あべこべ世界で生きてます~剣と拳と男と女~ (風神莉亜)
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プロローグ~斎藤始はトラックに散った~

男女あべこべ系読んでたら書きたくなった。勢いで書いてます。


「……はっ!」

 

 唐突に目が覚める。ここはどこだ。知らない――ようで知っている。けど知らない、見慣れない天井が目に入る。その不可思議な感覚に何度か目を瞬かせた。

 場所はわかる。ここはとある保護施設の一室だ。()が物心ついた時から、何度も目覚める度に見てきた天井だ。

 しかし、見覚えがない。少なくとも()にはない。俺の部屋の天井は木張りであったはずだ。古き良き日本家屋の畳部屋、その匂いまでもが鮮明に思い出せる。少なくとも、こんな病室じみた部屋ではなかった。

 同時に、これが()の暮らしてきた部屋であるとも認識出来る。安心して眠りにつくことが出来る安住の地。ここには自分のトラウマを刺激する存在は近寄れず、心穏やかに過ごせる理想郷であるのだと。

 

「……あー、もしかして」

 

 後頭部への鈍痛を感じながら、非現実とは思いつつも、この違和感の正体にピッタリの答えがある。

 ()でありながら()の記憶があり、そして()の人格でありながら()の人生を把握しているこの状況。

 

 それはまさに――

 

「俺は――生まれ変わったというのか――!」

 

 誰もいない部屋の中で、俺の声が虚しく轟いた――。

 

 

 

 

 

「なんか、真面目にそうとしか思えなくなってきた」

 

 痛む後頭部を擦りながら呟く。

 あれから少し冷静になり、馬鹿なことと思いつつも生まれ変わり説を検証していく内に、全く馬鹿なこととは言えなくなってしまっていた。

 先ず、この身体。

 真っ先に確認出来たのは自分の手。細く長い指先に、綺麗に切り揃えられた爪。柔らかな手のひらには硬い皮膚など存在せず、まるで女の子のような手である。痛むようなことなどこの施設ではしていないのである意味当然ではある。

 次に、顔。見慣れた顔だが、誰だこいつは。なんて中性的な美人さんなのでしょう。やだお化粧映えしそうでドキドキしちゃう。俺とは対照的な顔付き――いや俺の顔なんだけど。

 そして身体。無駄な脂肪は見当たらないスレンダーな身体つき。脂肪だけじゃなく筋肉も見当たらない。ぶっちゃけモデルみたいな体つきである。つくものついてなきゃ性別詐称出来そう。しないけど。

 

「色々と真逆を走ってるな、俺」

 

 俺の記憶にある身体といえば、手は剣の振り過ぎで手のひらガッチガチであったし、顔は彫りの深いザ・男、といった風情であったし、身体は鍛えに鍛えてバッキバキであった。身長もそこそこに、体重は数字だけ見れば重たく感じるくらいだった。

 しかしこの身体は先程確認した通り。身長も低く体重も軽い――あぁいや、この世界では割りと平均値ではあるが――色々と物足りなさを感じるレベルである。ビジュアルはこっちの方が抜群だが。羨ましい。俺なんだけどな。

 

 とまぁ、恐らく前世であろう記憶は気のせいでは済ませられない程に鮮明に記憶出来ている。なんなら恐らく死んだのであろう原因も思い出せる。享年は二十二才、名は斎藤(さいとう)(はじめ)。早すぎた死であった。死合いでの斬殺ではなく、トラックに轢かれての即死……だったんだろう、多分。心残りがあるとしたら、結局最後まであの妖怪爺に一太刀入れることが出来なかったことだろうか。斎藤剣術道場師範の座は結局奪い取れなかった。

 これで今の名前が藤田五郎だったら洒落が聞いていて笑えたのだが、残念ながら藤田五郎でも山口次郎でもない。

 

 今生での俺の名は、水瀬(みなせ)夏波(かなみ)

 

 その数の少なさから、男性保護法なんてものが存在し、尚且つ男女の価値観が色々とあべこべになってしまったこの世界に男として生まれた人間。

 そして、その見た目から過去に女性からの被害を数多く受け、無事強いトラウマを抱え施設送りになった容姿端麗な精神患者――それが、この俺である。

 

「……まぁ、まずは退院しなきゃ」

 

 前世の記憶を取り戻す切っ掛けになったらしい大きなコブを擦りながら、俺は病室のベッドから立ち上がるのだった。

 

 



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1~美剣士、始動~

短いスパンでポンポン投げていきます。


「残念だけど、今はまだ認められない」

「…………」

 

 主治医である先生に告げられた言葉に、まぁですよねーと内心で頷いた。自分で言うのもなんだが、前世の記憶が戻る前の自分は重度の女性恐怖症だ。何もされなくても近くにいるだけで血の気は引くし、接近されればパニックを起こす。身体接触等もっての他だ。半狂乱の後におう吐を繰り返し、最後には気を失ってしまう。

 だが、それは前までの話。今なら恐らく平気なのではないか、と楽観的に考えている。

 これが良いことなのかは正直微妙なところではあるが、今の人格は完全に前世の時のものである。立ち振舞いや言葉使いにこそ影響はあるものの、女性を苦手としていた水瀬夏波はほぼ消えてしまっているのだ。

 問題があるとするならば、この身体が意思に関係無く拒否反応を起こした場合のみであろう。

 

「でも、このままじゃ駄目だと思って」

「あれだけ塞ぎこんでいた君が、そうやって前向きになってくれただけでも私は感動しているよ。一時期は失語症だとすら言われていたというのに……」

「それは……すみません」

 

 眼鏡を外し、目頭を押さえる先生に謝罪する。わかっていたけれど、やっぱりこの先生すっごい良い人だ。あの妖怪爺とは大違いである。

 ひとつ話をあげるとするならば。あの爺は、俺が足を捻って稽古どころじゃない、と告げてやると、

 

 ――足が痛い? どれ、これなら足の痛みは感じないじゃろ?

 

 などと木刀で腕をしばこうとしてきたものだ。実際本当にしばかれた時はぶちのめしてやろうと思った。

 ――あえなく返り討ちにあったが。

 怒りに燃えれば多少の痛みは無視できるとそこで理解出来たのは良いことではないと思います。

 

 ……まぁあの爺の話はともかく。

 

 目の前でレースのハンカチにて目元を拭っているこの先生は、完全に心を閉ざしていた俺に対しても親身になって接してくれていた。

 恐怖症で家族にも近寄れなくなってしまい、自己嫌悪から誰にも接することが出来なくなってしまっていた俺。それを、男性限定とはいえそれなりにコミュニケーションがとれるまでに回復することが出来たのは、間違いなくこの人のおかげなのだ。

 その先生を悲しませるようなことはしたくない。だからこそ、今の状況を早めに打破したいところなのだが……。

 

「まぁ、そう急がないことさ。夏波君がその意思を持ってくれたなら、此方も打つ手があるというものだ」

「打つ手……?」

「当初の君は重度の女性恐怖症から対人恐怖症の域にまで入りかけていた状態だ。それが、これまで続けてきた君の努力が実り、今ではこうして同性相手なら普通に接せられるまでに回復した。しかし、女性恐怖症そのものへの対処は避けてきたのだが」

 

 ハンカチを丁寧にたたみながら、そしてそれをデスクの上に乗せて、眼鏡をかけ直した先生の目が、力強く此方を見据える。

 

「これから本格的に、それと向き合い治療していこうと思う。今の君なら、きっと良い方向に向かうはずだ」

 

 そう言って朗らかに笑う先生。開けた窓から風が入り込み、カーテンと先生のサラッサラな黒髪を揺らす。どうでもいいけどそのキューティクルどうやって維持してるんですか。

 

「取り敢えず、今日のところは部屋に戻りなさい。精密検査では何にも異常はなかったけれど、頭を打って気絶していたんだから」

「あの、何で頭を打ったんでしたか」

「覚えていないのかい? ……まぁ、それも明日話そう。それも含めて、明日から治療を始めるからね」

 

 俺の質問に、キョトンとした顔で此方を見てくる先生。

 いや本当に覚えてないんですよね。あれか、女性の影が見えた、とかで焦って転んで頭打ったとかか。死ななくて良かった。そんな最後は流石にごめんである。

 その後、あまり先生の邪魔もしたくないので、話も落ち着いたところでその場を後にしようとして、

 

「――あぁ、一応聞いておこう。何か入り用なモノはあるかな? 用意しておくよ」

 

 半分デスクに向けていた身体を、再度此方に向けて先生が聞いてくる。

 半月に一度ほどこの質問をされるのだが、今までは何も必要ないと返してきた。が、軽く閃いた俺は、遠慮なく必要なものを口にする。それは――

 

「木刀が欲しいです」

「わかったよ、木刀だね。木刀……木刀?」

「木刀。出来れば二本。桐と赤樫を一本ずつ」

「……わ、わかったよ。出来たら、明日までに準備しておくね」

「ありがとうございます」

 

 礼を言って、その部屋を後にする。先生の二度見は面白かったが、こっちは生憎大真面目である。

 身体が変わったとはいえ、知識と精神力は無くしていない。

 前世の俺の剛剣は無理だとしても、護身の手札として培った剣術は繋ぎ止めておきたい。この身体で、まずはどれだけ出来るのかを確かめておかなくては。

 斎藤流……いいや、この世界に斎藤流なんてものはないから、水瀬流? ちょっと格好つけて斎藤神影流とか? ……とにかく、文字通り骨の髄まで叩きこまれた剣術だ。第二の生を持って、今度こそあの妖怪爺を切り捨てるだけの剣を身に付けてやる。夢は美少女剣士に介錯されることだとかほざいていたからな。半分くらいは叶えてやろう。

 後は……。

 

「髪も伸ばしっぱなし……。バッサリいくのは勿体ない、かな」

 

 腰まで伸びた灰色(・・)の髪を手で弄びながら、自分の部屋へと歩を進めていく俺であった。




主人公の剣はファンタジッてます。


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2~ポニーテールは夢を語った~

筆が走る、走り続ける。


 翌日。

 先生に呼ばれ、指定されていた部屋へと入る。

 来たね、と椅子を回して此方を向いた先生は、一瞬目を見開いた後に柔らかく微笑んでくる。

 

「束ねたんだね。うん、似合っているよ」

「どうも」

「しかし輪ゴムは頂けない。後で用意しておこう」

 

 詳しい髪型などわからないので、取り敢えずポニーテールみたいにしてみたが、似合っていないわけではないらしい。しかし、後ろを見せてもいないのに何故輪ゴムだとわかったのか。侮れないな、先生。

 

「君が手に入れられるものなんて輪ゴムぐらいしかないだろう。持っていることもないだろうしね」

 

 何を当たり前のことを、と小さく息を吐かれる。心まで読まれた、戦慄。

 とまぁ、ふざけるのはここまでにしておいて。

 用意されていた丸椅子に腰掛け、何やら写真をごそごそしている先生を待つ。

 

「さて、始めよう。まずは君がどの辺りまで耐えられるのか、その再確認までだ。いいかい、しっかり気持ちを落ち着けて。ゆっくりでいい。目を閉じて、意識して呼吸をしよう」

 

 言われるままに、目を閉じる。吸って、吐いて。もう一度、吸って、吐いて。先生の声が聞こえる。深呼吸を数回続けて、自分の心音だけが大きく聞こえるようになった辺りで次の指示が飛ぶ。

 

「よし。じゃあ先ずは、君の母親のことを頭に思い浮かべるんだ。お姉さんでもいい、勿論、妹さんでも」

 

 それぐらいなら問題ない。スムーズに、母親、姉、妹の順で顔を思い浮かべていく。ちなみに姉は二人いて、長男の自分、その下に妹の四人。そこに母親を加えて水瀬家は五人家族である。父親は…父親は?

 

「……どうかしたかい? 気分が悪くなったなら直ぐに止めるんだ」

「……いえ、大丈夫です」

 

 嫌なことを思い出してしまった。父親は、自分が施設に入ってしまった後に事故死してしまったのだ。

 無理に忘れてしまっていたものを、俺が思い出してしまった。家族の中で、唯一繋がりを残すことが出来ていた、かけがえのない存在は、もうこの世にはいない。

 

「先生」

「……なんだい?」

「母さんは……家族は、元気でしょうか。僕……俺がいなくなって、父さんもいなくなって。……大丈夫なんでしょうか」

「……心配しなくていい。お母さんは週に一度必ず君の様子を聞きに来る。お姉さん達も、妹さんを連れてたまに顔を見せる。全員、元気でやっていけているようだ」

「そう、ですか」

 

 柔らかい布で、目元を拭われる。目をつぶったままに涙を流してしまっていたらしい。

 

「――大丈夫です。次を」

「うん。次は……こちらからいこう」

 

 深く掘り下げることなく、あっさりと次に進もうとしてくれる先生に心の中で感謝を告げる。本当に、優しい人だ。

 先生はデスクの上にある写真ではなく、その横にあるテープレコーダーのスイッチを入れた。流れてきたのは……街中の喧騒のようだ。

 軽く首を傾げた俺の反応を見てから、先生は次々と流す音を変えていく。徐々に女性らしき声の割合が増えていき、その意図が理解出来た。

 嫌悪感は感じない。身体にも反応はない。手足の震えも起きない。それは、最後に流された女性歌手の歌になっても変わらなかった。

 

「……ふむ。では、この写真を一枚ずつ見ていってもらう。無理だと思ったら、直ぐに目をつぶるなり逸らすなりするんだよ」

 

 聴覚の次は視覚らしい。

 一枚目の写真は、少し古めの集合写真だ。どうやら学校の卒業写真か何かのようで。

 

「……これ、先生?」

「そこまで詳しく見なくても宜しい。では次」

「恥ずかしがらなくても……」

 

 写真の中の一人を指で指したところで、咳払いをしながらパッと写真を一番後ろに持っていってしまう先生。どうやらあれは先生の学生時代のものだったらしい。

 そこから先の写真は、先程のテープレコーダーと趣向が同じだった。徐々に女性の割合が増えていき、最後には水着の美人さんの写真が出てきていた。

 

「これも大丈夫、と」

「ちなみに、この方は?」

「私の娘」

「なんと」

 

 衝撃の事実。どうやら艶やかな黒髪キューティクルは遺伝らしい。写真の女性も、それは見事な天使の輪が浮かんでいた。

 っていうか先生何歳なんだろう。この人成人してそうなんだけど、それじゃあこの若々しい先生は四十路過ぎの可能性が……。

 

「ふむ……夏波君。率直に聞くけど、何があったんだい?」

「えっ」

 

 眼鏡をキラリと光らせた先生の言葉に、内心でどきりとしてしまう。先生はそんな俺の反応を知ってか知らずか、くいっと眼鏡を上げながら手元のカルテらしき紙を眺めながら、

 

「正直、ここまでの回復は劇的過ぎる。君の過去に起きた事件の質、量。それによって植え付けられた心的外傷は深い。長い時間をかけて快方に向かったとも考えられるが、何の切っ掛けもなしにそれが起こると考えるのは、些か短絡的で楽観視が過ぎる」

 

 とんとん、と娘の写真を指で小突く先生は、更に続ける。

 

「今の三つのテスト。似たようなものを半年に一度行ってきたが、今までのいずれも、君は最初のイメージの時点でつまづいていた。比較的リラックス状態の時ですら、こんな肌面積が多い写真を見たら軽いパニックを起こしていたんだ。それが、今の君は全く拒否反応を起こしていない。半年前の記録を見ても、この回復は有り得ないと言ってもいい」

 

 言われてみれば、半年に一度ほど必ずと言っていいほど情緒が不安定になることがあったことを思い出す。その日は先生のカウンセリングから始まり、ぽつらぽつらと家族の話をするのが始まりだったような気がする。

 そこから数日間、妙に息苦しく過ごしにくい日々が続くのだ。放送に女性の声が混じっているような感覚から、目のつく場所に不自然な写真が貼ってあったり。時には視線を感じることすらもあった。

 数日間だけなので気のせいか偶然と片付けていたが、成る程あれは回復の具合を見るための負荷テストだった訳だ。

 

「それを踏まえて聞こう。何か、あったんだろう?」

「えっと……」

 

 さてどう答えたものか。

 先生の言葉は最もだ。この人から見れば、頭を打った患者が翌日いきなり回復してしまったようにしか見えない。何かあったとしか考えられないだろうし、事実それは合っている。

 が、ばか正直に前世の記憶が戻ったんで平気になりました、とか答えた日には間違いなく別の精神障害を疑われる。女性恐怖症患者が、良くて頭に花畑を抱えた馬鹿に変わるだけである。

 

「実は……」

「実は?」

「あの、笑わないでくださいね」

 

 勿論、と力強く頷いてくれる先生。出来れば先程の深く掘り下げないやつをここでもやってほしいです。

 うつむいてどうしようどうしようと頭が回る。笑わないでくださいとか、逆に笑わせるネタもないわ。

 これで相手が爺なら、伝家の宝刀である奥さんを召還してしまえば万事OK、全てをなし崩しに出来るのに。

 

 ――いや待てよ。そうか。

 

 顔を上げる。黙りこんでいた僕を、先生はじっと待っていてくれたようだ。それに若干の罪悪感を感じながらも、俺は降りてきた天啓を放つ為に口を開いた。

 

「気絶していた時に、夢を見たんです」

「夢?」

「はい。その中で、俺は今とは違う姿で日々を過ごしていました」

 

 ほう、と興味深げに先生が顎に手を当てる。

 リアリティには自信がある。なんせ前世だ。いや、勝手に前世と決めてはいるが、それこそ俺の頭が造り出した架空の記憶なのかもしれないが、真贋はこの際どうでもいい。

 大事なのは、先生を納得させる――この一点のみ!

 

「違うのは俺だけじゃなく。基本社会も、現実とはかけ離れてました。男も女も数に差はなく、働きに出るのは女ではなく男。家を守り子供を育てるのが女の役目。そんな世界です」

「…………」

「社会的立場も、女性よりかは男性の方が有利だったように思います。女尊男卑ではなく、男尊女卑が辞書に載っています。俺は、それを当たり前の事実として受け止め、何ら不自由なく生きてます」

「この世界とは真逆ということだ。男女の立ち位置があべこべだね」

「はい。当然、俺は女性恐怖症なんて患っていませんでしたし……何より、その夢で俺は強かった」

「……強い? それは、力的な意味で、かい?」

 

 怪訝そうな顔をした先生に、俺は自信を持って頷く。

 デスクに立て掛けられていた桐の木刀を手に持って、顔の前に立てた。

 

「俺はじ……お祖父さんに、剣術を習っていたんです。それはもう強い人でした。小さな頃から何度も何度も挑んで、その度に打ち負かされては自らを鍛えぬく。それが、日常でした」

 

 さぁここからが話の肝だ。

 俺が何故いきなりここまでの驚異的回復を遂げたのか――その理由を、あの爺を利用して作り上げる!

 

「とんでもなく強いお祖父さんでしたが、同じようにとんでもないお祖父さんでもありました。怖いと思ったのは一度や二度ではありません。冗談抜きで死に目も見ましたし、殺されると思ったことも何度もあります」

「それは……虐待ではないのかな」

「多分普通に虐待です。警察に現場を見られたら一発でしょっぴいて貰えたかと」

 

 っていうか一回ぐらい捕まればよかったのに。俺が通報したら国家権力に頼ったみたいで負けた気がするので、結局通報はしなかったけどな。

 その代わりに奥さんには数えきれない程に絞られていたから、それもあって通報はしなかったのだが。

 

「それでも諦めずに挑戦し続け、今の俺と同じ歳になる頃には、怖いものは殆ど無くなっていました。力にものを言わせる野蛮な考えかもしれませんが……」

「強い力を持ったことで、自分に自信がついた訳だね」

「はい。その自信も一日ごとにお祖父さんに砕かれたので、過信も慢心もすることはありませんでしたが」

 

 実際あの爺、全く褒めて伸ばすってことをしなかったからな。だから道場に人来ねぇんだよ。残った人間は軒並み化け物みたいに強くなる訳だが、そこまでに至るふるいの網の目がザル過ぎる。

 人が幼い時分に巻き藁を切って喜んでいるところに、おもむろにその横に何本かまとめて片手で振って切り落としてからニヤリと去っていく。しかも片付けない。残るのは憤慨する幼い俺と、水の滴る巻き藁の無惨な姿のみである。巻き藁だってただじゃないんだから、無駄に使ってバレれば奥さんにぼこぼこにされるのは目に見えているのにそれでもやる。何があの爺を駆り立てているのかが全くわからん。

 そんな爺に食らい付いていくには、負けず嫌いに反骨心をカンストさせなければ到底やっていけなかった。

 

「他にも話せば色々あるんですが……その夢を思い返すと、不思議と強くなれた気がするんです。実際、前よりも女性が怖くない。勿論、付け焼き刃なのかもしれませんけど」

 

 木刀を胸に抱えて、目を閉じる。

 女性に怯える水瀬夏波はもういない。もはや心の病は俺という人格で上書きされたと言ってもいいだろう。

 残るは身体に刻み込まれているであろう恐怖を取り除くのみ。それは、これからの話。

 

「付け焼き刃じゃなく、この気持ちを本物にする為に、強くなりたいんです。あの夢の、自分のように。……おかしい、ですよね」

「いいや。切っ掛けがなんであれ、その気持ちは大切にするべきだ」

「……先生?」

 

 目を開く。

 眼鏡の奥に、強い眼差しが見えた。何やら今の話が先生の琴線に触れたようだ。まぁ、あれだけなら爺も不器用なだけの良い人に思えなくもないのかもしれないだろうしな。

 

「うん。予定を大幅に変更する必要があるな。少し賭けになるけれど……」

「賭け、ですか」

「そうだ。実は今日、君のお母さんがここに来る予定になっている。もうわかるだろう? 実際に面会してみようじゃないか。そこで問題が起きなければ、君には仮退院の許可を出すことが出来る」

 

 お、おぉ?

 一足飛びに話が進んでいく。それは願ってもない話だが、慎重な先生にしては些か冒険が過ぎないだろうか。

 そんな想いをまたしても読み取られたのか、先生はいつもとは違う力強い笑みを浮かべた。

 

「チャンスと見たら、一気に進むのが僕の方針なのさ。そして今はチャンスと見た。君を外の世界に羽ばたかせられる願ってもないチャンスさ」

 

 こうしてはいられないとバタバタ荷物を片付けていく先生の横顔はすごくイキイキとしている。多分、こういうところが先生が先生になれた由縁なんだろう。

 なんせこの人、この女性社会にて、男性の身でありながら医者になったエリート中のエリートなのだし。

 そんな先生の期待を裏切る訳にはいかないな、と木刀を握る手に力が入る。

 

「顔を見るのは、五年ぶりか」

 

 八歳の頃からこの男性保護施設に出入りし始め、その二年後にとどめとなる事件が起きて外に出られなくなった年から、五年。

 十五歳となった俺を見て、母さんはどんな反応を示すだろうか。

 そして、その時に俺の身体は平静でいてくれるだろうか。……きっと大丈夫だろう。どんな恐怖であろうとこの鋼の精神でねじ伏せてくれる。

 

 

 女性恐怖症など、真剣の恐怖を知らねば剣士足り得ぬと本身の刀で襲い来る妖怪爺に比べれば塵芥もいいところだ。

 

 ……これ、恐怖症を抑えるにはいいかもしれんが、仄かに怒りが沸いてくるのが玉に傷だな。あの爺め。




爺はファンタジーの中でも化け物足る存在。


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3~過去はすでに切り捨てました~

ちょっと重め。


 どうやら母さんはいつも仕事終わりにこの施設に訪問しているらしい。今日もその例に漏れず六時に訪問の予定が入っているから、とその時間まで自由にしていていいと先生から伝えられていた。

 昼食を取って部屋に戻った俺は、壁に立て掛けていた木刀を手に取る。やることと言えば、ひとまずは自らの研鑽しかあるまい。

 

「まずは……」

 

 桐の木刀を構え、軽く上段から振り下ろす。……重い。桐でこれだと、赤樫ではまともに振り回すことなど出来なさそうだ。

 他にも、部屋のものにぶつけない程度に木刀を振るう。一通り振って出た結論は、

 

「話にならない……」

 

 わかってはいたが、そもそものフィジカルが完全に足りていない。そもそもこの世界の男は前世のそれと比べてもひ弱である。進化の過程から違うのだろう、やはり男よりも女の方が肉体的にも強いのがここでは常識なのだ。

 さしずめ今の俺は、向こうで言えば引きこもりの女の子がいきなり剣術を始めようとしている存在と同義である。運動神経自体は悪くないのか、頭にあるイメージと実際の動きに然程ズレはない。ただとにかく遅く、ひ弱な剣筋である。

 

「剛剣はひとまず無理……柔剣を尖らせるのが良いか」

 

 斎藤流のうち、前世にて得意としていたスタイルを早々に諦めてもう片方にシフトすることに決める。無論どちらも習得しているが、あの身体に合っていたのが剛剣だったというだけの話だ。

 先手必勝を獲りにいく剛剣と違い、後手必殺を肝とする柔剣にそこまで腕力は必要ない。むしろ強大な力を持てば持つほど制御が難しくなるので、あまり好きではなかったのだが。

 

「そうと決まれば、ひとつ精神統一としゃれこむか」

 

 腕力がいらない代わりに、どんな状況においても明鏡止水の心持ちを崩さずに持ち続けるのが柔剣の極意である。座禅を組む必要はない。大切なのは、自分を完全に律した上で、周囲の状況を計りきること。それを何時間でも続けられることで、ようやく柔剣のスタートラインに立つことが出来る。

 

 ここは静かだ。手始めにはちょうどいい。

 ベッドの上で胡座を組んで肩に木刀をかけた俺は、そのまま時間が来るまで自らの内側を見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 ――気配がする。次いで足音が聴こえてくる。先生だろうか。もうそこまで時間が経っていたか。

 

「開いてますよ」

 

 やはり精神面は前世の経験値をそのまま受け継いでくれている。初回で足音よりも先に気配を感じられたなら上出来であろう。

 ノックより先んじて声をかけ、軋む身体を伸ばしてから木刀をベッドの上におく。

 

「お母さんが見られたよ」

「そうですか」

 

 扉を開いてそう告げた先生の元へと向かう。

 部屋から出てようやく時間の経過を実感。あの部屋には窓が無いので、夕焼けに染まる外を見て立ち止まった。考えてみれば、こうして外をまじまじと見るのも久しぶりなんだよな。とにかく女性がいる可能性がある場所には目を向けたくなかったので、窓がある廊下は下を向いて歩いていたのだ。

 

「これから面会室に行く訳だけど、君には取り敢えず部屋の外で待機してもらうからね」

「えっ」

 

 直ぐ会えないのか、と窓から先生へと顔を向ける。その反応に軽く鼻を鳴らして笑った先生は、当たり前でしょうと眼鏡を持ち上げる。

 

「君に取って久しぶりとなる女性との接触だ。まずは扉の窓から顔を見て、大丈夫だと判断したら部屋に入ってきてもらうからね。勿論お母さんにはそのことを伝えていない。期待させて駄目でした、では互いに悲しいことになる」

「……了解しました」

 

 言われてみれば当然の処置で、そりゃあそうだと頷いた。

 

「まぁ、心配はしていないけどね」

 

 

 

 

 

 

「私が先に部屋に入って話をする。五分しっかり自分の状態を確認して大丈夫なら、三回扉をノックするんだ。いいね? 駄目な時は」

「大丈夫ですよ。ほら早く早く」

 

 大胆な賭けに出た割には、ここにきて慎重な姿勢を取り戻してきた先生の背中を押す。仕方ないな、と眉尻を下げて笑った先生を見送って、数メートル先にある部屋に先生が入ったのを確認。

 少し経ってからこそこそとその扉に近付いていき、一瞬だけ扉の窓から顔を出した。

 先生の真向かいに座っている女性。栗色の髪。長さは俺と同じくらいだが、あちらのほうが遥かに艶やかでキレイであった。

 鼻筋の通った顔だ。パッチリした二重だが、垂れ目気味なその下にある泣き黒子が色っぽい。座っていてもわかるスタイルは抜群。我が母親ながら、素晴らしい美人である。

 

 ――そう。一目で、彼女が母親だと理解出来た。

 

 扉から身体を離し、壁に寄り掛かって震える身体を抱き締める。震える足は立っていることを許さずに、ズルズルと座り込んでしまっていた。

 

「参ったな」

 

 これは予想外だ。薄々感じていたことだが、ここまでのものだとは思わなかった。

 何が鋼の精神だ。そんなものあっという間にどこかに飛んでいってしまった。

 手足の震えは収まらない。それどころか、ボロボロと涙まで溢れだしてきた。どうした水瀬夏波。ちょっと涙腺が弛すぎるんじゃないのか。これじゃあまるで女の子だ。いやまぁある意味では男らしくはあるのかもしれないけれど。

 

「先生、ごめん」

 

 足に力が入る。心が今までに無いほどに身体を急いている。動いてしまえば、それにはもう抗えない。わずかな制止をかける呵責も振り切って、俺は――

 

 

 

 

 

 彼女――水瀬(みなせ)瑞樹(みずき)は、定時で上がった職場から、真っ直ぐとある施設へと車で向かっていた。

 職場からは車で三十分程。繁華街から離れた郊外にある、病院の付随施設である男性保護施設が目的地である。

 そこには様々な理由で普段の生活を送るのが困難になってしまった男性が、最後に集まる場所である。金銭面で生活が困窮した、事故で様々な障害を追ってしまったなど、自業自得から、自分ではどうしようもなかったような男性を保護するための施設。

 そこに、彼女の息子はいる。

 

「はぁ」

 

 溜め息と共に車から降りた彼女は、携帯を片手に家へと電話をかけた。家で待つ娘達へと連絡を取る為だ。その間も足は進んでいる。

 

『はーい、どした母さん』

「泉? お母さん夏波のとこにいるから、少し遅くなるわ。晩御飯、食べてていいから」

『あいよー』

 

 短い通話が終わる。携帯をバッグにしまった彼女は、スーツの肩口を軽く払うと、

 

「夏波、元気かしらねぇ……」

 

 もう五年も会えていない息子を思い浮かべて、大きく息を吐いてから建物のインターホンを押した。

 

 

 

 

 受付を終え、患者が絶対に通ることのない職員用の廊下を抜けて、いつもの面会室へと腰を落ち着ける。

 主治医の先生が来るまではまだ少しかかるようだと、瑞樹は机に腕を乗せた。

 瑞樹がここに来た時は、決まって職員の男性達はピリピリとした雰囲気で彼女を案内する。それは何も瑞樹だけの話ではなく、女性という存在に対してなのだが、それを思い返して瑞樹は頬杖をつく。

 今現在、この男性保護施設にいる男性の数は八人だ。内五名は身体障害者であり、残る三人の内二人は多重債務による生活困窮者である。この七名は瑞樹的にはどうでもいい。男性という存在そのものが貴重なこの世界では、保護施設から男性を引き取って世話をする女性など掃いて捨てる程存在する。近い内にその七名も引き取り手が現れるだろう。

 問題は最後の一人である、水瀬夏波。重度の女性恐怖症にて施設に入らざるをえなかった、瑞樹の息子である。

 職員が女性訪問者に警戒を抱いているのは、彼の存在があるからであって。その警戒の仕方から、息子の恐怖症は全く良くなっていないのだな、と残念な予想が出来てしまう。

 

 夏波はひどく美しい男児であった。流れる黒髪は艶やかで、指を通しても何一つ引っかかることもない。身体の成長が早かったので、小学校に入る頃には既に親ですら見惚れる程であった。

