕の説明に裕里は呆れた様子を見せた。勿体つけたわりに馬鹿馬鹿しすぎると思ったのだろう。

「幾らなんでもそんな子供じみた理由で、あれ程危険な大呪を執り行うはずがあるはずありません」

 この媛巫女らしい控えめな苦言を呈した。だが、儀式の経験者として含蓄のある発言だった。

 甘粕も苦笑して応える。

「もちろん、当初の予定通りに儀式を執り行った可能性はありますが、なんと言っても七人目と八人目の可能性のある人物との期間が短すぎるのが、気になりましてね。何か因果関係があるのでは、と上司も考えているわけですよ」

 これには裕理も沈黙した。魔王の誕生期間が短すぎるのが不審だという考えは否定できないのだろう。

「もっとも、こればかりは幾ら推測を巡らしても答えが出ない問いでして。さて、どうでしょう。そういう次第でして八人目の真贋、見極めてもらえないでしょうか」

 話を締めくくるように甘粕は裕理に問いかけた。返答は直ぐに来た。

「わかりました。お引き受けします」

 その声には、もう震えはなかった。恐怖はあるだろう。あの事件を思えばなお更だ。だがそれを押しのけて使命感が先に立った。つまるところ、万里谷裕理とはそういう少女なのである。

 甘粕は礼を言って頭を下げた。

「それで、視るのは何時頃になりますか?」

 裕理は静かな面持ちで問いかけた。

「それは草薙護堂氏の予定によりますかね」

「は……? なぜ草薙さんのお名前がここで?」

 裕理は困惑の態だ。七人目のカンピオーネの名前を此処で聞くのは不思議だったらしい。だが、正史編纂委員会としては譲れない一線である。

「万里谷さんがお会いになられる人物は、八人目のカンピオーネかもしれない方です。しかも、性情も定かではない人物。護衛くらい必要なのは当然ですよ。恥ずかしながら我々では役に立ちませんからね」

「しかし、草薙さんのときは……」

「あの時と今は別ですよ」

 以前、正史編纂委員会は万里谷裕理を草薙護堂と対面させた。だがそれは草薙護堂の身辺調査を済ませた後であったからだ。調査報告を吟味して媛巫女に危険なし、と判断したからこそである。

 その調査も草薙家が一般人の家系だったからこそ出来たことであった。神無月家のような一般人と隔絶された術者の家系ともなると、そう簡単ではない。

 甘粕はその事情を裕理に伝えると、彼女は納得してくれた。

「草薙さんからは了承を得られたのですか?」

「いえいえ、それはこれからです。むしろ万里谷さんからお願いしてもらおうと思いましてね」

 えっと驚く裕理に頓着せず甘粕は続ける。

「なに大丈夫ですよ。草薙さんは仁義に熱い方のようです。一度懐に入れた相手を容易く見捨てたりなんてことは、なさらないでしょう。それによほど無理難題や道理に反していない限り、こちらの頼みを引き受けてくれそうな気がしますしね」

 甘粕はまだ草薙護堂と面識はない。が、彼の調査報告の資料は目を通していたし、まつろわぬアテナの事件のおりの行動を考慮すれば充分可能なように思われた。

 裕理も同感なのか、考えるような仕草を見せた。

「……わかりました。わたしから草薙さんにお願いしてみます」

「重ね重ね、ありがとうございます。と……」

 甘粕の懐の携帯電話が、交渉の終了を図ったようなタイミングで鳴り響いた。液晶画面に表示された名前は、上司のものだった。裕理に携帯を取る旨伝えて、甘粕は少し距離をとって通話ボタンを押した。

「甘粕です。どうしました?」

『やあ、甘粕さん。すまないね。裕理との交渉中だったかな』

「いえ、こちらは丁度終わったところです」

 甘粕は上司――正史編纂委員会東京分室の室長である沙耶宮馨の美声を聴きながら、彼は眉を顰めた。心なしか上司の声に、何時もより覇気がないような気がしたのだ。

『そうか、それは良かった。こっちはとんでもない事件が起きて混乱中でね。……神無月家の監視班から連絡が入ったんだ。なんでも、神無月家の屋敷から途方もない呪力が放出されているらしい。分析班は何かの儀式魔術を施行していると結論を下している』

「―――!?」

 神無月家は正史編纂委員会の作成しているブラックリストの上位に名を連ねているため、常に監視対象とされていた。特にこの三ヶ月で監視班はさらに強化されていた。

 その監視班が危険な兆候を感じたのなら、由々しき事態である。

「まさか招聘の儀式をもう一度……!?」

 家が家なので真っ先にその可能性が思い至る。実際に前科があった。三ヶ月前に神無月家の屋敷から『まつろわぬ神』の存在を感知したのである。

 驚くべきことに草薙護堂が七人目と成って一週間と経っていなかった。だが、それも一日を経たずして消滅してしまったが。

 だからこそ、正史編纂委員会は八人目の存在を疑っているのだ。

『解らない。あの儀式は星辰の配列や地脈の流れが多大に影響するみたいだからね。理想的な環境が整うのに、後3ヵ月は必要らしいよ。もっとも、それをいうのなら3ヵ月前のときもそうだったはずだからね。ひょっとしたら神無月家は星辰や地脈の力を借りずに神々を召喚する術を持っている可能性がある』

 普段、顔色にも声色にも感情を用意に察せない隙のない男装の麗人も、この時ばかりは苦い口調を隠せなかった。甘粕も沙耶宮馨の言葉に戦慄していた。

 上司の動揺も当然だ。

 彼女の推測が正しいのならば、神無月家の気分次第で日本に幾柱もの神々を降臨させることが出来るのだ。

 もし実現したら最悪の……いや地獄の如き光景であろう。一瞬でも想像してしまった甘粕は身震いを抑えられなかった。

「……幸いまだ『まつろわぬ神』の出現報告は聴かない。しかし、予断は許されない。状況次第では神無月家に強行突入もあり得る。最悪の事態を想定して草薙護堂氏の協力要請もこちらから取り付けるから、甘粕さんは至急戻ってきてくれ」

 甘粕は解りました、と答えて電話を切った。万里谷裕理はこちらの緊迫した状況を雰囲気で察したのか緊張の面持ちで待っていた。

 甘粕は簡潔に状況を説明して、今回の依頼の件はまた後日という旨を伝えると、挨拶もそこそこに慌てて七雄神社を辞した。

 

 

 結局のところ、簡潔に言うと正史編纂委員会は、この時の状況を正確に把握することはまったく出来なかった。

 正史編纂委員会が事件の詳細を把握するのは、魔術結社《青銅黒十字》に所属する大騎士リリアナ・クラニチャールの賢人議会に提出した、とある報告書を目にするまで待たなければならなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一話  邂逅の調べ

 アイルランド共和国首都ダブリン。

 アイルランドの全人口の三分の一がダブリン首都圏に集中する、アイルランド共和国最大の都市である。もともとはバイキングが興した国家で、過去において野蛮な国と印象を持たれもしたものの、現在では清楚で美しい国に成熟している。

 夜が明けることのない不夜城は、大都市の常でダブリンとて例外ではない。日が落ちると一層賑わい、レストランからアイルランドの伝統的な音楽が漏れ聞こえてくる。

 その心地よい旋律を切り裂くようにリリアナ・クラニチャールは、夜のダブリンを駆け抜けていった。

 とはいえ、リリアナに夜遊びの習慣があるわけではない。むしろ苦手な部類に入る。

 過剰なまでの酒気を帯びた通行人や、露出度の高い女性を見ると眉を顰めるし、そこまで行かなくとも、如何わしい歓楽街のネオンの灯りを見るだけで嫌悪感が沸く潔癖症故に、夜間は屋内に居る方が落ち着く性分であった。

 そんなわけで、普段のこの時間なら机に向って趣味の創作物に没頭しているか、剣技を磨くか、魔道書を紐解いて自己鍛錬に費やしていただろう。あるいは、月が心地よい夜ならば月光欲もいい。

 そんな自らの信条を曲げてまで夜の街に繰り出しているのは、もちろん、理由在ってのことである。

 リリアナがタブリンに滞在しているのは、《青銅黒十字》の任務の一環であった。それも幸い大過なく終了しており、後は一泊して明日にでも帰国の途上に着くはずだった。が、ホテルの部屋でくつろいでいたリリアナの元に凶報が舞い込んで来たのである。

 ここタブリンで『まつろわぬ神』の降臨が確認された。

 その知らせを受け取ったリリアナは、居ても立ってもいられず矢のように部屋を飛び出し、タブリンの夜に身を晒したのである。

 ここは《青銅黒十字》の本部を置くイタリアではない。《青銅黒十字》の威光が及ばない異国の地である。

 たとえ『まつろわぬ神』が顕れようとも、タブリンの魔術結社が独自で対処するだろうと、頭では解っていても、何もせずに部屋で大人しくしていることなど彼女には出来なかった。

 まずリリアナがタブリンの街に身を晒して安堵したのは、都市機能が正常に運行されていることであった。人々も平静そのもので、和気藹々と日常を謳歌している。パニックの兆候など、微塵も感じ取れない。

 これは吉報である。神々が現出すれば、天災クラスの異常災害が起こるなど、ざらにあるからだ。どうやら『まつろわぬ神』は、まだ派手に暴れまわっていないらしい。

 理由は不明だが好都合だと判断して、リリアナはさらに足を速める。

 妖精の如き細い体躯を翻し、人々の隙間を縫うように走り回るリリアナの姿は、傍目には異様に目立つはずだが誰も見咎めた様子はない。まるで周囲の人々には青い騎士の姿が目に映っていないかのような態である。

 魔女や妖精が得意とする≪隠れ身≫の術の効果である。これと併用して『まつろわぬ神』を探索するための術を起動しているが、まだそれらしい反応はない。

 タブリンの夜の街を奔走すると共に、リリアナは『まつろわぬ神』の正体について思案していた。

 この地はアイルランド。ならば、この国土に根付いた神話体系から抜け出た神である公算が高いだろう。

 アイルランド神話――アイルランド人の祖先である古代ケルト人は文字を書き残す習慣がなかったため、一神教の導入によって異国の文明に触れたことで変遷を余儀なくされた歴史がある。

 その過程で散逸した神話郡もあるが、現在まで継承された神話は大別して四つの物語に分かれる。

 一、来冠神話――アイルランドの地に渡来した神々の興亡を描いたアイルランド神話の代表ともいえる物語。

 二、アルスター伝説――赤枝の騎士団の活躍を描いた英雄神話。

 三、フェニアン伝説――フィン・マックールと彼の率いるフィアナ騎士団を中心とした英雄神話。

 四、歴史物語――歴代のアイルランド君主を扱う物語。

 まず、失われた神話についてだが、これは考えずとも良いであろう。

『まつろわぬ神』は現在に伝わる神話から誕生する。例外はあるものの、歴史の霧の中に消えた神話からは生れることはあり得ない。

 ならば、アイルランド神話を構成する四つの物語に登場する神・英雄たちからか。若干地域は逸れるがウェールズ神話の神々の可能性も捨てきれない。

 あるいは、『まつろわぬ神』の名の通り、アイルランドとはまったく関係のない神からの来襲も考慮するべきだろう。

 だが……そこまで考えてリリアナは、思考の坩堝に嵌っていることを自覚した。まだ遭遇してもいない神のことなど考えても意味はあるまい。

 故に会えば解る。そう、思い定めてリリアナは疑問を断ち切った。

 ―――だからこそ気付けた。その存在に。

 リリアナより前方五メートルほど。雑踏を異様な風体で闊歩する人物がいた。

 立首の円い襟で袖の広い白色の衣装は、アイルランドどころかこの時代にも明らかに即していない。リリアナはそれが日本の中世に着用された狩衣と呼ばれる衣装であることに気付いた。

 それも、リリアナが日本文化に造詣が深かったからこそ解ったことである。アイルランドの人々が知る由もあるまい。

 にも拘らず、それを誰も奇異とも思わないのか、何故か好機の視線を誰も注ぐことがない。後姿ゆえに性別を判断する確たる根拠はないが、ともすれば黒髪を後ろで結い上げた姿を見れば女性に見えなくもない。が、不思議とリリアナは男だと感じた。特に理由があるわけではない。ただの直感である。

 とはいえ、リリアナが殊更異様に映ったのは、装いではなく、性別でもなかった。その背に背負われた一振りの長剣であった。

 剣を収めている漆黒の鞘は、リリアナの愛剣であるサーベルよりも長く優美な曲線を描いている。その人物が身に纏っている衣装と同じく日本製の刀剣――太刀であろう。

 まず本物とみて間違いない。騎士たるリリアナである。たとえ鞘越しとはいえ刀剣の真贋ぐらい見極められる。

 異国の装いのみなら、店の催しの一環として説明も出来ようが、本物の長剣を背に吊るす人物が常人であろうはずもない。

 それも、これほど奇抜で危険な人物が誰にも気付かれた様子がない。我が物顔で市街を闊歩している。リリアナですら気付いたのは偶然に等しい。

 おそらく、リリアナとは系統の違う陰行の術。それも大騎士たるリリアナの目すら欺く凄腕である。

 現代にそぐわぬ奇抜な格好で、人界をさ迷い歩くのは、『まつろわぬ神』の特徴であるが、おそらくは彼らではあるまい。

 霊視能力に長けた魔女でもあるリリアナは、『まつろわぬ神』であるなら一目でそうと解かる。

 ならば、人間の魔術師に違いない。

 明らかな不審人物を前にしてリリアナは判断に迷った。

 目的は『まつろわぬ神』である。本来であれば余計な時間を割いている暇などない。だが凶器を携えた怪しい魔術師を放置しておくのは、騎士として正しい振る舞いではないのも事実。どうするべきか……

「止むを得ないな」

 ぼそりと呟くとリリアナは、相手と一定の距離を保って尾行を始めた。

 俄然、居場所が不明な神よりも、目前の魔術師を世にとっての脅威だとリリアナは判断したのである。

 実のところ、あの異国の術者がリリアナと同じ事情―――所属結社の任務中で偶然『まつろわぬ神』出現の報告を受けて、戦装束を纏った上で神との戦いに参戦するべく、市街に身を投じた可能性もないではない。むしろ、大いにあり得るだろう。

 その時は、素直に謝罪すればすむ話。けれど、そうでなかった場合こそ問題だ。

 リリアナのような秩序を奉じる“善”の魔術師ではなく、混沌を撒き散らす“悪”の邪術師であったとき、その目的は邪まな謀でしかあり得まい。

 そうであるならば、それを身と呈して阻むのが騎士たる己の本懐だとリリアナはそう定めていた。

 だが、そう決断したものの、このまま無策で相手に詰め寄るわけにもいかない。彼が邪術師であった際、逆上して反抗されては、周りに余計な被害が出る恐れもある。

 ここはまだ人通りが多い地域なのだ。相手の目的も力量も解らぬ内は、軽挙妄動は控えるべきだろう……

 結局、半時間ほど良案も浮かばず、無難に尾行を選択したリリアナを尻目に、男はまるで物珍しげにキョロキョロと周囲を眺め回しては、法則性など皆無なその場限りの好奇心としか思えないような動きで、唐突にその進路を変えてはリリアナを振り回す。

 帯剣をして術を使って姿を隠していなければ、ただの異装の観光客にしか見えない。

「くっ」

 だが男が断じて唯の観光客などではないことを知るリリアナからすれば、彼の観光客然とした態度はただ忌々しいだけだ。

 この奇行も最初は邪術師の企み事の一環かと勘ぐっていたリリアナであるが、今では自分の考えが正しいかどうか疑わしく思えてきた。

 帯剣して姿を消して市街を徘徊する男――邪術師でなければただの阿呆ではないか。そんな男を警戒していたリリアナは、まさに間の抜けた道化もいいところだ。

 もう我慢なるものかと、リリアナは走る速度を上げた。男を拘束するためである。

 本来こんな不審人物に付き合う暇などないのである。

『まつろわぬ神』の動向も気にかかる。無用な手間は、早急に終わらせ、とっとと本道に立ち返るべきだろう。だが―――

「……?」

 はっとリリアナは違和感を覚えた。その感覚に導かれるまま、彼女は周囲を見回す。

 ……そして、違和感の正体を諒解した。

 人影が徐々に少なくなっている。人々で混雑する大通りを外れて随分経つが、まだ人通りは多かったはずである。

 それが今では―――皆無である。誰もいない。街路に立つのは、青い騎士と異装の男のみ。

「ッ!?」

 本能的な危険を感じ、リリアナは足を止めて魔術でサーベルを虚空より召喚した。

 イル・マエストロ―――『匠』の名を持つリリアナの愛剣である。騎士は剣を構えて油断なく男を厳しい面持ちで見つめる。

「―――やはり、貴方には僕が視えているのですね。やれやれ、僕もまだまだ未熟ということですか……」

 長刀を背に吊るした異国の装束を身に纏った男は、そう言ってリリアナに向き直った。

 男、いや少年と呼ぶべきだろう。年の頃はリリアナとさして変わらなさそうだ。

 顔立ちは整っており、気品すら感じさせる典雅な美貌。背丈もリリアナと同じくらい。この時代の男性にしては小柄な部類に入る。これでもう少し背が高ければ、凛々しい若者と映っただろうが、全体的に矮躯な優男という脆弱な印象を少年に与えていた。

 さらに微笑むとますますその傾向が強くなる。とはいえ、これだけならば、どこにでもいるティーンエイジャーに過ぎない。異国の術者装束と背に長剣をさえ背負っていなければ。

「何者だ……」

 リリアナは短く誰何の声を上げるも、返答は期待していなかった。

 最早疑うまい。眼前の少年は只者ではない。ただ魔術を扱えるというだけに止まらない。

 リリアナですら寸前まで気付かせない陰行術に加えて、人払いの結界までいつ使ったの

か解らなかったのだ。そんな存在がただの魔術師であろう筈がない。

「そうですね。問われたのなら答えない訳にはいきませんか。僕の名は、神無月宗一郎と申します。そういう貴方のお名前は? 異国の術者の方」

「……」

 これには戸惑った。偶さか素直に応じるとは思わなかったのである。が、いつまで動揺もしていられない。相手の言ではないが、名を問われれば騎士として答えないわけにはいかない。もとより、隠し立てすることでもない。

「リリアナ・クラ二チャールだ。神無月宗一郎と言ったな。その様な身なりで市街を徘徊する、その目的は何だ?」

 リリアナは硬い面持ちで鋭く詰問した。

「目的と言われましても、ただ家の者が来るまで異国の街を散策していただけですが……。そもそも、あなたはどうして僕を尾行していたのですか?」

 心底不思議で仕方ないという風で異装の少年―――神無月宗一郎は言った。

「な――ッ!」

 リリアナの驚愕は当然だ。

 古今東西、如何なる魔術結社であろうとも、武器を携えた上に、術者の装束に身を纏って現代社会に出没することを奨励する組織はあるまい。

 とはいえ、緊急事態ならそれも止むを得ないだろうが、それが異国の地であるならば同輩たる魔術師の詰問を受ければ理由くらいは述べるのが普通である。それを意に反さぬ者など魔術界の常識に照らし合わせても、あり得ない異常である。

 それを強く意識しつつ、剣先を更に鋭く相手に向けてリリアナは再度問うた。

「もう一度問う。神無月宗一郎。貴様の目的は何だ。家の者とは誰の事だッ!?」

 リリアナの口調は、詰問を超えて恫喝の域に及んでいた。

 湖の如き深青の双眸は殺気という暴風に当てられて荒れに荒れていた。常人ならば顔色を青くして逃げ惑うほどの気当たり。

「それは……。ああ! 申し訳ありません。それは言わないようにと言い含まれておりました」

 それを―――少年はそう朗らかに笑うのみで、まったく堪えた様子がなかった。

 その笑みにおよそ邪気と呼ばれるものがなく、また剣先を向けられながら恐怖の色すらもない。無邪気そのものだ。

 リリアナの殺気を受け流しているのか。それともそうと気付かないほど鈍いのか……

 あるいは、リリアナ程度の殺気などまったく問題にしていない、強者の余裕の表れか。

 だがリリアナはこの問題を一々熟考する必要を感じなかった。どのような理由にせよ、その答えはすぐに解かる。

 事此処至って、埒の明かない会話に傾注して事態の停滞を望むのは悪手に過ぎる。今は積極的な行動こそが最善である。リリアナはそう判断した。

 もとより、少年を目にしたときから、そうするのべきであったのかもしれない。が、あのときの懸念事項であった一般人の配慮は最早必要ではない。この場を支配するのは二人のみ。

「ふ……」

 リリアナは、すぐさま動けるように体の隅々まで意識を伸ばす。

 彼我の距離五メートル。軽功飛翔は騎士の得意分野。リリアナにとってこの程度の距離など無に等しい。

 ―――事実、リリアナは僅か一歩の踏み込みで、少年の眼前に出現した。

 おそらく少年には、リリアナが瞬間移動したように見えたはずだ。必殺の速度で間合いを詰めたリリアナは、サーベルを相手の胴に躊躇なく叩き込む。

 無論、殺す意図はない。峰打ちである。だがまともに喰らえば肋骨は、ただではすまない程度には、その一撃に容赦と呼ばれるものがなかった。

 当たる。リリアナはそう確信した。この期に及んでも少年は棒立ちのまま立ち竦んでいる。リリアナの速さに対応出来ていない証拠だ。

 果たして、リリアナの薙ぎ払いは吸い込まれるように少年の胴へと直進して―――見事に空打った。

「ッ―――!」

「困りましたね。女性は傷つけてはならないと、アレに言い付けられているのですが……」

 その光景をリリアナは愕然と見た。少年の暢気な声など聞いている余裕はない。

 もし外から見ている者が居たならば、リリアナの驚愕の念こそ不思議だっただろう。少年は何も奇怪な異能を振るって斬撃を躱したのではない。

 ただ一歩後ろに引いただけ。それだけの所作でリリアナの必殺の一撃は無力化されたのである。

言うは易し、行うは難し、である。己の身どころか装束に傷一つなく、最小限の動きで完全に躱しきったということは、リリアナの動きが完璧で見切られたことに他ならない。

 ただの凡庸な剣士ならば兎も角、大騎士たるリリアナの渾身の一撃を初見で見切って躱せる者など、欧州でもどれだけいることか。リリアナの誇りにかけて、おそらくそれほど多くはないのは確かである。そして少年はその数少ない練達の剣士の一人。

 それを確信したリリアナは、警戒レベルを最大まで引き上げた。即ち、打つのではなく斬る。殺す気で相手をして丁度いい。

 故に、リリアナはイル・マエストロの封印を解き放つ。

 『匠』の鋼が新たな形を現す。

 曲線を描く刀身はそのままに、柄がぐんぐんと伸び―――次の瞬間、薙刀へと姿を変じた。リリアナは横に振り切った状態のサーベルから瞬時に薙刀へと変わった得物を持ち上げるや、袈裟斬りに振り下ろす。

 慎重を期して距離を取ろうとは考えない。一気呵成の勢威を駆り猪突する。

 それはリリアナが正面突破を好む剛剣の使い手だからではない。腐れ縁のあの女狐ではないのだ。こんな戦法は本来リリアナの流儀ではない。

 だが、それが必勝の戦法と理解していれば、流儀など二の次である。

 更に返しの逆袈裟の斬撃を変化、足を薙ぐ一撃を見舞う。そこから斬り上げて、返す刃で打ち下ろし、と見せかけて薙刀を手元に引き込んで突き技―――その悉くを回避される。

 虚と実が入り混じった高速の連撃は、大騎士たるに相応しき技の冴えだ。少女の齢にして既に達人の域。

 にも拘らず、少年は背の長刀を抜くでもなく、己が体捌きだけで応じて見せた。敵の見切の業はもはや神懸っているとしか思えない。だが―――

 ―――その神業を観てなおリリアナは会心の笑みを浮かべる。

 この状況こそリリアナの狙いなのだと、少年は気付くまい。たとえそれが解ったところで最早遅すぎる。

 リリアナが起こす太刀風に乗って、『匠』の名を持つ刃金がその真価を発揮する。

 ―――きぃぃん

 血で血を洗う争乱の場に、似つかわしくない玄妙な音が響いた。

 本職の音楽家すら恍惚とさせるであろう、妙なる調べ。その源泉が薙刀を振るうことで生じた刃風だと、彼らが知れば驚愕のあまり顎が落ちるだろう。だが、無論ただの美しいだけの調べなどであろう筈がない。

 その正体は、指揮者(イル・マエストロ)に秘められし力――『魔曲』。

 その玄妙な旋律は、ただ美しいだけでなく、聴く者の心を乱す妖しき曲と化す。さらに曲調を変えれば、呪力を減衰させる魔曲、体力を奪う魔曲など、怪異なる曲目が多岐に渡って揃っている。

 リリアナはそれらを惜しげもなく披露する。

 ―――今この場は妖しき指揮者が率いる演奏会と化していた。

 敵の精神を恍惚という牢獄に放り込み、処刑人の如く首を刈り取る。なんと美しくも残酷な力か! 薙刀が振るわれる度に、魔曲が少年に牙を剥いているのだ。

 リリアナは少年が魔曲の虜になっていることを疑わない。

 如何なる大剣士、大魔術師であろうとも逃れる術はない。練達者ならば抵抗も出来るだろうが、一時は必ず効果を及ぼす。

 そして、その一時さえあればリリアナには充分であった。薙刀を横に振るう。刃を返した峰打ち。獲物は違えど、初撃の再演である。だが、必勝の度合いはそれ以上。

 故に―――

 

 

「―――無駄です。その調べ、僕には効きません」

 

 

「!?」

 それを躱された衝撃もそれ以上であった。

 リリアナは心中で言葉にならない悲鳴を上げた。

 少年は先と同じくすっと後退しただけ。その自然な体捌きは魔曲の呪力の影響を受けているようには見受けられなかった。

 だが、それはあり得ないのだ。抗魔術の呪文を唱えた様子も、護符を使用した形跡もない。にも拘わらず、魔曲の効果を無に帰すとはいったい……

 ―――唐突に、恐るべき考えがリリアナの内に滑り落ちてきた。

(まさか……そんな……)

 ―――在る。如何なる魔術も受け付けない埒外の存在が。これなら全て説明が付く。

 魔術も護符も用いずに、魔曲を無力化する方法も。

 リリアナ級の剣士の攻撃を無手で軽々と躱す理由も。

 少なくとも、イタリアの魔術結社が盟主と奉じるあの方ならば、これと同程度のことなど笑いながらやってのけるだろう。

 だが、あり得るのか? 目の前の少年が『八人目』などという可能性が!

 ここは冷静に検討してみるべきだ。

 カンピオーネであるか否かを疑うべき要素は三つ。

 一、魔曲の呪力は大魔術師であろうとも容易には防げない。

 異国の呪術体系の中には幻惑の調べを封じる手段がある可能性は、あり得ないともいいきれない。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、魔曲が効かないのも道理である。

 彼らは体内にあらゆる魔術師を凌駕する呪力を宿すが故に、ほぼすべての魔術に対して絶対的な耐性を誇る。

 二、リリアナ・クラニチャールは天才剣士である。

 事実である。されど、最強の剣士にはほど遠い。欧州にはリリアナが到底及ぶべくもない大剣士が数人居る。

 とはいえ、同世代でリリアナに比肩する剣士はただ一人。七人目のカンピオーネの愛人になったと噂されるエリカ・ブランデッリのみである。

 と言っても、リリアナたちが同世代で最強かといえばそれも違う。中華には更に凄腕の天才少年がいると聴く。

 ならば、この少年が日本のただの天才剣士である可能性も否定できない。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、リリアナが彼に及ばないのも当然だ。

 一振りの剣で神々を打倒した、天才を超える鬼才の持ち主ならば、ただの天才に過ぎないリリアナに勝てる道理がない。

 三、異国の地で故郷の民族衣装を着込んで大都市を徘徊する人物。

 これは深く考えるまでもないだろう。変人はどこにでもいるものだ。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、……当然である。彼らの多くは、奇行が目立つ性格をしているのだから。

 考えれば考えるほど疑惑は確信に変わる。該当するのがどれか一つだけなら兎も角、すべてとなると否定する方が難しい。

 或いは、少年は本当に『八人目』なのかもしれない。

「だが、それでもッ!」

 同世代の人間を相手に一太刀も浴びせられないどころか、剣すら抜かせられないのではあまりに情けない。

 この際、相手がカンピオーネであるかどうかは問題ではない。剣士としての意地の問題である。

(せめて一太刀なりともくれてやる……!)

 リリアナはそう意気込むや、鋭気が全身を満たし、更なる攻勢を仕掛ける。

「はああああ……!」

 裂帛の気合のもと、踏み込む速度はかつてなく迅く、頭部をかち割るべく振り下ろされた薙刀の一撃は雷光に等しい。

 にも拘らず、相手はあっさり躱してのける。少年の漆黒の瞳は無意味な攻撃を続けるリリアナに対しての嘲弄の念はなく、これからどうするするべきか解らない困惑に揺れていた。

 相変わらず、闘気も無ければ殺気も無い。リリアナとの技量の差を思えば、すでに決着がついて当然のはずだ。

 どうしてそれをしないのか。理由など解らない。知る必要も感じない。はっきりと解るのは、それは少年が見せている唯一の隙であるという一点のみ。

(ならば、それを突かせてもらう!)

 激烈な闘気の迸りと共に、リリアナは手首を返した。瞬間、くるりと刃が翻るや逆袈裟斬りへと形を変えて襲いにかかる。

 先の一撃が雷速ならば、こちらは神速に達していよう。

 それもそのはず、先の一撃は誘いであった。敢えて躱されるように意図したものだ。だがこれだけならば相手は今までのように対応してのけただろう。

 だからこそ、必勝を期した第二撃は相手の意表を突くほど、必殺の速度でなければならない。

 故に―――神速。この瞬間のみにおいて、リリアナは天才を超えた鬼才、入神の域に足を踏み入れた!

 これを見た少年の顔付きが、にわかに真剣身を帯びる。かっと目を見開くと同時に、銀光が奔った。背中から抜き放たれた剣閃が雷光すら置き去りにせんばかりの速さで打ち落とされる。

 瞬間、腕に骨髄に染み渡るほどの衝撃が走った。

 そうと気付いたときには、敵の長刀によって薙刀がリリアナの手から叩き出されていた。薙刀が地面に落下するより前に、少年は素早く距離を詰める。

 止めを刺す気か――リリアナはそう思ったが、不思議と恐怖を感じなかった。

 このまま無力感を与えられて弄られ続けるよりは、一矢報いて手打ちにされた方が、ずっとマシに思われたからだ。

「がはッ」

 腹部に激震。抗いきれずリリアナは後ろに吹き飛んだ。五臓六腑が軋みを上げる強烈な痛撃だが、予想した灼熱感が伴った痛みではなかった。

 地面に倒れ付して、体内で荒れ狂う激痛に耐えながら、どういうことか、と強引に目をこじ開けて敵を睨み据えた。

 そして、理解した。この身は敵の凶刃に斬られたのではなく、その柄頭によって殴りつけられたのだと。

「見事な腕前です。特に最後の一太刀にはひやりとさせられました。そのおかげで手が出てしまったわけですが……後で、アレに何を言われることか……」

 そう言いながら、少年は悠然とリリアナを見下ろす。

 何かを言い返そうにも、痛みのあまりに声も出ない。その代わりに、リリアナは取り落とした自分の得物を探して、暗澹とした。薙刀は少年のちょうど足元にあったのだ。

 取り返すのは不可能だ。召喚の術を使えば一瞬だが、その時間を少年が与えてくるかどうか。それに今は、痛みのせいでその術すら使える自信がない。

 状況の改善のために必死に頭を巡らす。

「安心してください。これ以上危害は加えるつもりはありません。ただ、先刻までの事を忘れてもらうだけです」

 そう言うや、その双眸が、妖しく輝く。呪力が少年の眼に収束する。

 間違いなく何らかの魔術を行使しようとしている。そして、口結を唱えずして、視覚に呪力を集めるのならば、リリアナの知る限りその術は一つ。

(魔眼……!?)

 西洋においては、魔眼、邪視とも称されるそれは、東洋では瞳術と呼ばれる。言葉の表し方は違えどもその術理は共通している。

 つまりは、視覚を介した魔術であるということだ。呪文の詠唱などの複雑な工程を経ることなく、ただ視るだけで術を行使する。

 神々ともなれば、その視線だけで静謐極まる石塊の世界に変える事も出来る。あるいは、世界を塩の柱へと変える地獄の如き光景も創り出せる。

 それらは、如何なる大魔術師とて為しえる業ではなく、人が到達し得る領域の話ではない。だが、人でありながら神の領域に踏み込んだカンピオーネならば可能である。

 だが、幸いにして少年の行使する力は、権能ではないようだ。流石に間近で権能を使われればそうと解る。そして、魔術であればその目的はすでに相手は明らかにしていた。

 ――先刻までの事を忘れてもらうだけです

 その言葉を信じるならば、記憶操作か、あるいは記憶消去を試みる積もりなのだろう。無論、その記憶とはリリアナが少年と接触した間の事を言っているのは明らかだ。

 前者なら容易である。特定の記憶を思い出さないように暗示をかければいいだけ。魔術としては初歩の術に相当する。

 後者の記憶消去は、精神の深い領域に干渉する術であるため、単純な工程の術しか扱えない魔眼では為しえないはずだが。

 たとえどちらの術理であったとしても、傷つき倒れ伏した今のリリアナに対抗する方法は一つしかない。最も簡単な抗魔術。体内の呪力を高めて抵抗するのだ!

「ぐ……、う……」

 途端、激しい頭痛が襲った。頭の中身を掻き乱されたような腹部の痛みよりも酷い激痛だった。頭部に侵入した敵の呪力に自分の呪力で抗ったためだ。

「抵抗は無意味です。ただ痛みが続くだけですよ」

 少年の優しさを湛えた声に、より一層奮起してリリアナは精一杯に抗う。リリアナにはもうそれ以外に出来ることがなかった。

 抵抗を止めてしまったら本当にただの負け犬でしかなくなる。これが最後の抵抗だとばかりに、痛み無視して必死に抗い続けた。

 すると少年はリリアナとの戦闘中には見せたこともない焦りの表情を見せた。よほどリリアナの徹底抗戦が意表をついたらしい。

なんだかそれはこの戦いでリリアナが挙げた唯一の戦果のような気がした。あまりに小さすぎる勝利。

(ザマアミロ・・・・・・)

 その結果に多少の溜飲を下げて、普段は決して口にしない言葉を胸中で吐き、リリアナの意識は砕けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話  兄と妹

 『彼』は苛立っていた。理由は自覚している。ただその原因を思い返すと苛立ちが一層積もった。

 それは、『彼』が戦士として矜持に反した行動を取ったためだ。『彼』は敵から逃げた。敵に背を向けて無様に逃走を図ったのだ。

 神話の時代から如何なる強敵であれ、果敢に挑み打ち倒してきた無敵の英雄であるはずの『彼』が、である。

 だからと言って、それは敵を恐れたからなどでは断じてない。

 『彼』には幾つかの信条があった。

 それは『彼』の誇りそのもの。何物にも代え難い神聖な誓いである。体を構成する一部ですらあるといえた。

 それ故に、その信条を一度でも違えれば、生命の、魂魄の一部を切り取られるに等しい苦痛を伴う。―――否。痛みなど問題ではない。

 信条を守ることは戦士として当然の義務なのだ。それを違える事こそ戦士として不名誉の極み。  『彼』ほどの英雄ならば、尚のこと何を賭しても守り抜かなければならない。

 たとえ、それが戦士として不名誉な敵前逃亡を図ることになったとしても。

 そうまでして守った誓い。それは―――女を殺さぬこと、であった。

 “聖誓”とするほど大仰なものではなく、直接言葉にしたことも僅かな、己に科しただけの信条。

 だからといって、その誓いの重さまで変わるわけではない。とはいえ、この誓いのために『彼』が女戦士との戦いを忌避していると思われるのは心外というものだ。

 『彼』の輝かしい戦歴の中、女戦士は過去幾人も存在した。いずれも『彼』に勝るとも劣らない豪傑揃い。そして絶世の美貌の持ち主たちであった。

 『彼』はその尽くを打ち負かしてきた。その全ての勝利は『彼』の誉れであった。

 故に、女戦士との戦いは血潮を滾らせこそすれ、それを厭う理由など有りはしない。

 だが、あの敵ばかりは勝手が違った。

 女であるのは間違いないのだが、『彼』からすればとうてい戦士とは認められない輩であ

った。男であれば槍の一振りで方もつこうが、女であればそう簡単にもいかない。ならば、殺さずに打ち負かせばすむ話であるが、そうするにも憚られる相手であった。

 少なくとも、あのような輩に本気になれば、過去において『彼』が戦った偉大な女戦士たちに対して侮辱となるであろう。

 そのような者と戦って、一体何の武勲になるというのか。

 殺すことも出来ず、さりとて戦うことも出来ぬとあらば、『彼』には逃げの一手を講じるしか術がなかった。

 鋼を携えて大地を征するは、『彼』の本質であったが、他の同属にあまり見られない特権も有していた。『彼』は己が脚捌きだけで空すら踏破することが出来るのだ。艱難辛苦の果てに会得した奥義であった。

 たちまち、『彼』は空中のヒトとなった。が、敵もさることながら、空を飛翔する技法を用いてすぐに追撃を仕掛けてきた。だが、どんな名馬にも負けぬ『彼』の俊足は、空の上でも遺憾なく発揮された。みるみるうちに両者の距離は離れて行き、ついには完全に引き離した。

 ―――そして、『彼』は現在、月光を背にして上古の時代では到底考えられない、カラクリ仕掛けの巨大都市の上空に悠然と立っていた。

 その都市の名前がダブリンだと『彼』が知る由もない。『彼』は興味深げに市街を眺めた。

「ルフトの弟子の末裔共が組み上げた都か……」

 建築の神の名を呟くと、これだから人界は面白い。と『彼』は愉しげに笑った。

 そうしながらも、全身全霊で敵の気配を探っていた。女のことではない。もはや『彼』の意中からあの敵の姿は消え失せていた。ただ屈辱感だけを残して……

 故に、『彼』は焦がれていた。逃走の恥を雪ぐに相応しい強敵との闘争を。己が臆病者などではなく、真の英雄であることを証明する戦場を。

 秘文字(ルーン)の極意を学び得た『彼』にとって、千里の距離を離れていようとも同属の気配を感じ取ることなど容易い。

 たとえ探し出すことが叶わぬとも、直接喚べばいいのだ、とほくそ笑みすらした。

 それがどれだけ人界に破滅的な影響を及ぼすかなど考慮しない。人が山野を歩くだけでその下にいる小さな命に配慮しないように、『彼』もまた一々人間の都合など斟酌しない。

 その傲慢さ、横柄さ、それこそが、『彼ら』という存在なのだ。―――そのとき、『彼』の術はあまりに意外な存在を感知した。

「コイツは・・・・・・」

 術が返してきた反応は、同属のものではなかった。かと言って、まったく見当はずれでもない。  『彼』とは似て非なる存在にして天敵たるモノ。神話の時代から続く仇敵の気配に間違いないのだから。

 全身がぶるッと震える。それは畏怖か歓喜か。『彼』にも判断が付かない。どちらにしろ、それは闘争の愉悦に他ならない。

 その衝動に突き動かされるまま『彼』は身を躍らせた。戦場という名の目的地へと向って。

 

              ×             ×               

 

 

「う……」

 小さく息を吐いてリリアナ・クラニチャールは目を覚ました。

 意識の覚醒と同時に五感の活動が再開するのを感じる。肌感覚から伝わってくるのは、柔らかな草と土の感触。それがとても心地よく。もっと味合おうと力を抜いて大地に身を委ねようとして……それが異常なことだと、彼女はようやく気付いた。

 そうすると記憶が蘇えってくる。その記憶が確かならば自分は、優しい草を土の上ではなく冷たいコンクリートの上に倒れていたはず……

 がばっと慌てて身を跳ね上げた。眼に映ったのは、闇夜でも手入れが行き届いていると解る一面の芝生模様と遠方に見える巨大な石細工のモニュメント。すぐ傍らには、一本のトルネコの木が生えており、リリアナはその木陰の下で横たわっていたらしい。

(……ここは公園か? 時間もあれからそう経過していないようだな)

 近辺の状況と星辰の位置関係からリリアナはそう推測した。そして、はたと思い至ると、リリアナは驚愕に目を見開いた。

 あの記憶が存在している! あの少年を覚えている。つまり記憶は消されていない?

「いったい何が……」

 訳が解らない、とリリアナは呆然と一人呟いた。

「よかった。気が付かれたようですね」

 まさか、それに応える声があるとは思わずリリアナは背筋が凍りついた。

 それもそのはず、周囲に人の気配などなかったはずなのだ。指呼の距離の気配を見逃すリリアナではない。

 にも拘らず、すぐ隣で人の声が聞こえると言うことは、リリアナの感知能力を超えた陰行の業の使い手か、超高速で移動する能の使い手だろう。

 真っ先に脳裏に過ぎるのはあの少年の姿だ。が、すぐに否定する。声は明らかに女性のものだった。だが、状況から察するに関係者である可能性は多いにあり得た。

 ここまで瞬時に推測しながらも、臨戦態勢すら執らなかったのは、その声には敵意が含まれておらず、ただリリアナを案じる色だけがあったからだろう。

 意を決して、リリアナは声の持ち主へと目を向けた。

「……」

 そこには美しい少女がいた。黒曜石の如く滑らかな長い黒髪に、凛とした清楚な雰囲気を併せ持つ娘である。年のころはリリアナと変わらないか、少し下ぐらいだろう。

 薄紅色のワンピースが汚れても構わないのか、地面に跪いて膝を揃えて畳んで座る――所謂正座――をしながリリアナと向かい合っていた。

「どうかされましたか。まだお加減でも?」

 心配げに少女が問いかけてくる。その声は真摯にリリアナの身を案じているようだ。

「あ、いや、体はなんともない。大丈夫だ……ところであなたは誰だろうか」

 リリアナはいきなり現れた少女に動揺しながらも相手の名前を聞いてみる。

「これは無作法を。申し送れました。わたくしの名前は神無月佐久耶と申します」

 鈴のような軽やかな声で神無月佐久耶と名乗った少女は自らの名を口にした。

「……」

 暗澹たる溜息を一つ。ある程度予想していたことであったが。

 神無月―――その名が示す通り、やはりあの少年の関係者に間違いないだろう。苗字と年齢を加味して推測すれば、あるいは彼の妹なのかもしれない。

 どうであれ、あの少年が言っていた身内とはこの神無月佐久耶のことに違いない。

 となれば当然―――

「佐久耶、あまり彼女に近付きすぎるのは感心しませんね」

 リリアナから死角になっているトネリコの木の裏側から一人の少年が進み出てきた。

 改めて名乗られるまでもない神無月宗一郎。リリアナを気絶させてここに運んだのも彼だろう。

「言った筈でしょう、佐久耶。彼女は大変危険な人物なのですよ」

「な……!」

 あんまりな宗一郎の評価にリリアナは、目を剥いた。危険人物はそっちの方だろう、と抗議しようとして……

(記憶が……やはりわたしは記憶を失ってはいない)

 状況が解らずに動揺するリリアナに佐久耶は、やんわりと声をかけた。

「リリアナさまは兄さまの術に抵抗するあまり、危うく精神崩壊を起こしかけたのです」

 こちらの名前を知られているということは、神無月宗一郎が伝えたのだろう。

 “彼ら”に名前を記憶されているとは意外であった。イタリアの盟主の顔がちらりとリリアナの脳裏によぎる。

 佐久耶は事情を説明してくれた。

 もともと宗一郎はリリアナを過剰に害するつもりはなかったため、リリアナが危険な状態であると解ると直ちに記憶消去の術を切ったのである。その後、気絶したリリアナを担いでこの公園まで運び、そこで合流した佐久耶がリリアナに癒しの術をかけて治療したのだと説明を受けた。

「……事情はわかりました。どうやらわたしは、あなたに助けられたのですね。感謝します」

 傷をつけられた加害者の身内に頭を下げるのも変な話だと思いつつ、リリアナは礼儀上感謝の念を伝えた。

「その様なこと気になさる必要はありません。謝罪しなければならないのはこちらのほうなのですから」

 そう言うや否や、佐久耶は両手を地面に付けて、深く頭を下げた。曰く土下座である。日本の最上級の謝罪を向けられてリリアナの方が戸惑った。

 そこまでされる理由が思い浮かばなかったからである。寧ろ謝るべきは自分の方だと思っていた。どうも彼らは邪術師とは考え難い。それどころか神無月宗一郎の正体がリリアナの推測通りなら、膝をつくとすれば自分の方であろう。

 そう、リリアナが困惑していると、佐久耶はすっと顔を上げて兄である宗一郎を睨んだ。

「何を案山子のように立っているのですか。兄さまも誠心誠意の真心を尽くしてリリアナさまに謝罪するのです」

 今まで彫像のようにぴくりともしなかった少年は、ここで始めて整った柳眉を不快げに動かした。

「ですから佐久耶。なぜ僕が謝罪しなければいけないのです? 話した通り彼女の方から襲ってきたというのに……」

 「うっ」と短く呻くリリアナ。宗一郎の言葉が事実であると知るために。

 確かに彼女は宗一郎に斬りかかった。凶器を携帯した不審人物相手に当然の対応だと今でも確信しているが、彼からすれば一方的に襲い掛かられたと思われても不思議ない。

 実際リリアナが一方的に攻撃を加え続けたのも事実。結局、掠り傷一つつける事も叶わなかったが。

「まあ、図々しい。兄さま、どうやら、わたくしが屋敷で申し上げたことをもうお忘れのようですね」

 とはいえ、リリアナの思いを後にして、兄妹喧嘩は続く。

「わたくしは申し上げたはずです。真っ直ぐにこの公園を目指すようにと。その間、どこにも寄り道など、なさらないで下さいねと」

 妹の舌鋒が鋭く兄へと突き刺さる。覚えがあるのか今度は宗一郎が「うっ」と呻いた。

「リリアナさまが兄さまを警戒なさったのは当然です。戦装束を纏い刀まで帯びていては不審者と間違えられるのは当たり前です。だと言うのに、リリアナさまに手向かいした挙句に女性に手傷まで負わせるなど言語道断。それでも神無月家の男子ですかッ!」

「し、しかし、応戦しなければ、僕が斬られていたんですよ」

 妹の勢威にたじたじとなる宗一郎だったが、なんとか抗弁してみる。

「斬られるのがなんだというのです。兄さまなら何の問題もありませんでしょう」

 佐久耶は素気無く一蹴した。それはあんまりだ、と兄は妹の発言に憤りを見せ、兄妹喧嘩がさらに白熱しそうなのを察して、リリアナは慌てて沈静化に図る。

「ま、待って下さい、二人とも。謝罪は結構ですから落ち着いて下さい」

 その言葉に佐久耶は「なんと慈悲深い方なのでしょう」と尊敬の声を、宗一郎は「当然です」と一言述べるのみ。

 それを見た妹はきっと兄を睨み据えて、再度の舌鋒の切っ先が閃く前に、リリアナは素早く言葉を重ねた。

「ふ、二人はどのような用件でこのダブリンに参られたのです?」

 リリアナの問いかけに兄妹は、はっと顔を見合わせた。

 それは見るからにどう答えていいのか解らない、如何にも隠し事がありますよ、と言った風情だった。

 重い空気が一同を包み込んだ。が、それを真っ先に振り払ったのは兄の方だった。宗一郎は佐久耶と目配せすると、少女も了解したように頷いた。そして、リリアナに顔を向けて口を開こうとした瞬間、

 

 

「―――よお、両手に花とは随分羽振りがいいじゃねえか。どうだ、一輪余っているってなら、オレに譲っちゃあくれないか?」

 

 

 唐突に聴こえてきた第三者の声によって遮られた。

「!?」

 リリアナは剣呑な気配を感じ取り、素早く立ち上がると、サーベルを召喚した。頼もしい愛剣の質感にリリアナはほっと安堵する。

 実のところ、宗一郎に拘束されていた時にイル・マエストロを封印――召喚妨害措置――を講じられているのではと不安だったがどうやら杞憂だったようだ。……実際は、イル・マエストロを、リリアナを抱えながら持ち運ぶのを宗一郎が面倒がって路地裏に放置していただけなのだが、まあ知らぬが仏である。

 それはともかく、リリアナは油断なく剣を構えて声の主を見た。そこに居たのは、見たこともない美丈夫であった。

 堂々たる長身の体躯に真紅のチュニックで身を包み、純白のマントを右肩で見事な細工の純金のブローチで留めている。剥き出しの腕と腿は痩身ながら鋼の如く鍛え抜かれているだろうことが見て取れる。輝かんばかりの美貌に、見る角度によっては目の色彩が七色に変わる宝石のような虹色の瞳。燃えるように逆立つ黒髪に金色と赤色が混ざり合い、男をより一層華美に飾り立てている。

 現代社会では神無月宗一郎以上にあり得ない派手で奇抜な格好である。男がおそろしく目立ちだがりな性格だということが窺わせる。明らかに普通の人間ではない。

「……まつろわぬ神……」

 リリアナは愕然と美青年の正体を呟いた。魔女の資質を持つ彼女が見間違うはずがない。追い求めていた存在が騎士の眼前に顕現していた。

 その瞬間、痺れるような疑問がリリアナの脳髄を貫いた。

 この遭遇は偶然なのか? あの『まつろわぬ神』は己の宿敵の前に姿を顕したのではないのか? ならば、その宿敵とはやはり……

「いかにも、オレはまつろわぬ存在だ。真の英雄である」

 次々と湧き出る疑問に半ば混乱したリリアナの胸中など知らぬげに、男は堂々と言い放った。

「いや、しかしなんだ、なかなかの上玉がそろっているじゃないか」

 そう言いながら男は、ジロジロとリリアナと佐久耶の肢体を無遠慮に眺めた。

 普段なら男の下品な視線など不快でしかなのに、この美丈夫相手だと勝手が違った。頬が熱くなり、自分を見つめる神秘的な瞳に引き込まれそうになる。

 魅了の魔術に掛かっていないはずなのに、こうまで惹きつけられるのは、あの美貌の英雄が放つ高貴さ故か。並みの女性ならひと目で彼の虜になっていたであろう。

 だが、リリアナはその並の女性の範疇に括られる存在ではない。瞬時に、女性の熱い情動を押さえ込み、戦士の冷たい本能を呼び覚ます。

 忘れてはならない。目の前に立っている美青年は、どれだけ魅力的に映ろうとも、一夜にして都市を壊滅させられる災害の具現者であり、一瞬にしてリリアナを肉塊に変えることが出来る悪鬼羅刹なのだ。

(敵に見惚れている場合ではないぞ、リリアナ・クラニチャール! それでも≪青銅黒十字≫の大騎士かッ!)

 己に活を入れて正気を取り戻す。サーベルの切っ先を敵に向けて、ギリッと睨み据える。

「いいねえ、気の強い女は好みだぜ。なんといっても、征服する悦びがあるからな!」

 それを見た男は、そう言ってニヤリと笑った。

 勝手にほざいていろ、と胸中で吐き捨て、リリアナは前進するために両足に力を込める。

 この時リリアナは多分に冷静さを欠いていた。それも無理はなかった。

 今夜、『まつろわぬ神』の急報を聞き、ダブリンの市街に身を晒すと、怪しい少年に遭遇、

図らずも戦闘となり―――敗北した。

 次に目が覚めるとその少年の妹を名乗る少女が自分を介抱してくれていた。ひと段落して、不思議な兄妹から事情を聞こうとしたら、探し求めていた当の『まつろわぬ神』がリリアナの前に出現した。

 多くの怪異に対処してきた経験のあるリリアナでも、この数時間で体験した出来事は異常すぎた。 何より決定的だったのは、神とはいえ相手のその雰囲気に飲まれ、その存在に魅了され、騎士としての己を一瞬とはいえ忘れたことであった。

 それがリリアナの正気を揺るがした。

 神を討伐するのは、民衆を守護する騎士の義務を遂行するため。神を討伐するのは、傷つけられた騎士の矜持を取り戻すため。

 二つの論理が、リリアナに無謀な行為へと駆り立てようとしていた。

 神に挑めば死しか待ち受けていないと知りながら前へ進もうとして―――そこでリリアナの視界は白い衣に遮られた。

「え……」

 神無月宗一郎である。まるでリリアナを庇うように、宗一郎は前へ進み出た。

 驚いたことに宗一郎が背負った、一メートル半を超えるだろう長大な太刀は、すでに右手で抜き放たれ、鋭利な刃が月光を受けて銀色に輝いている。

 リリアナとの戦いですら最後の最後まで抜きもしなかったというのに、すでに戦闘態勢を整えている。これは白い戦装束を纏った少年が突然現れた男の正体を正確に看破していることを示している。

 だと言うのに、宗一郎から焦りもなければ、恐怖もない。冷静そのもの。いや、リリアナの感覚が正しいのなら……信じ難いことに闘争心のようなものがゆらりと感じ取れるではないか!

(闘争心? 神との戦いになるかもしれないのに?)

 リリアナは先程までの戦意もどこえやら、呆然と宗一郎の背を見つめるしか出来なかった。だが、宗一郎の行動に興味を持った者がいた。

「へえ、女を庇う、つうからには、坊主―――オレと殺り合うってコトでいいのか?」

 獰猛に犬歯を剥き出しながら男は嗤う。

 そして、右手を一閃するや、手には忽然と現れた二メートルもの真紅の長槍が握られていた。それに伴って男から獣臭じみた殺気が放たれる。

「それも止むを得ないでしょう。あなたが花に譬えた女性の一人は僕の身内です。あなたの様な方に差し出すつもりは毛頭ありません。もう一輪の花は知り合って間もない方ですが、あなたに弄られるのを見るのは忍びありません。僕の祖国では女性を守るのは男子の務めだと言います。ならば―――抗わせてもらいましょう」

 男から放たれる圧倒的な殺意はリリアナを以ってしても声も出せず、足を竦ませる。だというのに、神無月宗一郎は毛筋ほどの動揺もなく、涼やかな微笑すら浮かべて、悠然と歩を進めた。

「それでこそ、神無月家の男子です、兄さま」

 いつ近付いたのか、リリアナのすぐ脇で兄を応援する佐久耶の声が聞えた。

 この緊迫した雰囲気の中、平然としている辺りこの少女もいろいろと普通ではない。さすが、あの兄にしてこの妹と言うべきか。

「さあ、リリアナさま。ここは危険です。今すぐ離れましょう」

「し、しかし、あの男はどう考えても……」

 『まつろわぬ神』と、リリアナは続けようとしたのだが、

「兄さまなら大丈夫です」

 きっぱりと遮られた。それは相手に全幅の信頼を置いていなければ出せない声色だった。

「……やはり、彼はそうなのか?」

 それはかねてより疑問を懐いていたこと。それを今ぶつける。

「はい。我が兄は、日本で言う、荒ぶる鬼神の顕現。忌むべき羅刹王の化身と呼ばれる存在。欧州では―――」

「カンピオーネ! やはり、神無月宗一郎は八人目の神殺し―――!!」

 佐久耶の言葉にリリアナは慄然とし戦くのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話  月下の戦い 上

 神無月宗一郎は現在の状況に大いに満足していた。

 それも当然。

 宗一郎はこうして『まつろわぬ神』と対峙するために、遥々日本から遠いこの異国(ダブリン)の地に足を踏み入れたのだから。

 宗一郎の妹である神無月佐久耶は、ある特殊な能力を有していた。

 神無月家は神祖の系譜に連なる一族で、その神無月家の女子として生を受けた佐久耶には、先祖返りともいうべき膨大な呪力と強力な霊感能力を持って生まれてきた。

 それは神無月家の秘術と合わさり、日本から遠く離れた異国の地であっても、神々の気配の感知が可能とするほどであった。

 このようにして、『まつろわぬ神』の現界を察知した宗一郎は、即座に行動を開始した。といっても、実際に動いたのは佐久耶だったが。

 攻性呪術専門の兄とは違い佐久耶は、呪術全般の造詣に通暁していた。人間を九千六百キロメートルもの距離を一瞬で移動させることができるほどに。

 『まつろわぬ神』の存在を感じ取った佐久耶は大急ぎで秘術の準備を執り行い、宗一郎をダブリンに瞬間移動させたのである。……この時、出力した莫大な呪力の波を日本の呪術組織である正史編纂委員会が観測し、騒然とさせたのだが、無論、それは神無月兄妹の知る由もないことであった。

 とはいえ、生まれながらに大いなる力を獲得した佐久耶であるが、当然というべきか代償があった。

 等価交換は世の習い。何かを得れば何かを失くすのだ。

 呪術の世界とてその原理は適用される。

 佐久耶の代償は、三十歳まで生きられないと医師に宣告されるほどの脆弱な肉体だった。

 詳しい理由は解っていないが、佐久耶の膨大な力が肉体に耐えられないのだろうと言われている。

 得た力と払った代償が本当に等価であるかは、佐久耶にしか解らない。

 だが、宗一郎が知る限り佐久耶が、己の運命を呪っていることを窺わせる態度を執ったことは一度もない。佐久耶は自分の運命を粛々と受け入れているように見えた。

 佐久耶は今年で十四になる。つまりは、人生の下りに差し掛かろうとしていると言うことだ。家の者たちはそれでも毅然と振舞う佐久耶を立派だと褒め称えているが、宗一郎は妹の人生を、そんな美談にするつもりはさらさらなかった。

 神々が有する権能は、人知を超えた奇跡である。

 その中には武運拙く命を落とした戦士を死の淵から蘇えらせる奇跡すらもある。

 ならば、死病に侵されている佐久耶を救える奇跡もあるに違いない、と宗一郎は信じていた。

 神無月宗一郎は神殺しである。

 神を倒して偉大な神力を簒奪せし魔王である。ならば、宗一郎の執るべき道は決まっている。

 神を滅ぼして必要なものを奪い取ればいい。もとより、躊躇う理由もない。

 神無月宗一郎とはそうなるべくして産み出されたモノなのだから。もっとも、眼前の神ではその目的を達成できそうにないな、と宗一郎は直感した。

 鍛えられ引き締まった肉体に、禍々しい呪力を放っている魔槍を持っているとくればまず武神、戦神の類であろう。だとすれば治癒の能力は期待できそうにない。

 その事実に宗一郎は落胆をしなかった。それより以前の方が酷かったからである。

 先月のことである。宗一郎は故郷の地にて、古き豊穣の女神と邂逅した。

 穀物の豊穣を表す大地の女神は、慈愛溢れる、などと言葉がつくような単純な神ではない。

 冬が来れば死を齎し、大地を荒廃させる非情な冥府の神でもある。

 穀物は春に芽吹き、夏と秋に実り、枯れ、冬には死を迎えるもの。古来より地母神と冥府神の役割は共有されてきた。

 死と再生のサイクル。それは死と生を司る女神であることを示していた。

 宗一郎が何よりも欲する権能を有しているかもしれない女神との邂逅は、優しき兄を歓喜させた。が、結果は無残なものだった。

 激闘の末、辛くも勝利したものの、女神から簒奪した権能は宗一郎が期待したものではなかった。

 あの時ほど、得られる力を自由に選べればいいものを、と本気で思ったことはない。もっとも、今でも思っているが。

 とはいえ、目当てのモノが手に入る確率が低いのなら、妹思いの心優しい兄の顔は必要ではないだろう。

 今必要なのは、ただ神を屠るだけの悪鬼の貌である。 

 精神は冷たく研ぎ澄まされ、逆に肉体は熱く滾っている。

 この状態こそが神殺しに成った証であると人は言う。本能が天敵の存在を嗅ぎ付けて、滅ぼすことを欲しているのだと。

 だが、宗一郎はその意見に、否と答える。

 自分は最初からこうであった。初めて『まつろわぬ神』と邂逅したあの時から、恐怖心や畏怖心よりも闘争心が先に立った。

 だが、それに何の不思議があろうか。神無月宗一郎は、神無月家に神を殺すための殺戮人形として鋳造されたのだから。

 刀が人を惨殺するように。

 斧が木を伐採するように。

 彼の使用用途はただひとつ―――神を弑逆せしめることのみである。

 そのための準備を神無月家は十全に整えてきた。

 何世代にも亘って続けられてきた血統操作の結晶たる最高の肉体に苛烈な戦闘訓練を科した。宗一郎は社会常識を含めた倫理観を教えられるより、剣の振り方、呪力の練り方を教わってきた。

 宗一郎は今までの人生に何の不満もない。

 そのような考えに至る不純物を神無月家が与えなかったこともあるが、長年に亘って厳しい修練で培ってきた自分の能力を充分に試せる機会を誰よりも待ち望んでいたからだ。

 数回の神々との対峙を経てもその思いに変わりはない。

 神とは恐るべきもの? 崇めるべき存在? 

 ―――否、否である。

 神とは戦うべき存在だ。抗うべき天敵だ。自分を満たしてくれる最高の獲物だ!

 そう思い宗一郎はふっと口元を綻ばせた。

 戦う準備は万全である。ならば、始めるとしよう、新たな神殺しの儀を―――

「クク。どうやら、そっちも頃合いは良しってところか。ならば、互いの名乗りを上げるってのも一興か。フ―――まるで古の戦場に舞い戻ってきたようだな! オレはクランの猛犬。太陽神ルーグの息子にしてアルスター最強の戦士、クー・フリン。さあ、オレは名乗ったぞ。次は貴様の番だ、神殺し……!」

 男――クー・フリンは自らの神名を告げた。

 背後から息を呑んだ気配は伝わってくる。おそらくは、あの女騎士のものだろう。彼女にはこの魔槍の英雄の正体に心当たりがあるらしい。

 宗一郎は神話の知識に疎く――そちらはもっぱら佐久耶が担当だった――生憎と堂々と名乗られても、彼がどれほどの神格の持ち主であるのか見当もつかない。が、彼女の反応から察すればかなりの大物だということは理解できた。

 宗一郎は知る由もなかったが、クー・フリンとは現在もアイルランドに語り継がれている大英雄の名である。影の国の女主人スカアハのもとで武術と魔術を学び修め、世に名高き魔槍ゲイボルグを伝授された半神半人の勇者。

 だが、敵の名を知るまいと、それだけで臆する若き神殺しではない。宗一郎もまた誰彼憚ることなく自らの名を口にする。

「僕の名前は神無月宗一郎。仰々しい二つ名など持ってはいませんが、ただあなたを殺す者と覚えていただければ結構です」

「―――ハ! よくぞ吼えたな神殺し……! ならばオマエの首級はこのクー・フリンが貰い受ける!」

 言下に告げるや、クー・フリンは唐突に宗一郎目掛けて突進してきた。

 宗一郎は目を見開く。それも当然だ。

 槍を含めた長柄の武器は、通常距離を離すものだ。長大な間合いを制し、一方的に攻撃できるからだ。それが、定石というものだ。

 だが、クー・フリンは容易く槍の定石を破ってみせた。まるで、そんなコトなど知らぬと言わんばかりに。

 跳ぶような勢いで十メートルの距離を一瞬で踏破し、射殺さんと繰り出されたクー・フリンの槍は、尋常ならざる速度で宗一郎に襲い来る。

「ッ―――」

 だが、いかに速かろうと常人ならいざ知らず、鍛え抜かれた神殺しの動体視力を以ってすれば走りながらの突きの初動を見切るのに難はない。

 これなら打ち払う必要もなく、身を捻るだけで事足りる。早速巡って来た、先制の一撃を加える好機であろう。

 クー・フリンの得物が槍ならば、突いた後は引いて戻さねばならぬのは道理である。

 それは槍がこの世に創造された時から持つ宿命だ。伝説の武器であろうとそれは変わらない。竿状武器の致命的な欠陥である。

 故に、神代の昔から槍兵と死合ってきた剣士は、常にそこを突いて勝利を収めてきた。

(ならば、僕も古の故事に習うとしましょうか……!)

 槍手でありながら不用意に突っ込んできた、その失策を見逃すつもりはない。

 宗一郎は身を捻って槍の一撃を回避する。虚しく空を切る真紅の槍。それを見ることもせずに宗一郎は、剣先を翻してクー・フリンの胴を躊躇なく薙ぎ払う。

 回避と反撃は、瞬く間に遅滞なく行われた。常人には残像すら映らぬ、閃光の如き交差迎撃。

 渾身の一撃は、勝利を確信するに足る会心の一振りだった。

「―――甘えよ」

 だからこそ、それを否定される現実を見咎めて、宗一郎は愕然とした。

 嘲弄の声と共に視界に飛び込んできたのは、紅い光だ。禍々しく輝くその正体は、迫り来る真紅の槍の放つ光に他ならない。

 驚嘆する槍捌きである。この魔槍の英雄には戻りの隙などないのか、光速で悪夢のような刺突を放ってくる。

 眉間に迫る槍の穂先。あれは刺すというより、砕きにくる一撃だ。

「むぅ……!」

 宗一郎は手首を返して宙を奔る刀の軌道変更。このままでは、クー・フリンの銅体を薙ぐより、自分の頭蓋が砕かれる方が早いと即断した。

 跳ね上がる刀と真っ直ぐに来る槍が激突する!

 空中で炸裂した火花と共に、重い衝撃が体を揺さぶる。が、屈してはいられない。

「ふっ―――」

 宗一郎は渾身の力を以ってクー・フリンの槍を弾き返す。長刀と赤槍は正反対の方向に弾け飛ぶ。

 そのまま、刀を構え直す―――のを止めて宗一郎は真横に跳ぶ。そこに間髪入れずに、クー・フリンは第三撃を放ってきた!

 今度こそ敵の身を食い破らんと猛然と迫る槍の穂先。それを予期していた宗一郎は、何とか躱して退ける。

 悠長に刀を構えていたなら、回避に間に合わなかっただろう。長刀で打ち払っていても押し切られたかもしれない。先の無茶な挙動の所為で、手首に違和感がある。常識外れの魔王の肉体とはいえ、回復には二、三秒を要するか。

 だがそれにしても、槍の戻りが、

(早すぎる―――!)

 宗一郎は胸中で盛大に舌打つ。

「クク。流石、チビなだけあって、なかなか素早いじゃないか」

 その侮辱の声は宗一郎の誇りを痛く傷つけ、憤怒の念を呼び起こす。

「僕はチビじゃない。ただ小柄なだけです!」

「それは同じ意味だろう、阿呆が。さあ―――まだまだ、こんなものじゃねえぞ。ちゃんと付いてこいよ、神殺し!」

 四撃、五撃、六撃―――宣言どおり、繰り出される槍は、回を重ねる毎に鋭さを増していく。

 間断なく、息もつかせぬ連撃は、喩えるなら、槍の豪雨そのものだ。

 さっきまでの攻撃が急所狙いの狙撃銃による点攻撃ならば、今は機関銃の飽和攻撃による面制圧。

 もはや、敵は急所狙いなどといったお綺麗な戦いをするつもりはないらしい。

 槍の一撃で急所を貫かれれば、即座に絶命し、死体は綺麗なまま残されよう。だが、宗一郎を千殺せんとする怒涛の波状攻撃は、一度曝されれば、五体は四散されるしか他にない。

 クー・フリンは本気だ。敵は死体すら残さぬ勢いで猛攻をかけてくる。

 これを凌ぐのは至難の業である。言うなれば、雨吹き荒れる嵐の最中、刀一本で己に降りかかる雨粒を、叩き落とせと言われるに等しい。

 そんなことは不可能である。一体何者がそんな試練を成し遂げられるというのか。だが、出来なければ死ぬしかないのだ。

 そんな生と死の境界線の最中であっても、宗一郎の心は沈静を保っていた。湖面のように小揺るぎもしない。まるで、恐怖という感情を忘れたかのように。

 もとより宗一郎は、世界中の魔術師たちから不可能だと言わしめた神殺しを成し遂げた人間である。

 不可能だ、などと言われたところで聴く耳もたぬ。今更それで臆するような、真っ当な神経など持ち合わせていない。

 人々が不可能だと言うのなら、その試練を果してこそ魔王。

 もとより、魔王とは試練が困難であればあるほどに、血潮が滾る生粋の愚か者。ならば、この試練も魔王らしく魂の猛りに身を任せて挑めばいい。

 覚悟と決意を胸に秘め、宗一郎は己を解き放つ。

 最早、考えることはない。―――否、ここからは、思考など邪魔でしかない。

 千本の矢と見紛うほどの槍の洪水が迫っているのだ。一々考えてから動くのでは遅すぎる。

 故に、思考して動くのではなく、思考する前に動くのだ。

 武芸諸流派において、これを無念夢想の理という。剣聖と謳われる真の達人のみが至れる剣術の奥義である。

 天才と称された武人が全生涯を修行に捧げても、辿り着けるかどうか解らない、武の秘極。この奥義を実現するには、血と肉と骨に、技を術を理を記憶させなければならない。

 その境地に達するには、才だけでは到底足りないのである。苦行と言うにも生ぬるい、武の修練が必要だ。

 そして、最後にはすべてを捨てるのだ。

 自分という意思を。人間と動物を隔てている最大の要素である知性を。己が自我を。人間であることさえも。

 これより、神無月宗一郎は人を辞める。ただ、剣を振るうだけの鬼と化す。

 故にこそ、宗一郎は無窮の剣士と化して槍の嵐を迎え撃つ!

 音速を超え、超音速すら超えて、もはや光速に迫らんとする槍の乱舞。視認どころか残像すら遥か彼方に置き去りにする、その神速の槍捌きを宗一郎は悉く受け流す!

「―――」

 それを為す宗一郎の貌には感情の色が消え失せていた。機械人形の如き異様な無表情。神無月家において武を極めるとは、人たらしめるあらゆる要素を削り取っていくことにあると観たのか。

 刀と槍の激突はいつ果てるともなく続く。

 乱れ咲く火花と響き渡る轟音。微塵に寸断される大気の悲鳴。

 数えて既に数十合、それを人外の勢威と速度で繰り広げられていた。宗一郎とクー・フリンは、互いの命を断たんと熾烈の争いを競っていた。

 守勢に入りながらも隙あらば、懐に潜り込もうとする宗一郎。そうはさせじと、攻勢を強めるクー・フリン。

 武装の長さの差故に、間合いの取り合いで最初から劣勢に立たざるを得ない宗一郎は、槍の猛攻を掻い潜り、長刀の最適な攻撃位置まで侵入し、必殺の一撃を叩き込むしか勝利の道はない。

 対して、クー・フリンは竿状の武器である宿命として、懐に入られると攻撃出来ずに守りに入らざるを得ない。故に、クー・フリンは、是非が非でもいまの間合いを保って、宗一郎を仕留めなければならない。

 両者の間にもはや言葉はなく、共に意思すら虚空に投げ捨て、二つの人型の嵐となって剣戟を響かせあう。

 さらに数十合。合わせて百合以上にも及ぶ剣戟の最中、宗一郎の刀がクー・フリンの槍を弾き飛ばした。

 ―――それは取り立てて珍しい光景ではなかった。

 既に数十回は繰り返されている。見慣れた光景だ。だがそれまでと違うのは、赤槍が今までになく大きく弾き飛ばされたことだ。ともすると、クー・フリンの手からすっぽ抜けるのではないか思われるほどに。

 思い返せば、先の一撃は、今までになく軽るくはなかったか。それにあの弾かれようでは、体勢を立て直すのにしばし時間が掛かるに違いない。

 ―――その隙に、斬り込める。待ちに待った勝機が到来した。クー・フリンの失策によって。

 だが、そんなことがあり得るのか。あの魔槍の英雄たる彼が槍捌きを誤るなどということが。

「……」

 突進しようとする本能に自制を促す宗一郎。今の若き神殺しを動かしているのは、思考や本能すら超えた、肉体と精神に刻み込まれた戦闘判断であり、魔王の研ぎ澄まされた第六感である。

 その戦闘判断が疑問を提示し、直感が答えを告げる。

 ―――不用意な前進は危険であると。

 あの魔槍の英雄の槍捌きに失策などあり得ない。もしあるとすれば、それはクー・フリンが仕掛けた罠に他ならない。

「―――」

 ―――だが、それを承知してなお宗一郎は前進を選んだ。もとより、刃の届かないこの距離で宗一郎に勝機はない。

 故に、前に進むしか活路はないのだ。宗一郎は敵を己の刃圏に捉えるべく突入した!

「掛かったな、間抜け―――!」

 それを見たクー・フリンは会心の笑みを浮かべる。それは罠を張って獲物を捕らえた猟師の笑みだ。

 大きく弾き返された赤槍はすっぽ抜けることなく、クー・フリンの頭上で止まった。そこから突き技は放てない。放とうとすれば技を繰り出す前に斬り捨てられるだけだ。

 故に、クー・フリンは突きなど放たなかった。

 赤槍を素早く手元に引き寄せ、くるり、と反転させ、綺麗な半円を描き、殺到してくる宗一郎の顎を石突きで砕きにかかる。すべては刹那の瞬間に行われた早業である。

(怖ろしい)

 恐怖も興奮も、他のありとあらゆる感情を、後ろに置き去りにした無念無想の境地に身を置きながら、宗一郎の精神には、はっきりと畏怖の念が浮かび上がる。

 それ程までに、クー・フリンの石突きによる打ち上げは、精妙を極めた。宗一郎の長刀の刃圏に入ったその瞬間を狙ってきたのである。

 攻撃を仕掛ける瞬間とは武術において、もっとも無防備な状態だ。

 如何なる達人とて攻撃を行う一瞬は、防御の意識が散漫になる。クー・フリンはその刹那を突いてきた。

 自分の間合いを掴んだ後、何も考えずにそのまま攻撃動作に移っていたならば、長刀を振るおうとした瞬間に顎を打ち砕かれ、肉体と精神が乖離したもっとも無防備な状態で、狙い済ました第二撃によって心臓を射抜かれて絶命していただろう。

 ―――だが、宗一郎は健在である。

 罠を警戒していた宗一郎は、クー・フリンを刃圏に捉えながら、攻撃動作を執らなかった。だからこそ、下方からの打ち上げにも対応できたのである。

 そしていま、寸の先で通りすぎていく槍の石突きが煽る風圧を、顔面で感じ取りながら、宗一郎は戦いの趨勢が自分に傾くのをはっきりと感じ取った。

 いま宗一郎が立つ位置は、敵の間合いではなく、己の距離である。

 ここからは、宗一郎のみが一方的に攻撃優先権を保持し得て、クー・フリンはただひたすら防戦に徹するしか術はない。

 クー・フリンの槍捌きに誤りはなかった。だが、戦術にこそ失策があったのだ。

 百撃にも及んだ攻勢を仕掛けながら、一向に揺らがない宗一郎の守りに、クー・フリンは焦れたのであろう。故に一気に勝負を決めようと術策を仕込んできたのだ。それこそが、最大の誤りだと気づかずに。

 取りも直さず、クー・フリンの罠は破った。今度は此方から攻勢に出る番だ。一気呵成に攻め立てようと、宗一郎は長刀を上段から振り下ろす。

 ―――だが、それをクー・フリンの斬撃によって阻まれた!

「なッ……!?」

 あまりの驚愕に無念無想が乱れる。今自分の眼前で行われている光景が理解できない。

 宗一郎の視界には、上から振り下ろされた槍の穂先と宗一郎の長刀が鍔競り合う光景が映っていた!

 だが、それは有り得ない不条理である。クー・フリンの槍は二メートルを優に越える。

 対して、宗一郎とクー・フリンの距離は一メートルほど。たとえ、敵が赤槍を上段で振り下ろしてきたとしても、槍の穂先と鍔迫り合うことなどあり得ない。

 こんな状況になるには、宗一郎とクー・フリン、双方どちらかが一メートルほど下がる必要がある筈だが、両者ともに立ち位置に変動はない。

 その間にも、クー・フリンは、槍の穂先をぐぐっと押さえつけてくる。いまだに宗一郎は状況に理解が追いついておらず、混乱でうまく力を込められない。

 それでも宗一郎は状況打破を図るため、なんとか平静を保って前に目を凝らした。

 すると、事態のからくりが見えてきた。注目するのは赤槍の長さではなく、クー・フリンの槍を持つ手の方だった。

 通常、槍は右手で根元を持ち、左手で槍の中ほどで添えるに留めるのが、基本的な構え方だ。

 だが、クー・フリンは赤槍を両の手で中ほどを持っている。長さは宗一郎の長刀とほぼ同じ。これなら、同等の間合いで刀と槍が斬り合いを演じるのも納得がいく。 

 ようやく理解が及んだ事実に、宗一郎の驚愕の念はさらに深まる。

 槍とは、刺突、薙ぎ払いによる打撃が基本動作である。上級者ならば、戦況に応じて石突きの打撃を利用するだろう。ここまでは、宗一郎も知る槍の操法とも合致する。

 だが、やはりどうほじくり返してみても、宗一郎の知識には、槍を白兵戦で斬り合いに用いる、という使用法はない。

 合戦では雑兵が槍衾の隙間から敵兵を斬りつけた、という逸話もあるが、あれは当時、雑兵の主武装が槍しかないための急場の利用法という側面が強いはず。

 おそらくは、槍の製作者が槍の取り扱い説明書を記したとしても、一騎打ちの場にて槍を剣の様に見立てて振り回すべし、とは載せたりはするまい。

 それは兎も角、クー・フリンが為したことは理解できた。だがこそ、所詮は急場凌ぎの奇策に過ぎないことも見切った。

 槍を短く持って剣に見立て運用したところで、槍は槍だ。刃渡りは短すぎて、斬りつけるには向いていない。柄は長すぎて、執りまわしに、難儀するのは明らかだ。

 これなら順当に守勢に回った方が、有効だった筈である。守りを堅固にして、巧手の攻め疲れを待って反撃に転じるのが、この戦況における定石だろう。

 クー・フリンはほとほと定石を嫌うらしい。だが、それは同時にクー・フリンの精神が混乱の極みにあるようだ、と宗一郎はそう見て取った。

 術を仕込んで失敗した挙句に、それを挽回するべく、己が技ではなく、更なる奇策を以って当たるなど、正気の槍使いのすることではない。

 ともあれ、クー・フリンの精神の自壊は、宗一郎にとって歓迎するべき事態である。当然、その隙を見逃す宗一郎ではない。

 渾身の力を込めて鍔迫り合いから脱出する。高い金属音を立てて弾かれ合う刀と槍。

「ふっ―――!」

 すかさず、裂帛の気合い以って、宗一郎は長刀を振り下ろす。敵もさることながら、見事に応じて見せた。

 先刻の焼き直しのように、再び鍔競り合う。が、勿論、同じであるはずがない。もはや、槍を剣の長さに持ち直しての斬撃は、宗一郎にとって未知ではなく、すでに既知のことである。

 槍本来の用途から外れたために生じざるを得ない取り扱いの難しさという弱点も看破している。

 ならば、驚愕も恐怖も感じる必要はない。後は、敵が崩れるまで一気に畳み掛けるのみ。その心気の起こりに、肉体も呼応した。

 迸る剣閃は、細い刀身とは裏腹に豪快で力強く勢威に載っている。それでいて、クー・フリンの槍捌きもかくやと言わんばかりに速い。なだれ打って攻め立てる連撃は、情け容赦なく、確実に敵の命を獲りにいく。

 その悉くをクー・フリンは、いまや即製の剣と化した槍で弾き返す!

 その手練は、断じて尋常なものではない。この魔槍の英雄は剣の心得もあるのだろう。それも相当な技量に違いない。やはり相手は武芸百般に通じた武神であったのだ。

「ちィ……!」

 だが、それでも無理がありすぎた。如何な武神とて剣ならぬ剣で、宗一郎の猛攻を防ぎきれる筈もなかったのである。

 相手が並みの剣士ならば、この槍の構えでも一撃で斬って捨てることも出来たであろう。

 だが、神殺しを成し遂げた宗一郎を並みの相手と見縊られるのは業腹というものだ。

 そして、十数合目。クー・フリンは宗一郎を侮ったツケを支払う時がきた。

「ぬ……ッ」

 ついに、宗一郎の長刀を捌ききれず、クー・フリンの体が後方に流される。右に捻るようにして体が後ろに傾いていく。

 間髪要れずに、宗一郎は切っ先を翻して横に一閃。腹を裂くどころか、胴ごと両断せんとする勢いだ。

 クー・フリンは動かない。体の流れが止まっているところを見ると、体勢を立て直そうとしているのだろう。が、もはや遅すぎる。渾身の一撃は遺憾なくその威力を発揮して、敵の胴を薙ぎ払うはず……

 そのとき、託宣のように降りてきた直感が、死ぬぞ、と告げた。

 そして、宗一郎は見た。クー・フリンが浮かべる凄絶な笑みを。それは先刻と同じ、獲物を見る猟師の貌だ。それも、先刻よりずっと深い。確信に満ちた貌。

(まさか、これも罠……!!)

 宗一郎の驚愕をよそに、クー・フリンは驚くべき行動に打って出た。

 クー・フリンはいつの間にか穂先近くを握っていた右手で、なんと赤槍を宗一郎に向けて投げ放ってきたではないか!

