Fate/Everlasting Shine (かってぃー)
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序幕
第1話 カルデアへの招き


 イギリスの首都である倫敦。その象徴的な建物である時計塔。一般人から見ればそれはただの歴史ある時計塔でしかないが、一部の人間たちにとって、そこはある種聖地のような場所であった。

 条理の外にある法である魔術を扱い、『根源』と呼ばれる全ての源流に至らんとする者、魔術師。時計塔は彼らを統括する機関である〝魔術協会〟の総本山であると同時に、多くの魔術師にとっての学び舎でもあった。

 多くの魔術師が跋扈するその建物の中を、ひとりの魔術師が歩いていた。黒いTシャツの上に黒いフード付きパーカーを着込み、同じ色のジーンズを穿いている。その黒づくめをより黒々しく見せているのは、闇のように暗い色をした髪であった。

 背中の半ばほどにまで伸ばした長い黒髪を、項の辺りで纏めている。歩く度に頭頂の辺りでぴこぴこ動いているのは特徴的なアホ毛。19という齢の割に顔の造作は童顔かつまるで少女のようだが、182cmもある身長が女性と見紛うことを防いでいた。

 そんな魔術師が時計塔のとある一室の前で足を止める。いつもは授業が終わった時刻でもこの周辺は生徒でごった返しているのだが、誰もいないところを見ると彼を呼び出したのはかなり重要な機密があるかららしかった。ひとつため息を落とし、青年が扉をノックする。

 

「入りなさい」

 

 そういらえが返ってくると、青年は躊躇うことなくドアを開け放った。本棚には整然と数多の古い魔導書が陳列され、棚に魔導具と思しき物体が所狭しと並べられている。

 そんな部屋の奥。雑務をこなすための木製の事務机にひとりの女性が座っていた。その横に侍っているのは何らかの拘りがありそうな緑色のスーツを着た柔和な笑みを浮かべた男と、女性のメイドと立っている。

 ふたりは青年と目が合ったことに気付いたのか、それぞれに反応を見せた。メイドは恭しく目礼し、スーツの男は部屋に満ちる雰囲気に慣れているように平然と微笑んだ。その反応を見て青年の中で勝手に危険信号が燈るが、それを無視して案内されるままに来客用のソファに座った。

 青年の机を挟んで反対側に白髪の女性が座る。青年はその女性の名を知っていた。天体科の前君主(ロード)マリスビリー・アニムスフィアの娘であるオルガマリー・アニムスフィアだ。

 オルガマリーは緑色のスーツの男に出された紅茶を一口啜ってから口を開く。

 

「とりあえず、今日は私の招きに応じてくれたことに礼を言っておくわ。日本の伝承保菌者(ゴッズホルダー)、『夜桜遥』」

「それはどうも」

 

 そう短く言葉を返すと、青年――魔術師、夜桜遥もまた紅茶を一口啜った。表面上は平静を装っている遥であるが、この緊張感に支配された場にあって口腔内がひどく乾いていた。

 一口だけにするつもりでつい飲み干してしまったティーカップをソーサーに叩き付けるようにして置く。よく見ればティーカップとソーサーはセットで、かなり高そうだったがそんなことは遥の知ったことではない。

 遥の緊張を知って知らずか、オルガマリーの瞳に剣呑な光が宿る。それに反応して遥が背筋を正し、メイドが新しく紅茶を注いだ。琥珀色の液面に、遥の顔が映る。

 

「それで……俺に何の用です? こんな『はぐれ』の魔術師を君主(ロード)直々に呼び出しなんて」

 

 純粋に疑問に思ったように遥が問う。遥の一族である夜桜家は日本屈指の名家ではあるものの、時計塔に所属していない所謂『はぐれ』の魔術師だった。遥は時計塔と個人的な繋がりがあるためこうして来ているが、前の代まではそれすらなかった始末である。

 はぐれの魔術家系の人間にロードの家系が命令ではなく、頼みという形で呼び出しをしたのはひとえに夜桜家の歴史が他の魔術家系よりも圧倒的に古いからだった。血の歴史を尊ぶ魔術社会において、遥を一方的に見下せる人間はそう多くはない。

 伝承保菌者(ゴッズホルダー)。神代において神霊たちに仕え、その魔術と宝具、そして魔術社会において最も尊ばれるべき血の掟である冠位指定(グランドオーダー)を持った魔導。遥もまた例外なくそれを帯びている。

 遥が問いを投げかけた直後、オルガマリーが指示するよりも早くメイドが遥の前に紙の束を置いた。どうやら何かしらの資料のようだ。

 

「先ずはそれを読んでくれるかしら。そうすれば、私が貴方を呼び出した理由が分かる筈よ」

「はぁ……それじゃ、遠慮なく」

 

 資料を手に取り、表紙に目を通す。魔術師が出してくるものだから手書きのものだとばかり思っていたが、インクジェットプリンターで印刷されているようだった。遥自身が機械に全く抵抗がないどころか日常的に使っている魔術師であることを棚に上げ、僅かに驚愕を抱く。

 最初に視界に入ってきたのは表紙に印刷された〝人理継続保障機関フィニス・カルデア〟の文字だった。高度6000mの山の山頂にアニムスフィア家が所有する、魔術と科学が交錯した機関。近未来観測レンズ〝シバ〟と地球の魂を複写した〝カルデアス〟を用いて人類の継続を保証するためのものだ。

 その後の内容を要約すれば、突如としてそれまで観測できていた2016年以降の未来領域が消失し、同時に過去の歴史にそれまでは観測できなかった領域〝特異点〟が現れた。カルデアはこれを人類滅亡の原因と断定し、〝レイシフト〟によって過去に飛び、特異点を破壊する、というものだった。

 なんとも途方もない話である。人類の滅亡というのはさして驚くことでもないが、過去に飛ぶだの未来を観測するだのと頭の固い魔術師が見れば卒倒しそうな文言な並んでいる。

 本来時間跳躍は第五魔法の領域だが、カルデアではそれをカルデアス等の技術を用いて可能にしているということだろうか。だが、最も驚くべきはそこではない。

 特異点の原因を調査及び破壊するうえにおいて、カルデアは英霊召喚を行うらしい。英霊といえば、魔術世界では最も高位の使い魔であり生半可な召喚システムでは降霊すら不可能なものだ。

 資料を読み終えた遥が表紙を弾きながら言葉を漏らす。

 

「成程ね……つまり、アンタたちは俺にこのマスター候補生になれ、と。そういうことで?」

「そうよ。我々は貴方をカルデアのマスター候補生……そのA班に招きたい」

 

 オルガマリーの解答を聞き、遥がふん、と鼻を鳴らす。A班というのは48人いるマスター候補生の中でも魔術師的な能力の高いメンバーが配属される班であるという。確かに、それに文句はない。遥の魔術的な能力は客観的に見て〝常軌を逸している〟と言っても過言ではない。

 招くだけならば家に郵送で書類でも送ってくればよかっただろうが、そうしなかったのはひとえに歴史の問題だろう。世界中を探してもきちんと神代から続く家系、それも伝承保菌者(ゴッズホルダー)はかなり稀有だ。

 だが、それでも遥は不満だった。そもそも、遥にとって魔術での名誉などはどうでも良いことなのである。名誉など邪魔なだけで、持っていたところで明日の食事が保証されるものでもない。

 

「別に応じるのは吝かではないっつーか、人類の危機なんで断る理由もないですけど……これ、俺に旨味ありませんよね?」

「人類の危機を救ったという栄誉。これで不満かしら?」

「えぇ。不満ですね。それならアンタらも一緒……というか、マスター候補生を統括してるのはアンタらなんだからその栄誉はアンタらも一緒でしょ。それに、俺は栄誉だの名誉だのには毛ほども興味がないモンでね。

 魔術の基本は等価交換……なら、俺の要求もひとつくらい呑んでくれてもいいと思うんですけど……どう?」

 

 一気にまくし立てた遥の言葉にオルガマリーが言葉を窮した。マリスビリーが死んでから、いや、それ以前から時計塔の利権争いに身を置いてきたオルガマリーであるが、相手を譲歩させても名誉栄誉に興味が無いという人間と交渉した覚えがなかったのである。

 魔術師というものは自分がどれだけ他人よりも優れているかをひどく気にするきらいがある。そういう性質のある社会において、遥のような者は異端と言っても差し支えあるまい。

 遥の言葉に、どうしたものかとオルガマリーが思案顔になる。しかしすぐに馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな表情になると、ヒステリック混じりの声で反論した。

 

「今は人類の危機なのよ? そんな個人の希望が易々と通るものでは――」

「まあいいじゃないか、オルガ。私たちは一応頼み事をする立場なんだ。聞くだけ聞こうじゃないか」

「……アンタは?」

 

 遥の提案を一蹴しようとしたオルガマリーを押しとどめたのは、先程から横に侍っていたスーツの男だった。遥が名前を問うと、そちらに向き直って帽子を取る。

 

「名乗るのが遅れてしまったね。私はレフ・ライノール。カルデアに勤める技師だ」

 

 そう言って、スーツの男、もといレフは遥に向かって手を差し伸べる。それが握手を求めるサインであることはすぐに判ったが、遥はそれを握り返すのではなくレフの眼を睨み付けることで返した。

 先程レフを一目見た時から、遥の中で危険信号が燈っていた。どういう訳か、そもそも遥はレフとは初対面であり警戒する理由などない筈なのだが、いわば〝本能的な嫌悪感〟とも言えるものが拭えない。

 こうしてレフと相対しているだけで、今すぐにでも礼装のひとつである銃を抜き放って頭部を打ち抜いてしまいたくなる。遥はそれを魔術師らしい魔術師と対面しているからだと勝手に結論付け、勝手に納得した。

 レフはそんな遥の内心を知って知らずか、困ったような笑みを浮かべた。オルガマリーは不服そうな表情を消し、もじもじする。

 

「……レフがそう言うなら……」

「だ、そうだ」

「なら遠慮なく。……俺の希望はひとつだけっすよ。カルデアへの私物の持ち込みを許可して欲しいんです。礼装だけじゃなくて、漫画とか、小説とか」

 

 遥がそう言うと、オルガマリーとレフ、さらには先程から黙ったまま立っていたメイドまでもが拍子抜けしたような表情を浮かべた。まさか人理の危機を救う任務への参加への対価として求めるのが私物の持ち込みだとは思わなかったのだろう。

 だが、遥にとってそれは由々しい問題だった。カルデアは標高6000mの場所にあるのだから、登れば最後そう簡単には降りることができないだろう。加えて、いくら科学を用いているとはいえ魔術の機関に日本の漫画があろう筈もない。

 一応、資料によるとカルデアには図書室もあるらしいが、そこに遥が読んでいる漫画や小説があるという確証はない。であれば、自分自ら持ってくるのが最も確実だ。

 

「う、うむ。そのくらいなら確かに許可さえ取れば問題ないが……本当にそれでいいのかね? 何かが欲しいとか、そういうものは……」

「ありませんよ。自分が欲しいものくらい自分で手に入れますから。それにね、どっかのヒーローじゃありませんけど人間は最悪、ちょっとのお金と明日のパンツさえあれば生きていけるんですよ」

 

 遥の言葉に嘘はない。遥は今まで基本的に誰かから必要以上の施しをされたことはなかった。それは両親を幼い頃に亡くしていることに起因する部分もあろうが、生来の性格がそういうものだった。

 そもそも、遥はあまりこのふたりを信用していなかった。本能的に嫌悪感を抱いているレフは勿論、オルガマリーもだ。遥は基本的に、同郷の数人を除いて魔術師を信用していない。

 例外的にひとりふたり同郷でなくても信用している魔術師はいるが、その例外にレフとオルガマリーが入ることはないだろう。そもそも、遥から信用されたところで何にもならないのだが。

 交渉にもならない交渉。しかしそれはある意味、内容はともかくオルガマリーに対する交渉術としては最適に近いものだった。狐と狸の化かし合いによって相手から利権を引き出すのではなく、完全なギブアンドテイク。化かすのではなく正直に要求をぶつけるだけ。

 

「では、私たちがその条件を呑めば参加するのね?」

「まぁ、聞いてくれるならそれに越したことはないですけど。呑まなくても協力はしますよ。俺だって……絶対に死にたくないんでね」

 

 絶対に死にたくない。そう言う遥の声はそれまでの飄々とした感情の読みにくいものではなく、言葉の裏にある感情を完全に晒したものだった。ただ一時的な感情で出てきた言葉ではなく、何か明確な根拠があっての言葉。

 魔術師の心構えとは、まず死を観念するところから始まるという。それを考えれば、死にたくないという遥の言葉は魔術師として半端な覚悟と詰られるのも無理はないことだった。その裏にある記憶を知らなければ。

 死にたくないと言う時に必ず遥の脳裏を過るのは、嘗て見た地獄。自宅の玄関に広がる血と体液の混合液による池と、そこに倒れ伏す両親。そして、今わの際に両親から託された言葉。

 それを後見人からは「()()()()()()()()()()()」と笑われたが、他の世界線の自分自身など遥の知ったことではない。遥がひとりそんなことを思い出していると、オルガマリーが露骨に面倒くさそうな顔をしてため息を吐いた。

 

「結局どっちなのよ……! 取り敢えず、応じるってことでいいのよね!?」

「さっきからそう言ってるでしょ」

 

 真っ向から神経を逆なでするような遥の態度に、明らかにオルガマリーの怒りと面倒臭さのボルテージが上がっていく。だが事実、遥は『要求を呑まなければ応じない』とは一言も言ってない。

 遥はあまり相手の感情を誘導することには長けていないが、何故か人の神経を逆なですることは得意だった。それがオルガマリーのようなヒステリック気味の人間であれば尚更である。

 沸点に達しかけたボルテージを深呼吸をして落ち着けると、オルガマリーが依頼から命令に変わった言葉を紡ぐ。

 

「では、天体科の君主(ロード)ではなくカルデアの所長として命じます。夜桜遥。マスター候補生としてカルデアに着任しなさい。ここまで事情を知ったのだから、拒否は許しません」

「りょーかい。……じゃあ今日はもう用事ありませんよね? 帰っていいですか?」

 

 一応許可を取る形の問いではあるが、遥の声音はもう帰りたいという意思がありありと感じ取ることができた。遥は頼まれたことはあまり断らないが、基本面倒くさがりなのである。

 最後まで自分のペースを崩さない遥に遂にオルガマリーのボルテージが最高潮に達したが、メイドにおかわりを注がれていた紅茶を一気に呷ってそれを鎮めた。しかし注がれたばかりの紅茶は非常に熱く、不覚にも舌を火傷してしまう。

 だがそれを悟られないように気丈に振舞いつつ、ティーカップをソーサーに叩きつける。

 

「えぇ、もう帰ってもらって結構よ」

「そうですか。では、俺はこれで」

 

 それだけ言うと、遥は渡された資料を鞄に詰めて一礼し、すぐにオルガマリーの部屋を出ていった。話を始めてから最後まで終始自らのペースを崩さなかった遥だが、それでも緊張はしていたのである。できれば長居はしたくなかった。

 カルデアについては機密事項が多すぎるために時計塔の中といえど不用意に資料を出して再度見ることはできないが、流し見しただけでも資料の内容は完璧に記憶してある。記憶するのは遥の起源にも関連する得意分野だ。

 これまで観測していた歴史領域には観測されなかった歪んだ歴史である特異点。それの発生による人類の滅亡。歴史改変による人類総虐殺というのは物語ではよくある話だが、まさか現実に起きるとは全く思わなかった。

 それに対抗する計画に誘われたというのは、遥にとってはこの上ない幸運だったと言えるだろう。何せ、その元凶を見付ければ直接殴ることも滅多斬りにすることもできるのである。あくまで、攻撃が通じる相手ならばという条件付きだが。

 遥の表情が変わる。それは歓喜と決意、そして少しの恐怖と希望がない交ぜになった何とも形容しがたい表情であった。

 

「あぁ……やってやるさ。俺だって、死にたくないんでね」

 

 そう言葉に出して自らの決意を再認する遥。しかし、同時に純粋に疑問を抱く遥もまた、彼の中には存在していた。

 特異点――歪んだ歴史などというものが自然発生的に生み出される筈がない。ならば、これは人為的なものだ。何者かが、何らかの目的を以て人類を抹殺せんと企んでいる。それは恐らく、人類への憎しみからくるものではあるまい。

 憎いなら憎いで、それに相応しい殺し方というものがある。歴史改変による人類総抹殺など、最も血が流れない抹殺だ。本当に憎いなら全人類を血祭にあげるという選択肢を取るだろう。

 遥にはそれが分からない。遥にとって、殺意とは憎悪から来るものでしかないからだ。それは遥の過去が証明している。ひとりだけ例外的に殺意以外の感情で人を殺せる人間を知っているが、遥はそれが理解できない。

 なら、殴るより前に問わねばなるまい。なぜ、人類を抹消しようと思ったのか。その感情の源泉はどこにあるのか。

 

 その真意を。

 


 

「ホント、なんなのよアイツ……」

 

 遥が出ていった後の執務室では、心底疲れた様子でオルガマリーがソファに身を沈めて新たに注がれた紅茶を啜っていた。彼女にとって遥のような人種は初めて相対する類のものであり、ヒステリックより先に疲れが来たのである。

 そんなオルガマリーを宥めつつ、レフが執務机に積み上げられていた書類のうちから2枚を取り上げた。それは、現在見つかったレイシフト適性のある人物についての資料、そのうち遥を含めた日本人のものであった。

 まさか「適性者が見つかる確率はほぼゼロ」とまで言われた極東の小国でレイシフト適性者がふたり、それもどちらも適性率100%などというまるでレイシフトのために生まれたかのような結果であることにはレフでも驚いたが、片方は一般人だ。考慮に入れる必要は薄い。

 それよりも、警戒すべきは伝承保菌者(ゴッズホルダー)である夜桜遥だ。彼は宝具の現物を有するだけでなく、魔術師としても優秀に過ぎる。測定された魔術回路の量と質は、現代に生まれた魔術師としては異常の一言に尽きる。神代の魔術師が時間跳躍(タイムスリップ)してきたかのようだ。

 だが、それだけの戦力を揃えたところで()()()()()()()()()()()()()。どれだけ優秀だろうが、魔術師など所詮魔術回路を有するだけのただの肉袋でしかない。

 

(なら考慮に入れる必要はない……我らが王のお手を煩わせるまでもない、か)

 

 内心でそうひとりごちて、レフは手に持っていた書類を机に放りだした。



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第2話 ファーストオーダー

「あぁ……暇だなぁ」

 

 心の奥底から漏れ出た偽りのない言葉が、誰にも応えを返してもらうこともなく白一色の廊下に霧散する。ここは国連承認機関であるフィニス・カルデアの廊下であった。

 オルガマリーにマスター候補生としてスカウトを受け、遥がカルデアに来てから早1週間という時が過ぎようとしていた。初めは魔術と科学の交錯という、ある種禁忌に踏み入ったカルデアに目を輝かせていた遥だが慣れてしまえばどうということはない。

 そもそも、カルデアに来る以前から電気製品などの現代文明を一切抵抗なく使っていた遥である。この科学に溢れた環境に適応するのは現在カルデアに来ているどの魔術師よりも早かった。中には今でも戸惑っている魔術師もいるくらいである。

 持ち込んだ小説や漫画も既にあらかたを読みつくした。一応、自室と図書室両方に大量の魔導書があるがこれからここで生活していくというのに早くに全てを読み終えてしまってはこれからの楽しみがなくなる。

 マスター候補生としてすべきことも既に全て済ませてある。そのために明日のブリーフィングに出席する必要がないため、レイシフトまで何もすることがなく、こうして行くあてもなくカルデアを彷徨っているのである。幸い、カルデアはかなり広く探検するには困らない。

 

「とはいえ、カルデアの構造は全部記憶しちまったからな……新鮮味がねぇ」

 

 遥の起源は『不朽』。これにより、遥は一度見たものを忘れるというのは余程のことがない限り発生しない。カルデアの案内図を見て全て記憶してしまった以上、探検したところで新たに見つかるものはない。

 遥がオルガマリーとレフに許可を取って持ち込んだ私物は何も、漫画や小説だけではない。魔術に関係ないものでは携帯ゲーム機やプラモデル、魔術関連であれば夜桜家に伝わる宝具は勿論、その他の礼装なども持ち込んである。

 礼装は魔術師にとって自らの魔導の秘奥を詰め込んだ必殺兵器のようなものだ。遥の最強礼装は自らの魔導とは直接的な関係はないが、その他の礼装の整備は大事である。特に、遥は近代兵器である銃を魔術的に加工したものを礼装としている。整備の重要性は他の魔術師の比ではない。

 だが、それもやる気にならない。完全に手持ち無沙汰だ。口笛を吹きながら廊下を歩いていると、不意にロングコートの裾に重みを感じた。それは遥が反応するより早くにロングコートを駆けあがると、遥の右肩に乗った。

 

「フォーウ」

「ん? おぉ、フォウか」

 

 そう言いながら遥が指でフォウの頬をつつくと、フォウがくすぐったそうに眼を細めた。

 有無を言わさず遥の右肩に乗ってきたリスのような、或いは猫のような、小さく白いもふもふとした生物の名前はフォウ。いつの間にかカルデアに住み着き、カルデアの全域を散歩する権利を与えられた特権生物である。

 一見人懐っこそうな小動物だが、その可愛らしい見た目に反して人の好き嫌いが激しいのか、今のところカルデアでは遥ともうひとりの局員以外の人間には積極的に近づこうとしない。特に、遥以外に到着している46人のマスター候補生には。

 対照的に遥には彼がカルデアに来た日にフォウ自ら近づいてきた。どういう訳かフォウは人間の言葉を完全に解することができているからか、つい友人に接するように対応しているが、結局フォウが何なのかは遥も分からない。

 

「どうした? 腹減ったのか?」

「フォウ、フォーウ!」

 

 まるで遥の問いに対して肯定しているかのような鳴き声だった。気を付けずにただ聞いているだけではフォウの鳴き声は動物の鳴き声でしかないが、注意して聞いていると何を言っているのかが大まかにだが感じ取ることができる。

 フォウの存在についてこの1週の間に、遥はオルガマリーたちカルデアの幹部についてそれとなく聞いたことがあった。しかしそれでフォウの正体が判明したかと言えばそうではなく、皆口を揃えていつの間にか居たと言う始末であった。

 初めはカルデアの幹部が何かしらの実験で作り出した合成魔獣かとも考えていたのだが、そうではなく本当に外部から来たらしかった。人間ですら登頂が難しいこの雪山に小動物1匹で。

 肩に乗っているフォウの首の後ろの皮をつまんで持ち上げると、遥はフォウを自分の目の前に持ってきた。

 

「そういや、お前って何食うんだ? 食えないモンとかあるか? 玉葱とか」

「フォウ?」

 

 君が作るの、とでも言いたげなフォウの視線に遥が肯定の笑みを返す。

 遥は両親が殺されてから数年来独り暮らしだったために自炊を余儀なくされていた。とはいえ、自炊が嫌な訳ではなくむしろ遥は料理好きであった。本人は自覚していないが腕前はかなりのもので、プロの料理人が裸足で逃げ出すレベルである。

 遥が真面目に考えていると、フォウが身体をばたつかせて遥の手から離れた。じたばたとしていた勢いを利用して跳びあがり、遥の頭に乗ると前足でアホ毛を弄り始める。遥はそれを特に咎めず、苦笑するだけに留めた。

 カルデアは魔術協会の施設ではあるが、キッチンにはかなり現代的な調理器具が多く備え付けられている。料理を趣味とする遥としては有難いことだった。もしも原始的なものしかなければ、自ら持ってくるところであった。

 フォウを頭に乗せたまま遥がキッチンへと向かう。すると、その途中で見知った人影が向こう側から歩いてくるのが見えた。紫銀の髪を肩辺りで切り揃えた、眼鏡を掛けた少女。カルデアに来てから常に自分の礼装を着用している遥とは違い、きちんとカルデアの制服を着ている。

 その少女は何冊かの本を抱えたままキョロキョロと周囲を見ながら歩いていたが、遥を見付けると近づいて会釈をした。

 

「〝ハルさん〟、フォウさん、こんにちは」

「よう、〝マシュ〟。どうした? こんなトコで」

 

 遥に声を掛けてきた少女の名前は『マシュ・キリエライト』。遥と同じマスター候補生A(チーム)に所属している少女である。マシュもフォウと同じくあまり他のマスター候補生とは話さないのだが、遥は例外だ。

 遥は知らないことだが、マシュは本当に好感を抱いた人間に対しては『先輩』という呼称を使う。だからといってマシュが遥を警戒しているのかと言えばそうではなく、マシュにとって遥は初めて出会う類の人間だった。

 〝脅威も敵意も感じない非常に人間らしい人間だが、どこか一般人とはかけ離れたものがある〟というのがマシュが遥に抱いている感想だった。故にマシュは遥を『先輩』とは呼ばず、さりとて距離を取ることもせず、渾名で呼ぶことにしたのである。

 遥も『ハルさん』という渾名で呼ばれたことがなかったために狼狽はしたが、これまでの人生で付けられてきた酷すぎる渾名に比べれば何倍も〝マシ〟というものであった。

 

「あの、ちょうどハルさんを探していて……」

「俺を? ……あぁ、それか」

 

 そう言って遥が指したのはマシュが抱えている数冊の本とDVD、ブルーレイの山であった。遥の確認にマシュが頷く。

 マシュと知り合ってすぐに知ったことだが、マシュは相当の読書家であった。遥もかなりの読書家である自信があったが、読書量で言えばマシュに軍配が上がる。

 しかし生まれてからずっとカルデアにいたため、カルデアに貯蔵されている本とドクターから与えられた本しか読んだことがなかった。マシュにとって、遥が持ち込んだものは初めて見る類の本だったのである。

 かと言って、ふたりの読んでいる本のジャンルが全く一致していないかと言えばそうではなく、その話になった時は初めて何時間も話し込んでしまったほどである。

 本などを遥に返しながら、若干興奮気味にマシュが言う。

 

「大変興味深い内容でした! わたしが知り得ていた創作世界とは全く異なる新鮮なもので……!」

「それは良かった。それだけ喜んでくれれば俺も嬉しいよ」

 

 年下に対しては態度が軟化してしまう自分を自覚しつつ、遥がマシュの言葉にそう返す。マシュが喜んでくれたことも嬉しいが、遥としては自分の趣味に共感してくれる人がいるというのは何より嬉しいことだった。

 遥と同年代の人間は魔術師ばかりであるカルデアでは勿論のことだが、カルデアに来る以前から遥は趣味について語ることができる人間はそう多くなかった。多々事情はあるが、遥はあまり友達がいないのである。

 マシュを友達と定義するのは何処か違うようにも思えるが、だからといって何か明確に定義付けできるような関係性もない。無難なところで言えば『同僚』だろう。それは絶対に間違っていない。

 

「続きが気になるなら最終巻まで俺の部屋にあるからさ、借りに来るといい。……ああ、でも。明日は特異点攻略当日だっけ。忙しくなるな」

「はい。ではお言葉に甘えて、時間に余裕のある時に伺いますね」

「おう。……そういえば、明日はマシュの誕生日でもあるんだったな」

 

 何気なく遥が漏らした言葉にマシュが首肯する。明日はレイシフト実行予定日であると同時に、マシュ・キリエライトという少女がこの世に生を受けた日でもあった。

 だが、それを素直に祝うことができるかと問われれば、それは否だ。マシュから告げられた訳でも、カルデア医療班のチーフである〝ロマニ・アーキマン〟から聞かされた訳でもないが、遥はマシュの出生に漠然と気付いていた。

 遥はその性格こそ魔術師らしくもないものだが、魔力事象に関する知覚能力は現代の魔術師のそれを大きく凌駕する。それには遥の出生に関わるとあることが絡んでくるのだが、今は関係の無いことである。

 その感覚が遥に告げている。マシュはホムンクルスか、或いはそれに近しい存在――例えばデザイナーベビー――であると。普通でない遥だからこそ、そういう普通でない存在への嗅覚は優れている。

 

(俺の想像が当たっているとすると……カルデアはマシュを使ってなにをしようとしていたんだ……?)

 

 マシュと会話を交わしつつ、内心だけで思考を巡らせる。推理は遥の得意分野だが、あまりに情報の少ないこの状況では推理ではなくただの益体のない妄想だ。

 魔術師が造り出した施設で人工的に生み出された人間というのは、まず何らかの魔術実験のために生み出されたと考えて間違いはない。魔術師というものは理由さえあれば、或いはなくとも他人を魔術実験の材料にできる生き物だ。

 だが、研究試料がマシュだけだったとは思えない。それでは失敗した時にやり直しがきかない。では、その数多ある研究試料の中でマシュだけがその実験に成功し、生き残ることができたと考えた方が自然だ。どれだけ危険な実験だったのだろうか。

 あくまで魔術実験の試料としてのみ生み出された人間に余分な寿命を持たせるとは考えにくい。恐らく、マシュには予め稼働年数(じゅみょう)が設定されている筈だ。ならば、死へのカウントダウンでしかない年齢を重ねたことを祝って何になるというのか。

 決められた寿命。定められた死。遥がなおも思索の海に漕ぎ出そうとしていると、不意に遥の意識をマシュの声が現実に引き戻した。

 

「ハルさん? どうしたんですか?」

「あぁ、いや、なんでもねぇよ。ちょっと考え事をな」

 

 意識を支配しかけた思考を頭を振って振り落とす。下から覗かれるような姿勢は漫画などでは互いの存在を意識してしまうような姿勢であろうが、遥とマシュほど身長が離れていればそのようなこともない。

 余談だが、遥は非常に初心だ。経験はないが、もしも相手から好意を向けられていることに気付いた場合、それだけでときめいてしまう。それは遥の対人経験の無さによるものではなく、どの世界線でも変わらない癖のようなものだった。

 

「では、わたしはこれで。失礼します」

「おう」

 

 これで用事は全て終えたとマシュが遥に一礼してから離れていく。身長差があるために当然のことだが、離れていく背中はひどく小さく見える。それはきっと、身長差によるものだけではない。

 マシュが何を背負って生きているかなど、遥は知らないしきっとこれからも知ることはないだろう。そもそも無理に知ろうとも思わない。遥が他人にそれを伝えない以上、他人のそれを知る権利はない。

 だが、そうであっても気になったことは知らずにはいられない。遥は明日の予定を決めると、空腹のフォウには申し訳ないが本を部屋に置くために、来た道を引き返した。

 

 

 

 翌日。食事と身支度を整えた遥は部屋に待機するのではなく、両手に自作のケーキを持ったまま廊下を歩いていた。この時間、他の候補生たちは説明会(ブリーフィング)に出席しているが、遥は既に説明を受けているため免除されている。

 本来は遥の用のある人物は医務室にいる筈なのだが、先程医務室を訪れたら何処かに行ったのかそこにはいなかった。だが以前からサボり癖のある人物であることを知っていた遥は、サボっていた場合のサボり場所にある程度目途を付けていた。

 未だに到着していない48人目、一般枠のマスター候補生に与えられる予定の部屋。遥はその扉の前で深呼吸を零すと、塞がれている両手の代わりに足で扉をノックした。直後に扉がスライドし、中からひとりの男が現れる。

 オレンジ色の長い髪をポニーテールに纏めている白衣の男。カルデア医療班のチーフである〝Dr.ロマン〟こと〝ロマニ・アーキマン〟。遥とは10歳ほど歳の差があるが、カルデアに来てから遥にできた初めての友人でもあった。

 ロマニは遥が来るとは思っていなかったのか、不思議そうな表情を浮かべる。

 

「遥君、どうしたんだい?」

「ちょっとドクターと話したいことがあってな。あ、ケーキ持ってきたんだけど、食う?」

「いいのかい? じゃあ頂こうかな」

 

 遥からケーキを受け取ると、ロマニは部屋に備え付けられている湯沸かし器を使って湯を沸かしてコーヒーを入れた。ロマニは机の傍にある椅子、遥はベッドに腰かける。

 フォークでチョコケーキを切り分けて口に運びながら、ちらと遥はロマニを見た。こうしてとあることを聞き出すためにロマニの許を訪れた遥だが、遥の中には未だ疑問が残っていた。

 ロマニは魔術の知識はあるが、魔術師ではない。レフとは学友だったと言うが、遥の見る限りはカルデアの中では比較的一般人に近い正常な感性の持ち主である。そんな人間が、人間を研究試料にする実験があったと知って尚カルデアに協力するのだろうか。

 だが、仮にも一部門のトップを任されるような人間がその実験を知らないとも考えにくい。遥がそう思考を巡らせていると、先にロマニが話の口火を切った。

 

「それで、どうしたんだい? てっきりコフィンの前で最後の調整に入ってると思ったケド」

「礼装の調整なら昨日のうちに済ませたよ。俺自身の調整は特に考慮する必要はない。ホラ、必要な時はいつでも全力を出せるようにするのが魔術師だろ?」

「アハハ、それもそうだね」

 

 必要時にはいつでも全力を出せるようにしておくのが魔術師。遥はそれを冗談で言ったつもりはなく、心の底からそう思っていた。

 魔術師には魔術回路の調子が良い時間帯というものがあるが、いざとなれば遥は何時であっても魔術回路を全力稼働させることができる。さらに、何度も魔術回路を構築し直しているため、魔術回路の強度も群を抜いていた。一般的な魔術師が針金だとすれば、遥の強度はワイヤーだ。

 自らの才能に胡坐をかかず、他人を大きく凌駕する才能を持っていながら他人の何倍もの努力をする。遥のこれまでの人生を聞いた時にロマニが遥に下した評価はそのようなものだった。そして、事実それは遥の人間性を正しく見抜いていた。

 場の空気を変えるように、遥が何度か咳払いを漏らす。

 

「……それで。俺が聞きたかったことだが……ドクター、単刀直入に訊くが、マシュは何の為に生み出された?」

「!? ……気付いてたんだ。マシュが普通に生まれたんじゃないって」

 

 どこか悟ったようなロマニの言葉に遥が無言で頷きを返す。普通の魔術師であれば何のために生み出されたのかなど気にしないのだろうが、遥はそれが気になっていた。他ならぬ、とある目的によって生み出された遥だからこそそれが異常に気になる。

 今更実験の為に作り出されたことに是非を問うつもりは毛頭ない。だが、目的のために生まれた人間は本人の意思とは無関係に生き方を決められてしまう。そうなってしまった遥だから、マシュにはそうなって欲しくはないのである。

 これは同僚が気にする範疇のことではない。敢えて言うならばそれは兄が妹を心配する感情に近いものがあった。この世界の遥には妹はないために、それを自覚することはないが。

 ロマニは時計をちらと見やると、今まで遥には見せたことのない懐古と後悔に塗れた表情を見せた。

 

「もうすぐファーストオーダーだ。詳しいことは帰ってきてから話そう。……けど、これだけは約束してくれ。全てを知っても、マシュに対する態度は変えないで欲しい。彼女は君を信頼しているようだからね」

「当然だ。()()()()()()()()()()()()()()()。そうでなくても、俺はすぐに態度を変えられるほど器用じゃないんでね」

 

 ぶっきらぼうにそう言い放つと、遥は大口を開けて残っていたケーキを一口で頬張った。きちんと咀嚼してから嚥下し、ベッドから立ち上がる。このまま部屋には戻らず、レイシフトルームに向かうことになる。

 攻撃用礼装である宝具の長刀と宝石、数挺の魔銃と交換用通常弾倉、特殊弾倉は全て防御用礼装であるロングコートの内に仕舞ってある。他の候補生はカルデア戦闘服を着ているのだろうが、性能では遥の礼装の方が上だ。

 きちんと全て揃っていることを確認してから部屋を出ようとすると、センサが遥に反応するより早く扉が開いた。そこから姿を見せたのは、遥と同じくらいの年齢と思しき青年。恐らく48人目のマスター候補生であろう。

 まさか自分の部屋に誰かがいるとは思っていなかったのか、呆気に取られた様子だった。遥は苦笑いを浮かべつつそのまま廊下に出てレイシフトルームに向かう。

 レイシフトルームに入ると、他のマスターたちは既にコフィンの前に立っていた。遥の来訪に気付いたオルガマリーが叱責を飛ばす。

 

「遅い! 早く準備をしなさい」

「了解」

 

 遥がそう返事をすると、遥は真面目に返事をしたことが意外だったのかオルガマリーが目を丸くする。確かに遥はオルガマリーに対しては反抗的だが、私情を挟んでも良い場面と悪い場面の区別くらいはつく。

 自分に割り当てられたコフィンの前に立ってから周囲を見渡す。遥たちの頭上に浮かんでいるのは超巨大魔術礼装〝カルデアス〟と〝シバ〟。他の候補生たちは皆カルデア戦闘服を着ている中、遥だけが自前の礼装を着ていた。

 そうしていると、Aチームのメンバーが視界に入った。マシュと遥を除けば〝キリシュタイア・ヴォーダイム〟〝オフェリア・ファムルソローネ〟〝カドック・ゼムルプス〟〝スカンジナビア・ペペロンチーノ〟〝芥ヒナコ〟〝ベリル・ガット〟〝デイビット・ゼム・ヴォイド〟の7人。

 ロマニによって推薦されたマシュとオルガマリーによって強引にAチームにねじ込まれた遥を除けば、全員が前所長マリスビリーによって選ばれた魔術師である。遥が若干居心地の悪さを感じていると、ヴォーダイムと目が合った。動けない代わりに会釈をするヴォーダイムに、慌てて会釈を返す。

 徹底した実力主義者である彼らは伝承保菌者(ゴッズホルダー)であり、魔術師として最も実力を示している遥に敬意を払ってくれるが、遥としては非常に居心地が悪い。いっそ嫌ってくれれば楽だっただろう。

 遥がそうしてしかめっ面をしていると、コフィンが開いた。棺桶という意の言葉を名として冠する装置に入るのは気が引けるが、そんなことを言っている場合ではない。コフィンに入ると、扉が閉まってロックが掛けられた。

 あとは装置が起動し、特異点に送り出されるのを待つだけだ。遥が瞑目し、ため息を吐いた時――。

 

 

――爆音が鳴り響いた。




遥はこの小説の主人公ですが、ヒロインはマシュではありません。マシュの相談役ポジションです。

では、遥の簡単な設定を。

夜桜 遥
年齢:19才 身長:182㎝ 体重:65㎏
起源:不朽 魔術属性:五属性複合(アベレージ・ワン)
特技:家事全般、機械いじり
好きなこと:料理、読書、アニメ・特撮鑑賞
天敵:レフ・ライノール
特徴:アルトリア顔


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特異点F 炎上汚染都市冬木
第3話 燃える故郷


「――う……あ?」

 

 呻き声めいた息を漏らし、遥が目を覚ます。頭を強く打ったのか視界がひどく朦朧としていて、頭部の傷口から流れてきた血液が視界の右半分を紅く染め上げる。ロングコート越しに感じる灼熱感からして、火災が起きているようだった。

 火災が始まって間もないのか、深呼吸をするとまだ十分な量の酸素を取り込むことができた。次第に脳がダウンしていた機能を取り戻していくにつれて視界が明瞭になり、音を掻き消すほどの耳鳴りが収まっていく。

 そうしてすぐにでも脱出すべしと叫んでいた生存本能を冷えてきた理性で押し殺し、簡単に状況を整理する。状況を把握せずに闇雲に動いたところで、冷静な行動ができずに死ぬだけだ。

 どうしてこうなったのか。思い出そうとすれば、すぐに思い出すことができた。最後に部屋に到着した遥がコフィンに入り、レイシフトをしようとした直後に爆発が起きたのである。衝撃でコフィンが吹き飛ばされ、遥は頭を打って気絶した。

 意識を失っていたのがどれほどの時間なのかは分からないが、遥のコフィンにまで火の手が回ってきていないのは僥倖だ。身体の方もカルデア戦闘服ではなく自前の礼装を着ていたためか魔術で治療すればすぐに治るレベルだ。遥のロングコートは防御力においては右に出る物は無いほどの性能を誇る。

 怪我をしている部位に治癒魔術を施して傷口を塞ぐと、爆発で歪んで開かなくなったドアを蹴り飛ばした。強化された脚力は簡単に鋼鉄製のドアを大きく吹き飛ばし、燃え盛る部屋の中をドアが舞う。

 開けた視界。その中に人の姿があった。

 

「えっ……生存者!?」

「お前は48人目の……〝藤丸立香〟だったか」

 

 以前見せられた資料にあった顔を思い出してそう問うと、目の前の青年――立香は切羽詰まった表情で頷きを返した。その様子と言葉からして生存者を探しているようだが、結果は芳しくないらしい。遥にまで沈鬱な感情が伝播する。

 この爆発の原因は事故ではない。事故にしては爆発した場所とタイミングが出来すぎている。これは明らかにマスター候補生とオルガマリーを一斉に抹殺するために仕組まれた爆破テロだ。以前からカルデアは内部の守りが脆弱だとは思っていたが、思いのほか早く弱点が露呈してしまった。

 一体誰が、と考えた時に遥の脳裏を過ったのはレフの顔。だがそれはただの直感であり、証拠などない。そんな意味のないことを考えるよりも生存者を探す方が優先だ。

 コフィンから跳び起き、周囲を見渡す。爆発によって崩壊した瓦礫が積み重なり、全てが燃えるその光景はさながら地獄のようだった。足元を見れば、全身がバラバラになったうえに焼け焦げて炭化してしまった遺体がある。水分を失って縮み、半分が消し飛んだ頭部は頭髪が燃え尽きて最早誰かも分からない。

 そんな遺体を見ても、遥の平常心は些かも揺らがない。この程度の遺体は()()()()()()()。遥がなおも生存者を探そうとしていると、別な方を見ていた立香が声をあげた。

 

「! マシュッ!!」

 

 マシュを見付けた。慌てた様子で瓦礫を飛び越えた立香の後に続いて遥も瓦礫を飛び越え、そうして、ソレを見た。

 

「あ……せん、ぱい……、ハ、ルさん……」

「ッ……!」

 

 視界に入った光景に遥が息を呑む。視界がブレて、それがいつかの光景と重なった。マシュは生きている。死んでいない。けれど、〝あの時〟もそうだった。

 立香と遥が見つけたマシュは、生死が不確かな他の候補生たちとは違って確かに生きていた。けれど、だからと言って安心できるものではない。そこに倒れ伏したマシュの下半身は、巨大な瓦礫によって押し潰されていた。

 瓦礫の下から流れてきた血が血溜まりを作っている。絶え間なく血が流れ続けるマシュの顔色は見る間に青ざめていき、命の灯が消え始めていることを如実に物語っていた。立香はなんとかそれをどかそうとするも、重量のある瓦礫をどかすことはできない。

 半ば無意識に遥の手が動き、長刀の柄を握る。それに施された封印を解こうとして、寸でのところで踏みとどまった。遥の礼装たるこの宝具ならば瓦礫を切り裂くことも可能だが、破壊したところで潰れた下半身を一瞬で復元するほどの規模の魔術など使えない。

 

――システム、レイシフト最終段階に移行します。座標、西暦2004年1月30日、日本:冬木

 

 遥の故郷の名前が機械的なアナウンスによって読み上げられている。カルデアスが真紅に染まっている。けれどそんなものは遥の意識に留まることはなく、遥の視点は目の前の現実と過去の記憶に焦点を合わせていた。

 いつだってそうだ。遥は死体を見てもなんとも思わないのに、これから死に逝く、死にかけの人間を見るとひどく動揺する。トラウマなどというものではない。それ以上の、これはある種『夜桜遥』の本能のようなものだった。

 記憶に埋没していく遥の意識を、機械的な音が現実に引き戻す。音のした方を見遣れば、通路へと続く扉の隔壁が閉まっていた。火災の延焼を防ぐためだろう。カルデアのことを考えるなら、これで外には出られなくなった。

 このまま火災の延焼に呑まれるか。或いは延焼覚悟で隔壁を吹き飛ばし、せめてマシュと立香だけでもここから脱出させるか。遥がその二択の間で彷徨っていると、先に立香が動いた。押し潰されたマシュの隣に座る。

 

「せんぱい……?」

 

 顔に疑問符を浮かべるマシュの手を無言で立香が握る。マシュが今にも死んでしまいそうなことが分かっていながら、それでも安心させるように優しくその掌を両手で覆う。

 立香のその行動を見て、遥の中で何かスイッチが切り替わった。そうだ。何を諦めているのか。目の前で誰かが死ぬことが分かっていて、けれどまだそれを回避できる手段があると言うのなら、間に合わなかったとしても講じるべきだ。

 目の前で誰かが死ぬ怖さが分かっているなら、どうして助けようとしない。助けられるかも知れない手段を持つのが魔術師だろう。弱気な自分を叱咤すると、遥はホルスターから礼装のひとつ、リボルバー〝S&W(スミス・アンド・ウェストン)M500・カスタム〟を抜き放つと、徐にマシュを押し潰す瓦礫へと打ち放った。

 魔術によって強化された弾丸が瓦礫に罅を穿ち、さらに鉛玉が内包していた魔力を封入した宝石が炸裂してマシュの上に圧し掛かっている部分を分断した。それを退かす。

 

「……ッ!」

「無理です……もう、間に合いません……!」

「うるせぇ! 簡単に諦めきれるか……もう、あの時みてぇなのは御免なんだよ……!」

 

 それは既に死を観念しているマシュを叱咤する言葉であり、先程までは諦めかけていた自分自身への叱責だった。確かにマシュの足は潰れてしまっている。だが、それでももう簡単に諦めてしまうのは嫌だった。

 

――コフィン内マスターのバイタル基準値に達していません。

 

 辛うじて残っている部分に手を当て、治癒魔術を起動させる。生暖かい粘性の液体が手に付着するが、気にしている余裕など遥にはない。

 遥の施している治癒魔術は確かに傷を治すには十分すぎる、かなり高位の魔術だ。それを詠唱もなしに一瞬で起動できた遥の能力は驚嘆に値するものだろう。だが、それでは間に合わない。マシュを治療するなら、瞬時に下半身全てを修復するだけの奇跡が必要だ。

 そんな魔術、遥は知らない。そもそもの問題として、遥、もとい夜桜家の専門は〝封印〟の魔術である。それにおいては魔法に手を掛けた奇跡は起こせても、それ以外は専門外の領域だった。

 

――レイシフト、定員に達していません。該当マスターを検索中……発見しました。

――適応番号2『夜桜遥』、適応番号48『藤丸立香』両名をマスターとして再設定。アンサモンプログラム始動。霊子変換を開始します。

 

 この時点になってようやく、遥の意識がアナウンスの音声を捉える。はっとして自分たちを見てみれば、少しずつ身体が霊子に変換されているのが分かった。

 考えてみれば当然の話である。ここはレイシフトルーム。マスターたちを特異点に送り出すために作られた部屋であり、メインシステムはまだ生きている。アナウンスがされているのがその証拠だ。

 なら、この部屋から出られない遥たちはこのままレイシフトの時を待つ他ない。いくら立香と遥のレイシフト適性率は100%だとはいえ、コフィンなしでのレイシフトなどどのような危険性があるかも分からない。それに、マシュはどうなる。

 確率に掛けるのは遥は嫌いだった。しかし生存の確率に掛けるしかない以上、その確率を上げる。レイシフトが成功したとしてもそこで失血死しては元も子もない。遥は治癒魔術を行使しながら、並行して別な詠唱を紡ぐ。魔術を出力している手が治癒とは別な輝きを放った。

 

――レイシフト開始まで、3……2……

 

 カウントダウンが進む。時間跳躍(タイムスリップ)の真似事という、魔法にすら見える魔術と科学の融合が起動しようとしている。遥が魔術の行使を止め、ため息をひとつ漏らした。

 とりあえず、止血はした。潰れた箇所の傷口は塞がっていないが、()()()()()()()()()()()。簡単にではあるが、傷口だけを封印したのである。後はこの後の経過に掛けるしかない。

 マシュが何かを言っている。けれど、その言葉は最早聞き取ることはできず、遥はマシュの近くにしゃがむと勝手に立香の手の上から握った。そして。

 

――1……ファーストオーダー、実証開始。

 

 意識が暗転した。

 

 

 

 最初に感じたのは、ひどい熱気だった。爆発の後に気絶していた時とは違い、まるで五感そのものが身体から抜け落ちているかのような違和感の中、遥は目を覚ました。瞼を開いた途端に全ての感覚が戻ってくる。

 燃えている。それだけならば先程までのカルデアと同じだが、仰向けに倒れている視線の先には空が見える。澄み渡った蒼穹ではなく、まるで噴火の後のような黒い雲に覆われている。

 起き上がって周りを見れば、そこらに落ちている瓦礫はカルデアのものではなく何処かの建物のようだった。立香とマシュの姿は無く、遥は無人の街にただひとり立ち尽くしている。

 考えるまでもなく、ここが何処であるかは分かった。〝特異点F〟。特異点の発生座標は2004年1月30日の冬木市。冬木市は遥の出身地でもあるが、同日にこのようになっていた記憶はない。確かに間違った歴史、異常な歴史であった。

 異常であるのはそれだけではない。大気に満ちる魔力(マナ)濃度が現代ではあり得ないほどに高い。神代、とはいかなくとも古代の地球に匹敵する。遥はある事情から平気で耐えられるが、普通の魔術師では何らかの変調をきたしていただろう。

 

「この状況で孤立するのは危険か……ん?」

 

 なるべく早くに立香とマシュを探し出し、合流する。そう遥が決定した時、奇妙な感覚を覚えた。まるでどこかから何かが狙っているような、項の辺りが焼けるような感覚。敵意と殺意、そして侮蔑めいたものによって構成された〝異物〟の視線だ。

 反射的にホルスターからM500・カスタムを抜き放ち、その視線の方向、すぐ横に聳えるビルの屋上に向けて引き金を引いた。そちらを見ずに直感によってのみ撃ちだされた弾丸はそれでも寸分たがわずに、屋上から跳び下りてきたソレに着弾。粉砕する。

 空中で弾丸に打ち抜かれた敵性体はその瞬間に動力が停止し、繋ぎとめていた魔力が霧散してバラバラになる。落ちてきたものを見れば、そこにあったのは人骨らしき骨であった。

 

「骸骨……まさか!?」

 

 弾かれるように上方を見れば、そこにいたのはどういう訳か人の形を保ったままの人骨の集団だった。それも只の人骨の集合ではなく、それぞれが曲刀や槍、弓などの古典的な武具を装備している。言うなれば〝骸骨兵〟といったところか。

 骸骨兵たちの武具は寸分たがわずに遥を狙い、露骨に遥に対して敵意を放っている。どういう訳か、あの骸骨兵たちは遥を狙っているらしい。それをすぐに察知すると、遥はホルスターからさらにもう1挺の魔銃を抜き放った。

 〝デザートイーグル・カスタム〟。M500・カスタムと同じく遥が対霊体・対魔獣用に魔術的な改造を施した魔銃のひとつである。どちらも無改造では反動が強すぎて片手ではとても撃てたものではないが、遥の改造によって素体を大きく凌駕する威力を得ていながら片手撃ちが可能になっていた。

 連続で射出された.500S&Wマグナム弾と.50AE弾が一瞬で虚空を駆け、屋上から遥を狙っていた弓持ち骸骨兵の頭蓋骨、その位置にある霊核を打ち抜く。霊核を貫かれた骸骨兵は一瞬でただの人骨へと戻る。

 しかし、魔銃で屠り切れたのは弓持ちだけで、剣持ちと槍持ちは地上へと降りてきていた。真っ先に遥の方に迫ってきたのはシミターを持つ骸骨兵。並みの人間ならば避けきれずに首と動体が泣き別れしていたところだが、それを易々と避ける。

 空いた左手で握ったのは腰に帯びた長刀。さらに魔術回路に奔る魔力を魔術刻印へと通し、そこに記録されている解呪術式を呼び起こす。

 

「第一拘束、解除」

 

 刻印によって起動する魔術であるから別に詠唱する必要性などないのだが、気分で小さく詠唱を漏らす。長刀に掛けられた第一の封印が解かれ、鞘と鍔を繋いでいた紐が独りでに解けた。

 直後、虚空に奔る金色の軌跡。それは馬鹿なのか愚鈍なのか、真正面から斬りかかってきた剣持ちの首を曲刀ごと撥ね飛ばした。それだけでは終わらず、振り降ろして首から股下にかけてを一直線に切り裂く。

 その金色の長刀が放つ威圧感に気圧されたのか、理性なき骸骨兵たちが後退る。それほどまでにその長刀が放つ魔力と威圧感は強いものであった。それも当然である。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「■■■■■■ッ!!!」

 

 自らを鼓舞するかのように、内臓がない筈の骸骨兵のひとりが甲高い咆哮をあげる。初めに襲い掛かってきたのは遥の背後に立っていた槍持ちの骸骨兵だった。

 敵に背中を向ける、というある種戦闘においての法度を犯す遥を嘲笑うかのように鳴き声をあげながら、骸骨が槍を突き出す。遥はそれを、後方を一瞥することもなく回避すると、脇の下から現れた柄を掴んだ。そのまま長刀を逆手に持ち替え、骸骨を貫く。

 霊核を破壊され、骸骨兵が死ぬ。そのまま遥は槍を奪い、時間差で襲い掛かってきた槍持ちの骸骨に向けて投擲した。大きい動きで槍を振るって投槍を弾く骸骨。あまりに露骨すぎるその隙に長刀を振るい、両手首を斬り飛ばす。そのまま間髪入れずに左手で拳を見舞い、頭蓋骨を粉砕した。

 襲撃者たる骸骨たちの方が一方的に粉砕されている。1分もかからずに何体もの骸骨を倒したその偉容は、まさに嵐。圧倒的な暴虐を以て、奇襲を仕掛けてきた敵を殲滅する。

 残っているのは剣を持っている骸骨のみ。この時点で遥と骸骨の戦闘能力差は瞭然だが、手を抜く気はなかった。

 

「――我が躰は焔」

 

 短くそう詠唱するや、遥の体内に煉獄が生み出された。総身を浸食する煉獄から漏れ出す焔が遥を内部から焼き焦がす。だがそんな感覚には慣れたもので、遥は顔色ひとつ変えない。

 左手に煉獄から取り出した焔から生成した火炎弾を生み出し、連続して撃ち放つ。暴風めいた威力で打ち付ける火炎弾が着弾直後に爆発し、骸骨がひとり吹き飛んだ。その背後に立っていた骸骨は多少の被害を免れたものの、左腕が無くなっていた。

 体内の煉獄に意識を埋没させ、それの時間流の加速をイメージする。するとその通りに遥の体内時間が外界と切り離され、2倍に加速した。固有時制御。極めて高度なその魔術を、遥は感覚だけで起動させたのである。

 地を蹴って骸骨に肉薄し、その右手ごと剣を吹き飛ばす。さらに鳩尾の辺りに突き刺すと、刃を返して脳天までを一気に斬り飛ばした。

 

「……これで終わりか」

 

 長刀を振って刃に付着した骨粉を落とし、鞘に戻す。骸骨を切り裂いたというのにその刀身に一切の刃毀れがないのは、さすが神造兵装と言えるだろう。この長刀も遥と同じく『不朽』の属性を有する。

 自動で再度封印が施され、紐が鞘と鍔を結びつける。ひとつため息を零すと、意識のスイッチが戦闘時の状態から通常の状態へと戻った。しかし警戒は解かず、気配探知を厳にする。。

 弾切れになった魔銃に銃弾を装填しつつ、思考を巡らせる。恐らく、先程の骸骨はこの特異点の原因が造り出したか、或いは特異点が発生したことによって湧き出してきたものだろう。どちらにせよ、排除すべき対象であることに変わりはない。

 あの程度の数であれば問題なく打倒できるが、集団で襲い掛かられた場合はどうなるか分からない。できれば自分自身以外の戦力が欲しいところだが、そう簡単に補充できるものでもない。

 銃弾を再装填した魔銃をホルスターに戻す。その時、何か慣れないものが手に当たった。

 

「あ、そっか。これがあった」

 

 そう言いながら遥がロングコートから取り出したのは、一枚の金色に輝く板だった。レイシフトに際してマスター候補生たちに与えられていたサーヴァント召喚用の道具である〝呼符〟というものだ。

 カルデアの英霊召喚システム〝フェイト〟でサーヴァントを召喚する場合に使われる道具には2種類ある。遥が持っていた〝呼符〟と〝聖晶石〟である。

 〝聖晶石〟はおよそ3個でサーヴァントひとりを召喚可能とする霊基と魔力の結晶体である。対して〝呼符〟とはそれ一枚でサーヴァントを召喚するための霊基と魔力、さらにはカルデアの召喚システムと勝手に繋いでくれるという機能までもある。

 当然後者は作るのが面倒であるため、普通に入手できる前者の方が使用頻度としては高い。だがファーストオーダーという場面においてはそんなことも言っていられないため、人数分用意されていたのだ。

 人数分用意されていたということは当然遥の分以外もある。一瞬だけ、遥は偶然他のマスターたちに与えられていた呼符を捜索しようかとも思ったが、そもそも転移していない可能性すらある。探すだけ時間の無駄だ。

 早速呼符を使って英霊を召喚しようとした時、遥はひとつの問題に気付いた。

 

「……これ、どうやって使うんだ?」

 

 呼符や聖晶石がどういったものかは事前に説明されてはいたものの、それの使用方法については何も言われていなかった。遥ほどの能力があれば一般的な術式なら探りを入れればすぐに使えるようになるが、なにしろ英霊召喚の術式である。慎重に扱わなければならない。

 とりあえずは手持ちの宝石をいくつか液状化させ、それで魔法陣を描く。消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む。カルデアの図書室に所蔵されていた、過去の聖杯戦争において使われた召喚陣だ。

 それの中心に呼符を設置し、魔法陣から魔力を流す。そうして適当に術式や魔力の経路(パス)を弄っていると、突如として魔法陣が輝きを放ち始めた。

 

「これは……!」

 

 驚愕する遥の前で、召喚は勝手に進んでいく。召喚術式を維持している魔力を賄うべく、全身に刻まれた夜桜の魔術刻印が魔術回路を限界に近い状態で駆動させ、全身を形容し難い痛みが循環する。

 魔法陣を中心として放射される法外な魔力はこの濃密なマナに満たされた空間の中にあっても、色褪せることなく召喚者たる遥にまで吹き付ける。嵐のような魔力がロングコートの裾をはためかせた。

 回転する魔力の閃光が輪の形を成し、魔法陣の上で三重の円環を造り出した。さらに魔力が高まり、漏れ出すエーテルが虹色の光の粒子を成して空間に消えていく。

 さらに際限なく魔法陣は地脈から魔力を吸い上げ、それを空間に向けて放射する。それが最高潮にまで高まり遥の視界を白い閃光が埋め尽くし――

 

――桜が舞った、と錯覚した。

 

 無論、この火の海に桜の花びらなどあろう筈もない。閃光が収まって遥の視界が色を取り戻した時、召喚陣に誰かが立っていることに気が付いた。

 桃色がかった白髪を後頭部で纏めている。着ているのは濃い桃色の袴と桜色の和服。その顔の造作は遥と瓜二つで、部外者がいれば血縁を疑うほどであった。身長は遥よりも25㎝ほどは低いだろう。それだけを見れば可憐な少女であるが、腰に帯びた長刀がその印象を完全に打ち消していた。

 閉じられていた少女の目が開き、銀色の双眸が遥を捉える。その瞬間、遥は言いようのない感覚に襲われた。初めて英霊を召喚した感激に震えているのではない。今まで感じたことがなかったからか、遥はそれを言い表すことができなかった。

 そして少女はそんな遥を見つめたまま、召喚において最後となる問いを投げた。

 

「新撰組一番隊隊長、沖田総司推参! あなたが私のマスターですか?」




遥君、なんと初召喚で虹演出。作者は一度も虹演出なんて自分のスマホで見たことはありません。


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第4話 希望は見えず、前途は暗く

 沖田総司。幕末の京都において活躍した治安維持組織である新撰組の一番隊隊長兼撃剣師範を勤めていた人物である。その剣の実力は剣客揃いであった新撰組の中にあっても際立って高く、〝沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣〟と称されていた。

 後の新撰組の仲間である近藤勇や土方歳三らとは天然理心流の道場で出会ったとされ、剣術においては局長である近藤すらも本気で立ち会えば敗北していたという。中でも有名なものは一歩の踏み込みで三度の突きを放つ『三段突き』であろう。

 しかし遥は一瞬、目の前にいる女性が本当に沖田総司かと疑った。新撰組一番隊隊長沖田総司といえば恐らくは日本において最も有名な偉人のひとりたる男性であり、それが事実として伝わっていた。

 だが、遥によって召喚された英霊は紛れもなく女性であった。顔の造作に関しては遥もほとんど同じであるから何とも言えないが、それ以外の部位が女性であることを如実に物語っていた。

 脳内を支配しかけた動揺を、頭を振って払い落とす。どれだけ考えたところで、実際そのように召喚されて実物を見た以上は何を悩む必要があろうか。そもそも自分の身体を女性に改造してしまった変人もいるのだから、最初から性別が違っていたところで驚くことはない。

 召喚して自分を見た途端に動揺した様子を心配したのか、沖田が口を開く。

 

「マスター、どうかされましたか?」

「いや、なんでもないよ。えぇと……何て呼べばいい? セイバー? それとも名前か?」

「如何様にも。私はあなたのサーヴァントですから」

 

 そう言って沖田はそれまでの引き締まった真面目な表情を崩し、ふわりと柔和な微笑を浮かべた。場違いにもそれが恥ずかしくなり、遥が頬を赤くして顔を背けた。

 サーヴァントを召喚したのは良いものの、遥はどうやって沖田とコミュニケーションを取れば良いのか分からなかった。それは遥が対人経験、それも女性とコミュニケーションを取るということに慣れていないからであった。

 今ではマシュとも気兼ねなく話ができるようにはなったが、カルデアに来たばかりの時は距離感を計りかねていたところがあった。ごく普通の少女と相対してそうであるのに、歴史に名高い偉人とどう会話すればよいのか。

 しばらく考えた結果、遥が左手で頬を掻きつつ右手を差し出した。それが何を意図してのことか分からず、沖田が疑問の滲む視線を向ける。

 

「一応、握手できたらと。ホラ、信頼って大事だろ?」

 

 遥がそう言うと、沖田は予想していなかったと言うかのような表情を浮かべた。むべなるかな。帝都において沖田を呼び出したマスターとは異なり、遥は純粋な魔術師である。友好的に接してくるとは思わなかったのだろう。

 大半の魔術師にとって、使い魔とは道具である。それはいかな英霊とはいえ変わらない。英霊がサーヴァントとしてこの世に現界するのは依り代とマスターなどから供給される魔力が必要だ。故に魔術師として通常の思考ではサーヴァントとは下僕という認識になるだろう。

 だが、遥はそう考えてはいなかった。それは遥が魔術師としては異端に属する者であるということではなく、一般人に近い極めて()()()な価値観を持っているという証左だった。

 確かにサーヴァントとは魔術師からの魔力供給がなければ現界していられない存在だが、そもそも魔術師はサーヴァントに助けを求めている立場である。そうでなくとも、彼らは故人であるだけで遥たちと同じ人間、或いはそれに近いものだ。道具ではない。

 沖田は〝信頼は大事〟という遥の言葉に嘘はないと分かったのか、遥の手を握り返した。初めて触れる女性の柔らかな手の感触に遥は気恥ずかしさを覚えたが、見栄を張ってそれを悟られるまいと平静を装う。

 

「それにしても……酷い有様ですね。これからどうします?」

「この街の何処かに俺の仲間がいる筈なんだ。先ずはソイツらと合流しよう」

 

 マシュはともかく、ほとんど話したこともない立香を含めて〝仲間〟という言葉が簡単に自分の口から滑り出たことに遥自身が驚愕する。しかし、話したことはなくともマスター候補生である以上、定義上は仲間と言って間違いは無かろう。

 そもそも、瀕死のマシュをあれだけ慮ることができる人間が悪い人間である筈がない。少なくとも、それは死に達観している()()()魔術師ではあり得ない行動だ。48人目は一般枠の、それも数合わせ枠だというがかなり好感の持てる人間が来たようだった。

 立香たちと合流する、とはいうが、いくら遥にとって冬木市が勝手の知れた街だとはいえそれなりの広さがある中から手がかりもなしに探し出すのは至難の業だ。かといって、当てがある訳でもない。

 思えば、特異点を攻略するとはいっても何か手がかりがある訳でもないのだ。いくら逃れられなかった仕方のない強制レイシフトだったとはいえ、かなりの少人数での特異点攻略などどれだけ時間がかかるかも分からない。

 遥が勝手に立香とマシュだけがこちらに来ていると判断しているのは、既に他のマスター候補生とオルガマリーの生命は失われているものと達観しているからだ。コフィンに覆われていた候補生たちはコフィンを起動させれば何とかなるかも知れないが、生身で爆発の直撃を受けたオルガマリーの生存は絶望的だ。

 そう考えると、レイシフトルームで遥が発見した無惨に五体が泣き別れした焼死体はオルガマリーのものだったのかも知れない。確証はないが、あの部屋でコフィンにも覆われずに身体を晒していたのはオルガマリーだけだ。

 勝手に遥はそう結論付け、眼を伏せる。遥は瀕死の人間を見るとトラウマが蘇ってきてしまうという悪癖があるが、死体となってしまった人間を見ても何とも思わないという異様な性質があった。しかし、それでも冥福を祈るだけの常識は持ち合わせている。

 そうしていると、遥は沖田が心配そうな視線で遥を見ていることに気付き、半ば自動的に薄い笑みを浮かべ、強引に話題を変えた。

 

「そういえば、俺からは名乗ってなかったよな?」

「え? えぇ、そうですね」

 

 脈絡のない話題の変更に、沖田が動揺したように返事をする。しかし遥はそれに気づいていないかのように少し格好つけて名乗りをあげる。

 

「俺は夜桜遥。呼び方はマスターでも呼び捨てでも、なんなら渾名でもいい。仲間内には俺を『ハルさん』と呼ぶ奴もいるな」

「ハルさん、ですか……では、私もそのように呼ばせて頂きますね」

 

 微笑しながらそう答える沖田を見て、遥は『自分はハルさんというイメージなのだろうか』などと関係の無いことを考えていた。〝ハルさん〟という渾名は何処となく優しいイメージがあるが、遥の認識上では遥自身は優しいどころか非情で冷酷なきらいさえある魔術師であった。

 しかし、友好的に接してくる相手を無下にすることもできまい。今までまともに友人と言えるような関係の人間をマシュとロマニを含めても片手で数えられるほどしか持っていなかった遥だからこそ、それを強く思う。

 遥にとってマシュはほとんど妹と同じ認識であったが、沖田に対しての認識はそうではなかった。女性とほとんどコミュニケーションをした経験のない遥は今にも声が上ずって手汗が噴き出してしまいそうだった。手汗に関しては、炎のせいで気温が高まっているのが救いだろう。

 改めて低すぎる自分の対人能力に遥自身は呆れ、ため息を吐く。その時、左手首に装着していた通信装置が鳴動し、この場にはいない筈の人物の声が流れ出た。

 

『あ、やっと繋がった!! 遥君、無事かい!?』

「ロマンか! あぁ、俺は無事だ! そっちは、カルデアはどうなってる!?」

 

 通信によってロマニと相互の生存を確認して安心したのも束の間、遥が緊迫も露わにロマニに問い質す。爆発が起きたのはレイシフトルーム。丁度管制室の真下だ。候補生たちだけでなくオペレータなどにも被害が出ているだろう。

 姿は見えないが、遥はロマニの表情が友人の生存を確認して安心した人間のものから、最悪の状況を認識した責任者のそれへと変わったのを感じ取った。その緊張が遥にまで伝播する。しばらくして、ロマニが状況を説明し出した。

 ファースト・オーダー直前に起きた爆発によってカルデアスタッフの過半数以上が死亡。生存が確認できるのは20名足らず。カルデア所長〝オルガマリー・アニムスフィア〟と技師〝レフ・ライノール〟は行方不明。従って、暫定トップのロマニが所長代行を担っている。

 コフィンなしでレイシフトに巻き込まれた立香とマシュ、遥のうち存在を確認できたのは遥が最初。冬木の霊脈の上に出てきたのが幸いしたのだろうか。他のマスターはコフィンに格納されたままだったために安全装置が作動しレイシフトは免れたものの、全員が瀕死の重傷。特にAチームが酷いらしい。

 予想はしていたことだが、かなり絶望的な状況だ。まだカルデアのことを説明していない沖田には何のことやらといった内容だろうが、かなり不味い状態であることは察したらしい。一気に沈鬱になった雰囲気を和らげるべく、ロマニが話を振る。

 

『それにしても、本当に無事でよかったよ。さすがの君でも、今回ばかりは危なかったんじゃないかい?』

「む。俺を舐めるなよ、ロマン。コフィン越しならあの程度の爆発は耐えられるさ」

 

 揶揄うようなロマニに対して不機嫌そうに遥が言葉を返す。コフィン越しでも瀕死の重傷を負っている他マスターのことを考えれば彼らを莫迦にしているともとれる言葉だが、事実であるだけに遥の言葉を否定することはできなかった。

 遥が礼装として着用している黒づくめのチェスターフィールドコートには、夜桜家に伝わる封印魔術を応用した防護処理が施してある。一見するとただのコートだが、その防御力は歴史に名高い城塞にすら匹敵するだろう。過去には死徒の攻撃を受け止めたこともある。

 恐らく〝ダヴィンチ〟に頼めば総合性能的にはより高性能のものを仕上げてくれるだろうが、これでも遥に作成可能な最強の防御であった。

 それからも互いの状況説明を続ける遥の横で、放っておかれた形となっていた沖田が会話に割り込む形で声を掛けた。

 

「あの、その声だけの方は……?」

『ああ、名乗るのが遅れてしまったね。ボクはロマニ・アーキマン。遥君の上司で、友人だ』

 

 そうロマニが名乗ると、沖田は何とも複雑そうな返事を返した。その様子から見るに、沖田はあまりロマニに対して好印象を持っていないようだが、本人にもその理由は分かっていないようだ。その様子に、遥は僅かに違和感を覚える。

 ロマニ・アーキマンという男は根暗で臆病者(チキン)だが、それでも見ず知らずの誰かに嫌われるような男ではない筈だ。そんな男が、サーヴァントから本能的な警戒を抱かれているというのは異様でしかない。

 推理は遥の得意分野だが、それでも手掛かりのないものを解明することはできない。手掛かりのない状態で原因を考えても、それは推理ではなく妄想にしか成り得ない。考えても無駄なことだ。

 それよりも優先すべきは立香たちとの合流だ。レイシフト前は近くにいたにも関わらず遥だけが別地点に放り出されていたことを考えるとふたりも遠くに放り出されていることも考えられる。そう考えた時、半ば無意識に言葉を漏らしていた。

 

「足が欲しいなぁ。どんな悪路でも楽々走れて、それも滅茶苦茶速いヤツ」

『あるワケないだろう、そんなモノ。ダヴィンチちゃんなら造れるかも知れないけど』

「だよなぁ」

 

 ロマニの突っ込みで現実を認識した遥が深いため息を吐く。いっそのこと、手にした神剣で街を一面焦土化させてしまおうかとも思ったが、それでは万が一ふたりが近くいた場合、諸共に焼き払ってしまうことになる。

 遥の持つ宝具たる神剣は、第一拘束を外した状態で英霊の宝具の格に当てはめるならばランクEXの対城宝具に分類される。第二、第三の拘束を外した時にはどれほどのものになるかは遥にも分からない。

 日本の神代においてとある神霊が選定の獣を打倒し、その体内から得た神造兵装の真作。現代にもそれとされるものは伝わっているが、それが神造兵装ではあっても遥の持つ宝具に似せて作られた、神造兵装の贋作の神造兵装と知っているのは遥だけだ。

 さらに鞘も宝具、それもひとつでふたつの真名を有する宝具だ。魔術師とはいえ生身の人間で3つの宝具を持つという規格外だが、遥にそれを誇る気はなかった。

 バイクかブルドーザーでもあればいいんだが、と遥がぼやくも、何を言ったところで詮無き事。頼れる移動手段は自らの足だけである。

 

「それで、ロマン。俺はこれからどこへ向かえばいい? 当てもなく歩くのは流石に御免だぞ」

『そうだなぁ……とりあえず、近くのもっと高位な霊脈に向かって欲しい。立香君とマシュはボクから連絡がつき次第伝えておく。場所は――』

「言われなくても分かる。ここは俺の出身地だぜ?」

 

 そう。冬木市は遥の生まれ故郷。どれだけ荒廃していようと、遥が自分自身が生まれ育った街の構造を忘れる筈もない。2004年という、()()()()()()()()()()()()()()()()。良くも悪くも明確に覚えている。

 冬木市の代表的な霊脈と言えば、やはり第一に挙げられるのは円蔵山の大空洞〝竜洞〟だろう。他には『遠坂』や『間桐』の屋敷、冬木教会などが高位の霊脈に当たる。

 教会、というと遥の脳裏にはひとりのシスターの姿がよぎる。高校卒業後に世界を回っていた時に出会った、〝被虐霊媒体質〟なる体質を持って生まれたドSなシスターだ。彼女が祓おうとしていた悪魔モドキを遥が物理的に排除してしまった後に何故か付き纏われたが、今はどうしているのだろうか。

 故郷にいるためか気を抜けば過去の方面に向かってしまいそうな思考を頭を振って振り落とす。過去を悼むのは個人の勝手だが、未来を守るためのこの戦いで過去を悼んで時間を浪費するのは時間の無駄でしかない。

 

「俺たちがいるのは深山町。冬木大橋近く。違うか?」

『正解だ。そこから最も近い高位の霊地は……』

「遠坂の……いや、今になっては〝元〟遠坂の屋敷だな」

 

 そう言って、遥はちらと明後日の方向を見遣る。視界の先、崩壊した建物の間から見えるのは冬木大橋の鉄骨だ。この距離からならば、あの橋で大声で叫ぶ声も鮮明に聞こえるだろう。

 いっそのこと鉄骨に昇って魔術で拡声して叫べば立香たちにも聞こえるのだろうが、その暁には遥の身体は骸骨たちの矢で蜂の巣のされ、足元には敵性体が蟠るという見るも悍ましい光景が出来上がることだろう。

 そんなことになる案は即却下だ。仲間を呼ぼうとして敵に()られるなど愚の骨頂。やはり立香たちのことはロマニに任せるべきだ、と判断する。

 

「じゃあ俺たちは話した通りに動く。何か異常があれば連絡するから」

『了解。こちらからも、立香君たちとコンタクトが取れたら連絡するよ』

 

 それだけ言うと、カルデアとの通信が切れた。取り敢えず、行動の方針は決まった。ならば後はその通りに行動するだけだ。

 ひとつため息を吐いて感情のスイッチを切り替えると、遥は沖田の方に向き直った。沖田はそこで、サーヴァントとして遥の指示を待っている。その姿を見て、遥の胸中にひとつの悟りめいたものが生まれた。

 いくらアクシデントでレイシフトしてしまったとはいえ、その身は既にサーヴァントを統べるマスターなのだ。これまでのように勝手気ままに世界を回り、自分ただひとりの命だけを掛けて魑魅魍魎と戦う世界からは既に脱した。

 これからは自分だけでなく仲間の命までを掛け金として賭けつつ、その賭けに勝つしかないのだ。現時点で発見されている特異点はここだけだが、他にも特異点が存在しないという証拠はどこにもないのだから。

 もう一度ため息を吐いて、吸い込んだ空気と共にその思いを全身に浸透させる。決意も新たに目を開き、遥は沖田に指示を出した。

 

「とりあえず、さっき言った通りに高位の霊地に移動して仲間と合流する。移動中も敵性体は襲ってくるだろう。警戒を厳にして移動するぞ」

「承知しました」

 

 そう沖田に指示を出しながら、遥が鞘から長刀と抜刀し、さらにホルスターからS&Wカスタムを取り出した。敵性体に奇襲を仕掛けられた場合にすぐに対応するためである。

 目的地に向けて移動しながら、時折見かけた骸骨兵や竜牙兵、蜥蜴兵を見付け次第射殺していく。稀に遥が撃ち漏らしたものが出てくるが、それが遥に攻撃を加えることはない。遥たちの存在に気付いた敵性体は、接近してくるものから順に沖田の剣によって沈められる。『病弱』スキルの発動を警戒して何度か遥自身が出ていくが、それでも殺せない敵はいなかった。

 遥が沖田を召喚してから左程時は経っていないが、彼らの連携は非常に高度なものとなっていた。それは遥と沖田の精神性がそれなりに近いこともあろうが、マスターたる遥も刀使いであるが故に沖田の戦い方を分かっていることもあった。

 そうしてしばらく歩き、もう少しで目的地に到着する――しかし、その直前に耳を劈くような悲鳴がふたりの耳朶を打った。

 

「!? ――()()()()!」

「分かってる!」

 

 悲鳴の発生源と思われる場所はここからほど近い場所のようだった。悲鳴を聞いてしまった以上はそれを無視することもできず、サーヴァントたる沖田が先行していく。

 いくら魔術師としての常軌を逸した能力を秘める遥とはいえ、英霊の全速力に追随できる筈もない。一旦足を止めて体内に煉獄を展開し、さらに「――加速開始(イグニッション)」という呪言によって煉獄内部の時間流を外界から切り離し、2倍速に加速する。

 体内に展開した煉獄が総身を焼き焦がし、世界の修正力が遥の体内を蹂躙する激痛に耐えながら遥が全速力で駆ける。並行してS&Wに装填していた宝石弾を別な特殊弾であるルーン弾へと交換する。これは銃弾にルーン文字を刻み、敵の体内でそれを起動させるものである。

 しばらく走った後、沖田が急停止して遥を庇うようにして立った。それを何か尋常ならざる事態を目の当たりにした合図だと察し、遥が沖田の背後、少し離れた場所で停止する。

 そこからでも感じられる。沖田の視線の先。そこに立っている死鎌(デスサイス)めいた鎌を膝から崩れ落ちた女性に突き付けた黒ローブの女――それが放つ、法外な魔力の濃度。

 

「まさか、サーヴァント……? いや、それよりも……」

 

 そう呟きながら、遥は黒いローブの女からその傍らで崩れ落ちた女性に視線を移した。遥にとってはここに敵性サーヴァントがいることよりもむしろ、この特異点に〝彼女〟がいることが信じられなかった。

 遥の目の前ではいつも自信と不安の光が宿っていた瞳は完全に恐怖に支配され、しかし遥たちの来訪に気付いて僅かに希望の色が見え隠れしている。優美な白銀の髪は僅かに乱れてはいるが、暴行は受けていないようだった。

 

「なんでここにアンタがいる……」

 

 忌々し気、ともとられかねない声で遥が呟く。だが、それも致し方ないことであった。何故なら、そこにいたのは遥が死んだとばかり思っていた人物――オルガマリー・アニムスフィアだったのだから。




高校卒業後は世界を巡っていた遥。しかし定期的に日本に帰ってきては撮り溜めたアニメや特撮を一気見していた模様。


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第5話 剣士、初陣

 これまで特に目的もなく世界各地を回っているうちに、遥は敵意や殺意といったものに慣れているつもりだった。強大な怪異は別な怪異を引き寄せる。宝具を所持するだけでなくその存在そのものが西暦以後では相当な珍種(レア)である遥は、その常道に則るかのように多くの怪異と相対してきた。

 ある時は戯れに村ひとつを壊滅させるような力を持った死徒と交戦し、またある時は悪魔に憑かれて乗っ取られた魔術師と交戦してそれら全てを生き抜いてきた。その潜ってきた修羅場の数が遥の自信の裏付けであり、生半な殺気では動じない胆力の根幹であった。

 しかし、ここで目の前にしている存在はこれまで遥が戦ってきたどれとも異なる、全身の産毛が逆立つほどに強力な殺気を放っていた。死徒の暴虐ですら児戯と鼻で笑いそうなその威圧感は、遥ですらも冷や汗を禁じえないものだ。

 これが英霊。これがサーヴァント。初めて出会ったのが味方である沖田だから忘れていたが、一瞬でも気を抜いて目を逸らせば、その瞬間に首を刈られても何も不思議はないと思わせるその存在感はまさに超常の存在と言うに相応しい。

 

「あれは敵です。マスター、指示を」

「待て。下手に動くと所長が殺られる」

 

 敵が味方を捉えている場合、初めに最も警戒すべきは人質に取られることだ。遥は今までの経験からそれを知っているために、下手に沖田へと指示を出すことができずにいた。しかし、直後に目の前のサーヴァントは意外な行動を取る。

 沖田を一瞥した敵性サーヴァントは彼女がサーヴァントと察知し冷徹な殺意を込めた笑みを送るや、オルガマリーへと付きつけていたデスサイズを離して沖田からの攻撃に備えるかのように構えを取った。

 オルガマリーを人質に取れば優位に立てるというのに、自分からその優位を棄てるような行為だ。それが騎士の行った行為ならともかく、死徒や悪魔と近い化生の気配を纏ったサーヴァントがそれを行ったのは意外だった。

 考えられることとしては、何らかの事情で正常な思考を維持できていないということだろうか。聖杯戦争において、サーヴァントがサーヴァントを斃そうとするのは本能に近い。見た目は普通でも、存在が歪んでいるのかも知れない。

 だが何にせよ、相手が斃さなければならない敵であることに変わりはない。遥は眼前の敵の姿をカルデアで学んだ聖杯戦争の基礎知識と照らし合わせ、瞬時にそれと思われるクラスを弾き出した。

 恐らく、相手の主武装はあの大鎌だろう。隠密には向かない巨大な武具や周囲に乗り物らしきものがないことなどから、相手を四騎士ではないと推定する。そうなると長物を得物としているクラスで当てはまるのは〝ランサー〟だ。

 中々沖田が仕掛けてこないことで自ら攻撃に転じるつもりなのか、ランサーが攻撃態勢に入った。それを迎え撃つように沖田も平晴眼の構えを取る。遥はひとつ息を零すと、沖田に指示を飛ばした。

 

「遠慮は要らない。沖田。お前の力、ここで俺に見せてくれ」

「――承知!」

 

 遥の言葉にそう返事を返すと同時、沖田が地を蹴った。その瞬間、沖田の姿が遥の視界から掻き消え、瞬きする間もなくランサーの眼前に現れる。それはさしものランサーも予想していなかったようで、眼に見えて驚愕を顔に浮かべる。

 日本に伝わるあらゆる武道の足さばきにおいて究極とされる『縮地』。沖田はそれを生前に習得し、サーヴァントとなった後もスキルとして現れるほどにそれは熟練したものになっている。

 だがランサーもそれで終わるようならば英霊になどなっていない。沖田が放った平突きを間一髪で回避したランサーは、牽制として大鎌を振るいつつその勢いを利用して沖田から距離を取った。それでも沖田が逃がす訳はなく、さらに攻撃を加えんと追いかける。

 ひとまず、戦闘開始直後の趨勢は沖田に傾いていると言っていい。しかし、それで勝利を確信できるかと問われれば、それは否だ。

 サーヴァントと契約したマスターに与えられる、自らのサーヴァントのステータス解析能力。それによって把握できる英霊沖田総司のステータスは、敏捷値を除けばお世辞にも優秀とは言えない。江戸末期という神秘の薄い時代の英霊であるからだろう。

 セイバーの証たる対魔力と騎乗スキルもクラス補正による申し訳程度のものでしかなく、さらに戦闘においてはデメリットしかない『病弱』スキルまでも有している。一瞬でも油断すれば、その瞬間に殺される。

 だが、それを補って余りある剣技がある。いや、こと剣において、沖田総司のそれは最早剣技や剣術などという範疇から逸脱している。勝機があるとすれば、その一点だろう。

 遥はもう一度自らのサーヴァントに信頼の眼差しを投げると、ランサーから解放されてもなお忘我のままに座り込んでいるオルガマリーの腕を掴んだ。

 

「所長。もう大丈夫ですよ。ホラ、立って」

 

 努めて優しくそう声を掛けるも、オルガマリーは沖田とランサーの戦闘に釘付けになったままだ。いつもはカルデア職員の前では気丈に振舞っていたオルガマリーであるが、このような状況になると素が出るらしい。

 遥の本心としては無理に気丈に振舞われるよりは本性を剥き出しにしてくれていた方が付き合い易いのだが、この状況では話は別だ。戦場で腰を抜かせば直接死に繋がる。いくらサーヴァントという危機が去ったとはいえ、ここが戦場であることに変わりはないのだ。

 一度深呼吸をして後で怒られる覚悟を決めると、遥は吸い込んだ空気をそのまま偽りの怒声として吐き出した。

 

「立て、オルガマリー・アニムスフィア! ボサっとしてると、死ぬぞ!」

 

 その怒声に反応し、オルガマリーがびくりと肩を震わせる。そうしてゆっくりと首を巡らせて遥を見たその眼には僅かに怯えがあるようにも見えた。確かに、オルガマリーを睨み付ける遥の顔は隠し切れない怒りが滲んでいるようにも見えよう。尤も、遥自身は激怒している訳ではなく、その表情は半ば意図的に作った部分があった。

 そう。遥にしてみればオルガマリーに対してそれほど怒っているという訳ではない。しかし、戦場であるこの特異点において極度の恐怖を覚えたからといって隙を見せているようでは、いつの間にか死んでいるなどということにもなりかねない。多少憤慨するのも致し方ないことだろう。加えて、敵性サーヴァントに怯えているオルガマリーを宥めているような余裕は、遥にはないし、そもそも宥められる程器用でもない。

 恐怖に足が竦んで、その隙に殺された人を遥は何人も見てきた。故に手の届く場所にいるオルガマリーを助けるためには、遥は多少怯えられても構わない。

 不満そうに鼻を鳴らして、遥が沖田とランサーの戦闘に視線を戻す。今のところ、押しているのは沖田の方だ。ランサーは何度か沖田の斬撃をその身に受けたようでローブに赤黒いシミを作っているが、沖田は攻撃された様子はない。

 苦し紛れにランサーが振るったデスサイズを、沖田は振るわれるよりも先に軌道を見切っていたかのように回避する。直感ではない。それはひとえに沖田が身に付けた心眼に齎されるものであった。

 

「グッ……この、漂流者がっ……!」

「戦闘中に無駄口ですか?」

 

 ランサーが放った呪詛を、沖田が一刀の下に切り伏せる。ランサーを睨み付ける沖田の眼には遥と話していた時のような柔和なものではなく、抜き身の刀のような冷徹極まる闘志であった。

 筋力値において、恐らく沖田はこのランサーには敵わない。さらに沖田が培ってきた膨大な戦闘経験から齎された勘は、ランサーが振るう大鎌が何か〝良くない〟ものであることを見抜いていた。故に沖田は真っ向から受け止めることをせず、全ての攻撃を避けているのだ。

 そして、沖田の判断は正しいものであった。ランサーの得物たるこの大鎌の銘は〝ハルペー〟。神話において大英雄ペルセウスが女怪メデゥーサの首を断ち切った神剣そのものであり、このランサー――メデゥーサにとっては己が仇にも等しい武具であった。

 この大鎌で付けられた傷はいかなる奇蹟を以てしても回復することはできない。まさに不死殺しの異名に相応しい魔剣である。沖田も、遥もそれは知らないがふたりともこの大鎌がそういうモノであると見抜いたのは、ひとえに彼らの経験によるものだ。

 

「遅い……!」

 

 白刃が虚空を閃き、ランサーの肩口の肉を抉る。激痛にランサーが悶絶し、傷口から鮮血が迸る。その鮮血は地に落ちるのではなく、噴き出した先にいた沖田へと降りかかった。しかし沖田はそれを拭うこともせず、なおもランサーに剣を振るう。

 総身に鮮血を浴び、それでもなお敵を斬りつけるその姿は修羅の如く。振るわれる一刀一刀その全てが正確無比の斬撃であり、白刃の切っ先は確実にランサーに傷を付ける。次第に漆黒だったローブは赤黒い血液の色へと塗り変わっていく。

 手も足も出ないこの状態に、ランサーが歯噛みする。攻撃力はランサーが上。得物に秘められた神秘もランサーが上。純粋な戦闘力(スペック)だけを参照するならば、ランサーに負ける要素などなかった。

 だが悲しいかな、その身は元の在り様を失い歪められた霊基である。ステータスを上方補正されたのならばともかく、ただ歪められただけの今のランサーに正常な判断など望むべくもない。

 

「シャアァッ!!」

 

 蛇の如き鋭い咆哮をあげ、ランサーの髪が蠢く。沖田へと向けて放たれたそれらの先が集合して生み出されたのは蛇だ。しかしただの蛇と侮るなかれ。それらは英霊の身体の一部であるが故に、只人が喰らえば致命に成り得る。

 不意打ちに近いランサーからの攻撃。だが沖田は冷静だった。初めに迫ってきた2匹の蛇を一刀で切り伏せると、返す一刀で残りの蛇を半ばから切り裂いた。ランサーの放った蛇は全てが無意味に黒い魔力へと霧散する。

 これまで悉く全ての攻撃を防がれ、苛立ったランサーが舌打ちを漏らした。だが攻撃を防がれること以外に、何よりも苛立つことがひとつあった。

 この聖杯戦争に召喚されたランサーたるメデゥーサ。歪められているとはいえ、彼女の眼は十全にその機能を果たしている筈なのだ。視界に納めたものを石化させる、人間たちの尺度で測ればノウブルカラーの宝石級に匹敵する石化の魔眼(キュベレイ)は。

 だが、先程から沖田には一向に石化する兆候がない。ランサーは知らないことだが、沖田の対魔力はEランク程度しかない。本来ならばキュベレイには抗えない筈なのだ。

 

「――フッ」

 

 遠目に見ても分かるほどのランサーの狼狽に、遥がほくそ笑んだ。沖田に対してキュベレイが効果を発揮していないのは、何を隠そう、遥が沖田を魔術で支援しているからなのだ。

 遥の家である夜桜が代々継いできたのは〝封印〟魔術である。これは何も物理的に何かを封印するのではなく、概念的な封印も含まれる。むしろ、夜桜の封印魔術はそういった形のない概念的・事象的な封印を専門とする。

 遥はそれを沖田に対して行使することで、自分が掛けた魔術以外の魔術的支援を受けられないようにする代わりに沖田に対して敵からのバッドステータスが掛からないようにしたのだ。

 ランサーにはそれを知る由もないが、しかし相手のマスターが敵のセイバーに何か支援をし、彼自身も尋常な魔術師、いや、尋常なモノでないことは分かった。となれば先に殺さなければならないのはあのマスターだろうが、それを許すセイバーではないこともランサーには分かっていた。

 ランサーの総身を悪寒が駆け抜ける。総合的な能力には劣るというのにランサーの攻撃を寄せ付けないセイバー。神代の怪物の魔眼すらも無効化してしまう魔術を行使する魔術師(マスター)。一体何なのだ、こいつらは! と内心だけで血を吐くような言葉を吐く。

 確かに遥がただの現代の魔術師であれば、キュベレイを防ぐなど望むべくもないだろう。だが、遥が行使するのは現代の一般的な魔術ではなく、神代に神霊たちによって確立された、謂わば魔術の原典とも言えるもののひとつである。ただの魔術と同じ尺度が測ってはならない。

 

「くっ……このぉっ!!」

 

 苛立ちに冷静さを欠いたランサーの一撃。沖田はそれを鞘を使って受け流すと、空いた胴に愛刀を突き込んだ。乞食清光の切っ先がランサーの肉を喰らい、血を吸って紅い輝きを放つ。さらに刃を返すと、脇腹を切り裂いた。

 ついに決まった決定的な一撃。けれどそれですぐにランサーが消滅するかと言えばそうではなく、苦し紛れに蛇を沖田に向けて放った。それを沖田は鞘を叩きつけて距離を取り、後方に飛び退いて回避する。

 口の端から血を漏らし、肩で息をするランサー。最早ランサーには逆転など不可能な戦況ではあったが、しかし沖田はすぐには動かなかった。様子見をしているのではない。病弱スキルの発動を警戒してのことだった。

 生前の沖田の体質がスキルとして現れたこのスキルは、後の民衆が抱いたイメージなどによって最早呪いにすら等しいほどの効力を持っている。発動確率はそれほど高くないが、連続で戦えば戦う程に発動しやすくなるのもまた事実。

 なら、あとは時間をかけずに斃すしかない。沖田は呼吸をひとつ零すと、流れるような動作で平晴眼の構えを取った。同時に地を蹴り――次の瞬間には、沖田の姿はランサーの懐にあった。

 

「なっ――!?」

「――これで、終わりです」

 

 そう冷酷に言い放つと、沖田はランサーの心臓に向けて平突きを放った。正確無比なその一撃は、既に必中距離。ランサーはその突きを防御することもできずに心臓に直撃を受け、加州清光が深々とランサーの胸に突き立った。

 真っ向から霊核を貫かれ、ランサーは抵抗することすらも叶わずに即死した。ランサーの五体から力が抜け、沖田の刀が引き抜かれると未だ流れの止まっていなかった血を吹き出しながら骸が頽れる。その瞬間、ランサーの骸が黒い魔力になって霧散する。

 返り血を浴び、虚ろな目で佇むその姿は、恐怖を通り越して清廉ですらあった。刀を振って血を払い、鞘に戻す。そうして深い吐息をひとつ漏らすと、マスターたる遥の許へと舞い戻った。

 不意に沖田とオルガマリーの目が合い、返り血を浴びたままの沖田の姿を見てオルガマリーが短い悲鳴を漏らす。沖田はそれに刹那の間悲しそうな表情を浮かべるが、すぐに表情を戻して遥に向き直った。

 

「ハルさん、やりました。沖田さん大勝利、です」

「……はぁ」

 

 短く遥が呆れの籠ったため息を吐く。そうしておもむろにロングコートのポケットに手を突っ込むと、そこから黒染めのハンカチを取り出した。いつ何が起きても良いように遥が常備しているもののひとつだ。

 一体何の意図があって遥が取り出したのか判じかねている沖田の頬を、遥がハンカチで何度か優しく叩く。そこは丁度ランサーからの返り血がかかっていた部分であった。

 血を拭って赤くなったハンカチを見ながら、洗濯しなきゃなぁ、と呟く遥ではあったがその表情は何処か満足気であった。しかしすぐに呆然とした沖田から見られていることに気付くと、悪戯を咎められた子供のような表情で頬を掻く。

 

「自分の仲間が血塗れなのは、あんまり気分がよくない。それだけだよ」

「――」

 

 どこか恥ずかしそうな遥の態度に、沖田は遥についてある種悟りめいたものを覚えた。

 きっと、遥は多くの修羅場を潜ってきたのだろう。その数は新撰組であった沖田には遠く及ばないだろうが、その内容はもしかしたら新撰組が行ってきた数々の戦闘にそう劣るものではないことくらいは分かる。

 多くの修羅場を経験し、多くの人々の死を見てきてなお、遥は誰かが傷つくことを厭うのだ。傷つくこと自体は否定しないが、あまり傷ついて欲しくはない。『人斬り』として数多の敵を殺し、生死に達観した沖田とは対極的な答えだ。

 その在り方に羨望を覚えると同時、どこか危うさも感じる。果たして遥が言う『仲間』の範疇には遥自身は含まれているのだろうかと。誰かが傷つくことを嫌う人間は、得てして自分が傷つくことは厭わない。

 それぞれに別な思いに捉われて何も言い出せなくなった遥と沖田。その横で、ようやくいつもの虚勢と自信を取り戻したオルガマリーが咳払いをした。

 

「……それで、夜桜。なんであなただけがここにいるのかしら? 他のメンバーは? カルデアはどうなっているの?」

 

 一気にまくし立てるように問いをぶつけるオルガマリーに対して面倒くさそうな表情を浮かべる遥。しばし逡巡した後、遥はそれを全てロマニに押し付けようと通信装置を起動させた。

 通信装置から何度かコール音が鳴り、通信が繋がった。

 

『こちらカルデア。遥君、どうしたんだい?』

「報告だ。さっきこちらの聖杯戦争に召喚されていたランサーと交戦した。あと……生存者がいた」

『なんだって!? 本当かい!?』

 

 生存者の発見。それに驚くロマニはまるで、危篤状態になっている候補生以外の爆発に巻き込まれた者は全員死んでいると思っていたとでも言いたげだがそれも無理からぬことであろう。

 立香や遥が装着している通信装置は、それそのものがカルデアへの発信機のようなものだ。通信は繋がらなくともそれがふたりの位置座標をカルデア、ひいてはトリスメギストスにモニタリングされるからこそ彼らは意味消失を免れている。

 それが、発信機の反応もなく、そもそもコフィンに防御されないままに爆発に巻き込まれて生きていたものがいるとは思わないだろう。しかしオルガマリーはそれが気に食わなかったのか、或いは自分の席にロマニが座っていることが気に食わなかったのか、遥の腕を引っ掴むと通信装置に怒鳴りつけた。

 

「ちょっと、どうして貴方がそこに座ってるの、ロマニ!?」

『うわぁ!? しょ、所長? 生きていらしたんですか?』

「随分な物言いね。……それで、そっちはどうなっているのかしら?」

 

 オルガマリーを完全に死人扱いしているロマニに対してオルガマリーは一瞬青筋を立てたが、ここで怒鳴っても仕方がないと自分自身を諫めると努めて冷静にロマニに状況説明を要求した。その問いにロマニは一瞬言葉を詰まらせるも、遥に対してしたものと全く同じ説明をする。

 中でもオルガマリーがショックを受けたのは、最も信頼していたレフ・ライノールの生死が不明であったことだった。しかしすぐに自分の立場を思い出したのか、危篤状態のマスター候補生たちを凍結保存することを命じる。

 本人の同意なしで凍結保存を実行に移すというのは本来ならば違法行為だが、確かに本人の意思が確認できない状態では同意云々と言っても詮無きことだ。オルガマリーの判断は正しいだろう。少なくともコフィンにさえ入れていれば死ぬことはない。

 だがオルガマリーは恐らく人命さえ保護していれば後にいくらでも言い訳ができるからと考えているのだろう。随分と後ろ向きな判断理由であるが、ここにそれを非難できる者はいない。

 後は言いたいことを全て言うと、オルガマリーは半ば放り投げるようにして遥の腕を離した。その行動に微妙な笑みを浮かべつつ、遥はさらに話を続ける。

 

「それで、ロマン、あっちと連絡は付いたのか?」

『うん、丁度さっきね。……全部説明しようとすると結構長くなるんだけど、聞くかい?』

「あぁ。報告は大事だからな。報連相のひとつだし」

 

 遥がそう答えると、遥からは見えないがロマニはひとつ頷きを返して報告を始めた。

 本来なら遥と沖田がランサーを補足するより先にカルデアの探知システムならばランサーを補足していた筈がそれができなかったのは、その直前に立香とマシュに連絡が付いたかららしかった。さらに遥たちがランサーとの交戦を開始したのとほぼ同時にふたりはランサーと同じく歪められたライダーと交戦を開始した。

 平時の彼らなら戦闘能力がなくそのまま殺されていただろうが、レイシフト直前にカルデアで召喚されていた英霊から力を託され、人間と英霊の融合体――デミ・サーヴァントと化していたマシュの奮戦、さらに途中で介入してきたキャスター――どうやらこの特異点の聖杯戦争のサーヴァントで唯一残ったまともなサーヴァントらしい――の協力もあって勝利したらしい。

 その報告の中で遥が注目していたのは、マシュのことであった。人間の肉体にサーヴァントの霊核を宿した存在など、ただ英霊から力を託されたからと簡単に説明できるものとも思えない。しかしすぐに遥は合点した。それはマシュと初めて出会った時から感じ続けていた違和感の正体にも通ずるものであった。

 魔術によって造られたホムンクルスかデザイナーベビーと思しき感覚と、英霊を宿しても問題のない身体。何のことはない。マシュは最初からそのように設計(デザイン)されていたのだろう。まさに狂気の所業である。世界中を巡っている間に遥は国家によって作り出された魔術使いの傭兵と何度か出会ったが、それでも簡単に受け入れることはできなかった。

 しかし、そのお蔭で彼らが戦う力を得たのもまた事実。遥は一旦怒りを棚上げすることにして、平静を保った。

 

「それで、合流場所はさっき話した通りで?」

『うん。立香君たちはもう向かってるよ』

「そうか。じゃあ、俺たちも向かう」

 

 それだけ言い、遥はカルデアとの通信を切った。そうして沖田とオルガマリーに行動の方針を伝えると、遠坂邸への道を歩き始めた。

 

 

 

 炎の海に沈んだ街の中にあって、そこにあった遠坂邸は殆ど遥の記憶にある通りの姿を保っていた。さすがは歴史ある魔術師の邸宅()()()というべきだろうか。結界などにいくらか綻びがあるものの、建物自体は整備すればまだ使えるほどの状態であった。

 そして、その邸宅を前にして対面する人間たちとサーヴァント。片方は遥と沖田、オルガマリー。方や遥と同じくカルデアに残った最後のマスターである藤丸立香とデミ・サーヴァントとなったマシュ、さらにロマニの話にあったキャスターと思しきサーヴァント。

 『魔術師(キャスター)』のクラスというと、遥は勝手に近接戦闘が不得手そうな魔術師の姿を想像していたのだが、そのキャスターは魔術師というよりもどこか武人めいた雰囲気と体躯であった。もしかしたら、キャスターとして召喚されることの方が珍しいのかも知れない。

 遥は何故か緊張した様子で直立している立香に向き直ると、口を開いた。

 

「なんかお互いに色々あったみてぇだが、とりあえずは無事でよかったよ。……えっと、殆ど初対面だし名乗っておこうか。俺は夜桜遥。一応、お前の同僚ってことになる。よろしく」

「オレは藤丸立香です。よろしくお願いします、遥さん」

 

 遥にまで敬意を払っている様子の立香に苦笑し、遥が手を差し出した。

 

「敬語は使わなくていい。どうせ歳も1歳程度しか変わんねぇんだから、立香」

「そっか。じゃあ、そうするよ、遥」

 

 笑みを交わして立香が遥の手を握る。ここに、カルデアの残存戦力の全てが揃った。



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第6話 堕ちたる弓兵

 その日は、何かがいつもとは違っていた。

 2004年初頭。最近の冬木市そのものが異様な雰囲気を纏っていることは、この街に住む一般人たちは知らない。だが、魔術師たちも全員がそれを知っているのかと問われれば、それは否だ。

 この街に住む殆どの魔術師はここで何かが起こっているとは分かっていても、それに関わろうとはしない。いや、関わろうとした魔術師は皆殺しにされると言うべきか。関わろうとした人間が皆殺されるが故に、関わろうとしない者だけが残る。

 当時、穂群原学園の初等部に通っていた遥もまたこの街の異常に気付いていながらそれに関わろうとしない魔術師のひとりだった。彼は伝承保菌者(ゴッズホルダー)という稀有な家系に生まれ、彼自身も平均よりも遥かに優れた魔術師でありながら、年相応に名誉や功績に無関心な魔術師であった。

 とはいえ、年相応の精神性ということはそれなりにこの状態には知的好奇心を刺激されるのだが、この件には関わるなと両親から厳命されていたのだ。彼らは何かを知っている様子だったが、それを遥に教えるつもりはないようだった。

 異様な街の空気。夜な夜な膨れ上がる法外な量の魔力。――だが、それを上回る怪異が、こと今日に限って遥自身の家から放射されているとはどういうことか。

 恐らく、それはどれだけ優秀だろうがただの人間の魔術師には気づけなかったものであっただろう。だが、遥を含めた夜桜は純粋な人間ではなく、()()()()()()()()。その気配察知・魔力探知能力は常人を遥かに凌駕する。

 遥の生まれた魔導である夜桜家は、魔術師を名乗っているが『根源』にはさして興味が無い。だが根源に至る試みが成されなかった訳ではない。しかしその研究も()()()()()()()()()()するまでは頓挫していたのだが。

 〝夜桜の封印魔術を以て人の血を封じ、意図的な『反転』により『座』に到達することで『根源』へと至る〟。夜桜が言う『座』とは英霊の座ではない。それよりもさらに高位の、英霊たちですらも夢想すら許されない領域のことだ。

 その気になればその座に片足を踏み込むことができる遥ですら、その日は恐怖を禁じえなかった。だが、それ以上に巨大な驚愕と困惑が遥の胸中を支配していた。なぜ、その恐怖の原因を自宅から感じるのだろうか、と。

 その時点で、遥には分かっていた。このまま帰ってはならない。このまま自宅に踏み込めば、きっと良くないモノを見る。既にそれの原因は家にはなく、残っているのは残滓だけだというのに遥は強く感じていた。

 夜桜邸の門前に立つ。遠目に見ているよりもなお強く嫌な気配を感じるが、この時の遥は既に警戒心よりも好奇心の方が勝っていた。思えば、どれだけ愚かだったのだろうかと遥は自省する。

 この時、あれを見なければどうなっていたのか。この時、あの光景を見なくて済んだならどれだけ良かっただろうか。遥は19歳になった今でもそれを思い出す度にそう思う。あり得ない『もしも』を夢想してしまう。

 ドアノブを握り、捻る。中から漏れ出てきた空気に乗って匂ってきたのは――血臭。反射的にドアを開け―――。

 

――遥は、地獄を見た。

 

 玄関に広がった赤黒い血液と体液の混合液と、そこに横たわった両親。腹腔からはみ出した臓物は未だ引きずり出されてさして時間が経っていないのか、ぬらぬらと電灯の光を照り返して光っていた。

 あまりに予想外の事態に、遥は腰を抜かすことすらも忘れてその場に立ち尽くした。呼吸が止まり、頭が真っ白になって思考が停止する。全く身体が動かないというのに、焦点だけが目の前の光景に合っている。

 街に広がっている怪異の正体を知らない遥には、その原因を推測することはできない。いや、仮にそれを知り得ていて、原因を推測できたとしても幼い遥にはどうすることもできなかっただろう。

 それは正に災害だった。人災だった。人間たちの手によって引き起こされていながら、人間たちには決して止められないものは人災と言うべきだろう。それがこの家を通過していったのだ。

 この街に顕現した、英雄という名の災害たち。遥の眼前に顕れたのは、誉謳う英雄たちの光に生み出された、歴史に埋もれるべき『闇』だった。

 


 

「――とまぁ、これが事の顛末だ」

 

 勝手に侵入した遠坂邸のリビング。散乱した家具に座ったキャスターがこれまでの事の顛末を話し終え、遥が頷いた。立香たちは先に聞いていたようで、あまり驚いた様子はない。

 突如として歪んでしまった聖杯戦争。街がこの惨状になると同時に人が消え、聖杯戦争は一時的に停滞。しかしその停滞もすぐに終わり、セイバーが聖杯戦争を再開した。

 キャスターを除く5騎のサーヴァントたちは全てセイバーによって打倒され、得体の知れない『泥』に汚染された状態で蘇った。それのうち1体が遥と沖田が先程交戦したランサーだ。

 黒い泥に汚染されて蘇ったサーヴァントたち――謂わば〝黒化英霊(シャドウ・サーヴァント)〟とでも言うべきそれらのうち、ランサー以外に既に斃されているのは立香とマシュが打倒したライダー、キャスターが単独で倒したアサシン。アーチャーとバーサーカーは未だ健在だ。

 それらがまた厄介らしく、アーチャーはどういう理屈か宝具を生み出す特殊な魔術を使用し、バーサーカーは何度か殺しても瞬時に再生してしまうらしい。さらにバーサーカーは〝狂化〟が付与されたうえに泥に汚染されてもなお衰えぬ武錬を誇るというのだから脅威的だ。

 

「キャスター。どうにかしてソイツらとの戦闘を避けられないか?」

「バーサーカーは見つかりさえしなけりゃ、まぁ、襲ってはこねぇだろ。だがアーチャー、アイツは無理だ。アイツはセイバーの信奉者でな。〝大空洞〟に近づく輩は片っ端から狙ってきやがる」

 

 何度か狙撃されたことがあるのか、キャスターは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべたまま遥の問いに答える。それが伝播した訳ではないが、遥までもが難しい顔をして顎に手を遣った。

 大空洞。キャスターの言葉に出てきたその単語が示す場所のことを、遥はよく知っていた。正式な名前を竜洞というその洞窟は、冬木市の霊地のうちで最高位の霊地である場所だった。その山の上には柳洞寺という寺院が建っている。

 最低限のリスクで最大の効果を出すのが戦場の鉄則であるが、それでも避け得ないリスクを無視する訳にはいかない。見つからなければ襲ってこないというバーサーカーは放っておくにしても、待ち伏せを仕掛けてくるアーチャーとはどうあっても戦闘になるだろう。

 さらに、最悪の事態だがアーチャーとバーサーカーを同時に相手取ることも考えなければならない。最良の状況だけでなく、最悪の状況も想定していなければいざという時に動くことができなくなってしまう。

 戦況は全て自分が思った通りに進むものではないと、遥は世界を放浪していたこの1年で学んでいた。だからこそあらゆる要素を繋ぎ合わせて想定し得る全てを網羅する必要があると遥は考えていた。その想定も、その大半が最悪の状況に偏っているのだが。

 

「で、残ってる奴らの真名は分かってるのか?」

「アーチャーの野郎とバーサーカーは知らん。だが、セイバーは知っている。ヤツの宝具を見て真名に気付かねぇ英霊は、相当な莫迦かモグリだけだ」

 

 人々に英雄として奉られ、時の果てに存在する英霊の座にまで招かれた者たちは自分が生きていた時代よりも後に英雄となった者についての知識も持ち合わせている。ひとえに英霊の座が時空を超越した領域にあるが故である。

 だが、それでもほぼ全ての英雄が一目見ただけで真名に気付く宝具とは一体何なのだろうか。その場にいる全員が無言のままにキャスターを見つめていると、しばらくして口を開いた。

 

「ブリテンの至宝。王を選定する剣の二振り目……約束された勝利の剣(エクスカリバー)。それが奴さんの宝具だ」

約束された勝利の剣(エクスカリバー)ですって!? じゃあ、セイバーの真名は……!」

 

 そこまで言って、オルガマリーが言葉を詰まらせる。約束された勝利の剣(エクスカリバー)といえば、日本でも大半の人間が知っている武具の名前だ。その武具そのものの名前は知らなくとも、それが登場する話くらいは知っているだろう。

 『アーサー王伝説』の主人公にして、ブリテンをピクト人やアングロ=サクソン人などから守った王。その名はアーサー・ペンドラゴン。英霊としての格で言えば、最強クラスの英雄だろう。

 英雄としては、確かに畏怖すべき存在だ。サーヴァントの強さがその土地での知名度に影響される以上、世界中で英雄視されている英雄はステータスの補正も相当なものだろう。だが、宝具に関して言えば、遥からすれば恐れるに足りない。

 

「……宝具だけなら、俺がなんとかできるかも知れない」

「ほう? 随分な自信だな。アレを防ぎ切る宝具があると?」

 

 面白い、とでも言いたげな表情でキャスターが遥を見る。しかし遥は口で説明するのではなく、手で腰に帯びた刀、というよりもその鞘を叩くだけに留めた。その行動の意図が図れなかったのか、キャスターが首を傾げる。だがそれも致し方ないことであろう。

 神秘の減衰が著しい現在において宝具を宝具として成立させるには、その神秘を如何にして維持するかということが鍵になる。夜桜の宝具はそれを、この鞘――正確に言えばそれの素材として使われている皮で成し得ている。

 日本の神代における最も凶悪かつ強大な邪竜の皮を素材としているこの宝具は、あらゆる魔力・神秘の一切を遮断するという強力な特性を備えている。そのため外部には魔力が漏れず、一目では宝具であるかどうかすらも見抜けないようになっているのだ。

 しかし、それは最終手段だ。この宝具の真名解放は遥自身に相当な負荷をかける。最悪、自我を崩壊させてしまうほどの強い負荷だ。今ここでその真名を明かしては完全に頼られる。それを避けるため、遥はあえて何も言わなかった。

 代わりに咳払いをひとつ漏らし、話題を変えた。

 

「現状確認はこれで一通り済ませたな。……で、立香、マシュ。マシュに宿った英霊の真名は把握してるのか?」

 

 マシュに英霊が宿った経緯については、既に遥は本人の口から聞き及んでいた。レイシフトが実行される直前、特異点の原因を特定及び排除することと引き換えにカルデアに召喚されていたサーヴァントが霊基と宝具を譲り渡したのだと。

 しかし、英霊と融合してデミ・サーヴァント化したのだとしても自身に宿った英霊が何であるか、またその英霊の宝具を知らなければ十全に力を振るうこともできまい。戦略に組み込むのだとしても、組み込みにくくなってしまう。

 遥がそう問うと、立香とマシュは揃って表情を曇らせた。それは言葉よりもなお如実に彼らの現状を物語っていた。

 

「それが……何も分からないんだ。名前も、その……宝具、だっけ? それも使えないみたいで……」

「……はぁ。マトモなマスターなら自分のサーヴァントの情報(マトリクス)を解析できるものなのだけれどね。今更何を言っても詮無いことだけど」

 

 通常、カルデアの召喚システムでマスターとなった魔術師は自身のサーヴァントのステータスや真名、スキルを始めとした全てを把握することができる。聖杯戦争ではステータス限りで相手のものも閲覧できるというが、それはカルデアには関係ない話だ。

 しかし、立香は数時間前までカルデアに招かれただけの一般人。魔術師としては超が付くほどの素人だ。そもそも魔術を使ったことのない人間を魔術師と定義するのかは怪しいところだが、マスターである以上は魔術師と言って差し支えないだろう。

 一度立香と契約を切って遥と契約し直せば全て把握できるのだろうが、遥はあまり気が進まなかった。恐らくマシュに宿った英霊はマシュを依り代として認めただけでなく、立香を主君と認めたからこそ契約を結んだのだろう。それを無理矢理変えてしまうのは英霊の意思を無視することになってしまう。

 遙がひとつため息を吐いて傍らを見れば、何故か沖田までもが気まずそうな顔をしていた。

 

「どうした?」

「いえ、私も宝具をひとつ失っている身ですので気まずいというか、何といいますか……」

「あぁ、『羽織』のことか。別にいいんじゃねぇの? いずれ出てくるだろうさ」

 

 召喚した直後は遥も気づいていなかったが、沖田はふたつ持っている筈の宝具のうち片方を失っていた。真名()を〝誓いの羽織〟という。それを纏うことでステータスが向上し、さらに得物を〝乞食清光〟から〝菊一文字則宗〟へ階位を引き上げる効果がある。

 確かにそれがあれば多少は戦いやすくはなるだろうが、ないならないで戦略の立て様はある。そもそも羽織を着ていなくとも沖田は類稀な剣術で相手を圧倒するのだから、羽織があったところで役割は変わらない。

 加えて、いざとなれば絶対命令権である令呪を使って一時的に再現することもできる。恒常的に使えればそれに越したことはないが、なくても再現できるならそれでも問題はあるまい。

 問題といえば、マシュや沖田の宝具よりもこれからの方針についてだ。目的地が大空洞であるとは分かっていても、そこに至るまでにアーチャー、場合によってはバーサーカーの妨害がある可能性がある。さらに突入した後、誰がセイバーの相手をするかということも問題だ。

 それを考えているうち、不意に遥は自分がこの集まりのリーダーポジションに収まってしまっていることに気付いた。サーヴァントとは基本的に魔術師に従うものであり、その魔術師の中では遥が最も戦闘経験豊富であるため致し方ないことかも知れないが、基本的に面倒くさがりの遥にはそれが不満だった。

 そも戦闘経験の量と言うなら、この場において最も戦闘に立つべきはマシュだ。いくら元が人間であろうと、サーヴァントになった以上戦いは避けられない。今のマシュでは、恐らく本気で戦えば遥でも斃せる。

 

「……結局、建物に引き籠っているだけじゃ何も決まらねぇか。対策なんざ動いてから立てりゃいい、とも言うしな」

「お? なんだ、攻め込むのかい? いいねぇ。ウダウダ考え事だけしてるよりはそっちの方が好きだぜ、オレは」

「デスクワーカータイプのクラスとは思えねぇ台詞だな。……じゃあ、あと少し休憩したらここを出よう。それと、マシュ。ここから先、戦闘では前に出てもらう」

 

 遥の言葉に、マシュは疑問に思った様子もなく素直に頷いた。マシュ自身、自分に戦闘経験が足りていないことが分かっているのだろう。沖田は言わずもがな百戦錬磨の新撰組であるし、キャスターもどこかの英雄だ。しかし、マシュは英霊と融合しただけの少女なのだ。

 遥としては、本心を言えばある種妹のような存在を頻繁に戦闘に出すのは心苦しくはあったが、しかし遥が培ってきた戦闘経験から来る判断は至って冷酷にマシュが経験を積むことを推奨していた。

 いざとなれば遥が『変身』か『反転』して模擬戦をすることもできるが、それでは()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなことになっては取り返しがつかない。

 

「あと、言うまでもないが立香にはマシュのマスターとして動いてもらうぞ。キャスターには立香とマシュのサポートに回ってもらいたいんだけど、いいか?」

「おう。だがいいのかい? マスターとして新米なのは坊主も同じだろうに」

「俺はいいんだよ。俺ぁ、後ろで指示出すよりは並んで戦う方が性に合ってる」

 

 先程の戦闘で遥が素直に後ろに下がって見ていたのは、サーヴァントというものが如何なるものか、そして沖田の戦闘力はどれほどのものかを見計るためである。敵を知り、己を知れば百戦危うからずとも言うほど、戦力の確認は大事だ。

 そしてある程度戦力の確認ができた以上、遥が出ても構わないと遥は考えていた。そもそも指示するだけなど、遥の性に合っていないのである。それに、超常の存在となった人間と肩を並べて戦うなど、中々に心躍るものではないか。

 だが遥のそんな密かな興奮を秘めた言葉も、サーヴァントである沖田にとっては聞き捨てならないことであったようで「ダメです!」と遥を咎めるように言った。

 

「ハルさんはマスターなんですから、後ろに下がっていて下さい。サーヴァントである私と違って、マスターは代えが利かないんですよ? それとも、私が信用なりませんか?」

「いや、別にそういうワケじゃ……」

 

 明らかに不満そうに頬を膨らませる沖田にどう言ったものか分からず、遥が言葉を詰まらせる。これは従者心というものか、それとも乙女心というものか。どちらにせよ、遥には分からないものだ。後者は特に。

 口には出さないが、今の沖田の発言には遥にとって聞き捨てならないものが含まれていた。沖田の言う通り人間であるマスターと違って、サーヴァントは仮に消滅しても再召喚ができる。

 だが、それでも遥は目の前で消滅されることは我慢ならなかった。敵が目の前で死ぬのはいい。遥もこれまで、死徒や悪魔をその手で屠ってきた。けれど、無辜の人々や仲間が死ぬのはどうにも耐えられない。

 どう言ったものか遥が悩んでいると、不意に立香が笑みを覗かせていることに気付いた。

 

「……なんだよ」

「なんだか仲がいいなって思ってさ」

 

 常に相手の言葉の裏を探ってしまう癖のある遥だが、だからこそ立香の言葉に裏がないことが分かってしまい、恥ずかしくなって顔を背けた。少ないとはいえ何名かの友人を自認する遥だが、真っ向から言われると何だか不思議な心持だった。

 自分自身の感情を切り替えるため、遥が何度か咳払いを漏らす。それでも気恥ずかしさは完全に消えるものではなく、紅い顔のまま口を開いた。

 

「そろそろ出るぞ。各自、準備しといてくれ」

 

 

 

 遠坂邸からの道程は、さして過酷なものでもなかった。火の海に沈む街の中で出没する敵性体(エネミー)は主に骸骨兵や蜥蜴兵(リザードマン)、竜牙兵くらいなもので、サーヴァント3人の前では脅威足り得るものではない。

 むしろそういった『雑魚敵』が数多く出没することで、徐々にマシュの戦闘力も上がっているようであった。異様なまでの上達は、融合した英霊から技術を継承している証だろう。同じように他者から技術を継承している遥だからこそ、それが手に取るように分かった。

 そのお蔭か、時折現れるデーモンなども弱い個体であれば相手取ることができるまでに成長していた。さらに、驚くべきものがあるのはマシュだけではなく立香もそうだ。数時間前まで一般人でしかなかった彼だが、マシュに出す指示は戦略家としての才覚を感じさせるものであった。

 そうしてしばらく歩いていると、遥にとっては慣れ親しんだ建物が見えてきた。穂群原学園の高等部と初等部の校舎だ。本来は同時に視界に収めることはできないが、他の建物がほぼ全て倒壊したことで同時に見えるようになっていた。

 荒れ果てた母校を見て複雑な思いに捉われる暇もなく、一行は先に進んでいく。そうして円蔵山の中腹、柳洞寺の境内に差し掛かった時、キャスターが警告を飛ばした。

 

「気を付けろよ。そろそろアーチャーの野郎が攻撃してくる頃合い……っと、噂をすりゃあ早速攻撃してきやがった!!」

 

 キャスターがそう言った直後、一行の背後で膨大な魔力が一気に膨れ上がった。それは魔術回路を使ったことのない立香にも分かったらしく、驚愕した面持ちで振り返る。

 果たして、真っ先にアーチャーが狙った標的は――遥であった。威力、距離、弾速。全てが常人には回避も迎撃も望むべくもないほど強力な射であった。だが、それでも遥にとっては十分すぎる間合いであった。

 サーヴァントたちが反応するよりも早くに長刀の柄を握り、第一拘束を解放。さらに筋力を強化しつつ抜刀の勢いを利用して飛んできた矢の軌道を歪め、遥に弾かれた矢が柳洞寺の山門を貫いて本堂に突き刺さる。ここまでコンマ1秒以下の交錯だった。

 

「不意打ちたぁ、いい度胸だな。信奉者さんよ」

「生憎と、しがない弓兵なものでね。……それと、信奉者になった覚えはない」

 

 矢が飛んできた方向から迫ってくる魔力の反応に向けて静かな怒りを込めた言葉を放つ遥。それに言葉を返したのは、たった今どこかからこの場に現れたひとりの男であった。

 白い髪と褐色の肌。身長は遥よりも少し高いくらいだが、胴体を覆っている黒いアーマーから伸びる腕がこの男がどれほどの修練を積んできたかを物語っていた。さらに、弓兵を名乗りながら手に持っているのは黒と白の双剣だった。

 視線をちらと先程飛んできた矢に向けてみれば、本堂に刺さっていた矢もまた剣の名残を残す矢、それも宝具属性を帯びた武具であった。しかしアーチャーにそれを回収しに行く素振りはない。まるで使い捨てとでも言うかのようだ。

 弓兵でありながら剣を用い、またその剣を矢にすることができる英雄。心当たりはなかった。だが、それよりも遥にとっては真っ先に自分を狙ってきたことが重要であった。

 

「立香。所長たちを連れて先に大空洞に行ってろ。ここは俺と沖田が引き受ける」

「そんな、ふたりだけでなんて……」

「いいから! これは俺が売られた喧嘩だ。なら……俺たちが買うのが礼儀ってモンだろ?」

 

 未だ何かを言おうとして、しかし立香は言葉を詰まらせた。立香の視線の先にあったのは遥の顔。一目では男性とは分からないほど線の細い顔を、このうえない戦意に彩った戦士の表情であった。

 立香と遥の付き合いはさして長くはないが、そうなった遥が意思を曲げようとしないことは立香にも分かった。遥は色々と考えているようにも見えるが、その本質は意外と単純で短絡的なところがあった。

 刹那の逡巡の後に、立香は頷きを返してオルガマリーやマシュ、キャスターを連れて走って行く。アーチャーは全員をここで倒すつもりなのか立香たちを逃がすまいと双剣を投擲するが、それの軌道に割り込んだ沖田が双剣を叩き落とした。

 どうあっても遥たちは逃がす気はないと分かったのか、アーチャーが舌打ちを漏らす。苛立ちを隠そうとしないアーチャーの様子に遥は僅かに口角を上げると、挑発とも取れる言葉を放った。

 

「アーチャー。……さあ、お前の罪を数えろ」

 

 ここに、戦端が開かれた。




遥「一度言ってみたかった」


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第7話 宝具解放

 神聖な場所だった筈の境内に剣戟の音が鳴り響く。それは遥のサーヴァントである沖田の刀とシャドウ・サーヴァントであるアーチャーの剣が奏であげる破壊の調べであった。

 得物が打ち合わされる度に飛び散る魔力の火花は華のようにふたりを彩る。数分前に始まった沖田とアーチャーの戦闘は、未だ膠着状態にあった。

 無論、アーチャーの剣技は沖田に匹敵するものではない。もしもそんな剣技を有する英霊であれば、アーチャーではなくセイバーとして召喚されていただろう。アーチャーが振るう剣の冴えは、あくまでも凡人の域を出ないものであった。剣の巧さであれば、恐らく遥が勝る。

 だが、アーチャーは剣技は凡域を過ぎたものではなくとも防戦は得意なようで、沖田の攻撃の悉くを防いでいた。さらにその間隙を縫ってどこかから発生させた剣を沖田に向かって放っている。

 遥は長刀から飛ばした魔力弾でアーチャーが放った〝ファンネルもどき〟を破壊する以外に手を出していないが、既にアーチャーが無限に宝具を発生――否。投影する仕組みに気付き始めていた。恐らく、それは遥以外にはほとんど理解し得ないものであっただろう。

 沖田が放った平突きを、アーチャーが双剣を胸前で交差させて受け止める。そのまま沖田は白刃を閃かせ、その全てをアーチャーが防いだ。最後の一撃で耐えきれなくなった双剣が砕け散るが、距離を取ったアーチャーの手に再び全く同じ双剣が顕現する。

 

「無限に現れる剣……随分と珍妙な魔術を使うのですね、貴方。それに剣を使うアーチャーなど……銃を使うアーチャーは見たことがありますが、それよりも弓兵らしくない」

 

 乞食清光を中段に構えたままに沖田がそう言葉を漏らす。ランサーに対しては無駄口を叩かなかった沖田がアーチャーには口を開いたのは単なる気まぐれか、或いはアーチャーの剣技を賞賛してのことか。

 その言葉をどう受け取ったのかは不明だが、アーチャーはニヒルでありながらどこか自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「世界にはそういうアーチャーもいるということさ。それを意外というのは、君の見識が狭いだけではないのかね?」

「言ってくれますね……」

 

 アーチャーの挑発に苛立ったかのような言葉を返す沖田ではあったが、しかしアーチャーを射抜く視線には一片の曇りもなかった。沖田にとって、このアーチャーは斃すべき敵。それ以上でなければ、それ以下でもない。

 対するアーチャーも侮蔑めいた言葉を言いはしたが、内心では沖田に対する軽蔑はなく、それよりもむしろ畏怖に近い感情がその胸中を占めていた。或いはそれは、沖田がアーチャーの摩耗したうえに汚染された記憶にも鮮明に残る少女と瓜二つであるからかも知れない。

 中段に構えていた乞食清光を地面と水平に構え直す。それと同時に大地を強く踏み込み、地を蹴った。その瞬間にアーチャーの視界から沖田の姿が掻き消え、直後に眼前に現れる。

 縮地によって間合いを詰め、渾身の平突きによって仕留める。ランサーを屠った一撃を、だがアーチャーはまともに受けるような愚は犯さなかった。左手に握った陰剣で刺突の衝撃を後方へと受け流し、すかさず右手の陽剣を沖田に向けて繰り出す。躱しきれなかった沖田の頬の皮が切れ、血が流れる。

 しかし沖田はその程度で怯むような剣士ではない。剣を受け流されたと分かるや、左手で鞘を外してアーチャーの胴を強かに殴りつけた。堪え切れずにアーチャーが数歩後退り、さらにそこへ頭突きを叩き込む。

 

「ぐっ――なんのっ……!」

 

 沖田の連続攻撃に数歩後退したアーチャーであったが、そのまま甘んじて攻撃を受け続けるアーチャーではない。切っ先を沖田と自分自身の間に向けた長剣を虚空に投影すると、後方への跳躍と同時に放つ。

 地面に着弾した長剣は、駄目押しとばかりに内包した神秘を炸裂させて大爆発を起こす。宝具が内包した神秘の全てを解き放つことで英霊にも効く爆発を引き起こす、ある意味では最も宝具に対する侮辱とも言える技。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)

 無限に宝具を使えればそんなことまでできるのか、と遥が驚愕する暇すらもなく、一旦霊体化していたアーチャーが本堂の屋根で実体化した。その手が握っているのはアーチャーの本領である筈の黒い弓。

 

「――I am the bone of my sword.(我が骨子は捻れ狂う)

 

 その祝詞を唱えるアーチャーの片手に、膨大な魔力が収束する。そうしてそこに現れたのは、刀身が捻れたとても元が剣とは思えない異様な矢であった。それを番え、放つと同時に真名を解き放つ。

 偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)。ケルト神話はアルスター物語群に登場する英雄〝フェルグス・マック・ロイ〟の宝具〝虹霓剣(カラドボルグ)〟にアーチャーが独自の改造を加えた宝具であった。

 真名を解放された虹霓の剣は周囲の空間を巻き込みながら沖田を貫かんと魔力を猛らせながら虚空を奔る。だが、それを横合いから飛んできた黄金に光る魔力の刃が半ばから断ち切った。

 

「俺を忘れてんじゃねぇよ。アーチャー!」

「まさか、宝具だと……! 貴様、伝承保菌者(ゴッズホルダー)か!」

 

 アーチャーとて、遥を忘れていた訳ではない。初めにサーヴァントたちではなく遥を狙ったのも、マスターを倒せばサーヴァントも消えるからではない。ただの人間にしては内包する魔力が尋常ではなく、さらにあのキャスターと似た雰囲気を放っているからでもあった。

 しかしいざサーヴァント戦ともなればただの魔術師が介入できるものではない。よって沖田に標的を変えて攻撃していたのだが、その腰に帯びていた刀が宝具とは思いもしなかった。さらに、それがアーチャーの眼をして()()()()()()()()()ともなれば驚愕もひとしおだろう。

 木っ端な宝具を次々に矢として投影し、遥に対して放つ。サブマシンガンもかくやといった速度で撃ちだされた矢はとても常人では対応しきれるものではない。だが、それが遥の身体を抉ることは叶わなかった。

 遥はアーチャーが宝具を投影したと認識した瞬間、長刀に魔力を込めて斬撃として打ち出していたのだ。神造兵装たる遥の得物が保有するCランク程度の魔力放出スキルの応用である。

 斬撃と宝具の魔力が溶け合い、空中に幾つもの爆炎の華が咲く。その間を縫うようにして、遥はさらに一発の斬撃を飛ばした。それはアーチャーに当たることはなかったが、その足場たる本堂を中央から切り裂いた。

 

「この魔力出力量、とても現代人のものとは……ッ!」

 

 跳躍したアーチャーを狙って遥が撃ちだした斬撃を、アーチャーは盾を投影することで防いだ。アーチャーが知り得る盾の中でも相当に高ランクの盾である。相殺はできたものの、斬撃の威力に耐えきれなかった盾が砕け散った。

 さらに、着地したアーチャーに向けて白刃が繰り出された。着地時の隙を狙った沖田の一撃だ。アーチャーは反射的に双剣を投影してそれを受け止めようとするが、沖田の長刀はその剣を貫いてアーチャーの二の腕に突き刺さった。

 追撃を忌避してふたりから距離を取りつつ、アーチャーは敵への評価を上方修正する。あのセイバーが何者かは知れないが、所詮はこの地に来てから召喚した英霊を使役しているだけの即席コンビと高を括っていた。だが実際戦ってみればこれだ。マスターとサーヴァントの間には確かな信頼関係があり、マスターの戦闘能力も宝具に限れば非常に高い。

 あのマスターの宝具を抜きにした強さは全容が分かっている訳ではないが、魔力出力量だけで言えばアーチャーを大きく上回る。サーヴァントのランクに当てはめても現時点でBランク。これだけ魔力弾を打って息のひとつも上がっていないとなると、実際はそれ以上の可能性が高い。

 しかし接近して攻撃してこないところを見ると、身体能力はサーヴァントには及ばないのだろう。さらに魔力の塊を飛ばすという攻撃方法を取っている以上、アーチャーがセイバーと接近している間はセイバーまで巻き込むため使用不可。

 一瞬で相手の戦力をそこまで分析すると、アーチャーは夫婦剣を2対投影し空中に放った。アーチャーが放った双剣は猛禽の翼の如き軌道を描いて沖田へと迫る。

 

「こんなものっ……ッ!」

 

 飛来する双剣を弾こうとする沖田。しかし直後のアーチャーの動きを見て、沖田はアーチャーの真意を悟った。

 事前に投げた双剣は本命の攻撃ではなく、沖田の動きを縫うためのものだ。3対目の双剣を投影して走るアーチャーの斬撃と飛来する双剣が沖田に直撃するのは全く同時のタイミング。これこそ、アーチャーがその生涯のうちに完成させた絶技。〝鶴翼三連〟。

 アーチャーの攻撃を避けようと後ろに動けば背後に回った夫婦剣に貫かれ、左右に動いても斬られる。だが、沖田はそれでも諦めていなかった。回避できないのなら、迎撃すればよい。

 白刃と鞘を縦横に閃かせ、一瞬にして飛来する剣を打ち落とした。さらに真正面から振り下ろされたアーチャーの双剣を刀の一本で受け止める。必中不可避の攻撃を防いでのけたのは、さすが新撰組一番隊隊長といったところだろう。

 だが、アーチャーと鍔ぜり合う沖田の表情はそれまでの冷徹なものとは些か異なっていた。

 

(まずい、ですね……そろそろ『病弱』が……)

 

 遠坂邸からここに来るまで主に戦っていたのはマシュだが、それでも沖田が戦っていない訳ではない。マシュが相手にできないような相手に戦っていた沖田には目には見えないダメージが蓄積していた。

 マスターを通じた魔力供給には何の問題もない。むしろ遥という優秀極まるマスターを得たことで、沖田の調子は帝都で戦っていた時とは比べ物にならないほどに良くなっていた。しかしだからといって病弱スキルがなくなってはいない。

 過剰なまでの魔力供給量を得ても、ただ制限時間を引き延ばすだけにしかならない。我が身の不甲斐なさに歯噛みする暇も、だが沖田には無かった。そろそろ病弱が発動してしまうなら、その前に倒すしかない。

 しかし、このアーチャーは剣技こそ凡俗の域を出ないものの防戦は得意なようだった。剣術の天才である沖田総司をして攻め切れないほどの防戦の達人ともなれば、江戸時代でも稀有だった。

 刀にさらに力を込め、アーチャーの剣を弾く。アーチャーの筋力ステータスはDランク。対して沖田の筋力ステータスはCランクだ。アーチャーが全力を出したとしても押し負ける道理はない。

 剣を弾かれてがら空きになった胴に蹴りを入れ、その勢いを利用して僅かに後退する。よろめくアーチャー。まさに必殺の好機であった。

 

「――捕った!」

 

 その好機を逃すまいと沖田が地を蹴り、アーチャーへと肉迫する。回避など望むべくもない距離。だが、それでもアーチャーは未だ生存を諦めてはいなかった。

 アーチャー個人としてはあまり多用したくはない戦法だが、彼の投影魔術によって武器を顕現させられるのは何も手元だけではない。魔力の消費さえ無視すれば、多少の無茶も通る。

 半ばブリッジのような体勢になったアーチャーの視界に映るのは、覆いかぶさるような位置にいる沖田と――自らが投影した宝具群。沖田がそれを察知した時には時すでに遅し。彼らへと切っ先を向けた宝具が落下し、小爆発を起こす。

 宝具が秘めた神秘を半端に解放しただけに過ぎない爆発。しかし、それでも英霊を傷つけるには十分過ぎる威力であった。爆発によって巻き上げられた土煙が膨れ上がり、飛んできた小石が遥を叩く。

 その土煙の中で先に動いたのはアーチャーの方であった。アーチャーは遥に狙い撃ちされると分かっていながら、半壊した柳洞寺の屋根へと昇り、そこから炎の海に沈んだ街の中で暴れる『嵐』を見咎めた。

 

「――フッ」

 

 『嵐』を見付けたアーチャーが口の端に笑みを覗かせる。だがその笑みはすぐに消え去り、砂煙が晴れて遥たちがアーチャーを再度視認した時には元の真顔に戻っていた。

 沖田の攻撃から逃れるためとはいえ自爆同然の攻撃を仕掛けたアーチャーはやはり無傷とはいかなかったようで、全身のそこかしこから血を流している。しかしそれは沖田も同じ。両者が負ったダメージはほぼ同等であった。

 けれど、それは眼に見えるダメージの話でしかない。沖田がこれまでに負ったダメージは着実に沖田の中へと入り込み、呪いにも似た病を呼び起こそうとしていた。時間はもうほとんど残されていない。

 遥が沖田に回復の魔術を掛けるとほぼ同時、アーチャーが沖田に向けて連続して矢を放つ。沖田の刀では迎撃など望むべくもない高ランク宝具の雨だ。だが、それが沖田に着弾することはない。アーチャーが矢を放ったと分かるや、遥が割って入って矢の全てを魔力弾で呑み込んだのである。

 

「なっ、マスター! 下がっていてください!」

「うるさい……! そろそろキツいんだろ、お前こそ下がっててくれ」

 

 これまでに沖田へと向けたことがない声音で怒鳴る遥。いくらカルデアの召喚システムを利用したとはいえきちんとした状態で召喚しなかった遥は、半ば沖田と直接契約したような形となっている。故に沖田の状態が分かるのだ。

 いや、仮にそうでなくとも遥は同じことをしただろう。沖田とは数時間の付き合いでしかないが、それでも遥にとっては死んでほしくない仲間なのだ。既に死した身を死ぬと表現するのは奇妙な話だが、遥の中では身体がある以上生きているのと同義であった。

 それは既に死んだ身と死を達観している沖田との明確な意識の乖離であった。そうでなくとも、サーヴァントではないただの人間である遥がサーヴァントであるアーチャーの前に出るなど断じて認められるものではなかった。

 しかし、それはひとえに人間の戦闘力ではサーヴァントに追いつくことができないからだ。尋常な人間ではサーヴァントには手も足も出ない。封印指定執行者クラスの戦闘力を誇る遥ですら、アーチャーに真正面から戦闘を挑めば抵抗はできても勝利することはできまい。

 だが、ここに致命的な見落としがある。人間ではサーヴァントに勝てない。なら――。

 

――なら、追いつくようにすればいい。

 

 遥がそう言うと、沖田とアーチャーが同時に目を丸くした。確かに遥の魔術回路の回転速度と魔力出力量はサーヴァントすらも上回るものだ。逆に言えば、それだけでしかない筈なのである。

 

「これは驚いた。君が私に単独で勝つだと? 私は格の低い木っ端な英霊だが、それでもただの青年には負けないという自負はあるのだがね」

「そんなの、やってみなけりゃ分かんねぇだろうが。……ああ、そうか。木っ端な英霊だから、これ以上強くなられると勝てなくなって困る、と?」

 

 遥が挑発をぶつけると、遥を見据えるアーチャーの眉がぴくりと動いた。これほど安い挑発に乗ってしまうのは、汚染で思考能力が鈍っているからか、或いは根は直情的だからかも知れない。何にせよ、その眼は「やってみるがいい」と言っていた。

 その反応を見て、遥が薄い笑みを浮かべる。尊大にも思える挑発をした遥であるが、実際は絶対に勝てるという自信は無かった。

 以前、遥は後見人から〝サーヴァント召喚を可能とする世界、つまり遥が生きている世界では『死徒二十七祖』なる死徒の枠組みは存在しない〟ということを聞いていた。さらにその二十七祖の枠組みには、他ならぬその後見人自身が含まれているのだと。

 それはつまり、強大な死徒であっても英霊に勝てる死徒は少ないということ、英霊は死徒を上回るということだ。強力な死徒に対して使ってきたこの宝具も、英霊相手では効果がないかも知れない。

 それでも、遥は戦う。ここで遥か沖田が殺されれば、きっとアーチャーは残った方も殺す。それは断じて許容できない。

 

「マスター……」

 

 憂いと不安の入り混じった1対の瞳が遥を見つめる。それに気づいた遥は苦笑を浮かべ、その桃色がかった白髪を優しく撫でた。ほぼ無意識の行動。考えなしの行為であった。しかしそれで何かを感じたのか、沖田の視線が信任を帯びたものへと変わる。

 余談だが、英霊沖田総司の願いは『最後まで戦い抜くこと』である。それに照らすならば、遥の行動は沖田を見限ったようにも見えるかも知れないがそれは違う。いわば、それは遥の〝覚悟〟を示す行動であったのだ。

 ただ守られるだけではない。たとえ短い付き合いだとしても、共に戦うという覚悟。ただ遥がそれを示す行為が戦うことであっただけ。潜在的には高いコミュニケーション能力を活かせない遥だからこそ、そういう形になってしまう。

 

「いくぞ、アーチャー」

 

 それだけ言うと、遥は長刀を鞘に納めた。腰のベルトに鞘を固定していた金具を外し、鞘を付けたまま虚空を一閃。鞘の先についていた覆いが外れ、そこにあった刃が露出する。そうして、遥はその刃を自分に向くように掲げた。

 何をするつもりか、と沖田とアーチャーが怪訝な眼差しを向けたのも束の間、遥はその刃を一息で自身の鳩尾の辺りに突き刺した。刃が抉った傷口から滲んだ血は重力を無視して鞘を昇っていき、やがてそこに巻かれた皮に到達する。

 その瞬間、まるで脈動するかのような衝撃を伴って周囲に魔力の嵐が吹き荒れた。それは遥の血、夜桜の血に含まれた人外の血に反応した宝具が起動した合図。

 

「其は総てを喰らう龍神。我が身を喰らえ――!」

 

 宝具完全起動のための祝詞を遥が紡ぎ、それに応えた神獣の皮が更なる魔力を放出する。驚愕の面持ちで遥を見ていたアーチャーだが、不意にその魔力に違和感を感じて思考を巡らせた。

 人間の体内魔力(オド)ではない。かといって体外魔力(マナ)でもない。アーチャーが感じてきた魔力のどれとも異なる、()()()()()()()()()()()であった。

 しかしそれにアーチャーが気付く間もなく、さらに魔力が膨れ上がった。それは遥の体内にも入り込んでいき、魔術回路を蹂躙する。並みの魔術師であれば一瞬で魔術回路が焼き切れてしまうほどの魔力。何度も構築し直したからこそ、遥はそれに耐えることができた。

 吹き荒れる魔力は更なる膨張を見せ、そして、それが最高にまで高まった時、遥が宝具の真名を解き放った。

 

 

「顕現せよ――八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)!!!」

 

 

 

 大空洞。またの名を龍洞という円蔵山に空いた洞窟は、冬木市の霊脈の根幹である。故に冬木市に住む魔術師たちはそこを魔術的に利用するために長年に渡って改造を施してきた。天然の洞窟でありながら、同時に魔術師たちの複合工房でもあるのだ。

 その複合工房の最奥。道中に現れる敵性体たちを蹴散らしながら進んだ立香たちは、そこにあってものを見て息を呑んだ。

 最奥にある巨大な空洞の中央に屹立する小さな山。紫色の燐光を散らすそこから放出される禍々しい魔力は、魔術回路を使ったことのない立香ですらも鳥肌を禁じえないほどのものであった。

 これこそが聖杯戦争の中核たる万能の願望器にして超抜級の魔力炉心たる大聖杯。それを目の前にして、立香は無意識に息を呑んだ。自分が明らかに後戻りできない領域にまで踏み込んだのを自覚すると同時、彼の冷静な部分が違和感を告げる。

 ここまでの道中、立香はカルデアに記録されている聖杯戦争の記録についてオルガマリーから聞き及んでいた。それによると、2004年に行われた聖杯戦争はセイバーとそのマスターが勝利し、聖杯を獲得したとあるという。

 そして、特異点とは歪んだ歴史だ。それを正そうと思うのなら、このまま立香たちがセイバーを倒せば歴史の歪みは決定的なものになってしまうのではなかろうか。或いは聖杯を破壊か回収しさえすれば問題ないのか、それともキャスターが勝ち残っても不都合はないのか。

 降って湧いた疑問に立香の意識が呑まれそうになる。しかし、それを遮る声があった。

 

「――ほう。ようやく来たか」

 

 唐突に聞こえてきた声に一同が大聖杯を格納した小山の頂を見遣る。空洞の入口からそれなりに離れてはいるが、その姿は不思議とはっきりと見て取ることができた。或いはそれは、その英霊――セイバーが放射する威圧感故か。

 セイバーの声と姿が立香が予想していた男性のものとは違い、明らかに少女のものであったことには驚いたが、そんな性別などは些末な問題でしかない。今確かに、藤丸立香という青年は命の危機というものを間近に感じていた。間違いなく、こいつはこの特異点において最強の英霊だとすぐに本能が察知した。

 敵性サーヴァントを確認したことでマシュとキャスターが立香とオルガマリーの前に出る。盾役(タンク)のマシュが前衛。キャスターが後衛。一般的な戦術に則った、至極真っ当な配置である。

 セイバーが立香たちと同じ大地に降り立つ。その所作ひとつで、額から冷や汗が流れた。

 

「まさか貴様までいるとはな、アイルランドの光の御子。だが、それ以上に……」

 

 そこで一旦言葉を区切ったセイバー。バイザー越しのその視線が、キャスターからマシュ、正確に言えばその盾へと移った。そうして一瞬だけこのセイバーには似つかわしくない郷愁めいた表情を浮かべ、しかし次の瞬間には元の鉄面皮へと立ち戻る。

 そうしてセイバーが得物たる漆黒に堕ちた聖剣を構えると、明らかに周囲に満ちる魔力の密度が増した。セイバーが戦闘状態へと移行したのである。まさに最優のクラス(セイバー)に相応しい、途方もない魔力放出量だった。

 聖剣の切っ先が指し示すのはマシュ。漆黒の聖剣の刀身からは闇色に染まった魔力が絶えず噴き出しており、担い手であるセイバーの呵責無さを如実に物語っていた。

 

「構えるがいい、盾の娘。貴様がその盾の担い手たるに相応しいか、このアルトリア・ペンドラゴンが見定めてやろう!」

 

 

 

「な――これは……!」

 

 たった今目の前で起こったことが信じられず、アーチャーが弓を構えたまま驚愕の声を漏らした。それを見て、遥が嗤う。

 宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟。その名の通り、夜桜の宝具のひとつである鞘を触媒として日本の神代における最強の獣〝八岐大蛇〟、またの名を〝伊吹大明神〟を顕現させる宝具である。

 だが、この場に八岐大蛇そのものは顕現していない。神獣に区分されるこの獣を解放すれば、いかな遥の魔力量であろうと数分顕現させて暴れさせただけで枯渇してしまうからである。故に、遥は己の肉体を媒介として八岐大蛇を召喚、及び憑依させたのである。

 元は背中の半ばまでの長さだった一本結びの髪は腰ほどまでに伸び、顔の右半分には龍の鱗のような文様が奔っている。否、それは紛うことなき鱗であった。右目は人間のものから、爬虫類を思わせるものへと変貌している。

 普通の人間であれば、八岐大蛇の霊を憑依させた時点で怒り狂った霊に呪殺されるか、肉体の変化に身体が付いて行けずに死亡してしまうだろう。だが、遥はそうはならない。伝家の魔術で幾重にも封印を施しているうえ、いかな最強の邪竜とはいえ自身を打倒した者の残滓を持つ者に逆らうようなことはするまい。

 鳩尾から鞘を抜き、さらに長刀を抜刀した。黄金に輝く刀身を赫と輝かせる、神造兵装。そして鞘の真名。アーチャーはたちどころに、その長刀の真名を悟った。

 

「さあ。第二ラウンドだ、アーチャー」

 

 それだけ言って、遥は地を蹴った。




もはや刀の真名を隠す気がない件について。


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第8話 狂乱の咆哮

 円蔵山柳洞寺。嘗てこの土地に住んでいた龍神を鎮めたという僧に所縁があると言うこの寺院は、炎海に沈んだ街の中にあってその被害を免れていた。たった数時間前までは。

 荘厳な雰囲気を纏っていた本堂は既に見る影もないほどに破壊され、入口の山門もまた薙ぎ倒されてただの木屑へと変わり果てていた。仏の社をそれほどまでに破壊したのは街を徘徊する魑魅魍魎ではない。たったひとりの人間によって破壊されたのだ。

 いや、果たしてそれを人間と言ってよいものか。全身を竜種に近いそれへと変貌させ、狂乱したかのように五体を駆動させるそれは人間(ヒト)というよりも『怪人』や『魔人』というべきものであった。

 伝家の宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟の効果により伝説の邪竜〝八岐大蛇〟をその身に降ろした遥はその力を以て確実にアーチャーを攻め立てていた。初めは右半身だけであった変化も、今や全身にまで及んでいる。

 普通の人間ならば降ろした時点で死亡、少しは適性のある人間でも憑依させれば意識を乗っ取られてしまうであろうその獣性を、遥は魔術と血の力で制御してのけていた。しかし、それでも闘争本能が呼び起こされるのは避け得ない。燃え上がる獣性を理性で制御しつつ戦うその姿は、まるで狂戦士(バーサーカー)ででもあるかのようだ。

 アーチャーが防御のために胸前で交差させた双剣に長刀の平突きを叩き込むと、あまりの膂力で双剣が一瞬で砕け散った。間髪入れずに遥が左の拳をアーチャーの胴に放つも、それはアーマーを砕くことなくアーチャーの腕に防がれ、そのままアーチャーは吹き飛んで本堂の残骸に叩きつけられる。

 

「……訂正しよう」

 

 残骸から立ち上がり、再び夫婦剣を手元に投影しながらアーチャーが言う。

 

「先程、君をただの青年と言ったが……どうやら違ったらしい。君は魔術師の中でも最強クラスの力を持っているようだな」

「そうかよ。だったらどうした!」

 

 アーチャーの言葉に対し、遥は短くそう言葉を返すと再び地を蹴ってアーチャーへと肉迫した。まさに神速と言うべき速度で振るわれる黄金の刀を双剣で払いつつ、アーチャーは相手の戦力を分析する。

 今の遥の力は、言うまでもなくアーチャーを凌駕している。恐らく現状の遥のステータスにおいて、アーチャーを下回るものなどありはすまい。特に筋力など、真正面から受け止めれば投影品が破壊、そうでなくてもしばらくは腕に痺れが残るほどだ。

 さらに遥の全身から生えた鱗は遥に絶大な防御力を与え、アーチャーの投影品でも木っ端な宝具は鱗に触れた直後に投影品の方が押し負けて折れてしまう。対魔の剣であるアーチャーの愛剣〝干将・莫耶〟ならば辛うじて通るが、それでも減衰は否めない。

 それらよりも恐るべきは、狂戦士(バーサーカー)めいた戦い方をしているにも関わらず剣技の冴えが凄まじいということであった。遥の剣技はアーチャーのように凡俗の域に収まる剣技でなく、沖田総司と同じ、天才の域にあるものだ。

 長刀を片手で自在に振るい、確実にアーチャーを攻め立てる遥。それを辛うじて夫婦剣を使って受け流しつつアーチャーは反撃の隙を伺うが、その間にも双剣の刃は零れ、砕けていく。どれだけ強化を施そうが無駄だ。遥はそれを越えてくる。

 

「――ッ!」

 

 再びアーチャーの剣が砕け、その瞬間に遥はアーチャーの胴に回し蹴りを放った。防御すらままならずにアーチャーはそれを正面から喰らい、吹き飛んで岩壁に叩きつけられる。

 サーヴァントすらも凌駕する神獣の力。それを自在に行使する遥は一見何の代償もないようにも見えるが、そうではない。体内に宿しているために魔力消費も最低限で済み、世界からの修正力にも抗っている。故に、問題は魔力残量によるものではない。

 全身を駆動させる度、遥は頭蓋を内側から金槌で叩かれるかのような激痛に襲われていた。いくら魔術で封印を掛け、血に宿る乱神の残滓によって八岐大蛇の魂を屈服させているとはいえ、完全に影響を打ち消すことはできない。長時間の戦闘を続ければ、遥の理性は消し飛んで真性の狂戦士になってしまうだろう。

 問題なく戦闘を続けていられる時間は精々15分から30分程度。起動させてからは5分ほど経っている。心許ない限界時間だが、これでも初めて使った時よりは幾分か長くなっている。初めて宿した時はその瞬間に理性が吹き飛んで魔力が尽きるまで暴れていたものだ。

 

「我が躰は焔」

 

 短く式句を紡いで体内の煉獄を呼び起こすと、全身の鱗の隙間から焔が漏れ出し始めた。無論ロングコートにも焔は降りかかっているが、魔術で耐炎加工済みだ。

 

煉獄よ、猛れ(バーニング)!!」

 

 追加の祝詞により体内の煉獄がさらに火力を増す。全身から噴き出す焔もまた更なる高まりを見る。その偉容は炎海に濡れる街よりもなお凄まじく、急激に熱された空気が陽炎を立ち昇らせていた。

 沖田がアーチャーと戦っていた時、遥がすぐにアーチャーの魔術の原理(カラクリ)に気付けたのも遥の煉獄――『固有結界(リアリティ・マーブル)』が理由だ。いくらそれそのものを出していなくとも遥が同業者を見抜けない筈はない。

 身体から漏れ出す焔を操り、火炎放射のようにして打ち出す。通常の炎の温度を遥かに超える温度を誇る心象の焔は地表を溶かしながらアーチャーに向かって奔る。だがアーチャーはすぐに立ち上がると、盾を投影してその火炎を防ぎ切った。

 

加速開始(イグニッション)!!」

 

 火炎放射を防がれてもなお、遥は畳みかける。体内に展開した固有結界を外界から切り離し、加速度的にその速度を増加させていく。あり得ざる加速に普段なら全身が悲鳴をあげるところだが、今の遥の耐久力は上位の竜種のそれに匹敵する。数倍の加速程度で悲鳴はあげない。

 ただの行動加速も、元の速度が速ければ倍率が同じでも結果は大きくなる。遥が地を蹴ると、アーチャーの視界から遥の姿が掻き消えた。縮地のような特殊な走法によるものではない。純粋な速度だけで、遥は英霊の認識力を越えたのだ。

 反射的にアーチャーはオーバーエッジ状態で干将・莫耶を投影し、直感的にそれを何も見えない虚空に向けて投擲した。すると空中の一点でそれが弾かれて飛んでいく。それで遥の居場所が大体どこであるかを察知したアーチャーが不敵に笑う。

 その瞬間にアーチャーの背後で魔力が収束し、無数の刀剣が顕現する。

 

停止解凍(フリーズ・アウト)――全投影連続層写(ソードバレル・フルオープン)

 

 その式句が紡がれるや、アーチャーの魔術によって空中に固定されていた全ての宝具たちが一斉に遥がいると思われる領域に降り注いだ。普通に考えれば到底避け得ない致死の雨。

 だが、それが降り注ぐ中にあって遥は生存を諦めてはいなかった。全速力で走り回っていた足を止めると、自身に向けて振ってくる宝具群へと意識を集中する。そして初めの一撃が着弾しようかという時、それを掴み取って即席の二刀流を演じてみせた。

 迫りくる宝具を右手の長刀と左手の長剣を縦横に振るうことでその悉くを打ち落とし、破壊せしめる。それは到底齢19の青年の武錬ではなく、終生を武芸に費やした者のみが到達し得る領域にある絶技であった。

 不可解なまでの武錬。異様なまでの強さ。それにはさしものアーチャーも驚いたようで、眼を見開く。だがすぐに忘我から復帰すると、もう一度双剣を投影した。

 

「とてもではないが、子供の武錬ではないな……! 貴様、一体どんなデタラメをしている……!」

「気になるなら、俺を殺す前に吐かせたらどうだ……!」

 

 魔力の温存のために体内の固有結界を停止させ、全身からの焔の噴出を止める。体内時間の倍率も通常へと戻り、世界からの修正力が遥の体内を激痛で蹂躙するがそんなものは今更だ。遥が地を蹴ると、空間跳躍と見紛うばかりの速さでアーチャーの眼前に遥が現れた。縮地である。

 遥が自身が培ったものではない技術を使えている原因。それはある種〝憑依経験〟と似て非なるものが原因であった。この神造兵装の担い手として選ばれた時点で、遥は彼自身の意思を無視して〝彼の者〟の知識と経験を継承する『器』としての機能を得たのだ。人の生よりも遥かに長い時間を生きた彼の者からすれば、縮地など造作もないことなのであろう。

 それにはさしものアーチャーといえど対応しきれず、長刀の切っ先がアーマーを貫いてその下にある胴体を貫いた。弓兵の血を吸った刀身が背中側からその輝きを覗かせ、遥が刃を引き抜くと噴水のように鮮血が噴き出した。

 さらに遥が反撃の隙を与えないように左手で手刀を形作ると、それをアーチャーの右脇腹に突き込んだ。強化魔術によって鋼鉄を上回る硬度を得ている防具はまるで豆腐のように容易く手刀の侵入を許し、そのまま遥は脇腹を抉り取った。

 飛び散る赤黒い液体。だが、それに次いで零れ落ちるべきものは落ちず、流血もすぐに停止した。代わりに傷口から顔を覗かせたのは、鈍色の輝きを放つ剣山。それの正体に、遥はすぐに気が付いた。

 

「お前、まさか……!」

「応急処置というやつさ。君の躰が焔であるように、私の身体は剣なのでね」

 

 アーチャーの言葉が示すところはつまり、遥によって脇腹を抉られたアーチャーは内臓が零れるのを押しとどめ、さらに止血をするために意図的に体内で固有結界を暴走させたということだ。

 しかし、固有結界の暴走により剣に浸食される部分は何も傷口だけということはあるまい。今、アーチャーの総身は内側から無限の剣に突き刺され、肉を食い破られている筈だ。遥も体内に展開している間は全身を内側から火炙りにされているにも等しい激痛に襲われているが、それとはまた別種の想像を絶する痛みだ。

 それでもまだ、アーチャーは遥から勝利をもぎ取ることを諦めていない。何がアーチャーにそうまでさせているのかは分からないが、途轍もない執念だ。或いはセイバーに何か思うところがあるのかも知れないと遥は一瞬考えたが、すぐにそれを余分な思考だと打ち消してしまう。

 遥が長刀を構え直す間も与えず、アーチャーが陰と陽の剣を投擲する。反射的にそれを弾いた遥は、即座にアーチャーに肉薄して右下から長刀を振り上げる。剣による補修部位を狙った一撃は、しかし再び手元に現れた陽剣によって阻まれる。

 直後に聞こえる風切り音。音のする方を見ずとも、遥にはそれが何であるか察知できた。遥が弾いた双剣がアーチャーの手元にあるもう1対に引き寄せられて戻ってきているのだ。

 アーチャーが口の端に僅かな笑みを見せる。アーチャーは初めから遥に弾かれることを前提として剣を投擲していたのである。今振り返ればアーチャーに斬られ、かといって防がなければ首を落とされる。

 

「舐めるな、この程度!!」

 

 遥がそう咆哮した直後、ひとつ結びにされていた遥の髪がひとりでに動き始めた。毛先がひとつに収束し、大蛇の頭部を作り上げる。その大蛇は飛来する双剣を見咎め、そして、身体を大きく振って口で双剣の柄を掴み取った。

 八岐大蛇の霊を降霊させ、憑依させた遥が得たのは何も凄まじい身体能力と鱗による堅牢な防御力だけではない。その気になれば身体を大蛇のそれへと変化させることも可能だ。無論、人体の構造を無視した変化であるために頭髪以外で行えば激痛は避け得ない。

 攻撃が失敗に終わり、不利を悟ったアーチャーが全力で後方へと飛び退く。本堂の屋根へと飛んでいくアーチャーの手に現れたのは黒塗りの弓と矢へと変形させられた尋常ではない切れ味を誇る宝剣。銘を絶世の名剣(デュランダル)という。

 手慣れた動作でそれを番え、放つ。限界にまで引き絞られた弦により撃ちだされた矢は寸分違わずに遥の眉間へと飛翔し――――そこで、遥の手に掴まれて停止した。

 

「くっ……!?」

 

 既に遥はアーチャーの目前にまで接近している。今から対応したところで間に合わない。それでもまだアーチャーは反撃しようと魔術回路に魔力を流す。しかし。

 

「終わりだ。アーチャー!」

 

 遥が突き出した黄金に光る刃。それは避け切ることができなかったアーチャーの心臓に深々と突き刺さり、その霊核を破壊せしめた。相手は死人ではあるが、ひとつの命を奪った感覚に遥が顔を顰める。

 しかし同時に、遥は自身に宿った獣が血を求めて猛っているのも自覚していた。何をしている。もっとコイツを切り刻め。切り刻んで血を啜れ、と邪竜が言っている。それを無視しようとしても、半ば理性と切り離されつつある身体がより深々とアーチャーに刃を突き立てようと力を込める。

 対するアーチャーは自らの敗北を悟り、口元に薄い笑みを浮かべる。だが、このアーチャーはそれほど諦めが良くなければ、騎士めいた一騎打ちの精神を持ち合わせてもいなかった。急激に薄れていく意識の中、アーチャーは本堂の屋根から見える深山町の街並みへと目を遣る。

 アーチャー自身の故郷でもある街の中で、この距離でもひときわ強い存在感を放つ黒い『嵐』。それは手にした斧剣を振るいながら、見境なく周囲の建物や雑魚たちに圧倒的な破壊を齎している。

 身体が光の残滓となって消滅する寸前、アーチャーは最後に残った魔力の全てを動員して1本の矢を虚空に投影した。それをあらぬ方向に向けて飛ばしたのを最後に、アーチャーの姿が完全に消滅する。

 

「なんだ、今のは……いや、それよりも……」

 

 茫洋とした視線のまま、遥はアーチャーの肉体を抉った愛刀を見遣る。これまでに死徒や悪魔、外道魔術師の血を吸ってきたこの神造兵装は、遂に英雄の血まで吸ってしまった。それは同時に、遥の手がどれだけ血で汚れたかを示している。

 構わない、と呟きながら遥はその憂いを断ち切った。これからも生き続けるなら、遥は嫌が応にも強大な怪異と戦い、そして勝利する破目になるだろう。だからといって、それに目を背けて死んでしまうことはできない。「生きて」と願いを託されたのだから、それを叶えない訳にはいかない。

 遥が忘我の内にいると、不意に足場が崩れて落下した。そうしてようやく忘我から復帰した遥に沖田が駆け寄ってくる。

 

「ハルさん! 大丈夫ですかっ!?」

「あぁ……大丈夫だよ。沖田こそ何ともないか?」

 

 外傷はほとんどない。しかし表情が明らかに大丈夫と言える様子ではないのに虚勢を張る遥に対して、沖田は何かを言い募ろうとするがすぐに口を噤んだ。恐らく、何を問答したところで遥は大丈夫以外の答えを返さないことに気付いたのだ。

 竜種と酷似したものに変容している遥の眼が、真紅に明滅している。どこかあのキャスターにも似た雰囲気を放つその真紅に、一瞬だけ沖田は魅入られる。魔眼のようではあるが、魅了の魔眼ではない。それは純粋に異様な明滅をする遥の眼に興味を引かれただけのことであった。

 アーチャーには勝利した。後は立香たちと合流し、セイバーを打倒して聖杯を処理するだけだ。今にも湧き上がる破壊衝動のままに暴れ出しそうな身体を抑えながら遥は立ち上がり、宝具によって起動した召喚魔術を解こうとする。

 だが、その直前にふたりは空気を震わせる微細な振動を聞きとがめる。それが次第に巨大になってくるというのは、それを発しているものがこの場に近づいているからか。その瞬間、遥はアーチャーの最期の攻撃の意図に気付いた。

 あらぬ方向に向かって放たれた宝具。それの意図は――――最後に残ったシャドウサーヴァントへの攻撃。確かに理性を失ったあのクラスなら、見境なく攻撃された方向に走ってくるかも知れない。泥に汚染されているなら猶更だ。

 

「マスター……!」

「……アーチャーの野郎。戦いに負けて勝負には勝ったってか……!」

 

 撤退も遥の脳裏によぎったが、彼はすぐにそれを却下した。ここで遥たちが大空洞の中に撤退すれば、ソレはそのまま直進して大空洞の中に入ってくるだろう。そうなれば立香たちまで巻き込まれてしまう。

 瓦礫に埋もれた愛刀を掴む。準備を始めていた解呪術式を途中で破棄し、魔術回路を全力で駆動させる。戦闘準備を始めた遥を見て沖田は悲しそうな表情を浮かべるが、すぐに打ち消して思考を切り替えて冷徹な人斬りへと変貌する。

 その頃にはもう既に嵐の足音は円蔵山の階段を登ってきていた。咆哮は大気をどよもし、気配ひとつでふたりの足を後退しそうにさせる。そうして―――

 

 

 ――――狂乱の英霊(バーサーカー)が、その場に現れた。




立香たちの戦いはまた次回。


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第9話 其の真名を謳え

 異様な密度の魔力に満たされた大空洞に金属同士が打ち合わされる音が鳴る。それはセイバーが振るう聖剣をマシュの大盾が受け止めている音であった。いや、それは受け止めているというにはあまり弱々しいものであった。

 戦闘が始まって数十分。戦闘は完全な膠着状態の様相を呈していた。セイバーの攻撃は全てマシュが防ぎながら、キャスターの放った魔力弾や火炎弾はその悉くを聖剣によって霧散せしめられる。

 セイバーの聖剣がマシュの盾を叩く度に膨大な魔力が疾風となって吹き荒れ、衝撃を相殺しきれなかったマシュがたたらを踏む。それはセイバーにとっては追撃にとって絶好の機会であろうに、セイバーはそれをしてこない。

 要は、セイバーは未だに本気を出していなかった。まるでマシュを試すかのように手を抜いて攻撃し、しかしキャスターからの攻撃には注意を払って全て防御している。サーヴァントふたりを相手取って、このセイバーは手を抜いてでも拮抗できるほどの強さを誇っていた。

 

「どうした? 盾に隠れているだけでは私は斃せんぞ!」

 

 そう言うと、セイバーは魔力放出を乗せた斬撃をマシュへと放った。マシュはそれをなおも盾で防御するが、体勢を崩されて返す聖剣の一刀で盾を弾かれる。このままでは斬られると判断したキャスターが『(アンサズ)』のルーンによる火炎弾を放つが、それはセイバーに届く前に掻き消された。

 それはセイバーが有する高い対魔力による防御か、或いは魔力放出による防壁を身体の周りに張っているのか。どちらにせよ、魔術を主として戦うキャスターにとっては不利極まる。

 純粋な魔力による砲撃を行えば対魔力の壁に阻まれ、火炎弾を放てば魔力放出の応用によって展開された黒い霧状の魔力壁に掻き消される。接近して戦おうにも、ランサーとして召喚されたならともかくキャスターでは杖ごと聖剣に叩き切られて終わりだろう。

 自らの攻撃が一切通じないことに苛立ったのか、キャスターが舌打ちを漏らす。せめて宝具さえ使えれば斃せるのだが……、と歯噛みするもセイバーにダメージがないうちに真名解放したところで反撃されるのがオチだ。

 それをさらに後ろから見ながら、立香は全力で思考回路を駆動させていた。その背後ではパニックに陥って泣き始めたオルガマリーが座り込んでいる。一般人であった筈の立香が未だ諦めず、魔術師であるオルガマリーが諦めているのはある種逆転現象のようであった。

 サーヴァント同士の戦いという超常の戦闘の只中にあって自分にできることを探しているというのは、まさに立香のマスターとしての才能を示すものであったが、そんなものは指示が出せなければ無意味なものであった。

 大聖杯の付近であるためか、カルデアとの通信はほとんど繋がらない。時折通信が繋がったことを示す音声が通信機から鳴るが、聞こえてくるのはノイズばかりだ。つまりロマニからの助言は望めない。オルガマリーは言わずもがなだ。

 立香が活路を模索している間にも、マシュとセイバーの戦闘は続いている。

 

「つまらん。つまらんな、盾の娘! そんなことではその宝具が泣くぞ‼」

「ぐう……ぅぅっ!」

 

 一撃を加えるごとにセイバーの攻撃は威力を増し、呵責なくマシュを攻め立てる。聖剣から噴き出す魔力はまさに魔竜の咆哮が如く。可視化されるほど濃密な黒い魔力がセイバーの総身から迸っている。

 魔竜の咆哮、とはこのセイバーにとっては比喩ではない。生前より王としての資質を持たされていた彼女は竜の因子を持って生まれ、それ故に心臓は竜種のそれと同一のものであった。その心臓で生成される魔力は神代真っ盛りの英雄と比しても何ら劣るものではない。

 セイバーが強く一歩を踏み込み、刀身ではなく聖剣の柄をマシュの盾に叩き付ける。初めからマシュの体勢を崩すために放たれた一撃は目論見通りにマシュを後退させ、セイバーはさらに追撃を仕掛けようと地を蹴る。

 セイバーが纏う魔力の霧が主の指令に応じて聖剣の刀身に収束し、巨大な闇の剣を形作る。セイバーは大剣と化した聖剣を大上段に振り上げると、渾身の力を以てマシュへと振り下ろした。それには高い防御力を誇るマシュも耐えきれなかったようで、大きく吹き飛ばされて岩壁に背中を強かに打ち付ける。

 衝撃で内臓が傷つき、マシュの口から血反吐が漏れる。

 

「マシュッ!?」

「嬢ちゃん!!」

 

 マシュが吹き飛ばされたことで反射的に振り返る立香とキャスター。刹那の間のその隙を、セイバーは見逃さなかった。

 

「次は貴様だ、キャスター」

 

 冷徹極まる声でそう宣告し、セイバーが聖剣を振るう。キャスターは咄嗟に杖を横向きに構えて防御するも、相殺しきれずに数歩後退る。筋力も耐久力も数値ではマシュを下回るというのに受け止めてみせたのは、さすがの大英雄と言ったところか。

 しかし、セイバーもまた英雄としての格は相当に高い大英雄だ。加えて、セイバーという近接戦闘を得手とするクラスでの召喚。真っ向からぶつかり有れば、どちらが有利かなどは言うまでもない。

 聖剣の柄から離れたセイバーの左手に魔力霧が収束する。そのまま左手を突き出すと、濃密な魔力で構成された闇が高圧で噴き出した。キャスターは直感的にその攻撃を察知して首を僅かに傾けて回避するが、セイバーの攻撃はそれでは終わらない。

 手からの攻撃に注意を向けていたキャスターがセイバーの足払いに気付かずに姿勢を崩された。キャスターが防御を崩されたその瞬間に、セイバーは身長差も相まって容易にキャスターの懐へと潜り込んで体当たりを仕掛ける。

 

「がっ……!」

 

 腹部への強い衝撃にキャスターが表情を歪める。セイバーはそのままキャスターが吹っ飛ぶことも許さず、ローブを掴んでそのまま背負い投げのような形で放り投げた。

 空中へと投げ出されたキャスター。しかし、彼もまた百戦錬磨の大英雄である。いかなキャスターという極めて戦闘向きでない(クラス)に割り当てられた状態だとしても、その戦闘経験が完全に消え去った訳ではない。

 キャスターは空中で体勢を立て直すと、着地と同時にセイバーに向き直る。セイバーはなおもキャスターへと追撃を仕掛けようと聖剣を構えるが、その直前に直感的に後ろを振り返った。

 果たして、そこにいたのはマシュであった。マシュはセイバーの注意がキャスターへと向いたタイミングで一か八かと盾を構えて突貫(シールドバッシュ)を仕掛けたのだ。しかし。

 

「……フン」

 

 つまらなそうにセイバーが鼻を鳴らす。そしてセイバーは突進してくるマシュに左手を突き出すと、片手の一本でマシュの突進を受け止めてしまった。いくらマシュが全力を出そうと、マシュの筋力値はC。対してセイバーはAである。突進を受け止めるのも不可能ではなかった。

 しかしさしものセイバーといえど盾の質量を利用した突進を受け止めるのは堪えたのか、戦闘が始まって以来見せることのなかった苦悶を表情に表した。だがそれも一瞬の間に消え去り、聖剣の一撃が盾を強かに打ち付ける。

 その一撃目をマシュは耐えたが、それでもセイバーの攻撃は終わらない。足音によって背後からキャスターが近づいてきていることに気付いたセイバーは、全開の魔力放出によって脚力を増幅し、マシュの盾を蹴って空中に飛び上がった。

 セイバーの全力を以て繰り出された蹴りをマシュは耐えきれず、再び岩壁に向かって吹き飛ばされる。だが、その身体が岩壁に叩きつけられるより先に割り込んでくる人影があった。立香である。

 しかし、当然立香はマシュを受け止めきることができずに共に背中から倒れ込む。

 

「先輩ッ!? どうして……!」

「オレのことはいいから! 後ろで何もできずにいるオレより、セイバーと戦ってるマシュの方がずっと痛いだろ……?」

「そんな……」

 

 立香の言葉は同意と同情を求めたものではない。心の底からそう信じて疑わないといった声音であった。しかし、立香の行為は高潔な自己犠牲の精神から来るものでも、戦っているマシュへの負い目から来るものでもない。

 立香はただ、自分にできることを成しただけなのだ。自己犠牲とは自分と他者の利益を比しても他人の利益を取る行為だが、立香のそれはそんな損得勘定を抜きにした反射的な行動であったのだ。

 虚勢を張って苦笑してみせた時、不意に立香があることに気付いた。背中から倒れ込んだためにマシュと密着していたその部分から、僅かな震えが伝わってくる。その震えの原因は、考えるまでもなかった。

 いくら英霊から霊基と宝具を託され、超常の力を得た半英霊(デミ・サーヴァント)であろうと、マシュはごく普通の少女なのだ。それが突然命を懸けた戦闘に放り込まれて、恐怖を抱かない筈がない。

 とどのつまり、マシュも立香と何ら違いはないのだ。ただ無力さを嘆いているか、力を得たかの違いしかない。それだけでしかない筈なのに、どうして自分はマシュを強いと考えていたのか、と立香は歯噛みする。

 何かしなければならない、などとどうして自分は思いつめていたのか。自分がするべきは何をしなければならないかではなく、自分に何ができるかと考えなければならなかったのだ。ただ後ろでサーヴァントに守られているのではなく、隣に並び立つに必要なのはそれだけだ。

 思えば、遥が英霊と共に戦うと言っていたのはそういうことだったのかも知れない。遥は英霊と共に戦うことで、隣に並び立っている。立香にはそこまではできないが、けれど怖がっている少女の手を握るくらいならできる。

 

「先輩……?」

「大丈夫……オレも一緒にいるから。……って、何も安心できないかもだけど」

 

 そう言って苦笑する立香を見て、無意識にマシュの顔が綻ぶ。恐らく、今後もマシュは戦闘への恐怖を払拭することはできまい。けれど、それでもこの人(マスター)となら乗り越えられるという確信めいたものがあった。

 しかし、ふたりが更なる信頼を確立している間にもキャスターはセイバーと戦っている。キャスターとなっても失われなかった槍術を杖で再現してセイバーの聖剣を受け取めつつ反撃に出ようとするも、セイバーはそれを許さない。

 スキルとしてセイバーが備えている直感スキルは、セイバーが(オルタ)化ことでランクダウンしている。だが、直感とは何もスキルに因るものだけではない。生前に培った武錬から来る第六感でセイバーはキャスターの攻撃を避け続ける。

 時折キャスターはルーン魔術での攻撃を入れてセイバーのペースを乱そうとするが、それらはセイバーの纏う対魔力の壁と魔力霧に阻まれてキャスターが狙った効果を齎すには至らない。

 対してセイバーは魔力を纏わせた聖剣を自在に操って着実にキャスターを追い詰める。遂にはさしものキャスターといえど自らの不利を悟り、一旦距離を取って立香の許へと戻った。

 僅かにキャスターが付けた傷も、セイバーが立香たちに向き直った時にはその悉くが消え去っていた。一瞬にして無傷に戻ったセイバーは、一度マシュを見てほう、と言う。

 

「目が変わったな。この僅かな時間で如何なる心変わりがあったのかは知らぬが……面白い」

 

 そう言って初めてセイバーが口元に笑みを見せると同時、セイバーが放射する魔力がそれまでの比ではないほどに膨れ上がった。尋常ではないほどの魔力放出量は、考えるまでもなくセイバーが何をしようとしているかを物語っている。

 掲げた聖剣がセイバーの魔力を喰らい、それら全てを闇色の極光へと変換する。その堕ちた極光は本来、星の危機に際して振るわれるべきものだ。すなわち、その極光は星の息吹にも等しい。

 なおも高まっていくセイバーの魔力。その周囲では全てがセイバーに平伏すかのように堕ちた極光の残滓が生まれ、それらを聖剣は束ね上げて暴虐の光を生み出す。

 

「卑王鉄槌。極光は反転する。光を呑め――!!!」

 

 口上を述べ、セイバーが聖剣を振り上げる。そして。

 

約束された(エクスカリバー)――勝利の剣(モルガン)ッ!!!」

 

 極光が、地を()いた。

 

 

 

「こいつは……厄介だな」

 

 眼前で暴れ狂うバーサーカーの攻撃を避けながら、憎々し気な声音で遥が呟いた。

 アーチャーがおびき寄せたバーサーカーと戦闘を開始してから数分。遥と沖田はそれぞれ何発かバーサーカーの攻撃を喰らいつつも、未だ存命であった。遥の理性も崩壊の瀬戸際に立たされてはいるが、まだ正常に作動している。

 このバーサーカーが尋常なサーヴァントであれば、既にふたりの連携の前に敗れて消滅していただろう。だが、このバーサーカーはそれ単体でも最強クラスの英霊であり、有する宝具もまた規格外のものであった。

 その真名()も〝十二の試練(ゴッド・ハンド)〟。11の代替生命(ストック)を持ち、殺されても残りの命がある限り蘇生するという宝具だ。それも一度自身を殺した攻撃への耐性が付くという機能まである。

 さらに一定ランクを越えていない攻撃は通用しないらしく、沖田の刀では傷ひとつ付けることができない。故に沖田は病弱発動を避けるために休憩を挟みながら囮に徹し、遥が攻撃に回っていた。いち早くバーサーカーの宝具特性に気付いた遥は神刀に込めた魔力を段階的に引き上げることでバーサーカーの防御を貫通する攻撃を叩き込んでいた。

 既に遥が削った命は2つ。それでもなお、バーサーカーは止まらない。

 

「あの赤い配管工と戦ってた奴らはこんな気分だったのかねぇ……おっと!」

 

 無駄口を叩く遥にバーサーカーが斧剣を振り下ろす。遥はそれを一瞬だけ受け止め、すぐに受け流してその場を離脱した。

 ここまでの戦闘で遥が気付いたのは何も、バーサーカーの宝具特性だけではない。全容は分からないまでも、少なくともバーサーカーの筋力値と耐久値は八岐大蛇を憑依させた遥とほぼ同等であった。

 だが、それでも優勢であるのはバーサーカーの方だ。驚くべきことに、このバーサーカーの武錬は狂化と泥の汚染を受けてもなお完全に消滅するものではないらしく、狂乱した動きの中でも的確な攻撃を繰り出してくる。

 遥の戦闘技術もバーサーカーにそう劣るものではないが、何分身長差や質量差がある。バーサーカーはそれを利用し、遥や沖田に強烈な一撃を放っていた。

 常人には視認すらも不可能な速度で繰り出される斧剣をいなしながら、遥は苦悶の表情を浮かべる。

 

「クソッ……マズいな、そろそろ意識が……」

 

 視界にノイズが奔り、時折無意識のうちに口から獣のような唸り声が漏れる。踏ん張って耐えてはいるが、少しでも気を抜けばその瞬間に自我が吹き飛んで完全な獣になってしまいそうだ。そうなればもう打つ手はない。獣は英雄に斃されるが定め。魔力が尽きるより先に殺されて終わるだろう。

 その気になれば既に組み立ててある解呪術式を起動させて戻ることもできる。だが、まだその時ではない。ここで解除してただの魔術師に戻ってしまっても終わる。ただ、それでも勝利への希望が無くなった訳ではない。

 遥が振るう神刀。この神造兵装の真名解放を以てすれば、この英霊の命を削り切るなど造作もあるまい。問題は、そんな隙をバーサーカーが与えてくれるかということだ。

 そう思索に思考を割いていたためか、気配察知が疎かになる。バーサーカーはそれまでと斧剣の軌道を変え、真横から遥へと斧剣を振るい、遥は直前にまでそれに気づかなかった。

 

「しまっ……」

「マスターッ!!」

 

 バーサーカーの斧剣が遥を捉える直前、沖田がその刃と遥の間に割り込んだ。バーサーカーの戦斧を真っ向から受けきろうとするも、しかし筋力ステータスが大きく劣るために受けきれずに遥を巻き込んで大きく吹っ飛ぶ。

 しかし、倒れてしまってはそのままバーサーカーに潰されると判断した遥は吹き飛んできた沖田を抱き留めると、邪竜を宿したことで得た魔力放出能力を利用して足を地面に固定して十数メートルを滑走する。

 止まってから一瞬だけ、遥は腕の内に納めた沖田の柔らかさを意識してしまいそうになるも、戦闘に最適化され、獣に侵された意識がそれをすることを許さない。噛み締めた歯の間から苦悶と獣の声が漏れる。

 最早、悩んでいる暇はない。ここで出し惜しみをしてしまっては、遥の自我は吹き飛んで本物の獣と化してしまうだろう。それならば、一時的に獣化するより酷い反動があるとしてもバーサーカーを一刀の許に吹き飛ばした方が良い。

 だが、タイミングをどう計ったものか。距離を離そうとしても、この境内の敷地面積では一瞬で距離を詰められて終わりだ。一切の呵責なく、バーサーカーを斃すことだけを考えれば――『沖田に囮を任せ、彼女ごと吹き飛ばす』か。

 降って湧いたその案を、遥は即座に破棄する。いくら再召喚可能といえど、沖田を巻き込んでの真名解放など論外だ。そんなことをするくらいなら、多少無理をしてでも押し切ってしまう方が良い。

 

「■■■■■ッ!!!」

 

 バーサーカーが咆哮し、大地と大気を震わせる。狂戦士の闘争本能の高まりに呼応して全身に奔った赤黒い文様が鈍い光を放ち、筋肉が蠢いた。斧剣を振り上げ、遥と沖田を叩き潰そうと再び走る。

 ふたりは左右に分かれて走り出し、バーサーカーが振り下ろした斧剣を回避する。二方向へと駆けだしたふたりのうち、バーサーカーが狙いを定めたのは遥であった。これまでバーサーカーの攻撃をいなし続けていたことが仇になったのか、ヘイトが集まっていたらしい。

 筋力値・耐久値はほぼ同等の両者だが、敏捷地はバーサーカーに分があるらしく、瞬時に追いついてきたバーサーカーが斧剣を振るう。それを長刀を水平に構えて両手で構えることで受け止めようとするが、間髪入れずに狂戦士が蹴りを放ったことでそれは叶わなかった。

 脇腹に蹴りが直撃し、遥が吹き飛んで境内の残骸に叩きつけられる。さらにそこまで追いすがってきたバーサーカーはまたも遥へ斧剣で攻撃しようとし、遥はそれを両手で受け止めた。

 

「ヴゥゥゥゥ……ガアァァァァッ!!!」

 

 遥が獣の咆哮をあげ、抑制(リミット)の外れた膂力を以て斧剣を押し返した。それにはさしものバーサーカーも相殺しきれなかったのか、数歩たたらを踏んで後退った。

 その背後に現れる沖田。既に平突きを放つ体勢に入っていた沖田は縮地によってバーサーカーが気付くより先に愛刀を突き出すが、しかしその切っ先はバーサーカーの鋼の肉体によって完璧に防がれてしまう。

 バーサーカーの宝具は一定ランク以下の攻撃を完全に無効化させるだけでなく、一度自分を殺した攻撃への耐性が付く。一度バーサーカーは遥の突きで殺されているために、沖田の突きが効かなくなっているらしい。

 平時ならば遥はすぐそれに気付いたのだろうが、今回に限ってはそれに気付きもしなかった。バーサーカーがたたらを踏んだ隙を狙って跳びあがり、空いた左手で胸板を殴りつける。さらに長刀を上空へと放り投げると、両手で何度も拳を放った。

 遥に押され、バーサーカーがよろめく。そのうちに重力に従って落下してきた長刀を掴むと、バーサーカーを脳天から股下にかけて切り裂いた。傷口から鮮血が噴き出し、バーサーカーの眼から光が消える。

 これで、3度目。

 

――ああ、この感覚だ。

 

 鮮血を満身に浴びながら、遥が口元に邪悪な笑みを浮かべる。決して気持ちの良い感覚ではない、むしろ不快極まりない感覚だというのに、可笑しくてたまらない。気づけば遥は、腹筋が痛むほどに激しい哄笑をあげていた。

 視界が真紅に染まっている。脳内麻薬が過剰に分泌され、脳神経が異様な興奮を示す。全身の傷口の痛みは嘘のように退き、代わりに全身を多幸感が満たす。暴走状態に陥ってしまった、と自覚しているのにそれを止めようとしない。

 だが、これはまだ良い方だ。前回暴走してしまった時は暴走したという自覚がないままに暴走していた。今回は暴走した自覚があるのだから、もしかすればこのまま――と哄笑をあげたままでいると、不意に意識が戻った。

 今までは暴走すればそのままだった。それが今回は意識が戻ったのは、慣れによるものだろう。だがこれは謂わば寄せては返す波のようなもの。しばらくすれば再び暴走状態に入り、次こそは戻れなくなる。

 遥が正気を取り戻したその瞬間、バーサーカーも蘇生を完了させた。生き返ったバーサーカーはすぐに取り落とした斧剣を掴むと、遥に向けて振るう。遥はその直撃を喰らい、数十mほど吹っ飛ばされる。

 

「マスター、大丈夫ですか!?」

「ぐぅっ……あ、ああ。問題ない。……!」

 

 駆け寄ってきた沖田に掴まれた手を見て、遥が何かに気付いたような声を漏らす。その視線の先にあるのは、鱗に覆われた手でもはっきりと見て取れる刀を模した赤い文様。カルデアの炉から供給される膨大な魔力の塊。令呪だ。

 戦闘に白熱していて忘れていたが、令呪とはサーヴァントに対する絶対命令権だ。対魔力が高いサーヴァントには耐えられてしまうらしいが、もしもマスターとサーヴァントの合意の下に発動されれば、魔法にすら匹敵する不条理すら可能にしてしまうらしい。

 例えばそれは、タイムラグなしの空間転移。遥はそれを元に一瞬で戦術を組み立てると、沖田に耳打ちをした。それを聞いた沖田は驚いた顔をするが、しかしそれが最も勝率の高い方法だと判断したのか、異論は唱えなかった。

 

「やってくれるか?」

「ええ。私は貴方のサーヴァントですから」

 

 頼もしい笑みでそう頷き、バーサーカーの許へと突進していく沖田。遥は準備を完了させていた解呪の術式を起動させ、宝具の呪縛を解いた。姿が人間のそれに戻ると同時に気絶してしまいそうなほどの脱力感に襲われるが、なんとか踏ん張ってそれを耐える。

 魔力残量を鑑みれば神刀の真名解放は3度ほど可能だが、それでは遥自身がどうなってしまうか分からない。故に一撃で決する。遥はそう決意して一度大きく息を吐くと、黄金に輝く神刀を担ぐようにして構えた。

 視線の先では、バーサーカーの注意を引きつけた沖田が紙一重の距離で攻撃を避け続けている。魔力の唸りをあげる神刀が遥の魔力と大気中のマナを吸い上げ、その刀身から更なる黄金を生み出す。

 

「令呪、装填。第一拘束、完全解除」

 

 機械的な声音でそう唱えるや、右手に刻まれた令呪の一画が淡い輝きを帯びた。だが、その輝きも神刀の偉容には並びようもない。

 第一の拘束を完全に取り払われた神刀。その刀身から迸るのはありとあらゆる不浄を払う極光の刃。星が造り上げた神刀は今、その真価の一端を解放しようとしていた。

 此れこそは、星に残された最後の希望。聖剣。聖槍。ありとあらゆる聖なるものが破れた絶望の中で、高らかに希望を謳うもの。人はおろか、神ですらも到達し得ぬ領域に存在する究極。

 カルデアの方でもそれを観測できたのか、通信装置からはひっきりなしに着信音がかかってくるが、それは無視した。今はそんなことに構っている暇はない。

 天を裂くほどに立ち上る極光。それを脅威と感じたバーサーカーが沖田はから遥に標的を変えて迫ってくるが、もう遅い。声には出さず令呪を起動させ、射線上から沖田を外す。

 

「其は星の聖剣。人を救い、(せかい)を救う、救済の剣―――!!!」

 

 口上を謳い、遥は神刀を掲げる。夜桜に伝わる、日本神話に名高い神造兵装――〝天叢雲剣〟を。

 遥の魔術回路から叢雲が魔力を吸い上げ、総身の魔術回路が蠕動する激痛が遥を襲う。けれど遥はそれに顔を顰めることもせず、むしろ我が身を喰らえとばかりに限界を越えて魔力を送り、極光はさらにその輝きを強める。

 柄に巻かれた邪竜の皮をしっかと握りしめる。そして、今、青年は手に執る奇蹟の真名を叫ぶ――

 

 

「――諸人が求めし救世の聖剣(アマノムラクモノツルギ)!!!」

 

 

 光が迸る。担い手の声に応えて解き放たれた極光の奔流は大地を気化させるほどの熱量を伴って咆哮をあげ、そして、黒い巌の如き英傑は、断末魔の叫びをあげることすら許されることもなく極光の顎に呑み込まれた―――。




本当はまだ真名を出す気はなかったのですが、別な方では9話で出してたので出しました。一応、宝具の説明を。

諸人が求めし救世の剣(アマノムラクモノツルギ)

分類:対城宝具
ランク:EX

 神造兵装〝天叢雲剣〟の第一拘束を外した状態。極光を放つ原理は約束された勝利の剣(エクスカリバー)最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)と似ているが、十三拘束未解除では威力はこちらの方が上。拘束は3つ存在し、解放する度種別と和読が変わる。
 草薙剣、および都牟刈村正、神剣・草那芸乃太刀とは別物。


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第10話 汝、王の寵愛を失ったが故に

 堕ちた聖剣より放たれた闇の奔流。全てを呑み込む星の息吹。凄まじい熱量を内包した星の咆哮を、マシュは真っ向から受け止めていた。いや、受け止めざるを得なかった。

 本来は星の外敵に向けて振るわれるべきその力の一端を解放した聖剣の一撃は、呑み込んだものを須らく融解せしめる。それは人間であろうがサーヴァントであろうが変わらない。この闇の前では万物に区別など存在しない。

 ここでマシュが諦めてしまえば、極光に呑まれてしまうのはマシュだけではない。その後ろにいる立香とキャスターまでも呑み込まれてしまう。それは断じて許容できない。

 しかし――――盾を支える手が震えている。大地を踏みしめる足もマシュの恐怖を表すかのように小刻みに震えていた。立香によって払拭された筈の恐怖は、しかしこの極光の前で再び顔を出していた。

 やはり、未熟な半英雄(デミ・サーヴァント)では駄目なのか。こんな臆病な少女は、この盾の担い手として相応しくなかったのか――とマシュの胸中に諦観が生まれかけた時、不意に盾を支える手に温もりを感じた。

 見れば、マシュの手にそれよりも一回り大きな手が重ねられていた。マシュの大切な、最も守りたい先輩(マスター)の手。

 何故、と問うマシュの視線を受け止めて、立香は前を見据えて言う。

 

「オレは弱いけど……でも、一緒に支えることはできる」

 

 立香は弱い。肉体的にはデミ・サーヴァントであるマシュは勿論、同じただの人間である遥にも劣るだろう。かと言って精神的に屈強であるのかと問われれば、それも否だ。立香は死線を潜ってきた魔術師ではない。これまで普通極まる生活を送ってきただけの青年だ。

 けれど、それでも立香は諦めていなかった。強いから弱いからと理由を付けて諦めるのではなく、最後まで足掻く。どれだけ生き汚くとも全てが終わる前に勝手な理由を付けて諦めるよりは何倍も良い、と。

 それはある種、藤丸立香という人間の性質めいたものであった。純真と言い換えてもいい。最も人間らしい『生きたい』という願いを己が力で掴み取ろうと足掻いている。

 立香の思いが魔力と共に流れ込んでくるような感覚。その中で、マシュは立香と重ねた手と逆の手を誰かに支えられた感覚を覚えた。そちらにいたのは、見覚えがない無い筈の、だが既視感を覚える青年。

 どこか立香と似た雰囲気の、白髪で片目を隠した騎士。纏う鎧はどこかマシュと似ている。それは消え去った筈の、マシュに霊基を託した英雄の影法師であった。

 

『大丈夫。彼を信じて』

 

 マシュを労わるような、そして鼓舞するかのような強い意思の籠った言葉。それだけ言って騎士の影法師は最初からそこにいなかったかのように消え去った。事実、そこに彼の英雄はいなかったのだろう。それはマシュの内側から湧いて出た幻影であった。

 けれど、それは妄想ではない。影法師が口にした言葉はマシュの内側から湧いたものではなく、その騎士の言葉であった。マシュに託した霊基に宿った騎士の残滓がマシュを鼓舞するために一時のみの具現化を成したのだ。

 一度瞑目し、歯を噛み締めて目を見開く。恐怖が消えた訳ではない。きっと、これからもこの感情はマシュの中から消えることはないだろう。それは人間の根底にある原始的な感情だ。それを払拭するなど、端から不可能だったのだ。

 けれど。そう。何を疑うことがあったのだろうか。恐怖を払拭することはできなくとも、この人となら乗り越えていけると確信したばかりではないか。ならどうして迷うことがあろうか。

 

「……はい! どうか指示を、先輩(マスター)!!!」

 

 決意を秘めたマシュの言葉が放たれたと同時、闇の奔流を受け止める盾が光を帯びる。

 

「ああ! あの攻撃を防ごう、マシュ!!!」

 

 宣誓めいた立香の言葉。それと共に、立香の手に刻まれた令呪の一画が弾けた。マスターに対して与えられる特権である令呪の行使。けれど、立香はそれを絶対命令権として行使したのではなかった。

 弾けた令呪に秘められた魔力が解放され、それら全てがマシュへと流れ込む。流れ込んだ魔力はマシュの身体に力を与えると同時、その心へと作用した。魔力の経路(パス)を通して立香の心と直結したかのような感覚に、マシュの決心が更に強まる。

 そう。諦める訳にはいかない。マスターがまだ諦めていないというのに、サーヴァントが勝手に諦めることなどできない。できるものか――!

 

「う……あぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 未だ震えそうな己を鼓舞するマシュの咆哮。それに応え、盾が一際強い魔力と閃光を放った。一見無秩序に放たれたとも見えるそれはしかし、次の瞬間にはその魔力はまるで城塞のような偉容を成す。

 それはその宝具の本来の姿ではない。それでも、それはマシュの覚悟が覚醒させたその盾の力の一端であった。人理を守るための礎であり、立香とマシュの思いが形となって現れた護り。それは押し寄せる波濤の如き闇を祓い、それを全てセイバーへと弾き返した。

 自らが放った極光に呑まれたセイバー。盾に弾かれたことで秩序を失い、散逸した極光の残滓ではあるがそれはセイバーの護りを貫通するに十分だったようでセイバーの漆黒の鎧とバイザーが砕け、金色の双眸が露わとなっていた。鎧に覆われていなかった箇所のドレスは赤黒く染まり、かなりのダメージであったことを物語っている。

 だが、その傷も聖杯からのバックアップを受けているのか見る間に回復していく。この機を逃せば次はないと直感的に悟り、立香は後方で立香の指示を待っていた魔術師へと指令を飛ばした。

 

「今だ、キャスタァァァ!!!」

「応!!! 我が師スカサハより授かりしルーン。その真髄を味わいなァ!!! ――大神刻印(オホド・デウグ・オーディン)!!!」

 

 キャスター――ケルト神話はアルスター物語群の大英雄〝クー・フーリン〟が真名を解き放ち、18の原初のルーンが一斉に起動する。Aランクの対城宝具に分類される苛烈極まりない魔力の激流がセイバーに炸裂する。

 いかなセイバーの対魔力といえどそれを防ぐことはできず、さらに避けることもできずにセイバーは魔力の奔流の直撃を受ける。魔力の爆発によって巻き上げられた土煙が膨れ上がり、立香たちの視界を覆った。

 発生した土煙は一瞬のうちに端までを駆け抜け、すぐに霧散する。ようやく訪れた静寂の中、立香の視線の先にいたのは、肩で息をしながら聖剣を支えにして立つセイバーであった。

 今の攻撃を叩き込んでも駄目だったのか、と驚愕を抱く立香。しかし一拍の間を置いて、セイバーの姿が端から消え始めた。何かを悟ったようにセイバーが口の端に笑みを覗かせる。

 

「私が敗れる……いや、今の私は、その盾の前に敗れるのは道理だったな……」

「? どういう……」

 

 まるでマシュに宿った英霊の真名を知っているかのような口ぶりであった。それに立香が疑問の呟きを漏らすも、セイバーはそれに反応することなく強い意志の籠った眼差しで立香たちを見据える。

 

「だが、(ゆめ)忘れるな、漂流者よ。聖杯をめぐる戦い……グランドオーダーは、まだ始まったばかりなのだと」

「オイ、待て、一体そりゃどういう……って、おぉ!?」

 

 セイバーの言葉に何か聞き捨てならないものがあったのか問い質そうとするキャスターはしかし、それを言い切る前にセイバーと同じようにして消滅を始めた。聖杯戦争が終了したことにより、強制的に消滅が始まったのだ。

 それを認識するや、立香の胸中に再び疑念が生まれ出でる。記録上では、2004年の聖杯戦争はセイバーの勝利で幕を閉じた。だが、この特異点においては立香たちの活躍により、キャスターの勝利で幕を閉じた。

 果たして、この齟齬の正体は何なのか。それに答えを出すより早く、キャスターが立香に向けて言う。

 

「口惜しいが、これで終わりだ、坊主。短い間だったがそれなりに楽しかったぜ。……それと、あの坊主にも言っときな! 次に契約する時はランサーで()んでくれってな!」

「キャスター……ありがとう」

 

 この特異点でもしもキャスターと出会わなければ、立香とマシュはライダーと交戦した時点で殺されてしまっていただろう。それがここまで生き残り、特異点を修正できたのはキャスターのお蔭だ。

 立香の感謝の言葉にキャスターは一瞬だけ驚いたような表情を見せ、次いで笑顔を浮かべたかと思うと次の瞬間にはキャスターとセイバーの身体は魔力の残滓となって消滅した。

 ふたりのサーヴァントが消滅した大空洞に、再び静寂が訪れる。立香とマシュは互いに顔を見合わせて笑い合うと、大空洞の端の方で蹲っているオルガマリーの許へと足を向けた。

 戦闘の途中までは泣きじゃくっていたオルガマリーであるが、彼女とて魔術師である。何か気になることがあったのか、顎に手を遣って何事か呟いている。

 

「戦闘、終了しました。所長」

「え? あ、そうよね。……ご苦労様、マシュ、藤丸」

 

 そう言って笑みを覗かせるオルガマリー。それに意外そうな視線を向けたのは立香だけではなくマシュも同じであった。初めは立香を数合わせの一般枠と罵って憚りなかったオルガマリーが、まさか立香を認めるとは思わなかったのだ。

 オルガマリーはそれにすぐには気づかなかったようだが、しばらくして気付いたのか恥ずかしそうに頬を赤らめて咳払いをする。いくら一般的な魔術師としての感性を旨としていても、オルガマリーは一般人の功績を認めないことはしない。

 だがそれを立香とマシュの前で言うのも多少恥ずかしいのか、それを言うことはせずに強引に話題を変えた。

 

「それより、マシュの宝具……名前もなくては使いづらいでしょ? ……〝人理の礎(ロード・カルデアス)〟はどうかしら?」

「ロード・カルデアス……はい! ありがとうございます、所長!」

 

 自らが発現させた宝具に名を付けられたことが嬉しいのか、華のような笑顔を咲かせるマシュ。立香とオルガマリーはその様子を見てようやく緊張が解け、安心感が滲む微笑を浮かべた。

 あとはセイバーが所持していた聖杯を回収し、遥たちと合流してカルデアに戻るだけだ。セイバーと戦っている間に合流してくることはなかったが、最強クラスの魔術師である遥と日本でも有数の剣豪である沖田が負けることはあるまい。きっとすぐに合流してくれると彼らは確信していた。

 しかし――事態はまだ終わっていなかった。立香たちの見えないところで消滅したセイバーから落ちた結晶体、即ち聖杯が見えざる糸に引かれたかのように飛翔し、大聖杯の頂上にいた男の手に収まる。

 そして、洞窟の中に響く拍手の音。一体誰が、と立香たちが振り返った先にいた男。そこにいたのは、高い背丈にモスグリーンのスーツを纏い、同じ色のシルクハットを被った既知の魔術師であった。

 

「――いやはや、まさか君達がここまでやるとはね。計画の想定外にして、私の寛容さの許容外だ」

 

 そう言って、カルデアの技師であるレフ・ライノールは陰惨にすら見える笑みを浮かべた。

 

 

 

 刹那の間に、遥が放った極光はその場に鮮烈極まる爪痕を残して消え去った。高熱に晒された大地は至るところで石や土が融解し、硝子化しているところまである。そこには遥たちを襲った大英雄の姿は無く、静寂は遥たちの勝利を告げていた。

 自分たちの作戦が成功したことに沖田は喜びを露わにする。だが、その喜びも数秒の後に沖田の胸中から残らず消し飛んでしまった。勝利の美酒ともいえるその感慨を共有すべき彼女のマスターである遥が、その場で頭を抱えたまま蹲っていたのである。

 

「ハルさん!? どうしたんですか!?」

 

 慌てた沖田が駆け寄って呼びかけるも、遥からの返事はなく、ただ蹲って苦悶の呻きを漏らすだけだ。その眼は見開かれていながら焦点が合っておらず、時折真紅に明滅している。

 考えるまでもなく、沖田にはそれが遥が所持する宝具の真名解放の反動であると分かった。いくら遥が混血の存在だとはいえ、遥はあくまで人間。星が人ではなく神霊のために造り上げた神刀の真名解放に何の代償もない筈はない。

 それを認識し、沖田が歯噛みする。もっと自分が強ければ。もっと自分が強力な英霊であれば。自らを必要としてくれたマスターに報いることができたのではないか、と。不甲斐なさが沖田の胸中を支配する。

 だが、同時に沖田はそれでも遥が自分を棄てるようなことはないと確信していた。きっとこの青年は他の魔術師のようにサーヴァントを使い魔と同列として見ることはない。英霊であれ、反英霊であれ、ただひとりの存在として接するに違いない。

 

「……」

 

 蹲る遥を抱き寄せる。沖田には遥の苦しみを共有することも、和らげてやることもできない。故にこれはただの自己満足だと、沖田自身も分かっていた。それでも遥のサーヴァントとして、それくらいは許されるだろう。

 一方で、沖田に抱き寄せられてもなお遥の苦悶の表情は消えることはなく、頭蓋を砕き割るような激痛も消えることはなかった。その眼に映っているのは沖田の着物ではない。宝玉のような紅色に明滅する遥の眼が映しているのは、現在の光景ではなかった。

 或いはそれは、八つの首と八つの尾を持つ巨大な邪竜を狩った時の記憶。或いは、伴侶を得、邸宅を建てた際に後に和歌と呼ばれることになる歌を詠んだ時の記憶。或いは、冥府にまで連れてきた自分の娘が遠い子孫の人間と駆け落ちする記憶。

 どれも遥の記憶ではなかった。世界中を回った遥でも八つ首の邪竜などとは戦ったこともなければ、どこかで伴侶を得たことも、娘を得たこともない。故に、それは別人の、けれど遥にとっては彼自身にすら等しい者の記憶であった。

 まるで魂そのものにそれらが焼きつけられていくような激烈な不快感。人間よりも高位の存在と接続するというのは本来であれば脳障害などが起きても不思議ではないのだが、それが起きないのはひとえに遥の起源『不朽』の影響であった。この起源により、遥には概念的な劣化も身体的な劣化も起こり得ない。

 しばらくすると、ようやく魂に直接入ってくる記憶の流れが停止した。それにともない頭痛も止み、眼の明滅も停止して視界が戻ってくる。そうして遥の視界には、沖田の桃色の着物がいっぱいに映し出された。

 

「えーと……沖田? 何やってんの?」

「ハルさん! 意識が戻ったんですね! よかった……」

 

 安心したのかより腕の力を強める沖田。その腕の中で遥はもぞもぞと動くと、なんとか脱出して乱れたロングコートの襟を直した。その頬はこれ以上ないほどに赤らんでいて、明らかに恥ずかしがっていることを伺わせる。

 沖田としては純粋に遥を心配してそういう行動をとったのだろうが、何分遥は女性慣れをしていなかった。学生時代も女性との接点はほとんどなく、まともに会話できるかどうかすら怪しかったほどである。

 女性に触れられただけで恥ずかしがるなど、まるで小学生のような初心さ度合いだ。自らの一番の弱点を恥じる気持ちも、だが次の瞬間には遥の中から消え去っていた。沖田もまた遥と同じものを感じ取ったのか、大空洞への入口の方を見ている。

 それは人ならざる化生の気配であった。死徒や悪魔と類似していながら、それらよりも圧倒的に強大な化生の気配。

 

「……沖田」

「はい!」

 

 半ばアイコンタクトだけで意思疎通を行い、遥と沖田が駆け出す。遥は沖田と並走することはできないまでも、固有時制御の倍率を限界にまで上昇させることでその後ろを追随する。

 周囲の光景が凄まじい速度で流れていき、大空洞の中心部に近づくのに比例するようにして瘴気めいた魔力と異様な気配が強まっていく。遥の血に宿る人外の血が騒ぎ、早く行け、と遥に訴えかける。

 気づけば遥は、並走は望めないと思っていた沖田と同じ速度で走っていた。固有時制御を発動しているとはいえ、敏捷値がA+であるサーヴァントとの並走など人間としては異常な速さだ。

 だがそれを気にする間もなく、大空洞の先から叫び声が響いてくる。それはふたりが気付いた時には、既に完全に聞き取れるほどにまでなっていた。

 

「あ……あ……いや……! 誰か、誰か助けて! こんなところで……まだ、死にたくない!」

 

「所長!?」

 

 大空洞の奥から響いてきたのは、助けを請うオルガマリーの悲鳴であった。一体何が起きてそうなっているかなど遥たちには与り知れない。しかし、そこでオルガマリーが死の淵に立たされていることだけは事実であった。

 死にたくない。心の奥底から出てきたその思いが、遥の記憶を刺激する。これまで遥は何人、そういう人を見てきたか。何人、そういう人を救えなかったか。何人、そういう人を殺してしまったか。

 固有時制御の倍率をさらに高める。人間の身体の限界を越えて酷使される全身が悲鳴をあげ、全身の骨に罅が入っていく激痛が遥を襲うが、遥はそれを治癒魔術を平行して行使することで治していく。

 オルガマリーの悲鳴はまだ続いている。まだ誰にも褒められていない。皆自分を嫌っていた、と。生まれてからただの一度も、誰にも認められてこなかった、と。

 並走する沖田と遥が目くばせする。それだけで沖田は遥の指示を悟ったようで、無言で頷いた。大空洞の最奥に突入すると同時、沖田が腕を伸ばして手を組み合わせると、遥はそれを足場として飛び上がる。

 限界まで強化を付与したうえに沖田に半ば持ち上げられた遥の身体が空中を滑空する。その中で遥が見たのは、最早オルガマリーに届かない位置にいる立香とマシュ、大空洞直上に繋げられたカルデア管制室と紅く染まったカルデアス。そして、そこに送り込まれそうなオルガマリー。邪悪な笑みを浮かべるレフ。

 カルデアスへと引き込まれていくオルガマリーに向けて、遥が突っ込んでいく。速度は十分。オルガマリーもまた腕を伸ばし、遥の手を掴もうとする。しかし。

 

「やらせると思ったのか?」

 

 冷酷な声でレフが宣言するや、空中を跳んでいた遥の身体が物理法則を無視して急停止し、地面に叩きつけられた。強化を掛けていたために骨折することはなかったが、強い衝撃に遥が苦悶の声を漏らした。

 なおも遥は抵抗しようとするも、見えざる手に押さえつけられたかのように地面に張り付いたまま動けない。それはレフが回収した聖杯を用いて遥を押さえつけているからであった。オルガマリーが死ぬまで、遥は動けない。

 それでもなお、遥は諦めずに手を伸ばす。だが伸ばされた手は虚しく、空を切り――オルガマリーは絶望と慟哭の悲鳴をあげたまま、紅く染まった地獄の具現(カルデアス)へと呑み込まれた。

 

「あぁ……ああぁ……ああぁぁぁッ!!!」

 

 助けられなかった。救えなかった。その思いが遥の胸中を支配し、遥は獣の咆哮にも似た叫び声をあげた。遥の脳裏をよぎるのは、これまでに遥の目の前で、遥の力が及ばずに死んでいった人々の姿。

 「またなのか」とその人々が遥を指して笑う。「また救えなかったのか」とその人々が遥に怨嗟の声をぶつける。いくら遥の力ではどうにもできない、不可抗力の領域にあることといえど、助けられなかったのならそれは遥が殺してしまったも同義だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その手を掴めればなんとかできたかも知れないのに。その可能性すらも模索することも許されないまま、オルガマリーは絶望の中で死んでいった。

 大聖杯の頂上で事の行く末を見届けたレフはしかし、自らが行った所業に何の関心もないかのように鼻を鳴らして口を開く。

 

「さて、残骸の処理も終わったことだ、改めて名乗らせてもらおう。私はレフ・ライノール・フラウロス。貴様ら人類を処理するために遣わされた、2015年担当者だ」

「人類の、処理……?」

「そう。未来が観測できなくなった? ああ、そうだろう。そうだろうとも! 既に人類史は焼却された! 結末は確定したのだよ、カルデアの諸君!」

 

 人類史全ての焼却。いわば〝人理焼却〟とも言うべきことが起きたのだと言って、レフは笑う。人類のその積み上げてきたものごと悉くを焼却するなど、魔術師の遥をして途方もないと言わざるを得なかった。

 だが、事実としてそれは起きてしまっている。100年先の地球の姿を映し出すカルデアスは紅く染まり、その時代に人類が存続していないことを遥たちに訴えかけている。

 呆然とする遥たち。その中で、立香の通信機を通してレフの演説を聞いていたロマニが確信した。外の様子を見に行かせた職員が戻ってきていないのは、その焼却とやらに巻き込まれたからなのだと。

 人類史全てを焼却したレフの主であるが、カルデアはカルデアスの特殊な磁場によってその焼却を免れたらしい。しかしそれも2016年を過ぎるまでの間だけだとレフは言う。

 

「最早誰にもこの結末は変えられない。夜桜遥! 君が何故か私が人間ではないと本能的に察知していたことも、今は水に流そう! なぜなら今日の私は気分がいい!

 貴様らは進化の果てに衰退するのでも、異種族との交戦の末に滅びるのでもない! 自らの無意味さ、無能さ故に! 我らの王の寵愛を失ったが故に! 過去も、現在も、未来も! 悉くがゴミのように燃え尽きるのさァ!!!」

 

 興奮、可笑しさここに極まれりといった様子でレフが哄笑を迸らせる。遥はレフを憎悪を込めた眼で睨みながら、しかし攻撃には出なかった。今仕掛けたところで、聖杯を持っていると思しきレフには届くまい。

 そのうちに、大空洞が強い揺れに襲われた。この場限定で起きている地震ではない。聖杯を保有してこの時代を維持していたセイバーが消え去ったことで特異点の崩壊が始まったのだ。

 空間そのものが崩れて大空洞が崩落していく中、レフの背後に空間が歪められた孔が開いた。さらにレフは手に握っていたものを遥に向けて放り投げると、なおも哄笑をあげながら言う。

 

「それは私からの餞別だとでも思え。もう私たちにはいらないものだからね。

 では、さらばだ、哀れな人類最後の生き残り諸君! 生きたいのならばせいぜい足掻くがいいさ。もっとも、結末は変わらないがなァ!」

 

 自らが開けた孔にレフが消えていく。それでもなお、その哄笑は遥の耳に張り付いて離れなかった。



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第11話 剣の誓い

「んん……ああ、もう朝か」

 

 人を強引に叩き起こすアラームの助けを借りることなく、遥が自然に目を覚ます。カルデアにきてからついて癖でほぼ無意識のうちに枕元にあるスイッチを押すと、天井の照明が起動した。

 遥にあてがわれたカルデア職員居住区の一室。ひどく無機質な白い壁に覆われたその空間だが、遥はそこを思うままに模様替えしていた。他の部屋にはほとんど家具はないが、遥の部屋は亡きオルガマリーに注文を付けて小さな厨房と天井まで届く本棚を備えていた。

 さらに本来は着替えや礼装を仕舞っておくべきクローゼットも無理を通して他の部屋よりも大きくしてもらい、遥はそこに銃器や弾薬の山を収納している。メインで持ち歩いているデザートイーグルやS&WM500以外にも、同じように対神秘・霊体加工を施された狙撃銃や対物ライフルが数挺仕舞ってあった。

 時刻は午前5時。世界を回っているうち、遥は目覚ましなしでも決まってこの時間に起きるように身体が覚えてしまっていた。周囲の全てが特異点化せずとも太陽の光など差さないカルデアだが、遥の起床時間はそれに寄らない。体内時計は恐ろしいほど正確に動作していた。

 昨日は遥たちが特異点Fから帰還し、所長代理となったロマニによる〝人理守護指定グランド・オーダー〟の発令の後はずっとマスターである立香と遥、さらにデミ・サーヴァント化したマシュのメディカルチェックを行っていた。その所為で睡眠時間が日付を跨ごうとしていたのだが、それ相応の成果はあった。

 マシュの身体を通して立香と直接契約をした名も知らぬ英霊だが、どうやら彼が契約を交わしたのは立香だけではないらしかった。マスターとサーヴァントと言うにはあまりにも薄いものであるが、遥もまた霊的な因果線によりマシュと繋がっていた。いざとなれば契約を遥に切り替えることも可能だろう。遥自身がそれを呑めばだが。

 

「さて、今日の予定は何だっけ……」

 

 ベッドから出て礼装を兼ねた私服へと着替えながら、昨日のうちに決めておいた予定を反芻する。次にレイシフトすべき特異点の座標はまだ特定中だがもうじき特定されるだろう。加えて遥はともかく立香の訓練の時間などもあって、あまり余裕はない。

 立香が行うべきは魔術の訓練だけではない。特異点において戦闘に巻き込まれた場合、単身で戦うための戦闘訓練も必要だ。さらに魔術の知識も付ける必要がある。この状況で神秘の秘匿など、言っていられるものではない。必要ともなれば、遥は自らの伝家の秘術も立香に仕込む気でいた。

 カルデアスタッフの何人かは本業を魔術師とする人もいるのだろうが、スタッフが20人にも満たないこの状況下で立香に教授するような余裕などあるまい。最近話題のブラック企業も真っ青な労働体制だ。適材適所などという言葉はカルデアの辞書には存在しない。

 さらに、今日の昼前には新たなサーヴァントを召喚する予定でいた。冬木の特異点ではふたりのマスターがそれぞれ1騎ずつと現地のサーヴァント1騎の計3騎で攻略できたが、今後の特異点が同じように簡単にいくとは限らない。戦力の増強は最優先事項のひとつだ。

 予定を反駁しつつ着替えを済ませる。そうして踵を返した時、遥は不意に眩暈を感じてよろめいた。

 

「――ッ」

 

 一瞬だけ視界を奪ったのは、まさに灼熱地獄とでも言うべきものだった。大地は罅割れ、その罅からはマグマが漏れ出して無数の流れを造り出している。燃えるものもないのに至るところが燃え続ける様は、生命という概念そのものを拒絶しているようだった。

 全ての生命を拒絶し、否定し、それら全てをこの世界の主である遥へと還元する。それが遥の固有結界が持つ特性であった。極めて醜悪な特性だが、遥はこの固有結界が嫌いではなかった。

 脳裏に張り付く心象のビジョンを、頭を振って脳の端に追い遣る。今は自分の内側へと潜航する時間ではない。幸いにして、朝食の準備はある程度昨日のうちに済ませてあるため、それまでだけは多少の余裕があった。

 レフが犯人だという爆破テロによって、カルデアの残存スタッフは20人を下回ってしまった。死亡したスタッフのうちには食堂管理者なども含まれており非常に不味い状態だったのだが、そこでしばらくのうちは遥が食堂を担当することを申し出たのである。

 初めは負担を考慮してマスターである遥に任せることを渋っていたロマニたちだったが、遥にとって料理は楽しみにこそなるが苦痛にはならないと主張すると渋々承諾したのだ。事実遥の料理の腕はかなりのもので、旅の最中に会った世界的に高名なシェフから太鼓判を押されるほどであった。

 この暇な時間を如何にして潰そうか、と考えて、遥はすぐに戦闘訓練をすることに決めた。銃器の整備でもいいが、それは十分過ぎるほど行っている。

 叢雲を帯刀して自室を出て、足早に無機質な廊下を進む。その先にあるひとつの扉の前で、遥は足を止めた。カルデアが備える最大のシミュレーションルーム〝カルデア・ゲート〟。カルデアが蓄積したデータを元に高い再現度で仮想敵性体との戦闘訓練を行うことができるというものだ。

 生憎、まだ特異点のデータは冬木のもののみであるため、現代に存在しない敵性体は骸骨兵やデーモン他数種しかないが、遥のデータなどから仮想悪魔や仮想死徒とも戦闘できるようになっていた。

 だが、遥が足を止めたのはその技術力を思って感心したからではない。

 

「誰か、使ってる……? こんな時間に?」

 

 カルデア・ゲートは戦闘用のシミュレーションルームである。誰かが使っているところに不用心に別な誰かが入ってしまわないよう、その入口近くには使用中は入室時に警戒を促す警告が表示されている。誤って攻撃してはまずいからだ。

 しかし今使っている誰かが満足するまで待っている訳にもいかず、遥はカルデア・ゲートに足を踏み入れた。幾層かの分厚い隔壁を抜け、その先に再現されていたのは燃え盛る冬木の街であった。

 その炎の海に濡れた仮想の街で無数の敵性体を相手取っているのは誰あろう、遥のサーヴァントである沖田総司であった。沖田の愛刀たる乞食清光の白刃が閃き、迫りくる骸骨兵や竜牙兵、デーモンを屠り続ける。

 一体どの程度ここで戦っていたのか。病弱スキルが発動していないところを見ればそれほど長い時間でもないのだろうが、これほど速いペースで敵性体の発生速度を設定していてはもしもの時に対応できまい。

 だが今になって介入する訳にもいかない。八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)発動状態ならばまだしも、素の状態で沖田の攻撃を受けては対応しきれる筈もない。大空洞でのことは例外中の例外だ。あれの原因は遥にも分からない。

 沖田が戦っている以上は邪魔できないが、さりとて出ていく訳にもいかない。ひとりでは病弱が発動した時に対応する者がいなくなってしまう。そう遥が決めた時、不意に沖田が振るう刀の切っ先がぶれた。

 

「――こふっ」

「沖田!? チィッ、言わんこっちゃない!!」

 

 沖田が吐血して崩れるのを見て取った遥は、反射的にホルスターからデザートイーグルを抜いて撃ち放った。ルーンが刻まれた銃弾は寸分違わずに沖田を狙っていた仮想敵性体の霊核へと潜り込み、そこで起動して霊核を焼き切る。

 魔術によって反動を極限まで小さくした最強クラスの拳銃を片手で使いながら、空いた左手はまるで別な神経で動いているかのように滑らかに動いていた。コントロールパネルを呼び出し、強制終了を指示する。

 終了を命じられたシステムが急停止し、炎の街は一瞬にして消え去って元のただ白いだけの無機質な部屋へと立ち戻った。そこに残されたのは遥と、血を吐いて蹲る沖田。

 デザートイーグルに掛けた強化と反動軽減の魔術を解除してホルスターに戻し、遥が沖田に駆け寄った。

 

「ハルさん……? こんな時間に、どうして……?」

「そりゃこっちの台詞だ! 吐血するまで戦ってるとか、もっと身体のコトを考えろ莫迦!」

 

 憤慨したように沖田に叱責を飛ばしつつ、遥は常備しているハンカチとティッシュで沖田が吐いた血を拭きとった。幸い、いくら群がられていたとはいえ雑魚に遅れを取ることはなかったらしく、沖田自身に傷はない。

 聞けば、沖田がカルデア・ゲートで模擬戦を行っていたのは4時30分頃かららしい。現在時刻を考えれば、ざっと45分ほど休憩なしで戦闘を継続していた計算になる。なるほど病弱が発動する訳である。

 現状のカルデアに召喚されたサーヴァントは非戦闘時は霊体化しているのではなく、空いた部屋を与えられて生きている人間とそう大差ない生活を送ることができる。特に沖田は活動時間が病弱スキル発動に関わってくるために睡眠の重要度は他の英霊の比ではない。

 それは沖田とて自覚しているのだろう。だというのにどうして無理してまで戦闘を行うのか。遥が問うとまだスキルが発動しているのか肩で息をしながら答えた。

 

「だって……冬木では役に立てませんでしたから。せめて次ではもっと役に立たないと……」

「気にしすぎだ。沖田はお前自身が思ってるほど弱くねぇよ。役にも立ってる。てか、そんなことで俺が見捨てるとでも?」

 

 不機嫌そうな顔で問う遥に沖田は苦笑すると、それは分かってますよ、と言う。

 

「だから、これは私の我儘です。サーヴァントになった後では成長なんてしないと分かってはいますが……それでも今のままでは嫌なんですよ」

 

 独り言めいた沖田の言葉を聞きながら、遥は不意にこの少女は自分と似ていると思った。沖田に対してもっと自分のことを考えろと言った遥だが、その言葉を言う資格は自分にはないとも自覚していた。

 なぜなら、遥もまた自分自身のことを顧みずに戦ってしまうからだ。それはあのバーサーカー戦が証明している。長時間の使用で自我を失ってしまう宝具を限界まで使い続け、反動が大きいからと出し渋っていた宝具もいざとなれば簡単に使ってしまう。

 ある意味、遥が沖田を初めに召喚したのは必然と言っても良い。腰に帯びた宝具や遥の血は沖田よりも強力な英霊を呼び寄せる触媒と成り得るだろうが、それよりも先に精神性が似通った英霊が()ばれたのだ。自分を顧みないという、戦闘においては致命的な隙とも成り得る特性を有した英霊が。

 他にも剣士だとか刀使いだとか、遥と沖田の共通点はあるが、最大のものはそれだ。心のどこかで不思議に思っていた沖田が呼び寄せられた理由がなんとなくだが分かった。

 

「まだ辛そうだが、自分の部屋まで歩けるか?」

「ええ。支えさえあれば、なんとか……ハルさん。肩、貸して下さいますか?」

「俺としては大丈夫だけど……腕届くか? 身長的に」

 

 遥の身長が182㎝という日本人にしては珍しい身長であるのに対し、沖田の身長は158㎝だ。遥の心持としてはそろそろ慣れてきたため肩を貸すくらいは平気なのだが、物理的に困難だろう。かといって背負ったり横抱きにするのは、遥の精神衛生上よろしくない。

 それもそうですね、と苦笑すると、沖田は鞘込めの刀を杖の代わりにして立ち上がった。戦国時代辺りの武士たちにとっては切っ先を地面に付けるなどあり得ないことなのだろうが、沖田にとっては己の剣に誇りはあってもそこまで気にするものでもないらしい。

 最初は戦闘訓練をするためにこの部屋を訪れた遥であるが、それは可及的速やかに行うべきものでもない。沖田の部屋まで様子を見ることに決めて、遥は彼女と共にシミュレーションルームを出た。

 他愛のない雑談をしながら沖田と歩く。そのうち、不意に沖田が神妙な面持ちになったかと思うとおずおずと遥に問うた。

 

「ハルさんは……ハルさんは、どうして正体も分からない、勝てるかどうかも分からない敵と戦おうと決めたのですか?」

 

 それは遥を叱責しているのでも、沖田自身が人理焼却の首謀者に怯えているのでもない。不意に湧いて出てきた純粋な疑問であった。しかし何気ない問いであるからこそ、それは遥の動機の核心を問うものであった。

 遥はひとつ苦笑を零すと、どこか懐古しているかのような表情を浮かべながらその問いに答える。

 

「単純だよ。気に入らないからだ」

「気に入らない?」

「これはあくまで俺の仮説でしかないんだが……この事件の首謀者は人類を憎んでない。憎んでいるなら人類史を焼却するなんて回りくどいことしないで聖杯に願えばいいんだ。現生人類全てを呪い殺せってな」

 

 そう。人類を憎んでいるから人類史を否定するならば、現世に現れて皆殺しにしながら言えばいいのだ。『貴様等の歴史に意味などなかった。人類はただ無意味な繁栄を続けてきただけだったのだ』と。

 だが、名も知れぬ人理焼却の首謀者はそれをしなかった。特異点を造り出すことができるほどの魔力を備えた聖杯を所有していながら、直接殺すことをせずに人類史を焼却するという回りくどいことこの上ない手段に出たのだ。

 故に、遥はこの事件の犯人は人類を憎んでなどいないと判断した。だというのに、人類を歴史ごと抹殺しようとしているのは何故か。さすがにそこまでは想像もできないが、けれど遥は漠然とした仮説があった。

 

「犯人が何をしようとしてるかは知らねぇよ。けど、ソイツはきっとこう言ってるんだ、『お前たちの歴史には確かに意味があった。なぜならこの私に殺されるのだからな』ってさ。

 そんなの許せるかよ。全人類の人生に勝手に意味付けしようなんざ、どんだけ傲慢なんだって話だ。だから殴ってやるのさ。どんだけ弱かろうと、意味がなかろうと、アンタに殺される筋合いなんてねぇって」

 

 独白のような遥の言葉。それを零す遥の脳裏に映るのは、大空洞でレフが哄笑と共に吐き出した言葉だった。貴様等は自らの無意味さ、無能さ故に。我らの王の寵愛を失ったが故にゴミのように死ぬのだと。

 その態度に、冗談じゃない、と遥は憤っている。だからこそ、この事件に限界まで抵抗して首謀者の前で言ってやるのだ。「お前の寵愛なんてなくとも人類は生きていける。少なくとも、自分はそうだ」と。

 それ以前に、遥は人類史を否定するというやり方が気に入らなかった。人類の歴史とはすなわち、人類が積み上げてきた『死』の積み重ねだ。それを否定するということは、人の『死』を無意味と断じてしまうことに他ならない。

 ならば、自分の目の前で死んでいった人たちの思いはどこへ向かえばいいというのか。末期の祈りは、絶望は、決して無駄なものではなかっただろうに。

 

「気に入らない、ですか……ふふっ、なんだかハルさんらしいです」

 

 そう言って微笑んで、沖田は足を止める。気づけば、もう既にふたりは彼女の部屋の前まで来ていた。もうだいぶ楽になったのか支えなしでも普通に歩けるようになった沖田は、遥を確かな意思の籠った眼で見上げる。

 

「では、私はその思いが果たされるまで貴方と共に歩むと、改めて私は貴方の剣で居続けると誓いましょう」

「ああ。頼りにしてるよ、沖田」

 

 

 

 朝食を済ませてから数時間後、カルデアに残った2人だけのマスターである立香と遥、そして所長代理たるロマニはカルデアのとある一室に集まっていた。その部屋は他の部屋のような白い壁に囲まれている部屋ではなく、電気回路のような文様があったりなど他の部屋と比べるとかなり異質な部屋であった。

 中でも異彩を放っているのは、3人の前に設置された巨大な盾。本来はマシュの宝具として運用されるこの盾だが、カルデアの召喚システムはこの盾を基点にして構築されているらしい。特異点で遥は呼符だけを使って沖田を召喚したが、あれは例外的な召喚だった。

 この英霊召喚用の部屋に彼らが集っているのは他でもない、新たな戦力となるサーヴァントを召喚するのだ。至って平静な遥とは対照的に、立香は緊張した面持ちだ。これから歴史に名高い英霊を召喚するとあっては、それも仕方あるまい。

 そんな立香の肩を、遥はからかうような表情でつつく。

 

「緊張しすぎだ、立香。そんなんじゃ、召喚された側も遠慮しちまうぞ? もっと気楽にいこうぜ」

「あ、ああ。そうだね」

 

 遥の態度はとてもこれから英霊を召喚するとは思えないほど気楽なものであったが、むしろこれくらいの方がいいのかも知れない、と立香は思った。緊張していたところで、召喚することには変わりはないのだから。

 表情を緊張に凝り固まったものから多少柔和なものに変え、立香が盾の前へと歩み出る。カルデアの召喚システムは複数のマスターが利用する関係上、初めに召喚するマスターを決めてから召喚しなければならない。同時に複数人が召喚することはできないのだ。

 これからふたりが召喚するサーヴァントはそれぞれ2人ずつ。まずは立香からの召喚だ。立香がロマニに合図を出し、合図を受けたロマニが召喚システムを起動させる。設定された起動式に従って詠唱もなしに魔力が奔り、盾が光を帯びる。

 設置した6つの聖晶石が砕けて盾を中心として召喚陣が生まれ、それを覆うようにして3つの円環が発生する。直視できないほどの光が部屋を包み、励起させていない筈の魔術回路が外部の魔力の波動を受けて蠕動する。

 そして一際強い光が召喚陣から迸り、それが消えた時、立香の眼前にはふたり分の人影があった。

 ひとりは男性。屈強な長身を蒼い戦装束で包み、長い襟足を項の辺りでひとつ結びにしていた。その神性を帯びた紅玉の瞳は隠しきれない獰猛さを放射し、手には膨大な魔力を纏う朱槍を握っている。

 もうひとりは女性。身長はほぼ沖田と同じくらいだろうか。全身を覆う漆黒の鎧には所々に血液のように赤黒い文様が奔り、纏う魔力は周囲にいる者全てに無意識のうちに畏怖を抱かせる。黒く堕ちた聖剣は立香にも分かるほどの凄まじい魔力を放射していた。

 その真名()は―――〝クー・フーリン〟。そして、〝アルトリア・ペンドラゴン[オルタ]〟。

 

「よう、サーヴァント・ランサー。召喚に応じ参上した。ま、気楽にやろうや、坊主!」

「同じく召喚に応じて参上した。まさか貴様が私を()ぶとはな、カルデアのマスター」

 

 どちらも面識のある――片方はクラスが違うが――との対面に、立香が顔を綻ばせる。特異点においてアルトリア・オルタは敵として戦ったが、今回は味方として召喚された以上敵対することはあるまい。

 反転英霊(オルタナティブ)――本来の在り方から何らかの要因によって変質した英霊であるアルトリア・オルタは冷徹な近づきにくい雰囲気を纏ってはいるものの、それをものともせずに立香はさっそく召喚したサーヴァントたちと話をしている。

 マスターとしても、魔術師としても未だに未熟な立香であるが、反転した英霊とも臆することなく会話ができるというのは彼が有する高いマスターとしての才能を示していると言えるだろう。或いは、未熟であるが故に相手を区別することなく接することができるのかも知れない。

 加えて、クー・フーリンとアーサー王ともなれば疑うまでもない大英雄だ。その戦闘能力の凄まじさは特異点において間近で体験した立香が最も良く分かっている。聖杯のバックアップを得ている時ほどではないにせよ、その能力は折り紙つきである。

 遥が脳内で戦力分析をしていると、オルタの顔が遥の方を向いた。

 

「む。初めて見る顔だな。貴様、名は何という」

「ん。俺は夜桜遥。立香の……なんだろう。仲間なのは当然だし……」

「何って、友達だろ?」

 

 屈託のない笑顔でそう言われ、遥は一瞬驚愕の表情を見せたがすぐに頬を赤くして顔を背けた。今まで面と向かって誰かから友達を言われたことがないため、なんとなく恥ずかしくなってしまったのである。

 反転した英霊とも臆することなくコミュニケーションを取り、遥のような人付き合いが苦手な人間の懐にまで容易に入り込んでいながら、相手に不快感を抱かせない。なんという人たらしの才能であろうか。絶対に遥にはできない芸当であった。

 恥ずかしさを隠すように何度か咳払いをして、今度は遥が盾の前に立った。所定の位置に6つの聖晶石を設置してから瞑目し、ため息を吐いて目を見開く。

 

「準備完了だ、ロマン」

「オーケー。じゃあ動かすよ」

 

 遥の言葉を受けたロマニが召喚システムを再び動作させ、盾が光を放つ。召喚はカルデアのシステム側から魔力が供給されるために遥の魔力消費は皆無だが、それでも魔術回路が疼くのは止められない。

 召喚陣から放出される魔力が魔術回路を震わせ、心臓が早鐘を打つ。それの原因は召喚によって放出されるエーテルにだけによるものではない。英霊を召喚するという行為は、魔術師にとってはどれだけ異端の者であろうと心躍るものだ。

 或いは一般的な魔術師であればその理由は遥のそれとは違うのかも知れないが、少なくとも遥にとっては大規模な魔術行使によるものだけではない。立香に緊張するなと言っておいて、実のところ最も緊張しているのは遥であった。

 召喚した英霊とどう接すればよいのか脳内で思考を巡らせている間にも召喚は進む。立香が召喚した時と同じようにエーテルによって構成された3本の光帯が回転し、それが弾けると同時に光が膨れ上がった。

 それが収まった中にいたのは、ふたりのサーヴァント。片方は赤い外套を纏った長身の男。そしてもうひとりは、()()()()()()()()()()()()

 先に赤い外套のサーヴァント――〝エミヤ〟が名乗りをあげた。

 

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応え、参上した。……おっと。君かね、今回のマスターは。一度自分を殺した人間がマスターとはまた、奇妙な縁だな」

「よう。よろしく、アーチャー……いや、エミヤ。で、そっちは……」

 

 まさか自らが屠った英霊を召喚するとは思わなかったが、ある意味では霊核を直接貫いたのだ。これ以上ないほど強い縁だろう。その点では同時に召喚されるのはあのバーサーカーなのだろうが、もうひとりはそうではなかった。

 桃色の髪をツインテールに纏め、頭からはどういう訳か狐のような耳が生えていた。和服を着てはいるがそれは肩の辺りが大きく開け、それを認識した遥が眼を逸らす。しかし、召喚してすぐに眼を逸らすのも道理に合わないと我慢して真っ向からその英霊を見据えた。

 いや、このサーヴァントは本当に〝英霊〟なのだろうか。そのサーヴァントは、邪悪さこそ感じないものの遥がこれまで戦ってきた化生などと似た雰囲気を纏っていた。だが遥が気にしているのはそれだけではない。

 遥の血、正確に言えば遥の血に混じった人外の部分が騒いでいる。それは警戒と言うよりもむしろ、畏怖だとか崇拝だとか、そういった類のものだった。何とも言い知れぬ感覚に襲われる遥の前で、そのサーヴァントは明朗快活な声で名乗る。

 

()()()()()()()()()を感じて参上いたしました! 貴方の頼れる巫女狐、キャスター降臨っ! です!」




カルデア料理番(初期メンバー)結成の瞬間だった。


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第12話 謎は未だ明かされず

「……ふむ」

 

 カルデアに備えられたシミュレーションルーム。西暦が始まった頃のローマ式建築によるものと思しき闘技場が再現されたそこで、遥は尻もちを突いた立香の喉元に叢雲の刃を突きつけながらそう唸った。

 神造兵装の刃を立香に突き付けているとはいえ、遥に立香を殺す気は全くない。これは立香とそのサーヴァントのチームと、遥とそのサーヴァントたちのチームによる模擬戦の結果であった。つまり、遥たちの勝利である。

 立香のサーヴァントであるシールダーのマシュ、ランサーのクー・フーリンとセイバーのアルトリア・オルタが弱い訳ではない。むしろ英霊としての格だけで言えば遥のサーヴァントの沖田、エミヤ、タマモよりも上だろう。完全に無名のエミヤは言わずもがな、沖田とタマモはあくまで日本だけで有名であるに過ぎない。

 だが、サーヴァント同士の戦闘においては英霊の強さや格が勝利への絶対条件ではない。特に、それが集団戦であれば尚更だ。サーヴァントの相性や組み合わせ、マスターの技量などによって勝敗は左右される。

 戦闘中は真顔で殺気すら放っていた遥であるが、自分たち側の勝利を確認したシステムが停止すると立香から刃を離して叢雲を鞘に戻した。

 

「今回は俺たちの勝ちだな」

「あぁ、そうだな。……でも、次は負けないぞ」

 

 挑発的な遥の言葉に立香はそう言葉を返すと、遥が差し伸べた手を握って立ち上がった。周囲で戦っていたサーヴァントたちも戦闘を止め、それぞれの戦い方について評価し合っている。エミヤとクー・フーリンはあまり友好的とは言いがたい雰囲気だが、それでも喧嘩になることがないのは腐れ縁の為せる技だろうか。

 今回の模擬戦において勝敗を決したのはマスターの能力差ということもあろうが、最大の要因はそれぞれのチームを構成するサーヴァントの特性だろう。立香はアルトリア・オルタとクー・フーリンという前衛とマシュという盾役はいるが、後衛や支援役(バファー)がいないのだ。

 対して、遥のチームは前衛を沖田、後衛と前衛どちらでも立ち回ることができるエミヤ、全員に支援を掛けることができる呪術師のタマモとそれぞれの特性が上手く噛み合っており、さらにマスターの遥も前衛として行動しつつも的確な指示を出すことができる。

 だが、指示においては遥と立香では大した違いはない。実戦経験を多く積んできた魔術師である遥と元一般人の立香の指示の巧さが同等であるのは決して遥にそういった才能がないからではなく、むしろ立香が元一般人にしては巧過ぎるのだ。条件さえ整えば、真っ当なマスターとしての指揮能力は立香の方が高いだろう。

 しかし、言うまでもなく魔術師としての能力は遥の方が高い。カルデアの魔力供給はサーヴァントに直接送られるのではなく、マスターを通して行われる。そのため三騎士のような魔力燃費の悪いクラスを割り当てるなら、本当なら遥の方が向いていると言えるだろう。

 戦闘を終えたことでアルトリア・オルタが魔力によって編まれた鎧を除装してゴシックロリータ調の服へと変わった。その姿を見て、クー・フーリンがあからさまに驚愕を見せる。

 

「なんだセイバー、その服?」

「む。なんだ、何かおかしいか?」

「いんや。アンタがそういう趣味とは思わなくてね」

 

 揶揄うようなクー・フーリンの態度に、アルトリア・オルタは不満そうな目をして睨む。だが実際、アルトリア・オルタの冷酷かつ厳格なイメージにその服は意外と言わざるを得なかった。

 しかし、アルトリア・オルタとしては記憶はないがこの服は他の服と比べてどこか着慣れているような感覚があった。恐らく、この反転した状態で召喚されたどこかの世界でこれと似た服を着ていたことがあるのだろう。

 特殊な場合を除けば、サーヴァントというものはその召喚以外の記憶を持ち合わせない。時空を超越した領域にある『座』の記録を全て記憶として有していては色々と不都合があるからである。強烈な記憶は引き継がれるようだが。

 だが、カルデアの召喚システムはサーヴァントの召喚システムとしては欠点が多い。タマモの別世界でのことのように明確な記憶としては存在していなくとも、曖昧な残滓としてなら存在していても可笑しくはないだろう。きっとこれはその残滓のひとつによるものだ。

 アルトリア・オルタの私服を揶揄ったクー・フーリンであるが、そう言う彼の私服もアロハシャツと変わっている。立香たちの会話を時折笑いながら聞いていると、不意に遥の肩を誰かが叩いた。タマモだ。

 

「どうした、タマモ?」

「マスター。その、マスターの宝具って〝天叢雲剣〟……ですよね?」

「あれ、まだ言ってなかったっけ。タマモの言う通り、俺の宝具は天叢雲剣だけど……どうかしたのか?」

 

 思いもよらぬタマモの質問を純粋に疑問に思っている様子の遥に対し、タマモは「いえ、別に……」と苦笑しながらはぐらかす。その態度に遥は小首を傾げたものの、タマモが言いたくないならそれでいいかと深く詮索することはしなかった。

 遥に懐かしい気配を感じて召喚に応じたというタマモであるが、彼女はまだ『玉藻の前』という女怪の真実を遥に教えていなかった。それは遥を信頼していないだとかそういう理由ではなく――むしろ遥のことをタマモは〝イケ魂〟であると思っている――単純に教える機会を逸しているのと、教える意味がないからだ。

 玉藻の前の真実。すなわちタマモは日本神話の主神と言っても過言ではない〝天照大神〟の分け御魂。いわば天照の一人格であるということだ。藻女(みずくめ)として生きていた時ならばともかく、今は天照としての記憶もきちんと持っている。

 遥の宝具である天叢雲剣は本来、天照の弟である建早須佐之男命によって彼女に献上され、後に日本武尊の手に渡り、その形代は壇ノ浦の戦いで安徳天皇の入水により失われて終ぞ見つからなかったという。

 けれど、天叢雲剣は確かにここに存在している。しかし、遥の持つ天叢雲剣は、()()()()()()()()()()()()()()()()。それが示すところとはつまり、タマモが知る叢雲は真に八岐大蛇の尾から出てきたものではなかったということだ。

 

(あの愚弟め、謀りやがりましたね……いえ、あの男に限ってそれはないですか。しかし……)

 

「タマモ?」

「! ……何でもありません、マスター。少し考え事をしていただけですので」

 

 考えても答えが出るものでもない。後に草薙剣と名を変えた神造兵装を本物の天叢雲剣と謀った弟の真意を棚上げした時、タマモはさらに別な違和感を覚えた。

 もしもスサノオが天照に献上したものが本物の天叢雲剣ではないのが真実だったとして、どうしてその現物をこの魔術師が持っているのか。遥は伝承保菌者(ゴッズホルダー)であるというから従者の誰かの末裔なのかも知れないが、そうなるとタマモとの縁が発生せずに召喚されなかった筈なのだ。

 或いは、『天叢雲剣』としての名前と現物(オリジナル)複製品(フェイク)に共通するものに惹かれたのかも知れないが、タマモの獣の第六感がそうではないと告げていた。

 遥自身に訊けば答えてくれるのかも知れないが、タマモにとってこれはそれほど重要な問題ではなかった。それよりも重要なことは、遥がマスターであるということだ。誰がマスターであれ、喚ばれた限りは全力で仕えるのがタマモの信条(モットー)である。

 タマモが思案する間の様子は平時と何ら変わりのないものであったが、それを傍から見ていた遥はタマモが何かを考えていることが何となく分かっていた。コミュニケーション能力は低くとも、人の変化を感じ取る能力はある。

 だが気づいてはいても、それを口に出すかどうかはまた別な話である。さして気にすることでもないかと遥がひとりごちた時、ロングコートの袖を小さく引っ張られた。

 

「むー……」

「沖田? どうしたんだ?」

 

 ロングコートが引っ張られた方を見れば、沖田が何故か少々不機嫌そうに頬を膨らませながら遥を見ていた。しかし遥としては何も沖田を不機嫌にする言動をした覚えがなく、首を傾げる他ない。

 模擬戦で病弱発動を恐れて後ろに下げていた訳ではない。むしろ前衛としてタマモの呪術により身体強化をかけてメインで戦ってもらっていた。沖田ばかりを使っていた訳ではなし、逆に使わなかった訳でもない。

 なら戦闘以外だろうか。だが考えてみても、沖田を不機嫌にする要素は見えない。それは単純に遥が乙女心を分かっていないだけなのかも知れないが、どちらにせよ遥にはどうして不機嫌なのか分からないことに変わりはない。

 故に考えることをせずに問うてみても、沖田は何も言わずにふいっと顔を背けるだけだ。余計に分からず遥の脳裏にいくつもの疑問符が浮かんだ時、遥はエミヤがどこか懐古めいた視線で遥を見ていることに気付いた。

 

「なんだよ、エミヤ」

「いやなに、私も似たようなことをされたことがあるのでね。なんだか懐かしくなってしまっただけだよ、遥」

 

 懐かしくなった、という懐古の言葉は何も間違っていないのだろうが、遥はそこに僅かな同情の念を見出した。似たようなことをされた、とは言うが一体どのような目に遭ったのだろうか。

 他愛のない会話をしながら、全員がシミュレーションルームから出る。その時、何か質量の小さいものが床を蹴る音がした。反射的にそちらを向けば、視界いっぱいに広がったのは白いモフモフとした毛皮。

 避けることもできず、遥はそのモフモフを顔面で受け止めた。

 

「ぶほっ!?」

「ハルさん!?」

「遥!?」

 

 飛び込んできたものの勢いを相殺しきれず、遥は頭から廊下に倒れ込んだ。そんな遥を心配して皆が声をあげるも、遥に飛び込んできたモフモフ――フォウはそんなことは気にしないとばかりに遥の顔面をてしてしと叩く。

 「大丈夫?」と遥に声をかけつつ、フォウを掴み上げて遥の顔からどかす立香。フォウはすぐに立香の手から逃れると、器用に彼の肩に乗った。初めてフォウを見たサーヴァントたちが興味ありげな視線を向けるなかで、遥が勢いよく立ち上がる。

 フォウに顔面にぶつかられたことで遥の顔にはフォウの毛が何本か付着していた。それを1本ずつ摘まんで取りながら、遥がフォウに詰め寄っていく。

 

「いきなりどうした、フォウ?」

「フォウ、キャーウ」

 

 一見何を言っているか分からないフォウの鳴き声だが、遥にはなんとなくフォウが何を言っているか分かっていた。それは遥だけでなく立香やマシュも同様で、フォウの言葉に耳を傾けている。

 フォウの言葉を受けて、遥が左腕に装着している端末の時計機能を呼び出す。魔術と科学の融合によって造られた装置のひとつであるそれは容易く空中にホログラムを展開し、現在時刻を表示する。

 時刻は午前11時30分。お腹空いた、と言っていたフォウだがそれも不思議なことではなく、そろそろ昼食時であった。それに気づいて空腹を認識したのか、立香とマシュ、さらにはアルトリア・オルタまで腹の虫が鳴く。

 正直すぎる腹の虫に遥は微笑を浮かべると、傍らに立つエミヤとタマモに声をかけた。

 

「そろそろ昼食の準備をしようか。タマモ、エミヤ」

「分かりました」

「了解した」

 

 このふたりが料理を得意としていることは昨日のうちに確認してあった。タマモは初め、料理の『さしすせそ』も知らなかったらしいが、天細女の料理教室に通って身に付けたらしい。一体タマモと天細女の間にどのような関係があるのか、遥は知らない。

 さらに、エミヤは魔術よりも料理に自信のある遥ですらも感嘆を禁じ得ないほどの腕前を誇る。恐らく総合的な腕前では遥が勝るだろうが、和食に限定すればエミヤに軍配が上がるだろう。実質、カルデア食堂の『料理長』であった。

 3人が昼食の準備のために食堂へと向かい、他のメンバーは他愛のない会話をしながら自室へと戻っていく。その中で、沖田だけが複雑そうな表情で去っていく遥を見ていた。

 

 

 

「――不味い。リツカから貴様の作る料理は美味いと聞いていたのだがな。見当違いだったか、ハルカ」

「ごはっ!?」

 

 模擬戦を終えてから数十分後。丁度遥たちが昼食の準備を終えた頃に一番乗りで食堂に足を運んだアルトリア・オルタは、遥が作った海鮮釜揚げ丼を全て平らげてからそう言い放った。

 遥の料理の腕はかなりのものだ。それはカルデア職員たちだけでなく、エミヤやタマモも疑いの余地なく認めている事実だ。中には遥の魔術師としての才能を熟知していながら、魔術師ではなく料理人になった方が大成できたのではと思う者がいるほどである。

 だが、そんな中で唯一アルトリア・オルタだけが遥の料理に否と唱えた。それには同じテーブルで食事をしていた立香やクー・フーリンも目を丸くしてアルトリア・オルタの方を見ている。彼らにとっては、遥の料理は満足の一言だったのだが。

 アルトリア・オルタの言葉を受け、遥がその場に崩れ落ちる。にべもなく不味いと切って捨てられたことが相当にショックなようであった。

 

「……後学のために聞いておくが。それの何がそんなに気に入らなかったんだ、騎士王様?」

「そうだな……具体的に言えば、刺激が足りない。アーチャー。貴様なら私の求めるものが分かるだろう」

「え、そうなの?」

 

 ここまでの短い遣り取りではアルトリア・オルタの求めるものが分からなかった遥は、驚愕の表情で隣でこれからなだれ込んでくるであろう職員のために調理を続けるエミヤを見た。エミヤは渋面を作ってアルトリア・オルタを一瞥し、ため息を吐きながら今作っている味噌汁を遥に任せる。

 逆らっても無駄、或いはアルトリア・オルタには逆らえないといった諦観が見え隠れするエミヤが迷わず冷蔵庫から取り出したのは冷凍豚挽肉とレタス、チーズ、トマト、マスタード、ケチャップ。そしてパンなどが収納されている所から半円型のパンを取り出した。

 遥やタマモのような料理に熟練した者でなくとも、その材料を見ればエミヤが何を作ろうとしているか分かるだろう。まさかあの騎士王とも呼ばれた少女が、と器用にも調理を続けながら驚愕するふたりの前でエミヤはテキパキとそれらを調理し、組み合わせてアルトリア・オルタが求めるものを作り上げた。

 そうして出来上がったのは現代の消費文明の具現とも言える料理。片手間にカロリーを補給できるからと遥も戦場では好んで口にする高カロリーの代名詞。ハンバーガーであった。

 

「お待たせした。ご所望のものはこれかな? セイバー」

 

 そう言ってエミヤが出したハンバーガーを手に取り、アルトリア・オルタはもっきゅもっきゅと食べ始めた。一見平時と様子は違っていないようにも見えるが、ない筈のアホ毛が荒ぶっている幻影が見えた。

 ゴスロリ風の服を着て満足そうにハンバーガーを頬張るその姿は、一見すれば世界に名だたる騎士王のイメージとは程遠い。イメージと言うなら女性である時点で崩壊しているも同然だが、それでも意外なものは意外だろう。

 ハァ、とため息を吐いて厨房に戻ってきたエミヤに、遥が疑問を投げかける。

 

「もしかして、エミヤとアルトリアって知り合いだったのか? 時間軸が合わないが……まさか、エミヤってどこかの世界の聖杯戦争に参加してた……とか?」

「! ……さて、どうだったかな。忘れてしまったよ、そんなことは。少なくとも、彼女は私のことは知らないだろうさ」

 

 召喚された後に、エミヤは明かせる範囲での生前の情報を遥に話していた。とはいえ自分はガイアではなくアラヤの英霊であるとか、遥とは同郷であることぐらいの情報だが、まさかこれだけ少ない情報からまだ話していないことを言い当てられるとは思っていなかった。

 自らのマスターの推理力の高さに感嘆しつつも、エミヤは適当に真実と嘘を混ぜてその話題を受け流した。遥は少々不満そうだったが、エミヤが話す気がないことを無理に聞き出すつもりもなくすぐに作業に戻った。

 正確に言えば、エミヤはあの反転したアルトリアのことはよく知らない。だが、生前共に聖杯戦争を駆け抜けたアルトリアの反転であるというなら『雑』な味を好むだろうと思っただけだ。大半の記憶は摩耗しても、セイバー(アルトリア)のことは忘れない。通常のアルトリアをよく知っているだけに、その反転の性質も何となく分かっている。

 そんな会話をしているうち、ハンバーガーを平らげたアルトリア・オルタからおかわりだ、と指令が飛んでくる。苦笑したエミヤと視線だけを交わすと、エミヤに代わって今度は遥がハンバーガーを作ることにした。今度は照り焼きバーガーだ。

 今度は絶対に美味いと言わせてやる、といつも以上に張り切って照り焼きバーガーを10個ほど作る遥。その途中で、エミヤの方から話しかけてきた。

 

「遥。聞いた話では、君は高校を卒業してから世界を回っていたらしいが……君は何のためにそんなことをしていたんだ?」

「なんだ突然」

「いや、私も生前似たようなことをしていたものでね。気になっただけだ」

 

 そう言うエミヤの言葉に何か言い知れぬものを感じたものの、遥はそれを深く詮索することはなく調理を進めながら淡々と語り始めた。

 遥は確かに世界を回っていたが、それの理由は何かと問われると何と言えば良いのか分からなくなる。というのも、遥が旅を始めた時も、旅をしている間も、何故自分はこうしているのかと考えたことはなかったからだ。

 世界各地を巡っているうちに遥は魔術師上がりの死徒や、無辜の人々を食い物にする外道魔術師を殺したことがあったが、それは被害を受けていた人々を救うためではなく、ただ自分に火の粉が降りかかりそうだったからだ。

 自らが宿す怪異の大きさ故に頻繁に厄介事に遭遇してはそれを解決してきた。けれどそれで旅を止めることも、人々を助けるために旅を続けようとも思わなかった。奇妙なものだが、遥の旅は意味はあっても最後まで目的はなかったのだ。

 ある意味では、その旅の最大の意味は人の『死』を無駄にするような輩、つまりは人理焼却の犯人のような者を遥が許容できなくなったことだったのかも知れない。

 

「ま、俺の旅の話なんてこんなつまんまいモノさ。エミヤが気にするようなものでもねぇよ」

「……そうか」

 

 遥の話に何か思ったような、それでいて安心したような表情を浮かべるエミヤ。もしもここで遥が『正義の味方』になりたかった、など言おうものならどうしようかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。今回召喚されたエミヤは既に答えを得ているためそれを否定することはしないが、説教するくらいはしていただろう。

 だが何となく、このマスターとはうまくやっていけるだろうと、エミヤは漠然とそんなことを思った。

 

 

 

「やぁ、ロマニ。君が私を呼ぶなんて、珍しいじゃないか。一体どうしたのかな?」

 

 ノックのひとつもなしに勝手にロマニのドアを開けて入ってきたのは左手に無骨なガントレットを装着し、長い杖を持ち中世風の服を着ている美女であった。いや、彼女、或いは彼を美女というのは些か語弊があろう。

 彼女は身体こそ女性のそれであり、容姿も美女と言って差し支えない。だが、彼女の真名を知れば誰もが首を傾げるであろう。彼女(かれ)の真名は〝レオナルド・ダ・ヴィンチ〟。ルネサンス期に名を馳せた『万能の人』その人である。

 レオナルドが女性として現界しているのは何もアルトリア・オルタのように実は女性でした、ということではない。この自他共に認める万能の天才は、現界に際して自らの身体を彼が心酔していたモナ・リザと同一にしてしまっただけのことである。流石は星の開拓者といったところだろうか。

 レオナルドを呼びつけた本人であるロマニは、机の上にあるパソコンと書類に向き合って難しい顔をしている。しかしレオナルドの来訪に気付くと、疲れを滲ませた苦笑を浮かべた。

 

「随分疲れているようじゃないか。昨日はちゃんと寝たのかい?」

「生憎と、一睡もしてないよ。……それより、レオナルド、これを見てくれるかい?」

 

 一睡もしてない、と言うロマニにレオナルドは小言を言おうとしたが、ロマニの真剣な様子に口を噤んだ。ロマニが『ダ・ヴィンチちゃん』ではなく『レオナルド』というのは真面目な話をする時だと決まっている。

 ロマニがノートパソコンの画面をレオナルドに向ける。どうやらカルデアのメインシステム、つまりはトリスメギストスに繋げられているらしいそのパソコンの画面に映っていたのは、特異点Fでの戦闘記録であった。

 ロマニが再生していたのは丁度、遥が宝具〝天叢雲剣〟によってバーサーカーを消滅せしめた瞬間の映像であった。それを見て、レオナルドが感嘆の言葉を漏らす。

 

「恐ろしくなるほどの魔力出力量だねぇ。遥君はこれをひとりで?」

「宝具そのものに蓄積されていた魔力もあるとはいえ、カルデアからのバックアップに頼ってはいなかったよ。この真名解放でシバのレンズが数枚吹っ飛びかけた。

 ……でもボクが言いたいのは遥君の不可解な魔力出力量についでじゃなくて……これだ」

 

 そう言うと、ロマニは一旦パソコンを自分に向けて操作し、別な映像を呼び出した。それを見たレオナルドの眼が今度こそ驚愕に見開かれる。

 ロマニがレオナルドに見せたのは、先程レオナルドが見た真名解放の瞬間に観測された遥のデータであった。カルデアはレイシフトしている者の意味消失を防ぐため、常にシバとトリスメギストスによって対象を観測している。

 故に一分一秒の空白もなくマスターたちの身体状況がトリスメギストスには記録されているのだが、それが不可解なデータを示していた。こんな状態は、現代の世界においてはあり得ない。

 

「……これ、本当に観測されたデータなのか? 悪戯じゃなくて?」

「悪戯でも酔狂でもないよ。最初に見た時は、ボクも驚いて遥君に連続コールしちゃったケド」

 

 その時遥は宝具発動待機中だったのだから応じる訳はないのだが、それはロマニの驚愕を思うには十分な材料だろう。正真正銘の万能人たるレオナルドですら、いや、レオナルドだからこそその反応が異常であることがよく分かる。

 特異点を観測するレンズたるシバで異常なデータが観測されるということは即ち、マスターの意味消失を意味する。故にロマニは慌ててコールしたのだ。だが、その異常な状態を示した遥は意味消失することなく、何事もなく戻ってきている。

 それはつまり、シバが観測した事象は紛れもない事実であるということだ。でなければ、遥がこうして戻ってきていることに説明が付かない。

 この世界の法則としてあり得てはならない事態を前に驚愕を示すレオナルドに畳みかけるように、さらにロマニはレオナルドに紙の束を渡した。

 

「……これは?」

「見ての通り、立香君のメディカルチェックの結果だよ。……遥君のデータほどじゃないけど、それも十分驚くと思う」

 

 含みのあるロマニの言葉に首を傾げるも、ロマニは何も言わずにパソコンを使っての作業に戻った。異常なほどに忙しいこともあろうが、レオナルドがそれを読むまで何も言う気はないらしい。

 メディカルチェックとは言うが、カルデアにおけるそれはただ身体状態を調べるだけではなく、魔術的な素養についても調べて書いてある。それを最後まで読んで、ほう、とレオナルドが溜息を漏らした。

 カルデア48人目のマスター候補生、つまりは一般人枠のさらに数合わせである立香は、きっとカルデアに来るより前にまともな魔術適性の検査もされなかったのだろう。でなければ、この検査結果が今になって出てくる訳がない。

 確かに、立香の魔術回路量は平凡極まるものだ。検査結果に示されていることも、魔術師の間ではさして珍しいものでもない。レオナルドが驚いているのは、それが一般人の中から出てきた、つまりは天然物だからということに他ならない。

 しかし―――とレオナルドは内心で嘆息する。

 

「まぁ、だからといって私達の彼らへの扱いは変わらないさ」

「あぁ、そうだね、レオナルド。彼らはボクたちの大切な……仲間なんだから」




遥の好物はマウント深山は『紅州宴歳館・泰山』の麻婆豆腐である模様。なお、遥もアルトリア並に食べるのでカルデアの食料事情が密かにピンチになっている。


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第一特異点 邪竜百年戦争オルレアン
第13話 その祈りは何処(いずこ)へと


「あっ――ははははっ! ははははは! あはははははっ!」

 

 赤く染まった街。逃げ惑う人々の悲鳴に沈んだ街に、ひと際強く女の哄笑が響き渡る。その地獄とでも形容すべき光景を前に、それを齎した魔女は可笑しくて仕方がないとでも言うかのように高らかに笑声をあげていた。

 魔女が従えるのは無数の竜と、数人の従者(サーヴァント)。彼らは主たる魔女の指示に従い、人々に蹂躙を与える。魔女が指を指せば竜に切り裂かれた人間の鮮血が飛び、舌打ちをすれば腑臓が飛び散り、何もしなくとも潰されて挽肉へと変わる。

 時折立ち向かおうと刃物を構える者もいたが、竜や英霊に敵う筈もなく一瞬にして殺されてしまう。死した人々はまともに成仏することすらも許されず、この歪んだ世界の影響で生ける屍(リビング・デッド)に変性して人間を襲い始める。

 妻子を守ろうとした夫、家財を守ろうとした富豪、信者を守ろうと真っ先に出てきて祈りを捧げた司祭。彼らの思いは全て魔女の憎悪によって灰も残さず焼き尽くされ、死体は手駒として再利用される。まるで、その思いを嘲笑うかのように。

 何故あの方が。逃げ惑う人間たちはその驚愕を抱きながら走る。街の外周は既に竜によって防がれ、逃げられる場所などないのにそれでも生き残ろうと走っている。だが、そんな生への執着も、次の瞬間には死という終着点に至って泣き叫ぶ声と共に霧散する。

 あの方ならば仕方ない。誰もが疑念の下にその思いを抱く。生前がどれだけ高潔な人であろうと、あんな最期を迎えれば仕方がない、と。けれど、だからといって自分が死んでいい理由にはならない。だから逃げる。そして、そんな決意も虚しく凡て死ぬ。

 彼女は全てを救い、救った筈のもの全てに裏切られた。彼女が行った救済は否定されたのだ。ならば、その救いを否定したことと同じ。邪魔な救済者だけを殺して、残った救済だけを甘受するなど到底許せることではない。

 だからこそ、魔女は殺すのだ。彼女が救ったこの国の悉くを、彼女の行った救済を甘受する者たちを。その果てにこの国が滅び、敵国であったイングランドに取り込まれようと知ったことではない。

 この街を襲ったのはただそこにあったからだ。いずれはこの国全てを滅ぼすのだから、どこから蹂躙しようが何も変わらない。何人かは邪悪な竜たちから逃げ延びて街から出てしまったようだが、それはそれで良い。いずれ消える命だ。

 それよりも重要なのは――ここに最後に残った命を終わらせること。魔女に追い詰められた女性は、両手にロザリオを握りしめて祈りを捧げている。

 

「ハン、くだらない。くだらないわ」

「ああっ!」

 

 跪いて祈りを捧げる女性のロザリオを、魔女は女性の手を蹴って取り落とさせる。ロザリオは煉瓦によって舗装された道の上を滑って女性からかなり離れたところで止まった。

 女性は反射的にそれを取りに行こうとするも、魔女を前にしていることを思い出して思いとどまった。魔女を見上げるその眼に宿るのは、疑念と困惑。それらを塗り潰すほどの絶望と僅かな憎悪。

 ハ――、と魔女の口の端が歪む。自らが齎した絶望を目の前にするというのは思いのほか心地が良い。だが、それでも気に入らないのは温い憎悪だ。自分の内で燃え上がる憎悪に比べれば塵のようなものである。

 さて、どうやって殺してやろうか。魔女が答えを出すよりも先に、女性が口を開いた。

 

「貴女は……」

「何よ?」

「貴女は、どうしてこのようなことをするのですか……! こんなことをしても」

 

 僅かに怒気を孕んだ女性の言葉が唐突に途切れる。代わりに女性の口から迸ったのは、全身を灼熱に焼かれる悲鳴だった。恩讐の焔に焼かれて火達磨になった元人間を冷徹な目で見降ろしながら、魔女は黙考する。

 視界に入ったのは、全てを焼き尽くされて最早燃えるものがなくなった炭の街。そこを徘徊するは魔女が召喚したワイバーンたちと、魔女とその配下によって殺された死体が変じた生ける屍(リビング・デッド)

 ハァ、と魔女が溜息を吐く。身の内で燃え上がり続ける憤怒と憎悪に身を任せて復讐をしても、それは刹那の間に終わる。虚しいと言えば虚しいが、だからといって止まる気はない。

 

「どうしてこんなことを、ですって? フフッ……」

 

 何をつまらないことを、と魔女が嗤った。そんなことはもう分かっているだろうに。

 これは復讐だ。救いを求めて、彼女に救われておきながら救われた途端に邪魔になった彼女だけを切り捨てて幸福を甘受している者たちへの。彼女を利用し、裏切った者たちへの。

 だから精々良い声で啼くがいい。それがこの復讐者を駆動させる憎悪に薪をくべる。憎悪と憤怒、快楽のままに五体を駆動させる魔女は身体の内で燃え盛る焔に自ら薪を投げ込み、その焔で全てを焼き尽くす。

 可笑しさを堪え切れず、竜の魔女――ジャンヌ・ダルクが高らかに哄笑をあげる。彼女の復讐はまだ、終わらない。

 

 

 

 特異点Fに続く新たな特異点、つまりは第一特異点の座標が特定されたという報告が入ったのは立香が遥を教師として魔術の勉強をしている時のことであった。

 教室代わりに使っていた遥の部屋に散乱した魔導書をカルデアに所蔵されていたものと遥が持ち込んだものに手早く仕分けして纏めると、ふたりは駆け足で管制室に向かっていく。しかし途中で遥は忘れ物をしたと言って部屋に戻っていく。

 特異点Fを修正してカルデアに戻ってきてから5日の時が経っていた。その間、遥に師事した立香はある程度魔力を扱えるまでに成長していた。ひとえにサーヴァントを従えたことで否応なく魔術回路の存在を意識するようになったからだろう。

 未だ自力で魔術を行使するには至っていないが、カルデア製礼装は魔力を流すだけでも多少の魔術を行使できるようになっている。魔術刻印や宝石魔術と似て非なる技術によるものだが、それの原理は新米魔術師である立香の理解が及ぶ範囲ではない。遥は理解しているようだが。

 誰もいない廊下を管制室に向けて走る。その途中、立香は曲がり角で不意に出てきたマシュとぶつかりそうになり、一旦足を止めた。

 

「先輩!」

「マシュ。マシュも管制室に?」

「はい」

 

 マシュの返事を受けた立香がじゃあ一緒に行こう、と言う。この時間、立香は魔術の勉強をしていると知っているマシュは遥がいないことを訝しんだようだが、立香が事情を話すと納得したようだった。

 カルデアの管制室。カルデアが備えるアトラス院製のスパコン〝トリスメギストス〟を利用してレイシフト中のマスターたちの意味消失を防ぎ、さらにカルデア中の状況をこの部屋で全て確認できる、いわばカルデアの中枢である。

 そこに足を踏み入れた立香は、そこを支配する異様な雰囲気に一瞬たじろいだ。当然と言えば当然のことだが、人理を守るための最後の砦であるその場所は、現場に出向く実働部隊(マスターたち)とはまた異なる意識と緊張感で満たされていた。

 その所長席で画面と向き合っていたロマニであるが、立香とマシュの来訪に気付くと振り返って椅子から腰をあげた。その顔には、隠し切れない疲労の色が浮かんでいる。

 

「ドクター。大丈夫ですか? どこか体調が優れないようにも見えますが……」

「問題ないよ、ちょっと徹夜しただけだからね。それより、遥君はまだかい?」

 

 マシュの問いに問題ないと返したロマニであるが、その眼の下には隈が浮かんでいた。徹夜など高校のテスト前日にもしたことが無い立香にとって、何日も連続した徹夜などは想像もつかない領域だ。心配する気持ちはマシュと同じであったが、何を言ってもロマニは聞かないだろうとも理解できた。

 忘れ物をした、と言って自室に戻った遥であるが、それにしては来るのが遅い。立香が困惑を露わにして管制室の入口を振り返ると同時、自動ドアが開いて遥が入ってきた。恰好はいつもの黒づくめだが、その手に衣類らしき何かを持っている。

 

「悪い、遅れた」

「問題ないよ。これからブリーフィングを始めるところだったからね。……それより、その黒いのは何だい?」

「あぁ、これ?」

 

 ロマニに問われて、遥が手に持ったものを広げる。遥が持ってきたそれは、その場にいた者たちが思っていた通りに衣服であった。一見どこにでもありそうなフード付きの黒いパーカーであるが、遥がそんなものを持ってくる筈もない。そのパーカーは遥とレオナルドによって立香のために造られた魔術礼装の一種であった。

 カルデア製の魔術礼装の流れを汲むその礼装は、他の礼装と同様に魔力を流すことで予め組み込まれた魔術を行使することができ、さらには使用者の魔術回路と接続することでカルデアからの魔力供給を受けることを可能としていた。

 それだけならばカルデアの制服と同じだが、そのパーカーは遥による魔術的加工の結果、高い対魔力を備えることができていた。超が付くほど平凡な、ほぼ一般人と変わらない魔術師見習いである立香は驚くほど対魔力が低い。それを補うための礼装が必要だと考えた遥の発案であった。

 遥がブリーフィングに遅れたのは、レオナルドの工房にそれを取りに行っていたからであった。完成すると連絡されていた時刻に丁度呼び出された形となっていたのである。

 

「というワケだ。良かったら使ってくれ」

「ありがとう。なんだかゴメンね、何から何まで……」

「いいっていいって。マスターは助け合いだろ?」

 

 立香の弱点まで把握して支えようとしている遥。立香はそんな遥に何も返せていないことから申し訳なさそうな表情をするが、遥は何でもないことであるかのように笑った。実際、この程度のことは遥にとって負担ではない。自分にできる最低限のことをしているつもりだった。

 遥と立香は仲間なのだ。ならば、その仲間の弱点を支えるのもまた仲間の役目である。遥は立香の弱点を正確に捉えてはいたが、それを邪魔だとは思っていなかった。自分が何とかすればカバーできることを鬱陶しいと感じるのは、遥の主義に反する。

 遥から礼装パーカーを受け取り、立香がロマニの方に向き直る。遥もまたロマニの方を向き、ロマニが疲弊していることに気付いたがそれを指摘するより早くにロマニが話を始めた。

 

「さて、じゃあ本題を始めようか。今回発見された特異点の座標は1431年のフランス……〝百年戦争〟の真っただ中だね」

「そして、かの聖女〝ジャンヌ・ダルク〟が火刑に処された年でもある。……今回の特異点はソレ絡みか?」

 

 百年戦争。元は1337年にイングランド王エドワード3世がフィリップ6世が即位したヴァロワ朝に対してフランスの正当な王位継承権を主張して侵攻を開始したことに端を発して散発したいくつかの戦争の総称である。

 一見すると王位継承権を巡った国同士の争いのようだが、その裏側にはイングランドの羊毛の主たる輸出先であるフランドル地方にフランスが進出することを阻む思惑だったり、フランス内にあるプランタジネット朝領地を鬱陶しがるフランスの思惑があったという。様々な思惑が絡み合った、実に戦争らしい戦争と言えるだろう。

 しかし捕虜は殺さずに身代金を払えば見逃されたという。とはいえ、イングランドが用いた長弓を恐れたフランスは捕虜の人差し指と中指を切り落としたというが。生還したイングランド兵が指が残っているのを示すために凱旋する際それらの指を立てていたことがVサインの興りとも言うが、それは特異点には関係のない話である。

 初め、優勢だったのはイングランド側であった。そのイングランドの優勢を覆したのが、百年戦争で最も有名と言っても過言ではない聖女ジャンヌ・ダルク。彼女を含めたフランス軍がイングランド軍に包囲されたオルレアンを救ったことを発端にフランス側が優勢となり、ジャンヌの処刑後もそれは続いて遂にはフランスが勝利した、という話だ。

 実際ジャンヌの処刑や彼女の出生には諸説あり、どれが正解か正確なことは分かっていない。火刑に処されたのは本当はジャンヌ・ダルクではなかったという話もあるくらいだ。

 遥の漏らした呟きに、ロマニが頷きを返す。

 

「この特異点がどういった原因で発生しているかは現地に行ってみないと分からないけど、時代からして遥君の言う通りジャンヌ・ダルクが関わっているのは確かだろうね」

「だよなぁ。ハッ、聖女サマね……」

 

 不意に遥が冷笑を漏らす。いつも飄々としている遥らしからぬその冷笑が意外だったのか、遥を見る立香たちの眼に驚愕が宿った。しかし彼らが遥へ視線を移した時には既に遥から嘲弄の色は消え去り、代わりにそこにあったのはかつて抱いていたのであろう憤怒の残滓だった。

 『聖女サマ』とジャンヌ・ダルクを嘲笑しているとも取られかねない遥の言葉。しかし遥には決して、ジャンヌ・ダルク本人を莫迦にする気などはなかった。遥の言葉に嘲笑が混ざったのは、彼の意識にあるとある感情に起因するものであった。

 遥の脳裏を過ったのは世界を旅している間に見てきた様々な人たちの『死』。助けようとして、けれど助けられなかった人々。今わの際に『死にたくない』と神へ祈りを捧げ、けれど決して救われることはなかった人々。信じて祈りを捧げた筈の神に裏切られた彼らの祈りは、一体何処へ向かえば良かったのだろうか。

 以前から抱いている思いが胸中を支配しかけた時、遥は3人が不思議そうな表情で自分の顔を覗き込んでいることに気が付いた。何度か咳払いをして、その空気を変える。

 

「他愛のないことを思い出しただけさ。忘れてくれ。……それで、ロマン、レイシフトはいつだ。明日か?」

「え、あ、あぁ。そうだね。レイシフトは明日の午前10時。それまでに準備を整えておいて欲しい。……何か不明な点はあるかい?」

 

 そのロマニの確認に、手を挙げる者はいなかった。それを了解ととったロマニはひとつ頷くと、ブリーフィングを締めくくる。

 

「じゃあこれで解散だ。今日はちゃんと寝るんだよ? 睡眠不足は集中の妨げになるからね」

「それはこっちの台詞だ、ロマン。きちんと寝ないと強引に眠らせるぞ」

 

 心配なのか脅しなのか分からない言葉を吐いてから離れていこうとする遥。それを、ロマニは慌てて呼び止めた。一体これ以上何の用があるか分からなかった遥は首をかしげるも、立香とマシュに先に行っててくれ、とアイコンタクトを送る。

 ひとり管制室に残された遥に、ロマニがホチキスで留められた紙の束を投げ渡す。それは先日、ロマニがレオナルドに見せた立香のメディカルチェック結果であった。目線だけで読むように促された遥が最初から最後まで目を通し、そして、驚愕を露わにする。

 魔術回路は確かに凡人程度だ。魔術属性も単一で、さして気にするほどのことでもない。だが、それらを含めてもそれには驚愕に足るものがあった。

 

「……驚いたな。全く気付かなかった。これ、本人は気づいてるのか?」

「一応気付いてるんじゃないかな。『それ』だとは知らないかもだけど」

 

 曖昧なロマニの返答に、遥がふぅん、と呟きを漏らした。立香に直接言うよりも先に遥に話したのは、恐らく立香が有していると思しき『それ』が非常に扱いが難しいものだからだろう。遥はソレはないが、魔術師でない立香よりは構造について理解がある。

 それを魔術師が持っているのはさして珍しいことではない。それなりの力量がある魔術師であれば、ある程度のものであれば人工的にそれを造り出すことも可能だからだ。だが一般人からそれを保有するものが出たとなると、それは魔術というより異能に近いものと言えるだろう。

 どうして根っこから純粋で、魔術師らしさの欠片もない立香がそれを持ってしまったのかは分からない。けれど、ある意味では立香が人理焼却事件に関わることになってしまったのは必然とも言えるのかも知れなかった。

 これを遥に見せることで、ロマニは言外に立香にそれの使い方を教えろと言っているのだろう。納得して、遥は書類をロマニに返して管制室から出ていこうとした。その直前、ロマニが口を開く。

 

「こんなことを言うのは君に全てを任せているようで酷だけど……立香君のこと、頼んだよ」

「言われなくても。あいつは俺の……友人なんだ。友達を支えるのは当然のことだろ?」

 

 そう言って遥は不敵な笑みを浮かべてみせてから管制室から出ていった。遥の言葉はその内容だけを見ればただ当然のことを言っているだけのようでもあったが、ロマニはその裏に込められた意図に気付いた。

 遥が友人だと思っているのは何も、立香だけではない。遥はロマニのことを友人だと思っているし、ロマニもまたそれを自認していた。つまり、遥はロマニに対してもきちんとサポートしてくれと、きちんとサポートするために寝てくれと言っているのだ。

 それに気付いたロマニが何か言おうとしたが、それよりも先に自動ドアが閉まったことでその言葉が遥に届くことはなかった。

 

 

 

 ブリーフィングが行われた翌日、定刻通りにマスターたる立香と遥、そしてそのサーヴァントたちは管制室に集っていた。マシュを除くサーヴァントたちは〝修練場〟で手に入れた素材を使って〝霊基再臨〟を行ったことで一段階霊基が強化されている。

 立香はミーティングの際に遥から渡された礼装であるパーカーをカルデアの制服の上から羽織り、きちんと魔術回路と接続されたかを確かめている。遥もまた、更なる改造を加えたロングコートが機能しているかを改めて確認していた。

 各々が特異点での戦いのために調子を整えているなか、ロマニが手を叩いて全員の注意を集めた。

 

「それじゃあこれからレイシフトする訳だけど、くれぐれも注意してほしい。レイシフト先の座標は同じ位置にしたけど、誤差が出るだろうからね。だからレイシフトが完了したらできるだけ早く合流するんだ。いいね?」

「了解した」

「分かりました、ドクター」

 

 ロマニの言葉は何もレイシフトを目前にして弱気になっている訳ではなく、半ば当然の考慮であった。前回のレイシフトはいわば事故であり、まともなレイシフトはこれが初めてなのだ。勝手が分からないのも無理からぬことであろう。

 振り返り、ふたりは自分のサーヴァントたちと視線を合わせる。言葉を交わすこともなくサーヴァントたちは己がマスターの意思を察し、力強く頷いた。そこに含まれた英霊と反英霊、通常と反転の区別はない。

 コフィンが開き、マスターがそこに身を収める。人を収容したことを感知した装置が自動でハッチを閉めて施錠する。その直後、アナウンスの音声が響いた。

 

――アンサモンプログラム、スタート。

  霊子変換を開始します。

  レイシフト開始まで、あと3、2、1……

  全行程完了(クリア)

 

  グランドオーダー、実証を開始します。




邪竜百年戦争オルレアン、開幕。


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第14話 竜の魔女、強襲

 レイシフトが完了し、現実に浮上してきた遥の意識が最初に捉えたのは嗅いだ覚えのある匂いだった。風と共に漂ってくるごく薄い匂いは、恐らくは草木の匂いだろう。カルデアにしばらくいた所為か、その匂いですらも懐かしい。

 マスターたる遥が特異点へと移動したことで、遥のサーヴァントたちもまた遥の傍らへとレイシフトをする。だが、そこに立香やマシュの姿は無い。どうやらロマニの予想通り、多少狙いの座標からズレてしまったらしい。

 しかし、立香たちがいないのならそれを考慮して動くまでのことである。レイシフトによるまるで乗り物酔いとめまいをない交ぜにしたかのような感覚に遥が顔を顰めていると、傍らに立つタマモが口を開いた。

 

「マスター、あれを」

「ん? ……なんだ、あれ」

 

 驚愕と警戒が籠ったタマモの声。その指し示す方向を見た遥は、その先に在ったものに目を見開いた。エミヤと沖田もまた、何が起きているのか分からずにそれを見上げている。

 タマモが指し示すその先に在ったのは、光の輪だった。空に光の輪が浮いているというのも不思議な話だが、問題はそこではない。その円環は空を包み込むように広がっていた。衛星軌道上に展開された魔力の流れか、或いは魔術式か。分かっているのは、それが正規の歴史にはないことだけだ。

 これだけ目立つ異様な現象が発生していたのなら、それが記録に残っていない筈はない。それは転じて、あの光の円環が人理焼却、ひいては人理焼却の犯人に関わるものであるということを示している。

 改めて自分たちが相対している敵の強大さを認識すると共に、遥は意識を切り替えた。これはこれまで遥が経験してきた戦場のどれよりも過酷なものになることは間違いない。なら、それ相応の覚悟が必要だ。

 周囲の様子を確認する。――転移してきたのはフランスの何処かにある道の途中。特にこれといった人影や敵影はなし。空に異様なモノがあることを除けば、至って普通の中世の田舎といった様子だ。

 

「なんだか拍子抜けだな。転移してすぐ戦闘でも、俺は構わなかったんだけど」

「いったいどんな修羅場を期待していたのかね、君は……」

 

 遥が漏らした呟きに、エミヤが呆れた様子を見せる。だが遥は期待外れとでも言いたげな言葉を漏らしはしたが、その声音はどこか安心を伴ったものであった。

 特異点とはすなわち歪んだ歴史である。人理焼却の犯人が聖杯を用いてどのようにしてフランスの歴史を歪ませようとしているのかはまだ全く不明の状態であるが、少なくともすぐに人理が崩壊するというところまでは至っていないらしい。

 しかし、だからといって悠長にしていられるものでもない。こうしている間にも、人理の崩壊は刻一刻と迫っているのだ。それに、できるだけこの特異点を早急に排除できた方が後の特異点修正にかけられる時間も増える。

 だが、現時点ではこの特異点の状況を何も分かっていない状態だ。ロマニも、立香の方を優先的にサポートするように言ってあるためまだ連絡を入れてこない。合流しようにもできないという現状であった。

 

「何もせず連絡を待ってるのも暇だ。情報収集でもするか。……近くに街でもないかな?」

「それなら、道なりに進みましょうか。ここが街道ならいずれ街に行きつくでしょうし」

 

 沖田の提案に遥が頷きを返す。誰かアサシンでもいれば自分たちは一時的な拠点を定めつつ、アサシンに情報収集をさせることもできただろうがいない以上は考えても詮無いことだ。

 街を目指して街道を歩きながら、遥はカルデアに来る前にフランスを訪れた時のことを思い出す。あまり語学に精通してない遥は非常にスマートフォンの翻訳機能に助けられた覚えがあった。滞在期間終盤は話せるようになっていたが。

 魔術師的に言えばフランスは魔術協会の重要施設がある訳ではなく、アトラス院の根拠地がある地でもない至って普通の場所だ。その滞在は、放浪と言うよりも観光といった意味合いが強かった。特にこれといった思い出もない。

 そんなことを考えていると、くぅ、と遥の腹の虫が啼いた。遥はそれに忠実に従い、ロングコート裏のポケットからハンバーガーを取り出して咀嚼する。その様子に、タマモが苦言を呈した。

 

「立ち食いは行儀が悪うございますよ、マスター? というか、なんでそんなもの持ってるんです?」

「いや、おやつにと。……というか、タマモってさ」

 

 そこで言葉を一旦区切り、遥は一個だけカルデアから持ってきたハンバーガーを嚥下する。半ば物理法則を無視しているようにも見えるその超人的な食事速度に、エミヤが眉根を寄せた。

 しかし遥はそんなエミヤの様子には気づかず、ここ数日になってようやく直視できるようになったタマモを上から下まで視線を滑らせる。その行為ひとつで、遥の内に奇妙な感覚が生まれた。

 それは扇情的な恰好をしているタマモへの劣情などではなく、ましてや男女の情欲でもない。むしろそこから最も遠い箇所に位置する感情だった。タマモを召喚した時と同じ、何とも言いようのない畏怖や畏敬。それが遥の内に発生した感情であった。

 理性ではない、もっと深いところから発生しているその感情。恐らくは夜桜に流れる人外の血によるものだろうが、その血のルーツとタマモの間に如何なる関係はない筈なのだ。その感情を飲み下し、遥は純粋に自身の内から生まれた疑問を口にした。

 

「タマモって『良妻』系『巫女』『狐』とは言うけど……この中じゃ『巫女』度が一番低いよな」

「みこーん!? 何をおっしゃいますか、マスター!? なんだかデジャヴな質問ですけれど……ホラ、私レベルになるとアピールしなくても巫女なワケですし……」

 

 デジャヴということは、本来仕えるべき主――岸波白野という魔術師にも同じ質問されたのだろうか、と遥は考える。さもありなん。本来巫女とは神に仕える者であるが、タマモは神性を持っているためどちらかと言えば仕えられる側というイメージがあった。

 タマモは料理が上手く、また気立ても良い。まさに今の日本では絶滅危惧種となっている類の良妻だろう。さらに、狐というのも頭に生えている狐耳と尻から生えている尻尾を見れば一目瞭然だ。

 だが、遥はいまいち巫女というところがピンとこなかった。確かにタマモの攻撃方法は身体強化全開の肉弾戦と呪符と呪術による物理現象の誘発と無理を言えば巫女とも言えなくもない。

 自分自身でもあまり巫女らしくないという自覚があるのか、タマモは何も言わない。しかし何か思いついたようで、笑顔で遥に言う。

 

「あ、カルデアに戻ったらおみくじ引きます? 一回300円で」

「祭日に動員されるバイトかっ! てか、地味に高いな……お。街、いや、村か。見えてきたな」

 

 ただの魔術師である遥に見えているのだからサーヴァントたちには既に見えていたのだろうが、言わなかったのはさして気にすることでもないからか。沖田の言った通り、街道の途中にある村であった。

 しかし、遥の予想が正しければ今は厳戒態勢が敷かれている筈だ。この特異点のフランスに何が起きているのかは未だ把握してないが、ひとつの時代を破壊するような事態が起きているというのに呑気に来るもの拒まずなど言っていられるとは思えない。

 深呼吸をひとつ零し、人格(キャラ)を切り替える。いつも見せている素の表情から、時々使う人当たりの良いものへと。世界各地を巡っているうちに自然と身に付いた会話術であった。

 そうして村に踏み入ろうとした時、案の上村の入口に立っていた衛兵に阻まれた。

 

「待て。貴様ら、何者だ?」

 

 そう遥たちに問う声には最大級の警戒と、僅かな恐怖が混じっていた。遥は衛兵のその様子に何か不穏なものを感じたが、その疑念を笑顔の仮面の下に隠した。

 

「俺たちは旅の者です。歩いている間に村を見付けたので立ち寄ったのですが……」

「旅の者? こんな辺境の村にか?」

 

 遥の答えに違和感を覚えたようで、衛兵が首を傾げた。その様子に、やはり無理があったかと遥が内心歯噛みする。この時代、旅をするような酔狂はそうおるまい。いたとしても外国から来た商人だろうか。どちらにせよ、こんな辺境まで来るような人間は皆無に等しい。

 不味い、と感じた遥はすぐに暗示の魔術を行使し、衛兵に暗示の魔術をかけた。いくら現代よりも神秘が濃いこの時代の人間といえど、魔術師や英雄ではない人間の対魔力などたかが知れている。衛兵は容易に暗示に掛かり、遥たちを彼の言葉通りの存在だと受け入れた。

 何の罪も義務もない人間を利用するのは罪悪感があるが、この際なりふり構っていられない。弾避けにするよりはマシだと自分を納得させ、遥はこの衛兵から今のフランスについての情報を引き出すことにした。

 

「随分警戒してるようですけど、何があったんです?」

「なんだ、アンタら、知らないのか? オルレアンの乙女……ジャンヌ・ダルクが蘇ったんだよ。数多の竜を従える竜の魔女としてな」

 

 忌々しい、とでも言いたげな衛兵の言葉。そこに、遥は聞き捨てならないものを感じ、一瞬だけ素の表情を見せた。

 ジャンヌ・ダルクが蘇った――死者の完全な蘇生などは万能の杯を以てしても絶対に不可能な事項だが、復活だけを意味するなら可能な術を知っている。遥自身、それを従えているのだから。

 成し遂げた功績と知名度、さらに時代を考えればジャンヌ・ダルクが『座』に登録されていることは疑いようもない。サーヴァントとして召喚するのは可能な筈だ。知名度によるステータス補正を得るというサーヴァントの特性上、間違いなく強力な英霊として顕現していることだろう。

 だが、竜の魔女とは。英雄が英霊として座に登録されて生前のそれから変質する場合もない訳ではないが、それも人々が抱いているイメージや逸話を拡大解釈したものに留まる。ジャンヌ・ダルクと竜には何の関係もない故に、本来ならそんな特性は付加されない筈だ。

 

「幸い、この村はまだ襲撃を受けていないが……いつ襲われるかも分からない。これならまだイングランドの奴等の方がマシだってモンだ。まぁ、王が殺されては対応の仕様もないがな……」

「王……シャルル7世は死んだんですか?」

「そうだ。魔女の炎に焼かれて亡くなられた。王だけじゃない。司教までも魔女の手に掛かってしまった……」

 

 司教、というとピエール・コーション司教だろうか。ブルゴーニュ派かつ親イングランド派の司教で、ジャンヌ・ダルクの異端審問では裁判長を務めた人物だ。成程火刑への復讐としては最優先の殺害対象であろう。

 自分が忌々しいと思っていた相手をまんまと陥れたと思えば復活した当人に殺されるなど滑稽すぎて同情の念も湧かないが、遥はそれを全く表情には出さなかった。円滑な対人関係を築くには表情には出さない方が良いこともある。遥の本心としてはその理屈は嫌いで仕方ないが、貫かなければならない時もある。

 自分を異端と断じた司教を殺害し、さらに王も殺してからフランス全土を蹂躙する。――まるで自らが行った救済を全て無に帰しているようだ、と遥は思った。だが、それも仕方あるまい。自らの行いが異端であるなら、その救済を受けた人々を殺してしまえと思うのはある種自然な思考だ。

 だが、理解はできても納得はいかない。自分の復讐に全人類を巻き込むな、と激憤するが遥はそれを呑み込んで心の奥底に沈めた。

 

「旅をしているというならせいぜい気を付けることだな。襲われればただでは済まないぞ?」

「ハハハ。忠告感謝しますよ。では、俺たちはここで」

 

 そう言って会釈をすると、遥はサーヴァントたちを連れて村へと入って行った。衛兵の注意が届かない辺りにまで来て、もう一度ため息を漏らして演じていた仮面(じんかく)を外す。慣れてはきたが、それでも疲れるものは疲れる。

 人々が行き交う道の端で、円になるようにして向かい合う。ロングコートの男がひとり、和服の少女がふたり、何とも言いようのない赤い外套の男がひとりという集団はこの時代のフランスにあって相当に目立ったが、話しかけてくる者はいない。

 周囲から若干の奇異の視線に晒される中、会話の口火を切ったのは沖田であった。

 

「……ハルさんの予想通り、敵の首魁はジャンヌ・ダルクのようですが、しかし……」

「何か妙なのも事実だな。ジャンヌが竜を従えてるなんて逸話、聞いたことないぞ」

 

 あの衛兵に嘘を言っている様子はなかった。例え彼が生前のジャンヌ・ダルクを見たことはないのだとしても、あれだけの警戒態勢を敷いているのだから彼に伝わったその話そのものが嘘だということもあるまい。

 しかし、それではサーヴァントの原則に合わない。サーヴァントはあくまでも英霊の再現であり、生前の事項や逸話から逸脱することはない。ある筈のない逸話を付加されたサーヴァントというのも何らかの方法を使えば可能なのかも知れないが、遥たちがその方法を知らない以上は考えても仕方のないことだ。

 サーヴァントとして人理焼却を計画した者たちに召喚されたジャンヌ・ダルクが復讐のために与えられた聖杯で竜種を召喚している、というのもない話ではないのではないか、と遥が考えた時、それに先回りするようにしてタマモが首を傾げた。

 

「私、とある聖杯戦争でジャンヌさんを見かけたことがあるのですが……私には、とても復讐を望んでいるようには見えませんでしたけどねぇ」

「そうなのか? だとすると余計に分からないな……」

 

 仮にジャンヌ・ダルクの反転(オルタ)が召喚されたならばどうするか。――あり得ない。反転するにしても、まず生前のジャンヌに恨みや憤怒がなければ反転は起こりえない筈なのだ。

 反転についてよく分かっている訳ではないが、アルトリア・オルタを見ている限り内包する別な側面の発露であると遥は考えている。本来のアルトリアがどのような性格であるかは全く知らないが、正反対の性格でも根っこの部分は変わっていないのだろう。

 根っこから変わってしまうのなら、それは反転ではなく別人の創造だ。このフランスに現れたジャンヌを見ていないため何を考えても妄想に過ぎないが、何かおかしいことは明白であった。

 ここに留まっていても仕方がない。早い所立香と合流しよう、と遥が言おうとした時、小さい電子音が遥たちの耳朶を打った。遥が装着している通信装置の着信音であった。

 

「なんだよ、ロマン。ようやく――」

『今すぐその村から離れるんだ、遥君ッ!!! サーヴァントの反応が数騎、そっちに向かっている!!!』

 

 前口上すらもないほど焦った様子のロマニの警告に、一同が身をこわばらせた。噂をすればなんとやら、とはよく言ったものである。この状況で襲撃を仕掛けてくるサーヴァントなど、件の魔女以外には考えられない。

 カルデアで観測するとほぼ同時に沖田たちもサーヴァントの存在を感知したようで、警戒心と闘争心を総身から迸らせる。だが、彼らにようやく感知できたというのに魔女はどうしてそれよりも離れた位置から察知できたのだろうか。

 いや、或いは魔女が襲撃しようとした街に偶然遥たちが居合わせただけなのだろうか。どちらにせよ、敵が迫っていることは事実であった。

 

「そうか。まさかこれほど早くに出会えるとはな。乙女座の俺には、センチメンタリズムな運命を感じずにはいられない」

『何を言ってるんだ、君は!! ああっ、無数の魔力反応がその村に入ってきた!!!』

「丁度いいだろ。どうせいつか戦うことになるんだ。……すまない、ちょっと付き合ってくれるか?」

 

 そう言って遥は沖田たちに少々申し訳なさそうな表情を向けた。それを見て、サーヴァント3人が呆れたため息を漏らした。それは敵が迫っている状況で逃げようとしないマスターに呆れているのではない。こうなっては梃子でも動かない強情さに呆れているのだ。

 魔女がこの村に近づいているということは、遥たちが逃げてしまえばこの村から魔女と戦えるだけの戦力が無くなってしまうということを意味する。そうなってしまえば、村人たちはひとり残らず蹂躙され、殺戮に遭ってしまうだろう。

 そんな中、遥たちだけが村の人々を見捨てて逃げる訳にはいかない。ロマニたちは特異点で失われた命は特異点が消滅すれば戻ると言うが、()()()()()()()()()()()と遥は考えていた。人の命は、そう簡単に戻ってくるものではない。

 相手が戦士であれば遥も目の前で死んでいくことを許容しよう。敵対すれば殺すこともあるだろう。彼らは戦士であるが故に、死ぬ覚悟を決めているからだ。だが無辜の民は違う。この時代は黒死病(ペスト)などで簡単に死ぬ時代だが、彼らに死の覚悟はない。だというのに虐殺されるのを黙って見ていることは遥にはできなかった。

 

「仕方あるまい、他でもないマスターの頼みだ。……それに、虐殺を見過ごすほど落ちぶれてはいないつもりなのでね」

「私は別にアレですけど、マスターがそうおっしゃるのなら」

「ええ。ハルさんが斬れと言うなら、私はそれに従うだけです」

 

 皆どこか消極的な言葉を口にしてはいるが、彼らが遥の言葉だから戦おうとしているのではないことは表情を見れば明らかであった。彼らは皆、自らの意思でこの村に訪れようとしている災厄と戦おうとしている。

 ああもうっ、分かったよ! とロマニが諦めたように吐き捨てた。だがその声音は遥を見捨てたものではなく、どこか納得しているようでもあった。ロマニ自身、遥の性格からして素直に逃げないことは初めから分かっていたのだ。

 遥が逃げないと言うのなら、ロマニはそれをサポートするだけである。ロマニは索敵に集中することにして、村のどちら側から魔力反応、つまりは竜種たちが入ってきている方角を伝える。それを聞いた遥たちは、ロマニの次の言葉を待つこともなくその方角へと飛び出していった。

 限界まで身体に身体強化を掛け、さらに固有時制御によって体内時間を倍化させて走る。その途中、遥たちの視線の先で爆発が起こり黒煙が立ち昇った。次いで聞こえてきたのは、村人たちの悲鳴と小型の竜種――ワイバーンの咆哮。間もなくして、その姿までもはっきりと見えるようになった。

 エミヤが黒弓を投影し、家屋の屋根に昇って狙撃を開始する。対して遥と沖田、タマモは逃げ惑う人々を飛び越えて空中に躍り出る。

 人の海を越えて彼らの視界に入ったのは、何処かからか湧き出てくるワイバーンたちが村を蹂躙する光景。もっとも身近な形での死の具現であった。

 

「氷天よ、砕け!!」

 

 呪相・氷天。逃げる人々を追うワイバーンの足元へと投げた呪符を起点に一瞬にして発生した氷塊が、数匹のワイバーンを一息に貫いた。氷の棘に貫かれた竜たちは死を認識する暇すらもなく、絶命せしめられる。

 遥と沖田はワイバーンを貫いて地上に咲いた氷を足場に飛び上がり、氷の壁を越えてなおも人々を襲わんとしていたワイバーンへと踊りかかった。宝刀の切っ先はワイバーンの鱗の鎧を容易く貫き、眉間へと刃を突き立てられた竜が息絶える。

 遥と沖田が付近で暴れるワイバーンを屠り、エミヤとタマモがふたりが殺し損ねた個体やふたりがいる方向ではない所から迫ってくるワイバーンを処理する。

 竜種は幻想種としては頂点に位置する存在であるが、内包する神秘は神造兵器に敵うものではない。叢雲の刃に食らいつかれた竜たちは抵抗することすらも許されずにその命を霧散させていく。

 しばらくしてようやくワイバーンたちは標的を村そのものから遥たちへと変える。数匹のワイバーンが遥を取り囲み、ほぼ同一のタイミングで真空波めいた風の刃を放った。しかし。

 

「遅い」

 

 短くそう言い放ち、遥が左手を地面に突く。同時に全身に刻まれた魔術刻印に魔力を通し、そこに記録された魔術を起動させた。左手を基点にして封印の魔法陣が展開した。いかな幻想種の攻撃とはいえ、たかが空気の刃が神代の魔術を貫くはずもなく、刃は防壁に阻まれて霧散する。

 次いで遥に肉薄し、その鋭い爪で引き裂かんとする竜たち。だが固有時制御で行動を加速している遥の動きはその竜たちの攻撃すらも見切り、迫ってきた爪を脚ごと切り裂く。鮮血が飛び散り、ワイバーンが怒りの咆哮をあげた。しかし、それもすぐに途絶える。

 間髪入れずに叢雲の返す刃でワイバーンの首を根本から断ち切り、竜たちの首が宙を舞った。英霊でもない人間が幻想種を相手にして遅れを取るどころか手玉に取っている。まさに鬼神の如き活躍であった。

 村に湧いたワイバーンたちを順調に駆逐していく遥たち。だが、遥たちがワイバーンを駆逐するよりも早く、その声は頭上から降ってきた。

 

「あら。随分と邪魔してくれたものね、忌々しい」

 

 唐突に耳朶を打った耳慣れない声に、遥が天を仰いだ。その視線の先にいたのは数匹の黒いワイバーンと、その背に乗った法外な魔力を放射する超常の存在――サーヴァント。

 およそ5騎ほどいるサーヴァントたちであるが、中でも遥の目を惹いたのは、最も大きい体躯を誇る個体に乗った少女であった。病的なまでに白い肌と、空恐ろしいまでの憎悪を孕んだ黄金の瞳。身に纏う漆黒の鎧はまるでその憎悪を編み上げたかのようでもあった。

 初めて見る相手であった。だが――その場にいる誰もが、一目でたちどころにその正体(しんめい)を悟った。(マスター)を守るために沖田たちが遥の周りに集う。その中で、遥が空を見上げて不敵に笑った。

 

「ああ、ようやく出てきやがったか。なぁ? ――ジャンヌ・ダルク」

 

 漆黒の視線と黄金の視線が、交錯した。




遥の誕生日は9月1日です。つまり乙女座。


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第15話 瞳の奥

 唐突に目の前に現れた魔女は、言い知れぬどす黒い感情を遥たちにぶつけてきていた。

 まるで人が一生に抱く憎悪と憤怒をかき集めて人形に詰め込み、生命を吹き込んだかのような。そんな思いを抱くほどまでに純粋な負の想念の塊が、彼らの前には立っていた。

 纏う雰囲気はどこかアルトリア・オルタに似ている。本物のジャンヌ・ダルクとは関係がないという遥の予想に反して――何か妙だが――ジャンヌ・ダルクの反転存在(オルタナティブ)であるらしかった。だが、今はそんなことは問題ではない。

 ジャンヌが引き連れている4騎のサーヴァント。遥はそれらを一瞥すると、その外見と気配から真名の予想を開始した。

 レイピアを携えているのはまずセイバーと見て間違いはないだろう。外見は完全に女性だが、その引き締まった表情にあどけなさの気配はない。その外見や服装から中世ヨーロッパの人物であることは分かるものの、真名までは推定できない。

 杖を持ち、仮面を着けた真紅のドレスの女性はアサシンだろうか。これはその隣にいる槍を構えた男――ランサーと同じく遥がこれまで遭遇してきた化生、それも死徒に近い気配を纏っている。吸血鬼伝説の逸話を背負う男女と言えば、エリザベート・バートリー或いはそれをモデルにした血の伯爵夫人カーミラ、そして男性はワラキア公国の英雄ヴラド・ツェペシュ。

 最後。十字架の形をした杖を携え、露出が覆い服を着ているのは聖女の類だろう。見た目や雰囲気だけでは情報が少なすぎて真名を特定することはできない。クラスも不明だが、少なくとも三騎士のどれかではあるまい。

 遥が真名を推理し、沖田たちが警戒をする中で、ジャンヌ・ダルク――もといジャンヌ・ダルクの反転英霊(オルタナティブ)たるジャンヌ・オルタとその従者たちが大地に降り立った。

 

「どうもどうも、お初にお目にかかる。麗しの聖女……いや? 麗しの魔女さん?」

「気に入らないわ。気持ち悪いわね、マスターさん?」

 

 わざと慇懃無礼に礼の仕草を取って見せた遥に、ジャンヌ・オルタがこれ以上ないほどの敵意が籠った悪罵をぶつけた。慣れていない者が浴びせられれば一瞬にして気絶するほどの敵意だが、遥は冷や汗ひとつ流さない。サーヴァントからの敵意には冬木の時点で慣れた。

 どちらかが得物を構えればその瞬間には戦闘が始まってしまいそうなほどの緊張感が、空気を張り詰めさせている。しかし、数という点で見れば明らかに不利であるのは遥たちの方であった。ジャンヌ・オルタ側は彼女を含めて5騎。対して遥側は3騎のみである。

 遥もサーヴァントと戦えない訳ではない。宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟を発動すれば多少劣化した大英雄に匹敵する力を得ることができる。一瞬で暴走に陥ることを覚悟して封印を外せば、大英雄を超える力を発揮することもできるだろう。

 だが、ここで決着を付けることができる訳ではないのに手の内を全て明かすのは戦略的に考えて避けた方がいい。ここでできるのは真名解放までだ。叢雲の真名解放は以ての外だ。現状、攻撃手段として最大級の手札(カード)をすぐに切る訳にはいかない。可能だとしても、威力を抑えた限定展開まで。

 そこまで戦力分析をすると、遥はジャンヌ・オルタに向けて飄々とした、しかし内に言いようのない怒りを込めた低い声で問うた。

 

「なぁ、魔女さんよ。アンタ、なんでこの村を襲った? 俺たちがいたから……ではないだろ?」

「何故、と……おかしなことを訊きますね。貴方、もうとっくに分かっているのでしょう?」

 

 似合わない敬語でそう言うジャンヌ・オルタの声には、遥を嘲笑するかのような色合いがあった。それは断じてジャンヌ・オルタが遥を自らの理解者だとしたのではない。しかし、ある意味ではそれに近いところがあった。

 一目互いを見た時から、遥とジャンヌ・オルタの間にはある種共通理解のようなものが生まれていた。互いを見る瞳の奥に、ふたりは自分自身が内に秘める感情と同じものを見出したのである。遥にとっては、それだけでジャンヌ・オルタがこの村を襲った理由を確信するのに十分であった。

 要は、ジャンヌ・オルタは『救済』というものが、それを甘受している者たちが憎くて憎くてたまらないのだ。その感情は遥にも大いに理解できる。それは遥が嘗て抱き、今も残滓が魂にこびりついている感情だった。

 だが、理解はできても納得はしない。共感はしても同情はしない。そんなものをジャンヌ・オルタは欲していないし、何より遥自身の信条として敵にそんなものを抱くことはない。

 

「あぁ、この国が憎いのは分かった。けどさぁ、それじゃ困るんだよ。アンタの復讐に、関係ねぇ奴らまで巻き込むんじゃねぇ」

「関係のない者がどうなろうと、私の知ったことではありません。……これは私の復讐だ! 何も知らない者が、口を挟むな!」

 

 言葉の途中でジャンヌ・オルタが平静の仮面を外し、憤怒を露わにする。灼熱の焔が如き赫怒に晒されながら、しかし遥は平静そのもので、とても憤怒の化身を前にしている者の表情ではなかった。

 どれだけの熱量の怒りを以てしても、遥の前では冷や水も同然であった。如何なる憤怒を内包した怒りであろうが、遥を焼き殺すことは叶わない。遥が生まれもって内包している煉獄の方がずっと熱い。

 遥が溜息を吐く。これから先はどうなるかなど知らないが、少なくとも現時点で遥とジャンヌ・オルタの両者の在り様は絶対に相容れない。片や憤怒と憎悪のままに復讐を成す魔女。片や憎悪と憤怒を抱きながら復讐を成さぬ者。根本は似ていても、人格は決定的に異なっている。

 何にせよ、相容れないのなら――戦って、(ころ)すまで。

 

「こんな愚者たちに救う価値なんてない。……最後に訊きます。何故、貴方は私の邪魔をするのです?」

「何故、と……おかしなことを訊くな。そんなの、自分で考えろ」

 

 今度嘲笑をぶつけるのは遥の番であった。そんなことも分からないのか? と。

 あからさまな嘲笑はやはり癇に障ったようで、黄金色の瞳が更なる憤怒に歪んだ。遥の漆黒の瞳とジャンヌ・オルタの黄鉛色の瞳が再び交錯する。それはまさしく、凍結されていた戦端が開かれた合図であった。

 行け! バーサーク・サーヴァントたち! ジャンヌ・オルタの号令が飛び、それに応えたサーヴァントたちが馳せる。それとほぼ同時、遥もまた指示を飛ばした。

 

「今だ、エミヤ」

「了解した。――停止解凍(フリーズアウト)全投影連続層写(ソードバレル・フルオープン)

 

 遥の指示によって、エミヤが背後の空間に展開させていた全ての投影宝具に魔力を通した。顕現する間際で工程を凍結されていた宝具たちが一瞬にして全て顕現する。その数は百を下らないだろう。遥がジャンヌ・オルタと話している間にひっそりと準備していたのである。

 突如として顕現した無数の宝具を視認し、咄嗟にバーサーク・サーヴァントたちが後退しようとする。だがその判断は一足遅く、エミヤが手を振り落とすと同時に地面に切っ先を向けた宝具たちが空中を馳せた。

 綺羅星が如き宝具の刀身が空中を貫き、バーサーク・サーヴァントたちに殺到する。真っ先に対応したバーサーク・ランサーが大地から杭を壁のように生やして防御しようとするが、しかしバーサーク・サーヴァントたちは狂化によって思考が鈍っているために正常な思考ができていなかった。

 基本的に英霊の宝具とは多くともひとりの英霊に対して3つか4つほどしかないのが原則である。故に、彼らはエミヤが持つ〝固有結界から無限に投影宝具を生み出す〟などという魔術に気付かなかったのである。狂化がなければ瞬時に気付いたサーヴァントもいただろうが、狂化が仇となって対応が遅れてしまった。

 杭の防壁に突き刺さった無数の宝具。エミヤは躊躇いなくそれらが秘めた神秘を解放し、壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)を引き起こした。制御を失った神秘が爆炎として膨れ上がり、食らいついた杭の防壁を粉微塵に破壊する。領土ではない土地で出せる限界量まで防御に回していたために直撃は免れたが、それでも被害は免れ得ない。

 何しろ投影とはいえひとつひとつが超常の神秘を宿す宝具である。爆発と化した神秘の波濤はバーサーク・サーヴァントたちを呑み込み、その身体に傷を負わせた。さらに壊れた幻想の爆発によって大地が捲れ上がり、分厚い土煙が巻き上がる。

 だが、この程度ではジャンヌ・オルタの行動を阻害する要因とは成り得ない。例え視界を塞がれようと、ルーラーにはサーヴァント探知能力があるのだ。このまま攻撃のため迫ってこようと、ジャンヌ・オルタには対応してみせる自信があった。――次の瞬間までは。

 突如としてジャンヌ・オルタの視界に入ってきた土煙を裂いて奔る銀閃。あまりに唐突で気配すら感じなかったその攻撃を彼女は避けきることができず、飛来した刃が魔女の太腿の肉を抉り、質量に似合わぬ強い衝撃がジャンヌ・オルタを吹き飛ばした。そのまま何メートルか転がり、旗を地面に突いて停止する。

 そうして太腿に刺さったものを引き抜く。その武装に、ジャンヌ・オルタは覚えがあった。

 

「ぐっ……! これは、黒鍵!?」

 

 聖堂教会に所属する代行者たちの標準兵装である〝黒鍵〟。それがジャンヌ・オルタを襲った刃の正体であった。魔力で編まれた刃が消失し、残った柄をジャンヌ・オルタが握り潰す。だが、襲撃者の奇襲はそれでは終わらなかった。

 瞬間移動もかくやといった異常な速度で接近してきた敵がジャンヌ・オルタに対して回し蹴りを放つ。ジャンヌ・オルタはそれを旗を使って受け止めるが、衝撃を完全に相殺することができずに何歩か後退した。

 そうしてようやく視認して敵を見て、ジャンヌ・オルタが瞠目する。その様子を見て、襲撃者――遥が嫌な笑みを浮かべる。その姿は通常のそれではなく、宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟を発動して龍神と同化した状態にあった。

 ジャンヌ・オルタにはその原理は分からなかったが、先の攻撃がただの目晦ましではないことは分かった。遥はエミヤに指示して発生させた壊れた幻想の神秘に紛れて宝具を使用することで、ジャンヌ・オルタたちに宝具使用を悟らせなかったのである。

 しかし、黒鍵でジャンヌ・オルタを吹っ飛ばしたのはその膂力によるものではない。ジャンヌ・オルタを吹き飛ばしたのは〝鉄甲作用〟と呼ばれる、埋葬機関に伝わる特殊な投法を見様見真似で模倣したものによるものであった。

 

「私にあんな武器を使うなんて……皮肉かしら?」

「ああ。皮肉さ!」

 

 嘲笑するかのような笑みを浮かべるジャンヌ・オルタに遥はそう言葉を返すと、左手で拳を放った。ジャンヌ・オルタはそれに対応して真正面から拳を受け止めるが、衝撃が骨を震わせる。

 なんだ、こいつは!? ジャンヌ・オルタが驚愕する。マスターである筈が自分が前線に立って戦い、あまつさえサーヴァントと対等に渡り合うなど。いや、筋力に関して言えば対等ではない。ジャンヌ・オルタの筋力ステータスはAだが、遥のそれはA+に匹敵するだろう。彼女が受け止められないのも道理であった。

 遥の放つ拳と叢雲の連撃を何とか回避しながら、ジャンヌ・オルタはバーサーク・サーヴァントたちの方に視線を遣った。可能なら援護をさせようとしたのだが、彼らは遥のサーヴァントたちと戦っているためジャンヌ・オルタの援護は不可能であった。

 

「戦闘中に余所見か。随分余裕だなッ!!!」

 

 そう言い放つと同時に遥は一歩飛び退き、間髪入れずに平突きを放つ。セイバーのサーヴァントかと見紛うばかりに正確な、ジャンヌ・オルタの心臓を狙った一撃であった。

 正確無比なその一撃にジャンヌ・オルタは舌打ちを漏らすと、腰に帯びた剣を引き抜いて振るった。遥の剣術とは異なり、不慣れな剣術ではあったがその剣先は叢雲の刃を捉え、軌道を逸らすことに成功する。

 戦争を経験した人間にしては不慣れな剣の扱いに遥は疑問を覚えたが、すぐにその理由に気付いた。伝承に曰く、ジャンヌ・ダルクは生前一度も腰に帯びた聖カトリーヌの剣を使わなかったという。故に剣の扱いに慣れていないのだ。

 対して遥は彼自身に才能があるうえ、叢雲に宿る記録を継いでいるために歴戦の英雄にも引けを取らない練度を誇る。慢心さえしなければ、剣を使った戦いではジャンヌ・オルタに負けはしない。

 

「セアァッ!!!」

 

 裂帛の気合を吐き出すと共に頭蓋を叩く激痛を意識から締め出し、叢雲を縦横に振るう。英霊の身体能力を以てしても正確に捉えきることが難しい、神速に迫る剣技。だがジャンヌ・オルタそれを旗を自在に操って防いで見せた。

 剣の扱いには慣れていなくとも、反転しているとはいえジャンヌ・ダルクである以上は旗の扱いはそれなりに熟練しているのだろう。叢雲よりも重量のある旗を絶大な膂力によって振るい、防御しつつもいつでも反撃できるように遥の動きを注視している。

 ハハッ――、と遥が獣のように笑う。折角この特異点の黒幕と思しきサーヴァントと出会えたのだ。こうでなくては面白くない。互いに命を削るような戦い。一方的に弄るのでは駄目だ。死線を潜り、心躍る殺し合いを演じ、その果てに一撃で屠る。それこそが――。

 

「ぐぁっ……!」

 

 獣に呑まれかけていた意識が正常に戻った瞬間に生まれた隙。それをジャンヌ・オルタは見逃さず、遥の胴に槍を叩き込んだ。宝具ではない槍の穂先は鱗を貫くことはなかったが、それでも衝撃は内臓を叩き遥が血を吐く。

 とても槍術などとは呼べないお粗末な刺突であったが、単純な刺突であるが故にジャンヌ・オルタの筋力がそのまま威力へと転換されていた。だが、遥はそう簡単に怯むことはなく、一矢報いらんと旗を掴んでそのまま押し返した。旗が押し返され、石突がジャンヌ・オルタの腹を叩く。

 互いに攻撃を喰らわせ、睨み合う。瞬間、ジャンヌ・オルタはまるで遥の瞳の奥、先に見たより奥にあるものを覗いたかのような奇妙な感覚に襲われた。ジャンヌ・オルタの黄金の瞳とは全く異なる漆黒の瞳の奥に、自分と同じ色合いを見出したのである。

 同時に彼女の胸中に去来した感情は、これまでジャンヌ・オルタが感じたことがない感情であった。決して良い感情ではない。むしろ憎悪よりもなおどす黒い何か。だがそれに名前を付けるより早く、遥が斬撃を放った。

 本来魔力の斬撃を放つために込める魔力を強引に刀身に圧縮して叢雲を振るい、ジャンヌ・オルタを斬り裂かんとする。しかしジャンヌ・オルタはそれを辛うじて避け、叢雲の刃が地面を叩いた。その瞬間に刀身に込められていた魔力が解放されて巨大な爆発を起こす。

 

(こいつっ……)

 

 もしも斬撃が当たっていれば、彼女の体内で今の爆発が起きていたということになる。そうなっていればジャンヌ・オルタの霊基(からだ)は跡形も残らず爆発四散していただろう。

 ぞわり、とジャンヌ・オルタの背筋を悪寒が撫でる。彼女が言えた話ではないが、確実に敵を殺しにきている。情けも容赦も、酌量の余地すらなく自分に敵対した相手を殺す冷徹な眼が、ジャンヌ・オルタを捉えていた。

 連続で放たれる斬撃を回避すべく後ろに後退するジャンヌ・オルタ。遥はすぐにロングコートの裏に装備した黒鍵の柄を抜き放つと魔力で刀身を編んで投げ放った。それを旗で弾こうとしたジャンヌ・オルタであるが、強い衝撃を受けて吹っ飛ばされる。またしても鉄甲作用。さらにその4連であった。

 

「このっ、代行者でもないクセに黒鍵なんて……!」

「悪いな。使えるモノは何でも使う主義でね……!」

 

 そう言って再び遥が投げ放った黒鍵を、今度は受けることはせずに避けた。遥の鉄甲作用は見様見真似の模倣であるが故に素のままでは埋葬機関のそれより威力が低いが、黒鍵に掛けた魔術によって衝突時の衝撃を数十倍に引き上げている。不意打ちであれば真祖すら吹き飛ばす攻撃を、サーヴァントが受けきれる筈もない。

 だが単純な投擲であるため、軌道さえ見切ってしまえば回避は容易い。事実、ジャンヌ・オルタはその軌道を見切って避けた。だが、次の瞬間に彼女は驚愕に見舞われる。

 

「――戻れ!」

「なっ!?」

 

 ジャンヌ・オルタが避けたことで地面に突き刺さる筈だった黒鍵はしかし、そのまま突き刺さることはなかった。遥の一小節(シングルアクション)の詠唱によって黒鍵に仕込まれた魔術が作動し、黒鍵が空中で向きを変えてジャンヌ・オルタの方に戻ってくる。

 今度は鉄甲作用による攻撃ではないため弾くのは容易かったが、黒鍵の飛来に合わせて遥は地を蹴り、叢雲の刃をジャンヌ・オルタに浴びせんとする。自在に操作できる遠隔攻撃との挟撃。だが、それを甘んじて受けるジャンヌ・オルタではない。

 舐めるな! ジャンヌ・オルタが咆哮し、旗を振るって黒鍵を弾くと同時に遥の方に向けた左手から恩讐の炎を放つ。まさかそんな攻撃をしてくるとは思わず、遥が咄嗟に踏みとどまって後退する。そこへ、ジャンヌ・オルタは追撃を放った。

 剣の刀身に魔力を込めると、それに呼応するようにして虚空に魔力が収束して漆黒の槍を作り上げた。突如頭上に現れた槍を遥は迎撃しようとするが、既に遅い。ジャンヌ・オルタの号令によって落下した槍が、鱗を越えて遥の身体を抉る。

 

「ちいぃっ!」

「アハハッ! まだよ! 私の炎で焼き殺してあげるわ!」

 

 ジャンヌ・オルタは高らかに笑い声をあげ、連続で遥に向けて炎を放つ。それもただ無造作に放つのではなく、遥が迫ってくるのを防ぐために炎を壁のように展開して放っていた。

 そのため遥は被弾を避けながらジャンヌ・オルタに接近することができず、ただジャンヌ・オルタが放つ炎を避けるだけの恰好になった。時折黒鍵を投擲したい叢雲から魔力斬撃を飛ばして攻撃するが、ジャンヌ・オルタはそれを魔力槍で迎撃してみせる。

 その状況に、遥が宿した龍神が怒りを募らせる。その怒りは努めて冷静でいようとする遥にまで作用し、遥の視界が次第に黒く染まっていく。ただその中で、敵であるジャンヌ・オルタだけが紅く染まって見えるのは、こいつを狙えという龍神の意思だろうか。

 食いしばった口の端から、獣の唸り声が漏れる。そうして動きが鈍ったことで飛来した槍の一撃を喰らった一瞬、獣の意思が遥の身体を乗っ取った。

 

「このっ……舐めるなァ!!!」

 

 獣の咆哮のような叫びを漏らして遥が大地を蹴ると、あまりの力で地面が陥没した。そのまま弾丸のような速度で飛び出す遥。その視界に映っているのは敵であるジャンヌ・オルタのみ。

 そのせいで、遥は直前までそれに気づかなかった。ワイバーンの大群を引き連れて空より現れた闖入者が召喚したのは超質量の何か。ジャンヌ・オルタを襲撃する匹夫を押し潰す勢いで解放されたそれに寸でのところで気付いた遥は咄嗟に飛び退き、何とかスクラップになるのを回避する。

 完全な奇襲によって冷や水を浴びせられたことで意識を取り戻した遥が落下してきたものを見上げる。優に遥の身長の10倍はあろうかという汚い青色をした烏賊のようにも見える怪物。海魔とでも言うべきものであった。それはどうやら沖田たちの方にも召喚されたらしく、驚愕の声が聞こえてくる。

 解放された海魔は遥を得物と見定めたのか、その巨大な触手で遥を絡め取らんと襲い掛かってくる。だがそれよりも遥の意識を引いたのは、頭上から飛んできた甲高い声であった。

 

「おお、ジャンヌゥ! 我が麗しの聖処女よぉ!」

「……なんだ、アイツ」

 

 襲ってくる海魔の触手を切り飛ばしながら遥が見上げた先にいたのは、奇妙な出で立ちをしたサーヴァントであった。遥や、下手をしたらエミヤよりも高い痩躯をローブで覆い、手には宝具、そして海魔を召喚・使役しているものと思しき魔導書を携えている。

 何よりも強烈なのはその顔だ。決して崩れてはいない、むしろ端整な顔立ちをしていたのだろうに、まるで出目金のように突き出した血走った眼球がひどく凶悪な印象を抱かせる。顔色は非常に青く、人の血が通っているのかさえ怪しいほどであった。カブトガニか何かか……? 遥が思わず呟く。

 だが彼もサーヴァントであるからには何の目的もなしにここに馳せ参じた訳ではないのだろう。恐らくはキャスターと思しき英霊は次々に僕たる海魔を召喚しつつ、ジャンヌ・オルタの前に降り立って騎士の礼を取った。

 

「何をしに来たの、ジル! 私はまだアイツを……」

「恐れながら、ジャンヌ。ここはお退き下さい」

「何を言っているの? 聖杯を所有する者に敗北はあり得ないのでしょう?!」

 

 そう言ってなおも遥と戦おうとするジャンヌ・オルタを、キャスター――ジル・ド・レェは視線だけで押し留めた。ジャンヌ・オルタは彼に一定の信頼を置いていると見えて、それ以上は何も言わない。

 今は滅ぼす側に回ってはいるが、キャスターとて生前はこの国の元帥にまで上り詰めた男である。サーヴァントのスキルとして保有する精神汚染と聖杯に付与された狂化に食われてなお、その戦術眼は曇ることはない。むしろジャンヌ・オルタが傷つけられたことで怒りを通り越した感情は、キャスターに常以上の冷静さを与えていた。

 この戦闘で長時間の劣勢に立たされていたのは、何もジャンヌ・オルタだけではない。ジャンヌ・オルタが召喚したバーサーク・サーヴァントたちもまた数で劣る遥のサーヴァントたちに対して劣勢に立たされていた。歴戦の英雄たちは、狂化に侵されて狂った英霊たちの攻撃など受け付けないのだろう。

 恐らくこのまま戦っていたのではいずれバーサーク・サーヴァントたちは殲滅され、ジャンヌ・オルタも獣と化した敵マスターに食われてしまう。キャスターにはそれを確定した結末と受け入れることができるほど冷静になっていた。

 そして戦術眼においてキャスターに劣るジャンヌ・オルタは彼の進言に従う他なかった。舌打ちを漏らすと、バーサーク・サーヴァントたちに撤退の指示を出す。狂化した英霊たちもマスターの指示には従うと見えて、一瞬で戦闘を切り上げると霊体化して撤退する。

 

「逃がすか……!」

 

 エミヤは黒弓と矢の形に変えた剣を投影すると、ワイバーンに乗って空を飛ぶジャンヌ・オルタに向けて撃ち放った。正確無比かつ強力な一撃はしかし、途中で割って入ったワイバーンに阻まれる。

 遥たちが海魔を殲滅した時には既に空に魔女たちの姿はなく、村にはワイバーンと海魔の骸が転がるばかりであった。

 

 

 

「くっ……! あの男ッ……!」

 

 ジャンヌ・オルタたちが根城としているオルレアンの城。その廊下で、ジャンヌ・オルタは憤怒の籠った声でそう呟いた。

 フランスと人類史を滅ぼさんとするジャンヌ・オルタたちが襲撃をした先の村にいたあのマスター。サーヴァントに後ろで指示を出すのではなく、暴走の危険を冒してまで自ら戦う男。そして、初めてジャンヌ・オルタに敗走の屈辱を味あわせたあの怨敵。

 ジャンヌ・オルタは自分がどのような存在であるか自覚していないが、それでも彼女自身が戦闘慣れしていないことは自覚していた。剣は持ってこそいるものの剣術などからっきしであるし、旗による槍術も得手という訳ではない。それでも、人間如きに負けることはない。その筈だったのだ。

 あの男はただの人間でありながら無理を通してまでサーヴァントであるジャンヌ・オルタを圧倒するだけの力を有していた。思い返してジャンヌ・オルタは不意に、あの男に対する感情で憤怒以外のものがあることに気付いた。

 思い返せばそれはあの時に抱いたものだ。まるで相手の瞳の奥を覗いたかのような感覚に陥った時、彼女は確かに見た。彼女の根幹を成すものと同じ――()()()()()()()()を。それを自覚した瞬間、気付いたその感情の名前にジャンヌ・オルタが震える。

 

「これは……恐怖? 私は、あの男を恐れている?」

 

 その恐怖はサーヴァントに匹敵する力を持つことに端を発するものではない。それならば今更自覚するまでもなく戦闘中に気付いていた筈だ。故にその恐怖は遥の人外じみた強さではなく、その精神に由来する。

 駄目だ。考えてはいけない。ジャンヌ・オルタはそう自分に言い聞かせて自制しようとするも、時すでに遅し。答えは出ていた。要はジャンヌ・オルタが恐れているのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 ジャンヌ・オルタとあまりに酷似していながら、彼女には絶対にできない在り方。あれだけの憎悪を抱いていながら復讐に走らないのは、最早歪んでいるとしか思えない。そもそも、人類愛など皆無なのにどうして人類を守るために戦うのか。

 しかし、彼女はその感情を認めない。認めればその瞬間に何かが崩れ去ってしまうことを本能的に知っているのだ。

 

「……ッ、ふざけるな! 私は恐怖してなどいない! しているものかッ!」

 

 怒りのままにジャンヌ・オルタが城の壁を殴りつけ、壁が陥没する。それでもなお収まりきらないその憤怒は憎悪を呼び、彼女の復讐対象に遥の存在が追加される。

 そもそもその思考自体が、恐怖でも憎悪でもない感情を源泉とするものには気付きもしないまま。




不意打ちでアルクェイド吹っ飛ばせた鉄甲作用なら、当たればサーヴァントも吹っ飛ばせるんじゃないかなって。

八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)使用時の遥のステータスはこんな感じです。
筋力:A+ 耐久:B 敏捷:C 魔力:A++ 幸運:E 宝具:EX
(耐久、敏捷は時間経過と共に上昇)


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第16話 竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)

 そよ風に草木が揺れ、獣の咆哮が響く真夜中の森。中世故に遠くを見ても街灯の明かりはなく、月明りのみが降り注ぐ世界を、遥は木の上から眺めていた。

 ジャンヌ・オルタたちによる村の襲撃に遭遇してから数時間。遥たちは人里から少し離れた場所にある森の中でキャンプを張り、夜を越す準備を完了させていた。それにあたって必要になったものは全てエミヤによる投影品である。

 魔女の襲撃を退けてから今に至るまで、遥たちはひと時も休まる暇などなかった。キャスターたるジル・ド・レェが放った海魔を駆逐し、ジャンヌ・オルタたちの撤退と追撃がないことを確認した後は逃げていった村人たちを別な村に避難するまで護衛。それが終われば可能な限り多くの村を回って情報収集などにあたった。

 しかし情報収集とは言うものの、村と村の間がそれなりに離れているうえに見付けた村が既にジャンヌ・オルタの襲撃を受けてワイバーンや生ける屍(リビング・デッド)の巣窟となっている場合があった。結局判明したことなど、彼女らがオルレアンにある城を根城にしているということくらいである。

 ハァ、と遥がため息を吐く。一日中動き回ることは世界を旅している間に何度もあったが、行く先々で戦闘になったのはこれが初めてである。一戦一戦の疲労は死徒と戦うに遠く及ばないものの、何度も続けば疲れるものは疲れる。改めてサーヴァントの有難みを感じさせられた。

 思えば、遥はこれほど多くの味方と共に戦ったのは初めてのことであった。旅をしている間に封印指定執行者や第八秘跡会、埋葬機関と協力することはあったものの、彼らを味方と言えるかは怪しい。もしも遥が全力を出していればすぐに敵に変じていた相手であるのだから、味方というよりは協力者に近いだろう。

 遥が腰かけている枝が生えているのは、この森の中で最も背の高い木である。その高さは相当なもので、遥がいる場所は一番上ではないのにかなり先まで見渡すことができた。さらに上に遮るものもほとんどないため、美しく輝く月を見上げることもできる。特に脅威も感じないために少し気を抜いて月を見つめていると、不意に頬を突かれた。

 

「ハルさんっ」

「沖田? どうしたんだ? 交代の時間はまだだったと思うが」

 

 遥がそう問うと、沖田は少し早く目が覚めてしまいまして、と笑いながら言い、遥が強化魔術を掛けて補強した枝に登った。

 遥たちがキャンプを張った場所は遥が空間に封印をかけたうえにタマモの呪術による結界を張っているとはいえ、強力なサーヴァントに攻撃された場合に防ぐほどの力はない。夜中にジャンヌ・オルタの攻撃がないとも限らない以上、見張りは必要だった。

 その順番を決める際に沖田たちはサーヴァントたちだけで順番を決定しようとしたのだが、遥は半ば我儘を通すようにして持ちまわりを決定したのだ。いくらサーヴァントに睡眠が必要ないとはいえ、彼らが睡眠をとることに意味がない訳ではない。利益がある以上、遥としてはなるべく休息を取って欲しかったのである。

 休息の重要性という意味では遥もそう変わらないが、意識解体の魔術を使えば短時間の睡眠である程度は回復できる。当番の時間が終わった後に普通に眠れば、身体の疲労も取り除くことができるだろう。ならマスターだからといって優遇されるというのは、遥の性格上あり得なかった。サーヴァントはマスターからの魔力供給なしでは現界できないが、マスターはサーヴァントなしでは戦えない。互いに互いへの恩があるなら、遥にとってこの両者は対等だ。

 遥は自然にポケットから袋を取り出すと、その中に入れていたものを2枚取り出した。

 

「沖田。これ食べるか? ワイバーンの干し肉だけど」

「いただきます。……いつ作ったんです?」

「夕飯の後だよ。少し肉が余ってたからさ」

 

 通常は干し肉を作るにはそれなりの時間がかかるが、魔術を使って細工すればかなり時間を短縮できる。これは何も気まぐれで作ったものではなく、食糧難のカルデアである程度食料を温存できるように考えてのことであった。

 幻想種の肉を調理するなど現代の生まれである遥には初めてのことであったが、肉の特徴さえ分かってしまえば調理は簡単であった。恐らくワイバーンはジャンヌ・オルタによって召喚されたものであろうが、奇しくも敵が生み出したものが自分たちに益を齎した形になったのである。

 だが、持ち運びが可能であるのはあくまで遥たちが手に持っていける量までだ。エミヤに何か入れ物になるものを投影してもらえば十分な量を運ぶこともできるかも知れないが、あまり多くの投影は魔力の無駄になる。

 何であれ、現状で最大の問題は敵戦力の把握よりも食料や水の安定的な供給であろう。腹が減っては戦はできぬという。折角敵の全容を掴めたとしても、その時に戦えなくなっているのでは意味がない。

 他愛のない会話を沖田をしながら形だけの見張りを続けていると、不意に沖田の表情が曇った。

 

「なんだ、急にそんな顔して。どうかしたのか?」

「……ハルさんは、優しいですよね。こんな、人斬りの私とも気安く接してくれて」

 

 沖田のその言葉は遥の問いへの答えではなく、独白めいた響きを以て遥の耳に届いた。遥がを召喚してからずっと明るく振舞っていた沖田が初めて見せた暗く沈鬱な表情。それが、遥の意識を夜の世界から沖田に向けさせて放さない。

 平時は明朗快活な性格をしている沖田だが、一度戦闘になれば冷徹な人斬りになることは遥も知っている。だがだからといってそれを完全に沖田が受け入れているのかと言えば、それは否だろう。

 恐らく沖田は自分が人斬りとして人生を終えたことを後悔はしないだろうし、それ以外に人生があったのではないかと自分の人生を否定することもない。しかし彼女は人斬りとしての感性があると同時に一般的な感性も持ち合わせているが故に、人斬りがどのようなものであるかを知っているのだ。

 確かに人斬りというのは何も知らない人々にとっては忌避の対象となるものだろう。人斬りとはすなわち人を斬ることを生業とする者、要は殺し屋に近い存在だ。けれど、そんなことは遥にとって軽蔑や忌避の要因とは成り得ない。

 フン、と遥は鼻を鳴らすと咎めるように、俯く沖田の額を小突いた。

 

「別に俺は人斬りだからって軽蔑するようなことはしねぇよ。考えようによっては俺も似たようなモンだしな」

「似たようなもの……?」

「あぁ。今まで俺は結構な数の魔術師やら死徒やらを斬ってきたからさ。数は沖田には及ばないケド」

 

 おどけるような調子でそう言う遥であるが、その眼にはふざけた色合いはなかった。

 程度の違いはあれど、遥もまた人間を斬っている。例えそれが無辜の人々を食い物にする悪鬼外道の明白なる悪だったとしても、その事実だけは変わらない。そもそもその悪を決めたのは遥であり、彼らにとっては正義を執行していたに過ぎない。

 別に遥は『正義の味方』に憧れた訳ではない。ただ遥が人々を食い物にするような奴が嫌いで、彼に関わってきた魔術師にそういう魔術師が多かったに過ぎない。『正義の味方』というよりは『悪の敵』という方が近いだろう。

 それでもまだ納得のいかなそうな沖田に遥は苦笑を零すと、桜色がかった白髪を優しく何度か叩いた。

 

「ま、それ以前にお前はこんな俺の召喚に応えてくれた。好意的に接する理由なんてそれで十分だろ」

 

 そう言って、遥は自嘲的に笑う。頭を撫でられるという、全く慣れないことに頬を紅潮させていた沖田であるが、遥のその表情を見て頬の朱は退き、遥の顔をおずおずと覗き込む。

 『こんな俺』などと自らを卑下する遥であるが、沖田にとって遥は不満という不満を感じないマスターであった。英霊とはいえ所詮は使い魔でしかないサーヴァントと対等に接し、英霊だから反英霊だからと区別することはない。頑固すぎるのが玉に瑕だが、どんな人間にも短所はある。

 だが沖田には、遥が自分自身を卑下する理由に心当たりがあった。遥の漆黒の瞳の奥に宿る得体の知れないどす黒い何か。恐らくそれは、同じものを抱いているものでしか正体に気付くことはできまい。遥の内から湧き出たものなのであろうそれは、彼の精神の底に堆積してそれを歪める原因になっている。

 沖田がそれを探るように遥を見ていると、それが気恥ずかしかったのか遥が視線を逸らした。自分のマスターがとことん女性に対して耐性のないマスターであることは沖田も承知していたが、無意識の行動であったため仕方がなかろう。

 

「召喚と言えば……沖田が呼びかけたら応えてくれそうな奴っているか?」

「新撰組の隊士なら大抵は応えてくれると思いますよ。あとは……ノッブくらいですかねぇ」

「ノッブ? ……まさか、織田信長?」

 

 まさかと思いながら遥が問うと、何事でもないかのように沖田が首を縦に振った。どうして江戸時代を生きた沖田と安土桃山時代を生きた信長に縁があるのかと一瞬疑問に思った遥であったが、すぐに平行世界の聖杯戦争で出会ったのだろうと結論付ける。

 沖田曰く、信長は極めて強力なサーヴァントであるらしい。神秘を多く内包する相手に対しては絶対的な優位を取ることができ、沖田のような相性の悪い近代のサーヴァントに対しても互角以上に立ち回ることができる。クラスはアーチャーで、大量の火縄銃による物量戦法を得意とするらしい。

 弓兵を意味する筈のアーチャーが火縄銃を使うことには、遥はあえて突っ込まないでおいた。遥のサーヴァントのひとりであるエミヤは弓を使うが、その本質は無限に剣を内包した固有結界である。そんなアーチャーもいるのだから、今更火縄銃を使うと言われても遥は驚かなかった。

 加えて、実は女性であると言われても最早突っ込む気すら起きない。アーサー王と沖田総司が女性であったのだから、もう誰が女性として現れても驚かないという謎の自信が遥にはあった。遥が気になったのはそこではなく、むしろ沖田の様子だった。敵対した筈の者を語るにしては、沖田の様子はあまりに楽しげであった。

 

「仲、良かったのか?」

「え!? まぁ、悪くはないと思いますが……」

 

 でも、帝都では酷いめに遭わされたんですよね、と沖田が微笑する。それでも悪いイメージがそれほど口から出てこないところを見ると、その聖杯戦争では協力関係にあったのだろう。

 或いは新撰組の隊士を召喚すれば沖田と併せて連携を期待することもできよう。基本的に新撰組は連携ではなく隊別の役割を個人で果たすようなイメージが強いが、それでも新撰組以外のサーヴァントと組ませるよりは容易だ。この場合カルデアが屯所になる未来しか見えないが、それも一興である。

 何であれ、戦力の増強は良いことである。()び出すサーヴァントが既に召喚しているサーヴァントとの相性が良ければなお良い。さすがに遥に抱えきれる以上の戦力は連携の質低下につながるために避けなければならないが、まだ抱えきれないほどではない。

 そうして勝手に遥が新しいサーヴァントの召喚候補を脳内でリストアップしていると、不意にロングコートの袖口を沖田が掴んだ。

 

「ハルさん。……これから先、どんなサーヴァントを召喚したとしても、私を見捨てないでいてくれますか……?」

 

 遥を見つめる沖田の瞳が不安に揺らぐ。それを見て、遥が息を呑んだ。

 伝承に曰く、沖田総司は結核の悪化により最期は刀が振れないほどにまで衰弱していたのだという。それ故に沖田は最後まで新撰組の仲間たちと共に戦うことができず、近藤が戦死したことも知らされないまま死んだという。

 つまり、沖田は恐れているのだ。自分の『病弱』が悪化するか、或いは自分よりも強いサーヴァントが何人も召喚されるか、要因はいくらでも考えられるが最後まで戦えないままに終わってしまうことを。

 沖田自身、自分がお世辞にも強力なサーヴァントとは言えないサーヴァントだという自覚があるのだろう。彼女が『最強無敵』であるのはあくまで剣術の範囲内であって、ステータスで言えばとても最強無敵などとは言えない。それは紛れもない事実だ。

 加えて『病弱』である。沖田自身ですら発動が抑制できないこのスキルは、戦闘においてこの上なく邪魔になるスキルだ。発動のメリットなど存在せず、むしろデメリットしか存在しない。数多のサーヴァントを従えるマスターにとっては、それだけで沖田を切り捨てる要因に成り得る。

 しかし、それでは筋が通らない。遥は袖口を掴む沖田の手を取ると、その手を見つめたまま答えを返す。

 

「見捨てねぇよ。助けを求めたのは俺の方なんだ、勝手に切り捨てるなんて筋が通らねぇ。……だから、その、なんだ。最後まで着いてきてくれると嬉しい」

「ご安心ください! ハルさんの行く所、たとえ地の果て水の果て、冥府の果てまでお供しますとも!」

 

 胸を張ってそう言う沖田に、そいつはありがてぇな、と遥が微笑する。

 遥はあまり良い対人関係を構築するのは得意ではないが、それでも誰かを信頼できない男ではない。自分の信頼が一方通行ではなく相手からも信頼されていると分かるのは、純粋に嬉しさを感じていた。

 何故か急におかしさがこみ上げてきてふたりが笑みを漏らす。その時不意に遥が通信機に眼を遣ると、現代時間は既に見張りを交代する時間になっていた。それを認識した途端に遥の意識を眠気が襲い、欠伸が漏れる。

 後は頼むと言ってから木の枝から跳び下りる遥。その遥を、沖田が呼び止めた。

 

「おやすみなさい、ハルさん」

「……! あぁ。おやすみ、沖田」

 

 

 

 翌日。ワイバーンの肉と野草、森から採ってきたキノコだけの朝食を終えた遥たちは一路、リヨンという街を目指して街道を歩いていた。本来ならば早急に立香たちと合流して戦力の増強を図るのが得策なのであろうが、そうしなかったのには理由がある。

 無論合流してないとはいえ、遥が立香たちの状況を把握していない訳ではない。彼らが今どういった状態でどうしているのかは全て、昨夜のうちにロマニから聞いて委細承知済みである。

 立香と遥。ふたりのレイシフト予定位置はほぼ同じ座標に設定されていたのだが、実際レイシフトして現出した地点は互いに視認できないほどに離れていた。それでも合流できない位置ではなかったらしいのだが、そうならなかったのは単純に遥が連絡を待たずして動いてしまったためである。

 立香たちも最初は合流しようとしたらしいのだが、遥たちと同じように情報収集を優先しているうちに竜の魔女――ジャンヌ・オルタが使役する敵性体に襲われているフランス軍の砦を発見。さらに応戦中、偶然にもサーヴァントとして召喚されていたジャンヌ・ダルクと遭遇した。

 だがそのジャンヌはサーヴァント、クラス『ルーラー』としての権限と能力の大半を損失しているうえに何の原因によるものか〝サーヴァントの新人〟のような状態であるらしい。なんとも奇妙な話だが、遥が気になったのはそこではなかった。

 本来マスターを必要とする筈のサーヴァントがマスターなしで顕現している。これの原因をジャンヌは聖杯を手にしているサーヴァントへのカウンターとして、聖杯そのものが召喚したと推測したそうだ。遥が気に留めたのはそれである。ジャンヌの推論が正しいものだとするなら、召喚されたのがジャンヌだけとは限らない。そして、遥はそれに心当たりがあった。

 昨日情報収集をしていた際に聞いた、『リヨンという街に魔女の軍勢から人々を守る、大剣使いの騎士がいた』という噂。それが本当ならばその騎士は間違いなくサーヴァント、それもジャンヌ・オルタに対抗するサーヴァントであろうと考えたのだ。立香たちに行ってもらっても良かったのだが、遥たちの方がリヨンに近い。

 敵襲に遭っても対応できるように最大限の注意を払いながら街道を進む。そのうちに、傍らを歩いていたエミヤが前方を指した。

 

「見えてきたぞ、遥」

「あぁ。……全員、注意を最大限にしろよ。最悪、入った瞬間に蜂の巣ってこともあるかも知れねぇ」

 

 遥の言葉に、全員が頷きを返した。遥が再確認せずとも、既に全員がその可能性を考慮している。件の騎士とやらは確実に生存しているとは言い難く、街はもう壊滅していることは確定しているのだ。残存戦力がいないとも限らない。

 奇襲にも対応できるようにそれぞれが得物を構え、街を囲うように建設された城壁の入口から街へと侵入する。そうして視界に入った光景に、全員が表情を陰らせるも最早慣れたと瞬時に平静を取り戻す。

 有り体に言えば、リヨンの街は壊滅状態にあった。情報収集中に赴いた他の街や村と同じように完膚なきまでに破壊しつくされ、そこかしこにリビング・デッドやワイバーン、骸骨兵が蔓延っている。

 獲物を発見して襲ってくる化生たちを、サーヴァントたちと遥は苦も無く屠る。リビング・デッドは元々はこの街に住んでいた人間ではあるが、こうなってしまってはもう救いようがない。躊躇わず、過つことなく、一息でその首を斬り落とす。

 酷いことを、とは思う。けれど、どうしてこんなことを、とは思わない。これはジャンヌ・オルタが内包する憎悪のままに行っている復讐だ。その復讐の相手がフランスそのものである以上、フランス国民を鏖殺にするのは当然のことである。

 考え事をしていながらも、遥の剣技の冴えは些かも曇ることはない。そうして敵性体の掃討が完了しようかという時、遥たちの頭上から声が飛んできた。

 

「ああ……君たちは〝竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)〟を求めし者かな……?」

「!? ――サーヴァント!?」

 

 今の今まで気配に全く気付かなかったということは、相手はアサシンだろうか。身長は遥やエミヤと同じ程度。顔の半分を仮面で覆っており、その手は人間のものとは思えないほどの異形と化した鉤爪が生えている。

 真名は不明。その視線はエミヤたちを従えるマスターである遥に向けてのみ注がれ、肌で感じるほどの殺意を放射している。けれど必死に自分を律しているのか、立ち居振る舞いから殺意は感じられない。

 だが、この場にいるということはまず確実にジャンヌ・オルタが召喚したバーサーク・サーヴァントの類であろう。遥が叢雲を構えたままでいると、アサシンが口を開いた。

 

「然様。人は私を―――なッ!?」

 

 遥が漏らした警戒の言葉に対して名乗りをあげようとしたアサシン。しかし、アサシンの言葉が最後まで放たれることはなく、故にアサシンの真名は遥たちに知られるより先に虚空へと溶けた。

 踏み込みの音が鳴らず、殺気すらも完全に押し殺した襲撃者――沖田が瞬きする暇もなくアサシンの眼前に現れる。沖田の姿を視認したアサシンは咄嗟に胸の前で腕を交差させて防御しようとするも、既に勝敗は決していた。

 無防備なアサシンに対して放たれた銀閃はまさに、獲物を狩る肉食獣の牙が如く。仙術の領域に迫る縮地から続けて放たれた刺突はアサシンの腕を斬り飛ばし、鳩尾に一撃を叩き込む。

 だがアサシンの防御は完全な無意味ではなかったようで、乞食清光の切っ先はアサシンの心臓を抉るには至らなかった。刺突の衝撃を受け止めきれなかったアサシンが仰向けに倒れる。

 

「この……! 私が名乗る前に」

 

 沖田の奇襲に、抗議の声をあげようとしたアサシン。しかし、沖田はそれを待たなかった。沖田は両腕を失って仰向けに倒れたままのアサシンの胸を踏みつけて固定すると、一息でその首に刀を振り落とした。

 乞食清光の刃はアサシンの首へと吸い込まれるようにして振り落とされ、一瞬にしてその首と胴体を切り離した。宙を舞うアサシンの頭部と脱力した胴体から鮮血が迸り、沖田に降り注ぐ。

 袖無しの着物から露出した腕をアサシンの鮮血が滴り、健康的な朱を帯びた頬を生々しい赤が上塗りする。まさしく〝人斬り〟を体現したかのような、その姿。それを、遥は――〝美しい〟と思ってしまった。

 忘我のままに沖田を見つめていた遥だが、しかし沖田と視線がぶつかった途端に意識を取り戻し、平静を取り繕った。

 

「突然敵が現れた時は驚きましたが、立ち合いの最中に名乗るような莫迦で助かりましたね」

「あ、ああ。そうだな」

 

 沖田の言葉に遥は一瞬だけ戸惑った様子を見せたが、沖田が屋根から降りてくるとポケットから出したハンカチで顔にかかった血を拭った。沖田の攻撃にタマモは「うわ、沖田さん容赦ねぇ」と呟き、エミヤは実に合理的だとばかりに頷いている。

 実際、戦いの最中に名乗りをあげるのは相手に攻撃の隙を与える行為に等しい。相手が騎士や武士であれば互いに名乗りをあげてから立ち合いに臨むのだろうが、生憎と遥たちはどちらでもない。一撃で殺せる隙があるのなら、相手が名乗りをあげている最中であろうと攻撃する。今回はただ沖田の行動が最も早かっただけで、仮に彼女がやらずともタマモかエミヤが行動に出ていただろう。

 一秒でも隙を見せれば、その間には殺されている。遥は改めて、自分が置かれている戦場がいかに過酷なものであるかを認識した。同時に、一般人である立香にどれほどの重荷を背負わせてしまったのかも。

 できれば立香にはあまり戦場の血臭は感じてほしくはないが、それではいけない。どれだけ遥が無理をしようと、彼も同じ戦場にいるのならいつか同じものを体験する。遥はある種戦う覚悟よりも辛い〝戦わせる覚悟〟を再度決めると、左腕に巻き付けた通信機を指で何度か叩いた。

 数度のコール音の後、通信が繋がった音がする。

 

『こちらカルデア。どうしたんだい、遥君?』

「ロマン。この街の中にサーヴァントの反応はないか? どれだけ微弱でも構わないんだ」

 

 遥がそう要請するとロマニはちょっと待ってね、と言ってすぐにサーヴァントの探知機能を起動させた。すると非常に弱いが、街の中にある城の内部からサーヴァント反応が検出される。

 微弱なサーヴァント反応。それは英霊として非常に格の低い英霊が召喚されたというよりも、死にかけで何とか踏みとどまっていると考える方が適切だろう。遥はロマニに一言礼を言って通信を切ると、サーヴァントたちに急ぐぞと呼びかける。

 道中に蔓延る怪物たちを退けながら、街の端にある城へと走る。その城もまたワイバーンによる襲撃を受けたと見えて、至るところが崩壊して完全な廃墟と化していた。遥たちは正面の入口から城内へ侵入すると、瓦礫を退けながらさらに奥へと進んでいく。

 そうして、件のサーヴァントは遥が思っていたよりも早くに見つかった。城の最奥、明かりとなる蝋燭がない状態では暗視の魔術を使わなければ先が見えないほどの暗闇に、ひとりの男が壁を背にして立っている。纏う銀色の鎧は火炎の煤に汚れて黒く霞み、露出した身体には痛々しい傷が刻まれている。

 しかし英雄であるだけあって手負いであってもその眼光は鋭く、近づいてくるもの全てを叩き切らんという戦意を放射して遥たちを睨んでいる。

 

「まったく次から次へと……!」

「待て、落ち着いて欲しい。俺たちは別にアンタを害そうとは思っていない」

「なに……?」

 

 こちらに敵意がないことを示すために両手を挙げてそう言う遥を、セイバーはしばらく何も言わないまま睨みつけていたがしばらくして本当に遥たちに敵意がないことが分かったのか、大剣の構えを解いた。

 信頼されてはいないまでも、どうやら敵ではないとは分かってくれたらしい、と緊張が解かれた遥が溜息を吐く。もしもセイバーが話を聞かずに襲い掛かってきたとしても手負いのサーヴァント1騎に負ける道理はないが、できれば戦闘は避けた方が良いものだ。

 取り敢えずはエミヤに皿を投影してもらい、そこらに転がっている木屑に魔術で火を点けて即席の照明にすると、遥はセイバーを座らせた。セイバー自身、相当な傷を負っているために立っているのも辛かったと見えて、脱力したまま壁を背もたれにして座り込む。

 まずは自己紹介からと遥が話の口火を切ると、思いのほかセイバー――ジークフリートは容易に口を開いた。曰く、彼はジャンヌと同じくマスターもなしに召喚されて彷徨っていたところこの村が襲撃されているのを目撃し、居ても立っても居られず防衛。しかし複数人のサーヴァントに襲われては対抗できず敗北を待つばかりであったところ、そのうち1騎が匿ってくれたのだという。

 

「事情は大体分かった。……だが、その助けてくれたサーヴァントとやらは治療はしてくれなかったのか? 正直、生きてるのが不思議なレベルの傷だぞ、これ」

「しなかったのではなく、できなかったんだ。俺に掛かっているのは不治の類の呪いでな。相当に高位のサーヴァントでなくては解呪もままならない」

 

 ジークフリートの言葉を聞き、遥がふむと唸る。試しに遥が解析してみれば、確かにジークフリートには複数の呪いが複雑に絡み合っていた。これではたとえ聖人のサーヴァントがいたとしても、ひとりだけでは解呪できまい。

 だが、この場でその呪いを解呪できるサーヴァントに遥は心当たりがあった。

 

「タマモ。ジークフリートに掛かってる呪い、解呪できるか?」

「呪いですか? どれどれ。……はい! コンな呪いを解除する程度、朝飯前ですとも♪」

「本当か!」

 

 思った通り、と遥が笑みを見せる。タマモは聖人の類ではないが、呪術の専門家(スペシャリスト)ではある。そのEXランクにもなる呪術を以てすれば、如何なる呪いであろうと解呪は児戯にも等しいというものであろう。

 タマモが呪符を取り出してジークフリートに翳し、その唇が詠唱を紡ぎ出す。遥もとある事情から呪術には相当精通してはいるが、その遥でも理解が追いつかない神代の呪術。まさに神代を生きた化生のみが可能とする神域の具現であった。

 しばらくしてジークフリートを犯していた呪いのほとんどが解呪できたのか、並行して遥が施していた治癒魔術によって少しずつ傷が塞がり始めた。そして、タマモが全ての呪いを解き終えた直後に治癒も完了し、ジークフリートが万全の状態へと戻る。

 治療を望んだジークフリートであるが、本当にたったひとりで幾重にもかけられた呪いを簡単に解いてしまうのは流石に意外であったようで立ち上がって軽く大剣の素振りをすると驚愕とも安心ともつかない表情を浮かべた。

 

「すまない……迷惑をかけてしまって本当にすまない……。

 だが、力になることはできるだろう。君達は竜の魔女と戦っているのだろう? なら、俺も同行させてはくれないだろうか」

「そいつぁ、願ってもない提案だ。こちらからも頼む。俺たちに協力してくれ、ジークフリート」

 

 遥がそう言うと、ジークフリートが無言で頷いた。友好の証明として遥が手を差し出してジークフリートがその手を握り返し、接触によって仮契約が結ばれる。遥から通じる魔力経路(パス)がひとつ増えるが魔力総量が常軌を逸している遥には何の負担にも成り得ない。カルデアのバックアップがなくともある程度活動が可能なレベルだ。

 竜殺しの逸話を持つサーヴァントであるジークフリートは、竜種の対して絶対的な優位を取ることができる英霊だ。おそらく彼の宝具たる〝幻想大剣(バルムンク)〟には竜種特効とでも呼ぶべき性能が備わっている。まさしく竜の魔女へのカウンターとして最上級の英霊である。

 しかし、これではまだ足りない。いくらジークフリートが強力極まる竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)であろうと、敵は竜種だけではない。ジャンヌ・オルタの陣営には多数のサーヴァントがいる。現状、確認されているのはジャンヌ・オルタを除いて5騎だが、聖杯を所有している以上さらに増えると見ていい。

 いっそこのままフランス中のはぐれサーヴァントに協力を申し入れてみるのもありかも知れない、と遥が今後の方針を決めようとしていると、通信機からコール音が鳴り響いた。

 

「どうした、ロマン。何かあったのか?」

『遥君! すぐに立香君の救援に向かってくれ!』

 

 遥に対して有無を言わせない、焦燥がありありと感じ取れるロマニの声音。遥はロマニを落ち着けさせようとも考えたが、しかしその声音からただならぬものを感じてそれを躊躇った。そんな遥の様子を知って知らずか、ロマニはさらに言葉を続ける。

 

()()()()()()()! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!』

 

 ロマニのその報告に、その場にいた一同に緊張が走り、揃って瞠目する。ファヴニール。ニーベルンゲンの歌において、ジークフリートによって討たれた邪竜。恐らく竜種というカテゴリにおいて、かの悪竜を凌駕するものなど数えるほどしかおるまい。

 反射的に遥がジークフリートに視線を遣る。その視線を、ジークフリートは確かな闘志と使命感を内包した眼で受け止めた。

 

「どうやら、早速俺の出番のようだな」

 

 ジークフリートの言葉に、遥が頷きを返した。




前回、遥の宝具使用時のステータスを出したので今回は遥の能力をサーヴァントのスキル風に。

天賦の見識:B 直感:B

調理:EX 料理の上手さを示すスキル。遥は相当に料理が上手いが、未だに発展途上であるためランクEXになっている。

無空:D 遥は天叢雲剣に刻まれた記憶を自己に投射することで英霊に匹敵する剣技を振るう。その前使用者が空位に達しているため、大幅に劣化してはいるが遥もその技術の一端を使うことができる。なお、このスキルのために遥は空位の何たるかを知っており、遥はいずれ剣の記録に頼らずとも空位に達する。

先祖帰り:EX 神代を生きた者との混血の末裔である遥は時代を遡るほどに人間の要素を失い、人外の血を強くしていく。神秘の薄い現代にまで神代の血を存続させた方法については、彼の家系の秘密である。『混血:EX』との複合スキルでもある。


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第17話 悪竜よ、啼け

 巨大。まさにその一言であった。

 全高は立香の十数倍にまでなるだろうか。その異様なまでの巨躯は街ひとつすらも容易く覆い隠すほどだ。此方を見下ろす青い眼に宿るのは断じて闘志や殺意などではなく、ただ己よりも矮小なるものへの加虐欲求、そして貪欲なまでの食欲。

 体表を覆う黒々とした鱗はまさに城壁の如く。神代などに生きた〝幻想種〟というカテゴリに属する生物は神秘を内包する攻撃しか通用しないのはこの特異点に来る前に魔術世界の基礎知識として遥に叩き込まれていたが、恐らく生半な武装では神秘を宿してはいてもこれには通用しまい。

 邪竜ファヴニール。龍の魔女たるジャンヌ・オルタが召喚した虎の子の戦力にして奥の手。それが立香たちの前に現れた災厄の正体であった。

 だが、立香たちとて戦力としては負けてはいない。立香のメインサーヴァントであるマシュはその真名こそ知れないものの星の聖剣の一撃を防ぎ切るほどの防御力を備えているし、クー・フーリンとアルトリア・オルタは歴史に名高い一騎当千の英雄だ。

 彼らに加え、今の立香はこの特異点で出会ったサーヴァントと仮契約を交わしている。何らかの要因によって奇妙な形で現界しているジャンヌ・ダルク。ルーラーとしての権限は失ってはいるが、その堅牢な防御力と強力極まる宝具は通常とは変わっていないらしい。

 膝は恐怖で笑い出しそうだが、自分自身で意外なほどに冷静な立香。それとは対照的に、ジャンヌはファヴニールの頭部に立つ黒い自分に視線を釘付けにされていた。ロマニからの報告でその存在を知っていたとはいえ、実際の目の当たりにした衝撃は拭えないのであろう。

 そんな彼らをファヴニールの頭上から睥睨するジャンヌ・オルタ。軽蔑と侮蔑、憤怒と憎悪が入り混じったその顔が、不意に失笑に歪んだ。

 

「ふふっ――あは、アハハハハ!!! あぁ、なんて滑稽な姿なのかしら! ここにジルがいないのが残念でならないわ。まるで羽虫のよう。本当――こんな小娘(わたし)に縋るしかなかったこの国に価値なんてなかったのね」

 

 唐突にジャンヌ・オルタの顔から笑みが消え、眼光に先以上の憤怒と憎悪が宿る。それは果たして同一存在であるジャンヌに向けられたものか。或いはフランスそのものに向けられたものか。何であれ、取るに足らないものと扱われている立香も肌で感じるほどにその感情は強烈であった。

 内から湧いて出てきた憎悪に従って行動しているというよりも、まるで憎悪と憤怒だけで構成されている存在を相手にしているかのような違和感。立香は確かにそれを感じていたが、その違和感に名前を付ける余裕など彼にはなかった。ただ相手に隙を見せないように虚勢を張るだけで精一杯であった。

 こんな憎悪と憤怒の化身を相手に遥は単身で挑みかかったというのか。或いは遥が相手にしてきたという魑魅魍魎の類と彼女はそう変わらないのかも知れないが、これほどの熱量を持った感情と相対するのは、立香にとって初めての経験であった。

 加えてジャンヌ・オルタが従えるファヴニールである。立香は世界史や日本史についてはそれなりに知ってはいたが、伝説に関してはさして明るくないことを自覚していた。そんな立香ですらその名前は聞いたことがある。主にゲームやファンタジー小説でだが。

 

「貴女が……貴女が黒い私ですか。話には聞いていましたが……」

「そう。私はジャンヌ・ダルク。蘇った救国の聖女ですよ、愚かな〝私〟」

「……私たちは聖女などではない。それは私たちが一番よく知っているでしょうに」

 

 ジャンヌ・オルタの視線を真正面から受け止め、ジャンヌがそう断言する。その涼やかな態度は事前にジャンヌ・オルタの存在を知っていたからこそのものではなく、ジャンヌ自身の性格を表すものであるだろう。

 立香の生きている時代では世界中で聖女として崇められているジャンヌではあるが、それはジャンヌ本人が自らを聖女と称していたからではない。彼女を聖女として扱っているのはあくまで周囲の人間であって、彼女にとって全ての行いは自分にできることを行っただけなのだろう。

 そのジャンヌの言葉をジャンヌ・オルタはどう捉えたのかは分からないが、ジャンヌを嘲笑するようなその眼だけは何の変化もなかった。対してジャンヌの眼には憐れみと困惑が浮かんでいる。

 

「いえ、そんなことは今語るべきことではありませんね。それよりも、この街を襲ったのは何故ですか?」

「何故、ね。そういえば昨日もそんなことを問うてきた奴がいましたね。同じジャンヌ・ダルクであるのにそんなことも分からないとは、どこまで愚鈍なのかしら。これなら彼の方がまだ聡明でしたね」

 

 心底呆れた、とでも言いたげなジャンヌ・オルタの声音。立香はその言葉の中に、聞き捨てならないものがあることに気付いた。ジャンヌ・オルタが言う『奴』とは間違いなく遥のことだろう。つまりは、遥はジャンヌにとって受け入れがたいことを簡単に理解し、事実として受け入れたというのか。

 立香自身、ジャンヌ・オルタが言わんとすることが分からないまでもない。しかし、何故という思いは禁じ得ない。彼女が剥き出しにする〝(なま)の感情〟とでも言うべきものを前にすればそれが普通の反応であろう。

 ジャンヌ・オルタの目的とはすなわち〝フランスを滅亡させること〟であるのは、ここまで来れば最早明白であった。成程人類史が崩壊する訳である、と立香が独りごちる。百年戦争の勝者であり、後年いち早く自由を標榜した国が滅べば人類史にどれだけの影響があるか分からない。

 

「祖国を滅ぼすなど、莫迦げたことを……!」

「馬鹿げている……ですか。なら問いますが。何故、こんな国を救おうと思ったのです? どうして、こんな愚か者たちを救うに値すると思ったのです?