 しかし、その美しさも良い方向ばかりには向かわない。

 他の男子からやっかみを受けていた彼は、悲しいくらいに優しく、人への悪意の向けかたを知らなかった。

 そんな彼を守ろうと女子が彼を囲い、その内に守ってやっているんだから、と女子の一人が夏波の身体に手を伸ばす。一人がそれをしてしまえば、他の女子とて同じことをしたくなる。

 夏波も抵抗こそしたものの、彼女達にまで嫌われれば今度こそ誰も味方がいなくなると悟った彼は、異性に身体を触られる強いストレスを感じながらも、それに耐えていたのだ。

 この頃から、精神的に不安定なものを抱えてしまった夏波に気付き、瑞樹と彼女の夫は直ぐに手を下す。息子を精神科に通わせた上で、男子に酷い精神的苦痛を与えた生徒がいると学校側に訴える。

 この問題は直ぐに収束し、休みがちになりながらも学校に通うことは出来ていた夏波だったが――その二年後に、決定的な事件が起きてしまった。

 

 夏波は誘拐されてしまったのである。

 

 男子を狙う誘拐グループに目を付けられてしまった夏波は、学校帰りに呆気なく車に連れ込まれてしまう。GPSがついたものは全て道中で捨てられ、夏波が発見されるまでに一週間もの時間がかかってしまった。

 それは、その無垢な身体が汚されてしまうには、充分過ぎる時間でもあった。

 裏スナップ、DVD、果ては音声媒体に至るまで。押収されたものは五十点を超える。幸いなのはそのどれも世に出る前に押収出来た点だろうか。

 それでも、保護された夏波は酷い有り様だった。見た目に見える傷はそこまで多くなかった。それ以上に、心が犯されつくしていた。

 瑞樹は今でも忘れることが出来ない。駆け寄った瑞樹に、震える身体ですがり付かれて。

 恐怖から自分にすがり付いてきたのか、と思ったが、見上げられた顔を見て、その卑屈な笑みを向けられて、血の気が引いたのだ。

 媚を売るように身体を擦り付けて、伸びた手は妖艶に瑞樹の頬を撫でてくる。

 そうしなければいけない状況にあったのだろう。性的に媚びることに命の保障を見出だして、必死にそれで命を繋いできたのだろう。

 今思えば、あの瞬間が分岐点だった。瑞樹は咄嗟に息子を突き飛ばしそうになって、すんでのところで思い止まった。もしあそこで突き飛ばしてしまっていたら。

 きっと、夏波は完全に壊れていた。

 

 結果、正気に戻った夏波は重度の女性恐怖症を発症してしまい、夫を除く家族ですら近寄ることすら出来なくなってしまった。

 そしてその夫も、事故によって亡くなってしまった。

 このままでは繋がりが無くなってしまう。しかし女性である家族では、なにかしようにも逆効果になってしまう。そんなジレンマを、もう何年も続けている。

 

「ままならないわ」

「そうでもありませんよ」

 

 扉が開くと同時に、主治医である先生がそんなことを言いながら入ってくる。

 聞かれていたかと苦笑してから、それでも。

 

「気休めは……」

「夏波君が、家族を心配していました」

「えっ……」

「お父さんがいなくて、自分もいなくて、お母さんは大丈夫なんでしょうか、と。お姉さんや妹は元気なのか、と」

「あの子が……そんなことを」

「ですから」

 

 予想外の言葉に、思わず口元に手を合わせる。

 今までには無かったことだ。もし、これが良い方向へ向かっている証拠だとするならば。

 長らく燻っていた心に、熱が灯ったかのような感覚。そんな瑞樹に、先生がにっこり笑って続きを口にしようとした、その瞬間。

 

 ――勢い良く、部屋の扉が開かれて。二人は弾かれたようにそちらに顔を向けた。

 

 そこにいたのは、瑞樹が夢にまで見た息子の姿。

 記憶にあるよりも随分大きくなった。無表情ながらもボロボロ涙を流す顔も、更に大人びて美しくなった。艶やかな髪はすっかり色が抜けてしまったのか、灰色のそれは簡単に後ろでまとめられている。

 

 突然の再会に全く頭が働かない。

 恐怖症は大丈夫なのか、顔が見れて嬉しい、その髪はどうしたのか、聞きたいことは全く口から出ていってくれない。そもそも、自分の声を聞かせてもいいものかすらもわからない。

 

「夏波君っ」

「大丈夫」

「……そう、か」

 

 慌てていたのは先生もだった。

 しかし、夏波の、涙を流しながらも震えのない声を聞き、直ぐに腰を椅子に落ち着けてしまう。

 その反応に、期待してしまう。

 夏波と接することが出来るのか。触れ合って、許されるのか。

 夏波が近付いてくる。迷いなく、真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってくる。

 

 そして――

 

 

 

 

 俺は、抑えきれない衝動と共に、母親の胸に飛び込んでいた。

 俺が――水瀬夏波が、恐怖症に苛まされさながらも再会を願っていた家族。その一人が、愛する母親が目の前にいる。恐怖症のことを気にせずに、何の憂いもなく触れられる。

 そのことに、この身体が歓喜しているのだ。

 

「夏波……夏波なのよね?」

「長い間、心配かけた。ごめん」

「――ううん……! いいの、いいのよ。貴方が元気なら、私はそれで充分……!」

 

 遠慮がちに、震える手で頭を抱えられる。

 

「参ったなぁ、ハンカチ一枚じゃ足りないよ全く」

 

 先生の声が嬉しそうに響き、俺は母さんの背中に回した腕に、もう少し力を込めるのだった。

 

 

 

 



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4~母の帰宅、愛息子を連れて~

「取り敢えず、今は仮退院に過ぎないからね。あまり無茶をしないように」

「はい。えっと……長い間ありがとうございました。先生がいなきゃ、ここまで来るなんて出来なかった」

「私は少しずつ君の足元を照らしてあげたに過ぎない。歩んできたのは君の力だ。心から、おめでとうと述べよう」

「……はい」

 

 あれから自分達親子が落ち着いた後に、あれよあれよと言う間に話が進んで仮退院まで決まってしまった。

 きっと昼の時点から準備は進めていて、今日の結果如何で直ぐに決められるようにしておいたんだろう。その点も含めて、先生には本当にお世話になった。水瀬夏波が施設で過ごしてきた七年間。人生からみればほんの短い期間かもしれないが、この人は俺の人生の大恩人だと胸を張って言えるだろう。

 

「母さん、行こう」

「―――――」

「母さん……?」

 

 横に立つ母さんの返事が無い。もう一度呼び掛けながら顔を覗き込むと、どこか遠い目をしながらダバダバと落涙している。いや、まぁ気持ちはわかるけど。

 

「――はっ! ごめんなさい。ちょっとまだ頭が追い付いてなくて」

「運転中は話し掛けない方がいいかな」

「それは嫌よ! 我慢するから沢山話しましょう!」

「事故だけはやめてね」

「当たり前じゃない。折角元気になってくれた夏波を乗せて事故だなんて……やだ、不安になってきた」

 

 指を噛みながら不穏なことを言う母親に不安を感じつつ、先生に礼をして助手席に乗る。

 大丈夫、大丈夫と暗示をかけながら運転席に母さんが乗ったのを横目で見てから、そういえばと俺は窓を開けて先生に最後の質問を投げた。

 

「そういえば、頭を打った原因って結局なんだったんですか?」

「あぁ、それはね」

 

 その質問に、先生は苦笑しながら――。

 

 

 

 

 

「まさか鏡に映った自分を見て気絶したとは……」

「中性的だし、髪も長くなったものねぇ。わからなくもないわ」

 

 先生が、笑い話に出来るのは幸せなことだよ、と微妙な顔をした僕にフォローを入れてくれるくらいバカらしい話。

 いや、確かにね? ぱっと見どころかじっくり見ても男だか女だか判断しかねる顔ですよ。実際恐怖症のせいで鏡を見るのも苦しい時だってありました。

 だけどまさか自分の顔を見て気絶して後頭部を打っているとは思わなかった。本当に大事にならなくてよかったと心から思う。死因が自分の顔とか悔やんでも悔やみきれねぇわ。

 

「あ!」

「?」

「こんな幸せな日にコンビニ弁当とかありえない……! 電話しなきゃ!」

「ちゃんと停車してね」

 

 車を走らせながら鞄を探ろうとした母さんに、それを奪って抱えることで停車を促す。

 路肩にしっかり停車したのを確認してから、鞄から見えていた携帯を手渡してあげた。その際に微かに指先が触れただけでも、今の母さんには幸せらしい。緩んだ顔で携帯を操作すると、髪を耳に掛けてからそれを当てた。

 我が母ながら色っぽいものだ、とどうでもいい感想を胸に秘める。

 

「あぁ泉? ご飯食べちゃった? ……食べてないのね、よし! 今日は出前取るわよ! 寿司でもピザでもラーメンでも好きなの頼みなさい! 安いのは許さないわよ、お母さんも後少ししたら帰るから!」

「寿司かぁ……楽しみだなぁ」

「――寿司は絶対に頼みなさい。特上からね」

 

 おっと、よだれが。不覚にも想像して口が緩んでしまったようだ。寿司は前世からの大好物である。海産物大好き。お魚愛してる。

 爺も奥さんも海産物大好き人間なので、食卓にはよく海産物が並ぶ。俺も爺のつまみがてらに良く魚を捌いたものだ。お陰で自炊スキルはそれなりにある。だって自分でやらなきゃ飯にありつけないこともよくあったからな。

 

「何があったかって? まぁそれは帰ってからね」

 

 ニコニコ顔で通話を終わらせた母さんは、また直ぐに画面を操作して電話をかけたらしい。耳に当ててすぐに、

 

「由美子! 明日有給使うわ! 息子の退院祝いよ!」

 

 えぇ……。

 

 

 

 

 

 

「お母さんなんだって?」

「……出前取れってよ。寿司は特上からとか」

「……もうそんな時期? 片付けるの面倒よ、私」

「やけ酒にしてはテンション高かったなぁ。まぁ、母さんだってたまには羽目外さないとやってらんねぇだろ。そこはうちらが支えてやんねぇと」

「……夏波がいれば」

「それは言っちゃいけねぇってやつさ。おら、出前のファイル持ってこい」

「はいはい」

 

 水瀬家にて。

 受話器を置いた長女――水瀬(みなせ)(いずみ)は、次女である水瀬氷華(ひょうか)とそんなやり取りをしたから、腰に手を当てて溜め息をついた。

 年に何度かこういったことはある。

 授かった息子が事件にあって、手も触れられないどころか見ることも出来なくなってしまったかと思えば、自分の夫すらも亡くしてしまったのだ。自分だったら自暴自棄になっていてもおかしくないと泉は思う。

 それを、半年に一度ほどこうしてやけ酒よろしく高価な出前を取って羽目を外すだけで収めているのだ。娘としては、立派で尊敬出来る母親である。

 妹である氷華も、あんな物言いはするが泉と同じ気持ちである。面倒とは言いながらも、くだを巻く瑞樹に最後まで付き合うのは氷華なのだから。

 

 

 

 

「お母さんまだぁ?」

「もう少しじゃねぇの、黙って待ってろ」

「うへぇー……毎度ながら生殺しぃ……」

 

 寿司を中心に各種オードブルが並んだテーブル前で、ごつんと頭を落とす末っ子時雨(しぐれ)

 三人の中では一番チャラい奴だが、不真面目な訳ではない。こいつはこいつでその軽い雰囲気で場を明るくする天才ではあるので、今の家に無くてはならないムードメーカーなのだ。むしろ、暗くなってしまった家をどうにかするために今のキャラを作った節ですらある。結果的にそのチャラい雰囲気から男から敬遠され気味なのは御愁傷様だ。

 

「さて、本当にもうそろそろだとだと思うんだけどな」

 

 立ち上がった泉は、そんなことを呟きながら冷蔵庫へと向かう。母親用の缶ビールを片手に戻ろうとしたところで、予想通りにチャイムが鳴ったので。

 

「はいはーい、酒の準備なら出来てるぜー……」

「ただいま、姉さん」

「―――――ぇ」

「っと」

 

 出迎えた人間は母親ではなく、小柄な美男子。

 取り落とした缶ビールを、鮮やかに髪を翻しながらキャッチした彼を、口を開けたまま固まって見つめる泉。その視界の端では、母親が口に手を当てて笑いを堪えているのが見えているのだが、今の泉にはそちらに気を払う余裕がなかった。

 

「……取り敢えず、はい。ちゃんと持って」

 

 いつまでも反応が無いことに痺れを切らしたか、件の美男子――夏波は、泉の手を取って缶ビールをその手に握らせる。

 そこで、ようやく泉は再起動を果たした。

 

「か、か、夏波……なのか?」

「うん。ただいま、泉姉さん」

 

 ――成る程、これは出前も納得だわ。

 

 目の前で笑う弟の存在に、色々揺さぶられながらも辛うじて冷静だけは保ちきった泉は、熱くなる顔を自覚しながら内心でそう呟くのだった。



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5~自覚なきエロス~

「じゃあ、夏波の退院を祝ってぇ! カンパーイ!」

「「「「カンパーイ」」」」

 

 始まる前からテンションMAXな我が母親に引き摺られるように、ジュースの入ったコップを掲げる子供四人。

 元気にビールを喉を鳴らして飲み込んでいく母さんは別にいいとして、他の三名は若干のよそよそしい雰囲気を醸し出していた。

 まぁ無理も無いよね。なんせ七年、完全に顔を合わせなくなってから五年もの時間が経っているのだ。俺ですら当時十歳。一番上の泉姉で十四歳、下の時雨に至ってはまだ八歳の頃に別れることになっている。多少他人行儀になるのも仕方あるまい。

 まぁ、末っ子の時雨や、昔から静かで表情を変えなかった氷華姉はともかくとして。

 

「あ」

「お、おっ!? ど、どうした」

「醤油欲しいなって」

「醤油だな、ほ、ほら」

 

 単に醤油差しに手を伸ばそうとした瞬間にただならぬ反応を見せたのは、癖っ毛ショートカットの泉姉である。

 長女であり一番年上、身体も四人の中では一番大きな、こちらで言う女らしい女性である。前世の感性としては、男勝りな女性、と言ったところか。

 とはいえ、それはあくまで言葉遣いや立ち振舞いでの印象である。

 むしろ引き締められた身体にメリハリのついたプロポーションは、男勝りどころか女の魅力満載ですらある。

 そんな泉姉だが、気を使って醤油差しを渡そうとしてくれるのは有り難かったものの。

 

「…………っ」

 

 ――何故だかその手はプルプルと震えてしまっている。

 

 変に遠慮した受け取り方をすると落としてしまいそうだったので、多少指が触れても構うまいと両手で受け取りにいくと、思ったよりもバッチリ手のひらが当たってしまい。

 

「っちょおっ!?」

「……危ない」

 

 そして、半ば予想していた事態が起きたものの大事には至らせない。

 俺の手が泉姉に触れた瞬間に宙を舞った醤油差しは、中身が溢れる前に俺の手のひらに収まっていた。さっきの缶ビールの時といい、反射的なものは身体が変わっても健在ではあるな。

 そのまま何事もなく小皿に醤油を注ぎながら、うおぉ……と手を擦っている泉姉に向けて口を開いた。

 

「泉姉さん、さっきから妙だけど。久しぶりとはいえ、そこまで緊張されるとちょっとへこむ」

「そうよ~。昔はあんなに仲良かったじゃない」

「そ、そうは言うけどよ……。どうしてもこう、アタシが触れても大丈夫なのかって思っちまって」

「多分~、本当は男慣れしてないだけだと思うんだけど~」

「うっせぇな! お前だってそうだろが!」

 

 ちゃちゃを入れてきたのは、金髪で派手な顔立ちの末っ子、時雨だった。お洒落な爪をキラキラさせながら、ニヤニヤと泉姉をからかいにいく時雨。

 それはともかく、泉姉の反応も仕方なくはある、か。散々女性関連で拗らせた弟相手だ。色々過敏になるのもしょうがないだろう。むしろ短時間で対応してきた母さんの対応力が凄まじいのだ。

 こればっかりは時間をかけて大丈夫だと信用して貰うしかないだろうな。あとイクラ美味しいです。次はイカをもらいます。

 

「私はまだクラスに男子いるし? 女子一貫の学校生活してきた泉姉とは経験値が違うっていうか?」

「……っ、こいつムカつく……っ!」

 

 余裕綽々でそんなことを言う時雨。見た目が派手なだけあって、男性経験もその歳で豊富なのだろうか。そんな感想を寿司と共に飲み込むと、隣の母さんからちょいちょいと袖を引かれる。悪戯っぽい笑みだ。

 

 ――まぁ、いいですけど。

 

 気配を消しつつ時雨の背後に移動。ちょうどよさげなモノはないかと目を走らせて、目的のモノを視界にいれると、

 

「ちょっとごめん、時雨」

「うひゃいっ!?」

 

 その金髪の頭を顎の下に入れ、ミニピザが乗った皿を回収。直ぐ様母さんの隣へと帰還する。

 突然の急接近を許した時雨と言えば、何が起きたのかを理解すると同時に瞬く間に顔を赤く染め上げて、

 

「アッハハハ! うひゃいっ! ってなんだよ、どんな返事だよ! アハハハ!」

「う、ぅうううるさいっ! 今のは不意討ち! ノーカンだかんねっ!」

 

 やいのやいのと騒ぐ二人を横目に、少しは雰囲気も解れたかなと、ピザを口に運ぶ。

 女性恐怖症を気にして気を使ってくれるのは有難いが、こうして家族に対しては何ら問題ないのだから、気にせず自然体で接してもらいたいものだ。

 

「…………」

 

 と、気が付くと氷華姉が横に移動してきていた。

 銀髪のクールビューティなもう一人の姉だが、何を話すでもなくただじぃっと此方を見つめているだけだ。

 何か質問でもあるのだろうか、と視線を合わせて見つめ合う。

 睨み合いなら負ける気はせん。目を外したら四方八方から斬撃を飛ばしてくる爺もいるのだよ。

 

「大丈夫みたいね」

「……もしかして、心配してくれてた?」

「大切な弟だもの。怖がらせたくないから」

 

 視線を合わせてはいたものの、一瞬想像内で爺と斬り合っていた俺は慌てて思考を現実に引っ張り戻す。決着はまた今度だ。

 表情は変わらないが、おっかなびっくりと顔に向けて手を伸ばしてくる氷華姉。その手を掴んで、自分から頬に当ててやると、仄かにその頬が赤くなった、気がした。

 

「皆なら、大丈夫。……知らない人は、まだちょっと怖いけど」

 

 これは本当。家族に対しては、今やっているように手が触れるくらいならば何の問題もない。自分からやるなら、たとえ抱き締めたところで恐怖症は出てこないだろう。

 ところが、俺の思っている以上に根深いものもあるようで。帰りの母さんの車の中、街中で歩いている沢山の他の女性を目の当たりした時は正直おぞけが走った。

 やはり根本的に身体は女性を敵とでも見なしているのか、意思とは反して手が木刀を放してくれなかったのだ。

 

「でも、大丈夫だから」

「そう」

 

 ぱっと手を放し、そそくさと元の位置に戻っていく姉の姿を眺めつつ、残ったピザを口に入れてしまう。と、とろけたチーズが溢れてしまった。

 胸元に微かな熱。あーあ、と声を漏らしながら服の中を覗き込むと、

 

「ぶふっ、夏波!?」

「ん?」

「あ、貴方……まさかノーブラ……」

「え、あぁ……そういえば」

 

 ぱっと胸元を隠し、ばっちり見てしまったであろう母さんへと視線を向ける。別に胸を見られたのが恥ずかしい訳ではないのだが。

 記憶が戻ってからは煩わしくて上の下着なんて着けていなかったのだが、どうやら今の行動でそれがばれてしまったらしい。

 この世界では男性の上半身も普通に性的な意味を持つ。その為にスポーティーな感じのブラを着けるのが一般的なのだが、前世の一般感性としては抵抗があるのも確かなのだ。

 しかしだからといってこれはいけない。今は別にいいとして、外出する時には何かしら着けないと痴女扱いである。男だけど。

 

「いや、施設だと気にすることなかったから……」

「そ、そうだったの……」

 

 ちょっと嘘。俺が目覚める前までは、必要以上にガードが固かったのが本当である。

 さすがに誘拐されて精神を患った人間がこれでは学習能力が無さすぎるので、俺ももう少し気を付けることにしよう。今の状態で襲われでもしたら、まだ無傷で撃退できる自信はない。

 ふと前を向けば、姉と妹の三人は上を向くか机に突っ伏して鼻を押さえていた。

 

「……どうかした?」

「思春期真っ盛りの女三人には刺激が強かったか……」

 

 そんな母さんの言葉に、そんなものかと服から手を離す。

 知識としては知っているものの、俺からしてみれば羞恥心を感じるポイントがずれているんだよな。

 上半身裸なんて恥ずかしくもないし、胡座のような股を開くような座り方なんて当たり前である。

 だが、この世界の常識では前者を他所でやろうものならあっという間に警察が飛んでくるし、後者ははしたないと同性からたしなめられる。俺からすれば女々しくて正直気持ち悪い、というのが本音なのだが、あちらからすればはしたなくて下品、というのが常識らしい。

 今の俺の行動も、服の覗きこみ、しかもノーブラコンボは姉妹三人には致命的なダメージを与えたようだ。

 

「……明日、服でも買いに行きましょうね」

「わかった」

 

 こんなこと毎日やってたら三人の精神に悪影響だろうしな。

 それにしても、前世の男よりもこっちの女の方がそういうのに弱いんだろうか。流石に服を覗き込んだくらいでそんなにダメージは受けない……いやノーブラは破壊力高いか……高いな。

 

 でもブラは抵抗あるからさらしにしよう。それなら巻き慣れてるし抵抗もないし。

 

 そんなことを考えながら、母さんに酌をする。

 

「やだもう……死んじゃいそう」

 

 死なないで下さい。




とんでもない伸びを見せてて正直びびってます。
やっぱりあべこべっていっぱい仲間いるんだね(ニッコリ


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6~袴ではない。スカートだ~

「これもいいわねっ」

 

 …………。

 

「アタシはこの線がイカしてると思うなぁ」

 

 …………。

 

「これが一番」

 

 …………。

 

「いやぁーやっぱりこの辺りっしょ」

 

 …………。

 

「あの……そろそろ決めたいんだけど」

 

 水瀬夏波。絶賛着せ替え人形中である。

 何故にこんな状況になってしまっているかといえば、それは前日のブラ騒動からとしか言いようがない。

 次はこれ! と目を輝かせる母親から服を受け取りながら、遠い目をしつつ今朝の事を思い返す。

 

 

 

 

 

 俺の退院祝いから一夜明け。

 うわばみのごとく酒を飲み干していたはずの母さんは、翌日けろっとした顔で朝食の食パンを食べながら、

 

「さて、今日は夏波の服を買いに行かなきゃね」

「あれだけ飲んだのに覚えてたんだ……」

「忘れる訳ないじゃない」

 

 どや顔で胸を張る母親、瑞樹。

 実際あれだけ飲んで酒臭さの欠片もないのは超人的な肝臓をしていると言わざるを得ないが、その後の片付けをさせられている氷華姉のこともちょっとは考えて欲しい。

 泉姉はまだ飲みたいと駄々をこねる母さんを宥めながら寝かし付ける係。時雨はその間に軽いベッドメイキングを済ませた後に氷華姉に合流して片付け。氷華姉は一貫して洗い物や空き缶等の処理に追われる羽目になっていた。

 俺? 手伝おうとはしたが何故か手を出させて貰えなかった。いわく、水仕事なんかして肌荒れでも起こしたらどうするのか、とのことらしい。

 どうせこれから木刀の素振りやなにやらで痛むことになるのだが、まぁそこは言わないでおこう。

 

「二日酔いとかないの?」

「母さんの肝臓は人外だ。心配するだけ無駄ってもんさ。今日はアタシが運転するけどな」

「泉姉、免許あるんだ」

「十八ですぐに取ったさ。馬鹿にすんなよ?」

「馬鹿にはしてない」

 

 ぐりぐりと頭を撫でられながら、にかっと笑う泉姉を見上げる。改めて見ると本当に背が高い。百八十は無いにしろ、それに近いくらいはあるのではないだろうか。

 氷華姉も俺より大きいし、時雨だってあまり俺とは変わらない。きっと直ぐに抜かされてしまうのだろう。

 改めて、目に見える形でこの世界の男女の差を感じさせられた気分である。

 

「っと、少し気安かったか」

「気にしてない。大丈夫」

「ならいいんだけどよ。やっぱりちょっと雰囲気変わったよな」

「そう?」

「あぁ。氷華のミニチュア版みたいな」

「……ふっ」

「勝ち誇るとこではねぇからな」

 

 ぱっと少し慌てたように頭から手を離した泉姉だが、俺の言葉に頬を綻ばせると再度頭に手を置いてくる。

 因みに指摘を受けた雰囲気だが、この固まった表情筋と、少し素っ気なくも感じる口調が原因だろう。本当はもっとくだけた喋り方をしたいのだが、人を前にすると言葉が強ばってこうなってしまうのである。

 家族の前でこれなのだから、きっと初めて会う人間に対してはまだ硬い口調になってしまうのだろう。こればっかりは、恐怖症と同じように時間をかけて治していくしかあるまい。

 それにしても、氷華姉のミニチュア版か。確かに、髪の長さや多くを語らない口調、名を表したかのような冷たい雰囲気は、今の俺と多少似通っているのかも。そんなに悪い気はしないな。氷華姉も満更ではなさそうだ。

 

「んで、何時から出るのー」

 

 少し離れたソファにて爪をいじっていた時雨が、気の無い声を上げる。

 それに反応したのは、当然ながら母である。

 

「色々見て回るから、十時には出るわよ。貴女達ちゃんと準備してるんでしょうね」

「むしろ呑気に今朝飯食ってる母さんにそれを言いてぇわ」

「毎度のことながら飲むだけ飲んで後始末もせずに、翌日は九時過ぎまで寝腐って。感謝のひとつもして欲しいものだわ」

「学生の休みは貴重なんですけどー。予定崩すようならママと言えど容赦なくギルティ」

 

 ちなみに今は午前九時半。母さんが起きてきたのはほんの十分前である。

 他の三人は既に何時でも出れる格好になっており、俺もまた出発を待つだけだ。まぁ、個人的な荷物は木刀のみなので、身支度が終わればそれで完了なのだけれど。

 

「……さって、支度支度」

 

 分が悪いと判断したか、母さんは残ったパンを牛乳で流し込むと洗面台のある方へと消えていく。

 それを溜め息と共に見送った俺達は、各々適当に時間潰しを始めた。

 その内の一人、泉姉だけは、俺のそばから離れずにいる。視線を辿れば、どうやら木刀に関して何か言いたいことがあるようだ。

 

「コレがどうかした?」

「いや、それを護身具として登録でもすんのかな、と。スタンガンとか催涙スプレーの方がいいんじゃねぇの?」

 

 あぁ、と。そういえばそんな手続きもあったな、なんて今更ながらに思い出す。

 男性保護法の中には、単独で身の危険に陥った際に自己防衛出来るように、何かしらの武器を携帯することを推奨するものがある。

 大抵は、先程泉姉が言ったスタンガンや催涙スプレー等、隠し持てて速効性の高いものを選ぶ男性が多いらしいが。

 木刀をくるくると回し、首の後ろに抱えるように持ち替える。目を瞬かせて驚く泉姉に笑顔を向け、

 

「俺はこれが一番安全だと思ってるから」

「……おお。なんかカッコいいな、夏波」

 

 目を輝かせる泉姉。内心で木刀を取り落とさなくてよかったと安堵する。あそこで失敗してたら恥ずかしいなんてもんじゃなかった。……赤樫なら出来てないだろうな。

 まぁ、実際スタンガンや催涙スプレーはリーチが短くて不安点もある。隠し持てるという長所もあるが、むしろ俺的には武装がはっきり見てとれる方が狙われなくて済むと思っているので隠し持つようなつもりはない。それをやるとするならば、木刀を弾かれた時の為の小太刀程度のものだろう。寸鉄でもいいな。

 つまるところ、身を守るための威嚇である。

 

「でもま、今日はアタシがお前を守るから心配すんな。夏波に危害を加えるような野郎がいたら叩き潰してやるから」

「頼りにしてる」

「おう」

 

 再三、頭を撫でられる。そうこうしている内に母さんがビシッと決めて戻ってきたので、そろそろ出発するとしよう。

 

 

 

 

 

 

「色々回るんじゃなかったの……」

「おっとそういえば。もうお昼時なのねぇ」

 

 都合二時間近く着せ替えショーをやらされていた俺は、流石に疲れたと根を上げた。

 泉姉や氷華姉の持ってくる服は良い。何故なら前世でも普通に男でも着れるような服だからだ。

 泉姉のチョイスは全体的にカジュアルなもの。途中から趣味が入ってきてパンクスタイルが混じってきたが、今のビジュアルなら平気で着こなせる。何なら自分でもカッコいいとすら思えた。

 氷華姉は身体のラインが映えるタイトな服を僕に着て欲しいらしい。こちらもこの身体のスタイルを良い方向で強調出来るようなものなので、別に抵抗するようなものでもない。

 問題は他二人、つまり母さんと時雨である。

 

「母さん、俺ちょっとスカートは……あと、こんなヒラヒラ俺には似合わないと思う」

「似合ってるわよぉ。今のメンズトレンドなのよ?」

「トレンドが俺に合うかは別だと思う……。時雨も、これちょっと大胆過ぎる」

「えぇー。お兄ちゃんぐらいの男子ならこれくらい平気で着てるよー。オフショルダーとか超イカしてると思うな」

「まぁ肩口ならそこまで気にしないけどさ……」

 

 この有り様である。

 この世界ではスカートは基本的に男女での区別はない。基本的に男性が好む服で、普通に女性が履くこともあるよ、程度のものなのだが、実際自分が履くとなると抵抗が大きい。そのくせパンツスタイルも性別の区別がないあたりに微妙な理不尽を感じる。

 確かにこの世界の男性はホルモンバランスがおかしいのか、体毛は極端に薄い。しかしだからといって全員が全員俺のように性別未詳な見た目をしているわけではなく、普通に男だよね、といった男性も当たり前にスカートを着用しているのだ。

 ぶっちゃけ視覚の暴力である。

 取り敢えず服装は俺の常識よりもはるかに広くおおらかな世界であるのは理解出来た。理解出来たのでそれなりに無難なのでお願いします。

 まぁ、二人とも俺の身体の問題点を考えてはくれているようで、致命的に論外なものは持ってきていないのだが。

 具体的に言うと、あまり露出が多いものは色々あって着るのをはばかられる事情があるのだ。妥協しても、時雨の持ってきた肩口の露出くらいだろう。

 

「えー。似合ってるのに……」

「見たいなー。スカート履いてるお兄ちゃん見たいなー」

「まあ買っておいてもいいんじゃねぇの。いつか着るときもあるだろ」

「無い」

「夏波、往生際が悪い」

 

 えぇ。俺が悪いのこれ。

 結局押し切られ、母オススメのメンズファッション、そして時雨イチオシの大胆コーデも購入されることになった。

 いつか本当に着せられそうで怖い。

 



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7~VS、ボールペン~

新年一回目投稿。多少ペースは落ちますが、話の流れは決まったのでそれなりの頻度で更新していきます。


「どう、かな」

「「「「…………」」」」

「なんか言ってよ」

 

