くれない色の恋慕 (清水一二)
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1話

 遠征先で買ったという黒い鏡台を覗き込んで、清光がニッと歯を見せた。僕は横から彼の作った表情を眺めて、うん、とうなずく。

 

 

「なぁ、安定。こうか? うまくいかないな」

 

「もう少し口角を上げたほうがいいんじゃない?」

 

 

 ニッ、と清光が思いっきり口端を持ち上げた。

 

 

「うん、いい! それなら主も可愛いって言ってくれるよ」

 

「そうか! 明日にでも主の前で使ってみるよ」

 

 

 ニッ。こうだな。よしっ。と鏡台と真剣に向き合う清光を微笑ましく思いながら、僕はふわぁっと大きなあくびをひとつ。揃えた指を口に当てた。上向いた拍子に天辺でひとつにまとめた黒髪の房が揺れた。そんなに重くないはずなのに眠気でぼんやりしてきたせいか、つられて後頭部が引っ張られそうになった。慌てて顎を引く。

 

 

「そろそろ部屋に戻るよ」

 

「おう、相談にのってくれてありがとうな」

 

 

 清光の部屋の障子を開けて振り返る。鏡台に向かう彼の横顔が生気に溢れていて、少しうらやましく思った。夢中になれることか。僕にはなにもない。

 

 

 僕の前に、長い廊下が伸びている。月光が板間をほのかに青白く染めて、十分に足もとが見える。そのおかげで燈明皿は必要なかった。

 

 

 静かな夜の気配が辺りを満たして、僕の胸の暗く淀んださざ波がすーっと引いていく。肌寒い夜気が、水色の羽織から肌へと染みたわり、僕はぶるるっと肩を縮ませて胸もとを寄り合わせた。

 

 

 中庭に広がる池の水面に大きな丸い月が落ちて、微かに揺らめいている。地上から夜空を照らしているように感じた。それに呼応して、星たちが瞬いているような気さえした。彼らの密やかなる話し声を聞いてみたいと思った。それとも歌っているのだろうか。

 

 

 廊下の先に人の姿が見えた。月の光を浴びて男が片膝を立て、ちょうどいま、どぶろくを傾けたところだ。黒っぽい衣服に身を包む、そのがっしりとした体躯は日本号だ。近づく僕に気づいて、口から離したどぶろくを持ち上げた。あいさつのつもりだろう。

 

 

「おう、一杯どうだ?」

 

「遠慮しておきます。これから布団に入るので。それより寒くないですか?」

 

「んあっ、そうか? 酒が入ってるからな、よくわからねえや」

 

 

 そうか。僕は飲まないからな。

 

 日本号は池の水面に視線を移し、それから空を仰いだ。

 

 

「ふたつの月を味わいながら酒ってのも乙なものだな」

 

「ほんと、美しいですね」

 

 

 僕は水面に輝く月を見つめた。空に浮かんだ月よりも、ほれぼれしてしまう。唐突に清光の顔が脳裏をよぎった。水面を鏡とするなら、あの微かに揺らめく月は清光の笑顔だ。月とは違って、彼に優劣なんかつけられないけど。

 

 

 日本号の背中の向こうに、白いものが見えた。ん? と目を向けると、五虎退がこちらに顔を出している。ただでさえ白い肌が青白い月明かりを受けていて、このままでは光に溶けてしまうんじゃないかと心配になった。

 

 

 五虎退は潤んだ瞳で僕を見上げて、小首を傾げた。僕は驚きと不安でいっぱいになり、ついじっと見つめてしまっていた。いままで日本号の体に隠されていたみたいだ。

 

 

「五虎退はお月見か?」

 

「うん。眠れなくて」

 

 

 腕に抱かれた虎が、顔いっぱいに口を広げてあくびをした。五虎退の体温を感じているだろうけど、ぶるぶるっという震えが伝わってきそうなほど身を縮めている。

 

 

「夜更かしは明日がつらくなるよ」

 

「わかってる。僕、食事当番だから早起きしなくちゃいけないのに」

 

「部屋まで送っていくよ」

 

「でも……眠れるかなぁ」

 

 

 そう言いつつも、眠たそうな潤んだ目をこすっている。

 

 

「眠るまで僕がそばにいるよ。なにか話を聞かせよう」

 

「ほんと?」

 

 

 手をついて体を持ち上げようとする彼を手伝い、立ち上がらせた。気だるそうな体が重く圧しかかってくる。

 

 

「俺ぁ、ひとりで、ちびちびやってるよ」

 

「そう言わないでくださいよ」

 

 

 肩越しに振り返って、遠慮がちに笑いかけた。

 

 

「別に気にしねえよ。子どもの寝る時間はとっくに過ぎてるからな」

 

 

 ひとりごちる淋しげな声を背中に聞きながら、僕は足取りの重い五虎退を伴って部屋に向かった。

 

 障子を透き通る微かな月光を頼りに、僕は乱れたかけ布団を整える。その間に五虎退が横になり、その華奢な体に虎が寄り添うようにしてうずくまった。僕はふたつの小さな体に、そっと布団をかけてやる。

 

 

「お話し、して」

 

 

 僕は傍らに腰を落ち着けて、見上げてくる五虎退にうなずいた。

 

 

「約束したからね」

 

 

 なにを話そうかと考えて、すぐに言葉を紡ぐ。さっき、清光の笑顔の練習につきあったときのことだ。次から次に言葉が溢れ出てくる。夢中になって話していると、そばで寝息が聞こえてきた。僕はまだ途中だった弾んだ声を押し込めて、すっかり寝入ってしまった穏やかな顔を眺めた。

 

 

「まだ話したりないんだけどな」

 

 

 薄暗い室内は、あっという間に彼らの寝息に乗っ取られた。僕の声はうねりのある呼吸音に吸い込まれて、五虎退の意識にはとっくに届いていなかったようだ。

 

 

 夜の暗がりの中で、ひとり密やかに息をする。じっとしていると、部屋に取り込まれてしまいそうになる。僕は本当にここに存在しているのか。闇に溶かされて、呼吸音に掻き消されてしまったんじゃないか。

 

 

 喉の奥から掠れた悲鳴が漏れた。慌てて腰を浮かし、部屋から逃げ出す。

 

 自室に戻って、後ろ手に障子を閉めた。ふうっと息が揺れる。胸の鼓動が爆発しそうなくらいに全身を響かせる。

 

 

 馴染みのある室内の雰囲気に、だんだんと心が落ち着いてきた。僕はいったいなにから逃げたんだ。ここにいるじゃないか。目の前で手のひらを広げて、ぎゅっと握っては開く。ここにいる。

 

 

 布団に寝ころんで、一段と闇が深い空間を見つめた。清光はもう眠っただろうか。それともまだ笑ってるのかな。そのままでも十分可愛いと思うけど、刀剣の中で一番可愛がられたいんだろうな。僕は応援することしかできない。あいつが満足するまで。

 

 

 僕を愛してくれる人はいるだろうか。清光みたいに、愛されるためにがんばろうと思える特別な人ができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 みんなの集まる大広間で、僕は朝食をとっていた。まだ眠くて頭がぼんやりする。数列に渡って膳が配置され、味噌汁、焼き魚、漬物などが載っている。

 

 

 隣に並んだ清光は、慌ただしく白飯をかき込んでいる。どうしてそんなに急いでいるのかと訝りながら、僕はのんびりと味噌汁を手に取った。ごちそうさまっと声を張り上げて清光が立ち上がって、僕はお椀に口をつけたまま彼を見遣る。僕と背中合わせに座る同田貫正国との間を通っていく。

 

 

 清光は向かいの列の端に座る主の隣に腰を下ろした。さっそく満面の笑みを披露している。昨夜、僕が指摘したとおりの、とびっきりの笑顔だ。たぶん、この部屋にいる刀剣たちの中で、いま最も輝いているのは彼だ。間違いない。

 

 

 主は焼いた白身魚を口に運びなから、清光の話に耳を傾けているようだった。時おり、主が何事かを語りかけると、清光はあいづちを打ったり言葉を返したりしている。賑やかな喧騒に紛れて、ここまで声は届いてくれない。清光の煌めく笑顔だけが確かなものとして僕の目に映っていた。

 

 

 朝食を終えて、自室の前の廊下に座り、ぼんやりと池の水面を眺めた。やわらかな陽射しが降りそそいで、水がきらりと光る。それはきっと僕の上にも落ちて、照らしてくれていることだろう。とても落ち着いた冬のはじまりだなと思った。

 

 

 隣に清光が腰を下ろした。足音に気づかなかったとは、ぼんやりしすぎてたみたいだ。清光が足音を殺すのは戦の中だけで、普段は騒がしい性格がそのまま音に表れているからだ。彼がうつむいた拍子に、ひとつに縛った黒髪の束が肩のあたりで力なく揺れた。

 

 

「さっきの笑顔、よかったよ」

 

「ほんとか? けど、主に可愛いとは言われなかった……」

 

「そんなに言葉が大事か? 清光がいつも楽しそうに笑っていれば、主も幸せな気持ちになれるんじゃない?」

 

「幸せになるかな。けど、やっぱり可愛いって言われたいなぁ」

 

「道のりは遠そうだな」

 

 

 僕はどこまでも広がる青空を見上げた。

 

 廊下の向こうから、さわやかな話し声が近づいてきた。和泉守兼定と堀川国広が並んで歩いてくる。国広があんなにうれしそうにしているのは久しぶりだ。もうずっとふさぎがちで、元気づけようと声をかけるのも躊躇するほどに弱っていた。

 

 

「そういえば今日だったな……」

 

 

 清光がぽつりと放った言葉に、僕は、「ああ」とだけ答えた。近づいてきた兼定さんに、「おかえりなさい」と無理やりに声を張り上げる。

 

 

「おう。次は安定の番だったよな。楽しんでこいよ」

 

「はい!」

 

 

 ふたりの背中が仲良さそうに去っていく。見ていられなくなって、慌てて目をそらす。たった三ヶ月の間、本丸を離れるだけなのに、もう淋しく感じる。まだ僕はここにいるのに。

 

 

「未来か。どんなところだろ」

 

「さあな。主が生まれた時代に行けるってうらやましいよ。早く俺の番がまわってこないかなー。あ、けど、三ヶ月も主と会えなくなるのか……やっぱり行きたくない。主のそばにいたいからな」

 

「まったく。主の話ばかりだな」

 

「なんだよー」

 

 

 部屋に戻って、箪笥から着替えを出して風呂敷に包み入れた。すぐに主の部屋へ向かう。すると、清光が主と向かい合って座り、談笑していた。主が清光の肩越しに僕を見て、その視線を追うように清光が振り返った。

 

 

「おっ、来た来た。いよいよだな」

 

「ああ」

 

 

 これから僕は、主の生まれた時代に旅をする。刀剣たちは順番に三ヶ月の暇をもらって、主の世界を体験してくる。誰がはじめに言い出したのか、その提案をおもしろがった主が快諾したのがきっかけだった。



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2話

「じゃあ、オレの手のひらに、安定の手のひらを重ねてくれ」

 

 

 主の手には黒色をした長方形の巾着袋が乗っている。

 

 

「これは?」

 

「オレが本丸にやってきたときに身に着けてたもんだ。これに触わって、自分の部屋に戻りたいって強く願うと戻れる」

 

 

 僕はおそるおそる巾着袋を指で突いた。硬い感触が伝わってくる。

 

 

「中身はなに?」

 

「言えねえな。もし知られたら、オレはこの本丸にいられなくなっちまう」

 

「まじ? それはダメ! 別に知りたくないよな、なっ、安定!」

 

 

 腕をつかんで目の前に迫ってきた清光に、僕はすっかり気が抜けてしまった。

 

 

「顔、近いよ、清光」

 

「知りたいのか、知りたくないのか、言うまでは引かねえからな」

 

「わかった。知らなくていいよ。だから落ち着いて」

 

 

 それなら許す、と清光が距離をとる。

 

 

「おまえたち仲いいな」

 

 

 主の陽気な笑い声に、清光の表情がぱっと輝く。ああ、このふたりの組み合わせはしばらく見られないのか。三ヶ月……あっという間のようで長いような、よくわからない期間だな。

 

 

 僕は主の手のひらに自分の手を重ねた。主が目を閉じる。深く自身の内側に入り込んでいるようだった。

 

 

「兼定さんも言ってたけど、楽しんでこいよ。また三ヶ月後に会おうぜ」

 

 

 そう言って口角を思いっきり上げた。とびっきりの笑顔が、溢れる光の中に溶けていく。いや、違う。僕と主が呑み込まれているんだ。ふたつの体が光に包まれて、重なる手が、腕が、強力な光線にちぎれていく。僕は怖くなって、力のかぎり叫ぶ。同時に、あまりの眩さに目を開けていられなくなった。

 

 

「落ち着けって!」

 

 

 強く肩を揺さぶられて、僕は我に返った。おずおずと目を開ける。

 

 

「着いたぜ」

 

 

 主の声に、僕は周囲を見まわした。白い壁。見たこともない物体。腰のあたりまで映る大きな鏡。その下に巨大なお椀型のものが迫り出している。明らかに、さっきまでいた主の部屋ではなかった。

 

 

 わけのわからない僕にはかまわず、主は焦げ茶色のドアを開けた。どうやらここが主の部屋らしい。机、本棚……まではわかる。その向かい側にあるあれは……足のある細長いものの上に布団が敷かれている。

 

 

「これは?」

 

「ベッドだよ。ここに横になって寝るんだ。どうしても慣れないようなら、床に敷いてもいい。それから……」

 

 

 主は僕の腕を引いて、鏡のある部屋のドアを開けた。中には白く長いものが立っている。さっきは死角になっていて気がつかなかった。

 

 

「これは洗濯機だ。衣類を洗う機械」

 

「きかい?」

 

「使い方はノートに書いてあるから」

 

「のーと?」

 

 

 それから、その横にある大きなお椀を指さす。

 

 

「これは洗面台。これが水道で、蛇口をこうしてひねると水が出てくる」

 

「すごい!」

 

「鏡は知ってるよな」

 

「もちろん。でも、こんなに大きいのははじめて見た」

 

 

 僕は腰のあたりまで映る自分の、びっくりした表情を見つめた。ムリにでも顔を引き締めようとするけど、この感動を抑え込むことはできそうにない。

 

 

 引き戸の奥にはバスタブというものがあった。ここで入浴するらしい。シャワーというものの使い方を教えてもらい、熱湯と冷水の切り替えも習った。

 

 

 本丸では風呂当番が、薪割りと湯加減の調節をしなくてはならなかった。それなのに人間も労働もいらない。蛇口を捻るだけで仕事が終わる。すごい! これなら、いつでもすきなときに風呂に入れるじゃないか!

 今度はトイレだ。なんと水がすべてを流してしまうのだ。

 

 お風呂場とトイレの反対側に位置する台所では、電気コンロや冷蔵庫、電子レンジのことを主が熱心に話してくれた。

 

 

 一通り説明が終わると、興奮が冷めやらない僕をベッドに座らせた。

 

 

 主の部屋は不思議なものばかりだ。未来とはこんなにも画期的なのか。高ぶる感情が皮膚を突き破りそうだ。暴れる気持ちをなんとか抑えなければと、胸に手のひらを押し当てた。

 

 

 主は本棚の横にある机から書物らしきものを手に取って、背の低いテーブル越しに、僕に差し出してきた。

 

 

「これは?」

 

「ノートだ。さっき言ったことは、すべてここに書いてある。忘れたときには読むといい。それから、いままで、ここで過ごしたみんなの書き込みもあるからな。問題なく生活する上での注意点とか、得になる情報が記録されてるはずだ。参考にしろよ」

 

 

 僕は手の中にある水色の表紙を見つめた。

 

 

「そろそろ本丸に戻るよ。三ヶ月後に迎えにくるからな」

 

 

 そう言うと、手のひらを握りしめて目を閉じる。あっという間に光に包まれて姿が消えた。

 

 

 僕は目の前で起きたことが信じられずに、たったいままで主が立っていた空間に両腕を伸ばした。主の体をつかもうとするように。けれど、あるのは冷えた空気ばかりで、虚しさだけが募る。ひとりになってみると、部屋はあまりにも静かで、刀剣たちの賑やかな喧騒がすぐに恋しくなった。

 

 

 はぁっと息を吐いて、ノートに目を落とす。ページを開くと、刀剣たちが書いたらしき文字が飛び込んできた。

 

 

 まずはじめは日本号さんだ。やけに丸まった文字で長々と綴られている。要約すると、安くて美味い酒が飲める店の紹介だ。大多数の店名が記され、味の感想が一言ずつ添えられている。

 

 

「ビール最高! ワイン最高! けど、やっぱり日本酒だな」

 

 

 と最後に追記されている。

 

 

 滑らかな紙質のはずなのに、その数か所に指を這わせてみたら、やたらと硬い手触りがした。鼻を近づけると、微かに酒の香りがする。どうやら飲みながら書いていたらしい。文字が滲んでいるのはそういう理由からなのか。

 

 

 次は山伏国広さんだ。角ばった大きな文字だ。

 

 

「体を鍛えるならジムだ」

 

 

 ジムというのは、どういうものなんだろう。手書きの地図が記されている。たぶんジムの場所だと思う。えーっと、なになに……。

 

 

「トレーナーがついて、効率的な筋肉のつけ方を教えてくれる。君も一緒に筋肉をつけてみないか?」

 

 

 筋肉をつける場所なのか。けど、僕には必要ないな。

 

 最後は和泉守兼定さんだ。しなやかで美麗な書体だ。

 

 

「ぎんぎらぎんの夜だぜぇ。オレを指名する女があとを断たねえ。オレはこのとおり、かっこいいからな。女が放っておかないわけだ。オレよりかっこいい刀剣はいないが、勤めるならこのホスト店だ。オレの紹介と言えば即採用されるだろ。感謝しな」

