Blazerk Monster (じゅぺっと)
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仕組まれた悲劇
ポッポやスバメたちの鳴き声が聞こえ始める早朝。涼香はフレンドリィショップのアルバイトを終えて自宅の小さなアパートに入る。時期はポケモンリーグの開催間近、本格的な夏が始まるというのにパーカーのフードを被って、視力が悪くもないのに眼鏡をかけている。もしそのサングラスの下の目を見た人間がいれば、こう思うだろう。若い女の子なのに、なんて淀んだ眼をするのだろうと。
玄関で靴を脱ぎ散らかし、カップ麺の容器が放置された台所を通って、テレビの電源をつけることもなくそのまま固いベッドになだれ込んだ。勢いがつきすぎて少し痛かったが、どうでもいい。
涼香は一人暮らしで、一緒に暮らすポケモンはいない。このアパートはポケモンとの同居は禁止だし、彼女は自分の意思でここを選んだ。隣町に家族はいるが、もうずっと会っていなかった。会えなかったのだ。
レジには立たず、商品の仕入れと点検を行うだけの退屈な仕事を終えた彼女は朝食を取ることもなくそのままベッドで寝転がる。決まった時間に食事を取るなどという習慣は、とうの昔に崩壊していた。ここに来てから、もう何キロ痩せただろう。以前ポケモントレーナーとして旅をしていた時の、女の子らしくも鍛えられた立派な体は、怠惰な生活によって見る影もなく衰えていた。
サングラスを外し、安っぽいチノパンを脱ぎ捨てる。もうこのまま寝てしまおうと思った時、ポケベルの画面が光った。涼香に連絡を取ってくる相手など、迷惑メールの類くらいだ。だが、写った相手に涼香は少なからず驚く。
「四葉……」
表示されたクローバーのアイコンは、涼香の親友だった少女からであることを示していた。メールのメッセージは、こう書かれている。
『あれから一年経ったね。大事な話があるんだ。今日の夕方、君の家に行ってもいいかな?』
もう一年か、と思った。だがそれよりも、何故今更彼女が自分と会いたがるのかがわからなかった。
だって自分は、一年前彼女を裏切ったのだから。
あの時の恨み言か。堕ちた自分への嘲笑か。それとも、友人としてやり直そうとでも言ってくれるのだろうか。意味のない想像をしながら、涼香の意識は沈み、その脳は一年前の記憶を映し出した。
涼香と四葉の目指したポケモンリーグ。予選を勝ち抜き、トーナメントへの出場資格を得た二人の少女がポケナビで通話している。
「ついに二人ともここまで来れたわね、四葉」
「うん……ここまで長かったよ、涼香」
涼香と四葉は、同じ町で育ち同じ日にトレーナーとして旅立った友人でありライバル同士だった。有り余る元気でそこかしこに寄り道しながらポケモンを鍛える涼香と、体があまり強くないため最短、最高効率でポケモンを鍛える四葉。
旅立つ時点で優秀なトレーナーとして活躍するだろうと言われていた涼香と、そもそも各地を回り歩くこと自体出来るのかと心配され、一部の心ない人達には無謀だと嘲笑われていた四葉。旅そのものは二人は別の道を歩んだため違っていたが、しょっちゅう連絡は取りあっていたため新しいポケモンを捕まえたことやジムバッジの取得数など、お互いに競い合っていた。
「旅を始めた時から、いつかお互い全力でバトル日が来るといいねって何度も言ったよね。本当に四葉がここまで来たのはびっくりしたけど」
「そうさ……だから」
だが旅立つ前はポケモンを持たず、旅立ってからは今まで直接会うことはなかった二人は。実際に勝負をしたことはないし、来るべき時まで会うことはしないと約束していた。
「決勝で会おうね」
「決勝で会おう」
示し合わせたように、運命のように二人で言う。ポケモンリーグはトーナメント形式で、お互いに反対側にいた。だから戦うとすれば、それは優勝をかけた舞台なのだ。かくして二人は勝ち進み、決勝の直前。控室で再会する。
「……ほんとは、決勝のステージで再会といきたかったんだけどな」
「しょうがないさ、大会の決まりだもの」
二人の旅したキリヤーグ地方のポケモンリーグは、自分の手持ち6匹のうちから3匹を選び戦うルールとなっていた。戦う前に相手の手持ちは公開され、相手が何を出してくるかを読んで選出を行う。この読み合いこそが勝負のカギであり、バトルの勝因を8割近く決めるといってよい。
よって対戦する相手はバトルの直前に同じ部屋で、お互いのポケモンを決めるのだ。
「こうして面と向かって話してると、故郷の村を思い出すわね」
「そうだね。あなたの大事な弟は元気だった?」
「元気とは言えないけど……最近、自分の将来について考え始めたみたい。自分にもできることは何かって。しばらく直接話してなかったけど。ポケモンリーグに出るって言ったら嬉しそうな声で応援してくれたわ。ありがとう」
「それはいいことだね」
涼香には、病気の弟がいた。生まれた時から難病を背負い、他の子供のように走り回ることも、太陽の光を浴びることも出来ない子供だ。旅に出る前、お姉ちゃんは外に出れていいなと言われたことは鮮明に覚えている。だから旅に出てからは後ろめたくて話せなかった。だけど四葉の勧めで、一度直接報告することにしたのだ。四葉もやや病気がちで線の細いところがあったので、涼香の弟のことは気にかけてくれていた。
リーグチャンピオンには莫大な権力と富が与えられる。弟を日向で生きられるようにするために、彼女はここまで研鑽を重ねてきた。だから絶対に、負けられないのだ。どの参加者にも、勿論ライバルの四葉にも。そう思いながらここまで来た。
(……このリーグで優勝すれば、莫大な賞金が手に入る。そうすれば、あの子を治してあげられる)
「ねえ涼香。もし僕が勝っても……賞金はあなたに渡すって言ったらどうする?」
「え……?」
「僕は涼香がどんな思いでここまで来たかは知ってる。賞金をあげるから負けろっていうんじゃない。涼香とは……心から楽しめるバトルがしたいんだ。お金や地位に囚われるんじゃなくて、昔一緒にトランプで遊んだ時のような……」
「四葉……」
四葉は飄々としていて感情を表に出すタイプではないが、その実貪欲に駆け引きを楽しみを求める性格だ。旅に出る前はよくおもちゃのコインを賭けてポーカーやドンジャラで遊んだものだが、ゲームの腕前だけでなく言葉巧みにこちらの心理を誘導するのが上手く、いつも涼香が負けて困った顔をしていてそれを見る度四葉は楽しそうに笑っていた。
だから自分と純粋にバトルがしたい。そう言ってくれているのだろう。
「ありがとう、四葉。だけど……その言葉には甘えられないわ。あの子と約束したの。絶対に優勝するって。百パーセントあなたに勝てる自信はないけど……それでも、やってみせる」
「そう……でも、その方が涼香らしいよ」
ともすれば厚意を無碍にするような言葉だが、四葉はニヒルに微笑んだ。責任感の強い涼香がそう答えることは、半ば聞く前から分かっていたからだ。
「でも、やっぱり後で賞金くれって言ってもあげないからね?」
「女に二言はないわ」
「それ、男が言うセリフだよ」
男勝りな涼香の態度に軽口を言うのも、いつも通り。その後、二人は本格的に思考する。連絡は取りあっているから、お互いのポケモンのことは自分のポケモンの様に知っている。だからこそ、簡単には相手の手を読めない。相手の手を知れば知るほど思考は複雑化する。
(それでも、四葉のマシェードに私のゴウカザルをぶつけられれば勝てる。後はその状況にどうやって持っていくか……)
旅するときに貰ったのは、涼香がヒコザルで四葉がナエトルだった。タイプとスピードを考慮すれば、自分のゴウカザルが勝つはずだ。だが四葉の思考の裏を書くのは並大抵の難易度ではない。先の話で出たトランプで遊んだ時も、どれだけ裏を掻こうとしても丁度その一枚上をいくのだ、四葉という少女は。先に決定したのは、四葉の方だった。
「……決めた」
「もういいの?読みに見落としがないといいけど」
「完璧だよ、涼香の考えることなんてお見通しさ。……さて、僕は少しお花でも摘んでこようかな」
「……そういうところ、変に気取ってるよね」
「友人同士とはいえデリカシーは大事だからね。――くれぐれものぞき見なんてしないでおくれよ」
「もう、そんなことするわけないでしょ」
そう言って、四葉は控室から出ていった。残された涼香は、再び思考に没頭する。しかしその1,2分後。大地が急に揺れて、集中が途切れた。震度5はあっただろう。
「わっ……何?」
幸い程なくして揺れは収まった。驚きつつも椅子に座り直して――その時、涼香は見てしまった。
四葉のモンスターボールが3つ、床に転がり落ちている。それを何気のなしに拾おうとして、気づく。『くれぐれも、のぞき見なんてしないでおくれよ』
(もし、これを拾ってしまったら……)
決定されたポケモンは大会用にボールに取り付けられたボタンを押すことで情報が送信され、エントリーされる。もしこの3匹が四葉の選んだポケモンだったら?
(拾っちゃ、ダメだ)
一度エントリーしたものは取り消せない。拾う時に見てしまったからもう一度選び直せ、とは言えない。このまま放置するべきだ。だけど。
(でもこれを見れば、私は……)
弟に誓った優勝。相手の手持ちが全てわかれば勝利をこの手に掴んだも等しい。そうだ、自分は絶対に優勝しなければいけないのだ。さっき賞金を渡す話に頷いていれば、やはり理性が勝っただろう。だが、退路は自ら断ってしまった。こんなことになるなんて思わなかった。拾って元に戻すだけだ、その時うっかり見えてしまっても、責められる謂れがあるだろうか。いや、だが、しかし……
(私は、私は――!!)
こうしている間にも、四葉は用を足して帰ってくるかもしれない。バトルの最中以上の窮地に追い詰められ、少女は――
「……ただいま。おや、涼香も決めたのかい?ちょっと地震があったようだけど、集中できた?」
「え……ええ。大丈夫よ」
四葉が戻ったとき、彼女のボールは、ちゃんと元の位置に収まっていた。それが答えだった。選定が終わり、しばらく談笑する二人。楽しそうな四葉に、硬い表情の涼香。さすがに決勝戦なので緊張もするだろう、と四葉は気に留めない様子を示していた。その後大会のアナウンスが鳴り、二人はフィールドに移動する。
「じゃあ……行こうか、涼香。最初で、最後の、最高のバトルをしよう」
「……うん」
そして決勝戦は……四葉の勝利で終わった。
途中までは、ポケモンの選定を読み勝った涼香の優勢で進んでいた。それに四葉が技で食らいつくという形で大歓声に包まれていた。だが――四葉が最後の一体を出した時、けたたましいアラームが鳴り響き。
控室に仕掛けられていた監視カメラによって涼香の、試合前に相手の使用するポケモンを事前に見る不正行為が発覚。勝負は中止され、四葉の不戦勝となったのだ。
これが二人の夏の終わり。勝たなければいけないという執念と、偶然が生んだ、悲劇。
その、はずだった。
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夢も未来もない旅立ち
「……久しぶりに、この夢見たな」
昼過ぎ。目を覚ました涼香は濡れた瞼を拭い起き上がる。この事件が起きてから半年ほどは毎日のようにこの夢を見てうなされ、罪悪感に苛まれ。眠るのが怖くなるほどだった。
あの一件以来涼香はポケモンバトルの表舞台から追放。旅立つときにもらったトレーナーIDは剥奪され、自分の仲間であるポケモン達は全て没収された。神聖なるポケモンリーグを穢した邪悪な人間には、ポケモンという力は持たせられないからだ。
旅の途中で出会ったトレーナー達にも、蟒蛇の如く嫌われてしまった。素顔を晒して歩けば、トレーナーの恥さらしだと罵られた。もうポケモンを持っていないのをいいことに、かつて負かしたトレーナーに身ぐるみを剥がされたこともあった。
そして優勝を約束した姉が不正を犯したことで、家族との関係も壊れてしまった。弟は、自分が涼香に絶対に優勝してほしいなどと頼んだがために姉が不正をしてしまったと自分を責め、その命を絶ち。両親からは、お前が弟を殺したと言われ、勘当されてしまった。
トレーナーとしての未来も、ポケモンも、家族も、友人も全てを失くした。今の自分に出来るのは、ただ日々を食いつぶすように生きることだけだった。いや、もう自分は死んでいるのかもしれない。
「来なくて、いいよ……もう私には、何にもないんだよ」
昔の男勝りな言動が嘘のように震え、怯えた声で独り呟く。メールに結局返事は、していない。裏切り、全てを無くした自分を親友に見せたくなどなかった。いっそ今すぐ死んでしまおうかとも思った。だけどそんな無茶が出来るなら、とっくにやっていた。死ぬのは、怖いのだ。
せめてこのアパートから今日一日だけでもどこかに逃げようか。だけどそもそも、四葉には自分が今住んでいる場所など教えていないのだ。なのにいる位置も聞かずに来ると言ったということは、自分のいる位置など把握されているということではないだろうか。そんな思考が働いてしまう。
「とりあえず、部屋、片づけなきゃダメか……」
虫が湧くほどではないが、部屋は散らかっていて大分荒れている。かつての親友が来るのにこれではあんまりだと思った。こんなのくだらない現実逃避だとわかっていても、体と頭を動かさないとやっていられなかった。
台所のカップ麺を片付け、たわしで磨いて綺麗にする。部屋のあちこちに散乱したゴミをまとめて袋に入れて、ゴミの日などお構いなしにゴミ捨て場に放り出した。
掃除機もかけ、ひとまず自由に動き回れるだけのスペースを作った後部屋の整理をする。昔熱心に読んだバトルの参考書や、自分の育てたポケモン達の成長記録のアルバムを本棚に並べようとする。中身を見返しても辛くなるだけだと思い開こうとはしなかったが、重ねて運ぼうとすると上の方がばらばらと落ち、目を反らすことを拒否するようにページを開いた。
そこには、旅立ちの日の記念にと書かれていた。四葉と涼香。そして初めての手持ちのヒコザルとナエトルが写真に写っている。ヒコザルと揃って元気いっぱいの笑顔とピースサインを浮かべる涼香と、ぼんやりしたナエトルを抱えて静かに楽しそうに微笑む四葉。
何もかもが希望に満ちていたあの時。そこから先をなぞるように扇風機の風で、ページは進んでいく。ジムを制覇した時、手持ちが進化した時。6匹の仲間をそろえた時。写真を一枚一枚見なくても、一瞬視界に入るだけで記憶は蘇る。そして自分のしてしまったことに、忘れようとしていた罪悪感がぶり返す。
「あの子達、どうなったんだろう」
罪を犯したトレーナーの手持ちは没収される。場合によっては殺処分されるケースもあると聞いていた。危険な思想を忠実に実行するようなポケモンは人に害を及ぼすからだ。涼香の場合はポケモンには罪を犯させてはいないとはいえ、安否がわからないのは不安でしかない。四葉に聞けばわかるだろうか。だが聞く権利など自分にあるのだろうか。自分のポケモンを信じることが出来なかった私に。そんな思いが巡る。
「でも、もう……気にしても仕方ないんだ」
仮に生きていたとしても、もう何もしてあげることなど出来ない。だから自分は、考えるのをやめた。四葉に会うことも、最低限の相手をして帰ったらまたいつもの何の味気もない生活に戻るのだと漠然と考えていた。
掃除を終え、一年前の服装に着替える。鏡の前に立つと、今の自分はなんと死んだコイキングのような目をしているのだろう。いつ来るかと思うと、何もする気にならなかった。いや、それはいつものことなのだが。
果たして、その時は来た。大家さんが来た時以外は滅多にならないインターホンが鳴る。
なんて返事をすればいいのかわからない。心臓の鼓動が不規則になった気がした。何もできずにいると、声をかけられた。
「いるんだろう?久しぶりだ、よく待っててくれたね、涼香」
まるで躾の出来たポチエナを褒めるような口ぶり。声も口調も正しく四葉のものだった。涼香は、絞り出すように返事をする。
「なんで、ここに……?」
一番の疑問はそれだ。あの時以来、連絡の一つもなかった四葉がどうして今更。何のために。
「ただの挨拶だよ?ポケモンリーグ前のね」
「……」
「ドア越しで黙られてもわからないよ。僕の方から勝手に入るのも失礼だから、こっちに来てくれないかな?」
涼香は言われるままドアに近寄ろうとする。だが今の涼香にとっては、2人を隔てるドアはまるで分厚い鉄板のようにすら感じられた。開けることなど、出来ない。四葉が向こうでため息をつくと、涼香の体が淡い光に包まれる。次の瞬間には、涼香はアパートの廊下に出ていた。四葉はすでに自分の方を向いており、傍らには彼女のオーベムが控えている。『テレポート』か『サイドチェンジ』を使って涼香の体を転移させたのだ。四葉は戸惑い青ざめる涼香を頭の上からつま先まで眺めている。無理やり対面させられ、一方的に気まずさを感じる涼香が先に口を開いた。
「久しぶりの相手に、随分な、呼び出し方ね」
「へえ、髪を切ったんだね。いいじゃないかさっぱりしてて。涼香にはそっちの方が似合うと思うよ」
「……四葉は前よりも伸びたんじゃないかしら。あまり長いと乾かすのが面倒だって言ってなかった?」
「チャンピオンとして人前に出るのに相応しい外見を装った結果だよ。もう旅は終わったから手入れに時間をかけるのは簡単だしね」
一年前は、お互い背中にかかる程度の長さだった。堕ちた涼香は手入れする気にもならずバッサリと肩より上まで切り落とし、四葉はチャンピオンとしての外見のために腰まで伸ばしている。見る人が見れば傷み具合もまったく違うのだろう。着ている服も涼香の物はもう一年前から新しい服は買っていない。四葉は上質な薄い生地で出来た首元までしっかり覆われた紫色の礼装を着ている。四葉は落ちぶれて生気のない友人を心から心配そうな……まるで素から落ちたヒナでも見るような目を向ける。
「それにしても顔は随分とやつれたようだ。昔は食べ過ぎて体の一部に余計な脂肪がつくくらいだったのに」
「そんなこと……もう四葉には関係ないでしょ」
「一番の友人に対してつれないね。そういえば……涼香の大切な弟は元気かな?」
「――――ッ!あの子は、あの子は!!」
四葉は自分の弟が死んだことを知らないのだろう。涼しげに言う彼女に、涼香の心に忘れかけていた昔の激しい感情が巻き起こる。だが悪いのは自分だ。何も言えない。だがその表情は彼に何が起きたかをはっきり物語っていた。
「そう……それは残念だったね。じゃあ面白い話をしようか」
「話……?」
四葉の会話は独特だが、今の自分が冗談を聞いて笑うような気分だとでも思うのだろうか。困惑する涼香に構わず、四葉は語りだした。
「涼香はあの決勝戦、控室で僕の使うポケモンを盗み見て、失格となった。だけどあの時の涼香は、優勝しなければいけない責任感。弟との約束……普通の精神状態ではなかったはずだよ」
「だから……だから何よ!だから『涼香は悪くない』とでも慰めるの?あなたのことも自分のポケモンのことも、全部全部裏切ったのに!!」
堰を切ったように、もうずっとあげていなかった大声を出す。喉が割れそうだったが、気にしていられない。昔の四葉は、熱くなりすぎて度が過ぎた行動をする涼香を庇うことがしばしばあったし、それに昔は助けられてきた。だけど、もうどうにもならない。
「まあまあ落ち着いてよ。お楽しみはこれからさ」
「どういう、ことよ」
涼香の激情を、心の底から楽しそうに、昔ポーカーで負けそうになって困る自分を見ていた時のような、でもその時よりずっと楽しそうな目で見ている。
「ではそんな涼香に、もし対戦相手がわざと自分のモンスターボールを転がしたとしたら?」
「え……?」
意味がわからない。あの時四葉は席を外していた。そもそも、何のためにするというのか。
「対戦相手が席を離れる前、のぞき見を示唆するような発言をしていたとしたら?」
理解できず困惑を深めるばかりの涼香に対し四葉の笑みが深くなる。昔の目と似ているのに、見たことのない表情。見たことのない四葉。
「そもそも。涼香が弟と決勝戦前に会話したこと自体偶然ではなかったとしたら……?」
サイホーンに足し算を教えるように語り掛ける四葉。一瞬、涼香には四葉の言っている意味がわからなかった。脳が理解することを拒否していた。
あの時ボールが落ちたのは、地震のせいだ。だけどポケモンの力があれば地震を起こすことなど容易に出来た。トイレに行く前、のぞき見なんてしないでくれとも言っていた。
涼香が自分の弟と会話をしたのは自分の意思だ。だけどそれを勧めたのは四葉に間違いなかった。
「まさか……私をはめるために、わざと……?」
理解してしまっても、信じられなかった。だって、四葉は、自分の、一番の、親友で。病気がちで変わり者だったから村の子供たちに馴染めなかった四葉を守ってあげていたのは、自分なのに。
「ははっ、やっぱり気づいてなかったんだね……だけど笑えるじゃないか。あの一件以来涼香はポケモンバトルの表舞台から追放。一方僕はキヤリーグ地方のリーグチャンピオン。昔に比べて随分立場が逆転したじゃないか?」
「四葉……なんで……なんでよっ!!」
涼香は細くなった腕を振り上げ、彼女に拳を振るおうとする。だがまた涼香の体が淡い光に包まれる。念力で動きを止められ、地面に這いつくばる。騙されていた悔しさ。弟の無念。今までの自分への罪悪感が全て四葉への疑問へと変わる。
「暴力はいけないね。さて、涼香はこれからどうしたい?」
「答えて……なんで、あんなことをしたの!」
「この状況でなんでなんでとはあまり賢くないね。答えたとしてそれが真実であるかどうかわかるのかい? 嘘でも何でもいいから納得したいのかな? 一番の友人に裏切られだれより大切な弟くんが死んでしまった理由を」
四葉の言葉が重く、念力以上にのしかかる。裏切られたこと、弟が死んだこと。それは四葉自身の意思で行われたし、自分はそれに気付くことが出来なかったことを。
「こんなふうに騙されて悔しいよね。涼香はずっと僕のことを見下してたんだから」
「何を言ってるの……?」
「自覚があるのかないのかは知らないけれど、君は弟のことも、僕のことも、大事にしているようで下に見ていた。頭はいいけど自分がいなければ四葉は何も出来ないみたいなこともよく言っていたよね」
四葉に違うと言おうとした。だけど否定できなかった。体の弱い彼女のことを心配していたのは事実だ。だけど自分が守ってやらねば危ういと思っていたその心に、見下す気持ちがないなどと言えようか。
何より涼香に今の発言を否定させなかったのは、四葉の浮かべる表情だった。普通、自分が見下されていると思って気分のいい人はいない。涼香ならはっきり怒りを示すだろう。でも、今の四葉は見下されていたと口にしながら、それを慈しむように笑っていた。
「それは……でも、そう思ってたならあんなことしなくても直接言えばよかった! そうすれば私だって改めてあげられた! なのに……」
「心配いらないよ。僕はそんな涼香が大好きだったし、今でも大好きさ。それだけは事実だよ」
うっすらと微笑を浮かべる四葉は真剣だった。長年の付き合いから、少なくとも嘘を言っているわけではないことを直感的に理解してしまう。だからこそ訳が分からない。でも四葉は教えてくれなかった。今の涼香には、真偽を確かめるすべがないから。涼香は無力さと悔しさに泣きながら
「ならせめて教えて……あの日から一年経って私にそのことを伝えた理由は何?」
「ふふ、涼香は頭はあまりよくないけど考えることは嫌いじゃないからね。きっとそう言ってくれると思ってた」
単に裏切りたかっただけなら、もっと早く教えても良かったはずだ。この一年間、自分の命を絶とうかと思った回数は一度や二度ではない。今日を迎えるまでにこの世を去っていた可能性もある。あるいはずっと教えなければ自分で罪を犯したと感じ続け苦しんだはずだ。なら今教えたのは理由があるはずだ。だがこの疑問も、四葉の掌の上らしい。いや、ここに来てからの会話は全てそうなのかもしれない。一年前も彼女の思うがままに不正を働いてしまったのだから。
「涼香、一番の親友である君に頼みがあるんだ。……これを受け取ってくれ」
「これは……トレーナーカード?」
四葉は一枚のカードを倒れた涼香の眼前に投げる。涼香が目を向けると、それはトレーナーとして旅することを認めるトレーナーIDだった。昔もらったものとは違う、新品の物。これがあれば、公的にはポケモンをバトルのために所有することが許される。ジムバッジを全て集めれば、リーグ挑戦も可能だ。
「君にもう一度、この地方を旅してほしい。ただし一人じゃなくて……とある新人のトレーナー達と一緒にね」
「新人トレーナー……?」
「そうだよ。チャンピオンになってから一年。僕は旅をして感じたトレーナーとして各地を歩く上での問題点の改善に努めた。涼香と会話したことも参考にね」
ポケモントレーナーとして旅立つ人間は研究所でポケモンを貰って一人で旅をするのが一般的だ。8つのジムを、ポケモンを捕まえ育てながら巡り、最後はリーグの挑戦を目指す。大体の地方と同じシステムに準拠している。だが一方でポケモンという大きな力を持ち責任を持って育てること、子供が一人で見知らぬ場所を歩く事には様々な危険が伴う。涼香も旅をして危ない目に合ったことや一歩間違えば死んでいたかもしれない出来事はあった。この地方におけるポケモンリーグのチャンピオンの権力は絶対に等しい上、トレーナーとして旅をした当事者であるなら鶴の一声で決定できることも多いのだろう。
「その一環として、新人トレーナーに地方を回ったことのあるトレーナーを一人つけることを決めたんだ。それを涼香にお願いしたくてね」
「……ふざけないで、なんで私が」
かつての親友……否、自分からすべてを奪い弟の仇となった相手をを睨みつける。気の弱い者ならその強い視線に怯むだろうが、四葉はペットのニャースに軽く引っかかれた程度にしか思っていない。
「なんで、は意味がないんだよ涼香。僕は君にこそ頼む理由がある。一応チャンピオンとしての権限もあるし、涼香は前科持ちだから断るなら今度こそ刑務所入りだ。僕が君を貶めた理由も教えられない。……それは嫌だろう?」
聞き分けの悪い子供を窘めるように四葉は言った。ショックと悲しみと怒りと不甲斐なさで頭の中がドロドロに溶けそうになりながら、涼香は呟く。
「親友だって信じてた時も、裏切られた後も……あなたの掌の上で踊るしかないのね」
「引き受けてくれるってことだよね。じゃあ明日の昼、僕と君が旅立ったあの研究施設に向かっておくれ。話は通してあるから」
昔と何ら変わらない、友人に対して少しお使いでも頼むような調子の四葉。自分を裏切って、弟を死なせて、今まで放っておいてなんでもない顔をしているのが自分の親友であるという現実にようやく、理解が追い付き始める。冷え始めた思考で涼香は言う。
「……教えてくれないなら、私は憎むわ。四葉の心を見抜けなかった馬鹿な自分を。まんまと罠に嵌まった自分の心の弱さを。そして何より弟を殺した四葉、あなたを……許さないから! 私はあなたに復讐する! ……それでいいの?」
「そう……いいよ。僕のことはいくらでも恨んでくれて構わない」
復讐、と強い言葉で訴える。自分の事を大好きだと言ったならあるいは本当のことを話してくれるのではないか言う儚い望みだった。だが平然と肯定する四葉の本心はわからない。踵を返して歩き出す。その後ろ姿を涼香は目に焼き付けていた。一陣の風が吹くと同時に四葉とオーベムの姿は消え、涼香の身体は自由になる。
「やってやるわ。四葉が何を考えていようと引きずり降ろして、本当のことを聞き出して……」
その後、どうするとは今は言えなかった。理由を聞けば許せるのか、許せなければどうするのか。その後自分自身はどうするのか。一年間魂が抜け落ちたような生き方をしていた涼香にはすぐに決められない。でもそんなことはどうでもいい。部屋に戻り、最低限の身支度を整え始める。自分が旅立った研究所まではここからそれなりにある。必要な準備を考えると急いでここを出なければいけないし、気持ちとしてものんびりなどしていられなかった。
「私は掴んで見せる……四葉の本心と、あの子の死の真実を!」
流れる涙を服で拭って、その腕を見る。色あせ、ぼろぼろになった旅の服。手持ちのポケモンは零。四葉はもう友達ではなく倒すべき敵。応援してくれる人は誰もいない。真実を聞いて、そのあと如何するのかもわからない。夢も未来もない旅が、始まる。
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心を燃やす劫火
一年越しに、『ポケモントレーナー』として旅立った涼香は、まず南を目指した。所持金は財布の三千円。モンスターボールなし、食べ物なし。そして何よりポケモンなし。あるのは新品のトレーナーカードだけ。トレーナーカードは薄型のスマートフォンのようになっていて、操作することで現在の手持ちやマップ、また旅に関するルールを見られるようになっていた。
涼香の踏みしめる大地キヤリーグは、そう大きくはない島国だ。涼香のいる町フェロータウンは島の南西にあり、リーグに挑むための前提条件であるジムは全て北や東にある。涼香のいるであろうポケモンリーグは標高千五百メートルを超える雪山を超えた遥か北東で最終的な目的地はそこになる。
この島には町と街を繋ぐ道には所謂ポケモントレーナーのため、そしてポケモンの暮らしを守るために自然が保護された『道路』と、人間や物資が移動、流通するための『街道』がある。『街道』にはタクシーも通っているし、徒歩でも安全に次の町へ行ける。ポケモントレーナー以外の一般人は、皆そちらを通るのが当たり前だ。それを使えばひとまず博士のいる町、今の自分が向かうべきところへはいける。しかしポケモンがいなくては話にもならない。
かつて旅に出た時のように、草むらに入ってポケモンを捕まえることも出来ない。この辺にいるのはビードル等幼虫のような虫ポケモンに、ポチエナ等小動物のようなポケモンだが、身一つでポケモンの生息地に足を踏み入れることは、大きなリスクがある。
ビードルの毒針に刺されれば、命こそ奪われないが個体によっては数時間苦しむほどの毒性はある。ポチエナも自分より大きな人間を食べるために襲うことなどしないが、狩の練習のターゲットにされれば、さんざん追い回された上に噛みつかれるだろう。親のグラエナでも出てこようモノなら、彼らの餌になりかねない。ちゃんとポケモンを持っているトレーナーでさえ、ふとした油断で大怪我や命を落とすことは決して珍しくないのだ。
なので博士の研究所までの道中もポケモンの生息地はあるが、極力『街道』を歩いて、ポケモンには手を出さない。所持金3000円ではタクシーなど使えるはずもないので徒歩で移動したのだが、この一年間で筋力がすっかり衰えた体ではなかなか辛いものがあった。空気は冷たく、乾燥した島であるというのに汗をびっしょり掻いている。野宿の際も一応旅していた時の寝袋を使ったがこの一年の間にすっかり柔らかさは失われていた。
明朝には博士の研究所にたどり着いたが、なんと顔を合わせたものか悩んでしまう。
(あんなに仲が良かった四葉に復讐するためにポケモンが欲しいなんて……言えるわけない)
博士はぶっきらぼうだがいい人だった。ポケモンに関する質問は答えてくれたし、時折珍しい道具屋旅の資金を助手を通じて送ってくれたこともあった。四葉によれば話は通してあるとのことだがどこまで話したのか、どう思われているのかわからない。手塩にかけて育ててやったのに裏切ったと侮蔑されていてもおかしくはないのだ。
研究所があるアイマラタウンは自然の中に家々が点在する小さな村だ。涼香も四葉もこの村で育ったため、もう訪れないと思っていたここに来たことに少なくない感情が巻き起こる。
この村に限ったことではないが、田舎の人間というのは結びつきが強いがゆえに、異端者、よそ者は排斥的になる傾向がある。親に聞いた話だが、四葉は赤ん坊のころに重病を患ったがために手術をして、病気は直ったものの静かな土地で暮らすべきだということでこの村に来たらしい。
他所から来て、病弱で体が弱く、風変わりな四葉は村のほとんどの人間から煙たがられていた。涼香が四葉と仲良くし始めたのは、似たような境遇を持つ病気の弟がいたからだ。もし弟が健康だったら、自分も差別していたのかもしれない。
(いや、差別はしていた。少なくとも四葉はそう感じていた)
四葉と仲良くしたのも、陰湿ないじめから守ったのも、良かれと思ってやったことだ。だが全てはもう裏目でしかない。賽は投げられたのだ。
涼香は木造建築ばかりの景色の中でひときわ異彩を放つ白塗りの強化素材で出来た建物を見やり、思い出す。ここの博士の研究テーマは、『ポケモンと人間のコミュニケーションによる能力の変化』だ。
観葉植物に優しい言葉やリラックスできる音楽を聞かせると良く育つ、きつい言葉や激しい音楽を聞かせると萎れるなんて話はよくあるし、ポケモンには意思がある以上人間とのかかわりが影響するのは当然のことだが、具体的にどう影響するのか?マイナスのコミュニケーションを取ることはポケモンの能力にとって一概にマイナスと言えるのか?という様なことを研究していると思えばいい。
なので、ここには様々な人間との関係を持ったポケモン達がいる。大切にされていたけれど、主が死んでしまったポケモン。飼ったはいいが躾けることが出来ず、捨てられたポケモン。ずっと檻の中に閉じ込められたポケモン、様々だ。
(そして私の様に。犯罪を犯したトレーナーから取り上げたポケモンもここに送られる)
都合上、トレーナーとの関係性によって別々の場所に隔離されていることを涼香は覚えていた。幸いにして、博士や助手達は研究所の中にいるらしい。慎重に隠れて進む必要はなかった。
研究所の一角にある、特にトレーナーとの間に深刻な問題を抱えたポケモン達が入れられた場所にまっすぐ向かう。涼香と四葉が旅立つ際、色んなポケモンを見せてあげると博士はほとんどの場所に案内してくれたが、この場所だけは危ないから近づいてはいけないと言われた。そのことが、涼香の記憶に逆にはっきりと印象に残っていたため場所まではっきり覚えている。
勿論トレーナーとの間に溝のあるポケモンを従えるのは難しいことだ。単にポケモンが欲しいだけならもっとトレーナーに好意的なポケモンのいるところに行った方がいい。だが涼香の目的は復讐だ。本来のポケモントレーナーの道のりとはかけ離れた、日陰の道を歩くことになる。幸せに過ごすポケモンを付き合わせたくはなかった。
それに……もしかしたら、自分の持っていたポケモンもここに送られているかもしれないという期待もあった。あの一件以来、まともな別れの挨拶も出来ず奪われた仲間たちがいれば、どれだけ心強いことか。身勝手だと知りながら、その思いは止められない。
人体を感知する分厚い自動ドアが開き、中に入る。一本の廊下の両脇には、一体ずつ頑丈な檻や水槽に入れられている。中にいるポケモン達が、自分を睨みつけたのがはっきりわかった。人間への恨みや敵意の熱量がはっきりわかる眼差しだった。
