オリ主探訪日記 (ミックス)
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転移前 現実世界
1.シンプルな日記帳
☆月★日
俺は転生したらしい。
いや、マジでさ。気がついたら赤ん坊で、目を開いても光がボヤ~っとしか見えなかったら、体が全然動かなくてスゲェ焦った。
しばらくしてから、母親らしき人が来て俺の世話をしてくれたから、あぁ今の俺は赤ん坊なんだって気づいた。それよりも、赤ん坊が何でいつも寝てるのか分かったわ。すぐにスゲェ眠くなったもんな…
未知の世界が怖いから、何があったか後で確認できるように忘れる前に日記をつけることにする。それに、子どもの頃の記憶は段々と思い出せなくなってゆくものだ。
☆月★日
衝撃の事実。
ある程度成長してから知ったんだが、地球環境はメチャクチャになって、人の生存領域は大幅に縮減されてしまっているらしい。
今は、劣悪になった環境から人間を隔離するスペースを作って、人は生活しているようだ。ここは俺がいた地球の未来なのか?明らかに人類の未来がなくて終わってるんだが…
そういえば、そんな設定のゲーム、昔したなぁ。
☆月★日
おい、聞いてくれ。
衝撃の事実パート2、人間の社会も終わっていた件について。
社会体制が崩壊していた。基本、アーコロジー内で社会が閉ざされているせいか、ある特定の企業が社会を支配する体制になっているみたいだ。
パパンに聞いたんだが、企業が社会を支配しているせいで、賃金が下がり、ギリギリの生活しかできない人で溢れているそうだ。
そのせいで、学校に通うことができない人もいるみたいで、小卒なんてのもザラなんだと。
マジ、やべぇんだが…
うちは幸いにも、パパンがアーコロジーの管理系の仕事らしく、それほど金には困っていない。
周りを見てる限り、明らかに機械の発展レベル高そうだし、優秀なエンジニアは重宝されてるみたいだ。俺も今のうちから技術的なこと教わった方がいいかなぁ。
☆月★日
今日初めてアーコロジーの外の世界を見た。
空は厚い雲がかかって、日が射し込むことはない。日がささないので、光が必要な植物は当然全滅していて、今はアーコロジー内に保存されている植物か、雲の上の高地など、極一部、標高の高いところに僅かに生育してるのみらしい。
マジかよ…酸素とかどうしてんの?って聞いたらアーコロジー内の機械で生成して、調整した濃度の酸素を空調で送ってるってパパンが言ってた。
流石、アーコロジーのエンジニア。
てか、ここ鋼殻のレギオスの世界っぽくない?いや、ないか。
基本、外は死の世界って言っていいんだが、僅かだが人がギリギリ生存できる場所もあるらしく、文明を捨てた人が生活してるらしい。
そいつらは、アーコロジーの人間を襲って物資を奪うらしく、アーコロジーの人間は奴らをレイダーって呼んでる。世紀末か!とか、フォールアウトかよ!とか突っ込みたかったが、実際生活してる身としては全く笑えねぇよ。
☆月★日
パパンからエンジニアに必要な技術を学んでいる。
頭パンクしそう。
機械の発展度合いが高いから、修得しなきゃいけない学問も技術も高レベルの物が要求されるのはわかってるんだが…
パパンは何で制御盤に手を突っ込むだけで、修理ができたり、設定の変更ができるの?
それ、明らかに物理だよね?
機械を叩いて直すんじゃないんだからさ…
俺、エンジニアなれるのか心配になってきた…
そういえば、転生してから何か特典みたいなのないかなーって探してたんだけど、特にないみたいだった。強いて言えば、割りと余裕のある生活ってことかな?
ありがとー、パパン、ママン。
☆月★日
ちょっと!学習装置があるなら早く教えてよ!
今まで必死こいて勉強してたのは、なんだったのさ!
そこっ、笑わない!
…えっ?
学習装置を使うには特別な手術が必要?
専用のインプラントを埋め込む必要があるって…
こえーよ!
だけど、学習装置を使うには絶対必要とか、うごごご…
☆月★日
結局手術しました。
学習装置の魅力には勝てなかったよ…手術後には、首の後ろあたりに金属が埋め込まれていて、首の可動には問題ないんだけど、やっぱりちょっと気になる…
だが、これでやっと学習装置が使えるぜ!
☆月★日
学習装置マジ、チート。
こんなんあったら、社会ぶっ壊れるわ。
確かに便利だが、学習装置の台数は限りがあるらしく、大抵の人は使うこともできないらしい。
何でうちにはあるの?って聞いたら、昔、企業上層部の人が新しく買い替えるとかって時に貰えたらしい。
逆にコネがあるパパン、スゲーなと思いました、まる。
☆月★日
うへへ…やっぱり新しい知識を頭に入れんのは脳汁が出るみたいにキモチーぜ。
こう、ダウンロードした瞬間にゴッてなって、目の前がグルグルになる感覚がいい。
最初は苦手だったんだが、だんだん癖になってきたんだよなぁ。
☆月★日
悲報。学習装置の使用がパパンによって制限された。
あんまり詰め込むと廃人になったり、逆に阿呆になるらしい。今まで企業上層部でも何人かいた、と。
…早く言ってよ!こえーよ!
…でも、制限しながらちょっとずつ知識を入れるのは大丈夫らしく、少しずつ使っていくことにした。
やっぱり、普通に勉強するよりは効率が全然違うからなぁ。
因みに、俺のお気に入りの知識は剣術、弓術、盾術、槍術等、様々だが古今ありとあらゆる扱い方を知っている。
その他は農業の分野とかエンジニア系の知識全般をシミュレータを使って、実践することで体に覚えこませている。
てか、それでもパパンの物理式の機械操作が何で出来るのかわからないんだけど?
☆月★日
パパン、マジチートじゃね?
やっぱり俺の転生特典は生みの親に違いない。学校での成績も上位に入って、順調だ。
このまま行けば、アーコロジーのエンジニアなれるか?
☆月★日
あの、マジ?
パパン、転生特典じゃなかったのー!
優秀過ぎて、今後の人類生存領域を広げるための宇宙開拓団の宇宙船技師として選ばれたらしい。
残念だが、地球に戻れないかもしれないらしい。ママンもパパンについていくって?
うごご…あの、マジ大丈夫なの、それ?で、どこまで行くの?火星とか?…外宇宙!?
☆月★日
パパンとママンが惑星開拓宇宙船で旅立って行った…
ねぇ、何でよ?
開拓団員の家族は一緒に乗れるんじゃないのか?
俺が乗れないとか、納得いかない。
アーコロジー環境の管理はお前に任せたって企業上層部には伝えてあるとか、言ってんじゃねーよ!俺が乗れなかったのは、そのせいか阿呆!
☆月★日
アーコロジー管理の仕事に就いた。
基本、今まで学習してきたことをなぞっているだけだから、楽っちゃ楽なんだが、代わり映えもない毎日でツマラン。
そういえば、転生してこの方、ゲームとかもしてこなかったし、暇潰しに何かしてみるかなー。
☆月★日
あるとは知っていたがVR技術を応用したゲームってスゲーな。
注文してしばらくしてから、届いたのはデカイ、リクライニングチェア型の物で、懐に余裕のある俺でも買うのを躊躇ったくらい高価だ。
ゲームはユグドラシルって奴だ。
かつての地球の自然を再現すると共にファンタジー要素を盛り込んであるって話題にもなったやつだ。
うちには学習装置もシミュレータもあるから拡張現実には慣れているが、よくここまで作り込んだなって思うよ。
☆月★日
おい、ゴラァ!
てめぇら、プレイヤーキラーばっかりして来やがって!
こちとら、ゾンビの外見しちゃいるがれっきとしたプレイヤーなんだよ!
他人に迷惑かけるようなプレイすんじゃねぇ!
はっ倒すぞ、ゴラァ!
マジ、ムカ着火ファイアーなんですが。
☆月★日
ちっ。
運営に迷惑プレイヤーを通報した。だけど、ユグドラシルはプレイヤーキラーも前提の一つとした、自由度の高い世界を売りにしているってニュアンスの回答があった。
そうかよ、そっちがその気なら此方にも考えがあるぜ。
数には数が必要だろう。
有象無象はいらねーが、ある程度の頭数を揃えなきゃ、対抗することも出来ねぇ。
とりあえず同じ異形種のプレイヤーで強いやつを仲間として集めて行こう。きっと、この状態にムカついてる奴も多いはずだ。
☆月★日
たっち・みーっていうプレイヤーと仲良くなった。
たっちも異形種がプレイヤーキラーの対象になりやすいことに憤っているらしい。熱く語っていた。
随分、正義感の強いやつだな?
だけど、そこがいい。
あの、馬鹿どもを共にはっ倒してやろうじゃないか!
☆月★日
オラオラ!
てめぇらみたいなクズ共は駆逐されるんだよぉ!
まーた異形種狩りしやがって!
どんだけはっ倒せば、お前らプレイヤーキラーはいなくなるんだぁ?
お前らも大概だが、こっちにだって意地がある。
殺るなら殺られる覚悟はあんだろうなぁ!
☆月★日
てか、たっち強い。
リアルのことを聞くのはマナー違反だと思うんだが聞いてみた。
警察官らしい。
警察官なら剣の扱いのレクチャーとかがあるのかもと思うが、それにしたって扱いが巧みだ。
今度、ちょっとPVPしてみない?
☆月★日
うごご…
学習装置であらゆる武器の使い方を学んだ俺だが、たっちの剣術には及ばなかったか…
いや、中々惜しいとこまでいったんだ。プレイヤースキルでは劣っていなかったとは思う。
ただ、才能の違いというのだろうか、ちょっとした小競り合いとか膠着した状況の打破とか、機転が利くし、直感で動くことができるのは流石としか言いようがない。
だが、負けたままではいられない!
こちとら、学習装置で古今の武術を身につけてんだ!
もう一回勝負しようや!
☆月★日
今日、人間種のプレイヤーに追いかけ回されている骸骨を助けた。
装備から推測するに、まだレベルは低いようだった。
いや、プレイヤーキラーに粘着されてるようだったし、デスペナでいくらかレベルダウンさせられていた可能性もあるな。
モモンガってネームらしい。モモンガって随分かわいい名前つけるんだな…
それ、昔いたリスって動物の仲間って知ってた?
フレ申請が来たのでOKしといた。
☆月★日
あまのまひとつ、ウィッシュⅢ、武人建御雷、弐式炎雷、フラットフット、エンシェントワン、モモンガ、たっち・みー、俺の9人でナインズオウンゴールというクランを作った。
目的は勿論、あの馬鹿どもを駆逐することだ。傍迷惑なプレイヤーキラーなんぞ、俺がキラー返ししてやるわ!
☆月★日
ブループラネット。
昔の自然を直接知っている者として、ユグドラシルの再現された自然がどれほどまでに精巧につくられているのか確認してみたいと思い、自然の多いフィールドを探索していた時に出会ったプレイヤーだ。
彼も異形種だったのだが、やはりプレイヤーキラーが多くて困っていたらしい。
彼自身はユグドラシルの、再現された自然を目的にプレイし始めたらしいのだが、プレイヤーキラーのせいで満足に観察ができないので困っていたようだ。
あいつら、マジろくなことしてねぇな…
☆月★日
ブループラネット、マジ、ブループラネット。
驚くほど自然の知識を持っている。
自然に対する熱量がすごい。
だが、直接自然を見てきた俺には敵うまい!
…かつて、森林が枯れ果てる前に担っていた環境を維持する役割ってな~んだ?…正解だ。
太陽が昇った直後、または太陽が完全に沈む直前、緑色の光が一瞬輝いたように見える現象?
……くそ、クイズで負けた。
ねぇ、どうなってるの?てか、それ転生前にテレビで見たような記憶あるけど、名前なんて覚えてないよ!
リアルじゃ、大気汚染のせいでもう見られない現象じゃん!
…認めよう、アンタは確かに自然オタクだよ。
俺から自然オタクの称号を送りたい。
てか、アンタすげぇ自然への憧れが伝わってくるんだけど…何かロマンチストだな。
聞いたりしなかったけど、研究者かなんかなのか?フレ申請しといた。
☆月★日
ナインズオウンゴールのメンバーの一人に装備を作って貰うために、鉱石の採取に、採取スポットとして有名な岩山に来ている。
何か知らんが岩場でひたすらゴーレムを作り続けているプレイヤーがいた。
立ち並ぶゴーレムたちが、迫力満点で、あまりにも異様だった。
近くでよく観察してみたら素晴らしい出来だ。奴はるし☆ふぁーと言うらしい。
プレイヤーに話を聞いてみようと思って、話しかけたのだが…これが間違いだった。正直、後悔する時もある。
なにしろ、イタズラ好きで、他人に迷惑かけることを省みない、人がトラップにかかってアタフタしているのを遠くから見ているのが趣味という変態だ。ひたすらにウザい。
だけど、いい作品作るんだよなぁ~。
そこで、奴には腐れゴーレムクラフターの称号を送ってやった。
フレ申請が山のように来て画面がいっぱいになった。うぜぇ…
☆月★日
何かすごい、中二っぽいのに出会った。
いや、わかるよ?
魔法発動するときに、やたらすごいことが起きそう!…な詠唱をつけるのって楽しいよね~。
ただ、見てる側からしたら、生暖かい目になるっていうか…あと、悪に対するこだわりがすごい。
俺はよくわからんが、悪には悪のプライドがあるってことかな?フレ申請しといた。
☆月★日
ブループラネットと一緒に、過去の自然遺産をモデルに設計されたフィールドに探索にきた。
どこかで見たような風景で何だか胸が苦しくなった。きっと郷愁とか感動とか色んな感情がないまぜになったんだと思う。
…あの、そこかしこに興味引かれるのはわかるんですが、全然探索できてないよ?先に進みましょうよ…
お?と思ったら、何か超強そうなボスがいたんだが。
攻略情報とかに詳しいモモンガに聞いたんだけど、未発見のボスかもしれないって。
とりあえず、俺が突っ込んできてボスの特徴、調査してくるから~。
うーん、なかなか強い。
一人じゃ無理だな、こりゃ。
まぁ、当然のことだが、クランを組んで戦うようなボスだ。
攻撃の回避自体は問題ないんだが、こちらから攻撃しても、体力ゲージが減る様子がない。
一人でどこまで削れるかやってみてもいいんだが、時間かかるからな…皆に応援を頼んでみよう。
☆月★日
一人でワールドエネミーに挑むとか頭可笑しいって言われた。
俺が敵のフィールドに入った瞬間、プレイヤー全体に運営から、ワールドエネミーが出現したってアナウンスがあったらしい。
あの、俺にはアナウンスきてませんが…?
皆からは、ただの気のせいだって言われたんだが、本当にそうかぁ?
バグかなんかか?
☆月★日
オラオラ、オラァ!
ただひたすらにワールドエネミーを切り刻む。
攻撃がくれば回避すればいいし、どうしても避けられないような全体攻撃は防御がめちゃめちゃ高い代わりに一撃で壊れる盾を構えることで凌いだ。
まだまだストックはあるんだよぉ!
攻撃組が懸命にアタックするんだが、堅いのかなかなか攻撃が通っていない。
後ろにいる魔法使い組から特大の魔法がいくってメッセージがあったから急いで後退した。
放たれた魔法がワールドエネミーすら飲み込み、特大ダメージを与えた。
もうすぐ体力ゲージがゼロになるって時に突然、ワールドエネミーの攻撃パターンが変わった。
さっきまで自然で溢れていた背景がいきなり宇宙を思わせる深淵に変わり、全体に特大ダメージを与える攻撃をしてきて、リタイアする仲間が続出した。
急ぎ回復しようとするも、フィールドの効果なのか回復が規制されている。
結局、残ったのは俺の他にはたっちと後方で控えていたモモンガくらいで、さっきの全体攻撃で皆やられてしまったらしい。
たっちが攻撃の余波をくらって退場した。
くそっ!あとは俺とモモンガだけなんだが、モモンガはやや諦めムードだ。
魔力が少ないのか支援魔法は掛けてくれているが、攻撃するほどの余裕はなさそうだ。
やるしかねぇ、攻撃は絶対食らわないで避ける!
隙ができたら攻撃する!
ただこれだけだ!
あと体力ゲージはちょっとなんだ、こんなとこで諦められっかよ!
☆月★日
流石に疲れたぞ…スゲー時間かかったわ。
しばらく攻撃を避けて、チクチク攻めていたわけだが、何とか倒しきることが出来た。
最後はほとんど意地だけだった。特殊スキルの使用回数はとっくにゼロになっていたし、魔力だってすっからかんだ。
ワールドエネミーが倒れ、姿が露と消えると運営からワールドエネミーが討伐されたとアナウンスがあった。
なんだ、ちゃんとアナウンスされんじゃねーかと思っていたら、ワールドエネミーの第一発見、第一討伐の報酬ってことで特殊な種族クラスとワールドアイテムを得られるってポップが出てた。
早速、新たな種族を得るためにレベルの調整を行った。
一度レベルを減らした関係で今まで使っていたスキルが使えなくなってしまって悲しい思いをした。
だが、新しいクラスには代えられない。レベルキャップが解放されればなぁ…
☆月★日
新しい種族だが、不死人ってクラスみたいだ。
モモンガのチョーセンオブアンデッドとはまた違うようで、特殊なスキルを使えるらしい。
拠点に特殊なマーカーを設置することでデスペナなしで復活できる他、経験値を死ぬまでストックすることが可能で、経験値使用を前提とするスキルなどで変換にもできるようだ。
また、経験値を使用しなければならないが、人型のアバターを召喚して戦ってくれるらしい。
召喚できる数は、経験値の使用量によるってところか。
ワールドアイテムは白いサイン蝋石って言うらしい。
召喚系の魔法、スキルを極大に補助するみたいな効果があるようだ。
種族クラスで得た新しいスキルと相性がいいアイテムで助かる。クランの皆から羨ましがられた。
☆月★日
モモンガから新しいスキルを見せて欲しいと言われたので、使ってみたが、何体かの傭兵が出てくるのみで使えないスキルだということが判明した。
運営は、なんでこんなスキル作ったんだ…
白いサイン蝋石で補助してスキルを使用しても多少強くなった傭兵が2倍の体数で出てきただけだった。
悲しい…
恥ずかしいので、スキルを使うことを止めた。
だが、ワールドアイテムは俺が所持している。
宝の持ち腐れと言われるかもしれないが、これは俺が頑張った証なので、そんな羨ましそうな顔されても売らないし、あげませーん!
☆月★日
最近、クランに入れてくれって奴が多い。
まぁ、顔見知りか仲のいい奴ばかりなので、俺としては別にいいんじゃないかと思っている。
何人か新しくナインズオウンゴールに加入することになったのだが、9人じゃないのにナインズってどうよ?って話になった。
それなら一度、ナインズオウンゴールを解体して、新しくギルドとして再生させればいいんじゃないかってモモンガが珍しく意見を出した。
まぁ、確かにこのままナインズってのも可笑しいし、これからもメンバー増えるかもしれないことを考えたら、それもいいんじゃない?って言っといた。
デカイ拠点できてしまったら、なかなか変更することも出来ないしな。これも切っ掛けって奴かねぇ。
☆月★日
皆で新しく作るギルドをアインズウールゴウンとすることを決めた。
せっかく作るならデケェギルドにしたい。
これから決めることはたくさんある。
新しい拠点はどこにするかもだし、コンセプトもデザインも、あれこれ話をしている最中だ。
ちなみにギルドマスターはモモンガがなる。世の中には言い出しっぺの法則というものがあってだな…
だけど、たっち。お前は面倒になっただけじゃないよな?
新しいギルドを作るっていうんで、メンバーも増員したいって話があった。
そこで、個人でいくらか募集をかけて欲しいらしい。
誰に声をかけるか…
☆月★日
とりあえず、探索仲間のブループラネットに声をかけてみたら、来てくれるらしい。
元々、ギルドを作ってみたいという考えを持っていたみたいなんだが、資金的にも労力的にも難しく乗り出せずにいたようだ。
ブループラネットはギルドで夜空とか自然を再現してみたいらしい。
マジ?もし作るならスゲー大変そう…
☆月★日
奴がきた。
腐れゴーレムクラフターだ。
どこからか俺たちがギルドを作るという噂を聞いて、来たらしい。
正直なところ優秀なデザイナーがいるのは助かるんだが…
コイツをギルドに入れて本当に大丈夫なのか…?
☆月★日
誰だよ!アイツ連れてきた奴!
…俺でした…すんません…モモンガ、迷惑かけて申し訳ない。
だが、こんなでも優秀なデザイナーなんだ。これからのギルド作りには何かと必要になるし、何とか怒りをおさめて…
オイコラ、てめぇ!
なにヘラヘラしてんだ!
もとはお前が共有ボックスの希少アイテム無断で使い込んだのが原因だろうが!
ブーたれてんじゃねぇよ!
☆月★日
なかなかギルド作りは進んでいない。
気分転換もかねて探索に行っていた弐式炎雷から新しいダンジョンを発見したと連絡が来た。
皆、煮詰まっていたので、皆で攻略しに行くことになった。
先行して探索していた弐式炎雷によれば、このナザリック地下大墳墓は全六層しかないらしいが、氷河、溶岩地帯、地底湖、森林、墳墓で構成されているらしい。
てか一人で踏破しちゃったの?
変態か。
順調に攻略は進んだ。
エリアが複数あるということもあり、様々な属性のエネミーがいるが、今のところ問題なく対処出来ている。
ボスはバカでかいアンデットだった。初見殺しな即死攻撃とかありですか?
運良く耐性を抜かれなかったメンバーで倒しきることに成功した。
えっ?ワールドアイテムあったの?
諸王の玉座という拠点系のアイテムらしく、NPC作成可能レベルが上昇するそうだ。
ちなみに攻略によってナザリック地下大墳墓は拠点とすることも可能になっていた。
かつ、初見クリアのボーナスもあるとか。これ、もう決まりじゃない?
☆月★日
メンバーで話し合い、ナザリック地下大墳墓をアインズウールゴウンの拠点とすることにした。
まぁ、こんだけ条件が良かったら当然だよなぁ…
皆、ここを好きに改造できるとわかって、興奮している。
その中で、るし☆ふぁーが大人しくしているのが、怖い…
☆月★日
ギルド拠点の整備は順調に進んでいる。
るし☆ふぁーも今は作業に夢中になっているようだ。
デザインとかプログラムをたてられないやつらはデータクリスタルとか装備の素材の収集に行った。
俺は一応、プログラムをたてることができるので、他の奴らと一緒に設計している。
デザインは出来ないこともないが、センスがあるとも言えないので、そちらは奴らに任せたいと思う。
☆月★日
ヘロヘロ、大丈夫か?
なんか健康診断ではほとんどの項目でイエローになってるらしい…肝臓にいたってはレッドだとか。
マジでヘロヘロじゃねーか。
ちょっと体休めた方がいいと思うよ…
ナザリックに仕えているという設定のメイドをひたすら作り続けてるんだが…無理すんなよ。
☆月★日
悲報。
るし☆ふぁーが遂にやらかす。
ゴキブリ型のNPCを作ったばかりか、貴重な金属を勝手にちょろまかしてゴキブリ型ゴーレムを作っていやがった。
女性メンバーとかスゲー嫌がってんだが…モモンガに至っては、貴重な金属を使われて、怒りで声がプルプルしている。
まぁ、当然だよな。
ゴキブリ型NPCは恐怖公というネームで階層を守護する一体になるようだ。
☆月★日
ブループラネットに誘われて、夜空を再現することになった。
あの、星を一つ一つ配置してくんじゃないよね?
主要な星座だけ配置して、あとは適宜という訳には…
あ、はい、そうですね。
空に対する熱い気持ちはわかったから!ちゃんと手伝うって~。
☆月★日
我らがアインズウールゴウンの拠点、ナザリック地下大墳墓の内装が完成した。
全10階層からなるダンジョンで、中はトラップ、状態異常がかかる嫌がらせなどが満載だ。
最後の仕上げとして、ギルド武器であるスタッフオブアインズウールゴウンを円卓の間に設置して、完了だ。
細かいところは、時間をかけて作り込んでいくことにしよう。
☆月★日
たっちが公式主宰の大会で優勝した。
特別な装備とワールドチャンピオンの職業が運営から送られたようだ。
これでまた手がつけられない強さになるんじゃないか?ただでさえ、PVPで負け越してるのに、勝率が更に落ちそうだ。
俺も大会出れば良かったかなぁ。
☆月★日
ちょこちょこ、人間種のプレイヤーがナザリックを落とそうと攻め込んでくるようになった。
アインズウールゴウンは異形種のトップギルドというのもあって、討伐隊みたいなのが組織されつつあるらしい。
まぁ、ワールドアイテムの所持数が全ギルド中でトップってのもあるしな。
たった42人しかいないのに、これだけの規模を誇っているとか、ここだけだし。
変態プレイヤーばっかりだ。
☆月★日
久しぶりに種族スキルの召喚を試してみたら、呼び出される傭兵の種類が増えていた。
よくみたら俺が過去に倒したことのある人型モンスターばかりだ。
なんでだ?と思ってモモンガたちに相談してみたら、特定のフラグをたてることで召喚されるモンスターが増えることがあるらしい。
ぷにっと萌え、ヘロヘロに協力してもらって調べたら、呼び出される傭兵は登録式らしい。
見ることができない名簿のようなものがあり、そこからランダムで召喚されているようだ。
完全にランダムらしく、召喚される傭兵のレベルの差が酷く開いていたことから、登録された時のレベルが反映されるんじゃないかって、ぷにっと萌えが考察してた。
プレイヤーキャラクターにも反映されるかはわからないが、もし反映されるなら戦力的に素晴らしいことなので、ギルドの皆にPVPを申し込んで回った。
☆月★日
大規模討伐隊がナザリックに攻め込んできた。
その数なんと1500名!事前情報をぷにっと萌えが手に入れてたため、対策を取ることができたのが幸いだった。
流石に1500もいると、プレイヤーもピンキリで、ナザリックのトラップにかかったり、苛烈な状態異常に耐えられず次々にリタイアしてゆく。
それでも、対策してきている連中は突き進んでくるし、各階層に設置した守護者たちNPCも次々と打ち取られてゆく。
これ以上はトラップ代もバカにならないし、いっちょう出てきますか!
幸いここは俺の種族スキルで設置したマーカー、篝火があるし、何度死のうともデスペナなしで復活できる。
そう考えたら、このスキル、防衛向きでもあるよな~。
ワールドアイテムに目がくらんだ阿呆共をリタイアさせてやった。
流石に多数対一人じゃ、耐えてるだけでじり貧だが、スキルを活用してチクチク削ってやった。
時にはトラップに誘導して精神的に追い詰めたり、時にはぶっ飛び効果のある弓矢で溶岩に落としたりと楽しかった。
他のメンバーも対応してたし、あっという間に1500いた討伐隊は数をすり減らしていった。
それでも執拗に攻め込んでくるので、九階層にまで来たときには流石にヤバいか?と、ヒヤッとした。
完・勝!いや、かなりギリギリなとこだったんだが、勝ちは勝ちだ。
俺も何度リスポーンを繰り返したことか…1500もいたとあって、ドロップしていったアイテムも物凄い量になっている。
なかにはワールドアイテムも混ざっていて、ギルドの皆の内心はウハウハだ。
☆月★日
先日の討伐隊が運営にチートだ、ブラクラだって訴えたらしい。
阿呆か。勝てばいいんだよぉ!
お前ら、ワールドアイテム取られて悔しいだけじゃねーか!
またナザリックに挑戦してくるがいい。まぁ、その時にはナザリックは更にパワーアップしてるだろうがな!
☆月★日
ユグドラシルを始めて数年がたった。
最初はここまで、このゲームにハマるとは思ってもいなかった。
数年プレイも続けていると、ゲームをやめていく奴もいる。リアルがあるし、しょうがないってのもあるが寂しいよなぁ。
たっちが家族サービスよりゲームを優先してるってことで嫁と大喧嘩したらしい。笑った。
☆月★日
モモンガがオフ会しませんか、って言うからリアルで飲み会を計画した。
数年やってきて、リアルでは初めて会う奴ばっかりだったが、話をしてみれば、まんまプレイヤーキャラクターなので笑った。当然だが。
ウルベルトも流石にリアルでは中二を自重してるらしい。
ブループラネットは岩のようにゴツい顔で、照れ笑いを浮かべながら自然を語る熱い奴だった。
お前もゲームの中でも、そのままだな。
俺も自然は好きなので、自然のロマン、自然と過去の世界遺産の調和など熱く語りあった。
いいやつだわー。
ちなみに、たっちはリアルでもイケメンだった。ウルベルトとの言い争いもゲームそのままだ。
☆月★日
アインズウールゴウンからどんどんメンバーが抜けていく。まるで穴の空いた盃の様だ。
ユグドラシルもサービスが始まってから長いからなぁ…他のゲームに流れたり、リアルの事情でやめざるをえないってメンバーも多い。
今残ってるメンバーも忙しくてログインできなかったりで、在籍してはいるが顔を見せなくなった奴だっている。
俺もリアルが忙しくなってきたし、プレイ時間も昔と比べれば少なくなってきている。
☆月★日
モモンガ、大丈夫なのか?
ログインすれば大体の確率でモモンガがログインしている。
みんなで作ったナザリックを守りたいって?…気持ちはわかるが…それでリアルを犠牲にしちゃお前の為にはならないと思うんだが…
勿論、生きにくい世界だってのは承知している。
…俺はあまりにもナザリックに思い入れを持っているモモンガに言葉をかけることが出来なかった。
俺はなんて言ってやれば良かったんだ?
☆月★日
最近、仕事が忙しい。
忘れてるかもしれないがアーコロジーの管理を疎かにしていては、居住してる人の命に関わる。
この前、一部の空調システムがイカれて不調を訴える人が続出したのだ。
そのせいで、俺も職場のみんなも少しでも早く復旧しようと大わらわだ。
あー、昔に戻りてー。
☆月★日
リアルでも付き合いのあった奴が病気になった。
アーコロジー外の汚染された空気を吸い込む生活を続けていたらしい。
何を思ってそんな自殺志願者みたいなことしたのかは知らないが…お前にとっちゃ、自然の死んだ世界なんてつまらないだけだよな…
全く、この世界は人が住むには厳し過ぎて嫌になる。
もし、次に生きられるなら、自然が溢れるところに行けるように祈るよ。
今はもう廃れたが、昔は輪廻って思想があったんだぜ…?
☆月★日
(掠れた文字で読むことが出来ない)
☆月★日
モモンガからユグドラシル最終日に皆で集まらないかって連絡がきた。しばらくログインしてなかったが、最後にモモンガに会いに行くのもいいかな。
日記はここで途切れている。
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転移後 ファンタジー世界
2.トラベルノート(クレマンティーヌ編)
☆月★日
聞いてくれ、何か知らんが異世界に転移したらしい。
といっても、リアルでの話ではなくゲームでの話だ。
今の俺はゲームのアバターの姿だ。
モモンガからユグドラシルの最後だから集まれないかって連絡がきたんで、ちょっと顔を出してナザリックを後にした。
アインズウールゴウンの他にも、仲のいい奴らはいたし、そいつらもログインしてたみたいだから挨拶しようと思ったんだ。
そしたら、いつの間にか知らない場所にいた。
ナザリックがあるはずの沼地は草原に、どんよりしてた空気は晴天でカラッとしたものに変わっていた。
な……何を言っているのか、わからねーと思うが、俺も何が起こったのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだった……催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……
とりあえず、人のいるところに行こうと思って、空から何かないか確認してみた。
そしたら、遠くにでかい街が見えたんで、そこに向かうことにした。
それと、街で目立たないように装備を変更しておいた。
ユグドラシルではフリューテッドヘルムとアーマーをベースにした神器級の装備だったが、地味な皮鎧の装備にした。
だって目立つじゃん。
戦争でもないのにフルプレートの装備とかさ。
武器も明らかに高級そうな奴から、見た目、オーソドックスなロングソードにした。
☆月★日
無事に街の中に入ることができた。
結構大きい街で、交通もしっかりしているのか、馬車がすれ違っても余裕があるくらいだ。
街中は人通りも多くて、賑やかな印象が強かった。装飾品を換金してから、宿を探して泊まった。内装は可もなく不可もなくだった。
☆月★日
やっぱり異世界といったら冒険者になるのが、テンプレートだと思って登録した。
銅ランクからとか、先長くない?
まぁ、普通はポンポン上がるもんじゃないみたいだけど。
☆月★日
昨日、一晩考えたんだが、せっかく異世界に来たんだし色々な名所を見て回りたい。
景勝地や都会、遺跡、自然、色々な所が見たいと思った。
だから、当面の目標としては、いろんな場所に足を運んでみるって感じにしとこうかな。
冒険者ギルドの依頼の帰り、夕方くらいかな。何かスゲー痴女っぽいのに襲われた。
襲われたって、性的なやつじゃないよ。
でも、現実でビキニアーマー的なのって初めて見た。
強さは大体30~40レベル位だった。
スティレット使いらしく、猫みたいに俊敏で、しなやかな印象があった。
まぁ、スピードはイマイチだったんだけど。突きを弾き返して惜しいって言ったら、何もんだテメーって言われた。
何か猫みたいだなって、そのあとも少し遊んでたら、手加減間違えて昏倒させてしまった。
これはマズイって思ったんだが、路地裏に女の子おいて行く訳にもいかないし、不可知化かけて宿に運んだ。
暴れられても困るし、起きるまで手足縛ったまま放置しといた。
しかし、スゲー格好だな。
……お仕置きだべぇ〜!
☆月★日
朝起きたら彼女はいなくなっていた。
昨日ほんの少しだけ話した感じだと、悪ぶってるけど、そんなに悪いやつでもないんじゃないかなって思った。
いや、悪いことはやってるんだけどね。
何か自分の価値観が変わっている気がする。
俺はこんなに犯罪者に寛容だったか?
☆月★日
今日はポーションを買ったり、遠出に必要な道具を買い揃えてきた。
ここエ・ランテルにはポーションを作る有名な店があって、行ってきたんだが、この世界のポーションは青いらしい。
正確に言えば、俺らユグドラシルのプレイヤーが知っている赤いポーションは伝説的な物で、神の血とか呼ばれてるらしい。
それ大量に持ってるよ……赤いポーションを知ってるってことで、不審に思われたかもしれない。
当分あそこに近づくのは止めておこう。
☆月★日
遠出に必要な道具は割りとすぐに見つかった。
ユグドラシル産のアイテムバックはあるので、それを誤魔化すためのバックパック、野営用の寝袋、カンテラ、食器にあとは細々とした物だ。
ユグドラシル産のセーフハウスで、コテージ型のグリーンシークレットハウスを持っているが目立つことこの上ない。
人がいるような場所では、なかなか使える物ではないだろう。
彼女がいなくなって数日たったが、ギルドの依頼の帰りにまた襲撃された。
彼女はクレマンティーヌって言うらしい。うわ、名前も知らないでいたとか……
今日はこの前みたいにはいかないって言ってたが、スティレットの刺突を受け流して、反撃しておいた。
君、何しにきたの?
また手加減をミスって昏倒したので、前と同じように不可知化をかけて宿に運んだ。
お前、性格歪んでるなって言ったら、家族の愛が全て兄に向いていたからとか、兄と比較されてきたせいとか、幼い頃にまわされたからとか、拷問、人殺し、出るわ出るわ虐待のパレード。
で、同情しかけたら嘘だってさ。
おい。
本当か嘘かはともかくとして、狂化とかのバッドステータスが付いてんのかと思って、精神異常とか諸々の耐性をあげるネックレスを贈っといた。
俺には必要ないものだしな。
あと、ご馳走さんでした。
☆月★日
朝には、またいなくなっていた。
顔見知り程度だけど、クレマンティーヌにしばらくエ・ランテルを出るって伝えてなかったな。
まぁ、奴ならどこにでもひょっこり顔を出しそうな気がするが。
今日からは近くにあるカッツェ平原の探索に向かいたいと思っている。
この辺りの名所は大体見て回ったからな。
カッツェ平原はここ王国、帝国、法国、竜王国との境に位置している平野だ。
王国と帝国の戦争はだいたい此処の近くから始まるらしくて、負の念が溜まりやすいからか、強いアンデットが出ることで有名だ。
ただし、戦争になるとモンスターは消えるらしい。そんなことあるのか?
ここに古い遺跡があるらしく、それを見物しに行こうと思う。楽しみだ。今日はカッツェ平原手前で野営する。
☆月★日
カッツェ平原に突入したわけだが、ここは年中薄い霧に覆われているそうだ。
強いアンデットが出るらしく、平原の外に出てこないように軍や冒険者が定期的に間引いているらしい。
平原と草原の境あたりでは冒険者がちらほらいた。
聞いた話だが、出るモンスターは、スケリトルドラゴン、エルダーリッチ、デスナイトらしいので戦力的には大丈夫だろう。
☆月★日
昨日はカッツェ平原で野営した。
霧の中で野営するのは、ちょっと不安だったんで、この世界で初めてグリーンシークレットハウスを使用した。
まんまコテージといった感じで、流石に調味料の類いはなかったが、ベッドなどの寝具、シャワーがあったのはとても有り難かった。
カッツェ平原を歩いてそれなりの時間がたった。
デスナイトは出なかったが、エルダーリッチとスケリトルドラゴンが一体ずつ出てきた。戦闘は特に問題なし。
遺跡らしき建物を発見した。
明らかに人がいたと思われる建造物で、見た限りでは3階建て以上あるように思える。
ただ、損傷が激しいので昔はもっと高い建造物だったのかもしれない。
また尖塔のようなもの、掘のようなものもあったので、古代の城のような物があったのかもしれない。
何か発掘できないかと辺りを魔法で探索してみたが、戦後の朽ちた剣とかしか見つからなかった。
残念。
どうでもいいが、ここは平原はどうしてカッツェ(katze)なんだ?
猫なんて名前をつけるなんて、どんな由来があるんだろうか。
☆月★日
スケリトルドラゴンに追い回されてる冒険者がいたから助けてやったが、冒険者ではなくワーカーと言うらしい。
帝国では非合法の依頼を受ける者をワーカーと呼ぶそうだ。
スケリトルドラゴンを鞘のままのロングソードで粉砕したんで、畏まられた。
そんなに畏れなくても……
彼らフォーサイトのリーダーのヘッケランはヘラヘラしてるが、なかなか熱いやつだ。仲間を大切に思う奴は嫌いじゃない。
ただ、テキトーなことを言うのは感心しないな? チームのイミーナとは恋仲らしく、彼女はハーフエルフらしい。
あとは神官のロバーデイク、マジックキャスターのアルシェとバランスの良いチームだった。
アルシェが俺にめっちゃビビってるんだが、スケリトルドラゴン粉砕したぐらいしかしてないよな?
☆月★日
カッツェ平原の探索もだいたい終えたし、一先ず、エ・ランテルに戻ろうと思う。
フォーサイトとはカッツェ平原の境で別れたが、帝国にきた時は酒を奢ってくれるらしい。
それは楽しみだ。
今日中にエ・ランテルにつかなかったので、野営した。
野盗が現れたので対処した。死を撒く剣団? とかいう傭兵たちらしい。
知らんがな、めんどくせぇ。
☆月★日
野盗どもをエ・ランテルの衛兵に渡し、ようやく街に入ることが出来た。
今日は精神的に疲れたので、宿をとって1日ダラダラして過ごした。
☆月★日
冒険者ギルドで依頼を受けようと思ったのだが、何やら騒がしい。
王都からアダマンタイト級冒険者が来ているらしい。
野次馬根性でちょっと覗いてみたら、綺麗な姉ちゃん3人に、ゴツいおっさん1人、へんな仮面をつけたチンチクリンが1人だった。
実は色物チームなのか……?
チンチクリンがやけにキョロキョロしていた。
良さげな依頼書をカウンターに持っていったら、チンチクリンに絡まれた。
何者だって、お前が何者だよ。
テキトーに相手してやって、しつこく食い下がってきたから撒いてやった。
何だったんだ?
☆月★日
近くの村に薬を届け、帰りに薬草を採取する。
探知系、鑑定系の魔法を使えば、だいたいどこに何の薬草があるかはわかる。
ショボくても便利系の魔法とっといて良かったわ。
☆月★日
前日に野営して、朝に街に着いた。
この街にいてもやることがないんで、そろそろ別の街に行こうと思う。
ふと、カッツェ平原を抜けた向こう側には竜王国っていう国があることを思い出した。
行っちゃう?
行くか。
また色々と準備が必要だな。
色々遠出に必要な物資を買い集めていたら、またクレマンティーヌに襲われた。
久しぶりだな、お前。
何時ものごとく、猫みたいな敏捷さでスティレットを突っついてくるんだが、前と変わりなく受け流す。
通用しないって、いい加減わかるだろうに。
違う武器を構えた。
モーニングスターか?
それお前の速度活かせなくない?
当て身を食らわせて、宿に連れ込んだ。
あげたネックレスを着けてなかったんで、クレマンティーヌが起きてから、どうしたって聞いたら売ったらしい。
おいおい……冗談にしてもちょっと悲しいんですが。
久しぶりにキレちまったよ。
あと、近い内にエ・ランテルを出るって言ったら無言のままで、ベッドで不貞腐れてた。
わけわからん。
ちょっと先を急ぐっていうんで、早くに宿を出てきた。
クレマンティーヌはまだ寝てるみたいだったが、宿の人には連れが寝てるからよろしくって伝えておいたし大丈夫だろう。
クレマンティーヌには特に挨拶もなしに出てきたが、キレてしまったお詫びにとっておきをプレゼントした。
といっても、ユグドラシル終了間近にフリマで買った中古だけどな。
高かったんだぞ!
まぁ……奴とはまた会えるだろう。
今日、エ・ランテルを出発して竜王国を目指す。
さらばだ、エ・ランテル!
☆月★日
たまに襲撃してくるアンデットを蹴散らしながらカッツェ平原を抜けた。
内海沿いを通って、海沿いを眺めながらゆっくり移動してきた。
途中、モンスターに襲撃を受けたと思われる村を発見したが、生存者はいないようだった。
生き残った人は村を捨てて移動したのだろうか?
☆月★日
今日も竜王国を目指して、ゆっくり移動している。
野営していると、ライオンっぽい二足歩行のモンスターが襲撃してきたので返り討ちにしてやった。
片言だが言葉をしゃべっていたので、多少は知性があるのだろう。
☆月★日
またしても打ち捨てられた村を発見した。
畑は踏み荒らされていて、手の入れられていない畑には枯れた植物がポツポツとあるだけだった。
これもモンスターによるものだろうか?
もしかして、あのライオンっぽいやつの仕業か?
人に出会わず、道を聞けないため、ちゃんと辿り着けるのか不安になった。
☆月★日
運良く、近くを通った行商人の一団に道を聞くことができた。
行商人たちは竜王国の所属だが、比較的安全な法国に仕入れに行っていたらしかった。
警護はかなり厳重で、多くの傭兵、冒険者がついていた。
冒険者に話を聞くことが出来たが、やはりライオンのモンスターを警戒しているらしい。
奴らは竜王国ではビーストマンと呼ばれているそうだ。
1人だと言ったら、大変だったなと同情されて、一緒に同行させてくれることになった。
☆月★日
何度か小規模のビーストマンの襲撃にあった。
他の護衛の連中の怯え度合いが大きすぎて動きが悪いので、さっさと切って捨ててやった。
行商人のリーダーに高名な冒険者なのかとか問われたので、銅級だと言ったら、行商人はギルドは見る目がないと憤慨していた。
それ、言い過ぎじゃない?
あと、傭兵、冒険者たちの俺への態度がおかしくなった。
☆月★日
門は厳重に管理されており、住民の入出国も厳しい審査が必要なようだ。
俺も余所者ということで怪訝な目で見られたが、行商人達が取りなしてくれた。
これからギルドに向かうと言うと、推薦状を持たせてくれた。
行商人と思っていた人物は竜王国でも大きな商会の人だったらしい。
これを渡せば昇級できるらしく、謝辞を伝えたら、逆にこんなことしか出来ず申し訳ないと言われてしまった。
何かあったら呼んでくれと伝えて、その場を後にした。
今日はもう遅いから、ギルドに行くのは明日にしよう。
☆月★日
ギルドで紹介状を渡したら驚かれたが、無事に昇級することができた。
今日から鉄級らしい。
依頼のモンスター討伐の範囲も広がるので助かった。
さっそく、依頼書を確認するが、依頼が溢れているのに対して冒険者が足りていないように感じた。
一先ず、同じような依頼をまとめて受理するが、本当に大丈夫なのか、達成出来ないとペナルティもあるが、と何度も確認されて困った。
そんな心配しなくても大丈夫だって。
☆月★日
いくつかの近隣の村に物資を届けつつ、道中モンスターを狩り、薬草の採取を行う。
そんな日々をいくらか続けていたらあっという間に昇級して銀級、金級とランクアップしていった。
昇級試験とかはいいのかと聞いたら、充分すぎる実績があるから大丈夫だと言われた。
☆月★日
紹介状をくれた商人から指名依頼があるとギルドから伝えられた。
丁度、ギルドに来ていたらしく、直接依頼の内容を聞いた。
また法国領内の都市に仕入れに行くので、護衛について欲しいらしい。
紹介状貰った借りもあるしオーケーしといた。
明後日の朝に出発する計画だ。
明日は準備と休養にあてよう。
☆月★日
こっちに来てから忙しくて、ゆっくり街の中を見ることが出来ていなかったが、竜王国内はあまり活気があるようには見えない。
あるにはあるんだろうが、見えない不安を隠しきれないでいる様子だ。
というのも、俺はこっちに来てから知ったのだが、竜王国は近隣のビーストマンの国家による侵略に悩まされていて既に3つの都市が陥落しているらしい。
ビーストマンは主に南方から攻めて来ているので、竜王国の生存圏は北に北にと追いやられている状態なんだが、最近では北の方でもよくビーストマンが目撃されている。
来るときに目撃した村はその被害にあったのだろう。
為政者としては、ここからどうやって巻き返して行くのか腕の見せ所ではあるんだが、正直、じり貧だろうな。
噂では法国に大量の献金をすることで、特殊部隊を呼んでいるらしいんだが、それでも戦況はよろしくないのが現実のようだ。
☆月★日
今朝、法国内の都市に向けて出発した。
護衛の人数はやはり多い。
その中でもミスリルランクの冒険者がリーダーとなっているが、申し訳ないが俺は遊撃に回らせて貰うと伝えた。
指示下に入れとはいうが、俺が個人で動いた方が早い。
当然向こうとしては面白くないし、拒否してきたのだが、依頼人がオーケーを出したので渋々だが了承した形だ。
やはりビーストマンの活動領域が広がっているのか、何度か襲撃があった。
その度に俺たち冒険者は対処しなければならないのだが、冒険者たちの反応が遅すぎる。
先に偵察役を先行させるとか方法はあるんじゃないのか? 襲撃されてから対応するでは遅いんだよ。
事前に芽は潰しておいた方がいいと思うのは理想を望み過ぎているのだろうか?
あまりにも拙く思えたので、俺が先行して間引いておくことを提案した。
提案は通ったんだが、何人か俺についてくるらしい。
大丈夫か?
☆月★日
どうやって強くなったのか、偵察についてきた連中に聞かれた。
そりゃモンスターを狩って、狩って、狩りまくるしかない。
技術だって、実戦で身につけるしかないだろう。
当然、ある程度の訓練は必要だし、下地がなければ能力は向上しづらくはある。
指導を頼まれたので、偵察中にいくらかレクチャーを行った。
☆月★日
数日かけて、ようやく目的の都市に到着した。
指導した奴らは大分よくなったが、身の周りをチョロチョロしてて鬱陶しい。
お前ら、さっさと戻りの準備しとけよ。
呑気に酒飲んでる暇はないぞ。
と、随分と偉いことを言ったが俺は初めてきた街の観光に行きたいのだ、さっさと解放してくれ……
☆月★日
商人たちの仕入れも順調に進み、それからまた数日かけて竜王国に戻った。
幸いにもビーストマンに出くわすことはなく、商人たちの被害もゼロにおさめることができた。
また頼むとは言われたが、護衛はめんどくさいな。
竜王国の名所を見たら、またエ・ランテルに戻ろうか。
他の冒険者たちは竜王国よりも南の都市に戻るらしい。気をつけて戻れよ。
☆月★日
ギルドで、少し離れた都市にビーストマンの襲撃があったと話を聞いた。
あいつらが戻った都市だ。
少し様子を見に行った方がいいだろうか。
☆月★日
心配して来てくれた、とか思われるのも癪なので、久しぶりに神器級の装備を身につけ、顔を隠して様子を見に行こうと思う。
やはり、神器級装備はすごいな。
ステータスがゴリっと上がった気がする。
人に見られないように、アイテムを使って空を飛び、目的の都市近くまで移動する。
その都市には、大量のビーストマンに襲撃され、今にも門が破壊されようとしていた。
仕方がないので、そのまま走ってビーストマンの群れに突っ込んでやった。
大量のモンスターを一度に狩るのは久しぶりで、あまりにも神器級武器の切れ味が良すぎたもんだから夢中でやってしまった。
気がついたら全て切り捨てていた。
俺は逃げ出した。
☆月★日
やはり、一度エ・ランテルに戻ろうと思う。
先日のビーストマン襲撃で戦況を引っくり返した騎士を女王が探しているらしい。
面倒は御免だ、俺はエ・ランテルに戻る。
☆月★日
エ・ランテルに戻ってきた。
が、何やら騒がしい。人を捕まえて尋ねてみれば、どうやらエ・ランテルの墓地からアンデットが溢れて大変だったらしい。
普通なら浄化してるだろうし、墓地からアンデット溢れないだろと思ったが、ズーラーノーンとかいうカルト教団が儀式を失敗させて、溢れさせたらしい。
首謀者は既に死亡していて、死体安置所に送られたという。
その内の1人が金髪の露出の多い女だったらしく、少し動揺した。
ちょっとだけ見てこようと思う。
☆月★日
夜、死体安置所に忍び込んで、目的の女を探す。
やはり、不安は的中していたようで、死体となっていたのはクレマンティーヌだった。
クレマンティーヌの顔は苦しみで歪み、歯はバキバキに折られていた。
骨格がおかしくなっている所をみるに、背骨をやられたらしい。
いったいどんな奴とやりあったら、こんな死に方するんだと思った。
生き返らせた方がいいのか悩んだが、安置所で迷ってるよりいいと、眠るクレマンティーヌを宿につれてきた。
ベッドのシーツが黒い血で汚れてしまったが、明日、弁償するしかないだろう……
悩んで連れてきてしまったが、連れてきたからには生き返らせるしかあるまいと、とあるスキルを使い蘇生させた。
取り敢えず、すまんと言っておく。肝心の本人には言ってないが……
怪我までは治らないらしく、虫の息だったのを大治癒の魔法で損傷した体を修復させた。
あとは目を覚ますまで待つしかないだろう。
翌朝、クレマンティーヌは俺が起きて、しばらくしてから目覚めた。
起きた途端、泣き出して縋り付くんだからよっぽど怖い思いをしたんだろう。
よしよし、怖かったでちゅねー。
とからかっても無反応。
大丈夫なのか?
何をやったらあんな死に方するのか聞いても、無言のままだった。
またトラウマでも出来たのかもしれない。
腹が減っているだろうと料理と水をあげたら無言で食っていた。
ようやく口を開いたかと思えば、アンタ、プレイヤー? だった。
何で今それが出てくるのかわからないが、とりあえず、そうだと言っておいた。
奴は不気味にもニヤニヤしていた。
本当に何なんだ?
クレマンティーヌに宿は借りっぱなしにしておくから、好きにしてろと言ったらついて来た。
まだ、ギルドに戻ってきたことを伝えていないからな。
ギルドに竜王国から戻ったことを伝えた。
エ・ランテルでは竜王国の情報はあまり入ってきていないらしく、話した内容で、いくつかの調書が作られた。
とにかく無事に戻ってこれて、良かったと言っていた。
いつの間にか金級になっていたことには驚かれたが。
ギルドに入らなかったクレマンティーヌはどこかに行く用事があったらしい。
ギルドの用事が終わる頃には、クレマンティーヌの用事も終えて、ギルド前で待っててくれていたみたいだ。
しかし、あいつとんでもない薬を盛ってきたな……
いや、可愛い一面見れたからいいけどさ……
☆月★日
クレマンティーヌを殺ったのは、モモンとナーベっていう最近アダマンタイト級になったばかりの冒険者らしい。
ナーベってのは知らないけど、モモンはクソ強いエルダーリッチの化け物だって言ってた。
モモンって剣士って聞いてたけど、お前、マジックキャスターに接近戦で負けたの? って聞いたらキレられた。
だって普通に考えたら、そうじゃん。
☆月★日
昨日、少し言い争いになったが、出ていく気はないらしい。
というかついてくるらしい。
通り魔兼事件の主犯が仲間とか、俺までヤバくね?
ついてくる気なら殺人は禁止にしといた。
破ったら、魔法使って強制するんでヨロシク。
それはともかくとして、モモンとナーベって冒険者のことは調べてみようと思う。
聞いて回った話では、アダマンタイト級になったのは事件の後らしく、モモンはいつもヘルムを被っていて顔を見せないらしい。
てか、フルプレート……やっぱスゲー目立つわ。
もし、エルダーリッチで顔を隠してるなら筋は通るが……
正直、良いか悪いかで言えばクレマンティーヌが悪いからな。
人間じゃないってだけで、悪い奴と決めつけるのは間違ってる気がするんだが……
遠目でアダマンタイト級冒険者、漆黒を見ることが出来た。
モモンはともかく、ナーベは何処かで見たことあるような……? でも、黒髪だしリアルでかもしれない。
目が合った気がしたんで視線をサッと外して、その場を後にした。
☆月★日
昨日から、周囲に何者かの気配がする。
人通りが少ないところで、センスエネミーを使ったら敵ではないらしい。
どういうことだ?
未知の敵を看破するスキルを使ったら、どうやらレッサーデーモンが潜んでいるみたいだ。
悪魔が敵意持ってないってどういう状況なの?
☆月★日
ギルドで、俺に漆黒が話をしたいと聞いた。
正直、気が重かったが、直接話を聞いた方がいいと思いオーケーをだした。
クレマンティーヌは物凄ーく嫌そうな顔をしていた。
いや、こんな状況になってるのはお前のせいだからな?
☆月★日
衝撃を受けた。
モモンの正体はモモンガで、ナーベの正体はナーベラルだった。
一字抜いただけじゃねーか!
モモンガは喜び、ナーベラルは感動で泣き崩れていた。
俺は何か凄く申し訳ない気分になった。
今、ナザリックの僕達が俺を歓待する準備を急ピッチで進めているらしい。
明日、ナザリックに帰る予定だ。
NPC達が生きているとは……会うのが楽しみだ。
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3.クレマンティーヌ編※1抜き出し
頑丈そうな石造りの宿。六畳ほどの狭い部屋。部屋には大き目のベッドに簡易なクローゼット、机と椅子くらいしか置かれていない。
ピチャ、ピチャ…
湿っぽく、水を舐めるような淫靡な音が響く。
「むー、んー 」
くぐもった声が聞こえてくる。
木で作られ、薄いマットが敷かれたベッドの上には金髪にショートボブの髪型をした女が仰向けに寝転がせられている。
女は厚めの布で口枷がされており、両手は万歳する形で纏められ、ベッドに縛りつけられていた。
白く、シミ一つない肌。タレ目がちの赤い瞳。豊満な胸を持ち、露出の多い革製のボディアーマーははだけられ、ピンクの綺麗な乳首が露わになっていた。
ピチャ、ピチャ…
女の股グラには男がおり、鍛えられた太い腕で女のムチムチと肉付きの良い脚を強引にM字に開脚させている。
顔を股グラに突っ込み、ひたすらに女の秘所を舐め回している――ピチャ、ピチャと湿った音の元だ。
男の位置からは女の秘所も、卑猥で綺麗な色をした菊も丸見えだった。
それがまた男の劣情を掻き立てる。
んー、んー、とくぐもった声をあげる女の息遣いは荒く、反抗的な目つきとは裏腹に余裕はなさそうだ。
「う、うぅ〜…!」
男に敏感になった突起を舐め回される度に、女の意識に関わらず、腰がピクリピクリと反応する。時には無意識に男の顔にもっと!とでも言うかのように押し付け、浮かび上がらせている。
そして、押し付けられた股は更に強く刺激され、女の体には甘い痺れが流れてゆく。
「へ、へめー…ふっこおすそ…」
口枷のせいで、くぐもり、判然としない言葉だったが、その口の悪さに反して語調は弱々しい。
す、ず、ずぶぶぼぼぅー!
男が一際大きな音をたてて、陰核を吸う。
と、同時に女の腰があまりに強い刺激に驚いたかのように跳ね、すぐに腰が引けた。女の体に走り続ける刺激はどこまでも甘く、甘美で、一瞬一瞬ごとに反抗の意思を奪っていくようだった。
「あぁ…!うっ…!」
絶頂を迎え、グッと、体が数秒強張り、仰け反る――ビクリと一度痙攣すると脱力した。
しかし、男はそんなもの知ったことかと言わんばかりに陰核を責めることをやめない。
「ひゃ、ひゃめろ…いっははかりへ」
敏感なのだ。現に腰は再びピクピクと反応してきている。
イヤイヤ、と何とかその刺激から逃げ出そうと、腰を捻ったり角度を変えてみたりとするも、女にとっては完全な悪手だった。
男は執拗に、しつこく責め、女が逃げようと動く度にまた違った刺激を産み続ける。
端から見れば、それは積極的に快楽を求めているようにも見えたかもしれない。
…
もうどれほどの時間がたっただろうか。部屋には相変わらず淫靡な音が鳴り続けていた。
女は発情しきっているようて、体は汗でぐっしょりと水濡れになっており、色が消えトロンと溶けかけた瞳に、顔は紅潮していた。
ベッドは既に女の体液で湿り、グチャグチャになっている。
「ぁ…ぁ…もう、ひゃめ…」
もはや女は残っていた余裕など消え失せ、ただただ継続的に与えられる甘い刺激を甘受するだけの存在になっていた。
当然だろう。男は執拗に、あの手この手で女の秘所を責め続けたのだから。
「お前、やっぱ、いい体してんなぁ」
初めて男が股グラから顔を上げ、口を開いた。が、しかし、その声は余裕を失った女に届くことはない。
女のきめ細かい肌をツーっと撫で、大きく実った胸を揉んだ。ビクリと体が反応する。
「そそる、イイ顔だ。そろそろ次イクか」
意識が朦朧とし、言葉を返せるだけの気力も残ってはいまい。
男は口枷となっていた布を解いた。
解いた際には、女の口から唾液の糸が伸び、それがまた淫靡な空気を醸し出す。
女は喘ぐように、ハァハァと、口を半開きに荒い息をしていた。
ふと、男が腕を横に伸ばすと――中空にも関わらず黒い影が浮かび、男の腕を飲み込んだ。
スッと影から腕を引き抜くと、その手には豪奢な装飾が施された水差しが握られていた。
ユグドラシルのアイテムである無限の水差し。一口、二口と吸口から直接、中に満たされた水を飲む。
ついでにとばかりに、女の口にも水を少しずつ流し込み、コクコク、と小さく喉がなる様が男は艶めかしく感じた。
「よし、休憩は終わりだ。こっからは第二ステージだぜ。頑張ってくれよ」
そう言うと男は再び、唾液と女の体液でグチョグチョになった股へと潜り込む。
口を開け、ふやけ、へたった陰核へとむしゃぶりつきーーー
ず、ずぼぼぼぉぉ…!
「ぁぁぁ…ぁぁぁ…!」
一息に吸いこんだ。
切なげな声をあげた女からは、こんこんと溢れる体液は濃厚な雌の匂いがし、桃のような仄かな甘みを含んでいた。
水を飲み、少し休憩を経たせいか、これまで責められ反応が薄くなっていた女はビクッ、ビクンッと大きく痙攣した。
「気持ちいいか?」
男はもっと寄越せ!と吸い付きながらも、新たな責め手を用意する。
初めは一本、と常人よりも太い人差し指を淫らな穴へとヌゥッと挿し入れた。
既に穴はグチャグチャに濡れそぼっており、男の指を阻むことはなかった。
もう一方の腕は、女の上半身へと伸び、たわわに実る胸をやわやわと揉みしだいており、乳房は柔らかく、男が揉みしだく度に形を変えた。
「…っ!」
何度も責められた陰核。敏感になった膣とツンと尖った乳首に触れられたことにより、女は再び背を仰け反らせ、体を硬直させた。
襲いかかる波に耐えるように、先程まで強引に固定されていたが、今では自由になった足が男の顔を挟み込み、女の白い脚がピン伸ばされる。
丸い形の尻がキュウッと締められ、ボフッと男の呼吸の音がなった。
「ぁ、ぁぁぁぁ…」
大きな快楽の波に意識を攫われ、切なげに、掻き消えてゆく喘ぎ声。
喘ぎ、大きく開けられた女の口から零れた唾液が顎へと垂れていった。
「ほいほい。まだほれからだぜ」
ムチムチとした脚で頭を挟み込まれ、男の声はくぐもっていた。
グッと膣に挿し込んだ指をくの字に折る。脱力し、やわやわになった膣壁を指の腹で丁寧に押し、撫であげてゆく。男が狙っているのはGスポットだった。
女にとっては未知の刺激だったのだろう。腰が浮き上がり、ビクビクと痙攣を起こし、再びギュッと脚が男の顔を挟む。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
男の肩に投げ出され、白く伸びた脚線が艶めかしい。
丁寧に、丁寧にドロドロに溶け解れた膣を責めてゆく。
「なんだよ、お前。そんな成りしてこういう遊びは不得手なのかぁ?」
男の疑問は当然だ。女はボディコンよりも露出が多いような装束を纏っていたのだから…痴女だと思われていたとしても仕方がない。
この、いちいち可愛い反応をして返す女に、男は何時間でも責め通し、調教できる自信があった。
男の顔がドSに染まる。表情は歪み、犬歯が剥き出しとなる。
グイグイと膀胱を指の腹で圧迫するように押し、ズルリ、ズルリと何度も、何度も擦りあげてゆく。
「はぁ…!はぁ…!はぁ…!はぁ…!」
口では陰核を、片腕で胸と膣の三箇所をネチネチと執拗に責められ、限界が近いのか女の息はどんどんと荒くなってゆく。
表情は如何にも余裕がなく、熱病にうかされたように紅潮しており、体はプルプルと細かく震え始めていた。
当初、反抗的だった態度はとうに鳴りを潜め、女は青色吐息。
焦点すら合っておらず、与えられる快楽にイヤ、イヤと首を振るのが、可愛らしい。彼女は、もはや快楽の波に翻弄されるばかりだった。
「ッ…!」
プシャァー!
何度目かわからない――グイッ!と、大きく腰を前に突き出すようにして絶頂を迎える。と、ともに、盛大に潮が吹き上がり、カクカクと腰が動く度にピュッ、ピュッ小さく潮が噴き出る。
女にとって、潮を吹くのは初めての経験だった。普段、人を馬鹿にしたように強気な彼女だ。苛烈な責めで、余計なプライドや意識が取り払われた今だからこそ出来た。
ズズゥッ!
「ん、おぉぉぉぉ…!」
イッている最中に敏感な陰部を吸われ、女は獣のような声を出した。
両腕で女の腰を掴み、パクリと大きく開けた口で噴き出る潮を呑み込む。潮は無味無臭だったが、その行為が男を益々興奮させた。
ビクビクと硬直したまま、あまりに大きなオーガズムに、女はなかなか戻ってこられないでいる。
何かを求めているかのように、ヘコヘコと震える様は滑稽でもあり、淫靡な風景だった。
股からつけていた口を離す。
ペチン、と胸を叩き、ブルンッと揺れた。
「おら。いつまでも、よがってんじゃねぇ」
「あっ…あっ…ぁぁぁ…」
焦点の合わない目。掠れるような呻き声をあげ、体を苛む快楽に耐えられず彼女の意識は闇に閉ざされていった。
…
「ぷっ」
パンッと頬を叩かれ、朦朧とした意識が戻ってくる。
頬がヒリヒリと熱を持ち、痛んだ。
女は一瞬、自分が何をしていたのかわからなくなった。そして、すぐに現状を把握した。
腕は頭上で繋がれたまま。腕を頭上で纏めて拘束されたその姿は、男に服従しているようにも見えた。
気絶してから、まだ間もない内に叩き起こされたのだろう。
男はクンニを止め、女の股ぐらに座りこんでいた。
女が見えたのはM字に開かれた脚の間、黄金色に茂る恥丘の後背にオーガが持つかのような剛直が屹立している様だった。
「ひぃっ…そんにゃの、むり、むりらからぁ!」
青ざめ、意識は一気に覚醒した。あんな大きいのが入るわけがない、と。
しかし、快楽責めにあった体は重く、ユサユサと左右に揺れ動く程度の抵抗しかできないでいる。
男は女の蜜口へと狙いを定め…
「や、やめ、たしゅけ、たしゅけ、てぇっ…!」
一気に貫いた。
女に今まで感じたことのないような衝撃が走った。
一番深い所までゆうに届き、奥にある子宮がヌチャと亀頭の形に凹んでいるのを感じた。
現に女の腹は、男の剛直によりボコリと僅かに膨らんでいた。
「か、はぁっ…!」
息を吐くように喘ぐ。
普通であれば痛いだけであろうその衝撃は、極限までトロトロに、淫らに堕された体にとっては待ちに待ったモノであった。
そして、その衝撃は一瞬にして、女を再び快楽の空へと打ち上げる。
グルンと裏返った目からは星が瞬いており、視界はホワイトアウトした。
大丈夫なのかと思うほど、ビクビクと仰け反り、体に自由が戻ることはない。
意識は既に遠く空の果てにあった。
あまりにも長く戻ってこないので、男はペチペチと頬を軽く叩いた。
「はぁー…!はぁー…!はぁー…!」
目を閉じ、何度も大きく息を吸う。
大きなオーガズムで、呼吸すら止まっていた。
女はこの日、もはや何度目になるかもわからないほど大きなオーガズムを迎えた。
それでも、この一撃は特別だった。
今までの責めと違ったことは、この挿入の一撃で、無意識であったとしても幸福感を感じ始めていたこと。
目の前の男が愛しく感じた。
自らの秘所へと突き刺さっている怒張が愛おしく感じて仕方がなかった。
気付かぬ内に体は堕され、心は、目の前の男を求めている。
体から力が抜けているのにもかかわらず、自身の秘所がミチミチと肉棒を咥え込んでいる感触がわかった。
ゆっくりと男が動き出す。
ズンッ!
ズンッ!
ズンッ!
「ぁっ、はぁっ、ぁん…」
腕のように太い怒張が引き抜かれる度に、内臓が引きずり出されるような心地よさがある。
また、一番奥まで突き出される度に、魂が抜けるような心地よさで意識が薄れ、ズンズンと高みへと押し上げられる。
その強すぎる快楽に女は顎を天上に向けて突き出し、ガチン!と歯を食い縛った。
「ふーっ…ふーっ…ふーっ…」
快楽の波を耐えた女が又グラに顔を向ければ、今も出入りする剛直が見えていた。
剛直はピストン運動の度にヌチヌチと厭らしい音をたてている。
与えられる快楽は苛烈なもので、男は手加減する様子もない。女は何だか、もはや全てがどうでも良くなっていた。
心は。今はもう、今だけはこの男の女として、女の悦びを受け入れたいという気持ちになっていた。
そんな女の様子に男は口許を吊り上げ、女の体に覆い被さる。
男の体はゴツゴツと一切無駄のない筋肉で覆われており、女は背中に手を回せないことを無意識下で残念に思った。
女を抱きしめ、口づける。男の体が女の体に接触し、厚い胸板で潰された胸が、触れられた肌が熱い。
「ん、んぅぅ〜..!」
男の重み――それだけで、女は気をやりそうになった。
チロチロと舌が絡み合い―――
男が女から顔を離せば、口と口との間には唾液の橋がかかった。
女はそれをただトロンとした瞳で見つめていた。
「こぇ…はずしてぇ…」
クイクイと括られた腕を示す。
「いいぜ」
そういうと男はサッと腕を伸ばし枷を外した。
女は腕の枷が外れると、男の大きな背中に腕を回し、再び口づけをねだる。
「んぅー!んぅー!うぅぅ…」
鼻息荒く、口づけを交わしながらも、剛直はピストンを続けていた。女も更なる快楽を求め、腰を揺らし続ける。
女の脚は男の腰へと回され、逃さないとでも言うかのようだ。
ねっち、ねっちと女の奥へと優しいキスを送り続ける。
太い剛直により、ミチミチに詰まっては愛しげに絞め、引き抜かれては行かないでと泣く、淫らな穴。それだけでも体は震え、女に悦びを伝えるが、どこかもどかしい。
子宮口に優しいキスをしても、すぐに離れて行ってしまう。そして、また優しいキスの繰り返し。
「じゅっと、しぇちゅない…しぇちゅないのぉ〜」
「なんだ、最初の反抗的な態度はどうしたよ」
女が応えることはない。そんな余裕などとうに消え去っているのだから。今あるのは女の浅ましさ。
「はやくぅ…はやく、いっへぇ」
「おいおい…別にお前の為にやってるんじゃないんだぜ」
しかし、そんな言葉とは反対に男は笑顔だ。自身の剛直で女がよがり狂っている。あへあへ、と前後不覚になっている女を見ていると俄然、やる気が湧いてくる。
「当然、答えはノーだ!」
グイッと女の身を起こし、女を抱っこする形になる。
男は女の背と腰を支え、女は幼子のように男の背に両腕を回してギュッとしがみついた。
体勢が変わったことで、これまでとはまた違った角度から奥を責められ、ビクンッと体が跳ねる。幸福感とともに、深い絶頂を味わう。
男にキスを求められ、なすすべなく奪われた。胸がジンと熱くなる。
「ぁ、ぃ、ぃひゃぁ〜…!もぉ、ゅるひてぇ…」
許して貰えない。女は子どもに戻ったかのように、ハラハラと涙を流す。普段の彼女を知るものからすれば、あり得ないことだ。
女はそう言いつつも、腰を男の腹に擦り付けるようにして、許しを乞うようにヘコヘコと動き続けている。
「もぉ、むりぃ〜。むぃだからぁ…!」
喚き出す女。本当に限界のようだ。言動が子どものようになってしまっている。
「…わぁーったよ。もう少しだけ耐えろよ」
「ごめんなはぃ…ごめんなはぃ…」
ハラハラと目の縁から流れ落ちる涙を舌で掬う。言葉は乱暴だが、所々に優しさが滲んでいた。
はぁ、はぁと荒い息で喘ぎ、共に登りつめる約束を交わす。
男は再び、女を仰向けに寝転がせた。女の力が抜けヘロヘロになった脚を両腕で一本ずつ掴み、深いスロートを開始した。
「ぃぃっ…!」
ぬっち、ぬっちと子宮を押し潰すように責める。
何度も子宮口にキスをされ、何度も、何度も剛直で押し潰された子宮は既にクタクタになっていた。
クタクタになり位置の変わった子宮がもう耐えられないと降参している。クポンッと子宮口に亀頭がはまり込んだ。
「あひぃっ」
衝撃。
パクパクと喘ぐが、言葉は出てこない。
ピストン運動が進むたびに、亀頭によって子宮口が広げられてゆく。
もう準備は万端だった。いつでも、この女を終わらせることができる。
「もぉ、だひて…だひて…」
光のない瞳で、うわ言のように囁く。
「ちゅらいの…ちゅらいのぉ〜!」
もう本当に狂ってしまう。これ以上は精神が耐えられない、と。荒波のように打ち付ける快楽の波に、そのまま精神がさらわれ、戻ってこれない予感がした。
「へっ、へへ…今、お前を女として終わらせてやっからよ」
「ぅ、んっ…!」
金髪の大人の女。そんな彼女が子どものように笑顔を浮かべている。もしかしたら、子どもの頃の彼女はこんなに天真爛漫だったのかもしれない。
覚悟を決めた。
中出しを食らわせて、コイツを終わらせる。
「おっしゃ!盛大にイケや!」
絶頂とともに、女の深い、深い所まで剛直を突き刺した。
クタクタになった子宮口にトドメのキスをかまし、亀頭はほとんど埋まっていたかもしれない。
そして、熱い精子を女のハラにぶち撒ける。
「ぃ、っくぅっ…!」
これまでとは、比較にならないほどの快楽の津波。抵抗など許されず、一瞬にして意識を刈り取られる。
女は身を大きく仰け反らせ、与えられた女の悦びを余すことなく受け止めた。
一番、深い所まで精子が行き渡り、勢いよく放出された精は子宮壁へと衝突し、跳ね返る。
遠慮などなくドクドクと注がれ、パンパンに膨らんでゆく子宮。
女が最後に感じたのは逞しい男に征服された悦びと、熱く火傷するような、ハラが燃えた感触だった。
…
「あーあー、なんだよ。一発KOじゃねーか」
女は快楽の空にいるらしく、しばらく戻ってくることはなさそうだった。
男の体力からすれば、まだまだ余裕だったし、物足りなくはあったが…
仕方がねぇ、これで勘弁してやる。
と、女に腕枕をし、労るように抱き締めると重なり合うようにして眠るのだった。
…
朝
男よりも早く目を覚ました女は、男の腕の中にいた。そして、自身を犯した男を見つめた。
何故かこれまで感じていた身を苛むようなイライラ、憎悪の念は晴れていた。
こんな気分は本当にいつぶりだろうか。
この男のことは、よくわからない。
あんなに無茶苦茶に犯されたのに、今は何でか嫌な感じも憎悪もなかった。
女は殺す気分にもなれず、自身のボディーアーマーを手早く装着すると、男には何も告げず連れ込まれた宿を後にした。
まだ熱の残る下腹部を無意識に撫でながら…
いつの間にか彼を求めている自分に苛つくまで、後、逢瀬が一回。
彼女が、自分もまた女だったのだと気づくまで、後、逢瀬が二回。
全てを投げ捨てて、心から彼に服従するまで、後、逢瀬が三回。
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4.クレマンティーヌ編※2ー1
夕方、路地裏。
人の目が向きにくい暗がりから、夕日で照らされ、赤い表通りが見える。
表通りには、人の営みの様子が垣間見える。街の住民達は一日の仕事を終え、家路に着く時間帯。商人達は、そんな住民達を相手に一日の締めくくりとばかり、商いに精を出している。
通りには、喧騒が溢れていた。街が静まるまで数時間の、短い賑わい。
暗がりからそんな表通りを眺める女がいる。目深に被ったフードの奥から覗くのは、紅い瞳。
『イライラする』
『あの日から、あの男のことが頭にチラつく』
女の表情は浮かない。何かを思案しているようでもあり、視線は人々の喧騒に向いているが、意識は他の事に向いていた。
思案の先は、先日、イライラを治めるためにテキトーな人物を殺害しようと、目をつけた男について。
実際には、イライラ解消のために襲撃したのだが、あっさり返り討ちにされたあげく、彼女の体を弄ばれてしまったのだが…
『気がつけばアイツを探している自分がいる』
『表通りで、酒場で、路地裏で』
だが、思案の通り、男に用があるのであれば、彼の常宿に足を運べはいいのに。
それが出来ないのは弄ばれた女としてのプライドか…何か切っ掛けを必要としている。
女の身の内には、彼女でも判別できない、正体不明の感情がある。
『今までの自分にはなかった執着』
『でも、恋なんて臭いものじゃないのは確かだ』
腕を組み、背中を建物へと預け、思案を続ける。熱の感じられない視線は表通りに向けられたまま。
恋愛感情などというものはとうに捨てた。そんなモノに縋って生きられるほど、楽な道を辿ってきてはいないのだから。
『今あるのは体を弄ばれた羞恥と屈辱、そして、よくわからない期待感』
無意識に自身の体を抱きしめる。
『なんとなく殺意はわかねーが…』
『この感情はあいつを殺せばなくなる?』
不思議なこともあるものだ。
プライドの高い彼女だ。好き放題にされたことへの屈辱や、責められ前後不覚となり変態プレイを受け入れてしまった羞恥はある。
しかし、あれほど、無茶苦茶に体を弄ばれたのに男への殺意自体は沸いていない。
何故?