 幾らか軽くなった頭を触りながら、黙りこくってしまった家族へと苦笑いを向ける。

 俺の後ろではニコニコしながら後始末を終えたらしい美容師さんが立っている。清潔感溢れる爽やかなイケメンだ。予約殺到の超人気男性美容師だが、男性優先の予約を組んでくれる面でも有名な人である。

 当然ながら先に予約していた女性は順番が遅れることも多々あるらしいが、クレームは然程来ないらしい。多少の遅れは彼と接することを思えばそれもスパイス的なものになるのかも……というか、実際にそう女性客からそう言われたこともあるそうな。

 

「……夏波、お前間違っても一人で街出歩くなよ」

「そうねぇ。これはちょっと……」

「護衛つけるのも考えなくちゃいけないわね」

「アタシくらいの奴等は逆に近寄れないかも……なに?高嶺の花、みたいな?」

「褒めてるんだよね、それ」

 

 言いたいことはわからなくもないが、四人の深刻な顔を目の前にしては素直に喜ぶことも出来やしない。

 ちらり、と先程まで見詰めていた鏡を横目で見る。そこには、灰色のロングヘアを後頭部で軽く纏めた自分の姿。ハーフアップ、と言ったか。伸ばし放題だった髪は軽く梳かれ、毛先も綺麗に整えられて。元から髪の毛自体の痛みは少なかったようで、軽く手を入れるだけで充分だった、とは美容師さんの談だ。

 余談だが、取り敢えず梳いてくれればいいや、と注文したら彼に軽く注意されてしまった。変な美容師にそんな注文したら梳き過ぎで髪の毛がぺらっぺらになることもあるとか。

 

 どの道これからも彼にやってもらうつもりなので心配はいらないと思うが。

 

 因みに前世での俺の髪型は角刈りである。気分によって只の坊主にスタイルチェンジするくらいには髪の毛に興味がなかった。バリカンのアタッチメントを替えるだけの簡単なお仕事。

 流石に今生でそれをやると家族が卒倒するのは目に見えているので、これからはそれなりに見た目にも気を使わなければならない。というよりは、多少は今までの性格に引っ張られているのだろう。女々しいと思えるような行動も特に違和感なくこなせてしまうんだよな。

 でないと、朝から髪の毛に櫛を通すようなことは出来ない。前世で女装癖でもあったのなら話はわかるが……まさか隠された性癖を目覚めさせた? だとしてもまぁ構うまい。今の見た目なら許されるし、そもそもこの世界ではそれが当たり前なのだから。

 

「じゃあ、次は……そうね。物のついでだし、役所で色々手続きもしていきましょうか」

「えぇー。それアタシも行かなきゃダメな感じ?」

「別に先に帰ってもいいけど。それだと晩御飯は時雨だけコンビニになるわねぇ」

「卑怯。マジ卑怯」

 

 次は役所か、と木刀を抱え車の助手席に乗り込んでいく。泉姉が扉を開けてくれ、彼女は道行く女性から俺を庇うようにして扉を閉めてから自らも運転席に乗り込んだ。

 それでも木刀を握る手には力が籠るのだから、流石に簡単に克服させてはくれないのだな、と最初の軽い考えは改めなければならないと思い知らされる。

 先刻の話ではないが、これでは一人で街を出歩くのはまだまだ難しいと言わざるをえなかった。

 

「泉、ちょっと近いと思うわ」

「仕方ねぇだろ。守るためだ」

「鼻の下伸ばしてるんじゃなくて」

「うっせぇぞ氷華」

「ハイハイ、喧嘩しないの」

 

 運転席と後部座席とで、軽口とも取れる口調で言い争う二人に苦笑する。性格は真逆とも言えるのに、それがかえって良く噛み合う二人の姉妹。そこに良い意味で恐れることなくちゃちゃを入れられる時雨も混ざり、姉妹間の仲はすこぶる良好に見えた。

 そこに上手く混ざることが出来るだろうか、と一抹の不安もあるのだが。何せ女性との付き合いなど経験値がゼロに等しい。前世では剣が恋人、今生では女性は恐怖の対象である。経験など積みようもなかった。

 ……だがまぁ、しかし。

 

「まーた喧嘩してる。お兄ちゃんが怖がっちゃうじゃん」

 

 後部座席から、時雨が首もとに腕を回してくる。仄かに香る柑橘系の匂いは香水だろうか。

 

「だぁっ!? 何してんだお前!」

「時雨。離れなさい」

「お兄ちゃんを守ってるんだし。悪いことなんてしてないし」

 

 賑やかな車内。

 きっと、きっとだが、上手くやれる気がしているのは、気のせいではないのだろう。

 

 

 

 

 

「あまりお勧めはしませんね」

「はぁ……」

 

 ところ変わって役所の窓口にて。

 カウンターの上に乗っている木刀を挟んで、受付の男性職員は生真面目そうな顔を此方に向けている。

 

「勿論、護身具として許可できない訳ではありません。刃物ならば刃渡り15センチ以下までなら、一本まで護身具として登録しておけば携帯することが出来ます。木刀は刃物には属さないので、こちらも問題はありません」

「はぁ」

「私が問題だと言っているのは、護身具としての能力、加害者への制圧面においての話です。木刀よりも実際の刃物の方が脅威になる。また刃物よりもスタンガンの方が実用性が高い」

「まぁ」

「また木刀のように隠し持つことが出来ない護身具は、装備していることによるアピールによって犯罪者の犯行の抑止、威圧に繋がりはしますが、それによる対策も取られやすい。一撃二撃食らうのを覚悟で襲ってくる女性だって珍しくありません」

「えぇ……」

「更に言うならば、貴方のように一度女性関連の被害に遭った方々には特例措置としてある程度ならば護身具の上限に融通が聞きます。過去に拳銃の携帯も許可した事例すら存在します。当然、故意にそれを悪用すれば問答無用で刑罰が下されますが」

「えっと……それで、俺はどうしたらいいんでしょう」

 

 矢継ぎ早に話される内に訳もわからず押しきられてしまいそうだったので、一度口を挟んでおく。

 というか、拳銃の許可とかあるのが恐ろしいわ。この世界の銃刀法はどうなっているんだ。流石の爺だって真剣を外に持ち出すことはなかったぞ。

 

「早い話が、もう少し使い勝手の良い護身具を選んで貰いたいのです。先程例に出したスタンガンや、催涙スプレーが護身具として非常に優秀なので」

「木刀でも問題はないんですよね?」

「……はい。問題はありません、が」

「なら、木刀でお願いします。俺はこれ以外身に付けるつもりはありません」

 

 他の武器やその他の護身具を使ってしまえば、嫌がおうにも思考に揺らぎが出てしまう。これでも、短かったとはいえ半生を剣に捧げてきたのだ。今更他に手を出そうなんて思わない。それなら素手の方がまだましである。

 そんな俺の頑なな意思を感じたのか、受付の男性は軽く息を吐いて手元のボールペンを握り直した。

 

「ちょっ」

 

 ――背後から聞こえたのは、家族の中の誰の声だったか。けれど、まぁ全員似たような顔をしていることだろう。

 

「手荒な確認ですね。当ててしまうかと思いました」

 

 今の体勢――突き出されたボールペンを瞬時に掴み取った木刀で叩き落とし、その回転のままに顎を柄で跳ね上げようとした、その寸前で止めている。

 デスクの上にあまり物が無くて良かった。それならそれで跳ね上げから突きに変えているだけの話ではあるが。

 

「おい」

 

 俺の肩口からドスの利いた声が響く。これは確認するまでもなく、泉姉の声だ。間違いなく怒気が込められた声に、身体が軽く震える。

 

「……突然の無礼を謝罪します。しかし、此方にも事情があることを理解していただきたい」

「事情だぁ? 大事な弟に傷のひとつでもついてたらどうするつもりだよ」

 

 木刀を引き、片手でも振り回せるように中心部分を手にして小脇に抱える。必要ない措置だが、怒気を放つ女性がそばにいては身体が戦闘体勢を解いてくれない。

 そんな俺には気付いていないのか、泉姉は全く感情を隠すことなく男性に詰め寄ろうとして、母さんに肩を掴まれていた。

 

「泉、止めなさい」

「でも」

「気持ちはわかるけど、別にこの人だってやりたくてやった訳じゃないのよ。むしろ、やらなきゃならないことですらあるの」

「……んだよそれ」

「ボディーガード目指してるなら、これぐらいは知っておきなさいね」

 

 困ったように笑いながら、俺を抱き寄せる母さん。強張っていた身体から力が抜けて、するりと木刀が手から抜けていく。辛うじて落とす前に掴み直して、詰まっていた息を吐き出した。

 家族である泉姉ですらこれか。先が思いやられるな。

 

「護身具っていうのは文字通り、使用者の身を守るためのもの。いざという時に役に立たないものなんて、身に付けてたって邪魔なだけ」

「…………」

「だから、下手におかしなものに許可を出してその人に被害が出たら、許可を出したこの人たちに責任がいってしまうのよ。どうしてもっと役に立つものを薦めなかったんだ、ってね」

 

 傍らに氷華姉が寄ってくる。俺の顔を見て何故か悲痛な顔をした後に、躊躇いを見せながら頬に手を添えてきた。

 そんなに酷い顔でもしているのだろうか。まぁ、多少血の気は引いているかもしれないな。それこそ、鍛え上げた精神が無ければパニックになっていそうなくらいの重圧はあったのだから。

 

「だからってあんな」

「気持ちはわかるって言ったでしょ。でも、身の危険を実際に感じないと真剣に考えない男性も多いのは事実なの。夏波は……ちょっと予想外だったけど。危険を感じて初めて、護身具の重要性を思い知る。それが実際の事件になってからじゃ遅すぎる。だから、この場でそれを知る必要がある。さっきはそのための措置のひとつなのよ」

 

 成る程、と母さんに背中を預けながら心の中で頷く。

 犯罪も災害も、当事者にならなければその危険性は知りえない。悲しいかな、いつ自分に降りかかるかわからない危険を、人は何故かそれを余所事のように考えてしまう。

 何の根拠も無いのに、まぁ自分は大丈夫だろうとタカをくくってしまうのだ。実際に被害者になってからでは遅いというのに。

 今の一連のやり取りは、それを拭い去り真剣に護身具の検討をさせる為に必要な行為だったのであろう。俺は彼の行動が読めたので軽く捌いてしまったが。

 ……もしかして、母さんは俺がここでその洗礼を食らうのをわかっていた? さっきの言葉を聞く限りそうだったんだろうな。まさか反撃するとは思っていなかったからこその、予想外の言葉が出たのだろう。

 

「この人は仕事をしただけ。貴女が怒るのは筋違い。……何度も言うけど、気持ちはわかるからね」

「……わかった。ちょっと腑に落ちねえけど、理解はした。話もわからないで、失礼しました」

「謝る必要はありませんよ。むしろ、貴女のような女性が彼の家族であることに安心しています。それに、慣れていますから」

 

 眼鏡を軽く直し、軽く微笑みながら返す男性。その雰囲気から、本当に慣れているんだろうな、と勝手に苦労を察してしまう。

 母さんからそれとなく離れて、先程叩き落としたボールペンを拾い上げる。ヒビが入ってしまっているな。加減が利いていない証拠だ。満足なのは読みと反射の二つのみ。技と力を早い内に最低水準まで打ち上げたいものだ。

 

「すみません、壊してしまいました」

「構いませんよ。消耗品ですので」

 

 手渡したその時に、彼の手を確認する。

 固く固まった皮膚に、随所に見られるタコ。およそこの世界の男性とはかけ離れた使い込まれた手のひらを見て、やはり『やる』人なのだと確信した。爺の奥さんと似たような手をしているので、素手での武術に覚えがあるのだろう。

 先の泉姉のように食って掛かる女性もいるということは、身一つでそれを抑える人間でなければこの仕事は出来ないのかもしれない。

 

「先程は失礼しました。気持ちは変わりませんか?」

「はい。まだ未熟な身ではありますが、この手には剣しか握れない」

「承知しました。貴方の護身具として木刀を登録しておきます。ここに来るまでに、これを使って荒事に巻き込まれたりはしていませんね?」

「はい」

「結構です。各種必要書類に記入して貰えれば仮の許可証を発行出来ますので、許可証が発行されるまでそれを携帯してください。此方が書類になります。そちらの方で記入して、こちらにお持ち下さい。……あぁ」

「?」

 

 書類を手に離れようとして、何か言い忘れたような声に振り返る。彼は眼鏡を外して、どこか好戦的にも見える笑みを溢して。

 

「得物を打ち落とすのも結構ですが、手首を打つ方が確実ですよ」

 

 その言葉に、この世界にもこんな男性――つまり、俺と同じような人間もいるものだな、とこちらも笑う。

 木刀でカツンと床を叩いて、俺はこう返した。

 

「――貴方が当てる気だったなら、遠慮なく叩き折るつもりでした」

「その気持ちを忘れずに。もうよろしいですよ」

 

 

 

 

 

 その後、やはり青ざめていたらしい俺を見ていた氷華姉が泉姉に吹雪のような言葉責めを食らわせ、同じかはわからないが顔を青くした泉姉が土下座せんとばかりに謝ってきたのを笑いながら流して、役所での行動を終えた。

 ちなみに。

 書類を出した後の待ち時間。時雨がソファで爆睡していたので、癒しを求めて悪戯で膝枕してやっていると。

 起きた時雨が状況を把握すると同時に、妙な鳴き声で役所中の注目を集めてしまったのは、まぁ余談だろう。

 

 

 



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8~傷~

連続投稿一回目。


 ――風が長い髪を揺らし、毛先が服の上から背中を撫でているのを感じる。

 

 聴こえてくる草の音に、遠くで響く車の走る音。雑多な音こそ聞こえないが、決して無音ではない環境。しかし、集中が途切れる程のものでもない。

 

 ――目を閉じ、自然体のままに。

 

 力みは足の裏から地面へと抜けていく。イメージは、根。地につけた足裏から根を張るように張り巡らされていき、大樹のようにどっしりと身体を安定させていくのを、イメージとして構築していく。

 

 左手に持つ木刀に右手を置いた。握りこむまではしない。小指の付け根を当て、小指と薬指で軽くふわりと包むくらいの力。木刀を引っかけるように持つ程度。

 その体勢のまま、不動を保つ。

 

 腹の中へ少しずつ、塊のような力が溜まる。それは次第に大きく、大きく、息を吐くと同時に、蓄積されていく。

 

 そしてそれが、これ以上無いほどに、溢れそうになるまでに溜まった瞬間に。

 

「――――はぁっ!!」

 

 一際大きく、地面の草が靡いた。

 

 振り抜かれた木刀の剣圧は、不可視の衝撃となって前方を切り裂き、

 

「……痛ぁ……」

 

 ――覚悟していたとはいえ一振りで手の皮が剥けてしまった俺は、情けなく呟くのだった。

 

 

 

 

 

「……でもまぁ、一応ましな方ではあるか。使い物になるかは別として」

 

 血が滲み始めた右手は取り敢えず置いておくとして、今しがた放った一振りを省みる。

 剣筋もぶれることなく、逆袈裟気味に一直線に振り抜けた。速度も威力も、まぁこの身体で放てる最大のものではあっただろう。刀ならば、巻藁も軽く断てていたはずだ。

 当然、前世で同じ技を放った時と比べれば雲泥の差ではある。仮にあの頃の俺と今の俺が今の技を撃ち合ったとして、刀ごと今の俺は切り伏せられているだろう。

 それに当然ながら、貧弱とも言えるこの身体だ。いきなり今のような零から百への力の解放を行えば、

 

「あ、あ痛たた」

 

 このように身体の方がダメージを負うことになってしまう。特に下半身と腰辺りが。それなりに準備運動して身体を暖めた上で放ったというのにこの有り様だ。これでは咄嗟に放つようなことは出来ないだろうし、よしんば放とうとしたところで怪我をするだけで終わるだろう。

 

「……ま、収穫はあったしよしとしよう」

 

 鼻を鳴らして踵を返す。

 満足に技が使えないことなどわかっていたことである。使えるものがあったとしても、今の身体では実用性にかけるということも。

 なら何故、それがわかった上で、身体を痛めるのを承知で剣を振るったのか。それは、ひとえにそれ以外の確認の為であった。

 知識も精神も、前世のそれをそのままに受け継いでいるのは確かなことだ。効率的な身体の使い方も、感覚だけでなく理論的にだって頭に叩き込まれている。

 しかしそれが、今の身体に上手く伝えられるかどうかは、また別の話。

 

「夏波ー。風呂沸いたぞー」

「今行くよ」

 

 縁側から泉姉が呼んでいる。それに右手で応えたところ、ぎょっとした表情を見せた彼女は、なんと裸足のままでこちらに駆け寄ってきた。ワイルドだな。

 

「おまっ、なんだよその手!」

「大丈夫。ちゃんと巻くもの買って貰ったから」

「何の為のテーピングかと思ったら……! 氷華! 時雨! ティッシュにガーゼに消毒液持ってこい!」

「そんなに焦らなくても」

「いいから早くお前は家に入れ!」

「うおっ」

 

 ぐい、と肩を抱かれたかと思った瞬間に、ふわりと足が地面から浮き上がる。

 なんということだ、生涯で初めてのお姫様抱っこである。もちろん前世含めて。柔道のすくい投げなら爺の奥さんに何発か食らったけどな。

 そのままあれよあれよという間に家の中、靴を履いたまま椅子に座らされ、右手を泉姉に捕らえられる。

 それを氷華姉が水に濡らしたタオルで血を拭い、時雨が消毒液を含ませたのであろうガーゼでつつく。多少痛いが、まあ慣れた痛みだ。むしろ多少の怪我でこんな処置したことない。

 

「うわ、ずる剥けてるじゃん。お兄ちゃん何したのさ」

「……素振り?」

「ただの素振りでこんなに!? 何本振ってたのさ!」

「何本というか、一本」

 

 俺の言葉に絶句する時雨。まあ確かに、たかだか一本の素振り程度でこの有り様は傍目にも酷い。負荷のかかった指の付け根、小指から中指の辺りまで一息で皮が剥けてしまっているのだから、見た目にも酷い。今更ながら先にテーピングを巻いておくべきだったかな、と多少後悔しているくらいである。……まぁ、遅かれ早かれこの手の怪我は負うことになるんだけれども。

 

「……というか、これから風呂なのに。上がってからでもいいと思う」

「シャワーにしろシャワーに。それが嫌ならビニール袋でも何でも使って、手に当たらないようにしろ」

「髪が洗いにくい」

「んなのアタシが……いや、ない、な。うん。今のは忘れろ、忘れてくれ」

「泉姉、下心が漏れてない……?」

「ば、バカ言うな! アタシは純粋にこう……」

「うるさいわね。手元が狂うわ」

 

 ただ一人黙々と包帯を巻いてくれていた氷華姉の、呆れたような声が耳に届く。時雨とのやり取りで、いつの間にか泉姉による右腕のホールドはほどけていた。

 ピシッと巻かれた包帯を、最後に粘着テープにて固定したところで、氷華姉は立ち上がる。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 その言葉に、言い争っていた姉妹の動きがピタリと止まる。俺と言えば、どこに行くというのか、と理解が出来ない為に動かない。

 そんな俺の心中を察してか、氷華姉はさも当然と言ったような顔を此方に向けて言ったのだ。

 

「髪が洗えないんでしょう? 私が洗ってあげるから」

「「ちょっと待ったぁっ!!」」

「何よ。何か文句でも?」

 

 言い争っていたとは思えないほどの息の合った二人。そんな二人に対して、氷華姉はつゆほどの動揺も見せない。それどころか、

 

「夏波の手じゃこの長い髪を洗うには手間なのはわかるでしょう? 誰かが手伝った方が良いのは確かなこと。本当なら母さんが一番適任なんでしょうけど、今は出掛けてしまっている。泉は長髪のケアなんてしたことないでしょうし、時雨だと普通に危ない」

「私の理由なんかテキトーだし聞き捨てならないし!」

「アタシは……まぁ確かにその通りではあるけどよ……」

 

 肝心の夏波の意見はどうなんだよ、と泉姉がこちらへと視線を向けてくる。

 あれ、これ本当に手伝われてしまう流れなのか?

 

「いや……そもそもそんなに重傷って訳でもないし。包帯とか無しでそのまま入っても良かったんだけど」

「ダメよ」

「それはダメだな」

「無いね~」

 

 今度は三姉妹揃って息を合わせてきた。

 そうですか、ダメですか。ならまぁ、多少時間はかかっても、ビニール袋でも使って一人で……。

 

「仕方ねぇ……まぁ、氷華なら問題ないか」

「むぅ。真に遺憾ながら」

「時雨貴女、それ最近知った言葉使ってるだけでしょう」

 

 …………あれ。もしかして。

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫? 痛かったら言うのよ」

「平気」

 

 ――もしかしてでした。

 

 胸の上までバスタオルを巻いた俺は、結局氷華姉に髪をされるがままに洗われている。別に一緒に入っているわけではないので氷華姉は服を着ているが、それはそれでこちらばかりが恥ずかしい思いをしているような気がして不公平である。別に氷華姉の裸が見たいわけではない。てか見れない。絶対に目を背ける自信がある。

 今ばかりは硬い口調と少ない口数に感謝しよう。恥ずかしくて黙り込んでいても、普段とさほど変わらないからだ。

 

「綺麗な髪ね。手入れはしてたのかしら」

「伸ばしっぱなしではあったけど」

「私のもので合うか不安だわ。時間がある時にちゃんと選びに行きましょう」

「ん」

 

 一掴みずつ、丁寧に扱われているのがわかる。目をつぶったままだから余計に感覚が鋭敏になっているようだ。

 それから暫く、無言の時間が続く。多少、気まずい。

 

「はい、一旦終了。身体が冷えるから湯船に入りなさい」

「あ、うん……」

 

 気が付くと髪が纏められていて、言われるがままに湯船につかる。タオルは外さない。……温泉でもないのにタオルを巻いたまま入るのは違和感があるな。しかも胸まで。

 

「……本当に、平気になったのね」

「うん?」

「私に……女に身体を見られても平然としてるじゃない」

「あぁ。視線ぐらいならもう平気だよ」

 

 元々の価値観が仕事をしてくれたお陰で、下腹部を直で見られない限りは特に何も思わない。

 それも女性恐怖症から来るような抗いようのないものではなく、単に羞恥心からくるもの。つまり、今この場に置いてはその辺りの不安とは無縁なのである。

 勿論、見知らぬ女性からの不躾な視線には身体が反応してしまう。今平気なのは、家族である氷華姉だからこそ。

 見知らぬ女性がそばにいるだけでもストレスはかかるが、それだけならさほど気にすることもない。

 恐怖症がひどく現れるのは女性からの怒気や敵意など、人を害するような感情を目の当たりにした時――これは、家族であろうと辛いものがあるが――や、見知らぬ女性に過度に接近、接触された時。

 それでも、気を張っていればどうにか取り乱すことなく抑えきれる。逆に言えば、張り詰めてようやく日常生活を送れるレベルでしかない、ということではあるが。

 

「もういい?」

「そうね。ほら、座りなさい。流してあげるから」

 

 いずれはこの恐怖症を克服しなければならないだろう。付け焼き刃でどうにかなるものでないことは重々承知の上だ。

 それなり以上に長い時間をかけて努力していかなければ、完全に克服することは出来ないだろう。

 

 でも今は、まだこれで充分。

 離れていた家族と過ごす、それだけで。

 

 

 

 

 

 

 ――やっぱり、痕は残っているのね。

 

 シャワーで夏波の髪を流しながら、氷華はそんなことを思う。

 タオルから見える僅かな太腿には、赤く何本も筋のように痕が走っている。

 遠目から見ればわからない程に薄くなっているが、まじまじと見れば確かにわかるその痕は、氷華の心にほの暗い感情を芽生えさせた。

 今は見えないが、腰の辺りには更に酷く残っているであろう、同じ種類の傷痕があるはずだ。

 傷はそれだけではない。腕にはポツポツと丸い火傷の痕が残っているし、既に消えたとはいえ、昔は手首足首、そしてその首筋に何かで締め付けられたかのような痕も残っていたのだ。

 癒えた傷も含め、最早消えることのない、一生涯残り続けるその傷。それを、目の前の弟に刻み付けた連中。もし眼前に現れたならば、氷華は何の躊躇いもなくこの暗い気持ちに従うだろう。

 

「氷華姉」

「……なに?」

「怖い顔、してる」

 

 シャワーを止めたところで、夏波に声を掛けられた氷華は、弟の肩越しに見える鏡に映った自分の顔を見た。

 成る程確かに、と軽く自分で頬を揉んだ彼女は、その手で髪を耳に掛けてから立ち上がる。

 

「後は、自分で出来るでしょう?」

「うん、ありがとう」

 

 今ばかりは、口下手な自分に感謝する。何を言えばいいのかわからなくなっても、他所から見れば普段の自分とさほど変わらないだろうから。

 きっと変わっていないであろう顔に手を当てながら、氷華は夏波に背を向けた。

 

 

 

 

 

「やっぱり気になるよなぁ」

 

 氷華姉の視線があった膝元。一人になったことで何を気にすることも無くなり、用済みになったタオルを外す。

 ボディーソープを泡立てて身体に這わせ、腿で手が止まった。

 露になった太腿に走る、幾つもの赤い痕。指でなぞれば、過去の痛みが再生されたかのようにピリピリと痺れるように感じる。

 太腿だけではなく、腹や胸、腰にも同じような痕がある。俺を誘拐した連中の倒錯的な行為の傷痕だ。打たれ、縛られ、垂らされて這わされて。ようするに、そういう痕だ。特に目立つのが、この打たれた痕である。

 

 

「これなら刀傷の方がいくらかましだなぁ」

 

 鞭痕と刀傷。どちらかと言えば前世のそれの方が重傷な気もするが、それに受けるまでの過程を考えればそう思ってしまっても仕方ないようにも思う。

 後者は自ら進んだ道。突き進む故に覚悟を持って得たそれは、いわゆる男の勲章と言えるものだ。誇らしくすらあったそれは、誰に見られたって恥ずかしくはなかった。

 が、前者は他者の汚い欲望。その痕は醜い傷でしかない。正直な話、こんな傷は誰にも見せたくない程度には恥である。

 既に知っている家族になら、気にすることもあまりない。まぁ、この傷を見た皆の反応が辛そうで。そういう意味で見せたくないのはあるけれど。

 

 体を洗い終わる。湯船につかり、片手でぱしゃりと顔に湯をかけた。

 

 誘拐されている間にやられたことは、今でもはっきりと覚えている。

 恐らく、前ならば恐怖の象徴であったであろう記憶は、今では屈辱と恥辱、そしてぶつける場所のない怒りを伴う記憶である。

 もしあれの記憶媒体が出回っていたならば、俺は舌を噛むことすら視野に入れている。

 ……まぁ、死ぬまではいかないにしろ。もしこの件で俺を悪戯に挑発してくるような輩がいたならば、そいつには木刀のシミになるのを覚悟してもらうつもりだ。それくらいあの頃の記憶は掛け値なしに地雷である。

 警察の話ではひとつ残らず回収、破棄されたと聞いているし、仮にネットに放たれていても即座に削除、ダウンロードするような人間がいれば逮捕案件になるらしい。

 そもそも、そんな動画はいわゆる『男優』さん以外ものは非常に厳しく取り締まわれている世界だ。あまり神経質になる必要はないのかもしれない。

 

「……とっとと上がるか」

 

 長湯して汗をかけば手の傷が膿むかもしれない。そんなことになればまた文句を言われてしまうだろう。

 次からは、先にテーピングを巻いた上で木刀を振るうことにしよう。

 



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9~スカートだけは拒否します~

連続投稿一回目。同時更新の二話目になりますので、読み飛ばしにご注意を。


 退院してから早くも一月が経過していた。

 先生からも太鼓判を押してもらい、無事退院の頭に付いていた『仮』の文字も取れてくれた。

 暦は六月に入ったばかりだが、早くも昼間は夏の熱気が顔を出し始めている今日この頃。

 

「学校」

「そう、学校」

 

 家族で夕食を囲んでいた最中、母さんからの言葉に口の中のものを飲み込んでから、一言そう呟いた。同じように頷きながら返した母さんは、少しだけ真剣な顔をする。

 

「前からしていた話ではあるけどね。動き始めてもいいんじゃないかって。先生からも許可は下りてるし」

「ん」

 

 一応、施設の中にいた時でも勉強は続けていたので学力については問題ない。勿論、俺ではなく『夏波』がしていた訳だが、きちんとその成果は俺にも受け継がれている。

 義務教育過程も通信教育という形で修了しているので、高校に通うための下地はあると考えてもいいだろう。

 勿論、母さんが懸念しているのはそんな問題ではないのだろうが。

 

「私としては、出来るなら男子校に入って欲しいんだけれど……共学なら氷華のいる高校に入って欲しいの。一人でも家族がいれば私も少しは安心出来るから」

「勿論、夏波が良ければの話よ。私だって来年には卒業してしまうから、その後は夏波が一人で頑張るしかない」

「冷たい言い方ねぇ」

「事実だから」

「その来年には私が入る予定だけど?」

「頭が間に合えばね」

「間に合えばって何! これでも学年内で十位圏内なんですけどっ!」

「夏波と同じ学校かぁ……アタシはなんでもう少し遅く生まれなかったんだろうな……」

 

 気付けば全員が話に入ってきて、思い思いの言葉を放っていく。泉姉のそれはちょっとコメントに困るので放っておくとして。

 

 学校、学校である。

 先程言った通り、学力に不安は無い。前世のそれと合わせても高校入学程度の知識はある。多少、女性と男性の立場の違いから歴史の食い違いに混乱しそうにもなるが、まぁそれもきっちり擦り合わせれば大丈夫だろう。

 

 問題は言うまでもなく、異性関連の問題である。

 

 母さんは男子校に通ってほしいようだが、俺の希望は共学である。恐怖症があったとしても、男ばっかりの高校生活にはぶっちゃけ魅力を感じない。

 前世のようにばか騒ぎ出来るならそれはそれで面白いのだが、この世界ではそれもあまり望めない。下ネタよろしく下品でもなんでも笑えるような関係性は、ここでは女子の集まりが担う立場なのだ。男子はそれをジト目で見つめてサイテーと呟く側である。絶対馴染めない。

 

「氷華姉の高校に行く。大丈夫だから、安心して」

「……んー。わかったわ。決意も固いみたいだし」

 

 最初から男子校に行く気はないと明言していたのが功を奏したか、特に反対もされずに母さんは頷いてくれた。勿論、内心で反対なのは自分もわかっているので、ありがとうと頭を下げた。

 その頭に手を乗せた母さんに、ひとつだけ聞きたいことがあると頭を上げる。共学だとかよりも、こちらの方が俺にとっては重要案件である。

 

「そこって、制服はスカート?」

 

 

 

 

 

 

「最後の懸念が晴れた」

「どんだけスカート嫌なんだよ……」

「嫌なものは嫌だ」

 

 

 学校の話から数日後、通うのはまだ先の話ではあるものの、前準備はしておかなければならない。そのひとつの制服の採寸の付き添いをしてくれた泉姉が、運転しながら苦笑をこぼしていた。

 氷華姉の高校はブレザーであった。勿論、男子はスカートではなくズボンである。深い赤色の指定制服にワイシャツ、ネクタイとオーソドックスなものだった。取り敢えず一安心である。

 