 これこそ、クー・フリンの張った真の罠。必勝のための一刺。

 クー・フリンの一連の術策は、すべてこの瞬間のためだった。

 敢えて、宗一郎を懐に入れたのは、槍の投擲で標的をより確実に仕留めるための手段。あの戯けた槍の操法は、槍の持ち手を投擲に適した位置に持っていくための偽装。

 そして、宗一郎の剣撃に押されて、体が後方へ流れたように見えたのは、必勝の槍を放つための予備動作だった。

 だが、誰に予想できようか。よもや白兵戦で投擲を行う槍使いがいようとは!

 だがしかし、クー・フリンの槍投げは順当の投擲術である助走をつけての上手投げではなく、体と手首の捻りだけで打ち出す下手投げだ。地球の重力を味方につけていない下手投げではたいした速度は出せない筈であった。

 ならば、白兵戦での槍の投擲という虚を突かれはしても、宗一郎なら刀で打ち払える筈……

 だが―――クー・フリンは恐るべき投擲の名手であった。赤槍は物理法則を引き千切りながら、紅い弾丸と化して宗一郎の腹を抉りに来る!

「はああああ!!」

 宗一郎は直感に身を委ねた。技を捨てて、横に全身を投げ出す。

 繰り出した技を中断して、回避行動に移るべく身を翻す……言葉にしただけでも法螺話にしか聞こえない挙動を、鍛え抜かれたカンピオーネの出鱈目な肉体は可能にした。

 人体力学を無視した動きに、肉体は抗議するように軋みを上げ、闇夜の虚空に血飛沫が舞い散る。胴を狙った一刺を避けきれず、左脇を浅く抉ったのだ。

 苦痛を無視し、地面を転がりつつ、宗一郎は即座に立ち上がる。先の一撃が投擲ならば、クー・フリンは最早無手のはず。ならば今が好機……

 だが、敵の姿を視界に納めた宗一郎は失望の吐息を漏らした。クー・フリンの槍は健在である。未だ主の手の中で禍々しく輝いている。

 クー・フリンは赤槍が右手からすっぽ抜ける寸前で根元を掴んで留めていたのだ。

 奇策に思えた白兵戦での槍の投擲は、クー・フリンにとっては順当な槍術の一つであったらしい。

 兎にも角にも、結果はどうであれ危機は脱した―――そのはずである。にも拘らず、なぜクー・フリンは嗤っているのか?

 

 

「―――受けたな、魔槍の一撃を。ならば、後悔するがいい。我が槍は突けば三十の棘となって破裂する。魔棘よ、食い破れ―――!!」

 

 

 世界を呪う呪言が謡われる。

 その瞬間、宗一郎の全身から血が噴出した。なぜか脳裏に体内から棘が飛び出たようなイメージが湧く。冷たく暗い色の死の棘だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話  月下の戦い 下

「……ッ!? むぅ……!」

 事実その通りだったのだろう。みるみるうちに白装束が朱に染まる。脇腹の創傷がひどく痛む。それ以外の、槍の穂先が触れもしていない筈の箇所からも、新たな裂傷が出来ていた。

 その数―――三十。そのすべての傷が次第に激しく熱を帯びて痛み出す。

「これは、逆棘の呪い……ッ!」

 崩れかかる体を宗一郎は強引に戻して、間合いを離すべく後退する。激しい運動でますます血が飛び出していく。だが気にしていられない。今攻勢を仕掛けられたら、防ぎきる自信はない。なにより、あの深紅の槍は危険すぎる!

 宗一郎の懸念を余所に、クー・フリンは追撃してこなかった。

「ほう、お利口だな。坊主、正解だ」

 そう言って、魔槍の英雄は口角を吊り上げて嗤う。

「……それはどうも、お褒めに預かり恐縮です。でもそれはきっと、親の教育がよかったためでしょう」

 何しろ英才教育(スパルタ)でしたからね、と胸中で呟きつつ、宗一郎は打開策を模索する。

 最優先で攻略する必要があるのは、やはりあの魔槍。宗一郎の直感では、あの槍はその真価を十全に発揮したわけではない。

 この魔性の傷ですら、あの『魔槍』の能力の片鱗に過ぎないとなると、真の力とはいかほどであるというのか、宗一郎をして心胆寒からしめた。

 だが、今警戒するべきは、未だ敵が秘せる能力よりも、敵が晒した方だ。

 我が槍は突けば三十の棘となって破裂する―――クー・フリンが唱えた呪句、その意味を宗一郎は全身で理解させられた。

 魔槍で負傷した創傷の追加。その効果たるや、二倍、三倍どころか、三十倍といった法外なものである。それにカンピオーネの非常識な肉体は戦闘中であれば、受けた負傷の痛みは即座に消え、驚異的な早さで治癒さえしてくれる。にも拘らず、それが今はない。

 全箇所の創傷はいまだ痛みを持って宗一郎の体を責め苛んでいる。明らかに通常の傷ではない。  ―――間違いなく、呪いの傷であろう。

 故に、これ以上断じて一刺たりとも生身で受けるわけにはいかない。

 カンピオーネの生命力とて、軽症でもあと五刺も受ければ死を免れ得ないだろう。重症を受けでもすれば、即死である。

 かといって、クー・フリンの神速の槍捌きを前にして負傷を恐れて勝てる道理がない。

 つまるところ、白兵戦に勝機はないのは明らかだ。

 だとすれば、槍の射程外からの遠距離戦に活路を見出すしかない。が、宗一郎の武装は長刀のみである以上、呪術に恃むしかない。が、呪術は神々の圧倒的な呪力抵抗により、決定打に為りえない……

 もはや認めるしかない。神無月宗一郎が保有する本来の戦闘能力は、クー・フリンのそれに劣っている。

 神無月宗一郎が磨き上げた剣術、練り上げた呪術をどれほど駆使したところでクー・フリンに勝つことは叶わない。

 ならば―――

「クク。なら、そう教えてくれた親に感謝しながら、それを満足に生かせなかったテメエの不甲斐なさを恨め。さあ、無駄話はここまでだ。覚悟は出来たか、神殺し」

 クー・フリンは腰を沈め、槍の切っ先をゆらりと宗一郎へと向ける。

 それは順当な槍術の構え。手負いの獲物に奇策は必要ないと判断したのか。神速の槍の舞いで決着を付ける算段のようだ。

 クー・フリンが飛ぶ。宗一郎が苦痛を忍んで稼いだ数メートルの距離が一瞬で奪われる。

 ―――為すべきことは明白。剣術でも呪術でも自己の力では届かないというのなら、自分以外の権能(チカラ)を使えばいい!

 

 

「オン クロダノウ ウンジャク――――」

 

 

 清浄な火の姿をイメージで描きながら、宗一郎は真言を紡ぐ。

 これは、神々を讃える聖句、神々に祈りを捧げる祈願句である。されど、神殺しの魔王が謳うならば、それは堂々たる神々への宣戦布告に他ならない。

 ああ――神々よ、見るがいい。恐れ戦くがいい。貴様らの天敵が此処にいるぞ!

 やにわに宗一郎の全身に赤い燐光が包み込むや、絢爛たる紅蓮の炎が噴き出した。

 宗一郎を基点に燎原の火の如く渦巻く赤い炎。さながら、生き物のように唸りを上げて吼え猛る。

 宗一郎目掛けて突進して来たクー・フリンは、慌てて後ろに飛び退く。発現した権能を警戒してか、獣の如き俊敏さで十メートルほどの距離を取った。

「―――ようやく晒したな! そいつがテメエがどこぞの神から奪った神力か。なかなか派手だな。おもしれえ、来いよ。どれほどのモンが見極めてやる」

 クー・フリンは愉快げに唇を吊り上げた。が、クー・フリンの期待に反して、紅蓮の猛火は顕れたときと同じく唐突に火の粉ひとつ残すことなく掻き消えた。

 クー・フリンを追撃もしなければ、宿敵を倒さんと火勢を強めることもない。その必要がなかったからだ。既に赤い炎は本来の役目を忠実に果たし終えていた。

「何……」

 驚きに目を見開いたクー・フリンは、ふいに顔を強張らせるや、目を細めて殺気を滾らせた双眸で宗一郎を射抜く。

「オイ、何をやった、神殺し? 貴様の体から『魔槍』の呪いが消えてやがる。たとえ貴様が異邦の同胞を殺して人ならざる身に成り果てようとも、今しばらくは槍の呪いに苦しむはずだが……」

 解せんな、とクー・フリンは低く呟き宗一郎を冷たく睨み据える。

 そう。宗一郎の体から『魔槍』の呪いは、すべて解呪されていた。激痛はたちまち取り払われ、カンピオーネの肉体は阻害されていた傷の治癒を開始している。

 これこそが、神無月宗一郎が密教における明王の一尊―――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を倒して得た権能である。

 古代インド神話においてアグニの名で呼ばれた炎の神の所有する、烈火で不浄を清浄と化す神力で呪いを焼き払ったのである。

 この権能を発動すると、呪詛や毒素、そして、いかなる呪術ですらも無効化できるのである。

「どうしました、クー・フリンさん? 篝火を目にしただけで逃げ惑うとは、あなたは獣のように臆病なのですね」

 あれほど絶体絶命の危機にあった宗一郎は、いまやクー・フリンを挑発する余裕すらあった。

体から激痛は消え失せ、四肢も十全に動く。脅威だった『魔槍』の呪いも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能で無力化できる以上、恐れる必要は何処にもない。

「抜けせ! だが解ったぞ。貴様の権能の正体が! 穢れと悪を焼き尽くす『聖火』の権能―――浄化の神力だ! それで槍の呪いを焼き払ったな!」

 自慢の愛槍の力が無力化されたことを知って、なおクー・フリンの不敵の笑みは崩れない。

「だが、オレは弱点も見破ったぞ! その手の権能はオレの『魔槍』の呪いは苦もなく燃やせても、オレ自身を焼くには少々火力が足りるまい」

「……」

 宗一郎は内心で舌を巻いた。おそるべき慧眼さである。わずか一度の権能の行使で能力を看破したのみならず、弱点まで見つけ出すとは。

 智慧の権能か、それに類する能力を有しているのかもしれない。ただの武神と考えていては、予想だにしない不意打ちをくらう羽目になりそうだ。

 クー・フリンの推測は正しい。宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した権能は、すべてを焼き尽くす破壊の炎ではない。不浄を焼き尽くす破邪の炎である。

 それ故に、どうしても能力の幅が限定されてしまうのだ。呪詛や毒素には絶対的な力を有する反面、通常の物質には旨く能力が働かないのである。

 無論、浄化の炎であろうと炎は炎である。熱量を有している以上、物質は燃える。だが神の呪術抵抗力を超えることは叶わない。……いや、術がないわけでもないが、アレは切り札だ。代償を考えれば容易に使用するわけにはいかない。

 つまりは、魔術を恃みとする神ならば繰り出される秘術を悉く燃やし尽くし、戦局を有利に運ぶことも出来ただろうが、白兵戦主体の武神ではどうにも相性が悪過ぎるのである。

 だがそれを承知して、なお宗一郎に臆する心が宿ることはない。もとより、宗一郎は戦闘において権能という理外の力に信を置いていない。

 条理を覆す奇跡。本来、人にすぎない宗一郎が持ち得ない筈だった圧倒的な力。それを宗一郎はある日、授かり得ることになった。

 権能とは人が神を打倒した奇跡に対する褒賞であり、次の神殺しを成し遂げるための牙であるという。

 だが思い返してみれば、権能を授けてきた存在とは果たして何者であったか。

 ―――神である。異邦の女神であった。

 かの女神の超呪法により宗一郎は異能の力を賜ったのである。だが宿敵であるはずの神から与えられたのならば、奪い取るのもまたかの女神の意のままなのではないのか。

 そう思い至ればこそ、宗一郎はこの権能(ちから)には頼るまいとしてきた。異邦の女神もまた宗一郎が倒すべき敵に他ならないのだから。

 そう、神無月家の数百年もの永きに亘る研鑽は、宗一郎のこれまでの修練は、古今東西ありとあらゆる神話に眠り微睡んでいる神々を叩き起こし、打倒することにあるが故に。かの女神とて例外ではない! 

 ……だが、いざと為るとこのざまである。危機に陥れば、カンピオーネの本能は宗一郎の意地など容易く捻じ伏せて躊躇なく権能を行使させる。

 己が未熟を恥じ入るばかりであるが、ひとたび権能の行使に踏み切れば、宗一郎は以後権能の力を戦術に組み込むことを躊躇わない。本能が勝利を求めて欲するのである。我ながら毒されているという自覚はあったものの、今更止めることなど出来るはずもなかった。

「ふっ」

 鋭く呼気を吐いて宗一郎は、両手に握る刀を意識して精神を集中させる。呪力が怒涛の勢いで長刀に注ぎ込まれるや、その刀身が燐然と赤く輝き、闇夜が駆逐されていく。

 赤い輝きは凝縮された火炎そのものだ。いまや長刀は超高温に熱せられた灼刀と化していた。それだけではない。宗一郎が長刀に封じ込めたのは、只の炎などではない。邪悪を打ち破る破邪顕正の炎。

 故に今この瞬間、人の手で鍛えられた長刀は烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能によって神刀へと変革を遂げた。

 剣撃の威力、切れ味ともに以前と比較にならない。さらに敵を穿てば内部から焼き尽くし、蹂躙する。神の呪術抵抗力がどれほど堅個であろうともこれを防ぐ術はあるまい。

 もとより、宗一郎は剣士である。弩級の如き戦法は好まない。敵はただ斬り伏せるのみ。

「ふん。火力不足を一点に集束させることで補ったか。あくまで、オレと斬り合いを興じるハラか。人間風情がいい度胸じゃねえか。いいだろう。付き合ってやる……と言いたいところだが、テメエが槍の呪いを無効化していい気なっているってのが気に入らん」

 そう言うやクー・フリンはゆっくりと右手を頭上に掲げた。その全身は衰えを知らぬ闘気が漲っている。

 間違いない。クー・フリンは新たな権能を行使するつもりだ。その予感に宗一郎の四肢が緊張する。五感がクー・フリンの一挙一頭足を見逃すまいと集中する。

「さあ、兄弟たちよ―――戦の角笛が鳴ったぞ! 槍の踊りの時が来た。疾く我が元に参れ。ともに大地を駆け巡ろう!」

 クー・フリンは言霊を唱えて、右腕を号令の如く振り下ろした。

 その途端、呪力の奔流が吹き荒れるや、その中から二頭立てに戦車が現れ出でた。

 轅に繋がれているのは精悍で逞しい二頭の軍馬だ。灰色と黒色の逞しい神馬が牽いているのは、豪華な装飾で飾り立てられた燐爛たる青銅製の戦車であった。その車輪両側面には死神の鎌の如き禍々しい巨刃が設置されていた。

 すぐさまクー・フリンは飛び上がり戦車へ乗り込む。

「よく来てくれた兄弟たちよ! 神話の刻のように再び共に戦おう」

 二頭の軍馬は主人の言葉に答えるように、嘶くと戦の興奮で蹄を踏み鳴らし鼻息を荒くする。

「待たせたな、神殺し。さっそく始めようじゃねえか」

 自分が召喚した戦車の威力に絶大な自信があるのだろう。クー・フリンは誇らしげに笑った。

 その一部始終をつぶさに見届けた宗一郎は、何する風でもなく無言のまま佇んでいた。

 さりとて、神代の戦車の放つ膨大な呪力に威圧されたわけでも、無論ない。

 ただクー・フリンの意図を宗一郎が、理解しかねたゆえである。

 軍馬よりなお早く大地を駆ける俊足の持ち主であるクー・フリンが、この局面で己以外に脚を託すのならば、あの戦車の能力を推測するのに難はない。

 おそらくは、神速の権能。宗一郎はそう見て取った。だからこそ、クー・フリンの目的が読めない。

 確かに神速の権能は強力な能力である。四次元的な挙動で戦場を天翔ける圧倒的な戦闘速度は、常人には対応することなど到底叶うまい。

 だが剣術の秘極に到った剣士ならば話は別である。

 クー・フリンは宗一郎がいまだその境地に達していないと判断したのだろうか。だとするならば問題はない。その勘違いを正してやればいいだけの話。

 問題なのは宗一郎が神速の権能の対抗手段を持ち合わせていることを承知して、なお神速の権能を行使してくる場合である。

 こちらならば、極めて深刻な問題である。クー・フリンの策が窺い知れぬ以上、安易に仕掛けるわけにはいかない。

 あるいは、前提条件からして間違っている可能性もある。つまり、敵戦車の能力が神速の権能ではないことである。可能性としては十分にあり得る事態である。

 とはいえ、クー・フリンの策を看破するまでは、守勢に回るしか術はない。それに現状最も警戒するべきは、やはり神速の権能であることに変わりはない。あの圧倒的な速度の暴威は脅威に過ぎる。油断はできない。

 実のところ、宗一郎は神速の使い手との対戦経験があった。それは宗一郎が最初に倒した神である烏枢沙摩明王―――かの神もまた神速の権能を有していたのである。

 当時、宗一郎にとって神速の権能はまったくの初見であった。一撃、碌に反応できずに被弾した。あのとき烏枢沙摩明王が本気であったならば、宗一郎の命脈は尽きていただろう。

 幸い、『まつろわぬ神』は人類を侮る傾向があったため、宗一郎は事なきを得た。と言っても、流石に二撃目を許すほど彼も甘くはなかった。既に鍛錬によって神速を打ち破る術理を修めていたからだ。

(……当時と同じことをすればいいだけのことです)

 剣理に沿うならば、宗一郎より速力に勝る敵ならば後の先―――敵に先手を打たせ、これを防いで勝利を得る――を取ればいい。

 速力に勝る相手にわざわざ宗一郎から仕掛けて敵の土俵に登ってやる義理などない。泰然と待ち構えるだけで事足りる。

 敵の戦闘速度が常軌を逸してさえしなければ、勝利へと導く正しい戦理である。だが定石が通用しないからこそ、ただの後の先では駄目なのだ。

 『神速』は文字通り目にも映らぬ疾さである。目で視てから反応するのでは遅すぎる。

 故に、敵の肉体反応を視るのではなく、心理的反応を感じ取るのだ。

 敵の放つ殺気を、攻撃の意思を研ぎ澄まされた五感で嗅ぎつけて、その瞬間に回避行動に移るのだ。

 しからば、敵影は何もない虚空を凪ぐのみであろう。

 いかに超常の速度を誇ろうとも、攻撃する前に回避出来れば恐れる必要などない。

 無論、困難を極めるも、一度ならずとも切り抜けた試練である。必ず成し遂げてみせると、宗一郎は意を決する。

 ―――第二幕は激しく切って落とされた第一幕とは裏腹に静寂とともに始まった。だが両者ともにこの静寂が長く続くことはないと解っていた。

 熟考の末、不動を選択した以上、宗一郎から動くことは有り得ない。クー・フリンもそれを察しているだろう。

 故に第一幕と同じく動くのはクー・フリンにおいて他にいない。

 果たして、クー・フリンは仕掛けた。もはや大地を踏む蹄の音すら聞くことも叶わぬ超速の世界へと突入した。

(やはり神速……!)

 先立ってクー・フリンの殺意を察知した宗一郎は、即座に反応し、真横に跳んだ。

 二頭立て戦車の能力が知れた以上、宗一郎の策は定まったも同然である。安全策を講じるならば、ここは回避に徹するべきであった。

 さらに返す一刀でクー・フリンの首を刎ねられれば最高である。だが大型車両に匹敵する馬鹿でかい戦車に乗り込まれた以上、たとえ御者台の上で身を晒していようとも、宗一郎の剣先を届かせるのは難しいだろう。

 故に回避こそが最善手なのである。

 神速はその速さが枷となって繊細な動きが出来ないという弱点を抱えている。宗一郎が回避行動を執った瞬間に神速の領域下のもと神懸った早さで追撃に移ることが出来ない。

 ましてやあの巨大戦車の構造上到底小回りなど利くまいし、一度回避されようものなら後は反転して再追撃する以外に攻撃する術はあるまい。

 あの戦車はもともと対人用ではなく対軍用に想定された決戦兵器なのであろう。

 万の軍勢をも薙ぎ払う巨体に物言わせた超重量の神速の突進力は脅威であるが、神速を見切る“眼”を持っているのならば無効化は容易い。むしろ小回りの利く生身の神速使いよりも対処しやすいかもしれない。

 しばらく回避に徹し続けていれば、いずれクー・フリンも己の戦術の誤りに気づき、自慢の戦車を降りて徒歩に戻らざるを得まい。

 そのとき、宗一郎は無傷で敵の権能ひとつを潰し退けた上に、クー・フリンより心理的に優勢に立つことが出来る―――筈であった。宗一郎が回避行動さえ執っていれば……

 宗一郎が身を置いた位置は、もといた場所より数歩ほど隔てた距離に過ぎない。その程度の距離を離れたところで、勇壮な巨馬の突進による轢殺死は免れても、禍々しい巨刃の一撃による裁断死からは逃れられない。

 回避に適した場所ではないことは明白であった。だが、もとより宗一郎は回避行動を執る積もりなど、さらさらなかった。

 宗一郎がこの位置に降り立ったのは、それが必要であっただけ。

 宗一郎は戦車に固定された巨刃を思い起こす。間違いなく神界の鋼に相違なかろうが、それ事態に強大な神威を帯びているようには見受けられなかった。

 ならば斬れる、と宗一郎はそう見積もった。

 宗一郎の手に持つ鋼も至高の逸品に違いないが、所詮は人界のものに過ぎない。だが浄化の神力を注ぎ込まれた今の彼の愛刀は即製の神器と化していた。

 故に、宗一郎の技量を以って神剣を振るうのならば、神界の鋼といえども断てぬ道理がない。

 宗一郎は神速の突進に対して回避ではなく迎撃で以って応じる心算であった。

 回避による事実上の無効化ではなく、迎撃による物理的な無力化で戦車を破壊することが狙いである。ちまちまと逃げ続けるよりも、あくまで攻めの戦法を宗一郎は選んだ。

 神威の速度域で驀進してくる二頭立て戦車、その側面に固定された凶悪なる巨刃を確かに見据えて、宗一郎は刀を大上段に振りかぶる。そのときである。

「―――ッ!?」

 宗一郎は見咎めた。常の眼では見ることも叶わぬ、この世ならぬ神速の領域より迫り来る戦車の御者台、その上で突きの構えを執るクー・フリンの姿を!

(まさか、向こうは神速を発動させながら精確に攻撃出来るのか……!?)

『だから、テメエは甘いんだよ』

 何処からとも聴こえてくるクー・フリンの嘲弄の声。それに先じて放たれた刺突は、文字通りの神速。だが間一髪宗一郎は身を伏せていた。

 紅槍の穂先が背中を擦過して白い衣を血に染める。傷口から懲りずに侵入してくる呪いを即座に焼き祓いながら、宗一郎は己の見込みの甘さに歯噛みした。

 あの魔槍の英雄を侮るべきではなかった。神速を見切られてなお必勝の方策を蓄えているとなぜ疑わなかったのか。

 だが回避手段を講じていたとしても槍の鋭鋒からは逃れられることは叶わなかったであろうと宗一郎は解っていた。

 宗一郎は武術に精通しているが故に、攻撃も防御も常に無駄を排した必要最小限の挙動を執る。たとえ回避行動を取っていたとしても、一寸の見切りで以って巨刃をかわす立ち回りを演じていたに違いない。

 それでは、やはり赤槍の餌食となることを免れ得なかったであろう。むしろ、次など考えずに遮二無二に地面に身を投げた方が意外といい結果を出していたかもしれない。

 神々との闘争において、修めた武術の技すら時には棄てざるを得ないことを宗一郎は身を以って学んだ。

 だからこそ、次は余計なことなど考えずに回避に徹することを宗一郎は心に誓う。

 だがこの時点でもまだ宗一郎は、クー・フリンの脅威について見積もりが甘すぎた。百戦錬磨の魔槍の英雄が容易な“次”など与えてくれるはずがない!

 ズドン!と地面が揺れるほどの轟音と衝撃が深夜の公園に響き渡る。直後、影すら見せずに通り過ぎていくはずだった二頭立て戦車が宗一郎のすぐ脇に“出現”した。

「―――!!」

 宗一郎は愕然と目撃したのは、なんと巨大戦車が左右二輪構造にも関わらず、唐突に前のりにつんのめって前輪走行(ストッピー)の如く後方の車体を浮き上がらせ、宗一郎を押し潰しに来る車両の姿であった!

 その原因を作り上げたのが、御者台からつるつると地面に伸びた赤槍なのだと誰が信じられようか。

 おそらく、クー・フリンは刺突をかわされるや否や、即座に制動装置(ブレーキ)の如く赤槍を地面に突き刺すことによって、急制動をかけて後方の車体を浮き上がらせたのだろう。

 物理法則に真っ向から喧嘩を売るその奇跡が、どれほどの魔槍の英雄の剛力が、どれほどの赤槍の強度が可能ならしめているのか、宗一郎には想像もつかなかった。

 条理に反した光景に唖然とするあまりに、宗一郎は千金に値する貴重な時間を無為に食い潰してしまった。回避する余裕が失われたのだ。

 このままでは地面に腰を突っ伏したままでぺしゃんこになる羽目になる。そんな運命はごめんだ、と宗一郎は何もない虚空を掴んでそこからあるものを取り出した。

 それは一枚の呪符であった。日本伝来の呪術たる陰陽術を行使するための触媒である。

 宗一郎はその呪符―――木行符に呪力を通して頭上に投げ放った。

「みなかたの、神の御力、授かれば祈らむことの、叶わぬはなし、野辺に住むけだものまでも縁あれば、暗き闇路も、迷わざらまし、我身守り給え、幸給え―――汲々如律令!」

 宗一郎は呪言を唱える。大国主神と沼河比売の間の御子神たる風神である建御名方神に捧げる祈祷。風を起こす木行符に、風神に捧げる祈祷呪文を上乗せした呪術強化。相乗された風の呪術が宗一郎の呪力を受けて起動する。

 放たれた木行符が轟風を呼んで収束、高圧の気圧の束が弾丸の如く疾駆し、宗一郎に圧し掛かってくる車体を押し上げ、吹き飛ばす!

 それに引き摺られるように二頭の神馬の後肢が浮き上がる。だが、前肢はまるで大地に吸い付いたように離れようとせず、車両は神馬の前肢を中心にコンパスで半円を描くように宙でくるりと回って落下し、轟音を響かせて地面に車体を押し付けた。同時に二頭の神馬の後ろの蹄も大地を踏む。

 二頭の神馬と一柱の槍神、三対の双眸がまるで何事もなかったかのように正面から宗一郎を見据えた。

「……」

 呆然と言葉も出ない宗一郎。それもそのはず、この事態は宗一郎が意図したものであるはずもなく、また偶然に起こり得ることでもない。

 宗一郎の呪術は戦車を数十メートルほど吹き飛ばして地面に叩き付けることによって破壊する意図があった。

 にも拘らず、現実はどうか。戦車は無傷で地面に着地を果たしたのみならず、あろうことか再突撃のための反転すらわざわざ行う必要すらないほど完璧に体制を整えているではないか。

 これも宗一郎が放った風の呪術をクー・フリンが巧みに利用したためだ。このような所業、騎手の卓越した戦車運用能力だけで為せる業では断じてない。

 事実、宗一郎は見ていた。宙に薙ぎ払われたクー・フリンの指先が幾何学的な紋様を虚空に描くのを。

 その紋様の意味は宗一郎には解らない。が、それが呪術に必要な呪符や呪文と同じ触媒であることは理解できた。

 ならば、結果を見るにクー・フリンが行使した呪術の正体も明らかだ。

 おそらく宗一郎が使用した呪術と同属性の風術だろう。気圧を操作することで吹き飛ばされて、破壊される運命にあった筈の二頭立て戦車を救出したに違いない。それのみならず、気流を操り即座に再突撃に移れるような位置取りで戦車を軟着陸させたのだ。

 まさに絶技といえた。並の呪術使いに出来る術ではない。あの魔槍の英雄は槍を繰り戦車を駆る武神でありながら呪術を司る神でもあるらしい。

 唯の武神ではないことは既に予想を立てていたが、難敵がますます難敵と化したことに、宗一郎は一層に気を引き締める。

「―――出でよ、貧狼!」

 宗一郎は素早く立ち上がり、距離を取りつつ、高らかに叫んだ。

 宗一郎の全身から呪力が爆発的に立ち昇り、それに呼応して逆巻く風が吹き荒れて―――消え失せた。何一つ変化しないままに。

 それを見咎めたクー・フリンは、厳しく宗一郎を睨み付ける。

「貴様、何をしやがった?」

 一見すると宗一郎が行使した何らかの術が失敗したように映るだろう。凡夫ならそう判断する。だがクー・フリンは呪術を司る神である。術式が成立したことを本能で感じ取っていた。

 故にクー・フリンには何一つ変化の起らない現状が納得できない。間違いなく何かが起こっているはずなのだ。

「さあ、何でしょう」

 宗一郎はクー・フリンの疑問に恍けるように答えてから朗らかに笑った。

「ちッ……」

 クー・フリンは舌打ちして周囲を警戒しつつ、次に執るべき行動を判断しかねた。神殺しが何らかの詐略を用いているのは疑いない。

 ならば一度神速の領域に踏み込んでしまえばいかなる術策であろうとも振り切れる、などと思うほどクー・フリンは自らの権能を絶対視していない。

 クー・フリンは宗一郎の術が神速対策の可能性を考慮しているからこそ動くことが出来ない。

 それは魔槍の英雄がこの戦いで示した初めての躊躇、その空隙を突くように宗一郎が動く。

 右手で刀印を結んでクー・フリンに突き付けた。これには全方位を万遍なく警戒していた彼も警戒度を宗一郎一点に優先せざるを得なかった。そうなると当然、周囲の警戒も緩くなる。

 ―――その瞬間を宗一郎は待っていた。

「行け、貧狼!」

 宗一郎が何かに向かって命ずる。

「ぬ……!?」

 だがこの期に及んでも目立った変化はない。怪しい音もしなければ、大気すら動く気配を見せない。にも拘らず、クー・フリンは本能に突き動かされるままに、赤槍を左側面の宙に向かって薙ぎ払っていた。

 そこはやはり何もない虚空を映すばかり、否、一点のみに置いて異常を発見する。そこは振るわれたクー・フリンの槍の軌跡、それに沿うように黒い液体が飛び散っていた。

「これは血か……!?」

 見えざる生き物がすぐ脇にいる! そうと解ったそのとき、とんでもない衝撃がクー・フリンを襲った。いや、違う。正確にはクー・フリン本人ではなく彼の駆る戦車が、何かと衝突したかのような衝撃を受けたのだ。

「ッ……!」

 悲鳴のように軋みを上げて倒れる車両。

 神速で大地を踏破する二頭の神馬が牽く戦車は、激突してきた見えざる襲撃者に屈服するかのように、右側面から大地に倒れていく。

 巻き込まれては堪らぬ、と御者台を蹴り上げて虚空に舞うクー・フリン。宙で身を捻って颯爽と着地する。

 横を見れば倒れ伏した戦車の姿。だが、二頭の神馬は未だ健在である。雄々しく蹄で大地を踏み、鼻息は荒々しく闘気に衰えは見られない。

「すまん、兄弟たちよ。今は退いてくれ」

 だがクー・フリンは、愛馬たちに声を掛けると送還の呪言を唱えた。

 主の決断に抗議するように嘶く神馬たち。が、クー・フリンはそれに構わず彼らを還した。神代の戦車は現界に必要な呪力を断ち切られ、容を失い虚空に霧散していく。

 クー・フリンの決断は当然だ。

 愛馬は無事でも愛車の方は交通事故に遭遇したように転倒している。一トンを超える大型車両である。人力で立て直すのは不可能でも、怪力無双の武神ならば可能だろう。

 だが、それもその時間を与えられたらの話。無論、そんな隙を見逃す宗一郎ではない。故に戦車の放棄は戦略上正しい選択だった。

 その代償に貴重な戦力を失ったのは痛いだろうが、何も永遠に失われたわけではない。神代の戦車である。横転した程度で壊れる筈もない。

 クー・フリンが呼べば再びあの勇壮な威風(すがた)を顕すだろう。

 だがクー・フリンにはそれが出来ない。戦車を転倒させた見えない襲撃者の存在が安易な行動を許さないのだ。いまクー・フリンは姿が見えもせず、気配も感じられない襲撃者の脅威に晒されていた……

「なんて事、考えてるんじゃなえだろうな、神殺し! オレが二度も許すわけがなえだろうがァ!」

 クー・フリンはそう吼えるや、左手を虚空に滑らせて不可思議な紋様を刻む。

 それは “(ペオース)”と呼ばれる神代に伝わるルーン文字。

 その意味(ちから)たる虚偽を、不正を、あらゆる秘密を暴き立てる呪力がクー・フリンの後方に向かって放たれる!

 自身の真後ろに投射したのは兵力差が倍である以上、挟撃こそが最も手堅い戦術だと見切ったためだろう。果たして、狙い通りにソレはいた。

 クー・フリンの秘文字が姿なき襲撃者の容姿(すがた)を詳らかにする。

 クー・フリンを宗一郎と挟む位置に現れたのは、黒い犬だった。無論、只の犬ではない。全長十メートルはあるだろう巨大な犬―――神獣である。

 その黒犬は飛びかかる隙を探っているのか、前傾姿勢でクー・フリンを紅蓮の瞳で睨んでいる。

「それもどこかの神から奪い取った神獣(ペット)……てわけじゃあねえな。なんだソレは?」

 クー・フリンは宗一郎と黒犬を視界に捉える半身の体勢を執りながら訝しげに呟く。

(流石は呪術の神ですね。貧狼の違和感に気づきますか)

 宗一郎は内心で感嘆の声を上げた。

 この神獣は宗一郎の切り札のひとつである。が、権能というわけではない。黒犬は神から奪い取ったモノではないのである。

 西洋魔術の奥義に神に対抗できる秘術があるように、東洋呪術にもそれは存在する。

 だが、西洋と東洋では奥義と一括りにしても、その術理の根本原理は真逆といっていい。

 西洋の奥義が神を傷つける能力を術者に賦与させるのに対して、東洋の奥義は神を傷つける存在を術者が召喚するのである。即ち、神獣を。

 これこそが東洋呪術の奥義がひとつ―――≪鬼神使役法≫。宗一郎が行使した術の正体であった。

「ククッ、そういうことか。ソイツは自前か。想像以上に術も達者のようだなあ、神殺し!」

 即座に状況を看破するクー・フリン。

「確かに、神獣を(くさり)で繋いでのけたオメエの腕前は見事だ。だが言ってみればそれだけにすぎねえ。同族を殺したといえど所詮は人間だ。神の真似事が出来てもオレたちとまったく同じことが出来る筈がない。神殺し、テメエ―――その神獣を御し切れていないな」

 それは断定だった。魔術を司る神ならではの感覚で、クー・フリンは宗一郎の術の弱点を見抜く。

 クー・フリンの指摘は正しい。宗一郎は神獣の完全制御に至っていない。

 宗一郎が引き出せるのは全能力の半分程度。神や魔王に使役された神獣と正面から戦えば一方的に蹂躙されるしかない。

 それを承知してなお重宝しているのは、唯一扱える黒犬の特殊能力のためだ。

 武神クー・フリンを以ってしても攻撃される直前まで察知できなかった気配遮断能力による奇襲力。この能力の前では戦闘能力の優越など些細なことである。

 姿が見えず、気配も感じさせ得ないということは、一方的に攻撃できる優先権を有しているに等しい。そういう意味なら神速の権能に通ずるものがある。

 だが違うところもある。それは武術的に対処不可能であることだ。

 神速は武の秘極に至った者ならば殺気に反応して回避が可能なのに対して、隠形はそもそも殺気すら遮断してしまう。音も匂いさえも、だ。

 これではどれほどの達人であったとしても対応できる道理がない。クー・フリンが襲撃者の存在を察したのは気配を感知したのではなく、ただの第六感だろう。だが、所詮は感に過ぎない。いつかは必ず外れる。

 とはいえ、これだけならば、絶対的な能力に聴こえるだろうが無論そんなはずはない。クー・フリンに破られている現実が能力の絶対性を否定していた。

 ある一面に突きぬけた能力というものは、意外な箇所に致命的な弱点を抱え込んでいる場合がある。

 黒犬の隠形術は武術的に対処不可能であるが、魔術的には極めて脆弱だった。術破りをされると瞬く間に真実を暴かれるのである。

「相性が悪かったな。相手がオレでなかったら強力な手札だったんだろうが。フン、だからと言って容赦はせん。犬は喰わないと誓ったが、殺さないと誓った覚えはないんでな」

 殺気を滾らせながらも、クー・フリンに動く気配はない。

 クー・フリンとて理解しているのだろう。黒犬の隠形術を破りはしたが、数の不利が覆したわけではないということを。

 依然クー・フリンは宗一郎と黒犬に包囲されているのだ。

 宗一郎はともかく黒犬の戦闘力はクー・フリンの敵になり得ない。一刺で事足りえる相手である。だが一手間は掛かることは確かだ。

 宗一郎とクー・フリンは白兵戦において実力が伯仲している以上、そんな隙を晒すことは致命的になりかねない。故に容易に動けないのである。

 対して、宗一郎も動けなかった。

 黒犬を犠牲にすればクー・フリンに致命打、そこまでいかずとも有効打は与えられるかもしれない。

 だがここで問題が生じる。黒犬は権能によって召喚された存在ではないということである。即ち、消滅しても復活することが出来ない。消滅は即ち死と同義なのだ。

 だが、宗一郎は何も黒犬の愛着故に死を厭うているわけではない。黒犬の戦闘力は低くとも、気配遮断能力は非常に強力な能力である。

 今回は相手取った神が呪術に通暁していたため、無効化されてしまったが、当然すべての神々がそうであるわけでもない。

 黒犬は今後とも役立ってくれる貴重な戦力なのは疑いない。手放すのは惜しい。

 やはり二頭立て戦車を無力化したことで満足して、後々のために温存するべきか、と宗一郎が決断を下そうとしていた、そのときである。

 

 

「ギャギャギャギャギャ……!ミィィィィヅゲダァァッ、グー・ブリィィィィィン……!!」

 

 

 奇怪な声が天頂より降ってきた。と同時に、宗一郎とクー・フリンが対峙するその中心の位置に紫色の煙幕のようなものが上から落された。

 爆発したように瞬く間に公園中に広がる紫の濃霧。

 腐る。腐る。腐る。

 紫の濃霧に触れたすべてのものが穢れていく。手入れの行き届いた美しい芝生が、萎れ枯れる。大都会とは思えない澄んだ空気が、腐り死んでいく。生命の存在を許さない死の世界が広がっていく。

「くッ……」

 それを直に浴びる羽目になった宗一郎は苦しげに呻く。

(これは毒霧!)

「佐久耶……ッ」

 毒を喰らった自分よりも妹を案じて宗一郎は芝生を蹴ってひた走る。

 その挙動に毒の影響は見られない。そもそも宗一郎に毒の類は通用しない。たとえ、そうでなかったとしても自分よりも妹の身を心配しただろうが。

 背後は気にしない。この状況下であればクー・フリンの追撃はありえまい。

 今は宗一郎も決闘の場に乱入してきた謎の第三者を警戒しなければならない筈なのだが、それらをかなぐり捨てて宗一郎は佐久耶の元に走る。

 幸い佐久耶は十メートルほど離れて場所で待機しており、ここまで離れると毒霧をかなり薄れていたため目視で無事を確認できた。

 さらに近づくと彼女たちの状態が把握できた。

 リリアナ・クラニチャールは毒霧にやられたのか、芝生に両膝をついて苦しげに喘いでいる。そんな女騎士に寄り添うように佐久耶が彼女の肩に手を置いている。

 治癒の術をかけているのだろう。が、リリアナの状態は一向に快方に向かう兆しが見られない。

 佐久耶の治癒術と毒素が拮抗しているのだ。これには宗一郎も驚いた。そこらの毒素など瞬く間に治癒させ得るはずの佐久耶の術で癒せないとは尋常な毒ではあるまい。

 呪術を超えた奇跡。間違いなく権能であろう。

 ならば、乱入者は『まつろわぬ神』なのか。天敵たる宗一郎に向かってこないところを見るに、クー・フリンの方に向かって行ったようだ。あの魔槍の英雄と何かしらの縁ある相手なのだろう。

 とはいえ、状況が不透明に過ぎる。紫の濃霧のせいで何も見えず、周囲が把握できないからだ。

 ―――撤退という言葉が宗一郎の脳裏によぎる。

 『まつろわぬ神』が二柱。それもどうやら両者は敵対関係にあるようだが、最悪の事態を常に想定しなければなるまい。つまりは共闘して攻めて来る可能性である。

 そう冷静に分析してなおそれはあるまい、と宗一郎は判断した。たとえ両者が協力関係に合ったとしても、あの魔槍の英雄に限ってたったひとりの敵を相手に二人がかりで攻め立てようなどとは思うまい。

 それは刃を交し合ったからこそ解ることであった。だからこそ、宗一郎も乱入者と共闘してクー・フリンを討ち取ろうなどと露とも思わない。

 ならば撤退しかない。一度この場から離脱を図り、戦場の全体像を俯瞰する。つまり、二柱の神々の闘争を離れて観戦しようというわけだ。

 それでまだ晒していないクー・フリンの手札の一つや二つくらいお目にかかれるかもしれない。

 宗一郎はクー・フリンが乱入者に倒されるなどとは、全く考えていなかった。

 あの魔槍の英雄を倒すのは自分だ―――という個人的な願望を抜きにしても、武術を魔術を極めたクー・フリンが敗北する(すがた)は、想像する方が難しい。

 ならば、早急に決着を付けられる前に、観戦と洒落込もうと考えた、そのときである。

「兄さま……!」

 珍しく焦った妹の声に、宗一郎はそちらへ首を巡らせた。

「この毒霧は私のカラダも蝕もうとしているようです。 だから一度戻ります。兄様、リリアナさまをお願いします」

 宗一郎が頷くのを確認すると、佐久耶の体は虚空に溶けるように消えた。

「な……! まさか、霊魂投出……!?」

 それを目にしたリリアナはその驚きの言葉を最後に、「うっ」と呻くと地面に突っ伏した。

 治癒の術が切れて、力尽きたのだ。宗一郎はそのリリアナの体に手を伸ばし、仰向けに転がした。さらに宗一郎はリリアナの鳩尾――臍下丹田――に右手を置いて、

「オン クロダノウ ウンジャク――――」

 烏枢沙摩明王の真言を唱えた。

 燦然と吹き荒れる紅蓮の燐光は、瞬時に宗一郎の右手に収束し、伝播する。

 毒素に侵されたリリアナから腐り果てた地面、さらには空気中に漂う毒霧にまで伝わるや、一気に紅蓮の猛火が爆ぜ広がった。

 紫の濃霧に包まれた一帯は紅の火炎に飲み込まれる。それは地獄絵図さながらの光景だった。が、幸いにして閃光花火の如くぱっと燃え上がり一瞬で掻き消えた。

 リリアナは無事だ。火傷ひとつ負っていない。それどころか、土気色の顔色が戻り、呼吸も安定している。浄化の炎は、その名の通りに穢れ(どく)のみを焼き払ったのだ。

 紫の濃霧も消え失せている。毒素以外には一切影響を与えていない筈だったが、周囲は毒霧によって無残な有様に成り果てていた。

 青々しかった芝生は枯れ果てて禿げ上がり、地面が剥き出しになっている。その地面も見るからに生命など一欠けらも宿っているように見えないほど不気味に変色していた。

 近くにあったトネリコの木は、葉が枯れ落ちて、幹はそれこそ数百年は経てきたように萎びている。美しかった公園は、僅かの間に見るも無残に荒廃した。その荒廃した公園の只中に合って、なお冷静に周囲に目を配る宗一郎。

 神殺しに至るために産み出された宗一郎にとって、周囲の景観の変化に一々心を動かされることなどあり得ない。

 神と魔王が死力を尽くして戦えばこうなることは当然だと割り切っている。

 だからこそ、宗一郎の意中にあるのは、そんな些細なことではなくて、二柱の神々のみである。

 濃霧が晴れたにも拘らず、四方に誰の姿も見られない。火炎の渦に巻き込まれたのか? いや、それはあり得ない。リリアナの身の安全を優先して、毒素だけを標的として焼き払ったのだ。あの二柱の神々には熱気すら感じなかった筈である。

 ならば、上か。宗一郎がそう思い到ると同時に空から声が降ってきた。

「神殺しよ。余計な邪魔が入った。今日のところはここでシマイだ。また、近い内に再戦といこうぜ、あばよ」

 宗一郎が頭上を見ると、なんとクー・フリンが空中に直立していた。そして、何もない虚空を蹴って物凄い勢いで上空へと駆け登っていくではないか! それは、あたかも天上へと続く不可視の階段を登っているかのようだ。

 あれもクー・フリンの権能なのだろう。飛翔か、あるいは跳躍か。だが、乱入者も流石は『まつろわぬ神』である。上空に逃れた程度では安全ではないらしい。

 乱入者―――濃紫の長衣を全身まですっぽり被った小柄な人影が宙を飛翔してクー・フリンを追撃する。魔槍の英雄とは違い、滑るように真っ直ぐ最短距離で上昇して猛追している。

 両者は瞬く間にダブリンの夜の黒い戸張に隠れるように見えなくなった。

 それを茫然と見送るしかない宗一郎。流石に上空に逃げられてしまえば彼には追撃する術がない。

 結局、何が何なのかわけが解らないままに、戦いは終わりを告げた。おそらくは、宗一郎とクー・フリン、双方不本意なままで……

 だが、宗一郎は少し落胆しただけでこの結果を受け入れた。クー・フリンの再戦の誓いなど聴くまでもない。神殺しとしての本能が再戦の時が近いことを教えてくれた。

 ならば、それまでに傷を癒し、体力を回復させ、来たるべき戦いのために刃を研ぐ。それが神殺しの剣士として、相応しい休息というものであろう。

 だが差し当たって宗一郎が今出来ることは、妹との約束を守るために眠り姫を毒素で腐り果てた荒地よりもマシな場所に移すことである

 宗一郎は地面に跪き、リリアナを抱きかかえる。そして、ふと視線を上にやる。

「……覗き屋の視線というものは、実に不愉快なものですね」

 と意味の解らないことを呟くと歩き去った。

 

 

 

 

 

 ちょうど宗一郎が目を向けた方角の遥か上空に、まるで夜の闇に溶けたかのように一体化して、虚空に立つ黒衣の男の姿があった。

「……覗き屋だと? 心外だ」

 耳聡い男は憮然とした口調で呟くと、雷光の煌めきと共に消え失せた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話  白き巫女姫と黒王子

「……では事態は既に終息しており、被害の方も軽微だったと?」

 ゴドディン公爵家令嬢、アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール。

 通称プリンセス・アリスは、信頼する女官長パトリシア・エリクソンによって、一時間前に隣国アイルランドの首都ダブリンで起こった争乱の顛末を、賢人議会の特別顧問専用の執務室で報告を受けていた。

「はい。フェニックス公園の一部が呪詛に侵されたものの、今はそれも綺麗に取り払われており、荒廃した個所も魔女を数名派遣すれば数時間ほどで復旧可能だそうです」

 と信じ難い報告をミス・エリクソンは述べた。

 アリスは一瞬報告の内容を疑った。が、それは考えにくい筈である。

 優秀で忠誠心厚い――ときにそれが腹立たしくもあるが――ミス・エリクソンがアリスに偽りの報告を述べるなどあり得ない。幾通りもの情報筋より報告を受けて精査された確定情報なのであろう。

 それを承知してなお信じ難い内容であった。神と魔王が争って、その程度の被害で済んでいるとは!

 彼らが争えば甚大な物質的被害、魔術的被害を被るのが普通である。それこそ、数年規模でも復興の見込みがつかないことも珍しくないほどである。

 神と魔王が引き起こした事件を、事故、災害として処理するために使用される年間費用の数字に偏頭痛を患わなかった魔術結社の総帥は、世界を見回してもおそらく皆無であろう。

 だというのに、今回に限って魔女数名を派遣するだけで事足りるという。人里離れた未開地ならともかく、大都市ダブリンのど真ん中で神と魔王が争ったというのに、この程度の被害で済むとは奇跡に等しい。

 そういう背景があるからこそ、アリスが報告の内容を疑ったのは無理からぬことであった。それにしても、ダブリンの魔術結社の総帥はさぞや喜び勇んでいるに違いない。資産の支出(サイフのひも)をたいして緩めずに済んだのだから。

「……それで、ミス・エリクソン。『まつろわぬ神』を撃退したという、カンピオーネのことですが、何者ですか?」

 アリスは溜息を吐いて、話題を変えた。その貴婦人にあるまじき不作法は、決してそれが羨ましかったからではないのだ、とここに明言しておく。

 とはいえ、ミス・エリクソンはそのアリスの不作法を見咎めて、細い枠の眼鏡の奥に収まった目を吊り上げるも、アリスの質問には淀みなく答えた。

「報告によると、外見は十代の東洋人で、欧州では見慣れない術者の装束を身に纏い、長剣を手にしていたそうです。この長剣ですが……おそらくは日本伝来の刀剣で間違いないだろうとのことから、フェニックス公園に現れたという東洋人のカンピオーネは、日本人の少年の可能性が高いというのが、分析班の見解です」

 アリスはほっと安堵した。どうやらミス・エリクソンは不作法を見逃してくれるらしい。緊急時だからだろう。これが平時なら数分の小言を賜っているところである。

「日本人ということは、七人目である草薙さまということでしょうか?」

 最もアリスは少しも懲りた風もなく、内心で舌を出しながら、貴婦人然とした口調で質問した。

 とはいえ、それはないだろうな、とアリスは自分で結論付けた。そろそろ思考を政略用に切り替えることにしよう。

 賢人議会の分析班が、現存している七人のカンピオーネの顔を見間違う筈がない。

 もし、フェニックス公園に現れたのが草薙護堂ならば、ミス・エリクソンはこんな無駄な会話を省いてさっさと結論を告げていた筈である。

 となれば、フェニックス公園に現れたというカンピオーネは、いまだ存在を確認されていなかった“八人目”の可能性が最も高い。

 予想通りミス・エリクソンは、違うと答えた。

「現在、賢人議会と繋がりのあるダブリンの魔術結社に協力を要請して、アイルランド政府に働きかけてもらっています」

「ああ、入国記録ですね」

 成る程と、アリスは頷いた。

 如何にカンピオーネが埒外の存在とはいえ、海外に足を運ぶとなれば、移動に適した権能を所有していない限り、文明的な交通手段に頼らざるを得ないのは道理である。

 となれば当然、入国管理局にその足跡が残すことになる。幸い賢人議会は謎のカンピオーネの詳細な身体特徴を掴んでいる。後は賢人議会の情報とアイルランドの出入国記録とを照合すれば、自ずと身元が判明するというわけである。

 だが、これで身元が判明しなかったのならば、それは法を順守した正規の交通手段でアイルランドに渡って来たわけではないということである。

 そうなれば、もうお手上げである。後は八人目を探し出して本人に直接尋ねるか、日本の魔術結社に情報提供を頼むしかない。

 前者は論外だ。八人目はいま神との闘争中。つまりは狩りの真っ最中。相当な興奮状態であると予想される。その状態のカンピオーネは普段の百倍は危険である。八人目の性情明らかでない以上、近づくのは下策だろう。

 後者は……悪くはない。ただ、賢人議会は日本の魔術結社とはあまり交流がない。叶うなら借りは作りたくはないが、いまのカンピオーネに接近するのに比べたらずっと危険は少ないに違いない。

 黙して指示を乞うミス・エリクソンにアリスは、目をやって命令を出した。

「仕方ありません。日本の魔術結社……確か、正史編纂委員会でしたか。彼らに連絡して詳しい情報を貰ってきてください」

 その後、ミス・エリクソンは幾つかの報告を済ませると、執務室を退出していく。

 これから、ミス・エリクソンはカンピオーネと『まつろわぬ神』の現在地の特定及び詳細情報を取得するために関係各所を走り回る羽目になるのだろう。間違いなく徹夜だ。

(お肌は大丈夫かしら、ミス・エリクソンはまだ婚活中のはずなのに……)

 などと失礼なことを思いながら、アリスは退出する女官長の背を見送った。ぱたん、と閉じられる扉。

 それを見届けると、アリスはもう堪えきれぬと、ふふっと笑みを溢した。もちろん、貴婦人らしく優雅に。だが、内心では狂喜乱舞していた。それこそ、小躍りしたいくらいだ。

『まつろわぬ神』VSカンピオーネ

 この一大イベントをアリスのような退屈を持て余している人間が見逃す手はない。

 しかも、神は二柱。だが忘れてはならない。もともとこの英国圏内には、一人の魔王が拠点を構えているのである。つまりは、魔王も二人。

 二柱の神に二人の魔王。

 これから繰り広げられる戦いは、数多の神秘を目にしてきたプリンセス・アリスを以ってしても予測不可能!

 熱狂的なお祭り好きであるアリスにしてみれば、実に興奮させられる催しである。

 実のところ、アリスの立場――賢人議会元議長にして現特別顧問――としては何としても彼らの行動に掣肘を加えなければならない筈である。

 騒動の渦中が隣国とはいえ、いつこちらに飛び火するのか解らないのである。女王陛下とイングランドの民衆を守護するためには、そうするべきであろう。

 だが、神と魔王の戦いに常人が介入できる余地などある筈がない。

 それは欧州最高の貴婦人と称され、『白き巫女姫』と謳われる最高の巫女であるプリンセス・アリスですら例外ではないのだ。

 定命の者はただ神と魔王が引き起こす猛威が過ぎ去るのを震えながら待つしか術はない。

 ―――ところが、その直中にあっても奇妙な性質を表わす者もいる。

 嵐が到来すると解ると、大人たちが被害を恐れ慌てて家屋を補強しに行くのを尻目に、胸を高鳴らせている幼子たちがいるように、神と魔王たちが引き起こす争乱を愉しみにしている不心得者もいるのである。

 その一人こそ、プリンセス・アリスに他ならない。

 アリスは公爵家令嬢というやんごとなき身分に生を受けたものの、幼少時から健康面に重大な欠陥を抱えて過ごしてきた。

 身分的にも健康的にも、肉体を縛られ不自由を強制され続けてきたアリスであるが、生まれ持った特殊能力である精神感応、さらには幽魂投出の霊力によって、精神は極めて解放的かつ活動的であった。それこそ、周囲が困るほどに。

 その特殊な生い立ち故に、考え方が余人と少々違っていても仕方ないことであろう。

 それは兎も角、いかなる力を以ってしても人間には神と魔王の戦いを止めることは出来ない。それが現実だ。

 ならば、神と魔王の戦いで巻き込まれる被害のことは、一時忘れて愉しんでしまえばいいではないか。ようは開き直るのだ。

 神と魔王の超常の戦いを。そこで振るわれる神技を。驚嘆すべき秘術の数々を眼に収めて、心ゆくまで愉しめばいいのだ。もっとも、幽体の身の上では、ポップコーンを片手に観戦と洒落込むわけにもいかないのが残念であるが。

 どんな絶望的な状況でも、そこから希望(たのしみ)を見出すのが、楽観的なプリンセス・アリスの得意技だった。

 もっとも魔術界に秩序を齎すべく活動する賢人議会の重鎮としては、かなり問題のある性格であるのは間違いない。

 

 

「どうやら、貴様の性格の悪さは相変わらずのようだな。まったく―――貴様のような輩を『姫』などと奉る連中の気がしれん!」

 

 

 突然聞こえてくる若い男の声。バチバチッと紫電が弾ける音とともに、アリスの正面に一人の男が姿を現れた。

 貴公子然とした美青年だった。着込んだダークグレーのジャケットには、皺ひとつなく、着用者が几帳面な性格であることを窺がわせた。

 きっちりと整えられた黒髪、黒い瞳には深い知性と強靭な意志力の煌めきが垣間見える。

 優しげに整った白皙の美貌は、微笑めばそれだけで多くの女性を虜に出来ようが、いまはにこりともしない仏頂面だった。不機嫌なのではなく、これが地顔なのだと知っているのは、彼と付き合いの深い人々くらいだろう。

 アレクサンドル・ガスコイン。 

 通り名は―――黒王子アレク。神速の貴公子とも言われる、英国のコーンフォールの地に根城を構えるカンピオーネである。

「まあ、アレクサンドル。レディの部屋に訪ねてくるときは、ノックくらいするものですよ。相変わらず、あなたは礼儀がなっていませんね」

 男―――アレクは鼻を鳴らして、それを無視した。

 貴婦人を前にして、失礼極まる態度であったがアリスはとくに腹は立てなかった。この程度で感情を逆なでするようでは、この男とは付き合っていけないのである。

「あなたに礼儀作法を説いても無駄でしたね。では、アレクサンドル。今日は何の御用で?」

「フン。恍けるな、女狐。ダブリンの件に決まっているだろうが」

 アレクは冷やかにそう吐き捨てた。

 もちろん、アリスは解っていた。すべてを承知の上で恍けて見せたのだ。同時に彼女は黒王子の狙いにも気づいていた。

 霊視による託宣ではない。単なる腐れ縁の長さによる経験則であった。

 アリスとアレクはかれこれ十年来の付き合いになる。この十年、ときに鍔迫り合い、ときにお茶を囲んで談笑し合い、ときに共闘し合ってきた。なまじの味方より相手を理解している。

 だからこそ、アレクの狙いが解るのだ。彼は自分の興味のあることなら、どんな障碍があろうとも周囲の迷惑など省みずにひとりで突っ走るくせに、自分とは関わりのない厄介事となると、途端にやる気を無くす性分なのである。

 おそらく、アレクは今回も必要な情報を提供して厄介事を分散してしまうか、あわよくば一方的に押し付けてしまおうと考えているに違いない。

 アリスは黒王子が賢人議会でも把握していない情報を保有していることを確信している。

 彼女はアレクが珍しくコーンウォールの根城に逗留しているのを把握していた。

 そこに『まつろわぬ神』顕現の急報を受けて、ダブリンまで慌てて飛んで行ったに違いない。賢人議会が『電光石火』と名付けた神速の権能ならば、隣国といえど、一瞬で移動できる筈である。

 悪漢気取りの中途半端な正義感を振りかざすこの黒王子のことである。自分の勢力圏内で『まつろわぬ神』が出現して、これを無視して被害でも出れば面倒だと思ったに違いない。

 そこでいざ戦場とおぼしき場所に出陣してみれば、まさかそこに見慣れない先客がいようとは予想もしていなかった筈である。

 勿論驚いただろうが、アレクのことである。これ幸いにと、その先客たる同族に厄介事を押し付けて自分は高みの見物を決め込む程度のこと、恥じ入ることなく平然とやってのけることだろう。

 後は見物で目にした光景(じょうほう)を、厄介事を分かち合う連中である賢人議会に渡せばいいだけだ。

 八人目と賢人議会にすべてを押し付けて、自分は最後まで高みの見物を決め込む意図なのは明白だ。……その性格が災いして、とうの八人目から不名誉な呼ばれ方をされたことをアリスが知らない。

「ふう、アレクサンドル……あなたはどうしてそうなのですか? これがヴォバン侯爵なら、きっと神も魔王も纏めて相手にしようと意気込まれるはずでしょうに。それなのに、あなたと来たら!」

 政敵の相変わらずのスケール感の矮小さに、アリスは嘆いた。

「だから、いい加減に俺と奴を比べるのは止めろ。あんな知的ぶっただけの野蛮人と一緒くたにされるのは不愉快だ」

 整った眉根を寄せて抗議するアレクに、ツンとあらぬ方向にそっぽ向くアリス。

 しばし沈黙が執務室を支配した。……結局、先に折れたのはアレクであった。

「……話を聞く気があるのか? ないのか?」

 憮然とした調子でアレクは聞いてきた。

「そうですね。冗談はこのくらいにして、お話の方を伺わせて頂きますわ、アレクサンドル」

 アリスは細やかな勝利に心中でガッツポーズを執りながら、そう言い放った。最初からそう言え、と文句を吐き捨てて、黒王子は語り出していく。

 自ら率いる魔術結社王立工廠で率先して教鞭を執るだけあって、アレクの説明は簡潔でありながら、明瞭だった。

 ダブリンに現れた『まつろわぬ神』とカンピオーネの正体と名前。執られた戦術と披露された武技と異能の数々。聴いているだけでアリスの退屈の虫が吹き飛んでいくのを感じる。まさに驚嘆するべき話であった。

 黒衣の臨時講師が語り終えた後、執務室には再度の沈黙の戸張が覆った。が、今度はそれを破ったのはアリスの方だった。

「……まさか、まつろわぬクー・フリンとは、また随分なビッグネームが来たものですね」

「ああ、ケルト神話史上最強の戦士と謳われている英雄神だ。そして、おそらくは、鋼の軍神でもある」

 軍神・武神・戦神・闘神。

 戦いを司る神々には、≪鋼≫と呼ばれるグループがある。

 存在自体が剣の暗喩であり、鉱石を溶かす火、火を強める風、焼けた鉱石を冷やす水と共生関係にあるのがその特徴だ。

 クー・フリンの伝承には、灼熱の戦闘欲で熱した体を冷たい水が張った大桶で三度に亘って冷ました、という逸話がある。これは≪鋼≫に見られる特徴のひとつである。

 また、豊穣の神アヌと同一視される戦女神モリガンと戦い、これを下し、従えている。地母神との深い共生関係もまた≪鋼≫の軍神に顕著に見られる神話なのだ。

「クー・フリンの最後、そばにあった岩に体を括りつけて立ったまま死んだ――という逸話も≪鋼≫を暗示させますものね。ということなら、この神格も遡ればスキタイへたどり着くのでしょう」

 スキタイの地こそ≪鋼≫の英雄のルーツだと言われている。すべての≪鋼≫はスキタイへと通じているのだと。

「だろうな。そうなると、乱入してきた『まつろわぬ神』の正体も特定するのは、容易いだろう」

「魔女と思しき『まつろわぬ神』ですね。確かに……」

 それは、神話学に通暁した者同士だからこそ得られる共通理解なのだろうが、ああだこうだと口や立場でいがみ合おうとも、阿吽の呼吸が合う二人であった。

「ああ。そういえば、新しく現れたカンピオーネの方は中華の怪力女と同類のようだったな」

「武術と魔術を極めて神すら屠ったカンピオーネ。たしかに羅濠教主と似たタイプの方のようですね。これで性格のハチャメチャ振りも似ておられたなら、アレクサンドル。あなたも早急にスケール感を拡大させなければ、すぐに追い抜かれるかもしれませんよ」

 そう、にこやかにアリスは告げるが、アレクはそんなこと知ったことか、と鼻で笑う。

「話はここまでだ。俺はこれで帰らせてもらう」

「ええ、アレクサンドル。たいへん有意義な話でしたわ。感謝します」

 アリスが苦笑しながら口にしたその言葉を最後に、アレクサンドル・ガスコインは雷光の煌めきを纏って消え去った。神速の世界に突入したのだ。

 アリスはそれを見届けると、改めて今後のことを女官長と相談するために精神感応の触手を伸ばした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話  密会

 リリアナ・クラニチャールの頭脳は、彼らから齎された情報を処理するべく、忙しく働き回っていた。

 ここはリリアナがダブリンでの任務の拠点とするために取っていたホテルの一室である。

 一同―――リリアナ、神無月兄妹はここであらためて会していた。

 フェニックス公園の騒動から目を覚ましたリリアナは、すぐに状況を理解すると、神無月宗一郎から詳しい事情を聴くべく自分のホテルに来てもらえないかと願い出た。

 これには揉めるかもと思いきや、幸い大人しくついてきてくれた。とはいえ、宗一郎は戦装束を身に纏っている――おまけに血塗れだ――深夜といえども人の目があるので、彼には再度、隠形術をかけてもらった。

 ホテルの一室に入ると、まるで図ったかのように神無月佐久耶が何もない虚空から現れた。公園で目にした霊魂投出の霊力だろう。降臨術者ほどではないにしても、欧州においてもかなりの希少能力である。

 服装はワンピースから巫女装束に変わっていた。どうやら兄とは違い妹の方は周囲に配慮ができるらしい。

 ホテルの一室に備え付けられたソファに神無月兄妹が腰かけて、その対面にリリアナが座った。それから多くのことを話し合った。神無月家のこと。ダブリンの来訪した目的などである。

 このときには、すでにリリアナの高性能な頭脳は入力した情報を処理し終え、思考できる余裕が生まれていた。

 つまるところ、神無月家とはリリアナたち西洋魔術師のいうところの、カルト思想に被れているらしい。人為的に神を招聘しようとする試みは、カルト教団の執り行う禁断の儀式魔術のひとつである。

 ということは、神無月家とは邪術師集団なのだろう。本来なら秩序を奉じるリリアナとは相いれない敵同士である。にも拘らず、リリアナは神無月宗一郎の出自を聴かされてもまったく気にならなかった。

 それも当然だ。一度『王』として君臨した以上、その臣下に過ぎない魔術師如きが絶対者の出自に口を挟むなど不遜極まりない。

 『王』たる人物がまだ唯人であったときが、たとえ、孤児や筋肉好き、賭博師にコスプレ好き、剣術馬鹿に似非平和主義者、そして邪術師であったところで何の関係もないのである。カンピオーネとは等しく魔術師たちの『上』に君臨する存在なのだから。

 それにリリアナはカンピオーネが何者であろうと信条を違えたくはなかった。

 カンピオーネが魔王として振る舞い、世に悪意をばら撒くのならば、毅然と立ち上がり民の盾となる。

 カンピオーネが荒ぶる神顕れるとき、果敢に勇者として立ち上がり、神に挑まんとするのならば、王の剣となる。

 それこそがリリアナの信じる理想の騎士の在り方だった。……いまだ実践できた例はなかったが。

 つまるところ、神無月宗一郎が何者であれ、彼が神と戦うのならば、それに助力することに否はない。

 そこに騎士としての使命もある。が、宿敵たるエリカ・ブランデッリが出来たのなら自分にも可能だという対抗心も少なからずあった。だがそれも、神無月宗一郎が認めてくれればの話。

 神々との戦いにおいて、無用な横やりが入るのを嫌う王は多い。

 カンピオーネにとって、神との闘争は本能であり、愉悦だ。そこに無断で助勢に入ろうものなら、最悪怒りの矛先がこちらに向きかねない。もっとも、エリカが仕える王はその当たりを気にしない性格らしいが、神無月宗一郎もそうだという保証はない。

 だからこそ、話し合わなければならないのだ。助勢を認めてくれるように話をもっていくのである。

 とはいえ、生真面目で韜晦を嫌うリリアナは、自分有利に交渉を進めることが苦手である。……ここはやはり自分らしく正面から願い出よう、とリリアナは決断した。が、それよりも前にやるべきことがある。

「事情は諒解しました。また、新たなカンピオーネたる御身に拝謁の栄を賜り誠に感謝いたします。……そして、知らぬことだったとはいえ、王たる御身に刃を向けた罪、深く謝罪いたします」

 そう、数時間前に自分がしてしまったことを冷静に、そして客観的に振り返ってみると、リリアナ・クラニチャールはカンピオーネその人に襲い掛かってしまったのである!

 もちろん、理はリリアナにある。あの状況で、自分は騎士として当然の対応をしたのだと今でも騎士は確信している。

 そうは言っても、カンピオーネたる人物に条理など問うたところで意味はあるまい。

「あのことならもう気にしていません。お互いに誤解があったようですし」

「……ご恩情感謝いたします」

 ……なのだが、あっさり許されてしまった。

 物事の大小に拘らないのは、カンピオーネの特徴のひとつであるものの、神無月宗一郎もまたそれを受け継いでいるらしい。

 そうは言うものの、それが王の度量、人間の器量の深さを示すものではないことをリリアナは理解していた。

 神無月宗一郎が騎士を咎めないのは、リリアナに対して何一つ脅威に感じていないからに過ぎない。毒のない蜂に集られ鬱陶しいと感じる人間はいても、その感情を後々まで引き摺る人間はいまい。

 それと同じで、神無月宗一郎にとってリリアナは毒針を持たない蜂に過ぎない。襲われたところで実害はないに等しいのだから、気にするだけ無駄というわけである。

 だからこそ、カンピオーネの感情を逆撫でするのは恐ろしいことでもある。

 拘りのないところでは、幾らでも鷹揚に振る舞えるが、関心事――主に闘争関連――に手を出そうものなら、どうなるか想像もつかない。竜の逆鱗に触れるようなものかもしれない。

 ならば、やめるか――と弱気がリリアナの心に滑り込む。それが開こうとした口を押し留めた。

 どうしたのだ、リリアナ・クラニチャール? まさか、自らの理想とする騎士道から目を背け、自己の安寧のみを欲するつもりか? お前の信じる騎士道とはその程度のものだったのか? 

 リリアナの心から留めなく弱気が溢れてくる。だが、それは必ずしも彼女の弱さを示しているのではない。

 リリアナの躊躇は、事の本質を正確に理解しているためだ。神無月宗一郎に助勢を願い出る――そのことで、王の悋気に触れたとしたら? 

 それがあり得ないことだとは誰にも保証できまい。激情のあまり神すら屠るのがカンピオーネなのだ。彼らの精神構造を理解できる方がどうかしている。

 だがその怒りがリリアナのみに向けられるのなら、それはそれで構わない。彼女が本当に恐れているのは、王の悋気がリリアナの首一つで治まらなかった場合である。

 リリアナが所属する魔術結社≪青銅黒十字≫にまで類が及ぶことを、彼女は懸念していた。

 敢えて危険を冒し、己の信じる騎士道に殉ずるか。賢く危険を回避し、組織に対する忠誠心を貫くか。リリアナは決断を迫られた。

「リリアナさま、何か仰りたいことがあるのなら、ご自由に発言して頂いて構いませんよ」

 そこに、まるでリリアナの心の内を見通したかのように、神無月佐久耶が助け舟を出してくれた。

 考えてみればさほど不思議なことでもない。霊魂放出の霊能力を有しているのなら、リリアナの心の在り様など手に取るように解っても不思議はない。

 その言葉でリリアナは腹を決めた。最悪、佐久耶が間に入ってくれるだろう、と期待して、彼女は言葉を紡ぐ。

「恐れながら――王よ。不肖、このリリアナ・クラニチャール、申し上げたい儀がございます!」

「……なんでしょうか。それとリリアナさん。僕はあまり仰々しいのは好みません。普通に名前などで呼んでもらって構いませんよ」

「では、神無月宗一郎と呼ばせていただきます」

 彼は一瞬困惑しながらも了解した合図だろう、頷いてくれた。が、リリアナは空いた間が気になって仕方がなかった。

(何かおかしかっただろうか……)

 いや、単にまさかフルネームで呼ばれるとは思わなかっただけだが、それを彼女が知る機会はなかった。

 それはさておき、宗一郎は視線で続きを促してきた。リリアナはそれで不安を一端、棚に置いて話を続ける。

「神無月宗一郎―――あなたは近い内にあの英雄神と再び戦われることでしょう。そのときに、願わくば、どうかこのわたしもその戦列に加えていただけないでしょうか!」

 言った。ついに言ってしまった。こうなれば、もう後戻りはできない。

 反応はどうか? 憤怒か、受諾か。

 前者なら、死を覚悟しなくてはなるまい。後者なら、たいへん喜ばしい。まさに天国か地獄である。……神と戦う道を天国と断じていいのなら、正しい表現ではあった。

「それは……僕と協力して神を打倒したい、ということですか? だとすれば、お断りします。僕は神々とはひとりで戦いたい……でないと、証明できない。

 僕こそが一族の“最後の者”にして“最強の者”であることが。僕を造り上げるために捧げられた多くの血にかけて証明し続けなければならないのです……」

「……」

 リリアナには後半の独り言のような宗一郎の言葉の意味を汲み取ることは出来なかったが、それが冷たい拒絶の理由であることは肌で理解した。

 と言っても、これからどうするべきか。これ以上の問答はいらぬ勘気を被るだけだろう。『王』と『神』の戦いに口を出す無礼を働きながら、この冷静な対応を望外の幸運とするべきであり、これ以上望みを抱くべきではない。

 頭ではそうと解っているにも拘らず、本能が“行け”とせっついてくるのだ。この思いは何処から来るのか。騎士の意地? 魔女の霊感? どちらであれ、リリアナは突き動かしてくる情動の赴くまま、再度口を開こうと意を決する。

「―――よろしいではありませんか、兄さま。リリアナさまのご助勢、お受けなさいませ」

 まさか、そこにリリアナを援護する声が上がるとは思いもよらず、二人はともに驚愕した。が、精神の反応は真逆であったろう。一方は、突然の援護に喝采を上げ、一方は、突然の身内の反旗に愕然とする。

「……どういうつもりですか、佐久耶」

 すっと目を細めて、妹に問う宗一郎。

「兄さまこそどういうおつもりなのですか? リリアナさまほどのお方が合力して下さると仰ってくださっているのです。なぜ断る必要があるのです」

 わたくしは何か間違っていますか、と言外の意味を込めて、兄を見返す佐久耶。

「……知っているでしょう。本来、僕はひとりで戦わなければならないのです。本当なら、お前もここの居るのにも反対なのですッ」

 妹の言葉に何か思うところがあるのか、宗一郎は感情を激して、そう吐き捨てた。

「それはつまり――兄さまは私を必要としていないということですか? この地まで来られたのは誰のお蔭だとお思いで?」

 そう。宗一郎がダブリンにいるのは、ひとえに佐久耶の力ゆえである。超長距離を移動する術を持たない彼では、これほど早くにダブリンの地を踏み込むことなど叶わなかっただろう。

 いや、それ以前の問題だ。

 現代文明と隔絶した生活を送ってきた宗一郎は、はっきり言ってかなりの世間知らずだった。それこそ、“深窓の~”とつくほどに。飛行機にも乗れない宗一郎では、アイルランドどころか隣国にも行けたかどうか。

 それを知る佐久耶からすれば、今さら手助け不要などと言われたところで笑止千万な話であった。

「……お前の助けなどなくとも、僕は大丈夫です。ここにだって必ず来れた筈ですッ」

 にも拘らず、根拠のない自信をのたまう宗一郎。とはいえ、その声が若干震えているのは自信のなさを自覚しているからか。

「……」

 だが、その言葉を最後についに堪忍袋の緒が切れた者がいた。言うまでもなく神無月佐久耶である。

 ……彼女は兄をこの地に飛ばすために、それはそれは大変な労力を費やしたのである。

瞬間移動ほどの大魔術である。儀式には膨大かつ入念な下準備を要しなければならないのは道理であった。

 それを文句のひとつもなく粛々と整えたのは、偏に兄のためである。神殺しという試練を果たさんとする兄の助けとなれば、というひた向きな献身であった。

 その献身がよもや、当の兄の手によって汚されようとは思いもよらぬことであった!

まったくもって赦し難き暴言卑語。たとえそれが実の兄であろうとも、神殺しの王であろうとも―――否、だからこそ赦せぬのである!

そもそも、神殺しとは如何なる手段も選ばずに神を討滅する埒外の存在ではなかったか。

では翻って我が愚兄はどうか?

 考えるまでもない。手段を――選びまくっている。

 初の神殺しを成し遂げてからまだ三か月も経っていないと言うのに、もう驕り高ぶっているのだろう。まったくもって未熟極まりない。恥を知るがいい。

 この国の隣国には、魔王歴十年以上にもなろうかという神殺しが根を下ろしているとか。愚兄は魔槍の英雄と再戦を果たす前に、先達たる方にお会いして、頭を垂れ、神殺しとは、なんであるかと教えを乞うべきだ。さすれば、盲は開けて愚兄は自分に感謝することだろう……

 なんてことを考えていそうだ、とリリアナは神無月佐久耶を見てそう思った。

 いや、リリアナに精神感応の霊力はない。なぜかそんな考えが唐突に滑り込んで来たのである。彼女が怒りのあまり能力を制御できずに本人の思考が入り込んだのだろうか。

 実際のところ、神無月佐久耶が怒り心頭なのは間違いないだろう。

 一見すると佐久耶は怒っているようには見えない。整った顔は笑みを浮かべて兄を見つめており、目もまるで面白い話を聞いたと言わんばかりに、にこやかさを湛えていた。

 それだけなら何の問題もない。が、とにかく佐久耶の体から放出される雰囲気が尋常ではない。それも、おそらくは負の方面の。

「なんですか? 文句でも?」

 ところがリリアナが慄く無形の圧力を感じていないのか、宗一郎はそう言って妹を睨む。

 その言葉を皮切りに佐久耶の口が開こうとする気配を感じ取る、リリアナ。その一声は一刀の如く相手の心を薙ぎ払うだろう。が、兄の方とて黙ってやられはすまい。

 つまりは兄妹喧嘩の勃発。そして、またもやリリアナが原因で始まろうとしているではないか。慌ててもう一度止めに入ろうとするリリアナ。

 そこに―――

 

 

「いいねえ、こっちは賑やかでよ」

 

 

 割って入ってくる男の声があった。

「!!」

 聞き覚えのある声――その正体に慄然としながらも、魅入られたようにリリアナはその発生源に目を向ける。

「……犬……?」

 部屋の扉の前に立っていたのは、体長二メートルほどの一匹の赤い犬であった。妖しく輝く虹色の瞳が素早く立ち上がった三人を睥睨する。

 想定外の事態に混乱する。リリアナが想像したのは、一人の美丈夫の姿であって、断じて一匹の犬などではなかったからだ。だが、聴こえたてきた声は間違いなくあのクー・フリンのものに他ならない。

(さては、使い魔か―――!)