だが涼香は臆さない。今からこの中の誰かを仲間にするのだから。何より、彼らと同じ炎が自分の胸の中には燃えているから。
涼香は檻の一つずつを、コンコンとノックしてみる。両目が潰れたゾロアークが光を失った顔を向けた。自分の殻を破りすぎたハンテールがとぐろを巻いた。布のような部分が破れ、文字通り首の皮一枚つながっただけのミミッキュが首から脅かすように手を出した。
(……何か、おかしい)
廊下の奥のほうまで行って、違和感を覚える。全てのポケモンは涼香――人間に対する負の感情を持っていた。だがその怨みを本気でぶつけてくるポケモンがいないのだ。威嚇や警戒に留まっている。檻に入れられてこの程度なら、危険と言うほどでもない。
それに、置いてある餌も気になった。博士は全うな人格者だ。彼が餌やりを怠るとは思えない。事実時折見える餌箱は、新鮮な木の実や肉がちゃんと置かれていた。なのにポケモン達がそれをちゃんと食べている様子がないのだ。2,3口齧って、残しているのがほとんどだ。
人間を恨んでいるから食べない可能性も考えたが、それならば自分を見れば元気がなくとも死にものぐるいで食ってかかってきそうなものだ。
涼香が考えながら次の檻に進むと、視界の端で小さな灯火が揺らめいた。蝋燭のような、吹けば消えそうな幽かなものだ。涼香の視界が動く。
「もしぃ……?」
ガラスの向こうにいるポケモン。ヒトモシは頭に紫の火が灯る白く小さな体をしていた。本来は綺麗な円柱形であろうその姿は、出来損ないのキャンドルアートのようにあちこちに体にガラス球を埋め込まれ、まるで疣(いぼ)に侵された病人の様だ。小さな瞳が、自分を不審の目で見つめている。
「怯えているの?」
直感だった。涼香はしゃがみ込み、ヒトモシと目を合わせる。恐らく体のガラス玉は、前のトレーナーに埋め込まれたのだろう。ポケモンに衣服やアクセサリーをつける人間など珍しいものではないが、直接埋め込むなどポケモンのことを一切考えていない狂気の沙汰だ。何をされたかが明白な分、その存在は哀れに思え。自分と同質に思えた。
話しかけると、ヒトモシはぶるっと頭の火を震わせ、ゆっくりと後ろに下がった。ただ振るえない敵意を持つ今までのポケモン達とは違っているのは明白だった。自分に対してはっきりと行動を起こしている。
「も、も……!」
「大丈夫、何もしないわ。あなたじゃ私の道にはついてこれないだろうし」
ヒトモシは、進化すればトップクラスの火力を持つ強力なポケモンだ。とはいえ簡単には進化しないし、ヒトモシ自身はその体の関係上、動きが非常に遅い。即戦力が必要な自分の旅には適さないと涼香は判断していた。それでもなお話しかけたのは、爛れてもトレーナーとして自分に注目しているポケモンへの警戒心と優しさか。
なおも目を合わせ続けると、ヒトモシは頭の火を強く揺らめかせ、涼香へ炎を放ってきた。だが二人の間は耐火ガラスで遮られている。その炎が届くことはない。
はずだった。
「あ、つっ……!?」
涼香の上半身が、紫色の炎で燃え上がった。体の中が焼けつく感覚がして、考えるより先に咄嗟に地面を転がる。ポケモンの火に巻かれた時の咄嗟の行動で、トレーナーの基本だ。
しかし、その炎は消えない。転がった後もめらめらと涼香を焼き尽くそうとする。……その状況をはっきり確認できていることに違和感を覚えた。本物の炎に焼かれているなら、熱さとショックでそんな思考の余地はないはずだ。今の涼香は、冷静すぎる。
燃え続ける自分の体を見ると、火傷もなければ服も燃えていない。でも、かといって幻の炎でもなかった。
「そういう、ことだったのね」
ヒトモシの炎が燃やしているのは自分の身体ではなく、心だ。一年ぶりの遠出で体が疲れていても、復讐心に突き動かされるようにして動いていた涼香の足から力が抜けていく。疲労がどっと沸き、活力がなくなっていく。
周りのポケモン達が妙に元気がないのも、そういうことだ。この小さなヒトモシが、この室内のポケモン全ての生きる気力を奪っていた。臆病なのに、貪欲極まるその性質。種類とは関係なく、初めて見るポケモンだった。
手持ちのいない涼香に対処の術などない。涼香の心が燃えて、燃えて。ついにがっくりと膝をつき、うつぶせに倒れた。ヒトモシを見つめていた瞳が閉じる。
「もし……」
それを見て安心したヒトモシは、涼香を燃やす火を消した。ヒトモシとその進化系の操る炎に、決まった温度はないし、炎タイプのそれとは性質が完全に異なる。その炎は心を燃やし、燃やしたエネルギーを自分の糧とする。完全にヒトモシ達自身の意思でコントロールされ、消したいときに消せるのだ。
普通の人間なら、誰かに起こされるまで目を覚ますことはないだろう。場合によっては生きる気力を失い、鬱状態になるかもしれない。だがそんなことはヒトモシの知ったことではない。自分を散々いじくりまわし傷つけた人間がどうなろうと、当然の報いだから。
「ふ……ふふふ」
涼香の指先が、ピクリと動いた。ヒトモシはびくりとする。涼香は腕に力を籠め立ち上がった。一度閉じた瞳は、死んでいない。再び開いたそれは、復讐の炎がはっきり燃えていた。
「あなた、気に入ったわ。私と一緒に、来なさい」
命令し、近くの消火器を両手で持つ。ヒトモシの心を燃やす炎は消火器で消せるものではない。それは涼香もわかっている。
ヒトモシの壁を覆っているのは、水槽のような強化ガラスではなく、炎耐性の耐火ガラスだ。故にその強度は決して高くない。だから涼香は消火器を振りかぶり、全力でガラスを粉砕した。瞬間、ポケモンが脱出する危機を告げるけたたましいアラームが鳴り響いたが気にしない。ここに来るよう命じたのはチャンピオンとしての権限だと四葉は言った。ならここにきてポケモンに襲われたから迎撃したのは普通なら言い訳でしかなくとも正当防衛で通るはずだ。
「も、も、もしぃ……」
ヒトモシは、自分の炎で焼き尽くせない人間に戸惑っていた。どんな強力なポケモンでも、心を焼かれれば動けないはずなのだ。なのに、どうしてと。じりじりと、本人としては全速力で後ろに下がる。
涼香は用済みの消火器を投げ捨て、そんなヒトモシに近づいて、再びしゃがみ込み、たくさんのガラス玉で醜く歪んでしまった体を抱きしめた。頭の炎で自分の肩口が焼けることも恐れずに。
「残念ね。私の心はもうあなたと同じ炎が宿っているの。あの子を焼き尽くすまでは、決して消えない」
瞳を閉じ、アパートで四葉に告げられた真実を思い返せば怒りと悲しみ、体から力が抜け落ちそうな無力感は何度でも蘇る。弟と自分。そして自分のポケモン達を引き裂いた彼女は、どんな理由だろうと許せない。例え復讐を終えた自分の心が消し炭になってしまうとしても、その時までは燃え続ける。
「あなたも、辛かったわよね。信じていた相手に裏切られる辛さは、私がわかってあげる。私なら、あなたと一緒に誰かを燃やし続けられる。だからどんなに辛くても、最後の一瞬まで一緒にいましょう」
モンスターボールによって捕まえられたポケモンは、所有者への強制的な信頼感情を与えられる。所謂『おや』の特権だ。勝手に与えられた信頼に、勝手な裏切り。そんなことが横行するトレーナーの、なんと醜いことだろう。だから、一緒にいきましょう。涼香はかつて四葉に向けていた優しい瞳で告げた。
「もしぃ……もしぃ……」
ヒトモシの瞳から、線香花火のような小さな火が漏れた。それが涙であることなど、考えるまでもないことだった。裏切られた同士に、モンスターボールによる強制的な信頼など必要ない。仲間になる儀式は固く抱擁を交わすだけでよかった。
一分後、涼香はヒトモシを組んだ腕の上に置き立ち上がる。ヒトモシの遅さがバトルで戦力になりにくいことには変わりない。だからしばらくは、自分と一緒に動くことにするのが一番だろう。
アラームが鳴り響く中をさっきよりも足早に歩いていく。ここまでもそうだったが、残念ながらかつての涼香の手持ちはいないようだった。他のポケモンもヒトモシに生命力を吸い取られている以上、連れていくには適さない。このまま出ようとしたとき、鉄格子の割れる音がした。
中から飛び出たポケモンは、涼香の前に立ちふさがる。
「ヘルガー……」
悪魔のようにねじ曲がった立派な二つの角の両方が戦いではなく綺麗に、意図的に折られ。胸のドクロ模様も切り取られたヘルガーが、涼香とヒトモシをじっと見つめた。炎と悪の両方の性質を持つゆえに、炎とゴーストの性質を持つヒトモシの炎の効果は薄かったのか。万全ではないが、目は力を失ってはいない。
周りに散らばった本来は極めて頑丈な鉄格子は、度重ねて吹き付けた炎で大きく劣化していた。出ようと思えば、いつでも出られたのだろう。人間なら研究所の誰かが定期的に来ているはずだ。このタイミングで出てきた理由は、一つ。
「あなたも、ここから出るつもりなのね」
涼香の問いかけに、ヘルガーは頭を垂れた。檻を破れても、人間がいなくては自動ドアは抜けられない。そして研究所の人間が、一緒に抜けさせてくれるはずはない。
だからヘルガーは待っていた。自分を連れ出す、何者かの存在を。それが自分の憎む人間であると分かりながらもだ。
「いいわよ。あなたをここから出してあげる。ただし条件があるわ」
涼香は少し考え、こう口にする。地獄の道を歩む仲間に対する、制約と誓約。ヘルガーにとって傷のついた己の角と胸の模様は強さと美しさを示す勲章だが、同時にポケモンマニアからの需要も高い。飼われた後一切の戦いを許されず、養羊場の家畜のように育てられ、成長したら角と模様を刈り取られる。彼は、己の誇りを『おや』に剥奪されたのだ。
「私と一緒に、戦ってほしい。私はあなたを傷つけることはあっても誇りを奪うことはしない。戦いはあなたのしたい様にすればいい。険しい道のりになるけれど、飼い殺しはしないわ」
「ガル……」
ヘルガーは、涼香の体の周りをぐるりと一周し、最終的に涼香と同じ方向を向いた。彼なりの人間を認める儀式なのだろう。ただしそれは服従ではない。もし涼香がヘルガーのプライドを傷つけるようなことをすれば、その牙は容易に涼香に向くのは間違いない。
涼香は2体と共に、自動ドアの出口を抜ける。二体もいれば、当面旅をするには十分だ。後の仲間は、これからの道のりで見つければいい。
ヒトモシの炎を胸に。傍らにヘルガーを従えた涼香は、一旦研究所から出ようとした。新人トレーナーがくるまではまだ時間がある。新たなポケモン達に事情を話す必要もあるしそれまでここにいるわけにもいかない。しかし後ろから声がかかる。
「……涼香。何か言うことがあるんじゃねえか?」
「!」
振り返ると、博士がちょうど研究所から出てきたようだ。ポケモンの脱走を告げるアラームを聞きつけ、やってきたのだろう。白髪をオールバックにした壮年の男性で、火のついたタバコを手に持った彼は白衣が凄く似合わない。スーツを着てオフィスにいれば誰でも仕事の出来る管理職だと判断しそうだ。
「お前がここに来る理由は四葉から聞いた。あいつは相変わらず肝心なことは言わんから詳しくは知らんが、とりあえずそのことには目をつぶるさ」
博士はタバコでヘルガーとヒトモシを指す。やはり四葉が話を通しているのは事実のようだ。
「……なら、遠慮なくもらっていくわ。新人のトレーナーは今どこに?」
「口の利き方に気を付けろ、自分の立場がわかってないのか?」
「……!」
身の竦む言葉だった。昔からぶっきらぼうではあったが涼香に対しては旅を支援する博士として接してくれていた。でも既に涼香の立場は違う。
「お前はもう期待の新人トレーナーじゃない。どんな事情があろうと周囲と自分のポケモンを裏切ったトレーナーの風上にも置けない女だ。そいつらを連れていくのを許すのも、チャンピオンになったあいつがポケモンなしでは新人トレーナーを守る仕事に差し障ると判断したからにすぎん」
「……そうね」
「聞こえなかったか? 口の利き方に気を付けろと言ったんだ。十八歳にもなれば目上の人間と話す時は敬語を使うもんだ」
涼香が旅立ったときは15歳、あれから3年の月日が流れていた。まだ未成年ではあるが、体はもう大人と変わらないし普通に仕事をしていても珍しくない年齢である。涼香は少し考えた後言った。一応アルバイトで敬語を使うのは慣れている。尤も全く心のこもっていない棒読み口調だが
「……失礼しました。それで、一緒に旅をするトレーナーはどこにいますか」
「ふん……四葉の住んでいた家だ。ご両親の承諾を得て一晩そこに泊めさせたからまだそこにいるはずだ」
「わかったわ」
「おい」
答えを聞くなり敬語をやめた涼香に博士が真面目に怒りのこもった声を出す。
「……四葉に伝えておいてくれないかしら。あなたの掌で踊ってあげるけど、決して綺麗には踊らない。むしろ踏みつけてタップダンスでもしてやるって」
「つまらんジョークだ。そんな態度を取るならこの件は取り消してもいいんだぞ?」
四葉は涼香に旅をさせたがっているようだが、新人のトレーナーを旅立たせる身としては礼儀の一つも弁えない子供を引率につけることは承諾できない。研究所のポケモンを奪い身勝手な振る舞いをしたことを報告すれば涼香を引率役から下ろすことは可能だ。
「……既に旅をしたことがあるトレーナーを引率につけるのは、四葉の提案で今年から始まった。どんなやり取りをしたのかは知らないけど博士も承諾した」
「だからなんだ? お前の代わりなどいくらでも用意できる」
「……その引率者が旅を始める前に新人トレーナーを殺してしまったらどうなるかしらね?」
「何?」
博士は涼香の顔を見る。冗談や見え透いた脅しではなかった。やりかねない、と思わせるほど、涼しい目の中には激情が宿っていた。
「四葉はトレーナーの旅を安全にするためにいろいろ工夫を重ねたらしいわね。引率者の他にもジムの縮小、新人トレーナーには旅をする一年前にポケモンは与えておくとか色々……あの子らしい賢い工夫よ。でも、危険から守るはずの人間の手で新人トレーナーが殺されてしまったら全てご破算。違うかしら?」
勿論そうなれば涼香は正真正銘の人殺しとして死罪になるだろう。四葉が涼香を裏切った理由も弟の死の真相もわからないまま人生を終えることになる。だが四葉や博士も困るはずだ。せっかくトレーナーの安全のために工夫を積みかさねたのに最初の旅が始まることなく死を迎えるなどあってはならないことのはず。
「あなたたちの言う通り引率役はしてあげる。でもそれは私が四葉に復讐するため、心までは思い通りにさせない。……これはその宣言よ」
「チッ……もともとじゃじゃ馬だったが一年見ないうちにとんだ暴れ馬になりやがって」
「じゃあ一旦出るわ。直接顔を合わせてくる」
「まさかとは思うが――」
「殺さないわよ。あなた達が私に引率役を任せている分にはね。ただ、邪魔するなら手段は選ばない」
涼香の目的はあくまで過去の真相を知ること。それを根幹から崩す真似を自分からするつもりはない。ヘルガーと共に博士の横を通り抜ける直前、一言小さく呟いた。
「何だと……? 待て、どういう意味だ」
それには答えず、涼香は背を向けて一旦研究所を後にする。二人が出ていった後、博士は苦々しく呟いた。
「あんなに良くしてもらっていたのに、ごめんなさい……か」
他の誰にも聞こえない言葉は、自分への謝罪だった。さっき自分を脅したのとはまるで違う、罪悪感に潰れそうな震えた声。
「……こりゃあ、荒れた旅になるだろうな」
涼香は元々非常に真直ぐであるがゆえに暴走しやすいところがあった。心も男勝りな勇敢さの反面他人想いで優しいところがある。四葉は、穏やかでかつ博士である自分よりもはるかに賢い少女だったから彼女がいいストッパーになっていた。だがその本心は一度も理解できたことがなく、不気味ですらあると感じられる時も博士にはあった。その四葉が涼香と袂を分ち描いた旅は、きっと一筋縄ではいかないものになるだろう。そんな確信があった。
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巡る季節が奏でる出会い
――夢の中の自分はいつだって曖昧だ。
――名前もない。性別もわからない。そもそも自分は何の生き物だったっけ。
――疑問を口に出そうとする。でも何も喋れない。喋れたとして何を言うんだろう。僕、私、それとも我が輩?
――体の一部を伸ばして、必死に誰かを掴もうとする。それは手か足かそれとも首か、それすらわからない。
――自分が何者で誰なのかを、与えてもらうために。
――伸ばした体は何も掴めない。代わりに音が聞こえてきた。生き物の声ではない、しかし明らかな意思の込められた旋律。
――ああそうだ。やっと思い出した。やっとこれであの人に手を伸ばせる。
――俺は。もうあの人を置き去りにはできないから。
瞳を開く。体を跳ね起こし旋律の聞こえる方に顔を向けると、そこには少年が立ってフルートを吹いていた。くるくるとした金髪に、線の細い顔。全体的に丈の余った黒いタキシードを着ている少年はフルートを口から離し、起きた自分の方に振り向く。そしてこちらを見て言った。
「……どうしました巡(めぐる)兄さま? 先ほどまでまたうなされていたようでしたけど……」
「そうだったのか? うーん……なんでだろうな」
「心配しましたが、とにかくお寝坊されなくてよかったです。今日は大事な出立の日なんですから」
夢の中の出来事とは、覚醒と共に忘却の彼方に消えていくものだ。巡と呼ばれた少年はさっきまで眠っていたベッドで用意していた服に着替えて、近くにある鏡台で自分の姿を見る。
あちこち跳ねた薄紫色の短髪に、服装は白の長袖シャツにポケットがたくさんついた青のダウンベスト。同じくポケットの多い黒ズボンは動きやすさと運べる小物の多さを重視している。顔は弟とは違って勝気でいたずら小僧じみている。
「……そうそう、未来のポケモンマスターこと巡の冒険は今日から始まるんだ!!」
今日から旅を始めるポケモントレーナーとしての日々が本格的に始まることを思い出し鏡の前でガッツポーズ。その様子をフルートを金髪の少年はケースカバーにしまいながら咎める。
「大げさですよ巡兄さま……僕らは確かにポケモントレーナーとして旅をしますが、あくまで一年前の成人の議や習い事のコンクールに出るのと同じ通過儀礼の一つなんですから」
「奏海(かいと)にとっちゃそうかもだけどさー。俺にとってはこれが初めてなんだぜ?」
奏海は巡の双子の弟だ。生まれた時間はほんの十分程度の差らしいが、巡は活発でじっとしているのが苦手なのに対して奏海は落ち着いていて物腰も柔らかい。彼らの家はかなりのお金持ちだ。たくさんの農家に畑を貸して、そこで取れた作物の一部や儲けをもらっている地主というやつらしい。つまるところお坊ちゃんである二人は昔からやれ習い事だのパーティーだのに参加させられてきた。……のだが、巡にその辺りの記憶はない。一年前に弟と一緒に成人した時も親戚総出のパーティーが開かれたらしいが、忘却の彼方なのである。
「そうでしたね……あの時はびっくりしましたよ。成人の儀を終えて一か月後に突然高熱を出して……お医者様が来てすぐに面会謝絶、一週間生死の境を彷徨ってやっとお会いできると思ったら全部の記憶が無くなってたんですから」
「はは、その話もう耳にタコができるくらい聞いたんだぜ?」
巡は記憶喪失だ。約一年前からの記憶がすっぱりと無くなっている。体も心もぐにゃぐにゃに溶けそうなくらいの熱さにずっと苛まれて、目が覚めたら何もかもが初めての世界だった。両親や周囲は大層戸惑い、腫れものを触るように扱われたが弟の奏海だけは自分に対して熱心に巡はどういう人間で自分たちはどういう人生を過ごしたのか教えてくれた。ちょっとルールや生活習慣にうるさいところがあるけれど、巡にとってはかけがえのない弟だ。
「でもさ、旅して強くなってポケモンリーグで優勝出来るくらい強くなれば父さんや母さんだって俺にポケモントレーナーとして生きていいっていうかもしれないだろ?」
「……もしかしたらそんなこともあり得るかもしれませんね」
「奏海、俺には無理だって思ってるだろ」
「そうは言いませんが……でもチャンピオンなんてそうそうなれっこないですよ。兄さまは地主の子として生まれてきたんですから」
「大丈夫大丈夫だって! この半年でもう貰ったポケモンだって進化したんだし、お前にも家のポケモン持ってる人たちにも最近は負けなくなったんだしさ! なっ、クロイトにスワビー!」
巡の上着ポケットの一つには、既にモンスターボールが二つ入っている。中身は空ではなく、既にポケモンがいた。アリゲイツにオオスバメだ。慣例に則れば旅を始める今日ポケモンを貰うのだが、今年からはチャンピオンの提言で旅のルールがかなり変わっている。概ね、旅の簡略化と安全性を重視した変更だったのでその点は非常にありがたいと奏海は思っていた。巡はワニノコとスバメを貰ったのだが一か月前に進化させ、それからはまだ負けていない。この短期間でポケモンを二体も進化させるなんて才能があると褒められていた。
「確かに四葉様のおかげで旅をする半年前からポケモンは頂けましたし僕のポケモン達は進化してませんけど……とにかく、兄さまの旅はあくまで嗜みですしお身体のこともあるんですから、それを忘れないでくださいね」
「一年前とか夢の中のことって覚えてないんだけどさ……ほんとなんなんだろうな」
「さあ……僕にはなんとも」
奏海は目を逸らす。周囲の話によれば巡は時折寝ている間に必死に何かを掴もうと手足を伸ばして呻いていることがあるらしい。起きた時には忘れているがなんとなく胸が焼けるような感覚を覚えることはある。腕利きの医者に何人か見てもらったが原因はまるで不明だった。
「とにかく四葉様が決めたルールを守って、安全な旅を心がけましょう。それが一番です」
「わかったわかった。せっかくだし、楽しまなくっちゃな。可愛い女の子と一緒に旅するのにあんまり強くなることばっかり考えるのもよくないし!」
ルールの変更点の一つとして、今までは同時に複数人が旅に出てもみんなそれぞれ一人で旅をするものだったが今年からは原則三人以上で旅をすること、また旅を監督する経験あるトレーナーがつくことになっている。成人したとはいえまだまだ大人として認められたわけではないので一人旅は危ないとのことだった。その三人目が、ドアをノックした後入ってくる。
「……巡、奏海。入る」
「おはようアキちゃん、今日もカワイイね!」
「明季葉さん、おはようございます。今日からよろしくお願いしますね」
片目が隠れる程度に長い薄緑の髪、小柄な身体に対してゆったりとした青と白のエプロンドレス。指の先まで袖に隠した服装は一見動きづらそうだが彼女は苦にしていないようだった。彼女は巡の褒め言葉……というか口説き文句に対して、平坦な声で答える。
「アキじゃなくて明季葉……。それとこの服は極力肌が直接見えないようになってる。だからその表現は相応しくない」
「違う違う、そう言うことじゃないぜ」
「男の人は露出の多い女性を可愛いと思うと聞きましたが」
「まあまあそれは否定しないけどー。俺が言ってるのはアキちゃんという女の子がここに存在してること自体が可愛いってことだぜ!」
「巡の言うことはよくわからない……後、アキじゃなくて明季葉」
「二人とも、そのやり取り飽きませんか?」
巡が年の近い女の子に対してあだ名で呼ぶ上にやたら褒めるのはいつもの事だしもう諦めているが、明季葉は毎回毎回訂正するので話が長引く。そして巡もあだ名で呼ぶのをやめようとしなかった。下手をすると延々続くこともあるので、奏海から聞く。
「ところで、何か用でもありました?」
「奏海の方が一つ年上なんだから普通に喋っていい……引率のトレーナーさんが、来た」
「えっえっ、こっちに?」
「予定では研究所で待っているはずでしたが……」
今の時刻は十時を回ったところであり、巡達は十二時に研究所へ赴いて引率のトレーナーと対面するはずだった。明季葉はだぼだぼの袖に覆われた自分の腕を伸ばしドアの向こうを示す。
「おじさんとおばさん……すごく驚いてた。まるでゴーストポケモンがいきなり出たみたいに……」
「何か危ないポケモンでも連れてたのかな?」
「引率に選ばれるトレーナーが人を無暗に襲うようなポケモンを連れているとは思えません。どうでしたか?」
この家はチャンピオンである四葉が子供の頃住んでいた家らしく、彼女の両親に昨日はお世話になった。二人とも温厚で、あまり表情が表に出る感じではなかったのでよほど何かあったのだろうかと奏海が明季葉に尋ねる。
「目つきの悪い……多分ヘルガー。でも大人しくしてた。それと後一匹」
「うんうん、後一匹は?」
「飾りつきの蝋燭みたいなポケモンだった……引率トレーナーさんが腕に抱きかかえてる。可愛い」
「蝋燭のようなポケモンですか」
「なあなあ……それってもしかしてこいつ?」
巡がドアの入り口を指さす。奏海と明季葉がそちらを見ると、毒々しくて趣味の悪い色合いのガラス玉がいくつも埋め込まれた白い円柱の体、頭に紫色の炎を灯したポケモンがのそのそとこちらに近づいてくるのが見えた。円柱についている黄色い一つ目が、じろりと明季葉を捕らえるのが巡にはわかった。
「このポケモン……もしかして」
「アキちゃん危ないっ!!」
「……!」
ドアの傍にいた明季葉が急いで飛びのこうとする。だが距離を離すよりも先に、蝋燭のようなポケモンが頭から炎を噴出し明季葉を襲い一瞬で明季葉の体が炎に巻く。明季葉は地面をもがくように転がったが、火が消える様子はない。慌てる巡。
「や、やばいって! 俺、今すぐ水を持ってくる!」
「巡兄さま、それより兄さまのポケモンを!」
「ポケモン……そうか!!」
奏海の指示で巡は腰につけたモンスターボールに目をやる。二つのボールの中にはアリゲイツとオオスバメが入っていた。この状況で出すべきなのはどちらか一瞬考える。
「よし、炎には水タイプだ! アキちゃんを助けてくれクロイト、『水鉄砲』だ!」
「バァア!」
巡にクロイトと名付けられたアリゲイツが大きな口からバケツに汲んだのをぶちまけるように水を放つ。明季葉の体を濡らし、火を消そうとするが――紫色の炎は一向に消える様子はない。
「消えない……!?」
「もしかしてこの炎……『鬼火』でしょうか」
「冷静に言ってる場合じゃないだろ! このままじゃアキちゃんが!」
「いえ、実際の炎ではなく『鬼火』であればひとまず命に別状はありません。このポケモンを倒せば炎は消えるはずです!」
奏海は自分のスーツケースの中からモンスターボールを取り出そうとしているようだが、鍵をかけてしまっていて中々取り出せない。炎に包まれたままの明季葉が、力のない声で言う。
「明季葉は、大丈夫……熱くない、平気……」
「そんな辛そうな声で平気なわけないぜ! 今助けるからちょっとだけ我慢しててくれよ……スワビーも頼んだ!」
巡は残るもう一匹、スワビーと名付けたオオスバメを出す。オオスバメは部屋の天井で旋回し、一気に蝋燭ポケモンを鷲掴みにしようとする。
「クロイト、『噛みつく』で攻撃だ!」
アリゲイツも口を開けたままヒトモシに突っ込む、二体が同時に躍りかかった時、蝋燭ポケモンの炎が揺らめき妖しい光を放った。巡と奏海の目が一瞬眩む。そしてぶつかる音がした。
「やったか……!?」
巡は目を開ける。ヒトモシは倒れていない。それどころか様子がおかしくなったオオスバメがアリゲイツを攻撃している。アリゲイツは蝋燭ポケモンを狙おうとしているが、オオスバメの翼に叩かれて進めない。
「スワビー、どうしたんだ!?」
「巡兄さま、これは『混乱』状態です!」
「状態異常ってやつか……! 戻れスワビー!」
奏海の助言で巡はオオスバメをボールに戻す。仲間に攻撃され、傷ついたアリゲイツが戸惑ったように巡を見た。明季葉の体は炎に包まれたままだし、蝋燭ポケモンはまだ全然ダメージを受けていない。旅立つ前に訪れたピンチに巡も自分まで頭が混乱しそうだった。そんな状況で巡は自分のポケモンに対して、笑ってみせた。
「大丈夫だクロイト、お前の主人はいつも通りクールだぜ?」
「キュバウ!」
「ああ……お前が苦しい時程俺がクールじゃないとお前が困るもんな、俺はポケモントレーナーとしてあるために生まれたんだから」
自分に言い聞かせるような言葉の後、深呼吸。その間に蝋燭ポケモンは炎を吐く力を溜めている。奏海がやっとモンスターボールを取りだし、自分のポケモンを出そうとするが、巡が片手で制する。
「ここは俺に任せてくれ、また混乱状態で同士討ちになっても困るしな」
「しかし……!」
「いいから、兄貴を信じろって。クロイト、炎を受け止めろ!」
蝋燭ポケモンが放つ炎をアリゲイツは反撃せず身を丸めて受けるダメージを減らす。とはいえ何か技を使って防いだわけではないので体は焼け、頭のとさかが少し焦げて黒くなった。更にアリゲイツの周りを炎が渦巻き、行動を邪魔する。
「『炎の渦』……相手を逃げられなくしてさらに継続的にダメージを与え続ける技です。このままじゃ……!」
「いいや、これで準備は整った! いけクロイト、『激流鉄砲』!!」
「キュバアウ!!」
アリゲイツが顎が外れそうなほど口を開き、水を放つ。ただし今度は消防車がホースで出す水のように鋭く勢いのある攻撃だった。追撃の炎を放とうとするヒトモシの体を水が打ち抜き、後ろの壁までふっ飛ばして消火する。アリゲイツの周りや明季葉の体を包んでいた炎が、跡形もなく消え去った。アリゲイツの特性『激流』によりダメージを受けたことで水技の威力を上げたのだ。
「よしよし、よくやったぜクロイト!!」
「キュバア!」
巡はアリゲイツを抱きしめようとする。しかし触れた途端沸かしたヤカンに触ったような熱さに飛びのいた。炎は消えても、まだ熱は残っている。明季葉の方を見ずに巡は言った。
「アキちゃん大丈夫か!? 奏海、すぐに氷か何か冷やせるものを……」
「……アキじゃなくて明季葉。それと巡、心配するならこっちを見て言って」
明季葉の声は、元気がないがよく効けばそこまで痛みに苦しんでいるわけでもなさそうだった。決して少なくない時間炎に焼かれれば痛いどころか喋るのも難しいはず。どちらかというと風邪や熱によって力が入らなくなったときのそれに近かった。様子を確認したいが、巡は明季葉の方を向かない。いや向けない。戦闘中の自信とは裏腹なしどろもどろで言う。
「いやだって……炎で服とか焼けてるだろうし……もしそうだったら悪いなーって……」
「……巡は変態」
「違うぜっ!? ただアキちゃんが恥ずかしくないかなーと思って……」
「杞憂です巡兄さま。明季葉さんを襲った炎は霊的なもののようなので氷枕等は必要ありません」
「ほ……ほんとか? 嘘だったらハリーセン飲ますぜ?」
恐る恐る巡が明季葉の方を見ると、確かに全く服や顔に変化はなかった。奏海が明季葉の腕や頬に触れて痛みませんか?などと確信にしており、明季葉もちゃんと受け答えしている。丈の余ったエプロンドレスには一縷の焦げやほつれもない。ほっとする反面、ほんのちょっとがっかりした感情は頭の隅に追いやることにして奏海に聞く。
「よ、良かったぜ! 霊的な炎ってどういうことなんだ奏海?」
「あの蝋燭のようなポケモンはヒトモシと言いまして、炎タイプの他にゴーストタイプを持っているんです。ゴーストタイプの『鬼火』は物理的に何かを燃やすのではなく生き物の心を燃やしてしまうもので……あまり長い時間受けると生きる気力や希望が無くなって死に至ると言われますが、この程度なら少し横になっていれば問題ないでしょう。明季葉さんはしばらく横になっててください」
「奏海……詳しい」
「奏海はこの旅に備えて色々勉強してたからな。ポケモンの特徴とか技の事とか……今のバトルでも助かったぜ!」
「いえ、結局巡兄さまに助太刀できませんでしたし。それよりも、あのヒトモシは何で僕達を襲ったんでしょうか」
奏海は水にぬれた向こうの壁を見る。まだヒトモシは倒れていた。明季葉の話では引率トレーナーが連れていたとのことだったが何故こんなことをしたのかわからない。するとヒトモシが目を覚ましたのか頭の炎を灯し、むくりと体を起こ……そうとしてガラス玉だらけの身体ではうまく起き上がれずそのままころころと玄関の方に転がっていく。
その体を、頭の炎をものともせず誰かが突然両手で抱え上げた。そのままヒトモシを腕組みして乗せる仕草には荒っぽいがどこか労りがあるように巡には見えた。
「引率の……トレーナーさん」
明季葉が立ち上がって呟く。その人間は20前後の女の人で後ろにはヘルガーを連れている。短く切った髪はところどころ跳ねていて、服装は巡達と違って随分と着古しているのがわかる。穿いているグレーのスニキーは元々そういうデザインなのかところどころ破れていた。トレーナーらしい旅の服装で小さなポケモンを抱きかかえているのに、巡達を見る眼光が全く可愛らしさをイメージさせない。髑髏を抱え使い魔を操る魔女と言った方が似合いそうだった。
「……あんた達が新人のトレーナーよね?」
「お、お姉さんが引率のトレーナーなのか? ひどいじゃないか、いきなりポケモンで襲うなんて!」
特に謝るでもなく聞いてくる女の人に巡は思わず抗議する。大事にならなかったとはいえ、ヒトモシを倒せていなかったらどうなっていたかわからない。女の人はため息を吐く。
「その通りだけど、質問に質問で返さないの。それと、いきなりポケモンに襲われるのが嫌なら今からでも旅をするのはやめた方がいいわ」
「なっ……!?」
「どういうことですか? 旅をするならこれくらい当たり前の事だと?」
「……あの子はこういうことは教えなかったのね」
やれやれと女の人は頭を振った。誰のことを言っているのか巡達にはわからない。それから巡の方を向いて諭すように言う。
「道路で草むらに入れば色んなポケモンが飛び出してくるし、時には餌にしようとしてくることもある。ポケモントレーナーもちょっと目が合っただけでこっちの状態なんてお構いなしでバトルを仕掛けて来るなんて当たり前。強盗や悪の組織が何の前触れもなく襲って来ることだってある。……ポケモントレーナーとして旅をするって言うのは、そういうことよ」
その言葉は決して脅しなどではなく、彼女自身が体験したであろう実感があった。言葉の重みに巡がごくりと息を呑む。反論が出来ない巡の代わりに奏海が手を上げて聞いた。
「でも、今年からは四葉様が旅の安全のためにいろいろルールを整えてくださっています。危険は少ないのでは……」
「……そうね。私もルールに目は通したけど、頭のいいあの子が考えるだけあって大分マシにはなってると思うわ。あなた達が理不尽に犯罪に巻き込まれないように気を遣ってる。……でも、あなた達自身が物見遊山程度の認識しかしてなかったら、何の意味もないわ。さっきのでなんとなくわかったでしょう? 引率のトレーナーであるわたしがいきなり襲い掛かるかもしれない。突然仲間が負傷したり何かの理由で仲間が裏切られるかもしれない。危険なんていくらでもあるわ」
「そんな……」
最後の方は彼女自身思うところがあるのか、言葉はどこか辛そうだった。巡はなんとなく、思ったことを口に出す。
「そっかそっか。じゃあお姉さんって……優しい人なんだね」
「巡兄さま……?」