 

 

 いったいなんのことだ。指名って? 女が放っておかないとあるから、女性絡みだとはかろうじて理解できる。僕は興味ないな。

 

 

 なんだか、少しも役に立つ気がしない。なんにせよ、この時代で過ごしたみんなは、それなりに楽しんだみたいだ。

 

 僕はノートを静かに閉じた。

 

 僕にもなにか見つけられるだろうか。みんなのように楽しめるなにかを。



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3話

 

 

 着替えを持ってきてはいたけど、この時代に合った服を着なくてはならないらしい。僕の隣には、主が用意してくれた衣服が重ねられていた。袖をとおしてみる。トレーナーとチノパン、それに灰色のコートを羽織る。

 

 

 脱衣所の鏡には、違和感のある自分が映っていた。奇妙で、珍しくて、時間が経つのを忘れてしまっていた。だけど、そうしているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、鏡の前から掻き消えた。ベッドに顔をうずめて、叫び出しそうになるのを堪える。

 

 

 はあっはあっと荒い息を吐き出して、落ち着くんだと命じた。ぎゅっと目を閉じて、暗闇に意識を浸す。長い間そうしていると、衝動が沈んできた。鉛のように深く深く、意識の底に落ちていく。

 

 

 

 もう一度、ノートを広げる。確か、兼定さんが……あった。追記のメッセージを目で追って、パタリと閉じる。

 

 

 ベッドの足側にあるクローゼットとやらを開けた。小さな取っ手を手前に引くと、ドアが中央から畳み込まれて端に寄った。そのからくりに驚いたのと同時に、目に飛び込んできたものに釘づけになった。

 

 

 兼定さんが着ていたらしきスーツがずらりとハンガーにぶら下がっている。コートを脱いで着用したのはいいけど、サイズが大きくて袖から手が出ない。さぞ、兼定さんには似合っていただろう。燭台切さんや三日月さんあたりにも似合いそうだな。

 

 

 スーツの下に置かれた紙袋のひとつをのぞいた。札束が折り重なってひしめいている。その一枚を手に取ってやわらかな陽光に透かしてみたら、福沢諭吉と書かれた男の肖像画が描かれていた。

 

 

「へえ、これがこの時代のお金なのか」

 

 

 ノートにはすきに使っていいと書いてあった。だけど、これって、どのくらい価値があるものなんだろう。もうひとつの紙袋にも目を遣った。

 

 

 山伏さんが使用していたらしき黒いスポーツバッグに、裸の札を十枚入れた。価値がわからないって、こんなに不安なものなんだな。それにしても、この臭い……染み込んだ汗が、鼻をつんと刺激する。我慢するしかないか。なぜかほかに持ち歩ける入れものが見当たらないわけだし。

 

 

 靴を履いて、ドアを押し開けた。目の前に、背の高い手すりがある。その向こう側に、灰色の建物が見えた。いくつもの柵が立ち並び、壁で仕切られてはいるものの縦に横に列を作っている。その囲まれた狭い空間に、衣類がぶら下がっていた。

 

 

 あれは、洗濯ものか?

 僕が踏みつける石造りの通路も、あの建物と同じ灰色で、どうやらこの建物も同じようなものらしかった。僕は通路の中ほどにある階段に足を踏み下ろす。主の部屋は二階なので、一階ぶんだけ下りた。

 

 

 戻るべき建物を見失わない程度に、ぶらりと周囲を歩く。似たような色や高さの建物ばかりで、懸命に道筋を頭に入れておこうと努めなくては迷ってしまいそうだ。

 

 

 そろそろ引き返そうかと思った矢先に、店を見つけた。正面の外観に、ヒノスーパーと書かれてある。僕は幅の狭い道路を横切って、向かいに渡った。

 

 

 店内には、野菜や果物などの食材が所狭しと陳列されていた。眩しいほどの白い明かりに照らされているせいか、ひどくおいしそうに見える。

 

 

 プリンやチョコレートという珍しい食べ物を手にとっては棚に戻した。僕の舌に合うのか見当もつかなくて、買いものかごに入れる勇気はなかった。

 

 

 僕は豚肉とキャベツ、もやしと玉ねぎを買って、来た道を戻った。さっきレジのカウンターで、戸惑いながらも福沢さんを出してみたら、倍以上の枚数の札が返ってきた。福沢さんてお人は高価なお金なんだなー。寒空の下で、兼定さんのありがたみが身に染みた。

 

 

 さっそく電気コンロを操作して、キャベツ、もやし、玉ねぎ、豚肉をフライパンで炒めた。立ち上る水蒸気と次第に激しくなる音を掻き分けるようにして、菜箸で食材を混ぜる。

 

 

 まさか、こんなところで食事当番の経験が生かされるなんて思ってもみなかった。燭台切さんの優しくも厳しい指導を思い出す。豚肉を箸でつまんで口に放る。うん、おいしい。

 

 

 それから一ヶ月の間、ときどきヒノスーパーに出かけるだけの日々を過ごした。膝を抱えて床に座り、ベッドにもたれて、一日のほとんどをじっとして動かない。

 

 

 いつのころからか、こうなっていった。来てすぐの気もするし、もっとあとだった気もする。たったの一ヶ月だと人は言うだろうけど、僕には永遠にも思えるくらいに長くて。引きっぱなしのカーテンの裂け目から冬の消え入りそうな陽射しが床に細い線を作って、ああ、朝がきたんだなとぼんやりと思う。

 

 

 胸に少しずつ蓄積してきたこの思い。破けた心の隙間に入り込んできて僕の内部を満たしていった。

 

 帰りたい。

 

 ここにいても虚しいだけだ。

 

 懸命に可愛くなろうとする清光に協力しているほうが、どんなに有意義な時間を過ごせることか……いま、なにをしてるだろう。

 

 

 夕暮れが近くなって、いつものようにスーパーに出かけた。冷蔵庫の恩恵で、買いだめをしてもすぐには腐らない。そのことを覚えてからずっとそうしてきた。もう食料が底をついて、冷蔵庫は空っぽだ。

 

 

 なるべく外に出たくなくて、カップラーメンを大量に買い込んだ。大袋を腕に四つ提げて帰りを急ぐ。もう、すっかり夜のとばりが落ちている。兼定さんが置いていった洒落た漆黒のマフラーが温かい。清光に買って帰りたいくらいだ。

 



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4話

 数日の間、マフラーのことが頭から離れずに悶々としていた。

 

 

 昼食どきに味噌ラーメンの麺を口に運びながら、清光の顔を思い浮かべた。清光にはやっぱり黒と紅の両方の色が入っているものがいい。あいつに一番似合う色だし、きっと気に入ってくれる。

 

 

 それに、清光は主の生まれたこの時代に興味を持ってた。せっかくだから、買いもののついでにこの時代を見てみようか。本丸に帰ったら、土産話をたくさん聞かせてやろう。この部屋にあるものを説明するだけでもびっくりするだろうな。あいつの反応を想像するだけで楽しくなってきた。思わず、ふっと声が漏れる。

 

 

 支度をして、部屋を出た。

 

 大通りに出て、駅のほうへ向かう。どんな用事があるのか、大勢のひとたちが駅の構内に出入りしていた。僕は自らの意思で、その中に呑み込まれていった。

 

 

 見よう見まねで切符を購入し、適当なところで電車を降りた。

 

 

 駅を出て、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。自然に囲まれた本丸よりも濁った味がして、意識的に咳き込んだ。体にはよくないものに空気が侵されているんじゃないか。注意深く、見えない敵の気配を探る。

 

 

 行き過ぎる人々が、立ち止まったきりの僕をじろりと眺めていく。好奇と邪険な目に、僕は串刺しにされる。ああ、邪魔なのか。とりあえず左に進路を決めた。

 

 

 僕の横を石造りの建物がずらりと立ち並ぶ。ほとんどが灰色で、道路を挟んだ向かい側も同じようなものだ。色のないこの街に、人々の衣服が少しだけ色彩を加える。とはいえ寒色系が多く、索漠とした雰囲気はぬぐえない。

 

 

 マフラーに専門店はあるのか。けど、スーパーであれだけいろんな種類のものが売られてるんだ。もしかすると呉服屋に置いてあるかもしれないな。

 

 

 道に迷わないように、駅に沿った大通りをまっすぐに進む。店らしきものは見かけるけど、明らかに呉服屋ではない。頻繁に、香ばしい匂いが漂ってくるし、店先の棚に書物が並んでいる。

 

 

 と、道路の反対側から紙袋を提げた少年少女がこちらに吐き出されてくる。いつもヒノスーパーでもらう見慣れたビニール袋とは違う洒落たものだった。もしかして、店があるのかも。

 

 

 僕は馬車の役割をすると睨んでいる乗り物の隙をついて、道路に飛び出した。四角い物体の前方を走り抜け、今度は後方を横切った。

 

 

 本当は等間隔に塗られた白線の上を渡らなくてはならないんだとわかっていた。それがこの世界のルールだと容易に理解できる。

 

 

 だけど、逸る気持ちを抑えられなくて、そんなことに構っていられなくなった。清光の喜ぶ顔が、唐突に僕の脳髄を満たして、衝動が溢れ出したのだから。

 

 

 吐き出される少年少女とは入れ違いに、僕は通りに入っていく。大通りは様々な年代が往来していたけど、この通りは若者たちの領域だった。色やデザインなど、微かに異なる制服がずいぶん多く目立つ。

 

 

 僕は彼らの縄張りを歩いた。だけど、決して支配的な雰囲気が漂っているわけじゃなく、冷気を吹き飛ばすほどの快活な声音が飛び交っている。

 

 

 両脇に立ち並ぶ文房具に小物屋、食事処に目を滑らせ、僕は、彼らを見透かすようにして呉服屋を探す。マフラーはどこだ。

 

 

 唐突に、楽しげな音楽が集中力を破壊して、僕はふっと首を横に向けた。鮮やかな赤が目に飛び込んでくる。いまの気分には不似合いな外観だけど、なぜか心が魅かれた。ここではなにを売ってるんだろう。

 

 

 店に足を踏み入れてすぐに意識を一点に釘づけにされた。入口のほど近く、巨大な透明の箱の内側に、清光の人形がたくさん詰め込んであるのだ。

 

 

「どうして!?」

 

 

 僕はガラスに手のひらをピタリと張り付けた。僕たちはこうして人形にされているのか? 容姿や衣服がまったく同じなのはどうしてだ?

 そ、そんなことより……この人形、ほしい!

 人形でも清光がそばにいてくれたら、ひとりでもがんばれる気がする。僕たちはいつも一緒だったんだ。それが突然いなくなると、こんなにも堪えるものなんだな。うすうす感じてはいたけど、正直これほどまでとは想像できなかった。

 



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5話

 

 

 

 百円玉を二枚、硬貨口に投入した。隣の台で操作中の少女の真似をして、丸いスイッチを押す。クレーンが横へ動いて、今度は奥に。長いアームが広がりながら下りていき、上向いた清光の胸もとに突き刺さった。

 

 

「ああっ! ごめんな清光っ!」

 

 

 力のかぎり、ガラスを叩く。このいまいましい箱め。ここに打刀があればたたっ斬ってやるんだがな。

 

 

「もうコツはわかったからな。次こそ成功させてやる!」

 

 

 タイミングよくボタンを押し、成り行きを見守る。今度は清光の脇腹に突き刺さった。

 

 

「清光になにしてんだよ! そのアーム、ちょん切ってやろうか!」

 

 

 僕は紙幣を硬貨に替えて、どんどん箱に投入していく。

 

 

「はぁっはぁっ、どうしても渡さねえってのか! おまえにあいつのなにがわかる! なにも知らないくせに独り占めするな!」

 

 

 アームの先端が、かろうじて清光の腰をつかみ上げた。僕のほうに満面の笑顔を向けている。クレーンが横に移動する間、不安定に小さな体が揺れる。僕は固唾を呑んで、身をこわばらせた。真下に横たわるたくさんの清光も一様に硬直している。と、ゆるやかな振動が起きて、そのはずみに腰がするりと抜けた。落ちていく清光と視線がぶつかる。

 

 

「清光……」

 

 

 人形の海にうつ伏せた、いましがた落ちたばかりの清光に、ガラス越しに触れた。

 

 

「おまえに決めた。僕のもとに来い」

 

 

 何度も何度もクレーンを操作した。後頭部に突き刺さったり、つかみそこなって上体がほんの少し浮き上がっただけだったり、なかなかうまくいかない。そのたびに、ため息が漏れた。

 

 

「今度こそ……」

 

 

 スイッチを押すだけだというのに、こんなにも精神力を消耗するとは。クレーンが動いて、清光の脇腹をつまんだ。ゆっくり上昇していき、ぽっかり開いた出口に向かっていく。

 

 来る! あの振動だ!

「耐えてくれ!」

 

 

 微かに体を揺さぶられ、だけど、しっかりとアームにつかまれている。ぽっかりと開いた穴の真上から清光が落下して、僕はよしっ! と叫んだ。もどかしい思いで、取り出し口からつかみ出す。優しい手触りが手のひらに吸い付いてきて、思わず清光のうれしそうな微笑みに頬ずりした。

 

 

 スポーツバッグに仕舞おうとファスナーを開く。ぷうぅんとこもった汗の臭いが内側から漂ってきて、急いで塞いだ。ここに入れるわけにはいかない。

 

 

 胸に抱いて、来た道を戻る。薄暗い通りを人にぶつからないようにして歩いた。立ち並ぶ店から漏れ出る光が、いくぶん通りを照らしてくれている。だけど、少し肌寒くて灰色のコートの開いた襟もとを寄せた。指先が、マフラーに触れる。

 

 

 あっ!

 ぬくぬくと、僕に抱きしめられている清光を見下ろす。今度にしよう。早く部屋に連れて帰りたい。

 

 

 帰宅して、すぐにふかふかの布団に清光を座らせた。首から外した漆黒のマフラーで、ゆるゆると小さな体を包み込む。

 

 

 僕はクローゼットに吊り下がったスーツの中で、場違いに目立った自分の衣服に手をかけた。この時代にやってきた初日に、ハンガーにマフラーをかけておいたのだ。白いマフラーを首に巻く。環境が大幅に様変わりしたせいか、自分のものがあることを忘れてしまっていた。

 

 

 熱湯を注いで蓋をしたカップラーメンをじっと待つ間、僕はテーブル越しに清光を見つめた。とびっきりの笑顔。三分なんか、あっという間に経ってしまう。

 

 

 翌日、その次の日と、午前中から出かけてはゲームセンターをハシゴした。店によって清光の種類が違うのだ。猫やパンダの衣装を着ていたり、照れていたり、怒っていたり、本丸では永遠に見ることのできない珍しい清光が溢れている。だから僕は戦いに出るんだ。愛くるしい清光を求めて。

 

 

 クレーンゲームの前で、新しく購入した鞄に次々と獲得した清光を入れていく。紺色の端に、水色の縦線が入った僕好みの鞄だ。一目見て気に入って、衝動買いした。

 

 

 この一週間でゲームの腕が上がって、狙った清光にそれほど金銭をつぎ込まずとも獲得できるようになった。そういえば、この人形はぬいぐるみと呼ばれているらしい。

 

 

 今夜も冷えるな。

 

 

 すっかり見慣れた通りには、買いものを楽しむ人たちが行き交う。相変わらず、視界いっぱいに制服姿の少年少女が入ってくる。きっと仲の良い友人なのだろう。華やぐ声音も、眩しいほどの店の明かりも、僕の存在をひときわ真っ黒に塗りつぶす。僕はファスナーの閉まらない、清光が溢れ出しそうな鞄を大事に胸に抱えた。

 

 

 駅に面した大通りに出ようとしたとき、突然、腕をつかまれた。

 

 

「ねえ、君、カフェでバイトしてみない?」

 

「ばいと?」

 

 

 ベージュのダッフルコートを着た茶髪の青年を見上げる。醸し出す、ふんわりとした雰囲気には、まったく殺気を感じられない。

 

 

「すぐそこだからおいでよ。いますぐ面接するから」

 

「めんせつって?」

 

 

 僕は腕を引かれるままに歩く。通りを引き返すはめになってしまう。知らない青年だけど、不穏な空気を感じないのだから攻撃するわけにはいかない。もし、よからぬことに巻き込まれても心配ない。打刀がなくても、このひょろりとした体格なら十分に打ち負かせられるだろう。

 



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6話

「そのぬいぐるみ、すごいね。買ったの?」

 

 

 肩越しに振り返ってきて、鞄からのぞいた清光に気づいたようだった。

 

 

「ゲームセンターだよ」

 

「ああ、ユーフォ―キャッチャーかぁ。僕なんて、どんなに粘ってもひとつも取れないよ」

 

「コツさえつかめば、簡単に取れるものはある」

 

「へえ。俺は優。君は?」

 

 

 そう言いながら、白塗りの壁から切り取られたような長方形のドアに歩み寄って、鍵を開けた。通路に面したガラス張りの窓はブラインドで覆われて、店内が消灯しているのは一目でわかる。

 

 

 優が壁のスイッチを押すと、パッと温かみのある照明が店内に広がった。天井から吊り下がるチューリップの花が煌々と咲き誇っている。その下には、四人掛けの木製のテーブルが規則正しく、しかし、ゆったりと配されていた。

 

 

「安定」

 

「やすさだくん? いまどき珍しい名前だね。ここに座って」

 

 

 言われたとおりのテーブルに着く。閑散とした空気が心地よい。優が向かいの席に腰を下ろした。

 

 

「オーナーがいないから俺が面接するよ。そもそも、めったに顔を出さないんだ。でも、街で美青年や美少年を見かけたらすぐにスカウトしろって言われてて。いま、閉店したばかりだったんだけど、安定くんならって思ったんだ」

 

「どうして僕なんだ?」

 

「中性的な顔立ちで、その、言いにくいんだけど、哀愁が漂ってるというか」

 