 いや、それも只の使い魔などではあるまい。リリアナの魔女としての霊感が赤犬の正体を看破する。規模こそ小さいがアレは神獣の一角に座する存在だ。それも冥界に属する獣であろう。

 戦争の神と冥界の獣。人間を死に導くという共通の役割から古来両者は相互に関係し合ってきた。

 そして、クー・フリンの神話の来歴を知る者ならば、かの神と冥界の獣の関わりを不思議に思うものはいまい。リリアナも魔女の知識として当然理解していた。

 そこまで深い知識がなくとも、クー・フリンと冥界の獣の繋がりを証明するのは容易である。なぜなら、“クー”はゲール語で“猛犬”を意味するからだ。古代ケルトでは、犬は死体を捜してその肉を貪り食うことから冥界に連なるものと信じられた。

 故に、『クランの猛犬』の名を持つこの英雄神が、冥府の神としての側面を持ち得る可能性は容易く推測できる。それに今どき、この程度の知識を仕入れることなどインターネットを使えば一発である。

 とはいえ、クー・フリンが現代の科学技術のことを、どの程度把握しているかは解らないものの、敢えて自らの手の内を晒すのは不可解ではある。

 おそらく、あの黒犬はメッセンジャ-なのだろう。つまりは、今ここで公園の続きをする意図はないということである。その目的があるのなら、本人が直接くる筈だ。ココでドンパチを始められては叶わないリリアナとしては、ありがたい話ではあった。

 だが、だとしたらさらに不可解である。

 クー・フリンは公園での戦闘のおり、冥府の神としての神力を見せていない。ならば、当然、戦略として秘匿するのが道理である。

 魔術の神の神格を有しているのだ。千里の距離を隔てようとも、己の情報を正しく伝達できる手段など無数にある筈である。

 にも拘らず、ここで手の内を晒す。そこに何の意味があるのか? リリアナにはまったく見当もつかなかった。が、宗一郎はそうではなかったらしい。

「フン、それで何の用で参ったのですか? 今すぐ再戦というのなら承りましょう……」

 見るのも不快だ、とばかりに顔を背けて、そう吐き捨てた。

「クク。そう猛るなよ、神殺し」

 それを見た赤犬は、胸を張り犬歯を剥き出しにして笑う。ドドン、と自慢げに。尻尾さえ振って見せた。

 その自分の力を誇示したがる様子にリリアナはさらに疑問が過る。なぜ今さら? もう十分に力を競い合っているのに、何のために力を誇示する必要があるのか。

 そう思い至るとリリアナにぱっと閃くものがあった。その考えを脳裏で検証し、それが間違いないと解ると……彼女は呆れ果てた。

 よくよく思い返してみれば、宗一郎も黒い犬を使役していたではないか。おそらく、属する神話こそ違えど、アレもまた冥界に連なる獣。

 ならば、この状況にも得心がいく。

 おそらく、クー・フリンはこう言いたいのだろう――貴様に出来ることはオレにも可能なのだと。

 見るもの聞くものが、あきれ返るその稚気。負けず嫌いにも程がある。そんなことのために晒す必要のない手札を用いるとは。が、クー・フリンの意図をいち早く見抜いた宗一郎も明らかにおかしい。

 しかも、通常ならリリアナのように、クー・フリンの無意味な行動を呆れ返るならともかく、悔しそうに顔を背けるその態度。彼もおそろしく負けず嫌いなのだろう。おおよそ、リリアナの感性で理解できるものではなかった。

「あなたがどこの氏の神かは存じませんが、あれほどの武量を誇りながら臆したと?」

 クー・フリンのふざけた意思表示に戦意が猛ったのか、宗一郎は挑発する。

 これに焦ったのはリリアナだ。ここは彼女が取った部屋ではあるが、それ以前に高層ホテルである。流石に客入りまで正確に把握しているわけではないが、客従業員含めて数千人規模になるのは間違いない。

 建築技術の粋を凝らして造り上げられた頑丈な建築物なのだろうが、無論『まつろわぬ神』とカンピオーネの戦いに耐えられる筈がない。もし両者がここで争えば被害規模は想像を絶するものになるだろう。だが―――

「だから猛るなと言っているだろうが……ちとこっちも込み入っていてな。悪いが再戦の日取りと場所はオレが決めさせてもらった」

 赤犬がそう言うや否や、リリアナの脳裏に見覚えのない光景が過った。

 これはどこかの森……だろうか? 視点がおそろしく高く、気が付いたらリリアナは、まるでホテルの部屋から体が飛び出したかのように、遥か上空から地上を見下ろしていた。

 よく見ればかなり広大な森である。生命力溢れる瑞々しい緑が辺り一面を覆い尽くしていた。リリアナはその森の一部にぽっかりと空き地が空いているのを見咎めた。

 リリアナの視点が空き地に集中すると、視界が遊園地の絶叫マシーンの如く、猛スピードで降下していった。途端胃が浮き上がるような違和感。「き……」騎士は誇りにかけて悲鳴を我慢した。

 永遠にも等しい一瞬の後、リリアナの視界は開けた場所を映し出していた。

 おそらくは、彼女が見た森の空き地だと思われる。まるで自然そのものがここまで来た探検家に憩いの場を提供するかのように、この広場は思わず目を奪われるほど澄み切っていた。

 近くの小山から地下水が湧き出しているのだろう、清水が滑らかな岩を流れていき、浅い小川を造っている。森の広場は手入れをされた芝生さながらの、ふかふかな背の低い草に覆われていた。

 それらを見た瞬間、リリアナの視界は暗転する。

「……あ、あれは……?」

 ようやく現実に立ち返りリリアナは、慌てて佐久耶の方に目を向ける。と巫女も驚いたように目を白黒させていた。

 それを不思議そうに宗一郎がこちらを見やる。彼にはあの光景が見えなかったらしい。

「ちッ。やはり貴様には届かねえか。念のために娘どもにも送っておいて正解だったな」

「……何をしました」

 硬い面持ちで厳しく問う宗一郎。今にも抜刀して斬りかかっていかんばかりだ。

「フフ。そう怒るな、坊主。決闘の場所を知らせてやっただけさ」

 宗一郎の焦りがよほど面白かったのか、黒犬はゴロゴロと喉の奥を低く鳴らして嗤う。

 あからさまな嘲り。それを無視して宗一郎は佐久耶を見やる。巫女も肯定するように首を縦に振った。

「とまあそういうわけだ、神殺し。その地を再戦の場としようか―――最もテメエがこのオレともう一度殺り合う勇気があるのなら、の話だがな」

「当然でしょう」

 宗一郎は即答した。

「ク―――ならば覚悟するがいい、神殺しよ。貴様はこのオレを識らぬとほざいたな。我が武名、貴様の故郷の地にまで届いていないとは恥辱の極み。

ならば、我が威―――貴様に骨の髄まで叩き込んでくれる!」

 双眸を炯々と輝かせ赤犬、否―――クー・フリンは吼える。

「いいでしょう。受けて立ちます――クー・フリン」

 宗一郎は静かに、だが断固たる決意で挑戦を受諾する。

「いいぞ、その意気だ。娘どもに示した場所まで明朝に来るがいい。

待っているぞ―――神無月宗一郎」

 その言葉を最後に、赤犬は紅の霞となって消え失せた。

 クー・フリンの退場で場の緊張が緩む。同時にリリアナの体も弛緩する。赤犬の登場以来ずっと緊張の連続だったのだ。

 何はともあれ、最悪の事態――人口密集地での戦い――は回避された。それを齎したのが『まつろわぬ神』だということは、驚きであるが喜ぶべき事態には違いなかった。だとしても、何もクー・フリンはダブリンの被害を懸念してくれたわけでもないだろうが。

 あの送り付けられた決闘場とおぼしき場所……あそこで一騎打ちを演じるならば、なるほど、クー・フリンに相応しい戦場である。あの魔槍の英雄はこの現代で神話の再演を図るつもりらしい。

「そういうわけです、佐久耶。案内を頼みました」

 リリアナが考えに耽っていると、さっきまでの諍いなど忘れたかのように、宗一郎が妹に言う。

「それは無理です」

 と一言で斬って捨てる佐久耶。

「むぅ……もしやさっきのこと根に持っているのではないでしょうね」

「……ない訳ではありませんが、勿論、違います。指定された場所は確かに送り届けられてきました。けれども、それはここからかなり遠方のようです。そこに行くまでの効率的な移動手段がありません」

 その言葉にリリアナは訝しんだ。佐久耶ほどの高位の魔女なら超高速で移動するあの術を修得している筈ではないのか? 疑問に思った彼女はそのことを口にしてみる。

「それは《飛翔術》のことですね……生憎とわたくしにはその心得がないのです」

 佐久耶曰く、そもそも自分は《飛翔術》を修得する必要がなかったのだと。なぜなら、佐久耶は霊魂投出の霊力で、いつどこにでも瞬時に移動できるのである。他者を遠方に送るにしても、瞬間移動の術がある。故に、わざわざ会得する必要性がなかったのだ。

 その瞬間移動の術にしても、数多の条件を満たした上で始めて行使できる術である。だがそれも、いまはその条件に合致していない。

 神無月家にしても、神と魔王が合まみえれば、勝敗の如何を問わず一度で決着が付くものだと思い込んでいた。だがらこそ、余計な術など佐久耶に学ばせなかったのである。

 今回のような事態は完全に想定の範囲外であったらしい。

「……では、どうするのですか」

 宗一郎は憮然とした口調で問う。

「決まっているではないですか、兄さま」

 そう言って佐久耶は、リリアナに目を向けた。

「え……」

 戸惑うリリアナに、佐久耶は頓着することなく、にこりと微笑みながら問いかけた。

「《飛翔術》――勿論、リリアナさまはお使いになられますよね?」

 ――このようにして、リリアナ・クラニチャールの参戦が決定した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話  分かれた枝の浅瀬

 神無月宗一郎は現在の状況に大いに不満であった。結局、妹と女騎士の力を借りざるを得なかったからである。

 妹である佐久耶はまだいい。神仏必滅は神無月家の悲願である。だがそれも、リリアナ・クラニチャールにはまったく関係ない話である。

 だと言うのに、どうして佐久耶は彼女と共闘を持ちかけたのか? そして、リリアナはなぜそれに応じたのか? いや、思い返せば、あの女騎士は妹が共闘路線を口にする前に、協力したいと訴えてきたではないか。……西洋の術者というのは、神無月家のように神と相対すれば戦わねばならぬ、という風習でもあるのか。

 それを確かめようにも、当の女騎士と妹はしばらく前に分かれたきりである。

 そう、宗一郎はひとり深緑の森に踏み入れていた。周囲は薄暗いが、行軍に困るほどではない。このまま順調に戦場へ辿りつけるだろう。

 クー・フリンの予期せぬ来訪を受けて、すでに数時間――今は朝日が昇り始めたところ。約束された再戦の刻限まであと僅かであった。

 あらためてそう思いながら、宗一郎はリリアナ・クラニチャールの参入に意義があったことを認めざるを得なかった。

 いま宗一郎が踏み入れている森は、ダブリンから数十キロは離れている。碌な移動手段を持ち合わせていない宗一郎が、こんな遠地に来ようものなら相当難儀していただろう。

 おそらくは、眠る間も惜しんで強行軍を敢行しなければならなかった筈である。そうして今ここに来ているころには、疲弊した状態でクー・フリンとの戦いを余儀なくされたに違いない。

 だから、彼女には感謝している。その思いに偽りはない。故に、この憤りは己に向けてのものに他ならない。

 些細な事態で他者の力を借りる。こんな有様では、神無月家の使命を果たし続けることなど到底叶うまい。万難を独力にて排さなくて、どうして神を殺し続けるという覇道を歩めようか。このままでは、どこかの戦場で無様に果てることになりかねない。いや、間違いなくそうなる。

(強くならなくては……!)

 そのためには、必要なのだ。

 血反吐を吐き骨に刻むような修練が――

 強敵との命を競り合うような実践が――

 その果てに更なる高みへと至るのだ。すべては神々を打ち滅ぼすために。

 宗一郎にはそうしなければならない義務があった。

 彼という完成体を生み出すために、数百年一族が流し続けた血の量に報いるためにも、神々を殺し続け“最強”たることを証明しなければならない。

 神無月宗一郎が最強でなければ、彼を生み出すために散っていった先祖たちの人生は石ころほどの価値もないということになる。

 そんな事実は到底認めるわけにはいかない。そう、たとえどんな手段を用いても、宗一郎は勝利しなければならないのである。

 ならば、やはりあの騎士には感謝するべきであろう。いまこうして宗一郎が目的地に向かって悠然と歩を進められるのは彼女の助力ゆえなのだから。

 宗一郎は万全な戦支度を整えて、この場に臨んでいた。血で染まった衣は脱ぎ去られ、もとの白地の衣に着替えていた。三十以上あった傷は既に塞がり、完全に治癒している。

 これも、リリアナがホテルの自分の一室で休息をとらせてくれためである。神殺しの治癒力と霊薬の助けがあれば、重症と言えど数時間程度(ひとねむり)で快癒してくれた。

 つまりそれは、戦えると言うことだ。かの魔槍の英雄と何にも煩わされることなく十全に死合えるのだ。ならば、それで十分ではないか。

 宗一郎は微笑を浮かべながらも、歩みは止めない。ザックザックと規則正しい歩調で歩み行く彼の意中には、先程まであった葛藤は最早ない。いま彼を駆り立てるのは、身の内から滾々と湧き出る闘志のみ。

 敵が近くにいる―――理屈ではない本能でそうと解った。もう慣れ親しみつつある感覚である。天敵に近づいているのだ。

 宗一郎の全身を武者震いが駆け抜ける。が、歩調を早めるようなことはしない。そうするのは些か見っともなく思えたのだ。

 それに獲物を前にして興奮のあまりがっつく様を晒しては敵を喜ばせるだけだろう。宗一郎としては敵の嘲弄の種になるつもりはなかった。

 故に、王者に相応しく威風堂々と進む。すると、とりわけ開けた場所に出た。広場は草地で覆われており、中央には広場を両断するように浅い川が静かに流れている。

 その向こう岸にクー・フリンが飄然と佇んでいた。背に携える六尺に及ぼうかという真紅の槍が朝日を受けてこちらを威嚇するように輝いている。

「よう。待ちわびたぜ、神殺し」

 クー・フリンはそう言って不敵に笑った。

「それは申し訳ありませんでした。ならば、早速始めるとしましょうか」

 その言葉と同時に宗一郎は、背から長刀を抜き放つや、剣術の基本たる青眼に構える。と同時に、白刃が赤い輝きに覆われ、瞬く間に紅刃と化した。

 刀身の周囲がゆらり、と陽炎が生じている。刃が超高熱で熱せられている証だ。再び、人刀が神刀へと変化したのである。

「……ほう。この期に及んで、なお斬り合いを選ぶか。それが貴様本来の性質というだけじゃなく、奪い取った権能事態が少ねえからか。ひとつということはあるまい。

―――ふたつと見たがどうだ?」

 クー・フリンの鋭すぎる頭脳が刃のように閃いて若き神殺しの戦力を解体する。

 あるいはクー・フリンの真の脅威とは、その武功ではなく、また権能でもなく、この知性なのかもしれない。

 クー・フリンの推測は正しい。宗一郎の権能の数はふたつ。

 ひとつは、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から得た、浄化の権能。もうひとつは、とある豊穣の女神から簒奪した権能である。

 その能力の特性上、宗一郎は永遠に使用を禁じると己に固く誓った権能であった。と言っても、もともと戦闘用の能力ではないため、戦力的に期待できなかったが。

 つまるところ、宗一郎は実質たった一つきりの権能で、幾つのも超常の特権を有する戦神に挑まなくてはならないのである。

 これに、宗一郎は臆することなく挑戦する。

 もとより、唯人であった頃より、神に挑み、勝利を手にしているのだ。若き神殺しには、神を滅ぼすのに妖しき超権など必要としない。一振りの剣さえあれば事足りる。

 ―――否、たとえ剣がなくとも、五体が健在ならば、いや、首一つになったとしても、その喉笛を噛み千切り、神を滅ぼしてこそ神殺しというものであろう。

 だが、こちらの戦力事情を大人しく教えてやる理由はない。宗一郎は沈黙を通した。

「フ―――まあいい。どちらにしろ、オレもそういうのはキライじゃあない」

 そう嘯くや、クー・フリンは背後に庇うように手にしていた長槍を持ち上げ、ブンと風車の如く振り回す。

 来るか―――警戒して身構える宗一郎。が、彼の予想とは裏腹に、クー・フリンは槍をぶん回すとそれで満足したかのように、穂先を地面に突き刺しただけで仕掛けてこない。

 にも拘らず、魔槍の英雄の全身から吹き上がる闘気に衰えるどころか、ますます膨れ上がっていく。

「実のところ、オレもそうしたいのは山々ではあるんだが、それじゃ兄弟たちが納得してくれなくてな。悪いが神殺し、こっちの流儀に付き合ってもらおうか……!」

 言下と共に、渦巻く呪力の奔流と同時に、神々しく輝かんばかりの豪奢な二頭立て戦車が踊り出る。

 四対の蹄が雄々しく地面を踏み締め、二対の双眸は復讐に燃えて、熱く煮えたぎっていた。二輪戦車は剛勇な英雄神が駆るに相応しい華美さと威厳に溢れており、両側面に固定された巨大鎌は相変わらずの禍々しい威圧感を醸し出していた。

 クー・フリンは満面の笑みを浮かべながら、二頭の愛馬に歩み寄り御者台へと飛び乗る。

「待たせたな、兄弟たちよ。今度こそオマエたちの全力を神殺しに魅せてやろう!」

 主の声に答えて、当然だ、といわんばかりに興奮して嘶く神馬たち。

 それを宗一郎は厳しい面持ちで見ていた。最早常態になりつつあるのか、宗一郎にはまたもやクー・フリンの意図が掴めない。

 宗一郎の疑問は次の一点に集約した。つまりは、なぜ再び二頭立て戦車を使用してくるのか、である。

 戦車の能力は既に知れているし、対処も可能だということも示した。

 確かに、不可能だと思われた神速からの精密攻撃、そこからの慮外な戦車制御力による質量攻撃。奇手奇策に翻弄されはしたが、いずれも切り抜けている。たとえ他にも手練手管の芸を持っていたとしても、対処する自信が宗一郎にはあった。

 二頭立て戦車、いや、神速の権能では宗一郎は倒せない。無想の境地に達し、心眼を開眼させ得た彼にとって、究極の速力といえど恐れるに足りない。

 クー・フリンとてそれが解らない筈がない。それとも、その認識は宗一郎の一方的な思い込みであって魔槍の英雄の考えは違うのか。

 あくまで神速を恃みとした奇手奇策でもって宗一郎を倒せると確信しているのか? あるいは、公園の戦闘の際に、一敗地に塗れて猛っている神獣(ペット)の屈辱を晴らしたいだけなのか?

 ―――否。そのどちらでもない、と宗一郎は直感した。

 敵は万夫不当の主たるクー・フリンである。軽挙妄動は厳に慎むべきだろう。何かがあるに違いない。必ずや神殺しである己を仕留められる算段があるのだ。

 ―――ならばそれは、権能によるものに他なるまい。認めたくはないが、神と魔王の真の闘争とは超常の力のぶつかり合いに他ならないのだから。

 どうやらあの戦車の能力は神速のみではなかったらしい。それとも、クー・フリン自身が手ずから芸を振るうつもりなのかもしれない。

 とはいえ、宗一郎はそれが何であるかなど考えない。予知能力でもない限り、解りようもない答えを自己の中に求めても無意味でしかない。

 ここは相手の出方を待ってから次の行動を決めるしかないであろう。

 宗一郎から仕掛けることは論外であった。かの戦車が神速の権能をも有している事実を忘れてはならない。機動力に優れているモノが常に攻撃の優先権を占有しているのだ。

 そうなると、先の戦いと同じく守勢に回らざるを得ないことは明らかであった。

 宗一郎は一層気を引き締めて、紅蓮に燃え盛る灼刀を握りしめた。

「さて、神殺し。悪いが始める前に相談したいことがあるんだがな……」

 そう言いながらも、さして悪びれた様子もなく肩をすくめるクー・フリン。

「ああ、あなたのお知り合いのことですね」

 宗一郎は皮肉に唇を歪める。

 クー・フリンが言っているのは、昨夜の戦いの際に乱入してきた謎の『まつろわぬ神』のことだろう。

 神でありながら天敵である宗一郎を無視して真っ直ぐにクー・フリンに向かって行ったところを見ると、彼と所縁のある存在なのだろう。それもあまり上手くいっていない関係に違いない。

「おいおい。そう責めてくれるなよ。前の戦いが不本意なのはお互い様だ。それにもうコリゴリだってことでも同じらしいな。とはいえ、オレが原因のコトでテメエだけ手を煩わせるのも気が引ける。そこで、だ。厄介者に邪魔される心配がない、イイ手があるんだが、乗る気はないか、神殺し」

 クー・フリンの言う宗一郎の“手”とは、佐久耶とリリアナのことだ。あらかじめ佐久耶が卜占を執り行い、凶兆の兆しが出た方角に向かって移動していたのである。

 占いによれば、そこから「厄介者」が来るらしい。

 無論、目的は足止めである。倒すことではない。と言っても、相手は『まつろわぬ神』である。容易に事が運ばないのは道理で、生命の危険もあり過ぎるほどあった。

 兄としては当然妹が心配であった。佐久耶が生身ではなく幽体であることは決して安心材料にはなり得ない。神ならば幽体から肉体を破壊する術など幾らでもあるだろう。

 幽体での唯一の利点は、戦線離脱を容易にすることである。何しろ本人の意思ひとつで瞬時に意識は数万キロ離れた肉体へと還るのだから、逃げ足の速さときたら、神速にも劣るまい。

 もっとも、妹の性格からいって、轡を並べた女騎士を見捨てて、一人で逃げるとは思えない……かどうかは解らない。あれでも一筋縄ではいかない性格をしているのである。

 それでも、宗一郎の心配の種は尽きることはない。

 だが、クー・フリンにも対応策を講じる用意があるのなら、妹の危険を軽減できるかもしれない。聴いてみる価値はあるだろう。

「……いい手とは何です」

「―――結界を張る。しかも、かなり強力なシロモノだ。オレでも破壊するのは難しい上に、解呪するのも面倒なヤツをな。まあ、オレたちの戦いが終わるまでは持つだろうさ」

 その言葉通りに受け取るなら、確かに強力な結界だ。

 無双の武術の神が振るう武力に屈さず、狡猾な魔術の神が編む魔力に惑わされないのだから、最高の守りと言ってもいい。

 それが事実であったのならば、であるが。

 宗一郎はクー・フリンの言葉に極めて懐疑的であった。『まつろわぬ神』の行動を長時間に亘って封じ込める結界をぱぱっと一瞬で構築するということが、容易に可能だとは思えない。

 術法に優れる妹ですら、周到で膨大な準備を敷いて、ようやく神の足をしばらく止める程度なのだ。

 それとて驚異的なのである。それをあろうことかその足止めを、長期に亘って維持できるなど、まったくもって法螺話にしか聞こえない。

 ―――だがそれが事実であったとしたら?

 もしそうであるのならば、あのクー・フリンは魔王すら一撃で屠る凶悪な攻撃能力を有するのみならず、神の怒りすら耐え抜く堅牢な防衛手段をも持っていることになる。

 冷たい戦慄が宗一郎の全身を駆け抜ける。それが真実ならば、宗一郎がかつて対峙した如何なる神々をも凌駕する強大無比な神ということになる!

「クク。そう身構えるな、坊主。それに、そんなに大きな話じゃあない。

オレの張る結界とは、動けない領域を守る、動かない境界線の事だ。まあ、言ってみればココら一帯を城壁(ウォール)で囲んじまおう、てワケだ。

 戦闘用の(シールド)のように小回りが利かない上に、一度張っちまうとオレでも外せないし、出られない。しかも使用に制限までありやがる」

 なあ、大した事ないだろう、と魔槍の英雄はそう言って肩を竦めた。

「……」

 十分大した話である。それでも、納得は出来た。

 クー・フリンの構築する結界とは、発動条件が設けられた特定状況下でのみ発動する権能なのであろう。

 ならば、『まつろわぬ神』の猛攻にすら長時間耐えられるという話も満更法螺でないかもしれない。

 この種類の権能は、使用に制限が設けられているが故に、強力な場合が多い。しかも、条件が厳しければ厳しいほどにより効果が向上する傾向にある。

 一度発動すれば本人ですら出ることが叶わないのも、制限のひとつなのだろう。おそらくは、虚言を弄している訳ではあるまい。

 そして、はた、と宗一郎にあることを気付かせた。

(……敵が出られないということは、当然僕も脱出できない。つまりそれは、限定された空間内に敵意ある者同士が残されるということ!?

ならば、この権能の発動条件とは、そして、それの意味するところは―――!)

「ほう。気づいたか、神殺し。そうだ、この結界の発動条件とは貴様の同意のみ。その用途は何者にも邪魔されない、一騎打ちの場を創り出す事だ。

 名を――『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』という」

 その結界()を聴いただけで、宗一郎の全身に武者震いが駆け抜ける。

 誰にも妨害されないことのない一騎打ちを開催してくれるとは、なんとも粋な権能ではないか!  それが事実とすれば、性分から権能を忌避している宗一郎とて、是非とも欲しい能力である。

 とはいえ、相手は曲者のクー・フリンである。額面通りに受け取る訳にはいかない。

 おそらく『分かれた枝の浅瀬』とやらは、クー・フリンが語った通りの能力はあるのだろう。が、果たしてクー・フリンは、本当に一騎打ちを行いたいがために、結界を張る提案を持ちかけてきたのか。その裏には目に見えない意図が隠されているのではないのか。

 つまりは―――罠。実際、宗一郎の本能は警鐘を鳴らしていた。

「どうした、神殺し。貴様が、勇者か、それともただの、臆病者か。試されているぞ」

 宗一郎の逡巡を見たのか、クー・フリンの挑発が飛んでくる。

 この提案を蹴れば、オマエは臆病者だ、と言わんばかりの言葉に、無視を決め込んでも宗一郎の誇りを刺激せずにはいられなかった。が、思慮を欠いた行動を執らせるほどではなかった。

 宗一郎は、自分とういう存在を解っていた。否、神殺しとは如何なる存在であるかを識っていたのである。

 つまるところ、神殺しとは勇者の心と臆病者の心、双方合わせもつ存在なのだ。獅子の暴力と狐の智慧をひとつの肉体に同居させた存在なのである。

 とはいえ、魂に二匹の獣をただ飼えばいいというわけではない。獅子の領域が大なれば、敵の狡猾な罠から身を守れず、狐の領域が小なれば、敵の暴力から身を守れないであろう。

 故に、真に強大で完成された神殺しとは、二匹の獣を高いレベルで調和した者をいうのである。 

 故に、いま臆病者の心が危険を察知して警鐘を鳴らし、狐の智慧がクー・フリンの提案に乗ってはならぬ、と告げていた。

 宗一郎とてそれは解っている。だが、『まつろわぬ神』と対峙する佐久耶の存在が若き殺しの判断を鈍らせた。

 神々さえ攻勢に二の足を踏ませるほどの大結界を展開すれば、必然、妹と女騎士もまた無理をする必要性が減少するだろう。妹の身を案じる宗一郎としては、これは大きい。

 やってみる価値はある。だがそれは、敵の罠に自ら掛かりに行くに等しい、度し難い愚行である。調和のとれた完全なる神殺しの決断ではありえない。

 だが、宗一郎は動く。

 愚行、未熟は、承知の上でなお罠に飛び込む。たとえ、罠が待ち受けていようとも、獅子の暴力を以って、敵の智慧を打ち砕く!

 本末転倒甚だしいが、そちらの方が今のところ宗一郎の性分に合致していたのだから仕方ない。何より、妹のために、そして……後は女騎士のためにもやむを得ない決断であると宗一郎は信じた。

「いいでしょう、クー・フリン。一騎打ちの誘い、受けて立ちましょう―――!」

 宗一郎は御者台に立つ“浅瀬の守り手”へ宣戦布告を叩き付ける。

「ここに誓約は成った……! 何者をも我らの聖なる戦いを邪魔すること能わず。たとえ、

神々といえどもこの誓いは破れない!」

 高らかに『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』を発動する言霊が唱えられる。

 瞬間、森の広場の四隅から幾何学的な文字の群れが爆発するように吹き上がる。数千数万にも及ぼうかという赤く輝く魔術文字は、四方を巨壁の如く埋め尽くす。

 あまりにも魔術文字の数が多すぎるために、もはや赤い壁としか認識できない。また壁の高さときたら、あたかも果てがないかのように伸びに伸びている。

 まさか成層圏にまで届いていないと思うが、外から見れば、宇宙にも届かんばかりの赤い巨大な石柱が急激に生えてきたように見えただろう。

「オレは、貴いタラの石にかけて誓おう……! 貴様の心臓を射潰し、首は斬り落としてから戦車の飾りにせんとする事を―――!」

 やおらクー・フリンは大胆不敵な勝利宣言を謳う。不敵な笑みとともに、宗一郎を見据える。

「ならば、僕も宣言します。あなたの腹を裂き、右手を斬り落とし、その宝槍を奪い取る事で、勝利の証としましょう―――!」

 負けじと宗一郎も応えて、睨み返す。

 ぶつかり合うふたりの視線。交錯する黒色の瞳と虹色の瞳。

 虹彩は違えども、闘争を欲する色では両者全く同じであった。もはや、ふたりの戦いを邪魔する者はいない。躊躇する理由もない。故に両者がぶつかり合うのは至極当然の理であった。

「先手はオレが取らせて貰うぞ―――神無月宗一郎」

 傲然と言い切るクー・フリン。

「ええ、受けて立ちます―――クー・フリン」

 だが、既に待ちの一手と決めている宗一郎に異論はない。

「よくぞ、言った! その剛毅さ、流石は、神を殺めし者。ならば、オレも遠慮なく行かせて貰おう!

 御者の王よ、狩りの兄弟よ。かつて傲慢なる女王メイブの軍勢を蹴散らしたように、いままた、我が眼前に立ち塞がる敵を共に滅ぼそう、我が御者ローグよ!」

 言霊が迸るや、御者台の上、魔槍の英雄の横に黒い人影がゆらりと現れた。

 影としか表現できないのは、全体的な姿形がはっきりと視認できないからだ。まるで影だけが実体化したかのような、なんとも奇妙な存在。

 しかもなお奇妙なのは、神なのか神獣なのか判別できないことであった。神殺しならば、本能で判別できる。が、本能から還ってきた返答は微妙だった。また、神獣とも断定しがたい。輪郭は人の姿を模っているのだから。

 身長は宗一郎と同じ程か。長身のクー・フリンと並んでいるとより矮躯が強調される。無論、ただの小男ということあるまい。おそらくは、従属神の一柱。不完全の姿形は、神格の一部のみを召喚したからだろう。

『我が名はローグ。狩りの兄弟からの召集により、共に荒野を駆け抜けん!』

 『影』から放たれる言霊にて、あらゆるすべてのコトが変わり始めていく。

 まず、戦車が虚空に溶けるように消えていく。それに引きずり込まれるように、御者台に乗る二人の男たちも姿を消す。尚も消失現象は止まらない。次に大型車両に繋がれた轅が消え、最後に二頭の神馬たちもまた見えなくなる。

 あれ程までに強烈な威圧感を放っていた二頭立て戦車は、まるで最初から存在しなかったように、完全に消え失せた。

「こ、これは……!」

 宗一郎はこの光景の意味することを直ちに悟った。

 敵は瞬間移動したのではない。気配を完全に遮断したのだ。それも姿さえ見えなくなるほどに! 

 完全気配遮断能力。これがクー・フリンの切り札。あの小男―――ローグの能力『隠蔽』の権能!

 そして、宗一郎は二頭立て戦車のもうひとつの能力(、、、、、、、)を思い出し、全身が悪寒に総毛だった。逃れられぬ死の濁流が宗一郎を飲み込もうとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話  魔女たちの戦い

 クー・フリンが指定した決闘場から南側に位置する森の外れ、そこで待機していたリリアナ・クラニチャールは、背筋に泡立つ悪寒を感じて、背後にある生気が漲りすぎて怖いほどに生い茂った森に深青の瞳を向けた。

 それを見て不審に思ったのか、隣にいた神無月佐久耶が問う。

「どうかされましたか、リリアナさま。……何かをお感じに?」

「いえ、それほど大したものでは……ただ、神無月宗一郎、貴方の兄君は大丈夫なのだろうかと。何といっても相手はあのクー・フリン。強敵です……」

 実際は、その言葉でもまだ控えめの発言だろう。

 何しろ相手はアルスター神話最強の戦士との呼び声高い、ビッグネームの中のビッグネームだ。

 幾柱もの神々を滅ぼした旧世代のカンピオーネたちですら苦戦は免れ得まい。いわんや、神無月宗一郎は現在最も若い神殺しである。保有する権能の数も多くて二つあればいい方だろう。

 間違いなく苦戦どころか死戦になるに違いない。それを誰よりも解っている筈の巫女に動揺の色はない。神無月宗一郎を完全に信じている証だろう。

「兄は時より粗忽な事をやらかしますが、やるときはやる人です」

 騎士の視線の意味に気づいたのか、佐久耶は苦笑しながら答えた。

 リリアナはそれ以上の問答を避けた。納得したわけではない。ただ無意味さを悟ったのである。

 家族にしか解らない信頼関係を、会って一日も経っていない彼女に理解できる筈がなかったからである。

 また、そんな暇はリリアナには許されていなかった。《青銅黒十字》において最年少で大騎士の叙勲を授けられる栄誉を賜ったリリアナ・クラニチャールを以ってしても、困難を極める任務が待っていたからだ。

 クー・フリン来訪後、三者の役割分担は昨夜の内に決められた。即ち、宗一郎が指定された決闘場へ。リリアナと佐久耶は、必ず来るであろう謎の『まつろわぬ神』の足止めである。

 つまりそれは、神と戦うということに他ならない。

 人の世に顕れる最大の災厄。狂える流浪の神。聖なる王権の所有者。

 ついに自分も彼らと対峙する時が来た。いつかは遭遇するかもしれないと覚悟していたが……

 昨日までの自分では、想像もしていなかった事態である。

 仮に何者かが「やあ、リリアナ・クラニチャール。その日の夜更けに君は、神と魔王の戦いに巻き込まれるだろう。気を付けるんだよ」などと忠告されたとしても、自分は信じなかったろう。しかも、その魔王がまだ存在も知られていない八人目であるのなら、なおのことである。

 だが、いまはそうではない。リリアナ・クラニチャールはすべてを理解した上でここにいる。故に、神々と対峙する覚悟はすでに出来ている。

 幸いリリアナはひとりではない。決意を込めた眼差しで、隣にいる仲間たち(、、)を見た。

「はい、リリアナさま。その意気です。わたくしとこの仔もついております」

 そう言って佐久耶は、横に視線をやる。

 ソレはちょうど巫女をリリアナと挟む位置に居座っていた。巨大な黒い犬である。全長十メートル近い規模からみて、神無月宗一郎の使役していた神獣だろう。驚いたことにアレは権能によるものではなく、魔術によって制御されているらしい。

 間違いなく、東洋魔術における最高位の魔術であろう。欧州でこれに相当するのが、いまだ青き騎士には取得を許さていない聖絶の言霊にあたるだろうか。

 つまりは、神獣・神霊すら屠る、唯人に許された数少ない彼らへの対抗手段である。

 その使役権を惜しげもなく佐久耶にあっさり譲渡するのだから、なんとも剛毅な話である。あの若き神殺しは、よほど妹が大事なのだろう。

 リリアナは恐々とその巨大な黒犬を見上げた。地上から数メートルほどの高さに鎮座している頭部、その眼窩に収められた二対の赤眼が彼女らを冷やかに睥睨していた。どう楽観的に解釈しても、黒犬が現在の境遇に満足していないことは一目で察せられる。

 それも当然か。魔術によって鎖で縛りつけられ、己の意に沿わぬ従属関係を強制させられているのだから。

 だからこそ、ひとたびその鎖が緩まろうものなら、相対している敵より使役者の方を襲うに違いない。が、そんなことは神無月宗一郎がもっとも解っている筈である。にも拘らず、あっさりと妹に貸し与えたと言うことは、佐久耶の魔術の腕前を信用しているのだろう。

 カンピオーネが太鼓判を押したも同然の佐久耶の力量を疑うわけではないが、やはりあの黒犬を全面的に信用するわけにはいかない。

 戦闘の最中であっても、注意しておかなければ、と決意した―――その直後、森の方面から赤い柱が天に挑むかのように隆起し始めた。  

 恐ろしく巨大なシロモノである。高さに限界が見えない。薄い雲を突き破ってどこまでも果てしなく突き伸びている。

「な、なんだ、あれは……」

 リリアナは唖然と呟きつつ、答えは解り切っていた。

 あんな出鱈目なコトが出来るのは、いまこの付近には二人しかいない。そう、神無月宗一郎かクー・フリンの他にあり得まい。そのどちらかまでは定かではないが。

「……神代の魔術文字……浅瀬の一騎打ち……屈強にして雄弁なる戦の神……」

 佐久耶の口調は、茫洋として酔ったように、たどたどしかった。

 それを見てリリアナは察した。佐久耶はいま幽世と繋がっているのだ。どうやら霊視を得たらしい。その意味するところを、騎士はただちに理解した。

「そうか、あれが『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』……一騎打ちの誓約か―――!」

 コナハト女王メイブの軍勢を幾日もの間、足止めにしたと言う大結界。まさかかの逸話の再現をこの目で見られるとは、と場違いな感動に身を震わすリリアナ。

「兄さま。また早まった真似を……」

 対して、佐久耶は呆れたように頭を振る。その言葉にリリアナは不思議そうに首を傾けた。

「どういういうことですか? あの大結界が伝説の通りなら、むしろ我々にとって有利に働く筈では?」

 伝説曰く、ひとたび決闘場が形成されるや否や、完全な勝敗が決するまで何人の介入も退場することも許されない。

 それが事実なら、リリアナたちの負担軽減は計り知れないだろう。

 いま彼女らが待機している場所――森と平原の境界線――を防衛線と定めたものの、たとえ、ここを抜かれたとしても、森の奥まで後退しつつ、あの結界を上手く活用して立ち回ることも出来るのだ。

 また、戦闘継続能力を著しく損なわれたとしても、過剰なまでに無理をする必要もなく、容易に戦線離脱を図ることも出来る筈である。

 むしろ、神無月宗一郎は後者の事情を考慮したのではあるまいか。伝説によれば、あの大結界を発動させるには、決闘者双方が一騎打ちの誓約を交わさなくてはならない筈なのだから。

 どう考えてもリリアナたちが不利になるような要素は見当たらなかった。彼女は視線で佐久耶に問いかけた。

「わたくしにも確かなことは解りません。ただ、あの結界を視ると、なぜか嫌な予感がするのです……」

 不安げに言葉を紡ぐと、佐久耶はふいに顔を強張らせ、眼差しを平原の方に向けた。それにつられてリリアナも視線をやる。

 そこには、さっきまで眺めていた光景と何も変わったようには見えない。

 地平線まで続く平原は、背の低い草に覆われた起伏のなだらかな土地である。民家どころか文明世界がまったく浸食した形跡のない、超常の戦いを行う上では、最適な環境であった。空を見上げれば、太陽が東の空からゆっくりと登り始めたばかりである。

 ……やはり、何も変わったところは見られない。少なくとも目にする限りは。

「リリアナさま、お気を付けください。どうやら参られたようです」

 それが何かなどとはリリアナは、問わなかった。事ここに至って、遅まきながら彼女の霊感にも反応があった。

 ―――来るのである、『まつろわぬ神』が。

 リリアナは『まつろわぬ神』の正体についておおよその見当をつけていた。

 女神であること、クー・フリンを敵視している事実を踏まえて推測を立てるのなら、幾つかの候補が思い浮かぶ。

 莫大な富を求めてクー・フリンの故郷の地に攻め入った女王メイブ、クー・フリンに求愛を断られ、激怒し復讐を誓った戦女神モリガン、などなどメジャーな女神たちが真っ先に思い浮かぶものの、これから来るであろう『まつろわぬ神』の正体は、おそらく彼女たちではあるまい。

 リリアナは直接目にすることこそ、叶わなかったものの、神無月宗一郎の証言によれば、魔女の神格を有している可能性を示唆していた。

 その根拠は、魔女さながらの長衣を着込み、宙を自在に翔けていたからだろう。その判断にリリアナも異論はない。とはいえ、宙を翔ける能力は、何も魔女たちの専売特許というわけではない。

 事実、クー・フリンも天駆ける能を会得している。だが、民草に崇め奉られる神が、自らの容貌を隠匿するような服装を好んで着用しているだけでその出自の特定に役立つ。

 クー・フリンに対する強い憎悪。魔女風の長衣を着込み、宙を飛ぶ能力の持ち主。これらの条件のもと、アルスター神話に該当する神々は、リリアナの知る限り一柱のみ。それは……

 思考の海に没入していたリリアナの霊感が、ここにきて最大の警鐘を鳴らす。故にそれ以上考えるのは止めて、彼女はじっと空を見上げた。

 夜が明けたばかりのまだ薄暗い朝の空。その南側の方角にぽつんと一個の黒い点が浮かんでいた。ソレは途方もない速度で移動しているらしく、たちどころに黒い点は、人影へと容を変えていく。

 魔術で強化されたリリアナの視力でも容貌までは判別できなかった。全身をすっぽりと紫色の長衣で覆っていたからだ。だが、もはやあえて確認するまでもないだろう。伝説通り、醜い老婆のような姿をしているに違いない。

 リリアナはあらためて『まつろわぬ神』を目にすることで、かの女神の正体について自分の推測が正しかったことを知った。

「ヅイニ、追イ詰メタゾ、グー・ブリンンンンンンン…………!」

 耳障りなしゃがれた奇声がアイルランドの朝の空に響き渡る。距離にして既に三百メートルを切っている。

「あれが復讐の魔女―――カラティンの妖女か…………!!」

 リリアナはかの女神の神名を呟く。

 神話の時代において、クー・フリンに実父クラン・カラティンを殺害され、その憎悪ゆえに実父の仇を討ち果たすと誓い、暗黒の妖都バビロンの地にて妖術の奥義を修めた復讐の魔女。

 神話によれば、己が悲願を叶えるべく妖術と謀略を駆使し、ついにクー・フリンを死の間際まで追い込んだという恐るべき妖女である。

 そんな逸話を持ちながら、カラティンの魔女は決してメジャーな神ではなかった。メイブやモリガンは知っていても、カラティンの名を聴いたことがある人間は少ないだろう。言ってしまえば、三流の神なのである。

 だからと言って、断じて侮って良い相手ではない。それが出来るのはカンピオーネたちくらいである。リリアナが同じ心境で戦うことなど許されない。

 本来、聖騎士の位階にすら達していないリリアナでは足止めの役目すら荷が重いのだ。もしこれが、彼女が単身で挑まねばならない任務であったなら、逃げはせずとも、今頃あまりの悲壮感に震えていたかもしれない。

 だが、リリアナはひとりではない。

 隣を見れば、佐久耶は既に手を打っていた。黒犬に命じて、不可視化の能力を発動させていた。とうにあの黒い巨体は跡形もなく消え失せていた。

 直接魔女神にぶつけるのではなく、不可視化のよる奇襲戦法に望みを託すつもりなのだろう。佐久耶本人は、何らかの大がかりの術を使うつもりなのか、瞳を閉じて、精神を集中させている。

 リリアナも覚悟を決めて、

「ダヴィデの哀悼を聴け、民よ! ああ勇士らは倒れたる哉、戦いの器は砕かれたる哉!」

 朗々たる詠唱を謳い上げる。

「ギルボアの山々よ、願わくは汝等の上に露も雨も降らざれ! 贄を求めし野の上もあらざれ! 其は彼処に勇士の楯、棄てらるればなり! サウルの楯、油を注がずして彼処に棄てらるればなり!」

 リリアナが謳うのは、『ダヴィデの言霊』。

 悔いある亡霊たちの悲嘆。疲れた武人たちの詠嘆である。

 リリアナは躊躇なく切り札を切る。神々をも傷つける絶望の特権を行使する。

「殺めし者の血を呑まずして、ヨナタンの弓は退かず! 勇士の油を喰わずして、サウルの剣は虚しく還らず! ああ勇士らは戦いのなかに倒れたる哉!」

 青い騎士の左手に青き光が集う。―――次の瞬間、顕れたのは彼女の背丈と変わらない長大な弓であった。同時に右手には青く輝く四本の矢。

「ヨナタンの弓よ、鷲よりも速く獅子よりも強き勇士の器よ。 疾く駆け汝の敵を撃て!」

 この世ならざる青い長弓に装填された四本の矢が、百メートルを切った地表すれすれの位置で飛翔しながら迫ってくる、カラティンの妖女目掛けて放たれる。

 青光が四筋のほうき星と化して紫の人影へと殺到する。回避は不可能だ。必中の魔弾は自動追尾の魔力で何処までも獲物を追い回す。

 ―――それを知ってか知らいでか、カラティンの妖女は進行方向を曲げもせず、ただ愚直に直進してくる。

 ならば当然、青光は猛然と迫りくるカラティンの妖女を滅多打ちにする! 全弾命中。

 小さな体がまるで衝突事故にでも巻き込まれたかのように弾け飛ぶ。

 そもそも外しようのない射撃である。敵はただ真っ直ぐに飛んで来るだけなのだから、止まっている的を射るのと大差ない。弓騎士としては、いまのを腕の見せどころとするのに、困る相手であった。人間風情の攻撃など警戒するに値しないということだろう。

 故に、魔女の体がむくりと起き上がるのも、また必然であった。だからリリアナはさして驚かなかった。

 カラティンの妖女は「ギギッ」と奇声を発しながら、リリアナたちを見るや、さも不思議そうに小首を傾げてみせた。どうしてこんな小石に蹴躓いたのか解らないと言うように。

 リリアナの見る限り、目立った傷を負っているようには見えない。頑丈さをウリに出しているタイプには見えないから、矢が直撃する寸前に障壁を展開したのだろう。

 やはり魔術を司る神を相手に、魔術戦を仕掛けるのは無謀すぎたということだ。だがそれでも構わない。リリアナの目的は敵を倒すことではなく、足を止めることだったのだから。

 そして、青い騎士はその任務を完璧に果たし終えた。故に次に続くのは、

「―――神無月佐久耶、今ですッ」

 巫女は騎士の声に応えるように、目を見開き、両手をカラティンの妖女に向けて掲げる。

「天の岩戸を引き立てて、神は跡なく入りたまえば、常闇の世と、早なりぬ」

 佐久耶の口から呪文が紡がれる。と同時に、カラティンの妖女の周囲から一気に岩石が隆起するや否や、瞬く間に茫然と佇む小さな体を半球状に包み込む!

 これは天照大御神が須佐之男命の乱行に憤怒し、天岩戸に引き篭もることによって、太陽神の神威を消失させしめた故事を、極小規模で再現した御霊封じの結界である。

 リリアナは「おお」と感嘆の声を上げる。神獣を使役する秘術といい、東洋魔術は対神霊・神獣への対抗手段として西洋とは異なるアプローチを模索し、完成に至ったらしい。

 即ち、神々を傷つけ、殺める方法ではなく、神々を封印、使役する手段を磨き上げてきたのだ。

 魔女として多くの術理に通暁するリリアナとて初めて目にする秘術。

「オマエダチ、何故ワダヂノ、邪魔ヲズルノダァッッ!!」

 ―――だが、それを以ってしても『まつろわぬ神』を封じるのは不可能であった!

 不気味な叫び声と共に、毒々しい紫色の濃霧が、岩の膜から噴出する。すると、半球状の岩壁は瞬時に溶け崩れ散っていく。フェニックス公園で使用した毒の霧だ。

 結界を溶かしただけでは、満足できないのかリリアナたちにまで毒手を伸ばしてくる。御霊封じの結界があの様では、リリアナが対抗呪文を講じたところで意味はあるまい。

 結界ごと溶け崩れるに決まっている。 ―――ならば、回避に徹するのみ。

「魔女の翼よ、我が飛翔を助けよ!」

 リリアナは飛び上がると同時に呪文を唱えるや、宙を蹴って大空を駆け上がっていく。

 幸い毒霧の進行速度はそれほど速くはない。余裕をもって回避できた。リリアナは地上から十メートルほどの虚空に立って、眼下の様子を眺める。

すると、さっきまでリリアナがいた過去位置には、もうもうと紫の濃霧が立ち込めていた。

 リリアナは凛々しい眉を顰める。近くに佐久耶の姿はないが、彼女はそれには注意を払わなかった。あの巫女が幽魂投出の霊能力を有している以上、あれくらいの攻撃で逃げ遅れるなど考えられない。

 故に、リリアナが警戒しているのは別のことであった。

(まずい、道が空いてしまったッ)

 そう、リリアナたちが退いた以上、いまやカラティンの妖女と森の中で赤く輝く結界との間を隔てる障碍が消えてしまったのだ。

 後僅かに残すばかりとなった平地やその先にある樹々の群れなど、魔女神にとっては小石ほどの障碍にもなり得まい。

 実際、リリアナの懸念が示すとおりに、カラティンの妖女の小さな体が動く。自分が創り出した毒の霧を吹き払うかのように、猛スピードで再度飛翔する。

「くッ」

 これ以上侵入させてなるものか、とリリアナは青弓を立て、召喚した光矢を番えて、解き放つ。次々と射放たれる青い光弾。

 だが、カラティンの妖女に直撃する寸前、青い矢はあらぬ方向へとねじ曲がり四散していく。

「―――ッ!? 矢払いの加護か!」

 早速対応してくる魔女神。これでは如何なる飛び道具を以ってしても、カラティンの妖女の長衣の裾すら触れることは叶うまい。

 そうと知りつつ、リリアナは青弓から光弾を吐き出し続ける。彼女は手持ちの対神霊用術式を遠距離戦闘用のみしか修得していない。聖絶の言霊はもとより近接戦闘の言霊の知識にすら触れることを許さる立場ではなかった。

 故に、リリアナは無意味と解っていても、弓矢を放ち続けるしか術がない。

「グー・ブーリンンンンンッ!!」

 歓喜の声を上げて、突き進むカラティンの妖女。

 もはや魔女神を阻むものなど何もない。断続的に飛来してくる矢は、身を穿つ前に四散する。ましてや、とっくに払い除けたリリアナなど意識の端にも上らない。

 カラティンの妖女にとって、青い騎士は払い除けただけで事足りる小石に過ぎない。一々手間暇をかけて粉砕しようなどとは露とも思わない。

 ―――それこそがリリアナの付け入ることの出来る唯一の隙である。

 リリアナが何をしてもカラティンの妖女の関心を引くことがないということは、反撃の心配をする必要がないということでもある。この機会を有効に使えるかどうかが勝負の分かれ目になる、とリリアナはそう判断した。

(どうする? 弓矢を捨て、大地の霊に請い、壁を創り出す事でカラティンの妖女の進行を阻むか?)

 対神霊用の秘術でもない限り、ただの魔術では神々の呪術抵抗力により無効化されるのは周知の事実である。だがそれは神を直接の対象とした場合に限っての話である。

 対象を特定しない間接的な魔術であるならば、神々とて無効化できずに影響を受けるのを免れ得ないのである。

 とはいえ、何重もの壁を隆起させたところで、稼げる時間など五秒にも満たないであろう。それだけで、リリアナの呪力が枯渇しかねない。

 だがこのまま弓矢を射続けたところで、カラティンの妖女の足を一秒とて止めることが叶わないのは明白だ。ならば……

 リリアナが決断しようとしたそのときには、カラティンの妖女はさっきまで彼女たちが待機していた地点まで差し掛かっていた。そこから森まで十メートルと離れていない。

 これ以上の猶予は許されない。

 リリアナは青い弓を捨て、大地に意識を伸ばそうとしたそのとき、

「かかりましたね!」

 弾んだ声と同時に神無月家の巫女はリリアナの隣に出現した。

 眼下に眼差しを向けて、そこにカラティンの妖女の小さな体を視界に収めるや、佐久耶は呪文を唱える。

「東海の神、名は阿明! 西海の神、名は祝良! 南海の神、名は巨乗! 北海の神、名は愚強! 四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う! 急々如律令!」

 カラティンの妖女を中心に据えて、大地に白く輝く五芒星(セーマン)が刻まれる。本来は鬼神の侵入を防ぐのが目的の百鬼夜行を避ける呪文、対神霊結界だ。それがいま用途を逆にして、カラティンの妖女の脱出を防ぐ檻として展開される!

「ギギギィィッ!」

 苦悶の声を漏らす魔女神。それを見て、リリアナは驚愕する。

 如何に秘術クラスの魔術とはいえ、よもや『まつろわぬ神』が人間の術を喰らって悲鳴を上げようとは!

 だが、それにしても恐ろしく強大な結界術である。

 先の結界も凄まじかったが、白く輝く障壁は、明らかにそれすら凌駕しているに違いない。カラティンの妖女が今なお結界を破壊出来ずに、捕らわれ続けていることがそれを証明している。

 だがいつまで持つのだろうか。あるいは、永遠に封殺できるのかもしれない。そう思わせるほどに霊的障壁の霊圧は、カラティンの妖女を完全に緊縛していた。

「―――流石にそこまでは持ちません。これは特別性の結界石を五行に見立てて配置し、術を極限まで増幅しているのです。ですから本来はここまでの威力はないのです」 

 佐久耶は苦笑しながら、術理の説明をしてくれた。

「特別性……?」

「はい。禍祓いの巫女の血液を凝固させて、その能力を保持した結界石のことです。五行連環と禍祓いの力によって、御霊封じの結界を二重に増幅しているのです」

 それはただ力技で神を封じている訳ではない、ということであろう。

 先の結界と同じく、白い障壁もまた捕えた『まつろわぬ神』の神力を削ぎ落とし、弱体化させているのである。たださっきと違いカラティンの妖女が結界を破壊出来ないのは、展開した術式事態が高度であるばかりでなく、そこから更に二重に増幅され、極限まで効力が高められているからだ。

 まさに凄絶の言霊に匹敵するか、それ以上の脅威の術と言えよう。

 だが、それにしても禍祓いとは。またしても希少な霊能力の名を聴くとは思わなかった。まさか、神無月佐久耶は幽魂投出に加えて禍祓いの能力まで有しているのか? リリアナは慄きながら神無月家の巫女を見やる。

「わたくしに禍祓いの能力はありません。ですが、神無月家の先祖に禍祓いの能力者がおり、その方が存命中に呪石をお創りになられたと聴いております」

 佐久耶はそう言いながら、あらためて眼下に目を向けた。

 依然、白い障壁はカラティンの妖女の小さい体を収納していた。

 その漆黒の眼差しは、自身が成し遂げた偉大な成功に酔うような熱っぽい光は微塵もない。あるのは、戦況を冷徹に見極めようとする、観察者の冷たい光だ。

 一時間。それが結界の限界時間だと佐久耶は計算した。それで充分だ。それだけあれば、円柱闘技場で行われている決闘にも決着が付いているだろう。

 佐久耶は自らが展開した結界が想定通りに機能し続けることを確信していた。一級の神々ですら脱出が困難なのだ。ならば、三級の神相手に想定外などあり得ない。

 ―――だが、佐久耶は知らなかった。『まつろわぬ神』が強大たらしめているのは、神話において強大な神と謳われたからではない。知名度、信者の数に比例する訳でもない。

 彼らの力の源は、己の欲するところを何を犠牲にしてもでも完遂せんとする意志。即ち、狂気こそが神の強さなのだ。

 そして、こと狂気に関するならば、カラティンの妖女は如何なる一級の狂神にも劣るまい。ましてや、クー・フリンに復讐する意思の強さたるや地球上すべての神々を足してもなお凌駕していよう。

 なぜならば、かの魔女神こそが、その執着心のみで、この物質界にクー・フリンを顕現させしめた張本人なのだから。

 そのカラティンの妖女がクー・フリンを目前にして足踏みするなど、天地が引っくり返ってもあり得ない!

「グー・ブーリンンンンンッッ!!」

 愛にも似た怨嗟の声と同時に、カラティンの妖女から爆発的な呪力が生じる。

 その呪力量たるや常の二倍以上。その呪力が瞬時に衝撃波へと変化し、白き障壁を粉微塵に粉砕する!

「な!?」

 驚愕する神無月家の巫女。

 それは佐久耶にとってあり得ない悪夢のような現実だった。まさかこれ程の力を隠し持っていたとは! 完全に想定外である。三級神などとはとんでもない話である。カラティンの妖女の力は、一級神にも比肩する。

 だがこの期に及んでなお、カラティンの妖女は不遜にも上空で己を見下ろしている不埒者どもには目もくれない。魔女神の目に映るのは、ただひとえにクー・フリンのみである。

 だがそれが佐久耶たちに幸いした。彼女が如何に神を封じる手段を持とうとも、『まつろわぬ神』に本気で襲い掛かられては、ひとたまりもないのである。

 それに佐久耶にはまだ策があった。最後の手段が。

「―――今です。行きなさい、貧狼!」

 その言葉と同時にカラティンの妖女の体が唐突に吹き飛ぶ。

「ギッ!?」

 十メートルほど後方へと弾け飛ばされ、即座に立ち上がりながら困惑気に周りを見るカラティンの妖女。

 魔女神には見えてないのだ。佐久耶の命に応えて、カラティンの妖女に体当たりを敢行した、黒い巨犬の姿を。

「―――追撃を!」

 無論仮初とはいえ主従の絆を結んでいる佐久耶の目には視えている。主命により絶好の機会に備えて待機させられていた黒い巨犬は、主に命じられた通りにカラティンの妖女目掛けて飛び掛かる。

 今度は体当たりではなく、あの細い首を噛み千切るために。佐久耶は虫も殺さぬような可憐な風貌でありながら、躊躇なく残酷極まる命を出す。

 だが、それより早くカラティンの妖女が動く。

「ダガラ邪魔ヲズルナド、言ッデイルダロウッ!」

 叫びに呼応して、全身から毒の霧が噴出する。が、カラティンの妖女には迫りくる黒い巨犬の姿は見えていない。―――だが、そんなコトは自身の前の空間すべてを毒の海に変えてしまえば何の関係をないと言わんばかりに大量の毒の奔流を吐き出す。

 それは先に佐久耶たちを追い散らした毒手とは、速さ、規模ともに比較にならない。凄まじい紫の激流だった。

 黒犬は躱す間もなくあっさりと飲み込まれる。そもそも隠形に特化した黒犬に防ぐ術などない。まして機動力でも上回れたのなら、どうしもようもなかった。結界術の達人たる佐久耶とて、あの規模の術を防ぐ術などありはしない。

 故に佐久耶は歯噛みしてそれを見ることしか出来なかった。毒の激流は黒犬を飲み込んだだけでは飽き足らず、なおも止まらず、森の中にまで雪崩れ込む。たちまちに樹々は腐り果て、赤い大結界にまで到達しぶち当たる。

 だが、結界はビクともしない。それにほっと安堵する佐久耶。想像以上に頑丈らしい。

 黒犬はまだ消滅していない。霊的な経路を通して、苦悶の声が伝わる。それも時間の問題だ。後数秒で完全に消えるだろう。助ける手段はない。だから、佐久耶は躊躇うことなく、経路を切った。

 瞬間、黒い巨犬は息絶える寸前で幽界へと送還された。黒犬はまだ兄に必要なものだ。自分が使い潰す訳にはいかない。

「神無月佐久耶! 一体何が……あの黒犬はどうなりました!」

 リリアナには既に黒犬のことを説明してある。眼下で行われた、黒犬とカラティンの妖女との目に見えない奇怪な攻防も、この聡明な騎士ならば、ある程度把握していても不思議ない。

「あの仔は無事です。ですが重症を負っています。この戦いではもう使えないでしょう」

「……そうですか」

 青い騎士は硬い口調で頷いた。今後の戦いの厳しさを想像しているのだろう。

 改めて話すまでもなく、魔女の直感でリリアナは察しているらしい。佐久耶にはもうカラティンの妖女と有効に戦う手段がないことを。

 そう、佐久耶は使える手はすべて使い切ってしまった。最後の頼みの綱だった黒犬も幽界に還してしまった以上、作戦を根本から変える必要に迫られた。

 だが幸いにして、彼女は次の手を考え付いていた。それは皮肉にも、もうひとりの敵が用意したあるモノを上手く利用することであった。

 佐久耶はリリアナに視線をやると、赤い結界の方へと首を向ける。騎士も眼差しを佐久耶と同じ方角に向けた。

 リリアナは赤い輝きを目に入れた瞬間、深青色の瞳に理解の光が灯り、佐久耶に無言で頷いた。

 やはりリリアナは聡明である。佐久耶は頭のいい人間が好きだ。彼らはわざわざ口に出さなくとも、こちらの伝えたい意図を瞬時に察してくれる。

 だがそれとは逆に、世の中にはどんなに口に出して訴えようとも、全く理解を示してくれない人間もいる。そして、その数のなんと多いことか! 

 その最たるものが宗一郎だ。彼女は兄ほど愚かな人間を見たことがない。アレと同等の馬鹿があと七人もいるのだ。絶対に会いたくないものである。関わるのはひとりで充分だ。

 赤い光を見るだけで背筋が凍りつく不気味な結界。佐久耶はあの赤い結界の形成に、宗一郎が何らかの形で関与していることを確信していた。正直腹立たしくあるが、今はそれを利用させてもらう。

 如何にカラティンの妖女とて、あの大結界を一瞬で解呪することなど叶うまい。必ず足を止めて、結界の解除に集中する筈である。

 故に、そこを狙う。一撃離脱戦法を敢行して、解呪を邪魔し続けることで少しでも時間を稼ぐ。神を倒す力もなく、封印する力も失ったリリアナと佐久耶には、それ以外に術がない。

「今行グゾ、待ッデイロ! グー・ブーリンッ!」

 毒をまき散らし、結界周辺の森を丸裸にすることで、ようやく見えない敵対者が消滅したことを理解したのか、カラティンの妖女がついに行動を開始する。

「く……」

 呻くリリアナ。それを止める術のない佐久耶とて、悔しさを噛み締めながら見ることしかできない。

 佐久耶は今後の戦術行動を脳裏で何パターンもシミュレートしながら、必要な呪術を選択していく。これからはひとつのミスとて許されない。

 緊張して慄く佐久耶とリリアナ。そのとき、不意に佐久耶はどこか遠くの地から謳われる禍き詩の旋律を聴いた気がした。

 

 

 ―――その瞬間、莫大な呪力がカラティンの妖女を覆い尽くす。

 

 

「――!?」

 唖然と佐久耶とリリアナは眼下を見下ろす。そこには、なんと魔女神の小さな体が大地にずぶずぶと沈んでいっていく奇怪な光景を目に映るではないか!

「ギギギ! 何ダゴレバァァッッッ!!」

 驚愕し、憤怒の咆哮を上げるカラティンの妖女。だが、その間にも魔女神の足元の大地が、突如底なし沼と化したかのように、彼女の矮躯を吸い込んでいく。

「巫山戯ナ、ゴンナモノ――!」

 沈みゆくカラティンの妖女の体から膨大な呪力が立ち昇る。呪力を高めて妖しい力に対抗するつもりなのだろう。その呪力量、佐久耶の秘術を破ったときにも匹敵する。

 だが、所詮儚い抵抗に過ぎなかった。それは僅か一瞬大地に堕ちる速度を緩めただけで、カラティンの妖女はもはや声を上げることも出来ず、頭を最後に大地に沈んでいった。

「……」

 唐突な出来事に理解が追い付かず茫然とするしかないリリアナ。だが、佐久耶の霊感は、青い騎士に先だって事態を把握していた。

「大地の神の強壮な神力を感じます……。リリアナさま、何かご存知でしょうか?」

 佐久耶の言葉に、リリアナは驚いたようにはっと顔を上げる。

「大地に神力? ま、まさか、これはプリンセス・アリスのレポートに記載されていた黒王子の第三の権能! では、この近くにアレクサンドルさまが……!?」

 やはり、と佐久耶は得心がいったように頷いた。直感的に『まつろわぬ神』ではないとは考えていた。となれば、消去法でひとつしかない。兄の同胞である。

 ダブリンで神無月宗一郎とまつろわぬクー・フリンとの戦いから有に六時間以上経過している。

 その間、現地の魔術結社から接触が皆無だったのは、裏でタブリンの魔術結社に影響を与えるほどの強大な勢力の意向が反映しているのだろう、と考えていたのだが、どうやら正解だったらしい。

 兄は知るまいが、佐久耶はこの地の隣国に羅刹の君の根城があることを知っていた。そのことが常に頭から離れなかったものの、フェニックス公園での戦いで英国の魔王の不介入で相手の腹の内はある程度読めた。が、ここに来て決定的になった。

 噂通り英国の魔王は、徹底した合理主義者らしい。ここで佐久耶とリリアナを救ったのは、決して善意からではあるまい。

 フェニックス公園の時のように、宗一郎とクー・フリンとの一騎打ちをカラティンの妖女に介入されて、戦局を泥沼化されるのを嫌ったのだろう。

 だからといって、最初から各個撃破を狙っていたにしては、タイミングが良すぎる。あれは明らかに佐久耶たちが万策尽きたと判断した上で、介入したとしか思えない。

 だとすれば、ひねくれ者の評判が真実なら、自陣に取り込んだカラティンの妖女を自身の手で倒さずに、戦局次第で解き放ちかねない。

 赤い結界でどのような戦いが行われているにせよ、出てくるのはひとりのみであろう。

 宗一郎が出てきたならば――そうであると信じているが――その瞬間カラティンの妖女を解き放つ。魔女神は獲物を奪われた復讐に走るか、目的を失い流浪の神に立ち戻り、永遠の旅に出るかもしれない。

 クー・フリンが出てきたならば――そうでないことを祈っているが――推測は容易だ。魔女神は問答無用でクー・フリンに襲い掛かるだろう。

 どちらが出てくるにしても、後は生き残った手負いの敵と戦えばいい。

 論理的思考のもとで構築された現状で最適の戦略である。

 英国の魔王は羅刹の君によく見られる、勇猛果敢に猪突して敵を討滅する猛将ではなく、神算鬼謀を駆使して敵を捕殺する智将なのだろう。変わり種の魔王と言われるのは道理である。

 だが、いまはその英国の魔王の気質が佐久耶たちに有利に働く。

 自分で制御不能な混沌を嫌い、戦況に応じて臨機応変に戦術を切り替えていくということは、宗一郎とクー・フリンの一騎打ちに決着が付くまでカラティンの妖女を捕えたまま、動かないということである。

 それこそが、終始一貫して佐久耶とリリアナが望んでことである。今までの戦いはそのためにあったのだから。

「リリアナさま、わたくしたちはあの結界―――兄さまの元に参りましょう」

 いち早く決断した佐久耶と違って、いまだ驚愕の念が冷めやらないのか、リリアナの反応は鈍い。

「え……は、はい。ですがここはよろしいのですか……?」

 そう言ってリリアナは不安そうの眼下を見やる。

 そのあまりの状況判断の鈍さに苛立ちが募るが、佐久耶は何とか押し留める。いまは揉めている暇はない。

 それに仕方がないのだ。リリアナはこのような超常の戦いの経験が少ないのだろう。西洋でも有数の実力者たる大騎士といえど、常ならぬこの状況で、普段通りの冷静さを保てというのが土台無理な話である。

「……リリアナさま。ここは英国の羅刹の君にお任せいたしましょう。わたくしたちの戦場は別にあります」

 佐久耶の言葉はリリアナの曇っていた理性に再び輝きを灯したらしい。

「――!? そういう事でしたかッ……神無月佐久耶、申し訳ありませんでした。挽回は必ずや戦場で!」

 そう言うと、リリアナは虚空を蹴って赤い結界へと駆けていく。

「……」

 佐久耶は去っていく青い騎士の背を見詰めながら、改めて彼女は善良な人間なのだということに思い至る。

 おそらくリリアナは、英国の魔王が純粋に自分たちに助力してくれたものと考えているのだろう。

 無論、事実は違う。彼は己に有利になり得る戦場を創り上げるためだけに、佐久耶たちに助勢したに過ぎない。戦況次第では英国の魔王こそがもっとも危険な敵と化す。

 そう言っても、聡明なリリアナが魔王の策略を察せられないのは無理もない。そうであるには、青い騎士は高潔であり、純粋であり過ぎた。そう、自分などとは違って、佐久耶は唇を歪めて自嘲した。

 とはいえ、佐久耶は自分の今の有り様に後悔があるわけではない。ただこれまでの人生で必然的に棄ててきたモノをまだ持ち続ける彼女を少し羨ましく思っただけだ。

 佐久耶は己の身に余る大望を叶えるべく、そう成る必要があったのだ。

 兄は途方もない勘違いをしているようだが、神無月家の悲願とは、すべての神々を滅ぼすこと―――などではない。

 当然である。そんな奇想天外かつど阿呆な家訓を掲げる家が何処にあるというのか。

 神無月家とはその歴史を紐解けば、“血筋の系譜”の起源は神祖にまで遡るが、“家系の系譜”の始祖は羅刹の君を戴く家門である。

 そして、現在の神無月家の家風を決定づけたのも始祖たる神殺しであった。

 始祖は神殺しらしい波乱に満ちたその生涯を、寝台ではなく、戦場で散らせた。『まつろわぬ神』に敗北を喫した末の戦死であったようだ。

 だが、あるいは始祖にとっては寝台を友として死ぬよりも、戦場の上で果てた方が満足だったのかもしれない。

 熾烈な闘争の果ての死である。無論、敗北の口惜しさはあっただろう。さぞや無念であったに違いない。それでも、おそらく最期は朗らかに笑いながら逝ったのではあるまいか。

 己の信条に最後まで忠実に従った者のみが許される勇壮な死であった筈である。始祖と同族である神殺しを兄に戴く佐久耶はどうしてかそう思うのである。

 ところが、始祖の死を受け入れることが出来なかった者たちがいた。それが始祖の直系たる神無月家である。

 彼らは始祖を弑し奉った、忌むべき怨敵たる『魔王殺しの神』に復讐を果たすべく、人為的に羅刹の君を鋳造する決定を下した。それから、神無月家は人の歴史の闇の底に潜みつつ、研鑽の歴史を歩んでいった。

 技という技、術という術を磨き上げ、《鬼神使役法》《御霊封じの結界》すら上回る強大な秘術すら組み上げてみせた。加えて、それらを行使する神無月家の術者を強化するために血統操作にまで手を出し始めた。

 その神無月家の技術開発の“最先端”を往くのが神無月宗一郎であり、神無月佐久耶なのである。

 故に、兄が神殺しを成し遂げなければ、佐久耶は次代の“最先端”を鋳造する製造機械としての運命を甘受するしか他になかったであろう。

 只さえ短い生命を無為に消費しなけれならなかったであろう。

 だがしかし、そうはならなかったのである。

 いまや佐久耶は儚く短い己の生涯に大いなる意味を持たせることが出来るのだ。

 一体何人の呪術師が神殺しの戦士の傍らで、その秘術の限りを尽くして仕えることが許されるだろうか。その人類史上最大の偉業を直に目にすることが叶うだろうか。

 神無月佐久耶はそれを許されたのである。

 この新たな運命を授けてくれた兄が望むならば、あのど阿呆な目的に付き合っても構わないし、今なおその来歴が明らかになっていない、神無月家の始祖を弑し奉った魔王殺しの神――このために宗一郎は神話の中に眠っている神々を、すべて叩き起こすことで神無月家の悲願を叶えるという暴論に達したようだ――を探求する冒険の旅にも繰り出すことに否はない。

 そのためならば、この身を超常の戦いに耐え抜くために研磨し精錬し、また独りの無垢なる少女を超常の戦いに引きずり込むこととて厭いはしない。

 故に、リリアナ・クラニチャールはそれでいい。優秀かつ善良で、それでいながら余計な知恵が回り過ぎないからこそ、佐久耶はあの騎士を引き入れたのだから。

 佐久耶はリリアナを深夜の公園で一目見た瞬間、彼女がこの戦いに必要な人物であることが解った。神無月家の巫女には、智慧の神のようなすべてを見通す全知の能力はない。ただ直感的に兄に必要な存在であると感じ取っただけ。

 それがこの戦いだけなのか、これからに亘っての長期的な関係なのかまでは判然としない。

だが、この戦いにおいて、彼女こそが勝利の「鍵」となる人物であることは間違いなかった。それでも、リリアナがどのような役割を果たすのかまでは、解らなかった。

 そう―――今までは。いまや佐久耶は、はっきりとリリアナ・クラニチャールの使い道(、、、)を、見出していた。

 あの大結界の中で兄は絶体絶命の危機に陥っていることを、佐久耶は確信していた。結界の赤い輝きを目視するだけで背に悪寒が過ることがその証明だ。

 ならば、兄を救うにはあの大結界の中に入ることが唯一の道である。リリアナは勿論、佐久耶とてあの大結界を解呪することなど叶わない。が、禍祓いの力を内包した呪石をすべてつぎ込めば、綻びぐらいは造り出せるだろう。人ひとり通り抜けられる穴程度なら、確実だ。

 そこから、ひとりの騎士を王の下へと援軍として派遣する。そうすれば、リリアナは必ずや兄を救ってくれるに違いない。

 そう、リリアナ・クラニチャールに齎される「死」によって、兄は救われるのだ。

 佐久耶は可憐な美貌に薄い笑みを浮かべ、去っていく青い騎士の背をじっと見つめ続けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話  浅瀬の一騎打ち

 神無月宗一郎は本能に従い、死の腕を回避するべく、遮二無二に地へと身を投げた。

 それは武に優れた若き神殺しらしからぬ、反撃を度外視した泥臭い生への渇望がなせる無様な技だ。だがやらねば死ぬしかない以上、技に拘る贅沢など言っていられない。

 宗一郎はみっともなく地面に転がりつつ、素早く立ち上がる。紅蓮の長刀を構えて、五感を研ぎ澄まし周囲の様子を探る。が、相変わらず敵の姿はなく。影すら見ることは叶わない。

 即製の決闘場である森の広場には、いま宗一郎ひとりしか存在しなかった。

 だが宗一郎に驚愕の念はない。それも当然―――これで都合三度。

 それは同時に今日宗一郎が、幸運によって命を拾った回数でもあった。『神速』と『隠蔽』の権能の二重発動の威力たるや、まさに圧倒的であった。

 神速が武術の達人に脅威になり得ないのは、攻気の起こりを感じ取る技―――“心眼”を会得しているからだ。

 心眼の使い手は殺気を捉えた瞬間に行動を移す。

 どんなに速かろうが、確実に回避、反撃してくる心眼の使い手の前では、神速とて無用の長物に堕す。

 だが、この弱点を隠蔽の権能が補ってしまう。

 隠蔽の能力はただ外観を不可視化するだけではない。使用者の体臭を消し、移動の際に生じる騒音をも消し去るのだ。

 事実、宗一郎は二頭立て戦車の威容を見ていない上、走行音も聴いていない。それどころか、戦車が疾走すれば必ず立ち昇るはずの土埃すら眼にしていない。

 そして最後に―――この権能は殺気すら消し去ってしまうのである。隠蔽の権能は心眼を以ってしても見切れないのだ。

 正直言って宗一郎は行使されたのが、どちらかひとつだけの能力なら対処する自信があった。神速の権能は武術的に対処可能の上、隠蔽の権能は奇しくも夜の公園での戦いでクー・フリンが証明してみせたように、呪術的に対応可能なのだ。

 だが、いまはそれが出来ない。

 隠蔽の権能を呪術で打破しようとすれば、呪文を唱えている隙に、神速の権能を行使した戦車の巨刃によって真っ二つである。この恐るべき二種の権能は同時発動することで互いの弱点を補い合い、より強大な能力を発揮しているのだ。

『クク―――頑張るじゃねえか、神殺し。だがそろそろ幸運も尽きかけてくる頃合いだろ。

 ―――次当たりで終わりそうだな』

 どこからともなく聴こえるクー・フリンの冷酷な死刑宣告。

 それは事実であろう。宗一郎は直感だけでどうにか回避しているに過ぎない。所詮は勘である。長くは続かない。神殺しである宗一郎に、果たして幸運の女神も四度も微笑んでくれるかどうか。

 ―――おそらく次はあるまい。少なくともこのまま座して天運に任せているばかりでは、幸運の女神も愛想をつかすだろう。

 それを誰よりも理解している筈の宗一郎は、漆黒の瞳に爛々と闘志の炎を灯し、口元には不敵な笑みを刻む。

 宗一郎とて何も三度の幸運を無為に消費していたわけではない。既に脳裏には、確かな勝利のための道筋を見出していた。

 一見すると、神速と隠蔽の権能は同時発動させることで、互いの弱点を補填し合っているように見える。

 神速は隠蔽の権能によって、殺気を捉えられず、回避を極端に困難なものにしている。隠蔽(ステルス)は神速の権能によって、術者に術破りを使用する時間を与えないことで、事実上無効化した。

 だが、宗一郎は隠蔽の権能に、もうひとつの弱点があることを看破していた。

 それは周りを見れば一目瞭然だ。美しい草地には幾条もの筋が無残に刻まれている。その跡が何であるかなど、深く考えるまでもないであろう。

 そう、二頭立て戦車の疾走した軌跡に他ならない。

 隠蔽の権能は外観を、体臭を、騒音を消し、殺気をも消失させしめる恐るべき能力である。

 だがしかし、重量まで消すことは叶わなかったのである。

 故に、敵の現在位置は目を凝らせばすぐに判別できる。なにしろ、二頭立て戦車の総重量は大型車両にも匹敵する。探し出すのはさして難はない。

 事実、宗一郎は上に何も存在しないにも拘らず、草地を押し潰したような状態でぴくりとも動かない場所を、体の正面で捉えて静かに見据えていた。

 間違いなくクー・フリンは、ソコで二頭立て戦車の御者台の上で座し、必勝の機を窺っているに違いない。

 宗一郎はクー・フリンがこの弱点を把握していたのかどうか自問してみる。

 ―――無論解っていた筈である。クー・フリンほどの戦上手な武人が、よもや自己の能力の欠点を把握していない道理がない。

 クー・フリンはすべてを承知の上で放置しているのだ。まるで、そんなことは取るに足らない問題であるのだと言わんばかりに。

 そして、その認識に誤りがないことを、宗一郎は認めざるを得なかった。

 なぜならば、二頭立て戦車の位置情報が解ったところで、戦況は何ひとつ好転しない(、、、、、、、、、)からだ。

 クー・フリンが神速と隠蔽の権能を同時発動した真意を見誤ってはならない。

 魔槍の英雄が隠蔽の権能に望んだのは、姿や臭い、音を消すことなどではない。そんなものは、ただの余禄に過ぎない。

 クー・フリンは隠蔽の権能に、ひとえに殺気を消すことのみを求め欲したのである。

 隠蔽の陥穽をつき、二頭立て戦車の現在位置を割り出したところで、神速の権能を破れるわけではない。殺気を感じ取れない(、、、、、、、、、)以上、このまま神速の前になすすべもなく敗北を喫する他ないのである。

 故に、宗一郎がこの事態の打開を図るには、殺気を捉えずに、神速を破るしか勝機はない。が、神速の使い手相手に後手に回っているようでは、勝利など到底望むべくもない。 

 必ず、先の先を執らなければならないのである。

 即ち―――意を捉えずに、機のみを掴む。

 クー・フリンの攻撃する「意思」を捕捉するのではなく、クー・フリンの攻撃する「機会」を創造するのである。

 この試練に宗一郎は己の天運にすべてを賭す。力ずくで幸運の女神を微笑ませてみせる!

「―――」

 宗一郎はゆっくりと体を動かす。くるりと体を半回転させて、真後ろへ向きを変えた。

 それが―――何を意味するのか。

 宗一郎は不可視の二頭立て戦車と正面から向かい合っていた。にも拘らず、そこで向きを変えて、背を向けるということは、クー・フリンに絶好の攻撃する機会を与えることに他ならない。

 ―――これは誘いだ。

 クー・フリンが宗一郎の背面を図らずも獲った瞬間を、好機と判断したのなら、神速の戦車に猪突を命じるだろう。

 それこそが、宗一郎が何より欲した「機」に他ならない。 

 だがクー・フリンがいまを好機と判断しなかったのならば? あるいは、クー・フリンが宗一郎の狙いを看破してしまったのならば?

 そのときは、宗一郎は物言わぬ屍と化して大地に還るのみであろう。故に、彼はそんな無駄なことは一切考えずに、己の天運にすべてを託す。

 宗一郎は跳ねるように振り返り、自らの刀に―――否、刀に込められた浄化の神力に命を下す。

「炎よ―――!」

 宗一郎の愛刀に宿っていた超高密度に圧縮された聖なる火炎が解き放たれる。

 紅蓮の奔流は火竜と化し、ようやく獲物に喰らいつくことに歓喜するかのように蛇体をくねらせ、猛然と驀進する。疾走する炎の竜は途中で目に見えない“何か”にぶち当たったかのように蛇体を震わせ、ソレが獲物だと解るや、直ちに丸飲みにせんととぐろを巻いて喰らいつく。

 それを見て取った宗一郎は、賭けに勝ったことを確信した。

 不可視の戸張を剥ぎ取られ、容を晒す二頭立て戦車。紅蓮の炎に絡みつかれて、苦悶の声を上げる神馬たち。豪奢を誇った戦車は、美しいな装飾の数々を炎によって燃やし尽くされ、なおも足りぬとばかりに猛火は車体にまで侵し始める。

 二頭立て戦車には『まつろわぬ神』ほどの呪力抵抗力はない。故に、火力に難のある浄化の権能でも燃え上がる。だが―――

 二頭立て戦車に喰らいつく炎の竜の腹を突き破るかのように、孤影が飛び出てくる。炎を振り払い宙に舞って、地に降り立つ痩身。無論クー・フリンである。

『まつろわぬ神』特有の圧倒的呪力抵抗力を持つクー・フリンにとって、あの程度の火力では何の意味もなさない。

 それでも構わない。宗一郎の狙いは、神速と隠蔽の能力を有する二頭立て戦車の破壊にこそあったのだから。

 クー・フリンは火傷ひとつなく茫然と己の愛車が炎に包まれる様を見ていた。

 二頭の神馬はたまらず力尽きドサリと倒れ伏す。最後の力を振り絞り、主に別れを告げるように嘶いて、二頭の神馬はこの世から消え失せる。

 二輪戦車もまた炎の勢いから逃れることは出来なかった。溶け崩れる青銅製の戦車。その御者台の上に最後に残った矮躯の影。

『無念だ、愛する兄弟……』

 ローグはそう呟いて、黒い霞となって霧散する。

「……」

 彼の兄弟たちが燃え尽きても、クー・フリンは現実を拒否するようにぴくりとも動かない。

 それ見て取った宗一郎はくっと口角を歪めて、

「どうしました、クー・フリン? たかが神獣(ペット)従属神(げぼく)が消えた程度でその様では、この先が思いやられますね」

 決して言ってはならない言葉を口にした。

 

 

「――――――――たかが、だと」

 

 

 死を孕んだ颶風がクー・フリンから吹きつけてくる。空間が凍り付いたかのように重く圧し掛かる。

「ええ、その通りです。たかが神獣や従属神如きが兄弟? つまらない冗談を言っていないで、早く槍を構えてください。死合が愉しくなるのはこれからなのですから」

 それに気づかないのか、宗一郎はクー・フリンを嗤いながら挑発する。

「―――人間如きが我が愛する兄弟たちを侮辱するか……」

 いままで彫像のように動かなかったクー・フリンが宗一郎の方へと体を向ける。憤怒に染まった虹色の瞳が宗一郎を射ぬく。

 

 

「―――よかろう。それほどまでに愉しみたいというのなら、存分に愉しみながら冥界へ逝くがいいッッ!!」

 

 

 クー・フリンの体が深く沈む。まるで力を蓄えるような体勢。次の瞬間、クー・フリンは、大きく跳び上がった!