 信じた結果が私たちの最期でしょう。救うに値しないものを救った果てに私たちは裏切られた! 違う?」

「それは……」

 

 ジャンヌ・オルタが吐いた憎悪の言葉を、ジャンヌ・ダルクは否定できない。どれだけジャンヌが言葉を繕うとも、どれだけジャンヌがその結末に納得していようとも、その結末は事実だからだ。確かにジャンヌ・ダルクはフランスに裏切られた。裏切られ、唾棄され、凌辱された。

 その結末を思えばこそ、立香はジャンヌ・オルタの憎悪を否定できない。「君の行動は間違っている」など言えない。仮に立香がジャンヌの立場に立った場合、ジャンヌのようにその結末を受け入れられるのかと問われれば、否と言い切ることができないからだ。

 その時点になってようやく、立香は自分が抱いた違和感に気付いた。要は、ジャンヌ・オルタは正当な反転存在(オルタナティブ)というにはあまりにジャンヌと乖離しすぎているのだ。どちらかが偽物なのではないか、という突拍子もないことを思ってしまっても不思議なことではなかろう。

 だが、どちらかが贋作なのではないかという疑問は現時点では無意味だろう。仮にそれが当たっているのだとしても、どちらもサーヴァントとして存在しているのだからそれを問うのは無意味、愚の骨頂だ。

 立香の後ろで、クー・フーリンが「成程な」と呟く。クー・フーリンの嫌いなことのひとつは裏切りだ。故に彼にはジャンヌ・オルタの思いが多少は理解できてしまうのだろう。

 

「もう私は騙されない。裏切りを許さない。私の救済が間違っていたのなら、間違った救済を受けたこの国を滅ぼす! それを邪魔するというのなら、何であれ消してやるわ!!!」

 

 ジャンヌ・オルタが憎悪の極限を叫ぶと同時、ファヴニールが主の意思に答えるように咆哮した。大気が震撼し、体外魔力(マナ)が鳴動する。恐怖に耐性のない者が聞けば一瞬で腰を抜かしてしまいそうな、獣の咆哮であった。

 立香は腰を抜かしこそしないものの、気を抜けば恐怖で足が笑い出しそうだった。それが冷静なように振るまえているのは、偏に彼の類稀なる我慢強さがあってこそのものである。しかし英雄たちにはそれもお見通しであるようで、クー・フーリンが揶揄うように問いかけてくる。

 

「怖いか、マスター?」

「……ああ、怖いね。できればすぐにでも逃げ出してしまいたいくらいだ。でも、オレは逃げないよ、ランサー。だってカッコ悪いだろ? 何もせず逃げるの」

「ハッ。それでこそだぜマスター。男なんて意地を張ってナンボってモンよ。さぁ命令を出せよ、マスター。折角の初陣だ、全力を出してやる。普段は面倒で封印してるルーンも使った大盤振る舞いだ」

 

 そう立香を鼓舞しながら、クー・フーリンが立香の背を叩く。そうして彼が向けてきた獰猛な笑みに立香もまた笑みで返すと、不思議と恐怖感が和らいでいくような気がした。

 アルトリアを目を合わせると、アルトリアは常の仏頂面を変えることなく頷いた。続いてマシュに視線を移す。アルトリアやクー・フーリンとは違い、マシュは立香と同じく戦闘への恐怖を根底から拭える訳ではない。だが己がマスターが戦うと決めたのなら自分も戦うと覚悟を決め、大盾を構える。ジャンヌを見れば、彼女はジャンヌ・オルタを見つめていた。

 その視線の先では、ジャンヌ・オルタがファヴニールの頭からワイバーンへと乗り換えていた。ファヴニールに乗ったままではファヴニールが戦えないという判断だろう。流れ弾を受けず、かつ戦闘を観察できる高度にまで上昇していく。見えないが、その傍らには数騎、霊体化したサーヴァントが控えていると見て良いだろう。

 ほう、と息を吐いて目を瞑る。意識を外側から内側へと向け、全身の知覚に集中する。イメージするのは一滴の水。それが落下して弾け――

 

――意識が切り替わった。

 

 魔術回路の起動に必要なものは何も特殊な技術ではなく、トリガーになるイメージだ。ある者は心臓に撃鉄が落ちるイメージ、またある者は心臓にナイフを突き刺すイメージ。遥のそれは〝心臓に銃弾が直撃する〟イメージらしい。

 立香が自分自身の魔術回路を起動するために必要とするイメージは〝一滴の水〟だ。それが弾けた瞬間に立香の身体は『生物』から魔術を行使するための『機械』へと切り替わり、魔術回路が起動する。

 とはいえ、立香は魔術師としては超が付くほどの新米だ。独力で行使できる魔術などひとつもなく、この特異点にレイシフトする前に遥に回路の使い方を叩き込まれただけの、いわば〝魔術師もどき〟。

 だが魔術師もどきの立香にも、ひとつだけ他の魔術師にも引けを取らない強みがあった。魔術というよりも『異能』に属するもの。魔術師の家系の生まれではない立香が生まれ持った、唯一の先天的魔術素養。

 眼を開ける。純日本人とは思えないような濁りのない水色の瞳が、今は仄かな虹色の光を帯びていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが立香の持つ唯一の魔術才能――『魔眼』であった。

 その眼が捉えたのは膨大なマナの流れ。ファヴニールの(あぎと)に常軌を逸した規模の魔力が収束し、閉じられた口の隙間からその一端が漏れ出ている。

 

「やれ、ファヴニール! 奴らを鏖殺なさい!!!」

「くるぞ、マシュ、ジャンヌ!!!」

 

 立香の号令に少女ふたりがはい! と答えると同時、ジャンヌ・オルタの命令のままにファヴニールが体内に収束されていた魔力を一息に解き放った。解放された邪竜の吐息(ドラゴン・ブレス)はまさしく災害の具現。主の敵を蹂躙し、鏖殺せんとする可視化された暴力だ。

 星の聖剣にも等しきその一撃を迎え撃ったのは、マシュとジャンヌの宝具。ジャンヌの宝具である〝我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)〟とマシュの仮想宝具〝人理の礎(ロード・カルデアス)〟が邪竜の吐息を真正面から受け止める。

 絶対的な防御力を誇るふたつの宝具が同時に展開され、吐息が立香たちが立つ場所で裂けて破壊された街を駆ける。それまで瓦礫だった家屋の残骸が一瞬にして砕け散り、塵以下の屑へと変じた。

 くうぅぅぅっ……! と強力極まる邪竜の吐息に押され、マシュとジャンヌが苦悶の声を漏らす。いかな堅牢な彼女等の宝具といえど、長時間咆哮を受け止めていられるだけのものではない。だが、立香たちとて甘んじてそれを受け入れるつもりなどなかった。

 マシュたちの宝具によってできた吐息(ブレス)の切れ間を縫うように、弾丸の如き速度で飛び出していく影。魔力放出により一瞬にしてファヴニールの喉元へと接近したアルトリアが、宝具のひとつを解放する。

 

「開幕の花火だ。盛大にいかせてもらうぞ、邪竜! ――卑王鉄槌(ヴォ―ティガーン)!!!」

 

 真名を謳い、アルトリアが聖剣を振るう。その瞬間に魔竜の咆哮にも等しき魔力の暴威が解き放たれ、ファヴニールの喉元を叩きつけた。ギィ、と奇妙な悲鳴をあげてファヴニールが仰け反る。

 気を抜けば後方に吹っ飛んでいきそうな反動を魔力放出を利用して押し留め、落下しつつ漆黒の魔力を束ね上げて巨大化させた剣でがら空きの胴を切り裂く。さらに、アルトリアの頭上を越えて跳ぶ青い槍兵。

 虚空に閃く真紅の軌跡。振るう技は影の国にて授かりし魔槍術。理性すらなく、アルトリアの一撃によって防御すらままならない状態になっているファヴニールにはそれを防ぐ術などなく、邪竜の喉元から鮮血が迸った。

 だが英霊たちの数十倍の体躯をもつファヴニールにとってはそれも決定打とは成り得ない。体勢を立て直したファヴニールの眼に宿るのは先のような加虐欲求ではなく、大人しく自分に殺されない者たちへの怒りであった。

 ファヴニールが憤怒の咆哮をあげ、翼を蠢かせる。逃げるために上昇するのではなく、攻撃するための動き。さらにもうひと啼きすると、ファヴニールが低空で旋回を開始した。尾による横合いからの薙ぎ払いを狙った動きであった。

 高速で振るわれた尾が大地を撫で、ラ・シャリテの街が更地へと変えられていく。超常存在の前に人間の営みなどは無意味であると言わんばかりの破壊。英霊ですら真正面から受けてしまえば一瞬にして挽肉へと変えられてしまうほどの威力を伴った一撃が立香たちに迫る。だがその尾はマシュによって受け止められ、立香たちを轢き潰すことはなかった。

 

「マシュ!」

「やらせません……! 先輩(マスター)はッ!! 私が護りますッ!!!」

 

 ああぁぁぁぁッ!!! と一時にせよ恐怖を彼方へと追い遣る咆哮をあげ、マシュが盾を構える。今のマシュでは邪竜の一撃を防ぎ切ることはできないが、防ぎきることだけが守護ではない。一瞬だけファヴニールの尾を受け止めたマシュは、盾を傾けてその衝撃を受け流した。邪竜の尾が立香たちの頭上を抜けていき、ファヴニールが回転を止める。

 攻撃と攻撃の間に生じる隙こそ、怪物へと攻撃を叩き込む絶好の機会である。そして、その隙を理性ある猛犬が見逃す筈はなかった。己が総身と相棒たる槍に全開のルーンを叩き込み、限界にまで強化する。

 ニィ、とクー・フーリンが口の端を歓喜に歪めた。眼前で暴れ狂うは伝説の邪竜。彼の後ろに控えるのは己が主。望んでいたものよりは小規模だが、騎士が初陣を飾るには十分過ぎる舞台である。

 なら、全力を出さない手はない。内包する太陽神の血が沸騰し、獣性が加速する。興奮を表すかのように全身のルーンの輝きが強まると同時、クー・フーリンが地を蹴って飛び出した。

 尾の一撃が空振りし、身体の動きを止めたファヴニール。その視界に映ったのは真紅の呪槍を構えて突貫してくる槍兵。獣が持つ本能的直感で危機を察知したファヴニールは何とか避けようとするも、その巨大な体躯ではそれも叶わない。

 乾坤一擲。繰り出された朱槍が鱗に覆われたファヴニールの強靭な瞼を易々と貫き、その下にあった眼球に深々と突き刺さった。想像を絶する苦痛にファヴニールがのたうち回り、クー・フーリンが距離を取る。

 何はともあれ、これで視界の半分を奪った。竜種ほどの回復力があれば時間をかければ再生も可能だろうが、それでもしばらくファヴニールが不利であることに変わりはない。

 そして、再びファヴニールの顎へと魔力が収束する。それは先程の一撃ほどの魔力量ではなかったが、ファヴニールはそれを蒼穹に向けて撃ちだした。何発もの火炎弾が空中で停止し、重力に従って落下してくる。

 その様相はまさに絨毯爆撃の如く。連続で宝具を解放した後では防御宝具の同時使用などできる筈もなく、咄嗟にマシュが立香の防衛に入りアルトリアたちが大地を縫うようにして火炎弾を回避する。

 

「ちいっ!!!」

 

 苛立ちも露にクー・フーリンが舌打ちを漏らす。彼らの戦力はファヴニールに負けていない。時間と魔力さえあれば敗北することはない。サーヴァントが召喚して従えられる個体など、たかが知れている。

 だが獣が真に恐ろしいのは窮地に立たされた時の破れかぶれな攻撃だ。それはそうだろう。奴らとて生命なのだから、それが失われようとする時は何としてでも阻止しようとする。火事場の馬鹿力というやつだ。英霊たちの数十倍の体躯から放たれる一撃のダメージは相当なものだろう。

 ならばファヴニールを操っているジャンヌ・オルタの方を先に殺してしまえば良いのかも知れないが、彼女自身強力な英霊だろう。戦闘能力はさしたるものでもないだろうが、高いステータスと竜種の召喚能力が厄介だ。そもそもファヴニールがそれを許さない。

 マシュの盾の陰から、立香がファヴニールを睨み付ける。立香の眼は数多ある可能性を演算するというやや特殊な機能を有した魔眼だが、その機能が十全に果たされるのは自らが戦った時のみだ。例えば剣なら狙った場所を問答無用で切り裂く一刀を放つことができるだろうし、銃ならその一射は狙った位置に無条件で着弾する一撃になるだろう。

 だが指揮する側となるとその機能も弱くなる。そもそも保持者たる立香が漠然としか機能を把握していないうえに本人が敵に干渉する訳ではない。アルトリアやクー・フーリンの一撃を無理矢理ファヴニールに当てることなどできないし、できることなど精々ファヴニールの次の行動を先読みする程度だ。

 しかし、指揮する側だからこそ視えるものがある。空中に浮かび上がった邪竜の次手を予知した立香が叫んだ。

 

「突進くるぞ! 跳べッ!」

「マスター……?」

 

 何故ファヴニールが行動するより早くに行動を読むことができたのか。傍らにいたマシュが疑問の視線を向けてくるが、立香に問うよりも回避を優先して立香を肩に担ぎ、真横に跳ぶ。

 次の瞬間には立香たちがいた場所をファヴニールの巨体が抜けていき、巻き起こった気流によって砂と瓦礫の屑とが混じり合った煙が上がった。だがそれに立香は惑わされることはなく、上空を振り仰いだ。

 邪竜が滑空するその直上。その邪竜が放った咆哮にも等しい魔力が1本の槍へと収束し、呪いの気炎をあげる。それを執るのはアルスターの大英雄、クランの猛犬(クー・フーリン)

 その魔力にファヴニールはようやく気付いたようで、受けるまいと回避行動を取る。だが、もう遅い。呪いの朱槍は担い手の意思に応え、解放の時は今かと待ちわびている。槍を囲うように輝くのはルーン文字か。

 最早避け得ないとファヴニールが威嚇の咆哮をあげた時、それを打ち消さんばかりの声でクー・フーリンが叫んだ。

 

「この一撃、手向けとして受け取れ。

――突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)!!!」

 

 真名解放。クランの猛犬が投げ放った朱槍は音を置き去りにするほどの速度で空中を駆け抜け、その途中で穂先が無数に分裂して邪竜へと突き刺さった。全身をくまなく差し穿たれ、ファヴニールが苦痛の咆哮をあげる。

 伝承に曰く、ゲイ・ボルクは投げれば無数の鏃となって敵に降り注いだという。この宝具はゲイ・ボルクのいくつかの使い方のうちのひとつである投擲による敵の殲滅を主眼としたものであり、刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)のような心臓必中という特性はないもののその分威力に優れる。ランクはB+だが、ルーンによってそのランクはA+かA辺りにまで上昇していた。

 ファヴニールに突き刺さった朱槍が独りでに抜け、担い手の手に戻る。邪竜の血が付着したそれを何度か振るって血を落とすと、感心したようにクー・フーリンがヒュウ、と口笛を吹いた。しかし同じ光景を見て、アルトリアが咎めるような言葉を漏らす。

 

「手を抜いたのか、ランサー?」

「いんや、全力で投げたんだが……さすがは邪竜様ってトコか」

 

 面白れぇ、と獰猛な笑みを浮かべるクー・フーリン。その視線が睨み付けるのは、ゲイ・ボルクに全身を刺し貫かれて滝のように鮮血を流しながら、それでもなお憤怒と憎悪の籠った眼で彼らを睨み付ける邪竜。

 呪いの朱槍に全身を貫かれていながら、ファヴニールの威圧と眼光はいささかも減衰してはいなかった。それどころかその痛みと苦痛を糧にして、より立香たちへの闘争心を高めている。

 しかし、それでもファヴニールがダメージを受けていることに変わりはない。上空から冷徹な目で戦闘を観察していたジャンヌ・オルタはそのことを正しく把握していた。一度の敗北を経て、彼女は僅かながらこの状況を受け入れるだけの冷静さを得ていたのである。

 そう。()()()()()()()()()()。――そう分かってはいるものの、苛立ちと焦燥が募るのをジャンヌ・オルタは自覚していた。彼女は憤怒と憎悪の化身であるからして、それは致し方ないことである。

 

「……そろそろ頃合いかしらね。……上昇(あがり)なさい、ファヴニール!!!」

 

 いくら人間の力を大きく上回る能力を持つ邪竜とはいえ、召喚者(マスター)の指示には逆らえないと見えて、ファヴニールが翼をはためかせた。血濡れの巨体が一瞬にいて浮かび上がり、敗走の体勢に入る。

 やべぇ! とクー・フーリンが漏らし、更なる追撃を邪竜に叩き込もうとする。この戦いの趨勢は完全に立香たちに向いていた。ここで逃がせば回復して再び立ちはだかる可能性がある以上、逃がす訳にはいかない。

 だが、それを押し留めたものがいた。立香である。追撃を留めた主君に対してクー・フーリンは抗議しようと振り返るも、その顔に浮かんでいる不敵な笑みを見た瞬間に不満は疑問へと変わった。次いでその疑問が確信へと変わり、ハッ、と笑みを漏らす。

 此方は地上。敵は空中。彼我の距離は決定的なまでに離れている。クー・フーリンもその距離を詰めて攻撃できない訳ではないが、長距離の攻撃にはそれに相応しい戦力をいうものがあろう。その点において、彼は適任であった。

 間髪入れず、彼らの後方から気合いが飛ぶ。

 

「ふんッ!!!」

 

 立香たちの頭上を飛ぶは無骨な巨剣。大剣などというレベルのものではない。まるで岩山そのものから削り出したかのような、人では到底震えないほどの剣であった。全長数十m、刃の厚さは数mにまで及ぶだろうか。

 真名〝虚・千山斬り拓く翠の地平(イガリマ)〟。戦神サババの愛剣たる巨剣の贋作は同時に投影された運動エネルギーに従い、空中を飛翔するファヴニールに命中した。ギイィィ!! と甲高い悲鳴をあげて邪竜が落下する。

 だが、それで終わりではない。空中を飛ぶイガリマを足場にして跳躍していた闖入者は予測していたかのように落下するファヴニールの直上に現れると、身に宿す異能めいた魔術を起動させる。

 

「――投影開始(トレース・オン)全行程破棄(ロール・キャンセル)

 ――絶・万海灼き祓う暁の水平(シュルシャガナ)

 

 その手に顕現するは捻れた刀身を有する異形の巨剣。至る箇所から噴き出す炎がいくつもの刀身を成す『紅の刃』。闖入者――エミヤは投影したそれを落下するファヴニールに向けて投げ放った。数十トンには及ぶであろう巨剣が邪竜を圧殺する勢いでファヴニールに突き刺さった。

 ゴッ、と異様な鳴き声をあげて吐瀉を撒き散らすファヴニール。戦神サババの2本1対の愛剣。ガラクタのハリボテとはいえ神造兵装の一撃を受けたことで、死んではいないもののファヴニールは明らかに弱っていた。

 立香が振り返り、ようやく会えたねと言うとその視線の先にいたエミヤの主である遥が不敵な笑みを見せた。ロマニから連絡を受けてから、遥たちは全速力でラ・シャリテを目指していたのである。無論遥はサーヴァントほどの速力はないため、ジークフリートに抱えられていた。

 その間に敵性サーヴァントの襲撃がなかったことを何か妙だ、とは思いつつも駆け付けた遥。カルデアの現存戦力の集結。逃げられないファヴニール。詰みとも言えるその状況を前にして、しかしジャンヌ・オルタは虎の子たるファヴニールではなく彼方を見つめ、己の片腕たる元帥に届かぬ言葉を投げかけていた。

 

――これで……これで良いのよね、ジル。

 

 

 

「――ええ。勿論ですよ、ジャンヌ」

 

 この近くでファヴニールを従えて戦っているはずのジャンヌを思い、キャスターたるジル・ド・レェはそう呟いた。彼の傍らでは地面に倒れ伏せる可憐な少女――マリー・アントワネットを抱えてアサシン〝シャルル・アンリ=サンソン〟とセイバー〝シュヴァリエ・デオン〟が忘我のままに彼女の名を呟いている。その横で倒れるキャスター〝ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト〟は放置だ。

 今、ラ・シャリテでカルデアと戦っているファヴニール。その攻撃は本命ではなく、その実態は完全な時間稼ぎであった。一度の敗北で学習したのは何もジャンヌ・オルタだけではない。むしろ元帥として知略に優れるジルの方が、あの戦闘から得るものは多かった。

 伝承に曰く、獣とはいかに強力なものであろうと英雄の前には敗れ去る運命である。それはファヴニールでも例外ではない。事実、かの邪竜は竜殺しの大英雄ジークフリートに敗れているのだ。故に、ジルは虎の子の戦力たるファヴニールをあえて時間稼ぎの駒として利用する道を選んだ。そもそもファヴニールはジャンヌ・オルタさえいれば再召喚は可能なのだ。惜しむ必要がどこにあろうか。

 現状、ジルらにとって最大の脅威はカルデアである。ならば優先すべきはフランスの蹂躙ではなく、カルデア戦力の殲滅。だがファヴニールではそれを成し得る前に斃されてしまう。ジルらにも英霊がいない訳ではないが、それではまだ心許ない。

 故にジルは利用することにしたのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。無論、聖杯によってジルらへのカウンターとして召喚されたサーヴァントが無条件で従う筈もない。利用するのは彼ら本人ではなくその影――シャドウ・サーヴァントだ。理性と自我さえ剥奪してしまえば、あとは聖杯に繋げて使役してしまえばいい。目には目を。歯には歯を。英雄には英雄を、である。

 今頃はフランス中でジャンヌ・オルタが召喚したサーヴァントたちがはぐれを消滅しない程度に嬲り、城に持ち帰ってくるだろう。後はジルの螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)で精神を壊し、霊子外殻を補強してやれば従順な手駒の完成だ。通常サーヴァントの霊基を使ってシャドウ・サーヴァントが作り出せるのはジャンヌ・オルタへの不忠を働いたライダー〝マルタ〟を使って実験済みだ。

 

「楽しみですねぇ。彼らの魂を穢し、その血でこの国を染め上げる時が……」

 

 そう呟き、狂った芸術家は狂気の哄笑をあげた。




立香の魔術回路起動のイメージや魔眼は独自設定です。原作と全く同じというのも嫌でしたので。


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第18話 侵攻の狼煙

 ズ、という音を立てて重なり合った巨剣がズレる。それは二振りの巨剣に押しつぶされたファヴニールが未だ健在であり、抵抗するだけの余力があることを遥たちへと知らしめた。

 無銘の執行者(エミヤ)を構成する一要素が固有結界内に貯蔵したという神造兵装〝虚・千山斬り拓く翠の地平(イガリマ)〟と〝絶・万海灼き祓う暁の水平(シュルシャガナ)〟。その連続攻撃の直撃を受けてなお、ファヴニールは弱るだけで死んではいなかった。

 分かってはいたが、流石の耐久力である。恐らくはふたつで数百トンにはなろうかという重さのものを易々とズラし、ファヴニールは遥たちを睨み付けていた。それは最初に立香たちを見ていたような余裕のあるものではなく、強烈な憤怒を孕んだ眼。嘗て自分を殺したジークフリートを前にして畏怖を忘れるほど、その怒りは強いものであるらしい。

 ちらと傍らを見れば、非常に判りにくいがジークフリートが複雑そうな表情を浮かべていた。彼自身、自分が生前に討った怪物を再び相手にするというのは思うところがあるのだろう。或いは別の世界線では異なる形で出会ったのかも知れないが、少なくとも今は敵同士である。

 ふん、とため息にも似た息を吐き、視線をジークフリートから邪竜へと戻す。半ばから折れた巨剣を押しのけて今にも襲い掛かってきそうな気迫を放つファヴニール。だが遥の気に留まったのはそれではなかった。

 

(ジャンヌ・オルタがいない……?)

 

 この特異点の歴史を歪めている首魁であり、ファヴニールを召喚して操っている張本人だと思われるジャンヌ・オルタ。先程からかなり上空の方で地上を睥睨していたその姿が、この数分の内に消えている。

 元々立香たちの救援に向かっていた間に敵性サーヴァントからの妨害がなかった時点で怪しいとは思っていたが、ここにきてその行動がより怪しくなってきた。だが彼女の思惑が何であれ、ここでファヴニールを討たないことには追うこともできない。

 しかしあれだけの巨体である。解体すれば何人分のドラゴンステーキができるのだろう、と思ってしまうのは致し方ないことであろう。邪竜を食すというのは何か悪影響がありそうだが、量だけを見ればカルデアの食糧事情を一挙解決できるに違いない。何より、ワイバーンと違ってゲテモノ肉でなさそうなのが良い。

 遥の本心を言えば不意打ちで幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)を打ち込ませても良かったのだが、騎士であるジークフリートに不意打ちは似合わない。真っ向から挑み、最後に大技で打ち倒すのが騎士の華というものであろう。遥は別に武士でも騎士でもないから不意打ち上等なのだが、嫌がる英霊を無理矢理令呪で従わせる趣味はない。

 立香に視線を移すと、立香はどこか安心したような面持ちで口を開いた。

 

「来てくれたんだな、遥」

「無駄口は後だ。今はアイツを斃すぞ。いいな、立香?」

「ああ、分かってる」

 

 迷いなくそう答えた立香に、遥は感心したかのような視線を向けた。立香の瞳の奥には不安と恐怖の光があるが、それを決意の膜が覆っている。戦士の表情とはまではいかないが、戦うことを決意した人間の表情ではあった。

 強いな、と思う。恐らくあの邪竜を前にしては魔術師といえど大半が腰を抜かすか、サーヴァントだけに戦わせて自分は安全圏から見ていようとするだろう。だが立香はどちらをすることもなく、サーヴァントたちと共に戦う道を選んだ。

 立香本人としては虚勢を張っているだけなのだろうが、幻想種の頂点を前にして虚勢を張れるだけの気力を持っているとも言える。これは良い相棒を持ったかも知れない、と遥が密かに笑んだ。

 その瞬間に響く重低音。見れば、ファヴニールがイガリマとシュルシャガナを押しのけて立ち上がっていた。全身を血に塗れさせてもなお衰えぬ鋭い眼光と気炎が揺らめくようなその姿はまさしく地獄から這い出た悪鬼が如く。

 悪竜咆哮。大気だけでなくマナまでも震わせるその咆哮を受け、遥が嗤う。神代を生きた悪竜の存在に呼応するかのように遥に流れる人外の血が沸騰し、全身の魔術回路が人間の限界を遥かに超越して駆動する。強大な怪異を、より巨大な怪異が打ち消そうとしているのだ。

 猛る血に影響されて沸騰しそうになった理性を、深呼吸をして抑えつける。下手に人外の血に行動を委ねてしまえば完全に『反転』してしまう。遥は鬼種との混血ではないが、反転の危険性は鬼種と同様だ。むしろ鬼種よりも高位の存在であるだけに、小我に吞まれた場合の危険性は計り知れない部分がある。

 遥が叢雲を抜刀すると、それを合図にしてサーヴァントたちが各々の武装を構えた。対してファヴニールは敵が増えたことで相手を完全に脅威だと認めたようで、敵意と殺意を込めた眼で遥たちを睨んでいる。その顎に収束するは膨大な魔力。初めに立香たちが浴びせられた一撃よりも巨大な、ファヴニール全力のブレス解放の合図であった。

 

「マシュ、ジャンヌ! もう一度頼む!」

「はい、マスター!」

「分かりました!」

 

 立香の指示にマシュととジャンヌが呼応し、それぞれに宝具を発動した。白亜の城壁の一端と清廉な聖女の防壁が重なり合うように展開され、ファヴニールのブレスを迎え撃つ。

 解放された魔力の暴威がラ・シャリテの街を覆いつくす。先の戦いにおいて辛うじて残っていた家々がその咆哮に呑まれ、瓦礫が彼方に流れていく。そこに住んでいた人々の営みの残滓が、圧倒的な力の前に壊れていく。

 それを悲しいとは思えど、残念だとは思わない。何度もそういう光景を見てきてしまったからか、こういう類の光景に慣れてしまっているのだ。死徒や魔術師が破壊するのなら憎悪も抱くが、竜種は自然現象のようなものだ。自然現象が人を殺すのは当然のことである。

 盾と結界に覆われてもなお感じる咆哮の余波。腕にかかる星の聖剣を受けた時にも等しい負荷に、マシュが苦悶の表情を浮かべた。マシュとジャンヌは同時に宝具を発動してはいるが、結界型宝具を全く同一の箇所に配置することはできない。竜の咆哮の負荷をより強く受けているのはマシュであった。

 受け止めきれない。そう半ば諦めかけた瞬間、マシュは自分の肩に誰かが触れる感触を覚えた。反射的に振り返ろうとしたマシュを、その手の主は制する。

 

「そのままでいい。聞け、マシュ・キリエライト」

「アルトリアさん……?」

「貴様の(ソレ)は外からの攻撃を受け止めるものではない。内にあるものを護るものだ。諦めるな。貴様の心が綻びなければその盾は必ず応える。

 それにな、マシュ。私の聖剣を受け止めた時の気概はどうした? ()()覚悟はそんなものか?」

 

 挑発するかのようなアルトリアの言葉。それはまるでマシュの内側に直接働きかけるような響きを以てマシュに届いた。その挑発に応えなければ、という思いがマシュの感情や理性を追い越して生まれ出でる。

 その思いがマシュの心に生まれた諦観を吹き飛ばし、マシュの腕に力が籠った。まるで盾の使い方を知っているかのように身体が動いて咆哮を受け止める。真の宝具を解放するには至らないものの、アルトリアの言葉はマシュを鼓舞するに十分な威力があった。

 そう。マシュが護り切らなければこの負担は全てジャンヌへと掛かる。もしもそれでジャンヌの宝具が打ち破られれば、立香と遥、他のサーヴァントたちが死んでしまう。そんなことをさせる訳にはいかない――!

 ああぁぁぁぁっ!!! とマシュが吼え、その声に応えて聖盾が光を強める。やがてその光が弾けるようにして解放され、邪竜の咆哮(ドラゴン・ブレス)を弾き返す。大空洞での戦闘においてアルトリアの聖剣を弾き返した時と同じだ。ドラゴン・ブレスはファヴニールへと返り、その巨大へと降りかかる。

 まさか返されるとは思わなかったのか、心なしかファヴニールの鳴き声には驚愕が混じっているようにも思える。ファヴニールに生まれた明らかな隙を好機と見て取り、遥が号令を出した。

 

「いくぞ、皆! タマモは後方支援、エミヤは状況に応じて行動、マシュとジャンヌは立香を守れ!」

 

 遥の号令と指令に、全員が応!!! と返事を返す。そうして騎士たちが飛び出していき、マシュとジャンヌ、タマモが遥の指示通りに行動したのを確認する。遥のことをよく知らないジャンヌは立香と同じくマスターである遥を守護しなくて良いのかと心配の視線を向けていたが、遥はそれに反応せず瞑目して深呼吸をした。

 続けて宝具である鞘〝八岐大蛇〟の帯刀を解き、鞘の先に付いた刃を自身の胸へと突き立てる。吹き出した血が重力を無視して鞘――龍神八岐大蛇の皮に流れ、召喚術式と呪術術式が起動。遥の真名解放によってそれが完全起動し、遥の肉体へ八岐大蛇が憑依する。

 遥のこの宝具が降霊させる八岐大蛇が降霊させる八岐大蛇の魂はサーヴァントのような分霊ではなく、高次領域に存在する魂本体を降霊させている。つまり、弱体化故に抑止力に目を付けられることこそないが、遥が使役しているのは紛れもない本物なのである。

 その魂が、平時よりも遥の中で躍動する。同族であるファヴニールの存在に呼応して滅ぼそうとしているのであろう。遥の身体にもそれが反映され、最初から全身が変化している。いつも以上に理性を強く保っていなければ身体を乗っ取られて暴走してしまいそうだ。

 だが、今はその危機感が頼もしい。理性を保っている限り、遥はその能力を掌握していられるのだ。魔術回路を駆動させるよりもなお酷い、一般人であれば即座に発狂しているような激痛が遥の頭蓋を苛むが、遥の表情は獰猛な笑みから変わらない。

 前方ではエミヤがファヴニールの爪による一撃を跳躍し、黒弓を投影した。左手に投影したのは鋭利極まる刃を有する宝具。〝絶世の名剣(デュランダル)〟という銘を有する投影宝具は弓から解き放たれると易々とファヴニールの鱗を貫き、その肉を抉って体内に侵入を果たす。

 だが、エミヤの攻撃はそれでは終わらない。絶世の名剣がファヴニールの体内に侵入した瞬間、経路を通じて指令を飛ばした。

 

「弾けろ」

 

 主であるエミヤの号令に応え、絶世の名剣が内部に秘めた神秘を解放する。ファヴニールの翼の付け根辺りで発生した壊れた幻想は胴体から翼へと繋がる骨格を破壊し、邪竜から飛行能力を奪った。

 ハッ、と笑って、遥は自らの意識に埋没する。集中するのは自分の魔術回路と叢雲の間に結ばれたパスだ。遥から叢雲に向けて流れていく魔力を辿り、その内部に侵入していく。

 剣に宿る記憶の解析と継承。担い手の記憶が宝具に宿るのは自然なことだが、この叢雲は訳が違う。最果ての塔に近い性質を持つこの宝具の中には、前使用者の分霊が宿っている。その記憶を解析できるのは、ひとえに()()()()()()()()()()()()()()()』あってこそのものである。

 憑依経験ともエミヤの投影とも似て非なる魔術。遥のみに許された限定的な記憶の継承。ほう、と息を吐いてそれを完了させると遥は目を開けた。その眼は平時の漆黒ではなく、虹彩が仄かな真紅に変わっていた。獰猛な笑みは消え、ただ冷徹な視線でファヴニールを睨み付けている。

 

「――容赦はしない。相手が竜種であろうと、殺す」

 

 いつもの飄々とした雰囲気の遥とは全く異なる冷酷な声音。そうして地を蹴って駆け出した瞬間、刹那の間だけ遥の姿が掻き消えた。次に遥の姿が現れたのはファヴニールの足元。叢雲の刃は既にファヴニールの肉を深々と抉っていた。ファヴニールは足元に現れた新たな襲撃者を打ちのめすべく脚を振り上げて遥を踏みつぶさんとするが、その攻撃を受けるような愚を遥が犯す筈もない。

 振り下ろされた脚を軽々と回避し、再びファヴニールの足に叢雲を突き刺した。いかな竜種とはいえ、それが神秘を内包するものであればその原則から逃れられない。神秘はより強大な神秘に打ち消される。ファヴニールの鱗はより強い神秘を持つサーヴァントの武具に穿たれ、全身から鮮血が噴き出る。

 その鮮血を全身に張った防壁越しに浴びながら、遥が口元に笑みを見せる。それは血を浴びて歓喜する獣の歓喜とこの状況に興奮する遥の感情がない交ぜになった、何とも形容し難い異様な笑みであった。言うなれば人と獣の不完全な融合。手綱を操り切れていない騎兵のようだった。

 時空の彼方から呼び招かれた英雄たちが時代や国を越えて結集し、竜という強大極まる敵を打倒する。まさしく人々が思い描く英雄の姿そのものであり、数多ある英雄譚の極致である。その英雄たちと、自分が肩を並べて戦っている。なんとも心躍るではないか――!

 今更ながらにまるで夢のような体験をしていることに気付いた興奮。感激に身を震わせていながらも、遥は注意深くファヴニールの様子を観察していた。顎に収束する火炎の渦。狙いは足元。自傷覚悟の攻撃に、遥が防御姿勢を指示しようとした時、先にマシュがそれに反応した。

 

「いけない……!」

 

 そう呟き、マシュがスキル〝今は脆き雪花の壁〟を発動させる。マシュの精神力を防御力へと変換した盾の加護が遥を含む味方全体に付与され、全員の防御力が上昇した。

 そこに放たれる火炎。自傷を覚悟したファヴニールの吐息が大地に紅い華を咲かせ、一瞬にして大気が過熱されたことで巨大な爆音が鳴り響き、その余波が街をさらに破壊する。

 その火炎によって巻き上げられた土煙がファヴニールの視界を覆う。だが、邪竜が自身の火炎が目論見を果たせなかったことに気付くのにそう時間は掛からなかった。竜種の感覚は敏感であるが故に、視界を塞がれていたとしても他者の存在を感知することができる。

 ファヴニールの火炎を受けてもなお、足元にいた者たち――遥とエミヤなどはひとりも欠けることなく生存していた。マシュによって防御力を強化されているうえ、彼らはほとんどがそれぞれに高位の防御手段を持つ。それによって、彼らは火炎弾を防ぎ切ってみせたのだ。

 自身の攻撃が通用しなかったことを悟ったファヴニールが今度は火炎よりも強力な、マシュですらも容易には防御しきれなかったブレスを吐こうとする。だが遥とエミヤはそれが放たれるよりも先に跳躍した。さらにエミヤは夫婦剣を消し、再び黒弓と、偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)を投影する。

 ファヴニールは逃した遥とエミヤを打ち落とすべく尾を蠢かせるが、それはアルトリアの聖剣によって尾が半ばから断ち切られたことで叶わなかった。エミヤは弓に偽・螺旋剣を番え、真名解放と同時に撃ち放つ。周囲の空間ごと削り取る宝具の一撃が先に破壊していた翼とは反対の翼の付け根に命中し、完全に飛行能力を奪い去った。

 

「これは……」

 

 フッ、を無意識に笑みを漏らしながらジークフリートがファヴニールの胴を切り裂く。

 死後に再び見えた悪竜。生前戦った時は勝利こそしたものの、その勝利は無数の敗北からひとつだけ存在した勝利を拾い上げるような戦いであった。生前でさえそうなのだからサーヴァントになった後に勝てるかどうかは万が一の確率でしかなかった。

 だが、こうして他の英雄たちと肩を並べて戦うという奇跡に出会えたことで最強の悪竜と圧倒するだけの力を得た。彼自身は生前は孤独に戦っていた訳ではないが、同じ英雄と共に戦うというのは感慨深いものがある。

 ジークフリートがそんなことを考えていると、不意にファヴニールが崩れ落ちた。見れば、名も知れぬ刀使いの英霊(沖田総司)がファヴニールの足の腱を切り裂いていた。既に遥によって歩行能力を殆ど奪われていたファヴニールであるが、今度こそ自分の体重を支えきれなくなり崩れ落ちる。

 直後、サーヴァントたちがファヴニールの身体から離れた。続けて飛ぶのはジークフリートの(マスター)の言葉。

 

「令呪起動。宝具を以てこの悪竜に止めを刺せ、ジーク!!!」

「承知した。我が魔剣の輝きを此処に示そう……!」

 

 遥が行使した令呪の莫大な魔力に後押しされ、ジークフリートの魔剣が強い輝きを放つ。彼を中心にして溢れ出た魔力が暴風となって吹き荒れ、結界の如く竜殺しを覆う。

 魔剣から昇る蒼い輝きが自身を屠ったものであることを察知したのか、ファヴニールが唯一残った攻撃手段である火炎弾と魔力咆哮を以てジークフリートを吹き飛ばそうとするが、それは防衛に入ったマシュの盾とタマモの黒天洞によって阻まれる。

 全身に充溢する魔力。心強いその力に後押しされ、ジークフリートが口上を述べる。

 

「邪悪なる竜は失墜し、世界は今、洛陽に至る。

 討ち堕とすッ!!! 

 ――幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)!!!」

 

 解放される黄昏の波。聖剣の極光にも似た魔力の輝きが魔剣から放たれ、大地を焼き焦がす。ファヴニールは最後の足掻きとして魔力の咆哮を放つが、断末魔めいたその一撃では黄昏の波は防げない。

 黄昏の波と邪竜の咆哮が鬩ぎ合ったのは刹那の間。邪竜の吐息は黄昏の波に呑まれ、その魔力を虚空へと霧散させた。吐息を打ち消した黄昏の波はそれで威力を減衰されることはなく、邪竜へと突き刺さった。

 真正面から邪竜に直撃した黄昏の波は徐々にその規模を増し、遂にはその身体の全てを呑み込んだ。断末魔の咆哮は黄昏に呑まれてもなお轟いていたが次第にその存在を減じさせ、遂には完全に消え去った。

 次いで訪れた静寂。黄昏に吞まれた邪竜の跡形は既に完全に消滅し、どこにもその存在の名残を残してはいなかった。宝具を解放して膨大な魔力を消費したことで肩で息をするジークフリートに近づくと、遥が口を開く。

 

「やったな、ジーク」

「ああ。……ところでマスター。その呼び方はなんだ?」

「え、渾名だけど……駄目だったか? ジークフリートって長いし」

 

 遥としては寡黙なジークフリートと少しでも近づこうとしてのことだったのだが、まさか気に食わなかっただろうかと不安に思っているとジークフリートが構わない、と答えた。

 ジークフリートとしてはジークと呼ばれると、確かに自分に向けて言われている筈なのにまるで違う誰かと間違って呼んでいるかのような異様な感覚を覚えるのだが、折角マスターが友好の証として付けた渾名を拒否する理由もない。

 妙なマスターだ、とジークフリートは思う。魔術師にとってはサーヴァントなどは所詮使い魔でしかない筈なのに、そのサーヴァントと対等に接し、あまつさえ渾名とは。彼自身、自分はただの使い魔だと受け入れるだけの認識はあったがそれでもひとりの人間として扱われることに不満はない。

 遥が突き出した拳に、ジークフリートが拳を突き合わせる。ここに、邪竜との勝負は決した。

 

 

 

 篝火の切っ先が暗闇を撫で、炎の撫でられた空気が揺らめく。邪竜との決戦から数時間後、一行は篝火を囲んで夕食を摂っていた。本来食事の時間とはどんな状況であれ多少は安心するものであろうが、黙々と食事をする一同の表情は固い。

 ファヴニールを打倒してからこれまで、一行はいくつかのグループに分かれ、可能な限りフランスを回ってはぐれのサーヴァントを探していた。だが結果は芳しくなく、はぐれサーヴァントはひとりも見つからなかった。それどころか町人から不吉極まりない情報まで入手してしまった。

 『竜の魔女の眷属たちがこれまでのような虐殺を行わず、奇妙な出で立ちをした人だけを襲い、攫っていった』という情報。何が起きたのか察するにはそれだけで十分だった。つまりジャンヌ・オルタたちはこれ以上カルデアの戦力が増えないようにはぐれサーヴァントを駆逐したか、彼らをシャドウ・サーヴァント化させたのだ。

 前者であればさして問題はないが、後者であるなら考慮しなければならない問題だ。冬木で戦ったシャドウ・サーヴァントたちは泥によって反転した存在であり、通常のそれとは少し違う。ただのシャドウ・サーヴァントは単体では大した戦力には成り得ない。せいぜいワイバーン10匹分程度が関の山だろう。

 だが塵も積もれば山となるという言葉があるように、木っ端な戦力と言えど大量に集まれば脅威となる。加えて、冬木のバーサーカーのようにシャドウ化しても強力な英霊もいる。シャドウだから、と簡単に切り捨てる訳にはいかない。

 カルデアから送られてきた補給物資で作った味噌汁を半ば機械的に口に運びつつそんなことを遥が考えていると、反対側から立香が問いかけてきた。

 

「これからどうする、遥? はぐれサーヴァントたちもいないんじゃ、これ以上フランスを歩き回っても……」

「そうだな……立香、聖晶石持ってるか?」

 

 遥がそう問い返すと、立香はベルトに装着したポーチに手を突っ込みながら1個だけ、と答えた。その答えを聞き、遥が味噌汁を飲み干してふむ、と唸る。

 実のところ、遥は聖晶石をふたつ持っている。聖晶石とはつまるところサーヴァントの霊基を構成するための霊基と魔力の結晶体である。それ故、敵性サーヴァントを斃した際に稀に発生することがあるのだ。遥のそれはシャドウ化したエミヤと沖田に一瞬で斃されたアサシンの残留霊基からできたものである。

 ふたりで持っている分を合わせて3つ。丁度サーヴァントを1騎召喚できるだけの聖晶石はあるということだ。すぐにでも戦力を確保しようと思うなら迷わず召喚するべきだろう。

 だが、ただ徒に戦力を増やしすぎても良いことはない。遥と立香は魔術師としての能力は雲泥の差はあるが、マスターとしてはどちらも新米に等しい。無闇やたらとサーヴァントを増やしてキャパシティオーバーになってしまっては元も子もなかろう。

 しかし、召喚するサーヴァントによっては相手の意表を突く結果にも成り得る。その場合はどちらが契約するのか先に決めなければならないが、それはじゃんけんで決めても構わないだろう。マスターとしての能力に大差はないのだ。

 ほう、と息を吐いて思考を切り替える。優先的に考えるべきことはまだある。サーヴァントの召喚については後で考えるとして、先に考えるべきは今後の方針だ。それが決まらないことには召喚するか否かも決められない。――とはいえ、遥たちにできることなどひとつしかないのだが。

 

「明日にでもオルレアンに進撃するか……?」

 

 方針もなにも、遥たちにできることなどこれしかない。はぐれサーヴァントたちは駆逐され、最早追加戦力として期待することはできない。これ以上フランスを探し回ったとしても見つかる保証がないのでは時間の無駄だ。

 この地で怪物たちと戦っているであろうフランス軍に接触し、協力体制を敷くというのも可能ではあるが、果たしてジャンヌとジャンヌ・オルタが別人であると判別できる人間が何人いるか。はぐれ探しでジャンヌが遭遇はしたらしいのだが、その時点で判別できたと確認できたのはこの時代のジル・ド・レェだけだったという。フランス軍については元帥ジルの動きに任せる他ない。

 そもそも、敵陣営にサーヴァントがどれだけいるかも分かっていない。現時点で判明しているのは沖田に斃されたアサシンとそれ以前に遭遇したジャンヌ・オルタ本人と彼女が連れていた4人、晩年のジルの計7人。これが全てかも知れないし、或いは2、3倍の数がいるかも知れない。聖杯を有しているならそれも不可能な話ではないのだ。

 考えすぎても良くないのは分かっているが、それでも一度思考を始めるとそうなってしまうのが遥の悪癖であった。それを自覚している遥はひとつため息を吐くと、立香に問いかけた。

 

「お前はどうしたい、立香。このまま様子を見るか、すぐにでも進撃するか」

「オレは……危険を冒してでもオルレアンに向かうべきだと思う。特異点の修正は早い方が良いだろうし……何より、また犠牲になる人々が出るかも知れない」

「ああ……そうか」

 

 立香に同意を示す遥の言葉。だが遥がその言葉が出た途端に立香が驚いた様子で遥を見たのは、まるで遥が『今気付いた』とでも言いたげな声音であったからだった。遥自身もそれが意外だったのか、呆けた表情をしている。

 いつ次の犠牲者が出るか分からない。立香に言われるまで遥は何故かその可能性を完全に考慮していなかった。それに驚愕すると同時、遥は自分がジャンヌ・オルタをどう思っているかを自覚した。遥はジャンヌ・オルタを憎みきれない。それどころか、多少好感を持ってすらいる。無辜の人々を虐殺している筈の彼女を、だ。

 要はジャンヌ・オルタの復讐は『正当』なのである。例え()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それがジャンヌ・ダルクが抱く筈だった憎悪を内包している存在であるなら、彼女の復讐は虐げられた者の当然の帰結だ。ジャンヌ・オルタは遥と同族なのである。ただ、遥の信条と彼女の行為が相いれないものであるだけで。

 味噌汁を飲み干してほう、と息を吐くと、遥は投影した鍋で先程から汁粉を作っているエミヤに声をかける。

 

「エミヤ。お前はどう思う?」

「言うまでもないだろう。私は立香に賛成だ。……そもそも既に方針を決しているというのに、人に訊くことがあるのか?」

 

 揶揄うような笑みを向けつつ、完成した汁粉を遥に差し出すエミヤ。遥はそれを受け取るとすぐに啜り、和食についてはエミヤには勝てないという僅かな敗北感を抱きながらも迷いが払拭された笑みを浮かべた。

 そう。迷って考えていたところで特異点が解決する訳ではないのだ。ただ考えて無為な時間を過ごすよりも、無策でも突っ込んで解決できれば万々歳、危なくなれば即敗走でリトライする方が何倍も意味がある。

 それでも多少の策は考える。そのうえで、遥は一同に言う。()()()()()()()()()()()()()()()()、と。それに真っ先に異を唱えようとしたのはジャンヌであった。

 

「待って下さい! いくら強くとも貴方はただの人間です! それに、彼女は……」

「分かってるよ、アンタの言いたいことは。……けどさ。勝負を半端にされたままじゃ納得いかねぇんだよ。それに、ヤツに引導を渡すのは同族の役目だ」

 

 確かな決意を以て、遥はジャンヌの眼を見つめ返す。そうして目が合った瞬間、ジャンヌは遥の瞳の奥にジャンヌ・オルタと共通するものを見出した。同時にジャンヌは遥の言葉の意味を理解し、その強靭な理性に驚嘆する。

 あれだけの憎悪を撒き散らしていたジャンヌ・オルタに引けを取らない憎悪と憤怒を内包していながら、遥はジャンヌ・オルタと同じ道を歩まずにその在り様を異としている。まさに〝理性の化け物〟とでも言うべき様相であった。ジャンヌ自身、その異常なまでの頑固さから〝人間要塞〟などと言われることがあるが、それに匹敵するものが遥にはあった。

 そして、この場において両者の頑固さには僅かながらの差が存在していた。どちらも譲らなければ永遠に終わりが来ないであろう沈黙の中、先に折れたのはジャンヌの方だった。

 

「……分かりました。しかし、その場には私も同行させてもらいますよ。彼女は私とは違う存在ですが、決着を付けなければならない相手ではありますから」

「了解。……じゃあ決まりだ。夜明けを迎え次第、俺たちはオルレアンへ侵攻する。異論がある者はいるか?」

 

 そう言ってから一同を見回す。遥の決定に異論を差し挟むものはおらず、全員が遥の視線を強い決意の籠った目で受け止めた。



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第19話 決戦の幕を開けよ

「……そうか。ジャンヌ・オルタは立香たちの方に出たか」

 

 悪竜ファヴニールを討った翌日。遥はカルデアにいるロマニと通信しながらそう呟いた。その視線の先では沖田やエミヤ、タマモ、ジークフリートといった遥と契約しているサーヴァントたちが犇めくワイバーンや海魔と戦っている。

 昨日決定した通り、遥たちは夜明けを迎えると同時にオルレアンへと進撃を開始した。だが――予想していたとはいえ――オルレアンの周辺は化生が跋扈する混沌地帯と化しており、容易には進撃できない状態であった。

 そもそもカルデアから進撃以外の選択肢を奪ったのは相手側なのだ。なら根拠地であるオルレアン周辺に全ての戦力を集結させていることは猿でも分かるというものだった。だが遥たちは一か所に戦力を集中することはせず、マスターごとに二分して別方向からオルレアンへと侵攻している。

 それは何も深い考えがあってのことではない。作戦遂行時間と生存確率を考えればむしろ二分割ではなく一点突破が良いのだろうが、それでは相手がアルトリアの聖剣や遥の神剣のような広範囲を焦土を化すことができる宝具を以ていた場合に対応できない。

 薄情な奴だ、と遥が苦笑する。遥が立てた作戦、というよりも方針は〝遥ができないのなら立香が、立香ができないのなら遥が〟である。要は仮に片方が死んでももう一方が作戦を完遂できればそれでいい、というものであった。

 無論、立香やマシュを死んでもいいと思っている訳ではない。彼らは遥にとっては大事な仲間だ。ふたりが死ぬような目に遭うくらいなら自分が身代わりになってもいいとさえ思う。だが、それではいけない。そもそもの話、遥は立香を信じているからこそ別行動を取ったのだ。

 立香は魔術的な才能で目を見張るものなど魔眼程度しかなく、それ以外は一般人と同程度と言っていい。だが彼が持つサーヴァントとの信頼と指揮能力、そして度胸は本物だ。どんな敵が立ちふさがろうと立香たちならば乗り越える。それは半ば確定事項として遥の中にあった。

 

「俺と立香の周囲の探知は常に最大範囲で頼む。レオナルドもいるんだ、できるだろ?」

『勿論。君たちが頑張ってるんだから、僕たちも死ぬ気で頑張らなきゃ失礼ってものだろう? ……その代わり。絶対に死ぬんじゃないぞ、遥君』

「ハッ。誰に物言ってやがる。絶対にケリつけて帰るさ。戦争は数じゃなく質だってことを、奴らに教えてやる」

 

 獰猛な笑みを浮かべつつ遥が吐いた言葉にロマニは強気だね君は、と苦笑するとそれきり遥に話しかけることはなくなった。代わりに通信機から聞こえてくるのはロマニがスタッフに指示を出す声と、次々とスタッフから飛ぶ報告。それらを意識から締め出し、遥は深呼吸をした。

 意識を向けるのは己の外ではなく内。宝具を使うまでもない。より速く。より強く。より鋭く。自己に暗示をかけることで己が肉体を組み換え、一時的に自身の身体能力を英雄に匹敵する程にまで上昇させる。

 それは日本の剣豪であればまず間違いなく習得している技であった。自己暗示による肉体変性。遥もまた刀を得物とする者のひとりであるならば、それを習得しているのも道理というものであった。尤も、遥のそれは他の剣豪のそれとは訳が違うのだが。

 いくらサーヴァントたちが万夫不当であっても、波濤の如き化生を前にしては取りこぼしは発生する。沖田たちもそれは例外ではなく、10匹程度の黒いワイバーン――ワイバーンエビルたちが木の枝に乗っている遥を見付けた。彼らは遥をサーヴァント達のマスターと判別する力はないが、隙だらけの獲物を見付けたことに歓喜して咆哮をあげる。しかし。

 

「――ふッ!!」

 

 短い気合。それがワイバーンエビルたちの耳朶を叩いた時には既に、彼らの視界から遥の姿は消え去っていた。斬られた。それを認識する暇すらも与えられずワイバーンたちの首から鮮血が迸り、首が根本から断ち切られる。

 死を認識することさえなく堕ちていくワイバーンの身体を蹴り、遥が化け物たちが犇めく地上へと突貫する。その刹那の間に叢雲を納刀すると、着地と同時に抜き放ち敵を切り裂いた。神速の抜刀術。まさに剣の極致にある技のひとつであった。

 その時点になってようやくワイバーンたちは遥への認識を簡単に狩れる獲物から英霊たちと同位の脅威へと引き上げた。咆哮をあげ、集団を成して遥を食い殺さんと襲い掛かってくる。あるものは足の鉤爪を遥に向け、また別の個体は翼をはためかせて空気の刃を放つ。

 だが、それらが遥へと届くことはない。遥は真っ先に突っ込んできた個体の鉤爪を難なく回避すると、一息でその首を撥ね飛ばした。すかさず力を失って崩れ落ちたワイバーンの身体を掴むと、目の前のワイバーンに向けて投げつける。そうして怯んだところに叢雲を突き入れ、数匹を絶命せしめる。

 生命力の強い神代の魔獣であるワイバーンは急所以外を攻撃されてもそう簡単に死ぬことはない。だが遥は調理のためにワイバーンを解体した際、その体内構造を全て把握していた。故に一息で心臓を穿ち、絶命させることができる。

 遥の背後に築かれる死屍の海。積み上がった死体から噴き出た血が霧のように広がる。その霧が体内へと侵入した時、遥は驚愕と困惑に同時に見舞われた。

 

(これは……毒か。だが……)

 

 遥が気付いた通り、海魔の血液は人間にとっては毒だ。いかな混血とはいえ、多量に吸い込んでしまっては致命と成り得る強力な毒。サーヴァント相手に効くほどではないだろうが、それなりに強力な類のものであった。

 だが、それを吸い込んでしまった遥の身体に変調はない。対毒や解毒の魔術を自身に掛けている訳でもない以上、それは説明のつかない状態であった。

 遥は知らない。遥とマシュ、正確に言えばマシュに内在する霊基との間に結ばれた因果線は彼にマシュの聖盾の恩恵を与え、その身体に強力な対毒の加護を与えていることを。

 しかし、原理は分からなくとも効果がないのなら問題にはならない。これは重畳、と遥が片頬を吊り上げたのとほぼ同時、前方に他の個体よりも体躯が一回りか二回り巨大な海魔が現れた。

 中型海魔の全身を隙間なく覆う眼球が、躊躇う様子もなく突っ込んでくる遥を捉え、その眼が愉悦と食欲に光る。オォォォォン、と海魔は巨大な咆哮をあげると他の海魔やワイバーンごと薙ぎ払うように触手を繰り出した。

 常人には到底対応できず、仮に視認できたとしても捌き切れない触手による攻撃。だが、それが遥相手であれば話は別だ。半ば無意識に祝詞を紡ぎ、体内に固有結界を展開する。

 

加速開始(イグニッション)

 

 続けて唱えた祝詞によって体内の固有結界の速度が倍化し、世界の速度が鈍化する。のろまめ、と嘲るような呟きと共に叢雲を縦横に振るうと、一瞬にして海魔の触手が細切れになった。

 数秒前までは余裕に満ちていた海魔の眼が一転、驚愕に染まる。アメーバにも似た単純な構造をしている海魔は放っておけば簡単に組織が再生するが、それを加味しても決定的な隙が生まれる。それは致命的な隙であった。

 遥の左手に生まれる赤い輝き。遥の煉獄より這い出た焔は一瞬にして大きく膨れ上がり、化生に覆われた大地を紅蓮に染め上げた。遥と相対する海魔はそれが自身を屠り得るものであると察知し、逃げようとする。けれどそもそもが鈍足で異形が犇めく状態では逃げることすらもままならない。

 轟、と雄叫びをあげて焔が大地を駆ける。聖剣の解放が如き暴威を伴って放たれた煉獄の焔は逃げようとする海魔とワイバーンを呑み込み、広い範囲を焼野原と化さしめた。

 エミヤの投影と同じく、遥が持って生まれた固有結界という異能めいた魔術。魔力が続く限り無限に生み出される焔が宿す神秘は宝具のそれに匹敵する。自身らが宿す神秘を凌駕するそれに耐えきれる筈もなく、巻き込まれた怪物たちは一瞬にして血液の一滴も残さずに蒸発した。

 だがそうして生まれた間隙も、瞬く間に次々と発生する化生たちによって埋め尽くされ、元の姿を取り戻してしまう。まさに暖簾に腕押しという言葉通りの光景に遥が舌打ちを漏らそうとした時、背後で膨大な魔力が収束するのを感じた。それを無言の合図と取り、遥が横に跳ぶ。

 

投影開始(トレース・オン)――偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)!!!」

 

 その声が背後から飛ぶや、元々遥がいた場所を宝具が馳せた。真名を解き放たれた宝具は周囲の空間を巻き込み、崩壊させながら突き進む。その射線上にいた海魔やワイバーンは圧搾され、挽肉へと変わる。

 遥の視線の先で宝具が炸裂し、壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)が起きる。撒き散らされた神秘は爆炎にも似た衝撃を引き起こし、その周囲から敵性体を一掃した。

 投影宝具を炸裂させることで化生どもを消し飛ばしたエミヤ。だが彼らの攻撃はそれでは終わらない。自身の宝具が狙った通りの効果を引き起こしたことを確認したエミヤは達成感に浸ることもせず、遥と同じように横に跳躍した。

 直後にエミヤの後方で立ち昇る蒼い光。それはジークフリートの魔剣が解放されようとしていることを示す光であった。だがその真名解放が解放されるより早く、ロマニの警告が飛ぶ。

 

『前方から魔力反応!! これは……宝具だッ!!!』

 

 ロマニの声に、弾かれるように遥が上空を仰ぎ見る。これだけの異形が犇めく野原には似つかわしくない雲一つない蒼穹。だがその蒼穹はそれを切り裂くように無数に奔る緑色の光条に埋め尽くされていた。

 エミヤ! タマモ! と名前を呼ぶとそれだけで英霊たちは遥の意思を汲み取り、名前を呼ばれたふたりの元へ集結した。エミヤとタマモはそれぞれに遥の指示に応え、防壁と成り得る術を行使する。〝呪層・黒天洞〟と〝熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)〟。

 直後に降り注いだ緑色の光条はまさに絨毯爆撃が如く。容赦という言葉を知らないかのような絶え間のない致命の雨。それは壊れた幻想や煉獄の焔など比較にならない規模を以て大地を焼き払う。防御手段を持たない海魔やワイバーンは断末魔の悲鳴を撒き散らしながら肉片へと変わる。

 投影した盾を支えるエミヤ。弓兵たる彼は騒音が響くこの戦場の只中にあっても矢の豪雨の直前に敵が解放した真名を聞き取っていた。――訴状の矢文(ポイボス・カタストロフェ)、と。

 しばらくして、ようやく光の矢の掃射が止む。残った4枚の花弁をエミヤが消し、周囲を警戒したまま遥が立ち込める土煙の向こう側に言葉を投げた。

 

「自分から雑魚共片付けてくれるたぁ……随分親切なことだな、弓兵さんよ」

「――フン。不遜な物言いだな、敵のマスターよ」

 

 土煙の向こう側から投げかけられた声は凛としていながら、ひどく殺意と憤怒の色合いに塗れていた。土煙に紛れた奇襲を警戒したタマモが〝呪相・密天〟を行使する。

 呪符を起点として発生した逆巻く突風が、遥たちを覆う土煙を払う。その先にいたのは5騎のサーヴァント――正確に言えば3騎のバーサーク・サーヴァントと2騎のシャドウ・サーヴァントであった。その姿を視認すると同時に、以前出会ったセイバー以外の真名を遥が推測する。

 まずは先程の宝具の主であるアーチャー。声と同じくその立ち姿は凛としていながら、それを引き立たせる絶妙な可憐さを備えている。頭に生えた獅子耳と臀部の尻尾は人によっては性癖を擽るものなのであろうが、生憎遥はそういう属性はタマモで十分だった。

 獅子耳の弓兵といえば該当するのはギリシャ神話に登場する英雄〝アタランテ〟だろうか。彼女は獅子の耳を持っていたという逸話はないが、女神アルテミスへの純潔の誓いを破ったことで獅子に変えられたという逸話はある。それがサーヴァントとしての見た目に影響したということだろう。

 次に大剣を携えた黒い外套の男。一見セイバーのようでもあるが、遥の直感がそうではないと告げていた。他に剣を主武装とするクラスとして考えられるのはアサシンやライダーだろうか。何か騎乗するものがないなら、恐らくは前者だろう。ライダーであるのは共に現れたシャドウ・サーヴァントのうち1騎、馬に跨った方だ。

 最後にライダーと同じくシャドウ・サーヴァントらしき和服の少女。しかし和服を纏った英霊などいくらでもいるだろう。あまりにも手掛かりが少ないために遥が真名の推測を放棄しようとした時、タマモが呟いた。

 

「清姫さん……貴女……」

「清姫? 清姫って、あの?」

 

 遥がタマモに問うと、タマモが無言で頷きを返した。如何なる経緯でかは不明だが、タマモは清姫と知り合いであるらしかった。

 清姫。近畿地方に伝わる〝安珍清姫伝説〟に登場する貴族の少女である。遥もあまりその伝承には詳しくないが、最終的に執念だけで蛇へと変じたという恐るべき逸話を持つ。ここで言う蛇が竜種であろうことは想像に難くない。だがシャドウ化している以上、その転身能力は失っているとみていい。

 相手は5騎。此方も遥を戦力として含めれば5騎だ。今の遥は八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)発動状態ではないが、自己暗示を掛けた状態であればある程度のサーヴァントと渡り合うだけの力を持つ。並みのシャドウ・サーヴァント程度であれば難なく対応することができるだろう。そうして遥が指示を飛ばそうとした時、不意に咽び泣くような咆哮が轟いた。

 

「ア……アァ……安珍様ぁぁぁぁッ!!!」

「はぁっ!?」

 

 突如として何の前触れもなく奇声をあげながら遥に突貫してくる清姫。彼女はバーサーカーであり、それに加えてシャドウ化によって知性の殆どを奪われている。遥を安珍と誤認するのもあり得ぬ話ではなかった。しかしその突進も、遥に届くことはなかった。

 

「タマモ!」

「マスター、清姫さんは私にお任せください。メル友として、彼女には私が引導を渡します」

 

 一瞬メル友……? とは思いはしたものの、すぐにその疑問を打ち消して遥が頷きを返した。それが開戦の号砲となり、戦闘が開始される。

 どんなサーヴァントであれ、マスターなしでは現界を維持することはできない。アタランテがまず狙ったのは敵のマスターである遥であった。引き絞るほどに威力を増す弓〝天穹の弓(タウロポロス)〟から放たれる矢。だがそれは遥を貫くことはなく、空中で弾かれる。

 なんという精密な射撃か、とアタランテがエミヤを睨む。神秘の薄いただの弓兵だと侮ってはいたが、アタランテはその評価を格上げした。あの弓兵はともすれば自分に匹敵する弓の腕前を持っている、と。加えて、狂化されていながらも彼女はエミヤが放った矢が宝具であることを見抜いていた。

 牽制として適当に投影した矢を放ちながら、エミヤが周囲の地形を確認する。周囲の敵はある程度一掃されたとはいえ、全滅した訳ではない。徐々に海魔たちは距離を詰めてくるだろう。行動できるのは精々、アタランテの宝具で焦土となった範囲だけだろう。その範囲に高台はない。平野であるのだから当然だ。高所からの射撃は不可能だが、それは相手も同じだ。アタランテもまた援護射撃がしにくい場所から矢を射るしかない。

 次に遥たちが戦っている相手だ。沖田はデオンと、ジークフリートはシャドウ・ライダーと、遥はアサシンとの戦闘に入った。遥は宝具を使っている訳ではないが、自己暗示を掛けた遥は歴史に名を刻んだ剣豪と同等の領域に達している。暗殺者程度に遅れを取るとは思えない。

 そこまでを瞬時に確認すると、エミヤはアタランテを睨んだ。仲間たちがそれぞれに敵と戦っているのなら、自分が戦うべきはあの純潔の狩人だ。そう定め、エミヤが祝詞を紡ぐ。投影するは血に飢えた魔剣。それを番え、真名を唱える。

 

「往け、赤原猟犬(フルンディング)!!!」

 

 解放された魔力が大気を叩き、爆音めいた音を鳴らす。超常の威力と速度を以て放たれた矢は常人には視認することさえも難しいが、神代の弓兵であるアタランテにはそれを相殺するなど造作もないことだった。

 照準を赤原猟犬に合わせ、アタランテが矢を放つ。天穹の弓を限界にまで引き絞った最大威力の矢は赤原猟犬に寸分たがわずに衝突し、軌道を変える。そうして次弾を番えようとしたアタランテだが、次の瞬間には驚愕に見舞われた。

 狙い通り、とエミヤが内心で言葉を漏らす。エミヤが放った宝具、英雄ベオウルフの持つ魔剣たる〝赤原猟犬(フルンディング)〟は真名解放して解き放つことで対象に着弾するまで追い続けるという特性を持つ。それを解除するには赤原猟犬そのものを破壊するか、エミヤを殺すしかない。

 アタランテはその真名こそ知らなかったが、軌道を変えて襲い掛かってきた時点でその特性に気が付いていた。強制的に狂化されていてもなお、英雄としての勘は損なわれていなかったのである。しかし彼女は、その宝具を相殺し得るだけの攻撃手段を彼女が持っていないことにも気づいていた。

 アタランテが持つ最大威力の宝具である訴状の矢文(ポイボス・カタストロフェ)であれば或いは破壊もできるだろうが、たかが矢の一撃のために使用するのは憚られた。加えてこの宝具は広範囲を薙ぎ払うのに特化している。使ってしまえば味方ごと消し飛ばしてしまうだろう。それはそれで良いのかも知れないが、彼女にそれはできない。聖杯によって召喚された時に埋め込まれた命題に逆らってしまう。

 ならば肉を斬らせて骨を断つ。多少の傷は負おうとも掴んで折ってしまおう、とアタランテが行動を決定する。しかしその直後、アタランテの眼前で矢が炸裂した。平時ならば回避できたのだろうが狂化していたがために回避することができなかった。

 

「くっ……このっ……ッ!?」

 

 防御することもままならず、真正面から爆撃を喰らったアタランテ。四肢の欠損こそなかったものの、全身に熱傷を負ったうえに皮膚の至る所が裂けて全身が血濡れとなっていた。

 さらにアタランテは直感的に危機を感じ取り、咄嗟にその方向に弓を向けて迎え撃った。鳴り響いたのは金属音。爆炎に紛れて突っ込んだエミヤが振るった夫婦剣がアタランテの弓を叩いた音であった。

 アタランテ自身、接近戦ができない訳ではない。だがこの状態で無傷の相手に接近戦を挑むのは不味いと判断して距離を取ろうとするも、エミヤはそれを許さない。

 

「弓兵が白兵戦などッ……!!」

 

 憎々し気にアタランテが言葉を漏らすも、エミヤはそれに答えない。返答の代わりででもあるかのように双剣をアタランテに向けて振るう。アタランテはそれを弓で弾いて反撃の機会を伺うも、エミヤは付け入る隙を与えないように剣戟を繰り広げていた。

 無限の剣を持ってはいても、エミヤという英霊は剣術に関しては極めて凡庸であった。沖田や遥のような天才的な剣術の才を持つ訳でもなく、魔術師としても天才とは言い難い。だが彼はそれを補って余りあるだけの研鑽を重ねてきたのである。

 たかがアラヤの走狗と、神秘の薄い英霊と侮ること勿れ。彼は極めて凡人ではあったが、ほぼ全ての事柄において凡人が到達し得る極限にまで至った紛れもない英雄だ。その研鑽と修練の結果は、神代の英雄と拮抗するに十分過ぎる。

 エミヤの剣戟の間隙で無理矢理矢を放つアタランテ。エミヤはそれを右手の莫耶を犠牲にすることで受け流し、すかさず再び投影してアタランテに叩きつけた。身長差ににより頭上から向かってきた一撃を弓で受け止め、続けて放たれた足払いを短く跳躍して回避。そのままアタランテはエミヤの胴に蹴りを入れる。

 アタランテの筋力ステータスはエミヤと同じDランク。だが狂化によって理性を代償にして強化された筋力はエミヤの肉体を覆うアーマーを砕き、ダメージを与えるに余りある威力を発揮した。そのまま吹っ飛ばされるエミヤ。アタランテはその隙に距離を取ろうとするが、エミヤはそれを許さない。空中で体勢を整えて弓と剣の矢を投影。アタランテに照準を合わせて撃ち放つ。

 降り注ぐ剣の雨。アタランテはそれを弓を振るって弾いた。だがそれらは本命ではない。エミヤは最後に投影した剣に最大限に魔力を充填すると、真名を解放して撃った。――勝利すべき黄金の剣(カリバーン)、と。

 虚空を切り裂く黄金の剣。真名を解き放たれた聖剣は極光を纏いながら赤原猟犬の最大速度であるマッハ4を軽々と越え、純潔の狩人へと迫る。だが、狂化されてはいてもアタランテが学習しない訳ではない。当たらなければ宝具を爆発させてくると知っているアタランテは咄嗟に後方に飛び退いて爆発の範囲から逃れた。

 カリバーンに続けてエミヤが放った無銘の剣にアタランテが矢をぶつけて相殺する。そして訪れた静寂。その時、アタランテがエミヤに言葉を投げた。

 

「……成程。弓兵が剣士の真似事などとは思ったが、汝は相当に出来るようだな」

「これはこれは。かの高名な純潔の狩人に認められるとはな。私も鼻が高いよ」

「心にもないことを。……あぁ、口惜しいな。汝のような英雄と出会ったのが、よもやこのような下らん戦場とは」

 

 狂化されているが故に、アタランテはエミヤだけでなく敵全てを憎悪し、激憤していた。だがそれでもこうして理性的な思考を保ち、行動していられるのは彼女を縛っている力の大半が狂化ではなく聖杯と令呪によるものだからだ。最初、竜の魔女は完全にアタランテから理性を奪ってしまおうとしたのだが、まともな戦闘もできないのは危険であると判断して方針を切り替えたのだ。

 だからこそ、アタランテは歓喜すると共に落胆していた。時の果てで出会ったこの弓兵とは純粋に技を比べてみたかった。それはいかな冷静なアタランテとはいえ例外なく持っている英雄の本能による感情であった。

 だが、ここではそれが叶わない。この戦場においてはアタランテは竜の魔女の眷属、紛れもない悪であり正義に斃される運命。下らない寸劇に付き合わされて彼女は辟易していた。

 それでもこれが戦場であるなら自死することはできない。竜の魔女に縛られていることもあるが、それが今のアタランテに守ることができる最低限の〝英雄の矜持〟だった。

 エミヤとしては英雄の誇りなどは自身が持ち得ていないものであり、そこらの狗にでも食わせておけというのが正直な感想ではあった。しかし、英雄というものがそういう生き物であるのは熟知している。ハァ、とひとつため息を漏らすと、エミヤは再び意識を戦闘状態へと移行した。

 アタランテの頭上に一息で投影したのは無数の剣。その全てが超常の魔力を内包した宝具だ。それらをアタランテに向けて落下させるも、アタランテはその全てを回避する。この世の誰よりも速いとされたアタランテ。その全開の速力。剣雨を掻い潜ったアタランテはエミヤへと肉迫し、その懐へ潜り込む。

 エミヤは咄嗟に双剣を投影して対応しようとするが、それを交差させた点をアタランテの靴が強かに打ち付け、その衝撃を相殺しきれずに吹っ飛ぶ。さらにアタランテはそれに追いつき、エミヤの腕を掴んで地面に叩きつけた。間髪入れずに矢を番え、至近距離から撃ち放つ。だがエミヤがそう簡単に射貫かれる筈もなく、間一髪で回避した。

 

「弓兵が白兵など……ではなかったのか?」

「できないとは言っていないだろう?」

 

 そう言って獣のような笑みを浮かべ、アタランテがエミヤを蹴り飛ばした。

 アタランテは弓兵であるが、しかし近接戦ができない訳ではない。実際、神話においてはあの大英雄アキレウスの父であるペーレウスに格闘技で勝利したともある。彼女にはそれなりに接近戦の心得があるのだ。

 吹っ飛ばされたエミヤはすぐに体勢を立て直して弓を投影。牽制として適当に投影した矢を連続で射る。アタランテはすぐにそれに対応し、エミヤと同数の矢を撃ち放って全てを撃ち落とした。

 攻撃を全て防がれても、エミヤは全く動じずに次の行動に移った。弓を消し、代わりに夫婦剣を2対投影する。両手で精妙に操ることができる限界数。それらを全てアタランテに投げつける。アタランテはそれを弓を振るって弾き、双剣は後方に飛んでいく。

 続けてアタランテが放った矢を再度投影した双剣で弾き、さらにアタランテに向けて投げつける。同じ剣を無数に投影し続ける力。再び双剣を弾いたアタランテが珍妙な術だ、と呟き、直後、その獅子の耳に予想もしていなかった音を捉えた。

 何か複数のものが風を切る音。それが剣だと悟ったアタランテは回避しようとするが、その時には既にまたもや剣を投影したエミヤが接近していた。彼が唱えるのは絶技の祝詞。彼が持つ数少ない無二の技(オリジナル)、回避不能の剣技を繰り出す口上。

 

「――鶴翼(しんぎ)欠落ヲ不ラズ(むけつにしてばんじゃく)

   心技(ちから)泰山ニ至リ(やまをぬき)

   心技(つるぎ)黄河ヲ渡ル(みずをわかつ)

   唯名(せいめい)別天ニ納メ(りきゅうにとどき)

   両雄(われら)共ニ命を別ツ(ともにてんをいだかず)――!!!」

 

 エミヤがその能力を以て編み出した絶技〝鶴翼三連〟。本来は3対の干将・莫耶を投影して繰り出すその技を、さらに1対増やした鶴翼四連とでも言うべき絶技が純潔の狩人を襲う。アタランテは飛来する剣を弾き落とそうとするが、しかしそれではエミヤの斬撃を喰らってしまう。反対にエミヤを射殺せば、その隙に飛来する双剣がアタランテを切り裂くだろう。

 それは正に剣の檻。一度捕えたものを逃がさない必殺の牢獄。まさしく無限の剣を内包する英雄だからこそ編み出すことができた無二の絶技であった。最早回避不能である、とアタランテは悟るも、その顔に憤怒の色はない。

 そして見事、と狩人が呟いた次の瞬間、その身体を4対の剣が切り裂いた。

 

 

 

 

 ――マリー・アントワネットを知っているかい?

 

 遥が相対する大剣を携えたアサシンがそう遥に問いかけたのは、切り結んでいた両者が距離を取った時だった。

 マリー・アントワネットを知っているか。その問いの答えは最早言うまでもなかろう。本名〝マリー・アントワネット・ジョセフ・ジャンヌ・ド・アブスブール・ロレーヌ・ドートリシュ〟。フランス王権における最後の王妃だ。

 『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』という言葉に代表される強欲かつ悪辣な王妃――というのは当時の革命勢力や彼女を嫌う貴族、後世の人間たちによる『でっちあげ』であり、実際の彼女は国民を第一に考える王妃の鏡とも言える人物であったという。

 だが、その王妃が何だと言うのか。アサシンの真意が知れなかった遥は、まるで幽鬼のような立ち姿で俯くアサシンの言葉の続きを待った。エミヤと戦っているアタランテはさして強力な狂化は掛けられていないようだが、このアサシンは違う。加えて精神にもダメージがあると見える。まともな会話は望むべくもない。何なら論理的な筋の通った言葉さえ望めないほど、このアサシンは壊れてしまっている。言葉を投げたところで、それに対する反応を得られるとは思えない。

 

「僕はマリーを殺した。首を刎ねたその瞬間、最期の時に絶頂を迎えるような……あぁ。アレは紛れもなく僕の生涯最高の一振りだった。アレが僕から彼女へ贈ることができる最高の斬首(くちづけ)だったんだ。

 でも、それでは彼女は許してくれない。だから僕はあの時よりももっと巧くなった。もっと、もっと素晴らしい最高の瞬間を与えられる筈だったんだ! それが……!!!」

 

 そこでアサシン――もとい、処刑人〝シャルル=アンリ・サンソン〟は言葉を区切る。それは激情と感激の発露か。或いは憤怒と後悔の具現か。どちらにせよ、遥には想像も付かない感情であることだけは確かだった。

 シャルル=アンリ・サンソン。フランス革命期の処刑人にして、かの有名な処刑道具〝ギロチン〟の考案者。人類史上2番目に多くの人間の処刑を行ったのとは裏腹、彼自身は熱心な死刑廃止推進派だったという。さらに彼は医師でもあり、人間の何処をどのように傷つければ良いかを熟知していたらしい。

 俯いたままに敵将たる遥を睨み付けるサンソンの眼に理性の光はなく、代わりに矛先の知れない後悔や憤怒の光がある。それは或いは王妃を殺すことをさせず、あまつさえ彼女をシャドウ化させた竜の魔女に向けてのものだったのかも知れないが、今となってはそれを考えることすらも詮無きことであった。

 剣を持ち上げ、サンソンが1歩を踏み出す。罪人を処刑するための刃が陽光を受けて鈍色に煌めく。それはまるで、サンソンの心中に根付いた渇望の顕れであるようでもあった。貴方を殺せばもっと巧くなるのか。全員殺せばマリアをもう一度処刑することができるのか。そんなあり得ない希望を、狂った処刑人は抱いている。それだけは理解できて、遥がため息を吐いた。

 シュ、という小さな音を立ててサンソンに切り裂かれた頬の傷が()()()()()()()()。最後に流れた血を舐めとって感じたのは命の味。『不朽』の業を背負った命の味であった。そうして平突きの構えを取りながら、遥が言う。

 

「アンタが本当はどんな人間で、何を思いながら王妃サマを処刑したかなんて知らないし興味もない。なんであれ、アンタは俺たちを殺そうとするんだろ? なら――アンタは、俺が殺す」

 

 冷酷極まる声音でそう宣言するや、遥の姿が一瞬にして消え去った。予想もしていなかった動きにサンソンが眼を剥く。だがそうして驚愕の声を漏らす間さえもなく、彼の肩を神剣が貫いた。

 サンソンは激痛に悶絶し、手にした大剣を振るって遥を切り裂かんとする。しかし遥はすぐに神剣を引き抜いて大剣を回避すると、サンソンの脇腹に蹴りを入れて吹き飛ばす。さらに間髪入れずに外套裏から黒鍵を引き抜いて鉄甲作用で投擲する。

 地面を転がっていたサンソンは獣じみた挙動で体勢を直し、飛来する黒鍵を弾こうと大剣を振るう。だが鉄甲作用によって投擲された黒鍵は容易くサンソンを吹っ飛ばした。続けて遥が空中に刻んだのはアンサズ。魔力を込められたルーン文字が起動し、火炎弾が虚空を奔る。

 サーヴァントでもないただの魔術師が何故こんな、と鈍った思考でサンソンが驚愕する。彼自身はさして格の高い英雄ではない。むしろただの処刑人である彼は、英霊という総体で見れば格の低い反英雄だ。それでもただの魔術師に遅れを取るような英雄ではない筈だった。

 彼にとって計算違いであったのは、遥がただの魔術師ではなかったこと。この一点に尽きる。遥は魔術師としても優秀極まるが、剣士としての才能にも目を見張るものがある。加えて携える宝具の特性により、遥は自己暗示を掛けている時に限り空位に達した剣士として振舞うことができた。

 無造作に振るった剣の悉くを弾かれながら、サンソンが舌打ちを漏らす。本来、彼はスキル『人体研究』によって相手の弱点を把握し、最適の攻撃を繰り出すことができる。だが狂化が掛かった崩壊寸前の精神では、それを生かすことさえままならない。

 精密かつ神速の剣技に次第にサンソンを追い詰める遥。しかし追い詰められてもなお、サンソンはまだ抵抗を諦めていなかった。自身の首へと迫る叢雲の刃を、剣ではなく左手で受ける。神造兵装の刃を受けた左手は半ばまで断ち切られ、そこでその刃を掴み取った。

 

「なにっ……!?」

「刑を執行するッ!! ――死は明日への希望なり(ラモール・エスポワール)!!!」

 

 真名解放。ぞわり、と背筋を撫でた悪寒に従って遥が見上げた先にあったのは鋭利な刃。そこに顕現していたのは真の処刑道具たるギロチンであった。それを見た時、たちどころに遥はその宝具の効果を悟る。

 サンソンの宝具である〝死は明日への希望なり(ラモール・エスポワール)〟は真名解放によってギロチンを顕現させ、対象を処刑する宝具だ。死ぬ確率は呪いへの抵抗力や対魔力、幸運ではなく死する運命に耐えられるかどうかで決定される。故に英霊というカテゴリであればまず対抗することはできず、生きている人間であっても殆どが処刑される。

 ()った――サンソンが確信する。だがその確信は次の瞬間、驚愕へと変わる。

 

 ――ギロチンが、落ちない。

 

 遍く死する運命にあるものの悉くを処刑する刃が微動だにしない。それはすなわち、遥の精神力が宝具の効力を上回ったということの証左であった。断じて手を抜いた訳でもなく、サンソンが手心を加えた訳でもない。

 直後、サンソンの視界が上下反転する。そうして彼の視界に入ったのは、頭とは異なる方向に転がった彼自身の身体。頭だけの状態で転がったサンソンの頭上では、黒鍵を振りぬいた状態で停止し、鮮血に濡れる遥がいた。

 完全に首を断たれて絶命し、あとは消えるのを待つばかりのサンソン。その時になって、彼はようやく狂化の呪いから解放された。消えゆく意識の中、サンソンが自嘲的な笑みを漏らす。

 処刑人が首を断たれて絶命するとは、なんという皮肉だろうか。それも彼が理想として掲げた〝死ぬほどの快楽〟などとは程遠い殺し方で。だがこれも因果か――彼の思考はそこで途切れ、完全に消滅しようかという時、遥の声が耳朶を打った。

 

「……じゃあな、ムッシュ・ド・パリ。白々しいのは自覚しているが、俺はアンタの生き様に敬意を表しよう」

 

 ああ、本当、何て白々しい。でも、ありがとう。――その言葉を最後に、完全に処刑人は消滅した。

 サンソンの身体が魔力光の粒になって虚空に溶けて消えていく。それを感情の読みにくい表情で見届けると、遥は疲労を吐き出すように深く息を吐いた。

 宝具を使用せずとも英霊に匹敵する身体能力と剣技。前者は完全に遥だけの力であるが、後者はそうではない。叢雲から記憶を引き出して自分自身に投射するという魔術は。遥自身に多大な負荷をかけていた。

 何しろ英霊よりも高位の存在から記憶を引き出しているのである。本来なら引き出した記憶と経験の量に反比例するように遥の記憶が消えていてもおかしくはないのだ。『不朽』であるから記憶が消滅することはないが、それでも精神死間際になるほどの負荷はある。

 今にも千切れてしまいそうな緊張の糸を、強靭な精神力だけで繋ぎとめる。そうして仲間たちの援護に向かおうとした時、爆発的な魔力の昂ぶりを感じ取って遥はそちらを見遣り、驚愕の息を呑んだ。

 魔人。まさにそう形容するのが正しい立ち姿だ。全身に纏った黒い霧の影響かステータスを見ることはできず、ただその魔力の高まりだけがその強さを周囲に知らしめている。

 

 ――アタランテ・メタモローゼ。それが今の狩人の真名()であった。




アタランテに何があったのかはまた次回。当初から魔人アタランテは出す予定でしたが、丁度異聞帯(ロストベルト)で出てきたので名前を使わせてもらいました。


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第20話 神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)

 神速で振るわれる銀閃が虚空でぶつかり合い、火花が散る。甲高い金属音による調律の狂った音楽を奏でているのはふたりの剣士。沖田総司とシュヴァリエ・デオンであった。

 ふたりが戦闘を開始してから既に数分が経過している。どちらも未だ相手に決定打を加えていない状態は一見、完全な拮抗状態に見えなくもない。だがその実態はそうではなく、趨勢は沖田に傾いていた。

 沖田がデオンと戦うのはこれが初めてではない。沖田たち遥のチームがフランスへレイシフトしたすぐ後に遭遇した際も沖田はデオンと交戦している。一度戦った相手の剣筋を記憶するなど、沖田のような天才にとっては造作もないことであった。それが狂化されている相手なら猶更である。

 デオンが繰り出すサーベルの刺突を、沖田は全て刀でいなす。沖田の筋力ステータスはC。対してデオンはAだ。自己暗示をかけて身体強化を施せば真正面から受け止められないことはないが、自己暗示をかけることができるのはデオンも同じだ。何しろ、性別すらも偽ることができるほど高度な自己暗示の使い手である。実質的な筋力ステータスはAを上回っていることは想像に難くない。

 その剣筋だけで相手を魅了するであろう高度な剣技は、狂化の影響でただ荒々しいばかりの粗雑極まる剣技へと堕している。宝具であればその限りではないのだろうが、今のデオンの剣技は優雅という言葉とは無縁であった。

 

「オォォォッ!」

 

 僅かに後方に跳んで距離を取るや、常のデオンであれば絶対に漏らさぬような咆哮をあげ、サーベルを突き出す。華麗さなどは欠片もない、ただ精密かつ必殺の威力を内包するだけの刺突だ。

 それを難なく回避すると、間髪入れずに沖田は刀の柄から左手を離し、伸ばされたデオンの腕を掴んだ。そのまま背負い投げの要領でデオンの動きを利用し、最低限の力だけで彼の身体を地面に叩きつける。

 ガッ、と背中を強かに打ち付けたデオンの肺から強引に空気が押し出される。その隙を狙って沖田が刀を逆手に持ち替え、霊核の存在する脳天を貫かんと刃を落とす。だがデオンは間一髪でそれを避けると無理矢理沖田の腕を振りほどいて地面を転がってもう一度沖田から距離を取った。

 だが一度見出した隙を沖田がそう簡単に逃す筈もない。立ち上がろうとするデオンに向けて刀を振るう。デオンは立ち上がることができずに中腰のままサーベルで沖田の斬撃を防ぐ。しかし、狂化がかかって鈍った頭では正確無比な剣技を防いでいられる筈もない。左肩口に乞食清光の刃が突き刺さり、デオンが苦悶の声を漏らす。

 なんという技量か。デオンが歯噛みする。ステータスだけで言うのなら、デオンの能力は沖田を上回っている。だが『剣士(セイバー)』として最も重要である剣術の技量という一点において、デオンは沖田よりも劣っていた。

 近代の英霊であるにも関わらず、沖田の剣技は神話に語られる英雄と比してもなお見劣りしないほどだ。加えて、神代の英雄たちにとっての剣が至上であるのに対し、沖田のそれは誇りはあれどあくまでも手段でしかない。刀がないのなら鞘、鞘がないのなら素手で。それが沖田の戦い方であった。

 故に剣技で劣りながらも剣に拘り、しかし狂化の影響を受けているデオンでは沖田に勝利できる道理などない。だが、だからといってデオンは簡単に負けを認めるような人間ではない。

 

「このォッ!!」

 

 デオンが吠え、沖田の連撃の合間にサーベルを突き込んだ。今まで防御に徹していたデオンの唐突な攻撃に、沖田は躱すことができずに刀の腹で受け止める形になる。だがデオンと沖田の筋力差故に受け止めきれず、沖田の動きが一瞬だけ止まる。

 もうデオンには騎士として守るべきものは何もなかった。マスターたる竜の魔女には狂化が付与されたことで騎士としての矜持を穢され、その果てに敬愛すべきフランス王家、それも自分にドレスを贈ってくれたマリー・アントワネットに刃を向けた。

 だが、主君に刃を向け、矜持を穢されてもこうして敵と相対して自分から負けるということだけはできなかった。狂化されているから、だけではない。それが今のデオンに遵守することができる最低限の騎士の矜持だった。

 刺突で生まれた隙にデオンが立ち上がり、沖田の懐に入り込もうとする。だが攻撃で動きを止めることはあれど、簡単に懐に入り込ませるような隙を作るような沖田ではない。

 姿勢を低くして地を蹴ったデオンはしかし、沖田が顎下に向けて蹴りを放ったことで咄嗟に後退した。しかし、その隙を壬生浪は逃さない。

 沖田が地を蹴る。仙術の域にまで達しようかという究極の歩法は距離を取ろうとするデオンに容易く追いつき、その身体を刃の射程圏内へと捉えた。

 

「フッ――!」

「ちいっ……!」

 

 突き出される壬生浪の牙。英霊の動体視力ですらも剣先がぶれて見えないようなそれをデオンは弾こうとするがしかし、それだけの速度での刺突を捉えきれる筈もない。乞食清光の刃がデオンの脇腹を抉り、鮮血が蒼衣を真紅に染める。

 直後にデオンを襲ったのは意識が焼き切れそうなほどの激痛。まるでフラッシュを直視しているかのように視界が白く明滅し、気を抜けばその瞬間に意識を失ってしまいそうだった。

 もしも喰らったのが三段突きであれば、デオンは抵抗することすらもできずに殺されていたであろう。デオンにとって幸運であったのは、三段突きを放つにはあまりに距離が近すぎたこと。逆に言えば、それだけだった。

 刃を返し、沖田がデオンの脇腹を切り裂く。飛び散る鮮血。それが着物を濡らすのにも構わず沖田はもう1歩踏み込むと、全体重を載せて体当たりを見舞った。

 真正面から沖田の体当たりを喰らったデオンは吹っ飛ばないまでもよろめき、その瞬間に沖田が更に腹に膝を蹴り込む。今度こそデオンは衝撃に負けて吹き飛んだ。だが地面を転がっていたデオンは咄嗟に地面に手を突いて減速すると、再び沖田に向けて駆けた。

 繰り出されるサーベルをいなし、刀で一撃を叩き込もうとするが、その剣先はデオンの身体へと届こうかという時に弾かれる。隙だらけであるのに住んでのところで攻撃が弾かれる。そんな奇妙な状況に、沖田が舌打ちを漏らした。

 確かに狂乱したデオンの剣技は拙い。本来のデオンの剣技はそれなりのものなのであろうが、少なくともこのデオンはバーサーク化によって劣化している。だというのに、致命傷と成り得る攻撃の殆どをデオンは弾いていた。

 なんという執念か。仕えるべき王妃に刃を向け、騎士としての矜持を穢されてもなお、勝利を求める意思だけは曇りがない。或いはそれは単なる狂化による闘争本能の発現なのかも知れないが、それがデオンの妄執にも似た挙動を生み出す根源であった。

 だが、だからといって沖田は負ける訳にはいかないのだ。武錬だけではない。勝利を求める意思もまた、沖田はデオンに引けは取らない。心に秘めた『誠』、そして遥に立てた誓いに掛けて、一歩も退く気はなかった。

 沖田が剣の速度を増すと、デオンがそれに対応して防御の速度を上げる。まさに鼬ごっこであったが、既に剣戟はデオンの認識を越えつつあるのか苦悶の表情をより強くした。対する沖田はこの程度は何ということもないのか、剣士としての冷徹な表情でデオンを攻め立てる。

 ギリ、と噛み締めた奥歯に罅が入ったのをデオンは知覚した。剣士としての技量で劣り、相手に自覚はなくとも英雄としての在り方で劣る。狂ったデオンにはそれが、特に前者が我慢ならなかったのである。

 力まかせに振るったサーベルが沖田の刀の腹を捉え、ぶれた切っ先はデオンの腹ではなく先に抉ったのとは反対側の脇腹を捉えた。激痛がデオンを襲い、顔を顰める。だが今度こそ怯まなかったデオンは咄嗟に沖田の腕を掴むと、そのまま片手一本で投げ飛ばした。

 

「チッ」

「悪いね。でも、剣に拘らないのは君だって同じだろう?」

 

 私の真似ですか、と沖田が内心で嘆息する。だが剣だけではない戦い方など沖田にしてみれば普通の戦い方である。特に何も思わず、再び攻撃に入るため平晴眼の構えを取った時、沖田は唐突に感じた魔力の波動に目を見開いた。

 高まる魔力の発生源は最早疑うまでもなく、沖田の目の前で構えを取るデオンである。同時に沖田は、その魔力に呼応するようにして白い花弁――白百合が辺りに待っていることに気付いた。

 それを認識した時、反射的に沖田が駆け出した。

 

――一歩、音越え。

 

 デオンの魔力に呼応して散る白百合は彼が仕えたフランス王権の象徴。その中で舞うデオンによって繰り広げられている剣舞は見る者を魅了し、心を奪う。

 その宝具はデオンの剣などによるものではない。時に男として、時に女として他者を惑わせたスパイたるデオンの生き様が昇華された宝具、つまりはデオンそのものとも言える宝具である。

 虚空に舞う花弁はただ散っているだけではない。その花弁は中心で舞うデオンを引き立たせると同時、その領域内へと入り込んできた者を幻惑する効果を齎していた。

 

――二歩、無間。

 

 白百合の領域に呑まれている沖田。だが彼女はその中にあって、花弁が齎す悪影響の一切を受けていなかった。彼女の固有スキルや特殊技能によるものではない。それは彼女が信頼を寄せる主の後押しによるものであった。

 遥は伝承保菌者(ゴッズホルダー)であるが故に神代の魔術を扱うことができる。加えて只の人間ではない遥にとって、宝具級の魔術を行使するなど造作もないことであった。特に遥、もとい夜桜家が専門とするのは『封印』の魔術である。呪術的に扱えば外的要因による弱体効果を遮断する程度、造作もない。

 剣舞を舞っていたデオンが舞いを止め、サーベルを握る腕を引き絞る。仙術の域に迫る縮地を扱う沖田の姿は、いかな最優たる剣士のクラスにある者ですらも視認することはできない。だが積み上げた武錬による戦士としての直感が、敵はそこにいると告げていた。

 

――三歩、絶刀――!

 

「〝百合の花散る剣の舞踏(フルール・ド・リス)〟!!!」

「無明三段突き!!!」

 

 真名解放。可憐なる百合の舞踏に続けて放たれる荒々しい剣技と、魔法の域に足を踏み入れた絶対必中の魔剣が交錯する。宝具と魔剣の違いはあれど、それぞれの生涯の結晶という点においてはそのふたつの剣技は同義であった。

 刹那の交錯。長く続いた剣戟も、勝敗が決するのは刹那の間だ。果たして、超常の剣技のぶつかり合いに敗北したのは白百合の騎士であった。剣によって抉られたとはとても思えない、まるでその部分だけが消滅したかのような巨大な傷口から鮮血を吹き出し、デオンが倒れた。

 ふたりの勝敗の決め手となったのは、剣腕の差ということもあろうがひとえに信念の強さの違いであった。沖田は仕える主に剣を捧げ、対してデオンは勝利は求めていてもマスターたる竜の魔女には忠義を誓っていなかった。共に勝利を臨むふたりの、それが決定的な差だった。

 

「ハハッ……あぁ、負けた負けた。これでようやく、我が身の呪いも解ける」

 

 腹を抉られ、臓物がはみ出ている。そんな死に際の状態でありながら、デオンの口の端に浮かんでいるのは憎悪ではなく微笑みだった。その様子を横目に見ながら、沖田は愛刀に付いた血を払い落とす。

 騎士としての戦いで敗北していながら、デオンの胸中にあるのは一抹の悔しさと喜びだった。既に霊核は破壊され、消滅まで秒読み。力を失って仰向けに倒れた身体は端から魔力光の粒となって消滅を始めている。事ここに至り、デオンの狂化はようやく解けた。

 冷静になって考えてみれば、自分は何をしていたのだろうかと恥じ入る気持ちもある。だが事情はどうあれ、自分はこれだけの技量の剣士と全力で戦って敗北したのだという事実が、彼に清々しさを与えていた。それは英霊である以前に騎士であるデオンの本懐(ほんのう)によるものだった。

 今わの際に立つデオンを、冷徹な眼で見下ろす沖田。だが沖田は突然感じた先よりも強い魔力の波動を感じてそちらを見た。そこにいたのは魔人と化したアルカディアの弓兵。それに気付いた沖田はデオンから注意をそちらに向け、地を蹴った。それを見遣り、デオンが呟く。

 

「名も知れぬ剣士、貴女に感謝を。……申し訳ありません、マリー様。願はくは、我が過ちを許されんことを――」

 

 そしてもし次があるのなら、その時こそは狂化や迷いの曇りがない剣技であの剣士と相対してみたいものだ。一抹の希望を抱き、白百合の騎士は跡形も残さずに消滅した。

 

 

 

 

――これは……マズいな。

 

 エミヤの目の前で蘇生し、宝具によって魔人と化したアタランテ。牽制として双剣を投影し、睨み合うエミヤが内心でそう呟いた。

 油断をしていた訳ではない。それでも、これは完全にエミヤの失態である。しかしその失態も無理からぬことであろう。アタランテの蘇生に近い再生と宝具行使は完全な不意打ちだったのだ。

 無論、アタランテに死から蘇った逸話や死した身体に命を与える宝具などない。故にアタランテの身に起きたのは蘇生ではなく、限りなく蘇生に近い再生であった。付近に魔術師がいる訳でもない。けれど、エミヤはその不条理を起こすことができるものを知っていた。

 令呪か――、とエミヤが内心で舌打ちをする。マスターとサーヴァントの合意の許であれば魔法に匹敵する機能を発揮し、合意がなくともサーヴァントに行動を強制するだけの力を持つあの魔力の塊であれば、死の間際にいるサーヴァントであれ命令の余剰魔力だけで回復可能だろう。彼はマスターとしての経験があるが故に、その力の強烈さをよく知っていた。

 恐らく、使用された令呪は二角。一度目の用途は不明だが、二度目の令呪はまず間違いなく『毛皮を使用せよ』というものだろう。

 回復したアタランテが発動した宝具の真名は〝神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)〟。生前、アタランテが彼女を愛した英雄メレアグロスから贈られた魔獣カリュドーンの皮が宝具となったものである。しかしほんの数秒前まで、アタランテはその宝具の使い方を把握していなかった。

 故にジャンヌ・オルタは彼女に命じたのだ。『敵を憎悪し抜け。その身を焦がすほど敵を憎悪せよ』と。彼女自身を顧みないほど激しい憎悪を抱いたことで、アタランテは魔猪の毛皮の用途を理解した。それが真正のものであるか、贋作であるかは関係がない。令呪の前ではそんなもの、些末な問題である。

 幽鬼の如く揺らめくアタランテ。理性など欠片も残されていない、憎悪と獣性の汚泥に淀む眼がエミヤを捉える。

 

「殺してやる……!!!」

 

 来る、とエミヤが構えた直後、彼の身体を強烈な衝撃が襲った。防御のために胸前で交差させた双剣を、アタランテの拳が打ち付けている。普通は宝具に拳を叩きつけて無傷でいられる筈はない。しかしアタランテの拳に傷は付かず、砕けたのはエミヤの双剣の方であった。

 何という速さ、そして強靭さか。アタランテの攻撃をエミヤは予測できてはいたものの、接近してくるのは全く見えなかった。沖田や遥のように縮地によるものではなく、純粋な速さによるものである。まさしく神話に語られた通りの俊足だった。

 神話に曰く、アタランテよりも速い人間はいない。後の世のギリシャまで見渡せばアキレウスの方が速いだろうが、英霊でも最速級であることは間違いない。少なくとも、エミヤでは追随することさえ難しいのは言うまでもない。

 だが速さばかりが勝利の条件ではない。連続して繰り出されるアタランテの拳撃と足払いを、エミヤは持ち前の心眼で捌く。まさしく防戦一方。絶え間なく襲い来る攻撃の間隙を見抜くことができず、エミヤにはただ防御することしかできない。しかし唐突に、アタランテがエミヤから距離を取った。

 刹那の後のアタランテがいた場所を駆けたのは二条の火炎弾。見れば、それぞれの相手を下した遥とタマモがエミヤを援護すべくアタランテに向けて攻撃をしたようだった。

 突如として入った横槍に、アタランテが舌打ちを漏らす。そうして身体に溶けあった弓を具現化させて相手を射殺そうといたアタランテだが、唐突に背筋を奔った悪寒に従って飛び退いた。間一髪、アタランテの鼻先を銀閃が掠める。それは仙術の域に迫った歩法で接近した沖田の剣であった。

 繰り出される神速の剣技を直感的に紙一重で交わしながら、ちらとアタランテが周囲を見遣る。竜の魔女によって遣わされたサーヴァントはアタランテ以外が全て遥のサーヴァントによって下され、残るは彼女ひとり。だがアタランテはそれを不利だとは思えど、絶望的だとは考えなかった。正しく状況を認識できる正常な思考など、今の狩人には一片も残されていない。

 霊核を狙って振るわれる沖田の正確無比の剣技。その刺突を身体を海老反りにして回避した時、アタランテの足を強い衝撃が襲った。その衝撃で吹っ飛ぶアタランテ。しかし無理矢理体勢を立て直すと、地面に手を突いて停止。追撃せんとする沖田と走り込んできたジークフリートに向けて弓を引き絞る。

 

「邪魔だ。――穿て、闇天の弓(タウロポロス)ッ!」

 

 獣の咆哮が如き祝詞を吐き出し、アタランテが矢を解放する。幻獣に匹敵する厄災の獣の力で闇色に染まった弓から至近距離で解放された矢は剣士たちを喰らわんと邪悪な魔力を猛らせる。

 真正面で解き放たれた矢。それを回避不能と判断したジークフリートは振り上げていた幻想大剣(バルムンク)を強引に横に構えて矢を迎え撃った。竜殺しの魔剣と闇矢は衝突し、噴き出した魔力が嵐のような暴風を巻き起こす。

 グ、とジークフリートが呻き声を漏らす。弦を引き絞るほどに威力を増すアタランテの弓だが、それは明らかに常軌を逸した威力だった。ジークフリートはその矢を叩き落とすことはできず、進路を曲げられた矢が彼方へと飛んでいく。

 だが魔剣と魔力の矢が拮抗している間に、アタランテは次弾を番えていた。真正面からの矢が通じないのなら、複数の矢を放つ。天に向けられた闇天の弓から放たれた次なる矢は弦から離れた瞬間、無数に分裂して地上へと降り注ぐ。

 宝具の真名解放ではない。だが、分かたれた鏃のひとつひとつは太陽神(アポロン)月女神(アルテミス)が齎す災厄と比してなお見劣りのない致死の威力を宿していた。

 黒天洞では防御不可能。黒天洞は魔力による攻撃を限りなく弱体化するという特性を持つが、それはあくまでも弱体化であって無効化ではない。故に黒天洞では貫通してしまう。投擲武器に対して絶対の防御力を有する熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)ならば或いは防ぎ切ることもできるだろうが、全員を上空からの飛来物から守るには如何せん面積が小さすぎる。

 総員、回避! それだけ指示を出すと、遥は体内に煉獄の心象を具現化させた。体中の肉という肉が煉獄によって朽ち果て、朽ち果てた傍から『不朽』の呪いによって再生する激痛が遥の意識を白熱させる。だが、気絶などは許さない。許されない。続けて固有時制御を発動し、遥は己を更なる限界の先へと押し遣った。

 降り注ぐ闇矢が大地を穿ち、既に変わり果てていた草原にクレーターを生み出す。一撃でも喰らえば死ぬか、或いはアタランテを呑み込んだ闇に取り込まれる。どちらにせよ、被弾した者に待っているのは『死』だ。

 絨毯爆撃など生温い。空より落ちる鏃のひとつひとつが致命。死が飽和した空間の中を英雄と魔術師が駆ける。宝具、心眼、直感、呪術、魔術。自らが持つ力の全てを以て死の雨を躱しきると、彼らはそれぞれに動いた。

 後ろに下がったエミヤが弓と剣矢を投影し、アタランテに向けて射る。それをアタランテは先のように矢をぶつけて打ち落とすことはせず、獣じみた挙動で縦横に跳んだ。そこへ走り込んだのは宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟を発動した遥。

 遥が振るった叢雲の刃を、アタランテが弓で受け止める。

 

「汝が奴らのマスターか!?」

「あぁ、そうだ! だったらどうしたァ!」

 

 内で暴れ狂う獣性のままに叫ぶや、遥が弓から叢雲を離してその弦を掴んで固定し、アタランテの腹に膝を蹴り入れた。その衝撃で内臓が傷つき、アタランテが血を吐く。だがそれでいつまでも怯んでいる訳はなく、連続で蹴りを入れる遥の足を掴んでそのまま放り投げた。

 足場のない空中へと投げ出された遥に、アタランテが追撃を喰らわせんと渾身の力を込めて足を曲げる。だがアタランテが飛び出すよりも先にエミヤが放った宝具がその動きを阻む。

 そうして生まれた一瞬の隙にタマモが〝呪相・氷天〟を発動し、タマモの周囲に発生した巨大な氷の棘が射出された。アタランテに向けて直進する氷の棘。それを獣と化した狩人が避けられない筈もなく、難なく軌道を読んで回避する。

 だが英霊の攻撃がそれほど単純なものである筈がない。標的である狩人に回避された氷塊はしかし、切っ先を再びアタランテへと向けて軌道を変えた。遥もまた体勢を無理矢理に直すとアタランテに火炎弾を放つ。

 

「猪口才なッ!」

 

 アタランテが吼え、闇天の弓に矢を番える。魔力が続く限り無限に湧き出す闇矢である。それは弓から離れた瞬間に分裂し、飛来する氷塊と火炎弾を相殺した。闇矢と火炎弾の膨大な魔力が混ざり合い、空中で巨大な爆発を起こす。

 放たれる矢ひとつひとつが生半な宝具を軽く凌駕する威力を内包する致命の一撃。自身の貯蔵魔力を一切顧みずに連続でそれだけの攻撃を行使していながら、アタランテが放射する魔力には一切の損耗がなかった。その事実に、遥が舌打ちを漏らす。

 間違いなくアタランテは聖杯のバックアップを受けている。それは恐らくジャンヌ・オルタが意図したものではないのだろうが、彼女が原因であることは明白だった。ジャンヌ・オルタは無意識に、遥と相対しているこの狩人に魔力を多く割いている。

 そんなに俺を殺したいのか、と遥が嗤った。同族嫌悪、というのは些かニュアンスが異なるだろう。同族であれば相容れるのだろうが、少なくともジャンヌ・オルタにとって遥は相容れない存在であるらしい。

 遥の視線の先では、アタランテがエミヤの剣雨を掻い潜り、攻撃を仕掛けんとしたジークフリートの魔剣を腕を翼に変化させて飛翔して交わしていた。どうやらあのアタランテは人体構造を無視するほど高ランクの〝変化〟スキルがあるようだった。

 

「どうします、マスター? 相当厄介ですよ、あの方」

「そうだなぁ。けど……あぁ。あんな憎悪、嗤っちまうぜ」

 

 タマモの問いに対し、遥は不敵に笑ってそう言ってみせる。魔人と化したアタランテの力の源たる憎悪が令呪によって植え付けられたものであることを、遥は初めから見抜いていた。

 確かにこのフランス、ひいては人類への復讐者たる竜の魔女によって植え付けられた憎悪は令呪によるものであれ真に迫るものだろう。とある者の贋作に等しい遥には、贋作を否定する気もない。しかし植え付けられただけの憎悪で駆動する魔物に敗北する気など遥にはなかった。

 遥が口の端を歪める。こうして後ろに下がっている間でも、魔人化している以上常に遥は自身を暴走の脅威に晒している。時間経過と共に頭痛は増し、気を抜けば今にも意識を失って邪龍に身体を乗っ取られてしまいそうだ。寧ろ暴走した方があの魔人相手には有効なのかも知れないが、遥にその気はなかった。

 聖杯のバックアップを受け、元々持つ高いステータスが更に強化されているアタランテ。この人数で戦っているというのに簡単に勝てる相手ではないどころか、完全勝利は望めないほどにその力は強大だった。だが遥には負ける予感などはありはしなかった。ただ令呪と宝具で相手を憎悪している敵など、恐るに足りない。

 奴を喰らえ、と叫ぶ龍神の声を捻じ伏せる。暴れ狂え、と言う囁きを封殺する。だが同じような怪物を前にして、龍神の魂は嘗てないほどに猛っていた。堪えろ、と自分に言い聞かせて奥歯を噛み締める。その時、不意に遥は鱗に誰かが触れた感覚を覚えた。その手の主は、タマモである。

 

「――――」

 

 遥を見つめるタマモの表情は平時の天真爛漫さを失い、全く別の感情に彩られていた。それが如何なる感情に由来するものであるのか、遥は知らない。だがタマモのその表情を見た途端、遥――と言うよりも彼の中に巣食う何かが息を呑んだ。同時に暴れていた龍神の魂が抑えつけられ、捻じ伏せられる。

 一体自分は何をしていたのか。どうしてよりにもよってこの人を不安にさせてしまったのか。常に遥の中にあるタマモへの畏怖と憧憬の源泉がそう言っている。その度に遥の脳髄を先とは別種の激痛が叩く。龍神のような意識を裏返す感覚ではなく、まるで魂に根が張るような、魂が同化するかの如き痛みだ。

 だが不思議と不快な感覚ではなかった。紛うことなき激痛であるにも関わらず、感じた途端に快楽に変わるような。遥はマゾヒストではなくむしろサディスト的気質をしているのだが、その感覚だけはどうにも遥の内にこびりついて離れない。

 脳裏を過る自分のものではない記憶も、だが今は苦にならない。いつもの自分が他者に染まっていく感覚ではなく、誰かが自分を内側から支えてくれているような感覚。きっとそれが遥の内側にいる者の本懐であったのだろう。或いはただ龍神とそれが鬩ぎ合って中和されているだけか。

 瞑目してほう、と深く息を吐き、目を開ける。爬虫類めいた瞳が真紅に染まっている。しかし遥はそれに気付かず、また気付いていたとしても次に取る行動は変わらなかった。大地を蹴り、音を追い越す。仙術の領域に踏み入った歩法――縮地である。

 ひとりで沖田とジークフリートを相手取るアタランテ。大英雄と天才剣士を相手にして互角に戦っているというのは驚嘆に値するがしかし、その間隙に入り込んだ奇襲には対応できずに腹に遥の膝蹴りを喰らった。抵抗できずにそのままアタランテが吹っ飛んで地面を転がる。だがすぐに地面に手を突いて停止すると、奇襲者たる遥に向けて吼えた。

 

「貴様ァ……噛み千切る! 喰い千切るッ!!」

 

 その咆哮に応えるように狩人の足元から闇色の魔力が噴き出し、その身体を覆いつくす。一瞬にして肥大化したその闇が晴れた時、そこにいたのは獅子耳の狩人などではなく1匹の魔猪だった。

 アタランテが発動した宝具〝神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)〟は元は月女神アルテミスが放った魔獣カリュドーンの毛皮である。それと変身によって得た〝変化〟スキルにより、魔人アタランテはカリュドーンの姿形を模倣できるのである。

 突進するアタランテが狙うのは奇襲を仕掛けた遥だ。魔猪化したアタランテはその巨体に似合わぬ機敏な動きで遥の後方から撃ち放たれる矢や氷塊を躱す。膨大な魔力を伴う突進は、例え高ランクのサーヴァントであろうと正面から受ければダメージは免れ得まい。

 だが、遥は退かない。限界に近い速度で駆動を続ける魔術回路をより限界の間際まで押し遣り、全身に強化を付与。さらに体内に固有結界を展開すると、行動を加速した。体中の鱗の隙間から焔が噴き出す。その姿は悪鬼が如く。そのまま飛び出すや、遥は真正面から魔猪を迎え撃った。

 ガアァァァァッ! 遥が吼える。それでも遥の身体は押し返され、僅かに脚が地面に減り込む。それを見て嘲るような笑みを見せたアタランテはしかし、次の瞬間には表情を驚愕へと塗り替えられた。

 初めは押していた自分が、次の瞬間には押し返されていた。アタランテは知らない。遥が使った宝具はある意味では神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)と同じであり、元になった獣の格は圧倒的に遥の方が高いことを。加えてカリュドーンはサーヴァントの宝具という枠に押し込められて弱体化しているが、遥のそれは現物であるが故に劣化などしていない。封印が弱まれば弱まるだけ、遥の能力は向上する。

 内心だけで舌打ちを漏らし、遥を噛み千切らんとアタランテが顎を開ける。遥はそれに咄嗟に反応し、口に手を突っ込んで寸でのところで噛み千切られるのを防いだ。そこへ走り込んでくるのは沖田とジークフリート、そしてエミヤ。だがこのままでは袋叩きだと判断したアタランテが再び魔力を吹き出し、全員が僅かに後退を余儀なくされる。

 魔力によって巻き上げられた土煙。そこから姿を現したのはアタランテではなく無数に分裂した闇矢だった。天から落ちてくる鏃を全力で避ける。その爆音の中にあって、その声は嫌に遥の耳に届いた。

 

「カリュドーン、力を寄越せ……!!!」

 

 その言葉と同時、アタランテから放出される魔力が増した。黒々とした、周囲にあるもの全てを呑み込むが如き邪悪な魔力。その魔力の矛先が向けられているのは、遥だ。遥を狙っているのは何のことはない、ただ遥がマスターであり、彼を斃せばこの戦いが終わるからだ。

 異常なまでの魔力の高まりは、アタランテが奥の手たる宝具を使おうとしていることの証左であった。それも彼女自身の身を崩壊させかねないほどの、彼女の残存魔力全てを注ぎ込んだ一撃が来る。だが遥は慌てなかった。

 相手が全力を以て決着を付けにくるのであれば、遥もまた出し惜しみはしない。轟、と遥から放出された魔力が唸りをあげる。それは遥の闘争心の発露か、或いは別の何かか。何であれ、両者が宝具を使おうとしている以上、他者は近づくことすらも許されない。

 アタランテが駆ける。それから遥は逃げ出さず、睨み据えた。

 

「燃ゆる影、裏月の矢、我が憎悪を受け入れよ――!!!」

「狂え、我が血潮。猛れ、我が赫怒。我が血を以て、全ての呪を解き放とう――!!!」

 

 アタランテが踏みしめる度に大地から噴き出すのは魔力の闇。触れたもの全てを呑み込み、無理矢理にひとつにする呪いの魔力。神に遣わされた伝説の魔獣が宿す呪いを以て、敵を屠らんとアタランテが走る。

 対する遥は魂を()かれる苦痛に顔を顰めた。敵の宝具による干渉ではない。宝具行使による変身で別な宝具が使えるようになるのは、何もアタランテだけではない。遥が待機状態へと移した宝具は、そういう類の宝具だった。

 変身時は常に掛けている封印の殆どを解放し、大蛇の呪を全身に巡らせる。いくら遥が内在する魂の後押しを受け、龍神を斃せし者の血を継いでいてもそれの苦痛は言葉にできるものではない。遥の起源が『不朽』でなければ一瞬にして魂が朽ち果てて死んでいるだろう。

 しかし、それでも遥は真っ直ぐに敵を睨み付けている。そして衝突しようかという時、両者が真名を解き放った。

 

「――〝闇天蝕射(タウロポロス・スキア・セルモクラスティア)〟!!!」

「――〝真説・伊吹大明神縁起〟!!!」

 

 真名解放。闇の魔力を纏うアタランテと腕が八つ首の大蛇へと変じた遥が鬩ぎ合い、周囲のその余波を撒き散らす。だが、あり得ない。自身の持つ全魔力を宝具に注ぎ込みながらアタランテが瞠目した。

 魔人アタランテの奥の手たる宝具〝闇天蝕射(タウロポロス・スキア・セルモクラスティア)〟は彼女の弓〝闇天の弓(タウロポロス)〟を自身の内に取り込んで放つ必殺の一射である。その一射を喰らった相手は悉くが闇に呑まれ、アタランテと同化する筈なのだ。

 だがどうだ。この人間は己が対魔力と屈服させた神獣の呪を以てそれに抗っているではないか。その事実に、アタランテが顔を歪ませる。喰う。喰らい尽くす――! その意思を伴うアタランテの咆哮が轟く。それに応える遥の咆哮。だが鬩ぎ合いは一瞬で、勝敗はすぐに決した。

 アタランテがそれを認識したのはぞぶり、という嫌な音を聞いてからだった。その音は闇の魔力を喰らい尽くした大蛇がアタランテの腕に食らいついた音。宝具同士の鬩ぎ合いに勝ったのは遥の方だった。

 次々に狩人へと喰らいつく大蛇。毛皮を引きはがされ、四肢をもぎ取られた果てに放り投げられたアタランテは身体が消滅していく感覚につられて意識までも霧散しそうになるのを抑え、肩で息をする遥に視線を向けた。

 

「……これでいい。……あぁ、でも。汝らにはすまないことをしてしまったな……」

 

 だが、ありがとう。どこかで聞いたのを同じ言葉を残し、アタランテは完全に消滅した。その身体が魔力光になって霧散した後に残ったのは遥と遥のサーヴァントたち。宝具使用を解除した遥が各々何か言いたそうなサーヴァントたちを見回す。

 

「……急ぐぞ。ヤツが待ってる」

 

 敵は蹴散らした。残るは竜の魔女とその右腕たる元帥のみ。

 己が相棒が戦っているであろう方角を一瞥し瞑目してから、遥たちは再び進撃を始めた。




今まで出していなかった宝具のステータスをば。

八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)
ランク:A
種別:対人(自身)宝具
レンジ:0
最大捕捉:1人

 天叢雲剣の鞘〝八岐大蛇〟の使い方のひとつ。龍神〝八岐大蛇〟の魂を降霊・憑依させることで自身のステータスを大英雄に匹敵するほどにまで上昇させる。だがそれは全拘束を解除した場合の話であり、通常は一般的なサーヴァントと大差ない程度。使用中は常に暴走の危険がある。第6話においてちょろっと出てきた『変身』とはこの宝具のこと。
因みに、変身時は竜種化しているため当然逆鱗に相当する部位がある。遥の場合、アホ毛がそれに該当する。

真説(しんせつ)伊吹大明神縁起(いぶきだいみょうじんえんぎ)
ランク:B
種別:対人宝具
レンジ:1~60
最大捕捉:1人

 宝具〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟発動状態にのみ使用可能になる宝具。一時的に封印を弱めて八岐大蛇の呪を解放し、対象を呪殺する。反動として使用者本人も死んでしまいそうなほどの苦痛を味わうことになる。呪いなどの攻撃や宝具をぶつけるとそれを吸収し、威力が上昇する。


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第21話 魔女は玉座の間にありて

 竜の魔女とその眷属の本拠地であるオルレアンの城。残念ながらと言うべきか、或いはやはりと言うべきか、その城内は海魔と小竜族(ワイバーン)、アンデッドの巣窟であった。

 本拠地であるだけあって、敵性体(エネミー)の数と密度は先の平原での比ではない。まるで肉の壁ででもあるかのように敵が犇めき、その全てが竜の魔女に盾突く人理の守護者を屠らんと迫ってくる。

 無数の触手が、鉤爪が、武具が迫ってくるのはまさに圧巻の光景だった。相手が只人であれば恐怖で腰を抜かすよりも早くに挽肉へと変わり果て、エネミーの餌となっていただろう。だが今回ばかりは相手が悪い。

 次々に侵入者たちを屠らんと突進していったエネミーたちは成果らしい成果を生み出すことさえもできずに絶命せしめられる。敵性体から噴き出した血煙が既に人の血で染まっていた城を新たな血で塗り潰していく。

 アタランテたちを下した遥たちはそのままオルレアンへと進撃し、その中心にある城へと侵入を果たしていた。狩人たちと遭遇して以降はバーサーク・サーヴァントやシャドウ・サーヴァントとの遭遇はなく、雑魚ばかりが配置されていたために損害は軽微である。ただ多いばかりの敵に遅れを取るほど英雄、そして魔術師は甘くはない。

 だが、だからといって安心はできるものではない。初めて遥たちがジャンヌ・オルタと遭遇した際に彼女が連れていたサーヴァントのうち、ランサー〝ヴラド三世〟とアサシン〝カーミラ〟或いは〝エリザベート・バートリー〟、そして聖女の消滅は確認していないのだ。立香たちの方に遣わされたということも考えられるが、自分の目で確認していない以上は消えていないものと考える方が良いだろう。

 さらに相手が聖杯を所有している以上、追加でサーヴァントを召喚することもできるだろう。下手なことをすれば無尽蔵に増えることも考えられる。雑魚敵の掃討に時間を掛けていられるだけの余裕はない。

 叢雲の一振りで無数の雑魚敵を屠りつつ、遥が黙考する。逐一考えたことを言葉に出さずとも、同じ戦士であるが故に遥のサーヴァントたちは遥の考えることをある程度は汲み取ってくれるのである。

 

(さすがにジャンヌ単騎で突っ込んでくる……なんてことはないか)

 

 オルレアン進撃前夜、ジャンヌは遥がジャンヌ・オルタと戦うことを認めたうえで彼女自身もそれに同行するとした。だが最初から同行させなかったのは契約の問題と戦力の一極集中を避けるためである。

 魔術師(マスター)と契約し、魔力供給を受けたサーヴァントたちはできる限り契約者たるマスターと近づいていた方が魔力の供給効率が良い。全力で戦わせようと思うなら、契約者と共に戦わせるのが最も良い。

 だからといって、ジャンヌが来るまで待つ気は遥にはなかった。それは何も、決してジャンヌと共に戦いたくない訳ではない。ただ待っているだけの時間がないというだけだ。待っているうちに相手の戦力が増えてしまっては元も子もない。

 ジャンヌがジャンヌ・オルタに言いたいことは分かっている。確認はしていないが、恐らくジャンヌが遥と同じようにジャンヌ・オルタの正体に気付いているだろうことは容易に想像が着く。なにせ本人――否、()()なのだから。

 故に、この特異点の元凶はあの魔女ではない。ジャンヌ・オルタはあくまでも真の首魁が生み出した偶像。首魁が夢見たもの。要は都合の良い絵画や人形のようなものだ。それでも、遥はジャンヌ・オルタに抱く印象と好感は変わらないのだが。

 奇妙な感慨に浸りながら、遥は叢雲を振るう。黄金の軌跡が虚空を切り裂く度、鮮血が舞う。切り裂いた敵の数は既に千を超えているだろう。或いは二千か、三千か。最早数えることすらも億劫だった。

 これだけの敵を召喚するとなると、やはりジルは召喚魔術師(サモナー)なのだろう。とはいえ、前回の遭遇でのことを考えると宝具で召喚しているだけで本人は魔術師ですらない可能性が高い。もしも魔術師であれば、ただ雑魚を召喚してぶつけるという無駄極まる戦法をとる筈がない。

 沖田の刃が敵を穿ち、ジークフリートの剣が敵を切り裂き、タマモの呪術が敵を轢き潰し、エミヤの矢が敵を吹き飛ばす。ただ多いだけの敵は彼らに傷を付けることもできず、屍と化す。そうして敵地に侵入してしばらく経った頃、不意に通信機からロマニの声が響いた。

 

『遥君! 気を付けて、前方に強力な魔力反応がある! サーヴァントだ!』

「――!!!」

 

 ロマニが飛ばした警告に、全員に緊張が奔る。ようやく来たか、と。ここは敵の本拠地であるのだから、その防衛のためにサーヴァントが配置されているのは当然のことだ。

 「投影開始(トレース・オン)」と小さく詠唱を唱えたエミヤの手に膨大な魔力が収束する。ケルト神話に名高い英雄フェルグスの愛剣を改造し尽くしたそれに崩壊寸前まで魔力を充填し、放つ。敵性体を空間ごと捻じ切る一射。

 偽・螺旋剣によって生じた空間の捻れに吞まれた海魔の体液が飛び散り、挽肉と化したワイバーンの鮮血が噴き出す。あわよくば敵性サーヴァントすらも屠ってしまおうとした一射はしかし、エミヤが望む結果は齎さなかった。千切れ、積み重なった肉の壁の奥。そこにいたサーヴァントが空中で掴み取ったのだ。あまりの握力に、偽・螺旋剣の刀身が砕け折れる。

 敵性体から噴き出した血霧が虚空に霧散し、その奥にいた敵の姿が露わとなる。確認されたサーヴァントは4騎。ジル・ド・レェとヴラド三世、カーミラ、そして初めて見る黒騎士。手に執るのは人ならざる者によって鍛えられたことを示す精霊文字が刻印された魔剣。どうやらこの黒騎士がエミヤの宝具を掴み取り、破壊してのけた張本人のようだった。

 ただの貴族であるカーミラはともかく、地域が地域であれば大英雄であるヴラドと敵性体を大量召喚することができるジル、神造兵装と思しき宝剣を携えた黒騎士は十分に脅威と成り得る。叢雲を構えたまま遥が出方を伺っていると、狂信者が慇懃に礼の仕草を執った。

 

「これはこれは。随分とお早いご到着のようで、愚かにも聖女に刃向かう叛逆者諸君。えぇ。正直に言うとこのジル・ド・レェ、感服致しました。よもや獣へ堕した純潔の狩人を下すとは」

 

 しかし――、そこで一旦言葉を区切るジル・ド・レェ。だが次の瞬間にはその出目金のような目を激情に充血させつつ、最大限に見開いた。

 

「しかし、何故だ!? 何故私の世界を穢す!? あまつさえ竜の魔女(私の理想)を殺そうとするなど!?

 あぁ――全く! 全くCoolでない!」

 

 乱れた髪を掻きむしりながら、魂に刻まれた言葉を混ぜてそう怨嗟の雄叫びをあげるジルの姿はまさしく、激情や本能に突き動かされる芸術家の姿そのものであった。だがその眼に宿る狂気はそれよりもなお深く、淀んでいる。

 相対する怨敵に向けて憎悪の猛りを露わにするジルを、遥はそれとは対照的な冷めた瞳で見つめていた。その眼にあるのは徹底的な無関心ではなく、かといって堕ちたる元帥への憐れみの念でもない。そもそも、遥は敵に憐れみを抱けるほど出来た人間ではない。

 ジルを見つめる遥の眼にあるのは、ひとえに敵対心であった。どれだけこの元帥の憎悪が正しかろうが、今は敵として遥の目の前にいる。それ以前にこの男は自身の憎悪を理由に数多の少年を凌辱し、惨殺した者だ。遥にとってジルを相いれない敵と認めるにはそれで十分だった。

 故に何を言われようと心に響かない。なおも何事か怨嗟を吐き出し続ける狂信者の言葉を無視して遮り、遥が言葉を投げた。

 

「御託は結構。元帥さんよ、自分にとって都合の良い絵を見続けるのも飽きただろう? お片付けの時間だぜ」

「――なんですと?」

 

 極めて安い挑発だった。仮に挑発を放った相手が冷静な相手であれば心にもないことを、と一笑に伏されていただろう。遥の挑発はそれほどまでに彼の本心とはかけ離れたものであった。ジルにとって都合の良い絵は、ある部分においては遥にとって都合の良い絵でもあるのだから。

 だが、いくら冷や水を浴びせられたことで多少冷静になっているとはいえ少なからず狂化の熱にうかされた英霊にとって、それは最大限の重みを持つ挑発として魂に響いた。ジルは遥の言葉に呆気に取られ、だが直後に獣の如き咆哮をあげた。

 ヴアァァァァァッ!! と最早言語としても聞き取れない、それは魂からの咆哮だった。身体を駆け巡る憤怒と憎悪のあまりに海老反りになり乱れた髪を更に掻きむしる。そうして視線を遥の方に戻した時、そこにあったのは先程までの余裕に満ちた表情ではなかった。

 飛び出た眼球は限界まで充血し、今にも血管が切れて出血しそうだ。先程まで蒼白だった顔面は赤く染まっている。それはまさしく憤怒に塗れた悪鬼の形相であった。その表情を見て、遥が嫌な笑みを漏らす。いいぜ、かかってこいよ、と極限まで強がった虚栄の笑みだ。

 怒りのあまりに殆ど冷静さを失っているジルではあるが、しかし状況を見極めるだけの冷静さは残されているようで、臨戦態勢に入っている傍らのサーヴァントたちに戦闘開始の指示は出さない。互いに互いの出方を伺っている硬直状態。

 

――だが、そこに不意に声が響いた。

 

「ほう。ようやく敵の居城かと思い乗り込んでみれば……まさか貴卿がいるとはな、湖の騎士(サー・ランスロット)。だが随分堕ちたようだ。私が言えたことではないがな」

「アルトリア……!」

「Aa……? ――!?」

 

 アルトリア。聞こえてきたその名前と覚えのある声に、黒騎士――もとい、ランスロットが顔をあげた。だがランスロットは積年の妄執の相手を目前にして狂乱のままに跳びかかることをせず、驚愕に吞まれたようにアルトリアを見つめる。

 或いはそこにいたのが反転していない騎士王であればランスロットはこの場にアルトリアが来るよりも早くにその存在に気付いて襲い掛かっていただろう。最後までランスロットがアルトリアに気付かなかったのは、彼女の魂の在り様があまりに変わり果てていたからだった。

 なんたる邪悪、とランスロットの中に残る正常な部分が驚愕する。だが、その思いは狂化によって彼自身が自覚するより早くに霧散してしまった。代わりにその口から迸ったのは獣の咆哮。闘争心も露わに、手に執る魔剣に光が宿る。

 どれだけ堕ちていようが、目の前にいるのは間違いなくアーサー王。であればそこに区別などなく、ランスロットにとってはその違いなどは些末な問題であった。まるで壊れた自動機械のように動き出し、遥たちの頭上を越えて跳躍する。手に執る宝剣を振り上げ、アルトリアを叩き切らんとする。

 だがその刃がアルトリアを捉える直前、何者かが割り込んだことでそれは防がれた。小柄な人ひとりの身長を軽く超すほどの大きさを誇る盾。マシュの盾である。さらにそこへ飛び込んできた蒼い槍兵。閃光の如きその刺突を、だがランスロットは難なく躱すとそのまま距離を取った。

 さしものランスロットといえど、3騎のサーヴァントを前にしては見境なく突進する訳にもいかない。だが隙を見せれば即座に斬りかかれる体勢で睨み付けている。再びひと時の膠着状態に入ったそこへ飛び込んできた足音は立香とジャンヌのものであった。

 悪い、遅くなった。遥の傍らまで来た立香が言う。さらにその横ではジャンヌが憐憫の籠った眼でジルを見つめていた。

 

「ジル。貴方は……」

「ジャンヌ……あぁ、よもや貴女までも彼女を否定するというのですか……自らが齎した救済の果てに裏切られ、凌辱され、火刑に処された貴女が!! 他でもない、貴女自身の怒りとでも言うべき彼女を!!!」

 

 そう叫ぶジルの声はこれまでのような怨嗟や憤怒ではなく、むしろ懇願や執着の色合いがあった。それはそうだろう。ジルにとってジャンヌ・オルタは〝理想のジャンヌ・ダルク〟であって、そうでないジャンヌ・ダルクは理解の埒外でしかない。

 その点において、遥はジャンヌよりもむしろジルに近い感性を持っていた。仮に遥がジャンヌと同じ立場に立たされ、同じ結末を迎えたとしたらジャンヌ・オルタのようにフランスを恨むだろう。それは間違いない。

 だが、だからといってジャンヌ・オルタのようにフランス全土を死の国にするような復讐を成すかと問われれば、それは否だ。遥にとって、虐殺による復讐とは()()()()()()()()。故に遥はジルとは相いれない。

 自らが慕う聖女が自分の望む形とは全く違うという事実にジルが悲嘆に暮れる。だが一瞬にしてその表情を悲嘆から憤怒へと変えると、ジルはジャンヌたちへと憎悪の言葉を吐き出した。

 

「貴女が赦しても、私が赦さない。我が道を阻むというのなら、貴女とて敵だ、ジャンヌ・ダルクッ!!!

 行くのです、狂乱の英霊たちよ! ランスロット卿に続けェッ!!!」

 

 戦闘の火蓋を切って落とすジルの声に応え、ヴラドとカーミラが狂喜的な笑みを深くした。続けてヴラドが霊体化させていた槍を具現化させ、突貫してくる。しかしその槍の一撃は遥たちに届くことはなく、その一撃は阻まれるどころか立て続けに反撃を喰らいかけたことでヴラドが飛び退く。

 果たして遥たちとヴラドの間に割って入り、その攻撃を防いで見せたのはクランの猛犬たるクー・フーリンであった。後退したヴラドは領土とした城の床面から無数の杭を生み出して遥たちごとクー・フーリンを屠らんとするも、それはクー・フーリンやエミヤたちによって全て撃ち落とされる。

 自らの逸話が昇華された宝具が全く効果を成さないことに苛立ったのは、ヴラドが表情を屈辱に歪める。だがクー・フーリンはそれを一切意に介さず、杭を弾きながら背後にいる遥に向けて言葉を投げる。

 

「早く行け、坊主! あの女とナシつけるって言ったのはテメェだろ?!」

「それはそうだが……!」

 

 クー・フーリンの言葉に対し、遥が躊躇いの反応を見せる。敵に襲われているこの状況で立香たちに戦いを任せるというのは、まるで立香を見捨てているかのようで遥にはすぐに承諾できるものではなかった。

 反射的に遥がランスロットとジルが放った海魔と戦うアルトリアとマシュに指示を出している立香の方を一瞥する。その瞬間、ほぼ同時に立香もまた遥の方を振り返った。ふたりの視線が交錯し、その一瞬で遥は立香の意図を完全に汲み取った。そして、遥が口の端に笑みを浮かべる。

 ここはオレたちに任せて先に行け。遥がよく見ているアニメなどで使い古された言葉。まさかそれを実際に言われる日が来るとは思わなかったのだ。だが――仲間から向けられる全力の信任のなんと頼もしいことか。見捨てるなどととんでもない。信じて託すのは放棄ではない。

 続けて視線を合わせたジャンヌと頷き合い、さらにエミヤともアイコンタクトを取る。錬鉄の英霊はその一瞬だけで主の思いを全て察知し、ニヒルな笑みを浮かべた。そうして投影したのは黒塗りの大弓と選定の剣。

 選定の剣を大弓に番え、内部から圧壊する寸前まで魔力を充填。狙うのはヴラドが敵の動きを阻むためにその背後に生み出した杭の壁。エミヤの動きでヴラドは彼が何をしようとしているのかを察し、刺し殺そうとするが既に遅い。

 弓に番えた剣を真名を解放して解き放ち、真名解放された選定の剣は星の聖剣にも匹敵する極光を纏いながら杭壁に突き刺さる。ヴラドの宝具〝極刑王(カズィクル・ベイ)〟によって生み出された杭たちはしかし、極光に()かれて一部が砕け散る。

 

「突っ込むぞ! ――ここは任せたぞ、立香(あいぼう)!!!」

 

 その言葉だけ残し、遥が駆け出す。それに追随するのは沖田とタマモ、ジークフリート、そしてジャンヌだ。ヴラドをカーミラは行かせるまいと阻もうとするが、ヴラドはジークフリートが幻想大剣(バルムンク)を限定的に解放して黄昏の波を放ったことで近づけず、カーミラは沖田に蹴り飛ばされたうえに踏みつけられる。

 さらに殿を勤めるタマモとジャンヌが追撃として放った杭と魔力弾を弾く。立香が次に振り返ってそちらを見た時には遥たちの姿は既になく、その直後にエミヤの宝具によって生み出された孔が新たに生み出された杭によって埋まる。

 ハッ、と立香が口の端に笑みを覗かせる。いくらこんな状況とはいえ、まさか自分があんな使い古された台詞を本心から吐くとは思わなかったのだ。だが、悪くない気分だった。誰かに無条件の信任を置けるというのは、悪いことではない。

 立香の周りで戦うのは立香のサーヴァントであるマシュとアルトリア、クー・フーリン。そして遥が残していったエミヤだ。

 ハァ、と息を吐いて感情を落ち着ける。相も変わらず恐怖で膝は笑い出しそうだが、それを無理矢理に押し殺して気丈に振舞う。それが義務だからではない。ただ仲間たちと共に歩むために、今ここで膝を折る訳にはいかないのだ。

 

「やるぞ、皆! オレたちは負ける訳にはいかない、それに遥にも任されたからな!」

 

 精一杯の勇気を振り絞って吐き出した立香の言葉。よく言った、と呟いて獰猛な笑みを浮かべたのはクー・フーリンだ。彼は槍を構えたまま傍らに立つ腐れ縁の弓兵と言葉を交わす。

 

「まさかテメェが残るとはな」

「マスターの指示だ。何、心配することはない。マスターから離れようと、無理に狂った英霊如きに遅れはとらないさ」

 

 そう言ってエミヤは双剣を投影しつつ、挑発めいた視線をヴラドとカーミラへと向ける。自分たちへ向けて放たれた挑発を、彼らはジルの例に漏れずそのままに受け取った。

 自分が率いているサーヴァントの中からこの場に残すサーヴァントにエミヤを選んだ遥の指示は正しい。エミヤは弓兵ではあるが、剣を扱うこともできる。戦闘での汎用性という点においてエミヤに勝る英霊はそういないだろう。

 加えて、未熟な人間の面倒を見るのが大の得意ときている。遥とエミヤの付き合いはまだ数日程度でしかないが、遥はエミヤの性格を正しく把握していた。まったく妙な魔術師である。極めて優秀な魔術師であるのに変な部分で人間臭いというのは、エミヤが仕えた別なマスターに共通しているところがあった。それでこそこの紅い外套を纏っている甲斐があるというものだ、とエミヤが嗤った。

 エミヤの横でクー・フーリンがゲイ・ボルクを回転させる。思えばエミヤとクー・フーリンはこれまで幾度となく刃を交えてきたが、共に戦うのはこれが初めてではなかろうか。それでもうまく戦えるという妙な自身が両者にあるのは、何度も戦ってきたが故に互いの戦闘スタイルを熟知しているという自負があるからか。

 視線を交わさぬまま、ふたりは言葉だけを交わす。

 

「オレと共に戦うのはいいが……ヘマすんじゃねぇぞ、アーチャー?」

「誰に物を言っている。君こそ、敵に遅れを取っても助けてやらんぞ、私は」

「ハッ。言ってくれんじゃねぇか!!!」

 

 そう叫ぶや、クー・フーリンが槍を構えて地を蹴る。あまりの速さに押し出された大気が爆音めいた音を鳴らした。常ならば急な突貫を咎めるエミヤだが、彼もまた双剣を構えて敵へと斬りかかる。

 ヴラドとカーミラもまた得物を構え、そしてぶつかり合った武具が火花を散らした。

 

 

 

 

 

 ぶつかり合う英霊たち。彼らが生み出す魔力の波動を背後に感じながら、遥は城を駆けていた。未だ衛兵として配置されている海魔とワイバーンは残っているが、それらは遥にとって相手にもならない。

 現状確認されていたサーヴァントで残っていた英霊たちは全て立香たちと戦っている。敵が聖杯を保有している以上は新しくサーヴァントを召喚される可能性はあるが、沖田たちさえいれば対応できる。

 走りながら、遥はちらと横にいる沖田の様子を伺った。沖田はセイバーとしては非常に強力な部類の英霊だが、長時間休みなく戦闘を続けると病弱スキルが発動しやすくなるという弱点がある。一応は突入前に休みを入れたが、それで十分とは思えない。さりとてこの場で休憩を入れる訳にもいかない。

 顔色と足取りには特に問題がないようにも見えるが、不調は見た目に現れるものだけではない。

 

「沖田、大丈夫か。まだいけるか?」

「ええ。まだなんとか」

 

 そう答えを返す声に、不調の色合いはない。どうやら現時点ではまだ問題はないようだが、なにせ雑魚敵と戦い続け、サーヴァント2騎とも戦闘を繰り広げた後だ。休みなしで戦闘できるのは後1度が限度といったところだろう。

 他の遥に付いてきているタマモとジークフリート、ジャンヌには目立った外傷はない。魔力が続く限りサーヴァントは疲労とは無縁であるから、彼らは特に問題あるまい。問題があるとすれば、遥の方だ。接近してきたワイバーンの眼球を魔銃を発砲するとで潰し、視界を奪った後に心臓をひと突きで屠ると思考を続ける。

 確かにサーヴァントたちは疲労とは無縁だ。唯一例外が沖田であるが、現時点では問題は発生していない。だが遥はそうではない。いくら強力な魔術師で純粋な人間よりも頑強な身体をしているとはいえ、遥は生者だ。疲労と無縁ではいられない。八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)使用による疲労は確実に遥に蓄積していた。

 自分の身体のことを考えれば、ジャンヌ・オルタでの戦闘では変身は避けるのが賢明だ。無理な変身は自爆を招く。短期決着ではなくともより盤石な勝利を求めるなら、遥は別の自己強化手段に頼る他ない。

 

(あるにはある……けど)

 

 それは八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)とは別の方面で遥に負担をかけるものだ。疲労という訳ではない。むしろその手段を執れば疲労などとは無縁になる。遥がその手段を執るのを躊躇うのは遥自身の個人的な感傷である。

 しかし、そんな感傷はジャンヌ・オルタと決着を付けるという意思と比べればちっぽけなものだ。目的を達成するために手段を行使することを、遥は躊躇わない。

 その時、遥の思いが表情に出ていたからか、或いはただ察しただけかタマモが声をかけてきた。

 

「安心してください、マスター。貴方がどうなろうと、何であろうと、私たちが支えますから」

 

 そう言うタマモの表情に嘘偽りはない。それ故か遥はこの場にそぐわない、けれどずっと内心で思っていたことを言葉にして漏らした。

 

「ああ、そうだな。……なんだかタマモって良妻っていうより、姉っぽいな」

「みこっ? 何を仰るのですか、マスター? 私は紛れもない良妻英霊ですよ。

 ですけど、貴方なら……()()()()()()()()()()、姉というのもいいかも知れませんね」

 

 その物言いに何か含みを感じた遥であったが、敢えて何も訊くことはしなかった。普段ならば気になったことは問い詰めようとするのだが、何故かタマモにばかりはそれでいいとなってしまうのである。

 タマモから遥に向けられる感情は友愛ではなく、また絶対に恋慕ではない。かといって嫌悪感のようなものでもない。タマモから向けられる感情を遥は知らなかった。或いは忘れている、というのが正しいか。

 だが何か覚えがあるような気がして、遥はそれを記憶から掘り起こそうとする。けれどそれよりも早く、遥たちの視線の先に天井まで届くほどに巨大な扉が現れた。城の最奥、玉座の間に通じる扉である。

 遥は思考を中断すると、サーヴァントたちに目配せをした。それだけで突入の意思確認をすると、全身に強化魔術を付与した。そのままの勢いで扉を殴りつけ、衝撃に耐えきれなかった扉が倒れる。

 

「……来たわね」

 

 敵の大将であるジャンヌ・オルタは玉座には座らず、部屋の中央に佇んでいた。まるで遥たちを待ち受けていたかのように。その傍らには3騎のシャドウ・サーヴァントがいる。

 その光景が遥の眼に飛び込んでくると同時に遥の鼻腔を刺激したのは人脂の焼けた匂いと人の血の匂いが混じった異様な匂いだった。恐らく、ここで城にいた人間たちが焼き殺されるか、ワイバーンに食い殺されるかしたのであろう。

 ロマニの言によれば、特異点で死んだ人々は歴史が修正されれば元に戻るという。そんなことがあるものか、と遥は思う。いくら歪んだ歴史の中とはいえ、死人がそう簡単に戻ってたまるものか、と。故に遥の中ではここで殺された人々は死んだも同然だ。

 しかし、だからといって同情する余地があるかと問われれば、それは否だろう。ここで人が死んだのはジャンヌ・オルタによる復讐の結果だ。それを否定する気はない。

 

「ジルは足止めされましたか、想定通りですね。……さぁ、ここまで来たのなら始めましょうか。最終決戦を」

「待ってください。その前に、貴女にひとつだけ訊きたいことがあります」

 

 ジルが足止めされたことを想定通りというジャンヌ・オルタの声音は相も変わらず憤怒と憎悪に彩られていたが、僅かに以前とは異なる雰囲気があった。言うなれば、それは歓喜だ。怨敵たる遥と一騎打ちできるという歓喜。

 しかしその歓喜はジャンヌの声がジャンヌ・オルタの耳朶を打った瞬間に彼女の表情から消え去った。ジャンヌを見るジャンヌ・オルタの表情は人間が鬱陶しい羽虫を見る時のそれに近い。ジャンヌ・オルタにとってジャンヌは彼女の残り滓でしかないのだから、それも当然だ。

 これからジャンヌ・オルタにぶつけられる真実を思えば、遥はため息を禁じえなかった。真実を知らない相手を討ち斃すというのはあまりしたくはないが、ジャンヌ・オルタの場合真実を知ることでどうなるか分からない。自己のアイデンティティが崩れ去ってしまうのだから。

 そんな遥の心中を察したのか、ジャンヌは遥の方を一瞥すると申し訳なさそうに微笑んだ。それに遥は仕方ないさとでも言うように肩を竦めてみせる。その直後、ジャンヌは己が闇の側面として立つ者に問いをぶつけた。

 

――貴女は、自分の家族のことを覚えていますか?

 

「――は……?」

 

 ジャンヌの問いに、ジャンヌ・オルタが眼を丸くした。まるで、何を言っているのかと呆気に取られているかのような表情だ。だがすぐにその表情は驚愕、そして忘我へと至る。

 ジャンヌ・オルタが戦場に立つ以前のことを覚えているか否か。その問いに対する答えを遥はその様子を見ずとも知っていた。ジャンヌ・オルタに聖女として戦っていた以前の記憶はない。

 初めからジャンヌ・オルタに対して違和感を覚えていた遥だったが、その違和感の正体に気付いたのは本物のジャンヌ・ダルクと出会った時だった。彼女は正当なオルタナティブというにはあまりに大元のそれと乖離しすぎているのだ。

 ジャンヌは聖人だが、村娘であった時の記憶に重きを置いている。ジャンヌ・オルタは聖人ではないが、囚われて火刑に処された時の記憶に縛られている。しかし、後者は絶対にありえないのだ。()()()()()()()()()()()

 理由(カラクリ)は単純明快。つまりは聖杯によってジャンヌ・オルタを創造した者――ジル・ド・レェがそれ以前の彼女を知らないためだ。願望の主が知らないことは叶えられない。願望器の弱点である。

 真相が分かってしまえば何ということはない。つまらない三文芝居だ、と遥が溜息を吐いた。だが、遥はこのままで終わらせたりはしない。目的のためだけに造られ、しかしながら目的を見失った者がどうなるか。遥はよく知っている。

 しかし、遥が思っていた以上にジャンヌ・オルタは強かだった。自らの真相に気付いたジャンヌ・オルタだがすぐに絶望と忘我から復帰するとその視線を遥へ向ける。

 

「私が本物か、それとも偽物か……そんなコト、今はどうでもいい。それはソイツに引導を渡してから考えることにするわ。

 さぁ。剣を抜きなさい、我が怨敵! 決着を付けるわよ!」

 

 腰に帯びた聖カトリーヌの剣を抜き、その切っ先を遥へと向けてジャンヌ・オルタはそう叫んだ。その言葉に遥は一瞬だけ呆気に取られ、そして笑むと叢雲を抜刀した。黄金に輝く刀身が殺戮の色が染みついた玉座の間を照らし上げる。マスターたるジャンヌ・オルタと遥が臨戦態勢に入ったことで、それぞれのサーヴァントたちもまた戦闘態勢に入った。

 恐らく、ジャンヌ・オルタは本気でかかってくるだろう。その強さは遥を舐めてかかっていた以前のそれとは比較にならない筈だ。或いは聖杯の力によって達人に匹敵する剣術と槍術を身に付けているかも知れない。以前のままでは仮に本気でかかってきたとしても剣腕の差で遥が勝利する可能性が高い。

 相手が本気でかかってくるというのなら、遥も本気で戦わないというのは失礼に値するだろう。ほう、と深く息を吐き、覚悟を決め、瞑目して遥は短く詠唱を口ずさんだ。

 

魔術回路、封印解放(サーキット・オーバーフロー)憑依分霊接続(コネクト)

 

 たった数節の詠唱で遥の魔術回路に掛けられていた封印が解除され、全身に巡る魔力が数倍に増加する。普段は使われない魔術回路に急に魔力が奔ったことで全身が悲鳴をあげる。だがそれ以上に苦痛であったのは、身体が何かに侵されていくような異物感だった。

 それは(のろ)いだった。遥かな太古から続き、遥という完成形を得たことでようやく具現化したもの。魔術回路が解放された瞬間に遥の魂と憑依した分霊が直結され、激烈な苦痛が遥を襲う。まるで1秒が何倍にも引き伸ばされたかのような感覚の後、その苦痛が安心感へと塗り替わった。

 その瞬間、遥の変化を感じ取ったジャンヌ・オルタが嗤った。そうだ。それでいい、と。自分が本気で戦うのだから、相手もそうでなくては張り合いがない。全力の相手を打ち倒してこそ、この復讐は達成される。

 叢雲の刀身がより強い黄金色に輝き、噴き出す魔力が轟と唸りをあげる。神剣の切っ先をジャンヌ・オルタに向け、遥は高らかに叫んだ。

 

「いくぞ、オルタ。この特異点の戦いを、これで終わらせる!!」




今回の対戦カード
アルトリア&マシュVSランスロット&ジル
エミヤ&クー・フーリンVSヴラド&カーミラ
沖田&タマモ&ジークフリート&ジャンヌVSシャドウ・サーヴァント(マリー、アマデウス、エリザベート)
遥VSジャンヌ・オルタ


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第22話 復讐者、ふたり

 オルレアンの城。その玉座の間に剣戟の音が響く。数多くの英霊が戦う中にあって、最も激しい戦いを繰り広げているのは竜の魔女たるジャンヌ・オルタと英霊ではない筈の遥だった。

 目にも留まらぬ速度で漆黒の長剣と槍、黄金の神刀が振るわれ、ぶつかり合う度に膨大な魔力が噴き出す。時折両者が放つのは恩讐の炎と煉獄の焔。それらは相殺し合うことはなく、ふたりの身体に降りかかる。

 遥とジャンヌ・オルタの戦闘はどちらが一方的に押すということはなく、完全な拮抗状態を呈していた。ジャンヌ・オルタが以前のままであれば既に勝負が付いていただろうが、明らかに剣術の腕があがっている。聖杯の願望器としての力を使えばそんなことは容易いことであろう。

 以前交戦した時に斃せなかった敵が強くなっている。戦場においてそれは最も忌避すべきことのひとつだろうが、遥の表情に暗澹たる色はなかった。むしろ歓喜のように見えるのは、遥に宿る分霊の影響か。

 だがそう昂ってだけいられない状況であるのも確かだ。今の遥は八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を使わずともある程度サーヴァントと戦えるようにはなっているが、それでも使用状態よりは身体能力で劣る。真正面からジャンヌ・オルタと殴り合えばまず間違いなく腕の骨が砕け散るだろう。故に使えるのは叢雲と魔術のみ。徒手空拳による格闘戦は自爆に等しい。

 対するジャンヌ・オルタは右手に長剣を、左手に旗もとい槍を握り、手数の多さで遥を圧倒しようとしている。いくら聖杯の後押しを受けてはいても剣術において上手であるのは遥だ。一瞬でも隙を作ればその瞬間に遥の剣はジャンヌ・オルタの霊核を貫くだろう。剣術だけではなく、剣速もまた遥に分がある。だがいくら剣で勝ろうと、力で劣れば負ける可能性もある。

 ジャンヌ・オルタの動きに呼吸を合わせ、繰り出される連撃を叢雲でいなす。タイミングさえ合わせることができるのなら、攻撃を避けるのは容易い。サーヴァントは超常の存在であるが、今の遥もまた超常に近い存在。土俵はほとんど同じだ。

 人血の多少の封印と自身に憑依、否、正確には()()している霊魂の限定開放。それが遥が行使した魔術の正体である。完全開放もできなくはないが、遥自身の肉体に負担をかけないようにするには限定開放が限度なのだ、この時代では。それに完全開放をすればその霊魂の正体が何であるか全員に気付かれる。タマモには気づかれている節があるが、彼女なら問題はない。

 

「フッ――!」

 

 短い気合を吐き出し、遥が叢雲を大上段に構える。素人でも太刀筋が読めるような、達人以上の域にいる遥であれば絶対に取らないであろう構え。ジャンヌ・オルタはその構えに何か違和感を覚えたものの、その隙に一太刀を浴びせんを長剣を振るった。

 しかしその刀身が遥に直撃する寸前、ジャンヌ・オルタの脇腹を強い衝撃が襲った。そのまま吹っ飛ばされるジャンヌ・オルタ。だがすぐに体勢を戻し、ジャンヌ・オルタは己の失策を悟った。

 わざと太刀筋が見える構えを取ったのは、ジャンヌ・オルタがその隙に攻撃を入れるのを誘うため。本命は横からジャンヌ・オルタを打ち付けた蹴撃だ。ジャンヌ・オルタはまんまとそれに乗っかってしまった形である。

 顔を上げ、ジャンヌ・オルタは怨敵の顔を見る。刀を振り上げたからといって素直斬撃が来ると思うな莫迦め、とでも言いたげな顔であった。揶揄うようなその態度に覚えのない類の怒りを覚えながら、ジャンヌ・オルタが長剣の刀身に魔力を集中する。

 そうしてジャンヌ・オルタの周囲に発生したのは黒い魔力槍。ジャンヌ・オルタは黒剣を遥へと向け、暗く激しい恩讐の魔力によって構成されたそれらを打ち出した。

 

「往けっ!!」

 

 一斉掃射ではない。時間差をつけて躱しにくく打ち出された槍。だが遥は慌てず、過つことなくそれへの対処を実行した。

 漆黒の外套に手を突っ込んで取り出したのは黒鍵。それを鉄甲作用ではない至って普通の投法で投げつける。そんなもので防げるわけがないだろう、と嘲ったジャンヌ・オルタであったが、彼女はその認識をすぐに改めることとなった。

 遥が投擲した黒鍵がジャンヌ・オルタの魔力槍と衝突した瞬間に爆発し、魔力槍の全てを消滅せしめたのである。それを齎したのは黒鍵そのものではなく、その内部に刻まれたルーン文字。遥は所有している黒鍵のうちいくつかを数種類の改造黒鍵としていたのだ。教会の人間が聞けば憤死しかねないが、遥は信徒ではないし彼に黒鍵を提供した代行者も敬虔な信徒という訳では無いから不問であろう。

 原理は知らないものの、黒鍵で魔力槍を防がれたジャンヌ・オルタが舌打ちを漏らす。叢雲と鞘ばかりに気を取られがちだが、遥の武装は何も宝具だけではない。黒鍵や魔銃、さらには魔術加工を施した爆弾など。用途を問わず、多くの武具を扱うのがこの魔術師だ。伊達に死徒や悪魔との交戦をしてきた訳ではない。

 黒鍵が爆発したことで発生した煙を突っ切るようにして遥が突っ込む。繰り出されるは神速の刺突。沖田のそれのような魔法の域に足を踏み入れたものではないが、生半な戦士では視認することさえ叶わない剣技だ。

 しかしそれを警戒していなかったジャンヌ・オルタではない。煙幕から遥が現れた瞬間、ジャンヌ・オルタは恩讐の炎を放出した。超高温の炎が壁のようにジャンヌ・オルタの目前に展開される。

 

「チイッ……!」

 

 さしもの遥といえど、英霊が放った超常の炎を突破できる筈もない。だが遥は咄嗟に対応してみせた。無理矢理地面に足を突いて停止し、慣性を利用するようにして叢雲を虚空に一閃した。叢雲そのものが持つ魔力放出によって形成された黄金の魔力斬撃が魔女目掛けて飛翔する。

 ただの魔力放出とはいえ、神造兵装によるものであるそれは宝具の断片展開にも匹敵する。ジャンヌ・オルタはそれを正面から迎え撃つようなことはせず、身を低くして走り出すことで回避した。虚空を薙いだ金の魔力が城の壁を粉砕する。

 ジャンヌ・オルタが構えた黒剣に炎が宿る。それは彼女が抱く憎悪によって極限にまで研ぎ澄まされた鏖殺の炎。それらが剣の切っ先が指示した怨敵を焼き払わんと奔る。だが遥は一度見た攻撃を再度喰らうような愚は犯さない。

 

「我が躰は焔」

 

 紡いだ詠唱で体内に固有結界を展開する。魔術の最奥たる秘術であるが、これまで幾度となく繰り返した動作であるが故にその展開までの時間は極端に短縮されていた。一呼吸を挟む間すらもなく遥の手に焔が生まれる。

 それは遥の身体を永遠に苛み続ける煉獄の焔。罪人を裁き、罪を浄化する筈の焔は復讐者の手の中にあってもその性質を失わない。真正面からジャンヌ・オルタの炎を迎え撃った遥の焔は恩讐に塗れた炎を浄化し、消滅せしめる。

 遥が放つ煉獄の焔に、ジャンヌ・オルタが憎々しげに顔を歪める。火刑に処されたという記憶の強いジャンヌ・オルタにとって、断罪の焔はただ憎いものでしかないらしい。火刑の炎と煉獄の焔はその原理こそ全く違えど、断罪の意味としては同義だ。

 だが、断罪の焔が憎いのは遥とて同じだ。遥はこの焔を自在に操ることはできるが、だからといってその焔に焼かれない訳ではない。生まれてから今まで、遥は絶え間なくこの焔に焼かれている。

 

加速開始(イグニッション)

 

 たった1節の呪言で体内の固有結界の時間流が加速する。外界の時間と体内時間が完全に切り離され、あり得ない速度で身体が動く苦痛が遥の意識を白ませる。だがそんなものは慣れたものだ。今更になって遥の動きを阻むものではない。

 2倍、3倍――否。それ以上の速度で遥の身体が躍動する。1歩を踏み込む度に全身の骨が砕け、遥の起源『不朽』の性質によって修正される。修復ではなく、修正だ。だがどちらにせよ元に戻るなら同じだ。遥の加速上限は身体の負担を無視すれば10倍速といったところか。さすがにそれだけ加速することはないが。

 肉迫してきたジャンヌ・オルタの一閃を叢雲で受け止める。そのまま鍔迫り合いに移ることはせず、ジャンヌ・オルタは何度も遥に向けて剣を振るうが遥はそれを引き伸ばされ、遅延した時間の中で完璧に見切った。黄金の神刀と漆黒の長剣がぶつかり合い、火花と魔力を散らす。

 剣技以外では劣っていながら、聖杯のバックアップを受けているサーヴァントと互角に渡り合う人間。ジャンヌ・オルタの胸中には自身の前に立ちはだかるこの敵を恨めしく思うと共に、言い知れぬ奇妙な感覚を覚えてもいた。だがそれがこれまで恩讐だけで動いていたジャンヌ・オルタにはなかった感情であったが故に、彼女がそれを自覚することはなかった。

 だが同時に、ジャンヌ・オルタは不可解に思ってもいた。遥の眼の奥にある憎悪と憤怒の色は間違いないというのに、遥の在り方はジャンヌ・オルタとは対局にある。即ち人類を滅ぼそうとする者と、人類を守る者。心にこびりついたものは同じ筈なのに、積み上げたものが両者を明らかに分かつものになっていた。

 剣戟の音がジャンヌ・オルタの耳朶を打ち続ける。いくら聖杯の後押しによって達人並みの剣技を身に付けたとはいえ、相手は類稀な天賦の才のうえに気の遠くなるほどの努力を積み上げた紛れもない剣客だ。付け焼刃の剣技で敵う相手ではなく、事実ステータスでは勝るジャンヌ・オルタは遥を瞬殺できていない。

 

「やっぱり、アンタ異常ね」

 

 刃と刃がぶつかり合い奏でられる甲高い金属音の中でも、その声は遥の耳に届いた。遥の沈黙をどう捉えたのか、剣戟を続けたままジャンヌ・オルタが言葉を続ける。

 

「アンタは私と同じ。人間が憎い、世界が憎い。それなのに人類を救おうとするなんて、どうかしてるわ」

 

 途中から鍔迫り合いへと移り、遥はジャンヌ・オルタに下から覗き込まれる形になる。その金色の瞳は遥の内にあるものを探っているようで、遥は妙な気持ちの悪さを覚えた。だが不思議と不快ではなく、嘲弄するようなジャンヌ・オルタの声音に応えて口元に歪んだ笑みを覗かせる。

 遥のことを異常だ、どうかしていると言うジャンヌ・オルタ。言葉に出してはいないが、要は彼女はこう問うているのだ。『自分と同じなのに、どうして復讐に走らないのか』と。

 とんでもない、と遥は内心で嗤う。それだけ全てを憎悪しておいて復讐に走らない筈がない。それは遥とて例外ではなく、故に遥もまた復讐者のひとりであるのだろう。ただ、その復讐の形において両者に絶対的な乖離があるというだけである。

 そうして次の行動に移ろうとした遥であったが、それよりも先にジャンヌ・オルタが動いた。長剣を唐突に叢雲から離すと間髪入れずに遥の脇腹へ蹴りを放つ。それを咄嗟に叢雲で受け止めるが、衝撃を受けきれずに吹っ飛んで壁に叩きつけられた。身体と壁に挟まれた左腕から嫌な音が鳴る。

 

「ッ――ア――!」

 

 痛みには慣れているとはいえ、骨が折れるのは流石に堪える。左腕から奔った激痛に遥が顔を顰め、呻いた。その様子から何が起きたのかを察したジャンヌ・オルタは更なる追撃を浴びせんと剣と槍を振るう。

 それを右手に握った叢雲1本で捌きながら、遥は折れた左腕に意識を集中させる。口には出さずに脳内だけで治癒術式を汲み上げ、骨折部に施す。魔術師であれば誰でも使える程度の低位の治癒魔術。だがそれは遥に限っては異様な効果を示し、折れた骨が一瞬にして縫合した。

 その異常なレベルの治癒力は、ひとえに遥自身の起源によるものだ。『不朽』の起源を持ち、それが強く出ている遥は素でも常人より遥かに傷の治りが速い。それは再生というよりも修正に近い現象だった。流石に骨折ともなれば普通の切り傷などよりは治りが遅いが、治癒魔術を併用すれば一瞬で治る。

 治った左腕で叢雲を掴み、縦横に振るう。たった数秒で折れていた筈の左腕が治癒したことには驚いたようだが、しかしジャンヌ・オルタはそれで動きを止めるようなことはなく、捌き切れないと判断して後方に飛び退く。だが遥が逃がす筈もなく、黒鍵を取り出して投擲した。埋葬機関に伝わる鉄甲作用、その模倣である。

 飛翔する黒鍵。だが既にそれが秘めた威力を痛感しているジャンヌ・オルタは黒鍵を払うようなことはせず、身体を無理矢理に曲げて回避した。遥はすかさず内部に仕込んだ術式で方向を変えるも、それは鉄甲作用の効果外であるために斬り払われる。

 黒鍵を全て防がれた遥であったが、元より一度見せた手がそう容易に通用する相手だとは思っていない。黒鍵を投擲すると同時に走り出していた遥が叢雲を振るう。一刀の許に敵の首を落とす神速の剣。咄嗟にジャンヌ・オルタは長剣で首元を守るがしかし、遥の連撃は止まない。

 絶え間なく振るわれる叢雲の刃は一見無造作に振るわれているようであるが、その実一刀一刀全てがジャンヌ・オルタの首を狙った正確無比な一撃である。故に彼女は両手の剣と槍で防ぐことができているのだが、愚直なほどに真っ直ぐな軌道はジャンヌ・オルタに違和感を感じていた。遥ほどの技量を持つ剣士であれば、無理矢理虚空で軌道を曲げることも可能であろうに。

 

「この……ッ!」

 

 一旦距離を取るため炎を放出しようとしたジャンヌ・オルタであるが、剣撃の合間に差し込まれた蹴りを正面から受けたことで僅かに吹き飛ばされた。ジャンヌ・オルタは地面に踏ん張って身体を停止させるも、そこへ遥が突っ込んでいく。

 流れるような動作で遥は鞘を外し、叢雲をその中へ納める。そうして左腰の辺りに剣を構えた。居合切り、抜刀術における基本の構えだ。遥の神速に迫る剣腕から来る抜刀術。逃げきれないと判断したジャンヌ・オルタは反射的に眼前にワイバーンを召喚することで即席の盾とした。

 唐突に目の前に現れたワイバーン。距離故に遥はそれを飛び越えることができず、そのまま叢雲を抜刀し、その身体を切り裂いた。胴体が半ばから断ち切られ、鮮血が噴き出る。そして次の瞬間、視界に入ってきた銀閃に息を呑んだ。ワイバーンの身体を貫いた槍の穂先が遥の左脇腹に突き刺さる。

 グ、と遥が呻き声を漏らした。激痛に意識が白熱する。激痛には慣れているために痛みを無視することはできるが、傷は無視する訳にもいかない。しかし今回に限って遥はすぐに直すことをしなかった。脇腹に突き刺さった旗の柄を掴み、血飛沫の向こう側から覗くジャンヌ・オルタに嘲弄するかの如き笑みを向ける。

 

「捕まえた……ッ!!!」

「こいつ……!」

 

 遥が何をしようとしているのか悟ったジャンヌ・オルタは旗から手を離そうとするが、遥の動きはそれよりも早く、速かった。脇腹に突き刺さった槍がさらに深く刺さるのも構わずジャンヌ・オルタへと旗を押し返す。石突がジャンヌ・オルタの鎧を叩いた。さらに遥は旗を掴んだままジャンヌ・オルタを振り回そうとするが、先にジャンヌ・オルタが遥から槍を離す。

 噴き出す血潮。生暖かい血が足元を濡らし、鉄分の金属臭さが鼻腔を突く。既にシャドウ・サーヴァントを下していた沖田たちが割って入ろうとするのを、遥は視線だけで押し留めた。とても怪我人がする眼ではない。勝利への執念と闘争心に塗れた、それは剣客の眼であった。

 傷口に治癒魔術を施し、傷を塞ぐ。そうすれば一瞬で傷は塞がるが、肉体にダメージは蓄積している。槍で貫かれた部位は未だ鈍痛を放ち意識を苛んでいる。だがダメージが回復しているのなら憂慮する必要はない。痛みを強引に識域から追い出し、叢雲を構える。

 対するジャンヌ・オルタは目立った外傷こそないものの、遥の猛攻によって確実にダメージは負っていた。加えて、ジャンヌ・オルタの奥の手を使う隙がない。消費魔力の少ない対人宝具なら一瞬で発動することもできるが、ジャンヌ・オルタの宝具は対軍宝具。仮に発動したとして、発動待機中に殺されるという確信があった。

 故にジャンヌ・オルタは宝具を使うことができない。不用意に動いて殺されるくらいならば、確実に殺すことができる手段に出る方が確実だ。得物を握りなおし、遥を睨み据える。

 叢雲を納刀したまま居合の構えを取り、ジャンヌ・オルタと睨み合う。抜刀術は抜刀した状態から斬るよりも剣速は僅かに劣るが、剣筋を悟られにくいという利点がある。遥が唯一自分で編み出し、名を付けた剣技も抜刀術に類するものだ。そう考えれば、遥の奥の手のひとつと言っても差し支えないだろう。

 

「あぁ……そうだ、オルタ。お前、俺が復讐をしていないと言ったが……とんだ勘違いだ。復讐しているよ、俺は」

 

 突然遥が漏らした言葉。ジャンヌ・オルタがそれに意識を向けたその刹那、遥の姿が掻き消えた。納刀の状態から初動を悟らせないほどの動きに移る。あらゆる武道における歩法の極致たる〝縮地〟である。

 サーヴァントですらも完全に見切ることができないほどの縮地だが、それはあくまでジャンヌ・オルタが戦闘慣れしたサーヴァントではないためだ。格上の剣士である沖田とジークフリートには遥の動きが見えていた。それでも人間の域にある動きではないのは確かだが。サーヴァントのスキルにすればBランクに匹敵するだろう。

 仙術には至っていないものの、動きが見えない者からすればそれは瞬間移動にも等しいだろう。事実、ジャンヌ・オルタには遥の挙動は全く視認できていなかった。だが見えていなかったならそれはそれでやり様はある。遥を視認することは不可能だとすぐに割り切ったジャンヌ・オルタは、迷わずに自分を囲むように炎を放った。

 直後に遥が現れたのはジャンヌ・オルタの真後ろ。そうして振るわれた叢雲の刃はしかし、ジャンヌ・オルタに見切られていた。ジャンヌ・オルタが張った炎の壁は攻撃のためではなく、それを突っ切って現れる遥の位置を把握するためだったのだ。

 莫迦め、とジャンヌ・オルタがほくそ笑む。位置さえ分かれば防ぐのは容易い。いかな太刀筋の読みにくい抜刀術といえど、長物で軌道を塞げば止めることもできよう。ジャンヌ・オルタは予測した剣筋に旗を滑り込ませる。しかしその余裕の笑みは直後に驚愕へと変わる。

 叢雲の描く黄金の光と焔の軌跡がジャンヌ・オルタの槍を捉える。だがその剣はそこでは止まらず、ジャンヌ・オルタの旗を絡め取るように動いた。そうして旗があらぬ方向へと飛ばされた瞬間、ジャンヌ・オルタは遥の攻撃の真意を悟る。

 居合術による一撃目はあくまで相手の防御を崩すための一手。縮地とそこから放たれる神速の剣は一見本命の攻撃に見えるが、そうではない。遥は何らかの手でジャンヌ・オルタが自身の太刀筋を見切ることを見越したうえでそれを誘い、防御を崩すための一手を放ったのだ。

 故に、本命は二撃目。旗を強引に手放されたジャンヌ・オルタは体勢を崩すも、その姿勢のまま遥から距離を取ろうとして後方に跳ぶ。だが遥はそれを逃がさず、再び縮地で地を蹴った。逃げきれない。ジャンヌ・オルタが悟る。

 縮地による高速移動と防御崩しの一撃目。そうして相手が無防備になった間隙に放たれる本命の二撃目が敵を穿つ。誰が言ったか〝風浪双閃〟。切っ先が霞むほどの刺突の一撃。ジャンヌ・オルタはそれを防ぐことができず――――叢雲の刃が、彼女の鳩尾へと突き刺さった。

 

「――ガ、フ――」

 

 ジャンヌ・オルタを貫いてもなお遥の勢いは衰えず、神剣の切っ先が壁へと突き刺さる。壁へと叩きつけられたジャンヌ・オルタは、そこに至り身体が全く言う事を聞かないことに気付いた。力を失った手から黒剣が滑り落ちる。

 ()()()()()()()。ジャンヌ・オルタはその事実を諦観を共に受け入れた。不思議と怒りは湧かず、むしろ奇妙な可笑しさがこみ上げてきて、ジャンヌ・オルタが小さな笑声を漏らす。

 

「俺の勝ちだ。オルタ」

「――ええ、そうね。……私の負けよ」

 

 もしもジャンヌ・オルタを打倒した者が『正義の使者』めいた者であれば、彼女はこの結末を受け入れ切れなかっただろう。消滅した後でも何かに縋って報復に走った筈だ。例えば聖杯の欠片を手に入れればそれを使っただろう。

 だが遥は正義の味方でも、正義の使者でもない。その形はジャンヌ・オルタとは比べることさえもできないが、遥は彼女と同じ『復讐者(アヴェンジャー)』だ。在り様がどうであれ同じ類の者であるなら、ただ遥の執念が彼女のそれを上回ったに過ぎない。

 この時点になってようやく、ジャンヌ・オルタはどうしてああも遥のことが気に入らなかったのか気付いた。自分とは相容れない復讐の在り方、自分を上回る執念への怒り。それらは全て、関心を源泉とするものであったのだ。無関心であればあれだけ憤ることもなかったろうに。

 ジャンヌ・オルタの胸に刃を突き立てたまま動こうとしない遥。最後に残った力を動員してその髪を掴み、顔を向けさせる。ジャンヌ・オルタのそれと同じく憎悪と憤怒を内包しながら絶望せず、希望を湛えた眼。決して両立し得ないものが両立した、歪んだ眼だ。

 その眼を見てジャンヌ・オルタは確信する。復讐者と同義でありながら、その前提から外れたこの男はきっといつか破滅する。だがその歪みと結末を是認してやれるのは自分だけだ、と。

 身体の感覚が消え去っていく。意識が遠のいていく。敗北した竜の魔女の身体は彼女の意思とは無関係に端から魔力光へと変わっていく。ジャンヌ・オルタにとって、今この時だけは自分が贋作であることなどどうでもよくなっていた。

 ハ、と口の端を歪める。自分の身体が消え去っていく感覚につられて手放してしまいそうな意識を一瞬だけ繋ぎ止め、ジャンヌ・オルタは最期に自嘲的に笑った。

 

「フフッ……まさか私に、憎悪以外の感情があるなんてね……」

 

 その言葉を最後に、竜の魔女の身体は魔力の光と化して消滅した。後に残されたのは黄金に光り輝く結晶体――聖杯である。ジャンヌ・オルタの核の一部として機能していた聖杯は外装が剥がれたことでその機能を停止し、遥の手に収まった。

 聖杯の真の持ち主たるジルの許に戻らないところを見ると、ほぼ同時にジルも消滅していたのだろう。仮にジルが先に消滅していれば、所有者を失ったことで聖杯が機能を喪失し、竜の魔女も問答無用で消え去っていたに違いない。

 こうして遥の手元に聖杯が渡ったということは、この時代の異常も修正されるに違いない。カルデア側でもそれを観測しているのだろう。戦闘が終わり、疲労から朦朧とする頭でそうひとりごちた時、小さな衝撃が遥を襲った。見れば、沖田が遥に飛びついてきていた。

 

「ハルさんッ、大丈夫ですか!?」

「大丈夫……ってのは通じねぇか。でも傷は全部戦いながら治療したし、問題はねぇよ」

 

 努めて平静の声音で遥はそう言うも、沖田は納得していないようで不満そうな表情を遥に向ける。その様子に遥は苦笑すると、安心させようとして沖田の桃色がかった白髪を撫でた。だが頭に手を載せた直後に沖田は俯き、表情を伺うことはできなかった。

 それでもそれ以外に遥にできることなどなく、遥は沖田の頭を撫で続けている。そうしたまま顔をあげて最初に目があったのはタマモだった。その瞬間に遥は言い知れぬ申し訳なさに襲われ、対するタマモは呆れ気味にため息を吐く。

 仕方のないマスターですねえ、と呟くタマモは半ば諦めたようでありながら、まるで変に出来の良い弟を咎める姉のような雰囲気があった。それに何故か懐かしさと違和感を覚えたが、遥はそれを無視して視線を移す。

 次に目が合ったのはジークフリート。彼とはあまり長い付き合いではないが、契約を結んだためか、或いは助けた恩義からか、それともただ彼が実直なだけなのか、ジークフリートは遥を主として扱ってくれた。何も言わず、ジークフリートが微笑む。

 そして最後にジャンヌ。

 

「悪いな、ジャンヌ。本当はアンタも決着を付けたかったんだろうが、俺の我儘に付き合わせちまって」

「いえ。私も、彼女を打ち倒したかったのは山々ですが……きっと私に斃されたのでは彼女はこの結末を納得しなかったでしょうから。貴方の思いは正しかったのだと私は思います」

「そっか。……その、なんだ、ありがとな」

 

 恥ずかしそうにそう言う遥に、ジャンヌは無言で笑みを向ける。素直に礼を言うというのは遥にとって照れくさいことだったが、真正面から肯定されるというのも中々に恥ずかしいことであった。

 何はともあれ、これでこの特異点での戦いは終わった。しばらく遥の外套の袖を掴んで離さなかった沖田が離れた直後、ロマニからの帰投命令が出る。同時に遥たちの身体が光に変わり始める。

 時代を歪めていた聖杯が取り除かれたことで、時代の修正が始まったのだ。これよりこの特異点は消滅し、元のあるべき姿へと戻るだろう。

 

「そろそろお別れの時間だ」

「そうですね。最後にリツカとも言葉を交わしたかったのですが……これでは間に合いそうにありません」

「何、心配するこたぁねぇ。アンタと俺らの間には縁がある。きっとすぐにお呼びがかかるさ。十中八九、()び出すのは立香だろうが」

 

 冗談めかした遥の言葉。だがジャンヌは「それはいい。また貴方たちの旅に同行できるかも知れないのですね!」と言って嬉しそうに笑った。その身体は殆どが消え去り、向こう側が透けて見えている。

 それは遥たちも同じで、少しずつ意識がこの世界から離れていくのが分かった。世界から自分を切り離すという点では固有時制御とはそう変わらないが、僅かに違う。どうにも気持ちの悪い感覚だった。

 ジークフリートは何も言わずに遥を見ているが、彼もまた再び遥たちと共に戦うことを望んでいた。彼だけではない。遥と、そして立香と見えた英霊たちは敵味方関わらず、少なからず彼らへと興味を抱いている。

 世界との接点が薄れ、全身の感覚が遠ざかっていく。そして、この世界からカルデアの面々が退去する寸前、ジャンヌが言った。

 

「別れの言葉は言いません。だって……きっとまた会えますから。私の勘は、よく当たるんですよ?」

 

 ハハッ、そりゃいい。そう口にしようとした遥であったがその言葉は遥の口から出ることはなく、代わりに遥を襲ったのは身体がかき回されるような感覚と気持ちの悪い酩酊感。

 それに僅かに遅れて欠けていた感覚が戻ってくる。目を開けてみれば、視界に飛び込んできたのはひどく狭苦しい装置の裏側。霊子筐体(コフィン)の内部だ。カルデアに帰ってきたのである。

 不意に身体から力が抜け、激しい眠気が襲ってくる。だがここで眠る暇さえもなく、遥の存在確立が完了したことでコフィンの扉が開いた。フランスで浴びていた自然光とは全く異なる、人工照明の光が遥を貫いた。

 視線の先ではロマニとレオナルド、そしてコフィン担当職員のムニエルが立っていた。しかし彼らより先に、隣のコフィンから出てきた立香と目配せもせずに拳を打ち付け合う。

 

任務完了(ミッション・コンプリート)だな、立香」

 

 所要時間、およそ二日と半日。人理守護指定(グランド・オーダー)初の任務は、ここに幕を閉じた。




第一特異点〝邪竜百年戦争オルレアン〟修復完了(Order Complete)


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第23話 聖女と、魔女と

ちょっと短めです。


「……ちょっと待て。ロマン、聞き間違えちまったみたいだ。もう一度言ってもらえるか?」

 

 ここはカルデアの管制室。生き残った全てのスタッフが集結し、今や人類史を守る最前線と言っても過言ではない場所。そこに『人類最後のマスターたち』である遥と立香はいた。マシュを初めとする彼らのサーヴァントも集結している。

 余談だが。スタッフたちがふたりに付けた『人類最後のマスターたち』という称号は些か矛盾しているように思われるが、それは彼らが相棒(バディ)であることに由来するそうだ。有り体に言えばふたりでひとりといったところだろうか。

 そのマスターたちが管制室に呼ばれたのは他でもない。新たな特異点が発見されたからだ。だがロマニの口から聞かされた内容に遥は頭痛まで感じて頭を掻く。立香もそれには同意なのか、苦笑して遥の困惑に同調する。

 だがロマニ自身、その観測結果は頭を悩ませるものであった。故に遥の困惑は手に取るように分かる。だがここでロマニまでその困惑に同調していたのでは話が進まない。ロマニは乾いた笑みを漏らし、話を続けた。

 

「だから、新しく特異点が発見されたんだよ、()()()()。オマケにどっちも()()()()()()()()()()()()()()()()っていうんだから、ホント困っちゃうよねぇ」

「聞き間違えじゃなかった……世界の悪意が見えるようだぜ……」

 

 そう言葉を漏らして遥は頭を抱える。些か過剰すぎる反応(リアクション)のようにも思えるが、それも致し方あるまい。なにせ人理焼却の原因となっているもの以外の特異点の発生である。

 それが意味するところはつまり、特異点は際限なく増え続ける可能性があるということだ。それが黒幕が用意したものであるかは不明だが、聖杯という存在が人類史に存在する限り特異点は発生する。

 そもそも遥とて、人理修復に伴う微小特異点の発生を覚悟していなかった訳ではない。歪んだ歴史が元に戻るというのは言葉にすれば非常に簡単だが、実際起きているのは非常に大規模な事象の改変に等しい。何か齟齬が発生し、小さな特異点になるのはよく考えずとも分かる話だ。

 だがサーヴァント全員まで呼びつけての報告ともなれば、微小特異点の修復要請ではないのは明らかだ。人類史の歪みの程は知らないが、少なくとも〝邪竜百年戦争オルレアン〟と名付けられた特異点に比する規模の特異点が発生しているということなのだろう。

 折角第一特異点を修復したというのに立て続けに特異点が発見され、それも現時点では人理修復には関係がないという。だが特異点である以上、悪化すれば人理焼却に関係するものになるに違いない。なんて世知辛い世の中だ、と遥が嘆く。

 頭を抱えたまま呻く遥を放っておいて、立香がロマニに問う。

 

「それで、ロマン? 発見された特異点の詳細は?」

「冷静だね、立香君……まあいいや。冷静なのは良いことだ、うん。

 今回特定された特異点はさっきも言った通りふたつ。どちらも日本……それに、片方は場所だけなら冬木と同じ座標だ」

 

 また冬木か、と復活した遥が呟く。冬木市出身の身としては、自分の生まれ故郷でこれだけ異変が起きるというのは複雑な気分であった。聖杯が存在するという特異点化の条件を冬木市は満たしてしまっているのだから余計始末が悪い。

 だが完全に特異点Fの時と同じという訳ではなく、今回の座標はその10年前、すなわち1994年の冬木だ。つまり現在から22年前の冬木であり遥が生まれるよりも前だが、その時間軸で人類史に影響するような事件が起きたと聞いた覚えはない。――エミヤが眉根を曲げたことには誰も気づく者はいなかった。

 そしてもう一方は冬木市にほど近い都市だ。無論、こちらも人類史に影響を及ぼすような事件は確認されていない。その時間軸、そしてその座標で起きたらしい事件はあるにはあるが、それも人理が崩壊するようなものではない。

 年代と場所でおおよその概要が把握できたオルレアンとは異なり、場所と時間軸では全く概要が分からない。だが特異点であるなら、カルデアは修復しなければならない。

 

「ボクたちはこれらを〝変異特異点α〟、そして〝変異特異点β〟と呼称。君たちマスターの派遣を決定した。……こんなトコだね、今回の報告は」

「事前情報が少なすぎるな。フランスの時はすぐに百年戦争絡みだと分かったけど……」

 

 悩ましげに立香が言う。同じことを考えていた遥は無言で頷き、立香の言葉に同意を示した。事前情報から脅威度を把握しておかなければ作戦の立案はおろか、警戒しておくべきかすらも分からない。

 冬木なら特異点Fでのことがあるためある程度は何が起きても驚かないが、もう一方はそうではない。分かっている情報は場所と時間だけ。それでは何も分かっていないのと同じだ。

 第一特異点以上に何もかもが不明な状況に、3人が頭を悩ませる。だがその時、不意に発言を求めて手を挙げた者がいた。エミヤだ。エミヤはロマニに発言を求められると、カルデアスを見つめたまま口を開く。

 

「全てとはいかないが……冬木の方であれば多少は情報提供できるかも知れない」

「本当かい!?」

「ああ、本当だとも。これはあくまで私見だが……この特異点は私が生きていた世界に近いことが起きているのかも知れない」

 

 どういうことだ? と言う遥の問いに対し、エミヤはしばし黙考すると自分が覚えている限りのことを話し始めた。

 エミヤとて、全てを覚えている訳ではない。万全に機能を果たす召喚システムでのであればエミヤは長い年月で摩耗し、過去のことをほぼ全て忘れた状況で召喚されていただろう。だがカルデアの召喚システムの不完全性故か或いはアラヤの策略か、ここでの召喚に限りエミヤは他何人かの『エミヤ』の記録を持った状態で召喚されていた。

 そのため今のエミヤは自分が生きていた世界での第五次聖杯戦争のことは完全に記憶しているし、その後のことの若干ではあるが記憶していた。だがそんな状態でも、エミヤに分かることは限られていた。

 こちらの世界では2004年に初めて行われた聖杯戦争が、彼の生きていた世界線では5回行われている。1994年の冬木市は丁度、その4回目が行われた年代と合致していた。とはいえエミヤに分かることなどその年代と、それに付随するごく僅かな情報だけだが。

 しかし、こと今この状況においてはエミヤが持っている情報はこれ以上ないほどに有用な情報であった。なにせ彼がいなければ遥たちはその年代に別世界では聖杯戦争が起きていたことなど知り様もなかったのだから。

 エミヤの話を立香と遥はかなり冷静に聞いていたが、それとは対照的にロマニは先程の遥のような過剰極まるリアクションをする。

 

「待ってくれ、あんな大規模な魔術儀式を5回も行ってたってのかい!? それも同じ場所で!?」

「魔術協会と聖堂教会が協力して隠蔽工作を行っていたからな。少なくとも私が参加した第五次聖杯戦争では一般市民が巻き込まれることはあっても、情報が漏れることはなかった」

「成程。参加者の言葉なら納得だ」

 

 そもそも表面上は不干渉であっても水面下では常に殺し合いを続けているような二大組織が手を取りあって隠蔽をするということ自体が半ばあり得ないことではあるのだが、そんな衝撃は聖杯戦争という超弩級の衝撃の前では霞んでしまう。

 だが、聖杯と銘打たれたものであるのに聖堂教会が表立って動かないのが遥にとっては違和感だった。遥は旅をしていた時に何度か聖堂教会と魔術協会の抗争を目撃したが、後者はともかく前者は神秘の回収のためには街ひとつ滅ぼしてでも回収しようとする連中である。

 そんな彼らが動かないということは、その聖杯は『聖杯』と名付けられただけの願望器なのだろう。そもそも聖堂教会にとって真なる聖杯とはただひとつ。聖者の血を受けた杯だけである。これはそうではないということだ。

 

「じゃあその聖杯の回収がマスターの任務になる……ということかな?」

「いや、アレは回収できない。そもそも完成させることも御法度だ。何故ならアレは聖杯という名でありながら、その実態は大量殺戮装置……全人類を呪い殺す人類史上最悪の兵器なのだからな」

「――ッ!?」

 

 神妙な面持ちのエミヤが放った一言。それによってロマニたちはこの特異点の脅威度合いを引き上げた。仮にこの時代が特異点として完成してしまえば、間違いなく全人類が滅ぶ。事の重大さで言えば第一特異点の比ではなかろう。

 人類70億人の悉くを呪い殺すだけの呪詛の塊。遥たちはまだエミヤがその原因を伝えていないために原因を知り得ないが、結果は分かる。それが齎すものは間違いなく人類史の終焉。不用意に完成させ、這い出たものを止められなければカルデアが人類史を終わらせた大罪人になってしまう。

 クー・フーリンも第五次聖杯戦争には参加していたが、彼はそもそも起動した聖杯を見たことが無いためにそのことを知り得なかったようで、苦虫を嚙み潰したような表情をして「言峰の野郎……」と呟いていた。それをちらりと一瞥し、エミヤは話を続ける。

 完成すれば詰む。だがレイシフトしてすぐに吹き飛ばせば良いかというと、それは否だ。下手に吹き飛ばせば『中身』が溢れて全人類とはいかなくとも冬木くらいは滅びてもおかしくない。聖杯戦争直後ならともかく、聖杯戦争中はそれを維持していられるだけの魔力が満ちているのだから。

 最も確実かつ迅速に終わらせる方法は大聖杯を解体するか、あえて起動させて(かたち)を得た状態にまで持ち込み、それを大聖杯ごと吹き飛ばすかの二択。そこまで話をした時、遥が言葉を漏らす。

 

「どちらの方法を取るにせよ、聖杯戦争に参加する他ないってコトか、エミヤ?」

「その通りだ。正式な参加者としてか、協力者としてかは問わんがね。そして解決方法だが……危険ではあるが、私は後者をお勧めする。前者を執ろうとすると厄介な蟲が邪魔をしてくるだろうからな」

「蟲? なんじゃそりゃ」

 

 そう遥が素っ頓狂な声で問いを投げるも、エミヤは言葉を濁し、それに答えることはしなかった。多くの世界での『エミヤ』の集合体である彼にとって、間桐の怪翁〝間桐臓硯(マキリ・ゾォルケン)〟は思い出したくもないトラウマなのである。

 しかし後者はあくまでどさくさに紛れて臓硯が関わってくるより早くに大聖杯を吹き飛ばせる確率が高いというだけであって、臓硯が絶対に介入してこないという訳ではない。あの魔術師は個人ではさしたる脅威でもないが、彼が執る手段は悪辣極まりない。遭遇は避けるのが賢明だ。

 そこまで説明して、エミヤは話を終えた。この場で伝えるべきことは全て伝えた。彼は第四次聖杯戦争に参加している英霊を2騎ほど知っているが、特異点でも同じとは限らない。変に情報を吹き込んで戸惑わせるのは下策だった。

 発言を終えたエミヤが一歩下がり、それをロマニが引き継いだ。

 

「さて、今回発見されたふたつの特異点だけど……ボクはこれらを同時に攻略したいと考えている。どちらかに集中させている間に片方が取り返しのつかないことになっていてはマズいからね」

「それには賛成だが、振り分けはどうするんだ?」

「うん。それについてだけど、冬木の方は土地勘のある遥君に任せたい。そうなると必然的に変異特異点βは立香君ということになる。レイシフト予定はメディカルチェックとか色々考慮して4日後。……受けてもらえるかい?」

 

 ロマニの言葉にふたりのマスターは異論を差し挟むことなく、無言で頷きを返した。遥としては何も分かっていない変異特異点βに魔術師としては未熟な立香を送り込むのは気が進まなかったがサーヴァントを統べるマスターとしての力量は立香が上なのは明白。ならば安心だろう。

 レイシフト先とその日取りが決まった。ならば後はそれまでにするべきことを済ませるだけである。やるべきこと、とは言ってもフランスにレイシフトする前にしていたこととそう変わりはない。

 休息を取って身体と精神を休めるのは勿論のこと、新たなサーヴァントの召喚と立香の戦闘・魔術訓練。後は定例会議などか。ブリーフィングを終え、脳内で予定を反芻する。それに集中していたためか、遥は管制室の扉が開いたことに気付かなかった。

 そこから入ってきた人物とぶつかりそうになり、危ういところで遥はその存在に気付いて足を止めた。

 

「レオナルド、どうしてここに?」

「む。なんだい、私が来ちゃいけないかな? 一応私、スタッフのひとりなんだけど。

 ……とまあ、それは置いておくとして。頼まれていたものが完成したから届けにきたのさ。ホラ、これ」

 

 そう言ってレオナルドが遥に見せびらかすようにして掲げたのは横幅15㎝ほどの鼠色の細長いケースであった。それが何を意味するか気付いた遥は一言礼を言ってからそれを受け取り、そのまま立香に歩み寄る。

 不思議そうな表情の立香の前で遥はケースを開いてそこに入っていたものを取り出し、立香の顔の方に持っていく。直後、立香の視界が僅かに変わり、同時に小さな重みを感じた。

 無意識のうちにそれに手を遣り、立香はそれを確認する。眼の辺りに取り付けられたレンズと、金属のフレーム。間違いなく眼鏡だった。

 

「おお、結構似合ってんじゃねぇか。なぁ、マシュ?」

「はい。ハルさんの言う通りです。とってもお似合いですよ、先輩」

「あ、ありがとう。……でも、なんで眼鏡? オレ、眼はいい方なんだけど……」

 

 立香の視力は両目共にA。それはカルデアで起こなわれたメディカルチェックの結果でも証明されている。ならば何故遥は自分用の眼鏡をダヴィンチに作らせたのか。そう問おうとした立香はしかし、いつもと何かが違うことに気付いて口を噤んだ。

 すこし考えて、気付く。いつもより脳が認識する情報量が少ない。とはいえそれは何か感覚が欠損した訳ではなく、むしろ正常に戻ったといったところか。つまりは『魔眼』からの情報がなくなっているのだ。

 立香の魔眼はかなり強力なもので、抑えていても多少は機能してしまうものであった。だがその機能が完璧に抑えられている。困惑する立香に、胸を張ってレオナルドが解説を始めた。

 

「それはこの私特製の〝魔眼殺し〟の眼鏡さ! 君が熟練した魔術師か、それをよく使ってれば完全に抑制することもできるんだろうけど、そうではないからね。でもそれがあれば安心だ。効果は保証するよ。なんたって、この万能の天才の作品だからね!」

 

 正式な魔術師ではない立香にはそれがどの程度のことかは分からないが、しかし物心ついてからこれまで立香の悩みの種にもなっていたそれを抑制できるのは彼自身、嬉しいことであった。

 一度魔眼殺しの眼鏡を外し、よく見分する。フレームの色は黒。デザインはマシュのものと似ているが、彼女のそれとは違いフレームはレンズの上側にしか付いていない。加えてできる限り軽く作られており、動きを阻害しないようになっていた。

 不意に「マシュと同じかぁ」と内心で言葉を漏らし、気付いてから慌ててその思いを打ち消す。マシュと同じく眼鏡を掛けることになったからなんだというのか。そもそも用途が視力補正と魔眼抑制では大きく異なるし、デザインも違っている。同じと言うには遠い。

 そうやって慌てた自分を落ち着けている立香を見て、遥が揶揄うような笑みを浮かべた。だが遥は何も言わず、一度遥の肩を叩いてから手を打ち合わせる。

 

「じゃあ一端ブリーフィングは終わり。解散しようか」

 

 遥の言葉に異を唱える者はなく、今回のブリーフィングは終わった。

 

 

 

 午前中に行われたブリーフィングから数時間。マスターたちはカルデアの中でも際立って特殊な部屋、カルデアの生命線と言っても過言ではない英霊召喚システムが備えられた部屋にいた。

 彼らがその部屋にいるのは勿論、新しくサーヴァントを召喚するためである。既に部屋の中央にはマシュの盾が設置され、起動したシステムに応えて壁に奔った回路が光を放っていた。

 今回の特異点攻略で回収できた聖晶石の数は6つ。立香たちが持っていたものも含めれば聖晶石は合計9つで、サーヴァントを3騎召喚するには十分な数が揃っていた。だが今回の召喚でそれらを使いきってしまうようなことはせず、彼らは1騎ずつ召喚するつもりでいた。

 特異点のサーヴァントたちから稀に回収できるとはいえ、聖晶石は補給も容易でない貴重な物資だ。それにいくつかを残しておけば緊急時での対応策が増えるということもあって、遥たちは1騎分の聖晶石を残しておくことにしたのだ。

 前回の英霊召喚では緊張していた立香も一度経験して慣れたのか、今回は平気そうにしている。それを安心した面持ちで見て、遥は口を開いた。

 

「どうする、立香? 先に召喚するか?」

「うん。じゃあ、そうしようかな。……ところでドクターは?」

「仕事から手が離せないんだとよ」

 

 前回の召喚ではシステムを動かす役目を担っていたロマニだが、今回は特異点修復に伴う諸々の仕事から手が離せずにこの場には来ていなかった。とはいえ、ロマニがいなければシステムが動かない訳ではない。

 深呼吸をして、マシュの盾の前に立つ。マスター敵性を持つ魔術師を認識したシステムが術式に魔力を通し、マシュの盾から魔法陣が浮かび上がった。消去の中に退去の陣を描き、その陣を4つ刻んで召喚の陣で囲む。英霊召喚のための魔法陣だ。

 術式起動の式句は既に頭に叩き込んできた。一度感じて慣れたと思っていたが、やはり英霊を召喚するというのは気軽にできるものではない。なにせ歴史に名を刻んだ英雄を呼び出すのである。それを軽い気持ちで行えるとしたら、それは相当に色々と割り切った魔術師か少々感性のズレた人間であろう。

 紅い色の文様、膨大な魔力の結晶体であり、マスターの証でもある令呪が浮かんだ右手を掲げる。数瞬の後、立香は詠唱を始めた。

 

「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。

 降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。

 閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)

 繰り返すつどに五度。ただ満たされる時を破却する」

 

 魔術師としては未熟もいい所の立香にはその詠唱が意味するところは分からない。恐らく真にこの詠唱の意味が分かるのは英霊召喚の術式を考案した者のみであろう。

 だが、自分がこれから何度か繰り返して行うであろうこの儀式が魔術世界においても滅多に行われない大規模なものであることは感覚で理解できた。召喚システムと接続された立香の魔術回路は限界に近い速度で駆動し、全身を魔力が巡る異物感が立香を苛む。

 立香は魔術師の家系の生まれではないどころか、つい数日前に魔術の存在を知った程度の素人だ。故に魔術刻印を持ち合わせず、魔術回路が限界を越えて動くこともない。だが、これまでの人生で味わったことのない類の痛みは耐え難く、立香が顔を顰めた。

 彼のそんな様子を知ってか知らずか、英霊召喚術式は滞りなく進み、容赦なく立香から魔力を吸い上げる。知らず、詠唱に力が籠る。

 

「――告げる!

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に!

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!

 誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者!

 汝三大の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――!!!」

 

 詠唱が終わり、召喚陣から噴き出す魔力が一際強さを増した。溢れる魔力とエーテルの突風は部屋の中を蹂躙し、魔力が吸い上げられる感覚が途切れたことで立香がよろめく。しかし、膝は突かなかった。

 この場は戦場ではないとはいえ、自分を呼び出した契約者(マスター)が初めて見た時から膝を突いていたのではサーヴァントも不満であろう。それに、立香は個人的な考えから膝を突くことはできなかった。

 詠唱終了と同時に膨れ上がった光が弱まり、ようやくその内側見えるようになった時、そこにいた人影を見た立香が息を呑んだ。そこにいたのは長い金髪を三つ編みにし、鎧を着込み、旗を携えた女性。穢れのないその蒼い瞳は慈愛と勇気を湛え、纏う雰囲気だけで周囲にいる者を奮い立たせる。

 覚えのあるその姿に驚愕の表情を浮かべた立香であったが、すぐにその表情は複雑な感情が現れたものへと変わった。対するサーヴァントは様子を変えず、笑みを浮かべたままマスターたる立香を見つめていた。

 

「サーヴァント・ジャンヌ・ダルク。ルーラーの名に懸け、我が旗を貴方に預けましょう。

 ――――また会えましたね、立香、遥」

「ああ……そうだね、ジャンヌ」

 

 立香の召喚に応え、限界したサーヴァント、ジャンヌ・ダルク。その姿を見咎めた瞬間、遥は口の端に笑みを覗かせた。

 特異点で別れた際にジャンヌは「また会えます」と言ったが、まさかこれほど早くに再会できるとは思っていなかった。立香と関わり、縁を結んだサーヴァントはジャンヌだけではないのだから。

 或いはそれは立香と共に戦いたいという思いが最も強かったからかも知れない。遥と行動している時以外でのジャンヌのことを遥は知らないが、遥がいない間にふたりは相当に強固な信頼を築いたようだった。

 再会を喜ぶ立香とジャンヌを横目に、遥もまた召喚を開始するためにマシュの盾の目の前に立った。システムがクールタイムを終え、遥を認識したことで待機状態へと移行する。そして盾に聖晶石を置くと、遥もまた詠唱を始めた。

 立香が唱えたものと同じ、英霊召喚の術式。しかし遥はその一節目に別な術式を差し込んだ。唱えたところで特に意味はないが、遥にとっては大きな意味を持つ詠唱だ。しかし召喚に伴う魔力の高まりで発生した音に邪魔され、立香は「祖には我が先祖――」以降を聞き取ることができなかった。

 全身の魔術刻印が魔術回路を後押しし、遥をして御しきれない魔力が彼の身体から溢れる。盾の輪郭をなぞるように回転する光帯からは金色に輝く膨大なエーテルが漏れ出ていた。そして魔力が最大限に高まった瞬間に光帯が弾け、遥たちの視界を一瞬奪う。

 そうして光が収まり、現れたサーヴァントの姿を認めた立香とジャンヌが共に驚愕に息を呑む。だが遥はそれとは対照的に可笑しさが抑えきれないといった様子で邪悪さすらも感じさせる笑声を漏らした。

 その身体から放たれる魔力はジャンヌとは真逆。周囲にいる者たちへ暴力的なまでの威圧感を植え付けるに十分な密度の魔力であった。血の気が感じられない白磁のような肌に、漆黒の鎧が映える。手に執る旗は邪竜の紋章が描かれている。

 そして、召喚されたサーヴァントは拳を遥へと付きつけた。――丁度、遥に貫かれたのと同じその場所を。

 

「サーヴァント・()()()()()()()。召喚に応じ、参上しました。

 ――さぁ、我が同士よ。クソッタレな悪逆の物語(ピカレスク)を、共に作り上げましょう?」




今後この小説では特に断りのない限り、
アルトリア・オルタ→アルトリア
ジャンヌ・ダルク→ジャンヌ
ジャンヌ・オルタ→オルタ
と表記させていただきます。

遥の召喚に応じたのはオルタ。遥のサーヴァント金枠しかいないじゃんとかは言わないで。
因みに、他にはジークフリートやデオン、サンソン、アタランテ、清姫、ゲオル先生あたりが応じようとしたっぽい。オルタはそれを押しのけて出てきた。霊核を貫かれたからね、仕方ないね。

次章
遥側
変異特異点『第四次異聞録 冬木』改め
変異特異点α『聖杯夢想都市 冬木』

 エルメロイⅡ世は勿論おらず、ほぼ事前情報なしの第四次聖杯戦争。

立香側
変異特異点『克螺旋境界式 オガワハイム』改め
変異特異点β『太極具現死界 ゲヘナ』

 難易度的にはオルレアンとそう変わらず、しかし屋上階だけが異常難易度。原作とは状況が違うので結構な仕様変更。

 同時進行なので立香側はあまり書かれませんが、半オリ鯖化したサーヴァントが登場予定。最終決戦はちゃんと書きます。


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変異特異点α 聖杯夢想都市冬木/変異特異点β 太極具現死界ゲヘナ
第24話 第四次聖杯戦争、開幕


「さて、今一度今回の任務について確認しておこうか」

 

 特異点Fより10年前の冬木市、第四次聖杯戦争を原因とすると見られる変異特異点αへのレイシフト当日、遥がマスター兼チームリーダーを務める特異点α攻略班、通称〝α班〟は遥の自室へと集っていた。

 ブリーフィングの口火を切ったのはエミヤ。今のところ、冬木での聖杯戦争について最も既知しているのは彼だ。遥も冬木市出身ではあるが、そもそもこの世界の正史であれば聖杯戦争は1度しか行われていない。

 だが全く知らないかと問われれば、それは否だ。こうして英霊たちと共に過ごしてようやく分かった。遥の両親が死んだ日、夜桜の邸宅に残っていたのはサーヴァントの残り香だった。遥の両親は間違いなく聖杯戦争に関わり、そして英霊に殺された。

 だからといって英霊全てを憎むほど遥は分別のない男ではない。それに、元より魔術師であれば死を覚悟しているものだ。殺し殺されなどというのは日常茶飯事。憎むほどのことでもない。――果たして、殺した相手を目の前にしてそう言えるかは不明だが。

 ただ、両親が死んだ原因ともなった聖杯戦争という大魔術儀式に自分が介入するというのは些か気負ってしまう。遥の両親と遥では比較にならないほど遥の方が優れているが、それでも思うところはある。

 しかしそんなことはおくびにも出さず、遥は自宅から運ばせたゲーミングチェアに腰かけてエミヤを見ている。女性3人もまた、それぞれベッドに座ってエミヤの言葉を待っていた。

 

「今回のミッションにおける我々の最終目標は聖杯戦争の根幹を成す願望器〝大聖杯〟の破壊だ。その方法として、聖杯戦争に介入するのが最も確実で手っ取り早いのだが、ここでひとつ問題が発生する。それが……」

「サーヴァントとの契約数、だな」

 

 エミヤの話に割り込むようにして遥が放った一言に、エミヤは無言で首肯した。

 立香と遥はカルデアの召喚システムでサーヴァントと契約をしているため、カルデアに限界が来ないうちは契約数に限界はない。現にふたりはそれぞれ4騎と契約を結んでいるのだから。

 だが、聖杯戦争においてはそうではない。聖杯戦争は7組のマスターとサーヴァントによる殺し合いであるが故に、ひとりの魔術師に対して契約可能であるのは1騎だけだ。聖杯戦争に介入するというのなら、遥もこれを守らねばならない。

 だからといって4騎のうちから1騎を選び、3騎をカルデアに置いておくのではない。霊体化さえしていれば気配遮断など遥の魔術でどうにでもなる。余程直感の強い英霊がいるか透視能力でもなければ見破られることはまずない。

 しかし、だ、とエミヤが続ける。

 

「絶対に隠しきれるという訳ではない。聖堂教会から派遣される監督役が持つ霊器盤はどのクラスのサーヴァントが召喚されたか、そして脱落したかを詳らかにする機能がある。

 加えて、アインツベルンが鋳造する小聖杯の担い手もまた何騎の英霊が脱落したかを把握することができる。こちらはクラスを特定するまでの機能はないがね」

「つまり聖堂教会の連中に遭遇せず、アインツベルンにはバレないように立ち回る必要があるってコトか。……なぁ、その聖杯の担い手とやらを殺したら、どうなる?」

 

 遥は事前にエミヤから冬木式の聖杯戦争のシステムを聞き及んでいた。曰く、脱落したサーヴァントの魂は直接座に還ったり大聖杯にくべられるのではなく、まずは小聖杯という端末に蓄えられるらしい。

 ならば事前に小聖杯を保有する聖杯の担い手を殺しておけばサーヴァントの魂は現世に留まらず、座に還るのではないか。その疑問をぶつけられたエミヤが表情を曇らせる。

 

「分からん。確実性がない方法は避けるべきだ。……それに、個人的な感情として、殺してほしくはない」

「? ……まぁお前がそう言うなら。俺としてもあまり殺生はしたくないからな」

 

 いつも冷静で自分の感情から主張することがないエミヤが個人的な感情で物を言うことに遥は何か引っかかるものがあったが、遥としても無用に敵マスターを殺すのはさすがに避けたかった。無論、誰かに頼まれなければ致し方ない時は割り切ってしまうが。

 遥は人の命を無用に消していく人間や殺人に快楽を見出す人間、今まで出会った者であれば狂った後のジル・ド・レェのような人間が心底嫌いだ。故に遥は魔術師だが一般人に犠牲を求めるようなことはしない。この点だけで言えば、遥は比較的一般人に近い正常な倫理観を持つと言えるだろう。

 だが、それとは逆に相手が魔術師や死徒、兵士といった〝死を観念している者〟であれば遥は容赦なく命を奪うという一面もあった。いくらまともな感性を持っているとはいえ、遥は魔術師だ。その心構えをしておくのは当然のことである。

 しかし仲間の頼みを無視してまで誰かを殺すような趣味は遥にはなかった。遥としても相手を皆殺しにしてでも勝利するというのは信条に反することである。敵対魔術師の虐殺など、遥が嫌う魔術師と同じになってしまうではないか。

 遥が疑問を差し挟んだことで、議論が一端停滞する。どこから話を再開すべきは考えあぐねたエミヤであったが、それはひとりが手を挙げたことで解決された。オルタだ。

 

「質問なんだけど。そもそもその大聖杯ってのはなんでそんな物騒な代物になってるのよ」

「確かに。万能の願望器って触れ込みで魔術師に知られてるなら、元はそうだったんだろ?」

 

 いくら第四次聖杯戦争の時点では全人類を呪い殺す呪殺兵器と化しているとはいえ、元からそんなものなのである筈がない。さもなくば何者かにばれて対策が取られているだろう。そもそもそんな大掛かりな仕組みを作ってまで人類抹殺を計る輩がいる筈もない。それがオルタと遥の意見であった。

 実際、ふたりの考えは的を射ていた。いかな大聖杯とて、最初から人を殺すという過程を経ることでしか願いを叶えられないというものであった訳ではない。エミヤは「確定情報ではないが」と前置きを入れてからふたりの問いに答える。

 大聖杯が歪んでしまったのは第三次聖杯戦争の折、アインツベルンがルール違反により特殊な英霊、もとい神霊を召喚しようとしたことに端を発する。その名は『この世全ての悪(アンリマユ)』。だがアインツベルンが望むものは現れず、現れたのは魔術の存在すらも知らない、この世全ての悪の名前だけを与えられた青年だった。英霊でも神霊でもない、怨霊の類ではあるが。

 当然そんなものが聖杯戦争を勝ち抜くことができる筈もなく、アインツベルンは早期に敗退した。だが、そうして聖杯にくべられたこの世全ての悪は在り方自体が非常に聖杯と相性が良く、そのまま大聖杯は汚染されてしまったという話である。無論エミヤが経験した話ではなく聞いた話だ。エミヤの記録にあるのは神霊クラスにまで肥大化し、呪殺兵器として完全な容を成した後のこの世全ての悪だけである。

 エミヤの答えを聞いた遥は顎に手を遣ってしばらく思案すると、ゲーミングチェアから立ち上がった。

 

「成程。じゃあやっぱり立香じゃなくて俺が適任だったな。大丈夫だ。仮にこの世全ての悪が完全覚醒したとしても、叢雲さえあれば俺は勝てる」

「随分な自信だな。何か策があるのか?」

 

 エミヤが遥に問いを投げるも、遥は何か企んだような笑みをするだけであった。そうして遥が開けたクローゼットの中から出てきたものは部屋の照明を受けて黒光りする多くの銃器。全て遥のものだ。

 ただのハンドガンから短機関銃、普通の狙撃銃から対物ライフルまで多くの種類が揃っている。その全てが対神秘・対霊体加工を施されている。つまりは魔術師との戦闘における礼装であった。

 遥はそのうちから携行しやすい短機関銃を一挺取り出し、ベルトに取り付けたホルスターへと突っ込んだ。これから臨むのは聖杯戦争。であれば魔術師と戦闘することもあるだろうが、相手が英霊ならともかく魔術師相手においそれと宝具を使う訳にもいかないだろう。

 加えて、魔術師というものは近代兵器を蔑む傾向にある。近代兵器の有用性を認識せず、魔術こそ至高と尊ぶのだ。故に彼らは近代兵器への対策などしておらず、そこに付け入る隙がある。遥自身は意識していないがそれは彼の〝魔術師殺し〟の理論と同じであった。

 魔術師であるのに魔術だけに頼るのではなく、彼らの隙と慢心に付け入るために兵器を使用する。時計塔の君主(ロード)たちからしてみれば悪辣極まるのだろうが、遥からしてみれば彼らの方が愚かだった。目の前に使える手段があるというのに、どうして無用なプライドのためにそれを棄てるのか。プライドで明日の食事が保証される訳でもあるまいに。

 腰回りに装備しているのは〝デザートイーグル・カスタム〟と〝S&W M500・カスタム〟、そして〝キャレコM950・カスタム〟。それとその弾倉。身に帯びていける装備が全てあることを確認すると、遥はサーヴァントたちの方に向き直った。その視線の先にいるのはオルタだ。

 

「今回のミッションではオルタ、主にお前に戦ってほしい」

「私? いいわよ。やってやろうじゃないの」

 

 遥から直接指名されたオルタが好戦的な笑みを浮かべ、隣に座っていた沖田は遥に向けて多少不満そうな視線を向けた。確かに説明がなければ何故遥がオルタを指名したのか分かるまい。それに、オルタは元々敵だ。納得できないのも無理からぬことであろう。

 だが、遥の判断にも理由がある。エミヤ曰く大聖杯は元々西洋で作られたものであるために、ルール違反を犯さない限り日本の英霊は召喚できないらしい。この時点で沖田とタマモは表立って運用することはできない。

 残っているのはエミヤとオルタだが、第四次聖杯戦争のアーチャーは成り替わるにしても容易には打倒することはできないらしい。相性的にはエミヤが上手だが、本気を出した第四次のアーチャーには勝てない。それどころか全員が纏まって戦ったとして、勝てるかどうかも怪しい。

 よって遥が表立って使役できるのはオルタだけだ。オルタは一応は西洋の英霊であることに加え、例外的(エクストラ)クラスであるため最悪〝例外的に召喚された8騎目〟と無理矢理押し通すこともできる。

 遥がそれを説明すると、何故かオルタは沖田に向けて勝ち誇るような笑みを向け、沖田は悔しそうな表情を浮かべた。そんなふたりを一瞥してから全員に言う。

 

「そろそろレイシフト予定時間だ。行こうか」

「了解した。……その、なんだろうな。兎に角、君は私のようにはなるなよ?」

「? ……何の話だ?」

 

 何のことか分からずに遥が問い返すも、エミヤは言葉を濁してはっきり言おうとしない。エミヤの過去について遥はあまり知らないが、何か共通するところがあるのだろうか、と遥は首を傾げた。

 思えば、英霊エミヤというのは少々特殊な英霊だ。他のサーヴァントたちのように何らかの功績を遺したことで英雄視されサーヴァントになった訳ではなくアラヤと契約し、守護者という形で英霊になったことがその最たるものだ。

 しかし彼が何であれ、近代の生まれであるエミヤは他のサーヴァントたちより感性が比較的近いが故、遥にとっては最も付き合い易い英霊であった。遥はサーヴァントのことを下僕ではなく仲間と捉えているが、エミヤはそれだけでなく友人と言ってもいいかも知れない。

 特に何の感慨を抱くでもなくそんなことを思いながら管制室へと繋がる廊下を歩いていると、立香たち変異特異点βへのレイシフトメンバー、通称〝β班〟のレイシフトが完了したことを告げるアナウンスが流れた。その直後に遥もまた管制室へと足を踏み入れる。

 立香の変異特異点βへのレイシフトを見送ったロマニとレオナルドが遥たちの存在に気付いて振り返った。ロマニはいつものようになんとか疲労を誤魔化しているようだが、今回は何故かレオナルドまでも明らかに憔悴しているようだった。

 

「やあ、遥君。おはよう。その様子だと、もうレイシフトの準備はできてるみたいだね?」

「当然。……ところで、レオナルド。頼んでおいたものはできてるか?」

「勿論だよ。遥君も人使い……いや、サーヴァント使いが荒いよね。いくら君も手伝ったとはいえ、まさかあんなものを3日で仕上げろなんて言うとは思わなかったよ」

 

 疲労の色を隠そうともせずそう言うレオナルドに、遥は謝罪と感謝の言葉を口にしながら苦笑した。しかしレオナルド自身、遥の注文したものは嬉々として製作していたのだから、本気で文句を言っていた訳ではないのだろう。

 今まで攻略したふたつの特異点とは異なり、今回の特異点は現代の都市だ。場所は深山町と新都だけとはいえ、このふたつの街の面積を合計するとそれなりの広さになる。これを徒歩で移動していたのでは時間がかかりすぎる。オルタに抱えられたリ、魔術で速力を強化するのは論外だ。

 そのため、遥はレオナルドに街中での移動手段となる乗り物の作成、もとい改造を依頼していた。幸い、素体となるバイクについては遥が使っていたものをカルデアに運ばせていたため、たった3日で一から建造する必要性はなかった。

 とはいえバイクのような巨大なものまで一度にレイシフトできる訳はない。改造バイクは他の補給物資と共に受け取ることになる。勿論、免許証についてはレオナルドに偽物とはばれない本物に近いものを作ってもらっている。遥が持っている免許証では年代が合わないのだ。

 尚、オルレアンではカルデアから補給物資を受け取るための召喚サークルとしてマシュの盾を使用していたが、今回マシュはいない。そのため安定はしないが一応はカルデアと繋がる召喚陣を自分で敷設しなければならないのだが、それについては心配なかろう。

 だが遥がそのようなことを言うと、ロマニが不安そうな言葉を漏らした。

 

「でも、冬木の地脈はトオサカの管轄なんだよね? 大丈夫なのかい?」

「俺を舐めるなよ、ロマン? 故郷の地脈を保護する術式くらい把握してる。介入くらい造作もねぇ」

 

 その気になれば要石から術式を操作し、一時的に乗っ取ることもできる。ひとつの街の保護術式を乗っ取るというと大層なことにも聞こえるが、遥や時計塔の問題児〝フラット・エスカルドス〟ほどの技量があれば不可能な話ではない。

 彼らがそんな話をしている間にスタッフたちはレイシフトの座標を変異特異点βから変異特異点αに設定し直したようで、レイシフト準備が完了した旨のアナウンスが流れた。一時の別れの挨拶をロマニとレオナルドに告げ、遥がコフィンに乗り込む。

 特異点へのレイシフトもこれで3度目となる。そろそろこのレイシフト前の感覚やコフィン内部の狭苦しい空間にも慣れてきていたが、それでも肌に感じる高揚感にも似た緊張感は拭えなかった。或いはそれは2度目の冬木へのレイシフトであるからなのかも知れない。

 目を瞑る。コフィンの中で存在があやふやになっているからか、まるで暗闇の中に浮いているかのような感覚が遥を包む。その直後、聞き覚えのある音声が流れた。

 

――アンサモンプログラム、スタート。

 

  霊子変換を開始します。

 

  レイシフト開始まで、あと3、2、1……

 

  全行程完了(クリア)

 

 

 

  グランドオーダー、実証を開始します。

 

 一瞬の浮遊感。それに続いて襲ってきたのは全身がひどくかきまぜられるような感覚だった。言うなればそれ自体が回転している遠心分離機の中に突っ込まれたかのような、ひどく酔いを誘う感覚。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに閉じた瞼の向こう側からカルデア感じない類の柔らかな光が差し込んでくる。僅かなまぶしさを感じてゆっくりと瞼をあげれば、そこには遥が見慣れた街並み、その少し昔の景色があった。

 遥が現れたのは冬木大橋の袂、その深山町側だった。時間帯はカルデアでレイシフトした際とそう変わらないようで、冬の午前中特有の冷たい風が遥の頬を撫でる。だが礼装の耐寒機能によるものか、さして寒さは感じなかった。

 1994年の冬木市。年代的に自分が生まれるより前であるためか、不思議と戻ってきたという感覚はなかった。だが真冬であるというのに雪とは無縁な光景も、冬木大橋の直下を流れる未遠川の様子も、遥の記憶にあるものとさしたる違いはない。

 奇妙な感覚だった。久しぶりに見た自分の故郷だというのに、まるでそれと似た別な街を眺めているような、それでいて望郷の念だけが満たされていく。だが遥は矛盾の塊のようなその感覚を早々に切り捨てると、思考を切り替えた。

 先だってすべきことは召喚サークルの確立と拠点の確保だ。特に前者は現地での物資調達でもどうにかなるが、後者はそうではない。ホテルなどを確保しておかなければアサシンによる奇襲の危険がある屋外で野宿ということになってしまう。いくら数のうえでは相手の4倍の戦力があるとはいえ、できる限り此方の戦力の露呈は避けたかった。

 傍らに現れた霊体化したサーヴァントたちに一息で気配遮断、正確には気配封印の魔術を掛ける。いかなサーヴァントの気配とはいえ霊体化して抑えているうえから封印しておけばある程度は隠しておくことができる。そうして旨く掛かったことを確認すると、遥は念話を送った。

 

『エミヤ。周囲にサーヴァントの気配は?』

『今のところ感じられないな。だがアサシンが潜んでいるのでは私たちでは分からない。昼時に襲撃を仕掛けてくることはないと思うが、十分に気をつけろ』

 

 アサシンクラスのクラススキル〝気配遮断〟がどれだけ脅威であるのかはオルレアンのリヨンの街で身を以て体感している。あの時は敵のアサシンがわざわざ出てきたために対処できたが、何度もそう上手くいくとは思えない。

 仮にアサシンが見張っていたとしても遥がサーヴァントを従えるマスターであるとは見抜かれていない筈だが、レイシフトという目立つことこの上ない手段で突入してきたのだから見つかっていてもおかしくはない。夜になれば襲撃を仕掛けてくることは十分に考えられた。

 だがその時のために気配を消して複数騎のサーヴァントを連れているのである。加えて遥の直感の強さと反応速度であれば瞬時に首を刎ねられるということはない筈だ。姿さえ見えてしまえば近接戦闘に不得手なアサシンは消すこともできる。

 現状、遥がマスターであることが露呈していない状況下では最大の脅威であるのはアサシンだろう。夜になれば遥もまたマスターのひとりとして動くことになろう。そうなれば趨勢も変わってくる。

 

『取り敢えず、今夜の宿を確保しなきゃな。新都に移動しよう』

 

 それに異論を唱える者はいない。周囲への警戒をサーヴァントたちに任せ、遥は新都へ向けて歩き出した。

 

 

 

 

 遥が生きている時代から20年以上前の新都は、当然ながら遥が記憶している新都の状態とは些か異なっていた。遥の記憶にある新都は十分に開発計画が進み、地方中枢都市もさながらの状態であるがこの時代はまだ開発計画の途中だった。

 とはいえ、他の都市に比べれば発展しているのも事実である。新都駅前の商店街には駅前ということもあって多くの人が行き交い、大いに活気づいている。当然のことだが、遥が知っている店もあった。

 今一度見てみると、こんな都市で魔術師同士の殺し合いが行われるとはすぐには信じられない。大概の魔術師が騒動を起こすのは活気のない街や過疎地帯、離島など魔術協会や聖堂教会の手が及びにくい場所が定石なのだが、この街はそうではない。

 改めて、魔術師という存在の異常性を認識する。いくら魔術協会と聖堂教会という二大組織が隠蔽しているとはいえ、このような市街の中を戦略兵器級の武装を持つ超人たちが闊歩しているのだから。他ならぬ遥もまたそのひとりなのだが。

 駅前の商店街。その途中にあるベンチに座って好物の大判焼きを頬張りながら遥はそう思案する。変わっていく街並みと今夜起きる戦争を思うと、この大判焼きだけが安心を齎してくれた。やはり食事こそ至高の文明、と遥がひとりごちる。

 既に日は沈み、商店街には駅から来たのであろう仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生たちが行き交っている。その中でひとり買い食いをしている遥は断じて特異点攻略を放棄している訳ではなく、何か手がかりになるものがないかとホテルから出歩いている最中であった。

 この特異点にレイシフトしてからの最優先事項であった拠点となる宿の確保は既に済ませた。後は状況が動き出すのを待つばかりである。この時代と戦争にとって異分子である遥たちは、基本的に後手に回ることしかできない。手掛かりとは事象の後に発生するものだ。

 どうにもならない状況に遥が溜息を吐く。その時、傍らで誰かが足を止めた。そして放たれた鈴を転がすような声は念話ではなく、確かな実体を持った音として遥の耳に届く。

 

「なに溜息なんて吐いてるのよ。辛気臭いわね」

「ああ、オルタ。戻ったか」

 

 遥の傍らで足を止めたのは実体化したオルタであった。但しその姿はいつもの漆黒の鎧姿ではなく、黒づくめだがどこか制服のような雰囲気のある現代風の服装である。

 黒いシャツの上にブレザー風の上着を羽織っている。冬であるのにホットパンツではあるが、それが厚手のハイソックスを相まってオルタの血色が悪くも健康的な脚を不思議と引き立てていた。

 露出は少なめだがその分露出している部分がほどほどに扇情的にも見える。実際、先程オルタがブティックから出てきた後から男女の区別なくそれなりに多くの視線が向けられていた。

 この現代風の服装はオルタが聖杯戦争に参加するうえにおいて昼間も活動することを考えて遥が選んだものだ。身長182cmもある男が女性の服を選んでいるのには不審なものを見る眼で見られたが、贈り物ということで無理矢理押し通した。

 オルタが戻ってきたためベンチから立ち上がり、大判焼きの入った紙袋を抱え、頬張りながらこれからの行動を思案する。自分の服装について全く無反応な遥に、オルタが不満そうな表情を浮かべた。

 

「ねぇ遥? 何か私に言うことない? ホラ、あるでしょ? 例えばこの服についてとか」

「服……? いやまぁ、似合ってるとは思うけど」

「そうでしょう、そうでしょう。まあ、私だし? 当然よね」

 

 そう言いながら、遥に背を向けてどこかを見遣るオルタ。そのため遥からオルタの表情は見えなかったが、霊体化している他のサーヴァントたちからはしっかりと赤くなっているところを見られていた。

 似合っている、というのは別に社交辞令などではなく遥の本心ではあった。恐らくジャンヌに着せても似合うだろうが、オルタが着るとまるで無理に着崩している女学生めいた雰囲気があった。

 しかしだからといって本人に言うほどのことでもないと思っていたのだが、オルタとしてはそれを言われたかったらしかった。女性とまともに接した経験が少なすぎるが故の弊害と言えるだろう。

 

(この人、ちょろいですね)

(オルタさん、ちょろすぎですね……)

 

 全く同じことを沖田とタマモが同時に内心で呟く。そうは言うが、ふたりともオルタの気持ちが理解できない訳ではなかった。誰だって服が似合っていると言われて悪い気はしないものであろう。

 照れ隠しからオルタが無言で乱暴に遥の持つ紙袋から大判焼きをひとつ奪い取った。人理焼却中はなかなかありつけない好物がひとつ取られたことで遥が残念そうな表情を浮かべるが、まだあと10個は残っている。

 陽は沈み、空では暗闇の中で月と星が浮かんでいた。商店街は多くの人がいるが、港やコンビナートはそうではあるまい。そろそろサーヴァント戦にはおあつらえ向きの場所ができあがっている頃だろう。

 ずっとこの場所に留まっていても仕方がない。そう考えオルタに移動を提案しようとした時、遥たちはこの場所からそう遠くない場所で膨大な魔力を内包するものが自動車を越える速度で移動する気配を感じた。反射的に遥は商店街のうえで監視していたエミヤに念話を飛ばす。

 

『何か見えるか、エミヤ』

『私に訊かずとも分かるだろう? サーヴァントが1騎、港の方に向けて走っている。あれは……ランサーだな。どうする、遥。誘われているぞ?』

 

 エミヤの言う通りだ。これだけあからさまに気配を放出して街中を駆けているというのは、見境なく戦闘の誘いをかけていると見て間違いない。恐らくクラスは直接戦闘を得意とするセイバーかランサー、ライダーのどれかだろう。

 数時間歩き回ってようやく見つけることができた手掛かりである。簡単に逃す訳にはいかなかった。相手が直接戦闘向きのクラスであっても、ルーラーとして限界していた時に己に剣術の心得を刷り込み、正式なサーヴァントとしての霊基を得た今のオルタはそれらに引けを取らない力を有する。

 加えて、本気を出せば遥も彼らと渡り合うことができる。これが現代であれば封印指定は逃れられないが、特異点では封印指定されたところで恐れるに足りない。とはいえ、虎の子を初戦で見せる訳にもいくまい。遥は敵マスターとの魔術戦になるだろう。

 オルタに視線を遣れば、好戦的な笑みを浮かべたままに肩を竦めた。言葉には出していないが、それだけでオルタがいつ戦闘になってもいいように臨戦態勢に入っていることが分かる。

 遥が片頬を吊り上げる。遥自身も戦闘態勢に入り、サーヴァントもまたいつ戦闘になってもいいようにしている。ならば戦いを忌避する理由はない。どうせいつかは戦うことになるのだ。ならばこの誘いに乗ってやるのも悪くはない。

 遥は何も言わないがその表情と纏う空気感からその意思を察したのか、踵を返したオルタが邪悪な笑みを浮かべる。

 

「さあ、ブチ壊しにいきましょうか」




確実にオルタは人目を引く。主に可愛いという意味で。
多分遥も人目を引く。主にこいつ食いすぎだろという意味で。

遥が選んだオルタの私服はApoでのジャンヌの服の色違いと考えてくれれば。
尚、オルタで聖杯戦争に臨むということは……


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第25話 剣士と剣士

 第四次聖杯戦争におけるランサーのマスターであり、時計塔における十二人の君主(ロード)のひとり〝ケイネス・エルメロイ・アーチボルト〟は眼下で誘い出された英霊を待ち受けるランサーを余裕のある面持ちで見下ろしていた。

 それは何もランサーに全幅の信頼を置いているからではない。彼にとってサーヴァントなどはただの使い魔。礼装などと等位の存在でしかない。ケイネスが信頼しているのはランサーではなく、彼自身だ。

 ケイネスにとって勝利を始めとする全ての栄光は既に約束されているものだった。ケイネスが栄光を掴むのは自然の摂理と同義であり、それに反する者は最早神の意向に反していることに等しい。何とも傲慢極まる論理であるが、ケイネスにはその自信を裏打ちして余りある才能と研鑽があった。

 惜しむらくは、当初召喚する予定であった〝征服王〟の触媒を凡庸極まりない教え子に奪われてしまったことか。あの英霊さえいれば勝利は更に盤石のものとなっていただろうに。

 だがその屈辱と憤怒に歯噛みするケイネスを更に嘲笑うかのように、彼の耳朶を男の低い声が打った。

 

「失礼。時計塔は鉱石科の君主(ロード)、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト殿とお見受けするが、如何に?」

「――!?」

 

 ケイネスが身を潜めていたのは戦闘が行われている場所からほど近い倉庫の屋根。ケイネスはそこに幻惑の結界を張り、自分の位置を他人から把握できないようにしていた。魔術としては基礎中の基礎だが、それもまたケイネスの実力により高い隠密性を誇っていた筈なのだ。

 しかし、ケイネスの問いを投げかけてきた魔術師は結界を解除することさえもせずにいとも容易くケイネスの居場所を見破ってきた。それはつまりケイネスよりも高位の魔術師であるということに他ならない。だがケイネスにそれを怒る気持ちはなく、むしろ高揚しながらその声のした方に振り返り、そして些かの落胆に溜息を吐いた。

 そこにいたのは全身黒づくめの服を纏った長身の魔術師であった。顔は男性特有の精悍さこそあるものの、それを含めてもかなりの女顔だ。腰には()()の長刀を帯びている。顔には人の良さそうな笑みこそ浮かべているものの、放射する魔力の総量はケイネスのそれとは比較にならないほど巨大で、明らかに挑発していることが伺えた。

 しかし、日本人か。ケイネスの落胆の原因はそれであった。話しかけてきた声は田舎めいた訛りのない流暢な英語であったから期待してしまったが、よもやこんな辺境の土地の人間だとは。それではいくら潜在的な能力が高くともたかが知れている。

 ――――というケイネスの心情が透けて見えて、思わず笑いだしそうになったのを遥は寸でのところで抑えた。どうしてこういう西洋魔術の貴族というのは東洋を莫迦にするのだろうか。いくら西洋魔術が流入したのが遅い土地だとはいえ、そんなものは魔術師としての技量に何の関係もないというのに。

 現に遥はケイネスの結界に対し完全に抵抗(レジスト)してみせた。それはつまり魔術師として遥の実力がケイネスを上回っているからに他ならない。君主だからといって最強ではないのだ。彼らよりも実力のある魔術師など世界を見渡せば数多くいる。遥もまたそのひとりだ。

 

「如何にも。私こそアーチボルト家九代目当主、ロード・エルメロイで相違ない。……それで、そちらは名乗りをあげぬのかね? 魔術師同士の立ち合いの前に名乗らぬなど、程度が知れるぞ?」

「あぁ、これは失礼。名乗りをあげるなんて俺の流儀じゃないんでね、忘れていた。俺は夜桜遥。しがないはぐれの伝承保菌者(ゴッズホルダー)さ」

 

 そう言って遥は腰に帯びていた刀のうち一本を僅かに鞘から引き抜いた。街灯の光と月光を受けた銀色の刀身が光る。流石は君主と言うべきか、ケイネスはそれだけで遥が帯びた刀の内包する魔力に気付いたようで、驚愕を顔に浮かべた。

 伝承保菌者。神代より続く魔術家系。その歴史は他の魔術家系を大きく上回る。何しろ神霊たちが存在していた時代から存在している家系であるために、その歴史は2000年どころでは済まないのだ。全ての魔術師が羨望し、同時に嘲弄するのが伝承保菌者というものである。

 何故なら、伝承保菌者とは他の魔術家系よりも一層秘匿的だからだ。彼らからしてみれば他の誰も知らない宝具や魔術を修めているという関係上、どうしてもその研究内容を発表する訳にはいかないのだから仕方のないことなのだが、魔術師の中にはそれを〝ただ長く続いているだけの盆暗〟と考える輩もいる。

 しかしケイネスはそういった類の魔術師ではないようで、落胆を覗かせていた顔を好戦的なものへと変じさせる。いかな魔術的に遅れている東洋の人間とはいえ、伝承保菌者ならまた別の話だ。遥を相手にとって不足なしと考えたのだろう、既に起動させていた礼装〝月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)〟が一か所に集中する。

 

「こちらからも問おう。夜桜遥。今、この場で私に立ち会いを挑むというのは聖杯戦争に参戦したマスターで相違ないのだな?」

「勿論。そら、もう戦いが始まる頃だろうさ」

 

 遥がそう言った瞬間、先程までランサーがいた場所から炎が吹きあがった。反射的にケイネスがそちらを見れば、ランサーと黒い鎧のサーヴァントは既に戦闘を開始していた。それにケイネスが気付かなかったのはランサーへの魔力供与をケイネスが担っていないこともあるが、遥が魔術で誤魔化していたこともある。

 伝承保菌者で、聖杯戦争に参戦するマスター。ケイネスが遥を立ち会うべき相手だと決定するのにそれ以上の要素は要らなかった。今まで自立防御だけを指示していら月霊髄液に自立攻撃の術式を付与する。

 ケイネスが最大の頼みとするこの礼装は、ケイネスが持つ『風』と『水』の二重属性を最大限に引き出すために作られたものだ。ケイネスによって魔術的加工が施されたこの水銀はケイネスの魔力に応えて自在に形を変える。まさに攻防一体、変幻自在の礼装であった。

 自分自身の属性を把握し、それに応じた高度な礼装を作り上げるその実力は流石の君主だと言えるだろう。だがその程度では遥は動じなかった。その気になれば五属性複合(アベレージ・ワン)の遥も同じものを作れるし、何より遥の宝具の方が何倍も強力な礼装である。

 だが、だからといって侮りはしない。魔術師の決闘において最大の敗因となるものは実力差や礼装の差よりも油断と慢心である。故に遥は相手を侮ることなく、戦うとなれば全力で殺しに行く。それが勝利を呼び込むものであるし、何より相手への敬意ともなる。

 帯刀した2本の長刀のうち、遥は1本だけを抜刀して構えた。遥の奥の手たる天叢雲剣ではなく、ここに来るまでの道中にエミヤに投影させた宝具の長刀である。いくら全力で戦うとはいえ、最初から虎の子は出さない。

 オルタはともかく、ランサーからはこちらの様子は朧気にしか知覚できない。遥がそういう類の結界を張ったからだ。流石に令呪を使って指示された場合は妨害しようもないが、それ以外の手段でケイネスとランサーは互いに支援し合うのは不可能になっている。

 腰を落とし、正面からケイネスを見据える。対するケイネスは遥が長刀1本で挑みかかってくると思っているようで、余裕を匂わせる面持ちで水銀礼装を侍らせていた。そうして互いの緊張と魔力が最大限にまで高まった瞬間、ケイネスが詠唱を発する。

 

Scalp()!」

 

 一小節(シングルアクション)の詠唱。そのケイネスの指示により一瞬にして月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)が伸長し、遥を切り裂かんとその水銀の身体を振るう。だが遥はそれを難なく回避し、その一瞬の交錯で水銀の斬撃の威力を見切った。

 この月霊髄液による斬撃は攻撃対象に触れる寸前、厚さ数ミクロンにまで圧縮されたうえに高速で振るわれることで鋭い水銀の刃と化しているのだ。これの前では分厚いコンクリートの板だろうとバターのように切り裂かれてしまうだろう。

 だが遥の魔術を越えるだけの威力はない。今まで何度か英霊と相対し、その武具を見てきた遥にとっては水銀の刃などは鈍にも等しく見える。そもそも相手は剣術はおろか近接戦の心得すらない魔術師だ。体内時間を加速せずとも大元の水銀さえ見えていれば回避など造作もない。

 なら、防御性能はどうか。遥は長刀を握っていない左手でキャレコをホルスターから引き抜くと、その銃口をケイネスへと向けた。それにケイネスが反応するより早くに遥は引き金を引き絞り、キャレコの銃口から連続してマズルフラッシュが瞬く。

 しかし月霊髄液は主の反応速度よりも早くに攻撃に対応してみせた。ケイネスの眼前に防御膜を展開し、50発の弾丸を全て封殺してのける。キャレコの掃射速度は毎分700発。それだけの圧力を月霊髄液は簡単に防御してしまえるのだろう。

 加えて、ケイネスの反応速度よりも早く動くとなると自立防御機能もあると見ていい。数秒の交錯からそう結論付けた遥の耳朶を、怒りを抑えたケイネスの声が打った。

 

「伝承保菌者でありながら、魔術ではなく絡繰り仕掛けに頼るとは……嘆かわしい。長すぎる時間を怠惰の内に過ごし、魔導の誇りを失ってしまったと見える。

 よろしい。ならばこれは決闘ではなく誅罰だ。ケイネス・エルメロイの名の許、貴様を断罪してやろう。死んで身の程を弁えるがいいッ!!」

「冗談!」

 

 明らかな怒りを発露させたケイネスの言葉に遥が嘲弄の言葉を返す。ここまででケイネスの戦法と性格は把握できた。〝魔術師としての正攻法〟で真正面からかかってくるのなら、遥は〝遥の正攻法〟で真正面から打ち倒すまで。卑怯な手段に出ることはない。この戦争に関わり一度は決闘を受けた以上、卑怯な手段に出るのはむしろ悪手だ。

 ケイネスの意思に応えて暴れまわる水銀の刃をコンテナを走り回ることで回避しながら、ホルスターにキャレコを戻して長刀を構える。盾すらもないままに正面から突っ込んでくる遥を嘲笑うかのように、何本にも分かたれた水銀の刃が遥へと襲い掛かってくる。

 だが遥は縦横に長刀を振るうことで水銀の刃を弾いた。より膨大な神秘の晒された水銀はその威力に耐えきれず、半ばから断ち切れて飛沫となって飛び散る。いかな投影による贋作宝具といえど、内包する神秘はたかが水銀よりも膨大だ。

 自身の最大戦力である礼装が全く通用しないという現実に、ケイネスが目を剥く。彼にとっては所詮使い魔でしかないサーヴァントよりも自分自身の力で作り出した礼装の方が信用に足るのだろう。未だランサーを呼び出す様子はない。

 

「この……Scalp(斬ッ)!!」

 

 焦燥も露わにケイネスが水銀に指示を出し、巨大な水銀の塊が1本の刃へと圧縮された。刃渡りは遥の振るう長刀を遥かに超える。その質量を以て宝具ごと叩き切らんと月霊髄液が蠢く。

 圧縮された刃はケイネスの全力を以て魔力を充填され、その威力と強度は先程までの比ではないほどに昇華されていた。それはまさしくケイネス全力の一撃と言うに相応しい。焦りと恐怖が支配する顔に、無理矢理ケイネスは笑みを張り付ける。しかしその直後、その笑みは凍り付いた。

 ケイネスが全力を注ぎこんだ一撃を、遥は長刀の一閃を以て容易く切り裂いてのけたのである。それは何も宝具の神秘だけが齎した結果ではない。遥の身体能力と剣技、そして宝具。それら全てが合一した力がケイネスを遥かに上回っているのだ。

 月霊髄液は完全に無効化され、魔術を行使する暇もない。最早万事休すか。迫ってくる遥から少しでも離れようとケイネスは後方に飛び退くが、その瞬間に遥の姿が掻き消えた。魔術によるものではない。単純な速度で遥はケイネスの認識力を凌駕したのだ。

 このままでは、死ぬ。生まれて初めて死の感触を目前としたケイネスは、その瞬間だけ慢心をかなぐり捨てた。ケイネスの右手が紅く光り輝く。

 

「――何をしているッ! 私を助けぬか、ランサーッ!!!」

 

 命の危機に瀕してなお傲慢なその物言いの直後、ケイネスの眼前で光が瞬いた。それは遥の刃に貫かれたケイネスの意識が発した幻想の光ではなく、明らかな実態を伴った光。遥の神速の突きを横から割って入った槍が払った光であった。

 刺突が防がれると同時、その場に膨大な魔力を纏った存在が現れたことを感知した遥が距離を取って舌打ちを漏らす。そして遥からケイネスを守った闖入者――ランサーはケイネスを庇うようにして立つ。

 双槍を携えた長身の武人。泣き黒子が特徴的な美貌を引き締め、ランサーはケイネスとの果し合いを演じていた遥を見据えていた。その眼に宿るのはオルタとの決闘を邪魔されたという落胆と、一目で遥の実力を見抜いたが故の期待であった。

 

「すまんな。アヴェンジャーのマスターよ」

 

 ランサーはオルタと戦う前に名乗りを交わしていたのか、エクストラクラスに対して何の疑問もないかのようにそのマスターたる遥へと語りかけた。

 ただの魔術師であるケイネスとは違い歴戦の武人であるランサーは一目で遥の実力を見破っていた。決して口には出さないが、彼の主では遥には勝てない。それどころか、そのセイバーの如き清澄な立ち姿からは神代の英雄もかくやといった気迫が放たれている。身体能力はともかく、剣技だけならランサーも敵わないのではないか。

 それを事実として認識した途端、ランサーはこの剣士と果し合いを演じたいという欲求に駆られた。ともすればこの男とは互角の勝負を行うことができるのではないか、と。しかし主命があるが故、ランサーは一時のみその欲求を棄てた。

 

「魔術師同士の立ち合いを否定する気はない。正直なところ、貴殿のような武人とは俺も立ち会いたい。

 だが、主命がある故な。ここは撤退させてもらうぞ」

「……好きにしろ。追撃はしねぇ」

 

 つまらなそうな顔でそっぽを向く遥に対しランサーは騎士として礼を取ると、ケイネスが何かを言う前に彼を抱えて跳んでいった。ふたりがある程度の距離まで離れたのを確認すると、納刀してコンテナから地上に降りる。

 地上はオルタとランサーの戦闘の影響で破壊し尽くされていた。コンクリートの大地には多くのクレーターが生まれ、オルタが放った炎に焼かれたコンテナや街灯はあまりの熱に折れ曲がっている。日常の光景が非日常の浸食された結果がそれだった。

 その中に佇むオルタは歪んだ街灯の光に照らされ、儚げな空気を纏っていた。戦闘はほとんど互角であったようで、鎧や肌に傷はない。潮風に髪を靡かせて虚空を見つめていたオルタだったが、遥に気付くと不敵な笑みを浮かべる。

 

「そっちも上手くやったようね。で、次はどうするの? 何か、こっち来てる奴いるみたいだけど?」

「言う必要があるか? 俺がどう答えるかなんて分かってるだろうに」

 

 遥が好戦的な笑みを浮かべてそう答えると、オルタはそれだけで遥の答えを悟り同じように笑んだ。言葉がなくとも仲間(サーヴァント)たちは遥の意思を察してくれる。それはオルタだけでなく沖田やタマモ、エミヤも同様だ。

 先程から返答はしていないが、遥はこの周辺に配置した沖田たち3騎のサーヴァントから報告を受けていた。それによれば遥たちの頭上にアサシンが潜んでいるらしい。エミヤが忠告した()()()()姿()()()()。故にこうして姿を晒したのだ。

 オルタがランサーに対してクラス名を明かしたことはアサシンにも聞こえていただろう。アサシンは諜報活動に秀でたクラス。既に何騎のサーヴァントが限界しているか把握するのは容易だろう。これでとうとう遥たちは〝イレギュラーで召喚された8騎目〟という立ち位置を演じなければならなくなった。

 だがそれを想定していなかった遥ではない。遥たちがイレギュラーな存在であることを露呈したのはさして重大なことでもない。それならそれで方針を変えるまでだ。それをエミヤに伝えると、遥の言わんとすることに気付いたエミヤが贋作宝具を消した。それは遥の、セイバーが自分が相手をするという意思の表れであった。

 近接戦を得意とするサーヴァントとも渡り合えるマスター。加えて従えるサーヴァントもまた強力なサーヴァントとなれば、不用意に仕掛けてくる相手は限定される。余程の阿呆か、或いは極めて強力なサーヴァントを従えるマスター、たとえばアーチャーを従えるマスターなどだ。

 しかし、これは同時に最大の博打でもである。全てではないにせよ、遥が持つ戦力で最も強力なもののひとつを晒してしまうのだから。だが打算だけで生きていては魔術師としても、ランサーに賛辞を贈られた戦士としてもやってはいけない。―――そもそも、遥自身があまり策をめぐらすのが得意ではないというのもあるが。

 魔術回路を極限にまで励起させ、全身に魔力を巡らせる。そうして数秒後、遥とオルタの眼前にふたりの女性が現れた。無表情のうちに闘志を滾らせる遥の脳裏に、エミヤが息を呑む声が響く。

 ひとりは多少違いがあるとはいえ、見覚えのある顔だった。金を溶かし込んだかのような優美な髪を項の辺りで纏め、翠緑の瞳には騎士らしい誇りと闘志の光が宿っている。当世風の装束を着ているとはいえ、味方内にもいる者の顔を遥が見紛う筈もない。現れたのはセイバー〝アルトリア・ペンドラゴン〟。

 そして次にそのマスター。流麗極まる長い銀髪と濁りのない赤い瞳。そして違和感すら抱かせないほど完成された美貌。そしてその気配からしてホムンクルスであることは間違いない。エミヤ曰く、名前は〝アイリスフィール・フォン・アインツベルン〟。アインツベルンの当主〝ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン〟が鋳造した聖杯の担い手。

 湖水の如く静かな、けれど決闘を目前にして研ぎ澄まされた刃のような眼で遥はセイバーたちを見据える。セイバーたちは遥からおよそ10メートルほど距離を取って足を止めると、遥に向かって問いかけた。

 

「……貴方たちが、私たちを此処に誘い出したマスターとサーヴァントか?」

「違う。無差別に誘いをかけていたランサーとそのマスターは既に俺たちが打倒し、彼らは撤退した。誘いをかけた本人と戦いたいのなら今は退け。

 ……だが、俺たちと戦うというのなら、俺が相手をしよう」

 

 不敵な笑みを覗かせて遥が放った一言にセイバーとアイリスフィールが息を呑む。『俺が相手をしよう』という言葉を彼女らは自分のサーヴァントが相手をするということかとも思ったが、それならばその前に『俺たち』とは言うまい。

 つまりはこのマスターは自分でセイバーを相手取ろうとしているのだ。気が狂ったか、と思ったセイバーであったが、しかし目の前に立つ敵のマスターの眼には嘘や狂気の色合いはない。それを悟った直後、セイバーは魔術師の立ち姿が剣士のそれであることに気付いた。

 セイバーは熟練の剣士だ。相手の立ち姿からその実力を見計ることなど造作もない。その観察眼が、セイバーの疑いとは裏腹にこのセイバーとよく似た顔の造作をしている剣士が相当に腕の立つ猛者であることを見抜いていた。

 しばしの黙考の後、セイバーはアイリスフィールを一瞥した。彼女の今生の主たる貴婦人の紅い目は言葉よりもなお雄弁に、彼女の意思をセイバーへと伝える。遥の方に向き直ったセイバーが頷く。

 

「分かった。剣士の誇りに掛け、その挑戦を受けよう。尋常な名乗りをあげられぬのが申し訳ないが……」

「謝辞を述べることはないぞ、騎士王。いや、アルトリア・ペンドラゴンと言った方がいいか?」

「――!? 何故私の真名を……!?」

 

 真名が看破されている。無視できないその事実にセイバーとアイリスフィールが同時に驚愕する。遥たちと遭遇してからこれまで、セイバーは真名を露呈するような行為はしていない。決して真名は知り得ない筈なのだ。

 だがこの剣士はセイバーの真名を見抜いてみせた。或いは知っていたか。どちらにせよ、既に知られている以上は名乗りをあげるに不都合はない。そう考えたセイバーが名乗りをあげようとした時、遥はそれを手で押し留めた。不思議がるセイバーに遥は頭上を指示すことで答える。

 遥の言わんとすることをセイバーが察するのはそれだけで十分であった。この会話は全てアサシンに盗み聞きされているということなのだろう。アサシンは昨夜のうちに敗退したと聞いていたが、セイバーには遥がこれから死合う相手に嘘を吐く人間には見えなかった。

 フッ、とセイバーが笑み、放出した魔力で甲冑を編み上げる。一瞬にして戦装束へと変わったセイバーは圧縮空気によって不可視になった宝剣を構えた。遥は鞘込めの神剣に手を掛け、そして祝詞を唱えた。

 

魔術回路、封印解放(サーキット・オーバーフロー)憑依分霊接続(コネクト)……!!!」

 

 一瞬でショック死しそうなほどの苦痛が遥の総身を駆け抜け、直後にその苦痛が快楽にも似た安心感へと変じた。同時に魔術回路に施された封印が解放され、普段は使われない回路が急に魔力を流されたことで悲鳴をあげる。

 ともすればサーヴァントにすら比類しようかというその魔力の高まりから遥が臨戦態勢に移ったことを悟ったのだろう。セイバーの眼が細められ、静かながら苛烈な闘志を宿す。

 剣技の程はどうか分からないが、少なくとも身体能力は人間の規格を逸脱した遥でも敵うまい。オルタと戦った時と同じだ。遥は純粋な剣技のみで相手を上回り、打ち倒すしかない。だが遥の中には敗北するという考えは欠片もなかった。

 腰を落とし、刀の柄に手を掛ける。研ぎ澄まされた刃という形容すらも生温いほどの鋭い眼光がセイバーに向けて放射され、それに含まれた戦意を受けたセイバーはさらに己が闘志を燃え上がらせた。

 

「では――――いざッ!!!」

 

 セイバーがそう言い、宝剣を構えて走り出した瞬間。セイバーの視界の中で遥の姿が掻き消えた。しかし魔術を使った形跡はない。純粋な移動速度のみで英霊の認識力を越えるその歩法にセイバーは面食らうが、持ち前の直感で軌道を読み取り抜刀術による一刀目を防いだ。

 縮地や抜刀術といった要素はセイバーが修めた剣術にはない概念だ。それでも対応してのけたセイバーは流石の剣腕と直感と言えるだろう。だがそれでも、セイバーは遥の動きに驚嘆した。英霊ではない、ただの人間であるのにこの動き。彼女の時代であれば間違いなく円卓の騎士に列っせられ、英霊となっていただろう。

 それだけではない。普通の人間とは言ったが、セイバーはこの男が幾重にも自らに施した封印の奥に何かがあるような気がしていた。彼女の時代にはあってもおかしくない。けれどこの時代にはあってはならないもの。だが彼女にとって、そんなことは些末事であった。人間と人外の間に位置する存在など、彼女にとってはそう珍しくもない。

 それに、この男が振るう刀は間違いなくセイバーの聖剣と同種の武装であると、彼女は見抜いていた。ともすれば内包する神秘、一撃ごとに放出する魔力は彼女の聖剣よりも上かも知れない。聖剣というカテゴリにおいて最強を誇る彼女の剣を超えるということは、そのカテゴリそのものが聖剣よりも格上なのだろう。それは誰にでも扱えるものではない。この剣士は神剣に選ばれた男なのだ。

 加えて、この男は不可視である筈のセイバーの宝剣の刃渡りを熟知しているかのように完璧な間合いで攻撃を仕掛けてきている。何合か打ち合った後に鍔迫り合いへと移行すると、セイバーはこの剣士に問うた。

 

「当世の剣士。貴方の名を訊きたい」

「……夜桜遥」

「そうか。ではハルカ。私は、貴方を好敵手に足る者と認め、称賛を贈ろう」

 

 それは違う。遥は内心でそう言葉を漏らすが、それが口から出ることはなかった。

 セイバーを迎え撃つうえにおいて遥はあたかも騎士であるかのような所作で応じたが、遥自身は騎士道などは全く理解していない。ただ遥は騎士と立ち会ううえでそれが最善だからと礼を取ったに過ぎない。

 だが、そんな薄っぺらい礼はセイバーにも見抜かれているだろう。それでも、そのうえで賞賛を贈られたのであれば悪い気はしない。無論、だからといって手加減する気も、本物の騎士のように余裕を持って戦闘中に長々と会話をする気もないのだが。

 叢雲から左手を離し、限界まで強化を叩き込んだ拳をセイバーに向けて放つ。一瞬のみセイバーの意識がそちらへ向いたのを見計らい、遥は叢雲を宝剣から離して飛び退いた。続けて間髪入れずに縮地で飛び込み、連続して叢雲を振るう。

 奏でられる剣戟の音。一見するとその剣戟は遥が優勢であるようにも見えるが、それは一時限りのものだ。セイバーは西洋の騎士であるために刀の剣速と間合いに慣れていないだけに過ぎない。遥の剣戟からそれを学習すれば、すぐにでもセイバーは巻き返してくるだろう。

 遥の決め手となるのは叢雲に宿る記憶から継承し、遥が習得した神速の抜刀術。遥などでは及ばないほどの剣技を振るった彼の者の抜刀術は、技術のみで魔法の領域に到達することさえも可能とする。その剣技であれば、セイバーに打ち勝つことさえできる。あの剣技を相殺できるとすれば、それは()()()()()

 セイバーと互角の剣戟を演じる遥の顔は一見すると暗殺者めいた無表情のようではあるが、その実胸中には高揚があった。思えば、純粋に剣士である者と手合わせするのはこれが初めてだ。いくら遥といえど、自分の腕前を全力でぶつけられるというのは高揚するのは避けられないのである。

 セイバーの不可視の剣を同一存在であるアルトリアのそれと重ね合わせ、風王結界(インビジブル・エア)の幻惑を完全に無効化する。アルトリアの持つ約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)の刃渡りを熟知しているが故の芸当であった。セイバーは遥が聖剣の形状を知っていることを訝るだろうが、それを避けて弱者を演じる遥ではない。

 遥が振るった剣をセイバーは宝剣で弾き、セイバーが放った剣撃を遥が紙一重で回避する。真正面から受けてしまっては駄目だ。膂力はセイバーの方が上。先程の鍔迫り合いは刹那の間であったから良かったが、続いていれば押し負けたのは遥だった。

 

「ヤアァッ!!」

「――――ッ!!」

 

 セイバーが横薙ぎに振るった剣を遥は咄嗟に空中に跳躍することで回避する。宙で回転する遥の背を風の結界が薙ぎ、身に迫る死の気配に冷や汗が流れた。しかしオルタと目が合い、遥はその顔に余裕の色を取り戻す。

 オルタが遥に送る視線は希望だとか心配だとか、そういった類のものではない。信頼もされているし信用もされているが、オルタはおいそれとそれを表すほど素直ではない。オルタが遥へ向けるのは試すような視線であった。

 上空で霊体化したまま戦闘を見守る沖田たちと繋がった経路(パス)からは、彼らが信頼しつつも不安に思っているのが伝わってくる。その思いを受け、遥が口の端を歪めた。その不安、杞憂にしてやろう、と。

 回転の勢いを載せた遥の一撃は首元でセイバーに防がれる。だが元よりそんな一撃が決まるとは思っていない。触れた一点を支点として身体を捻って跳び、遥はセイバーから距離を取った。着地と同時に鞘を外して納刀し、抜刀術の構えを取る。

 続けて突貫しようとしたセイバーだが遥の構えが必勝を期したそれであることに気付くと、宝剣を両手で握りそれを迎え撃つ構えを取った。

 

「いくぞ、セイバー。次こそは獲る――!!」

「来い、ハルカ。貴方の渾身の一撃、受けきってみせよう――!!」

 

 このセイバー相手に出し惜しみは不要。遥は己が持つ最大の一撃でセイバーを討ち取る気でいた。遥の剣術の最奥はいかな騎士王の剣技といえど受けきることはできない。遥が継いだ剣技とは、そういうものだ。

 ふたりの剣士の闘気がぶつかり合い、傍観するオルタとアイリスフィールの肌を焼く。次の一撃で勝負が決まる。その確信がオルタとアイリスフィールの中にはあった。けれどふたりは互いの仲間と騎士に全幅の信頼を置いている。負けるとは思っていなかった。

 獲る。その意思が遥の意識を加速し、全身の魔術回路を蠢かせた。神秘を喰う鞘に納められた叢雲が主の闘気に応えて猛り、抜刀の瞬間を待つ。全力で強化を叩き込まれた脚が大地を蹴る―――ことはなかった。その直前、遥とセイバーの間に雷が落ちたのである。

 続けて轟いたのは猛牛の嘶きと蹄が虚空を踏みしめる音。反射的にその場にいる全員が空を仰ぎ見れば、そこには蒼電を纏って走る戦車(チャリオット)があった。戦車は剣士たちの間に割って入ると、そこで停車する。

 乗っていたのは身長2メートルを超えようかという髭面の大男と身体の大半が戦車で隠れていても分かるほど小柄の、年の頃は遥や立香と同じほどの少年。あまりに予想外の出来事に忘我に囚われた者たちの前で、大男は雷鳴にも似た咆哮をあげる。

 

 

「双方、剣を収めよ。王の御前であるぞ!