 

 哀愁……僕にそんなものが纏わりついているというのか。清光がいるのにか? しっかりと抱きかかえた鞄をいっそう強く抱きしめた。

 

 

「大丈夫? 気に障ったのならあやまるよ」

 

「いや。続けて」

 

「う、うん。面接って言っても、俺の中ではとっくに採用してるんだ。だからこうして連れてきたわけ。安定くんに、このカフェを見てもらって、引き受けてくれるのかを決めてもらおうと思って。どうかな」

 

「仕事、だよね?」

 

「うん。仕事と言っても、難しいことはしないよ。そこは安心してもらって大丈夫。慣れないうちは、俺がフォローするから」

 

 

 兼定さんの残してくれたお金はまだ十分にある。だけど、あのお金を使うのはほどほどにしなくてはいけない。わかってはいたんだ。ほかの刀剣たちの助けになるだろうから。いまの僕みたいに。

 

 

「引き受けるよ」

 

「ふぅ……助かるよ。さっそく明日からおねがいできるかな」

 

「わかった」

 

 

 部屋に帰ると、清光をベッドに並べた。白い壁に沿って、寝そべった清光、打刀を構えた戦闘態勢の清光、ほわんとだらしなく笑う清光。鞄から取り出した順番に並べていく。

 

 

 僕はベッドに頬づえをついて、しばらく至高の光景に見入った。心が温まっていくのを感じた。

 

 

 翌日から僕はカフェで働いた。白いシャツを着て、腰に漆黒の長いエプロンを巻きつけた、いやに大人びた姿だ。自分に似合っているのか、いまいちよくわからない。忙しく立ち働く優は黒いシャツに身を包んでいる。長身の彼が着ると、引き締まって見える。昨日のダッフルコートとの落差が激しく、凛とした青年のような雰囲気が漂っていた。

 

 

 テーブルを布巾で拭いていると、優に呼ばれた。彼の隣に並んで、僕はドアの前に立つ。入店してきたお客さんに頭を垂れて、「いらっしゃいませ」とふたりで声をそろえた。新人は、顔を覚えてもらうために、毎回、こうして出迎えなくてはならない。常連のお客さんが多いらしく、好みの店員がいると友人を引き連れてきてくれるらしい。僕にはよくわからない。

 

 

 制服姿の少女を、空いたテーブルに案内する。三人がメニューを眺めながら華やいだ雰囲気で会話をはじめた。そのうちのふたりは視線も交えて話をしているようで、しきりに僕を見上げてはまた互いに顔を見合わせる。僕は落ち着かない気持ちになったけど黙っていた。

 

 

 あっ、こういうときは……。

 

 優に教えてもらった言葉を思い出した。

 

 

「お決まりになりましたらお呼びください」

 

「あのっ! 大和守安定に似てるって言われませんか?」

 

「えっ? どうして僕の――!」

 

 

 僕は慌てて口を噤んだ。正体を明かしてはいけないんだった。それが、この時代を体験する上での規則だ。そもそも人が時代を飛び越えられると話したところで誰も信じてはくれない。変人だと指を差されるのがオチだろう。

 

 

 それに、この時代で、あれほど精巧に清光の姿を模したものが存在しているんだ。僕が知らないだけで、僕のぬいぐるみがどこかの店で並んでいても何ら不思議なことじゃない。

 

 

「よく言われます」

 

 

 僕は微かに口角を上げて、背を向けた。清光のようにはうまく笑えないな。

 

 

「なにいまの……なんか……きゅんっときた」

 

「わかるー。哀しそうな感じしたね」

 

「わたし、指名しちゃおっかな。できるんだよね、このお店」

 

 

 背中に少女たちの声を受けながらカウンターの内側に入った。数人の店員のなかで、優がハムチーズサンドを作っている。僕に気づいて、うれしそうに歯を見せた。

 

 

「やっぱり。俺の見込んだとおりだった」

 

「僕のこと?」

 

「これから忙しくなるよ」

 

 

 完成したハムチーズサンドをほかの店員に渡した。二枚の皿が、カウンターを出てホールに連行されてゆく。

 

 

 優は、業務用の巨大な冷蔵庫からショートケーキを取り出して、小さな皿の真ん中にちょこんと乗せた。僕は指示されたとおりに紅茶をティカップに注ぐ。立ち上る湯気と共に、茶葉の香りがふわりと漂う。ふたつを載せたトレイを優が手に持った。だけど、優は硬直したかのようになかなか動こうとしない。

 

 

「どうかしたのか?」

 

「あっ、えっと……うん、なんでもないよ」

 

 

 瞬きの回数が異常に増えている。ふぅっと息を吐いたかと思うと、よしっと気合を入れた。

 

 

「あ、でも……」

 

 

 またまごつきはじめた。どうしたというんだ。

 

 

「紅茶が冷めてしまうよ」

 

「そうだよね、そうなんだよね。わかってるんだけど」

 

 

 束の間、微かに揺れる紅茶を見つめて、思いきったように僕のほうに顔を向けた。

 

 

「ついてきてくれないかな」

 

「苦手なお客さん?」

 

「そうじゃなくて……なにも聞かずに、頼むよ」

 

 

 ただならぬ雰囲気に、僕はわけがわからないまま了承した。ただテーブルに置いてくるだけなのに、何をそんなに落ち込むことがある。

 



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7話

 どんな物の怪が座しているのかと思っていたら、テーブルでは少女がひとりでファッション雑誌を広げていた。制服のブラウスの上に紅色のセーターを着込み、下は黒っぽいスカート。それを見た途端、清光の出で立ちが浮かんだ。まるっきり、清光の色だ。

 

 

 意識の外から、カタカタと微かに震える食器の音がした。傍らに立つ優の手が小刻みに暴れ、トレイごと揺れている。そこだけ空気にさざ波が立っているかのようだった。

 

 

 兎の耳みたいな髪型の少女が、振動音に気づいたようで顔を上げた。パッと瞳が輝く。

 

 

「ショートケーキ!」

 

 

 広げた雑誌を折り畳んで、脇に押しやる。

 

 

「お、お待たせしましたっ」

 

 

 優がケーキの皿をテーブルに持っていく。皿が小さく振動し、可愛らしい赤と白のケーキが恐怖しているように全体を震わせる。僕には、優がどうしてそうなっているのか全然わからない。この兎少女は物の怪にも、悪鬼にも見えない。

 

 

 ショートケーキはなんとかテーブルに着地した。そう思った矢先だった。皿を置いた拍子にひときわ大きく揺れて、兎少女のほうに倒れてしまった。皿の縁からはみ出したケーキに、僕たち三人は同時に息を呑む。

 

 

 突然、鋭角となったスポンジの斜面から、いくつもの、ぽってりとした苺が滑り落ち、テーブルに転がっていった。

 

 

「あーーっ!!」

 

 

 兎少女の目が、口が、大きく広がる。だけどすぐに目尻が、口角が、垂れて歪んだ。

 

 

「あたしのイチゴ……。ひどいよ」

 

「ご、ごごごごごめんなさい」

 

 

 うなだれる兎少女に、優が深く頭を下げる。兎少女は目を潤ませて、優のほうを決して見ようとはしない。

 

 

「すぐに、ほかのものと――」

 

「もういい……ここはもういいから。ほかのテーブルに行って」

 

「え……」

 

 

 優は呆然と兎少女を見つめている。

 

 

「おねがいだから……行って」

 

 

 僕にトレイを押しつけて、優はほかのテーブルに向かった。振り向きざまに、下唇を噛みしめているのが見えた。

 

 

 兎少女がフォークで苺を刺して皿に乗せている、その傍らに僕は紅茶を静かに置いた。

 

 

「大丈夫? 優も言ってたけど、代わりのものをお出ししますよ」

 

 

 しっかりと唇を閉じて、ふるふると頭を横に振る。兎の耳が右に、左に不安定に揺れる。

 

 

 僕は、なぜか兎少女から離れ難かった。清光の色だからだろうか。ただそれだけのことで、こんなにも離れたくないと思うものなのだろうか。

 

 

 兎少女が不審そうに僕を見上げて、途端に、はっと目を見張った。

 

 

「安定!?」

 

「どうして僕の――」

 

 

 そうか。どうも慣れないな、初対面で自分の名前を呼ばれることに。彼女も、どこかで僕のぬいぐるみを見たのかもしれない。

 

 

「よく言われます。僕の名前も安定だから、当てられるとびっくりする」

 

「本名同じなの? すごーい。しかも、顔が瓜二つってどゆこと? 二重にびっくりだよ」

 

「そうだよね。全然慣れない」

 

「決めた! 次から君を指名する。よろしくね」

 

 

 どこかで皿が打ち合う大きな音がした。そばのテーブルで、トレイに汚れた皿を重ねていた優と視線がぶつかった。慌てた様子でホールを横切っていく。

 

 

 僕は、兎少女にごゆっくりと声をかけて、カウンターの奥に引っ込んだ。

 

 

 陽が落ち、外は暗くなっている。コートとマフラーの組み合わせが、店の、ガラス張りの窓の向こうを行き過ぎる。すでに顔は見えない。だから、色が違うだけで、皆、同じに見えた。

 

 

 店内のお客さんは、少しずつ減っていた。この店で温まって、どこか次の場所を求めていったのかもしれない。

 

 

 優は汚れた食器を洗っているところだった。僕は隣に並んで、シンク脇の台に重ねられた皿やティカップを専用の布巾で拭いていく。しばらく、優も僕も口を開かなかった。皿の泡を洗い流す水音と、水分を拭きとった食器の重なる音が、僕たちの関係を繋ぎとめてくれていた。

 

 

「俺が……」

 

 

 僕は、黙って優を見遣る。

 

 

「はぁ……いままでずっと指名してもらえてたのになぁ。がんばろうとしても、全部裏目にでてしまう」

 

「……すきなんだね」

 

「えっ!?」

 

 

 なにをいまさらと思うほどに優は慌てて、持っていた皿を落っことしそうになる。僕は、不器用だなと思う。清光と似てる。可愛いと言ってもらえるためだけに、毎晩笑顔を練習する。だけど、その成果は得られずに、いつもいつも落ち込んで。

 

 

「僕が協力するよ」

 

「ありがとう。でも、もうダメだよ。完全に嫌われた……」

 

「あきらめるのは早い。まだまだ機会はいくらでもある。彼女がこの店にやってくるかぎりはね」

 

「そう、かな」

 

「僕にまかせて」

 

「そう、だな。チャンス、あるといいな」

 

 

 閉店時間を迎えると僕は私服に着替えて、与えられたロッカーに畳んだエプロンを置いた。

 

 

「ネットでも買ってるの?」

 

 

 僕の背後で、ちょうど優がロッカーを閉めたところだった。

 

 

「ねっと?」

 

「とうらぶって通販なかったっけ?」

 

「ツウハンって、なに?」

 

「え、通販だよ」

 

 

 優が、いやだな、からかわないでよとでも言うように微笑む。僕は言葉の意味が理解できなくて、そんな優をまじまじと見つめた。

 

 

「まさか知らないの?」

 

 

 僕は首を傾げた。それに合わせて、頭部で縛った髪束が揺れるのを感じる。

 

 

「最近、上京してきたって言ってたよね。それって、ネットを使わないような場所だったりする?」

 

「ごめん。なにを言ってるのか、全然わからない」

 

「よほどのところから来たんだね。あっ、じゃあ教えるよ。きっと気に入ると思う」

 

「なにを?」

 

「ネットだよ」

 

 

 隣室にあるオーナーの机は、この部屋にただひとつだけあって、持ち主を待ちわびてでもいるかのように淋しげに佇んでいた。

 

 

 その上に置かれた長方形の、黒くて薄いものに優が触れた。奇妙な音がして画面が光を放つ。これは主の部屋にあるものと同じだ。パソコンとかなんとか。使い方がノートに書かれていたような気がする。

 

 

「この端っこのスイッチで起動するんだ。それから上の細長い枠に、とうらぶ、っと。打ち込んだら、関連サイトの項目がずらりと出てくる。ちょっと待って。通販サイトも検索に加えるから」

 

 

 優がなにやら操作すると、また画面が切り替わった、ような気がした。文字ばかりで、さっきと同じに見える。

 

 

「これだ、一番上に出てきた。ここをクリックするんだ。そうすると、ほらっ出てきた」

 

 

 画面には、見慣れた刀剣たちの姿がたくさん映っていた。ポスターやマグカップに、絵となって描かれている。懐かしい顔ぶれに胸が熱くなった。会いたい。みんなに。清光に。

 

 

「簡単でしょ。ゲーセンはお金がかかるよね。同じ使うなら、こういう買い物のほうがいいと思うな」

 

 

 金額が決まってるから、こっちのほうが安くつくと言いたいのだろう。

 

 

「気に入ってるんだ、ゲームセンター。あの勝ち取る感覚がたまらない」

 

 

 それに、全種類の清光を集めたい。

 

 

「わかる気はする」

 

 

 優は少し困ったように微笑んだ。

 

 

 僕はパソコンにくっついている微かにせり上がった正方形に目を落とした。さっきから優は、このおかしな白い記号に指を乗せて押し込んでいた。その傍らには小さく平仮名が書かれてある。

 

 

「これはなんだ」

 

 

 その上に指を滑らせてみたら、つるりと気持ちのいい手触りがした。

 

 

「アルファベット、知らないの?」

 

「わからない」

 

「そっかー。でも大丈夫。直接、平仮名で打てるように設定したら使えるから」

 

「方法を教えてくれないか」

 

「もちろん。いまから、やってみせるね」

 

 

 僕は、優の持つ優れた技術のすべてを吸収するべく、夢中で脳内にすり込んだ。

 

 

 一通り教え終わると、優が横に立つ僕を見上げた。

 

 

「駅の向こうに専門店もあるよね。いつも前を通るだけなんだけど、女性客が多いよね。男だと入りづらそう」

 

「専門店!?」

 

「うん。えっ、もしかして――」

 

「知らない。僕は駅からこちら側にしか来たことがないんだ」

 

「もったいないな。あの店ではグッズがたくさん売られてるのに」

 

「今度、連れて行ってくれないか?」

 

「じゃあ週末にでも。あっでも、女性ばかりだよ?」

 

「そんなことを気にしてどうするんだ!」

 

「本気ですきなんだね」

 

 

 優が淋しそうに微笑んだ。兎少女を思い出したのかもれないと思った。

 



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8話

 帰宅すると、さっそくパソコンを起動した。教えてもらったとおりに、平仮名で入力できるように設定する。苦労してお目当ての文字を探しだして、一文字ずつ打ち込んでいく。

 

 

「と……う。ら。ぶ」

 

 

 通販サイトらしき文字をクリックする。サイトに飛んで画面が切り替わると、さっき優が見せてくれたものとは、まるっきり異なるものが展開していた。複数の可愛らしい女の子が僕を見ている。そのどれもが絵なのだけど、微笑んでいたり、哀しげだったり、実に豊かな表情だ。なんだか僕を誘っているような気がした。

 

 

 女性向け、の文字の下に三日月宗近がいた。どうしてこんなところに。場違いじゃないかと思いながらも、刀剣乱舞オンラインと書かれた文字に意識が吸い寄せられる。自然とクリックしていた。画面が変わるたびに、指が下がる。

 

 

 と、奇妙な画像が現れた。

 

 

 畳の部屋に次郎太刀が立ち、画面の中から僕に向かって微笑んでいるのだ。紫色の着物姿で、どぶろくをぶら下げて、体の横で大太刀を持っている。背後には、本丸の景色が広がっていた。しんしんと雪が降り、池の水面や寒々しい裸の木々に落ちてゆく。真っ白な冬景色を見せつけるようにして障子が開け放されている。次郎太刀は少しも寒がることはなく、堂々と立っていた。

 

 

「これは絵なのか?」

 

 

 思わず指先を画面に当てた。右側には二文字の漢字が縦にずらりと並んでいる。結成を開いて、びっくりした。部隊が編制されている。

 

 

「これは、いったい……」

 

 

 しばらく、ぼぅっと部隊一の画面を見つめていた。なにも考えられない。光を放つ画面に、思考を奪い取られてしまったように感じた。

 

 

 ふっと我に返って、一瞬で自分の思考を取り戻した。だけど、まだ完全に操ることができなくて、僕は気力を振り絞り、力の弱った手でマウスを動かす。ほかの漢字にポインタを当てて、だんだんと思いどおりになりつつある指でクリックした。

 

 

 出陣。

 

 

 鍛刀。

 

 

 上から順番にページを開いていく。そうしてようやく、ひとつの仮説が浮かんだ。

 

 

「刀剣乱舞……ゲームセンターにあるものと同じ類のものか。たぶん、そうだ。クレーンゲームの台にも記されているのを何度も見た。刀剣乱舞とはなんのことだと思っていたけど、これのことだったのか。誰もが主になれるゲームか。どうやら僕の主もやっていたみたいだ」

 

 

 その証拠に、左上の隊名に主の名前があった。

 

 

 僕はパソコンを離れて、ベッドに寝ころんだ。まさか僕たちがゲームになっているとは。清光が知ったらなんと言うだろう。

 

 

 ふぅ……。

 

 

 そうか。だからお客さんが騒ぐわけだ。あらゆる店にぬいぐるみも置いてあるだろうけど、刀剣乱舞のゲームも影響しているはず。確かに僕は大和守安定だ。似ているわけじゃなく、本物の。

 

 

 夕刻が近づいて、兎少女がカフェにやってきた。僕は、優とドアの前に並んで出迎える。

 

 

「あっ安定。今日からよろしくね」

 

 

 故意に、優のほうに視線を向けないようにしているのを、ひしひしと肌で感じた。「いらっしゃいませ」と放った優の作り笑顔が引きつる。それでも、どうにか表情を保っていられるのはすごいと思う。

 

 