「だってさ。今の言葉って……要するに、旅は危険なことがいっぱいあるんだって教えるためにやってくれたんだろ? だったら――」
「違うわ」
引率のトレーナーはぴしゃりと否定する。本心から言っているであろうことを察し、巡が戸惑う。
「半年前からポケモンは貰ってたって聞いたから、今のはあんたたちが現時点でどの程度対応力があるか見たかっただけよ。どれくらい面倒見ないといけないのかわからないと仕事上困るし。結局まともに見れたのは一人だけだったけどね」
「そ、そうなのか?」
「奏海……だったかしら。あんたはモンスターボールはすぐ取り出せる場所に持っときなさい。スーツケースの中に閉まってたら野生のポケモンとも戦えないわよ」
「は、はい……」
「……巡、はまあ悪くはなかったわ。ただ、知識は弟に頼るんじゃなくて自分で持ちなさい。いつでも家族が傍にいるわけじゃないんだから」
巡、と名前を呼ぶ時何かためらいがちになった気がした。その理由はわからない。
「明季葉って子は……ポケモンって言うのは見た目とは裏腹に凶暴な奴もいるから、外見で油断しないようにしなさい。ヒトモシが普通の炎で焼いてたら死んでたかもってことを忘れないで」
「……うん、油断した。気を付ける」
「それじゃあ、明季葉が回復したら出発しましょう。……いいわね? 私はあの二人とまだ話すことがあるから」
三人にそれぞれ指摘をした後、引率のトレーナーは踵を返しいまだに慄くように彼女を見るこの家のおじさんとおばさんの方を向く。巡が慌てて待ったをかけた。
「待って待って! ……お姉さんの名前は?」
「……涼香よ。それと、引率のトレーナーといっても私はやりたくてこの仕事をしてるわけじゃないから……自分の身は自分で守れるようにしなさい」
「わかったよ、俺ポケモントレーナーとして強くなって、いつか姉さんより強くなるから!」
「……姉さんはやめてくれないかしら。涼香でいいわよ」
「ええっ、でもそんな年上のお姉さんに向かって親しげすぎるというか距離が近すぎるというかなんというか」
痛みを堪えるような声で言う涼香に、顔を真っ赤にしてゴニョニョのように小さな声で呟く巡。しかし何かを思いついて尋ねる。
「そうだ、じゃあじゃあ、涼姉って呼んでもいいかな?」
「はあ……いいわよ。奏海と明季葉も姉さん以外なら呼び方は自由でいいわ」
「では僕は普通に涼香さんで……」
「涼香、でもいい?」
「ええ。別に敬ってもらうような働きをするつもりもないし……ともかく、これからポケモントレーナーとして旅をするんだから、各自しっかり心の準備をしておきなさい」
巡達に背を向けたまま言い、今度こそ離れていく。その背中を見ながら、巡はポケモントレーナーとして旅をすることについて改めて考え始めた。
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四葉のクローバー
「全く……旅する前からひと悶着起こすとは先が思いやられるな」
ヒトモシとの戦いから約二時間後。巡は荷物を整理した奏海や元気を取り戻した明季葉と共に博士の研究室を訪れていた。目つきの悪い博士がヒトモシと戦った話を聞いて、涼香の方を見て睨む。巡達三人は用意された椅子に座っているが、涼香は壁にもたれて話を聞いている。博士相手だと暴れかねないヘルガーとヒトモシは研究所の外で待機させておいた。
「とにかく、お前達はこれから厳しい旅に出る。引率者がついているとはいえそれが油断していい理由にはならんことはわかっただろう」
「うんうん、すっげーよくわかった!」
巡が元気よく答える。他の二人も抵抗なく頷いているから不服はないのだろう。以下、ポケモン博士として旅のトレーナーへ言葉を送る博士を見ながら、涼香は四葉の両親と話したことを思い出す。
(……おじさんとおばさんは、四葉が自分の意志で私を騙したことを知らない)
四葉が自分に語ったことをそのまま話したわけではない。二人は自分を責めこそしなかったが、かといって罪悪感を抱いたりそれを隠したりする様子はなかった。自分が不正を犯したことについて四葉は何と言っていたかを聞いたが二人は口をそろえてこう言った。
(残念だけど、僕達の関係が終わったわけじゃない……四葉はおじさんとおばさんにそう言った)
チャンピオンになった後すぐに二人に会いに来たそうだからもう一年前のことになる。その時点でやはりこうするつもりだったのだろうか。絶望した自分を拾い上げて、こんな旅をさせてまで自分を追い詰める気だったのか。わからない。ただ、それ以上問い詰める気にはならなかった。四葉は昔から病弱で、幼い頃は調子が悪いと一週間以上寝込むこともあった。それを熱心に看病したのは四葉の両親だったし、もともと都会暮らしだったのを四葉の体を考えて空気の綺麗な田舎に来たと聞いている。そんな人たちに、あなたの娘が私を陥れましたなどと言えようはずがない。代わりに涼香の家族は弟が死んだ後どうしたのか聞いた。弟を殺したのはお前だと両親に勘当された後連絡は取っていないからだ。
(あの子が死んでからしばらくして引っ越した……か。そりゃそうよね、私のせいであの子が死んだ家でなんて暮らしたくないでしょう)
逃げるようにこの町を去っていったためどこへ引っ越すかはとても聞けなかったらしい。恐らくこの町の人間はみんな知らないのだろう。
(チャンピオンになってからは自分が表で勝負することはほとんどなく、チャンピオンとしての権限を使ってこの国のシステムをいろいろ変えている……トレーナーのジム巡りに関するルール変更もその一環、か)
巡達にも聞いてみたが彼女は四葉がどんな人物かまでは知らないらしい。奏海と明季葉は新しいチャンピオンになった時のニュースなどで顔は知っているが、巡は一年前の記憶喪失のため全く知らないと言っていた。システムの変更は博士が三人にめぐるジムの数は涼香や四葉の時代は八つだったのだが今年から四つになったと説明しているのもその一つ。この地方が抱える問題にいくつも着手しているらしいが解決されるにはまだまだ長い年月がかかると彼女は言っていたらしい。涼香はこの一年ニュースなど真面目に見る気にならなかったのでよく知らないのだが他にも色々とやっているらしい。
(四葉は昔からこの国をもっとよくしたいって言ってた……でもあの子には、普通の人間のように仕事に就いて地道に働くことはできない)
四葉の病気はトレーナーとして旅するときも治っていたわけではない。というより一生付きまとう不治の病だ。普通の仕事について毎日働くこと自体が不可能なほど。ならなおさらトレーナーになるなど無謀だと人は思うかもしれないが、彼女にしてみればむしろ途中で具合が悪くなってどこかの街にしばらく停滞しても問題なく、チャンピオンになりさえすれば一気に頂点に立てるリーグチャンピオンこそが唯一の活路だったのだ。旅の初め、まだお互いに支え合って次の街を目指していたころは彼女はよくそう口にしていた。
(私を嵌めたのはもしかしたらあくまでチャンピオンになるため……? あんなことを言ったのは私にどんな形であれ立ち上がってほしかったから……?)
そうであったと彼女が認めたら、自分はどう思うのか。お互い負けたくない事情はあった。なのに卑怯な手段を用いたことは責めるだろう。弟の死は四葉にとっても想定外のはずだ。涼香の自己責任でもある以上、恨む権利はないのかもしれない。
(いや……そうだとしても四葉と私のせいであの子が死んだことに変わりはない。どのみち、真実を聞き出すしかないわ)
そう言い聞かせる。同時に博士の話も終わったようで、助手がプロジェクターを起動し博士がパソコンを操作する。博士はこう言った。
「俺からの話は以上だ。最後に……現チャンピオン、四葉からはなむけの言葉があるらしい。テレビ電話になるが、お前らポケモントレーナーの頂点に立つ人間の言葉だ。聞け」
「四葉様が直々に……」
奏海がぎゅっとフルートの入ったケースを抱きしめる。四葉の名前が出た途端かなり緊張したように見えた。巡と明季葉は驚きつつも様子は変わっていない。博士がマウスを弄り、プロジェクターに映し出されたのは、立派な椅子に座る四葉と、彼女の相棒であるジャローダが椅子を取り巻くように鎮座する姿だった。背を持たれさせながらも両手を膝の上に置いて静かに待っていたようだった。
「体細っ……チャンピオンっていうから俺もっと強そうな女の人かと思ってた」
確かに四葉の外見はとても勝負事が強そうには見えない。白い肌と髪、立派な椅子が余計大きく見えるほど抱きしめたらどこか折れそうなほど細く身体、少しこけた頬は不健康にさえ見える。だが彼女の頭脳は体のハンデなどものともしない強さがあることを涼香は知っている。
「……良かった。無事に始められそうだね」
四葉は三人を見て言う。しかし内容は自分に向けられていると涼香は直感で理解したが、今何か声をかけるのは得策ではない。壁にもたれたまま知らぬふりをした。その胸中すら見透かされているのか、四葉はくすりと笑う。
「まあ、そんなに身構えずに聞いておくれ。僕はこの一年間、君達新人のトレーナーが安全に旅を行えるように色んな調整をしてきた。だから君たちの旅の結果が僕のチャンピオンとしての仕事の成果になると思ってくれていい」
「……責任重大」
「いいや、僕が言いたいのはむしろ逆なんだよ」
「えっ……?」
明季葉の言葉をあっさりと否定する。意外だったのか巡と奏海の肩が少し跳ねた。
「だけどね、それはあくまでこれからのトレーナーに旅を楽しんで、人生の糧にしてほしいからなんだ。僕が与えた権利は遠慮なく使ってくれていいし、いっぱいこの地方を回ってポケモンや人間たちに触れてほしい。それが僕のチャンピオンとしての望みなんだ」
「すっげー! いろいろ難しいこと考える人って聞いてたけど、なんだ四葉さんっていいお姉さんじゃん!」
巡が感動したように言う。本性も知らずに呑気なものね、と涼香は思った。
「まあそれも昔の旅は色々危険が多かったからなんだけど……その辺の話は博士やそこの引率者がさんざんしてくれただろう? だから僕からはおいておくよ」
「ふん……子供には何度言っても足りんくらいだと思うがな」
博士は四葉の言葉に鼻を鳴らす。博士は博士で子供たちを案じて厳しい態度を取っているのでそこを揶揄されるのはいい気分はしないだろう。
「さて、じゃあ僕から君たちへのお約束の言葉を述べようか」
「何か特別なことがあるのですか?」
「そんな大層なものじゃないよ。全ての地方で旅立つトレーナー達に送られてきた慣例のようなものさ……」
奏海の問いに四葉は軽く咳払いをしてから、読み上げるような口調で述べ始めた。それは涼香と四葉が三年前に聞いたものとほぼ同じだった。
「君達は今から始まる旅の主人公となって冒険の旅に出発する。街角、家の中、道路、草むら森の中……色々なところにいる人たちに話しかけて、困っている人がいれば助けてあげてほしい。そうすることで君達は旅をする意味を持つことができる。時には人々が勝負を申し込んできたリ野生のポケモンが立ちふさがることもあるだろう。でもそれらに打ち勝つことで君たちは強くなっていくんだ。だけどね。この旅の目的は強くなることなんかじゃない。旅の中でいろんな人と巡り合って、自分自身を成長させることが、一番大きな目的だと心に刻んでおいておくれよ」
全く澱みのない、物語の語り部のような綺麗な言葉だった。三人の子供たちはポケモントレーナーとして認められる儀式の一つとして、神妙な面持ちで聞いているようだった。
「ふう……かつて自分がかけられた言葉を言う側になると年を取った気になるよ」
「ぬかせ、十八の小娘が」
「十八の小娘にとって三年という年月は長いんだよ。君もそう思うだろう?」
「……!」
四葉の視線が涼香に映る。このまま話しかけずに終わらせてくれることを少し期待したがやはりそんな素直な性格を四葉はしていない。三人も涼香を見て、彼女の意見を待っているようだった。
「……そうね。凄く色んなことがあって……凄く色んなものが無くなったわ」
出来るだけ無感情に言おうとした。でもそうするにはポケモントレーナーとして過ごした時間は映画館で見たポケウッドの大作よりもはるかに濃く、そしてそれを失って過ごす虚しい時間はスロー再生したDVDのように退屈に長かった。子供たちや博士何か言う前にに四葉が拍手をする。
「いい言葉だね。そう、ポケモントレーナーとして旅をするということは何も得る物ばかりではないということだよ。町の人とも別れもあるし、一緒に過ごしたポケモンとの別れも起こりうるだろう。もしかしたら隣にいる誰かがいなくなる可能性だってある。そのことを忘れてはいけないよ」
「涼姉、今の言葉って……」
「……そう言うことよ。あんた達も覚悟しておきなさい」
四葉に都合よく言い換えられるのは気分が良くないが、本心ひいては素性をこの場で話されるのはもっと困る。いずれは話さなければいけないが、今この場で子供たちに知られて自分を引率者として同行することを拒否されたら四葉に真実を聞き出すことは不可能になるだろう。その逡巡を知ってか知らずか、四葉は笑みを深くする。すると椅子の周りで大人しくしたジャローダが突然動き出し、椅子に座る四葉に突然自分の体の一部である蔦を朝顔のように巻き付け始めた。四葉が苦しむ様子がないので締め付けられているわけではないのはわかるが、それでも子供たちが驚いた。
「おっと、もう時間だったね。ありがとうクローバー」
四葉は自分に頭を垂れるジャローダを撫でる。クローバーとは彼女のジャローダのニックネームだ。四葉は自分の信頼する手持ちにはニックネームをつけるタイプである。そして今四葉の体に巻き付けたのは、攻撃やスキンシップではなく、四葉の体を考えての事であると涼香は知っている。
「四葉さん……それは?」
「ああ、吃驚させてしまったね。僕は見ての通り虚弱だから定期的にクローバーに光合成で得たエネルギーを分けてもらってるんだ。美味しい野菜の栄養を貰うようなものだと思ってくれていいよ」
「良かった……てっきり四葉さんって巻き付かれるのが好きな趣味があるのかと思ったぜ」
「巡兄さま、変な想像はおやめください」
「……巡は最低」
「ちょっ、まっ、そういうのじゃないから!」
奏海と明季葉から白い目を向けられて慌てて否定する巡をイワンコ達がじゃれているのを観察するような眼で四葉は見ていた。三人が落ち着くのを待ってから、四葉は蔦が巻き付いたまま口を開く。
「最後に、せっかくクローバーに注目してくれたところで僕個人からはクローバーの花言葉を送ろうかな。君達は知っているかい?」
「クローバーってあの三つとか四つ葉っぱがあるやつですよね……花言葉があるんですか?」
「俺も知らないぜ。アキちゃんは?」
「……明季葉も知らない。後アキじゃなくて明季葉」
クローバーという植物にはいくつもの花言葉があることを昔四葉から聞かされた涼香は知っているが、口には出さない。知らない様子の子供たちに四葉はこう言った。
「『幸運』と『約束』さ。君達はこれから色んなところに行って様々な人に会うだろう。運のいい時も悪いときもあるだろうけどいい人に巡り合えた『幸運』と他人と交わした『約束』は別のところへ行ったとしても決して忘れないんでほしいんだ。ポケモントレーナーをやっていると、別の街にあるものを持ってきてほしいなんて頼まれることもあるしね。人の巡り合いに感謝して約束を守ればきっとそれは君達自身の役に立つはず……僕からはこれで以上だよ」
「おお……やっぱチャンピオンってすげえな!」
「……お言葉、胸に刻みます」
「……じゃあそうするって『約束』する」
話を終えた四葉に子供たちが感銘を受けたように答える。涼香は内心で舌打ちした。四葉の言った花言葉は本当だが、それ以外にも意味がある。そしてそれは自分に対する当てつけのようだった。
(クローバーの花言葉の一つは『復讐』。あの子は、本当に……)
四葉の本心はわからない。何かあるごとに別の可能性を考えてしまう。いつからわからなくなってしまったのだろう。あるいは昔の自分が理解者を気取っていただけだけだったのかもしれない。でも後悔しても改めることも失ったものを取り戻すことも出来ないのだから考えても仕方ないことだった。
「それじゃあ、君達の活躍を祈ってるよ。巡、海奏、明季葉……そして涼香。しっかりサポートは頼んだよ」
「……」
返事をしない涼香に構わずプロジェクターの画面が消える。向こうが通信を切ったのだ。巡が勢いよく椅子から立ち上がる。
「よっしゃあっ!! 四葉さんから色々教えてもらったしじゃあさっそく出発しようぜ! 俺たちの旅の始まりだ!!」
「……そうですね。気を引き締めていきましょう」
「でも楽しむことも大事……そう言ってた」
奏海と明季葉も立ち上がる。それぞれ考え方は違えどかつての自分のようにこれからの旅へ、そしてその先の未来への意気込みがあるのは見て取れた。涼香にはそれが随分眩しく思えてしまう。やりたくてやるわけではないが、本当に自分に彼らを引率できるのか。いずれ素性が割れた時、非難されるのではないかと思うと怖くないと言えば嘘になる。
(それでも……私にはこれしか用意された道はない。四葉が私を意図的に操っているつもりなら……いつかその糸は、焼き尽くす)
「涼姉ー! 行こうぜ、俺たちが道を間違えそうになったら案内してくれよなっ!!」
「っ……!」
巡が涼香の腕を引っ張り一緒に彼らの後ろについて部屋を出る。巡の何気ない言葉に聞き返す。
「……後ろを?」
「うんうんっ、引率のトレーナーって言っても涼姉はガンガン先導する気はないんだろ? 俺達もやっぱり自分の旅は自分で行先を決めたいからさ。涼姉には後ろについててもらうのが一番かなって三人で相談したんだぜ!」
奏海や明季葉が頷く。その言葉に涼香は少しだけ胸のつかえがとれた気がした。後ろに控えて見守る役目なら、そこまで気負わなくてもいい。少なくとも彼らに自分の汚れた背中を見せながら旅をするよりはずっといいはずだ。二時間前巡達に言ったのはこういう効果を期待しての事ではなかったが、それでも彼らは涼香の言ったことを受け止め旅に真剣に向き合っていることが伝わってくる。
「……じゃあそうさせてもらうわ。ただし、それならちゃんと指示した時は聞くのよ」
「イエッサー!」
「巡兄さま、それは女性相手には間違いです」
「奏海、そこはどうでもいい……わかった」
とりとめのない子供たちの会話を後ろで聞きながら、研究所を出てかつて旅した道のりをもう一度歩く。ヘルガーが自分の隣を不機嫌そうに歩き出し、ヒトモシが定位置と言わんばかりに汲んだ涼香の腕にふよふよと乗る。目の前の三人には旅の果てに全てを失った自分とは違う未来へ行って欲しいとほんのわずかに願いながら、涼香は歩き出した。
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千里の旅も記録から
まるで、木から虹が生えているような気がした。キヤリーグの気候はやや冷たいが、それでも今は夏の終わりごろ。他の地方よりも一足先に始まる紅葉は赤だけでなく黄色も多く、無数の木々によるグラデーションが鮮やかに映る。岩が多く勢いの弱い川のせせらぎ、時折聞こえる鳥の鳴き声はこの景色と相まってどんな音楽よりも巡の心を高揚させた。
巡はトレーナーカードの機能の一つであるタウンマップを広げ、自分たちの現在地と次の目的地までの距離を確認する。
「いやいや、ゲームだと町から町へなんて十分くらいで行けちゃうけどやっぱり時間かかるんだな!!」
巡達が旅を始めてから三日が経った。一つ目のジムがあるヴェールズシティはこの地図の右下にある場所で、まだまだ遠い。途中でいくつもの川がある地形だがちゃんと橋はかかっているので移動に問題はない。むしろ川を越えるごとに住むポケモンや景色が変わって旅のはじめとしてはとても楽しめるものだった。巡の感想だ。旅に出るまでの一年間、予習の名目で一つの地方をポケモンと共に旅するゲームをいくつかやってみたが、本物は全然違う。勿論不満はなく、これでこそだと思った。引率トレーナーの涼香は自分たちに壁を作ってあまり話さないようにしている雰囲気こそあるが、ちゃんと進みやすい道や川から出てくるポケモンの危なさを教えてくれるしなんだかんだかっこいいお姉さんだと思う。明季葉は初めて旅をする女の子だし体力的につらくないかなと思っていたけどゆったりしたエプロンに足を取られるでもなくすいすいついて着ていた。むしろ奏海の方が時々疲れて休憩しているくらいだ。
「あとどれくらいで次の町ですかね……」
「大体あと半分……奏海はもう少し鍛えたほうがいい」
「そんな……」
最初見た時はすごく大人しそうだったし実際そうなのだがポケモンバトルや明季葉は結構自分や奏海に対して結構遠慮がない。特に驚いたのは町で見かけた可愛い女の子と巡がいつものように軽くお喋りしていたら腕がチクッとした後体に電撃が走った時のことだ。何事かと思うと明季葉はドライバーのような太い治療針を見せて言った。
――この針にはモココの電撃が仕込んである。女性の引率者がいるとはいえ男の子二人との旅は危ない……いざという時はコレでなんとかしろってパパが。
なお本来の用途は肩こりなどの治療道具らしい。一回使うと充電はなくなるが明季葉は電気タイプのモココを連れており充電のし直しは簡単とのことだった。
(つまり、割と気軽に使えるってことなんだよな……アキちゃんを怒らせるのは出来るだけやめよう)
というわけで面と向かってアキちゃんとは呼ばないようにした。うっかり呼ぶとやはり訂正されてしまうので、まだまだ気を許してはくれないらしい。そんなことを考えていると、大きな木にもたれて腕組みをしている涼香が巡達に言った。
「さてと……今日の夜が最初のレポート提出日だけど、三人とも準備は出来てるかしら?」
「はい、ここまでの大体のことはまとめてあります」
「……涼香が夜見てくれたから、平気」
町の宿に泊まるときは男女別れて巡と奏海、明季葉と涼香で一部屋ずつ取っている。なので明季葉が涼香に教わっているのは不思議ではない。のだが。
「えっえっ? レポートって何の話?」
そもそもレポートとやらが何の事なのか、巡にはわからなかった。涼香の眉間に皺が寄る。
「何って……旅する前に博士が説明してたでしょ。ポケモントレーナーとして旅する者は原則三日、最低でも一週間に一度は博士へレポートを提出して旅をして感じたことや捕まえたポケモン、各地の様子などを報告する義務があるの」
「そ、そんな話してたっけな~?」
「してました」
「……聞いてない巡が悪い」
「はあ……」
涼香に呆れたようにため息をつかれる。確かにワクワクが抑えきれず聞き逃した巡も悪いかもしれないが、それはそれとして。
「というか奏海! それならそうとなんで教えてくれなかったんだよ!!」
「巡兄さま、宿の部屋に入ったらすぐ寝ちゃうじゃないですか……てっきり旅の合間に書いてるものかと思っていました」
「俺にそんな器用なこと出来るわけないだろ!」
「自分が悪いのに弟を責めないの」
涼香が咎めるように強い口調で言う。正論を言われて巡は黙るしかなかった。
「最初のレポートだし、きっちり三人で提出したほうがいいわね。そうね……奏海も疲れてるみたいだし、しばらくここで休憩にしてその間にあんたはレポート出来るだけ書いちゃいなさい」
「助かります……」
「……景色も綺麗だし、明季葉としても嬉しい」
涼香の提案に対し、海奏も明季葉もあっさり頷いてしまい巡はやるしかなくなる。
「えっと、でも普通の紙に書くんだっけ?」
「トレーナーカードを操作して書くんですよ」
巡は自分のトレーナーカードをポケットから取り出す。今時のトレーナーカードというのはカードというよりスマートフォンのようになっていて、規則の確認やトレーナー同士の通話、そしてレポートの作成などいろんなことが出来るようになっている。少し操作してレポートというところをタップすると、白紙のような画面にタッチ式のキーボードが表示された。
「ほら、これで文字を打ち込んでレポートを作るんです」
「へー、なんかハイテクって感じだな」
メールを打つのと大差ないと思えば今更な技術かもしれないが、レポートという言葉の響きは何枚もの紙をまとめた冊子をイメージさせるので少し意外だった。ともあれいきなりレポートを書けと言われても書き方がわからない。涼香の手前、素直に巡は頭を下げる。
「奏海、明季葉ちゃん!頼む、どんな風に書くのか見せてくれ!」
「それはいいんでしょうか……?」
「巡、写すのは良くない」
「写さないって!!書き方参考にするだけなら大丈夫……だよね、涼姉?」
「その辺は自由よ。ただし、見るのはあの博士だからもし写したりしたら、一瞬でばれるわよ」
「……涼姉写したことあるの?」
なんとなく実感が籠っている気がしたので巡が思ったことを聞くと、涼香はしまったという顔をした。ため息を一つつき答える。
「一回だけね。期限ぎりぎりになって、友達に写させてもらったら……」
「もらったら?」
「一か月生活費を抜かれたわ。あの時は……なんとか小さな大会で賞金を貰ったけど原則食べ物は素うどんとか味のない保存食とか。死ぬかと思ったわね」
「うわあ」
「おかげであの子にも……」
「あの子?」
「なんでもないわ。忘れて。そんなことよりさっさとやりなさい」
若いポケモントレーナーには旅の食費や最低限の道具の代金は賄える程度の額が支給されることになっている。そしてレポートの内容如何では減らされることもあるしなんなら抜かれることもあるようだ。涼香の声に苦いものが交り、巡はそれが脅しや冗談ではないと察する。
「……そういうことなら。でも、写しちゃダメですよ」
「わかってるって! 明季葉ちゃんも見せてもらってもいい?」
「涼香が言うなら、いい」
「ありがとう二人とも愛してるぜ!」
奏海と明季葉が自分のトレーナーカードを見せてくれる。ずらりと書かれた文字はすごく真面目な文章で巡にとっては見ているだけで頭が痛くなるモノだった。読み返しても目が滑る。内容が頭に入らない。それでも見せてもらう手前すぐに投げ出すわけにもいかず、自分のトレーナーカードに文字を打ち込んでいく。それでも何か自分で書いている気がしなくて書いては消して。また書いて。そんな悪戦苦闘を奏海や明季葉のアドバイスを受けながら繰り返す。
「奏海は見つけたポケモンの特徴とかがメインで……明季葉ちゃんは町や人の話が多いな」
「時代が進んで図鑑所有者のポケモンの生態調査は形骸化したとはいえ、やはり本分のようなものですから」
「四葉は、人とのふれあいが大事だった言ってたし……涼香も、書きやすいように書くのが一番だって」
そう言われて、自分にとって書きやすい話を思い浮かべる。やはりここ数日で体験したポケモンバトルについて書くのがいいだろうと思い。勝敗の数、そして覚えた技や作戦、相手の強かった攻撃などを書いていった。
……のだが、巡は机に向かって勉強するのがかなり苦手なタイプである。一時間も経たないうちに限界になり、トレーナーカードの電源を切ってしまう。
「あっ! 巡兄さま、まだ最低限の半分も書いてないのにいけません!」
「だー! 疲れた! なんなんだよ最低二千文字って多すぎるだろしかも書き方面倒くさいし!」
「レポートは博士に見てもらうんだから普通に手紙を書くのとは違う……って教わった」
「はい。でもそんなに難しくないですよ。末尾や一部の言葉を畏まった感じにするだけで出来ます」
「普段から丁寧口調のお前に言われても納得できないぜ! ちょっと休憩!」
「……巡。現実逃避しても提出期限は変わらない」
「ちゃんとやらないと旅をする費用がもらえなくなってしまいます。さあ巡兄さま」
明季葉と奏海がじりじりと巡を追い詰めるようににじり寄る。巡は目線を泳がせ、岩の上に立膝で座る涼香を見る。しかし彼女はこっちを見ていないし助けを求めても逆効果だ。その涼香の視線の先を見ると、川の向こう、たくさんの木に隠れた何かの気配を感じた……気がした。
「あっ! 向こうに人影が!」
「こんな水辺にヒトカゲがいるわけありません」
「ホントだって! アキちゃん無言で針出さないで!?」
「……気づくのが遅いわよ」
なおも追及を受ける巡に対し涼香が岩場から飛び降りる。足場も小さな石畳のようになっていて不安定なせいか少しふらついたが、倒れるようなことはなかった。川の向こうへと明確に話しかける。
「さっきから……用があるなら出てきなさい。でないと、こっちから仕掛けるわよ」
「ガルゥ!!」
傍らで野生のコイキングを食べていたヘルガーが涼香の言葉に反応し炎を蓄える。その威力はここらの野生のポケモンなら群れで来ようがまとめて焼き払えるほどだ。木の多い場所で本当に火を放ちはしないだろうがそれでも刺すような威圧感があるのが巡達にもわかるほどだった。
「本当に人がいるんですか!?」
「十五分くらい前ね。……私がいなかったら隙だらけだったわよ」
「そんなに前から!? もしかして、俺たちの荷物を狙ったどろぼうとか……!」
巡がすぐに手持ちのアリゲイツを出して一緒に川の向こうを凝視する。涼香から旅のトレーナーから金品を奪う盗人の話は聞いていたが、実際に遭遇というか、それらしき人と対面するのは初めてだ。思わず唾を飲み、いつでも攻撃できるようにアリゲイツに指示を出す。
「むしろ待ちくたびれたよ。いつになったら全員気付くのかって!」
木々の中から、一点の曇りもない空から刺す太陽のように明るい少年の声がした。そして出てきた者の姿は……異様だった。あまり高くない背丈にさして特徴のない白シャツと黒ズボン。そしてその上の頭部は……とぐろを巻く蛇、あるいはコーンの上のソフトクリームのようにぐるぐると茶色と白の縞模様、そして頂点に真ん丸の目と獣耳が二つ。明らかに人間の顔ではなかった。
「う、うわあああああっ! 化け物!?」
「キメラ!? それともジャバウォックですか!?」
男二人が悲鳴を上げる。それを聞いた目の前の異様な人物は腹を抱えておかしそうにした後喋った。
「あははははっ! キメラってなんだよそこまでビックリしなくてもいいのに。ダチ、降りていいぞ!」
「オオッ!」
包帯をほどくかのようにしゅるしゅると音を立てて頭部のとぐろが解けていく。そこにはちゃんとふつうの人間の顔があった。真っ白な短い髪、小顔だが気が強そうな少年だ。巻き付いていたそれは地面へ着地すると二本の足で立つ。白茶の毛並みにやたら細長い動物の身体。背丈はここにいる人間の誰よりも大きく二メートル近くあるだろう。そんなポケモンが肩に乗って巻き付いていたということだ。奏海が図鑑で照会する。
「どうながポケモンのオオタチ……実際に見ると本当に長いですね」
「歩いてたらなんか大所帯でわいわいやってるのが見えたからーちっと観察してみようかなって思っただけ! どろぼうとか言われたけどそんな気は特にないよ。なーダチ」
「オオッ」
見ていた理由を説明した後、少年はオオタチに屈託のない笑顔を浮かべる。巡はひとまず安心した。
「じゃあよかった……この辺を歩いてるってことは、俺たちと同じポケモントレーナー?」
「同じじゃないよ。俺は旅を始めたばっかりのあんた達よりもずっと先輩! いや、正確にはOBかな? まあどっちでもいいけどー」
「僕達が旅を始めたばかりだと知ってるんですか?」
奏海の質問に、少年が一瞬目を逸らした。その後首を振る。
「知ってたって言うか、俺がじっーと見つめてるのに全然気づかずお喋りしてたら誰でもわかるよ。あ、そういえばお姉さんは例外だったね」
「で? あんたは何か用でもあるの? 一応こっちも暇じゃないんだけど」
「涼姉、俺のレポートが大事なのはわかるけどそんな風に言わなくても……」
涼香が露骨に警戒心を剥きだして聞く。今まで巡が見た限り涼香は人に好意的に振る舞うことはなかった。とはいえ、こうつっけんどんな態度を取ることはなかったので珍しいと思う。しかし少年は怯む様子もなく肩を竦める。
「用も何も! 見かけたトレーナー相手にやることなんて決まってるじゃん。姉ちゃんわかってて言ってるでしょー?」
「……なら、私が相手になるわ」
涼香が巡達を庇うように前に出る。ヘルガーも既に傍らで前足に力を籠め、いつでも飛び掛かる体勢を取っていた。
「姉ちゃんさあ、そんなに構えるなって。俺はただ後輩トレーナーとポケモンバトルがしたいだけ! そっちの巡と奏海と明季葉だっけ? 誰か俺と勝負してみない?」
「名前……知ってるの?」
「会話が聞こえたからね。ついでに自己紹介しとくと俺は千屠! 千円の千に屠殺の屠って字を書くんだ、かっこいいだろ!」
「屠殺って……家畜とかを殺すことですよね」
あまり人の名前につけるには相応しくないと思うしそれをかっこいいと笑顔で言うのも不思議だが、千屠という少年からは一切の嘘を感じない。変わった少年の言動に戸惑っていると、千屠は口先を尖らせる。
「誰も手を上げないなんて遠慮の塊だなー。じゃあ三対一でもいいよ! それでも初心者相手に負ける気しないし。なーダチ」
「オオンッ」
「三対一!? 涼姉、この人って……」
「あれあれー? 見られてるのにも気づかなかった上、引率のお姉さんに聞かなきゃ勝負も出来ないの? 仮にもトレーナーの癖になっさけないなあ」
「オオッ!!」
あからさまな挑発をする少年とオオタチ。巡はむっとして言い返す。
「そんなことない、ポケモンバトルなら一対一でだって受けてやる! なあクロイト!」
アリゲイツも大顎を開いて威嚇する。奏海と明季葉もそれぞれフォッコとモココをボールから出した。
「巡兄さま、僕達も加勢します」
「いい、俺一人で――」
「明らかに安い挑発……相手が三対一でいいって言ってるんだから遠慮はいらない」
「あはっ、やっとその気になってくれた? 一対一でも勝負でもよかったけど、それだと一瞬で終わっちゃいそうだからさー涼香姉ちゃんも文句ないよね?」
「妙なことしたら即座に手を出すわよ」
「しつこいなもう。いるいる、自分が平気で人を裏切るからって疑り深い奴ー」
「……ッ」
涼香が硬直し、辛そうに少年から目を逸らす。何故そうなったのかはわからない。でも、笑顔を浮かべる少年の態度はわざと涼香が傷つくように言っているとしか思えなかった。オオタチが、助走をつけ飛び跳ねると小川を飛び越え巡達の近くまでくる。
「あれー? 気に触っちゃった? そんな風に目を逸らしたって何も変わらないのに」
「おいっ! 今戦いたい相手は俺たちなんだろ! クロイト、『水鉄砲』!」
アリゲイツの口から吐き出された水が千屠に向かう。だが彼の首に巻き付いていたオオタチが前に出て水を受け止めた。ケロッとした顔の後体を震わせて水を弾く。千屠の顔にしぶきが飛んだが巡の言葉も合わせて蛙の面に水だ。
「よし、じゃあやろっか! 言っとくけど、その程度水浴び程度にしかならないから――勝つ気があるなら、もうちょっとはマシな攻撃をしてみてよね! 俺の大太刀は、強いよ!」
「涼姉にいきなりあんなこと言うお前には負けたくない! 奏海、明季葉ちゃん!」
アリゲイツ、フォッコ、モココが千屠のオオタチと対峙する。抜き打ちの勝負が、始まった。
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抜き打ち勝負!