 我が名は征服王イスカンダル。此度の聖杯戦争ではライダーの(クラス)を得て顕現した!」

 

 

「は……?」

 

 あまりに突拍子もない出来事に、遥が素っ頓狂な声を漏らす。戦闘に横槍を入れただけではなく、このサーヴァント――ライダー〝征服王イスカンダル〟はあろうことか自ら真名を名乗ったのだ。遥たちカルデアの者であるならともかく、正式な参加者であるというのに。

 イスカンダル。或いはアレキサンダーやアレクサンドロスとも名を訳される王は古代マケドニアの大王に他ならない。父王から王位を簒奪した後、今でいう中東の辺りからインダス川の辺りまで征服して回った逸話はあまりにも有名だ。魔術師でなくとも日本人なら名前くらいは聞いたことがあるだろう。事実上、世界征服に最も近づいた王でもある。

 それが、この男。現れて間もなく真名を名乗ったことについては豪胆なのか、或いはただの阿呆であるのかは遥には判じかねるが少なくとも騎兵(ライダー)の英霊としては最強クラスであることに違いはない。

 『剣士(セイバー)』アルトリア・ペンドラゴン、『槍兵(ランサー)』ディルムッド・オディナ――確定情報ではないが――、『騎兵(ライダー)』イスカンダル。判明しているだけでも強力極まる英霊ばかりだ。改めて聖杯戦争の苛烈さを思い知ると同時、遥は急激に熱が冷めていくのを感じた。

 興醒めした遥とは対照的に、セイバーの顔には憤慨が見て取れる。ライダーのマスターも彼の行動は予想外であったようで「何考えてやがりますかこのバカはあぁぁぁ!?」と叫ぶがライダーはそれをデコピンひとつで黙らせた。

 

「うぬらとはこの戦争で覇を競い合う定めだが、その前にひとつ問うておくことがある。セイバー。そして……そっちの黒いヤツのマスターよ。

 貴様らが聖杯に掛ける願いは我が大望に比してもなお、叶えるに足るものであるか?」

「……単刀直入に言え。結局、アンタは何のために横槍を入れてきた、征服王。まさかそんなことを問うためだけに現れたとは言わねぇよな?」

「うむ。有り体に言うとな……うぬら、我が軍門に下り、聖杯を余に譲る気はないか? さすれば余は貴様らを朋友(とも)として遇し、この世界を征する喜びを分かつ気でおる」

 

 やはりか、と内心で呟き遥は舌打ちを漏らした。こういった手合いは嫌いではないが、苦手な部類だ。騎士や魔術師の誇りや戦士の矜持を軽々と踏み越え、けれどその領域を犯さない。矛盾しているようでいてしっかりと成り立っているのだから始末が悪い。

 遥に聖杯に掛けるべき願いなどはない。遥も人間であるから望みのひとつやふたつはあるが、それは聖杯に掛けるようなものでもない。自分の願いは自分で叶える。故にライダーの問いには答えること自体ができないのだが、遥はあえて何も言わなかった。

 ふたりの答えを待つライダーと押し黙るセイバー。風の音だけが鳴るその場で遥は使い魔に指示を飛ばす要領で〝ソレ〟に指令を念じた。するとソレは遥の意思に応え、概念的迷彩を解いて勝手に自走してくる。直後、その場に奇妙なほどに静かな駆動音が響き、強いライトが照らし上げた。

 困惑する一同の前に現れ、遥の目の前で停止したソレは一台の大型バイクであった。魔術師などでなければ分からないが、そのバイクには魔力が流れ、それで駆動しているようであった。停車したそれに遥が跨り、オルタが武装を解いて当世風の服装へと戻る。

 

「興が醒めた。俺たちは帰らせてもらう。それに、ここにいると碌でもないことに巻き込まれるような予感がする。今日のところは勝負を預けておくぞ、セイバー。

 ……行こう、アヴェンジャー」

「りょーかい」

 

 遥が乗ったことを感知したバイク――レオナルドが言うには機体名は〝装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)〟というらしい――のエンジンが起動し、オルタがその後ろに乗る。

 遥の気分に理解を示したセイバーは一端の停戦に応じて頷きを返すが、問いに答えを返されなかったライダーはそうではない。去ろうとする遥たちにライダーは待ったをかけた。

 ヘルメットの中で遥は溜息を吐いてから、ライダーに向けて言う。

 

「俺に聖杯に掛ける願いはない。こちとらアクシデントで巻き込まれただけなんでな。けど、俺はこの聖杯戦争の真相を知っちまった。だからアンタらに聖杯を渡す訳にはいかない」

 

 微妙に脚色はされているが、遥の言葉に嘘はない。ライダーやセイバーは遥が言った『聖杯戦争の真実』というのが気になるのか問い質そうとするが、遥はエンジンを何度か吹かして答える気はないことを伝えた。

 上空を見れば、アサシンはまだクレーンに控えていた。位置さえ分かってしまえば、気配遮断を見破ることなど造作もない。恐らくこの場で遥が言った内容はそのマスターへ筒抜けであろう。それでいい。

 この聖杯戦争において、遥はイレギュラーだ。ならばイレギュラーらしく振舞ってやろう、と遥が嗤う。散々引っ掻き回しても原因を解決すれば万事解決だ。もっとも、引っ掻き回すだけの策を張れるほど遥は戦略家ではないが。

 最後に戦場を一瞥してから、遥とオルタは崩壊した港を後にした。

 

 

 

 遥とオルタが港を離れたのとほぼ同時刻。冬木市のとある場所ではふたりの狂った芸術家が歓喜の叫びをあげていた。

 その場は闇に満たされ、そこかしこから咽び泣く声や呻き声が聞こえてくる。もしも仮に遥がそこを見れば我を忘れて芸術家たちを血祭にあげた後に煉獄の焔で全てを焼き祓っていたであろう。

 有り体に言えば、そこは現世に顕現し得る最大の地獄であった。あらゆる可能性が狂人たちの快楽のために潰されていく。ある意味では、それと比しては戦場の地獄すらも生温い。陰惨、醜悪という言葉でも足りない。それを表すにはどんな言葉でも不足であった。

 そこにいる狂人はふたり。彼らはこの場で唯一の光源である水晶球を見つめて恍惚の笑みを浮かべているが、それぞれが酔っているのは別な対象にであった。殺人鬼は映し出されていた超常の戦闘に。そして、『青髭(ブルーピアド)』はそこにいたひとりの少女へと。

 総身に奔る喜びに散々咆哮をあげた後、元帥は慈しむようにその水晶球を抱きしめる。そうして、血色の悪い顔に喜悦の笑みを張り付けて恍惚のままに呟く。

 

「我が希望、我が乙女よ。すぐにこのジル・ド・レェがお迎えにあがります。……嗚呼。我が願望は、既に成就せりィィッ!!!」

 

 そう言って元帥――キャスターは自らの身体を抱き、地に落ちた水晶球は光を失い映像が途絶える。

 最後にそこに映っていたのはマスターたる男のバイクに同乗する少女。聖杯戦争に紛れ込んだ8騎目の英霊(イレギュラー)。彼が求め続けた救国の聖処女に他ならなかった。




8騎目を名乗るサーヴァントと宝具持ちのマスターの登場に時臣君は大慌ての模様。

ここで遥の新装備の解説をば。

装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)

 遥が持ち込んだ愛車をレオナルドが趣味と実益を兼ねて改造した大型バイク。命名者はレオナルド。動力源はガソリンと電気、あとは魔力。最高時速ではサーヴァントにも追随できるほどの性能があるが、そこまでいくと遥には制御できない。他には使い魔の要領での遠隔操作、光学・概念的迷彩まで搭載している。加えて、レオナルドは更なる改造プランを勝手に計画している模様。いつの間にか機体名がオートバジンになっているかも知れない。
 密かにアルトリアが狙っている。


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第26話 狂気の連続殺人鬼(シリアルキラー)

『成程。そっちも大変だね……』

 

 遥の報告を聞いたロマニが立体映像の中で嘆息する。

 遥とオルタが戦場である港を離れてから数時間後。ふたりは新都にある拠点、最低限の設備とサービスだけが揃っている安ホテルの一室に戻っていた。時刻は既に22時を過ぎ、外の人通りは殆どなくなっている。

 報告をしている遥は饒舌にこれまでの事の顛末を語ってはいるが、その顔にはかなりの憔悴の色が浮かんでいる。いくら土地勘があるとはいえ自分が知るものとは異なる街を歩き、あまつさえ英霊との剣戟を演じたのだからそれも無理からぬことであろう。

 対するロマニも何とか誤魔化そうとはしているが、表情には明らかな疲労が浮かんでいた。恐らくは今日だけでなくここ数日休んでいないのだろう。うまく隠しているようだが遥やレオナルドほどの観察眼があれば見抜くのは容易い。

 だが、ロマニがそれで良いと思っているのなら遥が口出しするようなことではない。何より、今ロマニに休まれてはカルデアの職務が回らなくなるということもある。今の遥がしてやれることは、一秒でも早くこの特異点を攻略することだけだ。

 

『確認できただけで騎士王に征服王、英雄王と湖の騎士に輝く貌……トップクラスばかりだ。苦労しそうだね』

「全くだ」

 

 港を離れた後も、遥はエミヤを監視に付けておくことで離れた後に起きた戦闘を観察していた。遥自身も忘れてしまいそうになる時があるが、サーヴァントは使い魔の一種。故にマスター側に心得さえあれば感覚共有を行うこともできる。

 そのため遥はこの場にいながらにして戦場を見ていることができたのだ。今でもエミヤは乱戦の様子を監視し、他にはタマモに冬木教会を監視させている。同時に複数個所を監視できるのは、サーヴァントを複数騎使役している利点であろう。

 遥たちが離脱した後にイスカンダルが放った挑発に応じて現れたサーヴァントは2騎。うち1騎はオルレアンでも目撃した『狂戦士(バーサーカー)』、湖の騎士たるランスロット。そしてもう1騎の真名はエミヤによれば〝英雄王〟ギルガメッシュ。

 ギルガメッシュといえば人類最古の叙事詩〝ギルガメッシュ叙事詩〟に語られるウルク第三王朝の王だ。記録に残っている限りでは人類史において最初に現れた王でもあろう。半神半人ということもあり、英霊としては最高位に位置する英雄であろう。

 『槍兵(ランサー)』ディルムッド・オディナは日本では殆ど知られていない英雄であるためステータスは低いだろうが、それ以外は日本でもよく知られた英雄だ。考えるまでもなくステータス補正も多大なものであることは分かる。

 特異点としての規模はオルレアンよりも小さいが、その中身は以前のものよりも過酷だ。生き延びるという一点だけに拘るのだとしても生半な覚悟だけでは成し得ない。遥は改めてこの任務が立香ではなく自分に割り当てられたことを感謝した。立香は生き延びるという意思は遥よりも強いが、未だそれに力が伴っていない。ロマニの判断は適格だったと言えるだろう。

 それを口には出さずひとつ溜息を吐くと、遥は話を続けた。

 

「これで特異点化の原因がハッキリしてれば幾分かやりやすいんだけどな……」

『仕方ないよ。人理定礎ならともかく、ボクたちの世界では起きてすらいない出来事だからね』

「そうだな。これでエミヤがいてくれなかったらどうなってたことか」

 

 遥たちカルデアの持つ第四次聖杯戦争についての情報は全てエミヤから齎されたものだ。彼が知り得る限りのものはほとんど知っているが、逆に言えば彼が知らないものは遥は現場で推理する他ない。

 だが、特異点化の原因として確定ではないにせよ関わりがあると見られる変化はあった。エミヤの言によれば彼の知る第四次聖杯戦争におけるセイバーのマスターはかの〝魔術師殺し〟であり、彼の養父でもある〝衛宮切嗣〟であったらしい。

 表向きアイリスフィールがマスターを演じてはいたが、実のところ彼女はセイバーとの魔力的な繋がりはなかった。しかし、この特異点における聖杯戦争においては間違いなくアイリスフィールはセイバーのマスターだった。令呪の確認をした訳ではないが、彼女らは魔力的な経路(パス)で繋がっていた。それは感覚的に分かる。

 本来マスターであった者がおらず、マスターを演じていただけの者が正式なマスターになっている。些細な変化ではあるが、どんな違いであれ遥たちは見逃す訳にはいかないのだ。或いはそれが特異点となった要因であるのかも知れないのだから。

 実のところ、遥の中では既に推理は終了している。エミヤから齎された歴代聖杯戦争の顛末とこの特異点での違いを比較すればさして難しい推理でもない。だが推理を補強する事実が分かっていない以上、下手に明かせば混乱させるだけだろう。

 

「俺からの報告はこのくらいでいいだろう。それで、立香たちの方はどうなってる?」

『そっちも色々と分かってるよ。結構な情報量になるけど、構わないかい?』

 

 ロマニの言葉に遥が無言で頷く。それに頷きを返すと、ロマニは立香から齎された情報が記録されていると思しき書類を取り出して話し始めた。

 立香たちがレイシフトした変異特異点βの年代は1993年。丁度第四次聖杯戦争から1年前だ。特異点の大きさは中心にある建物〝オガワハイム〟とその周辺程度でさして大きくはないが、状況はかなり面倒なことになっているらしい。

 レイシフト直後に立香たちは現地の召喚されていたはぐれサーヴァント『暗殺者(アサシン)』両儀式、『弓兵(アーチャー)』浅上藤乃らと誤解から接敵してしまうが、立香の説得により和解して協力体制を敷くことになった。彼女らによれば特異点の原因はオガワハイム、もとい〝奉納殿六十四層〟の主〝荒耶宗蓮〟が聖杯を有していること。

 オガワハイムは元は普通のマンションという名目で建築されたために人間の入居者がいたが、今のオガワハイムに人間の住人はいない。代わりに聖杯によって歪められてから召喚されたサーヴァントが全ての部屋に入居しているという状態になっている。

 通常は戦わせるために召喚するサーヴァントをただ部屋に押し込めているだけ。それだけでも十分に異常と言えるが、この特異点における異常はそれだけではない。

 

『簡単に言うとね、この特異点は一日で完結する世界なんだ』

「一日で完結……? どういうことだ?」

『これは式たちからの情報なんだけど……ここでは英霊たちが夜に死に、朝になると復活するというのを繰り返しているらしいんだ。式はそれを〝死の蒐集〟と言っていた』

 

 一日で完結する世界。死を繰り返し、死を蒐集するマンション。思わず、なんじゃそりゃ、と遥が言葉を漏らした。

 元々オガワハイムは入居した人間たちが殺し合うように仕向けるため精神に負担をかける構造になっており、荒耶はその死んだ人間の脳髄を取り出し、人形を使いその死の再演と蒐集を延々と繰り返していた。要はその仕掛けを聖杯に置き換え、入居者たちを英霊にしただけの話だ。

 それも元々の死の蒐集から変わらず、死因を再現して繰り返すというのだから驚きだ。立香たちが遭遇したサーヴァントから例を挙げるとコノートの女王〝メイヴ〟は頭にチーズをぶつけられて死に、ギリシャの英雄〝オリオン〟であれば月女神アルテミスに射殺されるといった具合だ。

 しかし、荒耶の目的であるという根源への到達を達成するには最低で7騎の英霊の魂があれば事足りる筈なのだ。それは聖杯戦争のシステムが証明している。だというのに死を蒐集し続けている荒耶は何のためにそれを行っているのか。

 思考に耽りかけた意識を、遥は深く息を吐いて切り替えた。それは遥ではなく立香が解明すべきことだ。そもそも現場にいない遥ではそれを正しく推理することはできまい。立香に対して遥ができることは、こういった場合での心構えを伝える程度だろう。

 何だかんだとはいえ結局は無力な自分に遥が顔を顰める。丁度それと同時、部屋のドアが決まったリズムでノックされた。一端席を外すことをロマニに伝え、遥がドアを開ける。そこにいたのはコンビニのレジ袋と見覚えのある紙袋を抱えたオルタだった。

 

「おかえり、オルタ。サーヴァントに遭遇してねえだろうな?」

「問題ないわよ。アサシンには付けられてたけど、それはアンタが何とかできるんでしょ?」

 

 そう言ってからオルタが部屋に入った直後、遥の魔術回路には霊体が結界に反応したのを捉えた。十中八九、アサシンであろう。だがいかな英霊とはいえ遥が張った結界の前では無力だ。

 一般的なホテルの一室など魔術的な防備で言えば無防備に等しいが、遥はこの部屋に入ってすぐに最低限の結界を張っていた。最低限とはいえど、その術式は一級品。仲間たちを除けばどんなサーヴァントであろうと霊体である限り侵入は不可能だ。

 加えて、結界の術式を把握しているのはこの世で遥ひとりだけ。相手がキャスターでも生半な英霊であれば解除など不可能であるし、高位の魔術師であろうと解除にはまず術式の把握から始めなければならない。これが乗っ取り不可であるのはフラット相手で試験済みだ。

 それに思わぬ収穫もあった。この結界に反応したのは先程のアサシンだけではない。既に何度か複数体のアサシンが結界に反応している。それはつまり、アサシンは単体ではなく群体で1騎の英霊として存在しているということに他ならない。さらにそのマスターは素知らぬ顔で教会に保護されているのだから恐ろしい。

 アサシンのマスターの名は〝言峰綺礼〟。元〝第八秘跡会〟の代行者で第四次聖杯戦争の監督である〝言峰璃正〟の息子。間違いなく綺礼と璃正はグルだ。それどころか、エミヤから聞かされた綺礼の経歴からしてアーチャーのマスターである現遠坂家当主〝遠坂時臣〟もグルである可能性が高い。とはいえ、問題となるのはアーチャーだけで時臣と綺礼は遥ひとりで倒してしまえる。あくまでも魔術師然としている時臣は遥が最も得意とする手合いであるし、綺礼もよもや埋葬機関には及ぶことはあるまい。

 段々と分かってきたぞ、と薄い笑みを浮かべる遥の前でオルタはベッドに寝転がり、レジ袋からは炭酸飲料を、紙袋からは大判焼きを取り出した。そうして大判焼きを頬張りながら点けたテレビから流れてきたのは最近の冬木市を騒がせているという事件のニュースであった。通信を通して聞こえていたのは、ロマニが渋面を浮かべた。

 

『児童の集団誘拐に数件の一家惨殺……随分と物騒な事件が起きてるものだね。おまけに同一犯なんて……。これって、まさか』

「恐らく残りのサーヴァント……キャスターとそのマスターの仕業だろうな」

 

 最近の冬木市で話題となっている児童の集団誘拐事件とそれに伴う一家惨殺事件。遥がそれをキャスターとそのマスターの所業であろうとしたのは、一家惨殺の初期の被害に遭った家の壁に血で魔法陣が描かれていたという情報からだ。

 サーヴァントの召喚とは魔力の籠った媒体か生贄の血を必要とする。人間の血ともなれば魔術師ではなくとも魔力量としては他の動物の比ではない。それもこの時期にとなれば、聖杯戦争に関係した事件であると断定するには十分だ。

 警察が証拠を掴むことができないのも魔術で痕跡を隠蔽しているからだろう。だが現場に魔術の痕跡を残すということは魔術を行使する能力を有するだけで正式な魔術師ではない可能性が高い。神秘の秘匿など魔術師としては異端極まる遥ですら徹底することだ。

 遥が端整な顔を怒りに歪め、舌打ちを漏らす。魔術を行使することができるが魔術師ではなく、しかしキャスターの適正を持つ反英雄。遥はそれに該当する英霊をひとりだけ知っていた。オルレアンでも自儘極まる振舞いをしていた狂人――ジル・ド・レェ。

 確定情報という訳ではない。だがそのニュースが繰り返し報道される度にジルの顔が脳裏をちらつく。復讐の瞑目で怠惰のうちに殺害欲求と淫欲に溺れた殺人鬼。遥はそれが心底嫌いだった。

 

「居場所さえ分かればすぐにでも……ロマン?」

『え? あ、あぁ。ごめん、ちょっと考え事してた』

「……?」

 

 ロマニの言葉に遥が首を傾げる。通信の画面越しにテレビの画面を見つめるロマニの顔は、考え事をしているというよりはまるで過去を見つめているようであった。

 過去とはいえ、それは殺された子供の方に同情しているのではない。ロマニの眼はむしろ事件を起こしている犯人の方に向いているようにも見える。ロマニほど人畜無害な男が何故そんな眼をするのか。遥が推し量るより早く、ロマニの眼からその色は消える。

 だが思えば、遥はロマニの過去について何も知らないのだ。他の職員については誰が一般人、或いは魔術師であるのかくらいは分かっている。しかしロマニだけはそれすらも分からない。特に何も思わず友人と感じていたから気にしなかったが、改めて考えてみれば不思議な人間だ。

 とはいえ、それで遥がロマニに感じている友誼が変わる訳ではない。そもそも人理焼却という大事件の前では過去などどうでも良い話だ。そう割り切って遥は通信に意識を戻した。

 

『それで、今後はどうするつもりなんだい? 君のことだ、ある程度方針は決めてるんだろ?』

「一応は。キャスターの野郎を消すのは勿論として……できるならどれかの陣営と同盟を組もうかと思ってる」

 

 遥が漏らした言葉にオルタが若干不満そうな顔をする。それはそうだろう。取り方によっては遥の言葉はオルタひとりでは勝ち抜けないと言っているようにも取ることができる。

 だが、遥は何もそういうつもりで言っているのではなかった。ただ聖杯戦争を勝ち抜くだけならオルタひとりで十分事足りるし、いざとなればエミヤや沖田、タマモもいる。

 しかしこの聖杯戦争は遥が勝ち抜くのも、誰かが勝ち抜くのも駄目なのだ。『この世全ての悪(アンリマユ)』が完全覚醒したとしても、星の抑止力に属する遥の天叢雲剣であれば屠ることもできようが、それまでにどれだけの被害が出るか分からない。

 今のうちに同盟を組んでおけば『この世全ての悪(アンリマユ)』の起動まで持ち込むための戦力を確保できるうえ、真相を話しておけば他の陣営全てを潰すという愚行に出ることもない。その相手として遥が第一候補に挙げているのはセイバー陣営であった。

 アーチャーやバーサーカー、アサシン、キャスターの陣営は言うまでもなく不可能だ。ランサーも彼自身は承諾するのだろうが、マスターが許すまい。遥としても魔術師らしい魔術師との同盟とは願い下げだ。となれば残るはセイバーとライダーの陣営だ。

 仮に遥が同盟を持ち掛ければどちらも承諾してくれるだろうが、遥がそのうちからセイバー陣営を選んだのはライダーのような手合いが苦手ということ、そしてアイリスフィールが最優先監視対象であることがある。更に個人的な事情を加えれば、遥がアイリスフィールに対して同族意識を感じているということもあった。

 何気なく遥が漏らした言葉に、ロマニは何か訊きたそうな視線を遥へと向けるが遥はあえてそれを無視した。遥自身はその仲間意識の根源を理解しているが、ロマニに言うようなことでもない。むしろあまり他人には教えたくないことであった。

 背後で遥とロマニの会話を聞いているオルタは「え、あの騎士王サマと?」と呟いて嫌そうな顔をするが、反対意見を口にすることはなかった。彼女は遥が考えもなしの行動はしないことを知っている。それを理解している以上、無理矢理捻じ曲げることはしなかった。

 その後いくつかの報告をしてから、遥はカルデアとの通信を切った。時刻は既に午後11時を回り、外から聞こえてくる音は風などの自然音ばかりとなった。平時であれば宵っ張りの人々が闊歩する街中も、連続殺人事件の発生中では皆警戒しているため人影はほとんどない。

 聖杯戦争の参加者たちもこの時間になればほとんど外に出てはいるまい。出ているとすれば、それは連続殺人事件の犯人とその相棒であるキャスターだろう。恐らく今のところは連続殺人事件の犯人とキャスターを関連付けた推理をしているのは遥だけだ。だがそれも時間の問題だろう。

 動くなら今夜中か。そう判断してから遥は席を立つと、冷蔵庫から一升瓶をひとつ取り出して中身をコップに注いだ。

 

「なにそれ、酒?」

「そんなワケあるか。生憎、俺は酒と煙草はやらねぇ主義だ。これは霊薬だよ」

 

 そう言ってから、遥はコップに注いだ分を一気に呷った。清涼飲料水とフルーツジュースの間のような奇妙な味が口の中に広がり、すぐに身体から疲労が綺麗に消失する。補給物資として持ち込んだこの霊薬の効果は肉体の回復程度の弱い効果しかないが、日夜休みなく動かなくてはならない聖杯戦争中には最も重宝するものでもあった。

 霊薬の効果がきちんと出てからほう、と息を吐いて机にコップを置く。そこから遥の意図を察したのか、オルタが大判焼きを一気に口の中に放り込んだ。オルタの頬がリスの頬袋のように膨らんだ姿に遥は吹き出しそうになるが、何とか耐えた。吹き出せば焼かれてしまいそうだ。だが直後、和んでいる暇すらも与えぬとでも言うかのように遥の魔術回路が巨大な魔力の集積を感知する。

 

「ッ! サーヴァント……!」

 

 反射的にオルタと目配せすると、オルタも感知したらしく真面目な面持ちで頷きを返した。一般人が寝泊りするホテルの前で実体化するなど正気の沙汰とは思えないが、どうやら遥の感覚に狂いはなかったらしい。

 遥のサーヴァントとして振舞っているオルタはこの場にいるが、他の3騎はそうではない。タマモは引き続き冬木教会を監視。乱戦の監視を終えたエミヤは間桐邸へと移動し、沖田は遠坂邸を見張っている。つまり今ここに現れたサーヴァントとは遥とオルタのふたりで戦うしかない。

 だが、こんな時刻とはいえ一般人が密集している場所の前だ。派手に魔術や宝具を使えば秘匿云々以前に彼らを危険に晒す羽目になる。だからといって無視すれば、それはそれでどんな被害が齎されるか分からない。あくまでの遥の推理が当たっていればの話だが。

 何にせよ、迷っているだけの暇はない。カーテンを開けて窓を開け放つと、下に人がいないことを確認してそこから身を躍らせた。着地の瞬間に全身に強化魔術を付与し、落下の衝撃を相殺する。そうして振り返った先、今にもホテルの自動ドアを破壊せんとしていた襲撃者の姿を認め、遥が舌打ちを漏らす。

 そこにあったのは遥にも見覚えのある姿だった。身長は遥よりも高く、恐らくは190㎝以上ある。後ろ姿からだけではローブしか見えないため体躯を見計ることはできないが、身に纏う圧倒的なまでの魔力はこの男がサーヴァントであることを如実に表していた。

 遥がまだ確認していなかった残り1騎のサーヴァント、『魔術師(キャスター)』。その正体は遥の考えていた通りの存在であった。まさか、ここまで傍若無人で思慮に欠けた行動をするとは思っていなかったが。

 着地時の轟音から背後に何者かが現れたことに気付いたキャスターが振り返り、そして大仰な態度で礼を取った。

 

「ごきげんよう、ジャンヌのマスター。生憎、ゆるりと挨拶をしている暇もありません。早速我が麗しの聖処女をこちらに引き渡していただきたい」

「こんな時間に押しかけてきて言うことがそれか。もう少し常識ってモンをわきまえたらどうだ、キャスター」

 

 威嚇として帯刀していた叢雲の柄に手を掛けながら、殺意と敵意を最大限に込めた声で遥が言う。だがキャスター――ジル・ド・レェは遥の声が聞こえていないかのように無反応だった。それに苛立ちながらも冷静に、遥はその様子を見分する。

 近くにマスターらしき人物の姿はない。この場にいるのはキャスターと遥、そして念のため霊体化してから降りてきたオルタだけだ。遥の意思を汲んでのことかオルタは実体化するつもりはないらしく、この場にいることがキャスターに露見している様子はない。

 この距離であればキャスターが海魔を召喚するより先に攻撃を仕掛けることもできる。だがその場合、周囲への被害は免れ得ない。監視カメラには遥の姿も映っているだろうから、後々面倒なことになってしまう。今ここに誘拐された子供がいれば手段を選んではいられないところだったが、そうなってはいないのがせめてもの救いか。

 この場所にオルタがいると分かったのは恐らく乱戦を遠見の魔術か何かで覗き見していたからだろう。そのまま続けて撤退した遥たちを追っていたらここに辿り着いた、という訳だ。さしもの遥といえど経路(パス)に気付いていない状態で工房以外で遠見の魔術を無効化する術はない。

 

「残念ながら答えはノーだ。アヴェンジャーは俺のサーヴァントだ、誰がテメェなんぞに渡すかよ。

 それにな、キャスター。聖杯戦争中に無防備のままで敵に姿を晒すとか……殺してくれって言ってるのと同じだぜ?」

 

 言外に挑発の意思を滲ませ、キャスターを睨み付ける遥。しかしキャスターはその挑発に乗るのでも鼻で笑うのでもなく、心底可笑しいとでも言うかのように腹のそこから哄笑を迸らせた。

 その行動を訝る遥に対し、キャスターは笑声を漏らし続けながら言う。聖杯戦争は既に決着した。誰と戦うまでもなく聖杯は自分を選んだのだ。彼の唯一の願望であるジャンヌ・ダルクの復活が果たされているのがその証拠、と。

 キャスターの言は全てが間違っているという訳ではない。確かにオルタはキャスターが聖杯を手にして願望を叶えたことで生まれた存在だ。しかしそれは第一特異点での話であって、変異特異点αでの話ではない。そんなことを言ったところで無意味だろうが。

 このキャスターはスキル〝精神汚染〟の影響でまともな意思疎通を図ることはできない。キャスターに対して何を言おうとも、彼の中では全て自分に都合の良いように置き換えられてしまう。何を言っても無駄だ。

 

「分かりましたか? 彼女は細胞のひとつから血の一滴、その魂に至るまで私のものなのです。断じて貴方のものなどではない!」

「勝手なことをッ……!」

 

 キャスターの身勝手な物言いに遥の苛立ちが募る。いますぐにでも斬ってしまいたい衝動に駆られるが、遥はそれを強靭な理性で抑えた。海魔召喚の媒介となる血や水はこの場にないため海魔を召喚されることはない。キャスターがすぐに仕掛けてこないのはそのためだ。

 だが、キャスターの宝具である魔導書は何も海魔召喚だけに特化しているのではない。加えて神秘の秘匿など頭にないキャスターはここで魔術を行使するのに何の躊躇いもないだろう。そうなれば、遥も魔術行使と宝具使用を躊躇わないつもりではいる。

 ―――そもそも、連続誘拐殺人事件の犯人に間違いないキャスターを生かしておく必要などあるのか。ここで殺しておかなければ今後の多くの子供たちが犠牲になってしまうのではないか。無辜の人々の命と神秘の秘匿のどちらが重いかと言えば、考えるまでもなく前者だ。

 ならばどれだけの被害を出そうがここで殺してしまえるなら殺してしまおう。そう考えた遥であったが、彼が動くよりも早くにふたりの間を凄まじい熱量の炎が駆けた。見れば、オルタが実体化している。その姿を見てキャスターが歓喜の笑みを満面に浮かべた。

 感極まった様子で「おお、ジャンヌ……!!」と呟き、出目金のような目に涙すらも浮かべるキャスター。だがその笑みはすぐに凍り付くことになる。

 

「失せなさい、ジル。悪いけど、アンタに付いて行く気はないわ」

「な……何を言っているのですか、ジャンヌ!!! 私ではなくこの匹夫を選ぶと仰せかッ!」

 

 狂乱のままにそう叫ぶキャスター。出張った眼はひどく血走り、それがキャスターにとってどれだけの意味を持つ言葉であったのかを伺わせる。肌で感じるほどの強烈な感情を、しかしオルタは鼻で笑って一蹴した。

 オルタがキャスターに向けて放った決別の言葉。それに驚いたのはキャスターだけではなく、遥も同じであった。キャスターはオルタにとっては生みの親も同然の存在だ。故に決定的な拒絶だけはしないと思っていたのだが、オルタの言葉に嘘の色合いはない。

 激憤と絶望に金切り声をあげるキャスターであるが、その感情のままに仕掛けてこないのは自分が不利であることを悟っているからか。いかな狂った英霊とはいえ、元々持っていた戦術眼は健在であるらしい。

 頭を掻き毟りながら、キャスターが遥とオルタから距離を取る。やがて一際巨大な咆哮をあげると、キャスターは激しい殺意を遥へと向けた。

 

「許さぬ……許さぬぞ、この匹夫めがッ! いずれ必ず貴様を殺し、ジャンヌを取り戻す! 覚悟して待っているがいいッ!!!」

 

 怒りに任せたその咆哮の直後、キャスターの姿が微小な魔力光を伴って消失した。少しでも手傷を負わせようと遥が黒鍵を投擲するも、それは霊体化したキャスターを掠めただけで空を切る結果となった。

 霊体化したキャスターの気配が遠ざかっていく。先程のキャスターの咆哮が聞こえて起きてしまったのか、いくつかの部屋に明かりがついているが遥たちを見ている様子はない。緊張が解け、遥が深いため息を吐いた。同時にこれでよかったのかという迷いが胸中に生まれる。

 遥の推理が当たっているのなら、キャスターは連続誘拐殺人事件の犯人だ。いくらここで戦えば周囲への被害が大きくなってしまうとはいえ、それを逃がしてしまってよかったのか。遥は彼らの拠点の位置を知らないのだから、遥たちから仕掛けることはできない。拠点を見付けない限り、キャスターに対して彼らは常に受け身でいるしかない。

 そう考え込む遥を見て、オルタが呆れた表情を浮かべる。

 

「景気悪い顔してんじゃないわよ。こっちまで気分悪くなってくるじゃない」

「ああ、すまない。……なぁ、オルタ。オルタは何でキャスターにああ言えたんだ? 俺はてっきり、少しは迷うモンだと思ってたが」

 

 遥の問いに対し、オルタは鼻で笑ってから答えを返す。

 

「私の出自がどうであれ、今の私はアンタのサーヴァント。アンタの敵を追い払うのは当然でしょ? それに、ジルに付くのはアンタの召喚に応じた理由に反するから」

「俺の召喚に応じた理由? なんだそれ、聞いたことないぞ?」

 

 遥の言葉にオルタは何処か含みのある笑みを浮かべながら「言う訳ないじゃない」と返すとひとりでホテルの中に戻っていった。遥はまだ問おうとするが、オルタに言うつもりがないのならどれだけ問うても答えてはくれないだろう。

 空を見上げる。レイシフトしてから今まで、思えば色々なことに巻き込まれている。ケイネスとの魔術戦やセイバーとの戦闘、そしてキャスターからの襲撃。改めて意識してみると、肉体面ではない精神面での疲れがひどく蓄積しているような気がする。

 月は既に天頂近くまで昇り、この日が残り少ないことを示していた。あまりに濃密な時間だったため忘れそうになるが、レイシフトしてからまだ十数時間しか経っていない。改めて聖杯戦争の過酷さを実感しながらも、欠伸を漏らしながら遥もオルタを追ってホテルに戻った。

 

 こうして、一日目の夜は過ぎていく。



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第27話 一夜目の終焉

 遥とオルタがホテル前でキャスターと問答した数分後。冬木教会の地下では僧衣姿のふたりの男が神妙な面持ちで蓄音機に向かっていた。

 そのうちひとりは顔に無数の深い皺が刻まれ、白く染まり切った髪を後ろに撫でつけている老齢の男性。その顔を見るに相当な年齢のようであるが、しかし僧衣の上からでも分かるほどの筋肉がその老神父が潜ってきた修羅場の数を伺わせる。この老神父の名前は〝言峰璃正〟という。

 もうひとりは二十代前半ほどだろうか。短く切った髪の下には感情の読めない鉄面皮がある。老神父と同じように僧衣で包まれた屈強な体躯は、彼がこれまで積み上げてきた尋常ならざる修練の賜物であった。第八秘跡会の元代行者、人型の修羅とも言われる者たちのひとり〝言峰綺礼〟。

 彼らが蓄音機に向かっているのは、何も自分たちの声を録音しておくためではない。彼らの眼の前に設置されている蓄音機には本来あるべき針がなく、代わりに宝石が組み込まれていた。その宝石は魔術により対になっている宝石と共振し、音声を伝える仕組みになっている。要は一種の通信機のようなものであった。

 その通信機に使われているのは遠坂家伝来の宝石魔術――すなわち、対となる宝石が組み込まれた通信機は遠坂邸に存在する。そしてその通信機の前では綺礼らと同じように、現遠坂家当主〝遠坂時臣〟が優雅な姿勢ながらも顔に煩悶を浮かべて立っていた。彼らが頭を悩ませているのは他でもない。突如として現れた8騎目を名乗るサーヴァントとそのマスターの存在である。

 通常、聖杯戦争は7騎のサーヴァントと7人の魔術師たちの7組が聖杯を巡って相争う魔術儀式である。そのため8騎目のサーヴァントなど、普通は存在しない筈なのだ。霊器盤も7騎のサーヴァントのみに対応しているため、8騎目が召喚されたとしてもクラスすら分からない。そもそも、過去の聖杯戦争を顧みても8騎目などというイレギュラーは存在しない。せいぜい三騎士以外のクラスのひとつがエクストラクラスになる程度だ。

 しかし、どれだけ過去を鑑みて否定しようが真に重要なのは現実だ。実際に召喚されている以上、どんな材料を用いてもその存在を否定することはできない。長い沈黙の後、通信機の向こう側で時臣が口を開いた。

 

『……それで、あの男について何か分かりましたか、神父?』

「現在、教会の情報網の全てを駆使して情報収集を行っています。……しかし、申し訳ない。現状であの男について言えるのは〝全く不明である〟程度ですな」

 

 璃正の言葉に時臣が困った、とでも言うように唸った。しかし時臣に璃正を責める気はなく、またその権利もなかった。魔術協会に通じ、魔術世界について多くを知己している時臣ですらその男〝夜桜遥〟については全く何も知らないのだから。

 港の倉庫街で行われた戦闘において遥が持ち出した武具を見れば、どれだけ未熟な魔術師であろうと彼が伝承保菌者(ゴッズホルダー)であることくらいは分かる。だが伝承保菌者(ゴッズホルダー)の日本人となれば、少なくとも時臣が知らないのは不自然であるのだ。

 せめてアサシンによる諜報活動で何か分かれば良かったのだが遥は聖杯戦争における情報の意味をよく理解しているらしく、拠点以外の場所においては徹底して名前以外を口にしなかった。加えて拠点には超が付くほど強力な結界が張られており、アサシンたちは侵入すらも不可能な状態となっている。

 間諜として放ったアサシンに情報を集めさせ、そうして集めた情報を元にしてアーチャーによる必勝戦略を用意する。彼らの戦術が通用しない唯一の相手であった。だが、分かったこともある。

 

『しかし、業腹だがあのキャスターは良いことをしてくれた。まさかああも包み隠さず真名を露呈させてくれるとは』

「全くその通り。オルレアンの聖処女〝ジャンヌ・ダルク〟……まさかかの聖女が『復讐者』の(クラス)に招かれるとは、夢にも思いませなんだ」

 

 『復讐者』の座、すなわちエクストラクラス〝アヴェンジャー〟。璃正がそのクラスの存在を知り得ているのは、ひとえに第三次聖杯戦争時の経験があるが故だった。前回はアインツベルンがルール違反で召喚した青年が据えられていた。

 聖堂教会の一員としては聖人に列せられるに至った人間が『復讐者(アヴェンジャー)』に据えられるというのは信じがたいことであったが、あの最期を考えれば納得せざるを得ないのも確かであった。自らの全てを神に捧げればこそ、神からの裏切りにも等しいことは許せない筈だ。

 英霊としての聖女の能力を計るなら、知名度は間違いなく最高クラスだ。何しろ聖人のひとりであるのだから。知名度補正は他のどの英霊とも比較すら烏滸がましいほどのものであろう。

 だが、ジャンヌ・ダルクの全盛期の能力は他の英霊たちには及ばない。ジャンヌは戦士ではなく、戦士たちを鼓舞する存在であり彼女自身が戦った訳ではないのだから。――と考えるのは早計だ。

 何しろ、倉庫街での戦闘でアヴェンジャーは武人であるランサーと渡り合ってみせたのだ。アサシンの視界を借りて見た限りでは互角のようであったが、しかし綺礼にはアヴェンジャーにはまだ余裕があったようにも見えた。恐らくまだ隠し玉があるのだろう。

 あのジャンヌ・ダルクは何かがおかしいという疑問は3人全員が漠然とした認識として持ってはいるが、それを解決する手段がない。しばらくして時臣は何処か納得したかのような声音で言葉を漏らした。

 

『なんにせよ、アヴェンジャーはアーチャーに敵うものではあるまい。問題は……』

「そのマスター……夜桜遥の方ですか」

 

 綺礼の言葉に顔の見えない時臣が頷く。

 普通ならサーヴァントよりもマスターの方を危険視するなどあり得ない事態だ。だが何事にも例外は付き物。聖杯戦争において、遥はまさしくその例外に類する魔術師であった。

 異常な量の神秘を内包する宝具を持つことだけではない。如何なる手段を以てしてか綺礼たちは全く知れないが、最優のサーヴァントと呼ばれるセイバーと互角以上に渡り合うことも異常だ。

 綺礼は埋葬機関の足元にも及ばないが、それでも人間の尺度で測れば最強クラスではあるのだ。それでも三騎士たちには遠く及ばないというのに、遥はそれと渡り合い、あまつさえ圧倒しているのだ。

 あまり認めたくはない事実だが、少なくともこの第四次聖杯戦争において遥に勝利し得るマスターは存在しない。アインツベルンのホムンクルスはそもそも戦闘を苦手としているし、戦闘の心得がある時臣やケイネスでも勝つことはできまい。

 或いは勝利する可能性があるとすれば、それは綺礼だけだろう。サーヴァントとすら拮抗し得る相手と直接戦闘になれば敗北は免れ得ないが、不意打ちの一撃で沈めれば不可能な話ではない。

 冷静にそう分析する綺礼の耳朶を、僅かな怒りを押し込めた時臣の声が打つ。

 

『綺礼。私はね、こういう手合いがあまり好きではない。仮にも魔術を修めた身でありながら魔術師の誇りを蔑ろにし、あまつさえ近代兵器にまで手を染めるなど……。

 まだ剣士の誇りを持っているだけマシ、といったところか』

 

 時臣の言葉に綺礼は何も返さなかった。

 時臣の思いは分かる。現代の魔術師には珍しいほどの保守派である時臣からしてみれば、魔術を修めた者は魔術師然としているべきというのが当然なのだろう。それは時臣自身がそうあることが何よりの証左だ。

 だが分かることと理解できることは違う。数多の封印指定の魔術師を狩ってきた綺礼からしれみれば、遥の戦術は感心しこそすれ蔑むことはない。とかく魔術師とは近代兵器を蔑み、それへの対策を怠るきらいがある。若いながら、遥は相当な実戦を経験していると見えた。

 ただ、それだけだ。この男もまた綺礼の関心を引く対象ではない。夜桜遥という男は最大の危険分子ではあるが、現在とっている作戦を捻じ曲げてまで綺礼が相手をするような人間ではない。どれだけ強かろうが、アーチャーの前では木偶人形も同然だ。

 言峰綺礼というのは空虚な人間だ。普通の人が美しいと思えるものを美しいとは思えず、しかしいずれ信仰の道が自らの魂の在り様を教えてくれると信じて今まで生きてきた。だが、未だ答えらしきものは見えない。

 或いは綺礼と同じように無意味な徒労を繰り返し、その果てに答えを得た者がいれば綺礼は自らの役目すらもかなぐり捨ててその者へと戦いを挑んだことだろう。だがこの戦場にそのような者はいない。皆自らに誇りを持ち、ひとりで存在意義(アイデンティティ)を確立させている。

 3年の月日を費やしたこの任務も、結局は綺礼に答えを示してくれそうにない。この任務を終えた後も綺礼は自らの空虚に答えを出せないままに聖堂教会へと舞い戻り、異端狩りに明け暮れる日々を過ごすことだろう。

 その未来がありありと想像できて、綺礼は表情に出さず内心だけで落胆の溜息を吐いた。結局のところ、綺礼の懊悩と煩悶に答えを出してくれる存在はいない。このまま一生という長すぎる時間を徒労の内に沈めてしまうことも考えられた。

 しかしそんな綺礼の思いとは裏腹に、周囲は綺礼を敬虔な殉教者だと勘違いする。彼が抱える苦悩に気付くこともないまま、茨の道を進み続ける綺礼を高尚な人間と誤解するのだ。時臣だけではなく、璃正や死んだ妻もまたそのひとりだ。

 それを嘆くでもなく、綺礼はただ事実としてそれを受け入れている。そうして綺礼が瞑目した時、彼は傍らに何者かが現れたことを感じ取った。見れば、綺礼が契約したアサシン――『百貌』のハサンのうち1人が跪いていた。

 

「どうした、アサシン。何か報告か?」

「は。恐れながら。

 ……キャスターめの居所が掴めました」

 

 アサシンからの報告に綺礼がほう、と言葉を漏らす。それを続けて報告しろという命令と取ったのか、アサシンはさらに続ける。

 遥たちとキャスターの遭遇を確認した後、遥たちに付いていたアサシンはこれ以上遥たちの監視をしているのは無意味と判断して未だ居所が掴めていなかったキャスターの追跡へと入ったのだが、思いのほか簡単にキャスターの居所は掴むことができた。

 冬木市の中央に奔る未遠川の中流域に繋がる巨大貯水槽。キャスターとそのマスターである連続殺人鬼〝雨竜龍之介〟はそこに誘拐してきた子供たちを閉じ込め、あまつさえその身体を使って造り上げた珍妙かつ陰惨、醜悪なモノを〝アート〟と称している。要は異常人格者(サイコパス)である。

 加えてキャスターたちは子供の誘拐に際して何の躊躇いもなく魔術を行使しておきながらその痕跡を消さず、あまつさえ気付かれた場合は一家全員を惨殺するという凶行に及んでいる。最早魔術師どころか〝魔術使い〟と呼ぶことすらも烏滸がましい。魔術使いたちですらもっと神秘の秘匿には慎重になるだろう。

 『青髭』という呼び方からして真名が〝ジル・ド・レェ〟であることは間違いない。百年戦争時はフランスの元帥であったが、ジャンヌ・ダルクの死後に堕落して黒魔術と錬金術に耽溺し、さらには無数の少年少女を凌辱及び殺害した男。成程彼であれば児童の連続誘拐事件と結びつけるのも容易だ。

 他にもアサシンからの報告内容はあったが、最も重要であるのはキャスターたちが連続児童誘拐・殺害事件の下手人であることだろう。彼らは聖杯戦争など眼中になく、自らの底なしの欲求を満たすことだけしか頭にない。間違いなく聖杯戦争の進行どころか魔術世界と一般社会のどちらにも害しか齎さない。

 聖杯戦争は魔術師同様条理の外にある存在であるが故、倫理で物を語ることはない。だが、条理の外にあるからこそ守らなければならない法をキャスターと龍之介は平気で破っている。断じて見逃す訳にはいかない蛮行であった。

 最早、8騎目のサーヴァントだとかセイバーと渡り合えるマスターだとか言っている場合ではなかった。彼らは確かに例外的な存在ではあるが、聖杯戦争のルールに則っているのなら参入を拒む理由はない。だが、キャスターらはその最低限のルールすらも守っていない始末だ。

 

「これは放任できんでしょう、時臣君。……時臣君?」

 

 いつもならばすぐに返事が返ってくる筈のいらえがない。それを怪しんだ璃正が名前を呼びかけるも、時臣からの返事はなかった。代わりに通信機から聞こえてくるのは通信が狂ったことを示すノイズばかりである。

 時臣が通信を切ったのならその時点で教会側にある通信機も機能を停止し、ノイズも鳴らない筈だ。そもそも時臣は挨拶もなしに無言で一方的に通信を切るような男ではないことをふたりは知っていた。そんなことをしては〝常に余裕を持って優雅たれ〟という家訓に反してしまう。

 それが示すところはつまり、通信が何者かに妨害されているということだ。それは転じて監督役と遠坂の間に結ばれている極秘裏にしてルール無視の同盟関係を看破しているということに他ならない。加えて時臣が造り出した魔術通信を妨害できるということは、彼よりも高位の魔術師であるということである。

 璃正と綺礼がほとんど同時にその結論に達した時、マスターたる綺礼の意思を汲んだのか、或いは報告があったのか新たに1人のアサシンが実体化した。そのアサシンに向け、綺礼が間髪入れずに問いを投げる。

 

「ここに近づいてきているのは何者だ、アサシン?」

「それが……アヴェンジャーのマスターに御座います。しかし、どうにもサーヴァントの気配がなく……」

 

 アサシンのその報告に、綺礼は僅かに疑問を覚えた。今は聖杯戦争中であるというのに、サーヴァントを従えるマスターがサーヴァントを連れずに外を出歩いている。魔術で隠しているのではとも考えたが、よもや気配遮断と察知に優れるアサシンの眼を誤魔化すなどあろう筈もない。

 昼間ならともかく夜間にサーヴァントも連れずに出歩くというのは余程自分の実力に自信があるか、愚鈍であるのかどちらかだ。だが戦闘時の遥は綺礼の眼にはどちらの人物像にも当てはまらないように見えた。ならば何故そんな愚行をするのか。考えても答えは出ない。

 すぐに綺礼が璃正に目配せをすると、璃正も全く同じことを考えていたのか無言で息子の意思に同調して首を縦に振った。綺礼もまた頷きを返して礼拝堂へと出ていく父親の姿を見送ると、すぐにでもアサシンによる攻撃を仕掛けられるように全てのアサシンに対して念話を飛ばした。

 対して礼拝堂へと出た璃正を出迎えたのは、既に教会の中へと足を踏み入れたアヴェンジャーのマスター――遥であった。遥は璃正の姿を認めると、相手に感情を読ませない薄い笑みを浮かべる。

 

「こんな夜分に失礼。アンタが第四次聖杯戦争の監督役……言峰璃正神父で間違いはないな?」

「如何にも。して、何用ですかな? よもや聖杯戦争に参加するなどとは言いますまい? 既に聖杯戦争には7騎の英霊が出揃っているのですぞ?」

 

 アサシンたちから齎された情報は伏せ、あくまでも公正な監督役として振舞う璃正。その態度に思わず遥は笑い出しそうになってしまったが、寸でのところでそれを抑えた。代わりに遥の口から洩れたのは嘲りとも友好とも取れない、奇妙な笑声であった。

 璃正たちは聖杯戦争の初日、アサシンのうち1騎を遠坂邸に放ちそれをアーチャーに斃させることでアサシンの敗退を演じたが、そもそもその時点ではこの冬木にいなかった遥たちがそれを知る由もない。だが監視の結果からアサシンのマスターたる言峰綺礼がこの場にいるというのにアサシンが敗退していないことは分かっていた。

 アサシンが未だ敗退していないことは璃正も知っているだろう。だというのに綺礼が教会にいるのを看過しているのは、彼らがグルである証拠だ。だが遥はすぐにその事実を叩きつけることはせず、しかし人の良い笑みを消して責めるような視線を璃正へと向けた。

 

「アサシンに聞いてるんだろ? 俺がアヴェンジャーを従えてることくらい」

「! ……はて、何のことですかな? アサシンは既に敗退している。仮にアサシンが生きていたとして、私が知る由もないでしょう」

 

 あくまでもしらばっくれるつもりか、と遥が怒りを隠すこともなく舌打ちを漏らした。

 遥はこの世界の聖杯戦争についてはほとんど知らないが、本来監督役とはどの陣営にも属さず与しない公平な役職であると聞いていた。しかしエミヤが参加していた第五次聖杯戦争では綺礼が監督役であったというが、第五次でも監督役は己の職務を逸脱した行動をとっていたという。

 そして、その父親である璃正もまた監督役としての権限を乱用し、あまつさえアサシン陣営とアーチャー陣営に与している。血は争えないということだろうか。なんであれ、遥はアサシンやルールを無視する監督役が邪魔だった。

 本来教会は不可侵にして非戦闘地帯であるが、相手がルール違反を犯しているのであれば話は別だ。目には目を、歯には歯を。ルール違反にはルール違反を。ルール違反を犯した相手を斃すには、多少のルール違反を犯す他ない。

 

「公正を謳う監督役でさえこれか。これじゃ聖堂教会の品位も程度が知れるってモンだな。ま、今更だろうが」

「これはまた随分と手厳しい。嫌いなのですかな、我々が?」

 

 璃正の問いに対して遥は何も答えないが、しかしその表情は言葉よりもなお雄弁にその内心を物語っていた。聖堂教会における最高位の権威を持つ埋葬機関とも協力したことがある遥であったが、彼はあまり聖堂教会が好きではない。むしろ嫌いだった。

 基本的に聖堂教会というのは狂信者の集団だ。彼らの信じる神の教えを絶対に遵守し、それに従わない者は殺しても構わないという過激派なのである。魔術協会とは表向きは和解しているが、水面下ではいつまでも殺し合いを続けている。

 遥は今まで何度か魔術協会と聖堂教会の戦闘現場に出くわしたことがあった。それは単なる抗争であったり、異端魔術師の排除でぶつかりあったりと状況は様々だが、それら全てで何も関係がない筈の無辜の人々が巻き込まれていたことは事実だ。

 立場がどうであれ、自らの信念を第一として無関係の人々を殺している時点で遥にとっては聖堂教会もそこらの悪徳魔術師と変わらない。だがその嫌悪感を押し隠したまま、遥は低い声で言う。

 

「なんだっていいだろ、そんなコトは。……これで最後だ。アサシンのマスターを出せ、神父」

「いかなる理由があるのであれ、敗残マスターを生き残りの前に出す訳にはいきませんな。そもそも、ここは不可侵地帯だ。戦闘行為は許されない」

 

 全く悪びれることなく、璃正は遥に対してそう宣言した。その言葉は聞き方によっては妄言を吐き散らす狂人に対して真実を告げる聖職者のようにも聞こえるが、その実態はそうではない。互いにルールを無視したやり取りは、聖杯戦争の堕落を象徴するものであろう。

 どれだけ問うても璃正は遥に対する態度を変えない。まさに暖簾に腕押しであった。だが遥は今度は舌打ちを漏らすことはなく、それどころか嘲るような薄い笑みを浮かべたまま立っている。

 

「あくまでも白を切り通すつもりか。ならいいさ。ここからは――――」

 

 瞬間、黄金の軌跡が虚空を切り裂いた。続けて宙を舞ったのは、まるで黒い染料で染め上げたかのような黒い肌に髑髏の仮面を付けた生首。それは輪切りにされた首から血飛沫を吹き出しながら放物線を描き、静寂の中で床へと落ちた。

 遥が落とした首が誰のものであるかは最早疑うまでもない。深い青の髪と髑髏の面のサーヴァントなどアサシン以外にはあり得ない。遥の一刀の許に首を刎ねられたアサシンは自らが死んだことを認識する暇すらもなく、その存在を無意味な魔力光へと還す。

 抜刀から斬撃までが完璧なまでの動作の内に納められた神速の一撃。それは最早達人だとか天才だとか、そういう域にあるものではなかった。その剣技は正に剣神の領域に片足を踏み込んでいるといっても過言ではない。だが遥はそれを誇る様子すらも見せず、黄金に輝く叢雲の切っ先を璃正に向けて突きつけた。

 

「―――実力行使でいかせてもらう」

 

 全身から放射される殺気は正に抜き身の刃が如く。周囲の者へと向けられた威圧感(プレッシャー)は遥の存在の畏怖を抱かせ、人の領域を大きく上回る魔力に思わず璃正が後退った。先程までは半信半疑だったが、今ならば確信できる。この男には自分や綺礼では絶対に勝てない、と。

 功を焦った1人が殺されたことで存在の露見したアサシンたちが礼拝堂の中で次々と実体化する。10人、20人程度では済まない。ある者は壁に張り付き、またある者は椅子の背もたれに乗り、一瞬のうちに礼拝堂はアサシンたちに埋め尽くされた。

 これこそが言峰綺礼が召喚したアサシン、『百貌』のハサンの真髄。宝具〝妄想幻像(ザバーニーヤ)〟である。この宝具はアサシンが内包する無数の人格を能力低下を代償としてそれぞれ別個の個体として分離させることができる。要は人海戦術の究極に位置する宝具だ。

 それは正に質より量を体現した宝具だ。どれだけ強い相手であろうと圧倒的な物量を以て押し潰せば良い、という。原理こそ分からないもののこの場にアサシンが集結した理由に気付いた遥が嗤う。

 恐らくアサシンたちはサーヴァントも連れずに出てきた莫迦なマスターであれば総力を以て押し潰すのは簡単だと思っているのだろう。それどころか、全てのアサシンが集結させられたことを不思議に思っているのかも知れない。

 舐められたものだ、と遥が内心で呟く。どれだけ数が多かろうと弱体化したアサシン如き何人いようが敵ではない。そもそも、気配がしないからといってサーヴァントを連れていないなどと何故言いきれるのだろうか。まるで睥睨するかのように周囲を見回した直後、遥が口を開いた。

 

「やれ、アヴェンジャー」

 

 直後、アサシンたちの頭上に黒い魔力の槍が現出した。すぐにそれに気付いたアサシンたちは避けようとするが、そのうち何人かは降り注いだ魔力の槍に霊核を貫かれて消滅する。

 そして、避けられなかったアサシンたちを愚鈍と言う高笑いが礼拝堂に響く。見れば、いつの間にか遥のサーヴァントたるアヴェンジャー――ジャンヌ・ダルク・オルタが実体化していた。オルタがいないと思っていたアサシンたちが明らかに狼狽する。

 7つの通常クラスのサーヴァントのうちで最も霊感に優れたアサシンの目を誤魔化すことなど普通は不可能だ。アサシンたちはそれが分かっているからこそ、それを潜り抜けられたことが信じられないのである。

 だが、遥からしてみればその驕りこそがあり得ないものであった。何事にも例外は付き物。要は遥が継いだ魔術がアサシンたちの霊感すらも働かない例外に属するものであったに過ぎない。気配そのものを封印できる魔術があるとはアサシンたちは思わなかったのだろう。

 オルタは遥と背中合わせに立ち、右手に旗を、左手に長剣を握る。そうして顔に邪悪さが滲む笑みを浮かべたまま、遥に悪態を吐いた。

 

「まったく、いつまで待たせんのよ」

「悪い。でも作戦通りだっただろ?」

 

 遥が立てた作戦とはオルタの気配を魔術で隠蔽することだけではない。璃正の話に乗っていたのも、アサシンが集結するまでの時間を稼がせるためだ。この場にいるアサシンだけを斃すのでは足りない。それではより監視の目が強まるだけになってしまう。

 遥があれだけ目の仇のしていたキャスターの討伐よりもアサシンたちの掃討を優先したのは、単純に彼らが邪魔だったからだ。沖田たちを動かそうにもアサシンたちがいては最も警戒すべきアーチャー陣営に全て露見してしまう。アサシン陣営の殲滅は急務であったのだ。

 不可侵地帯である教会で戦闘をするのは本来はルール違反であるが、そんなことを言っていたのではいつまでもアサシンを斃すことができない。だが監督役がルール違反をしている証拠さえ掴んでしまえば、相手も容易にこちらをルール違反で断罪することはできまい。

 遥ひとりであればアサシンたちはすぐにでも仕掛けてきていたのであろうが、オルタまで現れたのでは話が別だ。元来低い能力が分割によってさらに低下しているアサシンたちでは、真正面から戦えば遥とオルタには勝てない。それが分かっているからこそ、彼らは不用意に仕掛けてこないのだ。

 対する遥は魔術回路に己が全力を以て魔力を流し、続けて「魔術回路、封印解放(サーキット・オーバーフロー)憑依分霊接続(コネクト)」と祝詞を唱える。同時に周囲へと放射される魔力が何倍にも増した。その時になってアサシンのうち数人が捨て身の覚悟で突貫しようとするが、しかしそれは唐突に現れた灼熱によって阻まれる。

 いつの間にかどこからか現れた炎が礼拝堂を満たし、遥とオルタを中心にして全てを燃やす。それは遥の煉獄から漏れ出した焔とオルタが内包する恩讐の炎が溶け合い生み出した、現世の灼熱地獄とでも言うべき光景であった。

 一瞬にして膨張した空気が扉を押し開け、そこから璃正と綺礼をを抱えたアサシンが離脱する。だがその直後、どこからか放たれた矢が2人のアサシンの眉間を打ち抜いた。エミヤによる狙撃である。離脱しようとして教会から出てくるアサシンの悉くがエミヤに打ち抜かれ、一瞬にして10人以上が絶命した。

 離脱すれば一方的に撃ち殺される。故にアサシンたちに残された選択肢は遥たちと戦うことだけだ。だが、果たして勝てるのか。半ば戦意を喪失したアサシンたちの前で、現世に現出した無間地獄のふたりの主はそこに落ちてきた暗殺者たちに宣戦布告の言葉を投げた。

 

「いざ―――参る!!!」

「さぁ、フィナーレのお時間よ!!!」

 

 今のアサシンたちにとって、その言葉は地獄の判決にすら等しい。

 そして遥たちが造り出す灼熱地獄に呑み込まれた彼らに、生き残る術など一片たりとて残されてはいなかった。




アサシン・言峰綺礼陣営敗退。残り6+1騎。

ただ邪魔だったから、という理由で真っ先にアサシンを斃した遥君。これには時臣も大慌ての模様。
次回辺り立香の視点が入る……かも。


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第28話 同盟交渉/月下美人

「……どこよ、ここ」

 

 周囲を見渡してオルタがひとり呟く。しかしその問いに答える声はなく、代わりに聞こえてくるのは焔が燃え盛る音や地面に奔った亀裂からマグマが噴き出す音だけであった。

 火種もないのにいつまでも焔が燃え続け、大地からは際限なくマグマが噴き出している。本来蒼い筈の空はどこからか噴き出した黒い煙の包まれて、地上を照らすのは焔が発する明かりばかりだ。周りには誰もおらず、ここで息をしているのはオルタだけである。

 否。その様相は〝誰もいない〟というよりも〝皆を拒絶し、否定する〟という方が正しいようにも思える。生命あるもの、心あるものの悉くを否定する世界にオルタは何の因果かひとりで紛れ込んでしまったのだ。

 オルタ自身、どうしてこの場にいるのかすぐには分からなかった。教会から戻ってきた後にすぐに眠り、気付いた時にはここにいたのである。まるで煉獄のようでありながら、それよりもなお酷いこの世界に。

 一瞬これはただの夢かとも思ったが、オルタはすぐにその可能性を否定した。サーヴァントは基本的に眠る必要性がなく、故に記憶整理の副産物としての夢も見ない。或いは確認されていないだけであり得るのかも知れないが、それならそれでもっと現実的な夢である筈だ。

 普通の夢ではないのならば、これは一体何なのか。考えるまでもなかった。すぐに合点がいったオルタはもう一度この世界を見渡し、そうして無意識のうちに言葉を漏らした。

 

「そっか。ここは(アイツ)心象(なか)ってワケね」

 

 契約で繋がっているマスターとサーヴァントは稀に契約の経路(パス)を通じて互いの記憶を覗き見るということがあるということは、サーヴァントであるオルタにとっては既知の事実であった。

 だがこうして実際に体験してみると、知識として知り得ていたことでも新鮮なものである。加えてこれはただの記憶ではなく遥が内包する心象そのものだ。特殊であるのは当然のことであろう。

 これが遥の心象であるということは、いわばこの世界は『夜桜遥』という男の精神が具現化した世界であるということだ。空虚でありながら明確に何らかの感情で満たされたこの煉獄が、オルタのマスターたる魔術師を象徴するもの。

 或いはオルタがこの煉獄に入ってくることができたのは、彼女がこれに極めて近い心象であるからなのかも知れない。他のサーヴァントであれば、いかな記憶の覗き見とはいえ煉獄に呑まれて無理矢理外に出されていただろう。

 この世界が内包する感情が如何なるものであるのかは、この光景が物語っている。これは遥が抱く負の感情が堆積した結果だ。否定と絶望。憤怒と憎悪。煉獄の焔が火種としているのは、要はそういった感情だ。

 だがそれらを火種にしてはいても、決してその感情は尽きることがない。人の感情とはそういうものだ。普通は一過性のものである感情でも、ある一線を越えれば際限なく湧き出してくる。故に煉獄は枯れることなく焔を吐き出す。

 遥はそれらと折り合いをつける訳でも、これを受け入れて生きている訳でもない。それは同じ『復讐者』であるオルタだからこそ分かる。これだけの感情を人間は無視できない。できるとすれば、それは相当な聖人か狂人だけだ。

 オルタはそれを歪んでいるとは思うが、否定する気はなかった。他に遥と契約している英霊たちは遥が抱えた歪みをオルタほど認識している訳ではないが、気付けば正そうとするだろう。故に今の遥を是認肯定してやれるのは自分だけだという確信がオルタにはあった。

 

「それにしても……なんともまぁ、殺風景な世界だこと」

 

 オルタの周囲にあるのは焔やマグマ、黒煙ばかりで後は草木の1本すらも生えていない。まさしく煉獄と呼称するに相応しいひどく孤独な世界だ。

 だが鬱屈した感情や激しく暴れまわる感情の堆積が具現化した世界であるというのに無差別に全てを焼き払うものではなく、人の『罪』を祓う煉獄として具現したのは、ひどく遥らしいとオルタは感じた。

 遥が無差別に激情を撒き散らすような悪漢であればこの世界はより醜悪なものとなっていただろう。遥自身も人理修復などには協力せず、むしろそれを妨害する側となっていただろう。かつての竜の魔女(オルタ)がそうであったように。

 遥とオルタは同じ『復讐者』という在り方ではあっても、その中身は大きく異なっている。ただ恩讐のままに殺戮を繰り広げたオルタのように激情のままに命を奪うのではない、別な復讐。

 それでも復讐である限り、果てにあるものは変わりがない。復讐者自身の破滅だ。だがその過程が虐殺などよりも美しいものであるのなら、それは虐殺などよりも余程価値がある筈だ。そしてそれを遥の隣で見届けられたのならどれだけ良いことか――それがオルタが遥の召喚に応じた理由だった。絶対に本人には言わないが。

 仮に言ってしまえばどんな反応をされるか。考えて渋面を浮かべるオルタ。そんな彼女の身体を唐突に小さな揺れが襲った。足元を見れば、そこに奔った亀裂が紅く光っていた。

 

「……そろそろ終わりね」

 

 何処か惜しむような声音でオルタがそう言った直後、彼女の身体は大地から吹きあがったマグマに呑み込まれた。夢の終焉である。マグマに吞まれたオルタの視界は一瞬で赤熱し、すぐに暗転する。

 そのまま霊体化したかのように一瞬だけ全身の感覚が消失し、すぐに現の感覚へと切り替わった。すぐに感じたのは全身を覆う掛布団とベッドの熱感。続けて僅かに開いた瞼から日差しが差し込み、思わず頭から布団を被る。

 この特異点の冬木市は冬だ。一応はエアコンも点いてはいるが1994年のモデルでは性能もたかが知れている。ベッドと布団の間から入ってくる少しだけ温度の低い空気のせいかすぐにでも二度寝したい衝動に駆られるが、それを我慢して起き上がった。

 寝ぼけた意識のまま眼を擦るオルタ。ふわと無防備な欠伸を漏らすオルタの耳朶を、彼女の主の声が打った。

 

「おっ、起きたか。おはよう、オルタ」

「うん……おはよ」

 

 平時ならば普通に挨拶を返すことがなさそうなオルタであるが、寝ぼけている時はそうではないようで素直に挨拶を返した。或いはこれがオルタの素なのかも知れないが、遥はそれを揶揄うことはしなかった。素直ではないことに関しては遥も人のことは言えない。

 オルタは今起きたが、時刻は既に9時を過ぎていた。だが決してオルタが寝坊をしたという訳ではない。アサシン陣営を打倒した後にホテルに戻って眠ったのが午前3時ほどなのだ。いかなサーヴァントとはいえ一度眠れば熟睡してしまうのは無理からぬことである。遥も意識解体の魔術を利用しての短期睡眠を使っていなければ今でも眠っていただろう。

 聖杯戦争は基本的に夜間に行われるため昼間は眠っていても問題はないのだが、遥がそうしなかったのはアサシン陣営――もとい監督役の動向を監視するためだ。いくら相手がルール違反を犯していたとはいえ、監督役の権限でもみ消される場合もある。それに備えて彼らの通信内容は全て傍受して録音しているのだが。

 しかし、今まで監督役からの動きはない。遥の予想では懐柔策を用意してくるか、或いは改竄及び偽装した情報で他陣営を扇動してけしかけてくることも考えられたのだが、流石にそのような安直な策に出てくることはなかったらしい。遥たちを警戒しているのだろう。その警戒は正しい。敗退したアサシン陣営を除けば、情報戦という点では遥たちが最も優れている。

 他陣営の情報はあまり掴めてはいないが、遥はこの特異点においては別世界の人間である。時臣たちはいくら調べての遥の情報が出てこないことに焦っていたが、それも当然のことなのだ。()()()()()()()()()()()()()()。仮にあったとして、この年代では遥は生まれてすらいないのだ。情報があろう筈もない。

 加えて、サーヴァントを複数騎を使役している遥は戦いながらにして他陣営の情報を集めさせることもでき、いざとなれば総力で戦うこともできる。遥は長期的な戦略を立てるのは苦手だが、上手く立ち回ることさえできれば相当なアドバンテージになる筈だ。その立ち回りを如何に生かすことができるかは、遥の手腕に掛かっている。

 色々面倒だ、と遥が溜息を吐く。それとほぼ同時、遥の傍らで何者かが実体化した気配があった。見れば、黒いシャツと黒いズボンという私服姿のエミヤが立っていた。

 目覚めたオルタが遥特製のサンドイッチをもっきゅもっきゅと頬張る横で、遥はエミヤに真剣な面持ちで問う。

 

「戻ったか、エミヤ。それで、教会の様子はどうだった? 何か動きはあったか?」

「特に何もなかったな。目立った動きといえば、君達が内装を全焼させてしまったせいで職員の出入りが激しくなっている程度か」

 

 揶揄うようなエミヤの言葉に、遥が苦笑いする。深夜に行われた戦闘で、遥とオルタは冬木教会を全焼させてしまったのである。外装は木ではないため黒い煤で汚れる程度で済んでいるが、木でできた内装はそうではない。実質、冬木教会の機能はほぼ失われたも同然だった。

 だがそれを申し訳なく思う気持ちなど、遥の中には微塵もなかった。頻繁に教会を利用している人間には悪いが、たった一棟だけの教会の破壊など聖堂教会が行っている破壊行為に比べれば児戯も同然だ。それに魔術師であるなら建物のひとつやふたつを破壊する程度、躊躇うことはない。

 遥にとって関係の無い人々を巻き込むことは悪だが、逆に言えば関係のある人間を巻き込むことは悪ではない。監督役と綺礼は聖杯戦争を出来レース化しようとしていた。傲慢かも知れないが、多少の被害は受けて然るべきだろう。不正には相応の代償があるべきだ。

 何であれ、これで監督役の機能はほぼなくなったと見ていい。アーチャー陣営に情報を流していたアサシンたちもいなくなった。聖杯戦争を都合良く動かす権限を失った遠坂は今頃大慌てだろう。或いは、すぐにでも不穏分子である遥を潰しにかかってくるかも知れない。それにアーチャーが従うかはまた別の話だが。

 今のところ、聖杯戦争は遥たちが有利に進めることができている。真っ先に仕掛けて来そうなケイネスを圧倒し、続けて遥が持つ宝具を晒したことは結果的に良い結果を招いたと言えるだろう。あくまでも、今のところは。

 アサシンという諜報・情報戦における最大のアドバンテージを失った遠坂は代わりの戦力を確保しようとするだろう。その対象として考えられるのはセイバー陣営か遥たちアヴェンジャー陣営である。現遠坂の当主は保守派であるというから確率的にはセイバー陣営の方が高いが、総合的な戦力を鑑みればアヴェンジャー陣営の方が高い。

 そうなると、セイバー陣営に同盟を申し込むのは急いだ方が良くなってくる。遠坂がアインツベルンと結んだ場合、真っ先に狙ってくるのは間違いなく遥だ。遠坂の聖杯戦争への必勝戦略を潰した遥たちは遠坂にとっては最大の障害であるのだから、打倒か懐柔かどちらかを選んでくる筈だ。

 遥がすべきことはアサシンたちを殲滅した後始末だけではない。色々と考えるのが面倒臭くなってひとつ溜息を吐くと、遥は椅子に座って難しい顔で腕を組んでいるエミヤに問うた。

 

「それで、エミヤ。間桐桜だったか、お前が助けたいって言ってた子は。何か策はあるのか?」

 

 遥の問いにエミヤは一瞬だけ何かを答えようとしたが、すぐにより渋面を深くして黙り込んだ。いつも冷静なエミヤには珍しく悩んでいるが、それも無理からぬことではあろう。

 今回の聖杯戦争に間桐家が出してきたマスターの名前は〝間桐雁夜〟。遭遇も目撃もしていないため能力の程は分からないが、エミヤが知らないということは少なくともこの時間軸で死んでいるということなのだろう。彼は考慮する必要はない。問題はサーヴァントの方だ。

 第四次聖杯戦争において『狂戦士(バーサーカー)』で召喚された英霊、湖の騎士〝ランスロット〟。遥は直接戦ったことはないが、立香たちからその話は聞いていた。オルレアンでの決戦においてはマシュとアルトリアの前に敗れ去ったらしいが、その脅威度は極めて高い。

 狂化されてもなお衰えない武錬。さらに手にした武具全てに自らの宝具属性を付与するという能力系の宝具〝騎士は徒手にて死せず(ナイト・オブ・オーナー)〟。これにより、エミヤはランスロットに対しては絶対的に相性が悪い。無限に宝具を造り出す投影魔術は湖の騎士の前ではただ宝具を与える結果しか齎さない。

 或いは〝八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〟使用状態の遥であれば敵うかも知れないが、彼としても正面からぶつかりあうのは避けたい相手である。雁夜がいる間に間桐邸に侵入するのは下策中の下策であった。ならやはり不在を狙うか、などと考えていた遥の耳朶をエミヤの声が打った。

 

「……すまない、遥。桜を助けたいというのはオレの我儘でしかないんだ。そもそも、特異点で誰かを助けたからとて実際の世界線で助かる訳ではない。これは完全な自己満足、ただの自己欺瞞だ。

 それに無理に付き合う必要はないんだぞ?」

 

 特異点とは歪んだ歴史である。カルデアがそれを正しい形に修正した後は余程のことがない限り彼らの存在はなかったことになる。どれだけ人を助けたところで戻ってしまえば〝なかったこと〟になってしまうのだ。

 それに、桜の存在はこの特異点とは何の関係性もないのだ。最短でこの特異点を修正しようと思うなら、桜は放っておいて他陣営をどのように出し抜くかを考えた方が余程建設的ではある。それは疑うまでもない事実だ。

 それだけではない。せめてこの時代の桜だけでも助けたいという思いとは裏腹に、エミヤの中にはそれを止める思いもあった。今まで守護者として数多くの人間の命を奪ってきたクセに今更自分の大切だった人だけを特別扱いするのか、と。冷徹な心が桜を思う気持ちを指して嗤う。

 だが思い悩み、思索に沈むエミヤの額を弱い衝撃が襲った。遥がエミヤにデコピンをかましたのである。そうして不満気な視線を向けるエミヤに、遥は笑いながら言う。

 

「下らねぇコトで悩んでんじゃねぇよ、エミヤ。いいだろうが、自己満足でもさ。どんな理由があれ人助けが正義でないワケがねぇ。そもそも人助けなんてどこまでいっても自己満足だろうが。

 助けた後のことは助けてから考えればいい。例えそれが過去に置いてきたものを拾った気になっているだけだとしても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――!」

 

 遥の言葉にエミヤが息を呑んでから、思わず笑んだ。エミヤは遥に過去のことを話したことはない。遥であれば手掛かりさえあれば推理してしまいそうだが、手掛かりになることも話していない筈だ。故に遥が〝正義の味方〟と口にしたのは全くの偶然か気まぐれであったのだろう。

 後に残るか残らないか、繋がるか繋がらないかということで是非を問うのではない。ただ助けたいのなら助ければいい。遥はそう言っているのだ。とても魔術師らしからぬ論理ではあるが、それこそが『夜桜遥』という男であろう。

 この人理修復という任務は他にアラヤから遣わされた現場とは違う。ただ大衆に仇名す片一方を虐殺すればそれで済む話ではない。これまでとは全く異なる任務であり、これまでで最も過酷な任務だ。

 そもそもエミヤは既に答えを得ているというのに、今更何を悩む必要があるというのか。〝正義の味方〟でいるということは決して人々が思い描くようなものではないというのは、遥自身もよく知っているのだろう。だがそれを承知の上で、遥はエミヤに正義の味方たれと言っているのだ。

 キャスターを斃すことも、桜を助けることも、遥は自らの正義を貫いているだけに過ぎない。それに付き合うことにエミヤは異論はなかった。遥風に言えば「上等じゃねぇか」といったところである。言葉にせずとも遥はエミヤの思いを悟ったようで、薄い笑みを浮かべた。

 そうして男ふたりが互いの意思を確認したと同時、部屋の入口にほど近いところにある洗面所に繋がる扉が勢いよく開いた。そこから出てきたのは沖田とタマモである。但し、いつもとは違っているが。

 

「じゃーん!!! どうですか、ハルさん! 沖田さんのこの服! どうです? 似合ってますか?」

「落ち着いて下さい、沖田さん。……とはいえ、新しい服にはしゃぐ気持ちも分からないではありませんが」

 

 洗面所から出てきたふたりの姿はいつもの和服姿ではなく、この時代に合わせた現代風の服装となっていた。ここは日本であるのだから和服でいても可笑しくはないのだが、この時代で私服として和服を選んでいる人間はそう多くない。変に目立つのを避けようと思うなら、時代に合わせた服装に変えるべきである。

 沖田は桃色を基調とし、若干肩の辺りが露出しているセーターとホットパンツ、オルタと似た厚手のハイソックスを着用している。タマモは彼女自身の髪色と同じ春色のパーカーとミニスカート。耳と尻尾は呪術で隠している。まさしく玉のような肌と言うべき長い足は大きく露出しているが、本人に寒そうな様子はない。

 ふたりの服はオルタの服を買う際に買っておいたものだ。さすがに店員から不審者を見る眼を向けられはしたが、背に腹は代えられないということで用意したのだ。かなりの金額にはなったが、金は全てカルデアのツケということにしてある。人理修復さえ終わればカルデアから支払われる筈だ。

 いつもの服装ではなく現代風の服を着ているふたりを見てみると、一目ではとても人間を越えた存在であるようには思えない。それは遥が封印魔術でマスターに与えられたステータス透視能力を無効化しているということもあるのだが、仮に見えていても違和感を感じるほとであった。

 オルタの時にこういう時は何を言えば良いのか学習していた遥は、素直に感想を口にすることにして口を開いた。

 

「あぁ。ふたりとも似合ってると思うぞ」

「そうでしょう? 沖田さんと逢引(デート)したくなりましたか、ハルさん?」

 

 胸を張りながら冗談めかしてそう言う沖田。その姿を見て、遥は顔を赤くして反射的に視線を外した。遥は今まで沖田が普段はサラシを着用しているのを知らなかったため、少々驚いてしまったのである。

 しかし、だからといってどうということでもない。遥はそう考えて自分を落ち着けると、視線を戻した。普段とのギャップに動揺してしまいはしたが、大きさだけで言えばタマモやオルタとそう変わらない。意識するほどのことでもあるまい。

 普通は遥ほどの年齢ともなればそういうことんは幾分か耐性があるのが普通なのであろうが、遥は必要以上に初心であった。だが持ち前の理性ですぐに感情を落ち着けると、遥は仲間たちに問いを投げる。

 

「デート、ね。皆、ケーキ食べたくないか?」

 

 些か唐突にも思えるその問いに、サーヴァントたちが首を傾げた。

 

 

 

 オルタの目が覚めてから1時間ほど経ち、遥たちは冬木市新都に建つ最も巨大なホテル〝冬木ハイアット〟のレストランにいた。しかし全員が同じテーブルという訳ではなく、遥とオルタ、そして沖田たち3人に分かれて少々離れた位置に座っている。

 それは何もこの1時間の間に仲間割れをしただとかそういうことではなく、とある事情によるものである。実際、彼らの間には常に感覚共有の経路(パス)が繋がれ、リアルタイムで遥の感覚が3人と共有できるようになっていた。

 遥とオルタが座っているテーブルの対面には誰も座っていない。さらにテーブルの上には遥がレストランに来たついでに注文したケーキバイキングで持ってきたケーキがウェディングケーキもかくやといった量で積まれているというのに、奇異の視線はひとつも向けられていなかった。ひとえに遥が行使している魔術によるものである。

 一般人に対する認識阻害の魔術は魔術師にとっては基礎中の基礎だが、遥のそれは練度が他の魔術師たちよりも高い。だが低級の魔術であるために、それなりの抗魔力を有する相手には効果を発揮しない。――例えば、人造生命(ホムンクルス)やサーヴァントのような。

 故に、しばらくしてレストランに現れて周囲の視線を一瞬にして奪った二人組にはその魔術は一切効果を発揮しなかった。その場に現れた白銀の貴人と男装の麗人は周囲を見回してから視線を遥、というよりも遥が積み上げた大量のケーキに定めて一瞬だけ呆れ顔をしてから表情を引き締め、自分たちをこの場に呼びつけた男の席へと足を向けた。

 遥は食べかけだったケーキを急いで嚥下すると、席を立って軽く礼の仕草を取った。

 

「ごきげんよう、セイバーとそのマスター。数時間振りかな? まずは俺の話を聞く気になってくれたコト、感謝しておくよ」

「それはどうも。……それで、一体どういうつもりなのかしら。昨日戦った相手に、すぐに同盟の提案だなんて」

「言った通りの意味さ。……まぁ、座って座って。話はそれからだ」

 

 彼女らを出迎えた時の芝居がかった雰囲気から一転して急に柔らかい雰囲気へと遥の纏うそれが変わったことにアイリスフィールとセイバーは一瞬困惑するが、一応は遥の言葉に従って席に座った。遥は近くにいたウェイターに紅茶を2杯とケーキバイキングを新たにふたり分注文する。無論、代金は経費としてカルデア持ちだ。

 朝目覚めてからこれまで、遥は何も情報の整理と推理だけをしていたのではない。遥はエミヤに教会の監視を頼むついでにアインツベルンの城に書状を届けさせていた。遥としては来れば僥倖、といった程度で本当に来るとは思っていなかった。だが考えてみれば、書状に書いた文面はアインツベルンにとっては無視できないものであろう。

 アイリスフィール本人がどうかは知らないが、少なくともアインツベルン当主のユーブスタクハイトの目的は大聖杯の降臨、すなわち第三魔法の実現であると遥はエミヤから聞いていた。故にその障害と成り得るものがあると知らされれば聞き捨てならないのであろう。

 温くなり始めた紅茶を一口啜り、遥がひとつ溜息を吐く。そうして感情を切り替えて今まで演じていた仮面を外すと、またしても遥の纏う空気感が変わった。それに気付いたのか、アイリスフィールとセイバーの視線が遥の一点に集中する。警戒と不信感の込められたその眼に、遥が密かに息を呑んだ。

 こうして呼びつけはしたものの、遥に誰かとの交渉を優位に進めるだけの話術はない。遥は器用ではあるがそれは手先の話であって、対人関係ではむしろ不器用なのだ。故に遥にできることは、下手に隠さずに自分が提示できるものを叩きつけていくことだけだ。

 

「第一に……俺がアンタらに声をかけたのは、アンタらが一番信頼でき、かつ最も話を聞いてくれると思ったからだ。決して利用しやすそうだとか、そういう姦計に基づくものでないことは信じて欲しい」

 

 前置きとして遥が口にした言葉。声音は嘘ではないがまだ遥を完全には信用していないアイリスフィールは視線だけでセイバーに信頼できるかを問うた。その問いに、セイバーは頷きを返す。明確な根拠はないが、セイバーは遥を一定の信頼が置ける相手だと認識していた。

 セイバーは歴戦の騎士であるが故に、相手の太刀筋からある程度その相手のことを推し量ることができる。遥が未だに彼女らに本性を見せず利用しようと考えているのなら、昨夜の戦闘でそうと知れた筈だ。だが遥の太刀筋にはそれらしいものはなく真っ直ぐであったが故、セイバーは邪悪な気配を纏うサーヴァントを従えていることを込みにしても遥を信頼はできる相手と認識しているのである。

 アイリスフィールはセイバーの返答を聞いて遥の話を聞く気になったのか、視線を遥へと戻す。遥は皿の上にあったケーキを一口で食べ、話を続けた。

 

「単刀直入に言おう。この聖杯戦争で願望は叶えられない。叶えてはならない」

「……それはどういうことだ、ハルカ?」

 

 ある意味この聖杯戦争に集った全ての英霊への侮辱とも取れる発言に、セイバーが鋭い視線を遥へと向ける。だが遥はそれに怖気づくことはなく、それと同じほどの鋭い視線で応じた。

 遥のことは信用できても遥の言葉をセイバーがすぐには信じられないのは無理からぬことであろう。セイバーとて自らの願望を叶えるために聖杯戦争へと馳せ参じたのだ。それをいきなり『叶えてはならない』と言われては信じたくなくもなる。

 しかし、遥の言っていることは真実だ。遥自身が大聖杯についてよく知っている訳ではないが、その情報源たるエミヤは主に嘘を吐くような人間ではない。カルデアとは違いきちんとした召喚システムであるにも関わらずジル・ド・レェのような怨霊が呼ばれるのが大聖杯の歪みの証左である。

 そもそも、遥がエミヤから聞いたその歪みの正体をアインツベルンは知っている筈なのである。遥がそれを問おうとした時、それより早くにアイリスフィールが問うた。

 

「もしも貴方の言う通り願望を叶えてはならないとして、それを知らずに叶えてしまった場合はどうなるの?」

「世界が滅ぶ。或いは大勢の人が死ぬ。まあ、どちらにしても意味合いは変わらねぇな」

 

 遥が口にした答えの衝撃的な内容に、ふたりが息を呑む。それはこれまで遥が言い放った言葉の中で最も現実離れしたものではあったが、不思議とふたりの中へと簡単に落ちていった。遥は嘘を吐いてはいないとすぐに判じられるほどに。

 だが、それは同時にセイバーの願いを真正面から押し潰すに足る事実であった。セイバーの願いは〝ブリテンの救済〟というものであるが、それを成すために今の人間を殺し尽くすべきかと言えば、それは否だ。自らのために多くの人を殺してしまえば、それは英雄たる自分を畜生に貶めてしまうのと同義である。

 自分自身でも奇妙に思う程冷静にその事実を受け入れたセイバー。対して、アイリスフィールはそれを受け入れながらもさらに問いを返した。

 

「ちょっと待って。どうしてそんなことになってるの? そんなコト、大お爺様は何も……」

「……本当に何も知らされていないと見える。こうなったのはアインツベルン……というか、アンタらの当主が原因なんだぞ?」

「大お爺様が……!?」

 

 第三次聖杯戦争においてアインツベルンが行ったルール違反。そしてそれによって召喚された『この世全ての悪(アンリマユ)』。次々に聞かされた事実に露骨に驚愕しているアイリスフィールの様子を見て、遥が溜息を吐いた。

 恐らくユーブスタクハイトは全てを知っていながら、それを知ってしまえばアイリスフィールは造反を図ると考えたのだろう。いかにも魔術師らしいが、全く以て度し難い。要は聖杯の顕現さえ実現してしまえば世界などどうでも良いと言っているのと同義なのだから。

 しかし不幸中の幸いと言うべきか、ユーブスタクハイトに鋳造されたホムンクルスであるアイリスフィールはその歪んだ意思まで継いだ訳ではないらしい。仮に継いでいたとすれば、遥の話を聞いたとしても聖杯を降臨させようとしていたであろう。

 だがそれでもすぐには受け入れられないのも道理で、アイリスフィールは目に見えて動揺しているようであった。それを感情の読みにくい目で見つめる遥に今度はセイバーが声をかける。

 

「そもそも、何故貴方はそんなことを知っている。アイリスフィールですら知らないコトを部外者である貴方が知る由はない筈だ」

「それは最重要機密(トップ・シークレット)なんでな、本当に同盟を組んでくれるか分からない相手に話す義理はない。だが、協力してくれるなら……俺に対してアンタらが抱いている疑念の全てに答えると約束しよう」

 

 それは遥がアイリスフィールたちに向けることができる最大限の信任であった。本来はこの世界の住人でない遥たちにとって、最大の武器となるのは自らの情報の秘匿性だ。それを手放すのだから、これ以上遥たちにできることなどない。

 アイリスフィールたちは遥たちが抱えている情報については全く知らないが、しかし情報というのは普通の参加者にとっても重要なものであるが故に遥がどれだけ本気でこの交渉に臨んでいるのか分かったらしく、その視線から剣呑な空気感が消えた。

 無言でアイリスフィールとセイバーが視線を合わせる。彼女らは御三家のひとつとしてこの聖杯戦争に臨んでいるが、大聖杯に起きている異常については全く知らない。そのため何故遥が自分たちに協力を仰ぐのかも検討が付かない。

 だが、遥の言葉に嘘が無いことだけは彼女らも分かっている。それに、彼女らとしての世界が滅びるとまで言われてしまえばこれ以上尋常な聖杯戦争を続けてまで願いを叶える気もなかった。目を合わせるだけで互いの意思を確かめ合うと、遥に向けて頷きを返した。

 

「――わかりました。この聖杯戦争に起きている異常の原因がアインツベルンにあるというのなら、そのホムンクルスとしてその後始末をしない訳にはいきません。共に戦いましょう、夜桜遥」

「……! 恩に着る……!」

 

 アイリスフィールが差し伸べた手を、遥が握り返す。ここに、第四次聖杯戦争中最大の同盟が成された。

 

 

 

 結論から言えば、立香たちがレイシフトした変異特異点β〝太極具現死界ゲヘナ〟は同じく変異特異点である変異特異点α〝聖杯夢想都市冬木〟に比べれば非情に規模の小さいものであった。

 それは特異点自体の大きさが小さいということもあるが、何よりその原因となっているものの異様さや自体の複雑さが冬木に比べればあまり大したことないというのが理由であった。何せ変異特異点αにおける最大の敵が神霊級にまで膨れ上がった世界を滅ぼす呪いであるのに対し、変異特異点βの原因は〝強いだけのただの魔術師〟である荒耶宗蓮なのだから。

 加えて荒耶が起こした事件を熟知している式や藤乃の協力があった故に、立香たちは比較的容易に特異点の攻略を進めることができていた。だが決して容易すぎるという訳ではない。何せオガワハイムはその階層に召喚されたサーヴァントたち全てを斃さなければ次の階に進めないようになっていたのだ。

 時折休憩は入れていたが、連続した戦闘による魔力消費は未熟な魔術師である立香の魔術回路に確かな負荷を蓄積させていた。カルデアのバックアップがなければとうに魔力量が限界を迎えているであろう立香の魔術回路が悲鳴をあげ、彼の全身を責め苛む。だが、無理をしただけの成果はあった。

 立香たちの目の前にいるのは、黒いコートを羽織った強面の大男。全身を覆う服の上からでも分かるほどに鍛え抜かれた筋肉は、彼が本当に魔術師であるのかを疑うことであった。この特異点の元凶。聖杯の所有者たる魔術師。つまりは荒耶宗蓮。―――その心臓を、呪いの朱槍が貫いていた。

 

「――ガ――ハ―――」

 

 荒耶は彼単身でも非常に強力な魔術師だ。自身の周囲に移動する三重の結界を張る結界術はほとんど魔法の領域であり、格闘戦も現代を生きる人間の中では最強クラスである。ともすれば、英霊とすら渡り合えるほどだ。

 故に彼が尋常な聖杯戦争に参加していれば、この結界内であれば遥と同じようにサーヴァントと渡り合う異常なマスターとして認識されていただろう。だが今回ばかりは相手が悪かった。いくら単騎の英霊とは渡り合えるとしても、複数騎の英霊と戦うのは難しい。

 だがそれでも特異点を維持し、聖杯を所有する荒耶を斃すには足りない。尋常な攻撃では深手を負わせたところでこのマンション内に満ちる繰り返し殺された英霊たちの魂と聖杯の魔力によって即時再生されてしまう。そのため、クー・フーリンは最後に朱槍の真名解放で荒耶の心臓を貫いたのだ。

 いかなる魔術を以てしても、真名を解き放たれた朱槍の呪いから逃れる術はない。故に、荒耶はここで死ぬ。しかし―――遅かった。周囲に満ちる魔力の高まりによって、それを全員が認識した。

 確かに荒耶はここで終わる。だが彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが今、起動しようとしている。怒りに満ちた表情で胸倉をつかみ上げるクー・フーリンに、荒耶は最期に勝ち誇った顔を向けた。

 

「テメェ……!」

「我が野望は……既に潰えた。我が生涯を掛けた探求も……成就は叶わぬ。

 だが……! ただでは死なぬ。これまで集めた魔力の全てを、()()()へと集中させた……最早、貴様らに勝ち目はない……!」

 

 途切れ途切れの声で勝利宣言めいた言葉を遺した直後、クー・フーリンは朱槍にかかる重みが増したのを感じた。荒耶が絶命し、身体を支えるだけの力が無くなったのである。クー・フーリンは舌打ちをひとつ漏らすと、荒耶の遺体を屋上の端へと放り捨てた。

 だが、荒耶が最期に行使した魔術は止まらない。むしろ周囲に満ちた魔力はより高まり、最早それが止めようもないことを如実に物語っていた。立香は反射的に式を見遣るが、しかし式は首を横に振るだけだ。さしもの式といえど、基点となっている聖杯が見えないのでは魔術を〝殺す〟こともできない。

 荒耶から槍を抜いたクー・フーリンは槍を振って付着した血を落とすと、申し訳なさそうな視線を立香へと向けた。

 

「マズった。すまねえ、マスター。オレがもっと早くに仕留めてりゃあ……!」

「いいんだ。ランサーが悪いんじゃない。それよりも、今は戦わなきゃ。……くるぞ!!!」

 

 立香がそう言ってサーヴァントたちに警戒を促すと同時、結界に蓄積されていた魔力の全てが一気に収集した。魔術師としては未熟極まる立香でさえ肌が焼けるほどに感じる、聖杯が一度に放出する限界を上回るほどの魔力。

 その瞬間、一瞬にして膨れ上がった光が立香たちの視界を奪った。それは荒耶が行使した最期の術が形を成した瞬間でもあり、そして荒耶が言う『彼の王』が顕現した瞬間でもあった。

 あまりの光に、反射的に立香が顔を腕で隠す。そして、光が収まり立香が目を開けた。そうして視界に飛び込んできた光景に彼が言葉を失う。それは仲間たちもまた共通であるらしく、皆驚愕の呟きを漏らした。中でもアルトリアはその光景から目が離せなかった。

 光が収まった時、そこにあったのは立香たちが先程までいたオガワハイムではなかった。空は黄色がかった雲に覆われ、吹きそよぐ風にはひどい血の匂いが混じっている。周囲に転がっているのは、この丘で戦っていた筈の武士(もののふ)たちの残骸たる鎧や兜、武具など。

 その中で、たったひとつの雲の隙間から落ちる月光に照らされてひとりの『騎士』が丘の上で佇んでいた。月光に照らされて青みがかった反射光を放つのは精霊文字が刻まれた鎧。薄暗い闇の中でひときわ輝くのは、とても武人とは思えないほどに流麗な金色の髪。凛とした姿で月下に立つその姿は、まさしく〝月下美人〟と呼ぶに相応しい。

 だが立香が息を呑んだのはそれが原因ではなかった。さもありなん。何故なら、そこにいたのは―――。

 

「アルトリア……?」

 

 立香が知る彼女とは少し異なる、『if(もしも)』の向こう側より来たる騎士王であったのだから。




遥たちが同盟を組んでいる間に、立香たちの方ではとんでもないことになっている模様。

立香たちの前に現れたアルトリアは便宜上、『月下美人』と表記させていただきます。空の境界コラボイベントで最後に出てくるあのアルトリアですね。召喚の仕組みは原作第四特異点でMがテスラを召喚したのと似た仕組みです。
一応、最後に出てきたやつの可能な限りの解説をば。

騎士の国、終焉の丘(キング・アーサー)
種別:対人宝具
ランク:A
レンジ:?
最大捕捉:?

このアルトリアの宝具のひとつ。月夜のカムランの丘を顕現させる固有結界。


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第29話 月下の死闘

「これが……遥が言ってた、固有結界……!?」

 

 月下美人(アルトリア・ペンドラゴン)が召喚されると同時、突如として塗り替わった周囲の空間を見回しながら立香がその凄まじさに驚愕の言葉を漏らす。

 固有結界(リアリティ・マーブル)。魔術理論〝世界卵〟によって自らの心象で現実の世界を浸食し、心象世界を現に具現化する魔術の最奥。元は悪魔の持つ異界常識にして最も魔法に近い魔術であり、魔術世界においては最大の禁呪とされるものだ。

 立香は魔術の基礎知識としてその存在自体は遥から叩き込まれていたが、現物を見るのは初めてだった。自らの心の在り様を具現化し、世界を作り上げる。言葉にしてしまえば簡単だが実際に体験してみると言葉にはできない衝撃がある。

 この世界はブリテンが終焉を迎えた丘、すなわちアルトリアとその嫡子たる円卓の騎士モードレッドが最後に戦った場所だ。伝承においてはアルトリアはここでモードレッドと相打ちとなり、聖剣を湖の妖精に返還して果てたという。それくらいは歴史や伝承に疎い立香でも知っている。

 故にこの世界に転がっている無数の武具はここで散った騎士たちの骸であり、墓標でもあるのだ。敵味方を問わず、ブリテンという国に仕えた全ての騎士たちがここに眠っている。この月夜の丘はアルトリアという王が抱く後悔の具現にして、彼女のブリテンを思う心の結晶。

 だというのに、丘の上で大剣を大地に突き立てて立つ月下美人の眼には全く感情というものがなかった。荒耶によって変異特異点βに召喚されたサーヴァントたちは皆霊基を歪曲されて召喚されていたが、月下美人はそれが顕著であるらしい。

 だがだからといって決して侮れる相手ではない。月光を受けて立つその姿からは立香でも肌で感じるほどに濃密な魔力が放射されている。マスターに与えられるステータス透視能力で見える能力値は全てがAランクを上回っていた。恐らく実際ははカタログスペックよりも脅威なのだろうが。

 脅威であるのは能力値だけではない。見る限りでは月下美人が纏う鎧やそれの左腕に装着された盾、携えた大剣と腰に帯びた短剣は全てが宝具であった。立香は未熟な魔術師だが、元々持っていた観察眼と多くのサーヴァントを見た経験故に一目で宝具を見抜くことができるようになっていた。

 大剣の両手での操作を阻害しないように鎧に装着された盾の裏からはエクスカリバーの柄が見えている。さらに大剣と鎧に刻まれた精霊文字は、それが人ならざるものに鍛えられた武具――すなわち、神造兵装であることを示していた。まさしくアーサー王伝説そのものを象徴する存在である。

 

「まだいけるか、マスター?」

「……うん。まだ、大丈夫」

 

 別世界とはいえ自らの反転前(オリジナル)が出現したことによる忘我から復帰したアルトリアからの問いに、立香が自分に言い聞かせるような声音でそう答えた。

 立香の言葉に嘘はない。負荷が蓄積しているとはいえ、カルデアからの魔力バックアップさえあれば立香の魔術回路はまだ十全に駆動する。サーヴァントたちが戦う分なら問題なく戦うことができる。

 だが、その回路への負担の蓄積が問題であった。月下美人はこれまでに遭遇したサーヴァントたちとは違う。ともすれば立香が契約している6騎のサーヴァントたちの力を纏めても及ばないかも知れない。大量の魔力を消費するのは想像に難くない。

 有り体に言ってしまえば、立香の魔術回路は既に焼き切れる寸前であった。元より立香の回路量は一般人とさしたる違いはなく、鍛えてはいても未熟なのだ。それが長時間の連続戦闘による魔力供与に晒されていれば、ショート寸前でも何も不思議はない。

 それが分かっていながら大丈夫と言う立香にマシュとジャンヌが何かを言おうとするが、クー・フーリンが向けた無言の視線で口を噤む。立香が相応の覚悟を決めての答えであるなら、それは誰が口出しをしても覆しようもないことだ。見た目は優男じみているが、妙に頑固なところがあるのが藤丸立香という男であった。

 何であれ、ここで立香たちは戦うしかない。戦わなければ、月下美人に殺されてこの場で果ててしまうだろう。ならば回路が焼き切れる寸前になっても耐えきってみせよう。その立香の覚悟を汲み取り、サーヴァントたちがそれぞれの得物を構えた。それと同時、丘の上で佇んでいた月下美人が動く。

 

「くるぞ! 頼む、ランサー!」

「応! 任せなァ!!!」

 

 大剣を構えた月下美人が地を蹴ると同時、立香の指示を受けたクー・フーリンが動いた。立香が従えるサーヴァントのうちで最も速力と武勇に優れた彼を一番槍とする彼の判断は正しい。一瞬にして月下美人へと肉迫したクー・フーリンは先手を打つべく、朱槍を連続で突き出す。

 只人の動体視力では動きを捉えることすらも難しいほどに凄まじい剣戟。かつて無数の金属音が轟いていた丘に鳴り響く、大剣と槍がぶつかり合う音。ふたりの剣戟は一見すると互角であるようにも見えるが、実態はそうではなかった。

 聖杯戦争の根幹を成す召喚術式ではなくカルデアの召喚システムで召喚された今の彼には、嘗てどこかの世界でセイバーたるアルトリアと戦った記憶があった。月下美人と打ち合う槍から伝わる手ごたえはその時と明らかに違っていた。

 この打ち合いだけで言えば、押されているのはむしろクー・フーリンの方であった。彼にとっては認めたくもない事実だが、今のクー・フーリンだけでは月下美人には勝てない。戦士としては同格であろうが、如何せん霊基や魔力に差がありすぎる。

 優秀極まる戦士であるだけに、クー・フーリンは彼我の間に横たわる総合的な実力差がはっきりと分かってしまう。思わず舌打ちを漏らすクー・フーリン。その耳朶を耳慣れた声が打った。

 

「退け、ランサー!」

 

 後方から飛んでくるアルトリアの声。クー・フーリンは一瞥もすることなくその言葉に込められた意思を悟り、咄嗟に横に飛び退いた。その刹那、クー・フーリンがいた場所を黒い魔力の奔流が駆ける。アルトリアが執るエクスカリバーから放たれた魔力斬撃である。

 今現在の状態でアルトリアが放つことができる最大威力の一撃はしかし、月下美人が纏う鎧を抉ることはなかった。唯一露出している顔も盾によって守られ、月光の如く流麗な金色の髪に堕ちた魔力が降りかかることはない。

 いくら立香に過剰な負荷をかけないように威力を調整してあるとはいえ、神造兵装の一撃を受けて傷ひとつ付かないとは。その鎧と盾のことをよく知っているアルトリアですら、その堅牢な防御力には舌を巻くだけであった。

 しかし、本命の攻撃はその魔力斬撃ではない。エクスカリバーの一撃が通らなかったと分かるや、アルトリアとクー・フーリンは全く同時に月下美人へと両側から攻撃を仕掛けた。示し合わせた訳ではない、しかしほぼ同時の一撃である。

 だが月下美人はまるで最初からその攻撃を知っていたかのように、一切狼狽を表情に出さずに対応してのけた。大剣から左手を離して一切の無駄がない動作で腰の短剣を抜剣。そして大剣でエクスカリバーを、短剣でゲイ・ボルクをいなす。

 2騎の英霊を相手にしてもなお、全く隙を見せないどころか圧倒してのける。まさしく月下美人は規格外の存在であった。それと鍔迫り合いながら、アルトリアが苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。

 

「貴様のソレは……やはり〝万神捻じ伏せる常勝の剣(マルミアドワーズ)〟と〝勝利を招く誓願の剣(セクエンス)〟か……ッ!」

 

 憎々し気な声音でアルトリアが言う。だが月下美人は自らの反転存在を見ても何も思っていないかのように、全くの無表情であった。

 万神捻じ伏せる常勝の剣(マルミアドワーズ)勝利を招く誓願の剣(セクエンス)。どちらも生前のアルトリアも所持していた剣である。前者は元はかの大英雄ヘラクレスの愛剣でもあり、ローマの鍛冶神ウォルカヌスが鍛えた紛れもない神造兵装のひとつだ。

 後者の勝利を招く誓願の剣(セクエンス)は宝具としてのランクはかなり低いものの、所有者の幸運値を上昇させるという特性がある。アルトリアが死闘の場にのみこれを携えたというのは、要はそういうことだ。剣というよりも魔道具のようなものだが、月下美人はそれを使って朱槍を防いでみせている。

 攻撃が全く通らない。それは何もアルトリアとクー・フーリンの連携が拙いだとか、そういうことではない。ふたりは互いの力量や癖を知っているが故に、その連携はほぼ完璧であった。攻撃が通らないのは、単純に月下美人の強さがふたりの連携を上回っているからに過ぎない。

 そこへ走り込む足音。それにいち早く反応したのは、アルトリアとクー・フーリンであった。気配遮断スキルを用いて極限まで接近してから攻撃態勢に移った式の眼は蒼く輝き、彼女の異能〝直死の魔眼〟が効力を発揮していることを示していた。携えたナイフの切っ先が月下美人へと振り下ろされる。しかし。

 

「――甘い」

 

 そう短く呟くや、月下美人は力任せにマルミアドワーズを一閃した。反射的にアルトリアとクー・フーリンがそれを回避すべく、月下美人から距離を取る。だが月下美人の攻撃はそこでは終わらない。

 常人では回避不可能な位置と速度で振り下ろされた式のナイフを、月下美人はセクエンスで受け流した。さしもの式といえどすぐに狙った〝死の線〟を変えることはできず、セクエンスを殺すことはできなかった。さらに得物を抑えられたことで、式に致命的な隙が生まれる。

 月下美人がそんな隙を見逃す筈はなく、がら空きとなった式の胴体へと盾――〝祝福されし黄昏の楯(ウィネブ・グルスヴッヘル)〟によるシールドバッシュの一撃が叩き込まれる。いくらサーヴァントと化しているとはいえ英雄でもない人間にその一撃を耐えきれる筈もなく、吹き飛んだ式が動かなくなった。

 動かなくなったとはいえ、立香に繋がった経路(パス)が消えていないということは死んでいないということなのだろう。それは月下美人も分かっているのか、なおも攻撃を仕掛けんとする。そうはさせまいと真っ先に動いたのは藤乃であった。

 藤乃の眼が紅い輝きを帯びる。その瞬間に彼女の視界は立体感を失い、一枚の絵画のような二次元世界へと変わった。それを押し潰すかのように、掻き消すように、藤乃が唱える。

 

(まが)れ」

 

 それは彼女の持つ特殊な魔眼にして唯一の宝具〝唯式・歪曲の魔眼〟を発動するための祝詞であった。評価規格外の対界宝具に属するその眼より解放された力は赤と緑の螺旋を描き、月下美人の胴体を捻じ切る――筈だった。

 月下美人はまるで視界に入っていなかった筈の藤乃が発動した力の軌道を見切っていたかのように、その場から飛び退いて魔眼の効果範囲より脱してのけた。藤乃の魔眼は対象の物体に働きかけるものではなく空間に働きかけるものであるために原理上は不可能な話ではないが、それでも攻撃にほとんどタイムラグはない。すなわち月下美人は直感だけで藤乃の攻撃を避けたということになる。

 藤乃の攻撃を避けて飛び退いた月下美人に盾を構えたマシュが突貫していく。マシュの身長を優に超す大きさを誇る大盾の全質量を載せた突貫攻撃(シールドバッシュ)。さらにそれに合わせ、アルトリアとクー・フーリン、さらにジャンヌが攻撃を仕掛ける。

 4騎のサーヴァントによる流れるような連続攻撃が月下美人へと向けられる。その攻撃の凄まじさは普通の英霊であれば防戦に徹したところで1秒とて()たないようなものであった。だというのに、月下美人はまるで脅威でもないかのようにマルミアドワーズと盾でいなしてみせる。

 時折藤乃が援護射撃として歪曲の魔眼による一撃を叩き込もうとするが、その全てを月下美人は初めから知っていたとでも言うように躱して見せる。異常なほどに鋭敏な直感、そして反応速度であった。

 月下美人へと攻撃を放ちながら、アルトリアが歯噛みする。アルトリアと月下美人は同一人物ではあるが、間違いなく騎士としての練度は月下美人の方が上であった。或いはランスロットにも届こうかという武錬は、仮にアルトリアがひとりで戦っていればまず間違いなく勝てないことを確信させるほどであった。

 月下美人が回転するようにマルミアドワーズを振るい、4人が後方に跳んで回避する。そのまま様子を見るように睨み付けるアルトリアたちを睥睨するような目で見まわして月下美人が言う。

 

「弱いな。その程度で私に敵うとでも思われていたというのなら、見込み違いも甚だしい。

 ……特に貴様だ、盾の娘。その盾を任されていながらこの体たらく。それでは盾が泣こう、聖騎士よ」

 

 聖騎士。月下美人の口からその単語が放たれた瞬間、マシュの視界に僅かにノイズがかかった。ひどく心臓が跳ね、呼吸が乱れる。それはマシュ自身の身体が原因ではなく、彼女の内に内在する霊基に由来するものであった。

 円卓の騎士に属し、聖騎士と呼ばれるに足る騎士。――それを推察しようとして、マシュは何故かそれがひどく不義理な真似であるような気がして思考を止めた。或いはそれは、他のことが脳内を占めていたからかも知れない。

 マシュはマシュ自身にできることを精一杯しているつもりであった。だが、それでも内在する霊基を託してくれた英霊には及ばないのだという。デミ・サーヴァントは元となった英霊よりも格落ちするのは否めないが、真正面から言われてしまえば少なからず気落ちするのは避けられない。

 だが、今のマシュがどうであれ彼女は立香(マスター)を護る盾なのだ。誰と比較することもできない、唯一の盾。その自負があればこそ、マシュは恐怖を感じていてもこうして戦うことができる。その覚悟を知ってか知らずか、月下美人が眉根をあげる。

 

「ほう。力は伴っていなくとも、覚悟は良いようだ。面白い。ならばその覚悟の程、試してやろう」

 

 今まで極めて無感動であった月下美人の声に、僅かに感情が混じる。だがその感情が何であるか認識するよりも早く、その場に大地を踏みしめる轟音が鳴り響いた。魔力放出と風王結界(インビジブル・エア)を合わせた速力強化によって弾丸の如き速度で月下美人が駆ける。

 その速度の全てを載せた一撃がマシュの盾へと叩き付ける。マシュの膂力を圧倒的に上回る威力を伴った一撃に、無意識にマシュが1歩後退る。だがそれを認識したマシュの心に沸き立ってきたのは、恐怖だけではなかった。決して恐怖を感じない訳ではないが、しかし盾を握る手により力が籠る。

 英霊の力を得ているマシュですら軌道を視界に捉えられないほどの剣速でマルミアドワーズが叩きつけられる。その度に盾を支える手が痺れ、骨の芯が振るえる。アルトリアとクー・フーリン、ジャンヌや藤乃がマシュから月下美人を引きはがそうとするが、月下美人はそれを物ともせず返り討ちにする。流石の無双ぶりである。

 月下美人は間違いなく聖杯のバックアップを受けている、というより聖杯そのものをその霊基の内に有している。竜種の心臓だけでは説明の付かない異様な魔力出力量はそれによるものだ。だが月下美人の強さはそれだけによるものではなく、むしろ聖杯は補助的要素でしかない。その強さを支えているのは彼女が身に付けた武錬そのものであった。

 荒耶が用意した召喚術式で彼にとって都合よく動くように霊基を歪曲して召喚されてもなお、全く衰えることを知らない武錬。まさしく〝無謬の武錬〟とでも言うべき超抜級の練度であった。

 エクスカリバーの切っ先が、ゲイ・ボルクと旗の穂先が、マルミアドワーズとセクエンスによって防がれる。さらにその攻撃の僅かな間隙を縫って月下美人はそれぞれに対して的確極まる攻撃を叩き込んでいく。

 4騎のサーヴァントを巻き込んで吹き荒れる剣風。マルミアドワーズが一閃される度に宝具同士がぶつかり合い、魔力の暴風が吹き荒れる。常人では決して踏み込むことができない超常の戦闘。同じくサーヴァントとなっている藤乃ですら、魔眼発動の機会(タイミング)が掴めずにいた。

 このままではいけない。月下美人の攻撃を受け止めながら、マシュは立香の方を一瞥した。吹っ飛ばされた式に対して礼装に組み込まれた治癒魔術を使っている立香の顔はいつものマスターとしての覚悟が現れた表情ではあったが、しかし魔術回路の損耗は隠しきれるものではなく、額には脂汗が浮いていた。

 それも当然であろう。元々限界に近い状態になっていた魔術回路を意地だけで無理矢理駆動させているのだから。今、立香の身体を襲っているのは供給された魔力が強引に引きずり出されていく激痛だけではない。魔力枯渇からくる意識混濁や、或いは皮膚の壊死すらも始まっているかも知れない。

 視線を再び盾越しに大剣を振るう月下美人へと戻した。このままただ防御だけに徹していては、ただの置物も同然だ。絶え間なく流れ落ちる汗を拭い、何度か深呼吸をすると、マシュが吼えた。

 

「はあぁぁぁぁぁッ!!!」

「――ッ!」

 

 突如として防戦から攻撃へと転じたマシュに、一瞬だけ月下美人が狼狽の表情を見せる。盾の質量とマシュが持てる膂力の全てを以て放たれた突撃。それは今まで全ての攻撃をいなしてきた月下美人の身体を捉えた。

 だが月下美人はすぐにマシュの攻撃を受け止めて反撃に転じようとする。マシュはさせじと盾を振り上げ、月下美人の脳天に向けて振り下ろした。しかしそれだけの大ぶりな攻撃が簡単に通用する筈もなく、月下美人は僅かに身体を逸らすだけでそれを回避する。

 盾の振り下ろしを避けた月下美人の視線が、マシュを射抜く。それから攻撃の意思を感じ取ったマシュは反射的に盾で防御しようとするが、しかし振り下ろした盾を持ち上げるよりも月下美人がマシュを切り裂く方が早い。

 万事休すか。半ば諦観と共にマシュの胸中にその思いが生まれる。だが強く目を瞑ってもマシュは己の切り裂かれる感覚がなく、代わりに彼女の耳朶を轟音が打った。見れば、攻撃態勢に入っていた月下美人を横から割って入ったアルトリアとクー・フーリンが蹴り飛ばしていた。

 交戦開始してから初めて加えられた攻撃。それに今まで余裕の表情を保っていた月下美人がようやくその表情から余裕を消した。だがそれで怯むようなことはなく、月下美人はすかさず反撃に出ようとするが、そこへ藤乃の魔眼の力が飛ぶ。咄嗟に避けようとした月下美人であるが完全に避け切ることはできず、脛当て(グリーブ)の一部が砕け散る。いかな神造兵装とはいえ、対界宝具の一撃を防ぎ切ることはできない。

 藤乃が連続して祝詞を唱え、次々と世界が歪曲する。月下美人はそれを全て直感に従って回避するが、それでも紙一重といった様子である。その表情はとても余裕のあるものではなく、さりとて冷や汗ひとつもかいていないという異様な雰囲気を孕んでいた。そこへ飛ぶクー・フーリンの気合。

 

「でェやァッ!」

「ちいッ……!」

 

 朱槍を支点にして跳びあがり、さらに落下の勢いを利用してクー・フーリンが槍を叩きつける。月下美人はマルミアドワーズを水平に掲げてそれを受け止めるが、クー・フーリンの攻撃はそこでは終わらない。身体を捻り、さらに槍を叩きつける。

 今度はそれを盾で受け止めた月下美人は大剣をクー・フーリンに突き込もうと右腕を引き絞る。だがその突きが放たれるより先に、接近してきたアルトリアとジャンヌがそれぞれの得物を月下美人に向けて突き出した。月下美人は突きを放とうとしていた大剣の軌道を強引に変え、それらを打ち払う。

 相も変わらず攻撃はなかなか通らない。しかし、攻撃の勢いが変わってきている。勝負の趨勢は少しずつマシュたちの方に傾いてきていた。ひとえにマシュが月下美人が形作っていたペースを乱したことによるものだ。

 このままいけば或いは、とマシュの胸中に微かな希望が生まれる。月下美人に握られていたイニシアチブは少しずつではあるが、こちら側へと向いてきている。しかしだからといって油断することなく、マシュたちは確実に月下美人にダメージを与えるべく攻撃を加えていく。

 月下美人の目にも留まらぬ連撃をマシュが盾で受け止め、その間隙を縫ってアルトリアたちが攻撃を放つ。完全に主導権(イニシアチブ)を月下美人が握っていた時では通じなかった攻撃が、一旦主導権を握ったことで通り始めていた。神造兵装の鎧――〝永劫なる無辺の鎧(ウィガール)〟の前ではダメージも微々たるものだが、それでも積み重ねれば無視できないものとなる。

 着実に攻め立てられていく月下美人の顔に明確な焦燥の色が浮かぶ。マシュの覚悟を試してやろうと言った月下美人に慢心や油断はなかった。それはそうだろう。マシュの内に宿る霊基が〝至高の騎士〟だと分かって、どうして油断などできようか。かの騎士は、今は月下美人と称される王を正面から打倒し得る者のひとりであるのだから。だが、マシュはまだ内在霊基の真名を知らない。

 故に勝負の趨勢を覆したのはかの騎士の気高さではなく、たったひとりの少女の蛮勇だ。本来の彼女であればそれを賞賛こそすれ屈辱を感じることはない。だが聖杯によって歪められた彼女は、趨勢が覆されたことにたまらない焦りを感じていた。――故に、彼女は〝虎の子〟の解放を躊躇うことなく決定した。

 月下美人が振り下ろした大剣がマシュによって受け止められ、そのまま月下美人ごと押し返される。続けて振り上げられた盾によって大剣を握った右手が弾かれ、月下美人の胴が露わとなる。左手には何も握られていない。急所を曝け出した、これ以上ないほどの隙。そこへ飛び込んだのはジャンヌであった。

 

「やあぁぁぁッ!!!」

「この――舐めるなッ!!!」

 

 その時、ジャンヌは初めて月下美人が感情を顕わにした声を聞いた。直後、彼女の視界に映ったのは身体を切り裂かれたことで噴き出した鮮血。―――但し、その血は月下美人のものではなくジャンヌ自身のものであったが。

 何故、とジャンヌが瞠目する。月下美人はマシュによって大剣を後ろへ弾かれた筈だった。確かに手放してはいなかったため反撃される可能性はあったが、それでもジャンヌの旗はそれよりも早くに鎧に覆われていない月下美人の喉元へと付き込まれる筈であったのだ。

 意識が遠のき、視界がスローモーションになる。そこにいたのは左手で剣を振りぬいた格好のままで止まっている月下美人。その左手に握られている剣はそれまで月下美人が持っていた剣ではなく、それどころか()()()()()()()()()()()()()()

 更なる驚愕に見舞われるジャンヌの耳朶を、月下美人の静かな声が打つ。

 

 

「―――〝縛鎖全断(アロンダイト)過重湖光(オーバーロード)〟」

 

 

 蒼い光が、ジャンヌの視界を埋め尽くした。




ここで月下美人のステータスをば。

月下美人
真名:アルトリア・ペンドラゴン
クラス:セイバー
属性:秩序・善
身長:163㎝ 体重:50㎏

筋力:A+ 耐久:A 敏捷:A 魔力:A++ 幸運:C(A) 宝具:EX

スキル
対魔力:A 騎乗:A カリスマ:B 直感:A 魔力放出:A+ 無謬の武錬:A
騎士王の誉れ:EX

当然、立香に召喚された場合は全力を出すことができません。


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第30話 在りし日の城は未だ遠く

「ジャンヌ―――!!!」

 

 終焉の丘に響く、血を吐くような少年の叫び。だが仲間を思うその叫びも虚しく、神造兵装の一閃により溢れた閃光が収まった時には跡形もなく救国の聖女の姿は消え去っていた。それを認識すると全く同時に立香は自らに繋がった魔力経路のひとつが消滅したことを感じ取る。

 それが示すところはつまり、ジャンヌの消滅である。サーヴァントは立香たち生者とは異なり生の肉体を持たないが故に死体は残らず、ただ無意味なエーテルと化して消滅するだけに過ぎない。けれど仲間の消滅という事実は刃のように、立香の心へと突き刺さった。

 サーヴァントとは過去の英雄、つまるところ死者でありその消滅は死とは違う。特にカルデアで召喚されたサーヴァントは仮に消滅したところで霊基の再構築をすることができる。だが立香にとってはそんなことは些末なことであった。彼にとって重要なことは仲間が斃された、というその一点のみだ。

 しかし、後悔している暇などない。ジャンヌが敗北してもなお、サーヴァントたちは未だ諦めてはいなかった。後悔などというものはいつでもできる。サーヴァントたちが戦っていて、マスターだけが後悔に呑まれていては示しが付かない。

 立香は魔術師の精神を持っている訳でも、英雄の心を持っている訳でもない。立香はどこまでいっても一般人であり、普通の人間だ。だが立香は心の強靭さという点においては現代の人間には珍しいほどに頑強であった。それは皮肉にも、今の立香がこうして意識を保っていられることが証明している。

 長時間に及ぶ連続戦闘は立香の魔術回路から限界以上に魔力を吸い上げ、最早立香の内には一片の魔力すらも残されていなかった。カルデアから供給された魔力はすぐにサーヴァントたちに吸い上げられる。立香が意識を失わずにいられているのは、ひとえに彼の精神力故であった。

 だが精神は耐えることができていても、身体には確実に影響が出始めていた。魔力枯渇からくる眩暈は絶え間なく立香を襲っている。身体の末端の感覚は消え去り、所々が跳ねた黒髪は一部が白く変色を始めていた。枯渇状態で無理に魔術回路を駆動させている反動である。

 しかし、今はそれを頓着していられるような状況ではなかった。限界状態であっても戦うことを止めればその時点で月下美人の殺される。この戦いを生き抜こうと思うのなら、ここで足を止めてしまう訳にはいなかかった。死んでしまえばその時点で終わりだ。どれだけ辛くとも、生きてさえいれば先は見える。

 故に立香は一片の諦観を抱くことすらもなく、ジャンヌを切り裂いた月下美人を睨み付けていた。その視線の先で月下美人は血に濡れた長剣――〝無毀なる湖光(アロンダイト)〟を返還した。その途端に無毀なる湖光(アロンダイト)は魔力の光となって実体を失う。何故、とでも言いたげなアルトリアの眼を見て、月下美人が薄い笑みを浮かべた。

 月下美人がアロンダイトを振るうことができたのは、何も彼女の宝具にそれ自体があったからではない。だというのに、月下美人がアロンダイトを自在に操ってみせたのは彼女がマルミアドワーズやエクスカリバーと同等に恃みとする宝具〝騎士王の栄光の下に集え(ナイツ・オブ・ラウンド)〟の力によるものであった。

 月下美人の固有結界〝騎士の国、終焉の丘(キング・アーサー)〟展開状況下でのみ使用可能となるこの宝具は、円卓の騎士が有する宝具を本来のランクからひとつランクを下げるという制約の下で召喚し、借り受けるという効果があった。この宝具により月下美人は咄嗟にアロンダイトを召喚し、ジャンヌを切り裂いたのである。

 月下美人はその宝具の存在を明かすような愚を犯すことはないが、アロンダイトを振るった時点でアルトリアはその存在に気付いたのだろう、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。月下美人が使えるのはアロンダイトだけではない。その気になればガウェインの転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)やトリスタンの痛哭の幻奏(フェイルノート)も使えるということなのだ。

 アーサー王が所有した武具の多くを纏い、更にはこのカムランの丘では円卓の騎士の宝具までも振るう。アーサー王伝説、ひいては円卓の騎士という群体を相手にしていると言っても過言ではない。月下美人はそれを誇るような様子もなく、睥睨するような視線で敵を見る。

 

「そちらから来ないのであれば、こちらからいかせてもらうぞ?」

 

 余裕を取り戻した声でそう言い、月下美人が黄金に輝く大剣を両手で構える。残り少ない魔力で動いているアルトリアたちとは違い、聖杯から直接バックアップを受けている月下美人の魔力に限界はない。聖剣としての側面を持つ大剣は力を誇るようにその刀身を煌々と輝かせ、言い知れぬ圧を放射していた。

 ジャンヌが消滅したことで、戦闘可能なサーヴァントは4騎となった。式は消滅してこそいないものの、未だ気絶したまま目覚めない。カルデアの礼装に記録されている治癒魔術はそれなりに強力なものではあるが、今の立香では満足に行使することができないのだ。精々がサーヴァントたちに回している魔力の一割にも満たない量で少しずつ式の負傷を治癒する程度である。

 さらにアーチャーである藤乃は後衛として立香の近くにいる。前衛はマシュとアルトリア、クー・フーリンの3人だけだ。だが、彼ら3騎だけでは心許ないというのが現状であった。彼らを信頼していないのではない。ただその信頼を加味しても月下美人が脅威であるだけだ。

 轟、と月下美人から放出された魔力が唸りをあげる。大地へと向けられた刀身を中心にして風の槌が打ち出され、月下美人の身体が砲弾の如き速度で飛び出した。アルトリアの卑王鉄槌(ヴォ―ティガーン)の威力を上回る風の一撃。その真名()風王鉄槌(ストライク・エア)という。

 英霊の動体視力ですらも輪郭が霞んで見えるほどの凄まじい速度で月下美人が肉迫したのはアルトリアであった。月下美人が放った運動エネルギーの全てを載せた一撃をアルトリアは直感的に身体を逸らして回避する。空を切った大剣の切っ先が大地へと叩きつけられ、衝撃に耐えきれなかった地面が大きく陥没した。

 持ち前の直感で躱すことはできたが、仮に喰らっていればアルトリアの身体は鎧ごと大剣の一刀の下に切り裂かれていたであろう一撃に、アルトリアが冷や汗を流す。だが月下美人の攻撃はそこで止むことはなかった。

 地面に叩きつけた大剣を返し、そのまま足元を狙って斬り払う。アルトリアは咄嗟に跳びあがることで回避するが、月下美人は続けて大剣から左手を離して盾を突き出した。それにエクスカリバーを振り降ろし、拮抗するアルトリア。

 そこに流れるような動作で大剣による突きを放とうとした月下美人であるが、そこにクー・フーリンの朱槍が空中から振り落とされた。月下美人は後方に跳ぶことでそれを回避。間髪入れず、着地したクー・フーリンにセクエンスを投擲する。

 飛来する短剣をクー・フーリンが槍で弾く。弾かれた短剣の刀身が月光を受けて輝き、放物線を描いた。月下美人は軽く跳躍して空中で短剣を掴み、続けて魔力放出で無理矢理に加速。落下の勢いを載せてクー・フーリンに向けて大剣を振り下ろす。

 そこへ割り込むマシュ。マルミアドワーズと大盾がぶつかり合い、火花が散った。さらに魔力放出を伴う連撃が盾に向けて何度も振り下ろされ、周囲に魔力の暴風が吹き荒れる。聖杯から齎される魔力を一撃一撃全てに纏わせた、月下美人の全力攻撃。

 

「くう、ぅっ……ッ!」

「どうした、盾騎士(シールダー)! 貴様の力はその程度か……!?」

 

 静かな言葉の裏に激情を押し殺した声でそう言い、月下美人は更なる連撃をマシュへと撃ち込む。アルトリアとクー・フーリンはどうにかマシュから月下美人を引きはがそうとするが、しかし月下美人はふたりの攻撃を完璧に相殺してのける。

 何度も撃ち込まれる凄まじい威力の斬撃に、マシュが何歩か後退った。その原因はマシュが自身に宿った霊基の真名を知らないが故に全力を出すことができないことだけではない。マシュの盾に振り下ろされた大剣が内包する威力そのものが、先程よりも強くなっていた。

 月下美人を含むアルトリア・ペンドラゴンという英霊が魔力放出を行えるのは大魔術師マーリンの計略によって与えられた竜種の心臓を持つためだが、月下美人はさらにそこに風王結界(インビジブル・エア)を精妙に操ることで剣速を加速させていた。ひとえに他のアルトリア・ペンドラゴンにはない武錬故である。

 さらに月下美人が纏う風の魔力は彼女を覆う防御結界の代わりにもなっている。膨大な魔力で束ね上げられた風はアルトリアとクー・フーリンの攻撃を妨害し、さらに月下美人の反撃を容易くする役割を果たしているのだ。

 まさしく無謬の武錬と言うに相応しい剣である。先程まで掌握しかけていたイニシアチブは完全に月下美人に奪い返されてしまった形であった。戦況は月下美人対して全く攻撃を加えられなかった頃へと戻り、逆に月下美人の攻撃はマシュたちに猛威を振るっている。

 月下美人が執拗に狙っているのはマシュだが、マシュは立香と契約しているサーヴァントの中では最も戦闘に不慣れだ。同化している英霊の戦闘経験を継いでいるとはいえ、それは彼女自身のものではない。個人の戦闘経験で言えば、マシュよりもジャンヌの方が上手だろう。

 故にマシュは未だその力を単身で十全に振るえるには至っていない。それが分かっているが故、アルトリアとクー・フーリンはマシュよりも前に出て極力彼女の負担を減らそうとしている。だが、月下美人はふたりを同時に前にしても怖気づくことはない。

 大地を蹴ると同時に、月下美人が大剣を左脇に挟むようにして構える。さらに膨大な魔力が刀身を中心に大気を巻き込みながら収束し、刀身が不可視となった。

 

「邪魔だ、諸共に散れ。――風王鉄槌(ストライク・エア)ッ!!!」

 

 月下美人がマルミアドワーズを切り上げ、その瞬間に真名を唱えた。主の意思に応えた宝具が風を束ね上げていた魔力を一気に指向性を持たせて解放した。元は只の大気である筈の風たちは超常の力の後押しを受け、その威力は名前の通りに鉄槌と呼ぶべきものとなっていた。

 圧縮空気がぶつけられた大地が捲れ上がり、さらにはその先にいた3人までもが耐えきれずに吹き飛ばされる。彼らはサーヴァントであるが故に四肢のひとつも欠損しないが、ただの人間であれば一瞬にして挽肉へと変えられてしまうだけの威力である。どう考えてもランクCの対人宝具の域に収まるものではない。

 これが聖杯の後押しを受けたサーヴァントか、とアルトリアが舌打ちを漏らす。アルトリアが剣技において月下美人に劣るのは言うまでもないが、本来であれば魔力出力量はほぼ同等の筈なのだ。それどころか自分の力を律することをしないだけアルトリアの方が高いかも知れない。だが聖杯のバックアップと召喚時の特級改造により月下美人はポテンシャルを最大限に引き出されている。

 マルミアドワーズから解放された圧縮空気は正に嵐が如き暴威を以て周囲に破壊を齎す。月下美人はさらにマルミアドワーズを一閃し、空気塊を撃ち放った。だが今度は3人全員がそのタイミングを見計り、射線から退避する。放出された空気槌はマシュたちに損害こそ齎さなかったものの、騎士たちの墓標は見るも無残なまでに破壊されていく。

 仮に月下美人が本来の在り様であれば、そんなことはしない筈だ。この固有結界はブリテンの終焉を象徴するものだが、転じて彼女の中にあるブリテンへの愛が結実したものでもある。その滅びが必定のものであるなら、せめて王だけは魂に焼き付けて覚えていよう、という月下美人の思いが世界を成すほどに昇華された宝具なのだから。

 だが、この騎士は在り方を歪められたが故にその思いを破壊の内に沈めていく。その存在は最早反転ということすら烏滸がましい。それはまさしく、ただアーサー王の記憶を持つだけの殺戮機械とでも言うべきものであった。

 その光景を見て言い知れぬ複雑な思いに駆られてしまうのは、マシュの内に憑依した英霊が円卓の騎士であるからなのだろうか。思えば今までも何度かマシュはアルトリアの言葉に強く影響を受けてきた。考えてみればすぐに分かったことだ。真名は知れないまでも、マシュに憑依した英霊が円卓の騎士であることは。

 なればこそ、マシュには月下美人を止める義務がある。マシュはそれを強く感じていた。どれだけ歪んでいようが、どんな世界の存在であろうが、月下美人はアーサー王なのだ。道を踏み外した主君を正すのはその臣下の役目。この場においてそれができるのはマシュしかいない。

 何度か深呼吸を漏らして盾を握りなおすと、マシュは真っ向から月下美人を睨み付けた。恐怖がマシュの胸中から消え去ることはないが、今はそれを上回るだけの闘志があり、守るべき先輩(マスター)がいる。屈することは許されない。そもそも、屈する気などマシュにはない。例え傷つこうと、マスターたる立香が諦めないのならマシュは立ち上がり続ける。

 その決意が籠った目でマシュは月下美人を睨み付ける。対して月下美人は徐にマルミアドワーズを大地に突き立てた。その瞬間、月下美人を中心として凄まじい熱波が迸る。その手に握られた長剣を見て、アルトリアが眼を瞠った。

 

「あれは……!!」

 

 それは無毀なる湖光(アロンダイト)と同じく、月下美人の切り札のひとつたる〝騎士王の栄光の下に集え(ナイツ・オブ・ラウンド)〟によって召喚された宝具であった。

 月光を浴びてその身を蒼く輝かせるその姿はまさしく聖剣と言うに相応しい。放射する法外な魔力はその剣が聖剣としてかなり高位の存在であることを如実に物語っている。格だけで言えば約束された勝利の剣(エクスカリバー)にも匹敵するだろう。

 それは円卓の騎士のひとりが湖の妖精より託された聖剣。即ちエクスカリバーやアロンダイトとは姉妹剣にあたる武具であった。その剣を見てたちどころに真名を悟ったマシュたちの前で月下美人はそれを上空へと放り投げた。

 瞬間、解放されたのは聖剣に内包された太陽の現身。魔力によって構成されたそれは本物の太陽にすら並ぶと錯覚するほどの驚異的な熱気を放っていた。それを平然と直下で浴びながら、月下美人が祝詞を唱える。

 

「シールダー。貴様の覚悟、試してやろう。

 この剣は太陽の現身。あらゆる不浄を清める焔の陽炎……!!!」

 

 疑似太陽を解放し、落ちてきた剣を月下美人が掴む。そうして脇に抱えるようにして構えを取った瞬間、月下美人の足元に魔法陣が展開した。空に浮かぶ疑似太陽は更なる熱量の高まりを見せ、月夜は真昼の如く変わり果てた。

 言わずもがな、月下美人が召喚したのは円卓の騎士のひとり、太陽の騎士の異名を取るガウェインの愛剣たるガラティーンであった。エクスカリバーと対を成す聖剣であるこの剣は内部に疑似太陽が封入され、真名解放の際にそれを放出する。まさしく太陽の騎士たるガウェインに相応しい剣であった。

 当然、ただマシュが盾を構えているだけで守り切れるものではない。皆を守り切るには宝具を解放する必要がある。しかし、今の状態で宝具の真名解放を行うのはただでさえ限界の近い立香にさらに負担をかけることになりかねない。

 盾を使うべきか否か。逡巡していたマシュの耳朶を、先に決断を下した立香の声が打った。

 

「令呪起動。宝具を解放し、皆を守ってくれ、マシュ!」

 

 立香の右手に刻まれた令呪の一角が弾ける。立香によって行使された膨大な魔力の塊は経路(パス)を通じてマシュへと流れ込み、宝具を解放するに十分な魔力を充填した。

 月下美人が構えた聖剣から放射される熱量は刻一刻と高まり、あまりの熱量に足元の大地が赤熱する。揺らめく陽炎が月下美人の姿を隠し、その聖剣がどれだけ強大なものであるのかを誇示する。

 その剣は太陽の現身。内包する超常の灼熱はこの世に存在する一切の不浄を許さず、その全てを清める。熱波が大地を赤く染め上げ、月下美人の足元は赤熱するところを超えて融解するところまで至っていた。

 宝具を解放せんとするふたりの魔力が肌を焼くほどに高まり、まるで気炎が揺らめくが如き様相を呈している。相対するふたりの騎士が動いたのは、全くの同時であった。

 

 

「―――転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)!!!」

「宝具、展開します! ―――人理の礎(ロード・カルデアス)!!!」

 

 

 真名解放。秘めたる太陽を解放した聖剣を月下美人が横薙ぎに一閃するや、その刀身が月下美人の視界の限りにまで伸長した。対軍宝具に属する聖剣は太陽にすら並ぶほどの熱量で大地を薙ぎ払い、騎士たちの墓標を無へと還していく。

 まるで太陽に呑み込まれたかの如き想像を絶する熱量放射。真正面から受ければ焼け落ちることもなく一瞬で蒸発してしまうのではという感覚は、その中にあっては錯覚ではなかった。マシュの宝具解放が一瞬でも遅れていれば、立香たちは抵抗することすらできずに灰と化していただろう。

 マシュの執る盾は物理的な守りであるだけではない。まだ盾の真価を発揮するには至らないものの、その護りはマシュの心そのものであった。盾の担い手であるマシュが諦めない限り、その護りは物理的限界を超えてありとあらゆるものを弾く。外からの脅威を弾くものではなく、内にあるものを護るものであるが故の特性である。

 だが、それは盾とそれに護られた者たちだけの話だ。盾を支える担い手であるマシュにはその護りをしてなお貫通してきた熱量の全てが降りかかってきていた。霊基の覚醒が不十分であるが故に露出した白い腹や腕が熱に晒され、熱傷に犯されていく。並みの精神の持ち主では少しずつ身体を蝕まれる感覚に発狂していても可笑しくはない。

 かつての彼女であれば発狂はしないまでも途中で生存を放棄して諦観のままに盾を放り出していたかも知れない。しかし、今の彼女は違う。ただ無菌室に籠り、無機質で無彩色の日々を送っていた時間は遠く過ぎ去った。今はその盾の後ろに護るべき者がいる。倒れる訳には、盾を手放す訳にはいかない。マシュがその精神の根幹に抱く思いは、確実に盾の真の力を引き出しつつあった。

 故に、それは必然であったのか。盾より弾けた光が太陽を弾くその刹那、アルトリアは背後に在りし日の理想の城を幻視した。

 

「今のは……」

 

 アルトリアが無意識のうちに口元に笑みを見る。それは遠い過去に置き去りにしたままの城を幻視したことによるものか、或いはある意味妹分のような存在が力を発揮しつつあることによるものか。そのどちらでもあるのかも知れない。

 しかし、ガラティーンを防いだだけで状況が好転するほど月下美人は容易に攻略できるような手合いではない。召喚した宝具は1度真名解放をすると消えてしまうのか、月下美人の手からガラティーンが消滅する。そうして傍らのマルミアドワーズをもう1度執ると、月下美人は感情の読みにくい表情でマシュを見た。

 ほんの刹那の間であるが、マシュの盾が浮かび上がらせた理想の城。それは聖杯によって歪まされた月下美人の精神にさえ僅かに作用するほどであった。だが中途半端極まる宝具解放だったためか、その精神の奥底にまで到達するほどではなかったようであった。むしろこのアーサー王の前でキャメロットを出現させるのは悪手であったかも知れない。

 通常のアルトリアとは異なり、アーサー王伝説におけるほぼ全ての武具を取り出して使用できるうえ、スキル〝騎士王の誉れ〟により円卓の騎士たちが持つスキルを扱える月下美人はある種アーサー王伝説そのものと言っても過言ではない。その彼女ですら手を出すことができない領域にあるのがマシュに宿る聖騎士なのである。

 それを目の前で半端な形で使われる。平時の彼女であればその真の在り様へと導こうとするのかも知れないが、歪んだ状態ではそうでなかった。マシュの宝具が琴線に触れたのか、月下美人の胸中は何とも言い知れぬ複雑な思いで満たされていた。マシュの盾はまだ完全な姿ではないが、円卓の騎士の総体とも言える月下美人に相対したことで急速に完成形に近づきつつあった。

 しかしマシュ自身はそれを自覚するような暇もなく、地を蹴って月下美人へと肉迫する。アルトリアとクー・フーリンもまた己の得物を構えて月下美人を屠らんと攻撃を仕掛けるが、月下美人はたったひとりでその攻撃の全てをいなす。アルトリアが振るったエクスカリバーを盾で防ぎ、クー・フーリンのゲイ・ボルクを大剣で弾き、マシュの突貫攻撃(シールドバッシュ)を片手で受け止めた。

 

「クッ……!」

「――フン」

 

 鼻で笑うような短い笑声の直後、マシュの盾を強い衝撃が襲った。魔力放出と風王結界の加速の全てを載せたマルミアドワーズによる刺突の一撃。その一撃は以前のように限定的なものではなく、風の魔力の全てを一点に収束させた最大威力の攻撃であった。

 マシュは何度かそれを盾で受けるが、しかし月下美人の膂力は未熟な盾兵に全てを受け止めきれるほど甘いものではなかった。繰り返し攻撃が打ち付けられる度にマシュの腕は痺れ、骨にまで衝撃が響く。

 マシュを呵責なく攻め立てる月下美人。少しずつマシュの腕から力が抜けていくなか、月下美人の苛烈さは減衰することはなく更に強まっていく。

 

「先の護り、見事だったぞ、シールダー。だが……」

 

 そこで月下美人は一旦言葉を切り、そうして脇に抱えるように構えた大剣を振り上げた。月下美人が渾身の力を込めて放った切り上げはダメージが蓄積したマシュの腕には重過ぎる威力を以てその盾を叩き、マシュが体勢を崩す。

 月下美人の斬撃によって盾は弾かれ、マシュが無防備な胴を晒した。まさしく絶体絶命。アルトリアとクー・フーリンは次に予想される行動を防ごうと仕掛けるが、しかし月下美人の前ではそんな攻撃は無意味であった。直感的に攻撃を悟った月下美人が大剣を振るい、ふたりの得物を弾く。藤乃も魔眼を起動しようとするが、あまりに月下美人とマシュの距離が近すぎるが故に使うことができない。

 どれだけマシュが成長しようと、未だ月下美人に追いつくことはない。仮にここに立っているのがマシュではなく彼女に宿る騎士そのものであれば、また結果は違ったのかも知れない。マシュが役不足なのではない。ただ今の彼女では力が及ばないというだけの、単純にして明快な事実がそこにはあった。

 既に大剣の刃はマシュへと向けられ、弾かれた盾ではそれを防ぐこともできない。万事休すか。その場にいる誰もがその先に訪れる未来を予見し、マシュ自身もそれに抵抗しながらも反射的に目を瞑る。―――だが、聖剣の刀身はマシュへと刺さらず、その直前で何者かが割り込んだ。

 あり得ない現象だった。マルミアドワーズとマシュの距離はほぼ零に等しく、割り込む余地などなかった筈なのだ。それに最も驚いたのは、マシュではなく立香であった。何しろ、その人物は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 マシュと月下美人の間に割り込んだ闖入者はマルミアドワーズを受け止めるだけではなく、月下美人にすら視認できないほどの剣速で手にした刀を振るった。そうして最後に放った突きで月下美人を吹き飛ばし、たおやかな動作でマシュの方を振り返った。

 

「え……式、さん……?」

「邪魔立てして御免なさいね。本当は出てくる気はなかったのだけど……居ても立っても居られずに出てきてしまったわ」

 

 そう言って式であった筈の女性は優しく微笑んだ。よく見ればその恰好も単衣の着物の上に赤い革ジャンという姿から花の模様があしらわれた長い着物へと変わり、雑に短く切り揃えられた髪は足元まで届くほどまで伸びていた。

 だが、驚くべきところはそこではない。式も疑似ではあるとはいえサーヴァントなのだ。その恰好が変わることは何も不思議なことではない。立香が驚いたのは、式の空間転移と未だ治療ができていないというのに動き出したということだった。

 立香も一応は式に治癒の魔術を施していたのだ。だが彼に供給される魔力は殆どがサーヴァントたちの維持と活動に回され、治療は殆どできていなかったのである。精々できていたのは式の消滅を遅らせることくらいだったのだ。だというのに、マシュを護った式に傷ついている様子はない。

 加えて言うなら、そこにいる式はクラスが変わっていた。マスターとしてサーヴァントのステータスを見ることができる立香にしか分からないことだが、目覚めた直後から式のクラスは『暗殺者(アサシン)』から『剣士(セイバー)』となっていたのである。

 あり得ない現象が立て続けに起きたためか、立香とマシュは式の口調が男性的なそれから女性的なものへと変わっていたことや、いつの間にか刀を握っていることなど全く気にならないようであった。

 呆然とするマシュの前で再び式は視線を月下美人に移す。式に吹っ飛ばされた月下美人はすぐに体勢を直して大剣を構えるが、仕掛けてくる様子はない。その場にいる式がただ者ではないと直感的に悟ったのだろう。

 立香たちは知る由もないことだが、目覚めた後の式は式であって式ではない。彼女は式と彼女の第二人格であった識の間にある存在。肉体そのものの人格。『 』、或いは『両儀式』と称される全能――根源接続者であった。

 その全能の力を以て現出させた愛刀〝九字兼定〟の切っ先を月下美人へと向ける式。たおやかな笑みを浮かべたまま、式は月下美人に第二ラウンドの開幕を告げる。

 

「さて。貴女、斃してしまうけれど……覚悟はよろしくて?」




取り敢えずは式と『 』はどちらも式と表記させていただきます。


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第31話 第二夜の始まり

 陽が陰り始めた空に浮かぶ月が太陽の代わりに森を照らし、吹きそよぐ風が木々を揺らす。風になびいたロングコートの裾とひとつ結びにした長い襟足が遥を叩くが、遥はまるでそれを気にしていないようにベランダから森を見下ろしていた。

 冬木ハイアットホテルにてセイバー陣営との同盟関係を締結してから数時間後、遥たちはセイバー陣営の本拠地である冬木市郊外の森の奥、アインツベルンが聖杯戦争のためだけに移築した城にいた。

 遥としては別に冬木ハイアットにいたままセイバー陣営との話し合いをしても良かったのだが、アイリスフィール、もといアイリが遥たちに要求した情報の中には他の陣営も欲しているものがある。念には念を入れよ、ということだ。

 アインツベルン本家が聖杯戦争のために用意したのはこの城だけではない。書類上は実体のない外資系企業の持ち物になっているこの森もまた、アインツベルンの持ち物である。これだけでもこの家系がどれだけの財力を持っているのかが窺い知れるだろう。

 森の外延部には様々な術式が織り込まれた強力な結界が張られ、結界などの類の突破力に関しては他の追随を許さないアサシンでさえ探知されないまま城まで到達することはできない。城ではあるが、その防御の規模を見れば要塞と言っても過言ではないだろう。

 この場で遥が開示した情報は大まかに言えばふたつ。遥たちの正体と他の陣営のサーヴァントたちについてだ。冬木ハイアットでの話し合いで知りたいことは全て答えると言った遥であるが、さすがにカルデアについて全てを教える訳にもいかなかったため、僅かに情報を伏せて伝えていた。

 アイリたちには遥たちはこの時間軸の住人ではなく、本来は聖杯戦争を外側から監視する立場にいる人間であると説明していた。正しく聖杯戦争が行われていれば介入しなくてよかったものの、大聖杯の汚染という異常事態が起きてしまったがために直接的な介入をせざるを得なくなったのだと。

 だが、平行世界の観測や時間軸の遡行はそれぞれ第二魔法と第五魔法の領域にある所業だ。そう簡単に納得できないもの道理で、事実遥もアイリとセイバーを納得させるのは苦労した。遥はあまりこじつけが上手くないために説明には苦労したが、その甲斐あってふたりは遥への疑念を晴らしてくれたようであった。

 サーヴァントについては流石に口頭で説明しているだけでは相当な時間がかかってしまうため、遥が知り得る限りの情報をエミヤと共に纏めた書類をアイリに渡していた。中にはランサーやライダーのようにエミヤでもよく知らないようなサーヴァントもいるが、遥たちとて全てを把握している訳ではないのは彼女らも承知してくれているだろう。

 そうして会談が終わった後、遥たちはそれまで拠点としていたホテルから少ない荷物をこの城へと移していた。遥たちアヴェンジャー陣営とセイバー陣営は一応は同盟関係ではあるが、それはどこかの陣営を斃すまでの有限的なものではなく大聖杯を壊すまで続くものだ。ならば拠点防衛や連絡の点から見ても同じ場所を拠点とする方が良いだろうという遥の判断である。

 この城は他の古くからある魔術師の根城と同じように電気が通っていないため相当に不便ではあるが、発電機ならカルデアから補給物資として送ってもらうこともできるし、何なら電気が無くとも魔術で代用が効く。廊下は暗いが、他に不便なことは特になかった。

 同盟を結んでから行うべきことを全て済ませ、道中で買ってきた炭酸飲料を片手に無心で黄昏ていた遥であったが、不意に足音が聞こえてきたことでそちらを振り向いた。見れば、そこにいたのは沖田であった。

 

「ハルさん、ここにいたんですか」

「沖田か。どうした?」

 

 相変わらずの現代風装束の沖田は遥の問いには答えず、遥の隣まで来るとその手に握っていたものを遥の目前に差し出した。そこにあったものを見た遥が一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべ、すぐに不機嫌な雰囲気を漂わせる。

 果たして、沖田が持っていたものは一羽の鳥であった。但しそれは普通の鳥でなければ、そもそも生物ですらなかった。全身が緑色の光沢を放ち、内部には魔力が充填されている。それは正確には鳥を模した翡翠の傀儡であった。

 初めて見るタイプの使い魔ではあったが、遥はそれが誰によって放たれたものであるかを知っていた。この聖杯戦争において宝石魔術とそれを使用するための転換魔術を専門としている家系は遠坂家だけである。故にそれは遠坂時臣が放ったものであるのは疑うまでもなかった。

 沖田から受け取ったそれを手で弄びつつ、時臣と繋がった魔力パスに介入してその繋がりを断ち切った。そうしてさらに見分しつつ、遥が沖田に問う。

 

「これ、どこで見付けた?」

「以前の拠点の周辺に浮いていました。それと、こんな書状を携えてましたよ」

 

 そう言って沖田が取り出したのは明らかに高級な紙で作られている封筒であった。たかが敵に送る書状であるというのに優雅さを匂わせるその配慮は成程、〝常に余裕を持って優雅たれ〟を家訓としている遠坂家らしい。

 沖田の話やこれまでの聖杯戦争の状況を鑑みれば、遠坂家から送られてきた書状は見るまでもなく内容は分かる。だが折角送りつけてきたものをすぐに破り捨てるというのも失礼かと考え、遥は封筒から便箋を取り出して目を通した。だがすぐに呆れたように溜息を吐く。

 やはりその内容は遥たちアヴェンジャー陣営への同盟の提案であった。アーチャー陣営が必勝を期するために必要な駒であったアサシンを失った時臣はすぐに代わりの戦力を確保しようとする――まさしく遥の予想通りであった。

 だが遥にはその提案を呑む気は全くなかった。遥たちは既にセイバー陣営と組んでいることもあるが、それ以前に遥は時臣のような魔術師然とした魔術師が嫌いだった。あのような手合いは外面は協力的でも腹の底では姦計を巡らせていると相場が決まっている。遥はそこにあるものが人よりもはっきりと見ることができるが故、魔術師という人種を基本的に信用しない。

 遥は高級便箋の端にアンサズのルーンを刻むと、そのまま便箋と封筒を焼却した。さらに翡翠製の使い魔を単純な握力のみで砕き割り、もう一度溜息を洩らす。

 

「ヤツらの不正の証拠を俺たちが掴んでると知ってるのに同盟の提案とは、舐められたものだな。俺たちなんていつでも斃せるってか?」

「強力なサーヴァントを召喚したことによる驕り、慢心……サーヴァントは強くても、マスターは大したことはないようですね」

 

 容赦のない沖田の言葉に遥は苦笑いするも、何も言うことはなかった。実際、遥も内心では沖田と全く同じことを考えているのである。

 魔術師とは常人が生きる世界とは全く異なる世界に生きる存在ではあるが、それ故かとかく油断や慢心を抱きやすい生物である。それは強力なサーヴァントを従えただけでアーチャー陣営が勝利を確信していたことからも明らかだ。

 聖杯戦争とは基本的に魔術師同士ではなくサーヴァントたちが雌雄を決するものだ。強力なサーヴァントを従えることができ、情報戦に特化した陣営と協力すれば勝ったも同然と考えるのは無理からぬことではある。

 だが、それで安心してしまったがために時臣は今こうしてその場しのぎの対応をせざるを得ない状況にまで追い込まれている。沖田が時臣を大したことはないと判断したのは決して間違いではないのだろう。エミヤ曰く遠坂家は〝うっかり〟が特徴であるらしいから、仕方のないことではあるのだろう。

 遥が時臣よりも優れているのは戦略家としての点だけではない。魔術師や武人としての才覚と技量においても遥は時臣よりも何枚も上手であった。時臣も相当な努力をしてきたのだろうが、積んできた努力の総量で遥に勝る魔術師はそういるまい。所謂天才が気の遠くなるような努力を積んだ結果が今の遥であった。

 しかし、だからといって遥は時臣を卑下している訳ではなかった。時臣の例からも分かる通り、魔術師にとって最大の敵であるのは同じ魔術師や自分ではなく何よりも驕慢と油断である。遥までそれを抱いていては、二の舞を踏んでしまうというものだろう。そもそもアーチャー――ギルガメッシュを従えているという時点で侮れる相手ではないのだが。

 軽くひとつ息を吐き、時臣のことを頭から追い遣る。未だ攻略法が見えないアーチャーのことよりも先に考えるべきことがある。キャスターの居城を突き留め、マスターも含めて蛮行を止めさせることが第一だ。だが遥はすぐにそれについて考えることをせず、沖田の髪に手を遣った。

 何も言わずに沖田の髪を撫でる遥。沖田は戸惑ったように顔を赤くすると、上目遣いで遥を見る。

 

「……何してるんです、ハルさん?」

「いや、沖田の髪って綺麗だよなと思って」

 

 沖田の問いへの答えになっているようで全く答えになっていない遥の言葉。しかし沖田はそれ以上遥に問うようなことはしなかった。

 遥は沖田の髪を綺麗だと言うが、沖田自身はあまり自分の髪が好きではなかった。黒髪や茶髪の多い日本人でありながら白髪である沖田のそれは生まれた時からそうであった訳ではない。沖田の髪が白く変わったのは病気の所為であった。

 そういう意味では、ある種沖田の髪は彼女の霊基に刻まれた病弱の呪いの最も分かり易い象徴でもあるのだ。そのため沖田は自分の髪に何の感慨もなければ、むしろ好感などなかった。だが遥が好きならば悪くはない、と沖田は内心でひとりごちる。

 沖田の桃色がかった白髪を撫で続ける遥であるが、対面する沖田の顔が赤くなっている意味には気づかない。半ば感情の赴くままに遥がそうしていると、不意に柔らかく温かい感触が遥の手を包んだ。驚いて見れば、沖田の手が遥のそれに重ねられるようにして添えられている。

 思いも寄らない沖田の行動に遥が狼狽する。今まで19年の人生を生きてきた遥であったが、少女に触れられた経験はこれが初めてだった。唐突なことに慌てる遥の前で、沖田はどこか複雑そうな表情を浮かべる。

 

「不思議ですね……ハルさんといると安心するというか、胸が高鳴るというか……」

 

 そう呟く沖田の声音が戸惑うような色合いを帯びているのは、その思いの源泉を知らないからか。生前にも抱いたことがない感覚の前に沖田が抱くのは期待ではなく声音に含まれる通りの戸惑いであった。

 英霊沖田総司の20と数年の人生において、他者への好意などは抱いている暇はなかった。新撰組は異性ばかりではあったが彼らは沖田にとっては身内のようなものであり、そういった感情の対象ではない。故に、沖田にとって遥は初めて好意的に相対した家族以外の男であるのだ。

 対する遥もまた沖田の様子から彼女が向けている感情を類推することはできなかった。それは何も遥自身が鈍いというのではない。遥はむしろ他人の感情の機敏には聡い類の男であった。

 けれど遥が沖田の思いに気付かないのは、遥もまたその感情を知らないからであった。どれだけ感情の機敏に聡くとも、知らないものに気付くことはできない。遥の中に常に存在しているのは憤怒や憎悪の類であって、そういった前向き(ポジティブ)な感情ではない。

 互いにどうしたら良いのか分からず、顔を赤くしたままま固まるふたり。少しして、そこに思わぬ声が割って入った。

 

「みこーん! なんだかピンク色の気配を感じますねぇ……おや、()()()に沖田さん。ほうほうほう……」

「タマモ!?」

「タマモさん!?」

 

 硬直していたふたりの前に現れたのは、果たして現代風の服を纏ったタマモであった。人気のある場所や敵地ではないため隠すこともなく露わにしている大きな耳と尻尾をぴこぴこと動かしながら、揶揄うような視線でふたりを見る。

 突然タマモが現れたことで反射的にふたりが距離を取る。しかしタマモの探るような眼はそれでも消えることはなく、何故か今になって遥は奇妙な恥ずかしさを覚えてタマモから視線を外した。

 だがタマモは少し笑うと、冗談ですよと言って遥の眼を覗き込むような体勢を解いた。それに遥は苦笑いをすると、話題を変えようとしてタマモに問う。

 

「そういえば、今まで俺のコト名前で呼んでたっけ? マスターだけで通してたような……」

「ええ、まぁ。しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 名前で呼ぶのも悪くはないかと」

 

 自分と遥は家族のようなもの。タマモの口からその言葉が出た途端、遥の表情が苦笑いから真面目なものへと立ち戻った。しかしタマモはその反応を予期していたのか、多少申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 タマモの言葉は何も、マスターとサーヴァントの関係性を家族のようなものと言っているのではない。遥は未だ気付いていないが、遥とタマモの間には確かな〝縁〟があった。それは出会ってもいないうちにタマモが遥に召喚されたことからも明らかである。単に遥はそれを知らず、タマモは気付いたというだけの話だ。

 しかしその縁には気づかないまでも、遥はタマモが遥が未だ仲間たちの誰にも隠している秘密の一端に気付いたことは分かっていた。別段、隠しているというだけで気付かれたからとて不味いことはないのだが、それでも警戒してしまうのは無理からぬことではあろう。

 何より遥が驚いたのは、今まで分かっていなかったタマモと遥の間にある縁だった。沖田のような性格の一致やエミヤとオルタのような出会いではない。それらよりもなお強く、しかし歴史を隔てているが故に目には見えない縁。それは〝血〟の縁だったのだ。

 しかし、それに最も困惑したのは遥であった。遥は確かに純然たるヒトではない。遥が受け継いだ夜桜の血にはヒトならざる者の血が混じっているが、その血はタマモには何の関係もない筈なのだ。或いは夜桜の血に遥の知らない要素やタマモに伝承には語られざる真実があるのかも知れない。

 だが遥はそれを問うのではなく別な言葉を吐き出そうとして、唐突に感じた魔術回路の蠕動に表情を強張らせた。この場に拠点を移した時点で遥自身の魔術回路とパスを繋いでいた結界からのフィードバックであった。

 

「……敵襲ですか?」

「ああ。しかもこの魔力は……」

 

 この森に侵入してきた者が放つ魔力の波動を認識した遥の表情が驚愕から憎悪へと塗り替わる。魔力の波動から一瞬で侵入者を特定してみせたのは流石の魔術の才といったところか。咄嗟に遥は監視についている筈のエミヤとのパスから感覚共有を行い、その視界を覗き見た。

 すぐに脳内に展開されるエミヤの視界。どうやら遥が侵入者の存在に気付いたのとほぼ同時にエミヤもその存在を視界に捉えていたようで、そこには遥の予想した通りの男がいた。濃紺のローブを纏い、出目金のような眼をした長身の男――キャスターである。

 しかし今回はホテルに襲撃を仕掛けてきた時のようにキャスターひとりだけではなかった。さりとてキャスターが連れているのは彼のマスターではない。人数は約10人ほど。その全員が年端もいかない少年少女であった。年齢は最も高い者でさえ小学校3、4年程度であろう。皆目の焦点が合っておらず、まるで夢遊病者のような足取りでキャスターの後を付いてきている。確認するまでもなく暗示の支配下にあるのは明白だった。

 その光景だけで怒りのあまり赤熱しそうな思考回路を強靭な理性で無理矢理に抑え込み、遥は思考回路を巡らせる。キャスターが連れている子供たちは皆、この城に攻め込むにあたっての人質であろう。最早どのようにして遥、もといオルタの居場所を突き止めたのかは気にもならない。重要であるのはここで如何に犠牲を出さずにキャスターを斃せるかということである。

 既にエミヤが補足していることを知ってか知らずか、ジルは虚空に向けて礼の仕草を取っている。この状況下であれば、エミヤに狙撃させるだけで事足りよう。そう考えた遥がエミヤに指示を出そうとした時、傍らで新たなサーヴァントが実体化したのを遥は感じ取った。オルタである。

 遥が買った当世風の服ではなく漆黒の鎧と竜の旗を携え戦支度を整えていたオルタは言葉にせずとも遥の意図を悟ったのか、いつもとは違う低い声音で遥に言葉を投げた。

 

「……待ちなさい。ジルは私が斃すわ。アンタたちは手を出さないで」

「オルタ。だが……」

「いいから。自分の身内の失態くらい、自分でケリを付けるから」

 

 そう言って遥の方を見るオルタの眼には、ある種の覚悟の色合いがあった。それはオルレアンにおいてジルの傀儡として虐殺の限りを尽くしていた頃のオルタには決してなかったもの。確固たる自我が生み出す揺るぎない意思であった。

 ジル――キャスターの行為に自分がケリを付けるというオルタの言葉に含まれた意味は最早考えるまでもなかった。オルタは手ずからキャスターに止めを刺そうとしている。それはオルタにとっては生みの親を手に掛けるも同然の行為であり、過去のオルタでは考えもしなかったことであろう。過去との決別と言い換えても良いかも知れない。

 初めは迷っていた遥であったが、その覚悟に気付くやその迷いは一瞬にして霧散した。オルタが戦うと言っているのに無理矢理引き下がらせる必要はない。多少無理を通してサーヴァントの望みを叶えてやれずに、何がマスターか。

 そうして遥が頷くと、オルタは微小して頷きを返してベランダから飛び出していった。続けてエミヤの視界からジルの様子を見れば、暗示を解かれた子供たちがキャスターに怯えて逃げ惑っていた。その姿を見て、遥がエミヤに念話を飛ばす。

 

『エミヤ。聞いてたろ?』

『無論だ。要は、アヴェンジャーが到着するまでキャスターの足止めをしろと言うのだろう?』

 

 エミヤが念話でそう言った直後、城の屋根から奔った一筋の閃光が虚空を裂いた。口にはしていなくともエミヤもキャスターの狼藉には我慢ならないと見えて、彼が放った矢は音速すらも追い越してキャスターの足元に着弾する。逃げ惑う子供たちに一切の被害がない精妙なコントロールはさすがの腕前と言えるだろう。

 キャスターはエミヤのことは視認できないまでも自分が狩る立場だけではなく狩られる立場でもあることを悟り動きを悟られずに子供たちを追いかけようとするも、その程度で狙いを外すエミヤではない。次々と剣矢を投影し、キャスターの進路を妨害するように射る。

 自分の思い通りにならないのが腹立たしいのか、キャスターは巨大な目をさらに血走らせ、出張らせながら狂乱のままに雄叫びをあげる。だが遥はそれに一切の感慨を抱くことも感傷を抱くこともなくエミヤとの感覚共有を切った。わざわざ遥が指示を出さずともオルタとエミヤならばうまくやってくれるだろうという判断である。目下ではセイバーが飛び出していくが、騎士である彼女はオルタが決着を付けるのを邪魔するような無粋な真似はするまい。

 残った者たちは残ったものたちですべきことがある。遥たちは聖杯戦争に参加しているのだ。襲ってくる敵はキャスターのみとは限らない。遥はいつの間にか戦支度を整えていた沖田とタマモに向き直ると、指示を飛ばした。

 

「沖田はアイリさんの警護、タマモは別陣営が来た場合の迎撃をしてくれ。ただの勘だが、多分誰か来る」

「私たちがサーヴァントであると露見した場合はどうするのですか?」

「バレるようなヤワな魔術はかけていないさ。仮にバレたとしたら、そいつは俺より階位の高い魔術師ってこった」

 

 半ば投げ槍のような遥の言葉であったが、それは実質〝絶対にバレない〟と言っているのも同然であった。この聖杯戦争に遥よりも階位が高い魔術師は参加していない。そも、聖杯戦争でなく魔術社会全体として見ても遥は最上位に位置する魔術師のひとりなのだ。その秘術がそう簡単に露見する筈もない。

 そうして城内に戻ろうとして、思い出したように遥が「ああ、そうだ」と言葉を漏らす。

 

「ランサーたちが来た時は俺が相手をする。アイツらは俺が決着をつけるべき相手だからな」

 

 その言葉に沖田とタマモは何か反駁しようと口を開きかけるが、すぐに口を噤んだ。普通、サーヴァントはマスター自身が他の陣営と戦うのを止めようとするだろう。だが遥とその仲間たちに限ってはそうではなかった。

 遥の本職は魔術師だ。そもそも混血というヒトの規格に当てはまらない存在であるうえ、神代から受け継いできた魔術を数多く行使するその実力は超一級であり、むしろ現代で並び立つ魔術師を探す方が難しいだろう。しかしその認識以前に遥には自分が剣士であるという自負があった。

 新撰組である沖田が武士道を奉じているように、遥もまた己の中にある誇りを奉じている。タマモは特に奉じる誇りはないが、遥によく似た男をひとりだけ知っていた。それに加えて彼女らは夜桜遥という男の人柄をよく知っているが故、止めることはしなかった。遥は魔術師として一流であるが、剣士としての腕前も超が付くほどの一流である。秘めたる才能だけを言えば、遥は沖田に並び立つほどであった。

 ふたりからの了承を得た遥が薄く微笑む。口ではあくまでも予測としてしか語っていない遥ではあったが、内心ではランサー陣営の来訪をほぼ確信していた。遥の勘はよく当たるのである。そもそもケイネスは血の気の多い魔術師であることは、遥は倉庫街での戦いで把握している。ケイネスほどに自尊心と自己顕示欲の強い魔術師であれば、工房の地の利を棄てても他陣営に攻め込むのは明白だ。

 だが、既に遥の本命はケイネスではない。ケイネスでは遥の相手にならない。ケイネスの正確や礼装の特性、戦闘スタイルは倉庫街での戦いで記憶済みだ。次に会えば遥が振るう叢雲の刃は過つことなく水銀の刃を全て受け止め、一瞬にしてケイネスの心臓を穿つだろう。魔術師としての技量の差は不明だが、少なくとも武人という点において遥とケイネスの間には大きな実力差が横たわっていた。

 故に、遥が望んでいるのはランサーとの立ち合いであった。マスター自らが敵マスターではなく敵サーヴァントとの戦いを望むというのは些か傲慢かも知れないが、あれほどの武人を前にして立ち合いを望まない剣士はいるまい。何しろフィオナ騎士団の一番槍である。知名度が低い故に身体能力が劣化しているのは否めないが、それでもその武錬が劣化しているということはあるまい。

 沖田が遥の指示通りアイリの護衛に向かい、遥とタマモが迎撃の準備を整える。そうしてしばらく、森の端の方で恩讐の紅蓮が立ち上り始めた頃、遥はもう一度魔術回路の蠕動を感じた。その魔力の波動から新たな侵入者の正体を悟った遥の顔に自然と好戦的な笑みが浮かぶ。その様子を見て、タマモが苦笑する。

 

「ランサーですか?」

「ああ。おまけにケイネスは別方向から来てる。まさにお誂え向きってトコだ。

 それじゃ、言ってくるよ。あ……タマモ」

 

 自然と何かを言いかけて、しかしすぐに気付いた遥がタマモと言いなおす。タマモはそこに何か奇妙なものを感じたが、それを遥に問う間もなく遥はベランダから身を躍らせて駆け出していた。

 ランサーと遥の距離は約2㎞ほど。何の芸もなく走っているだけではランサーは先にオルタとキャスターを補足し、その戦いに介入していこうとするだろう。彼もまたセイバーと同じく騎士であるから邪魔するようなことはないだろうが、信用しきれないのも道理であった。

 「魔術回路、封印解放(サーキット・オーバーフロー)憑依分霊接続(コネクト)」と呟き、身体を限界にまで押し遣る。刹那の間のみ発狂しそうなほどの苦痛が遥の総身を駆け抜けるが、()()()()解放された人外の血は肉体を超常の領域にまで押し上げた。

 さらに全身の筋肉ひとつひとつに強化魔術を施し、さらに速力をあげる。自動車すらも軽く追い越すほどの速度で走る敵の存在を感知したのか、ランサーの気配が止まった。そうしてすぐ、遥もランサーを見付けて立ち止まる。

 右手に執るのは紅色の長槍〝破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)〟。左手に執るのはその対となる黄色の短槍〝必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〟。同じケルトの英霊であるためか、全身を覆う戦いやすさを重視した皮装備はクー・フーリンと共通する。髪をオールバックに撫で付け、眼の下では魅惑の泣き黒子が輝いている。同性である遥には効果はないが。

 既に互いの顔を見知っている遥とランサーであるが、ランサーはまさか遥が来るとは思っていなかったらしい。意外そうな顔で遥を出迎えた。

 

「ここはアインツベルンの森だと聞いていたが……まさか貴殿がいるとは」

「アインツベルンは俺の同盟相手なんでな。アヴェンジャーとセイバーは今手が離せない。ンでもって、アンタの相手は俺がすることにした。

 俺との立ち合い、受けないとは言わせねぇぞ? ディルムッド・オディナ」

「ほう、俺の真名を……ならば、受けない訳にもいくまい。それが武人からの挑戦とあっては」

 

 そう言うと、ランサーは二槍を構えた。腰を落とし、両槍を地面と水平に構えて左手を引く。右手の槍は身体の前へ。まるで猛禽が翼を広げた形を模しているかのような独特の構えである。それがランサーが生涯の内に見出した最適の構えなのだろう。

 対する遥は両手で構えた叢雲をこれまでとは異なる体勢で構えた。それはかの天然理心流で言うところの〝平晴眼〟。遥はこれまでただ沖田の戦闘を見ていた訳ではない。遥は同じく剣士である沖田から様々なことを学び取っていたのである。

 平晴眼の構えを取っているとはいえ、遥の剣術は天然理心流ではなく叢雲に宿る先祖の記録から学んだ我流剣術である。だがランサーの眼にはそれが熟練した剣士のように映っていた。ランサーの眼が節穴なのではない。むしろ彼の眼は確かで、それは遥の放つ気迫が猛者のそれであっただけの話である。

 ランサーは熟練の騎士であるが故に、遥の構えや面構えから彼が相当な腕を持つ剣士であることを悟っていた。そして彼自身も〝モラルタ〟と〝ベガルタ〟という剣を振るっていた身だからこそ分かる。――少なくとも剣技において、ディルムッド・オディナは遥に劣る。

 ふたりの間に訪れる静寂。だがふたりにとって、そこでは両者の気迫がぶつかり合って剣戟の音を奏でているも同然であった。そうしてその気迫が視界の中で火花をあげた瞬間、ふたりは互いに裂帛の気合を以て開戦を告げた。

 

「フィオナ騎士団が一番槍、ディルムッド・オディナ――推して参る!!!」

「いざ――参る」

 

 直後、ふたりの間で火花が散った。




本当は今回で立香たちを決着させる予定だったのですが、遥たちの視点で一万字を越えたので一端ここで区切りました。
それにしても、沖田オルタがすごい遥とキャラ被りしているのですが……

・アルトリア顔
・刀使い
・手や刀から炎が出る etc...

これは召喚できるのでは?


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第32話 訣別の炎

「……始まったか」

 

 平時の静寂を失い、戦場と化したアインツベルンの森。その奥地で戦う者たちが放つ魔力の波導を感じ取ったひとりの男が呟いた。

 その男の風体は一言で言えば非常に珍奇であった。赤いフードを目深に被り、胴体は無数の疵が刻まれてくすんだ鈍色のアーマーを着込んでいる。腰には一振りのサバイバルナイフと1艇の拳銃を携えている。手に握っているのはキャレコM950と呼ばれる短機関銃だ。

 携えている武器の類は非常に現代的であるというのに、その恰好はまるで現代の防弾装備と中世の鎧を掛け合わせたかのような非常に異様なものであった。一般人が見れば不審者か仮装(コスプレ)だと思うだろう。そもそも、一般人には決して見付けることはできないのだが。

 男が姿を隠している木が生えているのは、勿論この森に張られた結界の内側である。だというのに男の存在はこの結界の主であるアイリと無理に介入した遥には気づかれていなかった。それはつまり、この男が相当に優秀な魔術師であるか――『暗殺者(アサシン)』のサーヴァントであるかのどちらかしかありえない。

 だが、前者であるというのはあり得ない。確かにその男は魔術師ではあるが、行使する魔術は戦闘を補助する類のものが主だ。アインツベルンの結界を騙すことができるだけの魔術の腕は男にはない。故に、この男が『暗殺者(アサシン)』のサーヴァントであることは疑い様もない事実だった。

 あり得ない事態だった。言峰綺礼によって召喚されたアサシン〝百貌のハサン〟は既に遥とオルタによって駆逐され、聖杯戦争から敗退している。そもそもとして、その男は山の翁(ハサン)に共通する容貌を何ひとつとして備えてはいなかった。

 大聖杯の予備システムが起動する状況ではない状態での2騎目のアサシン。最早この男――アサシンが聖杯戦争における員数外のサーヴァントであることは明白だ。更に言えば、アサシンの標的はこの聖杯戦争における小聖杯たるアイリスフィールである。

 しかしアサシンが冬木市に召喚されてから今まで、アイリを殺すことができなかった。アイリが冬木市に来てからというもの、アイリの隣には常にセイバーがいた。アサシンの気配遮断スキルのランクはA+と高いランクを誇っているが、しかしセイバーに気付かれないままアイリを暗殺することは不可能に近い。加えて森の結界を気配を隠したまま突破することもできなかった。

 よしんばセイバーを欺いてアイリに接近できたとしても、次に待っているのはアヴェンジャーのマスター――夜桜遥だ。アサシンはアイリの暗殺を遂行するうえにおいて、セイバーの次に他のサーヴァントではなく遥を警戒していた。得体の知れないあの魔術師はセイバーにように直感的にアサシンの気配遮断を見破ってくる可能性がある。仮に看破されれば、アサシンに待っているのは死だ。

 だが、ここに来てキャスターとランサーの襲来によってアサシンが警戒するセイバーと遥、さらに遥のサーヴァントであるアヴェンジャーが城から出ていった。城に残っているのはアイリと遥の仲間3名。うちひとりは宝具の投影と弓による超長距離射撃を行っている。この弓兵は要警戒だが、残りふたりは未だ戦闘能力が未知数であるが故に評価不可能。万全を期すなら暗殺作戦は敢行すべきではない。

 しかしこの機会を逃せば、次これほどの機会が来るのはいつになるか分からない。この戦いでランサーとキャスターは敗退する。それは間違いない。となれば残るのはセイバーとアーチャー、ライダー、バーサーカーの4騎となる。セイバーがアイリから離れる機会が訪れることはまずない。

 であれば、この機を逃す訳にはいくまい。多少無理を通してでも標的(ターゲット)を仕留めさえすれば小聖杯は失われ、大聖杯が起動することはなくなる。生前は死んではならなかったが、サーヴァントとなった今では例え死んだとしても標的を仕留められることができれば作戦は遂行となるのだ。何を厭うことがあろうか。

 そうと決まれば行動は迅速に行わなければならない。今も戦闘中とはいえ、彼らはいつまでも戦っている訳ではないのだ。迅速に城へと侵入し、小聖杯を仕留める。そう決断し、ナイフを手にアサシンは立ち上がった。同時に、自嘲的な笑みを漏らす。

 

「また汚れ仕事か……まぁいい。いつものことさ」

 

 まるで自分に言い聞かせるような声音。しかし次の瞬間にアサシンが浮かべていた表情にその声音を連想させる色合いはなく、抑止の守護者(カウンター・ガーディアン)はただ冷徹な眼光で森の奥を見据えていた。

 

 

 

 

 闇夜の森に閃く3条の閃光。眼にも留まらぬ速度でそれらが打ち合わされる度に嵐の如き魔力の暴風が吹き荒れ、周囲を蹂躙する。剣士と槍兵が戦うその一帯はまるでそこだけが重機によって伐採されたかのような有様であった。

 遥とランサーによる戦闘が始まってから既に数分が経過していた。ふたりの戦闘は互いに決定打を決めることも、それどころか互いに相手の攻撃を受けることもない。一進一退の状態が続いていた。

 相手が生半な英霊であれば、遥は固有時制御と縮地、更には剣技によって相手を圧倒していただろう。だがこのランサー――ディルムッド・オディナが相手とあっては不用意に攻め込むことができないのも事実であった。

 通常、槍兵というのは1本の槍を恃みとする騎士である。それは遥の仲間でもあるアルスター最優の騎士であるクー・フーリンがそうであることからも分かるだろう。だがディルムッドはそうではない。ディルムッドは2本の槍を有し、それを同時に恃みとする槍兵なのだ。

 右手に執る槍の真名は〝破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)〟。その槍で触れた対象に流れる魔力を遮断し、無理矢理に魔術などを無効化する効果を持つ対人宝具である。身に纏うロングコートを魔術を掛けることで鎧のように強固なものにしている遥にとっては、自分を丸裸にする宝具も同然だ。

 そして真に脅威であるのは左手に執る〝必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)〟である。この槍で付けられた傷には不治の呪いが掛かり、ディルムッドを斃すか黄槍そのものを破壊しない限り治癒することはない。『不朽』という起源によって脳か心臓を消し飛ばされない限り簡単には死なない遥だが、その起源特性もこの槍の前では無力だ。

 武錬においては遥とディルムッドの間に明確な差はない。それどころか、ディルムッドは知名度の関係上全盛期ほどの力を発揮することができないために、武錬においては僅かながら遥に分があるとも言えた。

 だが赤槍と黄槍の脅威と二槍流という特異極まる戦闘スタイルが遥の思いきりを阻止していた。叢雲に蓄積された記録を引き出すことで前担い手の戦闘経験を引き継ぐことができる遥であるが、それでも二槍流を相手取るのは初めてであった。つまり、戦闘スタイルにおいて遥にとってランサーは完全に未知の存在であった。

 しかし、未知の戦闘スタイルを相手にしているという点はランサーも同じだった。刀はその用途こそ剣と同じであるが、その使い方は大きく異なる。質量で叩き切る剣と、純粋な切れ味と速度で切り裂く刀。その術理が同じであろう筈もない。

 それだけではない。様子見のためか初めは防戦一方であった遥が少しずつ攻撃に転じてきている。遥にとって二槍流などは予想だにしなかった戦い方であった筈なのに、遥は急速にランサーの戦い方を理解してその攻撃への対応を盤石なものとしつつあった。

 さらに一合打ち合う度、遥の剣技の冴えは増してきていた。英霊であり、歴戦の勇士であるランサーですらも瞠目するまでの異常な成長速度。初めは二槍流という奇異な戦法によって趨勢を自身に傾けていたランサーは、ここに来てその有利を失いつつある。

 数合打ち合い、ふたりが距離を取る。そうして再び武器を構え直すと、ふたりは互いの出方を見計るように動きを止めた。

 

「決して侮っていた訳ではないが……まさかここまで早く俺の動きが読まれようとは。貴様の剣、まさしく天才のそれよな。

 ……だが、まだだ。よもやそれが貴様の本気ということはあるまい?」

「当然。そう言うお前こそ、そろそろ様子見は止めたらどうだ?」

 

 挑発めいた声音で放たれた遥の言葉。だがランサーはそれに気を悪くしたような様子はなく、むしろ面白い、とでも言いたげな様子で短い笑声を漏らした。同時にランサーが纏う魔力と気迫が数倍にまで膨れ上がり、遥が苦笑いする。

 今まで全力を出さずに様子見に徹していたのは遥だけではない。ランサーもまた自分の知らない術理によって振るわれる武器がどのようなものであるのかを把握するためにあえて攻め切らず、遥に攻撃をさせているところがあった。つまり、未だランサーは真の力を隠している。

 対する遥もまた全力には程遠いものであった。肉体と魂に同化している分霊と接続する魔術を使って混血の力の一端を使ってはいるが、遥の剣術において剣と同等の意味を持つ固有時制御と縮地を一切使っていなかった。

 宝具の能力によって自身のステータスを大英雄に匹敵するほどまでに強化することができる遥であるが、遥は力ではなく技を旨とする剣士である。仮に遥が技を磨かずに力だけに頼る剣士であったのなら、遥はとうに死んでいただろう。

 本気を出し始めたランサーに答えるように、遥が固有結界の祝詞の一節を唱える。その瞬間、遥の体内に遥の心象である煉獄が展開され、そこから漏れ出す焔が身を焦がし始めた。だがその熱も、むしろ今は心地よくすら思える。

 全身から焔を吹き出したまま遥は叢雲を構えると、瞑目してひとつ深呼吸を零した。そうして遥が目を開けた瞬間、ランサーはまるで自分の身体が射貫かれたかのような錯覚を覚える。

 

「――加速開始(イグニッション)

 

 直後、まるで爆音のような轟音が鳴り響いた。その一瞬はそれが何の音か分かっていなかったランサーであったが、しかし彼はすぐにその音の正体を知る。その轟音は遥が大地を踏み抜いた音であった。

 そうして振るわれた神速の剣を辛うじてランサーは槍を交差させることで受け止める。続けて刀を払って反撃に転じようとするが遥はそれを許さず、連続して攻撃を繰り出す。

 それらに対して直感的に対応しながら、ランサーが内心で驚嘆する。歴戦の騎士であり聖杯戦争における最速のクラスであるランサーに据えられた彼の眼をして、遥の挙動はその一切を捉えることができなかった。

 あり得ない話ではない。体内を固有結界化することで外界から切り離し、体内時間を倍化する魔術である固有時制御は近接戦において絶大な威力を発揮する。人体の限界を無視さえすれば、固有時制御の加速倍率に限界はない。遥の起源である『不朽』が齎す特殊体質との組み合わせはまさしく最適と言えるだろう。

 だが、固有時制御による自傷を考慮しなくてもよい遥でも痛みを感じない訳ではない。体内に展開した固有結界から漏れ出した焔に全身を焼かれ、さらに限界を超えた速度で駆動する激痛が遥の総身を責め苛む。その痛みに耐えながら遥は叢雲を振るい、ランサーを攻め立てる。

 しかし、ランサーが一方的に攻め立てられるのを良しとする筈がない。神速で繰り出される遥の剣撃を二槍で打ち払いつつランサーが周囲を睨み付ける。そして遥の軌道を突き止めると、そこへ黄槍を突き出した。

 

「そこだッ!」

「―――ッ!?」

 

 突如として繰り出された黄槍。遥はそれに咄嗟に対応して身体を捻って回避しようとするも、完全に回避しきれずに頬の皮を切り裂かれる。遥が舌打ちを漏らすと、ランサーが得意気な笑みで応える。

 先程までランサーには神速で動く遥の姿は見えていなかった。しかしランサーは遥ではなくその動きによって生じる空気の流れなどを読むことで遥がどこに現れるかを察知したのである。まさしく歴戦の武人にのみ許される所業であった。

 頬に触れると、黄槍で斬られた箇所から血が流れていた。やはり遥の予想通り、平時であればすぐに治癒する傷も黄槍によって付けられたものであれば致命傷になり得るらしい。

 指に付いた血を舐めとる。口の中に広がった生暖かく不快な血の味は、まさしく生きている味だった。それを飲み下し、遥は叢雲を構える。そうしてランサーを睨み付けているうち、遥は奇妙な感覚に捕らわれた。

 周囲の音が遠ざかり、風景が色を失っていく。遥の意識の中で重要な意味を持つものは眼前にいる敵のみだ。全神経がランサーに集中され、戦意の高まりに応えるように遥が放つ気配が鋭い刃の如く研ぎ澄まされる。そのギアが上がっていく度、遥の中で何かが変革していく感覚があった。

 遥自身ですら明文化できないその感覚だが、相対するランサーもまた遥の変化を感じ取っていた。初めから分かっていたことだが、改めて認識する。――目の前にいる剣士は、決して尋常な相手ではない。

 何度か空中で叢雲を斬り払い、鞘に納める。そうして柄に手を掛けて腰を落とすと、ランサーが訝し気な表情を浮かべた。それも無理からぬことで、西洋の剣術に居合術は存在しない。だが遥の構えが何かは分からずとも仕掛けるつもりであるのは分かったようで、ランサーが槍を構える。

 

「……本気でいくぞ」

「応とも。来るがいい。貴様の全力、見事このディルムッド・オディナが受けきってみせよう!」

 

 今までの遥の声音とは異なる、低く抑えた声。それに返されるは、魔貌の騎士の闊達な応え。その直後、音もなく遥の姿が掻き消えた。先程のそれとは異なる、全く気配を感じさせないままの踏み込みにランサーが面食らう。しかしランサーの積み上げてきた武錬が齎す第六感は姿が見えずとも殺気を察知し、遥の抜刀術を受け止めて見せた。

 だが遥の剣撃はそれでは終わらない。英霊にすら刀身の輪郭が霞んで見えるほどの剣速と、多くの剣士と相対してきたディルムッドですら舌を巻くほど凄まじい剣技。それらが合わさった遥の剣術はまさしく神業と言うべきものであった。

 戦いの内に成長する、などという生易しいものではない。遥の成長速度はそんな言葉では表しきれないほどに凄まじいものであった。まるで昔は使えた筈のものを取り戻しているかのよう、というのがランサーの印象であり、それは遥の身に起きていることを表すに最も適切な言葉であった。

 ランサーに神刀の斬撃を叩き込む遥の眼がいつもの漆黒から紅玉の如き真紅へと変じていた。それは遥がその身に宿す人外の血が高まっている証であり、彼の肉体と魂に同化した分霊との同調が強まっていることを示すものであった。次第に遥が放つ剣気もまた強まり、それ故か固有結界から焔が噴き出す。

 遥の連撃を紙一重で回避するランサー。遥は焔を左手に収束させると、それをランサーに向けて撃ち放った。剣の回避に専念していたランサーはそれを避けることができず、真正面から焔に呑み込まれる。直後に爆発を起こす焔。ランサーはそれに吹き飛ばされながらも空中で大勢を直して着地した。

 

「これだけ戦ってまだ底が見えんとは……良いがな。その方が心躍るというものだ」

 

 そう言ってより好戦的な笑みを浮かべ、二槍を構え直すランサー。それとは対照的に、全身に煉獄を纏う遥はどこまでも無表情であった。その身体に纏う気炎の如き焔ばかりがその闘争心をランサーに知らしめている。

 ここまでの戦闘で遥とランサーは互いの戦闘スタイルを完全に把握するまでに至っていた。最早変幻自在の二槍流に惑わされることも、視認できないほどの高速移動に翻弄されることもない。そうなれば、ここからは純粋な技量による勝負だ。

 余裕を覗かせた笑みを浮かべてはいても、ランサーは内心で冷や汗を流していた。心躍るとは言ったが、相手の底が見えないというのは同時に恐ろしくもある。それは剣の技量に限った話ではなく、未だに隠している手の内が多すぎるということもあった。

 ただ槍だけを恃みとする騎士であるランサーとは違い、遥の本職は魔術師だ。その手の内は剣だけではなく魔術や他の礼装、異能である固有結界まで多岐に渡り、それらを組み合わせることもできる。戦術の多様性という点においてランサーは遥に敵わない。

 だがその不利を覆してこその騎士だ、とランサーが高揚を隠すこともなく笑みを見せる。対照的に真顔の遥であるが、何も感じていない訳ではなかった。ただ、それを打ち消すだけの激痛が遥を襲っている。

 遥が自己強化に使っている魔術は遥に同化した分霊との接続に掛けた封印を一時的に解除するという単純かつ強力なものだが、その反動は八俣遠呂智に劣らないほどに多大だ。時間経過と遥の感情の高まりに応じて叢雲に宿った記録から戦闘経験を引き出しはするが、他人の、それも人よりも高位である存在の記憶を押し付けられて平気でいられる筈がない。

 その激痛を無理矢理に意識から締め出し、焔を纏う叢雲の切っ先をランサーへと向ける。それとほぼ同時、ランサーが地を蹴った。今度は俺の番だ、とでも言わんばかりに二槍を構え、遥へと突貫する。

 遥の剣速にも全く劣らない速度で繰り出される赤と黄の軌跡。それを迎え撃つ黄金の閃光。眼にも留まらぬ、という言葉すらも不十分に感じられるほどの高速戦闘。一合打ち合う度に放出される嵐のような魔力が周囲の木々を薙ぎ倒し、大地を陥没させる。

 右手だけで叢雲を振るって槍を弾きつつ、左手でロングコート裏から黒鍵の柄を取り出して魔力を込め、ランサーに向けて投擲する。それを弾こうと槍を振るうランサーだが、黒鍵と槍が接触した瞬間に異様なほどに強い力を受けて吹き飛んだ。鉄甲作用である。

 

「隙ありッ……!」

「なんの……!」

 

 吹き飛ばされたことで生まれた隙を突いて遥がランサーに斬りかかる。ランサーはすぐに体勢を立て直し、叢雲を迎え撃つように赤槍を振るうがしかし、遥はそれを先読みしていたかのように動いた。突き出された赤槍を左手で掴み、ランサーがバランスを崩した瞬間に腹に膝を入れる。

 そのまま吹っ飛ばされるランサーであるが、しかし今度は体勢を崩すような愚は犯さなかった。吹っ飛ばされた瞬間にその衝撃を受け流すような体勢を取り、隙を見せないように槍を構えたまま着地する。しかし隙を見せないからとて攻め込まないほど、遥は甘い男ではなかった。

 ランサーが着地するのとほぼ同時、叢雲を構えた遥が地を蹴った。仙術の領域にすら迫る究極の歩法によって遥は音速どころか英霊の認識力すらも超える。それはまさにランサーにとって最悪のタイミングであった。攻撃を察知したランサーは咄嗟に回避行動をとるが、しかし間に合わずに脇腹を浅く切り裂かれる。

 飛び散る紅い飛沫。それがロングコートに降りかかるのも構わず遥は追撃せんと叢雲を振り上げて振り返る。未だランサーは遥の方に背中を向けた状態。まさしく千載一遇の好機(チャンス)。だが遥は叢雲を振り下ろすより早く直感的に悪いものを感じ、後方に飛び退いた。刹那の後、遥がいた場所を二槍の穂先が閃く。

 一旦距離を取り、睨み合うふたり。緊張などという言葉では表すことができないほどの気配の中、遥に視線を投げかけたままランサーが口を開いた。

 

「そういえば、まだ貴殿の名を聞いていなかったな。こんな時に問うのもなんだが、死合う相手の名すら知らぬというのは気分が悪い。聞かせてもらおうか?」

「……セイバーといい、アンタといい、どうして騎士ってのは名乗りに拘るんだか……まぁ、いい。夜桜遥。それが俺の名だ」

 

 遥にも魔術師として、そして剣士として奉じる誇りはある。だがそれはセイバーやランサーが至高とする騎士道はおろか尋常な魔術師が奉じる誇りともかけ離れたものだ。故に遥は騎士道に理解を示すことはあっても共感はできない。それは遥の半ば呆れの混じった声音が雄弁に語っていた。

 それはランサーも分かっているだろう。彼はどこまでいっても騎士の正道を旨とする騎士であり、故にそうでない者はすぐに判る。しかし、ランサーには遥が騎士ではなくとも、己の剣に誇りがあることは分かっていた。ならばそれを否定することはできない。それがランサーの考えであった。

 短い笑声を漏らし、ランサーが好戦的な笑みの中に柔和な笑みを混ぜる。

 

「そうか。――では、遥。俺はお前を今生における最大の好敵手と認め、必ず討ち果たすと誓おう」

「ハッ。面白れぇ。――いくぞ、ランサー。次で決める……!!!」

 

 昂る戦意を隠そうともしない声音でそう言うと同時、遥が纏う焔の勢いが増した。ランサーは戦闘を始める時に見せた猛禽が翼を広げたかのような構えを取り、遥の様子を伺う。

 対する遥は腰のベルトから鞘を外し、叢雲を納刀して腰だめに構えた。腰を落とし、右手を降ろす。ほどんど決まった型を持たない遥の我流剣術だが、それはその数少ない型のひとつであった。セイバー戦においても使おうとしてライダーに阻まれた技でもある。

 互いに相手が決め技に訴えようとしていることを察し、闘志を増幅させる。剣士と槍兵。ふたりの戦士がが放射する闘志が鬩ぎ合い、彼らの意識を加速する。まるで永遠のようにすら思える一瞬。その中で先に動いたのはランサーの方であった。

 鍛え抜かれた強靭な脚が大地を蹴り飛ばし、ランサーの身体を押し遣る。音速すらも遠く追い越したその速さはまさしく最速のクラスであるランサーを名乗るに相応しいものであろう。突き出された破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)の穂先は寸分違わずに遥の心臓へと向けられ、そこへと吸い寄せられるように虚空を駆ける。それはまさしく乾坤一擲。渾身の一撃であった。

 だが次の瞬間、ランサーの表情が凍り付く。その視線の先では既に叢雲の柄に手を掛けた遥が立っていた。ランサーの初動は遥よりも早かったというのに、遥はそれを追い越したのである。正に空間跳躍とでも言うべき速さであった。驚愕するランサーの前で、遥は〝第一の魔剣〟を解放する。

 

「秘剣――」

 

 刹那と須臾を追い越した抜刀。奔る剣閃。驚愕するランサーの前で、遥は魔剣の名を告げる。

 

「――怒濤八閃」

 

 

 

 

 森が燃えている。木々を燃やす炎はまるで生きているかのようにのたうち回り、悲惨ながらもどこか美しい、まるで一枚の絵画のような光景を造り出していた。

 その中で自身の生みの親であり因縁の相手でもあるキャスター――ジル・ド・レェと対峙しながら、オルタはちらと城の方を一瞥した。キャスターが誘拐してきた子供たちはひとりも欠けることなくセイバーによって保護され、今頃は城に辿り着いているだろう。

 キャスターとしては子供たちをこの場で殺し、その血を媒介とすることで無限に海魔を召喚する気でいたのだろうが、まさにその目論見が外れたという訳である。血や水がなければ召喚できない訳ではないが、媒介がない遅々とした召喚などオルタにとっては脅威ですらない。

 キャスターの魔導書によって召喚された海魔たちはこの世に確かな肉となって顕現するより早くにオルタの憤怒と恩讐の炎によって打ち消される。感情を伺わせぬ顔で無慈悲にキャスターを追い詰めるオルタ。対するキャスターは時折魔力弾を撃ち放って牽制はしているが、その戦い方には戦術の色合いは全くなかった。そこに彼の日のフランス大元帥の面影はない。

 

「何故……何故なのですか、ジャンヌッ! 何故貴女が、他でもない民草に裏切られた貴女が、私でなく奴の側に付くのです!」

 

 信じられない、とでも言いたげな声音でキャスターが叫ぶ。同時にせめてもの抵抗のためか魔導書からから魔力弾を放つが、それはオルタが振るった長剣の一閃によって掻き消される。元より大した威力のない魔力弾である。消すのは簡単であった。

 恐らく、キャスターは未だ信じることができていないのだろう。ジャンヌ・ダルクという存在が自分ではなく別な誰かの味方をするということが。それが聖女ではなく彼自身が望んだ世界に対する復讐者としてのジャンヌ・ダルクであれば猶更だ。

 仮にこの場にいるのがオルタではなく本来のジャンヌ(オリジナル)であればこうして攻め立てることなく、口舌を以てキャスターに本来あるべき姿を説いていたのだろう。だが生憎と言うべきか、オルタはジャンヌのように言葉を以て相手に鉾を修めさせることができるほど器用ではなかった。

 スキル〝精神汚染〟によって元の狂った精神に輪をかけて正常な判断ができなくなっているキャスターであるが、しかし彼でもオルタが自分の理想が具現したものだということは分かっていた。或いは、正常な判断ができなくなっているが故に直感的に悟ったのだろうか。どちらにせよ、キャスターは今までにないほどに現実を直視していた。

 

「ハッ。愚問ね、ジル。サーヴァントがマスターに従うのは当然のコトでしょう?」

 

 嘲るようにそう言い、オルタは手から業火を放つ。それをキャスターはローブの裾を掴み、それに隠れることで炎を防いだ。何か特殊な加工がされているのか、ローブはオルタの炎に晒されていながら燃える様子はない。ローブの後ろから様子を伺うキャスターの眼。その中にまるで怯えたような光を見て、オルタの胸の奥に僅かな幻痛が奔る。

 こうして自らの意思でオルタはキャスターと戦っているが、しかしそれはオルタがキャスターを見限ったということではなかった。この冬木に召喚されたキャスターはオルタの知るジルではないが、それでもジル・ド・レェであることに変わりはないのだ。ある種、最も近しい存在の怯えた眼は堪えるというものである。

 だが、それでもオルタはキャスターへの攻撃の手を止めない。生みの親が非道に走る姿を見ていられない、などという理由ではない。オルタはただ自分ために生みの親であり、嘗て仲間だった筈の男を否定する。例え彼を狂わせたものがたったひとりの聖女(しょうじょ)の幸せを願った純粋な思いだったのだとしても。

 オルタが掌から放出した憤怒の炎はまるで炎を纏った龍の如き獰猛さを以てキャスターを呑み込み、今度こそその総身を燃え上がらせる。だがキャスターの執念も流石のもので、魔導書から術式を呼び出して全身に燃え移った炎を鎮火させた。宝具に近しい炎を鎮火できるのはキャスターの魔導書が紛れもない宝具だからなのだろう。

 しかし、周囲は全て火の海だ。そこを満たすのはオルタ自身が放った炎であるが故に彼女自身には脅威ではないが、キャスターにとっては最悪の状況である。既にこの戦場はオルタによって支配され、キャスターがイニシアチブを握ることは万に一つもあり得ない。キャスターの攻撃手段は全て奪われたも同然であった。

 キャスターが放つ魔力弾を剣で掻き消しつつ、オルタは少しずつキャスターとの距離を詰めていく。その眼に覚悟の色合いがあることにようやく気付いたのか、キャスターが目を剥き、髪を掻き毟る。

 

「おのれェ……おのれおのれおのれェッ!!! あの匹夫めがッ!! 我が願望の成就を阻むだけでは飽き足らず、聖処女まで誑かすかッ!!

 目を覚ますのです、ジャンヌ! 貴女には貴女を裏切った民草と神に鉄槌を下す権利がある! いえ、そうしなければならないのですよ!」

「そうね。……そうなのかも知れないわね」

 

 どこまで行っても純粋に聖女であるジャンヌとは違い、オルタの本質は復讐者だ。オルタは元よりそういう存在として生み出されたのだから、彼女がどう足掻こうがその事実だけは変わらない。

 オルタ自身、そうすることができればどれだけ楽なことか、と思わない訳ではない。身の内で燻る恩讐のままに復讐に走ったのなら何も考えずに済む。自分が聖女の贋作であることも忘れて、ただ甘美な復讐の内に浸っていることができる。

 しかし、それではオルタはジルによって生み出された時と何も変わらない。オルレアンで虐殺の限りを尽くした竜の魔女は何も考えないままに、復讐することが正しいのだと思っていた。けれどそれは人間の生き方ではない。自分で考えず、言われたままに行動するのでは人形と何も変わらない。

 だが、今のオルタには確固たる自我がある。皮肉なことにオルタは自身の復讐を否定した相手の下に召喚された時、初めて自我というものを得たのだ。折角人形から人間になったというのにすることが何も変わらないのでは損というものだろう。

 そもそもオルタは既に復讐よりも美しいものも、面白いものも知っている。今ジルの手を取って昔のオルタに戻ってしまえば、遥は迷いながらもオルタに刃を突き立てるだろう。それではいけない。それでは遥の煉獄の果てにあるものを共に見れなくなる。

 そう独り言ち、だから、と呟く。

 

「だから……私の為に死になさい。ジル。それが私の決定よ」

 

 静かな声でそう言い放つと同時、オルタは剣を構えて地を蹴った。それが何を意味するのかをたちどころに悟ったキャスターは魔導書から魔力弾を放つが、オルタはそれらを左手に握った旗を縦横に振るって掻き消した。

 直後、ぞぶりという音を立ててオルタの剣が何かを抉った。オルタは剣を振りぬいた姿勢で地面を見つめたまま、顔をあげようとしない。顔を挙げずとも彼女は自分が何を斬ったのかを分かっていた。鮮血が飛び散り、オルタの身体を濡らす。

 キャスターに刻まれた傷はキャスターの胴体の左肩口から右脇腹にかけて一直線に奔り、胴体をほぼ両断していた。助かり様もない致命傷。だが霊核を破壊されていないためか即死はしなかったようで、キャスターは力なくよろめいた後に燃える木を背もたれにして倒れ込んだ。

 森を焼く憤怒の炎がキャスターに燃え移り、少しずつその身体を炎で包んでいく。オルタは顔を挙げてその傍らまで歩み寄ると、小さく言葉を投げた。

 

「ごめんなさい、ジル。……さよなら」

 

 

 

 

「……見事」

 

 一瞬の交錯だった。互いに渾身の一撃を放ったふたりの勝負は遥に軍配が上がり、遥の魔剣を受けたランサーが全身から血を流しながら倒れる。ランサーの身体に刻まれた切り傷は8つ。まさしく魔剣の名の通りの技だが、真に驚くべきはその傷が()()()()()()()()()()という点だろう。

 遥の、と言うよりも叢雲の前担い手が習得した魔剣〝怒濤八閃〟。これは抜刀術による神速の剣技というばかりではなくその剣技のみで並列世界から全く同時の斬撃を呼び込む、つまり多重次元屈折現象(キシュア・ゼルレッチ)を引き起こすという魔剣であった。ある意味、嘗て名も無き剣士が修めた魔剣の上位互換と言えるかも知れない。

 要は第二魔法どころか魔力すらも一切用いずに技術のみで魔法の領域にある力を振るう剣技である。そんな剣を真正面から受けてただの負傷だけで済む筈もなく、ランサーの霊核は叢雲に両断され、完全に破壊されていた。存在を維持できず、ランサーの屈強な肉体が魔力の光と化して消滅する。

 ふたりの戦闘の余波によって周囲の森は破壊し尽くされ、大地は掘り返されて鬱蒼としていた森の原型は完全に失われていた。戦闘が終わり、静けさが支配する森。その中で唐突に遥が膝から崩れ落ち、叢雲を地面に突く。その眼は紅く明滅し、心臓が異様なまでに早鐘を打つ。苦悶が現れた口からは呻き声が漏れていた。

 まるで頭蓋の内から何かが頭蓋骨を破って出てこようとしているかのような激痛に加えて魂そのものに何かが焼きつけられるかのような不快感。遥の身に起きている異変は叢雲の真名解放をした際に彼に起きたものと全く同一であった。それどころかその痛みは以前のものよりも強いかも知れない。

 叢雲の真名解放が遥に同化している分霊との同調を強めるだけであるのに対し、怒濤八閃は同調を強めるだけでなく叢雲に宿った記録の最奥に位置する奥義を引き出すのである。規模は真名解放には劣るが、しかし遥に掛かる負担の強大さは計り知れない。

 遥が経験したことがない筈の記憶が彼の魂に叩きつけられ、その度に遥の中から彼自身の記憶に罅が入る。だが遥の起源である『不朽』によって損傷した筈の記憶は無限に再生され、遥の内から消えることはない。ただ増えるばかりの記憶。それに魂が悲鳴をあげない筈もなく、只人であれば死に至るほどの苦痛が遥を襲う。

 ランサーと戦っている時よりも一瞬が長く引き伸ばされ、遥が苦悶に呻く。しかししばらくしてその苦痛が収まってきた頃、遥の視界の端に見知った靴が映った。オルタのものである。

 

「オルタ……」

「何してんのよ。らしくないわね」

 

 呆れたような声音。しかしいつものオルタであれば見せないような笑みを見せながらオルタが遥に手を差し伸べる。遥はその手を取って何とか立ち上がると、何か違和感を覚えてオルタの顔を見つめた。

 オルタが浮かべている笑みはいつも彼女が浮かべているような勝気で不敵なものではなく、どこか自嘲的で弱気なものであった。らしくない、という点だけで言えばそれは遥よりもむしろオルタに向けられて然るべき言葉であろう。

 だが流石に見つめられていては恥ずかしいのか、オルタは顔を赤くして目を背ける。それでも真面目な表情をしていた遥だったが今の状態では立っているのも辛いのか、背中を木に預ける。

 

「……斃したのか、キャスターを」

「ええ。……あーあ、これで死んでもジルに顔向けできなくなっちゃった。ホント、私のマスターちゃんはどうしてくれるのかしらね?」

「それは……すまない」

 

 例え手を下したのはオルタ自身だったのだとしても、その決断をさせてしまったのは遥だ。そうでなくとも遥はオルタのマスターなのである。何であれ、サーヴァントがしたことの責任はマスターが持たなければならない。

 オルタが生みの親であるジルに対して剣を向ける原因を作ったのは元はと言えば遥だ。或いは斃す以外に別の道もあったのかも知れないというのに、遥はそれをせずにキャスターを打倒することを選んだ。そもそもが連続児童誘拐殺人犯であるキャスターは遥とは絶望的なまでの相性が悪いが、オルタはそうではないのだから。

 オルタとしては半ば冗談のつもりで言ったのだが、遥は本気で悩んでいる様子であった。そんな遥にオルタは微笑すると、口を開く。

 

「別にいいわよ。ジルを斃すって決めたのは私なんだし。でも、そうね。アンタは私のマスターなんだから――」

 

 そこまで言って一端言葉を区切るオルタ。その直後、遥は強い力で身体を引っ張られて前のめりによろけた。遥も相当に力が強いが、オルタの筋力値はA。自己強化を行っていない遥では抗うことができる筈もない。

 唐突に引っ張られたことで遥がオルタに対して抗議しようとして、その直前で息を呑んだ。遥の鼻腔をくすぐるのは男である遥にはない少女特有の不思議と惹かれる香り。頬の辺りを流麗な銀髪が撫でて、吐息が遥の耳にかかる。遥の顔の横にはオルタの顔があった。

 今までに経験したこともないような距離に遥が顔から火を吹くが如く赤面する。オルタはそんな遥の反応が面白いのか悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、遥の耳元で囁いた。

 

「――責任、取りなさいよ?」




つ、次こそは立香側視点書くから……


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第33話 夢想雪原

 いつの間にか、雪が降っている。立香がそれに気付いたのは気絶から目覚めた式の霊基が大幅に変質していることに気付いた直後であった。

 式の変質はクラスが『暗殺者(アサシン)』から『剣士(セイバー)』に変わっていることだけではない。それ以前にまず霊基そのものの規模が上昇していた。その規模は聖杯を取り込んでいる月下美人に勝るとも劣るまい。それだけ強大化していれば仮契約を結んでいる立香の魔力はただでさえ枯渇しているところ一瞬で底を突きそうなものだが、しかし何故か立香の魔力は一向に尽き切る様子はなかった。

 そもそもとして、この式は通常のサーヴァントの枠に収まる存在なのか。漠然とだが、立香は式が尋常な存在ではないことを感じ取っていた。式は月下美人のような神代の英雄ではないというのにそれと同格の剣技を誇り、更には聖杯もなしに強化されているサーヴァントと同じだけの霊基規模を維持するなど尋常な英霊にできることではない。

 それ以前に他者の固有結界を世界のテクスチャごと強引に引きはがし、そこに別な光景を上書きするなど英霊という存在の範囲でできることなのだろうか。どちらかと言えば、サーヴァントどころか英霊というカテゴリには収まらない筈の存在を無理矢理サーヴァントの枠に納めているという表現の方が正しいようにも思える。

 明らかに異常な変化を前にして当惑する立香たちと、固有結界を強制解除されたことで苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる月下美人。その眼前で式は涼し気な顔をして愛刀〝九字兼定〟を何度か握り直している。その仕草も美しく、男勝りだった以前の式とはかけ離れている。そもそも人格自体が違うのだから仕方のないことではあるのだろう。

 月下美人はマルミアドワーズを構えたまま式の様子を伺っている。複数騎のサーヴァントに対して同時に相手をして圧倒する彼女をして、今の式には底知れないものを感じているらしい。対して式はどこまでも余裕を覗かせた微笑を消さないまま、立香の方を振り返る。

 

「という訳で、マスター? 彼女、斃してしまって構わないのよね?」

「……ああ。頼む、式」

 

 式の眼を真正面から見つめ返す立香の眼。そこに宿っている感情に迷いや恐怖の類は一切なかった。その緑翠色の瞳が湛えているのは覚悟の光。どれだけ辛かろうとも耐えて見せるという覚悟の顕れ。それを見た式の笑みに一瞬だけ陰りが生まれる。

 立香はあくまでも普通の人間だ。遥のように数多の魔術が使える魔術師でも、人ならざる者の血を引く混血である訳ではなく、せいぜいが強力な魔眼を持っている程度。だが立香の眼は少し前まで普通の人間だった筈の人間では絶対にありえないものであった。

 或いは、それが藤丸立香という男なのだろうか。生まれや育ちは普通でも、何か自分の芯のようなものをはっきりと持っている。これだけの極限状況に置かれてもなおそれが折れないのはひとえに彼の精神力が強いということなのだろう。その姿がどこか幹也と重なって見えて、式は思わず笑んだ。

 次いで式は月下美人へと視線を戻した。愛剣のひとつである大剣を構えたまま唐突に変貌した式を睨み付けている。月下美人は式のことを知らないが、どうやら直感的に式が尋常ならざる存在だと見抜いたらしい。さすがの直感の強さである。

 現在表層化している『両儀式』とは厳密に言えば式の別人格とは少し異なる。彼女は根源に接続した式の肉体そのものの人格であり、ある種根源そのものと言える存在である。故に式は全能。わざわざ戦わずともサーヴァント1騎程度なら一瞬にして消し去ることなど造作もない。

 だがそれをしないのは、彼女なりの考えがあってのことであった。大剣を構える月下美人と刀を構える式。その間は一切の無音でありながら、余人には立ち入ることすらも許さない空気を漂わせていた。だがその静寂を破り、魔力放出の暴風が積もった雪を吹き飛ばす。

 

「セアァァァァッ!」

 

 裂帛の気合を以て月下美人が地を蹴り、大剣を振り上げて式へと肉迫する。凄まじい魔力の奔流によって押し出された月下美人の身体はまさしく神速。重厚な鎧を纏っていながらにしてそこまでの速度を出すことができるのは流石の騎士王と言うべきであろう。

 その速度から繰り出される斬撃はまさしく致命。いかな全能とはいえ一撃で斬り捨てられてはひとたまりもあるまい、という直感の下に放たれた月下美人の大剣はしかし、式に届くよりも早くに防がれた。月下美人の剣を受け止めたのは担い手の身長よりも巨大な聖盾。すなわち、受け止めたのはマシュであった。

 今までのマシュは月下美人の攻撃を受け止めることができなかった。しかしマシュは一瞬だけ戦闘が止まった瞬間にスキル〝今は脆き雪花の壁〟を発動し、自分を含めた味方の防御力をあげた上で〝魔力防御〟を行使して自らの防御力を底上げしたのだ。これまで咄嗟に思いつかなかった動きが即座に出てくるようになる。それはまさしくマシュの成長の証であった。

 連続して繰り出される大剣の攻撃をマシュは盾を振るって受け止める。その足は今までのように震えてはおらず、眼に宿る決意の光は先よりも強くなっている。加えて自ら『城』を顕現させた影響か、身体に宿る霊基との同調がより強まっている。それが成長なのか或いは一時的なものなのかはマシュ自身にも分からないが、少なくともこの戦闘ではマシュは平時よりも本来のサーヴァントに近い力を発揮できる。

 事実、今のマシュは先程までは受けるだけでよろめいていた攻撃を完全に受けきってみせていた。月下美人はマシュの様子が数十分前のそれとは明らかに異なることを悟ったらしく、どこか懐かしいものを見る眼となっていた。恐らくマシュの戦闘スタイルが彼女の知る騎士のそれと一致しているからだろうが、しかしマシュは彼の騎士本人ではない。様子見をするように、一瞬だけ月下美人の動きが変わる。

 その刹那、閃光の如き蒼い人影が月下美人に向けて斬り込んだ。神速で繰り出されるクー・フーリンの魔槍術。それを月下美人は先のようにセクエンスで捌く。その光景は何も変わらないが、その剣戟から勝機を感じて獰猛に笑んだ。その感覚は打ち合っていないアルトリアにも分かったようで、アルトリアは笑みこそ浮かべないまでもクー・フーリンと同じ勝機を感じ取った。

 固有結界〝騎士の国、終焉の丘(キング・アーサー)〟を強制解除されたことで、月下美人は弱体化していた。とはいえ聖杯を有している以上は脅威的な霊基規模であることに違いはないが、それでも勝機を見出すことすらできない訳ではない。彼らは既に聖杯のバックアップを受けたサーヴァントを打倒した経験もあるのだから。要は、月下美人はその領域にまで()()()

 クー・フーリンが後退すると同時に後ろからアルトリアが斬り込み、ふたりのアーサー王の間で火花が散る。ぶつかり合う聖剣と聖大剣。その間隙に月下美人はセクエンスを叩き込もうとするが、アルトリアはそれの軌道を直感的に察知し、エクスカリバーで先回りして防御してのける。そうしてセクエンスを弾くと、アルトリアは渾身の魔力を聖剣に叩き込んだ。漆黒の魔力が刀身から噴き出し、それを横薙ぎに振るう。

 

「ッ――!」

 

 間一髪のところで後ろに跳んだ月下美人であったが、漆黒の刀身はそう易々と敵を逃すことはない。回避されると分かった途端に魔力の刀身が形を変え、月下美人の鎧を擦過する。いかなアルトリアの魔力出力量であれ擦過する程度では神造兵装の鎧を砕くには至らない。だが今まで押される一方であった相手から趨勢を奪い返しつつあるというのは事実であった。

 固有結界の効果による能力強化が得られなくなったことで月下美人が憎々し気な表情を浮かべる。恐らく月下美人は何度か再度固有結界を展開しようとしているのだろうが、それは式が許さない。宝具の力よりも式の強制力の方が上回っているためだ。

 式の肉体が接続している根源というのは正しくこの世の全てだ。世界の外側に存在するそこには全ての世界の過去や未来などの悉くが記録されている。『両儀式』はその一部であるが故、極めて全能に近い力を持つ。宝具の力を上回る強制力を発揮する程度は造作もない。

 後退した直後に攻め込もうとする月下美人だが、しかし直感的に危機感を覚えてその場から飛び退いた。直後に月下美人がいた場所に巻き起こったのは赤と緑の螺旋。藤乃が持つ歪曲の魔眼の作用である。固有結界を展開していた時は脅威ではなかったが、今となってはそれは月下美人にとってある種式よりも脅威であった。

 藤乃の歪曲の魔眼は対象の強度に関わらず全てを歪曲させて破壊するという特性を持つ魔眼である。無毀なる湖光(アロンダイト)のように決して折れないという特性を持っている武具であればその作用を無視できる可能性もあるが、少なくとも月下美人の武具でそのような特性を有するのは盾くらいのものだ。故に藤乃の攻撃に巻き込まれれば月下美人に成す術はない。

 連続で繰り出される歪曲の魔眼を月下美人は全て直感のみで回避する。それだけなら固有結界を展開していた時と変わらないが、その回避の精度は些か落ちているようであった。避け続けるうち、巻き込まれた鎧の端々が欠け落ちていく。このままでは不味い、と藤乃を睨み付ける月下美人。だが彼女が藤乃への攻撃に転じるに先んじて攻撃を仕掛けた者がいた。式である。

 月下美人が振るう大剣の連撃を式は顔色ひとつ変えずに1本の刀で受け流し、さらにはその間隙に逆に攻撃を叩き込んでいる。加えて宝具ですらない刀での攻撃であるというのにその攻撃は鎧の加護を貫通し、確実に月下美人にダメージを与えていた。

 

「あら。さっきまでの威勢はどうしたのかしら、騎士王さん?」

「貴様ッ……」

 

 月下美人と互角以上の剣戟を繰り広げながら余裕の笑みを浮かべて挑発を投げる式。平時の月下美人であればそれを流せたのであろうが、歪曲召喚による精神変化とこの状況がそうさせなかった。挑発に乗った月下美人の顔が怒りと焦りに歪む。

 或いはそれは荒耶の無理矢理な召喚による歪みだけに齎されたものではなく、月下美人の直感が齎したものであるのかも知れない。いくら召喚の際に霊基を歪められたとはいえ、彼女の直感は未来予知に匹敵する。その直感が叫んでいるのだ。この怪物には絶対に勝てない、と。

 『両儀式』はそもそもが全能であるため、サーヴァントとして定義されているステータスは全く意味を為さない。その気になれば如何様にでも自身の戦闘能力をあげることができる。式が月下美人と互角以上の剣戟を演じていられるのも、式自身の身体能力と剣技を向上させているからだ。

 ふたりの間に吹き荒れる怒濤の如き剣風。だがそれでは埒が明かないとでも思ったのか、月下美人は剣戟を止めて鍔迫り合いへと移行させた。式もまたそれに付き合い、月下美人と至近距離から睨み合う。

 余裕を覗かせるたおやかな笑みを浮かべる式と、顔を苦悶に歪める月下美人。ふたりの表情はあまりに対照的で、故にそれらはふたりの趨勢をそのまま表していた。長い間立香たちを苦しめていた月下美人は式の前にあって、初めて互角の戦いを強いられていた。

 内包した聖杯から齎される膨大な魔力を両腕へと叩き込み、さらに全力で解放することで月下美人は己の筋力を限界にまで強化している。その筋力値は全サーヴァントの中でも最強格であることは間違いないだろう。しかしそれでも式の笑みは崩れない。

 歯噛みする月下美人。式はそんな彼女の様子に頓着することすらもなく大剣から刀を離し、刀を振るった。完全に不意を突かれた形となった月下美人は咄嗟に盾で頭を護ったことで首を刎ねられることは回避したが、正面から攻撃を喰らったことで吹き飛ばされる。

 衝撃を相殺できずに月下美人が大地を滑る。月下美人はすぐにそれを止めようと魔力放出で身体を固定しようとするが、そこに弾丸の如き速度でアルトリアとクー・フーリンが突っ込む。全く同時に振るわれる剣と槍。それを盾で受けようとして、予想外の威力に月下美人が再び転がる。

 

(この威力……〝強化〟か……!)

 

 内心でそう合点し、月下美人が立香を一瞥する。ただ魔力切れに喘いでいるだけのものと思っていたが、どうやらそれでも戦場を観察しているだけの冷静さは残っていたらしい。或いは魔力切れで意識が朦朧としていてもそれだけ頭が切れるとも言える。

 事実、少し前までは立香の魔力は枯渇寸前で、礼装に組み込まれた魔術を使っている余裕などなかった。だが本来は『獣』と『冠位(グランド)』だけが持つスキル〝単独顕現〟を有する式が前に出て戦い、短期間ながらそれ以外を後ろに下げたために若干ながら魔術を使う余裕が出てきたのである。

 だが、それでも立香の魔力が尽き欠けていることに変わりはない。意識は混濁し、四肢の末端の感覚が消え失せている。一瞬でも気を抜けば気絶して倒れてしまってもおかしくない状況で立香を立ち上がらせているのは、ひとえに彼の精神力と意地だった。

 いくら自分が辛くても、まだサーヴァントたちが戦っている。マシュが立っている。ならば自分は立っていなければならない。立香は今のところ礼装がなければ魔術も使えないような素人魔術師だが、マスターとしての心構えや覚悟であれば爆破で重症を負ったAチームたちよりも強かった。

 立香が不意に視線を落とすと、足元で自分を見上げるフォウと目が合った。オルレアンに引き続き、この謎小動物は立香たちのレイシフトに同行していたのである。まるで立香を心配しているようなその視線に、立香は虚勢を張って笑みを見せる。

 

「フォウ……」

「心配してくれてるのか? ……ありがとう。でも、オレは大丈夫だから。このくらい、なんてことない……!」

 

 嘘だ、とフォウは思った。カルデアに来る以前も常に死線を潜ってきた遥とは違い、立香はあくまでも一般人だった青年。全身の魔術回路が蠕動し、あまつさえ限界状態で魔術回路を駆動させるほどの激痛など経験している筈もない。普通であれば泣き出していてもおかしくないレベルだ。

 だが、立香を立たせているのが劣等感や強迫観念ではないこともフォウには分かっていた。仮にそれらであればフォウの意思に反してフォウの身体は急速に成長している筈である。故に立香の五体を駆動させる根源が純粋に強靭な意志力であることは明白だった。

 強い。半ば無意識にフォウはそう思った。いや、或いはこれから強くなると言うべきか。それは何も肉体的や魔術的にではなく、一個人の在り方として立香は強い。例え周りの者と違って戦えずとも、立香にはそれを補って余りある彼だけの強さがある。それは仮に立香が真の意味での魔術師や戦士になったところで変わりはするまい。

 意識は朦朧としていても、立香の眼は確かな光を湛えてサーヴァントたちを見つめていた。先程までは苦戦を強いられていたサーヴァントたちだが、式が月下美人の固有結界を強制解除したことで形勢は逆転しつつある。それでも油断できる状況ではないが。一瞬でも気を抜けばその瞬間に斬り殺される。

 神造兵装である〝永劫なる無辺の鎧(ウィガール)〟を纏っている月下美人に対しては攻撃の威力も大幅に減衰されてしまうが、それも何度も攻撃を加えれば済む話だ。塵も積もれば山となる、である。実際それは不可能な話ではなく、少しずつ月下美人は追い詰められつつあった。

 4騎のサーヴァントによる流れるような連続攻撃。時折距離を取った月下美人が反撃を仕掛けようとするが、それは先んじて行動した藤乃の魔眼によって阻まれ、その隙に再び攻撃を仕掛ける。式の活躍によって、戦闘の趨勢は立香たちの側に傾きつつある。

 

「やあぁぁぁぁッ!!」

「グッ……!」

 

 空中に跳びあがり、マシュが大盾を月下美人へと振り下ろす。月下美人はそれを盾に格納された約束された勝利の剣(エクスカリバー)を引き抜いて受け止めようとするが、しかし背後からアルトリアが迫ったことで注意が逸れた。

 これまでならば二方向から同時に迫られたところで月下美人は難なく迎撃することができていただろう。だがこれまでの戦闘で彼女に蓄積していたダメージなどによって、今回はその反応が遅れた。半端に軌道を変えられた大盾と聖剣が月下美人を叩く。

 辛うじてマシュたちによる攻撃を捌きながら、月下美人が自らの状況を分析する。未だに致命傷と成り得る手傷は負っていないが、蓄積したダメージは無視できないほどになっている。聖杯と直結しているため回復速度も相当に速いのだが、その接続も先程から安定しない。恐らく固有結界が解除された際にこちらのパスにも介入されていたのだろう。以前ほどの回復速度は見込めない。

 マルミアドワーズの柄を握りしめる。荒耶によって歪められたうえで召喚された月下美人は何故この戦いに勝たなければならないのかを知らない。ただ戦って勝たなければならない、という絶対命令だけが霊基に染みついている。しかし今の彼女を突き動かしているのはそれだけではなかった。元よりアルトリア・ペンドラゴンという人間は負けず嫌いである。それはどんな状態であれ変わらない。敗北が見える今、その性質は彼女を強く動かしていた。

 次第に苛烈さを増していくマシュたちの攻撃。それの前に、月下美人の中から真の虎の子を解放する躊躇いは既に消え去っていた。ここで躊躇ってしまえばマシュたちの得物はいずれ鎧を越えて月下美人の身体を抉るだろう。それはいけない。負けてはならない。簡単に負けを受け入れるほど、月下美人の心は変質してはいなかった。

 唐突に轟、と吹き荒れる魔力の嵐。それを受けきれずに吹き飛ばされたマシュたちは再び月下美人の方を向いた瞬間に驚愕に息を呑んだ。マルミアドワーズの刀身が黄金に輝いている。それを大上段に掲げ、月下美人がマシュたちを睨み付ける。

 刀身を赫奕と輝かせ、天を突くように掲げられたそれは神殺しの大英雄の愛剣。聖剣でありながら聖剣の領域を超え、神剣の域に手を掛けたもの。最強の大英雄のために鍛冶神が鍛えた紛れもない神造兵装。月下美人はそれに聖杯から供給される魔力の全てを叩き込み、彼女の全力を以て解放せんとしていた。

 マルミアドワーズの刀身から立ち上る黄金の光が空を裂く。その魔力量と熱量は約束された勝利の剣(エクスカリバー)の比ではあるまい。巻き込まれればサーヴァント数騎程度消し飛ばしてしまうことは想像に難くない。その超熱量を掲げたまま、月下美人が言う。

 

「今の私には戦う理由はない。何故戦っているのかも判然としない。だが、それでも死合う以上は勝ちは譲れない……!

 唸りをあげよ、星の聖剣……!!!」

 

 そう月下美人が口上を述べたと同時、マルミアドワーズから放たれる極光が更なる高まりを見せた。最早生半な盾の宝具では拮抗することさえ難しいほどの魔力。まさしく星の息吹として振るわれるに相応しい超出力であった。

 月下美人は身体能力こそアルトリアを大きく上回るが、竜種の因子を継いだ心臓の魔力出力量と魔力生産量は全く同一であった。故にその聖剣の一撃を支えているのは聖杯の魔力。月下美人は自らの現界を維持するために回していた魔力までも聖剣に叩き込んでいた。

 例え防御態勢に入ったところで消し飛ばされるのは必至。しかし聖剣解放までの隙に攻撃を仕掛けようとしたところで先に真名解放されて呑み込まれるのがオチだ。この状況を容易に打開できるであろう式は裏の見えない笑みを浮かべたまま動こうとしない。

 だがそんな状況下で臆さずに月下美人の前に出た者がいた。マシュである。マシュは内心で湧き出し続ける恐怖を押さえつけて盾を構えると、背後の立香に向けて口を開いた。

 

「……私の宝具ならあれを防げます。マスター、指示を!」

「マシュ……ああ、頼む。アレを防いで、皆を守ってくれ」

 

 自分の宝具なら聖剣を防げるとは言うが、立香にはマシュが恐怖を捨て去ることができていないことが分かっていた。後ろに控えているだけの立香でも恐怖を禁じえないのだから、それを今から受けようとしているマシュが恐怖しない筈がない。

 それでもマシュは恐怖を乗り越え、脅威に立ち向かおうとしている。ならばそれを共に乗り越えるのがマスターというものだろう。聖剣の一撃を防ぎうる宝具を持つのがマシュだけだから、ではない。マシュだからこそ立香は己が命運を預けられる。

 魔術回路と令呪を接続する。令呪は魔術回路とは別個の独立した魔術だが、完全に独立運用しかできない訳ではない。立香は令呪に彼自身に残った最後の魔力を乗せることでマシュを限界まで後押しせんとしていた。

 令呪の一角が紅い輝きを帯びる。

 

「――回路(スイッチ)装填(オン)。令呪を以て、我が盾に命ず。宝具で聖剣の一撃を防いでくれ、マシュ!!!」

 

 二角目の令呪が弾ける。同時に膨大な魔力の奔流が立香の魔術回路を蹂躙し、全身に奔る鈍痛に立香が顔を顰めた。立香の未熟な魔術回路では通常、令呪ほどの膨大な魔力は御しきれない。しかし行使された令呪はカルデアからのバックアップを受け、十全にその機能を発揮した。

 立香とマシュの間に結ばれた経路(パス)を通し、令呪の魔力が流れ込む。それだけではない。冬木の時にも感じた、魔力の経路(パス)を通して立香の心と直結しているような感覚がマシュを包む。立香の思いがマシュへと流れ、マシュは瞑目して息を深く吐いた。

 眼前で屹立するのは極光の柱。恐らく今までのように人理の礎(ロード・カルデアス)で受けるだけではそれを防御することは叶うまい。そもそも、マシュの盾は外敵からの攻撃を防ぐものではなく、その内にあるものを護るための物。故に意識を向けるべきは極光ではない。自らの背後にいる、自分を信じて託してくれている者たちだ。

 呼び起こすのは以前に宝具を使った時の感覚。その時は殆ど無意識に顕現させた『城』を、再び顕現させる。そうしてマシュが瞑目しているうち、月下美人が叫んだ。

 

「常勝の剣、我が手に勝利を……!!

 ――常勝の剣よ、神をも墜とせ(マルミアドワーズ)ッ!!!」

 

 真名解放。振り下ろした大剣から解き放たれた極光の奔流はまさしく魔竜の咆哮が如き暴威を以て大地を()く。降りしきる雪は大地に届くよりも早くに昇華し、降り積もった白は一瞬にして消え去った。

 星の外敵に向けて振るわれる息吹。比類なき光の嵐。全てを呑み込み溶解せしめる暴虐を前にして、しかしマシュは臆さずに迫る極光を見据えていた。未だに恐怖は拭えていない。けれど、ここでマシュが退けば皆が死んでしまう。極光を受け止めることよりも、それは何より怖いことだった。

 故にマシュは盾を構える。全身に満ちる魔力は宝具の解放に十分なほどに充填されている。魔力のパスを通じて伝わってきた立香の心に応え、マシュは覚悟を決めて眼を開いた。

 意識は外ではなく内へ。マシュの盾は未だ完全な形を成してはいないが、それでもその盾はマシュの心に一片の曇りもない限り、白亜の城の正門は崩れない。もう一度深呼吸をして迫る極光を見据え、恐怖を打ち消すようにマシュが吼えた。

 

「やらせない……! 先輩(マスター)は、皆さんは……私が護るッ!!!

 ――顕現せよ、白亜の城。宝具、断片展開!!!」

 

 決意と覚悟を以て放たれたマシュの咆哮。その瞬間、マシュを中心として魔力の暴風が吹き荒れた。その暴風の中、マシュの背後から光が沸き上がる。それは一瞬にして白亜の城の偉容を成す。未だマシュの盾が完全でない故にその城も所々が欠けているが、それでも殆ど完成に近いのは確かだった。

 直後、極光の奔流がマシュの聖盾と衝突した。進路を阻まれた極光は白亜の城に阻まれてマシュの後ろにいる立香たちには届かないが、しかしマシュの腕には強烈な圧力がかかり、肌を巨大な熱量が焼く。間近に迫る『死』の感覚に、再びマシュの心を恐怖が鎌首をもたげる。

 だがその恐怖にマシュが身を委ねることはなかった。己を鼓舞するように咆哮をあげ、恐怖を心の彼方に押し遣る。マシュの盾は彼女の心を現す守り。故に恐怖を押し遣ったマシュの心を現し、白亜の城は更なる堅牢な護りを発揮した。

 白亜の城が一際強い輝きを放つ。それと同時、盾と鬩ぎ合っていた極光が遂に押し負けた。白亜の城の護りの前に屈した極光はそれまでそれを束ね上げていた秩序を失い、彼方へと押し流される。

 

「なっ……ッ!」

 

 まさかここに来てマシュの盾が殆ど完全な城を顕現させるとは思わなかったのか、或いは単純にマルミアドワーズが防ぎ切られるとは思っていなかったのか、月下美人の顔が驚愕に染まる。直後、その身体は押し返された極光に吞まれた。

 戦闘が始まって以来初めての明確な隙。それに真っ先に反応したのは式であった。式は月下美人が極光に呑み込まれてすぐに地を蹴ると、刀を逆手に持ち替えた。その眼は蒼く輝き、月下美人を睨み付けている。

 式に視えているのはモノの『死』。全てに存在する綻び。それを余程特殊なものではない限りは式は見誤ることはない。そうして式が刀を一閃するや、月下美人が纏う鎧が粉微塵に砕け散った。鎧に存在した死の線を斬ったのである。

 これで月下美人を護るものはなくなった。しかし月下美人はそれ以上攻撃をさせまいと式に向けて大剣を振るう。けれど全身血濡れになるほどダメージを受けた月下美人では式を捉えることができず、式は後方へと跳んで回避した。直後、月下美人の背筋を撫でる悪寒。それに気付いた時には、既に対応は遅きに失していた。

 月下美人の視界の端に映ったのは呪いの朱槍と青い槍兵。宝具解放の独特な構えを取った槍兵は立香が行使した三角目の令呪の後押しを受け、今にも宝具を解放せんとしていた。

 

「その心臓、貰い受ける――!! 刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)!!!」

 

 穿つは心臓。狙いは必中。真名を解き放たれた朱槍は担い手の指示の通り、寸分違わずに月下美人の心臓を貫いた。月下美人が十全の状態であればそれを受けることはなかったのだろうが、ダメージを受けていたことで反応が遅れた。霊核を貫かれたことで月下美人の身体から力が抜ける。

 激戦を繰り広げた相手でも終わってしまえば絶命するのは一瞬だ。霊核を砕かれた月下美人の身体が青い魔力光と化して消滅する。そうして現れた聖杯をクー・フーリンが回収すると、式は上書きしていた世界のテクスチャを元に戻した。周囲の景色が無限に広がる雪原からオガワハイムへと立ち戻る。

 クー・フーリンが回収した聖杯をマシュに渡し、マシュがその聖杯を盾の格納スペースに収納する。別な方に視線を遣れば、式の姿と人格が戦闘途中のそれから元のそれに戻っていた。本人には気絶した後からの記憶がないようで、藤乃から聞かされている自分の様子に首を捻っている。

 それをどこか呆然とした面持ちで見ている立香の背をアルトリアが軽く叩いた。

 

「よくやった、マスター。貴様はまだ未熟だが、評価するには値する。褒めてやろう」

「アルトリア……オレは何もしてないよ。ただ、後ろで見ていただけだ」

 

 立香が自嘲的にそう言うと、アルトリアが揶揄うような笑みを見せた。

 

「フン。謙遜するのも良いがな、王からの賛辞は素直に受け取っておくのが吉というものだぞ?」

「そっか。……なら、そうしておこうかな。――あれ……?」

「リツカ……? ……リツカッ!?」

 

 唐突に世界が傾く。それが自分が倒れているからだと立香が気付いたのは、彼の身体が地面に激突する寸前でアルトリアに抱き留められた時だった。咄嗟に大丈夫、と言おうとするが、身体が動かない。それどころか異常に強い眠気までもが立香へと襲い掛かる。アルトリアやマシュが何かを言っているが、それすらも今の立香には聞こえていなかった。

 そんな状況の中でありながら、不思議と立香は自分の状態を正しく把握していた。それは或いは意識が混濁している所為で変に冷静であるからかも知れない。何であれ、立香にとっては些末な事であった。魔力切れによる意識混濁にはどうあっても抗えない。

 そんなことを考えているうちにも立香の意識は少しずつ遠のいていく。その心地よさすら感じる眠気に抗うことなく、立香の意識は闇に落ちた。

 

 

 

「ん……? あれ、オレ……」

 

 立香が眼を覚ます。そうして初めに視界に入ってきたのは変異特異点にて拠点にしていた廃ビルの古ぼけたコンクリートの天井ではなく、染みひとつない純白の天井であった。聞こえてくる規則的な音は心電図の音声だろうか。次第に明瞭になっていく意識の中で、立香はここが何処かを思い出す。カルデアの医務室だ。

 何故立香が医務室に運び込まれているのか。それは考えるまでもなかった。特異点での戦闘の直後に意識を失った立香はカルデアに引き戻されるや否やスタッフたちによってコフィンから引きずり出され、医務室に運ばれたのである。

 ただの魔力切れで大袈裟とも思うが、それも致し方ないことであろう。最悪のケースを考えれば魔力切れはしばしば死に直結する。遥のように貯蔵魔力量が多い魔術師ならともかく、立香は魔術師としては未熟極まる。魔力切れが原因で死ぬ確立もその分高い。

 未だ完全には回復しきっていないのか、意識がはっきりしない。そうして呆然と天井を見上げたままでいると、不意に聞き覚えのある声が立香の耳朶を打った。見れば、ロマニがいつになく真面目な表情で立香を見ていた。だが手には団子が握られており、ロマニらしいどこか抜けた印象を受ける。

 

「おや。目が覚めたんだね、立香君。よかった」

「ドクター……オレ、どれくらい寝てました? それに、マシュたちは?」

「マシュを含めた君のサーヴァントたちは自室待機中さ。医務室にいてもよかったんだけど、万が一の時は治療の妨げになるかも知れないから、念のためね。

 あと、現状についてだけど……」

 

 それからロマニが語る話を、立香は黙って聞いていた。実際立香が気絶していた時間はそれほど長くはなく、月下美人との戦いからは半日ほどしか経過していない。その間に変異特異点βの修復は確認され、正常に戻っている。総じて立香たちの任務遂行には何も問題はない。あるとすれば、それは立香本人の身体だ。

 内カメラを起動させたタブレット端末をロマニから受け取り、立香が自分の姿を見る。以前は漆黒一色だった毛髪の一部が白く変色していた。それだけではなく、端末を持つ手の末端も褐色に変わっている。ひとえに無理に魔術回路を使ったが故の影響であった。

 立香は遥のように強力な魔術師ではなく、超が付くほどの素人である。未だ礼装の補助がなければ魔術を使えないどころか、魔術回路の開発そのものも殆どできていない。そんな状態で回路を酷使したのだから、早期にその影響を受けても不思議な話ではない。立香は彼自身でも不思議なほど、冷静にその事実を受け入れていた。

 そもそも魔術回路を酷使した代償は既に遥から聞き及んでいたことだ。立香はそのうえで自らがマスターとして戦うことを決意したのだから、その結果とそれに付随した責任は全て自分へと返ってくるべきものと立香は考えていた。苦笑しながら立香がそう言うと、ロマニは困ったように頭を掻いた。そうして部屋に備え付けられたコーヒーサーバーで2つのコップにコーヒーを注ぐと、片方を立香に渡す。

 

「今まで頑固なのは遥君だけかと思ってたけど、立香君も頑固だったとは……まあ、いいや。それもキミたちの良い所だからね。

 何はともあれ……おかえり、立香君」

 

 そう言いながら、ロマニがコップを立香に向けて差し出した。立香は恥ずかしそうな笑みを見せると、自分のコップを軽くぶつけて乾杯して小さく言葉を返した。

 

「うん。ただいま、ドクター」




変異特異点β〝太極具現死界ゲヘナ〟修復完了(Order Complete)。月下美人のステータスは活動報告にあげる予定です。


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第34話 己が信念を貫くために

 ――どうやら侵入者(ネズミ)が罠にかかったらしい。

 

 アインツベルン城の屋上で監視と狙撃をさせていたエミヤから遥がその念話を受け取ったのはランサーを下し、オルタと共にアインツベルン城への帰路へと着いてからしばらく経った頃だった。

 侵入者と聞いて最も早く脳裏を過るのはランサーのマスターであったケイネスだが、遥は彼が侵入者の正体ではないことを知っていた。そもそもエミヤの言う罠とは遥が城に張った結界だ。その結界は人間には反応しないようになっている。感知して知らせるまでもなく、入口に控えているタマモが屠ってしまうからだ。

 ならばその結界は何に対して反応するのか。言うまでもない。サーヴァントである。遥が城に敷設した結界の術式は以前彼らが拠点としていた部屋に敷設していた術式を強化したものだ。以前のそれは実体化したサーヴァントには反応しないようになっていたが、今回のそれは実体、霊体に関わらずサーヴァントの存在を感知する。

 さらに敵性サーヴァントが城内に侵入した場合、結界は内部に侵入したサーヴァントを外へと逃がさないようになっている。まさしく文字通り袋の鼠という訳だ。しかし、この結界はさして強力なものではない。現在確認されている残存サーヴァントにとっては足止めにもならないだろう。それは結界がそもそも彼らを捕縛するために敷設されたものではないからだった。

 では、その結界は何のために敷設されたのか。簡単な話だ。この特異点での第四次聖杯戦争の状況をほぼ全て把握している遥たちですら存在を認知していないサーヴァント。すなわち遥が使役するサーヴァントと同様に聖杯戦争の召喚システムとは全く関係の無いもので召喚されたサーヴァントである。

 遥としても確信があった訳ではない。だが今までに集めた情報と多少の憶測から推理した結果、僅かながらその可能性が発生したのである。相手がサーヴァントでなければさして警戒しなかったのだが、サーヴァントが相手とあってはどんな英霊であれ油断はできない。魔術師にも遥のような例外はいるが、第四次聖杯戦争にそのレベルの魔術師は参加していない。

 侵入してきたサーヴァントのクラスは恐らく『暗殺者(アサシン)』だろう。遥の結界に補測されるまでアインツベルンの結界に引っかからなかったことからもそれは明らかだ。そして、その狙いは間違いなくアイリ。となれば、そのサーヴァントが何に召喚されたのか自ずと知れるというものだろう。加えて、今まで仮説に過ぎなかった遥の推論がこれで確定した。

 となれば、やはりこの特異点を解決する最も手っ取り早い方法はアイリの抹殺だ。アサシンもそれが分かっているが故に思い切って城に侵入してきたのだろう。それ自体が自らを追い詰める巨大な罠であることも知らず。遥は結界術式の存在も隠蔽していたのだから、当然と言えば当然だが。――という自分の考えを遥は今になって後悔した。アサシンの正体を知った今となっては、その判断はあまりに迂闊に過ぎたと言えよう。

 アインツベルン城において遥たちが作戦会議に使っていたサロン。今、そこにいるのは遥たちアヴェンジャー陣営だけではなかった。遥の座る位置と机を挟んだ反対側。その椅子に拘束され、首に沖田の刃を突きつけられているのは襲撃者たるアサシンに他ならない。彼の標的だったアイリは万が一の事態を回避するべくセイバーを護衛にして別室にいる。故にアサシンに対する尋問は遥の役目であった。

 だが、尋問といっても何を言えば良いのか遥はあまりよく分かっていなかった。そうしてしばらく遥が黙っていると、先にアサシンが口を開いた。

 

「――折角捕えた暗殺者をすぐに殺さないなんて、舐められたものだな。それとも、君は不殺主義者なのか? だとしたら、随分甘い」

 

 まるで遥を莫迦にしているような言葉ではあったが、それとは裏腹に声音には遥に対する侮蔑の色はなかった。遥はそれにすぐに言葉を返すことをせず、視線をアサシンから自身の後方へと移す。そこにいたのは瞑目して壁に背を預けたエミヤだ。

 エミヤ自身は隠しているつもりなのかも知れないが、少し前から遥はエミヤの様子がいつものそれとは些か異なることに気付いていた。明らかに狼狽している。それがこのアサシンと相対したことによるものであるのは考えるまでもないであろう。

 だが、直接エミヤに問うたところで彼が答えることはあるまい。エミヤが生前のことをあまり話したがらないことは遥も知っている。適当な言葉ではぐらかされて終わりだ。何より、今はそんなことを問うている状況ではない。

 故に遥はエミヤの変化を意識から締め出し、アサシンへと向き直った。

 

「別に俺は不殺主義者じゃないさ。これでも一応魔術師だからな。殺すべき時は殺す。アンタを殺さずに生かしておいてるのは、アンタにまだ利用価値があるからだ。けど、アンタに話を聞く気がなさそうだったんで、多少手荒だが捕えさせてもらった」

「利用価値、ね。ビジネスライクな付き合いは嫌いじゃないが、君、それは僕が何であるか知ったうえで言っているのか?」

「勿論。アンタが抑止力の顕現……〝抑止の守護者(カウンター・ガーディアン)〟であることくらいはすぐに解る。ウチにも同業がいるんでね」

 

 抑止の守護者(カウンター・ガーディアン)。霊長の抑止力や世界の抑止力とも言われる人類の無意識集合体であり、人類を存続させる意思の結集であるアラヤによって遣わされる存在。遥の仲間で言えばエミヤがそれに該当する。

 人理焼却が成されて人類史が抹消された後に抑止力が働くというのは何とも異様な話だが、実際に現れているのだから否定することはできまい。恐らくはこの特異点が遥たちの住む世界の正史には存在しない事項、いわば平行世界に近い存在であるが故の特例なのだろう。

 元より遥も抑止力の発動を予想していなかった訳ではない。むしろそれを誰よりも現実のものとして考えていたからこそ、この城に罠を張ったのだ。この特異点の状況を考えれば、抑止力が働かないと考える方が難しい。

 だが、抑止力の顕現に特異点解決を任せる気など遥にはなかった。それは遥が他人任せを嫌う性分だからであるのも確かだが、何よりそれに任せてしまえばアイリが殺されるのは確実だ。それは看過できない。

 しばらくフードの奥から品定めをするような視線を遥に送っていたアサシンだったが、少し経ってから小さく溜息を吐いた。

 

「分かった。君の話、聞くだけは聞こう」

「それはよかった。俺としても、できればこの城で荒事は起こしたくないからな」

 

 遥がそう言うと、沖田がアサシンの首に向けていた刀を離して納刀した。だが何も完全に警戒を解いたという訳ではなく、いつでも抜刀して首を落とせるようにしてある。オルタとタマモも臨戦態勢だ。警戒していないのはエミヤくらいのものである。

 少々威圧的ではあったが、これで遥はアサシンを交渉のテーブルに付かせることができた。遥としてはもっと賢いやり方があったのではないかとも思ってしまうが、遥の話術ではこれが限界だ。敵対している者を穏便に交渉に付かせることができるくらいなら、遥の人生はもっと明るいものであっただろう。

 だが、何であれこれでアサシンは敵ではなく交渉相手となった。ここからは、話術があまり上手くないなどと言っていられるような場合ではない。アサシンとの交渉が成立するかどうかは全て遥に掛かっているのだから。

 

「まず、アンタの名前だ。俺の予想が正しければアンタの真名は〝エミヤ〟。フルネームは〝衛宮切嗣(エミヤキリツグ)〟。合ってるか?」

「……驚いたな。その通りだ。君は僕のことを知ってるのか?」

「……まぁ、アンタは有名だからな。音に聞こえし〝魔術師殺し〟。まさかこんな場所で会うとは思ってなかったが」

 

 遥の言葉は嘘ではあったが、その内容に嘘はなかった。遥は自分が生きている世界で切嗣と会ったことはないが、その噂は聞いたことがある。魔術師であるが故に魔術師のことを熟知し、最も魔術師らしからぬ方法で魔術師を仕留める暗殺者。大半の魔術師はその名を聞けば愚者と断じて唾棄するのだろうが、遥はそうでなかった。魔術師でありながら魔術師らしからぬ方法で追い詰めるのは遥も同じだ。

 だが、このアサシンが抑止の守護者となった切嗣であると気付いたのはそれが理由ではない。遥は以前一度だけエミヤから生前のことを聞いたことがあった。彼の養父についても。加えてアサシンはどこかエミヤに近い雰囲気を放っていた。気づくのも当然というものだろう。

 エミヤ曰く、切嗣は身に秘めた思いこそエミヤと同じであったものの死ぬまで世界と契約することはなかったという。しかしこうして守護者として現れたということは、何処かの世界では世界と契約を交わした切嗣がいるということの証左だ。加えてアサシンの方はエミヤと面識がないときている。エミヤとしては複雑な心境だろう。

 だが、そんなことは今は関係がない話だ。遥たちがこの特異点を攻略するうえにおいて、アサシンの力は非常に大きな助けとなる。遥がそう考えていると、アサシンが溜息を吐いた。

 

「知ってるなら、余計分からないな。君は魔術師なんだろう? なら、僕みたいなヤツは唾棄すべき異端なんじゃないのか?」

「ハッ。別に俺はアンタのやり方を否定する気はねぇさ。なんなら、時計塔の幹部連中よりはよっぽど好感が持てる。それにな、アサシン。現代兵器を使う魔術師が自分だけだと思ったら大間違いだぜ?」

 

 そう言って、遥はホルスターから取り出したデザートイーグルを手の中で弄んだ。アサシンは遥が銃を持っているとは思わなかったのか、フードの奥から意外そうな視線を向けてくる。アサシンはサーヴァントであるため感覚的に遥がどれだけ優秀な魔術師か察知できたが故、余計に意外だったのだろう。

 遥は己と魔術師であり剣士でもあると自認してはいたが、だからといって通常は彼らが嫌うような戦術を否定するような男ではなかった。それは遥の生来の性格故というのもあるが、何より多くの魔術師と戦ってきた経験が遥にその結論を与えたのだ。魔術師という生き物は基本的に近代兵器を蔑視する。そのためそれらに対する防御を怠るのだ。

 暗殺上等というのはおおよそ魔術師らしからぬ戦闘論理ではあるが、彼らからしてみれば無理に魔術だけに拘泥するよりは余程利口なやり方ではある。むしろ現代兵器の脅威を正しく認識せずに侮っている魔術師が間抜けなだけなのだ。

 遥の言葉からアサシンは遥が話のできる魔術師だと認めたのか、遥はアサシンから向けられる視線に含まれた感情が少しだけ好意的なものに変わった。或いは遥の気質が彼の嫌うそれではないと分かったのか。どちらにせよ、それは遥にとって明確な進展であった。

 脱線しつつあった話題をひとつ咳払いをして戻し、さらに遥は話を続けた。

 

「次。アンタの目的はこの聖杯戦争によって起こるだろう人類滅亡の回避。そのために小聖杯であるアイリさんを抹殺しようとしたんだろ?」

 

 遥の問いにアサシンが無言で首肯する。何気ない問い、これまでのことと現在の状況を整理すれば問うまでもなく分かりそうなものだが、遥にとってはそれは重要な問いであった。これで遥の推理が真実に符合していることが確定した。

 やはりこの特異点の原因となったのは大聖杯そのものではなく、アイリ自身だ。正当な第四次聖杯戦争が行われた世界であるエミヤが生きた時間軸において、アイリは〝小聖杯〟ではなくあくまでも〝小聖杯の担い手〟でしかない。要は()()()()()()()()()であるか、()()()()()()()であるかの違いだ。

 正史──編纂事象/汎人類史における切嗣がアインツベルンに雇われたのはアイリが聖杯の担い手としてアインツベルンの理想には届かない、つまりは不完全な存在であったが故だ。アインツベルンが求める完璧な小聖杯の完成はアイリと切嗣の子供であるという〝イリヤスフィール・フォン・アインツベルン〟まで待つことになる。

 だが、この特異点においてはそうではない。この世界では正史よりもアインツベルンが優秀だったため、アイリの時点で既に聖杯として完成されてしまったのだ。そのため単身でもある程度の自衛ができ、よって切嗣を雇う必要性もなくなった。

 それだけではない。アイリは完成された小聖杯たるホムンクルス。その魔術師としての素養は切嗣とは比べるまでもなくアイリの方が優れている。従えているセイバーの能力(ステータス)もその分だけ上昇しているだろう。直接戦った遥だからこそ分かるが、セイバーはまさしく最優と呼ばれるに相応しい能力がある。

 仮に遥たちカルデアや抑止力の介入もないままこの第四次聖杯戦争が進んだ場合、間違いなく勝ち残るのはセイバー陣営かアーチャー陣営だ。どちらにせよ、大聖杯の完成は避けられない。そのため抑止力はアサシンを派遣し、そのアサシンは最も手っ取り早い手段としてアイリの暗殺を選択した。

 その選択を間違いだと言う権利は遥にはない。エミヤからアイリを殺して欲しくはないと言われなければ、その手段も考慮に入れていた筈だ。だがアイリを殺さないと決めた今になって、アサシンに殺させる訳にはいかない。分の悪い掛けかも知れないが、そのための交渉だ。

 

「アサシン。もしも……もしもだ。アイリさんを殺さずに事を済ませる方法があると言ったら……どうする?」

「……それは、彼女を殺すよりも容易に済む方法なのか?」

「いや、全然全く」

 

 悪びれもせず首を横に振る遥。それはまさしく即答であったが、それは逆に言えば遥の中で今後のビジョンが明確に定まっているということでもあった。だからこそ、それが難しい道であるとも分かっている。

 この問いこそ遥がこの交渉において最も重要と考えていた問いであり、最大の賭けであった。アサシンが完全なアラヤの走狗となっていればにべもなく断られることは間違いない。そうでなくとも、断られる可能性は高い。遥としては半ば駄目元であった。

 しばし逡巡し、アサシンが溜息を吐く。

 

「君は、君の計画が失敗した時に失われるかも知れない命よりもあのホムンクルス1機の命の方が重いとでも思っているのか? 彼女の命にそれだけの価値があると?」

「ンな訳あるか。人間だろうと、ホムンクルスだろうと、命そのものに貴賤はねぇ。価値は等価だ。だが……自分が死んでほしくない奴を死なせないようにして何が悪い。それが『人間』ってモンじゃないのか?

 勿論『この世全ての悪(アンリマユ)』に人類を抹殺させたりしない。けど、そのためにアイリさんを殺させることもしない。()()がむざむざ殺されるのを黙ってみてるようなら、俺は今の俺になってねぇ」

 

 完全に矛盾した、論理ではなく感情から来る遥の言葉。だが遥の予想に反してそれにアサシンがすぐに真っ向から反論することはなかった。半ば驚きを含んだ眼で遥がアサシンを見る。フードに隠れて顔は見えないが、アサシンは迷っているようにも見えた。

 人間であれホムンクルスであれ、1個の命である以上はその価値は等価である。それはアサシンの信条にも合致するものであった。だからこそ、これまでアサシンは命の数で殺す方を決めてきた。大を生かすために小を切り捨てる。人類が生きるためにはそれが真理なのだと割り切って、彼はこれまで大切な人すらも切り捨ててきた。

 だというのに、今になってその思いが揺らいでいる。この冬木に召喚され、アイリを見てからというもの、アサシンは異様な思いに捕らわれていた。できることなら、その可能性があるなら、アイリを殺さずにいたい、と。どれだけ茨の道であろうと結果が同じなら、そちらの方を取っても構わないだろう、と。

 あり得ない、と割り切っていた筈の可能性が今、目の前にある。それを前にして難しいから、と簡単に切って捨てるほど、アサシンは全てを諦めてはいなかった。しばらくしてから、アサシンが口を開く。

 

「……分かった。可能性がゼロではないなら、僕は君に協力する。しばらくは君の駒でいよう。

 けど、忘れるな。僕はあくまで抑止の守護者。君の計画が失敗すると決まった時、僕は彼女を殺す」

「あぁ。それでいい。俺が絶対に殺させない」

 

 そう言い、遥は席から立ってアサシンの目前に立つ。そうして差し出した遥の手を、アサシンが握り返した。それは握手ではあるが、決して友好を示すためのものではない。ふたりの間に結ばれたのは仮契約だ。遥の魔術回路に繋がった経路(パス)がひとつ増える。

 その姿を、沖田とオルタが複雑な感情の籠った眼で見ていた。

 

 

 

 

「随分アイリスフィールに肩入れしているようだな、遥?」

 

 まるで揶揄うような声音でエミヤが遥にそう問うたのは共に翌日の朝食の準備をしている時だった。パン以外の献立は牛肉の蒸し煮とジャガイモのスープ。どちらもアインツベルン本家があるドイツの家庭料理であり、世界を旅している間に遥が習得した料理でもある。

 余談だが。特に目的もないままに世界を放浪していただけの遥の旅であったが、遥の趣味のひとつである料理という点では遥にとってその旅は非常に有益であった。なにしろ世界中の郷土料理を数多く習得できたのだから。料理のレパートリーにおいて遥の右に出る料理人は世界を探してもそういまい。

 エミヤの声音は揶揄うようではあったが、しかしその実純粋な疑問を孕んでいた。それはそうだろう。遥とアイリが出会ってから精々1日ほどしか経っていないのだ。それだけの時間で遥のような基本的に魔術師嫌いの人間が心を許し、それどころか入れ込むというのは些か不自然である。

 準備を進めながらちらと遥がエミヤを一瞥する。

 

「変なコトを言うなぁ。初めにアイリさんを殺さないで欲しいって言ったのはエミヤじゃねぇか」

「それはそうだ。だが、アサシンと話していた時の君の様子はそれだけではないような気がしたが?」

 

 召喚されてから今まで共に戦ってきたエミヤは遥が魔術師らしからぬ人間性をしていることを分かっていた。それは何も悪い方向にズレているのではなく、むしろ好感を持つことができる。そもそも遥の性格が一般的な魔術師のそれであればサーヴァントやホムンクルスを同列に扱うことはするまい。

 確かに遥は優しい。それが時として自らを犠牲にする自己犠牲めいたものとなることも特異点Fで戦ったエミヤは知っている。だがアサシンとの交渉で必死にアイリを殺させないようにしていた遥の声音に含まれた感情はエミヤでも見たことが無いものであった。

 とはいえ、遥がアイリに肩入れする理由が憧れだとか恋慕だとか、そういった感情に起因するものでないことはエミヤも分かっていた。だからこそ、余計に判らない。遥のそれは〝仲間だから〟の一言で済ませることができるほど簡単なものではないような気がしたからだ。

 しばし逡巡した後、使っていた調理器具を洗いながら遥が答える。

 

「……さっきも言ってたけどさ、ある意味俺とアイリさんは同族みたいなものなんだよ。だからあえて肩入れする理由を言うなら、仲間意識、同族意識かも知れねぇ」

「同族……君もホムンクルスだと? しかし……」

「いや、俺はホムンクルスじゃない。けど、目的のために設計(デザイン)された存在って意味では、一緒だろ?」

 

 まるでそれを何でもないことのように、笑みすら見せながら遥が言う。だがエミヤにはその笑みがどこか恐ろしいものであるように見えた。それはいつもの遥の笑みではない。そこに含まれた感情は決して笑みを齎す筈のものではない。

 魔術師の家系がより優秀な後継者を得るために胎児のうちに魔術的な改造を加えることは何も珍しい話ではない。むしろよくある話だ。流石にイリヤスフィール以上に手を加えられた例は知らないが、エミヤはそういう例を何度か見てきた。

 エミヤも考えなかった訳ではない。遥の異常なまでの戦闘能力と魔術適性はただ単純に生まれただけ、というのでは説明が付かない。何よりも、遥に同化しているらしい何者かの分霊は決してただの人間では耐えられないだろう。エミヤはそれが何者か知らないが、ただの人間では同調する以前に同化した時点で死んでいるだろう。

 考えてみれば、遥は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。血という点だけではない。まずその身体が人間のそれより遥かに強い。それは遥の身体がそもそも改造を加えられたからなのだろう。

 

設計(デザイン)と言っても両親にされた訳じゃない。これは先祖代々受け継がれてきた呪いみたいなモンだ。そういう意味じゃアイリさんとは違うんだろうが……でもさ、他人の都合で生み出されて、他人の都合で死んでいくなんて悲しいじゃないか。

 こんな言葉を知ってるか、エミヤ。『人間は泣きながら生まれてくる。これはどうしようもないことだ。だが、死ぬ時に泣くか笑うかは本人次第』だってな。ホムンクルスは基本的に泣いて生まれてはこねぇが……だからって死ぬ時に泣かなければならない理由にはならねぇ」

 

 エミヤもどこかで聞いたことがある言葉だった。恐らく特撮の台詞であった筈だ。特撮好きの遥らしい言葉であったが、それは不思議とエミヤの胸に重くのしかかってきた。

 死ぬ時に泣くか笑うかは本人次第。果たして今までエミヤの前で死んでいった人々はどんな表情をしていただろうか。生前は笑いながら死んでいった人を見たこともあるような気がするが、少なくとも守護者となった後は見ていない。

 だが、それらを差し置いてエミヤの胸中を占めるのは養父であった衛宮切嗣が死んだ時の顔だった。生涯を通して何も成せなかった男が最期に見せた安心した微笑。恐らく、あのアサシンとなった切嗣は終ぞ見せることがなかったであろう表情。

 少しの間その思いに捕らわれていたエミヤだったが、すぐに頭を振ってその考えを頭の隅に追い遣った。今はそんなことを考えても何にもならない。話しながらも遥は作業を進めていて、今夜のうちに済ませておくべきことはそろそろ終わろうとしていた。

 そもそもエミヤがここにいる理由も遥の手伝いをしながらそのレシピを習得するためだったのだ。彼にとっては非常に悔しいことだが、料理に関してエミヤは遥に及ばない。元より、遥を越える料理の腕を持つ料理人をエミヤは知らない。──彼らが互いに互いを格上の料理人だと思っている事も、彼ら自身が知る由もまた、ない。

 止まった話題を変えるべく、エミヤは使った調理器具を片付ける己がマスターに問いを投げた。

 

「それで、明日はどうするんだ、遥? 方針は決まっているのか?」

「一応。……間桐邸に行くぞ」

 

 何気ない声音で遥がそう答えると同時、エミヤの総身に緊張が奔った。〝間桐邸に行く〟とは何も交渉などをするために行くのではない。遥が言うそれは間桐邸に襲撃を掛けるという意味と全く同義であった。

 それはすなわち、遠坂桜――もとい間桐桜を助け出し、間桐の怪翁たる間桐臓硯を抹殺するということに他ならない。エミヤが遥に頼んだ『桜を助け出す』という事項において、このふたつはセットだ。よしんば桜を助け出すことができたとしても、臓硯を殺さないことには真の意味で桜を助けたことにはならない。

 だが、そうだとしてもエミヤには作戦を遂行し切る自信があった。最早桜を助け出すことに迷いはない。今まで守護者として大勢の人々を殺してきたからといって、ひとりを助けてはいけない理由にはならない。守護者の使命を遂行するのも、桜を助けるのも、全ては自分の正義を貫いた結果だ。なら、何も恥じることはない。

 この特異点を攻略しようとだけ思うのなら、この特異点にいる桜を助け出すことに何の意味もない。仮に特異点で誰かを助け出したとしても本来の世界線には何の影響もないのだから。単純に言えばただの自己満足でしかない。それでも全く意味のないことではないだろう。行動の意味は後から付いて来るものだ。

 間桐邸を襲撃するということは高い確立でバーサーカーと遭遇するだろうが、エミヤはその点の心配はしていなかった。よしんば遭遇したとして、その際の対策も遥は考えているのだろう。遥はそういう男だと考えられるほど、エミヤは遥のことを信頼していた。

 

「すまない、遥。オレの我儘に付き合わせてしまって。……だが、力を貸してくれるか?」

「答えるまでもねぇ。仲間の我儘くらい付き合うさ」

 

 振り返った遥が拳を突き出す。一瞬、エミヤはそれが何を意味しているのか分からなかったが、すぐに合点がいって自らの拳を遥のそれにぶつけた。



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第35話 薄幸の少女

 ―――第三夜


 冬木市新都。ここ最近になって始まった開発計画によって急激に都市化が進み、真夜中になってもある程度明かりが点いたままになっているその都市の中にあって、まるでその光を厭うかのように暗い裏路地を歩く人影があった。

 いや、果たしてそれは歩いていると言って良いものか。男は立ってこそいるものの、その足取りはまるで幽鬼か何かのようであった。正常に動かない左半身を建物の壁に押し付けて辛うじて立ってはいるが、それがなければ自立することすらままなるまい。

 それだけではない。しわがれた唇から漏れ出す吐息はそのひとつひとつが苦痛に塗れていて、まるで死に瀕した病人を連想させた。目深に被ったフードから覗く髪は強烈なストレスで白く変わり、神経さえまともに機能しなくなった顔の左側は男が受けてきた苦痛を代弁するかのように苦悶を浮かべたまま止まっている。

 事実、男――バーサーカーのマスター〝間桐雁夜〟は死んでいるも同然だった。彼が聖杯戦争に参加するためで臓硯が植え付けた刻印虫によって身体を蝕まれ、その状態は只人であればとうに昏睡状態に陥っている。そんな状態の中で彼を生き永らえさせているのが彼をここまで追い遣った刻印虫が生産する魔力だというのは皮肉以外の何物でもないだろう。

 だが、生き永らえているとはいえ刻印虫は死病の如く着実に雁夜を死に追い遣りつつあった。雁夜にとって魔力の生産とは文字通り身を削って行うものであり、その魔力も殆どがバーサーカーの現界維持に回されている。そのうえに雁夜自身の生命維持の為にも魔力を生成しているのだから当然というものだろう。臓硯の見立てでは余命は精々1か月ほどしかない。

 人生という期間の中で見れば非常に短い時間。けれど、雁夜にとってはそれで十分だった。彼の目的である遠坂時臣の抹殺と聖杯の獲得、つまりは臓硯との約定を果たして桜を間桐の責め苦から解放するのには1か月も掛かるまい。今も雁夜を苦しめているバーサーカーだが、少なくとも彼のサーヴァントは最強の一角。特に、眼の敵にしている時臣のサーヴァントにはすこぶる相性が良い。

 けれど、雁夜は自らの論理が破綻していることに気付いていなかった。一見すると親に棄てられ、あまつさえ虐待を受けている少女を救おうとしている正義の人であるようにも見えるが、結局のところ雁夜の論理は時臣に葵を取られた嫉妬と妬みの発露でしかない。それをお為ごかしの大義名分で覆い隠しているのだ。でなければ例え憎くとも時臣を殺すという結論には至らなかった筈だ。

 時臣を殺したところで雁夜の望みは叶わない。むしろ二度と泣いて欲しくないと願った幼馴染を絶望の底に突き落としてしまうだろう。その先に待っているものは最早言うまでもない。雁夜自身の破滅だ。復讐を果たした復讐者のように人生に意義を見出して死んでいくのではなく、ただ無意味に、彼もまた絶望しながら死んでいくのみだ。

 呼吸をする度に喉だけではなく全身に激痛が奔り、心臓が拍動する毎に全身の血管が張り裂けそうになる。常に断線しそうな意識を無理矢理繋ぎ止めながら、当てもなく雁夜は新都の裏路地を歩く。彼が間桐邸に帰ることはあまりない。帰ればあの憎き怪翁と見えることになる。雁夜としては、それはあまり歓迎したくないことであった。

 目的地もなく、ただ人目に付かないような場所を歩き続けて夜が来ればいつの間にか気絶して眠っている。聖杯戦争が始まってからというもの、雁夜は連日のようにそんな生活を送っていた。そして、恐らく今日もそうして日を終えるのだろう。そう思っていた。――この時までは。

 

「――ッ」

 

 唐突に雁夜の右手首に鋭い痛みが奔る。だが全身を刻印虫に蝕まれ続け、絶え間なく激痛に襲われている雁夜の意識にとってそれは何ということはない些細なことであった。それ故、雁夜はその痛みが示すところにすぐには気付くことができなかった。

 雁夜がようやく変化に気付いたのは、自分の足に全く力が入らなくなった時だった。どうにかして立っていようとするも足がもつれ、地面に倒れ込んでしまう。反射的に腕を持ち上げて顔が地面に激突するのは避けようとするが、腕すらも動かない。故に雁夜は何の防御もないままに顔面からアスファルトに突っ込んでしまった。

 刻印虫に身体を喰い千切られる痛みとはまた異なる痛みに苦悶の呻き声を漏らしながらどうにか顔を横に向ける。一体何が、と思っている間にも変化は現れる。呼吸が浅くなり、五感が遠ざかっていく。まるで世界が遠くなるような感覚の中、雁夜は眼球だけを動かしてその原因を探ろうとし、そして驚愕に息を呑んだ。

 右手がない。右腕は手首の辺りで切り取られ、傷口からはとめどなく血が流れていた。唐突に身体に力が入らなくなったのは、令呪のある右手が切り取られたことで刻印虫たちが雁夜の身体を棄てて地面に転がった右手に群がったが故、魔力を生産できなくなったからだった。

 敵襲――!! それに気付いた時にはもう遅く、魔力という生命維持の生命線を失った雁夜の身体は一向に動かない。バーサーカーを実体化させようとするも、無理矢理霊体化させるために魔力供給量を制限していたことが仇となって実体化できない。完全に詰み。それは同時に、雁夜の聖杯戦争が終わったことを意味していた。

 雁夜が望んだことも、志したことも、何も成すことができないまま雁夜の聖杯戦争は終わった。それが理解できた瞬間、雁夜の中で何かが砕けた。急速に意識が薄れていくのは残存していた魔力さえバーサーカーに吞まれたからか、或いは彼を支えていたものが完全に崩壊したからか。その両方かも知れない。

 それでもなお雁夜は諦めず、最後に残った力で身体を仰向けに裏返すと刻印虫が群がる右手に向けて左手を伸ばした。だがそれに手が届こうかという時、横合いから現れた足がそれを蹴り飛ばした。右手が刻印虫ごと暗闇に呑まれていく。

 

「あ――そ、そんな――」

「悪く思うな。こっちにも仕事がある」

 

 雁夜の頭上から落ちてくる声。そちらを見れば、くすんだ赤いフードを被り奇妙な鎧を着た男がいた。全ての希望を断った男を雁夜は殺意の籠った眼で睨み付けようとするも、その直前に完全に意識を喪失した。

 それを見届け、雁夜に奇襲を仕掛けた男――アサシンが溜息を吐く。そうしておもむろに片手で雁夜の襟首を掴み上げると、どこからか取り出した小さな瓶のコルクを外した。それを雁夜の口に突っ込み、中に入っていた液体を流し込む。すると心なしか雁夜の顔色が戻った。

 アサシンが雁夜に飲ませたものは遥が作った霊薬だった。その効果をアサシンは聞いていないが、雁夜の様子を見るに生命維持と疲労回復、さらに肉体の治癒だろう。邪魔な相手でも悪人でも魔術師でもなければ極力殺さないようにするのは成程遥らしい。霊薬がきちんと効果を発揮したのを確認し、アサシンが雁夜を肩に担ぐ。

 アサシンがこうして雁夜を襲ったのは彼の独断ではなく、遥からの指示だった。極力雁夜を殺さず、どうにかしてバーサーカーを無力化するという指示。遥がそれをアサシンに任せたのは、ひとえにアサシンには気配遮断スキルがあるからだろう。他のサーヴァントでは雁夜を無力化するより早くにバーサーカーに気付かれて交戦状態に入ってしまう。

 とはいえ、アサシンにとってもこの作戦は半ば賭けであった。仮に雁夜がバーサーカーの勝手な実体化を防ぐために魔力供給量を絞っていなければ、今頃アサシンはバーサーカーに殺されていただろう。例え魔力切れまでの数秒程度の稼働時間でもバーサーカーがアサシンを屠るには十分過ぎる時間だ。

 後は転がった令呪を回収し、遥の指示通りに雁夜をどこかの病院前に放置しておけばそれでアサシンの役目は終わる。無論、自分に割り当てられた役目を終えてもアサシンは休む気などなかった。現在、アサシンにとって最も重要なことは協力者たる遥の作戦遂行の補助だ。限界まで協力すると言った以上、約定を違えるつもりはない。

 だが、果たして今夜の作戦はアサシンの目的と合致するところがあるのか。そう思いながらアサシンは人ひとりを担いでいるとは思えないほどの速度で夜空へと飛び出していく。

 果たして、彼は終ぞ気付かなかった。アサシンが切り離した、雁夜がバーサーカーのマスターであるという証であった令呪。放置したそれが、いつの間にか()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 遥は齢19という青年の域を脱しない程度の時間しか積み上げていないが、それでも魔術師であるが故に数多の〝この世の地獄〟とでも言うべきものを見てきたつもりであった。

 それは高校を卒業してからカルデアに召集されるまでの約1年間だけでも数えきれないほどにある。遥は常人よりも遥かに多くの怪異を身に秘めているが故に日常的にそういったものと遭遇してきた。

 例えばそれは死徒の戯れによって村人が全て屍食鬼へと変えられてしまった村であったり、魔術師の実験材料となって想像を絶する苦痛を味わいながら死んでいった人々の山であったりと、様々な形を成して遥の前に現れた。ある意味、それらが遥が抱く人類に対する憎悪の源泉のひとつであるのかも知れない。

 だが、どれだけ凄惨な光景であろうと何度も遭遇していれば慣れるものだ。或いは普通は慣れないのかも知れないが、魔術師である以前に遥は純粋な人間ではない。どれだけ一般人の近い感覚を持っていてもその本質は非人間。カルデアに来る頃には遥の価値観はその陰惨な光景に慣れを見せ始めていた。

 しかし、今度の地獄はそんな遥をしてそれを造り出した者への憎悪を抑えきれないほどに醜悪であった。規模は他の地獄とさしたる違いはないどころか、むしろ小規模であるかも知れない。けれど、人間の尊厳を踏みにじるという点において、それは何よりも最悪のものであった。

 ここは深山町に建つ最大の屋敷である〝間桐邸〟。エミヤの望みにより桜を助け出すべくそこへ侵入した遥はさしたる妨害もなくその最奥まで辿り着き、そうしてその光景を目の当たりにした。

 赤熱した感情から際限なく湧き出してくる憤怒と憎悪を理性で無理矢理抑えつけながら、遥は隣で渋面を浮かべるエミヤに問う。

 

「おい、エミヤ。なんだよ、これ……」

「……君なら言わずとも分かるだろう。この〝蟲蔵〟で何が行われているかなど」

 

 エミヤの言う通りだった。怒りと憎悪で冷静さを失っている感情とは裏腹に、嫌に冷静さを保っている遥の思考回路はこの場で行われている調教とでも言うべき所業が何を意味しているのか余すところなく悟っていた。

 エミヤ曰く、桜は元は間桐の家ではなく遠坂の家に生まれた少女だという。つまり桜の魔術適性は間桐のそれではなく、完全に遠坂のものなのだ。桜を間桐再興に使う胎盤として譲り受けた臓硯にとって、それは最悪の不都合であろう。故に臓硯は桜を調整することにした。

 言葉にすれば簡単な話だが、実際のそれを見ればそんな簡潔に済む話ではないことはすぐに判る。それは桜の調整というよりもむしろ、臓硯の趣味に偏っているように遥には見えた。他者を貶め、玩弄し、苦悩する様を見て自らは嗤う。遥が最も嫌悪する類の在り方だ。

 床が見えないほど蔵に満たされた蟲が啼く度、遥の憤怒が増していく。可能ならば今すぐにでも臓硯を煉獄の焔の中に突き落としてしまいたいが、当の臓硯は屋敷にはいない。最大の不安要素であった臓硯を排除できないというのは見過ごせない事態ではあるが、今の遥にそんなことを気にしているだけの余裕はなかった。

 蟲蔵の中央で手枷を嵌められたまま蟲に弄られている桜は未だ遥とエミヤの存在には気づいていないらしいが蟲たちはそうではないようで、侵入者たるふたりを阻まんと彼らの許に地面を這いずってくる。そのうち一匹を遥が無慈悲に踏み潰した。キィ、という短い断末魔と共に体液が床にぶちまけられる。

 その様子を見て、不謹慎ながらエミヤが苦笑いを浮かべる。遥とエミヤの付き合いはそれほど長くはないが、それでも彼には遥がこれ以上ないほどに激昂していることが手に取るように分かった。実際、遥は踏み潰した蟲の残骸すら憎いとばかりに靴で死骸を挽き潰している。

 

「エミヤ……お前、相当デカい落とし物を遺して死んだみてぇだな?」

 

 その言葉にエミヤは何も言葉を返さなかった。エミヤにとって桜のことは生前唯一の心残りと言えるかも知れない。そうでなければこの特異点で桜を助けようとはしなかっただろう。いずれ救われると分かっているのだから。

 実際遥はエミヤの答えを求めてはいなかったようで、腰の鞘から叢雲を抜刀した。不浄を祓う黄金の刃が煉獄の焔を纏う。神速でそれが振るわれる度に蟲蔵に犇めいていた蟲が弾け飛び、断末魔の悲鳴をあげる。

 だが遥はそれでもなお気が済まないと言わんばかりに舞い上がった蟲の死骸を何度も切り裂く。噴き出す蟲の体液は黄金の魔力が秘める熱量と煉獄の焔に晒されて一瞬にして蒸発する。肉片もまた焔に焼かれ、灰となって消えていく。

 蟲蔵を荒らす脅威に反応してか、どこからか攻撃特化の蟲である〝翅刃虫〟たちが現れ、遥を喰い殺さんと金切り声めいた咆哮をあげる。しかし、威嚇として放ったそれも遥にとっては耳障りな雑音でしかなかった。勇んで出現した翅刃虫たちは牛骨を粉砕するほどのその顎を披露する間も与えられないまま、焔に呑まれて消えていく。

 臓硯が使役する蟲たちは数こそ膨大だが、どれだけ数が多かろうと遥の前では敵ではない。蟲は焔に弱い。それだけではなく、遥が使う煉獄の焔は妖怪である臓硯の蟲たちにとって天敵であった。エミヤは双剣こそ握ってはいるが、蟲たちは遥の苛烈極まる攻撃の前に全てが絶命せしめられ、エミヤまで届くことはない。

 遥とエミヤが蟲蔵に突入してから僅か数秒。たったそれだけの時間でその場は桜ではなく蟲たちにとっての地獄と化していた。無限にいるようにも見えた蟲たちは瞬く間に煉獄に呑み込まれ、抗うことも許されずに命を散らしていく。

 そして僅か1分程度が経った時、蟲蔵であった筈の空間からは全ての蟲が消え去っていた。石造りの冷たい壁には蟲の燃えた跡である煤がこびりつき、その中央では桜が光を失った眼で侵入者たる遥とエミヤを見ている。

 未だ赤熱した憤怒が宿った眼をしている遥を見ても、桜は怯えた様子すらも見せない。それは桜が強かなのではなく、既にその眼には希望が見えていないからなのだろう。希望が見えないが故、殺意に塗れた遥の眼を見ても怯えないでいる。

 それに一切頓着しないまま、遥は叢雲を桜に向けて振るった。切り裂いたのはその手枷。無理矢理に立たされていた桜が地面にへたり込み、エミヤが投影した布を桜に羽織らせる。

 

「あなたたち、だれ……?」

「……悪いけど、悠長に自己紹介してる暇はないんだ。でも、あえて言うなら……悪い人の敵、かな?」

 

 先程見せていた怒りの形相から一転。茶化すような笑みを見せてそう言うと、遥は桜を抱え上げた。普通の子供なら知らない男に抱えられた時点で身の危険を感じて叫び出すのだろうが、桜はその様子すら見せない。

 遥は今まで何人か似た状態の子供を見たことがあったが、桜はその中でも一際酷い有様であった。桜が穢されたのは肉体だけではない。長く蟲の中に放り込まれ、臓硯、もとい魔導の悪意のみに晒されてきた所為だろう。完全に精神が麻痺している。

 誘拐ではなく絶望的な状況から助け出されたと分かれば安堵の表情のひとつでも浮かべるものだろうが、桜にはそれさえない。出会ったばかりの遥たちのことを信用できないのは道理だが、全く反応がないというのは最早心が麻痺どころではなく死んでいるのではないかとさえ思ってしまう。

 普通はそんな少女を見ればその不遇を嘆き、感傷に浸るか同情するか、どちらかだろう。だが遥はどちらをすることもなく、異常なほど早く思考を切って作戦の遂行を再開した。

 桜を抱えたまま蟲蔵から出る。事前に人避けと誘眠、さらに認識阻害の術式などを屋敷を覆う結界にハッキングして潜り込ませていたため、誰かいたとしても眠っている。名目上の当主である鶴野は起きているかも知れないが、見つかった時は眠らせて暗示を掛けるか、それでも駄目な時は撃ち殺すつもりでいた。

 だがそんな心配は杞憂だったようで、遥たちが屋敷から脱出するまでには誰とも遭遇することはなかった。どうやら間桐の現当主は魔術師としてはさしたるものではないらしい。そもそも当主が期待されていれば桜を養子として引き取る必要性もなかったのだろうが。

 全ての部屋の明かりが消えた間桐邸はその偉容も相まってまるで幽霊屋敷のような様相を呈していた。実際、遥が生きている世界での間桐邸の異名は幽霊屋敷だったと記憶していた。そちらでの聖杯戦争の影響か、居住者が誰もいなかったのだ。しかし遥が使った焔が何処かに燃え移っていたのか、少し経った頃には屋敷全体が焔に包まれていた。

 赤く燃え上がり、巨大な炎の華を咲かせる間桐邸。それの前で遥はひとつ溜息を吐き、しゃがんで桜と視線の位置を合わせた。できる限り安心させようとして頭を撫でる。

 

「大丈夫か? 怪我とかしてないか?」

「……うん。してない」

「そっか。そりゃ良かった。もし怪我なんてさせたら、エミヤに何てどやされていたことか」

 

 揶揄うような遥の言葉にエミヤは何か反駁しようとするが、しかし実際桜が怪我していた時の自分を想像したのか少し顔を赤くして黙り込んだ。エミヤはニヒルでクールなようでいて、その実面倒見の良いところがある。立香が密かに〝エミヤママ〟と言っていたのを遥は知っているが、それは言わないでおいた。それをエミヤが知れば羞恥のあまり何をするか分かったものではない。

 だが遥の言葉に反論できないということは、エミヤ自身自分が何かと過保護気味になるのを自覚しているのだろう。それでも何か言わなければ気が済まないのか、遥と何か言い合っている。その様子を見る桜の眼に、ようやく感情らしい感情が見える。桜は戸惑っていた。

 それはそうだろう。遥とエミヤの存在を知らない桜は、ふたりが自分を間桐邸から助け出すことに何か利があるとは思えないのだ。彼らが桜を狙った誘拐犯や家財を狙った強盗ではないことは桜にもすぐに分かった。だからこそ、余計に解らない。徳はない筈なのに、何故助けたのかが。

 そんな桜の前で遥は布越しに肩に触れると、「少し痛むけど、ごめんな」と言ってから無理矢理桜の身体に自らの魔力を流した。そうして構造解析の魔術を行使し、桜の身体を精査(スキャン)する。次いで、遥は僅かな困惑に襲われた。その様子を見てエミヤが問う。

 

「遥、どうした?」

「……なぁ、エミヤ。臓硯って本体の蟲を桜の心臓に忍ばせてるんだよな?」

「そうだ。……まさか、いないのか?」

 

 エミヤの問いに遥が無言で頷く。遥は物体の構造解析を得意とする魔術師ではないが、それでも人体構造の解析程度は造作もない筈なのだ。だというのに、いくら精査しても出てくるのは刻印虫ばかりでそれ以外は見当たらない。

 しかし、どれだけ遥たちが困惑しようが目の前にある事実こそが重要だ。実際、臓硯の本体がないのならそれを前提として今後の方針を考えなくてはならない。それを考えていなかった遥ではなく、それ故に思考の切り替えは非常に早かった。

 臓硯が桜の心臓から本体を離した理由として考えられるのはふたつ。ひとつは既に何らかの理由で桜に寄生せずとも良くなった、ということ。そしてもうひとつは事前に遥たちの襲撃を察知して別な場所に本体を移したか、だ。

 今のところ、可能性が高いのは前者だ。臓硯が聖杯を求める理由が自身の不老不死の実現だということはエミヤから聞いている。その願望をエミヤが生きた世界では第五次にて叶えようとしたらしいが、この特異点では第四次の時点で聖杯が完成しようとしている。ならば臓硯が動き始めてもおかしくはない。

 内心で遥が舌打ちを漏らす。現時点で聖杯が起動する可能性が高くなっているのは遥たちの行動に因るところでもある。元より遥の方針は聖杯を完成させ、容を得て這い出たこの世全ての悪(アンリマユ)を斃すというものなのだから、むしろ起動しようとしていなければ困る。

 ここまで上手く手筈通りに進めていたものを、臓硯は横から簒奪しようとしている。到底許せる話ではなかった。遥は人類の滅亡を避けるために聖杯戦争を勝ち抜けてきたのだ。断じて人類を滅ぼしてまで望みを叶えようとする酔狂のためではない。

 そう考えるとなおも怒りが込み上げてくるが、桜の前でそれを表情に出しては怖がられてしまうだけだ。感情を落ち着け、自分がすべきことを進める。

 

「ちょっと熱いかも知れないけど、我慢してくれ。桜を苦しめる悪い蟲を駆除するのに必要なことだから」

「……わかった」

 

 機械的な動作で桜が頷く。一瞬だけ遥は続けるべきか悩んだが、すぐにその迷いを打ち消した。ひとつ間違えば桜が死んでしまうような繊細な制御を必要とする作業だが、やらなければならない。

 遥の口が固有結界を起動させるための詠唱を紡ぐ。遥の煉獄から発生した焔は桜の身体を精査するために勝手に通した経路(パス)から漏れ出し、その体内へと侵入した。だが桜は表情を変えない。普通なら熱さのあまり叫び出しそうなほどであるのに、眉根ひとつ動かさなかった。

 しかし遥はそんな桜の様子に頓着せず、焔の制御に全ての神経を割いていた。少しでも制御の仕方を間違えば桜を体内から焼き殺してしまうだけの熱量を持った焔を慎重に操り、体内に巣食った刻印虫を焼き殺していく。桜の体内の蟲たちは臓硯の身体を構成しているそれと同一なのか、遥の焔に触れた途端にまるで命を吸われたかのように死んでいく。

 刻印虫は蟲であるうえに不浄極まる存在であるが故、遥の焔は最大の弱点であった。個体差があるのか中には多少抵抗の意思を見せた蟲もいたが、それも結局は死ぬことに変わりはない。僅か1分ほど経った時には、既に桜の体内に巣食う蟲は全てがその身体を無へと帰していた。

 一先ずは何事もなく処置が完了し、遥が安堵の溜息を吐く。どれだけ魔力の扱いに慣れてはいても人の命に関わる処置は少なからず緊張するものだ。再度桜の体内を精査し、蟲が全て死滅していることを確認する。問題なし。桜に通した魔力経路を消し、頭を撫でる。そうしていると、本当に僅かにだが桜が笑みらしきものを覗かせた。

 或いは桜には、遥の桜に対する態度に同情や憐憫が含まれていないことに気付いたのだろうか。桜のような状態の人間にとって、同情や憐憫が最も不必要なものであることを遥は知っていた。それらを向けられても余計惨めになるだけである。少しの間遥がそうしていると、不意にエミヤが声を掛けてきた。

 

「……手慣れているな」

「まぁな。こういうのは何度かしたことがある。ここまで手酷くやられてるのは初めてだけど」

 

 今まで遥が外道魔術師から助け出してきた人々の中には当然のように子供も含まれている。むしろ大人よりも抵抗されにくく、されたとしても黙らせやすい子供は大人よりもそういった類の人間に標的にされやすい。彼らを助けているうち、そういう場合はどうしたら良いのか遥は何となくわかっていた。

 そもそも遥は子供が苦手ではなかった。むしろ大人のように変に汚い部分がない分、大人よりも好きかも知れない。或いはそれは遥の対人スキルの低さに由来するところなのかも知れないが、遥は生来の性格として割合子供の相手をするのは得意だった。

 だが、どれだけ遥が子供の扱いが上手かろうと傷ついた心を癒してやることだけは絶対に不可能だ。心の傷というものは付いたら最後、一生消えることはない。それが桜のように人間の尊厳を踏みにじられた経験から来るものであれば猶更だ。

 故に遥にできることはせいぜいその傷の痛みを和らげてやる程度だ。それも遥がそうあってくれればと思って行動しているだけの自己満足。本当に遥が思った通りになっているかは甚だ疑問ではあるが。常に言い知れない無力感を感じながら、遥は誰かを助けている。

 その無力感を意識から締め出し、遥は桜に問いかけた。

 

「家を燃やしておいて言う事じゃないかも知れないけど……桜はこれからどうしたい? 遠坂に戻りたいか?」

 

 遥の問いに対し、桜が無言で首を横に振る。それはそうだろう。魔術師然とした時臣は桜を協会から守る意図で桜を間桐の養子に出したのだろうが、あのような仕打ちを受けてきた桜にとっては捨てられたも同然だ。事実、そう思っているから桜も遠坂に戻りたくないと言っているのだ。

 よしんば姉である凛や母の葵と和解して遠坂に戻ることができたとしても、時臣が考えを改めなければまた別な場所に養子に出されるだけだ。そして、恐らく時臣は考えを改めない。時臣は魔術師として極端な保守派に属する。往々にしてそういう類の魔術師は遥のような異端児のいう事には耳を貸さないのが常だ。

 仮に桜と遠坂の間の蟠りを解消して桜を遠坂に戻すのだとしても問題が多すぎる。それを目標にするとしても、恐らく遥たちが特異点を解決する方が早い。ある種、特異点を解決することが桜にとって救いなのかも知れないが、助けておいてそれでは無責任というものだ。

 その場の感情で助けて後から自分の首を締める。遥の性格を考えればよくある話であるが、遥自身は自分のそういう所があまり好きではなかった。ガリガリと頭を掻き、立ち上がる。

 

「仕方ねぇ。どうするか決まるまで、俺たちと一緒に来るか?」

「……うん。そうする」

 

 そう言うと、桜は遥のロングコートの裾を掴んだ。その細腕のどこから出ているのか分からないほど強い力で裾を引っ張られる。振りほどく気はないが、仮に振りほどこうとしてもそう易々とは振りほどけまい。

 ひとつ問題を解決する度、また新たな問題が増えていく。そのうえ間桐臓硯の排除という最優先事項を今回の襲撃では果たせなかった。考えてみれば特異点にレイシフトした時よりも現在の方が解決しなければならない問題が増えているような気もする。

 だが、それも全て遥が〝善し〟とした行動をした結果だ。ならば遥にはそれらを解決する義務がある。自分がしたことの後始末は自分でしなければ筋が通らない。逃避は遥の信条が許さない。

 まあ取り敢えずなんとかなるだろう、と半ば思考を放棄し、概念迷彩を解いた装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)に乗った。エミヤに桜の分のヘルメットを投影してもらい、桜を後ろに乗せる。

 燃える間桐邸を背に改造バイクが走る。問題は積み重なるばかりだが、取り敢えずはひとつは解決した。そのことに遥が安堵の溜息を吐こうとした時、不意に念話が飛んできた。城に待機させておいたタマモからだ。

 その内容を聞いた途端、遥はほとんど無意識に素っ頓狂な声を漏らしていた。だがそれも致し方あるまい。何しろそれは遥の予想の斜め上どころか、全く予想していなかった事態であるのだから。

 

――アインツベルン城にセイバーとライダー、そしてアーチャーまでもが参集し〝聖杯問答〟という名の酒宴を開いている。

 

 それが、タマモの念話によって遥に伝えられた内容だった。




今年の水着イベ、水着ジャンヌ・オルタが配布鯖とか良すぎですね。というか、これで遥たちのカルデアにいる沖田以外の女性鯖に水着verが。これは……?


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第36話 湧き出す影

「何事……?」

 

 冬木市郊外に通っている国道。そのアインツベルンの森に面した位置でバイクを止めた遥が呆れた表情でそう呟いた。後ろに乗っている桜も中々表情には出さないものの、相当に驚いているようにも見える。

 彼らの視線が注がれている先。本来は敵性探知や認識阻害などいくつもの術式が織り込まれた高度な多重複合結界が展開され、更には生い茂った木々が自然の結界となって奥地が見えないようになっていた筈の森は、城に続くまでの一帯の木々が薙ぎ払われ、さらに結界まで破壊されていた。

 ここに到着する前に結界が破壊されたことをそのフィードバックから認知していた遥であったが、森までこうも手酷く破壊されているのは予想の斜め上だった。破壊の規模から見てそれを齎したものは対軍以上の宝具。間違いなくライダーの戦車だろう。

 一夜目の時点でライダーが豪放かつ豪快な人間であることを遥は承知していたが、たかだか酒宴を行うために敵地に真正面から侵入していくということを予想していなかったというのはライダーの豪快さを見誤っていたと言えるだろう。それを客観的に認められるだけには遥は冷静さを保っていた。

 破壊された結界を再度展開しようにも、森の周囲に基点を再配置しなくてはならないためかなりの時間が必要となる。遥ひとりなら迷うことはなかったが、今は桜もいる。厚手とはいえ布一枚を羽織っただけの状態で長時間放置しておくというのは健康管理の面では非常に悪い。遥自身は絶対に風邪をひくことはないため忘れそうになるが、桜はそうではないのだ。

 エンジンを再始動させ、薙ぎ倒された木々の破片が散乱する森へと侵入する。普通のバイクではまともに走るどころか侵入した途端にタイヤがパンクしそうなものだが、万能の天才の作品たる装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)はそうではない。オフロードバイクですら走破は難しいほどの悪路を装甲騎兵は悠々と進んでいく。

 周囲に敵影はない。そもそもこれだけ開けた土地になってしまえばアサシンの姿ですら詳らかになるというものだが、周囲を警戒して悪いことはないだろう。仮にいたとしても遥の直感と装甲騎兵に搭載されたレーダーが奇襲を許さない。取り敢えず城に着くまでの安全を確認し、遥は周囲の状況から敵戦力の推理を始めた。

 この森にこれだけの破壊を齎した宝具は恐らくライダーの戦車――〝神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)〟で間違いない。アーチャーやバーサーカーの可能性もない訳ではないが、立香やエミヤから伝えられた両者の宝具の特徴には合致しない。王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)無毀なる湖光(アロンダイト)とは異なるのだ。

 味方側として計上できる戦力においてこれと同程度かこれ以上の火力を出すことができるのは遥の〝天叢雲剣〟とオルタの〝吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)〟、セイバーの〝約束された勝利の剣(エクスカリバー)〟の3つ。イスカンダルもまたアルトリアと同じ九偉人のひとりなのだから当然と言えば当然だが、やはり途方もない力を有したサーヴァントである。

 現在、聖杯戦争に残存しているサーヴァントはセイバー、アーチャー、ライダー、バーサーカーの4騎。未だ報告は来ていないが、アサシンの作戦が上手くいっていればバーサーカーはそろそろ敗退する。そうなれば残りは3騎。聖杯が起動する目安は5騎のサーヴァントの脱落。遥の目標が達成されるにはライダーかアーチャーのどちらかを斃せば良い計算だ。

 だが、今現在も大聖杯は動いてはいるのだろう。遥の予想が正しければアイリの身体は貯蔵した英霊の魂に圧迫されて衰弱しつつある筈だ。そのアイリが今でも人間としての機能を保っているのはエミヤ曰く、セイバー召喚の触媒となった聖遺物たる宝具〝全て遠き理想郷(アヴァロン)〟を概念武装として体内に封入しているからだという。それがある限り、アイリは一応は生きていることができる。

 それでも安心はできない。アイリが生きていられるということは、聖杯起動時に『この世全ての悪(アンリマユ)』がアイリの身体を依り代にして受肉を果たすことができるということでもある。だからといってすぐに小聖杯(アイリ)と大聖杯の経路(パス)を断ち切ってしまえば大聖杯そのものが動かなくなる。それでは特異点の根本的解決にはならない。何とも難しい問題だ。

 何より目先の問題は桜の預け先である。カルデアで保護する方法がない訳ではないが、それには解決すべき課題と避け得ない問題が多すぎる。かといって遠坂に戻すというのも無理難題であり、孤児を引き取ってくれそうな教会は遥とオルタが焼き払ってしまった。自業自得だが、今後悔しても仕方があるまい。

 考えているうちに前方にはアインツベルン城が見えてきた。それから間もなくして聞こえてきたのは風切り音と沖田、オルタの声。そちらに視線を遣れば、何故かオルタが刀らしきものを振っていた。その傍らで沖田がまるで戦闘時のような表情で何事か言っている。遥はバイクを停めると、桜を降ろしてからふたりに声を掛けた。

 

「何してんだ、ふたりとも?」

「あ、ハルさん。お帰りなさい」

「遥!? アンタいつの間に……」

 

 恐らくは素振りに夢中になっていて気付かなかったのだろう。オルタは露骨に驚いた表情を浮かべて遥の方を振り返った。その手に握られているのはやはり日本刀。内包する魔力量からしてエミヤが投影した贋作宝具であろう。

 だが、オルタが刀を振っているとは一体どういう風の吹き回しなのか。少なくとも遥にはオルタが刀を所持する必要性があるようには思えなかった。オルタには既に長剣があるのだから、近接戦はそれだけで事足りる筈なのだ。

 しかし必要性はなくとも興味を持った理由ならいくつか思い当たる節があった。何となくオルタが刀を使いだした理由に思い至り、オルタを揶揄うような笑みを遥が見せる。すると、どこか抗議するような視線でオルタが遥を睨み付けた。

 

「な、何よ。何か文句ある!?」

「いや、別にねぇけどさ。言ってくれれば俺も教えたのに。抜刀術だけなら誰にも負けないぞ、俺は」

「っ……! いいわよ、別に」

 

 抜刀術という単語を聞いた一瞬だけは瞳の興味と好奇心の輝きを宿したオルタであったが、すぐにそれを消すと遥から視線を逸らした。恐らくは遥から借りた漫画などから抜刀術の存在を知っていたのだろうが、それへの興味を前面に出すのは恥ずかしいのだろう。

 だが、何にせよオルタが剣術を習得するというのは遥にとって悪いことではなかった。例え習得する気になった理由が〝刀が恰好良いから〟というものでも、戦闘手段が増えることに不都合はない。何より、多少険悪な雰囲気があった沖田とオルタの仲が改善されるというのが大きい。

 オルタと沖田はオルタの姿勢についてああだこうだと言い合ってはいるが、そこにカルデアで会議をしていた時にあった険悪な雰囲気はない。或いはそれは一時的なものであるのかも知れないが、常時険悪であるよりは良い。仮に両者の間にしこりが残っていれば、それは戦闘時に隙を作る原因と成り得る。

 奇妙な満足感を抱いて遥がその様子を見ていると、不意にロングコートの裾を引っ張られた。見れば、桜が遥の背後に隠れている。その眼は相変わらず内包した感情が分かりにくいものであったが、裾を掴まれている遥には桜が怯えていることが手に取るように分かった。遥のコートを握った小さな手が震えている。

 桜が沖田たちに怯えているのは彼女らが尋常な人間ではないことを察知したからだけではない。或いは人間の魔術師としては相当に豊富な才能を備えた桜ならばサーヴァントの存在は知らなくとも気付くことができるのかも知れないが、まずそれ以前に桜は他人が怖いのだ。

 今の桜にとって他人とはまず第一に恐怖の対象なのだ。本来の家族には棄てられたと思い込み、養子として引き取られた家では人間としての尊厳さえ無視した虐待を受け続けてきた。桜の身を案じて聖杯戦争に参加したという雁夜でさえ桜にとっては〝間桐の一員〟という枠組みの内だろう。そこから助け出した遥とエミヤでさえ信用はされていても信頼はされていないに違いない。

 遥と同様にエミヤから桜について聞いていたふたりにもそれは分かっているだろう。しかし沖田は一切遠慮せずに桜の前でしゃがみ、視線を合わせた。更に遥の後ろに隠れようとした桜に手を伸ばし、頭に手を載せる。オルタは立ったまま邪気のない表情で桜を見ている。

 

「そんなビビることないじゃない。別に取って食ったりしないわよ」

「そうですよ、桜ちゃん。私たちは桜ちゃんを傷つけるようなことはしません」

「……本当?」

 

 笑みを浮かべたまま沖田が桜の問いに頷きを返す。それだけで桜が起きたを信用するようなことはないが、しかし少なくとも沖田とオルタが危害を加えようとする相手ではないと分かったのか伝わってきていた震えが止まった。

 それは余人にとっては些細な変化であろうが、少なくとも桜にとっては大きな変化であろう。今まで虐待という表現すらも生温いような暴力を受け続けてきた桜が他人を信頼はできないまでも信用はできるようになったのだから。

 だが、沖田たちのことを信用したのはあくまで桜を助けた遥とエミヤの仲間であるからという部分が大きいのだろう。現時点で桜が最も信用しているのが遥とエミヤであるから、少なくともその仲間は信用できるのだろう、と。

 それでもいい、と遥は思う。そもそも人間不信に陥った者がすぐに他人を信頼できる筈もないのだ。それは遥が一番良く分かっている。桜と程度は違えど幼少期、両親を喪った直後の遥がまさしく人間不信そのものだった。

 できることなら桜が誰かを信頼できるようになるまで見届けたい気持ちはあったが、それは我儘というものだろう。それは遥の仕事ではなく後に桜を真の意味で救済する人間の仕事だ。そうやって妙な感傷を断ち切ると、遥は傍らに立つオルタに問いを投げた。

 

「そういや、今、セイバーたちがやってる〝聖杯問答〟……だっけか? オルタは参加しなくていいのか?」

「アンタそれどこから……あぁ、タマモから聞いたのね。

 嫌よ、あんなのに参加するのは。あれはただの酒宴じゃなくて王サマの享楽。莫迦騒ぎよ」

 

 心底鬱陶しそうにオルタが言う。享楽というのは言い過ぎかも知れないが、決して間違った形容ではないだろう。王たちによる酒宴とはすなわち剣を伴わない戦いだ。或いはそれも享楽のひとつであるのかも知れない。

 己が王道を語り合い、それぞれの格を酒杯に問う。そもそも王ではなく、世界を旅しても酒の一杯すらも飲まなかった遥には到底理解が及ばないが、彼らにとってはそれもまた戦いであることくらいは分かる。積極的に関わりたいとは全く思わないが。

 剣を交える代わりに酒を酌み交わし、己の格を見せつけることによる戦い。それはまさしく〝聖杯問答〟と言うに相応しいだろう。だが今回の問答においてセイバーが圧倒的に不利であろうことは想像に難くない。

 片や騎士王という清廉潔白な、言い換えれば国と民意の奴隷となった王。片や国を己の思うままに支配し、しかし圧倒的なカリスマによって民衆を束ね上げた征服王と英雄王。どちらが間違っているということはない。王道と一口に言っても様々な形があるのだから、それに是非を問うことはできない。

 それでも問答においてセイバーが弱いのは、己の王道の果てに待ち受けていた結末を悔やんでいるからだ。アーチャーとライダーが自らの結末をどう思っているか正確なところは知らないが、少なくともそれを後悔するような性格をしているとは思えない。自らが後悔を抱いておいて声高に自らの王道こそ至高など言いきれるのは余程の厚顔無恥だけだ。問答しているうち、いつかセイバーは言い負かされる。

 

「それにね、遥。こんな穢れた聖女、王サマたちは所望してないでしょ。ああいうのと相容れるのはあの白いの(オリジナル)とかよ。

 アンタもああいうのとは気が合わないんじゃない?」

「まあ、確かに。セイバーはともかく、ライダーとは気が合わないな。アーチャーは論外だ」

 

 遥は直接アーチャーと対面したことはないが、倉庫街で行われた戦闘を遥はエミヤの視界を借りて見ていた。遥とオルタが去った後に行われた戦闘で戦っていたサーヴァントは計4騎。中でも異彩を放っていたのがアーチャーであった。

 豪奢ながらも下品でない黄金の鎧を纏い、黄金の都にある蔵に繋がる宝具を有することで無限の財を惜しげもなく使い潰す神性の気配を纏うサーヴァント。真名はギルガメッシュ。メソポタミア文明の発祥地たる地域に存在した都〝ウルク〟の王にして世界最古の叙事詩の主人公である半神半人の大英雄。

 その脅威はエミヤから聞いてはいたが、まさしく聞いていた通りのサーヴァントであった。汲めども汲めども尽きぬ財を蔵から引き出し、無造作に投げつけるという宝具は大抵の英霊に対して有効打と成り得る。それを防ぐことができるのは特殊な投影魔術を扱うエミヤかバーサーカーのように凄まじい武錬を誇る武人だけだろう。

 王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)なるあの宝具の掃射は非常に脅威だが、或いは分霊と同調している状態の遥であればバーサーカーと同じことが可能かも知らない。それもかなりの賭けではあるが。正面からアーチャーを相手取るとすればエミヤの固有結界内に取り込んでの集団戦法が最も効果的だ。

 そう戦力分析はしているものの、この聖杯問答においては戦闘能力は関係がない。遥がアーチャーを論外と切って捨てたのは、要は相性の明らかな不一致だ。性格や話し方は勿論のことだが、遥は何故か本能的なところでアーチャーとは相いれないと確信していた。仮にギルガメッシュが不老不死の探求を終えた後の状態で召喚されていれば話は違ったのだろうが、少なくとも『弓兵(アーチャー)』の彼が暴君の姿であれば和睦の可能性はまずない。

 だが、それは遥から見たアーチャーの印象だ。アーチャーが遥に抱く印象はもしかしたら好意的なものであるのかも知れない。まず間違いなくアーチャーが敵に抱く好意とは敵意や殺意と同義なのであろうが。

 しかし、どちらにしても遥がこの場にいながらアーチャーの眼前に姿を晒さず、そしてそれが露見した場合に待っているのはアーチャーとの交戦だ。この場に遥の全戦力が揃っているのだから戦えないことはないのだろうが、今は桜もいる。桜を戦禍に巻き込む訳にはいかない。

 心底面倒そうな表情を浮かべ、頭を掻きながら遥が溜息を吐く。そこから遥の心情と考えを大方察したのか、オルタが揶揄うような笑みを浮かべる。

 

「大変ね、マスターってのも」

「まったくだ。……まあいい。万が一のこともある。すぐに戦闘できるようにしておいてくれ」

「言われなくても」

 

 まるで遥が言わんとしていたことを事前に察知していたかのように即答するオルタ。それができるのは、ひとえにオルタが遥のことを理解しているからだろう。元より復讐者であるふたりはそのやり方や価値観が似通っている。故にオルタには遥の考えることがなんとなく解るようになっていた。ある意味、遥のことを最も分かってくれているのはオルタであろう。

 沖田とオルタが刀の稽古に戻り、遥は桜を伴って城に戻る。心なしか、城に近づく度に肌を焼くような緊張感が増しているような気がしていた。恐らくひとつの場に強力なサーヴァントが集結していることで本能的な警戒を抱いているのだろう。

 詠唱を口には出さず、心中だけで詠唱を唱える。起動させたのは夜桜の魔術の最奥たる封印魔術。外面だけではなく事象と概念にまで作用するその魔術を自らの概念に幾重にも纏わせ、人外の血の気配を遮断する。英霊相手でも過剰なまでの防備だが、殆ど無意識に遥はそれでも足りないと感じていた。

 どれだけ魔術を用いて隠蔽しようともその概念が消える訳ではない。封印や隠蔽はあくまでも隠しているだけであって、その奥を見透かすことができる相手には何の意味も成さないのだ。そして遥が最も警戒しているアーチャーはその隠蔽を見透かすことができる相手であることは想像に難くない。

 ライダーは戦車に乗り込んだまま城に侵入したのか、城のエントランスは元の豪奢さが見る影もないほどに荒れ果てていた。昨夜の時点ではケイネスに扉を破壊されただけだったのだが、今は床が車輪の形に抉れているうえに振動で落下した装飾品の破片が散乱していた。それを嫌そうな顔でタマモが見ている。

 エントランスにいたタマモは、非戦闘時であるためか遥が買った現代風の装束に着替えていた。特徴的な耳と尻尾は呪術で隠している。タマモは遥と桜の存在に気付くと、たおやかな笑みを浮かべた。

 

「おや、遥さん。おかえりなさい。そちらが桜さんですか?」

「あぁ。……桜。ちょっとの間このお姉さんと一緒にいてくれ。この人は……まぁ、俺の姉みたいなモンだ」

「遥さんの、お姉さん……?」

「みこっ?」

 

 少し気恥ずかしそうに遥がそうタマモを紹介すると、桜が遥とタマモを見比べて首を傾げた。遥の言葉に納得が言っていないようだが、さもありなん。遥は女顔ではあるが、タマモには全く似ていない。それどころかセイバーやアルトリア等に近い顔立ちをしている。

 確かに遥とタマモの間に存在する縁は血の縁だが、ふたりの間に存在する時代の壁はあまりに大きい。外見の共通点は皆無と言っていい。加えて――遥は知らないことだが――真に遥と繋がりがあるのは()()()()()()()()()。そういう意味では遥とタマモの血の縁は遺伝子というより霊魂や魂魄の相似というのが正しいだろう。

 恥ずかしそうに顔を背ける遥にタマモは一瞬だけ複雑そうな表情になったものの、すぐに笑顔を浮かべた。遥が隠している血の詳細全てに気付いているタマモにとって、自らが遥の姉に等しい立場であるのは嬉しくもあるが複雑な思いもあった。ある種、それはタマモが一度神から人間に転生し、さらに既知の男と同じ気配を纏う者に出会ったことで得た感情であるのかも知れない。

 果たして自分は誰かの姉であるに足る存在なのか、という。天照として神の視点で物を見ていた頃の彼女であれば抱かなかった筈の迷いだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()天照(タマモ)は持っていなかった。即ち――家族を大切に想う親愛を彼女は持っていなかった。

 不意に降って湧いたその思いをタマモは無理矢理に脳裏から締め出す。例え昔はそうであったとしても、今の彼女は『天照大御神』ではなく『玉藻の前』なのだ。同じでいるようでいて違う存在だ。ならば同じに考えることはない。

 感傷的な思いが顔に出ていたのか、不意にタマモの耳朶を遥の声が叩く。

 

「タマモ? どうかしたか?」

「いえ。なんでもありません。なんでもありませんよ。……ところで、私を姉と言ってくれるとは……〝タマモ姉さん〟と呼んでくれてもいいんですよ?」

「いや、それは……とにかく! 桜のこと、頼む。俺はちょっと行ってくるから」

 

 そう言ってすぐにその場を離れる遥。離れていくその背中を見ながらタマモが微笑んだ。それとは対照的に、桜は暗い瞳にどこか驚きのような感情を宿して遥を見ている。恐らく桜にとって純粋に照れているだけの遥というのは想像ができなかったのだろう。

 桜には遥が感情らしい感情も見せず超然と任務を遂行していく、いわば軍人のようなか何かに見えていたのだろう。或いは殆どの人間が向けてきた筈の悪意や同情を全く向けなかったことでどこか他の人間をは一線を画す何かに見られていたのか。

 幼い頃に両親を喪った遥には家族というものが分からない。記憶はあるがそれを思い返そうとしないために、自分がどのように接していたかが解らない。それなのに唐突に姉と思ってくれていいと言われてもすぐに正しい対応ができる筈もない。

 湧き上がってきた奇妙な気恥ずかしさを遥は頭を振って頭の片隅に追い遣った。それは今考えるべきことではない。頭の端に追い遣った動揺を意識から切り離し、冷静さを取り戻してから遥は中庭へと続く扉を開けた。花弁を巻き込んだ冷たい外気が流れ込んでくる。だが遥はそれを全く意に介さずに外へと足を踏み出した。

 まず遥の眼に入ってきたのは花壇の中央にあるスペースで酒を酌み交わす3人の王。彼らが囲んでいる瓶に満たされている黄金の酒は恐らくアーチャーが蔵から取り出した宝物なのだろう、酒を飲んだことが無い遥ですらその価値を推し量ることができるほどにその酒は言いようのない魅力を放っていた。

 次に遥の注意を引いたのはライダーだ。見覚えのある戦支度を身に纏うセイバーとアーチャーとは対照的に、何故かライダーはTシャツとジーンズという非常に現代的な服装であった。さらにTシャツには〝アドミラブル大戦略Ⅳ〟なるゲームのロゴがプリントされている。遥自身はプレイしたことはないが、聞いたことはあるゲームだった。

 どうやら本当に戦闘をする気はないらしい、と半ば拍子抜けした思いに捕らわれる遥。その遥の耳朶を凛とした涼やかな声と邪気のない野太い声が打った。

 

「戻りましたか、ハルカ」

「おう、どこへ行っていたのだ、アヴェンジャーのマスター! ホレ、呑むか?」

 

 そう言ってライダーが黄金の酒を注いだのは何故か木製の柄杓であった。どうやら柄杓を酒器か何かと勘違いしているようだが、悲しいかなこの場には遥以外にその間違いを指摘できる人間がいない。一瞬だけひどく指摘したくてたまらなくなった遥だが、すぐに無駄だと悟ってその欲求を呑み込んだ。

 差し出された柄杓を遥は片手で押し留め、首を横に振って断った。

 

「いや、俺はいい。折角の誘いだが、酒は呑まない主義でね。……というか、俺は王じゃないだろ? 参加する資格はない筈だ」

「うむ。だが、王として民草の言葉を聞くのは不思議ではあるまい? それに、貴様からは何とも言い難い気配を感じてな。言うなれば……そこの金ピカと似た、な」

 

 ライダーが言う〝そこの金ピカ〟とは言うまでもなくアーチャー――英雄王ギルガメッシュに他ならない。半ば誘われるようにしてそちらを見た遥の視線とアーチャーの真紅の視線がぶつかり合う。

 神性を帯びた紅玉の瞳が遥を射抜く。未来を見通し、万民を睥睨し、全てのものの畏怖を植え付けるアーチャーの瞳はしかし、遥にだけはその効力を発揮しなかった。或いはその畏怖の根源となる感情が遥を見る時だけは無くなっていたというべきか。

 代わりにアーチャーの瞳に宿っていたのは興味に近い感情であった。まるでその対象に纏わりつくかのような奇妙な視線。楽園に住まう誘惑の蛇すら連想させるその瞳は遥に悪寒と警戒を抱かせるには十分過ぎる威力を伴っていた。

 ()()()()()()()。そう気付いくや、殆ど無意識に遥の拳に力が籠る。あからさまに警戒している様子の遥を嘲笑うかのように横目で遥を見ながらアーチャーが酒を呷った。

 

(オレ)と雑種を同列に見なすというのは気に食わぬが……そこな雑種。特別に我の記憶に貴様の名を刻むことを許そう。名乗るがいい」

「ありがたき幸せ……とでも言うべきなのかね、こういう時は。……俺は夜桜遥。以後お見知りおきを、ギルガメッシュ王」

「ほう。如何なる所以かは解らぬが、我の面貌を知っているか。どうやら貴様、他の蒙昧共よりは見所があるらしい」

 

 英雄王ギルガメッシュ。遥の口から語られたその名前に、近くにいたウェイバーが露骨に反応した。恐らくウェイバーはアーチャーが強力な英霊だとは分かっていても真名までは推理できていなかったのだろう。事前に遥から知らされていたアイリとセイバーまでもが眉根を寄せている。唯一ライダーだけは気楽そうであったが、それでも驚愕は隠しきれていない。

 その中にあってまるで切り離されたかのように遥とアーチャーだけが睨み合っていた。いや、それは正確ではないかも知れない。睨んでいるのは遥だけで、アーチャーはそうではない。アーチャーは未だ全てを見透かすような粘つく視線を遥に投げて寄越しているだけだ。遥にはそれがたまらなく不快だった。

 どれだけ遥が魔術で隠そうとこの英霊だけはそれらを全て見透かしてその最奥にあるものを暴き立ててくる。遥にはその確信があった。或いは、それはライダーの言う通り遥とアーチャーがある意味同類であるが故のことなのかも知れない。元より神話において『すべてをみたるひと』として語られるギルガメッシュを欺こうということ自体が不可能なのかも知れないが。

 遥と神話に語られる大英雄を同族扱いするというのは或いはアーチャーにとっては最大の不敬であるのかも知れないが、気に食わぬという言葉をは裏腹にアーチャーにはそれほどそれを気にしている様子はない。その瞳にあるのは興味と、愉悦だ。

 ただ遥の内にあるものを見透かしただけでどうして愉悦を覚えるのかは遥には分からない。遥が抱えているものなど憤怒と復讐心、そして僅かばかりの願望だけであるというのに。

 どの程度そうしていたのかは分からないが、それなりの時間遥とアーチャーは睨み合っていたようで、放っておかれたライダーが不満げに鼻を鳴らした。

 

「そういやぁ、遥。貴様、以前余が問いを投げた時に願望を答えなかったな? 良い機会だ。今度こそ訊かせてもらおうか、貴様の願望を」

「あの時にアンタらに聖杯を渡せないと言ったのは俺が聖杯を欲しいからじゃないんだけど……それに、俺に聖杯に掛けるような大それた願望はないよ。願いがない訳じゃないが、それは自分の力で叶えるべきモンだ」

「ふむ。聖杯に頼るのではなく、あくまでも自らの力で己が願望を叶えんとするか。魔術師だてらに中々見上げたヤツよな」

 

 自分の願望を聖杯に叶えてもらうのではなく自らが叶えるというのはライダーの精神性とも共通するところであった。ライダーにとって聖杯はあくまでも受肉する手段でしかない。真の野望である世界征服はライダーがライダー自身で達成するつもりでいた。

 だが、遥の願いはライダーの野望である世界征服のように大それたものではない。あくまでも自らの内から生まれ、自らに帰結するだけの些細な願いだ。魔術師であれば普通は根源への到達などを願うのだろうが、遥にとってそれはさして重要なことではない。根源など、遥にとってはその気になればすぐに行くことができる場所だ。

 けれど、どれだけ些細でも遥の夢は叶わないものでもあった。どれだけ遥が魔術師として優れていようと叶わない。遥が見ていた特撮の台詞で『夢というのは呪いと同じ。途中で挫折した者はずっと呪われたまま』というものがあるが、それに則るならば遥の夢は呪いをなることを運命づけられているも同然のものであった。

 遥の思いとは裏腹に、遥の夢はいつか破綻する。そもそもこうして剣士や魔術師として戦っている時点で遥は自らの願望に背を向けているも同然なのだ。そういう意味では遥の願望は駄々をこねる子供の我儘とさして変わらない。ただ自らのことを受け入れられていないが故のものだ。

 遥自身それが分かっているがため口にしたくはないのだが、ライダーは言葉にはしていないが遥の願いを聞こうとしている。その横では遥の願いに気付いているらしいアーチャーまでもが催促するかのような視線を投げていた。セイバーもまた真っ直ぐに遥を見ている。

 逃れ得ない状況であった。仕方なく願望を口に出そうと遥が口を開こうとする。だがその直前、遥の魔術回路に繋がった経路(パス)を通じて念話が繋がった。アサシンからだ。

 

『アサシン? どうした。何かあったのか?』

『……遥。マズいことになった。まずは現場を見てくれ。正直、これは説明するよりも見てもらった方が早い』

 

 念話によって送り込まれるアサシンの声は平時と変わらず冷静なようにも聞こえたが、しかし遥はそこに一抹の動揺を感じ取った。それだけでも、アサシンでも想定していなかったことが起きているのは明白であった。

 アサシンに言われるがままに感覚共有を行い、遥の視界が自らのそれからアサシンが見ているものへとすり替わる。そうして、そこにあったものを見て遥が息を呑んだ。遥とてそれを想定していなかった訳ではない。ただ想像していたよりも時期が早かったというだけだ。

 だがどちらにせよ、それは遥にとっては不都合極まるものであった。仮にそれが起きるのが昨日遥とエミヤが間桐邸に赴く前であればさして都合が悪くなかったのかも知れないが、少なくとも桜がいる今となってはそれは最悪の事態と言って差し支えない。

 遥が借りたアサシンの視界に映っているのは大聖杯が存在する円蔵山の麓。そして――

 

 

――そこに湧き出した、数多のシャドウ・サーヴァントたちであった。




さて、ようやくAccel Zero Order編も終盤に入ります。
今まであとがきなどに書いてきた遥のステータスを活動報告に纏めましたので、気になる方はどうぞ。


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第37話 巨影見ゆ

 アサシンによって報告されたシャドウ・サーヴァントの発生。報告を受けた時こそそれに面食らった遥ではあったが、冷静さを取り戻すまでにそう時間は掛からなかった。予想外の事態には普通驚くものだが、驚いたところで何が解決する訳ではない。重要であるのは事態の分析と対応だ。

 恐らくシャドウ・サーヴァントが発生し始めたのは大聖杯――というよりも『この世全ての悪(アンリマユ)』の自己防衛措置のようなものだろう。エミヤの話では大聖杯が本格的に動き出すことができるのは5騎のサーヴァントが消滅した後だが、現在脱落しているサーヴァントはアサシンが上手く作戦を遂行したのなら4騎。遥が確認している限りは3騎だ。まだ大聖杯の完全起動には至っていない。精々起動待機(スリープ)状態だろう。

 だが起動待機(スリープ)状態であっても機械の電源は入っているのと同じように、大聖杯も動いていない訳ではない。この世全ての悪も完全に目覚めているのではなく微睡んでいる程度だろうが、動いていることは間違いない。ここまで来ればシャドウ・サーヴァントが発生した理由に検討を付けるのは簡単だ。シャドウ・サーヴァントの発生はこの世全ての悪の自己防衛策のようなものだと結論づけるのに些かの不都合もあるまい。

 現在、聖杯戦争を最も有利に進めているのは遥たちアヴェンジャー陣営とアイリたちセイバー陣営の連合陣営であることは間違いない。脱落したサーヴァントは全て遥たちが打倒したサーヴァントたちだ。だが遥たちが勝ち抜くということはつまり大聖杯の完全破壊が現実のものになるということを意味する。この世に生まれ出でることが目的のこの世全ての悪にとって、それはこの上ない不都合であろう。

 そこでこの世全ての悪は既に脱落し、アイリの内に貯蔵されたサーヴァントの魂を無数に劣化複製したうえでそれらに肉体を与えることで防衛のための戦力としたのだ。そして、仮に本当にこの原理でシャドウ・サーヴァントが現界しているのなら実質的な敵戦力は無限大ということになる。どれだけシャドウ・サーヴァントを斃そうともその魔力は大聖杯に回収され、新たなシャドウ・サーヴァントの原料となるだけである。

 事態はそれだけでは片付けることはできない。現状シャドウ・サーヴァントとして現界できるサーヴァントは皆、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。例えばランサーの槍などがその筆頭だ。これが示すところはつまり、シャドウ・サーヴァントであっても宝具を使うことができるということに他ならない。シャドウ・サーヴァントには真名解放を行うだけの知能はないが、常時発動型であればそれも必要ない。

 その点で考えれば敵のシャドウ・サーヴァントたちはかなりの脅威だ。魔力を断つ槍と不治の槍を持つランサー、個にして群、群であり個のアサシン、そして異世界より無数に海魔を招来するキャスター。どれも数が増えればそれだけ脅威となる類の英霊だ。無策で突っ込んでいったところで数の利を利用されて集団戦法で押し潰されるのは目に見えている。

 遥が従えているサーヴァントたちは皆一騎当千を可能にするだけの力を持つ者たちだが、それでも無策は死を齎す。どうすべきか遥が考えていると、再び脳内でアサシンの声が響いた。

 

『指示を、マスター。まだ君の任務が失敗すると決まった訳じゃない。なら、まだ僕は君のサーヴァントだ』

『分かってるよ、アサシン。それは心配してねぇ。俺たちもすぐに行く。それまでは……できる限り数を減らしてくれ』

『了解』

 

 それだけ言葉を返すと、アサシンは遥との念話を切った。それとほぼ同時にアサシンに向けて流れていく魔力が倍増する。恐らく宝具〝時のある間に薔薇を摘め(クロノス・ローズ)〟を使ったのだろう。

 体内を固有結界化することで時間を加速し、自らの行動を加速する固有時制御が宝具となったアサシンの宝具であるが、それを以てしても長時間の間シャドウ・サーヴァントの増殖を食い止めることは不可能だ。増殖の速度の問題ではなく1体のシャドウ・サーヴァントを斃すまでにかかる時間の問題である。

 それでも遥が増殖するシャドウ・サーヴァントの掃討をアサシンに命じたのは、ひとえに市民にまで聖杯戦争の被害を及ぼさないようにするためである。シャドウ・サーヴァントが市街地に侵入して市民の眼に触れれば死人が出る可能性もある。神秘の露呈は二の次だ。

 現在、遥がすべきことは王たちの問答に茶々を入れることではない。一刻も早く大聖杯、及びこの世全ての悪を破壊することだ。そう決定して踵を返した時、背後からアーチャーの声が飛ぶ。

 

「待て。我の前から去ることを誰が許可した、夜桜」

 

 まるで遥を玩弄するかのような声音でそう言うアーチャー。その声音で遥は確信した。如何なる理由かは分からないが、アーチャーは今の状態に気付いていながら遥をこの場に留めようとしている。肩越しに遥がアーチャーを睨み付ける。

 まず間違いなくアーチャーは遥を他の有象無象とは同列には見ていない。それは遥を『雑種』ではなく『夜桜』と呼んだことからも明らかだ。だがだからといって気に入られているのかと問われれば、それは否。決して否である。

 むしろアーチャーは遥の正体と内心に気付いたからこそ遥を玩弄しようとしているのだろう。少なくとも不老不死を求める旅に出る以前、暴君であった時代のアーチャーはそういう存在なのだと既に遥は悟り、受容していた。

 現状を認識していながら動こうとしないアーチャーに対し、遥が殺意さえ籠った視線を投げる。ただならぬその様子から何かを察したようで、セイバーが遥に問うた。

 

「何かあったのですか、ハルカ」

「シャドウ・サーヴァント……つっても分からないか。簡単に言えば脱落したサーヴァントたちの劣化コピーみてぇなヤツがわんさか湧いて出て来やがった。恐らくこの世全ての悪(アンリマユ)尖兵(パシリ)だろう」

「!? それは……」

 

 遥の言葉を聞いたセイバーとアイリが顔を強張らせる。同盟相手ということで遥から大聖杯の異常について聞かされていたふたりはその現象が何を意味しているかを悟ったのだろう。

 対してライダーとウェイバーは互いに顔を見合わせて首を傾げている。遥たちという情報源があるセイバー陣営や千里眼によって未来を見通すことができるアーチャーとは異なり、ライダー陣営だけは全く情報源となるものがないのだから当然だ。

 半ばこの状況の中で置き去りにされていることが我慢ならなかったのか、杯に残った黄金の酒を一口で胃の中に流し込んでからライダーが遥に向けて問いを放つ。

 

「おう、貴様ら、余を差し置いて何を話しておる。何かただならぬ様子ではないか。申してみよ」

「……分かった。その前に断っておくと、これから話すことはすぐには信じられないと思う。与太話だとも思うだろう。だが俺は決して嘘を吐いていないとだけ言っておく」

 

 遥の声音から彼が嘘を言おうとしているのではないと悟ったのか、いつになく真面目な面持ちでライダーが頷く。その後ろでは遥の纏う張り詰めた雰囲気に当てられたのか若干強張った表情をウェイバーが浮かべていた。そのふたりを前に遥はセイバーたちにも語ったことを語り始める。

 この時点になって遥がライダーたちにも大聖杯の異常について伝えることにしたのは、それを避け得ない状況になったからでもあるが、何よりそうすることでライダーたちを味方にできるのではないかと思ったからだった。よしんば味方せずとも、ライダーとて世界が滅ぶような事態は避けたいだろう。

 遥の話をライダーはそれまでの豪放さが鳴りを潜めた真面目な面持ちで、対照的にウェイバーは表情を頻繁に変えながら聞いている。それでも遥の言葉を一蹴しないのは、先の言葉もあるが遥の声音が嘘を吐いている者のそれではないことが分かったからだろう。

 遥が最後まで話し終えると、ライダーは大きな溜息を吐いて頭を掻いた。その傍らでは少々動揺しつつも何事か考えている。

 

「つまり……貴様の話を信じるなら、聖杯を獲得したとしても余は受肉できんということか?」

「残念ながら。受肉したとしても、その頃には既にアンタの身体はアンタのモンじゃなくなってる」

 

 遥の推測が正しければ、この世全ての悪に犯された聖杯を用いても受肉自体は可能だ。どれだけ汚染されていたとしても大聖杯が願望器であることに変わりはない。だがこの世に生まれ出たいという願いを持つこの世全ての悪に受肉を願うというのは自ら肉体を捧げているに等しい。

 恐らく汚染された大聖杯を使って受肉した時点でその身体と魂はこの世全ての悪の影響を受けて決定的な変質を来たすだろう。よしんば自我を保つことができたとしても、少なからず影響は受ける筈だ。この世全ての悪とはそういう類の呪いである。

 受肉だけではなくどんな願望でも人間を殺すという過程を経ることでしか叶えられない歪んだ願望器。それがこの聖杯戦争における大聖杯の正体だ。流石のライダーもそれには呆れかえったようで、明らかな落胆を滲ませた溜息を吐いた。しかし次にひとりで頷いた時にはその落胆は消え、代わりに王としての表情を覗かせた。そうして再び口を開く。

 

「最後に訊くが……そんな危なっかしいものを、貴様はどうするつもりだ?」

「言うまでもねぇ。斃すさ。斃して、大聖杯ごとぶっ壊す」

 

 ライダーの問いに毅然とした態度で遥がそう言い放つ。一切の迷いがないその答えに感心したかのように、蓄えた顎鬚を撫で摩りながらライダーがほう、と言葉を漏らした。

 この世全ての悪を打倒するという遥の答えは一見すると何でもないことのようにも思えるが、実際はそうではない。この世全ての悪とはすなわち名前の通りにこの世に存在する悪意の総体。それに打ち勝つということはこの世の悪意の総体を打倒するということに他ならない。

 大元のこの世全ての悪を斃すだけならば簡単だ。この世全ての悪の正体は魔術の存在すら知らず、ただ人間の悪意を押し付けられる人身御供にされただけの青年なのだから。だが大聖杯に巣食い神霊規模にまで膨れ上がったそれを打ち破るのは生半可なことではない。

 遥はそれら全てを弁えたうえでそう言っているのだ。大聖杯によって神霊と同等に膨れ上がった存在でも打倒してみせる、と。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 遥がライダーを見上げ、頭上から落ちてくる視線を真っ向から見返す。しばらくの間無言でそうした後、ライダーが唸った。

 

「何だかんだと言うが、結局は貴様……余たちに協力しろ、と。そういうコトであろう? ――あいわかった。この征服王、しばらくは貴様の計略に乗ってやろうではないか。貴様もそれで良いな、坊主?」

「ボクは異論ない。でも、オマエは本当にいいのかよ。大聖杯を壊したら、受肉する手段もなくなるんだぞ? それどころか現界を維持するのだって……」

「無理であろうな。この剣士紛いの魔術師ならともかく、坊主の魔力では大聖杯なしで余を満足に現界させるのは難しい。

 だがなぁ、余は征服王である故。征服する相手がいなくなっては困るのでな」

 

 道理だ、と遥は納得した。征服とは自らが進出した土地を支配するだけではなく、その土地に住む人々を含めて全てを支配する行為だ。土地だけを支配するならそれは開拓と変わらない。

 つまるところライダーが遥たちに協力するのはこの世界や人々を守るためではなく、自らが征服するものを守るためだ。それだけを聞くとまるでライダーが人でなしか何かのようだが、そうではない。言い方は違えど結局は人々を守ることに変わりはないのだから。

 そういう点で言えば、真に人でなしであるのは遥だ。遥が人々を守ろうとするのはカルデアの任務ということもあるが、第一に来る理由が人々のためではなく自分のためのものだ。遥はただ自分のエゴのために人類を救おうとしている。

 降って湧いたその思いを無理矢理意識の淵の押し遣る。それは今考えるべきことではない。遥が今考えるべきはこの事態に如何にして対処すべきかだ。遥がそうしていると、ライダーがアーチャーを見遣った。

 

「……で。貴様は協力せんのか、アーチャー」

「我に凡百の雑種共を救え、と? ハッ。笑わせるな、征服王。我の民なら救ってやるのも吝かではないが、そうでない者どもを我が救う理由などなかろう。それにだ。人間が自らの悪性に押し潰されて死滅するならば、それもまた道理よ。自業自得というヤツだ。

 我が裁定する価値のない雑種に興味はない。興味があるとすれば、そうさな――」

 

 不自然にアーチャーがそこで言葉を区切る。そうして流し目でその場にいる者たちを見回すと、その視線を遥に当てたところで一瞬だけその赤い双眸が陰惨に輝いた。不味い、と遥が気付いた時には時すでに遅し。一条の銀閃が虚空を薙ぐ。

 アーチャーが宝物庫から放った宝具は遥に命中こそしなかったものの、頬を掠めて後方へと抜けていった。宝具によって穿たれた城の壁が轟音をあげて崩れ去り、切り裂かれた頬から血が滴る。混血である遥だからこそその程度で済んだが、尋常な人間が同じ立場であれば今頃は首から上が弾け飛んでいたであろう。

 遥を見つめるアーチャーの眼。そこに含まれている感情は先程までと同じ興味だけではなかった。有り体に言えばそれは殺意だろうか。或いはそれすらもアーチャーにとっては興味と同義であるのかも知れないが、どちらにせよその一撃は遥にとっては宣戦布告にすら等しいものであった。

 基本的に万人を自らよりも格下と見なすアーチャーが自ら宣戦布告をするなど、彼をよく知る者が知れば驚愕に値する出来事であろう。だがそれは遥のことを知らないからだ。遥にとってその宣戦布告は意外であるどころか、完全に予想の範疇であった。

 アーチャーの一撃によって場の雰囲気が酒宴のそれから戦場に漂う緊張感のあるそれへと変化する。だがそれすらも何でもないことであるかのようにアーチャーの表情は変わらなかった。

 

「――()()()()()()()()()に死という安寧を与えてやるくらいか。……だが我も今は興が乗らぬ。故に、貴様には少し猶予をやろう。そのうちに辞世の句でも詠んでおけよ、夜桜?」

 

 それだけ言うとアーチャーは黄金の酒が残る瓶を宝物庫に戻し、霊体化した。黄金に輝く魔力の残滓が虚空に溶け、しばらくしてからその場からアーチャーの気配が消える。そうして緊張が解け、遥が大きく溜息を吐いた。

 今まで平静を保っていたように見えた遥であるが、しかし流石の遥とてアーチャーから向けられる殺意は耐え難いものがあった。上手く隠してはいるが、冷や汗も流れている。それだけアーチャーの殺意は強いものであったのだ。

 思えば遥は憎悪や敵意から来る殺意には慣れているが、それらに由来しない殺意に晒されたことはなかった。そもそも遥を含めても殺意とは普通前者のような負の感情に由来して発生するものだ。有象無象よりは見所があるから自分が殺してやる、などと言い出すのはギルガメッシュくらいのものだろう。

 何であれ、これでアーチャーとの戦闘は避け得ないものとなった。元より覚悟していたことではあったが、しかし実際にその現実を目の当たりにすると不安が拭いきれないのが本心だ。果たしてあれだけの力を持つ英霊に自分たちが束になったところで勝つことができるのか、という。

 自分の力やサーヴァントたちを信頼していない訳ではない。だがその信頼を飛び越えてくるだけの威圧感とそれに見合うだけの能力を備えているのがギルガメッシュという英霊であった。回収されてしまったため分からないが、先程無造作に投擲された宝具も紛れもなく一級品であったのだろう。

 場合によっては未だ遥が隠している秘策、いわば虎の子をいくつも解放しなくてはならなくなるかも知れない。遥が思案していると、ライダーに声を掛けられた。

 

「えらく目を付けられたモンだなぁ、オイ。何か彼奴の勘に障るようなコトでもしたか?」

「……したっていうか、俺の存在自体がアーチャーの地雷を踏んでるんだろうな……」

 

 ひどく遠い目をしながら遥がそう呟く。遥は何も言わないが、明後日の方向を向いている遥の眼には確実に何かが映っているのだろう。だが遥のことをよく知らないライダーにはそれが分からず、首を捻るだけだ。

 実際、ギルガメッシュの伝承を鑑みれば遥のような存在は彼にとって目障りな存在でしかない。或いは同質の存在としてある程度は友好的に接してくる可能性も無きにしも非ずであったが、どちらにしても殺意を向けられていたことは変わりないであろう。

 ある種、エミヤが召喚に応じてくれていたことが最大の幸運であるようにも思う。仮にエミヤに代わりに何か強力な英霊がいたとしてもアーチャーの宝具の前では無力に等しい。あれだけの宝具掃射を真正面から掻い潜れる英霊自体がそもそも少ないうえ、よしんば可能であったとしても防ぐことができるのは当人に対してだけの攻撃であってその間に遥たちは蜂の巣だ。

 遥が瞑目しながら脳内で戦闘シミュレーションをしていると、何やら慌ただしい足音が聞こえてきた。それらは瞬く間に遥に近づいてくると、その腕を掴んで慌てた様子で捲し立てる。

 

「遥さん!? 何やら物凄い音がしましたが、大丈夫ですか!? お怪我は!?」

「大丈夫だよ、慌てすぎだって。()()()()()()

 

 ひどく狼狽した様子で遥の許へ駆け寄ってきたタマモの姿は先程までの一般人めいたそれではなく、大きく肩や胸辺りを露出した和装であった。呪術で隠していた耳と尻尾も隠すのを忘れている。一目でサーヴァントであると分かるその姿に、事情を知らないウェイバーとライダーが驚愕の表情を見せた。或いはそこには宝具によって付けられた遥の頬の傷が一瞬にして治癒したことに対するものも含まれているのかも知れない。

 さもありなん。カルデア式の召喚システムで英霊を召喚・使役している遥は時折忘れそうになってしまうが、尋常な聖杯戦争においてマスターとサーヴァントは2人1組である。それが分かっているからこそ今まで協力者であるアイリとセイバー以外には遥が複数騎の英霊と契約していることを隠していたのだ。

 だが、考えてみれば最早ライダー陣営もまた協力者であるのだから遥たちの秘密を伝えたところで何の不都合もないのである。半ば弁明めいた調子にはなってしまうが、協力者として最低限の義務は果たすべく隠していた事柄を語りだす遥。その横では遥から姉さんと呼ばれたことで歓喜の笑みを浮かべているタマモを後から続いてきた桜やエミヤら4人がそれぞれ違った感情の籠った眼で見ていた。

 

「うーん。やっぱりいいですねぇ、『姉さん』って響き。タマモ、今なら何でもできちゃいそうな気がします」

 

 ひどく嬉しそうなタマモの様子を苦笑いして見ながらも、エミヤは頭の片端に引っかかった僅かな疑問について思考を巡らせていた。即ち、何故遥はタマモだけに『家族の情』めいたものを感じているのか、という。

 以前、エミヤは遥から少しだけ彼の家族について聞いたことがあった。何が原因かまでは語ることはなかったが、遥の両親は遥が幼い頃に他界しているという。一般家庭ならその時点で祖父母や親戚の家に引き取られているのだろうが、遥の場合はそれが無かった。魔術師だからとかそういうことではなく、そもそも血縁がいないのだろう。

 幼い頃に両親が他界しているというのはエミヤとも通じるところがあるが、問題はそこではない。エミヤにも姉と呼んでいる人はいたが、それはそれだけの時間を積み上げたからこその呼び方である。対して遥とタマモは出会ってから精々1週間ほどしか経っていないのだ。それなのに遥は何の過不足も疑問もなくタマモを姉として受け入れている。

 エミヤも遥とタマモの間に何らかの関係性があることには気づいていたが、原因はそこにあるのではないか。だとすれば遥に混じる人外の血というのは――と半ば正解にエミヤが至りかけた瞬間、その場にいる全員の魔術回路を異様な魔力の昂りが叩いた。

 魔力の波導の規模からして儀式級の術式が動いていると見ていいだろう。それもひとりで行うのではなく、本来ならば数十人規模で行うだけの魔力量である。それが唐突に現れるというのは明らかな異常事態であった。

 

「何だ、今の―――未遠川の方からか?」

 

 そう言いながら、遥が冬木市の中心の方を見遣る。鬱蒼とした森に囲まれたアインツベルン城からは正確なところを見て取ることはできないが、しかし未遠川にて何かが起きているのは確かであった。

 

 

 

 

 しくじった。固有時制御の宝具を行使しつつ敵を切り倒しながら内心でそう呟くアサシンの顔は、まるで最大級の苦虫を噛み潰したようであった。

 シャドウ・サーヴァントが市街地に溢れるのは防いでくれ、という遥の指示通りにアサシンが動き始めてから既に数十分の時間が経過していた。その間休まずに宝具を使い続けていたアサシンであったが、未だ遥の魔力が尽きる気配はない。時のある間に薔薇を摘め(クロノス・ローズ)の魔力消費は宝具としてはあまり多い方ではないが、それでも驚異的な魔力量だと言えるだろう。

 宝具さえ使うことができるなら、シャドウ・サーヴァント程度に遅れを取るアサシンではない。元より彼の宝具は近接戦においては最強クラスの宝具である。加えて、サーヴァントの武装となったことで英霊相手にも通用するようになった銃器もある。それだけの条件が揃えばアサシンが負けることはまずない。