「ちょっと聞きたいんだけどよ、スカート自体が嫌なのか? ロングスカートとかなら……」

「スカート自体がもう受け付けない。ミニスカとか傷見えるし論外」

「あぁ……そりゃあな」

「ちょっとした露出なら気にしないけど。でも仮に下にズボン履いてたとしてもスカートは履かない」

 

 傷の話を出した時に泉姉の顔が苦くなったので、失敗したと思いながらすぐに次の言葉を放っていく。

 事実、足を晒すミニスカートは色々と論外である。以前母さんが半ば強引に購入したアレはストッキングありのロングスカートという、俺の体を考慮した上でのチョイスだったのでまだいいが。……いやよくはないんだが。

 似たような裾をしていても、袴ならまだ馴染みもあるのでいい。しかし如何にもな、前世で言う女の子らしさを引き立てるスカートは願い下げである。いくら今のビジュアルに合っていようがだ。

 ファッションとして、多少露出が多い程度なら抵抗はないのだけれど……勿論、傷が見えない範囲で。

 

「もう少し男の子らしくてもいいんじゃないかと思うけどなぁ、アタシは」

「今でも充分だと思うけど」

「まぁ無理強いはしねぇけど。昼飯どうする?」

「帰って作ってもいいけど……気分的にラーメン食べたい」

「んじゃあ適当なとこに入るか」

 

 信号待ちしていた状態から、泉姉は適当な当たりをつけたのか車を発進させて直ぐに進路を変える。

 その揺れに体を任せながら、流れる景色に目を這わせた。

 

 

 

 

 適当なチェーン店に入った俺たちは、カウンターに座って注文を終える。店員から渡された水を口に含んだところで、隣に座る泉姉からの視線を感じてそちらに目を向ける。泉姉はどうやら木刀が気になるようだった。

 

「まだそれないと不安なのか?」

「逆に言えば、これあれば平気」

「ふぅん」

 

 股の間に刺した木刀は、肩口に預けるように置いてある。直ぐに取り回しが利く場所にないと、外では不安で仕方がないのが実情である。

 だが、今言ったようにこれが手元にありさえすれば女性相手でも怯むことは殆ど無くなったのだから、退院直後から比べれば破格の進歩と言えるだろう。

 無手での護身も身に付けているが、今の状態では満足に身体が動いてくれない。完全にこの木刀が今の生命線だ。

 

「それにしても、なんか感慨深いな」

「ん?」

「いや、こうしてよ」

 

 不意に伸ばされた泉姉の手が、ぐしぐしと俺の頭を撫で回す。されるがままの俺の顔を見て、彼女は歯を見せて笑いながら、

 

「お前とこうして外に出られるだけでも、ちょっと前からすれば想像も出来なかったことなのにさ。それが今度は学校に通うまで話が進んでんだぜ? 夢みたいな話でさ」

「まぁ……その」

「お前は悪くねぇんだからそんな顔すんなって。ただアタシは嬉しいって言いたいだけなんだ」

 

 最後にポンポン頭を叩いた泉姉と、手櫛で軽く髪を整える俺の前にラーメンが届く。

 きたきた、と割り箸を口にくわえて割った泉姉は、とっとと食おうぜと笑いかけてくる。それに小さく笑みを返してから、俺も割り箸を手に取った。

 

「――ん。美味しい」

「そういうとこは男の子なんだけどなぁ」

「…………」

 

 ラーメンを啜っているところを見た泉姉の言葉に少し言葉を失う。そんなおしとやかに食ってるつもりはないのだけど……。

 どうやら知らないうちに『男らしい』振る舞いが違和感なくこなせるようになってきたようである。あんまり嬉しくない。

 そんなことを考えながら、髪を耳に掛けつつラーメンを口にする俺だった。

 



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10~ある意味高校デビューと言えなくもない~

連続投稿二回目。


「……今日でちょうど二ヶ月か」

 

 パチリ、と目を覚まし。

 顔を傾けてカレンダーの日付を確認してからそう呟く。

 

 ――最初はどうなることかと思ったが、なんだかんだで慣れるものだな。

 

 ベッドから起き上がり、寝間着を脱いで適当な服に袖を通す。立て掛けてある木刀を横目で確認してから、椅子に座って手のひらにテーピングを巻き始める。

 家族はまだ起きていない早朝。日課となった朝の鍛練をこなすために、準備を終えて部屋を出た。

 

 

 

(多少はマシになってきた、か)

 

 小鳥の囀りが聴こえる中、庭で木刀を振るう。

 赤樫を持つ手が震えているのがわかる。手に巻いたテーピングの粘着面がずれ、汗と混じり多少の不快感と共に手のひらに粘りけを持たしていた。

 この二ヶ月間。身体と剣術の基礎から鍛え直しているわけだが、当然まだまだ前世には遠く及ばない。それでも、剣を取って二ヶ月の人間が至るレベルはとうに超えていると断言出来る。下手な暴漢……暴姦? くらいなら楽に撃退出来るだろう。

 しかし満足はしない。護身はひとまずの目的でしかない。俺の目標はあの妖怪爺を超えることだ。前世の俺にも片手で捻られるような今のレベルで満足なんて出来るわけもない。

 

「…………」

 

 庭に落ちていた小石を拾う。

 この程度の石くらいなら、

 

「ふっ」

 

 軽く上に放り投げたそれを、木刀で打ち据えて。

 石は、庭のコンクリートで出来た壁にカツンと軽い音を立てて跳ね返った。

 

「……はぁ」

 

 木刀であれ、あの程度の石なら粉砕していたあの頃を思い返して溜め息をつく。

 まずは斎藤始に追い付くところまでいかなきゃ話にならないな、と嘆息した俺は、汗を流すために家に入るのだった。

 

 

 

 

 シャワーを浴びて、何の気なしに上半身裸で部屋に戻ろうとして、過去の失敗を思い返して危ない危ないと頭を振った。一体何のためにわざわざ部屋に戻って着替えを取ってきたというのか。

 一度油断して上半身裸、肩にタオルをかけて朝の家を歩いていたら時雨と遭遇してちょっとした騒ぎになった過去を反省して、きちんと服を着てから脱衣所を出ることに決めたのだろうに。

 さらしを胸に巻き付ける。その上からワイシャツを羽織り、先に乾かしておいた髪を簡単にまとめた。

 何でわざわざワイシャツなんかを着ているかと聞かれれば――

 

「おはよう、今朝は早いね」

「おはよ……おっ、そういえば今日からだったか」

「昨日言ってたでしょ」

「そうだけどよ。そうして制服姿見ると実感沸くじゃん?」

 

 先に朝食を取っていたらしい泉姉が、俺の姿をまじまじと見つめてくる。その視線を感じながらトースターに二枚食パンをセットした俺は、たまには目玉焼きでも乗せるか、と冷蔵庫を開けて卵を取り出していた。

 

 そう。今日は俺の初登校日である。無事に編入試験もパスした俺は、晴れて氷華姉と共に高校に通うことになったのだ。

 真新しい紺のズボンにワイシャツ、更にブレザーとネクタイを締めれば完璧だ。一度髪の色は大丈夫なのか母さんに質問して、その隣にいる氷華姉に「私の黒髪が見たいのかしら」と冷えた目で見られたのが忘れられない。冗談とか言ってたけどあの目はマジだった。……何やらあの銀髪には思い入れがあるようである。

 遠回しに問題ないと言いたかったのはわかるが、あんなに冷たい視線を寄越さなくてもいいと思う。

 

 そんなことを思い返しながら卵をひとつ手にとって台所に立とうとして、

 

「お兄ちゃん私も~」

「……はいはい」

 

 現れた時雨の眠たそうな声に、もうひとつ卵を取ってから台所に立つ。まぁ、二個ぐらいなら手間は変わらないからいいけども。そろそろかと思ってパンも二枚セットしていたし。

 

「夏波、準備は出来てるの?」

 

 四人の中では一番朝食を取るのが早く、この時間は食後のココアを飲んでいる氷華姉がそう聞いてくる。頭の中でざっと確認して、大丈夫、と返事をしてからフライパンに卵を落とした。

 軽く白身に火を通してから、水を入れて蓋をする。ちなみに俺は半熟派である。

 待つ間に焼けた食パンを皿に乗せて回収し、ちょうど出来上がった二個分の目玉焼きを分けて食パンに乗せる。ハムも乗せれば良かった。まぁいいか。

 

「はい」

「わーい」

 

 待っている間に目も覚めたのか、最初の眠たそうな声はどこへやら。いつの間にか準備されていた牛乳片手に皿を受け取る時雨。

 

「俺の分もあれば完璧だった」

「あ」

「いいけど」

 

 自分の皿を置いて、再度冷蔵庫へ。

 牛乳と蜂蜜を取り出して、コップに少しだけ牛乳を注いでから蜂蜜を入れる。適当にスプーンで混ぜてから、もう一度牛乳を注いで、それを片手にテーブルへと戻る。

 

「……ずるくないかなーそういうの」

「知らない」

「くそぅ……。先走るんじゃなかった」

 

 自分でやるという選択肢はないのか。

 悔しげな妹の言葉をほどほどに受け流しつつ、目玉焼きと共に食パンを頬張った。

 

 

 

 

「忘れ物はない?」

「大丈夫」

「お弁当は持った?」

「あるよ」

「財布にお金はある?」

「もらった分入ってる」

「ハンカチは? あと」

「ティッシュもある」

「……母さん、遅刻しちゃうわ」

 

 玄関先に立ってから五分程。心配で仕方ないと言わんばかりにしつこいほどにチェックを入れてくる母さんに、ついに氷華姉が苦言を入れる。

 どうにも不安そうな母さんに俺は苦笑してから、一度鞄を床に置くと、軽くその背中に腕を回す。

 

「大丈夫だから、心配しないで」

「……うぅ。旅立つ息子を見送るのが辛い」

「いや帰ってくるから」

 

 ぎゅっ、と。少し痛いくらいに抱き締められたことにまたしても苦笑しながら、体を離す。

 名残惜しそうな母さんに手を振って、氷華姉と共に玄関から外に出た。

 

「そういえば……氷華姉の制服はスカートだけど」

「あら、おかしい?」

「ううん。そうじゃなくて」

「ズボンかスカートは自由に選べるのよ。別段、そこに男女の差は無いわ。私だって両方持っているし……制服を合わせる時に聞かなかったの?」

「ズボンが出て来て安心してたから……」

 

言われて見れば、提示されたサイズの制服にはスカートの姿もあった。ズボンを手に取った時点で何も言われなかったので、スカートに関してはそこで意識から抜け落ちていたのだ。

 それにしても、この二ヶ月でだいぶこの世界の常識を学んできたつもりだが、服装についてはやはりそこまで気にすることもなさそうだ。

 前世でのパンツスタイル同様、この世界ではスカートは男女共用の服になる。可愛らしいデザインのもの程男性が好む傾向にあるらしいが、そこは個人の嗜好の範疇だろう。

 つまり、俺がスカートをはかなくても特に不自然にはならないと言うこと。泉姉が好む多少パンクな服だろうが、氷華姉が普段着にするようなラインが映えるタイトな服だろうが、言うところの『ガールズ』ファッションを俺が身に付けても、前世でのボーイッシュにあたるので問題はないのだ。

 逆に女性が『メンズ』の服を着たら忌避されるのか――つまり、前世での女装――と聞かれれば、これもそういうわけではない。家で言えば時雨なんかはバリバリのギャルファッションである。これには首を傾げざるを得ないのだが……まぁ、そういうもんかと深く考えずに受け入れた方が楽だろう。スカートをはいた男女が仲睦まじく歩いているのを見ると未だに視覚情報から混乱するが、慣れるしかあるまい。

 

 

「それ、生身で持ち歩くの?」

「ホルダーもあるけど……すぐ使えるようにしておきたいから。使わずに済めばそれがいいんだけど。」

 

 足を踏み出す度に揺れる木刀が気になるのだろう。ベルトに刺したそれを左手で抑えながらそう返した俺は、学校に近付く程に増えていく視線に少し表情を固くした。

 共学とはいえ、そもそもが男性よりも女性の人口が多いらしいこの世界。当然、学校の男女割合も偏ったものになる。

 俺の入るクラスは四十人構成の、女子三十名の男子十名だったか。全校生徒で見ても似たような男女比率のようで、半数以上が女子になる。

 それを考えると、少しばかり顔が固くなるのは仕方がない。身体の方はリラックス出来ているのだから、それでよしとしてもらいたいものだ。……誰に許しを得る必要もないのだろうが。

 

「学校に着いたら、まず私と一緒に職員室に向かうわ。そこから先は……」

「大丈夫。ちゃんと出来る」

「……まぁ、それくらいの方が虫がつかなくていいかしらね」

 

 どうやら鉄仮面と化した俺の顔を見て不安を覚えたらしい氷華姉は、軽く息を吐いてそう呟く。まぁいいか、といった風情である。

 それより虫って。……まあ、色々と平静を保つために最初は距離を置いて貰いたいのは確かだけれど。

 果たして上手くクラスに馴染めるかどうか。柄にもなく緊張しているらしい、と顔を揉みながら通学路を進んでいく俺と、

 

「ふふっ」

「……?」

 

 何やらどこか楽しげに、後ろ手で鞄を持って俺の隣を歩いていく氷華姉なのであった。

 

 

 

 

 

「それでは、私はここで。……夏波、頑張って」

「いや、まぁ……うん、頑張る……?」

 

 職員室にて、氷華姉の去り際のエールに首を傾げながら応える。たかが編入初日で何を頑張れというのか、と思う自分と、まぁ色々と頑張ろうと思う自分がいることによる中途半端な反応である。

 

「じゃあ、私達も行きましょう。大丈夫、もう予鈴も鳴ったし、生徒は全員教室に入ってるから」

「あ、はい」

 

 俺のクラスの担任である先生が立ち上がり、先導して歩き出す。この人とは既に面識があるので、特に構えることも無くなっている。

 何故ならこの人――桐谷(きりたに)霧佳(きりか)さんは、何を隠そう母さんの同期で親友である。俺がこの高校に通うのが決まった時に、真っ先に母さんが指定したのが桐谷先生のクラスだったのだ。

 氷華姉のいる高校に通うことになるなら、と担任は信用がおける人間に当たって貰いたい母さんとしては渡りに船だったことであろう。

 担当するに辺り俺の身の上はほぼ理解しており、面識もあるということでこの高校に置いては氷華姉に次いで頼りに出来る女性だ。

 桐谷先生は黒髪のポニーテールを揺らしながら先を進んでいく。教科担は現代文であるが、本人は剣道の有段者である体育会系とも言える人。高校時代にはインターハイにて個人の部で準優勝一回、優勝一回の成績保持者である。無論、剣道部の顧問である。

 

「ここよ。合図したら入ってきて。かなり女子連中が騒ぐと思うけど、ガン無視で構わないから」

 

何やら扉の窓から覗き込んでいる女子生徒を一瞥し、桐谷先生はそう俺に告げてきた。

 それは教師としてどうなのだろう、と思っている間に、桐谷先生は教室の中へと入っていく。

 

「何立ってんだ馬鹿者」

 

 一瞬開いた扉の先からは、ザワザワとした喧騒が聴こえてきた。次いで、先生が手に持っていた出欠簿で覗いていた女子生徒の頭をひっぱたいてから、後ろ手で扉を閉めてしまう。

 多少緊張しているのか、手には軽く汗をかいている。ただの緊張ではない。教室という狭い空間の中で、家族以外の沢山の女子と相対することに、身体が軽く強張っているのだ。

 左手を木刀に添え、ゆっくりと深呼吸する。

 

 ――大丈夫。問題ない。

 

 平静を保てている自分を確認したところで、桐谷先生から合図が飛んだ。

 意を決して、扉を開いて教室へと足を踏み入れる。迷いなく、真っ直ぐに。表情が固いのは、勘弁して欲しいけれど。

 



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11~緊張、鉄仮面~

連続投稿三回目。


 櫻咲(さくらざき)高校。

 生徒数六二十名、内女子四五十名、男子百七十名。一学年五クラス構成の、この地域ではただひとつの男女共学の高校である。

 その櫻咲高校、一年一組は現在にわかに騒がしい雰囲気を醸し出していた。

 

「転校生、来るの今日だってね」

「水瀬会長の弟なんでしょ? すっごい美形だって」

「私このクラスで良かったわぁ……」

「そんなの噂でしかないじゃん。実物は大したことないかもよ」

「だとしてもクラスに男が増えるだけで充分」

「「「それは確かに」」」

 

 今日に限って無駄に早く登校してきた女子連中の会話を聞きながら、溜め息をついたのは一人の男子生徒だった。

 同じ男として、これから来るであろう転校生には同情せざるを得ない。まだ会ってもいない相手に勝手に期待してハードルを上げ、そうでもないと勝手に落胆する流れが彼には想像に難くない。

 万が一ハードルを大きく飛び越えてきたとして、それはそれで大変なことになるのは目に見えている。どの道転校生には茨の道しか残っていないのだ。

 

(……まぁ、男同士仲良くしたいもんだな)

 

 この獣だらけのクラスの中で仲間が増えるのはありがたい。そういう意味では、彼もまたクラスの女子と同じく、見ぬ転校生を楽しみにしている一人なのだ。

 

 そうこうしている内に予鈴が鳴り響く。

 騒いでいた連中も自分の席に戻り、近くの人間と軽く雑談する程度に収まった。

 いつもよりも担任の先生が遅いのが、これから転校生を連れてくるのだろうかとクラスの期待を盛り上げるのに一役買っている。今か今かと待ち構えるのは、扉に近い位置に座る生徒達だ。一番近い女子生徒なんかは立ち上がって窓から廊下を覗き込んでいる。

 

「――来た! やっば、ヤバいってマジで!」

「マジで!? イケメン!?」

「何立ってんだ馬鹿者、座れ」

「ぁ痛あ!!」

「キリキリ暴力はんたーい!」

 

 担任が教室に入り様、覗いていた女子生徒の頭を出席簿にてひっぱたく。入学して三ヶ月弱の短い期間ではあるが、それなりに気安い関係であることが見てとれるやり取りである。

 担任である桐谷霧佳が教壇に立つ。何やら連絡事項を口にしようとして、教室を見渡したところで溜め息をついた。

 

「前置きはいらないな、さっさと済まそう。あまり騒ぐんじゃないぞ……入ってこい」

「……失礼します」

 

 がらり、と教室の扉が開かれる。

 話題の転校生の姿が今まさに目の前に現れる。女子生徒の多くはその胸に期待を膨らませ、男子生徒もまた控え目ながらにその姿を一目見ようと視線を向けた。

 そして、彼が教室に足を踏み入れた瞬間――

 

「…………」

 

 ――その姿に、全員が息を飲んだ。

 

 まず目につくのは、艶やかながら鈍い光を放つ灰色の髪。腰辺りまで伸びたそれは歩く度に毛先を揺らす。クセのひとつも見当たらないストレートヘアーは、シルクで出来た布のように纏まりを見せていた。

 教壇の横に立ち止まった彼は、軽く全体を一瞥すると担任へと視線を向ける。

 

「自己紹介」

 

 簡潔にやることを促した担任に頷いて、彼はその髪を翻して黒板に向かう。腰に携えた木刀に目がいきそうになり、すぐにチョークを持った右手にそれが奪われる。

 自らの名前を黒板に書いていくその手には、何やら包帯のような白いものが巻かれていた。運動部に所属している女子生徒は直ぐにそれがテーピングであることに気付き、次いで腰の木刀に目を落とす。木刀の持ち手にも、同じように滑り止めのテーピングが巻かれていた。

 

「水瀬夏波。……宜しく」

 

 冷たい声色。鋭い目付き。左手は常に腰の木刀に携えられ、不用意に近付けばそれで切り伏せられるような気配があった。ただの木刀が抜き身の刀に見える錯覚を感じさせながらも――しかし、クラスの全員が彼から視線を外すことが出来ない。

 触れるものを傷付ける雰囲気を持ちながら、彼はどこか儚げで頼りなく。二重の意味で危うさを滲ませている。

 危ういからこその、美しさ。薔薇の棘よりも鋭く、また薔薇よりも脆く、儚く。

 彼を見る全員は――特に女子生徒は、禁忌だからこそ惹かれてしまう、そんな背徳的な欲を自らの内に感じていた。

 

「じゃあ、窓際の一番後ろの席に座って」

「はい」

 

 妙に静かになった教室に内心で首を傾げながら、桐谷はそう夏波に指示する。

 そうして、クラス全員が席に着いたところで、朝のSHRが始まるのだった。

 

 

 

 

 

 き、緊張した……。

 まさか転校生の立場がここまで緊張するものだとは思わなかった。

 勿論、初対面の女子が多く存在するこの空間のせいもあるのだろうが、この緊張はそれだけじゃない。

 考えてみれば、俺自身そこまで人付き合いが多いほうではなかった。人と話しているよりも、剣を振る時間の方が多かったくらいなのだ。そもそもの経験値が足りていないのか。

 今は桐谷先生が朝の連絡事項を伝えているところだ。これが終われば休憩を挟んで一限が始まる。一先ずの山場は、その休憩時間だろう。ちらちらと視線が集まっているのがわかる。一番後ろの席なので、此方を振り返る女子生徒のまぁ多いこと。

 落ち着かないので、目を閉じて視界をシャットアウトすることにする。かえって気配が感じられて逆効果な気もするが。

 

「――まぁ、こんなとこか。ホームルームはこれで終わるが……転校生への質問は程々にすること。特に女子」

 

 目を開かず、無駄に姿勢の良い体勢のままで先生のそんな声を聞く。

 さて、どうなるか。良くある感じで質問攻めにあうのだろうか。覚悟なら出来ているぞ、来るならこい、さぁ来てみるがいい。

 ガラガラ、ピシャンと扉の開いて閉まる音。休み時間の始まりである。

 

「…………」

 

 ――?

 

 休み時間、始まったよな?

 何で物音ひとつしないのか。休み時間ならもっとザワザワするはずなんだけれど。これなら授業中よりも静かだと思うんだが。

 かといってこちらからアクションを起こす気にもならない。背筋を伸ばしたまま、企業面接でも受けているかのような綺麗な体勢で座り続けるしかない。視線だけはバシバシ感じるので、落とした瞼も開けない。

 腰の木刀が地味に邪魔な形になっているので、せめて位置をずらすぐらいはしたいが……。

 

「失礼するわ」

 

 何の修行なんだろうかと、身じろぎひとつ取れない状況は存外あっさり解消される。聴こえた声が馴染みのあるものだったのが幸いして、セルフでの金縛りはあっさり解けてそちらへと視界が開けた。

 

「氷華姉」

「心配になって来てみたけれど。案の定……というよりは、予想以上というか」

 

 革靴を鳴らしながら近付いてくる氷華姉。不思議とこの時点で周りの視線は気にならなくなっていた。注目度は増しているはずなのだが。

 俺の席の前まで来た氷華姉は、腰を曲げてまじまじと俺の顔を見つめている。近いです。

 

「前言撤回ね。もう少しその鉄仮面を柔らかくしなさい」

「わふっ」

「只でさえ私が『氷の会長』とか呼ばれてるの。そこで貴方がそんな冷たいオーラ出してたら誰も近寄れないわ」

 

 不意に伸びてきたその長い指先が頬に触れると同時に、わりと容赦なく顔が揉まれ始める。何やら黄色い声が周りから聞こえてくるが、その。

 

「氷華姉、恥ずかしいから」

「そうそう、その調子」

 

 どの調子だ。

 だんだんと熱を持ってきた頬を相変わらず好き勝手にされつつ、参ったから止めてくれ、と姉の肩を掴んで押し返す。美人に至近距離で顔を触られながら微笑まれるとか色々としんどいです。

 そこでようやく満足したのか、氷華姉は俺の顔から手を離す。しかし直ぐに耳元に顔を寄せられてしまう。力では敵わない為に、押していた腕はそのまま畳まれて俺と氷華姉の身体に挟まれてしまった。

 何をするのか、と唇を尖らせる前に、

 

「大丈夫?」

 

 心底真面目な声色が耳を打つ。周りに聴こえない程度の小さな声だったが、押し返そうとしていた腕からは力が抜けて、息を吐いて頷いた。

 どうやら、自分で考えるよりも更に負担がかかっていたらしい。氷華姉と触れ合うことで、身体に血が巡るのを改めて感じられた。

 

「夏波は少し、我慢し過ぎなところがあるわね」

 

 その言葉に、ふと先生の言葉が頭をよぎる。先生は先生でも、病院の先生の方だが。

 

 

 

『いいかい。君の傷は君が思うよりも大きく、深く、そして治りにくい種類のものだ。快方に向かってから少し、その具合を甘く見ていると思うんだが』

 

『無理だと感じたら我慢をしないこと。苦しかったら助けを求めること。それだけは心に留めておいて欲しい。君は一人じゃないことを忘れないようにね』

 

 

 

「…………」

「ごめんなさい、責めているわけじゃないの。だからそんな顔しないでちょうだい」

 

 どんな顔をしていたのだろう。自分ではわからないが、頬に手を添えられる。その声が、表情がこちらを心配してくれているのは理解できる。

 残念ながら、それに笑みを返すことは出来なかった。言うことを聞かない鉄面皮を憎らくしく思うのは今が初めてだ。

 そんな俺の内心を知ってか知らずか、氷華姉は身体を離すとその冷たい手で俺の頭を優しく撫でる。

 

「とにかく、もっと楽に構えることね。大丈夫だから」

 

 それが簡単には出来ないことを知っていて、あえて氷華姉はそんなことを言うのだろう。それは姉としての厳しさなのか、それとも言葉通りの優しさなのか。

 顔を上げて氷華姉の表情を伺う俺に、ふっと笑いかけた彼女はそこで踵を返した。

 

「弟のこと、よろしく頼むわね」

 

 最後に、良く通る声でクラス全体に向けたであろう言葉を放つと、彼女は教室を後にした。また、静寂が訪れる。

 結局、授業が始まるまでの間、俺に話しかけてくる生徒はいなかった。

 

 

 

 

 

「よう」

「…………?」

 

 初の授業をつつがなく終えた直後の休み時間。

 前方から聞こえてきた声に、直ぐに反応は返せなかった。自分に向けられた声だと理解できたのは、顔を上げて目の前にいる男子生徒がこちらを見ているとわかってからだ。

 

「……何か?」

「いや、別に用はないんだけどさ。いつまでもこの空気じゃ過ごしにくいだろ?」

 

 わざわざ離れた席からこちらに歩いてきたであろう彼は、苦笑しながら周りを見渡す。控え目にこちらも教室を見渡せば、どの生徒もちらちらとこちらの様子をうかがっているようだった。

 確かに、休み時間が来る度にこれでは気の休まる暇がない。

 

「ホントは皆お前に……あー、えっと」

「夏波でいい」

「んじゃあ、夏波。皆お前に話しかけたくて仕方ないんだけどな。女子連中なんてソワソワして見苦しいったらありゃしない」

 

 彼の言葉に、遠くでたむろしていた女子集団がむっと振り返る。咄嗟に木刀に手が伸びるが、手を添えるだけにとどまった。……前途は多難である。

 そのリアクション自体は目立つものではなかったのが幸いして、男子生徒は特に気にすることもなく話続ける。

 

「まぁ、皆の気持ちも分かるんだけどな。お前オーラ出しすぎなんだよ」

「オーラ?」

「なんつーの? 近付けば斬る、みたいな? ぶっちゃけ近寄りにくさが半端じゃない。すんげぇ美形なのに女子が近付けないのがその証拠だな」

「そんなこと……ただ、ちょっと緊張してるだけで」

 

 言いながら、確かに絶えず気配を探るために集中して警戒をしていたことを自覚する。

 近付けば斬る、まではしないにしろ――それに近いレベルで索敵紛いのことをしていたのは事実であった。

 もう少し、もう少し楽に構えよう。全てに臆病に構えていては、前までと何ら変わりがない。要はケースバイケースなのだ。今は一歩前に踏み出す、踏み出しても大丈夫な時。

 そう考えて、努めて警戒心を引き下げる。肌がピリピリと張り詰める感覚が薄まり、ほんの少しだが表情筋が緩んだ……気がする。

 目の前の彼はそれを感じ取ったのか、ぱちくりとその二重の目を瞬かせた。

 

「おぉ? なんだか不思議な奴だな、お前。ミステリアスな感じ」

「そう?」

「お、おぉ……笑ったら破壊力高ぇ……」

 

 何故かおののくように後ずさる彼。どうやら上手く笑えたようだ、と自分の顔に手を当てる。

 そんなやり取りが周りにも伝わったようで、それを皮切りに他の男子生徒も俺の周りに集まってくる。

 俺を含めて十一名の男子。問題なく交友することに成功した俺は、ひとまず上手くクラスに馴染むとっかかりを得たことに安心するのだった。

 

「ところで、何でズボンなんだ?」

 

 ……俺以外の男子は皆スカートという事実に目を背けた上で、だが。



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12~交友は広めるもの~

連続投稿四回目。


 時計の二本の針が頂点を過ぎる。

 体感で何年ぶりの授業は存外に楽しいもので、ここまであっという間に時間が過ぎてしまった。が、慣れれば少しずつ苦痛が混じってくるのだろうな、と。そう考えると少しだけ苦笑が漏れてしまう。

 授業道具を机にしまい、さて弁当でも食べようかと机の上に乗せる。実は自作である。ほら、家族の自炊レベル思ったより低かったからさ……。

 

「ほら、今なら一人だよー」

「チャンスだって、直ぐいかなきゃまた男子に囲まれちゃうよっ」

 

 ……何やら視界の外からそんな声が聞こえてくる。休み時間に入る度に似たような会話がちょくちょく聞こえてきていたが、今回こそ声をかけてくるのだろうか。

 来るなら来るでスパッと来てくれないだろうか。結局来ねぇのかよ、と毎度肩透かしを食らうのも結構疲れるのだが。こちらの一方的な都合とはいえ、一応それなりに気持ちも作らなければならないのだから。

 

「あのっ、お昼一緒に食べませんかっ」

 

 横からかけられた声に、ちらりと視線を向ける「ひうっ」……見ただけでその反応は解せない。むしろ立場からすれば此方がひぅっなのだが。

 長い前髪、肩より上で切り揃えられたボブカットの女の子は、オドオドしながら何故か弁当箱を此方に差し出してきている。それは君の弁当だろうに。

 

「……ん」

「へっ?」

 

 小さく頷いただけでは意図が伝わらなかったのか、気弱そうな彼女は軽く驚いたような反応を返してきた。

 多少恐怖症の点で負担はかかるものの、だからといって女子との接点を全て排除していては共学を選んだ意味が無い。リハビリ的な意味でも、誘いに乗るのはやぶさかではなかった。

 

「……食べないの?」

 

 弁当箱を差し出した体勢のまま固まってしまった彼女を見て小首を傾げる。

 俺の言葉を聞いて反応したのは、彼女ではなく。

 

「おっ、弁当持参か? 一緒に食おうぜ夏波」

「ちょっと一条! せっかく愛が勇気出したとこなんだから邪魔しないでよ!」

「そーだそーだー」

「はぁ? はん、物は言い様だな。下心丸見え」

「し、下心とかそんなんじゃないよぉ」

 

 可愛らしい弁当箱を片手に持ちながら歩いてきた男子と、呆気に取られたようなままの彼女の背中を追うように現れた女子二人。

 軽口の応酬でようやく再起動を果たした件の彼女は、その小さな口から小さな声で言い返していた。多分その声じゃ聴こえてないと思う。実際他の三人はワイワイ言いながら机をくっつける作業に勤しんでいた。

 俺の隣に一条が、その前に女子が三人。机の配置的に無駄にスペースを取るフォーメーションが完成する。

 

「ってか、お前弁当でかくね?」

「そう?」

「女子みてぇなデかさじゃんか。そんなに食えんの? 太るぞ」

「……燃費悪いから」

 

 俺の隣に座った男子――一条(いちじょう)(つかさ)がそんなことを言ってくる。俺からしてみれば、一条の弁当こそ小さすぎると思うのだが。

 俺の弁当とて非常識に大きい訳でもない。普通の二段重ねの武骨な弁当箱である。少し底が深い分量は入るが、それでも俺の感覚で言えばこれでも小さく感じる。

 ……とはいえ、この身体には結構限界の量でもあるんだけども。それでも多少無理して食わなければ、消費カロリーに追い付かないのだ。

 風呂敷をほどき、弁当を開く。

 

「おっ、うまそうだな。父親?」

「……ううん。自分」

「まじか。男子力たけぇ」

 

 心にチクリとした痛みを感じ、しかし表には出さずに内に留める。わざわざ飯が不味くなるようなことを言うつもりもない。

 俯きそうになった顔を意識して上げると、前に座る三人がまじまじと俺の弁当を見つめているのが目に入った。どこか妙なことでもあるのか、と自分で弁当を確認するが、そういうわけでもなさそうだ。

 閉じたままくっつきそうになる口を開く。

 

「どうか、した?」

「男子の手作り弁当……」

「写真とろーっと」

「ほわぁ……」

 

 三者三様……というわけでもないか。少なくとも二人は同じような反応である。真ん中の一人だけやたらとマイペースなのが気になる。許可取りなさいよ。いいけども。

 

「なぁなぁ、おかず交換しようぜ。卵焼きトレード」

「卵焼き同士で?」

「よその味って気になるじゃんか」

「まぁ……いいけど」

 

 一番マイペースというか、ぶれないのは一条なのかもしれない。言われるがままに卵焼きトレードを成立させ、せっかくだからそのまま口にする。

 む、一条家の卵焼きは甘口か。ちなみに俺の卵焼きはだし巻きである。(にっく)き爺がだし巻きじゃねぇと文句つけてくるからな! 卵焼きの味違うくらいで素振りの数増やしやがって。そのくせ酒飲む時は甘くないと嫌だとかガキかと。爺のくせにガキかと。

 

「そういえば、名前」

「んー? あ、ブログ乗せていーい?」

「いいけど……」

「やりぃ。神崎(かんざき)由井(ゆい)だよ、よろしくー」

 

 う、うん。

 独特なペースにつんのめるような感覚を覚えながら名前を覚える。艶やかな黒髪のショートカットはところどころ跳ね、気だるげな口調と大きな垂れ目が全体的にダウナーな雰囲気を醸し出している。しかし、少し厚めの唇と泣き黒子がそこはかとなく色っぽい。……男をダメにしそうな子だな。気を付けよう……いや、何を?