 僕が空いたテーブルに導く間に、優は、彼を指名してくれているテーブルに逃げていった。兎少女は席につくとメニューも見ずに、チョコレートケーキとココアを注文した。

 

 

 僕は兎少女から離れて、優の腕を引っぱってカウンターに連れて行く。ほかの店員やお客さんの耳に入らないように囁く。

 

 

「一緒に接客にいこう」

 

「ムリだよ。避けられてる」

 

「がんばるって決めたじゃないか」

 

「ごめん。今日は……」

 

 

 僕はふぅっと息を吐く。清光は落ち込んでも、案外と立ち直りが早い。同じ人間じゃないから、違うのは当たり前だけど。さっきのが相当に堪えてるみたいだな。

 

 

「わかったよ」

 

 

 僕は、優の横を通り過ぎて、冷蔵庫からチョコレートケーキを取り出した。チョコレートのスポンジとクリームが交互に層になっていて、僕の気分に似つかわしくない甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

 

 また、ため息が漏れた。優がやる気になってくれないと、僕は応援できないじゃないか。

 

 

「お待たせしました」

 

 

 僕は、兎少女の前に、チョコレートケーキとココアを置いた。彼女はうれしそうに皿を引き寄せて、フォークを手に取る。

 

 

 相変わらず、優は指名客の相手だ。穏やかな物腰で話しかけている。このテーブルが見える位置に陣取っているんじゃないかと思うのは、僕の考えすぎだろうか。

 

 

「ねえねえ、安定。とうらぶ、やってる?」

 

「え?」

 

 

 優を気にしていたから、びっくりした。兎少女は紅色のセーターをつまんで、軽く引っぱった。

 

 

「あたしのこれ、加州清光を意識してるんだ」

 

 

 それを聞いた瞬間、僕の頭から優のことは吹き飛んだ。

 

 

「やっぱりそうだったんだ。色が同じだなと思ってたんだ」

 

「そうそう。すきすぎて、服装に取り入れちゃったよ。清光って、一生懸命可愛くしてるところが可愛いよね」

 

 

 僕の口角が自然と上がる。

 

 

「十分、可愛いのに、あれ以上どう可愛くなりたいんだろう」

 

「ほんとほんと」と、彼女は笑った。

 

 

 視線を感じて、はっとした。優の哀しそうな双眸が僕を見て、それからすぐにもとの穏やかな表情に戻った。つい話が盛り上がってしまった。優を応援しなくてはならない立場なのに。兎少女はおかまいなしに話を続ける。

 

 

「この間、とうらぶ専門店でね――」

 

「専門!?」

 

 

 僕はテーブルに手をついて身を乗り出す。

 

 

「知らないの!? 駅の向こうにあるよ」

 

 

 ああ、つい反応してしまった……。

 

 

「知ってるけど、行ったことはないんだ」

 

「えーっ絶対行くべきだよ! 損だよ損!」

 

 

 そういえば優が……。

 

 

「明日、一緒に行ってもらってもいいかな。女性客が多いって聞いて、なんか入りづらいんだ」

 

「あー、それはあるかも。ぜんぜんいいよ。せっかくの土曜なのに、予定からっぽだし」

 

「じゃあ、お店の前で」

 

「オッケー」

 

 

 兎少女はフォークで崩したチョコレートケーキの欠片を頬張った。感嘆の息が漏れて、頬が幸福の色に染まった。

 

 

 僕は、さっきとは違うテーブルの傍らに立つ優に近づいた。紺のブレザー姿の少女ふたりと楽しそうに談笑している。その胸の内は、ほかのことで満たされているんだと思うと、なんともいえない複雑な気持ちになってしまう。

 

 

 二段に重なったホットケーキの生地にフォークを刺し入れて、白い皿に広がるとろりとしたハチミツをつけて、おさげの少女は口に入れた。途端に、瞳が輝く。

 

 

「君を見てると、うれしくなるよ」

 

「え?」

 

 

 少女の不思議そうな目が、僕の視線とぶつかった。

 

 

「あんまりにもおいしそうに食べるから」

 

 

 少女がどことなく照れくさそうに微笑む。向かいの席に座したゆるふわパーマの少女が、僕をじっと見つめて目を見張っている。

 

 

「大和守安定に似てますね!」

 

「そんなに似てるかな」

 

「似てる似てる!」

 

 

 優は静かに、僕と少女たちのやりとりを見守っている。とても優しい光を瞳に宿して。僕にはそれがつくりものにしか感じられない。どうして本心を隠してしまえるんだろう。

 

 

 いつのまにか、少女たちは僕ではなく優を見つめている。吸い寄せられるように、うっとりとした眼差しで。少女たちの世界には優だけしか存在しないみたいに、あっという間に僕は締め出されてしまった。

 

 

 優の穏やかそうな顔立ち、微笑み、やわらかな声に少女たちは抗えず、心を奪われて、胸の奥のずっと深いところまで溶かされてしまうのだろう。少女たちのとろけそうな微笑が、ありありと事実を物語っている。

 

 

 今生の別れみたいに大袈裟な嘆きの渦から抜け出して、優と僕はテーブルを離れた。まだ追ってくる、絡みつこうとする視線から逃れるようにしてカウンターの奥に引っ込む。

 

 

「明日は彼女も誘ったから」

 

「え!? ほっほんとに!?」

 

「嘘を言っても仕方がないよ」

 

「じゃあ、俺がいなくても大丈夫だね……」

 

 

 さっきまでの余裕の笑みはどこへやら、優はしゅんとしてうつむく。兎少女が関わると、優の仮面はもろくなって、はがれてしまう。

 

 

「誰のために誘ったと思ってるんだ。優から近づいていかないと、彼女と仲直りできないじゃないか」

 

「彼女は知ってるの?」

 

「言ったら来ないと思う」

 

「彼女が嫌がることはしたくない」

 

「逃げたいの間違いだろ」

 

 

 優のうつむいた頭が重たそうに沈んでいく。哀しみからくるものなのか、情けなさからくるものなのか、僕には読み取れない。だけど応援すると決めたから、優の感情に流されてはいけない。僕が、怖がりなこの背中を押さなくては。

 

 

 おもむろに、優がうなずいた。それから、瞳を揺らして僕を見つめて、「わかった」と言った。とても小さく、消え入りそうな声だったけど、少しだけ覚悟のような響きが混じっていた。僕は、優の背中にぽんっと手を置いた。

 

 

 



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9話

 いつもより三十分早めに店を閉めて、大通りへ出る。優と駅のほうへ歩いていく。隣からしきりに、ため息が聞こえてくる。

 

 

 ファーストフード店や有名な百貨店から漏れ出る明かりが、街灯の存在を葬っていた。すれ違う若者たちから弾んだ真っ白い息が短く、ときには長く生まれては消えてゆく。

 

 

 だけど、僕と並んだ青年の吐く情念は、とてつもなく長い間、空気中に留まって、やけにくすんでいる。外気に触れても、持ち主にしがみつこうとして離れない。

 

 

 駅の前を通り過ぎる。いくつかの雑居ビルの向こうに、とうらぶの専門店はあった。縦に細い二階建てで、ガラス張りの窓に僕が打刀を構えたポスターが貼ってある。

 

 

「僕!?」

 

 

 街中で僕自身を見るのは、はじめてだ。その傍らに立つ、赤いコートを着た兎少女には目もくれず、窓にかじりつく。僕は、着慣れた衣服に身を包む自分に意識を奪われてしまう。とても不思議で、奇妙な時間が流れる。

 

 

「帰る!」

 

 

 途端に意識は引き戻されて、兎少女のむき出しの怒りが僕の胸をぞわりとさせた。

 

 

 僕たちの前から消えようとする兎少女の腕を、僕は慌ててつかんだ。歩道に立ち尽くす優はうつむくばかりで、打ちひしがれているように見えた。

 

 

「どうして優がいるのよ!」

 

 

 頭に生えたふたつの耳が、いまは角みたいに尖る。

 

 

「先に優と約束してたんだ。言ったじゃないか、男だけじゃ入りにくいって」

 

「だったら言えばよかったじゃん! 来るって知ってたら……」

 

「いいよ。俺が帰ればい――」

 

「清光のグッズがほしくてたまらないんだ! 頼むから協力してほしい」

 

 

 つい力んでしまい、つかんだ細い腕が強張った。鬼少女が険しい目つきで僕をじっと見上げて、僕はしばらく責められながらも決して視線をそらさなかった。

 

 

 ここで引くわけにはいかない。清光のためなら、僕はひとりでも店に入れる。だけど、そういうことじゃない。優のために僕ががんばらなくては。清光と違って、ずいぶん気が弱い。だから僕も負けじと、思いを込めて鬼少女を見返す。

 

 

 やがて角がやんわりと萎れて兎の耳に戻った。少女はまだ迷っている様子だったけど、鋭利な雰囲気はすっかり大気に溶けている。

 

 

「わかったわよ。その代わり名前で呼んで。一度も呼んでもらったことない」

 

「それは知らないから」

 

「だから呼んでってば。あたし、香帆だからっ!」

 

「わかったよ、香帆さん」

 

 

 ふんっと鼻をならして、ブーツの音を硬く響かせ、店内に入っていく。憂鬱そうに彼女の背中を見つめる優の腕を、僕は引っぱった。

 

 

「これからだよ」

 

 

 優が無気力そうにうなずく。

 

 

 店に足を踏み入れた途端、僕の思考は完全に停止した。店中が刀剣たちで溢れている。棚という棚が文房具や小物で埋め尽くされて、壁という壁にポスターやタペストリーが貼られて、刀剣たちが客に微笑みかけている。

 

 

 僕は夢中で、棚を漁った。ほかの刀剣の顔はぼんやりと霞がかかったようになって目に入らない。清光だけが心に、目に、飛び込んできた。

 

 

 メモ帳にキーホルダー、ペン、シール、缶バッジと買い物かごに積んでいく。少しでも表情が違ったりすると、そのすべてを僕のものにしたくて全種類を手につかんだ。

 

 

 中央に位置する全部の棚を回り終えて、外側に移動した。タオルを手にしたまま、僕は枕カバーに飛びついた。壁には抱き枕カバーというものがぶら下がっていて、清光が胸の真ん中をとおる黄金色のボタンをはずして胸をはだけさせている。

 

 

「なっ!!」

 

 

 公共の場でなにを考えてるんだ。何度も清光と共に入浴してるけど、中途半端に脱ぎ掛けたこんな状態じゃ香しいエロスが立ち上ってるじゃないか。甘えたような目つきが、僕の心をつかんで離さない。

 

 

 僕は清光の抱き枕カバーを引っつかんで、ぎゅっと目を閉じた。いけないことをしているみたいで胸が熱くなる。指から放たれた清光が、買い物かごに落ちる音が、異常なほどに強く打ちつける鼓動と重なった。

 

 

 目を開けると、僕がいた。清光と並んで僕のカバーもあった。同じように胸をはだけて、その誘うような微笑に、僕はたまらなくはずかしくなった。視線をそらして、その場を離れる。

 

 

 だけど、すぐにワゴンに重ねられた布団カバーとシーツを見つけて、いたたまれない気持ちのまま清光を手に取って、足早に歩きながらかごの一番上に置いた。

 

 

 すれ違ったり、僕の視界に入ってくる女性客からの視線が痛い。

 

 

「大和守安定!?」

 

「えーっ、どこどこ?」

 

「あっちで見たって人がいるんだって」

 

 

 囁く声があちこちから聞こえてくる。僕の姿を遮る棚の向こうからも。いまや店中が僕の噂でもちきりのようだった。はじめこそ、視線を合わさずに通り過ぎていたけど、次第に無理やり笑顔を作るようになった。

 

 

「駅向こうのシャーレに勤めてます。ぜひ寄ってください」

 

 

 しっかりと相手を見つめて微笑む。

 

 

「そうなんです。清光がすきで」

 

「お似合い? うれしいです」

 

 

 軽く会話を交わしながら、幅広の通路を折れて棚と棚の間に入った。さっき物色した場所だ。見覚えがある。キーホルダーを手に取った。清光の笑顔が、僕を励ます。同じものをふたつ握りしめて、レジに向かった。

 

 

 会計をすませて、優と香帆さんを探して店内をさまよう。通路から、いくつもの棚の間をのぞいて、ようやく見つけた。僕は、ふたりが一緒にいることにほっとした。ふたりは並んで、それぞれに、なにかのグッズを手にしたところだった。

 

 

「これは誰?」

 

「そんなことも知らないの? 燭台切光忠。かっこいいよね。一番は清光だけど」

 

「加州清光はわかるよ。香帆さんがすきなことは知ってるし、それに安定くんもすきだから。スカウトしたとき、清光のぬいぐるみを鞄いっぱいに詰め込んでたんだ。ゲーセンで取ったって」

 

「えっ、そんなに持ってたの! すごーい!」

 

 

 僕はふたりの横から、はいっと小袋を差し出した。

 

 

「ふたりにプレゼント」

 

「え、なになに?」

 

 

 香帆さんが封を解いて中をのぞく。

 

 

「清光だ、かわいい!」

 

 

 優が開けた小袋を覗き込んだ途端に、香帆さんの表情が強張った。

 

 

「なんでおそろいなの?」

 

 

 香帆さんが僕を睨みつけて、優は困ったように見てくる。

 

 

「仲直りのしるし」

 

「それとこれとは別でしょ」

 

「じゃあ、仲直りはなし?」

 

 

 僕の言葉に優がうつむく。香帆さんがそれに気づいて、唇を引き結ぶ。束の間の沈黙。時間にすると、あっという間なのに、やけに重たい。

 

 

「あのことは、許してあげる。でも、指名は変えないから」

 

「ごめん……」

 

「もういい」

 

 

 僕は、ふたりの間に流れる重苦しい空気なんか気にしない。僕まで雰囲気に呑まれてしまったら、すべてが無駄に終わってしまいそうだから。

 

 

「せっかくおそろいなんだから、使ってね」

 

「なんでおそろいだと使わなきゃいけないのよ」

 

「清光が嫌い?」

 

「それは……わかった。かわいい清光に免じて、使わせてもらう」

 

「ありがとう」

 

 

 外に出ると、夜気が頬を撫でた。僕はマフラーを引っぱって、顎の先を突っ込んだ。三人並んで駅のほうへ歩く。

 

 

「ねえ、ずっと前に忘れものをしたお客さんがいたじゃない?」

 

 

 香帆さんの元気な声が、吐く息を白く染めた。優のもだいぶ白に近づいている。彼女が言葉を続ける。

 

 

「追いかけていったでしょ。そしたら、その日からほかのお客さんも真似して、わざと忘れものをするようになったよね」

 

「そんなこともあったね。懐かしい」

 

 

 優が遠い目をして、夜空のどこかを見つめた。

 

 

「あのころは、優を指名してたから、あたしも真似したんだ」

 

「そう、だったんだ」

 

「やっぱり覚えてないよね。あんなに大勢、忘れものしちゃったら」

 

「ごめん」

 

「いいよ。それも許してあげる」

 

 

 僕は歩幅を緩めて、少しだけふたりから距離をとる。親しそうに隣り合う、ベージュのダッフルコートと赤いコート。

 

 ふたりがうまくいって、うれしい。それなのに、どうしてだろう。胸に棘が刺さったみたいに、ちくりちくりと痛む。痛くてたまらない。優の一途な想いに感化されたのだろうか……よくわからない。

 

 

 僕の吐息はくすんでいる。

 

 

 帰宅してすぐに、シーツと布団カバー、枕カバーを取りかえた。横になり、右に左に転がって清光を堪能した。こっちに来てから、ベッドで眠ったことは一度もなく、床で布団をかぶるだけだった。だけど、今夜からは、ここで清光と眠ってみる。

 

 

 さっき床に置いた、主が使っていた抱き枕はもう清光色に染まっている。手に取って、おそるおそる抱きしめてみた。清光の潤んだような瞳が、はだけた胸が、すぐそばにある。気づいたら、強く強く抱きしめていて、はっとして離れた。

 

 

 慌ててベッドから下りて椅子に座る。胸が……熱い。僕はどうしてしまったんだ。

 

 

 はぁっ。はぁっ。

 

 

 体温よりも遥かに高温な息が漏れる。荒々しく、僕の心を搔き乱す。痛いよ、清光……。

 



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10話

 パソコンを起動して、とうらぶの通販サイトに飛んだ。毎晩、シャワーですっきりしたあと、新商品をチェックするのが日課になっていた。

 

 

 刀剣たちの商品をスクロールで見ていく。缶バッジやクリアファイル、キーホルダー、グラス……いろんな形に変えてみんなが売られている。売り切れと表示された品物が数多くある。

 

 

 唐突にフィギュアの文字が飛び込んできて思考が停止した。画面では、清光を形作った小さな人形が僕を見つめていた。その無邪気な笑みが鏡で練習していたものと重なった。

 

 

「清光……」

 

 

 たまらなくほしい。

 

 

 すぐにクリックして買い物かごに入れた。そのほかにも、タペストリーや文房具など、あらゆる清光を購入した。清光の種類はいったいどれだけあるというのか。たまらなくほしいと思う感情がとどまることなく心の底から湧き上がってきて、同時にクリックする指が止まらなくなった。

 

 

 ひどく目が疲れて、パソコンから離れる。テーブルをすっかり占領しているぬいぐるみをひとつ抱き上げた。この哀しそうな清光は、主に可愛いと言われなかったと落ち込んだときの表情だ。いま誰が慰めているんだろう。応援しているんだろう。僕以外に清光を理解している刀剣がいるはずはないのに。

 

 

 

 

 

 

 ホイップクリームとチョコレートソースのかかったワッフルが盛りつけられた皿、そして紅茶をトレイに乗せた。ちょうど優がカウンターに入ってきた。

 

 

「今日は行ってくれるよね、香帆さんの接客」

 

 