 戦っているうちに分かったこともある。既に敗退したサーヴァントの霊基を複製し、大聖杯からの魔力供給で現界しているシャドウ・サーヴァントだが、その数には限界があるらしく一定数まで増殖するとそれ以上に増えないのだ。斃したところで一定時間が経つといつの間にか数が戻っていることに変わりはないのだが。

 半ば機械的にシャドウ・サーヴァントを斃し続けていたアサシンであったが、そのうちにいつの間にかアサシンの猛攻から逃れたキャスターが1騎だけいたのだ。そのキャスターは未遠川まで辿り着き、宝具である魔導書に記録された異界からの召喚魔術を行使し始めた。

 そうして現れたのはまさしく昭和の怪獣映画にでも登場するかのような巨大な異形。形は烏賊や蛸のそれと似ているが、如何せん大きさが違いすぎる。小さく見積もったところで30メートル以上あるだろう。下手をすると50メートルほどある可能性もある。全身に大小さまざまな眼が輝き、粘液の光沢に包まれたその姿は一般人なら見るだけでも発狂してしまいそうだ。

 アサシンの見積もりではその超巨大海魔を屠るには全身を一刀の下に消し飛ばすしかないのだが、それには対軍宝具以上、すなわち対城宝具程度の火力が必要になる。或いは現界を維持する要であるシャドウ・キャスターを直接斃せば消滅せしめることも可能だろうが、それはアサシンには難しい。精々弓兵の射の一撃で撃ち抜くのが関の山だ。

 続々と現れるシャドウ・サーヴァントを斃しつつも超巨大海魔をどうにか消滅させる方法を考えるアサシン。そうしていると、不意にシャドウ・サーヴァントの呻き声を塗り潰すかのように雷鳴が轟いた。

 

「あれは……ライダーの戦車(チャリオット)か? それに、これは……」

 

 微量ではあるが、アサシンの内に流れ込んでくる魔力が徐々に増えている。それが示すところをアサシンはすぐに理解した。マスターからサーヴァントへの魔力供給は距離が近いほどに効率を増す。つまり遥が近づいてきているのだ。

 見れば、異常な速度で国道を動くライトがあった。恐らくは遥が駆るモンスターバイクのライトだろう。遥の仲間内において装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)をまともに操ることができるのは遥だけだ。他は運転技能もなければ騎乗スキルもない。

 アサシンと合流する手筈であったところを連絡もなしで方針を変えたのはひとえに〝アサシンならそうさせる〟という確信が遥の中にあったからで、そしてその確信は正しいものであった。仮に遥がアサシンに念話でも入れていれば海魔の方を叩けと一喝していただろう。

 アサシンには海魔を屠ってのけるだけの力や宝具はない。だが遥が所持する神剣やセイバーが携える聖剣ならばそれが可能だ。完全に他人任せにする他ない状況。その中あって、アサシンはほとんど無意識のうちに言葉を吐き出した。

 

「そっちは任せたぞ、遥……」




次回、VS超巨大海魔。
ちょっとしたアンケートを活動報告に置いておきますので、気が向いたら答えていただけると。


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第38話 蒼銀の騎士王

「こいつは……マジでデカいな……」

 

 川の中からまるで天に己を突き立てんとするかのように聳え立つ異形を見上げながら遥が呟く。その顔には笑みこそ浮かんでいるものの、それはどれだけ愚鈍な人間が見たとしてもその裏にある感情を見透かすことができるものであった。

 畏怖や恐怖ではない。どれだけ巨大であろうが知性すらも持ち得ない相手に恐怖するような精神を遥は持っていなかった。言うなればそれは呆れや感心に近い。この状況でそんな感情を抱くことができるのは、或いは遥の本質が非人間であるからなのだろうか。

 遥たちが見上げる先で惜しげもなくその身体を晒す海魔。それを一言で形容するならば、最も適切な表現は〝怪物〟だろう。或いは〝巨大怪獣〟か。どちらにせよ、それは日常とはかけ離れた位置に存在する怪異であった。

 間近で見たからこそ分かることだが、体長は少なくとも40メートルを越している。粘液に濡れた紫色の体表には眼らしき器官が湧いては消えを繰り返し、より一層不気味さを際立たせている。全身からは毒の瘴気が噴き出している。

 遥たちがいる河川敷側には彼ら以外の姿はないが、対岸である新都側まで見るとかなりの野次馬で溢れかえっていた。魔術師ではない彼らには瘴気越しに海魔を子細に視認することはできないだろうが、朧げな輪郭は見えているだろう。最早神秘の露呈どころの話ではない。

 現代人でありながらその身に秘めた怪異の強さ故に数多の戦場を経験してきた遥であるが、流石にこのような巨大怪獣めいた敵を目の当たりにしたことはなかった。精々悪魔に憑かれたことで異形化した人間を相手にしたことがある程度か。

 だが巨大な敵と相対した経験があるセイバーでもこの海魔の異様は想定外であるらしく、表情には明らかな驚愕が現れていた。その場にいる者たちが半ば呆然とした顔で海魔を見上げる中でいち早く冷静さを取り戻したライダーと遥が言葉を交わす。

 

「で、どうするのだ。何か策はあるのか?」

「今のところは特に見当たらねぇ……ってのが正直なトコだ。俺の叢雲やらセイバーのエクスカリバーなら一撃で吹っ飛ばすこともできるだろうが、下手をすると市街にまで被害が出かねねぇ。せめてデカい船でもあれば盾にできるんだが……」

 

 対城宝具である諸人が求めし救済の聖剣(アマノムラクモノツルギ)約束された勝利の剣(エクスカリバー)はその一撃の下に海魔を吹き飛ばすに事足りる威力を秘めている。それは紛れもない事実だ。

 だが恐らくそれらの宝具を何の用意もなく真名解放した場合、その極光は海魔の巨体を消滅せしめるだけではなくその先にある市街まで焼き払ってしまうだろう。無辜の人々にまで聖杯戦争の被害が出ないように戦っているのに市街を焼き払ってしまえば、それは本末転倒というものだ。

 この場にマシュがいれば対岸で宝具を展開させて受け止めてもらうこともできたのだろうが、それはないものねだりというものだ。ふたつの陣営の協力を呼びかけた立場である遥は実質的にこの同盟関係の指揮官的な立ち位置に収まっている。遥は現在持っている戦力(カード)を組み合わせることで海魔を打倒する他ない。

 今回の戦闘の難点としては運用可能な戦力として動かすことができないサーヴァントが存在するという点だ。海魔は水上にいるため遠距離での攻撃手段を持たず、水の上を動くことができないサーヴァントは動かすことができない。

 顎に手を遣って少しの間黙考し、遥が口を開く。

 

「エミヤ。キャスターを狙撃できるか?」

「無論だ。姿さえ視認できれば、そんなことは造作もない」

 

 そう言いながら、エミヤは右手に愛用の大弓を投影した。遥はエミヤの狙撃の腕前を詳細に把握している訳ではないが、少なくとも飛来する矢に自らが放った矢を当てて相殺できるだけの腕前があることは分かっている。それだけの腕があればキャスターを撃ち抜くには十分だ。

 問題はエミヤが狙撃して命中させることができる状況を作り出せるかということ、そしてそれまでにかかる時間だ。下手に時間をかければ海魔が新都に上陸し、人間を捕食し始める可能性もある。そうなれば人間の魔力を取り込んでしまうため、キャスターを狙撃するだけでは海魔は消滅しなくなる。

 味方側の戦力として計上できるのは水の上を行動することができる()()セイバー、飛行する戦車を駆るライダーと遠距離から狙撃することができるエミヤの4人がまず確実だ。他には竜種を召喚・使役できるオルタが飛行戦力として運用できるのかも知れないが、それも厳しいだろう。ワイバーンの敏捷性など高が知れている。

 加えて沖田やタマモは海上にいる敵には完全な無力だ。或いはタマモならば炎天などで後方支援に回すことができるのかも知れないが、完全な近接戦闘型の戦闘スタイルである沖田は大海魔に対しては無力だ。だからといってこの戦闘で完全に運用できない戦力という訳ではない。敵は何も大海魔だけという訳ではないのだから。

 現在顕現している大海魔の核となっているキャスターは大聖杯より湧き出たシャドウ・サーヴァントの1騎だ。それが示すところはつまり、下手をすれば現在出現している大海魔と同規模の海魔が際限なく増え続ける可能性があるということである。そうなってしまっては対処のしようがない。

 そうして遥は一瞬で考えを纏めると、仲間たちの方に向き直って指示を飛ばした。

 

「沖田とオルタはアサシンと合流してシャドウ・サーヴァントの殲滅を頼む。姉さんはアイリさんと桜、ウェイバーの護衛。残りは大海魔の掃討に当たる。それでいいか?」

 

 その遥の指示に異論を差し挟む者はいなかった。一瞬だけ沖田とオルタのふたりは不服そうな表情を見せたものの、自分たちでは大海魔の相手をすることができないと分かっているのだろう。それにシャドウ・サーヴァントの殲滅は重要な任務だ。それこそ、大海魔の掃討よりも。

 アサシンとの合流を命じられた沖田とオルタがその場から離脱したのを確認し、遥が大海魔へと向き直る。今のままでは遥もアイリやウェイバーと同じくサーヴァントの戦いを後方から見守ることに終始することになる。だが、遥にはこの状況の中にあっても共に戦い得る手段があった。

 瞑目し、最早唱えすぎて魂にまで染みついた呪言を遥が紡ぎ、己が肉体に同化した分霊との接続を呼び起こす。同時にこの世のものとは思えないほどの苦痛が遥の総身を駆け抜けるが、そんなものは遥にとっては慣れたものだ。

 いつもなればそれで終わりだ。しかし遥はそこでは終わらせず、分霊と接続した魔術回路に施した小規模な封印を僅かに外した。いわば〝安全弁〟とでもいうべきそれを外したことで魔力と情報が反乱しかけ、遥が苦痛に顔を歪める。それでもすぐに統制を取り戻すと大きくひとつ息を吐いてから目を開けた。

 平時は夜空のような黒色をしている遥の眼が紅く染まっている。身体から放出される魔力は人間どころか一般的なサーヴァントのそれを凌駕している。まさしく超常という言葉で形容するのが正しい存在であった。

 魔力だけではない。封印の多くを自ら外した遥の放つ気配は既に人間のそれを大きく逸脱していた。抑止の守護者として多くの敵と相対してきたエミヤはそこから遥の血に混じるという人外の正体に気付いたらしく、その表情を驚愕に染めた。

 

「マスター、君は……」

 

 そこまで言いながら、エミヤはその先を口にすることなく口を噤んだ。遥が今まで外さなかった封印を解いてまでこの戦いに臨むということは彼なりの決意があってのことなのだろう。ならばエミヤが遥に問おうとしたことはあまりに野暮というものであった。

 遥の血に混じっている人外の要素は現代においては非常に稀有だ。その血を引く人間はこの世界において遥たったひとりと言っても過言ではないだろう。それはつまり、その視点で世界を見ている者が遥たったひとりであると言ってもいい。

 一般的な魔術師の精神構造をしている者ならばそれを胸を張って周囲に誇示するのであろうが、生憎遥はそういう性格ではない。或いはそれすらも人外の血によるものなのかも知れないが、それでも遥はただ独りで孤独な世界を生きてきたのだろう。

 人間的な感性を持っていながら、人間とはかけ離れた精神構造を持つという歪な魔術師。遥とはまさしくそういう魔術師であった。だからこそアーチャーは遥を人になりきれない愚者と評したのだろう。彼は遥と同族だからこそ、その違いが鼻に突くのだ。

 鎌首を擡げた疑問を奥底に押し込め、代わりに心象世界から取り出した黒塗りの弓を強く握り締めた。そうして射撃地点を定めて移動しようとした時、先にライダーが動いた。

 

「よし、では一番槍は余が貰った! 頼むぞ、ゼウスの仔らよ!」

 

 その言葉が放たれると同時に神牛が嘶き、雷鳴が大気を震わせる。ライダーの飛行宝具たる神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)が虚空を踏みしめる轟音と共に浮き上がり、見る間に遠ざかっていく。行く先は無論、大海魔の下だ。

 それを川岸から見ながら遥がひとつ溜息を吐く。それとほぼ同時、遥はロングコートの裾を何者かに引っ張られていることに気付いた。見れば、不安げな感情を宿した瞳で桜が遥を見上げている。それは桜が遥に見せた初めての感情らしい感情であった。

 桜は恐らくあの大海魔がどれだけ強大な存在か分かっているのだろう。全く神秘を知らない一般人でさえ脅威を感じ、野次馬根性を発揮して集っているのだから、魔術師としての優れた素養を持つ桜がその脅威に気付かない筈はない。故に桜は不安なのだろう。遥が生きて戻ってくるか否かが。

 その様子を見て遥は苦笑すると、桜の前にしゃがみ込んで視線を合わせた。そうして頭を撫で、大丈夫と言い聞かせる。何の根拠もない言葉だが桜はそこから遥の決意が変わることはないと悟ったのか、遥から離れてタマモにくっつく。

 

「行きましょう、ハルカ」

「……あぁ。分かってる。いこうか、セイバー」

 

 それだけ言葉を交わすと、セイバーは先に川へと突っ込んでいった。湖の乙女の加護を受けている彼女にとってはどれほどの水であっても動きを阻害する要因には成り得ないらしく、地上と同じような速さで駆けていく。

 それに続いて遥も川に足を踏み入れる。セイバーと違って湖の乙女の加護はおろか何の加護も受けていない遥であるが、しかしその足は沈むことなく確かに水面に両足で立っている。その光景に遥の背後でアイリとウェイバーが驚愕の声を漏らした。

 水面に立つという完全に物理法則を無視した状態になっていながら、遥には一切魔術を使った気配がなかった。それはつまり遥が水面に立つことがある種の物理法則と同等の次元で成り立っているということに他ならない。セイバーが有する加護と同じように。

 不意に立ち眩みを感じ、遥が水上でよろめく。セイバーの加護が彼女本来の力ではない、ある種後付け的なものであるのに対し、遥のそれは彼自身の内から湧き出てくるものだ。だが人よりも高位に位置する存在の力であるために遥の半分を構成する人の部分が悲鳴をあげているのだ。

 絶え間なく身体があげる悲鳴を封殺するために封印魔術で無理矢理に神経の機能の一部を封印する。多少リスクは高い手段ではあるが、それは遥が狙った効果を発揮して苦痛が嘘のように消失した。そうして、叢雲を抜刀して切っ先を大海魔の脳天へと向けた。

 

「――行くぞ、ゲソ野郎」

 

 その声はひどく冷たく、遥の常の声音とはかけ離れていた。

 

 

 

 

 無機質な印象を受けるカルデアの部屋に紙を捲る小さな音が響く。その音の出所は立香が読んでいる本――〝よく解る魔術 ルーン魔術編〟と印刷された本であった。遥に纏められたそれは大層な題名なだけあって相当に分かり易く、魔術師としては素人の立香でもすぐに理解できていた。或いはそれは立香の呑み込みが早いということもあるかも知れない。

 遥が纏めた魔導書、というよりも魔術の解説書はルーン魔術だけではない。錬金術やカバラ、降霊術、転換魔術、宝石魔術などその種類は多岐に渡る。さすがに遥の虎の子たる伝家の封印魔術までは含まれていないが、しかし立香に渡していないだけで準備している様子はあった。魔術師が秘術を明かすというのは普通あり得ないことだが、今はそれだけの異常事態ということなのだろう。

 遥が立香にそれらを渡したのは何も立香にそれを習得させるつもりだからではない。習得するか否かは立香次第だが、知識を付けておけば敵が魔術を使ってきたとしても対応できる。遥はいち早く立香が有する指揮官としての才を見抜いたが故、それを生かすための知識を立香に与えようとしているのだ。魔術を使えるか使えないかは問題ではない。知識さえあればその後に続く実戦経験への対応の幅が広がる。

 解説書を読んで知識を蓄えるという行為はある意味、学校教育において参考書を読む行為と似ている。数か月前までは高校生として散々それを繰り返してきた立香だが、彼はそれがあまり嫌いではなかった。むしろ好きと言っていい。確かに知識を付けたという感覚は立香にとって一種の快楽に近い感覚であった。実際立香の呑み込みは驚くほど速く、遥も1週間でできれば重畳と考えていた魔術回路の起動をたった数日で習得している。

 しかしいくら立香にとって勉強が苦にならないとは言ってもそれには限度がある。マットレスに座り壁に背中を預けて解説書を読んでいた立香であるが、唐突に溜息を吐いて読んでいたページに栞を挟むと、解説書を枕の上において伸びをした。

 立香たちが変異特異点βの修復を成し遂げてから数日。月下美人との戦いで魔術回路に大きな負担を掛けたことで身体にまで影響をきたしてしまった立香は検査結果こそ異状はないものの、念のため数日間の休息を命じられたのだ。或いは謹慎というべきか。どちらにせよ、この数日の間立香はサーヴァントたちとの会話や読書、ゲーム以外に特にすることなく過ごしていた。

 手持ぶたさに弄る頭髪の一部は白く変わっており、指先も僅かに褐色に変色している。それはひとえに量が少ないうえに未熟な魔術回路に無理な負荷を掛けた結果であった。レオナルド曰く、普通に変色したのならまだしも魔術回路の過負荷による変色は彼にもどうすることもできないらしい。加えてカルデアの医療機器でもどうにもならない以上、手の施しようはない。

 つまりは立香に起きた変化は進行することはあっても一生治ることはない。それでもいい、と立香は考えていた。元より人理修復を何の代償もなしに生き抜くことができるとは思っていない。そう簡単に割り切れるだけの冷静さと言えるものを立香は最初から有していた。

 

「あー……遥が作った料理……食べたいなぁ……」

 

 そう呟きながら立香がベッドに寝転がる。その言葉は半ば無意識に漏れたものであったが、それだけに立香の内心を正確に表していた。一応はカルデアには遥やエミヤ、タマモ以外にも料理を作れる者はいる。無論、立香もある程度ならば作ることができた。

 だが作ることができるとは言ってもレベルが全く違うのだ。これまで18年と少しの人生しか生きていない立香だが、彼は既にこれからの人生でも遥が作った料理以上に美味い料理に出会うことはないと確信していた。それはカルデア職員も同じようで、中には人理修復が終わった後も料理人として残って欲しいと言う者もいる始末である。

 溜息と共にその思いを吐き出し、思考を切り替える。長時間に及ぶ激戦の末立香の身体に影響を与えた変異特異点βでの戦闘だが、しかしそれは完全に立香にとって損になるものではなかった。その戦闘を立香なりに分析し、確かに得たものもあった。

 遥は以前自らの指揮能力から一度に使役できる英霊の数は多くて6騎が限度だと言っていたが、立香の場合は魔力量的に最大で6騎が限度だ。それも戦闘継続時間を1時間から2時間ほどと仮定した場合である。今回のような超長時間戦闘ではさらに少なくなる。

 それが立香の限界であるが、逆に言えばこの範囲内であれば立香は自分のポテンシャルを最大限に近い状態で発揮できるということでもある。立香ひとりをマスターとして人理修復をしているのならともかく、遥たちと共に戦うならば連携という点においてそれは長所となる。

 現在、立香が契約しているサーヴァントの数は4騎。一度の戦闘で使役できるサーヴァントの数まではあと2騎分の余裕がある。尤も、今日のうちに新たに1騎を召喚する予定でいるためそれを除けば残り1騎。それ以上召喚した場合は一部をカルデアに留めておくことになる。

 そのサーヴァントと共に初めて修復することになる次なる特異点も、実のところ既に座標が特定されている。紀元60年のローマ帝国。その頃の古代ローマ帝国を治めていた皇帝の名前は〝ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス〟であると立香は習っていた。

 それが遥に伝えられていないのは、遥に現在の特異点の修復に集中してもらいたいというロマニの意向がある。立香も変異特異点βにて身体に異常をきたしてしまったため良い機会であるとして、こうして休暇を与えられているのだ。とはいえ、立香自身は行動を些か制限されてしまっていたため非常に手持ち無沙汰にしているのだが。

 一体どれほどの時間を天井を見つめたまま過ごしていたか。不意に立香の耳朶をドアをノックする音が響いた。ベッドから立ち上がって乱れた着衣を直してからドアを開けると、そこにいたのはマシュであった。マシュはひとつ礼をしてから口を開く。

 

「こんにちは、先輩。英霊召喚システムの準備ができたそうなので、一緒に行きましょう」

「了解。……あぁ、でもちょっと待ってて。部屋を片付けたら行くから」

 

 そう言ってから立香は一旦部屋に戻ると、ベッドの上などに投げ出されていた魔術解説書や遥から借りていた携帯ゲーム機などを纏めて机のうえに置いた。高校卒業後の男性の部屋としては平均以上には片付いている立香の部屋ではあるが、しかしそれでも多少散らかるのは否めない。

 再度部屋が散らかっていないか確認して部屋から出てマシュと合流し、ふたりは英霊召喚システムが敷設されている部屋に向かっていく。マシュに付いてきたらしいフォウが立香の頭に乗ってきたが、立香は特に咎め立てしなかった。

 ふたりの間で交わされているのは他愛のない、どこにでもありそうな普通の会話。主にマシュからの問いに立香が答える形ではあったが、それは立香にとっても現状を考えずに済む時間であった。立香は嘗ての己の生活に思いを馳せ、マシュからの問いに答える。

 立香にとっては至って普通のことであっても、マシュにとってそれは本などで読んだだけの全く未知の世界であった。マシュはカルデアで生まれ育ったが故に外の世界を知らないのである。立香はそれが分かっているからこそ、自らがマシュに問いを投げることはしなかった。

 だが問いとは無限に存在せず、果てがあるものである。半ば自然な流れでふたりの話題は立香の身体のことへと向かっていた。

 

「ところで、先輩……御身体の方はもう大丈夫なんですか?」

「うん。魔力はもう十分回復したし、魔術回路ももう問題ないよ」

 

 変異特異点βから戻ってきた直後は魔力が殆ど枯渇し、魔術回路もかなり酷使した影響で焼き切れる寸前であったがどちらも少し休めば元に戻るものである。特に前者はカルデアからの供給分があるため回復が早い。

 検査結果上においても立香の身体には何ら異常はなく、特異点攻略前とほとんど同じに戻っている。異なっている点を挙げるとすればやはり変色してしまった末端と毛髪だけであろう。

 回復をアピールするかのようにわざとらしく腕を動かす立香にマシュはまだ何かを言おうとしたが、しかしその口から言葉が滑り出ることはなかった。立香は一度平気と言ったのならその言葉を曲げることはない。それはカルデアでマシュが最もよく分かっていることだ。

 どこか気まずくなってしまった空気。まるでそれをなんとかしろとでも言うかのようにフォウが立香の頭を叩くと、それに応えて立香は何とか明るい話題を絞り出した。

 

「そういえばさ、マシュって料理はできるの?」

「料理……ですか? お恥ずかしながら、私、一度もしたことがなくて……先輩はどうですか?」

「オレ? オレは多少はできるけど、遥とかエミヤみたいに凝ったのはできないよ。せいぜいカレーとかうどんくらいが関の山かな」

「ウドン……日本の伝統料理ですね。写真は見たことはありますが……」

 

 どうやらうどんの現物を見たことが無いらしいマシュであったが、それも致し方ないことであろう。マシュは立香や遥のように外からカルデアから来たのではなくカルデアで生まれ育ったのだから。加えてカルデアに日本人はサーヴァントを除けば立香と遥しかいないのだから、見たことがないのが当然だ。

 そもそもマシュはカルデアから外に出たことがないのである。レイシフトによって特異点に赴くまでマシュはこのカルデアという狭い世界の中で16年を暮らしてきたのだ。カルデアに来るまでは至って普通の生活を送ってきた立香にとってそれは想像すら及ばない領域にあるものであった。

 その話を聞いて大半の人間が抱くのはマシュへの憐憫や同情であろう。だが立香はそれらの感情が全く無意味であるどころかマシュ・キリエライトという少女を貶めるものであることを知っていた。同情などは結局、自分が善人であると錯覚するためのものでしかない。それよりも立香が強く思ったのは願望に近い感情であった。

 いつかマシュと共に立香が見てきた世界やまだ見たことのない世界を見てみたい、という。しかし立香はそれを口にすることはなかった。代わりに口にしたのは取り留めもない、他愛のない会話。そうしているうちにふたりは召喚システムが設置されている部屋に到着した。中には既にマシュの盾が設置されており、壁の不思議な文様には魔力の輝きが宿っている。立香はパーカーのポケットから聖晶石を3つ取り出すと、手慣れた動きでそれを盾に並べた。

 

「さ、始めようか」

 

 立香がそう言うと、マシュがシステムの主電源を入れた。マシュの盾を基点として敷設された召喚陣に魔力が流れ込み、最大出力で稼働を始めた電力を魔力に変換する装置が低く唸りをあげる。

 変異特異点βではかなりの数のサーヴァントと遭遇したため、今の立香はその分多くの英霊を召喚できる状態にある。例えばコノートの女王メイヴやトロイア戦争の大英雄にして九偉人のひとりたるヘクトールが強力な英霊だが、立香は特に誰かを欲している訳ではなかった。共に戦ってくれる英霊であるなら立香にとっては感謝しかない。

 盾の前に立香が立ったことでシステムがマスターの存在とその魔術回路を認証し、僅かに盾が光を帯びた。英霊召喚システム〝フェイト〟。魔術と科学において最先端を往くカルデアの技術の粋を結集して作成されたシステムが動き始めたのだ。術式に魔力が通されたことでマシュの盾から英霊召喚の召喚陣が浮かび上がる。

 それを確認すると立香は右手を身体の前に掲げ、全身の魔術回路を駆動させ始めた。前回の召喚とは異なり、今回はマシュがシステムを起動させたため自ら式句を紡ぐ必要はない。立香から流れ込む魔力に反応したシステムが勝手に術式を動かし、盾を中心にして魔力の暴風が吹き荒れる。

 術式の進行と魔力の高まりに呼応した3つの聖晶石が砕け、内部に秘められていたエーテルが召喚陣の上で三重の円環を成した。さらに回転するエーテルが異様な高まりを見せたことで虹色に輝くエーテルが漏れ出し、立香の魔術回路から引っ張られる魔力が倍増しになる。だが最早その程度の異物感など立香にとっては慣れたものだ。

 今までのカルデアでの英霊召喚の例から虹色のエーテルが漏れ出した時は相当に高位の英霊が呼び出されると立香は知っていた。だが誰が来るのかを立香が考える前に魔力とエーテルの突風が一際強まり、膨れ上がった光が立香とマシュの視界を塗り潰した。それも一瞬のことで、次にふたりの視界が正常に戻った時には既に立香の召喚に応じた英霊がふたりの眼前に立っていた。その姿を見て立香が息を呑む。

 身長は立香よりも10センチメートルほど低い。まるで金を溶かし込んだかのように流麗な金髪が未だ残る風に吹かれてそよぎ、その下のある翡翠色の瞳は真っ直ぐに立香を射抜いている。全身を覆う蒼銀の鎧には精霊文字が刻まれ、それが人よりも高位の存在によって鋳造されたものであることを知らしめている。何より視線を引くのは携えた大剣だ。刀身が黄金に輝く大剣は膨大な魔力だけではないただならぬ何かを放っていた。

 立香はその姿を見たことがあった。忘れる筈もない。変異特異点βに存在したオガワハイムの最上階にて荒耶によって霊基を歪曲され、月下美人として召喚された英霊。真名―――〝アルトリア・ペンドラゴン〟。

 

「サーヴァント・セイバー。召喚に応じ参上しました。

 至らぬ我が身ではありますが、どうか、我が剣を貴方を共に」




「小林ぃぃぃぃぃぃぃッ!!」って書いた方が良いんですかね……?
 以前に行ったアンケを参考に月下美人、もとい反転前アルトリアは〝アル〟と呼称することにします。ステータスは活動報告の方にありますので、気になる方はどうぞ。ちなみにアルはアルトリアのひとりですが、アル≠SNセイバーなので悪しからず。

 本編に全く関係ない設定を考えましたので、一応載せます。

夜桜 遥
得意教科:理系教科全般
得意なゲームジャンル:音ゲー、格ゲー


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第39話 逃れ得ぬ過去(きおく)

 遥たちが大海魔を討伐すべく未遠川にて戦っているのと同刻。危険を察知していながら非日常を求めて野次馬根性を発揮したで人々が集合しつつある新都の街の一角で異様な影が蠢いていた。

 滅多に人々が入り込むことはない裏路地の最奥。摩天楼の影が折り重なり一寸先さえも見えないほどの闇の中にあって、明確に認識できるほどの濃密な闇があった。いや、果たしてそれは闇と言って良いものなのか。

 その闇が発しているのは何かに対する強い憎悪に濡れた低い唸り声。それに合わせて聞こえてくる何かがぶつかり合う甲高い音。或いはそれは今にも動き出しそうな身体を無理矢理に抑え込んでいるようですらあった。

 常ならば可視化されるほど強い眼光を放つ眼はまるで電源の切れた機械のようにその威圧を失い、完全に停止しているようですらあった。しかし身体の微細な動きを見ればそれが何か外部からの力によって抑え込まれていることがわかるだろう。

 不意に空を覆う雲が裂け、月光がその闇だったものに降り注ぐ。そうして見えたのは無数の傷を戦化粧として武勇を謳う、アメジストのように優美な色をした全身鎧。しかしその全身は異様な霧によって輪郭が不可視となっている。

 それだけ見えれば最早疑うまでもないであろう。そこにいたのは先のアサシンの作戦によってマスターを失い、消滅する運命にあった筈のバーサーカーであった。だがバーサーカーは動きを停止させてはいるものの、決して消えるような気配はない。

 しかし雁夜はアサシンによって右手ごとマスター権を奪われた後に病院に運び込まれ、現在は集中治療室にて治療を受けている最中である。それはつまり、現在のバーサーカーのマスターは雁夜ではないということだ。

 そもそもとして雁夜には切り離された右手を回収するだけの余力も令呪を回収して再び自らに刻み付けるだけの魔術の素養もない。つまり、バーサーカーの現在のマスターは雁夜ではなく、切り飛ばされた雁夜の右手を回収した何者かであった。

 

「Arrrrrrrrrrrr……」

 

 低くバーサーカーが声、というよりは鳴き声に近い音を漏らす。それは相対した者全てに憎悪によって駆動する機械人形めいた印象を与えていた今までのそれとはどこか雰囲気が異なる、まるで何かを希うかのような声音であった。

 或いはそれは令呪の拘束力によって行動を封じられているが故に狂化が弱まっているからなのかも知れない。『狂戦士(バーサーカー)』として召喚された彼にとって、本来その気配は怨敵のものでしかない。

 バーサーカーが近くに感じているのは生前仕え、そして裏切ってしまった主の気配。けれどそれを感じてはいてもバーサーカーはその気配に近づくことはできない。バーサーカーとして召喚されているが故に対魔力を大幅にランクダウンさせている彼にとって、令呪の効力は如何ともし難いものであった。

 バーサーカーがこのような場所に身を潜めているのは何も衆目から逃れるためだけではない。そもそもバーサーカーとて彼のマスターにとっては使い捨ての道具、消耗品でしかない。よもや消耗品を隠すためだけに厳重に隠しておく者はいまい。故にバーサーカーがこの場にいるのはもっと別な目的のためだ。

 そうしてバーサーカーが路地裏に身を潜めてしばらく、不意に彼の耳朶を空気を裂く甲高い音が貫いた。その発生源である上空を見上げれば、そこにあったのはまさしく〝船〟とでも言うべきものであった。黄金の船体とその底面にはめ込まれた巨大極まるエメラルドが目を惹く。見たこともない宝具。だがそれ故に、バーサーカーは本能的にそれの主を悟った。

 その宝具の真名は〝天翔る王の御座(ヴィマーナ)〟。本来はインド神話において語られる空飛ぶ船であるが、しかしこの聖杯戦争においてはイレギュラーも含めたとしてもインドに由来を持つ英霊は存在しない。であればその宝具を有する英霊に該当する者はひとりしかいまい。

 メソポタミア文明において語られた叙事詩において原初の王とされる英雄にして人理を裁定する絶対者。此度の聖杯戦争においては『弓兵(アーチャー)』として召喚された大英雄ギルガメッシュ。バーサーカーがその姿を視認したと同時、その傍らに何かが現れた。人間ではない、まるで蟲が蟠っているような何か。それが紅い輝きを帯びる。

 

「……第二の令呪を以て命ずる。バーサーカー。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 令呪による強権を行使したことで蟲の塊の中で紅い輝きが弾けた。そうして魔法の真似事すらも可能とするほどの魔力は無類の強制力を以てバーサーカーの内へと流れ込み、その意識をマスターの命じた通りに改竄する。

 狂化による狂気と闘争本能のために赤熱し、最早全てのものが意味を失ったバーサーカーの視界。その中にあって先にみた光景だけがバーサーカーの瞼に焼き付いて離れない。

 空を駆ける黄金に輝く船にある玉座に座る()()()()。まるで金を溶かし込んだかのような優美にして勇壮極まる髪と確かな意思と絶対的な自信、そして信念を湛えた紅玉の瞳は()()使()()()()()()()()()()。それが今のバーサーカーにとっての現実であり、彼にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。

 無論、バーサーカーの抱く認識は令呪によって改竄されたものに他ならない。数瞬前までは正確に認識し、そして記憶していた筈の意識までもマスターの意のままに改変するというのは、令呪がいかに強力な魔術であるかを示す証左であろう。それはそもそもバーサーカーが狂化によって自己認識すらも曖昧であるからなのかも知れないが。

 令呪によって送り込まれた魔力がバーサーカーの持つスキル〝魔力逆流〟によって四肢に充填される。異常なほどの量の魔力を充填された筋肉が負担に耐え切れずに弾け、鮮血が噴き出す。しかしバーサーカーは更に四肢が崩壊するのも構わず、さらに魔力を全身に循環させる。

 

「Aaaaaa――Arrrrrrthurrrrrrrrrr―――!!!」

 

 狂える獣の咆哮が摩天楼に木霊する。天地が鳴動するほどのその咆哮の直後、濃紫の閃光が一直線に黄金の船に向けて駆けた。

 

 

 

 大海魔の放つ魔力によって濃密な霧が満たす未遠川の水面に黄金の閃光が瞬き、その度に大海魔の足が何本も血の飛沫をあげてながら切り離され、宙を舞う。大海魔はそれに抵抗して触手で遥を絡め取らんとするもそうして伸ばした触手は遥に届く前に斬り飛ばされ、遥かに届くことはない。

 まさしく鬼神の如き活躍であった。遥が斬り飛ばした触手の本数は100本を下るまい。それだけの数の触手を斬るだけ戦っていながら遥の息は全く上がっていなかった。異常な体力量である。しかし遥だけではなくセイバーとライダー、エミヤからも攻撃を受けていながら大海魔には一切の損傷がなかった。

 それは何も傷を受けたという過去を帳消しにしているだとか、そういった魔術や魔法のような現象ではない。ただ単純な再生能力が並みはずれているが故に大海魔はいかなる損傷であろうと瞬く間に回復してしまうのだ。恐らく大海魔はその巨体に反して体構造はアメーバなどの原始的な単細胞生物程度のものでしかないのだろう。

 つまりどれだけ遥やセイバーが触手を切り落とそうと完全な無駄ということである。それは精々自衛程度の行為でしかなく、大海魔には何のダメージもない。故に大海魔は遥たちを攻撃はするものの、新都方面への進撃を止めないのだ。

 現状戦力で唯一キャスターを直接攻撃できるエミヤのことは流石に警戒しているらしく、粘液に光る肉の塊から湧き出した無数の眼がエミヤに向けられている。エミヤが放った矢はその眼を以て捉えられ、海魔は常にその矢を防ぎうるだけの肉でキャスターを守っている。

 大海魔と戦う4人は人間という尺度で見れば非常に強力な戦士だ。まさしく一騎当千と言うに相応しいであろう。だが大海魔は人間よりも強力かつ巨大な存在であって、人間の尺度などというものは当てはまらない。いかに屈強な戦士でさえ、大海魔にとっては羽虫にも等しい。

 羽虫にどれだけ刺されようが人間がそう簡単には死に至らないように、大海魔にどれだけ攻撃しようが簡単にダメージにはならない。実際、どれだけ攻撃しても回復してしまうために遥たちは全くと言って良いほど大海魔にダメージを与えることができていなかった。

 加えて大海魔はこの世界ではなく異界から招来された存在、謂わば異界生命体(フォーリナー)とでも言うべき異形生命である。そのためこの世界の法則が適用されず、神秘の塊となっている。火力だけで言えば戦略爆撃機やら核爆弾で事足りるのだが、実際はそれを使っても消し飛ぶのは冬木市と遥だけで大海魔とサーヴァントは残るだろう。

 そもそも近代兵器など遥たちには使うことすらもできないのだが。長時間戦闘のためか思考回路に割り込むことが多くなった雑念を頭を振って落とし、迫る触手を一息で斬り飛ばす。しかしその触手も瞬く間に再生してしまう。それを見て、遥は最早笑うしかないとばかりに薄い笑みを見せた。

 

「デカいうえに無限再生も可能とか、反則(チート)すぎだろ……」

 

 無限再生が可能という点で言えば遥も同じではあるが、遥と大海魔とでは大きさが異なる。そもそも今の遥が脳や心臓を一撃で潰されれば再生できずに絶命するのに対し、大海魔には脳や心臓に当たる器官はない。十把一絡げに考えるのは間違いというものであろう。

 だがそれでも大海魔が弱点のない存在であるのかと問われればそうではなく、ある種大海魔の心臓とも言えるシャドウ・サーヴァントたるキャスターがそれに当たる。現時点ではキャスターの宝具以外に魔力供給手段がない大海魔はキャスターさえ斃してしまえば存在を維持できなくなり、元の世界に帰るだろう。

 しかしキャスターを狙うと言葉で言うのは簡単だが、実際に遂行するのは困難だ。エミヤが狙撃しても撃った宝具の矢はその神秘を阻むだけの肉の壁で防がれ、ライダーは飛行はできても無数の触手に阻まれて接近すらままならない。遥やセイバーは接近は可能だが登ろうと肉の壁に乗った時には食べられるのが落ちだ。

 それでもそれ以外に方法がないのもまた事実である。大海魔と戦いつつも何とか叢雲やエクスカリバーを使えないか思案していた遥であるが、しかしその努力も虚しく市街地を巻き込まずに使う方法は見つかっていない。

 この世界は特異点であるのだから市街ひとつを消し炭にしようと修復さえ成してしまえば元通りになるのかも知れないが、遥はそれをしたくはなかった。特異点だからと修復した程度で戻るほど人命は簡単なものではない。

 それ以前に人類を救わんとするカルデアが自ら進んで一般人を巻き込んでしまっては大義を見失うというものであろう。遥がそうして攻略策を思案していると、それを遮るように爆音が鳴り響いた。

 唐突な神秘の解放に大気が鳴動し、それを受けた遥が反射的にそちらを振り返った。彼我の距離は精々数百メートル程度。未遠川のさらに下流の上空に浮かんでいたのは、黒く歪んだ魔力に侵された黄金の船。

 

「あれは、アーチャーと……バーサーカー……!」

 

 遥の視線の先では今も無限にすら思えるほどの宝具が黄金の波紋より出で、絶え間なくバーサーカーへと降り注いでいる。だがその宝具の雨はバーサーカーを掠めることもなく全てバーサーカーが握った簒奪宝具によって打ち落とされる。この状況にあって慢心を捨てきれないアーチャーの攻撃は怒れる獣の前にあって全くの無力であった。

 それも当然であろう。アーチャーは無限の財は有してはいても、他の英霊が有するような〝究極の一〟を持たない。恐らくは恃みにする宝具もあるのだろうが、それでもアーチャーには何も極めたものがないのだ。対してバーサーカーはひとつの乱世において無双を誇るにまで至った武人。その差は歴然というものであろう。

 だが遥はそう冷静に判断を下すと共にバーサーカーの異常にも気付いていた。いくらバーサーカーが狂化によって理性を失っているとはいえ、明らかにバーサーカーの攻撃が苛烈に過ぎる。身に秘めた全ての武錬を解き放ってアーチャーを追い詰めるその姿は獣と言うよりもむしろ、怨敵を目前にした復讐者のようですらあった。

 以前見た時よりも苛烈にアーチャーを攻め立てるバーサーカーの姿が記録映像で見たアルトリアと戦闘するオルレアンに召喚されたランスロットのそれと重なる。それだけで遥はバーサーカーがアーチャーをアルトリアと誤認させられていることを悟った。

 それは何も不可能な話ではない。他のサーヴァントのように理性と自己認識を確固たるものにしているならばともかく、バーサーカーは狂化によって理性を失っている。理性を失っている英霊の認識力と記憶を改竄するなど、令呪の魔力の前では赤子の手をひねるようなものだ。

 何にせよ、慢心を捨てきれないままではアーチャーは間違いなくバーサーカーに敗北する。だが遥にはアーチャーを助ける気もなければ、またその余裕もなかった。そもそも、遥は自分を殺すと言った相手を助けるほどお人好しでも酔狂でもない。遥は何の感慨もなくアーチャーの敗北を受け入れると、大海魔に注意を戻した。

 無数の触手を伸ばし、我が物顔で未遠川を占拠する大海魔。触手を斬り飛ばしながら水上を駆ける遥の視線の先で、セイバーが触手に絡め取られた。

 

「ぐっ……このっ……!」

「セイバー!」

 

 遥が叢雲の刀身に魔力を込めて振るい、黄金の魔力斬撃が飛翔する。それはセイバーの四肢を絡め取った触手に向けて一直線に、進路上に存在する全ての触手を寸断しながら駆けた。

 なおも大海魔は周囲をうろつく羽虫を拘束せんと触手を伸ばすも、それらは黄金の軌跡が閃く度に細切れに裁断されて肉片が宙を舞う。しかし触手の間を掻い潜って本体へと届いた斬撃は奥にいるキャスターまで届くことなく消えてしまう。

 大海魔は攻撃力という点においては少なくとも遥たちに劣る。いかな異界の生物とはいえ、その内に秘めた神秘の総量は神造兵装や英霊に及ぶものではない。故に真に脅威であるのはその図体が齎す防御力と恐ろしいほどの生命力であった。

 触手を斬り飛ばしても瞬時に再生し、脳天に向けて魔力斬撃を飛ばしても抉る間にも回復するため見た目よりも分厚い肉壁となってそれを阻む。それを貫くことができるとすれば、やはり真名解放クラスの火力しかあるまい。

 或いは遥の固有結界に隔離さえすれば消滅させることができるのかも知れないが、それには時間がかかるうえに大海魔が消滅する前に遥が潰されて終わるだろう。そもそも遥としては固有結界は虎の子として温存しておきたいものであった。固有結界を使うには早すぎる。

 

「あぁ、クソが。本当に面倒くせぇ……!」

 

 隠し切れない怒りの言葉を吐き出すと同時に叢雲を振るい、さらに触手を斬り飛ばす。そうしてそれに続けて再生しようとする触手に向けて煉獄の焔を放つと、その触手が激しく燃え始めた。やはり遥の焔の作用は通用するらしい。海魔が異界の邪神をその由来とするためであろう。

 まるでヘラクレスに首を焼かれて再生能力を失ったヒュドラのように遥の焔によって再生を阻まれている海魔の触手に飛び乗り、さらに跳躍する。その動きだけで大海魔は遥の意図を悟ったらしく、多くの触手を遥に向けて伸ばしてきた。

 迫る無数の触手。足元の触手もまた遥を振るい落とさんと激しくのたうち回るも、遥は巧みな身体捌きでバランスを取ることで触手のうえに身体を固定していた。続けて固有結界から引き出した焔を叢雲の刀身に纏わせ、迫ってきた触手の全てを切断する。

 そうして遥は切り落とした触手を飛び移って大海魔の中枢に接近しようとするがしかし、それを察知した海魔は自らその触手を根本から捻じ切ることでそれに対処した。さしもの遥とてそれには対応できず、空中に投げ出される。

 空中に投げ出されたがために自由の利かなくなった遥を捉えようと大海魔の触手が伸びる。だがそれが遥へと届く前に遥の目の前に白刃が閃き、背中が何かに叩きつけられた。同時に遥の耳朶を打つ野太い声。

 

「おう、危ないところであったなぁ」

「ライダー……! すまない、助かった」

 

 遥を助けたライダーはなおも諦めずに伸ばされる大海魔の触手をキュプリオトの剣で斬り払うと一時撤退とばかりに大海魔から距離を取った。取り敢えず身に迫り続けていた脅威が去ったことで遥の緊張が緩み、遥が大きな溜息を吐いて寝転がる。

 だが脱力はしていても完全に気を抜くことはなく、戦車(チャリオット)に寝転がりながらも遥は自分の状態を分析していた。計4騎のサーヴァントの戦闘のための魔力を賄いながら遥自身も戦っているが、魔力量にはまだかなりの余裕がある。そもそも遥の魔力はカルデアのバックアップがある限りは実質的に殆ど無尽蔵と言ってもいい。こういう時ばかりは遥は自分の血が有難かった。

 しかし魔力に問題はなくとも身体の問題はある。人の領分を越えた人外の力を行使していることで遥の人間の部分が悲鳴をあげている。元より遥に人間の部分などあまりないのだが、それでも無視できるものではない。その人間の領域までもを分霊に同調させていることで、遥は少しずつ混血ですらなくなっていく。有り体に言えば自分の血に〝浸食〟されているのだ。

 その浸食もある程度なら魔術で何とかなるが、度を越してしまえば遥の魔術でも止められない。遥の血に含まれる人外の要素はどんな魔術よりも巨大な神秘を有する。夜桜伝来の魔術で抑え込むことができているのさえ奇跡のようなものなのだ。つまりは、遥の戦闘継続可能時間は残り少ない。

 

「なぁ、ライダー。アンタの宝具で何か決定打になりそうな奴はあるか?」

「……ないな。余が真に恃みとする宝具も相性が悪い。せいぜい足止めが関の山といったところか」

 

 ライダーの言う真の恃みとは遥どころか彼のマスターであるウェイバーにすら未だ明かしていない宝具〝王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)〟のことである。ライダーの臣下たちを召喚してその総魔力を動員し、固有結界を展開するこの宝具は非常に強力だ。あくまでも対人と対軍相手では。

 どれだけ多くの軍勢を召喚しようと、ひとつひとつの戦力が余程強力でもない限りは大海魔を斃すことはできない。そもそもとしてライダーが招来した英霊たちはEランク相当の単独行動スキルと自前の魔力だけで行動しているのだから、どれだけ強力な宝具を持っていようと発動は不可能だ。

 ライダーが言う足止めというのも数分が限度だ。王の軍勢はライダーひとりの魔力で発動しているのではなく、彼の軍勢全員によって支えられている。つまりライダーは健在でも兵士たちが斃されてしまえば自動で解除される。それではどれだけ持ちこたえようと数分が限度というものである。

 セイバーによって触手を断ち切られ、アーチャーの投影宝具による壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)によって肉を抉られる大海魔の悲鳴が轟く。ほとんど同時、そんな中でも聞こえるほど派手な溜息を遥が吐いた。乱暴に頭を掻き、舌打ちをする。

 

「……仕方ねぇ。一か八か、賭けに出るか」

「ほう。賭けとな?」

 

 遥はライダーの言葉に頷くと、簡潔にその内容を伝えた。遥によって語られたその賭けにライダーは一瞬だけ驚愕の声を漏らすが、その表情は声とは裏腹にひどく英雄然とした勇猛なものであった。

 遥が提案した賭けはひどく単純で、それ故にこれ以上ないというほどに危険なものであった。賭けに勝つことができる確率はごく僅か。少しでも機を見誤れば無駄死にする可能性もある。むしろその方が確立が高い。

 大海魔から距離を取って旋回していた戦車がその進行方向を大海魔へと向けた。さらに戦車に寝転がっていた遥はその御車台の端に片足を掛け、叢雲を構える。続けて遥は全身の魔術回路を限界まで励起させると、生み出される魔力の全てを叢雲へと注ぎ込んだ。

 担い手の意思を受け、叢雲がその刀身を赫と輝かせる。大海魔はその輝きに何かただならぬものを感じたのか遥を戦車ごと叩き落とそうと触手を伸ばすが、それらはライダーのキュプリオトの剣や神牛の蹄によって蹴散らされる。

 眼下に見えるのは大海魔の脳天。一瞥するだけで怖気がするほど醜悪なそれを前に、遥が大きく息を吐いた。その時、遥がしようとしていることを察したのかエミヤが念話を飛ばしてくる。

 

『まさか……何をする気だ、マスター!!!』

『言わなくても分かってるだろ? ――大丈夫。賭け()()勝つさ』

 

 遥はそれだけ言うとエミヤの制止を振り切り、戦車の御車台から身を躍らせた。そのまま重力に従って大海魔に向けて落ちていく遥の身体。これ幸いとばかりに大海魔は脳天に巨大な顎を生み出し、さらには性懲りもなく触手を伸ばしてくる。

 遥は迫ってくるそれらの動きを完全に見切ると、魔術回路に流れる魔力を全身に刻まれている魔術刻印に通した。起動させたのは夜桜家伝来の封印魔術。それによって周囲の空間を固定化し、空中に展開した魔法陣を蹴って回避する。

 続けて閃く黄金の剣閃。遥に向けて伸ばされた触手は全て遥の身体を掠めることもなく半ばから断ち切られ、悪臭を放つ体液が空中にぶちまけられる。だが海魔の体液は遥に降り注ぐより先に遥が身体から放出する焔によって蒸発せしめられる。

 魔術によって体勢を調整しつつ、掌を叢雲の切っ先に据える。その眼が見据えるのは大海魔の脳天、その中心。さらに遥が放出する黄金に可視化されるほどの魔力が嵐の如き暴風を巻き起こし、その魔力は刀身に収束して巨大な刀の形を取った。そうして遥は半ば無意識のうちに口上を口にする。

 

「其は星の聖剣。人を救い、(せかい)を救う、救済の剣―――!!!」

 

 その口上に応えるように神剣が更に輝きを増し、光の大剣の密度が増す。魔術回路に限界以上の魔力が流れることで全身の至る所から悲鳴があがるが、遥はその激痛を無理矢理に意識から締め出した。痛みには慣れている。

 そのうえで遥はさらに叢雲に魔力を流していく。締め出してもその堰を乗り越えて漏れ出してくる激痛が遥の意識を白く染め上げる。さらには遥の遺伝子までもが叢雲に同調し、圧倒的な情報量の前に魂が軋みをあげた。

 流れ込んでくる記憶と経験によって罅割れる遥の記憶と自我。しかしそうして吹き飛んだ『夜桜遥』は彼の起源である『不朽』の効力によって形を取り戻し、元の場所に収まった。内部から圧迫してくるものに対処するべく、遥の魂が僅かに歪む。

 分霊との同調が一時的に限界を超えることで遥の自我から不要(ひつよう)なものが消え、代わりに必要(ふよう)なものが入り込んでくる。思考と感性が最適化され、知らなかった筈の知識が一瞬にして熟知した内容へと変わる。それは遥にとって〝人間からの逸脱〟に等しい。

 眼前の大海魔は自ら飛び込んでくる獲物を歓待せんとばかりにその口を広げた。しかしその獲物は金色の流星となり、大海魔を屠り得る牙を既に研ぎ終えていた。

 

 

「―――〝諸人が求めし救済の聖剣(アマノムラクモノツルギ)〟!!!」

 

 

 刺突と共に解放される黄金の極光。それは瞬く間に大海魔を一息で呑み込むほどの光の柱としてその場に顕現し、大海魔は断末魔の叫びすらあげる暇も与えられずにそれに呑み込まれた。

 当然、叢雲から放たれた極光の柱は大海魔の奥底にてその心臓の代わりを果たしていたシャドウ・キャスターにまで届く。彼が信じていた神が与える祝福の光にも似た輝きに、理性なき魔術師が呻き声をあげながら手を伸ばす。

 それがセイバーの有する星の聖剣より放たれたものであれば極光が彼の身体を消し炭にするまでにまだ幾ばくかの猶予があっただろう。だが実際に放たれたのは星の聖剣ではなく、星の意思(ガイア)の具現たる神の剣。その熱量は星の聖剣の比ではない。

 大海魔の頭を潰した極光はすぐにキャスターまでもを呑み込み、今度こそその意思と身体を完全に粉砕した。キャスターが視認した祝福の光は彼に救いどころか悟りも後悔も抱かせることを許さず、その身体の一切を灰すらも残さずに彼方へと葬り去った。

 巨大な質量とエネルギーをぶつけられたことで河面で巨大な波が発生し、それは津波の如き偉容を以て川岸に届く。それでも幸いというべきか一般人たちは遥の極光を見た時点で逃げ出しており、アイリたちはタマモが黒天洞で守っている。周囲に被害はない。

 

―――故に、最も被害が大きいのは遥自身だった。

 

「――ァ――グゥ――ァアァ――アァ――!」

 

 まるで首を絞めつけられた鵞鳥のような声を漏らして河面で遥がのたうち回る。最早痛みに対する慣れなどというものは意味を為していなかった。強烈な不快感が魂を犯し、世界に存在を否定されるかの如き苦痛が総身に居座る。

 確かに遥は賭けには勝った。だが遥に返ってくるものは掛け金に見合った報酬などではなく、『不朽』であるが故の苦痛だ。それを覚悟したうえで遥は賭けに出たのだが、だからといって返ってきたものに耐えきれることとは話が違う。

 遥の眼が真紅に明滅する。知らない筈の記憶が脳裏で確かな実感を以て展開される。それは決して自己の変革ではなく、他者からの浸食だ。何か()()()()()()()()()()()()がその在り様を無視して遥とさらなる同化を果たそうとしている。

 その様子を見て余人は言うだろう。何故それが分かっていたそうしたのか、と。何故する必要があったのか、と。だが遥にとってそれは最悪の愚問だ。遥にとってそれは自分がしなくてはならないことで、自分の代わりにできる者がいなかった。ただ、それだけ。

 

――知らない……! 知らない知らない知らない! こんなの、『俺』じゃない……!

 

 幾つもの山と河を跨いでもなお余りある巨体を有する邪竜との戦闘も、日本人らしからぬ銀髪の女との睦み合いも、最愛の姉と吐き気がするほど嫌いだった兄からの裏切りも、遥の記憶ではない。

 それなのに、勝手に脳裏で再生されるそれらは異様なほどの実感を伴って遥の自我を叩く。他人の記憶が魂を押し割り、勝手に流れ込んでくる。或いは遥はそれを受け入れた方が楽なのかも知れない。しかし遥にはそれを受け入れることができなかった。できる訳がなかった。

 何故ならその記憶は何であれその記憶の主の家族に関わることであったからに他ならない。そこに込められたものが憎悪であれ、怒りであれ、愛であれ。幼い時分に家族を失っているが故に知らないものを他人から受け渡されたもので知るなど断じて容認できるものではない。

 付近で主を失った黄金の船が落水し、巨大な波が遥を押し流す。その波によって運よく河川敷まで流された遥にエミヤやタマモたちが駆け寄ってくるが、遥には彼らに反応を返すだけの余裕がなかった。しかしタマモの顔が視界に入った瞬間だけ、遥の口から言葉が漏れる。

 

「やっ、たよ……」

 

 その言葉を最後に、遥の意識は闇に堕ちた。




 小林生存ルート。
 人間と巨大怪獣の戦い方が分からず、この話を書いているうちにZero編最終話の全部と次章第1話の前半が書きあがるという。次章予告を活動報告に投稿しますので、楽しみにしていただければ幸いです。


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第40話 Imitate the disaster.

 それは、夢だった。普通夢とはそれを見ている間はそうとは知れないものであろうが、どういう訳か遥にはそれが分かった。感覚としては所謂明晰夢というものに近い。意識も記憶もはっきりとしていて、けれど記憶があるのは叢雲の真名解放をした時点で止まっている。

 『不朽』である遥に忘却という現象はあり得ない。忘却とはすなわち記憶の欠損であり、遥の起源の前ではそれすらも劣化に含まれる。人よりも遥かに高位の存在の記憶を叩きつけられて遥が自己認識を喪失しないのはそれが理由でもある。遥の起源は決して彼に崩壊という安寧を許さない。

 そんな遥が思い出せないというのだから、それはまず記憶すらできていないほどの異常事態ということなのだろう。恐らくはこの世のものとは思えないほどの強烈な苦痛を感じていたのであろう時間に代わりに記憶されているのは断片的な誰かの記憶だった。

 元が元であるだけにまるで人間ひとりの生涯を圧縮して魂に焼き付けられたような感覚だった。今の遥にとっては大海魔との戦闘でさえ数十年前の出来事のようであるし、同時に数秒前の出来事であるような気もする。今ある自己は確かなものであるのに、時間の感覚だけがあやふやだった。

 だがそれでも遥の魂は朽ちることはない。それは遥が『不朽』であるからということ以前に、魂というものが物質界において唯一永劫不滅のものであるからだ。中でも遥のそれは特別製である。人間のものではない魂が混じっているうえ起源によって補強されているのだから、それも当然だ。

 

 ――鉄を()つ音が聞こえた。

 

 不意に夢の内容が変わる。まるで録画したテレビ番組を何倍にも加速した早回しで見ているように夢の内容は刻一刻と変わっていく。その速度では現実の知覚では遥ですら追いつけまい。だというのに、遥ははっきりとその内容を知覚することができていた。

 それは誰かの記憶だった。しかし視界に入ってくる人々はその全てが現代的な恰好をしており、遥の焼きつけられた記憶の再生ではないことはすぐに解った。視点は遥よりも数センチメートルほど高く、小さくにだが絶え間なく鉄を鍛つ音が響いている。

 考えるまでもなく、それは遥が契約を結んでいる『弓兵(アーチャー)』のサーヴァントであるエミヤの記憶であることに彼は気付いた。遥とそう違わない時代を生きたエミヤであれば、その記憶に出てくる人々が現代の服装をしていても何ら不思議なことはない。

 遥が見ている記憶はその全てが人助けの記録だった。中学入学以降の長期休みと高校を卒業してからカルデアに来るまでの一年間だけを海外で過ごした遥とは違い、エミヤはその生涯の大半を他人のために費やしたらしい。それが何故かまでは分からないが、その行動を遥は疑問には思わなかった。

 様々なことがエミヤとは違えど、遥もまたある程度人助けをしたことのある者だ。しかしその動機はエミヤのように純然たる利他主義であったのかと問われると、それは否と言わざるを得ない。遥の人助けはあくまでも成り行きと偽善である。対してエミヤのそれは理想を追い求めた果てにある善だった。

 多くの人を助けた。その裏で、多くの人を殺めようとする人を殺した。そうしてエミヤ――もとい■■■■は多くの人間を幸福にした。けれど彼自身は幸せなど掴むことはなく、それどころか幸せにした筈の人間に裏切られた。何度も裏切られ、何度も見放された男は最後に争いの首謀者の烙印を押されて果てた。

 だが男に死後の安らぎなどは訪れなかった。そんなものはとうに売り払っている。人間としては回避できなかった悲劇でも霊長の抑止力としてならば回避できると信じて。そうして、■■は英霊エミヤとなった。

 

 ――鉄を鍛つ音が強まる。

 

 守護者としてならば多くの人々を救うことができると信じていたエミヤはしかし、すぐにその理想にすら裏切られる羽目になる。霊長の抑止力、すなわち守護者というのは結局は名ばかりで、その本質はただの掃除屋だったのだ。

 多くの人々を救うために、いずれ幸福という席から零れ落ちる定めの少数には死んでもらう。エミヤが生前行っていたことを繰り返すどころかそれよりもなお非道な行為を拒否権すらもなく繰り返させられる。だが、それはまさしく『正義』だ。

 『正義』であれ、『悪』であれ、元を辿れば最終的には『暴力』に行きつく。正義と悪などというのは所詮は思想の違いであって、世相によって容易に移り変わるものだ。けれどその本質が暴力であることだけはいつの時代でも、どこの世界でも変わらない。

 それはどんなお為ごかしの理論で取り繕おうと変わらない事実だ。そんなことはたった19年ほどしか生きていない遥でさえ知っている。けれどエミヤはあまりに純粋に正義ばかりを追い求めたが故に守護者となるまでそれに気付かなかった。故に、最後に理想にさえ裏切られた。

 あらゆるものに利用され、裏切られ、最後の最後で唯一信じていた理想にも裏切られる。その時のエミヤの心中はどのようなものであったのか、遥には分からない。エミヤの人生はエミヤだけのものであり、理想もまたエミヤだけのものだ。理想に至るために積み上げたものがエミヤだけのものならば、それが崩れ去った時の感覚は彼にしか分からない。

 エミヤが理想に絶望し、後悔に囚われてもなおアラヤは彼を利用し続ける。使い潰されることさえ許されない最低最悪の時間。無限に続く責め苦。その中で、エミヤはとある戦場に()び出された。

 

 ――彼の者は、尚も鉄を鍛つ。

 

 それは恐らくエミヤが潜り抜けてきた無限の戦場のうちたったひとつでしかないのだろう。或いは似た世界は無限に存在するのかも知れないが、遥がそれを覗き見ることになったのはそれがエミヤにとって重大な意味を持つ出来事であったからなのだろう。

 その戦場はエミヤが生前経験したものであった。つまりその戦場には過去のエミヤ、未だ絶望を知らず愚直に理想を追い求めていた頃の彼がいたのだ。エミヤはそれを好機と考え過去の自分を殺すと決意した。そんなことは何の意味もないと分かっていながら。

 自分を召喚した主を裏切り、そうして寝返った相手も裏切って至った過去の自分との対峙。負ける道理などなかった。それはそうだろう。戦闘技能も魔術も、無限に戦場を潜ってきたエミヤの方が圧倒的に練度が高い。その時は魔力供給源がなかったために平時の1割程度の力しか出せなかったのだとしても、過去の彼を殺すには十分に過ぎた。

 それでも、エミヤは敗北した。それは過去の彼に敗北したというよりは、過去の彼を認めてしまったという方が正しい。その対峙を経てエミヤは悟ったのだ。エミヤの理想――正義の味方というのは決して間違ってはいなかったのだと。

 何の因果かその記憶を持ったまま召喚されたからこそ、エミヤは遥を見ても忠告する程度に留めているのだろう。でなけれは遥の過去の一端を聞いた時点で遥とエミヤの間には埋めがたい隔絶が生まれていた筈だ。ある意味、遥は生前のエミヤの道程をなぞっているとも言えるのだから。

 いつの間にかエミヤの記憶の再生は終わり、鉄を鍛つ音も止んでいた。それでもなお夢を見ているという意識の中で、遥は自嘲的に笑う。遥が見たエミヤの記憶。理想を追い求め、利用され、裏切られ、絶望し、けれどその果てに報われたその道程。普通の人間ならば同情や共感はしても憧れることはないその道行を、遥は――

 

 ――羨ましい、と思ってしまった。

 

「ん……」

 

 唐突に遥の意識は夢から醒め、現実へと引き戻された。初めに感じたのはまるで舗装もされていない山道を碌な整備もされていないままアクセルを全開にしたバギーで走り抜けているかのような激しい振動。けれど身体はともかく頭はその振動源に直接触れていないようだった。

 目覚めた直後はぼやけていた視界がピントを取り戻し、すぐに見えたのはタマモの顔。それとほとんど同時に戻ってきた触覚は丁度後頭部あたりで何か温かく柔らかい感触を捉えていた。すぐに何をされているか察した遥は反射的に身体を起こそうとして、身体に奔った痛みに顔を歪める。

 満足に身体を動かすこともできずにタマモになされるがままの現状に遥が顔をこれまでにないほど赤くする。あからさまな遥の反応に、タマモがまるで悪戯に成功した子供のような表情を浮かべた。

 

「えーと……姉さん? なんで、膝枕?」

「お嫌でしたか?」

「いや、別に嫌ってワケじゃないけど……」

 

 言いながら、遥は今度こそ身体を起こした。大海魔戦からどれほどの時間が経っているかは不明だが、未だに遥の身体には叢雲を真名解放した際の反動が残っているらしい。或いは変質していく身体に人間側が追いついていないのかも知れない。

 だがその痛みを無視して遥は周囲を見渡した。遥が先程まで寝かされていたのはライダーの戦車の御車台。遥とタマモ以外に御車台に乗っているのはアイリとウェイバー、そして桜。戦車を追随する装甲騎兵(モータード・アルマトューラ)に乗っているのは武装を解除したセイバーだった。

 車通りと光の絶えた公道を走っているところを見るに、大海魔戦からさして時間は経っていないらしい。エミヤがいないのは戦闘が終わった後に遥をタマモたちに任せてシャドウ・サーヴァントの殲滅に出たからなのだろう。ライダーが全速力を出していないのは遥の回復を考えてのことか。

 御車台の端に背中を預け、遥が大きく溜息を吐く。桜はおずおずと遥に近づくと、その顔を覗き込んだ。

 

「遥さん、大丈夫……?」

「大丈夫……とは言い難いけど、まぁ身体を動かすだけならなんとか。心配してくれてありがとう、桜」

 

 そう答えて遥は桜の頭を撫でた。すると一瞬だけ桜は身体を強張らせたものの、すぐに安心したように微笑んだ。まるで機械のようだった出会った頃を比べると大層な変化である。その変化は遥には嬉しいものである反面、現状への憂いを齎すものでもあった。

 恐らく一行が向かっているのは円蔵山、ひいてはそこに存在する大聖杯の下だろう。恐らくはそこに臓硯やバーサーカーもいる筈で、それはつまりこの特異点における最終決戦の幕開けを意味する。それを生き残ることができればこの世界が特異点化している原因は取り除かれ、遥たちはカルデアに戻ることになる。

 そして、遥がその結末に至るまでの間に桜をどうするか決めているだけの余裕はない。つまり遥は桜を危険に晒した状態のまま決戦に臨み、そうして桜を置いてこの特異点を去らなくてはならなくなる可能性がある、ということだ。

 そんなことを考えた自分にふざけるな、と遥は内心で叫んだ。桜を間桐の地獄から助け出したのはエミヤの願いであると同時に遥の我儘だ。それを貫き通したのなら、遥はその責任を果たす義務がある。それを投げ捨てて、あまつさえ桜を放り出して自分だけのうのうとカルデアに戻ることなど許されない。

 とはいえ、遥に最早考えが残っていないのかと問われればそれは否だ。遥個人の感情としてはあまり使いたくはない手段ではあったが、しかしこの状況における最善手でもある。そしてこのまま状況が進めば、遥はその手段を取らざるを得なくなるだろう。

 今のうちに考えておくべきことはそれだけではない。遥は思考を切り替えると、アイリに声を投げた。

 

「なぁ、アイリさん。ちょっといいか?」

「? ……どうしたの?」

 

 そう返すアイリの声はいつも通りのように聞こえる。けれど遥はエミヤから小聖杯の特性を聞いているが故に現在のアイリがどのような状況に置かれているのかを知っていた。現在脱落しているサーヴァントは4騎。それだけの数の英霊の魂にアイリは内部から圧迫されている。

 そのアイリが今でも人間としての機能を保っていることができるのは〝全て遠き理想郷(アヴァロン)〟が概念武装として埋め込まれているからなのだが、それでもその苦痛は完全に打ち消すことができるものでもあるまい。アイリは今も尋常ではない苦痛に襲われている筈だ。

 だが同情や共感は許されない。その苦痛はアイリだけのものであって、それに同情や共感が許されるほど遥はアイリのことを知っている訳ではない。思わず口を突いて出そうになった言葉を飲み下し、吐き出したのは別な言葉。

 

「今更だけど……アイリさんはさ、この聖杯戦争が終わったらどうするつもりなんだ? こうなっちまったら、アインツベルンに戻ろうにも多分戻れないだろ? ……まぁ、俺の所為なんだけど」

「そうねぇ……ごめんなさい、考えてなかったわ。でも、確かにそうよね……」

 

 遥としても同盟交渉から今までセイバー陣営とは特に目立った問題もなく円滑に同盟関係を維持できているため忘れがちであったが、アイリがしていることは彼女の生みの親であるアインツベルンへの裏切りに等しい。アインツベルンの当主であるユーブスタクハイトは聖杯を完成させれば世界が滅ぶことを承知のうえでアイリをこの冬木に赴かせたのだから、アイリが聖杯の廃棄を選択したことを知れば彼女を勘当することは目に見えている。

 仕方のないことだったとはいえ、それもまた遥の責任である。或いはセイバー陣営に協力を求めずとも解決する方があったのかも知れないのに遥はそれをしなかった。やむを得ない状況であったとはいえ、大聖杯の現状を明かしてアイリにアインツベルンを裏切らせたのは他でもない遥なのだから。

 だが、桜の問題とは違ってこちらの問題は比較的容易に片が付くものではあった。だが、それはアイリにとっては初めて自らの意思で人生を選ぶ決断になるだろう。果たしてそんな決断をアイリに迫るだけの権利が遥にあるのかどうか。それは分からない遥であったが、どちらにせよアイリに問わねばならないことであるのに変わりはない。

 

「アイリさんさえ良ければ、聖杯戦争が終わったらカルデアに来ないか? 俺たちの任務は聖杯の回収及び破壊……ならその対象には小聖杯であるアンタも含まれる筈だ」

「それは願ってもない提案だけれど……本当にそんなことができるの? それって、もう第二魔法の領域なんじゃ……」

「普通はな。それにカルデアでもその時代に住む人間やらホムンクルスを節操なく移動できる訳じゃない。けど、完成された小聖杯であるアンタならなんとかなる」

 

 そう言いながら卑怯な問いだと遥が内心で自嘲する。遥がアイリへと投げかけた問いは言葉だけを見ればアイリの行く末を案じているようにも見えるが、その実脅迫に近いものであった。死にたくなければカルデアに来い、という。

 アイリがこの世界に残ればアインツベルンに戻れないことは既に決定した未来だ。よしんばアイリがこの世界で生きていく手立てを得たとしても、今度は完成された小聖杯を狙って魔術協会の刺客に捕まり、封印指定をされて標本になるのが目に見えている。

 仮にアイリが遥の提案を蹴った場合、彼女に待っているのは詰みだ。或いはこの世界は特異点であるのだから大聖杯に巣食うこの世全ての悪(アンリマユ)を排除した時点で消滅するのかも知れないが、遥は何かこの特異点に奇妙な感覚を覚えていた。以前の冬木やオルレアンとは違う、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 突飛な仮説だった。平行世界間の移動など、それこそアイリが言ったように第二魔法の領域である。だがカルデアのシステムそのものに何かきな臭いものを感じている遥はそれを真っ向から否定し得るだけの材料がない。既成概念(ステレオタイプ)に囚われた魔術師であれば鼻で笑ってしまいそうなものだが、遥は妙にそれに現実感を覚えていた。

 変異特異点ならぬ変異した特殊な平行世界、またはそれに近い存在。この異様な特異点を遥はそう定義していた。脳内で展開される益体のない思考をそこで振り払い、遥はアイリの答えを待つ。初めは戸惑うだけだったアイリだがその聡明さ故にすぐに自らの状況を受け入れ、そうしてアイリは答えを出した。

 

「……どうせ寄る辺のない身だもの。こんな私でもいられる場所があって、誘いをかけてくれているのだから乗らなきゃ損よね。……えぇ。お言葉に甘えて、私は貴方に付いて行きましょう」

「そっか。――よかった」

 

 アイリの返答に遥が安心した表情を浮かべつつそう呟く。アイリに対して脅迫めいた問いを投げた遥ではあったが、それは裏を返せばアイリに生きていて欲しいが故のものでもあった。それは何も遥がアイリを好きだとか、そういうことでは断じてない。

 遥はただ単純に自身と同族とも言える存在であるアイリに生きることを諦めて欲しくなかったのだ。いかなホムンクルスであれ、アイリは紛れもなく生きている。それなりに生きたならばともかく、生まれたばかりで死を望む生命などいまい。そしてアイリはその生まれたばかりの生命に類する。それが望まない死を迎えようとしているのを見過ごせるほど、遥は薄情ではなかった。

 だがその思いが自己満足めいているのもまた事実だ。いくら人間に近い生命であるとはいえ、ホムンクルスの寿命は極端に短い。アイリの場合はこの聖杯戦争で聖杯として果てる予定であったのだから、身体の耐久年数もその程度に設定されている筈だ。遥の見立てではカルデアで保護したところで、アイリは1、2年生きられれば良い方だ。

 遥はそれを承知のうえでアイリに問うたのだ。たとえ自己満足であろうと、生きてくれるのならばそれでいいと。どれだけ責任を背負うことになろうと、それが自分の選択によるものであるのなら遥に文句はなかった。それは自分の意思が齎したものであるのだから。

 しかしその安心も束の間、その場にいる全員の魔術回路を巨大な魔力の波動が打った。正常に流れていた魔力が乱され、魔術回路が不快な蠕動をする。反射的に見たのは前方。変わらず冷静に前方を見据えるライダーをウェイバーが見上げる。

 

「ライダー、今の……」

「うむ。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)だな。……ホレ、坊主。アレを見てみよ」

 

 そう言ってライダーが指した方向を見ようとウェイバーが眼球に簡単な強化魔術を掛けようとする。だがその直前、その方向で視力を強化せずとも見えるほどの巨大な爆炎の華が咲いた。あまりに唐突なことにウェイバーは一瞬面食らうも、すぐに冷静さを取り戻して視力を強化する。

 果たして、その先にあったのは海であった。死した英霊の骸を劣化複製して作り上げたシャドウ・サーヴァントたちによって作り上げられた黒い海。大聖杯が安置されている円蔵山へと続く山道を守るようにして無数の骸たちが犇めいている。

 それを前にして戦っているのは4騎のサーヴァントたち。大聖杯によって量産化されたシャドウ・サーヴァントらはあまりに劣化しすぎているが故に通常のサーヴァントには遠く及ばない。遥と契約したサーヴァントたちは瞬く間に数えきれないほど多くのシャドウ・サーヴァントを屠ってのけている。

 だがシャドウ・サーヴァントが真に脅威であるのは戦力としての質ではなくその数だ。どれだけ沖田たちがシャドウ・サーヴァントを斃そうが、大聖杯に還った魔力はまた新たなシャドウ・サーヴァントを生み出すための糧になる。一進一退というより、暖簾に腕押しという言葉が正しかろう。

 どれだけ斃せど無限に湧き出してくる敵。それも雑魚であるのは英霊基準であって、人間と比して見ればそれぞれが大量殺戮さえ可能なほどの力を秘めた軍勢を前に、ウェイバーが薄い笑みを浮かべた。その様子を見てライダーが口を開く。

 

「怖いか、坊主?」

「あぁ、怖いね。でも、なんでかな……不思議と、脅威には見えない。オマエならなんとかできるんだろ、アレを」

 

 そのウェイバーの言葉を受け、ライダーが目を丸くする。けれどライダーは決してその言葉が不快ではなく、むしろ嬉しいものであった。今までどこか臆病風を吹かせていた己が盟友(とも)の、それは覇道の兆しであったのだから。

 であるならば、それに応えずして何が征服王か! ライダーはその顔に獰猛かつ勇猛な表情を浮かべると、その全身に膨大な魔力を巡らせた。唐突にライダーが持っていく魔力が増えたことに驚愕するウェイバーであるが、しかしすぐにライダーの意図を察して全力で回路を励起させ始める。

 ライダーの総身から迸る強烈な魔力は前方で戦う沖田たちにも届き、彼女らはそれだけでライダーが次に取る行動を悟りその場から飛び退いた。しかし死せども死せども復活するシャドウ・サーヴァントたちはそれに気付かない。今、前方にいるのは無数に転がる骸のみとなった。その状況の中で、征服王は高らかに叫ぶ。

 

「さぁ! 征服王たる余の進撃を阻まんとする不埒者に、今こそ目に物見せてくれようぞ!!! ――いざ()かん!! 〝遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)〟ッ!!!」

 

 ついに解き放たれた真名。それと同時に戦車を引く2頭の神牛が猛然と嘶きをあげ、迸る雷電が世界を染め上げた。その威力たるや、倉庫街にてバーサーカーを轢いた時の比ではない。その疾走で一国の軍隊すらも蹂躙して余りあるだけの尋常ではない威力であった。

 理性なきシャドウ・サーヴァントたちは身の程も知らずに彼らの全力を以て征服王の進撃を阻まんとするも、ただの残骸如きに九偉人のひとりたる大英雄の全力を受け止めることができる筈もない。ある者は真っ向から轢き潰され、またある者は雷電によって消滅せしめられる。

 戦車の車輪が駆け抜けた後には征服王の道行を阻んでいた筈の敵の姿はどこにもなく、ただ衝撃に耐えきれずに破壊されたアスファルトの残骸ばかりが積み上がっていた。戦車の進撃から逃れるべく離れていた沖田たちはこれを好機と捉え、瞬く間に骸によって埋め尽くされていくその道を駆け抜ける。

 まさしく征服という言葉を現象として具現化したとでも言うべき光景に、遥たちが驚嘆の溜息を洩らした。ライダーのその宝具は分類では対軍宝具に収まるものであるが、内包した威力は聖剣の一撃と比してもそう違いはない。『騎兵(ライダー)』のクラスに据えられる英霊のうちで最強クラスの宝具であることは疑い様もなかった。

 骸たちの海を抜けた後もライダーの進撃が留まることはなく、戦車はそのまま円蔵山の森を木々を薙ぎ倒しながら進んでいく。そこら一帯に張り巡らされていた対霊体の結界はあまりに強大な神秘の前に効力を発揮せず、ようやくライダーがその進撃を停止させたのは柳洞寺の本堂前であった。

 神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)が動きを停めると同時に遥とアイリ、タマモが御車台から降りる。その直後、神威の車輪に追随していた沖田たちが姿を見せた。ほとんど同時、遥が強い衝撃を受ける。それはまるで抱き着くかのように沖田が遥に飛びついたことによるものであった。

 

「ハルさん、お怪我はありませんか!? 天叢雲剣の光が見えたから、私、気が気でなくて……」

「それは……ごめんな。心配かけちまった」

 

 遥が叢雲の真名解放を行った際の反動を初めて見たエミヤやタマモ、そしてどんな反動があるのかを知らないオルタとは違い、唯一沖田だけは以前に遥が叢雲を真名解放した場面を見たことがあった。故に沖田は叢雲の真名解放の反動を知っている。

 遥はそのことが分かっているために沖田に対しては取り繕うことをせず、申し訳ないという顔で謝辞を述べる。それに対し沖田はなおも何か言い募ろうとしたが、しかし何度か口を開きかけて結局は何も言う事はなかった。代わりに抗議の思いを込めるように、遥に回した腕に力を込める。

 無論、沖田には遥に言いたいことがあった。けれどそれを言ったところで遥が変わらないことも、最も付き合いが長いサーヴァントであるが故に沖田はよく理解していた。事実、遥は沖田の言いたいことを察していながらあえて気付いていない素振りをしている。それでも頭を撫でられているだけで不満が萎んでいってしまうのは、沖田さえも与り知らぬ感情によるものか。

 それからどれほどそうしていたのか。誰も何も言わない状況の中で、ライダーが遥に声を投げた。

 

「そろそろあの骸共が昇ってくる頃合いか。……剣士よ、骸共の相手は余と坊主がする。貴様らは先に行け」

 

 円蔵山の周囲に配置されたシャドウ・サーヴァントたちは彼らを生み出している大聖杯、ひいてはその内側に巣食うこの世全ての悪を守護する目的で配置されたものである。その故、彼らは包囲網を突破して大空洞へと迫る遥たちを追いかけていた。

 それを放置して全員で大聖杯へと向かったのでは、恐らく大空洞内で待ち構えている臓硯やバーサーカー、そして『この世全ての悪(アンリマユ)』との戦闘の際に無限に湧き出してくるシャドウ・サーヴァントたちからの挟撃に遭うことになる。そうなってしまっては戦闘に支障をきたす。或いは敗北するかも知れない。

 そのため、誰かがこの場に残ってシャドウ・サーヴァントたちの足止めをするのは必須事項であった。そして、その役目を負うのに最適なのがライダー陣営であることは疑い様もない。遥は来る戦闘における戦力のひとつであり、アイリは小聖杯であるために共に大聖杯の下まで行く必要があるのだから。

 初めはライダーの提案に答えることに躊躇いを見せた遥であるが、すぐにその事実を受け入れると何も言わずに頷いた。そうしてウェイバーとも目を見合わせて頷き合うと、その場にいる全員を見回し、ライダーとウェイバーを置いて大空洞に向けて駆けていく。

 ライダーとウェイバーは前方を見据えたまま何も言わない。聞こえてくるのは無数の骸たちが境内に続く狭い階段を登ってくる音。それはまるで一筋の蜘蛛の糸に群がる亡者のように、迷いなく彼らの許に迫ってきていた。

 

「さて、坊主。こうして余たちが殿を務めることとなった訳だが……まだついて来れるな?」

「何当たり前のこと言ってるんだよ、オマエ。オマエは暴れたいだけ暴れればいい。ボクはそれを全力でバックアップする」

 

 ウェイバーがそう言うと同時、彼の手に刻まれていた3角の令呪が全て弾けた。そうして解放された魔力は命令を伴わない純粋な魔力――否、ウェイバーがライダーに向ける最大限の信任を伴った魔力としてライダーへと流れ込む。

 1角だけでもサーヴァントを最大限に強化して余りある魔力が3角一斉に解き放たれたことでそれまでとは比較にならないほどライダーの総身に魔力が充溢する。加えてそれは無属性ではなくウェイバーの思いが乗せられた魔力だ。それに応えようとするライダーの身体は魔力量では測れないほどに強化されている。

 骸の軍勢が階段から現れ、初めに視界に入ったライダーを斃すべく展開する。戦力比は一対数万にすら及ぶだろう。だがそれを前にしてもなお、ライダーの顔から余裕の笑みが消えることはない。何故なら、ライダーは()()()()()()()()()()()

 唐突に吹き始めた乾いた暴風はライダーに充溢した魔力によるものではない。その風はどこからか飛んできた砂を伴いライダーを守るようにして吹きすさび、ライダーはその中で獰猛な笑みを浮かべる。

 

「遠征は終わらん。我が胸に彼方への野心ある限り。

 彼方にこそ栄えあり(ト・フィロティモ)。―――見よ、我が無双の軍勢をッ!!!」

 

 そして、世界が塗り替わった。

 

 

 

 遥が汚染された大聖杯を見るのは、これが2度目のことであった。1度目は特異点Fにてバーサーカーを下し、今は亡きオルガマリーの悲鳴を聞きつけて駆け付けた時。だが遥たちの眼前に聳え立つ大聖杯はその時とは比較にならないほどに悍ましい魔力を放っていた。

 或いは特異点Fに存在した大聖杯もまたこの世全ての悪によって汚染されたものであったのかも知れないが、今回のそれは前回のそれとは比較にならないほどに肥大化しているようにも見える。遥としてはできればすぐにでも破壊してしまいたいところであった。

 だが、それはできない。世界が滅びるか否かという瀬戸際にありながら、遥たちの前にはそれを歓迎するかの如く彼らを阻まんとする者たちがいる。ひとりは脆弱なマスターである雁夜から解放されて心なしか生き生きとしているようにも見えるバーサーカー。しかし、真に遥が注意を向けているのは狂戦士ではなかった。

 バーサーカーを侍らせるようにして立つ矮躯の老人。一見するとその老人は少々不健康なだけのただの老人のようにも見えるが、事実はそうではない。その老人はまず人ではなく、その身体は他人から奪った血肉と穢れた蟲でできている。他者の辛苦を悦とし、それを糧として500年もの時を生きた本物の妖怪。それが間桐臓硯(マキリ・ゾォルケン)の正体だ。

 遥からしてみれば初対面の相手ではあったが、それ以上に遥は臓硯を斃さなければならない怨敵と認識していた。大聖杯の完成を目論んでいることだけではない。遥はそれよりも桜をあのような地獄に放り込んだことが許せなかった。それはエミヤも同じようで、彼らしからぬ激情が籠った眼で臓硯を睨み付けている。

 一般人であれば恐怖で竦みあがるほどの殺意と敵意を向けられていながら、臓硯はその顔に邪悪な笑みを浮かべている。それを前に遥が更に怒りを募らせるが、臓硯はそれさえも可笑しいと言わんばかりの声音で遥を嘲笑した。

 

「呵々々々々ッ。ワシを殺したくて仕方がないといった様子じゃのう、神剣使い。ワシの調教が余程気に食わなかったと見える。ならば殺せば良い。尤も、やれるものならだがのぅ」

 

 そう言って臓硯はさらに遥を嘲笑する。己の天敵とも言える魔術を扱う遥を前にして一見すると余裕を残しているようにも見える臓硯であるが、遥はその言葉の節々に隠し切れない怒りが籠められているのを感じ取った。さもありなん。臓硯の身体は現在進行形で崩壊しつつあった。

 自らが支配する蟲たちを利用して人ならざる延命を繰り返してきた臓硯であるが、そんな魔術に限界が来ない筈はない。延命を繰り返す度に作り替えた身体の寿命は短くなっていく。現在はその速度が急激に速くなりつつあるものの、それでも最近作り替えた身体は半年は保つ筈だったのだ。

 だというのに臓硯の身体は今もなお崩壊を続けている。それの原因となったのは桜を救出した際に遥が放った焔にあった。遥は与り知らぬことだが、蟲蔵に蔓延っていた蟲たちを焼き殺した煉獄の焔は彼らから臓硯に繋がった経路(パス)を逆流して臓硯の霊体にまで届いていたのだ。その焔は霊体に届いた時には焔としての実体を失って浄化の力だけを残す魔力にまで減衰していたため完全に殺しきるにまでは至らなかったが、その寿命を削るには十分過ぎる威力があった。

 最早臓硯の身体の寿命は数時間もない。こうしている間にもその身体を構成している肉は凄まじい速度で壊れつつある。臓硯がまるで幼子に語り聞かせるようにそう言った時、遥は不意に違和感を感じた。臓硯の言が真実であるとすれば、桜の救出から1日が経過した今では臓硯は消滅していなければおかしい。だというのに今、臓硯の身体が完全に壊れるまでにはまだ僅かな余裕があるように見えた。

 

「侮るでないぞ、神剣使い。いくら身体が壊れようと、ワシの贄となる人間ならばこの世界にごまんとおるわ」

「それにしては随分と辛そうじゃねぇか、蟲爺。なんなら俺が燃やしてやろうか。苦痛も感じる余裕もないほど一瞬で、この世から消し去ってやる……!」

 

 これ以上ないほどの憎悪と憤怒が滲む声でそう言い、遥が全身に焔を対流させる。それは遥の激情を顕すかのようにその身体から溢れ出し、灼熱を辺りに撒き散らす。いつもの遥では考えられないような発言に、隣に立っていた沖田が僅かに目を見開いた。

 だがそれは転じて、どれだけ遥が臓硯を嫌っているかを表すものでもある。口調こそ激しくなってはいるものの、遥は極めて冷静だった。冷静でありながらその感情は激情に染め上げられ、焔は激しく燃え盛っている。

 魔術世界における正道を歩んでいるのは遥ではなく臓硯である。この世界に生きる大半の魔術師であれば遥の憎悪よりも臓硯の妄執に共感を示すであろう。だが遥に正道などを説いたところで何も意味はない。遥はそういうものが心底嫌いだった。故に正道にいる臓硯は相容れない。

 加えて他人の辛苦を悦とする外道ときている。そこまでくれば最早遥の取る選択肢に対話の二文字は消え去ってしまう。遥が総身から滾らせる魔力と焔は何よりも確かに臓硯に宣戦の意思を告げている。そして、臓硯は確実に遥には勝てない。現在の身体の状況云々以前に穢れた蟲を使役する臓硯では遥とは相性が悪すぎる。それなのに臓硯は未だ笑みを崩さない。

 

「おお、怖い怖い。ワシも長い時を生きてきたが、よもやこれだけ容易にワシを殺し得るバケモノが現れるとは予想しておらなんだわ。うぬにとってはワシなど文字通り羽虫も同然なのであろうなぁ。

 だがまだ青いな。激情に囚われて既に我が術中に嵌っていることに気付かぬとは」

「何……――!?」

 

 嘲るような臓硯の言葉の直後、大空洞の中に満たされていた濃密な魔力が一瞬だけ膨れ上がる。それは何も周囲に満ちる大源(マナ)が一瞬だけ増加したなどではなく、臓硯が既に準備を済ませていた魔術を行使しただけのことであった。バーサーカーを未だ生き永らえさせていたのも、それを発動している最中に攻撃されないようにするためである。

 だが、それは彼が得意とする支配魔術によるものではない。大規模な儀式魔術にすら匹敵するほどの規模の術式を以て臓硯が行ったのは大聖杯への干渉であった。遥がそれに気付いた時には時すでに遅し。急激な脱力感を感じ、アイリが地面に崩れ落ちる。

 魔術による大聖杯への干渉。並みの魔術師には到底真似できない芸当であろうが、しかし大聖杯の建造に携わったためにその構造を子細に把握している臓硯にとってそれは赤子の手をひねるように容易いことであった。アイリから奪い取った4騎の英霊の魂が大聖杯にくべられ、中央より放たれる悍ましい輝きが増す。

 そこまでくれば次に臓硯が何をしようとするのかなどは考えるまでもなく解るというものであろう。遥は舌打ちを漏らすと叢雲を抜刀し、バーサーカーからの攻撃の危険性すらも顧みずに地を蹴った。その速度はまさに神速。けれど、遅い。既に臓硯の右手に刻まれた赤い聖痕は解放される寸前であった。

 

「最後の令呪を以て命ず。自害せよ、バーサーカー」

 

 直後、大空洞に響き渡る肉を断つ音。それはひとつだけではなく、全く同時にふたつの箇所から響き渡った。ひとつは遥の握った神剣が臓硯の肉を断った音であり、そして、もうひとつは強制的に顕現したバーサーカーの長剣が彼自身の胸を貫いた音であった。自らの霊核を破壊したことでバーサーカーの全身から力が抜け、仰向けに倒れる。

 そうして地面に倒れた拍子に外れた兜から覗いた端整な顔。それが嘗て己に仕えた忠臣であり盟友でもあった騎士のものであると気付いたセイバーが駆け寄ってその名を呼びかけるも、霊核を喪ったバーサーカーは既に五感の全てが喪失していた。呼び続けるセイバーの声もむなしく、現界を維持することができなくなったバーサーカーの身体が魔力光となって霧散する。

 消滅したバーサーカーの魂は小聖杯であるアイリを経由することなく、臓硯の行使した術式に従って直接大聖杯にくべられる。これで、敗退したサーヴァントは5騎となった。そしてそれは、大聖杯の起動が可能なだけの英霊の魂が揃ったということでもある。

 遥自身、最初からそれを望んでいた身ではある。元より遥たちが立てていた方針はあえて大聖杯を起動させることで中から這い出てきたこの世全ての悪を斃すというものであったのだから。だが考え得る限りにおいて、これは最悪の状況でもあった。それに対応すべく高速で思考を巡らせる遥の前で、残った蟲たちが蟠る。

 

「呵々々々々々々々ッ!!! 迂闊だったのう、神剣使い! この勝負、どうやらワシの勝ちであったようだなァ。

 最早この身体では我が宿願(不老不死)は叶わぬ。ワシはじきに死ぬ。だが、ただでは死なぬ。我が願いが叶わぬというのなら、この世界などあっても意味はない。ならば、この世界―――」

 

 

 ―――ワシと道連れにしてくれようぞ!!!

 

 

 臓硯がそう高らかに叫んだ直後、彼の本体を内包していた蟲の塊を煉獄の焔が焼き尽くした。それによって本体の蟲に格納されていた臓硯の霊体は完膚なきまでに焼却せしめられ、臓硯の意識はこの世から消失する。

 しかしそれは完全に遅きに失した。臓硯の叫びは既に大聖杯へと届き、歪んだ願望器たる大聖杯はそれを願望として受理した。そうして大聖杯――もといこの世全ての悪は量子コンピュータもかくやといった速度でその願いを叶えるべく演算を開始する。

 臓硯が聖杯に告げた願いは〝世界、ひいては人類の滅亡〟。それは最早願いを曲解する余地すらもなくこの世全ての悪にそれ自身が望んだ容を与えるものであった。そうしてこの世全ての悪は無数の演算の結果、臓硯の願いを叶えるのに最も適した容を見つけ出す。

 或いはその結果は必然であったのかも知れない。元より大聖杯とは魔術という人類の文明から生まれ出でたものであり、この世全ての悪もまた人類から生み出されたもの。特に後者は誰かを犠牲にすることで人類が()()()()()()()()()()()()()()()ものだ。

 であれば、至る結果などは決まっている。人類より生まれ、その果てに人類を殺すもの。つまりは人類が作り出した自業自得の自滅機構(アポトーシス)()()()()

 その結果がこの世に顕現すると同時、大聖杯より膨大な魔力が溢れ出る。比類ないほど醜悪な気配を内包した魔力が大空洞を満たし、遥の身体を撫でた途端、遥は総身に奔った激痛に苦悶の呻きをあげた。

 

「ガ――アァ――グ――何、故――グァ――ァア―――ッ!!!」

「ハルさん!?」

 

 あまりに激烈な不快感に遥が呻き声を漏らす。それは記憶の流入こそないものの、未遠川にて叢雲の真名解放をした際とほとんど同質の痛みであった。全身の神経という神経が痛みを訴え、血が沸騰しているかのように全身が熱い。

 ほとんど倒れ込むようにして遥は地面に座り込み、魔術によって異常に猛った血を抑え込もうとするも、無理矢理に同調が強まった影響か魔術回路が正常に動作しない。激痛のあまり感覚を認識するのが遅れ、視界にノイズがはしる。けれどそんな中でも、不思議と『それ』だけははっきりと見えた。

 大空洞に鎮座する大聖杯。誰もいなかった筈のそこに、いつの間にか何者かが立っていた。纏うドレスは一見すると豪奢でありながら、禍々しいまでの黒一色に染め上げられている。血の気が失せた肌のうえでは黒い刺繍のようなものがのたうちまわり、王冠の中央には黒い太陽が鎮座している。

 何よりも目を惹くのは流麗な銀髪から覗く()()()()だ。それだけが元となった身体の構造を無視して生えている。全身から放射する魔力は並みどころかトップ・サーヴァントのそれすらも遥かに凌駕している。それは尋常なサーヴァントのようでありながら、何かが違うようであった。

 それの名前は黒聖杯、もとい〝ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン〟。だが一同の中にあって遥だけが、それの正体、というよりもそれに限りなく近いものを知っていた。

 それは模倣であるが故に完全ではなく、力もオリジナルのそれには遠く及ばない。けれどこの世全ての悪の依り代となって変性したそれはそれでも、人類を呪い殺すには十分過ぎる力を有していた。それを前にして遥は呆然と、知らない筈のその名を呟く。

 

「――ビースト……?」

 

 

――必要悪、変生(IMITATION BEAST)

 

――偽りの人類悪、顕現(ADVENT BEAST)




 遥君、なんと魔神柱に遭遇するより先にビースト(偽物)に会敵。なお、偽物でもこの世全ての悪を元にしているため必要以上強い模様。
 なお、形はどうあれ人類の悪意の塊であるこの世全ての悪が元になっているので……?


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第41話 不朽の業火

 ビースト。またの名を人類悪と呼ばれるそれは、いわば人類という総体のの中に生じるガン細胞のようなものである。人類が人類である限り持ち続ける悪性そのものであり、肥大化して宿主である人類を殺し尽くす。その力は人間はおろかサーヴァントですら太刀打ちできないほどであり、まさしく滅びを体現するものという表現が適切であろう。

 遥たちの目前に現れたものはその定義からは少々外れている。それはそうだろう。ビーストの本質が狂うほどに膨れ上がった人類愛であるのに対し、『この世全ての悪(アンリマユ)』はどこまでも純粋な悪意の塊。それが聖杯の力を以て人類悪の形を真似ているに過ぎない。故にそれは人類悪が持っている筈の罪や理を持たず、その力もオリジナルと比べれば数十分の一、或いはそれすら下回るかも知れない。

 しかし、それでも目前に立つものは遥たちよりも強い。それを遥たちは理性や観察眼ではなく本能で悟った。いくら偽物、借物の獣性とはいえ、そこにいるのは全人類の悪性を寄せ集めた性悪説の具現のようなもの。それがどれだけ強大な存在であるのかは推して知るべし、といったところであろう。

 英霊5騎分の魔力によって目覚めた偽りの人類悪――ユスティーツァが全身から放つ魔力は比類なき禍々しさと醜悪さを含んで大聖杯を満たしている。その総量は尋常なホムンクルスやサーヴァントのそれを遥かに凌駕し、溢れだすそれはこの世全ての悪の性質故に周囲を黒い影となって浸食していく。

 完成され過ぎているために見ている者に違和感を抱くことさえも許さないほどの美貌に浮かぶ邪悪な笑みは最早優美を越えて淫靡ですらあった。大聖杯の内より出でたユスティーツァが歩を進める度に足元の闇が広がり、血が沸騰し逆流するかのような遥の苦痛はその度合いを増していく。

 異様な感覚だった。普段は封印している筈の肉体と同化している分霊との間に結ばれた経路(パス)が勝手に解放され、それを通じて自分のものではない情報が入り込んでくる。それらは遥の魂に直接焼きつけられ、断末魔をあげる意識は何度も途切れようとするも、スイッチは切れない。想像を絶する辛苦に喘ぐ遥の前でユスティーツァが地に降りる。

 アインツベルン製のホムンクルスに共通している筈の紅い瞳は反転の影響によるものか鈍い金色に変わっている。その瞳が遥たちを射抜き、本能的な悪寒が遥の背を撫でる。その直後、遥の左腕に装着された通信装置の電源が勝手に入った。

 

『なんだ、この異常な魔力増幅……! 遥君、そっちで一体何――』

「――喧しい」

 

 カルデアから繋がった強制通信によって聞こえてきたのは明らかな驚愕と狼狽を含んだロマニの声。報告している間もなかったため数日聞いていなかった声に遥が安堵したのも束の間、ユスティーツァの言葉と共に通信が切れる。

 先程まで大聖杯が放射する魔力とマナによって満たされていた筈の大空洞は今、その全ての領域がユスティーツァの魔力に染め上げられていた。その魔力の密度は最早英霊5騎の魂によって齎されたそれを遥かに凌駕していた。

 遥は大聖杯の術式については全く知識がないが、それでも人理を修復せんとするカルデアのマスターであるため聖杯についてはそれなりに知識がある。そのために遥はユスティーツァが貯蔵している魔力を大きく上回る魔力を内包している絡繰りに気付いた。

 ユスティーツァの異常な魔力量はビーストの容を借りているが故の膨大な魔力生産量に加えて、直結した大聖杯を純粋な魔力炉として使用しているのが原因だ。大聖杯は特異点の原因となっている聖杯に比べて願望器としての能力に特化しているが、魔力炉心としての能力が劣っている訳ではない。

 恐らく、今この世界にユスティーツァを純粋な魔力量で越えるものなどあるまい。だが、魔力量だけが勝敗を決める絶対条件ではない。現時点でもユスティーツァは遥たちを越える力を有しているが、それでも今の彼女は人間にすれば『赤子』のような状態。いわば純粋悪の幼生だ。その状態ならばまだ勝機はある。

 そう自らに言い聞かせて叢雲を構える遥の前で、まるでそれを嘲笑うかのようにユスティーツァがさらに笑みを深くする。その仕草だけで遥の()()()()()()が悲鳴をあげる。けれど、その叫びは()()()()()()によって打ち消される。遥にとってある意味、人間部分などは混血のオマケのようなもの。封殺するのは容易い。

 

「聞き知った声に叩き起こされた故、こうして出てきたが……私を呼び出しておいてこの程度の供物しか用意しておらぬとは。饗応の支度すらせぬままに呼び起こされるなど、私も舐められたものよなぁ。

 まぁよいわ。未だ我が器は満たされぬが……それは貴様らを供物として満たすことにしよう……!」

「――ッ!?」

 

 邪悪な笑みがさらに深まると同時、遥たちの背を強烈な悪寒が撫でた。反射的に遥は桜を、セイバーはアイリを抱えながらその場から跳躍する。果たして次の瞬間、彼らが経っていた場所を黒い影の触手が掠めた。

 先程までユスティーツァの足元だけに留まっていた筈の黒い影は既に大空洞の大半を占拠するにまで至っていた。『この世全ての悪』の一部であるその影に触れれば純正のサーヴァントは一瞬にして呑み込まれる。幸い、遥が契約しているサーヴァントは全員反英雄かそれに近しい属性を持っているため影に触れても抵抗する時間はあるが、それでも最終的に呑まれるという結果は変わらない。

 加えてユスティーツァの足元から湧き出す泥である。ある種『この世全ての悪』そのものとも言えるそれは影のように触れただけでサーヴァントを取り込むような力はないが、触れた対象を『この世全ての悪』で汚染するという性質がある。それは所謂〝黒化〟という現象だが、遥の知っているそれとは僅かに異なる。今や人類悪の模倣と化したそれに触れれば自由意志を剥奪され、ただの人形に成り下がってしまう。

 本来は知らない筈の知識がどこからか湧いて出てくることに、遥は何の疑問も抱かなかった。最早そんなことは遥にとってどうでも良いことだ。目先に迫った滅亡の危機に比べれば、そんなことは些末な問題でしかない。十分にユスティーツァから距離を取って桜を降ろすと、遥はアイリに桜を預けた。

 

「桜はアイリさんと一緒にどっかに隠れてろ。アイツの相手は俺たちでする。……ごめんな、最後の最後まで怖がらせて」

「遥さん……!」

 

 走り去る遥を引き留めるように桜が手を伸ばすも、もう遥は振り返ることはない。アイリは桜のその様子に胸の奥に何かがつっかえるような感覚がするも、それを押し殺して大空洞から洞窟へと駆けた。

 この場に残ったのは遥と彼が契約するサーヴァント5騎、さらにセイバーの計6騎と1人。数だけを見れば聖杯戦争に参加するサーヴァントの大半が集っているのと同じだが、それでもユスティーツァに勝つことができるかは怪しい。

 理も罪業もない偽物の人類悪であるが、ユスティーツァは強大だ。だが本物の人類悪ではないがために『冠位(グランド)』の名を冠したサーヴァントたちが顕現するには至らない。世界の滅亡を回避するには、遥たちだけで何とかするしかない。

 人外の血は未だ騒ぎ続けているが、もう苦痛はない。血を封印している状態の限界値を越えた魔力が魔術回路に流れていても回路は一切損傷することはなく、身体機能も通常時のそれを大きく上回る。総合ステータスは上位のサーヴァントにも劣るまい。

 

「セイバー。俺と仮契約を。微々たる差だろうが、魔力供給源は近くにいた方がいい」

 

 遥の提案にセイバーは逡巡することなく頷きを返すと、差し出された手に自らの手を打ち合わせた。その一瞬のうちに遥とセイバーの間に魔力のパスが通り、遥から持ち出される魔力量が若干増える。遥と仮契約は結んでも、セイバーのマスターはアイリだ。遥の魔力は謂わば補助動力のようなものでしかない。

 とはいえ、遥は既に6騎のサーヴァントと契約を結んでいるということになる。カルデアからのバックアップを含めても並みの魔術師であればそれぞれに宝具を使わせれば魔力が枯渇するほどの数だが、遥の魔力はそれでも半分以上が残る。異常な魔力量だが、今はそれが有難かった。

 それぞれの獲物を構え、サーヴァントたちと遥が意識を戦闘態勢に移行する。更に遥の中で固有結界が活性化し、その全身から焔が吹きあがった。普通の人間であれば失神してしまうほどの敵意と殺意を向けられてもなお、ユスティーツァは平然としていた。なおもユスティーツァの足元から広がり続ける泥と影。不意にそれが蠢く。

 

「出でよ、我が傀儡。奴らを喰らえ」

 

 その言葉と同時に足元に広がる影と泥から無数の何か黒い人型のものが現れた。それは言うなれば影の巨人。大聖杯に満たされる魔力から作り出されたそれらは容だけ人類悪であるユスティーツァが従える眷属のようなものであった。

 遥たちは知らないことだが、人類悪として成立しているものは皆様々な形で傀儡を従えている。ユスティーツァの場合はそれが『この世全ての悪』から生み出される影の巨人たちなのである。ただの眷属と侮ること勿れ。意思はなくともそれらはひとつひとつが1騎のサーヴァントにすら匹敵する力を持っている。

 生み出された影の巨人は主であるユスティーツァの命じるままに遥たちをその内に呑み込むために迫ってくる。その直後、折り重なるようにして迫る影の巨人の一番槍の腹で巨大ば爆発が起きる。それはエミヤが叩き込んだ宝具による壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)の爆発であった。

 しかし影の巨人はそれをものともしない。例え至近距離で爆発を受けようとも『この世全ての悪』からの魔力供給がある限り再生する。無論、霊核を破壊すれば消滅するが。目の前で再生する影の巨人を見て、エミヤが舌打ちを漏らす。

 

「これはまた、厄介な相手が出てきたものだな……」

「無駄口はいい。やるぞ」

 

 そう言いながらアサシンがキャレコの引き金を引き、銃口にマズルフラッシュが瞬く。英霊の武装と化したことで元となった火器とは比べるまでもない威力を得ているアサシンのキャレコだが、その弾丸は影の巨人を穿つことはない。元より牽制として放った攻撃のため慌てることはないが、それでも自らの主兵装が通じないという現実にアサシンが舌打ちを漏らす。

 だがアサシンの牽制は全くの無意味ではなかった。雨のように打ち付ける銃弾を受け止めるべく影の巨人たちが動きを停めている隙に遥たちはそれまでの密集形態から散開した。影の巨人はあまりに数が多い。一か所に密集していたのではいかな遥たちとて袋叩きだ。英霊クラスの力を持ったものに袋叩きにされてはいかな遥たちとて対応できる筈がない。

 それでいながら遥たちの距離は互いの危機を察知すればすぐにでも対応できるような絶妙な距離に保たれていた。言葉もなしにそれだけのことをやってのけるのは、彼らが歴戦の猛者である証だろう。或いはそれは戦士の本能のようなものであったのかも知れない。背中を預けたいか否かではなく、背中を預けなければならないという直感がそうさせた。

 さらに遥は腰のベルトから鞘を外すと、鐺に付けられている覆いを外した。そうして現れたのは鞘の本体と同じく神代日本にのみ存在した伝説の金属〝緋々色金(ヒヒイロカネ)〟製の刃。本来は失われた筈の神代の神秘を色濃く残すその刃を、遥は自らの鳩尾に突き刺した。当然のように鮮血が舞い、自暴自棄めいたその行動を前に影の巨人とユスティーツァが嗤う。だが、次の瞬間に起きた現象によってその表情が硬直した。

 遥から噴き出した鮮血は物理法則を無視した挙動で鞘の一部である邪龍の革に引き寄せられ、吸収される。それによって鞘に秘められた宝具としての機能が起動し、遥を中心にして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が渦巻く。それは遥の魔術回路に入り込むと同時、まるでそれを蹂躙するかのように暴れ狂う。しかし遥はそれを凄まじい魔力制御を以て操り、宝具起動の向上を叫ぶ。

 

「第一拘束解除……! 其は総てを喰らう邪龍。我が身を喰らえ――!!

 ――八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)ッ!!!」

 

 真名解放。鞘の能力によって招来された邪龍の魂が遥の肉体に入り込み、その存在に合わせて呪術によって遥の肉体が書き換えられる。全身の皮膚から鱗が浮き上がり、眼が爬虫類のそれに変貌する。鱗の内側にある体構造は幻想種のそれへと組み変わり、遥の身体から人間の要素が排除される。

 それだけならば以前に使った際の変身と同じだが、今回のそれは些か異なる。以前は施したままであった封印を解除してから使用したことで遥の肉体はさらに変容していく。呪術の効力は礼装である服飾にまで及び、それらは遥の身体に合わせて変形する。尾骶骨が変異して龍の尻尾が伸び、肉体はさらに幻想種に上書きされる。

 ただ分霊と同調しているだけならばその時点で遥の意識は吹き飛ばされて邪龍の魂に乗っ取られてただ暴れ狂うだけの存在と化しているだろう。だが今は偽りの人類悪を前にして異様なほどの同調が強まっているためか、邪龍の魂はまるで遥に屈服しているかのように大人しい。そうして変身が完了した時、そこにいたのは数秒前の遥とは大きく姿を異にしていた。

 全身の皮膚は鱗に覆われ、尻からは巨大な尻尾が生えている。気配と体構造は人間のものから幻想種のそれへ。全身の魔術回路に流れる魔力は通常のそれと、肉体に同化された鞘に生成される神代のそれ、現代の人間であれば取り込んだ時点で内側から爆発四散する筈の魔力――〝第五真説要素〟が混じり合っている。それでも煉獄の固有結界は健在であり、鱗の間からは焔が噴き出している。そうして遥は肺に大気を最大限にまで取り込むと、見えない天に向けて咆哮をあげた。

 

――オオォォォォォォォォォォッ!!!

 

 悪龍咆哮。

 大空洞そのものを震わせるその咆哮は邪龍の威圧を伴って響き渡り、遥と敵対するもの全てに否応なく遥への畏怖を植え付ける。それは理性なき影の巨人だろうが、偽りの人類悪であるユスティーツァであろうが変わらない。思わずユスティーツァは驚愕の表情を浮かべ、直後にその事実を認識して舌打ちを漏らした。

 宝具によって遥は宿したのは生物の中でも頂点に位置する幻想種というカテゴリの中でも頂点に位置する邪龍であり、星そのものが造り出した最強の邪龍でもある。それが最大限の威圧を以て放つ咆哮はありとあらゆる生命の本能に働きかけ、無意識の畏怖を与える。少なくとも神代以降に生まれたものにそれを回避する術はない。

 一瞬は遥の咆哮に怯んだ影の巨人たちだが、すぐにユスティーツァの怒りを顕すようにして遥に向けて突進してくる。振り上げられた巨腕は人ひとり程度を容易く捻り潰す程度の威力を備え、ある筈のない殺気が遥を射抜く。人間では到底避けられないほどの密度で影の巨人が折り重なり、ユスティーツァが薄い笑みを浮かべる。だが。

 

「舐めんな、この程度の障害など……!」

 

 一瞬で虚空に奔る幾条もの剣閃。英霊たちですら視認もできないほどの速度で振るわれた神剣は一切過つことなく迫りくる巨人の霊核を切り裂いた。遥に向けて振り下ろされる筈だった巨腕は彼の身体に触れることすらもなくけんもほろろに消え去ってしまう。

 だが、たかだか数騎が消滅した程度で影の巨人の脅威が消え去る訳ではない。それどころか影の巨人たちは彼らに敵対する者たちの中で最も遥を危険視したのか、狙い(ヘイト)を遥に集中させた。あからさまな敵意に、遥が思わず獰猛な笑みを漏らす。

 現在の遥は前回とは違い暴走の危険性こそないものの、邪龍が遥の精神に影響していない訳ではない。今の遥は平時の冷静さと邪龍に齎された獣性が混在した状態となっているが故、いつもなら強大に感じて危機感を覚える相手に歓喜めいた感覚を覚えていた。

 しかし唐突に冷静に戻り、頭を振ってその興奮を払い落とす。普通の興奮ならばいざ知らず、獣性が齎す興奮は危険だ。それに身を任せて行動すれば動きは正確さを失い、一瞬にして遥は物言わぬ骸と化す。どれだけ強い力を得ようと、人類悪はそれを上回ってくる。

 なおも遥に肉薄してくる何体もの影の巨人。それを前にしても遥は怯まなかった。正確に自らに肉薄する影の巨人の数を正確に把握し、その中で立ち回る動きをシミュレートする。自らのものではない筈の戦闘経験を、遥は何の疑いもなく十全に利用していた。

 

加速倍率増加(インクリーズ)加速開始(イグニッション)!!」

 

 無数の乱杭歯が覗く口から紡ぎ出されたのは固有時制御の詠唱。その詠唱によって遥の体内に展開された固有結界が外界の時間軸から切り離され、独自の時空の中へと追い遣られる。通常時であれば精々4倍程度までが限界のその加速倍率は幻想種化したことで大幅に引き上げられていた。

 対照的に遥に襲い掛からんとしている影の巨人たちは明らかにその勢いを減じている。それは何もそれらが内包する魔力が減じただとかそういう訳ではなく、単純に外部からの干渉であった。それは幻想種化した遥の眼――〝邪視〟と呼称される魔眼の効力であった。

 邪視という魔眼において最も有名であるのはケルト神話において登場する単眼神バロールであろう。その眼の効力は〝視界に入った対象に死の呪いをかける〟と魔眼としては他に比べると単純なものだが、それ故に強力だ。相手が高位の存在であれば減衰されるのは否めないものの、多少動きを縛る程度のことはできる。

 動きが鈍くなった影の巨人たちの間を遥が駆ける。巨人たちは邪視によって動きを縛られた中でも遥を叩き潰さんと巨腕を振るうが、それは遥が受け止めると同時に煉獄の焔に巻かれ、その存在を無意味な魔力の断片へと還す。その不可思議にも思える現象を、だが遥は疑問には思わなかった。

 考えてみれば当然の話ではある。遥の固有結界は遍く悪を浄化する究極の煉獄。『この世全ての悪』だろうが、人類悪だろうが、『悪』と『生命』という概念を同時に有している時点で遥の固有結界にとっては格好の餌食である。煉獄とは死者の罪を祓う場所。それが生命と悪の存在を許す筈もない。

 だがそれも、度を越さなければの話ではあるが。遥の煉獄は悪を消失させるのではなく浄化し、清めるもの。それには浄化する限界の速度が存在し、それを越える速度で浸食された場合は抗い様がない。そういう意味では純粋悪で構成されるものの木っ端な眷属である影の巨人たちは遥にとって一方的に蹂躙できる餌食のようなものであった。

 しかし本体であるユスティーツァは別だ。〝ただ悪であれ〟と願われて生み出され、駄目押しで偽りの人類悪化した人類の悪性総体など浄化にどれだけかかるか分からない。固有結界内に取り込んだところで浸食速度と拮抗できるか否か、といったところである。影の巨人たちを相手取る中で、不意にユスティーツァが視界に入る。その瞬間、遥は驚愕に見舞われた。

 

――あいつ、俺の動きが見えてる……!?

 

 影の巨人たちの合間から見えているユスティーツァの眼は明らかに遥の動きを追っていた。邪龍と一体となったうえでその動きを十数倍に加速している、音速すらも凌駕して衝撃波を撒き散らす遥の動きをユスティーツァは未だ嘲笑うかのような顔で見ていたのだ。

 ユスティーツァに邪視は効かない。大元となったただの最高傑作ホムンクルスであるユスティーツァならば十分に効くのだろうが、今の彼女は『この世全ての悪』の依り代でありそのものでもある偽りの人類悪。たかだか宝石級の魔眼など息を吸うように無効化(レジスト)してしまう。それどころか生半な術者が魔眼を向ければ〝視られる力〟で魔眼を焼き切られていただろう。

 邪視や悪龍咆哮などはあくまでの邪龍の魂に付随した力でしかない。大小様々な精神的影響を除けば意思を捻じ伏せられている邪龍にそれらを扱うだけの力はない。あくまでも後押しするだけ。ユスティーツァが向けてくる視られる力に対処するのは遥自身だ。幻想種化したことで遥の魔術師としての階位は神代の魔女と比しても何ら変わりないほどにまで引き上げられている。対処するだけならば問題はない。

 遥の視線からユスティーツァは見られていることに気付いたのか、さらに邪悪な笑みを深くする。ユスティーツァの足元に蟠る影と泥が影の巨人を蹴って空中を跳躍する遥の足元にまで浸食する。次に何が起きるのか、解らない遥ではない。

 

「ホラ、精々うまく避けてみせよ、人間」

「この、クソがッ……!」

 

 遥の眼下で影が蠢き、続いて遥に向けて影の触手が伸ばされた。まるでリボンのように細い触手でありながら、そのあまりに膨大な数故に視界全てが黒で埋め尽くされる。足場と成り得る影の巨人は足が届く範囲から後退しており、遥はただ落下するままだ。

 けれど遥がそれを甘んじて受け入れる筈もない。全身に満ちる魔力の一部を魔術刻印に通し、そこに記録された魔術を起動させる。夜桜に伝わる神代の封印魔術。それによって空間の一部を固定化することで足場とし、体勢を整える。見据えるのは影から突き上げてくる影の触手。体内に展開した煉獄から漏れ出す焔を左手に収束させる。さらに鱗の隙間から漏れ出すのは赤熱するマグマ。

 生半な悪属性の反英霊であれば触れるだけで致命傷になる火傷を負うであろうその焔を、遥は影の触手に向けて放った。同時に爆発が起き、大空洞を内側から崩落させかねないほどの衝撃が撒き散らされる。けれど影の触手はその先端が駆けるばかりで、燃え上がりながらも空中にいる遥へと追いついた。

 

「な――ッ!!」

 

 驚愕に遥が声を漏らす。遥とて本体から伸びる触手を一度の攻撃で消滅させることなど期待していなかったが、よもや殆ど効果がないとは思っていなかった。たった一度の瞬間火力では遥の煉獄でも『この世全ての悪』を消失させるには至らないのである。――拮抗するには、やはり煉獄そのものしかない。

 遥にまで至った触手は遥の足に絡みつき、その身体を引きずり落とす。周囲のサーヴァントたちはそれぞれに遥を助けようと動くが、それらは遥の許から去って散開した影の巨人によって阻まれる。さらに触手は魔術回路から遥の身体に侵入し、遥は体内に直接手を突っ込まれたかのような激痛を覚えた。

 あまりの激痛に遥の意識が明滅する。しかし体内に蓄積した魔力を急激に引っ張り出される感覚で意識を保つと、全身に対流する焔の火力を何倍にも増加させた。その焔は侵入してきた泥と影だけではなく遥までも焼いてしまうが、それでも侵入してくる泥と影をある程度排除することには成功した。

 けれどなおも遥に浸食しようする『この世全ての悪』は遥の精神と魂に直接激痛を齎し、視界が明滅する。それでも、純正のサーヴァントであれば一瞬のうちに呑み込まれ人間でも発狂死する泥の中にあって、遥は正気を保っていた。

 

「ほう。我が呪いに抗うとは、人間の割になかなかどうして頑強よなぁ」

「―――、―――ほざけよ、こんなモン……!」

 

 轟、という音をあげて魔力が遥から噴き出す。その魔力は遥の身体から出た瞬間に水の激流となって周囲の泥を押し流し、遥を泥から守る。加えて足元の影は煉獄の焔が晴らす。激流と焔という相反する属性を持つ魔力が遥を中心にして渦を巻き、脅威を遠ざけた。

 煉獄の焔は遥の固有結界から噴き出した純粋に遥自身の力であるが、激流の魔力放出はそうではない。それは遥が取り込んだ八岐大蛇の霊が齎す技能であった。八岐大蛇は洪水の化身であり、その身体から放出される魔力もまたその属性を帯びている。それと同化している遥がその能力を行使できない筈はない。

 それは謂わば〝魔力放出(激流)〟とでも言うべきものであった。泥を追い遣った激流は遥の手足に纏わりつき、遥は左腰に叢雲を構える。八岐大蛇を繋ぎ止める触媒となる概念武装として肉体に埋め込まれたため鞘はないものの、それは遥の抜刀術の構えであった。地を蹴る音はまさに爆音の如く。神速すら超える速度で遥がユスティーツァに肉薄する。

 放たれる剣閃は魔剣でこそないものの、それでもそれに迫る剣速であった。上位の英霊でも視認すら難しいほどの速さで振るわれた黄金の閃光は一切過たずユスティーツァの首を狙っている。――だが、その刃はユスティーツァには届かない。その寸前でユスティーツァが()()()受け止めたのだ。

 

「ハッ。鈍い鈍い。貴様、よもやこの程度で私を仕留めることができると思っていたのか? だとしたら心外よな。

 貴様にはどうやら『この世全ての悪』が通じぬようだが……それでも貴様は私には届かん。分を弁えよ、人間!!」

 

 神造兵装である叢雲の刃を素手で掴んだまま、ユスティーツァは最大限の嘲りを込めた言葉を遥に叩きつける。それと同時、再びユスティーツァの足元から染み出した泥が吹きあがり、巨大な腕として顕現した。それは遥の身体を下方から強かに殴りつけ、宙へと吹き飛ばす。

 幻想種の頂点たる邪龍の鱗を以てしてもその衝撃は遥の内臓にまで到達。損傷した内臓が出血し、遥が口から血を吐き出した。いかな傷が際限なく修復する遥とて、傷を受けない訳ではない。折れた肋骨が内臓に突き刺さり、鈍い痛みを訴える。

 その痛みを無視して体勢を整えようとする遥。けれど反撃に繋がるその動きをユスティーツァが許す筈もなく、泥から先程遥を殴りつけた腕が何本も顕現する。それらの拳撃を遥は刀で受け止めたものの空中であるが故に衝撃を殺すことまではできず、そのまま吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。

 そこに殺到する影の巨人。巨人たちは壁に叩きつけられた衝撃で遥が怯んだ一瞬の隙に幾度も拳を叩きつけた。幸いなことに影の巨人は遥を殴った個体から焔に巻かれて消滅したが、それでも遥へのダメージは相当なものであった。殴られ続けて身体が奇妙な方向に曲がったまま、遥が地面に落ちる。

 

「―――、――ぐ――」

「遥ッ!!」

「ハルさんッ!!」

 

 大地に俯せになった遥の身体は至る所で骨が折れ、まるで軽くスクラップにかけられたかのような有様となっていた。だが幻想種化したことによる強靭な生命力故か、或いは起源故かまだ息はある。それどころか聞き苦しい音を立てながら修復しているほどであった。

 粉砕された骨や潰された内臓が時間を逆再生するような動きで再生する。不幸中の幸いとでも言うべきか、未だ脳と心臓は残っている。ならばどのような状態からであろうと身体は再生する。それだけ苦しかろうと起源が遥を死なせない。無理な修復に伴う遥の苦痛など度外視で身体が元通りになっていく。

 不自然な再生をしながら地面に倒れ伏す遥に、大空洞内に泥と影を広げながら歩み寄るユスティーツァ。最早残っているのは遥が倒れる場所の周囲のみで、無数の影の巨人と戦っていたサーヴァントたちもまたそこまで追いつめられていた。万事休す。その時点で勝利を確信したのか、偽りの人類悪はゆっくりと彼らを追いたてる。

 俯せに倒れたまま、戻ってきた視界で遥はユスティーツァを見る。身体は未だ異様な再生を続けており、不快感で胃の中のものが戻ってきてしまいそうだ。だが遥はその不快感を認識を彼方へと押し遣るほどの激情に囚われていた。

 もしもこの場で遥たちが破れれば、次に殺されるのはアイリと桜だ。さらにユスティーツァが進撃を進めればウェイバーとライダーも殺され、その先に待っているのは全人類の破滅。この世界の崩壊。瞬く間に人類は自らが生み出した〝理想の悪〟によって絶滅し、人理は崩壊する。

 それを許す訳にはいかない。拳を強く握り、遥はほとんど再生した自分の身体に力を込めた。未だ完全な再生はなされていないため全身の至る所が激痛を訴えるが、そんなものに構っている余裕はない。宝具行使を解除し人間の姿に戻って立ち上がった遥に、ユスティーツァは最大限の侮蔑をぶつける。

 

「まだ立ち上がるか、小僧。往生際の悪い……いい加減諦めて私に殺されれば良いものを」

「――当然だろ。どれだけ追い詰められてても、まだ誰も死んでない。俺もまだ生きてる。なら……まだ戦える。

 それにな……俺たちはまだ俺たちの世界を取り戻さなきゃいけねぇんだ。その前に、たかだかひとつふたつの世界も救えずに、何がマスターだッ……!!」

 

 そう啖呵を切る遥を嘲笑うかのように、ユスティーツァが腹の底から哄笑を迸らせる。たかだか一介の混血風情がよくもここまで吼えるものだ、と。それは己が勝利を確信した者のみに許される笑声だった。

 しかしそれと対峙する遥たちは未だ敗北の機運と呑んではいなかった。中でも遥と、そしてオルタだけはこの戦況を或いは覆すことができる一手を知っている。その使用を決断した遥が唾液を呑み込んだ時、背後を一瞥したオルタと目が合った。

 それだけで両者は確信する。遥はオルタがどういう訳か彼の固有結界の特性を把握していることを。オルタは遥が固有結界を行使する気でいることを。刹那にすら及ばない一瞥でそれだけの意思確認ができるのは、彼らが互いに信頼を置いているからか。

 『やるのね?』と問うオルタの眼に遥は『勿論』と返す。彼らにとってはそれだけが遣り取りであり、それだけで十分だった。

 

「……アンタたち。少しの間でいい。全力で遥を守りなさい。自分がどれだけ危なくなってでも……それこそ、命を棄てる覚悟でね」

「元よりそのつもりだが。……その言い様だと、この詰みに近い状況でまだ何か策があるようだな。であれば、オレはお前に賭けよう、遥」

 

 遥に対する最大限の信任を込めたエミヤの言葉に沖田たちは無言で頷く。そうして遥は大きく溜息を吐くと、未だ残っていた弱気な心を追い出した。

 或いは冷静な者がこの状況を見ていればそれを最初から使っていれば良かったものを、と思うだろう。元より遥は自らの固有結界をこの場で使うつもりでいたのだから、正面切って戦闘をする必要は確かになかった。事が遥の想定通りに進んでいたのなら、だが。

 仮にこの場で間桐臓硯の邪魔が入らず、アンリマユがただのアヴェンジャーとして顕現していたのなら遥は躊躇うことなく固有結界を行使していた。アンリマユが〝全人類を呪い殺す宝具を有したサーヴァント〟として新生しようが、それだけなら遥の固有結界で対応しきれる範囲だ。

 だがそれは叶わず、アンリマユは間桐臓硯の手により偽りの人類悪としてユスティーツァを依り代に顕現した。故に使うことができなかった。仮に心象世界を具現化したところで、()()()()()()()()()()()()()()()()。その迷いは未だ晴れない。けれど事ここに至って未だ使用を躊躇うのは下策中の下策だった。

 右手を空中に差し出し、左手で右手首を握る。全力で魔術回路を動かし、暴れ狂う魔力を制御する。溢れだす魔力は焔となって、周囲に広がった。

 

 

「──My body is the flame(我が躰は焔). My soul is the ash(我が心は灰).」

 

「む──!?」

 

 眼前で起きる異変にユスティーツァが気が付き、同時に本能的にそれが今までにない脅威だと察知する。未だ出し惜しんでいたものがあったのか、影の巨人の数がさらに増えた。けれど遥はそれに頓着しない。それらはオルタたちに任せればいい。

 

 

I had burned my existance(血潮を火種に業火と成し、) and made my soul with ash(灰を集めて人と成す).」

 

 

 目の前でアサシンが吹き飛ばされた。けれど死んだ訳ではない。さらに詠唱を続ける。

 

 

I have been fomed a eternity by suffering(無限の辛苦の果てに不朽).

 Unaware of death(ただの一度も死することなく、). Nor aware of trust(ただの一度も理解されない).」

 

 

 その詠唱は遥だけのものでありながら、どこか錬鉄の英霊と似たものであった。或いはそれは、彼らの精神性や生き様が似通っていることの証左であるのだろうか。

 

 

Stood pain with consistent flame(神子は永久に独り、). My soul loses the meaning(焔の丘で穢れを濯ぐ).

 Yet,my hands never hold anything(故に、この生命に意味はなく).」

 

 

 それは告白だった。人の血と人ならざる者の血を受け継いで生まれ、常にたったひとりで生きてきた青年は今ようやく、その孤独を吐露する。

 

 

So as I lament "EVERLASTING INFERNO"(この躰は、不朽の業火で出来ていた)──!!!」

 

 

 そして────世界が、燃えた。




次回、Accel zero order編最終話。


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第42話 我、聖杯に願う

 そこは、まさしく地獄だった。

 ひび割れた大地からはマグマが噴き出し、何も火種はない筈の場所で絶えることなく焔が燃え続けている。空は立ち昇る黒煙によって全てが覆い尽くされ、陽光はその悉くが遮られて大地には届かない。それどころかその世界には陽光が存在しているかさえも怪しい。

 現実には決して存在し得ない世界。けれど人間たちはその世界を何というのかを知っていた。死した罪人たちをその内に引き込み、灼熱の業火を以てその罪を祓う場所。善人たちが招かれるという天界でも、大罪人が墜とされて無限にして永遠の辛苦を受け続ける地獄でもない半端な領域。すなわち、煉獄である。

 けれどその世界は見た目こそ煉獄のそれと同一であるが、性質は尋常なそれとは全く異なる世界であった。或いは普通の地獄の方が罪人にとっては幾分か楽であるかも知れない。その世界の焔が燃やすのは人の罪だけではない。全てのものが抱く『悪』というものの悉くを業火は焼き祓う。

 常世に存在するいかなる地獄の概念よりも容赦がなく、過激かつ苛烈に悉くを燃やし尽くす究極の煉獄。それこそが遥を生まれてから今まで内側から苛み続ける彼の心象。遍く悪を許容することのない最低最悪の焔の丘。

 

 固有結界(リアリティ・マーブル)不朽の業火(エヴァーラスティング・インフェルノ)』。

 それが遥が内に秘める心象(せかい)の名であった。

 

 その丘の頂上に突き立てられた叢雲を引き抜き、その切っ先をユスティーツァへと向ける遥。その頭上では伝承通りに下手をすれば大嵐を巻き起こしそうな厚い雲が渦巻いている。この世界にいるのは遥とユスティーツァのふたりのみ。まさしく一騎打ちとでも言うべき状態であった。

 

「ようやくふたりきりだな、人類悪(ビースト)モドキ。さぁ、決死の殺し合い(ランデブー)といこうぜ……!」

「ハッ。心象世界を具現化したところで、一介の混血風情がこの私の勝てるとでも? さんざん間抜けだとは思っていたが、よもやそこまでとはな。良い、今度こそ格の違いを思い知らせて──ッ!?」

 

 遥の挑発に乗りつつも自らの調子を崩さないまま、恃みである聖杯の泥と影を排出するユスティーツァ。けれどその余裕の笑みは次の瞬間には凍り付き、そして狼狽へと変わった。意趣返しが成功し、遥が不敵な笑みを浮かべる。

『この世全ての悪』と臓硯の願いの影響を受けて不完全な人類悪として存在しているユスティーツァはいわば『この世全ての悪』の依り代であり、またそれそのものであるため、聖杯の泥を扱うことができる。さらにその泥はあらゆるものを浸食し汚染するという力を持つが故に大空洞ではユスティーツァは地の利という面で遥たちよりも優位に立つことができたのだ。

 そしてその浸食と汚染という性質を受けるのは固有結界も例外ではない。そもそも固有結界とは術者の心象を世界として具現化する魔術であり、それはつまり術者そのものでもあるということだ。ユスティーツァにとっては恰好の餌食であろう。故にユスティーツァは泥によって固有結界から遥を侵そうとしたのだろう。

 だがそれが間違いであった。ユスティーツァが足元から発生させた泥は遥の世界を侵すよりも早くに焔に巻かれて干からび、バラバラに霧散してしまったのである。無論影の巨人たちを顕現させようと同じ事。それらは一瞬にして断末魔の雄叫びをあげて消失する。そうしてユスティーツァはようやく、この世界の何たるかを悟った。

 遥の心象世界は常世に存在する遍く悪を祓い、浄化する究極の煉獄。それの前では悪に一切の区別などなく、それ故に必要悪だろうが、絶対悪だろうが、人類悪だろうが、浄化されて無に還る他ない。或いは発端を人類愛とする本来のビーストであれば抗うこともできるのかも知れないが、仮初の人類悪であるユスティーツァはこの煉獄の中にあって現実世界での優位を完全に失っていた。

 それだけではない。ユスティーツァは泥と影を完全に無効化されただけではなく、その体内に貯蔵した魔力を急激に奪われつつあった。奪われた魔力はこの世界を満たす焔に浄化され、世界の主たる遥に還元される。半端なものではあるが、煉獄とは地獄であり、そして地獄はあらゆる生命の存在を否定する。魔力とはすなわち生命力であるため、煉獄は内部に取り込んだものから無差別に魔力を吸い上げ、供物として遥に献上する。

 自身が悪そのものであるが故にユスティーツァはすぐにそのことに気付き、遥を睨み付けて奥歯を砕けそうなほどに強く噛み締めた。だが殺意に塗れたその視線を真正面から受けてもなお遥は怯むことなくユスティーツァを睥睨している。それが更にユスティーツァの神経を逆撫でし、怒りのままにユスティーツァが吼えた。

 

「この……調子に乗るなッ!!」

 

 その咆哮に応えるようにユスティーツァが放出する魔力が増大する。同時にユスティーツァの優美な銀髪から何本かひとりでに髪が抜けて形を変え、猛禽や剣の形を取る。ユスティーツァの鋳造元であるアインツベルンの秘術を攻撃用に転用したものであろう。

 だがただの錬金術として侮ること勿れ。魔術において女性の髪とは重要な意味を持つ。それに『この世全ての悪』に由来する膨大な魔力を込めたことでその切れ味は鋼鉄を切り裂くことすらも容易いほどにまで高められていた。ユスティーツァの声に合わせ、それらが遥に向けて飛翔する。一撃でも喰らえば致命と成り得る攻撃。だが遥は怯まなかった。

 虚空に閃く黄金の閃光。先の一撃とは違い、偽りの人類悪と化したことでありとあらゆるサーヴァントを圧倒するだけの力を得たユスティーツァですらも全く見切ることができないほどの剣速を以て振るわれた叢雲は正確に全ての攻撃を破壊せしめた。寸断された髪が大地に落ち、瞬く間に灰と化す。まさに神業とでも言うべき剣技であった。しかし遥はそれを誇る素振りすらもなく、無表情のまま再び切っ先を敵に向ける。

 

()()()()()()()()()?」

 

 明らかな挑発の意思を滲ませた声音。そうと分かっていながら今度は乗せられたユスティーツァが激昂して怒りをはきだそうとする。しかし遥がそれを待つ筈もなく、ユスティーツァが口を開きかけたのと同時に遥の姿が掻き消える。直後、悪寒を感じて反射的に飛び退いたユスティーツァを叢雲の刃が掠めた。

 遥の固有結界が有するのは何も煉獄としての特性だけではない。遥の内に在るもの全てを曝け出した世界であるその煉獄はその原理故か、遥の秘めたる才能の一端を引き出す力を持っていた。その力は縮地を越えた空間跳躍にすら等しい究極の歩法〝極地〟を可能とし、遥に絶大な機動力を与えていた。

 攻撃を回避した瞬間の隙に遥を呑み込まんとするユスティーツァ。しかし魔力の塊である聖杯の泥が吹きあがった時には既にそこに遥の姿はなく、泥は虚しく焔によって浄化せしめられる。それでもなお遥の動きを追いかけようとするがしかし、直後に背後からの衝撃を受けて吹き飛んだ。火炎を纏った遥の脚撃が直撃したのである。そのまま追撃せんとする遥であったが、その直前で顔を顰めて動きを止める。

 

「──ッ……! クソがッ……!」

 

 いくら遥の煉獄が全ての悪を浄化する究極の煉獄であるとはいえ、相手は『この世全ての悪』により変性した存在。加えて大聖杯の力で現代に住む人間の悪性を更に吸い込み肥大化しているが故にその強大さは元となった怨霊の比ではない。そして神霊クラスにまで膨れ上がった悪性を内包しておいて無害などという都合の良い話があろう筈もない。遥の体内では流入してくるまでに浄化が済まなかった汚染魔力が少しずつ蓄積しつつあった。それもすぐに浄化されるものの、その時にはまた新たな汚染魔力が流入する。まさしく鼬ごっこであった。

 普通の人間ならば少しでも流入した時点で発狂して死んでいるものを受けてもなお十全に動き続けていることができる。遥にその異常な耐久性を齎しているものは煉獄そのものか、或いは起源や人の悪性を許容できるだけの精神の歪みか。遥にはどうでも良いことだった。何であれ身体は動く。ならば戦える。遥にとってはそれで十分だった。

 遥が動きを止めた隙にユスティーツァが放った針金の鳥を切り裂き、叢雲を構え直す。深呼吸をひとつ吐いて意識から余計な情報を締め出す。そうして蹴りだした身体は一息で音速を追い越し、可視の領域をも飛び越えた。あまりの速さに大気が悲鳴をあげ、不可視の膜が遥を中心として広がる。遥はそれをものともせず、叢雲を構えてユスティーツァへと肉迫した。

 幾度も虚空を奔る黄金の剣閃。それは多重次元屈折現象と見紛うばかりの速度を以て振るわれ、ユスティーツァの身体をまるで豆腐か何かのように切り裂いた。ユスティーツァの身体に刻まれた傷から鮮血が噴き出す。だがその傷は瞬く間に泥に覆われ、癒着してしまう。それでもダメージをなかったことはできないらしく、ユスティーツァが更なる憤怒に顔を染める。

 

「チイッ……この、人間風情がッ!」

 

 怒りのままにユスティーツァが吼え、それに呼応した泥が噴きあがる。先程とは違い、泥の直上にいる遥。だが遥は全く動じることなく対応してのけた。躊躇うこともなく足元で爆発を起こし、衝撃に耐えきれなかった泥が散り散りになる。

 地面より噴き出し、天を裂くほどに立ち昇るマグマ。だがそんなものを浴びせられてもなお遥は消し炭となることなく、それどころか全身に焔を纏ってそこに立っていた。その姿を前に、殆ど無意識にユスティーツァが後退る。

 そもそもこの煉獄は遥の心象なのだから、暴走もしていないのに遥がそれによって死んでしまうことがある筈もない。この煉獄は遥と共に生まれ、そして遥と共に消えるもの。それが遥を焼き殺してしまったら本末転倒というものである。

 自らの内より噴き出す火炎とマグマを纏う遥。その眼は強く真紅に輝き、その立ち姿はいっそ神々しさすらあった。だが敵にそんなものを認める『この世全ての悪』ではなく、遥の姿を前にユスティーツァは更に怒りを募らせていく。

 その憤怒の視線は邪視の如き力を以て遥を射抜く。けれどその力は遥が纏う浄化の焔によって打ち消され、その身体まで届くことはない、それによってユスティーツァが舌打ちを漏らしたのを知ってか知らずか、遥が叢雲を鞘に戻した。そうして鞘を腰から外して左手で保持しつつ腰だめに構える。先祖より受け継いだ我流の剣術を振るうが故に決まった型を殆ど持たない遥が持つ構えのひとつ。抜刀術の構えである。

 見据えるは眼前に立つユスティーツァ。そのユスティーツァも遥が何かを仕掛けてこようとしているのを悟ったらしく、不用意に仕掛けようとはしてこない。それを前に、遥は自らの内へと意識を沈めた。意識を引き裂くほどの激痛を無視して無理矢理に叢雲から力を引き出し、そして遥は一息で大地を蹴り飛ばした。大気を裂く轟音はまさしく物理法則があげる悲鳴。ユスティーツァが認識した時には既に、遥は叢雲の柄に手を掛けていた。

 刹那と須臾を追い越した抜刀。それと共に遥はその剣技の名前を口にした。

 

「秘剣───〝狂濤一閃〟!!」

 

 真名解放めいた咆哮と共に遥が叢雲を抜刀する。神速という表現ですら事足りぬほどの剣速を以て振るわれる刀。ユスティーツァはそれを見切ることすらできずに真正面から食らい、瞬間、斬撃を喰らったその部分が初めからなかったかのように消失した。

 先祖の記憶から引き出し、遥が行使した抜刀術〝狂濤一閃〟。それはただの抜刀術ではなく、怒濤八閃と同等の剣技、すなわち魔剣であった。本来は〝対獣魔剣〟に属する怒涛八閃を対人用に変えたこの魔剣は多重次元屈折によって発生する一の太刀から八の太刀までを一刀に集約することで接触部に局所的事象崩壊を引き起こすという特性を有する防御不可の一撃。斬撃を受けたユスティーツァの左腕が消失したのはそのためだ。

 しかしユスティーツァとて成り損ないではあるが人類悪のひとつである。消し飛ばされた左肩から湧き出したのは鮮血ではなく聖杯の泥。それは消し飛んだ左腕の位置で蟠ると、巨人の腕と見紛うばかりの巨腕を作り上げて一瞬で硬化した。

 

「この私を……舐めるなッ!!」

 

 飛来する土塊。もしも喰らえば抵抗することもできずに身体が粉微塵になるほどの威力を内包したそれを前にして、遥は一切動じなかった。遥の意思に応えるように煉獄の焔が遥へと集い、収束する。

 振り上げたのは叢雲を握っていない左腕。振りかざしたそれに遥はあまりの魔力量で内側から弾けそうなほどに魔術で強化を施した。ほとんど同時に振るわれた拳は両者の真ん中で打ち合わされ、その瞬間に遥の拳が秘めた威力と焔の力に耐えきれなくなった土塊が内側から崩壊した。

 それはそれまでならば絶対にありえない事態であった。たかだか混血風情と見下していた筈の魔術師が偽りの人類悪と真正面から力勝負を行い、あまつさえ勝利したのである。それにはさしものユスティーツァも驚愕の色を見せる。

 だがそれとは対照的に遥にはそのことへの歓喜などはなく、ただ冷静にユスティーツァを再び蹴り飛ばした。焔に巻かれて少しずつ弱体化していたためかユスティーツァはそれを受けきることができず、大きく吹っ飛ぶ。そうして、遥が再び叢雲を構えた。

 

「──次で、終わらせる」

 

 その言葉と同時に輝きを増す神剣。さらに刀身から噴き出す焔が勢いを増し、天を突きあげるほどの火柱が立ち上った。それに呼応するようにして煉獄そのものが鳴動し、焔が叢雲に収束していく。

 この煉獄は遥が有する剣士としての才能を一時的に現状以上に引き出す力を持つ。それは言いかえれば、遥がいずれ至る未来を先取りするということでもある。この煉獄の内においてのみ、遥はいずれ自分が至る力を前借することができるのだ。極地もそのひとつである。

 煉獄の焔を帯びる叢雲を鞘に戻し、我流抜刀術の構えを取ると同時に遥──というよりもその鞘から異質な魔力が迸る。それは先の戦いで幻想種化していた遥の全身を満たしていたものと同じ魔力。つまりは現代には存在しない筈の魔力である第五真説要素〝真エーテル〟である。

 神秘の薄い現代に生きる人間であれば吸い込んだ瞬間に濃度に耐え切れずに身体が内側から爆発四散するその魔力を、しかし遥は尋常ではない激痛に見舞われながらも制御してのけている。明らかに異常な現象であった。

 対するユスティーツァは生まれて初めて感じた本能的な恐怖感に身を震わせた。それをユスティーツァが自覚した直後、彼女の胸にまるでこの世に存在する全ての災厄を凝縮したかのような輝きが現れた。それはユスティーツァの核となるもの。すなわち『この世全ての悪』と呪い、さらには死の概念が聖杯として顕現したものであった。

 片や神代の魔力を帯びた煉獄の焔。片や全てに死を齎す呪いの具現。共に尋常な宝具の核を圧倒的に超越したもの。それを解き放つのは僅かにユスティーツァの方が先であった。

 ユスティーツァの身体から放出される魔力が更に増えるのと同時に輝きを増す黒い聖杯。自身の分け御魂とでも言うべきそれの名を、ユスティーツァは歓喜と共に謳いあげた。

 

「──〝死の聖杯よ、現世に出でよ(ソング・オブ・グレイル)〟!!!」

 

 その言葉が放たれると同時に死の概念そのものを内包した輝きが一際強まり、究極の煉獄を以てしても一瞬では浄化しきれないほどの泥が溢れて遥の心象世界を波濤となって押し流し始めた。

 それらは煉獄を通してそれの主である遥の身体にも流れ込み、遥の身体に死斑のような黒い斑点が浮かび上がる。死ね、死ねとまるで無念の内に死んだ亡者が生者を地獄に引きずり込もうとしているかのような声が遥の魂を叩く。だが遥はそれを封殺し、焔によって掻き消した。

 鞘から溢れだす焔。吹き出す真エーテル。死が飽和した汚泥はなおも広がり続け、煉獄を黒く染め上げる。そうしてその泥が遥の身体を呑み込まんとするその瞬間、遥が動いた。

 狙うは一点。鞘より発生した真エーテルをの全てを身体を通して限界まで叢雲に叩き込み、鞘から黄金の光が漏れ出した。続けて地を蹴って跳躍。世界を満たす汚泥の波濤を飛び越え、遥が叢雲を抜刀。握った右腕を引き絞る。

 

「これで終わりだ。消えろ、『この世全ての悪(アンリマユ)』!!! 

 ──穿て、〝天剱(てんけん)都牟刈之大刀(つむかりのたち)〟!!!」

 

 瞬間、神刀から世界を全て染め上げるほどの極光が焔を伴って放たれた。それは煉獄を満たし乗っ取らんばかりに広がっていた泥を消滅せしめる。不浄を祓う聖なる極焔は怒濤の如く押し寄せる死の概念を押し流し、無へと還してしまう。

 高速で全身を駆け巡る真エーテルが齎す想像を絶する激痛に遥が顔を歪める。いかな混血とはいえ、幻想種化しておらず半身が人間のままの遥には第五真説要素は猛毒も同然だ。加えて急速に身体がそれに順応しようとして人外の血を強めることで魂が軋む。

 そうして限界を超えて遥の魂と同調した分霊はまるで根を張るかのように遥に浸食し、消えた死斑の代わりに褐色の斑点が浮かび、髪が白く変色する。それに伴う痛みを意識の端に押し遣って、遥はなおも極焔を放つ。

 死の概念を内包した泥は遥の焔の前ではあまりに無力で、焔は泥の壁を押し割ってその最奥へと到達した。

 泥の壁を食い破った焔がその中心である死の聖杯に喰らいつき、浄化の焔に耐えきれなかったそれが粉々に砕け散った。最早ユスティーツァに成す術などなく、彼女の運命は遂に死へと至った。最後にユスティーツァが見たのは泥を割って迫る極焔。そして次の瞬間にはもう、ユスティーツァの意識はこの世にはなかった。

 

 

 

 

 遥が自らの心象世界から現実へと帰還したのは、煉獄の全てを満たしていた泥を押し返した極焔が収束したのとほとんど同時であった。煉獄が消え去ったことで一時的に引き出された剣才が消失する。けれど遥にそんな実感はなく、戻ってくると同時に地面に倒れ込んだ。

 そこへ駆け寄ってきたのはサーヴァントたちといつの間にか大空洞に戻ってきていたアイリと桜。彼らの見る限りでは遥は気絶はしていないようであったが、一時的に過呼吸気味の状態になっていた。

 しばらくの間そうして荒い呼吸を続けていた遥だったが、落ち着いてくるとすぐに上体を起こして地面に座り込んだ。そうして殆ど無意識に左手で頭を掻いて、その手を見て沖田たちが息を呑む。

 

「ハルさん、それ……」

「あ……?」

 

 未だ焦点の合わない瞳で遥は沖田が指す箇所を見る。その視線の先にあるのは遥の左腕。ロングコートに隠れている手首から上は見えないが、少なくとも見えている限りが褐色に変色していた。

 それは同じような変化が起きた立香のように魔術回路の酷使によって変色したのでも、聖杯の泥に侵されて変わってしまったもでもない。いくら真エーテルを扱ったからとて変質するほど遥の魔術回路は尋常なものではなく、後者に関しては体内に入り込んだ量など遥にとっては脅威ではない。

 故に遥の変色の原因はそれらではなく、遥の内側から湧き出してきたものであった。そういう意味で言えば原因は真エーテルにあるのかも知れないが、それはあくまでも要因(トリガー)に過ぎない。原因は遥の肉体に同化している分霊だ。身体を巡った真エーテルに対応するためにその分霊が人間側に根を張り、結果として身体が変質した。

 要は変色している部分は最早人間のそれではなく、肉体に宿る分霊に近しいそれに変わっている。恐らくは人間の身体には備わっていない機能もあるのだろうが、今の遥には関係の無い話だ。遥は一瞬だけ顔を顰めたものの、すぐに平然とした表情に戻る。

 

「俺のことはいい。どうせ、いずれこうなる運命だったんだから」

「でも……」

 

 今だ何か言い募ろうとする沖田を制し、遥は更に話を続ける。

 

「それより、今後の話をしよう。

 カルデアが観測した聖杯は結局、姿を現すこともなく事態は収束した。あぁ、それは良いコトだ。良いコトなんだが……このままだと桜が独りになる」

 

 この世界は特異点Fやオルレアンのように遥たちが生きている世界線の人類史が歪められたことで発生した普通の特異点ではなく、一種の平行世界のようなものである。カルデアでそれが観測されたのは単純に冬木の聖杯が人類史崩壊の起点と成り得るからだ。

 そして普通の特異点ではないが故にこの世界は聖杯を回収、或いは破壊したところで消滅することはない。桜と同じく行き場がないアイリは聖杯であるが故にカルデアのシステムを利用してカルデアで保護することができるが、桜はあくまでも普通の人間。アイリのように保護することはできない。

 この世界が特異点化した原因であるユスティーツァは既に遥が排除した。間もなくこの世界は特異点としての性質を失い、それに伴って遥たちは世界から弾かれて強制的なレイシフトに入るだろう。それでも桜はこの世界の住人として残ってしまう。それはつまり、桜が再び孤独に戻ってしまうことを意味する。

 それだけは絶対に許容できない。しかし世界が特異点としての性質を失ったが故に、遥の身体は端から少しずつ霊子と化して消え始めていた。時間は僅かしか残されていない。遥がそう言った直後、オルタが口を挟む。

 

「じゃあ何よ。アンタ、時間がないからって桜を見捨てる気?」

「ンな訳あるか。……あまり使いたくはなかったけど、仕方ない。アレを使わせてもらおう」

 

 そう言うと遥はおもむろに立ち上がり、振り返って視線を上にあげた。そこにあるのは大空洞の空間のほぼ全てを占めるもの。すなわち大聖杯である。英霊5騎の魂をくべられ、汚染元である『この世全ての悪』を遥によって排除されたそれは元の願望器としての機能を取り戻していた。

 大聖杯の本来の使用用途は願望器としての力ではなく第三魔法の具現化と世界に孔を穿つことによる領域外への進出とそれによる『根源の渦』到達だが、5騎分の魂では明らかに不足だ。けれど願望器としてこの世界の内側を改変するだけならば、それでも十分に事足りる。

 その事実を前にすれば大抵の人間ならばその力によって自らの願望を叶えようとするだろう。あまり欲というものがない遥であるが、遥にも願望くらいはある。それは聖杯を以てしてでも叶えられない大それたものではなく、ただ目の前の聖杯に願うだけで叶うものだ。

 けれど事ここに至ってもなお遥にはその願望を叶える気は起きなかった。願望というのはあくまでも自らが果たすべき全ての義務を成した者が叶えるべきもの。自らの責任を全うしていない遥に願いを叶える権利はない。故に遥が聖杯を使う目的は完全な利他であった。

 

「コイツの中身に打ち勝ったのは俺たちだ。なら、使う権利も俺たちにある。違うか?」

 

 遥の言葉に反論する者はその場にはいなかった。そもそも遥と契約しているサーヴァントたちには聖杯に掛けるような願望などなく、唯一ここにいるサーヴァントの中で聖杯に掛ける願望を持つセイバーもまた眼前の子供を差し置いて自らの願望を叶えんとする英雄ではない。

 誰も何も言わないことを是と判断するや、遥は桜と視線を合わせた。端から消えていく遥を前に不安そうな視線を向ける桜の頭に遥は手を載せ、頭を撫でる。そうして手を離した時、桜は殆ど無意識に遥の手を掴んだ。それは桜が遥の前で初めて見せた、人間らしい感情であった。

 思えば、遥と桜は似ている。厳密に言えば桜の本来の家族は生きてはいるが、ふたりは幼くして家族と呼べる存在を失っているのだ。遥が妙に桜に入れ込んだのはそういう理由もあるのかも知れない。桜の手から伝わってくる体温が遥の胸中に未練を齎し、それが鎌首を擡げる。けれど遥はそれをすぐに断ち切った。

 最後にもう一度桜の頭を撫でてから立ち上がり、再び大聖杯に向き直る。そうしてまるで大聖杯を掴むかのように手を伸ばすと、遥はそれに命令を下した。

 

「──我、聖杯に願う。

 桜がもう苦しまなくていい世界になりますように。笑い合える友達を作って、暖かな家族と過ごして、ささやかな幸せを掴める。そんな、誰にでもある幸福を──」

 

 遥の願いはそれだけだった。あまりに俗物的でありふれていながら、遥は絶対にその光景を夢想することすらもできない願い。遥が告げたその願いに呼応し、大聖杯から巨大かつ複雑な魔法陣が浮かび上がる。続けて大聖杯にくべられた英霊の魂がその魔法陣に流れ込み、強烈な閃光を放った。

 光が飽和する世界。その直後、世界は完全な容を取り戻し、遥は自らの願望が齎した結果を見ることもなくその世界から消え去った。

 

 

 

 これでいい。世界から弾き出されたことによる強制レイシフトの感覚の中で遥はそう独り言ちた。『この世全ての悪』は遥によって消滅せしめられ、行き場のないアイリはカルデアが保護する手筈となった。唯一残った桜は遥が聖杯に掛けた願いにいって救われたと信じる他ないということはあるものの、最上に近い結果ではあるだろう。

 ケイネスなど犠牲にしてしまった人間もいるが、そもそも魔術世界とはそういう世界だ。自分の目的のためならば他者を手に掛けることすらも厭わない世界。本当の最上を目指すならば誰も犠牲にせずに解決すべきだったのかも知れないが、そんな万能性は遥にはない。少なくとも自分に近しい人間を守れたのだから、それが遥に実現し得る最上だった。

 身体は霊子と化しているが、遥の精神は任務を終えたことによる奇妙な脱力感と少しの達成感に浸っていた。しかしいつまで経ってもすぐに来る筈のカルデアに帰還した感覚はなく、代わりに遥の耳朶を何者かの声が打った。

 

「──果たして、そんなに上手くいくモンなのかねぇ」

「ッ!?」

 

 あり得ない事態だった。現在レイシフト中である遥の肉体は霊子へと分解され、形を失っている筈なのだ。しかし、気付いた時には遥は果てのないただ白くどこまでも続く空間に立っていた。

 声が聞こえてきた方向は背後。果たしてそこにいたあのは、ひとりの青年であった。容姿は遥と瓜二つでありながら上半身は裸で、身に付けているのは腰布のみ。褐色の肌の上では入れ墨のような黒い何かがのたうち回っている。

 自分自身でありながら、決して自分自身ではない何かと対峙するというのは遥でも初めての経験であった。幸いなことに遥の装備はレイシフト前そのままで、叢雲も帯刀している。

 何を目的として遥に干渉してきたか分からない相手を威嚇するように、遥が叢雲の柄に手を掛ける。腰を落として眼前の自分を睨み付けるその体勢はいつでも相手を斬り裂くことができるように。

 

「……誰だ、お前」

「おや、意外と冷静。普通は自分がもうひとり現れりゃもっと驚くと思うんだけど。

 ……まぁいいか! それじゃあお前の疑問に答えてやるとしよう。オレに名前はない。どうしても呼びたきゃ、そうだな……アンリとでも呼べ」

「アンリ……? まさか、『この世全ての悪』か」

 

 冷静なようでありながら、遥の声音は相当に驚愕しているようであった。だが考えてみればあり得ない話ではない。『この世全ての悪』とは元はただの願いと悪性の塊であり、自我を持たない存在。遥の中で遥の姿を借りていても何ら不思議はない。

 それが遥の中に侵入した原因は間違いなく固有結界内での決戦でユスティーツァが行使した宝具だろう。『この世全ての悪』としての概念の全てを解放したあの宝具は遥の煉獄を以てしてもすぐに浄化することができず、こうして未だに残った残滓が遥の精神に干渉しているのだ。

 それに気付き、遥が内心で舌打ちをする。それを知ってか知らずか、『この世全ての悪』──もといアンリは遥の様子を愉しんでいるかのように指を鳴らし、それを遥に向けた。

 

「That's right! 最弱英霊アヴェンジャー、此度はアンタの殻を被っての現界だ。……ま、アンタの中に入り込んだせいで今にも消えそうなんですケド。てか、なんだよ全ての悪を浄化する固有結界って。もうチートだろ、チート」

 

 まるでたったひとりで芸を披露する道化ででもあるかのように饒舌に言うアンリ。その身体は彼の言う通り、遥の焔によって末端から焼かれて崩れつつあった。それはユスティーツァの宝具を通して遥の中に入り込んだからか、或いは遥の殻を被ったからか。遥にとってはどうでも良いことだった。

 遥に関係があるのはアンリが如何なる目的を以て遥の精神に干渉してきたかということである。レイシフト中の干渉である以上、少なくともこの空間は現実に存在する景ではない。この空間はアンリが見せているイメージのようなものであろう。

 警戒と敵意を最大限に込めた眼で遥がアンリを睨み付ける。明らかな問いの意思も含んでいるその視線を受けても、アンリはただ不快な笑みを浮かべて遥を見つめるのみだ。遥はひとつ大きな溜息を吐き、アンリに問う。

 

「それで、その死にぞこないが俺に何の用だ。大人しく焼け死んでりゃよかったものを」

「おぉ、すげぇ辛辣ぅ……いや、オレとしては大人しく死んでても良かったんですけどね? それじゃ『この世全ての悪』の名が廃るってモンよ。ンな訳で……オレはテメェを呪いに来た」

 

 不敵な表情を浮かべ、遥を指してアンリがそう言う。けれど、それに遥は何も言葉を返さなかった。アンリの声音には絶対的な自信が伴っているものの、それが逆に遥にとっては最大限の違和感となって胸中に居座る。

 遥の固有結界が彼に齎す恩恵のひとつとしてあらゆる呪的効果の無効化というものがある。それはいかな『この世全ての悪』の呪いとはいえ例外ではない。それは先の戦闘が証明しており、遥の殻を被っているアンリには我が身のこととして感じられるだろう。故にその絶対的な自信が異様極まるのだ。

 だが遥に聞かないという選択肢は用意されていない。恐らくアンリは遥に焼き殺されるか目的を果たすまで遥の精神に対する干渉を止めないだろう。つまり遥がどう思っているにせよ、遥はアンリと相対する他ないのである。再び遥が溜息を吐き、舌打ちをする。それを了承ととったのか、アンリが大仰に手を広げた。

 

「アンタ、まさかこの終わり方が全員救われたハッピーエンドとか思っちゃいねぇだろうな?」

「ハッピーエンドではねぇだろう。けど、これが俺に成し得る最上の解決なんだ。それに、俺が斃したヤツ以外で助けられなかったヤツがいたか?」

「オイオイ、いるだろ? ちゃんと考えろよ。アンタの最上から漏れたのは他でもねぇ。()()()()()()()。夜桜遥」

 

 アンリの言葉に遥が首を傾げる。助けることができたか、救うことができたか否かという問題以前に遥は誰かからの救済を必要としていない。救済されたか否かという問いそのものが無意味なのだ。それ故、アンリの言葉は遥の理解の埒外にあった。

 だがアンリは奇妙な自信に満ち溢れた笑顔を浮かべて遥を見ている。顔の造作そのものは自身と全くの瓜二つの人間が自分は絶対に見せない表情をしているという光景を前に、遥が抱いたのは言いようのない不快感であった。

 そんな遥の胸中を知ってか知らずか、アンリは気持ちの悪い笑みを遥かに向けている。既に四肢の半ばにまで至っている遥の煉獄による浄化を全く意に介さないその様子は明らかに異常であった。

 

「ワケ分かんねぇって顔だな? まぁ無理もねぇ。復讐者を気取る正義漢には何を期待したってムダってモンだな。だからこそオレもやりがいがあるんだが。

 ……お前、まさか気付いてねぇワケじゃねぇよな? 自分がしてることが()()()()()()()()()()()()()()()ってコトによ」

 

 まるで遥を嘲笑うかのようなアンリの声音。それをぶつけられた遥が息を呑み、顔を強張らせる。だが考えてみればアンリが遥の願いを知っているのも当然のことだ。アンリは遥の殻を被っているのだから、遥については全て知っているのだろう。

 遥の願い。未だ遥が誰にも話したことが無い、遥が抱く遥自身へと返る願望。予想だにしていなかったアンリの言葉に遥が仏頂面のままで硬直する。あまりに思っていた通りに反応に、アンリはさらに嘲笑の笑みを深くする。

 背中を撫でる悪寒。速まる心拍。だが遥にこの状況から逃げる術などない。それは窮鼠猫を嚙むと言うべきか、或いは袋の鼠と言うべきか。遥を見るアンリの眼にさらに嘲笑の色が宿る。

 

「おや? なんだ自覚あんじゃねぇか。ムダなコトさせんなよな」

「……だったら何だ。そんなコト、俺の願いとは関係ない。遠ざけようと、叶えられないと決まった訳じゃない」

「へぇ……」

 

 取り付く島もない、というよりは無理に作るまいとしているような遥の声音。故に、それが遥の本心ではないことは明白だった。そうして遥がもう聞く気はないとばかりに舌打ちをした時、不意にアンリが遥の左腕を掴んで持ち上げた。そうして露出したのは変色した左腕。

 それは立香のように魔術回路の酷使によって変色したものではない。遥の身体と同化している分霊との同調を過剰に強めたこと、そして鞘が生み出す真エーテルに身体が順応しようとしたことで人外の要素の割合が急激に増加したが故のものであった。

 遥は咄嗟にそれを振り払おうとするも、アンリの力は異様に強く全く動く気配がない。動揺する遥を前にして、アンリの顔に勝ち誇った笑みが浮かぶ。

 

「失われた筈の真エーテルを生成する鞘〝八岐大蛇〟……すげぇモンだよなぁ。協会の連中に知られりゃ一発で封印指定だ。……で、そんなものを扱える奴は()()()()()()()()()()?」

 

 真エーテル、すなわち第五真説要素とは本来なら地球上からは失われた魔力である。そもそもとして神秘を多く内包した神代の人間ならともかく、現代人にとっては真エーテルは猛毒に他ならない。

 それを遥は激痛を受ける程度の反動で扱うことができる。それは明らかに人間にできることではなかった。できるとすれば神代の神秘の中で生み出された存在である真祖や精霊、神霊くらいのものだろう。

 マズい、と遥の理性が警鐘を鳴らす。けれどアンリがそれで言葉を止める筈もない。遥に対して勝ち誇った下卑た笑みを浮かべたまま、アンリはさらに遥を追い詰めるための言葉を続ける。

 

「いやはや、本当に驚きだ。人理を取り戻すための戦いにまさか人間じゃないヤツが混じってるなんてなぁ。厚顔無恥もここに極まれりってヤツじゃねぇの?」

「黙れ……」

「それに自分が救われてねぇのに満足してるとか聖人かってんだ。いやぁ、本当に人間の()()がお上手なこって」

「──黙れッ!!」

 

 唐突な怒号と同時に虚空に黄金の光が奔り、それに次いで黒い文様がのたうち回る腕が宙を舞った。それは誰に受け止められることもなく、虚しく軌跡を描いて地面に叩きつけられ、瞬く間に焔によって灰と化す。

 見れば、アンリの言葉に耐えかねた遥が叢雲を振りぬいた姿勢のままで停止していた。対してアンリは片腕を斬り飛ばされ、身体の大半を燃やされていながらも下卑た笑みを絶やさない。

 遥が人間の真似事をしているというアンリの言葉。それは遥が抱えている歪みを真っ向から形容する言葉であった。遥はそれをはじめから自覚していながら目を背けていた。それを詳らかにされては、いかな遥とはいえ取り乱すのも無理はない。

 

「そうやって都合が悪くなると無理矢理黙らせようとする。ヒデェモンだよなぁ。……それとも、それも人間の真似事か? いやはや、名俳優並みだな。喜劇王でも目指したらどうだ?」

「うるさい……それ以上口を、開くなッ!!」

 

 激昂の言葉と共に振りぬかれる遥の拳。遥の感情を表すかのような激しい焔を纏った拳は真正面からアンリの顔面にめり込み、直後、アンリの首から嫌な音が鳴った。それはアンリの首の骨、そして肉が千切れた音であった。

 千切れた頭は遥の拳の威力のあまり彼方へと跳んでいき、頭を喪った首から下は力なく倒れて腕と同じく煉獄の焔に巻かれて灰とかして霧散する。けれどそれを見ても遥の胸中から激情が消えることはない。

 アンリの言葉は遥にとって最も分かり易い挑発であった。けれどただの挑発であれば、いかなる精神状態であろうと遥は無視できていただろう。無意味な挑発程度に取りあっていては命がいくつあっても足りたものではない。故に、アンリの挑発は遥にとっては無視し得ないものであった。

 

「──ホラ、やっぱりそうやって黙らせようとする。これはアレかねぇ。ハイ、論破! ……ってやつ。意外と簡単だったなぁ」

「お前……!」

 

 再び背後から聞こえてきた耳障りな声にそちらを振り返ってみれば、そこにあったのは首だけになったアンリであった。もう既に首から下が消失しているというのにアンリには未だ消えるはなく、遥の神経を逆撫でする言葉を吐き続けている。

 だがアンリ自身に消える気配はなくとも、『この世全ての悪』であるその存在を遥の煉獄が許す筈もない。瞬く間に頭だけになったアンリは焔に巻かれ、その頭は火達磨と化す。

 けれどアンリはそれさえも気にしていないようであった。元より遥の内に入り込んだ『この世全ての悪』の残滓であるアンリは消え去る運命。アンリはそれを承知していながら大人しく消えることを良しとせず、遥の前に現れた。であれば、焔によってその言葉が止まることはあり得ない。

 

「もうあまり時間もねぇ。だから、これが最後だ。

 ──お前は絶対に人間にはなれねぇ。人間として生きることもできない。どれだけ願っても、どれだけ嘆いても、お前はバケモノのまま久遠の時を生きる他ねぇんだよ。

 祝えよ、夜桜遥。お前はどこまでいっても独りだ。たとえ誰と絆を結ぼうと、誰を愛そうと誰から愛されようと、そんなものはまやかしでしかないんだよ。それが嫌なら、今のうちに死んでおけ。そうしなきゃ、そのうち死ぬこともできなくなるぜ?」

 

 嘲笑まじりにそう告げた直後、アンリの頭は遥の焔によって完全に消滅せしめられた。そうして遥の意識に干渉していた『この世全ての悪』の全てが消え去ったことで白い世界が崩壊を始め、まるで硝子が割れるようにして崩壊していく。

 その中で立ち尽くす遥はほとんど無意識の内に拳に力を込め、あまりに強い力を掛けたことで肌に爪が食い込んで血が流れた。けれどその傷は瞬く間に修復され、完全に元通りとなる。それがさらに遥にアンリの言葉を意識させた。

 そもそも遥の起源である『不朽』とは起源としては絶対にありえないものだ。起源とは万物が流転していく中で積み重ねられた方向性。だが『不朽』とは形があるが故の永遠であり、それが流転する筈もない。

 仮にその起源が『久遠』や『永遠』であれば起源として何も不思議はない。それらはあくまでも時間の流れのみを指すものであって、そこに形があるか否かは問わない。対して『不朽』とは観念的であれ、物質的であれ、形があることを前提とした永続性であるのだ。

 遥の血の如何以前に遥はその起源からして異常な存在だ。個人を形作る方向性自体が異常であるのに、正常なものが完成する筈がない。遥はそれを分かっていながら、あえて見ないでいた。

 

「俺は……」

 

 それに続く言葉はない。遥の口は何かを言いかけて、しかし何も発することもなく閉じられるだけだ。

 崩壊していく世界の中央で、道化はひとり立ち尽くす。その顔は一片の感情の色すらない、完全な無貌であった。




変異特異点α――特異並行世界α〝聖杯夢想都市冬木〟修復完了(Order Complete)

次回から第二特異点『虚栄絢爛皇帝アウグストゥス』編です。

不朽の業火(エヴァーラスティング・インフェルノ)
  遥の固有結界。心象風景は所謂煉獄と呼称される世界に近しいものであり、それ故に〝煉獄の固有結界〟とも呼称される。基本的に遥はこれを自身の体内にのみ展開して魔力消費を最小限に抑えつつ、内部時間を加速して固有時制御に用いている。なお、この際に用いられる魔術理論は衛宮家のそれとはまた別物であり、独自のそれである。
 この固有結界自体の性質は一言で言えば〝浄化〟。万物に宿る悪を断罪する煉獄の焔により悪性を浄化し、無色となった魔力を主である遥へと還元する。この性質は結界内に取り込んだ遥以外の全てに適用されるため味方サーヴァントを取り込むと魔力切れで消滅させる恐れがあり、必然的にこれを使用する際、遥は単騎での戦闘を迫られる。また、悪性浄化の性質のためビーストを弱体化させることもできるが、位階の高い相手には焼け石に水であろう。
 またこの悪性浄化能力は結界外に漏出した焔にも適用されるため、遥は焔を結界外に取り出して敵性サーヴァントにぶつけ、魔力を削る戦法をよく用いる。


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第二特異点 虚栄絢爛皇帝アウグストゥス
第43話 ローマ、危急


 気が付いた時には既に、沖田は知らない場所にいた。それは何もレイシフト中の事故で未知の場所に飛ばされてしまっただとか、そういう訳ではない。そもそも沖田たちはつい先日に特異点の修復を終えたばかりであり、本日は休みだった。故にレイシフトの事故というのはあり得ない。

 記憶を辿ってみても、最も直近の記憶は自室のベッドに入ってようやく慣れてきた寝具で眠りに就いた時点で途切れている。つまり沖田が見ているものは夢ということになるが、それは夢にしてはあまりに現実味を帯びていた。だが、沖田はその場所を知らない。

 一言でいえば、そこは豪邸であった。恐らくは玄関から続くエントランスなのだろうが、床は一面紅い絨毯で覆われ、1階から2階に続く2本の階段は緩くカーブを描いている。手摺には金鍍金が施されており、まさに絵に描いたような金持ちの家だった。

 けれど何故かその家にはそれに見合うだけの生活感というものがなかった。家というものはどんなものであれ、そこに人間が住んでいるという空気があるものである。だがその家はただ広いばかりで、生活感が薄い。

 そんな空間の中で何をすべきか分からず、ただひとりで立つ沖田。しかし少しして、不意に沖田の耳朶を何処かの扉が開かれる音が叩いた。反射的にそちらを見て、沖田が小さく呟く。

 

「ハルさん……?」

 

 沖田の言う通り、そこに現れたのは彼女のマスターである夜桜遥その人であった。ただしその姿は沖田が知っているものではない。けれど沖田は不思議と、そこにいる少年が遥であると何の疑いもなく受け入れていた。

 年の頃は恐らく10歳程度であろう。今では182センチメートルというそれなりに高い身長である遥だがその頃は少し大きいだけだったようで、沖田と同じ程度かそれよりも幾分か小さい。加えて髪も伸ばしていなかったらしく、その立ち姿からは遥の生真面目さが見て取れた。

 その姿を認めると同時、沖田は自身が見ている夢の正体を悟った。契約状態にあるマスターとサーヴァントが稀に互いの記憶を夢という形で見ることがあるという。つまりは今、沖田は遥の記憶を夢という形で見ているということなのだろう。

 起きたばかりなのか寝間着姿のままの遥の後ろを着いて行く沖田。そうして少しばかり歩いてから遥が座ったのは、この洋館の中にあって非常に異彩を放つ仏壇の前であった。手慣れた動作で線香に火を点ける遥の背後で沖田は何かを見つめている。その視線の先でにあったのは1対の男女が穏やかな笑みを浮かべている写真。すなわち、遥の両親の遺影であった。

 遥の両親が既に他界しているということ自体は沖田は遥から聞いたことがあった。だが、こうして改めてそれを現実として目の当たりにしてみると聞いただけでは分からない奇妙な思いが沸き上がり、沖田は半ば無意識に手を合わせて黙祷を捧げた。そうして顔をあげて沖田が目を開けた時、周囲の景色はそれまでのものとは全く異なるものとなっていた。

 焼けた家々と転がる無数の死体。それもその死体はただの死体ではなく、あるものは原型すらもなく、またあるものは形こそあるものの臓物を引きずり出された激痛と絶望の表情のままで固まっているものもあった。運よく生き残った人々は崩壊した家や家族の死体に縋りついて泣いている。

 その中に遥がいた。皆激情に囚われている中で、一際血を浴びていながら表情のない遥だけがひどく異質である。その手に握られているのは叢雲とはまた別の、けれどどこか宝具に近い神秘を内包する長刀。そしてその眼前には上半身と下半身が分かたれた異形の死体が転がっている。それこそがこの村に災厄を齎した存在――悪魔憑きと呼称されるものであった。

 遥がその村を見付けたのは全くの偶然であった。特にこれといった目的もなく世界を放浪しているうちに偶然見つけた村のひとつで悪魔憑きと遭遇してしまうというのはかなりの悪運の強さであるが、遥にとってはさして珍しいことでもない。だが、その時はあまりにタイミングが悪かった。

 遥がその村を見付けた時には既にその村はほとんど壊滅状態であった。異形と化して理性を失った悪魔憑きによって住民のほとんどが殺され、村も村としての機能を失っていたのだ。そんな時に悪魔憑きを打倒できる魔術師が現れたのはむしろ僥倖ですらある。それでも、多くの人が死んでしまったという事実は変わらないのだが。

 沖田の視線の先にいる遥はもう一度周囲を見回し、そうして無力感に唇を噛み締める。それからどれほどそうしていたか。不意に遥はコートの裾を引っ張られたのを感じて顔をあげた。そこにいたのはひとりの幼い少女。年の頃で言えば変異特異点αにいた桜と同じくらいであろう。名も知らぬ少女の瞳が遥を見上げている。そして、少女はあくまでも邪気のない声音で遥に問いかけた。

 

『――ねぇ、なんでもっと早く来てくれなかったの?』

 

 日本語ではない言葉だったが、その言葉は記憶の主である遥が理解できているためか沖田の耳には日本語としての響きをを伴って届いた。

 それはあまりに惨酷な問いだった。遥とて好き好んでこのタイミングで来たのではない。この村が滅ぶことは半ば運命であり、不可抗力だったのだ。けれど少女はそれを理解するにはあまりに無垢に過ぎた。抗えぬ運命などまだ知らない、罪な程の純粋さだった。故にそれへの処方を遥は知らない。気づけば少女だけではなく、周囲の人々の視線までもが遥に注がれていた。それらに込められているのは全て怒り。間に合わなかった遥への怒りだ。

 理不尽極まる怒りだった。けれど当然の怒りでもある。本来その怒りを向けられるべき筈の悪魔憑きが死んだことで矛先を失った感情は次なる標的として助けた人間を選ぶ。どうしてもっと早く来なかったのか、と。どうして間に合わなかったのか、と。人々が遥に向けるそれはすぐに投石や悪罵という形を取って遥の前に現出した。

 投げつけられた石が額に突き刺さり、流れた血が視界の半分を紅く染め上げる。けれど遥の起源はそんな些細な傷さえも存在を許さず、瞬く間に起源の力によって修復し、すぐに塞がった。

 遥の身体を叩く無数の憎悪。しかし、遥は未だ無感動な瞳で見つめ返すばかりで人々には何も返すことをしなかった。助けた筈の人々に憎悪を向けられているその光景を前に、沖田が言葉を漏らす。

 

「もう止めて……止めてくださいっ……!」

 

 だが沖田が何を言おうと遥の記憶の内容は変えようがない。そもそも、仮にその場に沖田がいたとしても村人たちは止まらなかっただろう。それこそ殺しでもしない限り。人間とはそういうものだ。

 

『あんたがもっと早くに来てれば、俺の家族は助かってた筈なんだ!』

『ヒーローにでもなれると思ったか、この疫病神め!』

『村から出ていけ、バケモノが!』

 

 いっそのこと彼らが話しているままに異国の言葉として沖田の耳に届いていたのなら、多少は救いはあったのだろう。だがなまじ遥がその言葉を理解できるが故、沖田にも村人たちの悪意が降ってくる。遥によって助けられた筈の命が、遥が来なければ死んでいた筈の人々が遥に悪意を向ける。

 沖田とて人々から悪意が向けられたことがない訳ではない。むしろ壬生浪と呼ばれて忌み嫌われていた新撰組にいた沖田にとって、その程度の悪意は見慣れたものである筈だった。けれどそれが遥に向けられているものなると、途端に胸を抉るような幻痛が沖田を襲う。その感情の源泉を沖田は知らない。考えている余裕すらない。

 遥に向けて飛来する石と悪罵。しかしある時、それが唐突に止まった。沖田が顔を上げて村人たちを見れば、彼らは皆一様に戸惑ったような表情をして固まっていた。その視線の先にいるのは無論、遥である。けれどそこにいる遥が浮かべているのは沖田も見たことがないものであった。

 それは全くの無表情であった。助けた筈の人々に裏切られたことへの悲しみや怒りもない、ただ無感動な顔。その眼はまるで底のない洞のようにひどく暗い。おおよそ今の遥のような状況に置かれている人間にはありえない表情。誰も何も言わない中で、その顔のままで遥が言う。

 

『あぁ、でも、少しでも助けられたならよかった』

 

 その言葉を最後に、沖田の視界が暗転した。ふいに感じた瞼の重みに目を開けてみれば、見えたのはカルデアの天井。夢の内容が内容であっただけに全く眠った気がしない沖田であったが、しかし彼女はサーヴァントだ。本来眠らなくとも行動できるため、それでも何ら支障が出ることはない。

 ベッドから出て寝間着を脱ぎ捨て、変異特異点αで遥に買ってもらった私服に着替えると沖田は自室を出た。そうして沖田の足は自然と食堂の方に向いていた。遥やエミヤ、タマモが作る料理の大半は沖田には物珍しいものばかりであったがどれも非常に美味であり、彼女にとって食事は毎日の楽しみのひとつでもあった。しかしその道中、ちょうど英霊召喚システムが敷設されている部屋の前でふと気になるものを発見した。

 まず初めに見つけたのは無数の傷が刻まれたアーマーと赤いフード――今は降ろしているが――を着用した褐色肌と白髪が目立つ長身の男。それが冬木にて抑止力によって召喚されていたアサシンであることは疑うまでもなかった。そのアサシンが数人のスタッフたちによる人だかりの隙間から部屋の中を覗き込んでいる。

 

「アサシンさん! どうしてここに? それに何ですか、この人だかりは?」

「あぁ、君か。いや、僕はついさっき遥……マスターに召喚されたんだ。で、この人だかりだが……何なのか知りたいなら自分で見てみるのが一番早いと思う」

 

 どこか苦虫を噛み潰したような表情でアサシンは含みのある言葉を放つ。それは不快というよりはむしろ困惑であるようで、沖田にはそれが如何なる感情に由来するのか分からなかった。

 アサシンは優秀な暗殺者である。高いランクで気配遮断スキルを保持することや身体の限界を無視して使用することができる固有時制御の宝具もそうだが、アサシンの優秀さを何よりも保証するのは感情に左右されない判断力だ。それは冬木で共闘した沖田もよく知っている。

 故に沖田にはアサシンが困惑しているということ自体が不思議であった。沖田はなおも何か言いたげな視線をアサシンに向けていたが、アサシンは何も言わない。そうして沖田は一礼してからアサシンの許を離れ、召喚部屋に入っていった。

 その部屋に蟠っていた数人のスタッフは沖田に道を譲るとそれを機会にその場を去り、それぞれの持ち場に戻っていく。続いて沖田はその視界に遥の姿を認めて先の夢がフラッシュバックしそうになるも、その直前でさらに衝撃な光景が飛び込んできたことでそれが妨げられた。

 

「は……? ()()()()()()()()()!? どういうことなんです、ハルさん!?」

「いや、俺もよく分かんないんだけど……なんか、アイリさんが召喚システムを使ったら、アイリさんが出てきた」

 

 全く沖田の問いへの答えとなっていない遥の言葉であったが、しかし目の前で召喚を見届けていた遥自身もまた何が何だかよく分かっていないようであった。対してふたりのアイリ――アイリスフィールと天の衣だけは全てを了解したかのように微笑みあっている。

 事は数十分前にまで遡る。聖杯を回収するという名目の許でカルデアに保護されることとなったアイリであるが、だからといって身の安全が完全に確保された訳ではない。いつか邪な欲望のために周囲を犠牲にしてでも聖杯を手に入れようとする英霊が召喚された場合、真っ先に狙われるのは特異点で回収された聖杯が保管されているレオナルドの工房か小聖杯であるアイリだ。

 加えて言えば、レオナルドは英霊であるため抵抗できるのに対し、アイリはただのホムンクルス。英霊に狙われれば抵抗することもできず、場合によっては人質にされる可能性もある。その最悪の事態を防ぐべく、カルデアはアイリのマスター適正を利用して彼女を予備のマスターとして登録し、護衛として英霊をひとり付かせることにしたのだ。しかし実際に召喚してみれば、こうして別な世界線のアイリが()び出されたという訳である。

 だが、考えようによってはそれも当然のことではある。英霊召喚とは特に目立った触媒がない限り召喚者本人の精神性に近いサーヴァントが召喚される。その点で言えば本人なのだからこれ以上ない精神性の近似だろう。或いは、アイリ自身が触媒となってアイリ自身を呼び寄せたのかもしれない。

 何にせよ、召喚者が別世界線とはいえ召喚者自身を召喚するというのは数多の神秘を目の当たりにしてきた遥をして完全に予想の斜め上を行く事態であった。しかしアイリたちは特に気にしていないようである。

 

「別に何も問題は起きてないんだし、良いんじゃないかしら。ねぇ、私?」

「そうねぇ。あぁでも、名前を呼ばれた時にどっちか分からなくなるんじゃない?」

 

 違う、そうじゃない。声を大にしてそう言いたい衝動に駆られる遥であったが、言ったところで恐らくアイリたちは聞くまい。それよりも問題であるのは、何故英霊どころか幻霊ですらないアイリが召喚されたのかということだ。

 実のところ、カルデアの英霊召喚システムについてはそれを扱っている遥たちでさえ熟知している訳ではない。この世界における聖杯戦争の召喚システムを基礎にしていることくらいは知っているが、逆に言えばそれだけだ。或いはそのブラックボックスの中に英霊ではないものを召喚するシステムがあるのかも知れない。

 当惑する遥たちの前で召喚された側のアイリ――天の衣が不意に真剣な表情を浮かべ、アイリの手を握る。

 

「ねぇ、(マスター)? もしもだけど、貴女が大切に思う人たちを助けられる力が手に入るなら、欲しい?」

「え……?」

 

 天の衣の問いに困惑した表情を見せるアイリ。だがそれも当然だろう。天の衣の問いはあまりに唐突で、そしてアイリの想像を超えていた。雪の城で鋳造され、聖杯戦争を生き抜いた。これまでのアイリの人生はたったそれだけで表すことができるほどに簡単だ。

 故に、アイリには誰かを大切に思うということがわからない。アイリと天の衣は別世界の同一人物ではあるが、それが最大の違いであった。天の衣はたった9年の生の中で誰かを愛するということを知り、最期まで母として、ヒトとして生きた。

 流れた時間は同じでも、アイリと天の衣では積み上げた時の密度が違う。悪い言い方をすれば第四次聖杯戦争まではアインツベルンという概念に流されて生きてきたアイリとは違い、天の衣はアインツベルンに居ながらにして自らの意思に因って生きた。であれば、積み上げた時の濃密さの違いは推して知るべしであろう。

 天の衣の問いに困惑するアイリであるが、天の衣の眼は優し気ではあっても真剣であった。その眼はアイリに問いから逃れることを許さず、答えを導き出すためにアイリは懸命に思考回路を駆動させる。そうして彷徨わせた視線は遥と沖田、そして僅かに顔を覗かせるアサシンに向けられて止まった。

 変異特異点αにて戦っていた彼らをアイリはただ後ろから見ているだけであった。このカルデアにはいないが、セイバーにもアイリは守られてばかりであった。それでアイリを疎ましく思う彼らではないが、それでもアイリには思うところがあった。ただ守られてばかりの存在だった自分が、少しでも彼らの助けとなることができるのなら。その思いが芽生えた刹那に、アイリの回答は決定した。

 戸惑いはある。けれど、それ以上にアイリには覚悟があった。未だ知らぬ筈の感情を根拠とするその感情は、果たしてそれを知る並行世界の自分自身との邂逅によるものか。或いは自覚がないだけで既に彼女も持っているのか。どちらにせよ、それがアイリスフィール・フォン・アインツベルンというホムンクルスが『ヒト』として下した初めての決断だった。その答えに安心したかのような表情で天の衣は頷く。

 

「そう……よかった。私はもう死んだ身。でも貴女はまだ生きてる。私も貴女にはまだ生きていてほしいもの。

 じゃあ、手を出して。そして私の手を握ってイメージするの。()()()()()()()()()。私と違って完成された小聖杯である貴女なら、それだけで充分」

「……わかったわ」

 

 アイリは天の衣の真意を測りかねたものの、言われた通り天の衣が差し出した手に自分の手を重ねた。対して黙って事の成り行きを見ている遥はアイリとは対称的にこれから起きるであろうことを全て承知したうえで見守っている。

 これから起ころうとしていることは、ある意味ではカルデアへの叛逆のようなものだ。とは言っても何ら規則に反する訳でも、死者を出す訳でもない。それはカルデアの歴史への叛逆だ。嘗てのカルデアが多数の犠牲者を出してたったひとりだけしか成功例を作り出せなかったものを、彼女らはいとも簡単に実行しようとしているのだから。

 アイリと天の衣の手が重なり合い、アイリが瞑目する。その瞬間、ふたりを中心として閃光が溢れた。その場にいる全員が無意識のうちに腕で眼を隠す。放出された魔力が遥のロングコートの裾を揺らした。そうして閃光が収まり、一同が目を開く。

 果たして、そこにいたのはアイリのみであった。数秒前にまでいた筈の天の衣の姿は何処にもない。しかしアイリはそれで狼狽するようなことはなく、何かを確かめるように何度か手を握る。姿がなくなったとはいえ、天の衣が消え去った訳ではない。

 天の衣がいるのはアイリの中だ。完成された小聖杯は魔力さえあれば望んだ結末を現実に具現化するという力を有する。ふたりはその能力を以て天の衣の霊核をアイリに移し、ふたりを合一化――つまり半英霊(デミ・サーヴァント)としたのである。

 アイリの体内に移された霊核が彼女の意思によって解放され、アイリの姿が一瞬にして変貌する。目に見えて高価な白いコートは豪奢にして流麗なる〝第三の具現(天のドレス)〟へと変わり、頭には冠を戴いている。

 

「――と、いうワケで……キャスターのデミ・サーヴァント、アイリスフィール。改めてよろしくね?」

 

 

 

 

――ハルカ。模擬戦をしましょう。

 

 そう言って休暇を利用して積みゲーを消化している遥の許を訪れたのは変異特異点βにて立香と遭遇し、その縁を以て新たに立香のサーヴァントとなった『剣士(セイバー)』のサーヴァント。月下美人、もといアルトリア・ペンドラゴンであった。立香曰く、そのアルトリアは反転した彼女と分けて〝アル〟と呼称されているらしい。その呼称を考えたのは立香だ。

 変異特異点αにレイシフトしていた遥は立香とは共に行動していなかったため月下美人であった頃のアルと戦った訳ではないが、既に記録映像でその戦いは見ていた。自身の身の丈ほどもある大剣を軽々と振るい、迫る5騎のサーヴァントを圧倒するアルの姿はまさしく圧巻とでも言うべきものであった。その時点での扱いで言えば、敵ながら天晴れというところである。

 無論その時の異常なまでの強さは体内に取り込んだ聖杯のバックアップに因るところが大きいが、それでもアル自身は非常に強力な英霊だ。仮に弱い英霊であれば、聖杯を取り込んだところで強くなりはすまい。元が強力な英霊であったからこその聖杯による強さなのである。マスターに与えられるステータス透視能力によると幸運を除くステータスは全てA以上。間違いなくAランクサーヴァントの1騎である。

 そんな英霊があくまでも英雄ですらない遥に興味を持つ理由が分からず、遥はすぐには答えを返さずに遊んでいたRPGをセーブし、ゲーム機の電源を切った。そうしてベッドから立ち上がり、アルを見る。アルはアルトリアより少しは身長が高いのか、見上げてくる瞳は少しばかり近い。

 

「……ほとんど初対面で模擬戦をしよう、とは。流石に驚いたな。まぁ、俺としてはいっこうに構わないんだけど……どうしてまた?」

「あぁ、すみません。聊か唐突でした。……実は、リツカから貴方は腕の立つ剣士だと聞きまして、居ても立ってもいられず……」

 

 申し訳なさそうにそう言うアルの前で遥がふむ、と唸る。遥がよく知るアルトリアは冷酷なようでいて、その実常に自らを騎士王として律している――戦闘スタイルはともかく――が、アルは多少感情に従って行動するきらいがあるらしい。

 だが、だからといってアルが自制心がないのかと言えばそれは否だ。要はサーヴァントとなったアルはアルトリアより『王』としての自分よりも『騎士』としての自分を強く自覚しているということなのだろう。故に遥が優れた剣士であると聞き、好奇心が沸いたのだ。

 遥としても立香から優れた剣士として紹介されたのは素直に嬉しいところではあった。遥は自身を魔術師である以前に剣士として規定している。故に己の剣腕にも一定の自身を置いているし、事実として遥は素の状態でも上位の英霊に匹敵するだけの剣腕を備えている。英雄の基準から見ても遥は十分に強い。()()()()()

 特異点での戦闘では率先して前線に立ちサーヴァントと戦う遥ではあるが、彼らと戦うことができているのは肉体と同化している分霊の存在があればこそだ。だが、それも本来の使い方ではない。遥が自らの血に施した封印が解ければ遥は己の力だけで英雄を相手取ることさえ可能だろう。遥の血は西暦以後でこそ相当な珍種(レア)だが、神代や神話まで遡ればごまんといる手合いだ。逆に言えばそれは遥は()()()()()()()()()()()()()ということもである。

 とはいえ、そんなことは今は関係がない。関係があるのはアルが遥に剣士として関心を抱いたという一点のみである。英雄に匹敵し得るだけの剣腕を備えたただの剣士と本物の英雄では格が違いすぎるが、それ以前にひとりの剣士として誘われたのならば遥に断る気は微塵も起きなかった。

 無言のままでアルの前を離れると、遥はクローゼットを開けた。そこに収められている無数の武器弾薬や魔術道具の中から遥が取り出したのは、整然と並べられた武具の中でひと際丁寧に仕舞われ、鞘に納められた一振りの長刀。遥は与り知らぬことだが、それは沖田が夢に見た遥の記憶にて遥が振るっていた刀であった。

 

「それは?」

「天叢雲剣とは別に俺の家に継承されてる予備の刀だよ。特異点では叢雲しか使わないから失念しそうになるけど、叢雲は誰にでも使う訳じゃないからな。不用意に秘匿してる神秘を露呈する訳にもいかないし」

 

 そう言いながら遥は鞘から僅かに刀を抜いた。部屋の明かりを受けて白刃が煌めき、それだけでアルが息を呑む。遥が予備の刀と言って取り出したその長刀は宝具でこそないものの、それに極めて近しい魔力と神秘を放っていた。

 それもその筈である。天叢雲剣を使うに値しない場面で夜桜家の当主が使用し続けてきたその刀は長い間神代の魔術の加護を与えられたことで半ば神剣や聖剣、魔剣に近しい性質を持つに至っている。加えて元来持つ刀としての格自体も宝具になんら劣るものではない。

 その刀に銘はない。だが俗世的な呼び名ならば存在する。その刀は歴史には語られず、而して確かに存在して夜桜家を支える一因を担ってきた。何代も前の、具体的に言えば鎌倉時代の夜桜家当主が当時の名工に依頼し、魔術的な支援を施して完成させた刀。――一般名詞的に言うならば、それの名前は〝正宗〟という。

 仮にカルデアに刀剣オタクがいれば卒倒するかどんな大金をはたいてでも買い取ろうとするほどの価値がある日本刀だった。あまりに書物に記述されていないために明治時代には実在さえ疑われた名工の作品は、確かに現代でもこうして優れた剣士の手で脈動していた。

 それを前にアルは確信する。遥は模擬戦だからうっかり殺したら不味いという理由で叢雲よりも格が低い正宗を持ち出したが、正宗は正宗で英霊を一撃で屠りうるだけの力がある。正宗は宝具ではない。聖剣でも魔剣でもない。けれどその刀はおよそ()()()()()()()()()()()()()()

 正宗を見たまま何か言いたげな顔をしているアルを見て、遥が苦笑する。

 

「勿体ない……って思うだろ? 俺もそう思う。でもさ、俺に流れる血が言うんだよ。叢雲(こっち)を使えって。ま、俺自身血に関係なく叢雲に選ばれた担い手だってのもあるんだけど」

「神剣の担い手……ですか」

「そ。ただ『使う』だけなら俺以前の夜桜家当主でもできたさ。同じ血が流れてるからな。でも『使いこなす』のはできなかった。それができるのは俺と……星の邪龍を斃した俺のご先祖様だけだ」

 

 その言葉は明言こそしていないものの、遥の正体をアルに悟らせるには十分に過ぎた。けれど遥が明言を避けている以上はアルも無理に問うことはしない。代わりにアルは口には出さず、その血について考える。

 アルの考えが正しいのなら、夜桜の血に含まれている人外の血は混血としてはおおよそ現代に残るものの中では最上級のものだ。本来ならば現代にまで残っている筈のないものではあるが、それは何かしらの魔術を使っていると見るべきだろう。それはいい。だが遥は魔術で多少血を封じているというが、果たしてそれは魔術で封印することができるものなのか。

 伝承保菌者(ゴッズホルダー)として夜桜家が代々継承している封印魔術は人間が扱う魔術を大成したとされるソロモン王が体系化した魔術ではなく、神霊から直接授けられたもの、要は神代に息づいていた神秘の一端そのものだ。そういう点で言えばアルの知る魔術と同列に見なしてはいけないのかも知れない。或いは神秘の規模や効力だけなら大魔術師マーリンが扱うそれに並ぶのかも知れない。

 だが遥に流れる人外の血に含まれる神秘は大半の魔術を凌駕する。今は封印できているのだとしても、いずれその封印が破られる時が来るだろう。命の危険を感じるか、理性を全て投げ出してでも身を窶したくなる激甚な憤怒によって限界にまで血が励起した時、遥に施された封印は意味を為さなくなるだろう。その時、遥は夜桜の血の本懐を取り戻す。

 いや、既に遥はそれを取り戻しつつあるのかも知れない。担い手であるということもあるが、普通人間には神剣は扱えない。神剣は聖剣や魔剣とは格そのものの桁が違う。神剣とはその名の通り神の剣。その格は神の領域にあり、それ故に神剣は聖剣などとは一線を画す存在なのだ。仮にただの人間が振るおうものなら神剣の宿す神秘に耐えきれずに死ぬだろう。

 それを遥が使いこなすこと自体は何ら反動はなくできている。それは遥が記録映像からアルのことを知っていたように、アルもまたそれを知っていた。礼装のひとつであるロングコートを着るなどして準備していた遥はアルが何やら黙考している様子であることに気づくと、自嘲するような笑みを見せた。

 

「……気づいた?」

「ええ。まあ。……すみません。邪推するつもりはなかったのですが……」

「構わねぇよ。この血があるからこそ今の俺があるんだから。……あぁ、そうだよな。俺は人間じゃないんだよ」

「え……?」

 

 半ば独白めいた遥の言葉にアルは反射的にそう言葉を返した。けれど遥はそれには答えず、茫洋とした視線で何処かを見つめている。その目に映っているのはこの遥の部屋ではなく、どこか別の場所であるようでもあった。

 ()()()()()()()()()()。それは紛れもない事実だ。無粋にも魔術師に対して現代科学の見地を持ち出すのならば遥は紛れもなく人間である。けれどそれは科学ではその血の神秘を図ることができないからだ。

 ありえない筈の血。在り得べからざる血。如何なる方法によるものか、それを維持し続けた一族の出であることを普通の魔術師であれば誇りにし、驕り高ぶるのだろう。そうして協会に目を付けられ、数多の犠牲を出した果てに封印指定となるのだ。

 遥がそうならないのは遥自身が協会とは利用し利用される関係にあるからでもあるが、何より遥の後見人の権力によるものである。両親の死後、何のつもりか縁も所縁もない遥の後見人になったのはかの宝石翁(カレイドスコープ)。その宝石翁が睨みを利かせているために各学科の君主(ロード)たちは不用意に遥を封印指定にできないのである。

 とはいえ、その宝石翁の恩恵も遥にとっては有難迷惑であるのかもしれない。いっそのこと協会から狙われ、世界各地で連日連夜封印指定執行者と戦闘を繰り広げる日々にあった方が良かったのかもしれない。それの方がまだ簡単に諦めが付いた。自分は人間ではないのだと。自分は決して人間の世界にはいられないのだと。それができなかったから、遥は『この世全ての悪(アンリマユ)』などという特級の反英霊からそれを叩きつけられる羽目になったのだ。

 遥は知らぬことだが、とある魔術師の妻はこう言う。『魔術師の家庭に俗世で言う幸せを望んではならない』と。それは尤もだ。ある意味、遥はそれを体現している魔術師であるとも言える。遥は生まれてから両親が殺されてからの数年間に感じた『幸福』を心の底に押し込めている。そんなもの、覚えていたところで辛いだけだ、と。故に遥は世にいう幸せというものを知らない。知ってはいてもそれを幸せと認識しない。それは遥は今の己を否定することになる。

 仮に遥がかつての己を振り返り、そこにあった幸せを思って両親を悼む日が来るとすればそれは遥自身が家庭を持った時だけだろう。尤も、遥はそんな望み、とうに棄てているのだが。――その独白を最後まで黙って聞いていたアルは、最後に大きなため息を吐いた。

 

「……ハルカ。それは私ではなく、沖田や黒いジャンヌに言った方がいい。貴方は内心を吐露する相手を間違えている。それは誰にでも言っても良いものではありません」

「え? 沖田かオルタ……? なんで?」

 

 遥は純粋な疑問を宿した表情でアルを見ている。それにアルは失望も呆れもしなかった。彼女の内心にあるのは、遥が他の魔術師然とした魔術師とはいささか毛色の異なる魔術師であるという評価だけだ。

 アルが沖田とオルタを例に出したのは何ということはない、ただ彼女らが遥に対してある程度の好感を抱いているのが分かるからだ。ふたりとアルは話したことはないが、映像を見ているだけでも分かる。それは愛だとか恋と言うにはかなり足りないものではあるが、十分それらになり得る類の感情ではあった。

 生前、アルの周囲にいた男たちは皆好色だった。ランスロットやトリスタンは言わずもがな、ガウェインもそうであったきらいがある。恐らくあまりそういうことに走らなかったのは真面目なベディヴィエールやそもそも女嫌いのアグラヴェインくらいだろう。故にアルにはわずかに優れた剣士にはどこか好色の気があると思っている節があった。そうでなくても遥は魔術師である。サーヴァントをただの使い魔と見なす魔術師であれば、サーヴァントを性欲の捌け口に使う者もいるだろう。

 アルは内心で密かに遥に対する評価を上方修正した。立香が凄い剣士だだの相棒だのと言っていたからある程度の信頼が置ける人物だとは思っていたが、アル自身の目で見て彼女は遥に対して一定の信頼を持つに至っていた。

 

「……まあいいでしょう。それよりも……私との立ち合い、受けてもらいますよ」

「あぁ、本題それだっけ。いいぜ、やろう。俺も、この頃溜まった鬱憤を晴らしたいんだ」

 

 そう言葉を交わしてふたりは笑みを覗かせる。それは或いは戦友となり得る者にのみ向ける剣士の笑みであった。

 

 

 

 

「――――フゥ……」

 

 数十分もの間絶え間なく続いていた報告が途切れた間に古代ローマ帝国第五代皇帝たるネロ・クラウディウスは大きなため息を零し、こめかみを抑えて玉座に座り込んだ。普段は皇帝として気丈に振舞っているが、今だけはそんなネロをして平時の気丈さを失うほどに疲弊していた。

 ここは西暦60年の古代ローマ帝国、その首都であるローマに聳える王城の王の間である。本来の歴史であればネロ自身による基督教徒への迫害などローマ帝国内部で湧き出る問題以外はこれといった問題のない〝ローマの平和(パックス・ローマーナ)〟と呼称される時代の最中にあって、ローマは完全にその平和を失っていた。

 その問題の大きさたるや、ネロの持病である頭痛がさらに悪化するほどである。その問題とは唐突にこの時代に蘇った歴代ローマ皇帝らによる〝連合ローマ帝国〟の出現とそれによるローマ帝国の侵略――だけではない。それも重大な問題であるが、ネロの目先に迫っているのはそれだけではなかった。

 連合ローマ首都と目される土地に屹立する()()()()()()()()()()()やそれを取り囲む城壁も今は気にならない。それだけ巨大な脅威がローマには迫っている。現在もその脅威はローマの目前にまで進行し、ローマ軍はそれの対応に従事していた。

 不幸中の幸いと言うべきはローマに迫るその勢力がローマ近くにまで来ていた連合ローマの勢力を一掃してくれたことか。無論何も安心できることではないのだが、ふたつの勢力が手を結ぶことはなかったのは数少ない安心材料ではあった。

 連合ローマと同じく、その勢力は最近になって唐突に表れた。加えてどれだけ斃しても一向に数が減らないときている。摩訶不思議とはまさにこのことであろう。加えてそれの首魁が死んだと聞かされていた者であるのだから、異様もここに極まれりだ。

 ローマに現れた〝第三勢力〟とでも言うべきそれらはローマ人以外の数多の部族によって構成された蛮族の軍。しかし蛮族であるというのに奇妙なほどに統制が取れており、連合ローマ軍・ローマ軍共に手を焼いている状況であった。だが考えようによってはその事態を引き起こしたのはネロ自身の不徳の致すところでもある。

 ネロは高飛車で傲慢かつナルシストであるが、他人と自分の違いを明確に分かる、所謂天才とされる人間でもある。そんなネロをして留められなかった現地総督による()()()()()()()()は致し方ないことであったのかも知れないが、それでもと思わずにはいられない。

 そうしてさらに渋面を深くするネロの脳裏を過るのはローマを蹂躙する蛮族の主の姿。恩讐の呪いを撒き散らし、黒衣を纏う()()()()()。その名は―――。

 

「――ブーディカ……」




一応弁明致しますと、遥は鈍感ではないんですよ。ただ自分が幸せになるということとそれに付随する事項を諦めきってるだけで。


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第44話 英雄の卵は色を知らず、されど少女らは色を好む

「──」

 

 変異特異点αから帰還して1日。特異点へのレイシフト前から遥から借りていたシリーズものの漫画を返しに遥の部屋を訪れたオルタは、そこで意外なものを見てふむと唸った。

 数十巻にも及ぶ漫画が詰め込まれたバッグを抱えるオルタの前では、この部屋の主でありオルタのマスターでもある遥が静かな寝息を立てて昼寝をしていた。普段はオルタが訪れた際には読書かゲームに興じているか立香に魔術を教えているかであったために、オルタには遥が昼寝をしているイメージがなかった。

 だが考えてみれば遥も人間である。腹が空けば食べ物を食べるし、眠りたくなれば眠るのである。多忙極まるカルデアのマスターともなれば、空いた時間に眠っておくのはむしろ賢い判断とも言える。睡眠不足は集中力の大幅な減衰を招き、それは時に死に直結する。

 物は試しと本棚の近くにバッグを置いてから頬をつついてみても、遥は身じろぎひとつしない。オルタの細い指が遥の肌を滑る。

 

「意外と綺麗な肌してるわよね、コイツ……」

 

 仮にこの場がカルデアではなく特異点であれば、オルタは遥に触れた瞬間に刃を突きつけられていただろう。遥は若いが戦士としては間違いなく一流である。そんな遥が戦場で気を抜いて眠っている筈はない。触れられても起きないほど安心して眠っているのは、ここが味方の本陣たるカルデアだからだろう。或いは、先日まで特異点という死地にいた反動かも知れない。遥は一向に起きる気配がない。

 起源の効力によるものか、遥の肌はシミどころか肌荒れひとつ見当たらない。サーヴァントであるオルタもまたそれらとは無縁だが、カルデアの女性スタッフからすれば羨望の的であろう。立ち振舞いはともかく、それだけならファッション誌のモデルと言っても通用するレベルだ。

 ボタンがひとつふたつ開いた寝間着の襟元から覗くのは見掛けによらず鍛え抜かれた胸筋。着やせするタイプなのだろう、エミヤやボディビルダーほどではないにせよ、それなりのものではある。それだけの筋力と身に宿る神秘があればこそ、遥は英霊相手に単機で勝利することができるのだろう。

 そこまで行っても遥に起きる気配はない。そんな遥の様子を前にオルタは妙な悪戯心に駆られ、それと共に沸き上がった異様な興奮にオルタは口の端を歪める。それはオルレアンで見せた竜の魔女としての邪悪なものであるようにも見えるが、それとは何かが決定的に異なっていた。

 オルタはジャンヌとは違って粗野ではあるが、物分かりに関してはジャンヌよりも良い節がある。遥のサーヴァントとなった今、以前のように無秩序に力を振るうことはない。そもそもジルの人形であった頃とは違い、今のオルタは憎悪の方向性が定まっている。故に遥にそれを向けることもなければ、それ以前の問題としてオルタが遥に向ける感情はもっと別なものだ。

 

「さて、呑気に寝てるマスターちゃんはどうしてくれようかしらね……?」

 

 悪戯っ子のような笑みを浮かべ、ワキワキと手を動かすオルタ。まずは鼻を摘まもうとしたが、しかしすぐにその手を止めた。見る限りは眠っている間の遥は簡単なことでは起きないのだろうが、少しでも死に繋がり得ることをされれば起きるに違いない。例え近づいているのが敵ではないオルタだとしてもである。

 いや、或いは──、と不意にオルタの警戒心に一縷の光明が指す。いかな戦闘慣れしている歳に似合わないほどの熟練した剣士である遥でも、よもや味方の本拠地においては余程下手な真似をしない限りは起きないだろう。そんな先の警戒とは相反する思考である。それはまるで悪魔の囁きの如き甘美な色を伴ってオルタの思考に割り込み、それを一瞬にして染め上げた。

 恐る恐る伸ばされたオルタの手が遥の髪に触れる。元はまるで夜空のような黒色だった筈の、今となっては見る影もないほどに白く変わってしまった髪。オルタはそれを一房手に取ると、手の中で弄んだ。肌と同じく男性にしては珍しいほどに艶やかな髪が枕に落ちる。それでも遥に反応はなく、それに気を良くしたオルタは更なる行動に出る。

 音をたてないようにゆっくりと動き、まるで押し倒したかのような格好で覆い被さる。吐息がかかりそうでかからない微妙な距離である。それでも遥は起きない。安心しきった寝顔を前にオルタが笑みを漏らす。いつもは自分たちの先頭に立って戦意に満ちた顔で戦う遥が目の前で無防備な姿を晒している。その事実がたまらなくオルタに征服感を抱かせる。

 男にしては線が細い、アルトリアや沖田と似た、けれどそのなかに戦場に身を置く男性特有の精悍さが宿る顔。手を滑らせてしまえば触れ合ってしまいそうな距離にオルタは自らの拍動が早くなったのを自覚した。まるで熱に浮かされたかのように身体が火照り、頬が上気する。伸ばされたオルタの手が遥の頬を撫でる。

 

「遥……私の、マスター……」

 

 譫言のように呟くオルタの距離は妙に艶やかだ。だがオルタ自身にその自覚はない。オルタはジャンヌとは違って現代的な感性を有するが、そういう点においては誰よりも素直ではない。自覚していれば誰の前でなくても隠していただろう。

 夜桜遥。オルタのマスターにして、たったひとりの共犯者。特異点と化したオルレアンにて同じ復讐者としてオルタと対峙し、彼女を撃ち取った剣士。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 異様な男だとオルタは思う。性格が、ではない。遥の成長速度がである。オルレアンにおいては互角だったオルタと遥だが、仮に今戦えば確実に遥が勝つだろう。遥の成長速度は常人のものではなく、まさしく英雄のソレだ。

 まるでヘラクレスがヘラによって十二の試練を課せられたかのように、クー・フーリンが単騎でコノートを相手取ったように、遥は人理修復を英雄に至るための試練として課せられた。オルタにはその確信があった。

 ではそれは何故、何のために? そんなことをオルタは知らないし、興味もなかった。例え遥の行く先に何があろうと、オルタはただひとりの共犯者の隣でその破滅を見届けるだけである。

 自覚のない沖田とは違い、オルタはその思いの由来を知っている。知っているからこそこのような行動に出ているのだ。だがオルタはその思いが成ってはならない、成る筈のないものであることを知っている。人間であろうがなかろうが、遥は生者であり、オルタは生者であることすらも許されなかった幻影なのだ。こうして手の届く位置にいたとしても、それまでだ。ふたりの距離はそれ以上に近くならない。なってはならない。ふとオルタの脳裏を過ったその言葉がオルタの思考を急激に冷やし、熱に変わって何か黒いものがオルタの胸中に流れ込んでくる。勝手に身体を動かす衝動めいたそれを、オルタは幻痛と共に呑み下した。

 気配が届きそうで届かない、息が掛かりそうでかからない。そんな距離がオルタに許された最接近距離(デッドライン)だ。そう自分に言い聞かせ、オルタが遥から離れる。そうして遥に向けて一瞥だけ投げて寄越すと、遥の部屋から出た。そこでオルタがひとつ大きなため息を吐いた時、横から声が飛んでくる。

 

「おや、オルタさん。どうかされましたか? 何かお悩みのようですが……」

「タマモ……いや、何でもないわよ」

 

 オルタと同じく遥によって召喚された反英雄であるサーヴァント、玉藻の前。彼女らは戦闘で組んだことこそないが、私生活で話したことがない訳ではなかった。むしろ同じ反英霊のよしみでカルデアにいるサーヴァントの中では比較的仲が良い。

 オルタはタマモに何も言わないが、彼女はタマモがその内心に気づいていることを薄々察していた。だが気づいたうででタマモは黙っているのだ。それはオルタのためでもあるが、同時に遥のためでのある。

 タマモ曰く、遥はタマモにとって仕えるべき主君であると同時に弟でもあるらしい。遥もまたいつの間にかタマモを『姉さん』と呼んでいるのだから、それは確かなのだろう。オルタは事情を知らされていないが、ふたりの間に何かがあることは分かる。それはオルタどころかジャンヌですら遠い過去に置き去りにしてしまったもの。所謂家族愛である。──尤も、遥がそれを自覚しているかは別の話であるが。

 タマモがあえてオルタに何も言わないのはそれがあるからなのだろう。他のマスターであればタマモは自らを良妻として定義するが、遥の前では例外中の例外として自らを姉として定義している。故にタマモはオルタに敵意を示すことなくこうして見守っている。それはオルタとしてもありがたいことではあるが、それ故に分からない。

 

「ねぇ、タマモ。おかしいとは思わないの?」

「……オルタさんは、真面目ですね」

「はぐらかすんじゃないわよ。……気づいているんでしょ?」

 

 オルタの問いにタマモは言葉を返さない。けれどタマモの笑みは言葉よりもなお雄弁にオルタにタマモの答えを物語っている。タマモはすでに、オルタが迷っていることについて明確にして確固たる答えを持っている。

 だがオルタはそう簡単に割りきることができない。タマモの言う通り、オルタは表面上こそ粗野だが根はこれ以上なく生真面目で潔癖だ。オルタは自らの倫理観に基づき、感情を交えずに越えてはならない一線を規定している。

 その一線を自らの意思で踏み越える。それだけの思いと覚悟はオルタにはなかった。果たして踏み越えたとして、その先にはきっと何もない。あるのは永遠の別れという出口だけだ。それはあまりにも虚しい。故にこそ、オルタはその感情を感情の泉の底に沈める。

 横からそんなオルタの様子を見ながら、タマモは嘆息する。今のオルタを遥が見ても、悩んでいることは知れても間違いなくその中身までは気づくまい。現代において最高峰の推理力と直感を持つ筈の遥が、である。

 何故なら、遥は自らの『幸福』を諦めている。今までの経験がそうさせるのか、或いは人の感性を持ちながら決定的に人間とは異なる精神がそうさせるのか、遥は自分を幸福の席から零れ落ちるべき存在だと思っている。自らの危険も一切顧みずにサーヴァントと戦うのがその良い現れだ。

 

(そんなことないんですよ……なんて、言っても無駄なんでしょうね)

 

 言って治るくらいならタマモはここまで悩まない。そもそも遥自身、そこまで屈折した性格になることもなかっただろう。遥は立ち振舞いや感性こそ常識人のようだが、実際は屈折しすぎて一周回ってむしろ常識人に見えるだけだ。このカルデアにいる者の中で遥が最も異常だと、タマモは断言できる。だからこそタマモは何も言わず、遥の姉として己を規定しているのだ。

 

「本当、ままならないものですねぇ……」

 

 そう呟いたタマモの声は誰にも届くことはなく、虚空に溶けた。

 

 

 

 現代科学と魔術の粋を結集して建造された研究施設であるカルデアだが、カルデアは何も何一つの娯楽もない実務一辺倒の施設ではない。その内部には巨大な体育館や図書館、カラオケなど一般的な娯楽施設が一通り揃っている。何せ場所が南極の山脈であるのだから、それだけ揃っていなければ職員のフラストレーションが避けられないのである。

 故に当然のことながらカルデアにはトレーニングルームも存在する。尤も、人理修復を少ないスタッフで支えている今、その部屋を利用するのはたったふたりのマスターだけと言っても過言ではない状態となっているのだが。

 そんなただ広いだけの空間にトレーニング機器が整然と並べられている部屋の中で立香はトレーニングに励んでいた。そうしてベンチプレスをメニュー通りの回数こなして休憩に入った立香にスポーツドリンクを持ったマシュが駆け寄る。

 

「お疲れさまです、先輩。よかったらどうぞ」

「あぁ。ありがとう、マシュ」

 

 そう言ってから立香はマシュからスポーツドリンクのボトルを受けとると、その中身を一気に喉に流し込んだ。相当に喉が乾いていたのか、一口呷っただけでボトルの中身が半分以上なくなってしまう。そうしてボトルをマシュに返し、額に張り付いた髪を立香が無造作にかき揚げた。

 飛び散る汗の飛沫。それだけではなく、汗が立香の首筋から黒いタンクトップから覗く胸板までを伝い、それを見たマシュが妙な背徳感とでも言うべき感覚に目を逸らした。立香はそんなマシュの反応に首を傾げるも、マシュは答えを返さない。マシュ自身、自分の感覚がどういうものか分かっていないのだ。

 立香はマシュの内心がわかったわけではないが、無理に聞き出すような趣味もない。マシュが言いたくないのなら立香はそれを問いただすことはしないし、言ってくれるならば必ず聞く。立香は近くに置いておいたタオルで身体を拭き、汗を処理した。

 立香がトレーニングルームにてトレーニングに励んでいるのは遥から指示されたからではない。遥は一方的に立香にトレーニングさせることは決してしない。要は自主トレである。立香は自分の力が今のままでは今後の人理修復に付いていくことが難しいことを自覚している。故にこうして自分にできる限りのことをしているのである。

 とはいえ、限界以上に己を追い詰めたところで得るものはないことも立香は理解している。そろそろ終わろうかと立香が畳んでおいたカルデアの制服を着る。そうしてマシュと共にトレーニングルームから出ようとした時、それより先に中に入ってくる者がいた。

 

「立香君、マシュちゃん、ここにいたのね!」

「アイリさん? どうしたの? 何か用──って、何、それ?」

「黄金の鞘、でしょうか。宝具のようですけど……」

 

 果たしてその場に現れたアイリが持っていたのは豪奢にして流麗、そして莫大な魔力を内包した黄金の鞘であった。普通ならばそんな大層なものを前にして卒倒はしないまでも驚愕するのだろうが、ふたりがそうならないのは感覚が狂っているからと言う他ない。

 何せ彼らの周囲には複数の宝具を所有するサーヴァントがいる他、立香の相棒である遥もまた生者でありながら宝具、それも宝具としては最強クラスである神造兵装たる神剣を所有しているのである。立香とマシュにとって、最早宝具とはそう珍しいものでもないのである。

 とはいえ、宝具を前にして彼らが特に何も思わない訳ではない。特にマシュがアイリが持つ鞘を前にして何か妙な胸騒ぎを覚えていた。自分はそれをしっているのに、どうしてか思い出せない。そんな違和感が胸中を支配する。そうして懸命にその違和感を探っているうち、マシュの口から彼女ですら与り知らぬうちに言葉が漏れる。

 

全て遠き理想郷(アヴァロン)……?」

「あら。マシュちゃん、知ってたのね? そう。この鞘の真名は全て遠き理想郷(アヴァロン)。かのアーサー王が持っていた伝説の鞘」

「アルトリアが……?」

 

 全て遠き理想郷(アヴァロン)。生前のアーサー王が保有していたエクスカリバーの鞘であり、ある意味ではエクスカリバーよりも重要な宝具である。その効力は所有者への無限の治癒力の付与と老化の停滞。分かりやすく言えば遥の起源が彼にもたらすもののと同様のものを与えるのである。

 アイリがそれを持っているのは他でもない、彼女の体内にそれが埋め込まれていたからである。彼女が元々いた世界の聖杯戦争においてアインツベルンはアーサー王を召喚するための触媒とするべく、この鞘を発掘した。そうしてアインツベルンに回収された鞘は聖杯として目覚めるまでアイリが生体としての機能を保つようにするため、アイリの体内に概念武装として埋め込まれたのである。それがアイリがカルデアに来るにあたり、共にカルデアに回収されたのだ。

 

「というワケで、はい、これ」

「え……? え?」

 

 唐突に全て遠き理想郷を手渡され、アイリの意図が分からずに立香がすっとんきょうな声を漏らす。だが立香はすぐにアイリの意図に気づき、驚愕した顔でアイリを見た。

 つまるところ、アイリは立香に全て遠き理想郷を使えと言っているのだ。確かに2騎のアーサー王と契約している立香であればアルトリアかアルが現界している限りは彼女らからの魔力供給により全て遠き理想郷の恩恵を受けることができる。

 加えて、立香はマスターだ。彼がいなくては彼のサーヴァントは現界を保つことができない。そしてカルデアの実働部隊の中で最も脆弱なのも立香である。無限の治癒力は確かに立香に与えるのが最適解であろう。

 しかし、だからといって素直に受けとることができないのもまた事実であった。どんな事情があるにせよ、全て遠き理想郷はもとはアルトリアやアルの持ち物である。果たして今の所有者から与えられたからといって、彼女らの与り知らぬところで受け取って良いものなのか。

 そうして立香が腕の中の全て遠き理想郷を見つめたまま思案していると、その内心を察したのか、アイリはどこか慈愛めいた感情の宿る表情で立香に言う。

 

「実はね、全て遠き理想郷を立香君に渡すように提案したのはアルトリアとアルなの」

「ふたりが……?」

 

 立香の問いにアイリは無言で首肯する。アイリとて、最初から全て遠き理想郷を立香に渡そうと考えた訳ではない。アイリがあまりに天真爛漫であるため周囲からは忘れられがちだが、アイリは一応貴族の令嬢であったのだ。弁えるべき事の順序は他人よりも弁えている。

 そうして全て遠き理想郷を前にしたふたりのアーサー王は、しかし共に首を縦に降ることはなかった。自分たちが使いたいのは山々だが、今は自分たちよりもそれを使うべき者がいる、と。高潔な精神を持つ騎士たちの王は自らの身の安全よりもマスターを優先したのだ。

 それは立香を憐れんでのことではない。彼女らは自らの主のことを第一に考え、その生存確率を少しでも上げるために立香に渡すことを提案したのだ。ひとえに立香への忠義と彼が()()()()()()()()()()という代償を受け入れるという信頼の下の判断である。

 無限の治癒力を得るということは、逆に言えば簡単には死ぬことができないのと同義だ。例えマシュとの契約による加護を貫通してくる苦痛を受けたとしても、全て遠き理想郷は無理矢理にでも立香を生かそうとするだろう。仮にそうなった時、立香は生存を諦めない。アルトリアたちのその確信を、立香は覚悟と共に受け入れた。元より簡単に死ぬ気など全くないのだから、そのために苦痛を受けることなどとうに受け入れている。

 

「……分かった。ありがとう、アイリさん。アルトリアたちにも、後でお礼を言わなくちゃね」

 

 そう言うと、立香は腕の中に抱えた全て遠き理想郷に視線を移した。伝説にまでも語られる伝説の鞘。所有者に不老不死にすら近しい力を与えるそれを、本来の持ち主であるアルトリアたちは自分が使うのではなく立香に与えた。それはどんな理由があるにせよ、その最たるものは立香に生きていた欲しいからという一点に帰結する。その事実が立香を奮い立たせる。これだけ忠義を向けられているのだから、それに見合ったマスターにならなければならない、と。

 励起した魔術回路から立香が魔力を流し、それに反応した全て遠き理想郷が淡い光を放った。そうしてわずかに浮き上がって半霊体と化し、吸い込まれるようにして立香の体内に消えていく。その瞬間、立香は自身の中で何かが決定的に変質したのを感じ取った。

 立香はカルデアにいる者の中では最も一般的な人間である。──否。()()()。この世界の彼だけが持つ魔眼のことを鑑みても、それを自覚していない時はまだ彼は普通でいることができた。だが魔眼を自覚し、魔術の知識を付け、こうして宝具を与えられた。果たしてそんな人間を一般人と言うことができるのか。絶対に否である。しかし立香には自らが一般を逸脱したことへの感慨はなかった。それが何を招くにせよ、全て立香自身が望んで行ったことの結果であるのだから、感慨を抱くのは間違っている。それに、一般を逸脱したところで立香が『藤丸立香』でなくなる訳ではないのだ。

 身体の調子を確かめるように立香が何度か手を握る。無限の治癒力を与えるという謳い文句は嘘ではないようで、先程まであった疲労感が嘘のように消失している。まるで何か非合法の薬物を接種したかのような異様な感覚に、立香が苦笑いを漏らした。だが、これは十分に有用な効果である。違和感にさえ慣れてしまえば、の話ではあるが。続けて立香が身体を動かしていると、不意にアナウンスが入った。

 

『立香君、遥君。至急、管制室まで来てくれ。次の特異点についてブリーフィングをしたいんだ』

「ブリーフィング……ちょっと行ってくるね」

 

 

 

 果たして、ロマニが召集したブリーフィングは古代ローマと聞いた遥が突如として大興奮しながらサムズアップしたことを除いて特に問題もなく段取り通りに進行した。

 第一の特異点たるオルレアンに続く次なる特異点の座標は西暦60年の古代ローマ帝国。年代的に言えばローマ帝国歴代皇帝の中でも暴君として名高いネロ帝の治世ではあるが、ブリタニアのイケニ族女王であるブーディカが反乱を起こしたこと以外には特に目立った出来事もない年である。

 相も変わらず特異点化の原因である聖杯の位置は特定できていないが、それについては遥は元から期待していない。それは何もカルデアのスタッフを信頼していないとかそういう訳ではなく、単純に敵の強大さを過小評価していないだけである。人類史の悉くを焼却し尽くすような相手がよもや簡単に聖杯を観測されるような不手際は犯すまい、と思っているのだ。

 レイシフト決行は明後日。レイシフト先はレイシフト後の行動の容易さなどを考えて首都ローマ付近に設定すらしい。スタッフたちが必死になってレイシフトの調整を進めている横でブリーフィングを終えた遥は自室に戻る立香と別れて食堂へと来ていた。今夜の夕食の仕込みのためである。献立はジャンヌやオルタ、スタッフのひとりであるムニエルの故郷であるフランスの郷土料理だ。

 台所での戦仕度であるレオナルド製の黒いエプロンを着用し、エミヤが投影した調理器具を引っ張り出す。そうして冷蔵庫から食材を取り出そうと遥は冷蔵庫に手を掛けると同時、遥の耳朶を打った。

 

「あの……ハルさん。少し相談よろしいですか?」

「マシュ? 別に良いけど……少し待っててくれ。コーヒーでも淹れよう。その辺に座って待ってろ」

 

 そう言うと、ハルかは台所の棚を開けてコーヒー豆を取り出した。それは別に遥が持ち込んだものではないが、相当な高級品である。流石極限の閉鎖環境であるだけあって、こういった嗜好品は相当数の備蓄があるのだ。

 手慣れた動作で手際よくコーヒーを淹れるその姿はさながらバリスタのようである。遥は魔術師であるためその剣腕や魔術の才ばかりが目立つが、本来得意としているのはこういったものである。

 そうしてふたり分のコーヒーを淹れ、うちひとつをカウンター席に座ったマシュに渡す。マシュはまるで初めて見るものを前にした幼子のような動作で恐る恐るコーヒーをひと口呷ると、驚いた顔でそれを見つめた。

 

「美味いだろ? 豆が良いってのもあるけど、俺自身こういうのの腕前は誰にも負けないって自負してるからな。……で、相談ってのは?」

「はい。実は……私、とてもイケナイ女なのかも知れないんです」

「……んん?」

 

 あまりに予想の斜め上をいくマシュの言葉に遥が思わず声を漏らす。遥としては剣術や魔術の教授か料理の指南といった遥の得意分野に関する相談が来ると思っていたのだが、完全に不意を突かれた形となってしまった。

 しかしよく見れば、マシュは少し頬を赤く上気させていた。どうやらマシュの言葉は過剰ではあるがあながち的外れでもないらしいことを察し、遥が指を鳴らす。それによって魔術が起動し、食堂の扉がロックされたうえに完全な防音空間と化した。夜桜に伝わる魔術の完全無詠唱行使。遥の得意技である。

 迷った挙げ句に先の言葉を口にしたのであろう。さらに顔を赤くするマシュの前で遥は思案する。マシュの言わんとしていることは何となく分かるが、それが当たっているとすると遥はマシュの相談にのることができない可能性がある。

 

「……はぁ。イケナイ女ねぇ。また何で?」

「それが……」

 

 遥に問われ、少しずつマシュが事の次第を語り出す。曰く、先程までマシュは立香の自主トレに付き合っていたのだが、その立香が汗に濡れた姿を見て一瞬妙な気分を抱いてしまったらしい。

 それだけ聞けば遥がマシュの抱いている感情が何であるか察するには十分に過ぎた。遥はその感情を知らないが、話には聞いたことはある。要は遥は理屈からマシュの感情に迫ったという訳である。

 マシュが一瞬妙な気分になったというのは、あくまでも切っ掛けに過ぎない。その感情は元からマシュの中にあって、今回のことでそれが芽を出したのだ。それに気づいた遥は少し逡巡すると、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。

 

「えー、オホン。……素晴らしい! マシュ、お前は今日、ようやく欲を得た」

「欲……ですか?」

「そう、欲だ。欲望こそ俺たちが生きるためのエネルギー! ……まぁ、なんだ。マシュ。お前は立香から欲望と、それより大きな色彩を貰ったってことさ」

 

 マシュの相談が遥の予想の斜め上を行っていたように遥のその言葉もまたマシュにとって意外だったのか、マシュが目を点にして遥の言葉を反芻する。或いは単純に遥らしからぬテンションに面食らっただけなのかも知れないが。

 人間は見たいようにしか世界を見ない。それは言い換えれば、人間は欲望を通して世界を見ているということである。そう言うと些か聞こえが悪いが、しかし欲望がなければ世界を味わうことができずにただ色のない無色透明の世界で生きることしかできないということでもあるのだ。欲望のない世界はあまりに無感動で、色彩がない。以前のマシュはそれだった。

 今までカルデアの外に出ることができなかったこともあろう、マシュはあまりに『良い子』に過ぎたのだ。明確な欲望を持たず、自らの意思のない都合の良い実験試料。悪い言い方をすれば、以前のマシュはそれだった。だが今は違う。少なくともマシュは今、遥の前で欲望を見せた。人間の根底にありながら、決して自らに終始しない欲望。──即ち、恋を。

 

「欲望……私が先輩に抱いたのは、それなんですか?」

「何かそう言うと本当にイケナイ娘みてぇだが……間違ってはいないかな。ただ、マシュのそれは自分のためだけにあるものじゃない。立香を思うが故のものだ。違うか?」

 

 マシュが立香に抱いたそれがマシュ自身の内で終始するものであれば、それは恋ではなくただの性欲にしかなり得ない。それもそれで欲望ではあるが、遥はそんなものの吐露など聞きたくないし、簡単に解答を投げ渡していただろう。

 恋、と一言で言えば済む話ではある。しかしその言葉が内包するものはあまりに人間的で複雑だ。それは確かに欲望だが、自らの内で終始するものではない。時として自らの保護という本能さえ超越するそれを、どうして自分のためだけと言うことができるだろうか。

 恐らくマシュが立香にそれを抱いたのは、あくまでも立香がマシュにとって初めての『先輩』であるからなのだろう。それは雛鳥が初めに見たものを親と思い込むようなものだ。英雄が戦いに身を置くようなものだ。しかしマシュの場合、そこに彼女自身の意思が介在しない訳ではない。故に遥はマシュに解答そのものを投げて寄越すようなことはしない。他人から一方的に解答を渡されてしまえば、それは一瞬にしてただの欲へと堕する。

 

「マシュはもっと我が儘になって良いんだ。立香を見ろ。アイツ、善良一辺倒なようで意外に強欲だぜ? 何せ人類史をまるっと焼却するような奴に『オレが生きたいんだからお前は引っ込んでろ』って言ってるようなモンだからな、アイツは」

 

 そう言う遥にマシュはそうですね、と言って微笑む。そんなマシュを前に遥は何故かひどく苦く感じるコーヒーを喉に流し込み、眩しそうに目を細めた。

 以前、遥はロマニに自分とマシュは同類だと言った。それは紛れもない事実だ。愛によって産み落とされた身体であるか否かという違いはあれど、彼らは何らかの目的によって生み出された存在である。それ故にマシュは遥にとって、ある種妹のようなものであった。だからこそ、遥はマシュを導く。彼自身未熟なのは理解しているが、できる限りのことをしようとしている。

 妹のような存在ということもあろう。過去の自分を見ているようということもあろう。だがそれ以上に、遥は──

 

──マシュに、そして立香に、幸せでいて欲しいのだ。



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第45話 残影、罪過の在処を問う

「やあぁぁぁぁっ!!」

 

 カルデアにいくつか備えられた超高性能シミュレーションルームのうちひとつ。今は1世紀頃の古代ローマ様式建築によるものと思しき闘技場に設定されたその部屋に立香の裂帛の気合が轟く。相手への威嚇と言うよりは自らを奮い立たせるためのそれを真正面から受けるのは遥だ。

 着用型の礼装であるカルデア戦闘服に記録された強化魔術を自らに付与して駆ける立香が振り上げるのは日本刀。触れれば敵の肉を断ち、死に至らしめる本物の刀である。対して立香と相対する遥は礼装こそいつもと同じだが、得物である叢雲を握っていない。遥の手にあるのは彼の改造によって魔銃と化したハンドガン1挺だけである。

 両手で構えた長刀を遥に向けて縦横に振るう立香。その動きは遥のそれに比べれば不格好ではあるものの、素人のそれではない。定まった術理もなく本能のままに振るわれていながら決して惰弱に堕ちないその動きは、半ばスパルタじみた遥の特訓と立香の高い適応力の成果である。だが無論、その剣筋は熟練者のそれではない。剣道の有段者などにはすぐに見切られてしまうだろう。

 故にその刃が遥に触れることはない。遥は立香の振るう刀の軌道を完璧に見切り、その全てを避けて見せている。それも強化魔術など全く行使せずに、である。礼装の出力を最大にした立香の超常の剣速を前に、遥は余裕を保ち続けていた。

 立香の振るう刀は遥の肉を抉ることはなく、剣先は虚空を滑るばかりだ。元よりそういう確信があって真剣を使っているのだが、こうも回避されてしまえば白熱もする。強化を全開にして地を蹴り、刀を大上段に振り上げる。しかしその直後、立香の視界が反転した。

 

「えっ――?」

 

 突如として回転する視界。立香がその原因が遥に左腕1本でいなされ、投げ飛ばされたことだと理解したのはその数瞬後のことである。だが背中に奔った痛みに呻く暇すらも立香には与えられず、ハンドガンの照星が立香を捉える。続けて遥は2度ほど発砲するが、しかし立香は視神経まで強化していたことでそれを見切った。

 遥は剣士だ。我流ではあるが当然のように剣術を修めているし、剣術の基本は最早本能に等しいほどに身体に染み付いている。だが遥はそれだけではなく、剣を振るうために必要な体術も習得している。故に未だ稚拙の域を脱しない立香の動きを完璧に見切って投げ飛ばすなど、遥にとっては造作もないことである。

 遥に背を見せないように後退りしながら立香が立ち上がる。遥にとってはそれも致命的な隙に見えるのだが、あえて攻撃することはしなかった。そもそもその気になれば立香の防御などいつでも崩して気絶させることができるのだが、これは立香の特訓である。遥はできるだけ受けに徹し、それでいながら立香の攻撃を全ていなすつもりでいた。

 挑発するように遥は右手の人差し指を動かして立香に向ける。流石にそんな安い挑発に乗るような立香ではないが、だからといって攻め込まない判断は許されない。口の中に溜まった唾液を飲み下し、立香が地を蹴る。刀は左の腰だめに。その時点で立香が逆袈裟に斬りつけるつもりであると悟った遥は、それを魔銃で受け止めた。

 この特訓の最大の目的は立香の戦闘能力向上ではなく、サーヴァントが戦闘時にどういった動きをしているのか掴むことにある。だがそれを掴もうにも基本を押さえていないことには叶わないため、遥は立香に基本だけは教えていた。故にここまで立香が見切られる最大の要因は基本を押さえていないことではなく、その剣速にある。いくら強化によって剣速を増そうと、達人を超えて英雄にすら近しい遥には通用しない。

 立香が執る刀を涼しい顔で躱し、時に魔銃で受け止める遥。しかし遥は一瞬だけそのパターンを崩し、振り下ろされた立香の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。想定外の行動に立香は対応できず、遥の方に倒れこむ。そうして遥はすぐに身を屈め、立香の胴に体当たり(ボディブロー)を叩き込んだ。その衝撃で立香の肺から無理矢理に空気が押し出され、立香が喘鳴を漏らす。

 さらに遥は吹き飛ぶ立香の身体をもう一度掴み、背負い投げの容量で立香を地面に叩きつけた。吸い込もうとした空気が再び肺から押し出され、酸素不足に陥った脳が悲鳴をあげる。それでも立香はマウントを取られている状況を打破しようともがくが、遥の腕は全く動かない。当然だ。いくら立香が全力で強化を掛けようと、膂力は遥の方が上なのである。

 その状況を覆すべく立香は数瞬のうちに思考を巡らせると、握った刀を逆手に持ち替えて遥の腕に向けて振るった。遥はその立香の行動をある程度予測していたのか、特に慌てることもせずに立香から距離を取った。その気になればただの刀など素手で受け止めることもできるが、それをしてしまえば立香の特訓の意味がなくなってしまう。

 遥の拘束を解いた立香はすぐに立ち上がり、魔術回路に流れる魔力を身に纏うカルデア戦闘服へと流した。それによって起動したのは強化とは別に組み込まれた魔術。起動した術式が魔力を呪いに変え、弾丸の如き速度で打ち出された呪いが虚空を薙ぐ。

 

「これ、ホントにガンドかよ……」

 

 ガンド。元は北欧に伝わる呪いの一種であり、指した対象に対して軽い呪いを掛ける程度の魔術である。本来ならばそれを弾丸のように物理的な干渉力を持つにまで高めることができるのは、一部の力ある魔術師のみなのだ。それをカルデア戦闘服は魔力を流すだけで行使できる。まさしく驚異的と言う外ない性能である。何せどれほどの素人であろうとガンドだけならば実力のある魔術師と同等に行使することができるのだから。

 しかし、所詮は扱っているのは素人である。弾速や狙いは熟練者のそれと比べればまだ甘い。遥はハンドガンをホルスターに戻すと、拳に強化を施して煉獄の焔を宿らせて飛来するガンドに叩きつけた。呪いの塊であるガンドは煉獄の焔の前に消滅せしめられ、遥に着弾することはない。

 続けて遥は煉獄の焔を掌で収束させ、あえて立香に直撃する軌道で火炎弾を打ち放った。立香はそれに対応するべく渾身の魔力を込めてガンドを打つ。だが煉獄の焔の塊である火炎弾はガンドに滅法強く、ガンドは無慈悲にも霧散してしまう。立香に着弾した火炎弾は内包する膨大な熱量を以てカルデア戦闘服の一部を焼き焦がしてしまう。

 レイシフトという、魔術師をある種の極限状況に送り込む技術を持った組織が作った最先端の礼装であるだけあって、カルデア戦闘服の性能は非常に高い。記録された魔術の性能もさることながら、防護服としても機能するのだ。おおよそ人間の身体が耐えられない温度からでも人体を守るというのだから、まさしく現代科学の粋と言って差し支えないであろう。

 それを遥の焔は容易く焼き焦がした。それは遥の焔が高温極まるということもあろうが、何よりそういう〝概念〟を持っているからだった。原典における煉獄としての性質も持ち合わせている遥の固有結界は人間の〝業〟を焼却する。故に遥は人が作り出したものに対して若干の特効性能を有するのである。

 続けて放たれる遥の火炎弾。先のガンドが通じなかったのを認めた立香はすぐにガンドの術式を停めて代わりに強化を全身に付与し、火炎弾の射線から逃れるべく走り出した。遥は立香のその動きに対応して進路を塞ごうとするも、すぐに考えを改めて立香の背後、彼の後を追うようにして火炎弾を打ち放つ。

 降り注ぐ焔の雨を強化された反射で掻い潜り、遥へと肉薄する立香。だが立香が遥を自らの間合いに捉えたことを認識した途端、立香の視界が再び反転した。接近してきた立香を遥が足払いと腕の動きだけでだけで転がしたのである。火炎弾の軌道を変えたのも、立香の動きを誘導するためだ。要は追い込み漁である。

 地面に倒された立香はなおも立ち上がって戦おうとするも、遥はそれより早くに立香の喉元に魔銃を突き付けてその動きを封じた。さらに刀を握った右腕を尋常でない握力で締め上げる。遥が立香に勝利するにはそれだけで十分だった。立香がまるで降参でもするかのように刀を手放し、右腕に合わせて左腕を上げる。それに遥が笑みを漏らすと、拘束を解き魔銃を離して立香へ手を差し出した。その手を掴み、立香が立ち上がる。

 

「やっぱり強いな、遥は」

「そりゃ色んな奴と戦ってきたからな。ここ最近特訓を始めた奴に負ける訳はねぇさ」

 

 一見すると立香を小馬鹿にしているような遥の言葉だが、実際はそうではない。そもそも遥は剣士であり、自分の腕にはそれ相応の自信がある。それなのに変に謙虚になってしまっては、それこそ立香を馬鹿にする言葉となろう。

 遥と比べれば立香は弱い。仮に本気で立香が殺しにかかってくることがあろうとも遥は無傷で対応できるだろう。しかし、だからといって立香が弱者である訳ではない。立香の才覚は戦闘方面では凡庸であるものの、その真価は統率者としてのものだ。つまり立香は指揮官タイプの人間なのだが、本人が戦い方を知らないのに適切な指示が出せる筈もない。遥が立香の相手をしているのも、要はそういうことだ。

 地面に落ちた刀を拾うや、遥はそれを無理矢理に折った。それだけでエミヤによる投影品である刀は存在を維持できずに魔力の光となって消滅した。

 

「それで、どうだ? カルデア戦闘服の使い心地は」

「動きやすさは問題ないよ。でもさ……レイシフト先で常にこれ着てる気にはならないよね、正直」

 

 言いにくそうにそう言う立香の言葉に苦笑いをしながら遥が首肯する。ふたりの会話はカルデア戦闘服を開発したカルデアの研究者たちに対しては失礼千万であるが、しかし致し方ないことではあった。

 カルデア戦闘服の見た目を一言で言うならば〝全身タイツ〟である。しかし同じような格好のクー・フーリンと比べると様々な機能を積んでいる弊害なのか、聊か野暮ったい印象を受ける。それ以前に市井に入り込むという点においてはカルデア戦闘服にはかなりの不安要素がある。

 とはいえ、カルデア戦闘服の性能は折り紙付きだ。搭載されているガンドも対魔力のある相手には通用しないが、一般兵程度なら防具を貫いて絶命させるに余りある威力がある。戦闘力の低い立香にとって、その有用性は非常に高い。

 そこまで考えて、遥は失念していた事項を思い出して魔銃を腰のホルスターから外して立香に差し出した。その行動の意図が掴めず、立香が首を傾げる。

 

「これは?」

「〝FN Five-seveN〟。俺が持ってる銃のひとつを()()()()()調()()()()()()。持っておいてくれ」

 

 FN Five-seveNはベルギーにてP90用のサイドアームとして開発された自動拳銃である。使用弾薬は5.7×28mm弾であり、低反動ながら非常に貫通力が高い。日本においては某ライトノベルの主人公の装備であることが知られているくらいでトカレフなどと比べればさして有名でもないが、遥は低反動という点――そして宣伝文句の割に敵を殺しにくいという点でそれを立香の装備に選んだ。

 しかし立香はそれをすぐに受け取ろうとはしない。それも当然のことである。元一般人である立香にとって拳銃とはある種〝殺人〟という言葉の具現であり、事実としてそれは間違っていない。拳銃に限らず兵器とはヒトが自分と同じ姿をした二足歩行の獣を殺すために生み出されたものだ。立香が忌避するのも当然のことである。

 それを承知のうえで遥は立香にそれを差し出したのだ。立香の性格を把握し、彼の感性を理解し、その信念を知ったうえでも遥は立香にそれを渡すことを良しとした。

 何も遥は立香に誰かを殺せと言っているのではない。身を守ってくれるサーヴァントを信用するなと言っているのでもない。要は覚悟の問題である。遥は立香に対し、サーヴァントのマスターとして()()()()()()()()覚悟をしろと言っているのである。そしてそれは誰かを殺める覚悟をするのと同義であり、命を背負うという行為そのものである。

 その言葉は立香の逃げ道を完全に防いでしまった。それを受け取らないということは即ち、敵を他者に殺めさせておいてその責任も果たさない卑怯者と己を定義することに等しい。半ば強引なやり口に呆れのため息を吐きつつ立香がそれを受け取った。遥の言葉通りにファイブセブンは立香用に調整されているらしく、グリップから伝わる冷感が嫌にはっきりとしている。

 その感覚に立香が苦笑いを漏らす。それと同時、シミュレーションルームの扉が開いて外からひとりのサーヴァントが入ってきたレオナルドである。

 

「やぁ、ふたりとも。お取込み中のところ、失礼するよ」

「ダヴィンチちゃん? どうしたの?」

「ちょっと遥君に用があってね。これを見てもらえるかい、遥君?」

 

 そう言ってレオナルドが差し出したのは何らかのデータが表示されたタブレット端末であった。遥がそれを受け取って立香と共に画面を見てみれば、そこに表示されていたのは遥の愛車である装甲騎兵(モータード・アルマトゥーラ)であった。但し、それはただの装甲騎兵ではない。

 簡単に言えば、それは装甲騎兵用の追加パーツ案であった。レオナルドによって改造されたバイクである装甲騎兵は多くの状況に対応するため、実際はレオナルドが好き勝手に弄り易くするために比較的容易にオプションパーツを脱着できるようになっている。

 一見するとレオナルドが遥に見せたその強化案はただのサイドカーである。特徴的であるのはその大きさくらいのもので、一般的なそれよりも少し大きい。物資の運搬に使える他、エミヤを乗せれば移動砲台としても運用できるだろう。遥がそのデータを見ながらそう考えていると、レオナルドが誇らしげに言う。

 

「そいつはただのサイドカーじゃないぜ? なんと変形するんだ!」

「変形……?」

 

 何か嫌な予感がして遥は追加パーツ案が表示されている画面を横にスライドした。すると表示が変わり、先程レオナルドが言った〝変形〟した後らしきものが現れた。その瞬間に感じた既視感に、遥が思わず吹き出す。

 レオナルドによって〝バトルモード〟と銘打たれたそれは、謂わば装甲騎兵の戦闘形態である。サイドカーは中央辺りでふたつに割れて足になり、本体側に取り付けられたパーツが展開して魔術砲台になるらしい。更に馬力もサーヴァント並みにあるというのだから驚きである。

 だが何より驚いたのはその形状であった。呆れて開いた口が塞がらないといった様子の遥であったが、すぐに復帰するとタブレット端末をレオナルドに返しながら苦笑を浮かべる。

 

「で、コレどうするんだ? 本当に造るのか?」

「え? もう造ったけど」

「まさかの事後承諾!?」

 

 一体レオナルドがいつ造っていたのか訝しむ遥であったが、すぐにそれが自分たちが特異点修復に従事している間だと気づいた。元より装甲騎兵は半ばレオナルドの趣味で改造されたもの。例え現物がその場になかろうとも追加パーツを造ることくらいは造作もないのだろう。

 加えて恐らく次の特異点では戦場の只中に飛び込むことになる。そういう点で言えば火力重視の装備は有用と言えるだろう。そもそも装甲騎兵は『騎兵(ライダー)』のサーヴァントにでも追随できるように造られているのだから、火力さえあればサーヴァント戦でも武装として使えるだろう。

 しかしそれ以前にまず次なる特異点で装甲騎兵を使う機会があるのかが問題である。特異点は修復さえすれば大半のことはなかったことになるため歴史への影響はないが、そもそも装甲騎兵は市街での使用を前提に造られたもの。長距離行軍もできなくもないが、大きな駆動音を立てる乗り物を使うのは自ら敵性サーヴァントに居場所を晒しているようなものである。

 

「とりあえず、装甲騎兵については保留で頼む。現地で必要になったら連絡するから、すぐに送れるようにはしておいてくれ。追加パーツについてはその時に」

「りょーかい」

「それじゃ、俺たちはこれで。レイシフトの時にまた会おう」

 

 それだけ言うと、マスターふたりは元の状態に戻ったシミュレーションルームから出て行った。

 

 

 

 遥と立香によるシミュレーションルームでの特訓からおよそ3時間後。カルデア最後のマスターたちとそのサーヴァントたちは生前とコフィンが並ぶ管制室へと集結していた。最近3人目のマスター兼2人目のデミ・サーヴァントとなったアイリはここにはおらず、必要になった時にレイシフトする手筈でいる。

 全10騎のサーヴァントは皆それぞれ1回ずつ霊基再臨を済ませたことで霊基強度が上昇し、ステータスが向上している。加えてマスターたちもまたこれまでの特異点攻略で練度をあげている。コンディションは最良と言って良いだろう。

 遥の装備もまた以前までのそれではなく、新たな防御術式を付与した愛用のロングコートの他、クローゼットの肥やしと化していた〝無銘正宗〟を叢雲と共に帯刀している。長刀2本での二刀流である。立香も腰のベルトに遥から渡されたファイブセブンを携えていた。

 立香は戦士ではないが、銃器の扱いに関しては全く経験がない訳ではない。遥は立香に施していたのは魔術の授業や肉体改造(トレーニング)だけではなく、そういった武器を使った護身術も含まれている。流石に歴戦の兵士程にはなっていないものの、一般兵程度に後れを取ることはないだろう。

 あくまでも一般人的気質しか持ち合わせない立香に銃器を所持させることは遥としても心苦しくはある。しかしある意味では立香が護身用の装備を持つことは当然でもあるのだ。立香は元々マスターになる筈ではなかった一般採用枠の人間だが、その役目はれっきとした職員としての職務だ。決して弾除けや肉壁ではない。故に本来ならば身を守る術がなかったはずの立香には銃器が渡されていてもおかしくはないのである。

 要は遅いか早いかの問題であって、立香がそれを持つことは規定事項のようなものなのだ。だからこそ、ロマニは気づいていながら何も言わないのである。ロマニは平時のゆるふわ医療部門長としての表情ではなく、所長代理としての真面目な顔で口を開く。

 

「……さて、これで全員集まったね。それじゃあ今回のミッションのおさらいをしようか」

 

 ロマニがそう言った直後、彼の背後に半透明の地球儀が浮かび上がった。観測された特異点を表す黒点は相も変わらずイタリア半島にある。続けてロマニが告げた情報は前回のブリーフィングでのそれと目立った違いはなかったが、ひとつだけ付け加えられたものがあった。

 前回のオルレアンにおける同時レイシフトの際はレイシフト実行時の座標のズレを修正できずに遥と立香は離れた位置に出てしまったが、今回はこれまでのレイシフトで収集されたデータを反映してレイシフト先の空間が余程乱れていない限りは座標が自動修正されるようになっているらしい。

 レイシフト予定地は首都ローマ付近。レイシフト完了後は現地勢力に協力するか野良サーヴァントと合流するかのどちらかと目標に行動することになる。無論、遥達だけで解決できるのならそれに越したことはない。尤も、そんな可能性を真っ向から信じるような破滅的な楽天主義者などこの場にはいないのだが。

 

「事前情報はこんな感じだね。……もうレイシフトの準備はできてる。でもその前に、ボクからこれだけは言っておこう。……死ぬなよ」

「勿論」

「誰に向かって言ってんだよ。たとえ這いつくばってでも生きて帰るさ」

 

 どこか悲壮な響きを伴ったロマニの言葉に立香と遥はそれぞれに言葉を返す。そうしてふたりは軽くロマニの肩を叩くと、慣れた動作でコフィンの中に入っていく。マスターの搭乗を感知したコフィンの扉が閉まり、駆動音が響く。それを外から見遣り、ロマニがため息を吐いた。それは何も疲れからくるものではない。ロマニの中に堆積しているのは彼らに何も報いてやることができない無力感であり――他でもない、遥への罪悪感と自己嫌悪だ。

 遥がロマニを信任する言葉を吐く度にロマニの脳裏を過るのは10年前の記憶。ロマニが未だ『ロマニ・アーキマン』ではない何者かだった時の記憶だ。それは謂わばロマニの罪の証。彼が犯した罪を永久に残す罪過の在処。ロマニの首を繋いでいながら、錆びついてしまった断頭台である。

 自嘲的な笑みを浮かべたままのロマニの足元でフォウが鳴く。だがフォウはロマニの思いに気づかない。当然のことだ。あくまでもフォウの糧となるのは──フォウとしても不本意なのだが──人間が人間に向ける汚い欲望や劣等感であって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな中でもレイシフトの過程(プロセス)は一切の淀みもないままに進んでいく。

 

――アンサモンプログラム、スタート。

 

  霊子変換を開始します。

 

  レイシフト開始まで、あと3、2、1……

 

  全行程完了(クリア)

 

  グランドオーダー、実証を開始します。

 

 コフィンの中にも届くそのアナウンスの直後、遥の身体を異様な浮遊感が襲った。まるで遥の苦手なジェットコースターを最悪な出来にしたかのような不快感である。だがそれも4回目ともなれば最早慣れたもので、酔いから醒めるや否や遥はすぐに周囲の状況の確認を始めた。

 彼らが降り立ったのは先程の話の通り広い穹窿地帯の中にある平原であった。欠員はなし。沖田を初めとした遥のサーヴァントは勿論のこと、立香やマシュたちもその場にいる。更に上を見れば、オルレアンでも見えた巨大な光帯があった。立香もそれに気づいたらしく、光帯を見上げたまま呟く。

 

「またあるのか、アレ」

「実害がないなら放っておいても構わねぇだろ。……それより、気づいたか、立香?」

 

 遥の言葉に立香は首を傾げる。しかしどうやら気づいていないのは立香だけであるらしく、サーヴァント達は皆彼方を見つめていた。アサシンは遥に指示されるまでもなく自らの役目を果たすべく先行していく。

 ひとりだけ状況に置いていかれた形になった立香だが、すぐに礼装に記録された強化魔術を自身に付与することでひとりだけ劣る聴力を補った。そうして聞こえてきたのは多人数の雄たけびと金属同士がぶつかり合う音。半ば反射的に立香は走り出し、そうして平原の端、小高い丘になっている場所からその下を見て息を呑んだ。

 そこで行われていたのは紛れもない戦争であった。簡素な鎧を纏い、剣や槍を携えた男たちが相手の名も知らぬままに殺しあっている。陣営は()()。深紅と金を基調にした全く同じ装備を身に纏っていながら相争う陣営が2つと、殆ど装備に共通性がなくそれどころか一見すると理性すらないように見える蛮人の陣営が1つ。戦争の空気にあてられて声が出ない立香に代わって、通信が繋がっていたロマニが驚愕の声を漏らす。

 

『まさか……この時代に戦争だって!? この時代に目立った戦争なんて……』

「良いじゃねぇか。少なくとも今回の敵は〝一国相手に戦争を仕掛けられる程度〟の規模があるってコトなんだからよ。……で、問題はどれがネロ帝の陣営なのかってコトなんだが……」

「――アレですよ、遥さん」

 

 そう言ってタマモが指した先にいたのは最も小さい陣営の最前線で戦う小柄な少女であった。顔立ちはアルトリアや沖田と似ているが、彼女らに比べると身長が小さい。しかし身長は小さいまでも胸囲だけは沖田と同程度にはあるようだった。身の丈を超えるほどの深紅の長剣を駆って戦場を駆けるその姿はまさしく一輪の薔薇という形容が相応しい。タマモが言うところはつまり、その少女こそが古代ローマ帝国第五代皇帝〝ネロ・クラウディウス〟であるということなのだろう。

 現代伝わっている史実では男性とされている人物が実は女性だった。――歴史学者が聞けば目を回した後に発狂して狂い死にしているような事態だが、最早一行に驚愕など全くなかった。むしろ『またか』とでも言いたげな雰囲気である。アーサー王、沖田総司に続きネロ帝までもが女性。ここまで来ると誰が女性でも驚くまい。

 どう見ても女性にしか見えない皇帝を男性として伝えた歴史家たちへの呆れを、遥は頭を掻いて払い落とした。代わりに意識を戦闘状態に移行させ、魔術回路が駆動を始めると同時に自己暗示が身体を剣士に最適なそれへと変質させる。

 

「立香。俺たちはあの蛮族プレイをしてる奴らを潰しに行く。反乱軍っぽい奴はお前に……立香?」

 

 どこか思いつめたかのような表情の立香は虚空の一点を見つめたまま、遥に反応を返さない。だがそれも致し方ない事ではある。立香は今、初めて〝命の取捨選択〟をしなければならない立場に立たされているのだから。

 人数だけで言えば明らかにカルデア側の戦力の方が少ない。しかしカルデア側の戦力はひとりひとりが一軍の全てを鏖殺して余りある存在である。〝殺せ〟と一言命じれば、彼らは容赦なく殺していくだろう。

 それを考えた時、立香の脳裏を過るのは遥から与えられたファイブセブンだった。誰かを殺めさせることは、誰かを殺めることと同義である――それが理解できるからこそ、立香は指示が出せずにいる。それでもなお立香は指示を出そうとして、無意識にファイブセブンのグリップを握る。その冷たさを心に投影してしまおうか、と立香が弱さを覗かせた時、アルトリアの声が立香の耳朶を打った。

 

「リツカ。現実から目を逸らすな。心を止めるな。それは司令官が執る策としては下の下だぞ」

「――ッ」

 

 アルトリアに心の内を見透かされ、立香は忘我から無理矢理に現実へと引き戻された。マシュとジャンヌはアルトリアに何かもの言いたげな視線を注いでいるが、しかしアルトリアの言葉がどうしようもなく正しいと理解できるが故に何も言わない。アルとクー・フーリンは既に戦場に意識を向けていて、言いたいことは読み取れない。

 現実を直視したまま、感じる心を停めないまま、人が一方的に殺されていく光景を見ている。それは立香の倫理観に照らせば罪でしかない。しかし彼は同時に、それが必要なことであるのも理解している。立香がこれまで享受していた平和は、そういうものの上に成り立っていたのだから。

 ファイブセブンのグリップから手を離し、何度も深呼吸をする。そして弱気の虫を一気に圧し潰して決意を固めた時、立香はひとつの真理を得た。即ち〝誰かを救うことは、誰かを救わないことに等しい〟という真理を。

 

「――解った。蛮族の方は任せたよ、遥」

 

 

 

 遥が〝反乱軍〟と仮称したローマ兵の集団。彼らはその正式な名前を〝連合ローマ軍〟という。彼らは確かに遥が言う通りに現皇帝ネロ・クラウディウスの許を離反した不忠者にして逆賊であるが、その事実に反して彼らの意識にそんな事実への罪悪感など欠片もなかった。

 何故なら、彼らもまたローマのために戦っているからである。彼らは現皇帝であるネロではなく、突如として出現した歴代ローマ皇帝、そして神祖にこそ大義ありと断じたに過ぎない。

 敵味方という差異はあれど、彼らは皆ローマのために戦っている。故に連合ローマ軍の士気はローマ軍に勝るとも劣らない。現皇帝かつ万夫不当の剣士であるネロさえいなければ、ローマ軍など連合ローマにとっては物の数ではない。彼らはそう強く信じていた。――今、この瞬間までは。

 

「――〝蹴り穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)〟!!!」

 

 それはあまりに唐突な死刑宣告。ローマの為に戦っていると嘯きながら、その実人理に仇名す行いをした彼らへの断罪の雨であった。一切の仮借なく真名を解き放たれた魔槍は無数の鏃となって連合ローマ兵たちに降り注ぎ、その一部を絶命せしめた。

 伝承に曰く、大英雄クー・フーリンの得物たる魔槍ゲイ・ボルクは投げれば30の鏃となって敵に降り注ぎ、突けば無数の棘なって相手を内側から刺し貫くという。〝蹴り穿つ死翔の槍〟はそのゲイ・ボルクの力を脚撃の加速と共に打ち出すという宝具であり、彼が最も得意とする使用法である。

 役目を終えて担い手の手に戻る魔槍。それを手の中で弄び、石突が大地に突き刺さる。そうして神性を帯びた紅玉の瞳で睨まれた瞬間、連合ローマ兵たちは理解した。今、自分たちが見ている騎士こそ遠く海を隔てたアルスターよりこの地までその名声を轟かせた半神半人の大英雄クー・フーリンであると。

 

「あ? オイオイ、このくらいでビビッてやがんのか? 軟弱者め。……まぁいい。今はそっちの方が好都合なんでな」

 

 半ば呆れの籠った声でそう言うや、クー・フーリンはおもむろに魔槍の穂先を連合ローマ兵に向けた。激烈な殺気に射抜かれた兵たちの中から悲鳴が漏れる。

 

「オレの主は無益な殺生が嫌いでな。戦意がないヤツはここを去れ。追い縋ってまで殺しはせん。だが己の主のために命を尽くす覚悟があるのなら、オレも最大限の礼を以て応じよう」

 

 連合ローマ軍との交戦にあたり、立香は他のサーヴァントを出さずにクー・フーリンのみを出撃させた。犠牲を厭うたのではない。立香はこの戦闘において、彼と契約したサーヴァントのうちで彼が最も無駄な血を流させず、かつ効率的に事を進められると考えたのである。

 立香の判断は正しい。クー・フーリンは対軍戦の専門家(スペシャリスト)であり、ゲッシュを破らされて半身が麻痺した状態で数万の軍勢を相手取ることができる。単騎で戦場を支配することができるのだ。それは言わば、一度支配した戦場を好き放題できるということであり、戦意を失った敵を逃がす程度は造作もないということでもある。

 戦意を失った敵を逃がしながら、向かってくる敵だけを始末する。兵法としては下策だが、立香が出したその案に異を唱える者はいなかった。立香の人柄を知っているが故である。

 クー・フーリンが放つ殺気を受け、幾人かの兵士が悲鳴をあげながら逃げ出していく。だがその場に残った兵士たちは自らが内に秘めるローマへの忠義で自身を奮い立たせ、大英雄へと武器を向けた。その兵士たちを前に、クー・フーリンが不敵に笑う。

 

「承知した。……クランの猛犬を相手取ったこと、後悔すんじゃねぇぞ?」

 

 一方、三つ巴の戦闘に参加していた陣営のひとつである蛮族たちへと戦闘を仕掛けた遥たちは彼らに対して一方的な戦闘を展開していながら、しかし攻め切ることができずにいた。

 蛮族たちは数こそ多いが、そのひとりひとりはさしたる脅威でもない。遠目から見た際に彼らが感じた通り、蛮族には理性がないのである。だが彼らが脅威であるのは個々の力ではなく、その物量にあるのだ。

 遥たちに殺された蛮族は普通の人間のように亡骸となるのではなく、サーヴァントのように魔力の光と化して消滅し、更にその失った分を補充するようにしてどこからか新たな蛮族が湧いて出てくるのである。

 とはいえ、遥は既に蛮族の正体に気づいている。つまり蛮族たちは何らかのサーヴァントの宝具なのだ。そのサーヴァントの魔力が続く限り、どれだけ倒そうがこの軍勢が減ることはない。だがそれはそのサーヴァントを撤退させるか倒せばこの軍勢を退けることができるということでもある。――無論、遠方からでも召喚できるのならその限りではないが。

 本来は一刀のみを恃みとする剣士とは思えない程洗練された動きで二刀を振るい、遥は蛮族たちを絶命させていく。蛮族たちの武装は粗悪な剣や槍が殆どで、神刀である叢雲と妖刀の領域にある無銘正宗に敵うものではない。

 大上段から振り下ろされた曲刀を無銘正宗で受け止め、右手に握った叢雲を蛮族の首に向けて振るう。理性なき蛮族はそれだけの単純な攻撃も受け止めることができずに首を刎ね飛ばされた。更に遥は二刀を自在に振るい、接近してきた全ての蛮族たちを切り殺す。吹き出す血潮は霧となって辺りに広がり、不快な匂いを撒き散らす。

 そうして殺した数は100を超えた辺りから数えるのを止めている。恐らくは沖田たちも同じように屠っているのだろうが、蛮族たちはその特性故か一向に減る気配がない。半ば作業のように淡々と敵を斬り殺していくのはひどく虚しく、全く闘争心の刺激されない雑魚にはかける慈悲も見当たらない。そのうちに大きなため息をはいた時、遥は背後に仲間の気配を感じた。遥は一瞥もせずにそれがオルタのものと悟る。

 

「遥。どうすんのよ、コイツら。全然減らないんだけど?」

「そうだな。多分、指揮官か何かがいるんだろうが……」

 

 そこまで言ってから遥は言葉を区切り、代わりに遠方から狙撃を続けているエミヤに念話を飛ばした。遥の動きから何となく行動を察していたのか、エミヤは念話を受けてすぐに感覚共有の経路(パス)を開いた。そうして脳内に投影された映像の中央に佇む人影を見て、遥が唐突に胸騒ぎを覚える。

 果たして、蛮族たちの奥に佇んでいたのはひとりの少女剣士であった。白い入れ墨のような文様が浮かぶ褐色の肌を大きく露出させている。服飾を纏っているのは胸周りと股関節辺りだけである。長く伸びた髪のように見えるものの正体は白いヴェールだ。手に執るのは刀身が鞭のようにしなる三原色の剣。

 その少女を一目見た遥が感じたのは警戒心ではなく、強烈な既視感であった。()()()()()()()()()()()()()()()。それを理性ではなく本能で理解する。遥の内でそのサーヴァントは変異特異点αにて遭遇した偽りの人類悪と同等の存在として認識されていた。

 その言い知れぬ思いをパスを通して感じ取ったエミヤはそれを訝しく思いながらも、そのサーヴァントの脅威度を再設定した。理由は解らないが、遥はそのサーヴァントにひどく敵意を向けている。エミヤの眼から見てもそのサーヴァントは脅威であるが、遥のそれはエミヤのそれとは少し違うのだろう。なんにせよ、敵である以上は倒さなければならないのだが。

 

投影開始(トレース・オン)

 

 その呪言と同時に起動したのはエミヤが内に宿す剣の丘。守護者として様々な時代で戦ってきた彼が蓄積した無限の剣の中から彼は最強クラスの一振りを取り出し、己の体を通して現実に引き出した。

 エミヤから迸る魔力が彼の手の内で像を結ぶ。そうして顕現したのは華美な装飾が施された長剣であった。いかにも儀礼用の剣でありながら、内包する魔力は聖剣にも比肩する。エミヤが記録している中でも最強に近いそれに、エミヤは自壊寸前の魔力を充填する。後でまず間違いなくアルトリアとアルに叱責を受けるだろうが、なりふり構ってはいられない。構うものか、と。

 エミヤ愛用の黒弓に番えると同時に矢へと姿を変える選定の剣。どんな獲物であれ射抜く射手の鷹の眼が貫くのは白き少女剣士だ。

 

I am the born of my sword.(王剣よ、邪悪を断て)――勝利すべき黄金の剣(カリバーン)!!」

 

 瞬間、世界が黄金に染め上げられた。真名を解き放たれた王剣は秘めたる神秘の全てを惜しげもなく晒し、一瞬で獲物たる少女剣士に肉薄する。

 勝利すべき黄金の剣(カリバーン)。エクスカリバーより前にアルトリアが愛用していた剣であり、ブリテンの王を選定するために大魔術師マーリンが用意した王の剣である。エクスカリバーの劣化品ではあるがしかし、それは自壊を代償にすれば原典(オリジナル)に匹敵する威力を発揮することができる。そしてエミヤは魔力が続く限り複製できるため、躊躇せずにそれを行使することができる。

 充填された膨大な魔力のために内側から崩壊しながら極光を放つ王剣。真正面から受ければトップサーヴァントであれ致命に至るその一撃を前に、しかし少女は狼狽しなかった。

 超常の魔力を放ち、神の剣が旋転する。少女がそれを一閃するや、極光を纏う王剣が完全に崩壊した。内包された魔力が秩序を失って霧散し、極光は残滓となって消える。

 

「なっ――!?」

 

 そのエミヤの驚愕は何によるものか。限りなく真に迫った王剣を破壊されたことか、或いは――少女の剣の構造が全く読めなかったことによるものか。恐らくはそのどちらでもあろう。

 一度目で見た剣を記録する特性を有する固有結界を持つエミヤは、その副産物として物体の構造を読み取る異能を持つ。だが何事にも例外は存在するものであり、エミヤの場合は神造兵装がそれにあたる。特に乖離剣エアや天叢雲剣などは投影することもできない。少女の剣はそれだ。乖離剣エアや天叢雲剣と同じ高位の神造兵装、一部の例外を除いて神の因子がなければ扱えない剣である。

 少女の真名を特定しようと思考を巡らせるエミヤ。だがそれが成るよりも早くに少女の紅く虚ろな瞳がエミヤへと向けられた。手に執る剣は逆手に持ち替えられ、空へと掲げられている。

 

火神現象(フレア・エフェクト)。マルスとの……ッ!!」

 

 愛剣たる軍神の剣の力を以てエミヤに報復の一撃を繰り出さんとした剣士であったが、唐突に口上に割り込んできた攻撃を察知して飛びのいた。直後に少女がいた場所を薙いだのは黄金の剣閃。遥の一撃である。

 完全な不意打ちを回避された遥はしかし、回避されたことへの苛立ちなどは全く見せない表情で少女を睨みつける。だが構えを解いている訳ではなく、脱力しているように見えて隙がない。その眼は常の黒ではなく、少女と同じ紅玉に輝いていた。

 知ってるぞ、お前。目の前にいる少女にすら聞こえないほどの声量で遥が呟く。その言葉通り、遥――と言うよりその裡に宿るものは少女の正体を織っていた。偽りの人類悪の時と同じだ。同化した分霊が遥の意図せぬうちに影響を与えている。

 

「――()()()()()。なぁ、セファールだろ? お前」

「否。我が名はアルテラ。フンヌの裔たる軍神の戦士だ。セファールなどという者は知らん」

 

 猛烈な敵意を内包する遥の言葉に否と返す少女――もといアルテラの声音に嘘の色合いはない。だがそれを前にしても遥の目から剣呑な光は消えない。敵と相対しているのだから当然のことなのかも知れないが、遥の気配にはそれだけでは説明のつかない何かがあった。

 セファール。数分前までは名前すらも知らなかった筈のその存在を、今の遥はその姿までもを詳細に思い描くことができた。まるで遥自身が実際に体感したかのように錯覚するその気配と同じものを、アルテラは放っていた。

 自分が知らないはずの知識が湧いて出てくることに対する抵抗はない。それは遥が造られた目的による副産物のようなものであり、言わば生来備わった機能だ。遥に同化した分霊は最早遥そのものも同然なのである。

 両手に刀を握ったまま遥は大きくため息を吐き、昂る血を鎮める。下手をすれば自身に掛けた封印が解けてしまいそうな感覚の中、遥はアルテラを睨む。アルテラもまた三原色の剣を手に、遥の出方を伺っている。

 

「セファール……いや、アルテラ(アッティラ)だったか? この軍勢はアンタの部族か?」

「違う。この軍勢は今生における我が盟友の宝具。私はその一部を借り受けているに過ぎん」

 

 アルテラの返答を受け、遥がふむと唸る。或いは敵対する他のサーヴァントの真名の手がかりを得られるやも知れないと考えて放った問いだったが、そう簡単に情報を流す筈もなく、アルテラはそれだけしか答えを返さない。

 統一性のない様々な部族を纏め上げてひとつの軍と成した英雄。言葉だけを見れば大層なことのようにも見えるが、人類史上においてはさして珍しい話でもない。例え異なる部族だとしても、共通の敵さえ現れれば人間は協力するものである。

 だがそれがこの時代のローマに関連する者となれば話は別だ。紀元60年のローマで起きた出来事に先の条件を限定すれば自ずと対象となる人物は特定される。日本においてはマイナーな英雄だが、功績を考えれば『座』に刻まれていることに何の不思議もない。

 深呼吸をひとつ零して分霊との同調を開始するための式句を唱える遥。それによって身体と血に施された封印の一部が解放され、遥の総身から人間の域を逸脱した量の魔力が噴き出す。紅く光る眼は活性化した血の影響を受け、黄金に近い赤燈へ。全身を巡る人ならざる魔力が筋肉を膨れ上がらせ、過剰な魔力を受けた身体が赤熱する。

 半ば解けてしまった封印を遥は戻そうともしない。その身体から放出される気配に当てられた叢雲がその刀身を嚇と輝かせ、経路(パス)を通して遥に何かが流れ込んでくる。英雄になるべくして生み出されながら未だ英雄に至らぬ身を、星の力(ガイア)を内包した宝具により強化した言わば〝英雄モドキ〟。それが今の遥だ。

 遥と相対するアルテラは遥が尋常な相手ではないことを肌で感じ取ったらしく、執る軍神の剣を構え直した。その刀身はそれが表す三機能イデオロギーのうちマルスが司る戦闘を示す赤一色に染まる。戦闘王アルテラが戦闘状態に入った証である。

 内側から湧き上がる戦闘欲求。赤熱し、魔力が充足する身体。それらに押されるようにして、遥が叫ぶ。

 

「オォォォォオオッ――――!!!」

 

 偽英雄、咆哮。ここに、戦闘の幕は落ちた。




ハードモードセプテム……にできたらいいなぁ……。尚、第三特異点は難易度ルナティックの模様。


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第46話 剣鬼は咆哮し、復讐者は嗤う

 自らの故国のために奮起した連合ローマ兵の間を『槍兵(ランサー)』の座にて召喚された蒼き大英雄が駆ける。連合ローマ兵たちは視認さえもままならないそれに向けて己が得物を振るうが、それらがクー・フーリンの肉を抉ることはなく、しかし逆にクー・フーリンの魔槍は過つことなく彼らを一撃で屠っていく。

 あまりに一方的な戦闘だった。蹂躙と言い換えても良いかも知れない。だがそれも当然のことで、いくら使い魔(サーヴァント)の領域に堕ちているとはいえクー・フーリン程の大英雄が一般兵如きに遅れを取る筈はないのだ。加えてクー・フーリンは対軍戦においては無類の強さを誇る。この戦闘において、クー・フーリンに敗北は万に一つもあり得ない。

 圧倒的な武威を持つ個による蹂躙。殲滅戦とも言える状況を前に、ローマ軍を率いる将であるネロ・クラウディウスは半ば茫然としていた。戦闘を前にして忘我に陥るなど将として、それ以前に皇帝としてあるまじき行動だが、致し方ないことではある。友軍などいない現在のローマに彼女らに助太刀をする者たちが現れたのだから。

 しかし、果たして彼らを友軍として判断して良いものなのか。ネロにはその判断材料と成りえるものがなかった。何せローマにおいてネロに味方する戦力は微々たるものであるのだから。彼女の目の前で敵軍を圧倒する槍兵のような圧倒的な個もるにはいるが、絶対数そのものがまず少ないのだ。仮に槍兵がその槍をネロ達にまで向ければ、ネロ達は瞬く間に全滅するだろう。ネロは聡明であるが故に、誰よりも強くその可能性を感じていた。

 味方であれば万軍に比する希望となろう。それは同時に、敵であれば最悪の絶望であることを意味する。見れば、右翼側の部隊が戦っていた勝利の女王の軍もまた槍兵と同じような強力な個に蹂躙されつつあった。

 戦況は昏迷を極めている。そんな中で下手に指示を出せば味方を危機に落とすだけだ。そう判断してネロが兵達に向き直ろうとした時、傍らに将校のひとりが歩み寄ってきた。将校はネロの前で恭しく礼を取り、口を開く。

 

「申し上げます。陛下に謁見を希望する者たちが現れたのですが、いかがされますか?」

「謁見だと? 一体何者だ、其奴は?」

「はっ。何でも、そこで暴れている槍兵の主と仲間とのことですが……」

 

 将校の答えを聞き、ネロが息を呑む。彼女は槍兵が単独で突入してきたとは全く思っていなかったが、よもやその主君が直接接触をしてくるとは思っていなかったのだ。いや、より正確に言うならばその可能性を排除していた。いくら一国の正規軍とはいえ、今や最小勢力になっているネロたちに取り入っても旨味はないのだから。

 余談だが。本来、ネロ・クラウディウスという皇帝はこれほど警戒心の強い少女ではない。だが彼女は傲慢でナルシストであっても楽天主義者でもない。彼女が身命を捧げるローマが危機に瀕している現状が彼女をこのようにしているのだ。

 逡巡は一瞬だった。ネロは将校に来客を連れてくるように指示し、将校はその指示通りに来客を連れてくる。そうして連れてこられた者たちを見て、ネロが一瞬だけ顔を綻ばせる。というのも、連れてこられた来訪者――立香たちはネロの眼鏡に適うだけの華やかさのようなものを備えていたのだ。

 対する立香はネロの前で手慣れた動作で膝を突き、礼を取って見せた。だが内心では表情とは裏腹に冷や汗を大量に流している。それでもそれが一見表に出ていないのは、高校時代に度々演劇部に助太刀として呼ばれていた立香の面目躍如であろう。無論、今にも恥部が見えてしまいそうなネロの恰好についても必死に見て見ぬふりをしている。

 そんな立香の演技を見破っているのか否かは余人には分からない。しかしネロは立香が信用に値する人間であると見抜いたらしく、纏っていた剣呑な気配が消える。

 

「初めまして、ネロ・クラウディウス皇帝陛下。オレは藤丸立香。カルデアという組織に所属する……魔術師、です。多分」

「カルデアに、フジマルリツカ……聞いたことのない組織に聞きなれぬ響きの名だが……何はともあれ、助太刀、大儀である」

 

 その言葉に礼を返しながら、立香は周囲の様子を観察する。先程までは立香たちに多少の猜疑を向けてきていたローマ兵たちだが、今はその猜疑心が少々薄まっているようだった。恐らくはローマ軍よりも強力な武力を有していながら礼を崩さないことが良い方向に働いているのだろう。

 一見すると立香の行動は打算的でもあるが、立香自身にそのつもりは一切なかった。立香としてはあくまでもレイシフト時に決めた方針に従っているだけに過ぎない。要はタイミングの問題だ。

 面を上げることを許され、立香が礼の姿勢を解く。ふとローマの軍勢の向こうに遥たちの戦闘を見れば、遥が相当に本気を出して戦っているらしく、煉獄の焔が噴きあがっていた。天を裂くばかりに立ち昇ったそれを見て、ネロが立香に問う。

 

「そちらの軍勢と戦っている者も貴様の仲間のようだな。……それで、貴様の目的は何だ? よもや何の目的もなく我々に接近した訳ではあるまい?」

「え、目的? ……オレ達の目的は陛下にこの戦争に勝利して頂くコト。それでは不足ですか?」

 

 立香に交渉人(ネゴシエーター)としての才能はない。台本やその場の空気に合わせて演技をすることはできても、根が空恐ろしいほどの善人である立香は常人が嫌う〝完全な利他〟に対して全く抵抗がない。故にこういった利害交渉めいた対話は完全な専門外であった。

 だからこそ、立香にできることは立香たちの目的を下手に隠し立てせずに伝えることだけだ。そもそも後に暴君と称されるとはいえ紛れもない英雄、それも一国を束ねる皇帝に嘘を吐くなど悪手極まる。故に立香の方策はこの場における最適解であった。

 立香の言葉を受けたネロは少しの間吟味するようにして立香を見ていたが、やがて納得したように鷹揚に頷いた。だが彼女も完全に立香のことを信じたのではなく、あくまでも立香の言葉が嘘でないと解っただけなのだろう。それでも立香の言葉を受け入れるというのは、ネロの度量を表しているとも言える。

 

「それにしても……其方(そなた)、魔術師にしては聊か実直過ぎるな」

「そうですか?」

「うむ。慣れぬ立ち振る舞いなどしているようだが、目を見れば解る。シモンとは大違いだ」

 

 そう言うネロの様子は一見するとそれまでとは何も違いがないように見えるが、立香の目にはどこか悲し気に見えた。しかし立香はその人物についてネロに問うことはしない。ネロの様子を見れば、その人物が既にこの世にいないと察するには十分過ぎる。

 シモン・マグスとはネロに仕える宮廷魔術師()()()男だ。主君である筈のネロに対しても態度が悪いという不良魔術師ではあったが腕は確かで、ネロの前で死から蘇るが如き蛮行をしたことから本名と掛けて〝死なずのマグス〟という二つ名で呼ばれていた。――尤も、そんな彼もこの動乱であっさりと死んでしまったのだが。

 立香にそんなことを知る由もなく、また無理に知る気も彼にはない。それをネロに問うたところで、ネロは立香にそれを言うまい。そこまで彼らは仲が良くはない。そもそも出会ってすぐに信用しろなどと言える筈もないのだが。

 何はともあれ、これでこの時代における最重要人物兼最優先保護対象との接触は完了した。しかし、次はどうするべきか。――サーヴァントと兵からの声が飛んできたのは、正に立香が思考に耽って警戒を解いた瞬間だった。

 

「――陛下ッ!!」

「マスター、伏せろッ!!」

 

 え――? と、立香が声を漏らす暇もなく、軍神の剣と海神の刀から放たれた魔力が彼らの付近で炸裂した。

 

 

 

 時は少し遡る。その血に秘めたる力の一端を今までにないほど引き出した遥と戦闘状態へと移行させた軍神の剣を執るアルテラの戦闘は苛烈を極めていた。共に原初の神造兵装を有し、それを自在に扱うふたりの剣戟はまさしく剣による死合いの極致とも言えるものである。故に傍から見ればふたりの戦闘は殆ど互角であり――実際は、そうではなかった。

 遥の攻撃が殆ど効いていない。戦っているうちにわかったことだが、アルテラは神代を由来とするものに対して異様な耐性を有しているらしい。故に神造兵装の武具としての優位性が意味を為さず、血の力を解放した遥の攻撃もまたその威力を単純な物理的エネルギーに頼る他なくなっているのだ。サーヴァントと戦う上で自らに流れる人外の血の力を使っている遥にとって、アルテラは最悪と言える剣士だった。

 それは八俣遠呂智を行使したところで同じだろう。神代における最強の龍神を降霊・憑依させるこの宝具は遥にA+ランク相当の神性を与える。アルテラは神代のものに対して強力な耐性を持っているのだから、それでは同じことだ。

 後方に跳んでアルテラから距離を取り、二刀を構える遥。黄金に輝くその眼は真っ直ぐにアルテラを射抜き、急な攻撃にも対応できるように油断はしない。いくら神秘の後押しが期待できないとはいえ、西暦60年まで遡ったことで〝先祖返り〟した遥の筋力値はサーヴァントのランクにしてAに匹敵する。つまり、単純な物理干渉力だけでも戦える。そう判断して戦闘を続行しようとする遥の前で、アルテラが口を開く。

 

「成る程。生身の人間にしては強いと思っていたが……貴様、()()()()()()か」

「御賢察どうも、セファール。お蔭でどれだけアンタに攻撃しても通らないときたモンだ」

 

 飄々と、しかし苛立たし気に遥がそう言うも、アルテラ自身に自覚がないらしく小さく首を傾げた。遥はその様子を訝しむも、アルテラに嘘を吐いている気配はない。それもその筈で、この『地上のアルテラ』にはセファールとしての記憶がないのだ。

 遊星ヴェルバーによって作り出された文明の破壊者たるセファールは一万四千年前に存在していた神性やそれを由来とする神性に対して特効能力を持つ。いくら記憶がないとはいえセファールそのものであるアルテラはその特性を色濃く残しているのである。故に神刀を振るう遥はアルテラとは極めて相性が悪い。

 アルテラの脅威はそれだけではない。流石フンヌの長として一族を束ね上げ、東ローマ帝国という大帝国をして恐怖した戦闘王であるだけあって、アルテラ自身の戦闘力も非常に高い。剣腕は遥に分があるが、剣のように優れた切れ味がありながら鞭のように変幻自在な武具を自在に操ってみせるアルテラもまた、遥とは違った意味で剣技の極みにいると言えるだろう。

 対して涼し気な顔をして軍神の剣を構えるアルテラもまた、内心では遥の武威に驚嘆していた。遥とアルテラが打ち合った回数は少なくとも100を下るまいが、それだけ打ち合って傷ひとつ付かない猛者は彼女の生前にはいなかった。加えて遥の魔力は膨大に過ぎる。彼自身は無意識の行動なのか気づいていないが、遥はひとつひとつの動作に自らの魔力を上乗せ――つまり〝魔力放出〟の強化を上乗せしている。純粋な魔力はアルテラの特防能力の範疇ではないため、遥の思いの他彼の攻撃はアルテラにとってかなりの脅威であった。

 遥が一度大きく息を吐き、渾身の力を以て大地を蹴る。その歩法は縮地。仙術の領域にある歩法と超常の膂力は遥の身体を音速の壁よりさらに先に押し遣り、アルテラの視界から遥の姿が消えた。尋常でない速度に瞠目するアルテラ。しかしその程度で後れを取る戦闘王ではない。突如として背後に現れた遥の刃を、アルテラはしなる刃で受けた。

 虚空に閃く金と銀、そして赤の剣閃。それらがぶつかり合う度にその余波で周囲の大地が抉れ、蛮族たちが吹き飛ぶ。余人の介入を許さない剣戟。それはある種、剣士による立ち合いの究極のようですらあった。

 アルテラが振るう軍神の剣の刃がしなり、遥を切り裂かんと迫る。遥はその軌道を完璧に見切ると、正宗でそれを受け止めた。更に右手に握った叢雲をアルテラに向けて突き出す。アルテラの霊核を狙って奔る刃。だがその刃は異様な歪曲をした軍神の剣に阻まれる。

 間髪入れずに軍神の剣が元の姿を取り戻し、その隙に遥が蹴撃を放つ。だがその蹴撃をアルテラは片手で受け止め、そのまま遥を投げ飛ばした。続けて刀身に収束する紅い魔力。アルテラが剣を振るうや、その魔力が深紅の斬撃と化して遥へと飛翔する。

 

「ッ、クソがッ!!」

 

 悪罵と共に気合を吐き出し、魔力を全身の魔術刻印に流す。そうして起動させた封印魔術が空間を固定し、遥が無理矢理に体勢を立て直した。それと同時に魔力を込められた叢雲の刃が強く輝き、斬撃と共に打ち出される。

 中空にて衝突した紅と金の魔力斬撃はどちらが打ち勝つこともなく、溶け合い統制を失って爆散する。遥はその衝撃で飛ばされるもそれで地面に叩きつけられることはなく、着地と同時に駆けだした。

 電磁砲より打ち出された砲弾の如き速さでアルテラに肉薄する遥。それを迎え撃つアルテラ。剣士たちの視界にあるのは己が敵手だけで、それ以外は無意味だった。

 

「オオォォォオオッ!!」

「――――ッ!!」

 

 猛る血の熱を吐き出すように咆哮する遥と、漏れる吐息に全てを込めるアルテラ。いつの間にか遥の全身を覆っていた煉獄の焔は、極限にまで研ぎ澄まされた剣気の具現か。

 愉しい。内側から止め処なく湧き出るその思いのままに、遥が獣の如き笑みを浮かべる。夜桜遥という男のこれまでの人生において、アルテラは間違いなく最強の相手である。それほどの剣士を前にして、遥の血はこれまでになく励起していた。

 その猛る血は西暦60年の神秘と作用し合い、遥の大英雄にすら比肩するほどの力を与える。その副作用と言えるヒトの血への浸食も、だが今の遥の意識には引っ掛からない。アルテラは挑発するように、口元に不敵な笑みを浮かべた。

 

「まだまだだな、異邦の剣士。貴様の武威、よもやこの程度ではあるまい?」

「ハッ! 言ってくれんじゃねぇか、戦闘王さんよォ――――ッ!!!」

 

 剣鬼、絶叫。更にギアを上げるアルテラに食らいつくその動きは魔人の挙動。体内の煉獄から吹き出す焔を巧みに操り、遥は自らの闘争を加速(ブースト)する。

 遥が執る海神の神刀とアルテラが握る軍神の紅剣が宙を切り裂き、巻き込まれた大気が悲鳴をあげる。ただの妖刀級の刀である無銘正宗もまた夜桜の魔術と遥の魔力放出による後押しを受け無理にこの超常戦闘に追随させられていた。叢雲は担い手の剣気に応えるように、黄金の光と放出する魔力を強める。

 遥が踏み抜いた大地が蜘蛛の巣状に割れ、一瞬で圧縮された大気が爆音めいた音を鳴らす。対するアルテラもまた大地を疾駆し、軍神の剣を振りかぶる。接触と同時に吹き出す魔力が草原を吹き飛ばし、衝撃波が大気を()く。

 鍔迫り合い、至近距離から互いを睨む剣士。どちらかが押し切らんと力を籠める度に筋線維と骨格が軋みをあげる。その音を聞いた遥は鍔迫り合いから離れ、身体を捻った。捻転する身体が生み出す力の全てを蹴撃に乗せ、遥の脚が強かにアルテラの側頭部を打つ。

 蹴撃を防御できずに吹っ飛ぶアルテラ。そのアルテラを追撃するように、遥が叢雲を()()()()()。虚空を貫く黄金の刃。だがアルテラは紅蓮の剣を鞭のように振るい、飛来する神刀を弾いた。

 蒼穹に打ち上げられる神刀。それをアルテラは最大の隙と見て取り、あまりの魔力で刀身の周囲が歪む紅剣を遥に向けて地を蹴った。万事休す。しかし遥は戦の高揚に顔を歪めたまま、叫んだ。

 

()()()!!」

 

 咆哮一喝。宙に打ち上げられていた筈の叢雲は担い手の声に応えて空間を跳躍し、遥の手元に召還された。遥にとって、叢雲が手から離れる程度は隙ですらない。そのまま遥は二刀を胸前で交差させ、アルテラの刺突を防いだ。

 いくら遥が叢雲の担い手として選ばれた存在であるとはいえ、今までの遥ならばそんなことはできなかっただろう。それは遥の異様な成長速度の証左であり、何より遥が加速度的に人でないナニカへと近づいていることの証明である。

 攻撃が阻まれたことで反撃の気配を感じ取ったアルテラが反射的に飛び退く。いかな超常の存在であるサーヴァントであれ一瞬では詰めることはできない距離だ。故にそこでアルテラは息を整えようとして、直後、驚愕に息を呑んだ。

 咄嗟に軍神の剣を構えたアルテラの身体を襲う衝撃。運動エネルギーを過不足なく叩き込んだ一撃に、アルテラの足元が陥没する。半ば奇跡とも言える防御。それを成しえたのは、ひとえにアルテラが持つ〝星の紋章〟の能力故だ。

 生半な英雄では一瞬で踏破不可能な距離を、遥は刹那の内に詰めた。アルテラが驚くのも無理もない。アルテラが取った距離は先の縮地を見たうえで届かないと判断した距離でもあったのだから。

 アルテラの判断は正しい。故に彼女が見誤ったのは距離ではなく、遥の成長速度――否、()()()()()()()()()()だ。概念の書き換え速度と言っても良い。それに齎された前担い手の概念が遥の剣才と混ざり合い、超絶の技巧として現出しているのである。

 遥がアルテラとの間合いを一瞬で詰めたその歩法の名は〝極地〟。縮地とは似て非なる歩法であり、あらゆる状態において十全に機能する空間跳躍に近しい術理である。だがあくまでも近しいだけであってそのものではない。故にその挙動には運動エネルギーが伴い、遥はそれをアルテラに叩きつけたのだ。

 しかし、そんな反則めいた条理がそう容易く通る筈もない。狂悦のままにアルテラとの剣戟を演じていた遥の動きが唐突に停止し、苦悶に顔を歪める。

 

「――ヅ、ァア――ァ――」

 

 全身を貫く激痛を堪えきれず、遥が身体を折る。その眼は黒と黄金に明滅し、遥が呪いに必死で抗っていることが分かる。付近で蛮族たちと戦っている遥のサーヴァントたちは契約者の危機を感じ取り遥を守ろうとするがしかし遥の視線に貫かれてそれを止めた。

 直後、アルテラの蹴撃が遥の腹に減り込み、衝撃を殺しきれずに遥が吹っ飛ぶ。そのまま数メートルの距離を滑空した後、土煙をあげて遥が転がる。続けてアルテラは、更に追撃せんと地を蹴った。

 容赦なく振り下ろされる紅蓮の刃。しかしそれが遥の身体を切り裂くことはなく、その寸前で遥は叢雲で軍神の剣を押さえた。鬩ぎ合う神造兵装の間で火花が散り、剣士たちの剣気が交錯する。

 軍神の剣を握るアルテラの膂力を受け、遥の両腕が悲鳴をあげる。先の反動のせいで同調が弱まり、筋力が低下しているのである。それに気づいた遥は叢雲を傾けてアルテラの斬撃を流すと、そのまま横に跳んで距離を離した。だがアルテラは即座に大地を踏み割り、遥へと突貫する。

 

「ッ……!」

 

 そう短く息を吐くや、遥は両手で叢雲を逆袈裟に斬りあげた。分霊に浸食され変質した左腕が齎す波頭の魔力が叢雲を後押しし、振り下ろされた軍神の剣を弾き返す。慮外の力を受け、アルテラがたたらを踏んだ。それを隙と見て取り、遥が叢雲を一閃させる。

 強力無比にして正確無比なる、それは剣神の領域にすら踏み込んだ一刀であった。生半な英霊であれば回避どころか見切ることすらままならず一刀の下に霊核を両断されていただろう。

 だが相手はひとつの部族を束ね上げて大帝国を滅ぼしてのけた〝破壊の大王〟である。半ば回避不可能な体勢で遥の斬撃を視認したアルテラは、しかしその体勢から無理に身体を捻転させて紙一重でそれを回避してのけた。さらにその回転を剣に乗せ、剣撃を返す。虚空を斬り裂く紅色の軌跡。遥は咄嗟に魔術障壁でそれを防御しようとするも、鞭のようにしなる刃はそれを超えて遥に傷を刻んだ。

 吹き出す鮮血。明滅する視界。仮に遥が行使したのが夜桜の封印魔術でなければ障壁を叩き割られ、より深い手傷を負っていただろう。神代の魔術であるそれは神造兵装にもある程度抗しうるだけの神秘を持つ。

 続けて繰り出される鞭の連撃。それを遥は無傷の右腕だけで叢雲を振るい、辛うじて防ぐ。左腕の傷が完治するまでの時間は軽く見積もっても5秒。戦闘王を相手に生存を勝ち取るには、あまりに長すぎる時間だった。

 だがだからといって遥は生存を諦めるような男ではない。遥の総身から立ち昇る戦意の焔はより火力を増し、黄金の刀身はその速度を上げていく。そうして左腕が完治すると、遥は渾身の力で叢雲を振るってアルテラを押し返した。しかしアルテラは慌てることなく地面に剣を突き立てて衝撃に抗い、その剣先を遥に突き付ける。

 

「――解せんな、異邦の剣士。貴様、自らの力に枷を填めているな?」

「……!!」

 

 アルテラの言葉を受け、遥が息を呑む。明らかに心当たりがある反応であった。しかしアルテラはそれに落胆の色を見せることはなく、むしろ予想通りとでも言わんばかりの面持ちで遥を見ている。

 確かに遥は自らの力、というよりは血が齎す力に制限を掛けている。抑止力を誤魔化すためではない。その血を現代で完全解放した場合、本来は抑止力が発動するのだが()()()()()()()。故に抑止力対策は必要ない。

 それでも遥が制限を掛けているのは、そうしなければ現代の神秘の薄さが苦痛でしかないからだ。遥に混じる人外の血は本来、神代の神秘の上に存立するものだ。それを尋常でない方法で残した夜桜、もとい叢雲の呪いに寄らずとも現代で存立不可ではないが、苦痛は避け得ない。

 しかし――と遥の脳裏に一筋の光明が奔る。()()()()()()()()()西()()()()()()。その神秘濃度は神代程ではないにせよ現代の比ではなく、故に遥の先祖返りも秒読みで進行している。だがアルテラはそれでは満足せず、遥に枷を外せと言っているのだ。

 冗談ではない、それでは人間の枠から外れてしまう――と言うのは簡単だ。だがひとつの世界を蹂躙してのけた戦闘王を相手に力量を制限(セーブ)するのはむしろ悪手である。そう判断できるだけの冷静さを、遥は持っていた。

 一度瞑目した遥が大きく息を吐く。中段に構えていた神刀を構えを解いてから、今度は剣先を後ろに向けて構えた。全身の魔術回路は限界に近い速度で駆動し、遥の全身に魔力を送り出す。そうして見開かれた眼は先と同じ黄金に輝いていた。

 その遥を前に、アルテラが獰猛に嗤う。身体に刻まれた星の紋章が疼く。それはアルテラに宿る二重の本能――戦士としての本懐(ほんのう)と遊星の使者としての使命(ほんのう)が絶妙な割合で調和した、アルテラにとって初めての感覚であった。半ば無意識のうちにアルテラは軍神の剣を構え、神剣から超常の魔力が迸る。そうして吹き出した魔力は旋転する刀身に合わせるように、紅蓮の武威となって大気を震わせた。

 アルテラは真名解放をする気でいる。しかし虎の子である〝涙の星、軍神の剣(ティアードロップ・フォトン・レイ)〟ではない。あれは軍神マルスの神罰をアルテラが捻じ曲げるもの。純然たるアルテラの力ではない。この敵手は自らの手で斃さねばならないとアルテラは断じた。だからこそ、マルスには頼らない。

 対する遥もまた、神刀に魔力を注ぎ込む。赫と輝く神刀。だが、今までと何かが違う。それを認めた遥は、ごく自然に神刀へと語りかけた。

 

(なんだ、不足か?)

『――』

(そうか。なら、持っていけ……!!)

 

 無論、叢雲は何も言わない。ただ何となく遥がそんな気がしただけだ。けれどそれは遥の幻聴などではなく、確かに神刀はその輝きを増した。同時に遥から引きずり出される魔力が倍増しになる。

 記憶の中から呼び起こすのは先の感覚。一瞬で空間を跳んだあの感覚だ。それを身体に投影し、構えを修正する。その瞬間、遥は己の位階をひとつ踏み越えた。

 僅かな距離を隔て、神剣の暴威が渦を巻く。黄金と紅蓮の颶風が鬩ぎ合うその光景は、まさしく神話の具現である。そしてそれが最高点にまで至った時、剣士が地を蹴った。虚空を奔る金と紅の軌跡。それが衝突する寸前、ふたりは同時に叫んだ。

 

「〝軍神の剣(フォトン・レイ)〟!!!」

「――ハアァァァァッ!!!」

 

 ぶつかり合う軍神の剣と海神の刀。それらはどちらが競り合うということはなく、行き場を失った神の魔力がその場で爆ぜた。

 

 

 

 暗闇に身を潜ませながら、暗殺者――荊軻はただひたすらに機を伺っていた。脱出のではない。アサシンのサーヴァントである彼女が狙っているのはただひとつ。この街を支配する女王暗殺の機である。

 今、ローマ帝国の存続を脅かす勢力は何も連合ローマ帝国だけではない。彼ら連合ローマが支配する領域とネロ率いるローマ帝国が支配する領域――現状、首都ローマ以東のみだが――を北側から抑えつけるようにしてブリタニアとガリアを支配する勢力がいる。それは勢力としての名を名乗ってはいないが、ネロ曰く〝勝利の女王軍〟――即ち、ブーディカが率いる勢力である。

 荊軻は今までローマ帝国の客将として連合ローマの皇帝を3人ほど暗殺してきた。しかし混戦の隙を狙ったこれまでの暗殺と違い、今回の暗殺は直接敵の本拠地に侵入してのもの。成功するかは五分といったところだ。果たして丁が出るか半が出るかは荊軻にも分からない。

 実のところ、荊軻はブーディカと一度だけ顔を合わせたことがあった。荊軻がローマに客将として迎えられたすぐ後の話である。その頃のブーディカはローマに恨みを持ってはいたが、その恨みを御して人民を守る善良な英霊だった筈なのだ。

 だが今の彼女はどうだ。彼女の故郷であるブリタニアはともかく、少なくとも此処ガリアのローマ市民は常に困窮に喘ぎ、いつ終わるとも知れぬ異民族支配の恐怖に怯えている。彼女の配下が宝具により生み出される意思無き傀儡であるが故に略奪や強姦、虐殺が起きていないのがせめてもの救いだろう。

 あくまでもローマの一客将でしかない荊軻には、何故彼女と同じ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ブーディカが変容を喫してしまったのかは分からない。だが正当な歴史を乱す不穏分子である以上、ブーディカは殺さなければならないのである。

 ガリアに築かれた砦、その中でも最も大きい部屋の隅で荊軻は気配を断ったまま、暗殺の機を狙っている。その眼前で黒衣の女王は半ば呆れの混じったため息を零した。

 

「アルテラが相打ち……ね。あっちの剣士と違って気絶しなかったのが幸いだけど……カルデア、か。ただの人間と侮ってたけど、これは中々面倒な相手だなぁ」

 

 カルデア。知らない名前だった。しかしブーディカの敵であるなら必然的にどちらかのローマの戦力であるのだろう。今アルテラが戦っている場所を考えるなら、ネロの側である可能性が高い。そう脳内で結論付けつつ、荊軻はブーディカへと接近する。

 その中で音もなく荊軻が取り出したのは匕首。中国において古代から暗殺によく用いられた暗器である。その刃の形は極めて殺人に特化したものとなっており、荊軻のそれはより殺傷力を高めるために毒を焼き入れてもいる。触れさえすれば英霊であれ致命は免れ得まい。

 隠し持っていた暗器を、未だ間合いに入らないうちから取り出す。仮にその場に同業者がいれば即座に切り捨てられるほど、その行動は迂闊に過ぎる。しかし、荊軻だけは例外だ。彼女は〝抑制〟と〝プランニング〟という保有スキルにより、暗殺を実行するその瞬間まで対象に気づかれることはない。

 大部屋にはブーディカと荊軻のふたりだけ。ブーディカの感覚器(はいか)である蛮族も、この場にはいない。暗殺を実行に移すには絶好の環境であろう。その出来過ぎにも思える状況に荊軻は違和感を覚えたものの、これを逃せば次はないのも事実。さらに距離を詰め、残り数メートルになった時、不意にブーディカが口を開いた。

 

「それにしても……暗殺だなんて、アタシも嘗められたものだね、荊軻?」

「な――」

 

 直後の荊軻の動きは正に神業とでも言うべきものであった。軌跡と言い換えても良い。抜剣からのタイムラグが殆どなかったブーディカの一閃を荊軻は匕首で受け、しかし間髪入れずに放たれた蹴りを腹に受けて吹き飛んだ。壁を突き抜け、荊軻が廊下の壁に叩きつけられる。

 胃を蹴り抜かれたためか、荊軻が廊下に吐瀉を撒き散らす。いくらサーヴァントとて、元が人間である以上反射反応は避け得ない。その荊軻に、ブーディカは堕ちたる騎士王の聖剣と似た意匠の長剣を突き付けた。

 これで、詰み。中華の大英雄相手に暗殺を失敗させた暗殺者はまたしても相手を殺すことができなかった。それも始皇帝につけたかすり傷ほどの傷も付けることができずに。それでも荊軻の目から意志の光は消えない。それを嘲るように、冷やかすように、ブーディカが短く嗤う。

 

「なんで……って言いたげな目だね、荊軻。でも当然の結果だよ、コレは。アタシの宝具の力をアナタは見誤った。ただ、それだけ」

「見誤っただと……?」

 

 そう問いを返す荊軻にブーディカはすぐには答えを返さず、指を鳴らした。それに呼応してその場に蛮族がふたり現れ、荊軻を拘束する。させじと抵抗する荊軻だが、蛮族たちの力は思いのほか強く、荊軻は完全に動きを封じられた形となった。

 ライダーではなく『狂戦士(バーサーカー)』、そして『復讐者(アヴェンジャー)』として新生したブーディカの第三宝具〝蹂躙蛮軍(アーミー・オブ・ブディカ)〟。その効果は生前に率いた部族――この時代に召還されたことによる〝無辜の怪物〟により醜悪な戦士と化しているが――を召喚・使役し、さらにその全てと任意の感覚を共有するもの。荊軻はそう予想していた。無論、他の客将やネロもだ。

 だが、それでは不足だとブーディカは言う。荊軻たちの予想は決して間違いではないが、足りないのだ。ブーディカが恃みとする宝具は、決してその程度のものではない。

 

「まぁ、アナタにはそれを知る必要性も、意味もないんだけどさ」

「貴様……!!」

 

 荊軻を嘲笑うようなブーディカの声音。その直後、彼女を拘束した蛮族たちが彼女を引き倒し、その背に彼女の匕首を突き立てた。そしてその刀身に焼き入れた毒がその体内に侵入し、荊軻の意識を焼き焦がす。

 

「ぐ、あ、ぐっ、あぁ――あああぁぁぁぁぁっ!? あああああああああ――――ッ!?」

 

 暗殺者、絶叫。古代中国にて風流人として知られた暗殺者はその名残を全く感じさせないほどに悶え苦しむ。充血した目は眼球が飛び出さんばかりに見開かれて回転し、口からは絶え間なくあぶくを吹き出している。

 苦しい、苦しいくるしいクルシイ耐えられない死にたいしにたいいっそ殺せ殺してくれ――声ならぬ声で荊軻はそう希うも、ブーディカは一向に手を下す様子はなく薄い笑みを浮かべて荊軻を見下ろしている。

 荊軻の匕首に仕込まれた毒はただの致死毒ではない。生前の彼女が始皇帝を暗殺するために遥か西方から来た商人から購入したそれは、人類史上最強の大英雄が打倒した九頭蛇が持っていた神毒である。流石に何倍にも希釈されてはいるが、直接体内に付き込まれればどんな英雄であれ自死を選ぶだろう。それを耐えきれる者など、大英雄を超える精神力を持つ、人類に可能な忍耐の最奥へ至った者だけだろう。尤も、精神が耐えきれたとしても肉体の死は避け得ないのだが。

 無論、そんな忍耐力が一介の暗殺者にある筈もない。ヒュドラの神毒を受けた荊軻の精神はその神威に耐え切れずに一瞬で引き裂かれ、無意味な断片と化していた。

 光の消えた目で虚空を見つめ、弛緩し死へと向かう身体で倒れ伏す荊軻。その背から引き抜いた匕首を同じく荊軻から奪った地図で包んでから仕舞うと、ブーディカは荊軻の首に長剣を据えた。

 

「アナタの大切な匕首はアタシが貰っておくわ。サヨナラ、暗殺者さん」

 

 振り下ろされる長剣。それは一切過たずに荊軻の首へと吸い込まれ、廊下に紅い華が咲いた。




型月世界では荊軻の匕首に仕込まれているのはヒュドラの毒なのだそうで。


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第47話 少年は、冠位を有する者と出会う

以前から読んでくださっている方は分かっていると思いますが、タマモは断じてヒロインではありませんので悪しからず。強いて言えば保護者です。


 気づいた時には既に、遥は夢を見ていた。夢を夢と自覚できるというのも奇妙な話であるが、遥はそれを契約下にあるサーヴァントの記憶を覗き見るという形で一度だけ体験しているが故に比較的容易に自覚できたのである。尤も、それがそれまでのそれと聊か異なることに気づいたのは少し後のことであったが。

 前回エミヤの記憶を垣間見た際はその直前の記憶が欠落していたが、それは意識を失う前の遥の行動が原因だ。故に遥が気づいたのは直前の記憶の有無ではない。今回のそれは記憶の主と遥の視点が同一化しているうえ、そもそも遥と契約しているサーヴァントの記憶ではなかった。

 或いはそれは、アルテラとの戦闘の最後に分霊との同調を限界以上に引き上げたためのものかも知れない。遥が見ているものは遥かな太古であり、天叢雲剣に宿る記憶であり、遥自身の記憶でもあった。肉体と同化する分霊の記憶を遥のものと定義するのは聊か語弊があるかも知れないが、その性質上、それは遥の記憶でもあるのだ。

 ――この世に生まれ、自己というものを認識したその時から『彼』は己の在り方に疑問を持っていた。それは何も己が生まれたことを憂いているのではない。ただ『そう在れ』と望まれたカタチを受容することを善しとしなかったのだ。

 だが彼がそれを明確な言葉として表すことができなかった。だからと言って周囲に打ち明けるような相手もいない。彼には父の他に姉と兄がいたが、彼以外に自分自身の在り方に疑問を持っていなかったのである。彼らを観察したところで、分かることなど自分が周囲とは致命的なまでにズレているということだけだ。

 だからこそ、ただ彼は考えた。幸いと言うべきか、彼が統治を任された場所に人間たちは住んでいない。故に彼には考えるための時間だけは豊富にあったのである。己の定義を再考するための思索に、有り余る時を費やす。それは彼にとっては非常に重要なことだった。尤も、彼にとっては重要でも他者にとってはそうではないのだが。

 何を下らぬコトを、と彼を最初に嗤ったのは彼の兄だった。彼は初めはそれに憤ったものの、考えてみれば当然のことなのだ。兄を含め彼の同族は皆、自らが今のように在ることに何の疑問も持っていないのだから、彼の思いを理解できないのも自明だ。思えば、彼と兄の確執はそこから始まったのかも知れない。

 しばらく考えて分かったことは結局、考えても答えは出ないということだった。彼の中にある違和感は思索によって解き明かされることはない。それでも諦めきれなかった彼は次に、己に欠如しているものを探すことにし、初めに見つけたのは母の存在だった。

 彼ら姉弟には父はいても母がいなかった。早くに死んだのではない。彼らの母は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのため、彼は母の名は知っていても顔も声も知らなかったのだ。そして、彼は彼の行動を怠慢と断じて諫めに来た父に言う。

 

 ──父上。母上に、合わせて頂けませんか?

 

 己が父に向けた願いと言うにはあまりに他人行儀な声音であった。しかしそれも致し方ないことではある。父は彼に家族としての情を向けたことがなかったのだから、自然、彼の態度もそうなってしまう。

 家族を恋しく思う感情は遥にも覚えがある。記憶の主と少し境遇は異なるが、遥もまた両親を早くに亡くした身の上である。今は姉と見なす者はいるが、それまでは本当に天涯孤独だったのだ。そういうものと諦観するまでは、何度亡き両親を思って泣いたか知れない。

 遥と記憶の主の眼前で、父なる者は驚愕に目を見開いている。父も彼がどこかおかしいとは分かっていたが、よもや死した者に会いたいと言い出すとは思っていなかったのだろう。

 しかし死者に会うことも神代においては不可能ではないのだ。この時代の日本は未だ黄泉の国と繋がっている。神代日本における冥界たる黄泉の国にさえ行けば、生者だろうが死者と会うことができる。黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)さえ犯さなければ戻ってくることもできるのだ。

 それでも父は首を縦に振ろうとしない。訝しむようにしばらく彼を見つめ、そして口を開き――その瞬間、豪放な声が遥の意識を現実に引き戻した。

 

「――うむ。いかにも、余こそがローマ帝国第五代皇帝たるネロ・クラウディウスである!」

「……ん?」

 

 遥が目覚めたのはまたしてもタマモの膝の上であった。初めはそれに戸惑ったものの、二度目ともなれば多少は慣れるものだ。そもそもタマモが遥にそう接するのは弟たる遥を大切に思い、けれど距離を測りかねているが故の結果なのである。それを恥ずかしがることはない。

 取りあえずはタマモの膝から頭を離して周囲の様子を確認する。今、遥たちがいるのはローマ軍の軍勢後方を走る戦車(クアトリガ)の御者台の上。周りにいるのはタマモと立香、そしてネロだけで、他のサーヴァントたちはローマ兵たちと共に哨戒に当たっている。

 急に叩き起こされたためか意識にまとわりつく粘つくような不快感を、遥は頭を掻いて払い落とした。タマモは不意の大声に叩き起こされた遥の様子に苦笑していたものの、すぐに居住まいを正す。そんな彼らの前で、ネロが口を開いた。

 

「む? 起きたか、剣士よ」

「アンタは……ネロ帝か。えっと……今、どんな状況なんだ?」

 

 周囲の様子から現在の状況を推理することはできても、流石にそこに至るまでの経緯全てを類推できる訳ではない。さしもの遥といえど一を聞いてもいないのに十を知ることはできないのだ。その問いに答えたのはネロや立香ではなく、タマモであった。

 タマモ曰く、軍神の剣(フォトン・レイ)の真名解放とそれに匹敵する天叢雲剣の魔力解放の余波を受けた遥はその衝撃を受け、それまでのダメージもあって限界を迎え気絶。対してアルテラは全身血濡れになりながらも意識を保っており、遥に止めを刺そうとしたのだが、それを沖田たちが食い止めたことで不利を悟り撤退。意識を失った遥は立香たちとの合流時にローマ軍に回収され今に至る。

 話を聞いてふと身に纏うロングコートに視線を遣れば、至る所に穴が空いていた。夜桜の魔術によって礼装として機能しているためにその程度で済んでいるが、ただの服であれば今頃は丸裸になっていただろう。

 そうなってしまった自分の姿を想像して遥が場違いにも薄い笑みを浮かべた時、遥は不意に背中に重みを感じて視線をそちらに遣った。そこにいたのはタマモ。その細腕は遥の胴に回され、微かな体温が伝わってくる。

 

「もう、本当に無茶して……あまりお姉ちゃんを心配させないで下さいね……?」

「……あぁ。ごめん、姉さん」

 

 そう言葉を返し、遥はタマモの手を握る。その胸中を占めるのは或いはその思いに応えられないかも知れないという後ろめたさと以前にも感じて強烈な罪悪感。それらは自身の裡から湧き出たものであり、同時に遥と同化する分霊から押し付けられたものでもあった。

 ある意味では倍増しになっているとも言える強烈な感情に晒されながら、遥は思う。恐らくは遥の肉体に宿る者は相当な姉至上主義者(シスコン)だったのだろう。遥に押し付けられる感情は絶対に恋慕ではなく、むしろ崇拝や畏怖に近い。無論家族愛も相当なものだが。

 遥の裡にいる者はタマモの内に別な、けれどタマモ自身でもある者を見ている。タマモもまた、遥を通じて遥自身でありながら同時に遥ではない者を見ている。真正の家族と言うにはあまりに歪な在り方だ。互いが互いを見ていながら、同時に別な者を見ているのだから。

 それでも遥はその関係性が嫌いではなかった。互いに別人を重ねていても、決して互いを見ていない訳ではないのだから。確かに両者を見て大切に思っているのなら、それで十分なのである。

 何も言わず、遥とタマモは互いの手を握る。直接触れ合う手から伝わる体温がこの上なくタマモの存在を遥に意識させ、諦観と憤怒に凍り付いた遥の心を溶かしていく。どれほどそうしていたのか、その空気を打ち破ったのはネロの咳払いであった。

 

「其方ら……姉弟仲が良いのは良きことだが、周りのことも考えて欲しいものだな」

「うっ……まさかネロさんに注意される日が来ようとは……このタマモ、一生の不覚です……」

 

 呆れ顔のネロに対し、本当に悔しそうな表情でタマモが小さく呟く。その言葉の真意は遥には分からないものの、少なくともタマモにはネロに対して少なからぬ因縁があることは理解できた。

 実際のところ、タマモは〝月の聖杯戦争〟での出来事の委細を覚えている訳ではない。それらはあくまでもカルデアの召喚システムが内包する不完全性が齎す残滓のようなものであって、本来は引き継がれるものではないのだから。それ以前に今この場にいる彼女らはムーンセルに召喚された彼女らとは同一人物の別人なのだ。故に、本来ならその面影を重ねるのは間違っているのだろう。

 しかし、致し方ないことでもある。朧気であるとはいえムーンセルでのことを覚えている以上、タマモにとっては大切な思い出であるのだから。引きずられてしまうのも当然の話だ。

 一種の郷愁にも似た思いをタマモが抱いているとは露ほども思わず、しかしネロはタマモに対して奇妙な感覚を覚えていた。色々と気が合う筈なのに、何かひとつが致命的に噛み合わない相手のような。その感覚を振り払い、ネロの表情が皇帝としての威厳あるそれに立ち戻る。

 

「オホン……剣士よ、まずは先の働き、大儀であったぞ。誉めて遣わそう」

「在り難き幸せ……とでも言っておけば良いのか? 悪いな、誰かに褒められるのって慣れてなくて」

 

 そう言う遥は本当に照れ臭そうで、それを紛らわすように遥は無造作に頭を掻いた。基本的に遥は少々人間不信のきらいがあるが、彼は聡明であるが故にネロの賛辞が嘘ではないとすぐに分かったのである。

 遥は大体のことなら人並み以上にできる、所謂天才の類に属する男だ。そのうえ遥は凡人でさえ天才を凌駕し得るだけの努力を重ねてきた。要は元から天才でありながら同時に常軌を逸した努力家であるのが遥なのだ。

 だがそれだけの能力を持っていながら、遥は両親を喪ってからは常に独りであったために誰かに褒められたことが殆どない。精々小中高の教員から勉学の出来を褒められたくらいか。ある意味ではそれが遥の努力に拍車を掛けたとも言えるだろう。誉められることがないため、遥の努力には果てがいつまでも来ないのだ。

 とはいえ、褒められたからと言って遥の努力に果てが来るのかと問われれば、それは否だ。褒められたらそれはそれでやる気を出してしまうのが遥だ。要は理屈云々は抜きにして、自分自身を追い込むのが好きなだけなのだ。

 

「して、其方の名は何という?」

「俺の名は夜桜遥。ただの剣士であり、魔術師だよ。ネロ皇帝陛下。あぁ、でも、人間ではないけどな」

「なんと……! 何かただならぬ気配を纏っているとは思っていたが、そういうコトか……!」

 

 少々大仰で芝居がかった口調でそう言いながら、ネロは遥をまじまじと見ている。関心と興味に翠緑の瞳を爛々と輝かせながら遥に近づくネロ。前かがみになったことでただでさえ大きく露出した胸がより強調され、反射的に遥が距離を取る。

 本能的に吸い寄せられてしまいそうな視線を感情で必死に抑えつけながら、遥の理性は全く別の方向を向いていた。関心を抱いたものに何の警戒も持たず、相手との距離を急速に縮めようとする。まるで子犬だ、と遥は思う。相手との距離の詰め方が極端に速い、遥が苦手とするタイプだった。

 しかしその手の人間に対しては珍しく、遥はネロに悪い印象を持っていなかった。恐らくはネロが持つ天性のカリスマ故だろう。ネロは自儘な行動をしてはいるが、相手の踏み込んではならない領域を知っているのだ。

 それは分かっていても、遥のそれは性分であるから仕方がないことだ。遥は魔術師としては異常なほど初心であり、あまり女性と関わりを持とうとしない。そして初対面から遠慮なしに距離を詰めてくるのはネロが初めてのことであったために遥がどうしたら良いか分からずにいると、タマモが遥からネロを遠ざけた。それと殆ど同時に遥の許に念話が飛ぶ。

 

『マスター、聞こえているか?』

『アサシン。どうした、敵襲か?』

『あぁ。恐らくバーサーカーのサーヴァントだろう。一直線に本隊に向かっている。僕単独では十分に足止めできるか分からない。誰かひとり寄越してくれ』

『了解。じゃあ俺が――』

 

 行く、と続く筈だった遥の言葉が唐突に止まる。喉につっかえたその言葉は出てくることなく、そのまま飲み下されて胸の中で霧散してしまう。代わりに出てきたのは、沖田を向かわせる、という一言だけ。

 遥の脳内で反響するタマモの言葉。あまり無茶はしないで、というそれを遥はごく自然に反故にしようとしてしまった。仲間たちに任せるという発想に至らず、自ら打って出ようとしたのだ。

 非道い奴だ、と遥が自嘲する。同時に感じたのは圧倒的な閉塞感。それが齎す強烈な息苦しさはさらに寒気を呼び込み、遥は思わず軽く自分の身体を抱いた。

 

「……遥?」

「何でもない。……あぁ、何でもないんだ」

 

 立香の呼びかけに答える声もどこか上の空で、その変化を感じ取ったタマモとネロもまた遥に視線を遣る。しかし遥はそれにも気づかず、自嘲的な笑みを浮かべたまま蒼穹を見上げている。

 アサシンに応援を求められた時、無意識的に自分が出ようとした遥の行動。それは何も遥が戦いたいがためのものではなく、半ば反射的な無自覚の行動だった。そしてそれは無自覚の行動であるが故に、遥の本心を表しているとも言える。

 つまるところ、遥は仲間たちを完全には信頼していないのだ。だからこそ〝他の誰かに任せるよりは自分がやった方が確実だ〟と判断してしまう。口ではどんなことを言おうと、顔にどんな表情を浮かべようと、心の底では常に相手を疑っている。それを事ここに至り、遥はようやく自覚した。いや、違う。自覚していて、今までは気づいていない振りをしてきただけなのだ。自分さえも騙して。

 平然とそんなことができる自分に嫌気が差す。自覚していながら目を逸らしていた自分に腹が立つ。だが何を遥が思おうと、遥が〝嘘を吐いた〟という事実に変わりはない。

 そんな遥の内心などお構いなしに、軍は一路首都ローマへと帰っていく。その中で、今代の尊厳なる者(アウグストゥス)だけが何かを悟ったかのように遥を見ていた。

 

 

 

 全ての道はローマに通ず、という言葉がある。これは17世紀を生きたフランスの詩人ラ・フォンティーヌの言葉であり、厳密に言えば古代ローマの栄華を讃えたものではない。しかし遥たちが見た首都ローマはその言葉を思わずローマの栄華を讃えたものと勘違いするほど華やかな都市であった。

 相手は正しく国家ではないにせよ仮にも戦争中であるのに人々はそれをものともしない活気に満ち溢れ、この時代の世界の中心都市であるだけあって様々なものが流れてきている。これで同時代の日本では古墳すらもできていないというのだから、ひどい文明格差もあったものである。

 やはり何より驚くべきはその建築技術であろう。ヨーロッパと言えば石材建築のイメージがあるがそれは中世からの話であり、この時代のローマ帝国においては〝ローマン・コンクリート〟というコンクリート建築が主流であった。実際、王宮までの道のりにはローマン・コンクリートによるものと思しき建物がいくつもあった。

 そしてもうひとつ遥たちを驚かせたのは、あまりのネロの人気ぶりであった。街路を通りがかる度に民衆から向けられる歓声と畏敬は皇帝らしくもあり、同時にアイドルのようでもあった。

 そうして王宮にまで案内された遥たちは各々部屋を与えられた上に立香は『総督』としての地位を、遥は『傭兵隊長』としての地位を与えられた。ひとえに指揮能力の差と戦闘での在り方の違いによる判断である。元より指揮能力は立香の方が上であることに加え、敵と真正面から戦う遥ではどうしても視野が狭くなる。故により強い権限は立香に与えた方が有効に働くのである。

 そしてカルデア実働部隊の歓迎の宴の準備が終わるまでの数時間の自由時間。遥は衛兵に案内されてローマ王宮の厨房へと向かっていた。というのも、この王宮まで戻る間にネロが気に入った林檎があり、それに興味を持った遥が皇帝への献上品を作るという名目で厨房を使わせてもらえることになったのだ。

 

(それにしても、料理長に話を通しておくって言った時のネロ、妙にニヤニヤしてけど何かあるのか……?)