 

「しつれーなこと考えてるでしょー。これでも由井ちゃんは才女なのだよ」

「へぇ」

「つめたーい」

 

 限り無く素に近い返事が出た。が、神崎はにへぇと笑ってコンビニのパンを口にする。掴み所のない人間だ。

 

「アタシは太刀川(たちかわ)皐月(さつき)。剣道部だよ! よろしくね」

 

 此方は髪を横で纏めあげた、つり目で二重瞼の元気な娘だった。差し出された手を見て、少し躊躇ってからその手を握る。服の下で鳥肌が立つのがわかったが、それも直ぐに収まった。

 

 ……良い手だな。テーピング越しなので細かい感触はわからないが、長年の努力が手に現れている。

 

「水瀬さんも剣道やるの?」

「夏波でいい。……剣道、とは違う。俺がやってるのは、剣術」

「へぇ? どこの流派?」

 

 ……流派、流派かぁ。

 手を離し、顎に手を当てる。

 答えることは出来る。出来るが、斎藤流は時代と共に受け継がれてきた、所謂古流剣術ではない。当然新撰組の斎藤さんとも何の関係も無い。

 つまるところ、斎藤流とは爺が源流。つまり爺の我流の剣である。古今東西、世代を超えて世界を越えて、果ては剣というカテゴリーすらはみ出して。爺が使えると思った技術を組み合わせて練り上げた、それが斎藤流なのだ。

 人切りなんて望むべくもない世間で、生物を切り殺す為に磨かれた技術。極めれば龍すら殺めてみせると大笑いしながら俺に言っていた爺の目は、しかし全く笑っていなかった。

 しかし、この世界に爺はいない。斎藤の剣を受け継いだのは俺しかいない中で、あえて流派を挙げるとするならば――

 

「――我流、かな」

「……我流?」

 

 太刀川の目が怪訝そうに細められる。どうやら気に触ったらしいな。嬉しくないことに女の機敏には鋭い俺だ。腰の木刀に手が伸びる。

 彼女は笑顔を見せた。間違っても好意的なものではない。少なくとも、俺にとっては。

 

「あんまり無茶なことしたら危ないよ。男の子なんだし」

 

 クスクス笑いながら言う太刀川。どうやら、彼女は俺の言葉を軽く受け取ったらしい。子供が棒切れを振り回して遊ぶのを諌めるような口調だ。

 ……仕方がないか。我流で剣術やってますとか、俺が聞いても似たような感想を抱いただろう。

 木刀から手を離す。代わりに箸を手にとって、唐揚げを口に運ぶ。

 

「あ、あの! 間宮(まみや)(あい)です……」

「どうして自信を無くしていくのか」

 

 最初が一番大きく、最後には聞き取るのも苦しいくらいに細々と消えていった言葉に、妙に流麗な仕草で口元を拭いていた一条が突っ込んだ。

 名前は辛うじて聞き取れたので問題はない。ないが、会話の度にこれだとするならば、是非とも改善して欲しいところだ。

 

「柔道着着てたらホント別人なのにねぇ」

「由井ちゃんは双子説を提訴するー」

「あぅ」

「柔道着……?」

「あぁ」

 

 軽やかに唐揚げを拐っていった一条が会話を引き継ぐ。

 

「間宮は柔道部なんだよ。なんでも先輩方を入部初日に全員ぶん投げたとか」

「ぜ、全員じゃないよ。流石に主将には負けたよぉ」

「うちの柔道部の主将ってメダル期待されてる化けもんだろ? それにまで勝ってたら流石に引くわ」

「うぅ……あの引き手を切れてたら……」

「悔しがる場面じゃねぇし。引くって言ってんだろうが……あれ、シュウマイがいっこ消えてる!?」

 

 若干リスみたいになっているであろう状態で、小さく縮こまっている間宮を眺める。

 どこからどうみてもか弱い女の子にしか見えないのだが……やはりこの世界の女は見た目で判断してはいけないようだ。

 そう考えると、もしかしてクラスの女子連中に俺は力で負けている……? 由々しき事態、なのか? それよりもシュウマイが思ったよりもデカイ。一口で食うんじゃなかった。

 

 

 

 

 その後、弁当を平らげて変わらぬ面子で過ごしていると、

 

「夏波。お昼は食べた?」

「氷華姉」

 

 朝ぶりとなる氷華姉が教室に降臨する。氷華姉が現れた瞬間に、昼休みにも関わらず教室が静けさに包まれたのだから降臨でもあながち間違ってないだろう。

 

「校内を軽く案内するから、ついてらっしゃい」

 

 言いながら手を差し出されたので、それを掴んで立ち上がる。

 皆に軽く手を振ると、全員笑いながら手を振り返してくれた。つられて顔が緩むのを感じながら、俺は氷華姉に手を引かれながら教室を後にするのだった。

 

 

 



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13~剣と拳~

(途切れた)連続投稿五回目。


 氷華姉と手を繋いだまま、廊下を進んでいく。少し気恥ずかしい気もするが、安心感という意味でもその手を離す気にはなれない。少しだけ握る手に力を入れると、答えるように握り返されるのが心地よかった。

 顔を上げると、穏やかに微笑んでいる氷華姉と目が合う。

 

「どうだった?」

「今のところ、問題ない」

「そう。ならいいわ」

 

 端から見れば素っ気ない会話なのだろうが、俺からすれば充分。こちらを気遣う気持ちは繋ぐ掌から伝わってくるし、互いに口下手なのを理解しているので誤解も無い。

 それよりも、先程から気になるのは――

 

「……見られてる」

「仕方ないわ。色々と人目を惹くのはわかるでしょう?」

 

 空いた手で肩に掛かった髪を払いながら、何でもないことのように言う氷華姉。

 

「転校生である貴方には勿論……私も似合わないことしてる自覚はあるから。これでも恥ずかしいのよ?」

 

 繋いだ手を持ち上げられ、眉尻を下げながら笑う氷華姉。初めて見るタイプの笑みに少しだけどきりとさせられたが、どうやらそれは俺だけではなかったようだ。

 

「あの会長がはにかんでいる……だと……」

「会長も人の子なのね……」

「あんな弟いたらそりゃ笑顔にもなるわ」

「銀髪生徒会長に灰色長髪の美形男子とか属性多すぎる」

「人目もはばからず手繋ぎデートとか羨ましすぎぃ!」

 

 ……どちらかと言うと氷華姉の方が注目を集めているようだ。どうやら、今朝方に自分で言っていた『氷の会長』の名は伊達ではないらしい。すれ違う生徒がほぼ全員氷華姉を見て信じられないように二度見を繰り出していく。

 運良く笑っている瞬間を見た女子生徒は意識を持っていかれたのか、貧血を起こしたようによろめいて壁に身体を預けていた。どうやら同性にも人気な氷華姉だった。

 

 ……ふと思ったが、この世界での同性愛の立ち位置はどうなっているのだろうか。ぶっちゃけそっちに首を突っ込むつもりは更々無いのでどうでもいいといえばどうでもいいのだが。

 スカートの件もあるので何もかもあべこべになっているというよりかは、男性の立場が女性寄りになった上で、様々な境界線が曖昧になっている、というのが今のところの認識である。でなければ、言葉遣いや立ち振舞いでもっと違和感があってもいいだろう。

 男は男の言葉遣いそのままであるし、母さんや氷華姉を見ても女口調である。勿論、泉姉のように男の口調で話す女の人もいるので、御嬢様口調の男だっているのかもしれないが。

 

「何考えてるの?」

「ん……ちょっと」

 

 視界の端に銀髪がなびく。その言葉に、そこまで深く考えることでもないか、と思考をそこで打ち切った。そもそも思考の切っ掛けが同性愛なのであんまり引っ張りたくもない。

 今は、取り敢えず氷華姉の案内に身を任せることにしよう。

 

 

 

 

「購買ね。昼休みの開始十分は近寄らないのが懸命よ。運動部の女子が戦争してるから」

「そこはそうなんだ……」

「? まぁ、簡単な授業道具とか日用品もあるから覚えておいても損はないわね。一人で辛いと思ったなら呼びなさい。皆私を見ると綺麗にふたつに割れてくれるから」

 

 モーゼの海割り……?

 

 

 

 

「保健室はここね。保健医の先生……というより、教員は全員貴方の事情を知ってるから、無理しないでここに避難させてもらいなさい」

「多分そこまでひどくはならないと」

「わかった?」

「わかった」

 

 

 

 

「私のクラスよ。困ったことがあれば私に頼ること。大体ここか、次に行く生徒会室にいるから」

「わかったけど……なんでこの体勢……?」

 

 何故にあすなろ抱き。

 

「全方位ガードよ」

 

 氷華姉の背中はがら空きだと思います。

 

 

 

 

「大体は案内出来たかしら……いい時間だし、ここで最後ね。ここが生徒会……どうかしたの?」

「…………」

 

 大体校舎一周、内部の施設は粗方回ったところで最後に訪れた生徒会室の前、俺は氷華姉の手を強く握り締めた。逆の手で木刀をベルトから引き抜く。

 黙り込んでしまった俺を氷華姉が覗き込んで、眉を潜めてから生徒会室の扉を睨み付けた。

 そして、俺を背に庇うようにしてから、その扉を叩く。

 

「私よ。誰かいるの?」

「……会長? いえ、大したことじゃありません。入ってもらって構いませんよ」

 

 中から返ってきた声に、氷華姉は振り向いて視線を向けてくる。俺がコクりと頷くのを見ると、また前を向いて扉に手をかけた。

 開かれたその先を、氷華姉の背中越しに覗き込む。そこにいたのは、生徒会の腕章を付けた女子生徒と――もう一人。

 

「んだよ、今度は会長様のおでましか」

「また貴女なのね……今度は何をしたの」

「騒ぐほどのことはしてねぇよ。なぁ、もういいだろ?

おかげで昼飯食い損ねてんだ。俺は被害者、オーケー?」

「しかし……」

「前みたいに手ぇ出した訳でもねぇんだ。いけすかねぇことしてる連中をちょっくら脅かしただけだって」

「それで学校の備品を壊してしまっているのが問題なの。机の予備だってタダじゃないのよ?」

「ぁー……でもよぉ。脆すぎる机使ってる学校も悪くねぇ? 俺ちょっと殴り付けただけだし……」

「ちょっと殴り付けただけじゃあ机の天板は割れたりしません。……はぁ、いいですもう。とにかく壊れた机の件は御家族に連絡させていただきますから」

「……好きにしてくれ」

 

 少しだけ剣呑な雰囲気の中、立ち上がったのは一人の少女だった。

 俺と同じくらい長い髪は、しかし俺のそれとはあまりに性格が違っている。真っ赤、とまではいかないにしろ目に見えて赤い髪は、適当に染めたのか所々に黒が混じっていた。地毛が赤なのか、それとも赤に染めたのかは定かではない。

 所々跳ねた髪を揺らしながら此方に向かって彼女は歩いてくる。短いスカートに胸元のボタンを止めていないワイシャツ。腰に体育で使うジャージを巻き付けた彼女は、すれ違い様に此方に視線を寄越してきた。

 

 瞬間、

 

「――――」

 

 にらみ合いになっていた時間はどれくらいだっただろうか。ほんの数秒……いいや、彼女は立ち止まりもしなかったので一瞬の間でしかなかったのだろう。

 俺が木刀をベルトに差し直した時には、既に彼女は廊下を曲がって視界から消えていた。

 掌に浮かぶ、じっとりとした汗。同じように、額にも汗は浮かんでいる。それを見た氷華姉がハンカチで拭ってくれた。

 

「大丈夫?」

 

 心配そうに聞いてくる氷華姉の声も、すぐに頭から抜けてしまう。

 

 ただの恐怖症から来た汗ではない。

 

 俺は今、心底驚いているのだ。あの一瞬で互いが起こしたアクション――それは、俺が前世で幾度となく経験、実行し、またやられてきたものと全く同一だったからだ。

 

「俺と、同じ……?」

 

 脳裏に浮かぶ、高笑いする爺とおしとやかに笑うその奥さん。俺が学んだ剣と拳は、下手をするとこの世界にも息づいているのかもしれなかった。

 



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14~先々の先~

 俺が通う道場では、爺の剣を学ぶ前に、爺の奥さんから無手での護身術を学ばなくてはならない。

 その名も無手斎藤源流。そのままではあるが、奥さん本人がこだわらなかったのでそんな名前になった、らしい。

 あくまでも護身、文字通り自らの身を守るための技術なので、攻撃的なものは少ない。基本的に後の先を主体とした武術になるのだが、ひとつ特徴と呼べるものがあった。

 それは、対武器戦を想定した武術であるということだ。特に教え込まれるのは刃物に対しての護身術であり、最終的に爺の一太刀を無傷で受け切ることで晴れて卒業、そこから初めて爺から剣術を教わることが出来る。受け方に指定はない。白刃取りでもいいし、受け流しても構わない。条件はただ『避けない』ことだけだ。

 当然、爺とてそれなりに手加減した上で一撃を放つ訳だが、中途半端な技術では強かに竹刀で身体を打たれることになる。その一撃に心が折られ、道場を去った人間が何人いたことか。

 ちなみに、俺の時も例外なくその試験は行われたわけだが――そこでも爺は俺に対して容赦がなかった。

 第一に剣速が違う。今だからこそわかるが、爺は間違いなく本気で俺に対して剣を振り下ろしてきていた。

 第二に、回数が違った。他の入門生は一度でも受けきればそれで良かったのに対して、俺は三度もそれをやらされた。

 そして何より、爺が振るう得物が違った。三度行われたそれは、一度目は竹刀。二度目は木刀。三度目に至ってはあろうことか本身の真剣を持ち出してきたのだ。

 模造刀でも、刃を潰してあるようなものでもない。そこらのナイフよりも遥かに切れる業物である。下手に受ければ怪我どころか指や腕は飛ぶ。爺が本気で振るうそれは人すらも両断せしめるであろう一太刀を、俺は文字通り死に物狂いで受けたということだ。

 ……良く生きてたな、俺。

 

 少し話はそれたが、その時に身に付けた技術の中に先んじて相手の動きを制するものがある。

 既に相手が武器を構えた状態だったならば、先にそれを振るわせてからが無手斎藤源流の土俵である。

 しかし、その前。相手が武器を構えていない場合。刀ならば帯刀状態で鞘に収まっている時、それ以外なら、そもそも武器を隠し持っているような相手の場合だ。そこに、無手斎藤源流の真髄とも言える技がある。

 端的に言えば先の先、その更に先である先々の先である。

 相手が武器を抜く、構える動きそのものを止めて武器を使わせない。武器を使う意思をあらゆる要素から見抜き、それが行動に移される前に動きを封じてしまうのだ。

 

 ――それを、俺はあの少女にやられた。

 

 当然この技術も、成熟された使い手には上手くいかないことがある。意識を殺されてしまえば武器を抜くまでに抑えることが叶わない。逆もまた然りで、俺も奥さん相手には構えさせてすら貰えないことが多々あった。

 しかし、それは未熟者もいいところだった頃の話だ。今ならあの人が相手だろうと先々の先を容易く取られることはない。

 

「はずなんだけどなぁ……」

 

 あの時の俺は警戒心の塊だった。

 

 扉の先から感じる気配。女性限定ではあるが、前世のそれよりも更に強くなった気配察知は、彼女が実力者であることを姿を見ることなく確信していた。無論、彼女から滲み出ていた怒気によって身体が反応していたのもあるが。

 彼女が此方を横切る時、目が合った瞬間に俺の脳裏を横切ったのは、件の恐怖体験からの被害妄想だ。

 

 ――その両手が怒気と共に此方の首に伸びる幻視。

 

 掴み掛かられると判断した身体が木刀を掴む手を動かそうとした。

 が、結果としてその手が動くことはなかった。結果が見えてしまったからだ。

 被害妄想からの幻視とはまた違う。

 木刀を構えようとしたその手を抑えられ、逆の手で顔面を打ちのめされる明確なイメージが頭に叩き込まれたのだ。当然、そんなものを視てしまっては動くことなど出来はしない。

 

「俺が鈍ってるのか……?」

 

 あの瞬間、互いにアクションを起こした訳ではない。

 つまり、俺の攻撃的な意思を読んだ彼女が、そう来るならこう返すぞ、と考えただけ。行動に移される前の意思が交わされただけで、実際はすれ違う際に目が合っただけ。

 あれだけ見事に先々の先を取られたのは久しぶりだ。精神面も疎かにしてはいけないな、と気持ちを改めると共に、彼女のことを思い返す。

 まだ彼女が無手斎藤源流の使い手だと決まった訳ではない。先々の先は何も無手斎藤源流の専売ではないし、似たような武術の使い手なだけの可能性もある。というより、そちらの可能性の方が高いだろう。

 あの攻撃的なイメージを思うに、有り得ても限り無く似たような別の流派だ。無手斎藤源流は、あそこまで攻撃的な気配を孕まない。

 

「夏波ー、何してんだー」

 

 縁側に腰掛けて空を見上げていた俺に、泉姉の声が届く。

 待たせたら悪い。俺は思考を打ち切って、家族が待つ居間へ向かうのだった。

 

 

 

 

 

「お帰りなさい夏波! どこも怪我してない!?」

「うぷっ……大丈夫だよ」

 

 仕事から帰ってきた母さんは、スーツも着替えずにソファで寛いでいた俺を抱き締めた。

 帰ってきたのは母さんだし、学校に行っただけなのだからそうそう怪我もしないだろうと突っ込みたくなったが、母さんの胸に埋もれた俺はそこまで言葉を紡げない。

 

「はいはい、とっとと風呂入ろうなー」

「うぐっ……さ、流石馬鹿力ね……!」

「お陰様でな。いいから夏波を離せ」

「もう少し!」

「駄目」

 

 ぐい、と母さんを持ち上げたのは泉姉だ。両手で母さんの脇の下に手を入れて軽く持ち上げた泉姉は、呆れたようにそのまま風呂場へと連行していく。母さんも俺を離さないので、都合二人の人間を持ち上げていることになるのだが……。

 

「いい加減にしろって」

「あぁん、仕方ないわねぇ」

「毎回毎回二人の人間風呂場に引き摺ってくアタシの身にもなれ」

 

 溜め息をついて脱衣場に消えていく母を見送る泉姉。その脇には俺が抱えられている。実はこれ、我が家での毎晩の光景である。

 流石に退院直後はこんなことなかったのだが、俺の症状が予想よりも遥かに安定しているのと、家族に対してはほぼ何の懸念もないのがわかってからは定番のネタと化しているのだ。

 仕事から帰ってきた母さんが俺を捕らえ、俺を離さない母さんを泉姉が連行する。母さんも母さんでそれを楽しんでいる節があり、たまに俺ではなく何故か時雨と共に連行されていく時もある。キャーキャー言いながら運ばれていく光景は意外に面白い。

 ごく稀に、氷華姉が風呂に入る番になってからわざわざ俺を捕らえてそのまま動かなくなり、泉姉が困惑しながら連行していくこともあった。あれはあれで多分姉である彼女に甘えているんだろう。表情からはよくわからないが。

 

「夏波も、嫌な時は言っていいんだからな」

「楽しいから、いい」

「……そうか」

 

 脇に抱えられながら居間に戻る俺。水瀬家は今日も平和である。

 




次回投稿は明後日。
ペースが崩れたことにお詫びを。


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15~剛剣・鋼打~

 学校に通うようになって一週間。およそ何の不都合もなく通えているのはいいのだが、目下の懸念……ではないものの、気になる存在であるあの彼女とはあれから出会えていない。

 別に出会わなきゃいけない理由も無し、むしろ恐怖症を患っている身からすれば不用意に接触するのは褒められたことではない。あの雰囲気から察するに、あまり人当たりの良い人間とも思えないし。

 

「じゃあ、私は先に行くけれど……気を付けてね」

「心配し過ぎとは言えないけど。大丈夫、時雨もいるから」

 

 何時もよりも早い時間。これまで一緒に登校していた氷華姉が、生徒会の用事があると先に行くことになり、俺はそれを見送るために玄関先に立っていた。

 その表情はあまり変わらない。が、見る人が見れば心配そうな顔をしているのがわかるので、俺は最近可動域が増えた表情を動かして笑顔を作った。

 

「そんな作り笑いされてもね」

 

 ひどくない?

 

 結局、彼女の心配を解消することも出来ず、かといって遅れる訳にもいかない氷華姉が家を後にする。

 心配はもっともだし、俺もまた不安はあるが、それで氷華姉に迷惑をかけるのは望むところではない。幸い途中までは時雨がついてきてくれるので、道中全てで警戒することもない。

 これから一人で登校しなければならない場面も出てくるだろう。その練習だと思えばなんてことはない。

 そんなことを考えながら、俺は朝食を摂りに踵を返した。

 

 

 

 

「時雨、まだ?」

「ちょっとだけ待って。あと少し」

「五分前も同じ事言ってた……」

 

 鏡に向かってメイクやら髪型やらに手をかけている時雨に嘆息しながら、そちらに向けて歩を進める。

 時間的にはまだ余裕があるが、あまり遅くなると生徒の登校ラッシュに重なるのであまり嬉しくない。不特定多数の女子と共に生徒玄関をくぐるのは、俺にはまだまだ高いハードルなのだ。

 

「もう充分だと思う」

「お兄ちゃんの隣歩くんだよ!?」

「いや、うん」

 

 ぽん、と背後から両手を肩に置いてあげると、イマイチ要領の得ない返事が気合い共に返ってきた。言いたいことはわからないでもないが。

 ちなみにこちらでのメイクは基本的に女性のするもの。およそ俺の常識と相違ないが、その理由が微妙に違っていたりする。女性がメイクをする理由は同じだが、男性の方が少し違うのだ。

 こちらの男性は基本的に肌荒れ等のお肌トラブルとは無縁であり、スキンケアはするが化粧はしない。かといって全くしないかと言われればそうではなく、いわゆる勝負所では男性もメイクをするらしい。

 男性がメイクをした状態で女性と一対一で出会うこと、それすなわち男性からの本気アピールということだ。

 しかし男性の化粧は非常に薄い。そのアピールに気付くことが出来るか出来ないかが、その後の結果如何に大きく関わることになる。

 ……アピールすらならもっと分かりやすくしろよ、とは思うが、そこはいじらしい男心の難しいところだと思うことにしよう。自分で言っててなんだが意味がわからない。

 

「変じゃないかな? 大丈夫?」

「大丈夫、可愛い可愛い」

「そ、そう? ……うふふ」

「気持ち悪いぞ」

「うっさい泉姉! ホントは羨ましいくせにー! 行こうお兄ちゃん」

「行くから鞄は持たせて」

 

 捨て台詞よろしく言い放った時雨に腕を掴まれ、連行されそうになりながら辛うじて鞄を回収する。木刀は結局使うことになったホルダーに刺さっているので問題ない。

 バタバタと靴を履いている時雨から目を逸らしつつ自分も靴を履く。ただでさえミニスカなんだからもう少し気にして欲しいものだが、見えてもほぼ気にしないのがこちらの女性である。

 これが家族以外だと普通に恐怖症から身体が強張るし、その面で心配がいらない家族だと別の意味で身体が強張る。常識的に考えてどちらも危険である。拗らせると容易く禁断の道へと進んでいきそうで怖い。いや、女が駄目だからって男に行くよりは遥かにいいんだけど。健全かどうかは置いといて。

 心の中で、妹……時雨は妹……と自分でもどうかと思う自己暗示をかけながら立ち上がる。

 そんな俺を見て、勢い勇んで扉に手をかけた時雨だったが、残念ながらその勢いはすぐに萎れることになる。

 

「よーし、記念すべき初登校、行ってみよ……」

 

 扉を開けた瞬間に、けたたましいサイレンと共に真っ赤な車が横切っていく。尻すぼみに小さくなった時雨の声に被さるようにして消えていった音に目を瞬かせながら、俺は時雨の肩口から外に顔を出した。

 

「消防車……?」

「みたい、だね」

 

 至近距離で顔を見合わせた俺達は、一抹の不安を感じながらも登校を始めるのだった。

 ……至近距離過ぎてちょっとドキドキしていたのは秘密である。

 

 

 

 

「あ、あそこだ……結構すごい」

「みたいだね」

 

 火事の現場は思ったよりも近場だった。

 歩き始めて数分の位置にあった家は既に鎮火されていたようで、辺りに燻った匂いを漂わせている。朝だからか野次馬もまばらで、家の様子は簡単に見てとれそうだ。

 ……半焼、といったところだろうか。怪我人はいなかったのだろうか、と思いながら横切ろうとしたところで、

 思いがけない人物の姿が俺の目に入ってきた。

 

 間違いない。あの目立つ赤い長髪。短いスカートに腰巻きのジャージ。生徒会室にいた彼女本人の姿が、吹き抜けになった玄関の奥で誰かに肩を貸していた。

 

「知り合い?」

「そういうわけじゃない……けど」

 

 家が崩れないかはらはらして、思わず立ち止まってしまう。同時に耳に届く、メキメキと響く嫌な音。不味い。

 彼女もそれが聞こえたのだろう。手早く肩を貸していた状態からその人を担ぎ上げ、倒壊寸前の家から飛び出してきた。

 

 ――直後に、轟音。

 

 燃えた半分が力尽きるように崩れ落ちる。そして、二階部分にあった柱のような木材が、必死に走る彼女の背後へと落下するのが見えて。

 

「――お兄ちゃんっ!!」

 

 時雨の制止は聞こえていた。しかし身体は止まらない。

 逃げる彼女とすれ違う格好になった俺は、ホルダーから木刀を抜く。信じられないような視線を向けてきた彼女の顔が妙に印象に残った。

 

「なにを……!!」

 

 迫り来る柱。燃えたならばいくらか脆いか? いいや、水が染みていたならば見た目よりも重いかもしれない。切り上げは捨てる。ならば払うように受け流す――木材が真横だ。角度と体勢が悪い。これも捨てる。ならば。

 重心を下げると同時に木刀を顔の横から垂直に木材へと向ける。少しでも弱そうな部分を確認、狙いを定める。

 木刀も持たないだろうが――相手とて無事では済まさん!