彼女が気になっていたのは、感情の正体。
『よくわからない。内心では、殺してしまっては取り返しがつかなくなると訴える自分もいる…』
普通であれば殺意を抱いてしかるものだが…
彼女は表面的には頭の可笑しい狂人のように見られているが、内面的には冷静な思考を持つ一面もあった。
しかし、獣に近いというか、人類最高峰の境地にまで鍛え上げられた身体には直感も備わっていた。
よくわからない感情へのモヤモヤ。
その感情を捨てることをしてはいけないと訴えたのが、直感だった。
そして、気になっていることが、もう一つ。
『宿から出たあの時は、イライラは晴れていた』
『あの男といて初めて、身を苛むドロドロとした憎悪を吐き出せた気がする…』
危険な任務をこなし、クソみたいな現実を生きてきたうちに、いつの間にか身の内に巣食うようになっていたドス黒い憎しみの感情。
それはモンスターの屠殺や重要人物の暗殺などで役立つことはあれど、慢性的なイライラをもたらした。
だが、男に抱かれた後、イライラはどうしてか、すっかり払われていた。
あんなに清々しい気分は久しぶりで、灰色ばかりに見えていた視界が、目の前が急に明るくなったように感じた。
それは、まるで生まれ変わったかのような気分で…
しかし…
『カジットの計画は遅々として進まないし、最近では私を探す本国の奴らが嗅ぎつけたのかウロチョロしてる』
『クソつまらない…全てをぶち壊してやりたい…』
黒い感情が首をもたげる。
『そして…いつの間にか身を苛むイライラ、憎悪ははじめから其処にあったかのだと言うかのように再燃した』
鬱屈とした気分を晴らそうと、そこらにいる冒険者を手にかけてみたりもした。
だが、気分は一向に晴れることはなかった。
『殺人なんかでは癒せない、苦しみ』
あのなんとも言えない晴れやかな気分を味わった後では、殺人では絶対に辿り着けないと悟ってしまった。
『アイツに会って確かめたい』
『なぜ?どうして苦しみはあの時消えた?』
アイツに抱かれたから?
わからない。
どうして、あの男はこの体を蝕む憎しみを、一時でも消すことが出来た?
『私は…確かめたい…』
あの男の何が私を逸らせるのか。
どうして、こんなにもあの男が気になってしまうのか。
女の視界に、簡素な革鎧に身を包んだ男の姿が映る。
『…ようやく見つけた』
女がいる暗がりから見えたのは、夕日に照らされ、赤く染まった男。
ギルドで依頼を達成させてからの帰りなのだろうか。
視線の先。
…?
ふと、夕日色に染まる男の後ろ姿が、異国の騎士鎧を身に纏った姿の、靄のように白い幻影と重なる。
周囲の人間が男に注目する様子もない。
頭が可笑しくなったかと、女が頭を振り、もう一度見るが、ただの革鎧姿の男がいるのみだった。
気のせい…?
不可思議なビジョン。
彼女はその類のタレントは持ち合わせてはいない。
これは何かが起こることへの暗示かと、眉を顰めながら男の後を追った。
…
男をつけた先。男は人通りのない、裏道へと身を潜らせた。
男の常宿への近道でもあった。
「お兄さん、この間はよくもやってくれたねー?」
女は男に対して、背後から声をかけた。
「あ?あぁ、アンタこの前の…」
男が見たのは、全身をマントで覆い、フードを目深に被った女の姿。
女が俯き加減だった顔を上げた。
隠れたフードの奥からは紅い瞳と金色の髪、歪むように吊り上がった笑みが見えていた。
「どうだった?気持ちよかった?こんなかよわい女の子をレイプするなんてさ…」
突然声をかけられたかと思えば、自身をレイプして気持ちよかったか、などとのたまう。
「変態」
その罵倒には、彼女が受けた変態行為に対する非難が含まれていたのだろうか。
一寸の間が空き、男が鼻で笑うように、フッと音を鳴らした。
「アンタも余裕がないとこなんて、随分可愛らしかったぜ」
思い出すのは、男の腕の中で許しを乞うように喘ぎ、乱れる女の姿。
目の前の強気な姿からは、想像もつかないだろう。
「あんなに乱れてたしなぁ」
「経験の少ない未熟マ〜ンには、さぞ辛かったんじゃないか?」
挑発するように返す。
「あぁ…!?てめー、殺されてーのか…!?」
「おい、おい…」
煽り耐性低すぎだろ…という言葉は飲み込んだ。
馬鹿にされたと感じ、激昂する女。
男としては、遊び程度のただの掛け合いのつもりだったのだが…
この程度でキレるとは…
「しかし…できんのかぁ、アンタに。出来るもんなら、やってみるか?ん?」
だが、目の前の女は忘れてはいないか?
前回、自分を襲撃した時には、手も足も出ずに気絶させられたことを。
男はニヤニヤと口許を緩ませて問いかける。
「てめぇ…今日は前みたいにはいかねーぞ…!」
いつでも飛びかかれるように腰を落とし、手は腰元の武器に伸ばされていた。
…
短気に見える言動とは反する、冷静な精神。
目的のためには、冷静に任務を遂行してゆく。もしかしたら、彼女の言動は敵を欺くためのポーズなのかもしれない。
つまるところ、彼女はただの狂戦士などではないということだった。
マントを投げ捨てる。
中から現れたのは、以前にも見た露出度の多いビキニにも似た革製のボディアーマー。
動きを阻害させないためなのか、守られている場所は限られている。
そのボディアーマーには、冒険者証が括り付けられており、それはまるで、彼女が刈り取った人間狩りの証明。ハンティングトロフィーのようでもあった。
「アンタ、やっぱりいい体してるよなぁ」
露出の多い女の装いに、男の表情はニヨニヨと明るい。
女から発せられる闘気には、気にもとめていないようだ。
一瞬、男のなめるような視線に体を弄ばれたことを思い出したのか、羞恥に胸を庇いかけるも…そんなことをしている場合ではないと、羞恥を怒りへと変えて構え直した。
「…!」
警戒した様子で、スティレットを抜く。
抜いたのは右手の獲物のみ。左の腰には3本のスティレットが収められたままだ。
「何だ、前ので懲りなかったのか?」
前回、襲撃にあった際にも目の前の女はスティレットを主な武器としていた。
元来、スティレットは鎧の隙間から差し込んだり、トドメとして使われた武器であったことから主武器として扱われることは少ないという認識だった。
なぜなら、スティレットの形状では精々30センチほどしかなく、武器を持つ敵を相手取るには間合いが圧倒的に足りていない。
しかし、この目の前の女は持ち前の敏捷を活かして懐に潜り込み、急所に一突き、という暗殺者のような戦い方を好んでいた。
また、男は知る由もないが、女が持つスティレットには魔法が込められていた。突き刺した際に魔法を発動させることで、内側から炎撃や雷撃を食らわせ、一撃の破壊力を補っていた。
一方の男。
「よし…今日は俺も同じ武器で相手してやろうじゃないか」
そういって、どこからが取り出したのは2つの装備。
右手には、女が持つ獲物と同じくらいの長さのスティレット。
左手には、小さめのラウンドシールドを持った。
「ナメてんのか、テメェ…!」
ギリッと歯を食いしばる音が聞こえる。
前回は間合いに優るロングソードで相手取った。しかし、今回は盾こそあるものの、同じスティレットで勝負するという。
男の主武器は腰に帯びたロングソードだろう。使い慣れていない武器を構える姿に手加減のつもりなのか、と屈辱を覚える。
「おいおい、アンタこそ俺をナメてんじゃねーか?」
男は自らの技量に絶対の自信を持っているようだ。
来いよ、とスティレットを持つ手でクイクイと指で招く。
「クソがッ」
走る。
姿勢を低く。
その姿はまるで疾走し、駆ける獣のようだ。
勢いそのまま、下から突き上げるようにして男に右腕の突きをお見舞いする。
対する男は右半身を前に出したスタンス。
左手のラウンドシールドは心臓を守る位置にあり、反対の手にあるスティレットは軽く握られ刃先は少し下に構えられていた。
カチッ!
スティレットの刃が合わさり金属音が鳴った。
男が突き上げられた刃に対して、篭手を引っくり返すようにして刃先を円に回し、刃を絡める。
脇に反らされた刃に、突きが失敗したことを悟った女。
咄嗟に左手を地面につき、軽業師のような身のこなしで、斧を振り下ろすように右脚で蹴りを浴びせた。
ガンッ、とただの蹴りとは思えないような音が響く。
振り下ろされた脚の先には、ラウンドシールドが構えられ、衝撃を受け止めていた。
巌のように、ビクリとも動かない男の体。
体勢の不利から、蹴りの反動を利用して体を捻るようにして飛び退った。
男の正面。
女は猫のようにしなやかな体勢で着地し、四肢を地面につけた。
「アンタ、やっぱり猫みたいな動きするよな」
「…」
女が応えることはない。
再び、男の懐へと潜り込まんと、四肢に力を込め、跳躍した。
ヒュッ!
ヒュッ!
ヒュッ!
と、勢いを殺すことなく、正面からの一点突破、隠すように抜かれた左手のスティレットによる下からの突き上げの急襲。
左右から刺突を阻む腕を狙うように、連続して突く。
間、攻撃の隙間を埋めるようにして、左右から蹴撃を浴びせるも、突きは全て男の手に持つスティレットで勢いを削ぐようにいなされ、蹴りは躱されるか、常に盾で受け止められた。
転がるようにして、男の背後に回ろうとするも、右脚を起点として身を回転させる男は背を見せることはない。
女が牽制のために突き出した刃に、男の刃がガチリと、噛み合う。
十字に象られたスティレット。
男は女の獲物の上から交差させるようにガードまで刃先を差し込み、女が武器を手放さないギリギリの力加減で手首を回転させた。
伸ばされた腕から伝わる急な圧力によって、体勢が崩れタタラを踏む。
瞬間。
噛み合わせられた刃同士が解けた。
ボッ!
風を切る男の突き。
右脚で大きく踏み込み、体を沈ませるような体勢で腕を、女の瞬きの刹那に伸ばす。
女には一瞬にして、間を詰められたように思えただろう。
しかし、男の狙いは甘く、命を奪うつもりなど端からない。女の頬に一筋の赤い線が走った。
女が頬の熱に気がついた時には、沈めた男の体勢は既に戻っていた。
苦々しい表情で、大きく後退する。
手加減された一撃は、女のプライドを酷く傷つけた。
「すかしやがって、クソッ!今にその余裕消してやるよ!」
〈不落要塞〉
〈流水加速〉
〈疾風走破〉
〈超回避〉
〈能力向上〉
〈能力超向上〉
武技と呼ばれる、精神力を使用して身体能力を強化する技術。
一度に複数もの武技を重ねがけ出来るものは、近隣諸国広しと言えども限られてくる。
女は正しく、天才的な才能を持った戦士だった。
もしも、ゲームのようにステータスを確認することが出来ていたのなら、数値が跳ね上がっていたことがわかっただろう。
その領域はもはや、人類最高峰。並び立つ者がいない程の強度にある。
女が先程とは比べ物にならないほどの速度で肉薄する。
その速度に男は動きを見極めるように目を細めた。
縦横無尽に駆け回る。
「…っ!」
上下左右から雨霰のように刺突が繰り出される。
「むぅっ…!」
が、女の動きは見えている。
嵐のような剣弾に、右腕のスティレットで次々に弾くように防いでゆく。
「おらぁっ!」
渾身の力が込められた回し蹴り。
ガゴンッ!
難なく受け止めることは出来たものの、受け止めたラウンドシールドを持つ腕は僅かに痺れていた。
受け止めた腕の痺れに、一瞬意識を向けた。
その刹那に潜り込んだ。しかし、実際に届くことはない判断し、弾き漏らした女の一撃が男の顔に迫る。
…が、腕は既に伸び切っている。
やはりその刺突は男の判断通りに届くことはなく、男に傷をつけるまでには至らない。
「マジックアキュムレート、ファイアーボールッ…!」
ニヤリと笑い、スティレットに込められた魔法を発動させる言葉。
突き出され、目一杯伸ばされた腕の先。握られたスティレットの先端に赤く輝く光が発生し…
男の顔を僅かに照らす。
歪んだ笑みが向けられた先には、驚くような表情の男。
だが…
ダァンッ!!
男の顔の目前まで迫ったスティレットは大きく弧を描いて飛んでいった。
「なかなか惜しい一撃だったぞ」
同時にスティレットを握っていた腕は弾かれ、高く手を上げる形になっている。
パリィ。
スキルではない、男の持つ技術。
男はスティレットの先端から魔法が発動すると判断するやいなや、左手のラウンドシールドで素早く弾いたのだ。
果たして、パリィは成功した。女の獲物を弾き、顔を狙っていた魔法を無効化することができた。
完璧に不意を突いたはずの一撃を弾かれ、目を見開き驚愕の表情をする女を余所に、男の思考にあるのは殺してしまうような追撃はマズイというもの。
もしかしたら、自身を傷つけたかもしれない存在に対して反射的に体が動いていた。
スティレットで突くことは何とか堪える。姿勢を崩したまま、修正出来ていない女に対して、男は前蹴りを浴びせた。
「ぐぅっ…!」
手加減をやや忘れて。
ドッ!
…ドゴンッ!
崩された体勢のまま、手加減抜き気味の前蹴りを食らったことで、勢いを殺すことも出来なかった。
前蹴りの直撃した女は後方に勢い良く吹き飛び、路地裏の奥、角に当たる建物に背中から衝突した。
辺りにはモウモウと砂埃がたつ。
砂埃が晴れると、そこにはガラガラと崩れたレンガ造りの建物に埋まるようにして、昏倒する女の姿。
「やべっ」
急ぎ、女の獲物を拾い、女に不可知化の魔法をかけると、回収。路地裏をあとにする。
あとに残ったのは、崩れたレンガのみだった。
…
意識がゆっくりと覚醒してゆく。
目が覚めると、そこはいつか見たような石造りの部屋。案の定、部屋には簡素なクローゼットに机、椅子くらいしか置かれていない。
そこは、あの男が泊まっている宿の一室だった。部屋にはランタンが置かれ比較的明るいが、窓から見える外は真っ暗だ。
腕は前と同じように頭上で繋がれ、足は揃えられて拘束されていた。満足に起き上がることすら出来ない。
意識が徐々に覚醒し、何があったかを回想する。
『私は確か…』
不意を突いたはずの一撃は、男の持つ盾により弾かれ、回避する間もなく蹴りで吹き飛んだはずだ。
そして、背中から壁に激突して..
と、背中を意識するも痛みなどはなかった。
辺りをキョロキョロと見回すと、机の上には空になったポーションの瓶が置かれていた。
無駄に装飾がなされ、高級感のあるものだ。
既に空になっていることから、気に留めることはそれほどなかったが、満たされた液体を見れば驚いていたかもしれない。
なにしろ、満たされていたはずの液体は赤色であり、それは彼女の故郷にも伝説として伝わるプレイヤーの遺物なのだから。
ガチャリ、と部屋の扉が開いた。
「あぁ、目が覚めたか。体の調子はどうだ?」
「全く…骨は折れてないようだったが、打撲で痛々しかったぞ」
強化していたのが幸いだったな…と、男はそうは言うが、傷を作ったのは男の一撃によるものだ。女が男の挑発に乗ってやり始めたことではあったが。
「チッ」
舌打ちする女。
元々、男と話をするつもりではあったが、どうにも居心地が悪い。
先程まで戦っていた男の前で、無防備に拘束されているせいだろうか?
モゾモゾと体をくねらせる。体の調子は悪くないが、何故か力が上手く入らない。
女が身をくねらせ、豊かな胸が強調されたことで、男の表情はニヨリと和らいだ。
眼福、眼福、と。
女は知る由もないが、括られた両腕にはステータスダウンの腕輪が嵌められている。
それは、ステータス半減と引き換えに耐性全般が特大上昇する代物で、たまたま手持ちにあった物だ。
女の力が上手く入らないのも、腕輪のせいでステータスが半減したせいだった。
「…てめぇ、本当に一体なにもんだ。この私が一度ならず、二度までも…」
「んあ?なにもんって…ただの冒険者だが。多少できるみたいだが、アンタはそんな大層な奴だったのか?」
「…」
ショックを受けたように黙る女。
絶対にただの冒険者などではない、と彼女は思った。
彼女は人類最高峰の強さを持っていることを誇示していたのだから。
「それで、今日は何のようだ?ただ抱かれに来たわけでもねぇんだろ」
「…あぁ?誰がレイプ野郎何かに用があるかよ」
ニヤニヤと尋ねる男の中では既に女を抱くことは決定事項らしい。
女も女で、男といることで自分が持つイライラや憎しみを晴らしに来たなど言える訳がない。
それではまるで、自分から抱かれに来たと言っているようなものではないか。
「まぁ、いい…用事については追々聞くとすっか」
「幸い、夜は長ぇんだからな」
「…」
既に宿の外は日が落ち、電気のない世界の住人達は夢の世界にいる。
起きているのはそれこそ、夜の営みに励む男女か酔っ払いばかりの酒場くらいだろう。
女は男を直視できず、顔を背けた。また男に侵される未来を悟り羞恥心を覚えたか。
一方、男は手づから、女が身にまとうボディアーマーを剥がしにかかる。
シミなどない白い肌に、面積の小さい布に隠された豊満な胸を現わにしつつ、黒のニーハイと下着のみの姿にする。
女は赤い瞳で男を睨むが、剥いてゆく途中、女に抵抗らしい抵抗はなかった。
「イイ景色だ」
「…変態が…」
羞恥心。
元々、体を隠すほどの装備ではなかったが、それでも急所は保護していたアーマーを脱がされては、心もとなくなる。
女は男にほとんど裸になった姿を見られ、恥ずかしくなった。以前の行為を無意識に思い出してしまったのか、キュウッとお腹が切なくなった。
あの責め苦のような快楽がまた…
徐々に体の芯には熱が灯り始める兆しがある。
羞恥に抵抗を覚える思考に対して、素直に反応する体。体はこれからの行為に、期待を示していた。
『人の気も知らねーで、スケベな顔をしているのがムカつく』
女の視線の先にいるのは、ニヨニヨと自身の裸体を眺める男。
ムカつく…が、不思議と生理的な嫌悪感はない。
男が指先で白い肌を撫で上げる。
ススッと肌を撫でられ、ビクリっ反応した。体の奥からゾクリとする震えが走った。
『焦らしてるつもりかよ、クソッ…』
夜は長い。
そして、体は正直なものだ。
男は恥ずかしがる女と、これからの夜に思いを馳せ、笑みを深めた。
…
胸を覆う、面積の小さな黒い肌着は既にはだけられ、女の大きな母性の塊を剥き出しにしていた。
男の大きな手が、女の豊満な胸に沈み込む。手のひらに感じる突起が、僅かに手の表皮を擽る。
やわやわ、と何度も揉みしだく。
母性の塊をもみくちゃにされる感覚。自然と女の鼓動が早まってゆく。
その感触は、遠い遠い過去に味わったプリンのような柔らかさを男に思い起こさせた。ピンクの膨らみに口をつければ、実際に女の汗を含んでおり、甘いかもしれないという妄想が浮かぶ。
男はその衝動に耐えきれず、ピンクの膨らみに吸い付く。
ジュッ、ジュルッ
ツンツンと舌で胸の頂点を刺激し、刺激により勃起した乳首を舌で巻くように吸い上げてゆく。
「っ…」
声が出てしまわないように耐えた。
プリプリに勃起した乳首を舐められ、女には得も言われぬ快感が走るとともに、体が発情してゆく。
味は残念ながら男の期待したものではなかったが、女から滲む汗は僅かに甘みを含んでいた。
女が汗臭いということはない。むしろ、香水も付けている様子はなさそうなのに、不思議なくらい甘い香りがする。
女が持つ、特有の香り。
「何だお前、水浴びでもしてきたのか?」
「…」
鼻息が荒いまま、女は顔を背け、問いに応えることはなかった。
ただ、もしかしたら抱かれるかもしれないとわかっていて汗臭いままで会うことは憚られただけだ。
そのことを察せばいいのに、わざわざ口に出した男に少しイラッとした。
時に右、時に左と、どちらか一方に偏らないように繰り返し、相互に胸をしゃぶり、突起を舌で嬲り可愛がる。
舌で触れられる度に、もどかしい刺激が走るのか、女の体はモゾモゾと動き、体の芯に着々と熱は篭ってきている。段々と気分が高まってきたせいだろう。
ジュルゥゥッ!
一際大きく、胸の突起を中心に吸い上げ…女がビクリと反応し、唇を噛みしめる。
ポンッ
吸った勢いのまま、顔を上げれば、そこにはピンッと立った乳首が男の唾液にヌラヌラと濡れて、存在感を示している。
はぁ、はぁと息の荒い女の顔を覗けば、男に好き勝手に吸われ、次々と形を変える胸の様子を見ていた女と目が合った。
フイと男から目を背ける女。
「なんだ、可愛い奴だな」
「…ぅるせぇ」
その言葉は果たして聞こえたかどうか怪しいほど、微かなものだった。
男が身を起こし、女の股を覆う黒い下着を剥く。
現れたのはムアッと蒸れた女の秘部。そこからは発情した雌の匂いが漂う。
脚をM時に強引に開かせ、股を覗いた。
僅かに赤みを帯びてきた白い肌から続く、恥丘には薄い金色の草原。
その下には多分に水分を含んだ谷が存在している。
「この、変態やろぉ…」
あまりの羞恥に、目を白黒させ、力ない罵倒が囁かれる。声音には甘いものが滲んでいた。
女は男の様子をチラチラと伺っているようで、男はその様子を知りながら、ゆっくりと、ゆっくりと秘部へと顔を近づけてゆく。
まるで、女の羞恥心を煽るように。
フゥーと息のかかる距離。
女は男の吐息にこそばゆい思いをし、知らず、ドクドクと期待で胸が高鳴っている。
パクリと女の秘所へと食いつき、舌でクリトリスを上下に舐め上げる。
ビクンッ!
と、急にもたらされた刺激で腰が小さく跳ねた。
女が無意識に期待していたモノの一つだった。
自由にならない体のまま、延々とクリトリスを嬲られ、与えられ続け、甘く走る痺れを甘受させられること。
それは一種の地獄でもあり天国でもあった。快楽で身を満たされる天国のような地獄。身を苛まれる地獄のような天国。
嫌な気はしなかった。
何度も、何度も丁寧に舌で優しく嬲ってはチュウチュウと吸う。
ヒクヒクと腰が動きかけ、前のように荒々しいものではないのが、どこかもどかしい。
前は、もっと下品な音をたてるくらい荒々しく吸ってくれたのに、と。
「そういや、アンタ名前は?」
女の脚を大きく開かせ、顔を股に突っ込んだまま男は問うた。
こんな状態で名前を問うことに驚くべきか、それともこの状況になるまで名前を知らなかったことに呆れるべきか。
「は、はぁ…?何で…アンタに…教えなきゃ…いけない、ワケ…」
ジ、ジュズズズゥゥ!
女が内心で欲していた下品な音をたてての荒々しい吸引。
「あ、ぁぁっ!」
甘い嬌声が響き、顔を羞恥に染めた。
その行為一度で、女の腰はビクビクと腰砕けになった。
「名前は?」
「言う、言うからぁ…」
モゾモゾと身をくねらせ、秘部から全身に走る甘い刺激に耐える。
彼女の名前はクレマンティーヌ。
「そうか、クレマンティーヌって言うのか」
いつの間にか身を乗り出した男。
クレマンティーヌは男の顔を初めて至近距離からマジマジと見た。初めて知ったが、男の瞳には黒く燃える環のような虹彩があった。
燃える環のような虹彩は黒く揺れ動き、同じ形をすることがない。
瞳の黒い環の中に映る彼女自身を見ていると、魂が囚われているかのように錯覚してくる。
深い、深い闇の深淵を思わせる、もし吸い込まれれば戻ってこれないような瞳。
クレマンティーヌは直感で、この男は自分と同じく地獄を知っているのだと感じた。
いや、もしかしたらそれ以上の…
暗い瞳が女を見つめている。
不意に、何を思ったのか、男は金色に輝くクレマンティーヌの髪を指で梳き、優しく頭を撫でた。
男の手は温かった。
「はっ?ばっ、やめっ…!」
頭を撫でられたなど、いつ以来か。
そして、誰かに優しくされたことも。
頭を撫でられたことを切っ掛けとしてか、突如として記憶が蘇ってゆく。
彼女の意識の向かう先は、記憶の遥か彼方。
クレマンティーヌがまだ子どもで、世界の厳しさなど何も知らなかった頃。
記憶にあるのは、彼女の両親と兄らしき人物の後ろ姿。表情は…影になっていて見えない。
血の繋がった人物の幻影がこちらを見つめている。
感じる視線が息苦しく感じて、呼吸が出来ていない気がする。
思えばあの頃は、まだ皆が私に優しくしてくれていて…?
…いや、そんなこと実際にあったためしがあっただろうか…
私の心の拠り所とは、僅かな友人のみ。
しかし、その友人も昔すでに…
心にズシリと重くのしかかる負荷。
再び蘇るのは両親が私に向けて手を振り上げる瞬間とこちらを見つめる冷ややかな兄の目。
全身が水中に沈んでいるかのような圧迫感と体の動きを阻害されるような抵抗。気分は沈んでゆき、ドッドッと早鐘のようになる心臓の動悸が痛みを発している。
彼女自身、避け、知らず知らずの内に考えようとはしなかった事。
私には何もない。
辛いときに縋るべきモノも。
核となる確固たる信念すら崩れ落ち…
私の心にはぽっかりと穴が空いていて、何か大切なものが常に垂れ流されている気がする。
私は何のために生き長らえている?
耐え難き、孤独感。
そのことに、どうしようもない不安と恐怖を感じる。
混濁した記憶を認識するとともに、抑えられない恐怖に気が動転してしまう。
「…や、やめ!わ、たしをみるなぁ!」
凍えているかのように、震える体。
自覚したトラウマ。その切っ掛けとなった優しい手つきに、心が耐えられずに絶叫する。
私に優しくしないで欲しい。
優しくされては、今度こそ心が壊れてしまうから。
過去の記憶のリフレイン。
流れる。
流れてゆく…
走馬灯のような映像。
どうしても忘れられずに、彼女を縛り付けるもの。
それは彼女がいつか憧れた景色であり、現実にあったトラウマでもあった。
「ぅ、ぅああぁぁぁぁっ!!」
…
熱も冷め、無味乾燥とした部屋が、彼女には灰色に映っている。
「落ち着いたかよ」
「…もう、いい」
男は突然絶叫し、暴れ始めたクレマンティーヌに驚き、落ち着くまでキツく抱きしめた。
腕輪はつけたままではあるが、腕を括っていた手枷は既に外してある。
何かに耐えかねるように狂乱していたクレマンティーヌが落ち着くまで抱きしめ続け、男の背中には彼女が力一杯引っ掻いたせいで、赤い線が幾筋も走っていた。
更には肩口には噛み付いたのか、歯型がいくつもあった。
ステータスが半減した状態でこれとは…腕輪をしていなかったら酷かったかもしれないと男は思った。
「…お前、なんかあったのか?」
「うるせぇ…テメーには…関係ねーだろ…」
返す言葉は弱々しい。
クレマンティーヌの顔に浮かぶのは泣き喚いたことへの肉体的、精神的な疲労感か。または、トラウマを刺激され無様な醜態を男に見せたことへの遣る瀬無さか。
男がクレマンティーヌに話を切り込むも、彼女の表情は浮かない。陰鬱なものだ。
「性格歪んでるし、精神不安定なのな…」
「ぅ、るせぇ…知るか、よ…」
男からしたらクレマンティーヌの在り方はよくわからないものだった。
通り魔などといった犯罪で、彼女がいったい何をしたいのかも。
短い時間話した限りでは、内面と言動が釣り合っていないようにすら感じる。
まぁ、それはいいとしても…頭を撫でたくらいで精神崩壊しかけるなど、どうみても異常でしかない。
男はクレマンティーヌが何かトラウマを抱えていることを悟った。
そして、それを図らずも彼自身が刺激してしまったことも。
「まぁ聞けって。体を合わせた仲じゃねぇか。話してみろよ」
男の黒く燃える環が浮かぶ瞳には、表情の抜け落ちた、虚ろなクレマンティーヌが映っていた。
それから、クレマンティーヌはぽつりぽつりと話始めた。
曰く、家族の愛が全て兄に向いていたこと
曰く、兄と比較されてきたこと
曰く、幼い頃にまわされたこと
曰く、拷問、人殺し、虐待、友人の死、誰も助けてくれなかった事…出るわ出るわトラウマの種のパレード。
こいつの過去は一体どうなってるんだ?と思う。
「そうか」
男はクレマンティーヌの話を聞き、同情しかけた。トラウマになり得る原因など幾らでもあったように思う。
しかし、クレマンティーヌが欲しているのは、そんな安い同情などではない。
「…そんなの、嘘に決まってんだろ」
多少、気分が落ち着いてきたのか、フンッと鼻を鳴らして、嘘だとのたまう。
どこまでが本当で、どこからが嘘なのかは男には判別できなかったが、クレマンティーヌが暗いものを抱えている事は確かのようだった。
虚ろなクレマンティーヌの心の内。
クレマンティーヌは自問自答する。
彼女はこの世の生き地獄に疲弊していた。
『欲しい…』
何を?
『わからない。小さい頃から、私には何かが欠如していた』
何が苦しい?
『ぽっかりと空いた胸の内』
なら、どうしたらいい?
『それを埋める「何か」が欲しい…』
もう、耐えられない。
『欲しい、欲しい、欲しい…苦しい…』
近くにソレがある気がする。だけど…
『どうしても欲しいものが、目の前にあるのに手に入らない時のような気持ち…』
いっそ狂ってしまえたら楽になるのだろうか…
息苦しくて..
『気が狂いそうだ』
…
「そんなこと、どうでもいいから…早く、続きを…」
狂気が見え隠れした、どこか影のある女。男との行為自体を拒んでいるようには見えないが、どちらかといえば自暴自棄になっている印象がある。
そんなクレマンティーヌの様子に、男は『こんな鬱陶しい感情、全てを忘れさせて欲しい』という意を汲み取れていただろうか。
そして一つ、男は決意する。
「よし…テメーには俺の愛をくれてやる」
どこか戯けた調子で言う。
男は気でも触れたのか、おかしな事を宣った。
「はぁ?愛?笑わせんなよ…そんな詐欺に引っかかるやつは、頭の緩い、馬鹿な女だけだ…」
『それは昔の期待していた自分だ』
クレマンティーヌは男が馬鹿な事を言い出したことを嘲笑した。
彼女の故郷でさえ、そうだった。救いすらない神の愛だとか。そんなわけのわからないナニカに身を捧げるなんて、もはや真っ平ゴメンだった。
親の愛?兄の親愛?異性からの愛?全て嘘。…嘘!そんなものはなく、偽物ばかりが蔓延っている。
「んだぁ?お前、信じてねぇな?」
男はニヤリと口許を釣り上げた。
「まぁ、愛はちょっと言い過ぎたかもな…だがまぁ、世の中にはお前の知らない世界がいくらでもあるのさ」
瞑目し、男が言う。
「そこには心地のいい『快楽』に溢れた場所もあるらしいぜ」
俺もよくは知らんがな、と続け、そこは女だけが辿り着ける境地らしい、とも。
「これはちょっとした疑問なんだが…」
「もしも…お前が愛を知らねぇってんなら…この先、愛に触れた時、お前はどうなるんだ?」
きっと今のままではいられないんじゃないか?
ぽっかりと空いた胸の虚が、ソレで埋まるとしたら…
クレマンティーヌは何になる?
男は再びクレマンティーヌの股グラへと座り込んだ。
彼女の秘所は先程までは、男の舌で優しく嬲られ続け、厭らしい汁を溢れさせていたのだが…
しかし、今は湿り気も少なく、貝も閉じかけている。クレマンティーヌのトラウマが刺激され、気分が沈んでしまった影響だろう。
まぁ、やり直しだろう。
雰囲気作りも、体のことも。
まずは彼女の沈んだ気分を晴らすのが先決だろう、とどうしたらリラックス出来るかを男は思案するのだった。
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5.クレマンティーヌ編※2ー2
何かを思案するような男の姿。男がふと、どこからか取り出したのは、何の変哲もない石の皿だった。
皿を取り出す一方で、男が握っていた右手をゆっくりと開く動作をすると、そこには小さな火が灯っていた。
ランタンで仄かに照らされた部屋に、もう一つ光源が増えた。
〈ぬくもりの火〉
その火は小さく柔らかな灯り。
彼女の帰りたくもない故郷とはまた別の…どこか望郷の念を思い起こせるような、揺らめく郷愁の灯火。
それは遠い世界、旅人たちの寄る辺となった篝火にも似ており、仲間たち、家族たちの中心に置かれた団欒の火の原型にも通じていた。
そして、この世界では誰も知らないはずの、異界の既に失われたとされる呪術の火。
手の中に生み出された火をただ茫然と見つめる女を余所に、男は小さな火を石の皿へと優しく落とし、ランタンをフッと息で吹き消した。
光源が減り、女はランタンで照らされていた時よりも部屋が暗くなった気がした。
コトリ
と、火の乗った皿を近くの机に置くと、小さな音が鳴った。
部屋を仄かに照らしているのは、皿に乗せられた小さな火のみ。
「安心する火だろう?」
「…」
火を見つめる女。その火をぼーっと見ていると、体に蓄積していた肉体的、精神的な疲労が溶けて無くなっていくような気がした。
不思議な火だ。
ユラユラと揺れる火。ドロドロと纏わりつく陰鬱な気分さえ、抜け落ちてゆく気がする。
「前はよく仲間たちと火を囲んだものだ…」
今は一人でいる男にも、仲間と呼ぶ人間がいたんだな、と思考の片隅で女は思った。
薄暗い部屋。火に仄かに照らされる屈強な肉体の男と金髪紅目の裸の女。
どれくらい、二人で火を見つめていたことだろうか。
男が女に触れようと手を伸ばす。男の目には、火に照らされた女の陰影が浮かび、より美しく見えた。
一方で、クレマンティーヌはすっかり落ち着きを取り戻し、この場所に安心感を覚え始めていた。
「なぁ…そろそろ、スケベしようやぁ」
男がついに耐えられなくなったのか、悪巧みを企んでいそうな卑しい顔で女に迫る。小さな火を茫洋と見つめていた女を強引にベッドに押し倒すと、そのまま女の唇を奪った。
「は、はぁ?っ、あむ…ぁふっ…」
結ばれた唇から女の吐息が漏れ、抱き合った肌が擦れ合う。触れ合う肌は温かく、自分が一人ではないと孤独感を癒し、女に安心感をもたらす。
男の厚い胸板で女の胸の柔らかい膨らみがムニュリと潰れた。
女の腰元から伸ばされた手が桃のように形の良い尻を越え、会陰をクチュクチュと弄る。
「お、おぃ…てめぇ、調子に乗ってんじゃ…」
気恥ずかしさに身じろぎする。
谷の底は再び濡れ始めてきており、女にくすぐったいような、こそばゆい快感を伝えた。
女にニの句を接がせない。
「っぁふ、んむ…」
男の口づけは、優しいようで、時に荒々しい。突き出された舌は互いに絡み合い、味蕾に僅かに甘露な味覚を伝える。女が最後に口にしたのは果物だったのだろうか?
口を塞がれ、足りなくなった酸素を全身へと伝えるためか、胸がドクドクと早まる鳴る音が女には聞こえた。
トラウマという意識の底に眠る、消えることのない傷。先程感じていた精神にヤスリをかけるような息苦しさとは別物の…口を塞がれたことによる息苦しさは、逆に心地よさすら感じる。
足りなくなった酸素を求め、深呼吸に混じって、息遣いがふぅふぅ、と色を帯びていった。
女がより激しい接吻を強請る。
夕方、口汚く罵り、刃物で襲いかかってきた者とは、同一人物には思えないほど女は素直になっていた。
甘え方を覚え始めた野良猫、という言葉が男の脳裏によぎる。男はクレマンティーヌが生来、警戒心が強く、他人を信じることが出来ないとみた。
それも当然かもしれない。幼少時から虐待紛いの生活を送ってきたとするのであれば、強固な警戒心を持って然るべきことだ。
そうでなければ、自身を守ることすら叶わないのだから。
そうした所が少し似ていると思う。厳しい環境で生きた野良猫は警戒心が強く、人に慣れるのには時間がかかる。
だがしかし、女には警戒心が解け始め、周りに気を回す余裕が生まれつつある気がする。
それも、この場所が安全で、少なからず安心できると見定められたことが、警戒心を解き始めた理由の根底にあるのかもしれないと男には思えた。
「ん、うぅっ…」
反対の手で、クレマンティーヌの膣口に太い指を一本差し入れた。突如として入り込んできた異物に対して、ピクピクと媚肉が蠕動する。
敏感になっている膣の感触。その、こそばゆくも、快感を伝える感覚に女は身じろぎした。
女の媚肉が挿し込まれた指に絡みつく。中は柔らかく、熱が篭っており、男の指を濡らすとともに、ジンワリと温めた。
男が集中するかのように一度、瞑目する。これより男が施そうというのはソウル/霊気の業。この世界にとばされてきた時から宿っている力の一つ。
男が試そうとしているのは、肉体のみならず、霊体すらも男の腕の中に抱き込もうという試み。
霊体への抱擁が極上の快楽を生むという知識や、いつの間にか身についていた技能を試したいという気持ちもあったが…
重要なのは、霊体を抱くということは心身ともに深く繋がり合うということ。当然、その心の内が伝わり合ってしまうこともあるだろう。
そんな技術を持って、これから女に見せようというのは、彼の女への心の配り方。男が持つ、憎からず思っている女への好意。…クレマンティーヌの見た目だけは良かったこと、男が単純だったのが幸いだった。
クレマンティーヌは肉親、兄弟の愛を知らず、異性と関係を持ったことはあっても男女の愛を知らない。
あるのは、醜い感情や鬱憤をぶつけ合うような性欲処理のための自慰行為。もしくは、自らをお姉さんと自称し、まだ年若い少年を嬲る行為だった。
男が持つ女への好意が目の前に突きつけられて初めて、存在を信じようとしない女への証明となると男は信じた。
男の好意で女が心身共に包まれた時、女は何を思い、何を感じるだろうか。
ポッカリと心に空いた穴が塞がり、虚ろな心が満たされるのか。
または、突きつけられた感情を恐怖で拒絶し、男の前に二度と姿を現さなくなるのか。
はたまた、男の虜となり、薬物中毒者のように男を求めるようになるか。
例えば、例えば…
それは、やってみなければわからないことだった。
一方で、霊体を抱くということは、肉体を抱くこととは異なり、困難が付き纏うものだ。そもそもが、そういった知識がなければスタート地点にすら辿り着くことすらできないのだから。
しかし、魂を見ることも、実際に触れることさえ、男にとって容易いことだ。
何しろ男の種族は人の型であって人ではない。ソウル/霊気という霊体に作用する業をこそ得意とする不死人である。
時にソウル/霊気を武具や身に纏わせ能力を向上させたり、集めたソウル/霊気を槍として固め撃ち出すこともある。
果たして…ソウル/霊気の業を極めた男は、魂を肉体から無理矢理引き剥がし、己の力の一部として、吸収することすら可能とし、死人に仮初の命を与えることすら可能な化物であり、魂に関するスペシャリストであった。
薄暗く、小さな火に照らされた部屋の中。ユラユラと、男の体から青白いオーラが立ち昇る。
しかし、クレマンティーヌにその力の奔流が見えることはない。
ただ、口に出さずとも伝わり合う雰囲気とでも言えるだろうか…言葉では表現しづらい、感情を伴う波動を感じている。
クレマンティーヌに、浸透するようにして伝わる感情は彼女を慮るもの。男から伝わり、無意識へと訴えかける感情の波に心地が良くなり、無駄な力は抜けてゆく。
二人の息遣いと心臓のドクン、ドクンというシンクロする音が彼女に聞こえている。
鼓動が発する心地よい振動。
女は男の腕の中が、今は、世界で一番に安心できる場所だと本能で理解していた。
クチュクチュと、女の膣をゆっくりとかき回し、指を奥へと挿入してゆく。
指が根本まで埋まり、膣口が広がる感覚がした。
「ぅ、んっ…」
柔らかな連続した刺激の波に釣られて、感情が揺らぐ。
リラックス出来ている。心地がいい。
男は女の反応を見て、ゆっくりと愛撫を続けた。
人体の神秘。
目には見えない、精神の構造。魂を核とする霊体は互いに結びついており、感情に大きな影響を受けている。
嬉しければ、気分は高揚する。
悲しければ、気分は沈む。
感情によって精神のオーラの質は変化し、日々、同じ色をしていることはない。
男の青白いオーラが女を徐々に覆ってゆく。オーラが感情を媒介するのであるなら、彼女はもはや、男の感情の檻に囚われているのと同義だった。
人体に七つあると言われるチャクラの門。
肉体に存在する器官などではなく、霊体に関係し、正常に活動する上でのエネルギーの源となる場所。
チャクラの要所でも、オーラの色は異なる。
会陰から頭頂部に向けて存在する7つの門は、赤から青、紫へと上に昇るにつれて変化してゆく。
が、男の目には女の7つの門その全ての色がくすんでいるように見えた。
不摂生、不安、不信、慢心、そして憎悪。
あらゆる負の念を抱いた女の精神は病んでいることがまる分かりで、男は気づかれないように、ため息を小さくついた。
チャクラの第一門はちょうど男が伸ばす手の先、女の会陰辺りにある。
第一門が司るものとは、地に足をつけて現実を生きる生命力。粘り強さの証明。そして、罪、トラウマ、恐怖からの解放の象徴。
男が指を鍵状に折り、腹の内側のややザラザラとした部分を擦りあげる。と、同時に会陰を弄る手にオーラを集め、くすんだオーラを洗い流してゆく。
はぁはぁ、と女の息が熱に浮かされたかのように荒くなる。
何かに耐えるように身じろぎし、顔の方向を頻繁に変えるなど、落ち着きがなくなってきた。
「ぅ、んっ…」
焦れったい小さな快楽の波に、耐えられなくなってきたのか、女は自ら腰を回すように動かし始めた。
男が視認する会陰にある赤いオーラが鮮明になってゆく。
熱が篭り、体全体がポカポカと熱くなり、全身から玉のような汗が浮かんでいた。薄暗く判然としないが、白い肌も赤みを帯びているように見えた。
第一門から第二門へとオーラが漏れ、流れる。
臍の下。女性でいう子宮の位置にある第二門の象徴とは、マイナスの状態からの回復、変容の促進。そして、喜び、性、動き、変化など、人生を甘くするものに影響する。
子宮の位置。男の青白いオーラがくすんだオレンジ色を洗い流し、元来の夕日のように輝くオーラが顕になる。
夕日が螺旋を描き回転する。
女性が天国に昇るような快楽を受け取るために最も重要な要所。
即効性のものではないが、精神の復調は感情に作用し、身体に影響する。
そして、快感の限界値を引き上げる。
チャクラを、精神を抱きながらのセックスとは、肉体のみと比べて手間がかかる代わりに快楽の上限が高められるのだ。そして、精神的な快楽には際限すらなく、幸福感で満ちている。
口づけが激しくなる。貪りあうように。
「ん、ふぅー…あむ、ふぅー…」
隙間から溢れる女の吐息は熱い。
気づけば、先程熱に浮かされたような顔をしていた女は、熱病でも患っているかのように紅潮しており、瞳はトロリと溶けていた。
ドクドクと全身が脈動し、下腹部が熱を持って男の剛直が欲しくて堪らない。
淫らな穴の奥深く、子宮が男を求めて泣いている。
下はすでにぐしょぐしょに濡れ、ベッドのシーツに染みさえ作る程になっていた。
堪らずに手をのばし、太い棒を握る。女が握った肉棒は熱く、中指と親指が触れる事がなかった。
ぎこちなく、棒にあてがった手を上下させ、早く欲しいことをアピールする。
しかし、男はまだ本番行為に挑むつもりばなさそうだ。
『どうして、くれないの!』
『こんなに辛いのに!』
女は熱に浮かされ意識が朦朧とし、気が狂いそうになった。
「そろそろ、だな」
男の言葉に、女の顔が期待と安堵に歪む。
が、男は女の片腕を掴み身を起こさせると、股を広げさせたまま膝立ちの格好をさせた。
再び陰部へと手を伸ばし、中指と薬指で先程よりも激しく掻き回した。簡単にはイカせないように気をつけながら。
「あっ、あっ、あっ、あっ…」
空気と水気が混じり合い、クチョクチョと薄暗い部屋に厭らしい音が鳴り響く。
「天国への片道切符だ。帰りは…まぁ、何とかなるだろ」
激しく打ち寄せる快楽の波と熱に浮かされ、思考が巧く出来ない。視界が白く染まりかけ、意味のわからない単語が、遠くで聞こえた気がした。
腰を支える男のオーラは女の全身を余すことなく包み込んでおり、秘所へと伸びる手からは一際大きなオーラが青白く輝きを放っている。
チョンチョンと、挿し入れた二本の指先にあたる子宮口の出っ張りを指の腹で押し上げては、落とす。押し上げては、落とす。何度も何度も。
女の体にブルブルと震えが走るようになり、それに合わせて微細に揺れる乳を男は凝視した。
「ぁ、ぁっ…なんか、くるっ」
「む、り…こわ、ぃ…こんなのしらないぃ…」
「大丈夫だって…多分」
女の瞳は定まらず、虚ろ。
男の言葉は、完全に余裕のなくなった女には最早、聞こえてはいまい。
男の手によって、ビクビクと小さく痙攣する女の意識は強制的にどんどん高められてゆく。
女は産まれたばかりの子鹿のようにブルブルと震え、体重を支えようと男の背に手を回し縋り付く。
「よしっ!いけっ!」
ズルンっと指の腹で子宮口を大きく刷り上げた。と、同時に貯めに貯めた膨大な輝きを放つオーラの奔流が女の第一門へと殺到し、そのまま第二門へと押し寄せる。
あまりにも強力な波動が彼女の体に衝撃を伝える。
「きゃうっ」
奔流の勢いは留まることを知らない。閉じた第三門から第七門まで一気に強引に押し開け、第七門、頭頂部から男のオーラが噴水のように噴き出そうとしている。
その時、女は既に意識がなかったが、自身の背骨に沿って、大きな蛇が螺旋を描くように昇ってゆく様を幻視した。
「あっ、あ、ぁぁぁ…」
言葉を成さない、吐息のような喘ぎ。
蛇が螺旋を描いて昇るのに、ズルズルと引きづられるようにして精神がより高次元へと引っ張り上げられる。
抗うことの出来ない、力の奔流。
頭頂部に位置する第七門からオーラが噴水のように噴き出した。
と、同時に女の目はグルンと裏返り、ビクンッと一つ大きく跳ねると脱力する。男が腰を支えているせいで、背中が弓なりに仰け反る形になっていた。
女の身体が硬直することもない。女の意識は一瞬で天国に昇ったことだろう。
…
明るく、トロリとした黄金色に輝く、蜂蜜のような心地の良い海。
クレマンティーヌの精神は穏やかに揺蕩う蜂蜜の海に浮かんでいる。
心地の良い波がクレマンティーヌに打ち寄せ、ここでは全てが満たされている気がした。
体に縛られた精神の不自由も。
身を苛む憎しみの感情やイライラも。
全ての負の淀みが抜け落ちた。
蜂蜜の海は甘く、ジワリと優しい痺れが走り、精神に沁み渡るようで。
疲弊した心を優しく労るように癒やしてゆく。
これ以上の場所は、ないように思える。
どれほど、そうしていたか…
ふと、気づく。
ここには男がいないことに。
男はここが天国と言っていた。
なるほど、と女は納得する。
ここには苦しみがない。
全てが優しく、精神は自由だ。
しかし、男は言っていた。
女だけが辿り着ける場所があるとも。
ここがそうであるなら、こんな心地がいい場所なのに…と。
クレマンティーヌは男と心地よさを共有出来ていないことを残念に思った。
それは、精神の変容。
以前、男と出会う前には考えることすらしなかったこと。
どうやら、女は想像以上に男に心を許してしまっているらしい。
思えば、男との出会いは最悪であった。
イライラを解消するために殺害を目論むも、敢え無く、返り討ち。
果てには、お仕置きとばかりにレイプされ、男女が混じり合う苦しみすら感じさせる快楽を体に覚えさせられた。
その後、奇妙な男から逃げた女を待っていたのは以前のイライラや憎悪、孤独感。
そして…今はここに至って、側に男がいないことを寂しく思っている。
レイプする男も男だが、なんとも勝手な女だ。
あぁ、認めるしかない。
今、私は彼を必要としている。
逸るような焦り…この感情が何なのかはわからないが…
一人では、もういたくない。
戻らなければ…
心の穴は、塞がる。
情を溜め込むために。
それは良いことだったのか、完全な器となった心は彼女を苦しめるだろうことは間違いない。
…
金糸のような髪が、汗で肌に張り付いている。
脱力し、焦点はまだ定まらないようでフラフラしている。
意識はなく、ここではない、どこかを見ているかのようだ。
しかし…徐々に女の赤い瞳に理性の色が戻りつつある。
ピクリ、と反応を示す。
完全に意識が戻ってくると、女は男の胡座の上で子どものように抱っこされる形になっていることを認識した。
体を互いに向け合わせた形の対面座位。
男は女が戻ってくるまで、女の体を弄っていたらしい。
女の大きな胸にポツリと主張している乳首が唾液でか、ヌラヌラと光を反射している。
まだ発熱し、疲労感のある体。
脱力したまま、自由に動くことのない四肢。
しかし、意識は先程よりもはっきりとしている。
お尻に当たる熱い棒の感触がやけにくすぐったく感じた。
胸が何故か締めつけられるように苦しい。
これも身体が孕む熱のせいか。
女は自身の感情を理解しないまま、ノロノロと男の頭を掻き抱いた。
ジワリと広がる胸のウチの温かさ。
男が見ることの叶わなかった、女が無意識に浮かべた笑みは美しかった。
「どうだったよ?天国の居心地は」
「悪くないけど…少し物足りないかな〜」
そうかよ、と男が返す。
「戻ってきたことだし、続きいくぜ?」
「はいはい…どーぞ…」
男はいつでも次の段階に進めるようにと、準備は万端だ。
性行への期待感は更なる興奮をもたらす。
女の膝裏から腕を回し、腰を掴み、腕力だけで持ち上げた。
秘所へと男の剛直をあてがう。
男が腕の力を抜けば、そのまま奥まで突き刺さるだろう体勢。
ハァー…ハァー…
男からもたらされる狂おしいほどの快楽がいつ来るのかと、胸がドクドクと高鳴る。
粘膜同士の接触が、どんな快楽を生み出すのかを二人は知っている。
女も、今までにないくらい顔が紅潮しているのがわかった。
顔面から火を吹きそうなくらい、熱かったのだから。
女の秘所からは液が溢れ、涎を垂らしているかのようだ。
穴に狙いを定め、腕の力をゆっくりと抜くと、重力に引きづられ太く熱い槍が、ズブズブと奥にまで一気に突き刺さった。
子宮が衝突した衝撃でヘコむも、ドロドロに溶かされた体は痛みを感じることはなく、ただ苛烈な快楽を伝える。
「うっ、ううぅぅぅ〜…」
掠れ、消え行く声。
奥にまで響く、もたらされた衝撃と快楽は、女の意識を一瞬にして狩り取ろうとした…
が、しかし、真っ直ぐに伸ばされた足は硬直に震え、背骨は軋みをあげるくらいに仰け反っているのに対して彼女の意識がトブことはない。
女は確かに絶頂を迎えた。
ただ、女の快楽に耐えられる上限が引き上げられただけのこと。
男は剛直がキツく締め付けられ、奥へ奥へと引き込まれるような膣の感触を感じていた。
「す、すっごいの、きたぁ…」
男とようやく繋がれたことで、クレマンティーヌの心に何かが生まれ、満ちてゆく。得体の知れない、温かく、ドロドロとした抗い難いモノ、色に例えるなら様々な色が混じり合ってできた黒。
虚ろだった心の穴は塞がれ、もはや溢れることの叶わない、人間を人間たらしめるモノ。
ピクピクと痙攣する身体。
女が目を瞑り、余すことなく快楽を享受する。頭から足の指先までピンッと硬直させていた身体からゆっくりと力が抜けてゆく。
「おっ?意識トバなかったな」
「ふ、ふんっ…この…クレマンティーヌ様を…舐めるなっての」
口では虚勢を張っている。しかし、息遣いから察するに余裕があるというわけでもない。
「なら少し強くしても大丈夫だな」
「ぁ…?ちょっ、まっ…」
抵抗のためかペタペタと腕を男に押し付けるも、脱力し、上手く力が入らない。
オーラを再び纏う男。
「ちょっ…なんか、でて…」
オーラが女を包み込んでゆく。
伝わるのは、女を求め、荒れ狂う獣のような情動。
女がオーラを見えていることなど気にも留めていない。
男が荒々しく、まるでモノでも扱うように女の腰を掴み上下させ始める。
ズチュッ
ズチュッ
乱暴な扱き。女に対して、なんの配慮も感じさせず、拳のような鬼頭が子宮口をゴツゴツとノックする。
強すぎる快楽の波に、女は身を硬直させ、ただ歯を食いしばって耐えるしかない。まるで、嵐が過ぎ去るのを待つかのように。
「ったく、どんだけ待ったと思ってやがんだっ」
一発目、イクぞっ
という、声とともに男の一物が大きく脈動し、膨らんだ。
「…っ!」
女が広げられた膣の感覚に目を見開き、女の膣には一寸の隙間もなく、ミチミチに肉棒が詰まっている。
ドムッ
と、いうかのような勢いで男は射精を迎えた。
「ぁっ、いっ、くぅぅぅ〜…」
ビチビチとした活きのいい精子が女の膣の中で暴れまわる。
子宮口からは外れていたようで、子宮がヒリつき、灼けつくような熱さまでは感じなかったが、ジワリと浸透するような熱が広がっていく。
また、男の射精の衝撃は確かに女の子宮を揺らした。その快楽の大きさは計り知れない。
「ぁ、ぁ、ぁ…」
ビクビクと震える細い腰。
肉棒を柔らかく包み込む襞が、ヒクヒクと蠢く。
まるでもっと精を寄越せとでもいうかのように。
激しいピストン運動からの射精。大きな絶頂から脱力し、息も絶え絶えとなる女。さっきまでの虚勢もあっさり消え失せ、焦点があっているかも怪しい。
トロトロに融けた表情、ポッカリと空けられた口から涎が垂れ落ちる。
が、やはり気絶することは叶わない。
暴力的にまで押し寄せる、快楽の津波。ちっぽけな人間では抵抗などできようもない。ただただ、襲い来る快楽に耐え、身を持って受け止めるしかない。
気絶出来たとしたなら、どれほど楽だったろうか。
ここは正しく、快楽の地獄。
天国とは正反対の、強すぎる快楽が苦しみとなって身を苛む。しかし、何故か惹きつけてやまない、彼女自身が選んだ地獄。
あまりの責め苦に涙が溢れてくる。
「う、う、うぅぅ…」
「おーい、無事かー」
初めてがそうだったように、ペチペチと顔を軽く叩く。
ハラの奥に満たされた射精の感覚が強すぎたのか、呻くばかりの女。
「し、ぬ..しん、じゃうぅ…」
「いや、殺さねぇよ…」
「や、やさしふ…やさしふ、しへぇ…」
何とか話すことが出来る程の意識は保っているようだ。
男の声をちゃんと聞いているかどうかは…怪しい。
女を胡座の上から退かし、ベッドにゴロンと転がすも、女は脱力したままでハァハァと荒い息をつくばかりだ。
困ったもんだ、と男は溜息を一つ。
仰向けに寝そべる女を、コロンと転がし、腰を掴んで膝立ちの形にさせる。赤みを帯びた白い尻が男に向けて、突き出される。
肌はリンゴのように紅潮して見え、全身からは汗が吹き出ている。
細い腰から続く、丸い大きめの桃。
「やさしふ…やさし、ふ…」
モゴモゴと、女が枕に顔を突っ込み何かを言っているが、男は何も聞こえなかったことにした。
剛直を女の背後から突き入れる。
「あ、ああぁぁぁ…」
ピストンを繰り返す度に…
パチュッ
パチュッ
パチュッ
と、湿った肉同士を打ち付ける音が部屋に響き、女の喘ぎ声は枕に圧迫され、掻き消えていった。
ビクビクッ
と、腰が震え、ヘコヘコと上下する。
今、女がどんな表情をしているのかは男の位置からは見えなかった。
ドロドロに溶けた顔をしているのか。
快楽の苦痛で歪んでいるのか。
はたまた、白目を剥いて意識をトバしているのか。
ただ、キュッと剛直を締め付けたことを鑑みるに、淫らに堕ちた体はまたイッたようだ。
しかし、女の限界は近いのかもしれない。剛直を締め付ける膣の力は段々と弱まってきている。
男としてはやわやわと抱き締めてくる膣の感触も嫌ではなかったが、男はニヤニヤと嗤い少し遊ぶことにした。
女にもその感情が伝わったのか、ワタワタと逃げ出そうと動いた…が腰を掴まれ、逃げられるわけもない。
剛直で腹の下を圧迫するように扱き、抜くときは下腹部に力を込めて肉棒を膨張させ、女の下腹部に強く擦り付けるように一気に引き抜く。
「んお゛、お゛お゛ぉぉぉ…」
引き抜く度に腰は痙攣を続け、快楽の波に合わせるよう、ヘコヘコと動き出す。
くぐもった、喘ぎ声。
下腹部に力が込められる度に、剛直が一回りが膨張し、女は内臓が引き釣りだされるような快楽を味わっていることだろう。
何度目かの抽出。
女の腰がムズムズと微かに揺れ動く。
そろそろか、と突き入れた剛直を力を込めて引き抜く。
僅かにザラつく膣壁が剛直のカリに引っ掻かれるように接触し、ズルリと擦られた。
と、同時に女の股から透明な液体がプシャアー!と飛び散り、ブルブルと丸い尻が震えた。
噴き出した潮で、ベッドがビチャビチャに濡れ、それを狙っていたはずの男はペチンッと未だ震えたままの尻を叩いたのだった。
思いの外力が籠もっていたのかもしれない。女の臀部には大きな紅葉が咲いていた。
女は既にアヘアヘと何を言っているのかわからない。だが、責めはいつまでも続いた。
力が入らず、脱力したままの四肢。
腕は投げ出され、顔を枕に突っ伏したまま、尻だけを突き出している。
それでも、腰を掴み、責めようとするも…
「もぉ、いっはい…いっはい…らからぁ…」
「むい…らからぁ〜…」
突っ伏した枕から、泣き言のような、くぐもった声が聞えた。
「仕方ねぇ…こんくらいにしとくか…」
コロンと女を仰向けにひっくり返す。
女の、クレマンティーヌの瞳は泣き腫らしたかのように充血し、実際に受け止めきれないほどの快楽を受けた苦痛でべそをかいていたようだ。
「よく頑張ったな」
もう少しだからよ、と口づけた。
トロトロに融けた表情、目尻に滲む涙を見て、少しだけ罪悪感を感じるとともに、男は終わりを惜しんだ。
足を大きく開かせる。
太い剛直を咥え込んでいた女の秘部は赤く充血し、男の精液と女の愛液が混じり合い、ドロドロに白く濁っていた。
「これで終わりだからよ、気張れっ!」
腰を抱え、一気に奥まで突き込む。子宮に剛直が直撃し、男と女は深い場所で繋がっている。
クポンと子宮口が亀頭を咥え込んだ。
何度目かもわからない絶頂。
パクパクと音のない喘ぎ、女は不足した酸素を求めている。
二人の心に満ちているのは温かく、黒い、ドロドロとした多くの情。または互いを思い合う、愛情と呼ばれるものか。
女の、自身に向けて体を倒し、男に体を包まれたことによる安心感と独占欲。
男の、女を自分のものにし、めちゃくちゃに壊してやりたいという衝動に似た征服欲と支配欲。
「ぅあ、ああぁぁぁぁ〜…」
艷やかで、媚びを含んだ嬌声。
意識がとびそうで、とばない。与えられる快楽は何度も彼女を絶頂に押し上げているのに、果てがない。
既に何度もピストンを行い、激しく腰が打ち付けられビクンッビクンッと痙攣を起こしている。
だが、女の限界はもうすぐだ。
男の太い腕がクレマンティーヌの頭を掻き抱き、金色に輝く髪を乱す。
女の腕も男の首に回され、必死に縋り付く様は吹き飛びそうな意識を繋ぎ止める楔とするかのようだ。
「あっ、あっ、あっ…すっごぃの、くるぅ」
「あぁ、俺もイクぞっ」
上から押し付けるような、大きなグラインド。男の体が女に落ちる度に振動で胸が弾み、厚い胸板に押し潰される。
二人の体は熱を共有しているかのように、熱い。
「まっへ、まっへ…イッちゃうっ!いっしょ、いっしょがいぃ〜」
「なら、我慢しろやっ」
ネッチ、ネッチと子宮口がノックされ、女を壊すつもりで責め立てる。
何度も責められ、クタクタにほぐされた子宮。
男も強烈な快楽に歯を食い縛るようにして耐え、ドンッ!と一際熱を放つ剛直を奥へと突き刺した。
「ああぁっ!だ、め、イッ、くぅ〜っ…!」
男も剛直を締めつける強烈な快楽に呻き、ドクドクと熱い精液が子宮に流し込まれてゆく。
ビチビチと熱い精子が蹂躙せんと、ハラの中で暴れまわる感覚に連続で絶頂を迎える。
子宮壁に熱い精子が張り付き、ハラが灼けつくようだ。
こんなのを知ったらもう、他に満足を得ることも、忘れることも叶わないだろう。
女としての最上の悦び。
この男とのセックス。
「ぃ、イクの、とまらな、いぃ〜」
男にしがみつき、泣き笑いのように、アヘアヘと喘ぐクレマンティーヌ。
男の感情が女に流れてゆく。
女を愛しく思う気持ち。
ジワリと疲労した心身に染み渡り、満たされる。
男が女を強く抱き締め、荒く呼吸を続ける口を塞いだ。
女を征服された悦び。
女を蹂躙された悦び。
満たされた心。
「ぁ、ぁ…こぇ、し、あわへ…」
強大な快楽と幸福感。女は今度こそ、意識を空の彼方に飛ばした。
…
甘い雰囲気を残した、優しい火に仄かに照らされた部屋。
事後、クレマンティーヌを抱き締め寝ていると、彼女は疲れはあるが不思議な程に安らかな表情で独白する。
いつも何に対してか、わからないけどイライラしていた。今にも気が狂ってしまいそうだった。
親、兄弟、同族、信仰
全て、私を満たすことのなかったもの。
アイツらは正しく狂ってた。
こんなクソみたいな世界で生きて行くには、狂うしかなかったんだってわかってる。
きっと…そんな中で育ったから私も狂ってしまった。
だけど…冷静で、狂いきれていない自分もいた。
苦しかった…
今のお前は狂ってなんざ、いねーよ。
それ着けとけ。お守りだ。
渡したのは地味な首飾りの装飾品。赤い石の台座には革紐が通され、装飾品からは魔力を感じる。マジックアイテムだ。もしも、売るのであれば大量の金貨に替えられるだろうが…
クレマンティーヌはそれをとても大切な物であるかのように扱い、胸に抱いて眠る。
男の腕の中で子どものように。
そうか…私はずっと救いを求めていたのかもしれない…
こんな気持ち初めてだった。
…
目が覚めると、男の腕の中。
これは何だ?
そっと男に触れる度に感じる、胸の中の温かい感情。
それをどうしたらいいのか、わからなくて…
初めて知った、男の話していた愛を失うのが怖くて、私は…
私は自分のことが大事だ。
手放したくはないが、手放されるのは…もっと嫌だ。
ーー痛い
思えば馬鹿なことに…いっそ、失くしてしまうなら私から手放した方が楽なんじゃないかと思ったんだ。
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6.クレマンティーヌ編※3
親、兄妹、同族そして信仰。
全て私を満たせなかったもの。
思い返せば、私と信仰の相性は良くなかったのかもしれない。
初めは本当に些細な、私がいつからか抱くようになった疑問。
そして、それこそが全てが崩壊するに至った元凶にもなったのだろう。
そんな疑問、無視してしまえば楽だったのに。
最初は、ただ神と呼ばれたプレイヤーとはどんな存在だったのだろう、という些細な疑問だった。
気になるのは当然だと思わないだろうか。なにしろ故郷では、信仰の対象にもなっていたのだから。
この人間に生き辛い大地には、一定の周期でプレイヤーが降臨すると言われている。
プレイヤーの存在は私の故郷、法国の伝承にもあり、その子孫でもある神人の存在こそが証明している。
過去に降臨したのは、人間の生存圏を確保し、法国の祖となった六大神。これが最も有名だ。
遥か昔、人類が生存競争に負け、生存圏の縮小どころか絶滅の危機にあった時代。
この世界に降臨し、人類を救ったプレイヤーを法国は六大神と定め信仰し始めたという。
また、法国以外では火、水、土、風の四大神信仰が主流であり、光と闇を四大の上位に位置づけている法国の教義とは致命的に相容れない部分がある。
一方で、欲を持って悪を成した、世界を支配しようと魔法の力を用いて、ドラゴンと戦争を始めたとされる八欲王。
彼らもプレイヤーなのではないかと考えられている。
八欲王は六大神が降臨した以後の存在とされ、六大神が次々とこの世を去ってゆく中、最後まで残っていた闇の神スルシャーナを殺害したことは法国では有名な伝承だ。
そのことから法国では八欲王を大罪を侵した者達と呼び、毛嫌いしている。
また、プレイヤーではないものの共に降臨した従属神、狂った従属神である魔神と呼ばれる存在もいるが、それは置いておく。
いわゆる、善と悪の対比。
また、法国ではほとんどの者が信じていないが、十三英雄のリーダーや誰が言ったのか不明だが、口だけの賢者もプレイヤーだったと語る者もいる。
総じてプレイヤーは強い力を持つはずが、十三英雄のリーダーだけは、最初は力を持たず弱かったと聞くし、口だけの賢者に至っては人間ですらなく、ミノタウロスの容貌をしていたと言われている。
プレイヤーには強さ、種族にすら括りがない。
力を持たずに降臨したプレイヤーと人の型から外れた、異形のプレイヤー。
加えて、異形の存在といえば、法国における六大神の一柱、スルシャーナは死の神であり、本質的には恐怖・死・病気を司る悪神だとされ、人間の姿をしていなかったと教典にはある。
スルシャーナは何故、殺害された?
決まっている。
人の型ではないからだ。
当時、世界を支配しようとした八欲王は、人間の生存圏の拡大を願う中心地であり、無視出来ない軍事力を持っていた法国において、人の型ではない異形が大きな影響力を持っていることを警戒したのではないだろうか。
信仰の原型が法国を起源とするのか、または六大神が降臨する前から出来上がっていたのかはわからないが…
現在まで、法国以外では闇と光の神を信仰することは受け入れられておらず、異形自体が忌避されていただろうことは想像に難くない。
またそれが人々の根底にあったことが、法国以外で六大神信仰が根付かなかった原因にも思えてくる。
…とまぁ、こんなことを考えていると知られては故国で不信心だと厄介者扱いされるのも仕方ない話か。
…
プレイヤーとは、いったい何者なのだろうか。
無理矢理にでも言葉に当て嵌めるとするなら、未知の地から来訪した、絶大な力を秘めた者達だということ。
過去、モンスターに追われ、蹂躙されるしかなかった人間。そんな中、法国の礎を成し、人間の生存権を確保したという偉業を成したことは凄いと思う。
偉業は讃えよう。
おかげで私、という存在が今あることにも感謝してもいい。
…
でも結局のところ、それら神/プレイヤーという存在が本当に敬える人物かどうかなんて、正直、私にはわからなかった。
不遜といわれれば、そうなのだろう。
だが、八欲王という例からも疑念があった。
本当に、六大神は完全な善性を有していたと言えるのだろうか。
そもそもがこの世界に『魔法』という概念をもたらした八欲王は、完全な悪と呼べるのか疑問だ。
魔法は今の人間にとって、確かな力だ。
身体能力に劣る人間がモンスターや亜人に対抗するための数少ない有力な手段でもある。
そして、それは八欲王を毛嫌いしている法国ですらその力を与っているのだから。
それに、力ある者は自然そうあるべきと、自分勝手に振る舞い、絶大な力を周囲に撒き散らすものじゃないか。
力の持ち主の思惑がどうであったかは別として。
八欲王と呼ばれる者達もそうだったのではないだろうか、と私は思わざるをえない。
まぁ、それも全てがただの妄想に妄想を重ねた戯言に過ぎないのだが。
だからか、私にはプレイヤーという存在自体が、保持する力を除けば人間と変わらないように妄想していた。
善をなすこともあれば、欲をかくこともある人間に。
結局のところ、物事の善悪など感情的な人間の視点に他ならない。
六大神は本当に神と呼べる特性を持った存在だったのだろうか?
私達/人間と何が違う?
神性?
姿や形?
それとも超常的な力?
いや、結局のところ…そもそもが私は、私達は知らないのだ。
神と、プレイヤーと呼ばれる者達がどんな存在であったかを。
知らないからこそ、法国の民は各々、自らが望む神/プレイヤーの虚像を創り上げ奉ってきた。
自らと、その周囲に災が及ばぬように。
異形がこの世から駆逐されることを願い。
自らでは、どうしようもない事柄に対して、絶大な力を持つ存在に縋り、祈る。
…残念なことに、疑念を持ち、それを肥大させながら成長した私は、見ず知らずの遠い存在を自ら崇め、敬うほどの殊勝さを持ち合わせてはいなかった。
私の信仰は形だけの空っぽで、それに一体何の意味があったというのだ?
それら神の虚像を盲目的に崇める祖国の親、兄、民たち。
ここを見ていない、まるで辛い現実から目を背け、過去の生存圏の確保という偉業/成功体験に縋るかのように。
ある種の気付きを得た途端に、私にはそれが気味が悪いものに思えて仕方がなくなった。
膨らんでゆく疑念。
張り詰めた緊張の糸が切れたのは唐突で、珍しくも無い切っ掛けだった。
大切だった唯一の友人が死んだ。
任務でモンスター共の討伐に向かい、嬲られ、殺されて…きっと、こんな世界に生まれたことを後悔したことだろう…
苦しい現実、その果ての無駄死に、自身が生まれた意味とは何だったのかと絶望の中逝ったのかもしれない。
そう。今生きている私達を神自身が救ったことなど1度たりともなかった。
祈っても、祈っても…
私達に救いをもたらす、神はここにはいないのだと現実を突きつけられる。
神は彼女を、私達を救ってはくれない。
だから、私はやはり神など虚像に過ぎず、信仰に意味などないと確信した。
そんな、会ったこともない、むしろ虫酸が走るようになった存在を崇めるなど、もはや私には到底できることではなかった。
当然…そんな私が周囲とも反りが合うはずもない。
周囲にとって私は異物でしかなく、邪険にされるか、いつも腫れ物を扱うようだった。
いつしか親は私を見ることをやめ、兄はそんな私を軽蔑した。
周囲は理解できない私を兄を通してみるようになり、私という存在が無視されるようになっていた。
あの場所は断じて、私がいるべき所ではなかった。
誰も私の考えを理解しようとはしないし、誰も私の意見を受け入れることはない。
法国は故郷ではあるが、いい思い出などこれっぽっちもなかったのだ。
あるのは思い出したくもない、クソ以下の下劣な記憶……!
最早嘲笑すら浮かぶ理念を掲げ、私を束縛し、枷を強制する。
法国は秘密の多い国であり、機密が漏洩しないよう特殊な魔法が聖典のメンバーにはかけられていた。
特定のキーワードに反応し、拷問や魅了、支配などに対して機密情報に関わることを話すことで死ぬように設定されている。
例に漏れず、私も。
あぁ、イライラする。
……あげくの果てには。
苦悩の梨。
洋梨の形をした拷問器具。
口、肛門、膣、に挿し込み、ネジを回すことで先端が開き、「穴」を拡張させる。
口は、異端審問のために。神への冒涜行為を行った者へ。
肛門は、性的倒錯者、同性愛者に。
膣は、悪魔や魔物と性交したとされる女性に。
使用された場合、口なら喉の奥まで、肛門なら直腸から大腸まで、膣なら子宮頚管まで内側から裂かれることになる。
私はこれを口にされたのだ。
私の考えが異端であるとして。
顎は大きく開かれたまま固定され、叫ぶことも食べることも一切出来ない。
加えて、私が受けた苦悩の梨は熱されていた。
痛かった。
苦しかった。
悲しかった。
泣いた。
想像を絶する苦痛に、叫ぶことすら出来ずに!
ただただ、アイツらを憎悪した…!
理解できるか?
口腔を痛めつけることで、神/クソッタレに対する不敬の言葉を閉ざせという、法国の精神が!
私の体も精神も考え方さえも、私だけのものだというのに…!!
…
……法国を抜けて、心底清々している。
しかし、法国を抜け出した今でも、ふとした時に思い出されては殺意が鎌首をもたげる。
殺意が、憎悪が沸き上がる度に誰かをぶち殺してやりたくなる。
それでも……
一方で、どうしようもない孤独を感じているのも確かだった。
私は持たざる者で、理解者などいない。
親も
血を分けた兄も
死んでしまった友でさえ
私の孤独を癒せない
思い出せば女々しいことに…男の側は…私のいていい場所になり得たかもしれなかった。
この赤い宝石の首飾りを贈ってくれた。
私を受け入れて。
綺麗な、綺麗な深い赤、まるで血のような。
私の目と同じ色。
赤色の奥を覗き込もうとすると、意識まで混ざり合って染まってしまいそうになる。
自分の性格の悪さは自認している。
そして、悪行の数々を行った質の悪さも。
だが、彼は知りながらも受け入れてくれた。
孤独を癒やしてくれた。
この感情はなんなのだ?