 

 先程厨房を使うための許可を貰おうとした際の妙なネロの笑みを思い出し、遥が首を傾げる。そもそも皇帝自身が料理長に話を通すということ自体が妙なのだ。皇帝と料理長が対等である要因として考えられるのは、その料理長がサーヴァントであることくらいか。

 首都ローマに到着してから判明したことだが、既にローマ軍には聖杯によって召喚されたカウンター・サーヴァントが数騎、客将として集結していた。そのサーヴァントが料理長であれば、対等であることもあるだろう。

 英霊が料理長というのも奇妙な話だが、遥はエミヤやタマモといった料理を得意とするサーヴァントを知っている。彼らほどの腕前を持つサーヴァントであれば、料理長に任命されてもおかしくはない。遥がそんなことを考えているうちに厨房に着いたらしく、衛士の足が止まる。

 

「着きました。ここが厨房です、傭兵隊長殿」

「あぁ。ありがとう」

「いえ。陛下からのご命令ですので、礼を言われるようなことはありません。では」

 

 それだけ言って、衛士は遥の許から去っていく。その声音に剣呑な響きがあるのは、恐らくカルデアへの好待遇に抱く不満のためだ。故にこそ、遥は何も言わない。いくら味方を助けた相手とはいえ、得体の知れない異邦人を疎ましく思うのは当然のことだ。加えて〝傭兵隊長〟などという怪しい肩書付きなのだから。

 とはいえ、それを気にしていても何も始まらない。こういう時、立香ならどうするのだろうか、という疑問も遥には何の益も与えない。異邦人を嫌うのは人間の本能のようなものだ。その嫌悪感に理由などない。遥は一度ため息を吐き、自分の両頬を叩いて意識を切り替える。

 今、厨房ではカルデア実働隊を歓迎するための宴の準備が進められているだろう。そのため遥が使えるのはほんの一角のみだが、遥はそれだけで十分だった。何故なら、遥の真の目的は林檎スイーツを作ることよりも古代ローマの料理人からその技術を盗むことにあるのだから。

 そう。これは好機(チャンス)なのだ。古代ローマの料理人からそのレシピと技術を盗み取り、その知識を元に現代にてその料理を再現するための。そうやって気を取り直し、厨房に足を踏み入れ――遥は、奇妙なナマモノを見た。

 

「――!? 何だ今の」

 

 反射的に廊下と厨房を隔てる壁に身を隠しながら、遥が呟く。眉間を摘まんで目を強く瞑るがしかし、別に目が疲れている訳ではないからか涙は出ない。そうして遥は何度か深呼吸をして、しかし先手を打たれてしまう。

 

「何をしているのだ?」

「わひっ!? 2Pカラー!?」

 

 果たしてそこにいたのは遥が契約している玉藻の前とよく似た、しかし決定的に色々と異なるサーヴァントであった。まず両手に猫の肉球を模した手袋をしている。髪型はタマモのツインテールと違ってポニーテール。着物の色は赤だ。遥が2Pカラーと言った由縁である。

 だが何より遥、というよりも遥に宿る分霊が戸惑っているのはそのサーヴァントが纏う気配がタマモのそれと殆ど同一であることだった。その違いと言えば、こちらの方が少々野性的な気配がすることくらいか。

 遥を見上げるその瞳に理性の色合いはなく、しかし正統なバーサーカーのような狂った獣性は感じられない。あくまでもこのサーヴァントの野性的な気配は狂化によるものではなく自身の裡から湧き出たものであるらしい。

 冷静なのか否か自分でも分からないまま、遥は眼前のナマモノを分析している。対してそのナマモノは感情の読めない瞳で遥を見つめていたと思いきや、急に遥の胸倉を掴みあげた。

 

「えっ……」

「おまえから主人格(オリジナル)のニオイがするっ! よぉし、サインを貰ってくるか。……その後で血祭にする。本当の酒池肉林をお見せしようっ……!」

「はあっ!? ストップ、ストップ!」

 

 意味の分からないことを叫んだと思えばどこかへと走り去っていきそうなナマモノ。それに即座に対応して咄嗟に帯を掴んで止めることができたのは、流石の反射神経と言えるだろう。どこか使い道を間違えているような気がしなくもないが。

 主人格(オリジナル)という発言、そしてこの容姿。遥自身、考えていなかった訳ではないがどうやら本当にこのナマモノは『玉藻の前』であるらしい。だがタマモの逸話にこのようなふざけた一面があるなどとは聞いたことがない。

 凄まじい力で引っ張られる身体を魔術で強引にその場に固定し、踏ん張る遥。だが不意にその手に掛かる力が弱まる。驚いてナマモノを見れば、着物が開けて見えてはいけない所まで露出しているのを、着物の腕部で隠していた。

 

「なっ、なぁっ――!」

「このようなやり口で強引に脱がせるとは……なかなか大胆なのだな、我が弟よ。まぁ今は直接的な血縁があるワケでなし、応じてやるのも吝かではないが……」

「ンなワケあるかッ!! 俺にその手の趣味はねぇ!!」

 

 最早ノリが違い過ぎて何を突っ込んで良いのか分からなくなっている遥。どちらにせよ遥には女性経験などというものは皆無であるため、ノリがあったとしても適切な突っ込みができる筈もないのだが。

 ナマモノの調子に呑まれているからか、或いは遥自身も本能的に感じ取っているのか、ナマモノが〝我が弟〟と遥を称しても遥は何も言わない。分霊が同化するどころか浸食している遥にとって、タマモ及び同じ霊基のサーヴァントは長姉であるという認識は当然のものとなっていた。

 だが、理性では未だに納得できていない部分もあった。それはそうだろう。タマモの逸話をどう解釈すれば、どういった角度から見れば、手に肉球付きの手袋をした獣性全開の状態となるのか。こめかみに手を遣って顔を顰めながら、遥が問う。

 

「で、アンタの真名は? てか、本当に『玉藻の前』なのか?」

「応さ。アタシは野性の獣〝タマモキャット〟! よろしくな。……それで、ソチラの今生の名は?」

「――今生……ね」

 

 厳密に言えば、遥は彼の肉体に宿る分霊の転生体ではない。ナマモノ、もといキャットの問いに遥が戸惑いと自嘲の笑みを見せたのはそれが原因だった。今生と言われても、キャットの言う前世は遥のものではないのだ。

 しかし完全にそれそのものでないかと言えば、それも違う。元より遥は人間の血が混じった状態で分霊の本体(オリジナル)に近づくように調整されているうえ、その人間の血も徐々にその特性を上書きされつつあるのだから。

 

「……まあいい。俺の名は夜桜遥。よろしく、キャット姉さん」

「応ともさ」

 

 快いその返事と共にキャットが遥に向けて手を差し出す。一瞬その意図を判じかねた遥であったが、すぐにそれを了解してキャットの手を握り返した。その接触によってふたりの間に契約が結ばれ、経路(パス)が繋がる。

 遥から繋がったふたりの〝玉藻の前〟への魔力のパス。それを逆流して伝わってくる思いは決して不愉快なものでなない。むしろ嘗ての遥が狂いそうなほどに焦がれ、そして諦めてしまったものだ。それが今、確かな実感としてある。

 だというのにどうしてかそれに罪悪感を覚え、遥は少しだけ顔を顰めた。

 

 

 

「――ん……? ここ、どこだ……?」

 

 遥がバーサーカー〝タマモキャット〟と出会い、契約を交わしたのと殆ど同刻のことである。気づいた時には覚えのない場所に立っていた立香は、周囲を見渡してそう言葉を漏らした。

 その場所は一面の花畑であった。名前も知らない、それどころか見たことさえもない可憐な花々が咲き乱れ、花弁がそよ風に乗って世界に満ちている。現状、立香が身を置いているローマの乱世とはおおよそ懸け離れた、謂わばそこは〝理想郷〟であった。

 しかし立香は一切警戒を怠ることはなかった。いくら見た目には平和であるとはいえ、実際はそうとは限らない。この光景も幻術で見せられているだけ、という可能性も否定はできないのだ。全身の魔術回路に魔力を回し、腰に帯びたファイブセブンの銃把に指を絡ませ感覚を研ぎ澄ませる。

 或いは、気づかないうちに立香自身がこの場に来ていた可能性――絶対にない、と立香は判断する。立香はこの場所を知らないし、何より直前まで立香は自身にあてがわれた部屋で眠っていた筈なのだ。よもや唐突に夢遊病を発症し、誰にも気づかれないままローマを出て知らない場所に辿り着くなど有り得まい。

 何も分からない状況の中でひとり、立香は立っている。そして、不意に孤独感と心細さを押し殺して周囲を警戒する立香の耳朶を知らない男の声が打った。

 

「おや、本当にいた。私の方から干渉してもいないのにここに来るとは、何て運だ! いや、悪運と言うべきかな?」

「ッ――!?」

 

 声が聞こえてきたのは立香の背後、それもすぐ近くであった。周囲を警戒していたにも関わらず一切の気配もないままに接近してきたその相手に対し慣れない動作でファイブセブンを抜こうとして、立香は更なる驚愕に見舞われる。

 ファイブセブンがない。先程までは確かにホルスターに収まっていた筈のそれが、いつの間にか忽然と消えていた。サーヴァントがいない状況下では最後の生命線である装備の消失に、立香が息を呑む。

 けれどそれで立香は生存を諦めるほどヤワな男ではない。この状況でも立香の脳は高速で回転して生存のための一手を見出そうとして、その直前で、その男が愉快そうに見ていることに気づいた。

 

「……え?」

「ん? もう良いのかい? 私としては、もっとキミの様子を観察しても良かったんだけど」

 

 奇妙な出で立ちの男であった。白と青が混在する流麗な髪は地面に着きそうなほどに伸びており、顔には表情には感情の読みにくい笑みが浮かんでいる。身に纏うのは純白のローブ。手に執る魔杖からは素人の立香でさえ知覚できるほどの魔力が放たれている。

 悪人ではない。直感的に立香は悟る。けれど善人でもない。男の薄い笑みは端正な顔をした穏やかな人間が浮かべる平均的なそれであったが、そこにはおおよそ全ての笑みにある筈の人間性というものが完全に抜け落ちていた。

 そもそもこの男は純粋な人間なのか。遥やクー・フーリンのような半人の存在を知るが故に、立香は自然とそういうものへの嗅覚を身に着けていた。その感覚が立香にこの男が人間ではないと告げている。そのまましばらく立香がそうしていると、先に男が口を開いた。

 

「そんなに警戒しないでくれたまえ。何しろここに人がくるのなんて滅多にないものでね。性に合わず、はしゃいでしまった」

「はぁ。それで……此処は何処なんですか? 貴方がオレをここに?」

「そんな同時に聞かれても、一度には答えられないよ。だから順番に答えていくとしよう。

 まず、ここは〝アヴァロン〟。人理から隔絶された妖精郷さ」

 

 アヴァロン。その単語を聞き、立香は眼前の人物が誰であるかにようやく気が付いた。アヴァロンとは即ち、アーサー王伝説においてアーサー王が死後に招かれるとされていた理想郷の名だ。だが現実にはアルトリアは世界と契約を交わして英霊となり、理想郷には未だ至っていない。

 アルトリア不在のアヴァロンに存在し得るアーサー王伝説の登場人物となれば、ひとりしかいない。アルトリアを王として仕立て上げた張本人にして、彼女を導いた宮廷魔術師。世界有数のキング・メイカーである半人半夢魔の男〝アンブローズ・マーリン〟。

 マーリンは立香が彼の正体に気づいたことを知ってか知らずか、相も変わらず感情の読みにくい笑みを湛えている。それでもはしゃいでいるのは本当なのか、心なしか楽しそうではあった。

 

「次にふたつめの質問に答えよう。確かに私はキミたちのファンだが、直接招いてまで会おうとは思わない。きちんとマナーとモラルを守るファンだからね、私は」

「ファン……?」

 

 マーリンの言葉に混じる違和感。立香はマーリンとは面識もなければ、一緒に行動したこともない。だというのにマーリンの口ぶりには、まるで立香たちの道程を見てきたかのような響きがあった。

 いや、事実見ていたのだろう。人類史における最高位の魔術師であるマーリンは〝現在〟を悉く見渡す千里眼を持っているという。それが人類史の白紙化という例外的事項の影響で過去の出来事である特異点まで見渡すことができるようになったのだろう。

 そこまで分かっても、肝心の立香がここへ来た原因が分からない。しかしマーリンには心当たりがあるようで、少々納得していない様子ながらそれを口にする。

 

「恐らくキミがここに現れた原因のひとつはキミの体内にある鞘だろう。……時にマスター君。夢を通して別な場所に来た経験はあるかい?」

「いえ……ないです」

「そうか。じゃあこれが初めてというワケだね」

 

 マーリンが言うところはつまり、立香には未だ判明していない〝夢を通して意図しないままどこかに現れる〟という能力或いは体質があり、それが立香の体内にある〝全て遠き理想郷(アヴァロン)〟という縁を通じて立香をこの場所に導いた、ということである。

 何の根拠もない、仮定に基づく推測だ。しかしその推論には不思議と説得力があった。そもそも、この状況を可能な限り納得できるように説明するためにはそうとでも考える他ないというのもある。

 魔眼に特異体質にと人理修復が始まってからというもの、立香は自分自身ですら分かっていなかった秘密が次々と判明している。自分のことさえ全て把握できていなかったという事実は薄ら寒くはあるものの、今まで知らなかった世界に入り込んだばかりの立香にとっては大した話ではないように思えた。対照的にマーリンはその仮説を非常に重く見ていたが、それは今気にしても仕方のないことではある。

 

「それで、貴方はマーリン……ですよね?」

「うん、そうだよ。私は〝花の魔術師〟マーリン。私の方から名乗ってもいないのに、よく分かったね?」

「だって、アヴァロンに人がいるとすればひとりしかあり得ないじゃないですか」

 

 立香がそう即答すると、何が面白いのかマーリンは巨大な笑声をあげた。立香が目を白黒させる前で、マーリンはやはり違和感のある笑みを見せて「そうだった! 私としたことが、忘れていた!」などと言っている。

 アヴァロンは人理より隔絶された異世界である。或いは立香が生きる世界のどこかに出入り口があるのかも知れないと立香は思ったが、先のマーリンの口ぶりからするにそれもないらしい。つまり元からこの世界に住む妖精を除けば、この世界にはマーリンしかいない筈なのだ。

 爆笑するマーリンを呆れ顔で見上げる立香。だが不意に、その身体が淡い光を放ち始めた。同時に急速に全身の感覚が遠ざかっていく。その様子を見咎めるや、マーリンが言う。

 

「おや、もうお目覚めかな? まあいい。これでキミと私の縁は繋がった。気まぐれで私が夢に訪れた時はよろしく。……そうだなぁ、その時は――」

 

 そこでマーリンは一端言葉を区切ると、少し考えこむような仕草をしてから魔眼殺し越しに立香の目に手を翳した。そして立香の意識が妖精郷から引き戻される瞬間、言葉の続きを口にする。

 

「――その〝眼〟の使い方でも教えてあげよう。なに、安心するといい。なんたって、私は英雄作成のプロだからね」




次回は多分風呂(テルマエ)回です。男衆の。

この小説での立香の設定をまだ書いていなかったので、この場を借りて。若干本編に関係ない設定もありますが、そこはこの小説での立香の個性ということで。

藤丸 立香
年齢:18歳 身長:172㎝ 体重:59㎏
特技:対人関係構築、楽器演奏、作戦立案、忍耐
好きなもの:カルデア料理班(遥、エミヤ、タマモ)の作る料理、アニメ、読書(主にライトノベル)、音楽
嫌いなもの:特になし
天敵:人理焼却の首謀者
特徴:魔眼
文理選択:文系。但し割とどちらもできる。得意教科は英語。
装備:FN Five-seveN・カスタム。本人はあまり使いたくない模様。


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第48話 星空の下、剣士は皇帝の皇帝たるを知る

 現代日本において最も有名な古代ローマの文化を挙げるとするならば、やはり何をおいてもまずはテルマエやバルネアと呼ばれる公衆浴場であろう。古代ローマ人にとってそこはただの浴場ではなく社会生活の中心であり、非常に重要な場であったのだ。

 現代においてヨーロッパに入浴という文化がああり残っておらず日本特有の文化と見做されているのは、ひとえに6世紀から7世紀にかけての東ローマ帝国への異民族の侵入とイスラム系帝国の侵略によってテルマエが破壊されてしまったことが一因としてある。年代的には日本に入浴の文化ができたのはテルマエができた後なのだから、日本の方が後発ということになろう。

 とはいえ、どちらにしても浴場がその文化圏に住む人々にとって憩いの場であることに変わりはなかろう。そこに文化の後発や先発という違いは関係ない。特に日中に激しい戦闘を終えた遥たちにとって、風呂は何よりも有難いものであった。

 

「おぉ、すげぇなこりゃ。薔薇浮いてるぞ、これ。香水でも入ってるんじゃねぇの?」

「ドムス・アウレアではないんだぞ、ここは。まぁ、はしゃぐ気持ちも分からなくはないが……」

 

 そんな会話をしながら浴場に入ってきたのは遥と立香、さらにエミヤとクー・フーリンであった。徹底して無駄を排除しているアサシンはサーヴァントに入浴は必要ないと言って銃器の整備をしている。

 この時代、石鹸は未だ超が付くほど高価な代物であるが、遥たちがいるのは王宮の浴場であるため例え高級品でも置いてある。遥たちは容赦なくそれを使って身体を洗うと、浴槽に身体を鎮めた。

 疲労が蓄積した身体に湯の温かさが染み渡り、遥は思わず深いため息を漏らした。やはり薔薇の香水でも入っているのか、強いながら不快でない程度の香りが遥の鼻腔を突く。

 カルデアにも相当な広さの大浴場があるが、テルマエの湯舟はそれとはまた違った趣がある。天井はカルデアのそれよりもかなり高く、かなりの解放感があった。その天井を見上げるように、半ば湯に浮きながら遥が四肢を伸ばす。

 

「はぁ、極楽……これで風呂上りに牛乳とかあれば、最高なんだけどなぁ」

「確かに。……というか、遥? それ、行儀悪いよ?」

「良いじゃねぇか。どうせ俺たちしかいねぇんだしよ」

 

 口ではそう言いつつも遥は一度湯舟の中に完全に身体を鎮めると、すぐに浮き上がって湯舟の淵に背中を預けた。湯舟に入ってきた立香はそのすぐ近くに腰を下ろし、至福のため息を吐く。

 湯舟に身体を鎮めると、まるで身体に蓄積した疲労が湯の中に溶け出していくかのような感覚を覚える。それに身を委ねるように、遥は更に身体を鎮めていく。

 遥は起源である『不朽』が強く表れているためにどれだけ疲労が蓄積しようが身体機能に影響が出ることはない。だが影響は出ずとも感じない訳ではないのだ。直接サーヴァントを相手取っている分、その疲労は計り知れないものがある。それ以前に、生身の生命である遥にとって入浴の重要性は相当なものだ。

 

「アサシンも来ればよかったのに」

「仕方ねぇだろ。アイツは徹底した合理主義者だからな。俺たちがこうしている間にも、アイツは俺たちのために色々やってくれてんだろ。それに、本来サーヴァントに入浴の必要性はないからな」

「だからと言って入ってはならないことはないがね」

 

 そう言いながら湯舟に入ってきたのはエミヤであった。その後からクー・フーリンも入ってくる。ふたりはサーヴァントであるため入浴には何の利益や不利益もないが、だからと言って入ってはならないなどという規則はどこにもない。

 テルマエの中には4人の他には誰もおらず、身体を流す人や会話が一旦途絶えたためにテルマエの中に響くのはテルマエから溢れた湯が静かに流れていく音のみだ。しばらく誰も何も言わぬままでいる中、不意に立香が口を開く。

 

「なんだかこうして誰かと入ってるとさ、修学旅行みたいだよね」

「あー、そんなのもあったなぁ。高校時代とか誰も友達いなかったから、忘れてた」

 

 そう言う遥の声音に懐古の色合いはない。ただ昔の記憶を思い返し、その事実を淡々と述べているだけといった様子である。実際、遥はその過去については特に何も思っていなかった。

 遥が独りだったのは何も、遥の対人能力が低いからだけではない。仮にそうであったのなら、遥は適当に似たような仲間を見つけてつるんでいたいただろう。それができなかったのは、周囲が無意識に遥を避けていたからだ。

 人間とはとかく危険を遠ざけたがる生き物である。君子危うきに近寄らず、という訳ではないが、周囲にとって遥はその〝危険〟であったのだ。全国模試成績は常に1位。そのうえ運動もでき、加えてそれを鼻にかける様子もない。学園ラブコメであればこの上ない最優良物件だが、現実にはそんなものは化け物としてしか映らない。向けられるのは恋慕などではなく徹底した無関心や恐怖、謂れのない憤怒。

 そして駄目押しに夜桜の血である。その血に混じった人外の血はあまりに強く、それ故に一般人であっても本能的に遥を脅威だと判断できてしまう。それで近づく者などいまい。事実、いなかったのだが。

 だからこそ、遥にとってカルデアは安息の地だった。マスター候補生は誰も彼も神秘を行使し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そして人理修復が始まってみれば、相棒は無意識に危険を認識していながらも近づいてくる人間ときている。尤も、そんなことは口が裂けても言わないが。言えば最後、遥が恥ずかしさでおかしくなってしまう。

 何となく立香は遥の言いたいことを察したのか、それ以上は何も言わない。代わりの話題を探し、彼の口を突いて出たのはこのローマについてのことだった。

 

「それにしても……ローマの状況、思ってたより悪かったね。まだ首都が残ってるだけマシなのかもだけど……」

「残ってるだけ、とも言えるけどな」

 

 1時間程度前まで王宮の大広間で行われていたカルデア歓迎の宴だが、その実態は宴というよりもむしろ作戦会議に近いものであった。しかし遥たちにそれを残念に思う気持ちはなく、むしろ有難いことだった。

 元は地中海世界の覇者として君臨していたローマ帝国だが、連合ローマ帝国と勝利の女王軍の登場と略取にとって今やユーラシア大陸側の領土は元の半分以下にまでその面積を減じていた。

 現在、ネロ率いるローマ帝国の領土はアフリカ大陸の北端地域とイタリア半島以東となっており、属州ブリタニアとガリアを勝利の女王軍に、イベリア半島を連合ローマ帝国に奪われている。そんな中でも幸いと言えるのは、東国との交易路が絶たれていないことだろう。この戦争が始まってすぐに交易路の終端を首都ローマに纏めたネロの差配、その面目躍如である。

 戦時において最も恐ろしいのは国の孤立化である。領土面であれ、交易面であれ、孤立化してしまっては一方的に侵攻されて終わりだ。その点で言えば、首都ローマを絶対防衛線として交易路を一点に集約したネロの判断は正しい。首都を堕とされては国は終わってしまうのだから。

 

「サーヴァントの数は恐らくこちらが上だが、向こうには聖杯がある。おまけに兵力もあるときた。さて、どうしたものか」

「聖杯ならカルデアにもあるよね? オレたちが回収したやつ。アレは使えないの?」

「あー、アレか。多分、使ったところでそう変わらねぇぞ。あくまでもサーヴァントは俺たちと契約してるんであって、その俺たちは自前の魔術回路の出力以上は一度に使えないからな」

 

 敵側に召喚されているサーヴァントとカルデアに召喚されているサーヴァントの最大の違いはそこだ。カルデアのサーヴァントにはマスターという枷が存在するのに対し、敵側のサーヴァントは聖杯から直接的な魔力供給を受けている。

 立香の瞬間的な魔力生成量を15程度とするなら、現在の遥が5000程度。これは埋葬機関に所属するとある代行者と同等程度だが、遥は混血の能力解放による身体の負担を無視して極短時間という制限こそあれど10000程度までならば上昇させる事もできる。対して聖杯は貯蔵量・出力量共に限りなく無限大に近い。どれだけ優秀だろうが未だ半人の域を脱していない遥と凡人の域を脱していない立香では超抜級の魔力炉心には勝てないのである。そもそも、魔力出力量で聖杯に勝るものなど神霊くらいのものであろうが。

 或いは分霊に浸食されきった遥ならば聖杯に並ぶこともできるのかも知れないが、今はそんなことを論じても仕方がない。なおも立香と遥が何か言おうとした時、それより先にクー・フーリンが口を開いた。

 

「どうだって良いだろ、そんなコトは。どれだけ兵力差があろうが、オレの槍が貫く。有象無象なんざ、オレたちの敵じゃねぇよ」

「そうだね。それは疑ってないよ、信頼してるから。……でも、相手のサーヴァントが判明しきってないから立てられる対策は立てておかないと」

 

 立香は現代に生きる人間には珍しいほど純真な男だが、同時に責任感が非常に強い男でもある。数合わせの一般人やら、偶然巻き込まれた素人やら、そんな方便で怠惰を受容することは立香にとっては有り得ないことだった。

 世辞を入れたとしても、立香はカルデア実働部隊の中で最も戦闘力が低い。それは揺るがない事実だ。しかし立香は〝統率者(マスター)〟である。その役目は戦闘だけではなく、そして立香には他方の役目を果たし得るだけの能力があった。

 敵の全容は未だに不明であるものの、一国を相手に戦争ができるだけの兵力があることは分かっている。そこに自分たちの戦力を当てはめ、策を考える。しかしそれが成るより前に、遥の声が立香の耳朶を打つ。

 

「気負うなよ、立香。折角のテルマエなんだ、今くらいはリラックスしても良いと思うぞ。ま、気を抜きすぎるのも良くねぇけどさ」

「……それもそうだね」

 

 そう言うと立香は一旦思考を中断し、身体から力を抜いた。強張った筋肉が一瞬で弛緩し、淵に背を預けて肩まで浸かると筋肉に籠っていた余計な力が溶けだしていくような感覚が全身を満たす。

 思えば、今までの人理修復の道程は立香の人生の内でも一、二を争うほどに忙しない時間であった。命の危機の度合いで言えば間違いなく一番だろう。カルデアに来るまでは普通の生活を送っていたのだから、命の危機に瀕したことがあろう筈もない。

 その生活で蓄積していた疲労は立香自身の想像よりも大きかったようで、認識した途端に強烈な眠気が立香の意識に靄をかける。それに誘われるままに立香の意識が断線しかけたのと殆ど同時、残念そうなクー・フーリンの声がテルマエに反響した。

 

「……ダメだ! どう頑張っても嬢ちゃんたちのキャッキャやってる声が聞こえねぇ! 覗けねぇならせめてと思ったんだがなぁ……」

「何をしているのかね、ランサー……」

「流石、性豪揃いのケルト随一の大英雄。頼もしいコト言ったきりなにも言わねぇと思ったら、そんなコトしてやがったのか……」

 

 半ば、と言うより完全に呆れた様子のエミヤと遥。立香は何も言わなかったが、流石に擁護しきれないとばかりに苦笑いを浮かべている。それが不満なようで、クー・フーリンが不貞腐れたように身体を伸ばす。

 

「ンだよ。オレなんてフェルグスの叔父貴に比べりゃまだまだだぜ? それにお前ら、見たくねぇのかよ?!」

「私は必要ない。サーヴァントに性欲に従う理由はないからな」

「俺もいいよ」

 

 即答だった。エミヤだけではなく、遥までもである。エミヤの理論に従えば生者である遥には性欲に従う理由がある筈だが、それを一切伺わせない完全な即答である。

 確かに遥は生者であるから、多少なりとも性欲がない訳ではない。しかし容易く我慢できることに加え、仮に女風呂を覗いてしまったが最後、最悪遥の人理修復が終わってしまうことも考えられる。何も益がないのだ。

 クー・フーリンは戦士であるがためにその判断に一定の理解を示すが、しかし未だ少々不満げであった。少しの間彷徨ったクー・フーリンの視線が立香を捉える。

 

「マスターはどうだ? マシュの嬢ちゃんの裸、見たくねぇの?」

「マシュの?」

 

 クー・フーリンの言葉にそう返すや、半ば反射的に立香の思考回路がクー・フーリンの言った通りのものを描き出す。それに理解が追いついた瞬間、立香は自分が何を考えていたのかに気づいて顔を赤くした。

 遥以上に初心な反応におや、と呟いたのは遥自身であった。エミヤは何も言わないが、何か微笑ましいものを見たかのような表情をしている。直後、クー・フーリンが遥の肩を叩き立香に聞こえないように耳打ちをする。

 

「なぁ。これってつまり……そういうことか?」

「さぁな。立香の方は分からねぇが、少なくともマシュの方はお前の想像通りだと思う」

「マジか。かーっ!! 青いねぇ!」

 

 天を仰ぎ、揶揄うようにそう言うクー・フーリン。だがその声音に立香たちを嘲るような気配はなく、むしろそこには自らの後に続く人間を見守る先人としての姿があった。

 大英雄クー・フーリン。青春などとは縁遠い時代に生きた彼が現代における青春に理解を示すのは、ひとえに彼に別世界での現代に召喚された記憶があるからだろう。或いは単純に兄貴肌なだけなのかも知れないが。

 何にせよ、仲間内に色恋の気配があるのは決して悪いことではない。立香とマシュの幸せを望む遥としても、その気配は眼福である。妙な満足感を遥が覚えていると、エミヤが遥に問うた。

 

「君はいないのか? そういう相手は」

「俺? 俺はいないよ。だって……」

「だって?」

「……いや、何でもない」

 

 何か言いかけて口を噤み、無理に笑ってみせる遥。だがエミヤとクー・フーリンというふたりの英雄の目を誤魔化すだけの演技力は遥にはなかった。無理な笑みを浮かべた遥の目には光がなかったのである。

 それに気づいてはいても彼らは遥にその理由を問うことはしなかった。それの源泉が遥に内在するある種のトラウマであることは分かったうえ、言わんとすることは察することができる。ただ思うのは、遥が難儀な性格をしているということだけだ。

 遥をただの好青年と見るのなら、それは彼を知らぬだけのこと。よく見るか少し彼と共にいるかすれば、遥の内にあるものが決して綺麗なものではないと分かるだろう。遥は心の内に何か闇のようなものを隠している。ある意味では遥の許に反英霊か反英霊的側面を持つ英霊しかいないのは、そういうこともあるのだろう。

 その心の闇を自覚しているからか、遥は他人を一歩引いたところで見ている節がある。沖田やオルタに対して平気で誑し込むような真似ができるのはそのためだ。つまるところ、遥は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だが仮に遥が抱えている心の闇ごと彼を許容する愛があるのなら。エミヤはそれを想像しようとして、止めた。そんなことは考えるまでもない。代わりに、エミヤは別の言葉を吐き出した。

 

「そろそろ出よう。のぼせるぞ?」

 

 

 

 空を見上げれば、明るく輝く月と天球に散りばめられた星々の輝きが見える。遥たちが生きる時代とは比較にならないほど空気が澄んでいるうえに人々の生活圏に強い光源がないためか、その星空は遥が見てきたどんな星空よりも美しい。王宮の中庭に吹くそよ風めいた空風が心地よい。

 テルマエからあがって2時間と少し。正確な時刻は分からないものの、現代のグリニッジ標準時を示す腕の通信装置のディスプレイには23時と表示されている。そんな時刻になっても、遥は未だ眠らずにいた。何も意図があってのことではない。ただ身体が睡眠を欲していないのである。

 明らかに異常な状態であった。いくら遥が只人の域にはいないとはいえ、確かに半分は人間である筈なのだ。故に遥とて人間の三大欲求に引っ張られてしまう。その筈が、今はそれがない。加えて例え長い期間睡眠がなくとも十全に活動できるという確信が遥にはあった。

 冬木以降は目に見えた変化はないが、それは確かに遥が人間でなくなりつつある証左であった。人間が人間である以上逃れられない根源的な欲求が徐々に薄くなっている。今のところ睡眠欲の軽薄化以外は分からないものの、他にも表れてはいるのだろう。

 少しずつ、だが確実に自分が得体の知れないモノへと変貌していく。それは遥にとっては生まれた時から定められたことであり、覚悟していたことだ。だがいざその兆候が見えると、嫌が王にも怖気にも似た感覚を覚えてしまう。とうに覚悟し、受け入れていたにも関わらず。

 顔に手を遣り、天を仰ぎながら遥は自身に向けて冷笑を飛ばす。夜桜の血はともすれば神話に語られる英雄の域にすら手が届く血。そして遥にはその資質がある。だがその精神性は英雄には程遠く、それどころか悪人にすら劣る。善に成りきれず、悪にも堕ちきれない。積み上げてきた強さも、果たして何のために積み上げてきたのかすら不明だ。

 人理修復のため、というのは結果論だ。カルデアに来る以前、遥はただ漠然とした使命感で世界を旅しながら悪徳を滅ぼしてきた。そんな中で積み上げた強さに明確な方向性がある訳もない。結局のところ、遥はただ何かに流されるばかりだ。その大いなる流れの中で、自分自身の意思は風に流される木の葉程度のものでしかないように思えて、遥は冷笑に嘲笑を重ねる。その時、不意に背後に気配を感じて遥は振り返った。そして視線の先にいた姿を見て、遥は疑問の声を漏らす。

 

「ネロ帝? 何故ここに? というか、寝てないのか?」

「皇帝というのは忙しいのだ。それにだな、ここは余の屋敷だぞ? そのどこに余がいてもおかしくはあるまい」

 

 正論だった。確かに王宮はネロの住居であるのだから、それのどこにネロがいてもおかしな話ではない。故に遥は何も言わずに空に向き直った。するとネロは何を思ったのか隣に立ち、遥を見上げる。その視線に耐え切れず、遥が明後日の方を向く。

 ネロの翠緑の瞳には子供のような好奇心の気配がありながら、同時に人の内側を全て見透かすかの如き知性の光があった。それから逃げるように、遥が顔をさらに背ける。

 しかし、それだけでネロの視線から逃げることができる筈もない。ネロの視線は果断なく遥に注がれている。そうしてしばらく、ネロが口を開いた。

 

「……悩んでいるな? どれ、許す。余に話してみよ」

「アンタに話してどうなる。無意味だよ」

「む。なかなか面倒な奴だな、貴様。皇帝の命令だぞ? それに、何も解決せずとも誰かに話して楽になることもあろう」

 

 そういうものか、と遥が逡巡する。基本的に1人で生きてきた遥には周囲の他人に悩みを打ち明けるという経験があまりなかった。精々故郷の商店街の大人たちに相談したことがある程度か。それも大したことではないが。

 しかし考えてみれば、元より悩みとは自身だけで解決しないからこその悩みなのだ。それを他人に話すことに意味を見出す試みも虚しい。その意味は実際に話してみるまで分からない。遥は一度周囲を確認してカルデア実働部隊の面々がいないことを認めると、少しずつ語り始めた。

 まず遥、ひいては夜桜の血に混じる人外の血の正体から始まり、遥が〝叢雲の呪い〟と呼ぶ天叢雲剣の概念上書き能力。そこに遥自身の思いは混じらず、しかしネロは全て悟っているかのような目で遥を見上げている。対して、遥は妙な感覚に囚われていた。

 或いはそれは、ネロの天性のカリスマが齎すものであったのかも知れない。意図しないまま、気づいた時には遥は己の内心までネロに吐露していた。感情のない表情でありながら、声音だけに感情が乗っている。しばらく黙って遥の話を聞いていたネロだが、遥の言葉が一旦止まった時に自分の言葉を割り込ませた。

 

「成る程。つまり、貴様は世界が嫌いなのだな?」

「……あぁ。そうなんだろうな。身勝手で、イキり倒してるガキみてぇだが、俺はこの世界が嫌いだ」

「そうか。余は大好きだがな!」

 

 胸を張ってそう言うネロの姿に、遥は思わず笑ってしまう。ネロの宣言はともすれば遥への痛烈な批判ともなり得るものだが、遥は不快には感じなかった。ネロにその意思がないことがすぐに分かったからだろう。

 遥はこの世界が嫌いだ。だからこそ、立香やマシュに遥は人として惹かれたのだろう。あまりに彼らの在り方が遥が理想とする『人』に近いが故に。遥を嫌う者たちとはあまりにも違うが故に。

 

「ならばハルカ。何故貴様は世界を救わんとする?」

「決まってる。俺の目の前で死んでいった人々の死を無駄にしないためだ。()()()()()()()()()()()()()()()()。……それと、アレだ。俺は俺が愛した人たちに生きていて欲しい。そのために、世界には滅んでもらっちゃ困るんだよ」

 

 その声音はあくまでも真っ直ぐで、遥が嘘を言っていないことは疑うまでもない。先に行ったことと矛盾するようだが、遥が嫌いなのは世界(じんるい)という総体であって個人を見れば別なのだ。ある意味、マーリンとは真逆である。

 立香が戦う理由が『生きたい』という欲望であるならば、遥の戦う理由は『生きて、生き続けて、そしてその果てに死んで欲しい』というものだ。それだけは他の何者も関与しない、遥だけの願いだ。つまりは遥にとって、〝世界を救う〟というのは目的ではなく、願いを叶えるための手段でしかない。そんな目的は遥には荷が勝ちすぎる。精々目的らしい目的と言えば、〝人理焼却の首謀者を一発殴ってやること〟くらいか。

 遥のそれは一見すると利他のようにも思えるが、遥にとってはこの上ない利己だった。何せ他人に対して遥の願いのためだけに生を強要しているのだから。

 

「己が愛する者たちのため、己の目前で死んだ者のため、か。……だがハルカ、弁えているか? 己を捨てた献身など偽善でしかないというコトを」

「献身なんかじゃねぇよ。俺は俺のためにやってるんだから。……浅ましい願いだってのは分かってるさ。でも、俺にはそれしかないんだよ」

 

 少なくともそう信じている間だけは遥は自分の意志で生きていると感じることができる。人外の力を躊躇わずに使うこともできる。例えそれが自身が向き合うべきものから目を背けているだけなのだとしても。

 そんなことはネロに見通されているだろう。しかいネロは毅然とした表情で遥を見つめたまま、何も言わない。それでも遥にはネロが言いたいことが分かって、直視できずに視線を外した。

 責めるようなネロの視線を、直視できない。それこそが遥が自らの動機に後ろめたさを抱いている何よりの証左。たかだかそんなもので皇帝たるネロの目を誤魔化すことはできない。

 

「自分の願いを言い訳にするな。貴様の願いは確かにそれなのだろうが、それを言い訳にするのは運命と戦うことを放棄した蒙昧の戯言でしかないぞ」

「運命と……?」

「うむ。貴様の血を持たぬ余には、貴様の苦悩の程はてんで分からぬ。だが、貴様が逃げていることは、まぁ、考えるまでもない。

 そも、貴様の言う血の定めとは何だ? 魔術師としての使命か? それとも、ただ流されていくことを受け入れるための方便か? だとしたら、甘い。貴様の目はそんなもの、一片も受け入れてはいないと言っているぞ?」

 

 正直な所、ネロには遥が分からなかった。一方で方便を弄して諦念に囚われておきながら、片一方では諦めていない様子を見せている。自らの願望を利己と言いながら、自らのことを一切顧みることもなく最前線で戦っている。明らかに矛盾していながらどちらも本意なのだから余計に性質が悪い。

 或いはそれこそが遥の持つ二重性が齎すものであるのかも知れないが、それこそが遥の意志そのものが遥に同化している分霊の影響を受けていることの証明に他ならない。完全に打ち消されている訳ではないにせよ。

 だが、それは遥の意志が弱いという訳ではない。むしろ並の現代人が同じ状態で生まれれば、自分の意志すら持てないままに流されていただろう。しかし神話の同族のように強大な個として君臨している訳でもない。要は半端なのだ。言い換えれば、半端であるが故に染まり切らないということでもある。遥が強大な個となり得れば、分霊を捻じ伏せて完全に自らの力とすることも可能ということだ。

 

「良いか、ハルカ。貴様の(ソレ)は畏れるものでも、流されるべきものでもない。人の(かいな)で支配すべきものだ。それができた時、貴様は真に英雄の資質を持つ者として己の運命と向き合えるであろう」

 

 逆に言えば遥は英雄に匹敵する肉体と精神を持つ者にならなければ打ち勝つことができないほどの運命を抱えているということだ。だが、できない話ではない。他の同族にできて、遥にできない筈はない。

 遥の内心は察していてもその根源が齎すものを体感していないネロがこれほど遥の内側を見抜き、そこに届く言葉を紡ぐことができたのは、ひとえにネロが皇帝であるからだろう。皇帝として多くの者を見てきたが故に、ネロの人を見抜く目は最早超常のそれである。

 ネロの言葉を受けても、遥の懊悩が完全に消失した訳ではない。むしろ今までの在り方を否定され、壊され、足元が全て消え去ったかのようでさえあった。だが、それで良い。間違えて積み上げ続けたものを正すには、一度全て壊してしまう他ないのである。

 しかし、手がかりは与えられた。ただ足元を崩されただけでは惑うばかりだが、目指すべき場所に至るための一縷の光明はある。尤も、そこに至るまでの道が分からないのだが、そこは迷ってこそのものだろう。誰かに答えを示され、そのレールにただ従って生まれるのは英雄ではなく愚図でしかないのだから。

 何も言わず押し黙る遥の前で、ネロはひとつ欠伸を漏らして伸びをする。

 

「ではな。余はもう眠い。……精々足掻き、励み、惑え、若人。貴様の旅はまだ始まったばかりなのだろう? ならば問題はあるまい。何物も、初めから完璧ではないのだから」

 

 ――そこから自分の部屋に戻るまでのことを、遥はよく思い出せない。恐らくは熟考したまま無意識に戻っていたのだろう。『不朽』の起源をもつ遥が思い出せないとなると、それくらいしか考えられない。

 気づいた時には遥は寝具の上に座り、茫然と天井を見上げたまま考え続けていた。遥の血に混じる人外の血を、人の力で捻じ伏せる。果たしてどのようにすればそんなことができるのか分からない。手掛かりを与えられても、それが少なすぎるのだ。

 遥にできることは戦って、戦って、戦い続けることだけ。その闘争の中にのみ答えがあるというのなら、遥は喜んで戦い続けるだろう。だが本当にそうなのか、という思いがあるのもまた事実。

 そもそも遥の認識とネロの真意に若干のズレがあるような予感も遥は抱いていた。だとしたら太刀打ちのしようがない。遥は遥であって、ネロではない。故に遥には〝ネロの認識(せかい)〟を知覚することはできないし、その逆もまた然り。人間だろうが何だろうが、1個の知性は他の知性にはなることができないのだ。

 無目的に積み上げた強さ。利己であり利他である願望。血の影響を受けた自我。それらをネロは是とせず、しかし否ともしなかった。その真意が分からずに、遥がため息を吐く。その時、ノックもなしに不意に扉が開いた。入っていたのは私服姿のオルタ。何故オルタがここにいるのか。唐突な突撃に遥が何も言えずにいると、オルタが遥の胸倉を掴み上げた。

 

「……アンタ、あの皇帝サマと何話してたのよ」

「見てたのか。どこから?」

「よく聞こえなかったから分からないけど、アンタが皇帝サマに何も言い返せなかったのは見えたわ」

 

 オルタが遥とネロが話しているところを見たのは全くの偶然であった。遅くまで沖田に付き合ってもらって剣術の特訓をしていたオルタは特訓後に沖田よりも少しだけ長くテルマエに入っており、その帰り道にふたりを見かけたのである。遥がそれに気づかなかったのは、単純に周囲への注意を怠っていたからに過ぎない。

 口ぶりから察するに、オルタが目撃したのはかなり終盤であるようだった。つまり、遥が最も無様に醜態を晒していた時である。遥自身が最も見られたくない場面を見られたことに、遥が自嘲的で空虚な笑みを浮かべる。

 そんな無様な場面、仲間に見られたくはなかった。だがこうなってしまった以上、最早逃げることなどできまい。遥は観念してひとつ大きく息を零すと、先に起きたことを語り始めた。そうして全て話し終えた後、冷笑を放つ。

 

「可笑しいよなぁ。会って数時間の相手にここまで見抜かれて、何も言い返せないんだぜ?」

「えぇ。……本当にね」

 

 感情の読めない声色であった。その直後、遥の全身が温かい熱に包まれた。身体を包むのは数瞬前までの寒気ではなく、オルタの体温。気づけば、遥はオルタに抱き締められていた。

 いつもの遥であれば、一瞬で顔を赤くして慌てふためいていたのだろうが、今、遥にそれだけの余裕はなかった。遥はただ驚きに目を見開くばかりで、硬直している。

 硬直する遥を、オルタはただ抱き締めている。悲壮な面持ちは復讐者(アヴェンジャー)としてのそれではなく、1人の人間としての顔。遥が初めて見る、オルタの表情であった。その表情が遥の心に突き刺さる。仲間になってくれた人にそんな顔をさせたくなかったのに、今オルタは遥のせいでそうなってしまっている。遥が間違ったばかりに。

 

「ごめん、オルタ」

「なに謝ってんのよ。アンタらしくもない」

「だって……俺はそんな顔、して欲しくなかった。それなのに……」

 

 たとえ運命から目を背けるための言い訳にしていたのだとしても、遥の願望は紛れもない本物なのだ。だからこそより性質が悪いのだが、それに間違いはない。

 今思い返せば、冬木でギルガメッシュが遥を目の敵にしていたのは遥の存在そのものはなく願いを言い訳にしているその姿勢であったのかも知れない。ローマの一皇帝でさえすぐに見抜くことができるのだから、原初の英雄王の全能の前には一瞬で詳らかとなろう。

 〝自分が愛した人々に生きていて欲しい〟と言う遥だが、それは何もただ生きていれば良いと言っているのではない。遥は、少なくとも悲しい顔をして欲しくなどなかった。尤も、それは遥が在り方を間違えたばかりに叶わなかったのだが。

 そうして目を伏せる遥だが、不意にオルタに両頬を挟まれて無理矢理に視線を彼女に固定された。その距離の近さに遥が息を呑む。最早オルタの長い睫毛の一本一本を判別することさえできるだろう。思わずあらぬ方向へ視線を遣りそうになるが、遥を見つめる金色の瞳がそれを許さない。

 

「ふざけたこと言わないでよ。少なくとも人形だった私は、アンタがいたから人間になれたのよ。だから、そんなに今の自分を否定しないでよ。それとも、アンタ、私を人形でいられなくした自分も否定する気?」

「ッ……!」

 

 オルタの言う通りであった。遥が今の自分を否定するということはつまり、遥が今まで歩んできた道程を全て否定することに等しい。それは遥が成したことを悉く間違いだったと断じるのと同義だ。

 だが、それは遥が関わってきた全てを無に帰す行為である。世界を旅する間に成した人助けも、桜を助けたことも、オルタを人形でいられなくしたことも、遥の行為の結果であり、責任だ。それを放棄するのは何より遥の信条に反してしまう。それは許容できないことであった筈だ。

 無理に変わる必要性はない。運命と戦うということは、そういうことではない。今の自分を否定せず、受け入れ、それでもなお自らの行く末に抗うこと。自らの意志で運命を掴み取ること。それが運命と戦うということだ。

 自分の頬に添えられたオルタの手に、遥が手を重ねる。まさか遥がそんな行動に出るとは思っていなかったのか、急に顔を赤くするオルタ。少し余裕が出てきたからか内側から湧いてきた嗜虐心のままにオルタを抱き寄せた。

 

「ありがとな、オルタ。まだ答えは見えないけど……でも、頑張るから。だから……その、隣で見ててくれると助かる。また俺が間違えないように」

「当然じゃない。アンタが嫌と言っても着いていくわよ。だって私は、そのためにアンタの求めに応じたんだから」

 

 遥の背中に返されるオルタの腕。全身から伝わるオルタの熱が、諦観と絶望に塗れた遥の心を溶かしていく。そう。遥は無理に変わる必要はないのだ。ヒトでなく、人外でなく、しかして人の力で人外の力を捻じ伏せ、己を人でも人外でもないものへと昇華させる。それが遥の成すべきことである。

 生半可なことではない。それはつまり、神代から現代まで一度も例もない、人類史に前例のない存在にならなければならないということなのだから。それでも他に道がないというのなら、遥はその道を進むだろう。たとえ、それが茨の道だったのだとしても。

 心の中のしこりが解消されたからか、遥はそのまま眠ってしまった。それに誘われるようにしてオルタは眠っている遥の隣に身体を滑り込ませ、眠る遥の横顔を見つめる。

 睡眠欲を殆ど失ったとはいえ、一度眠ってしまえば大人しいものでオルタが近づいても目覚めることはない。その瞬間、自らの鼓動が速くなったのをオルタは自覚した。

 オルタは理性で自らが踏み越えてはならない一線を規定している。だがそれとは裏腹に、感情は素直なもので理性が規定した一線を超えたいと叫んでいる。そしてオルタは頬を紅く染めながらも遥の頬に軽く口づけを落とした。

 

「私のマスター。きっと私、貴方に恋をしています。……と言っても、アンタは信じてくれないんでしょうけど」

 

 その言葉は遥に届くことはなく、ただ虚空に溶けていった。




拙者ツンデレの女性キャラが相手が聞いていない場でデレるシーン大好き侍。

ところでこの小説を読んでくださっている方々にちょっとドロっとした話が好きな方はどれほどいらっしゃるのでしょう。僕は大好きですけどね。書くかは別にしても。

※立香と遥の魔力量の比較を月姫Rのシエルの描写を基準にしたものに修正しました(2021/10/13)。要は48話時点での通常状態の遥が身体的負担なく安定して生成できる魔力量はシエルと同等、立香が一般魔術師より少なめと思っていただければ。


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第49話 策略は巡り、戦端が開く

 今から数週間前の話である。今でこそ〝人類最後のマスターたち〟の片割れとして人理修復に臨んでいる遥だが、元は立香とは違いAチームに所属するマスター候補生であった。

 だがAチームといえどキリシュタリア・ヴォーダイムやオフェリア・ファムルソローネらAチーム発足時からの〝クリプター〟と呼称される7人のひとりではなく、最悪サーヴァントなしでも戦うことができる即戦力、言い換えればマリスビリーの本命たるクリプターを守るための人身御供としてオルガマリーによって無理矢理捻じ込まれたのである。つまりはAチームと言っても書類上の話であって、その実態は謂わば〝遊撃隊員〟が遥だった。

 だからという訳ではないが、遥と他のAチームメンバーの間にはあまり交流はなかった。中にはスカンチナビア・ペペロンチーノのように交流を持とうとする者もいたが、遥はあえて交流を持たなかったのである。というのも、遥はクリプター、ひいては彼らを集めたマリスビリーに対してきな臭いものを感じていたのだ。故に避けていた。

 しかしそんな遥でもマシュ以外に自ら話しかけたものがいた。或いはそれは厳重に積み上げられたダムに空いた小さな穴のようなものだったのかも知れないが、遥の方から話しかけたという事実に変わりはない。

 それは遥がカルデアに来て2日ほど経った日のことであった。夜、人気の絶えたカルデアの廊下。図書館で1日中世界の文学作品を読み漁った帰り、遥は見知った背中を見つけたのである。周囲に人影や魔術による監視・盗聴の類はなし。それを確認するや、遥はその背中に声を掛けた。

 

「――なぁ、芥。アンタ、人間じゃないんだろ」

「ッ!?」

 

 単刀直入極まりない遥の問いに、その問いを投げられた女性――芥ヒナコが反射的に振り返り、瞠目した様子を見せる。遥に向けられた射抜くような視線に込められているのは殺気と敵意、そしてそれ以上に疑念であった。問いへの答えはない。しかしその態度こそが何よりも雄弁に、遥に答えを示していた。

 何故遥がそれに気づいたのかと問われれば、彼は明確な答えを返すことができない。強いて言えば、ただの勘だ。遥は人間ではなく、加えて世界を旅しているうちに悪魔や死徒といった類と戦い続けてきたが故に、人外(どうぞく)の臭いには敏感であった。

 芥ヒナコ。植物科(ユミナ)出身の魔術師であり、元々は技術者としてカルデアに所属していたが、レイシフトの適正を見出されたことでAチームに転属させられたということに、表向きはなっている。だがそんな経歴を遥は初めから信じていない。魔術師の社会とは騙し合いが前提の社会。何より『君主(ロード)だったマリスビリーが推薦した』という事実が遥の中でAチームへの不信感として現れているのだ。

 遥を睨むヒナコの視線には、人間の生涯を圧倒的に超えた〝重み〟のようなものがあった。そこに常にAチームに対して見せていた無気力な植物学者としての姿はなく、天敵に相対したかのような獰猛さがあった。

 

「流石は悪名高き二代目魔術師殺し。その手のことは何でもお見通しってワケ?」

「俺としちゃ不本意なんだけどなぁ、その渾名。別に衛宮切嗣と知り合いってのでもねぇし。迷惑千万だな」

 

 あくまでも飄々とした態度を崩さない遥。元からヒナコとて遥がただの殺気で怯むような相手とは思っていないが、まるで煽っているかのような応対に苛立ちを隠しきれず盛大な舌打ちを漏らす。

 ()()()()()。直感的にヒナコは悟る。ヒナコが遥に向けた殺気は今のヒナコに可能な最大限の殺気だった。一般的な魔術師であれば身構えるか卒倒するかのどちらかであっただろう。しかし遥は身構えるどころか警戒する素振りすらなく、けれどヒナコが動いた瞬間に首を飛ばすに十分な準備をしていた。

 本来の姿でのヒナコであれば、首を飛ばされたところで死ぬことはない。だが現状の彼女であれば、首が飛べば致命傷一歩手前にはなるだろう。最悪、頭と胴体を切り分けられたまま封印、などということもあり得る。故にヒナコは手を出さず、遥が満足するまで適当にあしらいつつその内側を分析してやることにした。

 

「……それで、私が人間じゃなかったら何? そんなコト、あなたには関係ないことでしょう? それとも、私を殺しでもするのかしら。どこぞの狂信者どものように」

「はぁ? オイオイ、冷たいねぇ御同輩。そりゃ、アンタが俺を殺しにかかってくるなら俺も反撃するけどさ」

 

 態度とは裏腹にその言葉には嘘の色合いはなく、それどころか奇妙な親近の念すらそこにはあった。初めは何のことか分からなかったヒナコだが、すぐに遥の意図を悟る。つまりは遥もまた、ヒナコと同じく人理(アラヤ)ではなく地球(ガイア)の側に属する存在なのだ。

 厳密に言えば、遥は混血であるからアラヤとガイアの両方に属する者であるのかも知れない。しかし遥の口ぶりからするに、ガイア側の要素が強いのは間違いあるまい。

 遥とヒナコの共通点はそれだけではない。後者は既に久遠にすら等しい時間を積み上げてきた者。前者はこれから久遠にすら等しい時間の中で『不朽』を体現する者。前か後かの違いはあれど、そこに悠久があることに違いはない。

 無論ヒナコにそんなことは知る由もないし、関係のある話でもない。彼女に関知できるのは遥もまた一部とはいえガイア側に属するということだけであり、遥の内心を察するにはそれだけで十分だった。

 

「そう……じゃあなんであなたはカルデアに来たのよ。嫌いなんでしょう? 人間が」

「それはアンタに話すことじゃねぇな。ただ、アンタが別に人理を修復するためにカルデアに来たワケではないように、俺にも目的があるんだよ」

 

 まるでヒナコの正体と過去を知っているかのような口ぶりであった。不穏な気配にさらに警戒を強めるヒナコだが、その反応こそが遥にとっては正解と言われているに等しい。

 遥とて、そればかりは直感で気づいたのではなく多少の推理に基づく推論であった。真祖だろうが死徒だろうが、或いはまた別の吸血種だろうが近縁種である以上はある程度の共通点はある。加えて何より決定的だったのはその名前だ。〝芥ヒナコ〟という名前を全て漢字に変えて並べ替えると雛芥子、つまりは虞美人草を表す言葉になる。要はアナグラムだ。

 無理のある推論であることは遥も自覚している。しかし可能性として零ではない以上、遥はその推論を捨てずにいたのだ。そうしてその低いと考えられていた可能性が見事に正解であった、という訳である。

 しかしこうしてヒナコの正体を暴いてはみたものの、そのままでは対等ではない。それは等価交換ではないうえ、遥の信条にも反する。故に遥はヒナコの戸惑いを完全に無視し、自らの正体を彼女に明かした。ヒナコの戸惑いが呆れに変わる。

 

「……もしかして、あなた馬鹿?」

「む。失礼な奴だな。一応、高校の全国模試では1位以外取ったことないんだけど。まぁ、殆どインチキなんだけどさ。……というのは置いといて。アンタの秘密を暴くだけ暴いて、俺だけ明かさないのは不公平だろ? だから、これで取引としては対等だ」

 

 あくまでも平静のままである遥の声音に、ヒナコが舌打ちを漏らす。種族は違えど、遥がヒナコと似た存在であることはヒナコにも分かる。そして、人間を嫌っていることもだ。

 だというのに、遥はあくまでも真っ直ぐでいようとする。それが正しく真っ直ぐではなく、歪みに歪んでその果てに逆に真っ直ぐになった純真なものではないのだとしてもだ。その在り方がどうしてもヒナコの鼻に付く。

 この男は馬鹿ではない。それはヒナコの中に確かな認識としてあった。むしろその身に課せられた不朽の重みを理解できているだけ聡明と言えるかも知れない。それがたまらなく腹立たしい。この男はヒナコと同じく望まぬ永遠を得ておきながら、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「あなたはそれを理不尽だとは嘆かないの?」

「俺にその権利はねぇよ。それに、俺は『生きて』と願われ、託された。だったらそれを守り通すのが、親に血肉を与えられた子の役目だろ?」

「……そう」

 

 瞑目し、それだけ呟いてからヒナコは遥に背を向けて離れていく。遥もそれを呼び止めることはせず、ただ自分の部屋に戻るために歩いていく。ふたりの間に会話はなく、故にそれは互いにそれ以上互いを知る必要がないとしていることの証明であった。

 遥とヒナコは分かり合えない。互いに正体を知り、本性を晒していたとしても、それだけだ。そもそもふたりの行動原理に埋めがたい隔絶がある以上、相互理解は絶対に不可能なのだ。

 ヒナコ、もとい虞は2200年以上も持ち続けていた恋慕(しんねん)のために動き、その時の遥は己が信条のためだけに動いていた。その根幹にあるものが相容れないのなら、ふたりに理解の余地などない。たとえ、同じく人ならざる者なのだとしても。

 ただひとつ、互いが抱く理解があるとするのなら。〝敵対すれば躊躇わず、同情することなく、殺し合うだろう〟という予感めいたものだけだった。

 

 

 

「来てるか、立香?」

「うん。報告通り、連合ローマ軍だね」

 

 王宮中庭にて遥がネロから進むべき道を諭されてから数時間。未だ陽も昇り切っていない早朝。首都ローマを囲う城塞にて急いだ様子の遥に、カルデアからの支給品である改造双眼鏡を下ろしながら立香が答える。

 立香から双眼鏡を受け取って見てみれば、確かにその先には紅と金の装飾が施された防具を身に纏う歩兵や戦車に乗る騎兵から成る軍勢があった。確かに連合ローマ軍である。

 王宮内にその報告が持ち込まれたのが10分前。首都ローマ付近を哨戒していたアサシンによるものであった。サーヴァントは既にそれぞれに配置に付いており、ローマ軍も少しずつ結集しつつある。報告があった際には寝ていた者も多いだろうに動きに迷いがないというのは、ローマ軍がどれだけ戦闘を重ねてきたかを示す証左であろう。

 そんな中で遥の到着が少々遅れてしまったのは、双眼鏡と同じくカルデアからの支給品として受け取ったある装備品の準備に時間がかかってしまったからだった。尤も、その装備はアサシンのためにレオナルドに頼んだもののため遥は持ってきていないのだが。

 

「とりあえず戦闘が始まったら、昨日の会議で決めた通りに。……だが、大丈夫なのか? 最前線だぞ?」

「うん。みんながいるし、オレもそう簡単に死ぬ気はないから。それに……」

 

 そこで立香は言葉を区切り、その後に言葉が続くことはなかった。しかし立香の拳は強く握り締められ、彼の内に秘められた激情の程を示している。果たして普段は温厚な立香をそうさせる激情が何なのか、遥は考えるまでもなく分かった。

 昨日の会議にてカルデアの方針が最前線で戦うように決定した最大の要因は通信で会議に参加したロマニが示した〝レフ・ライノールがいる可能性〟だった。この特異点が人理焼却の首謀者が作り出したものである以上、その手先であるレフがいても可笑しな話ではない。そしてこのローマにいる者の内でレフの顔を知っているのは遥たちカルデア実働部隊のみだ。そのため、彼らは前線にいなければならない。

 レフ・ライノールはカルデアの仇だ。多くのマスター候補生を半死半生の状態に追い遣ったのみならず、スタッフを爆殺した張本人である。立香はその死体が転がる凄惨極まる現場を目の当たりにしたが故に、レフへの激情もまた人一倍強い。ある意味、他人の為にそれだけの激情を抱けるという点は立香の美点であろう。しかし、その美点は時として弱点に成りうるものでもあるのだが。

 もう一度双眼鏡を覗くと、連合ローマ軍は僅かに近づいてきていた。目下のローマ軍はほとんど全員が集合し、迎撃体勢を整えつつある。刻一刻と戦闘の気配が近づく中、立香が話題を変えた。

 

「ねぇ、遥。何か妙じゃない?」

「連合ローマの侵攻路のことか? それは俺も思ったよ。前回といい、今回といい、連中、陸路で来てやがる」

 

 連合ローマの領土であるイベリア半島から首都ローマまでの最短路は陸路ではなく海路である。加えて陸路には途中にブーディカとアルテラの陣営に略取されている領土があるのだ。普通に考えれば、通過できる道理はない。

 だが2度の例を鑑みるに、恐らく勝利の女王軍は連合ローマが攻めてきたのみ戦闘を行っているのだろう。彼らが自分たちではなく首都ローマに向けて侵攻する場合は見逃しているのだ。要は利害の一致である。そう仮定すると、この戦闘の後に待ち受けているものも予想が付く。

 勝利の女王軍がローマに侵攻せんとする連合ローマを見逃しているのは、つまるところその攻撃によってローマ軍が疲弊するのを狙ってのことだ。であれば、その後に間を置かずに攻め入ってくる可能性が高い。それが立香と遥の間にある共通認識だった。

 だからと言って、今回の戦闘に手を抜くことができる訳ではない。来る先端に向けてふたりのマスターが緊張を高めていると、遥の脳裏にエミヤからの念話が飛んできた。

 

『マスター、そろそろ有効射程内だが、どうする?』

『タイミングは任せる。先頭に一発、ドデカいやつをぶちかましてやれ』

 

 その言葉への返答はない。しかし魔力のパスで繋がっている遥には、エミヤが念話の向こうで首肯したのが分かった。次いでエミヤが投影した宝具に込められた魔力の波動が、大気に充満した空間魔力(マナ)を震わせる。

 それを合図として城塞から飛び降りるべく、全身の魔術回路を駆動させる立香と遥。そうして遥は叢雲と正宗を抜刀し、飛び降りる直前に傍らの立香に言葉を投げた。

 

「ウダウダ考えるのも飽きた。どうせ後も戦うなら、最初からクライマックスでいこうぜ?」

 

 

 

「……始まったね」

 

 首都ローマから遠く離れたガリアの城塞。その頂上に位置する部屋で、まるで見てきたかのような口調でブーディカが呟く。いや、見てきたかのよう、ではない。事実、ブーディカは首都ローマ付近で始まった戦闘をこの瞬間にも知覚している。

 『狂戦士(バーサーカー)』であり『復讐者(アヴェンジャー)』でもあるブーディカの第三宝具〝蹂躙蛮軍(アーミー・オブ・ブディカ)〟の真価は配下の召喚や彼らとの感覚共有ではない。遠隔地においても自らの意志で配下を召喚、或いは自陣営のサーヴァントや人間に配下の召喚権を付与するこの宝具は、その副次的効果として自分自身か配下が足を踏み入れた場所にまで()()()()()()()()()()()()()()()

 無論、五感全てを鮮明に広げることはできない。遠隔地での感覚は領土内でも大幅に低下し、敵領土内であれば只人の十分の一にも満たないレベルにまで認識力が低下する。故に一度は身を置いたことがあるローマ王宮内にまで感覚を伸ばして作戦を盗み聞きする、というのは殆ど不可能に近い。配下や仲間がいるのならその限りではないが、そんなことをすれば虎の子であるこの宝具の特性が早々に露呈することになる。それは悪手だ。

 そんな状況下でも、大規模戦闘が始まったことを認識するには十分に過ぎる。数千、数百規模の軍勢が轟かせる鬨の声は大地を震わせ、剣戟の音は虚空に響き渡る。それだけの情報さえあれば、あとはブーディカ自身が補完できる。

 誰に向けて放った訳でもないブーディカの言葉。それに反応を返したのは、部屋の隅で彫像のように静止していたアルテラであった。言葉を返すことはないが、明らかに纏う気配が好戦的なそれへと変わりつつある。それを揶揄うようにブーディカが笑う。

 

「やる気だね、アルテラ? そんなにあの剣士クンと決着を着けたい?」

「……そうだな。確かに私は、これまでになく逸っているらしい」

 

 自身を客観的に見たかのような、あくまでも平静な声音であった。しかしブーディカはその声色の中に、言葉通りの高揚を感じ取っていた。事実、アルテラの様子に変化はないものの、眼光は確かに戦士のそれへと変わっている。

 戦闘王アッティラ。彼女が率いたフン人の大移動は様々な民族の移動を発生させ、栄華を誇っていたローマ帝国の後継国家たるビザンツ帝国の弱体化を招いた。そんな〝文明を脅かす者〟たるアルテラだが、その生前に好敵手と呼べる者はいなかった。アルテラはあまりに強者に過ぎたのである。

 だが、遥はすぐにアルテラに倒されるような剣士ではなかった。アルテラ自身ですら知らなかった神代のものへの耐性がなければ、或いはアルテラは負けていたかも知れない。そういう〝強者〟と相対できたことが、何よりもアルテラを高揚させる。

 前回の戦闘はアルテラにとっては決着ではない。あの幕切れはあくまでも生身とサーヴァントの耐久差、或いは神代への耐性の有無がもたらしたものであって、実力が齎す覆しようのない決着ではないのだ。

 だからこそ、アルテラは遥との決着を望む。単に強者だけを求めるのなら、今の遥よりも強い剣士など座を探せば普通にいるだろう。だが、そうではないのだ。一度でも相対し、けれど決着が着いていないのなら、アルテラには戦う必要がある。今度こそ文句の付けようがない、完全なる勝利を、と。

 ブーディカとて数多の戦士たちを束ねていた身であるから、アルテラの思いも分からない訳ではない。『騎兵(ライダー)』の彼女として同じ立場にいたのなら、アルテラの思いに応えて今すぐ出撃していたかも知れない。しかし今の彼女は『狂戦士(バーサーカー)』としての狂熱を凍てつく憎悪で御する『復讐者(アヴェンジャー)』である。その気質は元よりも冷酷かつ冷静だ。

 

「そう。じゃあ剣士クンの相手はお願いしようかな。あの子、アタシじゃ敵いそうにないし」

「了解した。……だが、何故今すぐ戦いに往かない?」

「あら、ご不満? 一応、これも戦略の内なんだけどなぁ」

 

 ブーディカ率いる勝利の女王軍が打倒すべき敵は何もローマ帝国だけではない。彼女らと同じく本来この時代いる筈のない勢力である連合ローマ帝国もまた、彼女らの敵である。ブーディカの憎悪はネロを倒すだけで修まるものではないのである。

 自らの領土内を通過する軍勢を見逃しているのは、つまりは潰し合いを狙ってのことである。どれだけの規模であれローマ・連合ローマ双方の戦力が減るならばそれは彼女にとって有利に働くのだ。

 卑怯な手を使っているという自覚はブーディカにもある。だが今の彼女はそんなことは気にしないし、そういう手段を取らなければ最小勢力である彼女らはこの戦争に勝利できないのである。彼女らは〝勝利の女王軍〟とは言うが、その大半はブーディカの宝具である兵士であって実質的にはブーディカ自身とアルテラ、そしてもうひとりのサーヴァントの計3人のみなのだ。

 

「私とてそれは理解している。だが……」

「だが、何? 確かにアナタは卑怯な手が好きじゃないかも知れないけど、今回ばかりは勘弁してよ。アタシだって好きでこうしてるワケじゃないんだから」

 

 ま、好きじゃないから嫌いってワケじゃないんだケド。内心で下卑た笑みを浮かべつつそう呟くブーディカを、アルテラは無言で見つめている。何も言わないが、恐らくアルテラはブーディカの内心を見抜いているのだろう。

 今は共に戦っているブーディカとアルテラだが、それでも彼女らは真に仲間という訳ではなくどちらかと言えば協力者に近い。ブーディカは復讐のために、アルテラは文明を破壊する本能のために、両ローマを滅ぼそうとしている。そのために協力しているのだ。

 だが両者は完全に対等ではない。元はカルデアへの対抗策として連合ローマに召喚され、しかし従わなかったが故に拘束されていたアルテラを解放したのは誰あろうブーディカなのだ。そのため、アルテラにはブーディカに対してある程度の貸しがある。その貸しのためにアルテラはブーディカに対して強く出ることができないのだ。

 

「納得してくれた、アルテラ? 今はアタシも戦いたいのは山々だけど、我慢してるんだから」

「しかし……」

「――然り。なれば今は忍耐の時であるぞ、戦闘の王よ。全ては更なる叛逆のために」

 

 ブーディカとアルテラの会話に唐突に割り込みながら、しかし一切悪びれる様子のない声音である。それにふたりは呆れ顔をするものの、最早文句を言う気すらないようであった。或いは文句は無意味と悟っているのか。

 城塞の中を地鳴りを響かせながら歩いてきたのは、ひとりの筋肉(おとこ)であった。身長はブーディカやアルテラよりも圧倒的に高く、2メートル以上はある。総身を覆う重厚な筋肉の鎧には数えきれない程の傷跡が刻まれ、男が潜ってきた死線の数を思わせる。しかし顔に浮かんでいるのは笑み。筋骨隆々とした体躯故にどこか歪んだ印象を受ける満面の笑みである。手に執るのは英霊の武具でありながら一切の装飾もなく、さして魔力の気配もない武骨な小剣(グラディウス)だ。

 彼の真名()は『狂戦士(バーサーカー)』スパルタクス。紀元前73年の共和制ローマにて発生した第三次奴隷戦争の指導者である、まさに叛逆という概念の具現とも言える英霊である。その精神は時に苛烈に、時に冷静に、ただ叛逆のみを求める。

 そんな彼が、何故支配者であるブーディカと共にいるのか。それはひとえにブーディカの姿勢とネロの方策が原因であった。ブーディカはあくまでも土地を支配するだけで、人民には一切圧力を加えていないのである。民は異民族支配の恐怖に怯えてはいても、生活を脅かされている訳ではない。人民への害、という点で言えば、むしろ大きいのはブーディカよりもネロだ。

 東国との交易路を首都ローマに集約する、というネロの策は確かに国の孤立化を防いだものの、その代償として連合ローマと勝利の女王軍支配地域への食糧供給が滞るという結果を招いた。戦時においての最善策ではあったが、完璧な策などある筈もない。スパルタクスの目にはそれが〝圧制〟として映ったのである。

 故にスパルタクスにとってブーディカやアルテラは現時点では叛逆者であり、いずれ圧制者となる圧制の萌芽でもある。そういう点で言えば、真にブーディカと対等な協力者は彼のみであろう。皮肉にも変質したカウンター・サーヴァントへの対処法策が新たな敵対サーヴァントを生んでしまったのだ。

 そして数多の英霊がたったひとつの聖杯によって現界しているという特殊な状況故か、或いは3つの陣営が睨みあっているという昏迷した状況故か、スパルタクスはバーサーカーとしては異常なほどに冷静だった。その冷静さたるや、第三次奴隷戦争を率いた時に匹敵するかも知れない。

 

「スパルタクス……まさか貴様がそんなことを言うとはな。妙なモノでも食べたのか?」

「否。私は何も口にしていないぞ、戦闘の王。私とて忍耐は耐え難い。しかし全ては圧制者を打倒せんがためである。この辛苦を糧に、我は勝利の凱歌を歌わん!」

 

 どこか何かがズレているようなスパルタクスの咆哮を聞きながら、アルテラは内心で驚嘆していた。スパルタクスとは本来、一目散に叛逆のみを希求する英霊である。その彼が叛逆の欲求を抑え、機を伺っているのだ。一体どのように煽動すればそんなことができるのか。

 だが、不可能な話ではない。今のブーディカはこの国に現界したことによる〝ローマ人ではない蛮族を纏め、ローマに叛逆した女王〟という無辜の怪物を持っている。ローマ人でなく、かつ叛逆を希求するスパルタクスを煽動するにはまさに最適な霊基構造なのである。

 その後もアルテラには理解できないような言葉を並べながら、スパルタクスは彼女らの許から離れていく。基本的にスパルタクスが一か所に留まっているということはなく、大体の時間を城塞内を歩き回るかテルマエで過ごしているのだ。呆れ顔でそれを見送るアルテラ。そうしてアルテラがブーディカに向き直った時、ブーディカが口を開いた。

 

「まぁ、もう少し待ってよ、アルテラ。どうせ、すぐにまた出撃するんだから」

 

 

 

 結論から言えば、首都ローマ付近にて発生した戦闘はローマ軍が趨勢を握りつつあった。確かに兵力は立香の言う通り連合の方が上回っている。しかしサーヴァントの数はローマ軍の方が多い。まさに一騎当千、万夫不当の彼らがいれば、多少の戦力差は覆すことができる。

 その点で言えば、遥たちカルデア側の戦略は正しいものであった。弓による狙撃ができるエミヤと新装備――レオナルド製作の〝魔導対物ライフル・亡霊魔銃(イルジオネ・ディアボロ)〟による超長距離射撃が可能なアサシンを後方に配置。支援狙撃を行いつつ残りが最前線で戦い、敵本陣に突入する。それがカルデア側の方針であった。基本的に遥と立香は別行動である。

 とはいえ、後方を疎かにしては味方の減少に繋がる。故に実際のところ敵本陣最奥に迫っているのは単騎突破能力に優れる遥たちで、彼らよりも対軍戦闘に優れる立香たちが味方を守りつつ前線を推し進めていくという役割を担っていた。

 その遥たちが戦う敵本陣最奥はまさしく阿鼻叫喚の一歩手前といった戦況である。多くの兵士が自らを率いる連合の皇帝を守るべく勇敢に突撃し、しかし力及ばずに散っていく。自らの信ずるローマに忠義を尽くして戦い、けれど何も成せぬまま情け容赦もなく死んでいくのである。

 平時であれば人命に最大の敬意を払う遥も、兵士が相手であれば話が別だ。彼ら兵士は程度の差はあれど〝死を覚悟した人間〟である。であればむしろ手心を加えること自体が彼らには最大の嘲りとなろう。

 そして右翼側に展開した連合ローマ軍の軍勢内では沖田が単騎で無数の兵士たちを相手取っていた。彼女が揮う乞食清光の刃が放つ銀閃が虚空を奔る度に鮮血が迸り、紅い華となって沖田を飾る。その姿はまさしく修羅が如く。その沖田を前に、兵士が吠える。

 

「何をしているッ! 相手はたかが女ひとりだぞ!?」

「し、しかし、こいつ……ヒィッ!?」

 

 眼前の兵士を射抜く壬生狼の眼光。それを総身に浴びた兵士は一度自らの首が絶たれる光景を幻視し、そしてそれに怯んだ隙に本当に首を刎ね飛ばされて絶命した。頭と分かたれた身体は頽れるより早くに沖田に蹴り飛ばされ、空中に撥ね上げられる。

 たかが女と侮る勿れ。そもそも武錬に男も女もありはしないが、沖田総司という英霊は英霊のカテゴリの中でも武練に関しては抜きんでている。何しろ江戸という神秘の薄い時代にあって、神代の英雄ですら及ばぬ剣腕を体得した剣客である。並の兵士が敵う相手ではない。

 壬生狼の牙は剣だけではない。強力な剣術を支える体術もまた、沖田は一流であった。特に空間跳躍にすら見紛うばかりの縮地を可能とする脚力とその脚力を以て放たれる蹴撃は、兵士たちに配給された粗悪な盾など一撃で粉砕する。

 その武威を目の前にして、兵士たちは半ば自棄となって沖田に突貫していく。アサシンの超長距離狙撃によって中、小隊長といった指揮官クラスが皆殺しにされ指揮系統が崩壊しているということもあろうが、それ以上に兵士たちにとては沖田はまさしく死の具現なのである。いくら死を覚悟した者たちとはいえ、目の前に死そのものを振りまく者がいれば怯えもする。

 そんな兵士たちを、沖田は情けも容赦もなく愛刀を以て斬り伏せていく。その顔には一切の表情がなく、ただ尋常でなく凄烈な殺気のみがあった。たとえ相手が誰であろうと一切の温情を掛けることなく、己が信じる誠のため只管に剣を揮い続ける。そこに善悪は存在しない。戦場にそんなものはなく、ただ勝利と敗北があるのみだ。

 沖田が乞食清光を一閃する度に兵士がひとり絶命する。吹き出す鮮血は霧となって沖田を覆い、人斬りたる彼女をより人斬りたらしめる。そうして次なる標的を沖田が見定めて刀を振り下ろし、しかしその刃が兵士を抉ることはなかった。それを阻んだのは黄金の大盾。次いで強烈なサーヴァントの気配を感じ、沖田が反射的に距離を取った。

 

「チッ……サーヴァント、ですか」

「如何にも。そういう貴女もサーヴァントですな? いや、凄まじい武威だ。これほどの者はペルシアはおろか我が軍にもおりませなんだ」

 

 そう言う男の声音には敵意や警戒はあるものの、同時にそれらと等しくこれから死合う相手である沖田への敬意があった。その男を前に、沖田は刀を構えつつ様子を見ている。怖気付いているのではない。ただ沖田は男が油断ならぬ相手であると悟っているのだ。

 男は兵士であり、また将でもあった。その肉体は最早、〝鋼の如き〟という表現ですら不十分な程に鍛え抜かれ、手に執る盾は尋常なものでありながら宝具の一撃すらも防ぐ。肉体だけでなく、精神の強度もまた超常のそれ。召喚されてすぐにこの戦場に派遣されたために将としての顔を見せる時間はなかったが、時間さえあればカルデアはより梃子摺ることとなっていただろう。

 英霊の座に招かれた者は時を超え、あらゆる英霊の知識を有するようになる。故に沖田は漠然とだが、その英霊の真名に心当たりがあった。彼の者こそテルモピュライの戦いにて数十万ともされるペルシア軍をたった300人の軍勢を率いて戦い、奮戦した猛将。真名を〝レオニダス1世〟。

 彼のクラスは『槍兵(ランサー)』だが、その本領は凄まじい速力や神域に到達した槍術ではない。レオニダスの英霊たる本領はその盾。その盾は宝具ではなく、何ら力のあるものでもないが、レオニダス自身の実力もあって無類の防御力を誇る。沖田が攻の究極にいる英霊ならば、レオニダスはまさしく護の究極に位置する英霊である。

 仮に相手が木っ端な英霊であれば、沖田も様子見などせずに攻撃を仕掛けていただろう。しかし直感的にその真名を悟ったが故に、攻撃を躊躇った。それは賢明な判断ではあったが、しかし流れを断ってしまったのも事実。

 初めは新たな英霊の登場に面食らっていた連合の兵士たちだったがレオニダスが味方だと了解するや、鬨の声をあげる。しかしそうして飛び出してきた兵士を沖田は一瞥すらくれてやることなく無造作な一閃で斬り伏せ、再び軍勢は足を止める。

 

「……まぁ、いいです。貴方が誰であれ我が眼前に立ち塞がるなら、ハルさんや立香さんの邪魔をするなら、斬り伏せるまで」

「……ッ」

 

 冷酷なまでの殺意によって研ぎ澄まされた声音。それと同時に沖田が纏う剣気が数倍にまで膨れ上がった。それを認めたレオニダスが息を呑む。あれだけの剣技を披露しておきながら、まだ本気ではなかったのか、と。

 何度か虚空を斬り払ってから、沖田は平晴眼の構えを取る。それを迎え撃つようにレオニダスが腰を落とした。盾を身体の前に持っていき、槍を後ろへ。いかなる攻撃をも受け切り反撃に転じる、必勝を期した構えである。その彼らを目前にして、連合ローマ兵たちは何もできない。その瞬間を以て、その領域は文字通り英霊たちの独擅場と化したのである。

 ――そしてその場から少し離れ、敵陣中央奥。そこでは共に本陣に突入した遥とネロが沖田と同じように敵将たるサーヴァントと相対していた。遥はネロを庇うようにして立ち、敵将たるサーヴァントに叢雲を向けている。

 その状況にあって余裕のある笑みを浮かべままでいるのは、恰幅の良い男であった。軍服にも似た紅と黄の服を纏い、頭には月桂樹の冠を被っている。手に執る黄金の長剣が放つ気配は宝剣のそれ。恐らくクラスは『剣士(セイバー)』であろう。

 

「……美しいな。まさしく姫君とそれを守る騎士だ。尤も、姫君と言うには随分お転婆のようだがね」

「余裕そうだな、独裁官(ディクタトル)。それは、嘗められてるってコトで良いのか?」

「いやはや、滅相もない。我が真名を一目で看破するような手合いに、油断などできるものか」

 

 言葉の内容とは裏腹に、男の声音にはまるで遥を煽っているかのような響きがあった。さりとて男は遥を見下している訳でもない。それは分かっていても抑えられない苛立ちに、遥が舌打ちを漏らす。

 男が言う通り、遥はその真名を一目で見抜いていた。そもそもの話として、連合ローマにおいて皇帝と成りうる英霊において黄金の宝剣を保有し得る者などひとりしかいない。共和制ローマにてその類稀なる弁舌でもってのし上がり、終身独裁官となって後の帝政ローマの礎を築いた男。本来は自らの武勇ではなく知略と策略で真価を発揮する、謂わば知の大英雄。〝ガイウス・ユリウス・カエサル〟。

 知将として名を馳せたカエサルだが、武勇については詳しく伝わっている訳ではない。しかしそれは彼が弱いことを示す証左ではない。むしろ未知数であるが故に、容易に勝つことができる相手ではない。

 

「下がっててくれ、ネロ。こいつの相手は俺がやる」

「何!? 貴様ひとりに任せられるものか! 余も……」

「いいから。皇帝は皇帝らしく、後ろでふんぞり返ってればいいさ」

 

 遥の言葉は一見、ネロを小馬鹿にしているようであったがその中には確かにネロの身を案じる思いがあった。反駁しようしたネロだがそれに気づくや、遥の言う通りに後ろに下がる。連合ローマ兵たちは遠巻きに見るばかりで、怯えて攻撃することはない。

 そうしてカエサルと相対すると、遥は一度大きく深呼吸をしてから分霊との同調を開始するための祝詞を唱えた。それによって魔術回路の封印が解け、解放された回路が分霊と接続される。

 分霊との接続によって遥の肉体に秘められた人外の血が励起し、瞳が漆黒から紅玉の如き深紅へと変わる。それだけではなくその気配は超常のそれに、放出する魔力は数倍にまで増加する。その変貌を前にして、カエサルが眉を顰める。

 

「この魔力、精霊か……? いや、違うな。それより高位の、しかも純正に近いものときたものだ。成る程。それでは英霊と()り合おうというのも頷ける」

 

 そうしてひとりで何事か納得すると、カエサルは自ら抑え込んでいた霊基を解き放った。元から相当な規模の霊基を抑え込んでいたようで、カエサルの威圧感が増す。それだけではなく先程まではなかった籠手が左手に顕現する。大英雄カエサル、その全力という訳である。

 対する遥は叢雲を左腰の鞘に戻し、左手を垂らして腰を落とした。殆ど型のない遥の我流剣術の中における数少ない型。遥が最も得意とする縮地からの抜刀術に至る構えである。

 遥とカエサルの間で鬩ぎ合う両者の剣気。それは何ら物理的な力のない筈なのにも関わらず不可視の壁を作り上げ、兵士たちはそれを踏み越えることができない。そしてその剣気が極限にまで高まった時、遥が宣戦した。

 

「いざ……参る」




 料理が得意で刀使い、それも抜刀術が得意なうえに人間でなく悪属性特効持ち……かなりの共通項ですね。誰と誰かは言うまでもないでしょう。

以前申しましたオリジナル特異点について、ちょっとした予告みたいなものを活動報告に載せましたので、よければ。

では、ちらっと出てきた新装備の設定をば。

亡霊魔銃(イルジオネ・ディアボロ)

 遥の依頼を受け、レオナルドが遥の〝バレットМ82A1〟を改造して造った対物ライフル。レオナルド曰く〝魔導対物ライフル〟。有効射程3500~4000メートルとかいうバケモノ。遥とアサシンの兼用。エミヤが銃弾の形に改造して投影した宝具を使えばサーヴァント相手にでもある程度通用するうえ、使用者がアサシンなら対人狙撃で国際法を無視してダムダム弾すら使う悪辣ぶり。


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第50話 呪いは静かに、剣士を蝕む

「オォォォ……! 捧げよ、その命……捧げよォッ!」

「クッ……何なんです、この人!?」

 

 首都ローマ付近の平原に展開した連合ローマ軍の軍勢、その左翼最奥。そこではタマモがひとり、暴れ狂うサーヴァントと相対していた。いや、相対していると言うよりは、足止めをしていると言った方が正しいかも知れない。そのサーヴァントの視線はタマモへ向けられながら、しかしタマモを見てはいなかった。

 そのサーヴァントが纏うのはどこかネロやカエサルのものと相通じる意匠を有する金と紅の軽装鎧。筋骨隆々たる五体は狂熱により膨張し、紅く濁った瞳に理性の色はない。『狂戦士(バーサーカー)』のサーヴァントであるのは明らかであった。

 タマモはそのサーヴァントの存在を知っていた。直接対面したことはないが、このバーサーカー――カリギュラとは前にアサシンが交戦している。その情報は既に全員に共有され、タマモは初の交戦ながらカリギュラに対して優位に立つことができていた。

 カリギュラ。ローマ帝国第三代皇帝にして、ネロの叔父である男。元は名君として善政を敷き民からも愛されていたが、月の女神に魅入られたことで狂気へと堕ちた悲しき暴君である。

 無論、だからとて敵に情けをかけるようなタマモではない。優位な流れに持ち込むことができているのなら、それを維持したまま戦うのみである。そしてタマモには、それだけの力がある。

 

「ヴアァァァァッ!!」

 

 狂乱の咆哮をあげながら拳を振りかぶるカリギュラ。その拳は元々高いカリギュラの筋力ステータスに加え狂化の後押しを受け、真正面から受ければ大抵のサーヴァントに致命傷を負わせるだけの威力を秘めている。

 カリギュラに特定の武具はない。もとい、カリギュラにとって武具とは自らの肉体に他ならない。狂化により高められた身体能力を以て敵に接近し、打撃を放つ近接格闘(インファイト)。それがカリギュラの戦闘スタイルであった。

 だがどれだけの威力を秘めた拳であろうと、当たらなければただの拳でしかない。バーサーカーであるカリギュラはステータスは高いものの、理性がないためにその動きはあまりに雑で軌道が読みやすい。故にタマモは呪術による視覚強化のみでカリギュラの攻撃の全てを回避していた。

 音の壁を彼方へと追い遣るカリギュラの拳撃。だがタマモはそれを上体を逸らすことで難なく回避した。更に懐から取り出したのは呪符。拳を振り抜いたままのカリギュラの懐に潜り込み、それを押し付ける。

 

「呪相・密天」

 

 短い詠唱。それによって起動した呪術は凄烈な暴風を生み出し、零距離でそれを受けたカリギュラは抵抗することさえできずに吹っ飛ばされる。飛ばされた先は連合兵たちが固まっている個所。うち何人かはカリギュラに潰され、逆巻く突風に挽き潰される。

 カリギュラはそれを一切気に留める素振りもなく立ち上がり、怒りの咆哮をあげる。味方でさえ恐怖を禁じ得ないほどのそれに、しかしタマモは全くの無反応であった。新たに取り出した呪符でもって攻撃を放つ。

 起動したるは呪相・氷天。一瞬にしてタマモの周囲の気温が局地的に零下まで達し、空気中の水分が凝固する。そうして造り出された氷塊は切っ先をカリギュラに向けて撃ち出された。

 絶え間なくカリギュラに向けて降り注ぐ氷塊。初めはそれを拳撃で砕き割ることで防いでいたカリギュラだが、しかし捌ききることができずに氷塊をその身に受けた。鋭利な氷の刃を満身に浴び、カリギュラが鮮血を吹き出す。

 全身に奔る激痛に苦悶の咆哮をあげるカリギュラ。次第に怒りに塗り潰されていくその雄叫びも、タマモを威圧するには至らない。油断なくカリギュラを睨みつけたまま、今まで霊体化させていた()()を実体化させる。

 ()()はタマモが持つ唯一の宝具であった。名は玉藻鎮石。彼女の本体である天照大御神の御神体であり、つまりは三種の神器のひとつである八咫鏡そのものだ。尤も、それが宝具として機能するのは真名解放時であり、平時はタマモの意志で自在に動くだけの鏡である。

 しかし、だからとてこの宝具が真名解放しなければ使えない訳ではない。サーヴァントならではの超回復力によって傷を塞ぎ迫るカリギュラ。だがその拳をタマモは鎮石を盾として受け止めることで防いだ。更にカリギュラに向けて呪符を放り投げる。

 

「炎天よ、奔れ!」

 

 その詠唱と同時にカリギュラに接触した呪符が燃え、カリギュラの身体が火炎に包まれる。全身を包む灼熱に、カリギュラが吠えて暴れ狂うも、炎が消えることはない。

 そこに追撃するように叩き込まれる呪相・密天。逆巻く突風は燃えるカリギュラを上空へと巻き上げ、吹き飛ばした。体勢を整えようともがくカリギュラ。それを迎えるように、タマモが身体に強化の呪を叩き込む。

 落下したカリギュラを強かに打つタマモの蹴撃。だがカリギュラはそれを受ける寸前に胸の前で腕を交差させ、タマモの蹴りの衝撃を殺した。そのまま僅かな衝撃を利用してタマモから距離を取る。

 理性がないながらに危機を察知したが故の判断である。だがタマモが様子見など許す筈もなく、渾身の力で地面を蹴り抜き弾丸の如き速度で飛び出した。それを迎え撃つように構えるカリギュラ。しかしタマモは筋力値で劣るバーサーカー相手に無策で突貫するような馬鹿ではない。

 自らの足元に呪符を叩きつけ、起動させたのは呪相・密天。その術によって戦槌の如き突風が生み出されるのと同時、タマモが跳躍する。指向性をもって解放された颶風は華奢な体躯のタマモを容易に加速させ、その急激な加速にカリギュラは対応が遅れた。

 

「はあっ! タマモちゃんキックを喰らいやがれっ――――!!」

「グゥゥゥウッ!!」

 

 口汚い咆哮と共に放たれるタマモの蹴りがカリギュラの顔面に炸裂する。逆巻く風の加速を全て上乗せした蹴撃はかの一夫多妻去勢拳や太陽面爆発に匹敵する女子力の発露(フレアスカート・バンカーバスター)には及ばないものの、最大の威力を以てカリギュラの顔面を蹴り抜いた。

 妙な音を立てながら吹き飛ぶカリギュラ。見れば、鼻の骨が折れたようでおかしな方向に曲がっていた。タマモの蹴りは以前遥が見ていた特撮ヒーローのそれを見様見真似で再現したものだが、予想以上の手応えにタマモが小さくガッツポーズをする。

 それも一瞬のことで、満足げな笑みは敵を倒すことのみに注力する冷酷なそれへと変わる。その目は油断なくカリギュラに向けられ、獲物を前にした狩手(ハンター)を連想させた。空中に浮く鎮石は常にカリギュラの攻撃からタマモを守るように旋回している。

 今でこそこうして狂戦士(カリギュラ)相手に単騎で戦闘を演じているタマモだが、彼女の本職は呪術師(キャスター)。つまりは後方支援を得意とするサーヴァントなのだ。その彼女がこうして膂力で負ける相手に対して優位に立つことができているのは、ひとえに月の聖杯(ムーンセル)を巡る戦いの記憶が朧げにあるが故だった。その世界で召喚された彼女の記憶を僅かに継いでいるタマモは、同時に戦闘経験さえも自分のものとしたのだ。

 最早文句の付けようがない一方的な戦闘である。タマモとカリギュラは呪術師と皇帝と、本来ならばどちらも戦闘を行うべきではない立場だ。故に戦闘経験と理性の有無という差が決定的な戦力差として表れている。

 だがそれだけの戦力差、そしてその身に負った無数の傷を前にしてもなお、カリギュラの戦意の眼光は少しの衰えも見せてはいなかった。それどころか戦闘が始まった時よりも凄烈な気配を纏ってすらいる。

 

「ォォォォオオオ……!! ネロォォォォォ!!」

「ッ……! もの凄い気迫ですこと。ネロさんへの執念だけでここまで戦うとか、どれだけネロさん好きなんですか、このヒト!?」

 

 一方的にタマモの攻撃を受け続けたカリギュラが負ったダメージは既に霊核にまで及び、下手をすれば霊核が崩壊してもおかしくはない程だ。そんな状態の彼の霊基を維持しているものはただひとつ。狂気的なまでのネロへの執念であった。

 これだけ追い詰められてもなお、カリギュラの意識の内にあるものはネロだけである。今現在相対しているタマモも、カリギュラにとっては精々手強い障害物程度の存在としてしか認識していない。

 タマモだけではない。カリギュラにとっては自らを()び出した召喚者も、連合ローマ帝国も、至極どうでも良いものであった。ただそこにネロがいるのならば、彼はただネロのために動くだけである。たとえ、それが敵対する結果となったのだとしても。

 しかし、誰かの為に戦っているのならタマモも同じだ。彼女は己が仕える主であり今生の弟でもある男のために戦っている。誰かの為に負けられないという意味においてはタマモとカリギュラは等位であった。

 傷だらけの身体を一切認識していないかのような獣の咆哮をあげ、地を蹴るカリギュラ。それを真正面から見据えながら、タマモがひとつ息を呑む。同時にタマモの周囲に顕現したのは無数の呪符。そうしてカリギュラが拳を振り上げた瞬間、タマモを護るように颶風が渦を巻いてカリギュラを押し返した。

 

「――えぇ。では、少し本気を出すことと致しましょう」

 

 まるで宣誓の如き響きを伴った声音。それと同時、タマモは彼女に可能な魔力放出の全てを以て身体強化を行い、カリギュラに肉薄した。

 続けて繰り出される連続蹴り。それをカリギュラは身体を丸め、交差させた腕を盾の代わりにして防御しようとする。だが限界まで強化されたタマモの蹴撃を受け止めることに集中していたカリギュラは、真横から飛来する鎮石の存在に気づかなかった。

 横合いから鎮石の直撃を受け、衝撃を殺しきれずにカリギュラが吹き飛ぶ。更にタマモは間髪入れずに呪相・氷天を行使し、その身体に氷塊を落として地面に叩きつけた。氷塊の下敷きになったカリギュラは身動きがとれずに、しかし氷塊を破壊しようともがく。

 だがそれをタマモが黙ってみている筈もない。それまでタマモを護るように旋回していた鎮石が空中で静止し、タマモが放出する魔力が急激に増加する。掲げるは神宝玉藻鎮石。更にそれを守るように呪符が顕現する。

 

「これで終わりにしましょう。

 ――此処は我が国、神の国、水は潤い、実り豊かな中津国。

 国が(うつほ)に水注ぎ、高天巡り、黄泉巡り、巡り巡りて水天日光。

 我が照らす。豊葦原瑞穂国、八尋の輪に輪をかけて、これぞ九重、天照らす。――〝水天日光天照八野鎮石〟。

 そしてッ……!!」

 

 真名解放。本来であれば死者すらも蘇生するだけの効力を持つ神宝はその真価こそ発揮することはできないものの、タマモの意志に応えて無限の魔力と生命力の供給を行う結界を()()()()()()()()()展開した。

 出力全開であれば軍勢ひとつを覆うことが可能なそれを自らの周囲にのみ展開したのは、何も手を抜いてのことではない。むしろ軍勢ひとつを強化して余りあるだけの効力を全て自らに回したことで、タマモの霊基は限界を超えて強化されていた。

 空中へ跳躍し、行使するのは炎と氷の呪術。鎮石によって供給された魔力の全てを以て生み出されたのは、それぞれがタマモの身の丈すらも超える大きさを誇る火球と氷球。相反する属性を有する術を手懐け、タマモがカリギュラを睨む。

 超熱量の火球と絶対零度の氷球を前に、しかしようやく拘束から脱したカリギュラは逃げ出すことなく迎え撃つように立つ。逃げるだけの体力が残っていないということもあろう。だがそれ以上に、理性を喪失しても残る皇帝としての意地が、カリギュラから敗走の選択肢を奪っているのである。そうしてカリギュラの前で、高まるタマモの魔力が最高潮を迎え、叫ぶ。

 

「これで……止めですッ!!」

「オオオォォォオオッ!!」

 

 タマモとカリギュラ。ふたりの覇気が鬩ぎ合い、赤と青の軌跡が乱舞する。迫るそれをカリギュラは防ごうとするも、最早死に体の霊基では抗うことすら叶わなかった。タマモが放った呪が大地に突き刺さる。

 大地に咲き乱れる火炎と堅氷の華。燃えては凍り、砕けては燃える。超常の神秘を伴う力の発露を満身に受け、カリギュラが吠える。それは断末魔の咆哮か、或いは己を鼓舞するための声か。

 全ての音を掻き消すほどの轟音の後に訪れた静寂。タマモの呪術によって高く巻き上げられた土煙が晴れた時、カリギュラはそこに立っていた。仕留め損ねたか、と再び呪符を取り出すタマモ。だが直後、カリギュラの身体から金色の粒子が噴きあがる。カリギュラの霊基を形成していた魔力が統制を失い、消失しつつあるのだ。

 それでもなお諦められぬ、とばかりに自らの身体だった魔力光に手を伸ばすカリギュラだが、そうして伸ばした手も光となって消失していき、何も掴むことはない。タマモはそれを黙って見ている。やがて糸が切れたように動かなくなるや、小さく呟く。

 

「おお、ネロ……我が愛しき、妹の子よ。お前は、美し、い……その、輝かしき、運命の礎、となれたのな、ら、余は――」

 

 最後まで言葉は紡がれることなく、僭称皇帝カリギュラが地に倒れる。最早自身の意識を維持するだけの余力も、彼には残っていないのだろう。気づけば既にカリギュラの身体は半ば以上が消え失せ、残る部分も消えかけていた。

 その最期を見届けながら、タマモは思う。恐らくカリギュラは敵ではあったが、決してローマを滅ぼそうとは思っていなかったのだろう。しかし彼は狂戦士であるが故に戦うことしかできず、こうしてタマモに討たれた。その内心がどのようなものか、タマモは知れない。

 それでもカリギュラが何を思い、戦ったのか。その片鱗さえ知れたのなら、タマモにはそれで充分だった。カリギュラに背を向け、立ち去るタマモ。その背後で偽皇帝たる狂戦士が音もなく消えた。

 

 

 

 時は少し遡る。連合ローマ軍本陣左翼にてタマモとカリギュラの戦闘が始まったのと殆ど同刻、本陣中央では遥とカエサルによる一進一退の剣戟が繰り広げられていた。

 一進一退とはいえ、無論剣腕において分があるのは本職の剣士である遥だ。只の現代人であればどんな達人であれカエサルに敗北していたのだろうが、遥は達人を超え英雄の域にある剣技の持ち主。剣士ではない英霊に簡単に敗北する筈もない。故に互角であるのは剣腕によるものではない。

 それはひとえに戦略の問題であった。遥は優れた剣士、魔術師であっても戦略家としては並程度でしかない。基本的にあらゆることが人並み以上にできる遥だが、どの点はさして優れていない。精々驕り高ぶった魔術師の裏を掻いて謀殺してやるくらいか。

 対してカエサルは人類史にその名を燦然と輝かせるほどの戦略家である。紀元前47年におきたゼラの戦いにおける勝利をローマに報告し手紙にあるという〝Vini(来た),vidi(見た),vici(勝った).〟という言葉はカエサルの優れた戦略家としての一面を最もよく表していると言えるだろう。そして、その能力は何も対軍戦だけでのみ発揮されるものではない。

 剣腕で勝る遥との剣戟を演じるうえにおいて、カエサルが執った戦略はただひたすらに〝逃げる〟ことだった。とはいえ、それは遥に背を向けて逃げ出すということではない。カエサルは剣腕で劣るが故に、真正面から戦ずに搦め手に出たのだ。あえて自らは攻め込まず、時に躱し時に太刀筋を変え、ただひたすらに遥の剣を見ている。

 

「テメェ……セイバーらしさの欠片もねぇな……!」

「何とでも言いたまえ。要は勝てば良いのだよ、勝てばな!!」

 

 勝てば良い。その理論に魔術師としての遥は大いに賛成であったが、剣士としての遥は不満を隠せなかった。カエサルの言は即ち、この遥との戦闘においてカエサルはどんな卑怯な手でも使うということなのだから。

 しかし、道理でもある。カエサルはクラスこそ『剣士(セイバー)』であるが、それは黄金剣の存在が故でありカエサル自身はむしろ後衛でこそ本領を発揮する英霊。剣士の矜持を知り、理解していたとしてもカエサルはそれを利用する側なのだ。

 何にせよ、真に剣士としてカエサルと戦うのは半ば不可能に近い。そう判断した遥はひとつ舌打ちを漏らすと、固有結界を展開するための呪言を一説のみ唱えた。その詠唱によって遥の体内に彼の固有結界である煉獄が展開される。漏れ出した焔は遥の総身を覆い、悪鬼の如き姿にカエサルが瞠目する。しかしすぐに立ち直ると、不敵な笑みを取り戻した。

 

「何だ、それは。こけおどしかね?!」

「そいつは、どうだろうな……!」

 

 何か企んでいるような声音。その瞬間、遥の姿が焔の軌跡を刹那の間のみ残し、カエサルの視界から完全に消え去った。唐突な遥の消失に二度目の驚愕を見せる。直後、カエサルは背中に焔を纏った遥の蹴撃を受けて鞠のように吹き飛んだ。

 以前から遥が時折見せていた空間跳躍にすら見紛うほどの超高速移動。今までのそれは固有時制御と縮地によるものだったが、今度のそれは違う。前回のアルテラとの戦闘の間に極地を会得した遥は半ば自動的にそちらを使っていた。それだけではない。今回の戦闘においても遥は分霊の浸食によって得た魔力放出を行使している。

 つまり極地と固有時制御、そして魔力放出の合わせ技。世界広しと言えど、そんなことができるのは遥だけであろう。少なくとも、尋常な剣技では捉えきれまい。渾身の力で地を蹴り、カエサルに肉薄する遥。

 ――しかし、相手はかのガイウス・ユリウス・カエサルだ。こと知略において、彼は人類史で最上級の力量を有する。そして、知略とは時に両者の間に横たわる力量差すらも覆す。

 

「――そこだッ!!」

「ッ……!!」

 

 カエサルが黄金剣を一閃。虚空を裂くように奔る金色の剣閃は音を後方に置き去りにした遥の動きを完全に捉えていた。遥は咄嗟に右足で全ての運動エネルギーを無理矢理押し込めて後方に跳躍。しかし躱しきれずに腹を浅く斬られる。

 カエサルから距離を取り、起源の効力によって腹の切り傷が修正されるのを確認しながら遥は自身の動きを見切ったカエサルを油断なく見つめていた。対するカエサルはその視線に込められた感情を察し、得意な顔をしている。

 無論、カエサルには遥の動きが全て見えていた訳ではない。それどころか、全く見えていなかった。カエサルは遥の軌道を見切ったのではなく、遥が風を切る音がする位置や衝撃波の発生源、その他遥の動きによって生まれるものを一瞬で把握することで遥の軌道を予測したのだ。

 恐ろしいほどの状況把握力、思考速度、予測能力である。少なくとも遥には到底真似できない所業だ。或いは鍛えれば可能かのかも知れないが、現時点ではできないのなら考えても意味はない。

 そうして遥が次手を思案していると、ひとつカエサルが鼻を鳴らして地面を蹴った。黄金剣の柄を両手で握り、左脇に構える。だが単純な剣技に訴えるならば、それは遥の領分である。左腰の鞘から正宗を抜刀し、二刀を構える。

 草原に轟く剣戟の音色。ふたりの剣士によって奏でられるそれを前に、兵士たちは身じろぎすることすらできない。たとえ隙を見てカエサルを援護したとして、次の瞬間には遥に殺されることが分かっているのだ。

 遥の戦意の高まりに呼応するように煉獄から漏れ出す焔とマグマの量が増え、剣速が増す。その様たるや、まさに焔と斬撃の嵐である。それを至近で浴びていたカエサルは一旦仕切り直しとばかりに距離を取る。

 

「速いな。単純な速力であれば、かのアキレウスやヘルメスに並ぶやも知れん。尤も、そんな英雄など珍しくもないがね」

「随分な余裕だな。それだけ自分の勝機を信じていると?」

「無論だ。どれだけ速かろうが、我が黄金剣に捉えられぬものは無い」

 

 不穏な自信であった。遥にも黄金剣がカエサルの宝具であることは分かるが、その効果の程までは分からない。少なくともアルトリアの約束された勝利の剣(エクスカリバー)や遥の天叢雲剣のように魔力を加速して撃ち出す力はないようだが、それだけが『剣士(セイバー)』の宝具の本質ではないのだ。

 しかし、カエサル自身の技術によるものでもあるまい。カエサルはその肥満的な見た目とは裏腹に筋力ステータスはA、敏捷ステータスはBと高いが、剣技はさしたる技量でもない。故にカエサルが黄金剣に託す自信とは、黄金剣そのものの力だ。

 そして現時点で何も効力が発揮されていない所を見るに、黄金剣は真名解放型の宝具なのだろう。ならば最悪、真名解放させなければ良い。尤も、それだけの時間を稼がせない保証などどこにもないのだが。

 それでも遥は弱気ではなかった。自らの剣に託した自信と言うならば、遥も負けてはいない。むしろその総質量においてはカエサルに勝るだろう。遥にとって天叢雲剣とは文字通り身体の一部。それを誇らないというのは即ち自らの躯体に自信がないのと同じこと。それは剣士としての誇りを放棄するのと同義だ。

 二刀を同時に揮う構えでは遥が最も得意とする抜刀術は使えないが、何も抜刀術だけが遥の剣術ではない。固有結界〝不朽の業火(エヴァーラスティング・インフェルノ)〟から放出される焔を操り、二刀に纏わせる。普通の刀であればその瞬間に刀身が溶けているところだが、神造兵装と夜桜の魔術の支援を受けた刀はその程度では切れ味を失わない。

 遥が揮う二刀より放たれた紅蓮が虚空を染め上げる。だがカエサルはそれを易々と掻い潜り、遥へと肉薄した。揮われる黄金剣、空を裂く軌跡。遥はそれを左手の正宗を以て弾き、右手の叢雲を突き込む。それは剣術における最上、一種の芸術ででもあるかのような軌跡を描いてカエサルに迫る。しかしそれはあまりに完璧であるが故に、カエサルの前で脆弱を晒した。

 

「甘いな!」

「何っ……!?」

 

 無造作な一閃で以て払われる遥の剣。続けてカエサルは手首を返し返す一刀で遥を切り裂こうとするが、遥はそれを超人的な反射神経で察知し、逆手に持ち替えた正宗で防いだ。更にそのまま黄金剣の刀身の上を滑らせて一太刀浴びせんとするも、カエサルはその前に遥の間合いから脱している。

 何故――、と遥が内心で呟く。今までカエサルは遥の太刀筋だけは先読みではなく見てから対応していた。だが先の防御は見てからでは対応が不可能な程の、遥の尋常でない成長(しんしょく)速度が齎す一刀だったのだ。つまり、カエサルは間違いなく遥の太刀筋を先読みした。それは間違いない。

 理屈(カラクリ)は至極単純。この短い戦闘で、カエサルは遥の太刀筋の癖や秘められた戦闘論理、更には成長速度やそれに伴う太刀筋の変化までもを完璧に読み取ってみせたのである。

 言葉にすれば非常に簡単だが、実際はそう簡単ではない。現生人類がこの世に発生してより数万年、長きに渡る人類史を紐解いても同じことができる者が数人いるかどうか。何せ剣士としては格上の相手と戦いながらその剣術を子細に把握してみせたのである。只の戦略家ではその前に殺されている。

 格上の剣士と相対しながら、その剣士の戦闘論理を読み取って先読みまでしてのける。まさしく知略に長けた大英雄のみに許された所業である。戦闘とは互いの技術によってのみ行われるものではない。その知を生かしてこそ、剣戟は戦闘として成立する。果し合いの基本原理を、今になって遥は再認識させられた。

 とはいえ、だからと言って遥の攻撃全てがカエサルに通じなくなった訳ではない。抜刀術は初手の1回しか使っていないし、黒鍵や魔術爆弾、魔力を込めた宝石のような別の武装もある。

 何より、遥はまだ奥の手を残している。魔力や魔術を一切使わず、第二魔法に属する奇跡を引き起こす剣技〝怒涛八閃〟。これを防御可能な者など、それこそカエサル以上の戦略家を探すより難しい。何故ならそれを防ぐ、否、無効化するにはこの世に存在するあらゆる可能性をたったひとつに限定しなければならないのだから。

 そうして、必殺の手段に訴えようと遥が叢雲と正宗を納刀する。だがその瞬間、遥にとっては最悪の、カエサルにとっては最良のタイミングで、契約の経路(パス)を逆流してくるモノがあった。

 

「――ッ、沖田……!」

 

 遥が最初に契約したサーヴァント。遥が擁する最強の剣にして、最大の不安材料。その彼女が身に秘める『呪い』が起動してしまったのだ。そして、仲間を不可解なまでに大切に思う遥がそれに反応しない筈もなく。

 

「――私は来た」

 

 カエサルが、その隙を見逃す筈もなかった。

 

 

 

 時は再び戻り、数分前。遥とカエサルが連合ローマ軍本陣中央で戦闘を始めたのとほぼ同刻。少しだけ遥よりも早くに会敵を果たしていた沖田は、既に敵将、とは名ばかりの、レフによって放たれた捨て駒であるレオニダスとの交戦を始めていた。

 その身は捨て駒。守るべきものもなく、故に本領を発揮することも叶わない。レオニダスとは〝護る者〟だ。ある意味ではテルモピュライの戦いでペルシア軍と戦ったスパルタ兵の総体とも言える彼は真の意味で盾であり、同時にその盾を執る者なのだ。それが盾の後ろに守るべきものを持たないとしたら。そんなことは考えるまでもない。螺子が1本外れた機械のように、十分に役割を果たし得る筈もない。

 それでもレオニダスは戦う。今の彼を動かしているものはただひとつ。レオニダスの戦士としての誇りであり、スパルタの絶対の法でもある言葉。〝決して撤退するまじ〟。その言葉が望まれぬ戦場の中にあってもレオニダスを突き動かし続ける。

 だが言葉が突き動かすと言うのなら、それは沖田も同じだ。特異点Fから帰還した翌日、遥に誓った『誠』、そして新選組として己に課した『誠』が沖田を動かす。そしてその守るべきものの有無という一点において、沖田とレオニダスの間には埋めがたい隔絶があった。

 自らが抱える、そして沖田自身でさえ正体の分からない思いを抱く主のため、彼女は身体に染み付いた殺戮の武芸を存分に揮う。レオニダスはそれを大盾と槍でのみ受け止めながら、沖田の絶技に舌を巻いた。

 これほどの武練を持つものは、ペルシアにもスパルタにもいなかった? 当然だ。レオニダスは内心だけで過去の自分の発言を訂正する。沖田の武練はレオニダスのそれとは全く方向性が違う。レオニダスのそれが守る力であるのに対し、沖田のそれは殺す力。レオニダスが守るために殺すところ、沖田はただ敵を殺すためにのみ武練を積み上げた。それが守るものを得たら、どうなるか。簡単だ。考えるまでもない。

 だが、それを弁えたうえでもレオニダスは言う。()()()()()()()()()、と。たとえ護るものがなくとも、そこがテルモピュライでなくとも、その身はスパルタの王であり戦士。なれば、弱音などは吐けない。吐ける筈もない。それでは共に戦ったスパルタ兵を侮辱することになってしまう。

 

「戦闘中に考え事、ですか」

 

 舐められたものですね、と沖田の声。しかし言葉の内容とは裏腹にその声音には落胆など一分たりとて存在しなかった。間髪入れずにレオニダスを盾ごと蹴りつけ、あまりの衝撃にレオニダスが何歩か後退る。だがすぐに体勢を立て直し、槍を揮う。しかしその槍は沖田が即座に間合いから離脱したことで虚しく空を斬るばかりだった。

 得物の間合いだけで言えば、沖田よりもレオニダスに分がある。その長さの関係上、長刀では槍の間合いには及ばない。場合によっては槍持ちは刀の間合いの外から一方的に痛ぶることもできる。

 だがそれは一般的な速力に優れる『槍兵(ランサー)』の場合の話だ。レオニダスは『槍兵』の中では例外的に速力があまり高くない。その点だけで言えば、沖田の方が優れている。レオニダスが得物による有利を得られないのもそのためだ。総合的に見れば、縮地によって一瞬で間合いを詰めることができる沖田が有利。それでも沖田が攻め切れないのはレオニダスの盾、そして防御力が原因だ。

 戦況が戦況でありレオニダスは本領が発揮できないとはいえ、彼は盾を生業とする英霊。その盾の裏側に入り込むことは容易ではない。そして刀の突破力は盾の防御力に劣る。要は沖田の刀はレオニダスの盾とは相性が悪く、彼女の武威を以てしても防御を崩すことは難しいのである。

 だが、沖田が最大の恃みとする魔剣であれば、少なくとも邪魔な盾だけは消し飛ばしてしまえる。無明三段突きは接触部に局所的事象崩壊を引き起こす防御不可の剣技なのだから。

 目下最大の問題は、レオニダスにその隙がないことだ。どれだけ攻撃しようが、レオニダスは目に見えて巨大な隙を晒さないのである。無明三段突きを使おうにも、相手が隙を見せないのでは使い様がない。溜めの間に攻撃されては敵わない。

 

「ジャアッ!!」

「ふっ!」

 

 大気を震わせるほどの気合と共に放たれる、レオニダスの槍の一撃。愚直なまでに真っ直ぐなその槍撃を沖田は愛刀で迎撃し、お返しとばかりにレオニダスの胴に向けて銀閃を繰り出した。しかしレオニダスは愚直な槍術とは対照的な精妙極まる盾の操作でそれを受ける。

 一進一退、と言うよりもむしろ膠着状態と言うのが正しかろう。武練と思いで勝る沖田と、刀と盾という得物の差で勝るレオニダス。両者どちらにも勝る点があるために、かえって互角の状況を生んでいる。

 しかし、だからとて勝負を長引かせる訳にもいかない。沖田が抱える病弱の呪いは少しずつ、だが確かな足取りで沖田を蝕んでいる。兵士たちとの戦闘は大きい負担ではなかったが、彼女の病弱スキルは戦っているだけで発生確率が上がる。今ここで血を吐いて倒れても何も不思議はない。

 故に沖田には時間がないのだ。兵士たちと戦っていた時間も含め、戦闘継続時間は既に45分を過ぎている。最早一刻の猶予もない。そこまで己の置かれた状態を把握してから、沖田は自らの懐からあるものを取り出した。

 それは大きくもなく、かと言って小さくもないという手頃な大きさをしたルビーであった。万が一のため、と遥と契約しているサーヴァントにひとつずつ遥から渡されている、彼の魔力が封入されている宝石だ。

 沖田は魔術師ではないが、サーヴァントとして召喚されるにあたり最低限の知識は与えられている。そのため、その宝石が使い方によっては魔力補給以外にも使うことができると知っていた。例えば、目晦ましなど。

 一瞬で作戦を立て、宝石を愛刀ごと握る。多少違和感はあるものの、そんなものは些事だ。沖田が再び構えたことでレオニダスもまた盾を構え、迎撃態勢を取る。沖田が地を蹴り、響く金属音。どちらも攻撃も決まらない、停滞した戦闘。再びそれが続くかに思われたその時、沖田が動いた。

 沖田の斬撃をレオニダスが盾で受け止め、そのまま槍でも攻撃に移行するその瞬間、沖田は刀で払うのではなく後方へと跳んだ。刀を握る右腕で眼を隠す。並行して左手では宝石に無理矢理魔力を流し、同時にレオニダスの眼前を狙ってそれを放り投げた。

 投げ放たれた宝石は転換もへったくれもない膨大な魔力を叩き込まれ、沖田の思惑通りにレオニダスの目の前で崩壊した。内部に込められていた魔力は英雄ですら一瞬は目を潰されるほどの閃光と化して溢れ出す。

 

「ぬうぅぅぅっ!? これはっ……!?」

 

 目晦まし。気づいて盾で視界を隠した時には既に遅く、レオニダスの視界はかなりの部分が欠けてしまっていた。更にはかなり高く盾を上げてしまったことで沖田の姿が見えない。まさしく、沖田が狙っていた隙であった。

 それを認めるや、間髪入れずに沖田が大地を蹴り抜いた。あまりの力に大地が悲鳴をあげるが如く轟音が鳴り響き、沖田の身体は音の壁を超えて不可視の領域に至る。1歩目で音を超え、2歩目で更に間合いを詰め、3歩目は既に必中不可避の域にいる沖田の絶技。それが今、放たれようとしていた。

 

「無明――三段突き!!」

 

 突き込まれる白刃。一の太刀から三の太刀まで全てを内包した一撃がレオニダスの盾を局所的事象崩壊によって消し飛ばした。瞬間、無防備になるレオニダス。

 ()った――――沖田が確信する。

 だが。

 

「まだまだァァァァァァァッ!!!」

 

 咆哮一喝。何とレオニダスは盾を失くしたと察知した瞬間、一切迷わずに槍を頭上に放り投げて両手を眼前で合わせ、あろうことか加州清光を挟んで止めてしまったのである。いくら沖田の魔剣と言えど、ただの刀を使っている以上側面に攻撃力があろう筈もない。

 白刃取り――!? 有り得ない光景に沖田が瞠目する。そして、それはレオニダスにとっては最大の隙であった。刀ごと沖田を地面に叩きつけ、同時に刀から嫌な音が鳴る。まさか、と思って沖田が刀を見遣れば、彼女の愛刀たる乞食清光は半ばから折れてしまっていた。

 日本刀は非常に脆い武器だ。遥の礼装である天叢雲剣のように『不朽』の属性を持っていたり、正宗のように魔術によって弱点をカバーされているならともかく、ただの刀では弱い衝撃を受けても簡単に折れてしまう。乞食清光のように。

 更に悪いことに、沖田を襲ったのはそれだけではなかった。沖田の意志に反して手足から力が抜け、口から血塊を吐き出す。沖田が最も懸念した事項。『病弱』の発動が最悪のタイミングで起きてしまったのだ。

 

「残念でしたな。盾の喪失に気づくのが少し遅れていれば、負けていたのは私の方でした」

 

 それは賞賛でありながら、半ば皮肉のようですらあった。沖田はそれに更に皮肉を返そうとするも、病弱の呪いはその気力すらも沖田から奪っていく。空中に放り投げた槍をレオニダスが掴み、逆手に持ち替える。

 仮に沖田の相手がレオニダスではなく騎士道に沿って行動する騎士であれば、沖田が回復するまで待ったのだろう。だが相手はテルモピュライを戦った戦士。そんな慈悲など与えていては死ぬのは自分の方だったのだ。そんな人間に、回復を待つ思考などあろう筈もない。

 動け――動け動け動け動け!! 死を前にして引き延ばされた認識時間の中で、沖田が叫ぶ。しかし病弱から回復しない身体ではまともに動くことすら叶わず、レオニダスの槍は今か今かと振り下ろされる時を待っている。だがその時、沖田の脳内に声が響いた。

 

 ――令呪を以て、我が剣に命ず。

 

 沖田は知らない。本来なら、以前までの遥なら、()()()()()()()()()()()()()()ということを。沖田が知らぬ間に、或いは遥自身すら気づかないうちに、遥は越えてはならない一線を踏み越えていたのだ。

 天に向けられた沖田の目に映ったのは、空中を飛来する細長い何か。それを視認した時、言葉が続く。

 

 

 ――死ぬな。戦え。俺と共に、最期まで!!

 

 

「ぬうっ!?」

 

 果たしてレオニダスの槍は何も抉ることはなく、穂先は地面に突き刺さった。まさに瞬間移動めいた沖田の消失にレオニダスは驚愕して周囲を見回し、そして前方に沖田の存在を認めて息を呑んだ。

 纏っているのはそれまでの和服だけではなく、袖口にだんだら模様があしらわれた浅葱色の羽織。手に執る長刀の銘は〝無銘正宗〟――否、羽織を一時的に取り戻した今、その刀は〝菊一文字則宗〟となった。尤も、刀としての位階は正宗の方が高いため厳密に言えばどちらでもないのだが。

 現状の霊基強度では不可能な筈の魔力出力量。それを可能としたのは、ひとえに令呪の力だ。マスターとサーヴァントの同意の下に行使された令呪は、時に魔法にすら匹敵する不条理をも可能とする。それは正規のものより弱いカルデアの令呪でも変わらない。特にそれが、沖田の願いと合致するものであるなら、それは沖田に一時のみ聖杯すら凌駕する効力を発揮する。

 沖田の願いは『最後まで戦い抜くこと』。そして遥の命じた令呪はふたつ。『死ぬな』、『自分と共に最期まで戦え』と。それは遥でも意図していなかった偶然の一致だった。

 沖田の胸の裡にあるのは感謝と歓喜。それを噛みしめるように、沖田が一言のみ呟く。

 

「……勿論です。最期まで、貴方と共に」

 

 柔らかな笑みだった。おおよそ殺意や剣気とは無縁の、何か別の感情を伺わせる笑みだ。しかしその笑みはレオニダスの方に向き直った時には跡形もなく消え失せ、元の殺意に研ぎ澄まされた表情となっていた。

 直後、沖田の姿がレオニダスの視界から消え去った。咄嗟にレオニダスは斬撃を受け止めるように槍を構えるが、衝撃に耐え切れずにそのまま吹っ飛んでしまう。令呪だけでは不自然なほどのステータス上昇。それは沖田の宝具である〝誓いの羽織〟の効果であった。

 吹っ飛ばされ、転がるレオニダス。槍を地面に突き立てて止まった彼の顔面に容赦なく叩き込まれる膝蹴り。盾を喪ったレオニダスと、令呪による強化(ブースト)を得て宝具を一時的に取り戻した沖田。最早、両者の差は火を見るよりも明らかだった。

 最後に沖田はレオニダスの胸板を踏みつけると、抵抗される前にその首を断った。その一撃でレオニダスは完全に絶命し、霊基は魔力光となって還る。同時に沖田を後押ししていた令呪の効力も切れ、羽織が消滅し菊一文字は正宗に戻る。

 戦闘が終わり、沖田は何度か正宗を握り直してみる。初めて握った筈なのに、非常に良く手に馴染む。果たしてそれは沖田の万能性故か、はたまた別の理由か。沖田にとってはどうでも良いことだった。

 

「ハルさん……」

 

 呟く声は誰にも届くことなく、虚空に溶けていった。

 

 

 

「まったく。世話が焼ける」

 

 自らの命令による令呪二角の消滅と沖田の勝利を確認し、遥がそう呟く。まるで厄介がるような言葉とは対照的にその声音はあくまでも穏やかで、遥が沖田の勝利に安心していることが分かる。しかし、その足元には穏やかならざる光景があった。

 そこにいたのはカエサルだった。その身体は左肩口から右脇腹にかけて深々と傷が刻まれて鮮血が噴き出しているのみならず、サーヴァントとして終わりを迎えたことで金色の魔力光となって消え始めていた。だが何より目を引くのはそれではなく、表情。カエサルの顔は何か信じられないものを見たかのような表情で固まっていた。

 それも当然だ。何故なら、カエサルは一度遥の首を断っている。彼の宝具、初撃必中の〝黄の死(クロケア・モース)〟は確かに遥の首を断った筈なのだ。たとえ幸運判定に失敗して次手を打つことができなかったのだとしても、遥を殺すにはそれで充分だった筈だ。それが何故、生きているばかりか致命傷まで負わせてくる――!?

 

「何故……そう言いたげだな、カエサル。そんなの、俺が聞きたいくらいだ。まさか呪いがここまで進んでるとは、俺も思わなかった」

 

 そう忌々し気に言う遥の顔は造作や髪の長さ、肌の色こそ今までと同じであるものの、全く違うものであるような印象を受ける。何故なら以前までは白くまだらが入った黒だった遥の髪は全てが白く変わり、瞳の色は紅から戻らなくなっているのだから。髪留めがなくなって長い髪が全て流れていることなど些細な変化でしかない。

 一言断っておくのなら、遥は決して不死ではない。しかし尋常な命を持つ者でもない。ただ遥は『不朽』であるだけなのだ。遥が〝叢雲の呪い〟と呼称する天叢雲剣の概念上書き能力。遥が生まれる前から彼を犯す呪いが、遂に完成しようとしている。それは遥の意志ではない。

 今の遥は脳か心臓のどちらか片方さえ残っていれば再生する。遥を殺したくば、両方を一撃の下に消し飛ばすのが最善だ。他にも一瞬で炭化させれば死ぬし、圧し潰しても死ぬ。遥は不死ではなく、極端に死ににくいだけなのだから。

 原理は至極単純だ。遥の起源である『不朽』は即ち朽ちないこと。その概念の前では肉体の欠損でさえ劣化と定義される。故に遥の肉体は欠損した場合、死ぬより先に修正されてしまうのだ。その度に人間でなくなりながら。

 些か反則のようにも思えるが、魔術師の中には自分と全く同じ構造をした人形を自分が死ねば起動するように設定し半ば不死状態となった者までいるのだ。そういう類と比べれば、遥の耐久力など大したものではない。しかしカエサルはその真相を知ると、嘲るように言った。

 

「成る程。確かに、それはまさしく呪いだな。まったく……そのような業、人の身には余るものであろうに……」

 

 その言葉を最後に、大英雄カエサルはその存在を無へと帰した。それを遥が無言で見送ったのとほぼ同時、連合ローマ軍の中から悲鳴があがった。遥がカエサルを倒したことによるものではない。何事か、とネロが連合の軍勢に問う。その時、首都ローマの城塞で狙撃に徹している筈のエミヤから念話が飛んできた。

 

『マスター! 大至急、首都に戻れ!』

『何があった?!』

『襲撃だ! 勝利の女王軍の手勢が首都内に()()した!』

 

 

 

 ブーディカの宝具による首都ローマへの奇襲が始まったのと同じ頃、それより少し離れた場所で膨大な魔力が渦を巻いていた。無論、それだけの魔力的現象が自然発生する訳もない。それは聖杯が起こした現象であった。

 曰く、人理焼却の首謀者が特異点を形成するためにその時代に送り込んだ聖杯はカウンターとなるサーヴァントを召喚する。だがブーディカが反転及び変質し、スパルタクスがブーディカ側に付いた今、聖杯はそのふたりの分を補填するサーヴァントの召喚を決定した。

 誰の目にも付かない森の中、英霊召喚の儀式は無人のままで粛々と進んでいく。吹き出す魔力が木々を薙ぎ倒し、英霊が顕現するための場所を形作る。そこに浮き上がった魔法陣はふたつ。しばらくしてエーテルが閃光と化して溢れ出し、ふたりの人影――否、ひとりの人影と奇妙な出で立ちをした英霊が出現した。

 

「問おう。アナタが私のマネ……って、誰もいないじゃない! どーいうコトよ!」

「ふむ。召喚されて早々に戦場の匂いがするとは……この呂布奉先、滾ってきましたぞ! ヒヒン!!」




ちょっとタグ編集をして、『未実装英霊』を消しました。まあ厳密に言えば英霊ではありませんが……時期的に察してください。


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第51話 絶対防衛線ローマ、血風の中に在り

 連合ローマ軍が壊滅したタイミングでの勝利の女王軍による奇襲は、首都ローマ内部での兵士の召喚だけではなかった。その奇襲に使われているブーディカの宝具〝蹂躙蛮軍(アーミー・オブ・ブディカ)〟の特性上、兵士を召喚できるのは何も首都ローマの中だけではない。首都ローマ周辺にも連合ローマとローマの両軍を包囲するように蛮族が展開していた。

 ローマ・連合ローマ両軍が疲弊した隙を突いての奇襲。そのうえ進撃する手間を省き、現地に直接軍勢を召喚するとあっては、応戦する準備を整える暇すらもない。包囲された軍勢は一瞬にして恐慌状態に陥った。

 そんな中、最も早くに対応してみせたのはマシュと並んで最も戦闘経験がない筈の立香だった。彼は自らに与えられた総督という立場を利用して一時的に周囲のローマ軍に指揮下に入るように告げると、クー・フーリンに宝具を解放させ首都ローマまでの蛮族を蹴散らし、こう言い放ったのだ。正統、連合関わらず死にたくないものはオレ達に続け、と。

 それは半ば脅迫であった。しかし正しい判断でもある。いくら相手が理性のない蛮族と言えど、サーヴァントの宝具である以上只人がそう簡単に倒せるものではない。恐慌状態なら猶更だ。そこで立香はサーヴァントの力を借り、自分たちには敵に対処する力があるという所を見せつけることで兵士たちの安定と吸心を図ったのである。そして、それは見事に成功した。

 立香自身よく考えた訳ではない。それは咄嗟の判断であった。故にそれは立香が持つ指揮官としての高い適性を示しているとも言えるだろう。或いは強い生存への執念か。どちらにせよ、それが立香が執ることができる最善策であった。

 要は立香が執った策は籠城戦のようなものだ。今回の場合はその城に当たる場所にまで敵が侵入しているが、だからこそということもある。今のローマは国家としての機能を首都、ひいては王宮に集中させている。故に首都を堕とされてはまずいのだ。そのため防衛には可能な限り戦力を集めなければならなかった。

 残った連合ローマの部隊も一時的に処遇を保留し、ネロの指揮で首都周辺に集中させている。その殿にいたのは遥たちだ。首都内では市民が家に籠り、兵士たちが何人かの束になって蛮族と戦っている。共通の敵を前にして、袂を分けた兵士たちが一丸となっているのは皮肉と言う外ないだろう。

 だが、当然のことでもある。兵士とは王ではなく人民を守るもの。そして正統であれ連合であれ、それがローマであることに変わりはない。であれば、連合も人民を守るためならば戦っても不思議ではないのだ。

 しかし相手は英霊、サーヴァントである。いくら兵士たちが団結したところで、たかがただの人間が敵う相手ではない。加えて兵士たちが戦っているのは厳密にはサーヴァントそのものではなくその宝具によって召喚された傀儡。元々人間よりも強力であるうえ、両手両足どちらかを失ってもある程度喰らいついてくるというのだから驚きである。

 それだけではない。首都ローマやその周辺地域に召喚された蛮族たちは確実に倒されているものの、一向に数が減らないのである。召喚にはそれ相応の魔力が必要な筈だが、全く召喚速度が衰えない。つまり、どれだけ倒そうが敵の総数が変わらないのだ。

 

「どうする、マスター! このままではジリ貧だぞ!」

「解ってる! でも、召喚主のサーヴァントがいないんじゃどうにも……」

 

 迫り来る蛮族数人に対して漆黒の魔力を纏うエクスカリバーを揮い、消滅させながら立香に声を飛ばすアルトリア。だが聖剣の極光によって空白と化した空間にはすぐに新たな蛮族が入り込み、再び攻撃を仕掛けてくる。

 先程から立香は数人の将校から何度か報告を受けているが、未だに敵将たるブーディカやその仲間と目されるサーヴァントらしい姿を見たという報告はない。恐らく遠方からでも召喚が可能な宝具なのだろう。

 完全な防衛戦。しかしそれは立香が無能だと言うのではない。むしろ彼は戦闘経験がないにも関わらず驚異的な速度と正確さで指示を出し、全軍の死傷者数を最小限に抑えている。基本的に凡人の域を出ず、元一般人らしい穏やかな少年が軍師としての才能の片鱗を見せ始めていることは皮肉としか言えないが、今の彼らにそんなことを気にしているような余裕はない。

 

(考えろ、考えろ! 何か、被害を最小に抑えられる策を……!)

 

 アルトリアの約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)やアルの常勝の剣よ、神をも堕とせ(マルミアドワーズ)であれば一瞬で敵軍を消滅させることもできるだろうが、この場は市街地だ。対軍以上の規模を持つ宝具は味方や市民まで巻き込むため使用不可。よって対人宝具のみが使用可能なのだが、そうなると使えるのはアルトリアの卑王鉄槌(ヴォ―ティガーン)、アルの風王結界(インヴィジブル・エア)、クー・フーリンの刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)のみ。高火力のサーヴァントばかりが揃っている弊害がここに来て出てしまった。

 次の問題は立香の魔力量だ。変異特異点での反省からカルデアで生産される魔力の大部分を立香に回しているものの、彼個人で出力・貯蔵できる量には限度がある。カルデアから供給される魔力はあくまでも貯蔵量の回復を速めるもので、立香本人の問題は別なのだ。

 だが幸いにして、立香の貯蔵魔力には幾分かの余裕がある。故に最大の問題は戦力不足だけに限定される。今首都ローマ内にいるのは立香のサーヴァントとローマ軍の他、既にこの特異点に召喚されていたサーヴァント――遥と契約した『狂戦士(バーサーカー)』タマモキャット、カルデアの前に姿を現していなかった『暗殺者(アサシン)』ステンノの2騎――である。それでも、足りない。敵総数が減らないのに対し、味方側の兵士は確実に減ってきている。

 この状況を覆すには、何か強力な一手が必要だ。拠点防衛のための戦力として運用でき、かつ対人から対軍までの宝具を持つサーヴァントが。だが、果たしてそんな都合の良い英霊がいるものなのか。半ば袋小路に陥りかけた立香の思考に、突如として冷や水が浴びせられる。

 

「――ッ」

 

 不意に彼の足元に転がってきたそれは、果たしてローマ兵の生首であった。相当追い詰められてから殺されたのかその顔は絶望した顔で停止しており、粗悪な戦斧で切断された断面からは骨と鮮血が覗いている。

 想像を絶するグロテスクな光景に立香は思わず胃の中身を吐き戻しそうになるも、寸でのところでそれを堪えた。今はそんな暇などない。同胞の死は悲しもう。悼むこともしよう。だからこそ、今は止まれない。止まったが最後、次に死ぬのは自分自身だ。それを受け入れることこそ、死者への真の冒涜であろう。

 突然生首を見てしまったことによるストレスや自責による自己嫌悪を一旦心の奥底に押し込め、立香は前を向く。後ろを向くのは後で良い。今はただ、生き残る。それだけに集中する。そうして顔を上げた時、傍らに戻ってきたマシュが口を開く。

 

「……先輩(マスター)?」

「あぁ。大丈夫。大丈夫さ」

 

 自分自身に言い聞かせるようにそう言いながら、立香は大きく深呼吸をする。ファイブセブンに頼って心を凍らせるようなことはしない。ファイブセブンを使うのは、自らの意志で、心を動かしたままで。

 藤丸立香は戦うものではない。だが、戦うことを拒む臆病者でもない。諦観と共に運命を受け入れたのではなく、自らの意志で生きるために戦う。立香はそれができる男だ。

 思考を巡らせ、活路を見出し、自らの全てをそこに集中させる。自らの意志で〝魔眼殺し〟を外すと、僅かに頭痛がした。その眼は七色に輝いていて、彼の魔眼が動いていると一目で分かる。以前は自分の意志で使えなかったが、今は違う。その使い方は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 周囲の世界そのものから情報を引き出し、集積し、分析し、解析し、演算し、結果を出す。そうして立香の脳裏に投影されるのは、現状から予想される最も確率の高い未来。謂わば短期的な未来予測である。それがこの世界の立香が持つ『先視』の魔眼である。

 短期的な未来予測というと非常に反則じみたもののようであるが、立香のそれには制限と重大な欠点がある。まず、より先の未来を予測するにはより多くの情報が必要なこと。これが制限である。そして欠点。こちらが重要だ。

 世界から情報を引き出すのは魔眼の力だが、演算するのは立香の脳なのだ。そして、魔眼を起動している間彼の脳は魔眼の力で無理矢理限界を超えて駆動させられている。そのため長時間連続で使ったり多くの結果を見ようとすると、立香自身の脳が焼き切れてしまう。たとえ抑えたとしても脳を動かすためのエネルギーは確実に消費し、一度の戦闘でも最大で一度、それも10分程度しか使えない。

 巨大なメリットの代わりに多大なるデメリットを負うそれを、立香は躊躇わずに行使し、更に的確な指示を出していく。サーヴァントや兵士は立香の指示が変わったことを感じ取ったのか、一瞬のみそちらを見遣るがすぐに戦闘に戻る。だがその直後、兵士から声があがる。

 

「藤丸総督、あれをッ!!」

「? ……なんだ、アレ? ミサイル? いや……槍!?」

 

 果たして、兵士が指す先にあるものは空を飛ぶ1本の槍であった。それが放つ膨大な魔力は、明らかにそれが宝具であることを物語っている。敵のものか、味方のものか。立香の理性はそれが分からなかったが、直観的にそれが敵のものではないと悟る。

 数秒もしないうちに槍は首都ローマ市街地中心部、立香たちの後方に突き刺さり、秘められた魔力を爆炎として周囲に吐き出した。爆炎は数人の兵士を巻き込みながら多くの蛮族を紙屑のように散らした。

 続けて彼らの頭上を駆けたのは、ひとつの馬影。その形に立香が違和感を覚えたのも束の間、まるで暴風のような武威を以て彼らの頭上を駆けた闖入者が蛮族を蹴散らし、立香に接近してくる。

 

「貴方が、ここの指揮官ですかな? いやはや、戦場の匂いに誘われるまま来てみれば、多勢で無勢を嬲っているときたもの。それでもその中で勇猛に戦っている者たちがいるとなれば、私が助力する方は決まっていましょう。

 ……と、いう訳なので。この呂布奉先、貴方たちに協力致しましょう! ヨロシク!」

「りょ、呂布……?」

 

 呂布奉先。そのあまりの武威から〝飛将〟とも呼称される、後漢の武将である。だが呂布に〝実は人の身体を持った馬だった〟などという逸話はない。それがこのようなケンタウロスじみた、と言うよりも馬型の怪人じみた姿で現界するということは、まず考えられない。

 だが思い当たる真名がない訳でもない。呂布の愛馬であり、血のような赤い汗をかく汗血馬たる〝赤兎馬〟。馬が英霊となるなど奇妙な話だが、別に英霊は人間のみという制約はないのだから、無い話ではない。

 立香は知らない。呂布奉先はライダークラスで召喚された場合は赤兎馬と融合し、その主導権は赤兎馬が握ってしまうことを。つまり立香の前に現れたサーヴァントは呂布奉先であると同時に赤兎馬でもあるのだ。

 赤兎馬が差し出した手を立香が握り返すと、ふたりの間に仮契約が結ばれ経路(パス)が繋がった。同時に魔術回路から持っていかれる魔力が増え、身体が重くなる。これで立香が契約しているサーヴァントはマシュを初め、アルトリア、クー・フーリン、ジャンヌ、アル、そして赤兎馬の6騎。完全に一度に戦闘を支えられる限界数である。

 総身を魔力が流れる異物感と激痛に立香が顔を顰めるが、すぐに表情を戻した。その視線の先では新たに戦列に加わった赤兎馬が槍を揮っている。さらに視線を移せばアルトリアとアルが、クー・フーリンが、ジャンヌが、そしてマシュが戦っている。ならばそのマスターたる立香が倒れることができる筈がない。

 魔眼の代償か眼は今にも弾け飛びそうで、脳は無理な演算と思考を同時に行っているせいか時間の経過と共に痛みを強めている。眼から蒐集される情報は立香に犠牲者の数を無慈悲に叩きつけ、視界の中では無残にも砕け散った死体がいくつも転がっていて気を抜けば無力感と罪悪感に圧し潰されてしまいそうだ。それでも、立香は耐える。後悔するのはまだ早い。

 

「まだ()ってくれよ、オレの体……! 戦闘が終わるまで……!」

 

 

 

 首都ローマ内に突入した赤兎馬が立香と合流したのとほぼ同刻。首都ローマが位置する平原ではある種の地獄のような光景が繰り広げられていた。と言っても、それは大量虐殺のような残虐なものではない。いや、ある意味では残虐なのかも知れないが。

 まるでその平原を我が物と主張するかのように聳えるそれは、巨大な城。否、城のようでありながら、それは城ではなく城の形をした異常に巨大なアンプであった。つまりはライブステージであるが、そこから放たれているのはポップでもロックでもなく、デスボイスですら正常に聞こえる程の破壊兵器であった。

 幸いにもアンプが向いていないローマ軍側には人的被害は出ていないものの、アンプを向けられている蛮族たちの側では凄惨な光景が広がっている。彼らは倒されればすぐに消滅するが、その直前にまるで挽肉にでもされるかのようになってから消滅しているのである。

 恐らくその宝具を行使しているサーヴァント――城型アンプの屋根で気持ちよさそうに歌っている、竜種の翼と尾をもつ少女はローマ軍の加勢に入ったつもりなのだろうが、耳を塞いでも全く減衰しない歌声のような咆哮は確実にローマ軍の体力を削りつつあった。

 

『なんですかコレ、ヒド過ぎます! コレが現代風の歌なんですか、ハルさん!?』

『そんなワケあるか!! 辛うじてアイドル系の歌に聞こえないこともねぇけど、流石にコレはねぇ!!』

『何でも良いから早いトコ止めさせなさいよ! 耳壊れる!!』

 

 耳を塞ぎながら器用に念話で会話をする3人だが、彼らが何を言ったところで少女には届かない。敵も味方もまさしく阿鼻叫喚。だがその中にあって、何故かネロだけが幼い少女のように目を輝かせていた。

 やがて怪音波の暴威が止んだ頃には視界に映る範囲から蛮族たちは殆ど一掃され、戦場は一時のみ荒れ果てた平原としての姿を取り戻した。尤も、敵が一掃された代わりに味方も大多数が機能を失っているが。

 そんな惨状を一切意に介していないかのように少女は満足げな笑みを浮かべながら、ネロの方に歩いてくる。一応は味方だと分かるが隠しきれない残虐性が滲むその所業故に遥はネロを庇うように前に出て、不意にフラッシュバックした記憶に声を漏らした。

 遥はこのサーヴァントを知っている。第一特異点においてカウンター・サーヴァントとして召喚されながらもジルの計略によって拿捕され、シャドウ・サーヴァントとなって彼らの前に立ちはだかったサーヴァントのうち1騎。それに気づいた途端に襲ってきた妙な気まずさに、思わず遥はネロの前から退いてしまった。

 

「あら、(アタシ)に言われる前に道を開けるなんて、良い心掛けね、子……子……子グマでいっか。デカいし。

 それはそれとして。ようやく会えたわね、生ネロ! 私の永遠のドル友(ライバル)!!」

「生ネロ……?」

 

 少女の妙な物言いに、遥が言葉を漏らす。彼としては少女が口にした〝子グマ〟なる呼称も気になっているのだが、あえて問い質すことでもない。遥とて、自らが秘める人外の存在規模(スケール)の影響で大柄になっていることは自覚しているのだ。身長など、まだ伸びている始末だ。このままでは2メートルまではいかずとも1メートル90センチはいくかも知れない。

 そんな下らないことを考えつつも、遥は何か語らい合う少女とネロに視線を遣る。ドル友(ライバル)なる呼称は置いておくにしても、少女にはネロと面識があるようであった。生ネロなる呼び方を見るに、サーヴァントとして召喚されたネロであろうが。遥が黙って考察していると、タマモから念話が飛んできた。

 タマモ曰く、少女の真名は〝エリザベート・バートリー〟。血の伯爵夫人という異名を持つ、16世紀のハンガリーを生きた貴族であり吸血鬼伝説のモデルのひとつともなった連続殺人犯でもある。尤も、現界時の肉体年齢は残虐行為どころか結婚もしていない14歳時のもので、精神もそちらに固定されているが。

 残虐行為に手を染めるようになった後の彼女の姿で現界した場合はカーミラ、つまりは第一特異点で遥たちが接敵した際の霊基となる。しかしエリザベートが自らの罪を自覚していないかと言えばそうではなく、むしろ罪悪感という意味ではカーミラよりもエリザベートの方が強いかも知れない。

 何故か意気投合しているふたりを半ば呆れを込めて見ている遥。その脳裏に、まるで揶揄うかのようなエミヤの声が飛んでくる。

 

『マスター。和んでいるところ済まないが、報告だ』

『和んでねぇ。で、何だ』

『敵軍だ。サーヴァントもいる。……で、どうするね? ()()()()()()()

 

 挑発するような声音であった。遥から顔は見えないが、恐らく今エミヤはニヒルでありながら遥を試すような表情をしていることだろう。遥と最も付き合いが長いのは沖田だが、遥の性格をよく把握しているのはエミヤだ。故にエミヤには、これから遥がどう動くのか解っている。

 遥の魔術回路から大量の魔力が持っていかれると同時、それと同じだけの魔力が遥たちの後方、城塞で収束する。エミヤが彼の異能たる投影魔術で以て生み出したのは刀身が捻じれた異様な宝剣。ケルト神話はアルスター物語群の英雄フェルグスの愛剣を改造した〝偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)〟である。それをエミヤは最大限に魔力を充填して数本投影し、再度発生を始めた蛮族に向けて撃ち放った。

 その爆炎の先に、遥は確かに見た。先程から平原に湧き出しているものと同じ蛮族を引き連れた敵将を。最も奥にいる、禍々しい戦車(チャリオット)に乗る長い赤毛のサーヴァントが総大将のブーディカであろう。その脇にいるのは筋骨隆々たる巨漢のサーヴァント、そして戦闘王アルテラ。

 その姿を視認した途端、遥の中で血が励起する。最早封印などは意味を成さない。同化しながらも独立した存在であった筈の分霊は半ば以上が遥と融合し、境界を定める方が難しい。自分を強く意識していなければ励起する血に呑まれ、ただ戦うだけの存在となってしまいそうだ。所謂暴走状態に陥りかけている精神を、理性を以て抑えつける。そして、その抑えつけた情炎の熱を己が力に変える。

 

「……ハルカ?」

「ネロ。()()()()()。俺は傭兵隊長だが、アンタの指揮下にいる。だから、俺はアンタの指示に従おう」

 

 そう言いながらネロに向き直った遥の目には有無を言わさせぬ強制力があった。そこにはおおよそ人間には御しきれないほどの情炎が宿り、満ち溢れる魔力が身体を赤熱させる。その姿は完全に人間のそれではなかった。

 以前の遥であれば特に抵抗することもなくそれに呑まれていたことだろう。だが今、遥はそれに抗い、逆に捻じ伏せ自らの力にしようとしている。些細なことだが、遥は運命に抗いながらそれを乗りこなそうとしているのだ。

 果たして遥にその変化を齎したものが何であるのか、そんなことはネロにとって関係ないものであった。だが、彼女の言葉がその一因にはあるのだろう。故にすぐに遥の意図を察し、口を開く。

 

「良かろう。其方は其方の思うままに。心に従え、剣士よ」

「――了解……!!」

 

 その指示は放任か。否、それは信任であり、強制でもあった。この指示を以て遥は自らの意志に反して動くことができなくなった。たとえ、それが自分自身とも言えるものからの叫びであったのだとしても、である。

 視線の先では巨漢のサーヴァントが吠えている。遥は知らないことだが、巨漢のサーヴァント――スパルタクスはネロやローマだけではなくその場で強烈な人外の気配を振り撒く遥にも反応していた。圧制への叛逆そのものである彼にとって、遥が放つ気配は圧制以外の何物でもない。

 そして狂戦士(バーサーカー)である彼にとって、それだけの圧制の数は理性を失うに十分過ぎる数であった。味方である筈の蛮族を薙ぎ倒しながら、スパルタクスは遥たちの方に駆けてくる。だがその圧倒的なまでの圧力を前にしてローマ兵はひとりとて怯むことなくエリザベートの歌声から復帰し、武具を手に立ち上がった。その戦闘で、遥が指示を出す。

 

「セファ……アルテラの相手は俺がする。姉さん、エリザベートと一緒にあの肉達磨の相手を頼めるか?」

「勿論です」

「ハァ? タマモに協力するのは良いけど、なんでいきなりアンタの指示なんかに――」

「頼む。俺の指示に従うのは不本意だろうが、戦ってくれ。ローマのために……!」

 

 奇妙な拘束力を伴う言葉であった。だがエリザベートが無意識に息を呑んだのはそれが原因ではない。彼女の遥に対するイメージを塗り替えたのはその眼。激情に塗れた遥の紅い瞳は、その中に確かな意志の光を内包していた。

 遥は魔術師(マスター)として使い魔(サーヴァント)に命令しているのではない。あくまでも対等の立場に立つ者として、エリザベートに頼んでいるのだ。尤も、英霊たちを束ねる者としてそう簡単に頭を下げたりはしないが。

 今の遥は人理のことなど頭になかった。忘れている訳ではない。ただ、今の遥はカルデアのマスターであると同時にローマ軍の傭兵隊長なのだ。であれば、ローマを守るのは当然のことだ。それが人理を守ることにも繋がるのだから。

 流石に真正面から見つめられ続けているのは恥ずかしいのか、エリザベートが少し顔を赤くして目を逸らす。しかしすぐに気を取り直すと、まるでファンかマネージャーの言葉に辟易とするアイドルのような顔となった。

 

「しっ、仕方ないわね。本命のマネージャーは他にいるのだけど、少しの間アナタをマネージャーにしてあげる。感謝するのよ!」

「あぁ、それで良い。……マネージャーが何するのか、よく分かんないけど」

 

 そう自嘲するように言うと遥とエリザベートは手を打ち合わせ、その瞬間に仮契約が結ばれた。恐ろしく速く結ばれた仮契約の術式が遥の魔術回路にエリザベートに繋がる経路(パス)を形成し、魔力が流れていく。これで契約数は7騎。()()()()()()()

 事ここに至り、遥はようやく己の変革がかなり進行していることを自覚した。明らかに魔力貯蔵量・出力量が共に上昇している。この分では回路そのものに変調を起こしているのかも知れない。着実に自分が得体の知れないものに変わっていく感覚は薄ら寒くはあるものの、遥は既にそれに抗いながら乗りこなす覚悟を決めている。

 ふたりの間に契約が結ばれたのを見届けたネロは、その視線をローマ兵たちに移した。ネロに仕えるローマ軍だけではなく、先の戦線で残存した連合兵たちもいる混成軍。だがそれこそが真にローマ軍として十全な姿であった。それでもネロは感傷に浸ることもなく、檄を飛ばす。

 

「――聞け、兵士達よ!

 我らがローマは今、未曽有の危機に晒されている。愚かにも智慧足りぬ蛮族共が国土を踏み荒らし、市井の臣を蹂躙せんとしているのだ。これは捨て置くべき所業か? 否!! 断じて否であるッ!! 奴らは出初めに首都を滅ぼし、然る後に遍くローマを灰塵と成さしめるであろう! これは我らだけではなく、連合、いや、ローマ全土の危機なのだ!!

 余に従えとは言わぬ。この戦いの後、連合の者達は己が殉ずべき主のため、余の首を狙うのも良かろう。相手になる。だが、今だけは!! 今だけはローマを、そして市民を守るため、共に立てッ、ローマの益荒男達よッ!!!」

「――――雄オオォォォォッ!!!」

 

 大地を割り、天にすら届かんばかりの鬨の声。正統、連合などという区別なく全ての兵士たちがネロの言葉に突き動かされ、戦う意志を固めているのだ。たった数秒のうちにネロは全ての兵士の心を掴んでみせた。

 これが皇帝。これが尊厳なる者(アウグストゥス)。呪いじみたカリスマで人々を纏め上げ、市民の第一人者(プリンケプス)として巨大な帝国を統治する者。遥は今、その具現を見た。尤も、遥もまたそのカリスマに当てられた者なのだが。

 ローマを囲う平原、そして七つの丘のひとつたるモンティーノの丘。ここに、両軍は激突する。




この場を借りてオリジナル設定の説明をば。

『先視』の魔眼

 以前から少しだけ出していた、この世界線の立香のみが持つ魔眼。世界そのものから情報を引っ張り出し、それを元に未来を演算し、導き出す力を持つ。しかし演算は魔眼ではなく脳を無理矢理限界以上に稼働させて行うため、連続使用には向かない。仮に限界を超えて使った場合、脳に重篤な後遺症が残る可能性がある。
 未来視系統の魔眼としては『空の境界 未来福音』に登場する瀬尾静音と同じ予測能力に属する。


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第52話 狂える復讐鬼は慟哭す

「――凄惨なる鏖殺の車輪(チャリオット・オブ・ブディカ)

 

 それは、まさしく凱旋であった。黒衣を纏った復讐の女王は己が分け身たる戦車を駆って戦場を駆け抜け、周囲に死を撒き散らしていく。そこに敵味方の区別はない。女王の凱旋を邪魔する者は、須らく極刑に処されていく。

 凄惨なる鏖殺の車輪(チャリオット・オブ・ブディカ)。聖杯の呪いにより反転したブーディカの持つ第一宝具である。その戦車が発する呪いの霧は巻き込まれた者に不治と死の呪いを付与する力を持ち、ローマに由来する者に対しては特効とでも言うべき効力を発揮する。

 故にローマに生まれ、ローマで育ち、ローマに忠誠を誓う兵士たちに迫り来る死から逃れる術はない。そこに正統か連合かの差異などなく、死の黒霧に呑まれては死んでいく。勇敢にもブーディカを止めようと立ち向かったローマ兵も、一瞬にして死に次いで挽肉へと変えられる。

 或いは彼らに英雄に比する精神力があれば、死の呪いを撥ね退けることができたのかも知れない。だが、悲しいかな彼らはあくまでも人だった。胸の裡に秘める皇帝への忠誠も、ローマの民を守るという決意も、呪いを受けた瞬間に死という深淵に沈んでいく。

 天を突くかのような猛牛の嘶きが大地を響動(どよ)もし、障害物たる兵士たちを物ともせずに恩讐の女王は突き進んでいく。しかしすわ首都へと突入か、というその時、突如として大地から発生した魔力の槍が戦車を引く猛牛を刺し貫いた。

 

「チッ……」

「悪いわね。生憎と、ここは通行止めよ!」

 

 首都ローマに向けて進撃するブーディカを止めたのは果たして、オルタであった。御者台を引いていた猛牛を喪ったことで戦車(チャリオット)は制御を失い、ブーディカは咄嗟に戦車を霊体化させて飛び出す。

 そこへ斬り込んだのはネロである。ブーディカが着地すると同時に愛剣たる原初の火(アエストゥス・エストゥス)を以て斬りかかり、しかしブーディカの盾で受け止められる。その隙にブーディカは手に執る長剣をネロに向けて揮うが、ネロは原初の火を精妙に操ることでそれを防いだ。

 舞い散る火花。鳴り響く剣戟の音。だがブーディカが大きく長剣を振り抜いたその瞬間、唐突にネロがその場から飛び退いた。同時に入ってきたのはオルタである。オルタは長剣を振り抜いた瞬間のブーディカに肉薄すると、横から蹴り飛ばした。

 衝撃を殺しきれずに吹っ飛ぶブーディカ。だがすぐに体勢を整えて速度を殺すと、そのまま長剣を構えた。対してオルタとネロもまた長剣を構え、ブーディカを睨みつけている。互いの緊張が空気さえも張り詰めさせる中、ネロが口を開いた。

 

「ブーディカ……貴様は――」

「何故こんなことを……そう言うつもり、ネロ? そうだよね、アタシも一度はアンタに協力した身だもの」

 

 まるでネロを嘲るような、それでいながらどこか自嘲的な響きを伴った言葉であった。問いを先回りされたネロは口をつぐみ、しかし決して追及するような視線を引っ込めることはしない。

 ネロの疑問は最もだ。元々カウンター・サーヴァントとして召喚されていたブーディカは客将としてネロの旗下にいた。その時のブーディカはローマを恨んではいても、その民にまで危害を加えるような英霊ではなかった。それどころか守ろうとしていたからこそ、ネロに協力していたのだ。

 ところが今はどうだ。ローマから領土と人民を奪い、あまつさえローマそのものを滅ぼそうとしている。以前とはまるで逆のその在り方に、ネロは今の今までどこか敵がブーディカであることを信じられていなかった。だがこうして相対して、実感する。()()()()()()()()()()、と。

 ブーディカが嗤う。ネロを見下すように。復讐に身を窶す我が身を嘆くように。

 

「そんなこと、考えるまでもないでしょう? ……アンタらはアタシたちの国を滅ぼした! 民を殺し、アタシの夫を殺し、娘を凌辱したッ!! それ以外に復讐する理由が必要?!」

 

 突如として感情を爆発させるブーディカ。いや、それは爆発と言うより解放と言った方が良いだろうか。元より復讐者としてのブーディカの本質はローマへの怒り。むしろ今までアルテラやスパルタクスの前で冷静でいられたことの方が奇跡なのである。

 そしてその怒りを、ネロは糾弾することができない。むしろ、糾弾されるべきはネロの方だ。ローマによるブリタニアの侵略はある意味ではネロの不徳の致すところなのだから。

 ブーディカの憎悪は当然のものだ。彼女は謂わばパックス・ローマ―ナの裏に葬り去られた被害者であり、彼女自身に罪などない。それなのに他者の都合で家族を殺され、全てを奪われて、怒らぬ者などいまい。恨まぬ者などいまい。

 

「アタシはアンタが憎い。この国(ローマ)が憎い! 何も知らないでのうのうと暮らしてる民が憎い!! だから皆壊してやるんだ。ただ殺すだけじゃ足りない。奪って、凌辱して、絶望させて……アタシが味あわされた屈辱を、全部返してやるッ!!」

「ッ……ブーディカ……」

 

 復讐者として内包する憎悪を狂戦士としての狂化によって更に燃え上がらせるブーディカ。最早その眼に『騎兵(ライダー)』であったころの慈愛などなく、完全に憎悪と狂気に塗れていた。

 復讐者であり狂戦士でもあるブーディカは狂戦士のクラススキルである狂化をEXランクで保持している。自らの人間性の全てを剥奪する程の憎悪と怒りを抱きながら、冷静でいられるのはそのためだ。だがそれは薄氷の如き奇跡でもある。一旦激情の抑えが効かなくなれば、彼女は狂化によって後押しされた激情のままに暴れ狂う。

 先程までは確かに理性を残していたブーディカの瞳は、今や完全に激情と狂気に呑まれていた。それを前に、ネロは高らかにローマの誉を謳うことができない。その誉は、ブーディカを始めとしたブリタニアの犠牲を礎に含んでいるのだから。

 ローマという国の栄光が落とした影。それが形を成して現れたのが『復讐者(アヴェンジャー)』ブーディカというサーヴァントなのだ。故にその怒りは正統であり、反論すべき言葉をネロは持たない。しかし、それを下らないと嗤い飛ばす者が、そこにいた。

 

「ハッ――戯言はそこまでかしら。ホント、クソ下らなくて反吐が出るわ」

「何……?」

 

 オルタはブーディカの激情に一切興味がないのか、明後日の方を見ながら下卑た笑みを浮かべている。だがその眼だけはブーディカへと向けられ、狂える復讐者に軽蔑を注いでいた。

 

「どういうつもり……? アンタだって、アヴェンジャーなんだろう?! 本当はこっち側の英霊だろうに!!」

「フン。アンタみたいなのと一緒にするんじゃないわよ。私は復讐心に操られるような人形じゃないわ」

「人形だと……!?」

 

 オルタとブーディカ。同じく復讐者であるふたりは、国体の被害者という意味においては同義の存在であった。片や百年戦争時のフランスの歪みに殺され、片やローマの内包する悪性に殺された。だがそれ以外の点で、ふたりはあまりにも異なっている。

 仮にオルタが第一特異点の彼女のままであれば、オルタはブーディカの憎悪に同調して何も言えなくなっていただろう。しかし今のオルタは第一特異点の彼女とは違う。ただ憎悪によってのみ駆動していた彼女とは違うのだ。

 対してブーディカはローマへの復讐のみを存在理由とするサーヴァント。オルタにとってはまるで以前の自分を見ているようで、ブーディカの存在が我慢ならなかった。故に嗤う。下らない、と。

 更に、今のオルタは直接的な復讐よりも面白いものを知っている。同じく復讐者である己が主の行く末を見届けるためなら、オルタは何でもするだろう。想いを叶えようとは思わない。叶えられるに越したことはないが、仮に遥の邪魔になるのならオルタはそれを秘したままでいるだろう。

 無論、そんなことを長々と口にする訳もない。だがブーディカはオルタの気配から彼女が復讐に固執していないと悟ったのか、一瞬のみ驚愕を顔に浮かべ、次いで嘲るような笑みへと変わった。

 

「何を言うかと思えば、そんなもの、復讐を諦めた負け犬の遠吠えじゃないか」

「何とでも言いなさい。どうせ、後で何も言えなくなるんだから」

 

 最大限の嘲りを込めた声色でそう言いながら、オルタは右手の親指で首を撫で、それを下に向けた。死ね、という言外の宣告である。それを受けたブーディカは舌打ちを漏らし、同じ仕草をして返す。

 それを鼻で笑って返しつつ、オルタはネロに視線を遣る。挑戦的で挑発的なその眼は、とても味方に向けるものではない。だがそれがジャンヌ・オルタという少女であると、既にネロは了解していた。

 オルタはネロに覚悟を問うている。果たして他者の正当な怒りを潰してでも自分の国を守り通していくだけの覚悟があるのか、と。その問いに、ネロは原初の火の切っ先をブーディカに向けることで答えた。

 

「ブーディカ。いかに貴様の怒りが正しいものでも、余は貴様を認めることはできぬ。故に……逆賊ブーディカよ! 余は貴様を打倒する! 打倒し、踏み越え、ローマの明日を切り開く! ローマを背負う皇帝として!」

「アタシたちから明日を奪ったお前が……明日を望むなッ!」

 

 血を吐くような咆哮。同時にブーディカは地を蹴り、ネロへと肉薄した。更にブーディカによって憎悪の魔力を充填された長剣――〝約束されざる勝利の剣(ソード・オブ・ブディカ)〟の刀身が黒く輝き、巨大な魔力の刃を形成する。

 大上段から振り下ろされたそれを、ネロは原初の火を頭上で真横に構えて受け止めた。衝突の威力がネロの身体を伝って大地に伝播することで足元が蜘蛛の巣状に割れ、全身の関節が悲鳴をあげる。

 端正な美貌を憤怒と憎悪に染め、更に長剣を握る手に力を籠めるブーディカ。だがそこに横槍を入れたのはオルタであった。オルタは横から飛び込んでブーディカを蹴り飛ばすと、空中に顕現させた魔力の槍をブーディカに向けて飛ばした。

 それをブーディカは左腕に装着した盾と右手の長剣で弾くと、長剣から黒い魔力弾を飛ばした。かの反転した騎士王の聖剣と似た意匠を持つその剣はオリジナルほどの力はないものの、似た芸当はできるのである。

 更にそれはただ魔力を収束させたものではない。ブーディカの戦車(チャリオット)と同じように死の呪いを内包したその魔力弾は、生者が喰らえば一息吐く間もなく呪いに全身を犯されてしまうだろう。だがネロは炎を纏う宝剣の一閃を以て自身に迫る魔力弾の全てを叩き落とした。

 ネロの宝剣はただの剣ではなく、嘗て地球に落ちた隕石に含まれていた隕鉄から造られた剣である。その根本は地球のものではないが故に、魔術的には地球の条理にはない現象を引き起こす。例えばそれは魔力を込めるのみでの火炎の発生であり、剣そのものの対魔力でもある。

 尚も死の呪いを放ち続けるブーディカの攻撃を掻い潜り、ブーディカに接近するネロとオルタ。だがそのふたりが同時に放った斬撃を、ブーディカは長剣と盾で受け止めた。レオニダス程ではないにせよ、ブーディカも本来は防御を得意とする英霊。その程度は造作もない。

 対して、ネロは未だ生者である。神秘の濃い時代の人間であるためサーヴァントとも戦えるだけの戦闘力を備えてこそいるものの、戦士ではないために精々渡り合う程度しかできない。それがブーディカのような防御を得意とする英霊相手ならば猶更だ。

 

「このっ……亀みたいに籠ってばかりで……!」

「復讐者の残骸と皇帝の即席コンビ相手に、負ける訳にいくかッ……!!」

 

 激情を込めたその言葉と同時、ブーディカの総身から不可解なまでの膨大な魔力が迸り、ネロとオルタを吹き飛ばした。続けての追撃を長剣で捌きつつ、オルタはブーディカの魔力の出所について悟る。

 ブーディカは聖杯の後押しを受けている。ネロとオルタを同時に相手取ることができるだけの異常なステータスも、無限に蛮族を召喚し続けることができるのも、それが原因だ。

 しかし、理解すると共に疑問も生まれる。この特異点においてローマを犯す勢力はブーディカらだけではなく、連合ローマ帝国も含まれている。そして人理焼却の下手人が背後にいると目されるのは後者だ。だというのに、何故ブーディカが聖杯の後押しを受けているのか。或いはブーディカすらも、下手人にとっては――。

 そこまで推理したオルタの耳朶を、ネロの声が打つ。

 

「黒騎士!!」

「っ……!!」

 

 眼前に広がるのは黒い魔力を纏う長剣を振り上げているブーディカ。それを認識してからのオルタの動きは速かった。霊体化させていた旗を実体化させ、頭上に掲げて受ける。かなりの威力に左腕の骨が軋みをあげるが、オルタはそれに斟酌することさえなく右手を握り締め、ブーディカの腹に叩きつける。

 そうして僅かに後退した所に斬り込むネロ。続けて繰り出されるのは流れるような、とはとても言えない、けれど互いの高い技量によって妙な噛み合いを見せる連撃。互いの呼吸は知らない。癖も知らない。ただ互いが互いの動きを補完するように動いているだけの、連携とも言えないものである。

 合わせなさい、とは言わない。合わせろ、とは言わない。ふたりの間には特に友誼がある訳でなく、ただ同じ目的の許に動いているだけだ。だが逆にそれだけの関係性が、ふたりから無駄な思考を奪っていた。互いに死んでもらっては困るとは思っている。ネロはただブーディカを倒すため。オルタはネロが死ぬことによる人理定礎崩壊を防ぐため。まさしく即席コンビ。だが技量についてだけは信用している。

 当然、攻撃面にあまり優れていないブーディカはそれを崩すことができない。何せ相手の攻撃を受け止め、反撃せんとしたその瞬間には次の攻撃が来るのだ。或いはふたりの武威を合算してもなお余裕のある大英雄なら易々と反撃できるのかも知れないが、ブーディカにそこまでの武威はない。隙を見つけない限り、ブーディカは反撃できない。

 だが、攻撃を受け止めつつブーディカは反抗の策を練る。ブーディカには荊軻から所有権ごと奪った匕首がある。その刀身に焼き込まれたヒュドラの神毒は、擦過するだけでも相手の命を奪うだろう。最悪、ネロさえ殺すことができれば良い。それだけでこの時代の人理定礎は崩壊し、必然的にローマ帝国も崩壊する。尤もそれは相手の隙に付け入ることができた場合の話であり、一瞬でもそちらに気を取られたブーディカをふたりが見逃す筈もなかった。

 

「天幕よ、落ちよ。――花散る天幕(ロサ・イクトゥス)!!」

「ヅゥ……!!」

 

 宣告の言葉と共に放たれるネロの剣技。宝剣に込めた魔力が炎を纏う斬撃と化して虚空を奔り、ブーディカに食らいつく。ブーディカは盾で致命傷を防いだものの、炎の余波がブーディカに降りかかった。霊基を焼く炎に、ブーディカが呻く。

 反撃とばかりにブーディカは長剣に漆黒の魔力を纏わせ、それを魔力斬撃として射出した。大地を抉り、疾駆する黒い魔力。だがそれはオルタが地中から多数の魔力槍を果たし、壁とすることで防ぐ。更にそれを消し、間髪入れずに恩讐の炎を弾丸として打ち出した。

 ブーディカはそれを回避しつつ、ネロとオルタに接近していく。オルタは火炎弾でそれを牽制しようとするも、ブーディカは長剣から撃ち出した魔力弾をぶつけ、それを相殺する。続けて肉薄したのはネロ。縦横に揮われ、紅い軌跡を描く原初の火。それを紙一重で躱し、或いは長剣で往なし対応するブーディカ。一瞬の隙を突き、その膝がネロに叩き込まれる。

 

「ぐっ……このッ……!!」

「何っ……!?」

 

 ネロの腹に入ったブーディカの蹴撃。しかしネロは大地を踏みしめてその衝撃を堪え、自身の腹に減り込んだブーディカの脚を掴んだ。その動きからブーディカはネロが何をしようとしているか悟り振り払おうとするが、ネロはそれに抗いあらん限りの力でブーディカを地に叩きつける。

 そこに揮われる、炎を纏う宝剣の一撃。半ば反射的に地面を転がりそれを躱すブーディカだが、宝剣の刃はその長い赤毛を捉えた。腰ほどまであった流麗な髪が背中半ばほどにまで断たれる。だが己を戦士として、そして復讐者として規定しているブーディカには何の感慨もない。それどころか反撃としてブーディカが放った長剣の一閃は、切り離された髪を巻き込み、消滅せしめた。

 その一閃を回避する中でそれを見たネロの胸中に一抹の憐憫めいた感情が生まれる。今のブーディカは完全に女であることを、それ以前に真っ当な人間だったことを捨てている。その復讐も元はブリタニアを想う心から来るものであった筈が、今の彼女にはプラスダグス王の妻であった頃の思いも、ふたりの娘への愛情も、全て狂化と恩讐に呑まれて消え去っている。残っているのはローマへの復讐心唯ひとつ。その在り様はオルタが言うように、復讐心に操られる人形というのが正しかろう。

 

「憐れだと思う? アタシが。だったら、やっぱりアタシはアンタを、アンタに少しでも協力したアタシ自身を許せない。アタシをこんな風にしたのは、誰だと思ってるんだッ!!」

「ぐぅっ……!」

 

 怒号を共に放たれる長剣の一閃。憤怒の魔力に塗れたその一撃の衝撃をネロは殺しきれずに後退した。その隙にブーディカは追撃せんとするが、そこに割って入ったオルタがそれを阻んだ。

 鍔競り合うオルタとブーディカ。両者の筋力ステータスは共にAであり、一見すると互角であるようにも見える。しかし、サーヴァントの戦闘というのは何も身体能力やステータスでのみ勝敗が決まるものではない。

 オルタの魔力源が契約者(マスター)である遥であるのに対して、ブーディカの魔力源は恐らく聖杯。いくら遥の魔術回路が人間の域にあるものではないにしても、聖杯には及ばない。故に純粋な力勝負において、分があるのはブーディカの方であった。

 ブーディカにとってはそのままでも押し切ることができる鍔競り合い。だがこの戦闘はオルタとブーディカの一騎打ちではなく、ネロが割って入ってこない筈はない。故にブーディカは方針を変えた。

 オルタとの鍔競り合いを中断し、ブーディカが後方に跳ぶ。同時に空中に顕現させたのは、先のオルタの攻撃によって半壊した戦車である。すぐにそれに気づいて回避するオルタだが、ブーディカの攻撃はそれでは終わらなかった。

 空中に差し出されたブーディカの手が握り込まれる。それが合図であったのか、半壊した戦車はその宝具としての在り方を完全に放棄した。瞬間、制御を失った神秘爆発という形で現れる。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)である。

 

「なッ……皇帝!!」

 

 宝具というのはサーヴァントの生命線であり、その英霊の象徴でもある。故にエミヤのように無限に宝具を投影できるような英霊でもない限り、壊れた幻想は使わない。それが常識だ。常識の筈だった。

 だがブーディカは半壊した戦車を最早使い物にならないと判断すると何の躊躇いもなく神秘の爆弾と化さしめたのである。サーヴァントであるが故に常道を知るオルタと何も知らないネロにとって、それは完全な不意打ちであった。

 だがオルタも流石の執念で爆炎からネロを庇うように前に出ると、そのまま地面にネロを押し倒した。オルタよりも身長の低いネロはそれで身体の大半を守られるが、代わりにオルタは背中に極大の熱量を受けてしまう。そして爆発が収まった後に現れたオルタは、凄惨な姿となっていた。

 爆発の威力で全身の鎧はその大半が砕け、背中などは火傷で肉が見えている。最早サーヴァントと言えど死んでいないのが不思議な程の致命傷であった。爆風で巻き上げられた土煙の中で、ネロはオルタに驚愕も露わな目を向ける。

 

「何よ、その目は……別に、アンタ、の為じゃ、ないわ。アン、タに、死なれると……遥が困る、のよ……」

 

 言いながら、オルタは端から魔力に還っていく身体を執念だけで留めながら剣を杖の代わりにして立ち上がる。しかし。

 

「マズッ――」

 

 焼けた太ももに奔る、火傷のものではない痛み。見れば、土煙の中から飛来した小型のナイフのような武具――匕首が突き刺さっていた。それを見て、ネロはそれが何であるかに気づく。それは荊軻の匕首。宇宙最強の毒であるヒュドラの毒が焼き込まれた、一刺一殺の暗器――!!

 土煙の中、それを投げ放った簒奪者の声が、響く。

 

「〝我は悪逆でなく、女王なれば(クイーン・オブ・ヴィクトリア)〟」

 

 

 

「オルタ……!!」

 

 アルテラとの剣戟を演じる中で、遥は経路(パス)を通じて確かにオルタの身に起きた異変を感じ取っていた。消滅した訳ではない。しかし死に体であることに違いはなく、先程からオルタに続く経路の存在が不確かなものになりつつある。

 次第に弱くなっていくオルタの反応に反比例するように伝わってくるのは、強烈な苦痛。契約を通じてもなおはっきりと、それも微弱な経路でも全く問題なく伝わってくるとなると相当なものだ。それこそ、死ぬ程の苦痛であろう。

 だが、悲しいかな今の遥にはそちらに意識を割くことは許されていない。目の前に宿敵が、星の外敵をその残滓さえも許さない遥の血が、遥にそれをさせない。人外の血は極限まで励起し、深紅であった筈の目は黄金に変わり、全身に人のものならざる魔力が満ちている。煉獄の固有結界は常に焔とマグマを吹き出し、遥を内側から焼いていた。

 遥とアルテラの剣戟はやはり一進一退。神刀を用いた遥の剣術は鞭のように撓る軍神の剣を使う変幻自在の剣術に対して分が悪く、加えてアルテラの有する神代に対する耐性は相性的有利をアルテラに与えている。それを互角に持ってきているのは、ひとえに遥の剣腕と異常なまでの防御力である。

 遥にとって、叢雲の呪いと起源の表層化は同義である。元より『不朽』とは叢雲の呪いによって元の起源が変質した結果であり、それは半ば人間の身体で神代から続く血を受け入れることができるようにするためのもの。であれば、血の浸食と共に起源の効力が強まるのは当然だ。それらは元を同じくするのだから。

 だが、それは人の域を超えた力だ。戦えば戦うだけ遥からは『人間』が削ぎ落され、元から少ない人間性は更に少なくなっていく。秒読みで浸食されていく感覚の中で自分の中の『人間』を必死で繋ぎ止めながら、遥は戦っていた。

 あまりの速度に刀身の周囲が歪んで見える程のアルテラの紅い斬撃。それを遥は叢雲で受けるが、殺しきれなかった衝撃に顔を顰める。初めから分かり切っていたことだが、アルテラは本気で遥を殺しにきている。

 今の遥は人間の領域から見れば不死に近しくも見えるかも知れないが、英霊の領域から見れば少し丈夫な程度でしかない。何せ脳と心臓を潰せば死ぬのである。只人にとっては至難の業だが、英霊になる程の武人たちは最悪、一撃で成し得てしまうだろう。アルテラもそのひとりだ。

 死と隣り合わせの命。薄氷を踏むかのような剣戟。そんな状況の中でどうしようもなく興奮する自分がいることも遥は自覚していた。それは分霊の影響ではない、遥本人の気性が故である。

 倒さなければならない、という使命感の裏に戦闘を愉しむ狂喜がある。闘志と使命に燃える激情の中に、隠しきれない笑みがある。それは到底只人の精神では有り得ない在り方。人間と人外の二重存在であるからこその状態。

 

「強い。……あぁ、強いな、お前は。だからこそ、手ずから倒す価値がある!!」

「そうかよ!!」

 

 神速の剣戟。黄金と深紅の剣閃がふたりの剣士の間でぶつかり合い、その度に吹き出す魔力が衝撃波となって周囲を響動もし、大地が崩壊する。そこには誰も寄り付かない。近づいたが最後、巻き込まれることが分かっているのだ。

 大地を踏み割り、遥が放つ一閃。アルテラはそれを無理に受け止めることはせず、その威力を利用して後方に跳び、遥から距離を取った。遥は固有結界から洩れる焔を操りそこに攻撃を加えるが、アルテラはそれを身体を逸らすだけで回避した。

 続けて軍神の剣に収束する魔力。あらゆる星の剣の雛形たるそれに秘められた神秘は下手な宝具すら凌駕する。そうして放出された魔力斬撃は致死の威力を内包し、遥に迫る。だが遥の対応は早かった。

 軍神の剣が遍く星の剣の雛形であるのなら、遥の天叢雲剣は神造兵装、或いは神話礼装という概念の最終形、一種の到達点である。その格は軍神の剣に勝るとも劣らない。遥はそれに魔力を充填し、同じく斬撃として放出することでアルテラの攻撃を相殺した。

 一瞬のうちに溶け合い、しかし相容れぬが故に爆発する魔力。同時に遥は叢雲を構え、地を蹴った。消失する遥の姿。次の瞬間には遥は爆炎を越え、その姿はアルテラの目前にあった。

 それはさしものアルテラも予想ができなかったようで、瞠目した様子を見せた。それはそうだろう。以前アルテラと戦った際の遥は極地は使えず、縮地のみであった。そのためアルテラは遥が極地を習得したことを知らないのだ。

 しかしアルテラの身体は感情とは裏腹に正確に動き、遥の一刀を防御した。それは遊星ヴェルバーの使者たる彼女のスキル〝星の紋章〟の効果である。このスキルは直感スキルとしての側面を持つが故に、アルテラは直感で遥の攻撃を察知したのだ。

 続けて遥が無数の剣戟を放つも、アルテラはそれを全て軍神の剣で払い遥に刺突を繰り出す。遥はそれを回避しようとするも、躱しきれずに脇腹を切り裂かれた。直後に距離を取る。そうして露出した脇腹を見て、アルテラが呟く。

 

「おまえ……! そうか。そういうことか」

「アンタの言うそういうことが何かは知らねぇが……ホラ、俺、英霊じゃねぇし。こういうアドバンテージがないとやってられないのよ」

 

 飄々と、しかしどこか悲し気にそう言う遥。その最中にも遥の傷は秒読みで塞がっていき、遂には完全に元に戻ってしまった。起源の効力による超修復、もとい復元である。聊か反則めいているが、サーヴァントの修復力も似たようなものだろう。

 ふたりの間に武具の差はほとんどないと言って良い。剣腕やその他の能力を総合しても、遥とアルテラの戦闘力はほぼ互角だろう。遥がアルテラに勝利するためには、何か追加の一手が必要だ。

 その一手が遥にはある。天叢雲剣と同じく夜桜に伝わる宝具である鞘。その真名解放。神代最強の龍神〝八岐大蛇〟の霊を憑依させることで自己強化を行うこの宝具であれば、アルテラに対してもある程度有効だろう。アルテラの特性故に神性の後押しこそないものの、純粋なステータスはAランクサーヴァントに匹敵するのだから。

 問題はどのようにして真名解放する隙を作るか、ということだ。真名解放自体は一瞬で済むが、その一瞬でさえアルテラにとっては付け入るには十分過ぎる隙だろう。そのため、少なくともアルテラが一歩で詰めることができないだけの間合いを取る必要がある。

 そうして遥はベルトから鞘を外すと、まるで二刀流でもするかのように叢雲と鞘を構えた。その鞘の先では覆いが外され、ヒヒイロカネの刃が露出している。更に全身に巡らせた魔力が波濤となって遥の全身に満ちる。

 それとほぼ同時に地を蹴り、遥に肉薄するアルテラ。その振り下ろした剣を、遥は叢雲と鞘を交差させて受け止めた。そのままアルテラを上空に弾く。だがそれで後退するようなアルテラではない。打ち上げられた状態で体勢を立て直し、遥と剣戟を行う。

 周囲を薙ぐ魔力。飛び散る火花。目にも留まらぬ、という表現ですら不足なほどの神速の打ち合いである。そのうちに遥は鞘のみで軍神の剣を受け、すかさずその露出した腹に強化と魔力放出によって威力を底上げした拳を打ち込んだ。その衝撃はアルテラの内臓にまで至り、一部が壊れたのかアルテラが血を吐いた。それでも遥は攻撃の手を緩めることはない。刀身に込めた魔力が巨大な刃となって溢れ出す。アルテラは寸でのところでそれを軍神の剣で防ぐも、空中であるが故に踏ん張りが効かずに吹っ飛ばされた。

 

「今……!」

 

 遥の決断は早かった。左手に持っていた鞘を逆手に持ち替え、胸板に突き刺す。そうして漏れた鮮血は鞘の外装である邪龍の皮に吸い込まれ、宝具としての側面が起動した。

 脈動し、膨大な魔力が鞘から暴風となって吹き荒れる。その中心で、遥が叫んだ。

 

「第一拘束解除。其は全てを喰らう邪龍。我が身を喰らえ!!

 ――八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)!!」

 

 真名解放。鞘の効力によって高位次元から招来された龍神の魂が遥に憑依し、その魂に合わせて呪術によって遥の肉体が変化する。肌が黒緑色に変化、鱗が浮き上がる。その内部の体構造は人間のそれから幻想種のそれに。服飾までもが変化し、その臀部からは竜種の尾が伸びている。鱗の隙間からは固有結界の焔が噴き出している。

 そして、その頭上には神話を再現するかのような群雲。

 

――オオォォォォォォッ!!

 

 悪龍咆哮。戦闘はまだ、終わらない。




そろそろブーディカ・オルタのステータス公開してもよろしいですかね……?


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第53話 叛逆は圧制となりて暴れ狂う

「おお、その身に秘めたる血潮こそまさに圧制の証! さぁ圧制者よ、我が愛を受け取り給え!」

 

 戦場の中を巨漢が駆ける。その顔に張り付いているのは笑みだ。叛逆の具現とも言える彼は圧制たるローマ、そして人ならざる存在である遥に対して叛逆していることに他好感を覚えている。

 ローマ兵たちはスパルタクスの進撃を阻まんと武具を構えて応戦するも、相手はサーヴァント。只人である兵士達が敵う筈もない。彼らは最早スパルタクスの眼中にすら入らずに蹴散らされ、絶命していく。

 それはまさしく圧制の凱旋。己が肉体そのものを武器とし、存在を掛けて圧制を打ち砕かんとする気高き志だ。尤も、今の彼の行為は成し得たとしても何も生まない、それどころか遍く人類史を最大の圧制に晒してしまうのだが。

 幾多の兵士たちの血でその筋骨隆々たる肉体を濡らし、それでもなお飽き足らぬとばかりに残忍な笑みを絶やさないまま進撃を続けるスパルタクス。だが突如としてその進撃を阻まれる。彼に叩き込まれたのは超高威力の炎撃と氷撃。その威力にスパルタクスがたたらを踏んだその時、その隙に付け入るように槍の一閃がスパルタクスに見舞われる。しかし。

 

「――ぬぅん!!」

「なぁっ……! 自動回復ですって!?」

 

 悲鳴めいた言葉を漏らしながら長槍でスパルタクスの一撃を防ぐエリザベート。しかし完全に衝撃を殺しきることはできず、後退を余儀なくされた。タマモと並んで得物を構え、スパルタクスを睨む。

 その視線の先で、エリザベートによって脳天から股下までを切り裂かれたはずのスパルタクスはその傷をまるで無かったかのように回復してしまっていた。確かに脳を砕き、その中の霊核を破壊したにも関わらず、である。

 ふたりは知らないことだが、それはスパルタクス唯一の宝具〝疵獣の咆哮(クライング・ウォーモンガー)〟の効果であった。この宝具は自身が受けたダメージの一部を魔力に変換し、還元するという効果がある。その変換効率は窮地に立たされれば立たされる程に高くなる。

 つまりスパルタクスは頭の側にある霊核を破壊されたそのダメージすらも糧として回復してしまった、という訳である。加えて別な世界においての〝聖杯大戦〟なる聖杯戦争と同じように多数騎のサーヴァントの因果線が絡み合うことにより変換効率が暴走している。霊核さえ回復してしまったのはそのためだ。

 つまりスパルタクスを倒すには頭と心臓の霊核を同時に破壊してしまうか、一撃の下に回復する暇すらも与えずにスパルタクスの霊基を消し飛ばすしかない。タマモがそう推測を口にすると、エリザベートが金切り声で叫んだ。

 

「何よ、それ!? そんなの、どうやって斃せってのよ!」

「だから一撃で吹っ飛ばすしかないと言っているでしょうに……」

 

 話を聞いていない相方に呆れの表情を向けつつも、タマモは内心で冷静に状況を分析していた。先に言った通り、スパルタクスを斃すにはその肉体を一撃で消し去るしかない。でなければ宝具による自己再生で回復してしまう。

 だがそれと相対するタマモとエリザベートはあまり火力に優れるサーヴァントではない。タマモの呪術もかなりの高威力ではあるものの、スパルタクス相手では余計な回復をさせるだけだろう。

 攻撃性能だけを見ればタマモよりもエリザベートの方が優れているが、彼女の宝具は広域殲滅に優れてはいてもサーヴァント1騎を消し去る程の威力はない。できて半身程度。それでは回復されてしまう。

 しかし今はそれぞれ単独ではなく、ふたり協力しての戦闘だ。ひとり単独で火力が足りないのだとしても、同時攻撃ならば或いは――、と思案するタマモの耳朶を大地を破砕する異音が打つ。

 

「おぉ、おお!! アイッ!!」

「ッ!」

 

 エリザベートによって負わされた傷を完全に回復したスパルタクスがふたりに急迫し、手にした小剣(グラディウス)を振り下ろす。だがそれがふたりを圧し潰すことはなく、刃はただ地面を抉るのみであった。

 それぞれ左右に散開したタマモとエリザベート。果たしてスパルタクスの狂気の汚泥に塗れた瞳が捉えたのはエリザベートであった。それはある意味で偶然でなく、必然であった。

 タマモが神という圧制が仕組んだ運命の被害者であるのに対し、エリザベートは自らの悪行によってその身を悪鬼に堕とした貴族。であれば、それはスパルタクスが打倒するべき圧制だ。彼はそれを本能で悟ったのである。

 身を焦がす狂気のままに攻撃を続けるスパルタクスとそれを捌き続けるエリザベート。タマモは呪術を最大出力で行使して火炎弾を放つも、スパルタクスはその傷さえもすぐに治癒させてしまう。

 攻撃が効かない相手、と言うよりもダメージを無効化してしまう相手と言うのが正しかろう。力よりも技を旨とするサーヴァントにとって非常にやりづらい相手である。それでも斃せない相手ではない筈だ。そのタマモの目前でエリザベートが吹き散らされる。

 

「きゃっ……!!」

「エリザベートさん……!?」

 

 空中へ巻き上げられたエリザベートを追撃しようとするスパルタクス。タマモは咄嗟に身体強化を全開にしてその間に割って入り鎮石で受け止めようとするが、予想よりも強い威力にエリザベートごと更に吹き飛ばされた。

 瞬時に耐性を立て直して次なる攻撃に対応しつつ、先の予想が外れた原因に当たりをつけるタマモ。とはいえ、それは考えるまでもなかった。単純に能力値(ステータス)が上昇しているのである。

 その原因は言うまでもなくスパルタクスの宝具〝疵獣の咆哮(クライング・ウォーモンガー)〟である。自身が受けたダメージの一部を魔力に変換するこの宝具は決して回復系の宝具ではない。それはあくまでも副産物だ。その本質は自己強化。追い詰められれば追い詰められるだけ()()()()()()。そんな狂った思考を実現し得る宝具だ。

 スパルタクスとは叛逆だ。故に彼はあらゆるモノに叛逆する。逆境。苦境。そんなものだけであるのならばまだ良い。彼が意識的にしろ無意識的にしろ圧制と規定するモノはそれだけに留まらない。例えば物理法則。例えば聖杯のシステム。例えば――人型というカタチ。

 叛逆者(スパルタクス)の肉が隆起する。それはまだ人型を保ってはいるが手足の筋肉量は既に人外のそれだ。恐らく近接型のエリザベートを膂力で、タマモの呪術をその筋肉の鎧で対応しようとしているのだろう。

 

「マズいですね」

「何がよ」

「気づいてないんですか? そろそろ()()()()()()()()()()()、アレ」

 

 は? と問い返すエリザベートを無視し、タマモはスパルタクスを睨む。タマモの推測は的を射ていた。スパルタクスが宝具によって生産した魔力は最早元の霊基で受け止められるものではない。

 故に人型という概念に叛逆する。故に作り変える。今の霊基を以て己が宝具を受け止められないのなら、その生成された魔力でもって己の肉体をそれに合わせて変性させれば良い。スパルタクスにはそれを可能とするだけの魔力(ざいりょう)があるのだから。

 それは紛れもない暴走だ。この結論に至った時点でスパルタクスは尋常な英霊であることを放棄した。全ては彼が規定する圧制への叛逆のため。だが、彼は気づいているのだろうか。己が相対するもの全てを圧制と規定するその思考もまた、圧制であるということに。

 恐らく気づいてはいないのだろう。彼はただ己が眼に入ったもの全てに叛逆し、打倒する。ローマを打倒する。その行為そのものが、既に()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのに。

 そう独白するタマモの横で、エリザベートはうんうんと唸っている。

 

「……つまり、どゆコト?」

「ハァ……つまりですね、あの男は――」

 

 下手に攻撃を加えるだけ強くなるんですよ、と続けられる筈だったタマモの言葉はしかし、口より出るより先に割り込んだ一撃によって阻まれた。けれど今度は吹き飛ばされるようなことはなく、小剣の一撃は鎮石で受け止められた。続けてスパルタクスの胴に呪符を叩きつけて爆炎が炸裂した直後にエリザベートが石突の一撃をスパルタクスに見舞う。

 よろめくスパルタクス。その隙に付け入るように叩き込まれるタマモとエリザベートの連撃。しかしスパルタクスはよろめいても倒れるようなことはなく、それどころか恍惚の笑みすら浮かべている。その笑みを浮かべたままスパルタクスは小剣を揮うが、エリザベートがそれを払う。

 そうして一旦距離を取って、様子を見る。やはりタマモの推測通りにスパルタクスは宝具で生産した魔力を自己回復と霊基規模(スケール)拡大に使っている。現に今、スパルタクスは最早人体としての均整を失ったかのようなアンバランスな体躯となっていた。

 だがそんな無理な自己強化を続ければ、いつかは限界が来るだろう。ただ戦っているだけなら攻撃して時間を稼ぎ続け、自壊するのを待つという方法もあった。しかし今はそれは不可能だ。周囲にどれだけの被害が出るか分からない。

 つまり今スパルタクスを倒そうと思うのなら、自爆するより先に完膚なきまでに霊基を破壊し尽くすしかない。だがそれを可能とする火力を出すにはこのふたりでは宝具、或いはそれに比する攻撃を同時に叩き込むしかない。

 今までタマモの話をあまり聞いていなかったエリザベートだがそれは分かったようで、ふたりは無言のままに目を見合わせて頷き合った。同時にスパルタクスが放った薙ぎ払いを跳んで回避し、その勢いのままに顔の両側に回し蹴りを喰らわせる。

 脳を震わせる強い衝撃に一瞬のみスパルタクスが行動不能に陥る。その隙にタマモは周囲に大量の呪符を顕現させると、エリザベートが離脱した瞬間を見計らって暴風の呪術を解放した。

 下手をすればサーヴァントすらも肉片に変えてしまいそうな程の威力を以て旋転する暴風。スパルタクスは己の身体を大地に固定いていることができずに上空に巻き上げられた。更にタマモは極大の炎球を作り出し、スパルタクスへと放つ。空中にいるが故に、スパルタクスはそれを躱すことができない。しかし。

 

「なんのォッ!! 我が愛は不滅也!!」

 

 剣闘士、咆哮。地上からの攻撃を避けられない筈のスパルタクスは自らの身体に蓄えられた余剰魔力を指向性を持たせて放出して姿勢制御を行い、小剣で火球を斬り払った。無理な扱い方のせいで小剣は砕けてしまうが、スパルタクス自身は無傷のままである。

 思いもよらない方法で火球を防がれたことにタマモは舌打ちを漏らすが、その脳裏では既に次手を決めていた。スパルタクスが落下する地点に呪符を放ち、接触と同時に氷結の呪術を起動させる。大地から生える氷の棘。それがスパルタクスの身体を貫き、固定する。

 だがそれも束の間のことだ。全身を貫く氷の棘や傷口から流れる鮮血を意に介することもなく、スパルタクスは身体を固定する氷を折ろうと力を籠める。それを視認するや、タマモが叫んだ。

 

「エリザベートさん!!」

「解ってるっての!!」

 

 エリザベートが槍を突き刺し、それに応えるように槍を中心として魔法陣が広がる。そうしてせり上がってきたのは城の形をしたアンプ。この戦場にエリザベートが現れた時に使った宝具をもう一度起動しようとしているのだ。

 更にタマモは彼女の宝具である水天日光天照八野鎮石を起動させ、自分とエリザベートを覆うように結界を展開した。それによってふたりに膨大な魔力が供給され、宝具の威力を底上げする。

 一瞬にして組みあがる魔嬢の城。反対側にはタマモが鎮石から供給された魔力の全てを使って炎と氷の呪術を最大出力で展開していた。それはカリギュラを屠った術。並大抵のサーヴァントならば一撃で粉砕する攻撃である。

 スパルタクスが氷の棘を砕く。だがその時には既に、ふたりの魔力は最大にまで高まっていた。

 

「――鮮血魔嬢(バートリ・エルジェーベト)!!」

「――ハァッ!!」

 

 草原を薙ぐ破壊音波と乱舞する炎と氷。ふたりが放った攻撃は目論見通りにスパルタクスに突き刺さり、草原を暴力で染め上げた。毎秒ごとに炎と氷の柱が代わる代わる突き立ち、怪音波がそれを粉砕していく。その中心にいるのはスパルタクスだ。叛逆の狂戦士が破壊の暴威に晒されていく。

 その後に残るのは静寂。タマモとエリザベートは更なる追撃をせんとするも、先の攻撃に全力を注いだが故に魔力切れを起こして攻撃することができない。しかし少しの間の静寂に安堵のため息を吐こうとし――

 

「フハ、フハハハハ!! ハハハ!! 素晴らしい! これこそ私が叛逆すべき圧制!! 今、我が身は歓喜に震えている!!」

 

 ――土煙の中で、異形が蠢いた。

 


 

 竜騎兵(ドラゴン・ライダー)というものがある。幻想種と定義されるモノ達もの頂点に位置する竜種。大英雄でさえす易々とは使役できない彼らを意のままに操り、その圧倒的な力で以て武威を示す。それが竜騎兵だ。

 その意味合いで言えば、今の遥は間違いなく竜騎兵であろう。但し、〝竜〟騎兵ではなく〝龍〟騎兵であり、使役するのは外ではなく己の裡に、であるのだが。

 宝具〝八俣遠呂智〟。その封印解除状態での効果は神代日本最強の龍神である八岐大蛇の霊を降霊・憑依させ、その魂に合わせて自分自身の肉体を呪術で組み替えることで己を幻想種化するというもの。星の龍を召喚し自らの血の力で乗りこなす力である。

 分霊が殆ど融合した影響か、以前はあった筈の暴走の危険性は限りなく低下している。それでも裡から湧き上がる獣性は抑えようもない。その獣性を乗りこなし、自らの力に変える。

 

「ォォオオオォッ!!」

「グッ……!!」

 

 一発の踏み込みを強化するのは激流の魔力放出。遥の身体を覆うのは煉獄の固有結界から漏れ出した焔やマグマと、洪水の化身たる八岐大蛇の力によってもたらされた激流。相反する筈の属性が、遥の周囲で同居している。

 音速すらも軽く追い越したその速度が生み出すエネルギーを余す所なく注ぎ込んだ一刀。それをアルテラは軍神の剣で受けるが、予想を遥かに超えた威力にそのまま吹っ飛ばされた。そこに遥は追撃を行うが、アルテラは即座に対応し、回避してのける。

 身を焦がす獣性のままに戦っていながらも理性を失わず、自らの武練を十全に発揮する。その姿は冬木の時のように狂戦士(バーサーカー)じみていながらも決して獣に堕ちず、己の在り方を保っていた。

 己よりも強大な獣を屈服させ、自分の力とする。それは只人ではなく英雄の在り方だ。意図してのことではないが、遥は徐々に彼を生み出したものが設定した設計思想(コンセプト)通りに秘めたる英雄としての資質を発現させつつある。加えてそれに応えてか、天叢雲剣の次なる封印も少しずつ解けつつあった。

 だが、強化されているのは遥だけではない。己の裡から湧き上がってくる正体の分からない感情のまま、アルテラが薄い笑みを浮かべる。

 

「……フ。ハハハッ……!! なんだ、()()は。分からない。分からないが――」

 

 愉しい。不気味な笑みを浮かべたままそう言うアルテラの身体で、星の紋章が妖しい光を放つ。それはアルテラを作り出したヴェルバーが植え付けた本能が励起している証。八岐大蛇が遥に与えた神性に反応したのである。

 アルテラに刻まれた星の紋章が蠢き、纏う魔力が増加する。それに呼応するようにして遥の中で血が励起し、更に彼の能力を上昇させていく。それはさながら堂々巡りだ。互いが互いに作用し合い、強化される度にその分が上乗せされているのだから。

 つまり今、ふたりはそれぞれ限界にまで強化されている。しかしサーヴァントであるアルテラならともかく、遥は生者だ。幻想種化していることも加え、最早遥の素体にかかる負担は計り知れない。彼の起源が『不朽』でなければ自爆していただろう。

 無理な強化の影響で魂が軋む。視界にノイズが奔り、余分な情報が排除されて視界が黒く染まっていく。その中で(アルテラ)だけが赤い。まるで、何者かがアレを倒せと命じているかのように。

 

加速開始(イグニッション)

 

 その祝詞を唱えるや、遥の体内に展開された固有結界の時間流が数倍に加速を始めた。それに伴って固有結界が活性を増し、鱗の隙間から漏れ出す焔がより激しくなる。その焔は一見無秩序でありながらもそうではなく、叢雲の刀身に収束して巨大な刃を作り上げていた。

 対するアルテラは執る軍神の剣の刀身を闘争心によって赫と輝かせ、顔には薄い笑みを浮かべている。それは戦闘王アルテラとしての彼女と遊星の使者セファールとしての彼女が同居している証。半ば神代回帰のようなものだ。

 アルテラが地を蹴って疾駆すると同時に遥も飛び出す。赤い軌跡を描いて駆けるふたりは間合いの中央で衝突し、衝撃波が草原を薙いだ。一合、二合と打ち合う度に発生するそれが大地を破壊していく。

 幻想種化しているうえに体内時間を数倍に加速している遥の動きは並のサーヴァントでは追随することができない。トップクラスのサーヴァントでの対応は困難であろう。その筈が、アルテラは何の苦もなく追随してきている。

 刀身を鞭のようにしならせ、あらゆる方向からの攻撃を防ぐアルテラ。その様はさながら剣の結界だ。己が最大の恃みとする剣1本で自らに迫り来る攻撃悉くを弾く剣の結界。遥はそれを越えることができない。

 

「この……イチかバチかっ……!」

 

 その言葉と同時に煉獄の焔だけでなく激流までもが叢雲の刀身に纏わりつく。そうしてアルテラが揮う軍神の剣と衝突する瞬間に魔力を無秩序に解き放ち、暴虐の激流が周囲を薙いだ。それに遥は吹き飛ばされるが、アルテラの体勢を崩すという目的は果たした。

 足を大地に振り落とし、無理にでも体勢を戻す遥。対するアルテラも空中で体勢を整え、既に攻撃態勢に入っている。そのふたりが飛び出したのは全くの同時であった。一度に放出できる魔力の全てを利き足に収束させ、走り出すのと同時に放出する。

 幻想種としての脚力を固有時制御と魔力放出、そして極地で後押ししたその身体は音速の壁を遥か彼方に置き去りにしてアルテラに肉薄する。だがその一閃を、アルテラは完璧な動きで往なした。更に遥の腕を掴み、そのまま地面に叩きつける。

 そのままアルテラは遥を抑えつけ、逆手に持ち替えた軍神の剣で遥に止めを刺そうとする。しかし遥は身体から噴き出す焔の火力を上げ、それに呑まれるのを忌避したアルテラが反射的に遥から離れる。

 自らの火力で一瞬で燃え尽きていく細胞を、起源の力で再生させていく。その苦痛は最早言葉では語り尽くせまい。それは謂わば伝説の不死鳥を真似るかの如き蛮行。とても人間の領域にはない所業を無理に行っているのだから。

 その苦痛を気力のみで封殺し、遥は尚も煉獄を稼働させて自分の激情を燃やす。感情を火種とする遥の焔は文字通り無尽蔵だ。感情とは際限なく発生するものであり、それはエネルギーとするには最適なものだ。

 その焔が草花に引火し、火災を引き起こす。瞬く間に火の手は広がっていくが、ふたりの剣士はそれを一切意に介さない。遥はその固有結界故に火は効かず、アルテラはその程度では火傷さえしない。

 業火に焼かれる苦痛に沈む身体に、不可解なまでの強壮感が満ちる。それは星の外敵の頭脳体たるアルテラと相対したことによる強化が齎すものだ。その反応を示してしまうのは、ある意味で遥が神造兵装と同義の存在だからなのだろう。

 互いに愛剣を構え、睨みあう遥とアルテラ。唐突に、その口が開かれる。

 

「……剣士よ。まだ貴様の名を訊いていなかったな。名乗るがいい」

「夜桜遥。……いや、アンタには()()名乗った方が良いか」

 

 そう言って、遥は己を表すもうひとつの名前を名乗る。それは元から遥にあった名前ではなく、本来は分霊の名だ。しかし分霊が融合してしまった今となっては、最早遥のもうひとつの名と言っても過言ではなかろう。

 その名を聞いたアルテラの目が驚愕に見開かれる。彼女は中央アジアから西洋にかけての世界で活動した英霊だが、英霊となった者には座からあらゆる知識が与えられる。その中にその名が含まれていたとしても、何も不思議ではない。その名はそれだけのものなのだ。

 大きく息を吐き、激流の魔力を更に巡らせる遥。その身体を中心として焔と激流が渦を巻く。相反する属性が共存しているその様は、まさしく遥そのものと言えるだろう。それらが叢雲でひとつになっていく。

 軍神の剣に収束し、旋転する紅い魔力。撃ち出されたそれはまるで空間を抉るかのような轟音をあげながら遥に迫る。遥は大地に手を突き、自分の周囲に激流を起こすことでそれを掻き消した。続けてそれをアルテラに鉄砲水のようにして放つ。それを軍神の剣の一閃で叩き割るアルテラ。その鉄砲水に続けて、遥が飛び込む。

 

「らアァアッ!!」

「ぬぅっ……!」

 

 互いに渾身の力を込めた一閃。それが衝突するや、吹き出す魔力が炎を薙いだ。そのまま鍔競り合いに移行するふたり。刃と刃の間で火花が散り、腕の関節が軋む。その鬩ぎ合いの内で呻き声を漏らしながら、遥は邪龍に与えられた眼を起動させる。

 それは〝邪視〟。視界の内にある全てに重圧の呪いを掛けるその眼はアルテラの対魔力で半ば以上減衰されたものの、一瞬のみ動きを止めることに成功した。そうして生まれた隙に遥は左手の手刀をアルテラの腹に突き刺した。内臓の生暖かい感触が遥の手に伝わる。それを意識から排除し、アルテラの体内に焔を放つ。

 尋常な火炎を超えた熱量に一瞬でアルテラの内臓が焼け、人の肉が焦げる不快な匂いが遥の鼻腔を突く。生きたまま内臓を焼かれる苦痛に呻くアルテラ。しかし彼女はすぐにそこから復帰すると、逆手に持った軍神の剣を振り落とした。寸での所でそれを回避する遥。アルテラの腹に空いた穴から、千切れた内臓が落ちて魔力に還る。先の一撃が致命的だったのだろう。アルテラが口から多量の血を吐く。

 

「……ッ!!」

 

 何か意を決したかのような表情を見せ、剣を構えるアルテラ。右手は後ろに引き、左手は前に。腰を落とし、遥を睨む。同時にアルテラを中心として颶風が巻き起こり、その内側での魔力の脈動を遥は知覚する。

 恐らく真名解放ではない。しかしそれに匹敵する魔力量である。今のアルテラが無理に使えば自滅してしまうことは想像に難くない。けれどアルテラは自らのダメージを認識するや、躊躇いなく最大の一手に訴えたのだ。

 この一撃でアルテラは勝負を決めにきている。そう悟った遥が鞘を分離させ、叢雲を納めた。そうして右手を垂らし、腰を低くする。殆ど決まった型を持たない遥の例外。抜刀術の構え。

 ふたりが放射する剣気が鬩ぎ合い、遥の意識がより研ぎ澄まされる。余計な情報が削ぎ落されていく。周囲の音が遠くなり、聞こえてくるのはアルテラが放つ音のみ。景色の中で意味を持つのはアルテラのみだ。

 先に地を蹴ったのはアルテラ。だがその直後、その眼が見開かれる。その先にいる遥は既に叢雲の柄に手を掛けていた。初動はアルテラの方が先であったが、遥は単純な速度のみでそれを追い越したのだ。そして、遥が剣技の名を告げる。

 

「――怒濤、八閃ッ!!!」

 

 揮われる神剣。最早何者にも認識さえ許さない速度で抜刀された一刀がアルテラの頭蓋に向けて振り下ろされる。恐ろしく正確な一刀だ。その一刀ですら並の剣士が一生涯かけたところで到達できない領域にある。

 それが、8つ。遥の一刀によって並行世界から呼び込まれた斬撃がアルテラを囲うように現れる。それは神仏に挑戦するかの如き業だ。それでも、敗北を受け入れるアルテラではない。

 交錯する黄金と深紅の剣閃。背中合わせになるふたり。そして一瞬の間を置き、アルテラが力なくその場に倒れ伏した。その身体に刻まれた傷は霊核まで至り、完全に両断していた。存在を維持できなくなったアルテラの身体が端から消えていく。

 

「……見事。此度の戦いはおまえの勝ちだ。だが……だが、次に見えた時は必ず――」

 

 言葉を最後まで紡ぐ前に消滅するアルテラ。その消滅を最後まで見届けてから、遥はその場に崩れ落ちた。己の血でできた血溜まりも、今の遥の意識には一片も留まっていない。まるで壊れた機械人形ででもあるかのようにのたうち回るのは苦悶だ。言うまでもなく、人の身に余る魔剣を行使した代償である。

 全身を満たすのはこの世のものとは思えない程の苦痛だ。辛うじて融合しきっていなかった分霊が、先の無理矢理な同調強化によって完全に遥と融合しようとしている。それは自分の裡に他者を受け入れるに等しい行いだ。故にそれには自己崩壊すら引き起こしかねない苦痛が伴う。

 脳裏を過る他人にして自分でもある者の記憶。その一片だけでも人間ひとりの人生に匹敵する量の記憶だ。そんなものを突っ込まれて平気でいられる筈もない。流れ込んだくる記憶が魂に焼きつけられる度に自分自身の記憶が消し飛び、起源に従って修復されていく。

 

「グ――ァア、グ――ヅゥ―――ア」

 

 知らない。こんなものは自分ではない。遥がそう訴えてもその肉体と魂に融合した分霊はお構いなしとばかりに焼き付けてくる。或いはそれは分霊の本意ではないのかも知れないが、宿主を食っていることに変わりはない。

 苦痛は止まない。だがその朦朧とする意識の中で、遥は()()を見た。タマモとエリザベートの同時攻撃を受け、しかし仕留めきれずに残った肉片から再生してしまった叛逆の巨人。いや、それは最早人ということすらも烏滸がましい程の異形と化していた。

 その身体はそこまで肥大化しても己の内で生産された魔力を受け止めきれず、今にも自爆しようとしている。恐らくはローマを巻き込む形で。それを見て直感で悟る。立香達が首都ローマの中にいる今、それを防ぐことができるのは自分しかいない、と。

 ならば立つしかあるまい。そうして、苦悶を押し退けて遥は立つ。

 

 人理を守るため。

 

 ローマを守るため。

 

 何より、愛した人々の未来を護るため。

 


 

 イベリア半島。現代においてはスペインの領土としてある土地に聳える城。その中で、連合ローマ帝国の宮廷魔術師、もとい実質的な支配者であるレフ・ライノール・フラウロスは苛立ちを隠せずにいた。

 人理焼却の首謀者の配下たる彼の目に映っているのはその場にいる()()()()()()()()()()()()()()()()ではなく、ローマ帝国の首都たるローマ、その周辺。特にブーディカであった。

 言うまでもないことであろうが、ブーディカを反転させたのは彼の計略であった。彼女の認識の上ではどこから自分が反転したのか分からないだろうが、ある意味では最初からだ。そもそも今の彼女は元の彼女の霊基とはまるで異なるのだから。反転させた直後に逃亡され、その上アルテラまで持ち逃げされたのは想定外であったが、予定に狂いはない。所詮、彼女は実験台でしかない。

 しかし、このままではマズいのも確かだ。あの場に放った連合ローマのサーヴァントが全ていなくなった今、()()()()()()()()()()()()()を回収できるのはレフだけなのだから。

 

「ああ、まったく。英霊とはどうしてこうも愚図で矮小で使えない奴らばかりなのだろうな! 貴様もそう思わんかね? ……と、貴様にはもうそんな質問に答える知性もないのだったか」

 

 嘲るようなレフの笑み。しかし無貌に堕ちた泥の巨人は何も言わず、何も思わず、それどころか全く動くこともない。ただ時折狂ったようにケタケタケテケテと嗤うのみだ。その内に元になったサーヴァントにあった巨大な慈愛はなく、ただ虚ろが広がっている。

 その様はまさに泥人形。知性はなく、理性もなく、感情もなく、霊基は泥に穢れた。しかしその霊基規模のみが増大している。ステータスは元の比ではなく、トップサーヴァントの大半を凌駕するだろう。

 レフが嗤う。果たしてローマを深く愛するネロがこの男の存在を知った時、どのように思うだろうか。想像するだけで抗い難い快楽が全身を満たし、ともすれば絶頂しそうになる。レフ・ライノール・フラウロスという男の変態性を、このローマは十全に満たしていた。

 だがその遊戯をカルデアの連中は全て台無しにしてしまう。あの不届き者たちがブーディカを倒してしまう前に聖杯を回収せねばならない。ああまったく面倒だ、とレフが唸る。だが、それはそれで面白みもある。

 玉座の間からレフの姿が消失する。首都ローマの戦場まで転移したのだ。残されたのか穢れに穢れた泥の巨人のみ。その無貌が、開く。

 

「ロォォォォマァァァ……ネェェェェロォォォォ……」

 


 

 我は悪逆でなく、女王なれば(クイーン・オブ・ヴィクトリア)。『復讐者(アヴェンジャー)』ブーディカの第四宝具であり、その効果はランスロットの騎士は徒手にて死せず(ナイト・オブ・オーナー)やアルケイデスの天つ風の簒奪者(リインカーネーション・パンドーラ)に近い。対象の武具を奪い取り、真名解放によって本来の持ち主が使うよりも強い力を発揮させて使い潰すことができる。

 その特性により、ブーディカが投げ放った匕首はその刃に焼き込まれたヒュドラの毒を限りなくオリジナルに近い毒性で再現することができる。故にそれをくらったサーヴァントに死から逃れる術はない。特に、既に死に体のサーヴァントともなれば。

 太ももに匕首を受けたオルタは完全消滅こそしていないものの、その身体は全く動く気配がなく末端から消え始めている。もう戦うことなどできまい。宝具行使の代償で匕首は壊れてしまったが、敵を減らすことはできた。本命たるネロを討つことはできなかったものの、怨敵の首を自分の手で落とすことができるのだからそれはそれだ。

 

「さあ、どうする、ネロ? これでもう頼もしい見方は一緒に戦ってくれないよ?」

「それでも……諦める訳にはいかぬ。余ひとりでも、貴様を打倒する!」

 

 そうこなくっちゃ、とブーディカが嗤う。戦意を失った相手の首をただ落とすだけなどつまらない。戦い、追い詰めて希望を奪ってから殺す。殺す前に召喚した兵士に凌辱させるのも良いかも知れない。

 そうやって殺す手段をいくつか考えることができる程、ブーディカには余裕があった。何故ならネロはブーディカには勝てない。生身であるかサーヴァントであるかの違いだけではない。ローマの誉を体現するネロではローマの闇であるブーディカを上回ることができないのだ。

 故に最早勝敗は決したも同然であった。共に戦う者たちはそれぞれの理由ですぐにネロの救援に行くことができない。怨敵(えもの)を前にして、ブーディカは復讐を成す千載一遇の好機を得たのだ。それは間違いない。

 だが、彼女は知らなかった。彼女を反転させた者にとって、彼女などは所詮使い捨ての駒でしかないということを。

 

 

「――盛り上がっている所済まないが、愚図にはここで退場してもらおう」

 

 

「えっ――?」

 

 ぞぶり。一瞬それが何の音か理解できなかったネロとブーディカだが、直後にその音が何であるかに気づいた。ネロは己の視界に映るブーディカの姿から。そして、ブーディカは己の胸に奔った激痛から。

 ブーディカの胸から覗くのは彼女の心臓を握る、血に塗れた男の手。その手の主であるモスグリーンのシルクハットが特徴的な男――レフ・ライノールは心底つまらなそうにブーディカを見下ろしている。

 心臓を抜かれ、血の塊を吐き出すブーディカ。その目が言っている。何故、と。それを愚かだと思うレフだが、同時に憐憫も覚える。他者からその復讐心を利用され、本当に人形に死んでいく愚か者(えいれい)。その存在の、何と矮小なことか!!

 

「貴様が……」

「そう。我らが至高の王に仕える72の魔神が一柱、レフ・ライノール・フラウロス!! とまあ、自己紹介はそこそこにして――」

 

 死ね。冷酷なまでの宣告と共に放たれる魔力撃。それが秘める魔力量は尋常な人間のそれではなく、それどころか幻想種すらも優に超える。英雄ではあっても英霊ではないネロにそれを防ぐ術はない。それでも宝剣で相殺しようとするネロの前に、割り込む影があった。

 レフが放った魔力撃を刀の一閃で切り裂いたのは沖田であった。少し前までは蛮族相手に戦っていた沖田だが、オルタの危機を察知した遥からネロの救援に向かうように指示を受けたのである。それが功を奏したのだ。

 連続でレフが放つ魔力撃を沖田は正宗で斬り伏せていく。本来の得物である乞食清光はレオニダスとの戦闘で折れてしまったが、真に一流の剣士は得物を選ばない。加えて先の戦闘だけで沖田は正宗の使い方を完全に把握していた。しかしレフの攻撃の間隙に放った刺突は、レフが展開した防護障壁に阻まれる。

 

「おやおや、誰かと思えば女ひとり助けられなかった無能(クズ)マスターのサーヴァントじゃないか! のこのこ殺されにきたのかね?」

「煩い。疾く往ね」

 

 抜き身の刃が如き殺意が込められた言葉の直後、レフが展開していた障壁が音を立てて砕けた。それは予想外であったのかレフが舌打ちを漏らし、後方に跳ぶ。だが沖田が逃がす筈もなく、足元に転がっていたブーディカを蹴り飛ばしつつレフに追随する。

 そうしてその場に残されたのはネロと消滅が始まっているアヴェンジャーふたり。ブーディカがそのような状態になってしまったためか、先程まで際限なく湧き出し続けていた蛮族たちはひとり残らず消え去ってしまっている。

 蛮族たちが消えて露わとなったのは惨たらしいまでの戦場の爪痕。そしてその中で敵を倒したと思しきタマモとエリザベートが目の前で立ち昇る土煙を睨んでいる。戦場の跡はまさしく死山血河。その光景に釘付けになるネロの足元で、ブーディカが呻く。

 

「う……なん、で……もう少し、だったのに……あの男さえ……あの男さえ、いなければッ……!」

 

 もう判然としない視界の中でブーディカが睨むのは沖田を相手に余裕の立ち回りをするレフだ。しかし皮肉な話である。レフがいなければ復讐は成功する以前に、まずブーディカが反転することもなかったのだから。

 事ここに至り、ブーディカは全てを思い出した。そもそもブーディカが反転したのはカウンター・サーヴァントを駒として利用するというレフの実験の結果だ。そのためにブーディカはレフに囚われ、聖杯を埋め込まれてその呪いを受けた。つまり、最初からレフの傀儡でしかなかったのだ、彼女は。

 自分自身の根幹だった筈のものが、そもそも他人から仕向けられたものだった。それを知ってしまった心の何と虚しいことか。用済みとなればすぐに捨てられる身。捨てられてしまった身。

 しかし、だからとて諦められない。諦められる筈がない。それでも剣を握る手には力が入らず、その剣もすぐに消えてしまった。それでもなお何かに縋ろうとするブーディカの耳朶を、轟音が打つ。

 それは異形だった。最早人の形は留めておらず、辛うじて肉の間に埋もれた顔だけで元々が人間だったと解る。その様はさながら巨大なスライムとでも言うべきか。急速な修復はその代償として、スパルタクスから正常なカタチを奪ったのである。

 それでもスパルタクスの内にある魔力は勢いを減じず、遂には彼自身の身体をも破壊して外に溢れ出そうとしていた。しかしスパルタクスはそれに抗わず、むしろ圧制を破壊するための一手として使おうとしている。その口腔に収束する魔力は、首都ローマを全て灰燼に帰して余りある。

 

「やれッ、スパルタクス!! ローマを……壊してやれッ!!」

 

 直後、放たれる叛逆(あっせい)の息吹。それは星の聖剣にすら比肩する程の威力を以て草原を駆け抜けていく。その射線上にいた兵士たちは逃げることもできずに死体も残さず蒸発してしまう。それはまさしく叛逆者が覗かせた大圧制者としての一面の具現であった。

 しかしすわ直撃かと思われたその時、ブーディカらは大圧制の光の先に小さな影を見た。それは閃光と比べれば小さな影。しかしその眼い諦念の光はなく、それどころか圧制を迎え討つ叛逆の意志に満ちている。

 掲げるは星が生み出した最後の希望。聖剣、聖槍といったあらゆる神造兵装が敗れ去った後にでも燦然と輝く、希望の具現だ。それは担い手の魔力はろか周囲の魔力(マナ)すらも喰らって極光の柱を紡ぎあげる。

 その担い手たる剣士――遥は極光の下で、迫り来る圧制を真っ向から見据えている。アルテラによって刻まれた傷は未だ治りきっておらず、魔術回路の酷使の反動で傷が開いて血が流れてしまっている。

 

「其は星の神剣。人を救い、(せかい)を救う、救済の剣――!」

 

 だがそれがどうしたというのか。マシュでは間に合わずとも、自分なら間に合う。そうでなければ全てが終わってしまう。ならば自分がやるしかない。遥は何の迷いもなくそれを選択できる男だった。

 総身を貫く激痛。断線しそうになる意識。それらを全て彼方へと押し遣り、遥が叫ぶ――!

 

諸人が求めし救済の聖剣(アマノムラクモノツルギ)!!!」

 

 解放される星の息吹。黄金の閃光。それは圧制の閃光と真っ向から衝突し、鬩ぎ合う。その衝突で発生する衝撃で押し返されそうになる身体を、遥は魔力放出によって無理矢理にその場に固定した。凄まじい圧力と人ならざる力の行使に晒されることによる激甚な苦痛が遥の総身に満ちる。

 それでも。それでもやらねばならない。遥は更に神剣に魔力を込め、それに応えた神剣が極光の出力を上げる。圧制の閃光はそれに耐えることができずに徐々に押し返され、遂には両断されてしまった。

 そして星の息吹に呑まれる寸前、スパルタクスはその隙間からそれを見た。遥の目。強大なる圧制者の血を内包していながら、それはどうしようもない叛逆の意志に溢れていた。では、それと相対する自分は何なのか。考えるまでもない。スパルタクスは叛逆者でありながら、いつの間にか無関係の者まで巻き込む大圧制者と化していたのだ。

 

「私は、何を……」

 

 光が巨人を飲み込み、その呟きは誰にも届くこともないままにスパルタクスの霊基は粉々に砕け散った。今度こそ修復もできない程、完膚なきまでに。圧制と化した叛逆はローマの大地から去った。

 やがて極光の柱も消え去り、それが齎した破壊の跡が白日の下に晒される。極光が薙いだ草原は抉れるどころか赤熱し、ひどい所では気化している個所もある。これが神造兵装。本来は星の外敵に向けて振るわれるべき力。

 それを解放した遥は肩で息をしつつ、明らかな自分の変化に愕然としていた。確かに、宝具行使の反動として行動不能になる程の苦痛はある。それでも、以前より弱い。それは明らかに遥が人間でなくなっている証拠だ。

 それでも叢雲を杖の代わりにして、未だ消滅に抗い続けるオルタの許に行こうとする遥。しかし唐突にその背後から拍手が聞こえてきた。賞賛ではない。嘲りを込めたかのような拍手である。

 

「いやはや、無能(クズ)は無能でも、無能なりによくやるものだ。尤も、結局は無意味と悟れぬ時点で愚か極まりないがね」

「レフ……いや、フラウロス!! テメェ……!!」

 

 目の前に現れたレフの姿にも遥は一切動じず、それどころか動かない身体を無理矢理にでも動かしてレフを斬ろうとするがそこに追い付いた沖田がそれを制止してふたりの間に入った。正宗を構え、レフを牽制する。

 今までの短い戦闘の中で、沖田はレフが自分ひとりでは倒せない敵であると既に悟っていた。口惜しいことではあるが、まずそもそもレフは英霊よりも格が高い。英霊としては大した力を持たない沖田では傷を付けることはできても倒しきることは不可能だ。

 満身創痍の状態から未だ復帰していない遥と決定打を持たない沖田を前に、しかしレフはしばらくの間何もしないで遥を見つめていた。やがてその手が遥に差し出される。何のことか分からず目を見開くふたりに、レフが言う。

 

「一度だけチャンスをやろう、夜桜遥。貴様は我が王の理想に最も近い。故に我が王は貴様に興味を持っておられる。……そこでだ。我らの眷属となれ。そうすれば我々は共に極点に立つ栄誉を与える用意がある」

「――――」

 

 あまりに突飛な問いであった。開いた口が塞がらないとはまさしくこういうことを言うのだろう。しかしレフはまるで人を堕落に誘う悪魔のような、いや、正しく悪魔の笑みを浮かべている。

 だがその衝撃に反し、遥の思考回路は異常な程冷たく凪いでいる。レフ、もとい彼の主である黒幕は彼の理想に遥が最も近いが故に遥に興味を持っているという。それこそ、仲間に引き入れても良いと思う程に。それが示すところはつまり、黒幕には人理焼却のその後に真の目的があるということだ。遥の予想通りに。

 ならば、カマをかけて更に情報を引き出すか。レフはそれを狙うことができるだけの小物であると、遥は既に了解していた。しかし遥は肝心な時に限って理性でなく感情に従う男だ。沸騰する感情のまま、遥がレフに向けて中指を立てる。

 

「俺につまらん質問をするな。失せろ」

「ッ……フン。その選択、後で後悔することだな!!」

 

 捨て台詞めいたその言葉を残し、レフが虚空に溶けるようにして消えていく。遥は逃がすまいと煉獄の焔を放つが、レフはそれより早くにその場から消え去っていて焔は何もない空中を焼くのみに終わる。

 レフは仕留められなかったがしかし、後で殺すことに変わりはないとそれを割り切った。遥がするべきことは他にもある。ようやく少し歩ける程にまで苦痛から解放された遥が歩み寄ったのは地面に倒れ伏すオルタ。

 その身体は完全に消滅してこそいないものの、最早向こう側が透けて見える程にまでその存在を薄れさせていた。しかしヒュドラの神毒を受けていながらこれだけの間消滅に抗っていられるというのはかなりの精神力である。

 傷つき、透けるオルタを抱き起こす遥。同時に弱々しくもオルタの目が開かれ、金の瞳が覗く。

 

「……遅い、わよ」

「……悪い」

「ふっ……まぁいいわ。先に戻ってるから……勝手に死んだら、許さないわ」

 

 遥が頷く。オルタは未だ消えぬ神毒の激痛に抗いながら少しだけ身体を起こし、遥の頬に口づけを落とした。そして直後にオルタを構成していた魔力が完全に統制を失い、魔力の光となって消滅する。その近くでブーディカもまたネロに看取られながら消えた。

 カルデアのサーヴァントは消滅してもその霊基はカルデアへと戻り、マスターの帰還に際して再度構築される。それでもそこに一度、消滅という死にも等しい現象が伴うことに違いはない。

 オルタの残滓を握り締め、遥が立つ。ここに、多大なる犠牲を出した戦闘が終わった。



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第54話 充満する死の中、少年は熱を渇望する

 戦争における戦死者の死因として主たるものは何か、という問いに対して人々はまず何を思うのだろうか。最も多いのは敵兵士の攻撃を受けて死んでしまった、というものだろう。確かにそれは間違いではない。近代の戦争においては間違いなく主たる要因はそれだ。

 

 では、この問いに〝中世、或いはそれ以前の戦争〟という制限を付与した場合はどうなるだろうか。こうなると話は違ってくる。敵勢力や味方の誤射といった理不尽な暴力と肩を並べる別な死因が入ってくるのだ。

 

 

 戦病死、という言葉がある。

 

 

 戦争に溢れる暴力によって死ぬのではなく、何らかの病気による死。これは近代以前の戦争において非常に大きな問題であった。何せ時と場合によっては戦死者の数が戦病死者の数を下回るということもあった程なのだから。よく知られている例で言えば、近代の戦争ではあるが第一次世界大戦における〝スペイン風邪〟もそのひとつだ。

 

 そもそも戦争に設置される野戦病院における衛生状況など近代以前では高が知れている。クリミア戦争中にナイチンゲールが統計学を用いて衛生状況と戦病死者の関連を説明付けるまでは衛生状況など見向きもされなかったのだから、疫病が流行するのも当然というものであろう。

 

 餓死や凍死、破傷風や壊疽等、例をあげればきりがない。主たる戦病死の原因は現代でこそ容易に治せるものが多いが、近代以前はそうではない。そもそも中世など医術は未熟で、かつ唯一根本的な解決となる魔術はその性質故に大衆に使えないときている。

 

 特に破傷風は紀元前の書物にもその存在が確認されたり、チャールズ・ベルなどによって絵画に残されたりとかなり有名である。致死率は通常で50%ほどで、衛生環境によってはより高くなる。これの有効な治療法は1890年に北里柴三郎が抗血清を作り出すまで発見されていない。それ以外にも治療法は近代になってから確率されたものが多い。

 

 詰まる所、近代以前は戦病死に対する有効な対策は存在せず、それは第二特異点であるこの西暦60年においても例外ではない。たとえカルデアの勢力が協力したとしても、絶対数が多すぎるのだ。

 

 ブーディカら勝利の女王軍による首都ローマ襲撃から3日の時が過ぎた。首都ローマ内に設置された野戦病院では宮廷魔術師やカルデアからレイシフトしたアイリが何とか負傷者達を回復させようと尽力しているものの、犠牲者の数は増え続けている。

 

 カルデアには医薬品の備蓄はかなりあるが、それを使うのは許されない。いくら特異点は修正すればある程度のことは無かったことになるとはいえ、どれほどまでならば干渉して良いのか全く未知数なのだ。故に下手に現代医学を持ち出すのは厳禁である。

 

 自分たちには或いは救えるかも知れない力があるというのに使えず、目の前で多くの人々が死んでいく。その無力感の何と凄まじいことか。加えて自分自身は身体的に何の問題もないというのがさらに無力感と罪悪感を増幅させる。

 

 だが、医術も魔術も知らない立香にできることなど何もない。それでも何もしないのは我慢できなくて、立香は首都ローマの外に急造された慰霊碑の前に立っていた。その下には地下墓地(カタコンベ)には収容しきれなかった兵士たちの亡骸が埋まっている。正統、連合関わらずにだ。

 

 備えるための花はない。ネロの趣味で王宮には赤い薔薇は大量にあるが、死者に備えるものではなかろう。赤い薔薇の花言葉は愛情や情熱。死者にはそれを抱くことさえ許されていないのだから。

 

 ロマニやレオナルドの言葉を信じるのなら、ここで死んだ人々も特異点を修正すればその死はなかったことになるという。だが今の立香にはそれが正しいとは思えなかった。人の命がそんなに軽いものであるのなら、死がこんなにも悲しい筈がない。こんなにも重い筈がない。───喪ったものは戻らない。ならば、特異点で死んだ人々はきっと、人理修復を成したとしても戻らない。

 

 ローマの作法には合わないかも知れないが、立香は手を合わせ黙祷を捧げ、死者の冥福を祈る。けれど、それも気休めだ。立香の胸中に巣食う無力感と罪悪感はそんなことで消えはしない。

 人の死という意味ではオルレアンも相当なものだったが、その時とは訳が違う。何せ既に人が殺されていた現場を見たオルレアンと違い、このローマでは目の前で殺されていく。目の前で死んでいく。その精神的負荷は少し前までただの一般人でしかなかった立香には計り知れない。

 

 思えば、カルデアに来る前に立香の目の前に現れた死にはいつも尊厳があった。立香とて人が死ぬことを知らない訳ではない。だが、それは常に自然な流れとしてあるものだった。それが今はただ物が壊されるように、人が死んでいく。胸中に蟠る言いようのない感覚に立香が俯いていると、その耳朶に触れる足音があった。

 

「ここにいたのか。立香」

「遥……」

 

 そこにいたのは立香と同じく人類最後のマスター達の片割れである遥だった。遥もまた花などは持っていないが、慰霊碑の前で手を合わせて黙祷を捧げた。

 

 3日前の戦闘で遥は更に分霊の浸食が進んでしまったのか、髪が完全に白く変わるだけでなく全身くまなく褐色に変わり、目も紅くなっている。顔は造作以外殆ど立香と出会った頃の面影を残してはいなかった。それだけではなく、纏う魔力の密度も明らかに増している。

 

 黙祷を捧げた後も、遥は慰霊碑を見つめたまま動かない。その紅い瞳に宿る感情が何であるのか、立香には分からなかった。常の他人の感情の機微に敏い立香の気性は、この状況の中に在ってその機能を減じていた。代わりに出てきたのは問いだ。

 

「……遥は、こんなのを何度も見てきたの?」

「そうだな。見てきたよ。……正直、首がない腕がないってのは、まだマシな方だ」

 

 四肢を切り取られた末に臓物を食い散らかされて死んだ男性がいた。胎を裂かれ、胎児を殺された後に死んだ女性がいた。幼くして凌辱され、口封じのために殺された少女がいた。男娼として買われ、反抗して殺された少年がいた。

 

 魔術師の実験に使われ、性別どころか人であったことすら判然としないモノがあった。死徒に慰み物にされ、人っ子ひとり残らない村があった。理性を失った悪魔憑きに殺され、残骸と化した死体があった。

 

 思い出そうとすれば不必要な程に思い出すことができる、遥の前に現れた死の数々。それに比べれば、ただ殺されただけというのはまだ救いがある。それでも人ひとりの命が失われたという事実に変わりはない。

 

「でも殺したヤツを責める権利は俺にはない。だって……俺も殺したからな。両手じゃ数えきれないくらい」

 

 魔術師や死徒、悪魔憑きだけではない。今回の戦闘において、遥は何人もの連合ローマ兵を手に掛けた。そのことに後悔はない。彼らは兵士だ。己が仕える者のためにその命を捧げ、他者の命を奪う覚悟を決めた者たちだ。戦いの中で命を散らす覚悟もできていただろう。

 

 それでも考えてしまう。彼らにも家庭があって、夫であり、父であったのかも知れない。兵士はともかく魔術師は人々にとっては絶対的な悪であっても、妻にとっては良き夫で、子にとっては良き父であったのかも知れない。

 

 ではその命を奪った遥は彼らにとって紛れもなく悪だろう。たとえそれがただ絶対的な悪を排除しただけだったのだとしても、納得できる筈がない。急造の慰霊碑を見つめながら、尚も遥は言葉を続ける。

 

「俺は確かに多くの人を助けたよ。それは間違いない。でもそれは同時に誰かを不幸にしたことの裏返しなんだよ」

「不幸に……」

 

 その言葉を受けて立香の脳裏を過ったのはローマに来て最初の戦闘においてクー・フーリンに宝具を使わせた時の光景。あの一撃で立香はクー・フーリンに多くの人々を殺させた。それは紛れもない事実だ。

 

 誰かを殺させることは誰かを殺すことと同義。誰かを救うことは、誰かを救わないということ。この短い間で立香は多くのことを学び、もう無知な一般人ではいられなくなった。一般人は誰かを手に掛けることなどあるまい。

 

 遥の言葉に、思いつめたような表情を見せる立香。それを見て、遥は慰霊碑から立香の方に向き直った。その顔は真剣そのもので、常の飄々としている彼のそれとは明確に異なる。

 

「立香。他人の死を辛いと思って悼むことができるなら、大丈夫、お前はちゃんと人間だよ。俺はもう悼むことも、その権利もない。できるのは、精々目の前で死んでいった人の死を背負って生きるくらいだ」

「そんなことは――」

「ある。だって俺はそういう生き方しかできにないように生み出された。……自分で言うのもなんだが、人間の在り方じゃねぇ。英雄の在り方でしか、生きられない」

 

 そう断言する遥の声音はあくまでも真剣で、立香に二の句を継ぐことを許さない。遥の過去を、立香は知らない。故に立香は遥について何も語ることができないのだ。あまりに生きている世界が違い過ぎた。

 

 遥は運命に抗うことを決意した。だが、それは同時に英雄としての在り方を受け入れたということでもある。遥の運命は人間では抗うには重すぎる。抗おうとしても、そのうちに精神を壊してしまうのが落ちだ。

 

 だからこそ、立香やマシュのようにあくまでも普通の人間でしかない在り方が遥には尊く見えるのだ。それが失われそうになるのなら、遥はいくらでも元の道に戻そう。代わりに自分が道を外すことになろうとも。

 

 立香はあくまでも人間でしかなく、それ以上になる必要性もない。ただ普通に生きて、笑って、泣いて、恋をして、誰かと一緒にしか生きられない、単なる人間で良いのだ。その思いを込めて、遥は立香の癖毛を雑に撫でた。妙な気恥ずかしさに立香が顔を紅くする。

 

「……何してんの?」

「いや、人生の先輩として辛そうな弟分を慰めてやろうと思ってな。……辛かったら泣け。その方が気が晴れる。誰もお前が泣くのを責めたりしねぇよ」

「でも……」

「良いんだ。誰かのことを思って流す涙を咎めるようなヤツ、誰もいねぇよ」

 

 それは先程までのように真面目な声音でこそなかったものの、そこには立香を思う心があった。それは同僚としてのものか、相棒としてのものか、或いはそれとは別の何かか。そんなことは立香にとってはどうでも良かった。気にしている余裕もなかった。

 

 遥の言葉が立香に届いた瞬間、立香の中で必死になって押し留めていた何かが崩れた。そのとたんに胸の中に抑えきれない感情が湧き出て、涙となって零れる。それは決して無力感によるものでも、己を恥じてのものでもない。

 

 それは純粋に他人のために、名も知らぬ誰かのために流す涙だった。遥には決して流すことのできない、ひとりの人間としての涙だった。遥は何も言えない。言った所で、立香には聞こえないだろう。

 

 嗚咽する相棒を傍らに、遥は思う。きっと自分の力とはこういう何でもない人間を守るためにあるのだろう、と。けれど遥は人類が嫌いだ。その全てを守るつもりなどないし、そもそもそれだけの力があると思いあがってもいない。

 

 それでも、せめて自分が愛した人々だけは。立香やマシュ、カルデアの職員たちは守り通してみせよう。遥はそう誓う。最早元々あった願いは叶わない。それでも代わりに得た力が新たな願いを叶えるために使えるのなら、遥は躊躇いなくその力を使うだろう。

 

 ――たとえ、その先にあるものが己の破滅だったとしても。

 


 

 アイリスフィール・フォン・アインツベルンという人造生命(ホムンクルス)にとって、今まで戦争とはどこか遠い世界の話であった。同じく戦争という名は付いていても聖杯戦争とは決定的に異なる、本物の戦争。それはアイリにとって、ある種の御伽噺のようですらあった。

 

 だがそれも無理からぬことであろう。生まれてからの多くの時間を雪に閉ざされた冬の城で過ごし、つい最近になって外の世界に出てきたばかりの彼女は良く言えば純粋であり、悪く言えば無知な箱入り娘。いくらユスティーツァから連綿と続くアインツベルンの記録を有していても、それは彼女自身のものではない。

 

 その御伽噺めいた世界が今、現実として彼女の目の前にある。傷ついた兵士たちが満足な治療もされずに苦しみ、病に喘ぐ。中には既に半死半生という者までいるような、凡そ地獄と言って差し支えない光景がそこにあった。

 

 本来はカルデアで待機している筈の彼女がこうしてレイシフトしているのは他でもない、兵士の治療のためだ。現代の医療技術が使えず、しかし現地の医術も高が知れている今、最大の恃みはアイリの、と言うよりもその内在霊基の宝具である〝白き聖杯よ、謳え(ソング・オブ・グレイル)〟なのだ。

 

 サーヴァントであれば霊基の欠片さえあれば治療可能なこの宝具の効力は人間相手でも例外なく作用する。流石に生身である人間の霊体のサーヴァントと同じように完全回復することはできないものの、容体を回復するくらいのことはできる。

 

 だがそれにも限界はある。彼女の宝具でサーヴァントが完全に治癒するのは、有り体に言えばサーヴァントの肉体が人間よりも便()()だからだ。霊体である彼らに比べ、人間の治癒はそう簡単な話ではない。仮に肉体が十全でも食物や水がなければ死ぬし、精神が壊れれば肉体は動かない。その辺りは彼女の宝具効力の範疇外だ。加えてアイリ自身の魔力量の問題もある。連続して使用することはできない。

 

 無論、高い性能を誇るアインツベルンのホムンクルスであるだけにアイリには治癒魔術の心得もある。しかしアインツベルンの治癒魔術は錬金術の応用であり、被術者に大きな負担が伴う。下手に消耗した人間に施せば、それだけで体力を奪いかねない。

 

「……――」

 

 ひとりの兵士の治療を終えて立ち上がった瞬間、強い立ち眩みに襲われてアイリがよろめく。だがその細い身体が床面に激突するようなことはなく、すぐに何者かが片手で抱き留めた。

 

 ホムンクルスであるが故の頑丈さのためか、すぐに意識を立ち直らせるアイリ。そうしてすぐに視界に映ったのは、褐色の肌に銀の目をしたフードの男。即ちアサシンであった。半ば反射のように少し顔を紅くしてアサシンからアイリが離れる。

 

「……気を付けろ。君が倒れたら一体誰が重病者の治療をするんだ?」

 

 突き放すような冷たい声音だった。しかし何故かアイリにはその裏にある思いやりのようなものが分かる気がした。アサシンは言い方こそ確かに冷徹であるものの、アイリの身を案じている。

 

 それは恐らくアイリの内にある天の衣の霊基が影響しているからなのだろう。同じ半英霊(デミ・サーヴァント)でもアイリとマシュでは訳が違う。アイリは天の衣であり、天の衣はアイリなのだ。それは最早同調などという言葉で片付けることさえ足りない。身体の一部も同然だ。

 

 それ故か、アイリは夢という形以外でも稀に天の衣の記憶を見ることがある。それはマスターとサーヴァントよりも、遥とその内に宿る分霊の関係性に近い。その記憶の中にはいつも、生前のアサシンと思しき男がいる。尤も、その様子はアサシンとは全く異なるのだが。

 

「御免なさい。でも……」

「……ハァ。言わなければ分からないか? 軽症者にまで君が力を使う必要はない。幸い、休憩に出ていたマスターも戻ってきた。次は君が休め。魔力も消耗しているだろう」

 

 そう言いつつアサシンはアイリの手からカルデアからの支給品である医療キット――薬は無理でも応急手当程度ならば問題ないという判断である――をひったくると、近くにいた軽症者の手当てを始めた。

 

 生前も今と違わず一介の暗殺者であったアサシンだが、その職業上多少の医療知識はある。特に彼は殺すことが目的でなく、それによって多くの人を救うことが目的だったのだ。他の暗殺者よりはそういったことに慣れている。

 

 そうして手当をしながら、アサシンは不可解な自分の内心を分析していた。アサシンとしてはアイリに休憩を勧めたのは後々の治療まで見据えてより効率の良い手段を執っただけのつもりなのだが、客観的に見てそこに余計な気遣いがあることは明らかだった。

 

 アサシンは己を機械と定義している。彼にとって己の霊基や精神のコンディションを整えることは、武器の整備をするのと同じ次元の話として扱われる。そこに例外はない。その筈だ。その筈だった。

 

 それがこのホムンクルスの前では揺らいでしまう。それはアサシンにとって、己の内に発生した致命的な不具合(バグ)であった。不具合は時に機械そのものを壊す。早急に対応しなければならない。だがアサシンにはその不具合への適当な対処がまるで見えなかった。思案しながらもアサシンの手は淀みなく動き、兵士に手当をしていく。内心に不具合はあっても、機能に問題はない。

 

「ねぇ。貴方は、どうして多くの人々を救おうとするの?」

「……僕の行動の何処がそう見えたのかは知らない。興味もない。でもその問いにはこう答えよう。……元々、僕はそういうようにできているんだよ」

 

 アサシンにとって人を救うということは、そのまま人を殺すという意味となる。彼の人生において、誰かを殺さずして誰かを救ったことなどなかった。それを恨んだことはない。むしろ望んですらいた。

 

 彼の師は幼き日の彼に言った。才能というものは度が過ぎれば本人の意志など無視して生き方を決めてしまう、と。その最たる例が衛宮切嗣(アサシン)だ。彼の意志に関わらず、運命は常に彼に対して天秤の担い手であることを求めた。それは死後に英霊となっても変わらない。アサシンがそれを受け入れた事実もだ。

 

 故にアサシンが兵士の手当をしているのは、その天秤の片方、生き残った人間の数を減らさないようにするため。それだけだ。そう自分に言い聞かせても、客観的に見ている自分がそれを嗤う。そんな訳がないだろう、と。

 

「消耗したヤツがいても邪魔なだけだ。さっさと休め。君にしてもらいたいことはまだあるんだから」

「……えぇ、そうするわ。ありがとう、()()

 

 小さな声でそう呼ばれ、アサシンが息を呑む。けれど何故その名を知っているのかアサシンが問うより先にアイリは部屋を出ていて、アサシンの疑問が晴れることはなかった。ひとりに処置を終え、次の負傷者に移る。

 

 ――そう。アサシンがアイリに休憩を勧めたのはそれがより多くの人を救う結果を齎すと思ったからだ。謂わばオーバーヒートしかけた機械を休ませるようなもの。

 

(――そうだ。たったそれだけの話だろう)

 

 まるで自己暗示のような呟き。けれどアサシンの胸中に蟠る何かは一切消える様子もなく、彼の内に居座り続けている。その不具合をアサシンは修正しようとしているのに、一向に消える気配がない。

 

 まるで掴み所の見当たらない感情であった。アサシンがどうにか定義づけしようとしても彼の感情のサンプルに同じものはなくて、掴み所がないが故に手掛かりもない。アサシンには見えない。

 

 曰く、天の衣が生きた世界線において衛宮切嗣は羊水槽越しにその紅い瞳を初めて見たその瞬間に魅入られたのだという。であれば、それと同じことが起きないとどうして言えようか。

 

 そんな懊悩を抱えてはいても、心と身体を切り離すことに最大の才能を示すアサシンの作業に滞りはない。誰にもそれを打ち明けられないまま、アサシンの時間は過ぎていく。

 


 

 結局、先日の戦闘で発生した負傷者の治療が大方終了したのは戦闘から3日が経った深夜のことであった。遥や立香たちカルデアの人間の尽力により死者数はこの時代としては驚異的な程に少ないものの、全員が救われた訳ではない。

 

 軽症者の治療が終わり、治療が難しい重傷者のみとなった時点で立香は部屋に返されていた。魔術師でなく医療知識もない立香には重傷者に施せるものなどない。それは妥当な判断であった。

 

 しかし部屋に戻ってようやく落ち着いた空気に晒されても、立香は眠ることができなかった。既に左腕の時計は午前1時程を示しているものの、一向に眠気が襲ってくる気配がない。そもそも彼の性格上、今も苦しんでいる人がいるのに安穏と眠ることはできなかった。

 

 とはいえカルデアと違い特に何もないこの時代の私室では、特にすることも見当たらない。精々レイシフト時に持ってきた遥が作った教本を読むくらいか。けれど頭の隅に重傷者のことが引っ掛かって集中できない。開いては閉じ、開いては閉じて。そうしているうち、ドアがノックされた。

 

「先輩。マシュ・キリエライトです。……起きていらっしゃいますか?」

「マシュ? どうぞ、入って良いよ」

 

 立香の返答を受け、マシュが一礼してから部屋に入ってくる。その恰好はいつものカルデアの制服ではなく、病院の入院服を彷彿とさせる寝間着。どうやらテルマエに入ってさして経っていないらしく、髪は乾ききっておらず頬も上気している。

 

 聊か扇情的なその姿に、立香が顔を紅くする。それも仕方のないことであろう。人間性や三大欲求が薄れつつある遥と違って、立香はあくまでも普通の人減である。いくら底抜けの善人であっても異性に興味がない訳ではない。

 

 しかし今はそれよりも立香の胸に来るものがあった。その感情はより小さな気恥ずかしさを喰らいつくして肥大化していく。彼の脳裏に過るのは戦争の惨状や死体の腐臭。それがそこにある命の尊さを強く意識させる。

 

「……先輩?」

「えっ? あぁ、ゴメン。ボーっとしてた。立ってるのも疲れるだろうし、どこか座りなよ」

 

 言ってから、気づく。この部屋に座れそうな場所などベッド――正確にはベッドのような寝具しかない。つまり必然的にマシュが座る場所は立香の隣しかない訳で。だが気づいた時には遅く、マシュは何か決意したようにふんすと鼻息を鳴らして立香の隣に座る。

 

 立香は近年稀にみる社交性の持ち主だが、女性とそれほど親密な関係を構築するような男ではなかった。故にこのような状況(シチュエーション)など経験したことがない。それでも立香が冷静でいられるのは、熱くなりそうな思考を冷ます冷却材があるからだった。

 

 隣に座ったマシュの手を握る。唐突なその行動にマシュは面食らって赤面するも、立香の表情を見てすぐに落ち着きを取り戻した。真顔であるのに何故かひどく泣きそうなその顔を。

 

「……マシュは、温かいね」

 

 死体はもっと冷たかった。鮮血はもっと生暖かった。だが触れ合う手から伝わる熱は違う。それは命の熱だ。確かにマシュがそこにいると、マシュが生きているのだと立香に認識させる。同時に、立香もまた生きているのだとも。

 

 それにひどく安心すると同時に、そうやって安心を得ようとする自分の浅ましさにひどく腹が立つ。人間としてある種の本能とも言えるその感覚は、立香の感性においては後ろめたいことであった。

 

 或いはそれは少し過敏になっているだけなのかも知れない。一度に多くの死者を見たから、まるで生きていることを確かめるのが罪のように感じてしまう。記憶に焼き付いた死体の窪んだ眼窩から無い筈の瞳が覗き、言うのだ。お前もこっちに来い、と。

 

 遥に諭されてその目の前で泣いても、立香の心の中にはまだ後悔が残っていた。自分がもっとうまくやればここまで人が死ぬことはなかったのではないか。そんな自分に、人の熱を求める資格などあるのか。

 

 そんなことを考えているうちに、不意に立香の身体が傾いた。次いで服越しに伝わってくる人肌の熱。マシュに抱きしめられていると気づくまで、そう時間はかからなかった。

 

「大丈夫です。私はここにいます。先輩も、ここにいます」

「――ッ!」

 

 耳元で聞こえるマシュの言葉に息を呑む立香。そうして立香は恐る恐るといった様子でマシュの背中に手を回し、抱き押せた。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、そっと。心の中ではひどくその熱を求めているというのに。

 

 そして、立香は自覚する。それだけで満たされている自分がどこかにいることを。たとえどれだけの人が死んでいようとも、マシュが生きているだけで聊か安心を覚えてしまう浅ましい自分がいることを。

 

 けれど、その思いを誰が責められるだろうか。全ての人が救われなければ安心できないなど余程傲慢な人間か、頭の狂った聖人気取りだけだろう。だが、誰にでもその気持ちを抱く訳ではない。

 

――藤丸立香はマシュ・キリエライトに恋をしている。

 

 その事実を、彼は確かに認めていた。

 


 

 深夜。立香が熱い渇望の中でマシュへの想いを自覚したのよりも少し後、遥は首都ローマの中央である王宮の一室にいた。その目の前に設置されているのはマシュの武装である大盾。召喚サークルである。

 

 この特異点において最も霊的な格の高い霊脈の所在地は首都ローマから遠く離れたエトナ火山であり、本来ならばそちらに設置しておくのが良いのだろう。だがエトナ火山ではその距離故に不便に過ぎるのだ。戦略中の要衝を遠方に放置するなど、下策である。

 

 物資や戦力の補給路は何よりもまず優先して守りやすい場所に置いておくべきものだ。そのため遥たちカルデア実働部隊は多少霊格は低くともすぐに使用することができるように召喚サークルを王宮に設置したのだ。

 

 たったひとりでその場に来て遥がサークルに並べたのは3つの聖晶石。つまり遥は新たにサーヴァントを召喚しようとしているのである。それはひとえにオルタが欠けた穴を埋めるためであった。

 

 現在、遥が契約しているサーヴァントは普通の契約を結んでいるサーヴァントが4騎、仮契約が2騎の計6騎だが、戦力は多い方が良い。加えて現在オルタが運用きない以上、新たにサーヴァントを召喚するというのは安全マージンを確保する意味では急務である。

 

 だが、まるでオルタを捨て駒にするかのような策に躊躇いを覚える自分がいることも遥は自覚していた。それはまるで彼女をひとりの人間ではなくモノとして見ているようで。

 

 しかし、死んでしまっては元も子もない。それに、オルタとの約束もある。遥は一度大きく息を吐いて弱気な自分を追い出すと、大盾の前に立って魔術回路の出力を上げた。システムが遥の存在を認識し、盾から放射される魔力が増す。

 

 恐らく、この人理修復において遥が召喚するサーヴァントはこれが最後になるだろう。術式の詠唱を進めながら、遥が思う。遥の魔力量を考えればまだ余裕はあるが、マスターに求められるのは魔力量だけではない。有り体に言えばサーヴァントを統べる統率力が足りないのだ。

 

 術式の進行に合わせて聖晶石が砕け、吹き出すエーテルが盾を中心にして渦を巻く。その色は冬木で沖田を召喚した時と同じ虹色だ。かなり高位のサーヴァントが召喚される前兆である。

 

「――抑止の輪より来たれ。天秤の守り手よ!!」

 

 詠唱が終わる。同時に一際高まった魔力とエーテルが閃光となって視界を白一色に染め上げ、瞬間、遥は()()()()()()()()()を感じた。記憶にはない。しかし、身体が覚えている。

 

 だが、有り得ない。カルデアの召喚システムでは、()()は喚べない筈なのに――と、遥が考えているうち、軽い衝撃を彼は身体に感じた。同時に唇に柔らかく温かい感触。接吻(キス)された、と気づいたのは光が収まった後だった。

 

 或いはそれは遥という端末を介しての地球(ガイア)の差し金であったのだろうか。訳が分からず沸騰する意識の中で、遥は漠然とそんなことを考える。そのうちにふたりの口が銀の糸を引いて離れる。俺、初めてだったんだけどなぁ、とそんな淡泊すぎる感想を残して。

 

 果たしてそこにいたのは小柄な少女であった。髪の色は日本の神霊とは思えない銀色で、神性を表す深紅の瞳には理知的な気配がある。纏うのは紅白というオーソドックスな色合いながら動きやすいように改造された巫女服。

 

 その姿が、在りし日の記憶と重なる。(じぶん)が生まれるよりもずっと、ずっと昔――神代の記憶と。

 

「サーヴァント、キャスター。貴方の呼び声に応じて参上致しました。……あぁ、ずっとお会いしとう御座いました……!!」

「ッ……()()は……」

 

 遥が何か言い終えるより早く、少女――キャスターがもう一度遥に唇を押し付ける。そこを通じて流れてくるものは少しだけ、盲目的な味がした。




 だっ、誰だ!? 主人公のファーストキスというヒロインにとって一番美味しい所を召喚された直後に持って行ったこいつは、いったい誰なんだァ――ッ!(真名隠す気なし)

 この話を半分くらい書いた時点で一回データが消えて萎えかけました。


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第55話 月下、剣士は己が正体を告白する

前書きにひとつだけ。去年の夏イベは私にとって天啓のようでした(ペレ的な意味で)。


 古代ローマ帝国の首都である都市ローマの中心。現状、統治機構だけではなく商業ルートなど国家を維持するためのもの全てを集約した王宮も、夜間ともなれば殆どの人減が眠り静けさを取り戻す。

 だがその中に在って静寂を切り裂くかのような風切り音が鳴っている。音の出所は王宮の中庭、数日前に遥がネロからひとつの光明を与えられたその場所だ。篝火もなくただ月ひとつの光のみが光源と成り得るその場所で、反射光が軌跡を描く。

 それはやもすれば連なった金属がただ光を反射しているだけのようにも見えるだろう。だが実際はそうではない。それはごく細いものが人智を超える速度で振るわれているために残像によってそう見えているのである。

 虚空に向かって振るわれる刃はただ無造作に空を斬っているのではない。確かにそこには何もないものの、少なくとも暗闇の中で刀を振るう剣士――沖田の意識の中では先日の蛮族やレフを元にした仮想敵が蠢いていた。

 一度小さく息を吸い、それを短い気合に変えて吐き出すと同時に神速という表現ですら足りない程の速度で刀を振るう。都合5回の剣撃は仮想敵の四肢と首を寸断し、しかし一息吐く間もなく次の動作に移る。

 或いは無駄を嫌うサーヴァントや魔術師が沖田のそれを見れば、鼻で笑うか激怒していたかも知れない。基本的にサーヴァントとは不変の存在だ。精神面はともかく、肉体的には成長もしなければ劣化もしない。訓練などサーヴァントには何の意味も為さない。

 しかしそれは霊基が十全であった場合の話だ。今の沖田はレオニダス戦で愛刀たる乞食清光を失い、代わりに遥から借り受けた無銘正宗を使っている状態にある。ただ武装を失っただけと侮る勿れ。いくらこれまで使用する中で使用感を掴んでいるとはいえ、慣熟訓練は欠かせない。

 だが正宗を意識の中だけにいる仮想敵に向けて振るいながらも、沖田の意識全てが戦闘訓練に割かれている訳ではなかった。それは沖田の本意ではないのだが、無意識にそうなってしまっている。

 このローマに来てからというもの、訓練をする沖田の隣にはいつもオルタの姿があった。本来は変化しないサーヴァントという存在でありながらオルタはその特異性故か沖田の教えることを吸収し、剣腕を向上させていたのだ。

 その姿が、今はない。オルタは数日前の戦闘にてブーディカが起こした壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)からネロを庇い、その後に匕首による神毒の一撃を受けて消滅した。再会はカルデアに戻ってからということになろう。

 ただいつもはいた筈の存在がいないというだけで感じる多少の違和感。それが沖田の慣熟訓練に集中することを妨げている。自らの内心を客観的に分析しつつ、沖田は自分が思いの他オルタに絆されていることを悟った。

 同じ主を戴く同胞にして、剣術を教えている最中の弟子。実際の所そこにもうひとつ追加し得るものがあるのだが、沖田が自らの気持ちを理解していない以上それらふたつの関係性と比べると希薄と言わざるを得ないだろう。

 そうして一連の動作を終えて、残心。それとほぼ同時に王宮の一部で巨大な魔力が渦巻いたのを沖田は知覚した。沖田自身は元が魔術師ではないため魔力知覚にはあまり優れていないが、それでもはっきりと認識できる程の魔力だ。

 そこで沖田は遥が新しくサーヴァントを召喚する予定と言っていたのを思い出した。であれば先程の魔力はその召喚によるものなのだろうが、それにしては明らかに規模が異常だった。仮にヘラクレスのような大英雄を召喚したとしてもこのようにはなるまい。

 だが、だからと言ってそれは必ず強力なサーヴァントを引き当てたということには繋がらない。現に〝格は高くともそれほど強くはないサーヴァント〟という条件に合致するサーヴァントとして沖田がいるのだから。

 日本では名が知られているために同国で召喚すれば格が高い状態で召喚される。身に付けた剣腕も、『剣士(セイバー)』の適性を持つ英霊の中では一、二を争うだろう。だが近代出身の英霊であるため、他と比べて致命的に身体能力(スペック)が足りていない。それが沖田総司という英霊だ。

 ヘラクレスのように格が高くその分ステータスも異常に高いサーヴァントか、或いは沖田総司のように格は高くともそれに見合わずステータスの低いサーヴァントか。どちらが召喚されたかは、実際に紹介された時に分かるだろう。そう考えて自室に戻ろうとした沖田の耳朶を、聞き知った声が打つ。

 

「あれ、沖田? まだ休んでなかったのか」

「ハルさん……?」

 

 沖田の予想を裏切るように、沖田のマスターである遥はひとりで現れた。霊体化しているサーヴァントがいるなら同じくサーヴァントである沖田にはそうと知れる筈だが、それさえない。

 ただひとつ些細なことでも違いを挙げるとするならば、髪型の違いか。いつもは項の辺りでひとつに纏められている髪が、何故か同じ辺りで櫛を中心にして一纏めにしていることか。

 それによるものかは分からないが、ここ最近は増大していく一方で気配と共に制御が効かなくなってきていた魔力が完全に遥の支配下にあるかのような感覚が沖田にはあった。戸惑う沖田の前で、遥が言う。

 

「丁度良かった。少し試したいことがあるんで、付き合ってくれないか?」

「付き合うって……模擬戦ですか?」

 

 沖田の問いに遥が無言で頷く。サーヴァント同士ならばともかくマスターがサーヴァントを模擬戦に付き合わせるというのは普通ならば気狂いか何かにしか思われないだろうが、遥の場合は話が別だ。遥がサーヴァントと渡り合いあまつさえ打ち勝つことができるのは今までの戦績が証明している。

 しかし、不可解であった。先程の魔力上昇からして遥がサーヴァントを召喚したのは間違いないというのに、模擬戦をするのは遥本人であるという。では召喚したサーヴァントはいったい何処にいるというのか。

 そんな思考を、沖田は途中で断ち切った。そんなことは考えていても仕方がない。遥がこのタイミングで模擬戦を頼んできたのは間違いなく新たなサーヴァントが関係しているのだろうから、戦ってみれば分かる。

 遥と沖田の間にある距離はおよそ20メートル程。ただの剣士であれば詰めるのに十数歩必要な距離だが、彼らのような超常の領域にいる剣士であれば一瞬で詰めることができる程度の距離だ。どちらが速いかは別としても。

 共に一度深呼吸して意識を戦闘時のそれに切り替え、自己暗示によって肉体を戦闘用のものに組み替える。日本の剣士であれば普遍的に身に着けている戦闘の術だ。そうして闘争に純化された肉体で得物を構える。沖田は平晴眼。遥が我流剣術の通り力を抜いた中段の構えだ。

 

「――いきます」

「来い」

 

 ごく短い遣り取り。その瞬間、大気が弾けた。先に仕掛けたのは沖田だ。音の壁を追い越したその身体は一瞬にして常人の視覚限界を超え、遥に肉薄する。完全に模擬戦の範囲を逸脱した攻撃だ。しかしそのつもりでいかなければ一瞬で終わってしまうと沖田は理解している。

 虚空を貫く銀閃。あまりの速度で剣先の大気が押し出されて真空になる程のそれを、しかし遥は完全に見切って叢雲の刃で受け流す。刃と刃の間で散る火花が、暗闇に沈む庭園を照らす。

 攻撃を受け流されたことで沖田は無理矢理遥の間合いから離脱しようとするが、遥はそれを見逃さない。何も握っていない左手で沖田の腕を掴み、そのまま力任せに投げ飛ばす。そうしてその間に固有時制御の式句を唱え、体内に煉獄が展開されたことで体中から焔が溢れ出す。

 対して投げ飛ばされた沖田は空中で強引に身体を捻って体勢を立て直し、着地と同時に走り出した。そのままでは遥の背中を狙うことになるが、沖田は全身から焔とマグマを発生させている時の遥がどのような状態であるかを知っている。

 貫くような沖田の視線の先で遥の握る叢雲に焔とマグマが収束する。それは今までのように揺らめくこともなく全てが刀身を中心に圧縮され、深紅に輝いている。物理的には有り得ない現象であるが、魔術的には何ら問題はない。

 正宗を袈裟懸けに振り抜く沖田と振り向きざまに叢雲を振るう遥。深紅と銀の剣閃が何度も空中で打ち合い、その度に甲高い金属音が響く。だがそのうちに手応えに違和感を感じて、沖田が遥から距離を取った。

 見れば、剣戟の度に常軌を逸した熱量に晒されたためか刀身の一部が溶けだす寸前にまで赤熱していた。だが尋常な刀身であれば刃毀れして然るべき状態でありながら、正宗は全くその形状を変えていない。明らかに異常な現象であった。

 沖田はその原因を知っているものの、よもやこれほどとは思っていなかった。夜桜に継承されてきた概念凍結の封印魔術は、固有結界という最上の神秘を由来とする超常の熱からでさえ刃を守るだけの効力を備えているのであろう。

 だが凄まじいのはその魔術だけではない。それに守られている無銘正宗。その格は沖田の愛刀である加州清光はおろか、誓いの羽織の力で顕現する菊一文字則宗よりも高いだろう。レオニダスとの戦闘において正宗が羽織の効力を半ばまでしか受け付けなかったのはそのためだ。

 沖田自身が英霊である以前に格の高い剣士であるため何の問題もなく扱えているが、常人が下手に振るえば刀の格に負けて何かしらの反動を受けてもおかしくはない。それほどまでに、正宗は強力だ。それを改めて認識すると同時に、沖田は己のマスターの剣士としての評価を上方修正する。

 実際に使ってみて理解した正宗の位階の高さ。だがそれでも神刀である天叢雲剣には及ぶまい。人の手によって造られるものの極点にある正宗と、地球の手によって造られるものの極みにある叢雲。それを遥は時に同時に扱っていた。自在に、まるで己が肉体の延長ででもあるかのように。

 ――仮にこの場で遥と相対しているのが沖田ではなく遥の正体に半ば気づいているエミヤや気づいていながら黙っているタマモであれば、召喚したサーヴァントが姿を見せない事、そして遥の異常な強化というふたつの謎について解答を出していたことだろう。

 だが悲しいかな、沖田にはタマモのように神代を生きた経験も、衛宮のような人理に仇名すものとの豊富な戦闘経験もない。故に気づけない。肥大化しながらも遥の意のままに蠢く魔力が、既に人のそれではないということに。

 

 ――物は試しとやってみたが、これはそんな軽い気持ちでやるべきじゃなかったな……!!

 

 沖田と切り結びながら内心でそう呟く遥。傍から見ればただ異常な強化がなされているだけのようにも見える遥だが、無論それには代償がある。魔術の原則は等価交換。であれば、無茶な強化には無理な反動があて然るべきなのである。

 果たして、その代償とは己自身。より正確に言えば、彼の肉体だ。遥を強化しているものは確かに遥の内側にある()()に作用して遥との同調率を上げ、更に遥そのものの力も増大させている。だが本来、それは遥が使うべきものではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その齟齬が、遥に絶大な負担を強いているのだ。

 古来より日本では女性は生命力の源泉と言われており、櫛は呪力を持つとされていた。つまり遥を強化しているもの――彼が髪に巻き込む形で装着している櫛とは、彼がつい先程召喚したサーヴァントが変じたものであった。真名は言うまでもあるまい。

 キャスターそのものでもあるそれを自在に扱えるのは、遥ではない。しかし遥もソレであって、かつソレではない身。負担を無視すれば使えないことはない。そして遥は基本的に自らの戦力と成り得るものは一度試してみる男だ。故に起きたを相手にして使ってみたのだが、それは様々な意味で遥の予想を超えていた。

 全身を襲う苦痛。そして、それを塗り潰してしまうかのような高揚感。恐らく無理に分霊だけではなく自らまで強化している弊害であろう。キャスターが変じた櫛からは何か物言いたげな雰囲気が伝わってくるが、まだ戻す気は遥にはない。

 伝承に曰く、彼女は自ら櫛に変じたのではなく、変えられたのだという。たとえそれが彼女の同意の下に行われたものだとしても、彼女自身の力によるものではない以上その伝承を昇華した宝具もまたそのようになる。

 

「ぐ……おおぉッ!!」

 

 魂そのものに掛かる過負荷を咆哮と共に意識から追い出し、地を蹴って飛び出す遥。肉体の限界を超えた膂力を引き出したことで筋線維が何本か千切れる音が、骨格を伝わって脳に響く。その直後に起源に従って修正されるに伴って発生した、まるで臓腑をかき混ぜるかのような生々しい音も。

 沖田はそれに気づかない。気づけない。気づく要素がそもそも存在しない。沖田は心眼を持ってはいるが、遥の自傷と修正は刹那に行われるために動きに現れない。表に出ないのなら、あくまでも己の感覚に依存する心眼で見抜くことは不可能だ。相手がアルトリアやアルのような直感持ちであれば話は別だが。

 共に神速で駆け、正確無比の斬撃を放つふたり。それぞれの刃が狙っているのは互いの首であり、手加減のない一撃は当たればそれだけで相手を絶命させるには十分であると一目で分かる。

 一歩間違えば仲間の、或いは主の命を奪いかねないというのは模擬戦と言うには聊か過剰過ぎるだろう。だがふたりは下手に手を抜こうものなら相手に殺されてしまうと理解しているし、何より本気でなければ面白くない。

 

「やっぱり、強いな……!!」

「ハルさんこそ……!!」

 

 互いを賞賛する言葉を吐きながらも続けられる剣戟。ふたりの攻防によって王宮の中庭は既に半ば崩壊しかけているが、彼らにそんなことを気にしている様子はない。ただ目の前の相手よりも一歩でも先へ行こうとしている。

 そう。さらに先へ。もっと先へ。己が剣腕を全開にしながらも遥は高速で思考を巡らせ、沖田の行動を先読みする。天然理心流の理論や沖田の癖、更に周囲の環境。それらを総合し、沖田にとっての最適解を推理する。

 それは相手がサーヴァントという不変の存在だからこそできる方策だ。何故なら学習以外の理由でサーヴァントが変わることはなく、自分の動きから相手が何を学習するかさえ分かってしまえば、最善手を推理するのは容易だ。

 対して沖田はそれができない。遥はその身に宿す特性故に沖田だけではなく同化している分霊からも学習する。そのため相手をしている沖田から見れば、遥の剣筋は異様な変化、異常な成長をしているように見える。

 だが冷や汗を流しているのは沖田ではなく遥の方だ。正確な予測、異常な速度での成長、そして圧倒的な身体能力(スペック)()()()()()()()()()()()()。足りぬ実力を予測で補い、やっと遥は互角に沖田と戦うことができる。キャスターが変化した櫛のブーストを受けてもなお、だ。

 それを遥は愉しいとは思えど、嘆くことはない。剣士として沖田は遥よりも格上だが、遥はそれに追随できている。剣腕だけで戦っているのではすぐに終わっていただろうが、そこに魔術や頭脳を総合することで互角に戦い、そして事によっては勝利することもできる。それが、たまらなく嬉しい。それはきっと剣士の性だ。

 自分よりも強い相手にあらゆる手練手管を以て喰らいつき、追いつき、そして追い越す。戦いの中で自分が強くなっていくのを実感する。それは歓喜となって遥の身体を満たし、分霊との同調を高めていく。

 思考が巡る。剣速は同等だ。技術が足りていないのは分かっている。そこに推理を加えてようやく同格なのだ。ならば沖田よりも弱い今の自分が沖田を超えるためにひつようなものは何か。遥はその思考に、一瞬で答えを出した。

 身体から洩れる焔が遥の左手に収束して作り出したのは一振りの焔の刀。それを二刀流の要領で叢雲を引くタイミングに合わせて差し挟む。生成から抜刀までが刹那に行われたそれを沖田が察知する術はなく、反射的に身体を捻って回避する。だが遥の前にあって、その隙は致命的だ。すかさず叢雲を振るおうとする遥。しかしその直前に、予期していなかった声が中庭に響く。

 

「ちょっと待った! ストップ! ストップですっ!」

「タマモさん!?」

「姉さん!?」

 

 突如として割って入ったタマモの声で我に返るふたり。同時に遥の固有結界が沈静化し、身体から洩れている焔が消失した。左手の焔の刀が立ち消え、叢雲の刀身が元の黄金に戻る。そこに慌てた様子で近づくタマモ。その姿を見て、遥が失敗を悟る。

 いくら本人たちは模擬戦のつもりであっても、ふたりのそれは傍から見れば完全に本気の殺し合いであった。尤も本人たちも寸止めをする以外は常の殺し合いと同じ心持だったため仕方ないことではあるのだが。

 しかしタマモが焦っているのはそれだけが理由ではないらしかった。その理由を少し考えて、すぐに遥はそれを悟る。そうしておもむろに髪に巻き込んでいた櫛を外した。遥の、男性にしては艶やかな長い髪が夜風に流れる。

 

「遥さん。貴方……召喚したんですか、彼女を」

「俺の意志じゃねぇよ。強いて言えば……そうだな、星の意志だ」

 

 そう言いながら、遥は手にした櫛に魔力を込めた。瞬間、櫛がサーヴァントであっても目が眩むほどの閃光を放ちながらその形を解けさせていく。物体から人型へ。宝具から英霊、否、神霊へ。その在り様を変じさせる。

 そうして現れたのはひとりの少女であった。変色しただけの遥のそれとは違った純正たる銀髪を伸ばした、神霊であるのに巫女服を纏う、そんなちぐはぐな在り様を同居させていながら違和感を抱かせない、そんな少女だ。

 そんな少女とタマモの視線が交錯する。それは決して友好的な視線ではない。むしろ親の仇に向けるような敵意の滲む――タマモの視線はむしろ申し訳なさが滲む――視線を向け合っていた。しばらくして、タマモが口を開く。

 

「――櫛名田比売(クシナダヒメ)……」

「えぇ。櫛名田比売でございます。お久しぶりですわ、お義姉様」

「お、お義姉様!?」

「反応する所そこなのか、沖田……」

 

 妙な所に反応する沖田とそれにツッコミを入れる遥を一切意に介さず、タマモとキャスター、もとい櫛名田比売――クシナダは睨みあっている。その視線の意味を、遥は知らない筈なのに織っていた。

 クシナダはタマモに対して良い感情を持っていない。タマモ自身に恨みはないが、その本体である天照大御神には恨みがあるが故に、その分体であるタマモに対しても好意的に接することができないのだ。

 遥にもその気持ちが分からない訳ではない。未だ完全な融合はしていないとはいえ、殆ど分霊は遥と融合状態にある。そのためか、遥には分霊が保有する記憶の殆どを自らのものとして認識することができている。できてしまっている。故にクシナダが天照を嫌う理由が分かる。

 召喚した事実はもう変えようがないが、正直な所、遥はふたりの仲を取り持つ自信が全くなかった。なにせ彼自身他者との仲が上手く取り持てなかったからこそ学生時代は友達が碌にいなかったのだから。遥がそんなことを考えていると、不意にクシナダの視線が遥に向いた。

 

「それはそうと……遥様!!」

「は、はいっ!?」

「遥様……(わたくし)、言いましたよね!? 私の宝具形態を試しても、無茶はしないようにして下さいと! それなのにあんな無茶をして……」

 

 唐突に遥を叱りつけるクシナダ。だがそれも致し方ないことであろう。彼女が櫛になっている間、つまり自らの意志で動けない間、遥は自らの苦痛を完全に無視して高揚に任せて戦っていたのだから。

 クシナダの都合だけを考えるならば。どれだけ遥が無茶な真似をしようとそれで彼女の知る『彼』に遥が戻る(ちかづく)のならば何も言う必要はない。むしろ積極的に使わせるだろう。だが彼女がそうしないのは、遥がそうなることを望んでいないからだ。『彼』であるから愛しはするが。遥を叱っているのも彼を想うが故のものなのである。

 それが解っているからこそ、遥は何も言い返すことができず、また言い返す気もなかった。ただ今後の人理修復のことを考えて、確実にその想いを裏切ってしまうことを申し訳なく思うばかりである。

 召喚されたばかりであるというのに距離の近いクシナダと、それを何の疑問もなく受け入れている遥。言葉にすればそれだけであるというのに、どうしてか沖田は胸が締め付けられるかのような思いであった。

 沖田はその感情の源泉を知らない。サンプルがないために、自分ひとりではその正体に気づけない。ただその感情が純粋なままあらねばならない主従の関係の上には邪魔でしかないことは漠然と分かっている。

 故に沈める。サーヴァントとしての、剣士としての忠誠心の下にその得体の知れない感情を沈めて、圧殺しようとする。けれどそれは不気味な程に根強く沖田の心に根を張って、消えてはくれない。

 その隣で沖田の様子を見ていたタマモは、沖田自身でさえ気づいていないその感情の正体に気づいている。だが何も言わない。ただ遥が随分と罪作りな男だと思うばかりである。

 遥は幼い頃に両親を喪い、無意識的にその記憶を封じている。そのために遥には〝誰かに愛された記憶〟がないに等しく、その所為で彼は〝自分が誰かに愛されることはない〟と思い込んでいる。そのために遥は誰かからの好意に気づけない。

 

(それを解決し得るのがクシナダ……さんであるというのは、皮肉でしかないですね……)

 

 自分では解決してやれないと思っている訳ではない。けれどそれでは足りないのだ。冷酷に、残忍に彼らを迫害し続けてきた天照の転生体であるタマモに、今更本当の家族のように在ることは許されない。所謂ごっこ遊びにしかなり得ない。そんな思いを無視して、タマモが話題を変える。

 

「それはそうと……何故クシナダさんが召喚されたんでしょう。見た所、依り代を使っている訳ではないようですが……カルデアの召喚システムでは、神霊の召喚は……」

 

 タマモの言う通り、カルデアの召喚システムでは神霊の召喚は不可能だ。そもそもカルデアの召喚システムの元となっている聖杯戦争の召喚システムにおいても神霊は降霊できない。ならばその機能縮小版(ダウンサイジング)であるところのカルデアでできないのは当然であろう。

 だが何事にも例外はある。その例外にあたる事象が今回発生した。依り代もないままに神霊がサーヴァントとして顕現する、という考え方によっては物理法則どころか神秘の原則にすら反した事象である。

 仮に彼らが〝黙示録の獣が顕現し得る聖杯戦争〟の存在を知っていたのなら、その聖杯戦争に起きたことからクシナダが召喚された理由についても推測することができただろう。だが特異点にならない並行世界のことを彼らが知っている筈もない。故にその場でクシナダが召喚された理由を知っているのは彼女自身と遥だけであった。

 

「言っただろ? 星の意志だって。……どうやら、抑止力が働いたらしい。それも、星の」

「星の……?」

 

 魔術世界においては抑止力とだけ呼称されることの多い現象は、より厳密に言えば2種類に大別される。ひとつが人類の無意識集合体、生きねばならないという祈りの総体である〝アラヤ〟、そして星が己の存続のために働かせる〝ガイア〟である。

 どんな世界においても一般的であるのはアラヤの方だ。現在の地球は人類が滅亡すると生命として終わってしまう謂わば共生関係にあり、その人類の危機は大抵アラヤが対処できてしまうためガイアの働く余地がないのである。

 しかしガイアにとっては星の命運を握る霊長は何も人間でなくても良い。人理焼却という〝人類がいなくなるためアラヤが働かなくなる異常事態〟においてもガイアが働かないと目されていたのはそのためだ。

 だがその予想に反し、今こうしてガイアが動いた。それはつまり〝星の命運を覆し得る危機〟が迫っていること、そして遥がガイアが後押しするだけの何らかの理由があるということである。

 そして抑止力の後押しによって召喚されたのがクシナダであるという事実。日本のみに限定するにしても他に数多の神霊がいる中で、クシナダという〝建速須佐之男命の妻である〟ということくらいしか記述のない神霊が選ばれた、理由。ここで来てそれに気づかない者はいまい。

 思えば、今まで手掛かりは多過ぎる程にあったのだ。遥の保有する〝天叢雲剣〟と〝八岐大蛇〟という宝具。タマモ、もとい天照との間にある血の縁。神代の存在にしか扱えない筈の第五真説要素を扱える特異体質。水の上を魔術なしで歩く、つまりは水を操るという異能。

 だがそれが示す事実をタマモ以外が半信半疑で信じ切れていなかったのは、それが在り得ないからだ。血云々の問題ではなく、現代においてそれが『表層』に存在するには多くの問題がある。そのため、その可能性を信じ切れていなかった。

 それでもクシナダが召喚され、そして彼女が変身した櫛を扱うことができるとあっては、最早疑うことなどできまい。未だひとりだけ気づいていなかった沖田の顔が驚愕に染まり、タマモが口を開く。

 

「遥さん。貴方は、やっぱり……」

「……あぁ、そうだ。俺はただの人間じゃない。神霊〝建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)〟の血を受け継ぐ一族の末裔にして、彼の魂を持つ()()()()()()偽英雄……半神半人だ」

 

 人理修復という、人間による人間の未来を取り戻す旅。彼はそこに紛れ込んだ〝異物〟であった。




 別に書いている小説が完結できそうだからってこの小説をひと月も放っておいた作者がいるってマ? ……私のことですね。申し訳ございません。
 55話目にしてようやく遥の正体晒し回。いかがでしたでしょうか。……え、知ってた? ……そうですか。
 キャスター、もといクシナダのステータスについては活動報告に投稿させて頂きます。


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第56話 いざ、果てに至るその時まで

 自らを半神半人の存在であると明かした遥だが、何故そのようなものが現代にいるのか説明するにはまず彼の生まれた一族である夜桜家がいったいどのような一族であるのか説明する所から始めねばなるまい。

 表向きの夜桜家で最も知られている情報と言えば、やはり彼らが伝承保菌者(ゴッズホルダー)であることだろう。現にオルガマリーもそれを知っていたから遥をマスターとして迎え入れたのだから。他の神話体系におけるオリュンポス山やアースガルズのような、神々の住まう場所〝高天原〟に存在する神霊に仕え、主から神剣と封印の魔術を授かった一族。それが夜桜家だと、記録上はそうなっている。

 だがそれはあくまでも夜桜家の本質を隠すためのカムフラージュでしかない。確かにその情報も間違いとは言い切れないのだが、しかし致命的な部分が違っている。そのままでは夜桜の本質には近づけない。

 ただひとつ言えることは夜桜というのは彼らの精神性如何に関わらずただの人間ではなく、とある呪いを継承する一族であり、その完成形たる子が生まれるのを待つ人外の魔の一族であったということだ。

 魔術の大家とはとかく表世界では何らかの富豪である事が多いが、夜桜もその例に漏れず――両親の死後は遥には引き継がれなかったため途絶えてしまったが――冬木を中心に活動する商家であった。尤も冬木を拠点にしたのは()()の頃からで、それ以前は各地を転々としていたのだが。

 明らかに怪しい外様の人間が現代に至るまで居を構えることができる程に受け入れられたのは、彼らが移り住んできたのとほぼ同時に発生した飢饉の際に夜桜の者たちが村人のために奔走した所に寄るものが大きい。魔術師特有の打算などではなく、完全な善意での行動だ。

 それは魔術師である以前に人外の魔であってもありえない話だ。基本的に人でない存在は人の心を持たない。人の心を持っているように見えても、それは人と同等以上の知性を持っているからそう見えるだけなのだ。

 だが夜桜は違う。彼らは人外の存在でありながら人間の血を持ち合わせるが故に限りなく人間に近しい精神性を持ち、そしてその全員が一般的な人間でさえ珍しい程の善性を備えていた。偶然ではない。必然だ。彼らはそのように設計(デザイン)されているのだから。

 人理修復が始まってから遥が何度か口にした〝叢雲の呪い〟。それこそが夜桜の者に対して地球が行う設計と改造だ。彼らがそれを叢雲の呪いと呼称するのは、それが神造兵装である叢雲を介して施されるからだ。

 胎児であるうちに結ばれる次代の夜桜と天叢雲剣の間の経路(パス)。それを通じて地球はその身体だけではなく概念にまで手を加え、完全な人外の魔たらしめようとする。しかしそれは半ば自然現象的に行われるために夜桜の中でも適合に個人差があった。

 その呪いに、遥は完全に適合してしまった。何もかもが地球によって仕組まれた中に在って、それだけは全くの偶然であった。たまたま遥が元々持っていた体質や魔術特性がそういうものだった。それだけの話だ。

 だがそれだけでは夜桜に与えられた冠位指定(グランド・オーダー)である〝神霊スサノオの再現〟の達成には至らない。それなのに今、遥は夜桜の血に課せられた宿業を体現した者として在る。それはひとえに後天的に再現度を上げられたからに他ならない。

 ――これは遥でさえ知らないことだが。嘗て初めてロード・エルメロイⅡ世が遥と出会った時、彼は自らの内弟子に対してこのように漏らしている。『詳しい事情は知らないが、あの男は謂わば完成された(グレイ)なのだよ』と。

 それはグレイという、ある意味で遥と似通った境遇の少女を内弟子としているエルメロイⅡ世だからこその言葉であった。彼女がいなければいかなエルメロイⅡ世とはいえ遥の内情に気づくことはできなかっただろう。

 〝アーサー王を再現する〟という目的の下で生み出されたグレイ。〝神霊スサノオを再現する〟という冠位指定の果てに生み出された遥。それを目指したものが人か地球かという違いはあれど、ふたりを取り巻くものは驚くほどに似ている。流石に全て同じとはいかないが、数少ない違いの中で最も決定的であるのはその目的が果たされたか否か、だ。

 完全にアーサー王を再現するための儀式が執り行われるより前に村から連れ出されたグレイとは異なり、遥はその内側にスサノオの分霊を植え付けられている。にも関わらず遥の自我が消し飛んでいないのはスサノオ自身に復活の意志がないこと、そして皮肉にも叢雲の呪いによって当てられた『不朽』の起源によるものであった。

 そう。地球、もといガイアにとてはスサノオの完全な再現などはどうでも良い話なのだ。ただ呪いの到達点たる者にスサノオの戦闘能力や誰かを守る意志さえ引き継がれてさえいれば良い。それは情というものを一切持たない抑止力特有の冷酷極まる判断であった。

 ガイアだろうがアラヤだろうが、抑止力は機械的なものであるために人の情など一切解さない。人外の魔たる一族に人間的な精神性を持たせていながら、彼らが抱く苦悩など理解しようとしない。抑止力が見ているのは、ただ人の情が齎す利益という一点のみ。

 ふたりのエミヤがアラヤの守護者であるのなら、遥は謂わば〝ガイアの守護者〟といった所だろうか。だからこそ、遥はサーヴァントとも戦える。それどころかガイアにとって、それは強さの通過点でしかない。そもそもガイアが夜桜を設計(デザイン)したのはサーヴァント()()を相手取るためではないのだから。

 夜桜に受け継がれてきた神刀〝天叢雲剣〟はただの神造兵装ではなく、英雄王ギルガメッシュの有する乖離剣エアと同じく神の因子を持つ者でなければまともに扱うことすらできない剣であり、終わりと始まりを象徴するエアとは対極にある神造兵装。本来は星の外敵に揮われる神造兵装が悉く敗れ去った後にでも残る星の最後の希望として生み出されたものだ。

 故にそれを扱う者もまた、それまで生き残っていなければならない。だからこそ地球は夜桜の者を調整し、『不朽』の起源を与え、かつ呪いの完成形たる遥を神霊に匹敵する存在に仕立て上げようとしている。つまりオルタが予感した〝遥は人理修復を英雄に至るまでの試練として与えられている〟というのは間違いではないのだ。

 遥がカルデアに来たのはある意味で必然である。如何なる方法によってかは不明だが星は自らに近づく脅威を察知し、それへの対抗策(カウンター)としてアラヤと共謀して遥をカルデアに送り込んだ。遥をガイアの守護者として成長させるためにも、人理修復は最適だったのだ。

 全てはいずれ来る自然な終わりまで地球を存続させるためであり、遥をいずれ来る星の敵を悉く滅ぼし尽くすに十分な強さを身に付けさせるためでもある。夜桜を地球が作り出した真の目的――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という最終目標に到達せんがために。

 遥がそれを望んでいるか否かということは関係ない。ガイアはただ遥にそう成れ、そう在れと強要して、そこに至るように試練を与え続けるのだ。彼の意志など頓着せず、否応なく近づいていくように。遥がどんなモノであるのであれ、地球にとっては道具のひとつでしかないのだ。

 人の情が齎す利益に目をつけて遥から人の情を奪わずにいながら、しかしその果てに星の意志の代弁者になれなどと聊か虫の良すぎる矛盾した話であろう。しかし抑止力とはそういうものだ。全体、或いは己の存続のために、たったひとつには最悪の理不尽を押し付ける。ただその理不尽を押し付けられたのが遥だったというだけだ。

 遥がマシュやアイリスフィールを〝同族〟と言ったのは、つまり〝何らかの目的により第三者の介入を受けて生み出された者〟であるからだ。彼女らとは違い遥は愛故に生み出された存在ではあるものの、その愛すらも地球という絶対的上位者に利用されたという点では残酷極まりない。

 創造主たる魔術師によって避けようのない〝死〟という運命を背負わされたマシュとアイリ。そして地球という絶対者によって〝不朽(えいえん)〟という旅路を押し付けられた遥。対極にある彼らだが、しかし望まぬ時の制限を与えられたという意味においては変わる所はあるまい。

 加えて遥は今でこそただの半神半人でしかないが、いずれその枠を超えて自由意志無きガイアの代弁者へと成り果てることを強制された身だ。その点で言えば、自由意志を喪失した時点が遥の死とも言えるだろう。

 その自由意志の剥奪も、自動的に行われるものではない。それはアラヤの守護者が無数の戦場で自我や記憶を摩耗させていくように、遥の道程を血と絶望で染め上げることで人間性を奪うのだ。彼が異常に死徒や悪魔と出会うのはその影響である。

 つまり望んでもいない絶大な力を与えられ、その代償として有無を言わすことなくその身を地球に捧げることを強制されたのが夜桜という魔導であり、その完成形である遥なのだ。その果ては半神半人などという領域にはない、星の傀儡。人の心を持たぬ殺戮機構(ジェノサイダー)である。

 ――首都ローマの王宮、その大広間にて遥が語った内容は、真っ当な人間が聞けばまず第一に遥の正気を疑うような内容であった。それはあまりに常識から逸脱していて、けれど条理の埒外にある神秘を知る者たちにとっては妙に現実感がある。

 現代にまで生き残った半神半人。通常ならば何を馬鹿なことをと笑い飛ばしてしまうところだが、遥にはそうと説明しなければ説明の付かないような事があるのも確かだ。加えて限定的にでも地球のバックアップを受けているのなら、神霊の力をある程度残していることにも一定の説明が付く。

 人間の限界を超えた魔力量やトップクラスのサーヴァントに匹敵する身体能力。それだけではなく降霊させた八岐大蛇の霊を抑えつけて使役する力や水を操る異能は、全てスサノオとしての側面を持つが故と考えれば自然なことのようにも思える。尤も、それでも多少無理は生じるけれど。

 長々として話を終えて大きく息を吐き、周囲を見遣る。けれど、誰も何も言わない。遥の正体に気づきかけていた者も、流石に彼の背負わされた行く末までは分からなかったのだろう。そんな中で、遥が再び口を開く。

 

「あまり驚いてないな、立香。てっきり妄言だと言うものだと思ってたんだが」

「どんな話でも、遥が言うなら信じられるよ。それに……多分そうなんじゃないかって思ってたから」

 

 藤丸立香は聡明な人間である。それは何も魔眼が齎す副次的効果などではなく、生来の性格や能力として。元よりそうした観察眼とでも言えるものを持ち合わせ、かつ神秘を知った立香はある種の既定路線めいた流れで遥の正体にも気づいていた。

 流石に遥がスサノオの子孫であることまでは分からなかったものの、立香は遥に人ならざる魔性、近いものを挙げるならばクー・フーリンや変異特異点βで交戦した一部の英霊と共通する気配があることに気づいていた。であれば、そこから正体を推察することなど容易である。

 そして、立香は相棒が実は人間ではありませんでしたと告白するだけで距離を感じる程、器量の狭い人間ではなかった。たとえ遥が何なのであれ、遥が遥である限り立香は彼を信用し、信頼する。そういう器量の広さが立香の最たる長所であり、人間でなくとも知性あるもの全てを惹きつける〝人誑し〟たる由縁であった。

 立香の答えに、嘘の色合いはない。彼があくまでも心底からそう思っているからこそ、その答えを口にしたのだ。その事実に聊か安堵している自分がいることを遥は自覚する。いくら彼が他人からの恐怖や悪意に慣れているとはいえ、友人に距離を置かれるのは堪えるのだ。

 しかしそれは立香が事の重大性、或いは遥の脅威度を理解していないからこそだとも言える。それに真っ先に気づいたのはやはりと言うべきか、ある意味で遥と同族ともいえるアラヤの守護者たちであった。

 

「マスター。君は自分をいずれ星の代弁者に成り果てる者と言ったな? 星に仇名す悉くを殺し尽くすとも。……それはつまり、君は人類を滅ぼす可能性がある、ということか?」

 

 一切の躊躇いがないアサシンの問いに、一同が息を呑む。アサシンの言葉はいつも通りの声音でこそあったものの、その内側には常よりも研ぎ澄まされた抜き身の刃が如き警戒と、少しの困惑があった。

 アサシンは遥を信用している。マスターとしての統率力には多少の不安はあるものの、単騎での突破力や生存性はサーヴァントにも劣らない。それに何より、遥はアサシンが失ってしまったものを持っている。だからこそ、アサシンはアラヤの守護者としてはその怪物が人に牙を剥くことを、自覚はなくとも人間としては遥の人間性が失われることを憂いていた。

 仮に遥が人類を滅ぼすのならば、エミヤとアサシンは彼を殺さなければならない。少なくとも人理が戻った後には。人類を守るため、そして遥に自分が守った人理を自分で滅ぼさせたりしないために。それは人類の為でもあり、遥の為の判断でもあった。だが、遥は首を横に振る。

 

「滅ぼさないさ。少なくとも今の人理と地球の利害関係が続いているうちは、俺はお前と同じ現生人類を守る側だ。俺が滅ぼすのは、そうだな、言ってみれば、()()()()だ。現行人理が続くうちにガイアとアラヤが仲違いしない限りはな」

「次の人理、だと?」

 

 無意識のうちに聞き返していたアサシンに、遥が頷きを返す。確かに今の人理ではない次の人理などというものがあれば、それはアサシン達守護者の管轄ではない。彼らが遥を殺す必要性はない。だが、次の人理とはいったい何なのか。

 たとえばそれは、『人類が地球と月に分かたれ、アラヤに反して存続しようとするデザインベビーが生み出された世界』。たとえばそれは、『星が死に絶えながらも人間が作り出した亜麗が死んだ星の上で生きる世界』。そういう〝人類の後に続く、地球が死んでもなおその上で生存し得る次代の霊長〟を遥は次の人理と形容している。

 しかし口では簡単に言うものの、果たしてそれはいつ来るものなのか。数百年? 数千年? 数万年? 或いはそれですら足らない可能性もある。だからこそ地球は遥に『不朽』の起源という不死紛いの力を与えたのだ。来るべき時まで、極力彼が死ぬことがないように。

 それはエミヤやアサシンのようなアラヤの守護者とは別種の苦しみを背負うことでもある。アラヤの守護者は永遠に戦い続ける苦しみを自らがその選択をしたという事実で抑え込むこともできようが、遥のそれに彼自身の意志は関係ない。ただ星の呪いを受けた一族に生まれたから。ただ呪いによって変質しきってしまったから。それだけの理由で遥は永遠にすら錯覚する程の生を強制された。

 だが、遥は不死ではない。何事もなければ永遠に等しい時間を生きることができるものの、肉体を完全に破壊されてしまえば再生しようもないのだ。そうでなくとも脳と心臓を壊されれば死ぬ。ただ生命力が尋常ではないのと寿命が長いだけなのだから、()()()()()

 であるのならば、或いは。何人かが抱いたその危惧を真っ先に口にしたのは、そういう〝心の弱さ〟を最も嫌うアルトリアであった。

 

「ハルカ。貴様がマスターでありながら正面で戦うのは、よもや死に場所を求めているからではあるまいな?」

「ンなワケあるかよ。俺はただ、俺にできることをしているだけだ」

「本当にそうだと言い切れるのか?」

「……何?」

 

 問い返す遥だが、アルトリアは何も言わない。けれどその目は真っ直ぐに遥を射抜いていて、遥はまるで自分ですら分かっていない心を見抜かれているかのような感覚に陥った。それは変異特異点αでギルガメッシュと相対した時や数日前にネロと話した時のそれと同じ、上位者に腹の底を探られていることによるもの。

 遥とて、アルトリアの言わんとすることが分からない訳ではない。たとえ長く生きていてもその果てにある運命から逃れられないのであれば、いっそのこと死んでしまえばその運命に辿り着かずに済む。自死ではなく自分よりも強い相手に殺されるのであれば、言い訳にはなる。そう考えているのではないかと思われた所で、何も不思議はない。

 アルトリアは何も遥のことを疑っている訳ではない。ただ、彼女は遥を試しているのだ。確かに遥は戦闘力という面においては強いと言える。ならば心はどうか、と。生まれ持った力だけを揮っておいて代償を背負うことから逃げるのならば、所詮はそれまでということ。きっと人理修復を生き残ることはできない。

 だが、代償まで背負って運命に打ち克つだけの強さがあるのならば。たとえ相手がガイアであろうと余人の思惑を撥ね退けるだけの強さがあるのならば。遥は規定された道を破壊して己だけの道を築くこともできるだろう。それだけの心があって初めて、アルトリアは遥を立香と共に立つ者として認めるのだ。

 何も言わないまま睨みあうアルトリアと遥。ふたりが纏う空気はひどく張り詰めていて、余人が口を挟むことを許さない。まるで今にも斬り合いを始めそうな気配の中、少し経ってから遥が口を開いた。

 

「たとえ俺がそう思ってるのだとしても、自覚してない心なんか知るか。ただ俺は俺として生きていたいだけだ。それを邪魔するなら、俺は運命とだって戦う。そして勝ってみせる」

「ほう……それが、貴様の覚悟か」

 

 本気の目だった。遥は冗談でもなく本気でガイアという絶対的上位者の定めた運命に逆らおうとしている。何という思い上がり、何という傲慢か。人ならざるモノでありながら、人のような望みを持つなど。実にアルトリア好みの在り方だ。

 他人の事情など知らない。自分がそう生きたいと望んでいるのだから、自分はそう生きるのだと叫ぶ。それを邪魔するものがあるのならば、何であろうと乗り越える。そのためであれば、嫌いなものであろうが、憎いものであろうが救う。

 立香やマシュに幸せでいて欲しいと願うのも、結局は遥の独り善がりだ。それを遥は確かに認め、受け入れていた。願いなど所詮はその程度のものである。自分のためのものであれ、他人のためのものであれ、変わらない。

 遥が人理修復の中で戦い続けるのは人類を守るためではない。自分が自分として生きるため、そして、立香やマシュのような自分が愛した人々に生きてもらうため、自分の目の前で死んでいった人々の死を無意味にしないため。その手段として人類を救う。人類というあまりに巨大な総体に、不遜にも言うのだ。自分の願いのために救われろ、と。

 柄にもなく気障ったらしいことを言っていたことにようやく気付いたのか、我に返った遥が少しだけ顔を紅くする。けれどすぐに深呼吸をして改めて覚悟を決めると、ひとつ周囲を見遣ってから口を開いた。

 

「だから……その、人理修復が終わるまででも良い。俺、こんなんだから迷惑を掛けることもあるだろうけど……俺の我儘に付き合ってくれ。頼む」

 

 遥のその懇願に反対の意を表す者は、その場にひとりもいなかった。誰ひとりとして言葉は返さないけれど、それは拒否ではない。むしろ、言うまでもないという意志の表れであった。

 人理修復が始まってから今まで一度とて自らの本心を曝け出して何かを託すことがなかった遥の、初めての懇願。であれば仲間として、どうして拒否することができようか。そう思える仲間がいることが、遥にとっては最大の幸福であり幸運と言えるだろう。

 ――人理修復。人間による、人間の未来を取り戻す旅路である筈のそれは〝異物〟の混入によって本来の在り方を失った。けれど、それは破綻ではない。混じり込んだ異物は人ではないけれど、異物にとってはこれ以上ない程に得難い彼を理解しようとしてくれる人の仲間を得た。故にこそ、これは――

 

 

 ――人ならざるものが『人間』に至る旅路(ものがたり)だ。

 




Q、今回クッソ地の文長かったけど、結局遥って何者?