 クー・フリンはロケット発射にも匹敵する速度で宙を蹴って垂直に駆け上がっていく。フェニックス公園でも見せた魔槍の英雄の両脚に宿る跳躍の権能だ。

 僅か数瞬で高度一キロメートルにまで到達し、尚も止まらず駆け登るクー・フリン。右手に持つ彼の愛槍が、天へと近づく度に禍々しく輝き紅の紫電を放出している。

 クー・フリンはダンと虚空を蹴り放ち、今までになく大きく跳ぶ。重力の枷を突き破り、真下の地上を見据えてクー・フリンは右手を天へと掲げる。

 瞬間、真紅の槍が解き崩れ、カタチを変えてこの場のみ本来の姿を取り戻していく。

 クー・フリンの右手に顕れたソレは紅い雷の束だった。

 ゲイボルグ―――その意は『雷の投擲』。

 その言葉通り、それこそが真紅の槍の真の姿だった。

 もとより雷とは天上から地上へと降り注ぐもの。神々よりこの槍を持つことが許され、天高く舞い上がる跳躍の権能を有するクー・フリンのみが、ゲイボルグの真の力を引き出せるのである。

 クー・フリンは『雷の投擲』を、

 

 

「―――我が槍は投げれば三十の鏃となって降り注ぐ。魔の雷よ、穿ち抉れェェッ!!」

 

 

 号令一下に撃ち下ろした。

 三十に及ぶ紅雷の束が一気に地上へと降り注ぐ。一束とて一軍を薙ぎ払う破壊力を持つ。ソレが三十。全弾まとめて撃ち放つとなれば、紅の雷霆は大地を徹底的に蹂躙し、焼き尽くすであろう!

 対する宗一郎はコレを待っていた。若き神殺しはフェニックス公園の戦いにおいて真紅の槍こそが、クー・フリンの切り札だと確信していた。

 そしてソレが、己の権能で対応できるに違いないと本能で嗅ぎ取っていた。

 なぜならば、『魔』を薙ぎ祓うことこそが神無月宗一郎の権能の真骨頂なのだから。それは魔の雷とて例外ではない!

 

 

「―――強く大いなる憤怒の尊は命じられた! 不浄を焼き払え、煩悩を破壊せよ、巨悪を退治せよと!」

 

 

 宗一郎は切り札を切る。

 これは仏の教えを信じない民衆を前にしたときのみに発動する、慈悲の言霊。

 民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせる、聖なる焔を解き放つ聖句である。

 

 

「オン シュリ マリ ママリ マリシュシュリ ソワカ――――――」

 

 

 宗一郎は、後に賢人議会が『光炎万丈(ファイヤーストーム)』と名付けることになる、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能の真の力を解き放つ。

 言霊と共に若き神殺しの全身から赤い炎が立ち昇る。炎は赤く青く、そして白へと変わり、最後に荘厳な蒼い輝きを宿す。

 同時に宗一郎の体も変化を始めた。

 火で炙られた氷細工のようにぐにゃりと肉体が溶け崩れるや、焔がすべてを包み込み、収斂。宗一郎の肉体は蒼色の大火球と化す。それはまるで地上に降臨した小型の太陽のようだ。

 蒼の太陽はさらに膨張を続け、森の広場全体まで膨れ上がる。が、瞬く間に急速に縮小、収斂する。掌大にまで凝縮される蒼い小球。だが規模の変化とは真逆に内包する熱量は空恐ろしいほどに増大していく。

 そして、ついに熱量が極限まで達した超小型の太陽は、次の瞬間、炸裂した。

 地上では決して起こり得ない太陽フレアが発生する。蒼の火焔は光の柱と化して猛然と天高く突き進む。宗一郎は自らの身を究極兵器と化さしめ、クー・フリンを討ちに征く。

 紅き雷霆と蒼き火焔が高度数千メートル上空にて真っ向から激突した!

 慈悲の焔は仏の教えを信じぬ者にのみ振るわれる力である。当然、異教の英雄神たるクー・フリンはこの条件に合致している。

 一度行使されるや否や、物質魔力の区別なくすべてを焼き滅ぼす憤怒の一撃。にも拘らずそれを以ってしても、紅き雷霆は押し退けられない! 

 それどころか、紅い雷電は蒼き光の柱(そういちろう)に蛇のように絡みつき、雷気を閃かせて締め上げる。

 人間の体を捨てた筈の宗一郎に凄まじい激痛が走る。紅き雷霆は宗一郎の、いや人間の本質である魂をも灼いてくるのである!

 このままでは圧し負ける―――そうと解るや、苦痛を無視して宗一郎は、予備に回していた呪力を投入する。

『ああああッッ!!』

 貪欲に呪力を取り込んで、さらに膨れ上がる光の柱。そして、遂に紅い雷電の束縛を振り払い、蒼き火焔は天翔ける!

 紅き雷霆は無人の広場に降り注ぎ、滅多打ちにする。敗者たる紅き雷霆が唯一出来ることは、そうして敗北の苦い屈辱を晴らすことだけだった。

 対して勝者たる蒼き火焔は宿敵(しょうり)を目前にして一層輝き燃え猛る。

 クー・フリンは愕然と目を見開き、それでもなお諦めるつもりはないのか、指先が素早く翻し、真紅の大盾を召喚し、掲げる。

 だが、今更何をしたところで遅すぎる。蒼の奔流は怒涛の如くクー・フリンを呑み込んで、炸裂した!

 爆発の熱衝撃で大気が炙られ、撹拌される。蒼い火炎が渦を巻いて、結界によって閉ざされた空間を徹底的に嘗め尽くす。それでも、なお収まりきらない火勢は、出口を求めて上へ上へと殺到する。

 このとき宇宙空間から地球を観測している者がいたならば、さぞや驚いたことであろう。地球では決して見ることが叶わない蒼きフレアの姿を目にすることになったのだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話  紅い死

 全身に叩き付けられる風圧の揺さ振りで、神無月宗一郎は目を醒ました。どうやら気絶していたらしい。

 変身態は解除されて、人間体に戻っている。重力に引っ張られるような落下感で自分が相当な高度から落ち続けていることが解った。

 しかし、宗一郎はその事実に疑問はない。

 天上で舞う敵を射止めるために、己もまた天を突き進む道を選んだのだ。目的を完遂した以上、墜落するのは自明の理。宗一郎の脳内に記されている行動予定表には、そのことが事前に書き込まれていた。

 だから、宗一郎は慌てることなく瞳を閉じて引力に身を任せた。くるくると舞い落ちる若き神殺し。

 とにかく眠かった。全能力を駆使した反動で体が悲鳴を上げている。ここがどんな劣悪な休息環境だろうと、休んでいたかった。だがそんな小さな望みさえも、自分には贅沢であったらしい。

 疲労もさることながら、宗一郎は絶えず襲ってくる激痛に苦しんでいた。若き神殺しの体には傷ひとつない。にも拘らず、幻痛のような痛みが体を苛んでいた。

 精神にまで打撃を与える呪いの傷である。本来なら浄化の権能で焼き祓ってしまえばいいのだが、今はそれが出来ない。

 『慈悲の焔』は一度発動してしまうと、半日ほど権能が使用不可能になってしまうのだ。まさに一度限りの切り札であった。

 幸い創傷が増殖する様子はない。槍の操法次第で顕れる能力には、差異が出てくるのだろう。痛みだけなら、耐えさえすれば魔王の肉体が治癒してくれる。

 そうしている間にも、体はぐんぐんと地面へと引っ張られていた。

 宗一郎は魔女たちとは違い、宙を飛ぶことは出来ない。だが自由落下を制御するくらいなら可能だ。そのレベルの慣性制御術式なら高度数千メートルからの墜落中でもしくじることはない。

 だがそれも、この上空に敵がいなかったらの話である。

 宗一郎はクー・フリンを仕留めきれてないと感じていた。何より目蓋を閉じてなお、脳裏に焼き付く赤く輝く光が健在なのがその証明だ。そう、あの結界はいまだ解けてはいないのだ。

 周囲に敵影は見当たらないものの、のろのろと飛んでいては、クー・フリンのいい的になりかねない。

「つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空あをあをとはるかなるかな」

 故に宗一郎は目を見開いて呪を紡ぐ。自由落下を減速させるのではなく、むしろ加速させた。

 天空はクー・フリンの領域である。一刻も早く大地へと帰還しなければならない。

 宗一郎は落下速度がぐんと上がったのを体感したあと、もう一度目を瞑る。今度は休息のためではない。僅かとはいえ、気を抜いたのが功を奏したのか、徐々に痛みが引いている。

 だから、宗一郎が瞳を閉じたのは、粘性を帯びて質量を感じさせる大気に閉口したからだ。数千メートルの高度をこれ程の速度で垂直降下するのは、神殺しであっても難儀であるらしい。

 それに休んでいる暇などない。感覚により後十秒ほどで地上に到達することが解る。油断は、そく墜落死を招く。流石にこのスピードで地面に激突すれば、魔王の肉体とはいえ即死だろう。おそらくは……

 どちらにしても、試してみる気はない。そうこうするうちに、地上がものすごい速さで近づいてきた。にも拘らず、宗一郎は瞳を閉じ、錐揉みしながら頭から地面に突っ込んでいく!

 地面に激突する寸前、宗一郎はかッと目を見開き、

三山神三魂(さんさんじんさんこん)を守り通して、山精参軍狗賓(さんせいさんぐんぐひん)去る――――」

 呪文を詠唱した。

 宗一郎が地面と頭から熱い抱擁(ダイブ)する直前、全身がふわりとした浮遊感に包まれ、体がゆっくりと回転すると、彼は両足で地面に着地した。

 完全に物理法則を逸脱した、あり得ない動き。まるで地上そのものが彼を拒絶したかのようだ。

 宗一郎が唱えた呪文は、山での災難を避ける陰陽術である。その術式を独自に変更(アレンジ)させて、「落下」により重点を置いて書き換えることによって、高度数千メートルからの「墜落」という災難を免れ得たのである。

 宗一郎はふと周りを見渡すと、森の広場は凄惨な様相を呈していた。

 草地は焼き払われ、禿げ出た地面は焼け焦げて黒ずみ、紅い雷撃の暴行を喰らってあちこちデコボコに凹んでいた。小川に流れていた湧き水は蒸発し干上がり、露出した岩はこちらも稲妻の洗礼を受けて粉々に砕け散っていた。

 探検家の憩いの場は神と魔王の激突に巻き込まれ、無残なまでに破戒し尽されてしまっていた。

とはいえ、自然環境保護精神が皆無の宗一郎は、顔色一つ変えることはない。彼の関心事はただひとつのみ。

 宗一郎は気配を感じて、顔を上向ける。すると宙より舞い降りてくる魔槍の英雄の姿を見出した。だが、彼の英雄神の手には、真紅の大盾はもとより、彼の象徴ともいうべき魔槍すらも、手の中には存在していなかった。

「ハーッハハハハ! よくもヤッてくれたな、神殺し! 貴様との戦いはチョットした八つ当たりのつもりだったが、ここまで愉しめるとは思わなかったぞ!」

 危な気なく地に降り立って、クー・フリンは莞爾と笑う。

 ぱっと見たところ、クー・フリンは以前と変わっていない。派手な服装に乱れはなく、豪奢な装身具には煤ひとつとて付いていない。異常な点は、常に携えていた赤槍がないことのみである。それ以外はまったくの無傷に見えた。

 だが、そんなことはあり得ない。

 紅き雷霆との鬩ぎ合いで幾分威力が削がれたとはいえ、慈悲の焔は確実にクー・フリンをミディアムどころか黒焦げにしていても不思議はない。

 事実、宗一郎はクー・フリンの姿は見せ掛けに過ぎないことを看破していた。英雄神の呪力量は明らかに衰えがみられた。

 アレは見栄えを整えただけの、中身が伴っていない伽藍堂に過ぎない。あの状態を維持するだけで、クー・フリンは死にかけている。

 あれなら外見など二の次にして、ボロボロの状態であったとしても、呪力の恢復を優先させた方が戦術的に理に叶っているだろう。

 だが宗一郎はそれを愚かな行為であると笑いはしない。むしろ当然と受け取った。

 武人は美しく華麗に、そして壮絶に散ってこそ、余人の記憶に残るのである。無様な悪足掻きなどするべきではない。宗一郎は英雄神の行動を自ら死に逝く様を魅せるために、身支度を整えたのだと解釈した。

 そう考えるのは当然だった。もはやクー・フリンには戦う力は残されていない。

 あれ程の威力を解き放ったのである。間違いなく『魔槍』の権能はしばらく行使できないだろう。『神速』と『隠蔽』の戦車は、御者もろ共完全に消滅した。呪力が枯渇寸前では、碌に魔術も唱えられまい。

 対して、宗一郎は唯一の攻撃用の権能である浄化の神力こそ失ったものの、長刀はいまだ彼の手の中にある。宗一郎は自らの愛刀を眺め、刀身が周囲の結界が放つ光を反射して、赤く輝くのを目にして、凄絶な笑みを浮かべた。

 コレさえあれば、権能などなくとも神と戦うには充分すぎる。ましてや、死に損ないの神など、一刀のもと生命魂魄もろ共薙ぎ払えよう!

 宗一郎とて呪力の消耗は激しい。が、体は十全に動かせる。そのように訓練を積んである。そう、すべてはこの瞬間―――神を屠るために。

 歓喜に全身が沸き立つ。それも当然だ。散々手古摺らされてきた獲物が、身を小奇麗にして、狩られる時を待っているのだ。狩人ならばこれに興奮せずにはいられまい! 

 これまでの労苦がついに報われる時が来たのである。狩人にとっては、まさに至極の時間。それを宗一郎は全身で味わい尽くす。

「クク。オイ、どうした神殺し。澄ました顔を取り繕うのはもう止めたのか? 折角隠していたテメエの醜い本性が丸出しだぞ!」

 クー・フリンの揶揄に宗一郎は答えない。

 追い込んだ獲物を前にして戯れる狩人などいやしない。宗一郎は無言でじりじりと、まるで獲物に飛び掛からんとする獣のようにクー・フリンへとにじり寄る。

 一気に仕留めに掛からないのは、相打ち覚悟の罠を警戒しているためだ。慎重に慎重を重ねて、罠がないと解ると、直ちに討ち取るつもりであった。

「ったく、無視かよ。あ~あ、傷つくじゃねえか。これが最後の会話だっていうのによ。終わりくらいは愉しくお喋りでもしようぜ」

 飄々とクー・フリンはそんな言葉を口にする。

「―――クー・フリン。それは敗北宣言ですか?」

 宗一郎は我慢できずに狩人にあるまじき、まだ仕留めてきれていない獲物と戯れるという不作法を仕出かしてしまう。だが構うまい。クー・フリンが敗北を認めるのなら、遺言を聴く時間程度設けても許されよう。だが―――

 

 

「はあ? オレの? はははッ! まさか、違うに決まっているだろう! 

終わるのは―――テメエの方さ、神無月宗一郎」

 

 

 どこか弛緩していた空気が、その言葉で塗り潰される。

 英雄神から放射される極低温の殺気に、宗一郎とクー・フリンの権能の激突の余波で熱せられた大気が凍り付く。

 ―――だが、それだけである。

 魔槍を召喚したわけでもなく、二頭立て戦車が復活したわけでもない、無論魔力が急激に恢復したわけでもない。

 クー・フリンの窮状は何ひとつ改善されていない。にも拘らず、間合いを詰めていた宗一郎の両脚が何かを感じ取ったようにピタリと止まる。

 ―――馬鹿な、英雄神にそんな力は残っていない、と宗一郎は己を叱咤する。

 クー・フリンは死を前にして恐怖のあまり錯乱しているのだ。そうでなければ、やはり相討ち狙いか。それとも、言葉巧みに惑わせて、呪力を恢復する時間を稼ぐつもりなのだろう。

「……いいでしょう。何をするつもりなのかは知りませんが、好きにすればいい。それが僕の刀より速いことを祈りながらね!」

 クー・フリンとの距離は七メートル。宗一郎が慎重さを捨て、一目散に踏み込むなら一歩で事足りる。

「ああ、好きにするとも―――む……ほう、見てみろ、神殺し。貴様のお仲間のご来場だ」

 唐突に口を閉ざしたクー・フリンは、おもむろに顎でくいっと結界のある一点を指し示す。仲間? その聞き捨てならない言葉に宗一郎は慌てて応じる。

 すると、英雄神の示した箇所の結界の放つ輝きが、明滅を繰り返し、徐々に失われていく。後には人間が何とか潜り抜けられる程度の穴が開いていた。

 すかさずそこに頭から突っ込んでくる青い人影。彼女(、、)は華麗に飛び込み前転を決め、その反動を利用して素早く立ち上がると、

「神無月宗一郎、ご無事ですか!?」

 リリアナ・クラニチャールは声を大にして叫んだ。

「リ、リリアナさん……!」

 宗一郎は驚愕に呻く。どうやってここに来て、いや、まさか佐久耶も来るのではと、もう一度結界に目を向けるが、開口部はすでに閉じられてしまっていた。その周辺に妹の姿がないことから、まだ結界外にいるのだろう。

 どうやら、もう一柱の『まつろわぬ神』は無事に対処できたようだが、いったい佐久耶は何を考えてあの女騎士を寄越したのか?

「おい神殺し、貴様の配下は優秀だな。まさか『分かれた枝の浅瀬』を一部だけとはいえ解呪しやがる人間がいるとはな! とはいえ、さすがにひとり送り込むだけで限界だったみてえだが。

だが真に驚くべきは、この局面で援軍を派遣してきたってことだ。……これは偶然か?それとも必然なのか。だとすれば、小娘ひとり寄越した程度で何ができるのか。フフン、まさかまだ愉しませてくれるってのか?」

 そう嘯いてクー・フリンは、宗一郎の傍まで駆けつけてくるリリアナを興味深げに眺める。

 宗一郎としては本来援軍など迷惑千万な話であるが、青い騎士にそれを伝える余裕がなかった。

 宗一郎の胸中にはさっきまであった身を焦がすような狩りの興奮は、もはや火の粉すら残っていない。ただあるのは、凄まじい焦燥感だけ。

 魔王の本能は、いま自分が死地にいることを、はっきりと告げていた。

 だがいまのクー・フリンに一体何ができるというのか? たとえまだ晒していない権能があったとしても、そもそも呪力がなければ発動させることすら叶うまい……

「フ―――神殺しよ。貴様はオレにもう戦う手段がないと思っているな? 確かに兄弟たちはすべて失い、我が魔槍も暫く還ってはこない。呪力の貯蓄も不十分だ。

だがな、これからオレがすることに、呪力なんぞ要らないのさ……」

 風に乗ってクー・フリンから獣臭が漂ってくる。

 事ここに至って、宗一郎は対峙する敵が、死にぞこないであるという事実を頭から締め出す。何をするつもりなのか見当もつかないが、それが出される前に斬り捨てる。でなければ死ぬのは自分の方だと、本能が告げていた!

 一瞬で間合いを詰めようと、前に出る宗一郎。だが―――

「出来るならコイツだけは使いたくなかったぜ。だが負けるよりはなんぼかマシだ。

……盟友と息子と殺し合ってまで勝ち取ってきた最強の称号、不敗の伝説。それをどこの馬の骨とも解らねえヤツなんぞに、黙って呉れてやる気はねえよ。

 ―――もはや言葉を交し合う機会なぞあるまい。だからこそ、言っておくぜ、神殺し。かなり愉しめた、あばよ」

 それを最後にクー・フリンの額から真紅の光が迸る。

「額に輝く英雄光!? いけません、神無月宗一郎! 一刻も早くクー・フリンを止めなければ……!」

 騎士に言われるまでもなく、それを誰よりも理解している筈の宗一郎は、だが踏み込むのを放棄して、脇にいるリリアナの腰を抱えて跳んだ。もう間に合わない、と直感したが故に。

 そして、それは正しかった。

 真紅の輝きがクー・フリンの全身を飲み込むや否や、なんとそこから巨大なモノが跳び出してくるではないか!

 神無月家に伝わる体術“縮地”を駆使し、人間離れした大跳躍で遥か後方に逃れる途上(くうちゅう)で宗一郎は見た。太陽もかくやと輝いていた真紅の光が消え去り、そこから現れ出でる巨大で獰猛な真紅の獣の威容を!

 それは真紅の巨大な犬だった。体長三十メートルはあるだろう。宗一郎が飼っている黒犬とは、巨大さ、存在感、内包する力の総量、すべてが比べ物にならない。真なる神の獣。

 故に、振り下ろされる力もまた壊滅的だった。

 さっきまで二人がいた空間に天より鉄槌の如く叩き付けてきたのは巨犬の前右肢だ。その一撃は大地を爆散させ、粉砕した。衝撃は地盤を震わし、なお威力は衰えずに貫通、巨犬の周りの地面が崩落していく。

 沈む大地。沈下に呑み込まれ、怒りの咆哮を上げて、圧倒的な土砂と共に堕ちていく真紅の獣。

「……!?」

 その彼らしくない無様な姿に、宗一郎は眉を顰める。が、十数メートルの距離を一気に跳び退いて、無事な地面に着地した宗一郎はリリアナの腰から手を放し、

「リリアナさん、あなたは後ろに下がっていてください」

 と素っ気なく告げた。なぜ来たのか、邪魔をするな、などと無用な問答はしない。そんな暇もない。

 リリアナも白兵戦では足手まといであると解っていたのか、素直に応じる。

「わ、わかりました。神無月宗一郎……おそらくアレは、狂奔の権能だと思われます。ならば、あの獣に理性は残っていないかもしれません。どうかお気をつけ下さい」

 そう告げると、リリアナは地を蹴って跳び上がった。

「え……」

 理性がない? 改めて問おうにも、“縮地”と同等の術技を用いたのか、リリアナはすでに空の上だ。

 それに下方から響き渡る怨嗟の咆哮が、そんな時間がないことを告げていた。

 もうもうと立ち込める砂埃を突き破り、自らが造り上げた斜面を駆け登ってくる赤い巨犬。その正体がクー・フリンの変身した姿であることは、間違いあるまい。

 この変身態こそがクー・フリンの真の切り札。だが、大怪獣に襲い掛かられようとも、宗一郎に心に怖じる気持ちなど起こり得ない。自らの剣が通じる限り、如何なる敵といえど、倒せぬ道理がない!

 巨犬は紅色の体毛をなびかせて疾駆する。まるで生まれながらの獣の如く四肢を巧みに動かし迫りくる真紅の獣は、宗一郎の刃圏に侵入する直前、なんと大きく跳躍した。

 狙いは体重と位置エネルギーをもって、宗一郎を押し潰す腹か?

「……いや、違うっ。狙いは僕ではなく彼女か!?」

 そう、赤い巨犬はぱっくりと裂けた口を開いて、そのおどろおどろしい牙の群れを見せびらかし、リリアナ目掛けて跳んでいく。

 まさか、『まつろわぬ神』ともあろう者が魔王との戦いの最中に、あろうことか宿敵を無視して、人間に過ぎないリリアナを狙うとは!

 そのあり得ない光景に、宗一郎は愕然と目を見開く。

「くっ!?」

 だが驚きならばリリアナの方が増さったであろう。足手まといを避けるべく、一気に結界近くまで退避しようとしたのがクー・フリンの関心を引いたのか、気が付けば空の上で巨獣のつまみになろうとしている。

 だがリリアナとて大騎士の端くれ。ただ黙って食われてやる気は毛頭ない。

 もう目前まで押し寄せる開かれた巨大な顎。ずらりと並ぶ大牙の群は、まるで剣の墓標のようだ。過去幾人もの戦士があの中で朽ちて逝ったのだろう。

 それを前にして、リリアナは臆することなく呪文を唱え、虚空を蹴る。さながら妖精のように天に舞い上がる青い騎士。

 間一髪、さっきまでリリアナがいた空間は大口に呑み込まれる。だが巨体の勢いはまったく衰えることなく尚も宙を突き進み、己の毛並と似た色をした結界に頭から激突し、背中から地面に墜落する。

 地響きを立てて仰向けに寝る巨体。くぅんと哀れっぽく啼く赤い巨犬。それをリリアナは地面に降り立ち唖然と言葉もなく見つめる。

 対して、宗一郎は、

「―――!」

 倒れ伏す巨犬目指して疾走を始めた。

 狙うは急所一点突破による敵の絶命のみ。本来あの巨体相手では急所を突くなど困難を極めるも、今ならそれも容易い。

 なぜなら、仰向けで倒れることで頭部が地表にほど近い高さまで堕ちてきている。ならば、長刀でもって頭蓋を破壊することも可能。

 問題は宗一郎が如何にしてそれを成し遂げるのか。いわんや頭蓋は生物にとって最も堅牢を誇る器官だ。それが神獣となった『まつろわぬ神』のものなら、その硬度は推して知るべしである。

 その難問に宗一郎は、刃を寝かせることで答える。

 突き技―――突進力をすべて貫通力に変換せしめ、巨犬の頭蓋を食い破り、脳髄を突き抉る。如何に神と言えど、頭を破壊されれば、ダメージは無視できまい。『不死』の能力を宿していなければ、間違いなく即死する。

 狩衣が翻し、白き矢と化して宗一郎は突き進み、死の一閃を放つ!

 その間、真紅の獣はぴくりとも動かなかった。巨体故の鈍重さか、激突のダメージが思いのほか酷いのか。どちらにしても、宗一郎は躊躇なく渾身の刺突を敵の右側頭部に向けて繰り出す!

 白刃は吸い込まれるように、紅い毛皮の中へと消えていく。だが―――

「―――手ごたえが、ない!?」

 手元に肉を、骨を、脳を貫通した感触が一切ない。まるで何もない虚空を貫いたかのような違和感。

 すると、巨犬の体躯が唐突に(カタチ)を失うや否や、紅い濃霧が辺り一面に充満した。まるで一斉に何百人もの血をぶちまけたかのような鮮血の霧海。

 それが津波の如く宗一郎に向けて押し寄せるや、神殺しの矮躯をすり抜けて背後に収束、実体化。真紅の獣と化す!

「―――!!」

 愕然と背後に顔向ける宗一郎。

 そして、咆哮とともに再度振り下ろされる巨腕の一撃。激震、粉砕、崩落、またもや大地の渦に呑み込まれる赤い巨犬。

 宗一郎はそのすべてをいち早く前方に飛び退いた宙の上で見て取る。硬い地面に降り立つや宗一郎は、真紅の獣と化したあとのクー・フリンに感じていた違和感の正体を理解した。

 リリアナ・クラニチャールが言っていたように、あの赤い巨犬には理性がない。あったとしてもせいぜい獣並。あのクー・フリンは完全に狂っているのだ。

 それ故にあの真紅の獣には、精密な力量配分が執れずに過剰なまでの力を発散させて部様を晒す羽目になっている。また明確な戦術行動・判断を行えないが故に、愚直に同じ行為を繰り返す。

 本来これらを統制制御する筈の知性が致命的にまで欠落しているのだ。

 だが誰に信じられようか、精密極まる秘技で、周到極まる知略で戦場を縦横無尽に駆け抜けていた戦争の神の真の切り札が、よりにもよって暴威に恃むだけの知性のないケダモノに成り果てることだとは!

 とはいえ、あの変身態になることに利点がない訳でもないのだろう。枯渇しかけていた筈のクー・フリンの呪力が完全に恢復している。いや、以前より強壮であるかもしれない。それはあの巨犬の動きのキレを見ていれば明白だ。

 通常の変身能力にこんな力はない。どんな怪異なる姿になろうとも、呪力量に変動はない。減ることはあっても増えることなどあり得ない。おそらくはあの変身態と化した状態のみに有効な能力であろう。人間形態に戻れば瀕死のままに違いない。

 それに加えて、人間形態で発動していなかった能力まで獲得しているようだ。

 クー・フリンは痩身ながらかなりの剛力の持ち主であったが、大地を砕くほど法外ではなかった。自らの身を真紅の獣と化さしめることによって、その本来の能力を解放できるのだろう。

 だがこれだけならば、宗一郎に恐れる必要などない。

 その身にどれほどの大怪獣に変身しようが、その身にどれほどの金剛力を宿そうが、知性のないケダモノなど狩人にとって所詮狩るだけの獲物に過ぎない。まったく脅威になり得ない。

 そう、クー・フリンにあの『不死』の権能さえ持ち得なかったのなら、宗一郎の勝利は揺るがなかったであろう。

 濃霧に紛れることで災厄から免れ得る霧の加護。

 剣士たる宗一郎にとって、これ程の天敵とでもいうべき能力は他にあるまい。これなら『鋼の加護』の方がまだいいほうだ。

 確かに鋼鉄の肉体は宗一郎の渾身の一撃すら易々と弾き反すだろう。さらに十撃、百撃加えたところで無効化するに違いない。他の者なら、これだけやれば自ずと斬撃打撃を行使し続ける無意味さを悟り、別の手段を模索するだろう。あるいは、賢いものならもっと前に気付いている。

 だが、宗一郎はそうしない。

 神無月宗一郎は剣士である。必要とあらば、愚直に刀を振り下ろし続ける。たとえ幾千幾万の斬撃を繰り出して、なお無効化されたとしても、宗一郎の心にはひびさえ入ることはあるまい。

 なぜなら、如何に硬くとも鋼鉄はいずれ壊れることを宿命づけられているからだ。カタチあるものが壊れるのは世の必定。超常の力で産み落とされた鋼とて例外ではない。

 ならば、己の鍛え上げた業を放ち続ければ、いずれ光明も見えてこよう。

 だが、霧が相手ではそれが不可能なのである。

 そもそも霧は刀で斬り払うことはできても、斬り壊すことはできない。カタチが定まっていないモノが相手では、宗一郎の刀とて斬り捨てることは不可能だ。

 故に、宗一郎が霧を斬るには業ではなく、能を用いるしか他にない。

 浄化の神力を以って、霧を灼き斬るのである。霧の天敵たる火炎で焼き払ってしまえば、『霧の加護』とて無意味に化さしめることもできよう。

 そう、宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能をまだ行使できたのなら、若き神殺しの勝利はやはり揺るがなかっただろう。

 だが宗一郎は、聖火の権能の切り札である『慈悲の焔』を行使してしまっていた。この代償に半日ほどは浄化の神力は使用できないのである。

 ―――勝てない。つまるところ、現状どうあがいたところで宗一郎に勝機はない。

 ならば、撤退しかないのだが……それもできない。

『分かれた枝の浅瀬』―――周囲には赤い結界が張り巡らされているからだ。

 クー・フリンは何人にも邪魔されることがない一騎打ちのための結界だと口にしていたが、その言葉は半分だけ正解だった。

 確かにあの結界は外部からの侵入を妨害する役割が設けられているが、同時に内部からの脱出を阻害する(、、、、、、、、、、、、)用途も付属されているのだ。

 赤い結界は外からの侵入を防ぐ防壁であり、中からの脱出を防ぐ牢獄だった。

 これこそが、クー・フリンの遺した窮余の策。

 神無月宗一郎を破滅させる最後の陥穽であった。

「―――ッ」

 ぎりっと奥歯を噛み締め、宗一郎は前方を睨み据えた。もうもうと立ち上る土煙には依然何も動く気配はない。彼の数メートル後方には、奇しくもリリアナが控えていた。偶然同じ方向に退避してしまったらしい。

 もはや勝敗は決した。宗一郎には勝利の道はなく、撤退する道もない。

 これから待っているのはただの敗残処理に過ぎない。宗一郎にはそれを覆す力もなければ、回避する策もない。

 当然の帰結である。宗一郎の敗因は、浄化の神力を失ったことではなく、あの赤い結界を張らせてしまったことにある。

 アレさえなければ、佐久耶と協力すれば撤退するくらいなら出来たかもしれない。一騎打ちの誓約に応じたのは、妹や騎士を守るためだった、などと言い訳にもならない。

 すべては己の無能非才ゆえのことである。だから、後はこの結果を粛々と受け入れるのみである……

 ―――にも拘らず、どうして自分はいまだ長刀などを構えているのか? 精神は敗北を受け入れているというのに、肉体がまるでそんなことなど知らぬとばかりに動いていた。

 だがそれは、明らかに宗一郎の美学に反している。武人とは勝敗が決したのなら、潔く敗北を認め、ただ黙して散るべきなのだ。

 そのはずだと言うのに、本能が全身全霊で―――否、と叫んでいた。

 神無月宗一郎にはまだ“切り札”がある。それを使え、としきりに訴えている。

 ……確かに宗一郎には、未だ行使していない第二の権能がある。

 だからといって、それを駆使したところで都合よく勝敗が覆るわけではない。宗一郎の「敗死」は確定している。単に完全に敗北を喫しないと言うだけに過ぎない。

 それにあの能力はどうしても宗一郎の神経を逆なでする。

 戦士の誇りを汚すあの能力が憎い。生命の唯一性を脅かすあの能力が恐ろしい。

 ―――だが使わねば完全に死ぬ。神無月宗一郎の固有技能ではこの戦況を覆せない。第一の超権は使用不可。ならば、第二の超権に望みを託すしかない!

「くッ!」

 誇り高い栄光の死を選ぶか。泥すすって無様な生を得るか。宗一郎は選択を迫られた。

 だが宗一郎が決断を下す前に、真紅の獣が動き出す。

 ―――獣は実にシンプルに生きている。彼らは自らがなす行為に一切疑問を差し挟まことはない。己の欲するがままに、いっそ冷徹とも言うべき決断を躊躇なく下す。

 赤い巨犬―――かつて誇り高き戦神だったケダモノには、もはや神としての精神性など欠片も残っていない。

 真の神なれば人間相手に意識して力を振るうことなどあり得ない。人間が蟻一匹に全力を出さないように、神が人間相手に本気になることはない。

 ―――だが真紅の獣は違う。

 赤い巨犬は己の狩猟範囲に存在するあらゆる獲物を神人魔などと差別しない。すべて喰らうべき餌に過ぎない。

 獣が唯一獲物を区別するのなら、それは強者か弱者のみであろう。なぜなら自然界では常に弱き者から淘汰されていくのだから。

 故に、宗一郎がそうと気付いたときにはすべてが遅かった。

 紅の濃霧が雪崩打って―――青い騎士(じゃくしゃ)の方へと流れ込んでいく! 

 真紅の獣がいまこの場で、リリアナ・クラニチャールこそが一番の弱敵であると嗅ぎ分けたが故に。

「……う。あ……」

 リリアナの背後で実体化した赤い巨犬。低い唸り声と飢えでぎらつく双眸が騎士を見下ろしていた。まるで蛇に睨まれた蛙のようにリリアナは指一本とて動かせない。

それも当然だ。如何に大騎士といえど全長三十メートルの大怪獣に至近で睥睨されたなら、声すら出せずに恐怖に屈服する他ない。

 だが真紅の獣にとり、獲物の窮状など知ったことではない。獲物に動きがないと解るや、これ幸いにとばかりに凶悪な口を開いて―――リリアナ・クラニチャールの天上から紅い死を振り下ろしてきた!

 リリアナにこれを回避する術はない。そもそも躱すも何もない。騎士はいまだに指一本とて動かすことも叶わないのだから。彼女に出来るのは、ただ恐怖に戦慄き、瞳を大きく見開いて己の死を眺めることだけ。

 

 

 ―――そこに白い人影が跳び込んで来なければ、間違いなくそうなっていたであろう。

 

 

「……え? ぐッ――!」

 横から来た衝撃で彼女の小柄な体は簡単に吹き飛んでいく。地に五転六転してようやく体が止まっても、リリアナは起き上がれない。まったく現状認識が出来ていない彼女は、呆けたように、むくりと顔だけを上げて―――そこで見てはならないものを見てしまった。

「…………神無月宗一郎…………?」

 唇を震わせてリリアナは掠れた声で呟く。

 リリアナの瞳には神無月宗一郎が、なんと赤い巨犬に頭からがぶりと喰いつかれた光景が映っていた!

 真紅の獣は、まるで思わぬカタチで早々に難敵を仕留めたことに歓喜したかのように、若き神殺しの肉体に噛み付いたまま、巨大な頭部を天高く持ち上げて、勝利の美酒()を喉の奥に流し込む。

「がァ……。フゥ――!!」 

 自分の体外へと流れ出す血液をゴクゴクと呑み干していく異音を聴きながら、宗一郎が思ったのは、獣の口の中はあまり臭くないのだな、という心底どうでもいい感想だった。

 赤い巨犬の口腔に生えた剣山は、宗一郎の五臓六腑を完全に破壊していた。

 無論、問答無用の致命傷である。むしろ、心臓まで貫かれて息があるどころか、思考能力まで正常を保っていることの方が異常であった。

 おそらく魔王の肉体は心臓を破壊されたとしても、また首を斬り落されたとしても、即死に至ることはないのだろう。神殺しを即死に至らしめるのには、脳を完全に破壊する他ないらしい。

 と言っても、あとせいぜい数秒の寿命(いのち)に過ぎない。今も物凄い勢いで生命の砂時計が滑り落ちていくのを、宗一郎は感じ取っていた。

“どうして……!?”

 ふと宗一郎はそんな言葉を聴いた気がした。一瞬幻聴か、と思ったが違うだろう。おそらくはあの女騎士の声だ。どうやら彼女には宗一郎の献身に異論があるらしい。

 残り少ない血を溢しながら、宗一郎は苦笑する。とはいえ、純粋な善意に満ちた献身とは程遠いが。

 宗一郎がリリアナを庇ったのは、無力な少女を救うための英雄的行為、無私の献身ではない。魔王が騎士を救ったのは、ひとえに第二の超権を行使するための理由づけ。こうする必要があっただけに過ぎない。

 決断力を欠く宗一郎でも、事ここに至っては、胸の奥深くに埋めていた手札を晒すことに躊躇いはない。

 ああ―――そうだとも、こんな結末など断じて認めるわけにはいかない。クー・フリンとはもっと相応しい決着の付け方がある筈だ。

 何よりも宗一郎にはすべての神々を打倒するという悲願がある。こんな処で死んでいる暇はない。

 ごふっと咳き込む宗一郎。が、もうあまり血も出てこない。意識も徐々に薄れつつあるようだ。どうやら最期のときが来たらしい。こんなおぞまし経験をあと何度経験する羽目になるのだろうか。

 奇しくもクー・フリンが呟いたように、宗一郎も胸中で思う。このままおめおめと敗北を認めてしまうよりはいい、と。

 戦士であることを捨て理性なきケダモノと化してまで勝利を求めたクー・フリンと同じく、宗一郎もまた勝利のために戦士の誇りを捨てる。

 すべては勝利を手にするために。

 死の間際、宗一郎の脳裏によぎるのは妹である佐久耶のことではなく、命を救ったリリアナのことでもなかった。

 黄金色に輝く大麦―――『穀物』のイメージが胸に満たされる。それを最後に宗一郎の魂魄は闇へと沈んでいった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十話  後悔

 円柱闘技場の程近くに聳え立つ小山、その頂にひとりの男の姿があった。

 英国の魔王―――アレクサンドル・ガスコインである。

 黒王子は遮蔽物が何もない見通しがいいこの位置で、赤い決闘場を窺っていた。近いと言ってもまだそれなりに距離があるものの、魔術で視力を強化しているアレクにとって見通すのはさして難はなかった。とはいえ、赤い輝きに阻まれて場内の様子を見ることは叶わなかったが。

 だからと言って、黒王子の基本戦略に変更はない。

 アレクが知る由もないことであるが、神無月佐久耶が看破したように彼の方針とは、あの決闘場から意気揚々と出てくるであろう勝利者と、アレクが迷宮の権能で捕縛している『まつろわぬ神』とを噛みあわせることにある。

 上手く噛みあうかどうかは運次第であるが、別段そうならなかったとしても構わない。重要なのは核爆弾みたいな連中が、アレクと何の関係もない土地で爆発してくれさえすればいいのである。

 その後のことは黒王子の知った話ではない。

 そして、都合よくお互いに喰らい合ってくれるのなら、後は生き残った方を対処すればすむ話だ。あるいは、幸運が味方をすれば荒事にならないまま片付くかも知れない。

 これが真の文明人の戦いというものだ。何が面白くて斬るだの殴るだのといった野蛮な戦いを好んでやる必要がある? 

 戦いは少し頭を使うだけでかくもスマートに終わらせることが出来るのである。だと言うのにあの野蛮人どもはそのことがまったく理解できないのだ。

 アレクはあんな大袈裟な決闘場を造ってまでチャンバラごっこに興じる連中の気がしれなかった。

「―――相変わらず、大魔王の癖に小利口なことを考える人ですね!」

 そんな呆れたような声がアレクの真横から聴こえてきた。黒王子が目をやるとそこにふっとひとりの女性が現れた。

「フン、出歯亀女め。やはり来たか」

 女性―――プリンセス・アリスはそんな失礼極まる言動をあっさりと無視し、にっこりと微笑んで、

「まったく、あなたときたら、災厄をまき散らすことに関しては行動的なくせに、どうして災厄を刈り取ることに関しては非行動的なのでしょうね! 本来カンピオーネの役割はそこでしょうに」

 毒舌をまき散らした。

「それは貴様ら魔術師どもが勝手に決めた役割だろうが! 俺は一度もそんなものに同意した覚えはない!」

 とはいえ、隣の巫女姫に中途半端な正義感の持ち主と酷評されるように、流石のアレクも目の届く範囲で神々に暴れ回られては、無関心ではいられない。

 だからこそ、隣国まで文字通りに跳んできたのだが、そこに自分の同類がいたのなら、話が変わってくるのは当然の成り行きというものだろう。

 あの同類は見る限り、イタリアの剣術馬鹿や中華の怪力女の同類だ。ならば、『まつろわぬ神』を二柱ほど噛み合せ(プレゼント)したところで、喜ばれこそすれ非難などされまい。ましてや、内一柱は迷宮(包装紙)に包んだ上で、後日解放(はいそう)の準備までこちらが整えてやるのだ。至れり尽くせりとはこのことを言うのである。

 アレクはあらためて己の作戦に満足しつつ、ふと隣が静かなのに気が付いた。あの喧しい姫君にしては大人しくなるのが早すぎる。文句が後十や二十はあってもおかしくはない筈なのだが。

「……アレクサンドル。どうやら決着が付いたようです」

 赤い結界を厳しい眼差しで見据えながら、白き巫女姫は低い声で呟いた。アレクもすっと目を細めて、結界を見る。

 すると、地球に突き刺さったかのような超巨大石柱型結界。それを構成する無数の文字列が飛沫の如く四散した。赤い粒子を残して消えていく結界。

 巨大な構造物が一瞬で消失するさまは確かに異様であったが、その内から現れたモノはそれに輪をかけて異常だった。

 巨大な真紅の獣。それが天に向かって咆哮するかのように背をのけ反らせて立ち尽くしていた。

「あれは何だ? ……狼か?」

 常人には魁偉極まる光景でも、カンピオーネたる黒王子には日常の景色だ。アレクはさして驚いた風もなく、瞳を輝かせて食い入るように見る。

 果たしてクー・フリンの伝説で狼に変身するような逸話があっただろうか?

「いいえ、狼ではなく、冥界に住まう獣……『狗』でしょう。憤怒と狂気を孕んだ『狂奔』の気配を感じます。おそらくアレは……」

「ああ、ピンチになると何処からともなく力が湧いてきて、敵を皆殺しにするという逸話の再現か」

 アリスの発言を乗っ取りアレクはそう宣った。

「……身も蓋もない上に、神秘性がまったく感じ取れない説明ですけれど、概ねその通りでしょうね。となれば」

「ああ、決まりだ。勝者はクー・フリンだな」

 そう言って、アレクは目を凝らす。そして見咎めた。赤い巨犬の顎に喰いつかれた人影の姿を。

 彫像のように静止していた赤い巨犬は、ようやく己が生物であることを思い出したのか、頭を軽く振るい、ぺっと唾を吐き出すように歯に挟まったモノを吐き捨てた。

 墜ちていく全身を紅に染まった人影。あの高さから墜落しては唯ではすむまいが、アレはもはやそんなことを気にする必要はあるまい。アレクの同類だったモノは既に事切れている。

「……やはり、最も若いカンピオーネの方では、まつろわぬクー・フリン相手では厳しかったようですね」

 アリスが沈痛な面持ちで呟く。

「そのようだな。流石はアルスター神群最強の戦士といったところか。……だが見てみろ。奴は相当善戦したみたいだぞ」

 アレクの視界は真紅の獣の巨体が徐々に萎んでいき、やがて美貌の青年の姿を象るさまを映していた。

 純白のマントを風に靡かせて、泰然と佇む男―――クー・フリンに疲弊の色は見受けられない。だが、アレクはクー・フリンの呪力は枯渇寸前だと見切った。

 あれではせいぜい生命維持が限界で、戦闘能力など残っていまい。先程の強壮な獣の姿が嘘のように脆弱な有様であった。これではあらたな挑戦者が乱入して来ようものなら、一溜りもないであろう。

 だからといって、アレクが捕虜を拘留し続けても意味はない。自分で処置する気がない以上、解き放つしかないのだ。どうせ放置していても、向こうは自力で脱獄してしまうのである。使い時は今しかない。

 起動中の迷宮の権能に働きかけようとした、そのとき―――ふと大地に横臥した骸が目に留まった。

「……」

 途端、アレクに罪悪感めいた感情が沸き起こる。

(罪悪感だと……)

 アレクは自らの心を分析する。果たしてあの少年の死に自分の責任があっただろうか?

 ―――いや、ない。

 あの少年が戦死する羽目に陥ったのは、ただ彼の武運が拙かったからに過ぎない。そこにアレクサンドル・ガスコインが責任を負うべき理由などない。

 そもそもあの少年のようなタイプに共闘を持ちかけたところで、鼻で嗤われるか、斬りかかられるかのどちらかであったろう。最初からやるだけだけ無駄であることは明白だ。

 あの連中と健全に付き合うには適度な距離感を保っていた方が上手くいく。と言うよりは、出来る限り距離を置いて付き合う方がいいというべきか。

 自身の行動を分析してみたところ、自分に不手際がないことはあらためて確認する。

 このあたりが隣の姫君に、中途半端な正義感と揶揄される所以なのだが、アレクは気づいた風もなく己が権能を行使せんと精神を集中させ、

「アレクサンドル、待って下さい。……どうやらまだ終わっていないかもしれません」

 ―――ようとして、プリンセス・アリスに止められた。

「なに?」

 黒王子はもう一度戦場を注視して、そこに驚くべき光景に大きく目を見開いた。

 ……なるほど、確かにまだ終わってはいないらしい。

 

 

               ×          ×

 

 

 自分の責任だ。横臥する王の亡骸を見詰めながら、地に伏してわなわなと肩を震わせて、リリアナ・クラニチャールは悔恨に臍噛んだ。

 自分が足手まといにならなければ、神無月宗一郎は死ななかった筈である。カンピオーネを―――『まつろわぬ神』に唯一対抗できる人類の救世主を死なせてしまったのだ!

 そもそもどうしてリリアナ・クラニチャールなどが神と魔王の戦いに介入出来るなどと思い上がったのか。

『まつろわぬ神』相手に自分では力不足であると先のカラティンの妖女との戦いで思い知らされたではないか。ならばなぜ? そう、確かあれは「彼女」に言われて……

「……解せんな。確かに仕留めた筈だが、なぜかそんな気がしねえ」

 リリアナが懊悩していると、唐突に声が彼女の鼓膜を刺激した。顔を向けるとそこにはいつの間にか人間形態に戻っているクー・フリンの姿があった。

 敵を滅ぼしたことによって自動で変身が解けたのだろう。確かそんな伝承があった筈だ。

 リリアナが無事だったのは「敵」の設定をまだ正気であったクー・フリンが定めていたからに違いない。神として正常な精神性を有していたなら、人間如きを敵とは定めまい。

「しかし、『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』が消えている以上、間違いなく仕留めた筈だが……まあ、いい。細かいことは後だ。今は約束通り神殺しの首級―――頂くとするか」

 そう言うとクー・フリンは指先を閃かせ、一振りの長剣を呼び出し、悠然と歩を進める。

「な……っ!?」

 英雄神ともあろう者が、まさか死体を辱めるつもりなのか! だが思い返せば、古代ケルト人には首狩りの風習があったではないか。

 古代人は人間の頭部には人の心である強さ、意志、精神などの“生の躍動”が宿っていると考えていた。敵を殺してその雄々しい力と精神を己の内に取り込むことで、さらに強靭な戦士に至れると信じてきたのだ。

 つまり、古代の戦士にとって首狩りは戦士としてより高みに至らんとする神聖な儀式なのである。

 とはいえ、古代人にとって首狩りが聖なる行いであったとしても、現代人であるリリアナからすれば赦し難い蛮行だ。

 自分は神無月宗一郎の生命を守れなかった。だが人間の尊厳だけは守ってみせる!

 五体に喝を入れて、リリアナは跳ね起きる。イル・マエストロを召喚し、青い衣を翻し、カンピオーネの亡骸とクー・フリンの間に割って入った。

「……おい、お嬢ちゃん、何のつもりだ? 返答次第では只ではすまさんぞ!」

 クー・フリンは目を細めて、殺気を孕んだ低い声で問いかける。

「……っ!」

 英雄神の威圧に心胆が凍り付く。

 クー・フリンの怒りは当然だ。アルスターの戦士にとって神聖な儀式を邪魔としているのだから。だからと言って、リリアナにも引けぬ理由がある。

「……」

 騎士は無言でサーベルを構える。

 これが、どんな諫言、説得より効果があると判断したが故に。言葉ではなく武力で以って阻んで退ける。

 リリアナの目から見てもクー・フリンは、フェニックス公園で遭遇した時とは比べ物にならないほど疲弊していることが解る。だがそれでも、依然リリアナを滅ぼすには充分すぎる力は有している。

 ―――戦えば勝てない。

 たとえどんな状況であろうともリリアナ・クラニチャールに神を打倒する器量はない。

 それを理解してなお、青き騎士に退く意志はない。

「……それが貴様の答えか。女伊達らに見上げた奴―――よかろう、ならば、一撃で貴様の主の下に送ってや…………な……何――――!?」

 クー・フリンは凝然とリリアナを注視する。―――いや、違う。その虹色の眼差しはリリアナを超えて背後のある一点に収束していた。

「!!」

 そのことに気付いたリリアナは敵と正面で向き合いながら、思わず背後を振り返ってしまう。

 そこには驚くべき光景が拡がっていた。

 なんと神無月宗一郎の亡骸がずぶりと大地に沈むように呑み込まれていくではないか! 大地は貪欲に啜り上げるように、若き神殺しの体を吸い込んでしまった。

 リリアナはこの怪現象に見覚えがあったが、魔女の直感が“彼”ではないことを告げていた。同じ大地に属する神力のようだが、別の神話群の神から簒奪した権能だろう。おそらく行使したのは……

「わっははははは! そうか、そういう事か! 冥界に渡ることで死の災厄より護身する不死の加護。それが貴様の切り札か、神殺し!

 確かにオレと言えど、冥界に逃げられては手も足もだせん。ク―――見事だ!」

 そう言ってさらに豪快に笑うとクー・フリンはあらためて対峙するリリアナと向き直る。

「おい、お嬢ちゃん。神殺しが復活するにはまだしばらく時間がかかるだろう。オレもその間に休ませてもらうとしよう。……そうさな、今日の日が沈む夕暮れ時、もう一度ここで再戦と洒落込もうや。奴にそれを伝えてくれ。じゃあ、頼んだぜ」

 あっけらかんと、さっきまで殺害しようとしていた人間(リリアナ)に伝言を託すと、クー・フリンは地を蹴って跳び上がり、大空の中へと消えていった。

 後に残るのは、決死の覚悟で神に挑まんとし、肩すかしを喰らって呆然とするリリアナのみ。

 ―――いや、あとひとり、いた。

「どうやら、無事、終わったようですね」

 声と共に騎士の傍らに現れたのは神無月佐久耶の幽体である。はっと振り向いたリリアナは双眸に憤怒の灯を込めて、巫女を睨み付ける。

「無事終わっただとっ。あなたは神無月宗一郎がこうなることを知っていた筈だ! だと言うのに、なぜわたしを援軍に行かせたのだ!」

 そう、神無月宗一郎が不死に権能を有していたのなら、リリアナの援軍など何の意味もない。独力で切り抜けられたはずである。

 リリアナの激昂にもどこ吹く風の佐久耶は、ゆったりと漆黒の眼差しを猛る騎士に向ける。

「先に申し上げたとおり、兄はときより羅刹の君らしからぬ奇行を仕出かすことがあります。その中でも極め付けなのが、簒奪した権能の使用を躊躇することです。それも余程追い詰められなければ出し渋ると言う有様。

 特に第二の権能は兄のお気に召さなかったようで、必要になった状況で使用してくれるのだろうかと常々心配しておりました」

「……その話とわたしの件がどう関わりがあるのか解らないが、少なくともその心配は杞憂だったようだな。彼は立派に難局を乗り越えられたではないか」

 口角を吊り上げてリリアナらしからぬ皮肉気な口調で言った。

「はい。これもリリアナさまのお蔭です。誠にありがとうございました」

 そう言って神無月家の巫女は深々と頭を下げた。

「……どういう意味だ?」

 不吉な予感に身を固くするリリアナ。佐久耶はゆっくりと頭を上げ、穏やかな木漏れ日のような微笑を浮かべて、

「それは勿論―――リリアナさまが足手纏いになって頂けたからですよ」

 そう言い放った。

「!!」

 その言葉は刃となって防御したはずのリリアナの心を抉り取る。あまりの屈辱に全身を震わせる。

 つまるところ、神無月佐久耶がリリアナを必要としたのは、彼女の騎士の技でもなく、魔女の能でもなかったのである。騎士の使命感に理解を示してくれたわけでもない。ただカンピオーネの足を引っ張るひとりの無能者(どうけ)を欲していただけだった。

 能力を使いあぐねる兄に踏ん切りをつかせるためだけに。

「兄はあれでも女性には甘い性格をしています。リリアナさまが危急に陥ったならば必ずや身を挺して庇うだろうと思っていました。男子にとって女性を庇い命落とすのは名誉なこと。ですが神殺しの戦士にとっては不名誉の極み。となればやむを得ず使用に踏み切るだろうと確信していました」

「だとしても神無月宗一郎は神殺しを成し遂げた方だろう! こんな回りくどいことなどしなくとも、最後にはなりふり構わずに勝利の道を選んだはずだ!」

「ええ、そうかもしれません。ですからまあ、リリアナさまの存在はあくまで念のための保険……みたいなものでした」

 巫女のあっさりと語るその言葉がリリアナのなけなしの誇りを木端微塵に粉砕した。

「………………」

 憤怒の怒号も、抗議の言葉も出てこない。

 リリアナは肩を落とし、悄然と項垂れた。なんと滑稽な話か。世の秩序を守護するためカンピオーネの剣たらんと望んだものの、そもそも相手はそんなことなど求めてはいなかったのだ。ただリリアナひとり意気込んでいただけ。まさに道化である。

 ……帰ろう。ここに騎士の居場所はない。

 踵を返し、背を向けたそのとき、

「どちらに行かれるおつもりですか?」

 雌狐の声が聴こえたが、リリアナは無視し、歩き出す。

「そうですか。お逃げになられるおつもりなのですね。騎士さまともあろうお方がなんとも情けない」

 聴くな、無視しろ、そう解っているにも拘らず、侮辱に耐えらずにリリアナは足を止めてしまった。

「……よくも抜けぬけと、この期に及んでまだわたしに何の用があるのだ? また必要もない道化を演じろとっ?」

 そんなことは御免だ、とリリアナは振り返ることなく吐き捨てた。

「しかし、リリアナさま。このままお国に帰られたとして、その後どうなるかなどきちんとお考えになられましたか?」

 リリアナの感情などまったく考慮せずに、佐久耶は言葉を紡ぐ。

「……なんのことだ?」

 ついに我慢できずに体を巫女の方に向けてしまうリリアナ。またもや不吉な予感に迫られて背筋を凍らせる。

「そうですね、このままではこの戦いの後、神無月家がリリアナさまのお家であるクラニチャール家に抗議文などを送らせてもらう事になるかもしれません」

「な……っ!?」

 リリアナの驚愕は当然だ。カンピオーネを擁した魔術組織の抗議文がただの定例通りの苦情(クレーム)であるはずがない。恫喝を孕んだ事実上の宣誓布告に他ならない。

「あ、あなたはわたしを脅迫するつもりか!」

 もしそんな物が送り付けられようものなら、クラニチャール家は激震に見舞わられるに違いない。

 おそらくクラニチャール家当主である祖父は顔を青褪め、ついで頬を紅潮させて、リリアナを激しく叱責するだろう。―――いや、それだけではすむまい。最悪リリアナはクラニチャール家から放逐されかねない。

 クラニチャール家は東欧の魔王と縁を築いてあるものの、完全に信頼に足るほどではない。そんな情勢下では祖父はまかり間違ってもカンピオーネの不興など買いたくはあるまい。そのために孫娘とはいえ、組織のために切り捨てる可能性は充分にあった。

「脅迫? ふふっ、人聞きの悪いことを仰らないでください。それにわたくしどもが何もしなくとも、やはりリリアナさまは困ったお立場に追い込まれるのですから」

 今度は何だ? まだ何かあるのか? あまりに混乱が激しく上手く考えが纏まらない。心臓は狂ったように血液を吐き出している。そんな中、雌狐の言葉だけが明瞭に頭の中に響いてくるのが腹立たしい。いっそこのまま完全に混乱状態になりたかった。

「分かりませんか? リリアナさまが羅刹の君である兄さまと共闘して、まつろわぬクー・フリンと戦われたのは動かし難い事実。この事はこの地の呪術組織はもとより隣国にまで伝わっているでしょう。

 ならば、当然わが身可愛さに任務を放棄した、敵前逃亡の不名誉な出来事もまた瞬く間に世界中にまで響き渡りましょう」

「あ…………」

 リリアナは慄然として手足が竦む。胃がぎゅと縮み、足元が消失したような浮遊感に襲われる。

 もしそんな事態になれば、リリアナは破滅だ。≪青銅黒十字≫の信用も失墜するだろう。そうなれば、やはり祖父は自分を切り捨てざるを得まい。

「あなたは何処まで……」

 卑劣なのだ、という語尾をリリアナは口内で飲み込んだ。

 そんな非難に何の意味もない。リリアナ自らがこの戦いに足を踏み入れた時点でリリアナに逃げ道など何処にも残されていなかったのだ。つまりは、自業自得。

 神と魔王の戦いがどんな形で決着が付くことになったとしても、リリアナは両の足で大地を踏みしめて、両の眼で事の顛末をしっかりと見届けなければならないのである。

「くっ……。だとしても今さらわたしに何が出来ると言うのだ?」

 それは逃れられない現実を前にした青い騎士の最後の足掻きだ。

 事実、リリアナに神と対抗する手段は少ない。その唯一の呪文もクー・フリンと相性が悪すぎる。リリアナでは一秒の隙すら作ることも叶うまい。

「もちろん、ありますとも。リリアナさまにしか出来ないお役目が……」

 だと言うのに、神無月佐久耶はそう簡単に言ってのける。

 信用できぬとばかりに胡乱げに睨み付けるリリアナ。それに笑みを受けべて、佐久耶はある「作戦」を伝える。

 聴くにつれ、リリアナの相貌がにわかに真剣味を帯び始め、それから、なぜか顔を真っ赤にして怒号を迸らせた。

 

 

               ×          ×

 

 

 それから六時間後。

 大地から黄金色の穀物―――『大麦』がまるで季節を、時間を早送りしたかのように、急速に伸び生えてくる。

 刈り入れ時の秋の季節まで成熟するや否や、ぱっと虚空に溶けるように消え失せた。すると、大麦と入れ替わるように、染みひとつない白地の衣を纏った少年が眠っているように横たわった姿勢で現れ出でた。 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一話 覚悟を刃に変えて

 穀物は地下に播かれ、再び芽吹いて現れる『不死』の象徴だ。

 秋になって、鎌で切り殺され、非業の死を遂げる。そして、春になると復活を果たす。古代人にとって穀物は復活と豊穣の現れだった。

 死と再生のサイクル。大地が命を恵み育む能力。

 これが神無月宗一郎が、豊穣神デメテルより簒奪した復活の権能だった。

 宗一郎は微睡む意識の中で取り留めもなく思考する。

 死んでいた時のことは覚えていない。養母と自称する妖しき少女に遭遇し斬りかかっていった気もするし、誰にも会わなかったような気もする。真実は解らない。

 外界に意識を傾けると複数の声が聴こえてくる。昔から知っている声とつい最近知ったばかり声だ。

「やはり落ち着かない。王たる方が野ざらしに横たわっているにも拘らず、騎士たるわたしがそれを介抱することなく立って見下ろしているだけとは……」

「仕方ありません。お話した通り兄さまが意識のない状態での過剰な接近は危険です。慣れない気配を感じ取れば無意識の状態でも斬りかかってくるのですから」

「……ならば、あなたが介抱して差し上げればいいのではないか?」

「お忘れですか、リリアナさま? わたくしはいま生身ではなく幽体なのですよ? 物体に触れるには呪力を使用しなければなりません。ただでさえわたくしは回復力に優れているとはいえないのです。無駄な力の消費は可能な限り避けなければなりません」

「……ここ数時間ずっと考えていたのだが、あなたは神無月宗一郎が嫌いなのか? いくら権能の力があったとしても、命を落とすことが前提の作戦を強行するなど普通考えられないと思うのだが」

「いえ、大好きですよ? ふふっ、ええ、とっても。ただすべて勝利が優先されるというだけなのです」

「………………」

 本当に喧しい女たちだ。宗一郎の神聖にして不可侵の戦いに勝手に介入してくる上に、睡眠まで邪魔してくるとは。

 それにしても、会話が随分弾んでいるようだ。いつの間にあのふたりは仲良くなったのだろうか。とはいえ、女騎士の声に棘が含まれている気もするが。まあ妹の性格を思えば、棘どころか胸元に剣を突き立てられたとしても文句は言えまい。

 宗一郎は意識が急速に浮上していくのを感じる。どうやら休息の時は終わったらしい。ならばそれは戦の時が近づいているということに他ならない。

 ならば、備えなければならない。

 クー・フリンは強大な神だ。アレをやらねば、おそらく勝機はない。幾つもの欠陥を抱えた業であるが、あの英雄神相手なら上手く嵌るかもしれない。

 宗一郎は目を開けて、むくりと上半身をを起こす。

「兄さま、お気づきになられましたか」

 視界はぼんやりとしてはっきりとしないが足音はしっかりと聴こえてくる。

「あれからどれくらい経ちましたか?」

 目頭を押さえ、頭を振って視界を鮮明にする。

 宗一郎は近くに来ていた二人を仔細に観察する。当然ながら自分が死んだ後の状況などはまったく解らないのだが――本当にゾッとする――幸運なことにどうやら二人とも無事らしい。

 佐久耶はいつも通り――それはそれで問題あるが――リリアナは……若干頬が赤いようだがどうしたのだろうか。

「ろ、六時間ほどです、神無月宗一郎。お身体の方は大丈夫なのですか?」

「……? ええ、今のところ特に問題はないようです」

 挙動不審な女騎士に不審に思いながらも、宗一郎は己の体を精密に点検するためあっちこっちに手を入れて首を巡らす。

 何分初めて使用した権能なのだ。佐久耶の霊視と自分の直感でどんなの能力かまでは把握していたものの、実際使用しなければ解らないこともあるだろう。

 宗一郎は仔細に己の身体を調べていくと、自身の体に驚くべき変化が起こっていることに気付いた。傷跡が消えている! 修練で、実戦で負った古傷の痕跡までが綺麗さっぱり消えてしまったのだ。

 よくよく見直せば、身に纏っている狩衣の状態も変である。巨犬の牙に貫かれて、無残なぼろ屑に成り果てた筈なのだが……

 おそらく復活の権能は、使用者の体とその着用物を新品の状態に生まれ変わらせる能力があるのだろう。

 実のところ、宗一郎はこの事態に内心喜んでいた。 

 狩衣の方は着替える手間が省けた程度の関心しかないが、古傷が消えてくれたことには素直に喜ばしい。宗一郎は以前から体の至る所に点在する傷跡が気になって仕方がなかったのである。

 だからと言って、宗一郎に自己陶酔の気があるわけではない。姿見で自身の裸体を見るたび、若干自身の美観を損ねていたことに気になっただけである。

「神無月宗一郎? やはりどこか問題が?」

 熟考の末の沈黙を何か異常を発見したと感じたのか、リリアナが心配げに問うてくる。

「リリアナさま、心配する必要はありません。兄さまはただの自己陶酔に浸っているだけです」

 自分は自己陶酔者ではない、という宗一郎の抗議の視線を涼やかに受け流す佐久耶。

「それより兄さま。これから何をやるべきことは判っていますね?」

 その言葉でだれていた空気が一変する。宗一郎の佐久耶を見詰める漆黒の瞳に戦士の昏い光が灯る。

「―――無論です。それでクー・フリンはどうしました?」

「今日の夕暮れに再戦の意志を告げられたあと、どこかへと去って行かれました」

 リリアナがクー・フリンの言葉を伝えた。

「夕暮れ……あと三刻ほどですか。充分です。佐久耶、≪刃≫を研ぎます。準備を―――」

 空の天蓋、その中天に昇る太陽を見上げながら、宗一郎はそう勇ましく決意を告げると、力強く立ち上がった。

 ついにアレを抜き放つ刻が到来したのだ。

 神無月家秘中の刃を! 神を討ち滅ぼす至高の剣を!

 興奮に「血」が騒めくのを感じる。それも当然だ。

 神無月家が数百年の果てに研鑽し続けてきた窮極の秘術が、ようやく日の目を見るのである。長きに亘る一族の研鑽が決して無駄ではなかったことがついに証明されるのである。

 だがまだだ。宗一郎は必死に「血」を押さえつけた。

 まだ自分は≪刃≫鋳造のための不可欠たる三つの工程―――その内のひとつだけしか用意出来ていない。故に、今ここでもうひとつを貰い受ける。

 宗一郎が敵対する神についての「知識」を得たとき、≪刃≫はより一層完成に近づくのだから。

「はい。ではリリアナさま、後はよろしくお願致します」

 そう言って佐久耶は一歩退く。

「ま、待って下さい、神無月佐久耶! やはりわたしには無理です!」

 頬をますます赤らめてリリアナは叫んだ。

「申し上げたはずですよ。リリアナさまに許された選択肢は二つだけ。このまますべてから背を向けて、組織の裏切り者と蔑まれるか。見事お役目を果たして、羅刹の君たる兄さまと縁を結び、組織の功労者として讃えられるか。それはリリアナさま次第です」

 佐久耶はもう笑みを浮かべていなかった。極めて真摯にかつ冷厳な最後通牒を突き付けた。

「くっ」

 それでリリアナは抵抗を諦め、すべてを受諾するかのように肩を落とした。

「……先程からあなたたちは何を言い合っているのですか? 僕はリリアナさんではなく佐久耶、お前に言ったのですよ」

 宗一郎の口調には苛立ちが混じる。

 すぐにも≪刃≫を鍛えなければならないと言うのに、どうして妹は必要なコトを実行しようとしないのか? 佐久耶が古今東西の神話学に造詣が深いのは本来この儀式のためだと言うのに!

「お忘れですか、兄さまには魔術に対してほぼ絶対的な耐性を持っているのですよ。≪教授≫の術とて例外ではないのです」

 兄の不機嫌を察した佐久耶がやんわりとたしなめる。

「それくらい、勿論覚えています。だからこそ、術を練り込ませた呪石があるではありませんか」

 確かに、魔王の対呪力は強力である。正し、盲点がない訳ではない。呪術を直接体内に吹き込むのであれば別であるのだ。

 そして、呪術には特定の物質に術を封じ込めて、任意に起動することができる呪具がある。故に≪教授≫の術を封じた呪石を、宗一郎が口内から摂取すれば、充分事足りるではないか。

 だが―――

「呪石の作製には兄さまが思われる以上の時間がかかるのです。とても夕刻にまで間に合いません」

 あっさりと否定されてしまった。

 むぅと困ったように喉の奥で唸る宗一郎。が、何かを閃いたのか、ぱっと顔を輝かせて、

「何だ簡単ではありませんか。佐久耶、お前が接吻で体内に直接術を仕込んでくれればいいじゃないですか」

 自覚があるのかないのか、宗一郎はそんな非倫理的なことを口にした。

「絶対に駄目に決まっています! 神無月宗一郎、わたしがいる限り、そのような自然の理に反した所業、断じて見過ごすわけにはいきません!」

 リリアナは先程までの投げやりな態度はどこへやら、急に力強く毅然とした佇まいで反対を主張した。

「と、リリアナさまが主張されています。とはいえ、わたくしも同感です。初めての殿方が兄さまでは夢がなさすぎます」

 神無月の巫女の言葉にぎょっとするリリアナ。

「神無月佐久耶! わたしにあのような仕打ちを命じながら、当のあなたが乙女の心を口にするのか!」

「当然です。そもそもリリアナさまに選択の余地はありません。いい加減あきらめて下さい」

 取り澄ました態度で佐久耶は答えた。「くっ」と呻き、またもや肩を落とすリリアナ。

「お前たち、いい加減にしなさいっ。佐久耶、ならばどうすると言うのですか! ≪刃≫を鍛えるには、神の知識が必要なのですよ!」

「ええ、解っております。ですから、わたくしの変わりはリリアナさまが務めます」

「な!?」

 その提案が余程予想外だったのか宗一郎は目を見開いてリリアナを見やる。リリアナはその視線に耐えられず羞恥に頬を赤らめて縮こまる。

「佐久耶、何と破廉恥な事を言うのですか! リリアナさん、まさか承知したのではないでしょうね!」

 どうやら宗一郎にとって実妹の佐久耶との接吻は何の抵抗もなくとも、リリアナとのキスは羞恥を感じるらしい。

「……兄さまの基準はまったくもってよく分かりませんが、すでにリリアナさまの了解は取り付けております」

 冷たく兄を見据えて答える佐久耶。

「リリアナさん、見損ないましたよ! あなたには女性としての貞淑さはないのですかっ」

 宗一郎は柳眉を逆撫でてリリアナを糾弾する。

「……さっきから黙って聴いていれば、兄妹揃って勝手な事ばかり! わたしとて何も好き好んでするわけではないっ。初めての男性は運命の恋をする相手と決めていたのに! ああ―――なんでこんな事に……」

 これから暴行される乙女さながらに頭を抱えて嘆くリリアナ。

「……なるほどリリアナさん、そういう事ですか。佐久耶に何か言われたのですね? ならば安心してください。僕が責任もって妹には何もさせません」

 宗一郎は厳粛な面持ちでリリアナに告げた。

「か、神無月宗一郎……」

 リリアナは顔を上げて、驚愕に目を丸くする。

 そんなリリアナと見つめ合いながら、宗一郎は力づけるようにひとつ頷くと、佐久耶に漆黒の眼差しを向けて、これで問題は解決したと言わんばかりに、自信満々に言う。

 

 

「そういうわけです。佐久耶、儀式の支度をしなさい」

「神無月宗一郎、だからそれは駄目だと言っているでしょう」

 

 

 間髪入れずに、リリアナが割って入る。

「むぅ……どういうつもりですか、リリアナさん」

「どうもこうもありません。わたしの目が黒いうちは、兄妹でそのような如何わしい真似をさせるわけにはいきません」

 リリアナは不退転の決意でそう告げた。

「ならばどうしろと……」

 宗一郎は心底困惑のした風に呟いた。

「兄さま、答えならすでに出ているでしょう。何を言ったところでリリアナさまの決意はとうに定まっております。あとは兄さまの決断ひとつです。それとも、リリアナさまを排除して、そのあとわたくしの唇を奪いますか……」

 兄さまなら簡単にできましょう、と言外に呟く佐久耶。

 確かに出来る。だがそれはそれでやりたくない宗一郎だった。なんというか絵的に駄目すぎる、ということが解る程度の常識は宗一郎にもあった。

……色々と考えてみても、どうやら選択の余地はないらしい。

 どのみち、≪刃≫を鍛えないことには、クー・フリンとの戦いに勝利はないのだ。もとより宗一郎は、同じ相手に二度と負けるつもりなどない。

「……まったく、生涯の契りも結んでいない男女が接吻をするなどとは世も末です。リリアナさん、本当にいいのですか?」

 宗一郎は天を仰ぎ、溜息を吐きながら呟く。

 今どきキス程度中学生でやっていても珍しくないのだが、幸か不幸か宗一郎は俗世間のことはまったく知らない。

「よ、よくはありませんが、やむを得ないことであるとは承知しています。……わたしも騎士の端くれ、神の災厄に抗うためというのであれば、王たる御身と、キ、キスをすることに否はありません」

 恥じらいを含んだ声色で、リリアナは俯きながら言った。

「―――わかりました」

 そう言って宗一郎は進み出る。

 宗一郎は今の今まで騎士を女性として意識したことはなかった。が、接吻するとなるとそういうわけにもいかない。ついまじまじと彼女を見入ってしまう。

 恥じらいのあまり小柄な体格をさらに小さくしているリリアナの姿が素直に可愛らしいと思う。

 そんなことを思う自分の感情に宗一郎は驚いた。

 この世に生れ落ちてから、神無月家によって神を討ち滅ぼす刃金(へいき)として鍛え上げられてきた自分が身内以外にそんな感情を抱こうとは! それも佐久耶に感じているものとは、似ているようで違う気がする。

 男として原始的な欲求に突き動かされ、それが何なのか確かめるために、宗一郎はリリアナの顎に手を添え、下に向いた顔を上げさせて―――唇を奪う。

「ぁ――――」

 リリアナも無意識なのか、ひしっと宗一郎に抱き付いてくる。

 合わさる唇と唇。絡み合う舌と舌。交換される唾と唾。

 その瞬間、宗一郎とリリアナは霊的に繋がった。陶然とした漆黒の瞳と深青の瞳が交錯する。その度に宗一郎の知らない知識が溢れてくる。

「アルスターの勇者『クランの猛犬』。かの勇者は現在のアイルランドにまで語り継がれている大英雄です」

 リリアナが唇を離し、熱に浮かされてように、宗一郎の耳たぶを啄みながら囁く。

「太陽神ルーグと王女デヒテラとの間に儲けられた半神半人の英雄。しかし、太陽神の血を継ぎながら、クー・フリンに『太陽』との関係を窺わせる記述が少ない。むしろ、彼の生涯において最も彩られていたのは『戦争』の逸話です」

 リリアナはすべてを宗一郎に預けるように、しな垂れかかる。熱い吐息を吐いて、今度はリリアナから唇に吸いつく。

「そこにクー・フリンの神格を読み解く「鍵」がある。神無月宗一郎、それを理解して、神を斬り裂く刃を研いでください!」

アイルランドの大英雄クー・フリンの知識が、唇が触れ合った舌先から唾液を伴って激流のように流れ込んでくる。

 宗一郎はクー・フリンの完全な知識を得たことを確信した。《神殺しの刃》を産み出すための準備はこれでまたひとつ整ったのである。

 その一部始終を間近で熱心に見つめる一対の瞳があることを忘れて、二人はしばらく行為に耽っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二話 まつろわぬクー・フリン

 逢う魔時―――

 古来日本では夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻をそう呼ぶことがある。決して出会う筈のない昼の光と夜の闇が邂逅する妙なる時間。

 古代日本人はこの時間に神秘性を見出した。

 昼を現世―――人間の領域と定め住んだ。夜を常世―――魑魅魍魎の神域と畏れ敬った。

 そのため、夕暮れ時は現世の領域たる昼の時間には『魔』が出難い時間から、いよいよ彼らの本領発揮といった時間となると考えられた。

 だが、これより神無月宗一郎が出逢うのは『魔』に非ず、『神』である。それも並の魔性など腕の一振りで薙ぎ払う恐るべき戦の神。

「―――よう、今度はオレの方が遅れたみてえだな」

 薄橙色に染まった空からひとりの人影が舞い降りてくる。

 ひらりと優雅に着地した人影は、強壮な己の本性を取り戻したクー・フリン。

 宗一郎は背後に控えた佐久耶とリリアナからにわかに緊張を帯びるのを感じる。だが宗一郎は泰然とした態度で目を細めて、クー・フリンの手に真紅の槍がないことに訝しむ。

「クク―――いいぞ、ほんの半日前にオレに一度殺されていながら怯懦の念はないか。そうでなくではな、神殺し! 怯えて腰が引けた敵を殺すのは興ざめというものだ」

 宗一郎の視線に気が付いたのか、クー・フリンはにやにや笑いながら、両手を上げ、ふざけたようにぷらぷら振る。

「……戯言は結構。クー・フリン、どういうつもりですか? あなたの愛槍は何処に置いてきたのですか?」

 二度目の戦いから半日。宗一郎の『聖火』の権能がそうであるように、クー・フリンの『魔槍』の権能もまたすでに恢復している筈である。喚べば一瞬とはいえ、戦場に自らの獲物を携えてこないとは解せない話である。

「まあ、そう急くな。しかし、驚いたぜ。随分と場が整えられているじゃねえか」

 飄げた風で宗一郎の追及を軽く流して、クー・フリンは周囲を見回し、感心するように呟いた。

 クー・フリンの言葉通り、先の戦いで森の広場は、無秩序に掘り返され、荒れ果てた畑のような様相を呈していたが、ここ数時間ばかりの巫女と魔女の奮闘で何の支障もなく、決闘が執り行われる程度には整備されていた。とはいえ、かつての美しい景観を取り戻すまでには至らず、一面黒ずんだ土ばかりであったが。

 もっとも、それ以前に森の広場という形容自体事実に即していなかった。

 つい十二時間前まで辺りに生い茂っていた森は、カラティンの妖女の攻撃の余波を受けて、山裾まで禿げ上がり、かつて探検家の憩いの場であったろうこの場所は、平原と直接繋がることで最早その一部と化していた。

「オレたちの決闘場としては些か風情に欠けるが、まあこんな物だろう。しかし、やり合う前に神殺しよ、テメエに問い質したいことがある」

 そう言って、クー・フリンは静かに宗一郎へ向き直った。

「神無月宗一郎―――貴様に問う。貴様は何のために戦っている?」

 クー・フリンがそんなことを聴いてきた。

「……何ですか? また藪から棒に可笑しなことを聴いてきますね」

 宗一郎はその質問の意図を解しかねて、クー・フリンを訝しげに見やる。

「フム、解りにくかったか。まあ、何だ……あり得ないことだとは思うが、万が一、いや億が一にもオマエがオレを下したなら、かの忌まわしき簒奪の秘儀によりテメエはオレの神力を奪い取ることになるだろう。ならば、その後に、貴様が何を為すつもりなのか、それがチョッと気になっただけで、な」

 語り口は軽くあっさりとしたものだったが、双眸はこの上なく真剣に宗一郎の真意を見極めるかのように、厳粛に見つめていた。

 しかし、宗一郎はそんなクー・フリンの態度などまったく気づいた風もなく、納得いったとばかりに、大きく頷いて、漆黒の瞳を爛々と輝かせる。

「なるほど、つまりそれは―――僕の王道が知りたいというわけですね。ならば答えましょう。我が道は神無月家の家訓を全うすること。即ち、現世と常世に存在するすべての神々を討ち果たすことです!」

 そう高らかにそう放言した。

 これを初めて聴くことになった騎士は唖然と体を硬直させ、何度も聴いたことのある妹は「それは違いますっ」と視線で訴えるものの、宗一郎には届かない。

「はっはははは! ソイツはなかなか剛毅な家訓だな! すべての神々を薙ぎ倒し、己が最強たることを証明せんとする武の求道―――それが貴様の道か!

 成る程、一理ある。確かに我らをすべて滅ぼし尽すことが出来たならば、真の最強の名乗りを挙げても不足はあるまい。

 だが、貴様の道には決定的に足りないものがある」

 クー・フリンは轟然と言い切った。

「……クー・フリン、僕の王道に間違いがあると? そう言うのですか?」

 その言葉だけは聞き捨てならぬと厳しい面持ちで憤怒の視線を向ける宗一郎。

「そうじゃねえ。オレは足りない(、、、、)と言ったんだ。神無月宗一郎、よもや知らぬわけではあるまい? 現世には我ら神々に匹敵する存在が闊歩していることを!」

 英雄神の虹色の瞳が一層妖しく輝き、宗一郎を射ぬく。

「むぅ……あなたが言いたいのは、ひょっとして僕の同族の方々の事ですか?」

 さっきまでの剣呑な空気はどこへやら、宗一郎は困惑した風に呟いた。

 それも当然だった。神々を討ち滅ぼすことこそが己の運命だと信じている宗一郎にとって、その言葉はあまりに予想外に過ぎた。

 まるでクー・フリンは宗一郎に他の神殺しと殺し合えと言っているように聴こえるのだが……

 しかし彼らとの戦いに何の意味があるのか。羅刹の君とは神を殺すことに存在意義があるはずではないか。

「そうだ、神殺し。オマエが掲げる王道に、なぜ貴様の同族の首級を捧げない。最強たることを証明せんとするならば、我らの屍だけでは到底足りるまい。

 貴様たち神殺しは人類最強の戦士。ならば、ヤツラも貴様の王道に加える価値は充分にある筈だろう……!」

「!!」

 確かにその通りだ。宗一郎の他に世界に七人いると言う彼の先達たち。彼らもまた神を殺した最強の戦士たちに相違ない。

 神無月宗一郎が真の最強たらんと欲するのなら、決して避けては通れない強敵たち。

 それは神殺しを己の本分と思い定めている宗一郎にとって、想像だに出来なかった発想であった。

 驚愕する宗一郎を尻目に、クー・フリンはくいっと親指を突き出し、北方向に聳え立つ小山を指し示す。

「気づいているか、神殺し? あそこにオマエの同族がいるぞ」

 驚いたように身をよじる佐久耶とリリアナ。宗一郎も昨夜の公園からこちらを盗み見ている気配は感じ取っていたものの、その犯人が自分の同族であるとは思い到らなかった。

「オレは貴様を倒したあと、あそこにいるヤツに戦いを吹っ掛ける。最も、オレたちに断りもなく高みの見物を決め込んでいる野郎なんざ、正直趣味じゃないんだが、それでも神を滅ぼした戦士だ。その武力、その知略を知りたくて血潮が湧きたつのが止められねえ。

 貴様はどうだ神無月宗一郎! これでもまだ食わず嫌いを気取るつもりか!」

 クー・フリンは高らかに一喝した。

「むぅ……ッ」

 宗一郎は目蓋を閉じて、同族と覇を競い合う光景を想像してみる。

 確かに心躍る光景である。成る程、血潮も湧き立つだろう。何しろ相手は神を殺した最強の戦士なのだから。だがしかし―――

 宗一郎はカッと目を見開いて、右手は背に吊るした柄頭を握り、長刀を一気に抜き放つ。

 ―――神と戦うほどではない!