心音が早まり、思考が乱されるのだ。
首飾りを掻き抱けば、熱を感じる気がする。
アイツが欲しい。
心の底から。
側にいてくれと叫びたい。
私をここから救い出して、助けて欲しい。
身を苛む、この孤独から。
苦しい…
これが今まで嘲笑っていた愛だとでも言うのか?
愛とはこんなにも苦しいものなのか?
怖い。
恐怖を感じる。
私が私でなくなるような。
得体のしれない感情に侵され、振り回されているのは本当に私なのか?
誰でもいい、この狂おしいほどの激情の正体を、感情の行き場を教えて欲しい。
追憶する。
男の腕の中にいた時は、それだけで酷く安心できた…
男がいれば、もはやなんでもいいと思えた…
私は孤独ではない、理解者を得た、と。
腕の中こそが私の居場所になるのだと直感していた。
孤独の世界から私を一時でも救いあげた、アイツ。
ストレスの悪循環から私を無理矢理に引き抜いた。
あの時、確かにアイツは私のことを想って救ったのだ。
だから、一夜であろうとも愛は確かにあったのだろうと信じたい…
私だって馬鹿じゃない。
あいつは女を誑し込む手管に慣れていた。
それだけで、男の好意が私だけに向いている訳ではないということがわかったから。
男なんてみんなそんなもんだって、昔、死んだ友達が言ってた気がする。
飽きられたらポイって捨てられるんだって。
話を聞いたあの時こそ、馬鹿やってるなって呆れたものだったが…
今の私にかつての友を笑う資格はないのだろう。
そもそもアイツにとって私は何なのだ?
恋人か?
それは違うだろう…
むしろ、都合の良い情婦の方が近いかもしれない。
そして、厄介なことに、私にとってヤツの存在は麻薬にも似た依存性の高い代物だったようで…
まるで薬物中毒者。
知ってしまえば、もう無くては生きていけないということなのかもしれない。
思い出すのは、私の澱み、腐り、濁った精神を洗い流す青白く輝くオーラの奔流。
男の私を見る、黒い炎の輪が宿った瞳。
それだけで、心臓が早鐘を打つ。
自然と頬が緩み、心の内に満ちてゆく、甘く、心地良い痺れを伴う感情の波。
まるで、乾いた土壌で生きる植物が必死に水を求め、根を巡らせているかのように。
乾きつつある心が潤いを求めて喘いでいるのか。
欲望には逆らえない…わたしもただの女だったということなんだろう。
アイツの関心が…
アイツの、愛と呼ばれる曖昧なモノが欲しくてたまらないんだ。
そんな得体のしれない自身の感情が怖くて男から一旦、距離を置いてみたはいいが…
恐怖は私を苛み続けている。
いつか捨てられ絶望してしまうなら、自ら捨ててしまおうという決意は…
グルグルと渦巻く、狂おしいほどの欲求の前では継続するわけがないことを今更になって悟った。
□
たまにアイツはどこかへ、いなくなってしまう。
最近も町の外に出ているのか、町中で見かけることもなくなった。
どこかへ、色々と旅をしていると噂で聞いた。
それも当然か。
アイツは冒険者に就いているのだから。
私は冒険者なんて、モンスターを狩猟することを生業にしなきゃならない野蛮な職だと思っている。
当然、好き好んで冒険者になるような奴なんて大抵が禄な連中じゃない。
暴力が大好きな社会不適合者、自分の力を試したい身の程知らず、生を奪うスリルに取り憑かれた人格破綻者、そんなのばかりだ。
中には仕方なくしてる奴や物好きな奴もいないではないが…
冒険者とは、決して強大なモンスターを退治し、人を救うような英雄と同一視したり、憧れや夢などを抱いて就いてはならない職。
その大半に待つのは当然の死であり、運が良ければ、どう足掻いても自分は英雄になど成れないという非常な現実を知るだけだ。
静かに生きたいのなら、真っ当に町で働いてればいいし、そこであぶれた者が行き着く先が冒険者だと言ってもいい。
だから冒険者という職業は、社会に一定の割合で存在するクズであったり、犯罪者予備軍を犯罪者へと落とさないための最終ラインとしても機能している。
当然、冒険者の内実を知ればクズが多いし、私の嫌いな人種の上位に入っているのだが…
アイツはそのどっちとも違う気がする。
破綻者でも、冒険者という職業に英雄の幻影を重ね馬鹿な夢を見ている訳でもない。
何よりも、自由な気がするのだ。
身を縛るしがらみなどなく、町から町へと鳥のように渡ってゆく。
もし例えるならば、古の伝承で謳われるような未知の領域への探索者。
ただ、見知らぬ未知のみを求めて。
これでは美化しすぎか。
それはそれで、夢見がちとも取れるのかもしれないが、アイツの腕なら危機など有ってないような物だと思える。
アイツが求めていたのは冒険者になることで得られる、冒険者証であり、比較的容易に手に入れられる表の身分の証だったのかもしれない。
町と町の移動で役立つ場面も多いし、有用なのは間違いない。
その分、モンスターの駆逐という義務が課さられることにはなるが。
アイツはただ旅に有用という理由から冒険者を選択したのだろうというのは想像に固くなかった。
そしてその想像は恐らく、全くの見当外れという訳でもないだろう。
…
それはともかく…街から街へ移動する必要のあるアイツには拠点だっていくつかあるはずだ。
単純な男の考えることなど皆同じだ。街ごとに女がいるなんてことは容易に想像がつく。
たまたま、このエ・ランテルでは私だったというだけで。
…ムカつく
…いつか、アイツはエ・ランテルを永遠に去り、私の前からいなくなるのだろうか。
一度は愛を囁いたはずの私をここに置き去りにして。
嫌だ、そんなの許さない
そのためには…
『奪えばいい』
『支配すればいい』
そうだ。
それがいい。
元々、私は、それしかやり方を知らないじゃないか。
そうやって、これまで生きてきたのだから。
□
夕陽。赤く染まった人気のない、街路。
3度目の待ち伏せ。
ワンパターン過ぎて、我ながら呆れてしまう…
目の前には、オーソドックスなロングソードを片手に構える男の姿。
何度か繰り返しつつも、未だ成功していない男へのリベンジ。
「さぁ、どっからでもいいぞ」
剣を持ち、緩やかに手首を返す。切っ先が銀色の弧を描いた。
互いに剣の間合いの外での攻防。得物を合わせた先にある読み合い。
男の持つロングソードの剣先は地面に向けられ、即応出来るような体勢には見えない。
はずなのだが、男の間合いは想像以上に広く、その気になれば一足飛びに私の首を断つことすら可能だと直感する。
だから私は迂闊には動けないでいる。
しかし、男は自分から動くつもりはないらしく、こちらの挙動を伺うのみ。
男が本気ではないのは明白で、人類最高峰の強度を持ったはずの私を手玉に取ろうという様は、酷く屈辱的だった。
遊びを持てるほどに余裕があるというのか。
その余裕を驚愕に染めてやりたいと思った。
狙うは油断を誘い、隙をついての一撃。
いつまでも相手の出方を待っていても埒があかない。多少、強引にでもと状況を動かす方法を模索する。
そして、今までそうしてきたように、自身にとって最善の方法である一撃離脱を選択した。
柔らかい肢体としなやかな筋肉を最大限に活かした速攻。
身を獲物に飛び掛かる前の猫のように屈め、四肢に意気を込め、タイミングを計り、一撃の力を溜める。
「シッ…!」
しかし…威を高めたはずの一撃はスティレットの刃先は、男には半身ズラされただけで躱されてしまう。
狙いが甘かった。害する、必ず殺すという意思が伴っていないからだ。
未だ、心のどこかで男に武器を向けることを躊躇っている自分がいるせいで。
得意なはずの高速戦闘。自身の速度についてこられるなど、それこそ英雄並の実力を持っていなければならない。
男の側を風のように駆け抜ける。合わせて、置き土産とばかりに回し蹴りを放ち、斧の一振りの様な軌道を描くも、男が回避行動を取るまでもなく、空振った。
「おいおい、どこ狙ってんだ?」
「…っ」
ギリギリ、と歯を噛み締める。
男を私の支配下に置く、自由を奪うと決意したはずの意思に反して、思考は鈍く、体の動きも精彩を欠く。
心技体が噛み合うことなく、全てがバラバラだった。
焦り。
以前では、あり得なかった。
自身がこんなことに思い悩むことも、自身の体が上手く操れていないことも。
殺す覚悟で立ち向かわなければ一撃を当てることすら困難な相手に、殺す覚悟を持てないでいる現実。
今では、避けられることがわかっていても、傷つけてしまった場合のことに躊躇いを感じている。
何より、それが原因で男の関心を永遠に失うかもしれないということ、拒絶されることに耐え難い恐れを感じてしまっている。
「なんだ…調子悪いんじゃねーの」
目の前のアンタは、何故ニヤニヤ笑っていられるんだ?
私がこんなに苦しんでいるのも、アンタのせいだというのに…
「うっさい…!さっさとくらえっ」
私の人生は上手く行かないことの連続であっても、弱肉強食、ある意味単純だったのだ。
男に知り合ってから、私の周りは複雑になってしまった。
こんな風に思い悩むようになるなんて、少し前までの私自身には想像もつかなかったことだろう。
八つ当たりだとはわかっている。それでも、この男が全て悪い。
「…っ!」
様々な不安を圧し殺し、我武者羅に立ち向かってゆく。
が…男の構えた得物により連撃は容易く弾かれ、武器が交差し衝撃が起こるたびに火花が飛び散る。
人気のない街路へと何度も、何度も金属同士が打ち合わさる音が鳴り響く。
男の横一閃。
一際、鋭い音が響くと共に両手の得物が弾きとばされ、仕方なく、仕切り直しの為にと一旦距離を置く。
「はぁ…はぁ…」
消耗が激しい。
いくら打ち合っても、刃が届くビジョンが浮かばない。
男は変わらず、こちらを観察するように視線を向けてはいるが、自分から動こうとしない。
唇を噛み締める。
私の技術が通用しないことへの焦り、まるで相手にされていないことへの苛立ち。
手元にあるのは、残るスティレットが一本と、念の為にと用意していた携帯用のメイス。
装備が心許ない。
腰からモーニングスターのように鉄球が鎖で繋がれたメイスを取り外し、まるで子どもの癇癪のように攻め掛かる。
一見、やぶれかぶれだが、一計を案じる腹は決まった。
もう、これで駄目ならもうどうしようもない。
戦闘スタイルは、これ迄の物とはガラッと変わってしまう。
高速戦闘を前提としたヒットアンドアウェイから、持ち味であるスピードを捨てたパワープレイ。
現にこちらを伺う男の視線も訝しげなものへと変化している。
当然だ。
元々、それほど得意な得物ではないし、ただ拷問用に携帯している副装なのだから。
柄のグリップを握り締め、手首のスナップを利かせて、グルグルとハンマーを回してゆく。
ハンマーが一周するごとに、ブォンブォンと、鈍い風切り音が聞こえてくる。
ハンマーを回したまま接近戦へと移行する。
回転を、タイミングを見計らっての一撃。
スピードは最早見る影もないが、ハンマーの遠心力が合わさったこともあり、その一撃の威力は段違いに上昇している。
「お、らっ…!」
腕をコンパクトに振り、男の側腕を強打するように一撃を見舞う。
男も重そうな一撃に一応の警戒を見せるも、難なく回避行動を取られる。回転によりタイミングを計りやすいのもあるし、何よりも情けないくらいに遅かった。
「何考えてるか知らんが、そんなの当たらんだろ…お前向きじゃねぇな」
言われなくとも、そんなの百も承知だ。
だけど、連撃は止められない。
止めれば大きな隙を作ってしまうし、警戒すら持たれないだろう。
そのままモーニングスターを自由自在に振りまわせる腕力があれば、また違うのだが。
「手がなくなったのなら、もういいんじゃねーの?」
若干、男が面倒臭げな表情で言う。
「くそっ…くそっ!馬鹿にしてやがんのか!!」
後のことなど何も考えていないような大振りの繰り返し。当然、当たるわけもない。
「このっ、クレマンティーヌ様がっ!」
とうとう破れかぶれになったか、と男は呆れを滲ませていた。
「てめぇ、みたいな変態野郎にっ!」
やれやれ、と男が動き出す。何が気に入らないのかわからないが、癇癪を起こした子どもを宥めるように。
「やられっぱなしなんて…」
タイミングを見計らった、やや大きめに力だけは精一杯込めたスイングを放った。
「ありえねぇんだよ!!」
ブンブンと振り回され、描かれる軌道を男は避け、軽快な動作で近づいて来ると大振りで隙だらけとなっていた腕を掴み上げた。
(ばーかっ…!)
笑みが浮かびそうになる。
賭けだったーーー狙っていたのは男が無警戒に間合いに入ってくるシチュエーション。今の私では懐に潜り込むことも出来ない。ならば、向こうからこさせるまで、と。
掴まれた反対の腕で素早く、残り一本となったスティレットを抜き放ち、武器に蓄積された魔法を開放する。
「マジックアキュムレート!<人間種魅了>」
男はやや驚いているようではあった。
その顔に内心いい気味だとスッとし、勝利を確信したことにより気分がどんどん高揚してゆく。
はやる気持ち。
さぁ、男を言いなりにしたらどうしようかと考え始めた。
言い放たれた魔法の発動条件となるキーワードにより、スティレットから妖しいピンク色の光が放たれた。
…
妖しげな光が治まると、残されたのは二人。
至近距離で魅了したのだ、効いてないはずがない。ましてや、このクレマンティーヌ様に魅了されない男などいるわけがない。
やった。
やってやった!
人間種魅了は相手をとても親しい友人だと思わせる魔法。
『友人』という点では不満だが、これで男はほとんど私の言いなりだし、私のお願いだって何だって聞いてくれる。
抱けと言えば抱くし、隠し事だってなしだ!
魅了効果が途切れないように定期的に、魔法をかければ何も問題ない。
そのうち魔法の永続的な効果を持たせる装備を着けさせてもいいかもしれない。
「…」
男は何も反応せず、ボーッとしているように見えた。
ふと、手間をかけさせられた腹いせに試しに命令をしてみたくなった。
「…ぉ、ぉぃ、キスしろ」
初めての命令。出てきたのは我ながら欲望丸出しの言葉だった。
そうだ。
男女の『友人』同士ならキスだって可笑しくないはず!
た、多分…
てか、そもそも私の魅力に抗える訳がねぇじゃん!
そうだ。
そうに違いないって…!
沈黙。
「…ふはっ」
「…は?」
男が吹き出し、私の口からは間の抜けた吐息。
「な、な」
「確かに魔法はっ!」
何で?
どうして?
何が起きているのかと、一瞬、頭の中が真っ白になった。そして、魔法が効いていなかったことを察して顔が熱くなってゆく。
「さっきのは魅了魔法か?どうりで…」
男は一人何かに納得するかのような表情。そして続けた。
「わりぃな、俺にはそういう類の魔法とかスキルは効かねぇのさ」
「お疲れさん」
唐突に感じた、腹への重い一撃。
羞恥心と屈辱、そして微かな安堵感がない混ぜになったような感情。
「にしても、キスしろと来たか」
ゆっくりと意識が落ちてゆく。
色ボケか?という馬鹿にするような言葉が聞こえた。
意識が落ちる直前に見た男の口元には笑みが浮かべられ、段々と顔が近づくような熱が感じられた。
□
目が覚めれば男が定宿としている部屋。
いい加減覚えた。
何も置かれていない、質素な内装も、外から聞こえてくる女が男を呼び込む喧騒も。
「おう。目、覚ましたのか」
「…」
聞こえてくる男の声。まだ頭がボーッとする。何やら腹は減ってないか、喉は乾いてないかなど尋ねる声が聞こえてきたが、テキトーに返した。
「そういや…お前、あげたアクセサリーはどうした。持ってねーのか」
段々と覚醒してきた頭。
「…」
ムクムクと沸き立つ、ちょっとした反発心と悪戯心。
「…あぁ、あれ?」
何しろ、この私が気絶するほどの威力の拳を受けたのだ。
「ふ、ふ……なぁに?つけてて欲しかったの〜?」
腹を殴られたこと、恥をかかされたことへの意趣返し。
いざ口にしてしまえば、期待せざるを得ない自分がいる。
「私にアクセサリーつけさせて、自分の物だって証明したかったのかな〜?」
ニヤニヤと緩む口角。
本心ではアイツに肯定して欲しかった。
「…」
沈黙。
「…あ?お、おう。そうな」
しかし、私が欲しかった反応はなく、ただただ当惑しているようで…
ムカついた。
その反応が、私がただの勘違い女を意味しているように思えて、酷く裏切られたように感じた。
「…でも、残〜念。もう、売っちゃったから」
「は?」
傷つけ。
「金貨10枚にもなったし…」
「古くさいネックレスだったから、すっごく意外だったよ〜」
クソみたいな悪意の言葉を投げつける。
反対に、努めて笑みを作った。
我ながら優れた容姿で、誰が見ても綺麗だと思うように。
「…」
だからか、その後に出た言葉は心にもないもので、アイツを裏切るものだった。
私の心を裏切った、アイツへのちょっとした復讐のつもりで。
眉を顰めるアイツを見て、少しだけ溜飲が下がった。
「贈り物、嬉しかったよ。ありがとね〜」
「もっと私に貢いでくれてもいいんだよ〜?」
多分、私はアイツよりも精神的に優位な立場に立ちたかったのだと思う。
アイツの思考に私という存在を捩じ込めることを期待して。
アイツを振り回して、追われる私、という妄想は甘美だったから。
お前のモノは私のモノ、とでもいうかのような傲慢な態度。
本当は大事にしまっている。
くだらなさ過ぎるプライドから出た嘘。
「おい…勘違い女。もう、お前に何かくれてやることなんてねぇ」
酷く無感動で平坦な声だった。
「売った、だと?オメーが狂気に呑まれないようにってやった物を、売った?」
踏み躙った、善意を。
「別にオメーが貰いもんを売ったとかは、オメー自身が決めることだが…こっちからしたら面白くはねぇ」
眉を顰めた後、酷く冷めた反応をした。
そうして、男の口から出てきた言葉は甘美な妄想を否定するものだった。
「え…?な、何?ちょっとした冗談だって…」
どこか拗ねたような口調で返すも。
もはや男は興味なし、とばかりに表情は凍ったままで、女の言い訳に対して無視を続けた。
あ、ヤバと勘が告げる。
やりすぎた
焦り
やだやだ
無視しないでよ
こっちを見て
「ね、ね、怒っちゃった?コレ、売ってなんかないって」
慌ててまくし立て、豊満な胸の内に隠していた赤い石のネックレスを曝け出す。
明るく冗談だと弁解する私を見るアイツの目は、よくわからない物を見るようなものだった。
疑念を抱いているような。
「お前が何をしたいのか、俺には意味がわからない」
関わるのを面倒くさがるような、訝しげな視線。
そんな顔しないで
「…もういい。何の用だったのか知らんが、目が覚めたなら帰れ」
「え…?」
空白。
頭が真っ白になりかける。
「い、いやいやいや、ここに連れ込んだのアンタじゃん!何、一人で決めて勝手なことっ…!」
テメー、抱くつもりで、ここに連れ込んだんじゃねぇのかよ!という言葉は出なかった。
それは私が期待していたことだったから。
冷めた空気に、男のため息が溶けてゆく。
「あぁ、それとな…エ・ランテルを離れることにした。伝えたかったのは、それだけだ」
ピクリと肩が揺れる。
「ど、どうして…?」
返事はない。
問い掛けは聞こえていなかった、のだろうか。
だが、私に再び聞く勇気はなかった。
ただ襲い来るグルグルと渦巻く不安と悲しみに耐え…
気分が悪くなった…
…
悶々として、気付けばベッドに横になっていた。
隣に男の姿はない。どこかへ出ていったらしい。
無理もない。
私だって意地でもはってなきゃ、こんな気不味い場所さっさと出ていってる。
…そのまま二度と私の前に現れない気がして、私を連れて行けと縋りつければ一番良かったのかもしれない。
だけど、そんな言葉を出す勇気は朝まで悩んでもついぞ出て来ることはなかった。
もし、拒絶されたら、が怖かったから。
どうしても素直になれない。
自己嫌悪…また一つ何かを失ったことを悟り、私は、私の性格を呪った。
□
私は信仰することをやめた。
神などどこにもいない。
大切だった友さえ、救われず。
この世界は悪意に満ちているのだと知った。
私の半生は常に何かを犠牲とし、奪われてばかりの連続だった。
奪われる側の人間ではいたくない…
だから、私は奪う側の人間になったんだ。
時に他人の命や財産、思惑でさえも自分のために利用した。
油断させて、裏切り、大勢を殺し、色んなモノを奪ってきた。
だけど…私はまた奪われる側の人間になろうとしている。
…私を置いて、男はここからいなくなる。
どこかで期待していた、一緒に行かないかという言葉はなかった。
アンタは私の苦しみを理解(わか)ってくれていたのではないのか?
グルグルとあの時の言葉が何度もリフレインする。
吐きそう…
あんな言葉…聞きたくなかったな。
いや、わたしがわるいのか…
11/13加筆
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7.クレマンティーヌ編※4
それからの日々、女は気分がずっと落ち込んでいた。
日がな何かを考えるようにボーっとしていることもあれば、街路で立ち竦み、唐突に悲しみに襲われることもあった。
その度に、彼女は自分自身の弱さに嫌気がさした。
置いていかれた。
見捨てられた。
自己嫌悪。
悲しみ。
喪失感。
疲れたように、ため息をつく。
力をいれようと吐いた息を吸い込んでみるも、肺に入ってくるのはスカスカの気体。
吸ったはずの息がため息として、体から出ていった。
気分が重く、体に力が入らない。
気力が沸かない。
以前までの彼女であれば、嫌なことがあれば周囲に悪意を撒き散らし発散していたかもしれない。
もしも例えば、自身がなめられていると感じ取れば逆に暴力をもって上下関係をはっきりさせるか、瞬間的に激高し、なめた相手をぶち殺していたことだろう。
なめられないように気をはって生きてきたら、そういう性格になっていた。
この悲しみが怒りへと変わらないのは、失ったものが彼女の中で大きかったせいなのだろうか。
彼をこの手で殺したいとは思わなかったが、いっそどこか知らない場所で野垂れ死んでしまえと何度も彼女は思った。
微妙な空気のまま過ぎた、次の日の朝。
起きれば男の姿と荷物はすでに無く。
ただ、意味ありげに罅割れた指輪が指に嵌められていた。
あの時、男は女に渡す物はないと言っていたが。
指に嵌められたこの指輪は、傲慢なお前にはその壊れたガラクタで十分だ、という皮肉が込められているのだろうか…
指輪を見るたびに胸が痛くなる。
それは彼女の悲しみの象徴。
一度見つけたはずの理解者は既になく。
孤独は二度と癒やされないだろう。
未練がましくも…
彼女はそれを捨てられないでいる。
□
それからは日がたつのを早く感じていた。
エ・ランテルに潜り込んでいる法国のスパイを欺くために、一応は協力者として席を置いていたズーラノーン。
高弟の一人であるカジットが何を目的にしているかは彼女からしたら興味もない。
元々は協力の見返りとして、スケリトルドラゴンを借りてエ・ランテルを脱出する目論見だったが…
正直もうどうでもよく思えてきていた。
(法国のアホ共も…)
(ズーラノーンの怪しげな理想とやらも…)
(全部くだらない)
だから、彼女は死の螺旋を発動させる準備を手っ取り早く進めるために少し手伝ってやった。
さっさと『死者の軍勢』でも『死の螺旋』でも発動させてエ・ランテルに混沌を振り撒いてやればいいとばかりに。
そこで彼女は、ちまちまと慎重に準備を進めるカジットにイライラし、叡者の額冠を装備させた少年を渡した。
全てのアイテムを使用できるというタレントを持った少年も、法国を抜ける際に嫌がらせで巫女を殺して奪った、装備者に魔法上昇を授ける叡者の額冠も、ちょうど手札が揃っていたから。
だが、叡者の額冠は装備したが最後。
魔法上昇が使えるだけの道具になって、意識も自由も全てなくなってしまうのだがーーー
そんなことは、彼女にとって心底どうでもいいことだった。
ただ、思い出すのは少年を攫う時に対峙した冒険者。
彼らのように…仲間に囲まれ、互いに信頼で結ばれている奴らを見て、女は酷く不快に感じた。
(だから男は自分を無力だと感じさせるようにプチッと殺して、性別を隠していたマジックキャスターの女も拷問してからやっぱり殺した)
それでも、冒険者たちを惨殺した後に残ったのは、爽快感などではなく、心の内にへばりつくドス黒い何かだった。
(ムカつく)
(全部ぶっ壊れてしまえばいいのに)
□
そして現在。
クレマンティーヌは、エ・ランテルの墓地で派手な鎧を纏った冒険者と対峙し、生命の危機を迎えていた。
鎧の冒険者はいかにも素人っぽかったが、強靭で彼女の攻撃がダメージに繋がることはなかった。
そして、強靭な肉体を持ってはいても、身のこなしは所詮素人と舐めてかかった挙げ句、捕まった。
彼女の脳裏にあるのは、どうしてこうなってしまったのかということ。
何がいけなかったのか。
何故こうも上手くいかない?
自暴自棄になって事を荒立てたのが悪かったのか?
あの不快な冒険者の連中を殺したのがいけなかったのか?
それとも今まで多くの人間を殺めてきた事、裏切りを重ねてきた事がいけなかったのだろうか?
まるで成した悪行が一斉に跳ね返ってきてしまったかのようだ。
罪なんて数えるのが馬鹿らしくなるくらい犯してきたのに今更罪を数えようとしてるのか、と自嘲する彼女の思考は常に加害者側にあった。
そんな彼女に対峙してーーー目の前の、胡散臭いと思っていた正義の皮を被った戦士がその正体を現す。
「エルダー、リッチ…!?」
黒地に金縁の派手な鎧を一瞬で脱ぎ去り、やたら豪奢な衣装のエルダーリッチは今、片腕で女の首を握りしめ、吊るしあげていた。
肌が粟立つ。
女はエルダーリッチといったが、それから発せられる威圧感はエルダーリッチとは及びもつかない。
それも当然。
女を吊し上げている悪魔は、エルダーリッチより上位の存在である死の支配者なのだから。
捕縛から逃れようと、癇癪を起したような無茶苦茶な連打も、両手を組んで力を込めた打ち下ろしも、効果は何もない。
ふと、悪魔の視線が女の首飾りに留まった。
「ふむ…これはマジックアイテムか?」
「…!それに触んじゃ、ねぇ…!」
エルダーリッチが首飾りを奪い、女は必死に取り返そうと暴れる。
渾身の力を込めて殴りつけても、蹴りを見舞っても。
全てが死の支配者の前では無力だった。
「返、せっ!返せぇっ!!」
女の必死さに訝しがったのか悪魔はとある魔法を使用した。
《上位道具鑑定》
それは道具の能力を調べることのできる魔法。
「これをどこで手に入れた?」
悪魔が気にしたのは、その首飾りがどこかで見た覚えのある、ユグドラシル産のアイテムであったこと。
「…」
ギリギリと歯を食い縛り、壮絶な表情で睨みつける女。
「…まぁ、いい」
と、悪魔はアイテムがどこからもたらされたのかへの興味を失った。
「効果も大したことのない状態異常への耐性を上昇させるものだ」
出処の由来は今後調査する必要があるが、自身に警戒させるに値しないとばかりに続けた。
「これもどうせどこかの金持ちから奪った物なのだろう?」
「盗人には相応しくない装備だとは思わないか」
「それを、返せ…!」
問い掛けに答えることなどなく、鬼気迫る表情で睨みつけるクレマンティーヌ。
「…よほど、このアイテムが大事らしいな」
悪魔は腹がたっていた。
自身の知り合いであった冒険者を殺されたことを。
何より、彼自身が大切であった仲間たちを思い起こさせた者達を虫けらのように嬲り殺しにした存在に。
そして、それを成した目の前の愚かな女に。
だからこそ、悪魔は女に絶望を教えてやることにした。
慈悲などなく、大切なモノを踏み躙られる屈辱とどうしようもない現実を。
何よりそれが誇りある悪の流儀であると悪魔は仲間から学んでいた。
悪はより大きな悪の踏み台にしかならない。
悪を成したからには、自身も同じ悪に踏み躙られる覚悟を持っていなければならない。
それが嫌ならばより大きな力を持つしかないという非情を。
《上位道具破壊》
「ぁ?…あっ、あ、あああぁぁぁ…」
赤い宝石が罅割れ、崩れた破片が塵のように風化してゆく。
心の片隅に残った小さな熱が消えてゆく。
あとには、何も残らない。
消えた。
消えてしまった。
それは男から女への贈り物。
とても嬉しかった。
誰かからの気持ちの籠もった贈り物だなんて…本当に記憶にある限り初めてで…
だが、今はもうない、二度と取り戻せない大切な思い出の品。
「…」
抵抗する気も失せた。
女は呆然とし、怒りもなかった。
むしろ全身から力が抜け、生きる気力さえ首飾りとともに消え去ってしまったかのようだ。
装備したガントレットの下、彼女の指にはまだもう一つ、彼の遺品のような物があるが…
それにはどちらかと言えば悲しい思い出が詰まっている。
どうせならそっちを壊してくれれば良かったのにと、どうでもいいことを女は考えた。
失くした物は戻らない。
(もうどうでもいいや…生きるのに疲れた…)
「ふん…心が折れたか」
「…では、絶望を抱いて死ぬがいい」
悪魔は女を優しく抱擁した。
ゆっくりと、ゆっくりと。
死の気配を少しでも長く味合わせるため。
お前は無力だ、ということを告げるため。
静かだった墓地に鈍い音が一度だけ響き、女は崩れ落ちた。
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8.シンプルな日記帳から抜け落ちたページ
☆月★日
ワールドエネミーを討伐して不死人のクラスを得てから、間もなく。
来る日も来る日も、モンスターを倒しては、また新たにモンスターを探しては狩る。
繰り返し、繰り返し…
しかし…ようやくと思ったが、何故か種族レベルが上げられない。
レベルアップしても上昇分を種族レベルに割り振ることができないのだ。
レベルキャップが設定されているのか?
何がいけないのか…全く持ってわからん。
折角、獲得した種族なんだがなぁ…
現時点では特に強いという種族でもないし、むしろレベルダウンしている分カンストプレイヤーには到底及ばない。
もしかしたら、レベルアップには何か特殊なイベントでもこなす必要があるのだろうか?
☆月★日
あれから色々探してみたのだが、レベルキャップの外し方は不明のままだ。
だが、今日モモンガからヒントになるかもしれない情報があった。
何やら近日中に大きなアップデートがあるらしい。公式のページに今後の予定が出ていたそうだ。
☆月★日
ビンゴ!
いくつかの職業、種族で専用のシナリオが配信されるそうだ!
その中には俺のアバターの種族である不死人のシナリオもあるようだった。
さっそく、アップデートを実行し、シナリオを導入した。
のだが…
なげぇ
何なんだ、いつまでたってもロード終わらないんだが!
どれだけの容量が詰め込まれてるシナリオなのか。
改造してそこそこスペックが高いはずの俺のマシンが悲鳴をあげてる汗
☆月★日
一晩放置し…
やっとこさ、シナリオのロードが完了した。
マシンが働きっぱなしで、ヤバいんじゃないかとハラハラしたぞ。
と、さっそくシナリオをプレイしてみたんだが、どうやら一人用のロールプレイングのようになっているようだ。
内容は…人も寄り付かない秘境の地にある刑務所のような場所から始まるようで、種族である不死人にまつわる由来を探ったり、不死人の使命を果たすために旅をするという設定のようだ。
シナリオとしては、今のところ何とも言えないが、グラフィックや世界観への拘り様はとんでもないな。
白く冠雪した峻厳な山々、どこまでも続く空、朽ちかけた遺跡や建造物、そして全てに等しく降り注ぐ太陽の光と光の届かぬ闇の世界の描写…
ときたま見えるのは、他の不死人のプレイヤーと思しき白い幻影。
幻影が見えるほどに世界は近く、重なるように隣り合っているという設定によるものか。
しかし、そのままでは決して混じり合うことのない世界線それぞれに、プレイヤー達の物語が存在している。
シナリオに使い回しの背景などはなく、まるでこの世界観を再現するためだけに、新たにワールドを創り出したかのような…
いや…まさにここは新しいワールドと言ってもいいのではないかと思う。
ユグドラシルに存在するいくつものワールド。
その枝葉の一つの世界。
今はまだここは、不死人専用のフィールドになっているようだが、いつか全プレイヤーに開放されることになるのだろうか?
…それは何だか寂しいな。
この世界を不死人で独占したい気持ちもあるが、なによりここがプレイヤーで溢れてしまったら、まだ見ぬ、この世界観がぶち壊しになる気がした。
☆月★日
やべぇ。
このワールドの難易度がヤバい。
難易度を引き上げている要因。まずは、張り巡らされたデストラップ。
探索する
↓
雑魚敵が襲来
↓
ローリングで攻撃を回避
↓
崖から落ちて落下死
そして、視界に現れる『YOU DIED』の文字。
わかっとるわ!
また、バリエーションも意外なほど豊富だ。
嘘のメッセージにショートカットや宝箱があると騙され、崖からの落下死。
地下へ降りるためのエレベーターに向かってダッシュ…が、エレベーターが戻って来ておらず落下死。
何度も落ちて、逆に楽しくなってきたわ。
でも、VRだから落ちる感覚とか割とリアルなのよね。どこがとは言わないけど、ヒュンってします。ヒュンって。
仕様なのか、このワールドだと空飛べないんだよなぁ。
他にも、死んでいると思った竜が起き上がってこちらを攻撃してきたり、一本道で大きな球が転がって来たり、初見では対処が難しい。
確実にこちらを殺しにきてる。
空が飛べないのに関連して、2つ目、このワールドでは『魔法』と『アイテム』が制限されている。
といっても使えない魔法とアイテムは、ユグドラシルに存在する他ワールド産の物についてで、この世界で用意されてある『魔法』や『アイテム』の使用制限はない。
いわゆる、このワールドの世界観を表現し、最大限に楽しむための縛りというものだろう。
未だ保持している魔法やアイテムの種類は多くはないが、世界観に合わせた効果や特性を持っているように思える。
これについては、もっと保持している種類が増えてから詳しく書いてみよう。
3つ目、敵がアホみたいに強い。
いや、個々の強さはたかが知れているのだが、集団で襲いかかってくるので、対応をミスれば袋叩きは確実なのだ。
ただ、カンストに近いアバターに雑魚敵のダメージが普通に入る点で察して欲しい。
そして、ボスにはプレイヤーと同じ人型から見上げるほどデカイのまで様々だ。
流石にワールドエネミークラスのボスほどではないが、厄介なことには変わりない。
まして、ここには普段いる頼もしい仲間たちはいないのだ。
バフだって自力でしなければならないし、回復だって仲間を当てにすることはできない。
何度、火に焼かれ、吹き飛ばされ、槍に貫かれ、叩き潰されたか…
幸いにも死ぬことでレベルダウンは起こらないようだが、死んで篝火に戻る度に思う。
このシナリオ、殺意、高すぎませんかねぇ?
☆月★日
今日も今日とて、死を繰り返す。
死にゲー乙ですわ。
少しずつ攻略していってはいるが、なかなかクリアできない。
実際、敵を倒せるには倒せるのだ。
ただ、自分のプレイの仕方がマズイのかどうしても多対一になってしまうので、一度ミスると袋叩きになる。
いちいち、敵を釣ってきて進めていくのもいいが、それでは負けた気がする…
なので死ぬ時はだいたい敵の集団に一人囲まれて死ぬ。
知恵がない?
脳筋と笑いたければ、笑え。
実際そうだから。
プレイヤースキルには多少自信があったんだがなぁ…
ちょっと心が折れそうだ…
☆月★日
不死院で出会った騎士から伝えられた不死の使命とは、2つの鐘を鳴らすことだった。
そして…鐘の音は神の都への道を開き、よくわからないナマモノ、フラムトを叩き起こした。
フラムトは太陽の光の王グウィンから不死の本当の使命を伝えにきたらしい。
曰く、大王の後継となれ、と。
それはつまり、大王の火を継ぐということに他ならず、火となり、この世から不死の徴であるダークサインを消し去ること。
そして、そのためにはまず神の都へと至り、王のソウルを満たす、王の器が必要だという。
う、うーん。
フラムトは世界の蛇、王の探索者を自称し、王の親友だと話した。
親友?
え…?
胡散臭ぇー。
☆月★日
神の都アノールロンド。
壮麗な城壁を越え、見えるは神の治めた地。
荘厳な建造物、壮麗な王城。
輝く光の都。
しかし、既に主たるグウィンはなく、斜陽を迎える国。
ここアノールロンドはなかなかの強敵揃いだった。
雷の槍を操る竜狩りの騎士オーンスタインに、残忍な処刑者スモウ。
オーンスタインは王の四騎士の内の一人であり、獅子を模した鎧を身に纏い、雷の力を宿した十字槍を自在に操る。
スモウはその酷薄な性質から騎士に叙されることはなかったが、四騎士にさえ迫る実力を持っていたらしい。
この二体と同時に戦闘って。
マジかよ笑
しかも、一体倒したらもう一体が吸収して、パワーアップするし。
マァ、大変ダッタヨ。
戦闘を乗り越え、王城の深部、謁見の間には大王の娘であり、太陽の光の王女グウィネビアがいた。
デカイ。
何がって…
わかってるよな?
おっぱいだよっ!
でかぁい!説明不要!
もちろん、望遠鏡でくまなく拝見させていただきました。
ホクロまであるのね。
作り、細かすぎでしょ!
きっと彼女をデザインした人はやりきった表情をしていたに違いない。
☆月★日
王の器を満たす、王たちのソウル。
分け与えられた王のソウルを持つ者たち。
『墓王ニト』
『公王』
『白竜シース』
『イザリスの魔女』
気味の悪い蛇、フラムトは今度は王のソウルを集めろと言った。
王のソウルは最初の火から生まれたもの。
なるほど、火の存続を望むのであれば、そこから生まれた物を元あった場所に戻すのは道理という訳か。
そしてそれを成した者が、火を継ぐものの資格となるとも。
そういうストーリーな訳ね。
…どうでもいいが、フラムトは息が臭そうだ。
『かつての王たちは道を違えているか、既にその役目を終えているから気にせず倒せ』
みたいなことも言うし、イマイチ信用出来ない奴だ。
☆月★日
墓王ニト。
彼は世界で最初の死者であったと言われている。
かつて、グウィンらと共に古竜を討ち果たした存在であり、最初の火から特別なソウルを手にした一人だ。
現在は墓所の地下深く、光の届かない闇の奥で眠りについている。
墓所には人とも獣とも判断のつかない無数の骨が埋葬されており、エネミーもスケルトン系が多い。
人型や獣姿のスケルトンに、骨の集合体。
一体一体は問題なく倒せるが、墓地内は視界が非常に悪い。
ここでも、攻撃を回避したら崖の底に落ちるのを何度か繰り返し、トライした。
どないせぇっちゅーねん。
道も入り組んでいて全体はよくわからんし、やりずらいステージという印象だった。
相対したが、正直、墓王ニトは眠りについているだけで、死を振り撒いたり、瘴気を生み出したりすることもなく、ほぼ無害な存在だ。
それなのに、ソウルを奪おうと墓荒らし紛いのことをするのだから、悪役の気分だ。
実際に見てみれば、どこかの誰かを彷彿とさせる容貌をしているし。
なんか申し訳ないな、と思いながら王のソウルをいただきましたマル。
☆月★日
イザリスの魔女、もしくは混沌の苗床。
混沌の苗床がいるイザリスの都は地下深くに潜った先にある。
道中には腐敗し、不潔な病で満ちた村があったり、毒の沼があったりで、毒への耐性を上げておく必要がある。
毒の沼の先には、貴重な癒し。
下半身が大きな蜘蛛、上半身が人間の姿をした混沌の娘、魔女クラーグがいる。
彼女自身が美人であり、それを見ているだけで、この殺伐とした世界観に癒しをもたらしてくれるが。
もっと大事なことが一つ。
彼女は…オッパイ丸だしなのである。
俺は戦闘中であっても、これを見逃すことが出来なかった。
具体的に言えば、望遠鏡でガン見(ry
しばらく見ていたのだが、何となく誰かに恥ずかしい行為を見られているかのような気分になってきたので、惜しみながら先へと進む。
貴重なオッパイ枠が…
もう一人、彼女の妹で同じ癒し枠がクラーグの住処の先にいる。
彼女も下半身が蜘蛛、上半身が人間の女性の姿をしているが、様子は大分異なる。
彼女は憐れみ深い性格をしていたのか、病気に苦しむ人達を救うために毒に塗れた膿を周囲の反対を押し切って、呑み込んだ過去があるらしい。
その影響か、身体の全てがアルビノのように白く染まり、盲目になってしまっている。
彼女は今も病の毒に苦しんでおり、その苦痛を一時的にも楽にさせるには、『人間性』と呼ばれる人の闇?人の感情?のような塊を捧げるしかないらしい。
クラーグも、彼女に人間性を捧げるために俺を襲ってきたのだろうか…
そして今も、彼女は健気にも姉の帰りを待っている。
彼女の姉を殺した奴が言えることではないが、贖罪の意味も込めてたまにここに来ることにしよう。
すまねぇ、姉さん、妹さん…
ストーリー上、イザリスの魔女が王のソウルを手にした人物であり、最初の火が衰え、消えかけになったことで、魔女は自身の手で火を生み出せないか研究していたようだ。
その結果、研究は失敗し、混沌の炎が暴走したことによりイザリスの魔女は混沌の苗床へと変貌。
都は混沌の渦に巻き込まれ、マグマの海へと沈むことになった。
また、混沌に触れたことにより、デーモンの存在が生まれ、牛頭デーモンや山羊頭デーモンなどが跋扈することになったようだ。
この災厄で無事に生き残ったのは、混沌の娘の一人であるクラーナのみ。
クラーナはこのワールドでの『魔法』の一つである呪術の師匠だ。
彼女もある意味、癒しなのかもしれない。
彼女は混沌に沈んだ母や姉妹達に引導を渡してあげたいと思っているが、一方でその覚悟も力もないと嘆き、俺に討伐を頼んだ。
その報酬が、彼女の呪術の力であり、彼女の弟子になるというもの。
最初はツンケンしているが、クラーグや混沌の苗床を討伐した後では、肩の荷が降りたかのように人当たりが優しくなる。
師匠、かわいいよ、師匠。
ただ、呪術の力を伝え終わったとかで、いなくならないで欲しかった…
重荷から解放されたクラーナは死に場所を探しに行ったのかもしれない。
最後まで、彼女は何度も何度も口が酸っぱくなるほど言っていた。
『火を畏れよ』
イザリスの魔女は火を畏れることを欠いた。
だから、災厄を生み出してしまったのだと彼女は考えていたのかもしれない。
☆月★日
俺は旅した。
ゲーム内でのことではあったが、俺は確かにこの世界を見て回った。
フラムトは言った。
不死人に待つ運命。
世界を照らす火を継ぐこと。
光の王グウィンは憂いていたのだろうか。
闇の時代に後戻りすることを。
だからこそ、自身の身を代償として世界を照らす最初の火を守ったのか。
原初の闇の時代には、光などなく、その大半が霧に覆われ、灰色の岩と大樹、朽ちぬ古竜が世界を支配していたという。
そこに安寧などなく、神や巨人、人間などの種族の関わりなく古竜の脅威に晒されていた。
太陽の光の王グウィンとその配下
最初の死者墓王ニト
イザリスの魔女と混沌の娘達
鱗のない白い古竜シース
彼らは古竜との争いに勝利することで世界に光をもたらすことに成功した。
訪れた『火の時代』、そこには命ある者たちの発展があったのだ。
例え、いつか火が消え、再び世界に闇の帳が落ちようとも…
世界を照らすには、火を絶やしてはならないのだ。
たとえ、いくつもの犠牲を払ってでも。
俺が見て回ったこの世界は、厳しくも美しい。
☆月★日
小ロンド遺跡。
公王はグウィンに任ぜられ、王のソウルを分け与えられた小ロンドの四人の王だった。
だが、いつしか公王達はソウルの力に溺れ、闇の存在であるダークレイスへと身をやつした。
グウィンは公王を深淵へとおいやり、小ロンドを水の底に沈めて封印した。
現在、小ロンドは亡霊の跋扈する呪われた廃墟となっており、王とともに闇へと落ち、ダークレイスとなった騎士が人を襲うような危険な場所になっている。
公王も人間だった頃の面影はほとんど残っておらず、闇の潜むバケモノのような姿に変貌していた。
てか、公王って四人のはずだよな。
なんか、戦闘中に五人目が出て来たんだが、バグか何かなのか?
☆月★日
順調に王のソウルを集めてゆく中、公王から分けられた王のソウルを手に入れた際、フラムトとは別個体の蛇、カアスに出会った。
奴は、手に入れたソウルを自身の物とし、火を継ぐなと言う。
カアスが言うには、始まりの火はいつか消えるのが決まっており、それを覆すことは出来ないらしい。
フラムトが言う真実は、ただの延命措置に他ならないと反論する。
奴自身も世界の蛇としての役目を忘れ、王の友という存在に堕ちたのだと。
だから、火が消えるのは世界の理に準じており、グウィンの火を継がないのは道理であると話す。
さらには、ならばお前は火が消え、闇の世界が訪れた時に如何に人間を率いていくのかを考えるべきであり、それならば王のソウルを身に取り込んだ方がよい、と。
この身は、闇の王となる資格があるらしい。
カアスの話す、闇の世界とはどんな世界なのだろうか。
ただ、今の火の時代よりは遥かに生き辛い世界になることは確かだろう。
今の世でさえ、人々には不死の証であるダークリングが現れているのに、闇の世界になればどうなってしまうのか。
この世界が不死人で溢れるかもしれない。
カアス曰く、人間は元々闇の存在だというが…
人間にのみ現れるダークリングの由来は、誰も知らない小人が余った暗い火を手にしたことにある。
そして、それが世代を経ることに拡散し、人々がダークリングを発現させる資質の元となった。
だから、基本的に人間以外にダークリングが発現することはなく、ダークリングを持たない神族などは闇の世界で生きていくことは困難を極める。
過酷な闇の世界で生き延びるには、不死であることは有利であり、環境に適応できる下地になるということなのかもしれない。
しかし、神族にはそんなものはなく、闇の時代とは神族の滅亡を意味するのか。
もしも、光の王グウィンがそれを知って、火を継がせようというのならば…
グウィンは神族の行く末のみを第一に考えていたことの証左になるだろう。
そこには人間への配慮などは存在していない。
どうでもいいがカアスの息も臭そ(ry
☆月★日
そういえば、この世界の魔法についてまとめていなかった。
このワールドにはいくつかの魔法が存在している。
『魔術』
主にこの世界での生命の概念であるソウルを利用した魔法であり、ソウルとは魂の力とも考えられる。
魔術は杖を触媒として、ソウルを塊として打ち出したり、ソウルを消費して身体や武器を強化するものがあるなど汎用性に優れる。
ただし、近距離戦での攻撃の手段にやや乏しい印象。
『呪術』
イザリスの魔女の娘クラーナが使用した炎を起源とした魔法。
魔術に必要な杖を必要とせず、代わりに種火の役割を果たす呪術の火を必要とする。発動が早く、近距離でも使用が可能な物が多い。
フレーバーテキストでは、呪術を操る者にとって火は特別なものであり、大抵は一生を共にし、大事に育て続ける。火はまさに半身であり、分かち合ったものは火の血縁となるとある。
元来は、イザリスの魔女の扱う、杖を使用した炎の魔術であったが、その魔術は失われてしまっている。
『奇跡』
タリスマンを触媒として、神の力を呼び出す信仰系の魔法。
回復・治療などが多い反面、攻撃の手段に乏しいという欠点があるが、魔術への防御、妨害に優れた一面がある。
経典である神の物語をなぞらえた魔法が多く、聖職者が経典から学ぶことで、これらの技を身につけていることが多いようだ。
以上!
☆月★日
最後の王のソウルを持つ、白竜シース。
鱗のない古竜。
それがシースの蔑称であり、不死身だった古竜達の力の源である鱗を持たなかった存在。
つまりはシースは不死身の存在などではなく、死を恐れ、我が身の可愛さに敵方であったグウィンに組した裏切り者だった。
古の、火の時代を迎える戦闘では、当初、グウィン達は殺しても殺しても蘇る古竜達に押されていた。
しかし、シースが古竜達を裏切り、不死身の源である鱗の秘密を伝えると状況は一変した。
グウィンの雷が古竜の鱗を貫き、イザリスの魔女の炎が焼いた。そして、最初の死者ニトが死の瘴気を振り撒き、古竜に死をもたらしたのだという。
戦いの後、シースは不死の力に妄失し、不死を求めて実験を繰り返していた。死を恐れるあまりに。
その研究の過程で生まれたものが、ソウルの業であり、結晶の魔術だった。
ただし、その研究の過程で犠牲になった者の数は計り知れない。
シースの居所である公爵の書庫では、実験の犠牲となった者達が多くみられる。
中には人間性をドロップするモンスターもいることから、人間からモンスターに変化させられた者もいたようだ。
なんとも惨い。
これほど倒して心傷まない敵はいなかった。
☆月★日
4つの王のソウルが揃った。
多分、フラムトの言葉に従うか、カアスの言葉に従うかが分岐の別れ目だ。
可能なら両方のルートを一度ずつやった方がいいんだが、このシナリオがもう一度出来るという保証はない。
さぁ、どうしたものか。
☆月★日
『あなたが火を継いでくださるのですね…』
『人を人のままに死なせて欲しい』
『人から闇の徴を払って…』
とある火防女が言っていた言葉。
俺が選んだルートは…
グウィンを倒し、最初の火を継いで、二代目の薪の王となること。
人が人のままに、死ねる世界がいい。
肉体的な死がなくとも、精神的に摩耗し亡者となってしまう不死人は、やはりバケモノなのだろう。
亡者となってしまっては、もう後戻りは出来ない。
永遠の死の苦しみに塗れるだけ。
人と亡者はやはり存在自体が違うのだ。
それならば、例え、火の時代が延命によるものだとしても…
もう少しだけ人を人のままに死なせてやれる世がいい。
最初の火の炉。
グウィンが最初の火を前に立ち塞がったのは、俺が火を継ぐに値する者かを確かめるためなのだろうか。
それとも、闇の時代を招かんとする不死の存在を排除しようとしたのか…
グウィンを倒すのは簡単だった。
グウィンはその力のほとんどを近しい者に分配して火継ぎをおこなったとされているが…
全盛期の彼はどれほど強かったのだろうか。
最初の火に触れると、火は体に移り、燃え広がってゆき、ついには、全身を覆う。
と、同時に『薪の王』のクラスを取得し、エンディングが流れた。
これでシナリオは一旦は終わり。
炉に佇み、こちらを見ていたボンヤリとした白い影。
幻影とも異なるような、あれは何だったのだろうか。
追加シナリオの伏線?
わからない。
ただ、それは悲しみを滲ませているような気がして酷く気になった。
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9.クレマンティーヌ編※5
闇に揺蕩い、微睡む意識
何も見えない
体は自由に動かない
もう長くないことがわかる
ただ、ゆっくりと
落ちる
落ちてゆくのを感じる
何も見えない暗い闇の底まで
ぜんぶ
とけて、なくなりそう
全ての感情を孕んだまま
これは『未練』なのか
死の間際に思い浮かぶのは、よりによって男の姿だった
刻一刻と、逃れられぬ死を迎えようとしているのに、思い出すのは自分の幸福だった時間ばかり
こんな時まで、と馬鹿な自分を自嘲する笑みを浮かべていたかもしれない
会ってそんなに経ってない他人なのに、と
あぁ…
底の知れない深淵の闇に私という存在が溶け、流れ出てゆく
昏い闇の視界の中に、ボンヤリと青白く燃えるように光る小さな玉が浮かぶのが見えた
それにどうしようもなく惹かれて
最後の力を振り絞って、ノロノロと手を伸ばし、それを掴み取った
手の平にあるのは色に反して、あたたかい…どこかで見覚えのあるような…
想い出した
それは男の魂(ソウル)の色
結局、どこから来たのか…
何で旅をしているのかも、聞けなかった…
わたしはなにもしらない…
あいたい、なぁ…
もういちどだけ…
『・・・の世・・・召喚・・・い・・す』
男とも女ともつかないノイズ混じりの声
光が脈動し、拡張と収縮を繰り返すと…
私は光の粒でできた霧に溶けていった
□
『・・・の世界・・召喚・れ・・した』
目を開けるーーー
…夢を、見ているのかもしれない。
人は死の間際に夢を見られるのだろうか。
確かに彼女は悪魔から致命の一撃を受け、死へと向かっていた。
しかし…今の女は亡霊のように…白く、影のように揺らめく幻影となり大地に佇んでいた。
そこはーーーユグドラシルの大樹に存在する無数に分かたれた枝葉の一つの世界。
そして、力ある異形の存在と世界を蝕む大敵が星の命を巡り争う戦場。
それはあまりにも強大な存在だった。
見上げなければ全容すら掴めぬほどの巨体。
ただそこにあるだけで全てを威圧する存在感。
山のような巨体には棘のように剣がいくつも刺さっていた。
剣の意匠は古い時代を思わせる物から、精緻な飾りが刻まれた美術的価値の高そうな物まで様々。
その一本一本が歴史であり、今まで、幾度となく立ち向かった勇者達を蹴散らし、生き延びてきたことを伺わせた。
顔のない、巨体の主は息をするかのように光の奔流ーーー生命の輝きを際限なく吸い込んでゆく。
それは世界の、星の命を、生命の源を吸い、貪り、蝕む存在。
生きとし生ける者達全てにとっての最大の障害。
女の意識の片隅でワールドエネミーという言葉が浮かんだ。
ちっぽけな人間などでは相対することさえ不可能であることは明白であり…
(ひぁ、っ…)
喉の奥が引き攣れた。
クレマンティーヌは恐怖で身が竦みあがり、ないはずの心臓がギリギリと痛む。
身動き一つ、息を吸って吐くという簡単な動作さえ圧力に負け、満足に行えなかった。
(何なんだ…何なんだよぉ、ここは…)
いきなり見知らぬ場所に立っていたかと思えば、目の前には敵う訳のないバケモノ。
混乱していたが、悪態をつく気力さえもなかった。
これは数々の悪行を犯した罰なのだろうかと分かりやすい絶望感に心が微塵に砕けそうになった。
人間の根源に訴えかけるような恐怖に、知らずカチカチと歯が鳴るのを抑えられなかった。
(に、逃げなきゃ…)
大敵の発する魂さえも消し飛ばしてしまいそうな圧力に腰が砕け、逃げよう、という意思さえ挫かんとする威容。
呆然と、へたり込んだまま動くことの出来ない女の横を抜けていく影があった。
フルプレートアーマーを身に纏った騎士の姿。
そして…辺りに広がった白い霧の奥からどこからともなく続々と集結してくる異形ーーーいや、もしも神を超越的な力の保持者とするのであれば、それらの威圧感は神とも見紛う者達。
騎士が腰に据えた剣を抜き放ち、悠然と構える。
(あんなバケモノに挑もうっての…?いくら力に自信があるからって、あんなのに勝てるわけが…)
女の知らない言語で異形の神達が詠い、戦闘が始まる。
爆ぜ、剥き出しになった傷だらけの大地。
夕日よりも尚色濃く、紅蓮に燃える空。
視界を白く塗り潰す怖ろしい破滅の光。
もしや、それらは神のみが使用出来るという、伝説の第十一位階魔法か。
一撃で国が滅ぶような禁忌がいくつも放たれた。
全てが直撃しーーーだが、それでも尚、大敵の存在は揺るがなかった。
お返しとばかりに、大敵の音の無い咆哮が空間を捻じ曲げ、嵐となって襲いかかる。
それは女にとって、まさに神話の物語の一編のようで。
そこには、神々すら容易く脱落してゆく苛烈なる戦場があった。
(何だよあれ…マジヤバすぎでしょ…)
女の視線の先。
目を引いたのは先程の騎士の姿。
騎士は大敵の一撃を絢爛な大盾を砕かれながらも防ぐと、強い火の魔力が込められた直剣で幾度も斬撃を見舞う。
背後から飛び交う魔法の嵐を潜り抜け、当たれば即死と思われる大敵の反撃の尽くを躱し、確実にダメージを積み重ねてゆく。
勇猛と言われればそうなのだろう。
だが、クレマンティーヌには騎士が狂っているようにしか思えなかった。
そうでなければ、あんな風に戦場を駆けることなど出来るはずがなかったから。
そして…狂っていなければ大敵に挑むことすら出来ないことを理解した。
それは正に頂上、神々の戦争という言葉が相応しいものだった。
もしも人間のような矮小な存在が戦場に混ざれば、肉片も残らず消し飛ばされるか、大地の小さな染みになるのみ。
(バケモンしかいねぇのかよ…)
故に、女が出来たのは離れた場所から神々の戦いを見守ることだけ。
何度も日が昇り、沈むのを繰り返した。
異形の神々が不眠不休で戦い続ける中、女はただ戦場の行く末を見守っていた。
どうやら、幻影のようになった体は睡眠や空腹とは無縁らしい。
だから、見ていられた。
この世の出来事とは思えないバケモノたちの闘争を。
そして…いつまでも続くかと思われた戦闘の果てにーーー大敵の咆哮で空間が歪み、視界は足場のない闇へと変貌した。
足場がなく宙に浮遊するという未知の恐怖と不安に、女がただ押し潰されそうな精神を必死に凍らせるので精一杯だった中。
大敵から放たれた破滅の一撃が異形の神々の多くを消し去った。
果たして…
一柱墜ち、二柱墜ちーーー
最後まで生き残ったのは騎士とどこか見覚えのある装いのエルダーリッチ…いや、発している威圧感は正に死を支配する死神とでも呼ぶべき存在。
最早、あとは無い。
頼るべき戦友たちのほとんどは既になく。
ここで敗れれば世界の命運はどうなるのかと心胆を寒からしめる、綱渡りのような戦闘が続く。
神々が墜ちるのが先か、大敵の体力が尽きるのが先か。
そして…
とうとう大敵が力尽き、ゆっくりと身を倒すと、最後の一撃とばかりに昏い波動が全方位に走り二柱と女を飲み込んだ。
女が咄嗟に伏せた目を恐る恐ると開く。
そこには死の支配者の姿は既になく、苦しんでいるのか膝を突いた騎士の姿があるのみ。
(え…?)
そして、目を見張り、混乱した。
(ど、どうして…)
ヘルムを脱いだ騎士は、クレマンティーヌの知る男の容貌であったから。
(どうしてアンタがそこにいるの…?)
男は膝をついたまま微動だにせず、女にはその後ろ姿が何かに絶望し、嘆いているかのように見えた。
どこからともなく、霧がたちこめてくる。
(お、おいっ、まて、まって!)
白い霧に包まれるように、男は見えなくなり、場面は唐突に切り替わる。
□
霧が晴れ、気がつけば古びた石の回廊に立ち尽くしている。
建てられてから、ろくに修繕もされていないのか、積み上げられた石壁は崩れ、荒れ果てていた。
ここは牢だ、と気が付くまでさほど時はかからなかった。
何しろ、太い鋼鉄の杭が嵌め込まれた部屋がいくつも存在していたから。
その中の一つ。
朽ち果て、入れる者のない空の牢ばかりが並ぶ中、何者かの存在感を発する場所がある。
汚らしいボロボロの平民服を身につけ、台座に腰掛けたまま微動だにしない人影。
牢に近づき、その存在を少しでも間近に見ようとし、息を呑んだ。
(おい…これ…どういうことなんだよっ…!)
そこにいたのは容貌こそ変わり果てていたが、間違いなく女の知る男だった。
混乱し、訳のわからない事実に吐きそうになった。
その顔の輪郭も。
髪の色も。
鋭い男の目つきも彼女の記憶にあるものと同じだった。
しかし、その容貌は見る影もないほどやつれており、肌もカサカサに渇ききり、四肢もミイラのように萎びていた。
死者が埋葬されずに、死体がそのままそこに放置されているとしか思えなかった。
しかし、それを果たして生者とは言えるかわからないが、男は微かに呼吸しており生きていた。
(ねぇ…どういうことなのか教えてよ…)
聞きたいことはいくつもあった。
その姿は何なのか。
あんたは何者なのか。
ここはいったいどこなのか。
何故ここにいるのか。
私はどうしてこんな体になっているのか…
数え挙げればきりがない。
しかし、男からの返答はなく、女は思考を巡らせるしかなかった。
もしや、男はあの大敵との戦いで、倒れ伏す間際に放たれた一撃を受けたせいなのではないかと。
そうだ、きっとそうに違いない。
最後に放たれた昏い波動。
あれは男をバケモノへと変貌させ、不死を強制するものだったのではないか。
だから彼は死人のような姿になっても、生き続けている…
もしかしたら、人によっては不死となったことを喜ぶもしれない。
例えば永遠の命、永遠の若さなどは、強欲な権力者などが喉から手が出るほど欲しているものだが…
しかし、これでは…男にとって不死とは、祝福などではなく呪いと同義であったのではないか。
女は、男がその身分の証たる銀色に輝くフルプレートを外された上、粗末な服を着せられ牢へと入れられていた理由を察し、この所業をなした者達を憎悪した。
つまりは、大敵を討伐するというあまりにも大きな偉業を成した彼を恐れ、その上、不死という祝福/呪いを羨まれた末の投獄なのだろう、と。
…
牢にあるのは永遠に続くのではと錯覚しそうになる静寂。
牢に窓はなく、天井付近に明かり取りの穴がポッカリと空いているのみ。
牢の番たる看守の気配もなく、水や食料を供給されている様子も当然ない。
ただあるのは大敵から呪いを受けてか、人外と呼べる存在に変わり果てた男のみ。
女はそんな男をただ見つめ、思い出したように何度も声をかける。
「…」
しかし、男は女の言葉など聞こえていないようで、反応することはない。
多分、私の声は聞こえないんだと思いつつも、無視されたようで彼女は酷く悲しかった。
男の転機はすぐ側にまで来ていた。
何者かが天井の明かり取りから鍵を持った死体を投げ入れ、男はその鍵で牢屋から脱出することが出来たのだから。
それから何度か女は男に声をかけてみたものの、やはり聞こえていないようで反応はない。
仕方なく女は黙って男の後を付いて行くことにした。
男の行動も気になるし、今の自分に何ができるかも、何故こんな状況に放り出されたのかも何もかもがわからない。
そして何より、男の側を離れてはいけないーーーもしかしたらこれは男の過去を見ているのかもしれないと思ったから。
□
どこからともなく、古い伝承が聞こえてくる…
それはまるで、何も知らぬ子どもへと物語を聞かせるかのようだった。
それは男の生まれた地の歴史か古い伝承か。
『古い時代。世界はまだ分かたれず、霧に覆われ灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあった』
『だが、いつかはじめての火がおこり明かりと闇と、熱と冷たさと、生と死と、あらゆる差異をもたらした』
『そして、幾匹かの、闇から生まれた者たちが火に惹かれ、火のそばから、王のソウルを見出した』
『最初の死者、ニト』
『イザリスの魔女と、混沌の娘たち』
『太陽の光の王グウィンと、彼の騎士たち』
『そして、誰も知らぬ影の小人』
『それらは王の力を得、古竜に戦いを挑んだ』
『グウィンの雷が、岩のウロコを貫き魔女の火炎は嵐となり死の瘴気がニトによって解き放たれた』
『そしてウロコのない白竜、シースの裏切りにより、遂に古竜は敗れた』
『火の時代の始まりだ』
『だが、やがて火は消え、暗闇だけが残る』
『今や、火はまさに消えかけ、人の世には届かず、夜ばかりが続き人の中に、闇の印、ダークサインが現れはじめていた…』
…それが意味するものを彼女はまだ理解出来ずにいる。
□
クレマンティーヌと男は共に苦難の旅をした。
宛もなく、ただ牢から男を出してくれた者の遺言で不死の使命ーーー2つの鐘を鳴らすという願いを遂げるため。
最初、女は嘆いたーーー男の力は大敵との戦闘の時と比べ、見る影もなく衰えていたのだから。
何しろ、そこらの雑兵にすら殺られる始末。
これでは私でも勝ててしまう、と。
何度も目を覆いたくなった。
だが、不思議なことに彼が死ぬと、男と女の二人は気づけば篝火へと戻っているのだ。
彼が話していた思い出深いだろう篝火へと。
しかし、そんな女の嘆きなど徐々にではあるが意味がなくなっていった。
なぜなら、その旅を通して男は力を取り戻してゆき、むしろより強靭な体を作り上げていったのだから。
女と男は数多の魔境を旅した。
歴史を感じさせる朽ち果てた古城を。
不潔な、毒に濡れ穢れた地底を。
赤熱し、流動する大地に覆われた古代都市を。
光の差さぬ、闇が支配する大墓地を。
海へと沈んだ亡霊達の呪われた都を。
王と騎士が去り、斜陽を迎えた神族の国を。
それらを尽く踏破した。
道中、たくさん知らなかったものを見た。
多くの人の支え、別れがあった。
強大な力を持つ者たちの存在を知った。
それはまるで巡礼の旅にも似ており、男は強大な者達を下す度に力を取り込み、新たに技を身につけ練磨し、かつての力量以上に高めてゆく。
男は数多の困難に出会い、そして乗り越えた。
無論のこと、旅は順風満帆などではなかった。
男は最初、弱く。何度、バケモノや悪魔に叩き潰され、ドラゴンの火に焼かれ、神の尖兵に切り刻まれたか。
何度、心無い人に騙され、狂気に侵された友を目の当たりにし、心に傷を負ったか。
幾度も、男の心は折れそうになり、女はただそれを見ているしかないことに歯痒く思った。
抱き締めてあげたくても、幻影となった身では素通りしてしまう。
慰めてあげたくても、声すら届かない。
助けてあげたくても、敵に干渉すら出来なかったから。
だが、それでも。
何度も生き死にを繰り返し、何度も心折れそうになりながらも男は歩みを止めることはなかった。
女はそんな男の歩みを側で見続けた。
傷つく度に心を磨り減らしてゆく様を。
時に直面する辛すぎる障壁に心折れそうになる瞬間を。
とうとう頭が可笑しくなって、女型のバケモノやバカデカイ乳を視姦し始めたのを見た時には、その時ばかりは本気でどついてやりたくなったが…
何も出来なかった彼女はただ見続けた。
男の行く末を。
旅は試したのだーーー男の不屈の意志と女の目を逸らさぬ勇気を。
鐘を鳴らし、旅の折返し地点でーーー二匹の蛇は嘯いた。そこで、二人は世界の仕組みを、男の救いようのない運命を知ることになった。
だが、それでも男は迷いながらも歩みは止めなかった。
その時、男の胸の内にあったのは果たして絶望か、諦観であったのか、またはそれ以外のものだったのかは女にはわからない。
ただ、女は無力な自身を、クソッタレな結末を用意した世界を罵倒し、どうしようもなく呪うしかなかった。
□
原初の炉へと続く灰色の道。
王のソウルを王の器へと捧げた男の歩みには、もはや迷いはなかった。
不死となった彼が選び取った運命とは、火継ぎを終わらせ闇の王となるのではなく、薪の王となること。
つまりは、火の消えかけた世界を再び照らすため、神族の世の礎として火を継ぎ、次代の薪となる定めを負う。
男が火を継ぐこと。
一方で、それは旅の終わりを意味しており、またクレマンティーヌの夢の終末が近づいていることを意味していた。
そう、この夢は神族の王の陰謀により薪の王となった不死の男の物語だった。
だが、決して男は神族の王の言いなりであったわけではない。
火の継承は、彼自身で考え、悩み選び取ったものなのだ。
そして、女はこの火継ぎの旅と苦悩こそが彼の原点でもあると知った。
だから彼はアチラでも一人、何かを求めるように旅を続けていたのだと。
(くそっ…アンタがそんなことする必要なんて、どこにもないのに…)
女の音無き慟哭が風に邪魔され、掻き消されてゆく。
(クソ蛇が言ってた…火の時代は終わるべくして終わるって)
この旅は、何かの偶然がクレマンティーヌへと見せた一抹の夢にすぎない。
例え、男の過去を知りたいと、自身が望んだことであったとしても。
女は何故こんなにも救いのない結末を私に見せようとするのかと、嘆いた。
奇跡か悪魔の仕業なのか。まさか世界に意思があるわけでもあるまいし、これも何処ぞの自称神のクソッタレやら悪魔の悪戯なのかもしれないと彼女は信じ始めている。
だとしたら、何て最低最悪な奴だとも。
現に、火継ぎの仕組みを作った神族の王は、彼女からしたらクソッタレと同義だった。
世を照らす?
人から闇を払う?
それはお前が神族の時代の終焉を、闇の王と成りうる人間を恐れていたからじゃないか、と。
(あんた馬鹿だよ…)
もし…彼を救えるのなら救いたい、他の誰でもない私こそがーーー
それが男の旅を見続けてきた、今の彼女の願いだった。
(いつか終わる時代を無理矢理、延命する意味なんて…)
(あんたは、闇の時代を迎えて、最初の闇の王になれるのに…)
男に女の声が届くことはなく、女は男が犠牲になるのがただただ嫌だった。
そして、火は継がれる。
神から不死の男へと。
男は火に焼かれ、世界を照らすだろう。
その身の全て、魂までもが灰となりかけ…
世に再び闇が近づき、新たな薪の王が彼の前に姿を現すまで、ずっと、ずっと。
世界が発展と安寧の中、多くの神族や人、その他の種族達が幸福に暮らしているのに。
彼だけは火で焼かれ続け、身を苛む痛みを抱き。ただ一人、ポツリと原初の炉で孤独に耐え…
そして…いつか男を燃やす火が陰り、新たに火を継ぐものが彼の前に立つ頃。
陰る火を次代の薪の王へと継ぎ終えると…
彼の身体も、魂までもが燃え尽き、とうとう灰となる運命なのだ。
その報われない終末に、女の目から、雫が溢れた。
そして、もう一つ、女の瞳にあるのは諦観の念。
(この夢が終わったら私は死ぬけど、いつかあなたは私に会ってくれるよね)
女は確かにエ・ランテルの地で男と出会っていたから。
どうしようもなく愚かだった彼女自身に。
ふと、燻る火を纏う男と本当に久しぶりに目が合った気がした。
(…!)
とうとう、終末が近づいてきた。男の姿が灰のように崩れ、だんだんと見えなくなってゆく。
目が合ったのは気のせいだったかもしれない。
ただ、クレマンティーヌは最後に目を合わせてくれたように思えて嬉しかった。
恋しい、黒い炎の輪の浮かぶ瞳を。
夢が覚めてゆくように、またはより深い眠りに誘うように視界が白い霧に覆われてゆく。
(ありがとう。私に会ったらたくさん話してね、馬鹿な私にお仕置きして、たくさん愛してね…)
それは永遠の離別のような気がしてならなかった。
(もしそうなったら、私はたくさん愛して貰えたんだって思いながら逝けるから)
まるで異なる世界との接続が断ち切られるような。
(私が孤独じゃなかったことの証明になるから)
故に彼女は生まれて初めて真摯に祈った。
例えこの場面が男の過去であり、夢の中であったとしても。
小さな人間の願いが届く訳がないとしても。
どうか、あの人が孤独になりませんように
かつて篝火を囲んだ仲間達に会えますように
理解者に恵まれて、旅路に迷いませんように
…
…あ、あああぁー!死にたくねぇな!
いやだ…
もう一度会いたい…
会って好きだって伝えたい
一緒にいたい
今度は本当に旅して、愛して欲しい
最初で最後の、お願いだよ…
出来るなら、あの人と死にたかった…
女の意識が途切れる間際、男との唯一の繋がりであった罅割れた指輪がガントレットの中で砕けた。
『元の世・・・戻・・ます』
あるのは後悔。
目が覚めたら彼女は今度こそ死を迎えるのだろう。
それが死の間際に見た、幸福とは言い難い、長い長いクレマンティーヌの夢だった。
□
?