A、現時点では半神半人、神造英雄。ガイアとアラヤが共謀して造った、生きた守護者。その設計思想のために人理敷設以後、星の運行法則移行後に造られたにも関わらず神代の神秘を内包する事を許容(というか半ば押し付け)されており、かつアラヤが関与しない次代霊長を淘汰する使命を帯びた■■■・■■■の試作体のうち一体にして天体を成すモノの不完全体。
 現行人理が終わらないうちにガイアとアラヤの利害関係が破綻した場合どうなるかは不明。

 さて、56話目にしてようやくこの小説の主題を明かせましたので、あらすじに少し書き加えようと思います。


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第57話 吠えよ英雄、貫け信念

 その軍は、まさしく『死』そのものであった。まるで平原に流れ込んだ濁流の如く犇めき合いながら行軍をするそれは、仮に上空から見ればこの時期に緑一色である平原が悉く黒に染まって見えたことだろう。だが本当に驚くべきはそこではない。

 その軍は軍でありながら、人間はひとりもいなかった。総数1万にすら及ぶ規模の軍でありながら、しかしそこに尋常な生命はひとつもない。それは或いは死骸兵(アンデッド)であり、或いは骸骨兵であり、或いは魔獣であり、或いは種類の判別ができない程の異形であった。

 しかし人間がひとりもいないからと有象無象ばかりと侮る勿れ。それらはひとつひとつが超常の力を宿した神秘の産物であり、人間の兵など百どころか千の数が迫ってきても打倒し薄るだけの力を備えている。

 それが、1万。数も質も、先日ローマに襲来した勝利の女王軍に勝るとも劣らない。疲弊した今のローマ軍が接敵すれば一瞬にして壊滅してしまうことは想像に難くない。彼らが踏んだ後には何も残らない。草木さえも踏み倒され、折り砕かれ、荒れ地と化した大地のみがそこにある。

 破壊せよ。辱めよ! 蹂躙せよ‼ 此処はかの怨敵の国ではなくとも、それに比する愚かしい者どもの巣食う土地である‼ 声ならぬ声でそう己が配下にして分身たる不死の軍に命令を下すのは、その最奥を往く黒い肌に白い文様を刻んだ偉丈夫。

 彼の真名は〝ダレイオスⅢ世〟。かの大帝国ペルシアを治めた王であり、九偉人のひとりたる征服王イスカンダルと幾度となく戦いを繰り広げた歴戦の古兵。しかしその生涯を王の責務の全うでもイスカンダルに敗れたのでもなく、臣下(サトラップ)の裏切りによって終えた悲劇の人である。

 そして彼が率いるは彼が有する精鋭ばかりを集めた軍が後世の脚色や伝説化によって強力な不死性を獲得した宝具〝不死の一万騎兵(テンサウザンド・アタナトイ)〟。それらは文字通り死なずの兵。一国の全てを破砕して余りある、ダレイオスの鉾にして盾。

 さあ愚かにも我が目前に立ち塞がる蒙昧どもよ、打ち震えるがいい。自らの無力さを思い知り、絶望に滂沱しながら命乞いをするがいい。そしてこのダレイオスの偉大さを思い知り、尊名をその魂を刻みながら果てるがいい‼

 或いはダレイオスが少しでも理性を残していれば、その霊基に満ちる異常なまでも強壮感にそう口走っていたかも知れない。劣勢となれば我先にと戦場から逃げ出した臆病を忘れ、ひとりの愚かな戦士として叫んでいたかも知れない。

 だが実際に彼の口から放たれるのは言葉ではなく、知性と理性の欠片もない咆哮のみ。なぜなら彼は『狂戦士(バーサーカー)』であるが故に。それだけではなく、連合ローマの宮廷魔術師にして支配者たるレフの操り人形であるが故に。

 ダレイオス自身に自覚はないが、彼の霊基はその殆どが聖杯の泥によって犯されて元の容から大きく逸脱してしまっていた。にも関わらずこうして捨て石同然に放たれたのは、彼はレフにとってあくまでも実験試料でしかないからだ。

 その在り方は最早人類史に名を遺した英雄、境界記録帯(ゴーストライナー)とさえ呼べまい。精々が人形、そうでなくともマスターであるレフにとっては実験用のラットとそう変わらない。或いはもう捨て石にしてしまったのだから、それ以下か。

 そんないっそ憐れとも言える身の上を一切知ることもなく、ダレイオスはどこからか湧き出てくる抗い難い破壊衝動のままに進軍していく。行先は知らない。知らずとも勝手に身体は動く。そういうように動かされている。露骨に、まるでアンコウの疑似餌ででもあるかのように。そして、それをカルデアが見逃す筈もなかった。

 ダレイオスが聖杯の泥でもって強化された視力により遥か先に陣取るローマ軍の姿を認め、獣じみた咆哮をあげる。鏖殺せよ! 王に歯向かうあの不遜な奴腹を殺し尽くせ‼ 配下の意志無き兵を鼓舞するそれはしかし、直後に悲鳴へと変わった。

 それはダレイオスにとってはあまりに唐突な攻撃であり、カルデアにとっては既定路線通りの行動であった。大地を破壊で彩る不死の軍勢を襲ったのは黒と金の極光。アルトリアの〝約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)〟とアルの〝常勝の剣よ、神をも堕とせ(マルミアドワーズ)〟である。

 いかな不死の軍勢といえど、再生するための肉体を失ってしまえば忽ちのうちに死に絶えてしまう。そしてあくまでも戦うためだけに集められた軍勢にそれを防ぎ得るだけの防御力などある筈もなく、見る間に不死の軍はその数を減らしていく。だが、ダレイオスを襲う攻勢はそれだけでは終わらなかった。

 音すらも追い越し、光にさえ迫るのではと錯覚する程の速さでローマ軍の中から飛び出してくる蒼き光。それは単身で以てダレイオスの軍に突入すると、一瞬にして不死である筈の兵を広域で消し飛ばした。続けて、跳躍。その身体は落下せず、法外な魔力の高まりを纏い空中でその得物を構えた。

 ダレイオスからは丁度逆光になってよく見えない位置で、しかし確かに彼はその戦士の姿を見て取った。部厚いながらも無駄のない筋肉の鎧を全身に纏い、それを覆う青い戦装束を豪奢ながら戦闘の邪魔にならない完璧な装飾品で彩った赤枝の騎士。オ――、とダレイオスが断末魔の叫びをあげるより早く、その魔槍が解き放たれた。

 

 

「――〝突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)〟ッ‼」

 


 

「終わったぜ、マスター。()()姿()のオレの全力を見せられなかったのは残念だが、ま、準備運動くらいにでも考えておくかね」

 

 首都ローマから少し離れ、旧勝利の女王軍の支配地であった場所。そこで宝具の一撃によって敵性サーヴァントの一軍を屠ってのけたクー・フーリンが戻ってきた愛槍を掴みながら、戦闘の疲れを一切感じさせない笑みを浮かべる。その姿は以前までのそれではなく、纏う魔力の総量も比べ物にならない程に増大している。それは昨日行った霊基再臨の結果であった。

 霊基再臨とは簡単に言えば〝霊基の再定義〟である。多くの魔力を内包する特殊な素材を消費することで『座』からより情報を引き出し、霊基に上書きする。そういう意味では疑似的な再召喚と言っても良いかも知れない。

 故にその伸びしろは現地での知名度に影響される。その特性はこの第二特異点においてカルデア側に大きな利益を齎した。即ち、年代的に活躍した時期が近いクー・フーリンの大幅な強化の可能性という利益を。

 結果、クー・フーリンは完全体とは言えないものの少なくとも考え得る限りでは最上に近い強化を行うことができた。今まではそれぞれ異なる魔槍の使い方として宝具化されていた4種類以外に新しく〝剣〟の宝具と途轍もないスキルを獲得した。

 以前のクー・フーリンには見られなかった、腰に佩いた鞘込めの剣。それが大英雄クー・フーリンの愛剣たる光輝剣(クラウ・ソラス)〝クルージーン・カサド・ヒャン〟である。今回の霊基再臨によって得た最大の変化がそれだった。更にステータスも上昇し、味方側でステータスの総合値最大だったアルと同等クラスになっている。それでも完全体ではなく謂わば中間体とでも言うべき状態であるのだから、大英雄の凄まじさが知れるというものだ。

 だが今回の強化はメリットばかりである訳ではない。そもそもデメリットのない強化などないのである。全体的な性能上昇に伴いクー・フーリンの現界を維持するための魔力は増加し、戦闘行動のための魔力消費も大幅に増えた。まさに立香にとっては諸刃の剣であるが、立香は迷うことなくクー・フーリンの強化を選んだ。戦力強化のためでもあるが、より多くの命を守るためでもある。

 互いの健闘(ガッツ)を称え合うように拳を打ち合わせる立香とクー・フーリン。だがその直後に急激な魔力消費に反動で立香がふらつき、傍にいたマシュがそれを支えた。いかにカルデアからのバックアップがあるとはいえ、立香の魔術回路では3回連続の宝具行使にはまだ耐え切れないのだ。

 それでも立香は少しの間のみマシュの肩を借りて呼吸を整えると、すぐに立ち上がった。未だ倦怠感はあるが、行動できないという程ではない。そうして問題ないとでも言うかのように笑ってみせる立香に、ひどく澄んだソプラノが投げかけられた。

 

「ふぅん。ただの人間と思っていたけれど、強いのね。貴方」

「ステンノ……」

 

 立香の我慢強さを賞賛する言葉とは裏腹にまるで彼の痩せ我慢を愉しんでいるかのような笑みを見せる、幼い容姿ながらもどこか男を誘惑する妖艶さを纏う少女。その真名()は〝ステンノ〟。ゴルゴン3姉妹の長姉にして、この特異点にカウンター・サーヴァントとして召喚された神霊だ。

 元々ステンノは地中海に浮かぶ島に引き籠っていてこの特異点の騒動に関わる気はなかったのだが、このローマ全土を支配せんとしていたブーディカに追われてローマ帝国に保護されていたのである。それがこの進軍にあたって立香と契約して同行することになったのだ。

 ステンノを含めゴルゴン3姉妹は〝男たちの偶像〟として生み出された女神である。故に大抵の男はその一挙手一投足に目を奪われ、魅了されてしまう。だが立香にその様子はない。ただ他のサーヴァントに向けるような視線を、ステンノにも変わらず注いでいる。

 

「オレは強くなんてないよ。ただちょっと見栄張りが上手いだけさ」

「そう。それでも、自分の力を誇示することしか頭にないギリシャの男よりは余程強く見えるわ」

 

 本気か冗談か分からない声音でそう言い、クスクスと笑うステンノ。それに、立香は困ったように笑うだけだ。彼は基本的にお人好しであるが、聡明でもある。故にステンノの根底にある神霊らしい超越者然とした冷酷さと男性不信があることを見抜いていた。

 神話に曰く、形なき島に幽閉されたゴルゴン3姉妹の許へは怪物と化したメドゥーサを討つために多くの勇者が訪れ、そしてメドゥーサの前に敗れたという。そういう〝強いながらも醜い男〟ばかり見ていれば、男性不信になるのも仕方のないことであろう。立香はそれを容易に見抜き、受け入れることができる男であった。

 しかし同時に立香は元来あまり自己肯定がそれほど強くない、それどころか基本的に自己肯定感が弱い性格をしている。故に彼はステンノから〝戦士としては弱くとも人間としては強い男〟という評価を受けていることには気づかない。ステンノにはそれが解って、しかし続けて揶揄おうとした所でアルトリアが魔力放出による威嚇を行ったことで防がれた。

 

「そこまでだ。いい加減、私のマスターを玩具にするのは止めてもらおうか。性悪女神」

「あらあら。怖い顔。折角の綺麗な顔が台無しよ? まるで大切な弟を汚された姉のよう」

「……フン」

 

 ステンノの言葉に対してつまらなそうに鼻を鳴らすアルトリア。それはこれ以上ステンノの遊戯に付き合っていても仕方ないことだと判断したためであり、特に反論するようなことでもなかったからである。

 確かにアルトリアの目から見て立香はマスターであると同時にどこか手のかかる弟のような所があるのは事実だ。別な世界線においては恋愛感情を抱くこともあったのかも知れないが、少なくともこの世界線においてふたりの関係性とはそういうものであった。

 何も言わずにただ険悪な雰囲気だけを滲ませて睨みあうアルトリアとステンノ。本人たちにとってはただ出方を伺っているだけなのだとしても、英霊と神霊の睨みあいなど慣れない者にとっては恐怖以外の何物でもない。そこに注意を飛ばしたのはジャンヌであった。

 

「おふたりとも、落ち着いてください! 今はいがみ合っている場合ではないでしょう?!」

「貴様に言われずとも落ち着いている。私はただこの駄女神がマスターに妙な目を向けているのが気に喰わんだけだ」

「あら、自分が尊大に接することしかできないからって、嫉妬かしら?」

 

 ジャンヌの注意を受けてもなお互いを煽り合うアルトリアとステンノ。あくまでも王たらんと自らを律するアルトリアと奔放な性格のステンノでは致命的なまでに相性が悪いのだろう。

 サーヴァントは使い魔であるものの、それ以前に生者と同じひとつの知性である。故に必ず誰かしらの相性が悪い相手が発生するのは自明の理であり、アルトリアとステンノにとっては互いがそれにあたるのだ。

 相性が悪い、という点で言うならばそれはアルも同じである。根からの真面目気質であるアルにとって、ステンノのような気儘な手合いは嫌いではないものの苦手な部類ではあった。結局反転した所で根本的な部分は何ひとつ変わらないのである。

 しかしそれは何もステンノが悪人であるだとか、そういうことではない。彼女はクー・フーリンや遥のように人間の血が混ざっている訳ではない純粋な神霊であるため、感覚がそもそも人間とは違うのである。

 それが解っているからこそアルは何も言わないでいるのだ。無論、アルトリアもそれを分かっていない訳ではないが。呆れたようにため息を吐いたアルがアルトリアたちから立香に視線を移す。

 

「それで……マスター。本当に良かったのですか? 私たちとハルカたちで挟撃するのは、確かに策としては成り立っていますが……」

「戦力が分散する、だろう? 分かってる。相手もそれなりに策は立ててくるだろうけど……こっちにも策は、ある」

 

 そう言う立香の顔に迷いらしき感情はない。それは決して一般人がするべき表情ではないが、しかしアルには悪いものであるようには思えなかった。それが立香自身が望んでの変化であるならば、それを否定するのは間違いだ。

 連合ローマ帝国の本拠地と思われる、イベリア半島に存在する巨大な城塞と樹木を湛えた都市。便宜的に〝大樹都市〟と名付けられたそこを襲撃し連合ローマを壊滅させるという〝大樹都市攻略作戦(オペレーション・ディアーナ)〟。それは簡単に言えば挟撃作戦であった。それも一般兵を立香側に集中させ、遥たちが一気に中枢に突入するというものである。

 これはそれぞれのマスターと契約しているサーヴァントの特徴を考えての役割分担である。立香側のサーヴァントが広域剪滅を得意とするのに対し、遥側で広域剪滅ができるのは遥とエミヤだけだ。故に先に立香たちが連合に仕掛けてそちらに敵戦力を集中させ、防備が薄くなった所で遥たちが突入する。

 無論彼らは全てが上手くいくとは思っていない。何しろ立香たちは多くの敵兵を引き付けなければならず、遥たちは立香たちが敵を引き付けている間に突入から接敵までを行わなければならない。まさしく電撃作戦である。

 何も情報がないが故に、何から何までもが希望的観測にすら見える中で攻略しなければならないという戦況。故の電撃作戦。故の常道(テンプレート)。この作戦を成功させるには碌に連絡も取れない状況の中でふたりのマスターが互いに互いの戦況を把握している必要がある。何とも無茶な作戦だが、立香は臆病風に吹かれてはいなかった。

 現状でできることは全てやった。急造品ではあるものの混戦の中でも遥と最低限の連絡はできるようなインカムをレオナルドに造ってもらい、立香の魔銃も遥が更なる改造(チューン)を施した。他にも、色々と。

 腰のホルスターに収められた魔獣を取り出し、見分する。一見するとベースとなった自動拳銃と何も違いはないが、その威力と効果は折り紙付きだ。加えて今回の作戦においては通常弾丸ではなく〝起源弾〟なる弾丸が込められ、それを立香が使うために遥の魔力が封入された宝石が組み込まれている。

 今回の作戦で、立香はこれを使うことになる。根拠はないが、彼にはどうしてか確信があった。藤丸立香はきっと、人を殺す。その手を汚す。それで良い、と弱気を殺す。元よりサーヴァントに戦闘を命じた時点でその手は血で汚れている。手に掛けさせるか、手を掛けるか。それだけの違いだ。

 故に覚悟する。故に戦う。生きるために。自分たちの生きる場所を守るために。自分たちの綺麗事を貫き通すために、相手の理想を(ころ)す。それは本来の流れならば異聞の歴史を前にしてもなお決めかねる筈の覚悟そのものであった。

 

(そうだ。オレたちは生きる。だから……戦うんだ)

 

 誰にも知られることのない少年の覚悟。それは彼の密かな成長であり、その精神が青年のそれへと変わりつつある証だった。

 


 

「――うわあぁぁぁぁぁぁっ⁉」

 

 天気快晴にして波高し。そんなスリリングな海上行軍にはうってつけと言える天気。あの青い空を裂くように、男の絶叫が轟く。それは誰あろう、カルデアに残された最後のマスターの片割れ、人の領域を超えた半神半人である筈の遥の悲鳴だ。

 ただ船に乗っているだけで悲鳴をあげるなど情けない。そう言うことができるのはきっと、今の彼らがおかれた状況を知らない者だけだ。或いは〝ネロの操舵する船に無理矢理乗せられた〟と言えばそれだけで分かるだろうか。

 この時代には内燃機関のような便利なものは存在せず、船と言えば専ら帆船である。だが、それは神秘のないただの船であった場合の話である。そして良い話と言うべきか、或いは悪い話と言うべきか、今は亡き宮廷魔術師シモンが造った皇帝専用機はネロの魔力が続く限り彼女の思うがままの挙動と速度を実現するようになっている。

 その様は現代的に言えば中型客船が下手な乗り手の操る水上バイクの動きをしていると言えば伝わりやすいか。いや、ことによるとそれよりも酷いかも知れない。水上バイクによる死刑執行と言われても信じてしまいそうだ。或いは何故か水上にまで出てきた粗悪なジェットコースターか。そして、遥はジェットコースターのような絶叫系マシンが大の苦手であった。

 その気になればそんなものよりも速く走れるし、どんな悪路でも走れるバイクを持っておいておかしな話であるとは彼自身分かっているが、どうしても駄目なのである。〝信用のできないものに否応なく命を預けさせられている〟という感覚が。

 しかし今回に限ってはダウンしているのは遥だけではなく、ネロ以外にこの船に乗っている殆ど全員が経っていることもできていない。その凄まじさたるや、あのアサシンでさえ立っていることができない程だ。

 

「わはははは! うむ、実に良い潮風、そして天気であるな! そうは思わんか、遥?」

「いや、こっちはアンタの操舵のせいでンなモン楽しんでる余裕すらねぇんだけど⁈」

 

 遥の必死の猛抗議はしかし、船が海を裂くかのような轟音に掻き消されてネロの耳にまで届くことはない。ネロの声が遥に届いたのはあくまでも遥が人間の域を超えた五感を有しているからであって、普通は聞こえない。

 総身を満たす悪寒と気分的なものによる吐き気の中で、遥は後悔する。本人が希望したからといって、ネロに操舵を任せるべきではなかったと。『余の華麗なる操舵技術(テク)を見せてやろう!』とネロが言った時に感じた嫌な予感を信じるべきだったのだと。

 同時に立香を地上で行軍する側にしたことを英断であると確信する。恐らく立香ではどんなに彼の身体が頑強であったのだとしても酔ってしまっていただろう。遥やサーヴァントたちはそういう消耗を無視できるが、立香はそうではない。

 

「とはいえ、これは流石に酷いな……おい、沖田。身体は大丈夫か?」

「はい、なんとか。いくらなんでもこれで吐血するなんてコトは――こふっ⁉」

「ホラ言わんこっちゃない! 霊体化すりゃいくらかマシだろうから、霊体化していろ」

 

 沖田を心配する遥の言葉に彼女は頷きを返すや、その姿を薄れさせて霊体となった。遥の魔力量であれば実体化していたとしても問題はないのだろうが、実体ではない方がいくらか回復も早かろう。

 更に遥は自分から沖田に繋がる経路(パス)を少しだけ弄ると、流れていく魔力の量を少しだけ増やした。遥と契約したサーヴァントの内で、沖田は謂わば斬り込み役、オルタがいない今、唯一の正面戦闘特化型。万が一にも回復しきらないということがあってはならない。

 そうして手早く経路の再構築を終えた時、遥は不意に妙な視線を感じてそちらを見た。そこにいたのはクシナダ。その目はジト目とでも言おうか、何とも形容し難い感情の宿る目で遥を見ている。

 

「……どうした、クシナダ?」

「いえ、何でもありません。ええ、何でも」

 

 明らかに何か含む所がある返事であった。しかし遥はそれを分かっていながら、それ以上訊くことをしない。訊くまでもなく分かっている。分からされてしまっている。クシナダのそれは、嫉妬だ。

 だが何故そんな感情を――などと、そんな都合の良い鈍感男のような疑問を、遥は抱かない。クシナダを召喚し、彼女から向けられる愛を少々刺激的な方法(ただのキス)で理解させられてしまった遥は少しずつ無自覚の領域にあった〝愛されない〟という思い込みを溶かされてきている。

 だからこそ、分かる。気づく。気づいてしまう。クシナダから向けられているものは愛で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということに。

 だが、認められない。認められる筈がない。少なくともスサノオもまた自分の側面であると受け入れられていないうちは、何を返しても不誠実だ。故に、まだ認める訳にはいかない。それが想いである、などということは。遥が自嘲的に笑う。

 与えられた力。ただ自分の裡にいる他人(じぶん)を受け入れるだけで借り物でなくなる力。遥がそれを借り物のままにしているのは、きっと怖かったからだ。それを受け入れれば自分が自分でなくなってしまうような気がして。

 それでももう覚悟はしたのだから、後は何か切っ掛け(トリガー)さえあればいい。自分の魂に他者を完全に受け入れることができるだけの切っ掛けがあれば。そして、それは恐らく――と内心で遥が思案している最中、気がかりなネロの声とエミヤの念話が聴覚を震わせた。

 

「む? あれは……連合の船か? だが、一隻だけだと……?」

『ネロ帝にも見えているようだな。だが、乗っているのは……あれは、どういうことだ?』

 

 ネロ、エミヤ共に何か不審なものを感じているらしい声音に遥が首を傾げる。その直後、前方に現れた船から打ち出された細く小さい何かが船の甲板に突き刺さった。それは矢。但し殺傷目的のものではなく、所謂矢文というものである。

 それに何かを感じたのか、船を止めるネロ。遥は念のために矢に毒など塗られていないことを確認してから矢を引き抜くと、そこに結びつけられた書状を開いた。そうしてその内容に顔を顰める。

 果たしてそれは警告文、或いは救難信号であった。聊か矛盾しているようであるが、確かにそれはそういう内容であった。アサシンに視線を向けると、おおよその意図を悟ったようでキャリコを下げる。一同の中にあったのは暗黙の了解であった。

 しばらくして連合のものと思しき船は攻撃のひとつもないままネロの船の横まで来ると、そこで停止して接弦した。まずは様子見をするかのように出てきたのはひとりの男。その姿を見て、遥が思わず声を漏らした。

 

「アンタは、グレートビックベン☆ロンドンスター⁉ 何故ここに⁉」

「なっ、誰がその名を貴様に教えた⁉ フラットか? フラットだな⁉」

 

 呼ばれたくない渾名で呼ばれたことで憤るグレートビックベン☆ロンドンスター、もとい〝ロード・エルメロイⅡ世〟。彼をふざけた渾名で呼びつつも、遥は確かに驚愕していた。

 エルメロイⅡ世は言うまでもなく英霊ではない。だというのにエルメロイⅡ世の気配はサーヴァントのそれでった。加えてマスターである遥には一応未契約サーヴァントとしてステータスが見えている。だが、デミ・サーヴァントではない。疑似サーヴァントといった所だろうか。

 憤慨していたエルメロイⅡ世であるが、すぐに咳払いをして感情を切り替えた。今はその程度のことで起こっている場合ではない。何しろ彼らには時間がないのだから。矢文の意図が遥たちに伝わっていることを確認し、船の中に残っていた〝主君〟に降りてくるように伝える。

 そうして降りてきた者の姿を見て、遥たちが思わず臨戦態勢を取る。目の前の相手からは敵意や殺意は伝わってこなかったものの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだからその反応も仕方のないことであろう。

 幼いながらもゼウスの息子としての強壮さを滲ませる筈の肉体はその半分以上が黒泥に染め上げられ、同じように美少年然とした美貌も半ば以上が黒い無貌と化している。

 遥は直感する。今このサーヴァントを犯しているのは黒化やシャドウ化のような生易しいものではない。謂わばそれは新生。英霊の霊基を喰らってその形に擬態する形ある呪いに犯されている、とでも言おうか。

 呪いの焼却は遥の領分だが、仮にそれをすればこの英霊ごと焼く羽目になる。それほどまでに呪いは霊基の奥深くまで根付いている。最早自我を保っていることさえ想像を絶する苦痛だろうに、少年英霊は残った半分の顔に虚勢の笑みを張り付けてみせた。

 

「やあ。ネロ帝と……カルデアのマスターの片割れ一行だね? 僕は〝アレキサンダー〟。見ての通り、もう少しで人形に成り果てるサーヴァントさ」

「アレキサンダー、ね。……妙なこともあるモンだ」

 

 エルメロイⅡ世とアレキサンダー。その姿が、遥には変異特異点αで出会ったウェイバーとライダーに重なって見えた。それはおかしな感覚ではない。世界は違えど、それらは同一の人物なのだから。

 それが解っているからこそ、気づく。エルメロイⅡ世は表面上こそ冷静を装っているが、内心は気が気でないのだろう。何せ自分が忠誠を誓った主君が呪いに喰われそうになっているのだから。

 訊くべきことが多すぎてまず何から訊くべきか遥たちが一瞬思案した隙に、アレキサンダーが前置きはこのくらいにして、と言って語り始める。まず第一に、エルメロイⅡ世ははぐれサーヴァント、アレキサンダーは連合のサーヴァントである。いや、後者に関してはだったと言うべきか。

 連合に属するサーヴァントのマスターはカルデア側の推測通りレフ・ライノール・フラウロス。彼は元々最初に召喚した戦力だけでカルデアを倒せると考えていたらしいが、アルテラの叛逆と捕らえて反転させたブーディカの脱走があった辺りから方針を変えたらしい。残ったサーヴァントの内で彼に非協力的だったアレキサンダーと元々制御らしい制御のできないダレイオスに術を施した。反転させるのではなく、霊基を喰らって作り変える呪い、それの試作術式を。

 結果、元々理性のなかったダレイオスはその霊基を完全に狂わせ、辛うじて理性の残っていたアレキサンダーは自分では叛逆できないことを悟りつつも一矢報いるべく這々の体で船を奪って逃げ、途中でエルメロイⅡ世と出会った。

 それ以外にもアレキサンダーは様々なことを遥たちに語った。大樹都市やその中央にある城の内部構造だけではなく、あの樹と城塞が実はひとりのサーヴァントの宝具であること、更に細かな情報までもを。それこそがアレキサンダーが執った叛逆の一手。〝情報〟という、現状のカルデアが最も必要としていた最も原始的にして強力な武器。そして最後に、とアレキサンダーが視線をネロに移す。

 

「心して聞くんだ、ネロ・クラウディウス。レフ・ライノールが用意した最後の駒……今はもう彼の一部になってしまった英霊はローマの始祖……〝ロムルス〟だ」

「神祖だと⁉」

「そうだ。けど、心配することはない。君が真にこのローマの皇帝たらんと、するならば、きっと……‼」

 

 言葉を言い切るより早くにアレキサンダーは苦悶を顔に浮かべ、その場に倒れ込んだ。見れば、呪いの浸食が先程よりも明らかに進んでいる。恐らく接触を図ってきた時点で既に限界だったのだろう。

 それでもその紅い目は真っ直ぐにネロを捉え、言葉にせずとも彼女に覚悟を問うている。果たして堕ちたものであったのだとしても己が身命を捧げるローマの始祖を打倒できるのか、と。それにネロは毅然とした態度で答えを返した。

 

「余は……余はッ……迷わんッ‼ たとえ相手が神祖なのだとしても、余は余のローマを守る! それがローマ帝国第五代皇帝たるネロ・クラウディウスの責務である‼」

「ははっ、それでいい。その覚悟さえあれば、君は覇王にも、魔王にもなれるだろうさ。……さて、悔しい、けど、僕も、そろそろ本当に、限界らしい……」

 

 今にも絶えて呪いに染め上げられそうな意識を必死で繋ぎ止めながら、アレキサンダーが遥を見る。その視線だけで、遥はアレキサンダーの意図を察して片膝を突き、その手で呪いに浸食されたアレキサンダーの霊基に触れた。

 同時に遥までもを浸食しようと流れてくる呪いを、煉獄の焔で押し返す。やがてその焔はアレキサンダーの霊基にまでも入り込み、その呪いを全て無に帰した。だがそれはアレキサンダーの終わりを意味する。最早呪いに浸食された霊基では現界を維持できないのだ。

 端から魔力光に還り、消滅していくアレキサンダーの身体。それをエルメロイⅡ世は感情の読みにくい瞳で見つめている。あえて誰も声を掛けようとはしない。今何を言っても、それはただの同情にしかならない。そんなものを、エルメロイⅡ世は求めていない。やがてアレキサンダーが完全に消滅したのを見届けると、遥は立ち上がってエルメロイⅡ世に問うた。

 

「……と、いうワケだ。これからアンタはどうするんだ、プロフェッサー・カリスマ?」

「だからその名で呼ぶなと何度……ハァ、もういい。()()()()()()には何を言ったところで無駄だろう。私はあの方から生きろと命じられた身だ。ならば精々足掻いて生きてみせるさ」

「……そっか」

 

 会話はそこで終わり、エルメロイⅡ世は遥たちに背を向けて船に戻っていく。やがてその姿が見えなくなると、エルメロイⅡ世の乗る船とネロの船は別々な方向に進んでいく。それでも、エルメロイⅡ世は逃げた訳ではない。

 嘗てエルメロイⅡ世、もといウェイバーはかの英雄王を前にしてでも主君から命じられた在り方を守った。だがその時の彼が仇討をしなかったのは、彼に抗う力がなかったからだ。だが今の彼には戦う力があり、敵は英雄王と比べるまでもなく弱い。ならば抗おう。それが最終的には主命を守ることにもなるのだから。

 対するネロの船は先程までの暴走操舵ではなく、確かな足取りで進んでいく。見据えるは彼方。イベリア半島の大樹都市。誰も何も言わないその中で、遥がひとり呟いた。

 

「さぁ――あのクソ野郎(フラウロス)のムカつく顔面を、殴りに行こうか」

 




この小説では孔明の依り代になっているエルメロイは遥の知り合いのエルメロイや変異特異点のウェイバーではなく、原作のエルメロイという扱いです。

活動報告にこの小説での立香の設定をあげましたので、興味のある方はどうぞ。

中間体クー・フーリンくん、剣とバケモノ化は獲得しても戦車などはまだない模様。なおクルージーンに関しては訳し方について色々あるようですが、この小説ではクラウ・ソラスを剣のカテゴリ、クルージーン・カサド・ヒャンを剣の名前とさせていただきます。


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第58話 其は英雄にして人間の器なれば

 地中海の中途に突き出たイタリア半島と地中海と大西洋の境、ヘラクレスの柱と呼称される、ジブラルタル海峡に面した岬を戴くイベリア半島は地球儀や世界地図で見るとかなり近くに見えるが、実際はそうではない。現代でさえ、イタリアからスペインまで船で移動するとなると片道で20時間、つまり約1日の時間を必要とする。

 現代でさえそうであるのならこの時代は言わずもがな。いくらネロの操舵が絶叫マシンじみているとはいえ、それは巨大な船体で異常な挙動をしているからであって速度だけを見ればそう速い訳ではない。加えて彼らは連合ローマに見つからないようにするため、そして地上軍とタイミングを合わせるために迂回するような航路を執っている。故に確実にその行軍は日を跨ぐ。

 予め船に積んでおいた食糧から遥たちカルデア料理班がローマで学んだ料理を作り夕食を済ませ、夜間の見張りと休息のローテーションを手早く決定する。身体の疲労回復という点だけで言えばサーヴァントに睡眠の必要性はないが、精神のメンテナンスとしてならば一定の利益はある。

 夜。既に太陽は水平線の下に沈み、空には月と無数の星が輝いている。同じ北半球ではあるが、日本のそれとは違う星空だ。それをマストの下で見上げながら、しかし沖田の目には星空など映ってはいなかった。彼女の目に映っているのは自らの記憶、或いは無であった。

 英霊沖田総司は遥のサーヴァントである。現在、彼と正式に契約している6騎のサーヴァントのうちで最も早くに召喚され、それ故にたった1日2日の差ではあるが遥との付き合いも長い。

 それなのに、沖田は気づけなかった。遥が人ならざるものであり、この人間が生きる世界の中でただひとり人間でないものとして生きていることに苦悩していたことに。遥と契約したサーヴァントの中で沖田だけが、気づけなかった。

 遥の血が齎した縁によって召喚されたタマモは別にしても、アラヤの守護者として多くの時代、数多の戦場を潜ってきたエミヤとアサシンも恐らく遥の正体にはある程度察しが付いていただろう。そして、十中八九オルタもそうだ。だからこそ、オルタは消滅の寸前にあのようなことを言ったのだ。

 皆それぞれがそれぞれの理由から遥の正体と苦悩に近づいている中で、沖田だけが取り残されていた。一番近くにいるような錯覚をしていて、実際は最も遠くにいたのだ。それどころか、遥のことを見てすらいなかったような気さえもしてくる。

 遥は自分のことを頼りにしていると、最期まで共に戦えと言って伝家の名刀を与えることさえもしてくれたのに、自分は正しく遥のことを見ることができていなかった。そんな忸怩たる思いが沖田の胸中を支配する。

 沖田が主に求めることはそう多くない。ただ最後まで戦うことを認めてくれるのなら、それで良いのだ。その点で言えば沖田にとって遥は理想的な主である。彼女が抱える病弱の呪いを知りながら見捨てることなく、それどころか傍に置いてくれるのだから。

 与えられるばかりで、何も返せていない。実情がどうであれ、沖田から見て彼女と遥の関係とはそういうものであった。彼女は遥から与えられたものはすぐに思い出すことができても、自分が遥に与えたと自信を持って言えるものが思い浮かばない。

 せめてひとつだけでも何か返せたと思えたのならば、少しは気が楽だっただろう。だが沖田は時折自信過剰な発言をするのとは裏腹に、剣以外に関しては極めて自己肯定感の低い性格をしている。自分は最期まで戦うことができなかった未熟者だという意識が彼女の根底にはある。

 無力感に沖田が歯噛みする。何が幕末最強の剣士だ、何が遥の剣だ、と。そう自負するばかりで何もできてはいなかったというのに。どれほどそうしていたのか、不意に足音が沖田の耳朶を打った。振り返れば、そこにいたのはネロ。

 

「ネロさん……」

「交代の時間だ。まったく。遥のヤツめ、皇帝までも見張りに組み込むなど……寛大な余でなければ刎刑に処されてもおかしくないぞ?」

 

 まあ刎刑にした所で死なぬらしいがな、と言って笑いながら沖田の隣に座るネロ。あまり笑えない冗談である。そのうえ、今の沖田には余計に笑えなかった。その様子に気づいたのか、ネロが沖田に話すように促す。

 奇しくもそれは首都ローマの王宮において遥がネロに内心と己の正体を語った時と同じ構図であった。それは遥と沖田の性格の相似が齎したものか、ネロの人望が生み出した自然な流れか。沖田にとってはどうでも良い話だった。

 ただネロに促されるまま、内心に蟠ったものをネロに吐き出していく沖田。そこにネロは口を挟むことはない。沖田もまた返事を求めてはいなかった。それは本当に、悩んでいる人間の心情だ。誰かに自分のことを知って欲しい。知ってもらって安心したい。そんな、人間であれば英雄であろうとそうでなかろうと持っているものだ。

 しばらく黙って沖田の話を聞いていたネロだが沖田の話が一段落したと分かるや、ゆっくりと口を開いた。まるで彼女もまた独白するように、或いは何かを羨むように。それは彼女が沖田の前で初めて見せた表情であった。

 

「……遥は果報者だな。これほど忠義を尽くしてくれる者がいるとは」

「ネロさんは違うんですか?」

「余にも忠義してくれる者はいる。だが……理解しようとしてくれる者はおらぬ」

 

 ネロ・クラウディウスは皇帝である。だが彼女が皇帝となったのは母親である小アグリッピナの計略による所が大きい。アグリッピナは自分が権力を得るための道具として、実娘であるネロを利用したのだ。

 だから、殺した。自分の皇帝としての権力をアグリッピナが悪用してローマ帝国がアグリッピナの欲望を満たすためのものとならないように。アグリッピナだけではない。ネロは時に自分の血縁や臣下すら、ローマを守るために処刑した。

 それは正しくローマを守るための行為であった。しかし何も知らない周囲の人間は、いや、事情を知っていた者たちでさえ彼女の姿を見て言ったのだ。非道な皇帝、血も涙もない圧制者だと。今回の一見で連合側に与した者にはそういう者が多い。

 ではネロの側に残った者たちはネロの思いを理解しているのかと言えば、そうではない。それはある種、ネロの高すぎるカリスマ性の弊害であった。彼らはネロを妄信してはいるが、彼女の内心を慮ることはない。彼らが見ているのは〝皇帝としてのネロ〟であって〝ひとりの人間としてのネロ〟ではないのだから。

 ネロはローマを、そこに住まう民を愛している。けれどその愛を民が理解することはない。ネロの愛は彼女の意志に関わらず一方的で、受け止められることはない。アーサー王が〝孤独にして孤高の在り方を選んだ王〟、イスカンダルが〝人の粋たる王〟であるならば、ネロは〝孤独であることを運命づけられた王〟なのだ。英霊であるが故にネロの最期を知る沖田には、そこに彼女の死の原因を見た気がした。

 そんな在り方であるネロには遥が羨ましく見える。理解しようとしてくれる人がいないネロにとっては、ひとりでも理解しようと苦しんでくれる人がいる遥が、ひどく。

 

「沖田。人間が誰かを理解したいと思うのは当然のことだ。だがそれは誰に対しても抱くものではない。ならば何が人をそうするのか、分かるか?」

「……いえ」

()()。人が人を理解したいと思うのは、愛故なのだ」

 

 人間が相手を理解したいと思うのは、愛があればこそ。それは民衆を愛し、皇帝としては愛されながら人間としては愛されることがないネロだからこその言葉であった。何故なら、彼女は人として愛されないために理解されないのだから。

 対して突然にその解答を投げ渡された沖田は戸惑っていた。しかし戸惑う思いとは裏腹に、冷静な部分はその解答で納得している。確かに愛がなければ沖田は遥の真実に気づいていなかったことに苦悩せず、貰った分を返そうともしなかっただろう。

 だが、それだけではない。沖田が遥に愛という感情を抱いているのであれば、それはどんな愛なのか。それの正体に、沖田は少しずつ気づき始めていた。遥と一緒にいると胸が高鳴るのも、触れられると安心するのも、頼られると嬉しいのも、全てそれで説明が付く。

 生前は抱くことがなかった感情。それを前にして沖田が戸惑うのは、沖田が英霊としては例外的に〝人間として完成しないまま死んだ英雄〟だからなのだろう。そんな沖田に、ネロは告げる。

 

「沖田。其方のそれは……愛。すなわち、恋である! ……遥への、な」

「ハルさんへの、恋……」

 

 茫然とした声音で沖田が呟く。ネロに断言された後でも沖田には未だ明確な実感はない。けれど何故かその言葉は沖田の胸中に簡単に落ちていき、その奥深くに収まった。いや、収まったというのは聊かおかしいか。その感情は元からそこにあって、ネロの言葉によってようやく自覚したのだ。

 自分の感情を自覚できないなど情けない、とは思わない。そもそも沖田は生前、誰かに恋情を抱くことなどなかったのだから。確かに周りは男ばかりではあったものの、彼らは皆家族のようなもので、そういった感情を抱くことはなかった。

 つまり、それは沖田にとって初めての感情であった。分からなかったのも仕方がない。同時に沖田はその感情が話に聞いていた程に綺麗なものでも、ロマンティックなものでもないことを悟る。だって、こんなにも苦しい。胸が詰まる、などというものではない。まるで胸の奥に泥が堆積したかのような息苦しさである。

 恋だ何だと浮かれることができるのは、きっと現実を見ていないか、そうでなければ余程頭の中がお花畑なのだろうと沖田は思う。そもそも沖田はサーヴァント、つまりは死者だ。生者である遥にそんな感情を抱いて良い筈がない。そんな沖田の内因を見抜いたかのように、ネロが笑った。

 

「其方は難しく考えすぎだ。英霊、サーヴァントがどういうものかは、余も遥から聞いた。だが、それが何だ? 人間が誰かを想う理由に、生死など関係あるまい」

 

 それはある意味で、ネロの在り方そのものであった。遥から英霊とは如何なるものであるか聞いたネロには、自分が死後それになることが何となく分かっている。だが、だからといって己の在り方を変えることは、ネロには正しいようには思えなかった。

 生きているのであれ、死んでいるのであれ、そこに自分の意識があるのならばそれは紛れもない自分だ。動く身体があって、自分の魂があるのならば、それは己以外の何者でもないのだ。であれば、無理に在り方を変える必要はない。

 仮にそれを己をあくまでもサーヴァントたらんと律する戦士の類が聞けば呆れるか怒るかしていただろう。だがネロはそう断じる。何故なら、彼女は戦士ではなく皇帝であるが故に。

 まあ後は自分で考えるが良い、と沖田の肩を叩いてからネロは立ち上がり、船首の辺りで監視を始めた。そうして沖田は自分の感情をどう整理したら良いか分からないまま、船室に戻っていく。そこで初めに視界に入ったのは件の人物である遥。いつでも起きることができるよう、鞘込めの神刀を抱えて座ったまま眠っている。

 元々の黒から神性を顕す深紅に染まった目は長い睫毛の生えた目蓋に隠されて見えない。そういう状態で見ると、本当に女性的な顔立ちをしている。沖田やアルトリア、ネロと同系統の顔立ちを少しだけ精悍にした、そんな顔だ。試しにそんな顔の頬を抓ってみて、確かに寝ていることを確信する。当然だ。いつでも起きることができるようにしているとはいえ、それは敵襲があった時の話。そうでない時にまで些細なことで起きてしまえば、貴重な時間を無駄にしてしまう。故に、沖田はその耳元で小さく呟いた。

 

「……どうやら私、貴方のことが好きみたいです。ハルさん」

 

 その言葉が届くことはない。けれど、沖田にとってはそれだけで十分だった。

 


 

「さて、王の話――は後にして、今日も授業を始めようか」

 

 沖田とネロが船上で会話していたのとほぼ同刻。ひとつの軍勢を隠し得るだけの山間部に構えたキャンプで眠りに就いていた立香の意識はしかし、心地よい微睡の中にはいなかった。

 立香がいるのは彼が高校生活の3年間を過ごした校舎の、3年生だった頃に使っていた教室。とはいえ、その教室は本物ではない。それは立香の夢の中に彼ならざる者の手によって殆ど完璧に再現されたものであった。

 一応再現とはいえ学校であるためか、立香の服装はカルデアの制服などの礼装ではなく、学校の校舎と同じく彼の記憶から再現された黒い詰襟。そしてこのような場所を作り出した張本人たるマーリンはいつものローブ姿ではなく、何故か一般社会ではオーソドックスなスーツ姿である。しかしマーリンの容姿と手にする魔杖故に、それはどうしても教師のコスプレ感が拭えない。

 

「む。何かなその目は。授業と言えば学校。学校と言えば先生と生徒! いやぁ、一回やってみたかったんだ、こういうの!」

「はぁ……」

 

 妙にテンションの高いマーリンに立香は特に何も返さなかった。ツッコミを放棄したとも言う。立香はボケとツッコミの両方に対応できるタイプではあるものの、今はマーリンのノリに付いていけるような精神状態ではない。

 立香とて、それがマーリンなりに立香を和ませようとしてくれていることは分かっている。しかしマーリンは人間は好きでも彼自身は人でなしと称される通り人間とはどこか感性がズレている。とはいえ立香もそれは理解しているから、さして問題である訳ではない。

 大魔術師マーリンによる、立香への授業。それは今日だけではなく、全て遠き理想郷(アヴァロン)によって縁が繋がったあの夜から今日にわたって続けられてきた。授業の内容は主に魔術を含む神秘や、兵法について。そこに()()()()()()()()()()()()

 藤丸立香に王としての素養はない。彼の感性は少々割り切りが良すぎるとはいえ、あくまでも現代の一般人のそれでしかない。王たり得る要素はどこにもない。ではマーリンは己の講義を通して立香を何に育てあげようとしているのか。

 答えは単純。()()()()()()()()()〟である。マーリンはその伝承からキング・メイカーとして見られることが多いがそれは彼の持つ〝英雄作成〟を由来としている。別に〝王作成〟ではないのだ。ならば対象に入力する知識をそちらに絞れば知の英雄を育てることも可能だ。

 幸いにして立香には王の資質はなくとも指揮官としての才ならばある。それは素人でありながらも今までサーヴァントの指揮ができていたことが証明している。ならばそれを伸ばし、知の英雄として完成させる。

 それだけでは足りない。カルデアのマスターは立香だけではないのだ。立香を知の英雄として完成させるならば、遥も何らかの形で英雄として完成させなければならない。バランスを取るならば〝武の英雄〟か。初めてマーリンが行った授業でそう告げた時、立香は疑問を呈している。

 

『オレたちを英雄に……? でも、遥とは縁が繋がってませんよね?』

『そうだね。一応、君を介して縁はあるとも言えるから無理矢理現れるのはできなくもないんだけど……彼を育てるのは私じゃない。実は次の(第三)特異点にそのための協力者(サーヴァント)を召喚していてね。彼に教えを受けた者たちは皆、もれなく英雄になっている。特に、それが彼のような半人であればね』

 

 マーリンが遥に接触していないのは偶然ではなく意図的なことだ。遥のような半神半人を育てるのであれば、自分よりも適した人物がいる。そう判断したマーリンは次なる特異点に〝彼〟を召喚した。その特異点に巣食うギリシャの英雄を触媒に、ギリシャ神話随一の英雄作成者(ヒーロー・メイカー)を。

 人間を英雄にするならばマーリンの右に出る者はいないが、半神半人を英雄に育て上げるならばマーリンはスカサハや〝彼〟に一歩譲るだろう。何せ経験がない。できないこともないが、万全を期するならば慣れている者に任せた方が良い。

 修行の途中で遥君でも死にかけるだろうし殺されかけるだろうけどまあ些細なことだよね、と人外思考全開なマーリンだが、その考えが全くもって的外れでもないのだから恐ろしい。この時点で次の特異点で遥が何度か死にかけるのは確定したようなものである。

 そんなことは全く知らないまま、立香はマーリンの授業を受けている。恐らく立香ならば遥が死にかけることを知っても遥はそう簡単には死なないという信頼と仕方がないという割り切りから了承するだろうが、念のためだ。

 さて、と言って場の空気を切り替えるマーリン。今は過去の回想に浸っている場合ではない。この数日に渡って立香に仕込んでいた兵法を今夜中に完成させなければならない。一応夢の中ならば一夜を数日分の体感時間に引き延ばすこともマーリンにとっては容易なことだが、限度はある。

 

「まずは昨日までに教えた知識の確認から始めよう。私が教えていたのは、何だったかな?」

「軍隊を運用する兵法、です」

「その通り。では、その内容は?」

 

 マーリンに問われ、立香は彼から学んだ内容を復唱する。そこに記憶違いや解釈違いはない。マーリンから教えられた内容、一般人にはおおよそ理解し難いだろうそれを、立香はたった1日で噛み砕き、受け入れ、自分の力としていた。

 皮肉な話である。相手を殺すことを覚悟はできてもそれを明確な『悪』として認識できる少年が、よもやより効率よく相手を殺す術を見出す才に長けているなど。だがより効率よく相手を殺すことは、転じて味方の犠牲を減らすことでもある。

 生き残るためには戦うしかない。戦うことは何も必ず殺すことに直結する訳ではないが、立香のサーヴァントならともかく彼の直接的な支配下にはない兵士に極力敵兵を殺させないなどは不可能だ。敵も味方も死んでほしくないと思うなら、立香はそれ相応の策を立てるしかない。

 マーリンはただ教え、導くだけだ。その結果〝生かす〟ための策を執るか〝殺す〟ための策を執るかは立香次第である。尤も、力を手に入れた所で立香が人間であることを放棄しないという確信があるからこそマーリンはこうして力を貸しているのだが。

 全てはこの人理修復をハッピーエンドに導くため。立香が人間でありながら人間であることを捨ててしまえば、それはハッピーエンドではない。マーリンは立香を導く。知の英雄に仕立てることもする。だが人の在り方は損なわせない。それが、マーリンが立香を育てるうえで己に課した制約であった。

 

「じゃあ今日の内容だけど……立香君。軍隊の士気を高めるのに最も有効なものは何か、知っているかい?」

「煽動……ですか?」

「正解だ。ただ煽動というのは少し表現が悪いかな。〝自分たちにある正義を示すこと〟。これが兵士の士気を高めるために一番手っ取り早い方法さ」

 

 今回の戦争の場合、敵の首であるレフはともかく彼の側に味方する兵士たちは悪である訳ではない。彼らは連合ローマ帝国にこそ正義と道理があると考えたからこそ、連合ローマに与しているのである。

 つまりはこの戦争は正義と正義の戦いなのであるが、それは何もこの戦争だけではない。人類史における戦争など結局はそのようなものだ。親玉の思惑の善悪はともかくとして、戦う人間は自分たちこそが正義だと思っている。

 実は貴方たちの親玉は人類を滅しようとしている、だとかロムルスは既に操られていて彼の意志はどこにもない、だとか言った所で、きっと聞き入れるまい。兵士たちの中で皇帝というものは半ば偶像化することは、立香もローマ軍を見ていて分かった。

 マーリンは言う。今、ローマ軍を率いているのは立香だ。ならばローマ兵たちに正義を示すのは立香の役目である。他ならぬ総督である立香が彼らに自分らの正義を示し、士気を高めてやらねばならない。だがそれは彼らに死ねと、殺せと言っているようなものだ。

 だからこそ策を立てなければならない。肝要なのはバランスだ。士気を高くして戦わせたのだとして、その結果が殺戮であったのなら意味がない。かと言って士気が低くては負けてしまう。それを御するのが指揮官、つまりは立香の役目だ。

 

「……難しいですね」

「そうだね。とても難しい。君も分かってるだろうけど、戦うということは基本的には誰かを殺すことだ。いくら相手は真相を知らないのだとしても、殺すしかない。人類史を救ううえでの必要犠牲だと割り切るしかない」

 

 感情を伺わせない声音でマーリンが言い放ち、立香が歯噛みする。そんなことは分かっている。既に受け入れている。受け入れているからこそ、どうにかしてその犠牲を減らそうとしている。人類史を守るために人間が犠牲になるなんて、あまりに悲しすぎる。

 人類愛などではない。藤丸立香はあくまでもただの人間でしかなく、そんな人間にとっては全人類への愛など重すぎるのである。故にそうまでして立香が犠牲を減らそうとしているのは、ただのエゴだ。

 誰にだって生きていて欲しい――そんな綺麗事は言わない。立香の考えの内において、そんなことを口にするのは本気で言っているのなら余程の聖人か狂人、そうでないのならただの口から出任せ、つまりは己を綺麗に見せたいだけの卑怯者だ。

 立香は聖人や狂人ではない。しかし卑怯者にはなりたくない。故に自分を偽ることもしない。立香が人に死んで欲しくないのは、立香自身のためだ。誰でも、目の前で人に死んで欲しくはないだろう。背負う罪を減らせるのなら減らしたいだろう。それは、立香とて変わりない。

 嗚呼――何というエゴイズム。何という非道か。自分が死んだように生きていたくはないから敵にも生きて欲しいなどと。だかそこで〝自分が死にたくないから敵には鏖になってもらう〟とならないのが立香の善性の表れであろう。殺させる覚悟はある。殺す覚悟も、既に決めた。だが、だからと言って平気で殺せる訳ではない。できればそんなことにはなって欲しくないというのが立香の本音であった。

 人理修復は殺すための戦いではなく生きるための闘いなのだ。ならばその〝生〟の数を多く望んでも良いじゃないか。他でもない、自分のために。立香自身にとっては恐ろしく我儘に思える思いに、マーリンは肯定を返した。

 

「それで良いんだ、立香君。大抵の英雄はね、そんなことは言わない。大義名分の下に殺しを正当化するからね。それも悪くはない。だが、君は人間だ。殺しを厭うその心を、どうか忘れないで欲しい」

 

 マーリンの言葉に立香が頷く。立香がなるべき知の英雄は正しく英雄ではない。英雄に比する知略を有し、而して人の在り様を捨てない者。人のままで英雄の知略を揮う者。それに至るべく、今は学ぶのだ。――全ては、生きるために。

 




 遥は、あれですね。〝寝ている間に耳元で愛を囁かれる系男子2019代表〟ですね。……何のこっちゃ。
 というか、第三特異点では遥と立香は何回死にかけるんでしょう……あまり大したことではないので言ってしまいますが、現時点で遥は少なくとも2回、立香は1回死にかける予定なんですよね……こりゃ命が幾つあっても足りませんわ。

 中間体クー・フーリンのステータスを活動報告に投稿致しますので、興味がある方はどうぞ。


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第59話 顕現の時は来たれり、其は魔神を騙る者

若干嘔吐描写があるので苦手な方は注意です。


「……始まったか」

 

 ネロたちローマ帝国によって大樹都市と呼称された連合ローマ帝国首都。円形に展開された城塞に囲われたその都市の中央にある城の最奥で、連合ローマの宮廷魔術師であるレフ・ライノール・フラウロスが忌々しそうに呟いた。

 レフが外の様子を確認できているのは何も、外にいる何者かと感覚共有を行っているからではない。彼の王に寵愛を受けたと自負する彼はたとえ相手が英霊でも感覚共有をすることはないだろう。聖杯によって自我を失って王の傀儡となった者は別だが。

 レフの周囲には聖杯の効力で空間が歪められたことで都市の外の光景が映し出され、しかし逆にレフの様子が外部に漏れることはない。流石にカルデアの者たちの様子までもを監視することはできないが、軍の様子を見るだけでも十分だ。

 現状、サーヴァントを除く兵力に関しては連合ローマとローマに対した差はない。元々は連合ローマの側に分があったのだが、カルデアが来た後から大きく減り始めたのである。レフはサーヴァントを見下してはいるが、彼らの力に関してはそうとは限らない。だからこそ手駒として利用しているのだ。

 兵力差はなし。加えて連合ローマの正規サーヴァントはもう使い切ってしまった。そう言葉にすると連合ローマの敗北は必至のようにも思えるが、それに反してレフは自らの敗北を一片たりとて考えてはいなかった。

 使い切った。そう、使()()()()()のである。斃されたのではない。そもそも聖杯を有するレフにとって、サーヴァントなどは注ぎ足すことができる戦力に過ぎない。そしてこの場にローマ軍が攻め込んでくることが確定した時点で、レフはそれを迎え撃つための戦力を補充していた。

 レフが腕を一振りするや、その眼前に新たなビジョンが映し出される。それに映っているのは連合ローマ王城の中庭。ロムルスの宝具である大樹が生えているその根本に整然と並んでいるのは黒いサーヴァントの群れ。

 それらは一見するとただのシャドウ・サーヴァントのようにも見えるが、そうではない。それは原理的に言えばカルデアのシステムにあるサーヴァントの影だけを使役する機能に近いか。レフは聖杯でサーヴァントを召喚する際にその霊基情報を聖杯に記録しておき、それを膨大な魔力で複製及び再現することで無数の戦力を生み出したのである。まさに荒業とでも言うべき所業だ。

 それらに知性はない。しかし霊基状態に関しては尋常なサーヴァントと大差ない。普通のシャドウ・サーヴァントのような残骸ではないのである。尤も、レフには態々それに呼称を考えるような趣味もつもりもないが。

 レフが歪に口角を吊り上げ、嗤う。いかな正規のサーヴァントといえど、これだけの物量差を覆すことはできない。戦いとは質ではなく数。更によしんば覆すことができたとしても、今度はロムルスだったものとレフ、もといフラウロスがいる。つまりうまく誘導してやれば疲弊した状態でレフが手ずから叩くことができる。

 完璧な布陣じゃないか! 自らの勝利を確信し、レフが哄笑を迸らせる。しかし慢心してはいない。今もシャドウ・サーヴァントもどきは量産中である。レフが生来持っている詰めの甘さはこの状況にあって、驚くべきことに鳴りを潜めていた。

 それはある意味で遥の存在ゆえだった。あの人モドキは彼の王から向けられるかも知れなかった寵愛を拒んだ。それだけでレフが遥に対して激烈な殺意を向けるには十分過ぎる理由になる。

 そうだ、夜桜遥。あの男だけは赦してはならない。他のカルデアの者たちは適当に殺しても構わないが、あの男だけは別だ。至高の王からの誘いを足蹴にし、あまつさえ中指を立てつつクズなどと言い放ったあの男には相応の罰を下さねばならない。聞けば脳と心臓を同時に潰さなければ死なないというのだから、生け捕りにするには好都合である。

 殺さずに生け捕りにし、縛り付けて何度も四肢を千切り飛ばしてやる。それだけでは足らない。魔術で身体を弄り倒し、意識を残したまま身体だけを操ってやるのも面白いかも知れない。それならばあの男の仲間を何人か生かしたままにしておき、生きたまま人形にしたあの男に殺させるのも一興であろう。

 そんな悪趣味な想像をして、レフが快悦に身をくねらせる。その想像が現実のものとなるのはそう遠い先の話ではない。レフが自ら軍勢を攻め込ませずとも、向こうから虎穴に飛び込んでくるのだ。レフはただそれを迎え撃つための牙を研いでおくだけで良い。

 圧倒的な戦力を以てカルデアの勢力を潰し、この特異点の人理定礎を破壊する。それだけで人理焼却は完遂される。悲願達成を目前として逸る気持ちを抑え、レフが大仰に腕を広げる。

 

「さぁ、来るがいい、カルデアの愚者共よ! そして知るがいい、貴様らの無力さ、無価値さをなァ‼」

 

 レフの哄笑に応えるように、意志無き黒き海が進撃を開始する。人理の守り人を鏖殺するために。人類に死を、終焉を齎すために。それが外まで出て行けば、間違いなくシャドウ・サーヴァントたちは連合兵であれ殺すだろう。レフは彼らに敵味方を判別できるだけの知性を与えていないのだから。それどころか一般人を殺すことも、あるかも知れない。

 だがレフはそんなことは意識の端にも留めていない。それはそうだろう。彼にとって人類などいずれは消えてなくなるものであり、殺されるか否かなどそれが遅いか早いかの話でしかない。それどころか、彼は今すぐにでもこの時代の人理定礎を破壊する気でいた。

 今のレフに侮蔑はあれど、慢心はない。使えるものは全て使って邪魔ものであるカルデアを叩き潰す。確かにそれは彼の行いにしては驚くべき慎重さである。しかしレフはその侮蔑故に見誤っていることに気づかない。遥の強さ、立香の強さ、そして何より、自らの弱点と最大の失策に。気づかないのだ。

 


 

 立香たちカルデア実働部隊β班がローマ軍を率いて攻め入ったのは大樹都市の東側であったが、しかし大樹都市の全ての兵士がその戦場に動員されている訳ではない。当然だろう。彼らが行っているのが戦争である以上、別動隊がいないとも限らないのだから。

 しかし今回東側に攻めてきたローマ軍の規模は決して始めから東側の哨戒に出ていた兵だけでは間に合わないことも確かで、相手側にはほかに大した戦力はないという前提の下、東側以外に残された戦力は最低限であった。

 ひとつの軍隊など要らない、最悪たった1騎のサーヴァントにでも破れてしまいそうな防備。しかしそこを守る彼らに不安などは一片たりとてなかった。それどころか彼らの身体には強壮感が満ちている。

 確かに彼らの人数は少ない。ひとりひとりの戦力は彼らが身命を捧げる皇帝たちの足元にも及ばないだろう。勿論、彼らを倒したという敵の者にも。だが、それが何だと言うのか。彼らは正しい行いを、正義を成しているのだ。ならば自分が倒れても、後に続く者がきっと敵を倒す。そうして連合ローマは勝利するのだと、彼らは強く信じていた。

 何とも皮肉な話である。彼らは連合ローマ、ひいてはそれを治める皇帝や人民のために戦っているというのに、彼らが思う通りに事が進めばローマどころか人類史が滅び、奉じる皇帝も既に真なる悪の手駒となっているのだから。

 仮に現代日本人がそれを知れば、きっと〝知らぬが仏〟という諺を持ち出してきていたことだろうが、生憎とその諺を知っているのは彼らの敵だけだ。彼ら兵士は現実を知らないまま、都合の良い虚構を見せられている。

 もしも彼らが東側の戦列に参加していたのなら、それは立香の心に迷いを齎す原因となっていたことだろう。しかし不幸にもと言うべきか、彼らは西側に残ってしまった。カルデア実働部隊α班が攻め込んでくる、西側に。

 ──()()を指揮官や兵士たちの不注意と言われてしまえば、きっと彼らは否定することができまい。けれど、致し方ない事ではあった。彼らがいるのは平原、それも視界の障害となり得るものがあるのは遥か先、一般的な弓では届かない距離だ。つまり、彼らの中に現代の基準で数キロ先から飛来する攻撃など全く慮外だったのである。

 人知れずその場から遥か遠くで瞬く光。その次の瞬間、防衛部隊の先頭に陣取っていた兵士の頭蓋が大量の血飛沫と共に弾けた。当然生きていられる筈もなく撃ち抜かれた兵士は一瞬で絶命し、何が起きたか分からない周囲の兵士は混乱状態に陥った。

 

「な、何だ今のは⁉」

「俺が知るか! 兎に角、敵襲であるのには違いないだろうが!」

「お前たち、お――」

 

 落ち着け、と言おうとした兵士たちの指揮官はしかし、その言葉を言い終えるより早くに喉を浅く斬り裂かれたことで発生する機能を失った。それなのに周囲の兵士たちは彼が襲われたことに気づいていない。

 止め処なく流れ出て行く血液。吸い込んだ息は喉に空いた穴から漏れ出て、殆ど肺には届かない。そのまま苦しみながら死ぬかと思われた指揮官は、倒れる直前に何者かによって受け止められた。ようやく誰かが気づいたのだと安心しかけて、視線の先にあった姿を見て息を詰まらせる。

 そこにいたのはひとりの男であった。まるで神祖のような紅い瞳には一切の感情の色がなく、指揮官の身体を掴んでいる手と逆の手には恐らく先程彼の喉を切った時に付いたものと思われる血が付着したナイフを握っている。

 

「悪いな」

「――、―――」

「俺は立香程、優しくないんだ」

 

 その兵士が末期の瞬間に何を言おうとしたのか、遥には分からない。騒がないように喉笛を切っていたし、そうでなくとも遥はきっと何も言わせないまま彼を殺していた。深々と指揮官の眉間に突き刺さったナイフを引き抜くことなく死体と共に地面に投げ捨て、自分やサーヴァントに掛けていた認識阻害の魔術を解除する。

 その時点になってようやく一般兵たちは指揮官が殺されたことに気づいたらしく、遥に殺意と戦意、そして怯えの入り混じった視線を向けた。そのまま攻勢に転じるかに思われた彼らだが、他にも敵――サーヴァントがいることに気づいて足を止める。

 遥が彼らから感じているのは絶対に勝てないという諦めにも似た確信と、それでも後に続く者たちならば勝つと、連合は勝つのだという忠義。つまりは玉砕を厭わない神風のような、愚かな覚悟。

 

「莫迦な奴らだ」

 

 ロングコートの裏から新たに2本、あらかじめエミヤに投影させていたナイフを取り出し、逆手に握る。叢雲は使えないのではなく、使う必要がないのだ。彼ら兵士に、そこまでの力はない。尤も、そのナイフはただのナイフではなく宝具の容を変えて投影されたものだが。

 遥には彼らの気持ちが理解できないし、理解したくもない。確かに自分が死んでも残る人々に希望を託すのは尊い行為だが、それを全員が抱いているなどと、それでは結局誰も残らないではないか。希望は託さなければ、繋がなければ消えてしまうというのに。

 全員が誰かに希望を託して果てようとしているというのは、結局の所誰かがやってくれるという無責任な思いと同義だ。覚悟するべきは自分が、自分たちがやり遂げてみせると、生き抜いて見せるという辛苦だったというのに。ならば素直に口に出せば良いのに、遥が口にするのは少しだけ捻くれた挑発。

 

「命あっての物種だろうに……全員死ぬ気とはな」

 

 剣士としての視点で言うなら、それは決して悪いことではない。死ぬ覚悟で戦う相手を無下にするなどと、そんなことをすれば剣士の名折れだ。しかし人間的な視点で見るなら、玉砕など下の下だ。

 しかし今更になって彼らを説得することなどできまい。だからこそ、殺してしまうことに迷いはない。彼らを殺さなければ、殺されるのは自分たちだ。そんなことは御免である。是が非でも生きようとしているのに、どうして死のうとしている者たちに殺されなくてはならないのか。

 そんなに死にたいなら望み通り殺してやる、という訳ではないが、死にたくないから殺してやる、ということではある。右手には干将を改造した黒いナイフ、左手には莫邪を改造した白いナイフを構え、軍勢を見据える。

 ネロは戦わせない。いくら今は敵であるとはいえ、元々ローマに属していた兵たちをネロに殺させる訳にはいかない。それでも隠れ潜むことは彼女の性分ではないため、結果的に囮のようになってしまっている。

 兵士たちを威圧するように、あえて最近膨れ上がってきた魔力を抑えずに兵士たちぶぶつける遥。沖田やクシナダもプレッシャーを放っている。人間の領域を超えたその気配にたじろいた兵士たちであったが、すぐに持ち直して己を鼓舞するかのように叫んだ。

 

「構わん! かかれェッ‼」

 

 雄オオオォォォッ‼ 咆哮し、遥たちを鏖にせんとする兵士たち。それを返り討ちにしようと遥たちが得物を構え、しかしそれらがぶつかり合う直前、それに横槍を入れるかのような動きがあった。

 兵士たちが守り、それ自体も固く閉ざされていた筈の城門が、地響きをあげながら開いていく。その様がさながら地獄の窯の蓋が開いていくかの如く遥には見えたのは、きっと的外れな直感ではないだろう。

 兵士たちからも困惑の声があがっている。それはそうだろう。彼らにとってはその城門こそが死守すべきものであり、それが何の前触れもなく勝手に開いているのだから。彼らはそれを遥たちの仕業と思い、しかし城門が開き切った先にあったものを見て、自分らの運命と間違いを悟った。

 

「成る程な……あの野郎、いよいよなりふり構っていられなくなったか……‼」

 

 憎々し気に呟く遥の視線の先。そこにあったのは大樹都市の市街地を埋め尽くすかのようなシャドウ・サーヴァントの軍勢だった。

 


 

 首都ローマにおいて行われた作戦会議の時点では立香たちβ班が大樹都市に攻め込むか否かが不透明になっていたのには、ひとつだけ理由があった。それが指揮系統の統制である。現在のローマ軍において、全軍に指示を出せるのは立香のみであるため簡単に離れることができなかったのだ。

 ところが今朝になってそれを解決し得る出来事があった。それが立香たちも遥からの報告でその存在は知っていた『魔術師(キャスター)』のサーヴァント、諸葛亮孔明ことロード・エルメロイⅡ世の合流である。ローマ軍に味方する意志を見せた彼に立香は指揮を任せ、敵本拠地に突入することができるようになったのである。

 無論、それは立香がエルメロイⅡ世に全権を委任するということではない。立香とエルメロイⅡ世の間には情報共有の経路(パス)が開かれ、情報の遣り取りができる手筈になっている。完全に任せることを善しとしなかった立香の判断である。

 それは考え方によっては正しい判断ではあろう。より高度な指揮のできる者に指揮権の一部を委任しつつ、全てを他人任せにする訳ではないのだから。だがそれが正しいといっても、善かったか否かまでは疑問が残る事態となってしまった。

 連合の軍勢を超えて遥たちよりも一足早く大樹都市内部にへと侵入した立香らが目撃したのは、ある種の地獄。都市内部は既にシャドウ・サーヴァントによって埋め尽くされ、道には大勢の人の死体が転がっている、そんな惨状であった。だが、何故そんなことをとは言わない。それに大した理由がないことなど、立香はもう知っている。

 それは謂ってみれば人間が付き纏ってくる羽虫を殺すようなものだ。ただそこにいたから、邪魔だったから。そんな理由で多くの人の命が失われた。ある者は四肢を落とされ、ある者は首を落とされ、またある者は腹を裂かれて。

 そんなものを見せられて平気でいられる程、立香の精神はおかしくはない。何とか王城に侵入して周囲のシャドウ・サーヴァントを一掃するまでは耐えることができたものの、そこで立香は一度胃の中のものを全て吐き戻してしまった。無理もない。ここに来るまでに、立香には相当なストレスがかかっていたのだから。

 故に我慢せず吐けるだけ吐いて、マシュに背中を摩ってもらっていることに礼を言いつつもえずいて、落ち着いてきたのを認めると袖が臭くなることも構わずにパーカーの袖で口を拭った。

 

「問題ねぇか、マスター?」

「あぁ、もう落ち着いた。大丈夫。……それより、何か妙だと思わない、クー・フーリン?」

「やっぱマスターも気づいてたか。敵さん、どうやらオレたちを誘い込んでるらしいな」

 

 どういうことですか? と問うマシュに、赤槍の一閃で片手では数えきれない数のシャドウ・サーヴァントを絶命させる神業を見せつつ、クー・フーリンは立香、そして恐らくはアルとアルトリアも気づいていたであろう内容を口にする。

 この王城に辿り着いてから、いや、辿り着く前から最早数えることも億劫になってくる程のシャドウ・サーヴァントたちを斃しながら進んできた彼らは、何も出鱈目に進んできた訳ではない。できる限り立香の負担を減らすため、敵の密度が低いルートを選んで進んできた。

 だが、それがもしも偶然敵がいなかったのではなく、最初からそうなるように仕組まれていたのなら? 彼らが懸念したのはそれで、そして十中八九それは的を射ている。

 つまりこのまま進んでいけばまず間違いなくレフかロムルス、或いはそのどちらとも相対することになる。それがこの特異点での最終決戦になるだろう。そうして立香がクー・フーリンに視線を向けると、それだけで彼は立香の意図を察しららしく、小さく頷いた。

 

「進むんだな?」

「そうだね。撤退するにしても安全に戻れるワケじゃないし……何より、いずれ斃さなきゃいけない敵だから」

 

 そう答える立香の声音には、揺るがない覚悟があった。即ちレフ・ライノールをここで斃すという覚悟。それを受けたマシュは顔を曇らせつつも、立香のそれに応じるように彼女もまた覚悟を決めた。

 レフ・ライノールはオルガマリーだけではなく立香や遥を除いたマスター候補生たち、多くのスタッフの仇である。それ以前に敵首魁の手先であるのなら、生かしておく理由はない。立香はそれを、冷静に了解していた。

 立香と契約したサーヴァントたちはその覚悟に何も口を挟むことはなく、しかし後押しするようにしてよりシャドウ・サーヴァントへの攻撃の手を強める。より無慈悲に、より苛烈に。意思無き獣の群れを灰燼に帰していく。

 彼らは何も、立香が誰かを殺す覚悟をすることを歓迎している訳ではない。しかし彼らは英雄だ。ひとりの人間が考えて考えて、考え抜いた果てに決めたことに態々口を出すような野暮な真似はしない。

 何よりも、立香の行いは悪ではない。自分本位の理由で誰かを斃そうとしているのではなく、結果的には誰かを守ろうとしての行いである。それを外ならぬ英雄が否定できる筈がない。

 まさしく破竹の勢いとでも言うべき攻勢で王城の中を突き進んでいく立香たち。やがてその先に現れたのはひとつの巨大な扉であった。それをアルトリアが聖剣から放った魔力撃で破壊し、次いで立香の右手に刻まれた令呪が鋭い輝きを帯びる。

 

「第一の令呪を以て『槍兵(ランサー)』クー・フーリンに命ず」

「応――」

 

 低く抑えたクー・フーリンの声。だがそれには隠しきれない闘争心と殺意があった。同時にその身体から膨大な魔力が噴き出し、魔力の暴風となって吹き荒れる。その中に在って、クー・フーリンは真っ直ぐに前を見据えていた。

 彼の身体を覆う青い戦装束の下で魔力の光が灯る。それは彼の身体に直接刻まれたルーン文字が起動した証。身体強化、それ以上に、身体保護と再生。全身に過剰に満たされた魔力から霊基を保護するための防壁。

 更に魔力を過剰供給された魔槍が赤黒い魔力を漏らし、その形を変えていく。美しい深紅は血に塗れたかのような禍々しい輝きに変わり、穂先の根本からは無数の棘が生える。まるで魔槍の元となった海獣クリードの獣性をそのまま槍と化したかのような、魔槍の中の魔槍。

 

「全力を以て、敵を討てッ‼」

「――任せなァ‼ 〝抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)〟‼」

 

 解放される真名。同時に投擲された槍は一瞬にして亜光速にすら迫る速度に到達し、発生した衝撃波が王城の一部を崩壊させる。マシュが守っていてくれていなければ立香の全身が砕けていただろう。

 抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)。クー・フーリンが今回の霊基再臨によって新たに得た宝具であり、他の使い方と違い魔槍が秘める因果逆転の呪いを一切解放しない。その代わりに解放するのは海獣クリードの真髄である死の呪い。時に不死さえ殺す魔槍の全力投擲である。

 だがそんな一撃に代償が伴わない筈もなく、真名解放によってクー・フーリンの霊基は最悪、崩壊してしまう。そのためのルーン魔術による身体再生。まさしく元よりも生前に近づいた中間体だからこその宝具であった。

 命中すれば不死存在さえも殺し得る魔槍の一撃。神速を以て放たれたそれがクー・フーリンの手元に戻ってきて、手に収まると同時に元の姿に立ち戻る。魔槍によって巻き上げられた土煙の奥を立香たちは油断なく見つめ、その先を見たクー・フーリンが苛立ちも露わに舌打ちを漏らした。次いで、嘲るような声がする。

 

「出会っていきなり攻撃とは……随分なご挨拶じゃあないか、藤丸立香」

「レフ・ライノールッ……!」

 

 土煙の向こう側から現れたのは誰あろう、カルデアの技術顧問であり、同時に爆破テロの主犯であったレフ・ライノールであった。クー・フーリンの宝具を受けたというのにその肉体に傷はなく、纏うモスグリーンのスーツにも欠損はない。まさしく彼が人外の存在だと物語るかのように。

 恐らくそれは槍を喰らってから再生したという訳ではあるまい。彼は聖杯を有しているのだから、その膨大な魔力でもって宝具の一撃を防いでしまうことなど造作もないのだろう。

 立香を嘲るかのように歪に口の端を曲げるレフ。そのレフを、立香は真っ向から睨み据えている。人の領域を逸脱した気配を前にして臆することなく、眼には抜き身の刃が如き敵意が宿っている。

 レフが背にしているのは都市の外からでも見えていた大樹。ローマ建国の証である、ロムルスの樹槍が真の姿を現したものだ。それはまるで天を覆うかのように枝葉を広げ、中庭には殆ど陽の光が差していない。

 

「……終わりだ、レフ。これ以上、ローマをアンタの好きにはさせない」

「終わりィ? ヒハ、ヒハハハハ! あぁ、まったく可笑しいことを言う! 終わらせたいのはこちらだよ、カルデアのマスター。貴様らクズが余計なことをしてくれたお蔭で、私は神殿に帰ることができなかったのだからな!」

「そりゃどうも。どうだい、見下していたクズに足元を掬われた気分は? 最高だろう?」

 

 立香らしからぬ挑発であった。それは何も彼の性格の変化という訳ではなく、ただ遥の真似をしているだけである。レフと遥の性格の相性は最悪なのだから、彼を煽るには遥の真似が最適だ。案の定、レフは立香の視線の先で青筋を立てている。

 しかし、神殿か。半ばレフを無視する形で立香の中に在る冷静な部分が思考する。恐らくそれがレフの主――いや、もうその正体にマスターふたりは気づいているから言ってしまうが、()()()()()()()の居場所なのだろう。

 その真実に最初に気づいたのは勿論、遥である。彼はレフが特異点Fで名乗った〝フラウロス〟という単語とレフが放つ悪魔に酷似した気配から早々に首領の正体を見抜き、立香にだけそれを語っていたのである。レオナルドなど一部の仲間も気づいていただろうに言わなかったのは何故かまでは分からないが。

 見下していた立香に煽られ、怒りに震えるレフ。だが不意にその怒りが哄笑へと変わった。まるで狂ったかのように、レフが嗤う。それに嫌なものを感じた立香がアルトリアとアルに指令を飛ばし、ふたりが駆ける。だがふたつの聖剣による攻撃を、レフは聖杯の後押しを受けた魔力撃によって弾き返してしまった。

 

「良いだろう……特別に貴様らにはこの私が手ずから教えてやる! 貴様らの無力さ、我が王の偉大さを! 念入りになァ‼」

 

 そう言うと同時に、レフはあろうことか聖杯を持った腕を大樹の幹に突き込んだ。ロムルスの宝具である筈のそれは、しかしレフのことを容易く受け入れ、そして次の瞬間にレフの身体が崩れるようにして大樹の中に溶けた。

 それでも響くレフの哄笑。それが大きくなっていくにつれて、大樹が根本から黒く染まっていく。枝葉の区別なく、まるで樹というカンバスに黒い絵の具をぶちまけたかのように、黒く、黒く。それに伴って肌に感じる魔力量も増大していく。

 そうして、立香は悟る。都市の中央に屹立するこの大樹は連合に人々の心を繋ぎ止めておくためのものでも、ましてやもうロムルスの宝具ですらなかったのだと。謂わばそれは奥の手。レフがカルデアを潰すために用意した秘策であったのだと。

 だが、それが何だというのか。元よりレフを斃すのが困難であることなど百も承知。それに、斃さなければ生き残れない。ならば斃す。人類のためなどではなく、自分や仲間の明日を(まも)るために。

 そんな思いを抱く立香の目の前で、大樹を覆っていた黒が剥がれ落ちていく。そうして現れたのは、目。大樹の容はそのままに、縦横に奔った亀裂から無数の紅い目が覗いている。樹だけではない。今やこの都市を囲う城塞にまでその目玉は現れていた。これが、レフの真体。否、それすらも上回る、究極の姿――‼

 

「フハ、ハハハハ‼ 称えるがいい! 我が名はフラウロス! 七十二の魔神が序列六十四、魔神フラウロスであるッ‼」

 

 

 魔神柱、浸食。

 

 

 ――魔神大樹、顕現。

 




魔神大樹フラウロス

 ロムルスの霊基を支配したレフが彼の宝具である〝すべては我が槍に通ずる(マグナ・ウォルイッセ・マグヌム)〟と〝すべては我が愛に通ずる(モレス・ネチェサーリエ)〟を取り込み、変化した姿。詳しいことはまだ言えないが、ロムルスが消滅しない限りゲーム的に言えば『毎ターンHP全回復』と『無限ガッツ』という解除不可能バフが続く。


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第60話 信じる心、相棒だから(上)

ちょっといつもよりグロめの描写があります。苦手な方は注意してください。


「な、何だ!?」

 

 連合ローマ首都である大樹都市、その中央に聳える王城の中でシャドウ・サーヴァント複数体を一刀の下に斬り伏せたネロが異常な地響きと轟音を感じて言葉を漏らす。地震などではない。それは明らかに戦闘によるものだ。

 それだけではなく周囲の空間に満ちる空間魔力(マナ)が常の無色から邪悪な色合いに変わっている。只人ではそれが邪悪なものであることは分かっても正体までには勘づくまい。だがそういう類の気配に慣れている遥には、それの正体におおよその見当を付けることができた。

 それは紛れもなく遥が何度か相対してきた〝悪魔〟と同じ類の気配であった。それも現代に現れるものとは比べ物にならない程に高位の、しかし真性悪魔と言うにはあまりに()()()()が多すぎる気配だ。否、正確には混じり物というよりは半端者だろうか。

 純粋な悪魔ではなく、むしろ変異特異点αで接敵したユスティーツァに酷似した気配に悪魔の要素が混じっていると言うのが正解か。つまりは間違いなく人類悪(ビースト)に関係する敵と立香達は接敵している。遥はそこまで状況を正しく把握していて、しかしそれに反するかのような言葉を吐いた。

 

「行こう、ネロ帝。俺たちには俺たちのやるべきことがある」

「な……捨て置くというのか!? 立香は貴様の相棒なのであろう!?」

 

 ネロの驚愕は尤もであろう。この空間に満ちている邪悪な気配の正体を知らないネロだが、それでも敵が人間や、それどころかサーヴァントすらも軽く超越する存在であることは分かる。それと相棒が相対していると分かっていて救援に向かわないという遥の判断は受け入れがたいものがあった。

 しかし遥の判断を理解できない訳ではない。現在この場に遥と契約したサーヴァントはいない。彼らは市街地で残った民衆を守るため、或いは遥の存在を察知して城内に戻ろうとするシャドウ・サーヴァントを殲滅するために各々戦っている。

 いくらネロや遥が人間離れした強さを持っているとはいえ、サーヴァント数騎がかりでも斃すのが難しい敵に対してふたりだけが戦列に参加した所で戦況は何も変わるまい。それに斃さなければならない敵はレフだけではない。だが遥が口にした理由はそのどれでもなかった。芸もなく迫ってきたシャドウ・サーヴァント2、3騎を纏めて一刀で切り捨てて、遥が口を開く。

 

「捨て置く? ハ、嘗めるなよ、ネロ帝。俺の相棒はあんな奴に屈する程ヤワじゃない……!」

 

 レフが強大な敵であることは認めよう。それもそのものではないとはいえ、ビーストに属する存在が強力であることは模倣人類悪(イミテーション・ビースト)を相手取った遥が一番よく知っている。それでも、それらを踏まえて遥はこう言おう。()()()()()、と。

 遥は立香が強者であることを知っている。身体的には遥より圧倒的に弱かろうと、その精神は遥よりも強い。泣かぬ虚勢よりも泣く優しさを知っている男が弱い筈がない。戦場において心など必要ないと思う者もいるだろうが、そうではないのだ。

 たとえ強大な敵であろうと屈することなく、地を這いずることになろうと諦めずに痛打を与えんとする闘志と折れない心。時にそれが勝敗を分けることもある。何より、立香は将である。心の持ちようが占める部分は他よりも大きい。

 その言葉を受けて、ネロが豪放に笑う。心の強さ。それはネロが最も好むもののひとつであった。彼らはそれを持ち合わせ、尚且つ互いに全幅の信頼を置いている。その在り方が、ネロにはとても美しいものに見えた。

 

「わははは!! うむ! やはり其方らは面白い! 今後も我が軍で抱えられぬのが残念だ!」

「そりゃどう、もッ!」

 

 戦場と化した王城の廊下で言葉を交わしながら、遥とネロは殆ど同時に互いのいる方向に向けて愛剣を振るう。だがその刃が切り裂いたのは互いではなく、その背後を狙っていたシャドウ・サーヴァントだ。首を刎ねられた影法師が一瞬で消滅する。

 言葉を交わすことさえなく、しかし息を吐かせぬ連携を見せるふたり。それはネロとオルタが共に戦った時のそれとは少し違う。ネロとオルタは〝互いが死んでしまうと困る〟からこその連携であったが、遥とネロはそれぞれが優れた剣士であるが故に〝互いの癖を全て把握している〟ことによる連携であった。

 更に接近してきた敵をそこからの返す一刀で絶命せしめ、続けて叢雲の刀身に一瞬で魔力を充填してそれを光の斬撃として放つ。豪奢が装飾を施された廊下が、膨大な魔力の奔流によって蹂躙され、それに呑まれたシャドウ・サーヴァントが残滓すら残すことなく消滅した。

 だが一撃で全てを撃滅することができる訳もなく、遥とネロの前には数十騎のシャドウ・サーヴァントが残っていた。その大半が大盾を持っている所を見るに、恐らくレオニダスのシャドウ・サーヴァントが他数騎のシャドウ・サーヴァントを守る形で遥の攻撃を防いだのだろう。

 まるでおまえの攻撃を防いでやったぞ、とでも言うかのような視線がシャドウ・サーヴァントたちから注がれる。レフの悪意の具現である彼らは自然と遥を狙うように造られている。だがその視線を受けてもなお、遥は嗤う。そうして焔を刀身に纏わせると、同じように火炎を宝剣に宿らせたネロと共に地を蹴った。

 

「――〝喝采は剣戟の如く(グラディサヌス・プラウセルン)〟!!」

「――〝桜花舞う焔天(ファルサ・ロサ・イクトゥス)〟!!」

 

 先行するネロが放つのは回避すら許さぬ神速の3連撃。炎を纏う流れ星の如き速度を伴う斬り下ろしから、敵を逃がさない斬り上げ、続けての止めの斬り下ろしによって構成される剣技。

 それの後に残った討ち漏らしを、遥の新たな剣技である〝桜花舞う焔天(ファルサ・ロサ・イクトゥス)〟が両断せしめる。名前からも分かる通りネロの剣技の模倣であるそれだが、遥の技量と異能によりネロのそれに比べて広い殲滅範囲を誇る。ネロの討ち漏らしは、全て遥の刃にてその霊基を散らしていく。

 一瞬の攻防、否、一方的な攻勢の後にはシャドウ・サーヴァントの姿はなく、彼らのいた場所にはネロと遥の剣から燃え移った炎があるばかりだ。そちらを振り返ることなく敵の全滅を確信し、ふたりが拳をぶつけ合う。

 

「貴様の剣技……ソレは余の真似だな? にしては貴様色に染まりすぎのようだが……」

「仕方ねぇだろ、剣の形、全然違うんだから……それより」

「ああ……それよりも」

 

 言葉を最後まで吐き出すことなく、しかしネロと遥が見るものは全く同じであった。彼らが無数の敵を討ち斃した後に待っていたものは、天井にまで届く程の高さを誇る大扉。他の扉とは大きさや装飾からして違う扉だ。

 異なるのは見た目だけではない。その扉の奥からはこれまでの敵とは比較することすら烏滸がましい程の威圧感が放たれている。瘴気とでも言うべきか、何の耐性もない人間が浴びれば一瞬で泡を吹いて倒れているだろう。

 物は試しとインカムを起動してみるものの聞こえてくるのはノイズばかりで、立香にもカルデアにも通信が繋がらない。恐らくは周囲に満ちる魔力が邪魔になっているのであろう。故に遥はそれを外し、ロングコートのポケットに仕舞った。そうしてネロと顔を見合わせると、荒々しく強化を施した蹴撃で扉を蹴り開けた。

 瞬間、ネロと遥は自らの身体を縛り付けるかのような強大極まる重圧を感じて思わず息を呑んだ。姿ではなく気配だけで分かる。今、彼らの目の前にいる敵はこれまで相対してきた敵とは訳が違う。霊基の規模が違う。玉座に座る、泥の巨人。それは何の動きも見せず、しかしその気配だけでふたりを圧倒していた。

 だが不意にその身体が動き、玉座から身体を起こす。ゆっくりと、理性を感じさせない動き。その筈が、そこには確かに神祖と呼ばれる男の荘厳さがあった。されど、泥の巨人は無貌のままである。それを前にして、ネロが呟いた。

 

「あれが、神祖……」

『――そう。貴様らの国の祖、軍神マルスの血を受けた神の子だよ。尤も、今は見ての通り私の手駒だがね』

 

 突如として響いたのは、この場にはいない筈の怨敵、レフ・ライノールの声。その声を認識してすぐに出所を探ろうとした遥はしかし、その直後に起きた変化を前に驚愕の色を見せた。

 まるで泥の巨人と化したロムルスの肌を食い破ってくるかのように浮き出してきたのは、目だ。この世に在る遍く万象を見通しながらその悉くを嘲笑うかのような、紅い目。それがロムルスの全身から生えてきている。おぞましい、それ以外に言葉が見当たらない。

 最早目前にいる泥の巨人はロムルスそのものなどではない。それの霊基を残し、宝具を残し、神性を残しているのだとしても、()()がない。そんなものはとうに喰われ、残った霊基も聖杯と魔神の力によって全く別のモノへと変質している。その霊基はロムルスであって、ロムルスではない。

 

『それにしても……やはり愚かなものだなァ、人間というものは。彼我の力の差は理解しているだろうに』

「フン。そんなことで引き返すくらいなら、余は皇帝などにはなっておらぬ」

『ハハハ! それはそうだ! ならば屑は屑らしく、早々に死にたまえ!』

 

 最大限の侮蔑の直後、ロムルスの総身から吹き出した膨大な魔力が物理的な圧となってネロと遥を襲った。ロムルスを支配するレフが戦闘命令を下したのだろう。先程までは空恐ろしいまでの無感情なものだったロムルスからの圧が、今は激甚な殺意を滲ませたものに変わっている。

 聖杯の呪いを受けて泥の巨人と化した神祖、その霊基(からだ)を構成する泥の一部が地面に流れ出し、そこから発芽するかのように現れた泥の樹槍がロムルスの手に収まる。本来あるべき形ではなく、相手を殺傷することに特化した禍々しい形状をした樹槍だ。

 それと相対するネロと遥もまた、愛剣を構えてロムルスを睨む。相手が尋常なサーヴァントであればその時点で視線などから狙いなどをある程度推し量ることもできるが、生憎とロムルスは無貌。全身に生える目玉も不規則に蠢いているときている。これでは相手の狙いを量ることができない。ならばこちらから仕掛けるか。遥がそう考えた直後、一陣の突風がその身体に押し寄せた。

 轟音。衝撃。遥がその一撃を察知することができたのは、彼の直感を以てしても奇跡と言う外ないだろう。だが察知できたとしてもそれを受け切ることができる訳ではない。神速を超えた速度を以て放たれたロムルスの一撃を叢雲で受けた遥はしかし、その衝撃を殺すことができずに全身を壁に叩きつけられた。

 

「ガッ――」

 

 無理矢理に肺から全ての空気を押し出され、遥が喘ぐ。今の衝撃で脊柱が折れたのか、下半身が動かない。それも遥の起源に従って修正されはするものの、それは僅かでも致命的な隙だ。故に遥は壁にできたクレーターから自分を叩きだすと、腕だけで転がりロムルスの攻撃を回避した。

 刹那、遥がいた場所にロムルスの樹槍が突き刺さる。その一撃はただでさえ遥が衝突して崩壊寸前であった壁を完全に崩壊させ、その威力に遥が舌を巻く。仮にそれを喰らっていれば遥の身体はその余波だけで粉微塵と化していただろう。回避できたのは僥倖だった。

 折れた脊柱が修復して脊髄が機能を取り戻すと同時、遥が体勢を立て直してロムルスから距離を取ろうと飛び退いた。更に固有結界展開の式句を唱え、遥の体内に煉獄が広がる。

 

(さっきの攻撃、全く動きが見えなかった。加速した俺と同等……いや、純粋な速度はそれ以上か……?)

 

 英霊並の動体視力でさえ追い越す挙動をするという点で言えば遥もできなくはないが、それはあくまでも固有時制御と縮地や極地、魔力放出ありきの話であって素の身体能力はAランクサーヴァントに及ぶか否かといった程度なのである。それでも現代人として見れば異常だが、半神半人として見れば大した話ではない。

 対してロムルスは元が半神半人であることに加え、未だ信仰めいた崇拝が厚いこの時代に召喚されたことで限りなく生前に近いステータスを持っていただろう。そこに聖杯による改造を受けているのだから、今のステータスはサーヴァントとしては総合的に見て〝評価規格外〟と言う外ないだろう。

 成る程フラウロスも調子に乗るワケだ、と遥が苛立ちも露わに舌打ちを漏らす。少なくともローマに来た頃の遥であれば抵抗もできずに殺されるか、或いは捕まるかのどちらかだっただろう。今の状態で小手先の手段を使い、ようやく追いつけるかどうか。

 いくら遥が未だ半神半人としては完成されていないとはいえ、相手が尋常なサーヴァントならば十分であるのだ。それがロムルスは聖杯の呪いを受けているがために、極端な強化がなされているために今の状態では追いつけない。

 天叢雲剣を構え直す。この戦闘において考えるべきはロムルスを斃すことそのものではなく、数手打った後の生存だ。勝ち筋を探さなければ勝てないが、それだけを考えていたのでは勝ち筋を見つける前に殺される。今はとにかく、彼我の間にある戦力差を把握しなければならない。

 

「合わせろ、ネロ帝!」

「言われずとも分かっておる!」

 

 遥は天叢雲剣を、ネロは原初の火(アエストゥス・エストゥス)を手に地を蹴る。そのタイミングは全くの同一だ。彼らの言葉通りにネロが遥に合わせた形である。皇帝が一介の剣士に合わせるなど考えられない状況ではあるが、実力を考えれば不思議ではあるまい。

 しかしネロが合わせたのはタイミングだけである。ネロと遥では剣腕において遥に分がある以上、そこまでネロが合わせることはできない。故にそれを合わせるのは遥だ。ふたりは愛剣の刃に炎を纏わせ、ロムルスに殺到する。

 前後二方向からの、全く同じタイミングでの攻撃。左右どちらかに躱そうとも刃から伸長する火炎がそれを許さない。その攻撃はたとえ上位の英霊であれ負傷は免れ得ないだろう。だがそんな攻撃を前にしても、ロムルスは動じなかった。

 ロムルスの足元から生えるもう1本の樹槍。ロムルスはそれを左手で泥沼の中から引き抜くと、その流れのまま遥に向けて投げ放った。必然、不意を突かれた遥は防衛行動を執らざるを得なくなる。反射的に叢雲を振るい、投槍をはじく遥。そのために同時攻撃のタイミングはズレ、その隙にロムルスはネロへと攻撃を放った。

 ロムルスの足元に蟠っていた泥が三度その形を変え、爆発するように噴きあがる。大英雄さえも反転させる呪いの塊が、ネロへと迫っていく。対するネロにそれを防ぐ手段はなく、それに気づいた遥は考えるより先に駆け出した。

 

「ネロッ……! 加速開始(イグニッション)!!」

 

 その詠唱と同時に遥の体内に展開された煉獄が完全に外界から切り離され、その時間流が数倍にまで加速する。平時のように2、3倍の加速ではなく、その加速倍率は5、6倍程度にはなるだろう。その異常な加速に全身の骨が軋むのも構わず、遥は駆けた。

 神経伝達の加速により暗くなった視界の中、遥が狙ったのはロムルスではなくネロ。今にも降り注ぐ泥の奔流に呑まれそうになっているネロへと肉薄した遥は減速することさえしないまま、彼女を部屋の壁まで突き飛ばした。

 当然、その運動エネルギーをまともに喰らったネロは抵抗することさえできずに吹っ飛ばされて壁に叩きつけられる。それでも負傷することはなかったが文句のひとつでも言ってやろうとして、しかしネロはソレを見て言いかけていた文句を忘れた。

 何も言わずにネロを突き飛ばし、泥が降り注ぐ範囲から離脱させた遥は、しかし自分はその範囲から脱することができずに聖杯と魔神の呪いが混ざり合った泥を満身に浴びてしまっていたのだ。

 

「ぐ――が、ガァ――ガアァァァァッ!! あああああああッ!?」

 

 総身を焼く呪いの奔流に、遥が苦悶の叫びをあげる。総身に絡みついた呪いの黒泥がまるで生命ででもあるかのように遥の体表で脈動し、魔術回路を通じて体内に入り込んでくる。遥が宿す煉獄はそれを排除するために活性化するものの、黒泥の呪いは残滓でさえ精神が崩れるような苦痛を齎す。

 意識が、魂が焼けるように熱い。呪いの効力で身体が崩れていって、それでも煉獄と起源が遥を生かそうと働く。そんな二重苦に苛まれる思考の中で、遥が気づく。この呪いは、何かがおかしい。冬木で浴びた呪いなどとは訳が違う。

 死ね、死ねと叫んでその概念を遥に押し付けようとしてくるものに混じって、純粋に遥に苦痛を齎し、精神と身体を蝕んで殺そうとするものがある。それが何度も遥の精神と身体を殺し、その度に起源が再生させる。その苦しみは、慣れている遥でなければとうに発狂していることだろう。

 まるで壊れたロボットのようにカタカタと身体を震わせる遥を蹴り倒し、その足で踏みつけるロムルス。ネロは遥をロムルスの暴威から解放せんと切りかかるも、泥の巨人はその斬撃を樹槍で軽々と弾いてしまった。更に空いている左手でその胴に殴打を喰らわせ、ネロが吹っ飛んでいく。その先で壁に叩きつけられ、血を吐いてネロが気絶した。

 

「ぐぅ――が、あぁ――」

『ハハ、苦しいかね、夜桜遥!! それはそうだろう。何せコイツの泥はただの呪いではない。見る影もない程に劣化してはいるが、ヒュドラの神毒を再現しているのだからな!!』

「な、に――?」

 

 それはレフが遥を苦しめるために用意したこれ以上ない程に悪辣な策であった。今、レフの手にある聖杯は嘗て彼がブーディカの心臓に埋め込んでいたものであり、それ故に彼女の霊基情報もそれには蓄積されている。

 そして『復讐者(アヴェンジャー)』ブーディカ・オルタの宝具のひとつである〝我は悪逆でなく、女王なれば(クイーン・オブ・ヴィクトリア)〟は相手から武器の所有権を奪うもの。即ち相手の霊基からその武器を引き剥がし、()()()()()()()()()()宝具である。その情報もまた、聖杯には記録されている。

 つまりレフは聖杯を回収した後、元々ブーディカを汚染するより先に支配していたロムルスの霊基に対し、聖杯に記録されていた荊軻の匕首、その中でも劣化神毒の霊基を組み込むことで対遥用の決戦兵器としたのだ。

 苦悶する遥と、嗤うレフ。その哄笑に応えるようにロムルスは手にした樹槍を無造作に振り下ろすと、遥の腹に突き刺した。何度も、何度も、まるで子供が執拗に虫の死骸を潰していくかのように。

 

「ぐぁ、あああっ!! フラウ、ロス……貴、様ァッ……!!」

『おや、まだ反抗する気力が残っていたか。では……』

 

 唐突に止まるロムルスの攻勢。その間隙を見逃さずに脱出を試みる遥だが、レフがそれをそう簡単に許す筈もない。再び樹槍が動き出し、穂先が遥の内で円を描く。まるで内臓と泥を攪拌するように。その度に、骨を伝って脳内に直接異音が響く。

 激痛。鈍痛。疼痛。苦悶。絶叫。意識はとうに想像を絶する苦痛に染められて、感覚などとうに狂っている。起源が『不朽』でなければ命がいくつあっても足りたものではない。いや、遥が自覚していないだけで彼も死んでは蘇りを繰り返しているのかも知れない。少なくとも精神はそうだ。肉体的な苦痛に加え、ヒュドラの劣化神毒と聖杯の呪いを同時に受けているのだから。

 それなのに、何故。ロムルスを通じて遥の惨状を見ているレフが舌打ちをする。固有結界に身体を焼かれ、臓物を原型を留めない程に壊され、劣化神毒と聖杯の呪いに晒されているのだ。常人ならば、それどころか下手な英霊でも発狂するような苦悶の嵐の筈なのだ。それなのに何故、この男の目から叛逆の光が消えない――!?

 

「ムカつく……あぁ、ムカつくんだよ、テメェ……!!」

 

 反射行動でただ震えるばかりの手を無理矢理に抑え、遥が槍の穂先を掴む。その接触面からも泥と毒が流れ込んでくるが、構わずに腹の中で蠢く槍の動きを止めようと力を込める。その力は、とても窮地に立たされている人間のそれではない。その火事場の馬鹿力めいたものの源泉は、怒りだ。

 遥はレフが嫌いだ。それは彼が敵だと判明するより前、レフがカルデアにいた頃から。だがその憤怒はそこから湧き出しているのではない。そんなものは忘れてしまうくらい遥にとって大切なものから、それは生まれている。

 レフが自分を(ころ)そうとしているのは良い。だって、遥もレフを殺そうとしている。相手を殺そうとしているのにその相手から殺されそうになることを怒るなんて、お門違いだ。だから、遥が起こっているのはそんな些末事のためでは断じてない。では、遥が起こっているのは何のためか。

 ――レフは立香を、マシュを、サーヴァントたちを、ネロを、カルデアを、殺そうとしている。それは絶対に許容できない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかし遥の手が、目が届く限りにいる彼の愛した人々を塵芥のように殺されることは、遥は我慢ならなかった。

 

「それにな……誓ったんだよ、俺の目の前で散った人の死を、無意味なものに、させないって……!!!」

『――!!』

 

 血反吐を吐く。吐瀉物をぶちまける。それでも遥は左手に込めた力を緩めることはしなかった。それどころかロムルスの腕は徐々にその攪拌を遅くしていく。遥の力が少しずつ強くなってきているのだ。

 自分の目の前で起きた死を無意味なものにさせない。それは遥が人理修復に臨むうえにおいて至上とする命題であった。人理焼却は人類史を無に帰そうととしている。それどころか何かに利用する気でもいる。それはつまり全ての生と死に対して、自らに利用されること以外の意味を奪ってしまう行為だ。遥には、それが許せない。

 だがそれがレフの中で琴線に触れる言葉だったらしく、身体に穂先を埋める槍から流れ込んでくる泥の量が著しく増加する。遥の固有結界ですら浄化が間に合わない程のそれに、遥の視界が白く染まっていく。感覚が遠のいていく。

 ロムルスを通じて、レフが何かを言っている。最早レフに遥を生かしたまま苦しめようなどという発想はない。呪いの黒泥を以て呪い殺し、すぐにでもこの不遜な輩を排除しようとしている。辛くて辛くて死んでしまいそうで、それでも死ぬ訳にはいかない。

 泥の奔流に押し流されていく自我。崩れていく身体。それでもなお再生する自我と身体。まるでたったひとりで何度も輪廻を繰り返しているかのような体感。それでも遥は思考を止めず、叛逆を諦めなかった。

 この状況、ネロは気絶し、サーヴァントたちはシャドウ・サーヴァントの足止めと排除に動き、立香たちはレフの本体と戦っていて救援は望めないという戦況を覆すには力が必要だ。それこそ聖杯の後押しすらも撥ね退ける程の力が。必死にそれを探して、けれど意識は徐々に消えていって、五感は白く変わって、何もなくなっていく。それでも遥は何かを掴もうとして手を伸ばし、意識が途絶えそうになったその時、その手が何かを掴んだ。そして、覚悟する。

 ――力ならば、此処にある。望んでもいないのに勝手に与えられて、傲慢にも宿主を振り回し続けてきた、呪いにも似た力が。今まで振り回されるばかりだったその力が理想を遂げるために、その障害を踏破するために必要であるならば。愛した人々を守るために不可欠であるならば。

 

(俺は――もう逃げない。アイツらを守るために必要なら、神の血だろうが神の魂だろうが、何だろうが受け入れてやる。いや……呑み込んでやる!!!)

 

 

 だから、力を寄越せ。

 

 

 その覚悟と共に、遥は手にしたものをその身体の内へと、魂の内へと呑み込んだ。

 

 

 ──よく言った。逆境にも抗う不屈。愛した者を守らんとする気概! そのためならば神さえも喰らう傲岸!! それでこそ、オレの神核を継ぐに相応しい!!!

 

 

 最後に、そんな声が聞こえた。

 




 本来予定していた所まで書くと2万字まで行きそうなので分けることにしました。
 ……それにしても、レフの目の前でソロモン(仮)をディスったり、死を無意味ではないと言ったり、遥はいくつ魔神柱の地雷を踏んでいくんでしょう。


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第61話 信じる心、相棒だから(下)

 ――何度、殺しただろうか。何度、死んだだろうか。高速で思考を巡らせてサーヴァントたちに指示を飛ばしながら、立香は頭の片隅でそんなことを思った。単一の相手を殺した回数を数えるなど奇妙な話だが、この戦闘に限ってはその思考は正しい。

 レフ・ライノール・フラウロス、もとい魔神フラウロス、もとい魔神大樹フラウロス。この特異点の人理定礎を復元するにあたって最後の敵として立ちはだかったそれは、まさしく不死身であった。正確には不死そのものではなかろうが、限りなくそれに近いものであることは間違いない。

 たとえ聖剣の一撃を以てその幹を両断しようと、魔槍の投擲を以て肉を抉ろうと、その程度の損傷など何の問題でもないかのように次の瞬間には再生してしまうのである。以前の立香であればそれに何故としか思えなかっただろうが、マーリンの許で神秘について多少なりとも学んだ今となってはある程度の見当を付けることができた。

 恐らくはフラウロスを守っているのは概念的守護と魔術的守護、そのどちらもだ。あくまでも推測の域を出ないものの、まず見当を付けることができたという事実自体、立香の脅威的な成長を表していると言えるだろう。

 まず第一に概念的守護。これは〝過去・現在・未来全てのローマを表す〟という概念を持つロムルスの宝具を拡大解釈することで〝ローマが滅びない限り、それを取り込んだ自らもまた不滅である〟という属性を自らに付与しているのだろう。かなり無理のある方法だが、聖杯があるのだから不可能な話ではなかろう。

 次に魔術的守護。現在フラウロスに取り込まれているロムルスの宝具は古代ローマ帝国建国の証である。それが、ローマの大地に根付いている。その根が吸い上げているのは栄養分ではなく地脈の魔力だ。聖杯と地脈の魔力を以て、フラウロスは常に自らの身体を再生している。

 ローマがローマである限り不滅という概念を持ちながら、受けたダメージを放置することなく即時再生し続ける。カルデアを爆破した時のような手抜きではない、周到極まる策だ。現状、フラウロスを斃すには魔神フラウロスとロムルスの霊基を切り離すしかない。

 しかし両者の結びつきを解除する手段がない以上、手立てはロムルスを斃す他ない。いくら取り込まれていると言えど、元は別の存在なのだ。そしてフラウロスはカルデアにはロムルスを斃せないと高を括っている。そこに反撃の糸口がある。

 つまり、今立香たちにできることは遥たちがロムルスを斃すまで耐え抜くことしかない。その事実を認めることは心苦しくはあったが、現実を認めなければ事は前に進まない。重要なのはそこからどう自らの側に流れを持ってくるのかなのだ。自らの側にある戦力を組み合わせ、ただ合算しただけではない結果を出す。それは将たる立香の役目だ。それを、彼は忘れていなかった。

 立香自身は意識していないが、それはとても一般人などという範疇にある精神力ではない。本当に一般人程度の精神力しかないのであれば、立香はフラウロスを目前にした時点でその存在の異質さを受け止めきれずに発狂していただろう。

 それが立香は発狂するどころか正常に意識を保ち、常と変わらない冷静さを保っていることができている。それは立香が元々持つ強さ故か、それともマーリンが施した教育が彼自身でさえ予想していない方法に作用しているためか。定かではないものの、立香にとってはどうでも良い話だ。彼はただ生存のために思考を巡らせ続ける。

 

先輩(マスター)!!」

「……ッ!?」

 

 マシュの声が立香の耳朶を打った直後、フラウロスの紅い目が強烈な輝きを放った。同時に空間を歪ませる程に膨大な魔力が指向性を持った状態で解放され、土煙をあげながら大地を薙ぎ払う。

 それが立香に着弾する直前にマシュが割って入り防衛するが、魔神の凝視の攻撃範囲はマシュの盾で防御できる範囲を超えている。故に立香はカルデアの制服の上に纏う黒いパーカー型の礼装に魔力を流すと、それに記憶されている魔術を呼び出した。

 マシュのスキルと立香が起動させた魔術によって展開された二重の魔力障壁。それは魔神の攻撃から完璧にふたりを守り切り、その土煙が過ぎ去った後に残るのは崩落した王城の瓦礫と無傷のふたりだ。その周囲に張られた障壁はマシュのスキルによるものどころか魔術によるものでさえ壊れていない。

 立香が起動させたのはただの魔術ではない。遥の技術提供によりレオナルドが完成させた夜桜の魔術の再現。即ち神代の魔術。オリジナルへの影響や技術的限界により意図的に機能縮小(ダウンサイジング)されてはいるものの、その神秘は魔神に勝るとも劣らない。素人が行使できるものとしては破格の防御力だ。

 

「猪口才なッ!!」

「アルトリア! アル!」

 

 立香に凝視の一撃を凌がれたと悟ったフラウロスが再び同じ一撃を放とうとしているのを見て取るや、立香が号令を出した。それだけでふたりのアーサー王は己が契約者(マスター)の意図を汲み取り、即座に実行する。

 エクスカリバーとマルミアドワーズ、二振りの聖剣に収束する漆黒と黄金の魔力。騎士王は聖剣を一閃してそれを撃ち出すと同時、聖剣が纏う風の暴威を指向性を持たせて解き放った。加速された魔力斬撃と風の破砕槌が今にも魔神の権能を解放せんとしていた眼球を潰す。

 そこへ走り込んだのは赤枝の騎士だ。彼は空中に跳びあがるや腰に佩いた光の剣を抜き放ち、己が一度に放出できる魔力の全てをそれに込めた。瞬間、彼の身の丈の数倍の長さにまで黄金の輝きが伸長する。だが騎士は軽々とそれを振るい、黄金の閃光が肉の柱を半ばから断ち切る。続けて幾つか原初のルーンを起動させ、ひとつひとつが低格の宝具を凌駕する攻撃がフラウロスに殺到した。

 だが、()()()()。次の攻撃に移りながら、クー・フーリンが舌打ちを漏らす。彼は対人・対軍・対化生全てにおいて英雄の中でも最強クラスに位置する本物の大英雄だ。その直感が囁いている。これでは足りないと。

 ()()()()()? 降って湧いたその考えを槍兵は即座に放棄する。スキルと宝具の狭間に存在するそれは、確かに強力な一手ではあるもののマスター殺しの一手でもある。立香の魔力量で十全に使おうと思うなら、令呪が最低でも一角、いや、二角必要になる。つまり残りの令呪全てだ。それも無限の魔力ではないのだから、概念的守護に守られている時に使うものではない。

 刹那の内に行われた思考。だがその間にも大英雄3騎によって負わされた傷を完全に修復してのけたフラウロス。その身体に奔る亀裂から、人理全てを嗤うかのような声が這い出てくる。

 

「この期に及んでまだ無様に足掻くか、敗残者共め。王の寵愛を失った貴様らに待つのは終焉のみだと、いい加減理解したらどうだね?」

「煩い……! オレたちはまだ終わってなんかいない。誰かの都合で勝手に終わらされてなんかやるものか! だから――」

 

 ――終わるのはアンタの方だ、フラウロス。不屈とすら思える生存の意思に塗れた声音でそう言う立香の目はまさに抜き身の刃が如く。己の、そして己の仲間の生存のためならばどんな敵でも屠ってしまいそうな威圧がその瞳にはあった。

 正直な所を言えば、立香にとっては()()()()()()()()()()()()。当然だろう。現生人類約70億人、人類史全体で言えばそれ以上にもなる人間全ての命を背負うなど、英雄の精神を持たない立香には不可能な話だ。

 だが、自らが生きてゆくためならば。自分の大切な人々が生きていゆくためならば。敵を斃さなければ生きられないのならば。立香は戦うだろう。全ての障害を乗り越え、踏破し、生存を勝ち取るだろう。

 顔も知らない人類(みんな)のためになど戦えない。けれど顔を知っている人間(だれか)の為にならば戦える。それは浅ましい思いだろうか。いや、否だ。元より立香には人類(みんな)の為の英雄(ヒーロー)になる素質はない。だが、だからこそ彼は人間(だれか)のための(ヒーロー)となる素質があった。その発露を前にして、悪役(フラウロス)は忌々し気に吐き捨てる。

 

「貴様……!!! 夜桜遥も! 貴様も! カルデアのゴミ共も全て王の偉大さを理解できぬ蒙昧がッ!! 生き足掻くなァッ!!」

「いいや、足掻くさ! 足掻いて足掻いて、足掻きぬいて、生きてやる!!!」

「英雄がいなければ足掻くことさえできぬカスが、囀るな!!」

 

 英雄がいなければ足掻くことさえできないカス。あぁ、耳が痛い。フラウロスの放った暴虐の魔力砲を礼装の魔術で防ぎながら、立香が自嘲的に嗤う。フラウロスの言う通り、立香は弱い。遥のように超人的な魔力量や回復能力がある訳でもなく、サーヴァントのように宝具を持つ訳でもない。強力な魔眼はあっても、自分ひとりでは予測した未来を変えることさえできない。聖剣の鞘を宿していても、騎士王がいなければただ生命力が強いだけ。その程度の存在だ。

 だが、それが何だ? 全てのことをたったひとりでできる人類など存在しない。それは半神である遥だろうが、人類史に名を刻んだゴーストライナーたる英霊であろうが同じこと。全てひとりでできてしまう者がいるとすれば、それは全知全能の絶対神だけだ。

 立香は己が弱いことを自覚している。サーヴァントの力を自分の力などと勘違いしていない。だからこそ吠えるのだ。だからこそ手を伸ばすのだ。自分ひとりの手だけでは届かないものにでも、多くの人が手を握り合えばきっと届くと信じているから。

 だからこそ、折れる訳にはいかないのだ。負ける訳にはいかないのだ。粋がっているのではない。たとえどんなに強大な敵であろうと屈さずにいようと努めているだけだ。故に立香はその信念に従い、魔眼殺しの眼鏡に手を掛けながらフラウロスに啖呵を切った。

 

「確かにオレは弱いよ。でもアンタの言う強さを手に入れてしまうくらいなら、オレは弱いままで良い!!」

 

 その咆哮と同時に立香は魔眼殺しを外し、その身に宿した『先視』の魔眼を発動した。普段は水色を湛える立香の瞳が深い青を主とした虹色に変わり、突如として脳の内に異常な量の情報が流入してそれを限界を超えた速度で処理を開始する。

 そうして立香の脳内に映し出されるのは〝このまま何の対策もしなかった場合に最も訪れる確率の高い未来〟だ。このまま行動しなければ立香たちは凝視の熱線に焼かれて死ぬ。それは態々魔眼で予測するまでもないことだ。だが、この魔眼の有用性はそれだけではない。

 『先視』の魔眼が戦略上最も有用である点は未来を測定することそのものではなく、そこに至るまでも過程までもを測定できることにある。方程式に過程がなければ解は出ないのと同じように、未来も過程がなければ存在し得ない。結果を改変するには過程を改変するしかないのだから、戦略上その特性はこの上なく有用である。

 反面、その強力な機能のためにそれは立香に巨大な負担を強いる。魔神柱相手であれば、精々10分以下が限度といった所だろうか。それを超えてしまえば立香の脳は焼き切れ、廃人と化してしまうだろう。つまりこれはそれまでに遥がロムルスを斃すことができるか、或いは立香たちが耐えていることができるかという賭けだ。

 立香の指示の冴えが増す。その様はフラウロスから見れば異様であったことだろう。何せ立香はまるでフラウロスの行動を全て把握しているかのようにサーヴァントたちに指示を出し、攻撃を回避し逆に彼らの攻撃を叩き込んでいくのだから。

 ローマ建国の証である大樹を取り込んだフラウロスは、ローマがローマである限りは死なない。加えて超回復力も有している。だからと言って痛覚がない訳でも、感覚が失せている訳でもないのだ。一方的な攻撃を受ければ、その分痛い。その激痛が、フラウロスに苛立ちを募らせる。

 自分が死なないのは分かっている。それでもこの思い上がったカス共に鉄槌を下さなければならない。だが普通の攻撃は通じず、恐らく奥の手である〝焼却式フラウロス〟もとい〝滅却式フラウロス〟も先読みされてしまうだろう。そうして何かないかと探して、フラウロスはそれを見つけた。

 聖杯の呪いによって泥の巨人と化したロムルスに埋め込んだ自らの分体、子機から送られてきた情報。それにフラウロスは醜悪な肉の下に埋もれた顔を下卑た笑みに染め、虚空に投射した。泥の巨人によって内臓を抉られ、劣化神毒によって肉体と精神を引き裂かれ、聖杯の泥に沈む遥の姿を。その目は光を失って虚空を見つめたまま、一切動くことはない。その光景を前にサーヴァントたちの表情が変わったのを見て取り、フラウロスが再び声に喜色を滲ませた。

 

「ヒハ、ヒャハハハハハ!! 見たまえよ、藤丸立香!! 無様だろう? 滑稽だろう? これが貴様が信じた男の末期の姿だ!! 愚かにも我が王の威光に従わなかった結果がこれだ!!」

 

 遥の死を確信し、フラウロスが嗤う。見た所まだ息はあるようだが、そんなことは些末事だ。いくら神毒が見る影もない程に劣化したものしか調達できなかったとはいえ、それに聖杯の泥まで加えているのだ。いかに呪いが通じずとも、その余波だけで精神死に至るには十分過ぎる。

 そしてその死にざまを立香たちに見せることでフラウロスは思い知らせようとしていた。人間の矮小さ、愚昧さを。所詮は人間など、いくらその規格を脱しようと自分たちに敵う筈などないのだと。

 だがこの時点になってもフラウロスは完全に見誤っていた。藤丸立香という男の善性、そして強さを。魔神としての在り方に誇りを持ち拘泥するフラウロスには、立香の持つ人間の強さが分からない。

 

「――無様? 滑稽? あぁ、笑わせないでくれよ、フラウロス。遥が、オレの相棒が、その程度で死ぬとでも?」

「何……?」

 

 虚勢? 気狂い? 否。そのどちらでもない。立香はあくまでも平静で、それ故にその声には確かな信頼と信用があった。遥はこの程度では死なないのだと。この状況すら覆してみせるのだと。

 何故。フラウロスの胸中が疑問で埋め尽くされる。何故そこまで信用できるのか。何故そこまで信頼できるのか。何故そこまで自らの弱さを認められないのか。最早嘲りすらも忘れたフラウロスの前で、立香が叫ぶ。

 

「だから、立て! 夜桜遥! オレの相棒! 運命に勝つと言った君の覚悟は、こんな所で終わるものじゃないだろうッ!!」

 

 腹の底から絞り出したかのような、重い咆哮がローマの空を貫く。――その直後、邪悪を祓う焔の魔力が王城から噴きあがった。

 


 

 生と死。始まりと終わり。誕生と終焉。それが刹那すら追い越した須臾の内に無限に繰り返される。肉体が死に、生き返り、精神が死に、生き返り、全てが朽ち果ててそれでも再生する。一回の拍動にすら満たぬ時間さえもまるで永遠のように感じられる中で、たったひとりで輪廻を巡る。

 想像を絶する苦痛だ。その苦痛の程たるや、先程まで感じていた、いや今でも感じている筈の劣化神毒と聖杯の呪いによる苦痛を忘れてしまう程である。たかだか未熟な半神如きがふたつの神核を持つ神を喰らうとはそういうことだ。

 神話に曰く、初めこそイザナギから大海原の統治を任されていたスサノオは後に黄泉の国を統治する神になったという。つまりスサノオは〝海神〟と〝冥府神〟というふたつの側面を持つ神であり、遥の内に宿る分霊はガイアの計略によってそのふたつを同時に有する神核だったのだ。それを喰らおうというのだから、それ相応の苦痛が伴うのは当然だ。

 視界が白い。五感が全て失せて、知覚できるのは自らの魂に吹き付けてくる暴風の如き概念の氾濫だけだ。今まで封印して抑え続けてきたものが今、完全に融合しようとしている。それを喰らってしまおうというのだから、その内側にあるもの全てが流れ込んでくるのは当然だ。

 スサノオの記憶が、感情が、その全てが遥の魂を押し流してしまいそうな勢いで流れ込んでくる。遥がそれを受け入れる、否、呑み込んでしまう覚悟を見せた今、スサノオも自重する気はないのだろう。なら、遥はそれに応えるだけだ。

 肉体が死と再生を繰り返す。その度にそれらが半神としてのものから全く別のものへと変質していく。全身の感覚がない。身体が無限に輪廻を繰り返しているためだろうか、視界が燃える。どれだけ精神を強く保っていても流されてしまいそうな死の風の中で、遥は有り得ない幻を見た。

 屈強な大男だった。風貌は遥と瓜二つだが、放つ存在感は比べるまでもなくその男の方が大きい。纏うのは全身が黒で統一された戦装束。遥はその姿の人物を見たことがない。けれど、織っていた。あれこそがスサノオ。日本神話に語られる蛮神にして、誰よりも人間らしい神。遥の前世にすら等しい存在。それがまるで遥を迎え入れるように、手を広げて立っている。それを認めると同時に、どこからか声が聞こえた。

 

 ――無様? 滑稽? あぁ、笑わせないでくれよ、フラウロス。遥が、オレの相棒が、その程度で死ぬとでも?

 

「――立、香」

 

 その声を聞いて、遥の身体に熱が戻る。その熱は遥の全身を満たして、彼に己の輪郭を自覚させた。自然と、足が前に出る。死の風を切り裂いて、前へ前へと進んでいく。吠えて、吠えて、走る。

 その先にいるのはスサノオだ。スサノオはこれから遥がしようとしていることを分かっているだろうに、迎え入れるかのような態度を崩さない。それどころか微笑んですらいる。それが、腹立たしい。

 遥の魂を消し飛ばそうと吹き付けている死の風を押し退けて、走る。我武者羅に、ただ只管に。その身体に実体はない筈なのに、息が上がる。何度も飛ばされそうになって、それでも食らいついて走る。その耳を、再び立香の声が打つ。

 

 ――だから、立て! 夜桜遥! オレの相棒! 運命に勝つと言った君の覚悟は、こんな所で終わるものじゃないだろうッ!!

 

 その声を力に変えて、遥は飛び出すように最後の一歩を踏み出した。愚直に、何の芸もなく右手を引き絞る。それが示す事実を目の前にいるスサノオは理解していて、しかし抵抗することさえもなくそれを受け入れた。

 次いで、暴風の中でもはっきりと肉の避ける音がする。見れば、遥が放った手刀がスサノオの戦装束を貫き、その厚い胸板に埋まっていた。貫かれたスサノオは口から血を流しながら、満足そうな目で遥を見ている。

 それで良い。掠れた声でスサノオが呟く。ガイアの端末として遥に埋め込まれたスサノオはガイアの目的全てを理解していて、しかし納得してはいなかった。当然だ。いかな神霊であれ、自分の子孫にして生まれ変わりでもある者をただの道具に成り下がらせることを許容するものか。

 だからこそ、この時を待っていたのだ。遥が人間(『夜桜遥』)としての在り方を保ったまま(スサノオ)を喰らう覚悟を決めた、この時を。スサノオの胸に埋まった手で遥が握っているのはスサノオの神核だ。遥はそれを握りつぶすように力を込め――――その瞬間、遥の感覚が悉く焔に染め上げられた。いや、感覚だけではない。遥の肉体そのものが、燃えるかのように焔を放っている。

 

『な――にィッ!? 貴様、まだ息が――ッ!?』

 

 驚愕に染まるフラウロスの声。恐らく彼は遥の肉体は生きていてもその精神は既に死んでいるものと思い込んでいたのだろう。それが今、目を覚ました。それだけではなく遍く悪を祓う焔で玉座の間を満たしている。

 いかな泥の巨人であれ、そんなものを真正面から受けてはたまったものではない。反射的にフラウロスはロムルスに遥から距離を取らせて、すぐに己の失策を悟った。これでは遥を自由にしたも同然ではないか、と。だが、それに気づいた時には既に遅かった。

 玉座の間を満たす浄化の焔。それは無差別に悉くを燃やしているように見えるが、そうではない。事実、気絶しているネロには焔が降りかかっていない。煉獄の暴虐が襲うのは、悪に浸食された巨人だけだ。全身を焼く焔に表情を歪める巨人。対して遥は焔の嵐の中央で決意を叫ぶ。

 

「あぁ――立つさ、立香。お前が俺を相棒だと信じてくれるなら、何度だって――――!!」

 

 瞬間、玉座の間を満たしていた焔が爆発するようにして霧散する。そうして露わになったのは、痛々しい遥の姿。ロムルスによって抉られた内臓は未だ治りきっておらず、傷口からは挽肉のようになった内臓が零れている。加えて流し込まれた神毒のためか、四肢の末端が溶けて崩れていた。

 だがそんな遥の姿を前にしてもフラウロスが遥を嘲ることはなかった。魔神であるが故に魔力事象に関しては超常的なまでの探知力を持っている彼だからこそ、分かる。目の前に立っている男は、先のそれとは明らかに何かが異なっている。

 気配が違う。魔力量が違う。存在規模(スケール)が違う。それだけ違えば最早別のモノと成り果てていてもおかしくはないというのに、遥が『夜桜遥』としての在り方を失った様子はない。それどころかその瞳に宿る光は先程よりも強くなっていた。

 在り得ない。戦慄するフラウロスの前で、遥は更にその姿を変えていく。ロムルスの槍撃を受けて激しく損耗していたロングコートが虚空に溶けるようにして消え、代わりに現れたのは陣羽織にも似た戦装束。フラウロスは知らないことだが、それは遥の精神世界にてスサノオが纏っていたものと似ていた。

 それから露出した褐色の肌に浮かぶのは血のように紅い紋様。半神の大半に共通して現れる、人間の肉体が神の血に影響されていることを示すもの。それが腕や顔だけではなく全身に現れている。

 裡に宿る神霊を喰らい、人の血を以てそれを取り込んだ者。それはいつの日かネロが語った〝神の血を人の(かいな)で支配する〟という在り方を遥なりの形で実現した結果。遥は今まで逃げていた神の血と向き合い、それを喰らったことで純粋な人間でも神でもない存在へと己を昇華したのだ。その在り方は現人神というものに近いか。

 これで、第一歩。歩まずに逃げていた英雄としての道。そのスタートラインに、遥は今ようやく立ったのだ。

 

「来い、天叢雲剣」

 

 その短い命令に応え、床に投げ出されていた天叢雲剣が独りでに動き出し主たる遥の手に収まる。続けて、遥が厳かに唱えた。

 

「第二拘束、完全解除」

 

 星が生み出した最後の希望たる〝天叢雲剣〟に施された三重の拘束。その第二拘束の解放条件は〝神霊スサノオの完全支配〟である。それを達成したことで、叢雲は遥に完全に屈服したのだ。

 見た目は何も変わらない。しかしそれが数瞬前のそれとは異なることは誰の目から見ても明らかであった。秘めたる神秘を更に解放したことで、それはそれまで以上の格へと至ったのである。

 だが、そんなものを手に入れた所で遥が遥であることに違いはない。故に遥が生来持つ異能には神核を喰ったことなどは何の影響も与えることはない。遥は大きく息を吸い込むと、呪言と共にそれを吐き出した。

 

 

My body is the flame(我が躰は焔). My soul is the ash(我が心は灰).

 I have burned my existence(血潮を火種に業火と成し、)and made my soul with ash(灰を集めて人と成す).」

 

『ぬぅっ……!? 貴様……!!』

 

 詠唱と共に迸る煉獄の焔。遥の身体から放出された魔力はまるで世界そのものを歪めるかのような重圧を以て泥の巨人に押し寄せ、フラウロスはそれだけで遥が何を行使しようとしているかを悟った。

 アレはマズい。アレだけは使わせてはならない。魔力知覚ではなく魔神の本能でそれを悟り、フラウロスはロムルスを走らせた。並のサーヴァントを圧倒的に超える超常存在がその身体が崩れるのも構わず焔の嵐の中を駆ける。

 先の戦闘ではその一撃にしてやられた遥だが、今の遥は先の彼とは違う。身体能力(ステータス)は泥の巨人に大きく劣ることは分かっている。ならば、己が武威を以てその差を覆すまでのこと。未だ極致に至らぬ武威でも、理性なき人形の攻撃をいなす程度ならば十分だ。

 何度も、何度も力任せに振るわれる樹槍を叢雲で以て受け流す。正面から受け止めることしない。そんなことをすれば吹き飛ばされ、詠唱を中断させられてしまう。故に、隙を狙うのではなく作ることでそこに攻撃を叩き込んでいく。

 

 

Unaware of death(ただの一度も死することなく). Nor aware of trust(ただの一度も理解されない).

 Stood pain with consistent flame(神子は永久に独り). My soul loses the meaning(焔の丘で穢れを濯ぐ).」

 

 

 振り下ろされた樹槍に対し叢雲を一閃。切り裂くためではなく威力と衝撃を殺すための一刀。それは遥の思惑通りに豪槍の衝撃を床面へと流し、遥の足元が蜘蛛の巣状に陥没した。

 続けて周囲の焔を左手に纏わせ、泥の巨人の胸板に拳撃を見舞う。よろめくロムルス。そこへ今度は回し蹴りの要領で側面から蹴撃を叩き込み、遥はロムルスを数メートルのみ後退させた。サーヴァントであれば一瞬で詰めることができる距離。だが一瞬の隙でも、遥にとっては叛逆の一手と成り得る。

 

 

Yet,my hands never hold anything(故に、この生命に意味はなく).」

 

 

 『故に、我が手は決して何も掴まない』。かの錬鉄の英霊と共通するその一節は、彼らの共通点故のもの。彼らは誰かの手を掴むのではなく、手を取り合って前に進む人々の礎となることを選んだ者。だからこそ、その手は剣を執ることができるのだ。大切なものを守るために。

 短く息を吐く。自らの異能を解放するための詠唱は残り一節。体内で活性を増したそれの熱を吐き出すように。叢雲を握りなおし、音速すら追い越して突貫してきた巨人の槍撃を避けて魔力放出を乗せた刺突を叩き込む。間髪入れずに鞘を脳天に振り下ろし、巨人を地に叩き伏せた。更にその巨体を蹴り飛ばし、遥は万感の思いと共に最後の一節を唱える。

 

 

So as I lament(この躰は)―――〝EVERLASTING INFERNO〟(不朽の業火で出来ていた).」

 

 

 完成する詠唱。それに伴う異能の完全解放。焔の魔力が世界を反転させ、起動したるは魔術理論〝世界卵〟。自らの心の在り様によって現実を上書きする大魔術。遥が神を喰らったことで異界常識としての格を高めた禁呪。

 ――顕現する焔の丘。(そら)は全て何処からか発生した噴煙によって覆われ、大地からは常に焔とマグマが噴き出している。以前はそれだけだったが、今は天蓋を隠す噴煙から雷さえも落ちてきている。

 それはまさしく死の世界。ありとあらゆる命を拒絶し、その罪を焼き祓う煉獄。その中で、この世界の主にして唯一存在を許された命は高らかに、己の覚悟を謳う。もう二度と迷わないように、己に刻み付けながら。

 

「俺は、もう逃げない。この異能(ちから)も、神の血も、完全に俺のモノだッ!!

 いくぞ、魔神。散々俺()()を虚仮にしたツケ、その命で払ってもらおうか――!!」

 




アスクレピオスら医療人系サーヴァントと冥界関係者サーヴァント、宗教人サーヴァントの3陣営で『死者を死後の世界から現世に戻すこと』について議論する話を見たいのは決して私だけではない筈。


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第62話 英雄はただ、守るべきものの為に

「オオォォォォッ!!」

 

 内部に取り込んだ生命悉くを燃やし尽くす究極の煉獄の地上を一条の流星が駆ける。それの正体はこの世界の主たる遥であり、金色に輝くのは彼の愛刀である天叢雲剣だ。第二の拘束までを解放された神刀の輝きはそれまでの比ではなく、まるで地上に存在する太陽のようですらある。

 彼と相対するは聖杯と魔神の呪いによってその霊基を汚され、巨悪の意のままに動く人形と化した神祖ロムルス。最早存在そのものが悪性の塊となった彼はこの煉獄の中に在ってその強力極まるステータスを大幅に弱体化させられていた。

 何故ならば遥の固有結界(リアリティ・マーブル)不朽の業火(エヴァーラスティング・インフェルノ)〟は遍く悪を焼き祓うという特性を持つ心象であるから。苛烈に人間の中に潜む悪性を嫌う遥の心が顕れた世界は、敵味方の区別さえもなく、命を縛る。逆に遥に対しては大幅なステータス上昇と剣才の解放を与える。つまり現実では大きな力の開きがある巨人と遥はこの煉獄においては全くの対等であった。

 ならば後に勝敗を決めるものは何か。それは技術であり、そしてただ只管に勝利を求める不屈の闘志だ。正義か悪かなどは関係ない。強く勝利を求める方が勝つ。殆ど対等な相手の闘争などそのような単純極まるものだ。

 大地を蹴り、閃光の軌跡を描いて巨人に肉薄する遥。彼が纏うのは焔と激流の魔力放出。相反する筈のそれらを無理矢理に、意地と根性のみでひとつの肉体に同居させているのだ。

 その音速すらも彼方に追い越した速度が生み出す運動エネルギーを乗せた一閃。巨人は半ば反射でそれを樹槍で受けるものの、衝撃を殺しきれずに半歩後退した。そこに遥は間髪入れずに蹴撃を喰らわせ、その身体を大きく吹き飛ばす。

 続けて遥が空いている左手を虚空で振り下ろし、それに合わせて天蓋を覆う噴煙から巨人に向けて雷撃が降り注ぐ。それはただの雷ではなく遥の激情とスサノオの神核が持つ特性、さらに天叢雲剣の権能が混ざり合ったもの。故にそれは焔と同じく悪性の浄化作用を有する。それの直撃を受けた巨人は霊基そのものが燃え落ちるような苦痛に襲われて膝を突いた。

 

『このッ……このようなみすぼらしい心象でっ……』

「みすぼらしくて結構。これが俺だ!!」

 

 ありとあらゆる悪を受け入れず、命さえも拒絶する煉獄の心象。それがみすぼらしいことなど、遥はとうに分かっている。何故ならありとあらゆる悪を浄化するなどと嘯きながら、それ自体が遥の悪性の象徴であるのだから。

 だが遥はその心象を嫌ってはいなかった。諦念でも妥協でもなく、純粋にその心象を受け入れている。それが遥の心象であるのなら、それこそが遥が『夜桜遥』である証なのだから。そして今、それは新たなる力を得ても塗りつぶされることなく在る。それどころかその力を心象のひとつとして自在に扱うことさえできているのだ。それはつまり、遥が人ならざる力を完全にモノにしたということである。

 巨人がその足元から遥に流し込んだものと同じ聖杯の泥が溢れる。恐らく固有結界に隔離した所で聖杯との繋がりは断ち切れないのだろう。巨人から溢れた泥は遥の煉獄に食らいつき、浸食せんとする。だが、無駄だ。それらは全て煉獄によって浄化され、無色の魔力となって遥に還元される。聖杯さえ歪める獣の呪いさえ浄化した焔が、ただ垂れ流されるばかりの呪いに犯される筈はない。

 遥の意志に応え、浄化の焔と雷電を纏う叢雲の刃。遥が刃を虚空に振るうや、それは巨人を喰らうべく空間を裂くかのような勢いで奔る。おおよそ地上に存在するもので最強の浄化能力を持つそれを受ければいかな巨人とてひとたまりもない。故に巨人はそれを樹槍で打ち払い、その陰から現れた遥に対応できなかった。

 先に放った2撃は本命ではなく、ただの布石。巨人が樹槍でそれを打ち払う一瞬の隙に、遥は縮地すらも超える究極の歩法である極地を以て巨人に接近したのである。まさに剣聖の領域に踏み入った絶技だ。

 遥が振るった叢雲の刃はまるで吸い込まれるかのように巨人の左肩口からその身体に入り込み、右脇腹を切り裂いた。更に返す一刀で腹を一閃。だがその傷は一瞬泥を吹き出したのみで、瞬く間に塞がってしまった。

 

「ッ!?」

『再生能力を持つのが自分だけだとでも思っていたのかね?』

 

 嘲るようなフラウロスの声。直後、遥の腹を狙った巨人の膝蹴りが飛び遥はそれを腕で受けた。続けて振り抜かれた拳の軌道を側面から叩いて逸らす。そこから始まるのは互いに得物を使う隙さえ与えない格闘戦だ。

 だが互いに力量が等位であるのなら、それに決着が来ることはない。もう何度目になるかさえ分からない交錯の直後、遥は自分らの立つ足元で一切容赦することなく噴火を起こした。大地が割れ、そこからマグマが迸る。

 それに対応できずに巨人は大きく吹き飛ばされ、地面を転がる。しかし巨人もさるもので、右手に握った樹槍を地面に突き立てて無理矢理に自分の身体をその場に固定した。そうして足元に広げた泥が浄化されるより早くに複製した樹槍を何本も未だに噴きあがるマグマに向けて撃ち出す。

 一撃でも喰らえば致命となるその槍はしかし、その悉くを無傷のままマグマの中から現れた遥によって切り裂かれた。真っ二つになった泥の槍が焔に巻かれて消滅する。だが巨人の攻撃はそれでは終わらない。

 樹槍を構え、巨人が大地から吹き出す焔に身体を焼かれるのも構わずに突進する。その全体重を乗せた一撃を遥は寸での所で回避し、だが巨人はその動きを読んでいたかのように槍の軌道を変えて遥に食らいついた。

 互いの得物を力任せに押し合い、至近距離で睨みあう巨人と遥。現実であればその間にある圧倒的なステータスの差で押し切られていただろうが、この煉獄の中であれば両者は等位。更に世界そのものが遥に利する以上、少なくとも追い込まれることはない。そうして再び焔と電撃を喰らわせんとした時、巨人の無貌から声が響いた。

 

『……何故だ、夜桜遥。何故貴様らは戦う!? 既に終わりが見えているというのに、何故それを受け入れることができない!?』

「……ハ。ゴチャゴチャと、つまらねぇことを訊くな!」

 

 怒号一喝。遥は自らの空いた左手に焔を生み出すとそれを以て巨人の腹の前で大爆発を起こして見せた。宝具に匹敵する神秘の圧力を受けて巨人が爆発範囲外へとおしだされ、同時に遥が足元で小規模な爆発を起こしながら地を蹴る。

 爆発と残滓を突っ切って巨人に肉薄する遥。そうして遥が放ったのは斬撃ではなく、焔を纏った拳であった。軌道を見切ることさえ難しい神速で繰り出される拳撃。更に蹴撃と同時に足から発生させた焔で再び爆発を起こした。流石に同じ手で後退するような巨人ではないが、しかし遥の狙いはそれではない。

 爆発の威力を利用して空中へと跳躍した遥に向けて放たれる樹槍の群れ。しかしそれらは遥が纏う焔によって掻き消され、遥に届くことはない。対して遥の手の中で輝きを増す叢雲。その限定解放による極光が巨人を襲った。フラウロスは巨人の霊基に限界まで魔力を回すことで失った部位を再生するが、遥がその隙を見逃す筈もなく落下の勢いを乗せた一閃で切り裂いた後に蹴り飛ばした。

 

「俺が戦う理由……そんなの決まってんだろうが! お前らが殴り殺したい程気に喰わない! 俺の前で起きた人の死を無意味にしたくない! 俺が愛した人々の生きる場所を守りたい! それだけだ!」

『貴様……そのような、下らん理由で……!!』

 

 遥の言葉を受けて、フラウロスの声音に怒りが満ちる。その怒りの凄まじさたるや、只人であれば威圧を受けただけでショック死しかねない程である。だがその怒りを受けてもなお、遥は怯まない。遥の怒りもまた激烈なものであるから。

 フラウロスには何故遥がここまでの復活を遂げたのはという理由までは分からないが、纏う強烈な神性の気配から遥が人間よりも高位の領域に至ったことは分かっている。そうであるならば得ている筈なのだ、()()と同じ視点を。であれば千里眼がなくとも理不尽な人間の死と悲しみを見てきた遥は彼らと同じ結論に達していなければならない。それがフラウロスの、ひいては魔神総体の理解。

 だが遥は人よりも高位の目を得ておきながらそれでもなお悲しみは無価値ではないと、死は無意味ではないと言う。人めいた欲望を捨てられず、人の目を捨てず、人の心を保ち続け、真理を悟れない。それなのに賢しらぶっている。

 交錯する神刀と樹槍。その趨勢はどちらにも傾いていないようにも見えるが、そうではない。徐々に遥が押してきている。それはこの世界の作用によるものでもあるが、何より勝利への執念が遥の方が勝っているからであった。

 その事実を前に、レフが歯噛みする。何故。理解ができない。いくら遥の存在規模(スケール)が巨大であるのだとしても、聖杯の呪いを受けて魔神の分体と同化したロムルスには劣る筈なのだ。たとえこの世界が遥に利するのだとしても、斃してしまうことができる筈なのだ。

 それが、覆せない。必勝を期した攻勢は全て遥に防がれ、時間の経過と共に巨人に巣食う泥は浄化されて魔力は遥に奪われる。耐え難い屈辱だった。それを吐き出すかのように、フラウロスが吠える。

 

『このッ……クズの分際で……!!』

「クズなどと、テメェが言えた口かッ!」

 

 そう遥が咆哮するや否や、その怒りに応えるかのように叢雲の刃から噴火の如く焔が噴きあがった。その焔は一瞬のみ天蓋を覆う黒炎に届いたかと思えば、一息に叢雲の刃へと収束した。

 煉獄の焔が煌々と輝く叢雲の刃はその不条理なまでの内圧で以て超常の熱量にまで達している。それは尋常な刀剣であればあまりの熱量でプラズマ化していただろうが、叢雲は星によって造られた兵器。尋常な物質の枠内にあるものではない。

 本来は何かしらの指向性を持たせて放出、或いは無為に拡散することで影響を齎すものを別な力によって強引に刃に押し込めることで全く異なる機能を持たせる。それはかの湖の騎士が言う所の〝過重湖光(オーバーロード)〟。いや、湖の騎士のそれとは違い遥のそれは焔であるのだから〝過重焔光(オーバーロード)〟とするべきか。

 それはその熱量と浄化作用を以て樹槍を切り裂き、続けてその断面で解放された焔が爆発と見紛うばかりの威力を伴って巨人の顔面を吹き飛ばした。だが既に通常のサーヴァントの領域から離れている巨人はその程度で死にはしない。それでも遥は狼狽えない。遥自身もまたそういう身体だからこそ、言える。――どれだけ再生しようと、死なない奴などいない、と。

 

『馬鹿な……私が押されているなどと!! 貴様のような人間にも神にも成り切れぬ半端者如きに!!』

「当然だろ……! 何もかもに諦めて、勝手に全てを終わらせようとしてるテメェなんぞとはなぁ……背負ってるモンが違ぇんだよ――――ッ!!」

 

 フラウロスが背負うのはひとえに主命のみ。人類悉くを焼き尽くし、その意味を完全に無へと帰すことえ極点へと至らんとする、後に何も残らない破滅の意志。つまりは諦観より来たる憐憫。

 対して遥が背負うのは己自身の願い、仲間の思い、先へと進もうとする妄執、数えきれない感情に混濁して一言では言い表せなくなった思い。理屈などそこにはなく、そんなものはかなぐり捨てた思いしかない。だが、それはきっと悪ではない。

 遥ひとりでは人間として在れないのだとしても、それが少なくとも遥の魂を人間の容に留めてくれる。だからこそ遥は思うのだ、大切な人たちを守りたいと。その思いで駆動する身体に力が漲る。情熱に、魂が燃える。

 巨人に拳撃を叩き込むと同時に爆発を起こし、その巨体を吹き飛ばす。遥の攻勢はそれでは終わらず、殴りつけたその流れで叢雲を納刀して地を蹴った。巨人の視界から消失する遥の姿。直後、ありえない速度で肉薄した遥の姿が巨人の眼前に現れた。遥が最も得意とする神速の抜刀術である。

 聖杯の後押しによって大幅に強化されている巨人の動体視力でさえ見切ることのできない一閃。それが巨人の身体を右脇腹から左肩口にかけてを切り裂いた。その勢いを殺さず、その動きの延長として流れるような蹴撃。吹き飛んだ巨人に追い縋るように駆け出し、連続で拳を繰り出す。

 

「激情! 不屈! 闘志! 俺はお前らには負けてやらねぇ! 俺自身のために、アイツらのために、必ず斃す!!」

 

 その言葉と同時に渾身の力を込めた拳で巨人を吹き飛ばすと、遥は天叢雲剣を腰から外した鞘に納刀した。同時に鞘が駆動を始め、金色の輝きを放ちながら遥の身体に現代には存在しない筈の魔力を供給する。

 それは真エーテル。神代地球を持たしていた真なる魔力であり、その神秘の結晶であるヒヒイロカネはそれを産生する。そして神霊の力を取り込んだ今の遥にとって、それを扱うことは通常の魔力を扱うことと同次元である。

 鞘から供給される真エーテルを己の身体を通して焔と共に天叢雲剣に叩き込み、鯉口と鍔の間から黄金の光が漏れる。納めきれない魔力は暴風となって煉獄を薙ぎ、その波濤から遥が何をしようとしているのか悟った巨人がさせじと駆ける。だが、遅い。その槍が届くより先に、遥が叢雲を抜刀する。

 それは、遥自身の宝具。家に受け継がれてきた神刀を屈服させ、身に宿る神の力を支配し、己の異能を自覚することで剣技から宝具の領域にまで昇華されたもの。遥が至った、遥だけの究極。

 

「終わりだ、フラウロス!!

 ――穿て、〝天剱(てんけん)都牟刈之大刀(つむかりのたち)〟!!」

 

 瞬間、煉獄を裂くように放出される一条の極光。それが何なのか本能で悟った巨人とフラウロスは全力で泥から複製樹槍を撃ち出して相殺せんとするが、聖杯の泥によって形作られたそれらが極光を阻むことはなく、巨人の身体が極光に呑まれる。

 圧倒的な魔力の暴威によって崩れていく霊基と、これまでとは比べ物にならない浄化の力によって焼き祓われていく魔神と聖杯の呪い。フラウロスによって埋め込まれた彼の端末は早々に焼き祓われ、そうして最後の一瞬になってようやく巨人は神祖へと立ち戻った。

 全身を浸食していた泥が消失し、露わになるのは軍神の子としての完成された肉体。それが極光の暴威に晒されて、消えていく。だがロムルスはそれに憤ることなく、それどころか口の端に笑みを見せ、誰にも聞こえない称賛を口にした。

 

「――大儀(ローマ)である」

 

 その言葉を遺して神祖は消滅し、同時に宝具解放の巨大な負担で維持しきれなくなった固有結界が消えていく。異界が現実に塗り替えられて術者の内に戻り、遥が脱力感に耐え切れずにその場に膝を突く。その姿はいつの間にか通常のロングコート姿に戻り、神性の紋様も消えていた。

 無論見てくれが元に戻ったからと言って神の力が分離した訳ではないが、今戦おうとしても常のような力は出せまい。先程のそれは謂わばその後一定時間の能力低下を代償とする諸刃の剣。つまりトランザムみてぇなものだな、と一部の人間しか分からないことを呟いて遥が立ち上がり、時折ふらつきながら気絶するネロに歩み寄る。

 そうしてその身体を魔術で解析し、負傷部位に治癒を施す。幸いにして脊髄のような複雑な部位など遥の治癒魔術の腕前では治せないような複雑かつ重度の傷はなく、出血を防いで呼びかけるのみでネロは意識を回復させた。

 

「よう。やっとお目覚めか、可愛い皇帝さん?」

「遥……? 敵は、どうした……?」

「斃したよ。一回死にかけちまったが、何とかな」

 

 そう言いながら遥はネロに向けてサムズアップをしてみせる。いつかの日に見た架空の戦士のように、笑顔を見せて。遥にはその戦士のように人を殴る感触が嫌で嫌で仕方ないという人間らしい感情は持っていないが、不思議と自嘲的な思いはなかった。

 遥は全ての人々の笑顔を守る戦士にはなれないしなる気もないが、少なくとも己の大切な人々の笑顔を守る戦士であろうとしている。それを知ってか知らずか、ネロもまたサムズアップで応じた。

 それに無言で頷きを返し、遥は踵を返してその先の壁に向けて焔を放った。その威力で壊れた壁の先に見えるのは、ロムルスの消滅によって魔神大樹から魔神柱になろうとしている肉の柱。その壁の孔に向けて、遥が歩を進める。

 

「何をするつもりだ?」

「決まってるだろ? ……ちょっと、ローマを守りに行ってくる」

 

 そう言って壁の孔から空中へと身を躍らせる遥。ネロはもうどんな言葉も遥には聞こえないと分かっていながら、しかし言葉を投げた。

 

「礼を言うぞ、剣士よ。其方もまた、英雄(ローマ)だ」

 


 

「オ、オオォォォォ……!? 馬鹿な!? 神祖が、ロムルスが斃されただと!? あのようなクズに!!」

 

 時は少し遡り、遥は固有結界無いで巨人を打倒したのと同刻。遥にロムルスを斃されたことでフラウロスはこまでにない驚愕と焦りをその声音に滲ませていた。その身体からは秩序を失った霊基が魔力に還る金色の光が噴きあがっている。

 更にそれが進行していくのに伴ってフラウロスの霊基規模が大幅に減衰していき、身体が巨大な樹木からただ醜悪なだけの肉の柱へと変わってきている。それでもサーヴァントよりも強大な存在であることに変わりはないが、重要なのはそこではない。

 フラウロスが取り込んでいたロムルスの宝具が消滅したということはつまり、フラウロスを疑似的な不死存在たらしめていた要因が全て消えたということである。ようやくフラウロスは殺せば死ぬ領域にまで堕ちた。それを認めるや、立香がクー・フーリンと目を合わせた。

 言葉もないままに互いに意志を交感し、頷き合うふたり。そうして立香は右手を掲げると、そこに刻まれた残り2角の令呪と己の魔術回路を接続した。未熟かつ少ない魔術回路が一角でさえサーヴァントを操るに足る膨大な魔力の塊である令呪2角分の魔力に晒されて不快な蠕動を繰り返し、御しきれない魔力が血管を弾けさせる。それでも立香は気力と意地のみでそれに耐えると、あらん限りの力で叫んだ。

 

「令呪を以て命ず! ランサー、全力で敵を斃せ!!」

「応!! 光の御子の真体、しかとその目に焼き付けなァ!!」

 

 その咆哮と同時、槍兵が纏う魔力の総量が数倍にまで増加する。変化はそれだけに留まらず、肉が変形する異様な音を立てながら全身の筋肉が膨張。足の関節は裏返って逆関節となり、顔では額が割れて漏れた血が光の柱と化して屹立し、片眼が肉の下に減り込んでもう片方の目にいくつもの瞳が浮き上がる。

 手に執る魔槍はより長大かつ攻撃的な形状に変わる。そうして全ての変化を終えた後に立っていたのはまさしく怪物と呼ぶべきもの。しかしその立ち姿は醜悪ではなく、それどころか雄々しさすらある。

 〝吠え狂う光輝の神血(グロウ・ディア・アン・グリアン)〟。霊基再臨によってクー・フーリンが得たスキルであり、その効果はその身に宿る太陽神の血を励起させることによる〝捻れの発作〟の再現。立香ひとりの魔力量では発動さえ難しいそれを、令呪の魔力で無理矢理起動させたのである。

 だが令呪の魔力とて有限である。怪物と化したクー・フーリンの秒間消費魔力ではそう長くは維持できまい。それが分かっているが故に、クー・フーリンは考えるより先に駆け出した。

 一方で不死性を失ったフラウロスは事ここに至りようやく自らの不利を悟り、無造作に凝視の熱線を撃ち放つもそれは悉く立香に先読みされてフラウロスの思惑が為されることはない。

 フラウロスの放つ致死の攻撃全てを掻い潜り、跳躍するクー・フーリン。その手に握る魔槍が脈動する。まるで今か今かとその権能に近しい強権が解放される時を待っているかのように。ならば喰らえとばかりに赤枝の騎士は得物に魔力を込め、そして、魔神に終焉を宣告する。

 

「今度こそその命、貰い受ける!! ブチ抜け、〝抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)〟!!」

「やっ――やめろぉぉぉぉぉォォォッ!?」

 

 断末魔にも似たフラウロスの絶叫。だが解放された魔槍は容赦なくその肉を貫き、フラウロスの肉が半ばから折れた。まるで天を貫くかのように聳え立っていた柱が、無残にも落ちてくる。魔神の失墜を表すかのように。

 止めの一撃を放ったクー・フーリンは魔力切れによって強制的に怪物化を解除され、着地と同時に手元に戻ってきた愛槍を掴む。確実に魔神の命脈を断ったという手応えはある。それでも彼は以前として油断のない視線を肉の柱に注いでいる。

 その視線の先で見る間に腐食していく肉の柱。いくら未だ聖杯があろうとも、不死さえも殺す魔槍の呪いを受けたのだ。最早回復など望むべくもなく、やがてその全身がくまなく肉塊と化した頃にその根本からひとりの人影が吐き出された。レフ・ライノールである。

 

「何故だ……何故だ何故だ何故だ!? たかが英霊と人間如きに、我らが御柱が退けられるなどと!!」

 

 己の敗北を認められず、しかしもう自分に戦うだけの力が残っていないという事実を前にして屈辱に血を吐くように叫ぶレフ。魔槍の呪いはフラウロスの核であったレフも例外なく犯し、その身体は少しずつ腐り始めていた。

 何故だ、理解できない、何かの間違いだ。レフが狂乱する。この決戦においてレフは慢心しなかった。確実にカルデアを叩き潰すことができるだけの用意をして、それでも負けた。レフにはその理由が分からない。結局、根本に持っていた嘲りを捨てられないが故に。

 腐り落ちていく身体に立つことさえできずに蹲るレフ。そんなレフに立香は何も言わずに近づいていく。マスター! とサーヴァントたちがそれを制止するが、立香はそれに笑みだけを返してレフの前に立った。そうして、ホルスターから引き抜いたファイブセブンをレフに突きつける。

 

「……これで終わりだ、レフ教授。オレたちの勝ちだよ」

「フン。そんな玩具(オモチャ)で私を殺せるとでも?」

「殺せるさ。ハッタリじゃないよ。本気だ。オレが引き金を引けば、アンタは死ぬ」

 

 レフの額に押し付けられるファイブセブンの銃口。その無機質な冷ややかさが、レフにようやく現実を認識させる。立香の言葉は彼の言う通りハッタリなどではなく、事実だ。でなければこの少年がこれだけの覚悟が込められた言葉を放つ筈がない。

 立香の握るファイブセブンに込められた魔弾の名は〝起源弾〟。その内部に込められているのは遥の骨を砕いた骨粉であり、立香が魔銃の引き金を引くことでその弾丸がレフの体内に潜り込み、体内で遥の起源を具現化させるのである。

 『不朽』の起源が具現化するというのはその言葉だけを身えば不死と化すだけのようにも思えるが、実際はそうではない。その起源が具現化した対象に襲い来るのは〝不朽と言えるだけの永遠に近い時間の証明〟だ。そんなものに耐えきれるのは生まれながらにしてそう定義された遥か時間の概念がない『座』に本体があるサーヴァントくらいのものであろう。尋常な人間が喰らえば一瞬で老化し、衰弱して死に至る。

 とある理由から普通ならレフにも効かないが、今の彼は魔槍の呪いを受けている。そんな状態で〝永遠の証明〟など行われてしまえば死は避けられない。只の人間に殺される。生殺与奪を握られている。その認めがたい現実を前にして、遂にレフに怒りが限界を超えた。

 

「この……ちょ――」

 

 調子に乗るな、人間風情が!! そう続く筈だったレフの言葉はしかし、レフの口から放たれることはなかった。立香に撃たれたのではない。その前に乱入した何者かが、レフの身体を唐竹割りにしたのである。

 果たしてその乱入者とは立香の相棒である夜桜遥であった。彼はネロを起こして城の壁を破壊した後、そのままその穴から身を躍らせてレフの身体を断ち切ったのだ。一瞬で絶命したレフの身体は完全に腐り果て、物言わぬ腐肉塊となる。

 それを煉獄の焔で焼き、中から聖杯を取り出す遥。そうして遥は手にしたそれを放り投げてマシュに渡すと、立香の前で笑ってみせた。立香もまたそれに応えて笑みを見せる。

 

「信じてたよ、きっと勝つって」

「当たり前だろ? 相棒にあんなコト言わせて、勝手にくたばるヤツがいるか」

 

 そう言い、サムズアップをするふたり。ここに、第二特異点の修復は終わりを告げた。

 




第二特異点〝虚栄絢爛皇帝アウグストゥス〟修復完了(Order Complete)

 笑顔でサムズアップ。古代ローマなので一度はやらせたかったネタです。次回から新章……の前に短編書きましょうかね。
 ひとつ注釈を入れますが、本当に立香はハッタリかましてはいません。立香が引き金を引けばレフを殺せたのは本当ですが、その前に遥が来ることを確信していたので撃ちませんでした。

一応活動報告にも載せている遥の固有結界の設定をば。

不朽の業火(エヴァーラスティング・インフェルノ)

概要
 遥の固有結界。この世に存在するありとあらゆる悪の存在を許さず、取り込んだものが内包する悪を浄化する究極の煉獄。それだけではなく、内部にいるものから敵味方の区別なく魔力を吸い上げて遥へと還元する力があり、そのために味方サーヴァントなどを取り込むと消滅させてしまう可能性がある。そのため、固有結界使用時には遥はサーヴァントに頼らない単騎での戦闘を強いられる。また、遥の剣士としての能力を一時的に引き上げるという力がある。


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幕間の章
第63話 past and future


 暗く、光の差さない地下。一定間隔で壁に取り付けられた燭台に立つ蝋燭だけが弱々しく光源として機能する地下工房をマズルフラッシュが光に染め上げ、閉鎖空間の中に銃声が反響する。都合2発の銃弾はたったそれだけでそこの主であった魔術師の命を奪い、物言わぬ死体となった魔術師がその場に倒れ伏した。

 しかし声を発することはなくとも表情だけは今わの際にそれが抱いていた驚愕を何よりも雄弁に物語っていた。信じられない、自分よりも高位の魔術師が銃器を使うなど。そんな表情をしている。基本的に魔術師というものは同族を目前とした時、一も二もなく魔術戦をすると思い込んで近代兵器を持ち出してくるとは考えない。持ち出してきたとしても、自分なら対応できると思っている。その思い上がりを突かれ、魔術師は死んだ。殺されたのだ。

 馬鹿なヤツだ、とその死体を見下ろしながら襲撃者たる遥は嘆息する。ある種一般人よりも文明の先端を注視しておかなければならない魔術師がそれを軽視し、結果として足元を掬われる。何とも滑稽な話だ。だからと言って同情するような思い上がりは、遥にはないが。

 魔術師の命を奪った魔銃であるS&WM500をホルスターに戻し、死体にアンサズのルーンを刻む。それだけで死体が骨さえも粉々にする程度の火力で燃え始めたのを確認し、工房の中を見遣る。

 恐らくは自らの研究内容を纏めたものであろう魔導書が机上に乱雑に置かれ、更には実験道具の類も所狭しと並べられている。それの中から遥は一冊を手に取ると、内容を流し読みしてすぐに渋面を浮かべ、本を閉じた。そうして、やはりか、と呟く。

 この工房、中東某所にある地下工房を根城にしている魔術師が何やら不穏な実験をしているらしいという噂を遥が耳にしたのは数日前のことであった。そしてどうやらその魔術師は子供を誘拐して資料にしているらしい、とも。それからすぐに情報を集め、直感も頼りにしながら調査して見つけたのがこの工房だった。そうしてすぐに自分の研究が露見したと気づいた魔術戦を挑んできた工房の主を射殺し、今に至る。

 閉じた魔導書を元あった場所に再び置く。その内容は吸血衝動のない死徒化の研究。魔術師が己の研究のため人間の寿命を克服すべく死徒化の研究も並行して行うというのはよくある話だ。成功した例もいるにはいる。だがどうやらこの魔術師はそれほど才がある訳でも頭が切れる訳でもないらしく、失敗続きであったようだ。尤も魔導書を見るまでもなく、銃撃に対応できないどころか想定してすらいない時点で分かり切っていたことなのだが。

 他の魔導書の内容も確認し、実験道具と共に焼き払う。一応は協会に追われていた魔術師の研究であるから売ることもできるが、遥の持つ協会とのパイプはあくまでも個人的な交友の範囲だ。その相手であるロード・エルメロイⅡ世はきっとこの内容を見て良い顔はすまい。

 その火が収まったのを認めてから遥は更に地下へと続く階段を降りていく。そうして少しずつ聞こえてきたのは子供の泣き声。彼らを愛している、或いは金の為に売ってしまった親を必死に呼ぶ声。その声に導かれるようにして、遥は子供らが監禁されている牢を見つけた。遥が射殺した魔術師の実験に使われる予定だった子供らだ。

 遥を見る彼らの目に宿るのは一様に不信と絶望。未だ実験には使われていなくとも酷い扱いを受けてきたのだろう。親を呼んで泣いてはいても、助けが来るとは思っていない。そんな目だ。

 

『大丈夫だ。少なくとも俺は君たちを害そうという気はない』

 

 覚えたてのアラビア語でそう言って、正宗を一閃。錆びついていた牢の鍵は破壊に魔術による後押しもすらも必要ない程に弱く、たったそれだけで牢の鍵は壊れてしまった。支えを失った扉が勝手に開いていく。

 突然現れた謎の少年によって牢が開放された。子供たちの認識からすれば、今の状況はそんな所だった。しばらくはそれの意味する所が分からなかった少年少女はしかし、少し経った頃には状況を理解してそれぞれの反応を見せる。解放されて喜ぶ子供。安心して泣く子供。妙に熱の籠った目で遥を見る子供。そんな子供達を見ながら、遥が自嘲的な笑みを浮かべる。

 果たしてこんなことをして何になるというのか。どれだけ綺麗な言葉で取り繕おうと、遥が誰かを殺したことに変わりはない。遥は己の正義感のために、ひとりの命を奪ったのだ。その命に殺される筈だった無数の命を助けることと引き換えにして。そんなものはただの偽善だ。何かを救ったように見えるだけの、ただの自己満足だ。

 しかしそれは分かっていても目の前にある不幸を見て見ぬ振りができる程、遥は()()()精神性はしていなかった。つまり遥が子供を助けるのは謂わば重い荷物を持つ老人を手助けすることと似ている。たとえその過程で人死にが出ているのだとしても。

 取り敢えずはそんな自虐を棚上げしてこの後のことを思案しようとして、遥は不意にロングコートの裾を引っ張られていることに気づいてそちらを見た。そこにいたのは牢に囚われていた少女のひとり。

 

『ありがとう、お兄さん。助けてくれて』

『やめてくれ。俺は俺がそうしたいから助けただけ。自己満足だ。感謝される謂れはない。自分がしたいようにしたという意味では、俺もあの魔術師(オッサン)と変わらん』

 

 遥のその返事に少女は首を傾げる。幼い少女の感性から見れば礼を言われて渋面を浮かべる遥の反応はとても不思議に見えたのだ。行ったことが行ったことだから、余計に。万が一のことがあれば死ぬかも知れない可能性がある場所に飛び込んでまで誰かを助けて、それで礼を言われるようなことではない、などと。あまりにも不自然だ。

 遥は感謝されたいから助けたのではない。感謝されたいだけであるのならこんなことはせずとも適当なボランティアにでも参加すれば良い。もっと簡単に他者から感謝される方法など、いくらでもある。

 要は遥はあまりに潔癖に過ぎるのだ。彼は基本的に他人に対して過干渉を避けようとしている割に目の前に現れた汚点を許しておけない性質であるのだった。そんな遥に少女は笑う。

 

『……何だよ』

『お兄さん、わたしよりもずっと年上なのに子供っぽーい! でも、うん。お兄さんはわたしのヒーローだよ!』

 

 満面の笑みで少女がそう言った直後、遥の視界が暗転する。記憶の再生が終わり、夢から覚めるのだ。一瞬だけ自らの身体を含む全ての感覚が失せ、すぐに現実の感覚が戻ってくる。そうして感じた冷感に、遥がくしゃみをした。

 目を開けると最初に視界に入ったのは無機質な白い天井。思わず知らない天井と言ってしまいそうになるが、残念ながらと言うべきか遥はその天井を知っていた。遥たち人理修復に臨む者たちの拠点たるカルデア、その医務室の天井である。遥はそこのベッドに上半身裸の状態で寝かされており、身体には計器から伸びたコードが張り付けられている。その様はさながら重病患者のようである。

 しかし医務室にいるとはいえ、遥は別に身体の何処かを悪くした訳ではなかった。まるで点滴のようなコードの束も遥に薬剤を投与しているのではなく、彼の霊基状態を計測するためのものである。遥は第二特異点から帰ってすぐにムニエルら職員によって回収され、殆ど丸一日そこに缶詰め状態となっていた。

 少し首を動かしてみれば、計測結果が表示されているのであろうコンピューターを前にしてロマニとレオナルドが何やら話し合っている。そうして視線を天井に戻し、遥が嘆息した。結果など、見るまでもなく分かっている。魔術師というものは自分の身体のことを把握していないと死活問題なのである。やがて遥が目覚めたことに気づいてロマニが遥の方に向き直った。その顔はどこか思いつめたようで、遥が苦笑する。

 

「どうした? 何か言いにくい結果でも出たか、ロマン? まぁどうせ霊基状態が完全に人間じゃなくなってるとか、そういう所だろうけどさ」

「……ご名答だよ、遥くん。キミの身体は人間というよりもクー・フーリンのような半神に近い状態になっている。霊的存在の核を宿しているという意味ではマシュやアイリさんに似ているかもだけど……キミのそれは、デミ・サーヴァントとはワケが違う」

 

 それはそうだろう、と遥が頷く。マシュたちデミ・サーヴァントが英霊の霊核を宿しその力を揮いながらも肉体はあくまで人間やホムンクルスのそれであるのに対し、遥は神核を宿し肉体もそれの影響で変質している。

 そういう意味では遥はデミ・サーヴァントの究極系と言えなくもない。人ならざる霊的存在の核をその身に宿して肉体をそれに対応できるように変質させつつも、本人の精神を失わずにいるのだから。

 だがそれは同時に遥が人間の望む兵器の完成形である、ということでもある。元々デミ・サーヴァントとは人間が英霊の力を安全に兵器として扱うために考え出されたものだ。それの究極形ということは、つまり兵器の完成形と同義なのである。そう前置きして、ロマニが話を続ける。

 

「キミの肉体は魔術師にとっては格好の研究資料だ。何せ現代において神性を持つ魔術師なんて、キミだけだろうからね。……封印指定にされるんじゃないのか?」

「心配してくれるなんて、嬉しいねぇ」

「当然だろう。友人なんだから」

 

 おどけた調子で返したというのに真面目にそう言われ、遥が気恥ずかしさに少しだけ顔を紅くする。遥自身立香に対してかなり恥ずかしいことを言った身の上であるが、あれは戦闘中のスイッチがはいった状態だからこそ言えたことであって普段なら決して言わない。

 ここでロマニが〝人間ではなくなったこと〟について遥に問わないのは、遥がそうなったことは彼の覚悟の下にあることであると確信しているからだろう。それはロマニの遥に対する信頼の証であったが、だからこそその選択が裏目に出てしまうことが嫌だった。

 計器のコードを外し、ベッドの傍らに折りたたまれていた服を着る遥。誰かが着替えを持ってきていてくれたのか、いつものロングコートではなく白いシャツと黒い上着姿である。

 

「心配いらねぇよ。俺は封印指定にはならない。虎の威を借る狐みたいで気に入らねぇが、後見人が後見人だからな」

「後見人……? 誰だい、それは?」

「宝石翁……第二魔法『並行世界の運営』の使い手、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ」

 

 突然出てきたビッグネームにロマニが目を丸くする。宝石翁ことキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグと言えば魔術世界では知らない者はいない第二魔法の使い手であり、時計塔においては君主(ロード)よりも強い権力を持つとされる。

 成る程確かにそのような人物が後見人なのであれば君主らも迂闊に手出しはできまい。研究資料欲しさに遥を封印指定にして、ゼルレッチに目を付けられてしまえばどうなるか知れたものではない。

 しかし何故そんな男が遥の後見人などしているのか。実際の所、遥もそれはよく分かっていないのだ。大方神霊の血絡みであることは推測できているものの、どこからその情報を仕入れたのかは全く不明である。そもそもとして別世界の()()()()()()()()()()()()()()()はある意味で遥の同類の後見をしているというのだから、不思議な事でもない。遥としてはその権力を盾にするのは気に喰わなかったが、利用できるものは全て利用する気ではいた。だから心配する必要はない、と言って医務室から出てこうとする遥だが、その前に足を止める。

 

「あ、そうそう。レオナルド、ちょっと頼みがあるんだけど、良いか?」

「何かな? 何でも言ってみたまえ。面白いコトなら協力は惜しまないよ?」

「面白いかどうかは分からないけど……俺から立香に一方的に魔力を供給する経路を繋ぐ礼装を作れないか?」

「ほう? それは何故?」

 

 レオナルドに問われ、遥が答える。遥がその礼装の必要性を感じたのはローマでクー・フーリンの霊基再臨を行いその〝変身〟スキルを知った時だった。そのスキルは確かに強力ではあるが、あまりに魔力消費が激しすぎるのだ。

 実際、第二特異点攻略における最終決戦においては立香単身の魔力供給では発動さえままならず、令呪2角の魔力を全て回しても魔槍の真名解放を加味して数秒しか保たなかった。仮に魔槍を使わずとも精々保って数分といった所か。

 しかし令呪は切り札だ。そう何度も使えるものではなく、また使うべきでもない。そこでスキル発動時のみ遥から立香に魔力を供給することで変身を維持しようというのだ。それでも数分しか変身していられないだろうが。

 

「理由は分かったけど……わざわざ礼装作る必要あるかな? 経路なんて普通に作れない?」

「それはそうかもだが……魔術師同士の回路の繋ぎ方を考えてもみろよ。俺らには男同士で乳繰り合う趣味はないって」

「それもそっか。了解。次のレイシフトまでには作っておくよ」

 

 レオナルドのその返事に頷きを返し、遥が医務室から出て行く。その場にのこされたのはロマニとレオナルドのふたり。ちらとレオナルドがロマニに視線を遣ると、案の定ロマニは思いつめた様子であった。

 それは何も遥が完全に人間ではなくなったことに対してではない。実の所、ロマニとレオナルドは遥がいずれそうなることを分かっていた。というのも、カルデアの観測機器には遥の身体が叢雲の真名解放時に神霊のそれに近いものになっていたデータが残っていたのだ。

 故に、ロマニが思いつめている理由はもっと別なことが原因だった。いや、知っていて黙っていたことも大問題なのだが、それ以上にロマニの胸中を占めるものがある。やがてまるで独り言のようにロマニが言葉を漏らした。

 

「友人……友人だってさ。よく言えたものだよ、ボクも」

「……キミと〝あの男〟は違う。キミはロマニ・アーキマンだ。遥くんがそれを分からないようなヤツだと思っているのかい、キミは?」

「それでもだよ。彼はボクなんだ。だから――」

 

 そこで一旦言葉を区切り、ロマニは一拍置いてから再び言葉を吐き出す。懺悔をするように、告解するように、己の罪を。

 

 

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 


 

 虚空を裂くように軌跡を描く黄金の剣閃。それが振るわれる度に刃は過たずに襲い来るシャドウ・サーヴァントの首を叩き切り、黒い亡霊の群れは徐々にその数を減らしていく。しかし一定時間ごとにシャドウ・サーヴァントは再生産され、全滅することはない。

 まるで地獄のような光景だが、そこは特異点ではなくカルデアのシミュレーションルーム、そしてシャドウ・サーヴァントの軍を相手に只管に刀を振るっているのは遥であった。排出されるシャドウ・サーヴァントは通常よりも弱く設定され、その気になれば平均的な魔術師でも斃せる程度にはなっている。

 当然その程度では訓練にさえならないが、遥が行っているのは戦闘訓練ではない。言ってみればそれは慣熟訓練であった。ローマの一見で遥の肉体は色々と急に変わり過ぎた。固有結界内ではその特性もあって十全に戦うことができていたが、それ以外ではそう簡単にもいくまい。故に感覚を合わせるために身体を動かしているのだ。

 真後ろから振り下ろされた長剣の一撃を直感だけで回避し、魔術で強化した裏拳で一瞥することさえもなく頭部を破壊。並行して右手に握った叢雲で無造作にシャドウ・サーヴァントを薙ぎ払う。それだけで通常よりも弱く設定されたシャドウ・サーヴァントが何騎か消滅した。

 遥自身は特に意識していた訳ではないが、彼の戦闘スタイルは以前の日本刀による斬り合い一辺倒のものからそこに肉弾戦(インファイト)スタイルを加えたものになっていた。恐らくは神核を取り込んだ影響だろう。無意識にそちらのスタイルを取り込んでいるのだ。

 更にホルスターから引き抜いたデザートイーグルに魔力放出による強化を加え、発砲。流石に元が神秘も何もない銃であるから殺すことはできなかったが、大きくのけぞったシャドウ・サーヴァントの足を払って倒れた所で心臓部を踏み潰して霊核を破壊する。そうやって戦いながら、遥は余裕のある頭の片隅で戦闘とは全く別のことを考えていた。

 

(ヒーロー……わたしのヒーロー、か)

 

 医務室で眠ってしまった時に見た過去の記憶。カルデアに来る前に中東を訪れた際魔術師の工房から助け出したうちのひとりが遥にそう言ったのだ。わたしのヒーロー、と。

 確かに助け出された子供から見れば遥はヒーローのようなものにも見えたのだろう。公衆の正義という観点から見ても人ひとりを殺しているとはいえ遥の方に正義があると言う。何せその魔術師を殺さなければより多くの命が失われていたのだから。

 だが、もしもあの魔術師に家族がいて、良き父、良き夫であったのなら? 万に一つもありえない可能性だが、そうだったと仮定しよう。その場合、その家族から見れば遥はヒーローどころか家族を殺した悪鬼でしかない。

 一見すると正義めいた行いであったとしても、別な側面から見れば悪になってしまう。ならば正義とは、そしてそれを執行するヒーローとは何だというのか。英雄とは何だというのか。絶対的正義がないということはとうに分かっているが、そう考えるとどこまでも果てのない問いであるようにも思える。

 まるで絶対的な正義のようにも見える人間が犯す悪がある。絶対悪のような怪物が気紛れに行う正義がある。それはどんなヒーローが登場する話でも語られていることだ。ならばヒーローとは純粋な正義ではなく悪を内包しながらそちらに堕ちずに己の信じる正義を貫くことができる者のことを言うのだろうか。そんなことを考えながら最後に湧いたシャドウ・サーヴァントの首を飛ばした。

 

「難しいな……」

 

 果たしてその呟きは何に対して漏らしたものだったのか。予め設定していた稼働時間が過ぎたことでシステムが自動停止してローマの闘技場を再現していた部屋が元の無機質なそれに立ち戻る。

 そうして叢雲を納刀し、適当に投影したタオルで汗を拭ってからシミュレーションルームを出て行く。あまり長い時間の戦闘ではなかったが、それだけでも今の身体の感覚は大体分かっていた。

 常に装着している腕時計型の端末を見れば、まだ食事の準備までにはそれなりの時間があった。これならば一度自室に戻って色々と自由なことをする余裕もあるだろう。そんなことを考えながら廊下を歩いていると、遥は自分の部屋の前に誰かがいることに気づいた。

 肩口程にまで伸ばされた銀髪と金色の瞳。そして遥が冬木で買った黒を基調とした服を纏うのは間違いなくオルタである。遥がメディカルチェックを受けている間に再召喚されていたオルタは、何故か遥の部屋の前でもじもじとしたまま入る気配を見せない。

 

「……何してんだ、オルタ?」

「なっ!? は、遥!? アンタ、部屋にいたんじゃなかったの!?」

「いや、俺はシミュレーションルームにいたんだけど……なんだ、そんなに俺に会いたかったのか?」

 

 完全にオルタを揶揄う気満々の表情でそうオルタに問う遥。彼は決して本気でそんなことを思ってオルタに問うているのではなく、単純にその問いでオルタが慌てるところを見たいという悪戯心の発露であった。

 しかし遥の予想に反してオルタはしばらく何か言い返そうと手をわたわたとさせていたが、少ししてから顔を紅くして俯いてしまった。それが示す所が分からない遥ではなく、どうやら図星らしいと気づいて彼も顔を紅くしてしまう。

 互いに何を言って良いか分からずに押し黙るオルタと遥。その微妙な空気を打破するために思考を巡らせる遥だが、生憎とそういう空気に今まで巻き込まれたことのない遥では気の利いた発言をすることは不可能であった。遥は時折軽薄そうに見える言動をするが、根は真面目なのである。しかしオルタの様子を見ているうち、遥は思わず笑ってしまった。

 

「な、何よ!」

「いや何、少し安心してな。いくら再召喚された霊基とはいえ、あの毒を喰らっておかしくなっていたらどうしようかと思ってたが……あぁ、本当に良かった」

 

 遥もまたオルタと同じくヒュドラの毒を受けた身――遥の場合はそれに聖杯の泥も加わっているが――だからこそ分かる。あの毒は劣化していても英霊の精神を壊しかねない程度には強力な毒だ。流石他のヒュドラという名を持つ雑多な幻想種とは一線を画す本物のヒュドラの毒を由来とする毒である。

 遥のオルタの精神あが無事であることを信じていなかった訳ではない。しかし心のどこかに心配している自分がいたことも、遥は自覚していた。それはきっと不信ではなく仲間を大切に思うが故のものであろうが。

 それはあくまでもサーヴァントを使い魔として見ようとするきらいがある魔術師の中では異端な反応だろうが、人としては正しい反応だろう。だがそれはオルタとしては想定していなかった反応であるらしく、余計に顔を紅くする。

 遥は自らが敵と定めた相手には極めて辛辣かつ苛烈だが、仲間や庇護するべき相手などには優しい一面を見せる。彼は自分に近づいてくる相手を腕を広げて愛さずにはいられないのだ。普段はそれを見せようとしないものの、時に全く隠そうとしない。今のように。

 自室のドアを開け、中に入ろうとする遥。彼としてはオルタもそのまま入ってくるだろうという予想だったが、しかし遥は不意に裾を引っ張られて足を止めた。見れば、俯いたオルタが服の裾を掴んでいる。

 

「アンタも……無事でよかったわ」

「当たり前だ。約束しただろ?」

 

 遥が言う約束とは第二特異点でオルタが消滅する前に言った〝勝手に死んだら許さない〟という言葉だ。遥はそれを受け入れたのだから、勝手に死ぬことなどできる筈もないであろう。

 遥はその起源故にそう簡単に死ぬことができる身体ではないが、決して死なない身体ではない。実際、最終決戦ではスサノオの神核を継承して能力が底上げされなければあの時点で聖杯の泥とヒュドラの毒に負けて死んでいただろう。

 その身体の性質のためになかなか死というものの接近を感じなくなってしまっている遥だが、その時は本当に死を間近に感じたものだった。だからこそ今まで背を向けてきたものに目を向けることができたのだが。

 裾を掴んでいたオルタの手が離れ、代わりに遥の腰に彼女の腕が回される。普段なら素っ頓狂な声を漏らして狼狽える遥であろうが、今だけは黙ってそれを受け入れた。

 その腕を通じて感じる温度に、遥は自らの極めて個人的な欲求を自覚する。ジャンヌ・ダルク[オルタ]という英霊は聖杯を手にしたジル・ド・レェの願いによって生み出された存在であるが故に、誕生の時点で英霊として定義されている。彼女は誕生しながらにして死んでいるのだ。

 オルタには生前と言えるものがない。生まれた時から復讐者として定義されていて、その復讐心も彼女とは関係がない所を由来としている。いや、その復讐というものもジルが願ったものであって、彼女だけの復讐に相手を殺し尽くす必要などないのだ。

 この願いがただの我儘だと、押し付けなのだと遥は理解している。理解しているが、それで放棄するべきものでもなかろう。オルタが理不尽に生命を奪われたジャンヌ・ダルクには復讐の権利があるという人々のイメージの具現であるのなら、オルタにはその生命を全うする権利がある。自らの幸せを求める権利がある。聖女を嘲笑ないながら処刑した悪逆を、逆に嘲笑してやることができる程には。ならば。ならば――

 

 ――いつか、オルタに世界を見せてやりたい。

 

 それが、遥の極めて個人的で身勝手な、願いだった。

 




 さて、次回の話が少し書けているので次回予告的なものを。

 第二特異点から帰還して数日後のこと。最終決戦において自らの霊基を完全開放した遥が霊基解放の反動を受けたことを知ったレオナルドは、遥にとある装備の使用を提案する。それは過去の遺物。カルデアの暗部たる〝デミ・サーヴァント計画〟が生み出した、魔術の禁忌を犯した兵器であった――。

次回『evol and love』

 原作では2部から登場するアレが登場します。因みに『evol』は某チャオ♪な宇宙人ではありません。


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第64話 evol and love

 巨悪によって焼却されんとしている人理を守護する防人たちの本拠地にして絶対防衛線たるカルデア。そのシミュレーションルームは今、常では在り得ない程の緊張感に包まれていた。尤も、それが正しい緊張感ではなく謂わば悪ノリのようなものであるのは状況を見れば一目瞭然なのだが。

 いつもと同じように古代ローマの闘技場(コロッセオ)を再現したシミュレーションルームにいるのは遥とレオナルド、そして何故か妙に興奮した様子でそわそわとしている男性職員が数名。シミュレーションルームに一般職員がいるというのも奇妙な話だが、その原因は遥の恰好にあった。

 今、コロッセオの中央に立つ遥の恰好は彼が戦闘用礼装として好んで用いているロングコートでも普段着でもある黒いパーカーでもない。彼が纏うのはまるでアニメの世界で登場するかのような、黒一色に統一された金属質の装甲。一見すると不完全な全身鎧のようにも見えるそれは、しかしただの鎧ではなかった。

 その装甲はただ遥に装着されているだけではなく、彼の肉体と融合しているスサノオの霊基と接続・同調することでその神秘を纏っていた。謂わばサーヴァントの一部である霊衣の代替品として機能しているのだ。その様はまさしく科学と魔術の融合を象徴する騎士といった所か。

 装甲騎兵(モータード・アルマトゥーラ)と同じくレオナルドの手によって造り出されたその装備は、元から開発を予定されていたものではない。いや、より正確に言えば元は開発予定のまま凍結されていたものを急遽引っ張り出したと言うべきであろう。

 その経緯を語るにはまず切っ掛けから語らなければなるまい。その切っ掛けとなったのは数日前、遥がレオナルドの工房に彼女(かれ)から呼び出しを受けて訪れた時のことであった。工房に訪れるや否や、遥はレオナルドからとあるデータを見せられたのである。

 

『――〝霊基外骨骼(オルテナウス)〟?』

『そう。あぁ、だが勘違いしないでくれ。それの基礎設計をしたのは私じゃない。凍結されていたそれを掘り出して完成させたのは私だけどね』

 

 遥にオルテナウスのデータを見せてすぐにレオナルドがそう前置きしたのは、元々のオルテナウスの設計思想と開発経緯が彼女がカルデアという組織の中で最も忌み嫌うもの――デミ・サーヴァント計画にあるからだろう。

 10年前に行われ、マシュ以外全ての被検体を死に追いやったという悪魔めいた結果で終わったデミ・サーヴァント計画。だがその発案者である前所長マリスビリー・アニムスフィアは、最初から同計画が十全な形で完遂されるとは考えていなかった。召喚された英霊たちが自らの意志を無視する形で兵器として使われることを許容する筈などないとマリスビリーは分かっていたのだ。

 そこで考え出されたのが霊基外骨格(オルテナウス)である。これは英霊の憑依が成功しながらも覚醒しなかった場合に備え、外的要素を付加することで被検体の宿す霊基の力の一端を引き出し、兵器として運用するために考案されたものだ。

 だがデミ・サーヴァント計画がマシュ以外全員が死亡というカタチで終わり、そのマシュの中に宿った霊基も完全に沈黙し続けたことでオルテナウスの開発も不要と判断され、しかし万が一の事態のために抹消されずに凍結されたままデータベースの肥やしと化していたのである。

 成る程これはレオナルドも自分の発明品とは言いたくないワケだ、とオルテナウスについての情報を閲覧して遥は納得する。英霊であるレオナルドがデミ・サーヴァント計画を嫌っていることは遥も知っている。故に、元はそのために開発されたものを自分の発明と言うのは、レオナルドの英霊たる主義に反するのだ。

 

『で、何故これを俺に? 確かに俺はデミ・サーヴァントみたいなものだが、別に霊基が覚醒していないワケじゃないんだが』

『だが、霊基の解放はキミの肉体に大きな負担を掛ける。いくらキミが神核を受け継いだことで肉体も大きく変質しているとはいえ、キミが正面戦闘を行う魔術師である以上は見過ごせる負担じゃない。……そこで、オルテナウスだ。コレとコレの理論を応用すれば、力は制限されるが霊基解放に伴う負荷は限りなくゼロにできる』

 

 ローマでの一件で遥は自らに埋め込まれた神核をスサノオから正式に継承し、神の力を〝他人からの借り物〟から〝自ら勝ち取った、自分自身の力〟とすることができたが、しかしそれで全てが解決した訳ではない。何せ神霊の力である。受け継いだ力の限界出力も肉体も未だ神霊の領域にない遥が不用意に使えば、その負荷は相当なものとなろう。

 そこでオルテナウスという外的要素に霊基の制御を任せることで幾らかの制限と引き換えにして遥は神霊の霊基を利用することが可能となるのである。流石に十全に扱うのは不可能でも、神霊の力は強力な武器となる。

 しかしそれは半ば賭けだ。何せオルテナウスは本来、英霊、それもサーヴァントとして弱体化(ダウンサイジング)した霊基に対して用いるもの。対して遥のそれは神霊の霊基であるうえにサーヴァント程にオリジナルから弱体化している訳でもない。霊基規模が違い過ぎるのである。そこはレオナルドがどうにかする他ない。

 一見すると無理難題であるようにも思えるが、レオナルドには自信があった。元がデミ・サーヴァント計画というある種の黒歴史のために設計された装備をデミ・サーヴァント、或いはそれに酷似する者を兵器とする目的以外に転用できるのである。であれば美しく仕上げてみせよう。それがレオナルドの思いであった。

 

『分かった。これには俺も興味があるし、負荷を小さくできるってんなら願ったりだ。頼むよ、レオナルド』

『任せたまえ。最高のパフォーマンスで仕上げてみせるとも』

 

 そんな会話をしたのが数日前の話。そこから一旦完成させたオルテナウスの設計を遥用に見直し、本体まで造ってしまうのだから驚異的な開発速度である。万能の天才の面目躍如といった所だ。

 本来オルテナウスは未覚醒の霊基を外的要素によって補強するための強化装置として開発が進められていたものであるが、遥用のオルテナウスは既に覚醒した霊基を安全に使うための制御装置としての意味合いが強い。

 しかし元のコンセプトから大幅に外れて開発されたにも関わらず〝安全に内在霊基の力を使う〟という目的には何ら違いがないというのは奇妙な話だろう。尤も、誰にとって安全であるかは全く異なるのだが。

 遥用のオルテナウスは彼が近接戦闘を得意としていることもあって防御を霊基との同調による概念的守護に任せて装甲を薄くすることで軽量化を図り、更には遥自信が持つスキルや異能たる固有結界関連の力を阻害しないようになっている。それ故、装備のために戦闘スタイルを変える必要はない。それが遥専用オルテナウス初期型〝桜花零式〟である。

 

「霊基同調率、60%で維持。システム、オールグリーン……ハード側には異常なし。そっちはどうだい、遥君?」

「問題ない。いつでもいける……と言いたい所なんだが、皆なんでいるんだ?」

 

 そう言って遥が視線を向けたのは先程から妙にそわそわしている様子でオルテナウス姿の遥を見ている、ムニエルを始めとした数名の職員であった。中にはカメラを向けている職員もいて、気恥ずかしさに遥が顔を紅くする。

 彼らは何もオペレーターとしてこの場にいる訳ではない。そもそも桜花零式にはカルデアとの通信が切れた時の為に単独でもある程度の機能が使えるようになっている。つまり、オペレーターが必要ないのである。

 ムニエルたちから見れば遥の目はバイザーに隠れてしまっているが、彼らからすれば見なくても遥の目が悪戯心ではなく純粋な疑問を湛えているのが分かったのだろう。野次を飛ばす。

 

「だってよ、強化装甲服なんて男のロマンまっしぐらな装備、見に来ないワケないだろ!? おまえもジャパニメーションとか特撮が好きなら分かる筈だ、この気持ちが!!」

「まぁ、それはそうだけど。……ハァ。怪我しても知らねぇぞ?」

 

 分かってるよ! その声を受けて呆れにも似たため息を吐きながら、遥が腰部装甲のアタッチメントに取り付けられた鞘から叢雲を抜刀する。そうして何度か握りなおして、手袋越しに持つ感覚を身体に覚えさせた。

 システムと同期した霊基を介してオルテナウスを操作し、待機状態から稼働状態に移行させる。すると装甲内部から各種装置が駆動する重低音が鳴り始め、バイザー裏のモニターに映る数値が変動を始めた。

 オルテナウスと接続した遥の魔術回路から魔力が引き出され、それがオルテナウスを稼働させるための電力に変換される。いくら霊衣の大体とはいえ、オルテナウスは科学の産物。全てが魔力で稼働する訳ではないのだ。

 遥の目の前に発生したのは形状からして恐らくはヴラド三世を元にしたと思われるシャドウ・サーヴァント。それを皮切りにして、遥を包囲するように何騎かのシャドウ・サーヴァントが出現する。そんな中で、遥が言った。

 

「オルテナウス、各部稼働状態、規定値を突破……じゃあそろそろ実機試験を始めますか!」

 

 その声に応えるようにして今まで直立していたシャドウ・ランサーが得物である槍を構え、遥へと突貫する。先日のそれのように弱体化している訳ではない、シャドウ・サーヴァントとしては極めて純正に近い霊基を持つシャドウの挙動は、恐らくただの人間には捉えることは困難であろう。

 しかし遥はその動きを完全に見切ると、繰り出された槍撃を紙一重の距離で回避した。更に左手で柄をはじいて体勢を崩し、踏み込みと同時に脚部バーニアを吹かせて加速。その運動エネルギーを全て乗せた斬撃を以てシャドウ・ランサーの胴を両断する。続けて背後から迫る2騎のシャドウ・サーヴァント。それを遥は直感のみで察知し、身体を捻って振り下ろされた長剣を回避した。そのままバーニアの加速で地面を滑るように動き、そこからの流れるような斬撃で1騎を葬った。

 残った1騎は叢雲を振り抜いた格好の遥に向けてまるでマイクのような形状をした長槍――恐らくはエリザベート・バートリーのシャドウ・サーヴァントであろう――を突き出すも、遥はそれを左手首の装甲で弾いて後方に飛び退いた。

 彼我の距離はおよそ15メートル程度。常人であは一瞬で詰めることなど不可能だが、サーヴァントであれば問題なく肉薄できる距離だ。故に稼ぐことができる時間もごく僅かだが、遥にとってはそれでも十分である

 叢雲を両手で握りなおし、魔力を充填。長槍を構えて突貫してくるシャドウ・サーヴァントに向けて叢雲を斬り上げると同時に充填した魔力を光の斬撃として開放し、無理矢理に槍を弾き飛ばしてシャドウ・サーヴァントに体勢を崩させる。そうやって作った隙に縮地で肉薄すると、一息で首を刎ねた。

 そうして一拍。再びシャドウ・サーヴァントが生成されたのを傍目に、遥がふむと唸りながら手首を回すなどしてみせる。初めて使う装備のためにもっと使いにくいものと思っていたが、なかなかどうして使えるものだ、と遥が内心で呟く。

 遥用オルテナウスは彼の内包する霊基と同調することで霊衣としての性質を特性を備える機能を持つ他、装甲を構成するパーツを細分化することで遥の動きを阻害しないように設計されている。加えて薄めの装甲になっているうえにオプションとして豊富な武装もあるというのだから、遥としては文句なしである。

 次に生み出されたシャドウ・サーヴァントはその見た目から推測するに、恐らくアルテラのシャドウだろう。本来の霊基ではないが故にその強さはオリジナルには遠く及ばないだろうが、反射的に遥の身体に力が籠る。

 半ば無意識に唱えられる固有結界展開の呪言。それによって遥の体内で煉獄の固有結界が活性を増し、身体から焔が噴き出す。そのままであれば内部の熱で装甲が溶けてしまうだろうが、無論遥が使うことを前提として開発されたオルテナウスがそれを想定していない筈はない。

 固有結界の起動を感知したシステムがオルテナウスの装甲を排熱のために操作し、関節部の装甲が開く。そこから揺らめく焔はまるで気炎が具現化したかの如く。その外にも搭載された排熱機構が一斉に作動する。

 遥が使うためのオルテナウスを設計するうえにおいて、レオナルドが最も頭を悩ませたのが〝如何にして遥の固有結界が放つ馬鹿げた熱量を外に逃がすか〟という問題であった。通常の排熱機構では一瞬で耐熱温度を超過し、装甲が溶けてしまう。そこでレオナルドは熱の原因である焔を直接外に逃がすと共に水の属性を持つ遥の魔力を魔術的に水に変換して装甲内部を巡らせ、温水になったそれを再び魔力に戻すという行程を経ることで異常な熱量を何とか適性範囲に抑えている。

 そういう意味では桜花零式はギリギリで実用範囲に収まっている欠陥機とも言えるだろう。いかな天才とはいえ物理的にも魔術的にも無理なものは無理なのである。それでもその中で実用化にまで持って行ったことは感服に値する――と言うよりも、レオナルド以外には不可能だっただろう。

 愛剣である軍神の剣を構え、地を蹴るシャドウ・サーヴァント。その速度は相当なものだが、一度本物のアルテラと戦って彼女の強さを知る遥としては拍子抜けする程度に鈍重に見えた。

 旋転して黒い残留霊基の粒子を吹き出す軍神の剣。遥はその軌道を見切って数合打ち合うと、叢雲の刀身から魔力を放出してシャドウ・サーヴァントを後退らせた。

 

「やはり劣化版(シャドウ)か。本物のアルテラには遠く及ばない!」

 

 そういながら叢雲を鞘に戻し、腰を落とす。そうして右手を鞘から離して降ろし、左手でオルテナウスから外した鞘を握る。遥独特の抜刀術の構えである。アルテラのシャドウはその構えを知らない筈だが何かを感じ取ったらしく、咆哮をあげながら軍神の剣を振り上げる。

 振り下ろされる軍神の剣が黒い軌跡を描く。だが遥はそれが自らに降りかかるより早くにその懐に潜り込み、一瞬で叢雲を抜刀した。純正のサーヴァントですら目視が難しい程の速度で振り抜かれた刃はシャドウ・サーヴァントの霊基を完全に破壊し、その身体が消滅した。

 そうして一旦己の状態を把握し、遥が息を漏らす。確かに身体能力の上昇具合は固有結界内で霊基を解放した時程ではないが、身体への負担も小さい。起源による自己修復能力も考慮に入れると、殆ど無視できると言っても良いだろう。遥が他にも色々と確認していると、レオナルドから声が掛かった。

 

「流石、シャドウ・サーヴァント数騎をぶつけるくらいでは問題にならないね。じゃあ、これはどうかな?」

 

 変にテンションの上がった声音でそう言うなり、手に持っていたタブレット端末を操作するレオナルド。するとシミュレーションルームのメインシステムが仮想敵たるシャドウ・サーヴァントの生成を停止し、シミュレーションルームに静寂が訪れた。

 しかし未だ性能試験は終わっていない。実際、シミュレーターもシャドウ・サーヴァントの生成を停止しただけでメインシステムまで止まってはいない。そんな状況に何故か嫌な予感を感じていると、レオナルドが遥の前に立った。それだけで彼女(かれ)の意図を悟り、遥が微妙な笑みを見せる。

 レオナルドの右手に顕現する奇妙な形状をした杖。左手には所謂〝ロケットパンチ〟など諸々の機能が組み込まれたガントレットを装着し、何故か眼鏡を着用した戦闘状態である。

 

「ここからは私が相手をしよう! なに、心配することはない。万能の天才は戦闘においても天才さ! それに、自分が作った装備を使う相手と戦う機会なんて滅多にないからね、心が躍るよ!」

「……前から思っていたけど、アンタなかなかにマッドだよな。……あぁ、イイぜ。そこまで言うなら、相手になってもらおうか!」

 

 そう言って叢雲から黄金の斬撃を飛ばす遥と、魔力弾を射出するレオナルド。常軌を逸した魔力を内包するふたつがぶつかり合い、シミュレーションルームを閃光が染めあげた。

 


 

 結論から言えば遥専用オルテナウスの性能試験は成功という結果に終わった。最後まで残っていた懸念事項であった神霊の霊基への対応と遥の固有結界関係への魔術に対する耐久も流石天才の作品だけあって完璧にこなし、装備そのものの不具合もなかった。

 性能試験が終わった後にオルテナウスは一旦オルテナウスはレオナルドによって回収され、最終調整を施してから実戦投入(ロールアウト)となる。性能的には既にロールアウトしても構わないのだが、万全を期するに越したことはなかろう。

 その最中調整が終わるまで遥自身には特にするべきことはない。オルテナウスをレオナルドに預けて彼女(かれ)の工房を後にする遥。そうしてカルデアの廊下を歩きながら、遥は先のテストでのオルテナウスの使用感を反芻していた。

 遥が手に入れた神霊の力。それを安定して使うためのオルテナウス。それは何も遥が神霊の力を支配できていないというのではなく、行使に代償が伴うという話だ。遥は神霊の力を支配できてはいても、神の階位に達しない肉体では追いつけないのである。オルテナウスはそれを補助するための装備だ

 本来は使用者本人が解放する霊基に同調することで装備に霊衣としての概念を付与して負担を極限にまで抑え、接続された魔術回路を通して各種装備を操作する。それがオルテナウスの基本システムだ。使うまでは遥も慣れるまでに時間がかかるかもと思っていたが、そのシステム上自分の身体の一部も同然であるからか思っていたよりも扱いは容易であった。

 それだけの仕事をしてくれる仲間に感謝すると同時、遥は自分が情けなくも感じていた。自分が代償もなく力を揮うことができていたのなら、余計な苦労をかけることもなかっただろうに、と。無論それは遥本人の責任ではないしいつかはその反動さえ乗り越えるつもりであるが、それでも責任は感じてしまう。

 尤も、それが無用な責任感であることは遥にも分かっている。そんなものを遥に感じさせるために彼らは協力してくれているのではない。故に、それは遥の勝手な思いだ。責任を全く感じないよりは、余程良いだろうけれど。

 それを果たそうと思うのなら、遥はそれに見合った働きをするしかない。元より戦わないつもりなど全くないが、遥が誰かから受けた施しに報いる手段など戦うことしかないのだから。そう考えて気合を入れなおす遥。そうして本来であれば外の景色が見える筈の、しかし今はシャッターが下りてしまって外が見えなくなっている廊下に差し掛かった時、遥はそこに見知った姿を見つけた。

 いくら神霊とはいえ日本の存在とはとても思えない長い銀髪に、紅色の宝石のような瞳。服は召喚時の巫女服ではなくカルデアの生活に合わせて現代風に変えており、白と赤のコントラストが彼女の美しさを際立たせている。ローマにて遥が召喚した神霊サーヴァント、『魔術師(キャスター)』クシナダヒメ。

 

「……クシナダ? どうしたんだ、こんな所で?」

「遥様! 申し訳ありません、お先に気付かず……」

「いや、謝らないでくれ。別に気にしてないし。てか、気にするようなコトでもないだろ、それは?」

 

 確かにマスターとサーヴァントの関係性は主従関係ではあるものの、遥はあまりそういう関係が得意ではなかった。彼はその性格上、サーヴァントに対して一般的な魔術師のように接することもできない。故にクシナダに下手に出られることに、遥は申し訳なさを感じていた。

 しかしクシナダの、遥に対する過剰に思える程腰の低い接し方は全て意識している訳ではない完全な素である。遥はスサノオの神核を継承したが故に考えるまでもなくそれを知っている筈なのに、自分に対してすらも知らない素振りをした。いくら自分が生まれる以前の記憶がある状態に慣れていないとはいえそれは最悪なことに思えて、遥が苦虫を噛み潰したかのような表情をする。だがすぐに表情を切り替えた。

 

「それで、何してたんだ? ここ、窓くらいしかないし、それもシャッター降りちまってるんだけど……」

「外を見ていたワケではないのです。あ、いえ、最初は外が見れたらと思っていたのは確かですが……少し、貴方のことを考えていました」

「俺の……?」

 

 よもやそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのか、虚を衝かれたかのような返事をする遥。そんな遥の前でクシナダは優しく嫋やかな笑みを浮かべる。その笑みに妙な既視感を覚えて、遥がこめかみの辺りを抑えた。遥はその笑顔を知っている。正確には、遥と同化した霊基が覚えている。

 霊基解放に伴う反動はともかく制御はできるようになっているため郷愁めいたその感覚に流されることはないが、以前であれば或いは霊基の齎す感覚に流されていたかも知れない。

 クシナダに対して何と言ったら良いか分からずに押し黙る遥。以前の状態ならばいざ知らず、神核と同時に記憶も受け継いだ今、遥はクシナダとの距離を測りかねていた。果たしてマスターとして彼女と接するべきか、それとも曲がりなりにもスサノオの神核を継ぐ者として接するべきか。遥はそんなことを考えているうち、ふと胸中に生まれた疑問を口にした。

 

「なぁ、クシナダは……俺のことを誰として見ているんだ?」

 

 今の遥は『夜桜遥』であると同時に『建速須佐之男命』でもある。流石に完全にその存在を内包しているとは言い難いものの、遥の構成要素として多くを示していることは間違いないのだ。

 そしてクシナダは遥のサーヴァントであると同時にスサノオの妻でもある。ふたつの関係性の両方と関連付けることができる、ある種の両義的存在である今の遥がクシナダにとってどういった相手であるのかが、遥には分からなかった。

 確かに遥をスサノオと同一のものとして見ることは間違いではない。けれど遥はガイアによってスサノオに限りなく近い存在として造られた人形で、真にスサノオの転生体ではないのだ。故にその神核を継いでも遥の中では自らとスサノオはあくまでも別人であった。

 だからこそ、クシナダからスサノオと同じような目で見られることが遥にはどうしても後ろめたいことであるように思えるのだ。不快なのではない。自分には果たして誰かから愛される価値があるのか。それに遥は胸を張って是と返すことができない。そんな男が、誰かから愛される資格などある筈もない。であれば神核を継いだだけで愛を向けられている自分は、とんでもない詐欺師だろう。遥のそんな内心を見透かしたかのように、クシナダが微笑する。

 

「遥様は、ご自分がお嫌いですか?」

「嫌いって程でもない。じゃなきゃ敵に向かってあんな堂々と啖呵切れないだろ? でも……好きではないかな」

 

 そう言って自嘲的に遥は笑う。彼の言葉は決して嘘でも何でもなく、彼自身の心を正確に表していた。遥は自分自身のことが嫌いではないけれど、好きでもない。その嫌いではないという理由も、〝自分が嫌いでは契約してくれているサーヴァントへの背信になる〟というもので、本質がどうであるかは彼自身ですらも分からないのかも知れない。

 自分を嫌いではない理由に他人を含めるなど、人としては在り得ない行いであるのかも知れない。けれど確かな実体を持っているとはいえ〝人間なしでは存在できない〟という性質を持つ神霊の要素を有している以上、仕方のないことではあるのだ。

 それに、これでも今までよりは()()な方ではあるのだ。独りでいる時、遥は自分が嫌いだった。誰からも愛されず、正義にも悪にもなりきれない自分が。人助けも結局の所は自己満足の偽善で、生きていたい理由もただのガイアへの反骨心だ。

 詰まる所、夜桜遥というのは極めて自己愛と自己肯定感の薄い男であった。子供を食い物にするような悪徳魔術師を嫌い、人類史を焼却した黒幕を嫌悪し、而してそれと敵対する自分を正義とは思っていない。彼が今までの戦いで己を正義だと確信できたのは、精々変異特異点αで間桐邸から桜を助け出した時くらいだろう。

 

「俺は誰かを愛することはできても、きっと誰かからの愛を信じ切れない。……いや、もしかしたら俺は愛というものそのものを信じ切れていないのかもな」

 

 お前はどこまでいっても独りだ。たとえ誰と絆を結ぼうと、誰を愛そうと誰から愛されようと、そんなものはまやかしでしかないんだよ――遥の脳裏にアンリマユから突きつけられた一言が蘇る。遥には、その一言を否定できるだけの材料がない。そもそもの話、エミヤによると反英霊アンリマユとは元々無色の存在であり、被った殻の人格を模倣することで形成する。であれば、あれは正しく遥の本心だったのだろう。負の側面の、という前提はあるが。

 遥は今まで自分自身を守るために親からの愛すら記憶の底に沈めていた身の上である。そんな男が継いだ他者(じぶん)の記憶から唐突に愛というものを突きつけられて、戸惑わない筈がない。信じ切ることができる筈がない。

 クシナダから向けられる感情を信じることができないのも、つまりはそういうことだ。そんなことを口に出して、失望されても仕方のないことであるとは遥も分かっている。彼は糾弾されるのを待つかのように目を伏せて、しかしクシナダが糾弾することはなかった。

 

「それが私が貴方を誰として見ているのか問うた理由、ですか……えぇ、では私はこう答えましょう。どんな名、どんな姿であろうと……私は『貴方』を愛している、と」

「……!!」

 

 それは、遥が予想だにしていない答えであった。彼が夜桜遥であろうと、スサノオであろうと、そんなことに意味はない。クシナダが愛しているのはその名などではなく、中身、在り様なのだから。名前も姿も、大した意味を持たない。

 その言葉が遥を真っ直ぐに貫いて、まるで心臓を直接鷲掴みにされたかのような衝撃を与えた。彼の心が覆う何層もの鎧をすり抜けて、クシナダの感情を遥の心に叩きつける。

 クシナダが遥の手を取って、その手を自らの胸の前で握る。そっと、大事なものを握り締めるかのように。その感覚が、熱が、遥に目の前の少女から目を離すことを許さない。まるで世界そのものが遠くなったかのような感覚の中で、クシナダだけが意味を持っていた。そうしてクシナダは遥に、彼の魂に、消えない祝福(のろい)を刻み付ける。

 

 

 

「たとえ貴方が私の愛を信じ切れないのであろうと、他の誰かが貴方を愛しているのであろうと、私は再び貴方の愛を勝ち得てみせましょう。

 何度、輪廻を巡ろうと――私が愛しているのは、貴方だけなのですから」

 




 綺麗な色恋はぐだマシュに任せて、遥にはゆっくりと真綿で締め上げられるかのような色恋を味わってもらいましょう(愉悦)。オルテナウスを装着した遥のステータスやプリヤコラボ特異点編予告は活動報告に投稿致しますので、興味のある方はどうぞ。


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第65話 sadness and delight

 ――沖田がそれを見るのは、これが2度目のことであった。平均的な家よりも巨大でありながら無駄ではなく、豪奢であって華美でも下劣でもない。そんな金持ちと庶民の間に絶妙なバランスで存在している屋敷。それは遥の実家である夜桜の屋敷に他ならない。

 だが前回遥の記憶を覗き見した時と違う点がひとつ。前回見た時点の夜桜邸には人が暮らしている家特有の雰囲気がなかったのに対して、今回はそれがある。生前は魔術師とは関わることがなかったために沖田には分からないことだが、それは一般的な魔術師の家庭には在り得ないことであった。

 魔術師の世界における親子関係というものは基本的に所有者と所有物の関係である。子は親には逆らえず、反対に親は子を好きなようにできる。それが当然であり、その点で言えば夜桜家は異端であった。

 遥と両親の関係性は一般的な魔導のそれではなく、むしろ魔術とは何の関わりのない家庭のようであった。そこにあったのは所有者と所有物のように冷淡な感情ではなく、確かな家族愛。遥は両親を親として、師として尊敬し、両親は遥を子として、かつ弟子として慈しんだ。

 それは一見すると夜桜が他の魔導と比べると()()()な感性を有しているからとも思えるだろう。だが悲しいかな、それは違う。夜桜の血筋である遥とその父親である〝夜桜司〟が魔導らしからぬ感性を持っているのは、自然発生的なものではなく作為的なものである。

 夜桜の血を継ぐ者に代々受け継がれる〝叢雲の呪い〟。この効果は起源の変質や肉体の調整だけではない。夜桜の家に生まれてくる者は皆、、人外らしからぬ善性をもって生まれてくる。夜桜がマトモな家系に見えるのは、つまりはその善性故だ。

 だが当然魔導であるからして、両親は遥に魔術を教えた。それが魔導の責務であると同時に、遥の場合は彼の秘める怪異に引き寄せられた怪異への自衛手段となるのだ。遥はそれを一切嫌がることなく、むしろ自分から吸収していく。その吸収速度たるや、両親の考えていた予定を大幅に前倒しして全て習得してしまった程である。

 明らかに異常な修得速度である。それもその筈で、叢雲の呪いの完成形である遥にとっては魔力、及びその延長線上にある魔術の扱いとは自らの手足を扱うのとそう大差ないことなのだ。であれば人が自然と手足の使い方を覚えるように魔力の扱いを覚え、文字を書くことができるようになるように魔術を覚えるのも致し方ないことと言える。

 しかし。しかしだ。呪いは遥に利益ばかりを齎した訳ではない。むしろ遥はマトモな善性を備えてしまっただけ、呪いによる不利益の度合いは利益を上回るだろう。何とも矛盾した話だ。人ならざる肉体を持ち、人ならざる魔術回路を持ち、しかし人間めいた精神だけを持たせるなど。

 人間は他の獣とは異なり高度な理性を持つが、本質的な部分までが獣と異なるなどということはない。どれだけ鈍くなろうとも、自らの生存を脅かすものは無意識に避けようとする。そして、遥はその脅威に足る存在として周囲の人間の本能に認知されていた。

 だからこそ、両親以外の周囲の人間殆どは遥を無意識的に避けようとする。遥に友人がいなかったのは遥のコミュニケーション能力が低いからではなく、遥が有する人外であるが故の脅威によるものだったのだ。だがそれは遥が望むものではないために、幼い遥の目には隔絶や孤独として映った。

 それでも遥が悪童に堕ちなかったのは呪いによって植え付けられた善性によるものでもあるが、それ以上に自分自身が周囲にとってどのような存在であるかを理解していたからだ。それに、両親から確かに愛されていたからでもある。周囲から邪険に扱われていたとしても、幼い頃の遥は子供に最低限必要なものだけは満たされていたのだ。

 それが変わってしまったのは2004年の冬、遥が8歳の時分。聖杯戦争に参加した両親が他陣営に敗れ、惨殺されてしまったのだ。幸いにしてその頃には魔術刻印は全て遥に移植されていたこと、更にはゼルレッチの根回しもあって大事になることもなくただの殺人事件として処理された。

 しかし大事になることはなくとも遥にとっては重大な転機であった。両親を喪った遥は自分の心を守るため両親から愛されていたという記憶を意識の底に封じ込め、隔絶にも〝初めからそんなものだった〟と思うようになっていった。それは今の遥にも根強く残る愛の不信にも繋がっている。ある意味で現在の遥の根底はその時に形作られたと言っても良いだろう。

 そしてそれと同等、或いはそれ以上の転機が訪れたのはそれから少し経った後のこと。両親が遺したものを整理していた遥は屋敷の奥でとあるものを発見したのだ。伝説の邪龍の皮と神代の神秘結晶で構成された宝具、夜桜に代々伝えられてきた神造兵装〝天叢雲剣〟。

 

『これが……親父が言っていた、神剣……』

 

 その頃の遥が受け継いでいたのはもう1本の刀である無銘正宗だけであり、そちらを継承してはいなかった。そもそも叢雲は夜桜に継承されてはいても、使い手として選ばれた者はいなかったのだから早々に継承しても構わないと考えていてもおかしくはない。しかしそれを遥の両親がしなかったのは、彼らに確信があったからだ。遥は叢雲に使い手として選ばれる、と。

 しかし、遥はそれを知らなかった。故にその時の彼はそれが何を齎すか知らないまま、まるで何かに導かれるようにして叢雲を手に執ってしまった。そうして持ち前の魔術把握力で第一拘束の術式を解除し、抜刀。その瞬間、この世のものとは思えない程激しい苦痛が遥の総身を駆け抜けた。

 それをただ眺めるばかりの時分に歯噛みしながら、沖田は理解する。恐らくこれは遥の体内や魂にスサノオの霊基が宿った瞬間なのだろう。それは謂わば大聖杯に魔力が満ちるようなものだ。新しく造られた城に城主が入るようなものだ。つまりは、器に中身が注がれた完成した瞬間だ。

 そうして遥が意識を失ったのと同時に沖田が見ている光景が何の脈絡もなく様変わりする。次に沖田の前に現出したのは一言で言えば火事現場。燃える魔術師の工房の前でそこの主の死体を肩に担いでいる遥は、感情の読めない瞳で燃える屋敷を見つめている。

 この屋敷の主である魔術師は子供に限らず多くの人々を実験材料にする卑劣漢であった。いや、魔術師としては正道なのであろうが、遥の価値観においては紛れもない悪であるのだ。所詮は無に帰る、或いは無に帰ることすらない研究のためにただ悪戯に犠牲ばかりを積み上げていく。利己的で空虚な空想のために、他の価値ある者を壊していく。そんなものが、正しい行いである筈がない。

 だがそれはあくまでも遥の正義であって、他人の正義ではない。少なくとも遥が殺した魔術師にとって遥の行いは悪でしかないだろう。遥は偶々力があったから己の正義を押し通すことができた。それは正義の押し売りという表現でも良いかも知れない。

 それ以前に、遥が殺した魔術師はその年齢からして恐らく子供もいたと考えられる。であれば、その子供にとって遥は親の片方を奪った仇ということになる。それはつまり、遥は半分だけとはいえ自分と同じ境遇の子供を生み出しているということになる。それは考えるまでもなく――悪ではないのか。

 遥は確かに人を助けた。遥が魔術師を殺さなかった場合に失われる人々の命とたったひとりの子供が半分だけ遥と同じ境遇に叩き落とされることを天秤に掛ければ、遥の判断は正しい。この上なく。それでも、遥の望む形ではない。

 

『いったい俺は……何がしたいんだろうな』

 

 そう自嘲的に遥が嗤うのと同時に沖田の全身が幻の焔に巻かれ、意識が遥の記憶から現実へと戻る。そうして視界に入ったのは点けっぱなしの照明。耳朶を打つのは秒針が時を刻む音。その時計を見れば、時間は午後8時程であった。

 寝起きでぼやける意識を強引に覚醒させ、眠る直前までの記憶を思い返す。昼食を食べて少し経ってから沖田はオルタに剣術訓練に付き合って、部屋に戻ってから体力回復のために眠ったのだ。それが思いのほか長く眠ってしまっていたらしい。

 カルデアの居住部屋全てにある何とも言えない固さのベッドから起き上がり、霊衣を霊体化。クローゼットから冬木で手に入れた現代装束を引っ張り出して着用すると、沖田は部屋を出た。本来サーヴァントに食事は必要ないが、カルデアに召喚されてから身に付いた習慣の所為か胃が食物を欲している。夕食を食べていないせいだ。

 向かう先は食道。時刻が時刻だから誰もいないかも知れないが、少なくとも何か食べるものはあるだろう。そんな考えの下沖田は食道に続く自動ドアを潜り、そこで予想していなかった声を聞いた。

 

「お。ようやく来たか、寝坊助め。皆、飯食い終わって戻っちまったぜ?」

「え……ハルさん!?」

 

 夜桜遥。沖田の契約者(マスター)であり、未だ伝わらぬ――と沖田は思っている――好意を向ける相手であり、先程まで見ていた記憶の主。沖田とはまた異なるベクトルで過酷な人生を歩んできた、半神の魔術師。

 食堂に沖田と遥以外の姿はない。皆既に夕食を食べてしまったか、ロマニのように多忙な職員は遥が直接押し付けた夕食を食べて業務を続けているかで、遥以外の料理班も遥が返してしまった。

 遥に促されるままに沖田は厨房に面したカウンター席に座り、遥はそんな沖田に彼女の分を残しておいた夕食を温めなおして差し出す。その湯気に乗って沖田の鼻腔を突いたのは鰹節と昆布の合わせ出汁のスープの香り。見れば、それの中に入っているのはスープの染みた大根やはんぺん、牛すじといった具材。その料理が何であるか、沖田が見間違える筈もない。

 

「わあっ……! おでんですか?」

「そう。カルデアに来てからはあまり日本の料理を作ってなかったからな。久しぶりに作ってみた」

 

 現在のカルデアにおける最重要人物である人類最後のマスターたちはどちらも日本人だが、カルデア全体で見れば日本人、及び東洋人の割合はあまり高くない。書類上は国連の組織であるとはいえ実質上魔術協会の組織である以上、軽視されている東洋や中東の職員はどうしても少なくなるのだ。そのため食事も今まで洋食にしがちであった。

 しかし職員は料理班が作る料理が洋食でないからと文句を付けてくる訳ではない。或いはそういう職員もいたのかも知れないが、少なくとも爆破テロから生き残った職員にそういう類の人間はいなかった。そのため遥らは職員に日本食を紹介する意味も込めて手始めにおでんにしたのである。

 初めに大根を口にしてみれば、少し固めでもあるにも関わらず非常によく味が染みていた。態々固めに仕上げてあるのは、箸が使えない職員がフォークを使ってでも食べられるようにするためだろう。その固さに反して味が染みているのは何か工夫しているということだ。

 更に味付けも大枠は一般的なおでんのそれでありながら、テンプレートなそれに留まらず何かしらの手が加えられている。料理ができない沖田では具体的にどのような工夫がされているのかは分からないが、それでも美味いことは分かる。

 

「やっぱり、ハルさんに作る料理はおいしいです。本当に。なんだか、安心するというか……」

「何だ、妙なコトを言うヤツだなぁ。でも、自分の趣味で誉められるってのは、悪くない」

「ふふ。……あの、ハルさんはどうして料理をするようになったんですか?」

 

 何気なく問うて、直後にしまった、とでも言わんばかりに沖田が息を詰まらせる。遥が料理を作るようになった理由を、沖田は知っている。そもそもそれを少し前まで見ていた筈なのに思い出さなかった自分に、沖田は言いようのない自責めいた感情を抱いた。

 遥が料理を自分で作るようになったのは、決して親の手伝いをしているうちに魅力を感じたからだとか、自分から進んで教えてもらっただとか、そういう理由ではない。両親が早逝し、親戚もおらず、家族代わりに一緒に過ごしてくれるような付き合いのある家もなかった。故に、自分で作るしかなかった。それだけなのだ。

 ならば、沖田の問いは無用に遥の過去を掘り返すだけの問いだろう。どんな人間であれ、悲しい過去を思い返すのは嫌だろう。だが遥はそんな沖田の内心を悟ったかのように薄く微笑むと、沖田が思っている答えと全く異なる答えを口にした。

 

「……こう言うと少しカッコつけているようだが。元々戦うため、誰かを殺すために生み出された俺が誰かを生かすためのものを作れるなんて、素晴らしいコトだと思わないか?」

 

 夜桜遥は元々ガイアによって作り出された殺戮機構(ジェノサイダー)、地球の意志に反して生き残ろうとする生命の悉くを殺す、生命に終焉を齎すための装置である。その遥が誰かを生かすために必要なものを生み出すことができる、有り体に言えば破壊しかできない筈の手で生み出すという行為ができるのだ。それは遥にとって、何よりも幸運なことに思えた。

 

「それにさ、助けた人たちに振舞うと、すげぇ喜んでくれるんだよ。特に子供とか態々俺に礼まで言ってくれてな。そんなことを繰り返してから、いつの間にかこうなってた」

 

 その遥の言葉で、気づく。今まで沖田が見ていた遥の旅路は悲しく残酷なものばかりだったが、何も彼の旅は悲しみだけに彩られていたのではない。もしも彼の旅がそんなものであったのなら、彼はとうに人間性を打ち棄ててガイアの人形と化していただろう。

 人間性を棄てれば人をどれだけ殺しても、不幸をどれだけ積み上げても悲しまずに済む。遥がそうならなかったのは悲しみだけではなく喜びもあったからだ。自分がしたことで目の前の誰かが喜んでくれる、誰かが笑顔でいてくれる。それが遥の精神が堕ちずに人間でいることができた理由だ。

 普段は何をしても〝結局は自分のため〟などと言うが、遥の行動は沖田の目から見ればその殆どが他人のためであった。しかし自分を抑圧してまで他人を助けているのではない。遥はきっと他人の幸福を、笑顔を自分の幸せとして、他人の悲嘆を、涙を自分の悲しみとして感じることができる。だからこそ今の彼がある。

 大衆の正義に迎合するのではなく自分の在り方に悩みながらも自分自身の正義を貫き、結果として敵を作ることはあってもそれに勝る人々を助ける。〝総てを救う〟などという完全無欠ではなく、〝自分の手が届く範囲の最善を為す〟という不完全。それは、そう、謂わば遥が稀に台詞を真似するヒーローのような。そんな在り方。

 

「……何ニヤニヤしてんだよ。おでん冷めるから、早く食え。あ、そうそう。食後に団子もあるぞ」

「え、お団子もあるんですか!?」

 

 先程までの変にしんみりとした空気は何処へやら、素っ頓狂な声音で驚愕を漏らす沖田。そんな彼女に遥は得意げな笑みを見せると、換気扇など厨房機器のスイッチを切ってから団子の乗った皿を持ってきて沖田の隣に座った。

 遥が持ってきた皿に乗っていたのは三色団子やみたらし団子だけではなくこし餡と粒餡の団子など、カルデアに備蓄されている食材で再現することができる限りの団子であった。これは遥自身の意向ではなく、ロマニの希望で作ったものである。

 おでんや白飯を食べ終えて、遥が作った団子を頬張る沖田。その横で一緒に団子を食べて、満面の笑みを浮かべる沖田を見ながら遥は思う。やはり自分が作った料理を食べて誰かが笑顔になってくれるのは嬉しいものだ、と。

 

(団子、また作ろう)

 

 そんなことを考えながら、遥は次の団子に手を伸ばした。

 


 

 遥用オルテナウス〝桜花零式〟の最終調整と装甲騎兵(モータード・アルマトゥーラ)の再改造が終わったという連絡を遥が受けたのは、替えが食道で沖田と話した翌日のことであった。そしてその性能試験を微小特異点で行う、とも。

 その連絡を受けてからすぐに遥は先に受領していたオルテナウス用アンダースーツ――カルデア戦闘服を改造したものであり、ロングコートに酷似した辛うじて普段着に見えなくもないデザインをしている――に着替え、装備を全て携えて部屋を出て管制室へと向かった。

 そうして管制室に立ち入った遥を待ち受けていたのは、数日前に使った時よりも聊か装甲が増えているようにも見える遥のオルテナウス、装着前の分割状態。言いようのない思いで遥がそれを見つめていると、そんな彼にレオナルドが声を投げた。

 

「やあ。連絡を入れてすぐ来るなんて、随分とやる気みたいだね?」

「まぁな。で、こいつはすぐに使えるのか?」

「勿論だとも。そこに立ってみたまえ」

 

 そう言ってレオナルドが指したのはオルテナウスのパーツが懸架されている装置。よく見ればそのパーツの配置はただ掛けているだけにしては不自然で、中央には人ひとり、丁度遥くらいの体格の人間が入り込めそうな空間があった。

 まさかと思いつつも持ってきた装備を置いてその空間に身体を滑り込ませる遥。すると装置が遥の体格や姿勢をセンサで感知し、稼働を開始。オルテナウスが懸架された(アーム)をそれに合わせて動かし、バイザーを除くパーツを遥に装着させた。

 最後に遥が自分自身でバイザーを装着すると自動的にそれの電源が入り、搭載されたカメラに映る映像が表示された。実際に肉眼で見るのとそう変わらない程に高画質な映像である。それに映っているのは得意げな表情をするレオナルド。

 

「どうだい、着心地は? ちょっとだけ改善してみたんだけど」

「問題ない。本当に、良い仕事をしてくれる。……で、この手首の装備は何だ? なんか、杭みたいの出てるけど」

「それかい? ちょっと待ちたまえ」

 

 言いながらレオナルドが端末を操作する。すると遥のバイザーの裏にその追加装備についてのデータが表示された。名を〝試作型電磁杭打機(プロト・バンカーボルト)〟。その名の通り、電磁砲の要領で鉄杭を相手に撃ち込む武装である。

 本来、神秘を帯びない科学の産物はサーヴァントには効果がない。故にオルテナウスに搭載された武装も効かない筈だが、この装備は遥の霊基と同調することで霊衣としての特性を得るためサーヴァントとも戦闘することが可能なのだ。

 つまり手首に装着されて打撃時に撃ち出して使用するそれは〝敵に対して零距離で巨大な運動エネルギーと神秘を内包する砲弾を撃ち込む〟という中々にグロテスクな武装ということになるが、英霊の武具である宝具に比べればまだ人道的と言えよう。

 他にも各部関節強度の向上や遥の運動性能を低下させない程度の追加装甲が施され、桜花零式は完成した。余談だが、桜花零式とは『桜花』が『夜桜』、『零式』が『プロトタイプ』の意であり、つまりは〝夜桜遥専用プロトタイプ・オルテナウス〟という意味である。

 

「じゃあもう少し経ったらレイシフトするから、準備しておいてね」

「りょーかい」

 

 レオナルドが出て行って閉まる自動ドアを背後に、遥はオルテナウスに叢雲を始めとした各種装備を取り付けていく。左腰のアタッチメントには天叢雲剣、更に腰回りのホルスター型格納部には魔銃。そうして十全に装備していることを再度確認し、コフィンに搭乗しようとする。

 だがその直前、遥も予期していなかったことが起きた。突如として稼働を始めるカルデアス。霊子化を始める身体。オペレーションルームを見れば、スタッフたちが慌てているのが見えた。特異点Fの時と同じ、全く予期しない突発的なレイシフト。それに気づくや否や遥はその場から離脱しようとするも、もう遅い。光に包まれる視界。消失する五感。そのまま、遥は意識を失って――

 

「……んあ?」

 

 ――目覚めたのは、見覚えのない平原の只中であった。

 




食事シーンってどう書いたら上手く人間関係表せるんでしょうね。

 次回から〝変異特異点γ 夢幻魔女帝国プリズマ・コーズ〟編です。次回は既に書き終えているので、ちょっとした次回予告的なものを。

 突発的なレイシフトに巻き込まれた遥が目覚めたのは何処とも知れぬ平原の中。そこが特異点にして固有結界であるという特殊な環境であることに気づいた遥は、脱出、そして特異点修復のために聖杯を回収するべく情報収集を開始。そうして、遥は魔法少女と出会う―――

次回、『邂逅ストレンジャー』

 遥と魔法少女による()殺妬(ヤツ)()()鬱負負(ウフフ)な物語、始まるよ!


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変異特異点γ 夢幻魔女帝国プリズマ・コーズ
第66話 邂逅ストレンジャー


 目が覚めた時、そこは何処とも知れぬ平原の真ん中であった。言葉だけを見ればまるで最近流行りの異世界転生、或いは異世界召喚の冒頭のように現実感のない表現であるが、それが今、遥の置かれた状況を最も端的に表す言葉であった。

 眠った訳でも戦っていた訳でもないのに気を失い、次に目が覚めた時には知らない場所にいるなど、人によっては一瞬で恐慌状態に陥るような状況だ。だが遥は慌てることなく半ば機械的に現状の整理をしていく。

 数分前にこの平原で目覚めるより前の記憶を辿れば、遥が直前までいたのがカルデアの管制室であったと分かる。彼は最終調整を終えてロールアウトしたオルテナウスの試運転を微小特異点で行うべく、そこでレイシフトの準備を進めていたのだ。

 そこまでであればレイシフト予定だった微小特異点に移動しただけのようにも思えるが、それにしてはその場所は様子がおかしい。現状、微小特異点が発生し得るのは第一特異点が発生したフランスと第二特異点が発生したローマだけだが、そこはそのどちらの様子にも当てはまらないのである。加えて空には通常の特異点や微小特異点に観測される円環がない。つまりはこの場所は冬木やオガワハイムのような変異特異点に分類されるということだ。

 サーヴァントたちと結ばれた契約の経路は健在であるが、そこから流れていく魔力の行く先がひどく曖昧であるように感じる。それはつまり、この特異点内に遥と契約したサーヴァントがひとりもいないということだ。特異点の座標も分からずサーヴァントもいないなど、考え得る限り最悪の状況ではある。

 しかし不幸中の幸いと言えるのは、オルテナウスを含めた装備の全てが遥の手元にあることだろう。仮に身一つで放り出されていたとすれば、遥は特異点内における戦闘行為をそれに伴う反動も込みで計算して行わなければならない所であった。オルテナウスに搭載された武装はデフォルトである加速・姿勢制御用バーニアとオプションである試作型電磁杭打機(プロト・バンカーボルト)のみだが、贅沢は言えまい。

 カルデアとの通信は繋がらないが、遥の存在が消滅しないということは少なくとも観測はできているということだろう。でなければ今頃、遥は意味消失してその存在を完全に消滅させているか起源故にそれもできず虚数空間を永遠に彷徨う羽目になっていただろう。

 大きく息を吐いて、立ち上がる。そうして装甲に付着した土を払うと、遥は周囲をぐるりと見まわした。オルテナウスのバイザーですら捉えられない程先にうっすらと奇妙な景色が見えるものの、それを除けば何の変哲もない平和な平原だ。だというのに遥は胸騒ぎめいた感覚を抑えることができなかった。

 それは、そう、言うなれば他人の臓腑をその人間の内側から覗き込まされているかのような、そんな異常な感覚だ。言葉にすると矛盾に塗れているようではあるが、遥はそれを実現できるものをひとつだけ知っていた。

 

「まさか、固有結界……? だとしたら相当な規模だが……」

 

 遥は自らの心象をひとつの異界としてその内側に持つために、他者よりも世界の異常について敏感な特性を持つ。故に彼は感覚的にではあるものの、世界に発生したズレや異界を感じ取ることができるのだ。

 しかし本当にこの世界が固有結界であるというのなら、遥は既に敵陣の只中に飛び込んだということになる。それにしては嫌に長閑だが、警戒しておくに越したことはないだろう。平穏なように見えても唐突に遠方から狙撃されるということもあり得る。実際、遥もローマにおいてそういう作戦を執っている。

 加えて固有結界を特異点規模にまで広げることができるものを、遥は知っている。聖杯だ。聖杯からの魔力供給さえあれば固有結界を特異点化することも、それだけの規模で維持し続けていることも可能だろう。気になるのは誰が何故そんなことをしたのか――つまりはフーダニットとホワイダニットだが、それは攻略していくうちに判明するだろう。ハウダニットも不明な点が多いが、それも黒幕に口を割らせれば良いだけのことだ。

 まず遥がすべきことはダニットの推理ではなく、それを行うため、ひいてはこの特異点がどのような世界であるかを知るための情報収集、そして可能であれば戦力に成り得るものと協力を図ることのふたつ。どちらにしてもまずはこの場所から移動しなければなるまい。どこに移動すれば目的を果たすことができるのかは全く不明であるが。

 だが取り敢えずは微かに見える建造物らしき影に望みを託し、そちらの方に歩みを進めようとする遥。だがそうして少し進んだ所で、遥は見覚えのあるものが転がっていることに気づいた。黒一色に染め上げられた大型のボディとガソリンと電気、魔力で駆動する複合エンジン――それは遥の愛車が更なる改造を施された大型バイク〝装甲騎兵・改(モータード・アルマトゥーラ・セコンド)〟であった。

 

「そういや、これも管制室にあったな……ありがたい。渡りに船とはこのことか」

 

 オルテナウスの開発に伴い装甲騎兵にもオルテナウスとの連動によって機能するシステムが追加されている。それもオルテナウスの試運転の際にテストすべく管制室に停めてあったのだが、どうやら突発的なレイシフトに巻き込まれてしまったらしい。

 だが何であれ装甲騎兵の存在は遥にとって非常にありがたいものであった。何せ特異点はとても広い。ローマの時のように味方も情報網も不足しない状況であれば必要ないが、今は全てをひとりで行わなければならないのだ。装甲騎兵があればその移動時間を大幅に短縮できる。

 取り敢えずは草原の中に倒れた車体を起こし、魔術を用いて付着した土や泥を払う。そうしてエンジンを始動させようとした時、遥は遠方から気がかりな音が聞こえてくることに気づいた。よく聞いてみれば、それはそれは人の声や魔力が炸裂する音、即ち、戦闘音であった。

 戦闘が起きていると言う事はつまり、そこに人がいるということである。それが果たして味方にできる者は敵側の者かは分からないが、どちらにせよ情報源になることに変わりはない。

 

「……行ってみるか」

 

 装甲騎兵の座席に座り、エンジンを起動。問題なく動作することとオルテナウスとの同期ができていることを確認し、遥は装甲騎兵のスロットルを全開にしてその車体を走らせた。

 


 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは困惑していた。いかに魔法少女(カレイドライナー)として多くの非日常を体験した彼女といえど、流石に唐突に別世界に放り出されるような経験はしたことがない。

 事の始まりは数時間前まで遡る。先日、最後のクラスカードである『弓兵』ギルガメッシュの黒化英霊を打倒したイリヤたちは平和になった日常を謳歌していたのだが、そこで凛とルヴィアから新たな鏡面界が発生したとの連絡を受けて美遊と共に突入したのだが、その先は鏡面界ではなく全く別世界だったのだ。

 それでも何とか元の世界に戻ろうとしたものの美遊は奇妙なモンスターによって連れ去られ、イリヤ自身は現在進行形でその下手人と思わしき重戦車(チャリオット)を駆る少女とその兵隊たるメルヘンチックな見た目をした怪物と戦闘状態にあった。

 低空を飛行しながら逃げるイリヤと、それを追う少女と雪だるま型の兵隊。恐らくは少女は全速力であれば簡単にイリヤに追いつくことができるのだろうが、イリヤを痛ぶりたいがために態々イリヤを追う形になっているのだ。

 

『どうするんですか、イリヤさん! このままじゃジリ貧ですよー!』

「分かってる! でも、逃げられないなら戦うしかない!」

 

 そう自分自身を鼓舞するかのような声音でルビーに答えながら、太腿に装着しているホルダーに手を伸ばすイリヤ。そこから取り出したのは長方形のカードであった。それを手に執るステッキの先に押し付けて式句を唱えるや、ステッキが強い輝きを放ちながら形を変えていく。

 そうして顕現したのは黄金に輝く刀身を持ち、装飾は少ないながらも美しさと力強さを極限のバランスで両立した聖剣。それを目にした少女が目を剥き、しかしすぐにより邪悪な笑みを深くする。

 少女は生前にそれを目撃した訳ではないが、英霊として座に刻まれた者であればその輝きを見紛う筈もない。かの高名なアーサー王の愛剣たるエクスカリバー。何故それを目の前の魔法少女が扱えるのかは分からないものの、少女――メイヴにとってそんなことは些細な問題でしかない。この世界にいる以上、どんな魔法少女であれメイヴに逃す気はなかった。

 対するイリヤは限定展開(インクルード)によってルビーが変じたエクスカリバーを雪だるま型の怪物に向けて一閃。その動作は明らかに剣者のそれではないものの、宝具の神秘の後押しを受けて怪物を撃滅した。しかし、メイヴは余裕の笑みを崩すことはない。

 

「無駄よ。私は女王メイヴだもの。兵士なんていくらでも生み出せるわ」

 

 今はこの世界の力によって魔法少女として変質しているが、彼女は女王メイヴである。故に彼女が元々持っている兵士召喚能力もこの世界に合うようにアジャストされてはいるが、消えた訳ではない。

 どこか淫靡な雰囲気さえ漂わせる笑みを浮かべながら指を鳴らすメイヴ。それを合図にするようにして地面から雪のように白い魔力が噴き出し、すぐにそれらは雪だるまとトナカイを模した怪物の姿へと変わった。それを前にして、イリヤが歯噛みする。

 メイヴの召喚する軍勢は正しく無尽蔵である。その姿こそケルト兵から雪だるまやトナカイへと変わっているが、戦闘力に大した差はない。恐らく宝具以外では斃すことも難しいだろう。

 

「ッ、サファイアもいればツヴァイフォームで……」

『ダメですよ、イリヤさん! アレは1回限りのインチキだったんです! まだ貴女の身体にはアレの反動が残っているんですよ!?』

 

 イリヤのステッキであるマジカルルビーの姉妹機にして美遊の相棒たるマジカルサファイアも揃うことで初めて発動可能になる強化形態、ツヴァイフォーム。確かに星の聖剣にすら匹敵する魔力砲を放つことができるその形態であればサーヴァントひとり斃すことも簡単だろう。

 しかしツヴァイフォームはその強力さを実現するためにいくつかの反則を行っている。その反動によるダメージは未だイリヤの身体に残っているのだ。もしも再びツヴァイフォームを使おうものなら、命の保証はない。

 それはイリヤも承知しているが、今は承知していてもそんなことを口にしてしまう程には辛い状況だということだ。一応は秘策もあるにはあるが、それを使うだけの隙を相手が与えてくれるとも思えない。今イリヤにできることはインクルードによって召喚した宝具を使い、時間を稼ぐことだけだ。

 次々と召喚されては襲い来る怪物を聖剣の刃を以て斬り伏せながら逃げるイリヤ。しかし何の策もなく逃げているだけでメイヴから逃れることができる筈もない。そのうちにインクルードの限界時間が訪れ、強制的にクラスカードがステッキから分離した。

 

「あら、戻っちゃったわね? どうするのかしら、おチビちゃん?」

「まだまだっ!!」

 

 次にイリヤが取り出したのは槍を持った騎士が描かれたクラスカード。即ち、『槍兵(ランサー)』のクラスカードである。それをルビーに接触させて行使するや、ルビーが再び光を放ちながら形状を変える。

 そうして現れたのはイリヤの身の丈を優に超える大きさを誇る朱槍。ケルト神話はアルスター物語群の大英雄にして、生前のメイヴが唯一モノにできなかった男であるクー・フーリンの宝具、ゲイ・ボルク。それを目にした瞬間、メイヴの顔から笑みが、消える。

 ――戦略的な面から見れば、イリヤの判断はこの上なく正しい。インクルードによって召喚される武具のうちでセイバーを除けば最も取り回しが容易であるのはランサーなのだから。『弓兵(アーチャー)』は矢かそれに準ずるものがなければ扱えず、『騎兵(ライダー)』の鎖短剣は慣れが必要など、他はそれぞれ問題を抱えているのだ。

 しかし悲しいかな、それはメイヴの前とあってはこの上ない失策であった。何故なら彼女は女王メイヴであるから。自分のモノにならなかった男の得物を、誰とも知れぬ人間が扱っているのだから。

 

「へぇ……そう。私の前でそれを使うのね……アナタ、良い度胸してるじゃない」

 

 今までのわざとらしさすら感じさせる弾んだ声音とは一転した、ひどく冷たく低い、殺意に満ち溢れた声音。それを受けたイリヤの背筋が凍る。今までそれなりの場数を踏んできたイリヤだが、〝理性ある相手からの本気の殺意〟というものを経験したことはないのである。

 メイヴの身体から膨大な魔力が溢れ、それが彼女の手でひとつに結びついて像を成していく。そうして現れたのは刀身がひどく捻じれた、奇妙な形をした長剣であった。その刀身には既に魔力が充填され、虹色の閃光を放っている。しかしメイヴはそれでもまだ足りないとでも言うかのように更に魔力を込めていく。そうして、それが最大にまで高まった瞬間にメイヴが叫んだ。

 

「喰らいなさい――〝愛しき人の虹霓剣(フェルグス・マイ・ラヴ)〟!!」

 

 真名解放。本来は大地に向かって解放され、大規模な地形破壊を引き起こす虹の螺旋をメイヴは地の底ではなく直接イリヤに向けて解き放った。その刀身のように螺旋を描く、致死の威力を秘めた虹色の閃光がイリヤの命を奪わんと虚空を駆ける。

 それを前にして、イリヤがノーダメージでやり過ごすために打つことができる方策は〝逃げる〟以外には存在しない。いくらマジカルステッキが極端に高性能な礼装であるとはいえ、宝具の一撃を受け切ることができるだけの防御力はない。精々、死なない程度に減衰させる程度か。

 しかし逃げることはもうできない。さりとて死ぬ訳にも絶対にいかない。故にイリヤはインクルードを解除すると、自身が一度に出力し得る全ての魔力を障壁に回した。そうして襲い来るである激痛に備えて覚悟を決め――しかし、虹の螺旋がイリヤを呑み込むことはなかった。

 代わりにイリヤが感じたのは何か途轍もないエネルギーがぶつかり合った轟音と衝撃波。それに吹き飛ばされて転がった先で恐る恐る目を開けてみれば、イリヤを呑み込む筈だった虹の螺旋は彼女の後ろ側から放たれたと見られる黄金の奔流によって阻まれていた。

 やがてどちらの極光も消えて、妙な静寂がその場に訪れた。そうしてイリヤは自身を助けてくれた人がいるであろう方向を見て、視界に映ったものの姿に一時だけ己の目を疑った。

 一言で言えば、それは〝仮面の騎士〟であった。よく見ればそれは仮面ではなく大型のバイザーであることが分かるが、その人物が背後に侍らせるバイクが余計に仮面の騎士めいた印象を抱かせる。纏う機械的な鎧と手にした黄金に輝く日本刀がアンバランスだが、それらが元々関係のない武装であるのならアンバランスであることにも一定の説明を付けることができるだろう。そんな奇妙な風貌の人物が、イリヤを助けた恩人であった。その傍らに控えるバイクはさながら現代の騎馬といった所か。

 互いに得物を握りながら、睨みあうだけで何もしない騎士とメイヴ。だが唐突に騎士が纏う鎧が変形して焔を吹き出したかと思うと、魔法少女となって向上している筈のイリヤの動体視力でさえ捉えきれない程の速度でメイヴに肉薄した。そのまま繰り出される拳がメイヴの魔力障壁を()()()、しかしカラドボルグの刀身によって阻まれる。

 そのまま戦闘に移行する騎士とメイヴ、そしてそれを前にしてどうしたら良いか分からずに茫然とするイリヤ。しかし自分にも何かできないかとイリヤが思案していると、いつものおどけた調子の抜け落ちた声音でルビーが呟いた。

 

『この反応、まさか……あの騎士さん、サーヴァントじゃありません! ちょっとおかしいですけど、生身の人間ですよ!』

「えっ……!?」

 

 イリヤは魔術師ではないが、今までの経験からサーヴァントとは、英霊とはどういうものであるのかということを嫌という程に思い知らされている。そして、本物のサーヴァントが黒化英霊とは全く違うのだということも。だからこそ、英霊でもない生者がサーヴァントと渡り合うことについての異常性も彼女は理解していた。

 神速かつ正確無比な攻撃でメイヴを攻め立てていく騎士。その攻撃は全てメイヴによって防がれてしまっているものの、それは彼女の幸運値があまりにも騎士と比べて高いが故の芸当であった。

 メイヴは元々女王であって戦士ではない。いくら今は魔法少女としての属性を得ているとはいえ、本物の戦士に勝てる道理はあるまい。しかしメイヴは淫靡である以前に聡明な女王である。彼女は騎士と打ち合う間に〝愛しき人の未来視(コンホヴォル・マイ・ラヴ)〟を行使することで太刀筋を先読みすると、それを躱して騎士から距離を取った。

 

「私の邪魔をしてくれた時は殺してしまおうかとも思ったけれど、なかなか見所のある勇士じゃない。気に入ったわ! アナタ、私のモノにならない?」

「断る。平然と子供(ガキ)を殺しにかかるようなヤツとはよろしくできる気がしないんでな」

 

 即答だった。その答えを受けて今まで余裕の笑みを浮かべていたメイヴはその笑みを崩し、機嫌の悪さを隠そうともしない憮然とした表情を浮かべる。しかしそれを目にしても騎士は大した反応を返さない。それでもその会話を聞いていたイリヤには、騎士が何故自分を助けてくれたのか分かったような気がした。

 つまりは騎士はイリヤのことを知っているから助けたのではなく、ただ子供が襲われているからという単純な理由でイリヤを助けたのだ。その事実はイリヤにとって自分だから助けたというものよりも好ましいものに思えて、彼女の中で騎士への信頼が醸成される。

 しかしそんなことは騎士とメイヴには関係がない。そしてメイヴにとって、自分に傅く気がないという時点で、騎士は気に喰わない相手であった。女性として完璧な肉体を持つメイヴは、そこに在るだけで大抵の男を魅了する。メイヴは彼女自身でそれを自覚し、己の武器としているためにそれが通用しない相手に対して極めて相性が悪いのだ。

 

「次は俺の方から問わせてもらおう。アンタは女王メイヴで相違ないな?」

「そう……と言いたい所だけど、少し違うわ。特別に名乗ってあげるから、よーく聞きなさい?

 ――奉仕(ゆめ)隷属(きぼう)が私の力の源(エナジー)! 魔法少女の中の魔法少女! 〝雪華とハチミツの国〟を統べる、人呼んで蜂蜜禁誓(ハニーゲッシュ)魔法少女(クイーン)、コナハト☆メイヴ! ちゃん付けでも構わなくってよ!」

「は……? 魔法少女(クイーン)、コナハト☆メイヴ……? スーパーケルトビッチ☆メイヴじゃなくて?」

 

 明らかに困惑した声音。騎士はイリヤに背を向ける形であるためにその表情を窺い知ることはできないが、恐らく声音と同様に困惑した表情をしているのだろう。無理もない。イリヤも魔法少女を名乗って、もとい名乗らされてはいるものの、未だに自分が魔法少女なのか分からなくなる時がある。

 しかしメイヴが言っていることは嘘ではない。それが分かっているからこそ騎士は莫迦なことを、とは言わない。そもそも固有結界内部で外部世界の常識を語った所で栓無きこと。固有結界にはその世界だけの法則が付き物なのである。

 再び騎士の鎧が音を立てて変形し、関節部から吹き出した焔が揺らめく。それが宣戦の合図だと悟ったメイヴは召喚したままのカラドボルグを構え、しかしその瞬間に()()の気配を感知して表情に喜色を滲ませた。

 神速で虚空を駆ける黄金の軌跡。だがそれがメイヴに肉薄する寸前、間に割り込んだ何者かがそれを阻んだ。ぶつかり合う刀と()。自らの攻撃が防がれたと悟った騎士は即座に間合いから離脱し、乱入者の姿を見て再び素っ頓狂な声を漏らした。

 それを一言で形容するなら人形、或いは小人か。身長はひどく小さく、ともすれば人間の子供よりも小さかろう。人間大であれば鋭く見えるような目つきや禍々しい身体の紋様――恐らくルーン文字と見られる――もデフォルメされたかのように丸く、可愛らしい。だが見る者が見れば一目でそれがサーヴァントに匹敵する脅威であることが分かるだろう。或いはメイヴよりも厄介かも知れない。

 

「そろそろ頃合だろうと来てみれば……メイヴ。お前さん、随分と面倒なヤツに絡まれてるみてぇだな」

「クーちゃん! 来てくれたのね! なんてグッドタイミング! 流石は私の守護獣(おとも)!」

「守護獣……?」

 

 サーヴァントのようなものか? と騎士が呟く。彼は知らないのだ。この世界、この固有結界が本来ならば魔法少女、或いはその素質を持つ英霊のみを集める〝魔法少女の煉獄〟とでも言うべき世界であることを。集められた魔法少女には必ず守護獣と呼称される使い魔がいることを。()()()()()()()()()()()()()()()()騎士には、それを知る由もない。

 しかし騎士は本来この世界にはいてはならない異物であればこそ、この世界の法則とも言える固有結界の特性を無視することができる。そのひとつがメイヴが持つ筈の魔力障壁の無効化である。尤も、体内に別の固有結界を持つ騎士に対して外部の固有結界が法則を強制することができるのかも疑問だが。逆もまた然り。謂わば対消滅のようなものだ。

 メイヴに〝クーちゃん〟と呼ばれた異形、正式名称を〝ミニクーちゃん〟というそれは見た目の可愛らしさに対して不釣り合いとも思える冴えを見せる頭脳でそれらに辿り着くと、相方に指示を出した。

 

「離脱するぞ、メイヴ。今のテメェにゃコイツの相手は荷が勝ちすぎる。相性最悪な相手と準備もなしでやり合うなんざ、アホのすることだ」

「嫌! いくらクーちゃの指示でも、あの男は――」

「うるせぇチー鱈ぶつけんぞ」

 

 駄々をこねるメイヴの言葉をたった一言のみで封殺しながら、ミニクーちゃんは何らかの魔術、或いは魔法――無論魔術世界で言う所のそれとは違うのだろうが――を起動してメイヴごとどこかへ転移する。その直前に騎士に向けた視線に含まれていたものは同情であろうか。

 メイヴとその守護獣であるミニクーちゃんが去ったことで平穏が戻る平原。しかしその大地は至る所が陥没していたり草が完全に炭化している箇所があるなど、この場で起きた戦闘の激しさを物語っている。

 しかし、何はともあれ戦闘は終わったのだ。騎士も大きくため息を吐いて剣呑な気配を解き、得物である日本刀を鞘に戻す。そんな騎士に近づいていくと、イリヤは礼と共に頭を下げた。

 

「あの、助けてくれて、ありがとうございました!」

「え? あぁ、俺がやりたくてやったことだ。気にするな」

 

 そう言いながら騎士は顔の大半を覆っていたバイザーを上げ、露わになった目を見てイリヤが息を呑んだ。顔の造作がセイバーに似ている事は大した驚愕ではない。イリヤが何より驚いたのは、その目だ。

 イリヤと、或いは彼女の母親やメイドと似た紅い目。唯一クロエ――クロのように褐色に染まった肌を除けば、彼女らとその騎士はよく似ていた。容貌ではなく、その色合いや気配が、だ。

 イリヤは一般人として育てられてはいるが、元々が小聖杯としての機能を備えた半ホムンクルスであるため魔力事象に関して高い知覚能力を持つ。故に彼女のその感覚は理屈を完全に欠いていながらも限りなく的確であった。

 それだけではない。魔力などは一切関係がないものの、イリヤは目の前の騎士と初対面であるにも関わらず必要以上に安心していた。いくらイリヤが呑気で、相手も敵意を向けてきていないとしても異常な程に。騎士にはそういう〝幼子を安心させる雰囲気〟とでも言うべきものがあった。意図的なものではない。それは彼の来歴が彼に与えた、一種のスキルだ。

 

「……で、だ。さっきの女王サマが魔法少女がどうのとか言ってたが……そのみょうちきりんな格好といい、喋るステッキといい、君も魔法少女なのか?」

「はい、一応、魔法少女やってます。やらされてます……」

「そうか……魔法、ね……」

 

 自身の顎に手を遣って、ふむ、と唸る騎士。さもありなん。魔法少女というのは創作のネタとしては極々ありふれたものだが、実際はそう簡単に名乗ることができないものだ。何せ魔法など、使うことができる者は限られている。

 加えてメイヴには魔法どころか魔術の逸話もない。確かに彼女が生きていた時代であれば現代では魔術とされている大抵の術は魔法だったのだろうが、よもやそれで〝魔法使い〟ではなく〝魔法少女〟などと。

 そんなことを考えている騎士の様子からイリヤは、どうやら騎士が魔術師であるらしいことと自分と大して時代が違わない人間であることを察する。だがそんなことよりもイリヤには知りたいことがあった。

 

「あのっ! お兄さん、名前は何ていうんですかっ!?」

「俺? 俺は夜桜遥。君は?」

「わたし、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン! イリヤって呼んで!」

 

 相手の名前を知ることは人とコミュニケーションを取るうえでの第一歩である。騎士――遥と違って高いコミュニケーション能力を持つイリヤは考えるまでもなくそれを実行し、かつ相手に不快感を与えないだけの素養があった。

 しかし、アインツベルン、そう、アインツベルンである。遥はエミヤから彼の世界にいたアイリと切嗣の子供について聞いたことがあったのだが、それが彼女なのだろう。尤も、色々とエミヤが生きていた世界とは違うようだが。

 とはいえ、そんなことは今関係のある話ではない。そもそも遥がイリヤを助けたのも、無論第一の理由はメイヴに襲撃されているイリヤを見過ごせなかったからだが、そこにイリヤを情報源としようとする打算があったことは否定できない。しかし事ここに至り、ふたりの間にはひとつだけ共通の認識があった。

 

「で、訊くまでもないと思うが……イリヤ、この世界についてのことは……」

「……全然分かんない」

 

 アハハハ、と渇いた笑みを漏らすふたり。片や魔法少女。片や科学と魔術の融合たる騎士。何もかも違う彼らの、ただひとつの共通点。それは――

 

「俺ら、完全に迷子だな……」

 

 遥の呟きが、虚しく草原に溶けた。

 




 子供相手だと若干態度が柔らかくなる遥くん。この話を書いている間に意外と遥とアタランテの共通点が多いことに気づいた件。

ㅤ本文中では明言していませんが、イリヤたちプリヤ組の時間軸はアニメ版zwei Herz!とdreiの間に設定しています。また、原作イベントとはクラスカードの扱いを変えていますので悪しからず。原作イベントでは出来なかった夢幻召喚(インストール)も問題なく使えます。


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第67話 退廃ワンダーランド

 それは、まさしく御伽の城だった。まるでかのヴェルサイユ宮殿にあるという鏡の間もかくやといった巨大なガラス窓が並び、そこから見えているのは一面が雪に覆われて空には星が輝く幻想的な景色。天井は高く、全てが水晶のような蒼い鉱石でできている。

 だがその中に在って似つかわしくないものがひとつ。それはオブジェか、或いは処刑台か。天井や壁から伸びた黒いレースに彩られたリボンが拘束しているのは、幼いひとりの少女であった。

 伸ばせば背中の半ばほどまではある艶のある黒髪をポニーテールに纏めている。その下で輝く琥珀色の瞳には理知的な光が宿り、しかし将来の美貌を感じさせる端整な顔は苦悶に歪んでいた。

 さもありなん。少女――〝美遊・エーデルフェルト〟もとい〝朔月美遊〟を拘束するリボンは見た目通りの黒いリボンなどではない。それは彼女を捕らえた存在が造り出した礼装であり、彼女の魔術回路に深く食い込んでその魔力の殆どを奪っていた。

 何故彼女がそのようなことになっているのか。話は至極単純だ。彼女はイリヤと共にこの世界に迷い込んで囚われた後、その下手人の拠点であるこの城に連行され、このように拘束されたのである。

 時折美遊はその拘束を外そうと身じろぎするものの、リボンはその華奢な見た目に反して頑丈であり転身もしていない少女ひとりの膂力では千切れる気配さえも見せることはない。それどころかリボンはゆっくりと美遊を締め上げる力を強め、美遊の精神にストレスを加えていく。

 そんな中で不幸中の幸いと言えるのは――あくまでも使い魔たちの慌てようからの推測だが――敵の監視を隙を突いてサファイアを逃がすことができたことだろう。その引き換えとして美遊の転身は解けて拘束の影響をより受けるようになってしまったが、どこかにいるイリヤに情報が伝わるのならばそれで良い。

 そうしてサファイアがうまくイリヤと合流できればこの世界の情報が伝わり、更にイリヤの戦力の増強にも繋がる。そうなれば彼女らをこの世界に招いた黒幕を斃してしまうことも――と考えて、はたと思い留まる。

 果たして黒幕を斃した所で、その後に何があるというのか。黒幕からこの世界についての真実を告げられた美遊には分かる。もしも黒幕を斃すことができたとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――やってくれたわね」

 

 聞き覚えのある、しかし決して美遊の知るそれとは異なる声であった。常は友好と少しの敵対心に彩られているというのに、今のそれはどこまでも黒い、まるで底の見えない洞のような無感動のみがあった。

 その声がする方を見れば、そこにいたのは美遊の友人でありある意味ではイリヤとは双子の姉妹のような存在である〝クロエ・フォン・アインツベルン〟であった。しかし明らかに様子がおかしい。姿形はクロエ――クロと同一であるものの、目が違う。普段は銀色に輝くクロの目は、まるで何かに取り憑かれたかのように紫色に変色している。

 そう。彼女はクロであってクロではない。霊基はクロのそれそのものであるものの、中身は全くの別人である。彼女の名は〝ファースト・レディ〟。全ての並行世界における〝最初の魔法少女〟だった者であり、今は〝最低最悪の魔女〟となった者である。

 

「貴女のステッキ……サファイアだったかしら? 賢いのね。私の使い魔たちの監視も超えて逃げてしまったわ。まぁ既に解析して模造品は作ったから用済みではあったのだけど……オイタをした娘には、オシオキしなくちゃね?」

「な――」

 

 無邪気な笑みにすら見える邪悪な微笑を浮かべ、そう言い放つレディ。その直後、美遊の腹部を極めて不快な感覚が貫いた。しかし腹を裂かれ、内臓を傷つけられたのではない。

 一見すると美遊の体内に埋まっているかのようにも見えるレディの手。だがそれは美遊の体内ではなく、彼女の身体を構成する霊基を抉るものであった。彼女の意識を灼く不快感は、謂わば霊核を掻き混ぜられるが故の痛みだ。

 まるで心臓を直接握り潰されるかのような、強烈な不快感が美遊を襲う。その感覚に苦悶する美遊を見下ろすレディの顔は心底楽しげな少女の笑みめいていて、それがよりレディの狂気を美遊に実感させる。

 レディはこの固有結界の持ち主だ。故にこの固有結界内でのみ作用する法則を、レディは意のままにすることができる。結界内に召喚した女性サーヴァントに対して魔法少女としての特性を付与し、とある()()()を施すことができるのもその超越的特権によるものだ。一部の例外を除き、この結界に取り込まれた魔法少女はレディに逆らうことができない。

 そして、その例外というのが他でもない美遊とイリヤなのだ。だからこそレディは態々このように美遊を拘束して、時折戯れに拷問紛いの暴力を加えている。それを受けて苦しむ美遊を見て笑っているのは、最早魔女というよりも悪鬼か何かのようにすら見える。

 

「ホラ、苦しいでしょう? 私を受け入れれば、この苦痛からも解放されるんだけどなぁ」

「ッ――あァ――い、嫌ッ、絶対に……!!」

「……強情な娘ね」

 

 その言葉と同時に強まる不快感。美遊の霊基に侵入したレディの手は美遊の霊核にまで届き、レディはそれを手で弄んでいた。握って、転がして、圧し潰される寸前にまで力を込めて、けれど決して殺さない。それは美遊がレディの計画達成に必要な要素だからだ。

 レディは美遊の身体を乗っ取ろうとしている。今クロの身体を使っているのはあくまでも仮の身体、美遊に対して物理的干渉を可能にするための手段に過ぎない。美遊の身体を乗っ取ることができれば、すぐにでも捨てられることだろう。

 結界内の魔法少女を自由にできるレディが美遊の身体を乗っ取ることができないのは、美遊が純然たるサーヴァントではないからだ。今の美遊はサーヴァントではあるが、人間としての性質も持つ。それ故にレディでも完全に自由にすることはできない。

 故にレディはこうして美遊に拷問を加えることで美遊の精神に孔を空け、それに付け入って美遊の身体を乗っ取る算段でいるようだった。だからこそ美遊は明らかな痩せ我慢をしてでも耐える。今ここで美遊が折れれば、全てが終わってしまうから。やがてレディは興味を失ったかのように美遊の霊基から腕を引き抜いて、ため息を吐く。

 

「まぁいいわ。まだ()()のための準備は終わっていないもの。それに……簡単に折れてしまうのでは、つまらないから」

 

 極めて純粋な少女のような屈託のない笑みを浮かべながら、その実放つのは邪悪極まりない言葉。まるで統一感のないちぐはぐな印象を受けるそれらの所作は、レディがもうどうにもならない程壊れていることの証左であった。レディによってリボン型礼装で拘束され、無理矢理彼女の魔術回路と繋げられている彼女にはそれが分かる。

 レディが魔法少女から魔女に堕ちてしまったのは、何も彼女に悪の素養があったからなどではない。彼女には悪の素養などなかった。彼女は悪には染まらないまま、自分のしていることを正義だと疑わぬまま悪を執行している。それの根源は、矛先を失ってもなお溢れんばかりの独善的な人類愛。

 つまりはレディの姿は夢破れ、理想に裏切られた魔法少女の成れの果てなのだ。最早叶うことのない理想を掲げ続けて、擦り切れ、摩耗し、自分が何故そんな理想を掲げていたのかさえも定かではないまま、まるで自動機械のように自らに定めた目標だけを遂行せんとしている。どんな魔法少女にでもあり得る、最悪の終わり。もうレディにはイリヤや美遊のような魔法少女の輝きでさえ一片も届くまい。

 そのようになる可能性はイリヤや美遊にもある。だが美遊には同情する気などはなかった。同情などしてしまえばその瞬間に乗っ取られてしまうし、それ以前に美遊は同じ魔法少女であっても全てを救いたいと願ったことはない。

 レディは斃さなければならない。だが彼女が呼び招いた魔法少女では、決して彼女には勝てない。彼女に勝とうと思うなら、この固有結界の効果に縛られない存在が必要だ。例えば〝この世界の影響を撥ね退けるだけの固有結界を持つ、魔法少女を魔法少女でなくひとりの少女として相対することができる人間〟などか。更に前提条件として、この世界に突入し得る手段を持っていなければならない。その条件に合致する人間の、何と少ないことだろうか。

 

「イリヤ……」

 

 小さくか細い声で、美遊は親友の名を呼ぶ。だがその声は城の中で虚しく反響するのみであった。

 


 

「……ミユ?」

 

 所変わってこの世界の中央に存在する未知領域を囲うように存在する平原の中。遥の運転する装甲騎兵(モータード・アルマトゥーラ)の後ろに乗って彼と行動を共にしているイリヤは、どこからか声が聞こえてきたような気がして虚空に視線を彷徨わせた。

 しかしどこを見てもイリヤと遥以外に近くに誰かいる訳でもなく、そもそもとして今誰かが話しかけてきたとしても装甲騎兵の内燃機関が放つ駆動音で掻き消されてしまいイリヤにまでは届くまい。その事実に気づいて寂し気に顔を俯かせるイリヤの様子に気づいても、遥にはイリヤに掛けてやることができる言葉はない。その感情はイリヤだけのもので、遥に理解できるものではないのだ。

 今遥が装甲騎兵を走らせているのは何も当てもなく行き当たりばったりの旅をしているのではなく、彼とイリヤが遭遇した場所から見えた唯一の建造物、形からして恐らくは城と目されるものがある地点であった。果たしてそこにいるのが友好的な魔法少女か、或いは敵対的な魔法少女かは依然として不明なものの、今の彼らにはそのどちらであっても接触しないという選択肢はないのである。

 そうして装甲騎兵を走らせること十数分。目標地点まで数キロという距離になりバイザーの望遠機能でもその街の偉容が僅かにが見て取れるようになった頃、その街をセンサの探知圏内に捉えた装甲騎兵がバイザーにその観測結果を表示させた。かなりの数の魔力反応がある。

 

「誰かいるな。接触するが……もしかしたら敵性体かも知れない。万が一のために転身できるようにしておいてくれ」

「う、うん。分かった!」

 

 遥の忠告を受けてステッキ形態になったルビーを握るイリヤ。遥は装甲騎兵のハンドルを切り、不測の事態のために魔力反応ができる限り少ない場所を探しながらその魔力反応が人間のそれではないことを確認する。

 元々がただの大型バイクだった装甲騎兵だが、オルテナウスとの連動のために改造を施された装甲騎兵・改(モータード・アルマトゥーラ・セコンド)に改修が為された時点でセンサも最新型にアップグレードされている。その精度はカルデアのそれに勝るとも劣るまい。聊か過剰にも思える装備だが、それも〝カルデアのバックアップなしで特異点攻略を可能にする〟というコンセプトのためだ。期せずしてそれを実証する機会を得たという訳である。

 そうしてしばらく装甲騎兵を走らせて、見えてきたのはまるで〝ヘンゼルとグレーテル〟に登場する、魔女が住むお菓子の家のような建物が並んだ街。それだけならばメルヘンチックなだけだが、それの周りに〝腐った菓子の怪物〟とでも言うべきものが闊歩しているとなれば話は別だ。

 

「どうやら穏便に話を……とはいかねぇみたいだぞ、イリヤ」

「ふぇ?」

 

 遥はあくまでもバイザーに搭載されている望遠機能を遠見の魔術と併用しているから見えているが、転身していない状態のイリヤではまだ先の様子は見えまい。だが遥の言葉から戦闘が避けられないらしいことを悟り、魔法少女姿に転身する。

 未だ接触はしていないため確定的ではないが、恐らく菓子の怪物たちは友好的な存在ではあるまい。腐っているという見た目の問題はあるが、それ以前にその目に宿る光だ。まるでこの世に生きとし生きるもの全てを呪うかのような敵意の光は、決して友好的な存在が放っていて良いものではない。

 となれば彼らを支配しているであろうサーヴァントも決して友好的な相手ではあるまい。恐らくふたりが突入していけば、これを斃すために迎撃してくるだろう。そうなれば遥たちには敵を斃す他ない。元より敵対してくる相手を斃すことに遥は躊躇いはないものの、遥の中にはひとつだけ〝嫌な予感〟とでも言うべきものがあった。

 それを意識しないように意図的に抑圧して、遥は装甲騎兵のスロットルを全開にした。猛然と、まるで駿馬の嘶きのような駆動音をあげて装甲騎兵が乗り手の意志に応え、その車体が尋常なバイクでは不可能な速度で草原を駆ける。

 あまりの速度に短く悲鳴をあげるイリヤ。だが遥はそれを聞く余裕すらもなく、今にも浮き上がりそうな車体を精妙な魔力放出の調整で以て無理矢理地上に抑えつける。更にそれは車体を抑えつけるのみならず後方で爆裂してより加速を生み、装甲騎兵を地上を往く戦闘機もかくやといった領域にまで押し上げる。

 そうして、接敵まで残り数百メートルにまでなった頃になってようやく怪物たちの目がふたりを捉えた。メルヘンとグロテスクが共存するその異様な体躯の頭蓋で、まるで飢えた獣のような眼光が輝く。

 

「魔法、少女と、人間……!」

「魔法少女、殺す……! 人間、喰う……!」

 

 まるで譫言のように何事かを言う怪物だが、それは魔力放出と内燃機関の生み出す轟音に掻き消されてイリヤと遥に届くことはない。だがより強くなった殺気に遥が気づかない筈もなく、怪物たちを睥睨してタイミングを計る。

 自ら迫ってくる馬鹿な獲物を殺すべく駆け出してくる怪物たち。だが遥はそれに突っ込んでいくようなことはせず、怪物の軍勢に突入する寸前で車体の直下で魔力放出によるジェット噴射を行った。

 その威力を直に受けて飛び上がる装甲騎兵。眼下では菓子でできた街並みの中を、同じ素材でできた怪物たちが埋め尽くし、その悉くが物欲しげで攻撃的な目で遥とイリヤを見ていた。それは菓子でできた地獄というよりもむしろ、ホラーゲームなどに登場する怪物に襲われた街を無理にメルヘンチックにしたかのようなちぐはぐさがある。

 このままでは遥たちはその中に落下し、喰われるだろう。怪物たちはそれを分かっていて、餌が自ら飛び込んでくる瞬間を待って大口を開けている。だが彼らがそれを甘んじて受け入れる筈もない。

 怪物に対して空から降り注ぐ桃色の魔力散弾。イリヤが放ったそれは怪物たちを蹴散らす程の威力はなかったが、怯ませることはできる。そうして動きが止まった怪物に喰らわせられるのは巨大な力学的エネルギー。装甲騎兵である。それは直下にいた怪物を圧し潰し、タイヤの回転がその身体を粉々に粉砕する。

 続けて左手をハンドルから離し、腰に帯びた叢雲を抜刀。一瞬で限界までそれに魔力を充填し、魔力放出と絶妙なハンドリングで車体を横方向に一回転させながら刀身に込められた魔力を金色の魔力斬撃として放出。怪物らはそれに呑まれ、焼き菓子を通り越して黒く炭化する。

 それで彼らの首位にいた怪物らは一掃されたものの、それもごく一部でしかない。実際彼らの視線の先では様々な場所から無数の怪物が現れている。それを前にして、遥が舌打ちを漏らした。

 

「クソッ、このままじゃジリ貧だな……仕方ない。イリヤ。後ろから来る敵の迎撃、頼めるか?」

「わ、わかった! でも、どうするの?」

「このまま本丸に突入する!」

 

 ええっ!? と驚愕を露わにするイリヤに応えず遥は再び装甲騎兵のスロットルを全開にした。轟音をあげる装甲騎兵。更に遥は魔力放出で無理矢理前輪を弾きあげてウィリー状態にすると、またしても魔力放出で進行方向を変えた。

 その進行方向上で次々と現れる新たな魔法怪物たち。その飢えた目は遥とイリヤのみに向けられ、粉砕された同族の残骸に向けられることはない。本来なら人間に食べられる筈の菓子の見た目をした怪物が、人を食べようとしている。それは一種の倒錯のようですらあった。

 だがそれらは装甲騎兵い触れることさえもなく、イリヤの放つ魔力弾の一撃で撃滅されていく。恐らくはメイヴの使役する怪物兵士よりも弱いのだろう。粉砕された後の残骸はまるで最初からそうであったかのように、ただの菓子として散乱している。

 そうして見えてきたのは他の建物よりも幾らか高い、まるで〝お菓子の城〟とでも言うべきであるかのような建物。それと殆ど同時にバイザーのモニタにはその城の内部にサーヴァントの反応を捉えたという表示が現れる。つまりその城が本丸。だが奇妙なことに、街中には怪物の魔力反応が犇めいているというのに、城中には殆ど魔力反応がない。それに何か嫌な胸騒ぎを覚えるも、しかし行く先などほかにはないために遥はその迷いを振り払った。

 その目の前で次に召喚されたのは先程までのようなお菓子の怪物ではなく、槍を持ったトランプの兵隊。まるで御伽噺〝不思議の国のアリス〟から抜け出してきたかのようなそれらはふたりの行く手を阻むように立ち塞がり、しかし後方からはお菓子の怪物が迫ってきている。つまり、挟み撃ちだ。

 

「物量でごり押しの挟み撃ちとか、魔法少女がやって良いコトじゃねぇだろ……口惜しいが、バイクでフィーバータイムはもう終わりだ。突破するぞ、イリヤ!」

「うん!」

 

 このまま装甲騎兵で突っ込んでも先の怪物と違って得物を持っているトランプ兵相手では串刺しにされて壊されるだけ。そう判断した遥は装甲騎兵を降りてイリヤに号令を出すと、自身もまた腰の鞘から叢雲を抜刀した。更に装甲騎兵の左ハンドルのロックを外して思い切り引き抜き、車体に隠された日本刀の刃と合体させた。

 その日本刀に銘はない。ただ失った乞食清光の代わりに沖田に貸している無銘正宗の空いた穴を埋めるため、レオナルドが製作した日本刀であった。流石天才の作品であるだけあって、名工のそれには及ばないものの切れ味だけに目を向ければ一級品だ。

 使い魔の要領での遠隔操作によって装甲騎兵が全速力でお菓子の怪物に突進してそれを粉砕する轟音を背後に、遥は二刀を構えて猛然とトランプ兵に向けて突貫していく。迎え撃つように突き出された槍を長刀で弾きあげ、叢雲で胴を裂く。続けて後方から繰り出された槍撃を直感のみで回避し、すかさず長刀を逆手に持ち替えて突き刺してそのまま斬り上げ、絶命させた。

 一対多の圧倒的物量差を前にしてでも遥は一瞬も怯むことなく、オルテナウスを精妙に操り敵を斃していく。そしてイリヤもまた再度使用可能になった『剣士(セイバー)』のクラスカードでルビーをエクスカリバーに変化させてトランプ兵を斬り伏せていく。

 それだけではない。遥は叢雲と長刀の刀身に固有結界から引き出した焔と雷を纏わせ、それを焔撃と雷撃として放出することで敵を殲滅すると共にその周囲にいたトランプ兵を発火させ、消滅させる。

 だが、何かがおかしい。それに遥が気づいたのは、斃したトランプ兵の数が3桁にまで届こうかという時であった。どれだけ敵を斃しても一向に敵総数が減らない。それどころか斃した筈の敵がまるで記録していた映像を逆再生するかのように元に戻っているのだ。

 

(まさか……時間逆行!?)

 

 本来時間遡行や時間跳躍といった類のものは第五魔法に属する現象であるため、それの使い手である蒼崎家当主以外に使うことはできない。だがこの世界は通常世界ではなく固有結界の中であり、外の常識では在り得ないことも起こり得ることは想像に難くない。

 今考えるべきはそれではなく、無限に再生する敵に対してどのように対処すべきかということだ。つまり、遥が遥自身を相手にするという状況を想定すれば良い。半ば矛盾に近い仮定だが、遥はすぐにそれに対する解を導き出した。

 叢雲の刀身に一瞬で限界まで魔力を充填し、左手の長刀には固有結界内部から引き出した雷を纏わせる。対してその近くではイリヤが限定展開するクラスカードを『剣士(セイバー)』から『槍兵(ランサー)』に変え、顕現した朱槍に魔力を叩き込んでいた。

 

「ハァッ!!」

「〝突き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク)!!」

 

 気合と真名解放の声に合わせて放たれる雷撃を纏った魔力斬撃と朱槍。それらを進行方向上にいるトランプ兵は何とか阻もうとするも、シャドウ・サーヴァントにすら満たない力しか持たない彼らにそれを止めることができる筈もない。薙ぎ払われた領域が焦土と化す。

 だがそれも一瞬のことで、焼き払われたそれらは何らかの要因によって時間が巻き戻されるかのようにして再生していく。だがイリヤと遥はそれを待つような愚は犯さず、再生しつつあるトランプ兵を時に踏み潰しながら城に向けて駆けていく。

 無限に再生して斃すことができない敵であるのなら、一度消滅させてから再生するまえに離脱すれば良い。つまりは逃走とも言えるが、そもそも斃せない相手に勝つまで戦うという方が莫迦らしい。

 そうして走りながら遥が城内をオルテナウスに搭載されたセンサでスキャンすると、何か不可解な反応が返ってきた。内部の構造が定まらない。まるで城内のみの空間座標が定まらないかのような、或いは()()()()()()()()()()()()()ででもあるかのような反応である。明らかに異常な反応だ。しかし最早引き返すという選択肢は放棄してしまった。遥がそんな逡巡をしている間にイリヤは覚悟を決めたようで、言葉を投げる。

 

「いくよ、ハルカさん!」

「イリヤ!? ッ、少しは警戒しろよ!」

 

 遥の忠告を聞いているのか、それとも聞いていないのか、イリヤは全力の魔力弾を城の入り口である扉に向けて放って破壊する。どうやらそれも菓子でできているようで、巻きあがった粉末の中にイリヤは飛び込んでいく。そのあまりの焦りように遥はため息を吐いてから、イリヤを追いかけた。

 ――結論から言えば、その時点でのイリヤはあまりにも冷静ではなかったと言えよう。いかな子供といえどそれなりに戦いを経験してきた彼女は、常であれば敵地への突入に際して警戒を怠るような愚は犯さなかった筈なのだ。だが今回、友の手がかりを見つけようと逸るあまりにそれを忘れた。

 イリヤを追って菓子の粉塵に飛び込む遥。ひどく甘い香りに包まれながら城の内部に突入した瞬間、彼は異様な感覚を覚えた。それは、そう。言うなれば固有結界を展開した時のような。その感覚から、遥は己の失策を悟った。

 たとえどれだけイリヤに反対されようと、本気で敵を斃そうと思うのなら有無を言わさず城ごと天叢雲剣の真名解放で消し飛ばしてしまうべきだったのだ。それが、美遊に居場所の手がかりを掴んでいるかも知れないという希望的観測の下に最善を行わなかった。

 城内に突入した遥の目に飛び込んできたのは外観通りの菓子の城などではなく、一言で言えば『森』だった。まるで御伽噺の挿絵に描かれた森をひどく醜く歪ませたかのような、瘴気の立ち込める毒の森だ。

 しかし体内に悪しきものを浄化する作用を持つ固有結界を内包する遥に生中な毒は通用しない。加えて既に聖杯の泥とヒュドラの神毒を同時に食らったことのある遥にとって、それは最早ないも同然であった。そうして周りを見てみれば、そこにイリヤの姿はない。恐らくこの森――外のそれとは別の敵性固有結界に取り込まれた時点で別々の座標に配置されてしまったのだろう。

 

「クソ……迂闊だった」

 

 いくら後方から不死の軍勢が迫ってきていたとはいえ、突入の前に遥ができることはあった筈だ。それが遥はそれをすることなく、結果としてイリヤと分断されてしまった。この状況は遥の責任だ。

 だが今は自分を責めているような暇はない。遥がすべきことは一刻も早くイリヤと合流し、敵魔法少女を斃すこと。そう考えて歩を進めようとした遥は、しかしその瞬間に強烈な悪寒を感じてその場から飛び退いた。

 直後、遥がいた場所を何か巨大なものが薙いだ。続けて遥は連続のバックステップで繰り出される致命の連撃を回避する。それらは術理や、それどころかマトモな理性さえも感じさせないものであったがそれでもなお遥を殺し得るだけの力があった。

 しかし遥が一方的に攻撃されているだけの状況を許す筈もない。攻撃を回避しながらパターンを読み、叢雲を一閃。理性なき襲撃者の丸太のような腕を、その刃は容易く断ち切った。切り離された腕が地面に落ち――しかし、消滅するより早くに時間を巻き戻すかのように元に戻る。

 

「オイオイ、何の冗談だこれは……? あの程度の雑魚ならいざ知らず、とんでもねぇバケモノまで再生能付きかよ……!」

 

 そう言って奥歯を噛みしめる遥の目前。そこにいたのはまさしく文字通りの化け物化生。血のように紅い体表には奇妙な紋様が描かれ、背中からは悪魔の羽のようなものが生えている。

 もしもこの固有結界が遥の予想通り不思議の国のアリスをなどを元にしているのであれば、その化生は差し詰め〝ジャバウォックの詩〟に登場する怪物〝ジャバウォック〟といった所か。であればヴォーパルの剣があれば簡単に斃すこともできようが、遥の手に在るのは天叢雲剣と無銘刀だけだ。

 しかし既にジャバウォックは遥を獲物として狙いを定めている。逃げることはできない。遥の残された道はもう、この化生と戦って打ち克つ他には残されていないのだ。加えて道らしきものは化生の背後に続いているときている。

 

「そこを、退け。俺が歩く道だ!!」

 


 

 固有結界への突入によって怪物ジャバウォックの前に放り出された遥とは対照的に、イリヤが放り出されたのは禍々しいこと以外には何もおかしな点はない森の中であった。周囲には特に敵性体の姿はない。不自然な程に。

 しかし何時何処から敵が出現するかは分からない以上、転身を解くことはできない。遥と同じように自らの失策を認めたうえでそう冷静に判断できる力が、イリヤにはあった。いかな小学生とはいえ、イリヤは聡明な方なのである。

 そうしてどれほど歩いただろうか。最早この世界に入り込んで歩いた時間も距離も忘れてしまいそうであった。それが何故かは分からない。いや、イリヤはそれを()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それは何も、イリヤが忘れっぽいということではない。そもそもとして彼女がいるそこは固有結界の内部であり、通常世界の法則は意味を為さない。そう、それはたとえ忘却という現象でさえも。

 その事実に気付かないままイリヤとルビーはあてもなく歩き回って、そして明らかに人工的に作られたとしか思えない程に開けた場所に出た。立ち込める霧の為に全体を見ることはできないが、しかしイリヤがそこに立ち入ろうとした瞬間、予想だにしていなかった事が起きた。

 

「あら? ……まぁ! まぁまぁまぁ! ねぇ、そこの貴女! 貴女、魔法少女ね?」

「えっ?」

 

 少女の声。それもこの世界の中に在ってはむしろ異常に思えるような、あまりに普通の幼い少女めいた無邪気な声音であった。しかしそれはイリヤの警戒を解く結果にはならず、むしろ強烈な違和感にイリヤはより警戒を強める。

 そうして現れた少女は、まるで絵本の中から飛び出してきたかのような姿であった。黒いゴシックロリータ調の服を纏う、銀色の髪とアメジスト色の瞳を持つ少女。だがそんな可憐な容姿とは裏腹に腕や足に見える球体関節が人工物めいた印象を与える。

 〝まるで人形のような〟ではなく〝まるで人間のような〟という表現が適切であるようにも思える少女はその言葉からするに魔法少女なのだろう。興味深そうにイリヤを覗き込むように見た後、くるくると回ってからスカートの裾を掴み、礼をしてみせる。

 

「なら自己紹介しなくっちゃ! あたしは〝()()()〟。このお菓子の国を統べる、物語の魔女よ! 貴女の名前は?」

「……わたしは――――わたし、は……!?」

 

 答えようとして、はたと気づく。名前。自分の名前。己を己として規定し、己たらしめる記号たる、親から生まれて初めて与えられるもの。それが、思い出せない。どれだけ記憶を掘り起こしても、それだけが欠落している。ルビーはそんな契約者の名前を呼ぼうとして、自分もまたその名を忘れていることに気づいた。

 自身の名を忘れ、仲間を忘れ、半ば錯乱状態に陥るイリヤ。そんなイリヤの様子を見て、アリスが笑みを見せる。イリヤが自身の記憶を次々と欠落させているのは他でもない、彼女の固有結界の効力故のことであった。

 とある並行世界での出会いが英霊の座に強く影響したことで得た〝アリス〟という霊基。その霊基で召喚された彼女が持つ〝名無しの森(ナーサリー・ライム)〟という固有結界は、内部に取り込んだ者の記憶を薄れさせ、最終的には消滅させてしまうという特性を持つ。起源という根源に近いものを由来とする絶対記憶能力を持つ遥と違いその類の効力に対して防御手段を持たないイリヤは、その力をまともに受けてしまったのだ。

 これがこの世界に召喚されてファースト・レディによって魔女としての使命――とある妖術師の言を借りれば『宿業』に近いものを埋め込まれ『物語の魔女』として新生したアリスのやり方。彼女に戦う必要はない。彼女はただ、彼女を斃そうとする敵がこの世界に飛び込んでくるのを待っていればそれで良いのだ。それだけで、敵は抵抗もできずに消える。

 

「貴女たちに名前なんて必要ないの。お話の登場人物の名前は、書いた人が決めるでしょう? だからあたしが名付けてあげる。貴女はいずれ亡霊(エコー)になって、ありす(あたし)が望んだ物語の登場人物になるの」

「そんなコト、させない……!」

「うふふ!! ふふふふふ!! あたしがみんなを幸せにしてあげる! みーんな、終わりのない御伽噺(フェアリーテイル)の中で、とびっきりの夢を見ましょう?」

 

 そう言って、物語の魔女は笑う。この上なく無邪気に、この上なく残虐に。それはイリヤをして最早この少女と分かり合うのは不可能だと確信させるには十分で、己の名を忘れた少女は得物たるステッキを構えて魔力弾を放った。

 




何か色々と通常のナーサリー・ライムの宝具とは異なる効果を示しているものがありますが、仕様です。これも全て、ファースト・レディって奴の仕業なんだ。


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第68話 背信デタミネーション

 怪物ジャバウォック。それはルイス・キャロル作〝鏡の国のアリス〟という童話に登場するジャバウォックの詩という物語に書かれているという化生の名であり、現実にそんな名前の幻想種は存在しない。

 故に()()をジャバウォックであるとしたのは遥の直感であり、確定情報ではない。しかし固有結界外のトランプ兵や酷くメルヘンチックかつグロテスクな結界内部からしてルイス・キャロルの童話をモデルとして改悪しているのが明らかな以上、()()はジャバウォックと呼称するしかあるまい。

 人間の身の丈を大きく超えた体躯に、サーヴァントすらも大きく上回る魔力量。理性こそ皆無であるものの、それ故に高すぎるステータスをセーブすることもない。ジャバウォックはサーヴァントではないため遥のマスターとしてのステータス透視特権は通用しないが、恐らくは全ステータスが測定不能、つまりはEXランクと見て間違いあるまい。

 そして、何より驚異的であるのはその再生能力だ。いくらステータスが高くとも理性のない攻撃ならば回避に集中しさえすれば躱して反撃できるが、それが即座に無効化されてしまうのでは意味がない。再生能力自体は遥も持っているが、彼のそれが脳と心臓を破壊されてしまえば発動しないのに対してジャバウォックを含めた敵性体のそれはどれだけダメージを受けても作動する。

 まさしく無尽蔵、まさしく不死身。年若いながら今まで相当数の化生を狩ってきた遥だが、ここまで完成された不死性を持つ化生を相手にするのは初めてのことであった。だが遥の再生能力に欠陥があるように、完全な不死などある筈がない。つまり、殺せば死ぬ。

 問題はその殺すための手段が見つからないということだ。原典のジャバウォックの性質をそのまま反映しているのならヴォーパルの剣さえあれば殺すこともできようが、生憎とそんなものは手元にない。故に、遥は他にジャバウォックを斃す方法を探さなければならない。

 

「■■■■■ッ!!」

「チィッ!!」

 

 まるで猛獣のような、いや、猛獣さえも恐れおののいて失神してしまう程の威圧感を伴う咆哮。しかし周囲の世界はそれを称えるかのように不快な音を立てる。同時に放たれた拳撃が空気を叩き、銃声のような爆音が鳴り響いた。

 対する遥はそれを迎え討つようなことはせず、直感で軌跡を先読みすることでそれを回避。続けて放たれた逆側の腕での薙ぎ払いを咄嗟に脚部バーニアを吹かせることで無理矢理に距離を取って避けた。

 しかしそれで逃げることを許すようなジャバウォックではない。自らの攻撃が遥に回避されたと分かるや、その巨体からは想像も付かないような、常人が見れば怪物ではなく壁が迫ってきているようにも感じられる速度で遥に肉薄し、組んだ両手をハンマーのように振り下ろした。

 喰らえば再生能力を持つ遥でさえ物言わぬ挽肉へと姿を変えてしまうような致死の威力を内包した一撃。遥はそれを一歩後方へ飛び退くことで躱し、あまりの衝撃で地面に陥没した両手を足場にして空中に跳躍。そのまま落下の勢いを利用してジャバウォックの脳天から股下までを叢雲の刃を以て斬り裂いた。

 普通のサーヴァントであれば、人間であれば、魔獣であれば確実に致命となるダメージ。しかし唐竹割にされた筈のジャバウォックは次の瞬間には時間を逆行するかのような挙動で再生を始め、瞬きをする程度の時間もかけずに元の姿を取り戻した。その事実を前にして、遥が舌打ちする。

 半ば既に分かり切っていたことではあるが、どうやらジャバウォックは脳や心臓を破壊されても問題なく再生する。この固有結界の効力によるものか、或いは他の何か別の要因、何らかの宝具によるものかは分からないが、この際そんなことはどうでも良い。

 攻撃が失敗したと悟り、遥が次に行ったのは敵の間合いからの離脱。自らの攻撃が通用しないと判明したのにも関わらず敵に攻撃を許すなど、悪手中の悪手だ。限界にまで脚の筋肉と装甲に強化を施し、思いきり地面を後ろに蹴り抜く。

 だが遥の身体が完全にジャバウォックの間合いから脱する寸前にジャバウォックが放った拳がオルテナウスの足部装甲を擦過。その程度の接触でも遥の身体は高空にまで打ち上げられ、そのまま地上へと落下した。

 しかしジャバウォックは追撃するでもなくゆっくりと歩み寄ってくる。その様は、さながら瀕死の獲物を前にした肉食獣か。理性も感情もないが故の、簡単に相手を見下す行動を前にして遥は苛立ちも露わな詠唱を飛ばした。

 

「我が躰は焔――加速開始(イグニッション)!!」

 

 その詠唱によって遥の体内で固有結界が活性化し、外界たる敵性固有結界からの影響を遮断。更に体内時間が数倍にまで加速し、固有結界の作動を感知したオルテナウスのメインシステムが排熱・冷却機構を作動させる。

 続けて遥が放ったのは焔ではなく、スサノオの神核を継承した結果として行使できるようになった雷撃。海と嵐の神の力が固有結界に齎した、ある種の権能に近しいそれがジャバウォックに突き刺さる。瞬間、今までどんな攻撃を受けてもダメージを受けなかったジャバウォックが初めて膝を突いた。

 効いている。遥が驚愕と共に確信する。だが、何が効いているのか。恐らく雷そのものが内包する威力ではあるまい。であればジャバウォックが雷のような電気的属性に弱いか、或いは遥の固有結界が持つ〝魔力を奪い、浄化して遥に還元する〟という特性が特効的作用を齎しているのか。そのどちらかだ。

 仮に後者であるとするなら、この怪物は召喚者からの魔力供給を受けることなく召喚時に与えられた魔力のみで動いているということになる。それはそれでどのようにしてEXランクにすら匹敵する魔力総量を捻出しているのかという疑問は生まれるが、それは置いておこう。

 重要であるのは〝魔力を全て奪えば消滅する可能性〟があるというその一点。それさえも時間逆行で回復されてしまう可能性は否定しきれないが、今の遥には打開策らしい打開策が他にないのもまた事実。ならば、それに賭けるしかない。

 

「■■■■■────ッ!!」

 

 一方で先の雷撃で痛撃を与えたことでジャバウォックも遥を明らかな脅威と認めたのか、その目に敵意と殺意の光が宿る。今になって、ようやくジャバウォックの中でこの戦闘の意味合いが狩りから闘争へと変わったのだ。

 ジャバウォックが動く。通常の数倍にまで加速している筈の遥の認識時間内でさえそれまでと比べて一切遅くなっているようには見えない挙動は、流石は英霊の宝具による被造物といった所か。

 対して遥は短く息を吐き、意識を動から静へと、攻から見へと切り替える。そうして肉薄してきたジャバウォックが繰り出す拳撃は、まさしく致命の嵐。一撃でも喰らえば死なずともオルテナウスは壊れ、巻き込まれた身体は満足に再生しなくなるだろう。

 だがあろうことか、遥が走り出したのは後方ではなく前方。つまり自ら攻撃を仕掛けてくるジャバウォックの間合いに入り込もうとしているのだ。気が狂ったかのようにも思える暴挙。けれど、遥は何も破れかぶれになってそんな行動に出た訳ではない。

 ジャバウォックに接近してその拳が遥の身体を吹き飛ばそうかというその瞬間、遥は一気に加速倍率を引き上げた。無理な加速によって悲鳴をあげる全身。しかしその激痛を無視して彼はジャバウォックの連撃を回避し、その懐へと潜り込んだ。間髪入れずに、叢雲を突き立てる。

 

「燃えろ、デカブツ」

 

 冷酷な宣告。同時に遥は叢雲を通して煉獄の焔をジャバウォックの体内に叩き込み、怪物の総身が燃え上がる。更に焔はジャバウォックの身体から魔力を引きずり出し、浄化して遥に還元していく。

 だがそのまま消滅することを受け入れるような怪物ではない。その身体に刃を突き立てる遥を暴れまわることで振り払おうとして、しかしそれは叶わない。ジャバウォックの攻撃を察知した遥がそれに先んじて雷撃を纏う拳をぶつけ、ジャバウォックがよろめく。

 弱体化している。恐らくこの怪物に作用している時間逆行はダメージはなかったことにできても魔力の減少までを無かったことにはできる訳ではないのだろう。考えてみれば当然だ。魔力を使って行使する宝具の効果で魔力が戻ってくるというのは等価交換の原則に反する。

 ならば、魔力を全て奪おう。正攻法ではないが、正攻法では斃せないのだから邪道に走るしかあるまい。再び距離を取った遥に反撃せんとするジャバウォック。遥は魔術回路を通して脚部装甲に指示を出すと、それの格納スペースから飛び出してきた黒鍵2本をジャバウォックの足元に向けて投げ放った。それらは怪物の足を貫き、動きを縫い留める。

 その隙を逃すことなく、地を蹴る遥。焔と雷を纏う二刀。蒼と紅の軌跡を描いて遥はジャバウォックに迫り、せめてもの抵抗として振るわれた剛腕を斬り飛ばして二刀をジャバウォックに突き刺した。怪物の体内を焼き、魔力を奪う雷と焔。それで全ての魔力が奪われたのか、ジャバウォックの身体が霊子の光をあげることもなく虚空に溶けるようにして消える。

 怪物が消滅したことにより静寂が戻る御伽の森。遥の固有結界も活性を減じたことでオルテナウスが元の容に戻り、焔も漏れ出すことはなくなった。しかし遥の戦闘がまだ終わった訳ではない。遥にはまだ斃さねばならない相手がいる。助けなければならない相手がいる。

 

「イリヤ……!!」

 

 ジャバウォックに殴られて破損した足部装甲を直す暇もなく、遥は駆けだす。胸中を占める、悪寒に急かされるようにして。

 


 

 乱舞する桃色の閃光。イリヤが放った魔力砲撃が大地を抉り、貫かれた毒の霧が燃えるような音を立てて消滅する。更に着弾した箇所から巻きあがった土煙は魔力砲撃を受け、一瞬で紅く赤熱してから蒸発する。

 常のイリヤであれば滅多に使うことがない、聖杯の嬰児たる彼女の半身が分離してもなお膨大な魔力出力量が齎す攻撃力を戦闘経験から来る技術の後押しによってブーストした猛攻。普段なら敵にさえ優しさを見せるイリヤにそこまでさせるのは自らの名を喪った焦り、そして本能的に感じる敵の脅威であった。

 高空より降り注ぐ魔力砲の雨。流石にサーヴァントを一撃で屠るような威力はないものの、痛撃となる筈のそれをしかしアリスは避けなかった。それどころか雨の中で濡れながら遊ぶ子供のように無邪気に笑いながらイリヤの魔力砲を受けている。

 

「うふふふふ! あはははは! 楽しいわ! とっても楽しいわ! もっと遊びましょう!?」

 

 言葉の内容だけを見ればそれは楽しく遊ぶ子供にしか見えなかったことであろう。だが敵の攻撃を自ら受けながら『楽しい』などと。その光景はまさに不気味さもここに極まれりといったもので、イリヤが顔に恐怖を浮かばせる。

 止まる砲撃。少しずつ晴れていく土煙。果たしてその中から現れたアリスの様は、さながら不出来な人体模型のようである。魔力砲の一撃が擦過した顔面は半ば焼け爛れて表情筋が露出し、そちらの眼球は飛び出て辛うじて神経で身体と繋がっているような有様である。左腕も半ばから千切れ、その先は数本の筋線維、或いは植物繊維で本体と繋がってぶら下がっている。

 そんな今にも死んでいておかしくない姿でありながら、アリスはケタケタと笑い続けている。それどころか最早治りようもない程に損傷している筈のアリスの身体は、生々しい音を立てながら再生しつつある。

 今時(たち)の悪いスプラッター映画でも登場しないようなグロテスク極まりない姿にイリヤが顔を青ざめさせる。だがアリスはそれを恐怖とは捉えなかったのか、それとも元より正常な理性など残されてはいないのか、満面の笑みを浮かべたままでいる。

 アリスが再生しているのはトランプ兵やジャバウォックのように彼女の宝具である〝永久機関・少女帝国(クイーンズ・グラスゲーム)〟の時間逆行によるものではない。この宝具はあくまでもアリスの召喚物にのみ適用されるものであり、アリス自身や外界に作用するものではない。

 アリスに限りなく不死に近い再生能力を与えているのは他でもない、ファースト・レディによって埋め込まれた魔女としての使命たる『宿業』。それを埋め込まれたことでアリスの霊核は脳でも心臓でもなく宿業となり、それを破壊されない限りは再生し続ける。レディによって用済みと判断されるまでは。

 しかしその代償として元々あった〝アリス〟としての自我は増幅された負の感情と宿業に呑み込まれ、壊れてしまっている。その様はとても純正のサーヴァントとは言えず、むしろ〝屍〟と言った方が良いか。サーヴァントの屍が、意志を持って動いているのだ。

 くるくると楽し気に回りながら自らの身に起きたことをイリヤに語るアリス。だがイリヤにとってその事実は即ち、アリスは最早救うこともできず、それどころか斃すこともできないと告げられるに等しい。

 

「だったら――……」

 

 だったら、何だと言うのか。数瞬前には思い出すことができた筈なのに、今のイリヤにはそれを思い出すことができない。それどころかイリヤは既に多くの記憶を忘れたことすら忘れ、殆ど白痴も同然の状態となっていた。残っているのは常に意識していた、敵を撃退するための戦い方のみ。

 だがそれももう維持していることすらできなくて、遂に飛び方を忘れてイリヤが地に堕ちた。同時に転身も溶けてしまい、ルビーが傍らに転がる。常であれば姦しく喋る声も、聞こえない。

 それでもなおイリヤは立ち上がろうとして、その直前に立ち上がり方を忘れた。筋肉の使い方を忘れた。思い出を忘れた。感情を忘れた。日本語を忘れた。次第に意識さえ薄くなって、そんなイリヤをアリスは満面の笑みで見ている。そうして否応なく意識を手放して、その存在が薄くなって――

 

()()()()!!」

 

 ――それを阻むように、鋭い声が少女の耳朶を打った。イリヤ。イリヤスフィール。その声が聴覚神経を通じて少女の脳に届き、まるで電撃でも喰らったかのような衝撃を幻覚する。そうして少女は理解した。それは、自分の名前だと。

 嘗て、或いは今よりも未来の話だが、イリヤと同じように名無しの森によって名前を奪われたとある魔術師(ウィザード)は予め自分の手に名前を書いておき、それを利用して自分の名を取り戻した。つまり名無しの森の中であろうと何らかの要因があれば名前を思い出すことが可能なのだ。今回はたまたまそれが遥の声だっただけの話。

 そうして記憶を取り戻したイリヤは、しかし転身が解けたことで周囲に立ち込める毒霧の影響を防ぐものがなくなってしまい、それに身体を犯されて動くことができない。そのまま地に伏せるイリヤの身体を、駆け寄った遥が抱き起した。

 

「イリヤ……済まない。俺の注意が足りなかったばかりに辛い目に遭わせちまった」

「ううん……遥さんが謝るコトじゃ、ないよ……元はわたしが、勝手に飛び込んだのが悪いんだもん……」

 

 全身を毒の霧の犯されているせいか、ひどく消え入りそうな声でイリヤは言う。このような毒と記憶忘却という二重苦に責められる状況でありながら、イリヤはその責任を他人に転嫁することなく、それどころか他人に思いやりまで見せた。その善性がどこか相棒に似ていて、彼は奥歯が砕けそうな程に強く噛みしめた。

 たとえどれだけ付き合いが短くとも、たかが数時間前の出会いであるのだとしても、関わった以上遥はイリヤを助けなければならない。何故なら、それが夜桜遥を夜桜遥たらしめる信条であるのだから。何であろうと、子供は助けなければならない、という。

 いくらイリヤが遥のせいではないと言っても、この状況を作った原因に遥がいることは変わりない。故に、遥はその責任を果たさなければならない。そのことに不満はない。――しかし、これはあまりに悪辣な趣向と言わざるを得ない。

 

「素敵素敵! まるでお姫様を助けに来た騎士様みたいなのだわ!」

 

 嗚呼――やはり全ての救済を為す神などこの世にはいないのだと、或いはいたとしても人間ではない遥には牙を剥くことしかないのだと、改めて遥は確信する。でなければ、こんなあくどい運命がある筈がない。

 ひとりの子供を助けようとして、そのために殺さなければならないのもまた子供。いくらサーヴァントであるとはいえ、その精神はあくまでも霊基の外見年齢に引っ張られる。つまりはこの少女もまた、子供であることに違いはない。

 つまり遥は『己の信条を曲げてでも子供(イリヤ)を助ける』か『自分の信条を守って子供(アリス)を捨て置く』かのどちらかを選択しなければならないのだ。たとえどちらを選択しても、遥は一度だけ、己の正義を踏みにじらなければならない。

 そんな遥の内心を知ってか知らずか、イリヤは遥に先のアリスから告げられたことを伝える。あのアリスには宿業なるものが埋め込まれ、それを壊さない限りは斃せないということ。そして、今のアリスはアリスそのものではなく、その屍を別の誰かが動かしているようなものであるということを。

 それは比喩でも何でもなく〝魔女〟だ。魔に操られ、魔に呑まれ、魔を広げる少女。いや、少女の姿をしているだけでその実態は魔物にも等しい。少女の心に巣食う闇を増幅し、大本さえも飲み込んで完成した魔物だ。

 一度大きく深呼吸をしてからイリヤに治癒魔術を掛けてから付近の木に背中を預けさせ、アリスに向き直る。胸中で渦巻く多くの感情を決意と顔の大半を覆い隠すバイザーで押し殺した真顔の遥とは対照的に、アリスの笑みはそこにある筈の感情が悉く欠落している。

 

「不思議ね……貴方は魔法少女じゃないのに、どうしてここにいるの?」

「さぁな。それは俺にも分からん。気づいたらここにいたんだ」

「そうなのね……でも安心して! 貴方もすぐにあたしの御伽噺に加えてあげるわ! そうしたら、寂しくなくなるもの! ありす(あたし)もきっと喜ぶわ!」

 

 その言葉を受けて、遥が息を詰まらせる。きっとアリスに悪気はない。彼女はただ、この世界にはいる筈のない己の半身を求めているだけなのだ。ずっと孤独だった少女のための優しい御伽噺を持って再会したいだけなのだ。

 適切な例えではないかも知れないが、古代ギリシアにおいて人は太古にゼウスによって分かたれた己が半身を求めて恋をするという。詰まる所、それは共依存、たったふたりだけで完結した世界だ。愛であれ恋であれ、人は己の掛けた部分を補うことができる相手を強く求める。アリスはきっと他の世界でそういう存在に出会って、けれどこの世界では会えなかった。その寂しさを、この世界の主に利用された。アリスは、被害者でもあるのだ。

 けれどアリスはもうここにはいない。いるのは、アリスの屍をそれらしく動かしている極めてアリスに近いだけの何者かだ。その悲嘆も、渇望も、既に終わったものを無理に動かされ続けているに過ぎない。

 終わった渇望は癒せない。終わった嘆きは救えない。終わった命は戻せない。そんな力は、遥にはない。この世の摂理を押し曲げてでも何かを為す力など、その手にはない。あるのは何かを終わらせる力と、その代価として何かを生かす力だけ。

 

 

 

 ――『総てを、皆を救う力』など、それこそ趣味の悪い御伽噺だ。

 

 

「だから、せめて、苦しまないように一撃で終わらせてやる」

 

 ひどく冷酷な声音であった。感情が欠落しているのではない。今も湧き上がってくる感情を抑圧し、切り捨て、それでもなお自力では隠しきれないものをバイザーで隠して何とか保っている冷酷。そんな偽りの感情でも、身体はよどみなく動く。

 抜刀される天叢雲剣。燦然と輝く神剣の光を見るや、今までの張り付いたような笑みがたちまちに恐怖へと変わった。

 

「あぁ……! 駄目! ()()()()()()()()()()()!」

 

 今までの狂気を孕んだ喜悦を含む声音とは裏腹に、その声音は偽りのない恐怖に塗れていた。遥が手に執る天叢雲剣を凝視しながら、顔を恐怖に引き攣らせて。イリヤの猛攻を受けても笑顔であり続けたアリスが、叢雲を見ただけで恐怖を隠しきれずにいる。

 その恐怖の理由はアリスにも分かっていない。けれど、彼女には確信があった。あれは自分を終わらせることができてしまうものだ、と。理屈ではなく本能で、それが終わりを齎すものだと理解した。

 さもありなん。これはアリスはおろか遥も知らないことだが、天叢雲剣はかの刀匠〝千子村正〟が目指した〝縁を切り、定めを切り、業を切る究極の一刀〟たる草薙剣、そのオリジナルである。故にそれには草薙剣よりも確実に宿業を断つ力がある。宿業によって生かされているアリスはそれを本能で悟った。悟ってしまった。

 遥を近づかせまいと彼に向けて氷の魔術を発動するアリス。しかし遥は悠然にすら見える動作でアリスに歩み寄り、飛来した氷塊を左手の長刀の一閃で破壊した。続けて放たれた炎と風の魔術も魔術刻印から呼び出した夜桜の封印魔術を以て防御し、アリスに近づいていく。

 遥のしようとしていることは、大衆の正義から見れば間違いなく正義だ。人類史を破壊しかねない領域である特異点を守る敵、それを斃すのだから。そして遥自身の正義においても〝この先の未来がある〟イリヤと〝全て終わって先がない〟アリスでは、犠牲になるのは後者であるべきだ。

 それは分かっていても、納得できない自分がいる。それを押し殺して、遥はアリスを追い詰めていく。アリスの放つ魔術を切り裂き、魔術で退路を塞ぎ、そして、その小さな身体を間合いに捉えた瞬間に叢雲を逆手に持ち替えて迷いなく振り落とした。

 黄金の軌跡を描き、アリスの鎖骨の辺りから彼女の身体に侵入する切っ先。そして一瞬で叢雲はその身体を貫通し、逆側の脇腹から血に濡れた切っ先が顔を出した。その刃は霊基の彼方に隠されたアリスの霊核にまで届き、それを断ち切る。形のない、概念としての霊核の筈が、遥には確かにその感覚があった。

 

「ひどいわ……あたしは、ただ、ありすに会いたくて……ずっと、ずっと独りぼっち、に、してたから、その分いっぱい遊びたかった、だけなのに……」

 

 それがアリスの最期の言葉だった。次の瞬間にはアリスの身体は魔力の光をあげながら消滅し、主を喪った固有結界もまた溶けるようにして消えて代わりに菓子の城の内装と思わしき空間と小さい宝石のような石が現れる。

 しかしその宝石は勝者である遥の手には収まらず、ひとりでに明後日の方向に飛んでいったかと思うと、いつの間にかそこにいた少女の手に収まった。その姿を見て反射的に遥が叢雲を構え、イリヤが声を漏らす。

 果たして、そこにいたのは色以外はイリヤと瓜二つの少女であった。だが同時に、その褐色の肌や紅い聖骸布、黒いボディアーマーなどはどこか遥と契約している弓兵、エミヤを彷彿とさせる。警戒する遥、茫然とするイリヤ。その目の前で少女は妖艶に微笑む。

 

「何か妙なコトになっていると思ってきてみれば……どうして彼ら以外に男がいるのかしら? しかも、その様子じゃ魔法紳士にもなっていないようだし……」

「クロ……そんな、クロなの……!?」

『いや、違います、イリヤさん! あのロリッ娘、クロさんであってクロさんではありません!!』

 

 どういうこと!? とルビーに問いを返すイリヤの前で、少女はイリヤを嘲るように笑う。そうして腰布を摘まんで淑やかな所作で礼をすると、少女――最低最悪の魔女は名乗りをあげた。

 

 

 

「初めまして。希望に溢れた憐れな魔法少女に、迷い込んだ可哀そうなヒト……私は〝ファースト・レディ〟。この世界の主にして、総ての救済を為す最高最善の魔法少女よ」

 




 別に最低最悪だの最高最善だのと言っていても昔のファースト・レディが出てきたりはしません。あと何気に初めて文字のフォントを一部変えてみたり。


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第69話 腐乱ヒューマニティー

「ファースト・レディ……?」

 

 支配者たる物語の魔女ことアリスが消滅し、主を喪ったお菓子の城。その玉座の間にて、自らの姉妹の身体をもつ何者かの名乗りを受けて、イリヤが茫然と呟く。その視線の先では魔女――ファースト・レディが不敵な笑みを浮かべていた。

 対して遥はレディが不意打ちを仕掛けてきたとしての対応できるように叢雲を構えながら、胸中を占める強烈な警戒に眉を顰めていた。現時点でレディはイリヤの家族と思しきクロという少女の身体を実質的な人質としている以外に目立った脅威はない。それなのに遥の本能はレディを今のうちに殺しておくべきと叫んでいた。

 しかしクロの身体からレディを引き剥がす方法が見つかるまでは手を出すことはできない。アリスを殺しておいて何を今更という話だが、既にサーヴァントとしても死人であったアリスとは違いクロは生者だ。それを殺すことなど、遥にはできない。

 それぞれの理由で動けないふたりの前で、レディはアリスの身体から現れた宝石を手の中で弄んでいる。まるで遥たちを見下すようなその態度に苛立ちを覚えつつも、遥はレディに問いを投げた。

 

「ファースト・レディ。さっきの口ぶりからして、お前がこの固有結界の主で間違いないようだが……魔法少女を名乗るにしては随分と趣味が悪いようだな」

「あら、何のコトかしら?」

「とぼけるなよ、悪女。これだけ色々とあって、気づかないとでも思ったか」

 

 遥がこの世界に紛れ込んで最初に出会った敵対的な魔法少女であるメイヴや、先程遥が殺した物語の魔女ことアリス。この両者に共通することは自発的な攻撃であれ、固有結界を罠としているのであれ、他の魔法少女の排除を目的としていたということだ。

 それは決してメイヴやアリスだけという訳ではないだろう。加えて、アリスの『貴方もあたしの御伽噺に加えてあげるわ!』という言葉。その言葉からして、他に不特定多数の魔法少女、或いは遥のような迷い人を殺してきたと考えることができる。

 以上のことから考えて、この固有結界は内部に取り込んだ魔法少女を戦わせるための戦場なのだ。戦わなければ生き残れない。その形態はどこか、聖杯戦争にも似ている。唯ひとつ、既に勝者が決まっている出来レースであるという点を除けば。

 メイヴは不明だが、アリスが持っていた〝通常武器での殺傷ができない属性〟は少なくとも魔法少女同士ならば貫通できるということはあるまい。それはイリヤが斃せなかったことが証明している。それは恐らく、万が一にもレディ以外が彼女の目的を果たさないようにするため。つまりこの魔法少女、及び魔女による聖杯戦争擬きは最初からレディが勝者になるように仕組まれているのだ。

 その目的は分からないものの、まず間違いなく碌な目的ではあるまい。魔法少女同士を戦わせ、そうして蓄積された魔力は既にそれなりの量になっている筈だ。或いはその総量は通常の聖杯戦争で大聖杯に蓄えられる魔力総量を超えている可能性もある。尤も、それをレディが回収できているのかは別の話だが。

 

「全てが終わるまで芋っていれば良いものを、態々俺たちの前に姿を晒したのはその宝石を回収されたくなかったから……違うか?」

「面白い想像ね。仮にそうだったとして、貴方たちに魔女たちを斃さない選択肢なんてあるの?」

 

 遥のことを見下し、煽るような声音。しかし、その言葉は紛れもない事実だ。故に否定できず、遥が舌打ちを漏らす。遥やイリヤが望むにしろ望まざるにしろ、それぞれの目的を果たすには魔女を斃すしかない。

 何と腹立たしい話であろうか。遥はこの特異点を消去するため、イリヤは美遊を助け出すため、魔女を斃す以外に道がない。つまりは敵と利害が一致していると言っても過言ではないのである。

 恐らくレディは遥の内にある子供を殺すことへの忌避感を見抜いている。だからこそこうして遥の前に姿を晒しても問題がないと考えているのだ。足元を見られている。その事実が、遥の誇りを傷つける。基本的に自己評価の低い遥だが、流石に剣士としての誇りを含めても足元を見られているのは我慢ならなかった。

 遥が隠すこともなく舌打ちをする。レディは遥を遥だから見下しているのではない。それにしてはレディの所作は嫌に自然体すぎて、遥にはどうにもそれが違和感だった。この感覚を、彼は知っている。しかしレディはまだそれが弱く、答えに辿り着けずにいた。

 しかし、何であれレディが態々この場に来て宝石を回収したという事実がその宝石がレディにとって重要なものであるということを示している。遥の予想が正しければ、それは斃した魔法少女から回収・集積した魔力だ。故にレディの隙を見計らって雷撃をぶつけようとして、先にレディが動いた。

 

「それでも……私のモノにならない男は邪魔だから、ちょっと大人しくしていてもらおうかしら」

 

 冷酷極まる声音でレディがそう言い放った直後、彼女の背後にふたつの魔法陣が現れた。魔術、或いは魔法の無詠唱行使である。オルテナウス越しでも強く感じる程の膨大な魔力からして、間違いなく平凡な魔術師であれば10人程度で行う大魔術規模。腐っても魔法少女ということだ。

 そうして一瞬、爆発的な魔力上昇が観測された直後にその場に現れたのは2騎のサーヴァント。片や頭部に多くの髭を蓄え、右手には鉤爪を装着した、いかにも海賊らしい装束のサーヴァント。

 そして、もう1騎。こちらは見覚えのある英霊であった。右手にはあらゆる魔力を断ち切る赤槍を、左手には不治の呪いを与える不死殺しの黄槍を携えた泣き黒子が印象的な槍兵(ランサー)。変異特異点αにおいて遥が唯一正面から打倒したサーヴァントであるディルムッド・オディナ。

 先のレディの言葉からするに、彼らがレディの配下である魔法紳士とやらなのであろう。その標的は、この固有結界にいながらにして魔法紳士とはならない遥の排除、或いは無力化。

 

「さぁ、行きなさい。私の紳士たち。上手く処理できればイイコトしてあげるから」

「……御意」

「おほー! レディたんとイイコト……妄想(ゆめ)が膨らみますなぁ!」

 

 髭面の男は奇妙なテンションでそう言うや否や、どこからか取り出した銃を遥に向けて発砲した。その銃弾を叢雲と長刀で弾きつつ、遥は男と彼の握る銃を注視する。クイーン・アン・ピストル。18世紀にイギリスににて造られた拳銃であり、富裕層から海賊のようなアウトローにまで幅広く愛用されたものだ。

 更に男の髭と髪には導火線と爆竹らしきものが括りつけられているのが見える。クイーン・アン・ピストルに、身体に直接括りつけられた導火線、鉤爪――現代では典型的な海賊の装備とされているもの。それだけの要素があって、真名に気付かない筈もない。近代初期のカリブ海を思うまま荒らしまわり、人々に恐怖を与えた音に聞こえし大海賊。現代における海賊というもののイメージに最も強く影響している英霊。〝エドワード・ティーチ〟。

 通常のクイーン・アン・ピストルは1発を撃つ度に銃弾を込めなければならないが、サーヴァントの武装となったものはその限りではない。魔力で形成した弾丸を連続で撃ち放つエドワード。それを二刀で弾く遥。だがそこへエドワードの射線に入らないように身を低くしながらディルムッドが走り込み、双槍を振るう。

 明らかに遥が不利な2対1。イリヤはそれを援護すべくステッキ形態に変化したルビーを握ろうとして、しかしその直前に背後から腕を掴まれ、そのまま捻り上げられたことで身動きが取れなくなった。見れば、そこにいたのはレディ。

 

『イリヤさん!』

「ホント、結果をイメージするだけで色々できるなんて便利な身体ね、これ。……さて、アナタにはこれから美遊に味わってもらうコトをお試しで受けてもらいましょう」

 

 先の冷酷さを感じさせない異様な無邪気さでそう言い放った次の瞬間、宝石を持ったレディの手がイリヤの体内に突き込まれた。いや、正確には体内ではなく霊基の内部。『魔術師(キャスター)』イリヤスフィールの根底である。

 同時にイリヤの意識を襲ったのは強烈な不快感と、魂の中にまで入り込んでくるかのような暴力的な魔力、そして自意識を全て洗い流すには十分過ぎる思いの塊。あまりに凶悪なそれを受けて、イリヤが身体を跳ねさせる。

 

 ――世界を、人類を救わなければならない。救いたい。救わなければ助けなければ何故なら愛しているからアイしているならスクえジンルイアイのモトにスクエスクエスクエスクエスクエスクエアイシテイルカラアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイアイドウシテオマエハイキテイルズルイズルイカラダカラダヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセソレガナイトスクエナイ――

 

 少女の魂を焼く狂った思いの奔流。イリヤはそれを何とか意識下から排除しようとするも、それは決して敵わない。何故なら彼女の起源は『聖杯』であり、いくらクロが分離したことでその機能の大半が失われているとはいえ注がれた願いを叶えようとする方向性に変わりはないからだ。

 地獄から這い上がろうとする亡者の叫びが如き願いとそれを叶えようとする本能、させまいとする理性がイリヤの内で相争い、苦悶の声となって漏れる。その目に映るのは数々の魔法少女の悲嘆と絶望。苦悶するイリヤを、レディは恍惚とした表情で見下ろす。

 

「アハッ……やっと良い表情になったわね、イリヤスフィール? アナタの身体を素体にするのも良さそうだけれど……クロエの分離したアナタでは聖杯として不完全だものね。美遊より良い顔はするけれど、あくまで予備にしかならないわ」

「っ――ああぁ――あっ――予、備――?」

 

 レディの口から洩れた不穏な単語。そもそも聖杯であるイリヤや美遊を活用すると言うのではなく、素体とするとはいったいどういうことなのか。そんな疑問がイリヤの脳裏を掠めるが、それらは意識を焦がす怨嗟の濁流に呑まれて消えていく。

 その様子を横目に捉えていた遥は何とかディルムッドとエドワードの攻撃を退けて助け出そうとするも、双雄の猛攻はそれを許さない。どちらか片方だけなら退けることもできようが、2騎の連携を前にしては最新の半神も防戦一方であった。

 そんな遥を嘲笑うかのようにレディは彼を一瞥すると、宝石をイリヤの身体から取り出す際に彼女の魔力を一気に引きずり出した。死なない程度には魔力が残っていても急激な魔力減少によるショック症状でイリヤが気絶する。そうして脱力した身体を、レディが雑に足元に落した。

 

「イリヤ! ――レディ、貴様ッ!!」

「おぉっと! レディたんの邪魔はさせないでござる!!」

 

 まるで悪しきオタクのイメージそのままのようなふざけた口調でありながら、放たれる弾丸は正確無比。遥の動きを妨害しつつもディルムッドの邪魔にならない射線を選んで攻撃を仕掛けてくる。恐らくオタク的な口調は半ば演技あのであろう。

 遥にとって凡その魔術師のような〝天才の振りをした莫迦〟は相手にしやすいものだが、エドワードのような〝莫迦の振りをした切れ者〟は苦手な手合いであった。戦いながら相手の二手三手先を読む。それも、今の状態では遥はふたり同時に、対してディルムッドとエドワードは連携して遥の動きを封じれば良い。

 遥の側にあるアドバンテージは既にディルムッドの使う特殊な槍術を知っていることと、エドワードの放つ弾丸では高い物理防御力と神霊の神秘を有する桜花零式の装甲は貫けないということのふたつ。逆に言えば、それだけだ。

 対してディルムッドとエドワードはふたりがかりで遥と戦っているのだから、片方が遥を無力化してもう一方が遥を攻撃すれば良い。遥も防戦に徹しているから耐えることができているが、下手に攻勢に出れば殺される。

 鮭跳びの術を以てしての、雷速の槍撃。赤薔薇の長槍と黄薔薇の短槍による変幻自在の槍術。だがそれと一度相対している遥はそれの起動を見切り、二刀を以て逸らした。更にがら空きになった胴に蹴りを入れ、同時に脚部バーニアを吹かせてディルムッドを蹴り飛ばす。

 

「堕ちたな、フィオナ騎士団の一番槍。本来守るべきものに背を向け、只管に我欲を満たす畜生となったか。今や『輝く貌』の名声、地に堕ちたと知れ!!」

 

 騎士として奉じるべき道も誇りも全て打ち棄てて我欲のまま、本来英霊が守護するべき人理に牙を剥くディルムッドを詰る遥。その言葉には今までの彼にはない完全な半神だけが持つ凄みのようなものがあった。

 しかしそれを受けてもディルムッドの表情に変化はない。レディによって何らかの精神操作を受けているのか、それとも自らの意志によって騎士道を棄て、そんな自分を一切恥じていないのか。どちらにせよ、遥の知るディルムッドはここにはいない。いるのは自らの責務に背を向け、我欲のために無辜の民を食い物にする外道のみ。

 であれば遥は負ける訳にはいかない。我欲のためにもっと美しい、価値あるものを殺すような輩に屈するなど、剣士の名折れだ。それ以前にカルデア所属のマスターとして見過ごせる行いではない。だがそれを許さない者が、ディルムッドの他にもうひとり。

 

「ハッ、無駄無駄ァ!! 他の連中なんか知らねぇ。ただ我欲のまま襲い、犯し、奪い、喰らう! それが魔法紳士(オレたち)なんだからよォッ!!」

「外道が……!」

「海賊にゃ誉め言葉だなァ!!」

 

 遥の罵倒を一蹴し、エドワードはピストルの射撃にて遥の動きを牽制しつつ肉薄してくる。その逆側からはディルムッドが双槍を構えて駆け出し、遥の退路を塞ぐ。左右に逃げてもディルムッドの槍の間合いからは逃れられない。避けられない。本来なら。

 高空への跳躍と同時に桜花零式の脚部と背部のバーニアを最大出力で吹かし、一瞬のみ槍の間合いから離脱。叢雲に魔力を込め、限定解放による黄金の魔力斬撃を下方に向けて撃ち出した。ディルムッドとエドワードはそれに対応して制動をかけるも、床面への着弾によって発生した爆発めいた衝撃で否応なく怯まされる。

 そこへ斬り込むのは空中を蹴り、加速した遥。蹴り込んだのは魔力の足場ではなく、魔術によって空間を固定化した足場である。その速度たるや音速を超え、英霊ですら視認が困難な程だ。だがエドワードはその天才的な頭脳によって瞬時に遥の挙動を予測し、鉤爪での一撃を遥ではなく叢雲にぶつけることで斬撃を逸らして回避した。

 舌打ちを漏らす遥。そこへ走り込むディルムッド。繰り出された赤槍の一撃はまさに迅雷の如く。遥はそれを左手に執る長刀を振るって逸らすも、接触した瞬間に赤槍の機能によってただの刀へと戻った長刀は槍撃を流す結果だけを残して蓄積したダメージのために半ばから砕けてしまった。

 

「なッ――」

 

 ディルムッドの愛槍たる破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)は神秘殺しの槍。穂先に接触したものの魔力を断ち、神秘を剥ぎ取る力を持つ。尋常なサーヴァントの武具であれば防ぎようもあったのだろうが、あくまでも超常存在の武具としての属性を後付けされているだけの長刀は接触の瞬間にその神秘を貫通され、刀故の脆さと蓄積したダメージのために折れてしまったのだ。

 だが敵の接近時にその程度のことで怯む遥ではない。折れたなら折れたでやりようはあるとばかりにブレーキグリップを限界まで握り込み、内部に仕込まれた加熱装置が作動。一瞬で鋼が溶解する寸前の温度にまで達した刃をディルムッドに突き立てた。

 

「むっ――!」

 

 それにはさしもの迷いを棄てたディルムッドとて動揺したらしく、反射的に後方に跳んで距離を取った。その傷口から零れる鮮血と焦げた内臓。だがそのダメージも見る間に回復していく。アリスと同じものが埋め込まれているのか、或いは単純に治癒魔術が掛けられているのか。

 後は任せたわ、と言って転移魔術で去っていくレディ。遥としては逃がす訳にはいかないのだが、配下のサーヴァントがそれを許さない。両者の間合いは十数メートル程離れ、初めの状態に戻ったかのようにも見えるが、遥の刀は1本折れてしまっている。間違いなく、先よりも不利だ。

 遥が無理をして霊基を全解放すれば斃してしまうこともできなくはないかも知れないが、その可能性も一応はあるという程度には低く、できたとしても最悪活動不可能になる可能性もある。だがそうして攻めあぐねていた時、ルビーが言葉と共にあるものを投げた。

 

『遥さん、これを!!』

 

 ルビーが投げたものは分からないものの、援護させまいと銃弾を放つエドワード。しかし遥はそれを掻い潜ってルビーの投げた物を掴むと、それを折れた刀身に這わせた。

 瞬間、閃光を放ちながらそれが伸長する。本来日本刀だった筈の刀身は肉厚の両刃へと変わり、バイクのハンドルそのままだった柄はそれらしい形に変わる。そうして現れたのは、英霊アルトリアの宝具である聖剣エクスカリバーだ。

 先程ルビーが遥に投げ渡したものはイリヤの持つ『剣士(セイバー)』のクラスカードだったのである。先の戦闘でイリヤがクラスカードを使う場面を目撃していた彼はそれを受け取るやルビーの意図を察して迷いなくそれを己の刀に使用し、エクスカリバーを召喚したのだ。

 アルトリア本人を知る身としては彼女に無断でその得物を使うことは申し訳なくもあるが、生存のために打つことができる手を態々封じる程遥は莫迦ではない。西洋剣の扱いも、日本刀程ではないにせよそれなりには自信があった。

 だが、今優先すべきは敵を斃すことではなく、撃退すること。遥に攻め込ませまいとピストルを撃つエドワードの攻撃で右手の叢雲で弾きつつ、腰を落として構えを取り、左手のエクスカリバーに全力で魔力を叩き込む。

 唸りをあげる星の聖剣。宝具解放の予兆を感知した桜花零式のメインシステムが足部をその場に固定し、これから襲い来るであろう衝撃に備えて遥が左腕を限界まで強化する。その時点で遥の思惑に気付いたディルムッドが制動をかけて回避行動を執るも、もう遅い。

 

「済まないが使わせてもらうぞ、アルトリア!