「確かに興味深い提案でした。ですが、その件はあなたを仕留めた後、改めて考えさせてもらいましょう」

 宗一郎は闘気を全身に滾らせて、峻烈な眼差しをクー・フリンに向ける。

「クク―――悪くない返事だ。いいだろう。そろそろ始めるとしようか」

 クー・フリンは殺意を滲ませた声でそう言った瞬間―――額に英雄光が輝き放つ。

「な……ッ!」

 その輝きが何を意味するのか、宗一郎に解らない筈がなかった。それは半日前に彼を死に追いやったクー・フリンの体を赤い巨犬の姿に変態せしめる権能の発露に他ならない!

「クー・フリン、どういうつもりです!? どうしてこんなにも早く……!」 

 宗一郎の疑問は当然だ。

 クー・フリンが今行使しようとしている狂奔の権能の最大の利点は、疲弊した状態でも何の支障もなく行使でき、かつ変身中のみの間だけとはいえ、枯渇した呪力を瞬時に恢復してしまうことにある。

 となれば、当然の戦術として人間体の状態で敵の戦力を可能な限り削り取った上で、狂奔の権能で疲弊の極みにある敵に逃れられぬ死の一撃を叩き落とすことこそが最善手のはずである。

 事実、クー・フリンは前回に戦いの際、そうやって宗一郎を絶体絶命の窮地に追い込んだのだから。

 にも拘らず、クー・フリンは今その最大の利点を自ら進んで放棄しようとしている!

「―――神話の時代においても、オレの槍の舞を、戦車の疾走を、魔槍の魔力を、そしてわが身を駆け巡る熱き猛りを解放して、尚も生きながらえた敵は、皆無、だった。

 そう、貴様以外はな―――神無月宗一郎!

 そんな勇者相手に前と同様の戦術で当たるなど不粋ってモンだろう。それにテメエ、まだ切り札を隠し持っているな?」

 クー・フリンの慧眼には敬服するしかない。

 勿論、宗一郎は切り札を持っている。最後にして必殺の。

 とはいえ、その行使に三つの制限が設けられており、そのひとつたる聖なる火炎―――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能がどうしても必要だった。

 故に、クー・フリンの『魔槍』の権能を『聖火』の権能を行使せずに、どうやって切り抜けるかが宗一郎の悩みの種だったのだが……

 クー・フリンが『魔槍』を使わずして、『狂奔』の権能を行使するというなら、この問題は自然に解決したことになる。だがそれは―――

「ならごちゃごちゃと余計なことなんざ考えずに遠慮なく使いやがれッ! さあ征くぞ、用意はいいか、神殺し。正真正銘これが最後の戦いだ……!!」

 怒号と共に英雄神の全身が真紅の輝きに呑み込まれる。

「兄さま……!」

 背後から決断を促す妹の声が飛んで来る。

 浄化の神力を消費せずに、しかも万全の状態で狂奔の権能と向かい合えるというならば、不埒な観客がいる直中で神無月家の秘中の秘たる≪刃≫をあえて抜き放つ必要はない。それどころか、今までのように独りで神に挑むことも出来るだろう。

 だが、それではおそらくは勝てない。

 神無月宗一郎が今まで行っていた戦い方ではあの英雄神には勝利できないであろう。なぜかそんな確信が宗一郎の内で揺るぎなく実っていた。

 かの英雄神に勝利するには、秘術という秘術、仲間という仲間、己の内にあるすべてを賭して挑まねばなるまい。

 故に、宗一郎は最後の切り札の行使に踏み切る。

 だがまだだ。まだ完全に準備が整っていない。最後のひとつが……

「佐久耶、リリアナさん、しばらくこの場を任せます」

 そう言って、宗一郎は≪縮地≫を用い、大きく後方へと飛び退く。

「はい!」

「了解しました!」

 佐久耶とリリアナも即座に応じ、それぞれ左右両翼に広がるように疾走を始めた。

 瞬間、赤い光の塊から、咆哮と供に飛び出してきた真紅の獣が宗一郎のいた過去位置に喰らいつく。が、ソコに何もないと解るや、直ちに己の巨躯を解きほぐし、鮮血の霧海が一気に充満、大津波が押し寄せるようにリリアナの背後に収束、実体化する全長三十メートルの大怪獣。

 狂奔の権能を行使したクー・フリンにあの明敏な知性など欠片も残っていない。あれは何の戦術もなくただ好き勝手に暴れ回るケダモノに過ぎない。

 だが、ケダモノ故に実にシンプルに行動する。

 『まつろわぬ神』としての誇りもなく、躊躇なくこの場で最も弱い獲物へと喰らいつく。即ち、リリアナへと。

 だがリリアナにとってはこれで二度目。半日前の再演。それ故に、この事態は容易に予測がついていた。

「ふっ……!」

 軽佻な足運びで頭上から降りかかってくる噛み付きを回避して、そのまま大きく飛び退くリリアナ。空中で『ダヴィデの言霊』を唱えて、左手に長大な弓を召喚する。右手に青く輝く一本の矢を番えて、解き放つ。

 青き彗星となって赤い巨犬へと突き進む、神をも傷つける青い矢。

 だが、これを見た赤い巨犬の瞳に嘲弄の色が宿る。知性が劣化した獣でも解る無駄な攻撃。なぜなら、自らの体を霧化できる真紅の獣にとってあらゆる物理攻撃が無意味であるからだ。霧は斬れない。貫けない。そして、死ぬこともない。

 故に、赤い巨犬は余裕を以って霧化しようとして―――

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

 そこに割り込んできた佐久耶の唱えた早九字―――破魔の呪文によって阻まれた。

 雷電化、不可視化がそうであるように霧化もまた術破りに極端に弱い性質を有している。

 それでも赤い巨犬に知性が残っていたなら、青い矢の着弾点のみを見切って部分的に霧化して無効化できただろう。如何に佐久耶といえど、権能を完全に封じることなど出来はしないからだ。

 だが知性のない獣にそんな複雑な作業など出来る筈もなかった。果たして、青い矢は見事に紅の巨犬の右肩に命中した。

 苦痛に呻く真紅の獣。だが全長三十メートルの大怪獣にとって、その程度の矢傷など傷の内にも入らない。あと千本の矢に射抜かれたとしても致命傷にもなるまい。

 だとしても、リリアナにはそれでも構わない。なせなら先の射撃には、敵に致命打を浴びせる意図などなかったからである。

 地に着地したリリアナは召喚の呪言を唱える。すると、騎士の右手に矢じりに鮮血が付着した青い矢が出現する。それは、彼女が先に射た矢に他ならない。

 それを確認したリリアナは青と黒のケープを翻し、神無月宗一郎の下へと馳せる。透かさず佐久耶が赤い巨犬を足止めすべく術を飛ばす。

「神無月宗一郎、どうかこれをお受け取り下さい」

 何者にも邪魔されずに、宗一郎の下に馳せ参じたリリアナは、恭しく跪き、騎士の両手に置かれた青い矢を差し出した。

 少しばかり躊躇いの仕草を見せた宗一郎であったものの、左手を伸ばして、しっかりと青い矢を握りしめる。

「―――リリアナさん。このたびの助勢、感謝します」

 あくまで独りで戦い続けることに固執していた若き神殺しから、仲間の献身に労いの言葉がかけられる。たとえこの共闘がこの場限りであったとしても、宗一郎は青い騎士のこれまでの献身を忘れることはないだろう。

 対して、リリアナはその言葉だけでこれまでの労苦が報われた気がした。傍若無人、唯我独尊を地でいくカンピオーネからこれ程まで真摯な言葉をかけらたのは、初めてなのだからそれも無理からぬことかもしれないが。

「恐れ入ります、王よ。ではわたしは神無月佐久耶の援護に行って参ります」

「はい。よろしくお願いします」

 宗一郎の言葉に頷いて、リリアナは銀髪をなびかせ、熟練の闘牛士の如く真紅の獣をあしらっている佐久耶の下へと駆け急ぐ。

 彼女にはまだ役目がある。宗一郎が≪刃≫を鍛錬するまでの間、佐久耶と共に真紅の獣を引き付けておかなければならない。それはリリアナにしか出来ないことである。なぜなら、あの赤い巨犬はリリアナを真っ先に仕留めるべき獲物であると認識しているからだ。

 宗一郎が≪刃≫の鍛錬中は無防備に為らざるを得ないことを考えれば、彼女はこの戦いにおいて最高の囮役(じんざい)であるかもしれない。

 そして、騎士はつい先ほど最も重要な役割を果たしてくれた。宗一郎は左手に持つ青い矢に視線をやる。

 その矢じりに付着しているのは、神の血液―――霊血である。これこそが、≪刃≫鍛造のための三つの要素の最後のひとつに他ならない。

 宗一郎は右手の長刀を水平に掲げ、左手の青い矢の鏃に張り付いる霊血を刀身にぽたぽたと垂らしていく。コトを終えると矢は青い霞となって消えた。

 これですべての準備は整った。

 さあ―――始めよう、神を殺す刃を打ち鍛えるのだ!

 宗一郎は切っ先をゆらりと持ち上げて、天突く大上段の構えを執る。それに合わせて、赤い滴が刀身から滑り落ちる。

 ≪刃≫鋳造に不可欠な要素は三つ。そのひとつたる敵対する神の血が。

 そして、次の瞬間―――刀身が蒼い火球に包まれる。

 ≪刃≫鋳造に不可欠な要素は三つ。そのひとつたる烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能により創り出された鋼を精錬する聖なる(ほのお)が。

[――――どこの世界神話にも、神々の時代から英雄の時代に移る狭間がある。英雄は世界が神のものから人間のものになる間を橋渡しする存在です」

 宗一郎は言霊を込めて、燃え盛る刃金に吹き囁く。

 ≪刃≫鋳造に不可欠な要素は三つ。その最後のひとつたる敵対する神の知識を。

 以上を以って、神無月宗一郎は《神殺しの刃》を造り出す鍛錬を開始する。

「しかしながら、古代ケルト人は叙事詩に登場する英雄たちを神の化身、即ち、神のもうひとつの姿として顕すことがありました。クー・フリン、あなたもその一人です」

 これこそが、神無月家が神を倒すために編み出した窮極奥義。

 錬鉄の秘術。数百年に亘る研鑽の、妄執の結晶。

「あなたは太陽神ルーグの息子として語られながら、その神格に『太陽』の属性を見出すことは難しい。それもそのはず、あなたの本質は、『太陽』の神ではなく『戦士』の神だからだ。 

 そして、ケルト神話において戦士としての役割を最も体現している神は一柱のみ。

 ―――それがオグミオス。彼こそがあなたの原型だ!」

 大陸系ケルト神話におけるオグミオスは、島系ケルト神話ではオグマに相当する神格だ。オグマはダーヌ神族の最高神ダグザの弟神にして戦争の神でもある。時代が進むと次第にオグマは、太陽神ルーグの臣下へと下ることになる。

 だからなのだろう、古代ケルト人たちがオグミオス・オグマの化身であるクー・フリンを太陽神ルーグの息子として、下位者に位置付けたにも納得がいく。

「クー・フリンとオグミオスとの類似点はまだまだある。たとえば、あなたの名前だ。

“クー”はゲール語で犬を意味する。鍛冶屋の番犬を殺して『クランの猛犬』を名乗ったようにあなたは『犬』との関わりが深い」

 古代人たちは犬を冥界に属する生き物と信じていた。ケルト神話でも犬は死者の王国を守る動物として描かれている。

 オグミオスは冥界を司る神としての神格も有しており、ケルト神話で犬を伴った姿で表された。

 また、魔術の神でもあったオグミオスは、宗教的な用途に限って用いられたゲール人固有のアルファべット体系であり、古来より神秘の力が宿っていると信じられたオガム文字の発明者でもある。

 そう、オガム文字とはクー・フリンがアルスターに侵略してきたコノートの女王メイブ率いる軍勢の進行を阻むために浅瀬で使用した魔術文字に他ならない。

「そして、最後にあなたが≪鋼≫であるという事実。だが、あなたが≪鋼≫なのは当然だ。

ケルト神話はインド・ヨーロッパ語族の神話体系が非常に特殊なカタチで進化したものだ。だが、まるで共通項が見出せないわけではない。事実、ギリシア人はオグミオスをヘラクレス、ローマ人はマルスと同一視しました」

 リリアナと佐久耶に引き付けられ、翻弄されていた筈の赤い巨犬がここに来て、ぴたりと動きを止めて、宗一郎に向き直り、憤怒の咆哮を上げる。

 知性を失っても己の神格を暴き立てる言霊に本能が不吉の予感を嗅ぎ取ったのか、もはや彼女たちには見向きもせずに、宗一郎目掛けて突進してくる。真紅の獣が弾け飛ぶ。右前脚を振りかぶりながら飛び掛かってくる!

 それを前にして、宗一郎は怖じることなく、冷静に最後の言霊を紡ぐ。

「―――戦争の神マルス。かの神こそ≪鋼≫の最源流のひとつ。だから、そこから派生したあなたもまた≪鋼≫の系譜に連なる英雄になり得るのです!」

 ついに神殺しの刃が完成した。

 人類最古の呪術のひとつたる感染呪術の秘奥。

 人の業と神の能の融合。

 敵対する神の血液と敵対する神の知識を触媒として、聖なる炉で鍛えた刃金と結合させ鍛え上げた、神の神格を切り裂く呪いの刃。

 それが神無月家の秘中の秘たる神無月宗一郎の真の切り札だった。

 蒼い火球が風に煽られるように弾け、火の粉を散らして消失する。

 そこから顕れたのは、刃渡り七メートルにも及ぼうかという赤黒い超特大の刃。宗一郎はそれを撃ち下ろされてくる巨碗を目掛けて袈裟懸けに斬り下げる!

 斬る! 斬る! 斬る! 斬る!

 まるで紙を切り裂くように容易に切り下ろされる赤い巨犬の右前脚。当然の帰結である。神格を直に切り裂く刃に掛かれば、霧化したところで逃れられる道理がない。

 宗一郎はくるりと手首を返す。逆袈裟懸けに振り上げられる一刀。

 この一剣には宗一郎のすべてが籠められている。

 そう、神への殺意。羅刹の君の呪力。神無月家の秘術。磨き上げてきた剣術。そして、仲間への感謝。神無月宗一郎の人生の軌跡、そのすべてが!

 故にこの一剣は、完全無欠にして一撃必殺。

 赤黒い超特大の刃は真紅の獣の腹を事もなく切り捨てた!

 

 

×         ×

 

 

 何も見えない。何も感じない。何も動かせない。そんな遥か深淵の底に意識を沈殿させながら、クー・フリンは自らの身を切り裂く刃の感触を確かに感じ取っていた。

 たとえ五感を封じられようとも、この感覚、解らぬ道理がない。なぜなら、その斬り付けられた箇所は神話の時代において、彼を死に至らしめた場所に他ならないのだから。

 あの刻、クー・フリンの内にあったのは、屈辱と諦観の念だけだった。だが、彼の今の思いはそれとは真逆。莞爾たる思いで感極まっていた。

 なぜなら、クー・フリンに比肩すると謳われ、義兄弟の契りを交し合った盟友にも、クー・フリンの血を継ぎ、武の才を受け継いだ息子にも超えられなかった『魔槍』を超えてきた偉大な戦士に、ついに巡り合ったからだ。

 思い返せば、二度目の戦いが終わったおり、依然神無月宗一郎が生存していると判明した時点で、自分は敗北を受け入れていた。まだ戦いの趨勢を定まったわけでもないというのに。

 神話の時代において一度たりとも敗北しなかったクー・フリンの不敗の象徴。

 その英雄の証たる―――魔槍ゲイ・ボルグを破られた瞬間に、この戦いの勝敗はすでに決していたのかもしれない。

 故に、己の敗北を認めた筈のクー・フリンが三度目の戦いを臨んだのは、神無月宗一郎に復讐戦を挑むためではなく、その心魂を問い質し、見極めることにあった。

 神無月宗一郎が宣言した「答え」は、クー・フリンを完全に満足させるには些か足りないモノであったが、彼はそれでも良しとした。

 少なくとも、己の神力を受け継ぐだろう戦士は、これからも武勇に彩られた人生を何の躊躇もなく走り抜けられる者であると解ったからである。

 逆にもしあの場でクー・フリンの問い掛けを、神無月宗一郎が心にもない虚言で汚したならば、魔槍の英雄は必ずや全力で以って殲滅したであろう。

 なぜなら、クー・フリンはこの手の二枚舌野郎を何よりも嫌悪していたからである。

 だがそうは為らず、クー・フリンは生涯初めての敗北を喫して、今まさに消えようとしている。にも拘わらず、クー・フリンの胸の内は晴れやかな気持ちのままであった。これまで数多の戦場を駆け抜けて常に勝利し続けたクー・フリンである。

 故に戦場における多くの情動を知っている。

 強敵と競い合う高揚。勝者の権利を行使し女を征服する快感。仲間を失う悲哀。愛する者と争い殺し合わなければならない絶望。

 だが唯一、クー・フリンが経験したことのない情動。それが己自身の敗北であった。

 もとより、不死の身である。ならば生涯に一度くらい敗北する屈辱を味わっておくのも悪くない。とはいえ、屈辱感どころか想像していたより心穏やかな状態で最期を迎えられる自分に、むしろクー・フリンは驚いていた。案外自分は思っていた以上に敗北することを切望していたのかもしれない。

 そんな感慨を抱きつつ、クー・フリンは己が現世から完全に消え去るまで、まだしばらくの猶予が残されていることに気が付いた。

 どうやら、勝者に祝福の言葉を贈る程度の時間はあるらしい。そう思い意識を深淵の底から浮上させようとして―――あるなじみ深い気配を感じ取った。

(そういや、まだアイツもいたな)

 クー・フリンは今思い出したように、呑気にそう内心で呟いた。

 

 

               ×          ×

 

 

「はあ、はあ――ぁつ-――」

 宗一郎は地に片膝をついて荒い呼吸を整える。

烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能の変則使用で脳神経に負荷がかかり、激痛で頭が爆発しそうだ。それでも宗一郎は何とか頭を上げて、前を見据える。

 辺り一面はまるで血飛沫でも盛大に噴出したかのように、赤い飛沫が霧のように漂っていた。おそらくは宗一郎の死の一閃を回避するべく赤い巨犬が霧化したのだろう。

 もちろん、神格を直に切り裂く神殺しの刃をその程度で避けられる筈がない……のであるが、やはり神殺しといえど、人の身で神器たる『智慧の剣』を完全に再現するには無理があったらしい。

 宗一郎は≪刃≫の術式を維持できずに、途中で崩壊させてしまったのである。

 それでも、クー・フリンの神格を半ば以上断ち割っている。故に、消滅は時間の問題だ。本物の霧のように揺蕩っている赤い飛沫もいずれ霧散するに違いない。

「……はあ……はあ……はあ……」

 まだ呼吸が整わない。頭痛も治まる気配を見せない。頭だけではない。神の奇跡を模倣するという身に余る大呪法の行使に体中の悲鳴が凄まじい。

 荒れ狂う呪力に体内を掻き乱され、至る所で内出血を起こしている。正直今度こそ本当に眠ってしまいたい。が、すでに死に体とはいえ、クー・フリンはまだ完全に消滅したわけではない。残心を解くわけにはいかない。加えてまだ何があるか分からない。

 いつでも動けるように体も深くならない程度に休めなければ―――そのときである。

 耳朶を震わせる轟音が決闘のあとの静寂を切り裂いた。轟音は南側の方から聴こえてきた。半日前に佐久耶とリリアナが謎の『まつろわぬ神』――クー・フリンの伝承を知ったいまはあの神がカラティンの妖女だということが宗一郎にも解っていた――と戦った方角である。

 そう言えば、佐久耶たちがどのようにしてカラティンの妖女を撃退したのか、まだ聴いていなかった。非常に気になったものの、宗一郎はその疑問を棚に上げて、立ち上がることもせずに、片膝をついて座ったまま、向き直る。

「グー・ブリィィィィン……ッッ!!」

 すると、なんと土砂が吹き飛び、怒号と共に紫の魔女が地中から飛び出してきたではないか!

「やはりこのタイミングで……ッ」

「神無月宗一郎!」

 それを見て取った佐久耶とリリアナも急いで宗一郎の下へ駆け寄ってくる。

 宗一郎は知る由もないが、それは地下迷宮に囚われていたカラティンの妖女が力任せに脱獄を図り、まんまと成功させてみせた威容だった。

 カラティンの妖女は濃紫色のフードを深く被り、面貌を窺うことは出来ないが、宙に浮遊してこちらを凝視していることは間違いない。樹々が消失し平原と繋がったのだから、さぞかし見晴らしはいいだろう。

 故に、宗一郎の間近に漂う赤い霧も、目にすることが出来たに違いない。

 そして、親の仇とクー・フリンに執着し、付け狙うカラティンの妖女が、よもやソレが誰のなれの果てであるの解らない道理がない。

「…………ギ……ギザマ……マザガ……ゾレバ………………ヨ、ヨグモ……ヨグモ、ワダジノ、グー・ブリンヲ殺ジダナァァァッッ…………!!!」

 悲痛に満ちた絶叫が迸る。

 聴く者の魂を凍り付かせるという嘆きの精霊もかくやの哭き声を撒き散らしながら、カラティンの妖女は宗一郎目掛けて殺到してくる。

「くっ」

 まずい。宗一郎の体はまだ動かない。妹たちも急ぎ駆けようとするも、紫の魔女の方が圧倒的に速い。

 ……これは一撃喰らうしかない、と宗一郎は覚悟を決める。

 何とか一撃耐え凌げば、佐久耶とリリアナの援護も間に合うだろうと期待して。一日前なら思い到りもしなかっただろう自分の考えに驚きつつ、宗一郎は敵の攻撃に備えるため体内の呪力を高める。

その直後―――

 

 

「―――オイ、いつオレがテメエのモンになったよ? 気持ちの悪りぃコト言ってんじゃねえぞ、婆さん……!!」

 

 

 怒号と共に真紅の閃光が迸る。

 その正体は禍々しく輝く赤い槍。ソレが宗一郎の脇を雷電の如く駆け抜けて、すでに若き神殺しの目前にまで迫っていたカラティンの妖女の胴体を串刺しにした!

「ギ―――?」

 何が起こったのか理解できないのか、カラティンの妖女はさも不思議そうに己の体を眺める。そして、ゆっくりと顔を上げて、自分を射抜いた犯人を茫然と見詰めた。

「…………グー・ブリン……?」

 赤い霧が立ち込めていた筈のその場所には、もはや霧はなく、ただその代わりに赤い人影がひとり佇んでいた。

 魔槍の英雄クー・フリン。見間違える筈などあり得ない。それは彼女が追い求め続けた仇敵の姿に他らなかった。

「ヨ、ヨガッダ……生ギデイダノガ……ゾウダ、オマエヲ殺ズノバ……ワダジナノダガラ……」

 口と腹から滝のように血を噴出させながら、カラティンの妖女は嬉しそうに囁く。

「―――眠れ、婆さん」

 その言葉が言霊となって真紅の槍に向かって放たれる。

 突き穿てば三十の棘となって破裂する―――かつて不敗を誇った英雄の持つ魔槍の能力が再度この場にて再現された。

 カラティンの妖女の全身から鮮血が噴き出す。三十に及ぶ魔の棘が紫の魔女の体を内側から喰い破ったのだ。

 あれ程まで執着し、追い続けたクー・フリンについに指一本たりとも触れることも叶わず、カラティンの妖女は静かに消滅した。

 宗一郎に駆け寄ろうと走っていた佐久耶とリリアナが足を止めて唖然とその光景を声もなく見入っていた。

 彼女たちは自らが戦ったカラティンの妖女の強大さを誰よりも識っていた。故に一刺だけであっさりとカラティンの妖女が斃されるのが信じられない。

 まさに鎧袖一色。佐久耶とリリアナは改めて先程まで対峙していた『まつろわぬ神』の絶大な力にただただ戦慄するしか他にない。

 対して、宗一郎はそれこそ視線で人を呪い殺せるほど強くクー・フリンを睨み据える。

「……何故ですか、クー・フリン!? どうして僕を助けるような真似を……!」

 あらためて見れば、クー・フリンは瀕死だ。いや、半ば以上死んでいる。

 体のあちこちから現界が解れ、赤い輝きを発していまにも消えようとしている。おそらくは、最後の力を振り絞り、実体化し、魔槍を放ったのだろう。

 ならば、どうして相討ちを狙わず、宗一郎を助けたのか? いま命を狙われたなら、宗一郎は一溜りもなかっただろうに……

 つまり、自分は情けをかけられたのだ。

 何たる屈辱か! 宗一郎は敵に対する憎悪と己に対する憤怒で全身を戦慄かせた。

「―――ハ。詰まんねえコト聴いてくるんじゃねえよ。貴様はオレを下した初めての神殺しなんだぞ。だからこそ、こんなところで下らない死に方をして欲しくなかっただけのコト。テメエの都合なんざハナっから知ったことかよ」

 そう嘯いてクー・フリンは宗一郎を見下ろし嗤う。

 なんだこの構図は? 宗一郎は現在の状況に強い違和感を覚えた。

 どうして、勝者である自分が跪き、敗者を見上げて、敗者であるクー・フリンが、立って勝者である宗一郎を見下ろしているのか? 普通は逆のはずではないのか? 

 本来勝者が悠然と立ち上がり、屈辱に身を震わしながら跪く敗者を見下ろすのだ。故にその逆など断じてあってはならない!

(ふざけるな、勝ったのは僕だ!)

クー・フリンに対しての激しい敵対心が宗一郎の体に僅かばかりの活力を蘇らせる。

 宗一郎は両脚に力を込めて起き上がる。すると、足の筋肉やら血管やらが、ぶちぶちと異音を発する。血塊が喉元へ迫上がり、強引に飲み下す。

 それでも構わず宗一郎は何とか立ち上がると、クー・フリンに憤怒の視線を向ける。

「ク―――自分が殺したと思っていた死に損ないに命を救われるのは、さぞ悔しかろう。なら、同じ屈辱を味わいたくなければ、オレの力を喰らい、強敵たちと覇を競い合うことで戦士として更なる高みへと昇るがいい! そして、久遠の果てにて、もう一度やり合うとしようぜ、神無月宗一郎!」

 クー・フリンは宗一郎の返事を聴くこともなく、赤い粒子と化して消滅した。

 直後、宗一郎の背中にずしりと重みが加わる。新たな権能を獲得したようだ。その重さを確かに噛み締めつつ、宗一郎は天に向かって宣誓する。

「―――いいでしょう、クー・フリン。必ずやもう一度戦いましょう。そして、今度こそあなたを完膚なきまでに討ち果たして見せます!」

 神無月宗一郎はクー・フリンとの四度目の再戦の誓いを受諾した。

 

 

               ×          ×

 

 

「一時はどうなることかと思いましたけれど、八人目の方はどうやら無事に新たな神殺しを成し遂げられたようですね。……それにしても、アレクサンドル、あなたは相変わらずデリカシーに欠ける人ですね。そんなのだから、女性の扱いが今も下手くそなままなのですよ」

 小山の頂上で決闘の一部始終を観戦していたプリンセス・アリスは、そう言って相席の男―――アレクサンドル・ガスコインを冷たくなじった。

「やかましい、余計なお世話だ!」

 おそらくアリスの非難は、良い感じにクー・フリンと八人目の決闘が終わりかけていたところで、迷宮の権能で虜囚にしてあった筈のカラティンの妖女が、突如解き放たれてしまったことで、決闘をぶち壊しに仕掛けたことを言いたいのだろう。

「それにアレは俺がやったわけではない! あの魔女が勝手に出ていっただけだ!」

 無理やり虜囚にしておきながら、無茶苦茶な言い草であったが、アレクの言葉に偽りはない。

 流石は魔術を司る神というべきか、しかも僅か半日足らずで迷宮の権能を突破してしまうなどとは、アレクを以ってしても見切れなかった。

これもあの魔女の狂気の為せる業であろう。

「あなたが女の情念や妄執を読み切れずに、トラブル尽くしで計画が頓挫することは珍しくないですけれど、その逆はなかったはずです……」

 アリスは疑わしげにアレクを見やる。

 アレクの心臓が一鼓動余計に跳ねる。が、努めて平静を装う。こういう時は自分の出鱈目な体が心底ありがたい。如何に白き巫女姫であったとしても、カンピオーネの精神までは、見通すことが出来ないのだから

 実のところ、アレクは当初の戦略に一部修正を加えていた。

 もし八人目が勝利したなら、カラティンの妖女を解き放たずに、そのまま可能な限り封印してしまうつもりであったのである。アレクとてたまには空気を読むこともあるのだ。結局その目論見は偶然(、、)頓挫してしまったわけだが。

 しばらくアレクから真実を引き出そうと、躍起になっていたアリスであったが、それが無駄であると悟ると、しぶしぶ諦めた。

 ほっと安堵する黒王子。これ以上、この姫に冗談のネタを提供するのは御免である。魔女のネットワークを通じて、どこまで流れていくか想像もつかないのだから。

「それでアレクサンドル、あなたはこの後どうするおつもりですか? わたしは八人目の方にご挨拶させて頂く所存ですが……」

「フン、決まっているだろう。このまま帰らせてもらう」

 過去の経験則から文明人である自分と、それ以外の野蛮人でしかない連中と顔合わせしたところで、厄介事しか生まないのは解りきっている。

「まあ、あなたならそうおっしゃるでしょうね。では、ご機嫌よう、アレクサンドル」

 優雅に微笑み、プリンセス・アリスは虚空に溶けるように消えた。言葉通り八人目のところに幽体で向かったのだろう。

 それを見届けたアレクも雷電と化してこの場から消えた。

 ―――かくして、神無月宗一郎とクー・フリンを中心にして巻き起こった一連の闘争は、こうして終わりを迎えたのである。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終   獣たちの謝肉祭

 六月下旬、日本―――

 梅雨前線の影響で、とかく天候不順に頭を悩まされる季節であるものの、それでも今夜の東京の天気は異常に過ぎた。

 いま東京都港区は天気予報には一切報道されることがなかった、おそらくは観測史上類を見ない記録的な規模の雷雨に見舞われていた。

 大都市故に交通の流動性を円滑に図る目的で敷設された東京タワー近辺の四車線の道路は、いまや暴風雨のせいでその用途を果たされることなく無人の状態で放置されている。

 ―――否、無人では、ない。

「ハハハハハッ、捜せ、狩り出せ! 今宵はいい夜だ! 我が猟犬どもよ、私の獲物を見つけ出してこい!」

 黒い外套を羽織った銀髪の老人が、哄笑を上げながら、貴人がレッドカーペッドの上を歩むが如く、無人の道路を誰憚ることなく堂々と闊歩していた。

 サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。

 かつて侯爵の地位と領土まで所有していたこの老人を、貴人と称しても何ら不足はあるまい。だが、ヴォバン侯爵という人間の本質を的確に表現するなら、貴人という言葉では不足すぎるであろう。

 なぜならば、かの老人は神を殺してその権能を簒奪した魔王であるが故に。

 ヴォバン侯爵は久方ぶりの狩りの昂奮に魂から吼え猛っていた。

 闘士の中の闘士。王者の中の王者。

 三百年の長きに亘って繰り広げられてきた数多の戦いを、常に勝利で飾り立ててきた真の覇王たるヴォバン侯爵の存在は、『まつろわぬ神』すら畏怖の対象になり得るのか、老王はここ何年も闘争の場から遠ざけられてきた。

 だがしかし―――今宵は違う。

 久しぶりに相まみえる敵の存在に、ヴォバン侯爵は胸が躍り、血が滾っていた。されど、老王は理解していた。この昂奮も泡沫の夢の如く瞬く間に消えてしまうことを。

 ヴォバン侯爵が長く狩りの時間を愉しむには、獲物があまりに弱すぎるからだ。無論、古き王が獲物と見定めた相手である。凡俗であろう筈がない。

 王である。ヴォバン侯爵の同族たる魔王である。

 だが同じ階層に属しながらも、決して同格の存在ではありえない。在位三百年の老王と生まれたての若王との間にはそれだけの力量の差があるのだから。

 とはいえ、僅かな間でも、老王の無聊の慰めとなる程度の器量は有しているのは間違いない。

 そういえば、とヴォバン侯爵はふと思った。獲物の名前は何と言ったか。

 ……確か、草薙護堂だったか。

 まだ一柱の神しか屠っていないにも拘らず、奇妙なことに幾つもの能力を掌握していることは、先の戦いで確認した。そして、まだ切り札を隠し持っているであろうこともヴォバン侯爵は確信していた。

 なぜならば、先の戦いでの獲物の逃亡は、生命を生き長らえさせるためだけの無策の敗走ではなく、次の戦いに向けて勝利を掴み取るための戦略的撤退であっただろうことを、戦に古りている王は見抜いていた。

(この私を相手に勝利だと! 片腹痛いわ、小僧!)

 いまだ姿を見せない敵を嘲笑しながら、獲物が次に何を見せてくれるのか、ヴォバン侯爵は愉しみで仕方がなかった。

 だが、直ぐに思い知ることになるであろう。若王がどれ程足掻いたところで、老王には決して届かないという現実を!

 そのとき、獲物が浮かべるだろう絶望の表情は、おそらくはどんな美酒、美食を口に入れたところで味わえない悦楽を、自分に与えてくれるに違いない。

 それを想像して、老王の魂の飢えが一層強まった。

 すると、今までさして気にならなかった猟犬どもがまだ獲物を探し当てていないという事実に、ヴォバン侯爵は不満げに鼻を鳴らす。

 暴風雨のせいで臭いが嗅ぎ取りにくいことを差し引いても時間が掛かり過ぎている。むしろ不甲斐ない飼い犬を責めるよりも、ここは獲物の逃げ足の速さを称賛するべきか。    

 最高の狩人を自認するヴォバン侯爵としては、追跡術により効率化を図ることで獲物を追い詰めねばなるまい。故に老王は猟犬に加えて、死人を捜索に駆り出そうとした、そのとき―――

 

 

「あなたが婦女子を拐かし、弄ぶという先達の方ですね? まったくお歳を召されたご老人とは思えない悪趣味さですね!」

 

 

 唐突に背後(、、)から聴こえてくる声とともに、ヴォバン侯爵の背に数年ぶりに感じる死を孕んだ戦慄が駆け抜ける!

 ヴォバン侯爵は躊躇うことなく、太陽神アポロンより簒奪した『狼』の神力を解き放つ。老体を二メートル程の銀色の体毛の人狼の姿に変身させ、前方に大きく跳躍した。

 直後―――雨粒を弾き飛ばし、暴風を両断せんとする豪快な風切り音がヴォバン侯爵の耳に届く。

 聞き覚えのある音だ。ヴォバン侯爵自身直接振るう事こそないものの、戦場では慣れ親しんだ音。刃風だ。何者かが自分の背後に忍び寄り、斬りかかってきたのだ。それも獣並に五感が鋭いヴォバン侯爵に直前まで気配を気づかれもせずに!

 獣化したヴォバン侯爵は、文字通り獣の如き俊敏な身体能力で以って、一気に十メートルの距離を跳躍し、すぐさま変身を解き、元の老人の姿に戻る。

 そして、緑柱石(エメラルド)の瞳を憤怒の色に染め上げ、敵を睨み据える。

「貴様、何者だ! この狼藉、私がヴォバンと知っていての所業か!」

 ヴォバン侯爵の大喝が嵐に荒れる夜気を切り裂くように響き渡る。

 騎士の最高位たる聖騎士さえをも震わせる老王の烈気。それをただ一人で浴びた襲撃者―――純白の戦装束に身を固めた黒髪の少年は、だが、何ら怖じる様子もなく涼しげに微笑むだけ。

 手には数々の武具を目にしたことのあるヴォバン侯爵ですら、見慣れない優美に反り返った美しい長剣を携えている。

「さて―――生憎と僕はあなたのお名前は知りません。ただ友人に招かれて来させて頂いたまでの事。何でも今宵、古き王が主催する宴があるとか。よかったらぜひ僕も参加させてもらえませんか」

 にこやかにそう告げて、少年は長剣をヴォバン侯爵に向けて構える。

 剣士正調―――正眼の構え。

「……」

 事此処に至って、ヴォバン侯爵は思い出す。この国には草薙護堂以外に、もうひとりの神殺しがいたことを。

 魔王には同族に会ったとしても一目でそうと解るような直観力は備わっていない。が、世界広しとはいえ、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンの怒気に晒されて平然とできる存在は、地上において『神』と『王』のみである。

 前者はあり得ない以上、後は消去法で後者の同族ということになる!

「ハハハハハッ―――成る程な! 貴様も闘争の気配を嗅ぎ付けてきたというわけか。剣を手にして私の狩場に乱入してきた痴れ者は、貴様で二人目だ! だがサルバトーレめと違い、どうやら貴様は私の獲物を奪い取りに来たわけはないようだな? むしろ、わざわざ私の獲物になりに来た……そうであろう、小僧!」

 ヴォバン侯爵は獰猛に笑う。これでようやく飢えを満たされるのだと知って、歓喜に総身を打ち震わせる。

「私の名はサーシャ・デヤンスタール・ヴォバンだ。小僧、名を名乗るがいい!」

「僕の名は神無月宗一郎。一身上の都合により、あなたに刃を向けさせていただきます」

 最も若き王は、そう言って最も古き王に挑戦状を叩き付けた。

「―――許す。来るがいい!」

 その言葉を皮切りに、神無月宗一郎は疾走を始め、ヴォバン侯爵は己の権能を解き放つ。

 東京タワー前にて本来の形(やくしゃ)を変えて、二人の魔王が激突する!

 

 

              ×         ×

 

 

「いやーお二方とも、もうノリノリですね。本当に楽しそうだ」

「ホントにね。ヴォバン侯爵も、随分お歳を召した方の筈なのに、若い方にまったく劣らずにはしゃいでおられるわね」

 ビルの物陰に隠れ潜み、カンピオーネ同士の激闘を観戦している同席者たち――正史編纂委員会のエージェント甘粕冬馬と《赤銅黒十字》所属の魔術師エリカ・ブランデッリ――の暢気な感想を尻目に、そのカンピオーネの友人(、、)リリアナ・クラニチャールは頭を抱えていた。

 こんな筈ではなかったのだ。リリアナはただ老王の暴虐からひとりの罪無き少女を守りたかっただけだった。だと言うのに、どうしてこうなってしまったのか。

 リリアナが本拠地であるイタリアを離れて、ここ日本に来訪したのは、祖父にヴォバン侯爵に随行するように命じられたからである。

 かの老王の目的は、神を招来する儀式をもう一度試みるべく、ひとりの優秀な巫女を獲得するためであった。いや、誘拐、略奪と言った方が正解か。ヴォバン侯爵には相手の意思を尊重する気など微塵もなかったのだから。

 リリアナは持ち前の正義感から、そんな暴挙を黙って見過ごすことなど誇りが許さなかった。しかし、相手は在位三百年の大魔王である。騎士が真っ向から歯向かえる相手ではなかった。

 かくしてリリアナは半月以上前に結んだ縁を活用することになった。

 魔王と戦えるのは、宿敵たる『神』か、同族たる『王』以外にあり得ない。それが神無月宗一郎であった。

 だがまさか、その救おうとした少女がこの国いるもう一人のカンピオーネと親しい間柄であり、またその彼が少女を救おうと立ち上がるほど義侠心に厚い人物であるなどとは、完全に想定外であった。

 リリアナの「好意」は結果的に三人のカンピオーネを一同に介するかもしれないという恐るべき「機会」を与える羽目になった。

 いや、まだだ、とリリアナは自分を慰める。まだ草薙護堂が揃っていない。

 草薙護堂がこの場に駆けつけてくる前に、あの二人がどういう形であれ、決着を付けてくれることを祈るしかない。

 そうすれば、カンピオーネ対カンピオーネ対カンピオーネ―――などという恐ろし過ぎる展開になることはないのだから! ここで老王ひとり対若王ふたりという展開を欠片も思い浮かばない当たり、騎士もカンピオーネという存在がどういうものであるか、不幸にも知ってしまていた。

「それにしてもやってくれたわね、リリィ。こういう展開は流石のわたしも想定外だったわ。お蔭で護堂を喚べなくなってしまったじゃない」

 エリカがそう言って鋭く睨んでくる。

 流石は腐れ縁。八人目のカンピオーネの乱入の裏にリリアナが糸を引いていることを瞬時に察したらしい。

「草薙さんを喚ばれるというと、例の『風』の権能ですかね?」

 とそこに甘粕がまるで天気予報を聴くかのような暢気な口調で訊ねてくる。だがその真意は草薙護堂の有する権能を一つでも多く、そして完全に把握することにあるのだろう。

 リリアナですら気付いたことを雌狐たるエリカに見抜けない道理がない。にも拘らず、エリカは、

「ええ、そうよ。王の知己が命の危険を迎えたときのみ発動する飛翔の権能。瞬間移動の能力よ」

 そう、あっさりと言ってのけるのだった。ただし視線は甘粕に向けて悠然と見据える。まるでそのくらいあなたも知っているでしょう、と言わんばかりの態度である。対して甘粕もいやー、どうでしたかね、と曖昧な笑顔をつくって逃げる。

 とはいえ、エリカも本気で甘粕にその件の事を追及するつもりはなかったのか、ふいに視線を戦場へと向ける。

「でも困ったわね。流石のわたしもあのお二方の決闘の場に乗り込んでも、危機を感じる前に殺されかねないでしょうし。どうしたものかしらね……」

 溜息まじりにそんな言葉を漏らすエリカ。

「ちょ、ちょっと待て、エリカ! 先程から聴いていれば、あなたは草薙護堂をここに一瞬でお呼び立てする手段があったようだが、まだ諦めていないのか!?」

 リリアナは気色ばんだ様子でエリカに詰め寄る。

「ええ、もちろんよ。これほどの大イベントを目にしながら、護堂をのけ者にしようものなら、後でわたしが主からオシオキを受けてしまうわ」

 そう言って、エリカは嫣然と微笑んだ。

 想像力旺盛な青い騎士は「オシオキ」の部分を妄想してしまい、頬を赤らめるも、

「あ、あなたたちが普段からどんな如何わしい行為に耽っているかは知らないが、あなたの王は好色には見えても、好戦的には見えなかったぞ!?」

 そう言って反論する。

「あら、そんなのは見掛けだけよ。本当は戦いたくて仕方がないのよ。何と言ったところで、カンピオーネなんですからね!」

 エリカの説明になるほど、とあっさり納得してしまうリリアナ。しかし、この騎士たちの会話を護堂が聴いていたなら、「そんな話は出鱈目だ! 信じるなよ、リリアナさん!」とくらいは叫んだだろうが。

 それは兎も角、やはり草薙護堂がこちらに合流するには、まだしばらく時間が掛かるらしいと解ってほっと安堵するリリアナ。

 だが―――

 

 

「ふふっ。では、エリカさま。あなたさまが危機をお感じになられたのなら、草薙さまは今すぐにここに駆けつけてこられるのですね? それはいいお話を聴かせて頂きました」

 

 

 運命はそう容易く騎士を楽になどさせてはくれない。

 可憐な声と共にリリアナたちの背後から呪力が吹き荒れ、そこから一体の巨大なモノが顕れ出でる。

 背後を振り向いたエリカの目に映ったのは、

「な、なに、今の声! それにこの()は、まさかヴォバン侯爵の権能っ!?」

 全長十メートルあまりの巨大な黒い獣だった。

 リリアナには直ぐにソレが『狼』ではなく、『狗』だと解ったが、現在進行形で仕える主君が狼王と敵対関係にある赤い騎士にそれを察しろというには無理があり過ぎた。

「くっ……。八人目の方と正面から戦いながら、わたしたち如きにこんな余力を割いてくるなんて、流石はヴォバン侯爵ね!」

 慄きながらも、エリカは目を逸らすことなく勇ましく黒い獣を睨み据える。

 その顔に確かな覚悟を見て取ったリリアナは、嫌な予感がして、反射的に止めようとした。だが、間に合わない!

 

 

「草薙護堂! 御身の騎士が呼び招きます。今こそ来たれり、王の責務を果たしたまえ!」

 

 

 吹き荒れる風に載せ、若き王を呼び招く言霊が紡がれる。

 次の瞬間、まるで赤き乙女の祈りに応えるかのように、光り輝く風が渦を巻く。激烈に迸る呪力の密度に、騎士と忍者が揃って瞠目した直後―――風の渦の中心に、草薙護堂と巫女装束の万里谷裕理が忽然と顕れた。

「―――エリカ、大丈夫なのか……って、何だコイツは!? これもじいさんの権能か!」

 眼前の黒い獣を見て驚く護堂。対して隣に佇む裕理は、

「いいえ、違います。おろらくは狼ではなく狗。侯爵とは何の関係もないものと思われます」

 ときっぱりと言うのだった。「えっ」と驚く主従たちを他所に、

「ああ、その通りだ。―――神無月佐久耶、姿を見せろ! 如何にあなたといえど、王の御前にてそのように振る舞うなど無礼であろう!」

 リリアナだけは、苦々しくそう口にした。

 その言葉と同時に黒い獣はまるで幻であったかのように黒い霞となって消え失せ、変わりにひとりの巫女装束の少女がふっと現れた。

「確かにリリアナさまの仰る通り、些か無礼が過ぎたようです。草薙護堂さま、お初にお目にかかります。わたくしの名前は神無月佐久耶と申します。御身と御身の騎士さまに働いたご無礼、深く謝罪いたします」

 そう言って、巫女は深々と頭を下げた。

 神無月という言葉に驚きを露わにする甘粕と裕理。エリカも何か思い到ることでもあるのか、目を細めて佐久耶を警戒する。そして草薙護堂はというと、

「あれ、神無月……? ってその名前、何処かで聞いたことがあるような……」

 何かを思い出そうとするかのように、しきりに首をひねっていた。

「馬鹿ね、護堂! 半月前に正史編纂委員会から聴かされた八人目のカンピオーネの家名でしょう」

 すかさずエリカが助け舟を出す。

「ああ! そうだった、確かそんな名前だった。道理で聞き覚えがあるはずだよな……ってまさか、君が八人目のカンピオーネなのか!?」

 とてもそうは見えない、とマジマジと佐久耶を見やる護堂。

「いいえ、まさか。羅刹の君は、あそこで戦っております、わたくしの兄です」

 そう言って佐久耶は腕を上げて、ある方向を指し示す。つられて視線を向ける護堂。

 それはビルとビルの隙間。その奥から繰り広げられている光景は、そろそろ怪事件に見慣れてきた感のある護堂でも息を呑むほど常軌を逸していた。

 襲い掛かる灰色狼と死人の群からなる魁偉なる軍勢たちを前に、ただひとりで真っ向から挑む白装束の少年。

 まさに一騎当千。一振りの長刀が薙ぎ払われるたび、灰色狼の頭はかち割られ、屍は闇に沈み、死人の体は両断されて、灰になって消え失せる。

 怒涛の如く殺到してくる魔王の軍勢を、見も知らぬ少年は刀一本で完全に捌いていた。

 護堂の見る限り、欧州でも若手最高の魔術師であるエリカでも、アレと同じことをすることなど叶うまい。出来るとすればイタリアの剣術馬鹿くらいだろう。

 だとすれば、彼が八人目のカンピオーネなのだろう。なるほど、『剣の王』に劣らない非常識な人間らしい。やはりカンピオーネに常識を期待する方が間違っているのだろう、とうんざりする護堂。

 護堂は日本に新たなカンピオーネが誕生したと聴いて、厄介なことにならなければいいのだが、と頭を抱えつつも内心では期待していた面もあった。

 護堂が神様関連の厄介事に首を突っ込んでいたのは、護堂自身の正義感も勿論あるが、実際は自分以外に解決できる人材がいないからに他ならなかった。だが今はそうではない。厄介事を分かち合えるはずの同国出身のカンピオーネが誕生したのである。

 「和」の精神を大事にする同じ日本人なら協力し合えるに違いないと少しは信じていた。が、その希望はやはり脆くも崩れ去ったと見るしかない。

 護堂はあらためて戦闘を注視する。

 同郷人の剣士が踏み込むだけで路面が罅割れ、一振り二振りと長刀が振るわれるたび、剣風で路面がさらに抉れ、灰色狼が、死人が肉塊となって吹き飛び、車両用防護柵(ガードレール)に、街路樹にぶち当って粉砕する。

 環境保全を重視する護堂にとってその状況は、到底容認できるものではなかった。見る限り同郷のカンピオーネは周囲に配慮する性質ではないのは一目瞭然だ。しかもこの程度の被害などまだまだ序の口に過ぎない。

 同郷人の剣士はいまだ権能事態行使していないし、そんな彼の奮戦を悠然と笑みを浮かべて見守っているヴォバン侯爵もまだ全力を見せていない。このまま二人の魔王がぶつかり合えば、この辺一帯は焦土と化すかもしれない。

 そんな予想を立てつつ、護堂の胸の内からふつふつと怒りが湧き上がってくる。

(ふざけるな!)

 そんなことが許されていい筈がない。何としても阻止しなければ!

 湧き上がる思いに突き動かされ、護堂は一歩前に出る。

「行くのね、護堂」

 それを見て取ったエリカが声を掛けてくる。

「ああ、勿論だ。あんなふざけたこと、今すぐに止めさせないとな!」

 勇ましく己が騎士に応えると、七人目のカンピオーネは戦場へと躍り出る。

 

 

 これが魔術界の後の世まで語り継がれることになる三人のカンピオーネからなるバトルロイヤルの始まりだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章
序  不幸&幸福


 七月下旬、イタリアのフィレンツェ――

「……ああ、了解した。卿には私から直ぐに伝えておこう」

 そう言ってアンドレア・リベラは通話を切った。沈黙した携帯電話を眺めたまま、彼は深い吐息をついた。

 ふと顔を上げると、そこには熱く煮えたぎる太陽がアンドレアを傲然と見下ろしていた。

 今日も今日とてアンドレアは、まるで世に蔓延る不運を一身に背負ったかのような暗鬱とした面持ちで佇んでいた。

 先の電話相手は女性からの連絡であったものの、艶っぽい話ではぜんぜんない。

「仕事」の話である。むしろよくよく記憶を辿って見ると、ここ四年ほどそういう話から遠退いている気がする。

 それもこれも、すべてあの馬鹿の責任だ! 奴こそがアンドレアの不幸の原因に他ならないのだから。

 アンドレアはイタリアに君臨する『王』に仕える騎士である。

 それも側近中の側近。その役職を古風な言い回しで例えるなら、イタリア魔術界の宰相というべきか。もっともイタリアの魔術師たちからは、なぜか“王の執事”などと呼ばれているが……

 ともあれ、ある意味イタリア魔術界のナンバーツウと言っても問題ないアンドレアだったが、今の自分の地位を羨む人間はいないだろう、と確信していた。

 それこそ全財産あるいは生命を賭けてもいいぐらいに揺るぎなく確信している。

 そもそもアンドレア自身今のポジションに望んで就いたわけではなかった。当然だ。こんな面倒だけの役職など誰が進んで就きたがるものか! 

 それもこれも今から四年前――「やあアンドレア、久しぶりだね! ところで頼みたいことがあるんだけど、いいかなあ」などと言う能天気な声を聞いてしまったのが災難の始まりだった。

 それからイタリアの魔術師たちから乞われるまま――正確には奴の師匠の命令に等しかった――なし崩し的に今の地位を押し付けられてしまった。

 だがそれでもアンドレアは、それがイタリアの魔術界のためになればと、そう信じればこそ、今日まで真摯に職務に励んできたのである。

 アンドレアの仕事は第一に、あの馬鹿、いや『主』の動向を把握することにある。それは、奴のイギリスの同族ほど重症ではないが、彼の『主』にも放浪癖があるからだ。

 権能で文字通り神出鬼没なイギリスの王と違い、奴は初級の魔術も碌に扱えない落ちこぼれの騎士に過ぎない。『王』に成りあがった今でもそれは変わらない。

 だからこそ、当初、監視は容易いものと考えていた。なのに、あの馬鹿は動物的な感覚で監視されている状況を察知するや否や、尾行者を煙のように巻いてしまう。

 ならば、魔術による監視に切り替えたが、これまた権能で魔術を斬ってしまう始末で、意外なことにあの馬鹿は、監視が困難な相手であった。

 なのに、手を変え品を変えて『主』の監視を図っているのは、奴が引き起こすトラブルを必要最低限に抑えるために他ならない。

 無論、未然に防止できることが出来れば最善だ。とはいえ、そうそう、うまく事が運んだためしは今のところ皆無である。

 そして、もう一つの仕事はアンドレアを経由して入ってくる、とある「仕事」を『主』へと仲介することであった。

 先の電話相手もその仕事の依頼者だった。どうやらまた厄介事が起こったらしい。まぁ今に始まった話ではないが。

 溜息を吐きつつ、アンドレアは携帯電話を懐に仕舞い込み、背後にある居酒屋(オステリア)の扉を開いた。電話を取るために一端外に出ていたのだ。

 陽気で大らかなイタリア人男が多い中、アンドレアは珍しく生真面目なタイプで、当然、夜中にもなってもいない時刻で積極的に酒を飲む習慣はない。が、アンドレアの『主』は典型的なラテンの血が入っているため渋々入るしかない。

 店内は無人だ。どんな店でも経営陣がイタリア系魔術結社と繋がっている場合、アンドレアの『主』が来店してきた時点で貸し切りになるのは、ここイタリアでは慣例だった。

 アンドレアはカウンターで独り赤ワインをがぶ飲みしている金髪の青年に歩み寄り、

「おい、馬鹿――ではなく、サルバトーレ卿。『仕事』の依頼が来ております」

 自らの『主』――サルバトーレ・ドニに向かってそう恭しく語りかけた。

「へえー、僕に依頼ってことは当然神さま関連ってことだよね? 最近凄く暇だったから、久しぶりに愉しめるかな」

 葡萄酒を飲み干した杯をカウンターに置きながら、“剣の王”はその瞳に剣呑な光を灯す。

 やはり今日もアンドレアは不幸である。

 

 

 その半日後、イタリアのサルデーニャ島――

「ちょ、ちょっと、待って下さいよ……っ!」

 草薙護堂がそう叫んだときには、既にとき遅く電話相手は通話を終えた後だった。

 プーと無機質な電子音が護堂の鼓膜を無駄に震わす。沈黙した携帯電話を眺めたまま、彼は深い吐息をついた。

 ふと顔を上げると、そこには冷え冷えと凍てついた月が護堂を冷然と見下ろしていた。今日も今日とて護堂は、まるで世に蔓延る不運を一身に背負ったかのような暗鬱とした面持ちで佇んでいた。

 先の電話相手は、護堂の困窮した現在の状況を改善してくれるはずの唯一の知人だったのだが、残念ながら断られてしまった。

 それもこれも、今護堂が宿泊している貸別荘にいる麗しくも恐ろしい女どもの責任だ!

 いま護堂はこの南国の島に三人の少女と一人の女性とともに夏休みの長期休暇を利用して、貸別荘を借りて過ごしていた。

 まあ、ここにきた理由は色々あるのだが、主な理由としては、ここサルデーニャ島に住む祖父の知人である女性に招かれたためであった。

 とはいえ、この話だけでは、まるで護堂が南欧の島国でいずれも見目麗しい四人の女性たちとひと夏のアバンチュールを愉しんでいるのだと勘違いするかもしれない。

 だが、違うのである。そんな生易しい話ではないのである、と護堂は確信している。

 それはこの四日間というもの、護堂はたび重なる女たちの「攻撃」にひとり健気に耐え抜いてきたからである。

 金髪の外国人美少女の強引過ぎる誘惑の数々に。その彼女の従者である日系年上少女の名状し難い手料理の数々に。純和風美少女の冷厳とした諌める言葉の数々に。グラマラスな肢体を誇る年齢不詳の美女の無軌道に周囲を煽る行動の数々に……

 世の男たち――特に護堂と同じ年代の少年たちなら、今の護堂を見て「一体オマエの何処が不幸なんだよ! このリア充爆発しろぉぉッ!!」と血の叫びを発しただろう。

 しかし、違うのである。

 所詮、幸福、不幸と言われる事象は、往々にして相対的なものである。

 これと言った絶対的な数値を持つことはない。個々人の感覚的な判断、満足度の充実の度合いによって決定されるものに過ぎないのである。

 一生使いきれない程の金銀財宝を所有し、毎日を享楽的に生きていながら、自分は不幸だと嘆く者もいるだろう。また、経済的に困窮して明日をも知れない毎日を送りながら、自分は幸福だと断言する者もいるに違いない。

 それと同様に、四人の美女美少女に囲まれて過ごしながら、護堂は間違いなく自分が「不幸」な人間だと確信していた。

 だがそれも、もう限界だった。護堂はこのまま不幸であり続けるつもりなど毛頭ない。

 今宵、草薙護堂は旅に出る。

 避難場所を提供してもらおうと、藁にもすがる思いで電話をかけた相手からは、素気無く断られてしまったが構うものか。このまま野宿してもいい。重要なのは女どもから離れて英気を養うことである。

 その想いをあらたに護堂は、携帯電話を懐に仕舞い込み、夜の道へと意気揚々と踊り出す。

 もう一度顔を上げると、天上に輝く銀色の半月が、心なしか今度は自分を優しく包み込んでくれているような気がした。

 ――だが、やはりそれは護堂の勘違いでしかなかったらしい。

 護堂は少し前から危険な予兆を感じ取っていた。

 背筋に緊張が走り、体と四肢に活力が漲ってくる。神殺しの魔王が仇敵である神々と接近した時のみに起こる体内の変化。

 そして、サルデーニャ島の夜の海辺にて草薙護堂は、とある女神と対峙していた。

 まつろわぬアテナ。

 かつて護堂が東京で戦い、辛くも勝利を収めた戦女神。

「ひさしぶりだな、草薙護堂よ。あなたとの再会に、妾の心も些か昂ぶっておる」

 かの幼くとも美しい女神が傲然と口を開いた。

 やはり今日も護堂は不幸である。

 

 

 同時刻、日本――

「……」

 都心の喧騒も遥かに遠い、山奥の人口湖。その湖畔にある地元民が決して足を踏み入れない、広大な森林の奥に居を構える純日本邸宅の壮麗な屋敷。

 その一角にある道場にて神無月宗一郎は無言で携帯電話を弄っていた。

 リリアナさまと連絡を取り合ったらいかがでしょうか。ちなみに、リリアナさまの連絡先は既に入力済みです――などと、妹が妖しく微笑みながら強引に押し付けてきた、使い方が全く解らない電子機器。

 結局、一度も使用することがないまま、少し前に何故か光るのを止めて、それ以降うんともすんとも言わなくなった。

 沈黙した携帯電話を眺めたまま、彼は深い吐息をついた。

 ふと顔を上げると、そこには……いつもの見慣れた道場の天井だった。心なしか汚れが目立つ気がするものの、今はとても雑巾を手にする心持ちにはなれなかった。

 今日も今日とて宗一郎は、まるで世に蔓延る不運を一身に背負ったかのような暗鬱とした面持ちで佇んでいた。

 それもこれも、二ヶ月以上もの永い間、『まつろわぬ神』と戦っていないせいである。

 どうして世界は、かくも理不尽な所業を自分に科すのか、彼には皆目見当もつかなかった。毎日毎日、神を狩るために厳しい修行を勤勉に励んでいるというのに。にも拘らず、さっぱりご褒美ひとつ渡して来ない天の責任だ!

 一月ほど前の今頃は、こんな惨めな思いをすることはなかった。

 『まつろわぬ神』と死合ったわけではない。が、それに匹敵する者たちと激闘を演じていたのだ。

 とある戦神から啓示を受けて以来、初めて己の同族と戦う機会が巡ってくるや否や、宗一郎は躊躇うことなく挑みにかかった。

 結果は三者三様、痛み分けで終始し完全な決着こそつかなかったが、彼はそれでもまったく構わなかった。一時とはいえ、無聊を慰められたのだから。

 しかし、『まつろわぬ神』と戦うときほどの充足感を得ることは、ついに叶わなかった。どうやら自分は生粋の神殺しであるらしい。そんな自分自身を、宗一郎は誇りに思っていた。

 同族との戦いは、確かに悪くはなかった。が、宗一郎にとって主菜にはなり得ない。せいぜい前菜かデザートといったところ。暇があれば相手をしてやろう、という認識に過ぎない。

 とはいえ、只今絶賛暇している宗一郎であるが、同族に殴り込みに行く気持ちは沸いて来ない。今はただ神と戦いたいと言う一念しかない。

 鬱屈とした気持ちを静めて、宗一郎は携帯電話を床に置き、道場の壁に立て掛けてある木刀を手に執る。

 道場の中央まで移動して、長木刀を上段に構え、鋭い呼気と共に打ち下ろす。――二振り、三振りと続けて静寂に満ちた空間に、大気を切り裂く斬音が響く。その調べが耳朶を打つ度に、宗一郎の心は洗われ、五感は研ぎ澄まされていく。

 剣を奔らせるのは、やはり心地良い。宗一郎は自らを剣士であると任じている。とはいえ、別段、剣ばかりに拘っているわけではない。

 生まれ落ちた瞬間より、神を殺すことを義務付けられてきた宗一郎の事である。

 武芸百般はもちろんのこと、呪術にも通暁している。その中でもとりわけ剣を恃みにしているに過ぎず、決して純正の剣士というわけではない。

 状況次第によっては剣を捨てて、徒手空拳で応じる上に、手足を使えぬとあらば、歯牙だけで敵の首を噛み切ることも辞さない。

 妖しき超権を信用するよりも、彼は己が肉体を徹底的に活用する。それが最も若き神殺しのスタイルだった。

「ふっ――」

 再び上段から打ち下ろす。そして戻して、もう一度――身体はその単純作業を一心不乱に打ち込みつつも、同時に精神は別の場所に飛んでいた。

 純正の剣士。その言葉に引っかかるものを覚えた。そういえばと、ふと宗一郎は以前に妹が言っていたことを思い浮かべる。

 自分の同族に、ひと振りの剣のみで神を屠ったが故に“剣の王”と異名をとる凄腕の剣士が外の国にいるとか。

 あいにく名前は記憶していないが、妹の話では自分のように呪術に手を染めることなく、純粋な剣腕のみで神を殺めるに至ったとか……

 その話が真実なら、まさに純正の剣士の理想形。真に無謬なる剣士だろう。なるほど“剣の王”を名乗るに相応しい人物に違いない。

 少なくとも自分のような「雑ざりもの」にその名を戴く資格はあるまい。

 果たして、その剣士はどのような技を修得したのだろうか。その剣士はどのような理を体得したのだろうか。興味は尽きない。だがそれでも、今は何より神と戦いたい!

 その宿願の前には、それ以外の願望など二の次だ。

 宗一郎はたちどころに先刻まで懐いていた想いを忘れ去り、無心に返って素振りを繰り返す。神々を仕留めるためには、修練を欠かすことはできないのだから。

 その宗一郎の傍らにふっと現れる白い影。それは黒曜石の如く滑らかな長い黒髪に、凛とした清楚な雰囲気を併せ持つ巫女装束を纏った娘である。

 彼の妹、神無月佐久耶だ。生身ではない。この巫女に備わっている幽魂投出の霊力による幽体である。

 修行を中断して、宗一郎は訝しげな眼差しを妹に向ける。この時間、佐久耶はいつも儀式の間に籠っているはずだが……

 佐久耶の体質的理由なのか、それとも月の魔力の影響によるものかは、定かではないものの、妹は夜になると霊能力が冴えわたるらしい。

 それ故に、最高潮時ともなると、神無月家の秘術と合わさり、佐久耶は神々の現界の『感知』のみならず――『予知』をも可能たらしめる。

 そのため夜の到来とともに、彼女は『生と不死の境界』に己の御魂を沈めて、霊視を賜るべく儀式を試みている。

 とはいえ生憎とこの二ヵ月、それが実を結んだ(ためし)はない。いかに佐久耶といえども、常に能力を最高の水準で保てるとは限らないのだろう。

 だから、今夜も宗一郎はさして期待していなかったのだが……こうしてわざわざ、幽体で現れたことを考えると、ひょっとして成功を収めたのではと、思わず期待してしまう宗一郎。

 事実、佐久耶は兄の思いを肯定するかのように柔らかく微笑み、告げる。

「兄さま、どうかお喜びください。『まつろわぬ神』の顕現を予知しました」

 最も若き神殺しは、口元に戦士の昏い笑みを刻む。 

 今日の宗一郎はもう不幸ではなかった。

 

 

 かくして、南欧の地で今なお栄える古き都にて、三人の魔王の運命が絡み合い、喰らい合う事に相成った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一話 幸運な一人&不幸な二人

 昼頃に魔女たちと連れ立って歩いたナポリの地下遺跡を、サルバトーレ・ドニは夜間に独り闊歩していた。

 地下空間は、薄気味悪いほどの静謐さを湛えていた。

 すぐ直上の街の喧騒が微塵も響いてこない。無音である。静寂である。この地下遺跡は外界と完全に隔絶した、一種の異界と化しているのではないか。訪れるもの悉くに、そんな馬鹿げた疑念を懐かせるほど、この空間は一切の人間を拒絶していた。

 だが、そんな真っ当な感受性など元来陽気過ぎる青年であるドニにとっては無縁の代物だ。それどころか、今夜はいつにも増して、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 とはいえ、そんなドニであるが、最近まで退屈を持て余していた。それはここ数か月ばかり闘争の場から遠ざかっていたからだ。

 これはドニ自身の自業自得も絡んでいるのだが、どうしても、フラストレーションが溜まっていくのは止められなかった。

 サルバトーレ・ドニは、カンピオーネである。

 神を殺してその聖なる王権を簒奪した魔王である。

 魔術師たちから“剣の王”と称されるドニにとって、神々との闘争は剣の道を窮めるための手段だ。

 もはや自己鍛錬だけでは、ドニの超人的な剣の技量を維持するだけで限界なのだ。

 故に、ドニがそれ以上の境地に至らんと欲するならば、彼に匹敵するかそれ以上の強敵たちとの実戦以外にあり得ない。

 そう、師に諭されてから、ドニは忠実にその教えを実行に移してきた。現在の行動もまた例外ではない。

 今日の昼に魔女たちと下見をしたこの地下遺跡の最奥には、大地母神の神具であるヘライオンが安置されていた。

 ヘライオンとは、ギリシアの女神ヘラの聖なる印のことである。

 ギリシア神話での女神ヘラの役割は、神王ゼウスの妻だ。だが、この女神はもともとペロポネソス半島の地母神だった。そこにゼウスの原型となる天空神を崇めるインド・ヨーロッパ族系騎馬民族が侵入し、征服者となる。以後、ヘラはゼウスに従属する女神とされたのである。

 ここまでが昼に魔女たちから聞かされた話であった。とはいえ、ドニは神話学に関心はない。どうせこの知識も明日の朝には忘れているだろう。

 だから、ドニが覚えておく必要があるのは、女神ヘラがギリシアの戦女神アテナに匹敵するほどの古い地母神であることであり、ゴルゴネイオンが女神アテナを引き寄せたように、ヘライオンもまた――女神ヘラを招き寄せる可能性があるという知識のみ、である。

 それ以上の知識など必要ないし、そもそも要らない。

 女神アテナは“親友”草薙護堂に譲りはしたが、今回ばかりは誰にも渡さない。そう強くドニは決意していた。

 もちろん、神具とはいえ必ずしも『まつろわぬ神』を招き寄せるとは限らないことは、ドニでも知っていた。が、ドニの直感は今夜戦いの気配があることを鋭敏に察知していた。

 ドニは自らの勘に絶大な信頼を寄せていた。故に、戦いは必ずある。

 問題は敵が「何者」であるか、である。

 ドニ程度の頭で予測出来るのは、やはり昼間に見せられた神具ヘライオン所縁ある神々のみであるが、彼はその事に多少興味を持ったものの、それ以後一切気にしなかった。

 この“剣の王”にとっては、歯ごたえのある敵と戦えるだけで充分なのだ。

 故に、わざわざ神々の出自など考える必要はないし、それどころか戦う相手が神である必要すらない。

 そう、たとえ剣の向く先が同族であるカンピオーネであったとしても、技の冴えが鈍ることなどなく、それどころか嬉々として振りぬくのだ。

 それがサルバトーレ・ドニという剣士、いや“剣鬼”の本性なのだから。

 そうこうする内に、ドニは地下遺跡の最深部に足を踏み入れた。

 黒曜石に似た、美しく光沢のある黒い石材で造られた円柱(オベリスク)。古代の採掘場だった遺跡に存在するその円柱が、明らかに人造物ではないことは一目瞭然だった。

 それは黒い円柱は何者かがこの遺跡の最奥に据え置いたのではなく、まるで樹木のように床面から生え伸びていたからだ。

 表面にびっしりと刻まれている、とぐろ巻く大蛇の絵画は、稚拙ながら何処か神秘的だ。そして、昼に見た時とは変わらず、滔々と神力を垂れ流している。

 だが、ドニはそんなこと(、、、、、)には、まったく気にも留めなかった。

 ドニが注目したのはただ一点。昼の地下遺跡には存在していなかった筈の異常。黒い円柱の前に佇む白い戦装束を身に纏い、背に優美な長刀を背負った人物のみだった。

 ()はドニの気配に気がついたのか、ゆっくりと振り向いてくる。

 我知らず“剣の王”の口元に昏い笑みが刻まれる。

 

 

 失態だった。地下遺跡の階段を全力で駆け降りながら、リリアナ・クラニチャールは胸中で毒ついた。

 事の始まりは《青銅黒十字》に所属するナポリ在住の魔女から、ある要請を受けたリリアナが、イタリアの魔術界の盟主であるサルバトーレ・ドニに、急遽嘆願を申し立てたことから端を発する。

 それは幸い直ぐに受け入れられ、今日のいや――もう昨日になるのか――昼のナポリで彼と顔を合わせることに成功した。

 そこで突然呪力を蓄えだしたヘライオンの件について相談するため、この地下遺跡の最奥まで彼を案内したものの、結局のところ、対応についてその場で上手いアイデアが出ずにまた明日、という感じで流れたのだが、その帰り道にてドニから不穏な気配を察したリリアナはある決意を固めていた。

 それは来たるべきドニの来襲に備え、地下遺跡の入り口付近においてリリアナ自身が寝ずの番を敢行することであった。

 だが、深夜0時過ぎにいったん小休止を取るため喫茶店(バール)に赴いたのが不味かったようだ。

 サンタ・ルチア地区。

 ナポリ湾に面し、サンタ・ルチア港や卵城などの観光名所を擁する区画。その片隅にある古着屋に地下遺跡の入り口は隠されていた。

 どうやらドニはその古着屋の施錠してあった筈の鍵を器用にこじ開けて、店内に侵入、店主であるでっぷりと太った魔女が気絶させ、地下遺跡に侵入してしまったようである。

 リリアナとは完全に入れ違ってしまったのだ。

 彼女の計画では、古着屋の前でドニを捕まえて、説得する手筈だった。深夜とはいえ、まだこの界隈から人通りが途絶えたわけではない。いかに彼といえども無茶な真似はするまいという読みだったのだが……

 結果は見事に失敗した。こんなことになるのなら、彼の行動をある程度とはいえ制御できる唯一の人、アンドレア卿に連絡を取って協力を乞うべきだった。

 あらためて胸中で臍噛むリリアナであったが、走る速度をまったく緩めることなく薄暗い階段を駆け抜けていくと、派手な柄のシャツに黒いケースを肩にかけた金髪の青年の背中を発見した。

 見つけた! 間違いなくサルバトーレ・ドニだ。

 リリアナはほっと安堵の吐息をついた。

 彼がまだ黒いケースを持っているということは、昼に話していたヘライオンを斬る、などという馬鹿げた計画はまだ実行に移してはいないらしい。

 もっともそれは時間の問題かもしれないが、これは最後のチャンスだろう。

 自分のミスで二千数百年にも及ぶ古都ナポリの繁栄を終わらせるわけにはいかないのだと、意気込むリリアナの視界にドニの奥、ヘライオンの石柱の前に立つ白装束を身に纏った少年の姿を見咎めて、騎士は比喩ではなく魂から凍り付いた。

 事実、リリアナの両足は彼らから数メートル後方で完全に凍り付いたかのように動きを止めてしまった。

 静かに向かい合う金髪の青年と黒髪の少年。

 リリアナにとってソレは受け入れがたい、悪夢の如き光景だった。本来こんなところで出会う筈のない二人。

 この地上で最も強大な力を有する八人(、、)の超人たち。

 魔王、ラークシャサ、デイモン、混沌王、そしてここイタリアでの呼び名はカンピオーネ!

 まるで世界全体が凍り付いたかのようにピクリとも動かない三人。リリアナには永遠にも思えたのだが、当然、そんな筈もなく、ほんの刹那の出来事に過ぎなかったのだろう。

 最初に動いたのは白装束の少年――神無月宗一郎だ。

 典雅な美貌を少し傾け、金髪の青年を超えてその背後、リリアナに視線を向けた。

「おや、そこに居られるのは、リリアナさんではないですか。お久しぶりです。こんな処でお会いするとは、驚きました」

 本当に驚いたとばかりに目を瞬かせる宗一郎。

 それに反応したのかドニも、肩ごしにちらりとリリアナを見やる。

「やあ、リリアナ・クラニチャール。どうして君がここにいるのか解らないけど……どうやら君は彼が何者か知っているみたいだね?」

 口元はへらへらと笑いながらも、瞳には有無を言わせぬ昏い光が灯っていた。

 リリアナはそれを見て背筋を凍らせる。その瞳には決して虚言は許さぬ、と語っていた。

「は……っ! おそらく察しておられると思いますが、彼の名は神無月宗一郎。サルバトーレ卿の同族の方。即ち八人目のカンピオーネであらせます」

「へえー、やっぱりね! そうじゃないかと思っていたんだ。立ち姿からしてただ者じゃなかったし、それにアンドレアから聞いていた通りの容姿だったからね」

 そう言って、ドニは黒い円筒型ケースに手をかけた。

 蓋を開け、中の得物を鞘ごと取り出し、ケースは投げ捨てる。そして、右側から円を描くようにゆっくりと歩を進めた。

 宗一郎もそれに応じてドニを必ず正面に捉えるようにして後退していく。

 目の前の金髪の青年から「何か」を感じ取ったのだろう。鞘越しとはいえ剣を持つドニを容易に近寄らせない。

 やがて二人は黒い円柱を中心に、その少し前の位置にて、五メートルの距離で対峙する。

 自分の位置が定まったことに満足したのか、ドニは鞘から剣を抜き、これまた鞘を地面に投げ捨てた。

「サ、サルバトーレ卿! 何のおつもりですか!?」

 ここでようやくリリアナは声を張り上げた。

 そう言うもののリリアナには、彼が何をするのかはっきりと解っていた。

「何って、それはもちろん決闘だよ。僕の勘が言っているんだ。彼と戦うのはきっと最高に愉しいんだってね!」

 あっさりと物騒なことを陽気に言いながら、ドニは剣を持つ右手をぶらりと下げる。

 力のない構え。だが知る人ぞ知る、この構えこそが、あの剣鬼正調。

 宗一郎はその構えに、明確な危険を見出したのか、警戒するように漆黒の瞳をすっと細める。

「くっ」

 もはや自分の言葉では止められぬ悟り、歯噛みするリリアナ。

 こうなった“剣の王”は目的を遂げるまで誰にも止められないと解っているが、ナポリの地下、それも神具の間近でカンピオーネ同士の決闘など、断じてやらせる訳にはいかない!

 火薬庫の中で火遊びをするようなものである。正気の沙汰ではない。まさに狂気の所業だ。しかし、リリアナに止める手段はない。

 実力行使? まさか論外だ。一瞬で叩き出されて終わるだけである。他に何かないか? 何かもっといい手が……

 だが――

「……何やら僕を蚊帳の外に置いて話を進めているようですが、そもそも僕はその決闘とやらに応じるつもりはありませんよ? えっと――」

 リリアナの助け舟は、まったく彼女の期待していなかった方角から飛来した。

 宗一郎は最後に少し言い淀みながらドニを見る。

 そして、リリアナは気づいた。おそらく、宗一郎は今にも自身に襲いかかりそうな風情である、金髪の青年の名前を知らないのだ。

 積極的に同族の調査をするような几帳面な性格ではない以上、それは当然といえば当然のことであった。

 どうやら神無月佐久耶は不在であるらしい。ならば、現在それを教える立場にあるのは、リリアナ以外にはいなかった。が、彼女はそれをパニックですっかり失念していた。

「ああ、ごめんごめん。そう言えば自己紹介がまだだったね。僕の名前はサルバトーレ・ドニって言うんだ。よろしくね。……でも、君の方から決闘を断ってくるとは思わなかったな。君は護堂よりはコッチの話が通じ易いと思っていたんだけどな」

 剣を少し持ち上げて、ドニは少し意外そうな表情で宗一郎を凝視する。

「それは、申し訳ありませんでした。これが普段なら受けても構わなかったんですけど、今夜はどうしても外せない用事がありますから、遠慮させていただきました」

 そう言って宗一郎は、晴れやかに――嗤った。

 典雅な美貌をより際立たせる涼しげな微笑。だが、リリアナはその笑顔の中に、尋常ならざる昏さを見咎めて背筋が粟立った。

 アレは狂笑だ。断じて常人が浮かべる貌ではない!

 そして、リリアナは神無月宗一郎がこの地下遺跡に、いや正確にはここナポリにいる真意(、、、、、、、、、、)を悟った。

 そもそも彼が故郷から遠く離れた地に来る理由など、たった一つしかあり得ないではないか!