苦しい…
体が鉛のように重い…
「ん?おぉ、起きたか。体調は…最悪みたいだな」
懐かしくもある声が聞こえ、目の前には望んだ男の姿。
「…ぇ、ぁ?あ、あぁ…」
パクパクと、声にならない聲。
目を見開き、流れ星のような一筋の涙が流れ落ちた。
次々と、溢れ出る涙を堪えきれない。
女は重く、自由にならない体をひきづり、男に縋り付いた。
「お、おい、どうした…?」
「怪我は全部治したはずだが…まだどっか痛えのか…?」
慌て、女を心配そうに見る男に、女は首を振った後ーーー
男の胸へと顔を埋め、逃さないようにしっかりと抱きしめた。
「お?お、おー、よしよし。死んじまって、怖かったなぁ」
どこか困惑したように笑みを作り、女の髪を優しく撫で、なだめる男がいた。
□
彼は私を生き返らせた。
それも強度を下げることもなく。
そんな常識を当たり前のように裏切る。
如何なる手段かはわからないが…
しかしなるほど、正に神の如き御技としか言いようがない。
聞けば、やはり彼はプレイヤーではあるようだが、神とか呼ばれ崇められるべき存在ではないと言う。
確かに…下世話な話だが、私の知る彼はドスケベだし…
端的に言って、こんなの一般的に崇められる神様の像とは違うくない?笑
と、まぁ…神様と呼ばれても可笑しくはない力を持つ存在はいても、普通の、信仰の対象となる神様はやはり偶像にすぎないのではないかと改めて思った。
彼は既に二度、人類を、世界を救っている。
一度目は大敵の討伐。
二度目は世界を照らす火となること。
三度目は…無いことを祈ろう…
だが、彼ももはや懲りているのではないだろうか。
私を生き返らせた彼は、救えるのは手の届く範囲だけだと言う。
やろうと思えば自分を犠牲にして、世界すら救うのに。
だから、決めた。
私は彼の腕の中にいたい。
少なくとも、それで私は救われるから。
そして、私は彼を支えよう。
もう、彼がたった一人孤独に、自らを犠牲にすることのないように私が見張らなければ。
…なるほど、私にも信仰の芽はあったのか。
ただ信仰の意義を見失い、捧げるべき神がいなかっただけ…
一つだけ考えたことがある。
古の法国の民がこの地に降臨したプレイヤーを神と崇めた訳を。
多分、信仰の原点には感謝があるのだ。
絶望の中に現れた希望の光。
闇の中、一際強い存在感を示す光は、人間が未来へと歩むための道標となったことだろう。
そして、人々は抱えきれないほどの感謝の気持ちを崇めることでプレイヤーに報いた。
それが六大神信仰の原点。
私も彼に感謝しているから。
そして、今の私は彼を信じている。
彼を仰ぎ、信じられる。
孤独が癒やされて分かった。
この大きなありがとうという気持ちを、どのようにして伝えればいいのか考えるようになったから。
それをどのように選択するのかは人によって違うのかもしれない。
例えば、生活を助け仕えることにしたり、身を守る騎士となったり、はたまた抱く感謝の念を多くの人に知ってもらいたいと、輪を広げたりしたかもしれない。
でも、時代を経て、六大神信仰は…弱い人間自身を支える柱という『機能』になった。
いつしか感謝の言葉は忘れられ、自身の願いへと変わり、神の存在が侵さざる聖なるものとなって、祈りは尊敬から崇拝となった。
だから人間はいつまでも神の存在に縋り、心の奥底では叶わぬと分かりながらも乞い願う。
それが偶像の正体。
もう一度言う。
私は彼に感謝している。
だから彼こそが私の秘めた信仰になる。
空っぽなどではない。
私にとっての、本物の信仰。
彼自身は神などではないと言うが。
神の正体がプレイヤーならば、プレイヤーたる彼だって神と呼ばれても可笑しくはないのだ。
そう、私が決めた。
もう一度だけ。
私は彼に感謝している/愛している。
それが私の選択。
一旦気付いてしまえば、今更ながら、そのことに酷く安堵した。
彼に会えて孤独は埋まり、強固な精神の柱を持てたことを実感している。
そして…外っ面ばかりで、張りぼての信仰を持つアイツらを許せるくらいに優越感を感じ、憐れに思った。
何しろ実像を持つ神を崇められるのは、現代では私だけの特権だったからだ。
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10.クレマンティーヌ編※6
不死とは祝福ではなく、呪いであることを知る。
死ぬに死ねない生は、地獄に他ならないことを彼女は知っている。
「あんたは辛くないの…?」
「不死なんでしょ?」
「これからずっと、ずーっと生き続けるんだよね?」
女がずっと気になっていた事。
なぜ、あのような地獄を経験していながらも狂うことなく前を向いていられるのか。
「あ?何で知ってんだ…確かに俺は不死のようなものらしいが…」
誰にも言っていないはずの秘密に、少し戸惑う。
しかし、すぐに女が不死人を忌避していないことに気づき、どうでもよくなった。
「…別に辛くはないな。いずれ人類は老いと死を克服するのさ」
男が話すのは、女からしてみれば荒唐無稽なもの。
「やり方が魔法か科学か、またはそれ以外かは知らんが」
「…はぁ?」
男は女が知らない世界を知っている。
違う物を、違う未来を見ている。
経験してきた物、知識の広さには隔絶した壁があった。
「それが一体いつになるかもわからねぇけど」
「人が星と星を行き交って、宙を自由に飛び回るくらいになる頃には克服できてんじゃねーの」
いま立っている地も空一面にある星の一つ、だなんて言って伝わるのかどうかもわからない。
今立っているこの大地は丸いのだと。
丸い大地は宙に無数に浮かんでいるのだと。
それらの説明を面倒くさがった男は、頭にハテナを浮かべる女を楽しそうに見ながら言う。
「まぁ、何千、もしかしたら何万って単位の年数が必要かもしれんけどな」
「…ちょっと。ちゃんとわかるように話してよ」
割と真剣に聞いてみたのに、馬鹿にされていると感じた彼女はやや不機嫌だった。
それを鼻で笑った男は、何かを確信しているかのように話した。
実際、ここにとばされる前、地球のアーコロジーでは企業が主導して生体強化の研究が進められ、一部人間の寿命が大幅に伸びていたのは事実であるし、宙の開拓すら既に一歩踏み出していたのだから。
「いつか人間が辿り着けると考えるなら、そこまで寂しくはない」
「待てばいいんだからな」
「…」
一人完結してしまった回答。最早、女にはわけがわからなかった。
唐突に女に振り返り、男は言った。
「それに…お前は俺といてくれるんだろう?」
「…っ」
ドキリ、とした。
それは女がずっと聞きたかった言葉で、まだ伝えていないはずの意思だったから。
「は、はぁ…仕方ないよね〜」
ヤレヤレ、仕方ないなぁといったやや上から目線に男は口元を緩ませる。
男がチラリと覗いた女の瞳には、男と同じ黒く燃える環が浮かんでいた。
男にとって、不死とは呪いだ。
だけど、孤独でないなら、少しだけ楽になれるかもしれない。
「それに不死の存在なんて、探してみれば実は結構いるかもしれねーしな」
いつになったら気付くかな、と小さく呟かれた声は、女には聞こえなかった。
□
夕日の赤い光が窓の隙間から差し込む。
冒険者ギルドへ寄った帰り、外は既に夕方になっていた。
耳を澄ませば、冒険者だろう男女が階下の酒場でざわめいている声が聞こえた。
男は革の胸当てに、質素だが丈夫そうな旅服。
対して、女は体を隠すように、黒のロ―ブで体を覆っていた。
「腹が減ったな…」
「…!」
「どっかに食いに行くか」
男は階下から漂ってくるいい匂いに鼻を鳴らし、女に問いかけた。
先程まで二人は竜王国からの帰還を伝えるため、冒険者ギルドに立ち寄ってきたばかりで、腹が減っているはずであった。
「…ギルドから戻ったばかりで、疲れたんじゃない?」
「あ?別にそんなことないが…」
男はやや怪訝そうに返した。
確かに疲れてなどいない。その程度のことで疲れてしまうほど、軟な体のつくりをしていないのだ。
「それに、今から外に出るのもダルいし〜」
「そっちの方が本音じゃないのか…」
ヤレヤレ、と女がおちゃらけた様子で言い放った言葉に、呆れ混じりに返した。
「そうだ、わたしが酒場から何か貰ってきてあげるよ」
「お前が?何か意外だな…」
意外と気遣いのできる女だったのかと男は感心してしまった。
普段の女の様子であれば、まずやらないであろう。
むしろ、わがままを言って、メシ持って来てよとブーたれるのがよく似合う女だと傍目から思っていたから。
「たまにはね〜?」
男に向けたのは柔らかい笑み。
「宿代も出してもらってるし。いいから、座って待ってなって」
「おう、ありがとよ」
案外金がないのを本当に気にしてたのかもしれないな、と快く送り出した男だった。
人気のない廊下。
女の背後には、今出て来た部屋の扉がある。
女の顔には、先程、男に見せたような柔らかい笑みなどではなく、頬を限界まで吊り上げたような下品で欲に濡れた笑みが浮かんでいた。
クレマンティーヌには企みがあった。
そして、思ったよりも大分早くチャンスが巡ってきたことにほくそ笑んでいたのである。
企て。
それは、言ってしまえば男の食事に薬を混ぜるというもの。
あぁ、胸が高鳴る、と女は意気揚々と階下の酒場に向かい、男に食わせる飯を頼んだ。
今の彼女には、周囲からかけられる男達の下衆な誘いなど、はなから耳に入っていない。
今はクズ共に構っている時間など一秒だって惜しいのだ。
しばらくして、出て来た盆を宿の人間から引っ手繰ると足早に部屋に戻る。
もちろん、薬を入れるのは忘れない。
この薬は痺れ薬と媚薬が合わさったものであり、王国の馬鹿貴族が裏で平民を拉致して奴隷に仕立てたり、調教を施す際に使用する強力な代物であった。
日中、男が冒険者ギルドで手続きしている最中、クレマンティーヌは後ろ暗い行いをしている娼館のバイヤーを脅して入手していたのだ。
奪えたのが、小さな一瓶だけなのが彼女は不満だったが。
余すことなく、男の好きなエールに注いだ。
「お待たせ〜」
「おう、待ってたぜ」
笑みを浮かべ女を迎え入れた男の様子に、女は背中がゾクゾクした。
「あ、私ちょっと用事思い出したから〜。好きに飲んで食べててよね!」
「用事?あぁ、わかった」
女は有りもしない用事があると言い、部屋から離れてタイミングを図ることにした。
□
女が部屋から離れて暫く。
男はすっかり夕飯を一人平らげ、ベッドにて休息を取っていたのだが、体の内側からこみ上げてくるモヤモヤに戸惑っていた。
(何故か異様に胸がムカムカする…)
下半身に違和感があり、男はいつの間にか勃起していたことに気づいた。
(なんでだ?)
一度、勃起していることを認識してしまうと、こみ上げてくるモヤモヤがムラムラしているのだと分かった。
今までにこんなことはあっただろうか、とただ我慢していると逆に苛立ちが募ってくる。
(なんだ?時間がたてば治まるか…?)
静まれ俺の荒ぶる性欲!と、念じてみても、萎えてしまいそうな絵を頭に浮かべてみても一向に効果はない。
(クレマンティーヌが戻って来る前に、小便行くふりして一発ぬいてしまおうか…)
そう思い、ゴロゴロしていたベッドから立ち上がろうとした時、扉を開け入ってきた者がいる。
「くふふ…調子はどうかな〜?」
「…あ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべるクレマンティ―ヌの様子に一瞬遅れて、体調が変化した理由、一服盛られたことを悟った。
「!てめぇ…何か盛りやがったな…!」
立ち上がり、女に掴みかかろうとするも足がもつれ膝と手をついてしまう。
「おいおい…どんな強力なの仕込んだんら…」
呂律が怪しくなるほど、男は体が痺れてきているのを自覚した。
不死人であり、強靭な肉体を持っているはずの男が立てないどころか、呂律すら怪しい。
一体どんな物を仕込んだのかと戦慄した。
「な〜んだ、最初からこうすれば良かったんじゃん」
そう、あっけらかんと話す女を尻目に、男は体重を支え切れずに床に突っ伏した。
女はよいしょっ、と息を入れて男を抱えると、ベッドへと仰向けに転がした。
「何も心配することないよ…?」
「ただ奉仕してあげるだけ」
感謝してよね、と呟く女の笑みは頬が吊り上がり、傍目にも綺麗とは言い難く、むしろ濁った目と相まって邪悪さを感じさせた。
女が纏っていた黒いローブを脱ぎ捨てる。
中から現れたのは赤い胸帯に、二の腕の半ばまで覆う手袋、片側に深いスリットの入った異国を思わせる紋様の描かれたスカート、ピッタリと肌に吸い付くような腿まであるロングブーツの姿。
深いスリットからは白い肌と黒いショーツがチラリと覗いている。
いわゆる、男が砂の魔術師シリーズと呼ぶ装備であった。
クレマンティーヌが死の淵から舞い戻った時、女の装備は半壊しており、彼女自身の血で酷い状態になっていた。
代わりにと、男が無言でこの装備を女に渡した時には、女のニヤニヤが止まらなかった。
こういうのが好きなのか、と。
女も女で、男を変態と罵倒しながら身に着けたが…
意外にも防御力が高く、動きやすいとわかった今、女はこの衣装を気に入っていた。
カチャカチャと、金具を外し、ゆっくりとズボンを下ろしてゆく。
その表情は嗜虐心と欲で満ちている。
「あらら…やる気マンマンじゃん」
自由の効かない体に反して、下半身の一部は塔のように一本屹立していた。
「あ―ヒドイ匂い。ばっちいわねぇ〜」
そう蔑むが、女は汚いとも思っていないように頬ずりし、手袋を脱ぎ捨てた後、男の一物を柔らかく握り込んた。
「う、ぐぐ…」
伝わってくる冷たい感触と快楽に、男は頭が沸騰しそうだった。
スルスルと冷たい白魚のような手を上下させ、溢れる先走りと口から垂らした唾液を混ぜ、クチュクチュと泡立ててゆく。
「気持ちいいでしょ。我慢しなくていいんだよ〜」
そう声をかけられた男の顔は必死に我慢しているのか真っ赤になり、額には血管が浮かんでいる。
唇を噛んで、一物を凝視する女。
女は決心したように大きく口を開き屹立した肉棒を口腔へと収めてゆく。
ペコリと頬をヘコませ、全体が密着するようにし、舌で筋を撫でるように扱く。
「ゔ、う…」
男が呻いたのを聞き、ニンマリ、と三日月のように目を細めた笑みを浮かべる。
男が自身の口で悦んでくれていたのがわかり、とても嬉しかった。
幸福感に混じり溶けた、僅かな嗜虐心。
男の目を見て、亀頭にわざと歯を僅かにたてた。
ビクッ!と男の腰が震えた。
「我慢しないで、出しなって。…出せよ」
呻き、再び一物を咥え込み、男の様子を伺いながら責め立てていった。
ビクビクと腰が引け、自由でないはずの体が快楽に負け、反応する。
「ゔ、ぐぅっ…」
苦しむような呻きをあげて、女の口腔内へとビュルルルッ!と、尋常ではない量の精を放った。
ごほっ、ごほっ、と咳き込む女。
女の口から細かい白い精子が飛び散り、ベッドに散らばった。
咽たのが治まると、女は口に残った精を舌で集め、ゴクリと呑み込んだ。
「うえ、マズっ…」
苦く、生臭い。
喉にへばりつくように絡みながら、胃へと流れ落ちてゆくのを想像した。
男の精が私の一部になっている、と考えると喜悦を抑えきれなかった。
男の精を収めた腹を愛しげに撫でると…
「あ―…ホント、ヒドイ匂い」
男を蔑み、熱い情欲の宿った冷たい目をむける。
手にも、口元にも、淫靡な白くベタつく何かがついていた。
「…でも、嫌いじゃないよ…?」
クレマンティーヌは愛おしげに未だ萎えない一物の亀頭にチュッ、とキスを降らせた。
胸帯を外し、続けて、スカート、ロングブーツと順に脱ぎ捨ててゆくと、黒い上下の下着、黒のニーソックス姿になる。
男にはある意味、馴染み深い格好かもしれない。
肌面積の多いその姿を見て、男の一物が一層硬直する。
女豹のように男に跨がると、女は男の服を焦らすように脱がせてゆく。
胸当ては、既に外してあったようで、ボタンのついたシャツ、肌着――と男の羞恥心を煽るように剥いていった。
一通り剥き終わり、裸の男。
女は豊満な胸を胸板で押し潰し、男の唇を吸った。
チウ、チウと小さな音が聞こえた。
肌に感じる男の体温は高く、股ぐらに当たる棒から感じる熱に女は興奮した。
女は男の上に寝そべり、自身の秘所へと押し付けるように、手で棒を撫でた。
サワサワ、と手で優しく触れてみれば、蜜を滲ませシミを作ったショーツにグリグリと押し当ててみたりする。
男が呻く。
一方の女に浮かぶ笑みは小悪魔のよう。
「ねぇ、入れたい?」
男の熱の籠もった視線に問いかけるも――
「ダーメ」
自らその期待を裏切った。
荒い息をつき、欲望に満ちた赤ら、ニヤケ顔。
ドキドキで胸がはち切れそうなのを隠し、女は男の顔の上に立ち、ゆっくりと腰を降ろす。
ムッチリとした桃が、男の顔を包み込む。
ショ―ツからはクラクラと理性を引き千切られるような女の匂い。
もしも男の体が自由であったのなら、今すぐに押し倒して、精が尽き果てるまで犯し抜いたことだろう。
「う、ぅ…」
熱い吐息を感じ、女は羞恥を感じた。
「ちょっとやり過ぎたかも…」
と、言いつも腰を退かせることはない。
クニクニと腰を軽く揺すり、男の顔を柔らかい尻でローラーするように押し付けた。
ますます息が荒くなった気がして、女は内心ホッとした。
チラリ、と目に止まったのは脱力した男の四肢の内、一際存在感を示すモノ。
「また気持ちよくしてあげるから…」
すると、女は男の顔に跨ったまま肉棒を口でイジり始めた。
重力で垂れ下がった金糸のような髪を掻き上げ、耳へとかける。
ふぅ、ふぅと女の熱い吐息と怒張から発している熱が溶け合うように混ざり合っていった。
女は屹立した肉棒を慈しむように、キスの雨を降らせ、先程の射精の汚れを丁寧に舐め取った。
白魚のような手は、我慢汁を亀頭に馴染ませ、カリ首に沿って一周させるように動く。
一通り、肉棒を舌で綺麗に掃除した後、薄く口を開いて亀頭からゆっくりと、ゆっくりと呑み込んでゆく。
「ん、むっ…」
男の一物は大きく、全てが口内に収まることはない。
しかし、女は少しでも多く、とばかりに押し込んでいった。
苦しい…
口いっぱいに肉棒を頬張っていると、何故か最初に無理矢理レイプされた時のことを思い出した。
口いっぱいに頬張って、犯されている気分にでもなったのだろうか。
ふと、そんなことを考えるも、女の胸の内にある黒い情念がチロリと燻る。
溺れたい。
無茶苦茶にしたいし、されたい。
荒れ狂う波で、身体がバラバラになるような。
精神が千々に乱れるような。
いつかの精神が可笑しくなってしまいそうなセックスを思い出し、ジワリ、とショーツのシミの面積が増えた。
昂ぶり、女はそんな気持ちをぶつけるように激しく扱いた。
それだけでも、女の気分は天にも登るように、幸せであった。
今はただ、無抵抗な男を好きに嬲るのに夢中で、燻り続ける無意識に幸福感の布を被せて。
故に、夢中で肉棒を愛でた。
「ヤバ…ハマりそう…」
新たに玉袋にも手をのばして、優しく揉んだり、キスしたり、咥えてみたりした。
尻の方には…男が本気で怒りそうだったので止めた。
媚薬を飲ませられ、感度の増した身体で耐え続けたのは凄まじい精神力だった。
しかし、それでも快楽の波にはなかなか逆らえず、ビューッ、と勢い良く精を吐き出してしまうのだった。
「ん、んっ…!」
口腔内にドロドロと粘性の高い液体が注ぎ込まれてゆく。
「あー」
それを、舌の上で転がす。
口で息を吸い、鼻から吐けば、生臭い匂い。
ゆっくりと嚥下してゆけば、タンのように喉に絡み、食道の壁面にへばり付きながら垂れ落ちていっていることだろう。
「まだ残ってるよね?」
女は再び亀頭に口づけすると、チュ〜っ、と中に残っていた精子を絞り尽くした。
その感覚に男は得も言われぬ心地よさと、僅かな体の強張り、魂さえも吸われてゆくように感じた。
堕落してしまいそうなくらいに。
「私ってば結構、尽くす女ってかんじじゃない?」
女の甘い香りと精液の匂いが混じり合った息で話す。
普通、好いた男がいたとしてもここまでしてやるだろうか。
口につけるのでさえ、嫌がる女は多いのに、と思う。
「く、ふふっ…ねぇ、どんな気持ち?」
男の目を見つめ、頬まで笑みを吊り上げて問う。
今、男は女の支配下にあった。
「自分より弱い女に犯されるのって」
本来であれば、男の方が女よりも何倍ではきかないくらいに強いはずだった。
強者であるはずの男が、弱者である女のなすがままになり犯されているなど、屈辱を感じずにいられるだろうか。
それとも、このまま快楽に敗北し、与えられる刺激に流されてしまうのか。
女としてはどちらでも良かったが…
「このまま私が飼ってあげても全然いいよ…」
耳元で囁かれたのは、とても優しい声だった。
男がもしも堕落を望むなら、そんな未来もあるだろう。
そして、二人で淫滔の日々に耽るのだ。
「あぁ…もう無理」
ブルリ、と背中が震えた。
幸福な未来の妄想に、興奮が抑えられない。
男の下腹部の上で膝立ちになり、握り締めた肉棒を、ショーツがずらされ露わになった割れ目へと導く。
「っ!」
男を見つめ、荒い吐息。
ゆっくりと女の体内へと、男根が収められていった。
男根は熱く、まるで赤熱した鉄の棒を突っ込んでいるようだった。
しかし、男女の間にあるのは苦しみなどではなく、互いの熱を共有し、溶け合ってゆくどうしようもないほどの心地良さ。
男の熱にうなされような吐息に、女は胸が苦しくなり、キュッと抱き締めるように、男根を締め付けた。
「ぁ、ぅ… 」
女が我慢出来ぬまま気をやってしまい、背が小さく震えた。
「…ねぇ、好きって言って?」
男に密着し、顔を見ながら腰を前後に揺らし始める。
だが、男は動けない。
「言えよ…」
不機嫌な様子で、女は無理矢理に手で『ス』『キ』の口の形を作った。
「あはっ…私もすき…」
口づけた。
離れた二人の間には透明な糸の橋がかかっており、女の目尻はトロリと垂れ下がっていた。
腰の揺れが大きくなってゆく。
「んっ、あ、はぁっ…」
接合部からはクチクチ、と水気を帯びた粘着音が聞こえる。
「いいから、いつでもイッて」
ギシギシとベッドが軋む。
しかし、そんな耳障りな音も雰囲気を盛り上げるための効果音にしかならない。
「さっきね、アンタの弱点見つけちゃった」
イタズラを思いついた、とでも言うような表情をした。
「裏のトコと、全体をギュ〜ッてされることでしょ」
女は手淫での、男の僅かな反応を見逃さなかった。
戦闘者としての面目躍如か。観察眼に優れた彼女は、男はカリ首よりも裏スジに、先端部よりも根本の方を好むのを見抜いていた。
「あと…ワキが好きでしょ」
「…!」
ギュッと包み込んで、絞るように裏スジを撫で上げた。
ビクリと腰が震えた。
男は内心、驚愕していた。
当然、女に話した覚えなどない。
「かわった性癖だよね?」
ニヤニヤと追い詰めてゆく。
「変態」
男の力の入らない両手を掴み、豊満な胸に押し付けた。
男の目に浮かんでいるのは疑問。
「なんで分かったかって?だって、あんたがイク時って腕を上げさせたり、縛ったりするじゃん」
「見たがるし」
「そんだけ見てたらわかるよ」
だって女だから、と続けた。
「女ってそういう視線に敏感なの知らないの?」
そう話す女の目元は優しかった。
一方で、快楽を生み出す腰つきは止まらない。
「でも、いいよ…私があんたの全部を受け止めるから…」
男としては先程からドギマギさせられっぱなしであった。
自分でさえ把握していなかった弱点を、誰にも言っていない性癖を悟られた。
そして、男は気づいた。
女が意外と自分のことを見ていたことを。
「はぁ、はぁ…限界…?いいんだよ…」
男としては、やはり女のいいようにされているというのはやや屈辱でもあり、必死に耐えている所であった。
だが、それさえもお見通しらしい。
クレマンティーヌが腕をゆっくりと上げ、後頭部で両手で互いの肘を掴んで組んだ。
「こうしてると、何だかあんたに服従しちゃってるみたい…」
綺麗に手入れされ、ツルリとしたワキ。
ピンと伸ばされた背と緩やかな曲線を描く腰。
胸を張り、ツン、と上向きになった乳房。
男は以前に性欲の処理のために、娼婦を抱こうとも考えたが、一度試してからは止めていた。
そこらの商売女では、処理をしていないことがほとんどで、それを見てしまった男は萎えてしまい相当に気が滅入っていたのである。
欲望に駆られ、男は鼻息荒く、それを血走った目で凝視した。
「あ、はっ」
男の興奮が一気に進んだのがわかり、思わず笑みが溢れた。
「…っ」
「逃さないんだから」
興奮しすぎて、我慢が効かず射精が近くなったのを察知し、女は丁寧に、丁寧に男を攻めたてた。
剛直を、女の深くまで包み込み、下腹部に力を込めギュ〜ッと締め上げる。
締め上げたまま、裏スジで滑らせるように上下にスライドさせた。
男が呻く。
女がその苦しむような呻きを聞き、愛おしげに顔を見た。
「いいよ、いっぱい中に出して…」
射精が近いと予感し、一番深いところまで一物を包み込むと子宮口に亀頭がピッタリ吸い付く。
「あ、ぅ、っ…」
その感覚に女は敢え無く、絶頂を迎えた。
と、同時に…
ビュ―ッ!ビュッ、ビュッ
と、精嚢を絞るように、大量の精液が放出され、男も深い絶頂を味わった。
「ん、は、ああぁ、ぁ」
子宮に流れ込んでくる熱い精子。
一物が脈動する度に精が放たれ、女のハラは子種を呑み込んでいった。
互いの熱も、想いすら溶け合い、一つになっていくような快楽の心地良さよ。
身を包む幸福感の中、女は更に一段大きな絶頂に到達した。
「…!…っ!…ぁ、っ」
ビクリ、ビクリと背が跳ね、女の腰が快楽の波に合わせてカクッ、カクッと揺すられる。
繋がったまま姿勢を保てなくなり、男の厚い胸板の上に身を倒した。
ムニュリ、と大きな膨らみが形を変える。
繋がり合っている場所は、白く濁り、今もなお逞しい男根をキュウキュウと愛おしげに抱き締めていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
男が放精し荒い息となっているのを見た彼女は――紅潮したニヤケ顔のまま。
「かわいい…」
「もっと…」
「たくさん絞りとってあげるね…」
「私しか見えないようにしてあげるから…」
トロリ、と果てない色欲に濁った瞳。
ますます欲望を滾らせ、狂ったように男を求め続けた。
薬の効果は思いの他、強かった。
女が知識のないまま、一滴でよい所を一瓶まるごと使ったせいか。
効果がそれ以上に強まることなく長く続き、薬の副作用で心臓が止まってしまわなかったのは不幸中の幸いだっただろう。
それから…
責められた男が一度射精する度に、女も一緒に幸福感を伴う絶頂を迎えた。
女は今までの鬱憤、溜め込んだドス黒い感情のままに、全て消費しきるまで男を愛で、イキ、イカせ続けた。
あとに残ったのは、なんとなくゲッソリした男と、男の上で眠るとても満足そうな表情の女だった。
□
深夜。
静かな月のない夜。
部屋の中には照らす光もなく、ただ暗闇がある。
女の狂乱は収まり、心地良い疲れからか穏やかな寝息を立てていた。
寝ていた男の意識が不意に覚醒し、男の腕がピクリと動いた。
腕には大分感覚が戻っていた。
感覚の戻りの遅さを鑑みるに、後遺症が残る量の薬物を盛られたのではないかと男は考えていた。
この女にそのつもりがあったかどうかはわからないが…文句どころか、キツイお仕置きが必要なレベルである。
男は震える腕を伸ばし、広がる黒い波紋の中から『女神の祝福』と呼ばれる貴重な聖水を取り出すと、一気に呷った。
どこかの世界では太陽の娘グウィネヴィアが聖別したものとされる希少価値の高い代物である。
体力、気力、状態異常などを完全な状態に回復させる。
ありがた〜い、聖水である。
とはいえ、絞り取られた精が戻ってくるわけではない。
少し寝たことで休めたが、残弾は無理をして一発か二発といったところだ。
男の体から僅かに光が漏れ、体調が一気に回復する。
隣で眠る女を見た。
実に幸せそうな寝顔である。
その呑気な寝顔に男は少しイラッとし、受けた屈辱を10倍返ししてやろうと心に決めた。
横向きに寝る女の後ろから、男が胸と股に手を伸ばし愛撫する。
「ぁっ…うぅ、ん…」
よほど深く眠っていたのか、警戒心をなくすほどに心許していたのか。
「ん、なぁに…?」
胸と下腹部のこそばゆい感触に、徐々に覚醒してゆく。
「さっきはよくもやってくれたな」
女の背後から低い声が聞こえた。
「ぁ、あれ?動けるようになったの?」
お陰さまでな、という声音には確かに怒気が混じっていた。
女は体を反転させて振り向こうとしたが、後ろから抱きつかれており出来なかった。
「お前…どんな薬使ったのか知らんが…俺じゃなきゃ死んでたぞ」
「そ、そうなの?でも、大丈夫だったんだから…」
男の怒気を感じてか、やや萎縮する女。
男は胸を愛撫し、精液と愛液が混じり白濁したままの秘所をくちゅくちゅと弄るのは止めない。
「ちょっ、あっ、あっ、あっ…」
胸の先端をクリクリと捏ねられ、膣には太い指がグイッと差し込まれた。
声が漏れる。
「さっきので…私がどんだけあんたを好きかわかったよね…?」
「ね、だから…許して…?」
女にはやや似合わない許しを乞う哀願。
「薬を盛ったとか、他の奴だったら死んでたとか、この際どうでもいい…」
「なら…」
「ただ、やり過ぎはよくねぇよな…!」
怒気に怯えを含みながらも、女の顔は再び発情して赤く、もたらされる感覚に早くも目はトロンと溶けて始めていた。
口元からは唾液が垂れたのか、透明な線が男には見えている。
「おいっ、反省してんのかっ」
「し、してるってばぁっ」
乳首を強めに抓った。
「い、いたっ」
顔を無理矢理に向けさせ口づけた。
痛みを訴える声はモゴモゴと消えていった。
愛撫の手が激しく動き、チャチャチャチャッと湿っぽい音が大きく鳴っている。
「…っ!…っ!…っ!う、ぁっ!」
もう一度、乳首を弱めに抓ると女がビクリと痙攣し、すぐに脱力した。
「お前はちょっとやり過ぎるきらいがある」
闇の中、男の声だけが響き、女は男の顔色を伺うことはできない。
「教育の時間だ」
荒い息をつき、余韻に浸る女にはそれが死の宣告にも、激しさを伴う愛の施しの始まりにも聞こえた。
片腕で女の膝裏を抱え、背後から万全の状態となった剛直をグッと挿し入れる。
一気に媚肉を掻き分けてゆき、根本まで包み込んだ。亀頭は最奥に位置する子宮口に直撃した。
「あっ、ぁぅぅ…」
半開きの口をパクパクと開き閉じ、唐突に訪れた強い快感に悶絶する。
男が動き出す。
「ま、待って、待って…」
動きを阻害するように手で男の腰を抑えようとするも、効果は薄い。
女の足を持つ手で茂みに隠れた豆を探し出し、優しく円を描くように愛撫した。
「あ、ぁっ!一緒にしちゃだめぇっ」
「ぃ、っくぅ〜…」
乳首、陰核、膣の三点を同時に責められたことで、敢え無くビクビクと絶頂を迎え、女は白目を剥きかけ、背が弓なりにしなった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
脱力。
荒い息だけが暗闇に溶けてゆく。
剛直を亀頭の先端が膣口に着く位置まで引き、陰核を指でグリグリとしつこく嬲り続ける。
無理矢理に絶頂へと高められてゆく。
「ひっ、ひぃ…ちょっと、やすませ、てぇっ」
陰核を嬲られパンッと弾けるような絶頂と同時に、待ち構えていた肉棒を挿入した。
「お゛、おほぉ…」
絶頂で硬直した体に、割って入る大きな衝撃が更なる快楽を呼び込み、
一足飛びに絶頂が一段高められる。
グググッ…と、ともすれば千切られそうな力で剛直を絞め上げ、男は強烈な締め付けに呻く。
一方で、女の口からは腹の底から呻くような、獣の唸り声に似た喘ぎ声が出た。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
喉からはヒューヒューと掠れた音が混じり、肩で息をし、意識には霞がかかってきていた。
「あ…またぁ…?」
男は再び剛直を膣口まで引き、執拗に陰核を嬲り始めた。
「ひっ、ぐぅっ〜」
そして、陰核で小さな絶頂を迎えると同時に突き込み、子宮を大きく揺らすのだ。
「こえ、らめぇ、ぇ」
何度も。
「ひいぃ〜、あたまっ、ばかになるぅ〜」
何度も、何度も。
「し、ぬっ、じぬぅ〜」
何度も、何度も、何度も繰り返した。
それはまるでイキ癖を強制し調教するかのようでもあり、出来の悪いペットへの躾のように何度も繰り返された。
男の体温と、力強い手の感触と、剛直の形を教え込むために。
クレマンティーヌの体に、男という存在を刻み込んでいった。
「もぉ、やだぁ…」
ガクガクと体の芯から震え、治まる気配がない。
何度も繰り返され、実際に大きな絶頂を味わう度に意識が飛び、今も意識が朦朧としている女はうわ言のように呟く。
目尻からハラハラと涙が溢れる。
「なんで…ふつうに…ふつうに、してくれないの…」
「なんかむなしくなる…」
女は男の手を振り解き、一人丸くなってしまった。
「お、おい…これは一応、お仕置きなんだが?」
そうだ。
夢中で責め続けていたことで、既に男も忘れていたが、もともとは女のやり過ぎを諌めるための教育の一貫のつもりだった。
「やだ」
女は退行したかのように、幼げな口調で返す。
「いや、だから…」
困る、男。
「やだぁっ!」
「わ、悪かったよ…ちょっと、やり過ぎたよな」
暗闇でも昼のように行動できる男は、女の頬が濡れていたのを見てしまった。
涙を見てしまった男には、もうどうすることも出来なかった。
確かに、やり過ぎた。快楽は暴力にもなる。それを行った男では女の暴走を諌めるなどそもそも出来ないだろう。
「だから、こっち来いって…」
ベッドの端で丸くなっている女の腕を引っ張った。
「やさしくする…?」
ドンッ!と、心臓が一瞬大きく高鳴った。
上目遣いに、幼げな口調。
涙に濡れた目元。
男は自分でもよくわからない何かが胸に突き刺さったのを感じた。
女の上に覆いかぶさる。
女は暗闇で何も見えていないだろうが、男からは女の表情も丸見えであった。
蕩けた目元、疲れを滲ませた愛しげな微笑みを。
「やさしくする」
頬を涙で濡らし、普段の人を小馬鹿にしたような調子は成りを潜め、ただ男の愛を余すことなく受け入れようと待っている女がいた。
互いに息のかかる距離。
だんだんと距離は近づいてゆき、どちらからともなく口づけた。
舌と舌が絡み合い、互いに通じ合っていると思った。
二人の両手は女の顔の側でガッチリと繋がれており、傍目には女を無理矢理押さえつけているようにも見える。
普通にしてりゃ、真っ当な美人なんだけどなぁ――と男は整った顔立ちを見て思う。
ゆっくりと穴にあてがった剛直を押し進めてゆく。
ゆっくりと進めた先には子宮口があり、チュクリと、亀頭と優しいキスをした。
「ぁ…はぁはぁ…」
やわやわと包み込む媚肉。
荒々しいセックスでは感じられない、ホッとするような温もりを感じ合った。
女は自身の中にある、太く熱い存在感に胸がキュウと締め付けられると共に、安心感を覚える。
ただ、ここにいてくれるだけで、こんなにも心地よい。
男の腕の中にいて、優しく抱かれているだけで今の自分は幸福なのだと実感できた。
「動くぞ」
始めはゆっくりと、そして徐々にトントントン、とリズミカルに子宮の入り口をノックする。
「あっ、あっ、あっ…」
その度に女の口からは悦びの声が溢れ出る。
時には、角度をつけてお腹側を強く擦り付け、細かくブルブルと震える反応する女。
「あ、あぁぁ!」
何度目かのピストンの後、女は腰を浮かせて潮を吹いた。
男の腹がビシャビシャに濡れたのにも気にせず、喪失感を埋めるように再び抜けてしまった剛直を挿し入れた。
「ぐ、ぐぅ」
男が呻く。
射精感がどんどんと高まって来ていた。
男の眼下には、快楽を余すことなく受け入れているトロリと溶けた表情の女。
目元は垂れ下がり、口は半開きに熱い吐息を零している。
今、この場、女は誰よりも愛おしい男に身も心も託していた。
「いきそう…?」
女は握られた手を優しく解き、男の首に回した。
「きて…」
男の腰に女の足がかけられ、逃さないとでも言うかのように固定される。
ギシギシと軋むベッド。
荒々しくなってゆく、前後運動。
引き抜いた反動で女の腰は浮き、激しい挿入で深くまで一気に到達し、子宮を圧迫する。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
強い快楽に息も荒くなってゆき、女は目を瞑り眉間を寄せた苦悶の表情を浮かべた。
粘膜の接触からもたらされる、精神が攫われそうな快感の波。
高まってゆくオーガズム。
「すき、すきっ…あいしてるのっ」
限界が近い。どちらからともなく、荒々しく、互いに貪るようにキスした。
「もう、わたしをおいていかないでっ」
ここにきて、女はようやく素直になれたのだ。
「あ、あああああああっ!!」
一番と深いところで、二人は絶頂を迎えた。
子宮口へとドクドクと精液が注ぎ込まれ、虚無だった場所がだんだんと埋められてゆく実感がある。
女は再び満たされてゆく。
孤独も、不安も、喪失感も。
何ものにも変え難い幸福感に――全ての負の感情が塗り変えられ、ここには異性を愛しく思うただの女がいた。
事後、穏やかな雰囲気の中、女は男の胸に頬を乗せる。
「私、かわいい?」
「好き?」
女にとって始めての経験だった。
理解者がいるということも、心地よい男女の交わりも、満たされたような温かい幸福感も。
全てが男からもたらされた。
だからこそ、女は男を手元に置いておくためにあれこれと手を尽くしたが上手くいかず、結局はなるようにしかならないと諦めが強い。
それよりは、私がついていた方が手っ取り早い、と。
有り体に言って、彼女は溺れていた。
およそ20数年生きてきた中で、初めての恋愛感情を伴う存在に。
「…あんたが誰と寝たって私は止められないけど…」
「相手の女は絶対に殺すから…」
だから、彼女は自分から男を奪おうとする存在を許せない。
そう言い放った彼女の顔は無表情であり…
男はそんな決意を聞き、ただ口の端を引き攣らせることしか出来なかった。
□
そんな、部屋での痴体を遠く離れた場所から覗いてしまった者達がいた。
(すいません、***さん!)
アインズはすぐに悟った。
だが、すぐに映った像を元の鏡に戻そうとして出来なかったのは、アインズの手から奪い、食い入るように見続ける者がいたからだ。
至高の41人疑惑のある存在を確かめようとし、図らずも、男女の痴態を目撃してしまったモモンガこと、アインズ・ウ―ル・ゴウンは頭を抱えた。
頭を抱える骸骨の側には、内股で下をしとどに濡らし、鼻息荒く、ギラギラとした目でアインズを見る二体の人外。
アルベドとシャルティア。
いや、火花を散らして互いに張り合う表情は正に、ゴリラ女とヤツメウナギのよう。
(そして、助けて!)
アインズの心の叫びは届かない。
タイミングも悪かったが、盗み見ようとした、彼の完全な自業自得であった。
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11.クレマンティーヌ編※7
「あ、あああ、あの、モモンさ、〜ん」
「……なんだ、ナーベ」
「ぁ、その……至高の御方々のお一人と思しき方と、先程目が合ったのですが……」
冒険者組合長との会談の後、借りている宿へと戻ろうとしているとナーベが挙動不審な様子で言った。
「なんだと?」
「私の見間違い……? いえ、しかし、下僕として至高の御方々を見間違えるなど……」
焦りか混乱か、ナーベは自身の判断に自信が持てなかった。
(やっぱり、本人だよなぁ……この世界に来た時にメッセージで確認したと思ったんだけど。転移に時間差があった? ……うーん、それは確かめようがないとして、いきなりメッセージ送ったら驚くかなぁ……何とか直接話す機会があればいいんだけど……)
(だけど、もっと早くに見つけられていれば……あの人がいれば、シャルティアのことももっと上手く対応出来たかもしれないし……)
ナーベは知らなかったが、ナザリックのごく一部には至高の41人の内の一人とおぼしき人物が、冒険者として活動していることが知らされていた。
不確定な情報であったこともだが、何より周知した上で他人の空似だと明らかになった場合、その人物にNPCたちが不快感を露わにする可能性は高いだろうとモモンガは判断し、余計な騒動を起こさないためにも情報を規制していた。
「あの……御方様は私達の姿をお忘れになってしまったのでしょうか……何故、ナザリックにお戻りになられないのでしょうか……」
ナーベが落ち込んだような、寂しげな表情を浮かべた。
「……恐らくは、この世界にナザリックが転移して来ていることをまだ知らないのだろう」
「で、でしたら! 早くお知らせして、お迎えにあがらなければならないのでは!」
ナーベはじっと、思案するようなモモンを見た。その様は短慮なナーベが落ち着くのを待っているようにも見えた。
「も、申し訳ありません……」
「よい。だが……漆黒のモモンとナーベの名はこのエ・ランテルで知らぬ者はいないほどに広まっている」
大魔獣であるハムスケのテイム、先のエ・ランテルでの騒動の沈静化、加えてンフィーレア・バレアレの救出。他にも吸血鬼ホニョペニョコの討伐、ゴブリン連合の殲滅、ギガント・バジリスクの討伐など華々しい成果を上げてきた。
どれもが、話題性の強い内容であり、漆黒が関わっている。漆黒がアダマンタイト級冒険者へと格上げされるに至った出来事であるとともに、漆黒がエ・ランテルで英雄と呼ばれる由縁でもある。
「……ギルドメンバーであるならば、私達の正体に気付いていないとは考えにくいのだが……」
(分かりやすく、モモンにナーベにしたし)
「無論、私達の正体に気付いていない可能性もあるが……お前は彼と目があったと言ったな? であるなら、私達に注意を向けていたのは確かだということだ。だが、それにもかかわらず未だ向こうからアクションがないということは安易に接触出来ない理由があるとも取れる」
(まさか、そんなことないと思うけどね)
「そ、そんな……」
大きなショックを受け、悲しみの表情を隠せないナーベ。
「いや……これはむしろ私達からの接触を待っているという可能性もあるのだ」
(俺としても、本人なら早く合流して欲しいし……)
「わかるな? ここは慎重に行動しなければならない。今はデミウルゴスに命じて、身の回りに何かしらの理由がないかを調査させている。それまで待て」
「……はっ!」
□
『アインズ様、シャドウデーモンの居場所が感知されました。恐らくは、御方様の周辺を調査していたことも認知されていることでしょう』
デミウルゴスが話すには、男はシャドウデーモンに監視されていたことを察知しても、敵対行動に移ることはなかったという。
それはつまり……
『これは推測ですが……やはり、彼の御方は会談をお望みなのかと』
「うむ……ナーベに冒険者ギルドを仲介して会談を申し込ませよ」
『はっ』
『それと……どうやら人間の女を眷属化しておられるようです』
(え?)
デミウルゴスは声音を変えず、柔和な口調で続けた。
『御方様と同じダークリングの瞳をシャドウデーモンが確認しました。間違いないでしょう』
「う、うむ。会談には恐らく同席するだろう。……ナーベには、くれぐれも! 敵対行動を起こさないように伝えておけ」
(もしかして、あの時のかー! 向こうに知られてないとは思うけど、超気不味い!)
思い出すのは情事の風景。
乱れる女に腰を打ち付ける友人である男の様子。あの時はアルベドやシャルティアに鏡を奪われてしまったので相手の容姿などは確認できなかったが……アインズは居た堪れない微妙な気分になったことを覚えていた。
『はっ、かしこまりしました』
また、アインズは男の名誉のためにアルベドとシャルティアに男女の情事を盗み見たことを他言無用するように命令していた。
その分、今晩、至高の御方の寝所に呼ばれるのは私! と、バチバチ牽制しあう二人にしばらく付き纏われることになってしまったが。
(はぁ……精神的な疲れが……)
モモンガは、誰もいない執務室でひっそりと溜息をついた。
……
「さて……これから忙しくなるね」
赤い地にストライプのスーツを身に纏った悪魔はやる気に満ち、柔らかい笑みを浮かべた。
「ナーベラル」
「はっ」
側に控えていたナーベラルに対して、一言。
「アインズ様が御方様と会談をお望みだ。冒険者ギルドを仲介して御方様に会談を申し込むように」
「はっ!」
「それと会談には元人間の御方様の新しい眷属が一人同席することになるだろう。アインズ様からはくれぐれも敵対行動は慎むようにと伺っているよ」
「……はっ」
ナーベラルは物凄く困った顔をした後、返答し部屋を出ていった。
ナーベラルは根は真面目なのだが、どこか抜けており、モモンガにもよく叱られているのをデミウルゴスは知っていた。
言わば、至高の御方々のお言葉でポンコツメイド、と呼ばれる存在であると。
至高の御方より、かくあれかしと創造された身である。デミウルゴスとてナーベラルを軽んじている訳ではなかった。
「ふむ……御方様をお迎えするには、今しばらく準備が必要だね。アルベドとも対応の摺り合わせが必要だ」
「さぁ、至高の41人のお一人であらせられる御方様をお迎えするに相応しい、最高のおもてなしをしなければならない……気合をいれなくては」
重い決意の言葉とは反対に、どことなく軽い歩調で部屋を出てゆくデミウルゴスだった。
□
男は先日、冒険者ギルドから、漆黒が会談を申し込んできていることを聞いた。
男と漆黒のモモンとナーベとは面識がない。
むしろ、先のエ・ランテルを騒がせた事件の首謀者であるクレマンティーヌには面識があり、彼女の話では、モモンの正体はエルダーリッチであるということを以前に聞いていた。
面識のない人物から、突然の会談の申し込み。男はクレマンティーヌを匿っていると向こうにバレていることを直感した。
そのことから、会談ではクレマンティーヌに関することが議題になると男は予測し、当時の事件に至る経緯や状況について彼女に詳しく尋ねていたのだったが……
クレマンティーヌが死んだ経緯について尋ねている最中には、彼女は苦々しく、怒りと恐怖が無い混ぜになったような複雑な表情を浮かべた。
殺害された当時のことでも思い出したのだろうか。
そして、男が女と話している時に、ふと気づいたことがもう一つ。
そういや、コイツやったはずの指輪してねぇ、と。
「……おい、アレは?」
嫌な予感に頬を引き攣らせる。
女は唐突な問いに動揺を隠せず、一瞬だけ目を泳がせた。
「壊された」
「は?」
「……ごめん」
小さな声に込められた謝意。彼女の頭にあったのは、魔法により塵となった赤い宝石の首飾り。
無意識に握り締められた手が白くなっていた。
「……指輪もいつの間にかなくなってたし、もしかしたら盗られたのかも」
俯いた女の表情は影で伺えない。
「ん……? え……マジか……」
ショックを受けたような様子の男。
男と女で頭に浮かべた物には差異があった。
男はその微妙な食い違いの違和感に気付き、首飾りのことなど気にも留めていなかったが、流石に指輪が盗まれたかもしれないことは衝撃だったらしい。
もしも、件のエルダーリッチが指輪の価値を知っていたのなら、死体漁りをしたことも当然のこと。
それもそのはず、指輪は願いを叶える超激レアなアイテムであった。ただし、本来は3度叶えられるはずが、既に2回使用されていた代物だったが、と男は女に教えた。
だが、使用出来るのが一度だとしても、男にとって安くない金を出して買った激レアアイテムであることには変わりない。
男はキレて空気を微妙にしたお詫びにと高い指輪を贈った過去の自分に、馬鹿野郎と内心で罵った。
一方。
「ふ〜ん……」
と、クレマンティーヌは、だから罅割れていたのだろうか、と呑気に思っていた。
むしろ、あの罅割れた指輪は実はとても貴重な代物であると知ったが、むしろ彼にアイテムを貢がせようとした彼女自身への皮肉などでは無かったことの方が気になっていた。
それはつまり、あの指輪は彼女にとっての悲しみの象徴でも、皮肉を込めてガラクタを贈られた訳でもなかったということ。
「全く、ややこしいんだって……」
そう呟きながらも、頬が緩んでしまう。
男は傲慢な言葉を言い放った彼女を許していたのだから。
そして……
願いを叶える指輪──もしかしたら、指輪は男の過去を見せるという願いを叶えてくれたのかもしれない。
残った一度きりの願いは叶えられ、男の過去、彼女以外に誰も知らない神話を知った。そのことを自分と男だけの秘密にしたい女は、男にもあの夢物語を敢えて伝えることはしなかった。
一方、男は指輪が盗られたものとばかり思っているので、未練たらしく落ち込んでいたのだが。
彼女はその様子を愛しげに眺めてニヨニヨする。
ただクレマンティーヌ曰く、壊された首飾りについて、当時、モモンはアイテムの出処を酷く気にしていたらしい。
やはり魔道具に目がないのであろうか、と男は疑問に思うと、これからのことを考え、頭痛に耐えるかのように眉間を抑えた。
「はぁ……」
ひとまず、指輪のことは思考の片隅に追いやり、男は考えた。漆黒からの会談の申し込みのことだ。
如何にモモンの正体がエルダーリッチであるとしても、表向きには漆黒はアダマンタイト級冒険者であり、男の金級とでは冒険者組合における重要度も、信用度も天と地の差がある。
当然、漆黒が組合に男がクレマンティーヌを匿っていることを密告すれば、クレマンティーヌ共々男は街から逐われることになるだろう。
反対にモモンの正体がエルダーリッチであると伝えても、モモンが正体を偽る魔法を使用出来る可能性もあるのが悩ましい。
それに街中を平然と闊歩できるアンデッドがいるなど、確実に自身の素性を隠蔽できるアイテムかアンデッド探知を阻害する手段を保持しているはずだった。
そして、なお厄介なことに、その情報は冒険者組合に揉み消される可能性すらある。何故なら相手は英雄として知られるアダマンタイト級冒険者。英雄を疑って、実は間違いでした、などなってしまえば信用関係は簡単に崩壊する。
で、あるならば組合としては最初からそんな話は無かったことにするのが最善で、そうなってしまえば、やはり逐われるのは厄介者の男側になる。
つまり、考えられる状況は詰み。
どう足掻いても会談には応じるしかない。
そのため──もしもモモンの狙いがアイテムであるならば、男はその立場の違いをネタに指輪や首飾りなど、類似するマジックアイテムの譲渡について迫られる可能性に思い至っていた。
「こりゃ、面倒な会談になるかもな……」
「戦闘になっても、あんたなら楽勝でしょ? アレ。プチッとぶっ殺して、私の仇とってくれてもいいんだよー?」
男の力が夢で見た通りであるなら、女が敵わなかったあの骸骨すらも鎧袖一触だろう。
男の実力を信じて疑わない女はそうこぼした。
「そりゃ、エルダーリッチくらいなら負けるなんざあり得ねぇだろうが……」
「……もし、それでギルドを逐われることになっても逃げればいいしー」
むしろ、それがいいかも、と女は思った。そうすればもう、私と男は一蓮托生なのだから、と。
「おい、ヤメロ。そりゃ、最終手段だ……というか、仮にもアダマンタイト級冒険者をそんな簡単にぶっ殺していいわけねぇだろ」
「……実際に私一度は殺されたんだし、首飾りだって壊されたんだよ? ……やり返さなきゃ、全然気が済まねぇっつーの」
フツフツと昏い感情が沸き上がってきたのか、眉間に皺を寄せ、表情を怒気で染めた。
腹の底にはコールタールのようにドロドロに煮詰められた憎しみ。悪感情。
確かに、あのエルダーリッチは恐ろしい。死をもたらした存在であるし、自身が敵わないほどの化物だった。だが、それ以上に彼女は怒りや憎しみも感じている。
どんな汚い手段を使ってでも一矢報いてやりたい、という想いが急速に熱を帯びてゆく。
(絶対、許さねぇ……)
(私の……私の大切な物を塵にしやがった)
(人外のバケモノが)
だが──
「あぁん? 元はといえば全部お前が悪いんだろうが。俺は巻き込まれた側だっつーの!」
パシッ、と頭をはたいた。
「……ちぇっ」
怒鳴られたことで、女の怒気は一気に鎮火した。
拗ねたような態度を見せた女に、男はため息を一つ。
「そんなに気に入ってたなら他のがあるが?」
「え…………ん〜……いい」
女は少し逡巡した後、少し未練が残るように男の誘いを振り切った。
「それはまた別物だし、貰えるならもっと良いやつがいいかな」
どこか惚けた様子で女が続ける。
女が欲しいのは男の気持ちの籠もった何か、というストーリーや思い出を含んだプレゼントであり、その説明が恥ずかしい女は纏めて良いやつと例えた。
「いいやつ?」
露骨に、嫌そうに顔を顰める。
当然、男の頭によぎるのは高額商品。転移前の世界で言えば、高級ブランド品のバッグに始まり財布、小物、時計、服にヒール、もしくは化粧道具……etc……
女とは何と金のかかる生き物かと、男はいつかの過去を思い出し身震いした。
「別に高いとかじゃなくてさ。くれるってなら頑張って考えてよね〜」
「はぁ?」
「まぁ、女心ってやつ?」
あまりにも渋い顔に勘違いを覚ったのか、女はヒントを出してイタズラっぽく笑う。
この様子じゃ、察してくれてないな、と女は分かっていながらも決して悪い気分ではなかった。
つまるところ、プレゼントを悩んでくれている間は、自身のことを考えてくれているのだと、彼女は分かっていたから。
……
といった会話がありつつも、話は進んでゆく。
また、感情を表さないはずのアンデッドが僅かに怒気を発していたという話から特殊なアンデッドである可能性も考えられたが……
どこまで考えようとも予測の域を出ない。
ならば、なるようにしかならない。
取り敢えずは話を聞いてみてからだ、と男は諦め心地、なかば破れかぶれで会談に同意をだしたのだった。
会談が決まり、男に元凶のお前も同席しろと言われた時のクレマンティーヌは先程の男のように物凄ーく嫌そうな顔をしていたという。
□
会談に指定された時間、モモンとナーベは既にギルドに来ていた。
モモンは椅子に座り泰然と腕を組んで待っており、フルフェイスのヘルムにより中身の様子は伺えない。
対するナーベはモモンの側に立っており、どこか落ち着かない様子でソワソワしていた。
そこに歩み寄る二人組。
ラフな木綿の平服にロングソードを腰に提げた男と、全身を黒いローブで身を覆った正体不明の人物。
モモンは正体不明の人物が、男の新たな眷属なのだろうとあたりをつけていた。
「……はじめまして。あなた達が漆黒のモモンさんとナーベさんか?」
「話をしたいとのことだったが……
あぁ、私は金級冒険者の──」
話し掛けた途端、突然、ナーベは手で口を覆ってへたり込んだ。その美貌には真新しい涙の跡がある。
「あっ?」
突然の出来事にギョッとする男。
ナーベが泣き崩れたことにより、冒険者ギルド内では男に向けた殺気が満ちた。
(やっぱり、──さん! 俺ですよ! モモンガです!)
「はっ?」
困惑。
どこか見覚えのある女性が声をかけただけで泣き崩れたかと思ったら、今度はメッセージで聞き慣れた我らがギルマスの声が届く。
そこで男は混乱しながらも、ようやく二人の正体に当たりをつけることができた。
「ナーベは少し気分が悪いようだ。すまないが、場所を移したい」
(人のいない場所で話がしたいので、俺たちが拠点にしている宿に行きましょう)
「では、ついてきてくれ」
「あ、あぁ」
男は突然の出来事の連続に足元がフワフワするような気分になっていたが、何とか返事をする事ができた。
「あぁ、やはり御方様でした……良かった……やはり間違いではありませんでした……」
「……」
美姫と呼ばれ、冒険者連中には口汚く罵ることで有名なナーベから男が何故か『御方様』と呼ばれ心配されている……そのことにローブの人物が僅かに反応した。
「……ナーベさん、立てるか」
「は、はいっ」
「……っ」
『美姫が罵らないだと!?』
男の背後からむくつけき冒険者共の悲鳴が聞こえる。
男がナーベに手を差し伸べると、側でギリぃっと歯を軋ませる音が聞こえた。
ナーベが迷いながらも男の手を取り立つと、周囲から発せられる殺気が更に強くなった。
困惑。
(どうなってんだ……)
とは、その時の男の心の声である。
□
「御方様。失態を演じた無礼をお詫びいたします」
モモンの常宿に到着し、部屋に入るとまずナーベが深く頭を下げ謝罪した。
「ナーベ」
「はっ……」
モモンに促され、ナーベがモモンの背後へと下がる。
モモンがヘルムへと手を伸ばし、兜を掻き消した。
現れたのは見慣れた骸骨の頭部。
「お久しぶりです、──さん」
「あ、あぁ、久しぶり……驚いたよ……だとしたら、そっちはもしかして……ナーベラル・ガンマ?」
心底喜ばしい、と笑みを浮かべ、メイドらしい所作で深く一礼するナーベ。
「何から話しましょうか……ですが、その前に……そちらの人物もローブを取っていただきたいのですが」
男の側に佇み、無言で動かない不明の人物。
ただ気配から、何故かモモンを酷く敵視している様子であることを感じ取れていた。ナーベがいつでも動けるように警戒している。
「う……それなんだが……」
迷い、いくばくかの時間を要し、落ち着いていてくれよ、と男が破れかぶれな様子で促す。
「……」
顔を隠していたローブを下ろすと──
「ぬっ!?」
「キサマはっ……!」
敵意を顕にモモンを睨みつける金髪の女が顕れたのだった。
それはモモンが殺害したはずの相手であり、先のアンデッドが墓地から溢れた事件の首謀者の一人。
最近、死体安置所から姿を消したとは報告を受けていたが……
「あー……事の詳細はコイツから聞いてる。まずは……申し訳なかった、モモンガ」
女がフードを取り、開口一番に深く頭を下げたのは男だった。
その場にいた全員がギョッした。
「ちょ、ちょっと!」
「──さん!?」
「御方様っ!」
男は手で遮り、騒ぐ三人を制した。
「……何があったのかはだいたい聞いてはいる……大方、懇意だった冒険者や薬師にコイツが危害を加えたのが騒動の切っ掛けだったんじゃないのか?」
苦虫を噛み潰したような顔で言った。
男が知る人間の頃のモモンガであれば、危険なことには自ら首を突っ込むことはしなかったであろう。
この世界に来て、力を手に入れ気が大きくなっている可能性もあったが、根本的な気質は変えようと思っても、そう変わることはないはずだと男は思いたかった。
危険を顧みずに騒動の中心に身を置いたのは、それだけ重要な何かがあったのだと考えずにはいられない。
「聞けばコイツが拉致して危害を加えたのは、エ・ランテルじゃ有名なバレアレの孫らしいじゃないか……」
一方で、男はアンデッドであるはずのエルダーリッチが感情を表した理由がわかった。
その正体が同じギルドの仲間だったのだから。というより、クレマンティーヌからの情報にあったエルダーリッチですらなかったが。
「しまいにゃ、アンデッドを溢れさせるなんて阿呆な事件も起こして、街も大騒動になったみたいだしな……」
「ただ……コイツは愚かで、どうしようもないクソ犯罪者なんだが……ちょっと、見捨てられねぇんだ」
「勝手だと思う……だけど、すまないが怒りを納めてはくれないだろうか」
だから、頼む、と頭を下げた男。
つまるところ、今後、女に危害を加えるのは止めてくれとも言っていた。
それに真っ先に気づいていたのは女だった。
「なんで……」
「なんで……アンタが頭下げんだよ!」
「コイツは私を殺して、首飾りも壊した!!」
だからこそ、女は荒れた。
庇われるなんて久しくなく、自身のために、男に頭を下げさせるのは酷く耐え難い苦痛で、そんなことをされるのも、謝罪するのも弱者なのだと彼女はよくわかっていた。
だが、男は決して弱者などではなく、他に並び立つ者などいないと女が信じる強者であったから。
まして、相手は彼女自身を殺したバケモノ!
何故、そんな奴を相手に頭を下げるのか! と。
しかし──
「黙れ……!」
「ひっ……」
嵐のように大きな威圧感を感じた。
それだけで、女は萎縮し、荒れた感情など一気に吹き飛ばされた。
「お前がそれを本当に言えんのか?」
「……俺とモモンガの話に入って来んじゃねぇ」
語気を強めて、男が女を突き放すように注意すると、女は男に叱られ逆にソワソワしだす。
突き放すような態度だったが、男はそれがクレマンティーヌのためにもなると信じていた。
男に頭を下げさせた女に対して、ナーベが憎悪の形相で睨みつけていた。
モモンガは一度、女を殺している。
加害者と被害者──
ではあるのだが、女は重大な罪を何度も犯している極悪人であり、その関係性は当てはまらないだろう。
犯罪者と断罪者であれば──
犯罪者は討伐されたとしても世間ではむしろ喜ばれることだ。
この世界では盗賊などを『誤って』殺したとしても罪に問われることはないし、それが賞金首であって討伐をきちんと証明できれば褒賞すらつくのだから。
大きな力を持つ犯罪者など、一般人には到底抗えるはずもないし、対抗すべき兵や騎士も態々リスクをおかしてまで討伐に力を入れる事も稀だ。
賞金首とはそういう存在であり、社会の正常化のためには無駄なイレギュラーである犯罪者の排除が必要となる中で、自然と出来上がった仕組みだった。
法はあれど、社会の仕組みが単純で、犯罪者への抑止力も未熟、高度な社会に必須となる人々の倫理観も育ってはいない。
犯罪者を殺したとしても罪にはならない世界。
それがここの現実でもある。
──男はモモンガに頭を下げた。
交渉において、感情を全て呑み込むのは不可能だとしても、どちらかが折れなければならないラインというものは必ずある。
意地の張り合いでは何も話は進まないし、事態はどんどん硬直してゆくばかりだ。だから仲介人がいるのだが、ここにはそんな者いない。
そして、こちらは明らかな犯罪者側で早急な和解を望んでいる。
いわば、謝罪は線引きであり、歩み寄った形で立場を明確にさせたものだった。
もしも仮に先に謝ってしまわなければ、考えたくはなかったがクレマンティーヌが今度こそ完全に排除される可能性もあった。
仲間想いのモモンガならば、本来、先の事件とは関係ないはずの男を心配して女と縁を切るように言ったかもしれない。
そうなってしまえば、女は今度こそ罪人として処刑されるか、死を免れたとしても女として、一つの生命として地獄をみた可能性すらあった。
モモンガは仲間のためならば、汚れ役でも負う優しさと危うさを持っている。そういう人物だと男はなんとなく気付いていたし、仮にも縁を結んだ女のそんな未来を男は受け入れられなかった。
部屋に落ちる沈黙。
「……あたってすまん。この骸骨は俺の同胞なんだ。クレマンティーヌ、悪いようにはしない……話は俺に任せてくれ」
「……」
誰も何を発していいのかわからない。沈黙が続き、耐えかねた男が女に気まずげに先の威圧を詫びた。
そして、男の言葉に顔を歪め、悔しそうにしたクレマンティーヌだったが……小さく頷いた。
彼女は俯き、表情を窺うことはできなかったが、どこか意気消沈した雰囲気を感じ取っていた。
一方、モモンガは友人の恋人が……覗き見た情事の相手が自身が断罪した女だったことにまず動揺し、頭を抱えたくなる中、その友人が突然頭を下げたことで更に混乱していた。
そして、まず自身がしなければならないこと。人を、彼女を殺してしまったことを告白し、それを『友人』に謝罪していないことに思い至る。
何しろ、彼が今最も恐れているのは友人に軽蔑され、嫌われてしまうことだったから。
いずれ告白しなければならないとは考えていたが、モモンガ自身もその機会がこんなに急に来るとは思いもしていなかった。
「──さん、俺は……すみ──」
「待ってくれ。その言葉は今は言わないで欲しい……モモンガがやったことはこの世界では正しかった。悪いのはこいつだ」
男は言葉を遮った。
男はモモンガの言わんとしていることを察していた。男との交友関係を気にして謝罪しようとしたことを。しかし、男はその謝罪を不要とした。
しかし、それでもモモンガ自身の内心では不安があり、モヤモヤとした感情が燻っている。そうしていると今度はメッセージがとんでくる。
(……この話はまた時間が出来た時にしよう。何、俺もこっちに来てから経験くらいしたさ)
「……!」
男が思い出すのは傭兵崩れの盗賊の集団。あの時は街の衛兵に突き出したが、それも全員ではない。切り捨てて、そのまま息をひきとった者だっていた。
(それに、冷たいかもしれないが、こいつが一度死んだことについては、自分でも不思議なことに何とも思っちゃいないんだ。本当に奴の自業自得としか言えない)
横目でクレマンティーヌを眺め、小さく溜息をついた。
(ただ、モモンガに奴を殺させてしまったことには申し訳なく思っている……本来なら諌めなければならなかったのは俺だったんじゃないかって。だから……)
「すまなかった」
「もしも、こいつを見逃すのに対価が必要だってんなら何でもしよう」
「そこまで……」
モモンガは思案する。どうしたら丸く収まるかを考える。
しかし、何でもか……何でも?
そんなどうでもいい言葉で、モモンガは急速に混乱が落ち着き、思考もまとまってきた。
一先ず、話の落としどころが見えたからだ。
「……分かりました」
モモンガは努めて神妙に頷いた。
「俺はあなたの謝罪を受け入れます。そのかわりとは言えませんが、対価として……ナザリックに戻ってきてくれませんか?」
モモンガとしては何よりも最優先すべきことは友人のナザリックへの帰還。
友人の言う、女のことなどは友人がナザリックに帰還することを思えば至極どうでもいいことだった。
男から引き離されることを予感した女が、ギリギリと歯を食いしばり、再び怒気が漏れ出てくる。
ナーベラルが冷たく目を細め、クレマンティーヌに対してすぐに反撃出来るように警戒した。
「……ただし、すみませんが、俺は彼女をナザリックに招くのには反対です」
その怒気で女のことを思い出したモモンガは、そう一言付け加えた。
自身に敵愾心を持つ人物をナザリックに入れるなどリスクしかないし、ナザリックの下僕たちを刺激することにしかならない。
反面、それは事実、男にとっては限りなくノーリスクに近い和解案でもある。
「ナザリックがあるのか……? だがそれでは……いや、ありがとう。わかった」
男は懲りずに怒気を発している女を尻目に、モモンガに感謝した。
謝罪を受け入れてくれたことも、対価をナザリックに戻るという条件にしてくれた心遣いに。
「俺もあの時は、少し熱くなっていました。それに……その、彼女があなたの、こ、恋人だと初めから知っていたらコロ……オッホン! 断罪も、アイテムを破壊することまではしませんでした……」
「こ、恋人……? あんなクソ虫が……御方様の……?」
女が軽率な行動を起こしたら真っ先に捕縛する、と警戒を続けていたナーベはモモンガのその言葉に愕然とし、受け入れられない情報にフラリと近くにあった椅子に座り込んだ。
「あ? 別に恋人じゃあ……」
ない、と続けようとしたが、男の影から発された女の言葉で遮ぎられた。
「はっ……バケモノの癖にわかってんじゃん」
女は何故かナーベに勝ち誇ったように見下し、低く言い放った。
ゴッ……!
「〜〜〜っ!!!」
「お前、調子に乗んなよ」
男が女に拳を落とすと、いかにも痛そうな音が響いた。
「謝罪相手に挑発するとか、お前頭沸いてんの?」
「……」
ムスッ、と不貞腐れた様子を隠そうともしない。
「本当にすまない、このアホのことは気にしないでくれ」
その二人の様子にポカンとするモモンガ。
「ン、ンン! と、取り敢えずこの話はまた後にしましょう」
姿勢を正す。
「本題ですが、俺たちは……ナザリックは──あなたを迎えるために歓迎の準備を進めています」
少々遠回りしてしまったが、ようやく本題のオチまで辿り着けた。
「彼女の扱いについては……また後日考えましょう」
「明日、また迎えに来ます」
その言葉が漆黒のモモンとナーベとの会談で最後の言葉になった。
(──さん……すいませんでした。相談したいこと、謝らなければならないことがたくさん出来てしまいました。また時間をください)
(……あぁ、こちらこそ、すまなかった。俺にも確認し合いたいことはたくさんあるよ)
(あ、それと、デミウルゴスが忠誠の儀とか言ってたんで、言葉用意しといた方がいいですよ。俺もやりましたが、緊張しました……ナザリックに戻ったら今まで何してたのか……色々と話、聞かせてくださいね)
いや、宿を出た所でメッセージがモモンガから届いた。
「マジかよ……」
ナザリックへの帰還……前途多難である。
男は今度こそ頭を抱えた。
□
戻ってきたのは男の常宿。
「ねぇー、本当に行くのー?」
「あぁ。仲間だからな……ナザリックは俺らの拠点でもある」
「……」
女は先程の会談とはうって変わり、テンションが低く、気落ちしたような様子を見せていた。
「心配すんな。危険はねぇはずだから」
「そうかもしんないけどさ……ちゃんと戻ってくるよね?」
女の心配、それは男と引き離されるのではないか、ということ。ようやく見つけた心の拠り所を失うことを何よりも恐れている。
「戻るさ」
男が発した言葉。それでも女は不安感を拭えないでいた。
どうしても、クレマンティーヌは男が遠い場所に行ったまま、二度と戻ってこないという未来を脳裏から払うことが出来なかったから。
「……なぁ、目立たなくて、人が来ることのない場所はないか?」
少し考え、件の場所に思い至る女。
「あるけど……どうすんの?」
「篝火を作っておこうと思ってな」
「ふーん……それって、あんたが死んだ時に生き返るやつ?」
篝火、という言葉に女は迷いなく返した。普通であれば何で今、そんな物を? と思うのであろうが。
女は知っていた。あの夢で男が何度も蘇るのを見ていたから。
「そうだが……だから何でお前は教えてもいないことを知ってんだ」
「んー? ちょっとね〜」
「……」
真意を測りきれないのか、ジト目で女を見る男。
一方、女は目をそらして白状するつもりは無さそうだ。
「……まぁ、いい。で? どこなんだ、そこは」
□
「ここ。元々はカジっちゃんが儀式で使ってた場所なんだけどねー」
クレマンティーヌに案内され移動した先は、先日アンデッド騒動の起こった墓地の奥。
霊廟の奥深く、巧妙に隠蔽された通路を通り、堅固な扉で閉ざされた先にあった。
ここには中長期的に籠もることができるように、それなりの生活スペースもあるようだった。
「カジッチャンてのは、あれか。ズーラーなんたらってやつの」
「そ。カジっちゃんはあのナーベって女とやり合って殺されたんだっけ。まぁ、どうでもいいけど。ここなら墓地の一番奥にあるし、人も来ないから大丈夫なんじゃない?」
「仮にも仲間だったんだろうが……まぁ、ここなら大丈夫そうだ。ありがとよ」
男の目の前には頭一つ分低い位置にある、金髪の頭。
ちょうどいい位置にあったそれに手を乗せ、クレマンティーヌは、それを受け入れた。
「ふふ……どういたしましてー。ほらほら、私役に立ったしさ、ご褒美欲しいなー? プレゼント、ちゃんと考えてたー?」
途端に嫌な顔をする男。
「ねぇねぇ、何くれるのかなー?」
ニヤニヤと嗤う。
「お前…………欲しいものがあるなら言え」
「え゛ぇ〜?」
大きく不満げな声をあげた。
贈り物は嬉しい。しかし、それは男が彼女のことを考えた上での贈り物のことで、ただ欲しい物を貰うのでは意味合いが違う。
「はぁ、仕方ないなー……ん〜……どうしよっかなー。新しい魔法武器も捨てがたいし……あの指輪もう一個貰うのでもいいかも?」
彼女は不満げではあったものの、これから強請る一品に一旦想いを馳せ始めるとすぐに夢中になった。
「おい?」
「うーん……」
「……」
指輪、という単語が聞こえた時点で男は妄想に静止をかけようとしたのだが、どうやら彼女は夢中になっており、声は届いていないようだった。
「……やっぱ、もうちょっと考えとく。あっ、でも、プレゼントはしっかり考えておいてよー?」
ただ、色々と心惹かれる物はあったようだがイマイチ、ピンと来なかったようで、保留になったのだった。
石で円形に囲まれ、円の内側に不死人の骨が散らされている。その中心には、奇妙な螺旋の剣が突き刺さっていた。
男が剣に触れる。
『BONFIRE LIT』
螺旋の剣に火が灯り、火の粉が舞い散ると暗いカタコンベを篝火が仄かに赤く照らす。
揺らめく影を重ねて、二人は並んでボウっと火を眺めていた。
それは女が夢見た一つの光景。
あの夢では、男の隣で篝火を眺めてはいても二人が交わることはなく孤独だった。
だが、今はそうではない。
共に同じ火を囲み、同じ光景を見られていることが嬉しかった。
「お前に頼みたいことがある」
「……ふふん、当てて見せよっかー?」
三角座り。膝の上で組んだ腕に頬を乗せて、彼女はイタズラっぽく返す。
「……」
「この篝火を守れってでしょ」
黙り込んだ男に対して、女は簡単に答えを出した。
「……そうだ。これが不死人の寄る辺。俺たち不死が死から復活するのに一番重要な場所だ。篝火が無事なら俺らは何度でも甦られるし、どれだけ遠く離れた場所からでもここに移動することだってできる」
「知ってるよ。だから私がここの火防女にならなくちゃいけないってことだよね」
そう、篝火は不死人のためにあり、火防女はそんな篝火を守るために存在する。
「……あぁ、そうだ。火防女の役目は──」
「それも知ってる。しょうがないから、この篝火は……あんたの生命線はこのクレマンティーヌ様が守ってあげる」
──だからさ、ここであんたが戻るまで待っててあげるけど……あんまり遅いと、火消して探しにいっちゃうかもねー?
そう言って女は男の肩に頭を預けたのだった。
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12.トラベルノート(ユリ編)
ナザリックへの帰還。
迎えにきたのはモモンガではなく、セバスだった。
確か、彼は同じギルドメンバーのたっち・みーが作成したNPCだったはず。
てっきりモモンガが迎えに来てくれると思っていたのだが……
それとなく理由とナザリックに戻ってからの予定を確認すると、モモンガは玉座の間で俺の帰還を出迎えるために待機しており、不在となったナザリックへの同道役に彼が命じられたのだという。
ちなみに、事前のモモンガとのメッセージでの相談ではNPC達の反応が予測出来ないことから、今回クレマンティーヌはエ・ランテルで留守番することになっている。
久々に上級騎士の装備に腕を通したが、珍しかったのかペタペタ触られたが。
転移ゲートを抜けると、そこはナザリック地下大墳墓。
玉座へと続く大回廊だった。
回廊には俺たちギルドメンバーの旗が掲げられ、奥には天使と悪魔を模し、荘厳で細部にわたる意匠が施された扉が設置されている。ゴーレムクソ野郎こと、るし★ふぁーの作品の一つだ。
ゆっくりと扉が開かれると玉座に向かう道に仲間たちが作成したナザリックのNPC達が並び、一番奥にある玉座の位置にはモモンガがいた。
神器級の装備を身に纏い、傍らにはギルド武器である絢爛たる黄金の杖。
あんた、魔王かなんかかよ!