 ――約束された(エクス)――――勝利の剣(カリバー)ッ!!」

 

 真名解放。解き放たれた星の息吹は容赦なく射線上の全てを呑み込み、城の外壁を破壊して蒼穹へと消えていく。回避行動を執っていたディルムッドとエドワードはしかし、極光を回避しきることができずにそれぞれ左半身と右半身を蒸発させた。

 だが遥の方も無傷とはいかない。限界まで強化した筈の左手はオルテナウスの装甲こそ損傷はなくともその中身である腕の骨が反動によってくまなく砕け散り、握っていたエクスカリバーが床に落ちて折れた刀とカードに戻った。

 本来片手では扱えない筈の宝具を片手で扱うことができる程度の出力に抑え、その上に限界まで腕を強化していながらこの反動。より威力の高い叢雲ではそもそもできないためエクスカリバーを使ったが、それでもこれだ。改めて神造兵装が規格外の宝具なのだと思い知る。

 それでも止めを刺そうと遥は桜花零式のバーニアを吹かせて両雄に斬りかかるが、その直前にふたりが霊体化したことでその刃は空を斬った。恐らくふたりは半身を喪っても死んではいないのだろうが、その状態では不利と判断したのだろう。脅威が去ったことで緊張が解けて思わず遥はその場に座り込みそうになるが、寸前に堪えて踏みとどまった。

 遥がお菓子の国に突入してから戦ったのは何も、魔法紳士だけではない。アリスにその配下である怪物にと、彼の戦闘継続時間は相当なものだ。加えて桜花零式を稼働させるための電力の元になっている魔力も遥自身が供給しているのだ。いくらカルデアからの魔力供給と元々の膨大な魔力総量があるとはいえ、立ち眩みする程度には消耗する。

 さしもの遥とて無視できない程の魔力消費。加えて砕けた左腕は起源の効力によって異様な音と極めて不快な蠕動を繰り返しながら再生しつつある。それらの齎す脱力感めいた不快感を魔術で無理矢理に排除して、遥は未だ意識を失っているイリヤとその傍らにいるルビーに歩み寄る。

 

「ルビー、イリヤの容態は?」

『命に別状はありません。どうやら急激な魔力低下によるショック症状で気絶してるだけみたいです。しかし……』

 

 不自然な所で言葉を区切ったルビー。その先を遥は問うことをしなかった。そんなことは問うまでもなく分かっている。ルビーが心配しているのは魔力量や身体的な問題ではなく、精神、心の方だ。

 消滅したアリスの霊基から現れ、レディが回収してイリヤの霊基に突っ込んだ宝石。恐らくその正体はアリスが斃し、亡霊となった魔法少女の魔力と彼女らの根源欲求。即ち、人類を、誰かを救いたいという願い。謂わばあの宝石は願望を叶える力を失くしただけの小聖杯のようなものだ。霊核を断ち切られたアリスから出てきたということは、それはまず間違いなく霊核とは無関係と見て良い。

 では、何故レディは魔法少女にそんなものを仕込んでいるのか。それはイリヤに行った行為からして聖杯を使うためと見て間違いない。だがそれは純粋に願望機としての機能を欲しているのではあるまい。それはイリヤに素体と言っていたことからも明らかだ。

 そしてイリヤは彼女自身の意志がどうあれ起源が『聖杯』である以上は聖杯としての属性から逃れることはできない。無数の魔法少女の集積体である宝石を埋め込まれれば、身体は本能的にそれを汲み上げて叶えようとするだろう。先の襲撃でもそうだった筈だ。果たしてその時、彼女は何を見たのか。

 志半ばにして無念の内に斃され、それでもなお残る人類を救わんとする願望、愛。だが亡霊と化してまで残る願望が純粋なものである筈がない。自意識を喪ってまで魂にこびりついて、無念と溶け合って捻じれに捻じれ、歪みに歪んだ()()()()()()()()()。それは幼い精神にとっては、きっと猛毒だ。

 遥は半神であっても聖杯ではない。故にその苦痛を肩代わりしてやることはできない。遥にできることは戦うことだけだ。だが戦うことしかできずとも、戦うことで為せることはある。

 眠るイリヤの頭をひと撫でしてから街の外で待機状態にしていた装甲騎兵に指令を飛ばし、城に向かわせる。そうして到着を待っていると、ルビーが遥に問いを投げた。

 

『遥さんは……これからどうするつもりなんですか?』

「決まってる。全ての魔女を斃す。勿論ファースト・レディもだ。ヤツを斃して、その野望も、この固有結界も、全て破壊する……!!」

 

 総てを救うなど、遥には不可能だ。レディに利用された魔法少女や、ましてやレディまで救うことなど遥にはできない。終わったもの、救われないまま朽ち果てたものは救えない。だからこそ、今在るものだけはせめて守ってみせよう。

 戦うことしかできない男には――それだけしか、許されていないのだから。

 




 魔女ならたとえロリだろうが斃す覚悟を決めた遥くん。魔女絶対殺すマン。
 既にお分かりかと思いますが、一応補足しておきますと『英霊剣豪≒魔女』という感じです。ファースト・レディ版英霊剣豪が魔女とでもお考え下さい。


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第70話 夢中サイコティック

 魔法少女。それは文字通り魔術を超えた神秘、現代文明では決して再現できない特級の不条理である魔法を自由自在に揮い、世の為人の為に日々強大な悪と戦う少女のことであり、事実としてそれは間違っていない。妙なステッキと契約するのであれ、腹に一物抱えた怪生物の口車に乗せられるのであれ、人々の生活を脅かすモノと戦うというその一点だけは変わらない。

 しかし人々が抱くイメージと実際の魔法少女の間にある決定的な差がひとつ。それは実際の魔法少女とは創作の中で語られるそれらのような華やかさは何処にもない、という点だ。彼女らは決して人々の目に触れないまま、誰に感謝される訳でもなく只管に戦い続けるしかない。

 何と無慈悲な話であろうか。しかしそれも致し方ないことではあるのだ。いかな魔術では為し得ぬ軌跡を起こす魔法であろうと、それが魔術の延長線上にある以上は大衆の目に触れてしまえば効力を減じるという特性から逃れることはできない。彼女らが戦うということはつまり、人の目に触れないことが最前提となる。

 それでも、彼女らは構わなかった。たとえ誰に感謝されずとも、自分たちの行いが、戦いが愛する人々の営みを守っている。笑顔を守っている。その事実だけで彼女らは報われていたのだ。何故なら、それこそが彼女らにとって最大の望みであったのだから。

 しかしこの世の理は盛者必衰。いくら魔法という絶大な力と人々のために戦うという正義があるのだとしても、たかがそれだけの要素で絶対の勝利が保障されることはない。彼女らの戦いが大規模になればなる程に、彼女らの行いは隠しきれなくなっていく。誰しもがイリヤたちのように魔術協会や聖堂教会のバックアップがある訳ではないのだ。

 そして何の力もない人々にとって、魔法少女だろうが巨悪だろうが超常的な力を持つ脅威であることに違いはない。今自分らの生活と生命を守っているのだとしても、この先も守ってくれるとは限らない。いずれ自分たちに牙を剥くことがないと、どうして言い切ることができようか。

 それを薄情だと責める権利は誰にもない。人々が創作の上に存在する魔法少女に感情移入できるのはあくまでも第三者視点、そもそも違う世界という絶対的安全圏から彼女らの立場を知っているからであって、身近で信用のおけない者が絶大な力を揮っているという状況は安心感ではなく不安しか齎すことはない。

 故に排斥する。攻撃する。得体の知れない強大な存在から、自らの生命を守るために。大切な人を守るために。力を持つか持たないかという違いはあれど、その行動原理は魔法少女と似通っている。

 対して、魔法少女は人々を攻撃することができない。攻撃する手段も自衛する手段もあるのに、今まで自らが歩んできた道程と抱く信念を裏切りたくないがために、彼女らは決して抵抗することをしない。

 そうして彼女らは排斥される中で思うのだ。何故、と。自分たちの行いが決して人々に感謝されるものではないとは分かっていても、排斥される理由までもを納得することはできない。だがその思いもいずれは変わっていき、その果てに彼女らはこう思うようになる。

 自分たちが斃すべきは人々の生命を脅かす敵などではなかった。自分たちが救うべきは人間そのものなどではなかった。本当に救うべきは、糾すべきは人間の中に潜む悪性。彼女らのように他人を心底から信用することもできず、何も知らないまま排斥しようとする醜さだったのだ、と。

 それは絶望ではない。それまでの希望を失い伽藍洞になった魔法少女の心を満たす、妄執という名の希望だ。けれど妄執を果たす前に彼女らは世界から排斥されて、しかしレディの固有結界はそんな魔法少女を掬い上げる。

 だがレディの固有結界――〝夢幻の墓標(エンド・サクリファイス)〟は魔法少女同士を戦わせる戦場である。そして元の世界に居場所を失くした彼女らに行くべき場所など他になく、戦い合いながら彼女らは少しずつ絶望に染まっていく。結局の所、自分らも排斥した側の人間とそう変わらない。助かりたいがために理解し合うこともなく他者を排斥する救いがたい悪性を内包した獣なのだ。それでも妄執に取り憑かれた彼女らに諦めるという選択肢は既になく、いずれ誰もが同じ結論に辿り着く。

 最早人間の悪性は如何ともし難い。本来人々を救う側である者にも悪性がある以上、人間全てから悪性を取り除くことは不可能なのだ。だが悪性のせいで悲劇が起きるのなら、魔法少女はこれを救わなければならない。堂々巡りだ。ならば、どうするか。答えはひとつしかあるまい。

 人間がいる限り、嘆きは終わらない。人間から悪性を取り除くことができないのなら、永久に悲しみが消えることはない。ならば、全ての生命を終わらせよう。ありとあらゆる世界の終焉によって嘆きも悲しみも悉くを終わらせることで、逆説を以て全てを救おう。

 

 ――全ての嘆き(いのち)に終焉を。ヒトという生命体は、救済の定義さえ間違えた。

 

「ん……」

 

 イリヤが目を覚ます。それまで眠るように意識を失っていたというのに強く残る疲労感のためにもう一度眠りそうになるのを堪えて目を擦り、最初に視界に入ったのは木組みの部屋。どうやら相当に古いらしく、一部がかなり劣化している。だがそれ以外はまるで新品のようで、その様はまさに不出来なパッチワークだ。

 周囲にあるのは嫌に新しく見える家具。イリヤが寝かされていたのはどうやらベッドであるらしいが、寝惚けた意識では何故眠っていたのかさえ判然としなくて、しかし思い返そうと記憶を掘り起こしてすぐにそれは出てきた。

 既に死した魔法少女たちの怨嗟の声。彼女らが辿った道程と、正義が無自覚なまま邪悪へと堕ちていく記憶。聖杯としての機能の半分を喪ったからだであっても押し寄せてくる妄執の濁流。今は宝石を埋め込まれていない筈なのに思い出すだけでも酷い苦痛で、イリヤを思わず震える身体を抱きしめた。

 あまりの苦痛に歯ががちがちと音を鳴らす。身体の震えは止まらなくて、室温に反して体感温度はひどく低い。何より、耐え難い心細さがイリヤの心を責め苛んでいる。そこへ、何者かの足音。

 

「イリヤ、目が覚めたのか。身体の調子はどうだ? 何か問題があるようなら……」

「ハ、ハルカさんっ……!」

 

 遥の言葉を最後まで聞くこともなく、心細さによる緊張から急に解き放たれたイリヤが遥に抱き着いた。窮地においては群を抜いた精神の強さを見せるイリヤが、まるで親に縋る子のように。

 遥は一瞬それに面食らったような表情をずるも、すぐにある程度合点がいったように微笑んでイリヤの頭を撫でる。それは妹を慰める兄のようであり、娘をあやす父親のようでもある。もしもこの場に他の者がいれば、手慣れているという印象を抱いたことだろう。事実として、それは間違っていない。不安に怯える幼子をあやすことは、遥は何度もしてきた。

 イリヤが見たものが何であるかは、遥にも大方想像が付く。レディがアリスに埋め込んでいた宝石に集積していたものが魔法少女の魂、その残留物である想念と魔力であるとするならば、その妄執や失墜の記憶も内包していた筈だ。それこそ、数えきれない程に膨大な数の。それを突き込まれ、本能故に肉体がそれを叶えようとするイリヤはその副作用として内包されていた記憶を見せられたというのは想像に難くない。その中には有益な情報も、あるにはあるだろう。

 だが遥はそれを聞きだすようなことはしない。イリヤが自ら話すというのであれば止めることはしないが、無理に聞き出すというのは激しいストレスを伴う。それを強いるというのは、遥にはできない。経験上、それが悪手であると知っているのだ。

 故にそのまま遥は何も言わずにイリヤが落ち着くまで慰めるだけだ。異世界に迷い込み、相棒とも引き離されてしまった今のイリヤに、頼ることができる相手はルビーと遥だけしかいないのだから。そうでなくとも、遥は今まで彼自身が辿ってきた道程を否定しないために、それ以前に習慣的にイリヤから頼られることを拒まないだろう。

 しばらくそうしているうちに少しは落ち着いたようで、若干目の辺りが腫れた様子のイリヤが遥から離れた。遥はあえてそこを突っ込まないことにして、机の上に置いていたものをイリヤに投げ渡す。

 

「菓子の国から適当に取ってきたものだ。食べておくといい。栄養バランスは最悪だが、少なくとも腹は膨れる」

「うん、ありがと……ハルカさんは食べないの?」

「俺はもう喰った。それに、最悪俺は何も喰わなくても生活できる。……それで、今の状況だが――」

 

 イリヤが食事、というよりも軽食をしている間に簡潔に状況説明をしていく遥。今彼らがいるのはお菓子の国ではなくまた別の、一面に海が広がり島が点々としている海洋主体の領域。魔法紳士ふたりの撤退を確認した後に遥は気絶したイリヤも装甲騎兵に乗せて平原を越え、この領域を発見したのだ。

 彼らが乗っている船はその海岸に打ち上げられていたものを遥が魔術で可能な限り修復したものだが、彼はあくまでも元から船に施されていた朽ちかけの術式を修繕したに過ぎない。恐らくは元々この国を支配する魔女と戦おうとした魔法少女のものだったのだろう。

 初め操舵は遥が自身の持つ水を操る異能で何とかするつもりだったのだが、どうやらルビーにはデフォルトで操舵機能が搭載されているらしく、ルビーに任せている状態にある。目的地は特になし。当然だ。遥らは敵が何処にいるかも分かっていないのだから。

 だが、この海が何らかの魔女の支配する領域である以上は魔女との接敵は避けられまい。加えてレディもまた魔女が内包する宝石の回収を狙っているのだから、本人か魔法紳士が来ることはまず間違いない。故に遥は可能な限り早く魔女に接敵し、短期決戦を行う必要がある。遥がそう言うと、おずおずといった調子でイリヤが質問を返した。

 

「ねぇ、ハルカさん……魔女って必ず斃さないといけないのかな?」

「助けられないのか……そう考えているなら、その期待は捨てておけ。ヤツらはもうどうあっても救えない。そうだな……たとえばゾンビゲームでは、ゾンビに噛まれた仲間は治せないことが多いだろ? 苦悩葛藤しつつも結局そのまま射殺だ。つまりはそういうコトだ。終わったモノは救えないんだよ」

 

 遥のたとえはまるで魔術師らしくないものではあるけれど、それ故にイリヤにもイメージしやすく彼女は遥の弁に反論することができなかった。魔女がどういった存在であるかは、既にイリヤも何となくではあるが分かっている。要はあれはサーヴァントの死体を宿業の力で無理矢理動かしているに過ぎないモノ。つまりはサーヴァントのゾンビとでも言うべきものだ。

 そして現実とはそう優しく甘いものではない。ゲームなどでは死んだ人間をコマンドひとつで蘇生魔法や蘇生道具を使って完全な形で生き返らせることができるけれど、現実にそんなことをできる筈がない。よしんばできたとして、きっとそこにあるのはその人の形をした別のナニカだ。それはまさにゾンビとしか言いようがないだろう。

 それこそ魔法であれば死者の完全な蘇生も叶うだろうが、魔法とはそうおいそれと使うことができるものではない。そもそも魔女とは元はサーヴァント、死者だ。既に死者として完結している存在をもう一度殺し、それを傀儡としたものを救おうと最終的に再び死が訪れることに違いはない。いや、そもそもとして魔女を動かしているのはその英霊本人とはとても言い難い程に歪み果てている。それを救って、後に残るものはきっと何もない。それはイリヤにも理解できている。理解できてはいるが、感情では納得したくないのだ。魔女に残されたレディの支配から逃れる方法が、再び死ぬこと以外にないなど。悲しすぎるよ、と呟くイリヤに遥は努めて優しく語り掛ける。

 

「確かに死しか救いがないなんて悲しすぎる。それは俺にも分かる。だがな、()()()()()()()()()()()()()。皆救われて、皆幸せなんてことは在り得ない。魔女のように生きているだけで災厄を撒き散らすヤツだって珍しくないんだよ」

 

 皆幸せに生きることができて、皆救われる優しい世界。そんなものが本当にあるのならどれだけ良いことか。それは謂わば桃源郷、或いは理想郷(ユートピア)と言うべきものだ。だがそんなものは在り得ない。遥の言うように、世界には生きているだけで周囲に災厄を齎す存在もある。考えようによっては遥もそのひとつだ。

 ある意味で、元から世界は皆が幸せになることがないように出来ているとも言える。抑止力が幸福の席から零れるべき人間を選定するまでもなく、世界には自然に幸福の席から零れてしまう人間がいる。魔女となってしまったサーヴァントはそういう存在とも言えるのだ。幸福の席から零れ落ちて、それでもなお周囲を不幸にしてでもしがみつこうとしている。故に、叩き落とさねばならない。そうしなければ全てが不幸になるが故に。

 遥が椅子から立ち上がり、机に置いていたバイザーを装着する。そうなるともう遥の目は完全に隠れてしまって、彼がどう思っているのかを窺い知ることは難しい。

 

「イリヤ。魔女が出てきても、イリヤは前に出るな。ヤツらは俺が斃す。元々アレを殺せるのは俺だけらしいからな。イリヤが無駄に傷つく必要はないんだ」

 

 それだけ言って遥は船室から出て行く。イリヤは反射的にその後を追おうとするも、完全に回復している訳ではないらしくベッドから立ち上がって走ろうとした時点で足に力が入らずに倒れてしまった。遥が前線から遠ざけようとするまでもなく、少なくとも次の戦闘まではイリヤは戦うことができない。その事実にイリヤが歯噛みした時、彼女の耳朶をルビーの声が打った。

 

『えまーじぇんしー! えまーじぇんしーですよー!』

 


 

 遥たちが船に接近する敵性体の存在に気付いたのと殆ど同刻。そこから数キロ離れた座標にある巨大な帆船の上ではひとりの少女が自らが放った船の行く先を見つめながら優美な笑みを浮かべていた。その美しい薄紫色の髪と白いローブは、いかにも王侯貴族の類らしい高貴さがありながら、しかし笑顔には隠しきれぬ邪悪がある。

 視線の先で航行する船はただの帆船ではなく、その甲板には所狭しと竜牙兵が並び、更に先行するようにしてワイバーンが飛行している。船体には接触した船の装甲を腐食させる魔術が施された、まさに全体が凶器である兵器とでも言うべき船だ。

 続けて少女――レディが召喚したサーヴァントの1騎である『海原の魔女』こと〝メディア・リリィ〟は足元に並べたボトルシップを手に取り、それをえい、という可愛らしい掛け声と共に空中に放り投げる。すると瓶の内側に施されていた空間拡張の魔術が解除され、解放された船が巨大な波を起こしながら海上に着水した。その甲板には、やはり竜牙兵とワイバーンが満載されている。

 その様は現代で言う所の空母、或いは特攻のようでもある。予め襲撃してくる相手を圧倒的な戦力を放って叩き、あわよくば撃破、そうでなくとも疲弊させておくことで撃退を容易にしておく。それが海原の魔女たるメディアの戦法であった。

 海原の魔女メディア、と言うよりも彼女の元となった純正なメディア・リリィは魔術師(キャスター)のサーヴァントとしてはお世辞にも強いとは言えない。大人のメディアならともかく、少女期のメディアは治癒魔術に特化した魔術師だ。それでも現代の一般的な魔術師などは足元にも及ばないが、サーヴァントの戦闘とはそういう次元の話ではないのだ。

 だが一般的な魔術師よりも神代のそれに近しい存在である魔法少女らはメディアとて油断できる相手ではなかった。故に攻撃系の魔術を大して使わず召喚系の魔術を多用した戦法を執った。どんな相手でも疲弊させれば斃すのは容易であろう、と。

 最近は襲撃してくる魔法少女もめっきりと減ってこの戦法を使うのも久しぶりではあるが、その分攻撃用魔術ボトルシップも必要以上に量産することができた。場合によってはそれだけで斃すこともできるだろう。

 取り敢えずは3隻、無事に出航した事を確認してからメディアは上機嫌に鼻歌などを歌いながら船首部の壁から降り、船室に戻っていく。彼女の体重でさえ踏みしめる度に今にも壊れそうな音を立てる、最早彼女の魔術によってのみ帆船としての形を保っているそれ。腐食しきった船室のドアを開けると、そこにあったのは玉座とぬいぐるみであった。

 元々は豪奢な装飾が施されていたのであろう玉座はその装飾の殆どを喪い、今や酸化しにくい金だけが当時の華美を思わせる。だがそれよりも酷いのはそのぬいぐるみだ。初めは元になった人物をそのままデフォルメした筈の見た目は見る影もなく、布地は黒ずみ果てて片眼が取れ、毛髪は1本たとりて残ってはおらず至る所で裂傷から綿がはみ出ている。朽ちた玉座に壊れた人形が座っているその様は、どこかダークファンタジーのようですらあった。

 しかしメディアはそれを一切意に介していないかのように持ちあげ、抱きしめて頬ずりをする。しかし人形はそれに応える訳もなく、ただメディアのなすがままにされるだけだ。果たしてメディアの意識の中ではその光景がどう見えているかは、余人には分からない。だがメディアはまるで夢見る少女のような面持ちで、イアソンさま、と呼びかける。

 

「イアソンさま、新しい魔法少女が現れました。これでまた貴方の国を造るための材料を手に入れることができます」

 

 人形は答えない。ただボロボロの身体のまま、重力に従って四肢と頭を動かすだけだ。治癒魔術を得手とするメディアであれば直すこともできるだろうにそれをしないのは、きっと彼女の目には、耳にはそれが元のイアソンとして在るように感じられているからなのだろう。

 余人から見ればそれは壊れ、朽ち果てた人形でしかないけれど、メディアの意識の中ではそれはまだイアソンとしてある。イアソンとして動き、イアソンとして話し、ずっとメディアの望むイアソンとして振舞っている。海原の魔女は現実ではなく、彼女が望む夢の中で駆動している。

 魔女は純正のサーヴァントではなく、レディが埋め込んだ宿業の力によって死にながらにして動かされている、言わばアンデッドだ。その人格が元と同一である筈がない。魔女たちは今の姿となる際に何らかの霊基の歪みを抱えることになってしまったのだ。メディアの場合、それが精神疾患めいた欠落。

 メディアには健在なものとして見えているのは何もイアソンだけではない。彼女が乗っている朽ち果てた船、在りし日の威光の悉くを喪ったアルゴー船もまた、メディアの目には彼女の知るそれと同一に見えている。

 どれほどそうしていたのか、メディアは再びイアソンを玉座に座らせる。少しだけ待っていてくださいね、と言って微笑みながら船室から出ようとして、しかしその直前に轟音と衝撃が船を襲った。窓から外を見れば、船体程も直径のある深紫色の魔力の奔流が船を掠めていた。今となっては最早別物と化しているとはいえ、一応が英霊であるメディアがそれを見紛う筈がない。それは、聖剣の光だ。

 しかし聖剣の一撃はアルゴー船そのものを襲うことはなく、ただメディアの魔術で保護された船体にダメージを与えるだけで消えていく。尤も、仮に呑み込んだ所でメディアは再生するだけであるためそれは今回に限っては正しい判断だったのだが。

 慌てて船室から飛び出し、攻撃船を放った方を見遣るメディア。だがその視線の先にメディアの放った船の影はなく、海上にはその残骸と思しき木片が浮いている。更にその間を縫うようにして()()()()()()影がひとつ。その姿に、メディアが驚愕の声を漏らす。

 

「そんな……魔法少女じゃ、ない……!?」

 


 

時は少し遡る。アルゴー船から少し離れた位置にある船の上でメディアが放った攻撃船を初めに見つけたのはルビーであった。急いで船首部に駆け付け、遥もルビーの指す方をバイザーの望遠機能を使って見遣る。すると確かにそこには敵性体を満載した船があった。その数、およそ3隻。

 恐らく桜花零式のセンサが反応していないのは単純に索敵範囲外だからだろう。遥らの乗る船から敵攻撃船まではかなりの距離がある。見えているのは、あくまでも海上であるが故に遮蔽物がないからだ。

 だがこのままでは間違いなく接敵することになるだろう。いくら竜牙兵とワイバーンという低格の敵といえど、数が多ければ脅威とも成り得る。しかし事前に接近を察知しておいて手を打たない程、遥は莫迦ではない。相手が魔法少女だけだと侮ったな、と呟いて縁に手を掛ける。

 

『何をするつもりですか、遥さん!?』

「何って……迎撃だろ。『剣士(セイバー)』のクラスカード、また借りるぞ」

 

 それだけ言ってから縁を飛び越え、空中に身を躍らせる遥。下が海であるという状況を見れば、気が狂ったかとも思うだろう。遥の着水と同時に巻き起こる水しぶき。だが遥の姿は海中に没することなく、その足は大地を踏みしめるのと同様に海面をしっかと踏んでいた。

 元より遥は神核を受け継ぐ前であってもガイアによる改造の影響でその力の一端を異能として扱うことができた。水の上に立つというのはその〝水を操る〟という異能の応用であり、以前は反動のあったそれを今は反動を無視できる程度で使えるようになるまで遥は成長していた。

 それだけでは終わらない。海面に着水した遥はいつものように叢雲を抜刀するのではあく、ルビーを通してイリヤから借りたままの『剣士』のクラスカードを取り出した。そしてそれを頭上に掲げ、魔力を通す。使い方はイリヤが気を失っている間にルビーから聞き及んでいる。そうして己の魔力によってクラスカードが完全起動したことを感じ取り、遥が式句を唱えた。

 

「――夢幻召喚(インストール)

 

 瞬間、吹き荒れる魔力の暴風。その風に巻き上げられた海水がヴェールのように遥の姿を覆い隠す。いや、それは完全に自然発生的なものではなく遥の作為的な部分もあるのかも知れない。その様はどこか、特撮などの変身シーンのようでもある。

 やがて内側から破裂するようにして水のヴェールが弾け、遥の姿が露わになる。その姿はそれまでのオルテナウスを纏った科学の騎士といったものではなく、黒騎士とでも形容できるものであった。鎧の形状はアルトリアのそれを男性用にしたかのようで、顔には細身の黒いバイザーを装着している。手に執る剣は聖剣エクスカリバーそのものではなく、黒く魔に堕ちたそれに近い。俗に言うセイバー・オルタの姿だ。

 夢幻召喚(インストール)。英霊の座に繋がったクラスカード本来の使い方であり、英霊の一要素を写し取って使用者と置換する魔術である。顕現する側面は使用者によって異なり、遥の場合は反転状態のそれに近い姿として現れている。

 初めて使用したそれに感覚を馴染ませるようにして少し身体を動かす遥。本来夢幻召喚というものはステータスまで英霊に引っ張られるものだろうが、遥の場合は英霊よりも高位の存在を宿しているためかステータスは遥自身のそれに固定されているらしい。

 それを確認してから遥は船から離れた位置にまで移動し、敵攻撃船を一度に視界に捉える。そうして聖剣を一度空中に放ってから持ち替え、剣先を背後へ。腰を落とし、聖剣に魔力を叩き込む。

 

「卑王鉄槌。極光は反転する。光を呑め―――!」

 

 その祝詞に応えるようにして聖剣が遠慮もなく遥の魔術回路から魔力を引きずり出し、喰らった魔力を闇の奔流として束ねあげる。それだけでは飽き足らず聖剣が周囲のマナを全て吸い上げて、辺り一帯のマナが一時的な枯渇状態へと陥った。

 対して聖剣はその暴威を一切抑制することなく全て収束、及び加速し、その刀身から生み出される星の息吹は黄金の極光ではなく闇の暴威として現出する。それが最大出力にまで達した瞬間、遥が叫んだ。

 

約束された(エクスカリバー)――勝利の剣(モルガン)ッ!!」

 

 真名解放。斬り上げるような動作で撃ち出された星の息吹はまさに邪竜の咆哮のようですらある。海面はそれの秘める膨大な熱量のために一瞬で蒸発し、水蒸気の白い靄が立ち込める。闇の息吹はそれだけでは止まらずに敵船3隻を海の藻屑と化さしめ、母船の横を掠めていった。

 目的である敵攻撃船の破壊を確認し、聖剣の解放を停止。間髪入れずに遥は脚部に強化魔術を施し、異能とアルトリアの霊基によって齎された妖精の加護を以て海上を駆けだした。敵母船からは魔術砲が飛来するが、その全てを聖剣の一刀を以て斬り裂いて接近していく。

 そうして見えてきた船の有様は最早船としての形を保っていることすらも不自然な程に腐食していて、その幽霊船すら生易しい様はいっそ不気味ですらあった。できれば足を踏み入れたくない気持ちを抑えて跳躍し、甲板に侵入。同時に放たれた魔力砲をエクスカリバーの魔力斬撃で相殺する。

 果たしてそこにいたのはおおよそ腐食が進み、至る所に虫がたかり苔が生えている船には似つかわしくない可憐な少女。手に執る杖には月の意匠がある。その端整な顔にあるのは遥に対する激烈な敵意と殺意。

 

「私とイアソンさまのアルゴー船に土足で上がり込むなんて……何者ですか、貴方は!」

「俺が何者か……か。そんなコト、答える義理はない。だが、あえて答えるなら……通りすがりの魔術師だ。覚えておけ!」

 

 吐き捨てるように遥がそう言い放つと同時、メディアが魔術砲を放つ。それを叢雲の抜刀からの一閃を以て迎え撃ち、遥は神剣と聖剣を構えて駆け出した。

 




 ルビーのエマージェンシーがひらがなになっているのは別に変換忘れではありませんので悪しからず。ところで、大人メディアでも近接戦では現代の魔術師に敗北するのにリリィが近接職に勝てる確率などあるのでしょうか。

『物語の魔女』だとか『海原の魔女』のような名前はその英霊そのものではなく魔女としての名前とでもお考え下さい。英霊剣豪における地獄の名前的な。


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第71話 情愛エタニティ

 ――遥は知らないことだが。とある世界線で行われた第五次聖杯戦争に『魔術師(キャスター)』として召喚されたメディアは持ち前の類稀な魔術の腕前や策略によって有利に事を進めていたものの、最終的にはサーヴァントを奪い無力化したと侮っていた敵マスターから接近戦に持ち込まれて致命傷を負わされ、味方に引き入れたと思っていたアーチャーの裏切りから己がマスターを守って果てたという。

 さらに言えば、遥が夢幻召喚(インストール)した英霊アルトリア・ペンドラゴンの対魔力はAランクである。これは全英霊の中でもトップクラスの高さであり、神代の魔術ですらそれが魔術である以上はアルトリアに傷を付けることは難しい。魔術でアルトリアを傷つけるには、それこそメディアと同等の魔術師でも工房を入念に構築したうえで大量の貯蔵魔力や礼装が必要になる。

 詰まる所、アルトリアという英霊は魔術師相手に圧倒的なアドバンテージを持つ。それは夢幻召喚によって一時的にアルトリアの霊基を獲得した遥も同様だ。よしんばその対魔力を貫通できる魔術を容易できたとして、遥の強さは何もアルトリアの霊基由来のものだけではない。そもそもアルトリアの霊基は遥にとって外付けのオプションのようなものでしかないのだから。

 対してメディアは典型的な魔術師であり、それ以外の攻撃手段を持たない。大人の姿であればAランクの対魔力を超える魔術も或いは使えるのかも知れないが、神代の魔術師としては未熟な少女期(リリィ)の姿ではそれも不可能に等しい。

 故に、その結果は必然であった。元よりアルトリアを夢幻召喚した遥とメディアの間には埋め難い圧倒的な性能差があったのだから。いや、それ以前に近接戦闘を極めて不得手とするメディアは近接戦において神代の英雄にすら匹敵する素の遥に対しても相性が悪い。

 遥の接近を牽制するようにして魔杖を構え、浅い呼吸を繰り返すメディア。見ればその右手は根本から断たれ、しかしその断面は異様に蠢きながら再生しつつあった。いくら致命傷めいた外傷であっても、魔女は霊核を破壊されない限りは無限に再生するのだ。それはつまり、回復中のダメージさえ注意すれば凡そのダメージは無視できるということでもある。

 しかしメディアの表情は余裕のあるそれではなく、まるで天敵に追い詰められたかのようなそれだ。対して数十メートル離れた位置にいる遥は能面のような無表情を貫いたまま、右手に天叢雲剣を、左手にエクスカリバーを握ってメディアとの距離を詰める。

 一度大きく息を吐いてから現代人には理解しようもない神代の言葉で詠唱を紡ぐメディア。そうして彼女の背後の空間に展開したのは無数の複雑怪奇極まる魔法陣。それに収束した魔力が幾条もの閃光となり、遥を襲う。

 1条1条が人間ひとりを屠って余りある魔力砲の雨。だがそれらは遥に着弾する前に不可視の障壁に阻まれたかのように霧散する。それは遥本人の力ではなく、アルトリアの持つ対魔力による作用だ。

 

「……あまり気分が良いものじゃねぇな。他人からの借り物の力で戦うというのは」

 

 遥は魔術師である以前に剣士であると己を規定している。それ故にいくら利用できるものは全て利用すると決めてはいても、借り物の力で相手を追い詰めるというのは己を自己の力のみで戦うことができない弱者としているかのようであまり気持ちの良いものではなかった。

 だが使うことができるものをあえて封じる程、遥はメディアを侮っている訳ではない。私情を切り捨て標的のみに集中し、二刀を構える。その視線の先でメディアは再び魔術を詠唱。遥の周囲に竜牙兵が召喚される。

 それらはその手に持つ剣や槍などの得物を振り上げて遥に襲い掛かるも、彼はエクスカリバーに魔力を充填することで発生させた闇色の刃を一閃。薙ぎ払われた竜牙兵は秘める神秘の差に耐えることができずにその身体を四散させた。

 それでも続けて魔術を行使しようと詠唱を放つメディア。させじと遥はエクスカリバーを上空に放り投げ、空いた左手に収束させた魔力を魔力放出のスキルによって魔力撃として撃ち出し、メディアを吹き飛ばした。その華奢な身体が船室の扉に叩きつけられ、腐食の激しいそれが崩壊してメディアが船室に転がる。

 その衝撃で玉座から落ちてしまったのか、メディアの視線の先に転がってきたのはイアソン人形の残骸。果たしてメディアの目にその光景はどのように映っているのか。そんなことは遥に関知する所ではなく、よしんば知っていたとしても同情することはない。

 再生したばかりの右手でイアソン人形を掴み、床に落ちた杖を左手に握って立ち上がろうとするメディア。だがそうして立ち上がった次の瞬間、無慈悲な黄金の刃が吸い込まれるようにメディアの左胸に到達、そのまま心臓を真っ向から貫いた。

 茫然と自身の胸を貫く刃を見下ろすメディア。その刃は本来壊せない筈の彼女の霊核を貫き、完全に破壊していた。気管を損傷したのか、或いは消化管を逆流してきたのか、メディアが吐血する。徐々に光を失っていくその瞳が見ているのは、彼女の命を再び終わらせた下手人である遥だ。

 

「解ってるよ、アンタらもレディの被害者だってコトは。だが今は共犯者だ。それに、俺にできるコトは、無理矢理続けられた命をきちんと終わらせてやるくらいしかねぇんだ」

 

 メディアにはレディに召喚されるに際して、あらゆるサーヴァントの召喚システムに共通する性質として座から多くの言語に関する情報を入力されている。故に日本語についても彼女は知っている筈で、しかし遥の言葉は彼女の耳に未知の言語のように響いた。

 何故なら彼女には共犯者である意識も、それどころか被害者である意識すらもないのだ。彼女はレディの手によって霊基を歪められたという記憶も認識もない。今のメディアにとっては今が全てであり、それこそがレディに利用されていることの証左であった。

 だがそれを理解することもないままメディアの身体は魔力の光に還って霧散し、その体内からアリスのそれとは異なる宝石が現れた。夢幻召喚を解除してから遥がそれを回収し、直後、船体が大きく揺れる。

 一瞬敵襲かとも考えた遥だが、それにしてはあまりに揺れが小規模で、彼はすぐにそれがただアルゴー船の船体が崩壊しつつあるだけだと気づいた。元々船の形を保っていることさえ難しい程に腐食していたものを魔術で無理に繕っていたのだ。術者の消滅によってその魔術が失効すれば、船体が壊れていくのも必然である。

 崩れていくアルゴー船。そこから脱出しようとした時、遥は不意に足元に人形が転がっていることに気づいた。メディアばかりに気を取られていたために気付いていなかったが、遥は直感的にその人形が誰を模したものであるかと察して踵を返し、人形を玉座に座らせた。

 神話に曰く、イアソンという英霊は権威や名声といった彼が求め続けたものおおよそ全てを喪い、放浪の果てに朽ち果てたアルゴー船の残骸の下敷きになってその生涯を終えたという。つまり、これはその再現だ。最早中身がなくなっていてただの人形になっているのだとしても、イアソンである以上はアルゴー船と共に終わらせてやるのが情けというものだろう。

 そうしてすぐに脱出し、海面に立ってアルゴー船の崩壊を見ている遥。それは転じて、魔女であったメディアの最期でもある。遥はまたひとつ、誰かの無念を、夢を壊したのだ。たとえ魔女が悪であるのだとしても、その事実が変わる訳ではない。決して晴れない鬱屈とした思いのままアルゴー船の崩壊を見届け、船に戻ろうとする踵を返す遥。だがその瞬間、ノイズに埋め尽くされた通信をオルテナウスが受信した。

 

『……は、る……ん……かい……!?』

「その声……ロマンか!? 受信はできているが、何を言っているか全く分からん!」

 

 唐突に受信したカルデアからの通信。そこから聞こえてきたのはノイズかりで正確には分からないが、恐らくはロマニのものと思われる声。それに遥は言葉を返すが、この様子では遥の言葉も殆どカルデア側には聞こえていないと思われる。

 レイシフト直後は全く繋がらなかった通信が今になって極めて脆弱であっても繋がったのは、タイミングからしてメディアを斃したことが関係しているのだろう。或いは魔女をふたり斃したことで支配権、勢力圏のようなものが遥たちの側に傾いているのだろうか。

 だがそれではまだ不十分なのか、通信は途切れ途切れで、聞こえてくる音声もノイズに塗れて何を言っているのかが全く分からない。遥がこの場にいる時点で存在証明はできている、つまりは生存確認はできているのだからそれ以外のことを伝えようとしているのか。或いはただ通信が繋がらず焦っているのか。

 どちらでも遥には構わない。彼は何とか通信を確立させようとしてオルテナウスの設定を弄るなどして、しかしより電波強度の強い通信が届いたことでカルデアとの通信は弾かれてしまった。そのことに慌てる暇もなく、遥の耳朶を声が打つ。

 

『遥さん、急いで戻ってきてくださーい! 敵襲です!』

「なっ……あぁ、クソッ! 次から次へと……!」

 


 

 ――遥との間に繋がっていた通信が途絶する。どちらかから切断したのではなく、何らかの不可抗力的な要因によって無理矢理に切断されたのだ。オペレーターやロマニは再び何とか通信を繋げようとするも、一向に再接続される気配はない。しばらく作業を続けてから、ロマニが溜息を吐いて椅子に深く腰を下ろす。

 桜花零式の最終実機試験を行う筈だった遥が謎の突発的レイシフトに巻き込まれてから()()()。現在、カルデアから観測できている遥の情報は取り敢えずは確かに存在しているということのみであった。それ以外は全く不明、時空の座標すら分からないという始末である。

 たった数秒の通信だったが兎に角健在であることは確認できた。それは良いのだが、置かれた状況が分からないというのは嫌に不安を煽る。通信が途絶している理由すらよく分かっていないままなのだから余計にである。

 何度かシバの角度を変えて遥がいそうな座標を観測しているものの、遥の姿は全く見当たらない。前準備なしでのレイシフトだったため紀元前ではないことは確かだが、紀元後でも人類の歴史は2000年以上続いているのだ。いかなカルデアスとシバであれ、地球上全ての2000年を虱潰しに探し回るには相当な時間がかかる。

 お手上げだ、とばかりに頭を掻き、ため息を吐くロマニ。その横ではリアルタイムに観測結果が表示されるモニタにレオナルドが目を通しているが、表情からして結果は芳しくないらしい。そんなレオナルドにロマニが問いを投げる。

 

「今回の件、原因は何だと思う、レオナルド?」

「さぁね。いかに天才の私でも、手がかりがないのでは考察しようもない。だが……今回、こちら側の設定に不備はなかった。しかし遥くんは微小特異点にレイシフトしていない。特異点Fの時と違って。……突飛な発想かも知れないけど、今回の一件はもしかしたら外部からの干渉によるものかもね」

「外部干渉による強制レイシフトってことかい……!? でも、そんなコトが……」

 

 ロマニの驚愕は尤もだ。現状、カルデアはカルデアスの磁場によって人理焼却から免れている一種の特異点のようなものである。その性質と人類史に発生した7つの特異点の存在により、黒幕からの干渉が免れている状態だと考えられている。

 つまり第一から第七までの特異点が消去されない限り、カルデア側から黒幕への干渉ができない代わりに逆に干渉されることもない。だが今回の一件がレオナルドの想像通りならその安全神話が崩壊するどころか最初から全くの机上の空論だったということになってしまう。

 今回のそれと似た事例としてはレオナルドの言う通り特異点Fが挙げられるが、特異点Fの際はレイシフトの結果初めから狙っていた特異点にレイシフトしたのに対して今回はそうではない。つまり似てはいても根本から問題が異なるのだ。

 だが仮に外部干渉があったとしても課題は残る。カルデアの座標特定だけではない。カルデアスとシバを強制稼働させるためのシステムへの介入やそれをカルデア側に悟らせないための隠蔽作業、更にログにも残さない情報改竄など、今回のそれはあまりに不可能犯罪めいている。

 いや、実の所レオナルドの頭の中にはある仮設が出来上がっているのだが、未だ確証を得ることができず想像の域を脱していない以上、それを語るのは余計に場を混乱させるだけだ。加えてそれが仮に正解であったとしても、打つことができる手があるという訳でもない。

 そうしてロマニとレオナルドが殆ど同時に何度目かのため息を吐いた時、彼らの後方にある管制室の出入り口が開いた。だがその間にも考え事をしていたロマニはそれに気づかず、しかしレオナルドはサーヴァントであるが故にその存在に気付いた。

 

「手詰まり、かなぁ……向こうの状況が把握できない以上、せめてひとりでも戦力を増やせれば良いんだけど……」

「――そうですか。ではその役目、私にお任せいただけないでしょうか?」

 

 唐突に投げかけられた鈴を転がすような声。それの主に気付いていなかったロマニは一瞬椅子から転げ落ちそうな程に驚愕するも、すぐに精神をゆるふわ医療班チーフのそれから真面目な所長代理としてのそれに戻した。

 果たして、そこにいたのは遥がローマにて召喚したサーヴァントであり、遥の前世とも言えるスサノオの妻である『魔術師(キャスター)』クシナダヒメであった。容姿は温和な少女のそれであるもののその気配には神霊特有の圧力があり、ロマニが思わず居住まいを正す。

 しかし神性故の圧力を除けばクシナダの気性は神霊という存在の中では異質なものだと言えよう。天津神のような上位者ではなく殆ど人間と同様に暮らしていた国津神だからなのか、或いは本人の気質の問題なのか、神霊という上位存在でありながらロマニらに対する態度も聊か腰が低めなきらいがあった。

 

「私にお任せを……とは言うけど、具体的にはどうする気だい? 遥くんの座標が分からなければサーヴァントを送ることも……」

「他の方であればそうでしょう。しかし私の霊基には遥様……正確には遥様の魂と引き合うという性質があります。それを利用すれば、或いは」

 

 無謀だ。口には出さずとも、それがレオナルドの考えだった。いくらクシナダの霊基に遥と引き合うという性質があるのだとしても、目標である遥の座標が定まっていない以上絶対に辿り着くという保証はない。クシナダのそれは謂わば、潮の流れだけを頼りにボトルメールを狙った地域の狙った人間に届けると言っているに等しい。

 しかし他に打つことができる方策がないというのもまた事実。加えてカルデアの召喚システムにより契約を結んだサーヴァントは消滅したとしても霊基を再構築できるのだから、失敗して意味消失しても引き戻せるが、それもマスターである遥がカルデアに帰還してからになる。

 成功する確率は完全に未知数。そのうえ、試行可能回数は1回のみ。あまりにも分の悪い賭けだ。普通ならば行ってはならない程に、それはあまりに不確定要素が多すぎる。だがその手段以外に頼ることができないのもまた確かで、最終的にロマニはクシナダに向けて頭を下げた。

 

「済まない。危険な賭けだとは分かっているけど……遥くんを頼む。彼の力になってあげて欲しい」

「あ、頭を上げてください! ロマニさんが謝るようなコトではありませんし……何より、貴方が却下したとしても私は独断で行動したでしょう。私は、今度こそあの方と共に在ると決めたのですから」

「おや、お熱いねぇ。それは、あれかな? 永遠の愛というヤツかな?」

 

 冷やかすようなレオナルドの声音。しかしクシナダはそれに顔を紅くするようなことも変に取り繕おうとすることもせず、ただ一度彼女(かれ)に向けて微笑みを返してからではまた後程、と言って管制室から去っていく。

 歴史には語られざる事実というものが必ずある。後世に生きる人間たちは伝えられた歴史をこそ真実を思い込むが、そこに語られる者たちは歴史を生きたのではなく彼らなりの〝今〟を生きていたのだ。故に歴史は全てではなく、クシナダにとってもまたそれは同様である。

 日本神話と呼称される物語群においてスサノオとクシナダはそう後の方まで登場する神霊ではない。三貴神の一角であるにも関わらず性別すら不明なツクヨミに比べればまだ良いかも知れないが、それでもスサノオは大国主とスセリビメの駆け落ち以降は殆ど登場せず、クシナダに至っては八岐大蛇絡みの逸話以外では登場しない始末である。

 故にふたりの()()について、現代人は何も知らない。それどころか歴史に語られていない以上は英霊たちですら知っている者は限られるだろう。少なくともカルデアではクシナダ以外には遥とタマモしかそれについては知るまい。自己犠牲めいたクシナダの覚悟はそれを由来とするものであった。

 管制室を後にしてレイシフトルームへと向かっていくクシナダ。だがそうして歩いている途中で、クシナダはとある人物の姿を見つけて立ち止まった。その人物――タマモは複雑な感情が籠った目でクシナダを見ている。

 

「行くんですか、クシナダ。遥さんの所に」

「ええ、勿論ですわ、お義姉様。誓いを果たすために、私はあの方と共に在らねばならないのです」

「そう。……それにしても、やっぱり私に対する態度が硬いですねぇ。そんなに私のコト、嫌いですか?」

 

 苦笑めいた表情で放たれたタマモの問いに、クシナダは言葉を返さない。ただ憮然とした表情のままでタマモの瞳を見返すだけだ。それは傍から見れば無視のようでもあるけれど、タマモにとっては何よりも雄弁にクシナダの答えを物語っているものであった。

 反英霊たる玉藻の前は天照大御神の分け御霊ではあるが、アマテラス本人ではない。聊か異なる部分もあるが、その関係はスサノオと遥のそれにも似ている。それはクシナダも分かってはいるが、どうにも彼女にはタマモへの悪印象が拭えなかった。

 それを根に持ちすぎだとか、分別がないだとかと言ってクシナダを責める権利は誰にもない。それだけのことを玉藻の前(アマテラス)はしでかしたのだから。もう話は終わりだとばかりにクシナダは歩を進め、しかしタマモの横を通り過ぎるその一瞬に口を開いた。

 

玉藻の前(あなた)が本当の意味で天照大御神(あの方)ではないことは分かっています。しかし、私は……遥様のように簡単にあの方と貴女を別人と割り切ることはできません。

 

 

 だって天照大御神(あなた)が――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 


 

 一度戦況をリセットすべく敵から間合いを取り、大きく息を吐いて呼吸を整えるイリヤ。その姿は常の魔法少女(カレイドライナー)としてのそれではなく、動きやすさを最優先にしたケルトの蒼い戦装束を纏い、因果逆転の呪いを内包する槍を携えている。『槍兵(ランサー)』のクラスカードを夢幻召喚しているのだ。

 そして彼女の視線の先十数メートル先にいるのはお菓子の国でもイリヤらを襲ってきた黒髭ことエドワード・ティーチと彼の宝具によって召喚された配下の低級霊が数十騎。イリヤは知らないことだが、その低級霊は本来彼の船の上でしか召喚できない筈のものであった。

 エドワードたちががイリヤの乗る船に攻め入ってきたのは今から数分前、遥が魔女を斃すために出て行ってから少し経った後のことであった。遥ではなくイリヤを狙ったのは単純に遥よりもイリヤの方が弱いと踏んだからだろう。或いは先の戦闘で遥の危険性を見たのか。

 だがエドワードにとって誤算だったのはクラスカードが何も英霊の宝具を召喚するだけのものではなかったということだ。夢幻召喚はその根本を置換魔術とするため劣化するのは否めないが、クー・フーリンのような大英雄の力であれば劣化していてもある程度互角に持ち込むことはできる。

 それでもイリヤの行為は単なる時間稼ぎにしかならない。いくら英霊の力を借り受けることができるとはいえ、それはあくまでも借り物でしかない。与えられただけの力は、自ら積み上げた力の前に敗れ去るが定めだ。趨勢がイリヤに傾くことは決してない。

 それ故にエドワードは余裕の笑みを絶やさない。すぐには攻め込まず相手の不安を煽ろうとする様は、まるで狩の最中に獲物を弄ぶ肉食獣ででもあるかのようだ。対するイリヤはこの一対多の状況をどう打破するべきか思案している。

 

「ホラホラ、サッサと諦めたらどうですかなぁ? 痛い目に遭うのは嫌でござろう? それにチミをここでコロコロするとあの男から宝石を奪うのが面倒になるの」

「ッ、この人……!!」

 

 エドワードは平素の口調こそひと昔前におけるステレオタイプのオタクのようであるが、その言葉の内容はあまりに邪悪であった。彼の言わんとすることはつまり、イリヤを人質として遥を脅し、彼が回収した宝石を奪おうとしているということだ。遥ではなくイリヤを狙ったのもそれを意図してのことだろう。

 最低限の労力で最大限の効果を出すと言えば聞こえは良いが、その実エドワードのしている行為は略奪に他ならない。海賊らしいと言えば海賊らしいが、イリヤの感性においては到底受け入れることができる行為ではない。

 しかしこのままでは遥が戻ってくるより早くにエドワードに捕まって利用されてしまう可能性がある。一応この状況を打開できる手はあるにはるのだが、いくら敵とはいえイリヤの目にエドワードは普通の人間とそう変わらない存在であるように見えていた。

 それでも斃せなければならないというのなら、終わらせなければならないというのなら、やるしかない。そう覚悟を決めてイリヤが朱槍を構え、しかしエドワードはそれを前にしても笑みを崩さない。

 

「戦う覚悟を決めたことは褒めてあげるデスよ? ――だがなぁ、戦場で迷えば死あるのみだぜッ!!」

 

 エドワードがそう言い放った次の瞬間、イリヤの背後に湧き上がる巨大な人影。エドワードの宝具によって召喚された彼の配下である。粗悪な曲刀(カトラス)を振り上げるそれの害意を感じ取ったイリヤは身を守るため反射的に槍を振るってそれを蹴散らすが、それはエドワードの狙いでもあった。

 イリヤが槍を振るうタイミングを見計らって駆け出していたエドワード。低級霊を蹴散らしたイリヤはそのままの勢いで槍を横薙ぎに振るうも、エドワードはそれを先読みしていたかのように鉤爪でその槍撃を受け止めた。間髪入れずに脇腹に叩き込まれた蹴撃によって吹き飛ばされ、そのダメージで強制的に夢幻召喚を解除されてしまう。

 容赦のない蹴撃の痛みに苦悶するイリヤ。魔法少女(カレイドライナー)に転身していなければ間違いなく肋骨が粉砕されていただろう。そんなイリヤを舐めるような視線で見ながら、エドワードは曲刀を手で弄んでいる。

 

「レディにはできるだけ傷つけるなって言われてるけどよォ……所詮人質だ、腕の1本や2本、捥いだって構いやしねぇよなッ!」

 

 殺意と敵意、害意の混じるその咆哮を放つと同時に、曲刀を構えてエドワードが駆け出す。それを視認したイリヤは何とかその間合いから脱しようとするも、痛みで反応が遅れてしまったがために間に合わない。

 万事休すか。それをイリヤが何の抵抗もなく受け入れる筈もなく、ステッキに魔力を収束させる。だがその魔力が魔力弾として放たれる寸前、横合いから突っ込んできた閃光が轟音と共にエドワードを吹き飛ばした。

 黒光りする金属質の装甲に、内部の機関部が駆動する音。手に取る刀はその刀身に神聖な黄金の輝きを宿している。まさしく科学と神秘の融合たるその姿は、遥のものに他ならない。だがその姿を見ても、イリヤの胸中に安堵は生まれなかった。

 遥の姿に何もおかしい所はない。纏うオルテナウスも、手に取る天叢雲剣も、イリヤの知るそれと全く同一だ。しかしその気配が違う。今までイリヤの前では優し気な気配を纏っていた遥が、今は強烈な怒りのプレッシャーを放っていた。

 

「ハルカさん……?」

「……下がっていろ、イリヤ。ヤツの相手は俺がする」

 

 遥と出会ってからさしたる時間を過ごしていないイリヤは聞いたことがないような、怒りを堪えた低い声。その威圧はイリヤに向けられたものではないにも関わらず二の句を継ぐことができず、ステッキを強く握り押し黙った。

 イリヤの方からエドワードらの方へ向き直り、エドワードや彼が召喚した配下を睨みつける遥。バイザー越しの視線であるからその目は見えない筈だがエドワードはその視線に込められた感情を悟って獰猛に嗤った。

 睨みあう遥とエドワード。その表情は片や笑みであり、片や怒りを隠す気のない真顔。しばらくそのまま睨みあったままで、しかし唐突に一瞬だけ遥が笑みを見せた。大凡笑みを齎すとは思えない感情を内包した、空虚な笑みを。

 

「随分と盛大なお出迎えじゃねぇか、黒髭。丁度良い。俺は今、この上なく機嫌が悪いんだ。だからさ……憂さ晴らしに付き合えよ。今度こそ、その息の根を止めてやる……!!」

「ハッ。いいぜェ、かかってこいよ。ぶっ殺してやるからよォ!!」

 

 互いに殺意を隠さずに咆哮し、駆け出す遥とエドワード。その間でぶつかり合った天叢雲剣と曲刀が、火花を散らした。




 しれっと言及しましたが、この世界観における月読命は男性の設定ですので悪しからず。


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第72話 再誕ロイヤリティ

 遥の命を刈り取らんと一対の凶刃が迫る。それらは見た目こそ至る所で刃毀れした粗悪な曲刀(カトラス)でしかないが、その実サーヴァントの宝具によって召喚されたものであるために半神でも当たりさえすれば屠るに十分な神秘を内包している。それが1本ではなく、同時に2本。

 遥はそれらの軌道を見切るとまず左側から迫る刃を手甲部の装甲で受け止め、間髪入れずに右手に握る叢雲で胴を薙ぎ払った。亡霊海賊の身体が真っ二つに割れ、抵抗すらできずに消滅する。続けて逆側から襲い掛かってきた亡霊を蹴撃で怯ませ、返す刃で首を刎ねて絶命させた。

 そこへ放たれるピストルの一成掃射。遥を取り囲むように展開した亡霊海賊とエドワード本人による、遥への集中砲火だ。その数はおよそ30を下るまい。それだけの人数でありながら掛け声もなしに射撃のタイミングのズレを無にできるのは、全員がエドワードによって統率されているからだろう。

 だが意図的に全く同一のタイミングで撃つことができるというのは、逆に言えばエドワードの意志如何で完璧にタイミングをずらすこともできるということだ。亡霊海賊らは自立して動くこともできるが、自我がないために基本的にエドワードからの指示に背くことはない。

 遥に向けて放たれる弾丸は第二波、第三波と更に増えていく。仮に叢雲で第一波を叩き落としたとしても後の弾丸全てを叩き落とすことはできまい。一応は装甲がある箇所は無視できるが、覆われていない部分の被弾は避けられない。そう判断した遥は叢雲を構えるのではなく全身に魔力を巡らせた。

 瞬間、吹き荒れた暴風が遥へと迫る弾丸の軌道悉くを捻じ曲げ、無理に運動エネルギーを奪われた弾丸が船上に散らばった。それは何も神風のように唐突に吹いたのではない。遥が自らの身体から魔力放出によって魔力を暴風の如き勢いで解き放ったのだ。

 金属質な音を立てながら床に散らばり、しばらく転がった後に魔力の光となって消滅する弾丸。3桁に届こうかというそれらが1発も用を為さなかったその光景を前にして、しかしエドワードは未だ余裕の笑みを消していなかった。

 エドワードは海賊というもののイメージの通りに欲求に忠実かつ豪放なようでいて、その本質は非常に慎重かつ冷静、更には頭の切れる男である。海賊らしくもない統制された戦法が遥に通用しないなどとうに推測できている。それでもあえてそうしたのは、()()だ。遥を怒らせるのではなく、此方にはおまえを前にしてもこれだけのことができるのだと、より相手に威圧を与えるための。

 それを知ってか知らずか、遥は全ての弾丸が地に落ちたと解るや叢雲を両手で強く握り、魔力を注ぎ込んだ。担い手の意志に応え、叢雲は喰らった魔力を加速させて黄金の刃と化さしめる。それを遥は叢雲を虚空に振るうと同時に撃ち出した。

 だがそれはエドワードに着弾することはなく、代わりに何人かの亡霊海賊が間に割って入ったことで途中で霧散してしまった。舌打ちを漏らす遥と、嗤うエドワード。エドワードに魔力が供給され、更には船の上にいる限りは彼の意志によって配下は無尽蔵に召喚できる。実際、今でもイリヤは少なからぬ亡霊を相手にしている。この特性がある限り、エドワードに遠距離攻撃を使ったとしても肉壁に阻まれてしまう。

 ならば、どうするか。そう考えそうになって、だがすぐに遥はその思考を放棄した。ここは船上、つまりはエドワードが最も得意とするフィールドである。下手に考えたとして、場の活用という点で言えば遥はエドワードには勝てない。故に遥にとっての最善策は考えて行動するのではなく、直感に従うことである。

 

「我が躰は焔――加速開始(イグニッション)!!」

 

 その詠唱によって遥の体内で煉獄の固有結界が起動し、励起したそれから漏れ出す焔が起動を感知して変形したオルテナウスの関節部から洩れ出す。結界によって外界から隔離された体内の時間流が数倍にまで加速した。

 続けての踏み込みと同時に脚から魔力をジェットのように噴射し、背部と脚部のバーニアと最大出力で吹かす。仙術の領域に至った歩法である極地に魔力放出、固有時制御、そしてバーニアによる物理的加速の後押しを加えた超神速。生半な英霊では補足することさえできない、神秘と科学の融合たる騎士にのみ許された超常である。

 その途中でも亡霊海賊は遥を阻まんとするが、その全てを遥は神速が齎すエネルギーと持ち前の剣腕を以て曲刀ごと斬り伏せていく。そうして駄目押しにもう一度踏み込み、エドワードに向けて叢雲を振り下ろした。

 だがサーヴァントの武練は自我無き亡霊のそれとは訳が違う。曲刀で遥の斬撃を受け止めたその刹那にエドワードは遥のそれが受け切れるものではないと悟り、受け流す方向へ転換した。甲板へと流された斬撃。その切っ先が突き刺さる。

 

「――馬鹿が」

 

 一言のみの罵声。遥の斬撃を受け流したエドワードはその動きに続けるようにして曲刀を袈裟懸けに振るう。だが遥は切っ先が甲板に埋まった状態でも力任せに刃を返し、木材を苦も無く切り裂いて叢雲を振り上げて曲刀を迎え撃った。神剣と曲刀の間で火花が散る。

 連続で撃ち合わされる神剣と曲刀。その度に甲高い金属音が鳴り響き、漏れ出した魔力が嵐のように吹き荒れる。だが剣士同士ならともかく片方がならず者であるのだからそのまま律儀に剣戟を続けている筈もない。

 遥の背筋を撫でる悪寒。今までの経験上それに逆らわない方が良いことを知っている遥は素直にそれに従って首を横に倒し、直後、その頬を弾丸が擦過した。皮膚が巻き込まれて剥がれ、真一文字に刻まれた傷から鮮血が滴る。

 だが遥はその傷を意に介することさえなく左手に固有結界から漏れ出す焔を収束させると、仕返しとばかりにエドワードの目前で解き放った。爆音。閃光。その衝撃で船の一部が吹き飛び、遥とエドワードが階下の船室に落下する。爆発の焔は船を構成する木材に燃え移り火事を引き起こすが、遥はそれを激流の魔力放出が生み出す水を撒き散らすことで鎮火した。

 身体に圧し掛かった木片と金属片を押し退け、立ち上がる遥。その周囲には爆発によるものであろう瓦礫が散乱している。その瓦礫の隙間から見えるのはエドワードの身体であろう。爆発の影響でその身体は大半が吹っ飛び、残っている箇所も酷い火傷を負っているように見える。

 しかし、()()()()()。最早サーヴァントですら尋常な霊基であれば絶命していてもおかしくはない程度のダメージを負っているというのに、未だ魔力反応が残っている。その様子から見て、恐らくは魔女と同様のものが埋め込まれているのだろう。ならばと叢雲で止めを刺そうとして、先にエドワードが動いた。

 

「ク、ハハ……結構効いたぜ、今のは……」

「……そいつはどうも。だが、肉片ひとつ残さないつもりだったんだけどな……」

 

 いくら遥の固有結界から生まれた焔は外部に出ても遥に殆ど影響を及ぼすことがないとはいえ、それは神秘による影響であって物理的影響はどうにもならない。故に遥に出せるのはあくまでも夜桜の封印魔術で防ぐことができる範囲でしかないが、それでもサーヴァント1騎を消し飛ばすには十分過ぎる威力である筈なのだ。

 その筈がエドワードは消し飛ばされるどころか生き残り、あまつさえ再生しているではないか。身体の圧し掛かる瓦礫を殴り飛ばし、蹴り飛ばし、エドワードが立つ。その身体には既に目立った傷はなく、殆ど元のままに再生していた。

 これがファースト・レディによって召喚されたサーヴァントの力。魔法少女らの魂を収穫する魔女以外にもそういったサーヴァントを用意していたのは、恐らく遥のように宿業を貫通して魔女を斃すことができる者が現れた場合のためだろう。そのために、魔法紳士は魔女よりも強化されている。

 銃声。何の前触れもなく超高速の抜き撃ち(クイックドロウ)によって放たれた弾丸はしかし、直感的に反応した遥が振るった叢雲の刃に断ち切られた。続けて遥もまた腰部装甲の格納部(ホルスター)からS&W(スミス・アンド・ウェッソン)M500を引き抜き、発砲。魔術による調整に加え霊基との同調処理による後押しを受け、サーヴァントであっても致命傷を負わせることができるその弾丸はしかし、エドワードが難なく回避したことで船室の壁を貫通するのみに留まった。

 だが叢雲以外で斃すことができないと解っている以上、それは初めから牽制という役目しか持たない。床が抜けるのではないかという程の踏み込みと、そこから放たれる超神速の刺突。エドワードは咄嗟に回避行動を執るが躱しきることができず、肩口に刃が突き刺さった。勢いを殺しきれずエドワードは後退って、それでも意地のみで叢雲を握る遥の腕を掴み、力任せに爆発によって壁に空いた穴に向けて投げ飛ばした。

 千切れ飛ぶエドワードの左腕。空中に投げ出される遥。だが遥はオルテナウスに搭載されたバーニアを動かして姿勢制御を行い、着地するように海面に着水。同時に海面を蹴って跳躍してエドワードに肉薄するや、その身体を切り裂かんと叢雲を振るった。

 エドワードの左腕は未だ治り切っていないものの右手に握る曲刀のみでそれを迎え撃ち、叢雲との間で火花を散らす。しかし隻腕とはいえ競り勝つのは当然地に足を着けているエドワードの方である。それを遥が分かっていない筈もなく、故に遥の狙いは競り勝つことではない。脚部バーニアを最大出力で駆動させて叢雲と曲刀の接触点を基点として無理矢理身体勢を反転、その勢いのままエドワードを蹴りつけて壁に叩きつけた。

 そこに振り下ろされる叢雲の刃。それをエドワードはようやく再生した左腕と共に両腕で握った曲刀で受けた。鍔迫り合い。至近距離で睨みあうふたりの顔を、火花が照らす。

 

「……答えろ、黒髭。おまえらは英霊だろうに、何故あの女に味方する!!」

「ハッ、ンなコト、テメェに教える義理はねぇなァ!」

「貴様ッ……!!」

 

 遥は既にレディの目的についておおよその見当はついている。あくまでもレディの敵でしかない遥が気づいているのだから、彼女の直接の配下である魔法紳士たちが知らない筈があるまい。遥はそう考えていて、そしてエドワードの反応からしてそれは間違いではなかろう。

 しかし英霊とは基本的に人理を守る存在である。人理の内において反英霊として扱われる者たちも悪によって人理の正義を証明した存在である以上、そのスタンスは変わらないと言って良いだろう。

 だが、魔法紳士はその枠組みからも外れている。彼らはレディに味方すれば人理が壊れるということを知りながら彼女を打倒せず、それどころか彼女に仇なす者を襲い、計画の達成に必要なものを奪おうとしている。明らかに下手人を幇助する行為だ。

 生前の恨みによって人理焼却を為さんとした第一特異点のジル・ド・レェとも、霊基そのものを乗っ取られた第二特異点のロムルスとも異なり、極めて個人的な欲求のための人理に牙を剥くという英霊の本分に背く行為を、魔法紳士らは自らの意志で行っている。その原因はとうに推測はできているけれど、遥は問わずにはいられなかった。尤も、それが無意味な行為だと分かっているが。

 拮抗する鍔迫り合い。それを転換させるために遥は叢雲に魔力を込めると、彼の行動に気付いたエドワードが回避行動を取る前に零距離で魔力撃を放った。壁を破壊しながら吹っ飛ばされるエドワード。更に遥は滞空状態のエドワードに追いつくと、その顔面を掴んでその先の壁に叩きつけた。

 エドワードの髭面を掴む手に伝わる、頭蓋骨の砕ける感触。そうして頽れたエドワードの胴体に、続けて膝蹴りを撃ち込んで打ち上げ、そこに肘鉄を喰らわせることで再び床面に叩きつける。その時点で意識を取り戻し起き上がろうとしたエドワードの背を踏みつけて抑えつけ、叢雲を逆手に持ち替えた。

 直後、振り下ろされる叢雲の刃。その切っ先がエドワードの背中からその体内に潜り込み、正確に肋骨の間を抜けて心臓、ひいては霊基の彼方に隠された霊核までもを貫いた。同時に拘束を解こうと抵抗していたエドワードの身体から力が抜けて、その存在が霊子に還り始める。

 

「俺の、勝ちだ。黒髭……!」

「おぉう、拙者、負けてしまったでござる……しかしこれで駒をひとつ潰したと余裕ぶらないことでござるなぁ。なぜならぁ、あともうちょびっとで最高の魔法少女が錨を上げて出航するのだからっ!!」

 

 先程までの調子とは打って変わっておどけたオタクのような口調でそう捨て台詞を吐き、エドワードの霊基が完全に消滅した。だがそうして発生したものは通常のサーヴァントが消滅して発生するそれと同一ではなく、まるで影のように黒い靄。それはしばらくその場で蟠った後に跡形もなく霧散してしまうが、遥にはどうにも言い表せない違和感があった。

 だが取り敢えず戦闘は終わった。オルテナウスが待機状態に入って、遥が大きくため息を吐く。腰の格納スペースを確認してみると、メディアから回収した宝石は間違いなくそこにあった。

 どの程度の魔力があればレディの目的が果たせるのかは遥には分からない。全ての宝石が揃わなければならないのかも知れないし、或いはひとつだけでも実は十分という可能性もある。それでも、遥がそれを持っている以上はレディの目的が完全に達成されることはないだろう。精々時間稼ぎが関の山ではあろうが。

 だが時間稼ぎのも意味はある。タイムリミットが全く不明な以上、1分1秒、コンマ1秒でさえ貴重な時間だ。敵の規模が全く不明であるのだから、時間はあるだけあった方が良い。

 戦闘の影響で荒れきった部屋の壁に背中を預け、遥がその場に座り込む。その直後、甲板にいたエドワードの配下が彼の消滅に伴っていなくなったことで自由になったイリヤが転身した姿でその部屋に入ってきた。そうして座り込んだ遥を見つけ、駆け寄ってくる。

 

「ハルカさん! 大丈夫なの!?」

「あぁ、なんとかな。だが……流石に疲れた。少し寝るから、岸に着いたら起こしてくれ」

 

 それだけ言った直後には既に寝息を立てて、座ったままの状態で遥は眠ってしまった。その姿を前にして、イリヤが優しく微笑む。

 

「……お疲れ様、ハルカさん」

 


 

「……黒髭が負けたようね」

 

 特異点と化している固有結界〝夢幻の墓標(エンド・サクリファイス)〟の中央に存在する未明領域、もといレディ自身が治める〝星原と水晶の国〟の城にて、自らの配下の消滅を感じ取ったレディがそう呟く。しかしその声に配下を悼むような気配はなく、それどころか嘲弄するかのような響きさえあった。

 さもありなん。魔法紳士はレディの配下、親衛隊のようなものではあるが、初めから滅びゆくことが決定された存在でもある。戦力が減ったことは残念ではあるけれど、結局は予定が前倒しになった程度のことでしかない。

 遥たちの認識において、魔法紳士はレディが邪魔者を排除するために使う手駒である。それは決して間違いではないが、完全に正解という訳でもない。何であれ手駒であるという事実には何も違いはにのだが。

 今のレディには肉体がない。それどころか霊体としても彼女の存在は不確かで、クロエの肉体を借りていなければ一応は彼女の固有結界であるこの世界の内においても存在を維持できるかも分からない状態だ。

 故に、存在を確立するための楔が要る。魔法紳士らはそのための材料だ。〝理想の魔法少女〟を求める彼らの妄念によってレディは存在を確立し、彼女の目的を果たすためのもの――()()()()()()()()()()()()()()()()に己自身を昇華させる。

 中空に手を翳すレディ。するとそこに魔法陣が現れ、そこから這い出るかのようにして黒い靄が出現した。それはまさしく遥が打倒したエドワードの中から現れたモノ、エドワードが抱く妄念に他ならない。遥の前で霧散したかに思われたそれは、消えてはいなかったのだ。

 

「アナタの役目はまだ終わっていないわ。さぁ、()()()()()()?」

 

 幼い面貌に似合わぬ淫靡な笑みを浮かべ、まるで目前の影を褥に誘うかのような仕草で呼びかけるレディ。すると影はそれに誘われるままレディの広げた腕に収まり、その身体に溶けるようにして吸い込まれていった。そうしてレディは恍惚の笑みを浮かべ、快楽に身体を震わせる。

 身体に、否、魂そのものに満ちる強壮感。レディの思惑通り、エドワードの妄執はレディの存在をより確固たるものにするための糧として十全に作用しているようだった。

 本当に無意味で無価値な紳士(おとこ)たち。レディが呟く。レディにとっては魔法紳士だろうが何だろうが、男などは魔法少女を前にして踊り狂う不要物(ゴミクズ)でしかない。彼女は紳士の願いに応えるけれど、決して与えることはない。そうして応えるだけ応えて、而して与えられない紳士らの汚れた願望と劣等感(コンプレックス)は醸成されて、レディの存在はより輝きを増すのだ。

 だが、レディに敵対するあの男――夜桜遥は何かが違う。魔法少女に掛ける願望が少しでもあればそれを抗いきれぬほどに増幅する筈のこの固有結界の中において、あの男は正気を保っている。それは転じて、遥の心の中には魔法少女に、願いを叶えてくれるとも分からない他者にでも掛ける願望が何ひとつとしていないということになる。この固有結界内部で魔法紳士化しない時点で、それは疑い様のない事実だ。

 それがどうしようもなくレディの自負心(プライド)を傷つける。こうして何もかもが摩耗し歪みきった今でもレディが全てを救済するための動いているのは、魔法少女が人々の願いを叶える存在だからだ。そして人々は必ず心のどこかで救済を願っている。そういう前提を、遥は破壊してしまう。

 故に、殺さなければならない。レディの目的を支える信念にはひとつの例外もあってはならないのだ。その例外と成り得る因子が目の前にあったままでは彼女の計画にどんな悪影響が出るか分からない。

 レディが指を鳴らす。すると彼女が座す部屋の中に無数の魔法陣が現れ、そこから湧き出すようにして出現した黒い魔力の霧が集合、魔杖の形を取った。それもただの魔杖ではない。円を描くパーツの両サイドから生えたリボンのような装飾に、内部の六芒星。色がくまなく漆黒であることを除いて、それらはマジカルサファイアと全く同一の見た目をしていた。

 それもその筈である。そのステッキはレディが捕らえた美遊の相棒であるサファイアを解析し、それを元にして量産した礼装なのだから。尤も、似ているのは見た目と機能だけで厄介な人工精霊など憑いてはいないが。

 本来ならば第二魔法を利用して造られた宝石翁の礼装など解析しようにも解析できないものであろうが、レディは魔術師ではなく魔法少女、つまりは広義でも何でもなく魔法使いである。同次元にいる者が作ったものを解析、複製できない筈もない。

 更に変化はそれだけでは終わらず、複製カレイドステッキらの一部は尚もその身体から黒い魔力を吹き出し続け、それが複製ステッキを核として収束して霊基を形成。それぞれ異なる女性サーヴァントへと姿を変えた。その中には沖田やアルテラの姿もある。その数は10騎を下るまい。

 それら女性サーヴァントは通常のサーヴァントではなく、しかしシャドウ・サーヴァント程に脆弱でもない。カレイドステッキを介して『魔術師(キャスター)』としての適性を持たない英霊の情報を抽出。それに無理矢理魔法少女としての属性を付与した、謂わば〝偽魔法少女〟とでも言うべき存在だ。

 レディがそんなものを作った目的はひとつ。彼女の目的を阻みうる唯一の外敵たる遥を殺すためだ。どれだけ強力な敵であろうとも、圧倒的な物量を以て圧し潰せば斃すこともできよう。戦いは数なのだ。

 偽魔法少女だけではなく複製ステッキも戦力として計上するのならば、その一団の総数は少なくとも50以上にはなろう。ひとつひとつの秘める力を考えれば相当な規模だ。それらに、レディが指示を下す。

 

「行きなさい、出来損ないの魔女軍団(カウンターフェイターズ)。あの男を始末するのよ」

 

 研ぎ澄まされた刃のような殺意が籠る命令。それを受けた偽魔法少女らは何も答えず、しかしレディの命令のままに彼女の計画遂行の障害となる遥を排除するべくステッキの機能のひとつである転移にてその場を去った。

 それを見届けたレデイは腕を一振りして自身も転移魔術を行使。彼女の眼前に現れた魔法陣から1騎のサーヴァントが現れる。鍛え抜かれた肉体を誇示するかのように身体に密着した濃緑の戦装束に、赤と黄の宝槍。そのサーヴァントはディルムッドに他ならない。

 遥に消し飛ばされた半身はエドワードと同じく既に完全に回復しており、全力で戦闘した所で何ら支障はない。それなのにその真顔は内心の口惜しさが隠しきれていなかった。それもその筈である。残った魔法紳士3人のうち、出撃していないのは彼だけなのだから。

 

「あの男から敗走したことがそんなに悔しいの、ディルムッド? でも仕方ないわよね。英霊の宝具だけを使える礼装があるなんて私も知らなかったし……何より、あの男はアナタの槍捌きを熟知していた。アナタはあの男の太刀筋を知らなかった。それだけで勝負なんて決まっているわ。

 あぁ、勘違いしないで。別にアナタを責めているワケではないのよ? あの男がアナタを知っているなんて私も想定外だったもの」

「ッ……!!」

 

 そのレディの言葉はまるで失敗した部下を労う上司のようであったが、その実ディルムッドを力不足と詰るものであった。確かに戦闘において未知と既知が発生させる差は大きい。しかし英霊でもない剣士を相手に、英霊であるディルムッドがそれを超えられなかった。それもふたりがかりで。その事実がディルムッドの誇りを傷つける。

 サーヴァントというものは基本的に別機会で召喚された際の記憶を引き継がない。そのうえ英霊は既に死者、完結された存在であり〝成長〟という現象とは極めて縁遠い位置にいる。しかし遥は神霊を取り込みながらも生者であるからして、()()()()()()()()()()()()()()()。故に、今のままではディルムッドは遥には勝てない。

 であれば、何とするか。いくら精神を歪められているとはいえ、ディルムッドは騎士だ。自らの失態を挽回しようと思うのは当然である。そうして思考を巡らせ続けて、しかしその思考は途中で断ち切られてしまった。

 跪いた姿勢のままにディルムッドを縛り付けているのは、美遊を拘束しているものと同一のレースリボン型礼装〝服喪面紗(ヴォワラ・ドゥイユ)〟。その直下にはこれまでレディが行使してきた魔術・魔法のそれとは比較にならない程に複雑な魔法陣が輝いている。消去の中に退去の陣を刻んだもの4つを召喚の陣で囲んだそれは、英霊召喚の陣に他ならない。魔術師ではないディルムッドだが、サーヴァントであるがためにそれを直感的に悟った。

 

「主!? いったい何を――」

「落ち着きなさい、ディルムッド。私がアナタを強くしてあげる。誰にも負けない力を与えてあげるわ。……まあ原理原則を無視して無理矢理に成立させた術式だから、死ぬ程辛いでしょうけど」

 

 幼い(かんばせ)に背徳的なまでの煽情的な笑みを浮かべ、ディルムッドの顎下をなぞりながらレディはそう己の騎士に言う。その意図を察することができず彼は戸惑いに表情を見せ、しかし直後にそれは苦悶へと変わった。

 霊基が砕ける。意識が焼ける。自意識が連続して存在を維持しながら、霊基だけが全く別の状態に書き換えられていく。いや、それは正しい表現ではあるまい。彼はサーヴァント召喚の原則を無視して溶けあわされているのだ。似て非なる存在と。

 肉体が変質する。いかにも最速のクラスたるランサーらしい細くしなやかな筋肉はより強靭かつ太く変わり、最低限の装備のみだった装束にはより防御力を高めるための軽装鎧が増設される。腰のベルトに取りつけられた鞘には()()()()()()。やがて術式の行使が終わった時、その姿は大きく変質していた。

 両手に握っているのは先と変わらず赤と黄の宝槍でありながら、腰には同色の宝剣を佩いている。肉体は速さと強靭さの両立、その最適解へと。青く染めあげられた軽装鎧が窓から差し込む光を受けて美しく輝き、白いマントがはためく。

 嗚呼、強壮なるかな、その御姿。フィオナ騎士団最強の騎士は今、在りし日の姿を取り戻したのだ。在り得ざる『槍兵(ランサー)』と『剣士(セイバー)』の二重属性を持つサーヴァントとして。

 

「さぁ、まずは肩慣らしといきましょうか。久しぶりにその姿になったのだもの。慣熟訓練は必要でしょう? ……メイヴから宝石を回収してきなさい。あの子、面白く状況を引っ掻き回してくれそうだから放っておいたけど、流石にそんな悠長なコトはもう言っていられないもの。

 あの子の傍らには光の御子の贋作もいるけれど……それを斃すくらい、今のアナタには簡単なコトでしょ?」

「勿論です、我が主よ。必ずやあの蒙昧めを仕留めて御覧に入れましょう」

 

 主の命令に頷きを返すディルムッド。今ここに、この廃棄孔(せかい)最強の騎士が誕生した。



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第73話 屍山ホープフル

 気付いた時には、遥は屍の山の頂上に立っていた。空は見渡す限り彼方までぶ厚い鼠色の雲に覆われていて、地平線の限りまで転がっている死体の隙間を縫うようにして血が河のように流れている。その様は、まさしく屍山血河と言うに相応しい。

 その場に転がっている死体は一部は満たされた安らかな笑みを浮かべているものもあるが、そんなものは極一部で殆どが今わの際に絶望に支配されていたかのような苦悶の表情で固まっている。

 年齢、性別、人種、そういったものに何ひとつとして一貫性を見出すことができない、まるで乱雑に人間の死体を積み重ねたかのようなそれだが、それら全ての顔に遥は見覚えがあった。それもその筈だ。そこに転がっている死体は皆、遥の目の前で死んだ人の顔をしていたのだから。

 無論、そんなものが現実の光景である筈がない。それはきっと遥自身が見ている夢だ。とりわけ、夢を見ているという自覚があるのだからそれは明晰夢というものに分類されるだろう。きっと自らの信念を曲げてまで魔女たる子供を手に掛けたことで変に死を意識してしまったが故のことだと思われる。

 そこには遥に殺された人がいた。遥が発見するのが遅れたことで手遅れとなり、手の施しようがないまま死んでしまった人がいた。遥が見つけた時には既に死んでいた人がいた。詰まる所、そこには遥の目の前で起きた死が充満していた。その数は最早、数えることさえも億劫になってくる程だ。

 普通ならば人間はそれだけの数の他者の顔を記憶することなどできまい。記憶容量の問題は勿論のこと、人はそう多くの人の死を背負えるようにはできていない。人間とは忘れる生き物なのだ。特にそれが自らに酷くストレスをかけるような記憶であれば忘れたことにすら気づかないまま忘れてしまうことだろう。

 だが、遥は覚えていることができる。できてしまう。何故なら彼の起源は『不朽』であり、忘却とは即ち記憶が朽ちてしまうことだからだ。夜桜遥という男に忘却という現象は起こり得ない。どんなに些細な死であれ、遥の脳裏から消えることはない。

 更に幸いと言うべきか、或いは不幸にもと言うべきか、遥は他人の死を背負ってでも戦うことができる精神構造をした男であった。他者の死を前にして逃避するのではなく、受け止めることができる男であった。そう言えば聞こえは良いけれど、つまりそれは人の死というものを愚直に見つめすぎてしまうということだ。

 或いはそれは遥に死というものへの憧れが遥の中にあるからなのか、それとも奇妙な使命感があるからなのか。起源という、ある種の存在的根本からして朽ちることのない遥に自然な死というものは怒らない。遥が死ぬには敵に殺されるか、自らで己自身に引導を渡すしかない。

 遥が救えなかった人々の死体が転がっているその夢は、謂わば彼の罪の戯画化(カリカチュア)だ。何の芸もなくただ積み上げただけなのだから、それは戯れというべきであろう。記憶力が良すぎるのも考え物だな、と自嘲的に嗤った時、遥は不意に足元を掴まれた。

 果たして、そこにあったのはオルガマリーのものにも見える死体であった。いや、死体というのは少しおかしいかも知れない。現実のオルガマリーは死体も残らず消し飛ばされているうえ、遥の目の前にあるそれは動いているのだから。

 オルガマリーだけではない。本来は死体が残らないサーヴァントである筈のアリスやメディア、ブーディカのような、人理修復が始まってから今までに犠牲になった者たちの死体までもがそこにはあって、死体であるにも関わらずそれらは動いていた。眼球は既に腐り果てて伽藍洞になった眼窩から涙を流し、肉が裂けて口裂け女のようになった口で声にならない叫びをあげながら、それらは遥に怨念をぶつけてきている。

 

 ――どうして。

 ――どうして助けてくれなかったの?

 ――どうして救ってくれなかったの?

 ――どうしておまえが生きているの?

 ――どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてッ! 私たちを救えなかったおまえが!!

 

「……すまない」

 

 分かっている。謝罪だけで許されることではないというのは。謝って所で許されることではないといのは。何故なら遥は彼ら彼女らを助けることができなかった。救うことができなかった。遥は別に全ての人の救いを望んではいないが、それでも目の前で零れる命を掬い上げることができなかった。その罪は他の誰でもない、遥自身の罪だ。

 故に遥は謝罪を口にしながらも、彼を自らと同じ領域に引きずり込もうとする死体の手を無理矢理に振り払った。絶望しながら死んでいったものに鞭打つような行為は心苦しくはあるが、彼はまだ()()()()に行く訳にはいかないのだ。

 確かに敵に殺されずとも、遥自身が自害すれば彼はガイアから押し付けられた永遠を放棄することができるだろう。少なくとも今はまだ、脳と心臓を破壊すれば死ぬのだから。或いは放っておけば、それでも死ねなくなるかも知れない。可能性は皆無ではない。

 だが、それは逃避だ。自らが背負うべきものに背を向けて、勝手に終わる卑怯な行為だ。そんなことは許されない。誰が遥に許しても、他ならぬ遥自身が自分自身に逃避を許さない。

 そんなことをした所で救われずに死んだ人々が報われる訳ではない。そんな事は遥が一番よく分かっている。故にそれは単なる彼の自己満足だ。たとえ報われずに死んだのだとしても、それまでの時一瞬一瞬を全力で生きた人々の足跡は決して無駄ではなかったのだと証明したいがための、体の良い言い訳だ。

 それでも遥は、示さねばならない。人の死を無意味として全ての人間の生の意味を〝自らの糧となること〟と定義せんとする敵に対し、無数の生と死の積み重ねでできた人類史は決して無意味なものではないということを。

 だが、それでも死んだ人は救われない。それはそうだ。既に終わったものは救えない。遥がイリヤに何度も言っていることだ。けれど、そもそもとして遥が望んでいるのは死者を救うことではない。

 たとえ報われずに死を迎えたのだとしても、その人生はきっと無為ではない。その全てをたかだか全てに絶望した慮外者のエゴのためだけに無為にする訳にはいかないのだ。故にこそ、遥は他者の死を背負ってでも戦う。

 そしてこの戦いはきっと、人類の積み重ねを無為にしないためだけの戦いではない。人類史に名を刻み、それを未来に繋げるために戦った過去の英雄の在り方を継承し、それを以て閉ざされた未来を切り拓くための旅路なのだ。そして遥はまだ、己の秘める英雄としての資質を開花させるだけのものを継承していない。

 

「だから……まだ、救われて(終わって)なんかやれるか。あのいけ好かない魔女にだろうと、誰にだろうと……」

 

 遥の旅はまだ終わらない。終わらせる訳にはいかない。遥はまだ何も為していない。遥のその思いは何も神の血を持つ者としてのノブレス・オブリージュなどではなく、ただ自らの信念(ワガママ)を貫かんとする英雄の資質によるものだ。そうして言葉を漏らした直後、彼は強烈な痛みを感じて目を抑えた。

 まるで眼球のみを剣か何かで貫かれたかのような、異常な痛みだった。それだけではなく両目の中に焼石でも突っ込まれたかと錯覚する程に目が熱い。それだけの激烈な不快を感じていながら、遥の意識は未だ目覚める素振りすら見せないというのも奇妙な話だった。

 だがいつまでも続く痛みがある筈がない。その原因不明の痛みも脈動するかのような増減を繰り返しながら少しずつ沈静化していく。そうして目を開いてみても、視界には何の変化もない。そもそもとして夢の中で激痛を感じたからとて、現実に何か起きるとも限らないだろう。

 しかし遥には先の痛みが全く無意味な夢の一要素であるようには思えなかった。もしも全く無意味であったのなら、元からこのような夢を見ることもなかっただろう。尤も、その理由までは分かっていないが。

 

「本当に、何だったんだ……」

 

 茫然と呟く遥。しかしそれに答える者などいる筈もなく、その声は虚しく死の世界に溶けていった。上手く言葉にできない、妙な予感めいた感覚だけを残して。

 


 

「――あんな夢を見た後にこんな国に来るとは……不吉なものを感じるな」

「夢?」

 

 隣で不思議そうな顔をしてそう問うてくるイリヤに何でもねぇよ、と言葉を返して遥は胸中に生まれた些細な不快感を冷徹で圧し潰した。極めて個人的な感情でいちいち冷静さを失っていては、攻略できるものもできなくなってしまう。

 メディアが支配していた、どこか地中海の島々を思わせるような海洋の王国〝大海原と竜の国〟を去った遥とイリヤが次に訪れた国は、まさしくゴーストタウンとでも形容すべき場所であった。街並みはまるで中世から近代への過渡期、産業革命最初期にあるヨーロッパのようでありながら、その全てがひどく朽ち果てている。

 レンガ造りの建物はその至る所に植物の蔦が絡みつき、その驚異的な力によってか崩落していないのが不自然に思えるような罅が刻まれている。空に浮かんでいるのは完全に陽光を遮る黒い雲。更に建物の隙間から未明領域を覆う黒光りするドーム状の障壁が見えた。

 オルテナウスに搭載された索敵機能には未だ何も引っ掛かっていないが、それでも警戒を解くことができる訳ではない。いくらカルデアのそれと同程度の性能があるとはいえ、それに探知されないよう動いてくる敵はいくらでもいる。故い意識を常に戦闘時のそれに近い状態にしながら、遥はまるで彼の身体に隠れるかのようにして立つイリヤに声を掛けた。

 

「……なんか、距離近くねぇか? もしかして、こういうお化け屋敷的なヤツ、苦手?」

「うぅ……だってぇ……」

 

 遥の問いに対して涙目になりながらそう答えるイリヤ。彼女は明確な答えを返した訳ではないが、その様子だけで答えの代わりとするには十分であろう。イリヤ程の年頃の子供が幽霊を怖がるというのは、よくある話だ。それが魔導である場合は話が別だが。

 元来子供好きな遥としては恐怖する子供には付き添ってやらねばらないという思いもあるが、イリヤにくっつかれたままでは敵性体が出現しても対応が遅れてしまう可能性があるのもまた事実。故にどうにか落ち着かせようとして、しかし唐突にセンサが魔力反応を感知したことに気づいて反射的に動いた。

 左腕でイリヤを庇うように引き寄せ、右手で叢雲を抜刀。相手がそれ以上接近してこないように牽制の構えを取るまでに、およそ1秒もかかっていない。そうしてその視線の先にいたのは、白く淡い輝きを放つ人間の骨格に近い容貌をした亡霊であった。

 まさに噂をすればなんとやらといった状況を前にしてやはり涙目でイリヤが震えている。だが遥はそれとは対照的に何か違和感を覚えて探るかのような表情をしていた。何も前触れもなく現れた亡霊だが、遥にはどうしてかその亡霊に悪意や敵意といったものを感じなかった。

 むしろその眼球も何もない眼窩から放射されているのは誰かに助けを求めるかのような、或いは縋るかのような気配。肉体のない亡霊は殆どの場合正常な理性を持たない。故に己の感情を偽ることもなければ、理性がないために負の感情を暴走させてしまうこともある。その点で言えば、その亡霊は異常だった。

 異常であるのはそれだけではない。これはあくまでも遥の推測ではないが、この世界で死亡した魔法少女の魂は魔女の体内にある宝石に回収される。であればここにいる亡霊はその枠より若干外れた存在ということになろう。徐々に近づいてくるそれに、遥が言葉を投げる。

 

「止まれ。止まらないなら、問答無用であの世に逝ってもらうぞ」

 

 感覚の鈍い亡霊ですらも無視し得ない程の殺気を放ちつつ、叢雲を構える遥。彼の言葉は死者をもう一度殺すという聊か矛盾したものではあるが、決して間違いではあるまい。死してなお残留する思念を無理矢理消し去るのだから。

 亡霊はそれを悟ったのか、それ以上遥に近づいてくることはせずその場で進行を止めた。そうして亡霊はしばらく遥の様子を伺うかのような動きを見せて、自ら攻撃しない限りは脅威ではないと判断っしたのかおずおずと彼の顔に向けて手を伸ばした。

 だがそれが遥の顔に翳される寸前、遠方から何か巨大な魔力の爆発が発生した。それによって発生した強烈な魔力の波動が、イリヤと遥の魔術回路に不快な衝撃を齎す。またそれによるものかは不明だが、先程まではその場にいた亡霊の姿も消えてしまっていた。

 

「な、何今の!? いつの間にかユーレイさんもいなくなってるし!?」

「戦闘……だが、この世界に俺たち以外に魔女と敵対するヤツなんて、いるワケが……」

 

 少なくとも今までの領域では遥たち以外に戦闘を行う者は魔女とその配下、魔法紳士以外にはいなかった。であれば今回のそれも魔女かその配下によるものなのかも知れないが、それにしては遥らの周囲では何も起こっていない。

 しかしこの街の中どこかで戦闘が起きていることだけは疑い様のない事実だ。現に今でも戦闘によるものと思しきマナの振動が続いている。果たしてその現場に向かうべきか否かと遥は思案して、しかしその直後に直感的に殺気を感じて咄嗟に叢雲を振るった。

 宵闇を切り裂く黄金の軌跡。人間の反応限界を圧倒的に超えた速度で振るわれたそれが中空で遥を狙って振り下ろされた刃とぶつかり合い、火花を散らした。それでも襲撃者は器用にその接触点を支点として体勢を変え、何度も剣撃を仕掛けてくる。だが遥はその間隙に手首部のプロト・バンカーボルトを撃ち放ち、襲撃者は彼の思惑通りに距離を取った。

 そうして明らかになった襲撃者の姿は果たして、小柄な少女のそれであった。その手に握るのは身の丈を大きく超える大剣。和服を着ているもののその前面はかなり開けており、見えてはいけない部分を最低限の装備で覆っている。その頭部に生えている角からして、恐らくは鬼種であろう。

 それだけではない。桜花零式のセンサは愚直にも自らの務めを果たし、遥たちを取り囲むように大量の魔力反応が出現していることを主に告げる。流石にその全てがサーヴァントである訳ではないが、それでも多数であることに違いはない。更にそれらの敵意は全てイリヤではなく遥のみに注がれているように見えた。

 

「成る程、少しずつ話が見えてきた。……だが、分からねぇな。レディは何故俺をここまで目の仇にする……?」

 

 確かに遥、もとい彼の得物である天叢雲剣はレディが魔女に埋め込んだ宿業を貫通して彼女らを殺すことができる武具である。しかしそれはあくまでも魔女に対してのみであり、レディに対しても特効性能を発揮するとは限らない。

 であれば、また何か別の理由か。或いは遥がレディの固有結界の内部にいながら魔法紳士とやらにならないことが関係しているのかも知れないが、あまりにも手掛かりがないために何を推測しても無為な妄想に過ぎない。

 しかし、この状態においても確かなことがひとつ。根拠がないというのであればその()()も推測と似たようなものだが、彼は直感でそれが正しいものと確信していた。

 

「イリヤ。こいつらの狙いは俺だ。だから、こいつらの相手は俺に任せて先に行け」

「えっ? でも、わたしじゃ魔女は……」

「いや、恐らく敵の狙いは魔女だ。俺もすぐに行く! だから……」

 

 先に行け。遥はそれを言葉にはしなかったものの、イリヤは彼の意図を悟って首を縦に振った。確かにイリヤに魔女や魔法紳士を斃すことはできないが、少なくとも魔女から宝石を回収しようとする、或いは回収した魔法紳士を足止めすることはできる。

 しかし、それならばこの場をイリヤに任せて遥がそちらに向かう方が正解と考える者がいるかも知れない。けれど今彼と相対しているサーヴァントは彼を狙っているのだ。下手に相手を増やせば、どうなるか分からない。

 魔法少女(カレイドライナー)の姿に転身し、その力で空へと舞いあがるイリヤ。遥の予想通りサーヴァントらはそちらへと意識を向けることはなく、彼ののみ殺気の視線を向けている。一般人ならばそれだけでショック死するようなそれを目にして、しかし遥は怯むことなく敵軍を睨みつけている。サーヴァントは10騎余りだが、それ以外の敵――どこかルビーに似た意匠を持つ黒いステッキを含めれば相当な数だ。

 遥が一度大きく深呼吸をして、魔術回路の回転率を急激に引き上げる。それに伴って身体中で激痛が奔るが、そんなものは些細なことだ。更に体内で煉獄の固有結界を活性化させ、それを感知した桜花零式の装甲が変形。各部関節から超常の熱量を宿した焔が噴き出す。

 それだけでは終わらず、遥は魔術回路を通じてオルテナウスのメインシステムに干渉すると自身の内在霊基との同調率を引き上げた。それによって彼自身のステータスは上昇したものの、同時に肉体と魂にかかる負荷も倍増しになる。それでも遥はそれを感じさせない立ち振る舞いでいの一番に突っ込んできた剣士――恐らくアルテラであろうそれの一撃をいなし、間髪入れずにその背中に肘鉄を叩き込んで地に叩き伏せた。その心臓に叢雲を突き刺して霊核を破壊し、アルテラの霊基が消滅。その中にあったステッキも壊れる。

 違う。遥が内心で呟く。あんなものはアルテラではない。あれは確かにアルテラの肉体を持ち、アルテラの宝具を持ち、アルテラの剣腕を宿していたのかも知れないが、それだけだ。あのアルテラには、それらを扱うための()()がない。記憶や心、誇りといったアルテラを『アルテラ』たらしめるものが全て欠けている。贋作なのだ。それもエミヤの投影品のように中身までもを再現した極めて真作に近い贋作ではなく、意図的に中身を再現されていない下劣な贋作。

 遥が大きな舌打ちを漏らす。装甲から洩れる焔がその勢いを増す。それはまるで気炎ででもあるかのように立ち昇り、サーヴァント――もとい、レディの造り出した偽魔法少女が後退った。

 

「いざ――参る……!!」

 

 バイザーの奥で、真紅の瞳がより強い輝きを放った。

 


 

 それを一目見た時、まるで洋画によくあるようなパニック映画のようだとイリヤは思った。或いは彼女の趣味に倣うのなら某ゾンビ化ウイルスのパンデミックを描いたゲームや正体不明の怪生物と戦いを繰り広げる人間たちを描いたアニメに登場するワンシーンに近いかも知れない。

 謎のサーヴァント軍団の相手を遥に任せ、直前に発生した爆発の現場に向かったイリヤが見たものは朽ち果てた洋館であった。それもただ朽ち果てているだけではなくその外壁には戦闘の余波によるものであろう大穴が空き、屋敷全体を覆うように烏賊や蛸を醜悪にしたかのような軟体生物が所狭しと張り付いているときている。

 しかしその軟体怪生物らはあくまでも張り付きつつ接近してくる対象を攻撃するだけのようで、未だ様子を見ているだけのイリヤを攻撃する気配はない。ならば大穴から突入できないかと考えたが、そのためには上空を飛んでいる亡霊を排除する必要がある。

 そうしてどちらの方法を執るべきかと考えて、その途中ではたとイリヤは別の方策を思いついた。太腿に巻かれたベルトに取りつけられたカードケースに手を伸ばし、そこから『剣士(セイバー)』のクラスカードを取り出した。

 

夢幻召喚(インストール)!!」

 

 イリヤが詠唱を飛ばし、応えたクラスカードが術式を展開。彼女の足元に広がった魔法陣から閃光の如き魔力の奔流が噴き出してその身体を覆い、数瞬の後にそれを斬り裂くようにしてイリヤが再び姿を現した。

 その姿は先程までの魔法少女(カレイドライナー)としてのそれではなく、白百合の如き純白のバトルドレスをその身に纏っていた。髪はそのまま流すのではなく後頭部の辺りで束ねてポニーテールに。手に執る剣は聖剣エクスカリバー。その雄姿はアルトリアそのものではなく、俗にセイバー・リリィと呼称される霊基のそれに近い。

 続けてイリヤはエクスカリバーと化したルビーから供給される魔力を己の魔術回路を通じて刀身に叩き込んでいく。そうして巻き起こる閃光と突風はまるで聖剣が悲鳴をあげているかのようだ。それを構え、振るうと同時に解放。蟠る怪生物や塀ごと屋敷の外壁を吹き飛ばした。

 

『はぇー……大胆ですねぇ、イリヤさん。士郎さんにもこのくらい大胆なコトすればイイのに』

「今はお兄ちゃんは関係ないでしょ!? いいからいくよ、ルビー!」

 

 こんな時にまでおどけた調子で主を揶揄おうとするルビーを窘めつつ、イリヤは建物の崩落によって巻き上がった煙を越えて屋敷に侵入しようとする。だがその途中で、イリヤは異様な音を聞き咎めて足を止めた。

 それは例えるならば極めて粘性の高い液体に何か長い棒のようなものを突っ込んで思い切り掻き混ぜたかのような音だ。それに混じって聞こえてくるのはおおよそ二人分の吐息。しかしそれらは同じ調子ではなく、片や高揚を抑えきれないといった様子、そして片や今にも死んでしまいそうな喘鳴。

 それだけの情報があって、その先で何が起きているのか分からない程イリヤは鈍感でもなければ呑気でもない。むしろ下手に感受性や想像力があるだけにその先の光景が想像できて、彼女は一瞬恐怖に身を竦ませそうになった。けれどここで怖がって逃げ出してしまえば、より事態を悪くしてしまう可能性もある。故に決意で恐怖を追い出して、イリヤはエクスカリバーを覆う風の鞘〝風王結界(インヴィジブル・エア)〟を解き放つことで視界を遮る煙を払った。

 吹き飛び、空気中に拡散する粉塵。そうして露わになったのは、一言で表すのならば殺人現場。出目金のように突き出た眼球が特徴的な眼球が特徴的なローブの男が身体中に血糊を付けて、目を血走らせながら恍惚の表情で宝石を掲げている。その足元には脱力し胸から血を流して紫髪の少女が倒れていた。魔女であるから死んではいないだろうが、それでも宝石が取られていることに違いはない。

 いくら覚悟を極めていたとはいえ年端もいかない少女の精神にそれは流石に堪えて、イリヤが唾液を呑み下した。その瞬間、男の視線がイリヤへと向けられる。狂気に試合されたその双眸に、イリヤ、もとい彼女に宿る霊基が本能的な嫌悪感を示した。

 

「おぉ――ジャンヌ! ジャンヌジャンヌ、ジャァァァァンヌゥゥゥゥゥッ!!!」

「なっ……何なの、この人!?」

 

 明らかに狂乱しているらしい男の異様な振る舞いに狼狽を見せるイリヤ。だが男の痴態のある種仕方のないことではあるのだ。その男――フランス百年戦争において元帥として聖女と共に戦い、而して聖女の死後に悪鬼へと堕ちた〝ジル・ド・レェ〟は魔法紳士ではなく通常の霊基であろうともアルトリアをジャンヌと誤認する。それは両者のの顔立ちだけではなく、魂が似ているが故のことだ。

 しかしそんな状態であろうとアルトリアの霊基を借り受けただけのイリヤを誤解する程歪んではいない筈だったのだ。それが誤認するようになってしまったのは、レディの手による霊基改変とこの固有結界が原因だ。内部に入り込んだ男性の潜在欲求を魔法少女への願望に捻じ曲げた形で増幅するこの固有結界の作用が思わぬ形で発揮され、今のジルは全ての魔法少女をジャンヌを誤認するようになっている。

 それでも魔女の宝石を回収するというレディの命令を守るだけの知性が残っているというのは、果たしてイリヤにとって幸か不幸か。尤も、イリヤにはジルの事情などは知る由もないため彼女の目には〝錯乱している奇異なサーヴァント〟としてしか映っていないが。

 

「兎に角、これ以上レディに宝石は回収させない! 戦うよ、ルビー!!」

『イエス、マイ・マスター!! このヘンタイさんをギッタギタのボッコボコにしてやりましょう!』

 

 ルビーが強気な言葉を放ち、イリヤが地を蹴る。ここに、死せる書架の国第二の戦端が開かれた。




『ここは俺に任せて先に行け!』……遂に死亡フラグが!


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第74話 乱戦クライシス

「――ヅ、ゥッ……!!」

 

 相対する数多の改悪サーヴァントたる偽魔法少女の攻撃を受け、呻き声をあげながら遥が後退る。戦闘が始まる前に霊基同調率を上昇させたことで桜花零式の耐久力も上がっているため損傷はないが、確実に装甲には疲労が蓄積している。損傷が発生するのも時間の問題だろう。

 レディが差し向けてきたと思われる偽魔法少女の軍勢と遥が戦闘を開始してから数分。遥は既に何騎かの偽魔法少女を斃しているものの、戦況は趨勢がどちらに傾くという訳でもなく、完全に膠着状態となっていた。数は偽魔法少女の方が多いが、1騎1騎の力は真作に大きく劣る。対して遥は単騎だが、その力は上級サーヴァントにも匹敵する。つまりは〝質より量〟の偽魔法少女と〝量より質〟の遥という訳だ。

 しかし質より量を重視しているとはいえ、あくまでもそれは通常のサーヴァントと比較しての話だ。いくら劣化しているのであろうと元がサーヴァントである以上、決して油断できるような相手ではない。いくらそれぞれが遥よりも弱かろうと、まずそもそもとして只人の次元で測ることができる領域の話ではないのだ。

 遥がよろめいた隙を狙って放たれた銀閃。一見すると正確無比かつ回避不能に見えるそれだが、遥はその突きをよく知っていた。何故ならその刃の担い手は沖田を元にした偽魔法少女であるのだから、本物の沖田と契約し共に戦ってきた遥がその剣術を把握していない筈がない。

 迫る致命の刺突を紙一重の距離で躱し、乞食清光を執る腕を掴む。沖田はその行動から遥が何をしようとしているのか悟り逃れようとするが、遅きに失した。洗練された体術によって沖田の身体を地面に叩きつけ、叢雲で切り裂かんとする。しかし、それを邪魔するかのような銃声。それに反応した遥がそれを防御した隙に沖田が拘束から逃れ、後退する。

 それでも続けて遥に向けて放たれる弾雨。それを放っているのは改造軍服を纏う、長い黒髪が印象的な少女だ。その背後には数えるのも億劫になってくる程の火縄銃が展開されている。それだけならば殆ど真名の手がかりはないが、彼には心当たりがあった。

 ()()()()。安土桃山時代の日本に君臨した戦国武将であり、どこかの世界で行われた聖杯戦争で出会って以来沖田とは奇妙な縁があるらしかった。要はエミヤとクー・フーリンのようなものだろう。史実では信長は男とされている筈だが、遥はもうその程度の事は些事として切り捨てることができるようになっていた。

 連続して放たれる弾丸の雨。それを遥は伝家の封印魔術による形成した障壁で防御しようとして、しかしいかな神代の魔術であろうとサーヴァントが内包する神秘の連撃を受けていつまでも耐えていることができる筈もない。次第に亀裂が入り、壊れていく防壁。そこから何とか逃れようと遥がタイミングを計り、直後、強烈な悪寒に上空を振り仰いだ。

 そうして遥の目が捉えたものはどこか流星のように暗黒の曇天を裂いて飛来する幾条もの火矢。恐らくはこの街のどこかに潜んでいた伏兵が放ったものであろう。遥の予想が正しければそれはただの火矢ではなく魔力で構成されたもの。着弾しなかったとしても構成魔力を無秩序に解放すれば爆発させることができる。

 それに気づいた遥は大きな舌打ちを漏らして防壁を解除、オルテナウスのバーニアを付加しつつ緊急回避を図る。だが防壁の消失とは即ち信長の射撃に対する防御手段を喪うということでもある。装甲に覆われていない部分、そのアンダースーツを貫き、肉に埋まる弾丸。更に脳髄にも突き刺さる。

 まさに自らの不死性擬きを恃みとした無茶な回避行動である。だが爆発の余波までもを無視することはできず、煽りを受けて遥は吹き飛ばされ街路を転がる。瞬間、止まる掃射と突貫してくる近接戦型サーヴァントたち。それらに向けて、遥が咆哮する。

 

「このッ……! いちいちやることが狡いんだよ!!」

 

 その怒号と共に叢雲とそれを握る腕から魔力を放出することで強引に打ち上げ、迫ってきたサーヴァント――主に槍を扱っていることからランサーだと思われるが、槍以外にも刀や鉾も所持している――の頭部を顎下からの一撃で吹き飛ばした。飛び散る鮮血と肉片。それらが魔力の塵と化して消滅する暇もなく、戦況は動く。

 剣撃の勢いを利用してそのまま立ち上がる遥とそれでもなお肉薄せんとする偽魔法少女。遥がいかに剣聖じみた技量を有しているのであろうとサーヴァントを相手にした多勢に無勢を容易に覆すことができる筈もなく、思い切って攻勢に出ることができない。

 偽魔法少女たちに真の意味での戦闘経験などはない。彼女らはあくまでもその霊基に染み付いた武錬を本能とレディの命令のまま揮っているだけだ。それが1対1なのであれば遥の敵ではないが、集団の圧力を伴って襲っている以上無視できない脅威となる。

 叩きつけるかのように振るわれる乞食清光。それを叢雲で受けた遥はそのまま押し切って刀ごと叩き斬らんとするが、沖田の頭上を飛び越してきた鬼が振り落ろした大剣を回避するために一歩退いてしまった。

 そうしてできた間隙に割り込んできたのは、腰の装備から出刃包丁やメスなど様々な刃物を下げ、両手には大振りのナイフを握った『暗殺者(アサシン)』と思われる少女。遥はその狙いに気付いた咄嗟に身を傾けるも、躱しきれずに喉を浅く斬り裂かれた。

 その傷はどうやら少々頸動脈にまで届いていたようで、傷口から鮮血が流れ出て行く。それほど深い傷ではないため特段気にするような負傷でもないが、それでも急所に敵の攻撃が届いたという事実に遥が冷や汗を流した。

 遥は出血多量によるショックで死ぬことは決してない。それどころか首を刎ねられたとしても死なないのは、ローマにてカエサルと戦闘した際に不本意にも確認済みである。夜桜遥という男は、脳と心臓を同時に失うことがない限り死ぬことはない。

 だがそんな不死にも思える特性があろうと、遥は不死ではない。殺されれば死ぬのだ。そしてこの物量差の前であれば、それはそう難しい話ではない。一瞬でも気を抜けば、その瞬間に遥は死ぬだろう。

 ローマでの最終決戦にてフラウロスにヒュドラの神毒と聖杯の泥を同時に流し込まれた時に感じた激しい死ではなく、まるで少しずつ水で満たされていく密室に閉じ込められたかのような緩やかな死が迫ってきているような感覚が、遥の背筋を撫でる。

 下手に偽魔法少女から離れれば信長からの射撃砲撃が遅い、かと言って無暗に接近すれば近接戦特化型サーヴァントからの袋叩きに遭うことになる。どちらも遥の能力で対処できる範囲に留めることができるよう、適切な距離を見極める必要がある。

 活性化している固有結界から漏れ出す焔を左手に収束させ、魔術によって限界以上に圧縮。それを撃ち出すも、当然ただ撃ち出しただけの火炎弾を英霊ほどの存在が躱すことができない筈もない。だが、遥は何もそれを着弾させることを意図して放ったのではない。

 偽魔法少女の誰にも着弾せずに空を薙いだかのように思われた火炎弾はしかし、遥が右手を握ると同時に抑え込んでいた魔術が解除されたことで爆発めいた圧力を以て外部に溢れ出した。

 爆発に呑まれる偽魔法少女たち。更に爆発は街路や家屋の建材を粉々に打ち砕き、爆発の後に残った灰と煤、砕けた建材の残滓が遥や偽魔法少女の視界を塞いだ。只人よりも圧倒的に優れた視力を持つ彼らですら先を見通すことができない程の濃密な煙だ。故に遥もまた先を見通すことができなくなってしまったものの、これは彼が狙っていた状況でもある。

 煙幕の発生を確認すると共に遥は聴覚神経に強化魔術を叩き込み、極限にまで広がった可聴域が齎す音から敵の動きによって発生していると思われるものだけを聞き分けることで敵の位置を補足。その中から最も近い敵へと飛び掛かるまで1秒もかかっていない。

 そうして遥の目の前に現れたのは、先の鬼種サーヴァントとはまた別の、黄金に輝く片刃の大剣を携えた鬼種サーヴァント。それは遥の接近に気付いてから反射的に対応しようとするも、遅きに失した。遥は極致の他、魔力放出と固有時制御も使っているのだ。視認してからの対応で間に合うのは、それこそ上位に位置するサーヴァントの中でも敏捷に優れた者だけだろう。

 

「遅いぞ、鬼!」

 

 その咆哮と共に振るわれた叢雲の刃が応戦のために振るわれた鬼種の大剣を砕き、そのまま鬼種の首を刎ね飛ばした。噴き出す鮮血と、宙を舞う鬼の首。現界を維持できなくなったそれが消滅するより早く、遥がその身体を踏みつけ、崩壊した石畳に血だまりが広がる。

 しかし遥が音で敵の位置を確認したように、その一瞬で生じた物音によって敵は遥の位置を把握しているだろう。そもそも煙幕自体も拡散して薄れてきているため、目晦ましをしていることができる時間ももう終わりだ。

 次手への遥の判断は早かった。主の絶命によって地面に転がっていた片刃の大剣を蹴り上げ、左手で掴む。そうしてそれがまだサーヴァントを傷つけることができるだけの実態を保っていることを確認すると、残る偽魔法少女のうちで最も近い距離にいた沖田に向けて投げ放った。

 当然、遥へと肉薄しようとしていた沖田はそれを乞食清光で叩き落とそうとするも、遥はそれに先んじて大剣の柄頭(ボンメル)に向けて突きを放った。超神速かつ正確無比な一撃が投げ放たれた剣を加速。バランスを崩すこともなく大剣は沖田の読みを完全に外れ、その頭部を真っ向から刺し貫いた。

 

「本物なら、今のは避けたぞ」

 

 感情の読めない声でそう言い放ち、絶命しつつも未だ消滅しきっていない沖田の亡骸を掴む遥。そうしてその亡骸を強化魔術で硬化させると、信長が放ってきて砲撃に対しての即席の盾とした。

 消滅前の英霊の身体を勝手に使うなど、普通であれば許されないことであろう。しかし相手は元より英霊のデッドコピーである。その出自からしてサーヴァントを虚仮にしている存在を利用することに遥は抵抗などなく、そもそも戦法の清濁などこの状況において考えている余裕はない。

 しかし既に霊核を喪い、更には激しい銃雨に晒されている霊基がそう長い間形を保っていることができる筈もない。偽沖田だった亡骸が遥の手の中で少しずつ現の重みを喪っていく。だがだからとて敵の攻撃が止む訳もなく、固有時制御によって引き延ばされた体感時間の中で遥が思考を巡らせる。

 そうして遂に沖田の霊基が完全に消滅し、全くの無防備になる遥。だが彼は盾としていた偽沖田の霊基が消滅する前に叢雲に魔力を込めておくと、消滅と同時に彼自身が有する激流の魔力放出を伴った斬撃によってその場に間欠泉の如き水柱を形成。その勢いを利用して信長が放つ砲撃の射線を捻じ曲げた。

 だが遥が己に向く射線を切ったということは、近接戦闘型サーヴァントもまたフレンドリーファイアの危険性を考慮することなく彼に肉薄することができるということだ。案の定そうして生まれた間隙に大剣を持った鬼種と殺人鬼が遥へと肉薄する。

 遥は即座に体勢を落してからの流れるような二撃にてそれらを封殺し、地を蹴った。音を追い越し、撒き散らされる衝撃波。その接近を感じ取った信長は背後に展開した火縄銃からの砲撃で迎撃するが、遥は神霊の神秘を纏う桜花零式を盾にして強引に距離を詰めていく。

 

「捉えたぞ、ニセモンがッ!!」

「ッ!!」

 

 超神速が齎す絶大な運動エネルギーを乗せた一閃。信長はそれを咄嗟に抜刀したへし切長谷部で防御するも、衝撃まで殺しきることができずに数メートル程吹き飛ばされた。それを隙と見て取り追撃を仕掛ける遥。だがその行く手を、割り込んできた鬼種が阻む。

 交錯する神刀と大剣。打ち鳴らされる甲高い金属音。吹き荒れる魔力。建物の外壁すらも容易に砕く程の暴風が周囲にいた複製カレイドステッキを薙ぎ払い、その圧力でカレイドステッキが圧壊していく。

 その剣戟は一見して互角。しかしその実態は決して互角などではない。そも己の前世にも等しい存在である神霊を受け入れた遥が、サーヴァントを劣化させた英霊擬き、それも元より剣士でもない相手に遅れを取る筈もない。ではあえて遥が剣戟を長引かせている理由とは、何か。

 鬼種の動きが変わる。それはよく相手を見ていないと気づかない程度の差異ではあったが、鬼種の一挙手一投足、それどころか外観的に見える範囲であれば筋肉の動きすら見ていた遥は容易に身抜くことができた。鬼種が動こうとしているのは前方ではなく後方。まるで何かから逃れるようなそれを察知して、遥が叢雲を逆手に持ちその切っ先を背後に突きだした。瞬間、何かを貫く感触。

 

「ガキの見た目をしていれば俺が手出しできないとでも思ったか? 馬鹿が。生憎と、おまえら中身のないニセモンなんぞに掛けてやる情なんざ、一片たりとも持ってねぇんだよ!!」

 

 果たして、叢雲の刃が貫いていたのは先程から鬼種と組んで遥を攻撃していた小さな殺人鬼であった。その左胸に埋まった切っ先は心臓を貫通し、その中に存在する霊核を両断して殺人鬼に与えられた仮初の生命を無情にも終わらせている。

 だが遥はそれだけで終わらせず、叢雲の刀身に込めた魔力を殺人鬼の屍の中で暴発させることで消滅する暇さえ与えずにその身体を四散させた。遥の身に降りかかる鮮血。しかしそれらは遥が、正確には彼の固有結界が放つ超常的な熱量によって接触する前に霧散する。

 消滅した殺人鬼が変じた霊基の残滓すらも足蹴にするかのように、遥が自らの周囲に漂う殺人鬼の残滓を振り払う。神性を顕すその紅い目に宿るのは、抜き身の刃の如き殺意だ。超常の熱を発する彼の身体とは対照的にその視線は絶対零度と形容すべき冷酷を内包している。

 それを前にしても偽魔法少女らは動じない。彼女らはそもそもとして遥を斃すという目的の下に生み出されたものであるから逃げる理由なはく、元となった英霊もその程度で怖気づくような相手ではない。

 残る偽魔法少女は2騎。遠方から攻撃を仕掛けてきた伏兵の存在もあるが、そちらへの対応も現在相対している敵を斃してからではないと不可能だろう。早くイリヤの助力に向かうためにも、この敵は早々に斃さねばならない。

 叢雲を構え、遥が地を蹴る。対する2騎の偽魔法少女らは単騎だけでは先に斃された魔法少女と同じ末路を辿ると本能的に悟ったのか、先程とは異なり多少の連携を見せつつ遥に応戦する。

 信長の背後に展開された火縄銃が射角を変えて遥に向けて火を吹く。だが、それ自体は遥を仕留めるためのものではない。その弾幕は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それに気づいた遥が冷笑を漏らす。

 高密度の集中砲火によって敵の動きを制限し、銃撃手の仲間とぶつかる他ない状況とする戦法。銃の数は少ないが、戦法それ自体は全く同じものを彼は数時間前にも見ている。故に、彼は極めて冷静であった。

 遥に肉薄してくる鬼種の左手に収束する膨大な魔力は、明らかに何らかの宝具を行使しようとしている証だ。だが遥はそれに対する回避行動を見せるどころか叢雲を納刀して抜刀術の構えを取ると、再び地面を蹴って加速。神速を超え、超神速に至る。

 

「〝百花繚乱・我(ボーン・コレ)――」

「遅い!! 〝激浪一閃〟!!」

 

 遥に向けて突き出される鬼の左腕。しかし遥の抜刀術は鬼の宝具よりも一瞬遅くに発動したにも関わらず宝具による強制力が彼に及ぶよりも早くに鬼の手に届き、そのまま突き刺さることもなくその半身を初めからなかったかの如く消し飛ばした。

 激浪一閃。遥、もとい彼の前世(せんぞ)であるスサノオが修得した剣技のひとつであり、斬撃から刺突となっていることを除いて基本的な性質は狂濤一閃と変わらない。ひとつの剣撃に8つの斬撃を収束させ、局所的事象崩壊を引き起こすことで接触点一帯を消滅させるのだ。

 だが霊核ごと半身を消し飛ばされておきながら、鬼種の目から光は消えていなかった。さもありなん。その鬼――酒吞童子は源頼光との闘いにおいて首を切られながらも動いたという逸話の持ち主である。その生命力は尋常ではなく、半身が無くなったとしてもすぐに死ぬことはない。残った右腕を動かし、その手に握った大剣で遥を斬り殺そうと破れかぶれにも思える動作で振るう。

 しかし遥はその起動を見切ると桜花零式の前腕部装甲で受け止め、そのまま叢雲で薙ぎ払って残った半身を寸断。鬼種はそれによって完全に霊基維持に必要な肉体を喪い、一瞬にして霊子に還る。

 そのまま遥は鬼種を斃したことへの達成感を感じることもなく大地を踏み込み、再々加速。残る偽魔法少女である信長を仕留めるために駆ける。今度こそ彼の命を奪うために放たれた弾幕に対して魔力放出の激流をぶつけることで進行方向上の弾丸のみの軌道を逸らし、その間隙に飛び込んでいった。

 咄嗟に対応した信長のへし切長谷部と叢雲の間で散る火花。信長は何とかそのまま鍔迫り合いに持ち込もうとするが、相手が何らかの思惑をもって持ち込もうとする状況に態々応じてやるほど彼は優しくない。刀身に込めた魔力を出力を抑えて放出することで信長の体勢を崩し、がら空きになった胴を袈裟懸けに斬りつける。

 だが信長は体勢を崩された時点で続く遥の攻撃に対する防御を放棄して後方に跳んでいたらしく、叢雲の刃は信長を切り裂いたものの霊核までは届かず、致命傷とはならなかった。それに気づいた遥は即座に追撃を仕掛け、信長はさせじと両手に火縄銃を顕現させて発砲。牽制しつつ反撃に転じようとする。

 いかな神霊の神秘を纏う装甲とはいえ、至近距離で英霊の銃撃を受けて無傷である筈がない。しかし遥は桜花零式の装甲がひしゃげるのも構わず腕の装甲で頭部を守り、鎧の損傷と引き換えにして信長に接近する。

 しうして信長ではなく火縄銃に向けて叢雲を一閃。その銃身を半ばから断ち切ると、信長が次の火縄銃を顕現させるまでの間、全くの無防備となっている間隙に地を蹴ってその懐に潜り込んだ。両者の距離は最早零に等しく、信長には遥の攻撃を対処し得るための方策など残されていない。つまり、詰みだ。

 

「これで……終わりだッ!!」

 

 勝利を確信した訳ではない。けれど剣士としての本能か、この戦場での最後の敵にそう言い放って。

 

 

 

「――えぇ、そうね。終わりよ。ただし、アナタがね」

 

 

 

「なッ――ッ!?」

 

 叢雲の刃が信長の身体を両断する寸前に彼の耳朶を打った、邪悪ながらどこか空虚な声。振り返って直接姿を見た訳ではないが、遥がその声を、気配を間違える筈がない。そこにいたのはファースト・レディであった。

 しかし、何故。遥はこの場にいる敵のみに集中してはいたが、だからと言ってそれ以外を無視していたのではない。彼は戦闘をしつつも警戒を厳にして索敵を行っていた。それなのにレディの接近に気付けなかったということは即ち、レディは今この瞬間に現れたということに他ならない。或いは当の伏兵自体がレディで、遥の索敵範囲外から監視していたとも考えられる。尤も、そんなことは今問題ではないが。

 当初意図していた通りに神刀の一撃で信長の首を落として絶命させると、遥は間髪入れずに振り切ってレディへの対応を開始しようとして、しかしそこにあった物量差の前に息を呑んだ。

 果たして、レディの背後にあったものは数えることも億劫になる程の刀剣であった。それも有象無象の無名刀剣だけではなく、その中には幻想大剣(バルムンク)偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)などの宝具もある。極めつけはレディの弓に番えられた王剣〝勝利すべき黄金の剣(カリバーン)〟だ。

 事ここに至り、遥は理解した。レディ――ひいては彼女に乗っ取られてるクロエの肉体にエミヤに近いものを感じていたのは、決して間違いではなかったのだ。その肉体は何らかの理由でエミヤのクラスカードを内包し、文字通り彼の力を借りてその異能を行使することができるのだ。

 加えてクロエが持つ小聖杯としての権能は魔力さえあればあらゆる無理を押し通すことができる。無数の魔法少女を贄として集めた無尽蔵に近い魔力を有するレディとはまさに最良の組み合わせと言って良いだろう。

 消滅する前の信長の亡骸を魔術で空間に固定し、それを蹴って肉薄する。そのプランを遥は即座に破棄した。それでは間に合わない。いや、この物量差とタイミングではどうあっても間に合わない。

 そうして遂に撃ち放たれる剣群。その密度は全て神刀で叩き落とすことはおろか、間に潜り込むことさえもできない程だ。遥の命を奪わんと、彼を一瞬にして挽肉へと変えて余りある程の剣群が殺到する。それでも尚、彼の目に諦観の色合いはなかった。代わりにその目にあるのは決意、否、執念の色。

 遥はまだ立ち止まる訳にはいかないのだ。死ぬ訳にはいかないのだ。彼はまだ自らの望みを叶えていないのだから。故にその〝飢え〟とでも言うべき渇望と生来の負けん気の強さが彼の執念と覚悟をより強固なものとしている。

 意識が赤熱する。思考が白熱する。文字通り万事休すと言うべきこの状況において、遥はまだ抵抗しようと足掻いていた。それこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことにも気づかないほどに。

 

「ハッ、まだ死んでやれるかよ……! 人理を焼却しやがった黒幕をブン殴ってやるまではよォ―――ッ!!」

 

 咆哮めいた、執念を込めた啖呵。その瞬間、遥の令呪が彼の意志を無視して勝手に弾け、溢れ出した膨大な魔力が閃光となって彼の視界を奪った。だが令呪の解放によって行動を封じられたにも関わらず、彼の肉体を刺し貫く筈だった剣群はひとつとして彼に届いていない。

 しかし剣群を防いでいるのは令呪解放によって発生した魔力の突風ではない。その程度のもので防ぐことができる物量であるのなら、遥は彼自身で防御できていただろう。ならば、何が。その答えはすぐに彼の前に現れた。

 令呪三角分の魔力が吹き荒れるこの場にあってもなお美しく棚引く長い銀髪に、彼女の象徴でもある紅白の巫女服。その前面の空間に配置された呪符から展開された多重結界が剣群を受け止め、それを構成する魔力の統制を強引に無力化し、吸収している。それは〝呪層・黒天洞〟。しかし、使っているのはタマモではない。

 やがてレディが投影した剣弾の掃射が止み、令呪から溢れた魔力も霧散する。そうして闖入者は遥の方を振り返ると、数瞬前まで致死の剣弾を凌いでいたとは思えない程にたおやかな笑みでを遥に投げた。

 

「間一髪でしたね。ご無事ですか、遥様?」

「なっ……クシナダ!? 何故ここに……!?」

 

 現在遥がいるレディの固有結界は基本的にレディが目を付けた者以外が入ることができない。その法則にに従わず入り込んだ遥自身もカルデアとの連絡ができないことから契約サーヴァントの召喚は不可能であった筈なのだ。

 その筈が今、クシナダは確かにここにいる。遥が召喚したクシナダとは別存在という訳ではなく、カルデアの召喚システムによって再現された影という訳でもなく、確かに遥が契約したクシナダとして彼女はその場にいた。

 それはさしものレディとて想定外の事態であったようで、先程までの余裕の笑みは隠しきれない苛立ちに取って代わられていた。彼女にとっては遥の侵入に続いて二度目のイレギュラーなのだから、苛立つのも無理はあるまい。

 

「説明……したいのは山々ですが、まずは敵を退けましょう。あの方を斃せば良いのですね?」

「あぁ。だが、ヤツは俺の協力者の姉妹を乗っ取っているだけだ。斃すにはヤツ自身を引っぺがさなきゃならねぇ」

「協力者……また、女性ですか」

 

 ぼやくように呟くクシナダ。それは偶然にも遥の耳に届くことはなく――などという都合の良いことが起こるようなことはなく、人智を超えた領域にある遥の聴力はクシナダの言葉を確かに聞き取っていた。しかし事実であるから反論することもできず、苦笑いを浮かべる。尤も、遥とイリヤにクシナダが心配するような感情や事態が起こることは万に一つも在り得ないが。

 仲間と出会うことができた安心感からか妙な遣り取りをするふたりの前で、レディは渋面を浮かべつつも思考を切り替え、クロエの肉体の力を使って転移を行使。魔法紳士の1騎である『暗殺者(アサシン)』ファントム・オブ・ジ・オペラを呼び寄せた。これで2対2。数的に有利だった筈のレディは今に至り、その優位を完全に失ったのである。

 レディとファントムに応戦すべく、共に並び立つ遥とクシナダ。そうしてクシナダは今まで霊体化させていた得物のひとつである直刀を実体化して抜き放った。宝具でこそないものの、ヒヒイロカネでできたその刀身は朧に、だが美しく緋色に輝いている。

 

「遥様。あの少女は私にお任せください。私の巫術であれば、彼女の霊体を身体から引き剥がせるかも知れません」

「解った。じゃああのみょうちきりんな仮面の野郎の相手は俺がしよう。……サーヴァントにこう言うのも変な話だが、死ぬなよ、クシナダ」

「遥様も。ご武運を」

 

 その言葉に遥は答えを返さず、代わりに不敵な笑みで応えた。言われるまでもない、とでも言うかのように。それは遥のクシナダへの信頼の証であり、その遣り取りを合図とするかのようにふたりは全く同時に地を蹴った。




 クシナダがキャスターなのに直刀を持ち出しましたが、キャスターなのに聖剣を使うグランドクソ野郎もいることですし、無問題ですよね?


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第75話 暴悪バース

 ファントム・オブ・ジ・オペラ。かの〝オペラ座の怪人〟に登場する怪人のモデルとなった人物であり、オペラ座地下の迷宮水路に住まい、とある女優に惹かれて彼女を歌姫に導きながらも決して成就することのない愛のために連続殺人を行った男だ。己の叶わぬ思いのために関係のない無辜の人々を殺めたという点では、少なくとも遥の中でファントムとジルは同族だ。つまり、唾棄すべき悪である。敬うべき英霊のひとりであると了解しつつ、敬意と同時に敵意があった。

 ファントムの得物はその手に生えている鋭い鉤爪だ。おおよそ人間としては在り得ない程にその爪は長く、そして硬い。その硬度たるや、神刀たる天叢雲剣と何度か打ち合っても壊れる気配を見せない程である。

 しかしファントムは連続殺人鬼であって戦士ではない。その身に積み上げた術理は何の力もない一般人を一方的に殺戮するための殺人術であって、同格或いはそれ以上の相手と生存を勝ち取るためのものではない。対して遥のそれは自分と同等以上の相手から生存を勝ち取るためのものである。であれば、どちらがより実用に耐えるものであるかなど考えるまでもあるまい。

 ファントムが連続して繰り出す鉤爪の刺突や斬撃を掻い潜り、懐に潜り込むや否やその腹に遥が拳撃を見舞う。更に接触と同時に投影品の鉄杭で再装填されたプロト・バンカーボルトを起動し、その腹に風穴を空けた。

 正面から拳撃とバンカーボルトを喰らったファントムが血飛沫を撒き散らしながら吹き飛び、街路を転がる。だがそれだけの傷を負っておきながらファントムが絶命することはなく、喘鳴を発しながら遥に激烈な殺気を内包した視線を向ける。それを涼しい顔で受け止めて、遥が呟いた。

 

「……あぁ、そうか。アンタ、どっかで見た気がすると思っていたが、リヨンで沖田に瞬殺されたヤツか。気配が全然違うから、分からなかった」

 

 リヨンで沖田に瞬殺されたヤツ、とは第一特異点にて遥らが竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)たるジークフリートを探している間に接敵し、しかし態々臨戦態勢の遥らの前で名乗りをあげようとしたためにその隙を狙った沖田に斬殺されたサーヴァントである。接敵してすぐに斃されたために印象が薄かったが、『不朽』の起源をもつ遥が忘れることはない。

 遥がそんなことを思い出している間にもファントムの腹に空いた大穴は見る間に塞がっていき、瞬く間に何事もなかったかの如く元の状態にまで戻っていた。考えるまでもなく、宿業の力であると解る。魔女や魔法紳士は今の所、叢雲でしか斃せない。

 ファントムの接近を牽制するように叢雲を構え、遥が思考を巡らせる。現時点まで打ち合った限りでは人に近い異形であることを除けばただの殺人鬼でしかないファントムと、同化した神霊の記憶がなくとも対人、対死徒、対悪魔戦闘などの修羅場を潜ってきた遥では武練に決定的な差があるようにも思える。

 しかし遥は未だファントムが秘める能力の全容を把握している訳ではない。今まで態々手加減して戦っていたということはなかろうが、英霊の本質のひとつである宝具も知らないのだから、警戒しておくに越したことはないだろう。だがそれ以外にも遥には知っておくべきことがあった。

 

「なぁ、アンタは何故レディに味方するんだ?」

「知れた事を。クリスティーヌの望みが叶うことが我が至上の歓びなれば」

「そうかよ。……訊いた俺が莫迦だった」

 

 遥は同じ質問をエドワードにもしたが、彼からも遥が望む答えが返ってくることはなかった。当然だ。魔法紳士はレディによって召喚されるに際して彼女に忠誠を誓うように霊基改変を受けているのだから。そのうえ、固有結界の特性のこともある。魔法紳士らは最早英霊ではなく、その在り方はどちらかと言えば畜生のそれに近い。

 理性ではなく己が欲望のために五体を駆動させ、元々持っていた信念や誇りを奪われて英霊は獣畜生にも等しい存在へと堕とされた。その方が都合が良いから。その方が利用しやすいから。確かにそうだ。英霊というものは正当なものであれ、反英霊であれ、総じて我が強い。それを従えるのなら、霊基を弄って精神を歪めてやるのが最も楽だ。そうでなくとも、高尚な精神を堕落させる程に甘い見返りをちらつかせてやれば良い。

 しかし、それは果たして正義か? 他者を堕落させ、零落させ、惑わせた先にあるもの。それは本当に正道か? 否。断じて否だ。人の数だけそれぞれの正道があると弁えていながら、彼は迷いなくそう断じた。それは彼が秘めていながらその血の気が多い気性のために完全な開花をしない英雄の資質の片鱗か。彼は何だかんだと言いつつもやはり悪を看過できぬ性質であるのだ。

 一度大きく呼吸し、瞑目。そうして次に見開かれた時にはその神性を顕す宝珠の如き真紅の瞳に翳りはなかった。己が目の前に立ちはだかる敵を斃す。しかし憐みを以て誅するのではない。それは神そのものや神の使途の役目であって、彼の役目ではない。

 遥が敵を討つのは、有り体に言えば許せないからだ。彼に許されたから何になるという事もないが、彼は己の信念に仇名すものの存在を許しておくことができない。即ち、〝無辜の人々を食い物にする者〟の存在を。

 故に斃す。故に殺す。憐みでなく、義務感でもなく、正義感と憤怒を以て。それは現代においては異端の思考であったが、そもそも彼は現代においてたったひとりの半神なのだ。その思考と倫理が浮世のそれと違っているのは当然のことである。

 騎士が騎士道を奉じるように、武士が武士道を奉じるように、神の使途が神の法を絶対とするように、遥は己の正道をこそ至上とする。そのことに、彼はもう迷いはない。どうあっても己はその在り方以外選べないと、未熟であるが故に可能性に満ちた英雄の卵は悟ったのだ。

 相対するファントムは敵の変化に気付いたのか、より警戒を深くする。何があったかは知らないが、確実に敵から放たれる圧力が増している。その正体は剣気と、神気。いくら戦士でなくとも、人理に刻まれた英霊としてそれを読み違えるファントムではなかった。

 

「――フッ!!」

「ッッ!?」

 

 裂帛の気合と共に放たれた超神速の刺突。それをファントムが得物である鉤爪で防御できたのは、彼が遥を注視していたからだ。偶然ではない。偶然で防御できるほど、遥の武は生半なものではない。こと剣技において、遥は無双の大英雄の領域に片足を踏み入れている。

 間髪入れずに叢雲を受け止めたのとは反対の鉤爪で鎧ごと遥の身体を貫かんおするファントム。だが黙ってそんなものを受ける程遥は愚鈍ではない。攻撃が防がれたと解るや僅かに後方に跳んで反撃を回避。ファントムの鉤爪が遥の鼻先を掠め、空を斬る。

 攻撃の失敗。それは戦闘において最大の隙である。とりわけ、このような超接近状態であるのなら猶更に。故にファントムは下手なリカバリーに出ることなく距離を取ろうとして、しかし遥はそれを許さない。バックステップを踏んだファントムを凌駕する初速度で踏み込み、その懐に潜り込んで拳撃を2発。ファントムが十数メートルも空中を舞い、勢いを殺しきれずに転がる。

 そんな隙を、遥が見逃すはずはない。騎士や武士であれば転がって容易に反撃できない相手を攻撃するのはフェアではないとするのかも知れないが、生憎と遥は剣士であっても騎士でも武士でもない。隙があれば容赦なく()りにいく。

 常人であれば一瞬で詰めることができない距離も、遥にとっては間合いの内だ。転がっている状態から器用に身体を起こして立ち上がるファントムだが、遥の剣撃を躱しきることができず胴体を深々と切り裂かれた。

 普通のサーヴァントであればその時点で消滅はせずともダメージで行動不能になっていただろう。しかしファントムは魔法紳士であり、その程度のダメージであれば問題にもならない。傷は自然治癒に任せるまま、得物たる爪で遥を斬り裂かんと振るう。

 流石何人もの人間をその手にかけてきただけあり、その一撃は正確に遥の喉笛を掻き切る軌道を描いている。だが遥はそれを叢雲で受け、そのまま刃を滑らせるようにファントムの背後に回り込んで振り向きざまにその背に一文字の刀傷を刻んだ。

 それに対抗するように遥の背後から鉤爪を振るうファントム。しかし遥はそちらを見ないまま攻撃の気配を察知し、神刀の刃で受け流すと、その動作を利用して片腕を斬り飛ばしてしまった。大地に落下した怪人の腕が消滅する。

 防御から反撃、そして残心までの全てが完璧な一連の動作の内に終始する斬撃。だが遥はそれを思考と共に進めているのではない。だからといって完全に無意識という訳でもない。遍く雑念、妄念、そういったものを排除し、己を〝空〟にする。そうすることで目的を果たすまでの最適解を見出すのである。

 それはかの二刀流の剣豪が言う所の〝空位〟に至るための道。遥は未だ空位に開眼していないものの、その素養が皆無という訳ではない。むしろ同化した神の記憶からそれを知るからこそ、彼は当然の帰結として開眼に至る道程を歩むことができる。

 邪魔者である遥を殺すべく殺到するファントムの爪撃を、悉く最適解で往なす。ファントムの攻撃は戦士のそれではないものの、人を殺すというその一点においては決して侮ることができるものではない。その一撃を受けても即死することはないが、首は飛ぶ。首が飛べば隙が生まれ、その隙に心臓を潰されれば遥は死ぬ。故にこそ動体視力と心眼によって察知し、弾く。蹴散らす。

 己が敵を注視せよ。無駄を徹底的に省け。忘れてはならぬのは刀を執る剣者としての基本。基礎、基本を突き詰めた先に王道があり、王道を修めたからこそ邪道を見出し、邪道を極めてこそ極致がある。極致へと至らんとするならば、この程度の難行を乗り越えずして何とするか。

 ファントムの攻撃を往なす遥の目に宿るのは殺意。しかしそこにある殺意は憤怒によるものだけではない。彼自身自覚していないことであったが、そこにあったのは敬意であった。

 ファントム・オブ・ジ・オペラ。彼は遥が嫌う類の男ではあったが、曲がりなりにも英霊なのだ。であればその存在にはそれ自身が譲れない誇りや、他者からの思いがあろう。魔法紳士はそれを歪めている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなことはあってはならない。

 だがその敬意は英霊たるファントムに向けられるものであって、魔法紳士ファントムに対して遥が向けるのは純なる嚇怒の殺気と剣気のみ。それを撥ね退けるべく、ファントムは遮二無二に己が身に染み付いた殺人術を揮う。だがそれは遥に通用せず、遂には腕を撥ね上げられた。

 無防備となったファントムの身体。その中に、遥は確かに見た。今まで叢雲の刃が両断するに任せていた魔法紳士を初めとするレディの配下らの核、彼らの霊基を歪める元凶たる宿業を。そして、一度視界に捉え間合いに入れたものを遥が逃す筈もなく。

 

「あ――」

 

 その霊核が、両断された。

 


 

 時は少し遡る。遥がファントムと戦闘を始めたのと殆ど同時に、その近くの路地ではファースト・レディとクシナダが相対していた。レディの場合はあくまでも身体はだが、『弓兵(アーチャー)』と『魔術師(キャスター)』というクラスに似つかわしくない双剣と直刀を携えて。

 クシナダヒメは神霊である。しかし神霊ではあるがアマテラスやスサノオのように司るものもなく、生前は強力な権能もなかった。国津神の中でもその属性は殆ど神霊ではなく人間に近いものであったと言えるだろう。唯一の能力は神霊でありながら他の神体をその身に降ろすことできること。それだけだ。

 だが、それは決してクシナダが弱いということを示しているのではない。彼女は己を含めた姉妹の権能が弱いことを自覚し、故にこそ努力した。神霊でありながら人間と比しても尋常ではない程に。その結果、彼女は巫術だけではなく呪術や当時の日ノ本ではマイナー中のマイナー、未発展も良い所だった魔術の一部を身に付けるに至ったのだ。

 それに加え、彼女の夫はスサノオ、日本神話において最も荒ぶる神である。その武威は他に並ぶ者なく、彼女はそんな夫に魔術や呪術を教え、逆に彼から弓術や剣術を学んだ。結果として彼女は神話に語られないながらも、上位の神に劣らぬ力を備えるようになっていた。

 サーヴァント化によってその力は生前程のものではなくなっているにせよ、三騎士のサーヴァントにも劣るものではない。左手に呪符を、右手に直刀を強化した膂力で以てレディを押し返し、攻撃が通らなかったレディが歯噛みをしつつ苛立ちの滲む表情を浮かべる。

 

「このっ……キャスターのクセに近接戦なんて……!!」

「世界にはそういう巫女もいるというコトです。それを知らぬというのなら……それは、貴女の見識が狭いだけのことではないですか?」

「言ってくれる……!」

 

 クシナダの挑発に対し苛立ちを隠しきれない様子で言葉を返すレディ。しかしその目が苛立ちで曇るようなことはなく、投影魔術を再度行使することで砕けかけた双剣の刃を修復した。クシナダが見る限りにおいて、その完成度はエミヤのそれと比べてもそう見劣りするものではない。

 クシナダはこの特異点に来てすぐにこの戦闘に突入したためクラスカードの存在について知らない。にも関わらずエミヤだけしかもたない筈の特殊な投影を見ても大して驚愕を見せなかったのは、単純にそういうものかと簡単に受け入れてしまっただけだ。そもそも驚愕するくらいならば対策を考える方が余程生産的だとも思っている。

 衛宮の投影魔術は術者の魔力が続く限り固有結界〝無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)〟内部から際限なく物体を取り出すことができる。膨大な魔力を保有するレディであればエミヤのように持ちうる宝具を再興効率かつ最大威力で運用する策などなくとも適当にばら撒くだけでそれなりの脅威となるだろう。

 しかし、先程のような一斉砲撃はないと断言できる。何せクシナダはそれを無傷のうちに防いでしまったのだ。放つだけ無駄に終わるというのは、どんな間抜けであろうと解るというもの。故にレディはその仮初の肉体に、正確にはその核となる英霊の技能と肉体の権能、己の強権に活路を見出す。

 しかしレディの誤算は彼女が戦術の基礎としている錬鉄の弓兵はクシナダの既知であったこと。白黒の夫婦剣を構えて殺意を放つレディを前にして、クシナダは泰然と愛刀を握り、攻撃を仕掛ける。

 だがその直後、視線の先にいた筈のレディが唐突に消失した。何の前触れもなく、忽然と。それに目を剥くクシナダだが、しかしそれで対応を見誤るようなクシナダではない。

 クロエの肉体が有する小聖杯の権能を利用した転移によってクシナダの背後に回り込むレディ。しかしレディの消失を悟った瞬間にその狙いに気付いていたクシナダは呪術を行使することで自らの後方に氷柱を形成。レディは構わず叩き斬らんとするが、氷柱は刃が僅かに食い込んだ直後にそれを巻き込みながら成長する。

 舌打ちを漏らすレディ。しかし彼女はすぐに思考を切り替え、邪魔な氷柱を破壊するため双剣に秘められた神秘を無秩序に解放した。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)。干将・莫耶は元よりそう内包する神秘の総量が多い方ではないものの宝具であることに違いはなく、巨大な爆炎があがる。

 レディはそれに巻き込まれないように後方に跳び、並行して黒弓と偽・偽・螺旋剣(カラドボルグⅢ)を投影。番えると同時に偽・偽・螺旋剣をより長く、細く、剣から矢へと改造し、爆炎の先にいるであろうクシナダに向けて撃ち出した。レディが行った魔法(まじゅつ)による後押しもあって、宝具の矢は音の壁を追い越しソニックブームを撒き散らして猛進する。

 いくら劣化に劣化を重ね元の位階(ランク)から大幅に堕ちた宝具といえど、並みの呪術や魔術で迎撃できるものではない。かといって刀で弾こうとすれば、その瞬間にレディは壊れた幻想を起こすだろう。迎撃するには、それこそ同等のものをぶつけて相殺するしかない。

 しかしレディの表情に余裕はない。彼女にとって、この一射は謂わば測りだ。クシナダがどれほどの脅威か、見定めるための。果たしてレディの放った螺旋の矢は濃密な爆炎を貫き、次の瞬間には()()()()()()()()()()()()()とぶつかり合ってあらぬ方向へと飛び去った。そうして露わになったクシナダの握るモノに、レディが虚勢を滲ませる笑みを浮かべた。

 クシナダの執る弓は、宝具であった。いや、正確に言えば彼女の手の中にあっては宝具として機能しないが、本来それを持つべき者の手に渡れば宝具としての格を取り戻すであろう大弓。末弭(うらはず)から本弭にかけての骨組みは真実骨を加工したものの上から鞣した邪龍の皮を重ねたものであり、弦は鋼鉄すら超える強靭を誇る邪龍の鬣を糸としたもの。脈動する邪龍の魔力は余人にとっては毒でしかないが、こと邪龍の巫女である射手であれば互いの格を押し上げる効果を果たす。

 其は日本神話最強の神格。三貴神の一柱をして搦め手で以て誅する他なかった災厄の具現たる龍神の神格をそのまま弓としたもの。日本の神話には存在しない筈の戦神に酷似した性質を有する海神が、その手に握る神剣と同格の弓を欲した挙句に職人に造らせた神弓がソレだ。神話に語られぬ神具だ。それを目にしたレディが舌打ちを漏らす。

 いくら神弓が本来の担い手ではないクシナダでは真名解放することができない武具であるとはいえ、その格はクロエの肉体が投影するものよりも高い。小聖杯の権能を以てすれば神造兵装も複製可能だが、本体であるイリヤと分離して弱体化したクロエの肉体ではハリボテを造るのが限界であり、本物の神弓から放たれる矢はそれを易々と破壊せしめるであろう。そんなもの、投影するだけ魔力の無駄だ。レディが黒弓を消し、代わりに霊基に使い方が染み付く程に使い慣れた白黒の双剣を再度投影。クシナダもまた神弓を霊体化し、直刀と呪符を取り出しつつ、冷静に敵対者の戦力分析を行う。

 

(少女の戦術……どうやら基本はエミヤ様と同一のモノのようですね。しかし完全に同一でもない。そして……何より、この少女はまだ自分自身の力を一端さえ晒していない)

 

 クシナダは聡明な女神である。その性質が人に近い故か神霊にありがちな思い上がりもなく、たとえ相手が誰であろうと侮ることもなく、過小に評価せずに正確に脅威としての度合いを推し量り対抗策を練ることができる。自らの修めた武威が超常の英傑が宿すそれに遠く及ばないと知るが故の油断の無さと元よりもつ優れた頭脳が合一した、クシナダの戦術眼。それが、この状況にあっても警鐘を鳴らしている。

 現状、戦闘の趨勢はクシナダの方に傾いていると言って良い。投影宝具の一斉掃射を完璧に防ぎ、一対一の戦闘となってからは転移による不意打ちを阻み、更にはあえて神弓を晒して射を迎撃することでこちらにはレディの投影宝具を悉く粉砕し得るだけの弓と至近からの一射を自らが放った一射で叩き落とすことができるだけの技量があると認識させ、弓の使用を牽制してもいる。

 しかし、それだけだ。未だレディは乗っ取った肉体の力しか使っていないことを、クシナダは見抜いていた。自身の力を使わないのか、それとも使えないのか。使えないと判断するのは早計であり、愚行だ。自らを危険に晒す暗愚の所業だ。故に使えるにも関わらず使っていないと仮定し、対応を決定する。

 クシナダの手から零れ、半ば崩落した石畳に落ちる呪符。それを彼女が踏みつけるや、起動した呪術が巻き起こした颶風がその華奢な身体を押し出した。よもや殆ど前触れもなく仕掛けてくるとは思っていなかったのか驚愕を見せるレディ。しかしその驚愕も刹那に終わり、レディがクシナダの一閃を双剣で受ける。

 直刀と双剣の間で火花が散る。それが消えるのも待たずレディはクシナダの身体を撥ね上げ、生まれた間隙を突くように蹴撃を繰り出した。クシナダの鳩尾を正確に貫かんと迫る蹴り。防御用の呪を発動する暇もないと判断し、クシナダは交差させた両腕でそれを受ける。

 レディの肉体であるクロエの筋力ステータスはD。対してクシナダの耐久ステータスはAと、クロエの筋力ステータスが齎す威力を十分に封殺し得るだけのものがある。蹴撃の威力を利用して後方に跳躍。距離を取ったクシナダは腕に残る痺れを無視して再び構えを取った。

 レディの基本戦術を把握した。一撃の重みを体感した。ならばあとはそれを考慮して戦術を決定するのみ。未だレディがクシナダにとって脅威であることに違いはないが、少なくとも大半を既知にできたのだ。

 無茶であった。無謀であった。よもやあえてダメージを受けない範囲で攻撃を受け、敵の力量を図るなど。しかし妥当な判断でもある。剣術や弓術を修めてはいても戦士ではないクシナダが敵の脅威を正確に掴むための、それが最適解であった。

 何の前触れもなくクシナダの背後に展開された氷塊群。尋常な呪術師であれば呪を行使する際に発生する気配でそれと悟られてしまうだろうが、クシナダは神霊だ。その彼女にとって、魔力の扱いなどは呼吸をするかの如く容易いことである。それだけの短時間で生成されたものなら酷く脆くとも不思議ではないが、レディは構造解析に特化したクロエの目を持つが故にそれらひとつひとつが直撃さえすれば英霊であっても一撃で屠り得るものだと悟った。

 無造作に氷塊群が打ち出される。レディはそれを手にした双剣で打ち払おうとはせず、空中に刀剣を投影。それらを氷塊にぶつけることで相殺するも、クシナダの目的はレディの殺害ではない。現状でのレディの殺害は、そのままクロエの殺害にもなってしまう。クシナダはクロエの名も知らないものの、殺してはならないとは分かっている。

 クシナダが放った全ての氷塊が圧壊する。それでもなおその圧倒的な物量を以てクシナダを圧殺せんとばかりに剣弾を放ちつつ、手元に夫婦剣を更に1対投影し、指で挟みこむようにして持つ。頃合を見計らい、剣弾の射出を停止。同時に双剣2対をクシナダに向けて投擲する。あえて軌道を読みやすいように、露骨な構えで。

 当然、クシナダはそれを直刀で払うことで防御し、弾かれた双剣はあらぬ方向へと飛んでいく。それを見て、レディが嗤った。莫迦め、と。レディの狙いは初めから投擲による攻撃ではない。その先だ。彼女が新たな双剣を投影し、それに引かれるようにいて明後日の方向へ飛び去っていた筈の双剣2対が弧を描いて帰還を始める。

 それは、聖杯の片割れの核となっている錬鉄の英霊がその生涯において唯一生み出した、真実彼のみの絶技。そして彼の力を借り受け、行使することができる肉体を持つレディもまた、それを揮うことができる。

 双剣を手に、地を踏み込むレディ。そして、常に黒剣と白剣が共にあるという特性により彼女の手にある双剣に引かれて飛来する2対。その様はさながら剣の結界、否、剣の牢獄だ。それを突破するにはレディの剣も戻ってくる剣も受けず、離脱可能な絶妙なタイミングで彼女を殺すしかない。しかし、クロエの肉体を使っている限りクシナダにレディは殺せない。

 何事かクシナダが唱え、その身から爆発的な魔力が迸る。だが、無駄だ。レディが再び嗤う。何をしようとももう遅い。レディに向けて振るわれた直刀。その奇跡がレディに到達するより早く、彼女はクシナダの背後に転移した。

 

「さぁ、もう逃げ場はないわ! 

 ――堕・鶴翼三連(ブラックバード・シザーハンズ)!!」

 

 剣撃三閃。勝利を確信したが故の口上。双剣を握るレディの手に伝わるのは確かにクシナダの身体を刃が切り裂いたという感覚であり――しかし拭えない違和感にレディの笑みが消えた。

 その原因は明白だ。レディが振るった双剣は確かにクシナダの身体にその剣先を埋めていながら、それ以上動かない。まるで蠢く肉にせき止められてでもいるかのように、その場に固定されているのである。

 双剣によって切り裂かれた装束の隙間。そこから傷口を覗いて、レディはようやくそのカラクリに気付いた。レディの視線の先、そこにあったクシナダの皮膚はまるで龍のようなそれに変化し、その強靭な肉と尋常ならざる回復力で以て刃を抑え込んでいたのである。

 ()()()()()()。ようやく悟ったレディが双剣から手を離してクシナダの間合いから離脱せんとする。だがその直前に四肢に噛みついたクシナダの髪、如何なる原理によってか龍の頭のように変化したそれがレディから転移のための魔力を奪った。

 

「捕らえましたよ。肉を切らせて骨を断つ……とでも言うべきでしょうか。兎に角、これでもう転移で逃げることはできません……!!」

 

 日本神話において、クシナダはその登場から八岐大蛇に捧げられる贄として語られてはいるが、本来の在り方は八岐大蛇の巫女とする説が有力である。そして神霊である彼女は『そういうもの』として生み出されたために半ば権能に近しい力として八岐大蛇の魂をその身に降霊させることができる。遥の持つ鞘は彼女の力を宝具として再現したものだと言えるだろう。

 であれば八岐大蛇を降霊させた遥にできることがクシナダにできない筈もなく、レディの攻撃を避けられないと悟るや否や彼女はその身に八岐大蛇を降霊させ、変質した肉体の性質を利用して剣を受け止めたのだ。

 完全に有利を覆された形である。レディは何とか拘束から逃れようともがくも、クシナダの髪が変化した大蛇の顎はレディを捕らえて離さない。彼女の多頭蛇は見た目こそ尋常なそれと大差はないが、その力は比較にもならない。抵抗も虚しくレディは持ち上げられ、全く無防備な姿をクシナダの前に晒した。

 

「くっ……このォッ……!!」

「返してもらいます、その身体。本来の持ち主に!」

 

 それは王手の宣言であった。クシナダが拘束したレディの鳩尾辺りに呪符を押し当て何事か唱えるやレディの端整な顔が苦悶に歪む。身体は痙攣を始め、額から脂汗が噴き出す。まるで溺死寸前の怪我人か何かのようにぱくぱくと無意識に開かれた口から洩れるのはごく短い喘ぎで、今レディの意識がどのような状態にあるのかを察するにはそれで十分であった。

 クシナダは神霊であると同時に巫女でもある。それ故に彼女は〝霊魂を降霊・憑依させる術〟である巫術に精通し、自在に扱うことができる。そして巫術の行使中の巫女はある意味で〝降ろした霊魂に乗っ取られている状態〟であると言えるため、彼女はそういった状態にある肉体のことを子細に把握していた。だからこそ、こうして肉体に張り付いた魂を魂魄ごと無理矢理に引きはがすという荒業もできる。

 苦悶するレディをクシナダは地面に降ろし、身体に突き刺さった3対の双剣を引き抜く。その傷口は相当に深いものであったが、流石尋常ならざる生命力と回復力をもつ龍神を降霊させているだけあってその傷はすぐに塞がってしまった。しかし蓄積したダメージまでは無視できず降霊解除と同時によろめき、そこで横合いから伸びてきた腕に抱き留められる。

 

「遥、様……」

「大丈夫か……と、訊くだけ野暮か。……ありがとう、クシナダ」

 

 遥はクシナダの強さを知っている。精神の強さは勿論のこと、彼、正確には彼の雛形にして前世たる存在が教授した剣術や弓術、武術の腕前もだ。しかし共に戦ってくれた仲間に感謝しない者がいようか。少なくとも遥は感謝しないような慮外者ではなく、またそうなる気もなかった。しかし不器用な遥に示すことができる感謝など礼の言葉だけで、けれどクシナダにとってはそれで十分に伝わるものでもある。

 クシナダはその性格をよく知っている。元々は天津神だったとは思えないほどに人間性に富み、それ故に高天原から追放されてしまった彼の神とよく似た、いや、同じ不器用さだ。懐かしいその感覚にこみあげてくるものはあるが、ひとまずはそれを棚上げして、直後、レディが苦悶の咆哮をあげた。先程まで余裕を見せていた者のものとは思えない、まるで獣のような咆哮だ。そちらを見て、遥とクシナダが息を呑む。

 そこにいたのは、否、あったのは異形の執念であった。魂を物質化する第三魔法(ヘヴンズフィール)を施した訳でもなく、本来ならば曖昧な想念として消えていくだけのそれが、夜闇よりもなお暗い深淵のような黒い影として可視化されている。クシナダの術によってクロエの肉体から引き剥がされながら、しかしそれでもなお諦めきれぬとばかりに纏わりついて。その目が紫色と薄桃に明滅を繰り返しているのは、恐らくクシナダの巫術によって失われたはずの身体の制御権を意志力のみで離すまいと足掻いているからあろう。途轍もない意志力、執念、そして精神力である。

 

「コイツ……権能に近い強制力をもつ筈のクシナダの巫術を受けたってのによ……!」

『当然、でしょう……!! 私はまだ止まれないのよ……世界を、救うまではッ!!』

 

 果たしてそれは影と身体、どちらから発した声であったのか。地獄の窯で煮詰められ、積もり続けた果てのない怨念をそのままぶちまけたかのような、そんな咆哮であった。それに伴ってクロエの肉体に張り付いていた影が爆発的な衝撃と共に膨張し、反射的に遥とクシナダが防御態勢を取る。可視化される程の嚇怒の魔力。その中で、遥は確かに見た。彼女に回収されたアリスの宝石を、彼女自身が呑み込む姿を。

 瞬間、レディから放たれる嚇怒の魔力が明らかにその圧力を増した。更にその魔力が遥の総身を撫でるや、全身の血液が血管内で沸騰するかのような激烈な疼痛と不快感がその身体に満ちる。ヤツを斃せ、ヤツを殺せと全身の細胞ひとつひとつが叫んでいる。その感覚に、遥は覚えがあった。

 そう。忘れる筈もない。仮に彼の起源が『不朽』でなかったとしても、彼はきっと忘れることはなかっただろう。その感覚は、変異特異点αの最終決戦前、臓硯の願望を受けたこの世全ての悪(アンリマユ)がユスティーツァの肉体と同化して現れた際と同じ感覚だ。それが示す所を、分からない遥ではない。

 漆黒の魔力が晴れる。そうして露わになったレディは、これまでとは聊か装いを異にしていた。一部を団子にして束ねていた髪は全て解かれ、レディの激情を具現化したかのように大きく波打っている。紅い聖骸布の外套は静脈血のように赤黒く変わり、禍々しく。そしてその両側頭部からはおおよそ人間やその他尋常な生物のものではない、捩じくれた角が生えていた。

 人類悪(ビースト)。人類史の内より生まれながらにして、人理悉くを終焉へと導くモノ。英霊はおろか神霊すらも上回る力を有し、完全体ともなればそれ自体が何らかの法則として作用する程の脅威を秘めた、生ける天災である。しかし遥はレディと同じ亜種と出会ったことがあるために、レディの霊基規模(スケール)が異様に小さいことにも気づいた。それでもサーヴァントなどは及びも付かないものであるが大きく見積もってもレディの霊基規模は精々ユスティーツァの半分程度でしかない。警戒して様子を見ている遥たちの前で、レディがよろめく。

 

「ッ……だからこの身体ではやりたくなかったのよ……! あまりにも、願望器として弱すぎる……!」

 

 恐らくクシナダの術が未だ効果を発揮しているということもあるのだろう。しかしそれ以上に、クロエの身体に残された願望器たる機能と霊基強度が、ビーストとして肥大化したレディの霊基に耐え切れない。クロエの身体ごとビースト化しているのならそうはならなかったのだろうが、あくまでもビースト化しているのはレディのみだ。身体の方は魂によって状態を上書きされているだけに過ぎない。彼らには預かり知らぬ事だが、それは別世界におけるアカシャの蛇と『弓』の関係にも似ていよう。尤も、そちらとは異なりこちらは転生などという大層なものではなく、ただの乗っ取りだが。

 遥にはレディがビースト化している原理は分からない。しかし推理することはできる。レディの目的は何であるのか、魔女の身体に埋め込まれている宝石が何であるのか、既にある程度の推測はできている。故にビースト化の理由もおおよその察しは付く。

 しかし、遥の推測が正解なのだとするとたったひとつでビーストに変質するに十分な人類愛を内包した宝石とは、それだけで何人の魂を集積しているのか。想像するだに恐ろしい。加えてそれがひとつだけではなく、4つ存在することも。

 

「レディ、おまえ……手前の欲望のために、いったい何人の魔法少女を犠牲にしてきた!?」

「そんなコト……アナタには関係ないでしょう? それに、態々数えていると思う?」

「なっ……貴様――ッ!!」

 

 激昂し、爆発する感情のままレディに斬りかかる遥。完全に冷静さを失っていながらその剣腕には聊かの翳りもなく、それどころか極限にまで研ぎ澄まされた殺意は彼の思考から余計なものを全て奪い取り、一時的ではあるものの〝空〟と等位の領域へと至らしめた。

 だからだろうか。遥にはクロエを殺さずレディのみを殺す方法を感覚的に理解した。そして、それを実行するために突くべきレディの霊核も視えている。紅玉の瞳に揺れる殺意の焔は、普段の彼からは考えられない程に激しい。

 しかし、不完全とはいえレディはビーストだ。そんな何の芸もない、ただ神性を帯びているだけの超神速による刺突など通用する訳もなく、叢雲の剣先はレディに受け止められ、逆にレディが放った魔力撃によって遥は吹き飛ばされ、その威力でオルテナウスの大部分が粉々に砕け散った。更に魔力撃の余波で家々が崩壊し、遥とクシナダが灰燼に帰した街の瓦礫に沈む。

 

「グ……野郎ォ……!」

「ハハ……イイ気味ね。今まで散々私の邪魔をしてくれて……そのお返しをしてあげ――る……?」

「……?」

 

 怨敵である遥をたった一撃で半ば戦闘不能に近い状態に追い込むことができたからか、どこか上機嫌にも聞こえる声音で言うレディ。しかし予定外のビースト化に耐え切れない身体でそう長く継戦できる訳もなく、不意にその身体がブレた。

 ビーストとなったことで圧倒的な劣勢を覆したまでは良い。しかし元よりクロエの身体はレディにとってはビーストとなる準備が整うまでの仮の宿であり、〝ビーストの霊基によって身体にビーストの概念を上書きする〟という無理矢理な方法ではクロエの霊基はいずれ崩壊してしまう。

 より強い身体が必要だ。霊基規模が、ではない。より願望器としての属性が強い身体に替える必要がある。それも早急に。怨敵を殺すことができる好機を前にしてみすみすそのその機を手放してすまうことに舌打ちを漏らし、レディが転移しようとする。

 

「この……待てッ……!!」

「……ここでアナタを消したいのは山々だけれど、生憎私には時間がないの。だから、今の内に辞世の句でも詠んでおくのね。次に会った時が……アナタの最期よ」

 

 それだけ言い残して、レディは姿を消した。

 


 

 ――幕切れは、あまりに呆気ないものであった。どちらが勝った、負けたという話ではない。この幕切れでは勝敗など判じることはできまい。唐突に目前で起きたそれを、イリヤは一瞬理解することができなかった。

 ただでさえ巨大な目をより大きく見開き、口から血を流すジルの胸から生えているのはイリヤにも見覚えがある陰剣、それに魔力を過剰に込めたオーバーエッジ状態の莫耶。であればそれを握っているのがレディであることは、最早言うまでもあるまい。

 しかし、これは。魔術師や戦士ではなくあくまでも魔法少女(カレイドライナー)でしかないイリヤだが、その出自のために常人を圧倒する魔力事象に対する知覚能力を有する彼女は今のレディが以前のそれとは比較にならない程に霊基規模を拡大させていることにすぐに気づいた。その規模たるや、黒化ギルガメッシュが可愛く思えてくる程だ。

 彼我の間にある決定的な戦力差の前に、どう対応すれば良いか分からずに立ち尽くすイリヤ。だがレディはそんなイリヤの様子は眼中にないとでも言うかのように配下である筈のジルに酷薄な笑みを投げかける。

 

「ォオ、オ――主よ、何故……!?」

「御免なさいね、ジル。本当に御免なさい。えぇ、本当に……」

 

 御免なさい。そう繰り返しながらも、レディの顔に張り付いているのは笑みであった。それも、今までの無機質な笑みではなく心の底からジルを侮蔑しているかのような、極めて強い悪意を感じさせる顔だ。

 イリヤから見れば、それは裏切りだ。なにせ仲間であった筈の魔法紳士にその主であるレディが留めを刺したのだから。けれどレディにとっては既定路線である。元より魔法紳士は最終的にレディの養分になる予定であったのだから。少々前倒しになっているが。

 レディは分かっていた。今、自分が手ずからジルを殺さなければイリヤの救援に駆け付けた遥によってジルは斃され、宝石も回収されてしまうことを。故に手を打った。それだけだ。それだけのことなのだ。

 ジルの身体を貫く莫耶から彼の身体を浸食するかのように黒い文様が伸びていく。それが増えていくにつれてジルの抵抗はより激しく、同時により虚しいものへと変わっていく。そして。

 

「サヨナラ」

 

 グシャリ。擬音に表すならば、ただそれだけで事足りる。レディが何事か呟いたその次の瞬間、ジルの身体は栓をする前に手放したゴム風船の如く萎み、潰れてしまったのである。骨が砕け、肉が挽き潰される異音をあげながら、イリヤの目の前で。

 ジルを『捕食』したことでまたしてもレディの霊基規模が拡大する。それでも完全体(オリジナル)のビーストには遠く及ばないが、只人ならば気配を感知しただけでショック死してしまいかねない程だ。その気配は直前にグロテスク極まる光景を見せつけられたイリヤの精神には毒でしかなく、こみ上げてきた吐瀉を手で抑えながらイリヤが蹲る。

 レディはそんなイリヤを極めて無関心な瞳で一瞥し、ジルの持っていた宝石を拾う。呑み込みはしない。今呑み込んでしまえば、後で美遊の身体を乗っ取るのが面倒になってしまう。故にそのまま懐に仕舞って、今度こそ本当に、この街から立ち去った。

 


 

 他の場所でのことはともかく、この世界、レディの固有結界〝夢幻の墓標(エンド・サクリファイス)〟内にいるメイヴは魔法少女――否、魔女である。しかしその在り様は他の魔女とはあまりにも異なる。自我があるのだ、彼女には。

 魔女が自我を喪う最大の原因はレディの霊基改変、宿業によるものだが、それと同等に彼女らが内包している魔法少女の魂を汲み上げるための宝石もまた、自我を崩していく。何せそれらひとつひとつが呪詛と化した人類愛の塊だ。いかな英霊であれ、いや、人々の思いで如何様にでも変質してしまう英霊だからこそ、それに抗えずに自我を崩壊させてしまうのは自然なことだ。

 だが、メイヴは抗った。抗い続けた。それは彼女がもつ女王としての誇り高さ故であり、英霊としての属性がそういった人々の想念に対して極めて高い抵抗力をもっていたからでもある。

 要は彼女は、あまりにも女王として完成され過ぎていたのだ。その〝女王としての在り方〟はどうあれ、人々の意志を押し退けてでも我を突き通す力は誰よりも高かった。同時に人間として、少女としてはあまりに未完成で、だからこそ耐えることができていた。そう、()()()()()のだ。

 

「ゥヴ、イゥ――アァ、あ――うぁ――」

 

 メイヴが治める〝雪華とハチミツの国〟。その最奥にある城にて、女王は苦悶する。魂そのものを圧搾するかのような苦痛の嵐に晒されながら、最後に残った冷静な部分でメイヴはレディに何かが起きたことを悟った。もう自らが長くないことも。それでも、受け入れられない。受け入れる訳にはいかない。

 

「私は、あんな奴には従わない……! 染められて、たまるものか……!」

 

 その強烈な意志の輝きを内包した方向も、今はただ虚しく響くのみだ。普段は彼女の傍らにいるミニクーちゃんも侵入者を排除してくると言って出て行ったきり戻ってきていない。彼女は自らの内で暴れる他者の感情とひとりきりで戦っている。

 メイヴは理知的な女王である。自らの欲求を最優先に行動するその性格からそれが発揮されることは少ないものの、とある特異点では合理性を突き詰めた狂王と並び立つことができているのがその証左だ。そしてそれ故に、彼女はレディに何もなかろうと自分がいつか自我の崩壊を迎えると分かっていた。

 だからこそレディが固有結界の中に引き込んだ聖杯の少女を狙ったのだ。他でもない、願いを受け止める器である彼女にならばその狂った人類愛の塊を移すことができるだろうと踏んで。結局は失敗してしまったが。

 秒読みで薄れていく意識。代わりに顔を出してくる自分のものではない狂気。次第に狭間を喪って全てが狂気に呑まれていく中で何者かの気配を察知したメイヴはそれがミニクーちゃんのものと思い苦悶の中に喜色を滲ませ、しかし直後にミニクーちゃんでは在り得ない靴音を聞き咎めたことで凍り付いた。

 侵入者によって放り投げられ、軽い音を立てながら床に転がったのはぬいぐるみだ。至る所に刻まれた裂傷から綿が飛び出し、最早原型を留めない程にまで破壊しつくされたそれだが、メイヴは一目でそれがミニクーちゃんであることに気づいた。絶句するメイヴの前で、侵入者たる騎士――ディルムッドは騎士としての礼も何もかも無視して瀕死の女王に赤剣を突きつける。

 

「悪く思うな、女王メイヴ。我が主の命により、その命、頂戴する」

 

 茫然と騎士の姿を見上げるメイヴ。最早彼女には死神の魔手から逃れる術など――――一片たりとて、残されてはいなかった。




 多分遥は黄金の精神よりは漆黒の意思系主人公だろうと思う今日この頃。

【ステータス更新】
真名:ファースト・レディ
クラス:アーチャー→ビースト(?)
理:?

 遥の見立てではどうやら真性のビーストではなくユスティーツァと同じ亜種の模様。


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第76話 終幕レクイエム

 夜である。そもそもとして結界外の世界などなく、従って本当の月や星、太陽もない固有結界の内部に正確な昼夜の概念があるのかは不明だが、少なくとも天球に月や星と思しき光源が再現されている以上、それは夜と言うべきであろう。数時間前に〝死せる書架の国〟での戦闘を終えた遥たちは、同国の外に広がる草原の一角に一時の拠点を構え、身体を休めていた。

 しかし拠点とはいえそんな大層なものではない。精々死せる書架の国でも戦いにて崩落した家の残骸から作った椅子を焚火を中心にして並べ、索敵のために装甲騎兵(モータード・アルマトゥーラ)を待機状態で停めている程度だ。万全と言うにはほど遠い、あまりにお粗末なものである。

 カルデアとの通信が繋がっていないため正確な時間は分からないものの、一応は夜であるからイリヤは遥が投影した寝袋で眠っていて、寄り添うように座ったクシナダがその頭を撫でている。そして遥はビーストと化したレディの攻撃によって大破した桜花零式の修理を試みていた。

 今だ己に同化した神核を反動なしで解放できる程度に成長していない遥にとって、負担を軽減するオルテナウスはある種の生命線である。そのうえ常に損傷する危険性があることから、装甲騎兵の荷台には簡単な修理ができる程度の資材と工具が乗せてあるのだが、今回の損傷は応急処置で治しきることができる範囲を完全に超えていた。

 遥のもつ神霊の霊基の影響を受けて超常的な防御力を得ていたため全損とはならなかったものの装甲はその大部分が壊れ、装甲の歪みによって排熱用の変形機構は完全に使用不可。とりわけ厳重な防御処理がなされていた魔力変換型発電装置――カルデアにある電力を魔力に変換する装置と逆の機構で稼働している――やCPU、メモリ等の中枢部は生きており回路も予備資材で修理できたため使うだけなら何の問題もないが、戦闘を行うとなるとかなりの不安が残る。排熱機構が破損している以上、固有時制御は使えない。溶解した金属を全身に纏うような自虐願望があるなら話は別だが。

 取り敢えずは装甲騎兵に積まれていた資材で電気回路や疑似魔術回路を修繕し、破損した装甲は偶然にも遭遇した生き残りの魔獣から剥ぎ取った皮や街から拾ってきた布に魔術で防護処理を施したものを用いて申し訳程度の応急処置とする。そうして出来上がったものはまるで不出来なパッチワークのようだ。

 仮に名前を付けるのなら、桜花零式弐型か、或いはオルテナウス・リペアードか。尤も、弐型や修繕型(リペアード)などという大層な名前を付けることができるほど、それは洗練されたものではないが。それでも一応は運用に支障がない程度にまで持っていくことができたからか、遥が工具を手放して大きく溜息を吐く。そこへ、イリヤの面倒を見ていたクシナダが来て、言葉を投げた。

 

「遥様」

「ああ、クシナダ。……イリヤは寝たか」

「はい。ルビーさんも待機状態に入っているようです。それで、イリヤ様のことですが」

 

 ()()()()()()()()()()()()。感情の読めない声音で放たれたその言葉に、遥はさして驚愕した様子もなく視線のみで続きを促す。しかしその内心がどのようなものであるか分からない程クシナダは鈍くなく、それでも求められた通りに報告を続ける。

 遥がクシナダに頼んでいたのは果たしてイリヤが本物の人間、ホムンクルスであるのか、それともサーヴァントなのかをはっきりさせることであった。オルテナウスにもセンサはあるものの、そのセンサの観測結果でははっきりとしなかったのである。まるで、人間とサーヴァントの重ね合わせ状態にあるかのような、そんな反応であったのだ。それを本人に言わなかった理由は単純。イリヤ本人を混乱させないためであり、遥自身も特定できる保障がなかったためだ。

 しかし、クシナダならばそれができる。彼女やタマモが使う呪術とは身体構造を弄ることで物理現象を誘発するプログラムのようなものであり、その対象とできるのは自らの身体には限らない。更に身体構造を弄るという過程がある以上、呪術師とは身体の状態や属性などを把握するプロフェッショナルでなくてはならず、故に遥はクシナダに任せたのだ。

 曰く、イリヤはサーヴァントである。しかし霊基状態は完全なサーヴァントという訳ではなく、サーヴァントと人間の中間のようなそれ。言うなれば〝疑似サーヴァント〟のような状態だ。それではセンサに曖昧なものとして映るのも当然である。

 だが、問題はそこではない。クシナダの報告を最後まで聞いていた遥は目を覆うような仕草をしてしばらく黙り込み、それから確認するかのような問いをクシナダにする。

 

「つまり……今ここにいるイリヤは本来のイリヤの情報を元に霊基を構築されたサーヴァントで、本人ではない、と。そういうことだな?」

「私見ですが、私もそうだと考えます」

「そうか……やってくれたな、ファースト・レディ。ああ、本当に……とんでもないことをしてくれた」

 

 こういった話題については感情を剥き出しにしやすい激情家の遥にしては珍しい、平坦な声。しかしそれを全くの平常心、無感動と感じる者がいるのであれば、それは余程の愚鈍を言わざるを得まい。遥は憤怒している。ただ声を荒げるべき場ではなないから努めて冷静でいようとして、しかし気配までは抑えきれていないだけだ。

 所謂俗語、それもネットスラングに分類される言葉に〝地雷〟というものがある。これはとある人物にとって絶対に触れて欲しくはない、或いは踏み越えて欲しくない事柄を指すものだが、その表現を借りるならば、レディの行いはまさしく遥にとっての地雷そのものであった。

 英霊ならざる存在をサーヴァントとしたことではない。そんなことは遥にとってどうでも良い話だ、この上なく。例えばそれが、既に精神的に成長している大人や幼くとも英雄と呼ぶに足る者であれば、遥はここまで憤怒せずに冷静でいることができた。

 しかし、イリヤ、そしてその姉妹と友人であるクロエと美遊はまだ年端もいかない子供だ。本来であれば闘争の苦痛も殺意の冷たさも知らずに家族や友人と共に過ごし、平穏な日々を送って然るべき年頃だ。百歩譲ってそれが戦う力を持っていることは良しとしよう。その点において彼に他人を詰る権利はなく、またイリヤらも納得していることだ。

 だが、レディのしたことは完全に遥の許容範囲を超えていた。本来なら平穏裏に生きる筈の子供を無理矢理そこから引き剥がし、あまつさえ『座』という記録を還元する場所を持たないサーヴァントとして構築するなどと。それはつまり今ここにいる彼女らは悉くを他者に奪われたまま全くの無に還るということではないか。

 赤熱して纏まりを失いそうになった思考回路を深呼吸で冷却し、怒りを鎮める。どんな状況においても、怒りで冷静さを失ってしまえば適切な判断を下すことはできない。少しずつ、少しずつ、その怒りを抑え、降って湧いた雑念を口にした。

 

「カルデア……」

「えっ……?」

「カルデアなら、契約で存在を紐づけすれば俺があっちに戻される時に紛れ込ませることができるかも知れない。知れない、が……」

 

 妙な所で言葉を切る遥だが、クシナダはあえて彼にその先を問うようなことはしない。問わずとも、遥が言おうとしたことは解っている。彼の内心も、言うまでもなく。それはクシナダが夜桜遥という男の内心を理解しているということでもあるが、そんなことは些末なことだ。

 もしもレディを斃すことができたとしてもそのまま消滅する特異点と運命を共にする他ないイリヤたちをカルデアのシステムを介した契約によってカルデアに移送するという、カルデアの召喚システムを逆手に取ったある種の反則技。しかし、できないことはない。故に遥が憂慮しているのはそれではない。

 イリヤたちをカルデアに移送するということはつまり、彼女らから元の世界に還るチャンスを奪うということである。現時点で殆ど零に等しい確率だが、カルデアに来ればその万が一、億が一の確率が全くの零になる。それは結局の所、レディのしたことと同じではないのか。

 イリヤたちを助けるためという大義のために、忌むべき敵と全く同じことをしようとしている。そうでなくとも遥の思いはどこまでも独り善がり、自己満足の押し付けでしかない。己の正義のために他者の行く末を捻じ曲げようとするなどと。

 せめて自らの目に映る人々には幸せでいて欲しい。全ての子供が望まれて生まれ、愛されて育って欲しい。それを遥の願いと言えば聞こえは良いが、所詮願いというのは人間が欲望を綺麗に言い換えたものであって、本来そこには何の違いもない。

 それでも。それでもだ。皆に笑っていて欲しいとは願わずとも、自分の目の前にいる人には幸せでいて欲しいと願うことの何が駄目なのか。欲することの、欲望を持つことの何が恥じるべきだというのか。道徳さえはき違えなければ、それは正しく前に進むための原動力になるものだというのに。

 だが、真に自らの行く末を決定する権利はイリヤ自身にのみある。故にこそ、遥は何もかもを勝手に押し付けることはしない。独り善がりな幸せの押し売りをしようとする欲望を端に追い遣って、遥は自嘲の笑みを浮かべそうになった自分の顔を挟むように叩き、その痛みで感情を切り替えた。

 

「……いや、感傷的(センチ)になった所で何も始まらねえ。何をおいても、まずはレディを斃さないことには俺たちどころか全人類オダブツだ」

「……はい」

 

 クシナダの本心としては、遥の苦悩を聞いてそれを解消することができればどれだけ良いことかと思う。しかし無理にでもそうしようとしないのは、遥の考えていることがクシナダにも分かるからだ。故にこそ彼女には遥の苦悩を消してやることはできない。それでも、その苦悩を、その果てに得た答えの責任を共に背負うことはできるだろうと、密かに改めて決心する。

 そんなクシナダの思いを知ってか知らずか、遥は持ち前の切り替えの早さでレディについて思考を巡らせる。前回の戦闘でビーストと化したレディだが、その原理について遥はある程度察しが付いていた。要はユスティーツァと同じだ。宝石に込められた魔法少女らの〝人類を救いたい〟という願いと膨大な魔力によって聖杯を駆動させることで人類悪としての霊基を得ているのだ。

 それもただ叶えているのではない。ただ叶えるのでは、聖杯では足りない。それを解決するため、レディは態々魔法少女がレディと同じ絶望と、それでもなお人類を救わんとする意志を抱くように仕向けた。それこそ、〝世界の終焉を以て全ての嘆きを終わらせることで、全ての嘆きを消し去れば世界は救われたという逆説の暴論を以てしてでも全てを救済する〟という。その願望であれば、正常な聖杯を用いても容易に人類悪化できよう。

 問題は、それをどのように斃すかだ。遥の固有結界は人類悪を含む遍く悪性に対して特効性能を持つが、そう易々と固有結界を使わせてくれるとは思えない。ユスティーツァとの戦闘ではサーヴァントのサポートがあったからこそ発動までの時間を稼ぐことができたのだ。今回の状況で同じようにできるとは思えない。

 

「せめて、ヤツの霊基に少しでも綻びを生むことができれば話は違ってくるんだが……」

「綻び、ですか……――ッ!!」

 

 遥の言葉を受けて何かないものかと思案しようとしたクシナダはしかし、直後に彼女の知覚範囲に唐突に魔力反応が現れたことで半ば強制的にそれを中断させられた。遥も殆ど同時に気づいたようで、反射的に威嚇攻撃として焔を放つ。

 闇を穿つ焔の一閃。だがそれに照らされた姿に、遥が呆れのような様子を覗かせつつ警戒の度合いを引き下げた。そのことにクシナダは訝し気な視線を向けるも、遥は仏頂面のままそちらを見るだけだ。

 果たして、そこに現れたのは亡霊(エコー)であった。恐らくは死せる書架の国に遥たちが突入した際に接触を図ってきた個体と同一だろう。亡霊は遥が警戒を緩めたことで接近しても危険はないと判断したのか、少しずつ近づいてくる。

 

「おまえか……てっきりさっきの戦闘の余波で消えちまったかと思っていたが、無事なようで安心した。……いや、既に死んでるんだから無事も何もないのか?

 まあ、そんな挨拶は置いておいて……おまえ、何を知ってる。俺に何を伝えようとしていたんだ?」

 

 その問いにどこか詰問するかのような響きがあるのは、いかに平常心を心がけてようと隠しきれない焦りがあるからだろうか。それを亡霊がどう思ったかは分からない。それはそのままでは話すことも、感情を表情に表すこともできないのだから。

 しかし、こと遥に対してのみは亡霊であろうと伝えることができるものはある。亡霊は亡霊だからこそ、己の無念を晴らすことができるものに敏感であるのだ。最初の接触でそうしたように、亡霊がその半透明な手を遥の眼前に翳す。瞬間、遥はまるで眼球が焼け落ちるような異様な感覚を覚えた。

 それは、遥の肉体に海神と冥府神というふたつの側面を有する神核が同化したことで発現した異能。相手を殺すという理不尽極まりない強権でも死の線と点を視るという特級の異能でもなく、冥府へと堕ちた死者の魂を審判するための〝死者の魂と交感する〟という力だ。その作用は死霊魔術(ネクロマンシー)の死者降霊に近いか。

 大したことのない力だ。遥が他にもつ水を操るという異能の方が単純で使い勝手も良く、かつ強力である。目にまつわる能力で比較するなら立香の魔眼の方が圧倒的に便利だ。それでも死霊魔術師(ネクロマンサー)ではない遥にとって、それは今、何よりも必要な能力であった。

 視界がブレ、それまで遥の身体を包んでいた世界の感覚が消失する。そうして落とされた暗闇に立っていたのは、ひとりの少女であった。輪郭も朧気で容姿も判然とせず、しかし少女だと解る。困惑する遥の前で、その少女が口を開いた。

 

『――私の名前は、ミラー。嘗て、貴方たちが敵対する魔法少女に討たれた魔女にして……彼女の親友だった者よ』

 


 

「そう。メイヴは死んだのね。ご苦労様」

 

 ディルムッドからメイヴ消滅の報を聞いたレディの反応は極めて淡泊なものであった。だはディルムッドの顔に不満の色はなく、跪いたままメイヴから回収してきた宝石をレディに献上する。

 これで、2つ。レディ自身が既に取り込んでしまったひとつを含めればレディの側にあるのは計3つであり、4人も魔法少女が持っていたものの殆どがレディの手にある。メディアの宝石は遥に回収されたままだが、それはいずれ突入してきた時に奪えば良い話だ。

 更にレディの存在を安定させるための魔法紳士の既に4人中3人がレディに取り込まれ、その魂を霊基として確立させるために使われた。残るはディルムッドのみだが、彼は遥を迎撃するための戦力として残しておくつもりでいた。

 宝石ふたつを手に玉座を降りる。今、レディが感じているのは歓喜であった。準備は整った。これでよくやく為せるのだ。世界の終焉が。遍く総ての終わりを以て悉くを救う究極の救済が。

 玉座の間の中央、服喪面紗(ヴォワラ・ドュイユ)に絡みつかれ、拘束された美遊の前に、レディが立つ。既に相当消耗してるのだろう、額に脂汗を浮かばせた美遊は、それでもなお気丈にレディを睨みつけている。だが今までは苛立ちしか感じなかったそれが、今だけはとても愉快なものに、レディには見えた。

 

「レディ……!!」

「フフ、イイ目ね、美遊……? その目をいつまで保っていられるのか……楽しみだわ!」

 

 そう言い放つや、レディがその手に持っていたふたつの宝石のうちひとつを手刀ごと美遊の霊基の中に突き込んだ。身体の中ではない。謂わばサーヴァントとしての存在を支える根本、そこに呪詛と化した人間の想念を叩き込んだのである。

 瞬間、身体を跳ねさせる美遊。表情には苦悶が浮かび、目の焦点は定まらず、身体は激しく痙攣している。発狂こそしていないものの時折漏れる声は言葉としての体を為しておらず、既に美遊から意味を持った言葉を発する余裕さえなくなっているのは明白であった。

 それだけではない。英霊の精神すら容易に歪めるような呪詛の塊を突き込まれ、それに抗いながらも少しずつその幼い精神を擦り減らしている美遊。その目が、元の琥珀色から深紅に明滅を繰り返しながら変わっていく。その変化を見て、レディが口の端を歪めた。

 美遊・エーデルフェルト、もとい朔月美遊は聖杯である。その在り方は人間が聖杯としての機能を持ってしまったというよりも聖杯が人間としての形を得てしまったとい言う方が適切とまで言われている。しかし人の想念を注ぐだけで願望を叶える〝神稚児〟たる力が完全な形で行使できるのは数え年で7つまでであり、その後は器しか残らない。だが、それは問題ではない。レディの許には聖杯を動かすために使うことができる魔法少女の魂があったのだから。

 レディが美遊を使ううえで最も問題視したのはその代償だ。朔月の神稚児は願いを叶えるという特級の異能の代償として、願いを叶える度に身体と精神の寿命を擦り減らすのである。それはいけない。ただの肉の身体ではビースト化の影響と願いの代償で寿命がどうなるか分かったものではない。

 故に、態々彼女らの世界に干渉してまでサーヴァントとして召喚したのだ。いかな生者の情報を写し取ったサーヴァントといえど、サーヴァントである以上は定まった寿命はない。また、英雄ならともかく唯の人間はサーヴァントとしての身体の方が耐久度が高い。ビースト化したとして、支障はなかろう。

 苦悶する美遊の頬をレディが撫でる。しかしその仕草とは裏腹にその笑みはまるで美遊を玩弄するかのようで、呪いと化した人間の想念に晒されながらも美遊は気丈にレディを睨みつける。だが。

 

「うふふ……名残惜しいけれど、そろそろこの身体も危ないから、終わりにしましょう。さぁ、身体を私に寄越しなさい――!!」

 

 歓喜に満ちた咆哮。同時にレディは最期に残った宝石を突き込んで、瞬間、膨大な魔力が嵐の如く吹き荒れた。更にその中で、クロエの肉体が力なく崩れ落ちる。その姿はレディに支配されてビーストと化したそれではなく、既にその身体からレディの魂が抜けているのは日を見るよりも明らかだ。

 では、クロエの身体を棄てたレディの魂はどこへ移動したのか。言うまでもない。美遊の身体だ。そして今、美遊の中にはその身体を奪わんとするレディの魂だけではなく魔法少女の集合体、呪いとなった人類愛の塊が3つ。

 それは、まさしくこの世に顕現し得る地獄の究極とでも言うべき感覚であった。己の無念、元々は高尚なものであったはずの人類愛が歪み果てた独善、己のその思いが独り善がりの善意としての形を失い、自分が悪であることにすら気づかない悪意となった怨念が徒党を組んで幼い子供の無垢な魂を犯しているのだから。

 

 ――身体だ。これがあればもう一度全てを救うことができる。総てを終わらせることができる。だから、寄越せ。寄越せよこせヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセヨコセ────!!!

 

「くっ、あ――ああ、あああっ!! あああぁあぁぁぁああアぁああァああアアあァァぁァあっ!?」

 

 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。喉が裂けんばかりに叫んで、挙句限界を超えた喉から血が流れてもそれは止まらない。気づかないのだ。酷使された喉がダメージを受けたという物理的な苦痛など、魂を蹂躙される苦しみの前では吹けば飛ぶ糸屑も同然である。

 美遊は謂わば彼女の世界でのイリヤスフィール・フォン・アインツベルンに相当する存在であり、それ故に彼女の起源もまた『聖杯』である。ひとりの人間ではあまりに重く受け止めきれぬ思いも、聖杯は受け止めてしまう。その外殻(じんかく)の意向がどうあれ、聖杯とは願いを叶える器だ。願いの善悪など、聖杯は関知しない。

 まるで闇の中から伸びてきた無数の手に掴まれ、万力の如き力でその闇の泥中に引き込まれていくかのような、そんな感覚であった。何とか振りほどこうとしても、全身をくまなく拘束されて動くことができない。

 意識が闇に呑まれていく。世界と自分の接点が少しずつなくなって、存在そのものが薄れていくかのような錯覚さえも感じる。それでも抗って、抗って、けれどそんな抵抗は悪性の獣の前では全くの無意味だ。

 

「イリ、ヤ……クロ……お兄ちゃ――」

 

 最後にその頬を伝ったのは果たして涙だったのか。届くはずのない呼びかけを言い終えるより早く美遊の意識は完全に闇に呑まれ、その身体が脱力した。魔力の嵐も唐突に止まり静寂が訪れ、だがその刹那、変化は起きた。

 服喪面紗が消失する。だが支えを失っても脱力した身体が倒れることはない。服喪面紗の影響でサファイアが離れても残っていたカレイドサファイアとしての装束が黒い魔力に解けて、より邪悪な可憐さに満ちた装束へと変わる。背部からはその身に収まりきらない魔力が半透明の翼と化して生え、両側頭部からはクロエの身体を乗っ取っていた時よりもさらに巨大化した角が覗いている。手を伸ばすとそこに魔力が収束し、カレイドステッキの形を取った。レディが自分自身が使うものとして用意した、オリジナルと遜色ない機能を有するステッキだ。

 仮にこの場にいるクロエに意識があれば、その姿に既視感を覚えたことであろう。何故なら偶然か、それとも必然か、その姿はどこか黒化ギルガメッシュ戦でイリヤが見せた魔法少女(カレイドライナー)の最終形態、ツヴァイフォームに酷似していたのだから。

 しかし、それは怪物から友を救うために覚悟を決めた少女の姿に非ず。絶望や諦念、ありとあらゆる悪性により己が人類愛を歪ませ果て、遂には獣の位階へと至った魔女の姿なれば、魔法少女の窮極たる形態と同じである筈がない。

 其の名は〝テスタメントフォーム〟。憐れな紳士(おとこ)、そして数多の魔法少女の魂を贄とし、それらとの契約によって発現した、ツヴァイフォームとは対極の位置にある魔女の窮極形である。

 しかし野望成就に王手をかけておきながら、レディの表情には未だ歓喜の色はなかった。最低最悪の魔女は少女から略奪した身体が完全に自らの支配下にあるかどうか確認して、それから、可笑しさを堪えきれないとでも言うかのように喜悦に満ちた咆哮を迸らせた。

 

「アハ――はははははっ!! ははははははっ! あはははははは!!」

 

 その声は先程まで絶叫をあげていたことによるしゃがれたものではなく、元の美しさを取り戻している。それだけでもビースト化の影響かそれまでに負ったダメージが全て回復しているのは明白であった。

 今、レディの胸中に満ちているのは異様なまでの強壮感、全能感。自分自身の肉体を失ってより久しく、いやそれ以前にも感じたことのない程強烈なそれに、レディは哄笑を堪えきれなかったのだ。

 レディが確信する。驕りでなく、傲慢でもなく、この力さえればありとあらゆる世界に住む人間を悉く殺し尽くすことができる、と。それも当然だ。人類悪とは即ち、人理を滅ぼす獣の名なのだから。その位階に手を掛けたレディにその確信が生まれるのは自明である。

 しかし、まだ不十分であるとも理解する。レディは未だ真の人類悪のみが至る7つの席の末席にすら至っていない。謂わば人類悪の幼体。クラス名はビーストではなく、その不完全体――『獣の幼体(ビースト・ラーヴァ)』とでも言うのが良いか。

 

「主よ。貴女が仮の宿としていたこの少女……如何がされますか?」

「……あぁ、そうね……元から乗り換えるつもりだったとはいえ、少しの間私の身体になってくれたのだもの。特等席で私の邪魔をする魔物さん達が斃される様を見てもらいましょう」

「御意に」

 

 レディの邪悪な笑みに異論を唱えることも、それどころか全く動揺する素振りさえもなく未だ意識を失ったままのクロエを肩に担いで玉座の間から出て行く。恐らく、それは自分が遥らを斃すという自信の表れなのだろう。レディはそれを制止することすらせず、足元から泥が彼の霊基を汚していくことさえもただ無言で見守るだけだ。

 正直な所、レディにはもうディルムッドのこともクロエのこともどうでも良いのだ。前者については遥らに斃されても良いとすら思っている。クロエも、遥らに取り戻されたとしても既にビーストとしての片鱗を得たレディには傷ひとつ付けることすらできないのだから、考慮する必然性もないだろう。

 〝ネガ・マギウス〟。始まりの魔法少女という二つ名を持つレディ、言い換えればありとあらゆる魔法少女の源流とも言える彼女がビースト化したことで得た、〝魔法少女としての属性をもつ者、また、魔法少女に掛ける願いがある者からの攻撃を無効化する〟という概念的守護である。彼女にはそれがあるため、クロエが取り戻されようと悲願成就を邪魔されることはない。

 だが全身に満ちる全能感に酔い痴れた様子でありながら、レディは冷静さを失ってはいなかった。新たに手に入れた身体を隅から隅まで精査して、見逃せない異常があることに気づいた。

 

「聖杯が動いた形跡がある……? ――あぁ、そういうコト。フフ。ホント、悪い子……」

 

 レディが嗤う。この上無く酷薄に。だがその笑みはそこに内包された感情とは裏腹に酷く美しく、肉体年齢に似合わぬ妖艶を匂わせていた。その身体の元の主である美遊であれば絶対に在り得ない笑みである。

 美遊(せいはい)が動いたと思われるのはこの固有結界内の時間で1、2日程前。その間にあった不可解な現象と言えば、固有結界の特性として絶対に在ってはならない魔法少女に願望を掛けない人間――夜桜遥の出現。より詳しく調べてみれば、元々遥がいたと思しき空間の座標とそこに接続した形跡が確認できた。

 つまり遥が現れたのは〝レディを斃すことができる存在に彼女を打倒して欲しい〟という美遊の求めに応じた聖杯がその可能性を持ち、かつ通常の時間軸から外れた場所に移動できる手段を有する遥を見つけ出してその手段に干渉し、強制的に引っ張ってきたということなのだろう。

 そして聖杯が見出した通りに遥はレディの計画を崩し、彼女は不完全なままビーストとなる他なかった。完全なビーストとなればどうあっても遥ひとりでは斃せないだろうが、今のままならば或いは打倒される可能性も零ではない。

 けど、とレディが言葉を漏らす。遥をこの世界に引き込んだ聖杯とその情報は今、レディの手の内にある。そして遥を引き込むことができたのなら、こちらから何かを送り込むこともできよう。

 

「じゃあ、試してみようかしら。私の新しい力を」

 

 そうレディが言うや否や、何もなかったはずの床から大量の泥が湧き出す。レディのもつ魔法少女の想念が形を変え、呪詛の塊たる聖杯の泥としての実態を得たものだ。それらはまるで粘菌か何かのように蠢いて、いくつもの泥人形として完成する。身体を構成しているモノが零れては結合する様、その木の洞のように落ち窪んだ眼窩はさながら、パニック映画に登場するゾンビだ。いや、それの正体を考えれば、さながらなどではなく真の意味でのゾンビと言えるだろう。

 ビーストというものは総じて単体ではなく、何らかの手段によって自らの戦力を増やす傾向がある。あるものは自らの眷属を増やす傾向がある。あるものは自らを構成する一要素を個別に分離させ、またあるものは体内に貯蔵された生命原種から仔を生み落とし、また別のものは自分自身を際限なく増殖させる。不完全とはいえ人類悪であるレディもまた、それに近い機能をもつ。即ち、自らを構成する無限にも等しい魔法少女の魂に肉体を与え、進撃させるという機能だ。それこそが〝魔法少女の軍勢(プリズマ・コーズ)〟。レディが求めた、世界を滅ぼす力の一端。

 無際限に増殖するそれらが、生まれてはどこかに消えていく。消滅しているのではない。聖杯の機能によって彼女の身体と遥の本拠地――カルデアの間に結ばれた縁を通してカルデアに送り込んでいるのだ、己が軍勢を。

 

「今はあの男の拠点だけだけれど、いずれこの手は全ての並行世界に届く。そうすれば、皆を救うことができる……総てが醜く変わる前に! 総てを終わらせる!! ……待っててね、()()()……」

 

 恍惚の笑みを浮かべたまま呟くその名の、なんと空虚な事か。既に彼女の記憶は長すぎる記憶の中で摩耗し、原型を留めていない。彼女をここまで駆り立てた友のことも、名前以外の全てが忘却の彼方だ。それこそ、友を忘却したことさえも。何もかもが彼女自信の行いを正当化するための方便へと成り下がっている。

 

 ――彼女は人間ではない。魔界にて魔法使いの娘として生まれながら人間を救い、そのために人類の敵となった親友を討った。

 しかし救われた人間たちは彼女の力を恐れて世界の外へと放逐し、それでも彼女は世界の外にて固有結界を作って魔法少女、或いはその素養を持つ者を集め始める。だがそのうちに魔法少女の無念を見続けた彼女の魂は摩耗し、いつしかその世界は魔法少女の煉獄と化し、彼女もまた闇へと堕ちた。

 その果てに至った理想こそが終焉。〝全てが醜く変わる前に何もかもを終わらせ、悲しみや嘆きを無に帰すことで逆説的に人類を救う〟という、破綻した救済。そのために彼女は招き入れた聖杯の片割れを墓標として無限の魂を収束させ、その主となった。

 最早彼女には本当に助けたかった親友の姿はおろか、その声や共に過ごした日々の記憶さえもない。摩耗しきった記憶にあるのは、親友と自分は世界に捨てられたこと、その無念、それでも自分は世界を救わなければならない、救いたいのだという歪んだ人類愛。

 

 

 

 以上の背信を以て彼女のクラスは決定された。

 始まりの魔法少女など偽りの名。

 其は人類が放逐した、終末を齎す救済装置。

 その名をビースト・ラーヴァ。『奉仕』の理を持ちながらも七席に加わることを許されない、獣の幼生である。

 

 

 


 

「――ああ、成る程。そういうことか」

 

 唐突に、何の前触れもなく遥がそう呟いたのは彼が亡霊(エコー)と接触してからおよそ5分程度の時間が経った時のことであった。たかが5分。されど5分。意識というのは時に客観的に観測されるものより長い時間を主観として認識する。遥にとってその時間は他者の人生を追体験しているに等しいものであった。

 遥が見たものは、亡霊――ミラーの記憶。今はファースト・レディを名乗る少女と共に魔法少女として人々の平穏を守り、しかしその果てに魔法少女の運命に絶望したミラーは人類の敵となってレディに討たれて死んだ。その筈だったのだ。

 レディに討たれた筈のミラーはしかし、そのまま意識を無に還すことはなく気づいた時にはこの世界を彷徨う亡霊となっていたらしい。初めは彼女自身も戸惑っていたが、しばらくこの世界を観察しているうちに理解した。この世界はあらゆる世界、時間軸の外側にあるのだと。故にこそこの世界は〝どの時間軸にも隣接して存在する〟という性質を帯び、魔法少女を集めることができたのだ。そしてその最中に見たものは、自分と同じように、いや、それ以上に堕ち果てた親友の姿。

 だがあくまでも亡霊でしかない彼女では死後であろうとこの世界に招かれた時点で肉体が与えられる筈なのだが、彼女は死んだ時点では真正の魔女だったためか亡霊のままだったのだ。

 故に待った。待ち続けた。この”魔法少女の廃棄孔”の中にあってもレディが作り出した魔女と魔法紳士を斃し、レディを止めることができる者を。偶々、それが遥だった。そう、偶々だ。何かに仕組まれただとか、そのために造られただとか、そういった作為的なものは何もない。偶然にも遥にレディらを打倒し得る力とこの世界に突入するための手段があったがために聖杯によって目を付けられ、レディの前に現れた。

 それまでにミラーがいったいどれだけの時を孤独に過ごしたのかは分からない。数年か、それとも数十年か、或いは数百年、数千年、数万年か。亡霊と化したミラーの感覚では、それすらも判然としなかったのだ。通常の亡霊とは異なり自意識が明確にあるミラーだが、ある意味では彼女は〝レディを止める〟という怨念で現世に留まる悪霊と言える。

 ミラーの話を聞き、無言で何度か頷く遥。彼とてレディとミラーの因縁について彼なりに思う所はあるが、今はそういった私情は排するべきだろう。何より、ミラーの気持ちが彼には理解し、共感することができた。暴走する友を前にして自らには何もできないのであれば、誰かそれを止めることができる者を希求するのは当然の帰結だと言える。

 むしろ驚嘆すべきはミラーの友への想いだ。いつ招かれるとも分からないレディを打倒し得る者を待ち続けて、それでもなお折れぬ精神力と、魔女となり自信のことを忘れた友にさえ友情を向ける心根。それを責めることなど、遥にはできない。

 

「……アンタの思いは分かった。だが、それだけじゃないんだろう? いや、むしろ俺に接触してきたのはアンタらの思い出話をすることより、別な目的のための筈だ」

「そうね。……正直な所、これは賭けだわ。それも何の根拠もない、ただの希望的観測。失敗すれば貴方でもあの子を斃すことは殆ど不可能になる」

「既に斃せるか怪しいんだけどな……だが、その口ぶりからすると成功する可能性もあるんだろう? なら賭けてみるさ。情けない話だが、こっちも藁にも縋りたい思いでな。試せる手段があるなら、断る理由はない」

 

 遥はレディを斃せないとは思っていない。それは諦めであり、戦う前から負けを認めるなど剣士の恥だ。しかし、だからとて絶対に勝つことができるとも思っていない。何せ相手はビーストだ。真正のそれには遠く及ばないものの、脅威であることには違いない。

 だからこそ、使えるものは何でも使う。たとえそれが勝率の低い賭けだったとしてもだ。元よりこの戦い自体が賭けのようなものなのだから、そこに内容がひとつ加わることに抵抗はない。自分の命や世界の命運さえも賭けに出して、それでも勝利する。遥には、その覚悟がある。

 それは真正のものか、或いはただの虚勢か。ミラーは少しの間遥の目を見つめ、少なくとも偽りの覚悟ではないことを悟ると自らもまた覚悟を決めた。彼女にとっても、これは賭けなのだ。勝っても負けても、彼女の行く末は変わらないが。

 

「宝石を出して。海原の魔女から回収したもの、まだ持っているんでしょう?」

「宝石を? ……まさか」

 

 ミラーの思惑に気付きつつも、遥は何も言わない。ミラーの決断は彼女だけのものだ。遥はただ無言で戦闘服のポケットに仕舞っていた宝石をミラーに差し出して、ミラーがそれに触れた。

 瞬間、遥の視界が白一色に変わり、意識がショートしたかのような激痛を発しながら彼を包む世界が正常な様子を取り戻した。その中で遥は思わず膝を突きそうになって、それに気づいたクシナダに支えられる。微笑むクシナダに、遥が礼を返した。

 恐らく今の感覚は神霊の霊基が齎す力を使ったがための反動だろう。乱れた呼吸を整えて立ち上がろうとして、その直後、遥の目前を何か白い粒が舞った。

 ()()。冬木では殆ど見たことはなく、旅をしている間にも数える程度しか遭遇していないが、見間違える筈もない。それは次第に激しくなって、遂には軽い吹雪と言える程にまでなった。誘眠の魔術で眠っていたイリヤが急激に下がった気温のせいで目を覚ましてしまう。

 だが、遥とクシナダはそれに気づいていない。彼らの視線はそちらではなく、この世界の中心方向に向けられていた。その先にあるものは今までその領域を隠していた半球状の防壁ではなく、まさしく冬の王国とでも言うべき世界。空恐ろしいまでに無垢な雪の国であった。

 それがこの世界の本当の姿。それぞれの領域を支配していた魔女が消えたことによるものか、その雪の国は徐々にその領域を拡大させているように見えた。その変化を前に対応を決定しようとする遥だが、直後にその耳朶を()()()()()()()通信を示す電子音が叩く。今まで繋がらなかったそれが唐突に再び稼働したことに遥は面食らうも、すぐに装甲騎兵の通信装置を起動する。

 空中に投影されるホログラムのウィンドウ。同時にスピーカーから流れてきたのは慌てたスタッフたちの指令や爆音、それら普通では在り得ないような音。次いで、ロマニが口を開く。

 

『ああ、よかった! 今度こそちゃんと繋がったぞぅ!!』

「繋がったぞぅ、じゃない! そっちでいったい何が起きてる?! いや、敵襲なのは音を聞けば分かるが、大丈夫なのか!?」

 

 敵襲。百歩譲ってそれは良いとしよう。タイミングからして人理焼却の黒幕によるものではなくレディが仕掛けたものだろうが、どちらにせよ敵襲には対応しなければならないのは同じだ。

 問題は敵襲で発生する被害だ。最悪、英霊召喚システムが損害を受けたとしても召喚、及び再召喚が修理まで不可能になるだけで生存に支障はない。しかし、シバとカルデアスは駄目だ。前者が破壊されれば遥とクシナダは意味消失、後者に至っては破壊された時点で人類史そのものがバッドエンドだ。

 同様にカルデアの主動力炉である〝プロメテウスの火〟もまた最重要防衛施設だ。主動力炉がやられてしまえば非常用電源に切り替える他なくなるが、殆ど無際限に稼働するプロメテウスの火とは異なり非常用電源には限りがある。それでもある程度の備蓄はあるが、余裕を持つことができるものではない。

 

「正直に答えてくれ、ロマン。……あと何時間なら耐えられる?」

『正確な所は分からない。今の所、敵勢力はサーヴァントたちと立香くんが塞き止めてくれているからね。……でも、もしもその攻撃から逃れた敵が隔壁に到達した場合は()って半日程度だ』

「……そうか。半日か」

 

 ぽつりとロマニから告げられた言葉を復唱する遥。

 

 終焉の足音が、確かに聞こえた。




 皆さま、明けましておめでとうございます。約二か月ぶりの投稿でありますが、別にサボっていたワケではないのですよ、えぇ。大学のテストが立て続けにあったり、ポケモンの攻略や厳選をしていたり、鬼滅の刃を見ていたり、色々あったんです、ええ。

[次回予告]
 人理崩壊まで残り僅か。遂にレディの本拠地への突入を慣行した遥らを待ち受けていたのは魔法少女の軍勢と反転したディルムッドであった。遂に人理存続という祈りと、終焉の執念がぶつかり合う―――

次回『急迫ディストラクション』

[ステータス更新]
真名:ファースト・レディ→ファースト・レディ[テスタメント]
クラス:アーチャー→獣の幼体(ビースト・ラーヴァ)


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第77話 急迫ディストラクション

 ディルムッド・オディナ。〝輝く貌〟の異名を持ち、英雄豪傑揃いのフィオナ騎士団の中でも随一の武勇を誇った彼であるが、その人生は凡そ騎士道精神を全うすることができたとは言い難いものであった。

 略奪愛、とでも言えば良いのだろうか。いや、そもそも仮にディルムッド、ひいては彼が精霊から与えられた魅了の黒子がなかったとしてもその結婚に愛などなく、彼自身の本意でもなかったのだから、それは略奪愛ではなかろう。初めから無い愛は奪い様がない。

 しかし、結果としてそれは略奪愛とそう変わらない所業であった。彼の主であり、フィオナ騎士団の団長たるフィン・マックールの3番目の妻となる筈だったグラニアを、ディルムッドは奪ってしまったのだから。それがディルムッドの本意ではなく、グラニアによって一方的に掛けられた禁誓(ゲッシュ)によるものだったとはいえ。

 だが死後、英霊にまで召し上げられたディルムッドにグラニアとの逃避行への後悔はなかった。初めは本意ではなかった逃避行だったとはいえ、最後の頃にはディルムッドは本当にグラニアを愛するようになっていたのだから。偽りの逃避行だった筈の旅路は、途中から本物に形を変えていたのだ。

 それは言い換えればフィンへの忠誠心や友誼よりもグラニアへの愛情を取ったということであり、彼には騎士としての功績や功名よりも人間として望んだ幸せを優先する一面があるということである。

 だから、なのだろうか。空間の概念も、時間の流れもない果てにて()()()を聞いた時、ディルムッドが感じたものはその言葉の内容や内包する感情とは全く異なるものであったのだ。全てを擲ってでも叶えるべき望みがある者よ、他者に縋ってでも実現すべき願いがある者よ来たれと呼びかける声が、彼にはどこかグラニアが彼を求めた時のそれと重なって聞こえたのだ。

 他者にその望みを叶えてやると吹き込みながら、その実、そう嘯くその当人こそが誰よりも己の望みを叶えて欲しがっている。或いは当人でさえ認識していないものなのかも知れないが、少なくともディルムッドにはそう聞こえたのだ。

 恐らく一度として1人の人間として扱われたことがないのだろう。絶対的な上位者か、それとも命無きただの物としてか、どちらにせよマトモな人間性を有する者にとっては毒でしかない。或いは初めから人間としての幸せを放棄していながら、その果てに破綻した運命に絶望したのか。

 何にせよ、その邪悪に満ちた声は他者の救済を謳いながら、その当人でさえ自覚し得ない部分で救いを渇望しているようにディルムッドには聞こえた。その声に、応じる意思を見せてしまったのだ。だからこそ今、ディルムッドは尋常なサーヴァントではなく魔法紳士として在る。

 だが、果たして彼と他の魔法紳士を十把一絡げにして良いものなのか。彼以外の魔法紳士、ジル・ド・レェ、ファントム・オブ・ジ・オペラ、そしてエドワード・ティーチまでもが己の欲望を暴走させているのに対して、ディルムッドだけが己の欲望を自制できている。そもそもレディの召喚に応じた理由が彼の利己的な願望ではないのだから、当然と言えば当然だが。

 それでも、彼が真っ当な精神状態にあるのかと問われれば、それは違うと言わざるを得ない。むしろ彼が召喚に応じた理由っがレディにあった分、彼はレディによる霊基改変の影響を強く受けた。魔法少女として生き、魔法少女として在ることを望まれ、〝人を救う〟という機能以外を全て削ぎ落された少女を救おうとした彼は、その思いを歪められたことでレディのの望みを叶えるだけの騎士と成り果てた。それこそ、彼女以外の全てを排除してでも彼女に尽くさんとする騎士だ。

 皮肉な話である。ディルムッドは彼が内包する騎士よりも人間としての幸福を希求する精神性のためにレディの召喚に応え、結果として〝主に至上の忠義を尽くす〟という、字面だけならば至極騎士らしい性質をもつに至ったのだから。ある種、木乃伊取りが木乃伊になったとも言える。

 しかし、霊基を改変されていようと、いなかろうと、ディルムッドの思いは変わらない。報われない少女を救いたいという思いは。むしろ魔法紳士としてレディに仕えるようになってから、その意志はより強くなっている。彼女は彼女の思いが報われて然るべき働きをしたのだから、報われるべきだ、と。尤も、そも思いの方向性が魔法紳士となった影響で致命的に歪んでいるのだが。

 故にこそ、ディルムッドは彼の持てる全てを以てレディの敵を排除するだろう。魔法少女、否、魔女としてのレディの望みの果てにあるものが悉くの人類の終焉だと理解していて、それでもなお、彼は人類史に刻まれた英霊としての責務に背を向けることに躊躇いはない。

 何一つとして報われることのなかった少女に、せめてひとつでも、その努力への報いを与えることができたのなら、どれだけ良いことか。人類を滅ぼさんとするその行いが悪であることに違いはない。けれど、誰かのためになりたいというその思いは、悪だと言えるのだろうか――?

 


 

「――来たか」

 

 現生人類の総てを滅ぼさんとする堕ちた魔法少女にして人類史に発生した癌細胞、人類悪の幼生たるファースト・レディの統治する雪原と水晶の国。レディの企みを阻止するべくその中心に突入した遥らに投げかけられたのは、とても襲撃者に応戦するために現れたとは思えない程に落ち着き払った声であった。

 吹き抜けにすら錯覚する程高い天井に、全てが曇りひとつない水晶で旺盛された部屋。いや、それは廊下、回廊か。ヴェルサイユ宮殿で言う所の鏡の間に近い構造をした回廊に奥で、最奥に続く扉を背にして騎士――ディルムッドは立っていた。

 だが、その姿は遥が知るそれとは大きく異なっている。彼が戦ったことがあるディルムッドは装備していなかった軽装鎧と二振りの宝剣を装備していることだけではない。本来は生粋の北欧人らしい白い肌は黒く染まり、美しい黒髪は全て白く変色している。更にその目はまるで血涙でも流しているかのような赤と橙に染まっていた。肌に感じる重圧は既にサーヴァントのそれではなく、第二特異点で交戦した黒化ロムルスのそれに匹敵する。

 恐らくディルムッドの(マスター)であるレディがビースト化した影響を受けているのであろう。彼らは与り知らぬことだが、とある世界ではサーヴァントが被った聖杯の泥の影響をそのマスターが受けたという例もある。であれば、マスターが変質した影響をそこから魔力を供給されるサーヴァントが受けていても何ら不思議はない。

 

「よう、ディルムッド。ちょっと見ねぇうちに随分とファンキーな恰好(ナリ)になったじゃねぇか。なんだ、暇してたうちにパンクな趣味にでも目覚めたか?」

「そちらこそ、なんとも珍妙な鎧ではないか。魔獣の皮や殻を継ぎ接ぎとは……この短い間に、文明を持たぬ野蛮人に感化されたと見える」

 

 ふたりの調子はこの極限状態にありながらまるで戦火の中で冗談を言い合う戦友のような声音で、しかし互いに睨みあうその瞳には隠しきれない敵意と殺意の光がある。身に纏う威圧は今もふたりが不可視の刃で鍔迫り合っているのではないかとすら思える程だ。

 そこに互いを受容しようとする意志はない。遥はレディが行おうとしている人類の抹殺を阻止するべく魔女を斃すため。ディルムッドはレディの望みを叶えるため。両者の正義が相反し、互いを悪と断じるのなら、そこに和解などという生易しい結果は生まれ得ない。

 戦いは勝った方が正義。よく否定される言葉だが、しかしそれは真理だ。戦いに負けて通すことができる正義などなく、歴史が積み上げてきた正義とは常に勝者が掲げてきた正義である。故に、己の正義を押し通すには相手の信念、正義を潰すしかない。

 けれど、今、遥が打倒すべきはディルムッドではない。ディルムッドはあくまでもレディの配下、彼女の意志に乗っ取って動く者であり、真に斃すべきはレディである。それに遥らには来る者全てを相手にしていられるような余裕もないのだ。

 

「生憎だが、輝く貌。俺たちはおまえに用があるんじゃない。おまえの愛するご主人様に用があるんだよ。だからさ……そこを退けッ!!」

「断る。……と言っても、貴様は通ろうとするのだろう? 故にこちらも、貴様を釘付けにするための策を用意させてもらった」

「……何?」

 

 そう問い返す遥にディルムッドは言葉を返さず、悪意の滲む笑みをひとつ漏らす。直後、その足元から溢れた泥が回廊の半分を覆う程にまで広がり、その液面が沸騰するかのように泡立った。人を超え、精霊の領域にある英霊の魂ですら容易に汚染する聖杯の呪いが具現化した泥だ。

 それを、ディルムッドが操っている。或いは扱う権限を与えられているだけなのかも知れないが、それでも既にディルムッドの霊基が元の容を完全に失っていることは想像に難くない。

 更に泥はまるで瀑布が逆流するかの如くディルムッドを呑み込みつつ噴きあがる。その雫は雨のように遥らへと降り注ぐが、どれだけ強力であっても呪いの塊でしかない泥の雫は遥が放った煉獄の焔を貫通することができずに殲滅されてしまう。しかし、ディルムッドの狙いは何も泥で遥らを呪い殺すことではない。

 噴きあがった呪いの汚泥は数瞬の後に重力に従って床に落ちて、しかし津波のように押し寄せることはなくそのまま水晶の床に溶けるようにして消えていく。だがそれは全く無意味に吹き上げられたのではなく、それが消えて明らかになった変化に遥たちが息を呑んだ。

 泥を被る前と変わらない、変質しきったディルムッド。その背後に犇めいているのは人型をした泥の塊だ。その手に握るステッキらしき物体や過去の煌びやかさを思わせる装飾物からするに、レディと同化した魔法少女なのだろう。尤も、とうにその自我は希薄化し、自分が誰であったのかさえ覚えてはいないだろうが。彼女らの胸の裡に残っているのは〝如何なる手段を以てしても人類を救う〟という歪んだ一念のみだ。

 それを分かっていながら、遥に同情はない。同情する必要性がないだとか、敵だからだとか、そういう理由ではない。同情よりも強烈な感情が胸中を支配して、弱い感情を悉く掻き消しているのだ。

 

「さぁ、どうする? 貴様らがどうしても我が主の許へ行くと言うのなら、この少女の命はないと思えよ?」

「ッ――クロッ!?」

 

 呪いの影響で魔剣としての属性を得て静脈血のように黒々とした赤に染まった長剣の先、喉元に剣先を突きつけられた状態で転がっているのは以前はレディの身体として使われていた筈のクロエであった。意識を失っているのはレディに使われていたことによる負担故か、或いは泥の中に収容されていたためか。

 その光景を前にして沸騰しそうになった感情に一瞬で冷や水を浴びせて、遥は半ば無理矢理に冷静さを取り戻した。そして飛び出していきそうになったイリヤを片手で制する。それにイリヤは抗議の視線を向けるが、遥の表情を見てそれを引っ込めた。

 分かっている。今ここにいるディルムッドも彼自身の正義で動いているということは。しかし、これは。抵抗できない人間を人質にして相手の自由を封じ、あまつさえその人質が年端もいかない子供など。

 それだけではない。このディルムッドの行いは遥が知る本来のディルムッドや彼と共に戦った全ての英雄を冒涜する行為だ。一度正常な霊基のディルムッドと戦いそれを乗り越えた者として、今のディルムッドを許容することは遥にはできなかった。

 瞑目し、大きく深呼吸をする。それをスイッチとしてそれまで出力を抑えていた魔術回路が全力で稼働し遥の総身を疼痛が奔り抜けるが、その程度は慣れたものだ。叢雲を中段に構える。

 

「遥様」

「あぁ。クシナダとイリヤは周りのヤツの相手を頼む。ディルムッドの相手は俺がする。恐らく、奴さんの狙いは俺だからな」

 

 遥に言葉に、クシナダとイリヤはそれぞれ首肯を返して得物を構える。クシナダは呪符と直刀を、イリヤはカレイドステッキを。彼女らの視線の先にいる泥の魔法少女らが応戦するように構えたのは、恐らくは防衛本能によるものだろう。

 次いでディルムッドの足元に広がる泥からクロエの身体と入れ違いになるようにして迫り出してきたのは彼が右手に取る宝剣と同色の長槍。それを遥が見紛う筈もない。ディルムッドがもつ二振りの宝槍のうち1本、魔力殺しの槍〝破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)〟である。

 伝承によれば、生前のディルムッドは立ち合いにおいてはより強力な長槍と長剣を、仲間との狩りなどにおいては短槍と短剣を用いたという。であれば生前と同じ装備をもつ今のディルムッドが赤剣と赤槍を使うというのは、少なくとも遥との戦闘を狩りではなく立ち合いとして認めているということだ。だとしても、遥に歓喜などないが。

 固有時制御は使えない。壊れた部分を応急処置で塞いだだけの今のオルテナウスでは遥の固有結界が放つ熱量に耐え切ることができず、装着者である遥を巻き込んで炎上、或いは溶解してしまうからだ。故に遥は戦意の高まりに呼応して活性化した固有結界の焔を身に纏わず、全て叢雲の刀身へと収束させた。黄金の刀身が真紅に染まる。

 対するディルムッドは右手に魔剣を、左手に魔槍を握り、腰を低く落として独特な構えを取った。長剣と長槍の同時使用という人類史上他に類を見ない戦法故のものだろう。『槍兵(ランサー)』の彼とは似て非なるそれに、遥がより警戒を強める。

 遥は変異特異点αで『槍兵(ランサー)』のディルムッドと戦ったことがあるが故に、ディルムッドが揮う槍術は熟知している。しかし遥はディルムッドの剣術は知らず、それどころか剣と槍を同時に扱う相手と相対するのは初めてだ。

 遥の呼吸のリズムが変わる。平時にそれから、戦闘に最適化されたそれへと。同時に五感より入力される情報から不要な部分が削ぎ落されて、代わりに必要な情報がその隙間を埋める。周囲の全てが遠ざかって、しかし敵手たるディルムッドにだけは心音すら聞こえそうな程に感覚が集中する。

 

「フィオナ騎士団……否。ファースト・レディが一番槍、ディルムッド・オディナ。いざ尋常に――」

「天文台の魔術師にして、日ノ本の蛮神を継ぐ者。夜桜遥――」

 

 

 

「――勝負!!」

 

「――参る!!」

 

 

 

 立ち合いの幕開けを告げる名乗りの応酬。その次の瞬間、遥が動いた。中段の構えから納刀、そして踏み込みまでの全てが完璧な一連の動作に収められた攻撃。剣腕に関しては歴戦の大英雄に匹敵する遥が最も得意とする、超神速の抜刀術である。

 オルテナウスの損傷のために固有時制御は使えないものの、遥の剣の冴えは固有時制御を封じられているからとて鈍るものではない。技術のみで仙術の領域に至った歩法である極地と遥自身のスキルである激流の魔力放出が合一することで生み出される雷速を完璧に御した一閃は、黒化したサーヴァントでも一撃で屠り得る威力がある。

 狙うは首ではなく霊基そのもの、その最奥に存在する宿業。今まで幾人かの宿業を植え付けられたサーヴァントを切ってきたからか、或いは宿業さえも呪いの汚泥で汚染されているからなのか、遥には漠然とそれを可視のものとして捉えることができていた。

 だがディルムッドが大人しく攻撃を受ける筈もない。遥が揮う抜刀術の速さは既に聖杯の汚泥によって黒化した英霊でも完璧には視認できない程にまで達しているが、英雄の強さは何も視覚だけに依るものではない。五感全てを極限にまで研ぎ澄ませ、身体全てで敵手の動きを捕らえるのは戦士の基本技能だ。

 視覚で捉えきれないのならば、不足している部分を他の感覚で補えば良い。風を切る音や相手の挙動によって変化した空気の流れを感じ取ることができれば、それも十分に敵の動きを読むための情報となる。

 虚空を切り裂く黄金の一閃。聖杯の呪いすらも浄化する焔を宿した神刀の一撃は、しかしその軌道を察知していたディルムッドが構えた赤剣によって受け止められた。間髪入れずに繰り出される赤槍。さしもの遥とてその間合いから離脱することができず右腕の装甲で受けるが、魔獣の皮で応急補修を施した程度の装甲では防ぎきることができず、砕け散ってしまった。

 だがそうして生まれた隙は反撃の準備をするには十分で、遥は左手に収束させた焔をディルムッドに向けて解放することでその爆発の圧力を受け、そのまま吹き飛ばされた。咄嗟の判断であったため威力が調整しきれずに錐もみ状態になった所で更に焔を吹かし、体勢を調節。迫る壁を蹴り抜いて再びディルムッドに肉薄する。

 それを迎え撃つディルムッドは爆発の直後こそ火傷を負っていたものの、宿業の力と聖杯の泥が齎す無際限の魔力によって全く間を置かずにそれを再生させる。続けての槍の一閃で生まれた風圧にて爆発により巻き上がった泥の飛沫を吹き散らし、遥の剣戟を魔剣で受け流した。

 更にディルムッドは追撃の間隙を与えず連続して魔剣と魔槍を繰り出す。剣と槍、使い方も用途も全く異なる武具でありながらディルムッドの連撃には隙がなく、あらゆる動作に無駄や迷いというものが全く存在しない。

 遥は何とかそれを撥ね退けて反撃せんとするも、ディルムッドが繰り出す変幻自在の槍撃は遥に反撃の機会を与えようとはしない。遥は持ち前の強力な直感による先読みや筋肉の動きを見ることで連撃を回避しているが、それまでだ。他に例のないディルムッドの攻撃を前にして容易に反撃できる程、遥の適応能力は高くない。躱して、躱して、只管に躱しながらディルムッドの戦闘理論を学習しつつ、同時に脳内で対抗策を構築しようとする。

 叢雲のみを得物としている遥に対し、剣と槍という2本を執るディルムッドは単純に手数の時点で勝っている。一応遥にも聖杯の泥に対して特効性能を持つ煉獄の焔があるが、たとえ泥で汚染された霊基を()いても宿業で回復されてしまう。精々、傷口の再生を遅らせるのが関の山だ。

 加えてディルムッドは以前の戦闘で刀を使った戦闘理論そして遥の剣腕を見てその程を知っているというのも遥の状況を悪くしている。遥は戦いながらディルムッドの癖や特性について学習しなければならないが、ディルムッドにとって遥は既知だ。恐らく鎧の損傷で遥が全力を出せないことにも、ディルムッドは勘づいているだろう。

 

「……ッ!!」

「ほう。本当によく避ける。まるで、死肉に集る蠅のようだなッ!!」

 

 長槍の横薙ぎを海老反りになって回避した遥に向けて上段から振り下ろされる赤剣。それを直感的に察知した遥は身を捻ることでその斬撃を紙一重で躱しその回転の勢いと激流の魔力放出を乗せた振り上げの一撃を放つ。焔と激流という相反する属性を内包した刃が狂戦士の首に食らいつかんと迫る。

 しかし、次の瞬間に遥の腕に伝わったのはディルムッドの首を落とした感覚ではなく、何かに刃が阻まれた抵抗感。見れば、振り抜いた状態のままだった筈の槍が寸での所で叢雲の刃を阻んでいた。遥を嘲るように、ディルムッドが嗤う。

 いかなサーヴァントといえど、真っ当な人体の構造をしているのなら先の斬撃を防げない筈だった。しかしディルムッドは攻撃を察知するや迷うことなく無理な出力で魔力放出を行使し手首を血管や腱が捻じ切れるのも構わず一回転させ、宿業と泥の力で再生させて斬撃を防御したのだ。

 だが、まだだ。刃に収束させた焔を解き放てば距離を取る時間程度は稼ぐことはできるだろう。刹那の間にそう考えた遥は叢雲に収束させた焔を解放しようとして、しかしそれは叶わなかった。

 何の前触れもなく遥の総身を背中側から貫く無数の槍。全く予期できなかった攻撃に動揺する遥だが、その原因はすぐに分かった。攻撃してきたのは敵手たるディルムッド本人ではなく、その足元に広がる泥。そこから伸びた泥の槍が遥を貫いたのである。であればディルムッド自身に攻撃の気配がなかったのも不思議ではない。

 傷口から吹き出した鮮血が魔女の騎士の身体を紅く濡らし、四肢と胴を貫通した槍から人類悪そのものにも等しい呪いを内包した泥が流れ込んで遥の意識を焼き焦がす。第二特異点での一件により聖杯の呪いに多少耐性を得た遥でも流石に苦悶を隠しきれずに一瞬完全に硬直。その間隙にディルムッドが放った蹴撃が遥の鳩尾に叩きつけられて、折れた槍が突き刺さったまま遥が吹き飛ぶ。

 だが遥がそれで怯む訳もなく、即座に反撃の策を講じる。先の攻撃によってディルムッドの身体に付着した遥の血液には、まだ彼の魔力が残留している。血液含め、魔術師の体液にはかなりの魔力が溶けているのだ。それに無理矢理経路(パス)を繋げ、固有結界を起動。身体から溢れた焔が鎧を過剰に加熱するのも構わず、出力を上昇させる。

 

「爆ぜろッ!!」

 

 その祝詞と共に左手を握る。するとそれを合図とするかのようにディルムッドと泥槍に付着した遥の血液が爆発を起こして、爆炎が彼らの身体を隠した。一部が体内に埋まった槍までもを爆発して除去したことで魔獣素材を継ぎ接ぎした鎧が遂に完全に壊れ四肢が半ばから千切れ飛び、制動をかけられずにそのまま転がる。

 しかし『不朽』である遥は脳と心臓を同時に潰されない限りは無限に再生し続ける。より正しく言えば、起源の効力で悉くが全盛期まで巻き戻され続ける。欠損した手足と臓器が時間を逆再生するかの如き速度で修復されていく。

 それでも手足が完全に再生されなければ自由に動くこともできないが、身体の自由が効かないのはディルムッドも同じだ。あくまでも四肢を貫いた槍に付着した血だけが爆発した遥とは異なり、ディルムッドは満身に浴びた返り血を全て爆発されている。煉獄の焔のみで起こされた、悪性特効の性質をもつ爆発だ。少なくとも、肉体は消し炭になっていることは想像に難くない。

 いかに魔法紳士が尋常なサーヴァントの枠から外れた存在であるといえど、不浄を祓う爆撃を受けたのだから多少はダメージを受けているだろう。生体としての肉を持つ生命には在り得ない再生速度のために激烈な不快感が遥を襲い、彼の身体が急速に元の形を取り戻していく。そうして僅かな瞬きの間に手足の自由が利くようになると床に落ちた叢雲を回収しようとして、遥は()()を見た。そして、納得とも諦めともつかない表情を浮かべる。

 

「……あぁ、分かっちゃいたさ。だが実際に見ると、ウンザリとさせられる」

 

 言いながら再び叢雲を構える遥の視線の先。そこにあったのは肉塊であった。脳はなく、心臓もなく、しかし生きている。それどころかその肉塊は凄まじい速度で身体の各組織を再構築していく。内臓が形を取り戻し、全身で筋原線維束が伸び、束ねられて筋線維束になり、筋肉としての機能を復旧させる。それだけではなく元通りになった手の先から溢れた泥が魔剣と魔槍を再生させた。

 遥から遅れること、およそ数百分の一秒程度。四肢だけではなく全身が消し炭にされた筈のディルムッドは遥のそれを大きく上回る再生速度で全身を修復し、更には消し飛んだ筈の装備までもが悉く元通りとなってしまった。つまり、実質的に全くのノーダメージである。

 それを前にして遥が苛立ちを隠そうともせずに舌打ちを漏らし、ディルムッドはそんな遥を嘲り嗤う。普通なら戦闘不能となるダメージでも瞬時に回復するという点で両者は全く同じでありながら、その再生能力は圧倒的にディルムッドの方が強い。遥は体組織を再生させるだけであるが、ディルムッドは蓄積した不可視のダメージまでもを完全に再生させることができるのだから。

 

「この程度か。えぇと、先の貴様は何と言ったのだったか。……あぁ、そうそう。我が主に用があるからおまえは退けと言ったのか。――クフ。ハハ。ハハハハハハッ!! 弱い、弱い弱い! 達者なのは口だけのようだなぁ!!」

「この……ナメたことを言ってくれたな、泥人形!! 後で吠え面かくんじゃあねぇぞッ!!」

 

 そう叫びながら、遥が左手でアンダースーツの右肩部を掴む。そうして一息に引っ張ると、度重なる損傷や遥の焔で相当に痛んでいたためかスーツは背中と腹に空いた穴から亀裂が入るようにして容易に千切れた。

 そのまま放り投げられて、千切れたスーツの上半身部が床に落ちる。女性と見紛うばかりの顔立ちとは裏腹に露わになった彼の身体はとても筋肉質で、まさに筋肉の鎧とでも言うべき有様であった。尋常ならざる再生力のために古傷らしきものは見当たらないものの、その威圧感は紛れもなく歴戦の戦士のそれである。

 それだけではなく、その身体には両肩口から胸部を通り下半身に向けて、薄く痣のような紅い紋様が浮かんでいる。勿論それは元から彼の身体にあるものではなく、彼と同化したスサノオの親核と生来もつ神性の血が励起しつつある証。オルテナウスの機能で抑え込んでいたものが、それが破壊されたことで枷を失くし、闘気の高まりに呼応して活性化を始めたのである。

 同時に神性の上昇に応じて叢雲が輝きを強め、遥の魂に掛ける重圧が増す。未だ神の領域に至らぬ身体で無理に神核の力を引き出そうとしているのだから、その跳ね返りがあるのは当然の事だろう。

 しかし遥はそれを振り払って、手放しかけた精神の手綱をより強く握る。そして呼び起こすのはファントムと戦った時の感覚。余計な情動や思考の悉くが失せ、研ぎ澄まされた精神が万象を見通すかのようなそれを、今の身体に重ねる。

 瞬間、ディルムッドが眉根を寄せる。恐らく遥の変化を感じ取ったのだろう。嘲笑を表情から消し、魔剣、魔槍を構える。必ず主の邪魔をする慮外者を斃し、主の願望を叶える。その思いを受けてか、武具が禍々しい魔力を纏った。

 人理を守る星詠み(カルデア)の剣士と、全ての誉れを打ち棄てて堕ち果てた狂気の騎士。彼らの戦いは未だ終わる気配を見せず、しかし人理の終焉、神性の解放による遥の耐久限界は刻一刻と近づいてきている。

 

 人理崩壊まで、残り―――。




[サーヴァントマテリアル(一部)]
ディルムッド・オディナ[オルタナティブ]
クラス:バーサーカー
属性:混沌・悪・地

 ちょっとアンケを設置いたしますので、解答して頂ければ幸いです。


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第78話 神速エクストリーム

 ――紅。ディルムッドの攻撃によって襤褸布同然になったアンダースーツを投げ捨て、筋肉質な上半身を晒した遥の身体に薄く浮かんでいるのは、血のように紅い紋様であった。未だ完全な形ではないためその様を正確に見て取ることはできないが、その紋様は焔や波を思わせる形状をしている。

 無論、それはディルムッドの攻撃を受けて生まれたものではない。ディルムッドは遥を殺すつもりで攻撃を仕掛けてきているのだから、その攻撃でそんな紋様ができよう筈もない。

 詰まる所、遥のそれは外的要因によるものではなく彼自身が元からもつ要素の発露であった。彼が己の先祖(ぜんせ)であるスサノオの核を喰らうことでその身に神の力を取り込んだローマでの最終決戦以来、初めて見せた神霊霊基の解放。だが未だ完全出力での解放に肉体が耐えきれないが故に半端な形となっている。

 しかし、それでも遥に宿る霊基が励起していることに違いはない。高まった神性に呼応して天叢雲剣が輝きを増し、それに伴って放出される魔力がよりその圧を強める。遥が放射する剣気が物理的な力さえ持っているのではないかと錯覚する程に増大した。それを感じ取り、ディルムッドが好戦的な笑みを浮かべる。

 

「そうか。それが貴様の本気か。先の貴様では相手にもならなかったが、それなら少しは楽しめそうだ。――来い。我が主を斃すというその思い上がりごと、叩き潰してやる!!」

 

 挑発するかのような声音でディルムッドが言い放つや否や、それに対する返答の代わりとでもするかのように遥が攻撃を仕掛けた。何の芸もない中段の構えからの踏み込みと、上段からの振り下ろし。そんな単調な攻撃であっても遥の練度と超神速の踏み込みから繰り出される一撃は絶大な威力を内包した斬撃となって敵手を襲う。

 ディルムッドはその一閃を魔剣で受け止めることで防いだものの、その表情に先のような余裕はなく、刹那の驚愕の後に遥を睨みつけた。最早彼に遥への侮りはない。その一閃は、ディルムッドの想定を凌駕していたのだから。

 慮外の威力に痺れるディルムッドの右腕。当然、打ち合っている遥がそれに気付かない筈もなく彼の攻撃がディルムッドの手数を減らす方向にシフトし、けれどディルムッドがそれを許す筈もない。反撃として魔槍を振るい、遥がバックステップでそれを躱す。

 強い。ディルムッドが内心で呟く。神霊霊基を解放した遥とはまだ数合しか打ち合っていないが、確信できる。今のディルムッドならばともかく、ステータスだけを比較するならレディに強化される前のディルムッドでは敵うまい。

 しかし、本当に見るべきはそこではない。確かに遥の身体能力は紛れもない半神のそれであり人間を凌駕しているが、遥の真髄はそれではない。彼の戦闘技能の真髄とは、その剣技。前世から継承したものを差し引いたとしても上位の英雄にすら比肩するその剣技こそが、遥を戦士たらしめている。

 それでも、客観的に見れば戦士としての能力が上回っているのはディルムッドだ。その身体能力(ステータス)も、回復能力も、ディルムッドの方が高い。戦技に関しても初見であるか否かという点で彼に有利がある。

 なのに。それなのに、ディルムッドは遥に計り知れないものを感じて半ば無意識に唾液を呑んだ。その視線の先で遥は油断なく神刀の切っ先を狂える騎士に向けながら、ちらと周囲を見遣る。

 イリヤとクシナダが戦っている、レディから分かたれた魔法少女の残骸。彼女らは一度散った筈の命をレディの目的のために利用され、清いものであった筈の理想と精神を邪悪へと堕とされてしまった。全てはレディが人類悪(ビースト)と化すために。

 他者の欲望のためにその生を弄ばれ、死後の魂さえも満足に逝くこともできず利用される。ならば、彼女らの生とは、命とは、何のためにあったというのだろうか。あまりにも報われない。

 

「……何なんだ、おまえ達は。いったい命を、人を何だと思っている。何様のつもりだ?」

「何……?」

 

 思わず問い返すディルムッド。それも致し方ないことであろう。遥の問いはあまりにこの状況にそぐわず、声音もまた戦意ではなく純粋な疑念のみを内包していたのだから。

 だが、その疑念の発端とはファースト・レディ、ひいては彼女の配下への尋常ならざる怒りである。それ故か遥の紅い双眸は声音とは裏腹な嚇怒を放射している。許せないなどという生易しいものではない。必ず殺すと、視線だけで告げている。

 人命を何だと思っているなどと、自分に問う権利がないことは遥にも分かっている。それでも問うたのは、あまりにもレディの行いが理解し難い行為であったからだ。魔法少女らしく人類を救うなどと宣いながら、一方で人類を抹殺しようとする。人類の死、人理の終焉をこそ救済などと言って憚らない独善。それが遥には、理解も共感もできそうにない。

 人を殺したことなら、遥にもある。故に背負った業はレディと大差ないのだろうが、彼は他人に与えた死を救いと思ったことは一度としてない。それが不可避な死であるならともかく、暴力によって齎される死が絶対に救いとはなり得ない。それはレディの理想とは真っ向から対立する考えだ。

 

「そんな事、答える義理はない。それとも貴様、死合の最中に俺に説教でもするつもりか?」

「説教? ハッ。生憎、俺にゃ殺し合いの最中にドヤ顔でイキリ散らすような趣味はねぇな。そして……確かに今の問いはナンセンスだった。だって、どうあっても俺達は分かり合えそうにない」

 

 全人類の抹殺、つまりは人類という種そのものの死を救いと定義するレディと、死は救済ではないと信じる遥。まず以て根本的な思想から相容れないのなら、そこに相互理解の余地は一片もありはしない。元より、遥にはレディを生かしておくつもりもないが。

 だが、それは相手も同じ事。更に悪い事に、現状では総合的な能力は遥よりもディルムッドの方が格上だ。それでも、()()()()のことで諦めるのなら、遥はここまで来ることもなく死んでいただろう。

 自分の方が相手よりも弱かろうと、退く訳にはいかない。人類を守るためではなく、自分が愛した人々の生きる場所を守るために。剣を執れ。執って戦え。他者の理想を撃ち堕としてでも、自らの信念を貫くために。

 鼓膜を貫くような鋭い呼吸音。それに伴って遥の全身から煉獄の焔と魔力放出の激流が溢れ、遥の周囲で相反する属性が共存する。加えて神剣の刀身には雷。浄化の焔と激流、雷電、彼のもつ異能の全解放である。

 対するディルムッドは構えた魔剣・魔槍に泥から供給される膨大極まりない魔力を限界まで充填。収まりきらずに漏れ出した魔力が大気を歪ませ、気炎のように揺らめく。際限のない魔力供給量に物を言わせ、霊基を限界まで強化。その代償かディルムッドを徐々に霊基が崩壊していく異様な感覚が彼を襲うが、それを無視した。たとえ最終的に宿業すら無意味となって消滅してしまうのだとしても、それまでに斃せば良い事であるし、何より相手も自分自身を死の淵に追い遣ってまで戦おうとしているのだ。ならば彼もそれ相応の覚悟で挑まなければ能力で勝っていても勝利は得られないだろう。

 一瞬の静寂。そして爆発めいた音を轟かす踏み込みと共に、ふたりの姿が他一切の視界から消失する。コンマ一秒の差異もない、全く同一のタイミングだ。そしてその速度にも大きな差はない。遥に極地があるように、ディルムッドには鮭跳びの術がある。速さ比べ、力比べには最早何の意味もない。

 

「ジャァッ!!」

「オオォォァッ!!」

 

 吠える。吼える。咆える。一刺が身体を貫く度に呪いの汚泥が魂を焼き焦がし、一斬が霊基を穿つ度に浄化の焔と雷霆が身体を破壊する。瞬きの間に両者は血塗れになって、しかし刹那の内に再生する。

 仮にその剣戟を観測する者がいたとしたら、その者に見えるのはきっと黄金と紫の閃光だけだっただろう。それ程までに速い戦闘なのだ。そして、その周りには在り得ない量の血溜まりが広がっている。

 痛い、と全身が訴えている。遥の再生能力はそれ自体がひとつの法則に等しい力であるが、要は超強力な修復でしかない。己に身体に、元より存在するものではない動作を強制する能力。故にその再生は、激しい苦痛を伴う。

 痛い。全身が叫んでいる。斬り裂かれた傷口と、煉獄の焔で灼かれた身体が理不尽な速さで元に戻っていく。限界を超えた細胞分裂とアポトーシス、ネクローシス。霊基には備わらない筈の代謝を行っているためか苦しみは増していく一方で、しかし身体は万全に動く。であれば何も問題はない。

 苦しみの中で立ち止まってはならない。立ち止まれば、後に残るのは死のみだ。生きたいのならば、生かしたいのならば、前に進み続ける他ない。誰の理想を蹴散らしてでも、苦しみを踏破する。さもなくば、何も成せないまま死ぬこととなる。それを受け入れることは、遥にはできそうもない。

 槍撃三閃。音を彼方へと追い遣る神速で放たれたそれを、遥は至近距離から全て回避してみせる。その動きはまさに魔人の挙動。速力に優れた彼だからこその挙動である。しかしその顔に余裕の色はなく、口を真一文字に引き結んで只管にディルムッドの動きを注視している。

 続けてお返しとばかりに遥が刺突の連撃を放つ。その予備動作を認めた時点でディルムッドは再び泥の槍で迎撃せんとするも、遥が纏う嵐はそれを許さない。伸びた泥の枝を、極小の嵐は圧搾することで粉砕し、剣士への到達を阻んでいる。

 次いで、ディルムッドに殺到する剣撃。ディルムッドはそれを赤剣で弾くことで防御するも、当然、遥はそれを許さない。叢雲の刀身がモラ・ルタと接触する瞬間に絡め取るように動き、モラ・ルタがディルムッドの手から滑るように巻き取られて宙を舞う。

 予想外の事態に瞠目するディルムッド。宙に舞った剣はどうあってもすぐに回収することはできないが、しかし彼は迷わずに槍での対応を選択した。穂で攻撃するには短すぎる距離だが、柄を遥に叩きつけるようにして振るう。

 それを遥は左腕を犠牲にすることで防ぐ。いくら激流と焔を鎧のように纏っていても完全に威力を相殺できず尺骨と橈骨が砕け散り、妙な方向に折れ曲がった骨が肌を突き破って露出する。しかし遥が痛みに怯むことはなく、騎士の首に神刀の刃が突き立てられた。

 その刃は聖杯の泥を受けたディルムッドにとっては劇毒にも等しい。反射的に真正面から遥の胴に蹴りを入れ、その反作用を利用して間合いから離脱。落下してきた魔剣を回収する。

 その一瞬のうちに両者の傷は完全に再生。見た目だけならば振り出しに戻ったようだが、身体に蓄積した不可視のダメージまでもを回復することは遥にはできない。加えて神核を解放している反動もある。身体能力(ステータス)如何以前に、遥には時間も体力もあまり残っていないのだ。

 だが、焦りはない。焦りは集中を乱し、剣を鈍らせる。焦ってしまえば相手の思う壺であり、勝利は遠のいてしまうだろう。焦りを棄て、意識を極限まで敵手に集中させる。痛みで手放してしまいそうになったファントム戦時の感覚を手繰り寄せて再起すると、知覚できる範囲が広がった感覚があった。しかし、足りない。遥のそれは極みではなく、戸口に立っただけだ。ディルムッド、そしてレディを斃すためには、より先へ至らなければならない。少なくとも叢雲に頼るのではなく、自らの力だけで宿業、つまりは形のないものを斬り裂くだけの力を得なければ、守るべきものも守れない。

 ――否。()()だけならば既にできている。アリス。メディア。黒髭。ファントム。これだけ立ち会ってその霊基を斬り裂けば、自ずと彼らに共通する霊基の淀みとでも言うべき異常も分かるというもの。後は〝至る〟のみ。剣者の極み、かの二天一流曰く〝一〟である〝無二〟を超える境地、極限の先にある極限の領域へと。

 己が願望を叶えんとするならば。愛したもの全てを守らんとするならば。それに仇名す悉くを乗り越えよ。乗り越えて、踏み越えて、蹴散らして、その身に降りかかる遍く火の粉、大火を払うに足る武を得よ。詰まる所――

 

 ――その身に剣者の究極を。それで漸く、対等だ。

 

「……ならば、今すぐにでも。この身は、我が本懐を為すために在るモノなのだから」

 

 気配が変わる。剣気が増大し、神気を纏う。その神気を放っているのは天叢雲剣ではなく、遥自身だ。より正確に言うならば、今まで叢雲の神気の陰に隠れる程度だった遥の神気が尋常な半神のそれに近づいたというべきか。

 不可解な変化。唐突な強化。だが、ディルムッドはそれを異様とは思わない。遥の変化、それは成長というのだ。痛みも、苦しみも、全て超越し己が血肉とする生者の特権だ。要は遥はディルムッドとの闘いの最中に得た経験値を即座に吸収し、己の力としたのである。

 驚愕に値する成長速度。だが条理に反している訳ではない。何故なら既に下地はあったのだ。魔女を斬って、魔法紳士を斬って、斬って斬って斬り斃した果てに掴みかけていたものに、この立ち合いを通して届いた。それだけだ。それだけのことなのだ。しかし今この時、この状況において、それは起死回生の光明と成り得る。

 しかし、それはあくまでも極致に開眼できればの話だ。そう判断して、ディルムッドが得物を握り直す。放っておけば開眼してしまうのであれば、その前に斃す。天敵とも言える相手を前にしても、ディルムッドの勝利への執念には聊かの翳りもない。

 両雄の総身に魔力が満ちる。その解放は全くの同時で、しかし僅かにディルムッドの方が速い。彼が有するのは跳躍、つまりは脚力強化に特化した魔力放出であるため、初速度に関しては完全出力の彼に勝る者はそういない。

 対する遥は再び地を蹴って再加速。手に執る神刀はその刃により強い焔を纏う。激しい炎を雷霆と共に宿すその様は、さながら火山噴火をひとつの剣として凝縮させたかのようですらある。

 

「オオォォオオォォッ!!」

「〝桜花散る焔天(ファルサ・ロサ・イクトゥス)〟!!」

 

 交錯する紫と金紅の閃光。甲高い金属音をあげて二条の閃光は一瞬だけ交わり、しかしそれだけでは終わらない。交錯の瞬間に負った傷から鮮血が噴き出してくるのにも構わず振り返り、敵手を撃滅すべく得物を振るう。

 鳴り響く剣戟の音色はまるで死の調べの如く。その様は先の再演のようでありながら、両者にとっては全く異なるものだ。ディルムッドの攻撃が通らない。対して遥の剣の冴えは秒読みで鋭くなり、剣速も増していく。高速から神速、神速から超神速へ。人間の限界を超えた剣速を受けて、ディルムッドは次第にその身体に傷を増やしていく。

 だがそうして付けた傷も宿業を斬り裂かない限りは瞬く間に再生してしまう。故にディルムッドは多少の傷を負ってでも致命傷を受けないようにしているのだ。その防御を崩すべく、遥が畳み掛ける。

 

「〝我が剣撃は煉獄の如く(ファルサ・グラウディサヌス・ブラウセルン)〟!!」

 

 流星の如き三連撃。名前からも分かる通り、第二特異点で共闘したネロ帝の剣技を独自に改変したものである。その様は柔と剛を完璧な形で兼ね備え、受け流すべく講じた防御策ごと絡め取り、その懐へと入り込んだ。

 尋常なサーヴァントならば、それで詰み。しかしこのディルムッドは霊基の隅々までもを聖杯の泥に浸食された英霊であり、レディからそれを操る権限も与えられている。故に懐に入り込まれた状況にあっても、彼に焦りはなかった。

 ディルムッドの懐に潜り刃を振るわんとする遥の前で、突如として湧き出したのは漆黒の棘。先のオルテナウスを破壊した攻撃を、足元ではなく体内の泥から発生させたのである。四肢の動きはおろか、筋肉の動きからも次手を読ませない、完璧な不意打ちだ。

 迫る泥槍。だが遥はまるで先を見通していたかのように神刀を振るうのではなく身体の前で構え、刀身に這わせた焔と雷霆を解放した。その圧力と浄化の力に耐えきることができず、泥槍が無意味な魔力の塵と還る。

 瞬間、全く無防備になる狂戦士。最早次の策を講じるには遅く、後方に跳ぶ。だが遥がそう簡単に逃す訳もなく、振るわれた刃はディルムッドの胴に深く食い込みその大部分を薙ぎ払ってしまった。肉に大半を失った身体から、内臓が零れ落ちる。

 しかし、足りない。騎士の胴を消し飛ばした一太刀は惜しくもその宿業を斬り裂くには至っておらず、自らの生存を確信した騎士は身体が再生するよりも早く反撃を仕掛ける。それを前にして、しかし遥の表情を能面の如き無表情であった。

 今、遥の心に焦りはない。その内心には細波ひとつなく、完璧な凪を保っている。その様はまさしく〝空〟。無空に達した心が捉えるのは剣者の極致、真理であり、今の彼にはディルムッドに宿る実体がない筈の宿業が手に執るように視えていた。

 

「捉えたぞ……!!」

 

 ――その瞬間、遥は極致を視た。

 まるで初めから知っていたかのように、遥の身体が動く。鞘をベルトから外し、天叢雲剣を納刀。それを腰の真横に構えて体勢を落とす。その構えは彼が身に付けた他の剣技と同じだが、帯びた剣気は比ではないほどに強大化している。

 そして、反撃を仕掛けんとするディルムッドの魔力もまた条理の埒外まで上昇している。そうして漏れ出した魔力は吸い込まれるように魔剣に宿り、呪いの赤脈が蠢く。宝具解放の前兆である。手放した赤槍が泥に沈み、暴れる剣を両手で構える。

 躍動するディルムッドの五体。槍を離し剣1本だけの状態でありながらその冴えには聊かの衰えもなく、正確に遥の頚を狙ってきている。このまま遥が何もしなければ、その刃は文字通り三つの牙となって遥を絶命させるだろう。

 

 

「〝天剱(てんけん)――」

 

 

 しかし、遥が甘んじて死を受け入れる筈もない。異常なまでの前傾姿勢からの踏み込みは一瞬にして超神速を追い越し、刹那の内にディルムッドの視界から遥の姿が消失した。聖杯の泥によって強化されているディルムッドをして全く捉えることができない圧倒的な速さ。

 次の瞬間、ディルムッドの耳朶を打ったのは無理矢理に凄まじい速度から制動をかけた際に床と靴が立てる擦過音。見れば、騎士の背後で遥がもう斬ったとばかりに天叢雲剣を振り抜いていた。堂々と背後を晒すその姿に嘲りを飛ばし騎士は宝具を振るおうとして、しかしその瞬間に納刀と共に剣士が呟く。

 

 

「――櫻花爛熳(おうからんまん)〟」

 

 

 その斬撃は正に咲き乱れる櫻の花の如く。英霊はおろか世界の認識すらも追い越し遅延させる一刃は、世界の認識が追いつくや否や須臾のズレすらもない全く同時の多重斬撃と化して騎士の霊基とその内に隠された宿業を細切れと成さしめた。

 たとえそんな在り様であっても宿業が無事であれば魔法紳士は再生する。しかし、その根源である宿業が両断されているのなら話は別だ。床に転がった騎士の肉片はそれまでと異なり回復する素振りを見せず、辛うじて残っている頭部は驚愕を浮かべていた。

 さもありなん。戦いの中で空位に開眼した遥が新たに編み出した剣技〝天剱・櫻花爛漫〟。それを受けたディルムッドの主観から見れば、無数の斬撃が全く同時に襲い掛かってきたかのようにも思えただろう。それこそ、時間停止でも行使したかのように。

 だが、遥はそんな大それたことはしていない。魔法の領域にある技術も精々、多重次元屈折だけだ。けれどこの剣技の真髄はそれではなく、超神速でも生易しい程の(はや)さ。その疾さで以て世界からの事象認識を遅延させ、あたかも時間停止の如き攻撃を可能としたのだ。

 更にその刃は煉獄の焔を纏うが故に悪を祓う力を持つ。霊核を砕かれ再生能力を失ったディルムッドの身体はその霊基を無意味な魔力に還しながら焔に焼かれて、霊基を反転させていた泥から解き放たれたことで騎士は今わの際になってようやく正気を取り戻した。

 

「俺の勝ちだ、ディルムッド」

「あ、ぁ……そして、俺の敗北、だ……」

 

 遥の言葉にそう返すディルムッドの声はひどく掠れていて、彼がもう長くないことを伺わせるには十分だった。そもそも今の彼の状態では話すことでさえやっとで、そうしているだけでエネルギーをかなり消費するのだから。

 しかしディルムッドはまだ何か言おうとして浅い呼吸を繰り返し、遥は何も言わずに騎士が何か言うのを待っている。彼からは何もすることはない。今、余計な施しをしてしまうのは騎士の誇りを汚すことになる。たとえ、泥がその霊基を喰らおうとしているのを見てしまったのだとしても。

 そうして騎士に戻った狂戦士は訥々と語り始める。最初は英雄として未熟であっても剣者としては極みに至った遥への賛辞。それからもう一度呼吸を繰り返して、頭部以外の霊基を泥に呑まれてもディルムッドは再び口を開いた。

 

「剣士よ……最後に、ひとつ頼まれては、くれないか……?」

「……何だ」

「我が主を……ファースト・レディを、終わらせてやってはくれないか……彼女はもう、十分に彼女自身の使命を、果たした……だから、もう、眠らせてやってくれ……」

「了解した。我が剣と誇りに掛け、この約定を果たそう。だから安心して逝くといい。……俺がアンタの代わりに、ヤツを()()()()終わらせるから」

 

 その剣士の言葉に、騎士は何を言おうとしたのか。吐息が意味を為すことはなく、英雄は泥に呑まれて消えた。次いで、まるでその代わりとでも言うかのように湧き出した泥から気絶したクロエが吐き出される。

 一旦戦闘が終わったことで遥の身体から神威の紋様が消え、気が遠のいてしまう程の激痛が総身を襲う。それに顔を顰めながらもクロエの霊基に焔を流して付着した泥や内部まで侵入した泥を全て()き尽くした。

 だがそんな有様でありながら、不思議なことにクロエの霊基は全く汚染されてはいなかった。恐らく元々、泥の大本であるレディにクロエを汚染する意志がないためだろう。慈悲ではない。ただの無関心だ。最早用済みで、脅威にもならないかという理由だけで撒き餌としての関心以外を失ったのである。

 なんという横暴。なんという身勝手。自らの都合で何の関係もない人々を巻き込みながら用済みとなれば放り棄てるなどと。湧き上がる憤怒を抑え、遥が大きく息を吐く。今は怒るよりも、クロエをレディの支配から逃がすことができたのを歓ぶべきだ。

 

「遥様!!」

「遥さん!!」

「クシナダ……イリヤ……ッ!」

 

 遥がディルムッドを斃した直後にイリヤとクシナダもこの部屋にはびこっていた魔法少女の残骸を掃討し終えていたようで、駆け寄ってきた所で遥は遂に満身の苦痛に耐えきれず膝を突いて、クシナダに支えられた。

 そうしてクシナダに礼を言おうとして、しかしその直前に胃の辺りから何かが込み上げてきたがために思わず口を手で押さえた。果たして、吐き出されたのは吐瀉ではなく血。深紅に染まる掌。それを見て、彼は悟る。先の戦闘はあまりにも限界に近づきすぎた、と。加えて、治りが遅い。彼は尋常な傷なら一瞬で再生することができる。故に本来なら数分経った時点で吐血することなどあり得ないのだが、どうやら神核の反動で追った物理的なダメ―ジは軽々に治せるものではないらしい。

 その様から何かを察したらしいクシナダが即座に呪術で傷を塞ぐが、それも気休めだ。もう一度戦えば、確実に傷口は開く。より深く。今度は気休めの応急処置もできないだろう。

 それでも、戦わなければならない。何もしないまま諦観を抱いて殺されることを許容するくらいならば、苦しんででも生存を勝ち取る方が遥の性に合っている。何より、ミラーやディルムッドとの約定もある。足を止めることはできない。

 だが、レディを斃すより先にやるべきことがある。自身を支えてくれたクシナダに今度こそ礼を言うと遥は、眠るクロエを抱きしめて安心のあまり涙を流しているイリヤに向けて口を開いた。

 

「イリヤ。安心している所悪いが……ひとつ、訊いておくことがある」

「訊いておくこと……?」

「あぁ。……この戦いが終わった後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 え……、とイリヤが呟く。イリヤは遥の問いの意味を理解できていないようだが、ルビーは何も言わないということは彼女は知っていたのだろう。知っていて、あえて黙っていた。イリヤに余計な動揺をさせないように。

 それに対して、自分自身の何と浅ましい事か。遥が自嘲する。遥のしていることは何も知らぬ少女に真実を告げていると言えば聊か聞こえは良いかも知れないが、実際はイリヤに対する選択の強制に他ならない。ただレディのように他者の行く末を問答無用で決定したくがないための、自己正当化だ。

 しかし、いつかは告げなければならない真実でもある。故に、たとえイリヤから悪感情を抱かれることになろうとも――今までの付き合いで彼女が物の道理を履き違える少女ではないと知っているが――彼女が無知のために望まない行く末へ進まざるを得ない状況に落されるよりはマシだと、彼は思うのだ。

 そうしてイリヤに彼女の置かれた状況を話しているうち、彼は自然と変異特異点αにおいてアイリに問うたことを思い出していた。あの時もそうだ。彼が提示した選択肢は問いの体を成しているようでいて、その実殆ど強制でしかない。死にたくないのならカルデアに来い、という。何も成長していない。何も進歩していない。彼の力で成せる最善は理想ではなく、それなのに理想を為そうと足掻くだけの時間は残されていない。

 自らの身に降りかかった災禍を知り、表情を歪めるイリヤ。当然だ。全く自分に関係のない他人の都合で永久に家族と会えなくなったのだから。その気持ちは遥にも大いに覚えがある。彼は並行世界に飛ばされた訳ではないが、早くに両親を亡くしている。

 だからと言って自身と同じようにそれを受容せよという気は、彼には毛頭ない。そもそもとして彼自身、幼い頃に無理に受容しようとしたがために無意識に過剰な抑圧をしてしまったのだから。

 自分がサーヴァント、それも死んだ英雄ではなく、生きている人間のデッドコピー。つまりは自分はオリジナルではなく、記憶にある故郷には今も日常の内に暮らしている本物(べつ)の自分がいて、ここにいる自分には帰る場所がない。そんな状況の中で、一方的に生きろなどと命じることができる訳もない。故に遥は押し黙って、しばらくの逡巡の後にイリヤが口を開いた。

 

「わたし……カルデアに行くよ」

「……そうか。了解した。……後悔はしないな?」

「うん。何もかも諦めて死んじゃうのは、嫌だから」

 

 そう答えるイリヤの瞳に迷いの色はなく、彼女の決断が揺るがないものであることは明白だった。確かに選択肢を提示したのは遥だが、決断したのは他でもない彼女自身なのだと遥に強く訴えている。

 であれば、遥がいつまでも悩んでいるのは決断したイリヤに失礼であろう。それに男がいつまでも湿っぽい態度であるというのはあまりにも恰好が悪い。自分自身で両頬を叩いて、その痛みで感情を切り替える。

 右手の令呪を掲げ、魔術回路を接続。すると契約の意志に呼応した令呪が自動でカルデアの召喚システムに繋がり、待機状態に入る。そしてその手にイリヤが触れるや否や遥とイリヤ、それだけではなくイリヤと介してクロエとも契約が結ばれ、経路(パス)が繋がった。これで契約サーヴァントの数は8騎。それだけの数を契約し、かつその大半が活動状態にあるのであれば上位の魔術師でも魔力切れを起こしそうなものだが、遥には然程の負荷ともならない。

 

『おお、遂にマスターにマスターが……つまり遥さんは私のグランドマスター? しかししかし、わたしのマスターはイリヤさんただひとりと心に決めて……おや?』

 

 何事か早口で捲し立てながらひとり――或いはひとつと言うべきであろうか――で身体をくねらせていたルビーであったが、不意に何かを感じ取って反射的にこの回廊と廊下を繋ぐ扉の方を見た。遥らもつられてそちらを見遣る。

 その視線のさきにあったのは、いや、いたのはルビーに似た印象を受ける蒼いステッキ。異なる点は色と円環内部の星の形、両サイドから生えている羽と数えてみればそなりにあるが極めて近い意匠であることに違いはない。

 マジカルサファイア。現物を見たことはないが、ルビーと極めて酷似した形状を見て気づかない遥ではない。恐らくレディの許から逃げ出した後も外周の防壁の影響や敵性体の出現によって思うように行動できず、今になってようやく行動できるようになったのだろう。

 

『サファイアちゃーん! どこ行ってたんですかぁ! お姉ちゃんは心配しましたよー!』

『申し訳ありません、姉さん。美遊様のお陰でレディから逃げ出すことはできたものの、予想外に障害が多く……それで、姉さん。この方々は……?』

「あぁ、俺達か。俺は夜桜遥で、彼女が俺と契約してくれているサーヴァントのクシナダヒメ。それで……マトモな自己紹介ができなくて悪いが、後はルビーにでも聞いておいてくれ」

 

 言いながら、クシナダと目くばせする遥。言葉にするまでもなくクシナダはその視線の意味に気づいて複雑そうな表情を浮かべるも、すぐに表情を決意のそれに変えて遥が差し出した手を取った。直後、クシナダの霊基が解けて櫛の形に凝集する。

 〝我、蛮神の妻たる者〟。八岐大蛇を討伐した際にスサノオが彼女を櫛に変えその生命力を借り受けたという逸話が宝具化したものであり、スサノオ、或いはその転生体に等しい遥とクシナダ自身の合意の下で行使される。その効果は、遥とスサノオの強化である。

 後ろ髪を束ねている髪留めを外し、遥の白髪が解ける。そうしてその髪に巻き込むような形で櫛を装着するとクシナダの霊基と神気が遥に吸い込まれるように同化し、瞬間、全身の血が沸騰したと錯覚する異様な感覚が奔った。思わず膝を突きそうになるが歯を食いしばって耐えて扉に手を掛け、そこでイリヤが心配の視線を投げてきていることに気づく。

 恐らくイリヤとルビー、更に言えば出会ったばかりのサファイアまでもが遥が既に限界に近いことを見抜いている。何せ隠しきれていない。隠しきれないことを分かっていながら、彼は虚勢を張っている。彼女らはそれを全て理解して、それでもレディを打倒せんとする遥を止めない。

 故に遥もまた黙って巨大な水晶の扉を開け、その先へ足を踏み入れた。すると勝手に扉が閉まり始めて、完全に閉まり切る直前、イリヤ達の姿が見えなくなるその間際に遥が呟いた。必ず助け出すから待っていろ、と。

 

『……遥様。イリヤ様と話した時に、イリヤ様が遥様をどう思われているのか伺ったのですが……

 〝カッコいいお兄さん〟だと仰っていました』

「そっか。俺には勿体ない言葉だが……応えられるように、頑張らないとな」

 

 そう言って、遥は笑う。理想を為すこともできず、他人に頼るのが下手で、自分自身を愛することもできない彼だが、せめてその期待には応えてみせようと決意を新たにする。

 終焉は近い。身体の限界も間際で、気を抜けばすぐにでも気絶してしまいそうだ。そうでなくても痛くて痛くてたまらなくて、今すぐ叫び出してもおかしくない。それでも遥は堪える。堪えて、前に進む。

 

 約定を果たすために。

 

 愛した人々を守るために。




[スキル強化]
無空:D→A
神性:E→C

 遥くんが新しく体得した剣技についてはまた後程。簡単に解説するなら〝天剱〟は型の総称で〝櫻花爛熳〟が技名といった感じです。


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第79話 嘲弄バタフライ

 それを見た時、遥が真っ先に思い出したのは幼い頃に見かけた螳螂の交尾であった。全てがそうなるという訳ではないが、螳螂というのは交尾を終えた後に雌が雄を食べてしまうことがあるという。そちらの方がより確実に産卵に必要な栄養素を得ることができるからなのだそうだ。

 無論、本当に遥の目の前で性交が行われた訳でも、共食いが為された訳でもない。しかしある意味でそれらに近い行為ではあっただろう。尤も、目の当たりにしても遥の胸中に湧き上がったものは只管な嫌悪と悪寒のみだが。

 ファースト・レディの固有結界の真の姿である雪原と水晶の国、その中央に存在する城の最奥である玉座の間にて、それは起きた。遥の目の前に広がった聖杯の泥から黒い靄のような魔力の塊が出てきて、それを美遊、もといその霊基(からだ)を乗っ取ったファースト・レディが捕食する。そうして己の霊基がより強固になったのを感じ取り、レディが恍惚の笑みを浮かべながら唇を舐める。

 

「本当に来たのね、魔物さん? 力の差は理解できているでしょうに」

 

 挑発するようなレディの言葉に、遥は何も返さない。ただ口を真一文字に引き結び、殺意の視線をレディに注ぐだけだ。しかしレディにとって、それは何よりも雄弁に遥の答えを物語っている。

 確かにレディに言う通り、遥はレディの間に横たわる根本的な力の差を理解している。いくらクシナダの力で強化されているとはいえ、遥はただ高位神格をもつだけの半神半人。対して相手は人類総てを抹殺して余りある、通常のサーヴァントとは比較にもならない力を秘めた獣だ。その時点で考えるまでもなく彼我の力量差など理解できよう。

 しかし、力の差を理解しているからとて戦わずして負けを認めるような軟弱極まる精神構造をしているのなら、遥はこの場に至る前に死んでいただろう。たとえ己よりも相手の方が強いのであれ、必ず勝利するという意志とそれに無理矢理身体を追従させる精神力。つまりは全くの精神論。一般的な魔術師が聞けば鼻で笑いそうなものだが、弱者が強者に食らいつくにはそれしかないのだ。

 神刀を構え、あくまでも戦う姿勢を崩さない遥。そんな遥を嘲笑うかのように息を漏らし、レディが玉座から立ち上がる。そうしてその背中から広がった魔力はまるで蝶の翅のような形を取り、暴虐の魔力が一帯を薙いだ。そうして、嗤う。この上無く淫靡に。この上無く陰惨に。

 

「あぁ、本当に愚かで、愚かで……いっそ可哀想なくらいだわ。私を斃すことが人類を救うことになると、本気で思っているの?」

「……?」

「理解できないって顔ね。でも、そうでしょう? 無限の並行世界には無限の危機があって、斃すべき敵とそれに苦しめられる人々がいるわ。私も昔は敵を斃せば皆を救えると思っていた。

 でも、違った。違ったのよ。私が救った筈の人類は皆、醜く変わってしまった。幸せになりたいと思っていた人々が、他人を不幸にし始めたのよ。だから、気付いたの。人が生きている限り、人は救えないと」

 

 初めは美しかった筈のものが、いつの間にか醜く変わってしまう。幸福の席というのは最初から数が限られていて、人間はそこに自分が座るために他人を蹴落とそうと闘争を繰り返して無限の不幸を生み出すのである。誰もが救われたいと願っていながら、誰ひとりとして本当に他者を救おうともしない。それが人間だと、レディは言う。

 故に彼女は人類を終わらせるのだ。このまま無意味に人類が続き、それに伴って不幸が無限に繰り返されて際限のない悲嘆が生まれるくらいならば、いっそ全てを終わらせてしまえば誰も不幸にならず幸せだろうと、彼女は本気でそう信じている。

 なんと巨大で、歪んだ人類愛だろうか。レディ自身はあくまでも人類を愛していて、だからこそあらゆる並行世界の人類を滅ぼそうとしている。歪んだまま膨れあがった人類愛が、やがて人類悪と化す。これが獣。これがビースト。善意を端に発する思いが悪意に変貌し、己を悪と認識しないまま肥大化した化生。だがそんな怪物を前にしても遥の剣気は揺らがず、聊かの翳りもない殺意をレディに向けて毅然と言い放った。

 

「さっきから黙って聞いていればゴチャゴチャと……どうでもいいわ、おまえの諦念なんて。俺はおまえを殺すために来たんだ。おまえの説教なんて聞く気はないし、俺自身もする気はない」

 

 遥が見ているものとレディが見ているものは決定的に異なる。遥にとって世界を救うというのはあくまでも手段、己の目的を果たすために必要だから人類史を守るのであって、最終的な目的ではない。

 対してレディにとってどういった形であれ世界を救うというのは最終目標である。だからこそどうあっても叶えようとするし、それを阻もうとする遥を殺してでも排除しようとするだろう。

 遥とレディでは見ているものが違えば、信じているものも全く異なる。故にふたりが相互理解を果たすことなど全く不可能で、元より両者にそのつもりは一切なかった。片や世界が続いて欲しいと願い、片や世界を滅ぼそうとしている。成さんとする所業が対極に在るのなら、片方が消える他ない。

 レディの手にカレイドライナーのそれと酷似した魔杖が顕現し、解放された悪性の魔力が遥を総毛立たせる。最後の魔法紳士を取り込んだことでまた一歩完全覚醒に近づいた最低最悪の魔女の姿はまさしく一羽の蝶の如く。過去を忘れ、友を忘れ、約束を忘れ、独善と妄執の果てに堕ち果てた一匹の獣は今、遍く世界に向けて手を伸ばす。

 

 

 

 ──ADVENT BEAST.

 

 

 ──人類悪、変態。

 

 

 

「さぁ、動きなさい。美遊(わたし)の身体。世界を救うために」

 

 何事かレディが呟くや否や、その霊基から放出される魔力が更に増加する。その規模たるや、特異点を形成するために設置される聖杯の3倍から4倍程度に匹敵、或いは凌駕するだろう。途轍もない出力の魔力炉だ。

 その魔力炉の正体は美遊の身体を得たレディの宝具である〝我が願いを受け入れよ、堕ちたる朔月(ほしにねがいを)〟だ。この宝具はビースト化に際して強制起動させた美遊の有する聖杯の機能をその法外な耐久力に任せて出力を引き上げ、本来の魔力生産力を超えて無限に魔力を作り出しているのだ。

 それと相対する遥はその圧倒的な力を前にしてでも戦意を失うこともなく、意識と呼吸を戦闘時のそれに切り替える。同時に彼の意識を万象を見通すかのような感覚が包み、感情が凪ぐ。一度空位に達し真理を体得した以上、遥がそれを忘れることはない。

 だが空位に達したことで直感的に最適解を理解できるようになった遥をして、彼とクシナダの力のみでレディを打倒する活路は見えない。より正確に言えば活路と成り得る筋道は見えているのだが、どれも確実とは言えないのだ。それだけ、ビーストとは圧倒的な存在なのである。

 ただ斃すだけならばまだ良い。それならば無理矢理にでも力技で霊核を断てば、いかなビーストでもそれで終わりだ。しかしレディ相手となると話が違ってくる。レディが使っているのは美遊の身体であって、レディ自身のものではない。それ故に美遊を生かしレディのみを斃そうと思うのなら、その内にあるレディの霊核のみを破壊するしかない。

 そんな事、普通は不可能だ。サーヴァントにとっての霊核とは生者で言う所の心臓や脳、つまり基本的に不可分のものであり、霊核のみを狙うということはできないのである。だが、遥の異能を鑑みれば、レディ相手に限ってそれができる可能性はある。

 遥の固有結界は遍く悪性を祓う煉獄であり、その浄化能力の対象にはビーストも含まれることはユスティーツァ戦にて確認済みだ。であれば、その能力による攻撃であれば美遊へのダメ―ジを最小限にしつつレディを斃すことも可能だろう。尤も、そんな生易しい攻撃をレディが許す筈もないが。

 

「喜びなさい! 不本意だけれど、アナタが一番に救われるのだから!」

「誰がッ……!」

 

 遥への嘲弄が滲む声音でレディが吠え、その背後に無数の魔法陣が展開する。現代に存在する大半の魔術ならば見れば分かる遥だが、その陣は遥の知識にはない。恐らく現代においては既に失われてしまった魔術か、或いはレディの生まれた世界には存在するが遥らの世界にはない魔術なのだろう。だが知識にはなくとも、遥の心眼と直感は未来予知もかくやといったヴィジョンを齎し、考えるまでもなく彼の身体は動いた。

 空間を奔る幾条もの閃光。一条一条が人ひとりを抹殺するに余りある魔力を内包したそれらの軌道を見切り、遥が躍動する。音を彼方へと追い越した極地の挙動。それによって狙いを外れた魔力砲はそのまま床に着弾してクレーターめいた陥没を形成するが、驚くべきことに直進するばかりである筈の魔力砲の一部はその進行方向を変えて再び遥へと猛進し始めた。それを目の当たりにして、遥が舌打ちを漏らす。

 通常、魔力砲とは単純に指向性をもたせて放出された魔力の塊である。その原理故に魔力砲は直進しかできないのだが、レディのそれは魔法陣から放出される際に無数の細い魔力砲を別の魔術で束ねて1本の魔力砲とし、その間で反発・収束を調整することで軌道を歪曲させることを可能としているのである。

 だが、そんな原理など遥には関係ない事だ。彼にとって重要であるのは、レディの魔力砲が実質的に回避不可能であるというその一点。一瞬面食らったものの即座に煉獄の焔を叢雲の刀身に纏わせ、その身に迫る光条へと振るった。神刀で相殺しようというのではない。煉獄の焔が有する浄化作用で魔力砲を構成する魔力の統合を乱すのである。

 果たしてその目論見は成功し、正常な制御を失った魔力砲があらぬ方向に飛んで壁を穿った。連続して飛来する魔力砲を悉く防ぐ様はまさしく剣の結界。難なく、とはいかないまでも無傷で攻撃に対応されているというその状況にあって、しかしレディの表情から余裕は消えていない。

 それはそうだろう。先の攻撃でさえレディにとっては小手先の戯れでしかない。要はレディは今、遥を使って遊んでいるのだ。人類悪として霊基を得たことにより神霊の領域にすら手を掛ける程の力を獲得したレディにとって、遥は全力で叩き潰す程度の存在でもないということなのだろう。

 ナメてくれたな、と内心で呟く遥。だが侮っていてもレディは遥の力を過小評価している訳ではないのだろう。もしも過小に評価しているのなら相応に隙がある筈だが、レディは遥を見下しつつも彼が容易には反撃できないようにしている。故にこそ、それは遊びなのだ。

 連続して撃ち放たれる魔力砲を叢雲で打ち払い続ける遥。その刃は魔力砲の中心を捉えてその大半を堕とすも、時折打ち漏らしが生まれ、続けて放たれたそれと共に遥へと襲い掛かる。

 しかしいつまでもそんなものを前にして梃子摺り続ける遥ではない。攻撃を捌きつつ並行して自らの側に存在する戦力から現状を打開し得るものを拾い上げ、構築した対抗策を即座に実行する。

 クシナダが宝具〝我、蛮神の妻たる者〟で変化した櫛を遥が装着している今、ふたりはある種の重ね合わせ、或いは融合状態にある。故にクシナダと遥は根底の部分で繋がっており、両者の意識は常に共有されている。その繋がりを通じてクシナダの霊基情報から彼女の武装である邪竜の弓を引っ張り出し、実体化させた。

 瞬間、それまでは通常の宝具程度でしかなかった神弓の魔力が爆発的な上昇を見せた。その魔力量たるや、天叢雲剣やエクスカリバーのような特級の神造兵装に勝るとも劣るまい。

 そのカラクリは至極単純。その弓の本来の担い手は遥、ひいては彼に宿るスサノオであり、クシナダでは完全な形で扱うことができないのである。それが現在の正当な担い手である遥の手に渡ったことで完全な形を取り戻したのだ。つまり、その弓は遥とクシナダが合一することで宝具としての格を取り戻すのである。

 同時に遥を強烈な苦痛が襲うが、彼はそれを完全に無視した。そんなものに逐一反応していては命がいくつあっても足りないし、何より神核を解放し、クシナダと融合して強制的に身体能力を引き上げている彼は常に負荷が掛かっているのだから、一瞬だけそれが増した所で大した違いではない。

 叢雲を納刀し、空いた手を通じて邪龍の髭で出来た強靭な弦に魔力を込める。すると込めた魔力に呼応して半実体の矢が生成され、それを弦に番えて引き絞る。だがその鏃が向けられているのはレディではなく、何もない虚空。遥の視界に訝しむレディが映るも、彼は生存のために一瞬だけそれを無視した。

 

「墜ちろ」

 

 凝縮された殺意の言霊と共に、引き絞っていた弦を解放する。そうして何もない中天に向けて撃ち出されそのまま天井に衝突するかに思われた矢はその直前で爆裂して幾条かの矢に分裂し、遥へと迫っていた魔力砲の全てを相殺した。

 神霊スサノオによって討ち斃された八岐大蛇。その遺骸を彼と従者である神代の武器職人が加工して造り出した神弓〝大蛇之弓〟はただの神威を宿す強弓ではない。この弓の最大の特徴は魔力を込めることで半実体の矢が生成され、撃ち出した跡もその矢は担い手の意志に応じて動き続けることができるという点だ。たとえば死せる書架の国においてクシナダがレディの矢を相殺できたのは、撃ち放った矢にそう命じたからに他ならない。

 加えて遥という正式な担い手の許に渡り本来の格を取り戻した今、神弓から放たれる矢には邪龍の思惟が取り憑いている。それにより半実体、半霊体の矢を最大8本まで分裂させることができるのだ。当然1本あたりの威力や魔力量は8分の1まで落ちるが、遥が矢を撃った目的はレディの打倒ではなく魔力砲の撃墜であるのだから問題はない。

 そして、レディは一度神弓を見ているがその際に射の瞬間は見えていなかった。爆炎で視界が塞がれていたのだから当然だ。更に神弓が本来の格を取り戻したのはつい先程であり、その攻撃はレディにとって全くの初見である。

 再び魔術を起動するために詠唱を紡ぐレディ。だが遥はそれが完成するより早くに動き、神弓に魔力と焔を込めて射った。そうして放たれた矢はレディが展開した魔法陣に喰らいついて内包した焔を叩きつけ、その術式を破壊する。

 すかさずもう一度弓を引き絞り、魔力と共に煉獄の焔と神威の雷霆を充填。生成された矢は遥の異能を受けたことにより遍く悪性を祓う破魔の矢と化して、射と同時に聖剣の極光が如き奔流となり虚空を駆ける。その圧倒的な魔力量により大気が鳴動し、大地が激震。半神たる遥と彼の支配下にある邪龍の力を宿した一射が齎すその光景は、まるで天変地異のようだ。――尤も。それ程の威力を内包する一撃であっても人類悪に対しては全くの無意味だが。

 常世ならざる異界の言語にて一瞬で紡がれた詠唱の直後、レディの前に複層型の防御結界が現れる。それは獣の魔力により構築された術式を元にしているため遥の異能の特効範囲にこそ入っているものの、腐っても魔女の扱う魔術だ。そう易々と突破できる筈もなく極光の矢は次第にその勢いを減じて、遂には十全な状態であれば難なく浄化できる聖杯の泥を浄化しきれずに逆に呑み込まれてしまった。

 それを前に、遥が再び舌打ちを零す。先の一撃は真名解放を行っていないため最大出力でこそなかったものの、それでも真名解放抜きでの最高火力ではあったのだ。それを、レディは苦も無く防いだ。今更な話だが、改めてレディが尋常なサーヴァントよりも圧倒的に高位の存在なのだと思い知る。

 レディには全力の攻撃以外は通用せず、それどころか今の射のように現状で講じることができることができる手の中で最上級の火力をぶつけても防がれることもあろう。しかし仮に直撃したとしても、下手なことをすれば美遊の霊基へのダメージが大きくなる可能性がある。つまりレディは斃さねばならないが美遊を殺してはならないという何処か矛盾した制約に考えを巡らせる遥に、彼を高みから見下ろし嘲笑を浮かべながらレディが口を開く。

 

「……私に矢を届かせる強さもない。現実を直視する勇気もない。力の差を受け入れる能もない。あぁ、本当に何もないのね、アナタ。そのクセ自信と理想だけは一丁前だから、できもしないコトばかり口にするんだわ。

 アナタはきっと〝私の理想を阻むことが世界を救うことになる〟とか考えているのでしょうけれど……それが間違いだと、どうして気づけないのかしら?」

「このッ……勝手なコトばかりネチネチと……!」

「勝手なコト……ね。それは、アナタが言えた事ではないわ」

 

 遥の側から見れば、レディの〝人は誰しもいずれ醜く変わる。そうして果てなく続く絶望の歴史が人類史なのだから、終わらせることが救いである〟という理想は、確かに彼女の勝手な妄言だ。

 しかしレディの立場からすれば、遥の言こそ現実を何も知らない青二才の戯言である。彼女の理想は、源泉である彼女の精神自体が歪み果てた先に生まれたものなのだとしても紛れもなく彼女の辿った生の中から発生したのである。それを真っ向から否定されるというのは彼女にとって、己の生全てを否定されているに等しく、故にこそ遥に対して一片の理解や共感を抱くことはない。

 共に人ならざる者、人外である彼らだが、人類との向き合い方はあまりにも異なる。レディは人類総てと相対し、愛し、衆生を救済へと導かんとしているのに対して、遥は衆生を愛してなどいない。むしろ忌み嫌ってすらいる。だからこそ、彼の嫌う(ヒト)の悪性を知りながらもそちらの堕ちない個人を愛し、守らんとすることができる。そもそもとして、彼らの人間観は根底からして理論を異にしているのであるから、そこに相互理解など生まれる筈もない。元々人間は美しいと語るレディと半分だけが人間である自らも含め人間など元々醜悪な獣畜生だと信じる遥。両者は、永久に相容れない。水と油、とでも言うべきか。

 その数瞬、彼らの間に言葉はなかったもののレディは一切の迷いがない遥の双眸から彼の心中を悟ったのか、レディから遥へと向けられる視線に激烈な侮蔑が混ざった。

 

「オイオイ、その目……仮にも魔法少女を名乗る奴が、人を見下すとかしていいのか?」

「よく言うわね。アナタ、一度も私を魔法少女だと思ったことがないでしょうに」

「はっ……当たり前だろうがッ!!」

 

 その咆哮と同時に大蛇之弓を霊体化させ、叢雲を抜刀して地を蹴る。剣者としての極みに達した遥の挙動はいかな人類悪の獣たるレディであっても視認できる域になく、しかしレディに動揺はない。

 何故なら、既に彼女はそれを()っているからだ。この戦闘の直前にディルムッドの霊基を呑み込んだレディは、ディルムッドが積み上げた遥との交戦記録をそのまま継いでいる。つまり、彼女は魔法少女や魔法紳士らの知識や経験からあらゆる状況に対応できるのだ。

 ――それはまるで、世界そのものが塗り替わるかのように。これまでのように何らかの前触れがある訳でもなく極めて唐突に、玉座の間を泥で構成された魔法少女の残骸が埋め尽くした。彼女らの手に在るのは絶大な魔力を内包した魔杖、魔剣、魔槍など千差万別。それらが全て、既に攻撃体勢に入っている。

 

『遥様!!』

「解ってる!!」

 

 クシナダの言葉にそう返し、迷いなく遥が叢雲を構え直す。完全に前兆のない敵性体の大量出現など全く予想外の状況であるが、遥は慌てない。焦りは感覚を鈍らせ、無用な隙を作る。焦る時間があるのなら、たとえ僅かな時間でも対抗策を練る方が圧倒的に有意義だ。

 そして、空位に開眼し剣者の真理に辿り着いた遥にとって、状況に対応するにはその程度の時間でも十分だ。たとえ〝櫻花爛熳(おうからんまん)〟を以てしても一度では斬り尽くせない数に、攻撃体勢に入っている敵。ならば、一旦は攻撃を度外視するしかあるまい。

 下手をすれば上半身と下半身が泣き別れしてしまうのではないかという程に身体を捻る遥。剣技の初動としては明らかに異質なその形に、しかし残骸らは訝しむ素振りすらも見せない。それぞれに握った得物から致命の一撃を放ち、瞬間、遥が動いた。

 その斬撃は、さながら遥を守り覆い隠す花の牢獄か。その剣撃は抜刀術でこそないものの身体の捻りを発条(バネ)に加速された剣速は超神速の領域にあり、放たれた斬撃が幾重もの防壁となって残骸らの攻撃を無に還した。

 その剣技に名前をつけるならば、〝華天の牢〟といった所だろうか。咄嗟の機転で残骸らの攻撃を潜り抜けた遥はそのままレディに肉薄しようとして、次の瞬間、在り得ない感覚に襲われた。

 再び、世界が塗り替わる。そうして遥の未来予知じみた直感が主に危機を告げるも、もう遅い。今度こそ防御行動を執る余裕すらもなく遥の身体を衝撃と激痛が襲い、全身の肉が抉れ、鮮血が噴き出した。左脚の膝から先も消し飛ばされ立っていることができず、遥が倒れる。

 

「――、――――ッ!! 何なんだ、今の……!!」

「さぁ、何でしょうね? でも、固有結界が使用者以外に対してどれだけ理不尽なものかは、アナタも知っているでしょう?」

 

 レディの言葉に、遥は己の失念を悟る。この世界は特異点ではあるが、それ以前にレディの固有結界なのだ。であれば、レディにとって何か都合の良い、或いは敵手にとっては暴虐の如き性質を有していたとしても不思議ではない。遥の固有結界も聖杯の呪いでさえ浄化する程の強制力をもっているのだから、ビーストであるレディの固有結界がそれに比する力をもっていない筈がない。

 現在までに見られた〝願望の改竄〟と〝配下の召喚〟、〝予備動作のない攻撃〟などという点から予想される性質としては、結界内の概念の上書きや事象の改変だろうか。恰も妖精種の空想具現化(マーブル・ファンタズム)のような性質である。そうだと仮定すると直接遥に手出ししてこなかったことに説明が付かないが、自らの構成要素にしか効力を発揮しないか別の理とも言える別種の固有結界を宿す相手に通用しないか、そのどちらかだろう。

 だが、何であろうと今この瞬間に遥がレディに対してあまりにも大きすぎる隙を晒していることに違いはない。そんな窮地にあって遥は逡巡の間を取らず、自身の魔術回路が損傷するのも構わず令呪の一角を解放してサーヴァントではなく自分自身に魔力を充填。その魔力の一部で回復を促進して全身を雑に修復し、残りを全て固有結界の活性化に回すことで煉獄の焔を総身から迸らせた。その焔を浴びた残骸は瞬く間に無意味な魔力へと還る。

 

「グ、オオォォアァァッ!!」

 

 咆哮。令呪の膨大な魔力により無理に再生したためか欠損していた部位は()()()()という状態だが、遥はその部位全てに強化魔術を掛けてその場凌ぎの応急処置を施し、地を踏み込む。

 しかし、遅い。それでも一応は神速と言える速度だが、常の遥と比較するとあまりにも遅い。当然だ。今の彼は低下した身体機能を強化魔術という補助装置で駆動させているに過ぎない。詰まる所、それは半ば彼自身の力ではなく、感覚が僅かでも異なれば平時の調子が出ないのは道理だ。

 幸いにして腕は失っていなかったため正確無比な剣技の冴えは健在だったっものの、失った足が左脚のみだったのが悪かった。右脚と左脚の感覚が同一でなく片側のみ機能が落ちていたため、結果として全身の感覚が狂っていた。

 それを自らで把握していながら、遥は攻撃を仕掛けた。それは、焦り故か? 否。彼の判断は正しい。レディが分離・召喚した魔法少女の残骸が予備動作を省略して攻撃してくるこの戦場にあって、同じ場に留まっているのは自殺行為だ。だからこそ出来損ないの応急処置でも施して飛び出していかなくてはならなかった。遥の判断は正しかったのだ、この上なく。

 だが、そうした結果が()()だ。鈍った剣速、体幹のズレにより補正の利かなくなった太刀筋、そして空位に開眼しているが故のあまりにも理想的な遊びのない攻撃。噛み合っているようでまるで噛み合っていないそれらを複合したためにレディに剣を見切られ、刀を直接掴み取られてしまった――!!

 

「私が刀を使った剣術を知らないとでも思った? お生憎様、刀を使う魔法少女だっているのよ? それを取り込んだ私が、剣術を知らない筈がないでしょう? それに、この突き……完全にこの身体を傷つける気だったわね。まさか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? うふ、ふ……ふふふっ! 本当に愚かね! アナタに私を殺せる筈ないじゃない!!」

 

 嘲笑と侮蔑の入り混じる罵詈。その直後、またしても何の前触れもなく放たれた無数の魔力砲が遥の身体を穿った。次いで、カレイドステッキの模造品を使った顎下からの殴打で打ち上げられると同時に下顎を砕き割られ、上方から再び魔力砲が飛来する。それは叢雲で防ぐことで軌道を逸らし直撃こそ回避したものの、遥の身体はそのまま床に叩きつけられてしまった。

 それだけでは飽き足らず、遥の落下と同時に床から湧き出した泥が彼の身体に絡みついて動きを完全に封じた。遥は己の固有結界を極限まで活性化させることでそれを全て浄化せんと試みるも、無際限に生まれる泥を滅し尽くすのはいかな遥の煉獄から洩れる焔だけでは不可能だ。固有結界を展開すれば話は別だが。

 更に遥に滅されずにいた残骸らが泥の拘束から逃れようと藻掻く彼の四肢を抑え込んでしまう。そうして未だ回復しきっていない傷口から次々と呪いの汚泥が流れ込んでは、彼の中で不快な断末魔をあげながら煉獄に()かれていく。

 

「ぐ――があぁぁぁぁぁぁァァァァッ!? あぁぁァァぁァッ!! こ、のォッ……!!」

 

 常人ならば1秒と()たずに発狂し、サーヴァントであっても黒化を免れない黒泥。しかし遥、及び彼と同調しているクシナダはそれを浄化する煉獄の作用によりそのどちらも免れている。加えて近い性質の呪いを何度も浴び続けたことにより、遥は自らも知らぬ内に聖杯の呪いへの耐性を獲得しつつあった。

 それは生物が体内に入り込んだ病魔や毒物に対して作用させる免疫反応にも似ている。成体が己を蝕む外的から生命を守るために造り出す抗体、それと似たものが、遥に発現しつつある。但しそれは抗体のように形あるものではなく、精神の内にある不可視のものだ。即ち、〝悪意〟に耐えるための、極めて強い耐性である。

 だが抗体があろうと生体が病魔や毒素に負けて死んでしまうことがあるように、際限のない泥の前に遥が発現させた悪意への抗体など塵芥にも等しい。侵して、犯して、壊して、崩して、呪う。聖杯の泥は、それだけのために動く。耐性があるのなら、その許容量を上回る呪いで押し流せば良いだけのこと。

 

(……!? 何だ、視界が狭く……まさか、これは……!!)

「気づいたようね。でも、遅いわ」

 

 沈んでいく。全身が、泥の海に。泥の浸食でかなり遅延していた再生が完了し万全となった五体を駆動させて遥は脱出を試みるが、四肢を拘束する残骸もまた共に沈み込んでいく上に泥の粘度が高く満足に動くことができない。

 であれば、固有結界はどうか。これも駄目だ。煉獄が呪いを浄化する速度が体内に泥が入り込んでくる速度と拮抗していて、身体を呑み込もうとしてくる泥にまで出力を回す余裕がない。

 そうやって遥が何が何でも脱出しょうと足掻いている間に、残骸のひとりが彼が唯一纏っているズボンのポケットからあるものを取り出した。宝石だ。たったひとつだけ遥が回収していた、メディアが宿していたものである。

 残骸からそれを受け取り、レディが嗤う。その勝ち誇った目が言っている。悔しいか? 無様だな、と。己がビーストとして完成するために必要な最後の要素を揃えたことで、レディは勝ちを確信したのだ。そして最後の宝石を呑み込んだレディはこれ見よがしに遥を一瞥して、気付く。

 

 

 

 ――何だ。

 

 ――何故だ。

 

 ――何故この男、この状況にあって、()()()()()……!?

 

 

 

「く、ははっ……!! やっとだ。掛かったな、魔女サマよォッ……!!」

 

 その言葉を最後に、遥は完全に泥に沈んで――

 

 ――レディの霊基を、激甚な悪寒が薙いだ。




 14日の午前10時にバレンタイン短編のクシナダ編が公開となります。なお、この話と並行してた短編を書き進めていたので他サーヴァントの話が全く書けていなかったり……


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第80話 崩壊エンパイア(前編)

 引き切り無しに職員らの怒号にも似た報告と指示が飛び交い、爆発の如き轟音と共に施設全体が激震する。その様はさながら、弾丸が飛び悲鳴が響き屍山血河が顕現する戦場のようですらある。尤も、そんな惨状になっていなくとも戦場という表現に違いはないだろう。

 

 文字通り人類史存続最後の砦たる人理継続保障機関フィニス・カルデアは今、設立以来最大の危機を迎えていた。特異点、それも人理焼却とは関係のないそれからの敵性体の大量流入。加えてその数に限りがないというのだから、それがどれほどの危機なのかは推して知るべし、といった所である。

 

 まさに無尽蔵という言葉を具現化したかのような敵戦力に対し、カルデアの戦力は有限だ。マシュを始めとして立香と契約している5騎のサーヴァントと、クシナダを除く遥と契約している5騎の、計10騎。拠点防衛用の戦力としてはあまりにも心許ない。

 

 しかし、戦力の質を比べるのならカルデアの方が圧倒的に勝っている。敵の戦力が理性も自我もなくただ本能にのみ従って動く泥人形でしかないのに対し、サーヴァントは生前よりも弱体化しているとはいえ一騎当千の武人である。更に職員らの尽力やレオナルドの奔走、何より()()()()()()()()()()()()()()()()なまでに高度な立香の作戦立案もあって、カルデアはその戦闘を優位に進めていた。それでも、カルデアが優位に立っていてもこの場合は拮抗にまで持ち込むことしかできない。そして、カルデア側には解決しようもない問題がもうひとつ。

 

 ――視界が狭窄する。無理にでも魔力を捻出しようと代謝速度が限界以上に上昇しているからか体温が異常に高く、心拍も非常に速まっている。全身から噴き出した脂汗で肌着が張り付き、気持ちが悪い。既に身体は思うように動かず、立香はアルによって横抱きにされたまま危険個所近くの退避場所まで運ばれていた。

 

「ここなら問題ないでしょう。……お身体に問題はありませんか、マスター」

「大丈、夫だ、よ……ありがと、う。アル」

 

 一目で虚勢を張っていると分かる立香の笑みに、アルが顔を顰める。だが、彼女は己が主に追及することはしない。主が心配させまいと努めているのだから、それを殊更に責め立てるのはある意味で背信と言える。あくまでも己を立香の従者と規定しているが故に、彼女は強く出ることができないのだ。

 

 現状、完全装備状態の場合立香の契約サーヴァントの内で最も魔力を喰うのはアルだ。彼女は『剣士(セイバー)』というただでさえ魔力消費の多いクラスである上に素のステータスも高く、かつ多くの宝具を有している。それだけならばいざ知らず、内3つが神造兵装だ。立香のような魔術師としては低格の者が使役するのは元より負担の大きい英霊なのだ。

 

 故に今、アルはエクスカリバーとウィガールのみを装備した、最も魔力消費量を抑えた状態で実体化している。それでも契約した英霊が全騎活動状態にある以上微々たる差でしかないのは現状が示しているけれど。

 

「アル……腰のポーチに、宝石が、入ってるんだけど……取ってもらっていい、かな? 手足が思う、ように動かなくてさ……」

「宝石……?」

 

 立香の言葉を訝しく思いながらもアルは彼が腰に装備したポーチを開けて、息を呑んだ。確かに立香の言の通り、彼のポーチには宝石が入っている。しかしそれに充填されているのは立香の魔力ではなく、遥の魔力だ。アルは英霊であるから魔力知覚は人間よりも優れているし、遥は半分以上が人間ではないからその魔力はすぐに判る。

 

 何故遥の魔力が、とアルは一瞬考えたものの、考えてみれば当然の事だ。宝石に魔力を移して固定化するには転換の魔術が必要だが、立香にそんな魔術が使える筈もない。対して遥は人外であることを込みにしても凄腕の魔術師なのだから、転換魔術が使えても何も不思議ではなかろう。

 

 その中からひとつを取り出し、検分する。確かに魔術師の用いる宝石らしく極めて純度の高い宝石だが、充填されている魔力量は貯蔵限界量の十分の一にもなるまい。アルは魔術師ではないが、大魔術師マーリンに教えを受けた身だ。魔術の行使はできずとも知識は並の魔術師以上に蓄えている。

 

「マスター、この宝石は……なるべく使うなと言われているのではないですか」

 

 アルの問いに立香は言葉を返さず、しかし投げかけられた笑みは肯定のそれだ。遥は人間ではなく半神、或いは現人神なのだから、その魔力が人間のそれと異なるのは自明だ。そして、神性を帯びた魔力を人間が取り込むというのはそれだけで大きな負担を伴う。レオナルドが作成した遥から立香への経路(パス)を繋ぐ礼装はカルデアを中継することでその問題を解決しているが、宝石にはそれがない。

 

 魔力とは即ち生命力だ。神性を含む生命力を摂取するというのは、一時的とはいえその身に神を取り込むとも言って良い。あくまでも物理法則に縛られた人間がその埒外にいる神性を取り込む。――正常な判断のできる人間なら、思いついたとしても実行には移すまい。

 だが、立香はそれを行おうとしている。数か月前までは魔術の存在すらも知らない一般人だった筈の立香が、だ。その覚悟が如何程かは、彼と異なり生まれながらにして異常の側に属していたアルには理解できる筈もない。

 

 アルが宝石を口の前に差し出し、立香は動こうとしない身体を気力のみで動かしてそれを口に含む。そうして、嚥下。胃の中まで到達した宝石は内包する魔力の影響で溶けて、直後、立香が苦悶を浮かべた。

 

「うっ――ぐ」

「マスター!!」

 

 一瞬立香の身体から感じる気配が大きく歪み、すぐに正常な人間のそれに戻る。だが何もかもが元通りになった訳ではなく、以前から少しずつ進行していた肉体の変色がさらに進行してしまっていた。カルデアの制服から覗く両腕は僅かに黒ずみ、髪も目に見えて白く変わっている。目は元の蒼さを失ってこそいないものの、変質の影響は少なからず受けているのだろう。

 

 それでも、依然として立香は人間だ。只人の肉体、只人の精神のまま、只人であれば決して執り得ないであろう判断を下している。ただ『生きるため』という目的の下、自分自身すらも賭けの場に出して生存を勝ち取るために動いているのだ。

 

 ともあれ、魔力が回復したことに違いはない。そうして動くようになった身体を確認し、なけなしの魔力で魔術回路と令呪を接続すると三角全てを一度に解き放った。解放された魔力は全てサーヴァント達が戦うために出力する。下手に宝具を使わなければ、立香の魔力が完全に回復するまでの時間は十分に確保できるだろう。そうして、立香が口を開く。

 

「これで、しばらくは()つ。……面倒かけてごめんね、アル」

「いえ、サーヴァントならば当然の事です。……しかし、貴方は――」

 

 果たしてその言葉の続きは、どのようなものだったのか。アルが問いを発するより早くにその場に響いた電子音は、立香が左手首に装着している通信機から発せられたものだ。それに気付くや否や、ふたりが押し黙る。

 

 味方陣営内での情報共有は戦闘においての鉄則、基本事項である。故にこの戦闘においても何度も通信は入ってきていて、それなのにふたりはその瞬間、異様な感覚に襲われたのだ。その感覚は謂うなれば悪い予感、といった所か。

 

 通信機のスイッチを押す。そうして虚空に投影されたホログラムに映るロマニの顔は平時の通り至って平静にこそ見えるものの、そこには焦りや疲労、その他様々な感情が透けている。それだけで先にふたりが感じた予感が的中してしまったと悟るには十分で、けれどロマニから告げられた報告は、彼らの予想を完全に超えていた。

 

 ――唐突に遥の存在証明が極めて不安定になり、更には彼の契約サーヴァントへの魔力供給が完全に途絶した。

 

 それはつまり、遥の生命がこれまでにない程の危機に瀕しているということであり、同時に、彼が意味消失の瀬戸際にいるということでもあった。

 


 

 人類悪の幼体、最低最悪の魔女たるファースト・レディ。それに対抗するべく彼女を知るという亡霊(エコー)〝ミラー〟から提案された方策の中で自身が果たすべき役割を、遥は半ばまでは完璧に果たしたと言って良い。

 

 幼体とはいえビーストであるが故に、レディの強さは並のサーヴァントではとても太刀打ちできるものではない。ましてや、強化されてはいてもトップ・サーヴァントに及ばぬ身体能力(ステータス)程度しか発揮できない遥では、万が一に勝ち筋を見つけることができたとしても即座に対応され反撃されるのが関の山だ。

 

 故に、レディを打倒するにはどうしても彼女を大幅に弱体化させる必要があった。荒唐無稽な話かも知れないが、少なくとも霊基の格を神霊に匹敵する程度から通常サーヴァント程度まで落とさねば彼に勝ち目はない。

 

 それを実現するためにミラーが遥に提案したのは、彼女自身をレディの内側に入り込ませる、というもの。元が魔法少女ではなく魔女である彼女だが、亡霊(エコー)であることに違いはないのだから宝石さえあればレディの内に潜り込むのは容易い。

 

 だが、それは賭けだ。少しでも怪しい態度を見せればレディは警戒して宝石を取り込もうとはしなかっただろう。故に遥は演技でもなく本気で自ら斃すつもりでレディと戦って、けれど打倒することができなかった。反面、彼の殺意が本物だったからこそレディが警戒しなかったというのは皮肉と言う外ない。

 

 しかし、彼はレディに宝石を取り込まれるのと引き換えにして自らもまたレディの内側、そこに渦巻く呪詛と化すほどまでに醸成された悪意の具現たる泥に呑まれてしまった。或いは何も知らぬ心無い者がそれを見れば、彼のミスによるものと言うかも知れない。しかしそれはあまりにもレディと遥の間にある力の差を理解せぬ愚昧と言えよう。己よりも圧倒的に強い存在を相手に、そう都合よく全ての攻撃を回避できる筈もない。

 

 其処には、苦悶があった。絶望があった。悲嘆があった。怨嗟があった。嘲弄があった。死があった。〝人間〟という生命に顕現し得る不幸や悪意、そういった負の側面の凡そ全てが渦を巻く。その様はさながら無間地獄の只中か、或いは罪人を責める釜の中か。

 

 その規模たるや、かの悪神の名を冠した特級の反英霊〝この世全ての悪(アンリマユ)〟に勝るとも劣るまい。それを構成する魂の全てが己の運命や人間に絶望し堕ち果て魔女に変生した元魔法少女であることを考えれば、悪性の純度だけならばアンリマユすらも凌駕しよう。加えて言うならば、それはアンリマユとは異なり〝悪とは斯く在るべし〟や〝あれこそが悪である〟といった人から望まれた悪の形ではなく、人間や知性の裡に宿る悪性の結実――即ち、人類悪である。その内部に、遥は放り込まれた。

 

 絶叫。悲鳴。断末魔。苦悶の海に溺れ自らもまた喉が張り裂けんばかりに絶叫しながら、遥は落ちていく。あまりに強烈な呪詛に晒されているからか自己の輪郭さえも曖昧で、魂に直接響く声のどれが自分のものであるかも分からない。肉体ごと泥に溶けて消化されていないのが不思議な程だ。

 

 故に、彼がクシナダの魂に流れる筈の泥を全て無理矢理に肩代わりしているのは完全に無意識の事だ。彼女は今、霊基ごと遥と同化しているため同じく呪いに晒されてはいるが、魂は別個だ。そちらを襲おうとする呪詛を、遥は強引に自分に引き寄せている。つまり遥を苛むのは2人分の呪いで、そのため煉獄の固有結界を宿す彼でも浄化しきれずに苦しんでいる。

 

 泥を排除しようと遥の煉獄が彼自身ごと燃えて、しかし燃やしきれずに魂が()ける。だが未だ遥の魂は変質しない。自己の輪郭を近くできず、絶叫する他なくなってもなお彼は最期に残った意地だけで獣の権能に抗い続けている。

 

 しかしそれは相手が獣としては()()()()()()()存在だからこそできるのであり、そういう意味で言えば遥はむしろ幸運ですらある。もしもレディが真正の獣として覚醒していたのなら、彼はとうに死ぬかレディに支配されるか、兎に角正気でいられなかったことは確かだ。

 

 だが、そう、たとえ泥そのものの呪いは獣としては脆弱なものなのだとしても、こと遥に対してならばレディの泥はこの上なく強力な精神への拷問として作用する。何故なら、レディの内包する泥とは何百何千、或いは何億という魔法少女らの死霊の結集であり、遥が宿すのは海原を支配する海神であると同時に黄泉を司る冥府神の神核であるのだから。かの神がもたらす異能は無情なまでに平等に、死霊を裁定する。

 

 視える。見せられる。いっそ罪であるとさえ感じられる程に無垢で無知な希望に満ち満ちて、しかし絶大な力を有した魔法少女らとそれに救われ感謝する人々。だがそうして救われ続けた人々はいつしかその救済の手を当然のものと思い始め、増長していく。自ら考える事を止め、行動せず、只管に受動的になり、醜く変貌していく。やがては救いの手である魔法少女すらも食い潰すのだ。尤も、被害者であった筈の彼女ら自身もまたレディの固有結界に囚われ相戦い合う中で醜く変わり果てるのだが。

 

 悪罵、絶望、苦痛、憎悪――高潔と希望に満ちた少女らの魂を悉く堕とし犯し汚し尽くして余りある悪感情の奔流が遥を襲う。元より生まれながらの半神、更には今までの旅の中で大元の神性すらも喰らったことで魂の規模を規格外の領域にまで拡大させていた彼だが、いくら魂の規格(スケール)が巨大であろうとその奔流から逃れることはできないのだから、彼が浴び続ける辛苦の程は言わずとも知れるというものだろう。

 

 内包する冥府の異能を通して、数えきれない記憶が流れ込んでくる。その記憶はどれも満足な人の一生と言うにはあまりにも短いものばかりであったが、悲劇に彩られた生はどれも度し難い妄執と悲しくなるような憐憫、そしてあまりにも歪み果てた人類愛で彩られ、人間の獣性を剥きだしにするには十分に過ぎる。そんな生が、億を超える集合体になって遥の意識に訴えかけてくる。

 

 目を閉じても、耳を塞いでもそれは止まらない。想像を絶する苦痛のために壊れ果てた時間感覚の中では本来一瞬である筈の冥府の審判が本当に他者の生涯を追体験しているかのようにさえも感じられる。ひとつひとつは20年にも満たない程度の長さではあるが、それが群れを成してやってくるのだ。その体感的な総時間は『不朽』の遥でなければそれだけで死んでいてもおかしくはあるまい。

 

 或いは遥に罪ある魂へと沙汰を下す力があればそれらの魂を皆須らく冥府へと送ることができたのかも知れないが、今の彼にそこまで神核の権能を引き出す力はない。彼にできるのは否応なく死せる魂に同調し、その生涯に無意味な審判を下すことだけだ。尤も、獣の一部となった時点でその魂は情状酌量の余地なく罪人の扱いだが。

 

 だがその半端な力のために本来罪人の魂を裁き地獄へと送る側の者が逆に地獄を見ているというのは何とも皮肉な話であろう。そうして本当に無間地獄の底にさえ辿り着くのではないかと錯覚するような体感時間を経て、遥は()()を見た。

 

 ――本来なら世界から放逐された時点で終わっている筈の命を無理に延命させ、想像を絶する長い時を生きてきたが故に摩耗し果て、虫食いだらけになった部分を噎せ返るような人間の悪意で埋め尽くしたそれ。失った羽を他の個体から奪った継ぎ接ぎで取り繕った蝶の記憶だ。

 

 だが不意にそれがブレて、別の記憶が流れ込んでくる。まるで先の記憶の欠落を埋めるかのようなそれに満ちているのは同情ではなく、ましてや憐憫などではなく、愛だ。自身の事を忘れ、挙句獣にまで堕ちた少女に向けら得た、褪せることのない友愛だ。

 

 気づけば遥に流れてくる記憶の像はひどくまだらでのっぺりとしたものに代わり、その中に浮かぶようにしてふたりの少女がいた。彼が初めてミラーと相対した時と同じだ。容姿も輪郭も何もかもが判然とせず、しかし少女だと解る。

 

『何、このイメージは……!? 知らない……こんな記憶は知らないのに、何故……!?』

 

 これ程までに、胸が痛むというのか。レディの欠落を生めるように侵入してくるヴィジョンはその〝侵入〟或いは〝浸食〟という言葉が宿す悪辣なイメージとは裏腹に、人の笑顔や感謝、愛といった暖かな光、ヒトという種の善性に満ち溢れていた。

 

 それがもしもただ人の善性を内包するだけのものであるのなら、レディは取り合うこともなく一蹴していただろう。しかしそのヴィジョンはまるで元からレディのものであったかのように彼女に残る記憶と符合し、その一致がレディに無視することを許さない。

 

 彼女は既にその記憶を忘れた事さえも忘れているが、何もかも消え去った訳ではないのだろう。彼女の魂の奥底に沈められたその残滓が浸食してきたヴィジョンに呼応するように弱々しいながらも確かな声をあげている。或いはそれは、デジャヴと言うべきであろうか。

 

 だが、今の彼女はその胸の痛みを自らを犯す苦しみとしてしか捉えることができない。それを正しく捉えることができるのだとしたら、彼女は初めからビーストになどならなかっただろう。ヒトの善性は、悪性によって堕とされた魔女にはあまりにも眩しすぎる。だが目を逸らさせまいとするかのように、レディに落される視線。

 

『人の中に、土足でッ……! そもそもどうして私の中で自我を保っていられるのよ、アナタ……!!』

『さあ、どうしてでしょうね。私が魔法少女でなく本物の魔女だから。私もとうに正しい自我なんてなくなっているから……理由は色々あるかも知れないけれど、一番は貴女よ。――』

 

 ミラーは今、何と口にしたのか。泥の浸食によって五感にかかったノイズの影響で聞き取ることができなかったが、恐らくは〝ファースト・レディ〟ではない彼女の真名なのだろう。ファースト・レディとはあくまでも自らの名を忘れた彼女が名乗る二つ名。本当の名前は別にあるのだ。

 

 そして今、この状況においてレディの真名を知り得る存在はひとりしかいない。いくら思い出せないといえど、自らの名に聞き覚えがない筈はない。それが自らの根底にもなっている友に呼ばれたものであるのならば猶更だ。

 

 あくまでも神核の力で死霊と交感しているだけに過ぎないためか遥からはレディとミラーの姿を明確に認識することはできないが、レディが驚愕しているのは気配だけでも明らかであった。そうしてそれが動揺へと変わり、次いで様々な感情がない交ぜになった混沌となる。

 

『ま、さか……ミラー……? ミラーなの……!? でも、そんな筈は……』

『ミラーは魔女に堕ちて、討たれて死んだのだからここにいる筈がない……そういうコトでしょう? でも、私は私よ。貴女と同じ魔界に生まれ、共に魔法少女として戦い……そして魔女として討たれた、正真正銘のミラーよ』

 

 レディの固有結界はあらゆる世界から死せる魔法少女の魂を収集する、魔法少女の墓標である。その事に間違いはない。だからこそレディは魔女と化して死んだミラーはこの世界に招かれていないと考えていた。或いはただ記憶が摩耗していたが故にそう思い込もうとしていただけなのかも知れないが。

 

 しかし、現実ミラーは今此処にいる。レディが忘却し、過去の彼方に置き去りにされた足跡が、目に見える形として現れたのだ。それはレディにとっては全く慮外の再会で、けれど彼女はその再会が示す真の意味の気づかない。

 

 その事を遥は憐れにも感じなければ、同情もしない。レディは遥にとって斃すべき敵でこそあるが、それでも彼女が彼女の正義で理想を為そうとしているに違いはなのだから。同情や憐憫はレディへの冒涜であり、それを止めようとするミラーへの侮辱でもある。そも、そんな情を抱いていられるような余裕は、今の彼にはないが。

 

『ミラー……あぁ、ミラー……!! 本当にアナタなのね……! まさか、こんな時の果てでまた出会えるなんて……』

 

 レディの声はまるで本当に友との再会を純粋に喜ぶ少女のようで、そこに人類悪にまで堕ち果てた魔女の気配はない。それは遥にとって意外ではあったけれど、考えてみれば自然な事でもある。レディがこうなってしまった最大の原因はミラーとの死別である。なれば、再会は魔女の心が過去に回帰する一時となろう。

 

 そして、レディの声音にミラーの人となりを忘却していたという自覚の色合いはなく、忘却した事すらも忘却したまま、欠落した記憶でミラーと相対しているのは火を見るよりも明らかだ。恐らくはミラーもそれには気づいていて、遥もまた、苦悶に溺れながらもそれを朧気に悟っている。

 

 だから、だろうか。予期せぬ再会に歓喜の抱擁をするレディとは対照的にミラーに歓びの色はない。さりとて、それは彼女がこの再会を喜んでいないと示すものではない。ミラーはきっと喜んでいて、けれどそれ以上に悲しく、腹立たしいのだ。堕ちた友の姿よりも、己の力不足が。

 

 聖杯の泥に呑まれ、幾億の生を追体験させられた末にレディとミラーの生涯を見せられた遥には分かる。彼女らはきっと、あまりにも無垢で、真面目で、そして潔癖に過ぎたのだ。だからこそ人間の悪性とそれが齎す悲劇が許せなかった。魔法少女に救われているうちに増長し、その救いを当然のものと思うようになっていく事が受け入れられなかった。初めから人間を悪性の獣と断じていた遥では信じられなかった〝希望〟を信じられたからこそ彼女らは戦うことができて、だからこそ裏切られて、堕ちた。

 

 そういう意味では彼女らもまた被害者と言えるかも知れない。だが、遥はそれを認めない。認められない。レディの行いは彼女にとって報復でも復讐でもなく、救済だ。であればそれは人間の因果応報などではない。仮に復讐や報復のつもりだったとしても簡単に受け入れる気はないが。

 

 最後にミラーの頬を涙が伝ったように見えたのは、遥が見た幻であるのか否か。密着しているレディにすら聞こえるかも分からぬ程の声量でごめんなさい、と呟いて、直後――幻想の肉を貫く異常な音が、一帯に響いた。

 

『――え? ミ、ラー……?』

 

 いったい何が起きたのか理解ができないとでも言うかのようなレディの声音。それもその筈だ。先の異音は何らかの術式を伴ったミラーの手刀がレディの鳩尾を貫いた音であり、レディはそれを全く予期していなかったのだから。彼女らの姿が魂の可視化であることを考えれば、この瞬間、レディの魂は大きく損傷した。

 

 同時に遥を襲う悪意の奔流が大きく脈動する。それはまるで、急所に刃物を刺された蛇のように。致命の一撃を叩き込んできた相手に抵抗しようとして、激しくのたうっている。その様子を見るに、恐らくミラーが行使したのはレディが無数の魂を統合するために行使している力へのアンチテーゼとなる術。共に戦い続けた相棒だからこその、レディの使う術を知り尽くした反抗策だ。

 

 それが効果を示しているのかは遥の魂を拘束する呪いの濁流が弱まったことからも明らかだ。だが、まだだ。いくら弱まったといえど、それは精々今までままならなかった思考を途切れ途切れでできるようになった程度。呪いの牢から彼が脱するには、足りない。

 

『あ、あぁあ……ああぁっ!? ミラー……何故、どうして……!?』

『ごめんなさい、――。いえ、()()()()()()()()()。魔女に堕ちた私が言える事ではないけれど、貴女がした所業は許される事じゃない。でも、貴女がそうなったのは私のせいだから。私も、貴女と、此処で死ぬ!!』

 

 或いはそれは、神風のような自爆特攻。ミラーが手刀に込めた術式は何も、魂の統合を乱すものだけではない。ミラーが行使した術式はもうひとつ。尋常ならざる執念で現世に張り付く怨念を破壊する術が含まれている。その対象はミラー自身もまた例外ではない。

 

 崩れていく。ミラーの術によってレディの支配から外れた魂が消滅していく。木霊する不快な金切り声は成仏しないまま消えていく魂らの断末魔か。だが、何かがおかしい。違和感を覚え、ミラーが眉根を寄せる。確かにレディが取り込んだ魔法少女らは消えつつある。それは間違いなく事実だ。

 

 しかし、ミラーが術式を行使した対象はあくまでも本体であるレディなのだ。だというのにレディそのものの像に変化はない。ミラーの腕が胸部に突き立ったまま、不気味なまでに沈黙して動かない。そうして、どれほど経ったか。唐突に、レディが笑声を漏らす。

 

『う、ふふ……そう。そういうコト。可哀想なミラー……』

『え――なッ……!?』

 

 狂ったような笑みだった。明解な像として表情が見えずとも手に取るようにそれが分かるのは、レディの声音が、気配が、彼女の全てがあまりにも狂気的な凄みに溢れていたからだ。

 

 同時に、それまで十全に効力を発揮していたミラーの魔術が急激にその力を減じ始める。ミラーが手を抜いているのではない。むしろ彼女は己の消滅が早まるのも厭わずにより魔力を回しているが、その術の対象になり大幅に弱体化している筈のレディがミラーの術を無効化する術式を構築したことで思うように効果が出ないのである。

 

 尋常でない対応速度。だが、自然な事でもある。レディとミラーが使う魔術――彼女らからすれば魔法だが――は同じ世界のそれであり、かつ彼女らは長く共に戦ってきたが故に互いの魔術を熟知している。だからこそミラーはレディを弱体化させる術を、レディはその術への対策を用意することができる。

 

 そして共に加速度的に消滅しつつあるとはいえ人類悪の幼体であるレディと亡霊であるミラーの存在規模(スケール)が同等である訳がない。次第にミラーの存在は希薄化してきて、対してレディは見る影もない程に弱体化してはいても消滅する兆候はない。

 

 そんな現実を目前にして、ミラーが歯噛みする。彼女は初めから、自らの手でレディを滅することができるとは思っていない。それでも、自らの命――亡霊に命と表現するのも妙な話だが――を掛けても友ひとり救えない、というのはひどく無力感を煽られる。そんなミラーの内心を知ってか知らずか、レディは笑みを崩さない。

 

『アナタなら私の救済を理解してくれると思っていた……でも、違った。アナタをそんな風にしたのは、あの男でしょう? あの男に何か吹き込まれたんでしょう? でも安心して。私が代わりに、あの男を殺してあげるから……!!』

『ぐ……違、あぁっ……!!』

 

 最早ミラーに魔力は殆ど残されていない。魔力とは即ち生命力であり、聖杯は勿論のこと自由になる肉体もないミラーは最期に残った彼女自身の魂すらも変換して魔術を維持していたのだが、それももう限界に達しようといているのだ。

 

 それでも何とかミラーは存在を維持しようとして、しかしその努力も虚しく彼女は無意味な霊子の断片となって消えていく。それを認めた遥は強烈な苦痛に霞む自我を意地のみで駆動させようとするも、あくまでも〝覗き見〟しているだけの彼ではどうすることもできはしない。それでも諦めることなどできなくて、彼は足掻く。

 

 動け! 動け! 掠れた意識の中で遥は叫ぶ。今まであまりにも長すぎる時をミラーは独りで耐えてきたのだ。なのに報われないまま消滅しようとしている。その現実を前にして、遥がただ見ているだけという状況に甘んじていられる筈はない。

 

 けれど、動けない。どうしようもないのだ。現実の人間はどうあっても架空の世界に入り込めないように、努力や勇気ではどうにもならない事がある。これは、要はそういった類だ。

 

 故に彼はどう足掻こうがレディとミラーの遣り取りに介入できはしない。目の前で人が報われぬまま死のうとしているのに、何もできない。どれだけ強い力を持っていても抗えない現実がある。届かない手がある。次第に遥の心に広がっていく無力感。それでも何とか動こうとして、不意に彼はない筈の身体が強く押されるかのような感覚に襲われた。

 

 どうやらそれは錯覚ではないようで、見る間にレディとミラーの姿が遠ざかっていく。しかし、何故。状況に抗う力のない遥ではすぐには理解できず、直後に全てを理解した。

 

 その存在の殆どを無秩序な霊子に還し、魂すらもこの世界から消滅させようとしているミラー。しかし、遥はその瞬間、確かに見た。端整な顔に悲し気な笑みを浮かべ、けれどその瞳には強い覚悟と凄みの光を湛えている。その少女を彼は一度も見たことはないけれど、直感的にその少女がミラーであると悟った。それは実像か、或いは遥の見た幻か。それすらもすぐに消え始めて、その中で少女は口を開く。

 

 

 ──残念だけれど、私の声はあの娘には届かなかった。あの娘の歪みは……もう、言葉程度で正せるものではなかったのね。

 

 

 ミラーのその呟きに返す言葉を、遥は持たない。魔女と獣という方向性の違いはあれど共に魔へと堕ちた彼女らの生はあまりにも彼のそれとはかけ離れていて、その相違の前にはどんな言葉であれ陳腐になってしまうだろう。

 

 仮に何かを口にしたとして、それは何の慰めにもなりはしない。それどころか、それは何も知らぬ愚昧の戯言となろう。故に遥は何も言う事ができずに押し黙って、そんな彼にミラーは苦笑を漏らす。

 

 だが、それは呆れではなかろう。敢えて言うのであれば、自嘲か。ミラーが生前に魔女となったのは世界よりもレディの笑顔のためで、それなのに今、彼女はファースト・レディとしてビーストの幼体と化している。酷い擦れ違いだ。けれどミラーの声音に諦念はない。一度瞑目し、次いでミラーの表情に浮かんだのは決意であった。

 

 

 ──私はもう消える。でも、あの娘も力の大半を失った筈よ。私にできるのはそれくらいだったけれど……後の事は、貴方に任せるわ。あの娘を、頼むわね。

 

 

「……! 待っ──!!」

 

 遥の声は、果たしてミラーへと届いたのか否か。判然としないまま彼女は今度こそ完全に消滅し、同時に遥はまたしてもどこかへと放り出されたかのような感覚を覚えた。恐らくはこれはミラーが最後に行使した力。遥を泥から逃がし、戦場に戻すための魔術だ。

 

 その流れに晒されながら、遥は思う。何故自分なのだ、と。ミラーと遥は出会ってから然程時が経っておらず、協力していたのもあくまで利害の一致とでも言うべき理由だ。信用される理由など、信頼される理由など、どこにもありはしない筈なのだ。

 

 しかし、それが何だというのか。ミラーがどのような理由で遥に後を任せたのかは分からないが、彼は託されたのだ。ならば信用されているのか、信頼されているのか、或いは利用されているだけなのか――そんな事は、些末な問題だ。

 

(そうだ。俺は託されたんだ。なら……それに応える事以外、考えるなッ!!)

 

 その咆哮と共に悉く雑念を振り払い、代わりに決意と戦意で心を満たす。そうして強くイメージするのは己自身の輪郭。肉体そのものの輪郭だけではない。肉体から魂まで、己の在り方という輪郭をイメージし、死の濁流によって押し流された感覚を手繰り寄せる。

 

 そうして何かが()()()()感覚があったのと同時、遥の自我にまで押し寄せる呪いが何倍にも増す。それは圧倒的な圧力で以て彼の自我を轢き潰さんばかりに襲い掛かってきて、それでも彼は意地のみで耐える。仮に現の肉体で同じことをすれば、奥歯が軒並み砕けていただろう。

 

 死ね、死んでくれ、と。救われて欲しいと怨念たちが絶叫する。彼女らは既に自分が何者だったかさえも忘れているのだろう。けれどその魂の根底に染み付いた信念と欲求は消えず、それ故に生前の執着に縛られている。ある意味ではこれ以上なく正しく亡霊としての在り方を貫いていると言えよう。尤も、それはつまり生者にとって害でしかないと示すも同然だが。

 

 耳障りな絶叫が木霊する。穢れきった呪詛が吹き荒れる。一瞬でも気を抜けば発狂するような、そんな凄まじい辛苦を遥は繋がりを手放すまいと耐えて耐えて耐え抜いて、その果て、何か壁を突き破るかのような衝撃の後に五感全ての焦点が戻った。強烈な怨嗟の叫びと共に。同時に意識も回復し、それは同調しているクシナダにも伝わる。

 

『遥──()ま! ──()識が戻ら──(れた)のですか!?』

(……? クシナダからの念話が、よく聞こえない。泥のせいか……?)

 

 本来クシナダの魂と霊基を汚染する筈の泥を肩代わりしているのは彼が意図しての事ではなく、気絶している間に行った反射的行動。つまりは全く無意識化での判断であったが、彼は即座に己の行動を了解した。

 

 一応は本能的な防衛行動としてサーヴァントらへの魔力供給を断ち切り──これは遥から繋がるパスを通して泥が流入しないようにするためだ──全身に固有結界の焔を巡らせていたものの、浸食は食い止められずに回路のかなりの割合を汚染されている。悠長にしていては脱出してから浄化することもできなくなってしまうだろう。

 

 早急に脱出しなければならない。しかし天叢雲剣は泥に呑まれる直前に全身を穿たれた際、千切れた右手首から先と共に飛ばされて此処にはない。加えてその右手を含む損壊した部分も上手く回復できず、醜い肉塊が患部で隆起していた。恐らく彼の魔術特性からすぐには汚染しきれないと判断した泥が回復阻害を行った結果だろう。放置したままでは外に出られたとしても再生は不可能だ。

 

 これらの状況だけを見れば異能への干渉から脱せたのだとしても絶望的な窮地に変わりはないようにも見える。だがミラーが行った捨て身の作戦によって集積された魂が格段に減少したため、呪詛の効力も幾分か落ちているようだった。それでも凄まじいのに違いはないが。

 

 どうする。遥が高速で思考を巡らせる。この戦況において最優先されるのは泥からの脱出だ。この泥の海から脱出できないことにはレディとの対峙すらも叶わない。それどころかいずれ汚染され、消化され、戦わずして敗北してしまうだろう。それだけは避けなければならない。

 

「イチかバチか……賭け、だっ!! この場所から、脱出するっ!!」

『し──(かし)、どうするの──(です)か? 此処には、天──(叢雲)剣はないのですよ?!』

「あぁ、そうだ。だが──!!」

 

 言葉を区切り、息を呑む。今から遥がしようとしているのは、文字通り賭けだ。成功したとしても脱出できる保障はないが、失敗すれば試行するまでもなく存在の悉くを呪詛に犯されて死ぬ。あまりにも分が悪すぎるが、やるしかないのだ。

 

 呪詛からの防御のために巡らせていた焔の流れを変える。瞬間、それまでは浄化されつつ流れ込んできていた呪いがそのまま入り込んでくるようになり急速に穢れていく。何もかもが焼け付くように熱く、けれど遥は己の五体を以て駆動させる。

 

 重要なのはイメージだ。たとえば魔術においては詠唱というのは術行使に必要なイメージを喚起するためのものであるし、回路の起動においても魔術師個々人によって異なるイメージを設定する。

 

 そうして一度小さく吐息を漏らすや否や、遥は自らの左手を胸の辺りに突き立てた。強化されたその手刀によって刻まれた傷は深く、心臓にまで達しようかという程である。しかしその傷から吹き出したのは鮮血ではなく、焔。煉獄の業火だ。

 

「叢雲はなくても、刃なら──」

 

 イメージするのは無限の煉獄。彼が生まれた時より共に在り、常に彼を内側から灼き続けてきた心象世界。それが内包する焔ではなく世界そのものを収束し、集約し、収斂する──!!