 優は汚れた皿をシンクに置いて、いいよと答えた。昨夜のことで前向きになれたらしい。

 

 

 優にトレイを運んでもらって、香帆さんのテーブルの脇に立つ。

 

 

「どうして優が?」

 

「僕のほうが新人だけど、優には指導が必要だから」

 

「ああ、それなら納得。しっかりね」

 

「がんばります……」

 

 

 トレイからワッフルの皿を持ち上げるその手が、微かに震えている。ああ、また自信をなくしてしまったみたいだ。これじゃあ、指名を勝ち取る日は遠いかもれない。なにかに怯えているかのように震えながら、ワッフルがテーブルに着地した。転がる苺がなくてよかった。優もそう思ってるんじゃないかと思った。

 

 

 香帆さんも真剣みに溢れた眼差しで、その様子を見守っていた。安堵したような息が隣で聞こえた。そうして、ぎこちなく彼女に笑いかけた。

 

 

「宗三左文字って、戦うことが嫌いなんだね。部隊に加えるのがかわいそうになる」

 

「ん? それって江雪左文字じゃない? 宗三左文字はピンク色の髪のほう」

 

 

 フォークに刺されたワッフルが、中空で止まる。

 

 

「あっ、そうだったかな。まだ覚えられなくて。はじめたばかりなんだ」

 

「別に覚えなくてもいいんじゃない? 男のひとで詳しいのって、安定しか知らないし。基本的には女の子に人気なんだし」

 

 

 ようやくワッフルが、小さく開いた艶やかな桜色の唇に触れた。

 

 

「そうかもしれないけど……は、話が、合うようになりたいし」

 

「ああ、お客さんとね。仕事のためなら仕方ないね。お客さんも喜ぶと思うよ。がんばって」

 

「あっ、いや、そうじゃなくて……」

 

「違うの?」

 

 

 ティカップの取っ手に指を絡ませて、不思議そうに優を見上げる。慌てふためく優の感情が、空気を伝わって僕に届いた。

 

 

「や、当たってるけど……」

 

「なによもう、はっきりしないわね」

 

 

 とうらぶをはじめたのか。僕の主もやってるから、全然おかしなことじゃない。

 

 

「少しまかせてもいいかな。指名してくれたお客さんが呼んでるから」

 

「えー」

 

 

 香帆さんの口先が尖る。

 

 

「ごめん、すぐに戻ってくるから」

 

「俺なら大丈夫。今日は安定くんの指名多いよね。いってらっしゃい」

 

「ちょっとー安定ってばぁ」

 

「すぐに戻ってくるよ」

 

 

 僕はほかのテーブルに歩み寄った。専門店で宣伝したせいか、今日になって指名がぐんと増えた。灰色の制服を着た少女が、空になったグラスを差し出してくる。

 

 

「お代わりいいですか?」

 

「あ、はい、お待ちください」

 

 

 グラスを手に、振り返ろうとすると呼び止められた。

 

 

「あのっ」

 

「はい?」

 

「昨日、専門店に行った友達に聞いてきたんですけど、ほんとに大和守安定に似てますね」

 

「よく言われます」

 

 

 僕はお決まりの言葉と共に会釈した。

 

 

 カウンターで、冷蔵庫からオレンジジュースの容器を取り出してグラスに注ぐ。僕のことが噂になっているらしく、今日は何度も同じ言葉を言われた。わざわざ会いに来てくれるのはうれしい。だけど、それは好奇心であって本物の愛じゃない。

 

 

 あのテーブルでは、優と香帆さんが楽しそうに笑い合っていて、僕の胸がズキンっと痛んだ。ふたりを見ていると、なんだかいたたまれない。

 

 

「お待たせしました」

 

 

 オレンジジュースを、半分ほど崩れかけたロールケーキのそばに置いた。

 

 

「あのっ、それって」

 

 

 少女の視線は、黒いエプロンのポケットに注がれている。そこから清光の顔がはみ出しているのだ。僕はメモ帳に挟み込んだボールペンともども取り出した。キャップについたミニサイズの清光を、全体像がわかるように少女の前に掲げる。頭上で煌々と咲くチューリップが、スポットライトのように清光を照らす。少し誇らしい。

 

 

「あっ、やっぱり。加州清光なんですね。それにメモ帳も」

 

 

 注文を書き記すのに使用しているメモ用紙の上で、イラストの清光が元気に騒いでいた。ほかの店員からは文句も出たけど、優は笑って受け流してくれた。

 

 

「ごめん。もう行かないと」

 

 

 そばでお客さんが立ったのを機に、僕は片付けに取り掛かる。汚れた食器を乗せたトレイを手に、ホールを横切っていく。ほかの少女たちの相手をしている優の背後を過ぎて、香帆さんの横を通った。

 

 

 香帆さんはうつむいて雑誌を読んでいる。人気のある優は、彼女の相手ばかりをしているわけにはいかないんだろう。

 

 

「あっ、安定!」

 

 

 僕は、なにか言いたそうな香帆さんのもとへ引き返す。

 

 

「ご注文ですか?」

 

「ううん。このあと買い物に行かない? 専門店」

 

「昨日、行ったじゃないか」

 

「そうなんだけど、また行きたくなっちゃった」

 

「けど、あそこは九時までだよね。今日は規定通り八時に閉めるから急がないといけなくなる」

 

「あたしはいいよ。ねえ、おねがい!」

 

 

 香帆さんが手を合わせて見上げてくる。なんだか瞳が潤んでいるように見えた。断る理由はなにもない。優はどうなんだろう。誘ったんだろうか。

 

 

「じゃあ、行こうか」

 

「やったー! 待ってる」

 

 

 閉店時間が近づくにつれ、店内のお客さんは少なくなっていった。

 

 

 僕は運んできた汚れた食器をシンクに置いた。優は黙々と皿を洗っている。なにも言わない。ということは、誘ってないのかもしれない。

 

 

 僕はまたホールに出て、テーブルに布巾を滑らせながら、ちらりと香帆さんを見遣った。煌々と咲いたチューリップの下で、紅茶に口をつけている。

 

 

 優を誘いたくない。優にとってチャンスだとわかってるのに。店の外で会うことを重ねていけば、自然にふたりで会う行動につながるかもしれない。わかってる。わかってるんだ。だけど……。

 

 

 カウンターの奥では、優がまだ食器を洗っていた。僕は隣に立ち、積み重なる濡れた皿を布巾で拭いていく。僕は口を開かなかったし、優も手を動かすばかりだ。

 

 

 ロッカールームで着替えをすませて、優がおつかれさまと言って出ていこうとした。

 

 

「あっ」

 

 

 思わず声を出していた。ドアの前で優が振り返る。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 なにも知らない優の無垢な表情に、僕の胸に罪の意識が染み渡っていく。声を出してしまったのは、その芽がすでに植わっていたからなのかもしれない。応援すると決めて、ずっと協力してきた。それなのに肝心なところで僕は裏切ろうとしている。それは清光に誇れる僕の姿じゃない。

 

 

「安定くん?」

 

 

 僕は、はっとして優を見返す。

 

 

「これから、専門店に行かないか?」

 

「とうらぶの?」

 

「そう」

 

「もしかして香帆さんに誘われた?」

 

 

 僕はそうだとうなずく。

 

 

「九時までだから少し急ぐことになるけど」

 

「俺は……いい」

 

「どうして」

 

「安定くんを誘ったんだ」

 

 

 ノブに手が伸びる。逃げていく優に、僕は無性に苛立った。

 

 

「なんのために、いままでがんばってきたんだ。香帆さんが僕を好いてるわけないじゃないか。ここで引くなよ。ライバルはこの店の外にいる男かもしれないんだ。機会があるなら飛びつくべきだ」

 

「でも……」

 

「ほかの男にくれてやるのか」

 

「いやだ!」

 

 

 一瞬震えた背中に、哀愁が滲んでいる。

 

 

「行くよ。僕も」

 

 

 その声までもが震えていて、どうしてなのか僕の心も震えた。たぶん優とは違う。僕のは胸がきしむような痛み。理由がわからなくて、僕はただ耐えることしかできない。

 



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11話

「優も?」

 

 

 店の前で待っていた香帆さんがそう言った。優は気まずそうに唇を歪めた。

 

 

「ごめん、お邪魔だったかな」

 

「お邪魔ってなによ」

 

 

 微妙な距離を保ちながら歩くふたりに、僕はヤキモキする。相変わらず胸が痛みに響いたままなのに、優の押しの弱さには我慢ならない。僕は優を香帆さんの隣に押しやった。僕は優の隣、車道側を歩く。夜を照らすヘッドライトがむなしく通り過ぎていく。

 

 

 駅の向こう側にある専門店に着いたのは、閉店の二十分前だった。

 

 

「早く早く」

 

 

 店内に駆け込んでいく香帆さんに、僕たちも続いた。

 

 

「僕は向こうに行くから、優は香帆さんについててあげて」

 

「え!?」

 

「がんばって」

 

 

 僕はふたりとは反対の通路を駆けていく。棚の端のほうまでやって来ると足を止めた。昨日、たっぷり買い物を楽しんだから、今日は香帆さんにつきあっただけだ。

 

 

しばらく清光の煌びやかなシールやペンケースなどを眺めて過ごした。どれもこれも部屋にあるものだけど、ずっと見ていても全然飽きない。

 

 

 腕にはめた清光の時計を見ると、閉店までもう十分を切っていた。僕は急いでふたりを探す。二階にあるコスチュームコーナーで、ハンガーにずらりとかけられた刀剣たちの衣服の間に、ふたりは挟まれていた。

 

 

 香帆さんが優の胸に紺色の衣服を当てている。あれは一期一振のものだ。

 

 

「似合う! あっ、ねえねえ、どう思う?」

 

 

 僕に気づいて声をかけてくる。衣服の列をひとつ挟んで、僕は近づいていく。

 

 

「確かに穏やかな顔立ちは似てるような気がするけど、性格は全然違う」

 

「いいのいいの。容姿だけなら一期一振と似てるから。髪、水色に染めてみない?」

 

「え!? ムリだよー」

 

 

 コスプレって髪を染めないといけないのか。大変だな。っと、それどころじゃなかった。僕は腕を伸ばして、清光の時計を見せた。

 

 

「それより、あと五分で閉店だよ」

 

「やっば。買ってくる!」

 

 

 彼女は床に置いた買い物かごを引っつかんで、慌ててハンガーの道から抜け出した。僕と優はゆるりと向かう。

 

 

「香帆さん、元気だね」

 

 

 通路を駆けていく後ろ姿を眺める優の口もとがほころんでいる。誰が見ても、香帆さんに好意を抱いているとわかるくらいにやわらかな笑みだ。彼女のああいうところに惹かれたのだろうか。

 

 

「またまた清光グッズ買っちゃった」

 

 

 夜道を行きながら、香帆さんが袋を掲げた。

 

 

「僕は昨日買ったから、今日はなし」

 

「また新商品が入荷したころに行こうよ。清光グッズなら、なんでもいいって感じ」

 

「僕もだ。笑顔が一番だけど、結局、どんな清光も、清光だから」

 

 

 香帆さんが、うんうんっと楽しげにうなずいているのに対して、優はどこか別のところに目を遣っている。ああ、入れないんだ。清光の話は優にはわからない。なんとか話を変えなくては。僕はあれこれと思考を巡らせる。

 

 

「優、最近、失敗が減ったよね」

 

「接客?」

 

 

 香帆さんがくいついてきた。

 

 

「そうかな。なんか手がふるふるしてて危なっかしいよ。見ててハラハラする」

 

「でも、ショートケーキの苺は落とさなくなったよ」

 

 

 優が勝ち誇ったように笑む。

 

 

「そんなことで自慢しないの。当たり前のことなんだから」

 

「ごめん……」

 

 

 どうしてそこで黙ってしまうんだ。苺を落とさなくなったのは、かなりの進歩じゃないか。もっと自信を持つんだ。

 

 

 香帆さんがちらりと優に視線を向けた。

 

 

「ねえ、あれってわざとでしょ」

 

「なんのこと?」

 

 

 優が不思議そうに香帆さんを見遣ると、彼女は視線をそらした。

 

 

「紅茶をこぼしたり、ケーキを倒したり、注文と違うものを出したり……」

 

「どうして、俺がそんなことを」

 

「だって、あたしだけじゃない。いつも……嫌がらせしてたんでしょ」

 

「違う。香帆さんの前だと緊張するんだ」

 

「意味わかんない! なによその言いわけ」

 

 

 優が哀しそうに目を伏せた。その痛々しさに、僕はたまらなくなって優の腕をつかんだ。震えていた。

 

 

 ここで黙ったらダメだよ。取り返しのつかないことになるかもしれない。僕の願いが通じたのか、優の腕に力がよみがえるのが伝わってきた。

 

 

「……忘れものの話をしたこと、覚えてる?」

 

 

 問うた香帆さんの唇は震えている。伏せた長いまつ毛が、哀しげに揺れる。優は肯定も否定もしない。ただじっとうつむいて、体中を流れる感情に耐えているようだった。

 

 

「一番最初に忘れものをしたのは香帆さんだよね。俺が追いかけたのは、香帆さんだよね。あのとき、忘れものを渡したときの、ありがとうって言った香帆さんの笑顔がまぶしくて、忘れられなくなったんだ。いまでも、ずっと心に残ってる」

 

 

 香帆さんのまつ毛が、もうひと波揺れて持ち上がる。優の真剣な想いが、彼女の複雑な感情をしっかりと受け止めた。

 

 

「うそよ」

 

「ほんとだよ。あの瞬間から香帆さんが俺の心を離さない」

 

「じゃあ、忘れものってなんだか知ってる?」

 

「手帳、でしょ」

 

 

 香帆さんを見つめる優の眼差しは、とても優しくて愛に溢れていた。弾かれたように、彼女が口もとを手で押さえた。嗚咽が漏れる。震える肩を、体を、優の腕が優しく包み込む。

 

 

「お、ぼえて、る。あたし、も。ずっと……」

 

 

 涙に濡れる香帆さんの声を聞きながら、僕は背を向けた。

 

 

 立ち並ぶ雑居ビルや百貨店の窓から漏れ出る明かりが、街灯の存在を隠している。人に紛れて歩く僕の姿も消えてしまう。誰でもない僕になる。だけど、胸の疼きが全身を震わせて、僕は否が応にも自分の存在を認めてしまう。

 

 

 ふたりを見て確信した。僕を愛してくれる人はきっとどこにもいない。やっぱりいないんだ。あんなに煌めいた愛を、僕は知らない。僕が永遠に経験することのない純粋なものだ。そんなものを誰が僕に注いでくれる。

 

 

 ずっと感じてた。この感情はなんだろうと。ふたりの関係がよくなってうれしい。そのはずなのに僕は本当の意味では満たされていない……。

 

 

 僕が本当に見たいのは清光の笑顔だ。優を清光の代わりにしていた。清光の代わりは誰にもできないというのに。

 

 

 そうだ、誰でもいいわけじゃなかったんだ。清光……どこにもいない。この世界に存在してない。僕の記憶の中だけに生きている。

 

 

 ここに、あいつはいない。

 

 

 

 

 

 

 香帆さんは指名を優に戻した。

 

 

「だからそれは平野藤四郎だって」

 

 

 彼女のついたテーブルで、優がさわやかに笑う。

 

 

 僕の胸はいつまで疼くつもりだろう。あの笑顔が清光だったらどんなにいいか。

 

 

「いつもより哀しそう。どうしたの?」

 

 

 傍らでコーヒーの入ったティカップを持ったまま僕を見上げる少女は、大きな瞳に憂いを湛えている。勤めはじめたときから僕を指名してくれている、すっかり常連のお客さんだ。

 

 

「そう、かな。いつもと変わらないよ」

 

 

 僕が微笑むと、少女の目尻が沈痛そうに垂れ下がる。

 

 

「おねがいだから、そんなに淋しそうにしないで」

 

「大丈夫だよ。ありがとう」

 

 

 努めてやわらかく微笑んだつもりでも、少女の瞳はいっそう哀しみの色が深くなるばかりだ。僕はそれほど哀愁を漂わせているんだろうか。

 

 

 テーブルを離れて優の背後を通る。カウンターに戻ってシンクにたまった汚れた皿を洗う。本当は接客するべきなんだけど、少しの間だけでもひとりになりたかった。

 

 

 まもなく優がティカップを手にやってきた。にこやかにココアをそそぐ。香帆さんのお代わりらしい。時おり、ちらりと顔を上げて、彼女の存在を確かめている。ふたりの視線がぶつかって、途端に愛色の雰囲気が立ち込めた。

 

 

 その甘い世界が僕の内側に侵入して、無数の針に変化する。容赦なく、やわい箇所を突き刺してくる。ふたりの煌めく愛は、こんなにも僕を痛くさせる。

 

 

 部屋に帰って一番に抱き枕に抱きついた。

 

 

「清光、ただいま」

 

 

 腕の中に清光を感じながら、込み上げてくる切なさを分散させようと必死になった。会いたいよ、清光。

 

 

 ふいに、誰もいないはずの部屋で物音がした。脱衣所のほうだ。なんだろうと顔を向けたとき、開いたドアから清光が出てきた。

 

 

「へえ、ここが主の部屋か」

 

 

 一瞬で、全身が硬直した。互いの表情が凍りつく。どう……して。

 



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12話

 清光の視線が、僕の胸に押しつけられた抱き枕に釘づけになっている。それから部屋中に溢れた清光のぬいぐるみや隙間なく壁に貼り付けられたポスターに移動する。清光がもう見たくないとばかりに、ぐっと目を閉じた。

 

 

「違うんだ、これは!」

 

 

 僕の言葉を振り払うようにして清光はくるりと背を向けた。

 

 

「いますぐ帰らせてくれ」

 

 

 絞り出すような悲痛にまみれた声だった。

 

 

「なんでだよ。いま来たばかりじゃねえか」

 