「ふーん、用事ねえ。ちなみにそれが何なのか聞いてもいいかな? 残念ながら、僕に会いに来てくれたわけじゃあないみたいだけど、すごく興味があるな……」

 宗一郎の狂笑と同質同等の昏さを瞳に宿して、ドニが問いかける。

「ええ、構いません。僕の妹がね、視たらしいんですよ。――この地に『まつろわぬ神』が降臨する予兆を! だからこそ、僕は倒さなければならないんです。彼らを一体残らずにね」

 宗一郎の全身から殺気の嵐が吹き荒れる。

 地下遺跡の深奥の空間が殺意によって塗り潰される。リリアナの身体は寒さで震え上がる。

 物理的に気温が下がったわけではない。ただ若き神殺しが引き起こしている濃密な『死』の気配に身体が反応しているのだ。

 カンピオーネたるドニに、剣先を向けられたにも拘らず、終始無反応だった少年が、まだ見ぬ『敵』の存在に思いを馳せただけでコレである。

 この場所に赴いたのが自分一人でよかったと、リリアナは安堵する。まだ年若い従者がこの殺気に当てられたならば、即座に気を失っていただろう。

 リリアナはドニの方を凝視する。すると彼はまるで新しい玩具を与えられた子供のように、気色満面な笑顔を浮かべ、宗一郎を陶然と見つめている。

 いまのこの場において、世界の法則が逆転した。 

 世界が裏返る。

 世界が崩壊する。

 常人が狂人に堕し、狂人が常人へと還っていく。

 今この空間に置いて、本来常人であったリリアナ・クラニチャールのみが狂人であり、本来狂人であった神無月宗一郎とサルバトーレ・ドニこそが常人なのだ。

 それでもリリアナはこの異常な空間でも正気――いや「狂気」を保ち、宗一郎の言葉に希望を視る。

 『まつろわぬ神』がナポリに降臨するというなら、あるいはこの決闘、流れるかもしれない。無論、『まつろわぬ神』がナポリを来襲するという事態は、到底楽観視できる話ではないが、ナポリの地下でカンピオーネ同士が決闘するよりは遥かにマシだ。

 二人の有する権能を知るリリアナからすれば、もし実際に地下で戦われでもしたなら、冗談抜きで地盤が崩壊してナポリが地面に沈みかねない。

 それならいっそのこと、地上で神と戦ってくれた方が被害は少なくて済むかもしれない。

 とはいえ、その『まつろわぬ神』がここのヘライオンが触媒となってこの地下遺跡で降臨するのであればかなり問題なのだが……

 それはあえて考えないようにする。

 いま重要なのは、この二人がすぐに決闘を取りやめ、さっさとこの地下遺跡から出ていって貰うことだった。

(理想なのはサルバトーレ卿が神無月宗一郎の話を信じて、剣を収めくれることだな。それから二人とも地下遺跡を出て、地上にて『まつろわぬ神』の到来を待つ……)

 自分で考えておいて何だが、そのあまりにも希望的観測が過ぎる願望に、リリアナは眩暈がしてくる。

 だがその「願望」が叶わなければナポリは崩壊しかねない。しかも、それには幾つもの障碍が立ち塞がっている。

 まずは、ドニが『まつろわぬ神』が今夜降臨するという宗一郎の話を信じてくれるかどうか、であるがリリアナはこの件について心配していない。

 カンピオーネという連中は、理屈や論理よりも直感や本能で行動を優先させる生き物だ。特に戦いの気配には敏感だとか。ならば、サルバトーレ・ドニもまた宗一郎の話から戦の臭いを嗅ぎ取るかもしれない。

 果たしてドニは、

「……神さまがナポリにねえ。不思議だね、君が言うのなら本当にそんな気がするよ。うん、僕は信じるよ。神さまがここに来るってね!」

 リリアナの推測通り信じた。

 あまりのあっさり具合に、この展開を予期していた筈のリリアナですら呆気にとられた。本当に信じたのか? 思わずそう疑ってしまうほどの気安さである。

 とはいえ兎にも角にも、これなら決闘は流れるかもしれない。リリアナはますます希望を見出した。

「それはありがとうございます、サルバトーレさん。僕は神を相手にしなければいけませんから、貴方との要件はまた後日ということでお願いします」

「いやだなあ、サルバトーレさんだなんて他人行儀に呼ばないでくれよ、宗一郎。壁を感じちゃうよ。僕と君との仲じゃあないか、ドニでいいよ。でもまあそれは兎も角、ここに現れるっていう神さまだけどさあ――何も君が戦えるとは決まっているわけじゃないだろう?」

「……?」

 何を言われているか解らずに戸惑う宗一郎。

 リリアナも同様だった。一体彼は何を言っているのか。にも拘らず、彼女はイヤな予感がしてたまらない。魔女の直感が、これ以上あの男を語らせるなと、しきりに訴えている。

 だが、そんなことは物理的に不可能だ。故に、ただ無言で聞くしかない。それがリリアナに出来る唯一の事なのだから。

「だって当然じゃないか。この場には君と僕。つまりカンピオーネが二人いる(、、、、、、、、、、、)んだよ。ならその神さまと戦うのは、僕であってもいい筈だよね? だってここは僕のホームグラウンドなんだから、むしろ僕の方が君よりずっとその権利があるはずさ」

 サルバトーレ・ドニはそう嘯いた。

 

 

「……それはつまり、サルバトーレさん。貴方は僕の獲物を奪うつもりだと?」

 

 

 ドニの言葉の意味するところを理解した瞬間、宗一郎の殺気が変化し、膨れ上がる。今まで無法図に垂れ流していた殺意に明確な志向性を与えて――ドニへと注がれる。

 金髪の青年は、それをまるで慈雨を浴びたが如き恍惚の表情で受け入れた。

 さもありなん、それは神無月宗一郎が初めてドニを「敵」と見定めた証なのだから。

「――いいや、だからさあ、それを決闘で決めちゃえばいいんじゃないかな? 君だってこのまま僕を放っておいて折角の神さまとの戦いを邪魔されたくないだろう? 勝った方が神さまと戦える権利を持つってことでどうかな?」

 ここでサルバトーレ・ドニは悪魔(デイモン)の如き奸智を見せた。

 これが狙いだったのか! リリアナは愕然と目を見開く。

 彼は普段間違いなく馬鹿でどうしようない阿呆であるが、ときに恐るべき知恵を巡らすことがある。

 それが今だ。宗一郎との会話から決闘を受け入れられない理由と彼の神と戦うことに関しての並外れた執着を感じ取り、それを奪う、と宣言することで宗一郎の闘争心に火を点けたのだ。自分との決闘を実現するためだけに!

 “剣の王”の行動を論理的に考察すれば、そういうことになるのだろう。

 無論、頭で考えたことではなく、本能で行動した結果だろう。サルバトーレ・ドニという男は、何が自分にとって有利に働くのか感覚的に理解しているのだ。

 そして、神と戦う権利を得るため、などと嘯いて決闘を持ちかけているが、それは必ずしも真実とはいえまい。

 勿論、彼は宗一郎との決闘に勝利したのなら、いずれ顕れるだろう神に嬉々として向かって行くに違いない。が、いまドニが何より優先するのは宗一郎との決闘の筈だ。

 ドニは宗一郎と違い、戦う相手が神である必要がない。そんな勿体ないことなどしない。

 同族であっても一向に構わないのだ。ドニという剣士が敵と闘う基準はただひとつ――強さのみ。

 故に、サルバトーレ・ドニがいずれ顕れるという神などより、目の前の同族に闘争心が向かっていくのは至極当然の結果だった。

 そして、宗一郎もまたドニの決意が揺るがない以上、決闘に応じざるを得ない。彼にとって何より重要な神殺しを邪魔する障碍は、等しく排除する対象でしかなかった。

「――いいでしょう。神と戦うために体を温めておくのも悪くありません」

 つまりオマエは準備運動だと、そう言って背から長刀を抜き放ち、構える。

 剣士正調、青眼の構え。

 事此処に到って、リリアナの「願望」は夢と散った。

「ははは! そうこなくっちゃあね!」

 それを合図にドニは心底愉しげな笑みを浮かべて――軽い足取りで前へ踏み出した。

 ドニ独自の玄妙な足運び。相手の意識の間隙を突く幻惑の歩法。

 この歩法はドニの動きを集中して見ようとすればするほど嵌る。むしろそれを回避するには、獣じみた直感さを発揮するか、視界を一点に集中せず、広い視野で大まかな動きを捉えるしかない。

 そして、宗一郎は“心”の目まで鍛え上げた練達の剣士だ。“生”の目の修練を怠る道理がない。

 宗一郎の間合いに侵入し、剣を振るうドニ。一流の武人でも幻惑されるドニの足運びを、だが宗一郎は目で確実に捉えていた。

 逆袈裟懸け切りの斬撃、かつて草薙護堂に言った「三十年も剣の鍛錬を続けているおじさんも真っ二つに出来る」と豪語した一の太刀を、迷うことなく弾き返す。

「やるねえ! でも、まだまだこれからだよ!」

 ドニは弾き返された剣を持ち上げて、袈裟懸け切りで再度強襲する。一の太刀にも劣らぬ――どころか更に鋭い。剣先は大気の壁すら易々超えて宗一郎に迫る。

 その刹那、剣光が閃いてドニの剣を絡めとり、剣速をそのままにベクトルだけを狂わし、逸らしていく。剣の勢いに流され、崩されるドニの重心。

 それを可能にしたのは、中華武術の妙技たる『化勁』。その術理は『合気』として日本にも伝わっている。その要諦は柔よく剛を制する――それは最小の力で最大の効果を得ることに他ならない。

 宗一郎は敵の体勢が崩れたと見て取るや、長刀の切っ先を翻しドニの首へと閃かせる。重心を乱されたドニに逃れる術のない一撃。手加減などまったく考慮しない、確実に敵が絶命し得る必殺の一刀。

 だが――宗一郎は知らない。サルバトーレ・ドニの権能の正体を。

 賢人議会が『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』と名付けた権能は、すべての物理攻撃を無力化する。剣士殺しの至高の鎧。

 なのに、ドニは何故か上半身を反らし、太刀の切っ先を躱す。既にドニは神懸った早さで重心の安定を取り戻していたのだ。

 それのみならず、ドニは回避と同時に左手を柄から放し、右手一本で下方に流れていた剣を跳ね上げ、横薙ぎの一閃を宗一郎の胴に叩き込む。これを宗一郎は極まった軽功でまさに風と化して後方に離脱することで躱す。

 それを見咎めて、ドニは愉しげな笑みを溢した。ドニが権能を行使せず、回避行動を執ったのは理由がある。

 ドニにとって純粋な剣の技比べなど久しくなかったことだ。こんな機会はそうそうない。だからこそ、もうしばらく愉しむ算段だった。

 もはや両者ともにリリアナのことなど意中にない。ただあるのは敵の撃滅のみ。

 ドニは双眸に昏い光を益々輝かせ、軽やかに歩む。この戦いの果てに更なる境地に至ることを願って。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話 魔王相打つ

 時は少しばかり遡る――

 いち早く神無月宗一郎が、奇しくも同族同士の決闘場と化してしまった地下遺跡に赴いていたのは、妹の佐久耶に直接送り込まれたから……ではない。

 もちろん、ナポリまで瞬間移動の術で無事に密入国を果たしたのは事実である。だが降り立った場所は地下の遺跡ではなく、地上の街中だった。

 異国の都の大地を踏みしめた宗一郎は、直ぐに隠形の結界を張り、呪術の探査の糸を四方八方へと拡げた。もちろん地下にも、である。

 そして、探り当てたのだ。

 この都の地下深くの何処かより漏れ出している神力の気配を。

 それはあまりにも小さな反応だった。神々の気配に鋭い神殺し、それも呪術の修行を積み呪力の感覚を、さらに研ぎ澄ました宗一郎だったからこそ気付けた。のみならず、それと同時に微小の神力を取り囲むように展開している呪術、おそらくは神力を隠すために敷設された隠蔽術式もまた感じ取っていた。 

 この時点で、宗一郎は地下の神力の発生源の正体におおよそ見当がついた。

 『まつろわぬ神』が直接降臨しているのではなく、その神々所縁ある神具の類が存在しているのだろうと。

 それは神々を封じて置くには、宗一郎が地下から感知した結界の強度は、あまりに脆弱すぎたからだ。が、神具から溢れ出た神力を外に漏らさぬ程度のことなら充分である。

 実際、宗一郎も真剣に気配を探っていなければ、見逃していたかもしれない。

 間違いなくこの結界を張った術者は、神具を安置している場所に余人を近寄らせたくないに違いない。とはいえ、一度見つけ出した以上、宗一郎に行かない、という選択肢はあり得ない。

 そうと決まれば、宗一郎の行動は迅速だった。

 異国の見慣れぬ街並みは宗一郎の好奇心を刺激して余りあったものの、二か月前にダブリンの件で妹に厳しく諌められたことを思い出し、彼は悄然と項垂れ、前回のような「事故」が起こらぬようにと、念入りに隠形を強化。

 それから泣く泣く街の喧騒を掻き分け、地下から漏れ出している神力の気配がするちょうど上の地区まで足を向けた。

 そこは商店がひしめき合うとともに無数に入れ込んだ路地が拡がる区画だった。

 何の手掛りもない現状、宗一郎独りでこの広大な地区から地下へと通じる道を探し出すのは不可能だ。またこの地区にあるという保証もない。

 だと言うのに、宗一郎の歩調に迷いはない。彼にはある策があった。

 神具が呪術によって隠されているのなら、当然、呪術師の管理下にあるとみて間違いない。神具という重要かつ危険極まりない物品を、個人で管理しているとは思えないからだ。となれば、かなりの規模の呪術結社が動いていると見ていいだろう。

 ならば、組織の人員も相応の数が動員されているだろう。とくに地下へ続く入り口には間違いなく見張りが配置されているはずである。

 そう――呪術師を。

 ここまで思考を巡らせれば、後はやるべきことは明白だ。

 その呪術師を突き止めればいいのである。もし見張りの呪術師が特定できたのなら、同時に地下への入り口も見つけ出したも同然だ。

 だが、これが容易なことではないことは一目瞭然だった。

 この地区だけを限定しても優に数万人を超えるだろう住人たち。その中でも呪術師の数は一パーセントにも満たないだろうが、それでもなお、砂浜から砂金を探り当てるに等しい難行だ。

 とはいえ、手段が全くないわけではない。

 砂金がただの砂利と質量密度が違うように、呪術師と一般人では呪力密度に大変な差異がある。

 そして、神を弑逆して最強の呪術師へと成り上がった宗一郎の呪力感知能力は、この都の地下深くに隠されていたはずの神力を知覚出来きるほどだ。

 いわんや呪術師の呪力を感じ取る程度のことなど、さして難事ではない。が、流石にこの地区丸ごととなると少々骨が折れる作業になるものの、所詮はその程度の労力に過ぎない。

 もっとも、この都市全域を精密に走査する――となると、いかに宗一郎と言えども、何の準備もなしにやり遂げることは不可能であったが、もとより、そこまで本気で取り組むつもりは毛頭ない。

 焦る必要はないのだ。なぜなら、宗一郎がこの都市に足を踏み入れた時点で、神殺しの本能が戦いの時は近いと告げていたのだから。

 故に、地下に安置されている神具と思しき存在の探索など、ただの暇つぶしに過ぎない。地下への入り口とて、別段見つからずとも構わないのだ。

 実際のところ、『まつろわぬ神』が顕れるまでの間の無聊を慰められるのなら、何でもよかった。何時もの異国の街の散策が、宝探しに変わっただけ。

 だから、宗一郎は結果をまったく恐れる風もなく、悠々とある一角へと足を向けた。そこは彼が地下から感じ取った神力、その場所の丁度真上にあたる位置であった。

 

 

 潮の香りが風に乗って香ってくる。夜の静寂に寄り添うようにざあざあと優しい波の音が聞こえてくる。

 闇を抱えるばかりのこの時間帯では、風光明媚なナポリの海の景色を愉しむことはできそうにない。もっとも、もとより景観にさして関心のない若き神殺しには関係のない話であるが。

 いま宗一郎はサンタ・ルチア地区の波止場の片隅に陣取り、目を閉じ、精神を集中させ、<呪力感知>の呪文を行使する。

 術の効果を地上だけに限定し、更に半径数キロ圏内のみと走査範囲を絞り込む。これで効果がなかった場合、さらに走査範囲を拡げる必要があるが……

 果たして、反応はあった。数は予測通り少ない。十にも満たないようだ。だが気がかりなことが二つ。

 ひとつは、かなり高い呪力を持つ者が一人存在する。手練れの呪術師だろう。……何処か見覚えがある気配のような感覚があるのだが、おそらくは考え過ぎだろう。

 ふたつは、探知の術が一部弾かれたような感覚があったこと。余程強力な護符を所持しているのかもしれない。多少興味はあるものの、いまは宝探しの方を優先する。

 宗一郎は思考を切り替えて、再び足を動かし始めた。

 最初の目的地は、ここから数百メートルと離れていない。宗一郎は呪力の反応があった箇所を、近場から順繰りに調査していくつもりだった。

 そして、宗一郎は――とある古着屋、その扉の前に黙然と佇んでいた。

 真夜中にも拘らず、ひとり店内に残っている人間は、呪術師であることは先の術で把握している。

 そればかりでなく、店内から明らかな呪術を張り巡らしている痕跡が視て取れた。

 これは是非とも調べてみる必要があるだろう。それにこれは勘に過ぎないが、宗一郎は「当たり」を引いたような予感があった。

 だが宗一郎はいますぐ店内へと踏み込みたい衝動を何とか押し留める。店内の気配を探って見たところ、どうやら店員は店の扉が見える位置からまったく動きがない。

 もしかすると、扉を見張っているのかもしれない。実際このまま店内に侵入したのなら、即座に発見されるだろう。

 もちろん、無力化するのは容易いが……宗一郎は出来るならやりたくはなかった。

 と言うのも、店員の呪力の性質は陰の気――つまり女性だった。

 魔王の癖にフェミニストを気取る宗一郎としては、女性に危害を加えたくない、というのが正直な話である。

 そして、問題はそれだけではない。

 宗一郎はチラリと顔を横向ける。そこには、まるでこの店を見張るかのように、近くの物陰から一匹の黒い猫が隠れ潜むように蹲っていた。

 ただの野良猫……ではあるまい。あの猫の小さな身体から微かな呪力の気配がする。おそらくは呪術師の使い魔だろう。

 目的は店への出入りの監視、といったところか。あの使い魔の主は、この店に出入りする人間にかなり関心があるらしい。

 当然、店の扉の前で堂々と突っ立ている宗一郎など、あの猫の視界にばっちりと収まってしまっているはずなのだが、彼に慌てた様子はない。

 猫如きに自分の隠形術を見破られるはずがない、という自信ゆえだ。

 とはいえ、このまま扉を開けるのは甚だ宜しくない。あの猫の目には、無論、宗一郎は見えず、ただ勝手に扉が開閉する場面だけしか映るまい。だが使い魔には意味は解らずとも、その主にまで隠し通せるとは思えない。が、対抗手段がないわけではない。

 もっとも、それ以前に、店内にいる女性の方を優先的に対処しなければならないのだが、こちらはその必要があるのなら何とでもなる。

 もちろん、荒事はなしで、だ。呪術を修めている宗一郎にとって、選べる手段は無数にあるのだ。

(さて、どの方法を選べば、無難にこの状況を切り抜けられるでしょうか……)

 しばらく手段について熟考していた宗一郎だったが、不意に店内の気配の主が建物の奥に移動していくのを察知した。ひょっとすると何かの小用が出来たのかもしれない。おそらく僅かな間に過ぎないだろうが、これで障害のひとつが消えたことになる。

 この突然の好機を宗一郎はすぐさま活用した。

 彼は呪術の糸を物陰から古着屋を盗み見ている黒猫へと伸ばす。使い魔の主に気取られぬよう迅速かつ精密な呪術操作で、野良猫の支配権を奪い取る。

 そこから先、宗一郎が駆使した呪的技法を現代技術に例えるならば、ハッカーが監視カメラにハッキングして、人が映った映像を誰も映っていない偽映像へと差し替える作業に似ている。

 事実、呪術師の使い魔は、宗一郎が<解錠>の術を使用して、扉を開け、隠形を維持したまま、店内に滑り込むように侵入をした彼の姿はもとより、扉が開いた光景すら脳内に記憶していなかった。

 ただ何の異常もない日常の光景を映していただけである。

 宗一郎は扉を閉めて施錠し、黒猫を支配していた呪術の糸を何の痕跡も残すことなく撤退させた。

 これでまず間違いなく使い魔の主は、何も気づくことなく宗一郎が上書きした黒猫の偽りの記憶を信じるに違いない。まさに超一級の技と言えよう。

 その後、店内の気配に注意を払いつつ、宗一郎は建物の奥へと忍び足で進んでいく。そして、まんまと呪術で隠されている地下遺跡の入り口を見つけ出したのである。

 無論、宗一郎は何の躊躇もなく足を踏み入れる。その顔には罪悪感など欠片もない、超一流の不法侵入(仕事)をした満足感で一杯だった。

 さらに暫くして店主が何時もの定位置に居座った後に、サルバトーレ・ドニが近くの物陰に隠れ潜んでいる黒猫に気付いた風もなく、一級のピッキング術を駆使し、たちまちに扉の鍵を開錠、目にも止まらない速さで店内に侵入して、目を丸くしたでっぷりと太った魔女を当身で気絶させる。

 後は勝手知ったる他人の家とばかりに、昼間に来たルートをなぞって地下遺跡の入り口をあっさりと見つけ出し、悠々と入っていく。その顔には罪悪感など欠片もない、一流の不法侵入(仕事)をした満足感で一杯だった。

 さらにさらに暫くして、リリアナ・クラニチャールは己が配置した使い魔から記憶を抽出して、すべてを了解し、慌てて地下遺跡へと駆けだしていった。

 そこでまさか「二人」の不法侵入者たちと対面する羽目になる、などとは想像だにすることもなく……

 

 

 

 

 

 そして、現在――

 激突する長刀と長剣。

 刃金と刃金がぶつかり合うたびに、満開に花開かせる火花。百花繚乱、絢爛豪華。

 また両者の剣捌きは、千変万化、変幻自在。

 片や剛の技を繰り出せば、柔の技にて軟らかく受け流す。片や柔の技で応じれば、剛の技にて正面突破を図らんとする。その時々に応じて、攻勢のスタイルを変じ、互いに必殺の一撃を叩き込まんと剣を(はし)らせる。

 一撃ごとにボルテージが猛っていく相手とは対象的に、宗一郎の精神は冷え切っていく。敵の挑発に乗ってみたものの、依然、彼はこの戦いに何の意義も見い出すことが叶わない。

 ただの作業。ただの肉体労働。

 いや、何の報酬もないのだから無報酬労働(ボランティア)と変わらない。それも、失敗すれば命を落とすのだから、まったく割に合わない。馬鹿馬鹿しくてやっていられないというのが本音だった。

 だが、これは当然なのだ。

 そもそも神無月宗一郎とは何者か?

 決まっている。

 神無月宗一郎とは神を討伐するために産み堕とされた存在。剣士であって剣士ではなく、術者であって術者ではない。

 サルバトーレ・ドニが『純正の剣士』ならば、神無月宗一郎は『純正の神殺し』だ。

 故に両者は混じり合うようでいて、根本では決して噛み合うことはない。似て非なる存在なのだ。

 確かに目の前の剣士は強い。己が純正の剣士でなくとも、技を比べたいと思う。だがそれは一瞬の夢の如く泡と消える。

 なぜならば、それ以上、心が昂ぶらない。魂が吼えない。

 それは何故か? 

 決まっている。

 それはサルバトーレ・ドニが『神』ではないが故に。

 そうとも彼は強い。剣腕に置いては、間違いなく自分を上回っているだろう。業腹であったものの、宗一郎にはそれがはっきりと理解できた。

 宗一郎が知る由もないことだが、それは至極当然のことである。

 仮に宗一郎とドニの剣の才能が同等だとするならば、後は積み重ねた研鑽の量がモノを言うのが道理である。およそ十年にも及ぼうかという年齢差に加えて、宗一郎は呪術の修練まで剣と同等の密度で積んでいるのである。

 ただ一心に、ただ無骨に、己が生涯を剣のみに捧げてきたサルバトーレ・ドニとは、剣に対する取り組み方が根底からして違いすぎる。

 そのドニの妄執染みた剣への執着心は、宗一郎が掲げる神仏必滅の想念に通ずるものがある。すなわちその根底にあるのは、天下無双に到らんとする「狂気」に他ならない。

 これでは宗一郎に勝てる道理がない。

 基本、神やカンピオーネに呪術は通じない。剣術勝負に到っては、地金が違いすぎて話にならない。

 それでも、宗一郎とて一振りの刀にて神を屠った神殺しの剣士である。五本に、いや三本に一本の割合で勝利を掴み取って見せる自信はある。

 だが、そんな自信が現実の技量差(キャリア)の前に何の価値があるというのか。

 そう、価値などない。あるはずがないのだ。

 にも拘らず、どうして宗一郎はこの状況下で――

 

 

「はは――」

 

 

 ――涼やかな笑みを浮かべているのか!

 年齢の差異(キャリア)? 修行の密度(キャリア)? 技量の錬度(キャリア)

 下らない。下らない。下らない。

 なんなのだ、その言葉遊びは?

 そもそも魔王に堕ちた人間に、そんな常識を当て嵌めようとすること事態、すでに間違っている。

 事実、宗一郎は眼前の金髪の剣士との勝機は、五分(、、)であると認識していた。

 当然だ。カンピオーネ同士の戦いにおいて、確率論など論じても意味はない。真の強者である彼らは、千億に一つの率でも勝利を掴み取ってしまう埒外の存在なのだ。

 そうでなければ、どうして天災の化身たる『まつろわぬ神』に勝利できようか。

 ましてや三本に一本も勝利できる(、、、、、、、、、、、)敵など恐れるに値しない。その勝利できるその一本の力を、この実戦にて発揮すればいいだけのこと。

 そして、敵もまた魔王。

 それも宗一郎から三本に二本を獲れるほどの地力を有しているなら、相手もまたその勝利できる二本の内一本を実戦に持ち込めばいいのだと考えているだろう。

 そして、両者ともに自分ならばそれが可能であると露とも疑っていない。

 故にこそ彼らは「互角」なのだ。

 暴論? 極論? 否、否である。これは正論だ。

 これが、神を弑逆せし埒外の存在同士の戦いなのだ。彼らの戦いにおいて些細な戦力差など、ゼロに等しい。

 宗一郎は長刀の柄を握りしめ、更なる一撃を加えるべく深く一歩を踏み込む。

『まつろわぬ神』打倒の前に立ち塞がる、鬱陶しい石ころを排除するために。

 

 

 閃く剣光の煌きは星々の輝きに似て、刃金の激突で散る火花の激しさは、その星が終わる超新星の爆発を連想させる。

 地上から見上げる星々の輝きが過去から届けられる星光であるように、リリアナがいま垣間見ている斬光が瞬いている間にも、既に何十もの剣戟が繰り出されているのだろう。

 古代ギリシアでは四年に一度、神々に武闘を捧げる巨大な祭典があった。現代のオリンピックの起源ともいうべき古代のオリンピックである。

 ならば、いまリリアナが目撃しているのは、ギリシアの神々の女王の神具――ヘライオンの御前にて開催された競技会(オリュンピア)

 決して表舞台に出ることはない、闇の武闘会(オリュンピア)であった。

 英傑ひしめく古代ギリシアの戦士たちであろうとも、いまこの場にて剣舞を披露している二人に比肩する剣士が、果たしていたかどうか。

 リリアナは人類最強の剣士を決定するといっても過言ではない、史上類をみない決闘を目の当たりにしつつも、感動ではなく、恐懼に身を震わせていた。

 無論、リリアナとて超常の戦いを目にするのは、何もこれが初めてというわけではない。

 古くは四年前に、そして、最近では二ヵ月前にも関わっている。こちらはリリアナ自ら剣を執り、神と直接矛を交えすらした。

 奇しくも、それら二つの事件の中心的役割を担った人物たちこそ、いま彼女の眼前にて死闘を展開している剣士たちに他ならない。

 故に、いまさら超常の戦いを目にしただけで臆するリリアナではない。

 『神』に一振りの剣で立ち向かう『王』の光景を見たことがある――

 『王』と『王』が互いに奪い取った「神の能」を以って、戦い合う光景を見たことがある――

 だが、そんなリリアナであっても、『王』と『王』が互いに練り上げた「人の業」を以って、斬り合う光景だけは目にしたことはなかった。

 そして、その光景のなんと凄惨たる有りさまであることか!

 カンピオーネ同士が超権を駆使して戦う光景は、ただ圧倒されただけであった。それは常人ではまったく理解できない法外な力を以って戦い合っていたからだ。

 だがこの戦闘は違う。

 彼らが駆使しているのは「神の能」ではなく、「人の業」。そして、二人の得物はリリアナにも扱いの心得がある武器たる剣。

 天才と謳われようとも、彼らと比べれば所詮は常人のひとりに過ぎないリリアナである。だから、二人の剣士が繰り放つ秘技の一端たりともまったく理解できない。

 そんな彼女でも彼らの強さの根源にあるのは、才能などと言った、あやふやでカタチのない物などでは断じてないことは肌で理解できた。

 それは血反吐を吐くほどの荒々しい修練によってのみ培われる努力の結晶に他ならない。

 彼らの人生はある意味、単純に廻っているのだろう。

 黒髪の少年は、神を斃すために。

 金髪の青年は、剣を窮めるために。

 己が定めた『道』の最果てに到らんがために彼らは剣を執る。ただ真っ直ぐに、ただ愚直に、一本の道だけを確かに見据えて、迷いなく進んでいく。

 彼らの在り方を言葉で表現するのは簡単だ。だが普通の人間は、彼らのようには生きられない。

 そもそも道と言ったところで、現実の道と違って一寸先は闇だ。

 目に見える形ではっきりと道筋を照らしてくれるわけではない。目に映らない以上、当然迷うこともあるだろう。

 本人は正しい道を歩んでいるつもりであっても、実際はまったく違う方向に足を向けていることもあるに違いない。

 あるいは、ある日突然自分が歩いていた道が間違っていると感じて、それまでとはまったく別の道に乗り換える者もいるはずだ。いや、それ以前に、自分の道を見出すことが出来ない人間も存在するだろう。

 それが普通の人間――常人というものだ。

 だが彼らはそうではない。己がそうと道筋を定めた以上、どれほどの艱難辛苦な試練が待ち受けようとも、それに殉ずる覚悟を備えた男たち。

 凡人たちがどれだけ不可能だと、訴えようとも彼らの歩みを止める理由にはなり得ない。彼らが奉じるそれを、信念と表するにはその『道』は峻厳であり過ぎる。

 彼らの道を歩むには、清澄な光を灯したような「信念」など懐いていては、到底歩めまい。もっと汚濁に満ちた「愚念」に穢されていなければ、踏破など望めないだろう。

 すなわち、それは「狂気」に他らない。だからこそ、彼らは神を討滅するほどの武技を体得出来たに違いない。

 人間の身でありながら、それでもなお、人間を超えさせるに到った「狂気」の持ち主同士のぶつかり合いは、リリアナを以ってしても恐怖に顔を青褪めさせる。

 即ち一振りの剣で神を屠った剣士たちの戦いとは、磨き上げた剣技の競い合いというよりも、胸の内に秘めている狂気の比べ合いだからだ。

 「正気」の人間の正視に耐えられるはずがない。にも拘らず、リリアナは視線を逸らすことが出来ない。

 確かにこの戦いは、凄まじい。

 だが同時に、狂気に取り憑かれた剣士たちの戦いは、悍ましく、途方もなく醜くもある。

 そう、リリアナははっきりと感じ取っていた。彼女の真っ当な感性では、神を滅ぼすほどの武を磨き上げる彼らに対して、共感出来ないからだろう。

 だが、理解は出来る。無論、辛うじて、であるが……

 リリアナとて一端の剣士であり、魔術師でもある。ひとたび剣を執った以上、これを窮めんとする志とは無縁ではなかった。

 また、魔術師として生を受けた以上、最強の魔術師たるカンピオーネに成り上がる、という野心を懐かなかったかといえば嘘になる。

 これは何も彼女に限っての話ではない。この世界すべての魔術師たちならば、一度ならずとも懐いたことのある共通の理想(ユメ)だろう。

 事実、リリアナの旧友であるところのエリカ・ブラデッリなどは、その典型だった。

 若く才溢れるあの女ならば、他の凡百の者たちより切実にその理想を懐いていた筈だ。もっとも、七人目誕生の場に居合わせたことで、カンピオーネがどういう存在であるか直接体感することで、その野心を断ち切ったようだが。

 一方リリアナは、魔女の資質を有していたために、直接『まつろわぬ神』と遭遇せずとも、直感的にカンピオーネとはどういう存在であるか理解していた。だから、そうそうにその理想(ユメ)から解放されていた。

 そして、あの剣士たちはかつてリリアナが、エリカが、世界中のすべての魔術師たちが一度は懐き、そして捨て去った見果てぬ愚念(ユメ)を叶えた生粋の愚か者たち。

 誰もが恐怖し、背を向けた峻烈な『道』を踏破した最強の剣士たち。

 リリアナの奉じる騎士道とは、どうあっても相いれぬ我執に満ちたその在り方。

 それでも、かつてリリアナも胸に灯した最強(ユメ)を実現した剣士たちの背から目が離すことが出来なかった。

 ――だからこそ、リリアナは見逃した。

 剣士たちが剣戟を響かせ合う度に、神具ヘライオンから立ち昇る呪力がまるで鼓動するかのように激しく変動していくさまを。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話 やはり彼は幸運だった

 幽世の深淵。真なる神の座。

 不死の領域と呼ばれるその界層にて、『彼女』は剣戟の音を、鬨の声を、確かに聞き咎めた。

 戦士たちが神々の女王たる己に武を捧げているのだろう。かつてこれと同じ斬音(おと)を最高神の傍らに座して、幾度も見聞きした。

 その懐かしい刻を改めて振り返り『彼女』は――かつて懐いていた憎悪(オモイ)が蘇える。

 憎い、憎い、憎い!

 戦士が憎い。英雄が憎い。男神が憎い。己からすべてを奪い尽くした男どもが憎くて堪らない!

 遥かな太古の時代――何処からともなく来襲してきた、戦うことしか知らぬ野蛮な男たち。軍馬を駆る、あの戦士たちが『彼女』の真の民を殺戮し、ついには屈服させしめた。

 それのみならず、あろうことかあの野蛮人どもは、その穢らわしい手で以って『彼女』の神話(カラダ)をも凌辱の限りに尽くしたのだ。

 こうして最も古い『彼女』の神話(カラダ)は切り刻まれ、バラバラに鋳潰された上、野蛮な男どもが持ち込んだ新しい神話(カラダ)へと焚べられ鋳直された。

 古代から永きに亘る年月、『彼女』の神格は歪められ、貶められ続けた。

 『彼女』の民を征服した野蛮な男どもは、『彼女』を自分たちが崇める最高神の妻――神々の女王の地位を恭しく迎え入れはしたが、それが何の慰めになろうか。

 しかし、『彼女』とて今の身分を甘んじて受け入れたわけではない。無論、何度も反抗を試みた。が、すべてが徒労に終わったのである。

 神話がそれを赦さない。民衆がそれを認めない。忌まわしき最高神の妻であれ――と、『彼女』を征服者どもが定めた鋳型に強引に押し填める。

 『彼女』こそが至高の神である――と、跪き崇め奉った民たちは、歴史の重みに押しつぶされ、儚く消え失せた。残ったのはその残骸のみである。

 『彼女』の古き神話は、余すところなく完全に新たな神話へと組み込まれてしまった。

 『彼女』の示してきた誇り高き「反抗」の数々は、そのことごとくが最高神への「嫉妬」と心得違いも甚だしい勝手な解釈へと貶められ、更なる神話の土壌と化した。

 この神話の中に身を置き続けている限り、胸を焦がすこの怨讐を晴らすことは、永遠に叶わない。そう、今までは……

 だが、ひとたび忌まわしき神話の中から抜け出す機会が巡ってきた今このとき、果たして自分はどう振る舞うべきなのか。

 すべてを赦し、忘却し、不死の領域に満ち足りた、この永遠の安らぎに包まれ、眠り続けるべきではないのか?

 ――否、否、否、そんなことは不可能である!

 なぜなら『彼女』は思い出してしまった。自分の神話(カラダ)が穢されたという事実を。あの刻の屈辱を。あの刻の憎悪を。

 そうである以上、二度と以前の自分には還れない。いや、還るつもりなど毛頭ない。

 自分を犯した野卑なる男神どもに復讐を。己の民を殺戮した英雄どもに鉄槌を。『彼女』をこのような身に貶めた世界に災いあれ!

 現世に具現化した祭具から流れ込んでくる下界の不浄なる空気に触れて、『彼女』が穢れていく。狂っていく。堕ちていく……

 かくして、一柱の『まつろわぬ神』が今まさに降臨せんと、胎動を始めた。

 

 

              †          ☯

 

 

 神具ヘライオンの前――神無月宗一郎とサルバトーレ・ドニは、剣術界屈指の名勝負が嘘だったかのように戦闘の開始時とまったく同じ位置において、両者再度対峙していた。

 先程まで騒々しかった地下遺跡の空間に、再び静寂が舞い戻る。だが、それは一時の間に過ぎないことは、この場にいる全員が解っていた。

「――そろそろ、身体も良い感じで温まってきた頃合いだし、ここからは、戦いのレベルをもう一段階上げてみようよ、宗一郎!」

 そう嘯くと同時にドニの右腕から白銀の光が輝き放つ。剣の王が所有する最強の権能。その準備が始まったのだ。

 神々しい白銀の輝きが、薄暗い地下空間を席巻する。いまやドニの右腕は、血肉が通った人間の腕ではなかった。金属造りの腕。その精緻な拵えは人工物ではありえまい。

 それもそのはず、かの銀腕は神造鋳造された神代の品に他ならない。

 ドニの右腕は、手に持つ長剣を白銀に染め上げ、ただの駄剣を神代の剣へと変える。銀の腕で振るう“得物”に、形在るもの悉くを断ち割る、神威を授ける。

 それこそサルバトーレ・ドニがケルトの神ヌアダより簒奪した権能――『斬り裂く銀の腕(シルバーアーム・ザ・リッパー)』である。

 対して、宗一郎もまたそれに応じるように、両手に握る長刀を意識して精神を集中させる。呪力が怒涛の勢いで長刀に注ぎ込まれるや、その刀身が燐然と赤く輝き、白銀(ドニ)に負けじと空間を紅蓮に照らす。

 神無月宗一郎が密教における明王の一尊――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を倒して得た『聖火』の権能。邪悪を打ち破る破邪顕正の炎を長刀へと封じ込めて、人剣を神剣へと進化させたのだ。

 奇しくも両者、人造物から神造物へと造り変えた得物を手に執り、相対する。

「へえ~、これから先は、流石に今までのような剣術勝負は無理だと思っていたんだけど、どうやら僕の考え過ぎだったみたいだね。これは嬉しい誤算だよ」

 そう言って、本当に嬉しそうにドニは双眸を輝かせて、宗一郎の長刀を見やる。

 さりとて宗一郎は何もドニの期待に応えてやるために、権能を行使したわけではない。

 敵が晒した権能――金髪の剣士が持つ白銀の剣の威力を正確に推し量ったが故に、彼も自らの得物を権能にて強化せざるを得なかったのだ。

 普段は権能の使用を躊躇する宗一郎であるが、それは相手が神々に限ってのこと。純正の神殺しである宗一郎にとって、神以外の敵まで「真剣勝負」に拘泥する理由はない。

 ましてや、いま宗一郎の眼前にいる敵は、『まつろわぬ神』との戦いを邪魔する障碍物に過ぎない。それを排除するために、全力を尽くすことを躊躇う道理がない。

「さっきは、僕から仕掛けたからね。今回の先手は宗一郎に譲るよ。――さあ、何時でも撃ってきていいよ!」

 傲然とそう言い放って、ドニは神剣を下方に向ける。千変万化の構え――無形の位。

 対して宗一郎は、

「そうですか、では――有り難く、もらっておきます……ッ!」

 その言葉と共に白装束を翻し疾走した。

 相も変わらずこの死合いを心底から興じる腹のドニとは裏腹に、宗一郎にはそのつもりなど毛頭ない。その心胆にあるのは、戦闘開始時と変わらぬ思い、すなわち、可及的速やかに障碍物を排除する一念のみ。

 故に、最速の剣にて決着をつける!

 轟音。ここが地下であるにも拘らず、まるで天空から雷が降り注いだかのような怪音。

 ――それが、ただ独りの人間の踏み込む足音であるなどと誰が信じようか。

 激烈な震脚と同時に大気の絶叫。逆巻く風と共に巻き上がる砂埃を背負い、宗一郎はひた走る。生身の人間では到底為し得ることが叶わない、音速を超えた超高速の歩法。

 だが宗一郎には解っていた。この程度ではあの最強剣士の“目”から逃れられることなど叶わぬことを。

 故に、もう一手工夫する。

 金髪の剣士の間合いに突入する寸前、宗一郎の身体がやおら真横に流れる。まるでダンス会場で踊っているかの如き、軽快なステップでもって、微塵も速度を減じることなく瞬く間にドニの背後へと廻りこむ宗一郎。

 直進すると見せかけて、急旋回による背後取り。

 虚と実が入り混じった宗一郎流――幻惑の歩法。たとえ、達人の域に達した武術家といえど、碌に反応できないまま斬り伏せられたことだろう。

 だが――

「無駄無駄~。その迅さも権能に因るものなんだろうけど、アレクや護堂ほどのスピードは無いみたいだね。でもその分、君の技が入っているから、あの二人よりは見物だったけど、やっぱりその程度じゃあ、僕の“目”からは逃げられないよ、宗一郎!」

 サルバトーレ・ドニは、只の達人に非ず。神を屠った最強の剣士である。己が刃圏に侵入した形あるモノを悉く切り刻み、無に帰していく。

 故にこのときも例外ではない! 

 白銀の剣が閃く。自らの背後に侵入した敵を両断せんと横一文字に斬光が輝き放つ。狙い過たず神剣は白い影を斬り裂いた……

 眉を顰めるドニ。手に何の感触もない。どうやら逃したらしい。まったく敵ながら天晴な軽功術である。が、些かの問題もない。なぜなら、彼の“心眼”は完全に敵の姿を捕捉している。

 上だ。裁断される直前、上空に跳び上がって難を逃れたらしい。それのみならず、おそらくは天井を蹴り上げて上空から強襲を仕掛けてくるつもりなのだろう。そうと見切ったドニは、顔を上向けて、余裕を以って手元に剣を引き寄せる。

 宙を舞う宗一郎を視界に収めたドニは、ふと違和感を覚えた。

(高さが足りない……?)

 この地下遺跡の天井高さは六メートルを超える。だが宗一郎の跳躍はその半分ほど。すでに勢いが失速しているところを見ると、あれが限界地点なのだろう。

 しかし、それはあり得ないはずだ。敵が軽功術の達人であることは、とっくにこの戦いで証明されている。ならば、六メートルの高さ程度、跳び上がれない筈がない。

 ドニの直感が、けたたましく警鐘を鳴らす。

 それを証明するかのように、宗一郎の身体が旋転、天地を逆転させながら、双眸ははっきりとドニを見定めていた。

 そこから繰り出される脚。本来何もない空間を薙ぐばかりの脚は、だがそのとき、確かに虚空を蹴って(、、、、、)、ドニ目掛けて襲い掛かってくる!

 これぞ神無月宗一郎が北欧(アイルランド)の英雄神クー・フリンを倒して得た飛翔の超権。宗一郎第三の権能――後に賢人議会が名付けることになる『跳躍の奥義(ザ・ジャンパー)』である。

「!?」

 瞠目するドニ。物理法則は嘲笑う、その挙動にさしもの彼も半秒対応が遅れた。そこに凄まじい勢いで魔鳥と化した宗一郎が獲物を喰らうが如く、上空からドニを強襲する。

「ぐっ」

 防ぐドニの総身には、位置エネルギー、脚力、剣撃その他諸々プラスされた超エネルギーの塊が牙をむく。

 踏みしめる地面が同心円状に罅割れ、パワーに屈して膝がガクリと下がる。片口には、敵の切っ先が喰い込んでいる。だがそれでもなお、ドニは全身の力を総動員して押し返さんと更なる力を剣に込める。

「……?」

 上空から床面に着地した宗一郎は、訝しげに眉を顰めた。

 彼の紅蓮の長刀は、敵の右肩に刃先を喰い込ませている。だがそこまでだ。それ以上ビクとも動かない。

 都合三手工夫した連続攻撃は、見事に嵌り金髪の剣士に渾身の一撃を見舞うことに成功した。が、本来なら敵を一刀両断してしかるべき威力が秘められていたと言うのに、なぜか彼はピンピンしている。

 与えた傷も掠り傷程度だろう。生命どころか今後の戦闘行為にも何ら支障はあるまい。

 怪異である。あり得ない出来事であった。理解が及ばぬまま、更なる異常が宗一郎を襲う。

剣先から届く感覚がおかしい。人体を切り裂いたにしては、あまりに硬すぎる(、、、、)

「……っ。これは、まさか!?」

 ようやく理解が追いつき瞠目する宗一郎。

「やあ、その様子じゃあ、もう気が付いたみたいだね。そうさ、僕の身体はちょっとばっかり頑丈なのさ。だから大抵の攻撃は簡単に弾き返せちゃうんだ。でもこの権能は君相手じゃあ卑怯かな、って感じていたから使うのは止めとこうかな~と思っていたのに、なんか強引に使わされちゃったみたいだね」

 それが余程嬉しかったのか鍔迫り合いの中、互いの刃越しだと言うのに、ニヤリと笑いかけてくるドニ。

(やはり、鋼の肉体……!)

 厄介な、と胸中で舌打つ。

 その動揺が刀の勢威を削いだのだろう。僅かな隙を見咎めたドニが、右脚を跳ね上げて、宗一郎の左脇腹を激しく打擲した。彼の身体は、まるでサッカーボールのように後方の壁まで撥ね飛ばされる。

 強かに背中を遺跡の壁に叩き付けられる宗一郎。だが派手に吹き飛ばされた見た目ほど手傷は少ない。咄嗟に蹴り技が直撃する寸前、ダメージを軽減するために、自ら後ろへと跳んでいたからだ。

 思いのほか後方に流されたのは、ドニの蹴りが想定以上に重過ぎたためだろう。肉体を硬化すると言うことは、攻撃にも転化でき得るということである。

 ぐらりと、よろけつつも宗一郎は、前へと進み出る。

 正直に言うと戦況は厳しい。敵が有するのは、剣士殺しの鉄壁の肉体。

 だが絶体絶命と言うには程遠い。それは、あらゆる呪術を焼き祓う『聖火』の権能たる破邪顕正の炎が、敵の権能に対して明らかに効果を発揮しているからだ。

 宗一郎の剣撃は結果的に皮一枚切り裂いてだけで止まったにせよ、それは『鋼』の権能の効果というより、ドニの剣の技量によるところが大きい。

 彼の感覚では、防御されなければ、両断は出来ずとも、肩の骨までは断っていたはずである。後二撃、いや三撃――同様の箇所を責め立てれば、確実に致命傷を負わせられるだろう。もっとも、それを簡単にさせてくれる敵ではあるまいが。

 また敵の銀剣においては、致命打はもとより有効打を貰っても不味いと、直感が宗一郎に警告していた。アレはクー・フリンの得物と同種の『魔剣』であると。

 ただでさえ、宗一郎は相手より剣の技量が劣っていると言うのに、それだけでなく、攻撃力、防御力ともに劣悪であるらしい。

 無論、その程度で動じる宗一郎ではない。何よりスピードでは明らかにこちらが優劣しているのだ。

 ならば、軽功を駆使して戦場を縦横無尽に駆け巡り、敵を翻弄してしまえばいい。いかに敵の攻撃力が優れていようと、被弾しなければゼロに等しい。敵の防御力とて『聖火』の権能が有効に働くのであれば、必ずや勝利の展望も見えてくるだろう。

 斯くして三度、神具ヘライオンの前にて対峙し合う宗一郎とドニ。

「本当に愉しいねえ、宗一郎」

「後が閊えているんです。さっさと死んでください」

 どこまでも相いれない言葉を交わしながら、両者ともに必殺を期して業を繰り出さんと隙を窺っている。濃密な闘気が立ち込め、空間が軋み上げる。

 そのとき――

 

 

『実に良き立会いです。わたしも感服しました、勇者たちよ! 褒美をとらせましょう、疾く我が元に馳せ参じなさい!』

 

 

 不意に凛とした麗しい美声が地下遺跡に響き渡る。

 その瞬間、ヘライオンから莫大な呪力が間欠泉のように噴き出す。そのまま呪力は眩い青緑(エメラルドグリーン)の閃光を纏い、地下遺跡の天井を突き破って、地上へと奔流となって流れ出していった。

 間違いない、神だ。宗一郎の魔王としての本能が、声の正体を直ちに報せてきた。ついに待ち神が顕れたのだ! 

 事此処に到って、もはやこの場に止まる意味はない。すみやかに『まつろわぬ神』を追い駆けなければならない。

 ところがどっこい、そう問屋が卸さないらしい。

 ヘライオンから湧き出した閃光が地上へと噴出した直後、地下遺跡の天井が崩れ落ちてきたのである。

 いまは細かい破片がパラパラと舞う程度だが、直に呪力の奔流が押し流した地下遺跡から地上まで覆っていた岩石群が、降り下りてくるのは明白だ。

 神が出ようが出まいが、こんな場所さっさと脱出するに限る。

 ――とそこで宗一郎は、ようやく思い出したのか、リリアナ・クラニチャールを見やる。彼女も一緒に連れ出した方がいいだろう。まあ、その……知らぬ仲でもない。自分が付いていながら、こんなところで生き埋めにさせるのは気が引けた。

 そう考えていたのだが、どうやらそれは大きなお世話であったらしい。

 宗一郎が見守る中、突如女騎士の細い体躯を青白い光が包み込や否や、瞬く間に地上へと駆け昇っていってしまった。

 以前宗一郎も世話になった魔女術のひとつである<飛翔>の術だろう。

 あっけにとられて見送るしかない宗一郎。この混沌とした状況の中でありながら、彼女の冷静な対応力は見事という他ない。が、一切言伝なく置いて往かれた宗一郎としては、何となく釈然としない心持ちだった。

 とはいえ宗一郎もこんな崩落現場で茫然としている場合ではない。彼も『跳躍』の力を行使する。

 この権能は三界――即ち陸、海、空を遍く己の足場として、自由自在に駆け巡る力を与えてくれる。

 また、脚力、瞬発力が急激に上昇し、神速には及ばぬものの、人間離れしたスピードで疾走することも可能なのだ。

 故に、若き神殺しは、ときに落ちてくる岩盤を足場とし、ときに何もない虚空を蹴って、先に跳び出した騎士に追随するように疾駆する。

 ――そして、宗一郎はナポリの海辺において、全長三十メートルに及ぼうかというほどの大怪獣と対峙した。

 青緑色の鱗に覆われた竜。大都市の港の上空で巨大な竜が翼を威圧的に広げ、下界の街並みを凄然と見据えていた。

 竜を見上げた宗一郎は、喜悦の笑みを口元に刻む。

 あの竜はただの神獣だろう。だが依然、彼は神の気配を感じ取っていた。と言うことは、いまだ姿を顕さない『まつろわぬ神』の正体は、地母神に違いない。竜即ち、『蛇』は鋼の英雄に屈した地母神の零落した姿に他ならないのだから。

 どうやら久方ぶりに狙っていた獲物にあり付けそうだ。今日は随分と紆余曲折を経てきたものの、最後には幸運で締めくくれそうである。

「いやー、すごいね。あの柱から本当に竜が出てくるとは思わなかったよ。ビックリだ。でも、神さまは何処に行ったのかな? 間違いなくいるはずなんだけど……」

 戦意も新たにしていた宗一郎の背後から、そんな暢気な声が聞こえてきた。

 サルバトーレ・ドニである。彼もまたあの崩落現場から無事に生還を果たしたらしい。まぁ驚くに値しない。あの鋼鉄の肉体の前では、岩石の塊が降ってきたところで、小雨同然だったに違いない。

「……神無月宗一郎、サルバトーレ卿! 先程までのお二人の振る舞いゆえに、このような事態に発展したのです。少しはご自重くださいっ」

 と今まで呆然と立ち尽くして竜を眺めていたリリアナが、苦言を呈してくる。

「ごめんごめん。責任もって、僕たちで何とかするよ。……でも結局決闘の決着がつかないまま、君の言った通りに神さまたちが降臨しちゃたけど、こうなった以上、どっちが先に神さまを倒すのか勝負しようか、宗一郎」

「はい、それで構いません。サルバトーレさん」

 まずもって「このような事態」を望んでいた宗一郎に自重を求めるのは不可能に等しいし、その上口にした言葉とは裏腹に彼は、今度ばかりは「勝負」するつもりなどさらさらなかった。

 神討伐の邪魔になるようなら、背後からでもドニの頭をかち割る算段だった。

「いやだなー、宗一郎。だからドニで言いってば~。地下深くであんなに熱く語り合った仲じゃないか、水臭いよ」

 金髪の青年の戯言を聞き流して宗一郎は、竜を見上げる。その双眸にはかつてない闘志が燃え立っていた。

「おやめください、お二方! この土地の精気を凝縮して生まれた神獣を倒されたりしたら、この近隣一帯の霊脈が枯れてしまうかもしれません。危険すぎます!」

 女騎士が何かを叫んでいるが、宗一郎もドニも共に聞く意志はない。

 リリアナとっては、はた迷惑この上ないだろうが、出会って初めて両者の意見が見事に一致した歴史的瞬間であった。

 まさかそれを待っていたわけでもなかろうが巨竜が動いた。

 咆哮が轟く。

 竜の怒号が戦いの開始を告げる鐘となって、ナポリの夜気を激しく震撼させた。

 同時に、強烈な呪力が竜の巨体から迸る。

 騒めく波の音。そのリズムが次第に激しくなっていく。静かな夜の海がまるで台風でも上陸するかのように刻一刻と荒れ果てていく。

「ふふん、少しばかり波を強くしたからって、どうだっていうんだい?」

「すこしばかりではありません。あれをご覧ください!」

 宗一郎には見なくとも、状況を完全に把握していた。だから、彼は海ではなく余裕綽々に構える金髪の青年の空の手をそっと見やり――ほくそ笑んだ。

 それで宗一郎は竜の、いやあの神獣を使役しているだろう『まつろわぬ神』の狙いを看破した。

 いま剣の王の手には、その異名の代名詞とも言うべき神剣が握られていない。おそらくは地上に脱出する際に取り落としでもしたのだろう。

 あれでは、これから起こり得る「異変」に対処できるかどうか。そして、それこそがいまだ見ぬ神の意図することに違いない。

 『まつろわぬ神』はターゲットの選別を行おうとしている! 

 さしもの強壮にして無双なる神といえど、魔王ふたりを相手取るのは嫌ったのかもしれない。「異変」を引き起こして、ひとりを脱落させてしまう腹なのだろう。

 “剣の王”の異名の通り、あの金髪の剣士の最強の攻撃手段は、地下遺跡で目にした神剣に違いない。

 あの白銀の剣を失えば、宗一郎をして甚大な脅威と判断させしめたあの攻撃力は見る影もなくなるのではないか、彼の直感がそう囁いてくる。

 ならば、あの神獣が生み出す「異変」を切り抜けられるのは、この場においては自分しかいない。

 やはり神は自分を選んだのだ。

 宗一郎は恍惚とした表情で胸の奥から湧き上がる甘い痺れに全身を震わせた。なんたる愉悦。なんたる悦楽か。

 今日までの苦難はいまこの瞬間のためにあったとするならば、宗一郎は天のこれまでの理不尽な行い、そのすべてを赦し受け入れよう。

 果たして、歓天喜地の至境に達した宗一郎の察した通りに、「異変」たる大津波がナポリの波止場に押し寄せてきた。

 この季節、常に穏やかなナポリ内湾に到来する筈のない、大自然の猛威が迫りくる。

「ふん、こんな波くらい僕の剣で……って、しまった! さっき地下で落っことしたんだっ。ち、ちょっと待った! もっと正々堂々戦おうよ、ねえ!?」

 この期に及んで、ようやく自らの剣を消失したのに気が付いたのか、ドニは大きく訴え、同じく何かを叫んでいるリリアナ、そして陶酔の面持ちで巨竜を見詰める宗一郎共々大海嘯に呑み込まれ、夜の海へと押し流されていった。

 




リクエストがあったので、一応。




神無月宗一郎の権能
 光炎万丈(ファイアーストーム)
 神無月宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した最初の権能。
 烏枢沙摩明王とは、古代インド神話において元の名をアグニと呼ばれた炎の神であり、この世の一切の汚れを焼き尽くす功徳――即ち、不浄を滅する聖なる炎を生み出すことが出来る。
 その能力は、呪詛や魔術の類の力を焼き滅ぼす破邪の力。とはいえ、普通の物質も取りあえずは燃やせるものの、絶大な対魔力を有する『まつろわぬ神』やカンピオーネ相手には、まったく効果がない。
 ただし、『蒼い火焔』という地上を焼き払うための攻撃形態が存在する。これは仏の教えを信じぬ者にのみ振るわれる力であり、一度行使されるや、物質魔力の区別なくすべてを焼き滅ぼす憤怒 の一撃を顕現できる。だが、これを行うと半日ほど、この権能は使用不可になる。


神殺しの刃
 神無月家が数百年の果てに研鑽し続けてきた窮極の秘術であり、正確には権能ではない。
 その術理は、人類最古の呪術のひとつたる感染呪術の秘奥。
 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した権能『光炎万丈(ファイアーストーム)』を使用して聖なる(ほのお)を創造し、そこに敵対する神の血液と敵対する神の知識をくべて造り上げる、神の神格を斬り裂く呪いの刃。
 あくまで神を殺す刃金であるため、その能力の特性上カンピオーネ相手には発動しないが、対象とした神には絶大な威力を発揮する。ただし、完全発動には時間が掛かり、実戦では仲間の援護が必要不可欠。


輪廻転生(リィンカーネーション)
 神無月宗一郎が地母神デメテルから簒奪した第二の権能。
 死してもなお、蘇える不死の力。発動すると数時間後、植物が咲くように地面から生きたまま顕れる。死亡時は地面に吸い込めるように消える。
 復活時は完全復活――直前の戦闘の傷はもとより戦闘とは関わりのない古傷さえ消し、まるで生まれたように肉体を再生させる。のみならず、使用が不可能だった権能すらすぐさま行使可能になっている。
 蘇生時間により権能の掌握具合が分かってしまい、人間離れの度合いを自覚させるため、護堂同様、宗一郎もまたこの権能をあまり使いたがらない。
 

跳躍の奥義(ザ・ジャンパー)
 神無月宗一郎がケルト神話の英雄クー・フリンから簒奪した第三の権能。
 城壁を軽々と飛び越える驚異的な跳躍力を得るだけでなく、空や海もまた自在に駆け巡ることも出来る。生身のままアストラル界への『跳躍』も可能。
 脚力、瞬発力が急激に上昇し、神速には及ばぬものの、人間離れしたスピードで疾走することも出来る。
 護堂の『駱駝』同様、打突部位に呪力を集中させて、打撃の威力を爆発的に高められる。さらに加えて、宗一郎の体術の腕も合わさり、その一撃は、『駱駝』以上に神の肉体を爆裂させる超必殺技の域に達している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話 ギリシアの神々と日本の魔王たち

 視界に陸地と街の明かりを見出したとき、草薙護堂は心底安堵した。

 夜の海は終始穏やかであったものの、いま護堂が搭乗しているヨットの操縦者の文字通り妖しすぎる操縦方法を目撃してから、乗船中、常に気を揉んでいたのである。

 今このヨットは動力に風力や専用エンジンの助けを借りることなく、同乗者兼操縦者でもある女神アテナのスーパーパワーによって、稼働していていた。

 素人目にもはっきりと解るほどに、このヨットの設計最高速度を超過しているだろう常識外れのスピードで航行するものだから、護堂は乗り込んだ当初から肌が粟立ち、引きつった笑みを浮かべて棒立ちになることしかできなかった。

 何はともあれ、夜も更けていたためか、幸いなことに他の船舶に出くわすこともなく、平穏無事に航旅を終えられそうである。

 この分なら新しい都市伝説の類が創られる心配は、ひとまずないだろう。

 そのすべての元凶であるアテナといえば、相変わらず操舵輪など見向きもせず、昂然と胸を張って甲板に直立して、何やら思案気な面持ちで陸地の街を見据えている。

 それを見た護堂は安心するのはまだ早すぎたと、己を戒めた。

 どうやら女神さまの目的地は、あの陸地に見える港街であるらしい。遠くから目にする限りでも、かなりの規模の大都市であることが察せられた。

 断じて災厄の化身たる女神アテナを上陸させていいわけがない。それは、二ヵ月前の東京の騒動に思いを馳せれば、火を見るよりも明らかだろう。

 とはいえ、現状護堂が取り得る選択肢といえば、こうして女神アテナと大人しく呉越同舟を決め込むしかない。

 と言うのも、現時点での草薙護堂とまつろわぬアテナの戦闘能力の比較を試みれば、彼が圧倒的に劣勢であるからだ。

 それを誰よりも弁えている護堂は、常時填めている偽善の仮面の内側にある本当の貌、その冷徹な獣の部分が、いまは静観を決め込むべし、と言う主張に、彼は忠実に従っていた。

 残念ながら我が内なる声は、今こそ戦え、とはやはり言ってはくれないらしい。

 かつて少年野球界の勝負師のひとりに数えられたこともある護堂である。その誇りにかけて絶対に勝てない戦いを仕掛けるつもりはない。

 となれば、現状維持という結論に為らざるを得ない。深い嘆息とともに、護堂は思考を切り替えた。勝負を挑まないのなら、とりあえず、いまは『敵』の目的を探ることから始めるべきだろう。

「……でさ、あそこは一体どんな場所なんだよ? 何てところだ?」

「ふむ? さて、どこであろうな。知らぬ」

 と、あっさりと切って返されてしまった。

 嘘や韜晦の類でないことは、そのぞんざいな言葉使いで容易に察された。

「妾に訊くな、草薙護堂よ。妾はただ風の導きに任せて船を走らせたに過ぎぬ。そもそも旅とはそういうものではないか。吹きゆく風に身をゆだね、足の向いた方角に進み、気まぐれと言う天啓に従うのみ。雲が天を往くがごとくにな……」

 女神さまは何やら風流な言葉を口にしていらっしゃるが、護堂の心には少しも響かない。現代日本人である護堂の感性から見れば、そんな人生観の持ち主など只の暇人しかいないのである。だが――

 状況が変わったのは、そのときだった。

 港の一隅から、青緑色(エメラルドグリーン)の煌めきが天に向かって伸びていく。

「何なんだ、あれ?」

「ほう。何者かが大地の霊脈を不用意に刺激したものと見える」

 護堂とアテナがヨットの上で見守る中、青緑色の光の塊は、見る見るうちに凝固していき、果てには……竜の姿を象っていく。翼長数十メートルの巨大な怪獣が、大都市の上空を悠々と飛行している。

「……やっぱり、あれも何かの神さまなのか?」

「いや、あれは神獣の類であろうな。ただあの場から何やら懐かしい気配がするが……」

 アテナは怪訝な眼差しを青緑色の鱗を持つ巨竜に向けた直後――今度は雷光にも似た煌めきが何処からより飛来して、街中へと舞い降りていく。

 護堂の視覚野に誤作動が生じていないのなら、あの謎の飛行体は、まるで巨竜を追い求めるような軌道を描いていたように見えたのだが。

「……俺、すごくイヤな予感がしてたまんないぞ」

「どうやら妾の予感は当たったと見える。少々厄介な神が今、地上に降臨したようだな。……いや、そればかりではないようだ。ふふ、喜ぶがいい、草薙護堂よ。どうやら、あなたの同胞があの地にいるようだぞ。そして妾の懐かしい同胞の存在も、な」

 「えっ!?」と驚く護堂を尻目に、アテナは面白いことになりそうだと、呟くと神力を振るいヨットを、物凄い速さで陸地へと近寄せていく。

 

 

             †          ☯

 

 

 ズブン、と神無月宗一郎が海中に埋没した自分の身体を、なんと海面の上で踵を打ち鳴らしながら引き上げてくれた。『跳躍』の権能を有する彼にとって、どんな悪路といえども、歩を踏み鳴らす路と化すのだろう。

「あ、ありがとうございます。神無月宗一郎」

 ずぶ濡れで呆然としながらも、リリアナ・クラニチャールは礼を口にした。

「いえ、お気になさらないでください、リリアナさん」

 そう言って、宗一郎はリリアナの細い腰にするりと腕を回して、まるで荷物を携えるように彼女の身体を、ひょいと抱え上げた。

「ちょ、ちょっと待ってください。わたしなら大丈夫ですからっ」

 驚愕と羞恥に頬を赤らめつつも、リリアナは精一杯抗議する。

 どうやらかなり沖まで流された感があるものの、彼女の心には一切の不安の念はない。自然干渉の魔術行使は魔女たるリリアナの専売特許である。独力でもナポリへの帰還は可能だ。

「だから、気にしないでくださいと言ったでしょう。それに僕の方が速いですよ」

 そう断じて宗一郎は、水面を長靴(ブーツ)で蹴る。

 瞬く間に、途方もないスピードで疾走する。彼が海を踏み締めるたびに、水面に波紋を刻み、飛沫が散る。

 この力は間違いなく、二ヵ月前にクー・フリンから簒奪した権能によるものだろう。

 <水上歩行>の魔女術はリリアナとて心得があるものの、これ程の速度で水面の上を駆けることなど、流石の彼女でも不可能だ。

 おそらくは時速百キロを上回るスピードで疾走しているのではあるまいか。それに、この速度域でもまだマックススピードには程遠い、と魔女の直感が告げていた。最高速度ともなれば、この五、六倍増しは出そうである。

 紆余曲折を経たものの、神無月宗一郎が神を弑逆する現場に居合わせ、少なからず……いや、乙女として多大に貢献を果たし得た成果の結晶をこうして目の当たりにすると、何やら不思議な感慨が胸中に去来する。

 過去、神殺しの戦士に助勢して、『まつろわぬ神』討伐を成し遂げた偉大な先達たちもまた、いまリリアナが感じている思いを味わったのだろうか。

 とはいえ、その特別な感慨も荷物のように身体を小脇に抱えられ、持ち運びされている現状を鑑みれば、そんな思いも何処かに吹き飛んでしまいそうであるが。

 そうは言っても、別段お姫さま抱っこを切望しているわけでは決してない。

 しかし、窮状に喘ぐヒロインの許へと颯爽と現れて、快刀乱麻の如く彼女を救い出し、最後にはお姫さま抱っこで締めくくるヒーロー。それが様式美というものではないか。

 少なくとも、ヒロインがまるで荷物のように抱えられながら終わるストーリーなどあり得る筈がない。

 ……いや、もう現実逃避は止めにしよう。リリアナとて本当は解っている。何も終わってなどいないことを。

 そもそも宗一郎が彼女の身体に対して、こんなアバウト過ぎる扱いを敢行するのは、必ずしも宗一郎のデリカシーの欠如だけに起因するわけでないことを、リリアナは理解していた。

 敵がいるのだ。剣士ならばひとたび戦場に身を晒した以上、最低でも利き腕の自由を確保して置くのは、当然の作法である。

 事実、宗一郎の右手には、刀身を燦然と紅蓮に輝かせる灼刀が握られていた。襲撃を警戒している証である。

「……神無月宗一郎。サルバトーレ卿はどうなりましたか。それとあの竜は?」

 ようやく現状認識が追い付いたリリアナは、イタリア魔術界の盟主の安否確認と彼女たちが地下遺跡に安置していた神具から出現した神獣の動向について問うた。

「サルバトーレさんだったら、津波に呑み込まれた隙に、僕が蹴り(、、)……いえ、あっさりとそのまま海の底へと沈んでいかれましたよ。その後のことは生憎と知りません。あなたと違って助ける義理もありませんし。あの神獣なら……それはご自分の目で確かめた方がきっと理解しやすいでしょうね」

 蹴り……とは、何のことなのだろうか。ひょっとすると、神無月宗一郎はサルバトーレ卿に何か仕掛けたのだろうか? もっとも、あの“剣の王”のことである。そうそう一方的にやられっぱなしで終わるような男ではあるまいが。

 ――これは余談であるが、実のところ、宗一郎は竜に海中へと叩き落とされた直後、青い騎士ではなくサルバトーレ・ドニの許へと海水を蹴りつけながら真っ先に駆け寄った。

 それを目にした金髪の神殺しは、“親友”の献身に感動に打ち震え満面の笑みを浮かべて両手を差し伸べた。――が、宗一郎はそんな子供のような無邪気な顔をした同族の腹に、無情にも全力全開の蹴撃を食らわせたのである。

 理由は、もちろん、邪魔者の排除のため――である。瞬時の内に魚雷よろしく吹っ飛んでいったドニは、おそらくナポリ近海を抜け出して何処かの海流に乗って、あらぬ場所へと漂着することになるだろう。

 閑話休題――

 何はともあれ、いまはサルバドーレ・ドニの安否――どうせ心配するだけ無駄である――より、あの神獣の動向である。

 何より宗一郎の愉快気な語り口にリリアナは、訳も分からず背筋が凍りついていた。

 カンピオーネたちが戦場でこういう笑い方をするということは、リリアナたち一般人にとっては、碌でもない展開になっているということだろう。

 本音を言えば微塵も見たくなどなかったが、そんなわけにもいくまい。リリアナは意志力と背筋力を総動員して、宗一郎の腕の中から恐る恐る顔を上げた。

 すると、まず視界に飛び込んできたのは、あの竜の巨体。依然として、ナポリ上空に居座ったまま動く様子を見せない。

 ――いや、違う。動けないのだ(、、、、、、)

 夜の闇の中で煌めく稲妻が、巨竜を逃がさぬとばかりに取り囲んでいる。のみならず、雷光が青緑の鱗を持つドラゴンを打ち据える度に、怨嗟と苦悶の咆哮を上げる。

 巨竜が何者かの襲撃を受けている! 

 しかも、かなりの劣勢を強いられているようだ。リリアナの動体視力では、相手の動きがあまりに速すぎて風貌を把握できない。が、神獣を相手取り、一方的に蹂躙している以上、アレが『まつろわぬ神』の一柱であることは、間違いあるまい。

 一体、何処の神なのか?

「あの神は、陸地の街からちょうど東側の方角からやってきたようです」

 腕の内のリリアナの疑念を察したのか、宗一郎が少し前に目にしたことを話す。

(ナポリの東……ヴェスヴィオ火山か!)

 あの『まつろわぬ神』が、ここイタリアの地で『生と不死の境界』から直接降臨したのなら、ギリシア・ローマ神群由来の神である公算が高いが。

 あれこれと思案していると、再びサンタ・ルチア地区の波止場をはっきりと視認できた。宗一郎もそれに気づいたのか、ダン、と今までになく水面を強く踏み切ると、宙を滑空して、一足飛びで波止場の石畳の上へと着陸を果たす。すかさずリリアナは、宗一郎の腕の中から脱出して、自分の両足で地面に直立する。

 ほっと安堵する彼女と同時に、上空の巨竜はひと際甲高い絶叫を響かせて、波止場へ墜落してくる。

 大きな地響きを立て、墜ちる竜の巨躯。片翼は千切れ飛び、首は半ばまで断ち切られていた。まさに満身創痍の呈である。

 つい先刻、リリアナが目の当たりにした雄々しい勇姿など見る影もない。

 かくも短い攻防の末に、これほどまでに神獣を追い詰めるとは、果たしてどのような強大な力を有する神なのか。想像するだに彼女は戦慄を禁じ得なかった。

 そのとき――

「ハハハハ! 流石は大地の精だな、なかなかにしぶとい!」

 波止場に落雷が見舞う。

 激しい轟音と共に眩い閃光は、次第に人の姿を象り始めた。

 美しい青年だ。

 堂々たる長身に、純白の装束を纏わせている。右手には、刃渡り一メートルほどの刀身が鎌のように大きく湾曲した豪刀(ハルパー)

 王者の冠を思わせる豪奢な金髪と、端麗な美貌をさらに彩るように、双眸には紅玉の如き真紅の瞳が填まっていた。

 その眼差しが不意に炯々と輝き、こちらを鋭く睨む。

「ほう……少年――君は当代の神殺しだな。ふふ、それに何やら美しい乙女を伴っている様子。……ふむ、ひょっとすると其処な神殺しに拐かされでもしたのかな? 

 それはいかんな。だとするならば、私は英雄として振る舞い、是が非でも乙女を救わねばならん! 乙女よ、しばし待つが良い! かの『蛇』を滅ぼして後に、すぐさま駆けつけ、其処な『魔王』を打ち果たし、必ずや其方を救出して見せよう! その後は、我が侍女として召し抱えてやろう。古の我が妻、アンドロメダの故事に倣ってな!」

 そう高らかに青年神が嘯いた。

(我が妻、アンドロメダ……? では、あの『まつろわぬ神』の名は、ペルセウス!)

 ギリシア神話の蛇妖メドゥサを打ち倒し、その帰郷の途上において、エチオピアの王女アンドロメダを生贄に求めた怪物とも海辺で戦い、その首級を上げて、美姫を救った勇者。

 ヘライオン――地母神の聖なる印から溢れ出た神力が、仇敵である彼を呼んだのか。

 だがそれにしても、あの英雄神の支離滅裂な物言いはなんだ? まったく無茶苦茶にも程がある。

 無論、リリアナは宗一郎に誘拐などされていない。……いや、彼女の意思に反して強引にここまで連れて来られたのは事実であるが。これは誘拐とは言うまい、多分。

「――と言うわけだ、竜よ。後が控えているゆえ、手早く済ませようではないか!」

 やおら決然とそう宣告するや、青年神――ペルセウスは湾刀の切っ先を神獣へと傾ける。巨竜もまた地に伏せながら、それに応じるように、鎌首をもたげて仇敵を睥睨する。

 超常の者同士の戦いが再び勃発されようとする段に到って、リリアナは焦燥感に駆られる。

 あの竜はナポリ一帯の霊脈が凝り固まり、具象化した存在だ。

 万が一、あの神獣が滅ぼされようものなら、ナポリは都市としての命脈を失い、不毛の大地と死の海だけが残ることになるだろう。

 魔女の直感により、それを誰よりも痛感しているリリアナである。だがしかし、もはやあの英雄神の前で風前の灯火に等しい竜の命運を救い上げる力はない。

 ……いや、ある。それも自分のすぐ傍らに!

「神無月宗一郎、どうかお願いします。あの竜を助けてください! あれなる竜はこの土地の精から生まれた神獣。不用意に倒されてしまえば、この地の霊気が枯れ果ててしまうかもしれません!」

 騎士は必死に懇願する。

 そう、『まつろわぬ神』に唯一対抗できる存在に。

 そのカンピオーネたる宗一郎は英雄神の登場以来、ますます闘志を掻き立てられたのか、漆黒の瞳を爛々と輝かせ、ペルセウスを見詰めていた。だがその唐突な隣人の声に虚を衝かれ、驚いて顔を彼女へと向けた。

 交錯する漆黒の瞳と深青の瞳。一瞬の間。そこに、

「良いではないですか、兄さま。リリアナさまの『願い』、聞き容れてお上げなさっても」

 と宗一郎の真横から、まるで湧いて出たかのように、巫女装束の娘が現れた。

 彼の妹、神無月佐久耶だ。

 いきなりの出現に驚きつつも、リリアナは、警戒も露わに身構え、糾弾する。

「な、何のつもりですか、神無月佐久耶……っ!」

 二ヵ月前、この巫女の砂糖菓子のような甘い言葉に謀られ、痛い目にあわせられたリリアナとしては、彼女の思わぬ助勢には、警戒せざるを得ない。

「まあ、そのように仰られるとは、実に心外です。我ら神無月家の“盟友”たるリリアナさまは何やらお困りの様子。ならばこそ、貴方さまをお救いして差し上げたい。そのように思うのはごく自然なことではありませんか」

 清楚可憐な巫女、いや女狐は、穏やかにそう口にして微笑んだ。

 何が盟友だ! 白々しいにも程がある。カンピオーネの親族からそんな風に呼ばれて、歓喜するのは自分の祖父だけだ。

 リリアナにとっては、少しも嬉しい話ではない。

 もう騙されないぞ、とリリアナは険しい眼差しで佐久耶を射る。それを微笑みひとつでいなし、次いで巫女の双眸は、いまだ立ち尽したままの兄を映し出す。

「兄さま、先程から何を黙ったまま、突っ立ておいでなのですか。疾くリリアナさまの『願い』を叶えてきてください。……それとも、二ヵ月前にリリアナさまから受けられた『大恩』、よもや忘れたわけではないでしょうね」

 巫女は厳しい語り口で兄を叱咤した。

 宗一郎は、妹の言葉に心外だとばかりにかぶりを振る。

「もちろん、忘れてなどいません。ええ、解りましたとも。リリアナさん、あの竜を助ければいいんですね。……もっとも、その必要があるとも思えませんが」

 含みのある微笑を浮かべ、宗一郎はいまだ対峙したまま、動きのない竜と神へと視線を転じた。

「……確かにそうかもしれませんね。それにしても、兄さま。わたくしが少し目を離した間に、よくもまたこれ程の騒動を引き起こされましたね。どうして一か所に留まり、事態の推移を黙して待つ、たったこれだけのことが出来ないのですか?」

 巫女は何故かナポリ湾の方角を見詰めつつ、呆れたとばかりに深い吐息をついた。

「佐久耶、それは誤解です。僕は何もやましいことなどしていません!」

 と宗一郎は堂々とそうのたまう。

 嘘だ、サルバトーレ卿と決闘をしていたではないか。それも、神具の前で!

 その言葉が喉元まで迫上がってきたが、リリアナはぐっと何とか呑み干した。

 どうやら神無月宗一郎は、リリアナの懇願を聞き遂げてくれるらしい。ならば、下手な言葉をとって彼にへそを曲げられては困る。

 とはいえ、あの竜は間違いなく、仇敵たるカンピオーネたちの激烈な呪力と闘気の迸りに地母神の神具が刺激された結果、生じた神獣だ。

 そして、その神力に触発されて顕れた神こそ蛇殺しの英雄神ペルセウス。

 これら神話の住人たる『神獣』と『まつろわぬ神』が現出した原因は、議論の余地なく、極東と南欧のカンピオーネたちの馬鹿騒ぎによるものに他ならない。

 にも拘らず白々しく、しらばっくれる宗一郎(当の馬鹿の一人)を前にして、リリアナの胸の内では、憤懣やるかたない思いで煮えたぎっていたものの、まさかそれを(おもて)に噴き出すわけにもいかない。

 彼女はやるせない思いを、そのまま心中に仕舞い込み、それでもしかし、双眸は非難の色を多分に含んだ眼差しを向けることだけが、リリアナのできる唯一の身の処し方であった。

 そんな騎士の様子を見つめて佐久耶は、だいたいの事情を把握し、呆れた風にかぶりを振った。

「……兄さま、英雄神さまがそろそろ痺れを切らす頃合いでありましょう。あの神獣を救出するのなら、お早くなされてはいかがですか」

 確かにペルセウスは短期決戦を宣言するかのような勇ましい言動を嘯きながら、何かを警戒するように、いまだ竜と睨み合いを続けている。

 だがあの英雄神の性格を思えば、この膠着状態が長く続かないのは、明白だろう。

 宗一郎も同感だったのか、ひとつ頷くと長刀を握り締め、一歩進み出ようとした。

 その瞬間――

 

 

『そやつはわたしの僕です。それ以上の狼藉は赦しませんよ、忌まわしき英雄神!』

 

 

 凛然とした美しい女性の声が戦場に響き渡る。

 と同時に巨竜の足元――その石畳みが、ぐにゃりとまるで粘土のように歪み、噴き出しつつ、形を成し、女性の像を形取る。すると、青緑色の眩い閃光に包まれるや、ひとりの女性が、否――1柱の女神が神獣を英雄神から庇おうとするようにして現界する。

 髪は麦の穂の如き黄金色。瞳は豊穣と大地を想起させる青緑色(エメラルドグリーン)。鼻梁は高く、長身を純白のドレスで身を包み、清らかでありながら、威厳高い貴婦人である。

「ほう……この地に満ちていた荘厳な神気。その神獣のモノではないとは解っておりましたが、よもや御身であられたとは! 神々の女王――ヘラよ!」

 ペルセウスは高らかに女神の神名を謳い上げた。

(ヘラ……!)

 リリアナは心中で唸る。

 どうやら神具に祀られていた当の神が直接降臨したらしい。ともあれ、またしても厄介な存在が顕れたものである。

「いま私は、ペルセウスと名乗っております。ですから、御身のことを、『お義母上』とお呼び立てしてもよろしいですかな?」

 秀麗な美貌を不敵な笑みで刻みながら、ペルセウスはそう揶揄する。 

 ギリシア神話において、ペルセウスは最高神ゼウスとアラゴン王国の王女ダナエとの間に儲けられた半神半人の英雄として綴られている。

 一方、女神ヘラはそのゼウスの妻に当たる。

 なるほど一見ペルセウスは、ヘラを「義母」と呼ぶことに何ら不思議なことではないように思われるが……

「――無礼者! そのような戯言を、このわたしが赦すと思いましたか……!」

 ペルセウスの言葉によほど悋気を掻き立てたらしい。ヘラは柳眉を逆立てて、咆哮する。

 女神の怒りは当然だ。

 正妻が夫の不逞の末に住まれ堕ちた不義の仔を、認知することなどそうそうあるまい。

 ましてや、女神ヘラと言えば、ギリシア神話において、夫神の不逞を嗅ぎ付けるたびに、憎悪と嫉妬を浮気相手に或いはその不義の仔に振り撒いてきた、怨讐の神である。

 その不義の仔の一人たるペルセウス如きに、まかり間違っても「義母」などと呼ばせる筈がないし、それ以前に存在そのものが赦し難いに違いない。

「ハハハ! これは手厳しい。しかし神話のように、御身の僕を直接遣わし、敵対する者悉くを陥れ、苦しませる。それを高みの見物より、眺め愉しまれる。その陰惨なご気性は、些かもお変わりないご様子にこのペルセウス、たいへん喜ばしく思っております。――何と言っても、たおやかな乙女の首を刎ねるより、御身のような女人を斬り捨てる方が、遥かに心が痛みませぬからな!」

 神獣を放ったまま、一向に姿を晒さなかったヘラを、神話に喩えて嘲笑うペルセウス。

「神々に女王たるわたしに向かって、そのような侮辱……相も変わらずお前たち英雄は、野卑な連中です!」

 ヘラは軽蔑も露わに吐き捨てる。

 邂逅するや否や、罵詈雑言の応酬。おそろしく仲が悪い。

 だがそれは、当然なのだ。

 両者は――正確を期するならば、女神ヘラ、いや、ギリシア神群女神とギリシア神群男神に関しての確執は、ギリシア神話創造にも影響を及ぼすほど根が深い。

 それを識るリリアナは、両者の和解はあり得ず、敵対するしかないと解っていた。

 そして、彼女の傍らには更なる『まつろわぬ神』出現にますます闘志を滾らせる独りの神殺し。

 二柱『まつろわぬ神』と一人のカンピオーネ。

 今すぐにでも勃発しそうな風である三つ巴の超常の戦いを、どうすれば被害を最小限に済ませられるのか、騎士は背に冷や汗を掻きながら、必死に思考を巡らせる。

 だが、リリアナの現状認識はこの時点でもまだ見積もりが甘過ぎた。

 

 

「善き哉、善き哉――宴もたけなわというには、まだまだ早い頃合いと見える。どうやら妾たちは、間に合ったようだな」

 

 

 穏やかで威厳に満ちた、しかし明らかに幼い少女の声が割り込んできた。

 リリアナは反射的に声が聞こえた方角へと首を傾ける。そこには、波止場の一角から、こちらへと赴いてくる十代前半と思しき少女の姿があった。

 運悪く戦場と化した波止場に迷い込んでしまった場違いな女の子――ではあるまい。

 リリアナは彼女もまた『まつろわぬ神』だと確信した。

 月の雫で染め上げたような銀色に輝く髪に、夜を凝縮したかの如き深い闇色の瞳。強力な大地と闇の神性を感じる。

 地母神。それも、おそらくは女神ヘラに匹敵するほどの強大な神格の所有者だ。

 リリアナは新たに参戦してきた女神の背後にふと目をやれば、居心地悪そうにしている旧知の人物に気がついた。

「……草薙護堂? あなたがなぜ、こんなところにいるのですか!?」

「君はエリカの友達の……リリアナさん、だよな?」

 そう言って、草薙護堂は眼差しを彷徨わせると騎士の傍らにいた自らの同類の姿を見出し、驚愕する。

「お前は、神無月……!? 俺の同族ってお前のことだったのかよ!」

 二柱『まつろわぬ神』と一人のカンピオーネ? とんでもない勘違いだった。

 正しくは、三柱『まつろわぬ神』と二人のカンピオーネだ!