「クロイト、『怖い顔』!」
「モココ、『電磁波』」
突然出てきた巡や涼香を挑発する少年、千屠との戦い。アリゲイツは顔を一旦手で隠すと、向かってくるオオタチに対して牙を剥きだしにした表情で威嚇する。オオタチはそれを見て長い体を蛇のように丸めた。その隙に明季葉の指示により電気がオオタチを痺れさせる。
(自分より強いやつと戦う時はまず弱らせる!)
この三日間で涼香から教わった戦術を実践する。ゲームとは違い、実際の旅ではたまたま出くわしたトレーナーが自分たちよりもかなり格上であることも珍しくない。まして巡は旅を始めたばかりだからなおさらそうだ。
「フォッコ、『ニトロチャージ』!」
奏海の指示でフォッコが体に炎を纏い、オオタチに体当たりを見舞った後すぐに退く。水で濡れていたこともありダメージはほとんどないが、海奏の狙いはそこではない。
「へー、なかなかいい動きするじゃん? オオタチのスピードを徹底的に下げて自分はスピードアップ。効果的だと思うよ」
「……続けて、『綿胞子』」
千屠が愉快そうに語る間にもモココが自分の綿毛を飛ばして電撃付きの綿がオオタチに絡み、動けなくする。オオタチはとぐろを巻いて蛇のような姿勢のまま固まった。
「三対一なんて大見得切った割に大したことないぜ! クロイト、『噛みつく』だ!」
「ダァッ!!」
好機と判断したアリゲイツが大顎を開いたままオオタチに噛みつきにかかる。千屠は肩を竦めた。
「わかってないなあ。大見得なんか切ってないよ。この程度の妨害なんて、俺の大太刀は斬り裂ける」
「オオッ!」
牙に加え、炎と電撃が一斉に飛んでくる。オオタチは動かない。だがアリゲイツがオオタチの間合いに入った瞬間。鎌鼬のような、鋭い一陣の風が吹いた。
「──『居合斬り』」
千屠が一言紡いだのが耳に聞こえるのと、とぐろを巻いていたはずのオオタチが一瞬にして立ち上がりアリゲイツが吹き飛ばされるのを見るのとどちらが早かったか。それくらい、一瞬の出来事だった。
「クロイト、大丈夫か!?」
「ダァ……」
巡が駆け寄るとアリゲイツの上の牙が綺麗に二十四本斬られていた。更に腹に叩きつけた後が一つ。戦闘不能を感じ取り、巡はボールに戻す。余りの早業に、海奏や明季葉も戸惑っていた。
「あれ、もう終わり? 泥棒するつもりはないけど、バトルに勝ったら当然三人からお金は貰うよ?トレーナーの戦いってそういうもんだし」
「まだ俺のポケモンは残ってる! 行くぞスワビー!」
巡はボールからオオスバメを出す。しかしあれだけ素早さを下げたのに一瞬の早業がアリゲイツを戦闘不能にした。どうすれば勝ちの目があるのか、必死に考える。
「考えるのは自由だけど、俺は待たないからねー! ダチ、モココに『電光石火』!」
オオタチがまっすぐ突っ込んでモココに自分の頭をぶつける。そこまで力を入れていないように見えるのに、モココの体がゴロゴロと転がって倒れた。
「続けてフォッコだけど、あれは今日のご飯じゃないからなーダチ?」
「オオ?」
「とぼけてもだめ。普通に倒せって」
「……オオッ」
「う、うわっ……逃げてフォッコ!」
軽いやり取りの後、オオタチがフォッコに飛び掛かる。ニトロチャージで上がったスピードで逃げ回るが、まるでごっこ遊びのように簡単に先回りし、わざとオオタチはフォッコの前で体を立てて威嚇する。フォッコは捕食者の視線にその場でへたり込んでしまった。持っていた小枝を落とし、耳が萎れる。奏海が戦意喪失したフォッコをボールに戻して氷に覆われた鼠ポケモン、サンドを出す。明季葉もフクスローを出した。
「あっという間に一体ずつ……まだやるー?」
「あ、当たり前だろっ」
「といっても見た感じ今出してるやつも大してレベルは変わんないでしょ? 勝ち目がないなら素直に諦めるのも優しさだと思うけど。なーダチ」
「オオンッ」
オオタチは再びとぐろを巻いて待ちの姿勢を取る。間合いに入れば再度、居合斬りが体を捕らえるだろうことは想像に難くない。
「……勝ち目ならあるぜ。気になるか?」
「ま、気にならないと言えば嘘になるね」
千屠は伸びをしながら答える。巡達に勝ち目があるとは全く思っていないのは明白だった。だからこそ、巡は何とかしたい。涼香に昔何があったかは知らないけれど、それを平気で嘲笑う奴には負けたくなかった。だから、無茶苦茶かもしれなくても巡は言う。
「ならちょっと待ってろ! 今から三人で作戦を考えるからなっ!」
人の声やポケモンの技による音が数秒消えて、小川のせせらぎだけが空間を支配した。千屠は目を丸くした後、初めて少し困ったような表情になった。
「え、今から? 俺さっき待たないって言ったよね?」
「なんだよ、怖いのか? オオタチには自信があってもトレーナーとして俺たちの作戦を迎え撃つ度胸がないなんてそれこそ情けないぜ!」
「はあ? んなわけないねー。……いいよ、三分間待ってやる! ただし、その後ちょっと本気出すから覚悟しろよマジで!」
千屠の白い顔に、わかりやすく青筋がたった。自分でも子供っぽい挑発だとは思ったが、千屠の挑発も同レベルなので乗ってくると思ったのだ。
「よし! 奏海、明季葉ちゃん、三人で何とか乗り切ろう!」
「ええっ……でも、あんなに強いオオタチ相手に今の僕達じゃ勝ち目なんて……」
「別に負けてもお金を渡すだけ……ここは大人しく降参したほうが」
「でも、このまま負けたら涼姉は言われっぱなしじゃないか! それは嫌だろ?」
奏海は困惑したままだったが、明季葉はハッとして顔を上げる。
「うん……涼香、苦しそう」
「で、でも具体的にどうやれば勝つ方法があるんですか?」
「それを今から考えるんだ!」
対岸の千屠はあくびをしながら突っ立っている。そこへ涼香が話しかけた。
「さっきから……私達のことに随分詳しいのね。十五分そこらあの子たちの会話を聞こえたくらいでわかる範囲じゃないことまで知ってるみたいだけど」
「涼姉?」
表情は辛そうで、頬には汗をかいているのが見えた。涼香はこちらにちらりと視線を向けた後頷く。それで巡は意図を察した。
(そうか……だったらやるしかないぜ)
川を挟んで話しているといってもそこまで距離は離れていない。ここで声を潜めて作戦会議をしても、千屠には聞こえる可能性もある。だから涼香は意識を逸らしにいったのだ。
それを小声で二人に伝え、作戦を立てる。三分間は、異常に早く過ぎ去った。
「時間だ! 答えを聞こう!」
「ああ、目にもの見せてやるぜ!」
千屠は右手の人差し指と親指を立ててピストルのようにして、軽い態度で聞く。オオタチと、明季葉のフクスローが向かい合った。
「あれ? フクスローだけ?」
「話し合って分かった……フクスロー一匹で十分。『葉っぱカッター』」
「へえ! だったらどこまで凌げるか見せてくれよ。『居合斬り』!」
とぐろを巻いた態勢から体を伸ばす勢いを使った居合が葉っぱを全て切り裂く。そしてまっすぐ伸ばした体で『電光石火』を繰り出してフクスローを狙う。だが、その体を捕らえられずすり抜けた。フクスローの『影分身』だ。
「フクスローは飛ばした葉っぱを曲げられる……飛ばした方向を錯覚するくらい造作もない。『葉っぱカッター』!」
オオタチの背後から数枚の葉っぱが飛んでくる。反転して逃げる前に体を薄く裂いた。
「ダチ、『電光石火』!」
「オオンッ!」
再びまっすぐ伸ばした体での突進をするが、やはり当てられない。そして動きが終わったタイミングで再び木の葉が飛んでくる。周りの木々に隠れて撃っているのだろう、フクスローの能力も合わさり発射場所が絞れない。
「なるほど、他の二匹は隠れられなさそうだしね、だったらフクスロー一匹に託したほうがいいって戦法か」
「あなたは技で素早さが下がっても関係ないって様に見せたけど実際には綿胞子や電磁波は効いてるはず……違う?」
「ふーん、そこに気付くとはね……でも、まさか俺のダチが電光石火と居合切りしか使えないなんて思ってねえよな? ダチ、『吠えろ』!」
「まずい、耳を塞ぎなさい!」
オオタチが思い切り息を吸い込む。それだけで回りの木々がざわざわと揺れた。巡達三人が涼香の指示に従い咄嗟に耳を塞ぐ。
「鼓膜を切り裂け、『ハイパーボイス』!」
ジェット機が飛び立つような轟音が空間を支配する。巡達は涼香の指示で平気だが木々に隠れて撃つ機会をうかがっていたフクスローは驚いて木から落ちてしまった。
「フクスローってさあ、不意を突かれるとしばらく使い物にならないんだろ? やれダチ!」
「スワビー、『電光石火』ッ!」
「うおっ!?」
「オオッ!?」
半ば錯乱状態のフクスローを仕留めようとしたオオタチに、川の上流から飛んできたオオスバメが思いっきり体当たりして川に叩き込む。勢いをつけたスピードにさすがの千屠も驚いたようだった。
「ぎりぎりセーフ! お待たせアキちゃん!」
「だから、明季葉……でも、悪くないタイミング」
「スワビー、続けて『エアカッター』!」
二メートル近くあるオオタチは川の底に足をつけ悠々と身体を半分以上出す。だがそこへ空気の刃が浅く裂き仰け反った。
「このっ……! そんなちまちました攻撃、何発やったって無駄だってわかんないかなあ? ダチ、『とぐろを巻く』!」
「オオッ」
オオタチが川の中に体を沈みこませる。水中であの蛇の構えを取っているのだろう。
「新人さんに教えてあげるよ。『とぐろを巻く』はただの構えじゃなくて立派な技。あの体勢で攻撃から守り、さらに体を伸ばす勢いを使うことでスピードと攻撃力を上げる珍しい技さ。次にダチが水面から出てきた時、オオスバメがどこにいようが切り裂く!」
「だけど、水中で地上と同じようには動けないんじゃないか?」
「舐めんなよ、ダチ、軽く『波乗り』をかましてやれ!」
ざぶん、と小川がうねり、小波が地面に倒れたフクスローに覆いかぶさろうとする。咄嗟に明季葉が庇ったことで飲み込まれはしなかったが、そうしなければ川の中に引きずり込まれたかもしれない。
「というわけで、俺のダチは水辺であろうと問題なく戦えるのでしたー! むしろ水中に隠れればエアカッターなんか届かないし、残念無念また来週ー!」
「……それは違うぜ」
「は?」
千屠が首をかしげる。今波乗りを起こしたのは間違いない事実だしオオタチの体は水に隠れているのに何を言っているのかと。しかしその時、川の上流から大岩でも転がってくるような音がどんどん近づいてくるのが聞こえた。そして、川の水位が少しずつ下がっていく。川底でとぐろを巻いていたオオタチの体が見えていく。
「おかしいと思わないか? いくらオオタチが俺たちより大きくたって、橋が架かってるほどの川なのに立ち上がっただけであんなに体が出るなんて」
「ははっ、そんなの川が思ったより浅かったってだけでしょ? そういうハッタリでダチを川から引きずりだそうったって、そうはいかねー」
果たして、上流の木を何本かなぎ倒して出てきたのはゴロゴロと転がってくる巨大な氷の球だった。半径二メートル以上の球体となって、水底のオオタチへと突っ込んでくる!
「だったら俺のスワビーが上流までサンドを運んで、川の水を凍らせて自分の体に纏って作って超特大の『アイスボール』! 斬れるもんなら斬ってみろ!」
これが巡達三人で建てた作戦。今の巡達の攻撃ではまともなダメージにならない。時間はかかるがなんとか最大威力の『アイスボール』を叩きこめれば勝機はあるかもしれないが、時間になるまで向こうがサンドを放っておくわけもない。そこで一旦オオスバメが全力で上流まで移動してサンドを下ろし、川そのものをレールにして丸くなったサンドをがオオタチを襲うように川へ突き落したのだ。
「へえ……ちょっとはやるじゃん! 一瞬だけ本気が出せそうだよ、なあダチ!」
「オオオオンッ!」
だが、千屠とオオタチは巨大な氷球に恐怖していない。むしろ楽しそうに迎える。その表情に、涼香は何を感じたのだろう、思わず咄嗟に、という勢いでヘルガーに指示を出した。
「ヘルガー、あの氷に『火炎放射』!」
「えっ!?」
「……ガッ」
奏海が驚いて涼香を見る。しかしヘルガーは知らん顔をした。涼香が歯噛みして千屠を見る。
「さあ真打の大太刀、見せてあげるよ! 『アイアンテール』!」
とぐろを巻いた態勢から、氷球の中央の高さまで飛び跳ねる。その勢いのまま、尻尾を鋼のように鋭く、硬く、研ぎ澄まされた日本刀のように降りぬかれ――川の水で作った氷が、バラバラに砕け散った。真ん中のサンドが川の中へ落ちて、もがくのを奏海が慌ててボールに戻した。涼香がため息をつく。
「嘘だろっ!?」
「ひえええっ……!」
オオタチはくるりと宙返りをして着地し、氷を砕いた尻尾を見せつけるように振った。千屠はけらけらと愉快そうに笑う。
「あら、壊れちゃったか……でもなかなか面白かったよ! これで終わり? それともまだ何かある?」
「そこまでよ」
巡が何か言う前に、再び涼香が前に出て。ヘルガーも傍らに出て、口の中に炎を燃やしている。
「涼姉、勝負はまだついてないぜ!」
「このまま続ければまずあんたのポケモンが死ぬわ。それでもいいなら、止めない」
「し、死ぬ!?」
三人がぎょっとする。ポケモンバトルでは油断をすれば手持ちを死なせてしまうことがあると言われたことはある。でも今のはもっと断定的だった。
「いっけね。ちょっとテンション上がり過ぎちゃったや」
「テ、テンションって!」
「よし、今日はここまでにしとくか! なあダチー」
「オオッ」
千屠は授業を終えた後の先生のようにさっぱりと言う。それは涼香の言うことについて否定する気がないことと、言い訳するつもりもないことの証明だった。
「千屠は、あのまま続けてたら……巡のポケモンを殺してた?」
「てゆっか、さっき中身のサンドごと斬ろうとしたんだけどね! 川の氷を急ピッチで固めたせいか脆かったから斬る前に壊れたけど。ラッキーだったね♪」
「なんでそんな簡単に言えるんだよ! バトル相手のポケモンを殺すなんて──」
「それの何が悪いの?」
川に挟まれていなければ走って相手につかみかからんばかりの巡に、千屠が真剣な表情で言う。
「もし俺のオオタチが無抵抗にアイスボールに轢かれてたら、普通に死んでたよ? 自分は相手を殺すほどの攻撃をしたのに自分たちは殺されたくないっていうのは、甘ったれすぎだろ」
「……!!」
「極論ね。そんな心構えでバトルをしてる人なんて少ないわ。でも……戦う相手に殺気があるのかどうか、どういうつもりで戦ってるのかは見極められないとポケモンどころか、自分が死ぬ。これは事実よ」
ポケモントレーナーもちょっと目が合っただけでこっちの状態なんてお構いなしでバトルを仕掛けて来るなんて当たり前。強盗や悪の組織が何の前触れもなく襲って来ることだってある。涼香と初めて会ったときに言われた言葉が実感を伴って襲ってくる。
「ふーん、俺を責めるでもなくやんわりというんだね……随分優しいお姉さんだこと。言われっぱなし、らしいけど悔しくないの?」
千屠がにやにやしながら聞く。その表情はやはり巡にとっては気に入らないものだったが、涼香は頷く。
「言い返す意味なんてないわ。事実だから」
「えー何それつまんなーい! せっかく楽しいバトルだったのに興が冷めちゃうよー」
「知らないわよ、そんなこと」
「でもさ、そんな中途半端な態度じゃ横のヘルガーは不服なんじゃないの? なあダチ」
「……わかってる」
「オオッ?」
オオタチは意味が分からなかったのか首をかしげる。そしてそれは巡も同じだった。でも二人は教えてくれる様子はない。
「じゃ、そっちはウェールズに行くんだよね。俺はフェローに行くから、一旦お別れってことで! そっちの新人さんたちも、文句はないよね。引率のお姉ちゃんが決めたことなんだから!」
「巡、認めるしかない」
「わかったよ……でも、次は負けない! 絶対だからな!」
千屠は一瞬ぽかんとした後、やはり雲一つない空の日差しみたいな笑顔で言った。
「いいよ、次は負けないなんて言ってられる余裕がいつまであるかは知らないけどねー」
言い返したいことは山ほどあったが拳でズボンの裾をぎゅっと握りしめて我慢する。奏海と明季葉が心配そうに巡を見つめる。この勝負に何より負けたくなかったのは巡だし、一方的に勝負を切られたあげく平然と手持ちを殺す気だったと言われて彼が平気なわけがないからだ。
「そりゃ悔しいしこいつにぎゃふんと言わせてやりたかったけどさ。涼姉がやめろって言ってるのに俺だけ怒ってても仕方ないだろ?」
「そう、ですか」
「……ちょっと見直した」
「ははっ、すっげーいい子ちゃんの回答だね。なら次を楽しみにしてるよ。……君達とはまた戦うはずだから」
「えっ」
「こっちの話ー! んじゃいくぞダチ!」
「オオンッ!!」
千屠は走って橋を渡り、オオタチと共に走って去っていった。後には、巡達が残される。
「涼姉……ごめん、勝てなかった」
「謝ることないわ。さっきも言ったけど、本当のことだから」
「涼香は……昔、何があったの?」
明季葉の問いは、責めるつもりのない純粋なものだった。涼香に対する『平気で人を裏切る』という言葉が気になるのは巡も一緒だ。涼香は少し俯いたまま言う。
「今は言えないわ。私にもよくわからない。ただ、私には被害者面する権利はないのよ」
「……よくわからない」
「わからなくていいわ。その方が、ずっといい」
「でもさ、今はってことはいつか話してくれるんだろ?」
かもね、と涼香は答える。何か涼香には後ろめたいことがあるのだろう。つまり千屠のあの言葉は全くの嘘ではないということだ。
「けどけど、あいつは嘘つきだぜ! だって涼姉が平気で人を裏切れるならあんな辛そうな顔するわけないもんな!」
「確かに……」
それは間違いないはずだ。千屠の言葉に多少なりとも傷ついた以上、平気だったとは思えない。
「……言うわね。でも、そんな風におだてたってレポートの提出期限は変わらないわよ」
「ちょ、そんなんじゃないって!」
「大丈夫、今のバトルで思ったことを書けばなんとかなる……」
「その手があったか! 愛してるぜ明季葉ちゃん!」
明季葉が無言で電気針を出し、威嚇するので巡が慌ててトレーナーカードを出してレポートを書き始める。涼香がそれを見て再び周りの警戒に戻るのを、海奏は会話に関わることなく黙考していた。
「千屠のお姉様が、四葉様……?」
千屠が巡達の横を通り抜けた時と、奏海の呟きは、他の三人に聞こえることはなかった。
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レポート提出
キヤリーグ地方の片隅にある研究所。人間とのコミュニケーションがポケモンに及ぼす影響についての研究が行われる場所であり、この地方におけるトレーナー達の情報を管理する場所でもある。
そこの主任である博士・水仙は日付が変わり今日の研究を終えて他の研究員を帰らせた後、用途によって分けられたメールボックスのうちの一つを開く。すると彼の想像通り、三通のメールが届いているとの通知があった。豆を直に焙煎して挽くコーヒー機のスイッチを入れ、匂いたつ香りを感じながら鼻で笑う。
「ふん、説明も聞いていなかったから初回から出し遅れるかと思ったがな」
巡のことである。旅が始める興奮に酔って自分の話をちゃんと聞いていなかった頭の悪そうな少年もなんとか今日の日付が変わるまでに提出はしたようだ。今年の旅は一人ではなく三人の上引率までいるのだから、誰かしらが指摘したのだろう。奏海、明季葉、巡の順にレポートが提出されている。博士は三つのメールを開き、今年のトレーナー最初のレポートを見ることにした。
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────
差出人:奏海
表題:川の有無によるポケモンの生態変化
序論
場所によって存在するポケモンの種類が違い、水辺が多いところには水タイプが多いのは常識です。
しかし、水タイプが多い地域では水タイプ以外のポケモンの生態はどうなるのでしょう。
大きな海ならともかく、小川や池程度では水タイプに強い草タイプや電気タイプのポケモンが押し寄せて餌食になり、逆に全滅したりはしないのでしょうか?