元々魔王ロールしていた身とは言え、現実になると板についてますね……
モモンガが演技なのか大袈裟なリアクションで俺を迎え、忠誠の儀とやらが始まると守護者達が一人一人、何やら過大な言葉とともに忠誠の誓いを奏じてゆく。
ナザリックに戻ったくらいで感動している様子のNPC達だったが……みんな、ちょっとオーバーアクション過ぎませんかね。
忠誠の儀の後。
一先ず緊張が解けると腹が減り、準備よくモモンガがNPCたちに用意させていた食事を取りながら話し合いを行った。
見た目、骸骨なので食事が取れるのか疑問だったが、やっぱり食べられないらしい。
自分のことは気にしないでくれと笑うが、一人だけバクバク食べているというのはかなり気不味いものだ。
転移する前の世界の食事は合成食材やらで、天然物なんか滅多に食べられなかったし……
何とかこの感動をモモンガとも共有できたらいいんだがなぁ。
開口一番に話があったのは、エ・ランテルでのこと。
前に俺から謝ったはずだが、モモンガはまだ気にしていたらしく、謝罪された。
正直、友人が知人を殺害してしまっていたのは、悲しみとか怒りを感じるよりも、まず驚きが大きかった。それと申し訳なさ。
反対に、クレマンティーヌが何者かに殺害されたのを知った時には、あぁやっぱりそうなったか、という思いの方が大きかった気がする。
転移してきたこの世界はモンスターの脅威、人間同士の争いなどで殺伐としてるし、余所者にはドライな所もある。仲良くなった旅人や冒険者が実は盗賊で、強盗にあったとかいうオチのある話を何度か聞いたこともあるほどだ。
実際、街の治安も決して良いとは言えないからな。住民としては警戒して当然なのだろう。
街の中でも小物だが、物取りやら詐欺師もどきも市場にはそれなりにいるし、ちょっと裏路地に入れば黒粉とかいうヤクの密売人に中毒者だって結構いる。
俺がちょろっと酒場で聞いた話では貴族やら傭兵が街娘、村娘を攫っていくことだってあるらしい。
この世界には、国には生活の安全の保障なんてものも、余所者への信用だってない。
そして話は戻るが、肝心のクレマンティーヌ自身も善人とは口が裂けても言えず、寧ろはっきりと悪人と呼べる類だ。
先の騒動もそうだが、あいつは殺人を楽しんでいるフシもあったみたいだ。
もしも、悪行に対する応報、業というものがあるのなら、あいつはそれを背負って然るべきなのだろう。
モモンガに与えられた死は、それに対する報いでもあり、このことで、あいつも痛い目を見て少しは行動を改めるのではないかとむしろ内心期待していたりするが……
ただ、俺がモモンガに申し訳ないと思ったのは、図らずもそんな役を彼に背負わせてしまったことだ。
本来であれば、知り合った俺が戒めてやるべきだった。
だが、その方法が暴力以外にわからなかったのも事実で、事実から目を逸らした俺は特に控えるように言うこともなかった。
だから、その役を負ったモモンガに申し訳なく思うことはあっても、俺自身が恨むことなど筋違いだろう。
人の縁と呼ばれる信頼関係、ネットワークはどこで繋がっているかなどわからない。
それで不要な怨みや面倒を買ってしまう可能性だってないわけじゃない。
だから、モモンガに申し訳なく思ってしまう。
……とまぁ、俺自身は怒ってませんよアピールしておいた。
何故、彼女を庇わない?
薄情じゃないかだって?
そうなのかもなぁ……
だが、アイツは悪人だし、殺されても文句も言えないような事を何度も繰り返してきていたが、今は死から蘇って生きている。
もし蘇生という手段が存在しなかったら、もしかしたらこの感情は違っていたかもしれない。
決して、情が無いわけではないのだから。
ただ……この体になってから、どうにも感情が平坦になってるようで、大きな怒り、悲しみ、喜びといった感情の起伏が狭まっているように感じていた。
悪行に対する忌避感も、見知った人物が死んだことへの感情の揺らぎも。
俺自身も、殺人を犯したところで罪悪感など欠片も湧かなかった。
この身の本質はアンデッドであり、モモンガと話をする中で、俺たちは本当に化物になってしまったのだと今更ながら実感した。
その後、モモンガから転移してからの状況、下僕たちの状態について話を聞いた。
これまで、大分気苦労していたみたいだ。
ナザリックの転移から始まった異世界での生活。
突然、自我を持ち動き出したNPC達の統制。
近隣にある村への接触と監視。
王国戦士長との邂逅と法国部隊との戦闘。
冒険者モモンとしての活動。
操られたシャルティアとの死闘……
最近ではリザードマンの村を制圧したらしい。
……何かもう、やっぱり魔王でいいんじゃないですかね……?
大変だったと話す割には、言葉は喜々としていたし。
NPC達の成長が嬉しいんだと。
随分と異世界を楽しんでおられるようで。
特に楽しそうに話したのはNPCたちについてだが、フレーバーテキストの内容や作り出したギルドメンバーの性格に大きな影響を受けるらしい。
デミウルゴスとセバスの相性の悪さを見る度に、たっちとウルベルトを思い出すという。
アウラとシャルティアの喧嘩も、ぶくぶく茶釜さんとペロロンチーノのじゃれ合いに似ている。
コキュートスとナーベラルは階層守護者とプレアデスという立場の違いこそあるが、普段は軽口を叩き合う程に仲が良いそうだ。
それを楽しそうに話すモモンガはNPC達配下を、まるで友人の子どもと同じように見ているようだった。
そして、懺悔を受けた。
恥じるように、勝手にアルベドのフレーバーテキストを書き換えたこと。
悔いるように、支配を受けたシャルティアをモモンガ自身が討伐し、勝手にナザリックの財を用いて復活させたこと。
アルベドは設定が歪んで自身を愛するようになり、シャルティアは本当に討伐しなくてはならなかったのか、他に方法はなかったのかと後悔していると。
どうやら、この世界にはワールドアイテムが存在しているらしく、シャルティアはそれの効果で支配を受けた可能性があるらしい。
モモンガや俺はワールドアイテムを保持しているから対抗が出来るが、NPCたちはワールドアイテムの効果に対抗できない。
今後はNPCたちにもワールドアイテムを保持させての行動を視野に入れているようだ。
そして、帰還したばかりの俺にもNPCたちと会話することを薦められた。
他にも愚痴のような話やら、自業自得の話、世知辛いお金の話、俺のナザリックでの立場や役職についての相談などもあった。
モモンガは漆黒として稼いでいるが、ナザリックの維持費、セバスやコキュートスに回す金もまだまだ足りないようで、悩む様子は無茶苦茶なギルメン達をなんとかまとめようとしている姿と変わりなく笑った。
俺のナザリックでの立ち位置としては、とりあえずナンバー2という形にして、当面は下僕たちと交流を図りつつ、モモンガと一緒にナザリックの運営に関わることになりそうだ。
それと俺からは、あまりクレマンティーヌを一人待たせるのも心配なので、しばらくしたら一旦エ・ランテルに戻ることを伝えた。
モモンガは気を使ってくれたのか、いずれは彼女をナザリックに招けばいいと言ってくれたが、外から来た存在をNPCたちは本当に受け入れるのだろうか?
夜も遅くなってしまったので、お開きとなり、話せなかった事については、翌日以降に持ち越した。
会談した部屋から出るとずっと待機していたのかユリ・アルファがいて、自室へと同道してくれた。
まぁ、部屋の場所とかわかるけどね。一人でも良かったんだが。
☆月★日
軽く食事をとって、モモンガに挨拶しようと執務室へ向かうと中には、何故かアルベドとシャルティアがいた。
アルベドはモモンガがナザリック不在時の名代という話だし、普段から側に仕えているようだからいいとして……
シャルティアは不明だ。
ただ、モモンガのことで伴侶となるのは私だ、何だと言い争っていたようだ。
宥めつつ、そんな二人とも交流を図っていたが、クレマンティーヌのことだと思うが新たな眷属を歓迎したいとの話から、再び言い争いの種であるモモンガの妃の話へ。
『アインズ様を愛する許しをいただきたい』
『わらわもお慕いしてるでありんす!』
と、張り合う二人。
実際のところ、それは別に俺に許可を求める話ではないし、シャルティアはともかくとして、頭が良いらしいアルベドはそんなこと分かっているはず。何が目的だったのか。
俺からは、そうしたいのならそうすればいいと伝えたら、二人は歓喜し、わっ、と盛り上がっていたが。
話した感じ、モモンガはナザリックの皆のことを友人の子どものように考えている。
それは俺も同意しているし、だからこそ、モモンガはアルベドやシャルティアに想われていることに葛藤があるのだろう。
ただ決して悪い気はしていないようだが、どうやってモモンガを射止めるかは彼女たち次第。
彼女たちには、もし将来そうなったら俺が証人になってやろうとだけ言っておいた。
前に聞いた身の上話だが、モモンガは天涯孤独だったそうだ。
俺が願うことはモモンガの孤独を埋めてあげてくれたらな、ということ。
友では癒せない、異性にしか出来ないことがある。
心の底で必要としているだろうもの。
モモンガが本当は欲しているだろう家族を。
友の俺では家族になど成れないし、俺自身成るつもりもない。
それは俺の役目ではないからだ。
……彼女たちはまだ子どもと同じ。
優れた頭脳に知識、他者を圧倒する力はあっても、多くの経験がない。
たくさん悩んで欲しいものだ。
それにしてもタブラにペロロンチーノ……
とんでもないNPCを創ってくれたな!
☆月★日
モモンガと今後のナザリックの方針やら、現在進行中の計画など割と真面目な話をした。
俺としては、モモンガの方針に異論はない。
NPC達の期待が重い、何故か頭がいいと思われていると途中愚痴が入ったりもしたが……
ギルドメンバーにナザリックの存在を示すため、世界にアインズ・ウール・ゴウンの名を知らしめるという目的のため、今後において重要な指針となる会議となったと思う。
会議も終わり、自室に戻ろうとすると、奇妙な出来事があった。
簡単に言ってしまえば、プレアデスの誘惑……?
それ自体は何とか回避する事ができたが、彼女らは俺がナザリックを再び離れることを危惧していたみたいだ。
ユグドラシルを引退した訳では無かったとは言え、長くナザリックから離れていたのも事実。
それが彼女達にも不安を与えてしまっていたようだ。
……ユリには少し悪いことをしたかもしれない。
夜更け、精神的な疲労感を感じた。ふとナザリックにはバーがあることを思い出し、一杯ひっかけようと思い至った。
バーの扉を開け、足を踏み入れた途端、先客たちの注目を受けた。
バーにはバーテンであるキノコ頭に、デミウルゴスとコキュートスがいた。階層守護者である二人はここの常連だったらしい。
何となく入りづらくなったがデミウルゴスが気を利かせてくれたのか、三人で飲むことになった。
デミウルゴスの創造主であるウルベルトとの付き合いは長く、ナインズ・オウン・ゴール時代からの仲だ。ギルド内でも一、ニを争う威力を誇る魔法職であり、組んでよくプレイヤーキラーキラーをしたっけ。
コキュートスの創造主である武人武御雷ともナインズ・オウン・ゴール時代から共にフィールドを駆け、競い合ったし、何度もPVPもしたなぁ。
滔々と、昔の話をしていると二人の創造主の活躍を聞けて嬉しかったのか興奮していた様子。
本来、NPCはギルド付きであり、フィールドで共に冒険する事はできなかった。まぁ、その分、100レベルで作成できるという措置もあったのだが……
ともかく、二人は創造主と共に冒険した経験はないということだ。
冒険話を伝え聞いたことはあっても、どのような世界を渡り歩いたのか、どんな敵を下してきたのかなど多くは知らなかったのだろう。
子どものようにはしゃいでくれるほど興奮したのなら、話したかいがあったというものだ。
☆月★日
今日はフラフラとナザリック内部を巡回してみることにした。
辿り着いたのは大森林。地下空間にも関わらず樹海とも呼べる深い森が広がっている。
大森林の随所にはコロッセウムや蠱毒の大穴、歪みの木々、塩の樹林、木々にのまれた村跡、底なし沼地帯などが配置され、階層守護者アウラのペットである魔獣たちによって大森林は守られている。
また、この大森林にはブループラネットが作り込んだ空があり、太陽光の降り注ぐ昼と一面の星空を見渡せる夜が時間と共に移り変わる。
現実となった今ではここが地下であると、わからなくなる程度には本物の自然に似ている。
階層守護者はアウラとマーレ。二人はぶくぶく茶釜さんによって作られたNPCであり、それぞれ性別に反した男装、女装をしている少女と少年だ。
なんと業の深い……
なんだってあの姉弟はこうもぶっ飛んでいるのか……
廃村跡でボーっと篝火にあたりながら夜空を眺めているとアウラとマーレに話しかけられた。
この大森林にいるとなんとなく感傷的な気分になった気がして、二人にはこの夜空を作った時や、リアルな大森林や各種建造物を再現した時の話をした。
現代では環境破壊が最早再生不可能なまでに進行していたし、本や映像などの記録ばかりで本物の自然や遺産を見たことのある人間などいないのが普通だったからな。俺も少し自然が恋しくなってたってのもあった。
ブループラネットもそれは同じだった。人一倍、自然に対する興味が強く、よくこの自然を求めてフィールドを歩いて回っていた。そんな時にナザリックという拠点を手に入れて、もしかしたらブループラネットだけでも再現できたのかもしれないが、本物の自然の空気を前世で知っている俺も手伝って大森林を再現することになった。
しかし、それでも苦労は大きかった。
元々、4キロ四方という広大な面積を誇る階層であり、その大半が森林地帯で埋め尽くされていた。それも、ランダム生成されているとはいえ、本物の自然を知る者としては違和感を感じるフィールド。
樹木や草本の種類は偏り、森林内を歩けば同じ景観が延々と続く。強力な大型の獣系モンスターはいるが、その餌となるような小型の獣系モンスターやそれ以下の動物や虫の類は皆無。食物ピラミッドが存在していないような歪な自然。
当たり前だろう、制作側とていちダンジョンにそこまで詳細な設定を盛り込んで時間をかける訳にもいかないのだろうから。
だから、本物の再現のためには俺たちが修整しなければならなかった。
均一な地形に等間隔に木を植えたのでは規則正しくて作り物っぽさが出る。それではただの植林地でしかない。
俺たちの目標は多様性があり、かつ限りなく自然に似せた森林をナザリックに再現すること。
かといって、自然を全て人の手でデザインするのは困難をきわめる。
だから、始めたのは森林以外の環境を整えることからだった。太陽の移り変わりに、日照時間、温度、降水に風の変化等々……膨大なデータクリスタルを投入して様々な環境条件を設計する必要があったんだ。
そして多様な地形に整地し、岩を配置、土を入れた。苔を生やしてからなるべくランダムに集められるだけ集めた種を広範囲にバラ撒く。それをブループラネットが魔法で成長させた。
何度も失敗し、時に植生する植物の種類が偏ったので、何度も環境を調整し、何度も物資が足りなくなってフィールドを駆け回った。虫や小動物、鳥型モンスターを導入し、また種をバラ撒き、たまにイレギュラーや災害を起こし、何世代も何世代も魔法で植生を更新させた。
そうした苦労の結果、この大森林が出来たのだ。
この夜空だって、大森林の修整と各種建造物の配置が終わり、変なテンションになった俺らがノリで再現すると言い出して、結局、後で地獄を見るハメになった。
要はここは、俺とブループラネットの実験の場で、箱庭でもあった。
アウラとマーレは興味深そうに聞いてくれたが、自身が住む場所がそうやって創られたと知り驚いてくれただろうか?
☆月★日
タッチが創造したNPCであるセバスとナザリックに戻って以降、全然会っていない。
タッチとの付き合いも長かったし、セバスと交流しておこうと思ったのだが……
モモンガが言うには、セバスは現在ナザリックの外におり、情報収集や魔法関連の品を調査しているらしい。
居場所はリ・エスティリーゼの王都だ。
そういえば王都にも行ったことがなかったな。
何となく気が向かなかったのもあるが……魅力を感じなかったんだよな……
貴族の腐敗やら、落ち目の国の中心ってことであまりいい話も聞かなかったし……
だが、それもちょうどいい機会なので、モモンガに話して王都の観光と洒落込もうではないか。
そろそろエ・ランテルにいるクレマンティーヌの様子も気になるしな。
しかし、ナザリックを離れる前にやらなきゃならないことが一つ。
ギルドメンバーにはそれぞれ個室が与えられているが、俺はもう一つ自身が管理していた小領域があった。
種族スキルの特性上、何度死んだってデスペナを回避することができるが、それには条件があった。
それは拠点を持っていることと、不死人が再生するのに重要な役割を果たす火の炉を設置し、コストを払わなければならないこと。
既に一つ、篝火はエ・ランテルの墓地に作ってあるが、それだけではただの効果のない篝火だ。
火の炉を設置することによって、不死人は本当の不死となり、火のネットワークを伝って、各地の篝火に転移することだって、魔法やアイテムを用いずに回復することも出来るようになる。
その分、支払うコストとして定期的にソウル/魂を捧げなければならないが。今はストックがあるから良いが、その内補給の手立てを考えなければならないな。ちなみにユグドラシルでは、ソウル/魂は人間やモンスターから比較的簡単に入手できた。
そんな火の炉が設置されていた領域は、溶岩エリアの片隅にある。
ここ溶岩エリアは全体が熱で支配され、本来であれば、継続的に炎ダメージを与えるフィールドエフェクトがある。
ただ、今はナザリックの維持費の関係でフィールド効果は切られており、ただひたすらに熱い場所になっているが。
しかし、熱いといっても生者の生きていられるような世界ではなく、まさに地獄と呼ぶに相応しい場所ではある。
溶岩の川が流れているような場所で生者が生きられるはずもないからな。
遠くにデミウルゴスの住処である赤熱神殿が見え、溶岩の川からも少々はなれた岩場にポッカリ大きな穴が空いており、奥深くまで階段が続いている。
階段を降り、立ち入りを阻むかのような大きな門を抜けると、そこは辺り一面に灰が降り積み重なり、火の熱で焼け、白く荒廃した遺跡がある。
遺跡には領域を守る召喚モンスターの黒騎士達。
それの更に奥。
中心部には、幾年月も積み重なっただろう灰が絨毯のように敷き詰められ、足を踏み入れれば新雪のように足跡を残す。
俺が火を継ぎ、薪の王のクラスを得た時の思い出深い場所の再現がここにある。
遺跡の中心には、小さな篝火の形をした炉。
火は揺らめきながらも熱を絶やすことはない。
……幸いにも、不死人の象徴たる火の炉はナザリックの転移でも消えることもなく、無事だったようだ。
階層守護者であるデミウルゴスや黒騎士達には、ここに何人たりとも立ち入れないようお願いしておこう。
☆月★日
ナザリックを一端離れることをモモンガに話したら同行者としてユリを付けられた。
同行者を付けると言われた時、いらない、とは言ったんだがモモンガ自身もナザリックの外で活動する際には誰かしら付いているし、モモンガも今回は味方になってくれそうにはなかった。
人選については、ある程度自衛でき、かつ人型のNPCから選ばれたようだ。
ナーベはモモンガの冒険者時の相棒のためNG。
ソリュシャンはセバスと共にナザリック外で調査の任務を受けている。
エントマは一応人型ではあるが、人として世に出るには無理がある。
シズはナザリック内のギミックを管理しているため、不用意に離れる訳にはいかない。
ということで、残るは比較的軽い任務でカルネ村を監視しているルプスレギナとナザリックに常駐しているユリになるのだが……
俺はユリを選んだ。
確かにユリは、種族的特徴である首が外れるという心配はあるが、人型で戦闘もこなせるし、妥当ではある。
それに、前にユリとちょっとした約束もしたからな。
しかし、人選とかそれ以前に大きな心配事が一つあった。
クレマンティーヌ。
どこか行くなら置いてくなっていう約束。俺は同意した覚えはないけど。
なので、一応、王都まで同行させる予定だったんだが……
心配だったのは、悪人であるクレマンティーヌとアライメントが善であるユリの相性が良くないかもしれないこと。
ひょっとしたらヤバイんじゃないかとハラハラしたが、実際に対面してみると意外なことに、奴はユリに対して特に大きな反応することはなかった。
むしろ、ユリの方がクレマンティーヌに噛み付いていってるのが印象的だ。
やっぱりアライメントが善と悪では相性が良くないんだろうか。
ユリが仲間に合流し、三人、陸路でエ・ランテルから王都へと向かう。大体の旅程は徒歩で二週かからないくらい。道中、村や街がなければ野宿になることもあるだろう。
モモンガからは下僕たちが心配するため日に一度はナザリックに顔を出して欲しいと言われているが、基本的にナザリックに常駐することを強制されてはいない。会議、という名目の相談会はあるものの、割と自由は効く立場──労働時間の定めの無い役員みたいなもの。
……ともあれ、徒歩では二週もかかる。ゲートの魔法を使えば都市間の移動などあっという間なのだが、それでは味気ないのも事実。
道中の景色や歩みを楽しむのも遠出の醍醐味だろう、との思いで取り敢えず徒歩での移動を決めた訳だが……
あいも変わらず同行する二人の仲は良くない。
会った当初のような敵愾心マシマシな態度は隠れたものの、会話をすることもなく、お互いを存在しないかのように無視している。
歩みよりも、気を使う方が疲れるんだが……
やっぱり、最初からゲートで王都に向かった方が良かっただろうか……いや、今からでも遅くはないか……
……
結局、王都で実行される予定の計画まであまり時間が無い事を理由に王都の近くにある衛星都市っぽい小都市の近くまでゲートで向かい、その街で宿を取って一泊。そこを日が登る前に出て、夕方前には王都に漸く辿り着く事が出来た。
道中、モンスターが出てくることもなかった。
ただまぁ、最短で移動したにも関わらず疲れた……だって、ずっとピリピリしてんだもん……そういうの苦手。
リ・エスティーゼの門を抜けると舗装された広い道が王城まで続いている。
しかし、一歩脇道にそれれば王都であるにも関わらず、脇道はろくに舗装もされていないようだ。
遠くに見える王城や古めかしい街並みが風光明媚といえばそうだが、どこか影を感じる場所だ。
前に訪れた竜王国の都市でも影を感じたが、あちらは外敵に対する不安が大きかったように思う。対して、こちらは不平、不満、不信感など抑圧された感情を多くの人から感じる気がする。
俺達三人を舌なめずりして品定めしようとする者がいたり、酒瓶を持った男がわざとぶつかって来ようとしたりと、あまり治安も良くなさそうな印象だ。
一方で、俺たちが滞在する予定の屋敷がある高級住宅街は、道も綺麗に舗装され、人の顔も明るいが……
ここらへんは、治安がマシだということなのだろうか。
とりあえず、ここを一先ずの拠点として今後、周辺の散策でもしてみようと思う。
屋敷に到着後、セバスとも話したのだが、表向き俺たちはこの屋敷のガードやメイドとして働くことになる。
モモンガにも相談したことだが、警備上の問題はないとしても流石に屋敷にいるのが年頃の令嬢と執事だけというのもおかしな話であるし、カモフラージュとしてメイドを雇うにしても家令がいないというのは組合にも疑念として伝わる可能性だってある。
セバスとソリュシャンは帝国領地のとある商家を名乗り、王都進出のための事前調査という体で屋敷を借りているのだし、屋敷に護衛もおらず、二人だけというのはやはり不自然な気がする。
まして、調査の矢面に立つセバスは、あのイケメンタッチに創造されたNPC。
タッチ譲りの紳士なナイスミドルに、知らず心打たれた女性が量産されてましたなんてこともありえそうだ……
とにかく目立つからな。タッチもセバスも……
だが、それが役に立つ場面もある。
ここでは近隣住民の余所者への信頼関係は通常皆無だが、イケメンとあからさまな善人に対しては警戒も多少は薄れるというもの。
その点では、市井に紛れ込んでの調査にセバスはうってつけなのだろう。
だが、セバスが目立つほどに、この屋敷を探ろうとする者も出るし、屋敷に違和感を感じる者も出て来るかもしれない。
だから、表向きには俺とクレマンティーヌは警備として、ユリは令嬢役であるソリュシャン付きのメイドとして振る舞うことになった。
屋敷に人の気配を増やすだけでも、ちょっとした違いで身分を偽っていることの違和感を隠すことができる。
ただユリは別として、ガードというには俺は冒険者然としているだろうし、クレマンティーヌに関してはガラがすこぶる悪いのが気になるところだが……
これでも体裁としては最低限度だとは思うが、人材不足だ。致し方ないだろう。
一日の終わりに屋敷のガードとしてちょろっと周辺の散策を行ったが、特に目を引くものはなかった。
なかなか良さげな酒場は見つけたがな。
(追記)クレマンティーヌのゲヘナでの衣装を考えていたら妙な空気になった。
本当に女の考えていることはよくわからん……
☆月★日
ところで、屋敷にはセバスとソリュシャンの二人だけ、と書いたが、屋敷に何者かの気配があることには気づいていた。
セバスからは何も聞いていなかったはずだったが、聞き漏らしたのかとそれとなくソリュシャンに訊ねてみたら元々白い顔を何故か青白くして平伏された。
聞けば、セバスが先日どこからか拾ってきた女を匿っているらしい。
……流石、タッチが創ったNPCである。
何だか可笑しくなって笑ってしまったが、それで更に顔色を悪くしたソリュシャンには悪いことをしただろうか。
実際、ソリュシャン自身はモモンガに伝えた方がいいのではないか、ナザリックの計画の邪魔になるかもしれないと何度も忠告したのだが、セバスが何だかんだと理由をつけて聞かなかったらしい。
ソリュシャンは俺が屋敷に来たことで、流石に報告するつもりだったとか。まぁ、報告を受ける前に聞いてしまったが。
とりあえず、モモンガには俺から知らせて、セバスからも話を聞いておく。
青くなったまま顔色の戻らないソリュシャンを見てるのも、可哀相だからな。
早速連絡してみたが、モモンガとの話では今はセバスの動向に注視して欲しいとのことだった。
後々時間を作って、こちらに来るとも。
王都について早々大変なことになったものだ。
俺自身はまだセバスとはあまり会話も出来ていない。どんな嗜好を持っているのか、何を考えてどう行動するのか想像出来ない部分も多い。
だが、ソリュシャンはセバスが裏切った可能性があると言っていたが……セバスは、あのタッチのアライメント極善NPCだぞ?
どうせ、誰かが困っていたら助けるのは当たり前! みたいな事なんじゃないのかねとは思っていた。
NPCの性格は創造主に似るって言ってたのはモモンガだ。フレーバーテキストにも何も書かれてなかったらしいし。
その後、セバスからも事情を聞いたが、奴隷の女を屋敷に招き入れることで厄介事を抱え込む可能性が高いことは分かっていたという。それがモモンガの、ナザリックの意思にそぐわない行為であるかもしれないことも。
だが、そんな自問をしつつも、心の内には人を助けるという使命感が、創造主であるタッチの意思が心を縛るのだという。
それは、まるで呪いのようだと。
今でも自問している。モモンガの意思を顧みずに彼女を助けたことは、果たして間違ったことだったのだろうかとも。
……どうやら、創造主に性格が似るってのもその通りらしい。
思い返せばタッチとは何度かぶつかった事もあった。
意外なことに、道理に合わないことは正面から張り合って言い合うし、自ら折れることもしない負けず嫌いで頑固者。ナインズオウンゴール時代ではグイグイ皆を引っ張ってギルドマスターをしていた過去もある。
やりたいことが一致することもあったが、やることなすこと大雑把で、集団内でものらりくらりしてた俺の性格に苛ついたこともあったはずだ。
ぶつかり合った時も決着をつけるのにPVPじゃ分が悪いので、結局は言い争いになって暫くユグドラシルオンラインから離れた時期もあったっけ。
だが、決して心根の悪い奴でないことは分かっていたし、嫌いにもなれなかった。
そんな精神を受け継いでいると分かって、何となく嬉しくなったんだ。
ナザリックのトップはモモンガだから何かしらの裁定は下るだろうが、俺は受け継がれた意思から目を背けなかったことに好意を感じる。
自身の良心に従うのは簡単なことではないからな。時に、周囲から孤立し、何かを犠牲にしなければならないことだってある。
それにはとても勇気がいるし、自身らしさを失って欲しくないとも思う。
とか事情を聞いていたら、さらなる波瀾が次から次へとやってくる……
屋敷を訪れたのはぶくぶくに肥えた官吏とやたら態度、人相の悪い自称女の雇用主。
調査の矢面に立っているのはセバスなので俺は壁際で話を伺っていただけなのだが、どうやらセバスは金で女を無理矢理攫ったという話になっているらしい。
結局は金での解決に持っていかれる流れになっていたが、アレはいかんな。
一度、弱みを見せたら破滅するまで利用されるやつだ。令嬢役のソリュシャンにも下卑た目線を向けていたし、下衆な発言もあった。
幸いにもユリは席を外していたが、ソリュシャンでなくとも顔を見せていれば寄こせと言われていたかもしれない。
クレマンティーヌも部屋の外だが……まぁ、そんなことがあればすぐに手が出ていただろうな。
さて、セバスはどうするつもりだ?
招かれざる客が屋敷を出た後、頭を冷やして来ると屋敷を出たセバスのことが気になり尾行した。
これでもナザリックの面々の中では種族の特性上、斥候として働くこともあったからな。
まぁ、だいたいは魔法だったり、種族スキル、装備アイテムのゴリ押しによる強行偵察だったが。
弐式炎雷みたいには流石に出来ない。アレは特殊すぎる。
魔法やスキル、アイテムで各種隠蔽を行いセバスを監視していると、騎士っぽい少年と刀を持った剣士とセバスが何やら話してたが特に面白いこともなかったし割愛。
その後、送られてきた暗殺者を返り討ちにし、セバスは拾った女がいた拠点を潰すことを決めたようだ。
全く、モモンガの計画に害が及ぶ前に排除しなければならず、急を要するのはわかるが、一言くらいあっても良いものを……
状況が悪く、迅速な対応が必要なのも理解できるが……無駄に行動力がある所も、一人で突っ走る所もタッチそっくりだ。
拠点と思われる建物に突入して暫くして、建物内の気配が消えていったが、中は血の海なんだろうな。
建物内の様子を伺っていると、モモンガからメッセージが入った。どうやらこれからこちらに来るらしい。
屋敷に戻り、モモンガに話かけ……ってこいつパンドラズアクターだ。
すげーそっくり。たまにテンション高くなるのが違和感あるけど……
デミウルゴス、コキュートス、ヴィクティムなど守護者揃い踏みでセバスへの詰問を行うようだ。
パンドラに関してはデミウルゴスがセバスを警戒して、モモンガに危険がないかを確認するため先行して送られてきたらしい。
俺に関しては何も聞いてはいないが、ユリが俺とセバスの間の位置に立っているので、そういうことなのだろう。全くいらない心配だと思うし、もしもの際には盾になろうという考えも気に入らないのだが、言われた訳でもないしな……
しかし、ヴィクティムまで連れてくるとは……
聞けば、ナザリックでは借りた屋敷とはいえ、ナザリックの領分に外部の存在を招き入れたことで、セバスが裏切ったのではないかと騒然としていたようだ。
俺でさえ、仮にも眷属となった奴をナザリックに連れて行くのは躊躇したからなぁ……
まぁ、それはいいとして。今、確かめなくてはならないのは、組織の最上位にいるモモンガの命令を忠実に遂行できるのか。
この場で女を殺せ、と命じたモモンガ(パンドラ)に対してセバスは躊躇いなく腕を振り切った。
拳は女を貫く直前にコキュートスが止めた。
それで晴れてセバスの疑惑は払拭された訳だが……セバスが本物のモモンガに直訴し、セバスと共に生きることを選んだ彼女、ツアレは今後ナザリックで働くことになるようだ。
直訴した際には、セバスとデミウルゴスが言い争うことになったが……本当に仲が悪いんだな。タッチとウルベルトがどうでもいいことでよく喧嘩していたのを思い出す。
それはモモンガも同じだったようだ。
今後、セバスはプレアデスのチームリーダーから外される。以後はプレイアデスとなるリーダーを、代理としてユリが務めることになる。王都での調査も終了とし、暫くしたら屋敷も引き払うことになるだろう。
セバスだってここまで大事になるとは思っていなかったのではないだろうか。
だがまぁ、モモンガ自身も内心ではセバスを疑ってはいなかったみたいだし、セバスの在り方を否定することもしなかったのは安心した。
それと、モモンガから教えて貰ったのだが、彼女にはセリーシア・ベイロンという妹がおり、クレマンティーヌが殺害した冒険者ニニャと同一人物である線が濃厚らしい……
一応、奴にも伝えておくべきなのかねぇ? いや、今はやめておこう……
全く、人の縁とはどこで繋がっているのかわからないものだ……
あーストレス……頼む。誰か、俺に癒しをくれー!
屋敷の警備くらいしかすることがない。
稀にセバスと約束のある来客があるくらいで、俺はただ取り次ぐだけの簡単な仕事。
ユリに関しては弾き払うことになった屋敷の片付けや備品の回収、整理。
クレマンティーヌについては、やたらベタベタしてくるし、少し面倒くさい。
仕事が楽なのはいいが、暇だなぁ。
たまにはって、剣の手入れしたり、鍛錬したりもしてみたが……
仕事中に酒飲んだら怒られるかな?
いや、結局、飲まんかったけど、時間見つけて酒場行くとかは別にいいよね?
……
クレマンティーヌとユリのガードキツくて行けんわ!
どこに行った、自由!
てか、こんな時だけコンビネーション見せんなや!
☆月★日
やばい、やばい笑
アイツら目を離した隙に殴り合いしようとしてたわ。
仲悪すぎでしょう?
ユリがガチギレしてて、決闘ふっかけてたんだが、何とか宥めてその場を治めることができた……
しかし、本当に驚いたな。やまいこさんのNPCとはいえ、脳筋部分まで似なくてもいいだろうに……
本当、殴ってから考えるとかはやめてくれよ……
他にも、王都の冒険者組合にどんな依頼があるのか見に行ったら、いつだったか難癖つけられた仮面のチンチクリンやらもいたし、跡追いかけられて面倒くさいことになった。
チンチクリンは妙なこと言ってて意味わからんし、今日は厄日か。
俺の寿命がストレスがマッハ。内緒で酒場に行って、発散してきた。
☆月★日
今日はモモンガからセバスのアフターケアを頼まれていたこともあり、一日、表向き護衛として行動を共にすることにした。
昨日、デミウルゴスから依頼された牧場? で使う小麦の買い出しと共に、一日かけて各所にあいさつ回りする手筈だ。
ユリはプレイアデスのリーダー代理として任務の打ち合わせ。
クレマンティーヌには……ツアレがいた店の裏にいるという八本指を探るという体で、少し外出させた……が、実際には屋敷を外から監視させている。
昨日、注意すべきだと言われたのだ。ああいった裏の連中は拠点が一つ潰されたくらいで諦めることはない。
すぐに報復に来ると。
それには俺も同意した。
だったら警備として屋敷に残せばいいという話なのだが、起きるかもしれない襲撃を一度撃退したとしても意味がない。
根本から解決しないことには。
それに屋敷を血の海にするのは簡単だ。しかし、それでは大きな騒動になって目立ってしまうし、せっかく王都で築いたセバスの信用が崩れてしまう恐れだってある。
それでは次にセバスが表で活動するかもしれない時に支障が出かねないし、ナザリックの損失にもなる。
なので、言葉は悪いが囮として、屋敷にはツアレだけを残している。
無論、彼女の生命が危機に陥った際には、影に潜ませたシャドウデーモンが身を守る手筈は整えてある。
これも敵方の本拠地を突き止め、一網打尽にできる機会を作るため。
セバスと彼女には敵方が押し入る可能性が高いことを黙っていて悪いが、協力して貰おう。
タッチも善人のせいか甘かったからなぁ……他人が悪意を持って行動することを知っていても理解できないのだ。それで詰めを誤ることもあったし。
挨拶回りの道中、セバスから拾ってきた女の身の上を聞いた。
曰く、路地裏で袋詰め、ボロボロの状態で打ち捨てられて廃棄される寸前だったのを生きたい、と言われ助けたらしい。
元々は王国のとある村出身らしいのだが、13の時に貴族の妾として攫われ、散々弄ばれた後に質の悪い娼館に売り飛ばされた過去があるようだ。
そこで、なんとも筆舌に尽くしがたい経験をしてきた。
で、身も心もボロボロになって生死の境を彷徨い、殺される寸前にセバスに救われた、と。
……あれは、依存してんだろうなぁ。
セバスに殺されようかって時にも、セバスに殺されるなら本望って顔してたしな。
この人は私を助けてくれた。
この人は私を見てくれる。
この人の側は居心地がいい。
この人は私の唯一の味方。
この人がいない生活は考えたくない。
この人に嫌われることが怖い。
この人に見捨てられるのが怖い。
嫌われる、捨てられるくらいなら、この人の手で死にたい。
セバスは覚悟すべきだろう。抑圧され、深く傷ついた精神というのは並大抵の努力では癒されることはない。
彼女は言うなれば継ぎ接ぎの心。
きっと恐怖で夜も眠れないし、ふとした時に過去を思い出しパニックになるだろう。狂気に駆られ、自身を捨てたくなる衝動もあるかもしれない。
まして、多感な時期を妾として過ごし、娼婦として多くの男の劣情や欲望のはけ口となり地獄を見たというならば、精神に歪みがないなど俺は信じられない。
セバスはそれを支えなければならないのだ。もしくは、彼女を重荷と見捨て、自らの手で葬るか。
それを選択しなければならないのが拾った者の責務だろう。
さて、小麦を仕入れ、引き払う予定の屋敷に戻ると案の定もぬけの殻。応接間のテーブルには、八本指の仕業と思われる招待状があった。
これよりナザリックから人員を集めて、八本指なる組織を掌握、副次的にツアレを救出するようだが、そこらはNPC達に任せようか。
俺らは、ちょっと別行動といこう。
これもクレマンティーヌからの情報なのだが、王国は身に巣食う犯罪組織である八本指の討伐に乗り出すらしい。
一体どこからそんな情報仕入れて来たのか。当然の如くそういう情報は秘匿されているだろうし。
一方、モモンガからも漆黒を王国の英雄へと登らせるための作戦であるゲヘナについては聞いている。
だが、ゲヘナと平行して王国側が八本指の討伐に乗り出すということは……
これは偶然ではないだろう。
つまりは、ナザリックが王国の一部と繋がっていることを意味している。
それも兵や冒険者を動員することのできる上層部。加えて、そいつはゲヘナで生じる王国側の損害を無視、もしくは気にも止めない性格である可能性がある。
普通に考えれば異常。
ナザリックが王国側と通じていることまでは知らなかったが、通じているとすれば作戦の責任者であるデミウルゴスしかいない。
あのデミウルゴスが人間と取引……
本来のゲヘナは王国側と連携する予定はなかったはず。
人間を同列の存在に見ていないデミウルゴスが連携を良しとする相手とは一体……
実はその組んだ相手は人間じゃなくて、異業種でした、とかってオチじゃないのかね。
と、まぁ……これからゲヘナが開始する訳だが、俺は何の役として舞台に立てるのだろうかと作戦を聞いた時から考えていたんだ。
モモンガは主役。
デミウルゴスは脚本兼ヴィラン。
その他、階層守護者達は各拠点の制圧。
プレイアデスはデミウルゴスの配下として。
そして、俺は……
正直、やることねぇじゃん? 笑
なんで、アルバイトでもしてようかなぁって。
王国側の八本指討伐には一定ランク以上の者しか声がかからないだろうから参加するのは無理だとして……だが、いざゲヘナが始まってしまえば王国は大混乱に陥る。
そしたら木っ端冒険者の手だって借りたくなるだろうしな。飛び込みでの参加だ。
それを言ったらクレマンティーヌは明らかに不満気だったが。
王都の中、住宅地や店通りを大きく囲むように炎の壁が立ち昇る。
ゲヘナが始まる際の合図だ。
どこからともなく悪魔が現れ、街中に様々な人間の悲鳴が木霊する。
アダマンタイト級冒険者が指揮を取り、冒険者達や兵が怒号を発して悪魔に切りかかる。彼らは悪魔たちの隙を作り出して民間人を避難させてゆく。
俺たちは冒険者たちに紛れ込み、悪魔を切り捨てては、地獄へと送り返す手伝いをしている。
街中が混乱の中にあるので、正体不明の存在が一人や二人いたところで誰も気に留めることはなかった。
皆が作戦の遂行に命懸けだった。
そんな悪魔相手に切った張ったする俺は、旅の装束を身に纏った神官モドキ。
随伴するクレマンティーヌも修道服を着て、物騒な大鎌を携えている。腰には刃のない柄がもう一本。
今の彼女はフリーデと名乗る、修道女モドキだ。
……修道女と言えば彼女しか浮かばなかったんだ。
フリーデと名乗るように言った時は怖かったなぁ笑
誰? だなんて……
でも、奴も実質コスプレだってのに、意外とノリが良いみたいだし口調まで変えていた。
流石に、ここまでクレマンティーヌの普段とかけ離れていたら、身バレも心配ないよな……?
と、まぁ、正体を隠しつつ作戦に参加した訳だが。
街の中心を目指して、道中で怪我人を見つければ、世にも珍しい火の癒しを。
動きの悪い冒険者がいれば、生命湧きを。
敵には鉄の剣と浄火の炎を。
悪魔には煉獄の火がよく似合う……
あ、寒い寒い。危険だ、妄言はやめておこう。
気がつけば、俺らの後背には多くの兵や冒険者たち。彼ら戦士たちと共に街を囲む炎の中心へと歩を進めてゆく。
中心部に近づくたびに微妙に悪魔たちのレベルが上がっているらしく、集まった冒険者たちではなかなか太刀打ち出来ないらしい。
彼らの中にはミスリル級やら高位の冒険者もいるはずなんだがな……
道中、悪魔側にいるユリとクレマンティーヌがかち合い、挑発し合うし……挙げ句、やり合う気マンマンだし。先に行けって何のフラグですか?
本当に勘弁して。
ちなみに、街の中心部近くにいたのは、俺やモモンガからしたら雑魚ばかり。鱗の悪魔に朱眼の悪魔、魂食の悪魔などなど、レベルで言えば15〜20くらいか。それに加えて最下級の悪魔がわんさかいた。
俺としては弱いモンスターやらを魔法でちまちま倒して回るのは流石にダルかったし、あんまり無双して注目されるのも嫌だったんだが……
そういう意味では、街を仕切る炎の内側に突入する前、事前に召喚しておいた傭兵が戦力になったし、雑魚の相手を任せられたのは良かったな。多少楽出来たし。
ちなみに俺の召喚スキルはストック可能な経験値を消費する傭兵ガチャみたいなものだけど、結果はまぁ、そこそこ。
喚び出したのは一応ネームドのキャラクターのパッチに、不死人(亡者状態)が4体…………いや、これ実はハズレじゃね?
この世界に来てから初めて使ったスキルだったが、召喚されたのはどいつもこいつも俺が不死人のクラススキルを取った時のワールドにいた奴らのようで、パッチなんかは顔見知りの体で何となく馴れ馴れしい。
しかも、召喚した場所の近くに偶々転がってた死体を依代にしたのか、全員霊体では無くなっている。はい……事前に調べておくべきでした。モモンガにも言われてたのに。
そんで、パッチ以外の傭兵は亡者状態のため、顔がほとんどミイラだ。このままでは人間に見られたらアウトなので、装備で顔を隠させ、冒険者に扮装させる事にしたら怪しい集団になってしまったけど……まぁ、仕方ない。
ついでに、カモフラージュとして冒険者証をクレマンティーヌのコレクションから一部拝借し、流用してある。
そんなこんなで、人がいれば救助し、悪魔をやっつけながら進んでゆき……中心部辺りにいた悪魔たちを指揮していたアビスデーモンがいた。
アビスデーモンと言えば、憤怒の悪魔やらと同格か、やや下がるくらいのはずだから、現地の人間にはまず対抗出来ないレベルのモンスターで間違いない。それも魔神とか呼ばれても可笑しくはないレベルの。
当初はアビスデーモンはゲヘナに参加する予定はなかったらしいんだが、ゲヘナ作戦に一部修整が入ったらしく、投入が決まった……というのを、当のアビスデーモンからのメッセージで知った。
……おそらく、俺の見せ場がないってんでデミウルゴスが調整したんだろう。
アビスデーモンも抜擢された事で大分意気込んでみたいだ。場を盛り上げる為なのか人間煽りまくってたし。
……ただ困ったのは、俺が目立つ事に消極的でいたら、焦り出したのかまたメッセージを飛ばして来た事か。
曰く、何か私に失態がありましたでしょうかとか、気分が乗らないようですが如何されましたかとか。喜んで踏み台となりますので、遠慮なくやっちゃってください。御方の為、私も全力でお役目を勤めさせて頂きます。だってさ……
そんなん言われたら、真面目にやるしかないやん……そのまま、なぁなぁで済ませたらデミウルゴスの激怒がアビスデーモンに向くのは必定。それが容易に予測出来たのか、何か背後に悲壮感出てたもんな……
だから、アビスデーモンも宣言通りに人間の精神破壊させんのに全力だ。ドン底に叩き落として絶望させて、無理矢理にでも『悪魔を調服する聖職者』みたいな場面に持って行こうとするからオチをつけるのに苦労した……
そこで、最古図書館の禁止エリアにあったウルベルト著『雰囲気の有る言葉集vol.2』が役に立った。ウルベルト、喜んでいいぞ……お前の黒歴史集はちゃんと現実で役に立った。
あー、ほんと、顔隠してて良かったわ……
ゲヘナも終盤。アビスデーモンを倒して作戦終了、といけば良かったんだがなぁ……
ソリュシャンからメッセージで連絡があり、ユリとクレマンティーヌの戦闘を止めに戻ればユリはガチになってるし、クレマンティーヌはボコボコだし……
もう、本当にやめてよね……
瓦礫の撤去など、街の復興が早くも始まっている。
こんな王都でも優秀な為政者がいたもんだ。
本来であれば、ゲヘナの終了とともにナザリック勢は王都から撤退する予定だった。しかし、俺は未だ王都からは出立していない。
というのも、デミウルゴスから報告があったからだ。
今回、ゲヘナにおいて王国側の協力者である人物。王女であるラナー姫より拝謁の申し出があると。
デミウルゴス曰く、このラナー姫は頭が相当キレる人物のようで、自身の大切な物を守り、目的を果たすためであれば、王国の民を売る事など躊躇なく実行するような外道らしい。
本来、俺やモモンガがそんな危険人物に会うなど、ナザリックの配下的に勧めることはしないはずなのだが、最終的にデミウルゴスは俺に判断を求めてきた。
ということは、拝謁に応じることで得られる何かのメリットが俺にあるか、デミウルゴスに何かしらの策があるということなのだろう。
デミウルゴスの思惑が何であるかは俺にはさっぱりわからないが、流石に罠であることはないはず。
拝謁の申し出を了解し、しかし、拝謁の申し出がナザリックの代表代理としてではなく、ゲヘナに参戦した聖職者に対してであったのは意外だったが。
聖職者としての顔合わせということもあり、俺が王城へと出向く形になる。
迎えに来た案内人は騎士のようで、何処かで見たことがあると思ったら以前セバスを尾行した際に一緒にいた少年だった。クライムと言ったが、こちらからは特に話すこともなかった。
王城。あまり目立つことのない場所にある一室で会見は行われた。
金糸のような輝く髪に、大きな青い目。外見は可愛らしいという言葉が似合うお姫様だった。こんな人物が本当にゲヘナの協力者とは思えず、内心、即刻帰りたくなったが何とか耐える。
しばらく目を合わせて沈黙が続き、どちらから口を開くのか互いに伺っていると、最初に口を開いたのはラナー姫からだった。
どうやら、要件自体はゲヘナでの救助の礼らしい。ゲヘナに協力してた身で何を言うかと思ったが、後ろに控えるクライムがエッライ、キラキラした目で此方を見ていたので何も言えなかった。
その後もあたり障りのない会話があり、いくつか説法を求められたりもしたが、そういうのは本職の人にお願いします。まじで。まぁ、何とか誤魔化せたんだけどさ……
ちょっとモモンガにも相談したいし、一度ナザリックに戻ろう。ユリも着いてくるらしいから、クレマンティーヌには留守番を頼んだ。
……奴は俺がナザリックに行くことをあまり良く思っていなかったみたいだが、今日は何も言わなかった。
何かの前兆みたいで怖い。
(追記)悪いことでは決してないのだが、これはもしかしたらナザリックで騒ぎになるのではないだろうか……
まぁ……良い思いをしたといえば、そうなのだが。
廊下で会ったユリには何も言われずに逃げられるし、怒ってた? 少しやり過ぎたかな?
ナザリックから屋敷へと戻り、屋敷から王都を出なければならない。
このリ・エスティリーゼでは都市への出入りを厳格に管理しているわけではない。
俺たちがそこまで気を使う必要はないのかもしれないが、どこに人の目があるかもわからないからな。
屋敷の外には何処かで見た冒険者たち。遭遇したのは確か、ゲヘナの中心地で苦戦していた所だったか。
金髪縦ロールのお嬢様風だが、身の丈ほどの夜空色の大剣を背負っている女性。忍者のような装いで、露出の多い格好をしている女性。そして、仮面のチンチクリン……?
旅を急ぐ、という名目で半ば逃げるようにして王都を出てきてしまった。何でか尾行して来てるのもいるし……
まだ全然王都観光出来てないのに……
急に決めたことだったんで、クレマンティーヌとユリとは別口で王都を出ることになった。とりあえず、篝火のあるエ・ランテルに向かい、その途中でクレマンティーヌとユリの二人と合流した。
エ・ランテル近郊。カッツェ平原の近く、ところどころに石垣が積み重ねられているが、家や建物はなく、丈の低い草で一面覆われた広い平地がある。昔はここにも人が暮らしていた村があったのかもしれない。
夕日が世界を橙に染め、これから野営するかという際にナザリックに戻るという提案がユリからあった。しかし、それではクレマンティーヌを残していかなければならなくなるし、せっかく歩いた達成感が無くなってしまう気がした。
ナザリックへの帰還を嫌そうにするクレマンティーヌに、そんな彼女に反発するユリ。二人が野営するか、帰還するかの言い争いを始めたが──日が沈みかけても決着はつきそうもなかったため、言い争いを打ち切って野営の準備を始めた。
オレは天幕の設営、クレマンティーヌは周囲の警戒、ユリは料理の担当だ。
俺はこっちに来てから何故か料理が上手く作れなくなっているし、今まで一人でいた時は街で買った食料を食べていた。当然、街にいる時は外食ばかりだったし、クレマンティーヌも多少は作れるらしいが得意でもないらしい。
ユリはレベルこそ1だがコックの職業を持っているからな。料理バフこそ、あってないようなものだが、ユリの料理は普通に美味かった。
ちなみに寝場所は結局、近くに人がいないことを確認してグリーンシークレットハウスを使うことになった。ちゃんと天幕も設営して、内側も整えたのに。ユリ的には至高の御方が野宿するのはNGらしい。
たまたま草の生えていない土が剥き出しとなった場所を見つけ、そこで篝火を焚いた。
篝火が赤くあたりを照らし、薪が爆ぜるパチパチという音とどこからか虫の鳴き声が聞こえてくる。
クレマンティーヌとユリはやや離れた場所で会話の内容こそわからないが、何かを話しているようだ。
傍目、クレマンティーヌがユリをからかい、ユリがクレマンティーヌに動揺しつつ反発しているように見えた。
ただそこには、以前のような殺伐とした空気はない。
俺が知らない内に、いつの間にか仲良くなって──いや、アレはマウントの掛け合いか。殺伐としてないだけで、特に仲は良くなってなさそうだ。
仰向けになって空を見れば、この世界に来てからもう何度もみた夜空。
転生する前には眺めていても特に何も思わなかった。
転生してからは、空が見えなくなって何か大事な物が失われたようにショックを受けた。
転移してきてからは、またよく空を眺めるようになった。
広い空を見るたびに、自分の小ささが嫌でもわかるような気がする。
フラフラと生きていることの気楽さ、鎮まってゆく感情、そして少しの寂しさを感じてしまう。
どうしても、ため息が出てしまう。
遠いところに来てしまった。
何となく感傷に浸り、思い起こすのは友人だったブループラネット。
この本物の空を見せてやりたかったと心から思う。
もし、この手にあるワールドアイテムの力と不死人のスキルでアイツを呼んでやることができるのなら……
だけど、アイツはもういない。現実はそんなに甘くはないことを知っている。
だが、もしもそんなことが出来たのなら。
なんとなく俺は白いサイン蝋石で自分の名前を地面に書き込んだ。
しばらく待ってみても何も起こらず、ただやはりと落胆した。
地面に残ったのは金色の文字だけなのが、奇跡など存在しないと言っているかのように感じられたからだ。
寂しさを感じる。
今はもう宙の彼方にいるはずの両親に、無性に会いたくなった。
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13.ユリ編※1
現実世界。
ざわめく人の喧騒──各々が数人のグループを作り、思い思いに語らっている。それなりの広さの個室ではあるが、皆が一斉に話すものだからその場に満ちる騒がしさは相当なもの。ついには、会話の声さえ上手く聞き取れず、酒精の力もあってか会話の声量は自然とあがっていく。
その日、古き良き時代の居酒屋というコンセプトで内装が整えられた飲み屋が、ユグドラシル内に存在するギルド、アインズ・ウール・ゴウンのオフ会会場だった。
ほつれ日焼けた畳、ぺたんこに潰れた座布団、塗装の剥がれたちゃぶ台、剥き出しの白熱電球、壁に無数に貼られた古今東西のsakeの小汚いラベル。
今どき珍しいでは済まされない天然物のイグサの畳に、消耗品のアンティークの灯り、今はもう存在すらしていない古い酒のラベルなど、見る人が見れば目を剥いて感心したかもしれない。
そんな一見、安っぽく見えて安心できる店内ではメンバーの各々が滅多に食べることの叶わない工場産の野菜や遺伝子組み換えされた家畜の肉にどよめき、それらを使用した料理や美味い酒に舌鼓を打っていた。
「最近いとこが結婚してね。そろそろアナタも見つけなさいって、親とか親戚がうるさいんだ」
酒の酔いが回り始め、周囲の喧騒がどんどん大きくなる中、隣に座っていたやまいこが唐突に発した。
「──さんはどう思う?」
「どうって……いい出会いがあればそれからでいいんじゃないか……?」
問われた男は言葉につまった。どんな答えを彼女が期待しているのかわからず、何と返したらよいのか悩み、返答に窮したからだ。
「そうだね……でも、その出会いがないから」
そう話す彼女は言葉とは裏腹に、全く焦るような態度を示していなかった。
「小学校の教師だったか? 出会いありそうだけどな」
男は、友人の教師が、同僚と隠れて付き合っており、ついぞゴールインするまでバレなかったと武勇伝のように話していたのを思い出した。
「あはは、それがないんだ。出会いも、そんな時間も全然ないしね」
「あ、同僚でいないのかとか考えてるのかい? ない、ない。それは正直有り得ないよ」
「子ども達はなかなか言うことを聞いてくれないし、保護者はアレコレ口出してくる上に、上司はヒステリック……残業、残業の毎日さ。身の置き場がないじゃないか。ストレスばかりだよ」
気が付けば、そう話す彼女の頬は赤くなってきており、酔いが回っているのが見てとれた。
「そ、そうなのか……大変なんだな」
「ふふ……君が僕の癒やしになってくれても、いいんだよ?」
「そんな理由で誘われてもな……でも、教師、好きでやってるんだろ?」
「あははっ、流されてしまった。いや、まぁ……もちろん、初めはそうだったさ。でも、それなりに仕事を続けてると、好きだけではどうにもならない事ってあるだろう?」
「そうなのか?」
歯切れが悪い。やはり、職場関係で悩んでいるのだろうか。もしかしたら、やりがいを見失いかけているのかもしれないと男は思った。
「ふむ……──さんは、アーコロジー所属のエンジニアだったかな?」
「そうだな。アーコロジー内の環境管理やメンテナンスが主だな」
大気汚染の進んだ現代において、人の住むアーコロジーが生命線であるのは万人の知るところだった。
そのため、アーコロジーの専属エンジニアは貴重な人材であり、人の生活環境を守る番人とも言える。
「へぇ……アーコロジーの環境管理の仕事ってやろうと思ってやれる仕事じゃないよね」
「まぁ、そうなのかもな。部外秘の技術もあるし、企業スパイとかもいるから、ある意味身内ばっかり集まった職場かもな」
最先端の技術がふんだんに使われたアーコロジー施設は機密の宝庫でもある。当然、それを狙ってアーコロジーを支配する巨大複合企業のライバル企業がスパイを送り込んで来たりもする。
「親父も技術者だったし、俺は親父から仕事引き継いだって感じか。最近は仕事も任されるようになってきたし、やりがいはあるよ」
恥ずかしながら、男には特に仕事に思い入れはない。ただ親父から引き継ぎ、その背中を追いこそうという点でこれまで頑張ってきたのだ、と話す。
「なるほどね……安定の職、将来性、か……」
「やまいこさん?」
男はどこか不穏な雰囲気を醸し出すやまいこに対して、呼びかけた。
「あぁ、いや、ごめん」
男の呼びかけに我に返ったやまいこは、何事もなかったかのように謝った。
「それにしても、こんなお店もよく知ってたね。よく来るのかい?」
「いや、流石に滅多には来ないよ。ここは知り合いにたまたま教えて貰えたんだ」
オフ会の幹事も務めていた男が、そう答えた。
「ふーん、そうだったのかい……」
ヤマイコと呼ばれた女性が店内を見渡す。
今どき珍しい飲み屋だった。
普段、合成食品ばかり口にしている彼女が工場産の野菜を食べたのは久しぶりで、本物の肉などいつ食べたか記憶にないくらいだった。
如何にも小汚い内装を装ってはいるが、細部まで執拗とも言える拘りがある。そして、出している料理の質は高く、どこかアンバランス。
それだけでここが店主の趣味で開かれている店だということが想像でき、概して、そうした店は客を選ぶものではないのかと彼女は想像した。
「ねぇ……また今度、僕と君と二人でご飯でも──」
やまいこのどうかな、という言葉は遮られた。
「もう、二人だけで何話してんですかー!! 俺も混ぜてくださいよ!」
岩のように角張った顔のブループラネットが顔を赤くして乱入してきたからだ。
「──そういや、こないだ俺見つけちゃったんですよ! なんと……かなり昔にあった自然科学雑誌! 紙媒体ですよ、紙媒体! 珍しいですよね、もはや存在してないと思ってたんですが。んで、気になって、ちょっと調べてみたんですけど、オンラインだと結構バックナンバー見れたんですね。知ってます? 俺が最近気になってるのは昔の人が書いた星座の記事なんですが──」
突然話に入り込んで来たかと思えば、マシンガンのように言葉を繰り出す。男は苦笑した。
「……ふむ」
反対に、邪魔された形のやまいこは男達の会話に加わることが出来ず、微妙な表情をしていたという。
□
いつからでしょうか、胸の内に燻る火のような葛藤があると気付いたのは。
恐らくは、最後に創造主であるやまいこ様にお会いし、別れを伝えられた時なのかもしれません。
燻る火。
それは多分、至高の41人の一人であらせられる彼の御方への思慕、そして心残り。
やまいこ様が最後にナザリックへと来られたあの日、ボクに別れを告げた時も御方様を想っていたのかもしれません。
それが、やまいこ様の創造物である私に燻る火として引き継がれた。
ですが、この感情は決して許されるものではなく、同時に永遠に叶うべくもない望みであるとも気付いていました。
創造された身でありながら、創造主の想い人であった御方様をお慕いするなど……
ずっと、そう思っておりました。
現に僕は御方様の御姿を見られて、仕えられたらそれで満足だったはずなのです。
ですが──御方様がナザリックに帰還する頻度も少なくなり……この世界に転移してから初めてご帰還なされた際、久方ぶりに拝見したその御姿は、僕にこれまでとは比べ物にならない、途方もない衝動をもたらしました。
それはまるで一面の灰色の世界に、鮮やかな色を持つ存在が現れたかのように、僕は御方様に惹きつけられてやまなかったのです。
□
「第一、第二、第三階層守護者シャルティア・ブラッドフォールン。御身の前に」
「第五階層守護者、コキュートス。御身の前に」
「第六階層守護者、アウラ・ベラ・フィオーラ。御身の前に」
「お、同じく、第六層守護者、マーレ・ベロ・フィオーレ。御身の前に」
「第七階層守護者、デミウルゴス。御身の前に」
「守護者統括、アルべド。御身の前に」
「第四階層ガルガンチュア及び第八階層守護者ヴィクティムを除き、各階層守護者、プレアデス、以下各層下僕たち、御身の前に平伏し奉る。……ご命令を、至高なる御方よ。我らの忠義全てを御身に捧げます」
『至高の御方に絶対の忠誠を』
階層守護者の方々の口上の後、玉座の間へと集められた我らプレアデスや下僕たちが唱和しました。
その日、僕達は玉座の間へと集められました。
通常であれば、こういった場に僕達プレアデスが参列することは基本的に多くありません。
戦闘をこなせるとは言っても本質はメイドであり、至高の御方の側に仕え、非常時には盾になることこそが僕達の本来の役割だからです。
まして、今回のように一般メイドや各層の主立ったモンスター達まで集められるとなると、かつてないことでした。
ナザリックの支配者であるモモンガ様が玉座から立ち上がると御身体から闇が立ち昇り、周囲へと言葉では表現しがたい重圧がかかります。
「ご苦労。皆、よく集まってくれた……皆をこの場に呼んだのは他でもない、重要な報せがあるからだ。今日はナザリックにとって……そして、私にとっても喜ばしい日となる」
「私はその喜びを皆と分かち合いたい」
本日のアインズ様は本当にご機嫌がよろしいようで、言葉の端々からも歓喜が伝わってきます。
「思えばナザリック地下大墳墓が未知の世界に転移してから早くも一月。これまで、私たちは目を凝らし、耳を澄ませ、手を伸ばしてこの未知の世界を探ってきた。その道中、慣れない環境で苦労かけることもあっただろう」
「故に、お前たちの献身には心からの礼を言おう」
そう仰るとアインズ様は僕たちに目礼なされました。下僕に礼を言うなど通常では有り得ないのですが、アインズ様は私たちのことを慮って下さる得難い主です。
「お前たち下僕の献身は確かにナザリックの為になっている。いくら私が差配しようとも守護者や下僕たちなくしては、このナザリック地下大墳墓が成り立つことはないのだ」
「そして今日──お前たちの献身はようやく一つ報われる」
自己犠牲、などとは思ったことはありません。ボクたちにとっては至高の御方に仕える以上の喜びはないのですから。
ただ、アインズ様が仰る言葉から察するに、何か重大な成果があったということはわかりました。
「ナザリックを想うお前達の意思が彼を再びここに導いたのだと誇れ」
彼……?
「フフ……もったいぶるのは止めておこうか」
「さぁ、喝采をもって歓喜せよ! 私の莫逆之友であり、アインズ・ウール・ゴウンが至高の41人の一人。不死の騎士がナザリック地下大墳墓へと帰還したぞ!!」
――ッ!
爆発的な歓声が玉座の間に満ち、中には呆然とその場にへたり込む者やただ涙を流す者もいる。
僕もその一人。その唐突で、衝撃的な内容に身体に電流が流れ、頭が真っ白になったことを覚えています。
そして、心の底から沸々と湧いてくる期待感と震えも。
「開門せよ!!」
玉座の間を隔てる重厚な門が音をたてて開き、そこから現れたのは、銀色に鈍く輝く騎士甲冑に美しい青のサーコートを身に纏った至高の御方。
彼の御方は玉座へと続く道をゆっくり歩み、居並ぶ私達の側を抜け──とうとうアインズ様の側へと辿り着きました。
「……」
目が離せなかった。
アインズ様の隣に立つ、かの御方の甲冑が赤熱しだし、輝かしいほどの業火を身に纏います。
美しかった騎士甲冑は火に焼け、炭化したかのように黒く、怨念を現すかのような禍々しいものへと変貌。青のサーコートは焦げ付き、元の美麗な姿はもはや見る影もありません。
業火が治まった後も黒く変貌した甲冑は未だ熱を孕み、いたる所で赤熱している。そして、その頭上。ヘルムの頂部が太陽を象るように波打ち王冠と成した。
ーー怨念を背負っているかのような姿は禍々しくも、どこか物哀しい。しかし、それこそが、かの御方の本来の、異業種としての姿。
その身に封じ込められた膨大な熱が波となり僕達の肌、目を焼き──
近づく者、その身に触れる者全てを燃やしてしまいかねない、その魂の震えるような畏敬に、自然と涙が溢れました。
強烈な熱。ジクジクと痛む目を見開き、その御姿を網膜に焼き付けた。
あの御姿こそ、僕が何度も夢想し、もう一度拝見いたしたいと願った至高の御方でした。
「皆、まずは集まってくれて感謝する」
そのとても懐かしく感じる穏やかな声に。
「そして、しばらくナザリックを不在にしていたことを謝ろう。皆に心配をかけた」
「そ、そんな! 僕達は御方様がナザリックへとご帰還していただけただけで……!」
気がつけば叫び、周囲が僕らしくない行動を取ったことに驚いていることにも気付かず、涙溢れさせ、僕の心に宿った種火が一気に燃え上がりそうになって。
「っ? ……う、うぅ……」
ぎゅうぎゅう、と──
動かないはずの心臓が苦しく、抗い難い、正体の分からない情念が膨れあがってゆくのを感じてしまいました。
……
御方様が帰還なされてから数日後のあの日……
僕達プレアデスはアルベド様に呼び出されました。
『あなたたち、元とはいえ何処の馬の骨ともしれない人間に御方様を寝取られて悔しくはないの?』
悔しくないわけがありません。でも、それは御方様の自由であり、仕方のないことでもあります。
『こともあろうに、あの女は御方様のこ、恋人を自称しているらしいわ』
ナザリックの仲間どころか、見ず知らずの存在が御方様の側に侍っているのも、その女が恋人を自称している不敬も耐え難い屈辱で……
僕は湧き出す醜い嫉妬の感情を抑え込むことで精一杯でした。
『このままでは、御方様はいずれあの女と再び旅立たれてしまうことでしょう……』
それは、決してあり得ないとは言えない絶望の未来。
焦る気持ちばかりが、グルグルと頭を巡ります。
『御方様がいなくなっては、アインズ様も悲しまれるわ……それに私とアインズ様が結婚する時の保証人がいなくなってしまっては……』
回避しなけなければならない、絶望の未来に懊悩している僕に──
『あなたたちに命令します。なんとしても……御方様をナザリックに引き留めなさい。そう、方法は問いません。その体を使ってでも……』
その言葉はストン、と僕の心に嵌りました。
『ナザリックを、御方様の戻らなければならない居場所にするのです』
それをあの時の僕は……愚かなことに天啓にも勝る言葉だと感じたのです。
□
モモンガとのナザリックの将来的な指針について纏めるための会議を終えた後のこと。
男が自室へと戻るために回廊を歩いていると、ぬいぐるみなのかペンギンを抱え――いや、よく見ればエクレールだった。ワンピースの水着を着用したシズが御方と呼ばれる男に声をかけた。
「御方様、ご寵愛を願う」
「はあ?」
同時に、バニーガールの衣装のナーベラルが羞恥で顔を紅くさせながらも、寵愛を乞い願う。
「お、お、お、御方様っ、どうかあんな女などにではなく私にご寵愛を……」
「……」
「おい、何してる……とにかく、服を着替えて冷静になれ!」
混乱した男は早足にシズとナーベラルから逃げ出し──
曲がり角から唐突に現れたソリュシャンと衝突した。
「キャッ」
「す、すまない」
ソリュシャンは座り込み、辺りには銀の盆と水差しに湛えられた水が散乱していた。
「いえ、私が悪いのです。御方様、大変失礼いたしました」
「あぁ……申し訳ございません。大切なお召し物が水でお濡れに……着替えをご用意致しますので、一先ずこちらへ……」
ソリュシャンが近くの部屋へと誘導しようとする。
男はソリュシャンの無機質な目から、何となく嫌な予感がした。
「い、いや結構っ。先を急ぐからな」
「御方様──」
置き去りの形となったソリュシャンの口元は大きく弧を描くように歪んでいた。
様子の可笑しいプレアデス達から逃げるように自室へと駆け込んだ。
ようやく辿り着いた自室には何故かユリがおり、男は警戒する。
「おかえりなさいませ。アルベド様より御方様がナザリックにご滞在中のお世話を仰せつかっております。失礼かとは思いましたがプライベートルームにてお待ちさせていただきました」
「あ、ああ。そうなのか……だが、俺に世話などいらんからな……」
「申し訳ありませんが、そうはいきません。至高の御方にお仕えする。それがボ──失礼しました。私達の、存在意義ですから」
ユリが微笑み、その言葉にユリは大丈夫そうだと、男は一安心した。
備え付けのソファにドカリと沈むようにもたれる。革張りのソファは柔らかく、少し冷やりとしていた。
溜息を一つ。
「いったいアイツらはどうしたというんだ……」
男はストレスのせいで気疲れしたせいか、目頭を抑えた。
寵愛だのなんだの、プレアデスの三人は頭がどうにかなってしまったのだろうか。
「ユリは何か知ってるか?」
「あ、いえ……」
ここに至るまでの経緯を話し、何か事情を知らないかと尋ねてみる。
しかし、返ってきたのは短い否定。男から見えるのはお茶の準備をするユリの後ろ姿だけだった。
再びの溜息。
──静寂。
ルームに備え付けられている振り子時計の規則正しい音だけが木霊していた。
「……はぁ……なんだかユリを見てると、やまいこさんを思い出す。二人は似てるな」
男はユリの淹れた紅茶で一服して落ち着いたのか、ユリの姿を見つめて言った。
「やまいこ様、にですか?」
「あぁ」
ユリの胸の内に急速に広がってゆく幸福感。創造主に似ていると言われたことは、何にも勝る褒め言葉だった。
ただ、可笑しかったのは……
「やまいこ様は、半魔巨人でしたが……」
男は苦笑した。
そういえばそうだったな、と。また、醜いとされている半魔巨人に似てると言われて喜ぶ女性がいる訳ないと気づいた。
「そうじゃない。やまいこさんにはもう一つ人としての姿があってな……」
思い出すのは、やまいこの姿。
教師然としていて、厳しくも優しい女性だった。密かに抱いていたのだろう、婚期を気にしているような印象は少しアレだったが……
「容姿こそ違ってはいるが……ユリの話し方、立ち振る舞いはやまいこさんによく似ている。普段はボクを一人称に使う所もな」
男が笑い、ユリは恥ずかしくなった。普段は気をつけているが、ボク、という一人称がふとした時に出てしまうから。
やまいこが僕という一人称を使うことは、よく知っていたが、やまいこも普段は私を使うようにしていた。
「ユリは知っているかわからないが、やまいこさんはナザリックにいない時は教師をしていたんだ」
「そういえば、ぶくぶく茶釜様や餡ころもっちもち様方とそんな話をしていたのを聞いた覚えがあります」
懐かしき茶会の光景。ユリは創造主であるやまいこ達が、よく第六階層で会話を楽しんでいたことを思い出した。
「思えば、やまいこさんはお前に理想を込めたのかもしれないな」
「理想、でございますか?」
「そうだ」
いつの間にか止まっていた手を動かす。
ボクがやまいこ様の理想、という言葉を胸の内で反芻する。
「そ、そんな……私など……」
カップを用意する振りをして、褒められたせいで顔が赤くなっているのを見えないように隠した。
「やまいこさんの人としての姿はユリほど背も高くはないし、あー……女らしさも少々足りなかったからな……脳筋だったし……」
懐かしくなって笑みを浮かべた。
「あ、いや、断っておくが、やまいこさんを悪く言っているわけではないからな?」
「ふふ……承知しております。近しいが故の親愛表現と取らせていただきますが、女性におっしゃるのはお勧めいたしませんよ」
「……すまん」
ユリが困ったように、口元を隠して笑った。
ユリの知らない創造主の話は大変に興味深く、そしてユリ自身も男と話すことが楽しかった。
「それでも、何故だかお前たちが本当の姉妹のように見えた」
「姿勢の良さだったり、その後ろ姿も……それだけユリにやまいこさんの面影が見えるって話だ」
嬉しかった。
男が創造主のことを考えていてくれることが。創造主との共通点を探して、ユリを見てくれたことが。
「そう、なのですか……ありがとうございます」
「あいつは何かあるとすぐに物理的に解決しようとするからギルドメンバーに脳筋先生なんて言われてたが、人としての見た目は颯爽とした、芯の強い美人だったからな」
「……うん、やっぱりお前たちは似てるよ」
男はそう締め括り、一口、紅茶を含む。
ふと、ユリは過去の在りし日に思いを馳せる。
『やまちゃん、その後アレはどんな感じよ?』
『あー、どうだろう。駄目かもしれないね。好きなタイプとかそれとなく聞いてみたけど、クールで眼鏡が似合う女性だってさ。まるで僕と正反対じゃないか!』
『それってまんまユリじゃん』
『そうなんだよね。何か悔しいな……くっそー、ユリに寝取られた!』
『笑』
『でも、クールで眼鏡が似合う女なんて実際、現実にいると思うかい? いたとしても、どうせ私生活では干物とか、喪女とかじゃないか』
『あははっ、負け惜しみ乙』
それは、かつての創造主たちのお茶会での会話。
「……」
色々と理解出来ない単語はあったが、御方と呼ばれる男の好みがユリに近いことは何となく理解していた。
思い出せば、カッ、と血の通わない顔が熱くなったように感じる。動かないはずの心臓がドン! ドン! とドラムのように鳴っているように錯覚する。
「あの、ありがとうございます……」
「あ? うん? あぁ……」
何に対してのありがとう、なのだろうかと男は逡巡した。
ユリにやまいこの話を聞かせたことか。
それとも、ユリがやまいこに似ていると伝えたことか。
はたまた、ユリがやまいこの理想の姿なのかもしれないと聞かせたことなのか。
男はきっとその全てに対してなのだろう、と感謝の言葉を消化したのだった。
時間がゆったりと流れるような静寂。ユリが淹れてくれた二杯目の紅茶の良い香りが鼻孔をくすぐる。
「……あ、の……御方様はまた旅立たれるのでしょうか?」
「さてな。だが、色んな物を見てみたいとは思う」
そう話す男はリラックスした様子で、紅茶の香りを楽しみながら一口含んでゆっくりと嚥下した。
「お願いいたします。どうか私達をお見捨てにならないでください」
「は? いや。見捨てるなど……」
硬質な声音で放たれた、不穏な言葉にユリを見やる。
いつの間にか、ユリは自室の扉の前に移動していた。男から見えたのは、ユリの後ろ姿。
「愚かな行為をどうかお許しください。ですが……ぼ、ぼくはっ……あなた様がナザリックに居てくださるのであれば何でも致します。つ、罪も受け入れてみせます」
カチャリ、と部屋の鍵がかかった音がした。
「おい……どうした」
ユリの手が震えている。現実感がなく足下がフワフワするような感覚だった。
夜会巻きを解いた。盛られていた髪は解けて下ろされ、ふわりと緩やかなウェーブのかかったロングとなる。
ユリが感じていたのは罪悪感か。創造主の想い人と同じ方を慕うことへの躊躇いか。
慕っていただけならば、問題なかった。秘めてさえいれば良かったから。
しかし、これから成そうとしているのは創造主への裏切りにも感じていた。
決して捨ててはならないものを投げ捨てるかのような……精神が削がれ、堕ちてゆくような恐怖を押し殺し──
メイド服をはだけた。
中から現れたのは紫のラインの入った白のベビードール。豊満なバストがこれでもかと存在感を主張していた。
「お、おい! ユリ!」
男の前で跪き、見上げた。
「あ、あの……恥ずかしかったのですが、ソリュシャンから色々と教えて貰いました……」
──これは命令。仕方のないことなんだ。やらなければ引き留められない。やまいこ様だってこの感情をボクに引き継がせたんだ。だから、ボクはやまいこ様を裏切ってなどいない。
ユリ自身でも理解しきれない困惑を含む、儚げな笑みを浮かべた。
「お疲れのようですので、お体を労ってさしあげたく思います」
断ってからズボンに手をかけ、脱がせようと──
ユリ・アルファ!!!