 

「──剣なら、(此処)にあるッ!!」

 

 それはまるで、剣士が心に宿す誇りを具現化したかの如く。胸から引き抜かれた左手には一瞬、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を幻視し、撃ち出された煉獄が雷鳴のような轟音を響かせながら邪なる天の杯へと突き立てられた。

 




 なんて、そんな簡単に脱出させる訳もないのですけれど。
 予定していた内容を1話に纏めると3万字程度になってしまうので、前後編に分割させていただきました。そのためちょっと、というかかなりキリが悪くなっていますがご容赦頂ければ幸甚に存じます。


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第81話 崩壊エンパイア(後編)

 消えていく。この世界の裡で気の遠くなる程の、それこそ主である彼女自身すらも摩耗し果てる程の時をかけて収集した無限にも等しい魔法少女の魂が。跡形さえも残さずに霧散して、レディはそれに抗えない。いくら抑制するための魔術を構築しようとも、既に効力を受けてしまった分は取り返せないのだ。

 

 疑い様のない現実が、どうしようもなくレディに訴えてくる。先の亡霊(エコー)は紛れもなくミラーであったのだと。でなければレディの弱点や使う魔法(まじゅつ)を熟知していることに説明が付かない。

 

 では何故ミラーがこんなことをしたのか、という疑問はレディにはない。そんな問いに意味はなく、彼女の中では答えなどとうに出ている。あの忌まわしい剣使いに唆されたのだ。そうでなければミラーがああも強硬に反対する筈がない。そう信じて、遥への殺意を募らせる。

 

 ミラーの手により内包する魂の総量を大幅に減少させられた事でレディの霊基の格は見る影もなく低下してしまっている。これが真正の獣であれば〝単独顕現〟のスキルによりビーストとしての属性を得た時点でその格を失う可能性は絶無となるが、レディは未だ不完全な獣。故にその存在は〝既にどの時空にも存在する〟と言うに足るものではなく、大幅な弱体化を圧倒的な理不尽で無効化するのは難しい。

 

 しかし、それでもレディが究極の不条理、神霊の如き理不尽の権化であるのに違いはない。身体に宿す無数の記録を利用してミラーの術式を解析し、解体。これ以上の弱体化を抑止して次いで残った泥の全てを以て彼女に歯向かう魔物を悉く溶かし殺そうと嗤い――

 

 

 ――唐突に、その身を極光が薙いだ。

 

 

「……フン」

 

 ()()()()()()。玉座の間と回廊を隔てる扉を破壊、蒸発させるほどの威力と熱量を秘めた極光に呑まれたレディはしかし、全くダメージを受けている素振りも見せずに冷ややかな視線を極光が撃ち出された方に遣っている。

 

 ネガ・マギウス。ビースト・ラーヴァとして覚醒した際にレディが獲得したスキルであり、魔法少女やその資質を有する者、或いは魔法少女に掛ける願望がある者からの害意ある攻撃によるダメージを無力化する概念的守護だ。尤も、未だ幼体(ラーヴァ)であるため全てを無効にできる訳ではないが。

 

 それでも、何の追加効果もない、馬鹿正直な攻撃であるのならたとえ星の聖剣による攻撃であろうとそのスキルを貫通するには足りない。そして、恐らくは相手もそれを分かっていて攻撃を仕掛けてきている。そう判断するやレディはステッキの戦端に大剣の如き刃を構築し、極光が消え去ると同時にそれを横薙ぎに一閃した。直後、極光の後方から迫っていた剣を捉える。

 

「無駄なコトを。アナタじゃ私は斃せないって分かっているでしょうに……ねぇ、()()()()()()()()!!」

 

 その咆哮と共にレディはステッキをもう一度振るい、襲撃者――『剣士(セイバー)』のクラスカードを夢幻召喚(インストール)したイリヤはそれを寸での所で回避する。そうして空を斬った刃はそのまま床へと突き刺さり、その衝撃で床面が砕けた。

 

 ただ剣を振るっただけで、何という威力か。瞠目するイリヤであったが、その身に宿したアルトリアの霊基が危機を告げたことで忘我から立ち直った。見れば、レディは地面に突き刺さった魔力の剣を消し、先程まで刃が映えていた箇所には術式を介さない純粋な魔力が収束している。

 

 咄嗟に防御姿勢を執るイリヤ。だが幼体とはいえビーストの魔力放出量はすさまじく、イリヤは魔力砲の直撃こそ回避したもののその余波で吹き飛ばされてしまった。それでも反射的にエクスカリバーを床に突き立てて無理矢理体勢を立て直す。続けて再び攻撃体勢に移ろうとして、瞬間、視界に移ったレディの姿にイリヤが苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。

 

「ッ、ミユ……」

 

 肌に感じる邪悪な魔力は、イリヤの知る美遊のそれではない。頭部から生えている一対の獣冠(つの)やツヴァイフォームを彷彿とさせる黒い装束は見たこともなく、目の色も紅色ではなかった。

 

 しかし、どうしようもなく分かってしまう。たとえその身体を動かしているのが美遊の意識でなくとも、獣の影響で肉体の形状すら変質しているのだとしても、目の前にいるのは他でもない、彼女の親友であるのだと。

 

 それを認識した途端、イリヤの心に弱気の虫が顔を出す。いくら乗っ取られているとはいえ親友の身体を攻撃しても良いのか、というのもある。けれどそれ以上に生き残れるのかという思いがイリヤにはあった。それは何も己の命に執着しているというのではない。もしもこの戦いで自分がレディに殺されれば、自らの身体がイリヤを殺してしまったと知った美遊はきっと悲しむだろう。イリヤには、それだけはどうしても嫌だった。

 

 聖剣を強く握り、その恐怖を抑えつける。仮に恐怖に負けて戦うことを止めてしまえば、その先に待つのは死のみだ。それでは本末転倒であろう。故に、乗り越える。友への思いと勇気で、敵への恐怖を。

 

「ハルカさんとクシナダさんは何処? 戦ってたんでしょ?」

「ハルカ……? あぁ、あの剣使いのコト。さて……何処でしょうね?」

 

 おどけるようにそう言いながら、レディは自身の腹をつぅと指で撫で唇を舐める。嫌に扇情的な仕草だがそれがイリヤに対し意味を為す訳もなく、レディが言わんとする所に気づいたイリヤが歯噛みする。

 

 食べられた。より正確に言えば、呑まれたのだ。イリヤは聖杯の泥についてそう多くを知ってはいないが、似たようなものは一度見ている。忘れもしない黒化ギルガメッシュ戦。泥で身体を構成した黒化ギルガメッシュに美遊が取り込まれる場面を、イリヤは目撃している。それに近い状態なのだろうと、彼女はすぐに気づいた。

 

 ならば、引きずり出すしかない。しかし、どうやって。黒化ギルガメッシュは攻撃が通用したため斃して美遊を奪還したが、レディには攻撃を叩き込んでもダメージが発生しない。或いは攻撃そのものによるダメージは入らなくとも追加効果なら無効化能力の対象外である可能性もあるが、正確な所は不明だ。そうして攻略法を考えるイリヤの耳朶を、レディの声が打つ。

 

「どうにかして助け出そう……そう考えていそうな顔ね。でも無駄よ。言ったわよね、アナタじゃ私は斃せない。逆に、アナタも救ってあげる!」

 

 狂喜と、どこか飢えを感じさせる声音だった。その直後、激烈な悪寒がイリヤの背筋を撫で反射的にその場から跳び退き、刹那の間もなく先程までイリヤがいた場所をトラバサミを思わせる形状をした泥の一撃が薙ぐ。

 

 それは、文字通り〝捕食〟であった。イリヤは知らないことだが、今のレディは多くの亡霊(エコー)を失ったために大幅に弱体化している。そのため、ひとつでも多く自らの力の源となる魔法少女の魂を取り込もうとしているのだ。

 

 もしも捕まれば命はない。それを理性だけではなく本能からイリヤは理解する。そんなイリヤを取り囲むように再び泥の触手が床面に突如湧いた泥沼から伸び、イリヤを喰らい殺さんと迫る。その様はまさに泥の牢獄か。逐一全てを叩き斬っていては回避は望めまい。

 

 それを直感したイリヤは聖剣に魔力を充填し、眼前の触手に向けて解放。そうして抉じ開けられた間隙は決して大きくはなかったがセイバーのスキル〝魔力放出〟を伴う跳躍でそこに割り込み牢から逃れた。そして着地と同時に方向を転換し、宝具に魔力を込める。

 

風王(ストライク)――鉄槌(エア)ッ!!」

 

 解き放たれる風の結界。本来は聖剣の偽装として使われるそれは攻撃に転用することで悉くを轢き潰す風の破砕槌として機能し、迫り来る泥の触手を瞬く間に粉微塵にした。それを見て、レディが舌打ちを漏らす。

 

 レディに対する殆どの攻撃をシャットアウトするという法外な能力であるネガ・マギウスだが、これはあくまでもレディ本体のみに適用される能力だ。そのため、イリヤは泥による攻撃を防御することができる。加えて『剣士』アルトリア・ペンドラゴンの高い対魔力はレディが行う魔術攻撃の大半を無効化してしまうため、レディはイリヤに対する攻撃手段を泥に頼る他ない。

 

 互いに互いの攻撃に対する特効的防御を有するという奇妙な戦況。だが本人の攻撃の戦闘能力は比べるまでもなくレディの方が格上だ。クラスカードは行使者本体に英霊の力を与えるという強力な礼装だが、本質が置換魔術であるために付与される力はオリジナルの英霊と比べて大きく劣る。レディが弱体化しているとはいえ、そんな物相手に劣る道理はない。尤も、それはクラスカードが弱いという訳ではないが。

 

 際限なく増える泥の触手。だがイリヤが宿した英霊の取り柄は戦闘力だけではなく、イリヤ自身もまた聡明だ。次第に触手攻撃に対する迎撃が最適化されていく。

 

「ちょこまかと、往生際の悪い……!」

 

 憎々し気な声でレディが呟き、その怒りに応えるように泥が蠢く。イリヤを襲う泥の触手の表面が沸騰するように泡立ち、内部から無数の逆棘が現出。同様にレディの両腕から湧き出した泥が絡みつき、逆棘を生やす。それだけではなくその先端に巨大な顎門(あぎと)が開いて中からカレイドステッキを思わせる砲門が顔を出した。

 

 まるで腕のみが人外の異形と化したかのような、その姿。直後、〝嫌な予感〟とでも言うべき不快な感覚にイリヤの心臓が跳ねた。それは夢幻召喚したセイバーの直感による未来予知じみた予感であり、レディの両腕に急速に魔力が充填されたことに対する魔力知覚の反応でもある。

 

 何か来る。確信に近い予感にイリヤが顔を強張らせ、レディがそんなイリヤを嘲るように殺意すらも感じさせる笑みを浮かべる。それに応えるようにして撃ち出されたのは天を埋め尽くさんばかりの泥の棘と星の聖剣にすら比肩しようかという魔力を内包した砲撃。それらが逃げ道を塞ぐような軌道を描いてイリヤへと殺到する。

 

 万事休すか。『剣士』アルトリアの能力を十二分に引き出しているとは言い難いイリヤでは全力で迎撃したとしても悉くを捌くのは不可能な物量に、レディが半ば勝利を確信する。だが次の瞬間、爆発的な魔力の高まりと共に放たれた()()()()()()()()()がレディの攻撃の全てを叩き伏せてしまった。

 

 完全に予想を裏切られる形となり、忌々し気な表情を浮かべるレディ。その目の前で、砂塵のようにその身を覆い隠していた泥の飛沫すらも斬り裂いたイリヤが小さく呟いた。

 

夢幻召喚(インストール)――『狂戦士(バーサーカー)』」

 

 狂戦士。本来の聖杯戦争においては英霊に狂化を施して召喚することにより理性の喪失と引き換えにして大幅なステータス上昇を得たクラスであり、クラスカードを用いた聖杯戦争においても殆ど同様の特性を有している。だがそれを宿したイリヤの瞳に狂化の気配はなく、勇気と希望の輝きを湛えている。

 

 流せば床に届こうかという程に長い銀髪を頭頂部辺りで無造作に束ね、身を護る為の最低限の装備を纏い身の丈を優に超える斧剣を携えるその姿は可憐と勇壮を完璧なバランスで両立しており、さながら本物の大英雄ですらあるかのような偉容を幼い少女に与えている。そして先に見せた神速の斬撃は、その偉容が虚仮脅しではないと示すには十分であろう。

 

 使用者に英霊の概念を置換するという常軌を逸した機能を有するクラスカードだが、根本が置換魔術であるが故の劣化は避け得ない。このバーサーカーも元は11ある代替生命(ストック)が3まで減少し、Bランク以下の攻撃を寄せ付けない筈の防御概念はCランク以下にまで弱体化している。その武芸の粋とも言える宝具は失われている始末だ。

 

 だというのに、狂戦士を夢幻召喚したイリヤはレディの目から見ても一定の脅威と確信できる異様な圧を放射していた。そう、言うなれば、英霊の霊基のみならず魂、或いは意識までもがイリヤと同化し彼女を後押ししているかのようですらある。

 

『イリヤさん、分かっていますね? このカードは……』

「狂化……でしょ? 大丈夫。分かってる」

 

 バーサーカーのクラスカードは使用者に高い戦闘能力を与えるのと引き換えにして、時間経過に伴う理性の喪失を強いる。完全喪失までの時間は使用者の精神力や英霊との親和性により異なるものの、クラスカードを作った魔術師はどれだけ長くとも10分前後と試算している。それを超えれば、余程の例外でもない限り使用者は自我を喪い戦闘機械と化す。

 

 そうなった自分の姿が一瞬イリヤの脳裏を過るが、彼女はすぐにそのヴィジョンを乗り越え斧剣を構えた。武骨な斧剣と華憐な少女の組み合わせはともすれば滑稽に堕ちるものだが、彼女のそれは驚くほど様になっている。

 

 しかし夢幻召喚しているクラスカードとセイバーからバーサーカーに切り替えたということは、セイバーの特徴である高い対魔力を放棄したということでもある。それにレディが気づかない筈もなく、イリヤを覆うようにドーム状に魔法陣が展開される。

 

「潰れなさい!!」

 

 咆哮。次いで放たれたのは棘と魔術砲の暴雨。総数が百を優に超えるその攻撃は到底並みの英霊が防御し得るものではなく、圧倒的な破壊の暴威が少女へと降り注いだ。しかしそれだけでは終わらずレディの両腕から2条の光条が迸る。そのあまりの威力に床やその下の地面が捲れ上がり、濃密な土煙が少女を覆い隠す。

 

 刹那、土煙を斬り裂く斧剣の斬撃。そうして吹き散らされた靄の中から飛び出したイリヤの身体にはひとつとして目立った外傷はなく、レディの攻撃が殆ど着弾していないのは火を見るよりも明らかだ。

 

 命中していない訳ではない。しかしイリヤは己に向けて放たれた攻撃全ての軌道を見切り、斬撃面だけではなく斧剣の刀身側面まで含めた上でどの攻撃をどのように弾けば致命傷を回避できるか一瞬で判断し、正確に実行したのだ。

 

 空恐ろしいまでの絶技。イリヤの力ではなく、バーサーカーの武練によるものだ。だが、完全に借り物の力であるのかと問われれば、それも否。それは半ば融合とすら言える程のイリヤとバーサーカーの相性により可能となった圧倒的な戦術なのである。

 

 それを目の当たりにしたレディは幻視する。イリヤを守るようにして立つ、巌の如き巨人を。人類が地球という星に生まれて幾星霜、人理の裡に発生したヒトという種の中で比喩でなく真の意味で最強無敵、剛力無双の大英雄の姿を。

 

 だが、それを目の当たりにしても悪性の獣は動じない。詠唱さえも省略してイリヤの進行方向上に展開したのは自立型の迎撃術式。更に泥の触手も操り、レディはイリヤを圧殺せんとその力を揮う。

 

 触手の表面に隙間なく生えた逆棘を銃雨の如く撃ち出す砲撃。その大元である触手そのものを鞭のように振るいイリヤの肉体を粉々にせんとする殴打と、迎撃術式が撃ち放つ魔力砲。それぞれが方向も特性も異なる攻撃だ。だがイリヤは臆せずに突っ込んでいく。

 

 真っ先に飛来した泥の棘に向けて斧剣を振るい、叩き落とすのではなく刀身の側面で流すことで方向を逸らして別方向から飛来した棘にぶつけて相殺。その間にも斧剣は一斬のうちに触手を半ばから断ち切り、強引に作り出した間隙に飛び込んで迎撃術式を破壊。雑多な攻撃は十二の試練(ゴッド・ハンド)の防御機能に任せて無視する。

 

 その様はまるで極小の嵐が押し寄せてきているようですらある。しかしレディは攻撃の殆どを防がれ次第に距離を詰められながらも一切冷静さを欠いていない。迫り来る小さき大英雄を真っ向から見据えながら、拭えぬ違和感に訝し気な表情を覗かせる。

 

(イリヤスフィール……何故態々私に接近するようなマネを? 何か策でもあるというの?)

 

 レディがイリヤに対して抱いている唯一の懸念。それがイリヤが現在進行形で使用している礼装、クラスカードの存在だ。或いは何かレディの防御概念を貫通するものがないとも限らない。

 

 しかし小手先の策など圧倒的な力の前では無意味。数々の攻撃を潜り抜けレディの前まで肉薄したイリヤは何を思ったか、或いは思考が纏まらなくなりつつあるのかそのままレディへと斧剣を振り下ろして、しかしレディの防御概念に阻まれるより早くに受け止められた。

 

 見れば、振り下ろした斧剣が両腕の泥を脱落させたレディが構えるカレイドステッキに阻まれている。負けじと続けての剣戟。だがイリヤの剣撃全てにレディは容易く対応し、打ち鳴らされる音色はヒートアップしていく。

 

 それに比例するようにしてイリヤの脳裏から思考そのものが削ぎ落されていく。視界は黒く染まり、その中で敵手だけが血のように紅い。明らかに狂化が進行している。けれど今夢幻召喚を解けば、それこそレディの思う壺だ。

 

 今この瞬間、〝退く〟という選択肢を執れなかったのは間違いなく致命的な判断ミスであり、そして、それこそがレディに付け入る好機を見出させた。突如としてイリヤの足元が緩み、それに伴って全身のバランスが崩れる。

 

 ――投影(トレース)開始(オン)

 

 彼女が宿す英霊はその程度で攻撃不能に陥るような愚を犯す武人ではない。しかしそれが人型である以上、どれだけ優れていようとも認識外からの攻撃に対してはどうしても反応が一拍遅延するのが道理。

 

 尋常なサーヴァントであれば間隙とはなり得ないような短い隙であろうとも、人類悪の幼体にとっては十分に過ぎる。足元に展開された泥やそれに対応する間に絡め取られた斧剣にも気づいて最善策を執ってみせたが、遂に片腕を拘束されてしまった。

 

 ――投影(トリガー)装填(オフ)

 

 それでもイリヤはどうにか拘束から抜け出そうとして、しかしできない。コピー元(オリジナル)のイリヤであれば多少は抵抗もできたのだろうが、今の彼女は少々特殊とはいえサーヴァントである。加えて英霊を夢幻召喚しているのもあって、聖杯の泥には極めて弱いのだ。

 

 そして皮肉か、或いは本能的な危機回避か、事ここに至りイリヤの意識は冷や水を浴びせられたかのように冷静になった。不幸中の幸いと言うべきは、それが火事場の馬鹿力的な偶然ではなく彼女とバーサーカーの極端に良い相性のなせる業と言えることか。

 

 マズい。戻ってきた理性でイリヤは己の失策を悟るも、もう遅い。確かにイリヤとバーサーカーの親和性は極めて高い。その力は最早造り手の想定した水準を超えていると言っても良いかも知れない。

 

 だが、相手が悪い。いくらレディが真正の人類悪には遠く及ばぬ存在なのだとしてもその力は尋常なサーヴァント、ましてや夢幻召喚によって劣化した英霊の力が及ぶものではないのだ。

 

 独りで敵う相手ではない。遥は戦力としてはかなりのものであったがレディはそういった条理の埒外にいる存在なのだ。無茶無謀のまま蛮勇だけを携えて戦えば、死は免れ得ない。そしてそれは、イリヤもまた例外ではない。

 

「これで終わりよ、イリヤスフィールッ!!」

 

 そう。()()()()()()()()()()()

 

「――全工程投影完了(セット)……!!」

「ッ!?」

 

 それは、あまりにも唐突な出現であった。さしものレディですらも予期し得ない、彼女自身先程イリヤに対して仕掛けた認識外からの攻撃。それも視界の外などからではなく、レディの魔力知覚が届かない遠方から一瞬で接近――いや、転移してきたのだ。

 

 弾かれたように背後に視線を遣るレディ。果たしてそこにいたのはイリヤと瓜二つな褐色肌の少女――クロエ・フォン・アインツベルン。一時的なビースト化による負荷で意識を失っていた筈の少女が、イリヤが持つものと同じ巨大な斧剣を携えてそこにいた。

 

 在り得ない。レディが瞠目する。彼女はクロエの身体を棄てる際、しばらくの間回復しないように殆どの魔力を奪っていたのだ。現在のクロエはサーヴァントである以上、行動を封じるならそれだけで十分だった。その筈だった。つまり彼女は〝遥はイリヤ、及びクロエと契約はしないだろう〟と考えていたのだ。それをしてしまえば、彼は敵対する魔女と同じ、少女らを家族や友人から引き裂いた罪を背負うことになるから。要は、彼女は敵対者らの『覚悟』を侮っていたのだ。その侮りが今、彼女に還ってきている――!!

 

是、射殺す百頭(ナインライブズ・ブレイドワークス)ッ!!」

「このォっ!! しかし……!!」

 

 神速の九連撃。人類史最強の大英雄が修得した剣技をその技術、斬撃ごと投影するという錬鉄の英雄のみに許された強権により放たれた絶技は、しかしレディに対しては意味を為さない。ネガ・マギウスの効果はクロエにも例外なく働くのだ。

 

 馬鹿め、とレディが嗤う。クロエが放った神速の連撃がもたらす必殺の威力はネガ・マギウスの効力によるものか、レディに何のダメージをもたらすこともなく不自然に歪曲されて流れていく。だがその瞬間に、気付く。クロエの狙いはレディの滅殺ではなく、彼女は連撃が全てレディに通用しないことを分かった上で、レディと挟んでクロエの逆側にいるイリヤの拘束を解くだけにこれだけ大袈裟な攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

 だが、それで終わりではない。イリヤの拘束を解くためにだけにレディの知覚外から攻撃をするのであれば、他にも方法はあった。にも関わらず態々これだけ接近してきたのは、そうしなければならない理由があったからだ。

 

 空白の左手。だがその手は完全に空白ではなく、クロエが魔力を込めるや否や実体化の直前で凍結されていた投影が再起動してとある宝具が顕現する。大きさは精々果物ナイフ程度。薄紫に輝く刀身はひどく異様な形状で、おおよそマトモな短剣としての使い方は望むべくもない。けれどそれを視界の端に捉えたその刹那、レディは初めて〝本能からの恐怖〟を覚えた。その一瞬、魔女の注意が完全にクロエに向く。それが、命取り。

 

限定展開(インクルード)……!!」

「なにぃっ……!」

 

 レディの背後、クロエの〝是、射殺す百頭〟により泥の拘束から逃れたイリヤが式句を唱える。バーサーカーを夢幻召喚している以上、在り得ない筈のそれ。しかし、イリヤの許に在るカレイドステッキはルビーだけではない。

 

 斧剣を握る手の逆側。バーサーカーの腰布の間から『魔術師(キャスター)』のクラスカードを抱えて出てきたのは、本来は美遊の相棒である筈のマジカルサファイアだ。しまった、とレディが気付いたのも束の間、サファイアが『魔術師(キャスター)』メディアの宝具――魔術破りの短剣〝破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)〟へと変化する。

 

「はああぁぁぁぁっ!!」

「やらせるかァァッ!!」

 

 泥の触手を一閃。それを跳躍して回避したイリヤはレディの頭上から落下の勢いを乗せて短剣を振り下ろして、だがその一撃は中空で阻まれる。泥の防壁では間に合わないと判断したレディが複製カレイドステッキを使って魔力障壁を作り出したのだ。術式を介さずに魔力を扱うことができるステッキの防壁は、魔術を初期化するルールブレイカーの権能を受け付けない。

 

 だが、咄嗟の展開だったからだろうか、ルールブレイカーは完全に防がれた訳ではなくその切っ先が防壁に巻き込まれるようにして突き立っていた。それを見て、イリヤが動く。最小限の魔力で足場を形成。そのうえで踏ん張りを効かせるようにして、バーサーカーの得物たる斧剣を防壁そのものではなくルールブレイカーの柄頭に向けて振り下ろした。

 

 思考が熱い。狂化のせいだろか、身体は今にも自分自身の意志から外れて暴れ出しそうで、それを精神力だけで無理矢理に抑え込んでいる。並の親和性、魔力、そして精神力でできる芸当ではない。幼いながら多くの戦いを潜り抜けてきたイリヤだからこそできる荒業だ。

 

 それでも、レディには届かない。狂戦士の膂力、その全開を以てしても障壁の亀裂はそれ以上広がらず、それどころか徐々に塞がってきているようにすら感じられる。それでもイリヤの表情には諦念など片鱗もない。己ひとりでは届かないのだとしても、誰かと手を取り合えば、きっとどれだけ強い敵にも届くと信じているから。

 

「だから……力を貸して、バーサーカー!!!」

 

 ――オオオォォォォォォッ!!

 

 その咆哮は、果たして獣の雄叫びか、或いは大英雄の鬨の声か。その直後、イリヤの身体が光に包まれ膨大な魔力の高まりと共にその姿が変化する。胸を隠すサラシに重なるように現れたのは獅子を思わせる装飾。白い身体には痣にも似た紅い神威の紋様が発現し、石斧は荘厳な戦斧へと変貌する。

 

 霊基再臨。それも何の魔術的触媒や工程を踏むこともない、完全にイリヤとバーサーカーの力に依るものだ。瞬間、少しずつ修繕されつつあった魔力障壁の亀裂が、逆により深く、大きくなっていく。

 

 圧されている。貫かせまいと魔女はより魔術回路を駆動させて、負けじとイリヤも全身に魔力を巡らせる。互いに相容れない両者の魔力は波濤となって周囲に吹き荒れ、悉くが押し流されていく。

 

「ハァァァァァァァっ……!! アアァァァァァァッ!!」

 

 気合一喝。何の道理かイリヤの身体から放出される魔力が限りなく増大し、瞬間、まるで硝子が割れるかのように呆気なくレディの魔力障壁が崩壊した。それに伴って切っ先を彷徨わせたルールブレイカーの柄を握り、がら空きになったレディの鳩尾に向けて振り落ろす。

 

 ネガ・マギウス。魔術破りの短剣で刺されたことによる直接的なダメージは、レディにはない。だがルールブレイカーによって刺されたことで発生する副次的効果はその限りではない。そもそもネガ・マギウス自体、聖杯、つまりは魔術的な手段を用いて起動させた美遊の異能によって付与されたスキルなのだから、破戒すべき全ての符は例外なく作用する。

 

 その攻撃と同時にそれまで部屋を満たしていた泥が消滅し、衝撃波めいた魔力がイリヤとクロエを吹き飛ばした。それと同時に限界を迎えた夢幻召喚が強制解除される。すわ反撃か、とレディを見れば、彼女は壊れた機械のように身体をくねらせ苦悶していた。彼女の根幹を成していた魔術的事象が初期化(リセット)されたことで、魂の統合が再び解かれようとしているのだ。そしてレディはそれに意志力のみで抗っている。それは最早、執念とすら言えるだろう。

 

 けれど、意志力のみで宝具の効力に抗いきれる筈もない。時空そのものが乱れたのではないかと錯覚する衝撃を撒き散らした直後、制御を失った魔力が魔女から溢れ始める。それでも諦めきれないとばかりに魔女は凄まじい眼光をイリヤとクロエに向け、しかしまたしても邪魔が入る。

 

 唐突にレディの身体から聖杯の泥が噴き出し、それを割るようにして一条の焔が噴きあがり水晶の城の天井を貫通、そのまま夜空へと消えていく。その光景はさながら太陽黒点の爆発か。そのあおりを受けるように泥の波からまろび出る人影。それが誰かなど考えるまでもなく分かって、イリヤは駆けよっていく。

 

「ハルカさんっ!! ……ッ!?」

 

 確かに、イリヤが思った通り泥の中から現れた人影は先にレディと戦っていた夜桜遥その人であった。だがその姿は彼女が知るそれとは大きくかけ離れていて、まさしく凄惨の一言である。

 

 未だスーツが残っている下半身は不明だが、本来右手がある筈の箇所や左手、少なくとも上半身の3分の1程度の面積が醜悪極まりない肉塊に覆われている。この様子では恐らく被害は体表だけではなく内臓にまで及んでることは想像に難くない。

 

 只の人間であればとうに死んでいてもおかしくはない病巣の大きさだ。けれど、遥はまだ息があり、心臓も動いている。それは何も、彼が『不朽』であったり半神半人であるからというだけではあるまい。彼もまたレディと同じく尋常ならざる執念、生命力で生にしがみついている。どうすれば良いか分からず戸惑うイリヤの前で、遥が目を覚ます。

 

「ハルカさん……」

「ぐ、う……イリ、ヤ……? ッ!? レディは……!?」

 

 無理に立ち上がろうとした瞬間に遥の全身を気が触れる程の激痛が襲い、思わずその場に倒れてしまう。だがそれでも、彼は確かに見た。自らの身体から吹き出した泥の沼に倒れるレディの姿を。

 

 捻じくれた獣冠や黒い装束が消滅していない所を見るに未だ美遊の身体を手放した訳ではないのだろうが、それでも相当に消耗していることに違いはない。尤も、消耗しているという点では遥も大差ないどころか度合いで言えば彼の方が酷いが。

 

 常ならば呪詛に対する防御として体内に巡らせている焔まで全て攻撃に回していたため、全身が泥の呪詛に汚染されている。呪殺されていないのは今までの人理修復の戦いの中で獲得した呪いへの抗体とでも言うべき特化した耐性があったからだろう。その耐性を以てしても半死半生といった程度ではあるが。

 

『クシナダは大丈夫か? 何か問題は……』

『私自身には大きな問題はありません。遥様が守って下さいましたから。しかし……』

『……?』

『……いえ。兎に角、戦闘に問題はありません』

 

 普段は温和かつ毅然としているクシナダらしからぬ、何かを我慢しているかのような声音であった。しかし無理もない。彼女は遥と異なり自らの身に起きた決定的であり不可逆的な変化を自覚しているうえ、(マスター)である遥が瀕死の状態でありながら彼女は見ていることしかできないという状況に立たされているのだから。

 

 彼女の宝具〝我、蛮神の妻たる者〟は彼女自身だけではなく遥との同意の下でのみ行使、及び解除が可能となる。そして両者共にレディとの継戦意志があり状況を正しく理解しているのだから、遁走という選択肢はとうにふたりの脳裏にはない。

 

 戦わなければ、生き残れない。生きたいのならば、生かしたいのならば、相手の理想を潰してでも戦い、勝利するしかないのだ。たとえどれだけ辛く苦しいのであろうとも。どれだけ傷つくのだとしても。

 

「イリヤ。どこかに俺の刀が落ちてなかったか? レディに喰われた時に落しちまってな……」

「それはコレかしら? 剣士のお兄さん……いいえ。マスター?」

 

 そう言いながら遥の許にないために輝きを失った天叢雲剣を差し出した相手を見て、遥は思わず警戒態勢を執りそうになり寸での所でそれを自制する。その相手――クロエが肉体はともかく精神的には初対面であることを考えれば相当に失礼な態度だが、致し方ないことではあろう。何せ遥はクロエの身体を乗っ取ったレディと何度か交戦しているのだから。

 

 とはいえ、勘違いしてしまったのは事実。そのことを謝罪し礼を言ってから左手のみで天叢雲剣を握ると、担い手の許に戻ったことで刀身が輝きを取り戻した。その横で、明らかに遥が戦闘を継続するつもりだと悟ったイリヤが口を開く。

 

「まだ……戦うの? でも、身体が……」

「左手一本あれば戦える……と言うのは、見栄を張りすぎだな。ちと手荒な方法にはなるが……」

 

 自嘲するかのような声音でそう言うや、遥は叢雲の刃を右手の肘から少し先の辺りに押し当てた。それが何を示すのか分からないイリヤとクロエではなく彼を止めようとして、しかし遥は制止されるより早くに自らの右手、その汚染部位を斬り離してしまう。

 

 腕を喪った痛みにスパークする視界。急激な出血に朦朧とする意識。だが再生を阻害する部位を丸ごと切除したため、少なくとも右腕はある程度の時間が経てば元の形を取り戻すだろう。他の部位はそう簡単にもいかないだろうが、最悪、両腕が揃えば最低限剣術を揮うには困らない。

 

 あまりにも力技かつ自分自身へのダメージを度外視している遥の対処に絶句を禁じ得ない魔法少女ふたり。対して遥は意識が明瞭ではないというのもあるのだろうが、右手の負傷などもう気にしていないかのように左手だけで叢雲を構えている。その視線の先にいるのはゆっくりと泥の中から立ち上がるレディがいた。

 

 ミラーの捨て身の攻撃やイリヤに突き刺された破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)の効力により、レディの霊基はビースト・ラーヴァ覚醒直後に比べて見る影もない程に格が落ちている。その霊基規模は最早美遊の身体の支配権を喪うどころか不完全なビーストとしての属性を喪っていてもおかしくはない。

 

 それなのに未だレディは若干損壊しながらもビースト・ラーヴァの霊基を維持し、美遊の身体を支配している。その目は強烈な意志の光を湛え、覇気に翳りはなく、魔女の理想は潰えていない。そしてそれを単独で撃破するだけの力が、今の遥にはない。

 

「イリヤ。クロエ。みっともない話をするようで悪いが、今、俺にはヤツをひとりで斃せるだけの力がない。だから……」

 

 言葉を区切る。これから遥が口にするのは、ある意味では途轍もない責任放棄だ。たとえこの特異点が本来、遥は関わり合いにならなかった筈のものなのだとしても、現実として遥はもう関わってしまった。であれば、彼にはこの特異点を修正する責任がある。

 

 関わり合いになった、という点で言うのならイリヤらもまた同じだが、彼女らはまだ子供だ。本来なら戦いの痛みも、悪意の醜さも知らず、幸福に生きるただの子供なのだ。そんな子供にこのようなともすれば終末に至るような騒動の責任を、一端ですら問えるものか。

 

 故に遥は大人として、総ての責を果たさなければならなかった。事の発端がただ巻き込まれただけだとか、彼自身が戦う必要性はなかっただとか、そんなことは関係ない。胸中に巣食う罪悪感に、ひと時だけ蓋をする。

 

「……協力してくれ。頼む」

「……うん。戦うよ、一緒に!」

「ホントならわたし達が頼まなきゃいけない立場な気もするけど……でも、ミユを助けたいのはわたしも同じ。やってやるわよ!」

 

 ステッキと双剣。それぞれの得物を構え、魔法少女が立つ。対する魔女もまた、追い詰められてもなお己の理想を叶えんがため最後に残った力を総動員して怨敵を迎え撃つ。

 

 崩壊しつつある幻想の楽園。その中央でひっそりと、人類史の存亡をかけた決戦が幕を開けた。




 キリ様がいい人すぎて辛い。


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第82話 回帰フューネラル

 何なの、こいつらは。今にも崩壊して美遊の霊基(からだ)から脱落してしまいそうな霊基(いしき)を意地と妄執のみで支えつつ、救済を邪魔立てする敵手を撃滅すべく魔術(まほう)を編みあげながらレディは思う。

 

 確かに度重なる弱体化によりレディの霊基は元の神霊級のそれから大幅にランクダウンし、最早見る影もない。もしも今――レディは真正のビーストではないため万に一つも起こり得ないが――『冠位(グランド)』のサーヴァントが現界すれば抵抗もできずに消されるだろうが、それでもたかが未完の半神と魔法少女ふたりに後れを取る筈がない。

 

 加えてその半神、自らの危機を脱するため美遊(せいはい)が招き寄せレディの計画を台無しにした忌まわしき剣士はその全身を人類悪の泥に犯された事で生体機能や再生能力、魔術回路の殆どの働きを阻害され、半死半生といった有様だ。

 

 それなのに、戦っている。いかに人間よりも圧倒的に生命力が強く頑丈な半神とはいえとうに生命維持だけで精一杯の状態でありながら、未だ諦めずに戦っている。その目に輝く光は自棄ではなく、強烈な戦意と決意のそれだ。

 

 そしてふたりの魔法少女もまた同じ。彼女らは遥のようなダメージを負っていないが、基礎性能そのものが通常のサーヴァントに大きく劣る。それは彼女らをこの世界に召喚(コピー)した際に確認しているのだから、今更になって測り間違えていた、ということは在り得ない。だというのに彼女らは食らいついてきて、遂にはレディに半ば致命に近い一撃を与えるに至った。

 

 驚嘆すべき執念だ。イリヤも、クロエも、遥も、勝ち筋など無かった筈の戦いに臆する色はなく、逃げもせずに挑み今こうしてレディの喉元にまで迫っている。それはレディが彼らを侮っていたというのも原因としてあろうが、それ以上に彼らの心が、己よりも強大な敵との無数の死からひとつの生存を拾い上げるような戦いにも逃げずに立ち向かう精神力が活路を開いたのだ。

 

 だが、彼らのその在り方がレディにはとても腹立たしいものに見える。それはまるで、頭を固定された状態でストロボめいた電球の光を見せられているような。拭い様のない、本能的な嫌悪感だ。

 

「このッ……目障りなのよ! 消えなさい!」

 

 拒絶にも似た憤怒の咆哮。殺意以外の切迫した思いを覗かせるそれの直後、中天を飛ぶレディの背後に無数の魔法陣が展開された。霊基が崩壊しつつある状態でありながら脅威的な術式の構築速度だ。しかし魔力量そのものが減少しているうえに延命にリソースを裂いているためか、陣の数や複雑さは以前のそれとは比べるべくもない。

 

 乱舞する光条。先の魔力砲よりも出力が落ちた攻撃など常の遥にとっては大した脅威とはなり得ないが、今は話が別だ。右手が再生しきっておらず使えるのは左手のみ、その左手の膂力も呪詛の影響で落ちている今、どんなに単純な攻撃でも十分に致命傷と成り得る。

 

 そして当然、レディが放った攻撃の殆どは遥に集中する。彼女が有するスキルは魔法少女からの攻撃を無力化する――副次的効果は貫通するが――という力を持つ。更に破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)を用いた戦法を一度見たのだから、彼女が対応しない筈はない。であれば今度こそ彼女を打倒できるのは遥だけだ。逆に言えば、レディにとっては遥さえ殺すことができれば勝利も同然なのである。

 

 遥の命脈を絶たんと魔力砲が飛来する。それを目前にして遥は最期に残った令呪一角を使って無理に右手を再生させてでも捌こうとして、しかしそれが実行されることはなかった。彼の後方から撃ち出された剣弾と魔弾がレディの放った攻撃を相殺したのである。エミヤと同質の力を持つクロエと『魔術師(キャスター)』を夢幻召喚(インストール)したイリヤによるものだ。その援護の直後、クロエの声が遥の耳朶を打った。

 

「貴方は本体に集中して! 攻撃は私達が何とかするわ!」

「っ……させるか!」

 

 いくらレディが遥らよりも格の高い霊基を保有しているとはいえ、現在の弱体化した状態では一度に展開し得る魔力砲台の数には限度がある。加えて当然の事ながら一撃の威力を重視すれば限界数は減少し、数を増やせば威力は落ちる。

 

 もしも魔法少女の攻撃で相殺されないように威力を上げれば砲撃の密度は低下し回避が容易になってしまう。だが回避されないように魔力砲の数を増やせば手数に優れたイリヤとクロエがそれらを相殺し、遥の接近を許してしまうだろう。ルールブレイカーの一撃を受ける前ならばそれをカバーし得るだけの泥を操ることが出来たが、今はそれほど潤沢な泥の量はない。

 

 元は圧倒的に有利な状態であったというのにそれを覆され、今では一方的な勝利すらもままならないまでに追い込まれている。全ては己の油断が招いた事態であると、レディは確かにそう認めていて、けれど許せない。彼女が目指す救済の邪魔を、その存在から容認できない。

 

 対する遥は右手が再生しきっておらず身体も思うように動かない中ででもレディを美遊の霊基から滅するべく神刀を握り魔女へと挑みかかる。その姿は己の力量を弁えず死地に赴く愚者か、或いは誰かのために己を犠牲にしてでも戦う勇者か。どちらであろうともレディにとっては神経を逆撫でしてくる天敵でしかない。

 

 憎々し気な表情を浮かべ、レディがステッキを振るう。そのモーションを見て反射的に神刀を構える遥だが、動きがあったのは砲台ではなく彼の後方だ。突如として床面から湧き出した聖杯の泥から、無貌の人型――魔法少女の泥人形が這い出してくる。恐らくはカルデアに飛ばしていたものを戻したのだろう。

 

「行きなさい、魔法少女の軍団(プリズマ・コーズ)! 邪魔な魔物を圧し潰すのよ!」

 

 号令一下、魔法少女擬きの残骸兵らの姿に変化が起きる。ある者は背部の肉が隆起し空を飛ぶための翼が生え、またある者は肉体と同じく泥で構成された魔杖が剣や戦斧、槍などの武具に変化。より攻撃的な姿になり、イリヤとクロエに向けて襲い掛かる。

 

 二度の弱体化に伴い内包する魂の総量も減少しているためかその総数はカルデア襲撃時のそれと比べると明らかに少ないが、そんな事は彼らには知る由もない。そもそもとして戦力の絶対数が遥らとカルデアとでは異なるのだから、比較するのは間違いであろう。

 

 圧倒的な戦力差。それを目の当たりにした遥は思わずイリヤらを助力しようとして、しかしレディはそれを許さない。遥の背筋を撫でる、強烈な悪寒。その直感に従い彼は迷いなく回避行動を執るがダメージを負った身体が十全に動く筈もなく、躱し損ねた魔力砲が遥の左肩口を擦過した。

 

 激痛に明滅する意識。噴き出す鮮血。泥を供給元とする攻撃であるためかそれと同質の呪詛を内包しているようで、呪いが傷口の細胞を犯そうと暴れる。これ以上の汚染を防ぐため左肩ごと燃やすような火力で焔を操り呪詛を浄化して、遥が舌打ちを漏らした。

 

 明らかに身体能力(ステータス)が低下している。呪詛の影響だけではない。今までの戦闘で負ったダメージの蓄積や数時間にも及ぶ神核の解放による反動等複数の要因が重なり、遥から戦闘力を奪っているのだ。弱体化しているのは、何もレディだけに限った話ではない。

 

 だが、それで勝利を諦めるくらいならば此処まで来ていない。遥も、レディも、何もかも諦められないから今此処にいて、互いに譲れないから戦っている。たとえ己の身を犠牲にしようとも、為すべきと信じることを為すために。

 

『……クシナダ。宝具の出力をもっと上げてくれ!』

『なっ……!? しかし、それでは遥様の身体が、もう……!』

『分かってる! でも、やるしかない。()()()()()()()

 

 そう。遥は託された。ディルムッドとミラーから、彼らの心を。魔法少女としての使命に囚われ、歪み堕ち果てたレディを終わらせてやるという思いを。ならば、為さねばならない。義務ではなく、タスクでもなく、己が剣に掛けた誓いとして。

 

 それだけではない。今、この場にいる者でレディを完全に打倒し得るのは遥だけなのだ。詰まる所、それは彼の双肩に全人類の命が掛かっていると言って良い。その中には遥が守るべき仲間の命も例外なく含まれている。

 

 ならば、遥が戦う理由としては十分に過ぎる。彼は決して誰かの為に戦うとは言わないけれど、他人を守るという行為を己の為として戦える男だ。素直ではない、と言ってしまえばそれだけだが、それが彼なのだ。

 

 そして、クシナダはそれを理解している。それでも遥に辛い思いをして欲しくない、これ以上傷ついて欲しくないとは思うけれど、彼にとっては己が戦って傷つくよりも自分が大切に思う誰かが傷つく方が辛いから。故に、彼女も彼に力を貸すのだ。それで彼が傷つくのは、とても辛いけれど。

 

『だから……責任、取って(必ず生き抜いて)下さいね?』

『……善処するよ』

 

 遥が微笑みながらそう返すや、彼の身体が火を注がれたかのように熱くなり強壮感が満ちる。まるで、神核だけではなく彼の身体そのものが励起されているかのように。――いや、〝ように〟ではない。紛れもなく、神核や霊基だけではなく肉体そのものが賦活されている。

 

 だがその原因を探る暇もなく、レディが放った魔力砲が遥へと迫る。超高出力の光条が何本も降り注ぐその光景は、さながら致命の豪雨と言うべきか。だがその軌跡はあくまでも直線的で、先の歪曲する砲撃に比べれば回避は容易だ。そして、限界を無視して身体を強化した遥にはそれができる。無論、いつまでもそんな無茶ができる訳ではないけれど。彼が限界を超えて戦えるのは今だけだ。

 

 右手も再生しつつこそあるものの、未だ刀を握ることができる状態ではない。故に現在使用できる回路で捻出可能な魔力全てを以て左手に強化を施し、続けて固有結界から取り出した焔と雷霆を刀身に這わせる。

 

 そうして神刀を揮ったのは砲撃の正中線ではなく、その端。一見するとまるで意味のない斬撃のようだが、それは違う。もしもそれを行ったのが遥ではなく、得物も神刀ではなかったのなら刀身が折れる結果しか齎さなかっただろうが、殊遥と神刀の組み合わせならば別の結果を発生させる。

 

 それはまるで鉄砲水が巨岩にぶつかって進路を変えるかのように。遥の煉獄が宿す〝魔力の浄化・吸収〟という特性の影響により指向性を乱され、僅かに軌道が逸れる。その一瞬の間隙に身体を滑り込ませ、紙一重で砲撃を躱す。

 

 続く第二撃は初撃の回避動作から繋げて刀身に込めた魔力や焔を斬撃として飛ばし、それを傘とするかのように斬撃の下にできた空間に身を躍らせ、回避する。それはまさしく力技ではない完全な技術。己の状態を把握し、敵の力を計り、最も生存に適した選択肢を最短で選び取る、という歴戦の勇士ならば誰しも備える基本的な能力だ。

 

 だが、たとえ基礎でも、いや、基礎だからこそ極限状況下においては生存への最適解となる。全ての攻撃を最短・最小の動作、多くを封じられた今できる最大限の手段で以て防御し、肉薄する。しかしさせじと、レディがステッキをもう一振り。

 

 先の攻撃を鉄砲水とするのなら、今度のそれは綺羅星、或いは流星雨か。視界全てを覆い尽くすような、微細な魔弾の群れ。広域破壊兵器めいたそれは、最早遥ひとりで対処できる限界を超えている。万全な状態であるのならばともかく、今のようにダメージを受けている状態では。

 

 一度の攻撃のうちに行使される魔力量は、さながら都市ひとつを軽く焼き払う爆弾の如く。二度の反抗によってかなりの力を削がれていながら、マトモに直撃を受ければ極端に生命力が強い遥でも即死を免れ得ない。

 

 これがビースト。――否、ビーストとしてすら正しく成立していない、『人類悪』という霊基そのものの幼生ですらこれだ。この上に更に真にビーストとして覚醒した幼生と完全体も存在するというのだから、恐ろしい話だ。

 

 そんな存在に抱いた恐怖を、遥は認めよう。彼は確かにファースト・レディ、及び真名()も顔も知らぬ真なる獣を恐怖した。だが恐怖すれどそれを顕すことはなく、身が竦むこともない。恐怖を知り、是を認め、踏破する。その覚悟なら、とうにできている。

 

「敵わぬ相手にすら挑む気概……それは蛮勇というものよ、剣士!!」

()()()()()!!」

「――っ!!」

 

 また、この感覚。レディが内心で呟く。人。ヒト。単騎では人類悪の獣に対する抵抗すらままならない、憐れなる生命。吹けば飛ぶような、だからこそどのような手段を以てしてでも救済しなければならない生物。――己を、友を棄てた愚昧共。だからこそ、その愚昧や悲嘆から人類を悉く滅ぼしてでも救うためにこの力を得た。その規模が〝多少強い程度〟の3騎が協力した程度で太刀打ちできるものではない事は、とうに彼らも理解している筈だ。

 

 だが、それでも、と。たとえ相手がどれだけ強大な存在であろうとも、退く理由には、戦いを放棄する理由にはならないと彼らは言うのだ。何度も、何度も圧し潰そうとして、それなのにいつまでもその輝きは消えない。魔法少女ふたりの希望の光と、剣士の希望とはまた異なる異様な光は。

 

 遥に迫る光弾の群集。その数はいかに空位に達した剣士といえど全てを撃墜できるものではなく、光弾の密度は彼の身体を瞬く間に無意味な挽肉に変えて余りある。常ならば最悪脳と心臓さえ残っていれば死に至らないため多少の無茶はできようが、回復阻害を受けている今は間違いなく即死だろう。

 

 ()った。半ばレディが確信する。いかに意志力の強い者でろうとも、この世界には無理無茶無謀の精神論では突破できない障害というものがあるのだ。けれどレディはそれが自らもまた例外ではないと、これまでの戦いで学習している。油断すれば、必ず足元を掬われるだろう。

 

 駄目押しとばかりに遥の背後で泥が伸びあがり、その表面を内部から迫り出した逆棘が覆う。イリヤとの戦闘においても用いた攻撃だが、今回のそれは内包する質量が異なる。レディが操る泥は質量・体積共に不定であり、魔女の意志によって自在に変化する。詰まる所、その触手はある種の質量兵器なのだ。

 

 それが、一対。鞭のように撓りながら遥を文字通り粉微塵に変えるべく背後から迫る。だが遥はそれを全く無視し、叢雲を握る左腕を引き絞り、現在一度に行使し得る全魔力を充填。そうしてそれを神速の刺突と同時に解放し、激流の魔力放出により嵐の如き大槍と化して弾幕に突き刺さる。

 

 しかし、それだけでは弾幕に間隙を作るには至らない。面の攻撃に対し点の攻撃を放つのでは意味がないのだ。それを遥が理解していない筈もなく、彼は激流の大槍を基点として固有結界内の雷撃を放出し、浄化の雷霆はまるで避雷針に吸い寄せられるかのように魔弾を渡り、全てではないものの広範囲のそれを消滅せしめる。

 

 だが、そうしている間に泥の触手は遥の真後ろにまで迫っている。それでも彼は反応する素振りを見せず、しかし事態は彼が関与しない形で動いた。突如として彼の身体を覆うように満ちた彼のものではない魔力から異形の使い魔――竜牙兵が現れ、触手へと突貫。そうして一瞬動きが鈍った瞬間に中空から降り注いだ無数の剣が触手を貫き地面に縫い留めてしまった。

 

 残骸兵らによって足止めされている筈のイリヤとクロエによる援護。突破された訳ではない。さりとて、ふたりは自らを犠牲にして遥を助けたのでも、また彼が強制したのでもない。遥はふたりの能力に信を置いて助力してくれると信じ、ふたりはそれに応えた。それだけだ。それだけなのだ。そんな、共闘するうえでならば当然のことであるのに、レディは何故かひどく神経が逆撫でされたかのような感覚を覚えた。

 

 頭がひどく痛む。それに伴ってレディの脳裏を過ったのはノイズ塗れの、しかし確かに鮮やかな色彩を宿した記憶。笑顔、信頼、友愛、希望――それらレディが失った筈の、忘れた筈のモノが何の因果か遅効性の毒のように悪性の獣を蝕む。或いはそれは、彼女が捨て去った過去からの業果か。それとも現在からの報復か。

 

「どちらでも構わない。だって、私は……!!」

 

 己の内から染み出す辛苦を吐き出すかのような、悲痛な呟き。次いで彼女の背、毒々しいマーブル模様を呈する邪な魔力の翼の間から伸びたのは先のそれと比べるとあまりにも細い、鎖にも似た触手。その表面に生えているのは棘ではなく、刃だ。接触した対象の内を抉り傷つける事に特化した、レディの〝拒絶〟の具現だ。その泥はレディを害する外敵を排除するための鉾であり、同時に彼女を守る盾なのだ。

 

 今、確実のレディの精神は揺らいでいる。これまでであれば決して在り得ない事であったが、恐らくはミラーが干渉した際の影響で忘却した記憶の一部が戻りつつあるのだ。だがそれがレディが獣にまで身を堕とした理由、現在の信念とは相容れないが故に動揺している。

 

 相手が尋常な存在であれば、遥は一時攻撃を止めただろう。敵手の動揺に付け入るのは卑怯である、というのもあるがそれ以上に精神が揺らいでいる相手を下手に刺激するのは悪手だからだ。

 

 だが今回の敵はビースト、幼体も幼体、人間で言えば受精卵にも満たない段階であるとはいえ、圧倒的に高位の存在であることに違いはない。であれば、どうして攻撃の手を止められようか。様子見などに走れば、忽ちのうちに死んでしまうだろう。

 

 遥の魔術回路が蠢く。体内に満ちる煉獄の焔を回路へと集中させ回路を犯す呪詛を強引に浄化しようとして、その影響か全身を刀で串刺しにされたかの如き耐え難い痛みが襲う。それを歯を食いしばって耐え、詠唱を飛ばす。

 

「我が躰は、焔……!!」

 

 総身が燃える。その焔の間を縫うように奔る紫電は、彼が内包する海神の神核によるものか。だが全身の殆どを醜悪な肉塊に犯されながら尋常ならざる焔と雷霆を纏い、隻腕と化しながらも剣を握り立ち向かうその姿は神というよりも鬼種か何かのようにすら見える。

 

 限界を超えて活性化した固有結界が五体に張り巡らされ、その浄化作用が泥によって汚染された細胞と食い合う。想像を絶する苦痛に、まるで無理矢理に肉体の内と外を逆転して引き裂かれたかのような感覚を抱く。

 

 それを軽減する方法はない。神経伝達物質の分泌を魔術を用いて停止させれば皆無とはなるが、それでは他の感覚までなくなってしまう。故にその痛みへの処方など、歯を喰い縛って耐える他ない。それだけでも気が狂ってしまいそうな程だというのに、遥は尚も辛苦の果てへと追い込んでいく。

 

加速開始(イグニッション)ッ……!!」

 

 式句を唱えると同時、固有結界によって外界から隔離された遥の体内時間が数倍まで加速する。常でさえ法外な再生能力に任せ痛みを無視しながら行使しているというのに、今の状態で使って平気である筈がない。

 

 戦闘で負う傷だけではなく己の種々の行動にすら元より痛みを伴う遥でも経験した事がない程の激痛だ。その規模ときたら、最早遥自身が痛みを感じているのではなく痛覚という概念に遥というゴミが付着しているのではないかという錯覚を抱く程だ。

 

 だが体内が焔で満たされたためか残留していた泥が消滅し、浸食が多少遅延する。只人であれば固有時制御を使った所で――そもそも固有結界を使える者自体が稀有だが――レディの攻撃は到底見切れないだろうが、レディ自体が弱体化している今なら加速状態の遥程度の者でも辛うじて視認が可能だ。だが加速の無理のせいか全身の至る所で血管が弾け、骨が砕ける。申し訳程度に機能している再生能力がそれを修復するが、間に合わない。尤も、そんな彼の弱みはレディにとって付け入る隙でしかないが。

 

『来ますッ!!』

『ッ――!!』

 

 その感覚は、ある種の天啓のように。遥の魂と同期しているクシナダから、彼女の思考がダイレクトに叩きつけられる。その内容とはレディが操る攻性触手の軌道予測。それに従い、彼の身体は動いた。

 

 油断せず前方へ走り続けながら、しかし上半身から左腕にかけては関節の可動限界まで曲げ、短く深い呼吸で五体の隅々まで酸素を巡らせる。そうして最大限まで高まった捻れを筋肉の稼働を乗せつつ解放するようにして、叢雲を振るう。

 

 〝天剱・華天の牢〟。空位に開眼した遥の振るう超々神速の斬撃はその一閃のみで魔法に近しい超常を引き起こし、現れた多重の斬撃はまるで結界のように彼を守る。振るうだけでも刀身に相当な負荷が掛かるこの技は、まさしく毀れず折れない不朽の刀である叢雲でのみ可能な絶技と言えよう。

 

 ()()()()()()。焔と雷を纏う高密度の斬撃結界は触手の大半を斬り裂いたものの、うち数本が他の触手を盾にするようにして結界を抜けて遥に突き刺さる。それも、的確に細胞汚染が治癒している箇所を狙って。

 

『遥様!!』

「ぐ、う……!! だが……!!」

 

 遥がそう漏らした刹那、彼の体内でチェーンソーのように循環していた刃が停止する。レディの意志ではない。彼が魔術を用いて創傷箇所周辺の筋肉を一気に収縮・硬直させたのだ。

 

 レディが遥に突き込んだ攻性触手はその表面に生えた刃を循環させて彼の身体を効率的に傷つけるだけではなく、その刃先から泥を注入し回復を阻害する細胞汚染を引き起こすようになっている。つまりは硬化した泥と純粋な泥の二重構造になっているのだ。

 

 確かにこの方法であれば肉体を一撃で消し飛ばしたり心臓と脳を破壊せずとも遥を殺せるだろう。考えようによっては最も効率的な殺し方だ。だが、この方法にはひとつだけ弱点がある。それは触手を構成する泥そのものに宿る穢れた魔力だ。

 

「燃えろ。但し、中身だけなッ!」

 

 貫かれてからその判断を下すまでの時間は、尋常な反射行動よりも早く。遥が固有時制御を使うために指先に至るまで固有結界を張り巡らせていたのもあって、触手に着火するのは極僅かな、須臾にも満たぬ時間で済んだ。

 

 レディはそれに気づいて咄嗟に触手を切り離そうとするも、遅い。遥の内から触手へと燃え移った焔は一瞬にして大元であるレディにまで伝播し、その霊基が焔に包まれた。尤も、燃えているのは肉体そのものでなくその内に宿る魔女の霊核と堕ちた魔法少女らの魂だが。

 

 間違いなく効いている。人類悪の獣にとって、その根幹を成す悪性に対して直接作用する遥の焔は劇毒なのだ。だがそれは遥にとってのレディの泥も同様であり、刺傷を受けた辺りの細胞が汚染され、遥が血を吐き出した。

 

 それでも、進む。切り離され、消えていく泥を足蹴にして。彼を襲う攻撃のうち大半を撃ち落とすのは、その後方から飛来する魔弾剣弾だ。彼の方を注視していないのに正確な援護ができるのは、契約を通じての感覚共有というマスターとサーヴァント故の強みがあるからだ。だが彼女らが十全に戦えるだけの魔力を供給するために、遥は残存魔力の殆ど全てを回している。彼自身が扱える魔力は固有時制御を残り数秒維持する程度しかない。

 

 だが、それでもだ。遥にとって、魔力切れなどは撤退する理由にならない。たとえ切れたとしても最悪、肉体の負担は度外視して鞘、正確にはその材料であるヒヒイロカネから真エーテルの供給を受けることで宝具は行使でき、そうでなくとも意志だけで五体を駆動させる。どれだけ辛く苦しくても、もう覚悟した事だ。

 

 痛みを意識の内から追い出す。余計な思考を削ぎ落し、畏れを蹴散らす。そうして凪いだ精神は完成された無我、明鏡止水と言うべきもので、けれど戦意、闘志、そういった彼を戦いに駆り立てるものだけが静かに、かつ激しく燃えている。しかし、遥はそれを極自然に受け入れている。彼は空位に到達した剣士であるが故に。

 

 だが、それで終わりではない。己よりも圧倒的に格上の敵手との戦闘、()()りの鬩ぎ合いの中で、自らが錬磨されていくのが、彼には手に取るように分かった。空位への到達とは終着などではなく、通過点でしかないのだ。そしてこの幾度となく生死が交錯する状況こそが、遥を急速に成長させている。

 

 残骸兵らの間を縫い、或いはその身体を貫通して殺到したイリヤとクロエの援護がレディの攻撃に突き刺さる。けれどレディも負けじと立て続けに魔力砲を放ち、千切れた触手が枝分かれして襲い来る。それらすべてを回避してのけるというのが不可能であるという事は、先の一撃が証明している。いくら遥の直感が並外れて鋭くとも追いつかないのだ。ならば、どうするか。

 

 ――感覚の切り替え。それは例えるなら水流がその時々にとって最も流れやすいルートを辿るように、或いは技術者がスイッチによって電流の流れを操作するように、その時々によって己の在り様を切り替えるというもの。今の状況であれば直感を閉じ、代わりに心眼を開くといった具合か。要は己の持つリソースの再分配だ。だが、それは容易い事ではない。一か八かの賭けとすら言えるだろう。

 

(できる、できないじゃねぇ。やるんだ! やれ! できなきゃ……死ぬ!!)

 

 先天的な素養ではなく、後天的に得た経験などによって開く真なる心眼。遥は直感が度外れに優れているためそちらに頼りがちになりどうしても心眼の素養は低くなってしまっているが、無我の領域に至った今なら刹那に限りできるという確信があった。

 

 しかしただ開くだけでは彼のキャパシティを超えてしまい、全くの逆効果となる。故に、代わりに別の能力を閉じるのだ。そうすることで入力される情報を制限、更にリソースの拡散を抑え、己の力量の内で治めることができる。

 

 ――その回避行動は苦し紛れの特攻ではなく、恰も演舞の如く。刀による受け流しから身体の運びまでが完璧な一連の動作に収められたそれはそれほど流麗で、動作主である遥自身でも初めて感じる強烈な手応えがあった。

 

 お世辞にも完成された技術とは言えないが、足りない分は他の技術で補えば良い。半ば捏ち上げじみているが、己よりも格上の相手から生存を勝ち取るという事はそういう事なのだ。

 

 駆ける。中空より降り注ぐ具現化した死の雨の中を、仲間の援護と自らの全力を以て。並行して彼と鞘の間に結ばれている魔力経路の封印を解除し、鞘の素材であるヒヒイロカネが産生する真エーテルを体内に取り込む。その作用で肉体が発する苦痛は我慢し、供給された真エーテルを全て足に充填した。次いで固有結界の展開位置を体内から叢雲の内に遷移し、刀身が煉獄を纏う。

 

 しかしいくら遥が半神とはいえ、間違いなく半分は真エーテルに耐性のない人間なのだ。それも変質してしまっているのだとしても真エーテルに対する完全な耐性を得られる訳もなく、現界を超えた量を充填された足の内で筋線維や血管が何度も弾け、その度に再生。その繰り返しによる足が千切れたかと錯覚する程の不快感に耐え、その両足に激流が宿る。

 

 そして、解放。極地さえ可能とする強靭な脚力とジェット噴射めいた激流の魔力放出が合一した踏み込みはただでさえ破壊し尽くされた床面をより崩壊させる程に踏み砕き、遥の身体が焔と激流を帯びながら砲弾の如き速度で飛び出した。その眼は真っ直ぐに、敵手たるファースト・レディ、その霊核を視ている。内部に煉獄を宿しているからだろうか、確かに実体をもつ筈の黄金の刀身はひどく揺らぎ、まるで陽炎のようですらある。

 

 対するレディは先と同じ失敗を繰り返す筈もなく、その口が異界の言語にて詠唱を紡ぐ。そうして彼女を守るように展開されたのは、複層型の防御結界。全くの未知であるが故に最上級の神秘を宿したそれを、遥は魔力を喰う煉獄と叢雲の神秘、そして膨大な運動エネルギーを以て突き抜け、結界が硝子のように割れていく。

 

 だが、現実とは無情だ。元は超神速であった遥の刺突も、結界を破る度にその速度を喪い、遂にはあと1歩でレディに切っ先が届こうかという距離で最後の結界によってその猛進を阻まれてしまった。

 

 あと1歩踏み込めば容易に届くその距離が恨めしい。遥がもう少しダメージを受けていなければ、或いはもっと強かったのなら、届く距離なのに。だが彼の思いとは裏腹に身体は運動エネルギーを失って、重力に従って落ちていこうとする。その直下では落下する彼を待ち受けるかのように、泥が蠢いている。

 

 そんな、まさに危機という言葉をそのまま表したかのような状況だからだろうか。遥の主観が引き延ばされ、この状況を打開すべく思考が高速で巡る。だが、不可能だ。封印の魔術で足場を作るにも、魔力放出を使うにも、レディの防壁を破るに足る加速を生み出すには要素が足りない。それでもなお足掻こうとする遥の耳朶に、イリヤの声。

 

「ハルカさんッ!!」

「――っ!?」

 

 瞬間、彼の後方で閃光が瞬く。それは紛れもない死の光。裏切りの魔女を夢幻召喚しているイリヤがその膨大な魔力量を以て幾条もの魔力砲撃を撃ち放ったのである。それらは射線上にいる残骸兵らを蹴散らし、遥へと迫る。

 

 それだけを見れば、イリヤが裏切ったとも捉えることができよう。しかし、遥は正しくイリヤの意図する所を理解した。魔力放出によって体勢を変え、障壁を蹴って自ら砲撃に接近。そうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、跳躍。遥の全力の踏み込みに加え魔力砲による加速を得たその身体は一瞬で先のそれに匹敵する程の速度にまで達した。自らの固有結界が発する焔を纏い飛翔するや、溢れた魔力が暴風のように吹き荒れ瓦礫を吹き飛ばし、魔女の居城を破壊の渦に沈めていく。だがそんなものは彼らの意識の端にも留まりはしない。彼らは互いに互いしか見えず、片やその霊核を貫かんと、片やさせじと吼える。

 

「ぐうっ……こ、のォォッ!!」

「ハアァァァァァァッ……ォオォォォアァァッ!!」

 

 己の総てを吐き出すかのような、渾身の咆哮。その刹那、遥の握る叢雲の刀身が防御陣の隙間に潜り込み、それによるある種の逆説によってその存在を維持できなくなったのか巨大な音を立てながら崩壊した。術式を壊され砕け散り無意味な破片と化した魔力の中を、剣士が馳せる。

 

 そこまで接近すれば、そこからはもう遥の距離だ。それでもなお阻止せんとレディは魔力を巡らせ、しかし先んじて叢雲の刃がレディの鳩尾に突き刺さる。だが勢いは止まらず、そのままふたりは城の壁に叩きつけられ神刀が突き刺さった箇所から蜘蛛の巣状に罅が広がった。

 

 そうして速度を失った遥の身体は重力に従って落下し、それに伴ってレディから叢雲が抜ける。だがその刺傷箇所から吹き出したのは鮮血ではなく、呪いの汚泥。見ればレディの外殻である美遊の霊基そのものに傷はなく、泥だけが鳩尾から吹き出していた。そして、遥の手には確かに魔女の霊核を断った感触が残っている。

 

 遥の突貫は、半ば賭けであった。接近の最中でも己の生存を勝ち取るというということではなく、美遊を傷つけずにレディの霊核を断ち切れるか否か、ということも。イリヤが破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)によって術式を無力化したことで発生した霊基の〝綻び〟とでも言うべきものの間隙を突き、形あるものでなく明確な形のないものを斬る――間違いなく、この世界にレイシフトする前の『空』に開眼していない彼では不可能だった芸当だ。

 

 最早指先ひとつを動かすのでさえもひどく辛い身体を駆動させ、更には禁忌に近い真エーテルまで使い、遥はレディの霊核を断った。確かに、断ったのだ。嗚呼――それなのに。それなのに!

 

「コイツ、()()()()()――」

 

 ()()()()。そう続く筈だった言葉はなく、代わりとばかりにぞぶり、という異音が彼の脳裏に響く。それは落下していた彼の身体を、床面から伸びた触手が貫いたことによるものだ。それに気づくより早く彼は血を吐き、触手はその身体を地に叩きつける。

 

 そのまま倒れ伏し、動かなくなる遥。絶命したか、気絶したか、或いは限界を超えた疲労で動けなくなっているだけか。それを態々確認しているような余裕はレディにはなかった。彼女は未だ美遊の霊基を支配してこそいるものの、間違いなく霊核は断たれているのだから。それ故か、その身体の内側から湧き出るようにして霊子の光が漏れている。

 

 文字通り死に体と言うべき有様である。そんな状態でありながらレディが生命を保っているのは、皮肉と言うべきか美遊のもつ聖杯としての機能であった。魔女の尋常ならざる執念、そして消滅せずに残っている魂の意志をあくまでも機械的なものでしかない聖杯は愚直にも汲み上げ、結果的にレディを延命させている。まさに理論と過程を省略し結果だけを現出させる聖杯だからこその荒業と言えよう。

 

 だが、それが通用しなくなるのも時間の問題だ。いくら聖杯を掌握しその機能で延命しているといえど、霊核を喪失した時点でレディはもう長くない。彼女に残った魔力では、十全な獣としての霊核を再構築できないのだ。故に、彼女が次に執る行動は決まっている。

 

 レディがステッキを振るう。直後、彼女の後方に広がっている泥沼から更に残骸兵が這い出し、それに伴ってレディから漏れる霊子が増加する。先の十全な状態とは異なり、今の彼女にあるリソースは限られている。その大半を残骸兵の召喚・使役に割いたのだから当然だろう。

 

 だがそうまでして召喚された残骸兵は元の数と比較すれば見る影もない程に減少してしまったとはいえたかが2人に差し向けるにしては異常な数だ。半壊した玉座の間を満たさんばかりに出現した残骸兵を前にして、クロエが憎々し気に呟いた。

 

「ッ……多過ぎなのよ! もう形振り構っていられないっての!?」

「でも、戦わないと……!」

 

 最早退路はない。いや、仮に退路があったとしても、ふたりは逃走という選択をすることはなかっただろう。彼女らがこの戦いから逃げてしまえば、多くの人々が犠牲になる。その中には当然、彼女らの家族や友人、そして大元(オリジナル)の自らも含まれている。それを看過できるような精神構造を、彼女らのそれはしていない。

 

 だが、その愚直なまでの善性は彼女らの美徳であると同時に敵にとっては付け入るための好機とも成り得る。何せ策謀を巡らせずとも戦力をぶつけるだけで良いのだから、手負いの敵にとってはこれほど好都合な相手はいない。

 

 虚空の次々と咲く爆炎の華。それを齎す魔弾剣弾は正確に残骸兵を撃ち抜き只の汚泥へと還すも、一向に数が減る様子はない。それどころか黒泥からはイリヤらが残骸兵を撃墜するペースを上回る速さで新たな戦力が再生産され、その度にレディはより消滅に近づいていく。この攻撃、否、捕食は彼女にとっても重要なことなのだ。

 

 それだけではない。イリヤらに迫る残骸兵は一見すると無策無謀で彼女らに向けて突っ込んできているように見るが、注視してみれば攻撃から身を守るために他の残骸兵を盾にして自らを守り、弾幕を潜り抜けている。そうして盾となり失われた側も次の瞬間には再生産されているのだから、実質的にレディ側の戦力減少は皆無に等しい。リソースの分割で消滅に近づいていくレディ只1人を除いて。

 

 だが手負いの獣が土壇場で思わぬ力を発揮し危機を回避するのと同じように、死に体の人類悪が目前まで迫った死を撥ね退けるべく限界を超えた力を揮うのは半ば自然なコトであろう。そしてその悲痛なまでの攻撃を前にして、魔法少女らは少しずつ追い込まれていく。

 

 その状況を打開するべくイリヤが取り出したのは1枚のクラスカード。彼女と最も相性の良い『狂戦士(バーサーカー)』ではなく、強力な対軍宝具を有する『騎兵(ライダー)』。だがそれを夢幻召喚(インストール)するため攻撃が止んだその一瞬、クロエが叫んだ。

 

「――ッ!? イリヤ!!」

 

 果たしてそれを、誰が責められるのだろうか。彼女らは今残骸兵の軍勢を前にして魔力切れも起こさず戦闘こそ成立できているが、精神力や集中力は長時間に渡る戦闘で消耗しきり、現界に近い状況なのだ。

 

 それ故か『騎兵』の夢幻召喚を実行するために意識がそちらに向けられ、イリヤの注意が己の視界外から迫ってくる残骸兵への索敵から逸れた。それをカバーするためにクロエはイリヤの背後から接近してきた残骸兵を撃ち落とそうと弓を引き絞る。

 

 クロエが放った剣弾を受け、その身を四散させる残骸兵。しかし一度決壊した川が容易には止まらないように、隙を突いた攻勢は簡単に押し戻せるものではない。散った残骸兵の抜け殻を足蹴にするようにしてその後方から複数の残骸兵が現れ、攻撃するのではなくクロエの胴に組み付いた。

 

 咄嗟にクロエは黒弓を消し投影した双剣を組み付いてきた相手に突き立てるも、残骸兵は消滅する気配すらも見せず、逆に双剣ごと取り込むように盛り上がった泥の肉に腕が呑まれてしまった。彼女を助けようとしたイリヤもまた残骸兵に獅噛みつかれ、動きを制限されてしまう。

 

 更に彼女らに絡みつき拘束具と化した残骸兵に重なるように複数個体が溶け合い、ある種の摂食器のように変化する。その先に広がっているのは顎門(あぎと)のように開いた泥と、深淵の如き暗闇だ。それを目の当たりにしたふたりの脳裏に最悪の、しかしこのままでは当然起こり得る光景が過り、思わず目を瞑った。

 

 直後、大気を裂くような轟音。同時に彼女らの身体を圧迫していた泥の感覚が消え去り、代わりに奇妙な温かさが包んだ。それはまるで、優しく腕に抱かれているかのように。恐る恐る目を開いてみれば彼女らを守るように渦巻く焔が、ふたりを捕らえていた泥を焼き、無に還したのである。そして、そんな焔を扱える者はこの場でひとりしかいない。

 

 その存在を察知し反撃に出た泥の顎門を斬り裂く焔を伴った魔力斬撃。そうして散り散りになった泥は焔に呑まれて消滅する。尤も、そうして散った泥に内包されていた残骸の魂はレディの許へと還るだけだ。そちらへ割いていた力を強制的に戻されたレディが闖入者――遥に向けて嫌悪の表情を向ける。

 

「余計な真似を……そのまま気を失っていればよかったものを、剣使い!!」

「そういうワケには……いかねぇな。子供(ガキ)が頑張って、戦って……苦しんでるのに、大人の俺が安穏と眠ってられるかってんだ。……あぁ、大分情けない所を見せちまったが、子供(ガキ)守んのが、大人ってモンだろう?」

 

 そう臆面もなく宣う声音に、嘘の色合いはない。レディの攻撃に全身の至る所を貫かれ、呪いの汚泥に犯されて回復もままならない文字通りの満身創痍の有様であるというのに、まだ戦うつもりなのだ、遥は。出会って大した時間も経っていないイリヤとクロエ、そしてカルデアの仲間達を守るために。

 

 ある種の献身、痛ましいまでの自己犠牲。遥がしている事は形だけを見れば、彼の行動はそう形容する他ない。だが、彼は己を犠牲にするつもりで戦っているのではない。彼はただ、彼自身の意志と責任において自らその決断をしているのだ。であれば、その行為は自己犠牲などではあるまい。イリヤらを守るのも、カルデアを守るのも、それは彼にとっては誰かのために行う行為ではなく個人の内で終始する欲、つまりは自分自身のためなのだ。

 

 ――いや、今は聊か違うだろうか。確かに、少し前までの遥ならば利他的なようで利己的な意志のみの下に動いていただろう。しかし、今、彼の内に在るのは彼自身だけの思いではない。その事実を、彼は素直に認めよう。故にこそ、その言葉は正しく宣誓であった。

 

「あまりこういうのは柄ではないが、敢えて言わせてもらおう。――ファースト・レディ、嘗ては始まりの魔法少女と呼ばれた者。おまえは俺が止める。ミラーとディルムッドから託された遺志を、俺が為す」

「ッ……!」

 

 瞬間。遥は確かにレディの憤怒が彼女の限界を超過したのを感じ取った。さもありなん。ただでさえ遥は彼女にとっては計画を乱しあまつさえその霊基が崩壊寸前にまで追い込まれる原因を作った下手人であるというのに、それだけでは飽き足らずに止めるとまで宣ったのだから。それも、それがミラーの遺志だとまで言って。

 

 それだけではない。最早霊基の崩壊が取り返しのつかない領域にまで入ってしまったせいか、或いはミラーの介入によって引き剥がされた自己欺瞞が限界に達したのか、事ここに至りレディの脳裏には忘却した筈の記憶が嵐天の濁流のように止め処なく氾濫していた。

 

 そこに在る魔法少女――世の為人の為、そして何よりも己の願いの為に戦う者の姿はまさしくレディと戦うイリヤやクロエの姿そのもので。では、彼女自身は? 考えるまでもない。人類の為、友の為などと言いながらその実、全てを滅ぼすなどという身勝手な理想を振り翳す彼女は、紛れもなく嘗て彼女自身も戦っていた筈の〝魔女〟の姿そのもので――

 

「違う……違う違う違う! 違うッ!!」

 

 そう。違う。そうであってはならないのだ、と彼女は叫ぶ。たとえ彼女の理論がどれだけ酷い独善であっても、独善ですらない悪であったのだとしても、彼女は魔女ではなく魔法少女でなくてはならないのだ。何故なら彼女は魔法少女なのだから。

 

 支離滅裂。堂々巡り。袋小路。そうとしか形容のできない思考は、あくまでも本質は肉体のない意識体でしかない彼女の霊基がもう留めようのない程にまで崩壊している事の証左だ。それでも妄執は消えず、身体は動き、壊れた思考は巡る。だがそんな有様で導き出される解答が、正常である筈もない。

 

 消さなければ。殺さなければ。その思考に辿り着いたその瞬間、レディの意識はそこで固定された。それだけならば今までと何ら変わらないようにも思えるが、今度のそれには先がない。その意志はただ殺すことだけが目的で、救済など、ない。

 

 玉座の間に飛び散っていた泥が霧散し、同時にレディの背に在った双翼が爆発的な魔力の高まりと共に再生する。そうして、空中へと転移。その間に行使された魔力量は、いかな獣とはいえ死に体の霊基により出力されるものとはとても思えない。その様は、自爆という表現が最も正しかろう。

 

 恐らく彼女に残された魔法少女の魂だけではなく自らの霊基までもを全て集積し、圧搾し、魔力を捻出しているのだろう。たとえ死に体であるのだとしても、レディの霊基そのものを魔力とすれば相当な魔力量になる。尋常なサーヴァントですら、7騎の魂を集めれば世界に孔を穿つ程になるのだから。

 

 そうして収束した魔力の規模たるや、単純に解放するだけでも容易に都市ひとつを消し飛ばして余りある程度の破壊を齎すだろう。それに耐えきれなくなったのか、或いはレディの霊基が崩れつつあるからか、周囲の世界がまるで絵画に黒絵具をぶちまけたかのように崩壊していく。特異点が崩壊しつつあるのだ。その速度は非常に遅々としてはいるが、万が一にも放り出されれば待っているのは抗い様のない死だけだ。

 

 しかし、遥は動じない。動じるだけの余裕がないのもあるが恐怖や焦燥は剣を鈍らせる余計なものであり、『空』と体得した彼の一斬にそれは全くの不要だ。ただ斬り、ただ殺す――どれだけ聞こえの良い言葉で飾ろうと、剣士のすべき事はそれだけだ。余計なものは必要ない。

 

 腰に帯びた鞘との間に結ばれた経路(パス)を完全に解放する。それによって鞘の一部として使われているヒヒイロカネが産生する真エーテルを抑制する機構が悉く解除され、大半が損傷している遥の魔術回路へと瀑布の如く流れ込んだ。本来なら現代には存在し得ない魔力が、際限なく。

 

 短絡。断線。常人であれば魔術回路が壊れ果て五体が爆裂していてもおかしくはない中で遥は己に宿る神と再生能力により強引に第五真説要素を屈服させ、その全てを天叢雲剣へと叩き込んだ。輝きを増す神刀。起動したそれが空間中の空間魔力(マナ)を喰らいつくし、一帯が魔力枯渇状態へと陥った。その空白を埋めるように、遥の足元から黄金の光が噴きあがる。

 

 頭上に掲げた天叢雲剣から立ち昇る加速魔力の刃はまるで天を支える光の柱が如く。その力によるものだろうか、レディを中心として引き起こされた世界の崩壊、その顕れである孔が光に縫われるようにいて閉じていく。崩壊と再生が鬩ぎ合うその光景は、さながら御伽噺の挿絵をそのまま抜き出したかのようですらあった。

 

 だがその崩壊と再生の螺旋は非常にも担い手の優劣を映し、世界はゆっくりと、かつ確実に壊れていく。神の血を受け入れ天叢雲剣の第二拘束を解除した遥でも、手負いの獣の幼体にさえ及ばない。それでも、剣士は臆さずに獣に挑む。

 

「――この輝きは天の光。現世を渡り、幽世を羽撃く、救世の剣!!」

 

 祝詞は厳かに、かつ祈りのように。それに応えるようにして神剣はよりその出力を上げ、遥の身体を経て流れていく真エーテルの瞬間的な量が激増する。それにより担い手である遥自身への負担が大きく増すのは言うまでもない。その辛苦は、まさに魂を焼き切らんばかりだ。

 

 崩壊する水晶の城。落下した天井の瓦礫は地上に届く前に世界に開いた孔から覗く無に吸い寄せられ、砕かれ、消えていく。いくら天叢雲剣が世界の崩壊を食い止める力を有しているのだとしても、元々がレディの固有結界であるこの特異点へと干渉力が彼女より劣るのは自明であろう。

 

 1歩、片足を前へ。たったそれだけの単純な動作でも遥の全神経が悲鳴をあげ、視界が白く染まる。だがそれも束の間、彼の視界のうち左側が闇に包まれた。恐らく聖杯の泥による汚染や真エーテル行使の反動で負ったばかりのダメージの蓄積が、彼の再生能力を上回ってしまったのだろう。それだけではない。全身の至る所で再生が追いつかなくなった機能が停止していくのが、彼には嫌に鮮明に知覚できていた。

 

 だが、構うものか。内心でそう呟き、遥は残された右目、その霞みつつある視界で天空に座す魔女を見据える。五感の喪失、呪詛による浸食、大抵の負傷は彼にとって生きてさえいれば治るものに過ぎない。いや、たとえそうでなかったのだとしても、やはり彼は同じ選択をしただろう。獣の打倒を為せるのは自分だけで、逃げれば自らが愛した人々が望まぬ死を迎える羽目になる。なれば、自分がやるしかない。彼が命を懸ける理由に、それ以上は要らないのだ。

 

 遥も、レディも、それぞれ異なる信念の下に己の命、全存在すら差し出して眼前の敵を屠らんとしている。それに伴って放出される魔力の波濤が大地を薙ぎ、崩壊と再生の繰り返しによる天変地異が世界を焦がす。その中心で、獣と剣士が吼えた。

 

 

 

「夢幻の果てに消えなさい。

 ──〝無限の幻想(アンリミテッド・プリズマ・コーズ)〟!!」

 

「第二拘束、解放。

 ──〝全天を照らせ、救世の神剣(アマノムラクモノツルギ)〟!!」

 

 

 

 宝具、開帳。奇しくも全く同時に行われた真名解放により繰り出されたのは、紫や黒、赤の禍々しいマーブルの極彩色を呈する巨大な魔力砲撃と黄金に輝く魔力斬撃。それらが中空でぶつかり合い、あたかもその接触面が事象の地平面であるかの如く世界が捻じれていく。

 

 異常な魔力量と最早魔術や魔法といった領域を逸脱した純粋な神秘の具現とも言える現象をカルデアでも観測したのか、辛うじて壊れずに残っていた通信装置にカルデアからの通信が開き、ロマニの声が流れる。しかし、遥には聞こえない。ただでさえ今までのダメージで五感が薄れているうえ、宝具解放による轟音で音声は殆ど掻き消されてしまっているのだから致し方ないことであろう。

 

 血を吐く。感覚が薄れていく。限界を超えて肉体を酷使しているが故の、自らの命が急速に擦り切れていく実感だけが、嫌に鮮明だ。それでもそれを歯を食い縛って耐え、猛毒にも等しい真エーテルを高速で巡らせ極光を放ち続ける。しかし。

 

(っ……押される……!)

 

 僅かに後退する遥の身体。極光の斬撃によって発生する反作用を打ち消し彼を固定するための力が、レディの宝具から受ける力に負けている。つまり、遥の極光がレディが放つ滅びの光に押されつつあるのだ。

 

 既に霊核を失っているというのに、何という魔力量か。その威力はレディが彼女に残された魔力を全てこの攻撃に動員している証左であり、同時にこの魔力量を以てしても再生が叶わないビーストが如何に規格外に強大な存在であるのか、という事でもある。

 

 前方からの圧力でぶれる切っ先を正中に抑えるべく柄により握力を込める。しかし秒読みで擦り切れていく身体では満足な膂力が出ず、尚も押されていく。それでも意志は未だ折れず、それなのに全身が言う事を聞かない。感覚は遠く、腕や足は疲労やダメージの影響で痺れが酷くなり始めている。

 

 やがて最後まで残ったその意志ですらも瞬きのような断線を繰り返すようになったのは、決して不自然な事ではないだろう。むしろ彼の意識はとうに維持できている方が不自然な程で、それを今まで無理矢理繋いでいた彼の精神力が異常であったのだ。けれど、最早万事休すか。そんな諦念を他ならぬ遥が抱きそうになったその瞬間、その背に何かが触れた。とても細く、非力で、それなのに無条件で信頼できる――そんな、何かが。

 

「頑張って、ハルカさん!」

「こんな所で倒れるタマじゃないでしょ、マスター!」

 

 果たしてその少女らの声は、摩耗した遥の聴覚に届いたのか否か。だがその直後、苦痛に歪み続けていた遥の口角が僅かに上がったのは、決して彼女らの見間違いではなかっただろう。尤も、それが彼女らの鼓舞によるものか、或いは契約を逆流するようにして流れててきた微弱な聖杯の加護によるものかは、誰にも分からないが。

 

 イリヤとクロエ、比喩でも何でもなく2人1対の聖杯の少女らが無意識に遥に与えた加護は、そう大したものではない。極僅かな肉体の再生、それだけだ。この状況にあって聊か心許なくも思えるが、遥にとっては望外の支援であった。

 

 四肢の痺れが消失する。耳鳴りが遠退き、聴覚野を轟音が埋め尽くす。殆どは闇に閉ざされようとしていた視覚が朧げながらも再び開く。その中で、遥は見た。彼の背後から伸びた細腕が、彼を後押しするかの如くその両腕に添えられた光景を。ふと視線を横に遣れば、慈愛を湛えた紅い瞳と目が合った。

 

 それは実像ではなく虚像。遥の視界にのみ映った幻影だ。何故なら彼女は今、宝具と化して遥の魂と同調しているのだから。だがそれは同時に幻影が彼の妄想ではなく、彼女が確かに彼の事を後押ししている証左でもある。

 

 支えられている。疑い様のない明瞭な事実として、遥はそれを感じていた。そして、その事実を前にして、彼は。

 

「あぁ────ハハ。ハハハ、ハハハハッ!!」

 

 ──笑う。この上なく勇猛に。この上なく壮絶に。そして、この上なく空虚に。笑声をあげながら同時に血を吐くその姿はともすれば破れかぶれの自棄になっているようにすら思えるが、しかし束の間の大笑の後、彼の顔にあったのは先のそれよりも強力な『覚悟』の表情であった。次いでそれを宣誓するかのような、咆哮。

 

「こんだけ支えられて、託されたんだ。なら――死んでも負けるワケにはいかねぇな!!」

 

 瞬間、天叢雲剣から放出される極光の出力が爆発的に上昇し、遥の側に押されつつあった斬撃と砲撃の接触面がレディの方へと押し戻される。在り得べからざるその現象を確認し、レディもまた出力を上げようとするが、最早己自身の霊基の大半を消費した彼女ではこれ以上の出力上昇は望めない。

 

 神剣の唐突な出力上昇。その最大の要因がイリヤとクロエが有する小聖杯の権能による理外の回復であることは疑い様がない事実だ。その回復した分を使い潰すようにして限界超過の真エーテルを回路に押し込んでいる。であれば極光の瞬間的な出力量が増加するのは道理だ。だが、それだけではない。

 

 彼が宿す神核が齎すスキルのひとつ〝清廉なる誓約(うけい)〟。己の行いが正道であると認めた時にのみ発動するが故に彼個人では発動が難しいこのスキルが、この状況にあってようやく稼働した。その効果により彼のステータスに僅かな上方補正が掛かり、その差とイリヤらの支援が相まって極光の威力を上昇させたのだ。

 

 滅びの光が、星の息吹によって押し流されていく。禍々しい極彩色が黄金によって塗りつぶされる。それは紛れもなく魔女の劣勢を表すもので、しかし不思議と暴虐めいてはいない。それはまるで、滅殺の光の本質である魔法少女の嘆きを星の、そして人々の祈りが癒し、溶かしていくようですらある。

 

 或いはそれは、必定の結末だったのか。人を救うと謳いながら人を憎み、招き集めた魔法少女と手を取り合うのではなく彼女らを壊し取り込むことでたった独りでの救済を志した魔女と、己を人外の魔であると認めながらも他者から託された希望を為すべく死に体となってでも立ち上がり仲間と手を取り合った剣士。共に窮地にあるのなら、その差は埋め難いものとなろう。

 

 極光が眼前にまで迫っている事によるものか、それとも魔力切れと霊基損耗による消滅が彼女の自我にまで及んだのか、レディの視界が次第に白く染まっていく。そうして完全にホワイトアウトする直前、彼女が見たのは担い手の魔力切れにより霧散した光の背後から朧に輝く炎刀を構え迫る遥の姿で――

 

「嗚呼、私は――」

 


 

 ――世界が崩壊していく。この特異点の根幹であった固有結界の主たるファースト・レディ、否、今となっては名もなき少女が消滅したことでその存在を維持できなくなり、テクスチャである心象が虚空に溶け始めているのだ。

 

 その終焉が、遥には嫌に遠く感じられる。それはカルデアからのレイシフトにより既に彼らの退去が始まっているのもあろうが、それ以上に遥自身が酷く消耗している所に拠るものが大きい。五感すら判然としないためか宝具状態から戻ったクシナダや転身を解いたイリヤが何を言っているのかも分からず、辛うじて分かるのは彼が自らの流した血溜まりに倒れているという事だけだ。

 

 レディとの戦闘で負ったダメージだけではない。神核と霊基の外部制御装置である桜花零式を纏わず無理な出力で力を行使し続けた反動が今になって返ってきたのだ。それらが只の負傷であれば『不朽』である遥には何の問題もないが、神核由来のダメージと再生阻害による病巣はどうしようもないのである。そんな有様で美遊に契約を繋げることができたのは、半ば奇跡とすら言えよう。

 

 呼吸が浅くなっていく。意識が遠くなっていく。それに従ってただでさえ薄れていた感覚がさらに希薄化していく。身を包む浮遊感は実際に感じているものではなく感覚の喪失による錯覚だろう。

 

 次第に狭窄していく視界の中で瞬く光は未だ意識を失ったままの美遊の中から脱離していくレディの霊基の残滓だろうか。全くの無秩序に浮かんでは消えていくそれはまるで泡沫のようで、しかし遥はその中に異質なものを見た。それは言うなれば、1対の蝶か。ひらひらと、共に寄り添うようにして昇っていくその姿に、彼は思わず笑みを覗かせて――

 

(あぁ……逢えたのか……よかった)

 

 そして、彼の意識が闇へと落ちた。




 変異特異点γ〝夢幻魔女帝国プリズマ・コーズ〟修正完了(Order Complete)


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幕間の章Ⅱ
第83話 transient/permanent


 人理継続保障機関フィニス・カルデア。現行人理にとって最後に残された希望とも言える施設の一角に位置する医務室の、更に奥。ある程度の疾病ならば科学と魔術の粋を集めたカルデアの技術で容易に治療できるが故に滅多に使われる事がない病室区画の中でも厳重に隔離された集中治療室(ICU)の計器に、光が灯っている。決まったリズムで響く電子音は、心拍を記録する心電図の音か。他にも霊薬を含む数種の薬剤が並べられたその中央に眠っているのは他でもない、〝人類最後のマスター達〟の片割れたる遥である。

 

 〝変異特異点γ〟、その発生原因であったファースト・レディ、もといビースト・ラーヴァを打倒し、遥らがカルデアに帰還してから3日に時が経つ。外見こそ持ち前の脅威的な生命力とロマニら医療スタッフの尽力により一切のダメージが回復しているように見えるが、彼が負ったダメージは外側よりもむしろ内側、及び目には見えない程小さい領域の方が深刻であった。

 

 その原因というのが、ビースト・ラーヴァとの戦闘中に遥が何度も浴びせられた聖杯の泥、それによる細胞汚染だ。彼はその身に宿す固有結界の性質故に聖杯の泥に対しては極めて高い耐性を有するが、それが齎す副産物についてはその限りではない。特に彼の再生能力の要とも言える細胞、ひいてはその機能に手を出されてしまえば、対処のしようがないのである。

 

 生体を構成する最小単位は細胞である。一応は細胞そのものも数種のオルガネラに分割できるが、タンパク質合成や解糖系等それぞれの機能が細胞という場で関与し合って生命を維持している以上、細胞が最小単位というのは間違いではなかろう。それは、たとえ半神である遥であろうとも変わりはない。いや、超常的な再生能力を持つ遥にとってその事実は余人よりも大きな意味を持つとも言えよう。

 

 時間を逆行させているかのようとも形容される遥の再生能力であるが、実際の所、再生時に彼の身体で起きている現象は全くの逆だ。起源に由来する世界からの修正力により、細胞が限界を超えて分裂しているのである。だが、細胞が汚染されてしまえばその再生能力も働かない。加えてその細胞汚染そのものも彼の身体に多大な負荷をかけており、医療スタッフの手により被汚染細胞が取り除かれた今でもその影響が残っている。

 

 他にも代謝不全や魔術回路の機能不全等、遥の身に起きた症状は全てを挙げようと思えばきりがない。体内に侵入した泥は固有結界の作用により消滅し被汚染細胞も摘出、それ以外の負傷もアイリの宝具〝白き聖杯よ、謳え(ソング・オブ・グレイル)〟によりその大半が回復されていながらICUから動かされていないのは、彼の身体よりも症状の特異性に依る所が大きいのである。尤も、理由が何であるにせよ未だ遥が意識を取り戻していないという事実に違いはないけれど。

 

 ――病室区画。そのICUと廊下を隔てるガラス窓の傍で、クシナダは何度目になるかも分からない溜息を吐いた。その恰好は霊衣である紅白の巫女服や普段着として用いている現代風のそれでゃなく、質素な入院着。更にはその入院着から露出した白い肌には、本来ならサーヴァントには必要がない筈の包帯や創傷被覆材が見受けられる。

 

 だがそんな自らの状態など眼中にないかのような様子で、クシナダはICUの中で眠る遥を見つめている。その表情に現れている思いは心配だけではなく後悔や自嘲、自罰と形容できる凡そ全てで、それが彼女の胸中で渦を巻いていた。

 

 あの日あの場所、その決戦の只中に、クシナダもいた。いや、いたなどという程度ではない。彼女は自らの宝具により遥と同化していたのだから。彼と同化・同調することによりそのステータスを限界以上に強化するというその性質は、間違いなくあの戦いに勝利するには必要不可欠なものであったと言えるだろう。いくら遥が半神で肉体の負担を無視すれば極短時間とはいえ上位サーヴァントに匹敵する程の戦闘力を発揮できるのだとしても、彼単独では決してビースト・ラーヴァには勝利し得なかった。

 

 けれど、どうしても考えてしまうのだ。もしも自分にもっと力があれば、より強大な相手とでも渡り合えるだけの強さと力があれば、遥はこれほどまでに傷つかずに済んだのではないか、と。

 

 それが叶わぬ思いであることは、クシナダ自身も理解している。彼女は自らで戦うための武具を持ってこそいるものの、その本質はあくまでも『魔術師(キャスター)』であり巫女。前線で戦うのではなく戦う者に対する支援こそが、彼女の本来の役目。故に彼女のステータスは人間の英霊にも劣る部分が大きい。

 

 それだけではなくビースト・ラーヴァと化したファースト・レディはビーストの権能として魔法少女やその素質を持つ者、及び魔法少女に掛ける願いがある者では絶対に傷を負わせることができないという概念を有していた。つまる所、女性ではレディに対し絶対にダメージを与えられないのである。その時点で、どれだけクシナダが強かろうとも遥が戦う以外に選択肢など発生し得ないのだ。

 

 この身が男であれば、とは思わない。もしも彼女が男神であったなら、まずこの場にいる事さえなかっただろう。だとしても、叶わぬ望みを抱き夢想してしまうというのは知性と感情のある者の性、仕方のない事である。

 

 彼女は彼女にしかできないことをしたのだ。全力で、他人任せにせず。それは彼女だけではなく遥やイリヤ、クロエも同じで、だからこそきっとこの結果は彼女らに実現できる最上で、それが尚の事口惜しい。今、遥が目を覚まさないという状況を前にしてただ見ている事しかできないという現実もまた同じだ。

 

 どれほどの間そうしていただろうか。時計もなく大した変化もない空間では時間の感覚も曖昧で、しかし唐突に変化が起きた。接近してくる足音。誘われるようにしてそちらを見れば、その先にいたのは遥と契約している『剣士(セイバー)』、沖田総司であった。

 

「沖田様……」

「クシナダさん……!! もう起きて大丈夫なんですか!?」

 

 クシナダの姿を認めるや否や驚き慌てた様子で彼女に駆け寄る沖田。それは何も知らぬ者が見れば聊か大袈裟に過ぎるようにも思えるが、しかし、クシナダを身に起きた事を考えれば当然の反応でもあった。

 

 そう、ビースト・ラーヴァとの戦闘中に聖杯の泥をその身に浴びてしまったのは、何も遥だけではない。戦闘中に彼と同化していたクシナダもまたその影響を受けてしまっているというのは、半ば自明の理であろう。いくら遥が必死にクシナダを泥から守ろうとしていたのだとしても、彼ひとりの力では限界がある。彼は悪性への耐性を有するが、それも絶対ではないのだ。

 

 結果としてクシナダは黒化こそしなかったものの遥と同じく泥に呑まれ、しかし呑み込まれて分解されることなく帰還した。この世界の者らは知る由もないが、これはとある世界における第四次聖杯戦争において召喚された『弓兵(アーチャー)』ギルガメッシュに起きた現象と極めて似通っている。であれば、その結果も近いものとなろう。その結果とはつまり――()()に他ならない。

 

 在り得ないはずの現象だ。いかなサーヴァント、霊格を大幅に減衰され聖杯程度で受肉できるようになった存在とはいえ、神霊の受肉は本来なら抑止力が働き即座に生命維持が不可能になる筈である。いくら人理焼却によってアラヤが殆ど機能していないのだとしても、ガイアは正常に動いているのだからその原則に変わりはない。例外があるとすれば、受肉以前にその神格が人間、或いはそれに近しい領域にまで零落していた場合か。

 

 それこそが、彼女が聖杯の泥から受けた影響。受肉というのは結局の所、泥に呑まれながらも帰還したサーヴァントに普遍的に起こる副産物でしかない。遥を犯せなかった泥が彼の細胞を汚染する方向に転換したように、クシナダに対してはその神性を削ぎ弱体化させる呪詛を与え、、そのまま受肉してしまった。ある意味で、人の想念によって容易に変質する神霊の特性と人の魂の集積体であったレディの泥という組み合わせだからこその奇跡的な現象とも言える。

 

 要はクシナダは泥の影響で人間に近い領域まで零落した状態で受肉してしまったのである。そのため権能などは当然使えず、確立した人理を不安定化させるなど夢のまた夢。故に抑止力に見逃されたという訳だ。サーヴァントであればすぐに治る程度の負傷が治りきっていないというのも、彼女が受肉した証左である。

 

「えぇ。見ての通り、まだ完全に治ってはいませんが……もう出歩くのは問題ないと、ドクターが仰っていました」

「そう、ですか……それなら良いのですが……」

 

 そうは言いながらも、沖田の様子はどこか釈然としていないようである。果たしてそれは、クシナダを心配しているからなのか、或いは別の要因によるものか。穿鑿する気は、クシナダにはない。態々問うような事ではないし、何より不躾になってしまう。

 

 それきり会話の絶えるふたり。その視線は共に遥に注がれていて、しかしその意識に在るのは遥の存在だけではない事に、クシナダは気づいていた。それを証明するかのように、時折沖田は遥から視線を外してクシナダを見ている。その視線に含まれている感情はひとつではないが、一言で言うならば〝苦手意識〟だろうか。尤も、その苦手意識の由来は沖田自身でも分かっていないように、クシナダには見えた。

 

 ――クシナダの見立ては正しい。確かに沖田はクシナダに対して苦手意識を持っていて、けれどその理由は彼女自身も気づいていない。クシナダから何かされた訳ではない。むしろ沖田から見たクシナダは誰にでも優しく、神霊――今はそのカテゴリにあるかは怪しいが――だからとて驕らず、しかし決して非人間的な完璧超人ではない、そんな好感を持つに値する精神性の持ち主である。故にその苦手意識は誰に非がある訳でもないのだ。

 

 だというのに、確かに沖田の胸の裡には彼女の知らない感情が蟠っている。それは平時は何処かに隠れるように霧散していて、それなのにふとした時に顔を出しては彼女の中でその存在を主張する。そのタイミングは例えば、そう、今この瞬間、クシナダが穏やかで、けれど確かな愛情と同時に深憂を宿す目を遥へ向けている時などか。

 

 分からない。もどかしい。英霊沖田総司の20と数年の人生においてそれは一度も覚えたことのない感情で、故に名前も知らないままに元からそこにあったかのように収まっている。

 

 いっそのこと今目の前にいる感情の矛先に問えば、この思いの名前を教えてくれるのだろうか。そんな思考が一瞬だけ脳裏を過って、沖田はすぐにそれを否定した。明確な言語化はできないけれど、それはしてはならないような気がしたのだ。代わりに出てきたのは、一見すると取り留めがないように思える問い。

 

「クシナダさんは……これから、どうするんですか? その、受肉したという事は……」

「……死んでしまえば、それで終わり」

 

 沖田の言葉を引き継ぐかのように、クシナダはそう口にする。死んでしまえばその時点で終わりというのは人間にとっては当然で、通常の聖杯戦争においてはサーヴァントにも共通して言える。だが、カルデアの場合、システムがサーヴァントの霊基をリアルタイムで記録しており、再召喚時はそれがバックアップとなって消滅時の霊基を再構築するため消滅したとしても契約者(マスター)がいる限り〝次〟がある。

 

 しかしだ。受肉した場合は話が別である。サーヴァントというのは生きているように見えてもその本質は霊体。霊基という仮初の命と身体で構成された稀人であるが、受肉すればその存在は本物の血肉でできたひとつの命となる。それ故バックアップである霊基グラフから切り離され、結果的に替えが効かなくなるのだ。

 

 それだけならばまだ良い。だが彼女はただ受肉しただけではなく泥の影響で神性を削がれた状態で受肉してしまった。元よりあまりステータスの高くない彼女であるが、今では以前程の力を出すこともできまい。

 

 戦えないというのではない。彼女の強さはそのステータスよりも魔術や呪術、巫術、更には宝具に依る所が大きい。戦い方によってはステータス的には格上の相手と戦う事もできよう。それでも、サーヴァントであるが故のアドバンテージを全て失ってしまったというのはあまりにも大きい。

 

「本心を言えば、私も共に戦いたい……けれど、今の私ではきっと足手纏いになってしまう」

「そんな事は……」

 

 ない、とは言えなかった。きっとここで言葉を詰まらせるのは対応として正しくないのだろうが、クシナダは何も都合の良い欺瞞を欲してはいないし、客観的に見て彼女の分析は間違いではない。サーヴァントや遥のように傷を負ってもすぐに回復する訳ではなく、かといって相手を常に圧倒し得るだけの安定した強さがある訳でもなく、宝具も被強化者である遥の問題で長時間使える訳でもない。足手纏いとまではいかなくとも、今のクシナダが戦場にいては不安要素になってしまうのは確かだ。それでも、それは彼女が戦えなくなってしまったという事を示すものではない。ただ、サーヴァントのように安定した運用ができなくなったというだけの話とも言える。

 

 そして、クシナダがサーヴァントとしての強みを失った代わりに得たものがひとつだけある。とても些細で、ありふれていて、けれどサーヴァントには決して得られないもの。それは、〝未来〟だ。

 

 英霊とは過去の亡霊であり、その命は仮初のもの。どれだけ絆を結ぼうと、どれだけ思い出が増えようとも、どれだけ思い慕おうと、人理修復が終われば退去するのが運命。それは承知の上で、それまで共に戦い続ける事だけが沖田の望みで、それ以上なんて要らなかった。その筈なのに。

 

 しかし、嗚呼、その望みというのも、なんとちっぽけなものか。眠る遥を見ながら、沖田はそう独り言ちる。嘗て彼女は遥に誓った筈だった。サーヴァントとして、仮初の命が続く限りこの身は遥の剣で在り続けると。それだけではない。第二特異点における連合ローマとの戦争、その最中に沖田は令呪を通して命じられたのだ。最期まで共に戦え、と。漠然とした命令であったため令呪としての機能が働いたのは行使されたその瞬間だけであったけれど、その命令は沖田の中でまだ生きている。

 

 それなのに変異特異点γにおけるファースト・レディとの戦いにおいて、沖田は何もできなかった。何もしていなかった訳ではない。彼女はカルデアに与するサーヴァントとして、遥が守らんとする人々を守るために全力で戦った。その事に間違いはなく、遥は沖田がそうあった事を責める男ではない。むしろ感謝を示し、労いもするだろう。だが彼女がそう在ったことに、誰より彼女自身が納得できていない。

 

 沖田は全力で戦って、けれど遥と共に戦うという命令は果たせなかった。遥が傷つき果て、このような有様になるまで、沖田は遥に対して何もできなかった。沖田が望んだように在れたのは沖田ではなくクシナダで、きっと、立場が逆であったなら沖田は何もできなかっただろう。ファースト・レディがどのような性質を有していたのか、沖田は既にクシナダから聞き及んでいる。もしもその戦いで遥と共に戦っていたのがクシナダではなく沖田であったら、遥とイリヤ、クロエは死んでいた。そうなれば、その先に待つのは人理の崩壊だ。故にこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 優れた剣士である彼女には、疑うまでもなくそれが分かる。けれど、納得はできない。できる筈がない。この身は遥の剣であると誓った筈なのに、満足にそれを果たせなかったなどと。彼女の望む通りに在ったのは彼女自身ではなく、他のサーヴァントであったなどと。

 

 そこまで思い至り、ようやく沖田は自身の感情の何たるかを自覚する。沖田の願うような在り方をできたのはクシナダで、そして、彼女には沖田にはない未来がある。要は、沖田はそんな彼女を羨ましく思っているのだ。それは羨望などというどこか前向きな響きを帯びたものではなく、むしろ〝嫉妬〟と言うべきものだ。

 

 そうして自覚すると共に沖田の胸中に去来したのはどうしようもない悪寒であった。クシナダは沖田にとっては主を同じくする仲間で、その人柄には好感を抱いていて、それなのにどうしようもなく嫉妬している。そんな、ある種の善意と悪意が混在する混沌とした感情を抱くのは初めてのことで、故にこそ戸惑うと共に恐怖している。

 

 瞬間、訳も分からず遥の事を見ていられなくなり沖田は視線を落とす。その先に在るのは不必要なまでに清潔にされていることを除けば何の変哲もないただの床だ。だが再び顔を上げることもできぬまま、沖田は内心だけで呟く。

 

(分からない……私はどうすればいいんですか、ハルさん……)

 

 けれどその問いに答える声はなく、少女の懊悩は晴れぬままであった。




 今回はいつもより短めですが……繫忙期の中時間を見つけて書いたので何卒ご容赦頂けると……


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第84話 determination/awakening

 変異特異点γにおいてファースト・レディとの決戦が行われた際に彼女の配下である魔法少女の軍勢(プリズマ・コーズ)の襲撃を受けたカルデアであるが、幸いと言うべきかその被害はそれほど甚大なものではなかった。流石に軍勢を塞き止めていた管制室近くの隔壁等防衛システムの破損は免れなかったものの、人命の損失は皆無であった。

 しかし、人命が失われなかったとはいえ何も人的被害がなかった訳ではない。数は少ないとはいえスタッフの中には負傷者も出ているし、何より前線でサーヴァントの指揮を執っていた立香の負担は相当なものだった。マシュの奮戦におり目立った外傷こそないものの、彼の負担は外よりも裡に掛かっていたのだ。

 お世辞にも立香の魔術師としての適性は高いとは言えない。精神性は勿論の事、魔術回路の本数も精々常人に毛が生えた程度で、魔術も生まれ持った魔眼以外は礼装の補助がなければ使えない。そんな彼が自らの契約サーヴァントである5騎の他途中からは遥からの魔力供給が途絶えてしまった――これは後に泥に呑まれた遥が経路(パス)を通してサーヴァントに泥が流れ込まないように行った事だと判明している――5騎の計10騎に魔力供給を行っていたのだから結果など目に見えていよう。戦闘終了後、彼は魔力切れのために意識を失い、そのまま丸一日ほど眠ってしまっていた。

 とはいえ、意識を取り戻してから数日もすれば疲労や魔力量は日常生活に支障が出ない程度には回復する。加えて体内に埋め込まれた〝全て遠き理想郷(アヴァロン)〟の効力もあって、立香の身体は回路の負担による肉体の変質を除き殆ど戦闘前の状態を取り戻していた。それこそ、多少夜更かしをしたとしても体調に影響が出ない程度には、彼の身体は万全であった。

 人理焼却とカルデアスの特殊磁場による影響で一種の特異点となったカルデアに、明確な昼夜の概念はない。故に職員らのタイムスケジュールは国際的な基準であるグリニッジ標準時に則っており、その時刻で言えば深夜になる頃。多くの職員が眠りに就き人気の無くなった廊下を独り、立香は歩いていた。

 常であれば彼自身眠っている筈の時間だ。しかし今日は遅くまで自主的に魔術の勉強をしていて、気づけばこんな時間になっていたのだ。時刻を考えればそのまま眠ってしまうべきだろうが、長時間に渡って頭を使っていたせいか小腹が空いていて、足は自然と食堂へ向いていた。流石にこの時間ではエミヤを初めとする食堂を担当している者達は自室に戻っているだろうが、ホットミルクくらいは作ることができるだろうという算段である。

 日中では無為に歩いていても誰かの気配がある廊下も、この時間帯では行き交う者は皆無に等しい。それこそ、この世界に自分以外誰もいないのではないかという錯覚すらも抱いてしまいそうな程には。だがその途中、丁度居住区格の端辺りまで来た所で、唐突に近くの自動ドアが開いた。そうして、中から出てきた人物と目が合う。

 

「……立香さん……」

「美遊? どうしたの? こんな時間に」

 

 美遊・エーデルフェルト。もとい、朔月美遊。遥が変異特異点で契約したことでカルデアに来たサーヴァントの1騎であり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()もうひとりの人間。カルデアに来るまでの経緯に立香は一切関与していないが、目覚めた後に少々言葉を交わした事があった。尤も、親しいかと問われれば彼も少々首を傾げてしまうが。

 自覚しているか否かは不明であるが、藤丸立香という男はいっそ天才的とすら言える程のコミュニケーション能力の持ち主である。それは長年に渡って無機質な応答しかできなかったマシュが心を開いたり人類という総体を嫌っている遥が友誼を感じているという事実が証明している。そしてその才能は何も人間関係の構築のみに発揮されるものではなく、洞察力に関しても彼は人並み以上のものがある。

 故に、解る。美遊はイリヤとクロエ以外、端的に言えばカルデアの面々に対して、意図的に距離を置いている。人見知りなどという事ではない。その態度の原因は引け目や負い目、更には少しの恐怖であろうと、立香は思っていた。

 

「えっと……その、偶々目が覚めてしまって、それから眠れなくて……」

「アハハ、あるよね、そういうコト。オレも覚えがあるから分かるよ。

 あぁ、オレ、これから食堂に行こうと思ってるんだけど、美遊も一緒にどう?」

 

 本当に美遊の事を思うなら、ここはベッドに戻り眠るように促すべきなのだろう。大人びているとはいえ、彼女はまだ11歳の子供だ。睡眠の重要性は立香のようなある程度成長した人間よりも重い。

 しかし美遊がこのような時刻に目覚めてしまった理由が彼女自身が言うような偶々などではない事に立香は気づいている。その場合、簡単にはもう一度寝付けないという事も。その原因を取り除くことまではできずとも、少しでも助けになりたいという思いもある。

 暫し逡巡した後、無言で頷く美遊。そうして彼女がセンサの関知範囲から離れドアが閉まる直前に部屋を一瞥してみれば、同室のイリヤとクロエ、更にはステッキらも眠っているようだった。

 ――立香の予想通り、食堂は無人であった。入口付近のスイッチを操作して照明を点け、美遊に先に座っているように勧めてから立香は厨房へ向かう。そこで冷蔵庫から材料を取り出し、手早く準備を済ませる。果物のジャムとホットミルクを混ぜただけのホットジャムミルクという簡単なものだが、すぐに眠るつもりならこの程度で済ませるのが吉であろう。それを盆に乗せ、片方を美遊に差し出す。

 

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 少々戸惑いを覗かせる表情で礼を言う美遊。しかし立香は何も言わず微笑みだけを返すと、彼女の隣の席に座った。相手によっては馴れ馴れしく取られてしまいそうな行動だが、立香の纏う空気感には何処か、それを許してしまうような気安さがある。美遊の知る限りでは、それは何処かイリヤの気質にも近いように彼女には思えた。

 立香から渡されたホットミルクを一口啜る美遊。それ自体は何ら特殊な作用のないただの飲み物だが、不思議とその温かさは身体の中に染み入ってきてその奥底に巣食った〝薄ら寒さ〟とでも言うべき感覚を中和してくようにも美遊には感じられた。

 そう、こんな時間に美遊が起きてしまった原因は、ただの偶然などではない。悪夢。或いはヴィジョンとでも言うべきか。それがずっと彼女の脳裏で渦巻いていて、悪夢として現れてきたが故に目が覚めてしまった。それでもそのヴィジョンは美遊の脳裏に張り付いて離れなくて、思わず彼女は言葉を漏らした。

 

「立香さんは……」

「ん?」

「……立香さんは、わたしを恨んではいないんですか?」

「恨む? どうして?」

 

 そう返す立香の声音はあくまでも優しく、ともすれば美遊の問いの意味を解していないように聞こえなくもない。だが、そうではないのだ。彼は何故美遊がそう問うてきたのかを完全とまではいかずとも朧気に察していて、あえて口に出していない。その問いを先回りしてしまうのは、違うと思ったのだ。

 変異特異点γにてビースト・ラーヴァと化したファースト・レディの依り代にされていた美遊であるが、彼女はレディに乗っ取られている間に自分が、自分の身体が何をしたのかについて、全て記憶している。言葉にしてはいないが、それは間違いあるまい。故に美遊は今回の事件の原因の一端が〝自分がレディに乗っ取られた事〟にあると思っている。

 彼女が見てしまった悪夢というのも、その罪悪感に起因するものだ。ビースト・ラーヴァと化した自分(レディ)がイリヤを、クロエを、そして遥とクシナダを殺し、然る後に全てを滅ぼすという、起こらなかったif(もしも)。何もないままそんな夢を見れば何を莫迦な事をと嗤い飛ばせようが、彼女の記憶にはそれを現実のものとできてしまうだけの力を手にした自分が鮮明に残っている。

 それだけではない。美遊がカルデアに来てから何度か見かけた破損個所や職員の負傷も、レディによって送り込まれた残骸兵が原因だと彼女は知っている。故に、分からない。原因である自身に、何故こうも普通に接してくれるのかが。

 

「……恨んでなんていないよ。オレも、カルデアの皆も、多分、遥だって。美遊の事も、レディの事も、恨んでなんてない」

「遥さんも……?」

「うん。……まぁ、怒ってはいるかもだけど、(アイツ)は」

 

 何処か苦笑いにも見える笑みを浮かべ、立香は言う。だがその表情にあるのは嫌悪や諦念ではなく、遥に対する信頼であった。遥を理解し、信頼し、信用し、その上でなお少々呆れている。友誼故の確信が、そこにはあった。

 遥が怒っていると言っても、それは何も憎悪から来るものではない。憤怒とは憎しみだけが源泉ではないのだ。或いはそれは友との誓いを忘れ堕ち果てた少女への叱責であったり、或いは背負う必要のない罪を背負わんとする自罰的な少女への献身であったり。しかし、最も大きなものは己自身への無力感であろう。遥の怒りはきっと、全てを最良に導く事ができない彼自身に向けられていると、立香は思う。

 確かに遥は強い。最上位のサーヴァントには及ばずとも、その身に宿す力の程は人間の領域を逸脱していると言って良いだろう。それでも、彼は全能ではないのだ。彼は彼にできる範囲の事しかできなくて、故にこそ、その手からは様々なものが零れていく。きっと今回の事件についても、美遊らを元の世界に帰せなくなってしまった事をひどく悔やんでいるだろう。

 しかし、いや、だからこそ、遥はその手に残った物を否定はしないだろう。たとえ結果は最良ではなくとも〝朔月美遊という少女を助けた〟という事実とそうして助けた美遊を、彼は悪くは言うまい。否定してしまえば、それは己の道程に背を向けるのと同義であり、何より彼自身の信条を自分で否定する事になってしまう。立香はそこまで話し、ホットミルクを一口傾けた。

 

「たとえ君が、君の聖杯が遥を引き込んだ事が、オレ達(カルデア)がレディを関わりを持ってしまった発端なのだとしても、君は悪くない。だって、困っている人に手を差し伸べるのは、当然の事だろ? ……って、何もできてないオレが言うのは、違うかもだけど」

 

 そう言って笑みを見せる立香。それを前にして、美遊は思う。やはり似ている、と。他でもない、彼女の親友であるイリヤにだ。たとえどんなに強大な敵が待ち受けているのだとしても、そこに苦しんでいる人がいれば手を差し伸べるという、当たり前でありながら実行に移せる者はそういない善性。それを、美遊は立香の中に見た。

 彼だけではない。遥や、他のカルデア職員もそうだ。彼らはそれぞれ形は違えども善性を持っていて、故にこそ美遊は今、何事もなくこうして生きていられる。事件の発端である以前に聖杯である事を知られている美遊やイリヤが人間として在ることを許されてるのが、何よりも証左だ。もしもカルデアが悪意ある組織なら、とうに彼女らは実験動物(モルモット)にされていただろう。

 きっとこの先も美遊の仲には他者の悪意に呑まれ人を傷つけてしまった事への罪悪感が残り続けるだろう。だが、それでも此処にいて良いのだと、彼らは言うのだ。無関心ではなく、善意故の受容。それはいつかの義姉(ルヴィア)を思い起こさせて少し悲しくなったけれど、同時に安堵を美遊に抱かせた。

 思えば、美遊は恐れていたのかも知れない。人の悪意というものを。レディや彼女が蒐集した魔法少女らの記憶から嫌という程に人の悪意を見せつけられ、また同時に自らもまたレディと同様にそちらへ堕ち得るという事実を身を以て思い知ったが故に。己が、或いは悪意を向けられてしまうかも知れない立場であると理解しているが故に。彼女の心に巣食った悪夢は、そういった恐れや罪悪感の具現であったのだろう。

 しかし、カルデアの人々は美遊を悪意ではなく善意で迎え容れた。『オマエが乗っ取られなければカルデアは被害を受けずに済んだのに』と糾弾し得るだけの事を彼らはされたのに、誰一人としてそれを口にしなかった。それはきっと、カルデアの人々が悪意を善意で御することができる人間らしい善人であるからなのだろう。

 マグカップを傾け、ホットミルクを喉に流し込む。少し時間が経ってしまっているからだろうか、少々温くなってしまっていたけれど、その温かさは優しく身体の隅々まで染み入っていくような気がした。次いで美遊は何か言おうと口を開きかけて、しかし先に立香が美遊の頭を撫でた。遠慮がちで不慣れな、或いは誰かを真似ているかのような、おずおずとした仕草で。

 

「態々言うまでもないことかもだけど……美遊は此処にいていいんだ。君にとっては不本意で来てしまった世界かも知れない。でも、それでも……此処が君にとって、苦しまず、友達と笑い合えて、細やかでも幸せを感じられるような、そんな場所だったらいいなと、オレは思う」

「……っ」

 

 その言葉。或いは、それを口にする立香の優しい気持ちを湛えた目。それらを前にして美遊の脳裏に蘇ったのは、彼女が生まれた世界で出会った兄との最後の思い出――彼女が、その世界で最後に向けられた願いであった。

 朔月美遊という少女は聖杯である。故に今まで、彼女はその能力を求めた者達から何度も狙われてきた。エインズワースや子供姿のギルガメッシュ、そしてファースト・レディ。彼女は聖杯であるが故に、普通には生きられない。

 だが、()()()()、と。美遊がただの人間として幸せに生きて欲しいと、そう願ってくれる人達がいる。立香だけではない。遥や、未だ名の知らぬ人々まで。たとえ彼らの知る朔月美遊が本当の彼女ではなくその複製(コピー)でしかないのだとしても。それは、とても幸福な事ではないかと、美遊は思うのだ。

 

「ありがとう……ございます」

「うん。……ごめんね、馴れ馴れしかったかな」

「いいえ、そんな事はないです。むしろ……少し、安心しましたから」

「そっか。それなら、良かった」

 

 そう言って立香は笑い、彼につられるようにして美遊もまた笑みを零す。それはどこにでもあるような光景ではあるが、人理が崩壊へと向かっている今ではこの上なく尊い幸せであるのかも知れない。

 なればこそ、守らねばならない。生きるための戦いとは何も、ただ生命を守るだけの戦いではない。人の生の中に在る歓びや幸せ、或いは悲しみや絶望すらも共に守るのだ。自分ひとりでは不可能なのだとしても、皆で手を取り合えば、きっと為せる筈。

 それこそが自分がマスターとして、そして、ひとりの人間として為すべき事なのだと、改めて立香は決意した。

 


 

 ――長い、長い夢を見ていたような気がする。

 目覚めの感覚はまるで、湖底から浮き上がっていくかのように。遥はその起源のために長時間眠っていたとしても筋肉が衰えることはない筈なのに、身体が鉛になってしまったかと錯覚する程にひどく重い。知覚も朧気で、そのせいか前後の記憶さえもあやふやであった。

 しかし、それも永続するものではない。遥自身の主観では緩慢と、客観では数秒程度の時間をかけて、感覚が夢幻から現実のそれに摺り合わされていく。そうしてまず彼の知覚に届いたのは、規則的な電子音。僅かに瞼を上げ、隙間から入ってきた久方振りの光に、ひどく目が眩む。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに正常な機能を取り戻した目が潔癖なまでに白い天井を捉える。見覚えのある、医務室の天井だ。その頃になってくると記憶もはっきりとしてきて、それに伴って湧いてきた様々な疑問が口を突き、しかし実際に漏れたのはひどく嗄れた声。

 

「ぅ……あ、ぁ……」

「っ!! ……目が覚めたのですね……! 良かった。今、ドクターを呼んできますから、あまり動かないでくださいね!」

 

 恐らくは丁度この時間がシフトになっていたのだろう、遥の覚醒に気付いた看護スタッフはそれだけを言って半ば駆け出すようにして病室から出て行く。それを見送ってから病室の中を見渡してみれば、心電図や点滴、それ以外にも医療に関しては一般人とさして知識量の変わらない遥では用途すらも想像できない大仰な医療機器があることに気づいた。ただの病室ではない。ドアの方を見遣れば、左右逆転した〝Intensive Care Unit〟の文字。

 集中治療室。それを認識すると同時、遥は己が負ったダメージの程をある程度察して自嘲的な笑みを浮かべた。傷を負わされたことを自嘲しているのではない。自らが負傷したことで仲間やスタッフに掛けてしまった迷惑を思い、自嘲したのだ。

 しかし、自嘲ばかりしていても仕方がない。遥はすぐに気持ちを切り替えると点滴の針が外れないように細心の注意を払いながら上体を起こした。そうして何度か声を出しているうちに少しずつ声帯が調子を取り戻してきて、次いで病室の外から足音が聞こえてくる。足取りからしてかなり慌てているようで、やがてその勢いのままドアが開かれた。

 

「ロマ、ン……」

「ッ……」

 

 未だ完全には元には戻っていない掠れた声で名を呼ばれ、遥の前に現れた人物――ロマニ・アーキマンが声を詰まらせる。それは目を覚ました遥のやつれた様子によるものか、或いは別の理由によるものか。遥には察する術も、そんな余裕もない。

 次いでロマニが浮かべた表情は泣き顔のような、或いは笑みのようでもあり何処か悲痛さを感じさせる、そんな様々な感情がない交ぜになったそれ。そうして暫く経って、ようやくロマニが口を開いた。

 

「……色々言いたい事も、言わなくちゃいけない事もある。でも、まずは……おかえり、遥くん」

「あ、ぁ……ただ、いま。ロマン」

 

 天文台の剣士は此処に、漸く真にカルデアへの帰還を果たした。



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第85話 friends/orphan

 およそ1週間に及ぶ昏睡から目覚めた遥であるが、当然と言うべきかその身体は万全とは程遠い有様であった。肉体に蓄積したダメージはその多くが未だ残り続けており、魔術回路もその1割強が機能停止に陥っている。起源を『不朽』とする遥であるから通常は治らない回路も修復の見込みはあるが、どちらにせよ無視できるものではない。

 カルデアにおいても普通に生活している分には支障は出ないが、マスターとしての任務は暫く禁止。無論、戦闘行動などは以ての外。それが、遥の覚醒後に行われた諸々の検査の結果からロマニが下した判断であった。加えて、数日は経過観察のために入院するように、とも。

 その判断を不服と思う程、遥は阿呆でも愚鈍でもないつもりではある。任務に参加できないのは心苦しくはあるけれど、それよりも無理を押してまで戦って周囲の足を引っ張ってしまう方が、遥は嫌だった。

 

「――と、いうワケだ。悪いな、立香」

 

 カルデアの病室区画、その一般病室に鎮座する患者用ベッドに座り、遥が申し訳なさそうに言う。その姿はいつもの黒装束ではなく入院着で、戦いの影響で多少やつれた体躯も相まって何処か弱々しくも見える。

 いや、見えるだけではないのだろう、と見舞いに来た立香は思う。先に見舞いに来ていたサーヴァント達から遥の様子は聞いていたが、こうして実際に対面してみると嫌でも分かる。

 今の遥はひどく消耗している。それでも身体能力等は立香の及ぶ所ではないのだろうが、少なくともマトモに戦えるようにはとても思えなかった。それどころか目覚めたばかりで、こうして起きているのでさえ辛いのだろう。それでも気丈に振る舞っているのは、立香を心配させまいとしての事だろうか。

 

「うん。任務はオレ達に任せて、遥は身体を治すのに集中して。オレは遥みたいには戦えないけど、これでもちょっとは鍛えてるんだからさ!」

 

 むん! というオノマトペが見えてきそうなポーズで意気込む立香。そんな彼の仕草に、遥が笑みを零す。

 

「あぁ、知ってるよ。他の誰よりな」

 

 このカルデアにおいて、立香の訓練に付き合っているのは他ならぬ遥だ。その訓練の内容も、立香当人や主治医であるロマニと相談してはいるが主に決定しているのも彼である。そういう意味でも、遥の応答は間違いではない。

 だがそれ以上に、その言葉は同じマスターという立場であるが故のものと言えよう。彼のマスターとしての在り方は聊かどころかかなり特殊ではあるが、それでも立香が就いている任務が一般人が行うには過酷なもので、それを遂行している立香の苦労がどれほどのものか想像できない彼ではない。

 その中で生き残るために立香が行っている訓練も、それ相応に厳しいものだ。例えば、毎日行っている魔術回路の再構築。これは繰り返し回路を構築することで回路そのものの強靭性を高める目的で設定しているものだが、これは言ってみれば毎日一度全身に何本もの針金を通す行為とも言える。それも、制御を誤れば身体が内側から爆散するような危険行動で、尋常な魔術師ならまず避ける。相当な胆力がなければできない事だ。その点において、遥は立香に尊敬の念さえ抱いていた。

 

「そんな言い方されると、なんか恥ずかしいな……兎に角、元気……ではないけど、それなりには回復したようで良かったよ」

「あぁ……ま、どっかの誰かさんにあんだけの大見得切っておいて、勝手に死ぬワケにもいかねぇからな」

 

 大見得。一瞬それが何を示しているのか分からなかった立香だが、すぐに合点がいったようでうれしそうな、或いは気恥ずかしそうな、そんな何処か年相応の少年らしい笑みを見せる。

 遥が言う大見得というのは第二特異点での最終決戦、その最中に遥が発した言葉だろう。立香が相棒だと信じてくれているならば何度でも立ち上がると、ニュアンスとしてはそんな所か。

 しかし冷静に考えてみればそれに相当に恥ずかしい発言のような気もして、ふたりが羞恥のために押し黙る。それでもいつまでも黙っている訳にもいかず、遥が話題を変える。いや、彼にとってはそれこそが本題だったのかも知れないが。

 

「……なぁ、美遊とクシナダは、どうしてる?」

「美遊はイリヤ達と一緒にシミュレーションルームで戦闘訓練中だよ。クシナダさんはダヴィンチちゃんの所で検査中。通常の医療機器じゃ精密な検査ができないんだって。それで、ダヴィンチちゃんが」

 

 それはそうだろう、と遥が頷く。いくらクシナダが泥の影響で零落し人間に近い状態で受肉しているとはいえ、存在が人間と完全に同一になった訳ではない。神秘の塊のままだ。神秘が文明によって解明されていないものである事を考えれば、医療機器ではなく『魔術師(キャスター)』であるレオナルドに白羽の矢が立つのも当然だ。

 不幸中の幸いと言うべきは、受肉したクシナダが抑止力の排斥対象にならなかったことか。通常、神霊クラスの受肉はガイアとアラヤ双方から排除されるが、カルデアのシステム上受肉したサーヴァントの記録はバックアップ不能になってしまう。それはつまり、クシナダが排斥されていた場合、召喚されてから今までの記憶が全て無になっていたということである。

 いや、もうその〝クシナダヒメ〟という呼称も、厳密には正しくなかろう。人間に近い領域まで零落し、1個の命として独立した彼女は最早〝クシナダヒメという神霊を由来とする同一人物かつ別存在〟とでも言うべきものになっている。そう考えて遥が口を開きかけて、しかし立香がそれに先んじる。

 

「『俺の責任だ』って、そう言いたげな顔だね」

「……なんで分かった?」

「さぁね。ただ、君は自分で思っているよりずっと分かりやすいって事さ」

 

 つまり超分かりやすいって事じゃねぇか、と遥が呟く。確かに彼は飄々としているように見えてもその実、行動原理さえ分かってしまえば考えている事は非常に分かりやすい。よく言えば信念に忠実、悪く言えば極めて単純なのだ。

 言おうとした事を先回りされ、髪を無造作に掻く遥。その表情はいかにも沈鬱なそれで、彼が何を考えているかこの上なく雄弁に物語っている。それまであえて先回りする程立香は野暮でも意地悪でもないが、笑い飛ばせるような男ではない。

 思った通りだ、と立香が内心で呟く。先日、彼は美遊に言った。遥が怒っているとすれば、それは何より己自身の無力さに対してだろう、と。奇しくもそれが今、目の前で証明されたのだ。

 立香にとって、遥は友人であり相棒である。しかしそれは、無条件で彼を全肯定しているということではない。責任感が強いのは良い事だが、そのせいで自罰的に過ぎるのは完全に短所だろう。尤も、友人というのはそういった短所長所纏めて友誼を感じられる相手を言うのだろうが。

 それきり会話の絶える病室。だが立香は無理に話題を見つけようとはせず、ただ様子を見ていた。それから暫くして彼の耳朶を打ったのは、病室に近づいてくる足音。次いで、椅子から立ち上がる。

 

「……後はオレの出る幕ではないかな。じゃあ、今日の所は帰るよ。またね」

「……? あぁ、また」

 

 何か意図する所があるような気配に首を傾げる遥だが、立香は何も言わずにただ笑みを投げかけて踵を返すのみだ。彼らしからぬ行動に遥はより疑念を深くするも立香はそれを知ってか知らずか、扉を開けて病室を出て行く。それから次の来訪者に笑みを見せると、まるで道を譲るかのように扉を開けたままその場を離れていった。

 そうして遠ざかっていく立香の足音に混じって聞こえてくる、別な人物の足音。常であればその気配や魔力から凡そ察知できる遥だが、魔術回路の機能が低下している今はそれができない。それ故、彼にできるのは開け放たれたままの出入り口を見ている事だけで、次いで視界に飛び込んできた者の姿に息を呑んだ。

 その人物は遥が今最も会いたい人で、けれど矛盾するようではあるが会いたくない人でもあった。その源泉は責任感か、罪悪感か、或いは彼自身でも自覚し得ていない別の感情によるものか。考える余裕もないまま、遥が茫然と呟く。

 

「クシナダ……」

「お目覚めになったのですね、遥様……! 良かった……!!」

 

 そう言って、クシナダヒメ、或いは、それを由来とする同一人物にして別存在の少女は、泣き笑いのような表情を浮かべるのであった。

 


 

 カルデアのとある一室。描きかけの絵画や作りかけの美術品、はたまた余人には一目ではまるで用途の分からない道具などが散乱し辛うじて足の踏み場だけがあるような部屋。それがかの大天才レオナルド・ダ・ヴィンチの現在の工房であり、そんな在り様の中でレオナルドは神妙な表情でそれなりの厚みがある紙の束と向き合っていた。

 最早言うまでもない事ではあるが、カルデアという組織は魔術だけではなく科学技術においても現代の最先端にある。それ故情報の管理はその殆どがデジタルで行われるのであり、紙媒体で行われる事があるとすれば、それは余程の例外的事態があるという事だ。例えば、外部に漏らしてはならない最大級の超機密事項(トップ・シークレット)が発生した場合など。今回の場合は、まさしくそれであった。

 レオナルドが目を通している書類に記載されているのはとある人物の身体についての詳細極まりない情報の数々。詰まる所カルテであり、それが2人分。彼女(かれ)がそれらに一通り目を通してひとつ大きなため息を吐いた時、出入り口の自動ドアが開いた。そこから姿を現したのは医療チームのリーダー兼所長代理である男、ロマニ・アーキマン。

 

「うわぁ……またこんなに散らかして……そろそろ片付けた方がいいんじゃないかい、ダヴィンチちゃん?」

「うるさいなぁ、キミは私のお母さんか? 何が何処にあるかは把握してるからいいのさ、これで。それより……所望の物はコレだろう?」

 

 得意げな顔でカルテを掲げるレオナルド。部屋を散らかったままにしている事については全く反省していない彼女(かれ)の様子にロマニはため息をひとつ零すと、床に転がっている物品を踏みつけないように慎重に歩を進めていく。

 そうしてレオナルドからカルテを受け取って内容の確認をするロマニの表情は平時のゆるふわなそれではなく、ひとりの医者としての、至って真面目なそれだ。或いは、内容――受肉したふたりの検査結果であることを考えれば、当然の反応かも知れないが。

 本来なら、カルデアにおける医療行為はロマニら医療チームの管轄である。しかし、美遊とクシナダ、このふたりについては、とある事情からロマニはレオナルドにその全てを任せていた。無論、立香に話したことも嘘ではないが、全てではないのである。

 

「……内容に不備は?」

「ないよ。流石はダヴィンチちゃんだ」

「フフン、当然だね。……それにしても、キミもあくどい事を考える。まさか、記録を完全にでっちあげようだなんてね」

 

 揶揄うようなレオナルドの物言いに、苦笑を漏らすロマニ。だが、彼女(かれ)の言っている事は何も間違いではない。確かにロマニは今回レオナルドに検査を任せた両名について、電子的な記録を全て擬装しようとしているのだから。真のカルテを態々紙媒体にしたのも、完全に抹消する際に消滅させるのが容易く、ネットワークの何処にも痕跡(ログ)を残さないようにするためだ。代わりとなる偽造電子カルテの作成及び諸々の改竄も忘れてはいない。

 その行動だけを見れば、まるで何処かの秘密組織であるかのようである。或いは悪の組織と言われても信じてしまいそうだ。たったひとつ、それらが彼らの私利私欲のためにおこなわれた訳ではないという点を除けば。

 カルデアというのは書類上は国連機関のひとつだが、その実態は魔術協会の下部組織である。それ故、人理修復を終えた後は協会からの使者が大勢押し寄せるであろう事は想像に難くない。その際に様々な記録を調べられるのも、少し考えれば分かるだろう。

 では、もしも両名が受肉したサーヴァントで、受肉後も只の人間とは言えない存在であると全て馬鹿正直に記録に残していて、それが協会に知れてしまったとしたら。結果など見えていよう。間違いなく封印指定となる。美遊に関しては、その管理権限を巡って協会内で抗争が起きるかも知れない。何せ、ともすれば根源への到達が叶うかも知れないのだから。

 だが、それはカルデアに属する面々が望む所ではない。当然だ。共に戦っている仲間である彼女らが何も知らぬ、ただ旨味のあるものだけを掻っ攫っていこうとする協会に引き渡され慰み物にされるなど断じて許容できない。できる筈がない。

 故にこそ、擬装する。仲間を守るためという理由があれどそれが良くない行いであるとは承知しているが、魔術世界に法律や倫理などあってないようなものだ。であれば改竄だろうが捏造だろうが罪ではあるまいと、ロマニが冗談めかして言う。

 

「いいのか? バレれば責任問題……いや、それ以上になるぜ?」

「その時はその時だよ。何とかするさ」

 

 半ば投げ遣りにも聞こえるロマニの言葉。しかしそれとは裏腹に、彼の目には確かな意志、決意がある。その視線が向けられているのは手元のカルテ、そこから滑るようにして、工房の奥へと。そこに安置されているのは全身鎧を思わせる、組み立て途中の装甲服――霊基外骨骼(オルテナウス)だ。

 以前に開発されたそれは変異特異点γにおいて完全に破壊されている。故にそれは修理されているのではなく、開発中の完全な新造品であり、転じて遥が再び戦うための新たな力でもある。よく見れば、細部の形状が異なっているのがロマニにも分かった。

 遥が戦場に戻るための力。だが、それはロマニらが押し付けたものではなく、遥自身が望んだものだ。そして、戦っているのは遥だけではなく立香やサーヴァントらも同じ。彼らは常に命を懸けて、生きるために戦っている。

 

「ボクは彼らのようには戦えないけど、でも、ボクだからこそできる事もある。だからそれを、全力でやらないとね。……まぁ、これについても、ひとつだけボクにはどうにもならない事があるけど」

「……? なんだい、それは?」

「名前だよ」

 

 即答するロマニと、虚を衝かれたかのような表情をするレオナルド。だがすぐに合点がいったようで、小さく吹き出した。

 

「ふ、はは……名前、名前ね。確かに大事だ。データを偽造するうえでも、美遊ちゃんはともかくクシナダちゃんが真名のままでは不都合だし……何より、ね?」

 

 そう言い、レオナルドがロマニに含みのある視線を向け、それを受けたロマニが微笑を浮かべる。そこに、明確な言葉はない。けれどふたりの間にある空気は漠然としたそれではなく、余人には分からない〝何か〟があった。

 名前。その一単語だけでレオナルドが何を言わんとしているのか、たとえその場に第三者がいたとすれば何ひとつとして分かるまい。だが、ロマニだけは例外だ。レオナルドの言葉は、ロマニの過去に起因するものであったのだから。

 その過去はロマニにとってあまり思い出したいものではないが、レオナルドは別に揶揄するつもりではないのだから態々反発するような事でもあるまい。一拍置いて、ロマニが言葉を返す。

 

「あぁ、そうだね……さて、そろそろボクは仕事に戻るよ」

 

 そうして、ロマニは再び足の踏み場を探しながらレオナルドの工房を後にした。

 


 

「……すまない」

 

 それが、病室を訪れたクシナダに対して遥が放った第一声であった。その声音に嘘やおべっかの色合いは一切なく、僅かに下げられた頭、クシナダから見えない位置にある唇は真一文字に引き結ばれている。強く噛みしめられた奥歯は今にも砕けてしまいそうだ。

 たった一言だけの謝罪。しかしそこに投げ遣りな気配は一切なく、むしろ様々な事を言おうとして、しかし適切な言葉が見つからずに一言だけになってしまったようであった。その声音も単純な罪悪感だけではなく様々な感情が入り混じったそれである。

 その言葉に、クシナダはすぐには何も言わない。無視しているのではない。ただ、遥の言葉が悲しくなる程に彼女の予想通りであったから。ある意味で遥が生まれる前から彼の事を知っている彼女だからこその思いが、そこにはあった。

 胸中に巣食う罪悪感や無力感に打ちひしがれ、俯く遥。クシナダはそんな彼に歩み寄りそっとベッドに腰掛けると、両手を彼の頬に伸ばした。予想だにしていなかった感覚に、遥は僅かに顔を上げる。

 触れ合った肌から伝わってくるのは、クシナダの体温。それは現象としてはただの代謝産物であるけれど、今の遥にはそれ以上の意味を伴って届いた。まるで、彼女の心が触れ合った所から流れて身体に染み入ってくるかのような、そんな錯覚さえ抱く。

 そうして、遥は気づいた。きっと、彼女も同じなのだろうと。彼女もまた、遥と同じく己の無力が嫌で、それなのにそんな素振りを見せずこうして彼に寄り添ってくれている。相手の気持ちも知らぬまま勝手に自分自身を責めてしまうのが彼の欠点だと解っていて、それを肯定するのでも、或いは否定するのでもなく。彼の良い所も、悪い所も、全て知っていて、それでもなおこうして『彼』の隣に在り続けようとするのだ、彼女は。

 

「遥様……やっぱり、ひどい人です、貴方は」

 

 言葉とは対照的にクシナダの表情は何処か悲哀、或いは慈愛すら感じさせるそれで、故に彼女は遥を罵る意図で言った訳ではないのは明白であった。けれど、非難ではあるのだろう。それとも、叱っているのだろうか。

 遥のそれは責任感が強いと言えば聞こえは良いが、ともすれば独善に堕ちる。今回はまさしくそれであろう。彼はその罪悪感の源泉である者らの思いも知らぬまま、独りで己自身が悪いと決めつけているのだから。それで生まれるものなど、悲しみしかないというのに。

 彼の頬に添えられた手がその輪郭をなぞるようにして首、肩へ。そのまま軽くクシナダの方に引っ張られて、しかし彼はマトモな抵抗もせず彼女に抱き寄せられた。何と情けないと言いながらも、彼はその熱に抗えない。その熱は、彼がずっと昔に失って、思い出さないように心の奥底に封じながらも無意識に渇望していたものと同義であるから。

 

「確かに私はもう『(クシナダヒメ)』ではなくなったのかも知れません。神性は削がれ、権能はなく、最早神とは言えなくなってしまった。……それでも、私は構わないのです。だって、私が私として貴方と共に在れる事に、違いはないでしょう?」

 

 そう言いながら遥が見せたのは、弱々しいながらも確かな笑み。そう、今、彼の目の前にいる女性はそういう人だったと、改めて認識した。例え遥が大元(スサノオ)とは異なる名、容貌、存在なのだとしても、その魂と在り方を愛していると言ってのけた彼女だ。故に、彼はその言葉が嘘ではないと信じられる。

 彼女は何も、遥の抱く罪悪感を完全に否定している訳ではないのだろう。しかし、肯定もしない。彼女は遥の長所も短所も分かっていて、それでも隣にいてくれる。支えてくれている。自ら冷え固まろうとする心を、溶かしてくれる。

 温かい、と遥は思う。身体ではなく、心が。それは彼が久しく忘れていた感覚で、何処か望郷にも似ていた。ひどい懐旧の感覚に、思わず泣きそうになる。それでも堪えることができたのは、これ以上弱い部分を見せまいとする少々子供じみた意地のためだろうか。

 それから会話が絶えて、どれほどそのままでいただろうか。遥が僅かに身じろぎすると、それを合図とするかのようにしてクシナダが離れた。或いは無言の間に互いに自身の行動を客観的に見ることができたのか、両者共に顔が紅い。胸中に生まれた気恥ずかしさを振り払うように、遥が先に口を開いた。

 

「ごめん……情けない所見せちまったな」

「……ホントですよ……でも、少し嬉しいです。やっと、頼っていただけたのですから」

 

 そう言い、笑い合うふたり。だがクシナダはすぐに躊躇うような表情を見せると、おずおずと言葉を紡ぐ。

 

「あの、遥様……ひとつ、お願いしてもよろしいですか?」

「ん? 何だ?」

 

 そう遥が問い返し、一拍。その間に込められているのは、ある種の覚悟であろうか。遥にとってその願いがどんな意味を持ち、何を彼に求めているのかを全て解っていて、それえもクシナダヒメ、いや、その同一人物にして別存在の少女は、願いを告げる。

 

「――名を、戴けませんか?

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第86話 recognition/operation

 名は体を表す、という言葉がある。これは読んで字の如く名前はその物や人の内実、或いは実体を表すという単純な意味の言葉であるが、単純であるが故にただの諺だと切り捨てられない真理があると言えよう。

 そう。名とは万物にとって、最も単純明快かつ強力な定義なのだ。中には名前など記号に過ぎないと言う者もいるが、記号だからこそ重要なのである。魔術や呪術においては対象の名前が分からなければ行使できないものも存在するのがその証左と言えよう。

 分かりやすい例示をするならば、変異特異点αにおいて遥らの前に立ち塞がった〝この世全ての悪(アンリマユ)〟。あれは元は神秘には何の関わりもない青年が生贄として本来の名を剥奪され、代わりにゾロアスター教における悪神の名を押し付けられた果ての姿だ。つまり名というものには、条件さえ整えば人を神に近い領域まで至らしめる程の効力がある。

 そして、それはその逆もまた然り。であれば、クシナダの願い――人としての名が欲しいという請願を聞いた遥の反応が一拍遅れてしまったのも、無理からぬ事ではあろう。だがいつまでも黙っている訳にもいかず、遥が絞り出すかのように問いを漏らす。

 

「本気で言っているのか……?」

「はい。本気です。冗談ではありません」

 

 あくまでも真っ直ぐに遥の目を見つめ、答えを返すクシナダ。その目に宿る光にも嘘の色合いはなく、むしろそこには強い覚悟の気配があった。故にこそ遥は下手に二の句を継げず、再び言葉を詰まらせる。

 恐らくクシナダの言う〝人としての名が欲しい〟という言葉が意味するのが完全な改名ではない事は、遥にも察しが付いている。〝クシナダヒメ〟という名は彼女が両親――〝足名椎命(アシナヅチ)〟と〝手名椎命(テナヅチ)〟から与えられたものだ。彼女がそれを簡単に捨ててしまえるような親不孝行者ではない事は、神話が証明している。加えて、今の彼女には人としての名が必要な理由――書類データの偽装等――がある事も、遥は理解している。

 しかし、である。クシナダの気配にはただの偽名を必要としている以上の〝何か〟がある。ともすれば本当に今の名を改めてしまいそうな何かが。そんな在り得ない想像をしてしまったがために、遥は容易に返答ができずにいるのだ。

 情けないとは彼自身分かっている。だが、彼は剣士であると同時に魔術師でもあるのだ。だからこそ名前がどれだけ重要なものであるのかをよく理解している。躊躇いを見せるのも、致し方あるまい。

 名の重複。或いは、重ね合わせ。改変程ではなくとも、それは彼女の存在と概念に少なくない変質を与えるだろう。ただでさえ彼女は神霊という極めて変質しやすい存在を基盤としているうえ、現在は泥の呪的作用で人間に近い程度にまで零落して肉体を得ているという不安定な状態だ。そんな中で人間としての名を与えてしまえば、それは。

 

「人間の名を得る……それはつまり、()()()()()()()()()()()()()って事だ」

 

 神はどうあっても完全な人間にはなれない。それは他ならぬタマモと遥が証明している。遥はタマモのように妖怪として顕現してこそいないものの、それは誕生経緯の特殊性故であってタマモのように直接本体から分離していればそれ相応の結果になっていただろう。

 クシナダもそのようになるとは、遥は言うつもりはなかった。彼女が零落した経緯は遥のそれとも、タマモのそれとも違う。この先彼女がどうなるかは完全な未知であって、勝手に決めつける事はできない。

 ただひとつ確かな事は、人間としての名前を得てしまえば彼女は今以上に半端な存在になるという事。人間であり、神霊であり、或いはそのどちらでもない。現人神と言えば聞こえは良いが、その実態はそんなものだ。

 

「それでも……お前の望みは変わらないのか?」

「元より承知の上です」

 

 即答であった。その覚悟の声音には一切の動揺も虚飾もなく、彼女の思いを真っ直ぐに遥へと叩きつけてくる。いや、遥ももう分かってはいたのだ。彼の問いが極めて無粋で、最早問うまでもない事は。

 それなのに、何故問うたのか。保身か、或いは無粋か。そのどちらでもあるまい。簡単に言えば、彼は臆病なのだ。自分にとって大切な存在が、自分の知らないものに変わってしまう事、或いは自分の手の届かない場所に行ってしまう事に、根源的な恐怖を抱いている。彼がよく言う愛した人々を守りたいという言葉も、その恐怖が少なからず影響しているのは否定できまい。

 それを自覚し、遥が覚えたのはひどい薄ら寒さ。自分はこれほどに弱く、浅ましい人間だったかと。こんな傲慢で独善的な男だったかと。そんな彼の内心を知ってか知らずか、クシナダが口を開く。

 

「……遥様、貴方は……この戦いが終わった後、どうするおつもりですか?」

「え……?」

 

 唐突な問いであった。全く予想だにしていなかったそれに虚を衝かれるとともに、遥は思う。そんな事は、全く考えていなかった。今はただ生きることだけ、戦う事だけで精一杯で、その後の事など殆ど頭にはなかったのだ。

 或いは、無意識ながらも考える必要性自体を感じていなかったのかも知れない。遥は『不朽』である事を運命づけられた身で、殺されるか自死を選ばない限りその生は永久に続く。それこそ、人理修復を終えた後もだ。それは無限の孤独を約束されているも同然で、空虚な自由のみが広がっている時間だ。何をするにも彼自身の自由。代わりに、そこに意味や希望はありはしない。そんな時間について、考える方が無駄というものだ。

 だが今こうして改めて問われ、思う。戦いが終わり、カルデアにいる必要性がなくなった時に果たして自分はどうするのか、何がしたいのか。――まるで分からない。例えばオルタに世界を見せてあげたいという願いも永続ではなく、長期的に見た時のヴィジョンが彼にはまるでないのだ。遥のような人外の居場所がない、いや、必要とされない世界で彼はどう生きるのか。

 

「分からない。したい事はあるが、どうするかなんて考えた事もなかった。……お前はどうなんだ?」

 

 自然にその問いは遥の口から出ていて、それ故にその問いが内包する意味に気付いた時には既に遅きに失していた。彼女に未来について問うなど、それは彼女を以前の遥と同じ孤独の中に引きずり込もうとしていると同義であるというのに。けれど彼女はあくまでも微笑みを浮かべたままで、答える。

 

「私はありますよ。やりたい事も、どう生きたいかという希望も」

 

 そう言うや否やクシナダは遥の手を取り、両の掌でそれを優しく包んだ。そうして伝わってきたのは彼女の体温、そして心拍。平静に見えて、その実緊張しているのだろうか。遥に伝わってくる心拍は聊か強く、かつ速い。だがそれは同時に、彼女が確かに生きているのだという認識を遥に与えた。

 

「私は……貴方と共に生きたい。貴方と同じく人として、この世界を見たい。隣に在って、貴方の居場所になりたい。……傲慢で、独善的かも知れませんが、それが私の思いです」

「っ……!!」

 

 それは告白と言うにはあまりにも直球な愛の吐露であった。そう、愛だ。恋などではない。逃避も誤魔化しも、鈍感や喪失すらも許さない、想いの具現であった。それを前にして、遥が目を見開いて硬直する。

 遥は知らない事だが、嘗てエミヤとタマモは同じ推測をしている。遥は幼くして両親を喪い、そのために己の心を守るべく両親から愛されていという事実を記憶の奥底に押し込めていて、だからこそ彼は他人から向けられている愛に気付けないのだと。そして、そんな遥の歪みを正せる者がいるとすれば、それは長所も短所も、汚点も美点も全て愛せる者だけだろうとも。

 その推測は正しい。現に今、遥はクシナダから向けられているこの上ない愛を強く感じていて、歓喜以上に混乱していた。さもありなん。彼は唯一愛してくれていた人達との思い出を押し込めているが故に、他人からの愛に対する適切な処方を知らないのだ。

 しかしそんな混乱した頭でも、理解できた事はある。彼女は人理修復が終わった後も遥の隣にいたくて、故にこそ人としての名が必要なのだ。神霊でもなく、人間でもなく、〝遥と同質のモノ〟として彼の居場所になってくれようとしている。それはとても、言葉にできない程幸せな事なのではないのかと、遥は少しずつ平静を取り戻してきた頭で思った。

 けれど、簡単に受け入れられるものではない。遥個人が受け入れたくないというのではない。ただ、遥は己の手でそう在れたかも知れない人々の命を奪っている。彼自身と半ば同じ境遇の子供を生み出している。そんな中で、彼だけが誰かと共に在る事を享受するなど許されない。許される筈がない。それはある意味で自縄自縛とも言えよう。

 けれど、彼女が今のように在る事も遥は否定したくはなかった。元はと言えば彼女が受肉してしまったのは遥の責任――遥の認識の上では――であり、その先にある彼女の選択を否とする権利など、彼にはないというのもある。尤も、仮にあったとしても彼に取り得る選択など、その彼女の選択を尊重する他にないのだ。たとえそれで今以上に責任を背負う事になろうとも、その時の事はその時に考えれば良い。

 

「あぁ、分かったよ。人としての名前……俺で良ければ、考えよう」

「……!! ありがとうございます!!」

 

 遥の言葉に花が咲くような笑顔を見せるクシナダ。そんな彼女につられるようにして遥も僅かに笑みを覗かせる。その表情は満面の笑みではないけれど、少なくとも先のように仄暗い色合いは何処にもありはしない。

 責任について言うならば、これもまた遥の責任という事になるのだろう。クシナダの存在と、受肉したことで得た人生を歪める責任だ。だが、それについて考えるのはもう止めたのだ。放棄したのではない。その責も、他の責も、これからひとつずつ果たしていけば良い。

 考える。当然かもしれないが遥は人の名前を考えるなど初めてのことで、参考資料もないからこれが正しいのかなど分からない。それでもそれを言い訳にしておざなりに答えを出せる筈もなくて、それ故にその声には何処か自信無さげな気配があった。

 

「……〝ミコト〟。命と書いて、ミコトってのはどうだろう」

 

 (ミコト)。それは何も苦し紛れで捻り出したものではなく、遥なりの考えがあってのものだ。第一に諸説あるものの命とは神霊に対する尊称である事。第二に彼女が本物の命を得た存在である事。以上二点から、遥はその名を考えたのだ。

 安直と言われても仕方がないと遥自身自覚しているのか、彼の視線はまるで様子を伺うかのような気配を帯びている。その先でクシナダは何度か遥が提案した名を呟くと、満面の笑みを浮かべた。

 

「はい!! ミコト……今より私は〝櫛名田比売〟であり、〝夜桜(ミコト)〟です!!」

「え、よざ――」

 

 夜桜!? と驚愕の声をあげようとした遥はしかし、すぐにそれが野暮だと気づいて口を噤んだ。別に男女の苗字が同じだからとて必ずしも()()()()()()になる訳ではないし、苗字がなければ不便ということもある。

 だがそれ以上に――その名を受け入れると同時に明らかに霊格が低下しているのが分かって、それでも尚幸せそうな彼女の姿に、何も言えなくなってしまったのだ。

 


 

 ――人理焼却の黒幕の手によるものと思われる次なる特異点の座標が特定された。遥の許にその連絡が届いたのは病室でのクシナダとの一件から数日後、経過観察の為の入院が終わり、自室に戻った翌日の事であった。

 新たな特異点の発見。それは即ち、再び人理を焼却せんとする敵手らとの戦いが始まるという事である。だが長い療養のために遥の身体は未だ鈍ったままで、彼としてはもう少し時間が欲しい所ではあったが、そんな事は敵には関係のない話だ。我儘を言ってはいられない。

 戦闘時の基本装備である礼装の黒いシャツとロングコートに袖を通すと、僅かな違和感があった。以前の特異点ではオルテナウスとそれ専用のアンダースーツを着ていたからか、或いは神核の影響で体格が変わったのか。どちらにせよ頓着しているような暇もなく、早々に自室を出て行く。すると丁度すぐ近くの部屋から出てきた立香と目が合った。

 

「よう、立香。お前もこれから管制室行くんだよな?」

「うん。新しい特異点が発見されて、マスターのオレが動かない訳にはいかないからね。

 ……あれっ、遥、左耳のソレ、何?」

「左耳? ……あぁ、コレか」

 

 立香に問われ、遥が自らの左耳、正確にはそこにある耳飾りに触れた。白い曼殊沙華――リコリス・アルビフローラを模したそれは以前の遥にはなかったもので、しかし遥ははぐらかすように『ちょっとな』と言葉を濁した。

 何か含みのありそうな遥の答えに立香は首を傾げるも、別にそれは緊急性のある話ではないとすぐに切り捨てて管制室へと向かう。サーヴァントらまで収容するスペースはないため、彼らは自室待機だ。

 そして、管制室。シバとカルデアスを用いてより詳細な観測を試みているのだろうか、職員らが忙しなくキーボードを叩いている光景も最早見慣れたものだ。そうしてふたりの姿を認め、ロマニが口を開く。

 

「来たね。それじゃあ、ブリーフィングを始めようか」

 

 そう言うやロマニは手元の端末を操作し、彼の背後にあるコンソールから立体映像の地球儀が浮かび上がる。通例、特異点の発生位置は赤く発光していて、マスターらの視線は自然とそちらに向いていた。そうして、明らかに奇妙な様子にふたりが眉を顰める。

 明らかに特異点の該当域が大きい。今までの特異点もフランス全域であったり古代ローマ全域であったりと相当な大きさであったが、それはその国の歴史そのものに大きな狂いが生じていたからだ。

 だが、今回のそれは聊か様子が異なる。特異点の発生座標を示す発光の位置が特定の国や地域ではなく、おおよそ人理定礎への関連が薄そうな場所、北半球の大西洋ほぼ全域であったのだ。その時代を見て、遥が納得半分疑念半分の呟きを漏らす。

 

「1573年……大航海時代か? だが、この年にヨーロッパで目立った出来事なんてあったかな……」

「まぁ、大航海時代はそれ自体が人類史にとって重要な時代だからね。別に特異点化しても不思議はないさ。この特異点の異常性はそこじゃなくて……」

 

 そこで言葉を区切り、再び端末を操作するロマニ。するとその背後のホログラムが動き、表示が切り替わった。シバにより観測された、特異点内部の平面地図。しかしそれは大半がノイズに覆われ、辛うじていくつかの小さい島の存在から広域が海に覆われているのが分かるのが精々であった。

 この特異点――第三特異点の異常性とは即ち、外部から中の様子が全くと言って良い程分からない事にある。今までの特異点もその全域が詳細に分かっていた訳ではないとはいえ、今回のそれは確かに異常と言えるものだ。職員らが忙しく動いているのも、どうにかこの不明領域を観測するためなのだろう。

 そこまで現状を把握し、立香がふむと唸る。内部の地理も分からず、特異点の発生要因と成り得る具体的な出来事も特になし。判明しているのは大航海時代の只中であるというその一点。これでは事前にある程度攻略のプランを立てておくというのも難しいと言わざるを得ない。立香の魔眼も、そもそも時間軸が異なる場所まで視れる程の性能はなく、現状、全く手詰まりと言わざるを得ない。

 

「今までも大変だったけど、今回も一筋縄ではいかなそうだね。初動から何も分からない」

「そうだね。ボクたちも全力を尽くして観測を続けるけど、最悪……いや、高確率でこのままレイシフトしてもらうコトになると思う。それは承知しておいてほしい」

 

 ロマニの言葉に頷きを返すマスターたち。事前情報がないままの作戦行動がどれだけ危険なのかは彼らも十分に承知しているが、だからとて攻略を先延ばしにできる訳もない。そもそもとして情報がないというのはスタッフの怠慢などではなく努力した結果なのであり、それに文句をつけるのはお門違いというものだ。

 しかし、理由はどうあれ情報がない状態というのが危険である事に違いはない。実働隊である立香らはそれ相応に準備をしてから臨む必要性があるだろう。携帯する物資の選別から霊基強化に至るまで、全てにおいて万全を整えなくてはならない。

 そんな状況の中で、最も大きな不安要素は遥の体調だろう。いくら経過観察入院中は何事もなく、身体機能の殆ど元通りに回復したとはいえ、彼が一度死の淵まで追い詰められたのは事実なのだ。加えて長時間寝たきりだったのだから、調子が万全である筈もない。そんな立香とロマニの視線をどう受け止めたのか、遥が少々おどけた声音で言う。

 

「1日……いや、2日くれ。万全に仕上げてみせる」

「医者としてはもっとゆっくり仕上げて欲しいんだけど……でも、悠長な事を言ってもいられない。レイシフト決行日は、遥くんの調整やその他の準備にかかる時間も考慮して4日後。それで構わないかい?」

「オレは大丈夫。遥は?」

「問題ない」

 

 即断である。先に示した期限までに万全を取り戻せる自信があるのかとも思った立香だが、すぐにそれを否定する。遥の事だ、恐らく自らを限界まで追い込むかのような勢いでリハビリとしてのトレーニングに励むつもりだろうと、立香は確信する。

 彼個人の思いとしては、遥は病み上がりの身体なのだからもっと安静にして欲しくはある。しかしこうしている間にも人理の終焉は刻一刻と迫っているのだ。それ故にあまり余裕をもって行動しようがないというのも理解している。少々複雑な思いはあるが。

 とはいえ、遥は優れた剣士だ。いくらリハビリにしては幾らか過激なトレーニングをするつもりではあっても特異点攻略に支障を来すような真似はしないだろう。ならば問題はあるまいと、立香は己を納得させた。

 

「それで……これは遥くんだけだけど……一緒にレイシフトするサーヴァントは、どうするんだい?」 

 

 半ば躊躇うかのような声音であった。だが、それも致し方ない事でもあろう。変異特異点γに纏わる遥の環境変化について、ロマニはよく知っている。しかし遥は既に問われることが分かっていたかのように、至って平静な様子で答える。

 

「俺の班は沖田、エミヤ、姉さん(タマモ)、オルタ、切嗣(アサシン)と俺の6人でいく」

「良いのかい? それは……」

 

 そこから先の言葉はない。しかし、ロマニが遥に対して問いたい事が何であるかは最早考えるまでもないだろう。それが分からない遥ではなく、そもそもそこを考慮していない彼ではない。『もう決めていた事だ』と、それが彼の答えであった。

 イリヤ達3人を外す選択については、ロマニや立香も異論はない。彼女らはまだ子供だ。変異特異点γでは共に戦ったとはいえ、本来なら鮮血の生臭さも悪意の鋭さも知らず平和の内に生きるべき彼女らを再び戦場に立たせるというのは、彼らはしたくはなかった。

 しかし、クシナダは別だ。彼女が遥の召喚に応じたのはガイアの後押しがあったといえど最大の要因が〝遥の力になりたい〟という思いだ。そんな彼女をチームから外すというのは、そも思いを無下にしているとも取れる。

 遥とて、それは分かっている。だからこそ、今回のメンバーから彼女を外したのだ。零落した身体に未だ適応しきっておらず、その肉体での戦闘理論を確立できていない彼女が戦場に立てば死は必定であり、故に今は退いてもらったのである。大切な仲間に無理をさせてまで死地に赴かせる程、遥は非情ではない。

 その遥の判断に対し、ロマニと立香は思う所がないと言えば嘘になろう。だが、仲間と大切に思っているのは彼らも同じだ。故に、何も言わない。クシナダの思いは別にして、彼らの心情だけで言えば遥と同じ思いであるから。

 

「……分かった。ボクはキミの判断を尊重するよ。

 では、レイシフトの決行は4日後、α班6名とβ班6名の計12人で開始する。決行時間はカルデアスやシバの調整が済み次第連絡するから、10分前には全ての準備を整えてコフィン前に集合すること。いいね?」

「了解!!」

 

 ロマニの言葉に対し、同時に返事をするマスターたち。ここに、第三特異点攻略作戦は開始された。




 次回からオリ鯖兼オリキャラちゃんを地の文で『クシナダ』表記にするか『ミコト』表記にするかはまだ決めてません(爆)


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第87話 show-off/immature

 変異特異点γ、妄念に囚われて堕ち果てた魔法少女の心象世界であり魔法少女の煉獄でもある特異点にて繰り広げられた戦闘は遥に長期間に渡る昏睡を強いる程のダメージを与えるなど彼に対して少なくない影響を与えたが、決して悪影響ばかりがあった訳ではなく、むしろ遥にとって大いなる成長の機会でもあった。

 その中でも最も大きな要素として挙げられるのは他もない、遥の空位への到達であろう。空位とは簡単に言えば剣者が到達する最高の位であり、この位に開眼した時点で彼の剣技は一定の完成を見たと言っても過言ではない。戦いの最中に彼が編み出した剣術〝天剱〟も、空位への開眼が影響して作られたと言えるだろう。そう、ビースト・ラーヴァとの闘いで、遥は剣士として大きく飛躍を遂げたのだ。

 しかし、である。いかに空位に開眼し半ば完成された剣士となったといえど、遥自身の総合的な力は上位のサーヴァントらには遠く及ばない。総身を襲う激痛とこの上なく張り詰めた緊張の中で、改めて遥はそう実感した。

 雲一つない夜空に浮かぶ星々と、その明かりに照らされている鬱蒼とした森。嘗て変異特異点αにおいて遥らが訪れた冬木のアインツベルン領地を再現したシミュレーションルーム。本来ならば静寂に包まれている筈のその場所で、爆音めいた轟音と共に土煙が高く舞う。それに紛れて聞こえてくる破砕音は、木が薙ぎ倒される音だろうか。

 そして、それらを彼方へと追い遣るかのように何度も打ち鳴らされる金属音。それに吹き散らされ霧散した土煙の中から現れたのは黄金と深紅の閃光であり、それの担い手である剣士と槍兵の姿であった。

 

「ゼェェェアッ!!」

「ッ!!」

 

 獣の咆哮が如き気合と共に繰り出される赤槍。音の壁を追い越し衝撃波を撒き散らしながら遥へと迫るその穂先は不治の呪いの存在もあって命中すれば遥を致命へと至らしめるに十分な威力を内包しており、しかし甘んじてそれを受けるような遥ではない。連続で迫り来る槍の軌道を超常の動体視力と直感で以て察知し、天叢雲剣で往なす。

 その動きに続けるように遥は愛刀で魔槍の軌道を逸らしつつ、槍兵――クー・フーリンの懐へと潜り込まんと身を躍らせる。その動きには一切の無駄がなく、かつ速い。身体を低く屈め、剣先を後方へ向けたままの叢雲を強く引き寄せる。

 言うまでもない事ではあるが、得物のリーチという点において、日本刀は槍よりも短い。だが槍の攻撃とは基本的に穂先を使って行うものであり、それ故に剣士は槍使いの懐へ入り込もうとするのが常道だ。その間合いにさえ持ち込めば剣士は槍兵に対し有利を取ることができる。

 だがそれを歴戦の騎士たるクー・フーリンが承知していない筈はなく、対応など考えるまでもなく身体が覚えている。抜剣の動作を省略し、唐突にその左手に顕現する光輝剣クルージーン。魔力で編まれた刀身がクー・フーリンの胴に向けて振るわれた叢雲を阻み、そうして生まれた間隙に合わせてクー・フーリンが蹴撃を放つ。

 顎を掬い上げるようなそれに対し、遥が執った行動は後退。膝蹴りを回避せんと背中を逸らした勢いのままバク転の要領で後方へ小さく跳躍し、地に手を突くと同時にその接触面に固有結界由来の爆発を生じさせて追撃を妨害、ランサーから距離を取った。叢雲を構え直し、大きく息を吐く。

 

「オイオイ、威勢よく模擬戦の相手を頼んできた割に、随分と弱腰じゃねぇか。本調子じゃねぇなら、手加減してやってもいいんだぜ?」

「ハッ……冗談!」

 

 挑発するようなクー・フーリンの言葉に、好戦的な表情でそう返す遥。或いはランサーの初めから遥がそう答えると解っていたのか、愛槍を構え、獰猛な獣を思わせる笑みで応える。

 クー・フーリンの言う通り、遥は未だ本調子ではない。そもそもこの模擬戦自体、長期間の昏睡により鈍った身体を強制的に叩き起こすためのものなのだから当然と言えば当然だ。しかしそれを理由に敵手に情けを掛けてもらうなど剣士の名折れであり、言語道断である。戦うならば全力で。本物の死合いであろうと、そうでなかろうと、そんな事は関係ない。

 もう一度息を吐き出し、逸る闘争心を意識外へと追い遣る。しかしそれは闘争心を棄てるのではなく、さながらロケットのブースターに燃料を注入するかのように。激しい反応性を有する物質を、無理矢理押し込めているに近しい。そうして再起するのは、ファースト・レディとの決戦において至った極限の感覚だ。それが為されるや否や、遥が纏う剣気と神気が増大する。

 それに当てられたのだろうか、クー・フーリンは己に流れる太陽神の血がいつにも増して激しく戦闘を求めているのを自覚する。流石にその昂りのまま闘争形態へ移行しないだけの理性は残しているものの、それでも気を抜けばマスターの魔力供給を度外視してその枷を解き放ってしまいそうな程に彼はこの戦いに没頭していた。

 

「――シャアッ!!」

「――ゼェァッ!!」

 

 気合。踏み込みは全く同時であった。蹴り込まれた大地は両者の度外れた脚力により捲れ上がり、砲弾のような速度でふたりが疾駆する。轟いた銃声めいた音は、音の限界を彼方へと置き去りにした事に対して大気があげた悲鳴か。

 夜闇を斬り裂く閃光。それらがぶつかり合う度に火花が散り、闇の中に戦士の姿を浮かび上がらせる。交錯する深紅の瞳が捉えているのは互いの姿のみで、それ以外の全ては些事だ。

 恰もその内に宿す化生の呪を解放したかと錯覚する程の神速で続々と繰り出される深紅の槍を、遥もまたそれに迫る剣速を以て弾く。だがそれでもランサーの攻撃は止まず、高く跳躍したのに続けて槍を遥に向けて振り下ろした。

 無論、それをマトモに受けるような遥ではない。振り下ろされた槍の口金辺りを叢雲で受け止め、持ち上げるようにして返す。けれどランサーはすかさず空中で身を捻り遥へと槍撃の雨を降らせていく。まるで物理法則を無視しているかのようにすら見えるそれは、まさしく魔人の挙動と形容する他あるまい。

 更に追撃とばかりにクー・フーリンは地に突き立てた槍を支点として旋転し、渾身の蹴撃を放つ。先の連撃を辛くも防いでいた遥だがいよいよ防御の間隙を突かれ、腹に突き刺さった威力のまま吹き飛ばされて細い木を何本か倒しながら数十メートル先の大木に叩きつけられた。

 

「ぐっ……ッ!?」

 

 悪寒。そして、殺気。直感的にそれを察知し遥は未だ身体が訴え続ける痛みを無視し、回避行動へと移った。刹那、数瞬前に遥がいた場所を赤槍の穂先が薙ぐ。その威力によるものか、根本が砕け散った大木が自重を支えられず折れて倒れ始めた。

 それを視認するや、即座に遥は己の固有結界を起動。彼の身体から漏れ出した焔は付近を漂っていた木屑に引火し、そのまま連鎖的に他の木屑へと瞬間的に燃え移っていく。粉塵爆発。その爆風により、クー・フーリンが後退を強いられる。ただの炎ならそうはいなかっただろうが、遥が宿す煉獄の焔は固有結界由来の異界常識であるため、サーヴァントに対しても十分に効果を発揮するのだ。

 恐らくはその焔によるものだろう、少なからず残る熱傷の感覚に舌打ちを漏らすランサー。だがルーンによる治癒はしない。そんな余裕を与える程、遥は弱い剣士ではない。それを彼は知っていた。

 その確信を裏切らず、ランサーの目前に一瞬で現れる遥。歴戦の戦士たるクー・フーリンですらその動きを一切捉えきれないそれは、まるで空間跳躍を行使したかの如く。その鋭い眼光を放つ目が飢えた獣のそれならば、極限まで引き絞られた叢雲はさながら獣の牙、或いは爪か。

 咄嗟に身を捻って回避せんとするランサーだが、遥の刃は彼を逃さず頬を浅く斬り裂かれる。そのままランサーの後方へと抜けていく遥だが、追い打ちをするかのように後ろ蹴りを放ち、それを防御したランサーの赤槍を足場にして小さく着地。間髪入れずに第二撃へと移行する。

 その間隙に挟み込むように遥がロングコートの裏から取り出したのは、本来なら代行者の武器である黒鍵。それを4本。全てに過剰なまでの魔力を流し、肥大化した刃が伸長するや否やクー・フーリンへと投擲する。

 だが、そんな単純な攻撃がランサーに通用する筈もなく、光輝剣の一閃を以て弾かれる。あらぬ方向へ散り散りになって飛んでいく黒鍵。そのままランサーは遥への攻撃に移ろうとして、しかしその先にいる遥に攻撃が防がれた事への焦燥はなかった。

 

「戻れ」

 

 短い命令。直後、ランサーは己の背後で強烈な魔力が行使されたのを察知する。それは錯覚などではなく、確かに彼の後方では先に弾かれた筈の黒鍵が旋転しながら持ち主である遥へと戻ろうとしていた。無論、その軌道上にはランサーがいる。

 そして、それに合わせて遥が地を蹴る。前方からは叢雲を構えた遥が、後方からは逃げ道を塞ぐような軌道で黒鍵が飛来する構図に、ランサーがはたと気づく。この技は遥のものではない。遥の契約サーヴァントであり、ランサーとは腐れ縁の弓兵の技だ。それを、遥は彼なりに再現してのけたのである。

 だが――甘い。ランサーが獣のように笑む。確かに遥が放ったそれはエミヤのそれをよく再現している。けれど、何の芸もない他人の猿真似などクランの猛犬には通用しない。

 轟、と何の前触れもなく吹き荒れる颶風。それに当てられるや、まるで遥の魔術行使など初めからなかったかのように黒鍵が地に落ちた。矢避けの加護か。否。そのスキルは遠距離攻撃への対応力を示すものであって、無差別の自動迎撃ではない。ランサーはただ、無造作に魔力を解放しただけで魔術に後押しされた攻撃を全て無に帰したのである。

 ランサーの攻撃はそれでは終わらない。肉薄する遥の目前で、ランサーの身体に装束越しでも分かる程の魔力の光が灯る。原初のルーンによる身体強化。ただでさえ全英霊中最強クラスのステータスに加えそれを上乗せしたランサーに遥の連撃はまるで通用せず、得物を交わし競り合う中で紅玉の瞳同士がかち合う。

 

「――重く、鋭く、速い、良い剣だ。これ程の使い手は、オレの時代でもそうはいねぇ。弛まず研鑽を積めば、いつかはフェルディアの野郎にも追いつけるかもな。だが――!!」

 

 脈動するルーン。その刹那、遥は何が起きたのか理解する暇さえも与えられないまま腹に強い衝撃を受けた。激痛に明滅する意識。肋骨が砕ける異音。抵抗すら許されずに地面を転がり、遥が血を吐く。

 

「――だからこそ解せねぇ。テメェの本気はこの程度じゃあねぇ筈だ。獣に負わされたダメージ? 神核の反動? 知った事か。死力を尽くせよ、遥。テメェの本気を、オレに味わわせてみろッ!!」

「ッ……言われ、なくても……!!」

 

 攻撃の威力で挽肉寸前になった内臓と肋骨が急速に再生していく不快感に耐え、遥が立つ。口内に満ちる粘性の液体を吐き出せば、地面が小さく赤黒に染め上げられた。嗅覚を支配する不快な鉄臭さ。だがその匂いに、遥が思わず口角を上げる。

 血の味。それは確かに不快ではあるけれど、同時に遥にとってはある種の〝生〟の実感であった。無論、再生能力があるとはいえ痛いものは痛く、別に彼は痛めつけられるのが好きな訳ではない。それでも〝生きている〟という実感を戦いの中で得てしまえるのが彼であった。

 叢雲を正中に構え、深呼吸をひとつ。それを合図とするかのように遥の顔から妙な憂いなどが全て立ち消え、纏う闘気や剣気、魔力が更に増大した。それに応えてか、神刀がより赫と輝く。その様に、クー・フーリンがより獰猛な笑みを深くし、赤槍を構え直した。まるで好敵手からの挑戦を待ち受けるかのように。

 静寂を取り戻す森。だがその有様は平穏とは程遠く、極限まで張り詰めた空気は数瞬後の惨状を予感させるには十分だ。その中で剣士はその身体から闘争心を可視化さえたかのような焔を迸らせ、そして――

 

「――オオオォォォオオッ!!」

 

 ――黄金の剣閃を、深紅が迎え撃った。

 


 

「――ん。は――さ――」

 

 心地よい闇に包まれた意識の中、その闇に割り込むようにして聞こえてくる途切れ途切れの声。模擬戦で疲れてるせいかひどく激しく意識を縛り付けてくる微睡もその声の前には無力で、少しずつ遥の思考が眠りから覚めていく。

 けれど目覚め切っていない頭では常の明晰さを発揮できず、それでもその声の主には心当たりがあった。再び微睡に落ちていきたいという欲求を堪え、ゆっくりと目蓋を上げていく。

 そんな中で半ば無意識に発したのは『姉さん……?』という呼びかけ、或いは彼らしからぬ甘えめいた言葉。だがその言葉に対するいらえはなく、代わりに返ってきたのは笑いを堪えきれぬといった具合の吐息。次いで完全に機能を取り戻した遥の視界いっぱいに映ったのは、悪戯っ子のような笑みを浮かべた褐色肌の少女――クロエの顔であった。

 

「はーい、お姉ちゃんでーす! んふふ、引っ掛かったわね、マスター?」

「マジか、クロエ……完全に騙された……」

「騙されたって、人聞きの悪い。幼気な女の子のカワイイ悪戯じゃない」

 

 全く悪びれる様子のないクロエ。そんな彼女に半ば呆れめいた溜息を零しながら、遥は横になっていた状態から上体のみを起こした。見れば先程まで遥が寝ていたのは廊下の端にあるベンチで、横には鞘込めの天叢雲剣が立てかけてある。

 何故このような場所に、こんな有様で寝ていたのか。未だ少々寝ぼけているのかと咄嗟に思い出す事ができなかった遥だが、少し経って合点がいった。彼は眠る少し前までシミュレーションルームでクー・フーリンに相手を頼んで模擬戦をしていて、その帰りに疲れてベンチに腰掛けたまま気づかぬうちに眠ってしまっていたのだ。

 つまり今、遥はそれなりの量の汗や血飛沫が付着したままシャワーも浴びずにいるという相応に不潔な状態にある。それに気づくや否や遥は部屋に戻ろうとして、しかしクロエが隣に座ったことでそれを断念した。代替案として魔術で身体に残るそれらを全て除去する。あまり気持ちの良い手段ではないが、齎す結果は同じだ。

 

「それにしても、よく寝てたわね。呼びかけても全然起きないんだもの。おまけに廊下なのに。カルデアじゃなかったら、起きた時には一文無しね」

「いや、返す言葉もない……不用心だった。起こしてくれてありがとな。悪戯は余計だったけど……」

「いーじゃない。お蔭で貴重なマスターの寝ぼけ顔と照れ顔が見られたわ。カメラ持っておけばよかった」

「やめてくれ……」

 

 なおも揶揄ってくるクロエに対し本気で恥ずかしそうな赤面を見せる遥。しかし、それも致し方あるまい。何せ自分よりも圧倒的に幼い少女に情けない呆け顔を見せてしまったうえ、姉と勘違いしてしまったのだから。いくら声紋まで一緒なのではないかと思う程に声が似ているとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 しかし自分も随分と不用心になったものだと遥は自省する。いくらひどく疲れ、肉体の再生も必要であったとはいえ、以前の彼なら廊下で居眠りをするなど考えられなかった。カルデアに来て以降ならともかく、それ以前、世界を旅していた頃の彼にとって、絶対的安全圏以外での睡眠は即ち死を意味していたのだから。

 とはいえ、その変化は悪い事ではないだろう。流石に自室外で眠るのは不用心ではあるが、それは転じて用心を忘れてしまう程にカルデアの人々を信用しているという事でもあるのだから。

 

「それで、何でこんな所で寝てたのよ。それに、身体もボロボロだし」

「あぁ、ちょっとクー・フーリンと模擬戦をしてたんだ。防戦一方……とまではいかないけど、全く歯が立たなくて。最後には首筋に槍を突きつけられて、俺の降参負けだった。ホント、強すぎるよ。流石はケルトの大英雄。あれで生前の半分も力が出せないってんだからなぁ……」

 

 クロエに心配させまいと笑いながら、しかし語気の端々に隠しきれない悔しさを滲ませて遥が言う。或いはその姿はひとりの剣士というよりもまるで先人への憧憬を抱いて邁進する少年のようで、クロエが思わず笑みを覗かせる。

 同時に、何処か似ているとも思う。他でもない、遥とイリヤが、である。時にはこうして普通の人間めいた一面を見せて、それなのに戦いとなると他者のために己を擲ってでも敵手と相対する。そんなある種の矛盾、真人間の一面と自己犠牲への抵抗がない一面の同居が似ていると感じたのだ。

 だからこそ、変異特異点γの戦闘でもクロエは彼の事が放っておけなかったのであろう。利害の一致という動機ではあったが彼の中にイリヤと近い危うさを見たから、クロエは出会って間もない遥を信用し共に戦った。加えてそれ以前、レディに乗っ取られていた彼女を助けようとしていた事を覚えていたというのもある。

 総じて〝信用に足る、けれど何処か危うい大人〟というのが遥に対するクロエの評価であった。尤もそんな事を彼が知る由もなく、背中を壁面に預けて脱力しながら、クロエに問うた。

 

「そういや、クロエひとりなんて珍しいな。いつも3人でいるように思ってたけど」

「別に四六時中一緒ってワケじゃないわよ。それに、イリヤとミユは食堂の手伝い中だしね」

「へぇ……クロエはやらないのか?」

「わたしは……そうね。ちょっと……」

 

 クロエにしては珍しい、歯切れの悪い答えであった。そんな彼女の様子に首を傾げる遥であったが、すぐに合点する。それ故に次いで遥が発した問いは半ば意地悪めいていて、しかし彼はあくまでも真面目であった。

 

「エミヤと何かあったか?」

「っ! ……そういうの、気づいても黙っておくのが正解なんじゃない?」

「悪いな。けど、俺はこんなんでもマスターなんでね。自分の契約サーヴァント同士に不和が起きそうなら、対応する義務がある」

 

 極めて真っ当な、けれど普段はあまりマスターとして振舞わない遥が言うとひどく白々しくも聞こえる答えである。それは彼自身も自覚しているのだろう、笑みは自嘲的で、同時にクロエを心配する心を伺わせていた。

 確かに、遥が言っている事は正しい。普通の聖杯戦争ならば考えられない事だがカルデアにおいて所属サーヴァントとは共に人理修復を為す同胞であり、マスターはその主導者だ。故にこそ契約サーヴァントの行動にマスターは責任を負わねばならず、不和が起きたならばこれを解決するのも立派な仕事のひとつである。

 だが、必ずしもサーヴァントはその仕事に対し協力的である必要性はない。先の問いに対しても答えたくないのなら黙秘を決め込んでも構わないのだ。マスターの仕事や義務など、極端に言えばサーヴァントには何の関係もないのだから。それでも仕事だ何だという言葉とは裏腹に遥の表情は純粋にクロエを思うもので、それを無下にするにはクロエはあまりにも善良であった。

 

「……わたしとあのアーチャーさんの関係、マスターは知ってるの?」

「詳しくは知らない。でも、ある程度の推測はできるな」

 

 その言葉は殆ど嘘とも言えよう。遥は以前、夢という形でエミヤの生前の記憶を見ている。エミヤ自身も長い期間の中で記憶を摩耗させているため完全な状態ではなかったが、それでも彼の(あね)について知り得るには十分であった。つまり、彼はエミヤ――否、衛宮士郎とイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの関係について、エミヤが覚えている限りを殆ど全て知っているのだ。

 それとこのカルデアにいるイリヤ、及びクロエについての情報があれば、後の推測は容易い。彼女らが生きていた年代的にふたりにとって衛宮士郎は本当に義兄で、エミヤはその同一人物なのである。他にもアイリと切嗣(アサシン)もいるのだから、その事を知った時の衝撃はすさまじいものであっただろう。

 だがエミヤらはクロエ達の家族と同一人物であると同時に何の関係もない赤の他人とも言える。何しろ、同一人物とはいえ並行世界の人間で、そこにいるのは自分が知っているその人と同じ名と存在を持ってはいても全く異なる人生を歩んだ人間であるのだから。

 遥が語った推測は全てが当たっている訳ではないけれど、クロエが話を続ける上では何の支障もない程度には正解であった。遥がエミヤの記憶を覗き見た事を知らない彼女からすればそれは奇妙にも映って、けれど深堀りはせず更に話を続ける。

 

「それで……訊いたのよ。アナタは衛宮士郎なんでしょって。そしたら、凄い頑なに否定されて、それで、わたしもちょっとムキになっちゃって……」

「アハハ……まぁ、アイツらしいな」

 

 クロエとエミヤの間で起きた問答について、彼女は深く語る訳ではない。けれどどうしてか遥にはその光景が目に浮かぶようで、失礼とは分かっていても苦笑を禁じ得なかった。その反応にクロエが唇を尖らせる。

 恐らくエミヤは〝イリヤらの世界に生きる衛宮士郎〟について、特別悪感情を抱いている訳ではないのだろう。嘗ての自分と同じように『正義の味方』を志す衛宮士郎ならともかく、イリヤらの義兄はそういう訳でもなく魔術の存在すら知らないただの人間であるのだから。

 そして、だからこそエミヤはクロエの義兄と同一人物であることを頑なに否定したのだ。彼女の義兄はあくまでも何でもないただの人間で、しかしエミヤは守護者でありその戦いの中で幾度となくその手を血で汚している。そんな人間が彼女の義兄と同じであると肯定するのは、彼女らにもその義兄としての衛宮士郎にも侮辱に等しいと、そう考えているのだと遥は思う。

 それを考えすぎとは、遥は思わない。そもそも前提として遥はカルデアに来る以前のエミヤとは関わりがなく、その時間を由来とする彼自身の判断について良し悪しを論じる権利を一片も持たないのである。ましてや説教など、そんなものは論外中の論外、マスター失格とすら言える下の下の行為だ。

 けれど、だからとてクロエに諦めろと言うのもまた、それはそれで論外である。それだけは絶対にしてはならない。クロエら3人をこちらの世界に招き入れ、家族と永遠に引き離してしまった者として、遥にはそれ相応に果たさなければならない責任があるのだから。

 ともあれ、遥がどう振る舞うにしてもクロエ自身の思いを知っておかねば何も始まるまい。勝手に思い込んで、勝手に決めつけて、勝手に判断して、というのはあまりにも独り善がりだ。それは避けねばなるまい。

 

「それで、クロエはどうしたいんだ? 教えてくれよ」

「わたしは……」

 

 そこまで考え、押し黙る。答えたくないのではない。ただ、納得しているかは別にしてもクロエもまたエミヤの内心には気づいていて、だからこそそれを口にしてしまうのは彼への冒涜なのではないか、と。けれど己の思いを無視する事もできず、クロエが言葉を零す。

 

「お兄ちゃんって呼びたい訳じゃない。でも……あの人は間違いなく衛宮士郎で、そんな人にあんな辛い顔をして欲しくなんてなかったのよ」

「そっか。……優しいな、クロエは」

 

 エミヤの記憶を覗き見てしまった遥は知っている。彼と、その血の繋がらない(あね)の顛末を。それは恐らく『英霊エミヤ』となった彼が辿り得る全てではないけれど、それでも彼の内心を察するには余りある。

 それでも、である。遥にはこの少女の思いを無下にする事はできなかった。それは彼が子供には甘いという性格的な事もあるが、エミヤの事を思ってでもある。それは或いは御節介、余計なお世話というものであるのかも知れない。それでもだ。仲間には笑っていて欲しいというのが、彼の内心であった。

 或いは今までもそうしてきたかのように、自然な動作でクロエの頭を撫でる遥。いきなり何を、と赤面して動揺するクロエであったが、すぐに遥の気配が何ら下心がある訳でもなく、癖だからなどという薄気味悪いものでもない、例えるなら学校の教師や保育士のような、子供と相対する大人のそれである事に気づいて不服そうな表情を見せた。

 

「……子供扱いしないで」

「おっと、これは失敬。……それで、接し方に悩んでいるのは、何もエミヤに対してだけじゃないんだろ? 気まずいのはアイツだけかもだけど」

「……分かるの?」

「何となく。伊達に何度も子供(ガキ)の面倒見てきたワケじゃねぇさ」

 

 また子供扱いして、と頬を膨らませるクロエと、そんなクロエの様子に悪戯っぽく笑う遥。クロエに子ども扱いするなと言われているのにそれでもなお止めない遥はともすれば嫌われてしまいそうではあるが、不思議とクロエは不快とは感じなかった。それは或いは、遥が纏う奇妙な雰囲気のせいか。

 遥がクロエの心情に気付いたのは、何も特別な推理があった訳ではない。クロエにとって〝家族と同一人物の他人〟とは何もエミヤだけではなく、アイリとアサシンも同様なのだ。加えてふたりとも中々に複雑な事情を抱えている。多感な、或いは多感になり始める年頃の少女にとって、今まで通りの接し方を躊躇わせるには十分だ。

 仮に立香やイリヤのように尋常でなく高いコミュニケーション能力があればその辺りを軽く飛び越えてしまうのかも知れないが、遥の目から見てクロエはそういった手合いではない。決して対人能力が低くはないしむしろ高い方ではあるが、異常に高くはない。それこそ、家族に近しい人との接し方に悩む程には。

 ――正直な所、遥には家族との適切な接し方というものがまだよく分からない。当然だろう。彼は並行世界の家族に出会うどころか、まず自分の家族すら早くに亡くしてしまったのだから。故にそれは、自らの経験則からの言葉ではなく半ば懺悔であった。

 

「思い続ける、しかないな」

「……? 思い続ける?」

「あぁ。言葉にするにしても、思い続けなければ相手に気持ちは伝わらない。けど、思い続けて、少しずつでも関われるようにすれば、いつかは伝わるさ。……俺にも、姉さんがそうしてくれたからな」

 

 姉さん。遥がそう言う相手は彼が契約しているサーヴァントの1騎たる玉藻の前であることを、クロエは知っている。しかし彼女は今の今まで遥が何故タマモをそう呼ぶのかについてを知らなかった。遥がスサノオの生まれ変わり――厳密には少々異なるが、広義では間違っていまい――である事については事情はともかく薄々察してはいたが、タマモがアマテラスの分け御霊である事までは、タマモとの関わりが薄い彼女は知る機会自体がなかったのである。

 遥の推測が正しければ、タマモはカルデアに来て然程経たないうちから彼女と遥の間にある縁に気づいていた。けれどすぐにそう言わなかったのは、彼女自身も悩んでいたからだったのだろう。それでも思い続けてくれたから、遥は今彼女を姉として見る事ができている。

 そういう意味では、遥とクロエは似ているのかも知れない。思われていた側か思い続ける側かという違いはあれど、家族というにはあまりにも曖昧な関わりを少しでもそれらしいものにしようとしている点では同じだ。

 もしかしたら人はそれを家族ごっこと嗤うのかも知れない。それでも遥は良かった。たとえ余人から見ればごっこ遊びめいた低俗で幼稚であっても、思い、思われ、繋がり合おうとする気持ちは決して悪ではないと信じたいのだ。

 たとえ真似事、形だけを借りた贋物でも、いつかは真に迫るものにはなれるだろうと、遥はそう言う。それを受けたクロエは暫し考え込むように黙って、次いで訥々と言葉を漏らす。

 

「でも、わたしたちには時間がないわ。いつかは、キャスターさん……こっちの世界のママと、ミユを置いて、皆退去してしまうかも知れない」

「そうだな。その辺りは俺に任せろ……と言えたらよかったんだが、無責任な事は言わない主義でな。方法がない訳じゃないが、それは俺の裁量で決められる事じゃない」

 

 遥が言う方法とは、間違いなく聖杯の事だろう。現時点でカルデアが回収した聖杯は第一特異点と第二特異点、変異特異点βを作り出していたものの計3つ。クロエの望みを叶えるには、恐らく十分すぎる数だ。

 だが、遥はたとえクロエに頼まれたとしても首を縦には振れない。それを成したことで人理修復後に起こるであろう魔術協会との政治抗争を厭うているのではない。そんなもの、必要となれば遥は躊躇いさえもせずにいくらでもするだろう。彼が言っているのはクロエが思いを向ける矛先、その個人の意思の問題だ。

 

「それでも……思い続けていいのかしら」

「良いも悪いもない。行動はともかく、思いだけは個人の自由だ。それに、一念岩をも通すってな。粘り強く思い続けていれば、いつかは頑固なアイツも折れるかもだぜ? そもそもアイツ、口では何だかんだと言いつつ、クロエ達の事をよく見てると思うし」

「そう……ところでその諺、何か使い方違わない?」

 

 クロエの指摘に、かもな、と言って遥が笑う。少年のようなその笑みにクロエもつられて笑って、少しの間笑い続けてそれが止んだ後にあった表情は先のように憂いを帯びたものではなく幾らか晴れやかなものであった。

 クロエの抱く全ての問題と悩みが解決した訳ではない。むしろ遥の言う通りにするのでもこの先には問題が山積していて、全てが望む通りにいくとは限らない。むしろ全て思い通りにならない確率の方が高いだろう。

 それでも、道のひとつは示された。それが絶対的な正解という訳ではないとはいえ、何も分からないよりは何倍も良いだろう。ほう、とひとつ息を吐き、クロエがベンチから立ち上がる。

 

「ありがとね、マスター。話聞いてくれて。少しは気が楽になったわ」

「そりゃよかった。サーヴァントのためになれたなら、マスター冥利に尽きるってモンだ」

 

 おどけた声音でそう言う遥にクロエは笑みを投げかけて、その場から戻っていく。その姿が見えなくなった頃に遥は一度大きく息を吐いて、再び背中を壁に預けた。そうして、両手で視界を覆う。目の前に広がるのは、闇。

 クロエに対して述べた言葉に、殆ど嘘はない。あるとすればエミヤの過去について知り得た経緯のみで、他は真実だ。だが、だからこそ内心不安ではあったのだ。果たして、自分はクロエの相談について正しく答えることができているのか、と。

 それでも、最後にクロエが見せた笑みは決して社交辞令的なものではないだろう。故に先のため息は、緊張から解き放たれて代わりに胸中に生まれた安心によるものであったのかも知れない。手を目から離し、視界に飛び込んでくる人工の光。それを見上げながら、呟く。

 

「やっぱりまだまだだな、俺……」

 

 剣士としても、大人としても、まだまだ何もなっていない。日本の法律的にはまだ成人にはなっていないだとか、そういう事ではないのだ。自分の行為に責任を持ち、たとえ少しだけだとしても自分よりも若い者を導く者として、遥は大人であらねばならない。それに、出生地の法律的な意味でも彼は後数か月もすれば成人の扱いである。

 だが、蓋を開けてみればこれだ。空位に達しても戦士としては遥かな先人の足元にも及ばず、人間としても少し気を抜くだけで脆弱さが露呈しそうになる。『出来た大人』などとは程遠く、むしろカルデアに所属する職員やサーヴァントの平均年齢――サーヴァントに関しては全盛期の年齢という意味だが――を考えれば彼自身もまだまだひよっこの青二才、子供として扱われる事の方が多い。

 どちらにせよ、まだまだ精進しなければならないのだろう。完成した、などを驕る事があってはならない。もしもそう思うなら、その時点で遥は気づかぬうちに立ち止まってしまい後は腐っていく一方になるだろう。そうなってしまえば戦士である以前に人として終わりだ。

 思考を一端棚上げして立ち上がる。それなりに長い間堅いベンチの上で眠っていたからだろうか、たったそれだけの動作で体中から筋肉の緊張が解ける音がして、遥は思わず苦笑を漏らした。我ながらよくこんな場所で眠っていたな、と。以前彼は立香がカルデアに来た日に廊下で倒れる形で眠っていたと聞いて笑ってしまった事があったのだが、これでは立香の事を言えまい。

 ベンチの傍らに立てかけていた天叢雲剣を手に取り、ベルトに鞘を固定する。そうして遥はこれからの行動を思案して、まだシャワーを浴びていない事を思い出した。日本人としては湯舟一杯に張った湯に肩まで浸かりたいという欲求がないといえば嘘になってしまうのだろうが、今のカルデアでは水も貴重品だ。我儘を言ってもいられない。

 加えて服も至る所が損傷している。いくら強力な防御魔術を掛けた特級の礼装とはいえ、トップサーヴァント相手に戦っていたのだから、そうなるのも当然と言えば当然だ。サーヴァントの装束ならば魔力さえあれば修復できるが、遥のように生身の人間の場合はそうもいかない。今後の事を考えるなら、早めに修繕しておかねばなるまい。

 何はともあれ、まずは自室に戻らねば何も始められない。そう考えて歩き出した遥の耳朶を、カルデアの館内放送、その発信者であるレオナルドの声が打った。

 

『あー、あー、テステス。……遥くん、至急私の工房まで来るように。キミ用の新しいオルテナウスができたから、最終調整をするよー』

「まったく……忙しいな」

 

 そう呟いて、駆け出す。言葉とは裏腹に、その顔には笑みが浮かんでいた。




 とある事情から急遽入れることになったクロエコミュ回。


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第三特異点 封鎖戦神海域ネク・プルス・ウルトラ
第88話 守りたるは、人の未来(ゆめ)


 ──夢中から現実へと意識が浮上し、少年が最初に認めたのは己の涙であった。相当に長い時間泣き続けていたのだろうか、頬には未だ水滴が付着していて、枕はひどく湿っている。そんな己の有様に少年、在りし日の夜桜遥は思わず弱々しく自嘲的な笑みを浮かべた。

 

 眠っている間まで泣いていた原因は分かっている。そもそもここ最近は連日に渡って同じように泣きっぱなしで、思い当たる要因もひとつしかないというのだから原因など考えるまでもあるまい。夢の内容はまるで覚えていないが、間違いなく両親の事を夢に見ているのだろう。

 

 遥の両親はもう、この世にはいない。今よりおよそ2か月ほど前、2004年2月に死んだ。それも自己や病気などが原因で死んだのではなく、殺されたのだ。人間としての原型を半ば留めないまでの破壊を齎す圧倒的な暴力によって。

 

 下手人は分からない。一応、一度は殺人事件として扱われ捜査が入ったものの犯人を示す証拠らしい証拠はひとつとして見つからず、その捜査も不自然なまでに簡単に打ち切られてしまった。所謂迷宮入りというものだが、それも致し方あるまい。遥の推測が正しければ、彼の両親の死には何らかの大規模魔術儀式が絡んでいる。それも魔術協会か、或いは聖堂教会が関わる程の相当な規模のものだ。でなければこれ程不自然な顛末に説明がつかない。

 

 遥はまだ幼いが、それでも一般的なそれとは比べ物にならない程優秀な魔術師である。そのうえ完全な人間ではなくその身の半分以上は現代に在り得べからざる神秘の存在、神霊、ないしは半神への先祖返りとでも言うべき身の上、そのため魔力的事象に対する知覚力は極めて鋭敏である。それ故、彼は感じていたのだ。年明けから2月末辺りまで続いていた、円蔵山を中心とする異質な魔力の気配や連日連夜轟く神秘の怒濤、そしてそれに彼の両親が関与しているという予感を。

 

 だが、そこまで推測ができていても彼は今更両親を殺害した下手人について調べるつもりはなかった。何しろ調査するとしても相手が相手であるし、調査している中で口封じのために殺される可能性もある。何より、自分達が生きている世界はそういう世界なのだと彼は知っている。両親は此処で死ぬ運命で、遥は此処で両親を喪う定めだった。ただそれだけなのだと受け入れるだけの覚悟はしてきたのである。

 

 それでも、悲しいものは悲しい。いや、悲しいなどという言葉では表しきれないまでの激情が遥の裡で渦巻いているのは疑うまでもない事実である。覚悟はしていた。それでも遥は両親を■■ていて、両親も遥を■■ていた。激情に浸る理由など、それだけで十分だろう。

 

「寒いなぁ……」

 

 ぽつりと呟く。両親が殺害された頃ならばともかく今は4月で、早朝の気温も相応に高くなってきている。少なくとも余程の寒がりでもなければ寒さなど感じない程には温かく、加えて彼はその身体に煉獄の固有結界を宿している――この頃はまだ自在に扱えてはいなかったが――のだから基本的に寒さなどとは無縁だ。

 

 であれば、彼が感じているそれは大気の温度に由来する身体的な寒さなどではなく、心因性のそれなのだろう。いくらその出自のために幾らか大人びているとはいえ幼い少年の心に両親の死はあまりにも辛くて、故に自分を守るため、少年の心はゆっくりと凍り付いてその下に両親との思い出を彼らから与えられた■を諸共にして沈めようとしている。

 

 深く、深く、温かい思い出も気持ちも全てを魂の奥底に仕舞い込んで――少年は、その記憶さえも抑圧してしまった。

 


 

 藤丸立香には、最近よく考える事がある。その内容というのは彼らカルデアが戦っている相手、7つの特異点を生み出し人理を焼却した黒幕についてだが、彼自身、己のそれが推理などではなく根拠のない妄想である事は分かっている。しかし彼にとって、自らが出した仮説は妄言だと一蹴できるものでもないような、そんな予感がしたのだ。

 

 変異特異点γにて遥らが相対した敵手、ファースト・レディ。遥曰く、彼女のクラスは立香らが知る通常クラスやエクストラクラスではなく、人理の裡より生まれ出でる人理の自殺機構、〝人類が滅ぼす悪〟たる〝人類悪(ビースト)〟の成り損ないであったという。

 

 そしてそのクラス特性に違わず、レディの目的は遍く並行世界の人理を終焉に導くことで全ての嘆きを終わらせ、滅びを以て人類を救済するというものだった。そのために彼女は多くの魔法少女を利用し、その魂を蒐集する事で人類悪そのものの幼生と化したというのがカルデアの知り得る経緯であるが、立香はその内容に僅かな違和感を覚えたのだ。確かに彼女は悪意と化す程に歪んだ人類愛を抱き、膨大な魔力を集め、美遊という聖杯も手中に収めていたが、果たしてそれだけで人理ひとつを滅ぼすような外法の魔に成れるのか、という違和感を。

 

 だが現状、立香の知り得る限り人理を滅ぼそうとした、或いはしている存在は、レディだけではない。変異特異点αにて限界したユスティーツァと、件の黒幕。そう、黒幕の目的はレディやユスティーツァのそれと非常に近しいのだ。であれば()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()と考えるのは、無理な話ではない。加えて仮に黒幕がビーストであると仮定した場合、誕生した時代は間違いなく黒幕が最初だ。そして、立香らの生きる人理の上でビースト化したのも、黒幕だけなのである。他2人はどちらも、何らかの形で彼らの人理と縁を持った後にビーストと化している。

 

 これらから立香が考えた仮説、それは『或いは自分たちの世界にはある時点でビーストが生まれる因果が成立していて、その適性をもつ存在がビーストと化しているのではないか』という、聊か突飛とも思えるものだ。無論、断定はできない。その仮説の論拠というのも結局は推論で、不確かな推論に推論を重ねたものは最早妄想とでも言うべき胡乱なのだから。だが同様に彼の仮説が間違いだと示す事実も、何もない。

 

 そしてもしも立香の仮説が正しいものであるならば、ビーストは今後も生まれる可能性がある、という事になる。それこそ、彼らが人理修復を為さんとしている間に会敵するというのも、ない話ではないのだ。

 

「もし、そうだとして……勝てるのか、オレ達は」

 

 特異点に赴くための準備を整え、クローゼットの扉を閉めながら立香が呟く。彼は何も、仲間達の力を信じていないのではない。しかし彼は自分と仲間達であれば必ず打倒できると迷わず信じられるような愚かな理想論者でもないつもりであった。

 

 立香が知る限り、遥は強い。その力はトップサーヴァントには及ばずとも、サーヴァントと比してもそれなりの部類にはなるだろう。それだけではなく彼には対人類悪特効としても機能する固有結界もあるのだ。そんな彼をしてビーストクラスそのものの前段階でしかない個体を相手にして、一旦は殆ど危篤と言って良い状態にまで追い込まれている。であれば完全な個体はどれほどの力を持つのか、想像もできない。

 

 今まずやらなければならないのが特異点攻略である事も、勝手に推測して勝手に危機感を覚えているのが愚者の行いである事も、立香は分かっている。だが立香らが赴く次なる特異点に、ビースト、或いはそれに準ずる存在がいないとも限らないのだ。弱気の虫が顔を出すのも仕方のない事だろう。しかし彼は自分の頬を挟むように叩いてそれを追い出した。

 

「いや……成せば成る、だ。今から弱気でどうする……!」

 

 黒幕の正体――立香と遥はソロモン王ではないかと推理しているが――が何であれ、全特異点を修正した後に邂逅するのはまず間違いない。であれば立香がするべきであるのは来るべき時のためにマスターとして少しでも準備を整えておく事だ。

 

 そもそもとしてその黒幕の許へ行くにも残り5つの特異点を踏破しなければならないのだ。その道のりが決して楽なものではない事は、今までの道程から分かっている。有り体に言ってしまえば明日をも知れぬ命なのだ、彼らは。

 

 それでも、生きる。生きたい。故にこそ、戦わなければならない。たとえその思いが誰かの正義とは相容れない思いであったのだとしても、彼はその思いだけは曲げるつもりはない。できる、できないの問題ではない。()()のだ。

 

「……よし」

 

 装備の最終チェック。身に纏う礼装はカルデア制服と、更に夜桜の魔術を再現した上着。腰のホルスターに収められた魔銃ファイブセブンには限界まで弾薬が込められており、替えの弾薬、及び遥の起源弾も携帯している。

 

 体調面は問題なし。日課である魔術回路の再構築も既に済ませており、十全に駆動する事はとうに確認している。これから特異点の攻略を行うにあたって済ませておくべき事項を、欠かすような立香ではない。

 

 そうして最後に心の奥底に残った憂いを吐き出すかのように、大きなため息をひとつ。覚悟の表情のまま自室を後にしようとして、しかしそれより早くにドアがノックされた。どうぞ、と立香。そのいらえに応じてドアが開かれ、まず初めに彼の視界に飛び込んできたのはリス、或いは猫のような白い小動物――フォウ。次いでフォウが顔面から肩に移動して、マシュが挨拶と共に笑みを投げた。

 

「こんにちは、先輩。間も無く集合予定時刻ですよ」

「分かってる。行こう。……マシュ」

「……? なんでしょうか」

 

 ただマシュの名を呼んだだけではない、呼び止めるような響きを伴った声に、彼女は首を傾げる。だがその直後、マシュは眼前に立つ敬愛する先輩(マスター)の様子が、今までのそれと聊か異なる事に気付いた。

 

 変質ではない。外見だけで論ずるならば確かに今の立香はマシュと出会った頃と比べると魔術回路の酷使の影響で髪には白髪が混じるようになり、肌は少々褐色を帯びて虹彩の色素も薄くなっている。しかし、それで彼が『藤丸立香』たる本質が変わった訳ではなく、それ故に彼女が気付いたのは内面的な事だ。

 

 非人間的になったのではない。もしもそうなのであれば、マシュは半ば本能的、直感的にそうだと知れた筈だ。けれど確かに、立香は出会った頃のままの彼ではない。その翡翠の瞳が放つ眼光に宿るのは、覚悟の色。少なくともローマにいる時の彼には見られなかった気配がそこにはあった。少なくともそれは、ただ英霊達に守られてばかりで命の遣り取りをする決意もない少年の姿では、ない。

 

「必ず……生きて帰ろう」

「……はい! 先輩は、私が守ります!」

「うん。頼りにしてるよ、マシュ」

 

 藤丸立香は弱い。強力な魔眼はあれどその能力は極端に扱いが難しく、かつ長時間に渡って使用すれば彼自身を傷つけるまさに諸刃の剣と言うべきものだ。他には不死に近い再生能力もあるが、それも全て遠き理想郷(アヴァロン)とその主であるふたりのアーサー王から与えられたもので自身の裡から発生したものではない。戦闘能力に至っては殆ど皆無と言って良く、礼装や魔銃がなければ低級霊にすら劣るだろう。

 

 或いは心無い者がそれを見れば、立香の事を嘲笑するのかも知れない。英霊や自分より年下の少女の後ろに隠れて正義面をしているだけの粋がりだと。それを不服だと、立香は思わない。何故なら、言い方はともかくとしてそれは紛れもない事実であるから。

 

 だが、それを恥じるつもりも、立香にはない。いや、彼としては粋がっているつもりは少しもないのだが、客観的に見てそう捉えられなくもない事は分かっている。それでも、体面などどうでも良い。そんな物で、生存は勝ち取れない。

 

 立香は戦士ではなく司令官だ。その役目は敵手と直接戦うのではなく、彼らがより確実に勝てるように盤面を作り上げる事。尤も、彼はまだそんな大層な策が立てられる程、指揮者として大成してはいない。

 

 だからこそ、賭け金はより多く。そう――己の全存在すら盤上に乗せて、彼は生存を勝ち取るのだ。

 


 

 神速にて放たれた黄金の剣閃が呵責なく、かつ過たずに真っ向からシャドウ・サーヴァントの霊核を貫く。尋常なサーヴァントならばその状態からでも超常的な意志力により暫くの間動き続けたのだろうが、所詮は霊基の残滓、その再現体である。一撃を受けた直後に脱力し、全身から黒い霊子を吹き出し始める。

 

 だが剣士はそれだけでは終わらせず、剣を心臓から引き抜くや否や刃を返して頽れるシャドウ・サーヴァントの首へ向けて一閃。何の抵抗もなく首と胴が泣き別れ、その瞬間に爆散するかの如くシャドウ・サーヴァントの身体が霧散した。

 

 しかしそうして帯び散った血のような霊子を満身に浴びる遥の顔に達成感などは欠片もなく、ただ淡泊な真顔がそこにはあった。遥にとってカルデアのシミュレーターで再現されるシャドウ・サーヴァント、その最低レベルなど物の数ではなく、そんな敵を相手にしていたのはひとえに己の回復の確認と新たにレオナルドが作成した漆黒の鎧――オルテナウス〝櫻華零式・改〟の慣熟訓練のためであった。

 

 変異特異点γでの戦闘にて破壊された原型機に代わり建造された本装備は基本的な設計思想こそ原型機と変わらないものの、ビースト・ラーヴァとの戦闘中に得られたデータをもとにして神核との同調安定化などの様々な改良が加えられている。それにより遥は全開で戦う事はできずとも、オルテナウスの基礎性能向上もあって以前よりも高出力で神核の力を揮う事ができるようになっている。

 

「ホント、レオナルドには頭が上がらねぇな……」

 

 運転が停止し元の姿を取り戻していくシミュレーションルームの中で遥が言葉を漏らす。その声音は誰もいないにも関わらずまるでおどけているようで、しかし同時に強い自嘲の響きを含んでいた。

 

 作成者であるレオナルドが言うには、彼女(かれ)にとって遥用のオルテナウスを作るのは半ば趣味であるという。実際、今回の装備にも彼女(かれ)のガントレットに使われている技術を転用したと思しき拳撃加速用のバーニアがオプションとして遥への相談なしに取り付けられている。尤も遥は剣術や魔術の他にインファイトも行うため邪魔ではないのだが。

 

 だがいくら趣味であるとはいえ、レオナルドに余計な手間を掛けさせているという事実に違いはない。それに元よりこのオルテナウスという装備そのものが、遥が神核を完全に制御できていれば不必要なものである。つまり、櫻華零式は遥の未熟さの証でもあるのだ。

 

 生まれながらにして持ち得ながら借り物でしかなく、しかし戦いの最中に己の原型である神を受け入れ自身の物とした力。だが彼は未だ、その力を十全に揮える程になっていない。何の補助もなしに全力を出せばどうなるかは、先日改めて実感したばかりだ。

 

 自分が独りで戦っている訳ではないという事は、遥もとうに理解している。彼は仲間と共に戦っていて、だからこそ己の力不足が許せないのだ。彼は仲間に支えられて戦えているのに、彼はその仲間を支えられていない。サーヴァントが過去の英雄、既に戦士として完成されている人理の影法師であることは知っているけれど、それでも、ただ支えられているだけの自分というものが、彼には情けなくて仕方がないのだ。

 

「まぁ、考えても仕方がない事か……研鑽あるのみ、だ」

 

 そう言葉を漏らして思考を切り上げる遥。結局、彼の悩みは考えていた所で何が解決する訳ではないのだ。いや、正しく力の使い方を捉え、かつその責任を認識し十全に背負うためには思考を止めてはならないのは間違いないが、まず使いこなすには彼自身がより強くならなければならないのだから、考えているだけでは全くの徒労というものだ。

 

 右手に握る叢雲を納刀せずに掲げ、刀身が放つ光が遥を照らす。彼が秘める力について言うのならば、この神剣もそうだ。ビースト・ラーヴァとの戦闘において彼は神剣の第二拘束まで解除できるようになったが、第三拘束を解放し神剣の真体を解放するには至っていない。そもそもその解放条件すら、担い手である遥自身でも分かっていないのである。神造兵装としての成立時期から考えてこの神剣の真体が日本刀ではなく大刀(たち)であるのは明白であり、それ故に本来の神秘を封じ形状ごと変質させる封印が相当なものだというのはその類の魔術を専門とする遥でなくても理解できるが、問題はその先である。伝承保菌者(ゴッズホルダー)であり封印魔術の専門家とすら言える彼でも術式の解析ができない、最早〝そういう神秘の塊〟としか言えないものが概念上に存在する。

 

 前途多難と言うべきか。人理焼却についてもそうだが、自分自身について解決すべき問題が、彼の前にはある。いくら仲間がいるとはいえ、彼らに甘えたままで生き残れるほど人理修復は甘くはあるまい。それに、新たな決意もある。

 

 溜息をひとつ。叢雲を鞘へと戻し、操作パネルを呼び出してシミュレーターの電源を落とす。そうして現在時刻を確認すると、そろそろ集合予定時刻という頃合であった。備品の確認などは事前に済ませているため急ぐ必要性はなかろうが、少し早すぎるくらいに到着していても悪くはなかろう。そう考えてシミュレーションルームを後にする。

 

 だが、そうしてレイシフトルームに向かう途中、角を曲がろうとした所で思わぬ光景を目撃し、半ば反射的に数歩後退って身を隠した。見つかると都合が悪いから隠れたのではない。ただ、邪魔をしたくなかっただけなのだ。けれど同時に様子を伺ってみたくもあり、完全な好奇心から僅かに顔を出す。前世代機であればバイザーがあったため不可能だっただろうが、新型はバイザーではなく特殊なAR機能を搭載しているため邪魔な物品はない。

 

 果たして、その視線の先にいるのはエミヤ、そしてイリヤ、クロエ、美遊の魔法少女3人であった。それなりに距離があるため何を話しているかは遥でも聞き取れないが、表情を見るに少なくとも険悪な様子ではないのである。いや、エミヤの表情には何らかの含みがあるようにも見えるが、それもイリヤらに対する悪感情ではない。悪感情など、ある訳がない。

 

 それから少し経って、3人はエミヤの許から離れていく。それを確認して角から出て行こうとする遥であったが、しかしエミヤが明らかに此方を見ている事に気づいてまるで投降するかのように両手を挙げた。

 

「覗き見とは趣味が悪いな、遥」

(わり)ぃな。けど、俺も無関係じゃないから、気になって」

 

 はぐらかすような声音での遥の答えに、首を傾げるエミヤ。その様子を見るに、どうやらエミヤは遥がクロエから相談――半ば無理に聞き出したうえにマトモな答えも提示できていないものをそう表現して良いかは疑問だが――を受けていた事については知り得ていないようである。

 

 しかし、だから何だというのだろうか。結局の所、無関係ではないというのも殆ど詭弁だ。クロエから彼女とエミヤ、ひいては他の衛宮家の間に横たわっている問題について聞き及んでいたとしても、彼らのマスターなのだとしても、極論、他人と他人の間にある問題に遥が介在する余地はない。全ての干渉はお節介だとか余計なお世話だとか、そう詰られても仕方のない事だ。

 

 それでも遥とて気になるものは気になるし、仲間である相手に対して全くの無関心不干渉である事はできない。一般的な魔術師であれば彼らをあくまでも使い魔として割り切ってしまえるのかも知れないが、少なくとも遥はそう在れない。

 

 そうして両手を挙げたままでエミヤの許まで近づき、彼の方を軽く叩く遥。その瞬間、エミヤは遥の明らかな異常に気付いた。視点が近いのである。それだけならただ背が伸びただけとも言えるだろうが、少なくとも一週間程前、遥が変異特異点γに迷い込む前よりも間違いなく近い。とうに成長期を過ぎた年頃の人間がたかが数日で3~4㎝以上の顕著な身体的成長を示すなど、明確な異常と捉えても問題はあるまい。

 

 原因として考えられる事項としては、やはり遥の血だろう。その血が齎す遥の存在規模(ライフスケール)の拡張により、半ば物理的に不可能な肉体の成長が発生しているのだ。或いはそれは、これまで以上の人間的存在からの乖離を意味する事実でもあろう。それに気づいているのかいないのか、笑みを浮かべている。

 

「聖杯を回収して、特異点を修正する。……やるべきことはいつもと変わらない。行こうぜ。俺は……俺達は皆の未来を守らなくちゃいけねぇ」

「あ、あぁ……」

 

 エミヤは正当なサーヴァントではなく、アラヤとの契約により英霊としての格を得た抑止の守護者である。その出自を鑑みるならば、彼は遥の言葉に対して一も二もなく頷くべきだったのだろう。それなのに一瞬の動揺を見せたのは、遥の言葉は意外だったためだ。

 

 エミヤとしてはあまり言葉にして言うつもりはないが、彼は遥に対して基本的に単独行動に走りがちだという印象を抱いている。故に、先の言葉の〝俺達〟という言い回し、更にはその言葉に嘘やおべっかの気配がない事が、彼にとっては意外であったのだ。

 

 如何なる心境の変化であろうか。遥の様子からして、何か思い直したという訳ではなく、半ば無意識の変容であろう。であれば、原因として考えられるのはビースト・ラーヴァとの交戦であろうか。どうあっても単独では打倒できず、イリヤらとクシナダ――否、ミコトとの協力があって初めて斃すに至ったその経験が、遥の在り方に何らかの変質を齎したのだろう。その結果として、遥は己独りで戦うだけではない、誰かと手を取り合うという考えを自然と行えるようになったのだ。

 

 その変化を、好ましいものだとエミヤは思う。たとえそれが原因で新たな自己嫌悪が生まれたり過程が健全ではなかったとしても、他者と手を取り合うという行為は人間が生きる上において最も基本的な事だ。以前はそれすらできずに独り走り続け、死に急ぐような真似を繰り返すしか遥には能がなかったことを考えれば、良い変化だというのは間違いない。

 

(だが――)

 

 エミヤは知っている。遥にとっての〝他者と手を取り合う〟という行いは、彼の相棒たる藤丸立香が自然と行っているそれとはまるで意味合いが異なるという事を。或いはその差異は、両者の人生の間に横たわる埋め難い隔絶が齎すものであるのかも知れない。

 

 藤丸立香は、指揮者である。彼には神秘や怪異と戦うだけの力がないため戦闘時こそ皆の後ろにいるが、精神的な在り様としてはむしろ皆の中心にいる。対して、遥は先導者だ。精神的にはまだ未熟であったとしても、皆を引っ張っていく姿勢に関しては立香よりも強い。

 

 故に、危うい。誰かと手を取り合う事を覚えたのだとしても、遥が死地に飛び込みやすい事に違いはない。頭が悪い訳ではないのに、頭に血が昇りやすい性格とその過去の影響故に〝誰かを守るためならば〟と簡単に己の命を投げ出すような行動に出てしまうのだから。そういうように造られたから、と言われてしまばそれまでだが、それでもエミヤは遥から何処か自分に近いものを感じているのだ。そこに〝正義の味方〟という理想の有無はあるにせよ。

 

 だが、いや、だからこそ見守らなければならない、とも思う。その命が道半ばで失われないように、というのもあるが、何よりも遥が己の道を走り抜けて振り返った時、その道が間違いだったと思う事のないように。酷い回り道を繰り返し迷い果て、その先にようやく答えを得るのは自分だけで良いと、己の主には嘗ての己のようになって欲しくないと、エミヤはそう思うのである。

 ひとつ小さく息を吐く。そうして一拍置いてから、エミヤが口を開いた。

 

「あぁ、そうだな。()()達は未来を取り戻さなければならない。……勿論、おまえの未来もな」

 

 そう答えたエミヤの目前で、刹那の間だけ遥が虚を衝かれたかのように瞠目したのを、エミヤは見逃さなかった。そこに込められている感情は予想外、それどころか考えてすらいなかった、といった所だろうか。

 

 だからとて何も、遥がこの戦いの中で死ぬつもりだという訳ではないのだろう。そもそもそのつもりであれば彼の心はとうに折れ、今までの戦いの何処かで死んでいた事だろう。

 

 しかし遥には将来の展望がない。人理修復を終え、自身の未来を取り戻したとして、その未来をどう生きるかというヴィジョンが定まっていないのである。それ故に〝おまえの未来を守る〟と言われても、即座にその意味する所を理解できなかったのである。フン、を鼻を鳴らすエミヤ。

 

「……その、なんだ。君にはないのかね、自身の展望……夢というのは」

「それ、ちょっと前にク……ミコトにも訊かれたよ。だから、考えもした。……でも、駄目なんだ。夢、やりたい事……そう言われても、具体的なイメージが浮かばねぇ」

 

 そう言い、自嘲的な笑みを浮かべる遥。だがそれは何も、彼の想像力が貧困だからだとか、己の将来について考えようともしない刹那主義者だからだとか、そういう事ではないのだろうと、エミヤは考える。

 

 だが、たとえ夢を見るだけの素養があったとしても、夢を見れない環境にいたのならその素養は無意味なものとなろう。遥がいたのは、詰まる所そういう環境であった。幼くして両親を亡くし、成長した後も血腥い戦場に身を置き続けていたのだから、仕方ないと言えば仕方がない。それでも戦い続けられる、というのなら無理に持つ必要はないのかも知れない。

 

 らしくない事を考えている、という自覚は彼にもある。だが己の未来や命についてあまりにも無頓着な遥の姿を見ていると、どうしても思ってしまうのだ。或いはそれは、正義の味方という夢があったエミヤだからこそなのかも知れないが。

 

 渋面を作るエミヤ。その目前で遥はそれでも、と言葉を続ける。

 

「考えてるうち、こうも思ったんだ。……俺は今まで、俺が愛した人達に生きて欲しいっていう俺自身のエゴのために戦ってきた。なら……皆の夢を守るためにも戦えるかも知れない。所詮、それも俺のエゴに過ぎないしな。

 ……あぁ、確かに、俺には夢がない。でも、夢を守る事ならできる。そうやって、いつか未来が見えたなら、俺も夢を見られるんじゃないか……ってさ。都合が良すぎるかな?」

 

 己の命を懸けてまで遥が戦う動機。それは彼が言う通り、愛した人々に生きて欲しいというものである。その事に嘘はない。そして遥の認識の上において、それは彼自身のエゴに他ならない。

 

 ならば、そのエゴに後付けで戦う動機を増やしたとしても何も問題はないだろう、と遥は思う。それがどんなものであれ〝己のエゴのために戦っている〟というその一点は変わらないのだから。

 

 人理修復は人類の未来を取り戻すための戦いである。そうして取り戻した未来で、人は何をするのだろうか。なりたい自分になるために頑張るか、就きたい職のために努力するか、或いは愛する人と結ばれるために邁進するか。それとも、日々を怠惰の内に沈めて何もせずに生きるのかも知れない。それの善し悪しは別にして、遥は否定しない。何故なら、そんな構想すら彼にはないのだから、否定できる筈もない。

 

 無論、全人類の夢を守るつもりなど、遥には全くない。人理修復を為す事が結果的にそれに繋がるのだとしても、彼の知った事ではない。彼は彼自身の手が届く範囲にいる人々の未来を、命を、夢を守る。他でもない、エゴのために。

 

(以前から似ているとは思っていたが……)

 

 改めて思う。同時に、まるで違う、とも。無論、その比較対象とは昔日のエミヤ――衛宮士郎である。

 

 両者の共通点とは〝己の身を犠牲としてでも他者を守る〟という事。衛宮士郎はその致命的なまでに破綻した人間性と正義の味方という夢のために。遥は己自身のために。半ば自己犠牲的な在り方を善しとし、選択している。

 

 そして相違点。これは〝人を守る〟という在り方そのものの違いだ。衛宮士郎は正義の味方であるが故にできたかは別として全ての人を守る事を命題にしているのに対し、遥は正義の味方など、全ての人の守護などまるで考えていない。

 

 遥はただ、自分の手が届く範囲にあるものを守ろうとしているだけだ。たとえ今は以前のように独りで抱えるのではなく他者と手を取り合う事を覚えたのだとしても、それは変わらない。要は守りたいものを守り、それを脅かすものを斬る。そんなものが、正義の味方であるものか。

 

 遥とエミヤはきっと似ていて、しかし決定的に異なる。それは術者自身の心象たる固有結界の詠唱が酷似していながら性質がまるで異なる事からも分かるだろう。だが、だからこそ見守り甲斐がある。己と似て非なる男がその道を走り続け、その果てにどんな答え()を得るのか――エミヤは、それが見てみたくもあった。

 

「あぁ、都合が良すぎるな。だが、悪くない。

 うむ。ならば、私は全力で君を守ろう。無理無茶無謀に無策のまま平気で突っ込む我がマスターの事だ、見ていなければ、いつ死んでしまうか分かったものではないからな」

「言ってくれる。……改めて、よろしく頼むぜ、俺のサーヴァント。俺が答えを得るまで、傍で見ていてくれ」

 

 言いながら、遥は拳を掲げる。一瞬それが何を意図しての行動か分からなかったエミヤであるが、急かすような遥の様子からその意味する所に気づいて、己の拳を打ち付けるのであった。

 


 

 通路上で長々と会話をしていたせいだろうか、遥とエミヤが共にレイシフトルームに入室した時には、既に彼ら以外のメンバーが集合している状態であった。或いは遅刻か、と冷や汗を流した彼らであったが、時計を見てみれば予定時刻前。どうやらただ皆が予定時刻前に集合していただけであるらしかった。

 

 とはいえ他のメンバーを少なからず待たせてしまった事に違いはない。軽く謝辞を述べてから所定の位置に着くと、全員の集合を認めたロマニが改めて攻略対象である特異点についての情報の確認を始める。尤も、その内容に以前のそれと大きな差異はない。スタッフらの尽力も虚しく、次の特異点である第三特異点についての情報は発見時に得られた以上に取得できなかったのである。

 

 だが、それに態々文句を付けるような慮外者はこの場に存在しない。情報が多ければそれに越した事はないというのは確かだが、カルデアのスタッフらのようなプロフェッショナルが不可能だというのなら、それを受け入れるのみだ。何を言っても無理なものは無理なのである。

 

 それから出撃前のブリーフィングが終了し、マスターふたり、そしてマシュがそれぞれのコフィンの前に立つ。レイシフトの間彼らの生命を守る、異界との懸け橋となる装置だ。スタッフらの操作でそのハッチが開き、遥がその内へと身を収める直前、立香が口を開いた。

 

「遥」

「どうした、立香」

「……今回もよろしく。一緒に戦おう。また……皆で笑い合えるように」

 

 その言葉はまるで、宣誓のようですらあった。皮膚や毛髪と同じように回路の変質による影響を受けて色素の薄まった翡翠色の瞳に宿る光は強い覚悟のそれで、遥が思わず口の端に笑みを浮かべる。

 

 見た目はともかく中身の問題として、立香を『藤丸立香』たらしめる本質は何も変わっていない。彼はあくまでもただの人間のままで、けれどこうして自ら戦おうとしている。生きたいがために戦うというのは聊か矛盾しているようにも思えるが、何もおかしな事はない。彼は善人だ。善人であるが故に自分が生きたいからと後方に引き籠っている事を善しとしない。

 

 それでいい、と遥は思う。()()()()()。彼自身はマトモでありながら、而してマトモなままにその感性ではどうあっても狂っているとしか思えないものをありのままに受け入れている。それは誰にでもできる事ではなく、故に自然体でそれができている立香は人間的に強いのだ。

 

 だからこそ、遥は守らねばならないと感じる。立香が守護を必要としているか否かなど関係ない。ただ遥自身がこの男の命をここで終わらせたくないと感じている。遥が立香を守る理由など、それだけで十分だ。実際にはそれだけではないのだが。

 

「応。戦おう。俺達の未来を、守るためにもな」

 

 

――アンサモンプログラム、スタート。

 

  霊子変換を開始します。

 

  レイシフト開始まで、3、2、1……

 

  全行程完了(クリア)

 

  グランドオーダー、実証を開始します。



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第89話 海原に広がる、見えざる暗雲。

「次の特異点攻略メンバーから私を外す……ですか?」

 

 その声音に、落胆や失望はない。ただ業務連絡を復唱するかのような淡々とした気配、或いは元より分かっていたかのような妙な落ち着きがあって、しかし遥の表情は優れない。苦虫を噛み潰したかのような渋面が、そこにはあった。

 

 サーヴァント『魔術師(キャスター)』クシナダヒメ、改め夜桜(よざくら)(みこと)を第三特異点の攻略メンバーから除外する。遥がその判断をミコト当人に伝えたのは、実際に第三特異点の座標が特定されブリーフィングが行われる前日、退院した遥の部屋をミコトが訪ねてきた時の事であった。

 

 ミコトは霊衣である巫女服ではなく桃色を基調とした私服を纏い、嫋やかな笑みを浮かべたまま遥のベッドに腰掛けて彼を見つめている。対して遥は平素の顕然とした物言いが嘘であるかのように何も言えず、故に先に言葉を紡いだのはミコトであった。

 

「えぇ。了解しました」

「……良いのか? 決定した俺が言うのも違うかも知れないが、おまえは……」

「勿論、良くはありません。……でも、私は今の自分の状態をよく知っています。それに、遥様のお考えも、理解していますから」

 

 その返答に遥は何も言わず、しかし明らかに表情を曇らせる。いや、それは少々語弊があるだろうか。兎に角、ミコトは遥の考えている事が分かっていて、その全てに納得はできていないものの彼に了解に意を示しているのだろう。

 

 夜桜命は神霊の分け御霊たる霊基の受肉体である。故に本来なら、元よりガイアの抑止力による後押しで召喚された事もあって同様の作用に絶命する筈であったのが、受肉の際に浴びた呪による零落と人の名による再定義・独立が重なり、遥と似た存在になる事で現世での命を得た。

 

 だがその奇跡の重複とも形容できるような外法の代償として彼女のステータスは大幅に低下した。元が元であるだけに現代人などとは比べるまでもなく、恐らくは数値的には十分サーヴァント相手でも張り合えるのだろうが、それでも格段に弱体化している事実に違いはない。加えて零落からそう時間も経っておらず、その状態での戦闘にも習熟していないのだ。これまで通りの感覚で戦って一瞬でガス欠になり戦闘不能、という事も十分に考えられる。

 

 得物使い同士の戦闘においては、得物の取り扱いに関する慣れは重要なファクターである。であればある種生命にとって最大の得物とも言える己が肉体への慣れが戦闘に影響しないなどと、どうして言えようか。冷酷な言い方をするならば、今のミコトでは足手纏いになってしまうのだ。

 

 だが、それはあくまでも慣れの問題だ。故に遥らが特異点を攻略している間、ミコトは今の自分にできる戦闘スタイルを確立して欲しいと、そういう事なのだ。もしも前線に出られないようなら、オペレーターなどでも構わない。何であれ、自分にできる事を見つけて欲しい。それが、遥の考えであった。

 

 しかし遥はその考えがミコトの身を案じるものであると同時に彼女の思いを踏み躙るものであると理解している。彼女は遥の傍にいたいと、傍で力になりたいと言ってくれたのに、遥はそんな彼女を一時的であれ突き放そうとしている。その事実が、遥の心底で澱のように堆積している。黒々としたそれに表情を歪める遥に、しかしミコトは笑う。

 

「良いのです。貴方の考えは正しい。だからって私の思いが間違いだとも思いませんけどね、ふふ。

 ……えぇ。私も、自ら命を投げ出すような真似をして貴方の傍にいられなくなるのは嫌ですから。だから、その代わり」

 

 言葉を区切る。半ば不自然にも思えるそれに遥は下方へと向けていた視線をミコトへと移そうとして、瞬間、手を握られる。予想だにしていなかったその行動に遥は面食らって、しかし振り払わない。振り払えるものか。ミコトは遥にとって大切な仲間、或いはそれ以上の存在で、そんな相手を万にひとつでも傷つけてしまうかも知れない行動などするものか。

 

 繋がる手から伝わる温もり。それは今までも何度か経験している筈で、なのに遥はいつまでも慣れる気配を見せない。最早今の彼(『夜桜遥』)前世/オリジナル(『建速須佐之男命』)の記憶と人格の連続性はガイアの設計通りに保たれていて、それでもそれは彼が今、『夜桜遥』である証明だった。

 

 残り数か月で成人を迎える青年とは思えない、まるで幼子のように初心な反応だ。だがそれさえも愛おしむかのように、ミコトは微笑む。そして告げた言葉は祈りであり、かつ呪いであった。いつかの決戦にて告げたそれのように。

 

「必ず、生きて帰ってきて下さいね」

 


 

 潮騒、である。レイシフトが完了し再構築された身体に五感が復帰し、正常な感覚を取り戻した立香が初めに認識したのはそれであった。目蓋を上げれば視界に飛び込んできたのはやはりと言うべきか、見渡す限りの大海原。少なくとも彼がいる位置から近い範囲の空は青く澄み渡り、遠くには島がいくつか見える。

 

 だがそちらとは別方向に視線を遣れば嵐らしきぶ厚い雲も見え、大海の神秘を物語っている。そのせいだろうか、礼装に記録された強化魔術で増強された視界に映る限りの海は異様に波が激しく、素人では出航すらままなるまい。下手に船を出せば転覆は間違いない。

 

 そして、直上。太陽を囲むように、巨大な光輪が浮いている。フランスとローマ、これまでカルデアが訪れた特異点にも存在した、人理焼却に関わると思しき謎の──レオナルドは何らかの魔術式、或いはその行使に使う魔力の塊だと推測していたのを立香は覚えている──脅威。その存在に立香が顔を顰め、しかしその直後、彼は隣でマシュが呆けた表情で海を見つめ続けている事に気付いた。

 

「マシュ?」

「……はっ! すみません、先輩(マスター)。レイシフトした直後だというのに、気が緩んでいました」

「ううん、いいんだ。ただ、物珍しそうに海を見てたから、どうしたのかなって」

 

 純粋な疑問のみを含んだ、立香の優しい声音。だがマシュは幾許か答えに窮したように口籠った後、再び海に視線を遣りながら彼の問いに答える。

 

「その、私、本物の海を見るのが初めてで。目を奪われていました。これが感動……というものなのでしょうか?」

 

 平素よりも僅かに上機嫌な気配を纏ったマシュの答えに、はっとする立香。或いは先の自分の問いは、あまりにも配慮に欠けていただろうか、と。それが何故かまでは知らされていないものの、マシュはカルデアで生まれてから人理修復が始まるまで施設の外に出た事がなかったという事は、彼も聞き及んでいる。

 

 海ならばローマにもあったが船での行軍を担当したのは遥らで、立香らは陸路であった。冬木は臨海都市だとも聞くが特異点Fでは見に行くような発想もなく、変異特異点αも遥たちがレイシフトしていたのだから、マシュにとってはこれが初めての海との対面なのだ。

 

 考えてみればすぐに分かった事だ。それなのに即座に問うてしまった己を、立香は恥じる。同時に、いつかマシュにまだ彼女が見た事のない景色を見せてやりたいと、共に見たいとも思う。それができたなら、どれだけ幸福だろうか。

 

 だが、それを口に出す事はない。明日をも知れぬ命である彼らにとって、無責任な希望は時に毒とも成り得る。故に密かに内心で決意だけをして、立香は自らの契約サーヴァントらへと向き直った。クー・フーリンにアルトリア、ジャンヌ、アル。マシュを含め、計5名。欠員なし。

 

「周囲に遥たちの気配は?」

「ないな。どうやらかなり離れた座標に出たようだ。尤も、今更珍しい事でもないが」

 

 代表して答えたのはアルトリアだ。非戦闘時であるためか甲冑を除装したドレス姿の彼女は一度気配を探るように瞑目し、冷笑を飛ばす。視線だけでアルに問うても反応は同じだ。ブリテンの紅き竜の系譜、擬人化された竜種とでも言うべき彼女らだ、その魔力知覚は並外れて鋭く、それが捉えられないというのだから真実なのだろう。

 

 だがアルトリアの言う通り、これは特段珍しい事でもない。冬木、オルレアンでも同様であったし、オガワハイムでは完全に単独での特異点攻略も達成している。合流するに超した事はないのは事実だが、一時的な自らの班のみでの作戦行動に、立香は然程抵抗がなかった。

 

 とはいえ敵の規模はおろか実態すら分かっていない以上、早急に合流すべきである事は間違いない。暫くはこの特異点を攻略するための情報収集と並行して合流も念頭に置いた作戦行動が求められるだろう。

 

 現状整理。立香らが出現したのは特異点内に存在する島の海岸であり、β班に欠員はなし。しかし遥らα班は少なくともアルトリアとアルの魔力知覚が及ぶ範囲にはいないと思われる。故に最優先事項である情報収集と並びα班との合流も考えて行動しなければならない。加えて。

 

「足も必要だね。この島に人がいるか否かに関係なく、海を渡れなきゃマトモに行動できない。アルトリアとアルなら加護があるから自由に移動できるけど……」

「特異点の情報が少なすぎる以上、得策とは言えませんね」

 

 途中から言葉を引き継いだアルに、立香が頷く。確かに情報を集めたり遥らの居場所を探すならばアルトリアらを別行動にしつつ海を渡れない立香らが何らかの移動手段を確保するというのが最も手っ取り早いのだろうが、その場合、当然それぞれの戦力が低下する。立香と離れる事になるふたりはその距離に応じて魔力供給効率が低下し、その分ステータスが減少するだろう。連絡自体は念話があるため問題にはならないが、敵性体の情報が全くない状況で手薄にするのは多大なリスクである。

 

 リスクのない作戦などないとは分かっている。目的達成と敵襲、どちらもあくまでも仮定の話で、どちらが先に起きるか分からない、とも。だが、あまりにもリスクが不確定であり、ともすれば想定外に多大である可能性を考えると、今、戦力を分断するのは悪手でしかない。

 

 臆病風に吹かれている。己の思考を客観的に分析し、立香はそう自省する。アルとアルトリアは強力なサーヴァントである。それぞれが最強クラスと言うに相応しい力量を備えており、先の作戦を執った場合立香と共に残る事になる3人も同様だ。特にクー・フーリンなど、アルトリアらを同時に相手取っても後れを取らないどころか圧倒するに十分なステータスだ。彼らならば、凡そどんなサーヴァント相手だろうと打倒するに不足ないだろう。

 だが、もしも。もしもである。この特異点にもサーヴァントなどという規格では測れない程の存在がいたら? ビーストとまではいかずとも、レフのように魔神を自称する黒幕の手先がいる可能性は十分に考えられる。それがサーヴァント1騎程度ではとても太刀打ちできないとは、ローマにて嫌という程理解させられている。だが、まだいるとは確定していないのだ。そんな相手を想定して勝手に及び腰になっているのだから、それは臆病と評価しても仕方あるまい。

 

 しかし、これで良い。深呼吸し、立香は自嘲の虫を追い出す。彼は指揮官だ。そして指揮官の役目とはただでさえ少ない戦力を希望的観測のみを重ねた妄想に依拠する作戦で浪費する事ではなく、今ある手札を組み合わせてより効率よく堅実に全員生存できるような作戦の立案である。であれば、多少慎重なくらいで丁度良い。

 

 作戦は慎重に。しかし心までは慎重すぎないように。そう己に言い聞かせ、立香が己の頬を両手で挟むように叩く。それと殆ど同時に、ランサーが弾かれるように森の方に視線を移した。その瞳に宿るのは、警戒である。

 

「どうしたの、ランサー?」

「気を付けろ、マスター。サーヴァントではねぇようだが、何人かコッチに来てるぜ」

 

 野生の勘か、或いは戦士の直感か。ランサーが言い終えるより早くサーヴァントらは同様にその存在に気付いたようで、武装を整える。彼らに応えるようにマシュの盾の裏で立香は魔術回路を励起させ、臨戦態勢へと移行する。

 

 ──刹那、銃声。或いは先制攻撃であるかのようなそれは、しかし極めて雑であった。神秘を内容しない通常兵器であるが故にサーヴァントには通用せず立香にとっては致命とも成り得る弾丸が、かすりもせず彼方へと飛び、勢いを失って波に呑まれる。だが相手が友好的でないと──見るからに異様な一団に初見から友好的であれと願う方が虚しい試みだろうが──分かった以上警戒を強めるのは十分で、直後、銃撃者らしき姿が茂みからその姿を現した。

 

 かなり日焼けした浅黒い肌には目に見えて多くの傷が刻まれており、中には目を負傷しているのだろう、眼帯をしている者もいる。その目に宿るのは立香らに匹敵する程の警戒と、幾らかの恐怖だろうか。

 

「……テメェら、随分と妙な格好だが……()()の仲間か?」

「何?」

「奴らの仲間かって訊いてんだッ!!」

 

 奴ら。生憎と立香には誰の事か皆目見当もつかないが、少なくとも遥らの事ではないとは確信できる。もしも遥らであったのなら、男ら、海賊を無用に追い詰めるような真似はするまい。容赦なく鏖殺するか、或いは取引で友好的な関係を構築しようとするか、どちらかだ。

 

 だがこちらに敵対意思がないのだと言った所で海賊らが聞き入れないだろうというのも、立香は理解している。興奮状態の犯罪者に警察が何を言っても説得できないのと同じだ。話を聞いて欲しいのなら、力づくでもばを整える他ない。

 

 しかし不用意に武力行使に出るというのは相手からの無用な反発を招く恐れがある。とはいえ相手が攻撃を仕掛けてくるのに防御しない訳にもいくまい。立香は思考を巡らせて、しかしその間にも状況は進む。ランサーの問いかけは、それを立香に再認させるかのように。

 

「奴さんら、多分仕掛けてくるな。どうする、マスター?」

「……無力化させられないかな? 上手くいけば、情報が聞き出せるかも知れない。それに……」

「殺すのは嫌、か? 難しい注文(オーダー)だが……主の命とありゃあ、従わざるを得ねぇな」

 

 小声でそう言い、ランサーは笑む。言わずとも分かっていた、といった気配だ。それはマシュを初めとした他の仲間の同様で、こんな状況だというのに立香もまた笑みを返す。

 

 殺す覚悟、殺させる覚悟は、既にできている。そうだとしても、殺し殺されなどない方が良いのだ。理想論だとは立香も分かっている。それでも、理想通りに事が片付くなら、それ以上はない。そんな思いを仲間たちが汲んでくれている。それが、立香にはひどく幸せな事だと思えるのだ。

 

 だが真に理想と言うならば、まず戦わず言葉で解決するのが最上だ。故に立香は一度唾液を呑み下し、できる限り刺激しないように、或いは諦念を前提に海賊らの意思を確認するように、答えを返す。

 

「……貴方達の言う『奴ら』が誰かは分かりません。そして、オレ達には貴方達と敵対する意思も、理由もない」

「ハッ、信じられるか! そもそも、敵対するつもりがなくとも海賊(オレたち)の縄張りに入ったのが運の尽きだぜ。野郎共、かかれェッ!!」

「応!!」

 

 恐らくは襲撃者らのリーダーと思われる赤いバンダナの男が号令を下すや、他の海賊らが一斉に腰に帯びた曲刀(カトラス)を抜剣する。だがその全てが魔力を帯びていない通常武具であり、立香以外に通用しないのは明白であった。

 

 それを彼らが知っているか否かは、立香には分からない。だが、よしんば知っていたとしても彼らは同じ行動に出ただろう。そう確信できるだけの気迫が、彼らにはあった。それに応えるように、マシュらも得物を構える。

 

 迸る海賊らの鬨の声。それを合図として、第三特異点最初の戦いが始まるのであった。

 


 

 飛来する弾丸の軌道を見切り、刀剣で斬り裂く。言葉にするのは簡単だが、実際に行うのは半ば不可能に近い。たとえば遥の持つS&W(スミス・アンド・ウェッソン)M500の初速が秒速約507メートルと言われており、それを切断するには発砲から着弾までの間に軌道予測から最適な斬線の判断、実際の動作を行わなければならない。

 

 更にもしも弾丸を切断できたとしても、その後の問題がある。人理が確立し物理法則に縛られた世界には、必ず慣性というものが適用される。それは存在そのものが神秘の塊とも言えるサーヴァントの武装であっても変わらない。それが神秘の薄い近代の英霊であれば尚の事。であれば必定の結果として切断されて別れた弾丸は元の運動エネルギーを幾らか保持したまま軌道を歪められて飛んでいくだろう。これは跳弾にも言える事だが、外的な力を加えられた後の弾道は予測が殆ど不可能である。不確定要素が多過ぎるためだ。折角元の弾道は予測し対応できたのに余計な手出しをしてしまったがために本来なら負わずに済んだ筈の傷を負う羽目になるという事も、ない話ではないのだ。

 

 よって最も堅実かつ確実に銃撃を往なす方法は回避なのであろうが、この場合にも問題がある。銃撃手と標的が1対1であったならこの限りではないのだが、集団戦においては回避はできたものの相手はそれを織り込み済みで後方にいる味方を狙っていた、などという事も在り得る。

 

 それこそ殆ど不可能な芸当だ、と只人は思うだろう。遥もできればそう考えたいと思う。だがそんな希望とは裏腹に、彼は今、己が相対している敵手がともすればそれだけの事をやってのけるだけの能力を備えているという確信を抱いていた。

 

「ホラホラ、どうしたんでござるかぁ? 威勢よく挑んできた割に大したことないでちゅねぇ、デュフフ!!」

 

 遥を煽るような表情と声音でそう言うのは身の丈2メートルを超える髭面の偉丈夫──黒髭こと『騎兵(ライダー)』エドワード・ティーチである。その周囲を固めているのは彼の宝具の一部である亡霊海賊とも形容できる配下ら。それらと相対している遥の表情は真顔で、エドワードの挑発に乗っていない事が分かる。

 

 ──事の始まりは数十分前。第三特異点へのレイシフトが決行され問題なく特異点に赴くことができた遥らα班だが、出現先が海に浮かぶエドワードの船であったのだ。それ故に即座の戦闘は避け得ないものであったのだが、その前に遥が提案したのだ。取引をしないか、と。

 

 相手が商人ならざる海賊である以上、遥の判断は愚断とも言えよう。しかし彼はマスターとしてサーヴァントのステータス透視能力を持つが故に見抜いたのだ。エドワードを含め彼の仲間であるサーヴァントが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 故にエドワードらがこの特異点で十全に活動を維持するための要石、或いは補給元として、遥はマスターたる己の存在自体がひとつの交渉材料として使えると踏んだのだが、悲しいかな相手は海賊。自らの欲望のままに行動し混沌を愉しむ自由の徒である。遥の思う尋常な利害が通用する筈もなく、エドワードの答えは是ではなく、而して否でもないものであった。曰く、取引をしたいのなら自分らを圧倒してみせよ。

 

 天叢雲剣を構え直す。背後では沖田とオルタ、タマモが2人で1騎の女性海賊サーヴァントと、エミヤと切嗣(アサシン)が深紅の戦斧を携えた半裸の男性サーヴァントと相対しているが、遥はそちらにあまり神経を使っていないようであった。放任ではない。信頼故に。

 

「というかぁ、サーヴァントを使わずマスター当人が戦うとか、拙者もナメられたものでござるねぇ」

「ナメる? 悪い冗談だ。これが最適だよ。適材適所ってヤツ、だッ!!」

 

 裂帛の如き気合。瞬間、床材が音を立てて捲れ上がり、遥の姿がエドワードの視界から消失する。だが、魔力の気配はない。故に遥は何らかの魔術ではなく純粋な速度のみで英霊の認識限界を超越したのだと、エドワードはすぐに気づいた。

 

 それ故に次に続くのは配下を用いた同時射撃。軌道が見えぬがための面制圧。しかし、遥にとっては既にそれも一度見た攻勢だ。詠唱を省略した固有時制御により引き延ばされた認識時間の中で軌道を見切り、刀身に煉獄の焔を宿らせる。

 

 そして、一閃。紅い剣閃が銀の星を捉え、その悉くを呑み込む。切断は無謀。回避は愚策。故に遥が選んだのは、謂わば摂食だ。魔力を浄化・吸収する煉獄を以て弾丸を形作る魔力そのものを無力化してしまうのだ。英霊本体相手ならそうはいかないが、既に解き放たれ本体から切り離されたものならばそれも容易である。返す一刀で亡霊らを消滅せしめる。

 

 不可解なまでに早い判断だ。いくら遥が優れた剣者であろうと。だが、それもその筈だ。遥は既に変異特異点γにて二度、エドワードと交戦している。そのため、エドワードの戦闘理論をある程度把握しているのである。

 

 再度の踏み込み。続けて遥は叢雲を逆袈裟に斬り上げ、しかしその一撃はエドワードの曲刀により受け止められた。そのまま鍔迫り合いに移行するふたり。遥もかなり身長が高い方だがエドワードには敵わず、半ば上から抑えつけられる形になる。

 

「なるほどなるほど、確かに適材適所でござるなぁ。……テメェ、どっかでオレと会っただろ?」

「さぁ、どうだかな……!」

 

 見抜かれている。そう確信し、遥が内心だけで舌打ちを漏らした。元はと言えば彼が余計な事を言ったのも原因であるのだが、有利を失って惜しまぬ程遥は純粋ではない。尤も、いつまでも先の有利を維持できるとも思ってはいなかったのだが。

 

 極めて粗暴なイメージのある海賊だが、エドワードの本質はその暴力性ではなく彼の優れた頭脳にあるのだと交戦経験のある遥は知っている。ステレオタイプのオタクめいた振る舞いも──半ば以上彼自身の趣味もあろうが──相手を欺くための道化であって、本性は正反対の切れ者だ。遥が何も言わずとも、彼ならすぐに遥が彼を見知っていると気づいただろう。

 

 だが、それでも遥の持つアドバンテージが完全に消えた訳ではない。加えて、遥自身も魔法紳士としてのエドワードと交戦した時よりも成長しているのだ。よしんば殆ど初見の攻撃、或いは戦術を用いられたとしても簡単に後れを取るつもりは、彼にはない。

 

 体格差を利用した動作の制限。それを脱却すべく遥が軌道させたのは手首に組み込まれた拳撃加速用のバーニアである。瞬間的に出力が上昇した駆動部が唸りをあげ、カトラスを押し戻す。そうして生まれた間隙に遥は動こうとして、しかし黒髭はまるで分かっていたかのように先んじる。

 

 エドワードが曲刀を傾け、流された神刀の刃が空を斬る。その隙を縫うようにエドワードはその巨躯を器用に屈め、拳を握った。顎下からの掬い上げるような拳撃。だがそれが炸裂する直前、遥が口を開いた。

 

疑似魔術回路、制限解除(サーキット・オーバーフロー)神核同調制限解放(コネクト)

 ──加速開始(イグニッション)!!」

 

 刹那、遥の隙を突いて拳撃を喰らわせる筈だったエドワードの身体が横合いに吹っ飛ぶ。その勢いを殺そうとエドワードは床の継ぎ目に鉤爪を突き込むなどするが、完全に殺しきれずにそのまま壁に叩きつけられ、船室の外壁に罅が奔った。

 

 まるで空間跳躍の魔術を行使したかの如き不可解な挙動。だが、遥にそれができるような力はない。彼はただ、一時的にオルテナウスと神核の同調上限を解放し、瞬間的に引き上げられたステータスと固有時制御、極地の合一により神速に至り、その運動エネルギーをそのまま拳に乗せて叩き込んだのである。その威力たるや、砲弾と比較しても劣るまい。

 

 手応えはあった。いかなサーヴァントであろうと、頭蓋が砕けていてもおかしくはあるまい。ただでさえ、遥らと遭遇する前からエドワードは消耗していたのだから。だが、しかし。

 

「っ……やっぱ、このくらいじゃ倒れねぇか……」

「デュフフフ……あたり前田のクラッカー! 何のこれしきでござる!!」

 

 頭から大量の血を流しつつ肉食獣が如き眼光を瞳に宿らせた巨漢が、口だけで道化を演じている。文字にすれば中々に珍妙な絵面にも思えるが、相対する遥は苦笑いするしかない。無論、呆れなどではない。頭蓋を半ば砕かれ致命半歩前といった有様でありながら未だ衰えぬその威圧、凄まじい執念。それに対する、畏怖にも似た感嘆であった。

 

 だが、だからとて遥も負ける訳にはいかないのだ。黒髭らを圧倒し、取引の席に着かせる。そう宣言した以上、遥は退けない。英霊を統べるマスターとして。そして、己の剣に誇りを掛けるひとりの剣者として、プライドが遥に後退を許さない。

 

 叢雲を構え直し、同時に遥の剣圧が増す。その高まりに呼応するかのように活性化した固有結界が焔を噴き出し、それを感知したオルテナウスが排熱機構を駆動させる。装甲内部を駆け巡るは激流。展開した関節部から漏れ出す焔は気炎の如く。或いは視線のみで敵対者を斬り刻んでしまうかのような気配を漂わせるその姿は、剣聖というよりもむしろ剣鬼という表現が正しかろう。

 

 それを前にして、エドワードは悟る。今、彼の眼前に立つ剣者は間違いなく彼に対して戦意と同時に敬意を抱いている。いや、彼に対してだけではない。剣者は英霊という存在全てに敬意を抱いていて、その上でひとりの人間として相対している。時に乗り越えるべき目標として。愛すべき仲間として。或いは殲滅すべき敵として。敬っているにも関わらず攻撃に一切の躊躇がないのはそのためだ。捻じ伏せてみろと言われたのだから、全力を以て捻じ伏せる。たとえ、相手が既に手負いであったのだとしても。

 

 櫻華零式・改から放出された焔が叢雲の刀身へと収束。高圧の魔力により束ね上げられ、黄金が朱へと変わる。すると徐に遥は神刀を鞘に納め、腰を低く落とした。それが何を意味するか西洋人であるエドワードは知らず、しかし研ぎ澄まされた直感が危機を察知して反射的に髭に括りつけられた爆竹を放り投げた。

 爆音。そして閃光。英霊たるエドワードが渾身の魔力を込めた爆竹は船の一角を消し飛ばすかの如く内部に秘めた神秘と魔力を解き放ち──しかし、それは一切の被害を齎すことなく唐突に消失した。

 

 斬られた。エドワードが確信する。爆発そのものを、ではない。そもそも爆発自体はただの爆燃、急激な酸化反応でしかなく、斬り裂けるものではない。故に、斬られたのは()()()()()()()()。ある種霊基の根幹とも言えるそれが斬られ、土台の上に乗った存在ごと維持できなくなったのであろう。

 

 それを目の当たりにして、エドワードが見せたのは笑みであった。面白ぇ、と。歪んだ人理を正す救世の徒、己ではなく全体のために奉仕する連中が何だと思っていたが、この男は存外悪くない。もしも無欲であったのなら、男がこれほどの武練に到達するのは不可能であっただろう。であれば、この男は強欲だ。ともすれば海賊に比肩する程に。その思いのまま、彼はあえて次に来る衝撃を受け入れた。

 

 吹き飛ばされる身体。叩きつけられ、総身に衝撃が奔る。だがエドワードは怯まずカトラスを揮い、剣者と海賊は、互いの喉元へと得物を突きつけ合う。戦場を一瞥してみれば、既にそこは遥のサーヴァントらによって制圧されつつあった。

 

「ハッ……合格(ごーかく)でござる。話だけは聞いてやるでござるよ」

「……本当か?」

「海賊に二言があるとお思いか、マスター氏?」

 

 その言葉と共にエドワードが手を差し伸べ、遥がそれを取る。瞬間、ふたりの間に契約のパスが結ばれ、遥から持ち出される魔力量が増加した。

 

 試されていたのだろうか。遥は思う。それにしてはエドワードの眼光は明らかに相手を殺そうとしている者のそれであったが、それは遥が自身の実力を過信している愚者であったら本当に殺害してしまうつもりであったからなのか。考えても答えは出るまい。それを知っているのはエドワードのみであるのだから。何であれ遥がエドワードの眼鏡にかなったのは事実であり、彼はその顔に不敵な笑みを覗かせた。

 

「分かったよ。……よろしく、船長さん」



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第90話 汝、大海賊と手を取り合え。

 ワンサイドゲーム。マシュを筆頭とするβ班のサーヴァント達と海賊らの戦闘を形容するならば、その言葉が最も適切であろう。いや、それは最早戦闘と表現する事すらも不適ではないかとすら感じられる程に一方的であった。

 

 そもそもの戦闘能力の桁が違い過ぎる、というのもある。海賊らが弱い訳ではないが、相手は人理にその名を刻んだ英霊、それも大半が神秘に満ち溢れた神代の生まれだ。いくらサーヴァント化して身体能力が生前に比べ大幅に低下しているとはいえ近代の人間に劣る訳もなく、その点で見てもパワーバランスは明らかである。

 

 だがそれ以上に、その戦闘の趨勢を決定づけた要素として大きいのは人間とサーヴァントの間に横たわる相性差だ。サーヴァントはその存在そのものが神秘の塊とも言える霊体であるが故に、通常の物理攻撃は意味を為さない。海賊らの持つ通常兵装では、ダメージを与えられないのだ。一方的な戦闘になるのも致し方ない事であろう。

 

 とはいえ、だからこそ海賊らを無用に傷つけずに無力化できたというのも事実だ。或いはそれは一種の横暴、強者の傲慢であり自身はそれに便乗しているだけなのだろうかと立香は思うけれど、彼はマスターなのだ。彼がマスターとして命じ、サーヴァントが実行したのなら、何であれ彼には背負わねばならない責任が生じる。自分だけ無力だから関係ないなどと、そんな無責任は許されない。尤も、善性の極地である立香が責任を放棄するなど万にひとつも在り得ない事であるけれど。

 

 ともあれ海賊らを殆ど無傷で捕縛できた立香らβ班はその後の交渉の甲斐あって、少なくとも彼らの言う〝奴ら〟とやらの一味ではないと理解してもらう事に成功していた。その過程で興奮状態にあった彼らを鎮静化するためにクー・フーリンにルーンによる暗示を掛けさせたのは心苦しくはあるが、洗脳や思考誘導の類は行っていない。信用を得られたのは、ひとえに交渉を担当した立香の手腕であると言えよう。

 

 ──鬱蒼と茂る森の中、草木を掻き分けながら立香らが海賊らの後に続く。凡そ人獣が通った後にはそれらしい跡が残るものなのだろうが、ひどく青々としたこの森の内では僅かな残滓のみがあるばかりだ。到底人がいるようには思えないが、海賊一味らの中でも幹部格と思われる赤バンダナの船員──〝ボンベ〟によればこの先に彼らの仲間が身を隠しているらしい。

 

「いいか、オメェら。もう少しでオレらの隠れ家に到着するが、くれぐれも騒ぐんじゃねぇぞ。クソミソにやられた後で、どいつもこいつも気が立ってるからよ」

 

 真剣な表情でそう忠告するボンベに、立香が返したのは了解の意。ボンベらが襲ってきた際の口ぶりから立香は朧気に察してはいたが、どうやら彼らは何者か──恐らくはサーヴァントであろう──の襲撃を受け、あわや壊滅か、といった所まで追い詰められていたようである。立からの前に現れたのは、辛うじて重症を免れ治療の済んだメンバーであったらしい。

 

 彼らがただの海賊であれば、多少冷酷な思いではあるがそれも致し方なしと考える。むしろサーヴァント相手に負傷者を出しつつも生き延びられたというのが驚きだ。だが、ボンベらが言うには彼らの頭領はかの大海賊〝フランシス・ドレイク〟であるという。そうなってくると、話が別だ。

 

 フランシス・ドレイク。イギリスの艦隊を率いて当時は無敵と称されたスペイン艦隊を打倒しエル・ドラゴと呼ばれ恐れられた船乗りであり、それ以前には私掠船船長としてマゼランに続く2度目の、存命のままの人間としては世界初の世界一周を成し遂げた、魔術世界で言う所の〝星の開拓者〟である。〝不可能である筈の事象を不可能であるまま達成する〟というある種の矛盾を捻じ伏せる彼の者を追い詰めたというのだから、敵対するサーヴァントは生半な英霊ではないのだろう。

 

 歩きながら立香がそのような思考を巡らせていると、不意に振り返ったボンベと目が合う。どうやら彼らの隠れ家の前まで来たらしく、ここで待てとの事であった。その指示に従い立香らは足を止めて、ボンベらは来客の取次に戻っていく。

 

 そうして、一拍。礼装に記録された強化魔術を視覚に施して木々の間からその先の空間を覗く。そうして見えたのは、一種の野戦病院とでも言うべき光景であった。ある程度開けた空間の中、簡素な設備に怪我人が並んでいる。だがそれも数人の重傷者のみで、多くは獣のような眼光を覗かせつつも銘々に安静にしている。その光景は、おおよそ海賊というイメージからは想像できない程に大人しく見える。まるで、何者かにそう言い含められているかのようだ、と立香はもう。彼の観測を通じて同じものを見ていたのか、通信機からロマニの声がする。

 

『……妙だな。実際に見ている訳じゃないから断言はできないけど、随分としっかりと治療されているみたいだ。誰か腕の立つ医者がいるにしても、まだ大航海時代だぞ……?』

 

 医術の発展が一朝一夕のものではなく人理の歩みと共に進歩してきたとはいえ、現代になってから大きく飛躍を遂げたのは言うまでもない。海賊らが大航海時代の人間である事を考えると、彼らに施されている医療は時代にそぐわないものであるようにも見受けられた。

 

 だがそれに答えが示されるより早く、ボンベが立香らの許へと戻ってくる。

 

「来な。姐さんからお目通りの許可が出た」

 

 その言葉に立香は頷きを返し、ボンベの先導で海賊らの潜伏場所へと身を晒す。瞬間、彼が感じたのは全身を貫き穿つような凄烈な視線。或いはそれのみで人を射殺さんばかりのそれは、尋常な人間であれば凡そ知る事もなく死んでいく筈のものだ。

 

 それは何処かローマの戦争において連合ローマの兵士らから向けられたものと似ている。だが似てはいても、両者は根本から異なるものだ。連合ローマ兵らのそれが正義であるなら、こちらは猜疑。手負いの獣は平時よりも獰猛である、というようなものだ。

 

 慣れている、とは言えまい。今とて態度こそ毅然としているようだが、実際は堪えているだけなのだ。腹の底に力を込めて。海賊らの反応はあくまでも自然で、ある意味ではそれも人間の描く色彩のひとつである。

 

 超然としているのではない。ただそれも正当な反応だと受け容れているに過ぎない。反対に不自然な事と言うならば、それだけ好戦的な様子を見せていながら誰一人として仕掛けてこない事か。そんな思考を遮るように、声。

 

「ボンベ、ソイツらかい? アタシに会いたがってるって連中は」

「へぇ。そうっス」

 

 ──立香の視線の先、そこにいたのはひとりの女性であった。身の丈は特別大きいという訳ではないようだが身に纏う威圧感、或いは気配のせいかそれを感じさせない豪傑といった存在感を放っており、顔の右上から左下にかけて刻まれた傷が野生動物めいた美貌をより凄烈なものにしている。

 

 この女性が、かの大海賊フランシス・ドレイク。現代まで語り継がれる歴史と性別は異なるが、そんな事は最早どうでも良かった。男性だと伝えられていたが実は女性でしたなどと、立香はアルトリアらやネロなどで何度か経験しているし、何よりその場にいるだけで呑まれてしまいそうな存在感が間違いなくこの女性が英雄なのだと物語っている。──たとえ、その身体に明らかな負傷の跡があろうとも。

 

 恐らくは骨折、或いはそれに近しい傷を負っているのだろう。ドレイクの右腕、そして左脚にはギプスの固定と思われる包帯が巻かれており、左脇に松葉杖を挟んでいる。であれば、彼女の背後に建つありあわせの材料で造られたと思しき簡素なテントは仮設の診療施設なのだろう。あの中からサーヴァントの気配がします、とマシュの耳打ち。

 

「で、随分とキテレツな格好の連中だが……何者だい? アンタら」

 

 睨み付け、探るような視線。圧倒的なまでの存在の〝格〟とでも言うべき空気感に引きずり込まれそうになりつつも応え、立香が口を開く。

 

「オレは藤丸立香。こちらはマシュ・キリエライト。カルデアという組織に所属する者です」

「カルデアぁ? 星見屋が何の用だい。またぞろ、新しい星図でも売りつけにきたとか?」

 

 怪訝そうな、それでいて明確に冗談だと分かる声音であった。しかし、カルデア。その名前だけなら占星術などの天体観測技術に優れるカルデア人という民族も該当するが、時代が違い過ぎる。となると、ドレイクが言っているのはアニムスフィアに関係するカルデアなのだろうか。尤も、確かめる意味もないだろうけれど。

 

 だが少なくともドレイクが立香らに対して悪い印象を持ってはいないようで、立香は内心のみで安堵の吐息を洩らした。だが、本当に安心するにはまだ聊か早すぎる。すぐに再び気を引き締める。

 

 で、実際の所は何の用なんだい、とドレイク。それに応えて自身らがこの場を訪れた経緯を語る立香と相対する大海賊の表情はあくまでも真剣で、荒唐無稽とも取れる彼の話に疑いを持っていないようにも見えた。

 

「……ふぅん。海がおかしい、ね。そりゃ確かにアタシも感じちゃいたよ」

 

 神妙な面持ちでドレイクは言う。

 

「地理がおかしい。天気がおかしい。海流がおかしい。アンタらが何処まで知ってるか分からないけどね、この海域はまるでツギハギだよ」

「ツギハギ……」

 

 ドレイクの言葉に、立香の脳裏を過るのはレイシフト直後に目の前に現れた海の姿。彼は海洋の気象や様子について明るくはないが、それでも何かがおかしいというのは誰の目から見ても明白だ。であるのだから、海賊ならば猶更なのだろう。

 

 その異常が聖杯による直接的なものなのか、聖杯を用いた何らかの大規模な魔術によるものんあのか、はたまたこの特異点の発生地点そのものが通常の位相ではないのか──世界にテクスチャというものが存在するのは立香もマーリンや遥から聞いている──様々な可能性が考えられるが、今のところは断定できない。

 

 だが間違いないのは、この特異点に来たばかりの立香達よりもドレイク達海賊の方がこの異常を正しく認識しているという事だ。加えて彼女はこの時代における重要な人物であるのだから、放置という訳にもいくまい。そんな彼らの事情は、ドレイク達には関係のない事だろうけれど。

 

「……で、アンタらはその異常をどうにかするために探し物をせにゃならんが、足がない。おまけに海に不慣れときている。で、海賊だろうがアタシを頼る他ないと。そういうコトだろう?」

「海賊がどうとか、関係ないです。オレたちは、フランシス・ドレイク、貴女だから頼りたいと思った。必要だと考えた。それだけです」

「へぇ。なかなかの口説き文句だね、悪くない。

 ……だがね、アンタらと違ってアタシらは自由のためならどんな悪徳でも許容するんでね。異常! 不明! 大いに結構!! (ロマン)があるじゃないのさ!」

 

 話が通じていないのではない。ドレイクは自らが置かれた状況や立香らの立場、事情を理解していて、それでもなお現状を善しとしている。夢が浪漫があるというそれだけのちっぽけな、しかし人間が自己の行動を決定するには十分過ぎる理由だ。

 

 そんな事で、とは口が裂けても言えまい。立香とて、特異点を取り巻く人理焼却などの事情を知らないでこの中に放り出されれば恐怖に慄きつつも未知と冒険に心を躍らせていた事だろう。いや、今でも内心、まだ見ぬ場所への好奇心を覚えている自分を、彼は自覚している。

 

 ならばいっその事、自分達も冒険に連れていってほしいとでも言うべきなのだろうか。達成すべき目標からは遠のいてしまうかも知れないが、本心には違いない。そんな事を考えていた立香だが、その目前で不意にドレイクの表情が苦虫を噛み潰したかのようなそれに変わる。

 

「しかしだ。今、アタシらが自由を謳歌するにはひとつ問題があってね」

「問題?」

「あぁ。なんだったかねぇ、ヤツらの名前。ア、アル──」

「──英雄旅団(アルゴノーツ)だ」

 

 ドレイクの言葉をそう引き継いだのは、彼女の配下たる海賊らではない。ドレイクの背後、簡易テントから姿を現したのは、一言で言えば〝医者〟であった。黒い手術着とマスクを着用しているが今は手術中ではないためか長い白髪が露出している。手に持っている魔杖に巻き付いているのは蛇の使い魔だろうか。手術帽とマスクの間から覗く瞳は気だるげで、しかし同時に得体の知れない欲のような光が宿っている。

 

 この男性が、マシュが感知したサーヴァントに間違いあるまい。時間の概念がない『座』に本体が存在するサーヴァントであれば、この特異点の年代にそぐわない医術を施せることにも一定の説明が付く。それに魔術師としては未熟も甚だしくとも恐らくは人類史上最も多くのサーヴァントと出会った人間である立香は、その経験のせいか魔術的知覚に依らずとも感覚的にサーヴァントと人間の見分けを付ける術を見出しつつあった。或いはそれは、彼の持つ特殊な魔眼の効力でもあるのかも知れないけれど。

 

 唐突に会話に割り込んだ形になったからだろうか、その場にいた一同の視線が男性医師に集中する。ともすればひどく気まずく感じてしまいそうな状況であるが医師がそれを意に介した様子はなく、立香が問いかけた。

 

「貴方は……?」

「『魔術師(キャスター)』アスクレピオス。ただの医者だ」

 

 アスクレピオス。思いもよらぬビッグネームの登場に、立香とマシュが瞠目する。彼の医神の名といえば、たとえさして神話に詳しくない人間でも一度は耳にしたことがあるだろう。

 

 太陽神アポロンとラピテス族の王プレギュアスの子女たるコロニスの間に産まれた半神半人にして、半馬の教導者ケイローンに養育された弟子のひとり。また、先程彼自身が口に出したアルゴノーツのメンバーでもある、現代にまで語られる医学の祖である。

 

 しかしドレイク、更にはボンベの言う〝ヤツら〟の正体がアルゴノーツであるならば、何故彼がここにいて、ドレイクらの治療を行っているのか。疑問が表情に出ていたのか、アスクレピオスが答える。

 

「何を呆けた顔をしている。面白くもない症例ばかりだが、患者がいる以上、診ない医者がいるものか」

「面白くない症例で悪かったね」

 

 ぼやくように、皮肉るように呟くドレイク。しかし医師はつまらなそうに鼻を鳴らし、特に何を返すでもなくすぐに立香へと向き直った。

 

「それより。おまえ、魔術師だろう? なら僕と契約しろ。今すぐにだ」

「えっ!?」

「驚く事ではないだろう。僕はサーヴァントだ。どうやら特異点にいる限り現界する魔力には困らないようだが、魔力供給源は近くにいた方がいい。使える治療法が増える。

 聖杯ならこの女も持っているが、魔術師ではないからな」

「は……!?」

 

 ドレイクが、聖杯を持っている。何という事でもなさそうにアスクレピオスが口にした情報に、立香が本日何度目になるかも分からない素っ頓狂な声を漏らす。その様はともすれば間抜けの誹りを受けかねない程だが、情報の重要性を考えれば仕方のない反応だと言える。通信の向こうでロマニが全く同じ反応をしたのも当然と言えよう。

 

 その表情のままドレイクの方へと視線を遣る立香。するとドレイクはそれに込められた意図を察したのか、自身の鳩尾辺りに手を遣った。刹那、彼女の身体から溢れその手に収束する魔力の光。さして間を置かずそれは実体を成し、黄金の輝きを放つ杯と化した。

 

 間違いなく聖杯である。しかし人理焼却の原因として特異点に設置されている聖杯は黄金の杯の形をしたいかにもそれらしいものではなく、半透明の結晶体の姿をしているのが通例であった。そもそもとしてドレイクの持っている聖杯が特異点化の原因であるなら、サーヴァントであるアスクレピオスが見過ごしているのは不自然だ。そんな動揺が透けていたのか、ドレイクが自慢げに語る。

 

「あぁ、コレかい? この海に来た時に、ポセイドンを名乗る輩と出くわしてね。気に喰わないからブッ斃して、島ごと沈めてやったのさ。これはその時に手に入れたお宝のひとつさね」

「フン、ポセイドンめ、いい気味だな」

 

 ドレイク言葉に続き、嘲笑うかのようにアスクレピオスは言う。その様子からするに、たとえ直接的な関係はなくとも彼は自身を殺害する決定を下した、或いは自身を葬ることで死者蘇生の霊薬の製造法を永久に喪失させたギリシャ神を良く思っていないようである。

 

 だが、それは問題ではない。いかな医神とさえ称される程の人物であろうとも、人である以上他者への好悪があるのは当然の事だ。差し当たって事実確認をすべきであるのは、ドレイクの方だ。

 

 ポセイドンを殺害し、聖杯を含む宝物のいくつかを奪った。その文面だけならばいかにも海賊らしい行いだが、問題はポセイドンが紛れもない神霊であるという点だ。時代を考えれば零落し果てているどころか人理に溶けるか世界の裏側に落ちていないと不自然ではあるが、ここは特異点だ。神代に近しいマナが満ちているこの空間ならば、条件さえ整えば神霊も絶大な力を揮えるだろう。それを、斃した。俄には信じがたい話だが、戦利品がある以上は信じない訳にもいくまい。

 

 そして特異点化の原因ではないのだとしても聖杯であるなら、カルデアの回収目標のひとつである。しかし自らの力で奪い取ったものであるから、ドレイクは簡単には渡そうとするまい。あるとすれば、聖杯と同等の価値があるとドレイクが判じそうな物品、この時代であれば山盛りの香辛料を対価として提示して交渉する、などか。生憎と今は持ち合わせていないが、後で試してみる価値はあるだろう。

 

 兎に角、今は今すべき事をしなくてはなるまい。そうして立香がアスクレピオスと契約を結ぶや、医神は回診に行ってくると残してその場を去った。完治するまでは海賊行為は厳禁(ドクターストップ)だからな、とも。念押しめいたその一言に、ドレイクがため息を吐く。

 

「うるさいねぇ。分かってるよ、ンなコトは」

「あはは……それで、話を戻しますが、アルゴノーツが貴女達を襲った〝ヤツら〟の正体なんですか?」

「あぁ。医神(センセ)の話では、そうなんだとさ。連中、恐らくアタシの持ってる聖杯(コレ)が狙いなんだろうね。……アタシらともあろう海賊が、手も足も出なかった。屈辱だよ」

 

 手も足も出なかった。サーヴァントの特性を考えれば、それも当然だと言える。実体として肉の身体をもつ人間と異なり、サーヴァントはその本質を霊体とする存在だ。聖杯を持つドレイクはともかくとして、彼女の仲間の攻撃は一切通用しない。であるにも関わらずアルゴノーツ程のサーヴァントらから一度でも逃げ切る事ができた時点で軌跡と言えよう。或いはそれも、星の開拓者のなせる業なのだろうか。

 

 だがそんな第三者からの印象など、ドレイク達の知った所ではあるまい。彼女らにとって重要であるのは、一方的に襲撃され、半ば自由を奪われたという点。反撃に出ようにも、相手の人数にもよるにせよドレイクとアスクレピオスだけでは打倒は殆ど不可能と言って良い。それだけは、星の開拓者の力を以てしてもだ。

 

 しかしだ。そんな絶望的とすら言える状況にあって、ドレイクの瞳に諦念の色合いはなかった。むしろそこには肉食獣めいた爛々とした眼光が宿り、反抗の機会を虎視眈々と狙っているかのようですらある。或いはそれは、カルデアという一種の光明と出会った事でより強まったのだろうか。

 

「ドレイク船長。貴女の話を聞いて確信しました。……貴女と、オレ達。斃すべき相手は同じです」

「だろうね。見れば分かるよ、アンタら、あぁ、藤丸以外だが……連中やセンセと同じ類だってのは。

 だがね、本当にいいのかい? 藤丸、アンタはアタシらと同じ、ただの人間だ。命張ってもらう事になるよ」

「元より覚悟の上です」

 

 即答であった。しかし立香の答えにドレイクはすぐに答えを返さず、凄味とでも言うべき圧の籠った目で真っ向から彼を射抜いている。その様たるや、10cm近い身長の開きがあるにも関わらず圧倒的な高みから見下ろされているかのようだ。

 

 だがそんな威圧に晒されてもなお、立香はドレイクから目を逸らさない。それどころか正面から受け止め、押し返しているかのようですらある。無論、全くの平気というのではない。何しろ、相手はかのフランシス・ドレイクである。その殺気は尋常のそれではなく、気を抜けば膝が笑い出してしまいそうな程だ。

 

 何の関係のない他者がそれを知れば、情けないと嗤うだろうか。しかし立香は、その恐怖を恥だとは思わない。彼はただ、それを堪え、受け止め、呑み下す。それだけだ。それからどれだけ経ったか、不意にドレイクが破顔する。

 

「嘘は言ってないようだね。それに、アタシの殺気を受けてビビッてもブルッちまわないだけの度胸もある。

 ……なら良し! 取引成立だ!」

「……! じゃあ……!」

「あぁ。アンタらをアタシらの船……〝黄金の鹿号(ゴールデンハインド)〟に乗せてやるよ。まぁ、アタシらの怪我が治ってからだけどね!」

 

 おどけるようにそう言ってドレイクが左手を差し出し、立香がそれを握り返す。

 

 此処に海賊(ドレイク)星見屋(カルデア)、奇妙な組み合わせの同盟は成ったのである。



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番外編
番外編 コアクマカミサマ


 注意! この話は原作で言う所のバレンタインイベントにあたる話であるため、時系列的に矛盾が生じます。そのため原作でのイベント同様『どこかであったかもしれないが、いつかは分からない』パラレル的な話という扱いになっております。ご注意ください。


 2月14日。この日付を挙げられて、何も分からない人間はまずいないだろう。或いはある程度歴史を学んでいて、かつ変にひねくれた者であれば神聖ローマ帝国第3代皇帝のハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に破門された叙任権闘争の日だとかジェームズ・クックがハワイにて原住民に殺害された日だとか、そういった事柄を挙げるのかも知れないが、少なくとも日本においては一般にはそう答える者はそういまい。

 バレンタインデー。そう、バレンタインデーである。異説や異論はあるものの最も有力な由来は聖ウァレンティヌスが殉教死した日とする説だろう。彼が殉教した理由から世界中で恋人達の日とされており、日本では女性が意中の男性や友人にチョコレートを贈る日となっている。それについては製菓業界の陰謀だ何だと言われているが、最早文化として根付いたものに陰謀だと文句を付けるのも虚しい試みだろう。文化として定着させるのも立派な商業的戦略である。

 そして人理修復に奔走するカルデアにおいても一度生活に根付いた文化はそう易々とは消えない。いや、むしろ人理の危機という特級の非日常の中に在ってそれなりに簡単に行うことができる年中行事というものは一種の精神安定剤的な作用を齎すのか、カルデアの中は常のそれとは異なるお祭りムードとでも言うべき空気に包まれていた。

 それは何も職員だけではなくサーヴァントも同様である。特例中の特例であるイリヤ達やアラヤとの契約により英霊となったエミヤ2人を除いて現代の文化には馴染みのない彼らだが、だからとて何もしない訳ではないのだ。郷に入っては郷に従え、ということである。

 ──仕上げと包装まで施し終えて完成したチョコレートを冷蔵庫に入れ、大きく息を吐く。普段からカルデア料理班の一員として大抵の手順や調理道具の扱いを熟す彼女──クシナダだが、チョコレートを作るのは初めてのことだったのだ。それも目的が目的なだけに、緊張するのも当然であろう。

 

「今日は本当にありがとうございました。貴方の協力がなければ、十分なものは作れなかったでしょう」

「なに、礼には及ばない。当然のことをしたまでさ」

 

 クシナダの礼にそう返したのは、彼女と契約者を同じくする『弓兵(アーチャー)』のサーヴァント、エミヤだ。今は完全にオフであるためかトレードマークである紅い聖骸布の外套は着ておらず、代わりに黒いエプロンを着用し髪を下ろしている。

 契約者が共通しているが常はあまり共に行動することがないふたりが一緒にいる理由はひとつ。バレンタインデーを前にしてチョコレートを作ろうとしたクシナダがエミヤに協力を要請したからである。一応は彼女も料理においてはかなりの腕前をもつ──その腕前たるや、紅閻魔主催のヘルズキッチンを最後まで成し遂げて卒業生として認められた程である──のだが、そこはそれ。いくら料理全般ができるとはいえ、初めて挑戦してすぐ上手くできる筈もなく、ならば慣れてるであろう相手から教えてもらおうと思い立ったのだ。

 仮にも神霊である者が人間に教えを請うというのも奇妙な話だが、神霊だからとて何でもできる訳ではないのだ。それ以前に、クシナダ自身が人間を見下すような性格をしていないということもあるが。

 

「……遥様は、喜んで下さるでしょうか……」

「心配せずとも、遥は喜んで受け取るだろう。彼は人からの贈り物を無下にできる男ではない」

 

 或いは誰かから物を貰うことに慣れていないが故に受け取る以外の処方を知らないと言うべきか。エミヤの見る限りにおいて、遥は他人に施しを与えることはあっても施しを受けることにはあまり慣れていないような印象を受ける。

 その原因は恐らく、あまりに早くに両親を亡くしてしまったことであろう。本来最も多くの施しをくれる筈の親が早逝したことで遥は嫌でも独りで生きる術を身に付けなければならなくて、その姿は周囲から〝自立している〟と見られるが故に誰も施しを与えようとはしなかった。

 だが遥自身は誰からも施しを与えられずに生きることの辛さを知るために似た境遇の人々に施しを与えようとしてきた。彼がもつ高い料理スキルや対子供限定のコミュニケーション能力もその産物だ。彼にとって施しとは基本的に与えるものであって与えられるものではない。

 そう言うとクシナダとエミヤの行為はまるで与えられることを知らない者に施しを押し付けるかのようで聞こえが悪いが、大した違いはあるまい。ただひとつ訂正を加えるのならば、それは施しなどではなくある意味で感情の可視化であるということだろう。感謝や友情、恋慕、そして愛といったプラス方面の感情を表すための。尤も、どちらにしても遥は慣れていないようにも思えるが。

 しかし、どちらであれ結局遥は受け取るとエミヤは確信していた。人間ではないために表面上は人間的でも根本で色々とズレている遥だが、他人の厚意を無下にできる男ではない。またぞろ色々と面倒くさい考えを巡らせながらも、彼は人の厚意を決して無駄なものとはさせないだろう。

 故にエミヤが問題視していることがあるとすれば、それではない。別にエミヤはクシナダに特別に肩入れしている訳でもないが、これだけ真剣に悩んでいる姿を見れば多少心配にはなるというものだろう。

 何もエミヤは他人の色恋沙汰についてそれほど興味がある訳ではない。生前の諸々の結果がスキル〝女難の相〟だとするのなら非協力的であってもおかしくないが、作り方を教えることに抵抗を覚える程エミヤは狭量ではない。だがあえて言う事があるとすれば、ひとつ。

 

「櫛名田比売。君は、遥を須佐之男命として見ているのか?」

「……貴方も、それを訊くのですね」

 

 そう言うクシナダの表情はあくまでも優し気で、しかしそこには隠しきれない悲痛があった。その様子を見て、エミヤは気づく。きっとクシナダがこの問いを向けられたのは、これが初めてではないのだろう。恐らく同じ問いをしたのは、遥本人だ。

 夜桜遥は建速須佐之男命の転生体である。厳密に言えばそのままの転生体という訳ではなくガイアによって造られたものではあるが、結果として生まれたものに大した違いはない。

 だが遥はスサノオの魂を受け継ぎながらも、その記憶と自我は連続したものではない。遥がスサノオとしての記憶をもつのは憑依経験に近い作用によるもので、遥の自我はあくまでも『夜桜遥』のものでしかないのだ。記憶や自意識を継いだまま転生など、そんな都合の良い話はない。

 けれど〝夜桜遥は建速須佐之男命である〟というのも決して間違いではなくて、だからこそエミヤはそう問うたのだ。クシナダの抱いているその想いは、遥へのものではなく遥を通して見ている別の誰か(彼の前世)へのものではないのか、と。その問いに、クシナダが答える。

 

「貴方の問いは尤もでしょう。確かに遥様はスサノオ様と同じ魂をもっていますが、スサノオ様そのものという訳ではありません。

 しかし……それは障害などではありません。その程度で薄らぐような愛であったのなら、私はここにはいません。つまりは……私の愛は、あの方の名や身体のような外面だけに向けられるものではないのです」

 

 エミヤの問いは謂わば真祖の仙女に会稽零式を愛せるかと訊くようなものだ。三ツ星の狩人に異聞の月女神を愛せるかと問うようなものだ。状況は異なるものであろうと、返ってくる答えは同じ。詰まる所、エミヤの問いというのは全くの野暮というものであった。

 たとえ己の知るそれと姿形が違っていたとしても、違う名に誇りを掛けていたとしても、クシナダの前には些末なことだ。彼女がそれらを全く見ていないと言えば嘘になるが、それは真に重要なことではない。彼女が見ているのは、たとえ積み重ねた日々や記憶が異なろうとも変わらない在り方。魂の本質、とでも言えば良いだろうか。

 重い愛、と言えば重い愛だ。だがある意味でそれは理想的な愛の形でもある。傷の舐めあいではなく、恋に恋する理想の押し付けでもなく、長所も短所も全て解りながらその上で向けられる愛であれば、それがきっと本物だろう。

 そもそもとしてクシナダはガイアの後押しによって召喚された時点で今の遥が『夜桜遥』であって『建速須佐之男命』ではないことを知り、認めた上でそれでもなお召喚に応じていたのだから、考えれば分かる話ではあったのだ。

 

「失礼した。どうやら私は、少々君を誤解していたようだ」

「いえ、エミヤ様の思いは当然のものですから、それを悲しく思いこそすれど憤ることはしません。だって……私は、誰かから認められるためにあの方を愛しているのではないのですから」

 


 

 日本におけるバレンタインデーの基本形が女性が意中の男性に対してチョコレートを──義理チョコや友チョコという概念もあるが──贈るものであるのに対し、日本以外の大抵の国においては男性が女性に贈り物をするという方が一般的であるというのは有名な話だ。

 しかしマスターである藤丸立香や夜桜遥は日本人であって海外の風習は関係ない──などと言う彼らではない。そもそも贈り物をされて何も返すものを用意していないという状況を許す彼らではないのだ。一応日本にはバレンタインデーでの返礼をするホワイトデーなる日もあるが、その生存の意志に関わらず明日をも知れぬ命の彼らが悠長にホワイトデーを待つような気の長さを備えている訳もなく、それ以前にふたりは貰いっぱなしでは申し訳なさが極まって落ち着かない性質(たち)であった。

 だが、海外のバレンタインにおいて男性から女性に対する贈り物として一般的とされる薔薇はカルデアではそう多くはない。精々、農業プラントの一角で霊薬用に栽培されているものが何本かある程度か。尤も、薔薇を素材にしてできる霊薬など花言葉からして惚れ薬や媚薬くらいのものだが──誰かその手の霊薬を欲した者がいたのだろうか? ──。

 かと言ってチョコレートにチョコレートで返すというのも芸がない。遥は常日頃からカルデア料理班の一員としてその料理の腕前を披露しているために、特別感もない。故にそれなりに長い時間悩んで、譲渡する相手に合わせて何か作ることにした。

 例えば立香に渡すものであれば一時的に魔術回路の機能をブーストする霊薬と魔眼が暴走した時のための目薬。沖田への贈り物であれば病弱発動回避のための疲労回復薬と彼女がいつも身に着けている黒いリボンのような髪飾り。それだけで相当手が込んでいるが、包装にも拘っているのだから彼の凝り性の程も知れるというものだ。

 そうして、一日。日中の業務を全て終えて自室に戻った時、遥の手元に残っている贈り物はひとつだけであった。彼は何も貰った場合にだけ返しているのではなく見かければ自分から渡しているのだが、まるで会わないのである。

 部屋の扉が閉まると同時に大きく息を吐き、髪留めを外す。そうして舞った銀色の髪はしっかりと手入れされているようではあるが、それでも彼の置かれた状況の過酷さを表すかのように所々が痛んでいる。

 しかし遥自身はそれを全く気にしていないようで、髪留めを机に置いて雑に髪を手櫛で梳く。更に欠伸をひとつ。寝る前に風呂に入ろうかと思い立った時、遥の耳朶をノックの音が叩いた。

 

『遥様? いらっしゃいますか?』

「クシナダ。あぁ、いるよ」

 

 扉越しに聞こえてきた声に、一旦風呂に入る予定を棚上げして最後に残っていた贈り物を手に取る遥。今日一日彼が遭遇しなかった相手とは即ちクシナダであり、しかし遥に不満はなかった。

 遥が内側のタッチパネルを操作することでロックが解除され、扉が横にスライドして開く。そうして現れたクシナダはいつもの巫女服姿ではなく白色と桃色のワンピースを着ていて、その姿に面食らった遥が思わず顔を背けた。似合っている、と、そう口にするとクシナダまでも顔を紅くして俯いてしまう。

 基本的に、遥はあまり気障ったらしい事は言わない。そういう性格というよりかは、そういった台詞に気恥ずかしさを覚える性質(たち)なのだ。だからとて絶対に言わないのではなく、言う時は言うが。

 だが、このままでは埒が明かない。仕切り直しと言うかのように遥が咳払いをして、その場に漂っている奇妙な雰囲気を振り払った。流石にすぐには顔の赤さは引かないものの、遥の表情からは照れが消えている。

 対するクシナダも遥と同じく顔を紅潮させたままで暫し逡巡しつつ、意を決してその手に握っていたものを遥の前に差し出した。

 

「これを。お口に合えば良いのですが……」

「ありがとう。……開けても良いか?」

 

 遥がそう問うとクシナダは無言で首肯を返し、それを受けて遥はクシナダから受け取った箱の包装に手を掛けた。そうして包装を解く所作に雑な印象はなく、まるで夜伽の最中に相手の着物を脱がすかの如き丁重さがある。

 やがて包装を全て剥がすとそれを折って丁寧に畳み、箱を開ける。その中にあったのはひとつの巨大なハート型のチョコレートであった。それを見て、遥が思わず息を呑む。但しそれはハート型のチョコレートという、まるで少女漫画か何かに登場するような御伽噺めいたものを目の当たりにしたからではない。

 クシナダから遥へと贈られたそれは、彼女からの純粋な好意の現れだ。まず形からしてそうだと言われれば否定はできないかも知れないが、チョコレートの形だけであればいくらでも偽ることができよう。故に遥が見ているのは形ではなく、その中身だ。

 遥は卓越した料理の腕前をもつ。それは何もただ料理を作るだけではなく、他人の作ったものを見る目にも適用される。だからこそクシナダから貰ったそれが形に見合わないものではないと一目で見抜くことができたのである。

 だが何であれ凄まじい出来であることに違いはない。その形を崩してしまうことに多少の罪悪感を覚えつつもその端に口を付けると、程よいカカオとミルクの風味が遥を満たした。甘すぎず、苦すぎず、それでいて苦みよりも甘みの方が強い。実に遥好みの塩梅(あんばい)だ。

 遥の食の好みについて、彼がクシナダに話したことはない。何故なら遥は何か食べたくなったとしても自分で作ることができるし、他人に作ってもらったとしても何でも分け隔てなく美味しそうに食べるのであるから。食の好み云々以前に、彼はまず基本的に何でも食べる大食漢なのである。だからこそ態々他人に食の好みを話す機会もあまりない。

 それなのに、クシナダは遥の好みを把握していた。それはきっと、それだけクシナダが遥のことを知ろうとしてくれているということなのだろう。クシナダはきっと遥を通してスサノオを見ているのではなく遥そのものを見てくれていて、だからこそその好意に胸が痛い。下らない感傷で応えることができない自分が憎い。

 だが、今は勝手に自嘲しているような時間ではない。それはひとりですべきものであるし、何より、遥を想って贈ってくれたクシナダに失礼だ。悪癖による自嘲は一旦棚上げして、不安げな視線を向けるクシナダに笑みを投げかけた。

 

「うん、上手いよ。味の具合も、俺好みだ。……ありがとう、クシナダ」

「……!! いえ、お口に合ったのなら、何よりです」

 

 そういうクシナダは常の平静を装っているようであったが、しかし嬉しさを隠しきれずに口角が上がっている。その様子からするに、やはり彼女自身、自分が作ったものが遥の口に合うのか不安だったのだろう。

 その反応と感情は、クシナダが遥を通してスサノオを見ているのではないという何よりの証拠だ。遥をスサノオと共通の魂、過去から今まで続く一連の個として捉えていつつも、遥に〝過去(スサノオ)のようであれ〟と強制しない。己の望む形を一方的に押し付けるのであればそれは〝恋〟の域を出ないが、クシナダのそれは紛れもなく〝愛〟である。

 再び顔を出してきた悪癖を無理矢理に忘れようとするかのように、遥はゆっくりと、必要以上に味わって時間をかけながらクシナダから貰ったチョコレートを食べる。まるで、彼女からの愛/()いを喰らいつくして、呑み干してしまうかのように。

 生者から死者への愛や恋など当人たちの意志に関わらず呪いでしかなく、ましてや死者の側に立っているのが神霊であるならその呪いは格別のものとなるだろう。そして、それを受け入れようとする行為はそれこそ深淵の傍に立ってその中を覗き込むに等しい。

 それを誰もが理解していながら、しかし指摘する者は誰ひとりとしていない。その行いは果たして、風車に挑むドン・キホーテの如きものか、或いは移り気な気性ながらも最期まで、いや、死後でさえも月女神への愛を貫き続ける冠位の狩人の如きものか。判じることができる者は、この場にはいない。

 

「ああ、そうだ。お返し……という訳ではないが、俺からも渡すものがあるんだ」

「えっ?」

 

 よもや遥までもが何かを用意しているとは、クシナダは思っていなかったのだろう。確かにクシナダが聞き及んだと思しき日本式のバレンタインにおいて、男性側が女性に何かを用意しているということはあまりない。加えて、その様子からするに本当にクシナダは今日、他人、少なくとも遥と契約している他のサーヴァントと接触していなかったのだろう。

 空箱を棄てるのではなく机の上に置いて、遥はポケットの中から丁寧に包装された別の箱を取り出す。クシナダからチョコレートを受け取った際にポケットの中に仕舞っていたのだ。

 クシナダが遥に渡したそれと比べると聊か小さな、しかし確かな重みを伴ったそれ。不思議そうな表情を浮かべたままクシナダはその解いて箱を開ける。果たして、その中に収められていたのは花を模った耳飾りであった。

 俗に言うノンホールピアスというものだろう。流石にその白い花弁は本物ではないものの、かなり精巧にできている。遥自身が魔術等を使って作ったものであるから店売りのものではないことは確実だが、仮にそれが店のショーウィンドウに並んでいたとしても違和感はあるまい。加えて遥がただのアクセサリーを贈る筈もなく、根本には遥の魔力が封じ込められた宝石が組み込まれている。

 それがあってもなお、一輪の花としての形は崩れていない。むしろ花の色に合わせて組み込まれた白い宝石は耳飾り全体の調和をより高貴かつ瀟洒な印象を抱かせるに十分な作用をもつものとして機能させているようで、クシナダが息を呑んだ。そうして、独り言のようい呟く。

 

「白い、彼岸花……」

 

 彼岸花、或いは曼珠沙華ともいうそれは、日本や中国に自生する多年生の球根植物である。最も一般的に知られているのは赤い個体だが、他には黄色や白色の個体も存在しており、中でも白花曼珠沙華、またはアルビフローラと言われる白い個体は九州等の比較的温暖な地域にのみ自生する珍しい種類である。

 基本的に彼岸花が不吉とされるのは彼岸花がその全体に毒を有していること、自生している原種が彼岸の頃に開花することというふたつの原因があり、それ故に魔術世界ではこれを含む霊薬を濃縮した上に更に魔術的な加工を施すことで冥府に誘う死の呪いと毒を同時に内包される魔術薬とされることが多い。

 反面、紅い彼岸花はその真紅の見た目から愛の情熱を表す花ともされ、稀にその手の霊薬の材料にもされることがある。白や黄のそれはそのように扱われることは少ないものの、ポジティブな意味合いを併せ持つことに変わりはない。

 無論、それを分かっていない遥ではなく、しかし額面通りの意味で遥はそれをクシナダに贈ったのではない。それはある意味での、遥からクシナダに対する決意表明のようなものだ。彼女はそれを悟ったのか薄く微笑むと、片方の耳飾りを手に取って遥の耳に手を伸ばした。次いで、左の耳垂が何かに挟まれる感触。戸惑う遥の前で、クシナダは残ったもう一方を自らの右耳に着けた。

 

「何故……?」

「……遥様は、ただこれを私に下さったのではないのでしょう? この耳飾りは遥様の誓い、約束の形……ならば、私だけが身に着けているのは不十分というものでしょう。それに……お揃いって、憧れるではないですか!」

 

 常の淑やかな微笑ではなく、まるでティーンエイジャーのように快活な笑みを浮かべてそう言うクシナダ。それにつられて遥も思わず微笑む。クシナダの弁は聊か強引な部分はあるものの、それ故にきっと、どちらも他ならぬ彼女の本心なのだろう。

 ならば遥に断る理由はない。クシナダの希望を無下にするのも薄情であるし、クシナダに譲渡した時点で既にそれらの所有権は彼女にある。ならばそれの片割れを遥に着けて欲しいというのも彼女の自由であろう。

 左耳の耳飾りに触れる。ひと昔前では男性が片耳に耳飾りをしていると同性愛者であるというサインだったそうだが、それはあくまでも右耳の話であって左耳は含まれていない。女性の場合は左右逆である。

 少しの気恥ずかしさに視線を彷徨わせて、意図せず目が合って笑い合う。そんな、常とは異なる空気感。しばらくその妙な空気の内に揺蕩って、そろそろクシナダが自室に戻ろうかという時、不意に彼女が口を開いた。

 

「そうそう。遥様は、男性から女性に耳飾りを贈る意味をご存じですか?」

「意味? いや、知らないけど……」

 

 召喚時に与えられる現代の知識にはそんなものもあるのか。そんな若干的外れな感想を抱いたその瞬間、遥の鼻腔を甘い香りが擽った。見れば、背伸びをしたクシナダが遥の顔のようで殆ど密着状態になっている。

 そうして、耳打ち。答えを聞かされた遥は耳まで紅潮して、クシナダが悪戯な笑みを見せて去っていく。独り残される遥。羞恥は、或いは驚愕か、呆然としていた彼であったが、我を取り戻すと小さく呟いた。

 

「別にいいよ、そういうコトでも……」

 

 その言葉は誰に届くでもなく、虚空に溶けて、消えた。




没サブタイトル案:ぶきっちょマスターは小悪魔カミサマの夢を見ない

 ……番外編くらい原作の幕間のようにパロディ入れても許されるかなって。不要な補足かもしれませんが、タイトルの『ぶきっちょ』とは対人関係構築であって、遥は手先は人並に器用です。
 では、この場を借りてちょっとした設定解説をば。

・ハート型のチョコレート
 クシナダから遥に贈られた、まるで御伽噺か少女漫画に登場するかのようなチョコレート。見た目こそメルヘンチックであるが高い料理スキルをもつクシナダが作ったものであるため味は折り紙付き。完璧に遥の好みに合わせた味のバランスを誇る。
 ――それは、神霊(かみ)から半神(ヒト)へ、死者から生者への好意の証。本人達の意志がどうであれ、その愛は質量を増すごとにより強大な呪いとして作用するだろう。果たして彼らがその呪いを乗り越えることができるかどうかは、まだ誰も知らない事である。

・白花曼珠沙華の耳飾り
 遥からクシナダに贈られた耳飾り。ノンホールピアスに分類される。見た目こそ白い色をした曼珠沙華をかなり精巧に模しただけの耳飾りであるが、遥の魔力を封じた宝石を初めとした多くの魔術的、或いは呪術的な処理が施された礼装でもある。分かりやすく言えば様々な機能を盛り込んだ御守り。
 遥はこれをアルビフローラの花言葉と掛けてある種の宣誓の意味も込めてクシナダへと贈ったが、最終的に左側は彼自身が付けることとなった。男性が左耳のみにピアスをした場合『守る人』、女性が右耳のみにした場合『守られる人』という意味合いがあるそうだが、互いに守り守られる関係性である彼らには関係のないことだ。
 今を生きるヒトと、過去より投げ掛けられた影法師の間に結ばれた約定、宣誓。それは文字通り彼らを蝕む毒となるか、或いは――


 他サーヴァントの話はできればイベント期間中に投稿したいですね(願望)。


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番外編 バレンタイン・プロデューサー

「――チョコの作り方を教えて欲しい?」

 

 人理継続保障機関フィニス・カルデア。正体不明の黒幕の手により焼却された人理を修復せんがため日夜半ばブラック企業とも形容できる程の激務を熟し死と隣り合わせの日常を過ごす同組織であるが、ここ数日は凡そ死とはかけ離れた熱気、或いは浮き足立っているかのような気配が漂っていた。

 異様な現象である。ともすれば常に濃密な死の臭いに晒され続けたがための集団ヒステリックか、などとも思える。尤もそれはその空気感の原因が分からなかった場合の話であり、今回に限っては誰もがこの時期はそういうものだと了解している。

 サーヴァントを含め、カルデアに居住する者らが皆意識しているのは毎年2月14日に行われる祭事――即ち、バレンタインである。現代人である職員らならばともかくバレンタインという祭事が確立するより前の時代を生きた過去の英雄たるサーヴァントまでも浮足立つというのも奇妙な話であるかも知れないが、彼ら彼女らは召喚時にその時代に合わせた様々な知識を入力される。であればその知識の内にバレンタインが含まれていたとしても、何もおかしな事ではない。

 ともあれ、今のカルデアはバレンタインを前にして全体が聊か珍妙な雰囲気に包まれていた。或いはそれは、常日頃から精神を擦り減らしながら戦い続けているが故に皆が娯楽に飢えているからなのだろうか。そしてそれに呑まれているのは人ならざる半神半人、現人神たる遥とて例外ではなく、その権化とも言える案件が立ち現れてきたのは本番のおよそ2週間程前の事であった。

 カルデア居住区、その一角の位置する遥の自室。魔術師の部屋でありながら神秘だけではなく漫画やビデオのような普遍と銃器や爆発物などのような殺伐が混在したそこで、彼は同僚であり妹分のような存在たるマシュ・キリエライトと相対していた。机を挟んで遥を見つめる彼女の表情には強い覚悟の色合いが宿っていて、おおよそここ最近カルデアを満たす空気とはかけ離れているようにも見える。その実態はともかくとして、だ。

 

「はい。料理の達人であるハルさんに、是非ともご教授頂きたく!」

「達人って、また大袈裟な……まぁ、勿論構わねぇけど、どうして俺なんだ? ()()()()()()()()()()()、多分姉さんかミコトの方が適任だと思うんだけど」

 

 嘘である。遥の部屋を訪れてから今までマシュは何の為に遥からチョコレートの作り方を習いたいのか、及びそうして作ったチョコレートをどう取り扱うかについて一度として言及していないが、そこを読み違える程、遥は純粋でも愚鈍でもない。

 しかし態々それについて言及し、マシュに確認を取るというのも大変野暮だろう。そもそもとして彼女自身、立香に対して抱いている感情が()()であると気づいていないのを、遥は知っている。気づいていないのに行動はそれらしいというのだから、何とも奇妙な話だ。

 いや、自覚が云々という事であるなら遥が他人にとやかく言う権利はないかも知れない。そもそもとして彼自身、分かっている限り自身の裡にその感情が発生したと自認した事はなく、概要を伝聞で知っているという程度だ。そういう点では、彼もマシュとそう変わりない。試したり、偉そうに高説を垂れたり、そんな事ができる程大層なものでは断じてないのである。

 そう自らを戒める遥の前で、マシュは先程の彼の発言の意図を図りかねているのか首を傾げている。そんな妹分の様子に遥はまるで言葉を選ぶかのように何度か口籠ってから、漸く口を開いた。

 

「あー、えー、オホン。……済まない、余計な事を訊いた。態々可愛い妹分がご指名してくれたんだ、応えてやらねぇとな。それで、贈る相手は立香って事で良いな?」

「はい。欲を言えばスタッフやサーヴァントの皆さん全員に贈りたい所ですが、現状の物資状況ではそれも叶いませんから……せめて、一番お世話になっている先輩には、と!」

「うんうん。健気で良きかな、良きかな」

 

 何処かで見たことがあるようなむん! というオノマトペが見えてきそうな所作で答えるマシュに、柄にもなくまるでレオナルドのような返事を返す遥。元より断る気など毛頭ないが、これだけのやる気を見せられると俄然応える気が湧いてくるというものである。

 しかし改めて考えてみれば、遥がマシュに対して態々教えるような事などあるのだろうか。カルデア生まれカルデア育ちである彼女は、その出自や製造目的故に人理修復が始まるまで一歩もカルデアの外に出た事がなく、ある意味当然の帰結としてカルデアに所蔵されている大半の書物を読み漁り、自身の糧としている。チョコレートのみに限定するにしても、単純な知識量ならば遥はマシュに太刀打ちできまい。

 そんな有様で遥がマシュに教えられる事などあるのだろうか。少なくともレシピがどうこうといった事は既知であろうから、彼が所持しているレシピ集などは役に立つまい。であればチョコを作るマシュの横について時折助言を行う程度か。しかしそれでは折角意気込んだ甲斐がない。頭を悩ませる遥。そんな彼の前で、マシュがおずおずと言葉を零す。

 

「それで、ですね……先輩は、どのようなチョコレートを貰うのが嬉しいと感じるのでしょうか?」

「立香なら何を貰っても――」

 

 嬉しいと思うんじゃないか? そう続く筈だった言葉はしかし、遥が途中で口を噤んだことで強制的に中断された。彼の答えは確かに事実であろうがマシュの疑問への返答として全く適切ではなく、かつ相手を最も困らせるものだろう。類似例を挙げるなら食事の希望を問うた際に『何でも良い』と返されるようなものだ。

 しかし同時に、遥は何故マシュがタマモやミコトではなく彼を頼ってきたのかを理解した。このカルデアにおいて特異点攻略中を除き立香と行動を共にしている時間が長いのは遥である。何しろ日常的な鍛錬や魔術の勉強等、遥が付き合っている事が多いのだから、立香の事について多くを既知としているのではないか、という推測もあまり無理のあるものではない。

 とはいえ、折角頼られて、了解の返事までしたというのに胡乱な回答のみを投げ渡して後は独力で何とかしろ、というのはあまりにも無責任であろう。そもそもとしてそんな無責任は遥自身としても望む所ではない。一拍置いて、呼気。それから、神妙にも思える面持ちで答える。

 

「正直、立香が一番喜ぶのが何か俺にも分からん。多分、いや確実に、何を貰っても喜ぶだろうからな、アイツは」

「そう、ですよね……」

「……だから、さ」

 

 そこで言葉を区切り、遥は真顔を解いて僅かに破顔する。或いはそれは彼自身意図する所ではなかったのかも知れないが彼がイリヤらのような子供に対してよく見せる柔和なそれで、それでもマシュに子ども扱いされたという意識はなかった。彼女はそれに不快感を抱くような気質ではないし、何より遥のそれは子供扱いではなくただ彼女を慮るものであると分かったから。

 遥はカルデアの人々を愛している。その愛が如何なるものであるかは彼自身も分類できないが、兎に角彼らに幸福でいてもらいたい、幸福になってもらいたいと思っている事に違いはなく、その内には当然のように立香とマシュも含まれている。であればマシュからの相談に対し全力を傾けるのも、何も不思議な事ではないだろう。

 

「最高のモンを作って、アイツをギャフンと言わせてやろうぜ。貰えたから嬉しい、何でも嬉しい……そんな感想を許さない、アイツが一生忘れられないくらいにとびきりのヤツをな」

 

 それは果たして、適切な解答と言えるものであったのか。遥には、それを断言する事はできない。だがそれが彼にできる最善の解答であったのかと問われれば、彼は間違いなく首を縦に振っただろう。

 藤丸立香は善性の人である。故にその相手が誰で、貰ったものが何であれ、彼は嬉しいと感じるだろう。だが、それでは足りないのだ。そんな十把一絡げでは、この少女の想いを過不足なく伝えるには不十分に過ぎる。

 であれば、より良いものを。余人のそれと比較などするまでもなく心に残るものを作り、贈れば、否が応にもマシュの気持ち――それが感謝か、或いはまた別種のものであるかは問わない――は立香に届くだろう。それで良い。それくらいで丁度良い。遥の知る日本のバレンタインは、元よりそういう側面が強いものであるのだから。

 

「まぁ、要は頑張って作って、立香の視線を釘付けにしてやろうぜってコトだ!」

「くっ、釘付けっ!? ……っ、はい! 頑張ります!」

「よォし、その意気だ! お兄さんも、頑張っちゃうぞぅ!」

 

 えいえい、おー! 柄にもなく間の抜けた鬨の声をあげる遥と、戸惑いながらもそれに続くマシュ。

 ――どうやら遥も、甘ったるい異様な空気に当てられているらしかった。

 


 

 今更言及すべき事でもなかろうが、海外はともかくとして立香の故郷である日本における一般的なバレンタインの形というものは女性が意中の男性、もしくは同性に対してチョコレートを贈るといったものが基本形である。昨今では義理チョコだとか友チョコという派生形的文化もその存在感をともすれば大元を潰しかねない程に強めてきているが、しかし日本における源流がそれであるという事に違いはない。

 ではそうして貰った相手は貰うばかりで何も返さないのかというと、それは否だ。バレンタインデーの一ヶ月後、3月14日に設定されたホワイトデーにて、贈られた相手は贈与主に対し贈り物を返す。この辺りは製菓業界の陰謀だとか言われる事も多々あるが、一度文化として根付いたものに文句を付けるのも無駄な試みというものだ。

 さて、仮に何も考えずにただ出生地の流儀に則るだけならば、今日立香は何も準備せずに漫然と待ち、例年通り貰えるか否かだけに心を躍らせるだけで良い。だが今年のバレンタインを迎えるに辺り、立香は己に只管に受動的であることを許さなかった。

 国際機関であるカルデアの職員らしくバレンタインの源流における定型に則ったというのではない。ただ日本のバレンタインでも男の側から贈与してはならないなどというルールはないし、日頃からの感謝の印としてこの機会に贈り物を用意したという訳である。

 そうして、バレンタイン当日の朝。朝食など朝の習慣を一通り終えて、立香は今一度己の準備を確認する。人理修復中という都合上――立香は知らない事だが、常ならば立地的問題もあって――慢性的な物資不足であるため職員全員分とはいかなかったものの、自身の契約サーヴァント他数名の分は用意してある。或いは気を紛らわすように意味もなくそれらを整然と並べ、それから立香は深呼吸を零した。

 明らかに緊張している。その事実を、彼は確かに認めていた。そしてそれは自身が用意した贈り物が相手に喜んでもらえるか否かという事よりも、とある特定の人物からチョコレートを貰えるかという事に対しての感情であるようにも、彼自身には思えた。

 邪な思考だ。度が過ぎれば特別扱いとも成り得る、サーヴァントを統べるマスターとしては理想的でない思いだ。しかしそれは人間としてある種当然の思考であるが故に、咎められる者は誰もいまい。いるとすれば、それは彼自身だけだ。期待するなんて気持ちが悪い、というのは批判ではなく的外れな難癖である。

 とはいえ贈与物に不安がないのかと問われれば、それも否だ。自由にできる物資も非常に少ない中で()()()()()()()()()などして彼なりに頑張って用意したつもりだが、果たして喜ばれるかどうか。自信を持って首を縦に振れる程、彼は自信過剰ではない。

 尤も、何もかも考えるだけでは仕方のない事だ。たとえただの祭事だとしても、自発的に行動を起こさない事には何も変わらず、結果は現れてこない。そう考えて立香は荷物を纏めて、そうして部屋を後にしようとしたその時、ドアの向こうからノックの音が響いた。

 

『せ、先輩? いらっしゃいますか?』

「マシュ!? ちょ、ちょっと待って!」

 

 それは立香の期待が招いた偶然か、或いは予め示し合わされていた運命か。全く予期していなかったせいか酷く心臓が逸って、立香は何度か深呼吸を繰り返してどうにかそれを落ち着けた。驚きすぎだ、と、自分を嗜めるかのように。

 それから一度荷物を降ろし、その中からマシュに贈る予定のものを取り出す。彼女の髪の色に近い、簡単な装飾が施された薄紫色の小箱だ。恐らく自ら施したのだろう、その装飾はお世辞にも整ってはいない聊か不格好なそれで、しかし決して雑ではなく、隠しきれていない試行錯誤の跡は立香がどれだけ相手の事を考えてそれを装飾したのかが見て取れる。

 しかしそれは客観的な評価でしかなく、それ故にその箱をひと撫でする立香の手付きや視線は何処か不安げであった。彼は自分なりに頑張ったという思いはあるけれど、自分の頑張りが過不足なく相手に伝わると何の疑問もなく信じ込める程の楽天主義者ではない。無論マシュを信じていない訳ではないが、それとこれとはまた別の問題だ。それに、意地というのもある。

 だが、ここで怖気づいて折角作ったものを渡さないで終わるというのは最低の悪手だ。それでは感謝も努力も、何も伝わる事はないし、何よりただ貰うばかりで何も返せない自分というものを立香自身が許せない。ひどい独善だ、とは彼自身思う。それでも、渡さない訳にはいかない。断られてしまったら、それまでだが。

 そう決意して、もう一度深呼吸。今度こそ心拍も平常通りに戻り、頬に差していた朱も常のそれに立ち戻った。全くのいつも通り。もしも違いがあるとすれば、それは彼の眼光が日常(オフ)のそれではなく特異点にて作戦行動をしている際のそれに近い事くらいか。

 どうぞ、と一言。それからドアがスライドして、その向こうから姿を現したのはやはりマシュであった。その様子は一見するといつも通りどこか浮世離れして淡々としたそれのようでいて、しかし何処かいつもと違う。仮に全くの冷静であったなら立香はその原因に気付いたのだろうが、今の状況ではそれも叶うまい。

 では、いざ。まるで死合に臨む戦士であるかの如き覚悟を以て立香が唾液を呑み下す。しかし彼に先んじて、マシュが動いた。

 

「あ、あのっ、先輩! これをっ!」

 

 緊張に上擦った声音と共に立香の眼前に立ち現れてきたのは、丁寧なラッピングが施された箱。重量は立香からは分からないものの、大きさとしては一般的なホールケーキ用のそれと大差あるまい。誕生日やクリスマスの機会など、立香にとっては見慣れたそれだ。

 少々過剰なほどに腰を折った状態で更に下を向いているせいで、立香からマシュの顔は見えない。だが重力に従って垂れた麗しい薄紫の髪の間から見えている耳は赤く、明らかにマシュが恥ずかしがっている事が分かる。

 期待していた事ではあった。いくら人類最後のマスターなどという仰々しい肩書を背負っているとはいえど、藤丸立香はごく一般的な女性経験も殆どない少年であるからして、そういう期待をする方がむしろ自然である。けれどいざその光景を前にして、彼がまず初めに見せた反応は呆然であった。それをどう捉えたのか、マシュが開口する。

 

「あ、あの、先輩に日頃の感謝をという事であって、別に変な意味では……」

「――ふふ、あはは。……うん」

 

 何処か唐突にも思える朗らかな笑声。次いでマシュの手に掛かっていた重量が軽くなり、つられるようにして顔を上げたマシュが見たのはひどく優し気な表情の立香であった。

 

「オレのために……ありがとう、マシュ」

「は、はいっ……どう、いたしまして」

 

 立香から笑みを投げかけられた事なら、マシュは何度もある。ただ何気なく会話をしているに浮かべる何気ない笑顔も、疲れきった時に見せる強がりな微笑も、戦闘中に時折見せる好戦的でいながらどこか虚勢めいた笑みも、彼女は立香の様々な表情を見てきた。

 だが、何故だろうか、今の彼の表情を見た時、マシュはそれまでに覚えたことのない感覚が胸中に去来したのを自覚した。それはまるで胸の奥が締め付けられるようでいて、それでいて心地よい温かさが滲んでくるかのような、そんな感覚だ。同時に湧き出てきた感情の名前を彼女はまだ知らないけれど、その不明が彼女は嫌ではなかった。

 異に早鐘を打つ心臓も、不思議と不快ではない。こんな穏やかな時間がいつまでも続いて欲しいという思いと、これを特別から普遍に堕としたくないという思いが相克しながらその矛盾そのものを自然だと受け入れられる。立香にとっても、マシュにとっても、初めての感覚であった。

 

「じゃあ、はい、コレ。オレからのプレゼント……って、そんなに大層なモノじゃあないかもだけど」

「えっ、先輩からの……」

 

 立香が差し出したそれを、おずおずと受け取るマシュ。半ば茫然とした様子で数秒それを見つめた後、再び上げられた彼女の表情は言葉よりもなお雄弁に開封の許可を求めているようで、立香もまた無言で首肯を返す。

 それを受け、丁寧に包装を解いていくマシュ。そうして少しも破らずに剥がした包装紙を装飾を壊さないように畳んでからポケットに仕舞い、最後に残った箱を開ける。次いで、あっ、という声。

 果たして彼女の視線の先、立香から渡された箱に収められていたものは一枚の栞であった。恐らくはそう珍しくもない、押し花を封入しているだけの何の変哲もない栞である。マシュの知識が確かならばその花弁は濃い桃色の薔薇のそれであると、彼女は一目で気づいた。

 

「オレ、魔術とか使えないから、そんなものしかできなかったけど……でも、頑張って作ったんだ。貰ってくれるかな……?」

「当然です。……大切にします、先輩!」

 

 そう言い、花のような笑顔を咲かせるマシュ。或いは立香の作ったそれは世界のどこにでもありふれていて、より完成度の高いものが欲しいなら何処か適当な場所の適当な店でそれらしいものを探した方がより良いものが見つかるのかも知れない。

 しかし――人理焼却中であるため不可能な話ではあるが――仮にそういう場所で買ってきただけのものを渡されただけであるならば、マシュはここまで喜ばなかっただろう。勿論立香から贈り物を貰った事は嬉しいけれど、それ以上に彼女は彼が自分のために作ってくれたという事実を嬉しいと感じたのだ。

 そうしてそんなマシュの返答を受け、何処か安心したかのような笑みを見せる立香。一応覚悟は決めてきたとはいえ、彼もずっと不安ではあったのだ。貰ってくれるかどうか、嬉しいと思ってくれるかどうかが。それから手元の箱を見ながら、マシュに問いを投げる。

 

「これ……多分、チョコレートケーキだよね。嬉しいなぁ。……でもこんなに沢山、ひとりじゃ食べきれないかも。マシュさえよければ、一緒に食べない?」

「はい! このマシュ・キリエライト、精一杯お供させていただきます!」

「お供って、大袈裟だなぁ。……うん。じゃあ、一緒にね。ひとりで食べるより、そっちの方が美味しいし」

 

 それからふたりは笑い合って、立香は他のサーヴァントに贈り物を渡すべく、マシュは立香と共に使う食器を取りに食堂へと向かい一旦別れる。

 ――そして、廊下の陰からずっと彼らの遣り取りを見ていた1人と1匹、いや、ふたりは一様に大きく満足げな溜息を吐いてから、悪戯な表情を浮かべる。

 

フォウ、フォーウ、キュウ(覗き見なんて悪趣味じゃないかい、遥?)

「オイオイ、そう言うなよ。可愛い弟分と妹分の青春を見守りにきただけだよ、俺は。それに、どうせ同じ穴の貉だろうが、フォウくん?」

 

 まるで何気なく遥がフォウの鳴き声が意味する所を理解しているかのような会話であるが、何もそういう訳ではない。しかし直接鳴き声から意図を察する事はできなくとも、雰囲気や表情から遥は何となくフォウが言わんとする所を理解できるようになっていた。或いはそれは学習したという事以外に、ガイアにとっての彼らの意味合いが近いという存在の近似もあるのかも知れない。

 しかし、そんな事は遥の知る所ではないし、もしも知っていたとしてもどうでも良い事だ。彼にとって今最も重要であるのは、立香とマシュのバレンタインが成功裏に終わったというその一点。

 折角ふたり共にお膳立てしたのだから成功して貰わないと困る、という事もある。だがそれ以上に遥にとっては、先の遣り取りで見せたふたりの幸せそうな笑顔が、何よりも嬉しかったのだ。そうしてその満足感を吐き出すかのように、呟く。

 

「あぁ――――安心した」




 例のごとく時系列は完全無視していただけると……
 言うまでもない事かも知れませんが、濃いめのピンクの薔薇の花言葉は『感謝』で御座います。無論、ひとつだけではありませんが……


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