 

 剛剣・鋼打(はがねうち)

 

 鉄の塊であろうが打ち負けることのない、木刀での必殺の突きのひとつ。

 身体全体の力を乗せた木刀の切っ先が木材に触れた瞬間、嫌な手応えが掌に伝わる。

 が、俺は笑った。夏波になって初めて出たであろう、悪どさすら感じる笑みだったであろう。

 

「はっ……!?」

 

 聞こえた声は誰のものであろうか。

 空中で柱を中程から砕いた刹那の中で、俺は他人事のように考えていた。

 

 

 

 

 

 




はじめてのわざ


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16~鬼も蛇も結構なんで~

 剛剣・鋼打。

 前世にて得意技であったもののひとつであり、貫通力という意味では類を見ない。刀であれば薄い鉄板ぐらいならば容易く貫いて見せる。まぁ、その場合剛剣・鋼穿(はがねうがち)に名前が変わるわけだが。

 さて、多大な破壊力を持つこの技だが、この技に限らず今の身体で剛剣を振るう場合、いくらか弊害が生まれてしまう。

 

「お兄ちゃん!」

 

 背後から時雨が駆け寄ってくる。それに振り返ることはせずに、俺は手元の木刀を持ち上げてしげしげと見つめていた。

 先端に軽いヒビ。そして柄の部分にも同じようなヒビが入っている。形状は保っているものの、最早使い物にはならないだろう。

 先端のそれはともかくとしても、柄のヒビは問題である。突き出しの角度がぶれたせいで、持ち手に余計な負担がかかってしまったのが原因である。いっそのこと折れてしまえば良かったのに。そう思う理由は……

 

「おい」

「っ!?」

 

 不意に手首。身体に走る悪寒に従い、反射的にそれを振り払って後ずさる。握る力を無くしたせいで、木刀は地面へと放り投げてしまった。

 振り払われた手を所在なさげにふらつかせた赤髪の彼女は、煤のついた顔を擦りながら更に近付いてくる。

 

「お前、手首やっただろ……おい、逃げるな」

「……問題ない」

「んなわけあるか。そんな細い手首であんなことしたら」

「放っといて。時雨、ごめん。今日は帰る。……木刀も使えなくなったし」

「えっ、ああ、うん。お母さんに連絡しとく?」

「帰ってから自分でする。じゃあ」

 

 先程掴まれた手首を胸元に抱え、地面を蹴る。後ろから呼ぶ声が聞こえるが……申し訳ないが、無理だ。身体がこの場にいることを拒否してしまっている。

 鈍い痛みを堪えながら、俺は家へと向かって全力で走り始めた。

 

 

 

 

「行っちゃった……大丈夫かな」

 

 残された時雨は、予想もしてなかった事態に混乱しながらも携帯を取り出した。念のため、まだ家にいるであろう姉へと連絡するためだ。

 その横では、地面に落ちていた木刀を拾い上げ、夏波が走り去った方向をじっと見つめている彼女がいる。

 

「……ただの、木刀だな。芯に何か入ってる訳でもない」

 

 次いで、真っ二つに粉砕された柱に視線を移す。軽く足で小突いた彼女は、感触から簡単に壊せるような代物ではないのを確認した。

 彼女とて、背後に迫るこの柱の存在は知っていた。避けきれないと判断した瞬間に、抱えた人には悪いが地面に投げて迎撃するつもりだったのだ。

 が、その刹那にすれちがった男が、こんな何の変哲もない木刀で目の前の状況を作り出した。

 

「何者だよ、あいつ」

 

 夏波が彼女を気に掛けていたように、彼女もまた生徒会室での一件で夏波の存在を警戒していた。

 ただちょっと視線を合わせただけで斬りかろうとしてきたのにも驚いたが、それを抑えようとした動きすらも読まれたのが彼女には衝撃的だったのだ。あんなことが出来るのは、数年前に死別した彼女の祖父くらいしか思い出せなかった。

 

「まぁ、いいか」

 

 考えるのが面倒になった彼女は、木刀を肩に乗せて歩き始める。多少時間が危うくはあるが、遅刻したところで大した問題でもない。

 

「うん。そう……宜しく、じゃね。……ああっ、遅刻すんじゃん、ヤバっ!」

 

 その横を、凄まじい脚力で走り抜けていく女の後ろ姿にも多少の既視感を感じたものの、それすらもまぁいいやと軽く流した彼女。

 

「あの、ありがとうございましたっ!」

「いーよ。怪我無くてよかったな」

 

 先程助けた家の住人に後ろ手で木刀を振りながら、彼女は変わらぬ速度でテクテクと歩き続けた。

 

 

 

 

「おかえり。何か面倒に巻き込ま……真っ青だな。大丈夫か」

「……大丈夫。けど、今日は休む……」

 

 息を切らして家に飛び込んだ俺は、何食わぬ顔で出迎えてくれた泉姉の顔を見て安堵する。

 崩れ落ちそうな膝に気合いを入れて靴を脱ぐと、泉姉に連れ添われて居間へと向かった。

 机の上には氷嚢やら包帯やらが用意されていて、どうやら時雨が連絡してくれていたらしいことを理解する。ソファに腰を落ち着けた俺は、乱れた息を整えるために大きく息を吸って、吐いた。

 

「ほら、手首見せろ。両方か?」

「……ん。捻挫してるくらいだと思う」

「なら、まず冷やすか。氷嚢よりこっちがいいな。後でテーピングしてやるから」

「ありがとう」

「学校に電話は……してないよな。先に連絡するか」

 

 リストバンド型の冷却バンドを手首に巻いてくれた泉姉は、立ち上がって電話へと向かって歩いていく。学校への連絡は泉姉に任せるとして、俺は脈打つ鼓動を抑える為に目を閉じた。

 木刀が役立たずの状態。その中で不意打ちで身体に触られ、相手は恐らく無手で俺を制圧出来るであろう力の持ち主。その状況で平然としていられる程恐怖症は改善していない。

 直ぐにどうこうなるほど酷くないだけで、辛いものは辛いのだから逃げ出してしまうのも無理はなかった。情けないとは思うのだが、こればっかりは仕方あるまい。

 

「……あ、木刀」

 

 そういえば、と放り投げた木刀を置いてきてしまったことにようやく気が付いた。が、どうせもう使えないのだから、と直ぐに諦める。取り回しのいい桐の木刀は部屋にあるので、明日からはそちらを持っていこう。

 

「連絡しといたぞ。……うん。顔色はマシになったな。傍にいた方がいいか?」

「大学は?」

「今日取る講義はいつでも取れるからな」

「……ごめん」

「気にすんなって。一緒にのんびりするか」

 

 うつむきかけた頭がぐしぐしと撫でられる。家族のありがたさと暖かさを感じながら、されるがままになる俺だった。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 話を聞いた母さんがもう一日休ませようとしてくれるのを断り、何時もよりも長いハグをして納得させた上で登校する。

 桐の木刀を携え、横には前のように氷華姉。手首もテーピングで固定はしているが、捻挫も思ったよりは軽かった。うん、何の問題もないな。

 

「私がいないときに限って問題が……」

「誰も悪くないから、気にしないで」

 

 その場にいなかった氷華姉はもちろん、傍にいた時雨も、当然火事だって予測出来るものではない。何が悪かったかと言えば、運が悪かったとしか言えない。誰かが悪いとするならば、本能で動いた俺くらいのものだろう。

 当然昨日は家族から軽い叱責を受けたが、皆俺の身を案じての言葉なのでしかと受け止めた。不謹慎かもしれないが、嬉しくすらあった俺はちょっと笑っていたらしい。怒れなくなるから勘弁してくれ、とは泉姉の言である。

 

「本当に大丈夫なのね?」

「大丈夫。ちゃんと木刀もあるし」

「木刀が無くなったら、っていう不安があるのよ……。昨日の話で改めて突き付けられた気分なの」

「それは……」

「まぁ、私が気を付けても仕方ない部分があるのもわかるけれど。とにかく気を付けること」

 

 氷華姉の言葉に、頷きだけで返す。

 言いたいことはわかるし、木刀が精神の拠り所になっている自分の現状がはっきりと理解出来たのは、ある意味で進歩とも呼べなくもない。

 昨日のように木刀そのものが使い物にならなくなることはそうそうないだろうが、そうなった時の対処もいくらか考えなくてはいけない。木刀があるから大丈夫、では準備不足もいいところだった訳だ。

 二本持ちもありか、とうっすら考えたところで学校に到着し、氷華姉と別れた。その際に俺よりも不安そうな氷華姉に思わず笑みが漏れ、彼女のそれが即座に不満そうな顔に変わってしまったのは余談だろう。

 

 

 

 

「水瀬夏波ってやつはいるか」

 

 聞き覚えのある声が響いたのは、昼休みのことだった。

 弁当箱を出したところで、教室の入り口に立っている声の主に目を向ける。

 見覚えのある木刀を肩に乗せた赤髪の彼女は、不機嫌とも無表情とも取れないような顔をしている。

 

「げっ……お前何したんだよ……」

「さぁ、ね」

 

 明らかに怯えた表情で聞いてくる一条を軽く一瞥してそう返す。

 手を振り払って逃げました、とは勿論言えず、ホルダーに手をかけながら立ち上がる。彼女に負けず劣らず目立つ頭をしている俺だ。直ぐに視線が合い、

 

「……先に食べてて。すぐ戻る」

「大丈夫かよ」

「……さぁ、ね」

 

 顎をしゃくり、踵を返した彼女の背を追い掛けて教室を後にする。

 恐らく危険は無い……はずだ。仮にやり合う羽目になったとしても、今なら得物も手元にある。

 鬼が出るか蛇が出るか――どちらもごめんだが、彼女と話したい自分がいるのも事実。覚悟を決めて、階段を昇る彼女の背を追った。



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17~鬼と鬼~

病室からリハビリがてら。


「単刀直入に聞くけど、いいか?」

「…………」

 

 駄目です、とか言ったら目の前の彼女はどんな顔をするのだろう。恐らくはあの時投げ捨てた木刀であろうそれを肩に乗せた赤髪の彼女は、鋭い目付きでこちらを射抜いている。

 

 彼女の背を追って辿り着いたのは、校舎の屋上。

 

 互いの長い髪が、風に靡いて揺れている。俺の返事が無いのを肯定と受け取ったのか、彼女は顔にかかるそれを耳にかけ直しながら、ぽいと木刀を此方に放り投げた後に、

 

「お前、その剣は誰に教わったんだ」

 

 やはり、そうきたか。

 

 受け取ったそれに視線を落とし、再度顔を上げる。

 質問を質問で返すのはあまり好きではないが――

 

「何故?」

「好奇心……かな。悪いか?」

「……ふぅん」

 

 そう返してくる彼女の態度におかしなところは見当たらない。

 嘘をついている訳ではないだろう。大丈夫だとは思っていたが、取り敢えず屋上での決闘なんて望ましくない状況にはならなそうだと心の中で胸を撫で下ろした。

 そうなれば、こちらの口も少しは動きやすくなる。

 

「それなら、こっちも同じ事を聞きたい」

「あん?」

 

 顎をしゃくり上げるようにして反応する彼女。

 俺が剣術なら、彼女は。

 

「武術。誰に習った?」

「……あぁ、やっぱりわかってる訳か。あの時だな」

「あれは、ごめん。……事情があって、女性が苦手」

「だからっていきなり切り付けてこようとするか?」

「だから謝る。ごめん」

 

 ふぅん、と頬を掻いた彼女の視線は、俺の左手へと注がれている。ホルダーに掛かりっぱなしの左手に、だ。

 

「まぁいいや。俺のコレは母さんからだ。母さんは婆ぁから習ったらしい」

「……流派、は?」

「無手立花源流。立花家の女が使うからそのまんまだな」

 

 ドキリ、と心音が高鳴るのを感じた。

 似ている。俺の無手斎藤源流、そして彼女は無手立花源流。この類似は、果たして偶然なのだろうか。

 けれど少し安心したような、残念なような。それでいて寂しいような感情が胸の内に芽生えるのを感じた。やはり、この世界には斎藤流そのものが存在していないのだ、と改めて突き付けられたような気分だ。

 いや、そもそも立花と斎藤で中身が同じとは限らない訳なのだが。

 

「そっちは?」

「斎藤流。武術もあって、そっちは無手斎藤源流」

「斎藤流……聞いたことねぇな。お前斎藤っていうのか?」

「違う。名字は水瀬。斎藤流はもう使う人がいないから、知らなくても無理ない」

「あん? でもお前は使えるんだろ?」

「最後の一人。察して」

「お、おぉ」

 

 あまり深く突っ込まれると説明に困る。そっちで適当に察して勘違いしてくれると有難い。パチパチと目を瞬かせた彼女は、多少困惑しながらも追及してくることはなかった。

 それにしても、最初の印象から比べると……。

 

「……な、なんだよ」

 

 俺の視線から目を背け、頬を掻くその姿。

 最初こそ、恐怖症のフィルターがかかっていたせいか、どこか関わるのが憚られるような人物だったのだが。話して見ればなんてことはない、ちょっとぶっきらぼうなだけの女の子だ。

 外見だって、身だしなみそのものに興味が無いのか、その辺りはほぼ手付かずであろうにも関わらず美少女と言って差し支えない。切れ長なつり目に鋭い眉は、普段こそ不機嫌そうな印象を強めるものの、先程のようにパチパチと瞬かせると途端に長い睫毛と二重の魅力が現れる。

 スカートから見える長い脚は程よく鍛えられていて、同様に上半身も引き締められているのだろうと予測出来た。

 ……こういう思考なら恐怖症は全く顔を出さないんだよな。脳筋思考にシフトすれば恐怖症も抑えられたりするのだろうか。実際、その時はそんな余裕ないだろうけど。

 

「で、呼び出した理由は」

「……ん、あぁ。さっきの質問したかっただけだ。お前の剣術がうちの爺さんが使ってたのとかぶったからさ。ちょっと気になってよ。……まぁ、爺さんはお前みたいに殺る気満々の剣術じゃあなかったんだが」

 

 奇しくも、彼女もまた俺と同じような感想を抱いていたようだ。どうやら立花の剣は、斎藤のそれと比べて静の位置にあるらしい。

 それを考えると、斎藤流と立花流は剣と拳の位置関係が逆になっていると予測出来る。

 斎藤流は、剣術に対抗する形で拳が成り立っている。つまるところ爺を素手で無力化する奥さんの関係が、斎藤流でいう剣と拳の立ち位置である。奥さんの武術が後手に回る流派なのもその辺りの関係だ。

 立花流が、成り立ちからその真逆なのかはわからない。が、彼女の纏う雰囲気から無手立花源流が後手に回り相手を封殺するような受けの武術ではないのはわかる。

 恐らくは、俺の剣と同じような……殺を目的とした武術なのであろう。問題は、それを彼女がどういう思惑で習得し、振るおうとしているかだ。

 

「…………」

 

 罅の入った木刀を、気持ち強く握りしめる。

 先程彼女が言った通り、俺が振るう斎藤流は殺人剣に属するものである。しかし、俺はそれをそのまま殺人の為に使おうとは思っていない。当初の目的こそ違ったものの、最後の目標は爺に一太刀入れて俺の力を認めさせる為にこの力を磨き続けてきた。

 爺は爺で自分の剣を極めること、斎藤流の真髄なるものをその手に得ようとしてはいたが、流石に殺人までは犯していない。

 ……裏山に籠っては自然動物と相対して切り伏せてはいたようだし、その前に俺が爺の初の剣の錆になりそうではあったが。

 それでも、爺にも越えてはならない最後の一線はあったようだ。

 

 ――剣を振るう場所を間違えてはならない。

 

 あの色々とふざけた爺が、時折真剣な表情で俺に告げてくるこの言葉は、今もこの胸に形を持って残り続けている。

 どんな狂暴な剣も、振るい所を間違えなければ暴虐には至らない。逆にどんな稚拙な剣であろうと、矛先を間違えれば無為な屍の山を築き上げることが出来てしまう。

 その教えがあったからこそ、俺は――斎藤流の剣士は道を違えることなく剣と向き合うことが出来ているのだ。

 

 ――では、彼女は?

 

「んだよ。こんなとこで一戦交えようってか?」

「そんなつもり、ない」

「だったらその目をやめな。嫌でも身体が動きそうになる」

 

 言葉通りに、何かを紛らわすように落ち着きなく手を振ったり爪先で地面をつつく彼女。

 挑発していたつもりは更々無かったが、女性と一対一のこの状況だ。緊張と混じって芽生える衝動を振り払う。

 

 強者を見れば身体がたぎる。そんな習性とも言えるそれが、恐怖症のせいで余計に攻撃的になっているようだ。

 

 

「用事が終わったなら、戻る」

「あ、ちょっと待てよ。名前言ってなかったよな」

「立花さん、でしょ」

「陽華。立花陽華(たちばなようか)だ。名乗りついでになんだけどよ。お前、家の道場来いよ」

 

 その言葉に、返しかけていた踵を止める。

 彼女……陽華の顔を見ると、その名前通りの太陽に向かって咲く華のような眩しい笑顔が咲いている。

 

「話してわかった。アタシとお前は同類だ(・・・・・・・・・・)。お前なら、婆も母さんも気に入りそうだしな」

「……最初に言ったこと、覚えてる?」

「アタシと話せてるんなら平気だろ?」

 

 こてん、と首を傾げる陽華に溜め息をつく。

 詳しく話していないから仕方ないとはいえ、そんな簡単に解決するほど軽い話ではない。

 道場に興味はあるが、現時点では興味よりも恐怖の方が大きいのが実情だ。それに、仮に俺が乗り気であったとしても家族がそれを許さないだろう。

 

「別に今すぐ決めろとは言わないぜっ、と」

 

 無表情のまま陽華を見つめる俺の横を通り過ぎて、彼女は軽やかな動きで地面を蹴った。一息で四角い貯水タンクの上に登ってしまうと、寝転がってしまったのかぶらぶらと足だけしか見えなくなってしまう。

 

「気が向いた日にでも声かけろよー。大体ここにいるから、待ってるぜ」

「……授業、は?」

「フケる。一緒にサボるか?」

「冗談」

「冷てぇな」

 

 声だけの会話はそれで終わり。

 携帯で時間を確認してみれば、昼休みも終わる頃合い。

 校内に続く扉に手をかけて、最後にもう一度貯水タンクを見上げてみた。ぶら下がった脚はピクリとも動かない。

 扉を開き、

 

「確かに、同類かもね」

 

 目の前にいたなら間違いなく斬りかかっているであろう気当りを感じながら、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

「……あー、やり合いてぇー」

 

 残された彼女は、瞼を閉じたまま歯を剥き出しにして笑う。

 

 

 

 

 



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18~玉遊びでも全力で~

 昼休みが終わる直前に教室に戻ると、クラスの男子連中が何やらわらわらと集まってきた。

 何事かと目を瞬かせていると、どうやら件の彼女――立花陽華という人物は危険人物として認識されているらしい。所謂不良として、男子からは近寄りがたい存在なのだ。

 が、ああいうアウトローな人間に惹かれる人もいるのは、この世界でも同じらしい。純粋に俺を心配する人もいれば、間近で話してどんな感じだったかを興味津々で聞いてくる人もいる。

 女に興味の無い硬派な不良と、清楚な女子生徒のカップリングの漫画が前世では人気らしかったが……この世界でもそれは通用するのかもしれない。勿論、逆で。

 そんな心配してくれたり、恋バナに持ち込みたい男子連中には悪いが、今の俺が考えていることは。

 

(木刀二本下げはちょっと邪魔くさいな……)

 

 そんな、全く共有しようのない感想なのであった。

 

 

 

 

「その木刀、どうしたの」

「返して貰った……ううん。届けて貰った……?」

「……? 誰に?」

「あの生徒会室にいた」

「立花さんね。大丈夫だったならいいけど……待って、まさか二人きりになってないわよね」

「…………」

 

 黙秘である。

 

 放課後になり、晩の食材を買い出す為にデパートに向かう最中。隣を歩く氷華姉の冷たいオーラを感じながら、質問にあからさまに目を逸らす。

 いやその。無用心だったのは認めます。なのでその氷のような視線を止めてください。

 

「夏波」

「……ごめんなさい」

 

 話を流すことは出来なさそうなので、早い内に謝罪しておく。あの状況で他の人を巻き込むのも出来ないし、かといって氷華姉を呼びにいくまでもないかと考えてしまったが故の二人きり。そして今である。

 下手に言い訳をすれば更に立場を悪くするのは目に見えていたので、謝罪一択。勿論、迂闊だったのもわかっているのもある。

 そんな俺の想いが伝わったかそうでもないのか、左頬に感じる冷気はスッと引いていった。氷華姉は氷系の超能力でも持っているのだろうか。

 

「あまり心配させないで頂戴ね」

「ありがとう」

「……うん」

 

 自然と出た笑顔で返すと、氷華姉は一瞬呆気に取られたような顔をした後に、柔らかく微笑んだ後に俺の頭に手を乗せた。

 

「今日は何を食べる」

「そうね。泉は肉って言うでしょうけど」

「今日は、氷華姉の順番」

「ふふっ、そうだったわね。買い物しながら考えるわ」

 

 

 余談だが、晩は野菜たっぷり冷やし中華になりました。

 

 

 

 

 

 翌日。

 そろそろ慣れてきた登校を終え、無難に授業を一コマ二コマと終え、昼前の最後の授業。ちょっとだけ懸念があるとある授業を迎える。

 前の授業の最中から和気あいあいとした雰囲気の中、休み時間に入った瞬間に一人の女子が立ち上がる。

 

「よーっし、体育に行くぞーっ」

 

 その大きな声に自然と視線が向いてしまうが、直後に俺は――というより、俺の身体が後悔することになる。

 その子はあろうことか、勢いよくブレザーを脱ぎ捨て、更にワイシャツのボタンを外すことなくたくしあげて脱ぎ捨てた。

 当然、その下にある下着……つまりブラとそれを身に付ける肢体が露になる訳だが――

 

「おいふざけんな! 男子出てからにしろよ!」

「なによー、上半身くらいで」

「転校生もいるっつうのに最低だな」

「見たくなかったら早く行きなさいよ」

「言われなくても行くよバカ」

 

 そうなのだ。今更といえば今更だが、この世界では羞恥心あたりのものも逆になっている。見れば(見てしまったともいう)男子の声に反発とでも言うのか、ブラにも手をかけて今にも外そうとしている女子もいる。

 家族も、俺がいなければ風呂上がりなんかは上半身裸も当たり前のようだ。勿論、俺を気遣って普段はそんなこともないが。

 瞬時に気を張っていなければ危うい程度には教室に肌色が多くなっていき、他の男子に手を引かれながら教室から脱出した。

 精神と身体の誤差にくらくらしながら、体育着片手に更衣室に向かう。

 

「い、いつもあんな感じ?」

「中学じゃそうでもなかったんだけどな……多分お前に見せつけたい魂胆があったんじゃねえか」

 

 手を引いてくれていた一条に聞くと、想定外のような……前世の男として分からなくもないような答えが返ってくる。

 とにもかくにも体育館横にある更衣室に到着。が、ここでもちょっとした問題が。

 

「さ、ちゃっちゃと着替えようぜ」

「…………」

「……どうした?」

 

 ブレザーを脱いでワイシャツのボタンに手をかけたところで手が止まる。

 そう。俺の身体にはあの傷がある。出来れば誰の目にも触れることなく着替えを終えたいところなのだが……。失敗した。こんなことなら最初から下にシャツだけでも着ていれば……それも駄目か。腕にも火傷や何やら残っているのだから。

 と、そこで一条から助けの声が飛ぶ。

 

「なんだ恥ずかしいのか? ほら、そこに更衣室もあるから安心しろよ」

「やった」

「早っ!」

 

 言われるが早いか更衣室に飛び込む俺。なんて良い設備だ。

 それでもリスクを減らす為に豪快に脱いで豪快に着る。長袖長ジャージの完全防備を完成させると、慣れた手付きで髪をまとめて更衣室から躍り出る。

 

「早っ!」

「天丼」

「悪かったな。……ってか暑くなるぞ、それ」

「大丈夫」

 

 プチ漫才もそこそこに授業開始。

 男子の生徒数が少ないからか、それとも今回だけのクラスレクリエーション的な扱いなのか、男女共同でやるらしい。

 集まった人数と面子を見れば二クラス合同のようだ。

 

「よう」

 

 準備運動の軽いランニング。体育館を三週走る最中に、隣から聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 無駄にトップをひた走っていた俺のペースについてくるのは、やはりというか立花陽華であった。

 

「家に来る気になったか?」

「ない」

「なんだよぉ。一回くらいいいじゃんか」

「よくない」

 

 ペースを上げる。容易く追い付かれる。くそっ、この身体じゃ勝てん。

 その後も何かと俺に絡んでくる陽華を軽くあしらいながら準備運動を終える。態度が冷たいのは木刀が手元に無いからだ。一目散に逃げ出さないだけ成長したと思ってもらいたい。

 

 

 

 そして始まったのは、

 

「これ、体育でやるものか……?」

 

 肩口に迫るボールを避ける。即座に背後から返ってくるボールを地面を這うようにして避けた後に、顔にかかった髪を耳にかけ直した。

 

「ぜ、全然当たんないっ!」

「背中に目でもあるのかな」

「いいぞー夏波ー! 二組に負けんなー!」

 

 応援を尻目に、女子がどこか遠慮気味に投げてきたそれを容易く取ると、即座に投げ返して膝元に当てる。アウトである。

 てんてんと転がるボールを拾い上げたのは、

 

「やっぱりやるもんだな」

「また君……」

 

 線を跨いで相対する俺たち。

 ちょっぴり辟易としてきた俺にボールが飛び、それをしっかりとキャッチする。他の女子とは威力が違うそれを感じながら、バスケットボールのように地面に弾ませた。

 

「玉遊びだし、本気出しても怪我人はでねぇな」

「物騒」

「似たようなこと考えてるくせに」

 

 バシィン、と高い音。なかなか本気で放ったそれを片手で取られてしまう。ちっ。

 

「ドッジボールなのになんだこの雰囲気」

 

 外野にいる一条の声が聞こえてくる。

 そう。やっているのはドッジボールである。一組対二組の構図。そして、現在内野にいるのは俺と陽華の一人ずつ。

 最後まで残っている理由は勿論避けていたのもあるが、向こうの女子が俺を狙わなかったのもある。一人になってからは割りと本気で狙われていたが、それすらも避け続けて今のような状況になったわけだ。

 

「ようし。決めた」

 

 先程の俺と同じようにボールを地面についた陽華は、笑いながら口を開く。

 

「ただやるのもつまんないし。ここはいっちょ賭けでもするか」

「嫌だ」

「まあそう言うなって。遊びだよ遊び。勝った方がお願いを聞いてもらえる(・・・・・・・)っていう」

「…………」

 

 飛んできたボールを取る。先程よりも痛い。

 

「絶対服従じゃないぜ。ただ聞いて貰えるだけだ。さ、来いよっ!」

「……勝手な人。まあ本気でやってあげる」

 

 きっとだが、彼女は俺にこう言わせたかったのだろう。その言葉を聞いた彼女はとても嬉しそうな顔を見せて体勢を低くする。

 俺はひとつ息を吐くと、こちらもそれに応えるべく足に力を込めた。

 

 



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19~そんなに甘い訳が無い

 さて、基本的にこの世界では、女性と男性では基礎的な身体能力から明確な差が出ているのはそれなりに確認出来ている。下手をすれば、前世のそれよりもその格差は大きいとすら言えるかもしれない。

 その中で、俺は男性の中ではかなり身体能力は高い方だと自負出来る。そもそも記憶が戻って鍛え始める前から、運動神経そのものは言うほど悪くはなかった。それが、俺という人格が宿ってから身体を壊さない程度には鍛え続けてきたのだ。

 中でも、既に以前の身体を越えている部分がある。それが――

 

「多対一とか程度が知れる」

「そういうなよ、時間に限りがあるからなっ」

 

 体勢を崩していた俺に、陽華から凄まじい威力でボールが放たれる。

 てっきり投げるのも取るのも互いに一人ずつ、つまり外野の邪魔はないのかと思っていたが甘かった。避ければ外野にボールが渡り、また外野から攻撃、避ければ陽華へとボールが。つまり、リスク覚悟で捕球しなければ永遠に攻撃されるという嫌な構図が完成してしまう。

 そして、今は俺が外野のフェイントにより完全に体勢が崩れてしまっている。地面を蹴ってその場から飛び退くことが出来る荷重状態ではない。

 当たった、と陽華の口元が緩むのが見えた。

 

 ――が、

 

「甘い」

「うえっ!?」

 

 胸まで迫っていたボールが、額すれすれで身体の上を通り抜けていく。まさか避けるとは思っていなかったのか、外野もこぼれ球には反応出来ずにそのまま壁に跳ね返る。当然、内野まで戻ってきて。

 

「ようやく、こっちの番」

 

 マトリックスどころではないのけ反りから起き上がり、ボール片手にニヤリと笑う。

 

 ――柔軟性。関節の可動域やしなやかさは間違いなく前世のそれを越えている。

 

 無論、前世とてそれなり以上に身体のケアはしていたので硬いことはなかったのだが、特筆するようなものではなかった。

 それに比べてこの身体にはまだ無駄な筋肉というものがついていない分、凝り固まるようなこともない。そこに体幹の強化をしていけば、先程のような無茶な体勢を保持することも可能になった訳だ。

 

「あんまり長引かせたくない。出来れば当たってくれると助かる」

「お前が素直に当たれば直ぐに終わるんだぜ?」

「性格的に難しい話」

「それが俺の答えってことだ」

 

 半ば意味の無い会話を終えて、ひとつふたつとボールを地面についた。

 さて、こうしてボールが手の内に入ったのはいいのだが、此方もこれで決め手というものに欠けている。そもそも球技と言うものには縁が無かったし、身体能力にモノを言わせたゴリ押しも陽花相手には分が悪い。

 取りにくい場所に投げては避けられてしまうし、かといってぬるい箇所に投げても取られてしまうのが落ちだ。

 先程までやられていたように外野と協力してもいいのだが、それで仕留められるようなら当にこの試合は終わっている。

 そもそも俺が投げるボールの力はクラスの女子よりも多少強い程度のものでしかない。威力だけなら俺よりもある他の女子が投げたものを軽々と受け止める彼女には通じないのだ。

 

「……詰んでる」

「何か言ったか?」

「なんでも――ないっ」

 

 とにかく投げないと始まらないし終わらない。

 そう思い、助走から髪を翻しながらひねりを最大に使ってボールを放つ。当然のようにそれを受け止めた陽花は、歯を見せて笑った。

 

「剣が無きゃこの程度か?」

「……そもそも剣の意味が無い」

 

 わざと取れる程度の力で放たれたボールを受け止め、分かりやすい煽りに無表情でそう返した。ドッジボールに剣を持って何をしろと言うのだろうか。

 

 ……しかし、はからずもこんなところで彼女との差を感じてしまっている自分がいるのも事実。

 剣を抜きにした純粋な身体能力、身体の力とその使い方に関しては、自分は陽花と比べて劣ってしまっているのだ。

 これがこんな玉遊びではなく、無手での組手なら俺は簡単に組伏せられて終わっているだろう。剣を持っても、恐らくは五分と五分。前の身体ならば圧倒出来たのかもわからないが、生憎今の身体はこの水瀬夏波のものである。

 ……それでも、そこらの一般人とは一線をかくす戦力はあるはずなのだが。目の前の彼女はやはり普通ではないということか。

 

 そこからは今度こそ一対一の投げ合いになっていた。が、傍目には拮抗しているように見えて、そこには僅かに、しかし確実に差が出来ている。それを実感しているのは、劣っている存在である俺と――あの顔を見る限り、陽花も感じているのだろう。ほくそ笑むその顔に微かな苛立ちを覚え、放つボールに力が籠る。

 

「おっと。へへ、良い玉放るようになってきたな」

「早く終わらせたいだけ」

「そう言うなって。今終わるさ」

 

 そう言って、陽花はきっと、そこで初めて本気を出した。

 本能的に直感で感じる。今から来る玉は、間違いなく取れない。反射的に逃げる体勢を取ろうとする身体を押さえ付けて、

 

「――おら、よぉっ!!」

 

 そして、陽花の手から弾が放たれた。

 避ける選択肢は消えている。しかし、これは捕ることは叶わない。この時点で俺の負けは決まったに等しい。

 

 ――普通なら。

 

 腰を落とし、砲弾投げのように右手を顎の下に。

 迫り来るボールへと照準を合わせ、一歩大きく左足を踏み出した。

 剛剣・鋼打の力を無手斎藤源流にて放つ、突きの一撃。指をたたんだ熊の手で放たれる掌底は、ブロック塀すら打ち砕く。

 

 無手斎藤源流、我流――無手・鋼打。

 

「んなっ?」

 

 ボールと掌が当たった音とは思えない、鞭を打つような音が響いた瞬間には、ボールは陽花の顔面に迫っており。

 

「確かに終わった。こっちの勝ちで、だけど」

 

 見事に陽花の顔面を捉えたボールは、尚も勢いを持って俺へと跳ね返る。

 それを取った俺の捨て台詞と共に、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、俺達先に行くな。先生には言っといてやるよ」

「ごめん、お願い」

「良いって良いって。面白かったしな」

 

 保健室の出口にて、一条含む男子数名と女子数名が手を振りながら去っていく。曲がり角でその姿が見えなくなるまで見送った後に、俺は大きく溜め息をついた。

 

「まさか気を失うとは思わなかった……」

 

 彼女が眠るベッドから離れた椅子に腰かけ、備え付けられている本棚から適当なものを手に取って開く。当然、木刀は肩に預けた状態だ。

 

 ベッドに横たわるのは当然ながら陽花であり、女子の手を借りて気を失ってしまった彼女を保健室に運んできた訳だが。

 果たして俺があんな方法でボールを返すのが余程予想外だったのか、もしくはボールの威力が余程高かったのか。まぁ、両方だったのだろう。幸いその整った顔立ちに傷はなく、ただ少し赤くなっただけにとどまっていた。

 流石に倒れたままの彼女を捨て置く訳にもいかず、その原因を作り出した自分が保健室に付き添うことにしたのだ。当然ながら、俺は彼女には触れられないので他の女子と男子数名がここまで陽花を連れてきてくれたのだが。