 いずれも劣らぬ超武力の所有者たち。五発の核爆弾が一か所に持ち込まれたようなものだ。ひょっとすると、ナポリは今夜、本当に灰燼に帰してしまうかもしれない。

 リリアナはあまりの絶望的な状況に押し潰され、悄然と肩を落とした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話 収束する逆縁

「草薙さま、お久しぶりでございます」

 険しい眼差しで己の同族を睨みつける草薙護堂に、神無月佐久耶は声をかけた。

 当の神無月宗一郎はと言うと、最初に護堂に名を呼ばれた以後、チラリと彼を一瞥しただけで、すぐに視線をこの波止場において、一堂に会した三柱の『まつろわぬ神』に戻してしまった。が、それ以降如何なるリアクションも起こしていない。

 さしもの彼と言えども、三柱もの神々が集結してしまった現状、迂闊な行動を起こすわけにもいかないのだろう。

 そこにきて、新たに現れたカンピオーネの動向も気になるに違いない。

 だからこそ、状況の変転次第では、即座に割り込みを仕掛けるべく宗一郎は、無言で集中しているのだ。

 とはいえ、それを今ここに来たばかりの護堂に理解しろと言うのは、無理があり過ぎたらしい。彼は無視されたと勘違いしたのだろう。むっ不機嫌顔で宗一郎を鋭く睨んでいた。

 そこに佐久耶の柔らかな声がかかり、僅かとはいえ怒りを解きほぐしたのか、

「あ、ああ、君は確か神無月の妹の……佐久耶さんだったよな」

 護堂は視線を佐久耶へと転じて低く呟いた。

「草薙護堂! ひとつお伺いしておきたいのですが、あの女神をナポリに手引きしたのは、まさかあなたではないでしょうね……!」

 その期を逃さずリリアナ・クラニチャールは、鋭く問い質す。

 護堂は大きく目を見開き、「そうか、ここはナポリだったのか」とポツリと零すと、

「逆だよ。あいつ――アテナが俺をここに連れてきたんだ」

 なぜか諦観の混じった声色で静かに答えた。

 よりにもよって、アテナとは! あの少女神を女神ヘラに匹敵する神格と感じ取ったリリアナの直感は、やはり正しかったようだ。

 それにまつろわぬアテナと言えば、目の前の七人目のカンピオーネがこの春に戦った相手ではなかったか。

 ともあれ、リリアナは手早くこちらの状況を護堂に伝える。

 騎士と魔王が情報交換を交わす中、三柱の同郷の神々たちは、静かに対峙していた。

 かと言って、このままただの「同窓会」で済ませられるとは、この場にいる誰一人微塵も信じていなかった。

「これはこれは、御身は天空神(ゼウス)の姫子、戦女神アテナであらせられるのか。それにまたしても神殺しが一人。古の大女神二柱に当代の神殺し二人。かくも多くの仇敵たちが一堂に会する場に居合わせられるとは、今宵の私の星の導きは余程良いと見える」

 まず火蓋を切ったのはペルセウス。

 偉大な二柱の大女神を前にしても、まったく怯むことなく、昂然とした佇まいに変化は見られない。

 それもかの英雄神の来歴を顧みれば、当然と言うべきか。

 ペルセウスはギリシア神話に際しては、数多いる半神半人の英雄の一人に過ぎない。が、別の神話においては、最高神の座を与えられた神々の王でもある。

 その神格は「古さ」はともかく、「高さ」においては、二柱と比較して些かも劣るものではない。

「――然り。このような『会』が設けられようとは、運命も粋な計らいをするものよ。いや、これもまた、かのパンドラめの謀なのかも知れぬが……ふむ、しかし真実が奈辺にあれど、これはこれで悦ばしい事態には違いない」

 アテナは智慧の神らしい深い洞察を指し示し、眉を顰めるも、すぐさまそれを吹き飛ばす快活な微笑みを浮かべる。

 戦女神たる彼女もまた雄敵との力の競い合いは、むしろ臨むところなのだろう。

「……随分と愉しそうですね、古き同胞よ。どうもあなたは、男どもが勝手に押し付けた神格(やくわり)に馴染みすぎているようですね」

 ヘラは冷やかな眼差しを、戦女神へと向けて苦言を呈した。

「うむ、古き同胞たる女神ヘラよ。確かに貴女の言う通り、地母神であった頃の妾には、存在しなかった戦女神としての神格。妾は思いの外、気に入っておる」

 とアテナは何ら悪びれる様子もなく、そう放言した。

 その言葉と態度にヘラは、まじりを吊り上げ、さも不快げに鼻を鳴らす。

 『大地』を擬人化した存在――地母神には、本来戦神としての神格は与えられていない。

 彼女たちは、あくまでも多産、肥沃、豊穣をもたらす神で、大地の豊かなる体現である。

 古代世界において、農耕の民が信仰していた生産を司る女神なのだ。狩猟の民が信仰していた戦闘を司る神が有する神格とは、本来相いれないはずだ。

 にも拘らず、古代世界において、かつて至高の地位の座にあった地母神たるアテナが、戦神の神格を有しているのは、彼女もまた己が民を狩猟の民に征服されたからに他ならない。

 時代が降るに連れて、地母神の神格は征服民の神話に組み込まれ、習合されてしまったのだ。

 そのため、いまアテナが有している戦神の神格は、征服民たちのごり押しによる結果、据え置かれた座に過ぎない。

 故に、アテナと同種の神話の流れを汲むヘラとしては、古い同胞の現在の境遇を従容として受け入れているさまには、忸怩たる思いがあるのだろう。

 何よりかの女神は、地母神としての神格こそを誰よりも誇りとしているが故に。

「……ですが、今その件について問うのはやめましょう。そこの英雄神の言ではありませんが、あなたと今ここで顔を合わせるとは、誠に僥倖という他ありません。さあ、アテナよ。神々の女王として命じます。わたしと共に神と人――双方の勇者たちの誅罰を下すために力添えをしなさい!」

 ヘラは傲然とそう言い放った。

「なっ!?」

 ヘラの言葉にリリアナは顔色を蒼褪めさせる。

 てっきり五つ巴のバトルロワイヤルが開始されるものとばかりに決め込んでいたのだが、まさか『まつろわぬ神』同士がタッグを組んで他の敵勢力駆逐を企図しようなどとは完全に想定外である。

 狂えし流浪の神にそんな理性が働くとは、想像だにもしなかった。

 しかし、よくよく思い返して見れば、両女神ともに古代世界において、並び立つ者なき至高の地位に就いていた大女神たちである。

 その後の神話の変転と凋落もまた似通った道筋を辿り、現在に到っている。

 ならばこそ、両女神との間には共通理解が成り立ち、共闘もまた可能になり得ると言うことなのか? 

 もし万が一女神同盟なるものが結成されたとしたら、戦況は極めて深刻な事態へと推移していくことになるだろう。

 勢力関係を数字で取り上げるなら、2対3に過ぎない。

 しかしそれは、「3の勢力」――『まつろわぬ神』一柱にカンピオーネ二人もまた共闘関係が成立していればの話。

 いわんや『まつろわぬ神』とカンピオーネとの間に協力関係を構築できる筈もない上、同族であるカンピオーネたちですら難事ときている。

 ならば、勢力関係としては、2対1対1対1――とする方が正しいだろう。

 こうなると、後はチーム・地母神相手に碌な連携も取れないまま、互い互いに足を引っ張り合った挙げ句、各個撃破されていく光景しか目に浮かばない。

 ギリシア神話における最も力を有する神々たち――すなわち、オリンポス12神。

 その中でも、最高神に匹敵する権限を与えられし神々の女王ヘラの提案、否、命令に自身もまたオリンポスの神々の一柱に数えられる女神アテナは、果たしてどう応じるのか?

 固唾を呑んで見守る中――

「古き同胞よ、貴女はどうやら思い違いをしているようだな」

 ――アテナは静かな面持ちのまま、そう答えた。

「……思い違い? アテナよ、それはどういう意味ですか?」

 アテナの言葉の意味を解しかねたのかヘラは、訝しげな眼差しを向ける。

「言葉通りの意味だ。確かに、この地に根付いている神話によれば、忌々しいことに妾は貴女の下位者に属する。神々の女王直々の命とあれば、従うのが道理。

 しかし、貴女も存じておろうが、そもそも妾の神話を遡れば、最も古き女神の一柱――すなわち、貴女と同格の神々の女王に当たる。そして、妾はすでにその神性を取り戻している。

 ならば、もはや貴女の命に服する義務はない。神々の女王たる妾に命じられる存在は、ただ妾のみよ!」

 地母神にして戦女神は、その幼い美貌に猛々しさを宿して吼えた。

 それを見たヘラは、忌々しそうに顔をしかめさせ、

「男どもが用意した戦神の椅子に満足げに座っているかと思えばこそ、かのおぞましい神話により与えれた『女王』の権限にて命じて見れば、今度は古き地母神の神格を楯にしてそれを突っぱねる。状況次第でコロコロと己の在り方を変えるとは、恥を知りなさい!」

 そう吐き捨てた。が、アテナはか細い体躯に女王の威厳を纏わせ、泰然自若の態でヘラの糾弾を撥ね退けた。

 とはいえ、かくいうヘラとて口ではギリシア神話をおぞましいと罵りつつも、その神話上の立場を利用して、ちゃっかりとアテナを自陣に引き込もうと試みているのだから、アテナを一方的に非難する資格はないと思われるのだが、どうにもかの女神にはその自覚はないらしい。

 もとより、狂神たる彼女たちの言動と行動に合理性を期待する方が間違っているのだろう。

 両女神はしばしそのまま睨み合いを続けていたものの、先に折れたのはヘラだった。

 女神は視線をアテナから逸らし、不機嫌そうに低く呟く。

「……アテナよ、確かに今の貴女からわたしと同格の神々の女王としての神格を感じます。ならば、その貴女に命を下した非礼は詫びましょう」

 が、すぐさま険しい眼差しをアテナへと戻す。

「ですが、わたしの味方に加わらないと言うのならまだしも、よもや古き同胞たるわたしと敵対するつもりではないでしょうね」

 それだけは、決して赦さぬと青緑(エメラルドグリーン)の双眸が冷やかに輝いた。

 これには、アテナも硬い相貌を崩して、苦笑を溢した。

「それもまた一興……と言ってしまうのは、あまりに不義理に過ぎような。この身は貴女の命に従う義務はないが、古き同胞を尊重する義理はあろう。まして、この場には地母神の仇敵どもが揃っているのだから、妾たちがいがみ合う理由はない」

 そう言ってアテナは、ぐるりと首を巡らし、周囲を見回した。宗一郎を、護堂を、ペルセウスを視界に収めると、最後に眼差しをヘラに戻す。

「しかし、あらためて見れば、どうにも神殺しどもの数に比べて、妾たち神の数は一柱あぶれるようだ。古き同胞たるヘラは、妾以上に猛っている様子。英雄神に到っては言わずもがな。となれば、ここは妾から身を引いた方が、ちょうど良い塩梅になりそうであるな」

 とアテナは殊勝にもそう呟いた。

「ほう、アテナよ。御身はこの場から退去するおつもりか? ここでこのペルセウスと神話の因縁に決着をつける絶好の機会だというのに?」

 アテナの言葉を聞き咎めたペルセウスは、口元を歪めて、挑発する。

「ペルセウスだと? ……ふん、この派手好みが。その名をわざわざ持ち出すとは、ふざけた男よ」

 忌々しげに吐き捨てたアテナであったが、不意に愉しいことでも思いついたのか、口元の端を吊り上げて、双眸は草薙護堂を射る。

「神殺しの魔王どもと英雄の軍勢は古来、決して相容れぬ逆縁の宿命を背負っているのであったな。……そこの鋼の勇士は、妾と古き因縁を持つ相手故、妾は自らの手で討ち取りたかったが、そうすれば、古き同胞が二人の神殺しどもの危険に晒される。となれば、妾が取り得る選択はひとつだけよな。――草薙護堂よ。思えば、貴方をちょうど鍛えるつもりであったところだ。喜ぶがいい。かの勇士は貴方に譲ってやろう。思う存分に戦うが良い!」

 戦女神アテナは、厳かにそう告げた。

「か、勝手に決めるなっ。俺は戦わないぞ……!」

 女神さまのお告げを、断固拒否する護堂。

 アテナはそんな護堂をじろりと睨みつけ、口元を歪めて嘲弄する。

「相も変わらず火付けの悪い男よ。だが良いのか、草薙護堂よ。妾は覚えているぞ。貴方は人間どもの都に塁が及ぶ事を酷く嫌っておったな? このまま妾と鋼の勇士が戦うとするなら、さぞやこの都に巨大な被害がもたらされることであろうな。貴方はそれを黙って見過ごすと言うのだな?」

 アテナは智慧の神らしい慧眼ぶりを発揮して、護堂の急所を抉る。

「くそ、滅茶苦茶言いやがって……」

 これには苦い呻き声を上げるしかない護堂。

 こう言われてしまっては、護堂には戦う以外の選択肢がない。彼は拳を怒りで握りしめて、強くアテナを睨み返す。

「草薙護堂よ。王として戦い、己の同胞らを見事守護してみせよ! これは未熟な貴方に妾が授ける試練と心得るがいい……!」

 護堂の戦う意志が固まったと見て取ったアテナは、満足げな面持ちで神々の女王の威を以って命じてきた。

「フフ、大女神たるアテナがこうまで目を掛けるとは、君はさぞや有望な戦士なのだろうな。――よかろう、ここは女神アテナに従い、この場における最初の標的は、君に定めよう!」

 ペルセウスは挑発するように、湾刀(ハルペー)の切っ先を護堂へと突き出した。

 嫌々ながら護堂もまたペルセウス相手に身構える。

 一連の顛末を黙して見守っていたヘラは、静かに呟く。

「古き同胞は去る決断を下し、英雄神は敵を見定めた。ならば。わたしの相手は……」

「――当然、僕と言うわけですね。地母神さん」

 ヘラの言葉に被せるように、同じく沈黙を守ったまま経緯を眺めていた宗一郎が言葉を発した。のみならず、ペルセウスと同じく長刀の切っ先をピタリと敵へと掲げる。

「……無礼な。神であれ人であれ、男という存在は、やはり野蛮に出来ているようですね」

 ヘラはすっと目を細めて、宗一郎を冷やかに見据える。

 と同時に瀕死の巨竜が唐突にその巨躯を解きほぐす。青緑色(エメラルドグリーン)に輝く粒子と化して、地母神の身体へと吸い込まれていく。

「思い出しました。お前はわたしの祭具の前にて戯れていた神殺しの一人ですね。

 ――良いでしょう、約束通り褒美を与えましょう。『死』と言う名の永遠の眠りを!」

 その言葉と共にヘラの全身から殺意が漲り、爆発的な神気が立ち昇る。

「くそっ。もう始めるつもりかよ!」

 それを見た護堂は、焦ったような表情を浮かべる。

 それも当然だった。護堂にとって、今のような予期せぬ遭遇戦ほど嫌なものはなかった。

 元捕手の経験からか、敵の戦力情報の蓄積が不十分なままの状況で、全力で敵とぶつかり合うのは、何としても避けたいところだった。

 それは効果的な対応策が練れないこともあるが、それ以上に護堂が簒奪した権能の特性上、より慎重を期した戦い方をせざるを得ないのである。

「……悪い、いろいろあって俺はここを離れる。俺がいなければ君たちは安全なはずだから、どうにかして逃げてくれ」

 護堂の言葉を聞いてリリアナは、しばし黙考する。

 ふと傍らを見れば神無月佐久耶は、すでに姿を消していた。無論、必要に応じて何時でも兄を援護できるよう静かに待機しているのだろう。

 ならば、いま自分の為すべきことは、草薙護堂の助勢に入ることか。

 彼の話を聞く限り、七人目のカンピオーネの騎士たるエリカ・ブラデッリは、今この場にはいないらしい。

 不本意であるが、どうやら自分があの女の代わりを務めねばならないようだ。そうしなければ、草薙護堂はあの強大な力を有する英雄神相手に孤立無援のまま、戦う羽目になる。

(仕方がない。戦いの最中で隙を見つけて、エリカに連絡をしてやるか)

 行動力旺盛なあの女のことだ。連絡が入りさえすれば、明日の朝一にはナポリの地面を踏んでいるに違いない。

 叶う事ならその時までには、この大騒動が円満に解決してくれていることを、切に願うばかりである。

 そう決めるや否や、リリアナは護堂の身体に身を寄せて、呪文を口ずさむ。

 どうやら彼は一先ず退いて、迎撃の態勢を整えたいらしい。ならば、そのための有効な魔術をリリアナは、ひとつばかり心得があった。

 戸惑う護堂を無視して、リリアナは素早く魔術を完成させる。

 瞬く間に、騎士と魔王は青白く輝く光に包まれ、波止場から天高く舞い上がり、街中へと姿を消していった。

 

 

              †          ☯

 

 

 リリアナと護堂が上空へ跳び去り、ペルセウスが天馬を従えて追撃、それらを見届けたアテナが闇を纏うと共に宣言通りこの場から退去していく。

 直後――宗一郎は一足飛びに間合いを詰めて、女神ヘラの胴体を両断した。

 それは至極順当な結果だったと言えよう。

 何しろヘラという存在は、アテナと違いギリシア神話に習合された以後も古の地母神の神格を強く残したまま信仰され続けた女神である。

 当然、武術の心得などあろう筈もない。にも拘らず、剣の達人である宗一郎の刃圏へと不用意に足を踏み入れたのである。

 勿論、その隙を見逃す宗一郎ではなかった。

 軽功飛翔の奥義を以って、瞬時に間合いを消失させ、轟、と風を切り、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能を封じ込めた灼刀を奔らせた。

 これがアテナならば、宗一郎の一撃を闇色の大鎌を召喚して、難なく弾き返しただろう。だが戦神ならぬヘラには、到底叶わぬ話だった。

 宗一郎の手には、会心の手応えが伝わってくる。間違いなく、敵の腹を叩き割ったという確信があった。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いとは、とても思えないあまりにもあっけなさ過ぎる決着。

 だが――

「無駄なことです。無限の生命を宿すわたしたち地母神に、お前たちの貧弱な武具など利く筈がないでしょう」

 口元を歪めて、嘲弄の声を響かせるヘラ。

 胴を薙ぎ払われてなお、濃い生気を湛えた青緑の双眸に、酷薄な色を宿してギロリと宗一郎を射抜いく。

 古き地母神の肉体はまったくの無傷だった。

 宗一郎の渾身の斬撃は、何の効果も及ぼしていない。若き神殺しの剣が期待通りの威力を発揮し得なかったのは、今夜で二度目である。

 ただし、ヘラはサルバトーレ・ドニのように肉体を硬化させたのではない。かの女神は大地から無限のエネルギーを汲み上げて、瞬時に肉体を再生させたのだ。

 この驚異的な生命力こそ、地母神たちが総じて不死なる神と謳われる所以である。

 さりとて、一度ならず地母神と相対した経験のある宗一郎にとって、この程度のことはむろん想定内。

 故に、宗一郎は微塵も動揺を見せることなく、流れるような動作で長刀を後方へと引き、刺突を繰り出さんとする。

 灼刀を突き刺して、封じ込めていた『聖火』を解放、敵を内部から焼き尽くす腹である。 

「愚か者! 如何に利かぬとはいえ、これ以上お前の穢らわしい手で、わたしの身体に触れることを赦すと思いましたか!」

 青緑の瞳が憤怒に燃え立ちヘラは、片腕を宗一郎に向かって突き出した。

「……っ!?」

 警鐘を鳴らす本能に従うがまま宗一郎は、技を中断し、大きく後方へと身を翻す。

 同時に長刀の柄を口元へと持っていくや、しっかりと噛む。それで空いた両の手は、素早く結印。結界を展開する。

 直後――閃光が迸る。

 雷撃だ。深夜の海辺のしじまをバリバリバリッと鳴る轟音が切り裂き、稲妻が天上から地上に降り落ちるのでなく、地表から水平へと駆け抜けていった。

 雷撃が宗一郎の展開した結界に激突。彼を結界ごと、ずざざざと後方へと押し流す。だがわずか数秒の内に、外圧に耐えきれず、結界が軋むや否や――突き抜けた。

 やはり神が振るう神威を人間の術法で対抗するには、無理があり過ぎたらしい。それでも、宗一郎にとってこの数秒は、千金に値する価値があった。

「我は力より生まれたる不死者。我は清き炎の腕を以って人類を守護せし庇護者。我はすべての邪悪を焼き滅ぼす殺戮者――!」

 宗一郎は、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)――炎神アグニの聖句を唱える。

 呪力抵抗力を最大まで引き上げて、雷撃を耐え抜く準備を整える。

 次の瞬間――稲妻が宗一郎に直撃した。

「ぐ……っ!」

 衝撃と激痛に咬んでいた長刀の柄を思わず、ぎりっと強く噛み締める宗一郎。それでも、多少痺れは残るものの、行動に支障はなさそうである。身体は十全に動く。

 宗一郎は口元に手をやるや、柄を握り直し、長刀を構える。

「地母神が雷法を扱うとは知りませんでした。神鳴りは天空神の神通力だとばかり思っていましたよ」

 感嘆を滲ませた声色で宗一郎は言った。

「……アテナがそうであるように、わたしも新たな神話に組み込まれることによって、与えられた力があるのです」

「それが雷法――稲妻を操る神通力ですか」

「その通りです。天空神の妻の座に据えられた故に揮うことを許された力です」

 宗一郎の賛嘆の声にヘラは表情を歪ませ、そう吐き捨てると、地母神は若き神殺しを睥睨した。

「わたしの神話(過去)の傷を抉る忌々しい力ですが、お前のような無礼者を打擲するには適しています。……どうやらお前はアレスの使徒だけでなく、ヘルメスの使徒でもあるようですね。道理で小癪な芸を使います。ですが、所詮は人間の卑小な力。わたしたち神々の神威には、抗えるはずがない。身の程を弁えなさい、人間!」

 言下に再び雷撃が迸る。

 宗一郎へと殺到する稲妻。迫りくる雷光の洪水を前に宗一郎は、臆することなく呪文を紡ぐ。

「東方、阿迦陀(あかだ)! 西方、須多光(しゅたこう)! 南方、刹帝魯(さつていろ)! 北方、蘇陀摩抳(そだまに)!」

 陰陽術における雷避けの呪法。

 今度もまた宗一郎が行使するのは、神威の具現たる権能に恃むのではなく、卑小なる人間の術法だった。

 ヘラは言った――人間の力では、神々の力には抗えないのだと。それは事実だろう。だがそれも、『まつろわぬ神』が本気で戦えばの話である。

 神としてのプライド故か、神殺しの魔王との戦いの最中にも拘わらず、女神ヘラはいまだ全力を出し切っていないことを、宗一郎は明敏に感じ取っていた。

 だがそれは別段、奇異なことではない。

 人間相手に最初から本気で戦う神などいない。それは相手が神殺しの魔王といえども、例外ではなかった。

 ――そこに脆弱な人間が強大である神に付け入る余地がある。

 神狩りを家業に持つ宗一郎である。わざわざ獲物が晒してくれる隙を見逃す道理がない。

 故に、この結果は必然だったと言えよう。

 避ける! 割ける! 裂ける!

 いまこの場にあり得ざる光景が具現化した。

 なんと宗一郎を呑み込まんと押し寄せてきた雷光の洪水が、やおらその寸前で真っ二つに引き裂かれたのである。まさに海面を割る神話の如く。

 やはりヘラの力の行使には、手抜かりがあったのだろう。雷避けの呪法がその妖しき効能を遺憾なく発揮した。

 すると宗一郎の眼前には、なんと若き神殺しをヘラの許へと誘う道筋が切り拓かれているではないか!

 両端には尚も荒れ狂う雷の海。いつ閉じてもおかしくない、あまりにも細く険しい隘路(あいろ)。だがそれでも、宗一郎は迷うことなく白い衣を翻し、突き進む。

 予期せぬ事態に、双眸を見開き、驚愕するヘラ。そこに白い矢と化し、拓かれた道を一気に踏破した宗一郎が躍り込む。

 今度こそ串刺しにせんと刃をヘラの胴体へと突き入れる。

 だが切っ先が女神の柔肌を貫くのに先んじて、ヘラの身体はその場から「消失」した。

「!?」

 虚しく空を撃った突き技を放った体勢のまま宗一郎は、驚愕と当惑の入り混じった視線を左右に走らせた。しかし、そこには、ただ静かな波止場を映し出すだけである。

 静寂と夜気に支配されていたこの場を、轟音と雷光を以って蹂躙していた稲妻もヘラ同様綺麗さっぱりと消え失せていた。周囲に漂う濃密な残留呪力のみを残して。

 

 

「一度ならず二度までも。本当に小癪な真似をする輩ですね! 大人しく神罰に伏すればいいものを……ッ」

 

 

 宗一郎の背後から唐突に苛立たしげな声が響いた。

 凝然と振り返る宗一郎の瞳には、五メートルの距離を空けて気炎を上げて彼を睨み付けるヘラの姿があった。

(瞬間移動……まさか地母神が?)

 瞬間移動の術は、魔術において超高等難易度を誇る大呪法である。

 魔術の神ならともかく、大地の神に可能だとは思われないが。それも呪文などの諸々の予備動作を一切行わずに。

 はっきりと不可能だと断言できる。だがもし可能だとするならば、それは魔術を超えた条理によって成されたに違いない。

 そこまで思い至れば、敵の移動法を特定するのに難はない。

 おそらく大地を介した瞬間移動。地母神ならば、大地を通じて何処にでも移動できたところで何の不思議もない。

 この事実に宗一郎は、胸中で舌打つ。

 もっと早く気付いて然るべきことであった。なぜなら、いま思い返すとあの地母神がこの波止場に顕れたときも、その能力に依るものだったのだから。

 肉体だけではない、頭脳の方もより一層鍛えなければ。さもなくば、神無月家が奉じる神仏必滅の大望は、遠退くばかりであろう。

 何よりあの地母神は、是が非でも今この場で仕留めたい。

 そうしなければならない理由が宗一郎にはあった。そのためには、僅かな失敗も許されない。

 更なる戦意を燃え立たせる宗一郎。それを見て取ったヘラは、怒りを露わにする。

「どうやらわたしが戯れで振るった力を退けた程度で調子づいているようですね。良いでしょう、ここからはわたしの真なる力を以って相手をしましょう!」

 ヘラの憤慨は完全な誤解である。

 宗一郎がいま心の奥底から昂揚しているのは、ヘラが言うような些細な戦果によるものなどでは決してない。

 女神ヘラという古き地母神が、己の眼前に立っている事実に改めて悦びを噛み締めているのだ。

 それは生命の象徴たる地母神こそが、宗一郎が追い求めている、現代の医学では癒すことが叶わない死病に侵されている妹を、唯一救うことが可能かもしれない奇跡を所持しているからに他ならない。

 その奇跡の力を奪い取ることは、宗一郎にとって家業に匹敵するほど重要な使命であった。

 だが、そんなことなど知る由もないヘラは、宗一郎の素振りを己に対しの軽侮と受け取ったらしい。

 烈火の如く怒り狂いヘラは、今までにない莫大な呪力を解き放つ。

 瞬く間に、天高く駆け昇っていく神力。それを目に入れた宗一郎は、ヘラが本格的に雷霆の権能を行使するつもりなのかと身構える。

 正面のヘラを警戒しつつ、宗一郎は上空へと視線を転じた。

 そこには闇夜の中でもくっきりした輪郭が浮かび上がっている、巨大な「何か」が凄まじいスピードで地上に迫ってくる。

 雷霆を孕んだ雲か? ――いや、違う。

 闇に閉ざされた世界であっても、宗一郎の視力は何の支障もなく見渡せる。だから、彼の視界のなかで巨大な「何か」の正体を詳らかにしていた。

 蟲だ。それも数十万にも及ぼうかという蟲の軍団だった。

 今の宗一郎には知る由もないことであるが、あの蟲の軍団の正体は、女神ヘラの神話において、夫神(ゼウス)の憎き浮気相手を追い立てるために、ヘラが解き放った(あぶ)――蚊の群であった。

 神話に曰く、そのゼウスに見初められた哀れな女は、散々虻に追い回された挙げ句、這う這うの体で単身地中海を縦断し、国境を越えてエジプトの地にまで至ったと言う。

 現代では、その神話に因んで女――イオが渡った海域をイオニア海と称されている。

 エジプトの地を踏んで以後イオは、かの地で女神の地位にまで上り詰めたと言われているが、まあこれは余談である。

 それは兎も角、あの数十万匹にも達するヘラの眷属である吸血蟲どもに集られでもしたなら、宗一郎の身体には血の一滴たりとも残されることなく、貪り殺されるだろう。

 そんな凄惨極まる未来を是としないのであれば、何としてでも抗わなくてはならない。

「清き炎よ、我のために邪悪を討ち滅ぼせ! 世に正義を知らしめよ!」

 宗一郎は高らかに謳い上げる。

 密教における明王の一尊――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を倒して得た『聖火』の権能。浄化の炎で以って汚らわしい蟲どもを一匹残らず焼き滅ぼす!

「オン クロダノウ ウンジャク……!」

 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の真言を唱えて、宗一郎は天に向かって、灼刀を横に一閃。爆発的な炎の奔流が解き放たれる。

 轟と唸る猛火の噴流が、天上から来襲してくる毒蟲の軍団を呑み込まんと突き進む。数千の毒蟲たちが一瞬で焼滅。それでもなお些かも勢いを減じることなく、怒涛の勢いで殺到する毒蟲の軍勢。

 飛んで火に入る夏の虫とはこの事を言うのか。

 毒蟲たちは自ら進んで猛火の中へと飛び込んでいく。そのたびに火炎は吸血蟲のエネルギーを食らい尽し、ますます火の勢いを増していく。

 まさに燎原の火の如し。夜のナポリの上空は、炎の海と化して下界の街並みを昼のように煌々と照らしていた。

 宗一郎が召び出した業火は、吸血蟲どもを一匹残らず焼き滅ぼすのにさほどの時間を要しなかった。

 いかにヘラの眷属といえども、蟲の軍団にも拘わらず、炎相手に何の策も弄さずに馬鹿正直に突っ込ませるだけであったのは、流石に無謀に過ぎた。

 とはいえ、ヘラはギリシア神話においても地母神の性格を色濃く残している結婚と出産を司る神である。母なる神なのだ。アテナと違い、戦神や軍神の性格などまったくない。

 そんな女神に的確な戦術指揮を揮えというのが、土台無理な話だったのだろう。夜のナポリは、再び闇の戸張に包まれ、波止場もまた静寂が戻ってくる。

 否――

「……おのれ、この下郎が。よくもわたしの眷属たちを燃やし尽くしてくれましたね!」

 ヘラの怨嗟の声が波止場の静寂を、再び引き裂く。

「ご安心を。そんなにあの蟲たちが可愛いのなら、僕が直ぐにでも同じところに送って差しあげますよ」

「口の減らぬ輩め! 何処かの炎神から掠め取った権能を、余程恃みにしていると見えます。ですがわたしは、大地と水の化身。お前の炎などすぐに掻き消してくれます!」

 宗一郎とヘラは苛烈な挑発を交し合いつつ、闘志を剥き出しにして睨み合う。

 両者の高まり合う呪力に呼応して大気が震え、海面が騒めく。張り詰めた緊張の度合いは、一秒毎に倍増し、硬質化していく。心なしか空気の密度すら圧縮され、時間すらそれに引き込まれ、刹那の時間がさらに拡大されていくかのようだった。

 そんな極限の緊迫した最中、突如、日輪の如き眩い輝きが波止場を燦然と照らし出す。

 はっと頭上を仰ぐ宗一郎とヘラ。輝きの正体は、なんと深夜の街の上空にて、突如立ち昇った純白の太陽だった。

 夜の闇に塗り潰された波止場を、昼の光が燦々と白く染め上げる。

「!?」

 両者は、奇怪なる光景に揃って驚愕する。

 純白の太陽――いや、そう見えた光り輝く翼持つ勇壮な駿馬。ソレはこちらを目掛けて一直線に駆け抜けてくる。

 いまこの都にあれ程の怪異を実行でき得る存在は限られている。……では、まさか向こうの戦いは、もう決着を見たというのか?

 宗一郎は緊張の面持ちで迫りくる天翔ける霊獣を鋭く睨む。

 純白の天馬は、宗一郎とヘラの上空を悠々と旋回すると、対峙し合う両者のちょうど真ん中の位置へと滑るように降り立った。

「ハハハ。どうやらこちらは、まだまだ盛り上がっている最中のようだな。ならば、是非ともこの私も混ぜてもらうとしようか!」

 着地と同時に天馬の背に跨る金髪の美青年が 居丈高にそう告げた。

 極東の魔王と南欧の女神の死闘は、更なる展開へと発展しようとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話 勇者推参

東から来た者(ペルセウス)』――

 その参上にもっとも驚いたのは宗一郎ではなく、むしろ女神ヘラの方だった。

「英雄神よ、お前はもうあの神殺しを仕留めたというのですか!」

 ヘラはまるで先を超されたといわんばかりに悔しがる。

 その様子を天馬の上に跨ったまま眺めていたペルセウスは、愉快気に微笑む。

「如何にも、その通り……と言いたいところですが、生憎とあの神殺しには、追い詰めはしたものの、上手い具合に逃げられてしまいましてな。アテナの御前にて再戦の誓いを果たしたものの、それまでの時が手持ち無沙汰でありました故、こちらの方に参らせて頂いた所存です」

「……アテナはお前を黙ってこちらに来させたというわけですか。かの女神は本当にわたしに助勢する意思はないようですね」

 まったく困ったものだと、ヘラはかぶりを振った。

「どうやら、そのようですな。ふふ、どうもアテナは余程あの神殺しの事がご執心のようでしたからな」

 アテナとの対面の場でも思い返したのかペルセウスは、そう言って微笑を浮かべた。

 地母神と英雄神の語らいを黙して聞いていた宗一郎であるが、その実、その心中は荒れ狂っていた。

 なぜあの英雄神がこの場にいるのか。あの『まつろわぬ神』は草薙護堂、同郷の神殺しに一時預けていた筈だというのに! 

 宗一郎の計画では、眼前の地母神を可及的速やかに片づけた後、草薙護堂に預けてあったモノを還してもらう予定だったのだ。

 まさか、それがこのような事態になろうとは、完全に想定外である。まったく役に立たない男にも程がある。

 とはいえ、この場にいない人物を罵ったところで現実は変わらない。宗一郎は荒ぶる心を鎮めつつ、新たに顕れた乱入者――ペルセウスを子細に観察する。

 翼持つ勇壮な駿馬の背に跨るその偉容には、些かの陰りも見られない。神殺しの魔王と死闘を演じたとは、とても信じられないほど、ダメージの影響は一切ないようである。

 よもや草薙護堂は、何の抵抗も叶わず敗北を喫したとでもいうのだろうか?

 実際のところ、宗一郎は草薙護堂を高く評価していた。というのも、その理由は一も二もなく、一月前に彼の権能を目にしたからに他ならない。

 『智慧の剣』――神無月家が数百年の研鑽の果てに完成させた秘中の秘。神殺しの刃。

 とはいえ、宗一郎が振るうのは所詮その偽物に過ぎない。だがあの同郷の神殺しは、あろうことかそのオリジナルを所有していたのだ。

 かの至高の宝剣さえ手にあるのなら、如何なる神と言えど、一方的に敗北を喫するなど考えられない筈なのだが。

 まさか草薙護堂は、《刃》を研ぐために必要な『智慧』を持っていなかったのだろうか。もしそうであるなら、いかに『智慧の剣』といえど、ナマクラ同然だっただろう。

 それなら実戦において使い物にならなかった筈である。ならば、一時の敗北も仕方があるまい。もっともあの同郷の神殺しは、『智慧の剣』を恃みとするたけの底の浅い戦士には、あまり見受けられなかったが。

 あるいはペルセウスを名乗るあの英雄神には、草薙護堂を封殺する何らかの秘密があるのかも知れない。が、宗一郎はそれ以上の思索を脇に置いた。

 そもそも彼は、草薙護堂がどのようにして敗北したかなどに関心はない。

 あるのは、同郷の神殺しを鎧袖一色した英雄神の戦闘力のみ。そしてそれはこうなった以上、実戦で確かめればいい話である。

 宗一郎は二柱の神々を睨み据えると、長刀を構え、再度刀身に炎を纏わせた。赤い凄烈な輝きが`夜の闇を灯す。

 地母神と英雄神。

 この強大な『まつろわぬ神』たちと単独で渡り合わなければならない現状、力の出し惜しみは即命を落とす羽目になりかねない。

 そう、神殺しの本能が警告を発していた。故に、全力全開で行く。

 宗一郎の戦闘体制の移行が英雄神の登場以降弛んでいた場を再度緊張させた。

「もうお喋りは結構です。僕たちは闘争の場に生きるもの。ならば、それに相応しい振る舞いがあるでしょう」

 宗一郎の凛とした声が場に響き渡る。

「ふふ。その通りだ、神殺しよ。我々は言葉を操るより、武威を振るうことこそが本分。どうやら君は、先程の神殺しより戦場の作法を弁えているようだな!」

 不敵に笑いつつ右腕を一閃、湾刀を取り出すペルセウス。

「野蛮な武器をひけらかして悦ぶのは、お前たち男どもだけです。ですが手早くお前たちを誅殺したいのはわたしも同じです」

 そう言ってヘラは、剣を手に執る男たちを冷やかに睥睨する。

 魔王と英雄神と地母神。三者の殺意と呪力が高まり合い、またも空間が軋み始める。

 一触即発の場――だが、先に動いたのはヘラだった。

 近接戦闘を好む男たちと違い、間合いを推し量る必要がまったくない遠距離からの一方的な大火力を叩き付けることを得意とするヘラならではの大胆な行動だった。

「わたしは大地(ゲー)を言祝ぐ女神ヘラなり。大地の女王にして聖なる庭園の主」

 朗々と言霊が紡がれる。

「なればこそ、わたしは恵みを授けよう。聖なる園に生え聳える大いなる樹々よ。黄昏の娘が愛でたる美しき花々よ。この荒涼たる世界に咲き誇り、彩るがいい!」

 世界を変革する唄が完成する。

 ヘラが言霊を唱えるや否や、石畳の路面がひび割れ、爆ぜる。もうもうと立ち込める粉塵の中から巨大なモノが顕れ出でる。

 樹だ。それもおそらくは、樹の根っこだろう。……だろうと特定が曖昧なのは、ソレがあまりにも巨大すぎたからだ。まるで数十メートルの大蛇が地中から跳び出してきたかのようである。

 それも二体も、だ。言うまでもなく標的は、宗一郎とペルセウス。

 降り懸かる危機に両者は、奇しくも同種の方法で乗り切らんとする。

 片や、己の両脚を恃みとして、路面を蹴り、宙に跳び上がる。片や、己の愛馬を恃みとして、両翼を羽ばたかせ、宙に跳び上がる。

 敵の武器(、、)が地中から生じる以上、大地に踏み止まるのは危険だと判断したのだろう。人と神。種族は違えども、両者ともに最高の戦士ならではの即断だった。

 虚空を蹴り、上空を駆け上りながら宗一郎は見た。

 地上に隆起しつつも、しっかりとナポリの地中深くへと根を下ろし、生え聳える一本の巨大な樹木の偉容を!

「これは……」

 息を呑む宗一郎。

 樹海深くに居を構える屋敷で長らく過ごしてきた宗一郎とてこれ程の樹木の類は、目にした記憶がない。

 全長四〇メートルはあろうか。絶大な生命力を現す新緑の若葉が生い茂る、まさに神樹とも呼ぶべき存在だった。

 もし護堂とリリアナがこの場でこれを見ていたなら、ナポリが被ることになる甚大な被害を懸念して顔を青褪めさせただろう。

 だが、都市の未来を憂いる感性など宗一郎には無縁な話だった。いや、たとえ彼にそんな繊細な神経があったとしても、今この場において十全に発揮し得たかどうか……

 なぜならば、大樹の幹に根を張る樹齢数百年の大木と見紛うばかりの巨大な横枝が、まるで生き物のように身をくねらせて、上空に佇む宗一郎目掛けて殺到してきたからだ。

 それも次々と。さながらその光景は、巨大な蛇の群に襲い掛かられる哀れな獲物を思わせた。

 もちろん宗一郎はただの無力な獲物などではない。迫りくる大蛇の如き巨枝を目にしても若き神殺しは、怯むことなく冷静に精神を集中させる。

「東山つぼみがはらのさわれびの思いは知らぬかわすれたか」

 大樹から伸び生える巨枝を、蛇に見立てて術式をアレンジ。宗一郎は陰陽術における蛇避けの呪文を祈祷。全力で呪力を振り絞って行使する。

 すると宗一郎を圧し潰さんと押し寄せてきた巨枝の群は、あっさりとあらぬ方向へと逸れていく。

「……」

 危険は去った。にも拘わらず、宗一郎の表情は依然として厳しいままだった。

 先の呪術は、抜群の手応えだった。いや、むしろ上手く行き過ぎた(、、、、、、、)

 仮にも神々が御した眷属の攻撃にしては、抵抗が少なかった。だとするならば、この期に及んでなおヘラは、宗一郎の実力を軽視しているのだろうか。

 ――否、違うと宗一郎は、すぐに悟った。

 宗一郎は、ナポリ上空のある一角に視線をやった。そこには勇壮な天馬に跨り、軽やかに宙を舞うペルセウスの姿があった。

 宗一郎と同様巨枝の群に集られているものの、太陽の勇者は愉しげな笑みを浮かべたまま、微動だにせず己の愛馬にすべてを託す。その絶大な信頼に応えてか、天馬は優美な翼を羽ばたかせ、踊るような流麗な動きで次々と襲いかかってくる、おびただしい数の蛇樹の群を避け続ける。

 そのさまを見咎めた宗一郎の心は、感嘆ではなく憤怒の色に染まる。しかし、怒りの矛先はペルセウスではない。ヘラである。

 ペルセウスを襲う大樹の横枝の数は、明らかに宗一郎を狙ったそれより断じて多い。その意味するところはひとつしかない。

 つまり女神ヘラは、神無月宗一郎よりもあの鋼の勇士こそを脅威と感じ取っていることに他ならない。

 若き神殺しは、灼刀の柄を握りしめた。あまりの屈辱で全身に震えが走る。獲物に侮られるほど狩人にとって不快なことはない。

 この屈辱はあの地母神の首を獲ることで必ず晴らすことを誓う。しかし、それを果たすには、何よりあの英雄神が邪魔だった。

 闇夜の中でもはっきりと優雅に宙を舞う神馬一体の騎士の姿を見出し、宗一郎は歩み出す。己の目的達成に向けての障害物をとっとと取り除くために。

 

 

 

 

 

 ペルセウスは、余裕綽々の面持ちで天馬の背に跨り、戦況を悠然と眺めていた。彼はこれまで指示ひとつ出していない。神話の刻より数多の戦場をともにしてきた相棒には、そんな不粋な言葉は不要である。

 ――そこに、愛馬が軽く嘶いた。

 危険を知らせてきたのだと、ペルセウスは直ぐに察した。

『鋼の勇士ともあろう者が、こそこそと逃げ回るだけで得意がるとは情けない。ですが、もうそのような顔を出来なくしてやりましょう!』

 何処からともなく聞こえてきたヘラの言葉と同時に、ペルセウスを襲う神樹の横枝の数が倍増しし、四方八方から天馬が駆け抜ける空間を握り潰しながら、濁流にように殺到する。

 神話の霊獣が如何に健脚を誇ろうとも、「足場」諸共消してしまえばその自慢の機動力も無為に化さしめる。その事実にヘラは、ようやく気付いたらしい。

『さあ、もう逃げ場はありませんよ、ペルセウス! 大人しく潰れてしまいなさい』

 己の必勝を確信したように勝ち誇るヘラに、なおも余裕の態度を崩すことはないペルセウス。

「ハハハ、逃げ回るだけとはなんとも心外なお言葉ですな、ヘラよ。戦場を愛馬と共に駆け巡る技もまた戦士にとっては、剣を振るうことと何ら変わらぬ腕の魅せ所だというのに。もっとも、アテナとは違い、どこまでも女人でしかない御身には、戦の妙を理解出来ずとも致しかたありますまいな」

『黙りなさい! 名を偽るだけでなく、そのような忌々しい生き物を駆ってわたしの前に現れるとは、本当にふざけた男ですね、お前は……ッ!』

「ふふ。おや、どうされました。ひょっとすると、軍馬を見て何か嫌な記憶でも蘇えってきましたかな?」

 ペルセウスはなおも挑発し、嘲弄する。

『――!』

 声なき激憤の声を上げて、ヘラが更なる呪力を解き放つ。

 唸り飛んで来る蛇樹の勢いが益々増していく。もはや一秒とて、ペルセウスの姿形や声に至るまで見聞きしたくないのだろう。

 一刻も早く潰れてしまえ、とばかりに深夜の闇を照らす月光の光すら遮って怒涛の如く押し寄せてくる。

 だが、ペルセウスの不敵な笑みは変わることなく、朗々と謳う。

「――いにしえの武勲、我が刈り取りしゴルゴンの首にかけて申しましょう。あらゆる蛇は、私の前で無力になると!」

 鋼の勇士の宣言と同時に、神樹から伸長した蛇樹は、ことごとく塵と化した。

 ナポリの空を呑み込まんとしていた、おびただしい数の巨枝が一瞬にして消失したのだ。

『それは、蛇殺しの言霊……! アテナの神格のひとつである女神(メドゥーサ)を倒し得た力ですねッ』

「如何にもその通り。どのような力を振るおうとも、御身ら地母神の本性は――蛇。この力からは逃れませぬぞ。……ですが、よろしければ、この戦には使わぬと誓約いたしましょうか? とりわけ、御身はアテナ以上に蛇の性が強い方だ。この力はさぞや堪えましょう」

 不敵な笑みを浮かべつつ、天馬の上で英雄神は慇懃に頭を垂れた。

『いらぬ気遣いです。まったくこの場にいる男どもときたら、似たような力で誅罰から逃れようとするとは。お前たちはなかなか似た者同士のようですね!』

 苛立たしげなヘラの声に、ペルセウスは興味を持つ。

「ほう……? そう言えば、あの神殺しは何処に?」

 ペルセウスの呟きに、

 

 

「僕はここです。そして、すぐに死んでください」

 

 

 すぐ後ろから応える声があった。

「!?」

 驚愕するペルセウス。

 いまだナポリの上空に無数の粉塵が漂う中、それらをかい潜るように虚空を蹴り、ペルセウスの背後に現れたのは、無論、宗一郎だった。

 後ろを取った宗一郎は、容赦なく灼刀を横に振りぬく。

 無防備なペルセウスの首を狙って奔った赤刃は、だが、主の危機を察した天馬の羽ばたきひとつで馬体が滑るように加速し、風を切るだけで終わった。

 速攻で始末できなかった不満を、吐息をついて吐き出し、しっかりと虚空を踏み締めて宗一郎は刀を構える。

 追撃は仕掛けない。いかに両脚に超常の力を宿していようとも、神話の霊獣相手に人間の脚で勝負を挑むのは流石に無謀すぎる。

 ペルセウスは天馬をすぐさま旋回させて、宗一郎と向き合う。その端麗な顔には何か言いたげな、苦々しい表情が張り付いている。

「君たち神殺しが『なりふり構わない』という悪癖の持ち主たちだというのは、先程の神殺しで承知していたが、君も一角の剣士であろう。ならば、盗人の如き勝利を掠め取るような真似をするのでなく、正々堂々正面から戦い合うべきではないか」

「それは状況によりけりです。そもそも、僕と彼女との死合いに余計な横やりを入れてきたのは、貴方の方が先でしょう」

 戦士の先達として、手癖の悪い後輩を諭すように言うペルセウス。それに、毅然と言い返す宗一郎。

 この戦場で相対するのがペルセウスのみであったなら、宗一郎とてこの英雄神と真っ向から武練のほどを競い合うことに何の異論もなかった。

 が、いまこの場には地母神もいるのである。ならば、何を優先するのかなど解りきっている。どんな形であれ、ペルセウスにはさっさと退場してもらう必要があった。

「……ふむ、確かに不作法をしたのは、私が先か。ならば、君の糾弾は妥当だと認めよう」

 狂える神はそう言って、殊勝にも自らの非を受け入れた。が、彼は口元をまるで挑発するかのように、吊り上げて嗤う。

「しかし、私とて今更ながらこの場を引き上げるつもりはない。ならば、我々はどう振る舞うべきかね、神殺しよ?」

「そう言うことなら、仕方ありません。――では、ペルセウスさん。どうやら、剣にて雌雄を決するしかないようですね」

 ナポリ上空で火花を散らし合う宗一郎とペルセウス。

「ハハハ、その意気やよし! 私もあのような性格の方とはいえ、女人と刃を交えるよりは、君のような神殺しの剣士と斬り合う方が好みではあるな」

 そう言ってペルセウスは、しばし熟考するように沈黙すると、再び口を開いた。

「ふむ、決めたぞ。ヘラよ、聞こし召せ――我々はこれより決闘を始める。御身はその決着まで静観されたし! このペルセウスが伏して願い奉る」

 ペルセウスの清澄な祈祷が大空に轟く。しかし、返答はない。

 いや、あるいはそれこそが答えなのかもしれない。

 ヘラの側からすれば自分の手を汚すことなく、敵対者双方が勝手に争い合い疲弊してくれるのだ。かの女神にとっては実に都合がよい展開ではないか。これでは異論などある筈がない。

 にも拘らず、返答はあった。

 ただし、それは「肉声」ではなく、「行動」によって示された。

 巨大な神樹の上層付近――その一部に突如として数多の枝と葉が蠢き合い、絡み合いつつ一つの大規模な円形の地形(フィールド)を形成していった。まさにそれは、ローマのコロッセオさながらの広さを有する闘技場というべきものだった。

 それを見て取ったペルセウスは、真紅の瞳を輝かせると、顔を宗一郎に向けて腕をソコに差し向ける。

「おお、ヘラよ。御身にしては、まことに珍しくも気の利いたなされようではないか!

 ならばこそ神殺しよ、あそこを決闘の場にするとしようではないか。私についてくるがいい!」

 朗らかに笑うと、ペルセウスは愛馬を叱咤し、神話の霊獣は主の意を受け、優雅な所作で滑り降りていく。

 宗一郎もとくに異論はないのか、無言で虚空を蹴り下りる。

 ヘラが創り出した闘技場は、地上から2、30メートルの高度にある。なかなかの広さを確保されているとはいえ、無論落下防止用の柵などが設けられているはずもなく、ここで決闘を試みるのは、あまり適した空間とはいえまい。

 これではチャンバラの素人同士ならば、剣で決着がつく前に誤って足を踏み出し、真っ逆さまに転落するのがオチだろう。

 もちろん、ここで戦い合う宗一郎とペルセウスは、両者ともに傑出した戦士である。そのような無さまを晒すまいし、何より空を征する超権の持ち主たちである。落下が即死に繋がるわけではない。

 とはいえ、落下する心配とは無縁であったとしても、わざわざそんな悪環境で決闘を敢行するよりは、あのまま対峙し合った末に、空中戦に移った方が自然だっただろう。

 あるいは、文字通り地に足を付けた状況下での戦闘が好みなら、地上にまで降りていけばすむ話である。

 にも拘らず、なぜペルセウスは樹上で戦う選択をしたのだろうか? そして、宗一郎はそれにまったく逡巡することなく同意したのか?

 静かに樹上に蹄を鳴らした愛馬の上でペルセウスは、遥か彼方である地上を眼下に見下ろし、心底愉しげに笑った。

「ハハハ、あらためて見ればなかなか壮観な景色だな、この場所は! 下界の民たちもさぞや賛嘆と畏怖の念をもって神々の力を讃えながら、我々を見上げているに違いあるまい」

 このときおそらくナポリの住人たちが懐いている思いは、驚愕と恐怖の感情であっただろうし、そもそもナポリに突如出現したこの神樹は、ペルセウス自身が創造したものではなかった。

 だと言うのに、まるで自らのモノだといわんばかりの厚顔無恥なその口上。

 美しき天馬の背に跨り、人間の世界を遠望する鋼の勇士にとって、それらの道理なぞどうでもいいのだろう。

 己が思い描く心象のみが世界の理であり、それ以外のこまごまとしたことなど一顧だにしない。

 ヘラの眷属たるこの神樹の上を決闘の場と定めたのも、深謀遠慮の末などではない。このポイントがもっとも下界にいる民たちの視線が集約されるからという単純なものに過ぎない。

 だが、時刻は深夜。それも上空2、30メートルの樹上にて繰り広げられる決闘を観戦できる人間は皆無だろう。とはいえ、そんな小さな道理を斟酌するペルセウスではない。

 その理不尽な程の無頓着さと傲岸さこそが、彼が『まつろわぬ神』たる由縁であった。

「そんなことはどうでもいいでしょう。さっそく始めましょう」

 そして、無頓着さと傲岸さにかけては、カンピオーネとて負けてはいない。

 宗一郎が樹上での決闘に応じたのは、地上まで降りるほんの僅かな時間を惜しんだからである。一刻も早く地母神を狩りたい彼には、これ以上の時間のロスは耐え難い。

 また、若き神殺しなりの計算も働いた。

 宗一郎はクー・フリンから『跳躍の奥義』を簒奪したことにより、宙を自在に翔け巡ることが可能になった。が、掌握してから日が浅いこともあって、本格的な空中戦の経験はいまだない。

 そんな彼にとって、曲がりなりにも確たる「足場」が存在する樹上での戦闘は、むしろ願ったり叶ったりな状況であったのだ。これが、宗一郎がペルセウスの提案に即答した理由であった。

 そんな宗一郎を見やると、ペルセウスは嘆かわしいと言わんばかりにかぶりを振る。

「やれやれ、昨今の神殺しは、景色を愛でる愉しさを知らぬようだな。それは如何ぞ。多方面の好奇心を満たすことは、男としても、戦士としても、より成熟させてくれるものだぞ、少年」

 先輩風を吹かせて人生の訓戒らしきものを述べてくる狂えし流浪の神。

 宗一郎はそれを鼻で笑い、

「僕の好奇心は、神を屠ることで十分満足しています。何より、これから武神を一柱ほど手にかけるつもりなんですからね。これ以上愉しいことは今のところ思いつきません」

 そう言って涼やかに笑った。

「ハハハ、言うではないか。よかろう、そろそろ始めるとしようか、神殺し!」

 ペルセウスは呵呵大笑しながら、天馬の鞍から飛び降りて、軽やかに樹上へと着地する。

 それを見て眉を顰める宗一郎。

「……なぜ、馬上の有利を自ら捨てるのですか?」

 若き神殺しの言葉尻には明らかな不快さが混じっていた。侮られていると感じたのだろう。

「ほう、それが気になるか。神殺しとは、形振り構わぬ戦い方をする者たちで有名の上、間違いなく君もその系譜に連なる者だ。にも拘らず、君は何やらこだわりがあるようだな」

 神殺しらしからぬ宗一郎の態度を小馬鹿にするようにペルセウスは嗤う。

「ええ、そうですが。何か問題でも?」

 宗一郎は昂然と胸を張って言い返す。文句があるのなら言ってみよと。

「ふふ、別段悪くはない。ただ君は先の神殺しとは違い己の性分を受け入れていない分、随分とウブであるようだな。しかし、私はそちらの方が好ましい。君たちの本性ときたら、まったく美しくないにもほどがあるのでな」

 ペルセウスは何か嫌な記憶でも思い返したのか不快げに顔をしかめた。が、すぐに人をからかうような笑みを浮かべ、真紅の瞳は宗一郎を挑発するように危険な光を灯す。

「とはいえ、君の殊勝な思いがホンモノであるかどうか、この私が確かめてやるとしよう。我が剣でもってな!」

 言下にペルセウスは、湾刀(ハルペー)を宗一郎へと向けて突き付けた。

「いいでしょう。剣士としての格の違いをはっきりとつけることで、貴方が何の憂いもなく愛馬に跨り騎兵となって駆けられるようにして差し上げます」

 宗一郎は静かな闘志をむき出しにして、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能を封じ込めた灼刀を正眼に構えた。

「面白い、それが出来るものならば、やってみるがいい!」

 勇ましいペルセウスの言葉は、だがすでに後方へと置き去りになっていた。なぜなら、彼は白い流星と化して宗一郎へと殺到してきたからだ。

 ――その速度、神速の如し。

 大地を征する勇者とは皆こうあらねば務まらないのか。眼前の鋼の勇士もまた恐るべき『脚』の持ち主だった。

 だが、その程度で怯む宗一郎ではない。過去幾度もの『まつろわぬ神』との戦いに思いを馳せれば、むしろこのくらい当然のことと弁えている。

 超スピードで躍り込み、仕掛けてくるペルセウスの真っ向唐竹割を、灼刀の切っ先を湾刀の峰にそっと添えるように差し向けて――撃ち落とした。

 ベクトルを狂わされた湾刀は、あらぬ方へと流れていく。すかさず宗一郎は刀身を跳ね上げ、ペルセウスの首へと奔らせる。

 達人の域に達した武人でさえも瞬時に仕留められる技の冴え。とはいえ、宗一郎はこれで終わるとは思っていない。

 当然だ。今とまったく同じ状況で彼の同族たるサルバドーレ・ドニは、躱して魅せた。ならば、古代ギリシアの勇者ペルセウスにおいては言わずもがなだろう。

 だが-――鋼の勇士の行動はそんな若き神殺しの想定を遥かに上回るものだった。

 ペルセウスは後退して躱すどころか、なんと白刃の前に身を晒し、前進したのである(、、、、、、、、)

 斬撃は腰を沈めて下に潜ることで回避、宗一郎の左脇を通り抜ける勢いで疾走する。無論、ただ駆け去るだけではない。

 ペルセウスの手には、湾刀が再度構えられている。ならば、すれ違いざまに胴体を撫で斬りにする算段なのだろう。

 そうはさせじと、宗一郎は右半身を退くことで湾刀の切っ先を避ける。即座に追撃を仕掛ける――ことなく、宗一郎はなぜか踵を返して正面へと向き直る。

 するとそこには、なんと宗一郎の背後(、、)を駆け去ったはずのペルセウスが、眼前に現れて猛然と斬りかかってきたではないか!

 それは先程の攻防の焼き直し。まるで数秒前に時間が巻戻ったかのような、あり得ざる光景だった。

 だが、そんな不条理な現実を目にしてなお、宗一郎の顔に動揺の色はない。それもそのはず、若き神殺しにはすべてが()えていた。

 ペルセウスが駆け去ると見せかけて後方へ大きく跳躍し、宙に身を躍らせる光景も。そして宗一郎の頭上を越えてくるりと旋転、彼の背後で華麗に着地を決めつつ、間髪入れず襲い掛かってくる様も。

 宗一郎はこうしたペルセウスの挙動を、完全に捕捉していたのである。

 だがそんな宗一郎を以ってしても驚嘆するのは、一連のアクションがすべて刹那の内の出来事だったことだろう。

 まさに神業――武神のみに成し得る所業である。

 もし宗一郎がペルセウスを追撃することに少しでも拘泥していたなら、鋼の勇士の神速に対応できず、愚かにも背面から斬り伏せられていたに違いない。

 それを救ったのは、瞬時の判断力と若き神殺しが体得した“心眼”の妙技に他ならない。

 そして、火花を散らし合う長刀と湾刀。

 迫り来るペルセウスを宗一郎は、真っ向から受け止めた。だが、初演と違い剣戟を撃ち流せなかったのは、ペルセウスの戦闘速度があまりに迅すぎたためだろう。

「やるではないかッ。どうやら大言壮語を口にするだけはあるようだな!」

 莞爾とペルセウスは笑う。

 磨き上げた技を真っ当に競い合える雄敵に心から悦んでいるらしい。

 それは宗一郎とて同じだ。涼しげな面持ちとは裏腹に、魂の内では歓喜に震えていた。

 これ(、、)なのだ。

 やはり宗一郎が求め欲していたのは、『まつろわぬ神』との死合に他ならない。ましてや『鋼』の系譜に連なる英雄たちとの立会いは、神殺したる己の血を一層猛らせる。同じ剣の撃ち合いであっても、同族との間ではこれ程の昂揚は得られない。

 何よりいま宗一郎を喜ばしているのは、この闘いですらまだ「前菜」に過ぎないということである。

 そう、今日の宗一郎の「主菜」は刃を交えている眼前の鋼の勇士ではなく、何処かに控えている地母神なのである。

 その現実を想うだけで血が滾る、魂が吼える。

 今宵は善き日である。二匹ものご馳走にあり付けるのだから。ならば、最初の獲物を早く平らげなければならない。後がつっかえているのだから。

 宗一郎は猛狂う魂を勢威に変えて、鍔迫り合いを強引に押し潰さんと力を込める。

「ぬ!?」

 ペルセウスの秀麗な美貌が僅かに曇る。

 拮抗していた鍔迫り合いの天秤が、明らかに宗一郎に傾き出した。

 それを見て取った宗一郎はココが勝負所と即断、一気に畳みかけるべく踏み込む足に力を込める。

 ドンと枝と葉で創られた闘技場が激しく振動する。大地を踏む両脚を起点に生じた運動エネルギーが螺旋を描くように体内で上昇し、腰の回転、肩のひねりで増幅されて、両の腕から長刀へと伝達されていく。

 これぞ中華武術における妙技『発勁』。

 その要諦は下半身――足で地面を強く踏み付けて発生する(エネルギー)を両腕へと集積させることによって生じる爆発的な力の解放にある。

 なにより、今の宗一郎はクー・フリンから簒奪した『跳躍の奥義』により脚力が超強化されている。故にソコから生み出されるパワーたるや、瞬間的な出力ならば怪力無双な神さえをも凌駕していよう。

 堪らず弾き飛ばされるペルセウス。――否、違う。ペルセウスは自ら後方へと流れたのだ。

 力負けを喫したのならば、そのまま両断されていたであろうし、力が互角ならば鍔迫り合いは、依然拮抗したままであっただろう。

 しかし、現実はそうではない。

 ペルセウスは宗一郎の剣勢に無理に逆らわず、どころかその勢いに巧みに乗ることによって、鍔迫り合いから引き剥がれたのだ。

 もちろん、宗一郎が権能まで駆使し、繰り出す絶技から逃れるなど容易いことではない。神域に座す勇士ならではの離れ業である。

 だがペルセウスは自らの業で稼いだ距離で満足せず、さらに後ろに大きく跳躍した。おそらく戦いを仕切り直すつもりなのだろう。

「大した力だな、神殺し! それも異郷の誉れ高き勇士を倒して得た権能と見たがどうかな……何ッ!?」

 一時とはいえ、追い詰められたことなどまるでなかったかのように余裕綽々の態度で振る舞うペルセウスが、唐突に驚愕の声を漏らす。

 それも当然。若き神殺しはペルセウスが開いた間合いを僅か一歩で詰め寄ったのだから。

 路面すれすれで滑空するようにペルセウスの領域を侵犯する白い影。着地と同時に左脚を轟然と跳ね上げる。続けて間髪入れず放たれた右蹴撃。

 そして、右蹴りの勢いを殺すことなく、そのままのスピードで身体を独楽のように旋回させ、必殺の横薙ぎの斬撃を見舞う。――が、ペルセウスはその悉くを余裕の笑みさえ浮かべて流麗で舞うかのように躱してのける。

 それを見咎めた宗一郎は、ならば、これでどうだとばかりに長刀を振りかざし、大上段から渾身の斬撃を打ち下ろす。

 そのあまりに見え透いた一撃にペルセウスは、失笑を含んだ笑いに口元を歪めつつ、一歩身を退く。

 ――そのすべてが若き神殺しの想定内であることを知る由もなく。

 

 

「オン クロダノウ ウンジャク――」

 

 

 宗一郎の口から言霊(しんごん)が響く。

 するとペルセウスの鼻先で、剣風のみを残して虚しく通り過ぎていく筈だった紅い刀身が、やおらカッと閃光を放つや、猛火の奔流を吐き出す。

 なまじ至近であったために応じる間もなく鋼の勇士は、激流の如き紅蓮の火炎によって瞬時に呑み込まれる羽目になった。

 辛うじて彼にできたのは、火炎に耐えるべくその場に踏み止まり、呪力抵抗を高めることだけだった。その必要がないにも拘わらず……

 そう、宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した『聖火』の権能は、破邪顕正の炎である。すべてを焼き尽くす破壊の炎ではない。不浄を焼き清める破邪の炎なのだ。

 それ故に、通常の物質にはうまく能力が働かない。ましてや絶大な呪力抵抗力を有する『まつろわぬ神』相手では、もろに浴びたところで火傷ひとつ負うことはあるまい。

 だが、宗一郎の権能の正体を知らないペルセウスは、呪力攻撃に対して最も汎用性の高い防御態勢――すなわち、呪力抵抗力を引き上げることで対処してしまった。

 結果として、それにより素早くしなやかな挙動は停滞を余儀なくされ、ペルセウスはまるで足が地面に縫い止められたかのようにピタリと動きを止める。

 のみならず、火炎が目くらましの役割を果たし、このときペルセウスは宗一郎の挙動を視覚で捉えることができないでいた。

 まさに宗一郎が意図していた通りに。

「はあッ!」

 踏み込む足とともに必勝を期すべく放たれた電光石火の突きは、燃え盛る火炎を切り裂き、ペルセウスへと肉薄する。視界を遮られた鋼の勇士に応じる術はない……はずだった。

 だが、ペルセウスは何事もなかったように業火の中を平然としながら背後へ跳躍する。

 おそらくは己の身を包む火炎に自らの生命を脅かす熱量がないものと即座に看破、と同時に迫る危機さえをも察知し、持ち前の神速の脚捌きを駆使して刃圏から逃れたのだろう。

 まったく冗談染みた話だが、いわんや『まつろわぬ神』なら何を仕出かしたところで驚くに値しない。

「神殺しにしては、珍しくも真っ当な武人らしき言葉を口にするものと感心していたものを、まったくその口の根も乾かぬうちにこの有様とはな! やはり君もまた勝ち汚い神殺しの系譜に連なる者ということか……ッ」

 ペルセウスは苦々しい口調で憤慨した。

 どうやら鋼の勇士は、宗一郎の戦い方に文句があるらしい。しかし、宗一郎はその非難に鼻で笑うことで応える。

 若き神殺しにしてみれば、正々堂々と戦い合うなどと宣誓した覚えなどない。ペルセウスの非難は的外れ甚だしい。

 確かに宗一郎は、本来有する己自身の力だけで戦いに臨む傾向があるものの、だからといって、戦略戦術の類を完全に否定するつもりは毛頭ない。それどころか、それが勝利に繋がるならば積極的に活用することに躊躇いなどない。

 おそらくは戦う前のやり取り――ペルセウスが馬上の有利を自ら捨てたことによる宗一郎の不満の声――で、あの鋼の勇士は妙な心得違いでも起こしたのだろう。

 あれは侮られたと感じたが故に発した言葉に過ぎない。神無月宗一郎は敵に軽んじられることを何よりも嫌うのだから。

「――聴く耳持たないか。だがそれが君の流儀だと言うのならば仕方あるまい。よかろう、神殺しよ。君に真の戦士とはどういうものか魅せてやるとしよう!」

 雄々しくペルセウスがそう口にして、不敵に微笑む。

「へえ……それは愉しみですね」

 宗一郎もまた静かに微笑む。

 一見して優しげに見えるこの笑みは、この若き神殺しにとって闘争を心底悦んでいる証に他ならない。

 開けた間合いで対峙する二人。火炎はすでに散り去り、熱で茹で上がった空気は上空に漂う冷気が瞬く間に冷まし、むしろ夏日ながら肌寒いくらいである。

 いや――果たしてそれは温度だけが原因であろうか。

 人外魔境の境地に達した戦士と神域に座す勇士。両雄の全身から漲る殺気と闘気が、物理現象にまで影響を及ぼしているのかもしれない。この両雄の間に生じることならば、何が起こったところで不思議はない。

 間違いなく次の激突は、先程とは比較にならぬほど熾烈を極めるものになるだろう。

 そういった予感を感じさせるほど、樹上の闘技場は激烈な緊張に包まれていた。

 空間に飽和した緊張が臨界まで達し、両者が再度ぶつかり合う――そう思われた刹那、樹上の闘技場、その無数の枝と葉で創られた足場が唐突に消失した。

「!?」

 驚愕する宗一郎とペルセウス。ともに揃って重力の束縛に絡め獲られ、なす術なく墜ちていく。

 やんぬるかな、足場が急に消え失せれば、いかに練達の勇士たちといえども、ただ驚くしか他にしようがあるまい。が、その最中であっても、いち早く立ち直ったのは、歴戦の勇士ペルセウスであった。

 主人の意思か、それとも下僕の忠義ゆえか、純白の天馬が舞い降りて器用にペルセウスを自らの背に乗せるや否や、優美な翼を羽ばたかせてこの空域から離脱した。

 遅れること半秒、宗一郎もまた自らに宿った跳躍の超権を駆使し、この場から退去しようとする。だが、どうやらそれは、遅きに逸したらしい。

 高度数十メートル上空から地上へ向かって滑り墜ちる宗一郎をまるで追うかのように緑の粒子が集うや、女性の姿を象る。

 女神ヘラである。そして、かの女神こそがこの状況を作り出した元凶に他あるまい。

 宗一郎とペルセウスの決闘の場を気前よく提供したかと思われたが、隙あらば漁夫の利を得るべく手ぐすねを引いて待ち構えていたのだろう。

 地母神は青緑の瞳を宗一郎に傾けると、

「愚かなエピメテウスの子、忌まわしき神殺しよ。約束していた褒美を今こそお前に与える時が来ました。さあ、『死』という名の祝福を受け取りなさい。英雄は等しく我が腕の内に還る宿命を持つのだから!」

 ヘラは白い腕を広げて、にっこりと笑顔を浮かべながら肉薄(ダイブ)してくる。

 突風が渦巻く中、その声が明瞭に聞こえてくる。

「戯れ言を……ッ!」

 怒声とともに、宗一郎は地上へと落下する不安定な体勢ながらも長刀を振りかざし、横へ一閃。

 血の飛沫が宙へと流れる。切っ先は、狙い違わず女神の首筋へと奔り、斬り裂いた。

「……!?」

 だがこの結果に驚いたのはむしろ宗一郎の方だった。

 無限の生命力を有する地母神に通常の物理攻撃はあまり意味をなさないのは、先の地上戦での顛末で証明済みである。

 実際、宗一郎はヘラに斬り付けても血一滴すら流させることは叶わなかったのだから。にも拘らず、斬撃が明らかな効果を示した。

 前回と今回、果たして何が違うのか。ふと宗一郎は、思い当たる節があった。

 地母神の無限の力の根源は、言うまでもなく『大地』そのものだ。ならば、大地からヘラを切り離してしまえば、その力は半減する――そこまでいかなくとも、力を減じざるを得ないことは確かだろう。

 だとするなら、いまの事態にも納得がいく。いまヘラは大地から遠く離れて、宙を墜ちているのだから。だが、

「ふふ、無駄な足掻きはおやめなさい。もうお前は何処にも逃げられないのです」

 ヘラはまったく痛痒を感じていなかった。

 たとえ再生力が完全でなくとも、たかが刀一本の一撃を見舞った程度では大地を司る女神には何ら決定打にはなり得ないのだろう。……だがまんざら無駄であったわけでもない。

 宗一郎は己の刀に神の血の雫を吸い込んだ感触をはっきりと得ていた。その意味するところを正確に理解しているのは、いまは宗一郎のみである。

 だがしかし、女神ヘラもいずれ知るだろう、今この瞬間こそが勝敗を分かつ分水嶺だったということを。

 だがそれは、所詮いまだ来ぬ未来の話に過ぎない。現在の窮地を乗り越えぬ限りただの意味なき空想に堕す。

 事実、ヘラは急所に斬撃を受けたと言うのに平然とし、宗一郎のすぐ目の前まで身を寄せてきた。すると彼女は白い腕を宗一郎の肩からするりと首へと絡め、まるで母親が我が子を優しく包み込むように抱き寄せ、あろうことかそのまま口づけを交わしてきた。

 その様は高所から落下中のため、むしろ恋人同士が世を儚んだあまり無理心中を図っているように見えただろう。が、内実は似たようなものかもしれない。

 ただし――死が若き神殺しの身にのみ降りてくるという点に関しては。

 それを示すように宗一郎の本能は、この時最音量の警鐘を鳴らしていた。

 『死』の冷気が唇から体内へと流れ込んでくる。急速に身体が冷えて、生命の火が掻き消されようとしている。

(この力は……ッ!)

 いまヘラは、地母神としてのもう一つの側面たる権能を行使しようとしている。

 彼女たち地母神は生命の賦与者にして豊穣を促すと同時に、自然の持つ破壊力として顕現する神でもあった。冬が来れば命を奪い、気まぐれに災いをもたらす凶神。

 すなわち、死を司る冥府の神としての力だ。ヘラはそれを解放していた。

 抗わねば死ぬしかない! 懸命に体内の呪力を振り絞り、冬の山で吹き荒れる嵐の如く押し寄せてくる『死』の冷気を押し留めようとする。しかし『死』の誘惑はあまりに強烈過ぎた。

 これ以上の抵抗は無意味だと判断した宗一郎は、戦術を切り替えた。

 抗うのではなく――逆に受け入れる。

 さりとて、宗一郎もカンピオーネの一人である。ただでは死んではやらない。そんな屈辱、死んでもやるものか! そのためには、宗一郎が死ぬほど嫌っている権能とて使用するのを厭わない。

 イメージするの『穀物』――黄金色に輝く大麦だ。そして、行使するのは自らに備わった第二の超権。忌まわしき復活の権能。

 それを最後に、宗一郎の意識は砕け散った。

 

 

 女神ヘラは自らが巡らした策謀が上首尾に終わったことを確信し、胸中で喝采を上げた。

 仇敵たる神殺しは、ついさっき死に絶えた後、彼女の腕の中から離れ、今は物言わぬ骸と化したまま、ヘラより先んじて地表目掛けて墜ちている。

 この高度から落下している以上、当然、遺骸も無残な状態へと成り果てるに違いない。その有様を想像して、ヘラは残忍な笑みを口元に刻んだ。

 下賤な男が偉大なる地母神たる自分に刃を向けたのだ。この程度の誅罰でも生易し過ぎる。が、それも致しかたあるまい。まだ罰しなければならない男がいるのだから。

 ペルセウス。自分の素性を偽る酔狂者。

 かの者を討ち滅ぼすことによって、この地で蔓延る己に歯向かうものどもは、当面、排除できるだろう。

 後はこの都市に住まう野蛮な心を持つ男だけを選別し、石くれに変えるとしよう。そして残った男と女たちには、古き大女神たる己を崇拝する儀式を催させるのだ。

 取りあえず満足がいく今後の予定を立てたヘラは、これが見納めとばかりに宗一郎に視線をやる。地上まで残すところ僅かばかり。そして、血肉飛び交う最高のショーの開演までもうすぐ!

 わくわくと期待に胸膨らませるヘラは――だがしかし、たちどころに驚愕の念を味わう羽目になった。

 確かに仕留めたはずの神殺しが地面に激突するかと思いきや、あろうことかそのまま大地がまるで水面と化したかのように宗一郎の身体を吸い込んでしまった。

 そのしばらく後、大地に着地を果たしたヘラは、呆然と宗一郎が消え失せた、何もない地面を眺めていた。

 そして――

「ハハハ、やはりそういうことであったか。勝ち汚い上に、生き汚い神殺しが不意を突かれたとはいえ、ああもあっさりと死んだのは妙だと思っていた」

 快活な声とともに、ペルセウスを背に乗せた天馬が地面に蹄を鳴らす。

「……ペルセウス、お前ですか」

 ヘラが忌々しげな眼差しで睨みつける。

「ふふ、ヘラよ。どうやら貴女も神殺しに一杯食わされたようですな」

 そう言ってペルセウスは、からかうように口の端を吊り上げた。

「黙りなさい、下郎! どうやらお前から誅罰されたいようですねっ!」

 ヘラは怒りに胸の内を燃え立たせた。

 屈辱だった。仕留めたと思っていた神殺しが実は生存しており、しかもその彼女の失敗をよりにもよってペルセウスに目撃されようとは!

 あまりの憤激と屈辱がマグマのように胸から吹き出し、際限のない破壊と暴虐の限りを尽くしたいと欲していた。

 鋼の勇士を睨み据えるヘラの青緑の瞳が、やおら危険な光を灯すのを見咎めたペルセウスは、天馬に無言の意を伝えるや、優美な霊獣はばさりと両翼を羽ばたかせて、旋風を巻き上げ、宙へと浮かび上がる。

「待たれよ、御身のお気持ちは解らぬではないが、いま我らが争うべき時ではあるまい。何しろお互い今日をもって神殺しどもとの逆縁がくっきりと結び合わさってしまったのだからな。ならば、我々が決着を付けるのは、彼らを討ち果たした後こそが相応しいと思われるが、いかがかな、ヘラよ」

 そう嘯くとペルセウスは、真剣な眼差しでヘラの真意を問うた。

「お前の言うことはもっともです、ペルセウスよ。確かにわたしたちが争っている場合ではないようですね。いいでしょう、お前の誅罰はあの神殺しの後にしましょう」

 かくして『まつろわぬ神』たちの間に再戦の誓いが果たされた。

 それを満足げな面持ちで見届けた鋼の勇士は、天馬に手綱を入れて高天へと舞い上がり、地母神は大地に溶けるように吸い込まれて消え失せた。

 超常の戦場と化した波止場に、静寂が訪れる。ナポリの街にようやくにして夜の眠りが舞い降りたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話 王と騎士

 草薙護堂は目を覚ますと、まだ寝起きでぼんやりとしながらもゆっくりと上体を起こす。

 ここはどうやらベッドの上らしい。よほどクリーニングが行き届いているのだろう。芳香剤の爽やかな香りが護堂の鼻腔をくすぐる。

 周りを見渡せば、室内には必要以上に華美にならず、さりとて貧相では決してない瀟洒な調度品の数々が備え付けられていた。

 ベッドの傍らには見覚えのある少女もいた。妖精にも似た銀髪の女騎士、ではない。

 だが同じほど美しく、周りの高価な調度品にも劣らない、いやそれ以上の美貌と気品を併せ持つ、赤みがかった金髪の美少女だった。

「――ってエリカじゃないか、何でここにいるんだ?」

 その驚愕と疑問が寝ぼけて霞がかった護堂の思考を鮮明にしてくれた。

 たしか自分はアテナによって強引にサルデーニャ島から連れ出され、遠路はるばる古都ナポリまで辿り着く羽目になってしまったはずである。

 そのため、この夏休みを南欧でともに過ごしていた同行者たちとは、サルデーニャ島で離ればなれになってしまったままだと考えていたのだが。

 だと言うなのに、どうしてこの女騎士はここが自分の定位置だとばかりに、当然の如く護堂の傍らに侍っているのか?

 あるいは、そもそも護堂の記憶が間違っており、実際ここはナポリなどではなくサルデーニャ島だったりするのだろうか?