「……っ」
威圧的に怒鳴られ、我に返った。
「もっ、申し訳ありませんっ……ボクは……」
ユリの顔色は白を通り過ごし、青くさえ見える。先程まであった覚悟は跡形も無く吹き飛んでいた。
男に拒絶されたことを理解したからだ。
「創造主様から引き継いだ感情を免罪符に……御方様のお気持ちを考えず……」
「ボクの……ボクの……」
「も……申し訳、ありません……」
しでかしてしまった失態に絶望し、津波のように押し寄せる後悔でハラハラと涙を流した。
「ユリ……俺はそんなことを望んではいないんだ。お前たちナザリックの下僕は、俺たちの子も同然。子にそんなことをさせる親がマトモか?」
男には何故こうなったのか訳がわからなかった。
ただ、先程の言葉からナザリックへと自身を繋ぎ止めるために、女を使おうとしたのは理解できたが。
だが、果たしてユリはそんなことを思いつくような性格なのだろうか? それに創造主から引き継いだ感情とは?
男は困惑していた。
「で、ですが……」
「ん?」
「……」
「やまいこ様は戻って来ることはありませんでした……御方様までいなくなってしまったら、ボクは……」
正気でいられる自信がありません、とは言えなかった。
「……」
それがユリを縛る怖れなのだろうか。
「ボク達が子、というのならば何故……やまいこ様はボクに別れを告げたのでしょうか……親が子を捨てるなんて──」
「捨てたんじゃない」
男は強く否定した。
「アイツらにもナザリックを出なければならない……理由があったんだ」
「理由……」
頭を急速に働かせ、それらしい言い訳を考えた。
ユグドラシルはただのゲームだったから、ログインしなくなっただけ、とか口が裂けても言えなかった。
目の前には心に傷を負った女性。断じて、そんなしょうもない理由を話せる訳がない。
「そうだ。アイツらは今でも闘っている。敵なんて単純なモノじゃない。アイツら自身と」
「? よくわかりません……」
意味深な言葉で煙に巻こうとしたが駄目らしい。どうしたら……と焦りが募る。
ふと、子どもだった頃の自分を男は思い出した。そういえば、俺も両親とは今生の別れをしていたのだった、と。
「……だろうな。あー、俺の話なんだがなぁ……俺の両親はな、新たな未来を想像し、創造するために二度と会えない遥かな地へと旅立ったんだ」
ユリは目を瞬かせた。
初めて聞く話だ。
至高の御方々は、ナザリックを創造し、ユリ達を生み出した。つまりは彼らにとって神の如き存在である。
その創造主の親とはつまり……古い偉大な神とも言えるのではないか。
まして、未来を創造するなど、それは世界を一から生み出すかのような言であり……
「わかるか? 俺も親とは離別してるんだ」
ユリの表情が変わり、男はユリの表情を確かめると続けた。
「両親が旅立ったのは、それは他者のためでもあったが、彼らのためでもあった」
「彼らが抱いていた、未来を創るというデカすぎる挑戦、胸に秘めた火を消して、本当に生を謳歌できたと思うか?」
男はユリに問うた。
胸に秘めた火を、野望をお前は無視出来るか、と。
「無論、今の俺はそうは思わないし、火を燻らせた両親なんて見たくないって思いもある」
ただ、まるで昔は違ったとでもいうかのような言。
「昔、両親が旅立った時、何で俺はそこに行けないんだって喚いて、嘆いたが……」
「当然だな、俺には火がなかった。そもそもが両親についていく資格がなかったんだ」
そこは胸の火を命を賭けて燃やす者だけが努力の果てに辿り着ける場所だから。
「……わかるか? アイツらも、胸に火を灯してナザリックを旅立ったんだ」
彼らそれぞれの野望を自分の力で叶えるために。
「だから、許してやってくれってのは勝手がすぎるのかもしれないが……」
「……」
ユリは何も言えなかった。
彼女もやまいこに着いて、野望を叶える手助けがしたかった、との思いはあった。
しかし、男の話からユリにはその資格がないことにも気付いていた。
実際に、ユリはその野望を叶えるための火を持ってはいないのだから。
「なぁ、ユリ……生きる、ってことは……人生はな、出会いと縁と別れでできてる。出会ってから別れるまでの間に、嬉しいことや悲しいことがあって、それを無事に越えていくことが生きるってことなんじゃないか」
もう一息だ、と男は畳み掛けるような調子で話した。
「お前たちはなまじ頭がいいくせに、生きた経験がない」
だから、胸に秘める火も起こらず、本当の意味で自分自身を大事に出来ていない。
「このナザリックという閉じた世界じゃ、平穏と兄弟のような仲間たちは得られるが、もっと嬉しいこと、すごく悲しいこと、たくさんの出会いだって味わえないだろう?」
「それに、ユリがあいつらとの別れを悲しむばかりでは、惜しいと俺は思う」
それはとてももったいないことだと男は言う。
「俺とお前がこうして話しているのも縁」
「……なぁ、外の世界を見てみないか?」
「俺が連れてってやる」
その時の男の不敵な笑みは、ユリの胸に憧憬の念を抱かせ、切なげに締めつける。
御方と慕う男に連れられて、ナザリックの外を見られる日が来ることの想像は、ユリにとって、とても心が踊る未来だった。
□
そして――御方様が王都へと向かうのに際し、身の安全を守る同行者が必要になり、光栄なことにボクが選ばれた。
勿論、御方様の護衛として、メイドとして主が不自由のないように王都まで同道するという重要な使命であることも理解していました。
それでも最初、僕は御方様と共にナザリックの外の世界を見て回ることが出来る。そして男女が二人きりになれば……と羞恥と焦り、期待に胸を膨らませていたのです。
なのに……
どうして現実とはこうも上手く行かないものなのでしょうか。
「ねー、疲れたーおんぶして?」
「あ、あなたっ! 御方様に何と無礼な!」
「ねっ、いいでしょ? 私達の仲じゃん」
こ、この女ぁ! 無視するな! なんなのですか彼女は!
「頼むから自分で歩け……」
「ほ、ほら見なさい! 御方様はあなたの下品な言動に飽き飽きしているのです! さっさと離れなさい!」
御方様がうんざりしたように彼女に言いました。僕が再度注意を促すと、金髪、赤目の彼女は無言でこちらを見やり……
「はっ」
鼻で笑いました。
こ、この女郎……!
今すぐに叫びだし、殴りかかりたい欲求に駆られましたが、今、御方様の前でそのようなことが出来るはずもありません。
ただでさえノウキンじゃないかと思われている節があるのです……
最初にこのクレマンティーヌという女性を御方様に紹介された時から、彼女は気に食わない存在でした。
不躾な見定めるような視線。
すぐに何かを感じ取ったのか余裕の態度を見せた。
挙げ句の果てには、嘲笑を浮かべた笑みをボクに向け、鼻で笑う始末……!
気がつけば殴りかかっていました。
幸か不幸か、その時は御方様が取りなしてくれたので、大事に発展することもなく、ボクも何とか落ち着く事ができたのですが……
それ以来、彼女とは仲良くなど出来るはずがないとの思いがあります。
それに……あの時は僕が攻めきれなかった。
どうやら彼女は一筋縄ではいかない存在ではあるようです。
持っている素質、武力も悔しいですがそれなりと認めるしかありません。
御方様もこの女性の成長に期待しているような雰囲気があるのも感じています。
──ですが!
僕が何度、注意し、言動を改めるように言っても聞く耳すら持たない。ボクは一応、彼女の先輩にあたるのですが。
やはり、彼女は本当に気に食わない……!
「ね、え〜」
「はぁ……」
ま た!!
御方様もこの女のせいで、お疲れのご様子。
到底、許せません……
だいたい、こんな下品な女性が御方様の側に侍っていることから間違っているのでは?
御方様は慈悲深く、寛容です。
この女性が何度、無礼な態度を取り、高慢な口調で話し掛けても正すこともありません。
御方様も諦めている可能性もありますが……
僕がこの女性を教育し、必ずや態度を改めさせなければならないのです……!
□
道中、言葉の応酬を繰り返し、何度かモンスターの襲撃を受けつつも、王都に辿り着くことが出来ました。
ようやく辿り着いた王都の街には人が溢れていました。
ナザリックの荘厳さとは比べるべくもありませんが、大きく立派な外門であることには間違いありません。そこを抜けると、物売りの呼び声に沢山の人で活気に溢れています。
ここはいわゆる下町、と呼ばれる場所なのでしょうか。
「すごい人……」
人間の街の活気に圧倒されていると御方様に問われました。
「ユリ、人間が何故、あんなにも忙しなく動くか知ってるか?」
「はい? あ、いえ……」
それは……守るべき家族がいるから……? とかでしょうか。求められている答えがわかりません。
御方様は人間が忙しなく動く様を眺め、僕に教えてくださいました。
「人間は、生まれてきた瞬間から死に向かって歩いていくんだ。そう思うと、今この瞬間が惜しくなってくるのさ」
「あれも欲しい、これも欲しいって色んな物を集めながらな」
それは何とも意味深げな話でした。
「な、人間は欲深いだろう?」
「はい、人間の欲望には底がないのではないかと……」
あまりの欲深さに身を破滅させるのは、いつも人間。そのくせ、力も弱く、すぐに死ぬ。
だからナザリックの仲間たちは人間を嘲笑し、下等生物と呼んで憚りません。
「そうだな。だが、人間にとっては欲望こそが生きる原動力になる」
そう、なのでしょうか?
御方様のおっしゃることです。本当にそうなのでしょう。
続けられた言葉は、アンデッドである僕にはなかなか理解の及ばない内容でした。
「生き物が死ぬときは、欲望がなくなった時」
「腹が空かなくなる」
「喉が渇かなくなる」
「言葉が話せなくなる」
「目が見えなくなる」
「耳が聞こえなくなる」
「触られた感覚がなくなる」
「そうして初めて自身の死に向き合う」
「これまで自分はどんな人生を送ってきたのかってな」
「そうして自分が手に入れてきた物を数えて、してきた善行、悪行、心残りを心の秤にかけるのさ」
御方様は人間のことをよく御知りになっているご様子。
きっと、ナザリックの誰よりも。
あの気に食わない女性ですら御方様の言葉に静かに耳を傾けています。
普段からそうしていなさい。まったく……
「人間は死が避けられない物だって、よくわかってる。それはアンデッドだって変わらない。最期に本当の死を迎えようとする時、自身の生に向き合わなきゃならない」
なんとも御方様のお言葉は考え深い。普段からそのような事をお考えになっているとは……
「たまに死者が蘇生を拒否することがあるらしいが、俺はそうやって心の秤に色んな物をかけた上で自身の生に満足出来たのか、そうでないのかを計って決めてんだと思っている」
「満足出来たのか、そうでないのか……」
僕は正直な所、御方様のお言葉に感心するばかりで、その内容に理解が及んでいたとは言えませんでした。
「満足してんのに生き返っちまったら、それでは蛇足だろう? せっかく生に満足して逝けたのに、最後の最後でケチがついちまう」
確かに御方様のおっしゃる通りです、と尊敬の念を抱いていると……それまで静かに話を聞いていた彼女が突然、口を開きました。
「ふーん……? なるほどねー。でも、それって結局は自分をよく見つめて、後悔しないように生きなさいねってだけの話なんでしょ? 法国のジジイ共じゃないんだからさー」
あはは、と彼女は嗤う。
「つーか、そんなこと言ってても、蘇生できるのだって一定以上の強い奴だけじゃん。強い奴ってズルいよねー。弱っちい雑魚じゃ蘇生して自分を見つめ直すことだって出来やしないし。あっ、雑魚は雑魚なりに生きて後悔すんなよって言いたかったのかなー?」
「あなた……!」
その無礼過ぎる言いざまに一瞬の内に頭に血が登ったのを感じました。
「まぁ、それもあるかもな」
「えぇっ!?」
御方様も流石にお怒りになるでしょう、との期待はまさかの同意で吹き飛びました。
「だけど、俺はこうも思う。蘇生ってのは残酷だなってな。強者の方が欲深くて何度蘇生を繰り返しても後悔ばかりかもしれんし、選択を強いられているのも事実。もしかしたら、弱者の方が一発でいい人生だったって満足できる奴は多いのかもしれん」
「何かに強く執着してる奴ほどそれまでの人生に満足出来るかは難しい。だが、健全かつ平穏な生活を送っているのなら心安らかではある。果たして、どちらが良いんだろうな」
「……」
御方様の言葉に彼女はどこか悲しそうな顔をしていました。
何故、あなたはここでそんな顔をする?
何に対して哀れんでいる?
御方様の、何を理解している?
……わからない、僕には
「私は……生きていたい。少なくとも目的を果たすまでは。それに……あんたは私を生き返らせてくれたけど、私に後悔なんて少しもない」
彼女の御方様を見る、その目には『意思』があった。
「そうか……まぁ、別に俺はお前らにあぁしろ、こうしろと言うつもりはない。不死の俺が到底言えたことじゃないが、ただ俺は蘇生の魔法があまり好きになれないってだけだ。生きる、ということに真摯に向き合えなくなる気がしてな」
「俺が言いたかったのは、もしもお前たちが死の間際に後悔したくないなら、今からでも満足いく生を自身で造り上げるべきなんだってこった。説教臭くなっちまったな……はい、この話終わり!」
御方様と彼女は……
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14.ユリ編※2ー1
夜もふけた王都、滞在中の館にて。
館でも一等の貴賓室。ナザリック大墳墓にある至高の41人のプライベートルームには到底及びもしないが、丁寧に清掃されており清潔感がある。
大きな寝台では、ランプに照らされて重なり合った一つの影。
「あー、やっと二人きりになれたねー?」
対面座位の形で男に跨り、クレマンティーヌは愛おしげに男の髪を撫でた。
「もーあの真面目ちゃん、しつこいったら」
「そう悪く言うな」
「だってさー」
口を尖らせた女は男の首に腕を回し、甘えるように肩口をガジガジと噛む。
そんな様子で、どこか不満気にしながらもリラックスしていたのだが。
ふと、彼女の目が一点に留まる。壁に黒布のフード、白と水浅葱の厚手の布地に金糸の刺繍の帯が縁取られたドレスがかけられていたのを彼女は発見した。
「んー?」
訝しげに、目を細める。
その衣装を最初に見た際には嫌そうな顔を、次いで見当のついた女はニヤニヤと、面白い遊び道具を見つけた猫のような目をした。
「修道服……? あ〜、今度はそういうのがいいのかなー?」
「……お前のゲヘナでの衣装を考えていただけだ」
女のからかいに男は溜め息をついた。
ゲヘナ──モモンガから伝えられた冒険者モモンの英雄としての地位を不動のものとし、ついでに資源を確保しつつ、王国の裏社会を掌握するとか何とかするための作戦だ。
衣装と得物は、その計画中であるゲヘナ作戦を間近で見物するに当たり、犯罪者である彼女を連想させ、身バレの危険に繋がる物は避けた方が無難と男は判断していた。
故に、修道服については、ゲヘナでの衣装や装備を考えていた中で挙がった選択肢の一つだったのだ。
男の思考はこうだ。まさか犯罪者が修道女の格好をして街中を歩いているなど、誰も思うまい、と。
「でも、何で修道服?」
「一番お前に縁遠い衣装だからだろ」
お前は何を言っているんだと、さも当然そうに言われた彼女はムスッとしており、何故か不満げだった。
「ふーん、そっか、そっか……その言葉、ちゃんと覚えてなよ?」
「はぁ?」
そう、意味深な言葉を溢した女はヒラリと身軽に男の上から降りると、男が呼び止める前にさっさと服を引っ掴み部屋から退散していったのだった。
□
クレマンティーヌが修道服を手に部屋を出て、しばらくのこと。
「主様。お待たせいたしました」
部屋の扉をノックする音と共に、何者かが部屋へと入室してくる。
「……」
はたして、男の目の前には見慣れぬ修道女の姿。
目元を隠すほどに目深に被った、黒と白の布が重ねられたフード。白と水浅葱の厚手の布地に金糸の刺繍の帯が縁取られたドレスを身に着けている。
それは男が用意していた物と同一。
そして、フードの奥から覗くのは真っ白な肌に、薄く笑みの浮かべられた口元、そして金色の髪。
修道服を身に纏っている女性はクレマンティーヌらしかった。
男は目を見張った。
普段の様子からは全く想像出来ないことであるが、彼女のその修道服姿は不思議なほどに似合っていたから。
「……」
「主様?」
男は呆けてその姿を見つめてしまう。
一方、修道服姿の女は男の様子が可笑しかったのか、手を口に添えてクスクスと笑った。
男は眉を寄せ、その口調や仕草から漠然と感じる違和感に怪訝そうな表情を浮かべる。
なぜなら、修道服を身に纏ったクレマンティーヌは普段の様子からは想像もつかない淑やかさを醸し出していたのだから。
その憑き物が落ちたような柔らかな雰囲気が、いつもとは明らかに違っていた。
「改めまして、主様。いかがでしょうか? 着こなしに、どこかおかしな所はございませんか?」
「あ? あ、あぁ……」
そんな男の困惑も知らず、彼女は裾を摘んでヒラリ、と回ってみせる。
「……クレマンティーヌ、だよな?」
「はい? そうですよ。あなた様の敬虔なる信徒であるクレマンティーヌです」
落ち着いた声音。静かに、しかし、通る柔らかな女の声。
そして、彼女はたおやかに礼をした。慎み深く、その礼だけで育ちの良さすら感じてしまうような所作。
男の知るクレマンティーヌとは、まさに別人。
しかし、信徒という言葉の違和感が脳裏に残る。
「……」
「主様?」
「……あ、あぁ?」
「あの……お願いがあるのですが、聞いていただけますか? 私は主様の信徒ですが、恥ずかしながらその信仰はまだまだ未熟。これより更に精進いたしますが、そもそも、主様の信徒となるお許しもまだ得ていない有り様でしたので……」
男は再び無言。
そんな男の鈍い反応を知ってか知らずか、彼女はそう言うと男の下に寄り、跪いて指を組んで祈り、許しを乞う。
「どうか……どうか、この迷える魂に、主様へと信仰を捧げる事をお許しください」
窓から射し込む月光が彼女を照らし、真摯に祈るその姿は神聖さすら醸し出す。
ただの部屋が教会の礼拝堂にでもなったかのように錯覚してしまう雰囲気が彼女にはあった。
男の目には、その光景がまるで絵画の一場面のように映っているのに、実際に目の前で行われていると違和感が勝る。
「……おいおい。本当に、どうした? 演技ならもういいぞ?」
「演技ではないのですが……」
困ったような様子の女。居心地が悪くなったのか、男は普段の通りにしてくれと願うも、女は演技などしていないと話した。
実際、彼女が普段の調子のままであれば、修道服姿を見せ、似合うでしょ、と男をからかう様子も見せていたに違いない。
しかし、彼女はあくまでも修道女とはこうあるべきという観念に従ったのか、男が想像するだろう信者の姿に忠実であろうとしていた。
それは、何よりも『お前から縁遠い』と評された姿が実際には似合うのだと彼女は証明したかったから。
彼女は男の口から自身が信じている物/信仰を疑うような言葉を聞きたくはなかったのだ。
かつて、まだ法国にいた頃の純真だった彼女自身が、その神への不敬から信仰を疑われた時のように……
──結果、出来上がった『その姿』は誰がどこから見ても神へと信仰を捧げる敬虔な信徒の姿であったが、男側から見れば、まるで全くの別人。強い違和感を抱かせている。
「……」
女は演技などしていないと言うが、では何なのか。何を目的としているのか理解できない彼女の奇行に男は頭を悩ませている。男は彼女の独特なペースに呑まれ、何をどう反応したらよいのかわからなくなっていた。
困惑がループしている彼の思考では、変心、という言葉がピタリと当て嵌まっていた。
いつまで経っても反応のない男に対して痺れを切らしたかのように、再度問いかけた。
「お許しは頂けないのですか……?」
「……冗談、なんだよな?」
男は未だ困惑し、思考が停止した状態。許しって何の事だ、てか何で俺に言う。そもそも、コイツは本当にクレマンティーヌなんだよな、と自問自答を繰り返す。
「いえ……?」
「……」
主? 信仰? 誰が、誰を。なんで? 今までどこにそんな要素があった。またからかわれてるんだよな、俺はどうしたらいい、と男の思考は坩堝に囚われ、意識はどんどん自己の内界へと潜りかけ──
「主様」
優しげな、しかし、はっきりとした声が内側に向いた男の意識を覚醒させる。
「な、なんだ」
意識の隙間に挿し込まれた呼び掛け。男は驚いた。
「お許しは頂けないのですか?」
「あ? あ、あぁ、やる……」
三度目の問い掛け。それまでと変わらず柔らかな声音ではあったものの、有無を言わせぬ凄みが込められていた。
男は女の真意に未だ迷っていたが、結局訳のわからぬまま許しの言葉を伝えた。
男の位置からは、フードに隠されて彼女の全ての表情を確認することは出来ない。しかし、男の許しを得たことで、修道女の口元はふわりと微笑んでいた。
「感謝いたします。主様が私をここへと導いてくださいました。私の信仰を主様へと捧げます……」
「では……」
彼女は唐突に左手を差し出す。
「?」
その意図の見えない謎の行動を前に、男は困惑しっぱなしだ。
「……」
そして、何を求められているのかわからず、差し出された手を取った。
手は、武芸者とは思えないほどに白く滑らかで、女の体温が低いせいか、ひんやりしていた。
「……」
「……」
無言。
「あの……主様に手を取って頂けて大変嬉しいのですが、そうではありません」
「??」
対して、修道女は困ったかのように諭す。
祈りの姿勢から面を上げ、その表情が顕となる。
タレ目がちな、慈愛を想わせる優しげな目元。明るく澄んだ赤い瞳の視線が男を射抜く。
目が合い、男は電流が流れたかのように硬直した。
「……ご存知ありませんでしたか? 私の故国である法国では信仰の証として、修道女はシンボルであったり、指輪を授けられるのですよ」
「だ、だから指輪を?」
「はい」
ほわり、と微笑んでいる──しかし、その真っ直ぐな意思を放つ柔らかな瞳の圧に男はたじろぐ。
だから、ならシンボルでもいいじゃないか、とは言い出せなかった。
「わ、わかった……」
疑問はある。しかし、何故か拒否できない。
今の彼女の声には魅力の魔法でも掛かっているのか、また、その視線には強制力でもあるのか、調子の狂った男は逆らうことが出来なかった。
幾ばくか迷い、ぎこちなく、男はインベントリから指輪を取り出した。
「ど、どうだ……?」
取り出された赤い宝石が填められた指輪。女は手には取らずに、じっくりと指輪を検分した。
女は無言。
そして、心から喜ばしい、と満面の笑み。
「着けて下さいますか?」
「……」
男は女の言われるがままに、指輪を嵌めようとしてまた悩み、人差し指を選択した。
「……そこではありませんよ」
しかし、それを止める声がかかる。そうなのか、と男は次に中指に嵌めようとした。
「主様」
暗に込められた否定の言葉。
怪訝そうにしていた男の頬がだんだんと引き攣る。
これは、まさか……?
だが、大丈夫なのか?
別に逃げ道塞がれてる訳じゃないよな?
この世界にそんな風習があるとも限らないし。
それに、信仰の証とか言ってただけだし……
それの方が実はヤバイ?
と、悩み、幾ばくか逡巡しながら恐る恐る薬指に指輪を嵌めた。
「お許しを頂き、幸甚に存じます」
──そうして彼女は幸せそうに、指輪の嵌められた手を胸に抱いたのだった。
「……で?」
「はい?」
「何でこんなことを?」
男は溜め息。状況を見つめ直し終わり、ある程度混乱から立ち直った男は女に問う。
「何で、と申されますが……ただ、私は許しが必要と考えたのです」
「うん?」
静かに祈るように手を組み、男の問い掛けへと答える。
男から見れば、やはり違和感満載で、いちいち調子が狂ってしまうような言動。彼女を知らない人が見れば、どこからどう見ても人廉の修道女の姿だ。
「これからも主様のお側でお力になるため、片時も離れないことを誓ったのです」
誓い、そして懺悔した。
「……私はこれまで信仰を疑っていました。もちろん、信仰を捧げるべき神の存在も、その意義さえ……これまで、そんな存在はどこにもいませんでしたし、既に信仰を探求することも止め、そのことすら思考の外にあったのです」
「ですが……私は幸運にも出会うことが出来ました。居場所のなかった私の寄る辺に──そして、そこで主様の愛を賜りたいと願っているのです」
「???」
飛躍した回答。疑問符は尽きない。何故そこで神が出てくるのか、彼女の話す主様が何故自身を指すのか。まして愛とは……? クレマンティーヌとは本当にこんな事を言う奴だっただろうか、と。
彼女は男が理解してない様を感じ取ったのか、やや勢いを落として言い換えた。
男がわかりやすいように、本音から建前へと。
「……要は、主様の信者となり、ナザリック大墳墓の方々から引き離されないようにしたのです。主様や彼の存在はナザリック大墳墓では神と等しく、命令は絶対と聞きます。わたしは主様より許しを得たという意味合いもあるのですよ」
「あ、あー……そういう……」
そうして漸く男は自身を神と見立てることも、主様と呼んだこともナザリックへの配慮であり、建前であると理解した。
確かに、自身の保護下にあると明確化できれば、ナザリックの面々は迂闊に彼女を害することは出来なくなるだろう、と男は感心する。
無論、彼女としてはナザリックへの配慮も建前もどうでもよく、ただ渇愛──彼への執着が大きかったのだが。
「……」
どこか安堵したような男の様子を、彼女は思案げに見る。
そして、楔を打つように告げた。
「この指輪はその許しの証……それに故国ではまた別の意味合いもありますが、それは主様には関係のないこと。それは神ではなく、人の決めたただの慣習なのですから……お気になさることなどありませんよ」
ふわりと微笑み、クレマンティーヌは唇に人差し指を当てるポーズを取った。
それは言外にあなたには関係のないことだが、それ以外の人や指輪の慣習を持つ者にとっては当てはまらないとも仄めかしている。
「……」
男の頬が再び引き攣る。
やはり、と男はその別の意味合いとやらに察しこそついていたが、藪蛇になりそうだったので知らない振りをして何も言わなかった。
ただ、クレマンティーヌの左手薬指に嵌められた指輪の宝石が窓から射し込む月光に照らされて輝く。
男は思った。
女とはなんと怖い生き物か。
ただ理解もしていた。この一連の芝居は、男が女に対して言った、修道服は『一番お前に縁遠い衣装』だという言葉が事の発端であり、男への意趣返しでもあったのだろうと。
「……あぁ……なんか一気に疲れたぞ……そういや、さっき居場所がなかったって言ってたが」
「はい。私には居場所がありませんでした。──ですが、今の私にはありますから」
彼女は変わらず穏やかに答える。
男は未だ彼女の普段とは異なる振る舞いを演技やら芝居と捉えていたが、もう気にするだけ無駄だと諦めていた。
「それが本心で言ってるのかはわからんが……本当に物好きな奴だよ」
「全て本心ですよ」
「そうか…………前に話してた贈り物を、考えてた」
「はい」
「思えば、俺とお前は奇妙な関係だ。これまで色々あったが、何でか旅したり、抱き合ったりもしてる」
「ふふ……そうですね。そうかもしれません」
思えば不思議な縁だった。初めに刃物を向けられ、命を狙われて以来の関係。刃を交えて戯れ、抱き合った。
「あの時、何で、俺はお前をそのまま見捨てなかったんだろうなって考えた。お前はむしろ厄介者で、そのまま切り捨てるなんて簡単に決断出来たはずなのに」
「……後悔しているのですか?」
「そうじゃねぇ」
女が絞り出した言葉を男は否定した。
思い出すのは女の昏く澱んだ瞳と笑み。
人を憎み、人を恨み、人を殺すことに恋して、愛していた狂人は、自らの経験した地獄を周囲にも振り撒いていた。
「……多分だけどよ。あの時、俺は心底狂いかけてる奴を見て、ほっとけなかったんだろう」
男が思ったのは、何の理由もなく、何の過去や経験もなく悪人と呼ばれるようになった人などいないのではないか、ということ。
要は、悪人とは人間界における社会規範から逸脱したタブーを犯した者。
人間は成長とともに社会規範を学習し、他人と協力関係を結んで、社会を形成してゆく。次第にその規範に従うようになるが、何らかの理由で人を信じられない者は社会からあぶれ、規範に従うという意識も薄くなる。
もしも、この世に産まれいでた瞬間から悪と呼ばれるタブーを躊躇いなく成せる者がいるとしたら、それは心が人のモノではないか、どこか壊れているからではないかと男は思う。
そして、男はクレマンティーヌと話す内に、彼女がコントロール出来ない狂気を仮面として区別し、冷静な自分を保っていることに気付いた。利口な女だと思う。
だから、周囲に地獄を振り撒き精神のバランスを取りながらも、男にはまだ彼女が人の心を持っているように見えていた。
「苦しくて、苦しくて、涙も枯れて。全てが憎くなって自暴自棄にぶち壊してやりたくなって。でも、心はまだどっかで何かを期待して、求め続けてて悲鳴をあげてる」
「……」
「そういう奴を見て、手元に置いておきたくなったのかもな。それ以上そっちに行くな、こっちに来いって……いや、そりゃ美化しすぎか」
悪人が罪悪感を感じなかった訳ではない。
何故なら規範を知り、タブーを犯している自覚自体はあったから。
しかし、どうしようもないのだ。
自制のできない心の動きは止められない。だから、タブーを繰り返してどこまでも堕ちてゆく。
そして、その内気付くのだ。
罪悪感が、自らが悪であり、クズであることを強迫してくる。気がつけば、いつのまにか罪悪感など消え失せており、もう元には戻れないという現実を突き付けていることを。
だから、悪人は知っている。
しばしば善人は悪人すら救おうとするが、善人には悪人を救うことは出来ないことを。善人の思考では、地獄を知らない者では本当の意味で悪人を理解することなど出来ないだろうから。
──だから、悪人は善人を羨み、憎み、嘲笑する。世の不条理に侵されず、社会に適応出来た幸運を。自らが歩めなかった正道を歩めることの幸運を呪う。
「……あー、脱線してきた。で、だな、そういう奴らが何よりも求めてんのって理解者なんじゃねぇのかなって思うんだ」
「……っ」
彼女が何よりも求めているモノ。
悪人にとって、善人は理解者足り得ない。なぜなら、心を壊す原因となった地獄を知らないから。経験ではなく、想像で理解を補うことに何の意味があるというのか。
だから求めているのは、同じ苦しみを知り、同じ思想を抱く同胞。
しかし、現世の地獄の住人たる悪人の世界とは、自らと同じようなタブーを犯したクズ共の掃き溜めには違いない。
そんなクズ共を理解者にして、何の利がある?
あるわけがないのだ。
故の孤独。
「辛い、苦しい、誰でもいい自分を見つけて欲しい。救いを求める心に気づいて欲しいって心は叫んでんのに、現実にはもう諦めてて、自身のとる言動は他人を否定している──自分を認めてくれる人が誰もいないってのは悲しいもんだ」
つまりは、自らが経験した以上の地獄を知りながらも正道から外れていない男の生き方は彼女には眩しく映り、しかし、今後、二人と出会えないはずの稀有な存在と言えた。
彼女が求める理解者像に最も当てはまり、最も自身から離れた道を歩むことを選んだ人。
「だからよ、あー……知っておけ。お前は一人じゃないんだ。もし、お前がまた道を踏み外しそうになったら俺が殴って止めてやる」
そんな人物が自身に手を差し伸べている──
それこそが、地獄に垂れ下がる一本の蜘蛛の糸。
「…………」
無表情。
しかし、流れ出した涙だけが彼女の感情を表していた。
「おいおい……泣くこたないだろ」
「…………あー、くせぇこと言ったな。そんで、まぁ贈り物なんだが……もう指輪やったし、いらねーか」
「いる……」
「へぇ、へぇ……手、出してみろ」
男が差し出した手の平には、燃やす媒体もないのに、火が灯っている。
彼女がいつか見た火。
「呪術の火ってんだ。俺の火を分けてやる。この火が意味するのは繋がりだと言われている──これならそうそう壊れたりしねーだろ」
手は不思議なことに燃えておらず、火傷を負うこともない。
女は少し強張った様子で両の手で掬う形を作り、火を持った男と、女の手の平が上下に合わさった。
(あたたかい──)
「いいか? これだけは絶対に守れ。火を畏れろ。軽く扱うな」
「火を畏れないやつは身を滅ぼすことになる」
「俺にこの火を託した師の故郷は火を軽く扱ったために滅んだ」
「お前はそうなってくれるなよ」
クレマンティーヌは知っていた。
男の師の母が火の扱いを軽視したがために、自らが作り出した混沌に呑まれ、バケモノを生む苗床となったという戒めを。
そして、男の故郷では呪術を扱う者にとって火は特別なものであり、大抵は一生を共にし、大事に育て続ける。
決して、軽い扱いをしてよいものではないのだ。
だから、火はまさに術者の半身とも言え、分かち合ったもの同士は時に血よりも濃い、火の血縁となると言われているのだから。
そう──縁であり、繋がり。
「……」
今、彼女の手の中にある火には男の過去が詰まっている。
師から託されてから、長い時を共に過ごしてきた。
辛い時も、勿論、友人達と笑いあった日々も。
だから、クレマンティーヌは感謝すると共に恐ろしくなった。
掌には今もユラユラと揺らめく火。
いざ手にしてみれば、私が本当に手にして良いものなのかという不安。
男が師から火を託されたように、今は彼女自身が男から火を託されている。
火は重さなど全く感じさせないが、重い。彼らと共に火は成長してきたのだから。
一方で、そんな想いの詰まった火を託すことを彼から許されていることが心から嬉しかった。男だけは女を認めてくれていることがわかったから。
故に彼女はもう間違うことはないだろう。
彼女に男との確かな縁を結びつける火は、正に犯し難い聖なるものと言えたから。
聖なるものを粗末に扱うことはない。
再び女は手の平に生まれた火を見つめた。
火からは不思議なことに身を焼くような熱が感じられなかった。しかし、心の内にジワリと沁みるような温かさを確かに感じている。
今の彼女は持たざる者ではない。
ずっと欲していた。今の彼女には精神の支えとなる、一本の柱がある。それこそが何ものにも替え難い、彼女の至宝。
「こんな……私はあなたにどうやって報いたらいいの……?」
「そんな大層なもんじゃないし、俺に何かを返す必要はない。だが、そうだな──これからお前が歩むのは第二の人生だとして、そこで世話になる人たちに返してやってくれればいいさ」
「うん──」
□
「あぁっ、主様……主様……」
「すき……愛しています……」
甘い、甘い声音。
男の耳朶に囁きかけ、脳髄を溶かす。
「シスターは性行しないんじゃないんですかねぇ……」
「これは大切な、神との交わりの時間ですので……ぁ、っ」
深く頭部を覆う黒と白のフードの奥からは、チラチラと金糸の髪と、宝石のように赤い瞳が覗く。
白魚のような手が男の温もりを求め、掻き抱いた。
全くの別人のようになったクレマンティーヌ。彼女はスカートをたくし上げて男に跨り、心の赴くまま、恥じらいながらも淫らに繋がり合った腰を揺らしている。
そんな……奇妙な興奮と共に、生み出される快楽を享受していた男は、ふと、自身が無知な信徒を騙し、貪っているカルト宗教の悪徳教祖になった様を想像して、やはり少し微妙な気分になった。
──しばらく会話した後、男と交わることを彼女は望んだ。
それを彼女は自身の生に一区切りをつけるための儀式と捉えていたからだ。
法国には着衣式、というものがある。
神に仕える神官や、修道女となるためには、修練院で数年の修行を積まなければならず、その修練院で勉学や祈り、修行を積んだ後、修道服やウェディングドレスを着て、貞潔、清貧、従順を誓い、ようやく神に仕えることを許されるのだ。
そういった経緯から、法国では着衣式が神との結婚式とも呼ばれており、下賜される聖別された指輪が神への誓いの証にもなっていた。
また、一方で法国の文化が民衆にも一般化しており、指輪の有無が結婚した男女双方の誓いの証となり、既婚者と未婚を区別するための印になっていたりもするが……
彼女の望んだ儀式も独自色が強いものの、神に仕えるための契りであり、身も心も彼女の信じる神に捧げるという意思表示であったことを男は知らない。
そうした慣習がある法国を祖国としている彼女にとって、与えられた修道服とは信仰の象徴でもあり、逃れられぬ身を縛る鎖とも言えただろう。
だから以前までの彼女であれば、信仰の象徴であるそれを忌み嫌い、自由を阻害されることを酷く嫌悪していたのだ。
しかし、今では身が引き締まる思いを感じ、体全体で確かな信仰/愛に身を包まれ、自身が神の下僕であるという実感すら沸き、興奮を覚えている。
今の彼女にとって、男から贈られた修道服や指輪は誓約に等しく、数多の殺人を犯してきた自身を戒める枷。
そして、信仰を身に纏うというそれは、万の悪意から身を、精神を守るという服の枠に収まらない鎧でもある。
そんな彼女の意識下にあるもの……
今の彼女は元法国の特殊部隊員や、冒険者証をハンティングトロフィーにする犯罪者でもない……主へと従順な信仰/愛を捧げる一人の女であり、信者。
女にとって、実は修道女という仮面は相性が良すぎたのかもしれない。
彼女自身も男/神に対して、本来であればこのように振る舞うのが自然なことだと自覚していたから。
なぜなら、『修道服を着て、神に不実なことはしてはならない』という教えを幼少期から洗脳のように刷り込まれ続けてきたのだから。法国を抜けた今もその観念は無意識に染み付いて拭うことはできない。
しかし……法国で信仰される神に対してならば忌避感が勝り、修道服を着ることすら苦痛なだけなのだろうが、彼女自身が認めた神ならば別。
その教えは修道女としての振る舞いに一切の違和感を感じさせなかった。
──だからこそ、女は普段の自由を好む享楽的な自分と、自身が認めた神に対して敬虔な信徒であろうとする自分が混じり合う不思議な感覚を覚える。
「ふ、ふふっ」
全てのパズルのピースが埋まり、一枚の絵が完成するかのように。
そうして生まれ出でた新しい自分。
そして、雛鳥が卵の殻を破り、世界を初めて目に映すように。
または、自らの前に聳え立つ決して越えられぬと諦めていた壁──いざ手を引かれて回り込み覗いてみれば、そこには自分の知らなかった世界が、心震わせる景色があったように。
一歩踏み出せば、世界は未知の輝きで満ちていた。
そんな感覚が新鮮で楽しい。
そして、そんな感覚をもたらした恩人は、クレマンティーヌの目前にいる。
耐え難い、心の震え。
歓喜。
愛しさをこらえきれず、抱き締めた。
男は筋骨隆々の偉丈夫ではあるのだが、彼女からしたら快楽に眉を顰める姿も可愛らしく、普段から仏頂面な男がぎこちない笑みを浮かべれば胸が締め付けられるように苦しくなる。男の手が彼女の臀部に触れれば、さらに愛しさが生まれる。
そうして、男と混じり合う度に、快楽の波が体に走り、多幸感に満たされ──体が、心が、歓びで跳ね遊ぶ。
麻薬のように、体が、心が徐々に侵されるように、自分が塗替えられてゆくのを確かに感じていた。
快楽の波が走るたびに徐々に自身の色が変わってゆくのを想像するのは、それまでの自身が消えてゆく危機感を掻き立て背筋をゾクゾクさせた。
だが、彼女にあるのは恐怖などではなく、それを嬉しく思うことのできる余裕。
ずっと嫌悪していた。誰からも求められることのない、愛されない自分など、どうしようもなく狂った自分など今に露と消えてしまえ。
今、ここで私は生まれ変わる、と。
「んっ……」
腰を持ち上げては男のイチモツをキツく愛撫し、腰を落としては身体が痺れ、脳髄が溶けてしまうような快楽の波紋を打つ。
ハラには隙間なく埋める、硬く熱い芯が一本。
僅かに膨らむハラを撫で、キュウ、と愛しげに剛直を精一杯抱き締めた。
ただ触れ合う肌から感じる熱で、ドロドロに煮詰まってゆく愛情の、なんと心地良いことか。
快楽に沈溺していると見えてくるもの──精神の奥底に積み重なってゆく想いとは。
執着──彼がいなかったら、私は今の世界に価値を見出だせるだろうか?
──いや、ない。
愛執──彼がいなかったら、今の私に生きている意味はあるのだろうか?
──あるわけがない。
妄執──彼は神の如き力の持ち主で、メシアとして世を救済する存在なのではないか?
──そうに違いない。
阿頼耶識、心とは蔵である。蔵に何を納めて来たのかにより、心の働きは、行動は左右されるものだ。
果たして、彼女は渇望した。
知ってしまった愛という名の欲望/男への執着。
欲しい、もっと欲しい、と。
胸に灯った火へとくべる薪/愛が欲しい。
もっと、あなたの愛が欲しい。
そしたら、私は誰よりも強く在れる気がする。
私はどんな敵にも立ち向かうことが出来て、どんな万難に対しても盾として、矛として立ち塞がることが出来ると思う。
あなたさえいれば……と。
──その渇望は身を滅ぼしかねない毒であり、強大な力を与える魔法の薬でもある。
「あ、ぅっ」
グッ、と身を小さく屈め震わせる。余韻に残るのは彼女の喘ぐ息遣い。
信者の鎧を纏い、自身の奥深くから今も滾々と湧き上がる愛情に、欲望に従順であるために。彼女には自身の全てを男に賭ける覚悟ができていた。
──神に仕える正装で、神に奉仕する。
言葉や姿こそ敬虔な信徒そのものを示すが、本来神聖なはずの修道服を互いの欲で塗らし、彼女自身の性をもって報いている。
実態としては神聖さとは真逆。
その有り様は自身の願望のために悪魔と契る魔女の姿に似ていたかもしれない。
部屋に籠もる熱量は静かに上昇してゆく。
焦れるように揺れる腰つきと、ジリジリと性感を炙るような快感を生む股ぐら。
服同士が掠れる音と互いの息遣いがやけに耳に残っていた。
「ぁ……」
女が瞳を閉じ、何度目なのか肩を小さく震わせる。
静謐であり、窓から射し込む月光がどこか神聖さを感じさせる。
荒々しさなど欠片もない。
発汗し肌に張り付く服に、房となった金糸のような髪。甘い吐息。隠せぬ背徳的な雰囲気。
女にとっては、この世は全てがこの場で完結している。
ここには身も心も溶けてしまいそうな幸福しかない。
敵などいない。
精神を乱す悪魔など存在しない。
今、世界の中心はここなのだと女は確信していた。
「ん……」
啄むような口づけ。
行為で疲労した女は男の胸に顔を埋め、腕を伸ばし背で柔らかく交差させた。
ふと、目線が交差する。愛する男の瞳を覗き込めば、惹きつけられて目が離せなくなった。
黒い炎の円環の宿る瞳。
その炎は一時として、同じ形をしていない。
ずっと見ていると──だんだんと視界に映る顔の輪郭がボヤけ──何処までも深く、深く続く闇の深淵に吸い込まれそうになる。
ついには思考までもが鈍くなってゆき、夜の瞳だけが視野に広がってゆく。
「…………」
彼女自身の息遣いだけがやけに大きく聞こえた。
瞳の奥には世界がある。
もっと、もっと。
男を知りたい。
瞳の深く、深くまで覗きたいという願望の代価に──深淵の奥で滲むように燃える黒い炎の円環に精神が呑まれ、堕ちてゆく。
意識に靄がかり、息が苦しくなった。
それでも時を忘れて魅入ってしまえば……霞む意識の中……まるで、闇の空に黒い太陽が浮かぶのを幻視してしまう。
──そうして、そのまま彼女の意識は幻覚の世界へと呑まれてゆくのだ。
──その光景は夢か現か
何処までも広がる荒野
そこは赤黒い、闇の世界
ソラには
黒い太陽が
荒野にはソレを見上げる人の影
黒い太陽を仰ぐ
その姿は祈りの姿にも似ている
彼らを苛むのは、原罪の苦痛
それは人には理解しきれない神秘
潜在下に誰しもが持つ罪の集合意識
痩せ細った人影は黒い太陽を仰ぐ
体を鎖で縛られ、岩を背負わされた苦しみを抱え
黒い太陽は死と再生の象徴
完成された円環
憧れ、羨み、救いを求めて、手を伸ばし
涙を零す
苦しい……苦しい……と
原罪の枷が
生命の矛盾の負荷が
壊してまた作る、破壊と再生の限界が
生きる、ということの苦痛が
気がつけば黒い太陽を見上げる人影は増えていた
皆、涙している
ひとり、またひとり増え……
空に座する黒い太陽を仰ぐ
……
「……」
「おい?」
まるで人形のように表情を失くし、動かなくなってしまった彼女に焦り、男はたまらず声をかけ何度も肩を揺すった。
「………………ぁ?」
「お前、大丈夫か?」
「…………大丈夫……大丈夫、ですよ。ちょっと気をやってしまっただけです」
しばらくして女が表情を戻し、正気に戻った。
頭を振り、ボヤけた思考を無理矢理に元に戻した。
未だ脳裏にある、あの光景。
もしかしたら戻ってこれなかったかもしれないことを思い、女の心臓が嫌に激しく脈打つ。
「ホントかよ……明らかにヤバかったぞ……」
男は微妙に萎えかけていた。男が意図しないにもかかわらず、魂が抜けたような状態に陥ったからだ。
「……」
早鐘を打つような心臓を宥めるように息をついた彼女が回想するのは、先程の妙に生々しい幻覚。
瞳に意識が吸い込まれたかのように、現実感のある夢を視たなど言ったら、男は理解しただろうか。
もし、男に話していればそれを白昼夢のような出来事だと驚き、表現したかもしれない。
ただ女は白昼夢を知らず、神秘を内包した『未来』の暗示だと思った。
男こそが黒い太陽。太陽を見上げるのは信徒であり民。思い通りにならない現世に蔓延る苦しみが、身を縛る鎖や重しとなっている岩なのだと直感的に悟った。
だが、もしも──
夢や幻覚が欲望や心理の顕れにすぎないのだとしたら。その白昼夢の根本にあるものは、彼女自身が望んでいる世界だということ。
神を神たらしめる信徒の存在があり。
世界を照らす黒い太陽がある。
苦しみを抱えた民が救いを求めて黒い太陽を崇め、奉る世界。
それは──なんと心躍る理想の現実だろうか。
そうして自身の願望であり、暗示に気付きを得た彼女は心震わせた。
色濃く疲弊した女は男へと体を預け、背中へと腕を回す。
「はぁ……」
嘆息。
帰るべき場所に帰ってきたかのような安心感。それは黒い太陽を見上げていた時とは、また異なる心の働き。肌から伝わる熱はそれよりも大きな安堵をもたらしていた。
そうして彼女は思考を巡らせる。
どうしたらあの世界を再現することができるか。
そのためには『何が』必要なのかを──
彼女の儀式は続く。
まだまだ、夜は始まったばかりだった。
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15.ユリ編※2ー2
──静かな夜。
王都でも治安の良い地域に立地する館は、ナザリック勢が王国の情報を探るために定められた一時拠点だった。
そんな館の一室。
窓から射し込む月光に当てられた男女がいる。
一方は簡素な平服の偉丈夫で、ナザリックにおいては至高の四十一人に数えられ、御方と呼ばれる男。
もう一方は、場にそぐわない修道女の格好をしたクレマンティーヌという女性。
男はベッドの上で胡座をかいて座り込み、一方の修道女はその男の胡座の上にスカートをたくし上げて腰を降ろし、愛おしげに男の首に腕を回している。
互いに息のかかる距離。二人の間には、隠し切れない熱量があった。
互いの欠けたものを埋めるような男女の交わり──二人は対面座位の形で互いに繋がり合い、様々な欲望を満たす。
どちらからともなく、口を塞ぎ。快楽を煽るように、女の腰の揺さぶりが段々と激しくなってゆく。
「ん、ふ……あっ、んっ」
繋がり合う上下の口。女の嬌声は封じられ、ふぅふぅ、と漏れ出た息がどこか艶めかしい。
女を責める男の剛直は精強で、抽送の度に彼女の膣を広げるように隙間無く埋め、女の深い場所を打つ──それは女を容易く虜にする快楽を生み出す。
ビクンと女が快楽で身じろぐたびに、部屋には切羽詰まったかのような苦悩の吐息が溶けてゆく。
頬を赤らめて絶頂し、息荒く、しなだれ掛かった。女は男の首に腕を回し、しばし男を抱きしめると、心の深くから湧き出てくる欲望。愛しさのままに再び腰を振ろうとしたが──
男は対面座位の形で跨っている女の腰を押さえ、それ以上動けないようにした。
「っ? ……これ以上の奉仕をお望みではありませんでしたか……?」
「奉仕……いや、そもそも俺が望んだ訳でもないんだが……」
動きを止めさせた男は、目を反らし少しだけ言い淀んだ。
「?」
「いや……少し試したいことがあってな。お前は辛いのかもしれないが……」
「もしや拷問の類……?」
女は男の辛い、という言葉に真っ先に拷問を疑い、眉を顰める。彼女の過去には相当な闇があり、彼女は拷問を受けた経験があるという。
しかし、それは彼女を蝕むトラウマの一つであり、消せない精神的な傷として残っていたが、今の彼女は過去の悪夢を乗り越えつつあった。
「違う。お前はただ横になっていればいい……朝までこのまま繋がるだけだ」
男はどこか言いづらそうにした。それを聞いた女は黙り込み、そして呆れたように小さく息を吐く。
「……わかってはいましたが……朝まで繋がりっぱなしになりたいなど……主様は大変な性的嗜好をお持ちですね」
「おい」
そう、優しげな笑顔で男をなじった。
「それに意地悪です……ただ繋がり合うだけで、この火照った体はどうしてくれるのですか?」
「……」
一転して憂い顔。その様は弱々しく、何ともいじらしく映るが──
そんな今のクレマンティーヌの姿は、男の知る彼女のいつもの姿とはあまりに違うものだ。
その慈愛を思わせる穏やかな雰囲気が──
醸し出される、柔らかく全てを受け入れ包み込むかのような母性が──
全くの別人にしか思えず、その違和感が男を狂わせてゆく。
「……まぁ、それはいいのです。安心してください。我が主様がどんな変態的で異常な性癖をお持ちだとしても、私は受け入れてみせますから」
彼女の表情は本当によくコロコロと変わり、男の内心を掻き乱していった。
「それに──本当は女の人に甘えたくなってしまったのでしょう?」
深い、全てを受け入れるかのような瞳で言う。その女の甘い声音は毒のように沁み、言葉は心に積もる。
「最近は色んなことが立て続けにありましたし……少し、精神的に疲れているのですよ」
そう言って彼女は静かに男の頭を撫でた。
彼女の言うとおり──同胞との邂逅に、ナザリックへの帰還。そのナザリックでも多くの下僕達に傅かれ、同胞たるモモンガと様々な事柄に対して協議しなければならないこともあり、男が精神的に疲れていたのは間違いなかった。
そんな言葉を残した彼女は、仕方ありませんね、とばかりに静かにベッドへと仰向けに倒れ、服装の乱れを手早く直すと、胸の前で祈るように手を組んだ。
「私があなたを癒してさし上げられれば良いのですが……」
男はその言葉を聞き、衝動的に女を抱き締めた。
クレマンティーヌはそんな男の様子に柔らかく微笑みを浮かべた。
異常性癖と呼ばれる被虐性愛や加虐性愛、少女性愛などはそこらの非合法な娼館でも比較的よく聞くが、『入れっぱなしでいたい』などと、この世界では珍しい部類の可愛らしい嗜好を男は求めていたから。
それに、朝まで男の腕の中に居られることを想えば彼女にとっても魅力的ではあったのだ。
いつものような激しい交わりではないだろうが、それとはまた別の、生まれて初めてとも言える類いの満足感を得られることに彼女は内心、胸を高鳴らせている。
そして、何より嬉しかったのが、男が彼女自身に甘えるような姿勢を見せたこと。それは、男が彼女に求める役割が変化しつつあるということだと思っていたから。
「……随分好き放題言ってくれる」
棘のある言葉を吐いたかと思えば、慮る様子も見せる女に男は翻弄されっぱなしだ。
しかし、気弱な面だけは見せたくないのか男は負け惜しみに近い言葉を溢す。
そして……
八ツ橋──仰向けになった女に対して、男は女の片足を腰に抱え、足を上げた方から寄り添うように、腰を密着させて陰茎を挿入した。
そして、挿入した剛直の亀頭をグッと膣の奥に押し付ける。
「んっ」
「……てか、別に性癖とかねぇから」
「ふふ……ご冗談を……主様は女性が快楽で苦悩するのを眺めるのが大好きという性癖をお持ちではありませんか」
「そのくらい普通だろ?」
「いいえ。女性を支配したがるのも、縛り付けるのも、過剰な快楽を与えるのも主様が心の奥底で何かを恐れ、求めているように私は思えてなりません」
「……」
「主様にも……何か、今でも心に深く刺さっている棘があるのではありませんか?」
ジッと、柔らかく男を見つめる赤い瞳。
男は知っている。性は無意識の欲求や過去の体験、日常の心的過負荷などに影響を受けていることを。
自身の嗜好の底にある無意識の願望について考えさせられ、男は黙り込む。
黙り込む男に、女はそれについて話す気がないと思ったのか、言葉を続けた。
「とはいえ……私などに主様の心に刺さったままの棘が抜けるかどうかは、わかりませんが……」
「少なくとも私は主様に『拷問』のように無茶苦茶に犯されるの好きですよ」
それは彼女が過去に拷問を受けた経験があるからだろうか。心がトラウマを乗り越えるために、快楽として苦痛の記憶を上書きしたのか。
「今はそれでいいではありませんか。主様と私の性癖の相性は良いようですから」
フワリ、と修道女は眦を下げて微笑み──
ドクリ、と男の心臓が脈動した。
その言葉を聞いて男は──
「お前は…………まぁ……まだまだ時間はあるんだ。少し付き合って貰おうか」
女を支配し、無茶苦茶にしたくなる衝動に耐えるため、気付かれないように小さく長く息を吐いたのだった。
□
男は女の足を腰で抱えながら挿入を維持し、空いている腕でサワサワと全身を弄る。または服の上から大きな乳房を揉んだり、その頭頂部を人差し指でなぞったり、軽く摘んで引っ張ったりしてみたり、腹部を温めるように撫で回したりした。
女はその焦れったい男の手付きに苦笑し、くすぐったさから身を捩ったりした。
しかし、男が女の体に触れる度に、女の声には色が籠もり始め、僅かに残る体の強張りや緊張は抜け、だんだんとリラックスした気分になり自然体に近づいてゆく。
二人はまるで恋人のように肌を重ねる。
感じるのは抱き締め合う互いの体温と、繋がり合った陰部の温かさ、そして圧迫されるような心地良い感触。
繋がっているという実感が性感を高め、僅かな緊張からも開放された女は薄っすらと発汗が進み、肌がしっとりとしていた。
「せっかくだ。朝まではまだまだ時間があるからな。少し実験をしよう」
「実験、ですか?」
「そうだな。精神と体の結びつきの実験」
「それは、もしや……」
「あぁ──前に少し試したことがあったか」
男が前に試したのは、精神の賦活。男から見て女の精神は病んでおり、体に宿っているという精神の要所──7つの門は汚れ、働きは鈍っていた。
男が思い出させるように修道女の下腹部から額にかけて指でなぞると、クレマンティーヌはゾクゾクと身震いした。
「あの時は精神が正常な働きに戻るようにソウルの業をもって丁寧に掃除してやったわけだが……」
「──覚えているか?」
「精神の自由さを。この苦しみに満ちた肉の檻から解き放たれた時の爽快感を」
修道女は思い出す。
熱く、火照った体を。
幸福感に満ち、茹だったように思考は鈍く、体が、心が男を求めていた。
思い出して興奮したせいか、下腹部がジワリと少し熱を持った気がした。
あの時のような快楽がまた──
「これからしようってのは、その続きだわな」
男の知識では、精神的な快楽は際限がないとされている。しかし、本当にそうなのか。どうすれば快楽の上限を高められるのかを試してみたかった。
「試すのは精神と精神の抱擁」
「魂の交わりとも言えるか」
無意識に女が喉を鳴らした。
如何にもスピリチュアルで、非現実的な響きではあるが、ここは異世界であり魔法の体系には魂の概念を基にした術も当然ある。
そして、『二人』はソウル/魂の扱いに長ける種族の不死人である。
だから二人にとってはやろうと思えば比較的容易に試せるものではある。
ただ……
「心は蔵とも言われるな」
「正も負も、全ての感情を納める蔵だ」
「当然中には汚い部分、触れられたくない部分だってある」
「だが、魂の交流には、それらを曝け出す必要がある。だから──」
もしも、お前が心を曝け出すことを恐れるなら止めておこう、と男は言う。
しかし……
「──この身も、心までも。全て捧げると誓いました」
「……私の心は昏く、歪で、利己的なのです。だから、決して綺麗なものではないでしょう。ですが……それでも主様が望まれるのであれば、全てを委ねましょう」
「それよりも、気づいておられますか? 主様の御心もまた私の前に曝け出されてしまうことに」
女はイタズラっぽく微笑む。
「……俺にとっても魂の交流など初めてのことだが、覚悟くらいある」
男はその言葉に驚き、女の言を鼻で笑った。
「まして知られて困るような暗部などないし、どうでもいい。恐れることなどないな」
「新しい挑戦には危険が付き物なのは仕方ないことだ。だが……それよりもワクワクするだろう? 新しい発見をしたり、知らない世界を見られるかもしれないというのは」
そう興奮気味に話す男に対して、呆気に取られていた女は優しく笑みを浮かべたのだった。
□
女と男。
陰と陽。
二つは相反しつつも、一方だけでは成り立たず、二つが合わさることで、太極を成す。
それが世界の在り方だという。
自然界において、あらゆるものは陰陽のニ気に分けられ、それらが繁栄と衰退を繰り返し、調和することで秩序が保たれるというのが陰陽思想だった。
男がいた元の世界には、そうした思想の流れを汲んだ房中術の技法がある。それらは男女間のエネルギー/気を入れ替え、高めることで、良好な健康状態を保ち、長寿を目指すことを目的とした思想だったのだという。
絶頂を迎えることや、精を放つことを最終的な目的とせず、互いのエネルギーである気──男の陽気、女の陰気を交換することで、目には見えない精神や肉体の不調を正し、調和を図る。
今、二人の行っていることは、そうしたエネルギー/気の交換にも似ていた。
しかし、男が目指しているのも、それと似た物ではあったが、興味自体は調和のその先にある。
男の興味――それは、目には見えない魂と魂の紐帯。絆などとも呼ばれるもの。
──それを知り、目指すということ。それは、男もまた精神的な触れ合いや結び付きに飢え、憧れる者であることを意味していた。
男もまたモモンガと同じく身寄りがなく、唯一の肉親たる存在は今は異郷の遥か宙。故郷に至っては帰れるかもわからない遠い場所にあるから。
そのことが、どうしようもなく孤独感を感じさせ、自身には身近な存在がいないことに寂しさを覚えるさせるのだ。
……ただ、男は一人でいることなど苦でもなく、感じている孤独感もむしろ嫌いな感情ではなかった。
彼がかねてから望んでいた一人旅を楽しめているし、この世界でも様々な出会いがあったから。だから孤独感は少々のスパイスのようなものだ。
……それでも、寂しい時は寂しいし、逃避のせいなのか都合のよい女の肌の温もりが、愛が欲しくなる。
そして事、行為に及んで自嘲する──所詮は快楽で無聊を慰め合う一時の関係。これまでと何も変わらないとわかっていても、孤独感を進んで消そうとも考えない。刹那的な生き方は気楽だが虚しいものだ、と。
女が話していた、男が肉体を物理的に拘束することや過剰な快楽を与えようとすること。それは男の孤独感からくる支配欲から齎されたものなのかもしれない。
俺を見てくれ。
離れていかないでくれ、と。
──だが、そんな男も変化を望み始めている。男は肉体的な関係よりも、精神的な繋りや、秘密を共有する理解者を求めていたことを自覚し始めたのだから。
その一端を彼女はいち早く感じ取っていたのだろうか。
□
長らく密着していたせいか、二人の体温は上昇。汗ばんだ肌に服が張り付き不快感をもたらす。
故に、お互いの衣装は既に脱ぎ捨てられ、ベッド周辺の床へと無雑作に放置されていた。
ベッドの上には、裸体の男女──屈強な肉体の男に、シミ一つない白い肌を晒す女。
汗ばんだ肌と肌が直に触れ合い、接触した箇所がペタリ、とくっついたりもするが、二人にとってはそれすらも快感となり、感情を昂ぶらせる材料となっていた。
──場の雰囲気が感情を伝心し、どちらからともなく口づける。男が青白いオーラを接合部から流し、口から女の赤黒いオーラを強引に吸った。
もしも魂が非物質的な存在で、生命や精神の根源であるとしたら──オーラとは魂から発せられているエネルギー。
互いのオーラがぎこちなくも循環し、混じり合い、融け、調和する。
それはまるでアライメントの調和ともとれる。
善よりの中立だったカルマが、悪のカルマに影響されて完全な中立に近づくように。男はより悪に鈍感になり、利己的に近づいてゆく。
または、悪のカルマが善に影響を受けて中立に近づくように。女は悪を自覚し、悪行を避けるようになってゆくのか。
──そうした、互いの『色』が交わり変化してゆく。
男はそれを幾度も繰り返し、一方の女はそれを蕩けた表情でただ受け入れた。
包み込むような心地良い波動。陰と陽、赤黒と青白のオーラが二人を循環し、流れがだんだんとスムーズになってゆくのがわかる。まるでその状態こそが人としての完成形なのではないかと錯覚してしまうほどに。
そして、慣れてしまえば、わざわざ男が口で吸い出さなくともオーラの交換は容易になった。ただ男女が手を繋いでいるだけで、自然と円が保たれ、循環は働く。
――ついには、互いの魂の波長までもが近づき、二人が一つになってしまえば、互いの快楽、昂ぶる感情、心が手に取るように分かってしまう。
抱いているであろう恐れも、人に隠すべき利己心まで。二人を包む雰囲気が自然と共有してしまう。何となくで、相手の考えや気持ちが分かってしまう。
時として、『受容』とはひとつの愛の形として示される。誰かを愛するには、相手の全てを受け入れなければならず、そのためにはまず、自らの全てを受け入れている必要があると。
それは自らを受け入れていない者が、誰かを受け入れられるだろうか、という論理であるが、しかし、『誰かに受け入れられる』ことで、自らを受け入れることもある。
男が女の苦痛を受け入れ、影響を受けたことで自身の孤独に気づいたように。
女が男の恐れを受け入れ、影響を受けたことで自身の過ちを顧みたように。
――自身の良いところ、悪いところ全てを見抜かれた上で、『受け入れられている』と実感出来てしまえば、そこには大きな安心感と奇妙な気恥ずかしさ、そして信頼感が残る。
そして、一度相手を受け入れてしまえば、理解する。そこにあるのは肉体的な快楽ではなく、安心感を伴う精神的な悦び。それはまるで、青く燃える火が、少しずつ熱量を上げていくような情熱にも似ている。
肉体を重ねるほどに、相手が愛おしくて仕方がなくなり――上昇、上昇、上昇。止むことなし。男は困惑し、それが一時の感情であることを願いつつも感情に身を任せ、女は既にその感情がずっと本物であると知っていた。
その興奮は精神が刺激されたことによる効果。互いのオーラが体と精神に溶け、二人がもはや赤の他人同士の関係ではなく、精神的な繋りを持った間柄に変容しつつあるせい。
いわゆる、ソウルメイトやソウルシスターの間柄のように。
口づける度に、視線を交える度にお互いの魂がまるで触れ合うかのように、跳ね、弾み、遊び、踊るのを想像する。
「んっ……あっ」
何時までもそうしていると、だんだんと女の全身が震え、吐息に混じって艶のある声が漏れ出てくる。
それでも男は繋がり合ったまま、女の性感を煽るように全身を愛撫し、何度も口づける。舌と舌が絡み合い、愛しているという感情が心の源泉から溢れる。時間をかけ、もはや撫でていない場所などないのではないかと思われるほどに、くまなく弄った。
細く、無防備な首筋──
発情し、ツンと張った乳房──
白い肌の艶めかしい腰のクビレや背筋──
柔らかく、手に吸い付くような臀部──
しなやかな筋肉のついた腿──
それら肌を指でなぞっただけだというのに、体がビクビクと艶めかしく反応するのだ。
女の余裕のない荒い息が男の興奮と嗜虐心、支配欲を煽る。
当然、男はその反応を楽しむために、更に愛撫に力を入れた。
「〜〜っ!」
体を落ち着きなくモジモジさせたかと思えば、息を荒くさせ、体を硬直させて絶頂を迎える。
女の体が弓なりにしなり、足の指先がピン、と伸びた。女の奥に挿し込まれた剛直をグググと絞り、更に奥へと誘うかのようにキツく締め上げた。
──そして脱力を迎えるも、女の体の疼きは一向に止まなかった。
痙攣するようにきゅうきゅうと剛直を抱きしめる膣。
たった一度の絶頂でスイッチが入ったかのように息の荒い女の頬は桜色に上気し、全身から汗が吹き出してベッドのシーツを湿らせる。
彼女の目尻は垂れ下がり、トロンと惚けているかのような印象があった。
男女が口づけた場所からは唾液の橋がかかり、女の蕩けた視線が男から離れることもない。
「主様……体が……お腹の奥が熱くて……」
媚びるような声音。彼女が手で抑えたのは──臍の下あたり。ちょうど子宮の位置にあたる場所にはエネルギーの要所たる門。
男はそこにエネルギー/オーラを循環させるために、際限なく送り込み続けていたから。ただ、そこにはちょうどチャクラの要所があり、チャクラが活性化したのは当然のこと。
そして、魂や精神への刺激は、肉体にも影響を及ぼす。腹の奥が熱くなったのは――生物としての本能。男の子種を求めるようになっていたためだった。
「うぅ……もう、動いてください……このままでは……頭が可笑しくなってしまいそうです……」
その欲望は彼女の忍耐を食い破らんとする程には大きい。現に、下半身──女の結合部からは潤沢な水分が湧き出ており、互いの性器を濡らす。
奥の奥まで膣を貫かれ、腰を支えられていることで女から動くことも出来ないが、女陰はヒクヒクと痙攣しており、男根が動き出し精を吐き出すのを今か今かと待ち望んでいるようだ。
始め、女の下腹部には内側から押し広げるような圧迫感があったが、今では解れたのか、男根全体をピッタリと優しく包み込むようになっている。
しかし、時折ビクリと脈動する剛直の感触や振動がリアルに下腹部に伝わることにもなり、より微細で生々しい刺激を女に与えていた。
女もその僅かな振動が起こるたびに無意識に反応してしまい、下腹部に力が入ることで剛直が締められ、男へと心地よさを届けてしまい、またビクリと脈動するというループに陥っていた。
「まさか……本当に朝までこのまま……?」
男は女の言葉に反応することなく、動くつもりはなさそうだった。
□
──もはや後戻り出来ないほどの熱を孕んだ、女の甘い吐息。
修道女クレマンティーヌにとって、こんなにも心地良い居場所は他にないものだった。
男の腕の中におり、吐息がかかるほどに密着している。この時ばかりは女は男の視線を独り占めできる。この世界には二人しかいなくて、二人だけの世界は狭くて、優しく、甘い──
現状を振り返り、男を見つめれば、心の源泉から溢れ出すのは愛しさとどうしようもない幸福感。心が震える。
狂おしいほどに高まる欲望。
──この人の全てを受け入れたい。
──激しく求められたい。
──たくさん精を吐き出して欲しい。
──共に絶頂に登りつめ、同じ幸福感の海に溺れたい。
しかし、彼女の主の望みは朝まで繋りっぱなしであることのみ。激しい交わりもなく、自ら乱れることも許されてはいないのだ。
自身の欲望と男の望みとの葛藤。
快楽への渇望は彼女の理性を容易く溶かそうとするも、その度に男の顔が浮かび、理性を再び固めるのだ。
「……ふ、へへ……」
──そんな茹だるような意識の中、ふとそんな葛藤がとても幸福なことだと気付き、女はだらしなく笑みを浮かべてしまう。
そんな何時までもこのままでいたい、時が止まってしまえばいいと思えるほどの充足感に、彼女は自身の幸運に感謝した。
そんな女が目の前にいる男を熱の籠もった視線で見つめると──
男は気恥ずかしく思ったのか、表情を隠すように女の首筋に埋めると深呼吸した。鼻息が首もとをくすぐる。
男のこそばゆい行動に、女は表向き微笑みを浮かべていたが……
(はぁんっ……なにこれ……すっ……すきすぎるぅ〜!)
(あ、あ、あぁぁぁぁぁぁ!すきすきすきすきすきすき!しゅき! 笑)
(あっ、イッてる。あたまイッてる! バカんなりそう!)
茹だる思考。熱を孕んだ、重い体。女は全てを受け入れるような、柔らかい笑みで男の抱擁を受け入れた。
(てか、これってホント現実? 実は夢とか? もしかして、ここあの世?)
現実感のない、あまりの幸福感に今を信じられず、彼女は心の中で意味不明な言葉を羅列する。頭はフワフワ、体はカッカ。今の彼女は通常の状態からはかけ離れていた。
(こんなに甘えて来ちゃって……わたしの神まじかわいいんですけど!!)