 

「……んぉっ?」

 

 ベッドから間の抜けた声が聞こえてくる。どうやら目を覚ましたらしい、と本から顔を上げてそちらに目をやった。

 陽花は起き上がり、頭をポリポリと掻いた後、キョロキョロと周りを見渡して此方を見つけると、何やら歯を見せて笑って見せた。

 その表情の理由に考えが及ばず、きっと俺は怪訝そうな顔を返していただろう。しかし陽花は嬉しそうに笑ったまま口を開く。

 

「いやぁ、婆以外に気絶させられたのは初めてだ」

「……君の投げるボールが強かったせい」

「よく言うぜ。それに自分の力乗っけて返してきたくせに」

「だとしても、それで気を失うのは情けない」

「あー……それは、そうかも」

 

 実際、逆の立場なら玉遊びで気絶したとして、起き抜けに感じる感情は恥の一言だろう。そもそも、何の勝負であれ気を失う時点で敗北は確定である。

 俺の考えが彼女に伝わったのか、そもそも同じ考えが頭にあるのか、その言葉にばつが悪そうに視線を外した陽花は、そのままばたりとベッドに倒れてしまった。

 立ち上がり、彼女のそばに歩み寄る。

 

「っ」

「甘い」

 

 直後、勢いよく伸ばされた手をかわし、その手を脇に挟んで木刀を顔の直ぐ横に突き立てた。何のつもりか知らないが、そんな不意打ちにもならない仕掛けにはかからない。

 灰色の髪が陽花の顔に被さり、至近距離で睨み合うこと数秒――ここで彼女は、声を上げて笑い始めた。

 

「……何」

「いや参った。まさかここまでやる奴とは思わなかったんだ」

「……手加減してるくせに」

「いやぁ、剣持たれたら本気出しても五分五分ってとこじゃねぇ? ……ってか、女が苦手じゃなかったんじゃ」

 

 言い切られる前に、頭が戦闘モードから切り替わってしまい、弾かれるように陽花から距離を取る。二歩三歩と地面を蹴って保健室の入り口まで後ずさった俺は、荒い息と共に陽花を睨み付けた。

 くそ、脳筋思考から外れると一気に恐怖症が襲い掛かってくる。久しく味わっていなかった苦しさに汗が吹き出てきた。

 俺の豹変振りに、面食らった様子の陽花はその大きな目を瞬かせる。

 

「お、おい。そこまでショックだったか?」

「ちか、寄らないで」

「で、でもよ」

 

 立ち上がり、狼狽えながらもこちらに駆け寄ろうとしてくる陽花を言葉で止める。しかし、尚もその足が止まらないのを見た俺は、

 

「――寄るなと……言っている」

「っ!」

 

 震える脚で立ち上がり、震える声で。しかし、その威圧だけは衰えることなく。

 本気の気当たりを受けた陽花は、そこでようやくその足を止めた。

 

「はぁっ……。ごめん、なさい。君が、悪いわけじゃ、ないけど」

「あ、あぁ」

「っ今日は、さよなら」

 

 後ろ手で扉を開き、踵を返して保健室から飛びだした。

 そこで、俺の思考は完全に恐怖症に支配される。

 

「嫌だ……嫌だっ!!」

 

 

 

 ――思えば、俺はここで初めて、水瀬夏波という人間が抱える傷の深さを知ることが出来たのだと思う。俺という人格が目覚めて、ようやくその傷口に治癒の兆しが見えたというだけで。俺がそれに直接触れることをしなかったからわからなかっただけの話であって。

 

 

 

 走り出した俺の身体は、しかし直ぐに誰かに力ずくで止められていた。次いで、頭が抱え込まれる。柔らかく、暖かな感触。

 

「落ち着いて。私がわかる?」

「嫌だ、離して……っ」

「それこそ嫌よ。聞きなさい。私がわかる? 痛くないわ。熱くもない。危ないことは、何もしない。私は、貴方の姉なのだから」

「姉……、氷華姉……?」

「そうよ。今は何も聞かないわ。だから落ち着いて。今貴方の前にいるのは私だけ。怖いものは何も見えない。私だけ見ていなさい。そうすれば、全て大丈夫」

 

 狂乱しかけ、暴れる俺を抑えていたのは氷華姉だった。

 胸に抱いていた俺の顔を、今度は両手で包み込んで顔を合わせる。その切れ長の瞳は真正面から俺を捉えて離さない。必然、此方も視線を外せない。

 

「落ち着いた?」

「……氷華、ねえ」

「そうよ。貴方の頼れるお姉さん」

「安心、する」

「……眠たい?」

「少し……」

「そう。なら、眠っていいわよ。ずっと傍にいてあげる。安心なさい」

「……ごめん。……でも、誰も、何も、悪くなくて」

「全部貴方が起きてから聞く。何かするなら、そのあとだから大丈夫」

「約束……」

「えぇ。おやすみなさい」

 

 どこまでも、氷華姉の最後の一言が染み渡るようで。

 どうやら、俺はそこで気を失ってしまったようだった。

 

 

 

 

 ――今まで体験していた症状は、ただその傷口を眺めていたようなものであって。

 

 ――その傷が生む痛みは、俺の想像を遥かに越えていて。

 

 ――これを直接刻まれた水瀬夏波は、どれ程の苦しみだったのだろうと。

 

 

 落ちる思考の中で、そんなことを考えていたことだけは、覚えている。

 

 

 ……まぁ、こんな理不尽に黙って負けを認める程、俺は潔い人間ではないのだが。

 

 

 



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20~初めて枕を濡らしました

前半と後半の落差。
少し下世話な話があります。注意。


 目が覚めた時に最初に感じたのは、酷い頭痛だった。

 そして、身体中にまとわりつく気持ち悪い汗の存在に顔をしかめてから起き上がる。ポタリと額から落ちた濡れタオルを暫しボケッと見つめた後、

 

「喉……乾いた」

 

 ここがどこなのかも定かじゃないままに、本能的に飢えを感じてベッドから降りようと脚を下ろす。

 そうして立ち上がろうとした俺は、

 

「あれ」

 

 足に力が入らなかった。ぐらりと世界が傾いた。結果的に、けたたましい音と共に床に倒れてしまったのだ。何か色々と腕で薙ぎ倒したような気もするが、全く頭が回らない。

 

「夏波!? どうした!」

 

 階段をかけ上がる音。この声は……泉姉か。だったら、ここは家? でも部屋が俺の部屋じゃない。じゃあ、色々倒してしまったのは不味かったかもしれない。思えば、何か香水のような香りが鼻に当たっている。香水だとしたら、高いものかもしれない。参った、どう謝ろうか。

 そんなことを考えている内に、扉が開け放たれたようだ。

 一瞬息を飲んだような声が聞こえて、直ぐに身体が抱え起こされる。ぼやけた視界をはっきりさせようと瞬きを繰り返すと、そこには慌てた顔の泉姉がいた。

 

「大丈夫か!? 意識ははっきりしてるか!?」

「大丈夫……ちょっと、転んだだけ。それより……」

 

 抱えられたまま、首を真横に向ける。ようやく、自分がやらかしたことを目に出来た。やはり、香水と、他の化粧品が散乱している。ひどい有り様だった。

 俺の視線を辿り、何を気にしているのか察してくれたようだ。小さく息を吐いてから、俺の頭に手を置いた泉姉。

 

「心配すんな。全部安物だよ。たまにしか使わないしな」

「え……」

「なんだよ、アタシが使ってたらおかしいか?」

「……ううん。ちょっと意外だったけど」

「悪かったな、飾り気のない女でさ」

 

 そんなことを言いたい訳じゃなかったのだが。

 しかし、泉姉の方は冗談だったらしく、笑いながら俺を抱き上げた。

 

「今、何時?」

「五時を過ぎた辺りだな。腹具合はどうだ?」

「わからない……」

「起きたばかりだもんな……っと。少し片付けるから、待ってろよ」

 

 俺をベッドに優しく下ろし、頭を撫でて笑いかけてくれる泉姉。精神的に弱っているからなのか、彼女の存在がひどく心に刺さるのを感じた。

 そして、触れていた熱が離れていくのを感じた体が、俺の意思とは関係無くそれに反応する。

 気が付けば、瞳からはらはらと涙が流れ落ちていた。

 

「ちょ、ちょっと待った。いきなりどうした」

「……わからない。でも、止まんない」

 

 悲しい訳ではない。しゃくりあげるような、辛い涙ではなく、ただただとめどなく流れる涙が頬を濡らす。

 滲む視界の向こうでは、焦った泉姉がおろおろしていた。困らせてしまっている。しかし、どうにもそれは止まってくれない。

 

「大丈夫。気にしないで」

「気にするだろ普通……。どこか、痛い訳じゃないんだよな?」

「うん……」

 

 どこから出したのか、柔らかなハンカチで涙を拭いながら、反対の手で頬に手を添えてくる泉姉。その手の暖かさが心地好くて、その上から自分の手を当てた。

 

「……あったかい」

「こうしてれば、落ち着く、のか?」

「うん……少しだけ、こうしてていい?」

「んなこと聞かなくていいんだよ。これでも水瀬家の長女だぜ?」

「ん」

 

 小さく返事を返してから、彼女の胸に頭を押し付ける。

 らしくない。全くもってらしくないのだが、今は素直に泉姉に甘えたいと思う。

 かつて失った、血の繋がった家族の温もり。思えば、こうして誰かに弱さをさらけ出して甘えることを、俺は知らなかった。

 

 それをする相手もいなければ、してはいけないと自制していた斎藤始。

 

 本当はいつだって甘えたかったはずなのに、身体が、心がそれを許してはくれなかった水瀬夏波。

 

 二つの人格が抱える想いが混じり、涙となって頬と泉姉のシャツを濡らしていく。

 それを気にする様子もなく、泉姉はそれを受け止めてくれた。何を言うわけでもなく、ただ優しく頭を撫でてくれる。

 それがひどく嬉しくて、俺は更に強く頭を押し付けた。

 

 そこに、新たな声が響く。

 

「泉姉~。随分遅いけど、何があった……」

「……あら」

「あらあら? うふふ」

 

 声からすると、どうやら家族全員がこの部屋に集合したようだ、と暗いままの視界で判断する。

 泉姉の心音が跳ね上がり、その勢いでかぎゅうっと身体を抱き締められた。

 

「の、ノックぐらいしろよお前ら!」

「いやドア開いてたしー。それよりも」

「まずはその状況を説明してもらいたいものね。言い訳ぐらいは聞いてあげる」

「うふふふ」

「こ、これは、その~……アタシからやった訳じゃあ」

「その割には貴方からしっかり抱き締めてるように見えるけど」

「お兄ちゃん胸に埋まってんじゃん。かわいそー」

「ふふ、うふふふ」

「べ、別にいいじゃんか。お前らと違ってアタシは家でしか夏波と会えないんだし! スキンシップ……そうスキンシップだよこれくらい」

「早くも開き直ったわね。時雨、手伝いなさい」

「え? あぁ……まあ、うん。取り敢えず」

 

 わいのわいのと繰り広げられる会話に耳を傾けている内に、涙は止まり始めていた。気持ちにも大分余裕が出来たようだ。……先程からうふうふ笑っている母親が少し不気味に思える程度には。

 なので、少し力を入れて顔を離し、ちらりと三人がいるであろう方向へと視線を向ける。そこには、両手を広げた時雨の姿があって。

 

「ベッドに、どーん」

「うおっ、おまっ!?」

 

 俺を抱えたままの泉姉は、時雨によって二人ともにベッドに押し倒されてしまう。楽しそうな顔の時雨に何事か、と聞くよりも先に、その上から更に、

 

「最後は私よ。頑張って夏波を守るのね」

「お前ら、二人して乗っかるんじゃねぇよぉっ! 夏波が潰れるだろ!」

「だから守れって言ってるじゃない?」

 

 うおおぉ、と律儀に一番下になってしまった俺を守る為に呻き声を上げる泉姉。その上で楽しそうに笑う時雨と氷華姉を見て、どうやらふざけてじゃれているだけのようだと判断する。もぞもぞ動いて視界を確保すると、唯一動きのなかった母さんが途中で終わっていた化粧品やらの片付けを終えていたところだった。

 

「もう少しでご飯にするから、終わったら降りてきなさいね。じゃ」

「いや助けろよ!?」

「勢いでやったけどお兄ちゃん重くない?」

「平気」

「ちょ、耳元で喋るなって! くすぐったいわ!」

「この中で一番重いのは泉だし」

「うるせぇ! ……うるせぇ」

「こんなに細いのに」

「夏波に言われたくねぇよ……」

 

 そのウエストに手を回しながら呟くと、悔しげに泉姉が呻いた。そりゃあ俺だって細いには細いが。鍛えてるのに一向に見た目に現れる気配の無いこの身体より、健康的に引き締まった泉姉の身体のほうが羨ましい。

 ほら、服の上からでも触れば腹斜筋のラインが……

 

「こ、こら夏波。くすぐったいぞ」

「あ、ごめん」

「……お兄ちゃん、お腹なら私も自信が……」

「下心丸見えね」

「い、いいじゃん別に!」

「良くはねぇんじゃねえか……?」

 

 結局、四人で騒いでいる内に俺の調子も元通りになり、痺れを切らした母さんが突撃してくるまで部屋で談笑が続くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 大学の講義が午後からだったこともあり、長女である泉は普段よりもゆったりとした気分で朝の時間を過ごしていた。

 寝ぼけ眼で朝食を取る時雨や、ココアを飲みながら静かに佇んでいる氷華。書類が見当たらないとバタバタ騒いでいる母親である瑞樹の三人をぼんやり眺めつつ、新聞をソファで開く。……一家の大黒柱が一番落ち着き無いのはどうなんだろうな、なんて感想を抱きながら。

 

「あ、泉」

「どした母さん。書類あったのか」

「それが何でかトイレにあったの……いつ持ち込んだのかしら――じゃなくて。夏波、今日は休ませるから。いる間は宜しく頼むわよ。昨日の様子を見る限り大丈夫だとは思うけど」

「あぁ」

 

 その言葉に新聞から目を上げると、家族全員がこちらを真剣な顔で見ていることに泉は気付く。それに臆することもなく、一言だけ返してからまた新聞に視線を戻した。一家全員の暗黙の了解、優先事項として夏波の存在は非常に大きい。

 行きすぎてはいけないことはもちろんわかっているのだが、まだ過保護なくらいで丁度良い、というのが共通認識として家族にはあった。

 

 その後、学校に、そして会社にと出発していく家族を見送った彼女は、玄関の鍵をかけてチェーンまでしっかりとかける。再三それらがかかっているかを確認した後に、一階部分にある外から出入り出来そうな部分を見回り始めた。

 夏波の存在は既に近所中に知れ渡っている。本人にはそこまで自覚が無いようだが、彼の容姿は家族の贔屓目を無しにしても秀でてしまっているのだ。

 

「……馬鹿な連中がいないとも限らんしな」

 

 独り言を呟きながら、窓の鍵を全て閉めていく。

 かつてその馬鹿な連中の毒牙にかかってしまった前例がある為に、泉はこの辺りの警戒は常に怠らない。もしまた同じようなことが起きてしまったら、泉だけでなく、家族は今度こそその罪の意識に耐えうることが出来ないだろう。

 

 とにかく、自分がいる間はそんなことは起こさせない。

 少しだけ暗い気持ちになりかけた自分をそう奮い立たせ、全ての確認を終えた泉は階段へと足をかける。

 まだ起きてこないのだろうか、とあわよくば寝顔なんか見られたらいいな、なんて。

 

「……アタシも大して変わらないかぁ」

 

 想像すると少しだけにやけてしまう自分の頬を軽くつねると、彼女は階段を上がり始めた。

 

 

 

 

 

 

 

「……おかしい」

 

 ベッドの中にて。俺はかつてない違和感に襲われていた。

 

「暑い……熱でもあるのか……」

 

 ぱっとした目覚めではなかった。寝苦しさから、うなされながらようやく目が開いた感覚だった。

 汗の量が尋常ではないし、身体は火照って言うことを聞かない。ぼやけた頭は思考回路が働かないしで、一見すると風邪でも引いたのか、と思ってしまいそうなのだが。

 

「おかしい……生理現象ではあるけど、この身体では初めてだな……」

 

 今のところ倦怠感に包まれた身体の中で、一ヵ所だけ恐ろしく覇気がみなぎっている部位があるのだ。

 それすなわち性別を男性たらしめている部分。今まで特になんら主張を示してこなかった男のシンボルが、何故か今、ここにきて自己主張してしまっているのだ。

 

「……と、とにかく仰向けは不味い……」

 

 柔らかなパジャマに薄いシーツ。そんなものではこの主張を抑えられるわけもなく、俺は取り敢えず横向きになることでその屹立する様を誤魔化すことにする。

 ……考えてみれば、夏波になってからこれは初の事ではないだろうか。性的に興奮することが恐怖症のせいで殆ど無かったことと、毎朝訪れる生理現象も無かったことで頭から外れていたが……うん。確かにこれが初めてだ。

 だって自分でも初めて見たし。ちょっとだけこの外見からは似合わないものを持ってるな、とか思ってはいたが、戦闘体勢はもっとえげつないようだ。今のところ使う当てもないのに。

 しかも、今の寝返りで更にわかったことがある。

 

「これは……不味い……。動けない……」

 

 ここにきて、やはり一番の問題は下半身だということを痛感する。身体の火照りや気だるさなど些細なことだ。……いや、そちらも結構なものではあるのだが、さしあたって危機と呼べるのは何よりも物理的に下の方にあった。

 寝返りを打ったことで、当然下腹部には刺激が生じる。

 

 具体的に言うと、先端が擦れる。

 

 まぁたったそれだけのことなのだが――

 

「――動けない……」

 

 それだけで、あわや大惨事になるところだった。

 とにかく感覚が鋭くなってしまっている為に、些細な刺激が命取りになってしまう。

 一体自分の身体に何が起きてしまっているのか。働かない頭で思い当たるものをいくつか羅列していく内に、ひとつこれだと言えるものが見つかる。

 それは前世の男には無かった、こちらの男にしかない現象である。そしてそれは、水瀬夏波の身体には今まで起こっていなかった――本来は二次成長と共に自然に訪れるものであり、機能不全を起こしていたのかもしれない――それが、ここにきていきなり訪れたとしたら。

 

「……どうしよう」

 

 原因というか、この症状がどういうものなのかを把握すると同時に、今度は下腹部に強烈な痛みが走る。ただ気持ち悪いだけだった汗が脂汗に変わり身体中から吹き出し始めた。

 今まで、前世も含めて感じたことの無い種類の痛みに、顔を歪ませて身体を丸める。そんな中でも、変わらず元気な自らが邪魔臭くて仕方がない。

 本来なら薬なり何なりで世の中の男子はこれを済ますらしいが、この現象自体を忘れていた俺は何をどうすることも、というか、何をどうすればいいのかすらわからない。何せ、俺も夏波も経験したことがないのだから。

 その痛みは徐々に増していき、いよいよ呻き声すら抑えられなくなった頃に、ノックの音が部屋に響いた。

 

「夏波ー? まだ寝てるのかー?」

 

 泉姉の声だ。

 またしても弱っている姿を晒す羽目になるのかという思いと、何となくこれでこの状況から脱せられるんじゃないかという思いが混じって、言葉にならない声が漏れた。

 部屋に鍵はかけていない。やがてゆっくりとその扉が開き、キョロキョロしながら泉姉が部屋に入ってくる。そして恐らくはひどい顔をしてベッドに横たわる俺を確認するや否や、彼女は表情を変えてこちらに駆け寄ってきた。

 

「どうした。具合悪いのか」

「いや、その……多分、アレ」

「アレ?」

 

 俺の言葉に、疑問符を頭に浮かべたらしい泉姉が俺の髪を耳にかけてくれながらも首を傾げた。

 多分、女性である泉姉にはピンとこないのだろう。俺だって、女性の生理にはそこまで理解が深くない。まさか、こんな形で逆の立場に立つことになるとは思わなかったが。

 

「その……吐精日だと、思う」

「とせっ……!?」

 

 俺の言葉に一瞬にして真っ赤になった泉姉。その視線が一瞬だが俺の股間辺りに向かったのはまぁ仕方がないこととして、俺は彼女に一抹の希望をかけてみる。

 

「これ、どうすればいいの……?」

「い、いやぁ……アタシにはちょっと。痛いのか?」

「すごく」

「その割には顔が変わってないように見えるけど、とにかく痛いんだな」

「……なんと」

 

 自分ではかなり顔を歪めているつもりなのだが、傍目にはいつもの無表情とあまり変わっていないようだった。これでは此方の苦しみがあまり伝わらない。いや、多分本当の意味でわかってはもらえないのだろうが。

 

「と、取り敢えず母さんに電話してみる」

 

 ポケットから携帯を取り出した泉姉は、それでも焦ってくれていたらしい。忙しなく指が動いたかと思うと、直ぐにそれを耳に押し当てた。

 

「……あ、母さん!? その、聞きたいことあんだけど」

「…………」

「その、夏波がさ。えーっと……あれだ。と、吐精日が来たって、痛いって。これ、どうすりゃいいんだ?」

「…………」

 

 ……仕方無いこととはいえ、目の前で異性に吐精とか言われると恥ずかしくてたまらないのだが。

 これが激痛と熱で半分ぼやけた頭でなければ、俺は速やかに逃げ出している自信がある。

 

「薬じゃダメなのか……じゃあどうすりゃ……」

 

 泉姉の受け答えから、どうやら母さんにはそこらの知識があるようだ、と少し安心していると、急に泉姉が不自然なまでに動きを止めた。まるで石化でもしたかのようにピタリと……いや、口だけはパクパクと動いている。そしてみるみる内にまた顔が真っ赤になっていく。

 

「……え、俺?」

 

 しばらくそのまま固まっていた泉姉だったが、不意に携帯が此方に差し出される。

 それを受け取り、取り敢えず耳に当てた。

 

「母さん……?」

『あぁ夏波? 大丈夫?』

「あんまり」

『みたいね。貴方、もしかしなくとも今回が初めてなの?』

「だから困ってる……どうすれば収まる?」

 

 二重の意味で。

 

『泉にも言ったけど。取り敢えず痛みが出るまでいったら薬は意味ないの。そこまで来たなら……えぇ、恥ずかしがる年でも無いからストレートに言っちゃえば』

「言っちゃえば?」

『出すしかないわね』

「ぶふっ」

 

 思ったよりもど真ん中の直球に、思わず吹き出してしまった。いやまぁ、この痛みが溜まったものによる圧迫とかだったなら、確かに外に出してしまえばそれが治まるのは道理である。

 

『取り敢えず、一回出しちゃえば楽になるはずよ。自分で出来るわよね』

「セクハラの一言で収まらない……」

『し、仕方無いじゃないの』

「まぁ、わかった……ありがと」

『泉には釘指しといたから、まぁ今日一日は頑張りなさいな』

 

 プツリと通話が切れる。

 成る程、泉姉が真っ赤になってフリーズした理由はわかったとして。

 

「泉姉……心中察するけど、重ねて頼みたい」

「な、なんだ」

「その、トイレまで肩を貸して欲しい」

「あ、あぁ……それなら、背負ってった方が楽じゃねぇか?」

「それだと、何がとは言わないけど、当たる」

 

 俺の言葉に思いっきり咳き込んだ泉姉は、それでも取り敢えず俺をベッドから起こしてくれた。

 そして、痛みに耐えながら地面に足をつけて、

 

「……恥ずかしいから、下見ないで欲しい」

「わかってる……わかってるぞ」

 

 当然、身体の上にかかっていたシーツも無くなり、ズボンを押し上げた愚息の存在がこれでもかと主張する羽目になる。

 一人で行けたならば、もしくは部屋で事足りたならば何の問題も無かった。

 しかし、この痛みでは一人で歩くこともままならず。そして、予感として部屋で事を成そうものなら色々と汚してしまいそうだったことから、恥を忍んで泉姉に頼むしか無かった。

 そして、最後の問題は。

 

「っ……泉姉、少し、ゆっくりっ……」

「い、痛いか?」

「痛いには痛い、けど……」

 

 一歩踏み出す度に小鹿のように足を震わせる俺は、泉姉にすがりついてなんとか次の一歩を踏み出していく。

 敏感になっているといえばそれだけの話なのだが、これは、流石に、堪える。

 二階にあるトイレまでは、今の歩数にして残り十歩もないくらいだろう。正直言って、遠すぎる。

 

「や、やっぱりアタシが担いだ方が」

「それは、色々と拙い」

 

 ただでさえ歩くだけで腰が抜けそうなところを、異性である泉姉に腰回りを触られてしまえば、今の俺はただそれだけで果てる自信がある。何とも下世話な話だが、事実なので仕方がない。色々と手遅れな感じではあるが、それでも越えてはいけない一線はあるのだ。

 彼女の目の前で果ててしまおうものなら、俺はショックでしばらく部屋に籠る。絶対。

 

「も、もうすこ、し」

 

 しかし、悲しいかな。本当に悲しいことに、俺の予想以上に、俺の身体は限界を迎えていたようで。

 あと数歩、といったところでついに俺の腰は抜けてしまう。それでも、ただ崩れ落ちるだけだったならば、きっとまだ俺は耐えられた。

 しかし、泉姉は座り込みそうになる俺を咄嗟に抱き抱えてしまう。顔がその豊かな胸に埋まり、身体が密着してしまったことにより、強くそれが彼女の身体に擦れてしまい、結果。

 

 

「―――っ」

 

 

 

 ――その後の事は、良く覚えていない。いや覚えてはいるのだが、思い出したくない、といった方が良いだろう。

 

 取り敢えず、俺が無事ごく短期間ながら引きこもりになったことから全てを察することが出来るだろう。

 

 

「……吐精日とか滅びればいい」

 

 

 さめざめと枕を濡らしながら、俺はそんな呪詛を吐くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21~一応、健康体ではあるんですが

前話に引き続き、少し下世話な話になります。


「で、一日治まることがなかったと」

「もう病気なんじゃないかってくらい……」

「ふむ」

 

 深い精神的ダメージを負い、約一日経って無事に引きこもりから脱した俺は、最早懐かしく感じる男性保護施設へと訪れていた。

 こちらも懐かしい艶々キューティクルな先生が、顎に手を当てたものの、その表情は別段深刻なものではなかった。

 

「検査した結果を踏まえて言わせてもらえばね、これに関してはそう深刻に捉えなくていい」

「でも……ホントに一日中ひっきりなしにしないとすぐに……」

 

 俺が何故に先生の元を訪れたのかと言われれば、精神的ダメージの原因となった吐精日について相談しに来たのである。

 思えば、吐精日に関して俺はそこまで深い知識を持っていない。夏波としての知識も、自分には来ていないこともあってほんのさわり程度にしか学んでいなかったのだ。

 なので、自分のあれが正常であるのかどうかがわからない。というか、俺から言わせれば普通に異常とすら言える。

 恐怖症を患った夏波という人間は、本来なら性的対象になるはずの異性を完全に敵として捉えていた。そんなわけで、そもそも性的に興奮することが無かった訳で。つまり男としての機能をほぼ使うこと無く、実際に機能不全に近い状態だった。なので吐精日なんてものも来なければ処理をする必要もなかったのだ。

 そしてあれである。思い出すだけで瞳から光が抜け落ちそうになる開幕は取り敢えず捨て置くにしても、その後がまた大変だった。

 何せ、処理を終えても一時間も待たずにまた同じような状態に戻ってしまうのだ。当然俺の意思なんかは無関係であり、下手に我慢しようものなら歩くこともままならないまでになる。

 酷い時は処理も一回では終わらない。しかも回数を重ねたところで全く衰えることがない。朝の一撃は例外としても、ようやく収まる気配を見せた翌日の朝まで、質も量も変わらなかった。

 

 ……俺は一体何の話をしているのだろうか。

 

 一瞬現実逃避をしそうになったが、おかげで睡眠不足になったことを思えば逃げている場合でもない。

 これが俺の身体がおかしいとして、吐精日が来る度にこうだとするならば、治らないにしても周期くらいは把握しておかなければならない。もし出先でああなったとしたら、俺は本格的に引きこもりになってしまう。

 なので、こうして検査をした訳なのだが。

 

「取り敢えず、本来なら精通と共に訪れる吐精日が今まで来なかったことの方が異常だった、という事実は理解出来るだろう? これはどちらかというと喜ばしいことなんだ」

「…………」

「釈然としないのは承知の上で話を続けるよ。この施設にいた頃の君は、そもそもホルモンバランスが崩れてしまっていたんだ。それは君の容姿にも大きく影響している」

 

 それは確かに。と納得する。

 俺の常識から見てこの世界の男性は、分かりやすく男らしい人間が少ない。その原因はやはりホルモンにあった。しかし、俺がうっすら考えていたものとは少し違って、そもそも男性ホルモンと女性ホルモンの役割が色々とごちゃまぜになっているということが俺の理解を難しくさせていた。

 しかも男性と女性ではホルモンが身体に及ぼす影響がそれぞれ違うというのもあり、色々とややこしい。

 分かりやすいところでは、同じ男性ホルモンでも、男性の身体に多ければ肌の張りが良くなったりあまり毛深くなることがなかったり。女性であれば身体が大きくなりより色々と活発になりやすいという。

 ならばたまにいる毛深くワイルドな男性はどうなっているのかと言われれば、あれは逆に女性ホルモンが多いとああなるのだとか。あべこべというか最早滅茶苦茶である。

 

 つまり俺の場合は、男性ホルモンの量が多く、強く俺の身体に影響を及ぼした結果、より中性的に成長してしまった、というわけだ。

 

「で、今回の検査結果だけど、ホルモンバランスはかなり良好な状態で、こちらに異常は見当たらない。もしかしたら、少しは外見にも変化は出るかもしれないね」

「はぁ……」

 

 今更少しばかり変化が出たところでなぁ、と気の無い返事を返してしまう。でも、それで少しでも筋力がつくようになるならそれは歓迎である。

 

「で、意外な結果……まぁ、数値上は異常……とも言えるのかな? が、出たのは、精子の量だね」

「そういえば採取しましたね……」

「相談内容の肝じゃないか」

「そりゃあそうですけど」

 

 あからさまにテンションを落とした俺の声に、何を今更と息を吐きながら返してくる先生。わかってはいるが、家族の目の前で粗相をやらかした後である。検査の為とはいえ、人にそれを渡すという行為は俺のメンタルを削るには充分な行動ではないだろうか。

 恐らくはまた光を失い始めたであろう瞳をした俺を軽くスルーして、先生は手元の資料に目を向けた。

 

「量、濃度、運動率、及び正常形態率……後は、実際に溜めておける量も……どれも基準値を大きく上回ってるんだよね。だからといって健康に影響あるかと言われると、そうでもないんだけど」

「それは、どれくらい?」

「カテゴリにもよるけど、おおよそ人の三倍から四倍」

「えぇ……」

 

 確かに自分でも引くレベルではあったが、実際に検査してしっかりとした結果の元で数値を確定されるとドン引きしてしまった。

 先生の言ったカテゴリーの内容はともかく、ようは俺の身体は普通の男性の三人から四人分のポテンシャルを秘めている訳だ。あんまり素直に喜べない。

 

「勿論、これがずっと続くと決まった訳じゃない。これから徐々に落ち着いていくかもしれないし……もしかしたら、まだ発展途上という可能性もある」

「出来れば前者がいいです……」

「あはは。で、本題の吐精日だけどね。そもそも身体が作る精子の量も人より多い上、処理を一度もしなかったせいで酷くなったんだろう。定期的に処理しておけば、大分違うはずだよ。……それでも、人よりは大変かもしれないね。そもそも、通常よりも多く製造、排出されるのが吐精日な訳だし」