旅に出るまでの準備期間でおおよそどの地域にどんなポケモンがいるかは知識として知っていますので、それをもとに旅の中で実際のポケモンに触れ、観測と検証を行っていくつもりです。
本論
まず、研究所からフェロータウンまでの間、川のない地域で主に出会ったポケモンの系列を書きます。
・サンド(地面)
・ナックラー
・ミネズミ
・ニドラン(♂♀)
・スナバァ
・コラッタ
道路は草もそれなりに茂っていましたが砂地も多かったです。その為に地面タイプが多く、水タイプや草タイプには弱いポケモンが多いようでした。キヤリーグの気候は寒くなりやすいのと乾燥していて、地面タイプが全体的に多いそうです。サンドが地面と氷、両種が生息するのもこの地方の特徴だそうです。
そして、フェロータウンを出た後、川のある地域で新しく出会ったポケモンはこちらになります。
・ヤドン
・コイキング
・ハスボー
・パラス
・クルミル
・ピカチュウ
・ポッポ
たくさんの川によって進む道は森の中となり、やはり水タイプと草タイプが増えました。しかし、草タイプのポケモンが水タイプのポケモンを襲う光景は見られませんでした。
そもそも草タイプは他のポケモンを食べることはなく、光合成によってエネルギーを得ており、ハスボーが日の当たる水面に一カ所に集まったりしていてヤドンやコイキングには見向きもしていないようでした。パラスやクルマユの食べ物は落ち葉や木のエキスなどで、やはり水辺には近寄る意志すらなさそうでした。時折餌場を争って攻撃しあっているのを見かけましたが、負けたほうはすごすごと去って行くのみで思ったより平和だったのが印象的です。
ピカチュウもどちらかと言えば木の実を電気で焼いて食べていることが多く、水辺に電気を流して狩りをするようなことはしないようです。また、そのように水タイプのポケモンを襲うものがいないからこそ、ハスボーやヤドンといった動きが遅くのんびりとしたポケモンが生活できていると感じました。
調べたかったことは意外と簡単に解決してしまいましたが、調査の過程でポケモンの生態に関して興味深かったことについて記します。
クルミルの進化系であるハハコモリは、自分の子供やちいさいポケモンの為に葉っぱを使って衣服を作るということは文献を読んで知っていました。しかし、自分たちとは関係のないポケモンの為に服を作って何の得があるのかが疑問でした。その答えが、この森にあったのです。
森の中を歩いていると、ハハコモリが自分の巣の前でまだ小さいピチュー達に服を作ってあげているのが見えました。
しばらく観察していると、空からピジョンの鳴き声がしました。クルミルは葉っぱのフードで身を隠し、ハハコモリが自分の子供を守るために庇いますが、草であり虫タイプのクルミル系にとっては飛行タイプは天敵です。今にも飛び掛かろうとするピジョンをはらはらしながら見ていると、駆け付けたピカチュウが電撃を放ちピジョンを追い払ったのです。
そのピカチュウは、ピチュー達のお母さんの様でした。作ってもらった服をピチューが見せて、ピカチュウがハハコモリにお辞儀をし、ハハコモリもクルミルを守ってもらったことにお辞儀をしたようでした。
前述の通りキヤリーグの気候は寒くなりやすいのでまだ電気を上手く使えないピチュー達にとってはありがたいのでしょう。それでハハコモリは服を作ってあげることで、代わりに天敵の飛行タイプから自分やクルミルを守ってもらう。一種の共生関係がそこにはありました。
時折ミネズミやニドランのまだ小さいのもハハコモリの作ったであろう服を着ているのが散見されたのでそれらの種ともなんらかの協力関係を得ているのだろうと思いました。これは僕の推論ですが、ミネズミ系には鳥ポケモンに対する監視を頼んでおり、毒タイプのニドラン系には自分たちを襲わないことを見返りにやっているのではないかと考えます。
結論
タイプ相性の有利不利が必ずしも食物連鎖に結び付くわけではないこと、またその上で相性の不利を埋めるためにポケモン達は協力し合って生きることも多いものだと学びました。ピカチュウとハハコモリ、一見全く関係がないように思える種の共生が見られたことに少なからず感動しています。
以上、川辺のポケモンの生態を観察した結果のまとめになります。残暑去り難く厳しき折柄、何卒お身体おいといください。
差出人:明季葉
タイトル:初回レポート
水仙博士へ。元気ですか。朝夕はずいぶん涼しくなりました。最初のレポートなので上手く書けなかったらごめんなさい。
巡はうるさいし名前覚えてくれないし軽薄だし、海奏は頼りないし、引率のトレーナーは怖いし燃やされるかと思ったのでとても不安でした。あの時ヒトモシの炎を受けた時は、熱くはないけど明季葉の心が燃やされてしまったみたいに、男の子と旅をするのも引率のお姉さんも私を送り出したパパとおばあちゃんの事も何もかも怖くなって、落ち着くまでは死んでしまいたくなるような気分でした。
3日経っても巡達は変わらないけど、チャンピオンの言葉でいろんな人と話したり、歩いたてポケモンと触れ合って、少しこの旅に向き合え始めた気がします。このレポートも、書き方のわからない明季葉に涼香さんが色々教えてくれました。涼香さんは自分もレポートを書くのが下手だって博士にずっと怒られてたから参考にならないって言ってたけど、それでも質問には答えてくれました。
旅の話をします。
研究所を出た後、まず共同生活の時のルールを決めました。
・野生のポケモンと戦う時は1人が戦って残りの3人が周囲を警戒。進化系の強いポケモンが出てきたら3人いっぺんに戦って、涼香さんが見張りをします。
・ご飯は交代制で作ることになっていますが、巡と奏海は台所に立ったことがほとんどないらしいのでほとんど明季葉が作っていますしこれからもそうなりそうです。今のご時世男性でも料理の経験くらいしておくべきだと思います。なので涼香さんが作るときは2人も手伝わされています。
旅だと家のように食材を用意できないので、メンバーの好みを踏まえつつ栄養バランスを考える必要があります。明季葉は好き嫌いはないのですが、巡はかなり嫌いなものが多いし奏海も苦手な食べ物はある様です。涼香さんはないと言っていましたが麻婆茄子を作った時はいつもよりも渋い顔をしていたので茄子が嫌いなのかもしれません。今度からやめておきます。
・野宿の際は10時間を休みを取って、5時間は涼香さんが見張りをしてくれると言っています。残りの5時間は奏海と巡で交代でやるそうです。まだ旅慣れない女子が一人で見張りは危ないのと、ご飯を作っている分休みなさいとの事です。まだ1回しか野宿をしたことはありませんが、少し申し訳ないような気がします。
なのでその代わり、明季葉が夜の間に服の繕いをすることにしました。涼香さんが起きている5時間のうち1時間を使っています。裁縫は昔から教わっていて得意。移動中に枝に引っ掛けたりしてほつれたりしたところを直せる範囲で直します。巡と奏海は軽装なのにエプロンドレスの明季葉よりボロボロなのでもっと無駄のない動きをしてほしいところです。
涼香さんが一人で旅をしていた時は、適当なミネズミやオタチを捕まえて夜の見張りにさせていたそうです。また、居合切りや岩砕きなどの技を使わせることで道を切り開くことも多かったと聞きました。明季葉にそれが出来たかと言われると自信はないので尊敬します。
・町についた時は、決めた時間にポケモンセンターに集合することを条件に自由行動となりました。それぞれ興味のあるものも違うし、町の中なら危険は少ないので羽目を外さないように、だそうです。
この三日間でついたのはフェロータウンなので、そこでの散策結果を書きます。新しい町や人に触れるのも旅の大事な要素だと言われたので。
フェロータウンはモノづくりの盛んな町でした。工場と工場が併設されていたり、黙々と煙が昇る煙突があったりしました。ただ新技術の開発ではなく、一般流通しているものを大量生産したりするのがメインだと工員や作業員さんが教えてくれました。電気タイプのポケモンが多かったのでフクスローで応戦すると、華麗な戦いをするお嬢さんだと褒めてもらえたのが嬉しかったです。ただフクスローは毛が静電気で逆立って苛々してしまったのであまり長くはいられなかったのが残念です。モココと一緒にいるのは慣れたのに不思議です。
レストランや洋服屋は、全国規模で展開しているようなチェーン店がほとんどでした。また、居住区も団地やマンションアパートが多く、なんだか建物のおもちゃをたくさん並べたような町だって思ってしまいました。失礼かもしれませんが。
……後、涼香は自由行動を告げた後ポケモンセンターに集まるまでずっと町の外に行っていたと言っていました。あまりこの町にいたくなさそうに見えたのは明季葉の気のせいでしょうか。でも、いたくないなら明季葉たちにさっさとこの町を通過するよう言うことも出来たはずです。わかりません。
纏めますと、旅は思っていたよりは楽しく、周りの人もいい人です。でも、これから辛いこともたくさんあるだろうこともわかる出来事もありました。それでも、将来振り返ったときに良い旅だったと思えるような。そんな旅を、巡達としていきたいです。
もっと書きたいことはあるけど、涼香さんが最初からたくさん書くと後々色々求められて面倒だと教わったのでこの辺にしておきます。残暑去り難く厳しき折柄、何卒お身体おいといください。
差出人:巡
タイトル:初回レポート、俺たちのポケモンについて!
水仙博士へ。元気ですか。朝夕はずいぶん涼しくなりました。さやわかな季節を迎え、皆様ご清祥にお過ごしのこととお喜び申し上げます!レポートっていうと、俺がどんな風に旅をしたかを書いていけばいいんだよな。
てことぜ、涼姉に教わったこととか俺の思いついた作戦を書いてくぜ!レポートってあんまりいろんなことを書きすぎるとダメで、テーマを絞ったほうがなんかそれっぽくなるんだよな!
まず自分たちよりレベルが低い相手との勝負。これは無暗に威力の高い技を使わず、体当たりとか水鉄砲とか、怪我が残らないような技を使うべし! 力の差があるのにクロイトが噛みつくとか使ったら相手が大怪我するし、最悪死んじゃう可能性もあるから、無暗な殺生は倫理的な問題だけじゃなくて自分たちが怨みを買うこともあるからやめておきなさい……って涼姉が言ってたぜ!クール!!
同じレベルの相手と戦う時は自分でどうすればいいか考えろって言われたから俺の考えた戦法を書くぜ!俺の手持ちはアリゲイツのクロイトとオオスバメのスワビー。クロイトは結構腕白で、よく奏海のフォッコをおどかして遊んでるんだけど。それでバトルでも相手を睨みつけたり怖い顔で脅したりして相手をビビらせてから大顎で噛みつく戦法を思いついたぜ!
自分で気づいたんだけど、怖い顔をしてからあいてに噛みつくと相手が動けなくなることが多くなるんだ!涼姉によると噛みつく攻撃には相手を怯ませる(状態異常の亜種っぽい)効果があってそれは相手のスピードが遅いほど発動しやすいから、怖い顔でスピードを下げてから使うとコンボ攻撃になるんだってさ。そんな戦法に自力で気づくなんて、俺ってすごいトレーナーになれるんじゃねえかな。奏海は相変わらず兄さまは家を継いでくださいってうるさいけど……それは俺もわかってるからいいや。奏海に夢があるのも知ってるしな。
話が逸れたけど、次はスワビー。こいつは素直ですげーのみ込みが早くて、ほんとはもっと進化するのに時間がかかるらしいんだけどクロイトと同じくらいの時に進化したんだ。とにかく動きが早くて電光石火で一気に突っ込んだり翼で相手を切る燕返しが得意技なんだぜ!ホントは電光石火が相手に突っ込んでそのまま燕返しで斬れたりしたらいいんだけど、それをやるのはスワビーもしんどいみたいだ。人間だって全力疾走の直後にキックとかパンチしろって言われても難しいもんな。
で、自分より強い相手と戦う時なんだけどさ!今日すっげー嫌な奴にあったんだ! 千屠っていう俺と同じくらいの年のやつで、じっーと隠れてこっちを見てたと思ったら気づかれるの待ってたみたいで……ポケモンバトルするのはいいけど、なんか涼姉に突っかかるし。あの時、涼姉がすっごく辛そうな顔してた。理由はまだ説明できないって言ってたけど……なんにせよ、出会い頭にわざと相手の嫌がるようなこと言うなんてロクな奴じゃないぜ!
……でも、そいつポケモンバトルはすっげー強かった。俺たちのポケモン6匹がかりで戦ったけどほとんどみんな一撃でやられて、しかもあいつかなり手加減してた。この地方じゃ野生にはいないオオタチっていうポケモンを使って、長い体を蛇みたいに巻いた態勢から一気に居合切りをしたり突進したり。普通水タイプじゃないと使えない波乗りまでやってきたんだ。
でも俺はあんな奴に負けたくなかったら作戦タイムを取って何とか勝つ方法を考えたんだ。奏海のサンドはアイスボールが得意技だから、それを使って川の上流から転がして、川の水を氷にして纏えばすごいでっかい氷の球になるからそれを使えばいくら強くてもひとたまりもないはずだって思った。
だけどあいつはアイアンテールっていう強力な技(奏海によると鋼タイプの技の中でトップクラスらしい)で氷の球をぶっ壊したんだ。今までもポケモンバトルに負けたことは何回かあるけど、あんなに悔しかったし勝てないと思ったの初めてだった。
涼姉が止めに入って、千屠の奴も素直に退いた。でもあいつはアイアンテールを使った時サンドを斬り殺すつもりだったって言ったんだ。それが当たり前みたいに……。怒ったらあいつは俺たちのアイスボールだって喰らったら死ぬ可能性があるんだから文句を言う権利はないって。涼姉も極論だとは言ったけど間違ってるとは言わなかった。ポケモンバトルは命の危険がある……だからこそ相手を必要以上に傷つけない配慮が必要だって教わったけど、逆に殺すことが当たり前だって思ってるやつもいるし、相手が死んでも何とも思わないやつだっている。それが痛いほどわかった。
ポケモンバトルってテレビとかゲームだと楽しそうだし実際楽しいんだけど、すっごく難しいんだな……って思った。それと、次は千屠をコテンパンにやっつけてやりたい。その為にも、旅をしてもっと強くなりたい。
第一ジムまではまだ結構かかるから、旅をしながら作戦とかもっと考えたりクロイトたちと特訓するぜ。レポートってこんな感じでいいんだよな?
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────
三人分読み終えるのに、五分もかからなかった。要点と、書いた人間の気持ちさえ知れればそれでいい。ポケモントレーナーの中で研究者を志すのはごく一部の人間だけだし、ましてや最初のレポートに出来栄えなど求めていない。敬語で文章を整えることすらしていない巡は勿論、残る二人もレポートというより作文の類である。
「……まあ、赤点というほどではないか」
そうした考えを前提としたうえで、水仙博士は呟く。三者三様、レポートというものに対していい加減にやっているわけではないことは伺えたからだ。自分の考えを偽りなく書いていることは経験から読み取れる。気合を入れすぎてやたらめったら書くこともしていない。その辺は引率者が入れ知恵したようだ。
「あいつが人に何かを教えることなど想像もできなかったがな」
涼香はレポートに対してかなり適当な方だった。基本的に一週間に一度のぎりぎりに出し、内容もひたすらあったことをごっちゃに埋めるだけの見るに堪えないものがほとんどだった。一方四葉は提出頻度こそ低かったがそれは病気のせいであったし、体の調子がいいときは一万文字程度で助手の修士や知り合いの博士が唸るほどのレポートを出してくることもあった。子供をそう簡単に褒めない水仙博士でさえ、旅が終わったら研究者になるのを勧めたことがあるほどだ。
「四葉が王者となったことでこの地方は安定し始めた。涼香もこの旅で新しいトレーナーと触れ合うことでこれからの人生を見つめ直せるかもしれん。だが、これでよかったのか……?」
涼香がチャンピオンの地位に求めたのは弟を治す金と技術だ。チャンピオンといえどやりたい放題ではないのだが、可能な限りの権力を使って弟の病気を治そうとしただろう。それよりは王者として国をよくすることを望んだ四葉がチャンピオンになったのは大多数の人間にとっては喜ばしいことなのは違いない。
そんなことを考えながら博士はレポートの添削を始める。字脱字の指摘及びレポートとして相応しくない部分をメールで返信することで将来必要な文章力や情報伝達能力をつけさせるのもトレーナーを管理する者の役目だ。だが、部屋に響いたインターホンの音によって中断された。博士は怪訝な顔をする。
今日の研究は終わりもう日付もとうに変わった。研究者が用事など考えにくい。博士が一瞬答えに迷う間にも、更にインターホンの音がする。
「……お前はどこの誰だ?」
夜には研究所全体にセキリュティがかかっていて関係者以外は入れないようになっているし、研究員の中にこんな若い少年はいない。その不吉さにも冷静を保ちつつ、ボタンを一つ押し問いかけた。
「もしもーし!四葉姉の弟で匹の千に屠殺の屠と書いて千屠でーす!この地方を巡るにあたって、ポケモンを頂きに来ましたー!!」
研ぎ澄まされて光を反射するむき出しの刃のように明るい声。ピンポンピンポンピンポンと品性のかけらもない呼び出し音。そして博士が答える前に──ドアは、真っ二つになった。
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鉄壁の特攻隊長
レポートを提出してから三日後。ようやく次の街に着くと、二日間休息をとると巡達に命じた。理由は二つ。奏海と明季葉、元気そうにしてはいるが巡も疲れが溜まっているからだ。この町はジムやポケモンバトルに関する施設は最低限しかないのだが、三人とも旅慣れないのだから仕方がない。
もう一つは、巡達が提出したレポートに対する返信が博士からないことだった。博士は涼香が旅をしていた時から勤勉で優秀な人だ。自身の研究も忙しい身ながら、『ガキのレポートなど見るのに時間などかからん』と提出した翌日には誤字の指摘やレポートしての改善点などと一緒に返信が送られてくるのが常だった。それが、今になっても来ていない。
「ガアッ!!」
ヘルガーが吼え、野生のポケモンを蹂躙して焼き払う。虫や草ポケモンの体に炎が燃え移り、のたうつさまを雨に打たれながら見つめる涼香の表情は、ひどく昏い。
「もしぃ……?」
「ええ。やりなさい」
腕組みをして抱えられるヒトモシの炎が燃え上がり、ヘルガーの炎と交じり合う。ヘルガーに焼かれたポケモン達の怨みが焚き上がるのをヒトモシが吸い込んだ。焼けた草村の中で横たわったロゼリアとスボミーを見て心が燻るのを感じる。一年の間、自分が弟を殺したという感情を薄くしたような罪悪感だ。
(チャンピオンになるため、ずっとこうしてきたじゃない……何を今更……)
強いトレーナーになり賞金を得て、最終的にはチャンピオンになるために努力を惜しまなかった。今こうしてヘルガーやヒトモシを鍛えるためとはいえ野生のポケモンをまとめて焼き払うような真似をしているのも、昔は自分と弟のためにと何の抵抗もなくやっていたことだった。
「ガアアアアアッ……」
「……わかってるわ」
ヘルガーが涼香を睨む。前足で地面をトントン叩き、早く次へ移動しろと促す。口の中にはまだまだ炎が灯っている。幸いにして、このヘルガーは相当に強い。だからこそ胸の骨のような模様が美しく育ち、それを密猟者に刈り取られたのだろう。野生のポケモンに苦戦する様子は全くない。
涼香がヘルガーに合わせて歩こうとしたとき、体がぐらついた。ヒトモシを抱えたままの体勢では受け身を取ることも出来ず、ぬかるんだ地面に倒れる。
「もしぃ!」
「つっ……」
地面と涼香に板挟みにされたヒトモシがじたばたする。涼香もひとまず体だけでも起こしたが、立ちあがる力が出なかった。
(目的地はずっと先なのに、情けないったら……)
一年間。涼香が弟を死なせたと思い屍のように生きた時間は短いものではなく、旅をして鍛えられた肉体が衰えるのは余りある時間だった。慣れない引率をしながらの長距離移動。消耗がひどくて当然なのだ。イラついたヘルガーがヒトモシを牙でくわえ、宙に放り投げて自らの背に載せる。ヒトモシは涼香を見て炎を揺らめかせたものの、ヘルガーと共に次の草むらを焼きに行った。ヘルガーとヒトモシは涼香の忠実な僕でなければ信頼する仲間でもない。誰かの手によって理不尽に傷つけられた怨みを果たすために行動を共にしているだけだ。
涼香は無理に立ち上がろうとせず、立膝で少し体を休める。しとしとと降る雨はうっとおしく、余計体力が奪われる。
(もう少し滞在期間を伸ばして私も一旦休む……? でも、巡は早くジムリーダーに元へ行きたがっていたし……)
そう考えてはっとする。巡の気持ちなんてどうでもいいはずだ。引率者として最低限の仕事をすることで旅を続け、四葉に真実を聞き出すことが目的。それが死なせてしまった弟の為の――
(……あの子の、為?)
本当に、そうだろうか。パンドラの箱を知らず知らずのうちに開こうとする涼香を止めたのは、トレーナーカードの電話機能による着信音だった。緩慢な動作で呼び出し人を見る。奏海からだ。
「……何?」
「大変です涼香さん!町に暴走族がやってきました!」
「暴走族……」
「たくさんのバイクが町にやってきて、引率のトレーナーを呼んで来いって……!しかもバトルまで仕掛けてきてて、すぐに戻ってきていただけると助かります!」
「……わかったわ。巡に無茶しないように、明季葉はきっちり周りを警戒するように言っておいて。場所は?」
「は、はい!!ポケモンセンター近くの公園にいます、お待ちしています!」
通話を切る。舌打ちを一つした後、涼香は頭を抱えた。その暴走族とやらに心当たりがあるからだ。
「ヘルガー!!」
呼びかけると彼はゆっくりを首だけで振り向く。掛けられた言葉の覇気を察してか、生成した毒息を唾のように吐き捨てラッタを瀕死にする。ヒトモシがその魂を燃やした後、自分の元へ戻ってきた。
「……体力は十分ね。多分あんたに戦ってもらうことになるわ」
町の方向へ踵を返す涼香とヘルガー。幸いにしてポケモンセンターはそう遠くはない。濡れて目にかかりそうになる髪を払いながら、涼香は走った。重たい体で必死に体を動かしていると、余計なことを考えなくていい。
ポケモンセンター傍の公園は、ポケモンバトルが出来るように十分なスペースが取られている。涼香がそこに足を踏み入れる前に、ポケモンバトルの音や巡の声が聞こえてきた。暴走族らしき男達の出すポケモン相手に戦っているようだった。彼は巡達を取り囲むようにバイクでぐるぐると周りを走り、逃げられないようにしている。
「ミルホッグ、『頭突き』だ!」
「スワビー、『燕返し』!」
地面に降りて待ち構えるオオスバメに突撃する相手を翼で一閃。切り裂くというより叩いて弾く攻撃で相手をいなす。
「隙だらけだぜ、『エアカッター』!」
「スバッ!!」
そのままオオスバメが飛び上がり、その空気の流れも刃に変えて仰け反ったミルホッグを吹き飛ばし戦闘不能にする。着地し、再び巡達を庇うように待ち構える姿勢を取った。
「クッ、なかなか強いぜこのガキ……」
「ガキって言うな!さあ、まだやるって言うなら相手になるぜ!」
「なら次は俺だ、行くぜゴローン!」
別の暴走族が繰り出したポケモン、巡は即座にオオスバメを入れ替え、命じることもなく放たれた水鉄砲がゴローンを打ち抜いた。転がろうとしたところへの先制の一撃。
「こ、こいつ命令もなしに……」
「飛行タイプを見て岩を出してきた相手にゃ即水技!さあ、次来いよ!」
「いい判断だが、甘いぜ!ゴローン、『自爆』だ!」
ゴローンの特性は『頑丈』。一撃では戦闘不能にならない効果を以て弱点の水技を受けても再び転がって前進し、アリゲイツを巻き込んで爆発しようとする。
「させません!サンド、『鉄壁』です!」
だが、その間に奏海のサンドが割って入り氷の盾を作る。爆発の衝撃で盾は砕け散ったがサンドとアリゲイツに大した傷はない。巡が奏海にハイタッチする。奏海ははにかんで小さく上げた手でそれに応えた。
「さっすが博識な俺の弟!」
「もうすぐ引率のトレーナーさんもやってきます……まだ、やりますか?」
「これで六人抜き、涼姉に頼るまでもないぜ!」
「……明季葉も、四人倒した」
隣で戦っていた明季葉も、フクスローによる変幻自在の葉っぱカッターでノズパスを倒したようだった。そのタイミングで、声をかけることにする
「……待たせたわね。昔纏めてコテンパンにした暴走族どもが今更何の用かしら」
暴走族というのはどの地域にもラッタやズバットのようにいるもので、涼香達のいるキヤリーグも例外ではない。涼香が昔旅をしていた時にとある目的でまとめて倒したのだが、やはりと言うか巡達と戦っているのはその時と同じ連中だった。涼香が来たことで巡達を取り囲んでいたバイクたちが一旦止まる。
「何が今更だざっけんなコラァ!!」
「てめえがしてくれたことこちとら一日たりとも忘れたこたぁねえんだぞ!!」
「俺たちのプライドをずたずたしやがった怨みここで晴らしてやろうか!!」
そして飛んでくるのは、喧々囂々とした罵声。
「怨み……?涼香の、知り合い?」
「知り合いなんてもんじゃねえ!」
「こいつ二年前、俺達をボコるついでに隊長のバイクのかっぱらっていきやがったんだ!」
「ここであったが百年目!!きっちり因縁を果たしに来たってわけだ!!」
「涼姉、こいつらの言うことって……」
「嘘よ」
涼香は断言する。別に盗んだわけではない。いくら相手が暴走族だろうと窃盗は犯罪であり、そんなことをすればチャンピオンになる資格を失う。
「正々堂々ポケモンバトルを申し込んで、私が勝ったらバイクを一台貰う。負けたらあんた達のチームに入ってあげる……そういう約束だったでしょ?」
ポケモントレーナーの本分は自分の足で各地を回り旅をすることだ。だから飛行機や新幹線などの交通機関は一部を除き使ってはいけないルールになっている。渡される資金で買える足もせいぜい自転車だ。しかしその手間を減らしたかった涼香は、暴走族に殴り込みをかけてバイクを堂々と要求したのだ。負けたらどうするつもりだったんだと博士に散々怒られたのも、とうに過去の話。正直奏海の電話があるまで忘れかけていた。
「人の揚げ足取っていい気になってんじゃねえよ、ボケがッ!!」
「俺たちゃそういう話をしてるんじゃねえ!!」
「てめえがポケモンリーグで――」
ドードリオのように口々に喚く男たちに奏海は怯えて涙目になっている。明季葉も露骨に不快そうな顔をした。巡が何か言おうとしたが、止めたのは暴走族たちの中で一番大きなバイクにまたがる男だった。
「その辺にしておくべきだな。『弱いイワンコほどよく吠える』の教訓を忘れるべきではないんだよ」
赤と白のギザギザ模様を中心に彩られた、めでたさよりも、血や平和を象る国旗のような模様のバイク。それに座る青年の一言で、ガラの悪い面子の言葉がぴたりと止まる。
「す、すまねえ隊長……昔の事だからついかっとなっちまった……」
「フン……それにしても暴走族、か。涼香、お前には『オコリザルは経験に学び、ヤレユータンは歴史に学ぶ』という格言を教えてやろう」
よくわからない文言と共に、刈り上げた黒髪と同色の瞳をした精悍な顔たちの青年が涼香を睨みつける。涼香も啖呵を切るように睨み返した。
「相変わらず意味わかんない。結局何なのよ?」
「お前も相変わらずせっかちだと言いたいところだが、やはり『百回リザードンとサイホーンの声を聴き比べるヒマがあったら一度見てみるべき』だというところか。見る影もない」
「……私もこの子達も疲れてるから冷やかしなら帰ってくれないかしら?」
「は? 燃え尽きてとっくに冷え切ったお前をわざわざ冷やかしに来るわけがない。『火炎放射に懲りて凍える風を吹く』ほど俺は馬鹿じゃない」
「涼姉、なんなのこいつ……」
わけのわからない言葉を放つ男に巡が困惑する。キヤリーグというか世界のどこにもそんな諺はない。涼香が嘆息した後声を張り上げる。
「ああもううっとおしいわね!さっさと答えないとまたまとめて焼き払うわよ!」
「ガアアアッ!!」
ヘルガーも痺れを切らして炎を吹き出す。容赦なくリーダー格の男に吹き付け、立ったままのシルエットが紅い炎に包まれた。巡達がいきなりの攻撃にどよめく。
「……過去しか見えてない馬鹿がいくら喚こうが時代は進んでる。今の俺は──暴走族『暮威慈畏暗喪亡徒』の総長が正義の力を纏いキヤリーグポケモン連盟四天王が一柱、『鉄壁の特攻隊長』の異名へとランクアップしたの最強の男!玄輝(ゲンコウ)だ!!」
シルエットが、腕をぶん回して炎を吹き散らす。青年を守るように立ちはだっていたのは紅く染まった二息歩行の狼のようなポケモン、ルガルガンだ。だが炎を防いだこと以上に、言葉の内容が驚きだった。
「……あんたが、四天王?」
「昨年就任した四天王はバイクを駆り各地を警邏する仕事に就いていると聞いたことがありますが……この人が……?」
「そこの金髪はわかっているようだな。お前が腑抜けている間にも俺たちは進化したんだよ。俺は四天王、舎弟のこいつらも今じゃ俺直属の警備隊……暴走族などと言う過去はとうに過ぎ去ってしまったというわけだ」
「自慢なら、腹立つから帰ってくれないかしら」
腸が煮えるのを感じながら涼香は言う。下っ端連中と話すと話が進みにくく、隊長である玄輝と話すともっとややこしくなるのでバイクを貰う際もバトルより話をこぎつけるまでが面倒だった。
「お前が二年前の『ストライクの斧』のままだったなら俺たちは何も言わないしむしろ誇りだったが……あの『エテボースの悪だくみ』の一件で俺達は一気に恥知らずな罪人に負けた惨めな賊扱い!チームは解散寸前に追い込まれて、町の中どころか道を走ることすら出来なくなっていた……例えチャンピオンが許しても、俺はお前の罪を絶対に許すべきではない!!」
「……!!」
突き付けられた宣言は、煮えた臓腑を一気に凍り付かせる。涼香が犯した、バイクを持っていったのとは違う絶対に逃れられない罪。頭の中でわかっていても、被害者から直接突き付けられたのは、ポケモントレーナーとして今まで戦ってきた相手への冒涜と面汚し。
(そう……わかってた……傷ついたのは、私とあの子だけじゃないって……)
自分を応援してくれた人も敵として戦ってきた人への裏切りでもあるからこそ、涼香は一年前ポケモントレーナーとしての関りからも逃げて独りでいた。そのことに自分が傷ついて被害者面する権利なんてない。表情を無理やり保ちながら涼香は答える。
「やっぱりもっと前に来るべきだったわ。その時なら気のすむようにさせてあげてもよかった……でも悪いけど、今はやらなきゃいけないことがあるの。あんたたちの恨みに付き合ってられない」
「むしろお前はそうあるべきなのにそうじゃなかったからこの瞬間まで待ってたんだよ……さあ、もう一度俺と決闘しろ!お前が勝てば一人分と言わずお前ら全員のスクーターくらいはくれてやる。ただし負けたら、今度こそ正式な手続きに則って裁きを受けてもらう!それで俺達は汚点に決着をつける!!」