彼女の思考能力はもう既に限界を迎えつつあるが……
月はまだ高い位置にある。
□
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
長距離走を走り切った後のような息づかい。実際には激しい動きなどしてはいないのに心臓が激しく脈動し、体中に送る酸素を求めている。
汗で濡れ、束になった金色の髪が頬に張り付き、白い肌に上気した頬が艶めかしく映る。
豊満な胸元から珠のような雫が肌に弾かれて流れ、女の鳩尾に小さな水溜りが作られていたのを男は見た。
──時間の経過とともに、彼女の体はどんどん敏感になっていった。
「うっ、ぐ……」
寒くなどないのに芯から震える体に、胎はどうしようもなく熱を孕んでしまっている。ちょっとした刺激で訪れるオーガズム。それはまるで熱病に苦しむ病人のようだ。
その原因──胎には未だ貫ぬかれたままの堅く、熱い、太い杭が一本。
クレマンティーヌは気が狂いそうになり、気を紛らわせるために鼻息荒く男の首筋に吸い付いて耐える。
その行為は既に何度も繰り返されたのか、男の首筋にはすでに幾つもの赤い点がついていた。
「ふぅー……ふぅー……ふぅー……」
ドロドロに発情した体。熱を患い、消耗した体には力が上手く入らず、動かすのにも気力が必要だった。
「も、う……もう……むり、です……」
「あたま、おかしく……なってるぅ……」
苦悶の表情を浮かべ、ドロリとした瞳で男を視界に収める。
「朝方までには、まだ時間があるぞ?」
「でも……もう、からだが……」
意識が朦朧とし始め、腰が意思に反してガタガタと揺れ始めていた。その振動で股が擦れ、またオーガズムが高まってしまう。
「う、うぅ……」
「もう少しだけ頑張れ。そしたら、いいものを見せてやるからな」
そう言って男は再び強く腰を抱くとともに、女の髪を優しく漉き、宥める。
しかし、快楽に流されないよう我慢に我慢を重ねた女にとってその手つきも、言葉も絶望に近いものであった。
「う、あっ」
ズチリ、と――無雑作に再度、腰が強く押し付けられたことで、子宮が圧迫され、脳に星が瞬くかのような快楽が流れた。
足の指先が伸ばされ、体が強張る──与えられた刺激を余すことなく享受するために顎を仰け反らせて体を硬直させる。そして、クレマンティーヌは長い絶頂を必死に呑み込むと、硬直した体を脱力させ、再び震えさせた。
それが緊張が切れる原因になってしまったのか──
「……も、も、ぅ……むりぃ……」
「まだいけるだろ?」
「……い、いやぁ……もう、がまん、いやぁ! うごいてぇ! なんでもしますからぁ!」
女は息が絶え絶えとなり、髪をめちゃくちゃに振り、男に抵抗する。欲望と自制の狭間で彼女は狂いそうになって絶叫した。
体はずっと震えっぱなし。長く男の剛直を咥え込んだ彼女の秘部は赤く充血し、もうずっとドロドロに濡れたままで、動くことのない剛直に対してフワフワと包み込んでいたが……
「うごいてくれなきゃ、しぬっ! わたし、しぬからぁ!」
とうとう自制が切れたように狂乱し始める女──男は慌てて女を抑えるために体勢を変え、彼女の正面から覆いかぶさった。
「──ぅ、ひっ!」
体勢を変えるために動いた時に粘膜が擦れ、のしかかられ、体重がかかり全身が圧迫されると彼女は再び体を硬直させピクピクと震わせた。
「……まぁ、そろそろいいか」
「は、ぇ?」
茫洋とした意識の中、女は男の声を聞いた。
「……ほーら、もう我慢しなくていいぞ〜? ……イキまくれよ」
男は一度、剛直を引き抜き、女の奥へと叩きつけた。
「あ゛っ?……か、ひっ」
突然の衝撃に一瞬女の呼吸が止まるも、固まった体を無視するように男は何度も腰を打ち付ける。
発情しきった体は生殖行為を待ち望んでいた。熱を孕んだ子宮が突き上げられ、押し潰され、揺らされるたびに尋常ではない快楽が体に走るのだ。
女の鼻息は荒く。剛直が引き抜かれる度に何か大事なものまで一緒に持っていかれるような気分を味わった。
腰を打ち付けられては、快楽と男の肌の温もりを感じる。そして、体の中に入ってきた何かが胎の深くで暴れ狂うような感覚がして、自身が内側から塗替えられてゆくのを自覚する。
激しい一突きごとに子宮に熱が溜まってゆき、頭の中で靄がかかったように何も考えられなくなる。体がフワフワと今にも浮かびそうな不思議な感覚を味わい、女は意識を繋ぎ止めるようにして、男にすがりついた。
――ガクガク、と体が芯から震えた。
容易く迎える絶頂の波濤。爆弾と化した熱が解放されるような、爆発的な快楽の衝撃。あまりの衝撃に何度も意識が漂白されそうになった。
「だ、だめ、ぇ……いま、いって、いってるからぁ!」
焦りを含む媚びた絶叫。
それでも男は止まらない。
腰を振り、剛直でメタメタに打ち付けられた子宮がまちに待ったとばかりに精を受け入れようと、子宮口を開き、膣が肉棒を吸い付き、蠢き扱く。
腰が打ち付けられる度にパチュパチュ、と水っぽい音が響き、女の余裕のない喘ぎが男の耳朶を打つ。
「だめぇっ!!」
「あっ、あっ、あっ、あっ、あ、あぁぁぁ!!」
激しいピストン運動。
絶え間なく絶頂の波を迎えていることにより、膣は痙攣を繰り返すように強く締め付ける──しかし、抽送は多量に分泌された女の愛液によって、抵抗なく進んでしまう。狭まった隙間を無理矢理に割ってゆく逞しい肉棒が、膣壁を容赦なく抉ってゆく。
抽送の途中から堰が切れたように、ピュッ、ピュッ、と彼女は潮を吹き二人の体を濡らした。
「あ゛あ゛あ゛あ゛う゛う゛う゛ イグッイグッイッ、イックイクイ゛ッ……!」
体を重ねてから数時間──最も大きなオーガズム。快楽に快楽を重ねたせいか、意識は既に朦朧とし、ただただ与えられる喜びを享受する。
彼女の様は嵐に遭遇した船が碇を降ろして船体が流されないようにするよう。クレマンティーヌは男にしがみついて、嵐が過ぎ去るのを堪えようとする。
ギュ〜と、膣が男の剛直を布を絞るように絞め上げた。
「……っ! っ! っ!」
女はニヤケ顔になるほどにビクビクと震え、顔を真っ赤に紅潮させ、蕩けた表情をしていた。そして、空気を求めるようにパクパクと喘ぐ。
男はその姿に満足し、焦点が合わぬまま見開かれた瞳の端から流れ出た涙を指で拭うと、喘いだまま開かれた口を口づけで蹂躙した。
顔を離せば唾液の糸の橋が二人を繋ぐも──
女は呆けたように、荒い息をつくばかり。
「気持ちよかったか?」
そう、問いかける。
「はーっ……はーっ……はーっ……」
しかし、女には男の声が聞こえていないようで、荒い息をつき、脱力したまま。今も小さな快楽の波が襲ってくるのか体をピクピクと痙攣させるばかりで、言葉も返せない。
それほどまでに余裕がなく、絶頂の余韻を鎮めるのに全神経を使っていた。
目を閉じて呼吸を整えようとすると、心臓が早鐘を打つように鼓動しているのを彼女は感じた。それとともに体に満ちているジワリとした心地良い疲労感と確かな満足感、未だ波打ち甘く身を苛むオーガズムも。
クレマンティーヌはそれらの余韻を余さず受け止め、味わう。そして、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「おぃ? 何かもう終わった感出してないか?」
女の閉じた黒い視界。聞こえてくるのは男の声。その言葉に女は気怠げに目を開く。
「ずっと我慢してたからな……たくさんご褒美あげちゃうぞ?」
「な? 遠慮はいらないからな」
そこには邪な笑み浮かべて彼女を見下す愛する男/神の姿。
「ご、ほうび……?」
疲労のせいか頭の働きが鈍く、男が話す内容を理解するのに時間がかかった。
「朝まで挿れっぱなしっていったよな」
「……ぇ……」
「日が昇るまではまだ数時間はあるぞ、良かったな」
「やっ……そっ、そんにゃの、むり、ぃっ……!?」
男は絶望の表情をした彼女の言葉を遮るようにして、動き出す。
体力も厳しく、妙に敏感になった体を長時間に渡り弄ばれるのは辛い責め苦となるだろう。女はそれを予感し、抵抗を試みようとしたものの──
「もちろん、受け取ってくれるよなぁ?」
「だめぇっ、すこし、やすませ、てぇっ!?」
「嫌ならもうちょっと我慢してりゃあ良かったじゃねぇか」
未だ痙攣を続ける女の腰を男は掴み、無理矢理に抽送を続ける。
ぶつかり合う腰と腰。勢いよく連続でぶつかり合う度に、水気を含む破裂音が響く。
「うっ……あ、は……はひ……ひっ……ずっと……ずっと、いってるぅ──」
女は何が可笑しかったのか、狂ったように嬌笑をあげた。
衝突とともに激しく揺れる豊かな乳房──その先端は興奮と齎される快感でピン、と立っており、揺さぶられるたびに円の軌道を描く。
そして、一突きごとに脊髄を駆け抜ける甘い電流。
押し寄せる快楽の津波は、脳の神経を焼き焦がさんとする。
「し……し、ぬっ……しん、じゃ……」
頭が働かない。彼女は自身がなぜここに居るのか、どうしてこんなにも責め苦を与えられているのかも、何もかもわからなくなった。
ただただ、茫洋とした頭で快楽を処理し続ける。
「う゛、う、うぅぅぅ……」
イヤイヤと首を振りながらも、無意識にか女の腰は浮きあがり、もっと気持ちよくなれる場所──
即ち、子宮口へと一物を誘い、イキやすく、絶頂を余さず受け止められる体勢を作り上げている。
「あ……あ……あ……っ、いいっ、また、イ゛グ、ッ……」
再びの絶頂で膣が脈打ち、腰が仰け反る。髪を振って乱れ、しなやかな脚がピン、と硬直した。
膣が力一杯一物を絞め上げると奥でグポリ、と空間ができあがり、子宮口の位置をずらす。精を受けるために更に奥へと一物を引き込もうと膣が蠢動を始め──
「んおっ? お゛っ、お゛、お゛ぉぉ、ぉぉぉぉ」
男はそれを躊躇いなく侵略し、子宮口を突くと彼女は獣のように喘ぐ。女の淫らな奥を占領せんと、門を早く開けろとばかりに何度も何度も槌を下す。
クレマンティーヌは赤面し、体を強張らせている。彼女の顕在意識は既に働いていない。あるのは通常時には働いていないはずの変性意識で、彼女はいわゆるトランス状態にある。
「イグッ……イグ……イグ……イ゛、グッ──」
それでも男は女をまるで物としてでも扱うかのように、またはオナホールやラブドールを使っているかのように自分勝手に腰を打ち付け続けた。
長い時間に渡り、我慢してきたのは女だけではなかった──
男は表面上は何でもないように振る舞っていたが、我慢は当然のこと辛く、何度女の体を貪りたいという衝動に襲われたか。
──始め、女に寄り添い悪戯心が勝った。
──少しすれば、女の包容力に身を委ねている自身がいた。
──それからまた少し後、初恋のように胸が締め付けられるような感覚がし、ドキドキし始めた。
そこからが地獄。
頭の中では獣ががなりたてる──今すぐにその身を、心を蹂躙し、犯し尽くせ!
支配しろ。その身体に、その精神に他では得られえぬ快楽と記憶を刻め、と。
妙な汗が吹き出し始め、体が熱くなった。
──ついに衝動に堪えられなくなったのは、女が子どものように狂乱しそうになった時。その時、男はもう我慢が無理だということを悟った。
涙を零して男を見る赤い瞳も。
肌に貼り付いた金糸の髪も。
熱病に侵されたかのように弱り、疲弊した表情も。
吹き出た汗で、濡れた白い肌も──
全て『愛しく』感じてしまったから。
それに気付いた時には、男はその精強な肉体で女を蹂躙していた。
──だから、全力で『愛』を込める。この感情が一時的な物であるのか、持続的に抱くものなのかは男にもわからない。しかし、それが例え刹那的なものであろうとも、ここにある『愛』は確かなものだから。
荒々しく、獣のような盛り具合は女自体が男の所有物や玩具にでもなっているかのようだった。男を受け入れるのに精一杯で、既に思考能力を放棄した女には現状を俯瞰することなど出来やしないだろうが、女はそんな扱いをしていたと知っても受け入れてしまうのだろう。
何故なら……
──『愛している』
感情が男から女へと伝播し、魂を震わせる。
それは劇薬の如き感情。
甘く、熱く、柔らかく、優しく、苛烈に身を包み込む。
『イ゛、グゥッ……!』
その感情が伝わるだけで女は絶頂を突き抜けてしまう。
『愛』とは彼女が今まで受けられなかったもの。彼女は男の側にいられることで強い至福感を得られる。
例え、獣のような欲望を持つ男に玩具のように扱われようとも、知ってしまった『愛』を持ってすれば受け入れることなど何ら容易いこと。
そう、彼女は既に心を縛られているのだから。
「ぐぉっ……出、すぞっ!」
「あ゛あぁー! あぁー! ……ぁ、っ! っ! っ! ──」
そして、欲望を受け入れ女もまた獣となる。本性が曝け出た女の声は低く、腹から響いた。
そして──
二人は互いの口を塞いで、手と手を繋ぎ合わせる。荒々しく互いの『愛』を確かめながら、未だ整うことのない息を混ぜ合う。
何度も何度も剛直が子宮を殴りつけ、腰を打ち付け合う淫靡な音が響いていた。
――ドクリ
精液がドクドクと子宮口に向けて吐き出され始めると、女の体は果てのない喜びに身体と心を震わせる。無意識にか、腰に回された脚でガッチリと男の腰を固定した。
それは男の精を自身の内から逃さないようにするためか。幸せが溢れ落ちてしまわぬように、全てを貪欲に呑み込もうとする。
押し付けられた腰と腰は密着し、男根は女を孕ませるために精嚢に貯め込んだ精液を『全て』吐き出し続ける。
通常時では有り得ない長い射精は男に極度の疲労を対価とし、天にも昇る忘れがたい快楽を与えた。
一方で、女も胎を焼くように熱い男の精に悶え、喘ぎ、しかし、もっと寄越せとばかりに貪欲に剛直を力一杯抱きしめる。
そして──熱を孕み、精をずっと待ち望んでいた子宮は、男の精液を呑み干したことで、ようやく満足したかのように疼きを止めたのだった。
──天に昇るような快楽を味わった二人は、天から墜ち、今度は深い奈落へと落ちてゆく。二人の意識が白い靄に包まれていくように薄れ、ついには絶たれる。
折り重なったまま深い眠りへと落ちてゆく。
徐々に明るくなりかけてきている部屋に残ったのは力が抜け落ち穏やかに寝息をたてる女と、彼女を抱くように覆いかぶさる男の姿。
繋がれたままの手が『愛』の残滓となった。
□
強すぎる幸福感に溺れるとともに意識が途切れ、彼女はそのまま夢の世界へと落ちてゆく。
多大なる幸福感のなかで見た彼女の夢とは、遊離した自身の魂が姿を型取り、同じく遊離した男の魂に手を引かれ宙に昇ってゆくものだったという。
──宙と空の間。
そこで彼女の見た世界の真の姿。男が指差す先には僅かに丸みを帯びた地平線の彼方から朝日が登り、大地を明るく照らす瞬間。
この世界の住人である人間では初めて目にしたかもしれない光景。
そして、そこで彼女は理解する。
大地が実は丸いということを──
今まで彼女の知る世界は小さい範囲で、ほんの一部に過ぎなかったことを──
ただ無言で見つめたその光景は彼女達の魂を震わせ、同じ感動を共有させる。
ふと、気になって隣を見れば男も照らされた世界に笑みを浮かべ、眩しそうに見つめていた。
──世界には未知が溢れている。女には男の心の声が聞こえた。
『To see the world/世界を観よう』
『things dangerous to come to/危険でも立ち向かおう』
『to see behind walls/壁の裏側をのぞこう』
『to draw closer/もっと近づこう』
『to find each other/お互いを知ろう』
『and to feel/そして感じよう』
『That is the purpose of life/それが人生の目的だ』
そう、心の声を聞いた女は男の笑みを守るために側に寄り添う。
──そして彼女は理解する。男の望みを。男は世界をその瞳に映すことを求めているのだと。
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ゲヘナ〜
16.ユリ編※3
「……」
ユリは主の休む部屋の扉の前で立ち竦んでいた。
彼女は見慣れない服装のクレマンティーヌが御方の部屋に入る所を見ていて、そして良くないこととは思いながらも中の様子を伺おうとして、愕然とした。
聞こえたのは、部屋から漏れ出る女の悩まし気な息遣い。
ギシリと音をたてているベッド。
部屋からはほんの微かな物音しかしなかったが、ユリの聴覚はそれを確かに聞き取った。
そして、扉から感じる他者の進入を阻む、異様な雰囲気。
男と女。それも眷属ともなれば、ユリ自身そういった関係も有り得るかもしれない、と想像はしていたものの、実際にその場面に遭遇してしまうとやはりショックは隠せなかった。
加えて、ユリは一度、行為を拒否されているのに、あの女性だけは許されているという嫉妬やモヤモヤ感も大きい。
(……御方様と彼女は、この中で……)
そう思うと、ユリは悲しくなり、すぐにでもその場を離れないと頭がおかしくなってしまいそうだった。
翌日。
ユリはクレマンティーヌが幸福の極みといった様子で男にじゃれついているのを目撃した。
その際、クレマンティーヌとふと目が合い、彼女はユリから発せられるだろう煩い小言に身構えていたが……
ユリはサッと、視線を外し小言を言うこともなく足早に立ち去ってゆくのだった。
□
「はぁ……」
溜息一つ。
ユリの周囲には、館を引き払うことになったことで、ナザリックへと移す荷物が山のように積み重なっている。
荷造りで手を動かしながらも、ユリの脳裏からは、御方と彼女のスキンシップを取る姿が離れなかった。
あそこに私は入っていけない、彼女は御方様が選んだ眷属なのだ、という言葉を何度も自身に言い聞かせた。
そう何度も何度も言い聞かせても、心に積み重なるのはモヤモヤとした沈鬱な感情。
御方さえ翻弄する彼女の奔放な性格への苛立ちと嫉妬。
そして、御方がそんな彼女を許していることへの寂しさだろうか。
ユリは気がついてはいなかったが、それは彼女自身が御方の隣に侍り、関心を独占したいという無意識の願望でもあった。
しかし、彼女には至高の御方に仕えるという立場もあるし、側に侍るというよりは傅くことを疎かにするつもりもない。
つまりは叶うべくもない望み。
「はぁ……」
今日何度目かの溜息。
心に、体に重くのしかかるのは憂鬱。
天を仰げば、空は青いはずなのに、気分が重いせいかどこか灰色にさえ見えた。
「ユリ、さん……これは、どこに運べば、いいですか……?」
「あっ、え、えぇ……そうね、それは──」
ユリに声をかけたのはツアレ。先日、ユリの上司であるセバスが連れてきた女性だった。
彼女が館へと連れてこられた時、体中に殴打の痕や裂傷が走り、顔も原形を留めていないほどにボロボロだったという。
それをセバスがアインズから与えられた魔法薬で治し、甲斐甲斐しく世話をした。
結果、彼女は快復し、現在は館にてメイド見習いとして働いていたのだった。
また、仮の場とはいえ、セバスが外部から彼女をナザリックの領域に無断で招き入れたことに対してひと悶着あったが……
それはアインズと御方の裁定において、今後、彼女はナザリックで働くことに決まっており、ユリ自身は彼女に思うところはない。
そして、ユリ自身、カルマが善に偏っているためか、セバスが人助けしたことについては何ら疑問を抱いてはいなかった。
ただ、報告を怠ったことや館に無断で人間を入れたことについては、セバスに一言物申したいという気持ちがなくはなかったのだが……
それはセバスへの職務上の反感であり、ツアレは関係なく、むしろ、彼女を新たなメイドの後輩として歓迎したい気持ちすらユリにはあった。
「ユリさんは……御方様が、本当に、大好き、なんですね」
ドキリとした。
「えっ?」
「どうし、たんですか……?」
ツアレは不思議そうに問い返した。
「……どうしてわかったのですか?」
ツアレは目を何度か瞬かせ、ぎこちない微笑みを湛えて答えた。
「わかり、ますよ。さっきから、溜息、ばかりで……それに、私も、セバス様が、大好きだから」
そう話すツアレは儚げで、感情をポツリ、ポツリと語った。
「好きな人って、いつも、知らない内に、目で追って、しまいます、よね……?」
セバスの姿勢のよい姿が好き。
私にかけてくれる優しい声が好き。
厳しい顔で朗らかに笑う時なんて、胸に穴が空いて風が吹き込んでるみたいに苦しくなって……
そう語る彼女の表情は乙女であった。
「あの方のために、何かしてあげたい、あの方のためなら、自分の命なんて、惜しくない……」
その言葉には確かな覚悟が感じられて。
「そう、思えます」
彼女は唇に指を当て、思い出す。
「それに、幸せなキスは初めてだったんです……」
自然な、柔らかい微笑みを浮かべた。
それを見たユリは何故だか負けた気持ちになった。
そう思った理由は判然としなかったが、彼女はユリが持っていない何かを持っている気がして……
「ユリさんも、そう、なんですよね?」
彼女の疑いのない視線がユリには、突き刺さるように感じられた。
「わたし、セバス様と離れたく、ないです」
「セバス様と離れる、くらいなら、死にます」
「もしも、魔法でセバス様を、忘れてしまうなら、やっぱり、死を選びます」
「あの時、助けて、貰った時から、私の命は、セバス様のもの、なんです」
そう締め括った彼女は、自身の命の使いどころを一点に定めていた。
ユリは……私も彼女と同じ覚悟を持っているだろうか、と自問する。
いざとなれば御方の盾となるのは確定だ。自身でも、その判断を間違う余地はないと確信している。
しかし……それは、果たしてそのように創造されたからなのか、それとも自身の気持ちで行動を起こすのか。何度自身に問いかけても、答えは出なかった。
「ごめん、なさい……こんなこと、突然……困ります、よね」
彼女は饒舌に話したことを恥じるかのように、顔を俯かせた。
「ふふ……いいえ。ありがとう。少しだけ勇気を貰えたわ」
不思議そうな顔をしたツアレ。
ユリは勇気を持って言葉を紡ぎ出す。
「私も……御方様が大好きよ」
「さ、荷造りの作業を終わらせましょうか」
彼女の臆面もなくセバスが好きだと言える素直さが羨ましかった。
彼女も私の先を歩んでいる、と何となく感じる寂しさと共に、ユリは自身の気持ちを再度確かめ、活を入れた。
私もそうなれたら、と。
□
あいも変わらず、クレマンティーヌは男を困らせた。
屋敷に着いてからというもの、クレマンティーヌは以前にも増して自由気ままの度合いが高まっていた。時間があれば、周囲の目も気にせずイチャイチャ。人前で腕を組み、接吻をせがみ、自由な猫のように甘える。
既に、彼女がやりすぎて拳骨を落とされる、という流れをユリは何度も見ているが、それでも彼女は怒られるか怒られないかのラインを確かめ、逆にラインを押し上げるかのように懲りずに繰り返していた。
流石にこれにはセバスやソリュシャンも怒りを顕にすると思われたが、不思議なことに二人は何も言うことはなかった。
実際にユリは彼女が男に蛇のように絡みつき、邪な笑みをこちらに向けるのを何度も見ているのに。
不思議に思い、ユリはプレアデスの妹であるソリュシャンに尋ね確かめてみれば、彼女はそんな場面は見ていないという──どうやらクレマンティーヌは少なくとも二人の前で御方にベタベタするような行為はしていなかったらしい。
つまりユリはクレマンティーヌに舐められている上に、御方との距離感が近いことを見せつけられる形でおちょくられていたのだと気づく。
──男に最も心許されているのは私だ、と。
その事に気づいたユリは苛立ちや不愉快さに頬を引き攣らせるのだった。
ただ……一方のクレマンティーヌの思考ではただ色ボケしたという訳ではなく、ユリをナザリックから送られた監視役兼有事の際の護衛として見ており、男と過剰に接触を持つことで間に入り込まれる隙を無くしたいという狙いも当初はあったのだが……
クレマンティーヌにとって警戒すべき存在であるユリに、男との親密さを見せつけることに彼女は優越感を覚えてしまっていた。結局はユリの気づきは正しかったということである。
「御方様、体調がすぐれませんか……?」
「大丈夫だ、問題ない……」
その日、明らかに男の声には覇気がなかった。
流石の男も最近のクレマンティーヌの浮かれた様子には辟易しているようで、精神的な疲れが見え隠れしていた。
おはようからおやすみまで一緒におりニャンニャン、夜も奉仕の名目で絞り取られているのであれば、さもありなん。
一人になりたいと断ってもいいのだが、その場合、機嫌が悪くなる。面倒くさいったらない。
そんな死人のようにグッタリとソファに沈む男をユリは心配気に伺い、首からチラリと見えたのは複数のキスマーク。
一方、特に男の様子を気にかけるでもなく、今もしなだれがかかる女──その自分本位な行動に、フツフツと沸き立って来るのは怒り。ユリの額に青筋が浮かび、顳顬が痙攣する。目尻が吊り上がり、クレマンティーヌに向ける視線が一気に鋭くなった。
「……っ」
ぶちっ、とユリの脳裏で何かが切れた音が鳴り、彼女は我慢の限界に達したことを悟った。
ユリは自身に纏わることならば何であろうと耐えられる忍耐力を持っていた。クレマンティーヌが御方の寵愛を受けていることも不満や寂しさ、諸々の感情はあれど、それは御方の意思であり、自分がどうこう言える訳ではない。耐えられた。
しかし、御方の意志の介在しないことであるならば別。あまりにも彼女の御方への接し方は気安すぎる。
彼女への不満──態度、気づかい、心構え。
全てが『従僕』として相応しくなかった。
従僕は、時に主の間違いを指摘、讒言し、再考を求めなくてはならない。
下される悪しき主命も果たさなければならないが、盲目的に従うのは忠義心ではない。
主に害を与え、堕落させる従僕など、従僕として最悪である。
主に仕える眷属とは、従僕とは身の回りの世話をするだけが仕事なのではない。そんな存在でなくてはならないのだという矜持がユリにはある。
だから、ユリは彼女の言動を戒め、正さなければならなかった。
ユリは御方が不在としている隙にクレマンティーヌを呼び出して叱責した。
「いい加減にしなさいっ! あなたの行動は目に余ります! まして御方様を慮ることもしなければ、御身体に傷をつけることを良しとするなどっ……眷属として、従僕としても許されないことです!」
「……ふ〜ん、なるほどね……」
しかし──
「あんた、やっぱり、あの人のこと好きなんだ?」
「は、はぁ!? ぐ……おっ……お慕いして何が悪いのですか! というか、話をすり替えないでちょうだい!」
熱くなるユリに冷めた様子のクレマンティーヌ。彼女は初め、ユリが何を怒っているのか理解出来なかった。
彼女としては男の眷属である自覚も、男の従僕になったつもりも無い。ただあるのは、男が独りにならないよう側にいたいということと、どこまでも旅について行くという意思。
もしも、男が従僕としての役割を望んでいれば彼女も表面上はそれに従ったかもしれない。しかし、彼女は男が自身に従僕としての役割を望んでいないことを察していたから。
だから、彼女はユリが自分に嫉妬しており、従僕としての役割を自身にも押し付け、管理下に置こうとする邪魔者に見えていた。
互いの異なる立場、男に求め、求められる役割の違い、それぞれの思想。彼女達のそれは互いに噛み合うことがなく、デミウルゴスやセバスのように相性が悪かった。
「……認めるんだー、駄目なんだよー? 人の男に手出ししたらさぁ」
そんなユリを、クレマンティーヌは警戒する。クレマンティーヌ自身も前々から察してはいたが、今回、ユリは男のことを慕っていると自ら認めたのだ。
だから、彼女はまず見極めようとする──果たして、彼女が自身から男を奪う存在であるかどうかを。
「だ、誰が手を出すなどっ! それに御方様はあなたの男などではありませんっ!」
その言葉に嘲るように笑みを深くする。
クレマンティーヌにとって、ユリのような真面目で言葉遊びにも慣れていない相手を挑発するのは造作もないことだった。
「あれぇ、出さないの? 良かった〜。ずっと媚びるような雌の顔してたから、てっきりさぁ……私もいい加減目障りだったんだよねぇ……!」
「……っ」
甘く緩い口調は、敵愾心を含ませたものに豹変する。
発している空気は刺々しく、いつ敵対行動に移っても可笑しくはないとユリは感じた。
「ようやく本性を顕にしたという訳ですか……! 御方様を煩わせてばかりのあなたを私だけは赦すわけにはいかないの……!」
その空気感に一瞬、気圧されたものの、ユリは自らを鼓舞する。
おいたわしや、御方様──ユリの脳裏にあるのは疲弊し、ぐったりとソファに沈む幾分か美化された男の姿。
許せない……!
それを彼女が引き起こした。ユリの中では既に、クレマンティーヌは敵に近い存在になりかけていた。
「んー? だから、何だって言うのかなー?」
「私にはナザリックの従僕として御方様の生活を公私に渡り支えるという役目があるのです! いくら御方様が何も仰らないとはいえ、ナザリックの秩序を乱しかねないあなたを諌めるくらいの力と権限はありますっ! あなたは御方様に気安く接しすぎている!」
ユリは今まで何度となく、彼女が毒蛇のように御方に絡みつく様を、まるでそこらにいる売女のように馴れ馴れしく接する様を見せられていたから。いい加減我慢の限界に来ていた。
やはり、至高なる御方に彼女の存在は相応しくない。しかし、その念もまた自分本位な感情だとわかっているからこそ、ユリは悩んでいた。
彼女の自分本位な行動を一体どうするべきなのか。
「あー? 何が言いたいか、全く、わかんないねー。要は私が邪魔なんでしょ? あんたの大好きな御方様とイチャイチャしてるから。はっ……人外のバケモノが一丁前に嫉妬とかウケるー」
女はそう嗤った。
「あなたは……!」
「──でも、残念だよねぇ。あんたに、いいもの見せたげよっか」
「……っ」
「そっ、指輪。あの人が私にって──この意味、わかるよねー?」
彼女が取り出したのは指輪。
ユグドラシルの世界であれば、様々な効果を発揮する装備品でしかなかったが、至高の御方方の話すリアルという世界では男性が女性に贈る特別な物だと聞いていた。
現に、彼女の上司の一人であるアルベドなどはアインズから指輪を賜り、狂喜乱舞したとも。
そして、この世界ではリアルでの慣習に似ており、男性から特に親密な女性に贈られる品であることをユリは知っている。
基本的に男性優位なこの世界において、女性が指輪を贈られ、女性がそれの着用を受け入れた場合、『忠誠』や『従順』、『貞節』を誓ったという意味になることも。
それは、つまり──御方は彼女を伴侶として求め、彼女はそれを受け入れたということではないのかとユリは勘違う。
「……」
「私さ、愛されちゃってるんだよねー。だからさー……邪魔しないでくれるー?」
そう話す女の口元は三日月のように歪んでいる。
クレマンティーヌが指輪を見せた意図とは──ユリが持つ好意を確かめ、可能ならばその心を圧し折ることにある。
ユリの内側で、グルグルと様々な感情が巻き起こり、足場が崩れるような錯覚さえ起こった。
「あ、心配とかいらないよ。私は旅につき物の長距離移動も野営も慣れてるからさ、どこにでもついていけるし。あんたの大好きな御方様は私が責任持って支えっから。安心して、どっか行っていいよ」
「……」
ユリは応えられなかった。
よくわからなくなってしまったからだ。まるで、誰も問題視していないのに自分だけが癇癪をおこして騒いでいたような妙な気分だ。
御方様は彼女の傍迷惑な行動を最初から受け入れていた……?
御方様は本当に彼女を選んだのか……?
思考がループしてしまう。何故、どうして、彼女のような存在が受け入れられている、御方様は何故彼女に指輪を贈られたのか。私が間違っているのだろうか。
ただし、一つだけはっきりしていることがある。
それは、ここ最近の彼女が浮かれきっていることが明白で、御方と呼ばれる男へと気安く接することで、ナザリックの秩序を乱しかねない存在であるということ。
ユリは絶望の中、歯を食いしばる。
御方様はナザリックの秩序が乱されるような、そのようなことを本当に望んでいるだろうか。
そんなこと、絶対にあり得ない。
だから──従者として、下僕として、主への忠義のために彼女を野放しにしておくことだけはできないのだ……
ふと、守護者統括の言葉が蘇る。
『あなたたち、元とはいえ何処の馬の骨ともしれない人間に御方様を寝取られて悔しくはないの?』
『こともあろうに、あの女は御方様のこ、恋人を自称しているらしいわ』
『このままでは、御方様はいずれあの女と再び旅立たれてしまうことでしょう……』
守護者統括は全てを予測していた。
あの言葉は予言だったのだ。
ユリは恐怖した。守護者統括の言葉の意味が分かり、いよいよ絶望の未来が現実味を帯びてきてしまったから。
ここが分水嶺──だからこそ、ユリは踏ん張らなければならない。
ここで引けば御方様は彼女に奪われっぱなしになるかもしれない、果てに御方様は再び旅に出てナザリックに戻らないかもしれない。
そんなことになってしまえば自身だけでなく、偉大なる主であるアインズやナザリックの仲間達も深い悲しみに囚われることになるだろう。
そのことを思えば、最早、自身の恋心だとか些末なことを言っている場合ではなかった。
「……知ってるー? あの人って実は可愛いとこもあってね。こないだ愛し合った時なんか──」
「っ!」
とどめとばかり、クレマンティーヌはユリの恋心にトドメの負荷を与えようとして──
その続きが聞こえる前にユリは殴りかかっていた。
これ以上、この女狐に口を開かせてはいけない。コイツが口にする言葉は悪意であり、毒だと思ったから。
クレマンティーヌはユリの唐突な先制をなんとか回避した。
──しかし、頬には一本の傷跡。
「……あー?」
頬に痛みを感じ、手で触れる。触れた指には血が着いていた。
「……テメー、何してんのかわかってんだろうなぁ……!?」
「……それ以上、その下劣な言葉で御方様を貶めるのをやめなさい。あなたの言葉は全て自分に都合のよいものばかり」
「はっ、御方様、御方様……笑わせんな……テメーらこそバケモノはバケモノらしくしてろや。真面目ぶって、人のマネしてんじゃねー。バケモノが従者だの、下僕だの、ごっこ遊びかよ。だからあの人は孤独なんだ」
「オマエ……!! 御方様が孤独だと言うかっ……!!」
断じて聞き捨てならぬ。額に筋を浮かせ、眼光鋭く、互いに憎い相手を射殺さんとした。ギリギリと歯を噛み締める。
二人の間にピン、と張り詰めた空気が流れる。
互いに相手の出方を伺い、ほぼ同時に拳を出し、互いの顔に直撃するかという刹那──
2本の突き出された腕は掴みあげられた。
それを成したのは何時の間にか、二人の間に入った御方と呼ばれる男だった。
「おい! 二人とも何してる! いい加減にしろ!」
「……なにー、庇うの? 浮気ー?」
争う声に気付いた男が二人の間に立ち、諍いを止めようとすると、クレマンティーヌは不機嫌そうに抗議した。
「何言ってんだ、お前」
「ユリ、いつもすまんな……二人の間に何があったのかは知らんが大方──」
「御方様、申し訳ありません。これは私と彼女の問題。私は彼女に決闘を申し込むつもりです」
「いいじゃん。やってやるよ」
ユリは暗に争いに口を出すなと伝えた。売り言葉に買い言葉。クレマンティーヌも一歩も引かず、その挑戦に受けて立つ。
「お、おい?」
ユリの視線は真っ直ぐにクレマンティーヌを射抜いている。視界に男が入っていることなど頭になかった。そして、至高の御方の言葉を遮るなど、普段のユリではあり得ないこと。
今はただ、カッカ、と。ユリはその事実に気づかないほどに視野狭窄に陥り、体が震えるほどに激怒していたのだ。
ナザリックを創り出したアインズ・ウール・ゴウンのメンバーは意見の相違があった時は、立合うことで意思を統一したという。
ユリはそのことを当然知っていたし、至高の御方方が決闘を行っている場面を何度も見たことがあった。
(ナザリックの作法に乗っ取り、この下品な女を叩きのめす……!)
ユリはクレマンティーヌの不敬な発言を止めるには一度、実力を行使し、上下関係を叩き込むしかないと確信していた。そして、それがひいては御方の目を覚まさせ、ナザリックのためにもなると。
ユリがクレマンティーヌに決闘を叩き付けたという話は、シャドウデーモンからデミウルゴス、アルベドを始めに、すぐにナザリックに伝わった。
ナザリックでは決闘の話題がやむことなく、メイドからモンスター、階層守護者までもが噂した。
当然のこと、ナザリックでも一、ニを争う知恵者が動くことにもなり……彼らの主を煩わせることのないよう、かつ相応しい場での決闘が用意される運びになるのだ。
□
ユリはゲヘナの打ち合わせのため、ナザリックへと一時帰還していた。
打ち合わせの後、彼女は第六階層へと赴き、友人たちと会った。久方ぶりのお茶会のためである。
かつて彼女達の創造主であるぶくぶく茶釜や、やまいこが行っていた茶会という名の駄弁り場の名残り。
「ユリ、何か悩んでるの?」
アウラがユリに気にかけるように問いかけた。
「え?」
「うん。ユリさん、なんだか元気ないですよね……何かお悩みがあるならボク達が聞きますよ」
マーレがオドオドした様子で、ユリにチラチラと視線を向ける。
どうやら、このダークエルフの友人たちには、ユリの様子がおかしいことは一目瞭然だったようだ。
ユリは逡巡する。
果たして、この気持ちを誰かに伝えることは許されるのだろうか、もし伝えたとしても不敬だと諌められるのではないか、と。
悩み、しかしユリの脳裏ではツアレの言が蘇る。
『私、セバス様が大好きです』
恐れることなく、まだ、たいして親しくも無い自身に好意を打ち明けた。
その素直さは彼女にとって、羨ましく思える一つだった。
そして……ユリは、躊躇いながらも勇気を振り絞って、友人たちへと自身の気持ちを打ち明けた。
批判も、忠告も正しく受け止めようと決めて。
「ぼ、僕は……御方様を……お慕いしているんだ」
だが、出てきたのはユリが思ったよりも小さな声だった。
「えぇっ!?」
「わぁ! そうなんですか!」
驚く双子を尻目に、ユリはこれから発せられるだろう言葉に身構えた。
「って……それは驚いたけどさ……それってそんなに悩むことなの? アルベドとかシャルティアだって、いっつもアインズ様にアピールしてるじゃん。あれはやりすぎだけど」
「お姉ちゃん……ユリさんは乙女なんだよ」
「あんた……何気に酷いわね」
二人から出てきたのは、気が抜けるような発言で、一気にユリの体からは力が抜けた。
一世一代のカミングアウトに、緊張もある程度解れ、多少は口調も軽くなってくる。
もう、ここまできたら洗いざらい話してしまえ、という気分で。
「あのね……」
再び不安になる。
でも、これって本当に話してもいいのだろうか、と。
「大丈夫?」
目の前には心配そうにしながらも、好奇心を隠せない二人。
もう、後には引けなかった。
「うん……あのね、絶対に秘密にして欲しいのだけど……やまいこ様も御方様のことをお慕いしていたみたいなんだ……」
『…………』
沈黙。
まるで時が止まってしまったかのように。
『ええぇぇ〜〜〜!!??』
と、唐突に時が動き出し、空気が爆発した。
アウラの側に控えていた大きな狼のような魔獣がビクリと体を震わせた。
「やまいこ様とぶくぶく茶釜様がそんな話をしてるのを聞いたことがあるから……」
ユリは二人の反応が怖くなったのか顔を俯かせた。
「ねぇ、僕……どうしたら、いい?」
「……」
二人がどんな顔をしているのかユリには確認出来なかった。
怒っているのか、はたまた呆れているのか。
反応がない焦りからか、言い訳のような言葉がどんどん溢れ出てきた。
「あのね、御方様のお側にいられるだけで、凄く幸せで、仕事もとても気合が入るのだけど……」
「……御方様の新しい眷属が本当に嫌な女でさ……何かと御方様にベタベタくっついてイライラするし、僕に喧嘩売ってるのか何かと矢鱈勝ち誇ったような顔するし……もうなんなのさ」
「御方様のご寵愛を受けてるからって……恋人を自称するとか不敬すぎだよ……」
「挙げ句の果てには僕もキレちゃって、御方様の発言を遮って彼女に決闘叩き付けちゃうし……今度こそ絶対、御方様に失望されてる……」
最後にユリはテーブルに突っ伏した。
「あー、そんな噂もあったっけ……大変だった、ね?」
「……もう、頭おかしくなりそうだよ」
マーレがふと気になったのか、呟いた。
「あれ? でも、御方様とやまいこ様って全然そんな空気なかったような……」
「あんたねぇ……そんなの隠されてたに決まってるじゃない」
「…………」
「あー、本当に大丈夫?」
項垂れたままのユリにアウラは気の毒そうに声をかけた。
「でも、それって羨ましいなぁ」
「……羨ましい?」
マーレの言葉にユリが不可解そうに問い返した。
「まぁ、創造主様と同じ方を好きになるって、繋がりを感じるもんね」
アウラは言葉足らずなマーレの言いたいことがわかったらしい。流石に双子なだけある。
「うん。ボクはその繋がりって許しでもあるんじゃないかなって」
「許し……」
ユリには本当に嬉しそうに微笑むマーレの背後に何となく後光が射しているかのように錯覚した。
「だって、ユリさんがもし誰かを普通に好きになってたとしても気持ちを隠す気がするもん。それじゃ、ずっと独り身だし」
唐突なディスりに、あっさり後光は霧散した。
「えぇ……」
「アハハハ! 確かに! ユリは真面目だし、私たちもだけど、ナザリックのことが一番だもんね!」
アウラがおかしそうに腹を抱えて笑う。
「それにボクたちナザリックの下僕がもし誰かと結ばれるのを許されるなら、至高の御方々以外を望むなんて絶対にあり得ないよ」
「そ、それは、そう言われてみれば……」
至極ごもっともな意見だった。
もし、至高の御方々以外で誰かそんな存在がいるなら……
いるとしたなら……
いる? そんな存在。
ユリはあっさり納得した。きっとユリは詐欺師に騙されやすいだろう。
「創造主様がお隠れになったのは悲しいけど……だからこそ、やまいこ様はユリさんのことを想って、気持ちから逃れられないように……」
「創造主様と同じ方を好きになるように、始めからそう創ったんじゃないかな」
マーレはまるで賢者のようにユリを諭し、その言葉は沁み渡るように、ユリのささくれだった心を撫でてゆく。
「御方様の好みもユリみたいな容姿らしいし、やまいこ様は最初からお見通しだったってワケね!」
アウラの言葉に、ユリは羞恥で顔を俯かせた。
(全くこの姉弟は……)
ユリの気持ちは、ここに来た時に比べれば非常に晴れやかになっていた。
(でも、ここに来て良かった……)
彼女が得られたのは安心。誰にも言えないはずの秘密を共有することで得られる連帯感。
「あ、そうだ。今噂になってる新しい眷属との決闘のこと、詳しく聞かせてよ」
「御方様を取り合ってってことなんだよね!」
「えぇっ!? そんな噂になってるのかい!?」
「違うの? 皆そう言ってるよ」
「そ、そうなんだ……」
お茶会は時間が許す限り続く。
ユリは彼女達にせがまれ、決闘に至るまでの事情を洗いざらい話した。
アルベドの、御方がナザリックを出奔しかねないという予測と、その予測を覆すために彼女からプレイアデスに内々に課せられた指令。
指令を完遂させるため御方の側付きに任命され、その補佐の最中、御方がこの世界で色んなものを見てみたいと話していたこと。
そして、不安と焦りからユリが犯してしまった失態。アルベドから課せられた指令が未だ達成されてはいないこと。
ナザリック外での活動が増え、そこで初顔合わせした御方の新しい眷属クレマンティーヌ。ユリが感じた、彼女がどのような人物であるかと、彼女が受けているという寵愛の証し。
つまり、纏めてしまえば御方の関心はナザリックにではなく、外の世界に向いているというのが現実であり、今後外の世界を見て回るのに、このままでは新しい眷属が旅のパートナーとして選ばれる可能性が高いこと。
だからこそ、アルベドの予測が現実味を帯びてきている現状があり、ユリは新しい眷属を牽制し、彼女の不敬を諌めるために決闘を叩きつけた、と。
「……それってヤバイじゃん」
「……ヤバイのよ」
「ど、ど、ど、ど、どうしようお姉ちゃんっ!」
涙目のマーレの感情を反映してか、エルフ特有の耳は垂れていた。
「マーレ、うるさい。アインズ様には報告してるんだよね?」
「もちろん。だけど、アインズ様は笑ってそんな事態にはならないって……」
「そっか。なら、大丈夫だと思うけど……というか、御方様を取り合ってっていうのも全然間違いじゃないじゃん」
「そ、そうかな……」
主であり、御方の友人であるアインズが言うのであれば間違いはないだろう、とアウラとマーレは不安を拭うようにユリをからかい──
「遅くなりました……ワン」
「お待たせして申し訳ない、マドモアゼル達。少々、掃除に夢中になりすぎてしまいましてね……私を降ろせ!」
「イーッ!」
三人が割と真剣に話し合っていると、仕事を終えてお茶会に合流した者が二人。
額から首にかけて縫合の痕を残した犬頭の女性──ペストーニャ。
ずんぐりしたイワトビペンギンで、カールした飾り羽に、黒い蝶ネクタイ──エクレア。
と、エクレアを抱えてきたショッカーのような彼の部下達。
「なんだか微妙な空気ですね……どうかしたのですか? ……ワン」
「えっとね──」
ペストーニャが場の空気が奇妙なものになっていることを察知して尋ね、ユリは疲れてしまったのか口数が少なくなっており、マーレがこれまでの話を説明した。
「そうだったのですか。これはもう、ユリに頑張って貰うしかないわね……ワン」
「うぅ……」
場がグダグダになりかけ、気疲れたユリはただ愚痴た。新しい眷属の彼女がいかに性格が悪いか。御方にどれだけ迷惑をかけ、自身がこれまでどれだけ苦労しているか。そして、ユリの双肩にのしかかる重圧を。
本来であれば、アルベドの指令はプレイアデスに課されたもの。しかし、御方と呼ばれる男はナザリックにいる時間が未だ少なく、指令を遂行できる人材は側使えであるユリに限られていたから。
「ふむ……なかなか難儀しているようですな。ですが、話を聞く限り彼女が不安に思っているのはまた別の事なのでは? マドモワゼルを不安にさせるなど、御方様も罪作りな方だ」
「……どういうこと?」
「アインズ様は心配ないと仰っていたのでしょう? で、あるならば御方様が出奔なさることを不安に思うのは不要なこと。彼女が本当に不安に思っているのは、ただ御方様を取られたくないということに帰結するのでは?」
「エ、エ、エ、エクレアァ!?」
「というか、私は御方様を取られたくないがために決闘を叩きつけたと噂で聞いていたのですが……ワン」
アンデットにあるまじく、図星を点かれたユリは顔色を変え、周囲の友人達はそれを生暖かい目で見守った。
「お姉ちゃん、ユリさん可愛いね。でも、いいなぁ……」
「はいはい、そうね……」
マーレが乙女しているユリを心から羨んだ。ボクもいつかアインズ様の寵愛が欲しいなぁ、と欲望を漏らした弟に対してアウラはどこか呆れた様子で──
「それに、指輪のことも取り敢えず気にすることはないのではないかしら? 寵愛の証というには、御方様からもそういった話はありませんし、御方様自身も同じ物を着けている訳でもないのでしょう?」
「あっ……」
ペストーニャが疑問を呈し、ユリが違和感に気づき我に返る。
「ふふふ……マーレだってアインズ様から指輪を賜ってますし、御方様も任務への感謝やただ効率を考えた可能性だってあります。それに新しい眷属さんは宗教国家出身とも聞いてますし、何かしらの教義という線も……信仰系魔法を納めた神官が誓約の証として指輪をするのも珍しいことではありませんよ」
「なら、指輪はブラフ?」
「さぁ、そこまでは……そもそも至高の御方々は私達にとって神にも等しい存在。別に御内室が二人や三人いようが、誰も咎めたりしませんよ……ワン」
「うむ。極論かつ正論ですな」
「き、きみたちね……」
──お茶会は続く。その後、何度もユリは友人達にからかわれたが、お茶会が終わる頃には、ユリの心に積もっていた鬱屈とした感情はすっかり取り払われていたという。
『ユリ、頑張って!』
『ユリさんなら大丈夫です!』
『魅力的な異性を惹き付けるには、時には力技も必要ですぞ!』
『ユリ、あなたの良い所は何事にも真っ直ぐな所ですから。そのままでね……ワン』
そして、ユリは友人達の言葉に勇気を貰い、彼女はようやく迷いを捨てることが出来たのだ。
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17.ユリ編※4ー1
ゲヘナ──それは広義において、地獄を意味する言葉。
男やモモンガの元の世界においては、ヘブライ語でベン・ヒンノム の谷を意味し、古くは異教の神バールへの供儀のために子ども達を焼いた場所のことである。
また後にはその場で汚物や動物、罪人の死体が焼かれたという。その見た目から、この谷は虐殺の谷とも呼ばれ、ユダヤ教においてはその意から死後に罰を受ける場所、地獄と定義されたという。
そしてこの世界においては、ナザリック大墳墓の領域守護者デミウルゴスはその不浄や罪人が焼かれる火を連想し、王国の一部を、欲深い人間を罰する地獄へと変貌させるゲヘナを立案した。
その内実は攫われたツアレの奪還に始まり、ナザリック勢による八本指への報復と制圧、王国の人的・物的資源の強奪。そして、今後において聖王国で同様の作戦を行うためのシミュレーションにある。
そして、この壮大な劇とも呼べる作戦の完遂をもって、アインズ扮する冒険者モモンの英雄としての地位を確立し、人間世界における希望の象徴となることが確定する予定だ。
劇の脚本、全体の指揮、進行などは全てデミウルゴスの計画のもとで行われ、リ・エスティリーゼに国家の存亡を揺るがしかねない甚大な被害をもたらす事になるだろう。
そんな劇が着々と進められる中で、一つのサイドストーリーとも呼べるシナリオが存在した。
本来であれば、主役であるアインズのシナリオがメインで進められたのであるが、この世界にはもう一人の至高の御方と呼べる存在がいたためである。
──それはナザリックにおいて、御方様と呼ばれる男。
最初、デミウルゴスは苦心した。
申し訳なくも、彼の存在にゲヘナにおける主役級の役柄を用意することが出来なかったからだ。
その苦しみは凄まじく、至高の御方に奉仕するという彼自身のアイデンティティを侵し、胸を掻き毟り、精神をヤスリにかけるような苦痛をもたらした。
このままでは、至高の御方々に失望されてしまう、と。
だが、そんな苦悩するデミウルゴスの元に一つの報せが舞い込んだ。
曰く、プレイアデスの一員であるユリ・アルファが御方様の新しい眷属である女性に決闘を申し込んだというのだ。
デミウルゴスはそれに驚き、次いで、それまでの苦しみを忘れ、笑みを浮かべて喜んだ。
ユリがナザリックの伝統に乗っ取り、至高の方々の軌跡を辿ろうとしたからである。
そして、彼は気づいた。
『軌跡』を辿る、ということ。
それを呼び水に、優れた頭脳は泉のように新たなシナリオを生みだし、未来を想像し始める。
そう、頭にあるのはデミウルゴスの創造主であるウルベルトが羨ましげ(中二的なキャラクターのバックボーン)に話していた至高の御方の一人の伝説の再現。
かつて人間世界に火と光を遍く広めた存在でありながら、偉大なる闇の王の魂を持っていた薪の王の逸話を。
デミウルゴスは深読みし過ぎたのだ。
この決闘を皮切りに彼の存在を再び遍く世界へと広めよ、という啓示であり、苦悩する自身に向けて御方より暗に示された道に他ならないと。
加えて、眷属として新たに迎えた彼女に自身の『信徒』の証として修道服と指輪を贈った、という事実をシャドウデーモンより報告を受けていたこともあり、深読みは加速する原因となった。
デミウルゴスは笑みを吊り上げ決意する。
全く同じという訳にはいかないだろうが、必ずやこの世界で伝説を再現し、至高の御方の存在を世界に刻みこむことを。
そのためには、如何なる苦労をも乗り越え、立ち塞がる困難を打ち破って見せようと。
例え、その道中、幾万、幾億の生命を弄ぶことになろうとも──その役目は悪魔たる自身にこそ相応しい、と笑みを深くして。
かくして、新たなシナリオは唐突に発生し、進行し始めた。
魔皇ヤルダバオトと英雄モモンの決闘や魔導王アインズ・ウール・ゴウンの伝説に並び、未来において連綿と引き継がれる、人間界における精神の柱──薪の王/闇の王の信仰、拝火教の始まりの一節である。
□
火の津波が街を埋め尽くす。
火は肌を焼かず、物を焼かず、しかし、火にあてられた欲深き罪人をしかるべき場所へと誘う。
そこかしこで悲鳴が鳴り響く、地獄とも呼べるこの場では悪魔たちが跳梁跋扈し、人を攫い、かの地にて苛烈な責め苦を与えるだろう。
そんな狂気に塗れた地獄を切り開き、道標となるのは聖なる灯火。
敬虔なる修道女を伴い、罪深き人間を地獄より救わんとするのは薄汚れ、ボロボロになった鉄黒のローブを身に纏った男。
その外見は異国の魔術師とも過酷な旅を経た聖職者とも捉えられ、男の知識においては北人シリーズとも呼ばれる装束。
彼の掌から生まれた火が悪魔を浄化し、温かな光を放つ火が負傷者の傷を癒やす。
前線で闘い、悪魔に抗い続ける者達には輝かしい生命の光が戦闘を後押しした。
「フリーデ」
「はい……先生」
そんな地獄にもかかわらず、なんら気負いのない穏やかな声音がフリーデと呼ばれた修道女から発せられ、彼女はボロボロのローブを纏う男を先生と呼んだ。
それはつまり、男が尊敬すべき師であることを意味しており、修道女が彼を先生と敬うからには男は聖職者であったのだろう。
男にフリーデと呼ばれた修道女は道を切り拓くように身の丈以上の鎌を縦横無尽に刈り、穢れた悪魔達を切り払ってゆく。
かの者達の背後には冒険者たちや王国兵たちが付き従い、残された住人たちの退路を確保し避難させた。
母国の首都が襲撃されるという心折る絶望。母が父が友が悪魔達に二度と会えぬ地へと攫われてしまう。恋人が伴侶が子どもが、はぐれ、行方のわからないことへの焦りと不安が心を苛む。
そんな、自己の生命を賭けた極限の状況下、助けられた街の住人や冒険者、王国兵たちは、その二人の背に抗い難い光──希望を感じたのである。
影の悪魔が彼らの精神に語り掛ける。
『膝を折り、頭を垂れよ』
『祈りを捧げ、火への憧憬を抱き給え』
『おお――いと尊き火の伝承者よ』
『麗しき、生命刈りの修道女よ』
『人よ、彼らを見よ』
『汝ら火への憧憬を抱き、胸に仕舞うがいい』
『火こそが人愛を変容させる意思』
『罪を償い、贖いたまへ』
『聖心は悪意より汝らの魂を護らん』
と──
□
崩れた人家、荒れた石畳。この場には狂気が満ちている。人間の悲鳴なのか、甲高い悪魔の笑い声なのか、判別できない叫声がそこかしこに木霊していた。
聖職者二人と冒険者、兵士の一行は街の中心部に向かっていた。その道中、街の中心部へと続く道を塞ぎ、誰かを待ち受ける影がある。
青く、鋭角的な面相をした仮面を被る悪魔、魔皇ヤルダバオトの配下──ユリ扮するアルファ。
「……ようやく来ましたか。ヤルダバオト様の計画の障害となる者達よ」
そう問いかけた先にいるのは、冒険者らを引き連れた尊き火の伝承者に生命刈りの修道女。
「お下がりください、尊き御方」
男の前に立つ修道女が、男を制し、その指に嵌められた指輪がキラリと光を反射した。
それを見たアルファ――ギッ、と仮面の奥から軋んだ音が漏れた。
「……彼の方の御寵愛を得ているからと……いい加減調子に乗るのはやめることです」
苛立っていることが明白な、地の底から響くような声音。
悪魔からもたらされたその言葉にザワザワとざわめく群衆。あの方って誰だ? 神官様のことか? 悪魔と知り合いなのか? などと疑問が湧き上がるも──
そう言い放ったアルファは表面的には努めて冷静であるはずが、強い感情の発露とも言うべきか、悪魔は尋常でない威圧感を発していた。
二人に付き従っていた冒険者達は、その丁寧な口調の悪魔から発せられる怒気、圧力に身の危険を感じ、ざわめきを即座に静まらせ慄く。
「寵愛……?」
しかし、男からしてみれば誰かを寵愛している意識などない。たしかに、最近ではクレマンティーヌがよくベタベタしてくるが、男は彼女と寝ているなど誰も察しているとは思っていなかった。それが実際にはユリを含めて結構な人にバレているとも知らずに。
そして、彼女が身に着けている指輪も、その寵愛の証とも取れる。
というか、男は彼女がナザリックでは既に新たな眷属として扱われており、イコール、寵愛を受けていると取られていることすら知らなかった訳なのだが。
「あぁ、尊き御方……どうか心安らかに。悪魔の戯言に耳をかす必要などありません。暫し、目を伏せていてください。私がすぐに、悪魔を始末しますから……」
しかし、修道女はフードの下で微笑みを浮かべ、寵愛の言が戯言であると切り捨て、耳を傾けるなという。
男は、女同士のあれこれなど知らなくていい。女同士の争いに男は不要。彼女からしてみれば、現状のままが都合が良かったから。
得物を一振り。
フリーデと呼ばれた修道女は軽やかに歩みを進め、一定の距離で止まると悪魔と対峙した。
おぉ、と歓声をあげるギャラリー。
その立ち振る舞いは演出のつもりなのか、アルファは悪役を演じているとはいえ、彼女の普段とは全く異なる聖職者然とした言動が酷く癪に障った。
「また、ナメられて、いるのかしら? ……私にだって我慢の限度はあります。あなたには教育が必要なようですね……それもドギツイやつが……!」
対するフリーデが返すのは余裕の微笑み。
「ふふ……さぁ、あなたも元の居場所にかえりなさい。戻るべき場所がある──それは、とても幸せなことなのですから」
アルファには、その言葉が男の側に彼女の居場所はなく、さっさと身を引いてナザリックに帰れと聞こえた。
「こ、のっ、女狐ぇ……! 戯言を弄しているのはあなたでしょうっ! あなたこそ、自身の立場を弁えるべきです……!」
その言葉に仮面の下でアルファは頬を引き攣らせ、悪役の演技もそこそこに、あっさり激高する。
その様子を見た修道女は憐れみの感情を込めて囁いた。
「……悪魔とは、なんと悲しい存在なのでしょう……しかし、悪魔はそれでも光を求めるのですね……例え、その光に身を焼かれるとわかっているのだとしても……」
そして、嗤う。
その言葉の意図とは──男の寵愛を求め、もし、それを手に入れたのだとしてもお前では苦しむだけで、不相応だという嘲笑に他ならないとでもいうのか。
そして、それをよりにもよって御方と慕う男の前で暴露され──
それは彼女にとって、耐え難い屈辱であり、羞恥心を煽る言葉だった。
「こ、この、クソアマああぁぁ!!」
積りに積もった屈辱の念、女の姿を目に映した途端から溢れてくる憤怒の感情は、羞恥も加わってアルファの許容量を超過し──ブチ切れた。
「ユ、ユリ……?」
初めて見るユリの姿に男は唖然とする。
その、悪魔の怒声に群衆は悲鳴をあげた。そして少しでも察しの良い者は理解した。なるほど、あの悪魔はこれまでもなんの目的かはわからないが、神官様の身を狙っていて、修道女が幾度となく退けてきたのだろうと。
その悪魔の怒り様は凄まじかった。怒気が赤いオーラとして立ち昇り、ジリジリと肌を焼く感覚すらある。恐怖や危険に多少なりとも耐性のあるはずの高位の冒険者であっても今すぐに逃げたい欲求に駆られるほどに。
「ふふ……尊き御方、あの悪魔の相手は私に任せて先へ。どうか人を……あなた様のお力でお救いください」
フリーデの顔色はフードに隠され伺う事ができない。
ただ、声だけは慈愛に満ちていて──しかし、正体を知っているアルファからしてみれば毒を撒き散らしているようにしか思えず、悍けがした。
今もフードの下で口元を大きく吊り上げて邪な笑みを浮かべている様がアルファにはありありと想像でき……
彼女はその余裕っぷりも、御方から信頼を得られていることも羨ましくて、憎らしくて仕方がなかったのである。
──かくして、二人は激突する。
理解の追いつかない掛け合いを始めたかと思えば、いきなりユリ扮するアルファがブチ切れ、戦闘を始めてしまった二人に引き、いつの間にか蚊帳の外に置かれてしまった男を残して。
□
周囲には、ついてきたはずの冒険者や王国兵の姿はない。
修道女姿のフリーデもといクレマンティーヌが男を街の中心部に向かうように促し、心なしかアルファも道を開けるように位置取りしたためだ。
そんな言葉を受け、男はどこか不安げに、後ろ髪を引かれるように立ち去った。当然、住民の救出を目的にしている冒険者らも男に付き従っていった。
残っていた方が決闘の邪魔であるし、不都合もあったので、彼女達にとっては幸なことであった。
対峙したまま相手の様子を伺う二人。
アルファはフリーデの挑発に激高してはいたが、いざ戦闘に入ればすぐ様、本来の冷静さを取り戻していた。
「……ふふ。まさか私が修道女の格好することになるなんてねー」
周囲に人がいなくなったからか、フリーデはそれまでの修道女然とした慈愛を思わせる口調をやめ、どこか余裕を伺わせる間延びした話し方をした。
「でも、なかなか似合ってるでしょー?」
ドレスの裾を摘み、くるり、と一回転。
「……あなたの修道女姿には寒気しか感じません」
「あーらら。随分と、嫌われちゃったねぇ」
残念そうな表情は全く見せずに、ニヤニヤと笑みを浮かべる──そして、あの人は見惚れてくれたんだけどなぁ、とわざとらしく呟いた。
「……っ」
「うぷぷ……私さぁ、最近すっごい体の調子いいんだよねぇ。体もすっごく軽くてねー、これも愛の力ってやつだと思わない?」
フリーデがフッと姿を消す。一足跳びに間合いを詰め、薙ぎ──大鎌の刃が銀色の軌跡を描く。
アルファは余裕を持って斬撃を回避し、仮面の下で鋭く睨みつけた。
「だからさぁ、全っ然、負ける気がしないんだよねぇ?」
「……自信過剰では?」
アルファは知っていた。彼女は決して侮れる相手ではないと。人間であった頃ならいず知らず、現在は御方の眷属であり、御方と同じく不死人のクラスを取得している事は想像に容易い。
彼女が調子を上げているのは、恐らくそれが原因だろうと当たりをつけていた。だから、御方の愛だとは断じて認める訳もなく、かといって御方から与えられた力であることを伝えるのも癪だったのだ。
しかし、彼女が侮れる存在ではないとは言っても、付け入る隙はあった。
御方の命で彼女は主要武器を変更していたからだ。以前は刺突剣を両手に持ち、一撃離脱や武器に蓄積させた魔法で奇襲することを得意とする戦法を好んで取っていたと聞いたが、愛用していた武器は故あって行方知らずなのだという。
故に、今の彼女が持つ得物は御方に貸与された物。
つまり、不慣れな得物でこの決闘に挑んでいるということだ。
アルファ自身は、彼女が言い訳出来ないように万全の状態で決闘を行いたい気持ちもあったが、御方の命であれば仕方がない。むしろ、この有利な状況を最大限に利用するべきという思考に落ち着いた。
ただし、一方のフリーデも重量武器に変更を余儀なくされはしたが、鎌はあまり使った経験こそなかったものの有効な使い方なら分かっていた。
彼女がまだ法国にいた頃、神人の一人が鎌を得物としていたのだ。
過去には無謀にも彼女に挑み、ボロクソに嬲られた経験もある。元漆黒聖典のメンバーとして、彼女がモンスターや鍛錬時に無双しているのも見たことがある。だから、彼女が鎌の内側についた刃の活かし方、刃の滑らせ方を身を持って知っていたのは皮肉とも言える。
あのバケモノと同じ得物を使っていることに関して釈然としない念が無い訳ではなかったが……
今となってはあんなバケモノ、今の彼女にはどうでもいい対象になっていた。
「得物に慣れていないのでしょうが、手加減はしません……!!」
アルファが姿勢を低く、地を舐めるようにして迫り、溜を作った拳撃を放つ。
「はぁっ……!」
あまりの踏み込みの速度に一瞬姿を見失ったフリーデがギリギリで柄を縦に構えて拳撃を防ぐと、金属同士がぶつかる激しい音が響き──フリーデはその衝撃で吹き飛ぶ。
「この、馬鹿力っ……! あなた、実はオークの血でも入ってるんじゃないの?」
ユリ扮する悪魔のメイド、アルファの武装は棘のつきだした手甲。
軽装で、手数が多く、彼女のストライカーとしての技能を十全に活かせる装備となっていた。
「残念ですが、その期待には沿えません。私の創造主様の種族はネフィリムですし、私自身の種族はデュラハンですのでっ!」
アルファが追撃するために間合いから離れたフリーデを追う。
「……チッ」
フリーデが地を撫でるように鎌を一振りすると──冷気が発生し、薄い靄が彼女の姿を隠す。
アルファが弾丸のように靄に突き進むも、煙と消えたかのように彼女の姿はそこにはなかった。
「どこにっ……」
フリーデの手にあるのは彼に貰った(貸与された)メインの大鎌に、サブには未だ実態を隠したままの魔法刃を生成する小鎌の柄。
二つは対であり、その特性は冷気を纏う魔法武器であることだった。
価値で言えば、いったい白金貨何枚になるかも想像がつかないほど貴重な品。法国に伝わる力を秘めた武具とも全く遜色ない。そんな代物を惜しげも無くポンと渡されては、使いこなしてみせなければ女が廃る、と彼女の意気は高い。
彼女自身、元々刺突剣をメイン武器にしていた反面、刀剣の類であっても特段不得手というわけではなかった。
刺突剣は彼女自身の柔軟性やスピードが活かせるというのもあったが、じっくりと相手を嬲り殺しにする時や、致命の一撃で勝敗を一瞬で決める時に使い分ける事ができたことから好んでいた得物でもあったのだ。
そんな軽量剣からやたら重い大鎌に変更を余儀なくされた彼女としては一苦労であったが、奇襲や一撃離脱、トリッキーな動きで相手を翻弄する戦い方を好む彼女にとって、鎌という癖の強い武器は存外面白い得物であることも確かだった。
「!」
背後から気配を感じ、アルファは咄嗟に身を転がせた。先程まで首があった位置では、大きな刃が風切り音をたて、ギロチンのように通過していった。
殺す気か、などと甘いことは言わない。決闘を申し込んだ身、最悪殺されることも覚悟の上。だが、アルファは憎い相手が本気で殺しにかかって来ていることがわかり反面安堵していた。今回ばかりは、彼女もなぁなぁで済ます気は微塵もなかったから。
アルファは追撃を警戒して素早く後退。フリーデは失敗した奇襲に対する反撃を警戒し、撹乱するために軽やかにステップを踏んだ。
両者は間合いを取り、仕切り直しとなる。
「やはり、それは魔法武器……」
「さぁねー?」
小さく肩を竦めてみせた。
「大鎌を相手にするのは初めてです……ですが、少しわかってきました」
実際、長物である大鎌はリーチこそあるように見えるが、実際には刃が内向きについているためか、間合いは槍や斧槍ほどのものではないようにアルファには感じられた。
ただし、長物の弱点である懐に潜り込まれた場合の対抗手段が少ない点では、そのデメリットはメリットにもなる。
刃が内側を向いている特性上、懐に潜り込まれた際に背後から奇襲しやすくなるからだ。
一方で、長物の特性上、振りかぶりが大きくなりがちで、どうしても攻撃のタイミングが測られやすいという弱点や連撃が困難という難点があった。
その点、手甲は身軽であるためパリィしやすく、かつ懐に潜り込んでの連打に長けている特徴があげられるが……
いざ大鎌の懐に潜り込んだ時にアルファは手痛い反撃を受ける可能性もまた高かった。
しかし、懐に潜り込まれている状態はクレマンティーヌにとってもリスクが高いことには変わりはないのも事実。
つまるところ、単純に武器の相性だけでは勝負がつくわけではなく、互いの駆け引き、戦闘勘に委ねられていた。
□
風切り音をたてて迫る斬撃をアルファは身を低くして躱し、隙を突いて力を溜めた一撃を見舞うも、フリーデはそれを予期していたかのように避ける。
神速とも見紛う踏み込みからの正拳突きを、フリーデはバックステップで回避する。背中で構えた大鎌を身体の捻りとともに振り上げ、その勢いのまま横に薙ぐ二連撃を繰り出すも、アルファもまたその斬撃の軌道を見切ってみせた。
互いに攻めと守りを入れ替えながら、応酬を繰り返し──ジリジリと、戦闘は互いの出方を伺う小康状態を迎えている。
フリーデがアルファの突撃を警戒し、アルファはフリーデの奇手を警戒していた。
「……いい機会です。この際言っておきますが……御方様にとって、あなたの存在は相応しくないのではありませんか?」
「あ゛ぁー?」
アルファが挑発のためか、常々思っていた本心を打ち明けた。それが気に食わない言葉であったのか、フリーデは不機嫌な声をあげる。
「御方様はナザリック大墳墓の偉大なる支配者のお一人にして、私達、下僕を創り給うた至高の創造主様」
「この世で最も尊い方々のお側に仕えるには、それ相応の格と品性が必要なのです」
「それを、あなたは……御方に迷惑をかけていることを省みず、御意思を無視して、愚かにもその幸運に陶酔しているように見えます」
思い出すのは、こうして決闘するに至った出来事。御方にやたら馴れ馴れしくする女の姿であり、御方のご慈悲に縋り付く性根の腐った売女への危機感。
「至高の……彼の御方の腕の中はさぞ心地良いのでしょう。ええ……浮かれる気持ちもわからなくはありません」
歯を食いしばる──羨ましい。悔しい。気に食わない。もしも、そこに私がいられたら、とアルファは負の感情がよろしくないものと知りながらも抑えられなかった。
「御方様はお優しい……ですがっ! だからこそそのお慈悲に縋ることなんてあってはならない……!」
頭を振って醜い感情を否定──青く静かに燃えるような怒りを灯した。ナザリックの下僕として、御方に近づく不逞の輩は可能な限り排除することこそが正義。アルファはそう固く信じていた。
「ボクが御方様の平穏を御守するッ!!」
アルファは、拳を構え弾丸のように飛び出す。人外の脚力による衝撃で、石畳が割れ、パラパラと粉塵が舞った。
「はっ……今更何を言うかと思えば……」
普通の人間であれば一撃で頭が吹き飛ぶような力が込められた拳撃の嵐をスルスルと避け、軽やかなステップで逃げる。
時折、牽制のために横薙ぎに大鎌を刈った。
その顔に浮かぶのは嘲笑。
「コレがナザリックとかいう墓場の下僕? ままごとかよ」
「意思を無視してるのはお前ら。従僕如きが、主を縛り付けるとか何様?」
「な、ん、ですって……!?」
フリーデにはその関係が子どものゴッコ遊びのように見えて、呆れが湧いてきた。
一方、アルファはナザリックのことをよく知らない外部の存在が、至高の御方と下僕との絆、主従関係をままごとと評したことに苛立った。
まして、御方の意思を無視しているのは自分達ナザリック勢だと宣う。
「……つーかあんた、要は私が羨ましいから、そこを退けって言いたいんでしょー? 回りくどい言い方してさぁ……いちいちムカつくんだよ!」
彼女が気に入らなかったことは他にもある。このごに及んで、自身の感情に蓋をし、ナザリックという建前を押し出す。しかも、それが絶対正義と信じているからこそ、疑うこともしない。
いつもいつも、ナザリックナザリックナザリック! ……それは何の呪文だ。
しかも、平穏を守る? 何言ってんだコイツは、と。コイツはあの人を見て何も感じないのか? こんな奴ばかりだから、周囲から理解されることもなく孤独感が深くなる、というのが彼女の思考だった。
フリーデ自身、ナザリックがどのような場所であるのかよく知らなかったが、アルファ達が話すようなこの世界で最も尊い場所とは思えなかった。
なぜなら、男があの骸骨に戻ってきて欲しいと言われた時、驚き、安堵しつつも少しだけ寂しげにしていたように見えたから。
それはきっと、自由のない立場になるのがわかっていたからではないか。
だからナザリックとかいう墓場に戻ってしまったら、あの人にはもう自由がなくなってしまうのではないかと彼女は危機感を強くした。
彼女の知る彼は──本当は柵などなく自由に、知らない土地を、異郷を歩き回っているのが1番似合っているのだ、という想いが彼女にはあるから。
──だからこそ、腹が立った。男の、神の自由を奪おうとすることに。
再びフリーデが地を撫でるように鎌を一振りして、冷気により発生した薄い靄の中に身を隠す。
「また、それですか!」
フリーデを見失うアルファ。いつでも反応出来るようにと構えを取り、全神経をフリーデの奇襲に備えさせる。
ザリっ、と何かを踏む音だけが離れた場所から微かに聞こえた。
アルファの視覚の外側。背後、空中からアルファに向けて音も無く忍び寄り、大鎌を下から掬うように刈り上げた。
「ぐっ……」
アルファは辛くも直前で、不自然な風を感じ取り、身を転がす。
どうやら、フリーデは身を隠した後、壁を蹴って空中から奇襲してきたようだった。
フリーデにとって、アルファの態勢が整いきっていない今が好機。地面に軽々と着地すると続けざまに身体ごと回転させ一閃、二閃。首や胴を刈るように、銀の軌跡が描かれ、続けざま、柔軟な体から繰り出された蹴撃により、アルファは弾き飛ばされた。
「ヒッ……ィヒヒヒヒヒヒ──」
三閃目──フリーデは手札を一つ切る。大鎌を勢い良く逆袈裟に振り上げると、フリーデからアルファにかけて強い冷気の風が吹く。風の吹き抜けた地面には霜柱が無数に立ち、魔法で作られた氷が軽い音をあげて爆ぜてゆく。
咄嗟に射線上から退き、アルファのすぐ側で氷が破裂する。冷気を纏った風が吹き荒れ、細かい破片が百合の衣装と肌を傷つけた。
「んふっ……やっぱり、甚振るのって気持ちいいー」
フリーデは恍惚の笑み。目の保護を優先したのか、腕で顔を庇っているアルファを見たフリーデはすぐ様追撃しようと、身を屈め──風を纏って突撃した。
「……っ!」
左腰に据えた得物。居合のように勢い良く放たれた斬撃がアルファを両断せんと迫る。
アルファは再び、身を低く屈めて斬撃を避け、怯むことなくカウンターとばかりにインファイトへと持ち込もうとした。
大鎌は既に目一杯振り切られている──好機、と拳激を浴びせるために懐に入り込みかけた時点で気付く。
あまりにも容易く入り込めてしまっている。そして、相対する修道女が何ら防御の構えや、回避の兆しも見せないことに。
そこらの雑魚が相手であれば、そんなこと違和感にも感じなかっただろう。だがしかし、彼女は態度こそ決して褒められたものではないが、御方が期待する戦闘巧者と知っていたから。
それが意味するのは、つまり──罠。
「バァーカ」
「ごめんねぇ、死んじゃうかもだけど……ちょっとくらいなら遊んでもいいよねぇ……?」
吊り上がる嗜虐的で邪な笑み。
振り切られた大鎌を右手で支え、半身となった態勢そのままに腰に据えられた副装へと左手を伸ばし、掴み取る。
──現れるのは輝く蒼い魔法の刃。
それは大鎌と比べてかなり小型ではあるが取り回しが容易く、かつ普段はただの柄のみで魔法の刃は現出していないため不意打ちにも適していた。
彼女もそのことを理解して、不意を打つために温存していたのだろう。
拳激を見舞わんと迫るアルファに、小鎌を手に待ち構えるフリーデ。
ただの刃ならばアルファとて多少の被弾を覚悟で突破することも可能。しかし、小鎌も御方より貸与されているはずの強力な武具であり、半端な覚悟では大きな痛手を負いかねなかった。
──果たしてアルファは後退することを選択した。
急制動からのバックステップ。一瞬で止まり、次の瞬間には動き出すことのできるアルファもまた尋常ではない戦闘者。しかし、すかさず後退し、小鎌の間合いから外れようとするも……
──背に当たる硬く、鋭い感触。
アルファはゾッとした。
そして、後退したはずなのに再び、修道女に接近、引き寄せられているという危機的状況を迎える。
「気になってたんだよねー。本当に首繋がってないのかさぁ」
──そう。フリーデはアルファの背後に大鎌の刃を置いて囲い、逃れられないようにしていた。そして後退したアルファに刃を引っ掛けて引き寄せると、態勢を崩した彼女の背後に素早く回り込み、鋏のように双つの刃で首を挟んで──一息に刎ねた。
首のない胴体が崩れ落ち、切れ味鋭い鎌で抵抗無く刎ねられた首が転がる。
「あーあ……しっかし、ホント可愛そー。自分の感情すら自由に出来ないなんて……報われないし、不憫だよねぇ」
そう、憐れみ吐き捨てた。
しかし、その吐いた言葉に何か思う事があったのか舌打ち。彼女は苦々しい顔をする。
「…………オラ。さっさとやり返して来いよ、バケモノ」
そう言い放ちつつも、既に彼女の視線は悪魔に向いてはいなかった。
もし、アルファが何の反応も返さなければ、後の処理は悪魔の仲間に任せ、すぐにでも男の後を追うために、その場を立ち去ることを考えていたから。
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18.ユリ編※4ー2
アルファの理性は激情の渦に巻かれていた。
彼女が相対する修道女──クレマンティーヌ扮するフリーデはこの期に及んで未だアルファを嘗めているようだったから。
何しろ、この大切な決闘の場で、デュラハン相手に首を斬るなどという無駄な行為を試したのだ。
それが挑発として意図したものであれば、それは成功と言ってもよい。
しかし、それはそれでアルファに精神的ダメージを与えてはいたが、それよりもアルファが心囚われていた言葉があった。それは……
──彼女はなんと言った?
──可愛そうな女?
──気持ちを示せないのが可愛そうだと?
──忠誠が報われなくて、不憫だと?