「薬は……」

「あまりオススメはしないけど、効果はあると思うよ。オススメしないっていうのは、副作用の面でね。そもそもの製造を抑えるものと、尿と共に排出させるものがあるけど、前者は本来ある機能を抑える訳だから当然身体に良くない。後者は、夏波君の場合より事態を悪化させる可能性もある。今回で言うなら……尿の方が追いつかないばかりか、脱水症状すら起こしかねないかな」

 

 ……ま、まぁ確かにそれはあり得る。というか、実際ヤバイと思って水分だけは取り続けた訳だし。

 

「取り敢えず、一般的な周期は月に一度だから、来月の今辺りになったら気に留めておくことかな。最初に言った通り、悪いと言えるところは何一つ無いんだから、不安になることはないよ」

「……わかりました」

「あと、何も無くてもたまには顔を見せなさい。贔屓は職業柄ダメなんだけどね。勝手に息子のように思ってるから」

「……はい。勿論」

「ようやく笑ってくれたね。上手く笑えるようになったじゃないか」

 

 くしゃくしゃと頭を撫でられ、少し気恥ずかしくて目を細める。

 俺も、貴方は父親のように思っています、とは流石に恥ずかしくて言えない俺なのだった。

 

 

 

 

「で、どうだったの? 良いか悪いかでいいから教えてちょうだい」

「良いか悪いかで言えば……良かった、のかな」

「……内容が内容だから、あんまり深く聞くのは良くないとは思うけど。何か気になることがあったの?」

 

 母さんが運転する車の中。

 俺の歯切れが悪い返事に、大分遠慮がちに母さんが訪ねてくる。まぁ確かに内容があれだからな。真っ直ぐ聞くには少し抵抗があるだろう。……あのアドバイスはド直球ではあったが。

 

「えっと……単純に、人より数値が高いだけの話ではあったんだけど」

「まぁ、そうなんだろうなとは思ってはいたけどね。その反応からすると、結構なものだったのかしら」

「……普通の三倍から四倍らしい」

「さんばっ………!」

「俺も悪いけど事故は止めてね」

 

 俺のカミングアウトに若干ハンドルをぶれさせた母さんだったが、しかし軽く咳払いをした後に平静を取り戻したようだ。

 まぁ、息子の下半身事情という考えるまでもなくアブノーマルな話題である。言ってから俺は何を言っているのだろうかと窓の外の遠い景色へと視線を飛ばした。

 もう俺からは口を開かないでおこう。母さんにこれ以上衝撃を与えると本当に危ない気がする。取り敢えず、こんな話題すらも家族相手には出来るようになった、と強引に頭を切り替えることにしよう。

 

「……元気で健康、ってことよねぇ。喜ばしいこと……喜ばしい……あっ」

「…………何?」

「出前でも頼もうかしら。何食べたい?」

「出前はともかく、祝うのはちょっと……」

 

 どうやらまだ微妙に混乱しているようだった。

 



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22~取り敢えず復活しました~

リハビリ程度に書いて更新


 色々と致命的なダメージを負ったとしても、時間が経てば案外どうとでもなるもの。立ち上がれなくなれそうな一撃を食らったとしても、流れる時間が緩やかに癒してくれるものである。

 ……自分が言うと洒落にもならないが、この度のそれはそこまで重たい話ではない。今でも思い出すと羞恥から走り出しそうになる程度のものだ。

 深く掘り下げる必要も無ければ掘り下げたくもない内容なので、この話はここで終わらせてしまうことにして。

 

「おはよう」

「おう、おはよう」

 

 日課の素振りを終えてシャワーも浴び終わり、身支度も完了した状態で早起きしていたらしい泉姉と挨拶を交わす。ここ最近は色々とどたばたしていたせいか、平穏な朝がひどく久しぶりに感じる今日この頃である。

 あんなことがあっても家族は変わらず接してくれる。というか、間違いなく思うところはあれどデリカシー的な意味で触れずにいてくれているのであろう。もうそこそこ吹っ切れた感はあるとはいえ、その対応も実にありがたいところであった。

 

「今日はアタシが車で送ってやるから、のんびりしててもいいぞ」

「…………?」

「単に午前中の予定が無いだけさ。夏波だけじゃなくて、他の二人も一緒にまとめて送るから」

「ありがとう」

「どうしたしまして。朝飯食っちまえよ」

「ん」

 

 今日は午後からしか講義が無いのであろうか。そもそも大学のシステムがよくわからないので考えたところで無意味なのだが、うっすらとそんなことを考えながらトースターに食パンを放り込む。

 

「そういえば、母さんは?」

「もう仕事にいった」

「……早いね」

「あれで忙しい人だからな。仕事中の母さん見たら目を疑うぜ」

 

 いっつもあぁなら何にも言わないんだけどな、なんて笑いながら言う泉姉だが、その言葉に悪意は無い。きっと、彼女は母さんを信頼して、尊敬しているのだ。それに応えられるだけのことを母さんはしてきたのだろうし、これからもしていくのだろう。

 

「……なんだ、珍しい」

「ん?」

「笑ってるぞ」

「ふふ」

 

 どうやら知らぬ内に口元が弛んでいたらしい。それを指摘されて自覚して、なんだかそれも面白くて笑ってしまう。

 基本鉄仮面なこの顔が緩むのは泉姉が言うように珍しい。家族の前ではそこそこ動くし笑顔だって見せているはずだが、どうやらまたそれとは違った表情だったようだ。

 

「アタシらは別に平気だけど、あんまり他の人間にその顔しない方がいいぞ」

「多分しようとしても出来ない」

「うおっ……いきなり真顔になるなよ」

 

 そこまで驚かなくてもいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「よぉ、久しぶり」

「久しぶり」

 

 登校を終え、SHRの時間が過ぎた後の休み時間。数日振りに会うクラスメイトである一条が挨拶をしてきた。あの事件が起きた日から数日の引きこもりを経て暫く学校を休んでしまっていた俺は、どうやらちょっとした話題を生んでしまっていたらしい。

 

「何かの事故にでも巻き込まれたんじゃないかって皆噂してたんだぜ」

「そういうわけじゃ無いんだけど」

「先生からは体調不良としか聞かされて無いからなぁ。実際、そんなに酷かったのか?」

 

 机に腰掛けながら聞いてくる一条に、さてどう答えたものかと思案する。

 体調不良というのは別に間違ってはいない。しかし、病気かと聞かれると素直に頷けないのが難しいところである。

 

「言いにくいことならまぁいいんだけどさ」

 

 どうでもよさそうに足をぶらつかせる一条。実際、どうしても聞きたいという訳でも無いのだろうが……。

 なんとなく。なんとなくだが、隠し事をしているようで気持ちが落ち着かなくなった俺は、同性ならいいかと正直に言ってみることにした。勿論、事細かに教えるつもりは無いが。

 

「ちょっと」

「ん?」

 

 軽く手招きをすると、一条は躊躇いなくこちらに耳を寄せてきた。あまり大声で言うようなことでも無いので、その耳に口を寄せ、何故休むことになったのかを端的に伝える。

 すると、一条は合点がいった、と言わんばかりに声を上げて何度か頷いた。

 

「俺はそうでもない方だけど、お前は特別重たいんだな。きつかったろ」

「……うん」

 

 それはもう。

 

「家族とかに頼れなかったのか?」

「うち、男は一人だから」

「あー……。まぁ、もし学校で辛くなったら俺とか、他の男子に声かけろよ。流石にこの年になれば薬くらい皆持ってるだろうしな」

「ありがとう。助かる」

「どういたしまして」

 

 グッ、と親指を立ててサムズアップしてくる一条に、自然と顔が緩むのを感じる。

 ……あ、今自然と笑えてるかもしれない。

 

「相変わらずの魔性っぷりだな」

「…………」

「あ、また無表情」

 

 余談だが、今日の授業には性教育が含まれていた。

 今までの授業で一番真面目に聞いた。

 

 

 

 

 

「ふぅ」

 

 放課後。

 久しぶりとなる学校だったので幾らか気を張ってしまったが、致し方ないと言うことにしておく。ほら、さっきの授業でもあの日の前後は情緒不安定になりやすいって言ってたしさ……。

 今更色々とどうしようも無いことだが、あの経験を知った後なら前世の女性にも優しくなれそうな気がした。勿論、全く同じではない……どころか、違うことの方が多いのだろうが。それでも、月一で身体を気にしなければならないことを思うと少しだけ憂鬱になる。

 ともあれ、今日はもう帰るだけである。家族に心配はかけたく無いので寄り道無しで真っ直ぐ帰ろうと思うのだが……。

 

「…………」

 

 今日の、午後辺りからだろうか。授業が終わって短い休み時間がくる度に、教室の外から遠巻きにこちらを伺ってくる存在があっては気になって仕方がない。

 隠れているつもりが赤混じりの髪がチラチラと見えている辺り、なんとも言えない雰囲気を放っている。そもそも彼女の存在がこの学校でちょっと浮いているのもあって違和感が凄いことになっていた。

 

「…………」

 

 視線こそ向けて無いもののその存在感は無視できず、しかし迂闊に話し掛けて前のようなことになればいよいよ氷華姉に本気の説教を喰らってしまうだろう。

 そんなことを考えながらも、机の横に掛けた鞄を手に取った俺が向かった先は──

 

「用があるなら声掛ければいい」

「うひゃっ」

 

 一度は彼女──陽華がいる側とは反対側の扉から教室を出た俺だったが、どうにも気になって結局声を掛けてしまうのだった。

 



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23~たまには力技も必要なんです~

文章力よりも勢いで書く。


「お、おう」

「別段付き合い長くも無いけど、らしくないのはわかる」

「そう……かもしれないけどよ」

 

 腰に手を当ててそう言うと、陽華は頭を掻きながらこちらから視線を反らした。

 そのままの体勢で溜め息をついた俺は、何がそこまで彼女の居心地を悪くさせているのか考えて、そしてすぐに。

 

「……場所、変えよ」

「あ? あ、あぁ」

 

 思い至ると同時に、自分達が周りから注目を浴びていることに気付いた俺は、それだけ告げて髪を翻した。

 後ろから控え目な足音が聴こえて来るのを確認してから、目的の場所へと向かう。

 

 そうして辿り着いたのは、いつかは逆の立場で呼び出されたここ、屋上である。

 出て直ぐの壁に背を預けて少し待つと、ゆっくりと陽華が姿を現した。

 

「…………」

 

 が、彼女は此方の真正面に立つまでは良かったものの、そこからは先ほどと同じで視線を泳がせながら黙ったままである。

 そこまで気にしなくてもいいのに、とは此方だからこそ言えるセリフではあるのだろうが、どうにもこれではばつが悪い。なので、此方から助け船でも出そうと思う。

 ホルダーに入れていた木刀を抜き放ち、正眼に構える。この身体になって、人に対してしっかりと構えたのはこれが初めてだ。

 当然、対する陽華も直ぐ様此方に対する構えを取った。揺るぎない応戦体勢に何の動揺も見せないところは、流石と言ったところか。

 

「……何のつもりだよ」

「別に。話し辛いなら、まず身体でも動かそうかと」

 

 言いながら、そのままの体勢で一息に距離を詰める。切っ先を伸ばすように鳩尾を突こうとして、反射的に屈んだ頭の上を彼女の踵が風を切って通り過ぎた。本来なら追撃するところだが、下段に構えながら距離を取る。

 それを見た陽華が、尖った犬歯をぎらつかせながら懐に飛び込んできた。後ろは既に壁である。

 

 剣を振るうには近すぎる。

 しかしてこれ以上距離も取れない。

 そこで俺が取った行動は。

 

 壁を蹴る。

 下がれないなら、前に出るまで。

 剣が振れないなら──

 

「うぉっ!」

「……よく避ける」

「剣使うヤツがラリアットって、お前……」

 

 空振った腕を回しながら、改めて剣を構える。

 壁に手を当てながら呆れたように振り返った陽華は、しかし微かに笑っていた。

 

「そういや、剣だけとは言ってなかったもんな。今のは油断してた」

「武術でも何でも無いけど」

 

 少なくとも無手斎藤源流にはラリアットは存在しない。

 ……でも爺はよくよくラリアットなりバックドロップなり食らってたな。たまに道場に大穴が空いていた原因だ。

 

「にしても、いきなり仕掛けてくるとは思ってなかったぜ。そんなタイプじゃなかったろ」

「こんなのただのじゃれあい」

「良く言うぜ。全部しっかり当てに来てるじゃねぇか」

「殺りにはいってない」

 

 切り上げを足で抑えられ、飛んできた膝をかわし、右手で放った掌底を真正面から掴まれる。そんなやり取りの中で交わされた会話である。

 口数も増え、此方の知る彼女の雰囲気になったところで、頭突きと言うには少し弱めに額をぶつけた。

 

「っ痛ぇ」

「残念だけど、アレを引き摺る程弱いつもりは、無い」

「……お前」

 

 此方の言いたい事が伝わったのか、目を丸くした陽華。ここで初めて見せた隙らしい隙を逃す筈もなく、思い切り脚を払って彼女を地面に転がした。それでもきっと、彼女なら体勢を整えて着地する程度はわけないのだろうけど。

 木刀をホルダーにしまい、手をはたいて陽華を見やる。彼女は大の字になって空を仰いでいた。

 

「……一応、アタシも女だからな。目の前で男があんな風になって、しかもその翌日から学校に来なくなっちまったら、流石に思うことはある」

「そんなとこだろうと思った」

「アタシらしくもないとは思うが、どうにもモヤモヤしちゃってさ。でも」

 

 ぐい、と脚を振り上げ、勢い良く跳ね起きた陽華はようやく屈託の無い笑顔を見せる。感情を全面に押し出してくるその表情が、少しだけ羨ましい。

 

「悪かった。お前の事情はよくは知らねぇけど、アタシがお前を傷付けたのは間違いないんだよな。許せとは言わねぇけど、この通りだ」

「……ううん。これは、俺が抱える弱さだから」

 

 頭を下げてくる彼女に、ぞわぞわとする身体を押さえ付けるように腕を抱く。

 恐怖症は依然として良くなっていない。本音を言うなら、額をぶつけた際の急接近で、身体は全力で悲鳴を上げている。今すぐにでも逃げ出したいところを無理にでも堪えているのは、恐怖症を理由に誰かを傷付けたくは無いからだ。

 怖いから、恐ろしいから。それを理由に、仕方ないと自分から諦めることだけはしたくない。

 

「なぁ、この際だからはっきり聞くけど。そんなに、女が苦手なのか?」

「…………」

「あぁ、答えなくていいや。……んー、本当に嫌いなんだな」

「嫌い、ではない。……にが、て」

 

 そう。嫌いな訳では無いのだ。もし水瀬夏波という人間があのまま育っていたら、女性という存在に憎しみを覚えることもあったのかもしれないが、そこは生憎中身は俺である。主犯の奴等にこそ腹の底にくすぶるような炎があるが、それ以外の女性には何の恨みも無いのだ。

 だから、苦手。その一言で済ますには少し中身が複雑だが、きっと間違ってはいない。

 

「お前は、それ治したいのか?」

「勿論」

「そうか……。ん……」

 

 今度ははっきりと答える。こんなもの、治せるなら治した方が良いに決まってる。残念ながら、明確な手段こそ見えていないのだが。

 そんな風に心の中で溜め息をついている俺の横を、勢い良く陽華が通りすぎた。いきなりどうしたのかとそれを追って振り返ると、すでに扉に手を掛けていた彼女は歯を見せながら笑っている。

 

「取り敢えず、今日は帰る! 明日からよろしくな!」

「ん? うん」

「じゃーなっ!」

 

 最初の落ち込みはどこへやら、気持ちだけでなく身体も軽くなったらしい彼女は、階段を一息で飛び降りたのだろう。あっという間に姿が見えなくなって、その足音も瞬く間に遠くなっていく。呆気に取られてそれを見送った俺は、なんとなく面白くなって、くすりと笑ってから屋上を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 校門には、氷の生徒会長が仁王立ちで待ち構えていた。怖かった。

 

 

 

 

 



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24~女は見た目じゃないみたい~

勢いのままに。


「そろそろ解放してやれよ」

「駄目よ。ちゃんと身体で理解させないと」

「話は聞いたし注意して欲しい気持ちもわかるが、その行動はよくわからん」

「…………」

「母さんも無言で写真取るなよ」

 

 背後……というよりは頭の上から氷華姉の声。

 斜め向かいに座る泉姉から飛ぶ呆れた声に、何も言わずにカメラのシャッターを切り続ける母さんの姿。その向こうに座る時雨はどことなく羨ましそうにこちらを頬杖したまま眺めている。

 

「あの……」

「駄目よ」

「むぅ」

「唸っても駄目」

 

 脚の間に座らされ、お腹に腕を回されてしっかりとホールドされた状況の中で軽く頬を膨らませる。逃げようにも、動いた瞬間にその細腕からは信じられない腕力が発揮されてその場に縫い止められてしまう。

 ……前世の男よりもこっちの女性の方がポテンシャルが高いんじゃないだろうか。

 

「つかぬことを聞くけど」

「?」

「この中で一番力強いのって誰」

 

 俺の質問に、母さんを除いた三姉妹が顔を見合わせる。

 

「少なくとも、私では無いわね」

「この中じゃあ、流石にアタシが一番じゃないか」

「氷華姉よりは私の方が力あるけど……泉姉ゴリラだからなぁ」

「握り潰してやろうか?」

「マジ勘弁」

 

 流石に一番年上で身体も大きい泉姉が一番らしい。そして、この力で一番非力だという氷華姉にも驚きだが、時雨が二番目と言うのも驚きである。

 それを聞くと、男として……まぁ、こちらの男にしては珍しいのかもしれないが、少し興味が沸いてくる。詰まるところ、どれだけ自分との差があるか、ということだ。

 

「時雨、腕相撲してみよう」

「私と? 別にいいけど」

 

 じゃあこっちおいでよ、と時雨が肘をついていたテーブルを指でとんとん叩く。その流れで優しく氷華姉の組まれた指を解いて立ち上がる。

 

「上手いこと逃げたな……」

「あぁん、もう二十枚くらい」

「だから撮りすぎだっつの」

「……収まりが良かったのだけれど」

「罰じゃ無かったのかよ」

 

 プチ漫才を繰り広げる家族を背中に、時雨の対面へと座る。ちょうど時雨はワイシャツを捲り終えたところで、とん、とその細く長い腕を構えた。

 

「爪、痛かったらごめんね」

「大丈夫」

 

 それに合わせて掌を合わせた、その瞬間に目を見開いた。これは……、と衝撃を受けていると、どうやら時雨も何やら動揺しているようである。

 

「え、ちょっと怖いんだけど……。怪我させちゃいそう」

 

 きっと、前世の男性諸君ならわかるであろう。

 男同士でふざけてハグしたりしても特に何も力加減に心配することは無いが、それが女性相手になるとその身体の頼りなさに不安になってしまうあれだ。それが、ここにきて立場が逆転してしまったのである。

 

「いいかー、力抜けよー。時雨は加減しろよー」

「わかってるもん」

 

 ぐらぐらと合わせた拳を揺らす泉姉。

 そして直ぐに、勝負は始まった。

 

「レディ……ゴッ」

「んっ!」

「おっ?」

 

 泉姉の手が離れた瞬間に、掛け値なしの全力で力を入れる。一瞬時雨の声が聞こえたが、その腕は微動だにしなかった。

 

「どうだ?」

「力あるよー。やっぱり素振りしてるだけあるよね」

「夏波、結構鍛えてるもんな」

「何にもしてない女子よりも強いかも。流石に負けないけど」

「全国選手が負けたら話にならんだろ」

「私陸上なんだけど」

「それでもだろ」

 

 因みにだが、この会話の間俺は全力を出したままである。

 少しして、泉姉に後ろから顔を両手で挟まれたところで、勝負は終わった。

 

「ほらほら、あんまり無理すんな。顔真っ赤だぞ」

「っ……むぅ」

「そういう負けん気の強さは買うけど、コイツそこらの女よりも腕力あるからな。怒るかも知れんけど、勝とうとするのがそもそも無謀だ」

「お兄ちゃんだって充分強いけどね。運動部の男子と比べても全然勝てると思う」

 

 慰めにならない慰めを聞き、顔を揉まれながら負けを認めて手を離す。いや、元より勝てるとは思っていなかったが、ここまで力の差があるとは些か予想外だったのだ。時雨でこれなら、泉姉だと指で相手をされても負けてしまうだろう。

 

 

 ……しかし、本当に。

 

「んー? 何々?」

 

 時雨の手を改めて手に取り、そこから腕まで手を這わせて揉んでみる。やはり、あれだけの力が出るような筋肉があるようには思えない。

 振り返って、今度は泉姉の腕を揉んでみる。

 

「……おぉ」

「なんだよ、くすぐったいな」

 

 照れ臭そうにしている泉姉だが、俺はその不思議な感触に感動していた。時雨よりも幾分太いが、脂肪という訳では無い。前世の俺ほど見た目には筋肉が現れてはいなく、しかし、その内側にはしっかりと鍛えあげられた筋肉があった。機能美の極み、とでも言えばいいのか。

 

「泉姉、ベンチプレスとかやったことある?」

「あぁ。自慢じゃないが鍛えてるからな。120は楽に上がるぞ」

「すごい」

「力だけは自慢できるかもな」

「ゴリラ」

「よーし、次はアタシと勝負するか」

「やだよ折られそうだし」

「心配すんな。テーブルが凹むくらいに手加減はしてやる」

「それ加減って言わないし」

 

 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる中で、改めてここの女性は見た目では測れないものがあるなと再確認する。仮に泉姉と相対することになったとして、俺は今の状況で彼女を制圧することが出来る自信が無い。

 ……焦るつもりこそないが、更に鍛練に力を入れていこうと気持ちを新たにした夕暮れだった。

 

「こっ……のぉ!!」

「オラどーしたぁ。手加減なんていらねぇぞ?」

「やっぱりゴリラだよこの女ぁ!!」

「あっ、力入れすぎたぁ!!」

「ぎゃぁぁぁぁ!」

 

 



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25~家族との日常~

 改めて腕力……というよりは身体全体の力の差を思い知った翌日。

 朝風呂を満喫してる中で、ふと全身鏡に映った自分の身体を眺めて見る。

 退院してから意識的に鍛えてきたはずなのだが、見た目で言うならほぼほぼ変化と言うものが見当たらないことに気付いた。

 

「……見た目だけが全てじゃない、なんてわかってるけど」

 

 腕を曲げて、力こぶを作ろうとしても。そこには華奢な腕があるだけ。ちょっと、心無し筋肉的な見た目はあるかな、程度のもの。

 腹筋も、まぁ少しばかりは割れてるようにも見えなくは無いが……。鍛えて割れた、というよりも贅肉が無いからそう見えるだけだろう。

 贅肉が無い分表面には現れやすいはずなのだが、やってきたトレーニングの量にしては、目に見える成果が少ないと言えた。

 

「力そのものはついてきてるんだけど」

 

 時雨も言っていたように、世間一般の男子の中ではかなり力のある部類にはなるのだろう。それでも、年下の時雨に歯が立たなかったのを見ると、やはり前世の男女と同じくらい、もしくはそれ以上に力の差があることが伺えた。

 

「……それにしても」

 

 水に濡れた髪と身体をまじまじと眺める。身体の傷痕はこの際無視しても──

 

「我ながら……扇情的、というか」

 

 この際直接的に表現するならば、エロい。

 

 自分の身体に何を言っているのかと言われればその通りだが、事実そう感じるのだから仕方がない。

 というか、実際この身体はこの世界の女性的にはどういう評価が下るのだろうか。好みなんて千差万別、刺さる人もいれば論外の人もいるだろうが。

 前世の男としても何となくそわそわしてしまうのだから、もしかしなくともそうなのかもしれない。

 

「……ま、今のところ家族以外に見せるつもりも無いけれど」

 

 言いながら、熱く張ったお湯へと身体を放り込む。

 

 ……あ、髪纏めるの忘れてた。

 

 

 

 

 

 

「……あれ、早いね」

「──はぁっ!」

「着てるから」

「あぁ……セーフぅ……。朝からお兄ちゃんの裸なんて刺激が強すぎるぅ……」

 

 脱衣場から髪をぐしぐししながら出ていくと、ふらふらと歩いていた時雨と廊下でエンカウントした。

 完全に寝ぼけ眼だった目が、此方の声を聞いた途端にかっぴらいて直ぐ様手で顔を覆うのを見届けてから、その両腕に手をかけて開かせた。目が覚めたようで何よりである。

 

「……別に家族なら上ぐらい見られてもいいんだけど」

「こっちが良くないの!」

「あんなにくっついてくるのに」

「裸はまた話が別でしょ! もっと警戒心持って!」

「だから着てるって」

 

 何故かまた顔を覆おうとするのを、力では勝てないので直接顔を包むことで阻止してみる。その顔は真っ赤である。

 別に普通の普段着なので、露出が多い訳でも無いのだが、と首を傾げた。

 

「…………?」

「うぅん……その首傾げは無自覚のそれ……。というか、この状況が既にガチ恋のそれ……」

 

 ぶつぶつと言う時雨の顔から手を離すと、彼女は自分で顔をパチンと張った。何やら自制心を奮い立たせたようである。

 

「……でも、ちょっとわかっててやってるでしょ」

「ふふ、からかい過ぎた」

「もう。外でやったら駄目だからね」

「家族にしか怖くて出来ない」

「良かったのか悪かったのか……」

 

 自分で顔を揉みながら言う時雨に、クスリと笑いながら謝っておく。少しばかり性格が悪かったかもしれないが、気を許してるからこその遊びである。

 

「自分の可愛さを自覚してる男って……」

 

 唇を尖らせながら言う時雨も充分美人だとは思うが、それはさておき。

 

「今日は休みだけど、ずいぶん早起きだね」

「ん。部活の朝練があるから」

「朝練」

「そ、朝練」

 

 見た目ギャルで遊び歩いてそうな見た目の時雨だが、実は陸上の全国選手だと知ったのは少し前。家にいる間はだらだらしている姿が目立つが、部活となると精力的に活動している。まぁ、だらだらと言っても、これはオンとオフがはっきりしているからこそのだらけ具合なのだろう。

 

「頑張り屋。兄は嬉しい」

「へへ。お兄ちゃんだって、剣道? 頑張ってるよね」

「死活問題だから」

 

 頭を撫でると照れ臭そうにする時雨が、此方の手に巻かれたテーピングに目を向けながらそう言う。

 厳密には剣術だが、まぁ訂正する必要もあるまい。

 

「気になる?」

「少し、ね。せっかく綺麗な手なのに、ちょっともったいないかなって」

「でも、時雨はあんまり止めない」

「お兄ちゃんの身体はお兄ちゃんのものだしね。泉姉や氷華姉ほど止めたりはしないかな。あんまり酷かったら止めるけど」

「心配してくれるのは嬉しい」

 

 でも、色々とやめるつもりも無い。元より剣だけに人生を費やしてきたような人間なのだ。身体と境遇が変わっても、精神が剣を放すことを許さない。

 そんな心持ちが伝わったかどうかはわからないが、時雨は困ったように自分の頭上にあった手を取って、その両手に包んだ。

 

「頑固だよねぇ、お兄ちゃんって。私に腕相撲負けた時も悔しがってたし」

「いずれは泉姉にも勝ってみたい」

「それは、ちょっと応援しかねるなぁ……」

 

 軽い冗談に、二人共に苦笑する。

 この身体で泉姉に力で対抗するのはあまりにもコスパが悪い。というか、それが可能ならば剣に拘る理由も薄まるし。

 ……ふと思ったが、仮に前世の身体で勝負出来たらどうなるのだろうか。もしかすると……もしかしなくとも、良い勝負なのかもしれない。なおのこと力で勝とうと思えなくなった。

 

「いちゃつくのも良いけどよ。遅刻しても知らないぞ」

「噂をすればゴリラが来たよお兄ちゃん」

「本当にその腕折られたいのかお前」

「やん、いじめられるよお兄ちゃん」

「盾にされても困る」

 

 今朝も、水瀬家は平和だった。

 

 

 

 

 

 

「氷華姉って、運動とかしない?」

「なに、藪から棒に」

 

 多忙である我が生徒会長様にも、もちろん休みはある。時たま休みの日でも学校に行く辺り、社会人か何かと勘違いしそうにもなるが、彼女とて普通の高校生である。

 今日の学校お休みメンバーである自分と氷華姉、先程時雨の頭を鷲掴んで悲鳴をあげさせていた泉姉とリビングでくつろいでいたのだが、

 

「いや、泉姉も時雨も運動部寄りだし、氷華姉も何かあるのかと」

「……まぁ、普段の様子からはそんな印象は無いかも知れないわね」

「一応言っとくが、別に運動部家系って訳じゃないぞ。母さんなんかはびっくりするぐらいどんくさいからな」

「それは知ってる」

 

 この家族を平気で養えていて、尚余裕のある生活をさせて貰えている辺りとんでもなく仕事は出来る人なのだが。

 一緒に生活しているとその辺りはからっきしなのがわかってしまうのが悲しいところ。因みに今朝は自分の脱いだ寝間着に足を引っかけて転んでいた。家族は基本的にノーリアクションである。可哀想だったので近付いたら捕まっていた。食中植物に捕まる虫は多分あんな感覚なのだろう。

 

「もう引退したけれど、新体操はやっていたわ。泉や時雨とは毛並みが違うかもね」

「そんなこと言ったらアタシは格闘技ばっかりだったし、時雨は陸上だしなぁ。毛並みは全員違うだろうよ」

「新体操」

「そうよ。飛んだり跳ねたりは、皆の中では一番得意かもね」

 

 これはまた予想外のものが、と目を瞬かせる。

 全くと言って良いほど知識は無いが、どんなものかぐらいは知っている。なるほど、新体操か……。

 

「……似合う」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

「そういや、大学行ったらまた始めるのか? 今からでも推薦取れたりすんのかな」

「その辺りはともかく、変に遠い所には行かないわ。折角また夏波と暮らせるようになったのだから、普通に地元の大学に行って……そうね。また始めてもいいのかも」

 

 ソファの隣に座っていた氷華姉が、頭を抱き寄せてくる。抵抗せずにその肩に寄りかかった。

 

「フフ。今なら何の不安も無いし、行けるとこまで行ってやろうかしら。逃げただのなんだの好き勝手言ってくれた連中に目に物見せてやれるわね」

「こえぇよ。顔が整ってる分余計にこえぇよ」

 

 対面に座っていた泉姉が顔を引き釣らせている。なんとなく、今は顔を見ないようにした方が良さそうだ。これは少し話を逸らした方が良い、のか? 

 

「……とりあえず、水瀬家は負けず嫌いの家系なのはなんとなくわかった」

「話逸らせてねぇからな」

 

 心を読まれた。

 

「んで、母さんは何してんだよ」

「話題に出てたから氷華の体操の映像でも流そうかなって」

「なっ……!」

「夏波。全力でしがみつけ」

「うん」

「くっ、嬉し、いや、離しなさい夏波!」

「本音漏れてる時点でお前の敗けだ」

 

 その日の午前は、氷華姉の現役時代の新体操上映会が開かれた。

 滅多なことでは表情を崩さない彼女の頬に紅が差すのを、この日間近で初めてはっきりと拝むことになるのだった。

 



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