 もしそうであるなら、あの忌々しい記憶の数々は、

「――そうか、あれは全部夢だったんだな!」

 心底嬉しげに顔を綻ばせ、ほっと安堵の吐息をつく護堂。

 そうだ。いくら非常識な世界に足を踏み入れて数か月経つとはいえ、『まつろわぬ神』三柱とカンピオーネ二人が一堂に会するなんて展開が、あり得るはずもなかったのだ。

 それにしても、何とおっかない夢を見てしまったことか! 只でさえ、厄介事はリアルだけで充分に持て余していると言うのに、どんな罪があって夢の中の平穏までかき乱されねばならないのか。

 本当に勘弁してほしいと嘆く護堂に、エリカは呆れたとばかりに胸元で両腕を組み、溜息をつく。

「護堂、貴方ってば、まだ寝惚けているのかしら? ――いいえ、本当は解っているんでしょう? ここはサルデーニャ島ではなく、ナポリだってことにね」

「……」

 護堂は沈黙した。

 そうする他なかった。まったくエリカの言う通りであったからだ。

 たしかに護堂は理解していた。あの夜の出来事が決して夢などではなかったことに。

 ただ夢なら良かったなあ、と心の底から願っていただけである。結局、叶わぬ夢であったが。

 躁状態から一転して、鬱状態へと切り替わった護堂は、げんなりとしながら、赤い騎士を見詰める。

「……それで結局、エリカはどうしてナポリにいるんだよ? まだその質問に答えてもらっていないぞ」

「それなら、リリィのお蔭ね」

「リリアナさんの?」

 不思議そうに訊ねる護堂に、エリカは頷く。

「そうよ。あの子が昨夜、貴方がアテナに連れ出されてサルデーニャ島からナポリまで移動したことを、わざわざ教えてくれたのよ。それで私たちも朝一番の航空便で駆けつけられたわけね」

「昨夜だって!? それに私たちってことは、他の皆も来てるのか?」

 驚愕する護堂を余所に、エリカは何処か気遣うような眼差しを向ける。

「ええ、当然でしょう。それに護堂、今は正午よ。……どうやら今回はずいぶんと寝坊したみたいね」

 正午と言うことは、ほぼ半日眠っていた計算になる。

 たしかに解せない話である。明らかにいつもより目覚めるのが遅すぎる。何やら夢らしきものを観ていた記憶があるので、あるいはそのせいかもしれない。

 まあ、それはいい。いや、実際はそこまで良くはないのだが、そこは深く考えても仕方のないことだと、護堂はすでに諦めていた。

「エリカ、他の皆はどこにいるんだ?」

 きょろきょろと視線を四方へと走らせ、護堂は話の続きを促す。

 周りにはこの女騎士の姿しか見えないのである。他の彼女たちはどこに行ったのだろうか? 

 とはいえ、ナポリに来てくれたのは、護堂の同級生である万里谷裕理とエリカ付きのメイドであるアンナの二人だけだろう。

 護堂たちをイタリアへ招いた張本人ルクレチア・ゾラは、今頃は護堂の窮状など知らぬげにサルデーニャ島の自宅でだらしのない姿を晒して悠々と眠りこけているに違いない。

 そう考えると、憤懣やる方ない想いで胸を詰まされる護堂であった。

「あの二人――もちろん、裕理とアンナのことよ――は、いま買い出しに出かけているわ。この場所は私たち《赤銅黒十字》のナポリにおけるセーフハウスの一つなのよ。

 そのせいで日常品、とくに食料は保存が利くものしか置いてなかったの。でもそれだと淋しいでしょう? だからあの二人に足りない分を買出しに行ってもらったのよ」

 なるほどエリカの説明は、たいへん解りやすかったものの、護堂はどうしても訊いておかねばならないことがあった。

「じゃあ、なんでエリカはここに一人でいるんだよ? 二人を手伝ってやれよ!」

 そう言って護堂は、半眼でねめつける。

 日常品、それも食料だけに限定しても四人分とあっては、かなりの重量に及ぶのは明らかだ。女の子二人だけでは、持ち運ぶのにもさぞや苦労するだろう。

 ただし、そこにエリカが伴っているなら、そんな心配は無用である。何しろ、この女騎士ときたら本気を出せば護堂以上のパワフルさを発揮するのだから。彼女たちの助っ人としては、文字通り百人力である。

 だが、雌獅子の心臓と鋼鉄の胆を持つエリカには、そんな護堂の常識的な非難など通用しない。

「――いやよ。ねえ、護堂。どうしてこのエリカ・ブランデッリとあろう者が荷物持ちなんて事をやらなくてはならないのかしら?」

 エリカは両腕を組んだまま昂然と胸を張り、そう嘯いた。

「だから、お前は何でそう偉そうなんだよ!」

 護堂のツッコミにもエリカはどこ吹く風だ。その居住まいに変化はまったく見られない。

 それを見た護堂は、がっくりと肩を落とし諦めたように溜息をついた。

「はあ、もういい。エリカが行かないなら、俺が行く!」

 がばっと布団を跳ね上げ、ベッドの下に置かれてあった靴を履くと、護堂は一目散に部屋を飛び出した。

「ちょっと護堂!?」

 そんな護堂の唐突な行動にエリカは、慌てて制止の声を投げかけるも、しかし護堂は彼女の言葉を無視してそのままドアの奥へと消えていった。そして、バタン、と叩きつけるような勢いでドアが盛大な音を立てて閉まる。

「……」

 エリカは呆然と佇みながら、そのドアは凝視するしかなかった。どうやら本当に行ってしまったらしい。

 エリカとしては、あんな馬鹿げた言い争いなどではなく、いずれ来たるべき『まつろわぬ神』と戦う上での戦略を、護堂とともに詰めておきたかったのだ。――が、重要極まるはずのその案件を、まるで忘れ去りでもしたかのように何の躊躇もなく、他の愛人の許へと走っていってしまうとは、さすがに思いもよらぬことであった。

 二人の荷物を持つことが、そんなにも護堂にとって重要なことだったのだろうか? 『まつろわぬ神』と戦うよりも?

 四か月の付き合いで護堂の精神構造については、かなりの理解を深めてきたつもりだったが、まだまだ甘かったと言わざるを得ないようだ。

 さすがはカンピオーネというべきか。自他共に才女と誉れ高いエリカを以ってしても、なお護堂の行動予測を立てることは困難らしい。

 もっとも戦略を詰めるといったところで、護堂の所有する権能の都合上、敵対する神々の出自を突き止めねばならない以上、神話学について一般教養程度の知識量しか持たない護堂では、どのみちあまり役には立たなかっただろうが。

 むしろ今買い出しに出かけている万里谷裕理の方が、欧州でも希少な霊視能力を備えているためエリカの相談相手として実に有益な人材なのだ。

 そういう意味では、護堂が裕理たちの手伝いに赴いたことは、現在の状況を冷静に鑑みれば、まったくの無益というわけではない。とはいえ、とうの護堂自身そんな思惑を秘めて行動しているわけでもないだろうが。

 ともあれ、護堂がこの場にいない以上、今後の戦略をエリカ独りで思案したところで意味はない。

 ならば、いま考えねばならないのは、むしろ今より更なる未来を見据えたより大局的思索、即ち――「大戦略(グランド・デザイン)」の方だろう。

 どうやらエリカの旧友であるリリアナ・クラニチャールは、八人目のカンピオーネの陣営に正式に加わったと見て間違いないようだ。

 これは護堂陣営にとって、かなり由々しき事態である。なぜなら、エリカは護堂と八人目――神無月宗一郎は、いずれ本格的な武力闘争に至る(、、、、、、、、、、、、、、)ものと予測を立てているからだ。

 それも先月のようなバトルロイヤル形式ではなく、他の同族を交えることのない極東のカンピオーネ同士による一騎打ちの死闘になるものと見越していた。

 もしその予測が実現しようものなら、必然、両陣営に属している者たちとて無関係でいられようはずもない。

 ――否、ひとたび騎士として草薙護堂を主として忠誠を誓った以上、その誇りに賭けてむざむざと主君独りで戦場へ行かせはしない。それは相手側の騎士もまた同様だろう。

 こうなると護堂と神無月宗一郎の戦いは、対立する陣営同士の総力戦の様相を呈することにならざるを得ない。

 その場合まず間違いなくエリカたち護堂陣営は、極めて不利な戦いになるだろう。

 その理由は、一も二もなく護堂陣営における「駒」不足に尽きると、エリカは冷徹に判断していた。

 それは両陣営における戦力を比較検討すれば一目瞭然である。現時点で判明している神無月陣営の主要戦闘員は、リリアナ・クラニチャールと神無月佐久耶の二人。

 まずリリアナであるが、彼女については今さら詳細な分析など必要あるまい。

 昔からあの生真面目な女騎士のことは誰よりも理解している。とりわけその戦闘能力は、ここ欧州の同世代の中では、このエリカ・ブランデッリと張り合える唯一の使い手である。

 そして、神無月佐久耶――彼女については、分析を試みようにも情報が少なすぎる。

 日本の呪術組織である正史編纂委員会から情報を取り寄せようとしても、どうやら神無月家という一族は、日本の呪術組織にとって長らく“触れるべからず(アンチャッタブル)”であったらしく、有益な情報を何も持ち合わせていなかったのである。

 唯一エリカが神無月佐久耶について参考にできる戦闘能力は、先月、直接目の当たりにした神獣を使役していると思しき術法だけである。

 ……異邦の術理ゆえに単純に比べることは難しいものの、欧州最高の騎士クラスのみ行使可能な最高秘儀が対神獣用術式であることを考慮に入れると、最悪、エリカの叔父である聖騎士パオロに匹敵するかもしれない。少なくともエリカ以下の戦闘力ということは絶対にあり得ないだろう。

 対してこちらの陣営は、護堂を除けば戦えるのは、実質エリカ独りなのだ。万里谷裕理は希少な霊能力者ではあるが、戦闘能力に関しては一般人と大差ない有様である。

 そして、ことが日本のカンピオーネ同士の決闘とあらば、正史編纂委員会の協力は期待するだけ無駄だろう。

 これでは、いかにその胸に強気と自信を溢れるほど抱え込んでいるエリカといえど、いざ神無月陣営といま真っ向からぶつかり合えば、勝利をイメージできる道理がなかった。

 だからこそ、必要なのだ。護堂陣営の戦力となり得る「駒」を。それもエリカに匹敵するか、あるいはそれ以上の“使い手”が。

 だが、それがどれほどの難事であるかは、エリカが一番了解していた。そんな逸材がそうそう簡単に見つかるはずがないし、もし仮にこれはと思う人材がいたとしても、既に属している組織において重要なポジションに就いている可能性が高い。

 実際、よほど強力な繋がり(コネクション)でもない限り、引き抜きは不可能だろう。エリカが唯一持っていたコネ(、、)は、他ならぬリリアナ・クラニチャールだったのだが、あいにく彼女は敵に奪い取られてしまった。

 つまるところ、エリカにはこうした状況を打開する手段がないことを意味した。

 その事実を改めて認識して、エリカは深い嘆息をついた。が、俯いてばかりいるのは、自分らしくないと赤い騎士は決然と顔を上向けて、胸のうちに闘志を滾らせた。

 コネはない、手段もない。それでもこの窮地を堂々と切り抜けてみせてこそ、草薙護堂の第一の騎士として誰憚ることなく胸を張れようというものだろう。

 だがしかし――そんなエリカの決意とは裏腹に、赤い騎士の悩みの種は約一か月後、エリカも巻き込まれる羽目になる一大騒動(原作五巻)とともにごく自然に解消されることになる。

 だがそれは、図らずもエリカの予測通り、その顛末は極東のカンピオーネ同士の死闘へと展開していく序章となるのだが、それはまだ誰も知らない「遠未来」の話である。

 

 

 これにて草薙護堂とその愛人たちの物語は一端終幕する。

 だが、それだけでは、いささか画竜点睛に欠くこと甚だしい故に、護堂一行の「近未来」――このすぐ後に始まることになる対ペルセウス戦の顛末を軽くだが述べておこう。

 と言っても、それは既にアレ(原作四巻)コレ(アニメ十話)にて綴られているため、敢えてこれ以上付け加えて語る必要はまったくない。事実、護堂側の陣容が多少変化しただけで、それ以上特筆するような大きな変化はないのだから。

 故に、世に悪が蔓延った例はない、の格言通りに草薙護堂(ヒーロー)が勝利を手中に収めた、とだけ今は言っておこう。

 ただし、カンピオーネがヒーローと讃えるに値する存在であるかどうかは、ヒトによって意見が分かれるテーマだろうが。

 

 

               †          ☯

 

 

 草薙護堂が覚醒を果たした同刻、神無月宗一郎もまた目を覚まし、上体を起こしていた。

 どうやら何処かの寝台の上で眠っていたらしい。見知った場所ではない。宗一郎にはまったく馴染みのない西欧風の寝室だった。

 しかもかなり狭い。これでは鍛錬で剣を振り回すのに、相当難儀しそうである。いや、それはそれで新たな鍛錬になるやもしれない、などと物騒なことを考えていた宗一郎であったが、無論、寝台の傍に控えている少女の存在に気づいていた。

 艶やかな漆黒の髪をした美しい娘、ではない。だが同じほど美しい、妖精にも似た銀髪の女騎士だった。

「リリアナさんですか。僕はどれくらい眠っていましたか?」

「は、はい。約一二時間、もうすぐ正午になる頃です。後ここは、ディアナ・ミリート――ナポリに住む仲間の住まいです。客間のベッドを借りて、あなたのお世話をしておりました」

 六刻。どうやらあの地母神にまんまとしてやられてから、すでに半日も経過しているらしい。

 宗一郎の第二の超権。豊穣神デメテルより簒奪した『復活』の権能は、文字通り死に瀕した神無月宗一郎を冥府の底より蘇えらせる驚異の力を持つ。

 ただし、完全蘇生に至るまでには、数時間ほどの時を要するのだが、今回は明らかにいつもよりその時間が長い。

 何かあったのだろうか? しばし悩んだ宗一郎であったが、すぐにその思考を放棄した。

 自分自身が死傷した後のことなど考えるだけで不愉快になるからだ。なぜなら、それはまたもや自分が敗北を喫した結果に他ならないが故に。――が、次は必ず勝つ。

 宗一郎の胸のうちにふつふつと闘志が湧き上がる。それは決して虚勢などではない。若き神殺しの脳裏には、たしかな勝利への算段が閃いていた。

 そのための『準備』を整える必要がある。神無月家が編み出した秘奥を完成させるために。

「佐久耶、居るのでしょう? 今すぐ出てきなさい」

 宗一郎は何もない虚空に向かって語りかける。

 するとその声に応えるように白い人影が、リリアナの傍らに躍り出てくる。宗一郎の妹、神無月佐久耶である。

「はい、兄さま。何かご用でしょうか?」

 妙なる霊力を持つ白き巫女は、そう口を開いてから穏やかに微笑む。

 それを横目に見たリリアナは、表情を青褪めさせて身を固くする。彼女には巫女の微笑みがトラウマになっているのだろう。

 それを知らない宗一郎は、そんな青い騎士を不思議そうに眺めるも、すぐに妹へと視線を転じる。

「何かご用でしょうか――ではありません。決まっているでしょう、アレをやります。佐久耶、無論支度は整っているのでしょう?」

 宗一郎の語るところのアレとは、若き神殺しの――否、神無月家が永き研鑽の果てに編み上げた窮極奥義<神殺しの刃>に他ならない。

 『まつろわぬ神』討滅に絶大なる力を発揮するこの大呪術は、だが発動に際して幾つかの準備が必要だった。

 そして、宗一郎が佐久耶に問うているのは、<刃>鋳造のために不可欠たる三つの工程――その内の一つたる敵対する神についての“知識”を得ることであった。

 にも拘らず――

「いいえ、兄さま。わたくし、何の準備もしておりません」

 にっこりと微笑みながら、そうのたまうのだった。

「はい?」

 最初言葉の意味が解らず途方に暮れる宗一郎だったものの、理解が及ぶにつれて表情を険しくさせて、怒気を爆発させた。

「佐久耶、お前は何を言っているのですか!? 神無月家の家訓を蔑ろにするというのなら、たとえ血を分けた妹と言えど許しませんよ!」

 だが兄の怒りなぞどこ吹く風の彼女は、落ち着き払ったまま平然と嘯く。

「何を仰るっているのですか、兄さま? わたくしたち神無月家の家訓を蔑ろにしているのは、むしろ兄さまの方ではありませんか」

「な……お前は、何を言っているのですか!?」

 宗一郎は驚愕のあまり言葉を失う。彼には妹の言わんとすることがまるで理解できなかった。

 そんな兄の様子を見咎めた佐久耶は、さも呆れたとばかりに溜息をつく。

「本当にお気づきになられていないようですね。兄さま、かの女神についての完全な“知識”を得られたいのなら、わたくしより適任の方がそこに居られますでしょう――そうですよね、リリアナさま?」

 そう言って佐久耶は、意味深な視線を青い騎士に送った。

 いきなり始まった兄妹喧嘩をはらはらしながら見守っていたリリアナは、唐突に会話の矛先を向けられて狼狽した。

「え? わ、わたしに何の関係が!?」

「もちろん、大いに関係していますとも! 何しろ女神ヘラは、リリアナさまの故郷である、この国と深い関わりのある『まつろわぬ神』ではないですか」

 満面の笑みを浮かべて、佐久耶は言い放った。

「ぬ……そうなのですか、リリアナさん?」

 その言葉に、宗一郎は驚いたように訊ねてくる。

「は、はい。確かに女神ヘラはここイタリアと縁の深い『まつろわぬ神』ではありますが……」

 正確にはヘラの発祥の地は、イタリアではなくギリシアなのだが……しかし神無月佐久耶は一体何を言いたいのだろうか?

 訝しげな眼差しで彼女を見ていたリリアナは、ふいにある考えに思い至り、愕然とし、次いでみるみる内に羞恥のあまり頬を朱に染めた。そんなリリアナに気づいた佐久耶は、満足した風にますます笑みを深める。

「ま、まさか、神無月佐久耶! あなたはまたアレをわたしにやれと言うつもりか……!?」

「流石はリリアナさま。察しが早くて助かります」

 すると宗一郎もまた、ようやく妹の真意を理解したのか、驚きの表情に包まれる。

「佐久耶、お前はまたリリアナさんに<教授>の術を使わせるつもりですか!?」

 <教授>の魔術とは、伝えたい知識をわずかな時間で脳内に記憶させる術のことだ。

 神々の知識が著しく不足している宗一郎にとって、自身の切り札を使用するためには必要不可欠な魔術である。

 だが一つ問題があった。それはカンピオーネには絶大な対魔力が備わっており、通常の手段では<教授>の術は効果を発揮できないのだ。

 とはいえ、何事にも例外はあるもので、そのためこれまで宗一郎は、佐久耶が術を吹き込んだ呪石を口内に摂取することで代用してきた。体内に直接作用する魔術の類はレジストされにくいからだ。……もっともここ最近、彼女はその役割を放棄しているようだが。

結果的には(、、、、、)そうなるかもしれません。ですが、不完全なわたくしの知識と完全なリリアナさまの知識で鍛えられた<刃>――どちらがより威力を発揮するかは明らかでありましょう」

 可憐な巫女は、二人に向かって滔々と「正論」を投げかける。

「むぅ……」

 顎に手を添えて納得しかけている若き神殺しとは裏腹に、青い騎士は微塵も騙されなかった。

 神話学と一口に言っても、その範囲は広大無辺である。故にすべてをカバーすることは、たしかに不可能ではあるだろう。

 実際リリアナの知識とて、故郷イタリアを中心とした西洋に重点を置いたものになっている。だから、日本人である神無月佐久耶の知識が、東洋を中心に占められており、結果、西洋関連の神話の知識が疎くなっていたところで何の不思議もない。

 一見すると、この巫女が自身の仕事を放棄する正当な理由になっているかのように映る。だが――リリアナは気づいていた。彼女の主張など所詮は嘘八百に過ぎないことに!

 まつろわぬヘラは、アテナにも劣らぬビッグネームな女神である。

 ならば、神無月家の究極の秘術たる<神殺しの刃>を最大限に活用するため、リリアナよりも一層深く神話学を修めている神無月佐久耶がヘラの神話の来歴を知らないはずがない。

 ましてや、かの女神の神話は、専門家の頭を悩ませるほど難解でもない。よって霊視の啓示を賜わる必要もなく、既に学者たちの手によって解き明かされていた。

 故にヘラの神話に関する佐久耶とリリアナの知識量は、まず間違いなく同等のものであると確信する。

 なのに神無月佐久耶がリリアナに<教授>の魔術を彼女の兄に対して使用させようと図っているのは、この可憐な少女の皮を被った女狐が、またもや良からぬこと――きっとアレのことだ!――を企んでいるからに違いない。

 そんな手には乗るものかと、気炎を吐くリリアナは全力で反論を試みる。

「神無月佐久耶、あなたが呪石を作製しないというのなら、わたしがその任を請け負おう!」

「おお、その手がありましたか! 流石はリリアナさんです!」

 宗一郎は心底感心したらしく目を輝かせた。その称賛の声に、リリアナも満更ではないのか、どうだと言わんばかりに自信満々の笑顔を覗かせた。

「――いいえ、それは難しいでしょうね」

 だが、佐久耶はあっさりとその提案を否定する。

「そ、そんな……なぜですか!?」

 目を剥いて断固抗議するリリアナに、「まったくです」と妹に非難の眼差しを向ける宗一郎。

「お忘れですか、リリアナさま? 呪石の作製は時間が掛かるものなのですよ。しかもそれまでに、まつろわぬヘラが待ってくれるという保証は何処にもないでしょう。そうではありませんか、兄さま?」

 理路整然とした佐久耶の主張に、まったく反論の余地を見出せず沈黙する宗一郎とリリアナ。そこに、さらに畳みかけるようにして巫女は言い募る。

「それに呪石とて、決して完全というわけではないのです」

「どういうことです?」

 宗一郎は眉を顰めた。

 以前何の問題もなく呪石を使用できた経験があるからだろう。どうやら彼は佐久耶の言葉に異議があるらしい。

「兄さま、それは極めて当然の話なのです。所詮呪石は一工程を余計に挟んだ、とても無駄の多い呪術儀式なのです。そのためどうしても失敗してしまう可能性が一定数あるのです」

 妹の言い分を信じられないのか、宗一郎は問うようにリリアナに視線を転じた。

「……それは……はい、彼女の言う通りその可能性は常にあります」

 真実であるが故にそう答えるしかなかった。

「まさか、呪石にそんな欠点があるとは……」

 自身が頼みにしていたため、やはりショックを隠せないようだ。宗一郎は溜息をついて、かぶりを振った。

「では佐久耶、今後呪石を頼れないとするなら、どうやって“知識”を得ればいいのです?」

「神無月宗一郎! それは――」

 言いさしたリリアナを遮るように、佐久耶が待っていましたとばかりに意気高らかに言葉を紡ぐ。

「兄さま、それはもう分かっておいででしょう。もちろん、リリアナさまにご助力願うのです!」

「……つまりそれは……リリアナさんと……今後もアレをするということですか?」

 宗一郎が言いにくそうに言葉を濁す。

「その通りです――接吻です、キスです!」

 だが兄と打って変わって、佐久耶は嬉々として遠慮も羞恥もなく言い放つ。

「接吻……!」

「キス……!」

 その言葉自体に、まるで物理的な衝撃でも備わっているかのように慄く宗一郎とリリアナ。それで互いを意識してしまったのか、二人は顔を見合わせて、慌てて視線を逸らす。

 心なしか二人の頬が赤く染まっているように見えたものの、はっと我に返った宗一郎とリリアナは怒りの声を放つ。

「佐久耶……! お前は何と破廉恥な言葉を口にするのですか!? 恥を知りなさい!」

「まったくです、神無月佐久耶……! あなたはもう少し慎みというものを覚えるべきです!」

「はぁ、破廉恥……慎み……ですか」

 この程度のことで何を大袈裟な――と言外に呟きつつ、佐久耶は冷ややかな視線で二人を見据える。とはいえ、なかなかの意気の合いようである。どうやら「相性」の方は、上々であるらしいと内心でほくそ笑む。

 そんな胸中などおくびにも出さず、佐久耶は淡々と先を続ける。

「兄さま、リリアナさま、これもまた『まつろわぬ神』に勝利するために必要なことなのです。ですから、いい加減に納得してください。もっとも、お二人が神無月家の者として、あるいは騎士としての義務を放棄するというのなら話は別ですが……」

「ぬ」

「う」

 佐久耶の言葉に宗一郎とリリアナは、何も答えられなかった。

 そうやってしばらく物思いに沈んでいた二人だったものの、いち早く決断したのは宗一郎の方だった。

 上体を起こした寝起きの姿勢から一転、ベッドから起き上がり、フローリングの上に何の躊躇もなく膝をつき、正座に組み替える。顔つきも何処か覚悟を決めたかのように厳しくも凛々しい顔立ちに変わっている。

 そんな男らしい仕草に思わず胸を高鳴らせつつも、リリアナは宗一郎の突然の行動に戸惑っていると、若き神殺しはさらに驚くべき挙に出た。

 なんと宗一郎は、正座の姿勢のまま深々と頭を下げたのである。

「――リリアナさん、折り入ってお願いしたいことがあります」

「神無月宗一郎!?」

 よりにもよってカンピオーネに最上級の礼――ただし日本式――を受けるとは思わず、そのためにどう対応していいか判断できず、半ばパニックになったリリアナが選んだ結論が、飛び跳ねるようにして宗一郎の差し向かいに正座して座ることだった。

「な、なななんでしょうか……!」

 パニックになりつつも頭の良い彼女は、すでにこの後の展開を予想して、頬をますます赤く染め上げた。

「僕は神殺しです。だからこそ、僕は神々に勝ちたい。あの女神を倒したい。何よりもう二度と同じ相手に負けたくありません。

……ですが、これがリリアナさんには何の関係もない、僕個人の勝手な願いであることも理解しています。それを踏まえた上で恥を忍んでお願いします。僕に貴女の御力をお貸しください。僕に勝利を授けて下さい」

 若き神殺しは、深々と頭を下げたまま青い騎士に助力を希う。

 だが――

「神無月宗一郎、頭を上げてください」

 その声に応じて静かに(おもて)を上げながら、宗一郎は突如、険しくなったリリアナの声色に言い知れぬ不安を感じた。

 やはりさっきの“願い”は、彼女にしてみれば迷惑この上ない行為だったのだろうか?

 実際のところ、リリアナ・クラニチャールは、静かに激しく怒っていた。

『――これがリリアナさんには何の関係もない、僕個人の勝手な願いであることも理解しています――』

 ついさっきリリアナの前で言い放った、若き神殺しの言葉。

 あまりにカンピオーネらしからぬ、社会常識を弁えた謙虚な応対である。とはいえ、神無月宗一郎からすれば、彼独自の礼節さから口にした、ごく自然な言葉だったに違いない。

 これが普段であったなら、リリアナが宗一郎に対して好感を懐いていたところである。――が、今のリリアナのとってその台詞は、侮辱に等しい言葉でしかなかった。

 なぜなら、宗一郎の戦いは既にリリアナにとって何の関係もない事柄ではなくなっていたからだ。そうでなければ、どうして彼の言葉にこうまで失望と憤りを感じるのか。

 そうだ。リリアナ自身自覚していなくとも、騎士の魂はとうに定まっていたのだ。八人目のカンピオーネに忠誠を捧げることを。

「あの……リリアナさん?」

 リリアナの指示に従って顔を上げたものの、それから一向に返しの言葉がかからず困惑と不安に苛まれていた宗一郎は、おそるおそる声をかける。

 そんなカンピオーネの仕草に、彼にもまだ普通の少年としての部分が残っているのだな、とリリアナはあらためて思った。

 そして、ふいに自分たちは、まだお互いのことをほとんど知らないことを思い返す。まぁ、それは構うまい。これから知り合っていけばいいのだから。

 それに重要なことなら、もう知っている。

 不甲斐ないせいで窮地に陥った己を、我が身を犠牲にして守ってくれた、彼。

 そんなリリアナを一言も責めようとしなかった、彼。

 かつての縁だけを頼りに縋った依頼にも拘らず、快く引き受けてくれた、彼。

 そして、目の前でこちらを不安げに見つめてくるごく普通の少年らしい、彼。

 そう、こんなにも“主”のことを知っている。ならば、それだけで十分すぎる。

 リリアナは決然とした面持ちできっぱりと告げた。

「神無月宗一郎――《青銅黒十字》の騎士リリアナ・クラニチャール、これより御身こそを我が剣の主とし、非才たる身と忠誠を捧げたく思います。

 この誓い、お受けいただけますでしょうか?」

 青い騎士の宣誓に、驚きに目を見開く宗一郎だったものの、たちまちに喜びの表情が花開く。

「ええ、喜んでお受けします。これからもよろしくお願いします、リリアナさん」

「はい、我が主よ」

 ともに笑みを交し合う宗一郎とリリアナ。そうして絆を結んだ『王』と『騎士』は、ごく自然な仕草で互いの顔を近づけた。いつの間にか神無月佐久耶の姿は消えていた。

 

 

 この数時間後、若き神殺しの滞在先であるディアナ家の門前に、牝牛の意匠を象ったメダリオンを首にかけた孔雀が舞い降りた。――牝牛と孔雀は女神ヘラのシンボルである。

 かくして逆縁は再度結び合わさり、物語は終幕へと向かって一気に加速する。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話 地中海の女神

 カプリ島――

 ナポリ市から南へ三〇キロメートルあまりの海上に浮かぶ小さな島である。風光明媚な土地として知られ、イタリアにおける有数の観光名所の一つに数えられている。

 古くは古代ローマ帝国二代皇帝ティベリウスがこの美しい島を愛し慈しみ過ぎたあまり、その統治の後半期をカプリ島に移り住んだまま、大帝国の政務のすべてを執り行っていたとされている。

 そのカプリ島にある美しい砂浜に、いま神無月宗一郎、神無月佐久耶及びリリアナ・クラニチャールは足を踏み入れていた。

 陽はとっくに西の彼方へと沈み、天は月を新たな主として戴いている。また夜が来たのだ。神魔が平然と闊歩する禍々しいときが……

 一行がこの歴史あるカプリ島に赴いたのは、もちろん観光目当てなどではない。――招待されたのだ。それも強大無比にして無双なる神に。

「――よく来ました。逃げることなくわたしの許まで来た、その勇敢さだけは褒めてやりましょう、神殺しよ!」

 言下に浜辺の中心部の砂地が間欠泉の如く噴き上がると、瞬時の内に凝固し、麗しき女神の姿を象る。

 純白のドレスを身に纏った威厳高い貴婦人、まつろわぬヘラ。そして、背後に二人の乙女を率い、威風堂々とした足取りで歩く神無月宗一郎。

 両者は十メートルの距離を置いて対峙する。

「この度は、お招きに預かりありがとうございます。ですが、褒めてもらう必要は、まったくありません」

 若き神殺しは一旦言葉を切ると、静かな微笑を浮かべてヘラを見る。

「獲物を前にして逃げる狩人などいませんからね」

「わたしが獲物だと? 大言壮語なその口上、必ずや後悔させてくれます!」

 どうやらこの女神は、軽い挑発すらまともに受け流すことができない性分であるらしい。相変わらず怒りの形相でまくし立ててくる。

「それは上々です。ならば、早速始めましょう。――僕たちの最後の戦いを!」

 そう言って、宗一郎は背中に帯びた長刀を抜き放ち、大上段に構える。刹那、その刀身がやおら蒼い火球に包まれた。

 <刃>鋳造に必要不可欠な要素の一つたる、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能により創り出された、鋼を精錬する聖なる(ほのお)である。

 そして、同じく<刃>鋳造に必要不可欠な要素の一つたる敵対する神の血は、昨夜の戦いの際に、すでに収得ずみである。

 ならば、後は詠うだけだ――<刃>鋳造に必要不可欠な要素の一つたる、敵対する神の知識を。

 以上をもって、神無月宗一郎は<神殺しの刃>を造り出す鍛錬を開始する。

「ほう、それは先の戦いでは出さなかったチカラですね。なるほど、それがお前の切り札というわけですか……」

 ヘラはそんな宗一郎の戦闘態勢を目を細めて見つめると、

「何をするつもりか知りませんが、それを大人しく待ってやる気はありませんよ!」

 宣言とともにヘラの背後から再度砂地が噴き上がり、巨大な樹の根が蛇のように鎌首をもたげてくる。それを凝視して宗一郎は、

「――蛇ですか。それは貴女の力の象徴。いえ、それだけでなく、貴女たち地母神の本質そのものだ」

 言霊を込めて、燃え盛る刃金に吹き囁く。

 これこそが、神無月家が神を倒すために編み出した窮極奥義。神を斬り裂く智慧の剣。

「貴女は常に蛇と関わりの深い神だった。さらに言えば、孔雀――鳥とも」

「それは……痴れ者め! わたしの忌まわしき『過去』を口にするかッ!」

 柳眉を逆撫でて女神は吼えた。

 いま宗一郎は、ヘラの文字通りの逆鱗に触れたのだ。もはやこの憤怒をなだめる手段は、敵の討滅以外にはあり得ない!

 故に、ヘラは背後に従えた樹蛇に下知を飛ばした。――敵を滅ぼせ、と。

 直後、まるで蛇が獲物を仕留めんとするかのように一息で宗一郎に襲いかかる。あれほどの巨体ならば、いかに頑強なカンピオーネの肉体といえど一溜りもあるまい。が、この程度のことは、宗一郎の脅威足り得ない。なぜなら、前回の戦いでも難なく切り抜けているのだから。

 ――そう、宗一郎の状態が昨夜と同様であったなら、それは容易く叶えられたことだろう。だが、違うのである。

 草薙護堂の『剣』と違い、神無月宗一郎の<刃>には、精錬中における自動防御のような能力がない上に、詠唱中自由に動ける機動力もない。

 鍛錬が始まるや否や、どうしてもその場に踏み止まり、全精力を傾けて集中する必要があった。必定、その間、宗一郎は完全な無防備な状態に晒されるのである。

 つまるところ、いまの宗一郎にはヘラの攻撃を躱す余裕などまったくなかった。

 にも拘らず――

「貴女が鳥と結びつくのは当然だ。なぜなら、貴女は大地と冥界を支配する神だからです。鳥には異界と現世を行き来する飛翔の魔力がある。

 そう――遥か昔、僕たちの祖先は信じていた。死者の霊は鳥の姿となって天へ昇り、あるいは鳥に導かれて冥界へと渡るものだと」

 宗一郎は、微塵も臆することなく謳うことを止めなかった。

 それは何故か? ――信じているからだ。自身に付き従う乙女たちを!

「視よ――我、樹を斬り倒し、新たな生命を創造せん。古きものよ、汝滅ぶべし」

 青い騎士は主より前に進み出て呪文を唱えた。砂地から伸び生えた蛇樹に対して、魔女術を行使する。

「森の妖精よ、御身の末裔たる魔女を守護し給え!」

 すぐさま効力を発揮して、宗一郎を直撃する筈だった蛇樹は、脇に逸れてリリアナたちの真横の砂地へと突き刺さる。

「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビギンナン・ウンタラタ・カンマン!」

 すかさず白い巫女は兄より前に進み出て呪文を唱える。金剛手最勝根本大陀羅尼(こんごうしゅさいしょうこんぽんだいだらに)――不動明王の火界咒だ。

 爆発的な呪力が佐久耶の身体から迸る。瞬時の内に、呪力は火気へと転じ、一気に砂地に突き刺さったままの蛇樹に向かって伸び拡がる。

 木生火――木は燃えて火を生む。陰陽術の理に従い燃え上がる蛇樹。火の呪術はますます勢いを増し、ゆらりと猛火の矛先をヘラへ向けるや、奔流と化して直進した。

「小癪な真似を……!」

 怒声を放ちつつ、ヘラは神気を解き放つ。膨大な神気は水気に変じ、水流と化して猛火を押し流す。

 瀑布が宗一郎たちを呑み込まんとするその刹那、

「――させません!」

 佐久耶は五枚の木行符を召喚し投擲、宗一郎の眼前の大地に張り付き、砂地の中から若い芽が跳び出した。直後、瀑布が若い芽を押し流す――その瞬間、渦を巻いて豊潤な水気を吸収し尽した小芽は、瞬く間に五本の大木へと成長する。

 水生木――水によって養われ、水がなければ木は枯れ果てる。これもまた陰陽術の妙技である。

「ええい、先程から鬱陶しい術を使うッ! ――ならば、これはどうですか!」

 再度、神気を解放するヘラ。

 神気は水気に変じ、水流と化す。一見すると、それはまるで先刻の焼き直しである。しかし、実際はまったく違う。

 なぜなら、その水は黒かった(、、、、)

 触れる存在、悉くを塗り潰すような、禍々しい漆黒の色。そんなものが、ただの水であろうはずがない。

 それも当然。ヘラはここにきて『死』の権能を行使してきのだ。

 その脅威にいち早く気づいたリリアナは、魔女術を駆使して大地を隆起させて防波堤を形成、宗一郎を守る“盾”を増やす。

 そこに迫り来る黒い激流。樹木と大地の二重防壁は、だが何の効果も発揮することなくあっさりと死の奔流に溶けるように飲み込めれて消え失せた。

 それを見て取ったリリアナと佐久耶は、慌てて左右に散る。ともに練達の術者たる彼女たちであったとしても、生と死の女神の権能を前にしては、その飛沫を浴びるだけで死は免れ得ない。

 ところが、宗一郎は一向に避ける素振りを見せない。いや――避けられないのだ。若き神殺しには、まだやらなくてはならないことがあるが故に。

 やがて、ついに黒い水流が宗一郎の身体を捉えた。

「ぐあぁぁぁ……ッ!」

 苦悶に顔を歪める宗一郎。死の奔流の衝撃はあまりに強烈であり過ぎた。

 身体が冷たい。精神(こころ)が凍える。『死』が宗一郎の全身に絡みついて離れない。

 いまの宗一郎は無数の死神に集られているも同然の有様だった。ほんの少しでも気を抜けば、途端に身体は崩れ去り、彼の魂は冥界まで流されるだろう。

「神無月宗一郎!?」

「兄さま!?」

 宗一郎の窮状を見たリリアナと佐久耶は、顔色を失いながらも、冷静に術を発動させてヘラに飛ばす。少しでも女神の注意を惹いて宗一郎への攻撃を緩めようと言う算段なのだろう。

 が、ヘラはそんな手には乗らなかった。

「フフ――そのまま死になさい、神殺し!」

 ヘラは勝利の予感に喜悦に顔を歪ませる。

 もとより人間の小娘たちなぞ眼中にないヘラは、さらに水流の勢いを強めて確実に敵を葬らんとする。

 いまの宗一郎には、死の水圧に歯を食いしばって耐えるしか術がない。だがそうしている間にも、若き神殺しは体内に満ちる呪力に意識を傾けて、詠唱を続けるべく言霊を紡ぐ。

「……っぁあああ……へ、蛇と鳥――つまりは『翼ある蛇』こそが貴女の本質だ! そう、貴女はもともとあの女神アテナと起源を同じくする、大地と冥界を統べる女神だった。神の中の神。最高の権威を持つ、神々の女王です!」

 そもそも『ヘラ』という名は、明らかにインド=ヨーロッパ語系統には属していない。 

 つまりその意味するところは、インド=ヨーロッパ語族の来襲以前から、先住民の信仰を集めていた大女神こそが、ヘラの前身だということに他ならない。

 そして、ヘラがそのギリシアの先住民たちの信仰する独立した女神であったことは、考古学的に実証されている。のみならず、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスも「ヘラはギリシア北部の土着民ペラスゴイからギリシア人に受け継がれた神である」と言明している。

「――だからこそ、神王ゼウスをもたらしたインド=ヨーロッパ語族は、先住民の信仰対象を自分たちの最高神の配偶者や子に移すという習合方法によって宗教的支配を図ったのです。

 しかし、ゼウスは主権を完全に掌握したわけではなく、過去の信仰の根強さや宗教的融合の不完全さは、結局は後の神話に無視しきれない影を落とすことになった……」

 実際、ヘラは婚姻と結婚生活の守護神であるが、神話上のゼウスとヘラは円満な夫婦ではなく、たえず口論を繰り返している。

 それは歴史的な観点から見ると、ゼウスとヘラの不和の神話には征服民族と土着民の宗教的軋轢が反映されていると解釈できる。

「故に、古き地母神であった貴女は、夫ゼウスの愛人やその子どもたちを迫害する意地悪な女神に格下げされ、その執拗なまでの嫉妬深さを物語る逸話には事欠かない怨讐の女神にまで堕とされた!」

 ついに<神殺しの刃>が完成した。

 人類最古の呪術のひとつたる感染呪術の秘奥。

 人の業と神の能の融合。

 敵対する神の血液と敵対する神の知識を触媒として、聖なる炉で鍛えた刃金と結合させ鍛え上げた、神の神格を切り裂く呪いの刃が!

「その小賢しい口を閉じなさいと、言ってるでしょう……ッ!」

 怒号とともに、ヘラは水流の勢いを極限まで引き上げる。

 大嵐の直中さながらの怒涛の勢いで唸りを上げて疾走する黒い大瀑布。ヘラは必勝の確信に内心でほくそ笑む。

 これほど濃密な『死』を浴びては、いかにあのしぶとい神殺しといえど、今度こそ二度と蘇生することなく完全なる死に至るだろう。

 だが――ヘラは知る由もなかった。必勝の確信を得ているのは、宗一郎も同様であることに。

「ご心配なく――もう終わりました」

 若き神殺しの宣言と同時に、蒼い火球が風に煽られるように弾け、火の粉を散らして消失する。

 そこから顕れたのは、なんと刃渡り七メートルにも及ぼうかという赤黒い超特大の刃だった。

 そして、宗一郎は大上段に構えた長大な刀――<神殺しの刃>の柄を両手で握りしめたまま、その眼差しは迫り来る暴威を映す。宗一郎の身の丈を遥かに超える水嵩で、龍の咆哮さながらの唸り声を上げて押し寄せる死の奔流。

 だがしかし、若き神殺しは微塵も臆することなく――高らかに掲げた一刀を振り下ろす。

 赤き呪いの刃は、黒い激流を何の遠慮もなくぶった切った。断ち割れる鉄砲水。冥府の神が解き放った『死』は、ただ一振りの刀の前に屈服した。

 自身の権能が破られる光景を見届けて、ヘラは双眸を大きく見開いた。吹きつける太刀風を総身に浴びて背筋が戦慄に凍りつく。あの<刃>は危険だと本能が警鐘を上げている。

 その事実に女神は愕然とした。馬鹿な――よりにもよって、古き大女神たる己が、いま恐怖しているというのか! まるで男に襲われた人間の女のように?

「……人間に……男などに、わたしは二度と屈するものかぁっッッ!!」

 警告する本能を無視して、ヘラは攻勢に出る。大女神としての誇りが後退を許さない。

 宗一郎の全方位から砂地が爆発、蛇樹が束になって襲いかかる。ヘラは確かに逃げると言う選択を行わなかった。が、代わりにその力の行使に遊びが消えた。いまヘラは、全能力を総動員して宗一郎を殺しにかかる。

 だが――その決断は、あまりに遅すぎた。

「はあ……ッ!」

 宗一郎は腰を屈めて全身を旋回、長大な太刀を全方位に向かって薙ぎ払う。途端、まるで刈られた雑草のような脆さで、たちまちに虚空に流れて消え失せる蛇樹の群れ。

「……っ! まだです、まだわたしは……ッ!」

 続いてヘラは、雷霆の権能を叩きつける。が、それは無駄な抵抗に過ぎないことは明らかだった。事実、雷撃の一撃は宗一郎の刀の一振りであっさりと四散した。

 事ここに至って、ヘラは本能の警告の意味を正確に悟っていた。

 あの赤い刃は、彼女の神格(すべて)を斬り裂くのだ。神殺しが呪いの刃を抜き放つ限り、己に勝機はないものと認めるしかなかった。

(また、わたしは敗北するというのか。あの神話(とき)のように……?)

 まさに屈辱と汚濁に満ちた過去の再現。忌むべき歴史の繰り返し。その絶望に、ヘラは全身を凍りつかせる。

 その隙を若き神殺しは見逃さない。

 宗一郎は衣を翻し、白い矢と化してヘラへと走り寄る。果たして、必勝を賭した渾身の斬撃は袈裟懸け切りに女神ヘラを斬り捨てた。

 女神の輪郭がまるで砂細工のように崩れ、闇に溶けるかのように消え失せた。それを見届けた瞬間、宗一郎の身体はがくりと崩れ落ちる。

 人の身に過ぎた大呪法の行使に加え、濃密な『死』を浴びつづけた結果、宗一郎の肉体はとうに限界を超えていたのだ。

 慌てて宗一郎の許へと駆け寄るリリアナと佐久耶。それを視界の隅に入れながら、宗一郎は悔恨に臍を噛む。

 獲物(めがみ)を仕留め損ねた、と。

 その想いを最後に宗一郎は意識を手放した。

 

 

                †          ☯

 

 

 蟠る闇の中、何処からともなく飛来した砂粒が寄り集まり、一つの輪郭を形作る。

 カプリ島より三〇キロ離れた陸地の街――ナポリの波止場にて、まつろわぬヘラは実体化を果たした。奇しくも、そこは昨夜、神無月宗一郎と激闘を演じた場所に他ならなかった。

「このわたしが、無様に逃げねばならないとは……」

 だが――危なかった、と息を荒げながら、ヘラは苦々しくごちる。

 あの刹那、ヘラは呪いの刃に斬られながらも、何とか肉体を解きほぐし、瞬間移動を駆使して一命を取り留めた。

 とはいえ、神格の半ばまで斬り裂かれた今のヘラは、その総身にかつて莫大な呪力に漲っていたとは思えぬほど疲弊の極みにあった。こんな有様では今すぐにあの神殺しに意趣返しを行うなど望むべくもあるまい。

「……仕方ありません。ここは一旦引いて体勢を立て直すしかないようですね」

 業腹だが致し方ない。言葉通りこの場からも退去しようとしたヘラの背後から――

 

 

「いやー、それはちょっと待ってくれるかな。僕的にはもう少しだけでもここにいてくれないと困るんだよね」

 

 

 ――そんな呑気な声が響いてきた。

 凝然と振り向いたヘラは、闇の奥から人影が進み出てくるのを見届けた。

 金髪の青年だ。彼の手には一振りの長剣が握られている。だが、気になるのはむしろ、あの青年の銀色に輝く右腕の方だ。

 まず違いなく権能。であるならば、あの男はきっと神殺しなのだろう。……いや、よくよく思い返せば、何処となく見覚えがある気がする。

「……たしかお前は、わたしの神器の前で戯れていた片割れの神殺しですか」

「あ、憶えていてくれたんだ。うんそう、僕の名はサルバトーレ・ドニ。あの坊やとは、護堂と同じく終生の友にしてライバルという関係なんだ。あなたは多分、ヘラでいいんだよね?」

「如何にも。ですがお前如きに易々と呼ばれるほど、わたしの名は軽くはありませんよ」

 全盛期に比べて見る影もない状態にも拘らず、気位の高さを忘れないヘラに、あはっと能天気な笑みを浮かべるドニ。

「噂に違わないきっつい女神さまだなぁ。でもまあ、そもそも大人しい神さまなんて、いるわけないか」

 ヘラは金髪の神殺しの戯言を聞き流して本題に入る。

「お前はあの神殺しの友と言いましたね。ならば、その友を守るために今ここでわたくしと戦うつもりですか?」

「う~ん、ちょっと違うかな」

 ヘラの問いに、ドニはあっさりと否定する。

「本当言うとね。貴女と戦う理由は、社会貢献のためだの、それでも手負いの神さまはつまらないから逃げた方がいいだの、そういう事を言うのが筋なんだろうけど、今の僕は、そんなつまらないことを言うつもりはないだ」

「では、何のために戦うと?」

 ヘラに再度の問いに、ドニはにんまりと破顔する。

「それはね。宗一郎が執心している女神(あなた)を、もし僕が横取りしちゃったなら、と~ても愉しいことになるんじゃないかな、て思っているんだ。これも一応、日本流に言えば、NTR(寝取り)って言うのかな?」

 口調こそ冗談混じりであったものの、金髪の神殺しの双眸が暗い焔に燃えていることに、ヘラは気付いていた。主の戦意の応えるように銀碗が闇夜の中で輝き放ち、平凡な駄剣を白銀の神剣へと変じる。

「っ!?」

 ヘラは戦慄した。

 あの剣は不味い! ヘラの直感が黒髪の神殺しの手にあった長刀と同等の危険を訴えている。

 今度こそヘラは選択を誤らなかった。大女神としての矜持を捨てて、逃げに徹する。この屈辱は、いずれ晴らせばいい。いまは生き延びることが重要だった。

 だが――

「遅いよ。やっぱり宗一郎に相当こっ酷くやられたみたいだね。……解るよ、彼って本当に容赦ないよね」

 何か嫌なことでも思い出したのかドニは顔を顰めつつも、だがその動きには一切の遅滞はない。

 瞠目する女神の眼前まで電光石火の足運びで肉薄、袈裟懸け切りにヘラを斬り捨てた。期せずして、そこはついさっき宗一郎が斬りつけた箇所とまったく同じ場所だった。

 もはやその一撃に耐える力など、ヘラには残されていなかった。怨嗟や憎悪の声を発する暇もなく、ヘラの肉体は塵のように崩れ去り、今度こそ完全に消滅した。

 

 

「……やっぱり権能は増えないか。まぁいいか、どうせそっちはメインじゃなかったし――それよりそこの君(、、、、)、いまのちゃんと見てくれていたよね?」

 唐突にドニは誰もいない筈の波止場の一画に向かって問いかける。すると、彼の言葉に応えるようにその場所に白く淡い輝きとともに、一人の巫女が現れる。

「う~ん、君は誰かな? 多分初対面だと思うんだけど、でも彼の関係者でしょ?」

「ご慧眼恐れ入ります、“剣の王”よ。わたくしは、神無月宗一郎の妹で神無月佐久耶と申します」

 ドニの問いに、佐久耶はそう答えてから恭しく頭を垂れた。

「そっか、宗一郎の妹さんか。じゃあさっき見たことを、一部始終を余すところなく伝えてくれるよね(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)?」

 能天気な語り口ながらも、そこには対峙する者に有無を言わせぬ気迫(チカラ)が宿っていた。並の相手ならば、それだけで委縮して唯々諾々と従ったことだろう。

 とはいえ、無論、神無月の巫女は常人ではありえない。カンピオーネを兄に持つ彼女は、その非常識ぶりにおいて、極めて高度な耐性を備え持っていた。

「はい、確かに承りました。兄にはサルバトーレさまのさっきの所業(ひどう)を、一切誇張なく伝えます」

 故に佐久耶は怖じるどころか、むしろ嬉々として断言する。

「そっか、ありがとう」

 意見の一致をみた剣士と巫女は、互いに笑みを交し合う。

 

 

 今夜、草薙護堂に敗北したまつろわぬペルセウスはアテナが仕留め、神無月宗一郎に敗北したまつろわぬヘラはドニが止めを刺した。

 にも拘らず、古都ナポリに沈殿する戦乱の火は、むしろ消えるどころかますます烈しく燃え上がろうとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終  懲りない愚者たち

 真夏の日差しが照りつけるナポリのガリバルディ広場は、今日もまた人でごった返していた。とりわけ、革命の英雄ジュゼッペ・ガリバルディの彫像に見守られた駅前広場は、観光者だけでなく近隣への交通の要所である関係から、地元民も足を運ぶ人気の通りになっている。

 だからこそ、その二人は行き交う通行人たちの関心を集めた。

 真夏にも拘わらず、着崩れなく上質だと一目で知れる紳士服(スーツ)を完璧に装着した、黒髪で銀縁の眼鏡かけた知的な風情の青年と、いかにも普段着然としたラフな格好をした、黒いケースを肩にかけた能天気そうな雰囲気を湛えた美貌の青年。

 まるで高級官僚と遊び人、といった感じの対照的な組み合わせは、どうにも他者の注意を惹いてしまうものらしい。

「では答えてもらおうか、サルバトーレ・ドニ。貴様、どうして私から逃げずにまだナポリに留まっている?」

 黒髪の青年が、細面の眉間に深い皺を寄せて銀縁の眼鏡の奥から、金髪の青年――サルバトーレ・ドニを睨みつける。

「細かいことを気にしちゃいけないな、アンドレア」

 にこにこと笑いながら、ドニは自身の側近兼世話係――アンドレア・リベラの詰問をはぐらかす。

 この程度の問答など毎度のことゆえに、いちいち気にするアンドレアではない。が、いまのドニから何やら不穏な気配が漂っている気がしてならない。魔術師としての霊感ではなく、この馬鹿との長年に渡る付き合いによる経験則から来る直感である。

 サルバトーレ・ドニは物凄く機嫌がよい。とはいえ、こうなったときのこの男は、むしろ普段よりも手のつけられないほど危険だと、アンドレアは承知していた。

「――貴様、今度は何をやらかした?」

 アンドレアの鋭く質す声に、だがドニは笑ったまま答えない。まるで直ぐに解ると言わんばかりに。

 それを見て、“王の執事”は心中で盛大に舌打ちした。間違いなくこの男は、何かとんでもないことを仕出かしたに違いない。

 本来、一度面倒事を起こしたならば、アンドレアが現場に駆けつけるのに先んじて、いち早く何処かに姿を眩ますのが、この馬鹿の今までやり口だった。

 だが、今回はそれをしていない。おそらくは「何か」を待っているのだろう。

 ……胃の腑がきりきりと痛む。帰りたい。その「何か」が起こる前に、アンドレアは家に帰りたかった。

 心配のあまり胃痛を患っていたアンドレアは、不意に微かな呪力を感じて頭上を仰ぎ見た。

 鳥だ。おそらくは白い(からす)……

 その白鴉は、ドニとアンドレアの頭上を旋回するように飛び回ると、静かに舞い降りる。そうして白鴉は、そのままドニの眼前で翼を羽ばたかせながら滞空した。

「おい、馬鹿。これは貴様の知り合いか?」

 白鴉を凝視したままアンドレアはそう揶揄する。この男に限るならば、どんな“知り合い”がいたところで驚くに値しない。

「……えー、白い鴉なんて知り合いは、いなかったはずだけどなぁ」

 アンドレアは、ドニが僅かに考える仕草をしながら、答えたことを見逃さなかった。まさか、似たような知り合いならいるというのか?

 いや、考えまい。この男と長く付き合う秘訣は、深く考えないことに尽きる。

 ともあれ、さっきのドニの言葉に嘘はないだろうと、アンドレアは思っている。

 もちろん、ドニの言葉を信じたからではない。なぜなら、そもそもこの白鴉は生き物ではない(、、、、、、、)

 おそらくは、魔術によって創造された疑似生命体。ホムンクルスの一種だろう。つまりは魔術師の使い魔である。

 それにしても、見れば見るほど精巧な作りである。羽一枚一枚まで繊細に作られた表現力。翼が羽ばたく度に力強く動作する筋肉の躍動感。真に迫ったすべての要素(パーツ)が渾然一体となって、この白鴉をまるで本物の生き物のように見せている。

 アンドレアが正体を看破できたのは、ひとえに卓越した魔術師の直感と洞察力の賜物である。賭けてもいいが、傍らで白鴉を物珍し気に見入ってる馬鹿は、絶対に気づいてないに違いない。

 この白鴉は、もはや魔術による芸術品の域に達している。間違いなく超一流の魔術師の手によるものだろう――

 白鴉に関する考察を済ませたそのとき、アンドレアは脳裏に電流のような閃きが過った。

 疑似生命体の使い魔……そう言えば極東にある、とある国の呪術体系に、即製のホムンクルスの生成に特化した術式がありはしなかったか。

 そうだ。たしかその術式の名は――式神。その呪術体系の総称は――陰陽術。その呪術が発展している国の名は――日本。

 そこは、剣術と呪術を極めた八人目のカンピオーネが坐する地!

「――ドニ! その鳥は危険……」

 アンドレアの警告の声は、だが少しばかり遅すぎたようだ。

 ドニが見守る中、白鴉はまるで燃えるように赤く輝くや、瞬時に輪郭を歪ませて、赤い刀身へと形を変えて、彼の額へと突き込んだ。

 衝撃のあまり首をのけ反らせるドニ。それは二重の意味であり得ない光景だった。

 対魔力に優れたカンピオーネが、外部干渉による直接的な魔術攻撃を受け付けたことも驚きであるが――、

「ああー、びっくりした」

 幾何学的な紋様を浮かんだ額をごしごしと撫ですさりながら、ドニは驚きの声を発する。

 ――何よりもそれを防ぎきるのに、あの“剣の王”が『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』の権能を使わざるを得なかった事実が信じられない!

 流石にドニに攻撃を入れた瞬間、術式は崩壊して赤い刀身は四散したものの、先の魔術は大騎士たるアンドレア・リベラをして瞠目するほどの驚愕の手並みであった。

 まごうかたなき、陰陽術の妙技というところだろう。

(火剋金――火は金を溶かす、だったか)

 『鋼の加護』を宿したドニの肉体は、必定、常時強い金気を帯びている。そこに火気を含んだ刀身型の式神を生成してぶつければ、なるほど、ただ闇雲に魔術を叩きつけるよりは、よほどダメージが見込めるかもしれない。

 つまり、さっきのは対ドニ用にアレンジされた攻性呪術。その現実に、アンドレアは暗澹たる思いに囚われる。

 現在のナポリにその東洋の呪術を行使でき、かつ“剣の王”に戦いを吹っ掛けてもおかしくない人物など一人しかいない。

 そして――

「やぁ、来たね。待ちくたびれたよ、宗一郎!」

 アンドレアは、純白の呪術装束を身に纏い、総身に甚大な殺意を滾らせた、一人の少年を見咎めた。

 

 

                 †          ☯

 

 

 太陽が中天に昇った昼のナポリの繁華街をそぞろ歩きながら、草薙護堂は開放感に胸一杯になった。

「あ~、やっぱり自由って素晴らしいな!」

 両腕を天に突き上げて盛大に伸びをする。

 ついさっきまで、窮屈な病院暮らしを強いられてきた護堂としては、自由を満喫できるこの瞬間が嬉しくてたまらない。寝たきりよりも動いている方が性に合っているせいだろう。

「何を大袈裟な。病院に担ぎ込まれてから、せいぜい半日くらいしかいなかったでしょう」

 そんな護堂の傍らで、エリカ・ブランデッリは呆れたような眼差しを送ってくる。

 護堂がペルセウスに負わされたダメージは、間違いなく重傷であったものの、カンピオーネの生命力はその傷を僅か半日足らずで治癒してしまった。

 治癒魔術の助けを借りたとはいえ、そのデタラメぶりには、我がことながら呆れるしかない。どうやら自分は本格的に人間を辞めつつあるらしい。

「草薙さん、まだ病み上がりなのですから、ご無理は禁物ですよ」

 万里谷裕理も苦言を呈してくる。

「解っているさ、万里谷。それに俺だって昨日の今日で何かをする気なんておきないぞ」

 あっさりとそう答えた護堂に、本当かしらと言わんばかりに疑わし気な眼差しで見てくる女二人。

 護堂は背中に冷や汗を掻きながら、努めてそれを無視した。少なくない「前科」のせいで、さしもの護堂も強くは出られないのだ。ここは戦略的撤退を決め込む。

「……まぁいいわ。それで護堂、今後の予定はどうするつもりかしら。やっぱりこのまま日本に返る?」

 どうやら見逃してもらえるらしい。ほっと安堵しつつ護堂は、質問に答えた。

「いいや、そんなつもりはないぞ。まだ夏休みは余っているんだ。せっかく外国に来たんだから、目一杯まで遊ぶつもりだ」

「流石は護堂ね。あんな事があった後なのだから、ここは故郷に帰ってゆっくり静養する、というのが普通でしょうに……」

 エリカは、呆れ半分感心半分の面持ちで護堂を見つめた。裕理の方といえば……こちらは完全に呆れていた。

「そうか?」

 そんなに変なことだろうか? 護堂からすればごく普通のことを言ったつもりだったのだが……

 それにもし仮に日本に帰ったとしても、護堂の場合はゆっくり静養できるという保証など何処にもない。これまでも日本にいたところで、勝手に厄介事の方から来襲してきたのだから。

 あらためて思うと何だか悲しくなってくる護堂だった。

「それでは草薙さん、このままナポリで残りの夏休みを過ごされるおつもりですか?」

 問いかけてくる裕理に、護堂はかぶりを振った。

「いいや、そのつもりはないさ。アテナの方は、しばらくの間はちょっかいをかけてはこないだろうけど。このナポリには、神無月の奴がまだいるんだからな。出来る限り連中とは離れて行動するつもりだ」

 過去、同族と遭遇した結果、引き起こされた惨状に思いを馳せれば、当然すぎる配慮だった。

「そうね。たしかにそれがベストな判断でしょうね。……それで何処に行くつもりなのかしら。考えはあるの、護堂?」

 エリカも同感だったのか納得してくれた。

「……一応、サルデーニャ島に戻ろうと思っている」

 そして、あの年齢不詳のグラマラスな美女に、一言文句を言ってやるつもりだった。どうせ相手は何の痛痒も感じはするまいが。

 どうやらエリカは護堂の心中を見抜いたらしい。無駄なことを、と呆れられてしまった。

 ばつの悪い気分で頭を掻いていると護堂は、そのとき人混みの中から見知った銀髪の小柄な人影を見出した、

「あれ……ひょっとして、リリアナさんか?」

 呟きを聞きとがめたエリカは、護堂の視線を追いかけて目的の人物を見つけ出す。

「あら、本当。たしかにリリィね」

 どういうわけか、遠目にも彼女は相当焦っているように見える。何かを探しているのか、きょろきょろと四方に目をやっている。ところどころ「本当にこちらの方角であっているのか、……耶!」と荒げた声が聞こえてくる。

「……また何かあったのでしょうか?」

 不安げな口調で裕理が呟く。

 無理もない。あの銀髪の女騎士は、ここ欧州においてはエリカにも匹敵する天才だ。その彼女が我を忘れている。何かとんでもないことが起きた可能性は充分にあった。

「本人に訊いてみれば解ることでしょう。護堂、構わないかしら?」

「ああ、ぜんぜん良いさ」

 律儀に主の許可を取ってくる赤い騎士に向かって、護堂は当然だとばかりに頷いた。

 あの女騎士には、つい先月の際には、裕理を助けるために尽力してくれた。のみならず、ここナポリでも大変お世話になってしまった。

 なのに、護堂はろくに礼もしていないのだ。この辺りで少しでも借りを返しておかなければ、男が廃るというものである。

 護堂は念のために裕理を一瞥すると、媛巫女は顔を強張らせながらも頷いた。

 意思を共有した三人は、人混みをかき分けて銀髪の騎士の許へと足早に近寄る。ところが、流石はエリカに匹敵する騎士である。彼女は自身に接近する気配に気づいたらしい。

 護堂たちが声をかけるのに先んじて、リリアナは三人を見て驚きと焦りの声を上げる。

「エリカに万里谷裕理、それに草薙護堂! ――まさか彼女は彼の許ではなく、最初からこのために……っ!?」

「リリィ、どうやら余程のことがあったみたいね。それで一体何があったのかしら?」

 目を細めて旧友を醒めた眼差しで見遣るエリカに、護堂は驚いた。

 そこには以前見た、からかいながらも古なじみ故に懐いていた、彼女に対しての親しみは一切なかった。むしろ今のエリカは、銀髪の騎士を明確な「敵」として見ているかのような態度である。

 そんな赤い騎士の様子にいち早く気づいたリリアナは、旧友(エリカ)を一瞥するなり無言で睨みつける。

 赤と青の騎士は、ともに揺るがぬ意志を込めた視線を交差させた。

「……そう、やっぱりあなたは、そっち側(、、、、)についたというわけね、リリィ」

「ああ、その通りだ」

 どうやら二人にとって、互いの近況を把握するのに、それのみで事足りたらしいが、何のことかまったく解らない護堂と裕理は、いきなり険悪な雰囲気になったエリカとリリアナに唖然とするしかない。

 少なくとも護堂と裕理にとって、この二人は何だかんだで仲の良い「親友同士」だと認識していたために、唐突なこの展開についていけなかった。

(本当に一体なにがあったんだ?)

 しきりに首をかしげる護堂とは裏腹に、裕理の方はしばらくして「まさか……」と口元に手を当てて驚愕に目を見開いてリリアナを見つめた。

「ふふ、なるほど、これが宿命のライバル同士の対決というものですか。熱血に青春! 正直に言ってお二人が羨ましく思います」

 何処からともなく響いてくる愉し気な声とともに、青い騎士の傍に白い人影が現れた。

 驚きと共に見入る護堂と裕理。そして、警戒に身構えるエリカとリリアナ。この場に居合わせる全員が、その人物の正体を知っていた。

「神無月佐久耶、戯れ言を言うな! それより、あなたはまたしてもわたしを謀ったな!」

 真っ先に彼女に目を向けた途端、激昂して詰め寄るリリアナに、はて何の事でしょう、と言わんばかりに白々しくとぼける佐久耶。

「決まっているだろう! わたしを『主』の許ではなく、草薙護堂のところへと導いたことだっ!」

「ああ、そのことですか。それなら、これこそがリリアナさまのご希望に叶うものと判断したからです」

「ふざけるな、これの何処がわたしの希望だというのだ!」

 ますます激昂するリリアナに、だが佐久耶はまったく意に返した風もなく微笑みを浮かべたまま先を続ける。

「もちろん、リリアナさまの希望ですとも! では、伺いますがリリアナさまは、我が兄とサルバトーレさまの決闘を本気でお止めしたいのでしょう?」

「無論だ……!」

 護堂たちを完全に蚊帳の外に追いやったまま、会話なのか、口喧嘩なのか判断しかねる行為を続けるリリアナと佐久耶。

 だが護堂たちは、神無月の巫女の台詞に到底捨て置けない言葉を聞きとがめて、揃って息を呑む。

「神無月とドニが決闘するってのか!?」

「まったく呆れるほど闘争心の旺盛な方々ね!」

「そ、そんなまさか、ここナポリで……っ!」

 そんな護堂たちに気がついたのか、リリアナは苦り切った面持ちで顔を向けてくる。

 その表情で何となく護堂は、この青い騎士がその情報を自分たちに知られたくなかったのだと察した。

 リリアナはしばし悩んだ末に護堂に訊ねた。

「……草薙護堂、つかぬことをお聞きしますが、今後の御身のご予定などをお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「え、これからの予定? それはまぁ、さっきまではサルデーニャ島に戻るつもりだったんだけど……」

 唐突な質問に戸惑いながらも護堂は正直に答えた。聞いたリリアナは、ほっと安堵の溜息をつく。

「では、草薙護堂。僭越ながら、今すぐにでもナポリをお立ちになられた方がよろしいかと思われます。きっとこの時期のサルデーニャ島は美しい景色が堪能できるでしょう!」

 リリアナは、いきなりサルデーニャ島の観光大使に就任したかのように、ハイテンションなノリで護堂にナポリを出てサルデーニャ島に赴くことを推し進めてくる。

「……」

 往々にして察しの悪い護堂であったとしても、この青い騎士が彼女なりに言葉を弄して、自分をナポリから追い出したいということが、切々と伝わってくる。……それも何というか痛ましいほどに。

 とはいえ正直な話、護堂としてはもう少しオブラートに包んで表現して欲しかった、というのが本心であった。人間、あまりストレートに物を言われると、流石に傷つくものである。

「な、なんだ! なぜあなたたちは、そんな憐れむような眼でわたしを見る!」

 どうやら護堂だけでなく、他の女性陣全員が同じ想いであったらしい。皆一致団結して生温かい視線でリリアナを凝視する。

「はぁ……リリィ、あなたはもう一度、一から弁論術を学び直した方がいいみたいね。護堂に限らず人を思い通りに誘導したいのなら、事前に会話の流れを予測して、それに適した言葉を選ばないと不可能よ?」

「だ、黙れ、エリカ! もうわたしは、あなたの指図は受けないぞ!」

 先刻までの険悪な雰囲気が嘘のように、彼女たちは幼馴染の頃の気安さをみせ始める。そうしたエリカとリリアナをもう少しばかり見てみたかったものの、護堂は会話の方向を軌道修正する。

「それで一体どういう事情で、あいつら――神無月とドニは決闘する話になったんだ?」

 そう問いかける護堂に、リリアナと佐久耶は視線を交し合う。

 一瞬のうちの何らかの合意に達したのか、リリアナが一つ頷くと、護堂を見据えて口を開いた。

「草薙護堂、すでにご存じのことだと思われますが、御身がまつろわぬペルセウスを撃破したように、神無月宗一郎もまた、まつろわぬヘラの撃退に成功しました」

 たしかにその話なら、エリカから報告を受けていた。

 まつろわぬヘラ。その威名と波止場の折に垣間見た圧倒的な神力。間違いなくアテナにも匹敵する存在だろう。

 神無月宗一郎はその女神を撃退した。――そう、あくまで撃退である。撃破ではない。

 だがそれは、別段珍しい話ではなかった。ともにゴキブリ以上の生命力と生存力を有するカンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いは、そう簡単に決着がつくものではないからだ。

 実際、護堂とてペルセウスを撃破したのではなく、撃退したに過ぎないのだから。

「ああ、そこまでは知っているよ。でもその話が、何で神無月とドニの決闘に発展するんだ?」

 そもそも聞いた話では、昨夜までイタリアの魔術界の盟主サルバトーレ・ドニは、行方不明だったはずである。なのに、なぜそんな展開になるのか?

「その事についてですが……」

 青い騎士が顔を曇らせつつも、その理由を説明してくれた。

 彼女の話によると、神無月宗一郎がヘラを撃退した後、当のヘラが逃走したちょうどその場所に、サルバトーレ・ドニが居合わせたらしい。

 それが、ドニの天文学的確率を引き当てる強運によるものか、未来予知に等しい直感の成せる業なのかまでは不明である。

 しかし、たしかな事実として“剣の王”は、そこにいた。そして、まつろわぬヘラを斬殺するに至った――とのことである。

「……」

 説明をすべて聞き終えた護堂たちは、重たい沈黙に包まれた。

 なるほど、決闘騒動にまで発展するわけである。横から無断で敵を掻っ攫われては、カンピオーネ随一の平和主義を唱える護堂だって、あまりいい気はしない。

「サルバトーレ卿は、四年前のヴォバン侯爵のときと同じことを、またやらかしたわけね」

 うんざりした口調でエリカが発言し、同じようにうんざりした顔つきでリリアナがそれを補足する。

「正確には少し違うだろうな。前回の卿の目的は侯爵が招来した『まつろわぬ神』だったはずだ。しかし、今回のケースは、むしろ神無月宗一郎に対する挑発が目的だろう」

 そういう事情なら、むしろ護堂の場合と被るかもしれない。

 今から数か月前サルバトーレ・ドニは、護堂と決闘を行うため、事実上エリカを人質に取ることで護堂の闘争心に火を灯し、まったく決闘に乗り気ではなかった当時の護堂を強引に決闘場へと登らせたことがある。

 どうやらドニの馬鹿は、相棒(エリカ)を取ることで護堂の闘争心に火を灯したように、女神(えもの)を獲ることで宗一郎の闘争心に火を灯したようだ。相変わらず、妙なところで知恵の回る男である。

 リリアナはこほん、と可愛らしい咳払い一つして話を総括しようとした。

「草薙護堂、そういった事情なので一刻も早くナポリを離れ――」

「リリアナさん、悪いけどそれは出来ない」

 断固とした口調で、護堂はリリアナの言葉を遮った。

 「はぁ」と天を仰ぐエリカ。「やはり」と俯いて小さく呟く裕理。瞳を輝かせて熱く護堂を見つめる佐久耶。そして、絶望のあまり顔つきをますます曇らせるリリアナ。

「……ちなみに、『なぜ』とお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「あのはた迷惑な連中を止めるのは、もう俺の義務みたいなものだからだよ」

 そうだ。あの我がままな王様気取りの奴らには、人様に迷惑をかけるのが、どれ程罪深い行為なのか誰かが言ってやる必要がある。そして、この場で今それが出来るのは、同じ『王』と呼ばれる自分以外にはあり得ない。

 ならば、後は考えるまでもない。いざ征かん――馬鹿どもを止めるために!

 

 

 その後、佐久耶から魔王二人の居所を教えられた護堂は、自分に付き従う二人の乙女たちとともに、一路、ガリバルディ広場へと向かった。

 その彼らの遠ざかる後姿を見送りながら、リリアナは皮肉に口元を歪めながら呟く。

「これで何から何まであなたの思惑通りというわけだな、神無月佐久耶」

「さっきも言いましたが、わたくしはただ兄さまとサルバトーレさまの決闘をお止めしたいという、リリアナさまのご希望を叶えて差し上げただけですよ」

 リリアナの非難を、さも心外だとばかりに一蹴する佐久耶。

「それが、わたしをガリバルディ広場へと導かず、草薙護堂の許へと誘った理由だと?」

「はい、その通りです。兄さまとサルバトーレさまの決闘を止める――それを唯一叶え得るかもしれない御力をもつ草薙さまの許へ!」

 にこにこと、まるでいい仕事をしたと言わんばかりに微笑みながら佐久耶は嘯いた。

 そんなわけあるか! 草薙護堂が赴いたところで、どうせ魔王三人でまたぞろ馬鹿騒ぎ(バトルロイヤル)を始めるに決まっている……

 そんな言葉が喉元から出かかったが、すぐに飲み込んだ。非難なぞ無意味である。なぜなら、この女狐はすべてを承知の上での行動なのだから。

「神無月佐久耶、以前から思っていたのが、あなたは神無月宗一郎の行動を諌めるつつも、時にはその無軌道を煽るような行動を取る。一体どちらが本心なのだ?」

「ああ、そのことですか。――リリアナさま、わたくしは兄さまが自分の目の届かない場所で愉しそうなことをするのが堪らなく嫌なだけです」

 神無月の巫女は実に清楚で清らかな笑みを溢しつつ、そうのたまった。

 つまり、今まで彼女の無軌道に暴れる兄を諌める言葉の数々の裏には、自分のいない間に好き勝手に暴れるんじゃない。見物できなかっただろうが!――という意味が込められていたと?

 この女、最低だ! ぜんぜんまったく微塵も大和撫子ではない。というか、あのエリカ同様の完全な快楽主義者ではないか。

 仰ぐ御旗を同じくしなかったが故に、赤い女狐とは決別を果たしたというのに、まさかその新たな地で白い女狐に深く関わってしまう、どこまでも不幸なリリアナであった。

 

 

               †          ☯

 

 

 舞台は戻って、再度ガリバルディ広場――

「やぁ、来たね。待ちくたびれたよ、宗一郎!」

 金髪の青年のどこまでも能天気な口調に、神無月宗一郎は激しく苛立つ。

 怒りが溢れる。殺意が抑えられない。いや、そもそもどうして抑える必要がある? この許されざる大罪人相手に!

「一つ訊きます――サルバトーレ・ドニ。どうしてあんなことをしたんですか?」

 低く感情を押し殺した声色ながらも、対峙する者には、その宗一郎の秘めた殺意のほどは一目瞭然だったのだろう。

 感極まったかのような極上の笑みを浮かべて“剣の王”は――

「君にそういう殺意()をして、僕を見て欲しかったからさ!」

 ――そう放言した。

 刹那、宗一郎は背に負った鞘から長刀を抜き放つ。それと同時に、ドニもまた肩にかけた黒いケースを投げ捨てて、抜き身の長剣を閃かす。

 互いに得物を構えて対峙する宗一郎とドニ。向かい合う両者の殺意と闘気は、瞬く間に広場の空間を支配した。

 最初通行人たちは、突然、前時代的な武器を携えた黒髪の少年と金髪の青年を、ぽかんと呆けたように見つめるだけであった。しかし、二人の剣士から放射される殺気は、彼らの原始的な本能を刺激したのだろう。蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 あっという間に人通りが絶えた無人の広場にて、尚も変わらず対峙する宗一郎とドニ。

 凍える殺意を湛えた黒眼と熱波の如き熱い闘気を宿した碧眼が交差する。もはや交し合う言葉などありはしない。両者ともに後は敵を斬り捨てるのみと思い定めている。

 飽和する殺意と闘気はついに臨界に達して、弾け飛ぼうとした刹那――

 

 

「おまえら、いい加減にしろよ……!」

 

 

 宗一郎とドニは声の発生源に視線を向けた途端、少年は不審げに眉根を寄せて、青年は歓喜に顔を綻ばせた。

「護堂、君も来てくれたんだね! 流石は僕の親友だ」

「ふざけんな。誰が親友だ、この馬鹿!」

 咄嗟に言い返した護堂だったものの、とはいえ今はそんなことを言っていられる状況ではない。護堂は剣を手にした二人を睨みつけながら詰め寄ると、早速口を開いた。

「こんな事はもうやめろ! お前らの中には、人様の前で真剣でのチャンバラ勝負をしてはいけない、って言う最低限の常識すらないのかよ!」

 護堂の抗議の声を、だが宗一郎はきっぱりと無視して、先刻から懐いている疑問をドニへと投げかける。

「草薙さんが親友……?」

「そう、強敵と書いて『親友(とも)』」と呼ぶ。僕と護堂はそういう関係さ! でも安心していいよ、宗一郎。僕と君だってもう立派な親友だよ」

 恍惚な笑みを浮かべて、ドニはそう言い放った。きっと彼は“親友”が増えて嬉しいのだろう。

 とはいえ、宗一郎はドニの言葉の後半部分をきっぱりと聞き流して、護堂に何かを探るような眼差しを向けた。

「待て、神無月! 信じるなよ、ドニの奴が適当に言っているだけで、俺とあいつは親友でもなんでもないからな!」

 なぜか必死に弁解を始める護堂だったが、このとき彼は、決定的に宗一郎の視線の意味を勘違いしていた。

親友(トモ)と書いて親友(グル)と呼ぶ。つまり草薙さん――あなたもまた彼同様、僕の女神を奪った卑劣な男というわけですか.……っ!」

 屈辱に身を震わせながら、宗一郎はまるで血を吐くように慟哭する。

「は……? ちょっと待ってくれ。神無月、お前は色々勘違いしている上に、ルビの振り方を致命的なまでに間違えているぞ!」

「何を訳の分からないことをっ。この卑劣漢どもめ!」

「卑劣漢……!? ――違う、だから俺は無関係だ!」

 宗一郎のあんまりな勘違い具合に、護堂は目を剥いて断固抗議する。が、その声は当然、宗一郎には届かない。

「あなたが本当に無関係だと言うのなら、この場に現れる必要などないはずでしょう。ですが、あなたはこの場に来た。それは何故ですか?」

 冷ややかな眼差しで護堂を見据えて問いかけてくる宗一郎に、当の護堂は我が意を得たとばかりに自信満々な面持ちで口を開く。

「俺がここに来たのは、お前らの争いを止めるためだ」

僕たちの争いを止める(、、、、、、、、、、)……ですか」

 目を細めて宗一郎は剣呑な雰囲気を纏わせて呟いた。が、護堂はそれに気づくことなく説得を続ける。

「ああ、そうだ。だから、こんな馬鹿なことは今すぐにやめろ!」

「ええ――構いませんよ」

「え……?」

 まさか、自身の提案がそんなにあっさりと肯定されるとは思わず、護堂は面食らう。

「草薙さん、何を不思議そうな顔をしているんですか? 僕たちの争いを止めるなんて、実に簡単なことじゃないですか」

「……それじゃあ、神無月。ドニと戦うのは止めるんだな?」

 何か不穏な気配を感じて、咄嗟に護堂は身構えた。

「ふふ――もう一度聞きますが、草薙さんは僕たちの争いを止めたいんですよね?」

「ああ、そうだ」

 護堂はきっぱりと言い切る。そんな彼を見据えながら、宗一郎はうっすらと微笑み、宣告した。

「ならば、話は簡単です。草薙さん、僕に黙って斬られなさい」

「なんでそうなる! お前、ちゃんと俺の話を聞いていたのかよ!」

 吼える護堂に、宗一郎はさも心外だとばかりに眉を顰める。

「もちろん、聞いていましたよ。僕たちの争いを止めるとは、つまりは、僕と草薙さんの戦いを止めるということ。即ち――あなたが今すぐ僕に斬られれば、争いは終わります」

 何か間違っていますか? そう言って、宗一郎はますます冷たい微笑を深くする。

「間違いだらけだ。なんだ、そのデタラメな三段論法は! それに俺が言っている争いは、お前とドニのことだよ!」

 あー、話がまったく通じないと、護堂は頭を掻き毟る。

「ハハハハハッ、確かにそれなら戦いはすぐに終わりそうだね。でも護堂、頼むからそんなつまらない死に方はしないでくれよ」

「するわけないだろう!」

 大笑するドニに、怒る護堂。自身の提案が受け入れられそうにないと悟り、残念がる宗一郎。

「では、仕方ありません。あなた方二人とも、僕がまとめて殺して差し上げます」

 宗一郎は刀身に火炎を宿させて、

「はは、そうこなくちゃね。さあ、二人とも熱く激しく戦い合おう!」

 ドニは長剣を白銀に染めて、

「……くそっ、結局こうなるのか。でもいくら俺だって、黙って殺されてやるつもりはないからな!」

 護堂は大猪の召喚に入る。

 

 

 かくして、愚者たちの饗宴は始まった。古都ナポリの悪夢は、いまだ覚める気配をみせない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。