 

 清光が邪魔で脱衣所で足止めされている主が、伸び上がって室内を見回した。途端に驚愕の表情を浮かべて、最後に僕を見た。ただ呆然と眺めている。

 

 

 僕は身がすくんで足が動かない。激情に流れる光景を見守ることしかできない。

 

 

「主!!」

 

 

 清光の絶叫が主の肩をびくりと震わせた。

 

 

「けど……」

 

「早く!!」

 

 

 主の体が押しやられて、脱衣所のドアが乱暴に閉まった。

 

 

 追いかけたい。止めたい。このまま返してはいけない。だけど動けない。まるで清光が来るなと言ってるみたいだ。僕を全身で拒んでた。だから僕は、動けないんだ。

 

 

 じっと、無情に遮るドアを見つめる。その向こうで、いま、まさに起きていることがありありと脳裏に浮かぶ。ドアの隙間から、哀しいほどに眩い光の線がか細く床にこぼれる。僕と清光を結びつける、ただひとつの確かな証。だけど、一瞬にして断ち切れて、跡形もなく消えた。

 

 

 ドアの奥からは、物音ひとつ聞こえてこない。さっきまで感じていた重苦しいほどの人の気配を、僕は失う。

 

 

 清光が……消えてしまった。

 

 

 力が抜けて、僕の腕の中から抱き枕が床に落ちていく。金縛りが解けたかのように、僕はテーブルに並んだぬいぐるみを引っつかんだ。思い切り床に投げつける。

 

 

「こんなもの!」

 

 

 次々と手にとっては、壁に、本棚にぶつかって、ぬいぐるみが床に転がっていく。

 

 

 ベッドに上がって、壁のポスターの上端に手をかけて真ん中を引き裂いた。清光の顔や体に亀裂が走って、それもすぐに涙に掻き消された。

 

 

 台所からゴミ袋を持ってきて、本棚の上のぬいぐるみやパソコンの周囲を占領する文房具を放り込む。

 

 

 急に手が止まった。急激な拒絶が心の底から込み上げてきて、あっという間に体内を駆け巡る。僕は胸の痛みに溺れて、だけど強い気持ちをもって息をする。

 

 

 おもむろに、ベッドに落ちたポスターの半分を拾い上げた。机の引き出しからセロハンテープを取り出して、よろめきながらベッドに上がった。屈託なく笑う清光の顔、体とつなぎ合わせていく。

 

 

 どうしたいんだよ僕は……。

 

 

 はぁっと力が抜けてベッドにくずおれた。嗚咽が、止まらない。布団につっぷして、胸を締めつける痛みを吐き出した。荒らんだ悲しみの涙にくれて、ひたすらに心を浸す。たまらなくなって、清光の布団にしがみつく。

 

 

 会いたいよ、清光……。

 

 

 正直に話そう。清光のグッズを集めることになった理由を。いまよりもっと嫌われるかもしれない。二度と口をきいてくれないかもしれない。だけど、どうせ嫌われてるんだ。それならせめて自分の気持ちを言いたい。それでおしまいだ。

 

 

 

 

 

 

 翌日からバイトを休んだ。

 

 

 ヒノスーパーからダンボールを分けてもらって、清光グッズを詰め込んだ。朝から晩まで黙々と手を動かした。何日も、何日も。そのためだけに呼吸をしていた。

 

 

 帰らなきゃ。早く会わなきゃ。

 

 早く。

 

 早く。

 

 清光……。

 

 

 全身から迸る哀しみに耐えて作業をしていても、時おり襲ってくる、心の奥底から溢れ出る強烈な痛みには抗えなくて、そのたびに抱き枕に抱きついた。こんなにも僕の胸を締めつけるのは清光なのに、清光にしか僕の心は癒せない。僕は永遠にこの想いを抱えていくことになるだろう。

 

 

 ある日、インターホンが鳴った。気に留めず、大量のメモ帳や手帳、クリアファイルをひとつずつ手に取って、丁寧に箱の中に重ねていく。どれも大切なもので、乱暴には扱えない。このひとつひとつが清光なのだから。

 

 

 インターホンが連続的に耳の奥を刺激して、僕はようやく立ち上がった。ずっと同じ姿勢でいたせいで背筋から腰にかけて凝り固まり、苦痛に呻いた。

 

 

 ひどく気だるい体を動かして、ドアを開けた。そこには優と香帆さんが立っていた。ふたりとも心配そうに頬が歪んでいる。僕の顔を見た途端に、香帆さんがホッとしたように息をついた。

 

 

「ああ、よかった」

 

「バイトに来ないし、連絡もないから心配してたんだ」

 

「どうして、ここが?」

 

「書いてもらった履歴書に住所があったから」

 

 

 突然訪ねてきたことを詫びるように、優が目を伏せた。

 

 

「なんかやつれた? ちゃんと食べてる?」

 

 

 ふたりの手が強くつながれていて、僕を蝕む狂おしいほどの切なさが飛散した。体の内側が熱くなって、喉もとに込み上げてくる。歯を食いしばる。ふたりは僕の言葉をじっと待っている。

 

 

「……ごめん。バイトは、もうやめる。帰るんだ」

 

「帰るって。地方の実家に?」

 

 

 優が驚いた様子で目を見張る。

 

 

 今度は僕が目を伏せた。これ以上、ふたりを見ていられない。と、視線の先で、それぞれの鞄に、僕があげたおそろいの清光が幸せそうに揺れていた。また、どうしようもなく切なさが込み上げてきて、歯を食いしばる。だけど、もうムリだ。抑えられない。

 

 

「片付けが、残ってるから」

 

 

 僕は強引にドアを閉めた。

 

 

「ちょっと、安定!?」

 

 

 香帆さんの声に背を向けるのと同時に涙が零れた。頬を伝って床に落ちていく。拭いても止まらないことはわかってたから、流れ落ちるままにして、口の開いたダンボールの傍らに沈み込んだ。

 

 

 清光のぬいぐるみをダンボールの内側に並べていく。いろんな表情の清光の上にぽたり、ぽたりと雨が降る。帰らなくては。

 

 

 清光がいなくなった部屋は寒々しく、僕の存在までもが消えてしまったみたいだった。テーブルもベッドも壁もまっさらで、僕はただ細胞に溜め込んだ痛みを吐き出すだけ。床で膝を抱えて、ベッドにもたれて主を待っている。

 

 

 窓際に積み上げられたダンボールのせいで、陽が射し込まず薄暗い。室内に充満した濡れた息。空気中に染み渡る寂寥。存在が消えてしまった僕。日を追うごとに孤独が僕を壊していった。

 

 

 脱衣所のほうで音がした。僕は全身から失意を吹きこぼしながら急いでドアを開けた。ちょうど主がノブに手を伸ばしたところだったらしく、突然現れた僕に仰け反った。

 

 

「びっくりするじゃねえか。って、おまえ大丈夫か、顔が真っ青だぜ」

 

「早く連れて帰ってくれ」

 

 

 僕は夢中で主の腕をつかむ。

 

 

「待てよ。落ち着けって」

 

「清光に会わなくては!」

 

「わかった。わかったから落ち着くんだ」

 

 

 僕は主の腕を、室内に無理やり引っ張る。

 

 

「安定!!」

 

 

 ぴしゃりと頬を叩かれたのかと思った。主の凄まじい怒号が、僕の焦燥を打ち破る。僕は呼吸が止まって、主の顔をまじまじと見つめた。

 

 

「このダンボール箱は?」

 

「えっ……」

 

 

 窓際に積まれたダンボールを見遣る。

 

 

「持って、帰る。大事なものなんだ。ずっと僕を助けてくれた」

 

「そうか……けど全部はムリだな」

 

「どうして!?」

 

「俺とおまえが触れたものだけしか持って帰れないんだ」

 

「じゃあ、すべての箱を抱きしめる。主も協力してくれ。体の一部が少しでも触れてたらいいんだよね」

 

「そうだけど……」

 

「頼む。これがないと僕は……」

 

 

 主が静かに息を吐く。

 

 

「本丸には清光がいるんだぜ。ぬいぐるみじゃない、本物の」

 

「関係ない! これも大事な清光だ。頼む」

 

 

 僕は頭を下げた。目を閉じて、深く祈る。

 

 

「わかったから顔を上げてくれ。まったく。こんなの前代未聞だぜ。和泉守兼定の、お気に入りの女を連れて帰りたいってのよりはマシだがな」

 

「ごめん……」

 

「しょうがねえな、そんなに大事なものなら。さて、手も足も全力で伸ばすか」

 

 

 声を出したら泣いてしまいそうで、強くうなずく。縦二列に高く積み上げられたダンボールに、主と分担して手の指先からつま先まで思いっきり伸ばした。

 

 

 僕のぶんは、どうにかすべてのダンボールに触れられた。主のほうはどうだろう。訊きたいけど声が出ない。喉もとに熱い塊が詰まって苦しい。主が手のひらを差し出してきた。巾着袋に自分の手を重ねる。

 

 

「行くぜ!」

 

 

 主の声がして、たちまち僕は光に包まれた。あまりにも眩しくて、目を閉じる。清光はどんな思いでこの光の中に身をおいていたんだろう。考えれば考えるほど、胸の痛みが全身に響く。息が、できない。

 

 

「おい、安定。おい」

 

 

 気づくと肩を揺さぶられていた。僕は必死になって酸素を取り込む。あえぎながら見回すと、見慣れた本丸の主の部屋にいた。

 

 

 戻って、きたのか。

 

 

「清、みつは」

 

「行く前に声をかけたけど、部屋に閉じこもったままだ」

 

 

 自然とうつむいてしまう。わかってたことじゃないか。僕はもう嫌われてる。だけど清光と話したい。あいつが僕を嫌いでも僕は……。

 

 

 長い廊下を走って、自分の部屋を通り過ぎ、清光の部屋で足を止めた。苦しくて、はぁ、はぁと肩で息をする。

 

 

 呼吸が整わないまま、いつものように障子に手をかけた。だけど、手が震えて、力が入らない。それとも障子が重くなったのか。どちらにせよ自ら開けることは叶わなかった。

 

 

「清光。開けてくれ。話があるんだ」

 

 

 緊張に打ち震えながら、じっと返事を待つ。だけど、室内からはなにも聞こえてこない。清光の気配はひしひしと感じるのに。中で息を殺しているんだろう。

 

 

「清光!」

 

「……少し、ひとりにしてくれ」

 

 

 沈んだ声音だった。いっそ怒鳴られたほうが楽なのかもしれなかった。逃げたい気持ちもある。だけど、僕があきらめたら、すべてが終わってしまう。

 



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13話

 僕は障子の前に座り込んで、澄んだ空気に身を浸す。僕にとって三ヶ月は永遠とも思えるほどに長いものだった。清光に会いたくてたまらなくなって、だけど、本丸に帰ってもまだ会えない……。僕が以前とは変わってしまったのだから、これまでのようにはいかないんだろうな。

 

 

 やがて陽が落ち、夜が訪れた。膝を抱えて身を縮める。まだあの部屋にいるみたいな錯覚に陥ってしまう。希望などひとつもない。内側から欝々とした感情が皮膚を打ち破り、羽を広げて、優しく僕を包み込む。僕は哀しみに打ちひしがれて、どろりとした痛みそのものになる。そうして内なる闇と一体となって……。

 

 

 勢いよく障子が開いて、僕は振り返った。清光が踏み出そうとした足を引っ込める。

 

 

「うわっ、まさかあれからずっといたのか?」

 

 

 僕は立ち上がって、清光と同じ目線になる。

 

 

「話がしたいんだ」

 

「なんだよ、その顔色。病気か?」

 

「寝不足なだけだ。それより話を――」

 

「それ、聞かなきゃダメか? 真面目な話、苦手なんだよなぁ」

 

 

 僕は清光の腕をつかむ。

 

 

「聞いてほしい。ちゃんと説明したいんだ」

 

 

 清光が真剣な眼差しを向けてくる。先を促されているような気がして、僕は思いきって口を開いた。

 

 

「あ、あの日。主の部屋で見たもの、覚えてるよな」

 

「……ああ」

 

 

 清光が気まずそうに視線をそらした。

 

 

「僕のこと、気持ち悪いって思ったよな。ほんと気持ち悪いよな……」

 

 

 清光はなにも言わない。

 

 

 痛いほどの胸の高鳴りが頭の中まで支配して、僕はおかしくなりそうだった。どうにかして落ち着こうと、大きく息を吐く。

 

 

「離れてみてわかったんだ。自分が思ってるより、清光が大事な存在なんだって。ほかの人を応援してみたけど、ダメなんだ。僕が応援したいのは、幸せになってもらいたいのは清光なんだ。清光の笑顔が、一番見たい」

 

 

 どうにか、一息に言い終えた。手が、足が、全身が震えて、立っているのがやっとだ。清光は、うつむいたきり微動だにしない。僕を拒んでいるんだとわかった。優しい奴だから、はっきり言葉にできないんだろう。

 

 

「ごめんな。不快な思いをさせて」

 

 

 僕は清光に背を向けた。月明りは僕を照らしてはくれない。冷やりとした悲しみの羽が僕を優しく包み込み、闇へと誘う。僕はしずしずと廊下を歩き、一歩踏み出すごとに人としての形を失っていく。

 

 

「可愛い笑顔の俺、あるか?」

 

「え?」

 

 

 僕は振り返って、まばゆい光に目を細める。うまく質問の意味が呑み込めず、硬直してしまう。

 

 

「どうなんだよ」

 

「あ……あるよ」

 

「見せてみろ」

 

 

 清光が――僕の想い人が歩み寄ってきて、僕の心臓が早鐘を打ちはじめる。哀しみの羽が閉じて、僕の内側から生命が満ち溢れる。突然のことで呼吸もままならない。

 

 

「気持ち、悪くないのか?」

 

 

 目の前で立ち止まった清光を、おそるおそる見上げる。

 

 

「主の部屋に行ったとき、びっくりして、どうしていいかわからなくなった。あのときはごめん。俺が安定に会いにいったのは、淋しかったからだ。おまえは物で淋しさを埋めたんだろ。そりゃそうだよな。誰も知らない時代にひとりで行くんだ。仲間に会いたくもなる。だから気持ち悪いとは思ってないよ。俺も、おまえに会いたかったからな。ただ、どういう顔をして会えばいいのかわからなかっただけだ」

 

「ごめ……」

 

 

 涙が溢れてくる。

 

 

「らしくねえなー、ったく」

 

 

 清光が肩を優しく叩いてきた。

 

 

「ほらっ、ご飯行くぞ。俺、腹減っちゃってさー」

 

 

 僕は促されるままに歩く。

 

 

 もうずっと長い間、僕のことを愛してくれる人を探してた。どうして、いままで気づかなかったんだろう。ここにいたのに。きっと相手が女性だという狭い考えに囚われていたせいだ。愛の種類はひとつじゃない。清光は、僕を愛してくれる大事な友だ。それはきっと、僕とは違う愛。いまはそれでいい。嫌われることの恐怖はイヤというほど味わった。僕にはまだ真実を告げる勇気がない。

 

 

「食べ終わったら、笑顔見てやろうか」

 

「ああ、いいぜ。前よりは可愛く作れるようになった気がするんだよな。けど、やっぱりまだいまいちだなー」

 

「練習、つきあうよ」

 

「おうっ!」

 

 

 

 

 

 

 部屋の隅で積み上げられたダンボールが、眩しい朝陽に照らされて煌めいていた。三ヶ月ぶりの自室の懐かしい光景に、僕は布団の中で感慨に浸っていた。本当に帰ってきたんだな。いつでも清光に会える、あの煌めいた微笑みに。

 

 

「おはよう!」

 

 

 唐突に開いた障子から、清光の顔が飛び込んできた。僕は慌てて布団もろとも跳ね起きた。

 

 

「清光!!」

 

「なんだ、まだ寝てたのか。ああ、そういや昨夜、顔色が悪かったんだったな。大丈夫か?」

 

「よく眠れたから大丈夫だよ。なにせ久しぶりの自分の布団だからね」

 

「おっ、肌が艶々してるな」

 

 

 間近にぐっと顔が迫ってきて、僕の心臓がうるさいくらいに羞恥を訴える。

 

 

「そ、そそそそそうかな。いつもと変わらないよ」

 

「なにどもってるんだよ。まだ寝てたほうがいいんじゃないか?」

 

 

 肩をつかまれ、布団に押しつけられて、真上からの清光の顔に僕の全身が強張る。深い紅色の瞳に、吸い込まれるように惹きつけられて逃げられない。僕が顔から火が出る思いでじっと見つめているからか、清光もなかなか視線が外せないでいるみたいだ。そのうちに胸の痛みに襲われた。こんなに近くいる……僕の想いが届けばいいのに。

 

 

 押さえつけたその腕に触れようとして、その手に気がついた清光が、僕からぱっと離れた。不自然な素振りでダンボールのほうへ視線を向ける。

 

 

「そういやぬいぐるみを見せてもらいたかったんだった。あれ、ぬいぐるみっていうんだってな」

 

「あ、うん。ちょっと待って」

 

「寝てろよ。俺がやるから」

 

 

 起き上がろうとする僕を、今度は口頭で制止する。

 

 

「病気じゃないから大丈夫だよ」

 

 

 ダンボールの中でひしめきあう清光たちの一番上から、僕はとっておきのぬいぐるみを手に取った。はじめてゲームセンターで入手した極上の笑顔をした清光だ。

 

 

 清光は瞳を輝かせて、まじまじとぬいぐるみを凝視した。

 

 

「おおっ! 俺の求めてる笑顔だ! これができれば最高なんだけどなぁ」

 

「あげるよ」

 

「いいのか? 助かるぜ」

 

 

 清光になら僕の大切なものをあげられる。大事にしてくれるだろうから。

 

 

「安定がいないとき、お手本にするよ」

 