「……それでいいわ。巡、奏海、明季葉。手は出さないで。これは私の問題だから……あなたたちは付き合わせられない」
ルガルガンとヘルガーがにらみ合う。異様な剣幕、事情の分からない話を前に戸惑っていた巡が抗議する。
「涼姉が何か言いたくないことはあるのはわかるけど……でも、流石にこんな勝負見過ごせっこない!」
「巡、言うことを聞きなさい」
「いやだ!一緒に戦う!!」
頑なな巡。冷静に説得する心の余裕がなく、ヒトモシに目くばせして心を燃やす炎で無理にでも大人しくさせようと思った時――静電気の鋭い音と共に、巡の体が項垂れた。奏海が慌てる。明季葉が電気針を巡に差し、スタンガンのように電撃を浴びせたのだ。
「あ、明季葉さん……!?」
「明季葉は、涼香の事信じる。だから……勝って、その後ちゃんと説明してほしい。お願い……」
「……わかったわ」
細かいことを考える余裕はない。とにかくこの勝負を勝たなければ、真実を掴むことが出来なくなる。奏海と明季葉が巡を引きずって下がる。
「俺は別に四人まとめてでもよかったが……まあいい、決着をつけてやる」
「言い訳はしない……ただ、今はまだ燃え尽きるわけにはいかないのよ!『火炎放射』!!」
ヘルガーの炎とルガルガンの拳がぶつかり合う。避けられない戦いが、始まる。
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怨嗟に燃える怪物
拳が炎と正面からぶつかり分散させる。これでヘルガーが二発の炎を浴びせたが紅いルガルガンは体を揺らした自然体の構えのままだ。炎技の通りにくい岩タイプである事もダメージが少ない一因であるが、やはり守りに優れているが故だろう。
「もう一度『火炎放射』よ!」
「拳で弾け、ルガルガン!」
三度目も、同じく拳が炎を散らす。紅いルガルガンは至近距離でのカウンターに優れたポケモン。故に一撃のダメージは少なくとも、涼香は遠距離から炎を浴びせ続ける。
「『サイホーンの一つ覚え』とはこのこと……『噴き上げる岩塊――ストーンエッジ』だ!」
「下がりなさいヘルガー!」
四度目の炎で、ようやく玄輝が動きを見せる。わざわざ振り仮名を読み上げるように本来の技名を高らかに叫ぶ。するとルガルガンの咆哮と共にヘルガーの足元の地面が隆起し始めるのを感じ、ヘルガーが横に飛び跳ねてそれを避ける。まるで間欠泉のように穴が開き、湯ではなく岩が噴出した。
「だが上から落ちてくるのも避けられるか?まさに……」
「そういうのは一言で『杞憂』っていうのよ!」
上空の岩はヘルガーと涼香自身にも落ちてくる。涼香は身をかがめ当たりそうなものを転がって躱した。ヘルガーはあっさり後ろへ引いて岩の範囲外へ逃げている。
「ヘルガー、来てるわよ!」
「受けてみろ『破砕の一閃――ブレイククロー』をな!!」
岩に気を取られた隙にルガルガンが接近し、尖った爪をヘルガーに叩きこもうとする。涼香の指示ですんでのところで躱した。だがその奮った腕は落ちてきた岩の一つを狙い、爪で弾いた岩がヘルガーの顔を打つ。下からの噴き上げ、上から落ちる岩に注意を向けさせての接近。拳を避けられても岩を砕いて目つぶしにする怒涛の連撃。
「出た!リーダーの岩石ラッシュだ!」
「そのままやっちまえ!!」
「お前の罪をここで断ち切ってやる……『雷の牙──ギガトンファング』!!」
視界を封じたヘルガーの脇腹に電流を纏った噛みつきをしようとするルガルガン。涼香は焦ることなく一言命じる。
「『炎の渦』」
「ガアアアッ!!」
ヘルガーの口から自身を中心とした紅蓮の螺旋が起こり、ルガルガンを退かせる。炎が消えた時、己の体を焦がしながらもヘルガーは回復した視界で敵を睨みつけていた。
「ほう……敢えて自らを炎に閉じ込めたことで焼かれながらも相手の攻撃を封じたか。これは正に『こらえて起死回生』というところだな」
「今日のリーダーはいつにもましてキレてるぜ……」
「当然だろ、あの激闘を潜り抜けたリーダーが負けるわけねえ……」
ヘルガーの攻撃を弾き、こちらから痛手を負わせたことで暴走族たちが勢いづく。
「涼香よ……俺が四天王に選ばれたのは『ラッキーパンチ』ではない。それにふさわしい理由が――」
「どうでもいい!『火炎放射』!」
「ふん、『守る』だ!」
直線的な炎を、ルガルガンは両手をクロスして守りの体勢に入る。炎のダメージはやはりない。
「お前の不正が発覚した後、俺達は他のチームやごろつきどもに狙われる日々を過ごした……普通なら『イトマルの子を散らすように』逃げるのが当然だろうが──」
「聞いてない。『スモッグ』!」
口から毒息を吹き付けてルガルガンを退かせる。一気に飛びのいたが肌の硬さに反した柔軟な動きで着地し、ダメージらしいものは与えられていない。だが玄輝の表情が渋くなる。
「人の話を聞く気はないのか?」
「……興味ないから」
胸が痛まないと言えば嘘になる。自分の過ちが傷つけたのは家族だけではない。目の前の暴走族以外にも自分のせいで苦しんだ人はいるはずだ。それでも今は立ち止まらないために、余計なことに構っていられない。
「ちっ、随分と腑抜けたな。俺たちに興味がないというのなら容易く蹂躙するくらいしてみせろ。単調な攻撃しか出来ないお前たちはまるで『はりきるだけのデリバード』だ」
「……あんたこそ、躱せばいい攻撃でも受け止める癖は変わってないのね」
「必要ないな。お前の炎など俺のルガルガンにはドライヤー程度なんだよ」
「それはどうかしら?」
「何?」
炎を受けきったはずのルガルガンが、膝をつく。理由は毒だ。ヘルガーの炎には毒素が混じっている。それを『スモッグ』が活性化させルガルガンの内部に浸透し、猛毒とまではいかないものの確実に体を蝕み始める。
「火傷ではなく毒を使うとはな。だがどのみち手は打ってあるんだよ。ラムの実を食えルガルガン!」
「ラムの実……!?」
ルガルガンが隠し持っていた木の実を齧る。木の実はポケモンに持たせておくとトレーナーが渡さなくてもある程度自発的に使うことができるというのは常識だが、ラムの実というのはそこらで売っているものではない。状態異常をすべて治すという強力な効果を持つだけあって、栽培にも手間がかかりこの地方では一般流通していないのだ。
「そのお高い道具が四天王になったあんたの自信ってわけ?暴走族も今じゃ立派な飼い犬みたいね」
「……ふん、そんなわけがない。待ってたんだよ、この瞬間をな!!ルガルガン、『ロッククライム』!」
「『火炎放射』よ!」
ルガルガンの突進に対しヘルガーが炎を放つ。だがルガルガンは先ほど使った『ストーンエッジ』の岩に身を隠してやり過ごす。岩という障害物に阻まれているのを逆に利用して近づき、炎を吐き終わったヘルガーの真下へもぐりこむ。
「これがお前に負けた後無限の修羅場を潜り抜け圧倒的進化を遂げた俺達の一撃……『起死回生』だ!」
「ルガアアアン!!」
ルガルガンの拳が真っ赤に燃えて、顎を思い切り捕らえた渾身のアッパーを放つ。ヘルガーの体が宙を舞い、受け身も取れず地面に倒れた。それを見て、玄輝はルガルガンに回復の薬を容器の口を開けて渡す。ラッパ飲みをしたルガルガンの体力が完全回復した。
「相手の攻撃をギリギリまで受けきり放つ起死回生の一手はまさに守りに優れたルガルガンだからこそ会得できる最強の技。敢えて一旦毒受けてやったのも計算通りなんだよ。まさにお前は『まな板の上のコイキング』というわけだ」
「ッ……」
「ヘルガー自体はなかなか鍛えられているが、あんな単調な命令しか出さんということはすなわちお前とヘルガーの間に絆がない証拠。故にそのヘルガーにお前のために立ち上がる力はない……今のお前は正に『風前のヒトモシ』。引率など任せるわけにはいかないし旅など認められないな。神妙にお縄につくがいい」
図星だった。ポケモントレーナーが手持ちに高度な戦略を覚えさせるためには相応の信頼が必要だ。ボールに入れられているポケモンでさえ、信頼できない相手から複雑な命令をされて聞きたがりはしない。真実を知る旅に出たものの、どこか煮え切らない涼香の心の迷いをヘルガーは見抜いており、苛立っていたのは間違いない。
「……まだよ」
「『ねごとはねむるを使ってから言え』。もしかして胸に抱えたヒトモシで俺のルガルガンに勝てる気ではないだろうな? そんな未進化ポケモンを大事そうに抱えて何のつもりか知らんがな」
ヒトモシの直接的な戦闘力は低い。その辺の野生相手ならともかく実力のあるトレーナー相手では勝負にならない。だが。
「……ヒトモシ。喰らいなさい」
「もしぃ……」
「一緒にいるって約束したでしょう。あなたが裏切った相手を探すためにも」
「……もし」
ヒトモシの胡乱げな瞳が見開かれ、頭の炎が激しく燃える。それを抱きかかえる涼香の体そのものに燃え移り、体を燃やした。紫色の炎に包まれる涼香に、暴走族が驚くが玄輝だけは憮然としている。
「……何の真似だ、そりゃ」
「……受け取りなさいヘルガー!私の苦しみを、ヒトモシの嘆きを!あなたの怒りに変えて!!」
「もしぃ!!」
ヒトモシが涼香の心を燃やし、それによって発生した炎がヒトモシの力でヘルガーの体を包み込む。涼香の魂を燃料にしたヒトモシの紫の炎がヘルガーの体に纏われ。活力を与えたというには昏すぎる炎だがそれでもヘルガーは立ち上がる。纏った炎が体を一回りも二回りも大きく見せ、地獄の番犬のように立ちふさがる。
「グルルルルルルゥ……」
怨みの紫焔がヘルガーの輪郭を揺らめかせ、ゆっくりと持ち上げた頭がまるで三つに増えたように炎が膨れ上がる。体内から作り出す毒素が焼け、刺激性の悪臭が周囲の鼻をついた。三つの口に溜められるのは、毒と怨念の混じった炎。
「な、なんだこれは……メガシンカ……いやZパワーなのか!?」
玄輝が驚きを露わにする。ヘルガーのメガシンカ形態とは明らかに違うし、一度金色に近い光を纏うZパワーとも目の前の現象は違い過ぎた。トレーナーとポケモンとの絆が生み出すものとは違う。お互いに憎悪するものがあるからこそ生まれる負の力。
「『悪の波動』!!」
紫焔はうねりを上げ、まるで炎そのものが憎悪をぶつけるように上下に分かれて大口で噛み砕くように両腕をクロスさせてルガルガンを焼き尽くし、三者三様の負の感情がルガルガンの体を蝕みつくす。
炎が消えた時、そこにあったのは紅い体を黒焦げにされ、横たわるルガルガンの姿だった。
「俺のルガルガンが……一撃だと……」
「……二体目でも三体目でも好きに出せばいいわ。全員焼き殺してでも倒して……」
ぐらり、と涼香の体がふらついた。ヒトモシが心を燃やすというのはすなわち気力と体力を奪うこと。ブランクのある旅を続け、挙句雨の中歩いていた涼香の体は限界を超えている。
「ふん、確かに驚かされたが恐らくその黒い炎を使う旅にお前を燃やす必要があるらしいな。だが俺の六体を前にお前の体がもつと思っているのか?」
「構わないわ。私が気絶しようがしまいが、私を燃やすのはヒトモシだもの。……私達は絆でつながってるわけじゃないんだから」
「もしぃ……」
悲しそうなヒトモシの目。だが拒否しているわけではないのは今もなお大きく揺らめく炎が伝えてくる。涼香とヒトモシの感情を具現するように三つ首のようになったヘルガーも口から紫焔をちらつかせる。
「リーダー、あんな状態でまともに指示が出せるわけねえ!勝てますぜリーダーなら!」
「いざとなればあのポケモンもいるじゃないすか!」
暴走族の下っ端たちが戦意をみせる。数秒の沈黙の後、玄輝はバイクにまたがった。
「……ああその通りだな。だがそれでいいのか? ポケモン一匹倒しただけでふらふらになってる相手をむきになって倒したのではそれこそ俺達をよってたかって潰そうとしたごろつきとシンクロだろうな」
「リ、リーダー……!」
「俺たちは最強の暴走族からさらに進化を遂げた四天王が一柱とキヤリーグの盾となるの警邏隊……そうだろ?」
「さすがっす……!」
勝手に盛り上がる暴走族たち。膝が震え、立つのもやっとの涼香を睨みかつて一介の暴走族だった彼は堂々と背を向けて言う。
「今のお前の力を示したことは認めてやるから教えてやるが……俺達がここに来たのはお前とやり合う為だけじゃない。あの研究所に強盗が入ったからだ。最新のセキュリティで守られたあそこからの強奪など常識では考えられん。そして、現在確認されているのは人一人と二匹のポケモンがいなくなっているということだ。そのヒトモシとヘルガーがな」
「強盗……? それに、人がいなくなったって……もしかして」
「研究員が何人か重傷を負っており、いずれも鋭利な刃物で切り裂かれた後があった。管理者の博士に至っては行方不明……そんなことは、博士の直接の知り合いが関与していなければ不可能だろうからな。だが今のお前と戦った限りでは現場の状況と一致していない。ここは矛を収めておいてやる」
事件内容をペラペラと喋るので本当かどうかも怪しいが、それを聞き出す力は今の涼香にはない。やはり、聞けば聞くほど謎が増えるだけだ。
「……次会ったときこそ、あの時の因縁は果たさせてもらう。……じゃあな」
暴走族たちがバイクに乗って去って行く。それがいなくなるのを見送る前に、限界を迎えた涼香の意識は途切れた。
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虚ろな懺悔
涼香が目を覚ますと、ベッドに横たわっていた。内装を見渡す限り、ポケモンセンターが運営する宿屋の中のようだった。大体どこでもトレーナー用の宿は同じ造りになっている。着ているものが雨に濡れ続けた服ではなく、簡易パジャマになっていた。明季葉が着替えさせてくれたのだろう。
「……っつ」
すぐに起き上がって巡達は無事かどうか確認しようとしたが、体が上手く動かない。ヒトモシに心も燃やさせるのはこれまでも巡達に隠して何度か試していたが、やはり負担が大きい。四葉の真意を知る目標を思い出さなければ何も出来なくなりそうな無力感に苛まれることもある。十秒ほど使ってやっと体を起こすと、部屋に明季葉が入ってくる。
「巡と奏海は?」
「部屋にいる。……呼んでくる?」
「まあ、平気そうならいいわ。あの後は……」
「バトルが終わった後巡を起こして、三人で涼香を支えてここまで帰ってきた……それで」
「何?」
明季葉が涼香の目をまっすぐ見る。普段は髪に隠れがちな彼女の瞳が心配そうに自分を見つめている。
「約束……守って、くれる?」
「……そうね。そうだったわね」
自分が何をしたのか話すと約束することを条件に一対一で戦った。どうせいずれは話すのだ。予定より早くなってしまった不安はあるが、隠すにも限界だろう。観念したように俯く涼香。明季葉が二人を呼びに行って程なくして、三人そろって部屋に来た。
「涼姉涼姉!!大丈夫? 俺の事覚えてる!?」
「……は? 忘れるわけないでしょ、そんなこと……」
「巡兄様、世間一般では熱を出したからといって記憶はなくなりません。巡兄様が特別だっただけです」
巡が記憶喪失になった原因は一週間以上にわたる高熱だと聞いている。巡もわかってはいるのか唇を尖らせた。
「知ってる、知ってるけどさ……戦って倒れたなんて聞いたら不安になるだろ」
「……明季葉も、心配した」
慌てた巡に、またじっと見つめる明季葉。涼香はため息をつく。
「……私には、心配される資格なんてないのよ」
「あの四天王の言っていたことですよね……」
「四天王……本当なのよね」
「さっき調べたら、キヤリーグポケモン協会のデータベースにも四天王の一人として去年正式に登録されたと書いてありました……すみません、最初に気付くべきでした。ポケモントレーナーとして旅をするなら四天王を始めとした権力者が会いに来る可能性も考慮出来たはずなのに……」
「そんなこと今はどうでもいいって!涼姉、資格がないってどういうこと?あの暴走族とは何があったの?」
涼香は深く息を吸って吐いた。巡がごくりと唾をのむ音が聞こえるほど、海奏と明季葉も黙って耳を傾けている。もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。あるいは拒絶されたとして、文句は言えないし何も知らないこの子たちさえ疎まれてしまうほどの罪を犯した自分に真実を求める権利などないと諦められるかもしれない。ヒトモシの炎が心を燃やしていたことでかえって話す決心がついたのは皮肉だった。
「私は……絶対にチャンピオンになりたかったの。でもそのためにポケモントレーナーとして、絶対にやってはいけないことをしてしまった」
先の玄輝との戦いで突き付けられたことを心に刻むように話す。ポケモンリーグの決勝戦、親友だった四葉との戦いにおいて自分は相手の選んだポケモンを覗き見て失格となった。それは自分を応援してくれた仲間へ、そして強くなるために倒してきた相手への裏切りと同じ。その不正を四葉が仕組んだと言うことは、敢えて話さなかった。今話しては責任転嫁と思われるだろうからだ。何より、結局不正に手を染めたのは自分だ。
「あいつらとも、バトルに勝った時は色々言われたけど私の実力を認めた上でバイクを渡してくれたわ。……その気持ちを踏みにじったのも、あいつらが私に負けたことで散々馬鹿にされた、って言ってたのも……私のせい」
悲しくなったわけではない。被害者面はしないと決めたのだ。冷淡に、涼しい顔を装って言う。
「私のせいで……色んな人が不幸になったし、死んだ子もいる。だから私は……心配される資格なんてない」
それから先を言ってしまえば、自分が一番失いたくなかったものを思い出してしまうから、そこで言葉を止めた。部屋の中に、重い沈黙が降りる。十秒、三十秒、一分。
「あの……それでも涼香さんは、引率者として僕達をサポートしてくださるんですよね」
一番最初に口を開いたのは、海奏だった。おどおどと、少し震えた声でだが、そう確認する。
「……ええ。私にも、やらなきゃいけないことがあるから」
最低限の答えに対し、奏海は巡と明季葉の顔色を窺っているようだった。続けて発言する。
「不正はダメだと思いますけど、涼香さんの経験と強さはすごく助けられてますし……その……」
「……ったり前だぜ。なんだなんだよ奏海、もしかして涼姉を置いて旅しようとか一瞬でも考えたのか?」
「え……?」
深呼吸した巡が、ぐっと胸の前で握りこぶしを作って真剣な、でも重苦しさのない明るい声で言う。
「涼姉。俺さ、一年前初めて目を覚ました時……なんか周りが腫れ物に触るみたいに扱われてすっげーこわかった。なんも覚えてないけど、昔の俺って結構やんちゃだったみたいでさ。露骨に怖がる人もいたんだ。奏海は違ったけど」
「そうでしたね……」
「明季葉も……巡は、もっと乱暴で怖い人だって噂で聞いてた」
涼香が見た限りの巡はお調子者で軽いところはあるが、素直だし、人にもポケモンにも無暗に暴力を振るうところなど見たことがない。初耳だったが、海奏と明季葉が頷くのであれば事実なのだろう。
「まあということらしいんだけどさ。でも暮らしてるうちにだんだんみんな俺のこと怖がらなくなったんだ!そしたら周りと話すのも楽しくなったし……だからさ、涼姉だって昔は悪いことしちゃったとしても、これからまたやり直せるって俺は信じてるぜ。涼姉不愛想っぽくしてても優しいし!な、二人もそう思うだろ!?」
「優しいって……」
過去一年間はおろか、旅をしている間でさえほとんど言われたことのない言葉だった。弟の病気を治すために必死だったあの時は、ひたすら自分が強くなることを考えていたからだろう。自分を優しいと評する相手なんて、今まで――弟と、四葉くらいのものだった。
「明季葉も……涼香は、いい人だと思う。ポケモンリーグの理念とか、裏切りってよくわからないからかもしれないけど……明季葉にとっては、出会ってからの涼香が全て。だから、気にしない。だから、心配する」
「勘違いよ。じゃあ……いいのね? こんなのと一緒に旅をして」
「涼姉はこんなのじゃないし!」
「今からいなくなってしまっても困りますし、その方がありがたいです」
「……よろしく、お願いします」
拍子抜けするほどあっさり、三人は自分と旅をすることを受け入れたらしい。涼香にとっては好都合だが、何か引っかかるもの、誘導されたような印象を感じる。とはいえ、余計な思考を巡らせる心の余裕もなかった。
「じゃあ早速だけど……巡、海奏は部屋に戻って」
「え、この流れで? 深まった絆を感じてお喋りとかしない?」
「手当はしたけど、涼香はすっごく疲れてる……奏海はともかく、巡はうるさいから、ジャマ」
「明季葉ちゃんひどくない?」
「いいじゃないですか、僕達も疲れましたし……」
「よくないし俺は明季葉ちゃんは涼姉と話してる方が元気になるんだけどなー。でも、まあしょうがないか。早く元気になってね涼姉!」
巡は涼香をちらりと見る。ベッドで体を起こすのもやっとで俯いた涼香を見てさすがに察したのか、自分からさっさと部屋を出た。奏海も一礼した後静かに出ていく。
「……ありがとね」
「いい。明季葉はあのヒトモシに燃やされた時にどうなるか知ってるから……今は、休んで」
体力的にも精神的にも限界な涼香は言葉に甘えてゆっくり体を寝かせる。三人の言葉だけを考えていれば、眠りにつくことは出来そうだった。
「ただ……少し元気になったら、明季葉から話したいことがある。明季葉が……旅をしてる、本当の理由。涼香に話しておきたい」
「……わかったわ」
平素と変わらぬ明季葉の声。涼香は社会勉強の一環として旅をすると聞かされたがかつての自分がチャンピオンを本気で目指したようにこの少女にも何かあるらしい。それを聞いてあげるのも、まあ引率者の役目だろう。それが涼香が眠りに落ちる前の最後の思考だった。
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葉のない所に火は立たぬ
涼香が目を覚ますと早朝になっていた。時計を見ると朝の四時半。昨日眠ったのは夕方ごろだったからどうやら相当な時間眠ってしまっていたらしい。とはいえ、そのおかげで少し体は楽になっていた。ベッドの近くの棚にはオレンの実が数個と、カットした赤い果実を水で浸したものが置いてあった。りんごを齧るとほのかに塩味がしたので色落ちしないよう食塩水につけたのだろう。小さなメモ書きで「起きたら食べて」と書いてある。明季葉の字だ。
「……いい母親になれるわよ、あんた」
勝気な自分と病弱な弟、手のかかる二人を育ててくれた母のような気配りに半ば呆れつつ隣のベッドを見る。旅の途中では朝ごはんを作るために早起きな明季葉だが、流石にこんな時間ではまだ眠っていた。いつもの大きなサイズのエプロンドレスとは違う備え付けのパジャマで眠っている顔は、旅を始めたばかりの自分のように子供らしさがある。
「昨日の約束、守ってあげないといけないし……起きるまで待つか」
明季葉は旅をする理由が明確にあり、それを打ち明けたいらしかった。本来ならヘルガーやヒトモシと共に野生のポケモンを焼き魂を燃やしてレベルを上げたいところだが、一旦休んだ方が得策だったし、いなくなって明季葉に反故にされたと思われるのは好ましくない。自分が旅を続けるためにだけではなく、自分を信じてくれるこの子を裏切ることはしたくなかった。
オレンの分厚い皮を剥いて、酸味の強い果実を口に入れると、眠っていた頭が少しずつ冴え始めた。何もせずぼんやりしているのも退屈なので、テレビを付けて音量をぎりぎり聞こえる最低値にする。こんな時間ではやっているのはニュースくらいだ。無気力状態だった一年間は勿論、基本的に涼香にニュースを見る習慣はないので、退屈には変わりない。と思っていた。
「えー、3日前に起こったポケモン研究所強盗事件。盗まれたのは二体のポケモンという情報がありましたが、それは誤りだったと発表されました」
「……!」
研究所への襲撃。行方不明になったという博士。そしてチャンピオン。その言葉に涼香が息を呑む。
「いなくなっていた二体のポケモンは別の要因で連れ出されたものであり、今回の事件では無関係である。博士が拉致された以上の損害は、捜査の結果ないことが確認されたとのことです。博士については全力で行方を追っているが、情報収集の段階で皆さんに何か知っていることがあったら警察に連絡をしてほしいとのことです」
レポートへの返信がなかったのは、博士が研究所からいなくなったせいだというのは間違いがなさそうだった。
「……ほんっと、意味わかんない」
昔旅をしていた時は、ただ強くなれれば。チャンピオンになって、弟の病気を治すお金が用意できればよかった。だが今はただ強くなるだけでは目的は叶わない。四葉が自分を陥れ、わざわざ一年間経ってから伝えた理由が何か。それから目を背けるように、涼香はテレビを消した。
「涼香……起きた?」
呟きは思ったより大きかったのか、明季葉が目を覚ましたようだった。
「ええ。でもまだ寝てていいわよ。……後、ありがとね。色々」
「大丈夫……起きる」
明季葉がいつものゆったりしたエプロンドレスに着替える。まだ少し眠そうな明季葉にオレンの実を無言で手渡すと、彼女も皮を剥いて食べ始めた。向こうが意識をはっきりさせ、話す準備を整えるまで涼香も果物を食べる。
「昨日の涼香の話……ポケモンリーグでの不正が涼香やポケモントレーナーのみんなにとってはすごく許せないことだっていうのは、なんとなくわかる」
切り出しは、涼香の罪についてだった。昨日すんなり受け入れたことが涼香としては半ば信じられない所もあったが、やはりそのことを語る明季葉に嫌悪感のようなものはない。
「でも明季葉は、ポケモンリーグの結果なんて新聞で誰が優勝したのか見るくらいだったし、この旅が終わってもトレーナーになりたいわけじゃないから……ずるはいけない、くらいにしか思えない」
「……そう、なの?」
「うん……だから涼香がどれだけ苦しいかは、きっとわからない。ごめんなさい」
「そんなの、いいけど……」
静かな言葉なのに、まるで氷を首筋に当てられたような感覚がした。確かに、この世界の人間が誰しもポケモンバトルの世界に熱中しているわけではない。そういう人からすれば涼香の不正はちょっとした出来心で済まされてしまうのかもしれない。弟の死、両親との絶縁、そして涼香も付き合いのある人間もトレーナー及びその関係者ばかりだから、この世の誰からも疎まれているように感じてしまっていた。涼香にとって、その言葉は衝撃的だった。
「ただ、明季葉にはこの旅に目的がある……そのことで、話したいことがある」
「トレーナーとしての道に興味はない。でもこの旅には社会勉強以上の価値がある……そういうことよね」
ずっとチャンピオンになることしか考えてこなかった涼香には想像できない。明季葉は頷き、驚くかもしれないけどと前置きしてから。
「単刀直入に言うと……明季葉と巡は、許嫁の関係。本当ならこの旅は……結婚する前にお互いをわかり合う為の儀式のようなもの、のはずだった」
「……は?」
確かに驚いた。時代劇とかファンタジーの中でしか使われない言葉を現実のものとして明季葉に真顔で言われるとは思っていなかった。ぽかんとする涼香に明季葉が少し不安そうになる。
「えっと、なんで許嫁なのかは、話した方がいい?」
「別にいいわ。……本当ならってことは、現実はそうじゃないんだろうし」
にわかには信じがたいが否定しても始まらない。ありがとう、と頷いてから本題に入る。
「うん。そのはずだったけど……さっきの涼香の話で確信した。この旅は、何かおかしい」
「四葉が……チャンピオンが旅は危ないからルールを整備したんじゃないの?」
今回からポケモントレーナーが旅をするルールに大幅な変更が加わったのは涼香も知っている通り。ポケモンが渡されるのは旅に出る半年前から。引率トレーナーの存在、ジムの簡略化、上げればきりがないほどだ。明季葉は首を振る。
「そもそも、この旅に奏海は来ないはずだった。目的は、明季葉と巡の親睦だから。奏海自身、旅を楽しんでいるようには見えない」
許嫁で云々と言うことなら確かに奏海は必要ないのだろう。涼香の見た限り奏海は臆病というか神経質と言うか、自分や巡が危険にさらされることをよく思っていないようだった。
「それは、単に奏海や家族が巡を心配してるからじゃないの?あの性格で記憶喪失じゃ不安にもなるだろうし」
「巡達に会うのはこの旅で初めてだったけど……でも、明季葉は巡と奏海はすごく仲が悪い兄弟だって聞いてた」
「え? どういうことよ、それ」
元気よく積極的な巡と大人しいが知識が豊富な奏海。奏海が兄の軽率な行動をたしなめたり、巡が弱音を吐く弟を叱咤することはあっても険悪になったときのことなどまだ見たことがない。
「そもそも巡が明季葉の聞いてた人物像と大分違う……巡はもっと気が短くて喧嘩っ早くて、家業なんか継がずにプロのトレーナーになりたいからこそ今回の旅に出ることになったって聞いてた……家業を継ぐのは長男って決まってるから本当は巡が継ぐべきなんだけど、奏海に押し付けようとしてて……でも奏海もフルート奏者になりたい夢があるからお互いに反発してたはず」
「ちょっと待って。理解が追い付かないわ」
涼香の知る巡はポケモントレーナーへの憧れこそあれ出会った時の自分の忠告を素直に受け止めていた。明季葉の話は、まるで涼香の知る二人とかみ合っていない。
「それだと、明季葉の許嫁の巡と今旅してる巡が別人に聞こえるんだけど」
「……わからない。直接会うまで、顔も知らなかったから」
えらくきな臭い話になってきた。と涼香は思う。
「明季葉がおかしいと思ったのは、さっき巡が言ってた。目が覚めて記憶の分からない、でも周りに怖がられる自分を奏海が真っ先に助けてくれたって。それと……危ないことが嫌いな奏海が、真っ先に涼香について来てほしいって言ったこと。まるで、明季葉たちに否定させたくなかったみたいだった」
「……確かに、さっきの奏海はなんかおかしかったわね」
全ての人間がポケモントレーナーやバトルに対して関心があるわけではないのだから、明季葉同様ピンとこないのもわからないではない。しかし奏海はそもそも話を聞いているときもそのあとも涼香ではなく巡と明季葉を見ていた。まるで涼香の話に関心がなく、二人の顔色をうかがうのが一番だとばかりに。
「この旅を関するルールを決めたのも、旅に出る人を選んだのも四葉……だから、もしかしたら……」
「一連の違和感の糸を裏で引いてるのも、四葉かもしれない……?」
奏海が四葉とのつながりがあるとしたら、自分のことも既に知っていて言い含められていたからこそあっさり受け入れたことも考えられる。
「明季葉から、話したいことはこれだけ……聞いてくれて、ありがとう」
「いえ……驚いたけど、お礼を言うのはこっちよ。お互い目的があるんだし……気づいたことがあったら話し合いましょう」
明季葉の旅の目的と、奏海への疑問。この二つが四葉とどう絡むのかはわからない。だが涼香一人で抱え込むよりも話す相手が出来たことは内心安堵していた。旅に出るまでの一年間は、誰にも話したくなかったし関わろうともしていなかったから。
(――――ッ!!)