 

 僕がいないとき……? 僕はここにいる。帰ってきたんだ。清光のそばに……。

 

 

 開いた自分の手のひらから、畳へ、それから清光に視線を移した。ぬいぐるみを真似て口角を上げる清光に、僕の口が自然とほころぶ。そうだ、ここにいる。

 

 

 朝食をすませてから清光の部屋にお邪魔した。やっぱりこの部屋は居心地がいい。清光の匂いがする。

 

 

「なあ聞いてるか、安定?」

 

 

 口を真横に伸ばしたまま、こっちを振り向いた。

 

 

「ごめん。いいと思うよ。どうして主は可愛いって言ってくれないんだろう。不思議でたまらないよ」

 

 

 こんなに輝いてるのに。

 

 

「主はあれでいいんだ……だから俺はがんばれる。もっと特別な笑顔を得るために。主のためのとびっきりのやつだぜ。ほかの刀剣には真似できない俺だけが生み出せる笑顔だ。まぁ、まだ会得できてないんだけどなっ」

 

 

 照れたように微笑する清光に、もやりとした黒雲が胸の中で立ち込めるのを僕は感じた。複雑な思いで、再び鏡に向かう清光を見遣る。

 

 

 清光が主に可愛いって言ってもらえるためにがんばるなら、僕は応援する。だって、優じゃなかったんだ。ほかの誰でもない、清光でなくてはいけない。

 

 

「主に成果を見てもらおぜ。安定がいるから百人力だもんな。頼りしてるぜ」

 

「まかせてよ」

 

 

 主の部屋に近づくにつれ、何やら騒がしい声が廊下にまで漏れ出てきていた。

 

 

「ケンカか?」

 

 

 走りだした清光のあとを追うと、室内では和泉守兼定さんと主が言い争っていた。というよりは、兼定さんが一方的に攻めてるみたいだ。必死に仲裁に入る堀川国広の姿が痛ましい。

 

 

「兼さん落ち着いて!」

 

「だってよ、あんまりじゃねえか。俺は駄目で、なんで安定には許すんだ」

 

「えっ、僕!?」

 

 

 思わず声を上げてから、しまったと思った。兼定さんの刺々しい視線が僕をひたと見捉えた。まるで敵だとみなしているような鋭利さに、僕はわけがわからないながらも後退りそうになる。

 

 

 突然、僕の前に清光の背中が躍り出てきて、一瞬にして胸が熱くなった。

 

 

「説明しろよ。こっちは事情がわからないってのに、なんだよその目つき」

 

「ダンボールを抱えて戻ってきたって? 俺はひとりも連れ帰れなかったんだぜ。あんまりじゃねえか」

 

「兼定は女だろ。人間を違う時代に連れて来られるわけがないじゃないか」

 

 

 主が、兼定さんと清光の間に割って入った。

 

 

「主はここにいるじゃないか」

 

「俺は審判者だぜ。ほかの人間とは立場が違う」

 

「物なら許されるっていうなら、俺の女の写真だけでももらってきてくれ」

 

「俺がか!? 女は苦手なんだよなぁ。なんにせよ、次の機会まで待ってもらうしかないな」

 

「またあの時代に行かなくてはいけないのか!?」

 

 

 僕は絶望に震える声を張り上げる。

 

 

「いや、希望者だけの予定だ。日本号もまた行かせてくれってしつこくてな。またいろんな酒を飲んでみたいらしい」

 

「それまで待てるわけないだろ。いったい何年先の話をしてるんだ」

 

 

 主に食ってかかる兼定さんを、国広が体を張って押しとどめる。

 

 

「次の刀剣に頼んだらいいんじゃないかな」

 

「主、次は誰だ?」

 

「明石国行だ」

 

 

 その名前を聞いた途端、兼定さんが天井を仰ぐ。

 

 

「あいつかぁ。部屋から一歩も出ないんじゃないか」

 

「頼むだけ頼んでみようよ、ね、兼さん」

 

「それしかないか」

 

 

 ふたりが出ていくと、部屋はずいぶん穏やかになった。だけどあくまでも表面だけで、僕の心は依然としてざわついていた。清光と主が共にいることが耐えられなかった。三ヶ月前には生まれなかった感情だけに、いまの状態がよいことなのか僕にはわからなかった。清光への想いを後悔してるわけじゃない。ただこの悶えるような胸の痛みから逃げたかった。清光の近くにいるだけで幸せなはずなのに、僕は身勝手だ。

 

 

「やっと静かになったな」

 

 

 ふぅっと主の隣に、清光が腰を下ろす。僕は足がすくんで、ふたりに近づけなかった。透明な分厚い壁がふたりと僕の間に立ちはだかって、あちら側の空間を、侵してはいけない領域のように感じた。

 

 

 清光が楽しげに主に語りかける内容を、僕はちっとも理解できずにいた。耳に入ってきても、把握する前に逃げていってしまう。その代わりに、とてつもなく膨らんだもやりとした思いが、僕をしっかりと捕らえて離さなかった。僕は眩暈がして、廊下と部屋とを隔てる柱にもたれかかった。

 

 

 ふたりの会話の洪水を聞き流していると、唐突に清光が僕の前を通り過ぎていった。

 

 

「どうしたんだ」

 



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14話

 気落ちしたような背中が清光の部屋に飛び込んだかと思うと、へたりと畳に崩れ落ちた。それだけで失敗したんだとわかった。その下がった肩に、僕はいたわりの思いを込めて手を置いた。清光のほしいものと僕の想いとでは種類が異なるけど、手に入れられない気持ちは痛いほど理解できた。

 

 

「全然手ごたえがない……」

 

「だからいいんだって言ってただろ?」

 

 

 畳の上にだらりと置いた清光の手を見つめていたら哀しみが募ってきて、自分の手に力が入る。

 

 

「もしかしたら、俺が可愛いを目指すこと自体が間違ってるんじゃないか」

 

「いまのは聞かなかったことにするよ」清光は努力せずとも十分にいい笑顔をしてる。だけど、いくら僕がそう思っていても清光は満足しない。だから……「僕にまかせて。百人力どころじゃなく、千人力にだってなってやる」

 

 

 ぐっとつかんだままだったせいで肩が痛んだのか、僕を見上げる清光の双眸は苦痛と驚愕が混在していた。

 

 

「ほんとか……?」

 

「僕はいつでも清光の味方だ。いままでも、これから先もずっとだ。疑う理由なんかないじゃないか」

 

 

 希望を込めたように力強く重ねてきた手と僕の手が、それぞれの想いと共に熱く燃え上がる。

 

 

 僕は、清光の応援に明け暮れた。鏡と向き合う彼に、ときには優しく、ときには厳しく助言し、彼のがんばりに寄り添った。鏡をのぞく彼の後ろで、僕も一緒に口角を上げた。実際に体験すれば気づくことが増えるんじゃないかと思った。

 

 

「にーっ!」

 

 

 ふたりで声を揃えて、口を横に広げる。清光が指を口の端に入れて思いきり引っ張った。

 

 

「痛っ」

 

「無理やりやっても意味ないよ。主の前では指なんか突っ込まないんだから」

 

「口が大きくなれば、めっちゃ横に広がるだろ? そのぶん楽しそうに見えないか?」

 

「そういう問題じゃないような気がする……」

 

 

 この煮詰まった状況を打開したいのはわかる。だけど、顔を変形することが正解だとは思えない。清光は清光のままでいい。じゃあ、なにが足りないんだ。

 

 

 鏡台の傍らに横たわるぬいぐるみに手を伸ばす。とびっきりの笑顔をしたまま硬直するその清光と視線を交わしながら、どうやったらこの笑顔を超えられるんだろうと考えた。

 

 

「ぬいぐるみにはできなくて、清光にはできること……」

 

「なんだ?」

 

 

 僕はぶつぶつと呪文のように唱えて、答えはないかと思考の奥を探った。ぬいぐるみの張りついたような笑みが相も変わらずそこにあって、同じような生身の清光の表情とぴたりと符合した。

 

 

「……わかった、かもしれない」

 

「ほんとか!?」

 

 

 身を乗り出してくる喜んだ形相の清光に、僕は「それだよ」と笑いかけた。

 

 

「どういうことだよ?」

 

「作られたものだからだよ。いままで笑顔になろうって意識しすぎてたよね。だから自然な笑顔にならないんだよ。それができなくても、もっと心からうれしそうにすれば感情が笑顔に表れるんじゃないかな」

 

「作られた、か。もしかしたら、俺がずっと納得できないのはそれが原因かもな」

 

 

 清光は鏡に映った自分の顔をじっと睨みつけた。どうしたんだろうと思っていると、ふいにニッと笑った。さっきまでよりも生き生きとした表情だった。まるで人形に魂が吹き込まれたかのような満面の笑みに、僕は全身がぞくぞくするのを感じた。心の奥底で強烈な恋慕がほとばしる。あっという間に体が火照ってきて、僕は強く強く胸を押さえ込んだ。そうしなければ熱い想いが溢れ出てしまう。

 

 

「どうだ?」

 

 

 鏡越しに問われて、想いごと心臓が跳ね上がる。

 

 

「か、完璧だよ! やったじゃないか、これで主もイチコロだよ!」

 

「ほんとか!? さっそく行ってくる!」

 

 

 嬉々として部屋を出ていく清光を見送って、僕はひとり取り残された。イチコロだと? 主が清光をすきになるはずはない。主にとって僕たちは一刀剣だ。大丈夫、心配ない。だけど、もしそうなったら……。

 

 

 不安に溺れそうになる思考を、必死に打ち消した。畳に横たわる清光のぬいぐみをぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。

 

 

 いてもたってもいられなくなって、部屋を飛び出した。長い廊下にはすでに清光の姿はなく、僕は彼の亡霊を追いかけるようにして先を急いだ。いまにも踊り出しそうな背中がすぐ前に見えるようで、主の部屋に近づくにつれ胸がぎゅっと締めつけられた。

 

 

 僕が決めたことだ。自分で応援するって決めたんだ。後悔なんかしない。してたまるもんか!

 主の部屋から清光の弾けるような笑い声が聞こえて、途端に僕の足が重くなった。いまにも床板に沈み込みそうになり、足がいうことをきかない。泥沼にはまってしまったような足を、僕は必死に持ち上げた。一歩ずつ、着実に進める。

 

 

 部屋では、清光がとびっきりの笑顔を惜しげもなくまき散らしていた。だけど、それはぬいぐるみと同じ表情で、息を切らせて廊下に立つ僕を泣きそうな眼差しで見上げてきた。そんな目をされたら見過ごすことなんかできないじゃないか。自分の痛みより、清光が悲しいことのほうが痛くてたまらなくなって、あっという間に気持ちが上塗りされてしまう。

 

 

 僕はふぅっと深く息を吐いた。もう一歩も動けそうになくて、床板に座り込む。主が不思議そうに首を傾げた。

 

 

「こっちに来いよ」

 

「陽射しが気持ちいいからここで。そんなことより、さっきはごめん。僕のせいで兼定さんに責められてしまって。あの箱は、僕が無理を言って持って帰ってきたのに」

 

「許したのはオレだ。気にするな」

 

「主の時代には、なんで俺のぬいぐるみがあるんだ?」

 

「それは行ってからのお楽しみだな。実際に確かめたほうが驚きもひとしおだからな」

 

「僕も主に賛成だ。あの感情は直に味わうべきだよ。それも主の時代での洗礼みたいなものだ」

 

「なんだよ、余計知りたくなってきたじゃないか!」清光の瞳が生き生きと輝きを放ちはじめ、ずいっと主のほうへ身を乗り出した。「前みたいに主の時代に行こうぜ! ちょっとでいいからさ、なぁ頼むよ」

 

「もうダメだ。あれもほんとは許したらいけないことだったんだぞ。清光がどうしてもって言うからあのときは許可したけど。国広も行きたがってたのに突っぱねたんだからな」

 

 

 そうだったのか、と思うのと同時に、あの日絶望した感情が少しだけ軽くなった。清光のことだから、主にしつこくしたんだろうな。そう思うと、自然と頬が緩んでくる。

 

 

 視線に気づいて伏せていたまつ毛を持ち上げると、そこには清光の満面の笑みがあった。さっき襲ってきたのと同種のどくんっと脈打つ鼓動が、僕の全身を心臓に変えてしまう。

 

 

「おまえなー、いま怒られてるんだぞ。そんなに可愛いらしく笑ってもダメなもんはダメだからな!」

 

「いまなんて!?」

 

 

 清光の手が、主の肩をつかむ。

 

 

「だからダメなもんはダメだ!」

 

「その前!」

 

「その前って? オレなんか言ったか?」

 

 

 顎に手を当てて悩ましそうに眉根を寄せる主の所作は、芝居ではなく本当にわかっていないようだった。

 

 

「なんで忘れるんだよ、数秒前のことだぜ!」勢い込んで、今度は僕のほうに顔を向けた。「安定は聞いたよな! 俺の幻聴じゃないよな!」

 

「ちゃんと聞いたよ。おめでとう、清光!」

 

「安定のおかげだ。やっぱり千人力だったな」

 

 

 興奮気味の、上気を伴なう笑顔がこの上なく眩しくて、応援を続けてよかったと心から思った。

 



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15話

 大広間で、僕が朝食の焼き魚をゆっくり口に運ぶ間に、隣の清光は慌てたように味噌汁を飲み込み、白飯をかき込んでいた。相変わらずの光景に、僕はもうすっかり慣れてしまった。そそくさと主の横に座り込み、談笑をはじめるのがお決まりのパターンだ。

 

 

 僕はいつでも清光のそばにいたいのだけど、この時間だけは隣に座っていても、あっという間に逃げられてしまう。そのたびに切なくなるけど仕方のないことだ。

 

 

 僕は清光のほうへ、しきりに目を遣りながら時間をかけて咀嚼する。食事中の主と清光との談笑は、すでに当たり前の光景となっていた。おしんこに齧りつこうとする主が箸を止めて、スッと清光に差し出した。それをうれしそうに頬張る清光に、僕は苦しくなった。

 

 

 それでも遠くから見ているだけでいいと思うのは、バカげているだろうか。告白もせずに、いまは一緒にいられるだけでいいと思うのは甘えなのだろうか。あれほど優をたきつけておきながら、僕は臆病で、恋愛成就につながる行動はひとつもできていない。できないと言ったほうが正しいかもしれない。

 

 

 怖いんだ。もうあのときのような思いは味わいたくない。主の部屋で清光に拒絶されたあのときの……。あの状況はごまかせても、告白となると話が違う。ごまかしとは無縁の類のものなのだから。

 

 

 どうやら僕は、清光の真の笑顔を目の当たりにしてから、よりいっそう想いが強くなったみたいだ。眠っているときでさえ、胸の痛みが止まらない。いったい、この想いはどこまで募るのだろう。

 

 

 清光の部屋に主が入ったのを確認すると、僕は踵を返した。

 

 

「はぁ……」

 

 

 近ごろ、ふたりはどちらかの部屋に入り浸ることが多くなっていた。障子をぴしゃりと閉じているため、室内でなにをしているのか謎に包まれていた。

 

 

 だけど、本当はそんなこと謎でもなんでもない。清光と主はそういうことになったのだろう。だからほかの刀剣に知られては困るんだ。

 

 

 すでに関係を怪しんでいる刀剣は僕だけではないと思う。だけど、確信しているのは僕ひとりのはずだ。あの笑顔の件があってから、こんなふうに変わったからだ。

 

 

 自室の畳に座り込んで、今日はどっちから誘ったんだろう、と答えの出ない問いを幾度も考えた。意味などなかった。頭の中でぐるぐると自動的に繰り返されて、気持ちがどんよりとした深い渦に呑み込まれていく。

 

 

 あれから一度も笑顔の練習はしていなかった。目的が達成されたのだから、僕の応援はもういらないということなのだろう。

 

 

 厠の帰りに、廊下の向こうから清光がやってくるのに気づいて、僕は駆け出すのと同時に「清光!」と声を張り上げた。接近してくるまで待ってはいられない。

 

 

「あっ、悪い。部屋に忘れものしたみいだ」

 

 

 血相を変えて引き返す背中を、僕は足を止めて見送った。

 

 

「嘘だ……」

 

 

 相手が僕だとわかってから、明らかに視線が泳いだ、顔が引きつった、声がうわずった。

 

 

「清光ーー!!」

 

 

 わけのわからない渦巻いた感情が一気に溢れてきて、気がついたら叫んでいた。僕のなにがいけなかったんだ。どうして避けるんだよ。

 

 

 自室に駆け込んですぐに、ダンボールをひっくり返した。猫の着ぐるみ姿の清光を、離れていかないようにきつく抱きしめる。

 

 

「笑ってよ、清光。僕だけのために」

 

 

 ぼんやりと霞がかかった頭を持ち上げると、畳に散らばった丸まった清光のポスターが目に入った。破れた箇所がセロハンテープでつなぎ合わせてあるそれを、僕は持ち帰ってきた画鋲で板壁に貼りつけた。

 

 

 清光の笑顔ですべての壁が埋まると、今度は布団に着手した。シーツやカバー、それに枕が僕だけの清光に変わっていく。この部屋に抱き枕が存在しないのが無念で仕方がなかった。

 

 

 厳選したぬいぐみたちを壁際と枕もとに並べ終えてから、布団に寝ころんで枕を抱きしめた。室内の至るところに清光がいて、思わず頬がほころぶ。

 

 

「僕だけの清光だ」

 

 

 夕食の時間になっても、ずっと動けずにいた。この部屋から一歩も出たくなかった。どんな顔をして清光の隣に座ればいいのかわからなかったし、それ以上に清光が視界に入っただけでまた叫んでしまうかもしれない。

 

 

 にわかに廊下が騒々しくなり、障子に映る行き過ぎる刀剣たちの影をぼんやりと眺めた。食事を終えて、大広間から思い思いの場所に向かうところだろう。思い出したようにお腹の虫が騒ぎ出した。清光はいつも遅くまで主と話してるから、まだいるだろうな。