その時、涼香の頭の中を炎が大きく弾けたような感覚が襲った。
燃やし尽くした心は、また、燃え上がる。そう、何度でも。
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屠殺人は孤独という名の自由に踏み出す
リーグチャンピオンのみが座ることを許された、白い石造りの椅子に四葉は座る。椅子の周りを取り囲むように大蛇のポケモン、ジャローダを侍らせて。目の前でわざとらしく膝をついている少年へ言葉をかけた。
「報告はレポートでもいいと伝えたけど、わざわざ会いに来たのには理由があるのかな? 千屠」
少年の傍には、蛇のような獣であるオオタチが伏している。千屠は顔を上げて、明るく笑ってみせた。
「いやー、巡たち見てるとレポート書くのって面倒くさそうだったし。四葉姉ちゃんの顔が見たかったからね」
「……随分嬉しいことを言ってくれるね?」
「何言ってるの水臭いなー。姉ちゃんは俺の命の恩人だよ?」
千屠の言葉は、命を扱う発言であればあるほど軽い。名は体を示す、という格言の通り命を屠ることに何の疑問も感じないのが、千屠という人間だ。
「じゃあ聞かせてもらおうかな。涼香達が今までどんなふうに旅をしてきたのか」
四葉が予定通り千屠へ聞く。彼も、あらかじめ用意していたであろう淀みない言葉を返した。
「えっと、まずは旅慣れない新人たちに引率者がアドバイスしていく形で旅が始まったんだよね。まあなんていうか、ほんとにトレーナーの旅っていうか野外学習って感じのやつ」
「町の外へ出たこともあまりないような子供にいきなりポケモン一匹与えて外へ放り出す今までの慣例が異常なんだけどね」
「四葉姉ちゃんは優しいよねー。ま、ともかくそんな感じで外の世界を楽しみつつレポート書いてたところで初めて俺と出会うことになったんだ」
「……ちゃんと人やポケモンを殺さずコンタクトを取ってくれて安心したよ。ありがとう」
「ははっ、不安だった? 大丈夫、俺が四葉姉ちゃんを裏切るわけないじゃーん」
話す千屠の様子はまるで学校であったことを姉に話す弟のようで、四葉もそれを薄く微笑んで聞いていた。
「俺としては引率者の方とバトルしたかったんだけど、まあ新人くんたちがやるっていうから軽くやっつけてー。とりあえず一旦お別れしたんだよね。また会おうって」
「巡のレポートに君のことが書かれていたよ。ロクなやつじゃないとか次はコテンパンにやっつけるとか……まあ、君の意見自体には納得できないわけじゃなかったみたいだけどね」
「えーひどーい。あの時生かして帰しただけありがたく思ってほしいんだけど。なあダチー」
「オンッ?」
「あのフォッコをちょっとイジメた時だって。お前食べ損ねてちょっと不機嫌だったろ?」
「オオッ!!」
千屠の傍らのオオタチが誰だっけ?と言いたげに首を傾げた後、思い出して頷く。彼のオオタチにとっては、新人のトレーナー達とのバトルなど記憶にも残らないのだろう。……狐っぽいポケモンが好みらしいのかそっちで記憶していたようだが。四葉はため息を吐く。
「奏海のだね……彼は手持ちも含めてナイーブなんだからあまりやりすぎないであげてくれよ」
「もー、気を付けろよダチー」
「オオーー」
明らかに気のない返事。とはいえ千屠はなんだかんだオオタチのことはしっかりコントロールしているのでそれ以上心配することなく続ける。
「それでとりあえず途中の町に立ち寄った一行なんだけど、あろうことか博士誘拐の疑いをかけられちゃったんだよねー……本当の犯人のことも知らずにさ」
「玄輝は暴走しがちだからね。さすがにいきなり四天王とぶつける気はなかったのだけれど」
「でも、まあさすが一度はチャンピオンリーグを勝ち進んだトレーナーだよねー。邪眼の力を舐めるな!闇の炎に抱かれて消えろ!って感じで撃退しちゃった」
「……邪眼? まあ、玄輝から涼香と戦ったという報告は受けているけれども」
四葉が初めて首を傾げる。
「あー、四葉姉ちゃんゲームとかやらなそうだもんね。とにかくヘルガーとヒトモシと一緒に怨念の力を使った炎でルガルガンを倒したんだよ。Zパワーに近くて、後物理的な炎じゃなくてゴーストか悪タイプの技に分類されそうだったね」
「強い憎しみを持つ彼女が人間を怨むヒトモシとヘルガーを連れたからこそ怒った現象かな……うん、流石は涼香だね」
何か含みがありそうな四葉。千屠はそれを察したのか、次の言葉まで少し間を置いた。
「だけどさすがに引率者さんも疲れちゃったみたいでさ。そのあと倒れちゃったんだけど……新人くんたちはいいやつでねー。ちゃんと看病してあげた後、自分の罪を告白する引率者さんのことも割とあっさり許してたよ」
「……涼香は、もう話したのかい? 一年前の決勝戦のことを」
「うん、まあやむを得ずって感じではあったけどね」
四葉は意外そうな顔をした。一年間、誰にも話せず、誰とも関わろうとしなかった涼香がそのことを打ち明けたことに対して何の感情を抱いているのかまでは、誰にも読み取れない。
「で、ここからが俺が直接四葉姉ちゃんに伝えたかったことなんだけど……」
「……涼香達はまだ第一ジムにもついてないはず。重要なことでもあったかい?」
「それはね……」
千屠は立ち上がり、四葉の耳元で囁く。四葉の目が見開かれ、震えた声で言葉を漏らす。
「まさか……確かに今の話を聞く限り兆候はあるけれども……」
「あくまでこっそり見てた俺の勘だけどもねー。覚悟しておいた方がいいんじゃない?」
「……」
その時、四葉の携帯するトレーナーカードが震える。一通のメールが届いたようだった。そこには、この旅の引率者からのメールが送られてきたと書いてあった。
『四葉。大事な話があるの。三日後の夕方、第一ジムの裏で会いましょう』
二人はメールの内容を見る。簡素だが、意志の籠った文面に、それぞれ感じるところがあるのか。四葉も千屠も真面目な表情になった。
「……どうするの?」
「行くよ。君が今教えてくれたことを確認したいし……涼香の頼みだからね」
そこで四葉は、千屠の頭を細く冷たい手で撫でる。
「ありがとう、君が涼香達の状況を教えてくれたし、コンタクトを取ってくれる役目を引き受けてくれたおかげで僕の計画は実行できた……これからもよろしく頼むよ」
「まあ、そうしないと俺は罪人としてギロチンだったからってのもあるけどさ……うん、俺が平気で人を殺すヤバい奴って知っててこうしてくれる四葉姉ちゃんのことは、嫌いじゃないよ」
千屠は人殺しだ。捕まり、然るべき罰が与えられるべきところへ四葉が目をかけた。頭を撫でられることは少し恥ずかしそうにするものの、千屠は四葉の想いに悪い気はしないのかしばらくそのままにしていた。
「確かに君は、人殺しさ。だからこそそれを自覚出来ているなら救いがあって然るべきなんだ。悪人だからどんな最期を遂げても自業自得だとは、僕は思わない」
「……最初からそう言えばいいのに、四葉姉ちゃんは回りくどいなー」
微妙に噛み合わないやり取りの後、千屠は四葉から離れ、オオタチと一緒に出ていく。
「四葉姉ちゃんはこれからもよろしくっていうけどさあ……それは無理だと思うんだよね」
一人になった千屠は、歩きながら呟く。その目は四葉と語らっていた時の姉を慕う弟のようなそれとは全く違う、養豚場の家畜を品定めするような、命に対する冷酷な目。
「うん……多分、こうなるかな。その時は……苦しまないように終わらせちゃおうか、ダチー」
「オオンッ」
千屠の想像する未来には、血まみれで倒れる四葉の姿が映っていた。自らが何より信じるダチに気さくに問いかける。気負う必要や罪悪感を感じる必要などない。今まで自分が千ほど繰り返してきた、いつものことだ。
「引率者さんの苦しみも、四葉姉ちゃんの計画も、俺が屠殺してあげるよ……この名前に懸けてね」
彼の動く理由は、自らの名前。それを刻みながら、少年は歩み続けた。
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開かれるパンドラの心
「……待たせたわね。四葉」
「いや、他ならぬ君の頼みだからね。また会えてうれしいよ、涼香」
第一ジムのある街へたどり着き。涼香と四葉はジムの裏、人気のないところで対面していた。チャンピオンである四葉がここにいるのは、涼香がメールで呼びつけたからであり、四葉はそれにすんなり応じた。巡達は今、ジムへ挑戦中だ。四葉と会うことは話し、巡と明季葉は心配したがこれは私の問題だと言い聞かせた。
四葉は手持ちであるジャローダのとぐろを巻いた中心に立っている。それは彼女たちのお互いの信頼の証だ。涼香の傍らで唸り声をあげ両者を睨むヘルガーと涼香の関係とは決定的に違う。
「……と言いたいところだけど。早速要件を聞こうか。わざわざ僕を呼び出した用は何かな? まさか、そのヘルガーで僕に勝てると思ったのかい?」
そんな関係を一目で見抜いたのか、四葉は眼を細め、退屈そうに言った。涼香はそれを焚きつけるように強い口調で返す。
「いいえ、勝つつもりなんてないわ。まだ旅は続ける。でもその前に……四葉に確認しなきゃいけないことがあるの」
「確認? 僕が前言ったことを忘れたのかな? 今僕と問答をしたとして、全てを失った君にそれが事実だと確認できるとでも?」
四葉の表情は薄く微笑んで、頭の悪い子供に諭すように言う。内容は、涼香の部屋の前で語ったことと同じ。
「もういいのよ、四葉」
「……もういい?弟を殺した相手に何も聞かず、仕返しもしなくていいというのかい? 涼香らしくもないね」
四葉はせせら笑う、涼香の心が痛む。彼女が自分にそんな声音を向けるなど昔は思いもしなかった。
だからもう、それを終わらせなければならない。涼香ははっきり首を振った。
「四葉は、私の弟を殺してなんかいない。あの子は……私が死なせたんだから」
「……」
それを認めることは、涼香のしてきたことの全てを否定することだった。チャンピオンになると誓ったあの旅路も、四葉への復讐を志したこの旅も、意味を失う。それでも、自分は認めなければいけない。
「私はどうしてもあの決勝戦に勝ちたかった。どんなことをしても、たとえ汚い手を使ってでも。でもそれは、私だけじゃなかった。四葉だって……いえ、四葉の方がずっと勝ちたい思いが強かった。そうでしょ」
「何を言うかと思えば笑わせないでほしいね。一年間僕に騙されたことにも気づかず落ちぶれた君に僕の本心の何がわかるっていうんだい?」
「わかるわよ」
旅に出る前、四葉の両親と話した時も。四葉がこの旅を成功させるために多くの改案を出し、巡達の旅を安全にしていることも。涼香は知っている。
「病弱で、誰よりも体が弱くて、旅の途中で何回も寝込んで、それでも私と同じようにジムバッジを集めた四葉が……どれだけチャンピオンになりたかったなんて、私だってよくわかってた。わかってなきゃ、いけなかった」
真実を、たくさんの情報から見つけ出す必要などなかった。四葉が自分を罠にはめた理由なんて、はめなければいけない理由なんて、とっくにわかっていたはずだった。それでも落ち込み誰とも話さず堕落していた自分は、四葉の口車に載せられ煽られるようにありもしない原因を滑稽に探していただけだったのだ。
後悔と罪悪感に震える涼香に反比例するように、四葉の目が細まり、不快感を露にする。
「……で?」
「だから……」
「だからなんだい? ああそうだよ。弟一人なんかの為にチャンピオンの権力を使おうとする涼香よりも僕がチャンピオンになるべきなんだ。君の傲慢で私利私欲に走る姿勢にはうんざりだ。だからただ勝つだけじゃなくて罠にはめたんだよ。わかった?」
「だったらなんで、一年も経ってから私にそのことを知らせたの?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。チャンピオンだって何でもかんでも周りに言うことを聞かせられるわけじゃないんだよ。弟のことしか考えてない君とは違って、僕にはこの世界の為にやりたいことがたくさんあるんだから」
「だったら、ずっと放っておけばいいじゃない。本当は……」
その言い分ならば、涼香に自分のせいだと仄めかして旅に出す必要などない。涼香が堕落していくのをずっと放置していればいい話だ。仮に涼香が投げ出したり自分の為に新人トレーナー達を危険な目に合わせたりすればこの旅を計画し、これからのトレーナー達に安全な旅路を歩んでほしいというチャンピオンとしての四葉が困るのだから。
「弟が死んだことは、四葉にだって想定外だった。いくら四葉が賢くても、私が不正をしたから弟が自殺するなんてわかるはずがない」
決勝戦の前弟の名前を出したのは涼香の負けられない気持ちを煽りに不正をさせるための誘導。そこに計算があるとしても、その後涼香やその弟がどうするかなど誰にも操りようがない。四葉はあれから一年経つまで自分たちに関わっていないのだから。
「全部、私のせいなんでしょ?私があんたの気持ちも知らずに勝とうとして、弟の死を受け入れられず自堕落になって、そんな状態が一年も続いて……それが嫌だったからあんたは自分を悪者にした。自分のせいで私の弟が死んだかのように論点をすり替えて!無理やり私を外の世界に出して立ち直らせようとした。そうでしょ?」
「……!!」
四葉の侮蔑の表情が、一転真剣なものになる。
「それは違うね。涼香の思い込み、ただの現実逃避さ。今言ったことが真実だとしたら、弟の死の責任は君が負うことになる。君の努力を応援してた人達への裏切ったこともだね。それを君自身が背負うんだよ?それが耐えられなかったから君は、あそこに閉じこもっていたんじゃないか。君はずっとあの生活を続けるつもりなのかい?」
「大丈夫よ、四葉」
一年間、誰も味方はおらず、全てが自分を憎んで、疎んでいるような感覚は耐え難いものだったし、いつ自分の命を絶ってもおかしくないものだった。誰も頼れる人もいなければ自分を信じてくれる人もいない。そんな生活には耐えられない。だけど。
「確かに私は全て裏切って無くしてしまったけど……四葉はチャンピオンになる夢を叶えても、私の為にこんな無茶をしてくれた。自分を悪役にしてでも、私の為に力を尽くしてくれたことって信じられる。だから私はもう……全てを受け入れるわ。この旅も続けて、引率トレーナーの役目も、ヒトモシとヘルガーの復讐も果たす。私はもう自分の罪から目をそらない」
「……」
四葉の瞳から、雫が零れた。膝をつき、ジャローダの上で親指姫のように座る彼女は、自分を這いつくばらせ嘲笑った彼女とは別人のようで。何より、涼香が本来知っている。この地方を良くしたい。自分の頭脳をみんなに役立てたいと言っていた優しい友人のそれに違いなかった。
「……僕のせいなんだ。僕が卑怯な手を使わなければ……涼香が、あんなに苦しむ必要はなかったんだ」
それは、涼香の突き付けた言葉が思い込みでなく真実であることに他ならなかった。きっと、涼香の弟の死に苦しんだのは四葉も同じだった。自分の策が、関係ない相手を死なせたばかりか想像をはるかに超えて友人を苦しめてしまった。
「怖かったんだ……涼香の不正が僕の罠だと言えば涼香は僕を許さないんじゃないかって。涼香がどれだけ弟のために頑張ってたか知ってたから、言えなくて……チャンピオンとしての責務に逃げたんだ。悪者のふりなんかじゃない。僕は……僕は、たった一人の友人を裏切ってぬけぬけと王者の椅子に座った悪人なんだよ。だから涼香は……僕を憎むべきなんだ。君に過ちを犯すように仕向けたのは僕なんだよ」
涼香が弟の死を自分のせいだと責めたのと同じように、四葉も友人の弟を死なせたのは自分だと、その友人を塞ぎこませてしまったのは自分だと悔やんだ。そして、彼女は決意したのだ。友人の再起の為に自分が恨まれるべきだと。
涼香は四葉に近づき、自分も膝をついた。顔と顔が触れられるほどの距離まで近づき、囁く。
「……そうかもしれない。私も四葉も……お互いに、やってはいけないことをしてしまった。だからせめて……二人でやり直しましょう。全ての罪は私が負う。世界の全てが敵に回っても……一番の友達である四葉が味方なら、私はなんだってできるから。弟の為に、チャンピオンになるために暴走族でも何でも蹴散らしたみたいにね」
そうやって、涼香は笑ってみせた。昔、トランプで一緒に遊んだ時のような、友人同士の屈託のない笑顔で。
「でもそれじゃあ、涼香だけが……」
「いいのよ。私の目標はもう絶対にかなわない。でも四葉の目標は……この地方を良くしたいっていう思いは、まだまだ叶えられる。そうでしょ?」
「……涼香は、強いね。僕よりも、ずっと」
「一年間も現実に受け入れずに引きこもったのに?」
涼香が笑い、涙を零す四葉もつられるように、ずっと抱え込ませてしまった罪悪感と重荷を下ろすように笑みを漏らそうとした。その時だった。
「なーんか二人して悲劇のヒロイン気取りな会話してるけどさあ……そんな都合のいい選択肢、あるわけないじゃーん?」
ジムの屋根から、レーザーのような鋭利な影がいくつも伸びた。それは正確に、四葉の心臓を狙っていた。四葉のジャローダがとぐろを巻き身を挺してわずかに軌道を反らしたそれは――四葉の腹と足を貫き、四葉に悲鳴を上げさせた。
「四葉ッ!!」
「あははははははっ、さすがチャンピオンのポケモン、ぎりぎりで気づいて即死は免れたみたいだね!」
地面から優に五メートルはある屋根の上から、影が二つ降り立った。一つは二メートル近い大型の肉食獣、オオタチ。そしてもう一つは以前涼香の前に現れた危険なトレーナー、千屠に他ならなかった。オオタチの腕に残る黒いオーラが、『シャドークロー』で四葉の命を狙ったことを物語っている。
「千、屠……何の、つもりかな」
「いやーあんまり二人の茶番がうすら寒いから、せめて将来を誓い合った直後に片方が死ぬっていうわかりやすい展開にしたげようというせめてもの慈悲だよ? なあダチー?」
「オオンッ!」
「ッ、ヘルガー!」
「ガアアアアッ!!」
ヘルガーの火炎放射が千屠のオオタチに放たれ、オオタチが避ける。にらみ合いになったところを、四葉が息も絶え絶えに言う。ジャローダが、オオタチの巨躯させ悠々と丸呑みに出来そうなほどの大きな口を開けた。
「君がそういう子なのはわかってるけど……僕に勝てると、思うかい……?」
「いや全然? だから真っ先に狙ったんだし……ほら、クローバーちゃんもいいの? このままほっとくと大事な主人が死んじゃうよ?」
「……!!」
クローバーが、四葉の体に蔦を巻き付け自身のエネルギーを分け与える。流れる血の分を補いはするが、元々身体が虚弱な四葉にとってダメージは深刻過ぎた。涼香が怒りが燃え上がる。
「……何のつもり」
「うわ怖。でもさー、そっちのお姉ちゃんは自分で弟を殺したことを認めるんでしょ?だったら俺が四葉姉ちゃんを殺すのも認めてよ」
「ふざけないでッ!!ヘルガー、『火炎放射』よ!!」
「っと!!」
千屠自身に放たれた炎を、ポケモンに頼ることもなく側転で避けた。以前会ったときもだったが、尋常ではない身のこなしだ。
「もう一度だけ聞くわ。なんでこんなことをしたの」
「なんでっていうか、話を聞く限り四葉姉ちゃんはもう悪者ぶるのやめるんでしょ?だったら俺との契約も解消ってわけでー。俺が四葉姉ちゃんとつるむ必要もないじゃんね。だからころそっかなって」
「はあ!?」
「なんだよもー説明してあげてるのに怖いなー」
涼香の怒声に耳を塞ぐ千屠。四葉が、今にも途切れそうな言葉を紡ぐ。
「千屠はね……丁度一年前くらいにこの地方にやってきた。トレーナーを殺して金品を奪う強盗なんだ」
「四葉、喋らなくていいわ。……こいつは、私が燃やし尽くす」
「これは、僕の罪なんだ……涼香に対して悪であると決めた後、僕は直接彼を捕らえて取引、したんだ。罪を不問にしてあげるから、僕の言うことを聞いてくれって……」
「そーゆーこと。あんたらにちょっかいをかけて煽ったりー、後博士拉致ったりね。面倒だったけど、まあたまにはこういう計画的なことをしてみるのもいいかなーとか割とまんざらでもなかったのにさあ。全く、とんだ幕切れだよ!違約金として命くらいもらわないとさー、俺の気持ちが収まらないんだよね」
「……黙りなさい。あんたは……今ここで、灰にする!」
「やらせねーよバーカ!一旦退くよ、ダチ!」
千屠はジムの表門の方へと走り出す。涼香も走って追いかけようとしたが、傷の具合によっては予断を許さない四葉を見て追撃を躊躇った。
「ヘルガー、止まって!あいつはあんた一人で倒せない」
「僕は気にしないで……急所は、クローバーが避けてくれた、から。ごめん……千屠を、止めてくれ」
「あいつを手元に置いたのも、私の為なんでしょ。今救急車を呼ぶから、静かにしてて、私が見張るから……」
「いいや……今すぐ、彼を追いかけてほしい。千屠は……きっと、海奏達を狙いに行っただろうから」
「巡達を……!?」
千屠が走っていったのはジム側。命を貰う、というのは涼香達の方ではなく巡達を狙っているのだとしたら。
「私達のせいで、あの子たちを傷つけさせるわけにはいかない。……死んじゃダメよ」
「……うん。最後に、これを」
四葉が一つのモンスターボールを涼香に渡す。その中にいるポケモンを見て、涼香が驚いた。
「きっと、君の力に……後は、頼んだよ」
「……ありがとう、ずっと待っててくれて。まだまだ言わなきゃいけないことがあるから……もう少し、待っていて」
意識を失った四葉はクローバーに任せ、千屠を追いかける。自分の過去への決着はつけた。一番の親友の本心を知ることも出来た。だが、それだけでは終われない。これからを生きるため、一度旅を終えたトレーナーとしての責任を果たすため涼香は己の心を燃やす。
「こんな旅をさせてしまった罪は私が償う……絶対に」
ヒトモシを抱え、ヘルガーを隣に。自分と四葉の確執を終わらせまた歩んでいくために。自分たちの罪を無関係な子供たちに巻き込まないために、涼香は走り出す。
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巡狩執行
巡に奏海、明季葉の三人は初めてのポケモンジムの最奥で、ジムリーダーとバトルをしていた。今年3人一緒に旅をするにあたり、ジムへの挑戦も一人ずつではなく三人で協力しながら行うルールに変わっていた。その分相手のトレーナーが出すポケモンが強くなっているそうだが、一人の手持ちは少ないながらそれを補うタイプ相性の良さ、また涼香に教わった戦術を駆使して巡を中心に戦う彼らの息はとてもあっていて、苦戦することなどなかった。
「よし、あと一息だクロイト!」
「やるわね……でも、負けないわよ!おいでヌイコグマ!」
チャンピオンの四葉によるルールの整備と、引率トレーナーによる涼香の旅のサポートは、あの千屠という少年との邂逅以外とても安全だったし、楽しかった。だから、心のどこかで拍子抜けしながらも、順調にジムリーダーに勝ち、次の町へ。それを繰り返していけば、トレーナーとしての社会勉強は終わる。それが終われば、自分は長男として家の仕事を継ぐ。でも旅の中で出会った人達、特に明季葉や涼香との関係はずっと続いていくものだろうと漫然と思っていた。
だが、想いが巡り、人と巡り、世界を巡る中で変わらずに在るものなど一つも無い。
それを突き付けるように起こった出来事が、状況が。三人にはすぐに理解できなかった。
約二メートルの獣が。自分たちと対面するジムリーダーの背後から。真っ黒な刃でその喉と心臓を貫き、一瞬で絶命させたのを。数瞬前までポケモンバトルをしていたニンゲンが血が噴き出し痙攣しながらくずおれるのを見ても、巡は蜘蛛の巣にかかってもがく蝶を見るように、死を感じながらも自分のするべき反応がわからなかった。
「う、うわああああああああああああっ!!?」
「ひっ……!!」
奏海と明季葉が悲鳴を上げるのを見て、巡はようやく思考が動き始める。そうだ、目の前で、いきなり、ポケモンが人を襲って殺したのだ。そして巡が反応するより早く、ここに来るまでに自分たちが潜り抜けた試練を血で染めて。何人もいたジムトレーナーを全て屍に変えて。白い髪に白いシャツの少年は。返り血一つ浴びず現れる。
「相変わらず大げさだなあ……さっきの今まで自分たちだってポケモンをたくさん瀕死にしたくせに、今更慌てふためかないでよ」
以前巡達と三対一の勝負を仕掛けてきた千屠が。惨状に似合わない笑顔をこちらに向けた。そのだがその瞳は命を刈り取る死神の鎌のように弧を描いている。ジムリーダーが事切れたことを確認したオオタチが、千屠の傍まで戻る。思わず巡は叫んだ。
「千屠、お前……ジムリーダーに何したんだよ!!」
「いやー、殺したに決まってるでしょ? 見てわかんない?」
胸のあたりからピンクと白を基調とした可愛らしい服を着ていたジムリーダーは真っ赤な血で染まり、驚きの表情のまま死んでいた。見ただけで、もう命がないことがわかる。千屠のオオタチが与えた傷は致命傷ですらない。即死だ。
「殺したって……なんでだよ!なんでこの人が死ななきゃいけないんだよ!答えてみろ!」
「一々何したなんでって子供かよ。生き物が殺されて死ぬのに特別な理由なんているわけないじゃん?」
「わけわかんないことを言うなよ!なんでここに――」
取り乱す巡の様子に面倒くさそうに頭を掻いて、ため息をついて千屠は言う。
「うるっさいなあ。お前も今からこうなるんだよ」
「は……!?」
まるでゴミでも放り投げるようなどうでもよさそうな態度で言われたことに、頭を殴られたような衝撃が走る。この前会ったときは一瞬だけ刀を抜きだす居合斬りのような、こちらの攻撃に反応するような鋭い殺意だった。
だが、今の千屠は抜き身の刀をぎらつかせ、見せつけるように。明るい少年の仮面など脱ぎ捨てたような人斬りの顔だった。
「ああ、人の死に特別な事情が欲しいなら安心してよ。お前が死ぬのはちゃんとした理由があるからさ。というか、別に付属品のお前らに長々構ってらんないから黙ってるならさっさとやるよ?」
呆然とする三人に対し、あからさまに雑で誠意のない調子で付け加える。それでも千屠が何を言っているのかわからなかった。いや、わかっていてもそれが受け止められなかった。
「待ってください!それはおかしいです!」
「奏海……?」
二メートルのオオタチを従え殺気を放つ千屠に固まっていると、海奏が切羽詰まった声で叫ぶ。
「あなたは四葉様の関係者なのでしょう!?巡兄様を深く傷つけることは許されているはずがありません!」
「そういう約束だったし俺もそのつもりだったけどさー。まあ、状況が変わったんだよ」
「なっ……じゃあ、僕との約束はどうなるんですか!? 話が違うじゃないですか!!」
「はいはいゴメンゴメン。でもぶっちゃけ俺の知ったことじゃないし……ていうか、いいの?『兄様』がばっちり聞いてるけど。ダチにもはっきり聞こえたよなー」
「オオンッ」
奏海がハッとし、巡を見る。その顔は青ざめ、今言った言葉を否定しようとするかのように手で口をふさいだ。だが当然今の言葉は巡にも聞こえている。
「奏海? お前まで、何言って……」
「千屠と四葉が関係者って……知ってたの?」
「ほら、二人ともびっくりしてるよ。説明してあげたほうがいいんじゃない?」
「ぬけぬけと……四葉様に何を言われたのですか!」
青ざめたまま、怒りを露わにする奏海。だがそれは千屠にとってはキャタピーの威嚇行動ほどの脅威もない。
「うーん、口で説明するくらいなら牙を剥いた方が早いかなあ。なあ、ダチー」
「……」
オオタチが、千屠を守るようにとぐろを巻いた態勢から、獲物に飛び掛かる獣の構えを取る。その瞳が、巡を捕らえた。
巡を見る千屠の表情は以前サンドのアイスボールを一刀で粉砕した時よりもずっと真剣で。
ポケモントレーナーとしての敵意とは根本から違う、殺意を幾重にも丸めたような……道理も倫理も刈り取って切り捨ててしまったような瞳だった。
「……明季葉ちゃん、海奏、逃げッ──!」
故に、巡は叫んだ。叫ぼうとした。だがその声よりも早く。まるで早回しのフィルムのようにオオタチが飛び掛かる。
巡のアリゲイツが必死で守ろうとするのも虚しく。オオタチは巡の前で体を縦に回転させると己の尻尾で巡の右肩から斜めに胸を切り裂いた。真っ赤な血が噴き出して体が倒れる。自分の首と肩の間がぱっくり開いていくのが感覚でわかった。
(──────)
それに対して、何か言葉を思い浮かべることすら出来なかった。理不尽という言葉ですら、今の状況は唐突過ぎる。このまま死ぬのか、二人がどうなるのか、四葉と話しに行った涼香がどうなったのか、それについて何らかの回答を得る前に……巡の意識が、途切れる。
噴出した血が、巡に突き飛ばされて尻餅をつく明季葉の頬を濃紫に染める。体に当たる液体の感触、自分を護らんとした少年の惨すぎる傷。
「うそ……。巡……返事を、して」
「……」
巡は答えない。既に苦痛の声すら漏らさず横たわる。明季葉が近寄って体を起こそうとするとぐちゃり、という生ぬるい音がした。線は細くとも、発達中の少年らしい面影はそこにはまるでない。
「さすがに真っ二つとはいかないまでも、ここまで切っちゃえば人間なら致命傷だよなあ。仮にポケモンでも、放っておけば危ない……ねえ、奏海くん?」
「あなたという人は……!!」
奏海がフルートを取り出す。一つ深呼吸をして、フルートを構える。
「お願いです……まだ、死なないでください。あなたには生きてもらわないといけないんです」
「あはっ、やる気になった?では見事彼が蘇生しましたならば、拍手御喝采のほどを……なーんてね」
顔面蒼白の海奏が、フルートに口をつけ音色を奏でる。彼が朝になると巡の目覚まし代わりに吹いていた曲。こんな状況でも、狂うことなく調律された音色は美しく響く。
「巡の体が……!?」
笛の音に呼応するように、巡の切り裂かれた部分が淡い紫色の光を放つ。演奏が進むにつれ光は少しずつ強くなり、離れた体がスライムのように粘着し切られたはずの肉が、絶たれたはずの骨が、形状記憶のプラスチックの様に元に戻っていく。
吹き終わった時、巡の身体は衣服以外切られたのが嘘のように元に戻っていた。閉じられた瞳が開く。
「……ああ、そっか。そういうこと、なんだな」
致命傷を受けた当人は驚いていない。むしろ得心がいった、という顔で奏海を見ている。その視線がまるで耐えがたい苦痛のように、海奏は目を逸らした。
「どういう……こと……?」
「まだわからないの? そこにいる巡とかいう生き物はさー、実は人間じゃないんだよ。簡単な話でしょ? 人間があんな風に斬られてすぐ元通りになるわけないんだからさ」
「う、嘘……そんなわけ、ない」
明季葉が自分の頬をつねる代わりのように巡に触れる。戻った巡の身体は、間違いなく人間の感触。でも、人間はあのように斬られて自力で体を修復することなど出来ない。
そんなことが出来るのは──
「どんな生き物にも変身できるメタモン。それに色々工夫して人間の姿にさせて記憶とかを定着させるために決まった音楽を定期的に聞かせて……だったかな?ま、細かいことは忘れたけどそんな感じだよ。そいつはただの人間の模造品なの。わかった?」
「……そういうこと、なんだよな奏海」
フルートから口を離した奏海は深く息を吸い、千屠を一瞥した後巡に向き直った。
「奏海……」
巡を見る奏海の目は、今まで軽い兄を慎重な思考で窘める弟のものではない。作り損ねた粘土細工を見るような、冷たい表情をしていた。
「……ええ、そうですよ!あなたは僕の代わりに家を継ぐために、この旅を無事終わらせるためだけに作られたんです!なのにあなたは事あるごとにポケモンチャンピオンになりたいとか言い出して……危ないことをして……僕がどれだけ苦労したか」
奏海が開き直って巡に、自分の兄でも何でもない模造品に文句を言う。そしてその矛先はすぐに千屠へと向かった。
「許さない……!あなたが!余計なことをしなければ!四葉様のお話しの通り動いてくれれば!彼が僕の兄代わりとして、長男として家を継いでくれたんです!僕の夢は叶ったはずなんです!それを……貴方みたいな薄汚いものが、何のために!!」
「いやー、ごめんごめん。でも予定が変わっちゃったんだよ。それに、元々奏海君のお兄さんの方から突っかかってきたわけだしね?」
まるで罪悪感という感情がないかのように笑う千屠に激昂する奏海が詰め寄ろうとする。怯えよりも怒りが勝った、攻撃的な行動。でもそれを、巡は無理やり腕を掴んで止めた。
「離してください!」
「駄目だ、お前が殺される!」
「うん、今までほんとごめんね。自分がフルート奏者になりたいっていう夢の為には代役のお兄さん、しかもちゃんと家を継いでくれるような人を仕立てなきゃいけないから苦労したよね。でももう、どうだっていいじゃん?」
「良くないッ!!」
「どーでもいいって。巡が人間じゃないって証明してくれた段階でお前の役目は終わってるんだからさ。なあ、ダチー」
「……オオンッ!!」
オオタチの爪が黒き輝き伸びる。それは一切の躊躇なく奏海の心臓をまっすぐに貫こうとしていた。人間に見切れる速度ではないそれは冷静さを失った少年の胸を貫く。
「ぐうっ……ああ!」
「巡!?」
それは再び、巡を切り裂く。巡が奏海の体を大きく突き飛ばして無理やり避けさせたのだ。今度は倒れない。苦悶の表情を浮かべながらも胸を貫かれたまま意識を保ち、なんとか影の爪を掴もうとする。
「えっと……色々と何やってんの? まさか人間じゃないパワーがあるから俺に勝てるとか少年漫画的な展開が出来ると思ってる?」
『シャドークロー』の効果が消え、掴もうとした影が消える。栓を抜いたように巡の身体から濃紫色の液体が漏れ出した。それはもはや、人間の血の色ではない。
「奏海……笛を、吹いてくれ。明季葉ちゃんは……俺の後ろへ。絶対、傷つけさせないから」
「……!!」
なりふり構わず、巡を死なせないようにフルートを奏で始める奏海。明季葉は混乱しつつも、巡の声に頷く。
「うぷっ……うははっ、ねえ何言ってるかわかってんの? 傷つけさせないって、正気? 興奮で正義のヒーローでも気取っちゃってる?そういうのほんとウザイからやめてよね。ぶった切りたくなっちゃうからさあ!『アイアンテール』!」
鋼の鋭さを纏った尻尾が真剣のように振りぬかれ、巡の右腕を肩から斬り落とす。巡は苦痛にもがきながらも、足で落ちた腕を拾い上げて。ぐちゃりと音を立てさせて、スライムか何かのようにちぎれた腕をくっつけた。奏海がさらにフルートを吹き続けると、噴き出る血は止まる。
「へっ……何してる何言ったって、子供かよ?」
「あ?」
千屠が巡達に向けた言葉を真似るように挑発すると、わかりやすく額に青筋を浮かべた。
「お前のオオタチはどれだけ強くても、斬ったり体当たりすることしかできないんだろ?……だったら、俺は負けない。二人のことも、傷つけさせない!」
「馬鹿だなあ、さっきの奏海の言葉で察しがつかないの?奏海はお前の正体について知っててずっと黙ってたんだよ?お前を兄と呼んでたのは演技で、本当は代用品としか思ってないってわかるよね?女の子はともかく、そいつ守る意味なんてないじゃん?」
「……わかってたさ」
巡が一瞬後ろの海奏を見る。それは弟に対する優しさと、それ以上に、寂しさが滲んでいた。
「俺が人間じゃないなんてことは知らなかったけどさ。奏海が自分じゃなくて俺に家を継いでほしい、継いでくれないと困るなんてことくらいはわかってた。俺が病気から治ってから、海奏にはあの曲と同じくらいそのことを言われてたからさ」
「……なーんだ、つまんないの」
「後、俺がお前達に勝てるなんて、思ってないさ……でも、お前は大事なことを忘れてるぜ。俺達の旅は……三人だけでやってるわけじゃないことを!」
その瞬間、千屠の真横を業火が突き抜けた。オオタチは大きく飛びのいて躱し、後ろを見る。そこには、巡達新人トレーナーを引率するベテラントレーナーの女性とその手持ちであるヘルガーがいた。
「俺はお前に奏海と明季葉ちゃんを傷つけさせない、後は涼姉がお前を倒す!それで終わりだ……お前の勝手にはさせない!」
巡が宣言する。千屠は俯いて肩を震わせた。オオタチの刃でいくら鋭く切り裂いても巡を殺すことはできない。そして、涼香の操るポケモンの炎は到底あしらえるような強さではない。
「やだなあ……忘れてなんてないって、むしろ計画通りさ。教えてあげるよ……お前らが俺の生き残るための血肉に過ぎないってことをね!!」
だけど、千屠はむしろ今までで一番楽しそうに笑った。まるで畑一面に実った黄金の小麦を刈り取る瞬間のような、満足と興奮が全身からあふれ出すような快楽につつまれたように哄笑した──
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そして少女は業火と為った
ジムの最奥へと走る涼香が目にしたのは、一匹の獣が引率トレーナーの体を引き裂く瞬間だった。左肩から右の腰までを斜めに一閃、巡の、一人の少年の体から血を吹き出す。
間に合わなかった。また自分の過ちが罪のない少年の命を奪ってしまったという喪失感が胸を焦がす。
(巡……ッ!!)