 

 

 ため息と共に、天井を仰いだ。お腹をゆっくりとさすっては、ため息が漏れた。

 

 

「うわっ!」

 

 

 誰かのうわずった声がして目を開けた。いつのまにか眠っていたようで、やけに頭が重かった。

 

 

 開いた障子の向こうで、五虎退が引きつった表情で部屋を見回していた。彼の頭上に広がる空が、この世の終わりを告げるようにくれない色に染まっていた。

 

 

「あの……」

 

 

 言い淀む五虎退の横から、移動する背の高い影が障子に映る。

 

 

「閉めろ!」

 

「は、はいっ!!」

 

 

 ぴしゃりと閉まる威勢のよい音が、ひどく硬く聞こえた。僕の眉間に、険しいしわが寄っているのを感じた。

 

 

 何事だと訊ねる日本号の懸念に満ちた声がして、僕の全身が痛いくらいに強張った。じっと息を潜めて、呼吸が乱れないようにと努めた。僕の声を聞いただろうから、室内にいることは知られている。それでもこうして、いまが過ぎ去ってくれるのを待つ以外に方法はなかった。清光でなくてもこの部屋を見られるわけにはいかない。僕は障子の外の様子を、五感を駆使して感じ取ろうとしていた。

 

 

「大丈夫です……勝手に開けちゃったから、怒られちゃって」

 

「声をかけなかったのか?」

 

「えっと、眠ってたみたいだから聞こえてなかったのかも」

 

「そりゃあ災難だったな。だが、言い方ってもんがあるだろ。よし、俺が一言言ってやる」

 

 

 日本号の長い腕が障子に伸び、いまにも開けようとするその手を、五虎退の影がつかんだ。

 

 

「僕が悪かったんです! だからケンカしないで」

 

 

 日本号がゆらりとしゃがみ込み、大きな手が頭に置かれた。

 

 

「ケンカなんかしねえよ。ただ注意するだけだ」

 

「少しでも険悪な空気になったら、僕は日本号さんとケンカします!」

 

 

 虎の尖った鳴き声が加勢する。

 

 

「なんだよ。わかったよ」

 

 

 日本号の影が再び縦に長く伸び、障子を横に移動していく。たちまち消えてなくなると、部屋の前にはうつむき加減の五虎退の影の形だけが残った。重い気持ちを引きずりながらも、僕は少なからず安堵していた。

 

 

「あの……開けても、いいですか?」

 

 

 おずおずとした口調に、僕はごくりと唾を飲み込む。またあの引きつった顔を見なくてはいけないのかと思うと、嫌でたまらなかった。だけど、五虎退にはすでにこの有り様を知られてしまったし、日本号から助けてももらった。僕は覚悟を決めて、うつむいたままの五虎退に目を移す。

 

 

「入って、すぐに障子を閉めて」

 

 

 五虎退の小さな頭が臆病そうに縦に動いて、音もなく障子が開いた。思いつめたように唇を引き結び、腕に抱いた虎も心なしか深刻そうな黄金色の双眸を僕に向けている。後ろ手に障子が閉じられる間、僕は虎から視線が外せずにいた。

 

 

「ごめん、さっきは怒鳴って」

 

「いいんです……」

 

 

 変わらずうつむいた五虎退の顔を、今度は心配そうな思いを目に宿して虎が見上げた。もしかしたらこの部屋を見たくないから、顔を上げられないのだろうかと僕は思った。

 

 

「このことは内密にしてほしい」

 

「わかってます、誰にも言いません……」

 

 

 しばし重苦しい沈黙の抑圧を感じて、僕は浅い呼吸を繰り返した。

 

 

「あの……燭台切さんが、夕食はどうするのかって」

 

「清光は、いる?」

 

「え?」

 

「大広間に……」

 

「どうだったかな。片付けに忙しくて」

 

 

 僕が押し黙ると、「見てきます」と五虎退が膝立ちになった。

 

 

「一緒に行くよ」

 

 

 廊下では、しっかりと前を見据える五虎退と異なり、今度は僕が下を向いてばかりいた。清光がその辺りにいないかと気が気じゃなかった。主と一緒にいる姿なんか見たくない。ふいに見上げた虎の深刻そうな視線とぶつかった。五虎退はとっくに何事もなかったような顔つきに戻っている。それじゃあ……。

 

 

 僕は虎の頭を優しく撫でた。そうせずにはいられない清光を想う痛みとは別の、やわらかな痛みが襲ってきたからだ。

 

 

「明日から……隣で食べてもいいか?」

 

 

 はじめ驚いたような顔をしたが、すぐににこやかに微笑んだ。

 

 

「今夜からです。僕もいまからだから」

 

 

 そういえば食事当番はあとからだった。

 



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16話

 大広間には清光の姿はすでになく、食事当番だけがまとまって座っていた。僕も膳の前に腰を下ろし、野菜と炒めた鹿肉に箸をつける。獣臭のする硬い肉を噛みながら、また獅子王が狩りに出かけたのか、とぼんやり思った。

 

 

 遅れた謝意を込めて後片付けを手伝う。大量に積み重ねられた皿を洗い、水を絞った布巾で膳をきれいに拭いていく。胸は痛みに疼いたままだったけど、こうして体を動かしていると、少しだけ清光のことを忘れられた。

 

 

 酷使した手首のあたりを揉みほぐしながら部屋の障子を開けると、ばっと僕の清光が目に飛び込んできた。途端に、ずっと抑え込んでいた胸の痛みが膨れ上がった。

 

 

 もう前みたいに、ただいまとは言えない。清光への想いは同じはずなのに、状況が変わってしまった。こんなに近くにいるのに、まだあの時代にいるみたいに感じる。あのころは本物の清光に会いたくてたまらなかったのに。

 

 

 僕は清光と遭遇しないように注意深く日々を過ごした。とはいえ、ほとんど主か清光の部屋にふたりで入り浸っていて、見かけることはなかった。

 

 

 僕は、自分の部屋を時代の違う主の部屋だという錯覚に陥りながら、心が求めるままに猫の着ぐるみ姿の清光を抱きしめたり、眺めたりしていた。

 

 

 ずっと胸のあたりが疼いていた。途切れることなく、僕を苦しめた。偽物の清光でもいいと思っているのに、心の奥底では違うと訴えていた。その狭間で僕は悶えるように呼吸をし、自分自身の理想と現実の中にひっそりと棲みついた。

 

 

 食事当番の入浴が終わるのを見計らったので、脱衣所には誰の姿もなかった。一日の最後は彼らだと決まっていたけど、毎夜、僕が仕舞い湯をもらっていた。

 

 

 唐突に木造の引き戸が開き、とっさに棚の陰に屈み込んだ。ひたひたと濡れた足音が床板をきしませ、僕はそろりと木枠から顔を出した。

 

 

「ひゃっ!!」

 

 

 慌てたように、五虎退がタオルで体を隠す。露わになったままの肩や腕から湯気が立ち上っている。

 

 

「ごめん、びっくりさせて」

 

 

 彼の足もとで、ぶるりと全身から水分を飛ばす虎を、僕は撫でてやる。

 

 

「あっ、お風呂まだだったんですね。虎くんは浴槽の外で洗ったので大丈夫です」

 

「わかってる」

 

 

 いつまでも恥ずかしそうにタオルで胸もとを覆っているので、僕は自分の棚に戻って服を脱ぎはじめた。

 

 

「風邪ひかないように、ちゃんと拭くんだよ」

 

「はーい」

 

 

 虎に何事かを話しかける声を聞きながら、僕は浴場に足を踏み入れた。素肌にまとわりつく湯気と熱気に多少の息苦しさを感じる中、体を洗い湯船に浸かった。まだ十分に温かいけど、すぐにぬるくなるだろう。五虎退で最後のようだから、風呂当番は仕事を終わらせたはずだ。

 

 

 そうはいっても、絡みつくお湯が気持ちよくて、僕はまどろみに落ちてしまっていた。

 

 

「会いたい……」

 

 

 唐突につぶやいた自分の声で我に返る。結局、どこでなにをしていても考えるのはひとつで、この胸の痛みさえも清光が僕を縛りつける。

 

 

 バカみたいだ……願ったところで、清光はもうほかの人のものになってしまった。

 

 

 あっという間に冷えていく体温に肌寒さを感じながら、僕は全身にまとわりつく水分を清光のバスタオルに吸い込ませた。

 

 

 ふいに脱衣所の外で物音がした。五虎退が忘れものでもしたのかと思い、それほど気に留めなかった。

 

 

「こんな時間に誰が――」

 

 

 清光の声に、僕の身が強張る。廊下から顔をのぞかせた清光の絶句した形相が、僕の胸を深々とえぐる。ふたつの驚愕に満ちた目が、僕の手にしたバスタオルに釘づけになっていた。思うように体が動かないせいで、隠したくてもできなかった。本当はすぐにでも清光の視界から消してしまいたい。僕の存在もなくなってしまえばいい。

 

 

 顔を引きつらせて去ってゆく清光を、僕は黙って見送ることしかできなかった。途端に、全身の力が抜けて僕はその場にくずおれた。呼吸ができなくなるほど胸が苦しくなって、堪えきれずに嗚咽が漏れた。いっそ僕を殺してくれ。

 

 

 もういい。もう終わりだ、なにもかも終わらせてやる!

 僕は、清光の部屋の前で立ち止まる。室内から彼のものではない声が微かに聞こえてくる。主だ。夜も遅い時間だというのに、まだふたりは一緒にいるのか。三ヶ月前まで、そこは僕の居場所だったのに。いいよ、もう終わらせるから。優、ごめん。君を散々たきつけておいて、僕は自分の気持ちを殺すために告白するよ。未来のためじゃなく、過去にするために。

 

 

 僕が勢いをつけて障子を開けると、清光が慌ててなにかを背中に隠した。

 

 

「急に開けるなよ!」

 

 

 主との秘め事か。喉からせり上がってくる熱い塊を押し込もうと、必死に歯を食いしばる。

 

 

「オレ、外そうか」

 

 

 腰を浮かす主の腕を、清光が慌ててつかむ。

 

 

「いてくれ」

 

「邪魔者はすぐ消えるよ……清光が主をすきだってことは知ってる。僕はそれでもいいと思ってた。清光が幸せなら僕は……だけど、我慢できないんだ。ふたりが一緒にいるところを見るのは」

 

「おまえ、なに言って――」

 

「だから! もうやめるよ。清光をすきでいるのは。勝手にこんなこと言ってごめん。けど、こうしないと終われないから……」

 

 

 涙が零れそうになって、僕は廊下を走って逃げた。すぐに主の声が追いかけてくる。

 

 

「清光!!」

 

「待って主!!」

 

 

 清光の叫び声に、僕はひとかけらも存在していなかった。部屋に駆け込んだ途端に、床に崩れ落ちた。いいんだ、これで。全身に力が入らなくて、動けない。

 

 

 月明かりに照らされた障子をぼんやり眺めて、頬を濡らした。廊下をずっと辿った先には、あのふたりが一緒にいるんだな。そのことばかりが頭に浮かんでは嗚咽が漏れた。

 

 

 僕は友さえも失ってしまった。愛してほしい人に愛されたいと、そんな贅沢を望んだわけじゃない。それなのに友としての愛情さえ許されないのか。もういい、それこそが望んだことだから。関係を壊してしまわないと耐えられなかった。だからもう、いいんだ。

 



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17話

 清光や主との関係に特別な変化はなかった。相変わらず僕は清光を避けていたし、ふたりが一緒にいる時間が減ることもない。突発的に視界に入るとすぐに追い出して、必死にほかのことを考えた。そうすることで胸の痛みをごまかした。

 

 

 五虎退の一週間の食事当番が終了して、普段どおり、全員が集まる大広間で食事をしなくてはならなくなった。僕は、清光からだいぶん離れて、五虎退と並んで食事をすませた。

 

 

 僕は自室で、中断していた作業を続けた。壁からポスターをはがし、布団カバーを丸めて、壁際に並んだぬいぐるみをダンボールに詰め込む。気持ちを殺したのだから、いつまでも出しておくわけにはいかない。

 

 

 最後のひとつ、猫の着ぐるみ姿のぬいぐるみを手に取った。僕だけのために清光が笑っている。もう二度と見られないんだなと思う。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 無理やりに踏ん切りをつけて、数々の清光の山に置いた。ダンボールの蓋を閉じる。積み上げた数個を持って、馬屋の裏に運んだ。すべてのダンボールが積み重なる中から、まずはひとつだけを地面に置く。

 

 

「いままで、ありがとう」

 

 

 火をつけて距離を取る。燃え盛る炎の中で形を崩していくダンボールを、僕はしっかりと目に焼き付ける。まだ残っている僕の想いも燃え尽くして、すべてが消えてなくなるようにと願う。

 

 

 ほとんどが燃えてしまい、炎が小さくなってきたところで次のダンボールを置いた。残り火が少しずつ燃え移り、大きくなる。

 

 

「その箱どうする気――なにやってるんだよ!」

 

 

 馬屋の角から、清光が血相を変えて駆けてきて、僕の腕を強くつかんだ。びっくりして言葉が出てこずに、僕はただ清光の険しい視線を受け止める。炎に溶けてゆくダンボールに、清光の表情が哀しげに歪む。

 

 

「……なんで……なんで!!」

 

 

 つかまれた腕にさらに力が加わり、僕は痛みに呻く。

 

 

「清光には関係ないだろ。僕がどうしようと勝手じゃないか」

 

「だって、これ俺だろ……?」

 

 

 炎を映した揺れる瞳が、僕の心を惑わす。たまらなくなって目をそらした。

 

 

「もう必要ないから」

 

 

 腕を締めつける力が緩んで、清光の手が僕から離れる。

 

 

「そうだよな、ずっと俺を避けてるしな」

 

「よかったじゃないか、主と……応援した甲斐があったよ」

 

 

 パチパチとたくさんの清光の燃える音が、ふたりの重苦しい静寂に満ちた。いますぐ消えてなくなりたかった。まだ残った気持ちをすべて炎に焦がせたら、どんなにいいだろう。

 

 

 僕は清光の傍らをすり抜けて、次のダンボールを抱えた。火にくべようとしたとき、また清光が腕をつかんだ。

 

 

「そんなに俺が嫌いか?」

 

「離してくれ」

 

「答えろよ」

 

「そんなのどうだっていいだろ!」

 

「よくねえよ!」

 

 

 ダンボールが勢いよく地面に転がる。清光が思いっきり手で払いつけたからだ。

 

 

「なにするんだよ!」

 

 

 気づいたときには、清光の腕の中にいた。僕は、わけがわからなくなって、腕の中から逃れようともがく。絶望に身を焦がしながら天を仰ぐ。

 

 

「早く消してくれ! 全部なかったことにしたいんだ!」

 

「安定!!」

 

「早く殺せえええええ!!」

 

「すきなんだよ!!」

 

 

 息が止まった。なにも考えられなくなって、動けなくなった。だけど、心だけは強烈に痛くて、一秒も耐えられない。

 

 

「やめてくれ……そんなこと、言うな」

 

 

 どこまで僕を傷つければ気がすむんだ。

 

 

 清光がズボンの尻ポケットから取り出したものを、僕に差し出してきた。それは僕によく似たぬいぐるみだった。だけど、市販されているものとは違い、つぎはぎだらけで、ところどころに繕った形跡がある。

 

 

「皆の服から生地をもらって作ったんだ。安定からもらった俺のぬいぐるみを崩して」

 

 

 思うように声が出なくて、代わりに、どうしてそんなことをするのかと目で問うた。

 

 

「安定の笑顔を持っていたいんだ。安定はいつでも俺のが見れるけど、俺はそうじゃない」

 

「主が、すきなんじゃ、ないのか」

 

「そんなこと一言も言ってない」清光はふぅっとため息をついた。「主には盾になってもらってたんだ。安定が近づいてきたら教えてもらって。これが完成したら、気持ちを伝えるって決めてた」

 

「そんなこと、ひどすぎる。あの夜、僕がどんな思いで……」

 

「ごめん。主がばらしてしまうんじゃないかって、怖かったんだ。それに、安定に甘えてた。どんなことがあっても安定は俺を想ってるって」

 

 

 僕はそんなに強くない……。

 

 

 だんだん火が小さくなってきていた。代わりに僕の想いは大きく膨らんでいく。胸が締めつけられて、痛くてたまらない。……想いを止められなくなってしまう。

 

 

「けど、安定はもう……」

 

 

 ほとんど灰と化した跡に、憂いた目を落とす。そっと僕から離れて、馬屋のほうへ背中が遠ざかっていく。行ってしまう、僕の大切な人が。

 

 

 だけど、僕の足は動かなかった。

 

 

 ――機会があるなら飛びつくべきだ。

 

 

 以前、優を叱責した自分の言葉が頭に飛び込んできた。僕は口先だけだ、君を責める資格なんかなかった。自分の気持ちを殺したことといい、偉そうに言い放った言葉とは反対のことをしてきた。優、ごめん。もうやめるよ。

 

 

 僕は泣きそうな熱を抱えて地面を蹴った。

 

 

 しがみつくようにして背中に抱きつく。

 

 

「バカ!! あきらめるなよ!!」

 

 

 思わず出た言葉は、自分を叱咤するものでもあった。そして、かつて優に願ったものだ。清光の背中の温もりよりも、僕の胸のほうが熱い。どんなに想いを叫び尽くしても足りないくらいに。

 

 

「ごめんな、せっかくくれたぬいぐるみ、めちゃくちゃにして。気に入ってたんだろ」

 

 

 清光の真剣な声音が背中から、押しつけた僕の頬に伝わってきた。

 

 

「いいんだ。僕には、もうとびっきりの笑顔があるから」

 



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