それでも確実に千屠を止めるために声は上げない。口の中を切って血の味が滲むほど憎悪を噛みしめて近づく。
──だが。巡の身体は朽ちることなくスライムのように再生する。それがどういうことなのか涼香にはわからない。でも、巡達はその現象を受け入れ利用しているようだった。
なら、そこへ疑問を呈して時間を使うようなことはしない。三人を信じ、千屠を倒すためヘルガーの炎を叩きこむ──
「はっ、そんなに当たらないっての!」
「オオッ!!」
挟み撃ちにされた状況を利用し、千屠とオオタチは身軽な動きでヘルガーと巡達の中心に位置を取る。思い切り火炎放射を撃てば、三人に炎が襲い掛かるように。
「……!!」
「ヘルガー、止まって!」
人間のことなど気にしないヘルガーは構わず炎を放とうとしたが、涼香の制止よりも先に炎を止めた。
「あれ、人間嫌いのヘルガーって聞いてたから構わず撃つと思ったけど……いや、だからこそかなあ?あそこには人間二人がいるけどもう一つは人間っぽいポケモンだもんねえ?」
「……どういう意味」
「まあ、前座の話はいいや。それで涼姉は今すぐ俺を殺す? 確か、自分の罪を贖うんだよね?」
「あんたには関係ない!」
「それがあるんだよ。言ったでしょ? 計画通りだって。本当の意味でこの旅を仕組んだのは、俺なんだよ」
「仕組んだ……!?」
この旅を計画したのは四葉のはずだ。チャンピオンとしてこれからのトレーナー達が安全に旅を送れるようにするための制度に自分を組みこみ、人との繋がり立って堕ちる友人を立ち直らせるために四葉自身を悪役にしてまで自分の怒りを煽りつつ振る舞う。それを計画できるのは自分を想ってくれた彼女だけ。なのに彼は自分が仕組んだと言った。
「そうそう。巡君達だって気になるでしょ? 自分がどういう存在なのか」
「それは……」
「……大人しく話すなら、懺悔を聞いてあげるわ」
涼香はこらえるしかない。後で四葉に聞くことが出来ればそれで済むことだ。だが、もし四葉の命が助からなければ。自分だけではなく、三人にまで一生消えない心の傷がついてしまうかもしれない。それが千屠の狙いだと分かっていても、一度話を聞くしかない。
「といっても、そんなに難しくないし長い話じゃないけどねー。そもそもの始まりはさ。奏海君のお兄さんを俺が殺しちゃったことなんだよ」
千屠は語り始める。まるで夏休みの絵日記を読み上げるような、軽々とした口調で人を殺したと。
「手に入れたばかりのポケモンを奴隷みたいに扱って、それで自分が強いみたいにイキり倒してたのがむかついたからさ。まあさっくり殺しちゃったんだけど……それがこれから旅に出るトレーナーだっていうんだから笑えるよね。で、そんな大事なトレーナーを殺したことに怒った四葉姉ちゃんに捕まったというわけだよ」
刹那的な感情で動く獣のように、短絡的な子供のように勢い任せな行動をずらずらと並べる千屠。業を煮やした涼香が問う。
「……なら、あんたはどうして自由にしてるの」
「俺ってさあ。たくさん人やポケモンを殺して来たし、殺す奴も見てきたから。顔を見ればそいつが人殺しかどうかわかっちゃうんだよねー」
一転。千屠の目が死神の鎌のような弧を描いて心底愉快そうに笑う。
「四葉姉ちゃんを見た時も、すぐにわかったよ。この人は人を殺してる。しかもすごく苦しんでるって。だからさあ……捕まった後、聞いてみたんだよね」
『自分のこと棚に上げて、人を殺したことを責めるのってどんな気持ち? むしろ人を殺した苦しみってどんな気持ち?』芝居がかった口調。涼香の拳が震え、千屠を睨みつけた。
「そしたら、まあどうせ罪人だしと思ってたのか割と素直に話してくれたよ? 自分がチャンピオンになりたいがために友達を陥れて、その弟を死なせて、失意にくれる友人を放ってチャンピオンとして仕事をしてるって」
やはり四葉は自分が涼香の弟を殺したという罪悪感に苛まれていたという。よほど強い苦しみでなければ、思慮深い四葉が千屠に伝えることもなかっただろう。
「今の話を聞いた俺は考えたんだよねー。俺とダチが生き残るためにはどうすればいいかって。で、四葉姉ちゃんから今の話を聞いて思いついた。大切なお友達にもう一度立ち直ってもらうために、俺達で『悪役』になろうって。お友達と新人トレーナーにちょっかいをかけて絆を深めてもらったりすれば、お友達は元気になってくれるかもしれないじゃん? 弟の死なんて忘れてさ」
「……私は、忘れたりしない」
「そんなことあの時の俺と四葉姉ちゃんがが知るわけないじゃーん?一年間も引き籠っといてよく言うよ」
正論だ。だが自分たちと何の関係もない人間に言われたくはない。そんな心情さえもお見通しなのか、千屠はまあもう少しだから落ち着いてよ。などと言う。
「というわけで、四葉姉ちゃんがチャンピオンとして暗躍、俺が直接君らの前に出て引っ掻き回すっていう役割分担だったんだ。勿論俺は旅の間君らを殺すつもりはなかったし、そんなことしたら今度こそ死刑っていう条件付きでね」
「……なんで、四葉はあんたなんかにそんなことを頼んだのよ」
「またまたー、なんとなくわかってるくせに。四葉姉ちゃんは体が丈夫じゃないから、一々ちょっかいをかけたりはできないって想像つくでしょ? チャンピオンの仕事だってあるんだし。俺以外に頼ろうにも自分の不正した事実は明るみに出来ないわけで」
まさか、四天王辺りに僕は実は友人に不正をするように仕向けてチャンピオンになったんだ!なんて言えるわけないでしょ?と。
「そこで俺が必要だったってわけだよ!……っていうか、そうなる様に俺が話を持ちかけたんだけど」
そういう千屠の声は、震えていた。恐怖にではない。興奮。気分が高揚しすぎて暴れまわる直前の子供のそれで。
「で、この一連の流れを合わせて言わせてもらうけど……」
凶悪な、我利を求める悪鬼のように千屠は叫ぶ。
「勿論、どうすれば俺とダチが生き残れるか真剣に考えた結果の提案出会って俺はお前ら全員がどうなろうが知ったこっちゃねえし?むしろ隙を見て全員殺すつもりだったわけで。四葉姉ちゃん含めて全員俺らが生き残るためだけにあたふたしてたんだよねー!なーダチ!!」
「オオンッ!!」
「あははははははっ!!四葉姉ちゃんも頭いいのにさー。直情バカの友人一人の為にこんな途方もない嘘ついて、立ち直ってもらおうなんて馬鹿なこと考えちゃってさあ。奏海も自分の夢を叶えるためには別の跡継ぎがいるとか言って必死に偽装に協力してさあ!他人のしがらみに振り回されてすぐばれる嘘なんかついちゃって、だっせーの!!この世界は自分が生きられればそれでいいんだ!他人との関係なんて利用できるときだけ利用すればいいし、要らなくなったらばっさり切り捨てればいいんだよ!!みんな、人付き合いがへったクソだよねー!!おかげで俺みたいな殺人鬼一人にこんなに振り回されてくれるんだからさあ!!」
けたたましい笑い声が血濡れたジムに響き渡る。耳障りで聞くに堪えないそれは、他人の都合など一切考えない、自由で独りよがりの哄笑だった。
そして、それが、ほんの少しだけ収まった時──涼香は、対照的に静かに。千屠に言う。
「……最期に、一つだけ答えなさい。四葉の約束を反故にして逃げず、わざわざ私達を殺そうとする理由は?」
「……はっ、なにそれ。殺人鬼の思考回路なんかに興味あるの?」
「答えて」
大山のような重さの声に、千屠の体の震えが止まる。過呼吸にでもなったのか息を荒さを落ち着けるように息をついて。
「俺の名前は千屠だよ?千人の千に、屠殺の屠と書いて千屠。今までもいろんな地方を回って俺とダチで好き勝手殺してきたけどさ。一個、叶えたい夢があったんだよね。ただただ一生ずっーと殺し続けて千人目、じゃつまんないしー。なあ、ダチ」
「……オオッ?」
首を傾げるオオタチに構わず両手を広げ、記念すべき栄誉を称えるように誇らしげに。彼は言った。
「一生に一度くらいは!もっと残酷に醜悪に極悪に残虐に劣悪に苛烈に悪逆に、恨まれて憎まれて蔑まれて怒られて罵られて疎まれて裏切られて絶望されるような!そんな、ただの怪しい辻斬りじゃない、色んな人の記憶に残る、邪悪な存在になってみたかったんだよ!!千屠の字が相応しい本物の悪党にねぇ!!」
……狂っている。この場の全員がそう思った。自分の名前の為に、特別な思想や理想もなくただ悪党になりたかったと中身のない『有名人』になりたいという幼子のような夢を、彼は裏切って殺すことで叶えようとしていると叫んだ。
「……そう。なら、この場であんたを殺してから私は罪を償う。悪いけど、そうさせてもらうわ」
こんなのは、もう終わらせなくてはいけない。友人と、これからを生きるトレーナー達の為にも。涼香はその決意を込めて宣言した。
「あは、それ何に対する悪いなの?……まあ、もうどうでもいっか。この場で君ら全員殺して、念のため四葉姉ちゃんにも止め指しちゃえば俺はもう自由だからね」
「……そうはさせないわ。私は四葉と罪を償う。その為に、この子たちを見届ける。例え何を言われようと……そう決めたから」
涼香の心が黒く燃える。自分の弱さが生み出したこの惨劇に、それを利用する千屠の暗い怒りを、胸に抱きしめたヒトモシが熱を伴う煉獄の炎に変える。それがヘルガーの体を包み、三つ首のケルベロスのような怪物へとなり果て。どす黒い炎が空間を支配する。
「随分かっこよさげだけど……俺とダチには効かないもんねー!!ダチ、『居合斬り・影打』!」
「オオンッ……!!」
オオタチが長い体で蛇のようにとぐろを巻く。前の戦いではその体勢からばねのように体に勢いをつけることで鋭い居合斬りを放ったが、今度は態勢を変えない。体に隠れた鋭い爪を振るうことすらしない。
だが、四葉を貫きまた過去に幾重もの命を奪った影の爪が。実際の居合斬りと同じ速度と鋭さを持ってヘルガーの炎を切り裂いた。何度炎が迫ろうと、常に居合の態勢から放たれる影の爪が全てを切り裂く。
影の爪が防ぐだけでなく、草刈のように炎を散らして涼香やヘルガーへと迫ろうとする。涼香、ヒトモシ、ヘルガーが三位一体となって放つこの攻撃は他の手を加える余裕などない。
「恨まれるのは慣れてるんだよね。復讐だのなんだって突っかかってきたやつを数えきれないくらい返り討ちにしてきた俺たちにそんな付け焼刃が通じるかよ!!」
千屠は叫ぶ。数多の人をポケモンの命を奪った殺人鬼として。だがその頭を冷やさせるように――千屠の顔を、『水鉄砲』が撃ちつけた。思わず振り向くと、巡が手のひらをまるでアリゲイツの口のような形に変え、『水鉄砲』を放ったのがわかった。
「俺が人間じゃなくてポケモンだって言うなら……こういうことだってできるんだろ?」
「あっそ。だから何? そんなんじゃ俺を傷つけることさえできないって」
「……さっきも言っただろ?」
ハッとして千屠が涼香の方へ向き直る。黒い炎はほとんど抑え込み、後数太刀入れればヘルガーを切り裂くことが出来る。だが千屠は思い違いをしていたのだ。
涼香がかつて旅をした時に連れていた相棒が、今さら彼女に手を貸すなど他人との関係は都合が悪くなったら切り捨てる彼は露ほども思っていなかったのだから。
「ゴウカザル……!? まずい、ダチ!」
千屠が涼香から意識を反らした隙に、頭にオレンジ色の炎を聖火のように灯す大猿の火炎ポケモンが。炎を切り裂く隙を縫って突進し、とぐろを巻くオオタチの真正面に立ちはだかる。
「『インファイト』!!」
千屠が意識を逸らさず涼香に集中していれば突っ込んでくるまでの間に何か対策を打てただろう。だがもう遅い。小細工なしの無数の拳がひたすらにオオタチの体を打ち据え、吹き飛ばす。
このゴウカザルは、昔涼香の相棒だった。最初の旅の最初からずっと一緒にいて、最後の最後で信じ切れず。涼香が裏切ってしまった、相棒だった。それでもゴウカザルは、涼香の元へ戻れると信じて、涼香が戻ってくれると信じて、四葉と共に待っていたのだ。
「……人の関係は不要になったら捨てればいい。同感ね。私が一年引き籠ってたのも馬鹿らしいし、そんな私の為に気を病んであんたの口車に乗せられる四葉も馬鹿よ。でも……それでも私達は捨てられない。それが自分の枷になったって、それでも大事な人の気持ちを背負い続ける……恩も、怨もね」
自分が犯した罪から逃げようと、嫌な関係を断ち切ってしまったことが四葉を苦しめ、この惨劇を生んでしまった。そして大切な人との関係を切り捨てなければ、またやり直せるはずだ。新しい人と繋がり、過去を乗り越えられることだってできる。涼香はこの旅で、そう確信した。
「だから私は、あなたを殺す。自分の為だけに他人の気持ちを利用したあなたを私が殺して……全ての罪を、私が背負う!!ヒトモシ、ヘルガー!!」
「もしぃ……!」
「ルガアアアア!!」
オオタチが立ち上がり、千屠の元へ駆け寄ろうとする。だがそれをゴウカザルが許さない。尻尾を押さえつけ、オオタチはそれを蛇のようにうねってぎりぎりで躱す。勝負こそつかないが、目の前のゴウカザルへの対処に必死なオオタチは、千屠の助けに入れない。
「……何それ? 自分だけの為に殺すか、自分が人の想いを背負って殺すかだけの違いにしか聞こえないけど? それで正当化出来るとか本気で思ってるの?」
「……思わない。私は自分の犯した罪を償う。弟を殺したことも四葉を傷つけたことも、巡達をこんな目に遭わせたことも……あんたを殺したという罪も、私が背負う」
「なーにそれ、意味わかんない。ホント、バカみたいな生き方だと思うよ。……ま、どうでもいいけどさ。俺はあんたのことなんて」
「だからこれから私を一生焼く業火……先に喰らって逝きなさい!!ヘルガー、『火炎放射』!!」
「ガアアアアアアッ!!」
黒い炎がヘルガーの三ツ口から噴出され、千屠を覆い尽くす。千屠の体が炎の中でもがき苦しみ、まるで赦しを乞うように手を伸ばす。それを見てオオタチは千屠の元へ向かうのをやめ、ゴウカザルの不意をついて逆方向へと逃げ出した。オオタチは千屠の元へ戻ることなく、まるで見限るように一目散へとジムの外へ逃げだす。千屠自身が、都合が悪くなったら切り捨てればいいと口にしたように。
自業自得の結末を、涼香は胸に焼き付ける。本来自分がああなってもおかしくなかった。自分の弟を殺した四葉にあの炎を向けていたかもしれないし、自責の念に駆られて自分で自分を焼き殺したかもしれない。そうならないように、自分は生きていかなければいけないと思いながら……炎の中の彼を目に焼き付けていた──
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救いの夢から償いの未来へ
一年前、この旅の始まりは。リーグチャンピオンの女性と殺人鬼の少年から始まった。
「……ねえ、お姉さんって、人を殺してるでしょ? 自分も人殺しなのにのうのうと他人の罪を責めるってどんな気持ち?」
殺人の罪で四葉に捕らえられ、独房に入れられた少年が問う。どれだけ凶悪な殺人鬼でも、独房の中で真っ白な拘束服を着せられ相棒であるオオタチとも隔離した彼は無力だ。四葉は素直に答えた。
「何を言っているんだい? 僕は君のように、人間を真っ二つに両断したことなどないよ」
「……でも、殺したのはほんとでしょ?俺、今までもたくさん殺したし殺す奴も知ってるから。お姉さんの顔を見れば人殺しってわかっちゃうんだよね。なあダチ……は、いねえや」
「……なるほどね」
四葉は顎に手を当て、少年を見つめて考える。
「えっと……何? 地雷踏んだ? 君のような勘のいいガキは嫌いだよとか言って死刑を待たずに今消しちゃう?」
「いいや、むしろ察しのいい人間は大好きだよ。そう……君になら、頼めるかもしれないね」
「……冗談でしょ? 俺みたいな平気で人を殺す奴に何を頼むのさ」
考えがまとまったのか、四葉は檻のカギを開け、少年の前まで近づく。少年の体が自由ならこの隙に四葉の体を羽交い絞めにして、脆いほど細い体を折ることも出来ただろう。でも、今は文字通り手も足も出ない。四葉は躾の為に口輪をつけた飼い犬を見るような眼をしていた。少年の体がぞわりと震えた。
「怖がらなくていいよ。今から君は、人間をとる漁師になる」
「はっ……?」
かつて罪人を許した聖なる人の言葉。四葉は拘束した少年を自らの細い腕で抱きしめる。綺麗に伸ばした髪が少年の顔にかかる。そこへ少年への警戒や恐れはない、敵意もない。乱暴な弟を窘める姉のようにその身を寄せて、囁く。
「これから僕の言うことを聞いて、あるトレーナー達の前に立ちはだかってほしい。君は君らしく、自分が生きるために人を殺すことを厭わず、他の誰にも省みない屠殺人として。ただし、彼らだけは殺しちゃダメだ。君の想いを伝えて、戦って、子供でも分かるような悪として彼らの記憶に残ってほしいんだ」
「そんなことして、俺に何の得があるのさ?」
「君の友達を返してあげる。僕の用事が終わったら自由をあげる。……君が望むなら、僕が君を赦してあげる。」
そう言って四葉は、少年の頭を撫でる。表情は優しく、少年が殺人鬼であると明白に理解し、自分の妨げになったことを承知の上で柔らかく千屠を包んだ。
「……ダチと、自由だけでいいよ。俺、他人に許してほしいとか思ってないしね」
でも、少年は四葉の要求を呑んだ。呑まなければどのみち死刑でもあるのだが、彼は打算とは関係なく頷いたように見えた。
「……僕はね、昔いつ死んでもおかしくないような病人だった。治療にはたくさんのお金がかかって、それでも意味がないかもしれなかった」
「?」
唐突に語り始める四葉に千屠が首を傾げる。
「今はチャンピオンの地位にいるけど、君の言うとおり人を殺して無理やり手に入れた結果論さ。僕は両親の財産を食いつぶして、倒れる度につきっきりで看病をしてもらって迷惑をかけて、周りに気味悪がられて生きてきた。昔は、こっそり薬を飲み忘れて死んだ方がずっと両親を幸せに出来るんじゃないかと思っていたよ。でも、死ぬのは怖かった。そんな僕を、両親とたった一人の友人が赦してくれたよ」
「……殺したのって、その友人ってやつ?」
「当たらずも遠からずだね。やはり君は察しがいい。……だから、人に迷惑をかけ続けた人殺しだって、赦されたっていいはずさ。周りや君がどう思おうと、僕はそう思う。だから君が、僕のお願いに協力してくれるなら、今までの君の罪を全て赦してあげる。君の免罪符になってあげる」
「……あはっ。お姉さんって、変な人だね」
少年は子供らしい笑顔を見せる。この顔だけ見れば、彼が殺人鬼だと言っても信じられないだろう。
「まあ、許したければ勝手に許せば? 別に姉ちゃんが俺をどう思おうと俺はどうだっていいからさー」
「……契約成立だね。もう一度言っておくけど、僕が殺してはいけないと言った人は決して殺してはいけないよ」
「……うん、わかった」
「さて、じゃあ君の名前を聞いてもいいかな?まだ聞いていなかったからね」
「セントだよ。でも、あんまり名前で呼ばれるの好きじゃないからさー、適当にあだ名つけてよ」
少年の声が気まずそうに曇る。四葉は小首を傾げた。
「何故かな? 嫌な思い出でもあるのかい?」
「……俺、末っ子でさ。物心ついた時から家の中で一番いやな仕事ばかりさせられてて。小銭稼ぎだけしてくれればいいって言われた育ったんだ。それに嫌気が差したからダチと一緒に旅に出たんだけど」
人を殺しても何の罪悪感もなく笑う少年が、心の底から辛そうな顔をする。できれば、思い返すことすらしたくなさそうに見えた。
「なるほど、小銭ね。それはいけない。名乗りたくなくなるのも納得だよ」
四葉は外国にセント、という硬貨の単位があるのを知っている。一秒少年を撫でる手を止めて考える。
「なら、僕が君に相応しい名前を挙げよう。今日から君はこの国の名前で千屠だ」
「……変わってないじゃん」
「いいや、きっと気に入ってくれると思うよ」
四葉が自分のトレーナーカードを開き、千屠という文字、そして文字の意味を教える。
「千もの命を当然のように屠る。人々が小銭を消費するのを気にしないように。君にぴったりの名前だと思わないかい?」
「……いいね。それ。ダチにも聞かせてやりたいな」
この時だけは、少年は心の底から嬉しそうな声で言った。まるでずっと見つからなかった宝物を見つけたように『千屠』の文字を見る。
「よし、じゃあこれからよろしく頼むよ」
四葉は立ち上がり、独房から出ていく。少年セント改め千屠の拘束服は、外さない。
「あれ、今から出してくれるんじゃないの?」
「まさか。そんなことをすれば君は名前だけもらって僕を殺すだろう?」
「……かもね?」
「自分より強い生き物を手懐けるコツはね。最初に僕には絶対に勝てないと思わせることだよ。……じゃあ、しばらく後でまた会おう。次に会う時は、そこから出してあげるよ」
いつ出られるようにするのかは言わず、四葉は出ていく。そうして四葉と千屠の間に協力関係が生まれ、計画は動き出した。ああ、夢か。自分と千屠が出会った時の記憶を見て、四葉はぼんやりと自嘲する。結局自分には、千屠の罪を赦してあげることも、涼香の前で嘘を貫き通すことも出来なかった。チャンピオンになれるトレーナーとしての才能とこの地方を良くする頭脳は持っているつもりだったが、やはり友人の大事な人を死なせたことにすぐに言えなかった弱い自分には出来ないことの方が多いのだろう。
四葉の記憶はここで終わり、次に千屠の声を聴くのは彼を独房から出してからだった。だが、夢の中の彼は四葉を見て囁く。
「……ありがとう、ちょっと嬉しかったよ。だから俺が……お返しに、四葉姉ちゃんを赦してあげる」
それは四葉の脳が見せた泡沫の夢か。千屠が伝えたかった本心か。それを考えようとしたとき、彼女の意識は覚醒へと引きずられた。
「……ああ、この景色。久しぶりだね」
四葉は病院のベッドで目を覚ました。チャンピオンになってからは体調を崩しても病院に行くことなく、治療を受けられるようにしていたから、一年以上前のことになる。だがそれ以上に、四葉はそれがずっと前のことのように感じられた。
横たわる四葉の傍で、涼香が壁にもたれて目を閉じて自分の目覚めを待っていたからだ。
「……四葉!」
自分が目覚めて少し体を動かした衣擦れの音を感じ取ったのだろう、涼香が目を開け四葉を見る。野生の獣のような鋭い感覚に懐かしさを覚えつつ、四葉は聞く。
「……君と僕は、生きてるんだね。あの子たちは?」
「明季葉と奏海は無事よ。……巡が身を呈して守ったから」
「……知ってしまった、だろうね」
自分が人間ではなく、人間を模したメタモンでありフルートによる旋律が無ければ人間としての意志を保つことさえ怪しいという現実。それは受け止めがたい事実だろう。
「千屠は……あの子はあれから何か言っていたかい?」
千屠はどうなったか、は自分と彼女が生きていることから聞く必要のないことだった。四葉はそう思っていた。
「ええ。自分からペラペラと話してくれたわ。自分が助かるためだけにあなたを唆して、その気にさせてこんな旅を仕組ませたって」
「えっ……?」
四葉が小さくだが驚く。あれは自分から持ち掛けた話だ。彼がいなくても、何か別の人間を用意するなりして計画は動いていた。思わず言葉を止めて考える四葉に、涼香は首を振った。
「……なんであいつがそんなことを言ったかはわからないけど。あんたが子供一人に唆されたくらいで動くような衝動的な性格してないことくらいわかってる。ただ、あの子達にはそういうことにしておいて」
何故、彼はそんな嘘を涼香達に話したのだろうか。自分の心臓を狙った時の千屠の殺気は本物だった。彼は彼らしく、千の命を屠る者として自分も涼香のことも殺そうとしたはずだ。
(彼が僕の罪を被ろうとした……?いや、まさか。それは彼という屠殺人への侮辱、かな……)
真実はわからない。ただはっきりしているのは、自分には彼の罪を赦してあげることなど出来なかったばかりか更に罪をかぶせて死なせてしまったということだ。そう思うと自然と瞳に涙が溜まり、自分が千屠の死を悲しんでいることを理解した。
「……ごめんよ」
「何、今更」
「僕は……君が閉じこもった時、弟の死が悲しいことは理屈ではわかるけど、そこまで落ち込むなんて思ってなかった。塞ぎ込んで誰とも話さなくなるなんて想像もできなかった。君の気持がわからなかったんだ。でも……そう、こんな気持ちだったんだね」
ぱたりぱたりと、四葉の手に涙が落ちる。自分が悲しいという気持ち、でも悲しむ権利などないのではという罪悪感。そしてそれでも止められない感情。涼香が塞ぎ込んだ時の恐れとは全く違う感情に、四葉は声を上げずにただ雫を落とす。
涼香も、自分の弟の死を想ったのか、少しだけ顔を赤くして瞳を滲ませた。でも、既に向き合う覚悟を済ませた彼女はそれを軽く拭って。これからの話をする。
「……旅は続けるわ。明季葉や巡の意志も聞かないといけないけど……少なくとも、ヒトモシやヘルガーとの約束は果たす必要があるから」
この旅の為に涼香が檻から出した二匹のポケモンが抱える人間への復讐は終わっていない。それを果たすのは、涼香の責任だ。巡や明季葉がまだ旅を続けるというのなら、それを引率者として見届けることもまた、罪を背負って生きる為にやらなければならない。それは四葉によって操られた強制的なものではなく、既に涼香自身の意志だ。
「私は弟の死を、昔応援してくれた人への裏切りを背負って生きる。だから四葉も……千屠の死を悲しいと、それが自分の罪だと思うなら。彼への贖罪として生きて。チャンピオンとしてこの世界を良くしてあげて」
「……うん、必ず」
かつて同じ町から巣立った二人は、近しい者の死と裏切りを背負って、生きていく。背負うよりも記憶の中に葬り去ってしまった方が楽なのかもしれない。関係ないと、絶ち切ってしまえば自由になれるかもしれない。
だけど、それは死者だけではなく今生きている人との繋がりも捨てることだ。塞ぎ込んで廃人同然の生活をしていた時のように、生きている時間を食いつぶすだけ。
背負うことは辛くても、今いる大事な人と、これから会う誰かと巡り合っていく方がずっと生きている意味がある。そう――
「涼姉!入っても大丈夫!?」
「……巡、声が大きい。病院は静かに」
「いいわ。四葉も起きてるけどそれでもいいなら」
そう言うと、巡がゆっくりとドアを開けて、続いて明季葉が四葉に一礼して入ってくる。明季葉の手には、奏海とは別のフルートが握られている。
「……大体の顛末は涼香から聞かせてもらったよ。君達を騙していたこと……済まなかったね」
「いいん……です。四葉さんが何もしてなかったら……そもそも『俺』は生まれてなかったんだから」
本当の海奏の兄は千屠が殺害していて、今ここにいる巡はそれを模したメタモンによる模造体だった。自分が人間ではないことを巡はどれだけ受け入れられているのか。今は落ち着いているようだが、これから先そのことに悩まさせることも必ずあるだろう。
「とても怖かったし、そんなことを考えていて明季葉たちに何も言わなかったことは思うところがあるけど……巡がいるのは、四葉さんのおかげだから」
「教えてください、お願いします!俺……人間じゃないかもしれないけど、人間として生きていたい!旅を続けて、そのあとは家を継いで……俺の生まれた意味を全うしたいんだ!」
「お願い、します」
巡と明季葉は二人で四葉に頭を下げる。
「……わかった。僕から説明はするけど、一番詳しく知っているのは奏海だからね。……彼は?」
「しばらく一人にしてくれって……旅も、もう続けたくはないって言ってた。俺と、どんな顔をして話せばいいかわからないって……」
奏海も、巡達をある意味では騙していた。自分の目標の為に欺いていたことへの罪悪感があるのだろう。彼のこともゆっくり導いてあげる必要がありそうだ、と四葉は思う。
「二人は、旅は続けるってことでいいのね?」
「続けるよ!涼姉も、来てくれるよね?」
「勿論、引率のトレーナーとしてついていくわよ。……明季葉は、それでいいの?」
「うん。明季葉も……そうしたい」
涼香は明季葉の旅の目的を聞いている。巡が実は家の長男でなく、人間でさえないのなら彼女が旅をする理由はなくなったことになるが……奏海のフルートを握り締め、巡を見る彼女の顔を見ればそれとは別に、旅をする理由が出来たということだ。それについて言及するのは、野暮というものだろう。
「……ありがとう、四葉」
「いいんだよ。それは君の旅が終わってからでも、ゆっくり聞かせてくれ」
「そうね。じゃあ巡、明季葉。出ましょう。まだ意識が戻ったばかりだからあまり長居はしない方がいいわ」
「あっ、そっか。またね、四葉さん!」
「……失礼します」
巡と明季葉が先に出ていき、涼香も続いて行こうとする。その背中に、四葉は最後にこう声をかけた。
「また会おう。僕の一番の友よ」
「ええ、いつでも会いにいくわ。四葉は私の……一番の、友達だから」
四葉は平然を装って。涼香は照れくささを隠せずに。ずっと久しぶりに交わせた友としての言葉。もう二人はライバルでも、騙し偽った怨敵でもない大事な友人として生きていける。二人の人生にこれから何が待ち受けていようとも、それだけは変わることはないだろう――
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