──うるさい
──だまれ
「あなたにボクの何がわかる……」
フリーデの背後──胴体から切り離されたはずの首が言葉を発する。
胴体がひとりでに動き出し、首を拾った。
「おぉー……」
それを見たフリーデの口から驚くような声が出た。
「ボク達にとってはナザリックが全て……仕えるべき方が、ボク達を創り出した創造主様がいなくなってしまうことの悲しみと恐怖は……御方様の寵愛を頂けているあなたには、わからない……」
アルファは韜晦していた本心を溢す。
その声に込められているのは、狂おしい感情。
──失いたくない
──見捨てないで
──置いていかないで
──ボクたちを……ボクを愛して欲しい
恐れであり、渇望。そんな感情たちを言葉に変えて、御方々にぶつけられたら、それはどんなに楽だったであろうか。
だが、そんなことはナザリックの立場が、同じ不安を持つ仲間たちが、そして従僕としてのプライドが許さない。
言えるわけがない。
「自分の感情すら自由に出来ない? ……えぇ、えぇ! 羨ましいですとも! 自由気儘に振る舞えるあなたが!」
「だけどっ……そんな見苦しい言葉を御方様方に聞かせるわけにはいかないの」
「…………本当なら、その場所にはボクがいるはずだった。御方様のお側に」
異様な雰囲気。
アルファが言葉を発する度に、感情の温度が変わってゆく。
隠れた仮面の内。彼女の姉妹の誰も見たことのない冷めた表情。普段、姉として、プレイアデスの副リーダーとして皆を纏める苦労人の姿ではない。
──ボクは、あなたが羨ましい
──あなたさえ、いなければ……御方様は昔のようにナザリックを愛してくれるのでしょうか
まだナザリックに至高の41人が在席していた黄金期。あの頃はナザリック全体が情熱と熱気に包まれ、毎日が賑やかだった。楽しくて、毎日が幸福だった日々を過ごした。
だが時は過ぎ、今ではアインズを残し、ギルドメンバーの多くがナザリックを去った。
──御方様までナザリックを去ってしまえば、ボクは……
「本当は諌めるだけのつもりでしたが……もう、やめます」
「あなたがそこにいると不安なの……だから、そこから退いてちょうだい」
──その場所があなたには過分なものであると、いい加減気づいて
それは今までとは異なる、硬質な声音。
決意の言葉。
相対する女性が同じ男性を慕っていることなど、よくわかっている。それを分かっていながら彼女の想いを断ち切る決意を彼女はした。
他でもない、仲間たちのために、自分のために奪う、と。
ただ……
──御方様はこの勝手をお怒りになるでしょうね……
それだけが心に凝りを残す。
だが、決意はもう済んだ。あとは、突き進むだけ。それが創造主から受け継いだ、ユリ・アルファとしての在り方。
修道女が異変を察知し、すぐさま追撃しようとするも、その先にはタイミング悪く、進路を邪魔するようにして立ち塞がる影が躍り出る。
「おー、御方様の新しい眷属は鎌使いだったっすかー!」
「こんばんは、修道女さん」
「……」
アルファと同じく鋭角的な仮面を着けた三体の存在。ベータにイプシロン、デルタ。
「……あなたたち、そこを退きなさい」
アルファが静かに声を上げ、フリーデは機を逸したことに眉を顰めた。
今のアルファは尋常ではない気がする。
嫌な予感。フリーデの直感が警鐘をガンガン鳴らしていた。
「まぁ、まぁ。ユリ姉、もう少しで作戦の終了時間っすよ。アタシらも手伝うっすか? ナザリックの下僕としては新人に舐められるのは困るっすからね〜。皆でボッコボコにしてやるっすよ!」
場の空気も読まず、シュッ、シュッとパンチの真似をするベータもといルプスレギナ。
「手を出さないでちょうだい。これは至高の御方々が定めた決闘の流儀よ……それを破るのなら幾ら妹のあなた達でも許さないわ」
その問いに対してアルファは静かな怒気を発して答える。
事実、ナザリックのメンバー達は決めごとが決まらない時は一対一で決闘することが多かった。その流儀をまさか下僕が汚すなど、あってはならない事。
そして、そこで初めて妹達は今のアルファが、ユリがいつもの朗らかな姉とは異なることに漸く気づいた。
「っ、じょ、冗談っすよ……?」
「……邪魔しにきたのはルプーだけ」
「私達は本当にただ見届けに来ただけよ」
「ゔっ……しーちゃん、そーちゃん、ヒドイっす……」
「あなたたち──」
アルファの静かな威圧感のある声を再び受け、若干焦りながら邪魔にならない位置にまで下がる悪魔たち。
「ユリ姉、何かおかしくないっすか……?」
「……かなりキレてるわね」
「珍しい」
「あの新人、ユリ姉に一体何したっすか……」
コソコソと話す内容はアルファには届かなかった。彼女たちは驚く。姉と慕う人物が、あそこまでキレているのを初めて見たのだから。
「妹たちが、ごめんなさい。先手は譲りましょう。……ですが、心してください。今度からは全力で行きます。ボクはあなたに勝たなくてはいけない」
《アイアン・スキン》
《プロテクト・スキン》
《メイドの嗜み》
攻撃力向上、防御力向上、ダメージカット、回避率向上のバフがかけられ、アルファは構えをとった。
「はっ……やれるもんならやってみろよ首無し!」
《流水加速》
《能力向上》
《能力超向上》
攻撃の高速化、肉体能力の向上のバフ。大鎌を背負い、小鎌を構える。そして、再び下半身に力を溜めた。
──先に駆け出したのはフリーデ。
目にも止まらぬステップイン。間合いを急速に詰め、青い軌跡を描いて振るわれたのは小鎌。そして、フワリと流れた身体のまま大鎌の重さを活かすようにして回転し、断頭の如き連撃を放つ。
大小の鎌は悪魔に致命の一撃を与えんと、瞬く間に幾筋もの軌跡を描いてゆく。
対して、アルファは腰を据え、両腕を柔らかく開く。そして、ゆったりと間合いを詰めてゆく。
一歩──斬撃に怯むことなく青い軌跡を掻い潜る。
二歩──腕で円を描き、斬撃の軌道を往なした。
三歩──不規則な青い軌道を回避しきれず接触。
青い軌跡に触れた衣装が一文字に斬り裂かれ、アルファ自身にも鋭い裂傷がつく。しかし、本来であれば深手を負うはずの斬撃もアルファのスキルによりダメージは抑えられていた。
故にアルファに焦りはなく、未だ冷静そのもの。
四歩──重量を活かし、遠心力で加速した大鎌の一閃を見極め、受け流す。フリーデが目を見開いて驚愕した。
「っ──」
そして、五歩──
渾身の力で振り切られた一閃を受け流され、体勢を崩したフリーデに対し、アルファは更に前へと距離を詰めた。
腰を落とし、更に大きく一歩。
「ハアァッ!!!」
鉄山靠──腰を捻り、勢い良く体当たりをするように、敵を背中で強かに打ちつける技。アルファは地を踏みしめ、溜めた震脚の威を腰に乗せ、勁を放つ。
「ぐっ……」
まるで壁に衝突したかのようにフリーデは弾きとばされ、身体は衝撃で硬直する。数瞬の間、無防備に宙に浮くことになる。
──それが大きな隙となった。
纏糸勁──アルファは腕で大きく円を描くようにして太極の軌跡を辿る。溜められた勁が腕を巡り、吐いた呼吸とともに丹田へと集められる。その意気で挑む。
「──敵より遠く、我より近く」
それは剣の理である間合いの妙であるが、アルファは今、弾かれ宙に在るフリーデを間合いに納めつつも、一歩下がるだけで敵の間合いを外すことの出来る位置にある。
無理せず姿勢を保ち、一撃を打ち込む時の余裕が威力を決める。そして、必ずしも懐に入らずとも致命の一打を放つ術が彼女にはあった。
それは丁度、五歩の距離。
それが彼女、アルファ/ユリの必殺の間合い。
《擲天五歩気爆拳》
丹田に集められた勁が再び腕へと巡る。掌から魔法のような気を発し、フリーデを穿つ。
膨大なエネルギーを内包した、圧縮された気──圧力から解放されたそれは赤熱し、すぐさま膨張を始め、ついには限界を迎える。
爆音とともに広がる白い閃光。
爆風によって立ち込めた砂埃が晴れた先には、吹き飛び、地面に無残にも倒れ伏したフリーデがいた。
「……ふっ!」
先程とは正反対の様相。アルファは手応えから決闘に勝利したことを確信、安堵しつつも残心。息を整えながら、フリーデを警戒する。
そして……
「……安心してください。私は御方様に不自由を強いることも、ご迷惑をかけるつもりもありません…………まして、もう好意を打ち明けることはしないつもりですから……」
──ただ、御方様の側に仕えるだけ……
──彼女の御方様への想いを断ち切るからには、自身の好意をお伝えするなど不義理なのでしょう。応援してくれているアーちゃん達には申し訳ないけど……
そう、心の中で反芻し、重いため息を一つ。
「……勝負は私の勝ちです。あなたはよくやりましたが、御方様のお側に仕えるには強さも、品格も、意思さえも足りていない」
「御方様の側に弱者は相応しくない……潔く、身を引くことです」
そして、暫くして反応が見られないことを確認すると、残されたゲヘナの任務を遂行するために背を向けて立ち去ろうとし──
カツン、という硬いもの同士が接触する音がした。
アルファが振り返れば、そこには鎌を支えにして地面に膝を突き、立ち上がろうとする女。
彼女はブツブツと何かを小さく呟く。
その姿はボロボロで、せっかく用意された修道服も破損こそないが、砂埃で汚れ乱れていた。
「……私達が創造主様より授けられた力の一端を身を持って理解出来なかったのですか? 私達こそが御方様方に仕えるために創られた存在──御方様はあなた程度が馴れ馴れしくして良い方ではないのです」
アルファは再び構えを取る。
今度こそ完膚なきまでに打ち崩し、恥で二度と御方の顔をまともに見れないようにするために。
弱者には御方の寵愛を受ける資格もなく、私では到底、支えになどなれないのだと無力を悟らせるために。
アルファは悪魔らしく、修道女を嬲るのだ。
□
拳打の嵐。
肉を打つ音が響き、血が舞う。
修道女は悪魔からもたらされる暴力を耐え忍ぶ。
体の随所では痛みが警告を発しているのに対して、精神は不思議な程に凪いでいた。まるで肉体と精神が剥離し、自身を客観視しているかのように。
──痛い……
──苦しい……
──……何でこんなに頑張っちゃってるんだっけ、私
修道女はもはや防戦一方で、アルファからの猛攻を耐えるので精一杯になっていた。
辛い。逃げたい。彼女はフワフワとした思考で想像する。この勝負に負け、その先には何が待っているのかを──
──さっさと自分から負けを認めちゃったら?
彼女には強者というプライドがある。男に自分が誰かに負けた惨めな姿を晒したくなかった。まして、自ら負けを認めるのも嫌だ。それでは、彼女のプライドはズタズタになってしまうだろう。
だから……
──それなら、まだ殺された方がまし。
幸い、男が蘇生の手段を持っていることを彼女は分かっていた。
しかし、彼女は一度目に蘇生を受けた際に不死人へと転生しており、例え、死んだとしてもエ・ランテルの篝火で亡者として目を覚ます可能性が高い。
それを彼女は男から話を受けてもいなければ、気付いてもいなかったから。
──死んだら、生き返らせてくれるかな?
──2回目もきっとあるよね?
前に言っていた。男は蘇生が好きにはなれないと。生に対して真剣に向き合えない気がする、とも。しかし、その言葉は一般的な感性から齎されたものであったのだが、男もまた不死人であり、彼女は男の過去を思って勘違う。
──これがそういうことなのかな……
果たして、彼女は今、生に向き合えているのか数瞬だけ自問する。そして、不毛だと繰り延べし、仮に蘇生を施されたとして、その生は以前と全く同じと言えるのかを漠然と想像する。
敗者。
負け犬。
憐れみの視線。
そんな扱い、殺したいほどムカつくが彼女は慣れてはいる。法国にいた頃はそれに似たような扱いだったから。
しかし、彼女はそれでよくとも、果たしてそのような存在が男の側にいることは許されるのだろうか──いや、きっと許されることはないだろう。
結局の所。彼女が負ければ最終的に待っているのは以前と同じ無味乾燥とした世界なのだろう。
男の側に居られなくなり、ただ一人、理解者もなく屍のようにただ彷徨う。自身の感情が擦り切れて狂人となり、誰かを殺し、誰かにまた殺されるのを待つだけの時を過ごす。
……いや、男を知ってしまった今では、そこは嘗ての地獄以上。
彼女にはもはや彼なくして生きてゆく自信がない。側に侍ることも、腕の中で愛を囁くこともなく。やっと手にしたはずの居場所が奪われ、繋りは断ち切られることになる。
想像して心臓が裏返るような拒否反応を示した。
──いやだ
精神への過負荷。
──いやだ
奪われてしまうことへの恐怖。
──いやだっ……!
思い出すのは、今まで掌から溢れ落としてきた大切なもの達。
そして、今、命を賭けてでも絶対に失いたくないもの。
ギ、シッ──
それは食いしばる歯の軋みか、負荷による心の悲鳴か。視界に星が瞬き、音が聞こえなくなった。
胸の内。心が軋み、罅割れる。隙間が空き、その隙間からは少しづつ何かが溢れてゆくよう。
体は傷だらけ、息が荒く苦しかった。思うように動かない体に焦りと苛立ちだけが募ってゆく。
彼女が持つ大切なもの──火の血縁。
そして、その証である男から受け継いだ火。
断ち切れぬはずの縁であり、目には見えない確かな繋がり。
それは自由を縛る柵であるが、彼女に温もりを与えた。
そして、彼女の居場所も。
大切なものは全て、男から貰ったのだ。
──あ、ははっ……私、いつの間にかだいぶ毒されちゃってたみたい……
──私が幸せだなんて……頭が可笑しくなってたのかな
我に返ったかのように、自嘲した。
だがしかし、男に出会う前の彼女であれば、すぐに逃げ出していたであろう状況でも踏ん張ろうとしているのは、彼女にも絶対に守り抜きたい一線ができたということ。それ自体は悪い変化ではない。
そして、ここで無様に負けては今後、男に相応しくないと、側にいることが出来なくなる。二度と顔向け出来ないという直感があり、それは事実、正しかった。
──やだなぁ
だから、歯を食いしばり、拳打の嵐を耐えられていた。
──失いたくない……
しかし、現状活路は見い出せず、アルファの豪腕から繰り出される拳撃を耐え忍ぶにも、限界は近い。心が折れかけ、諦めの気持ちが侵食してゆく。人外のバケモノが相手では、負けることが仕方のないことと受け入れ始めている。
ギ、シッ──
胸が痛い。胸の中にある何かがそれでは駄目だと悲鳴をあげている。
「ぁ、ぁぁあああ!!」
修道女は力を振り絞り、大鎌を地面に叩き付ける。
「は、ぁ……は、ぁ……」
彼女を中心として発生した無数の氷柱がアルファを襲い、彼女を修道女から遠ざけ……
氷柱が透き通るような甲高い音を立てて、儚く散ってゆく。
「もう、終わりにしましょう」
アルファが構えを取り、呼気とともに黄金色の気が溜めを作った腕へと集まってゆく。
「ごめんなさい」
「あなたを──殺します」
《螺旋気爆拳》
拳が振り抜かれ、暴風が螺旋を描いて道を創り、同時に膨大なエネルギーを秘めた黄金色の気がその中心を貫く。
それはまるで嵐を一本の光線に纏めたようにも見え、吹き散らす暴風は石造りの民家を容易く吹き飛ばし、辺り一面を瓦礫の山とする。
そして、そんな一撃はただ一人にのみ向けられており、それは間違いなく彼女の息の根を止めるに足りる一撃だった。
□
黄金色の嵐が殺到する。
──やだ
膨大な熱量を孕んだエネルギーの塊が彼女の全身を殴打し、容赦無く命の火を吹き消さんとした。
──やだ
彼女の意識は霞のように消え入る寸前。
──やだ……
その先にあるのは、死か絶望か。
──こわい、たすけて
彼女は心の中で助けを求める。このまま意識を保てなければ、そのまま、彼女は再びあの昏い深淵へと堕ちてゆく。
……それが助けだったのかは彼女の考え次第だが……ただ、その時彼女は走馬灯のように思い出した。
短くも大事な日々。
永きを生きることを苦痛に思わないのか、と尋ねたあの日。その質問に男は笑っていたが、彼女はその笑みに影を感じずにはいられなかった。
『お前は俺といてくれるんだろう?』
──あの日、あの人は私に振り返り、そう言った。
孤独に慣れ過ぎると、寂しさなど感じなくなる。麻痺した心。それが普通になってしまうことを女は知っていたから。
あまりにも過酷な旅を経験した男は、その地獄を踏破した達成感を知っている。寂しくて、苦しくて、心折るような旅路──しかし、その旅路には美しい絶景や通常では味わえぬ興奮があった。
そして……男はそこで自身は死ぬことが出来ずに周りから取り残されてゆく絶望と、一人で歩まなければならない永遠に近い時への諦観を得た。
──不死のあの人が、孤独にならないために。再び救済の道を歩み、ただ一人、地獄へと赴くことのないように……
孤独な騎士の後ろ姿が脳裏によぎった。
あの人は孤独に魅入られている──それはつまり、自ら孤独になろうとすること。
言葉を違える訳にはいかない。
「ぁ……しね、ない」
こんなことろで死ぬ訳にはいかない。
「わたし、しね、ない……!」
憐れで、強がるあの人を一人に出来ない。
「ま、だ……しねないいいぃぃ……!!」
そうでなければ、あの人はまた孤独の道を歩むだろうという予感があるから。
だから──ただこの瞬間のために命を燃やし、魂を焚べる。それこそが男の話す、生に向き合うということなのか。
血涙を流す修道女──祈るように堅く握りしめた手から、その意思に反応するように火が溢れた。
□
暴風によって巻き上げられた粉塵がもうもうと立ち込める。
アルファは粉塵の只中で息絶えているはずの存在を確認しようと腕を振り、粉塵を吹き飛ばす。
そこでアルファが目にしたものとは──
「その火は御方様の……!」
過去、何度か目にし、御方がナザリックへと帰還した際にも目にしたものと同様のもの。
女が体に纏う炎。
その火は肌を焼かず、衣を焼かず、しかし、火の主の意のままに対象を燃やし尽くす。
だが、とある物を見て、アルファの驚愕は変貌する。彼女は仮面の内で嫌悪に眉を顰めた。
チロリと滲み出した黒。
それは罅割れた心から漏れ出た人間性の闇。人の本性。心の闇であり、包み込む愛、果てなき欲望、人間を人間たらしめる意思そのものでもある。
輝かしかった火は滲み出た黒に混じり、闇のように禍々しい火へと変貌する。
そこには、黒炎を身に纏う修道女の姿があった。
「……」
彼女はふらふらと、大小の鎌を手に歩みを進める。
黒炎が鎌へと完全に移り──修道女が鎌を振るった。
と、同時に地をうねるように走る黒い炎。黒い炎はまるで意思を持つかのように、敵に向かって疾走する。
それは《黒蛇》と呼ばれる黒い呪術。どこかの世界では黒い呪術のはじまりとなったもの。
アルファは迫るそれを警戒して大きく回避する──しかし、黒蛇はアルファに追従するかのようにしつこく後を追いかけた。
そして、一瞬、アルファが修道女から目を離した隙──彼女は再び鎌に黒い炎を纏わせ、身を独楽のように回転、地を蹴る。
黒い炎を円状に撒き散らし、一息に空中に身を踊らせると、直ぐ様アルファ目掛け急降下。地面に着地すると同時に黒い炎を纏う二つの鎌を叩きつけた。
□
黒い炎の大爆発──
爆炎が膨れ上がり広範囲を呑み込んだ。
アルファの渾身の一撃が振るわれ──
石畳が陥没し、蜘蛛の巣状に罅割れる。
修道女が冷気を振り撒き──
一面に鋭い氷柱が生え、街の一部はさながら水晶でできた針の山に変貌した。
膨大なエネルギーを籠めた正拳突き──
放たれた熱線が家々を一直線に貫き、大きな風穴を開けた。
「……これ、流石にヤバくないっすか?」
「かなり目立ってる上に、周囲の被害も甚大ね」
「やりすぎ」
まるで紛争の起こった街のような有様。それを成した存在である二人に、三人の悪魔──ベータ、イプシロン、デルタは若干焦り始める。
元々、場が荒れるのは想定済みであったし、彼女らは配慮する必要もあまり感じていなかったが、少々派手に破壊し過ぎているようにも感じた。
あくまで、今回のゲヘナのメインは冒険者モモンにある。脇役であるはずの二人が大激闘をして話題となっては、主役が薄れてしまう可能性もあった。
「作戦の終了時間も、もうすぐだし……決着つくっすか? ヤルダバオト様にお知らせした方がいいっすかねぇ? 後で怒られるのも嫌っすよ」
「どうかしら……でも、ヤルダバオト様にとっては想定の範囲内の事なのでは?」
「……」
そして、先程から続く破壊行為がいつ終わるともしれず、もうすぐ刻限となる作戦終了時間までに決着がつくかどうかも怪しい。
「う、う〜ん……悩みどころっすねぇ。時間的にあっちは今、冒険者モモン様と対決中だし、そんな大事な時に邪魔したら……」
『そんなことで大事な一戦に水を挿し邪魔したのか……お前には失望したぞ、ルプスレギナ……!』
もしくは……
『イレギュラーな事態が起こったのであれば報告するのは義務だ。お前は何故知らせなかった?』
つい先月、ナザリックの主であるアインズに激怒された時を思い出して、ベータは仮面の下で顔を青くした。
「ひぇっ……どっ、どうしたらいいんすか〜!!」
それが若干トラウマになっているのか、彼女は頭を抱えた。
「……御方様に止めて貰う」
デルタが感情に乏しい声音で言った。
「っ! それがいいっす! しーちゃん、あったまいい〜!」
「あら。でも御方様を取り合っての決闘だって聞いたけど、拗れたりしないかしら?」
噂では御方の寵愛を巡って彼女らの姉であるユリ・アルファから御方の新しい眷属に決闘を叩きつけたとも聞いていた。
その場に御方自身が乱入した時の姉の気持ちを思えば複雑だったが……
「……決闘を止められるのは至高の41人だけ」
現状で、最も確実な方法ではある。
「ゔ〜…………御方様なら何とかしてくれるっす」
「……まぁ……それはそうね。私たちではどうしても止められないし。じゃあ、メッセージでお伝えするわ」
そうこう話し合っている内に地が揺れ始める。それはゲヘナの終了を意味しており、アルファ達の撤退の合図でもあるのだが……
「あ……揺れてるっす」
視線の先。二人は未だ矛を収める気配がなかった。
──自分達ではどうしようもないことを、出来る人にさっさと投げてしまう。それは全体で見れば効率的だろう。しかし……投げられた側からしたら、たまったものではない。
□
「何じゃこりゃ……」
ソリュシャンより二人の争いが激化し、作戦時間内に終わる気配がないとの報せがあり、男は急遽、元来た道を戻ることとなった。
二人が争った場所は、もはや最初とは全く別の景観になっていた。レンガ積みの家々は瓦礫の山、一部では火災すら起きている。石畳の敷き詰められた道は所々にクレーターが出来、季節でもないのに霜が降りていたり、氷柱が出来ていたりと、混沌としていた。
「不安が的中したな……」
男がまず感じたのは、やはりとの思い。
悪魔と修道女が対峙した時の険悪な会話は、予感通り、ただの演出ではなかった。
それが今、身の前でクレマンティーヌとユリが本気でやり合う事態になっている。もしかしたら、先日ユリが叩きつけた決闘が本当に行われたのかもしれない、というのが男の思考にあった。
「あの時、必死で宥めた苦労は一体……」
ユリがクレマンティーヌに決闘を叩きつけた際には、しっかりとよく考え直すようにと男は言っていた。
ますますヒートアップする二人の間に入り、宥めるのは大変だったが、苦労して二人を引き離し、何とか治めることができたと思っていたのだ。
だが、実際にはユリの怒りは治まってはおらず、腹の底では激怒していたままでいたことに気づけなかった、と男は悔やむ。
そして……
「……聞いてねぇぞ」
こうして二人が争っており、ご丁寧にプレイアデスの立会人を付けているからには、ナザリック公認の決闘なのだろう。しかし、男はこうして決闘が行われることを知らなかった。
「モモンガァ……デミウルゴスゥ……」
ただ、モモンガはユリが自分達を真似してPVPを行うことに感心したし、報告が上がって来た際にはまさか真面目なユリが男の許可を得ていないなど思いもしなかった。男自身、ユグドラシル時代には積極的にPVPを行っていたことからモモンガが勘違いしたというのもある。
また、デミウルゴスに関しては、この決闘が御方の策であり、その表面上の狙いがユリとクレマンティーヌの相互理解、互いの意見をぶつけ合うことにあること。そして、その真の狙いが決闘を契機として御方の伝説を広めるための布石にあると予測していた。そう考えたからこそ、ゲヘナに喜んで組み込んだものだったことを男は知らない。
黒い爆炎が吹き荒れ、その中から吹き飛んできた影がある。
「よくも……よくも至高の御方より頂いた衣装を……!」
被っていた仮面はどこへやら、激怒しているのか眉間に皺を寄せ、鬼の形相を浮かべるユリ・アルファ。彼女達、戦闘メイドが普段から身に纏う服は、戦闘にも耐えられるよう耐久度が高い。しかし、その衣装も炎にまとわりつかれたせいか、所々焼け焦げてしまっていた。
「……」
方や、無言でホラーもかくや。鎌に纏う黒い炎の尾を引き、アルファに滑るように迫る。血涙を流し、内蔵をやられたのか口や鼻からは血を垂れ流す。かなり痛めつけられたようで、修道服はズタボロ。視線こそアルファに向いているようだったが、どこか虚ろだった。
「おい、お前ら、武器を収め──」
『……』
『破砕衝撃ッ!!』
激しい衝撃。辺りに粉塵が舞い、男はもろに被る。
二人は男の声が聞こえてはいないようで、戦闘をやめる気配もない。それほどまでに周囲が見えなくなり、相手のみに集中していたからというのもある。
「聞こえてねぇのか……」
額に筋が浮かぶ。
突然放り込まれたトラブル対応。しかも、そのトラブルの元の二人は、男の側付きだった。つまり、周囲に迷惑をかけているのは自身の部下だとも言える。だからこそ、ソリュシャンから連絡が来たと男は解釈した訳だが。
「加減を知らねぇ、脳筋共が……」
「どうすんだ、これっ!! コラッ!!」
そして、男もまた戦闘の最中に飛び込む。
信仰系の魔法を使用し──男が手に持つ触媒から鈴の音が響き渡る。
《緩やかな平和の歩み》
移動阻害の効果を持つ魔法。ガクンッ、と膝が前に出なくなり、修道女は水の中を歩くようなペースになってしまう。
しかし、一方のアルファに関しては魔法が効果を発揮していないようで、鋭い踏み込みで間合いを詰めようとしている。
「クソッ! 移動阻害への完全耐性か! めんどくせぇ!」
本来であれば、互いに敵意を持つ者同士に対し、手を出させずに睨み合わせることを強制するもの。しかし、二人とも頭に血が昇っているようで、互いに相手の出方を警戒しつつも攻勢の手を緩めることはない。
自身のため、仲間のため、貪欲に勝利だけを目指し、相手の命を欲する。
修道女の黒い炎を纏う大鎌の一撃が振るわれ──
悪魔のバフスキルを重ねがけした渾身の鉄拳が放たれる──
「やめろっつってんだろうが!!」
それを両者の間へと乱入した男が鎌の一閃をパリィで弾き、鉄拳を掌で受け止める。
「っ! お、御方様っ……?」
「双方、武器をひけ! 勝負は引き分けとする!」
アルファは目の前に男が現れて初めて、その存在に気がつき、顔を青白くして冷静になった。
気がつけば周囲は荒れ放題で、先程まであった風情ある街並みはもうない。ナザリックでは認められたものの御方が反対していた決闘を見られ、挙げ句、決着がつく前に止められてしまった。しかも、後半の内容は互いに命を賭したものだ。
如何に、ナザリックの秩序を乱しかねない彼女の行動を諌め、御方への不敬を戒めるためという名分とはいえ、それだけの理由で本気の命のやり取りはやり過ぎだとユリも自認していたから。
しかし、やらねばならなかったのだ。もしもの未来、御方がナザリックを出奔してしまっては仲間たちが悲しむことになると思ってのこと。無論のこと、この段階ではユリは命までとるつもりはなく、ただ手痛い敗北により身を引かせようと考えていたのだが……
だが、その彼女に指摘されてキレてしまった。隠していた動揺を顕にされ、かけられた安い同情の言葉にどうしようもなく耐えられなかったのだ。
本当は自身が御方の公私の支えになりたいと願っていたのに、その場所には知らない誰かが既にいることに激しく動揺し、嫉妬に耐えられず……
その知らない誰かに不憫だと、報われることがなく可愛そうだと同情を買われ……
その言葉を、自身の不安な気持ちを表立って出すことが出来ないもどかしさ、焦りが、彼女を排除せんと突き動かした。
そして、欲が出た──彼女さえ、居なくなってしまえば、と──
だが、アルファに満ちていた決意、怒り、その他諸々の感情は御方と呼ばれる男の顔を見た途端に萎んでいった。
「か、かしこまりました……」
そして、男から制止の言葉が放たれると、一方の修道女は力を失ったように崩れ落ちてしまった。
「お、おい……」
それを男は慌てて支えた。
冷静になったアルファは物音に気付く。いつの間にか、周囲には冒険者や兵士、救助された街の住民がポツポツ集まり始めている。推察するに、彼らは再び男の後を追って来たのだろう。
『っ……修道女さんが……ひでぇ……』
男の腕の内には瀕死状態の修道女。人だかりからは、悪魔が彼女を嬲ったと考えたのか、慄く声が聞こえた。
「……話は後で聞く、アルファ」
アルファがその呼び掛けを聞き、再び仮面を身に着け、飛び退る。既に彼女の三人の妹達は民衆の目もあることから演技に入っていたようだ。
民衆は警戒感を顕に、悪魔達、そして男と修道女の様子を伺う。
「やぁやぁ! 人間もたまにはやるっすね──今回はそちらの方にトドメを邪魔されてしまいましたが……あまり調子に乗らないで欲しいわね」
赤髪の仮面の悪魔が嘲笑う。
「神に仕える者を甚振るのは、なかなか面白い見物でしたわ」
金髪の仮面の悪魔が嗤う。
「……面白かった」
桃髪の仮面の悪魔が無感動に言った。
「……」
修道女を嬲った黒髪の悪魔は何も言わない。
そして──何処からかパチパチと手を鳴らす音が聞こえた。
黒い空から現れた赤いストライプのスーツに青い鋭角的な仮面の大悪魔。
メイド服を身に着けた悪魔達が跪く。
「おや、劇はもう終わりなのかい? これからが良い所だったろうに…………ふむ、そこの観客には演者への敬意がないのかな? 『喝采したまえ』」
メイド服の悪魔達の主が《支配の呪言》で、命令を強制する。
そして直ぐ様、周囲に集まった冒険者、王国兵士、王都住民が狂ったように拍手喝采し始めた。
「……」
嵐のような拍手が轟き、指笛が警笛のように鳴り響く。
男は抵抗。というか、大悪魔の使用した《支配の呪言》はユグドラシルで言うレベル40までの相手にしか効果を及ばすことができない。男は僅かな抵抗で、支配を断ち切った。
「これは、これは……! こんな所にも私の支配が及ばない者がいるとは! 先の冒険者モモンといい、中々油断のならない人材がいるじゃないか!」
「……」
男は元々演技が得意ではない。モモンガの魔王ロールのように、ユグドラシル時代でも特にロールプレイすることも無かった。だから、彼はボロが出にくいように、あまり喋らないことを選んだ。
「そうだね……まだ時間はある。少し会話でもどうかな? いやなに、なかなか楽しい劇だったのでね。感想を聞きたいのだよ」
しかし、未だに続く喝采に大悪魔は煩わしげに言い放つ。
「少々、騒がしいよ。『静まりたまえ』。木石のように、物言わぬ存在になっているといい」
拍手喝采がピタリと止み、物言わぬ人々が微動だにせず立ち尽くす異様な光景。
民衆を人質にしたていで、ヤルダバオトと呼ばれた大悪魔は瀕死の状態のフリーデに視線を向けて声を発した。
「彼女はなかなかに面白い存在のようだね? 彼女には悪魔の資質がある。是非とも部下に加えてみたいと思ったよ」
「……これは悪魔にはならん……悪魔にならずとも、願いを果たせる力は、もう、とうに持っている」
男はなるべく意味深げな言葉を選び、周囲に集まった人間が理解出来ないように話した。
「果たして、彼女はそれで満足しますかな?」
「っ、……」
しかし、目の前の大悪魔は悠々と会話を繋げてきたため、男は言葉に詰まった。
「そうそう。私の部下は如何でしたかな? 彼女はとあるものを手に入れるために、修道女を排除することを目論んだようですね」
そして語るのは、彼女が何故、このような行動に出るに至ったのか。
「しかし、その行動の根底にあるものは主への忠義と愛、仲間への想い──実に悪魔には相応しくない動機だと思いませんか? 自己犠牲、無償の愛、思い遣りに哀れみ……なんとも嫌な響きです」
大悪魔は彼女がまるで他人のために、自分の何かを犠牲にした上で、修道女を嬲ったかのようの言う。行動の理由──そこには『御方』や彼女の仲間たちへの想いがあると。
「後で、叱らなくてはならないと思っていた所ですよ。悪魔ならば悪魔らしく、犠牲を気にすることなく徹底すべきだった。そもそも彼女には欲望と悪意が足りない。自制心の強い悪魔などお笑い者です。私としては、もう少し欲望に忠実である方が好ましいのですがね」
そして、もう少し自身の願望を優先しても良いのではないか、と苦言を呈す。
「彼の大悪魔は、誇りある悪は大願を叶えるために手段を選ばなかった。例え、法や道から外れ、犠牲が出ようとも。だが、美しくない手段ではそれだけで下賤にも劣る、自身の言動には美学を持つべきだと。そう、彼は教えてくれました」
それは独白にも近い。彼の行動原理であり、指標。子どもがヒーローに向けるような憧れであり、父の背に向ける決意でもある。
「ですから、やはり彼女は『悪魔』としては失格なのでしょう。足掻き、苦しみ、泥に濡れてもなお、最大の利益を得られなかったのですから」
目の前の大悪魔の言葉は本音であっても、嘲りは含まれてはいないのだろう。その大悪魔も本来は主に仕える身。忠義の意味を誰よりも知っている自負がある。しかし、それを分かってはいても、男はその辛辣な評価に眉を顰める。
彼女が修道女に扮したクレマンティーヌに決闘を挑んだのは、何かしらの譲れないものが彼女たちの間にはあったのだろう。
男には、その目的とやらもイマイチ判然としなかったが、どうやら彼女の目的は果たされなかったらしい。
図らずも、男はその決闘を『引き分け』という形で曖昧に終わらせてしまったのだから。
ヤルダバオトには男を責める気持ちなど欠片もないのだが、その事を仄めかされたと勘違いした男は少しだけ気不味く思う。だから、俺は悪くねぇ、という意味も込めて返した。
「……その忠義を受ける主は誇るべきだ。悪魔に同意はしたくないが、確かに彼女は悪魔には相応しくはない。私としては、その忠義に敬意を払うのが主の度量だと思うがね」
『……っ』
跪いた悪魔達が息を呑み、ユリは仮面の下で涙を流し、大悪魔は仮面の下で微笑む。
「おやおや……では、どうです? 彼女と私の部下とを交換するというのは──」
「悪魔よ、去れ。さもなくば……これ以降、交わすのは言葉ではない」
男は杖を構える。
「ふふ……割と本気だったのですがね。仕方ない。さぁ、皆──撤退しようか」
「では、また会う日まで──彼女がこちら側に来る日は意外と早いかもしれません。その日を楽しみにしていますよ」
そう、悪魔は予言のように不穏な言葉を残し、去ってゆく。
そして、ゲヘナの炎は鎮まり、今日も変わらず日が昇る。新しい朝は、絶望の影を濃くするとともに、未来へと歩む力を授けるだろう。
そうやって人間は繰り返す。絶望をバネに、未来を夢見て。例え、この世界の勝者が人間ではないのだとしても──
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19.ユリ編※5ー1
王都がゲヘナの炎に包まれ、多大な行方不明者を出した大事件も一旦の終息を見せ、城下では早くも復興が始まっていた。
喧騒。街のいたる所では炊き出しが行われ、肉体労働者が散乱している瓦礫をせっせと集めては片付けてゆく。
そうした民衆の中には、身内や知り合いに行方不明者がいるのか、あちこちに声をかけて回り、行方を探しているものもいる。
人々は絶望の只中、見えない明日に向かって再び歩きだそうとしていた──
そんな中、ユリは拠点である屋敷の引き払いのため、最低限残されていた家財の片付け、クレマンティーヌはそんなテキパキと作業を進めるユリの様子を壁にもたれかかりながら観察していた。
本来であれば、ゲヘナとともに屋敷は引き払い、ナザリックへと即時撤収する予定であったが、ユリとクレマンティーヌだけは王都に残留している。
というのも、彼女らが従う男がまだ王都に残っており、彼の用事が済み次第、王都を出る予定になっていたからだ。
その彼女らの従っている男はというと、先日のゲヘナで活躍した聖職者として王城に招聘されているため、現在は不在となっていた。
「……」
「……」
両者にあるのは気まずい沈黙。昨日、あれ程感情を剥き出しにして殺し合ったというのに、同じ空間にいるというのも妙な気分だった。
ただ壁際からユリを観察するクレマンティーヌ。ボロボロになるまで嬲られたはずの彼女の損傷は、既に男の操る魔法によって傷跡一つなく回復している。
その視線から彼女の感情を伺うことは難しい。ただ、そこまで敵視し、警戒しているという訳でもなさそうだったため、ユリは放置していたのだが──
「ねぇ──ユリちゃんはさぁ、まだ処女だよね。何で抱かれないの?」
そんな沈黙を破って、クレマンティーヌがどうでも良さげに、軽く言い放つ。
「ぶっ、なっ、なにを……」
「好きなんでしょー? 種馬ちゃん」
「御方様を、た、種馬と呼ぶのをやめなさい! あなたはいい加減、その不敬な言動を改めるべきです!」
頬を引つらせて狼狽するユリ。そして、すぐに青筋を浮かべて、クレマンティーヌの言葉を訂正させようと注意した。
しかし、彼女はユリの注意もどこ吹く風。
「……いや〜、最初はさ、近づく女がいたら片っ端からブッ殺してやろうって思ってたんだけど」
「ユリちゃんがあまりにも初心で、じれったくて、可愛いそうだから」
「ぐ……」
クレマンティーヌは何でもない雑談のように続けた。その煽りに何も言えなかったユリは口籠った。この女は昨日の決闘のことなど、何とも思っていないのだろうかという思いが頭によぎる。
「つーか、私も子どもじゃないし? 独占できるような人じゃないってくらいわかってたし。私も大人になったね〜」
そう話す彼女は言い訳するように、金色の髪を束に捻り、指先で遊ぶ。
「だから、まぁ……ユリちゃんなら、いいかな〜って」
「まぁ、お情けってやつ?」
「……」
ユリからしたら目の前の女性は一体何を考えているのか、訳がわからなかった。
つい昨日までは男を独占し、ユリを排除するかのような言葉を弄してみたかと思えば、今日、ここにきて、何故抱かれていないのかと疑問を投げかける。
「あぁ。ヘタレてんなら、上手く行くように協力してあげてもいいよ? うわ、ワタシってば、やさしー」
「……ちょ、ちょっと勝手に、私は……それにヘタレてなんか……」
「んー? はっきりしないねぇ。もしかして、断るつもりだった?」
一人で盛り上がる女を尻目にユリは後退る。そんな判然としない態度のユリを見たクレマンティーヌが首を傾げて不思議がると、目を細めて迫り、更に言葉で揺さぶる。
「私は御方様のお側にいられたら満足です」
「お声を聞かせていただければ満足です」
「ご尊顔を眺めていられるだけで」
「その聖心を御守できるだけで──」
指を組んで言葉を囁き、祈る仕草をした──ユリが自身にかけた呪縛の言葉をクレマンティーヌが繰り返す。
ユリはその言葉に怯む。
「……はっ、くだらねー。そんなの、クソ喰らえだっつーの」
そして、指を解いて心底、嫌そうな顔を浮かべる。ただ側に侍るだけで満足だと思い込めてしまうユリの心情が彼女には理解出来なかった。
「至高の御方だかへの忠誠とか知んないけどさ〜」
「それって、今そんなに重要ー?」
「手を伸ばせば届くかもしんないのにさぁ、馬っ鹿みたい」
呆れたように、手を掲げた。
「大好きな忠誠も、自分の感情も、どっちも取るのが賢い女だと私は思うけどねー」
女は強く、ズルくなくちゃ生きていけないとクレマンティーヌは思うから。欲しいものは何をしても手に入れる、邪魔でムカつく奴はテキトーに排除する、そして愛する人には誰だって汚い部分は見せたくないもの。
大切なのは良いところだけを切り取って、外面はちょっとだけ悪く、自由気儘に、でも愛嬌を見せ、甘え上手でいること。
それが時として男には魅力的に映ることを彼女はよく分かっていたから。
「よく考えなよ〜ユリちゃん?」
「……」
でも、彼女が最も大切にしているのは直感を無視しないこと。
クレマンティーヌはユリとなら上手くやっていけそうな気がした。裏切り、裏切られ、奪い、奪われ──幾度も辛酸を味わってきた彼女が、ユリは男を裏切らない人物だと認めたから。
だから、男の側にいる内は、彼女は良きパートナーにもなれるとも思った。
「……あなたにはわからないのでしょうね。至高の御方方への忠誠の重さも、創造主様の意思を裏切るかもしれない葛藤も、御方様に拒絶されるかもしれないという恐怖も……」
「はぁ? わかんないねー。てかそれって、結局はユリちゃんがビビっちゃってるだけじゃん?」
「……ぐっ」
直球で、心を抉る正論。彼女からしてみればユリの不安も所詮は他人事でしかない。
「ユリちゃんも心配性だねー」
「何が裏切りとかは知らねーけど」
「少なくともあの人は、そんな狭量でもねぇし、忠誠がーとか本心では望んでないのに」
忠誠を望んでいないという言葉にユリの表情が曇る。逃げ道を塞いで誘導するように、より甘美な道を残すように誘導したものの──
「つか、真面目すぎでしょ……そういう面倒なのは全部、押し付けちゃえばいいじゃん。全部、あなたのせいですーって」
クレマンティーヌは気弱になったユリが段々と面倒になってきた。だが、それはユリが期待し、葛藤していることを意味している。
「だ、だけど……私にだって、こ、心の準備というものが……」
「抱かれたいっしょ?」
「っ!」
「組みしだかれて、肌に触れられたくはない? 自分だけを見てもらいたいと思ったことは?」
視線が泳ぐ。表情が固まり、アンデッドであるはずなのに、ユリは顔が熱くなり、赤くなっているように感じた。
その挙動を動揺と見たクレマンティーヌがニヤつく。
「ユリちゃんは、どういうのが好みなのー?」
「無理やり求められて、縛られちゃったりとか?」
「それともメイドっぽく、朝夜と呼び出されて奉仕するみたいな?」
クレマンティーヌは考えつくシチュエーションをテキトーに挙げた。
「そ、それは……さ、最初は……その、優しくしていただければボクは……って! ち、ちがっ! あ、あ、あなたには関係のないことでしょう!?」
「うぷぷ……愛されたくないの?」
「あっ、あい、され……」
「初めてが上手くいくように、せっかく、このクレマンティーヌ様がアドバイスあげようと思ったんだけどなー?」
「ぐうぅ……!」
ユリは頭を抱えた。
現実の話。ナザリックにはこういった内容を相談できる相手がいないのは事実。というか、ユリとしては、ほとんど家族みたいな友人や仲間達に奉仕の作法やら雰囲気作りやら、そんな生々しいこと聞くなんて顔から火が出そうだ。
そういうことに多少詳しいだろう妹に聞いた時だって、ギリギリだったし、更に詳しいだろう上司にあたる人物達に聞こうにも、ユリが逆に襲われてしまったり、暴走してナザリック中が大騒ぎになりそうで怖い。
「あんさぁ……さっさと覚悟決めてくれない? 本当はやる気になってる癖に、うじうじしてさー……やっぱり、やめよっかな?」
クレマンティーヌがユリに考える暇を与えないようにして言葉を紡ぐ。
期待させるだけさせて、その梯子を外そうとする所業。
ユリは内心で焦った。この機会を逃せば、チャンスが再び訪れるかはわからない、と──結局、その言葉が覚悟を後押ししたようだ。
「ぐ……あなたこそ本当に悪魔みたいね……」
ユリは歯噛みしたが、目を閉じ、心を落ち着けると、口を開いた。
「……いいわ。私も覚悟を決めましょう…………そ、それで? あなたは何が望みなのかしら。どうせ協力には対価が必要なのでしょう?」
「ふふん? ……ちょっと安心したよ、人外でも欲はあるんだって。大したことじゃないよ? ちょーっと手伝って欲しいことがあるんだよね」
悪魔のような女性への協力。何を要求されるのかと、警戒の視線をクレマンティーヌに向けた。
──そして、クレマンティーヌは跪き、祈るようにして言葉を紡ぐ。
その祈りの姿は敬虔な修道女。
いや、変貌した彼女の纏う清廉な雰囲気を思えば、人を救ったという実績さえあるのであれば、聖女とも呼ばれていてもおかしくはないだろう姿。
昨日の戦闘の折にも見た、普段とは全くの別人の姿。慣れない、あまりのギャップにユリの背筋がゾワゾワとした。
「共に彼の御方を、闇の王へと──かつて、得られなかった玉座へと導くのです」
「!」
しかし、その後に彼女が口にしたのは、血を吐くような意思が込められた言葉──それは彼女の理想であり願望。
普段の恣意的な言動のせいで、本心のわかりにくい彼女が明確な意思を示しており、ユリは驚いた。
「彼の御方こそ、表と裏、遍く人の世を統べる闇の王の器」
「闇の王……? 話が見えないのですが……御方様は薪の王と呼ばれていたはずです。その間違いでは?」
ユリには彼女の言う闇の王が何であるのか、わからなかった。彼女の知る御方が薪の王と呼ばれたことは知っていても、闇の王と御方が結びつくことがなかったから。
しかし──
「薪の王など……! それは本来、忌むべき呼び名です……!」
「え?」
ユリはその言葉に驚く。そんな言葉を吐いた彼女の表情にあるのは──聖女の持つ空気にあるまじき悪感情。
嫌悪。
怨念。
無念。
──そして彼女はこの世界では知る者のいないはずの英雄譚を物語る。
ここではない、あの方が生まれた世界の古い時代の話――
その世界はまだ分かたれず、霧に覆われ、灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあったといいます。
ですが、世界にいつしかはじめての火がおこり、火と共に差異がもたらされたのです。例えば、熱と冷たさと、生と死と、そして光と闇と……
そして、闇より生まれた幾匹かが火に惹かれ集まり、火より王のソウルを見出して分かちあいました。
最初の死者、ニト。イザリスの魔女と、混沌の娘たち。巨人族の王グウィンと、それの騎士たち。誰も知らぬ小人。
それらは火より見出した王のソウルの力をもって古竜と戦い、ついには打ち勝った。
そうして彼らの繁栄と共に火の時代がはじまったのです。
勝ち得た繁栄と栄光。世界には光が溢れ、火の時代は命あるものにとって過ごしやすい時代となりました。ですが……火はやがて消え、暗闇だけが残る定め。
火はまさに消えかけ、世に光は届かず、夜が続きました。
巨人族の王グウィンは恐れていました。火の時代が終わり、闇の時代が訪れることを。
一方で、闇の時代を待つ者もいたのです。はじまりの火からソウルを見出した者の一人、誰も知らない小人。人の祖であり、火から闇のソウルを見出した者です。
人は小人を祖とする闇に近しい存在であり、闇の時代を支配する者たち。つまり、闇の時代とは、人の時代の到来でもあったのです。
そこで、闇の時代の到来を恐れるグウィンは火継ぎの仕組みを世に広めました。
闇の時代を支配し、新たな時代を拓く、闇の王が人の中から生まれることを阻止するために。王となり得る力を持った不死に、火を継ぐことで火の時代を存続させることが使命であると偽ったのです。
あの方は──それをグウィンの策略と知りながらも、結局は火を継ぐことを選びました。
闇の時代は世界の摂理。火を継いだとしても、一時の延命で、いずれ闇の時代が訪れることは間違いありません。
……ですが、あの方は長い旅の最中に経験してきたのです。裏切りや友情、出会いと別れ。人の醜い所など幾らでも見ましたが、反面、時折のぞく人らしい輝きに心惹かれたのでしょうか。
闇の時代ではそれらは失われるだろうからと……ただ人が人らしく生きられる世がいいと、火継ぎを受け入れられたのです。
「あの方の想いはとても尊いもの。ですが……わかりますか? 薪の王は『王』ではないのです」
世界を照らす火を継いだ者がなぜ王と呼ばれるのか。
初代の薪の王であるグウィンだけは確かに『王』であった。しかし、その次代である男は実質的には『薪の王』という称号を火とともに継いだだけの存在とも言える。
王が治めたる国もなく、民もない。
民が拠り所とする王の玉座/支配者の象徴もない。
薪の王たちに玉座なしとは誰が言ったのか──次代以降の薪の王は、『王』ではなく、火の時代を延命させるための『薪』だったから。
「そして、今もあの方は、薪の王という忌名に縛られたまま──」
世界を救ったはずの男の最後を目にしたクレマンティーヌは哀しみと屈辱、憎悪を胸に抱く。
愛した男が、自らが仰ぐ神の意思が『薪』と侮られるなど到底許せない。
火を継ぐこと──それが男の意思だったとしても、策略にて彼を貶めたグウィン達への恨みが晴れることなど有り得ない。
そして、男という犠牲のもとに成り立っていた時代で、感謝もなくのうのうと生きた人間に、火に焼かれる苦痛と孤独を知らしめ、自らが当然の如く享受していた日々が彼の慈悲の上に成り立つ幸福であったと懺悔させてやりたい。
黒い炎が身を、心を焼き尽くそうとする。
時代のために、孤独に身を焼かれた男を想うと狂気に呑まれてしまいそうになり──聖女は一息つく。
「……ですが、幸いなことに『この世界』には、薪の王──火継ぎなどという仕組みもなければ、伝承もありません」
「ならば今度こそ……あの方は世を統べるために闇の王となり、その名を残すべきなのです」
彼女は、男が薪の王であると同時に、闇の王となれる偉大な魂を持っていることを知っていたから。
王が望んだ、その日のために──王が王であるために、相応しい玉座を用意しなくてはならない。
そして、その羊飼いたる王には愚昧な羊達である民の存在も必要だろう。
「闇の王とは一つの時代を終わらせ、新たな時代を切り拓く者のこと」
「あの方こそがヒトの世を拓く神、新たな信仰となるのです」
かつて彼が彼女の心を救ったように、その偉大な昏い魂が、狂った心を導く光であって欲しい。
道を見失った異端達を慰める、力強き肯定者であって欲しい。
彼のもたらす闇が、染まらぬ、揺るがぬ、迷わぬ、不変と愛の象徴であって欲しい。
だが──
「ですが……悔しいことに、そんなことすらも私一人で成すのは困難……」
「まずは同じ神を頂く仲間を作ろうと思ったのです」
聖女の雰囲気が揺らぐほどに、感情を露わにして話した大きな野望に、ユリは息を呑む。
「ですから――私と共に全て……全て、身も心もあの方に捧げましょう?」
そして、クレマンティーヌは無垢な笑みを浮かべた。まるでユリが彼女の手を取らないことなど考えてもいないように。
それはユリが初めて見るクレマンティーヌの作りものではない微笑みではあったが、彼女はそれに狂気を確かに幻視したのだ。
□
夜更け。
散々だった一日を終え、御方と呼ばれる男はナザリックへと一時帰還していた。というのも、先日のゲヘナでの成果の確認や、今日あった王城での話など、情報の共有や相談事をモモンガとする必要があったためだ。
その共有も一先ずは終わり、第九階層にあるロイヤルスイートにある自室にて、ようやく一休みといった頃。
男がやけに豪華で広い自室に慣れず、所狭く過ごしていると、コツコツと扉をノックする音が聞こえた。それに遅れて女性の声が聞こえてくる。
「御方様……ユリです……起きておられますか……?」
しかし、ノックと声が聞こえ、男が入室を許可するものの部屋に入ってくることもない。
何事かと扉を開けると、そこにいたのは普段、夜会巻きにしている髪を下ろし、レースをあしらったエレガントなロングガウンを羽織るユリ。
眼鏡の奥では目を伏せてみたり、上目遣い気味に男の様子を伺ったりと忙しない。
黒のレース生地で作られたガウンはユリの肌を透かし、大人の色気を際立たせる。薄く覗く、黒のセクシーな下着に、何よりそれらを身に着け恥ずかしげに立つ彼女の姿に男は唾を飲んだ。
「……ど、どうした。プライベートな空間とはいえ、女がそんな格好で出歩くものじゃない」
「こっ、これは、その……申し訳ありません……あの、ご相談が……」
「……相談? こんな時間に? ……ひとまず、羽織る物を渡すから中に入れ」
あまり見ないようにし、取り敢えず、部屋に入れようと部屋の内側に招き──
ドアをくぐると同時にユリは男の胸に飛び込み、男の腰に手を回して抱き締めた。柔らかな感触が男の胸板で潰れる。
「っ」
「好きです」
突然の事に言葉を無くす。
真面目なユリの様子が可笑しいことには当然気づいていたが、まさかとは思った。前に一度、ナザリックで同じ事が有った時は、応えられないと断ったはずだから。
「……」
「好きなのです」
胸に顔を埋めたユリの表情を伺うことは出来ない。接触したユリの黒髪からは薄く香水でもつけてきたのか、仄かないい香りがした。
「ユ、ユリ……?」
「好きっ……大好きです……止められません……御方様、ずっと……ずっとお慕い申し上げておりました……」
「どうかお情けを……」
ユリが埋めた顔を浮かせ、不安げに上目遣いで伺う。その瞳は熱を孕み、潤んでいるようにも見えた。
普段、知的でクールな女性が情熱的になると破壊力が強過ぎることを身を持って思い知った。
「も、もしかして、酔ってるのか? お、お前は友人たちの子も同然の──」
「そ、そんな言い訳っ! く、くそ喰らえです!」
ユリの顔が急接近し、男に口づけた。
唇に感じるやらわらかな感触。目前にある美女の顔。仄かな香水の甘い香り。密着したユリの肢体の感触。
その全てが男の心を擽り、男の中の獣が目を覚まそうとしていたが、必死にそれを抑えつける。ユリを抱き締めたい衝動をグッと耐えた。
口づけていた唇をそっと離し、ユリが囁く。
「……御方様は胸に宿る火が資格であるとおっしゃいました」
「ボクは胸の火を消して生きていくことは、できそうにありません……」
「どうか、ボクを見てください……」
ユリの体は震えていた。ただの恐怖にではない。普段であれば絶対にしないようなことを、不安を押し殺して、勇気を持っていくつも成したからだろうか。
それに気づいた男は──
『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』
そんな言葉がよぎる。
だが、彼女は男を求め、じっとその答えを待っている。その目にあるのは覚悟と期待、緊張、そして恐怖。
その目を見ただけで彼女が意思を固めている事が、何となく感じられた。
だからこそ、思った。これ以上、ユリを拒むのは傷つけるだけだと。どうでもよいことに、男の脳裏には据え膳食わぬは男の恥という言い訳が浮かんでは消えている。
そろそろ男は覚悟を決めるべきだった。
ナザリックや、この地にいる配下達との関わり方を。それはつまり、この世界での生き方にも関わることだ。
モモンガは言った。『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』であると。モモンガは選択したのだ。彼らを自身の中でどのような存在として扱うのかを。だから、彼らを見捨てることなく、ナザリックを守り続けている。
しかし、男は『友人の残したナザリックの配下達は子も同然』という言葉に共感はできても、彼らを守るという意思まで無条件には持てないでいる。
なぜなら男はモモンガほど、ナザリックという地に深過ぎる思い入れがある訳でもなく、また、モモンガほどユグドラシルを重視して、ゲーム内の交友関係に依存していた訳でもない。
モモンガにとってはナザリックは仲間たちとの唯一の思い出であり、それを守ることこそが当然のことだったのだろう。だからこそ、その一部である配下達を受け入れることも至極自然なことだった。
しかし男は──せっかくこの自然に溢れる、未知の世界をこの目で見られるのに。ユグドラシルというゲームの延長線上にある、ナザリックに関わる物を少し煩わしく感じてしまった。
無論、男にとってモモンガが友人であることには違いはないし、モモンガという友人がこの世界に来ていたことも嬉しく、頼もしかったのは事実。
だが、ナザリックがこの世界に存在し、NPCが生きているなどと聞いた時には困惑の方が大きかった。
配下達が生きていることや、その忠誠を疑っている訳ではない。
彼も同じギルドの友人達が創り出したNPCを大事にしたいとの思いは当然ある。
しかし、生まれ変わりやら、違う世界への転移やら、突然、創り出したNPC達が命をもって動き出したことも、はいそうですか、とすぐに受け入れられるほど男は柔らかい頭の持ち主でもなかった。
それらは言ってしまえば、自分ではどうしようもない事柄であるのは確かであったが、ズルズルと流されてしまう前に、心の整理だけはしておかなくてはならないと思った。
──だから男は決断した。ナザリックとの関係をイチから新しく作り直すことを。
ナザリックの配下達は生を得て、今を生きている。
彼らはナザリックの外を知らず、創造されてから現在までの時しか生きてはいない。当然、年数から言えば、まだ子どもとも言えなくもない。
ならば、男が出来ることとは、彼ら一人一人の生命として成長を見守ること。これまで人形のような不思議な存在として見てきた意識を、再構築させよう、と。
ユリのこともだ。
やはり、始めは友人の一人が創り出したNPC/人形という意識が抜けなかった。
しかし、知った。ユリの考えや、どんな行動を好むのか。クレマンティーヌと仲が悪く、喧嘩した際には先に手を出して、やはり友人に似て脳筋だったことに呆れ、何となく懐かしく思った。
そして、理解した。ユリもこの世界で、アンデッドという摩訶不思議な存在ではあるが、一つの生命として存在していることを。もう、人形ではないのだということが。感情を、好意を突き付けられてようやく分かったのだ。
男がユリを力強く抱き締め返すと、ユリの体からはフッと力が抜け、彼女は脱力してしまった。
ベッドへと脱力したまま力の戻らないユリを寝かせ、男は彼女から離れる。
「──ユリ、すまないな」
「え……あ、あ、お、お願いしますっ。どうか、どうかお情けをっ」
それは何に対する謝罪か。男が離れていったことで、試みが失敗したことを予感したのか、ユリは悲痛な声をあげ──
「逃さないようにしただけだ」
「……!」
ユリの予感を裏切って、ガチャリ、と男は部屋の鍵を締めた。
男はユリに迫ると覆い被さり、ひんやりした手を取ると頭の横で押さえつける。
「お、御方様……? ひゃっ、まっ、お待ちくださっ」
逃さないためにベッドへと体を押さえ付け、言葉を塞ぐように口づけした。
「覚悟はしてきたんだろう?」
いきなりの出来事にパクパクと言葉が出ない。そんなユリを尻目に、男はユリの首元に顔を埋め、胸を空気で膨らませる。
ユリのつけた香水の香り、隠されたその奥には人ではない何かの匂いがする。動死体特有の腐敗臭などはなく、生命活動の停止した、人ではなくなった死や停滞の香り。
人がその香りを嗅げば、不安や忌避感を呼び起こすであろうが、男もまた不死人という生けるアンデッドの一種。同族に近い香りは安心感とリラックスをもたらす。
対して、ユリも覚悟を決めて来ていたとはいえ、いざこうして行為に及ぼうとすると、緊張で体が震えた。
何度も夢想し、心に秘めてきた想い。
それが現実になりかけて初めて、自身の願いがどれだけ過分な物であったかを思い知る。少なくとも、よく妄想していた主に完璧な奉仕をする彼女自身の像は、ここには全く顕れていなかった。
「んっ、あっ、だ、だめ、ですぅ」
口づけし、口内で暴れる舌。ただそれだけでユリの意識は混乱し、羞恥、興奮、緊張でグルグルと廻り、非現実感と幸福感の忙しなさから思考がフワフワしだす。
「駄目なのか?」
「だ、駄目では、ありませんが……」
はぁはぁ、と息をつく。顔色こそ変わらないものの、脳が蕩けたように、フワフワと上手く思考が働かない。
ふと、ユリの目に入ったのは男の首筋。思い出すのは、先日見つけてしまったマーキングされた男の首筋。
「しっ、失礼します……」
解いた手を背へと回してすがりつき、ユリは震える唇で男の首をチウチウと吸い、僅かに赤い痕をつける。
「殿方はこうすると喜ぶと聞きましたので……」
その行為は男に若干のくすぐったさを伝え、マーキングという彼女の独占欲に対して、栄誉に思った。
一方、ユリは恥ずかしそうに男から目からそらし、その出来上がった赤い痕を呆然と見つめる。至高の御方に傷をつけるという背徳感。同時に心に湧き上がる不思議な満足感を得た。
改めて、男はユリを観察する。
黒いレースのガウンから覗く肌は、白磁のように白く、その肌に触れてみると体温を感じず、冷たい。しかし、しっとりと柔らかで、手に吸い付くような肌をしていた。
覗く黒の下着には、この世界では再現出来ないだろう精緻な刺繍が施され、それにより醸し出される性的な魅力が大人っぽさを感じさせる。
そして、一際存在感を放っているのが大きな胸で、男は知らなかったが、彼女の妹であるルプスレギナなどはスイカに例えたこともあった。
その彼女のどこか不安げな表情を、喜びに変えたいと思った。
「は、恥ずかしいです……どうか、あまり見ないでください……」
男の舐めるような視線。
男の熱い視線から生じる羞恥か、彼女は乱れた薄いレースの羽織を伸ばし、大きな胸を隠そうとするも、今度は真っ白な太腿が現れ、ショーツが見えそうな、なかなか際どい姿になってしまう。
その姿に男はいじらしく感じ、愛おしく思った。
湧き上がる感情のままに、男はキスの雨を降らせ、ユリの肢体の曲線を手でなぞると、彼女は驚きと緊張で一瞬身を固まらせたものの、ほどなくして緊張しながらも男に合わせるようにして口づけに応え始めるのだった。
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20.ユリ編※5ー2
ユリは動死体の種族レベルの高いアンデッドであり、心臓も動いていなければ血も通ってはいない。
一般的に動死体といえば、頭が非常に悪く、呻きながら徘徊し、動物の肉を貪るようなイメージがあるのだが、ユリは生きている人間のように言葉を話す知能を持っているし、実際には消化といった生命活動を行えないがために、水分を摂取することはあっても基本的には食を絶っているとも聞いた。
男はふと考えた。
彼女の頭は機能しているのだろうかと。いや、決して頭が悪いだとか、気が触れているとかの失礼な意味ではない。彼女は上位の首無し騎士の種族も取得していることから、頭と首が繋がってはいない。つまり、彼女の活動に頭の働きの有無は関係ないのだろうか、という意味だ。
それはつまり、ユリの本質とはゴーストや妖精といった超自然的な生き物や物に宿る霊魂的な存在にあるのかもしれないと。
そして、気になっていたのは、下世話な内容だが、ユリははたして濡れるのかということ。
ユリは死体と同じく生命活動が停止しており、セックスなどという生殖行為も本来は不要のはずであり、諸々の体の機能も停止している。
もし彼女がアンデッドとしての性質を発揮しているのであれば、陰部も濡れることもないので挿入は対策をしない限り困難だろうが……
実際にそんなことになれば、ユリが落ち込むことは明白。男はそのことだけが気がかりだった。
しかし、そもそもがここは魔法やら魂やらが存在する世界である。ナザリックだって、トップが動く骸骨なのだ。この世界は摩訶不思議な生物? で溢れている。
男がそれを確かめるために、躊躇なくユリの扇情的なショーツの中に手を入れ、柔らかな茂みを撫でつつ割れ目をなぞる。指を食い込ませて、ユリの膣を探った。
「ひゃあっ!?」
初めて誰かに陰部を触れられるという経験。
それは、くすぐったいような、気恥ずかしいような言葉にし難い感覚だった。
いきなりのことだったせいか、ユリは驚きの声を上げ、緊張で身を硬直させた。
「ん? 濡れてんな……」
そして……
男の予想とは裏腹に、陰部はまだ解れてはいないものの、しっとりと濡れ始めているところではあった。どうやら、アンデッドでも何故か膣分泌液は出るらしく、もしかしたら膣分泌液ですらないかもしれないが男は少し安堵した。
指を擦り合わせれば、ヌルリと滑った。これなら、分泌液の量さえもう少し増えれば大丈夫だろう。
「御方様……ひどいです……」
反面、ユリが眉を八の字に下げ、小さく呟いて顔を背けた。表情はあっても、血が通っていないためか赤面することもないので、男はユリの感情が何であるか、どうにも判断に困る時がある。
何となくだが、羞恥で涙目になっていたように男には見えた。
「まぁ、そう言うな。いきなりだったのは悪かったが……ユリの体の機能がどこまで働いているのか、少し確かめたかったんだ」
「体の機能、ですか……?」
ユリが少し訝しげに男に確認した。
「アンデッドが皆、股を濡らすかなんて、確かめてみないとわからないだろう?」
「あっ……も、申し訳ありませんっ。そこまで考えておらず……御方様は……アンデッドのボクを抱くのは嫌ではありませんか……?」
投げかけられた意外な疑問にユリは焦った。身を捧げることを考えるばかりで、実際の行為のことまで頭が回っていなかった。
「嫌なわけないだろう。綺麗な体だ。何度でも抱きたいな」
「そ、そぅですか……」
ホッと胸の内に広がる安堵。嬉しそうに、しかし恥ずかしげに顔を背けた。
「ただもう少し、ほぐしておこうか。自分でイジったりしたことは?」
「あっ、ありませんっ」
「そうか。なら、経験は──まぁ、ないよな」
再びの質問にやや反発するように答え、そして心外だとばかりに少し不満そうに視線を強めた。ユリに血が通っていたら赤面していただろう。男はその言葉と仕草で答えを悟る。
「ユリはアンデッドだから、どうだかわからないが……痛みがあるかもしれない。初めては任せておくといい」
「は、はぃ……申し訳ありません、よろしくお願い致します……」
□
「あ、あ、あ、あ、あ、あの、御方様……こ、これは普通の行為なのですか!?」
男はユリの脚をM字の形に固定させ、腕で押さえ、閉じさせないようにした。自然とユリの股が強調される形になっている。
男の目に映るのは、白い肌に引き締まった臀部、薄い布地の黒のランジェリー。
ベッドに仰向けになっているユリは知的な銀縁眼鏡の奥で目を白黒させている。普段夜会巻きにしている髪が下ろされているとあってプライベートな印象が強く、また、ベッドに広がった黒の髪が扇情的だった。
「そうだ。誰もが通る道だ」
「そ、そうなのですか? ……あっ、まっ、まって──」
男はさも常識であるかのように答える。ユリの白い脚をスルスルと手で撫で、腿にまで至ると顔を寄せて触れた。ゆっくりと滑らせ、レースで透けた黒の生地に辿り着く。
「んっ」
鼻先でクロッチをつつき、鼻から空気を吸うと香水とはまた別の、複数のハーブや花の香りがした。恐らく、ユリはサシェとともにランジェリーを保管していたのだろう。
「や、こっ、こんな恥ずかしっ」
クロッチをグリグリと強めに鼻先で擦る。柔らかい花の甘く華やかな香りと、控え目なグリーンで爽快な印象のハーブの香りのブレンド。嗅ぎ慣れた匂いではないが、どこか男を安心させる香りだった。
そして、だんだんと女の匂いが強くなってきていることにも男は気づいている。
「ぁうっ」
敏感な部分に当たったのか、ユリがビクリ、と体を震わせる。その反応を見逃さなかった男は、確かめるように股を弄った。
初めての経験。羞恥で脚を閉じたくなる。しかし、ユリは忠実にM字を維持し続けた。言葉ではイヤと言いながらも、愛しい男の行為を許してしまっている。
「うっ……うぅ……」
股を弄られる度に一定のリズムで呼気が漏れ出、敏感な場所に触れる度にゾクゾクと背筋に震えが走る。
しかし、拒むことなく、ただただ与えられる刺激を受け止め続け、気がつけば黒のランジェリーには小さくない染みが出来ていた。
「ふぅ……ふぅ……」
荒くなった息遣い。当然のことながら、本来アンデッドのユリには呼吸すら必要ないのだが、彼女は大きく息を乱していた。
とはいえ、呼吸を必要としないのは通常の生活においてであり、戦闘の際には気を高めるために呼吸は必要だし、会話をするのにも肺は膨らませている必要がある。
この場で彼女が息を乱していたのは、混乱した精神や思考を落ち着けるため、息をすることで精神を落ち着けるリズムを作っていたからだろう。
「んっ……」
そんなユリを見た男は笑みを浮かべ、愛おしげに髪を撫でて彼女へと口づける。
互いの唇に伝わる柔らかな感触。
口づけを受け入れたユリの胸の内には、心臓を締め付けられるような、苦しいのに甘い、抗い難い衝動と身悶えしたくなるほどの心の高鳴りで満ちている。
ずっと慕っていた御方に抱かれている。ただ唇が触れ合っているだけで心は幸福感で満ち、脳がトロリと溶けるようで、何をされても簡単に許してしまいそうだった。
もしも心臓が動いていれば、破裂していたかもしれないと、ユリは真剣に思った。
「お、御方様……ボクばかりしてもらうわけには……」
「そうか? なら──」
二人は絡み合いながら、体勢を変える。手を取り、口づけし舌を絡ませ合った後に、男の指示のまま互いの位置を交換した。
男が仰向けに寝転がり、またユリが男の上で寝そべる形。それも男の眼前にはユリの臀部が極至近距離にくる位置。反対にユリの眼前には屹立した男の肉棒がある。
そして、先程との変化がもう一つ。ユリは銀縁の眼鏡を外し、素顔を晒していた。これから行う行為では、眼鏡が邪魔になると彼女が気づいたためだった。眼鏡はベッド脇のナイトテーブルに置かれ、男はそれを横目に少し残念そうな顔をしていた。
これから行うのは普段のユリであれば絶対に許さないだろう行為。しかし、尊敬し、愛する主に求められれば、その願いに応じない訳にもいかず──
ユリは内心でそう言い訳しつつ、行為の正当性を何度も自身に言い聞かせた。しかし、その行為を自身から望んだことでは無いと言い訳しつつも、確実にユリの心理には背徳的な興奮が植え付けられている。
ユリの眼前には猛々しい塔が立つ。初めてマジマジと観察する男根に彼女は息を呑んだ。はちきれんばかりに膨張し、筋が浮いている。性経験のないユリには、その状態が酷く辛そうに見えていた。
「お、お辛くはありませんか?」
「ん? ……あぁ、そうだなぁ。少し苦しい……早く楽にしてくれないか」
ユリが心配げに尋ねたのに対し、男はニヤリと笑いその心配を煽るようにして答えた。当然、男としては苦しいなどの感覚はないのだが。
「は、はい。ですが……お慰めしたいのですが……ボ、ボクに上手く出来るのかどうか……」
プレッシャー。知識、経験もないのに楽にして欲しいと言われ、真面目なユリは臆する。どうしたら……と、気後れし、今からでも眷族の彼女を呼んだ方がいいのでは──と思って口に出しかけ、すぐにグッと口を噤んだ。
彼女にまた御方を独占されるのは、嫌だった。本当ならば、自身の気持ちよりも、主を優先すべきという考えはあったが、今だけは……今だけはどうしても自身を見てもらいたかったから。
そんなユリの様子を見てか――
「俺はユリにして貰えたら満足だ」
と男は言った。
だから、気楽にしろ──お前がいいんだ、と。彼女は男のその言葉は聞いて泣きたくなった。そして、男の言葉は彼女に不思議な力を与え、新たな挑戦をする勇気を再び思い起こさせる。
きっと上手くは出来ないだろう。しかし、御方のためにと、心を込めてユリは全身全霊で向かい合う。
「──っ、はいっ! 精一杯、ご奉仕させていただきます……!」
「そこまで気合い入れるほどのことなのか……?」
顔に当たる肉棒からは熱を感じる。体温の低いユリからしたらとても熱く感じ、長く触れているだけで低温やけどしてしまいそうだった。
「そっ、それでは、失礼します」
緊張からか、ぎこちなく小さく咥えるように剛直へと口づけし、両手で優しく丁寧に上下に愛撫する。
拙いながらも一所懸命に口淫や手淫を始めるユリの姿に男は愛おしく感じた。
男もその姿に応え、眼前に広がる白い桃と唾液と愛液が混じり染みを作った股に再びむしゃぶりつこうとする。
ユリの臀部を掴み、黒のランジェリーを摘んでズラす。そこで顕になった女陰は澄ましたような表情のまま、蜜を溢していた。
そっと唇を女陰へと口を寄せ、舌で蜜を絡めとる。
「んんっ!」
先程よりも鮮烈な刺激。直に触れられている気恥ずかしさ。驚き、体をビクつかせたユリが悲鳴をあげた。しかし、男は驚きで反射的に逃げようとするユリの体を無理矢理に抑え込み、何度も割れ目に口づけ、蜜を啜る。
「は、はふっ……」
時には柔らかな大きなヒダを甘噛みし、ユリの肌を楽しむように丸い尻に手を滑らせムニムニと形を変えさせた。
性感を伴うマッサージのような心地良い快感の波にユリの口からは震えた吐息が漏れる。
与えられる刺激が気持ちよくて、触れられているのが嬉しくて、こんなことをしている自分が自分ではないようで恥ずかしくて。そして、そこでユリはハッとして気づいた。
自身が男から齎される快楽を、自ら求めだしていることに。
気がつけばもっと気持ちよくなりたい、男に気持ちよくして欲しいと自ら尻を微かに揺らしている。下僕としての立場を忘却し、また自分の快楽に没頭しようとしていた。
そんな卑しい願望を振り切るようにして、ユリは主への奉仕のため、口淫に集中した。
思い切りよく口を大きく開き、男の大きな男根を口へと収める。口の中でモゴモゴと舌をからませて、歯が当たらないように上下に扱いた。
幸福感。主への奉仕こそが彼女の存在意義であり、生の実感と喜びが得られる唯一の道。ずっとそう思っていた。
だが、こうして肌を重ねているともっと大きな幸福感が溢れ、充実感に満たされることを身を持って知った。
「んうぅっ!」
肉棒を頬張るユリの口から艶かしくも、くぐもった喘ぎ声が漏れた。
□
男はユリの女陰への口づけを止ませ、舌をくねらせて大きなヒダを掻き分け、小さなヒダを舌で滑らせて溜まった愛液を舐めとっていた。
そして、滑りの良くなった舌を伸ばし、膣の入口をグルリと一周、二周と舐め、暫くユリの反応を伺っていたのだ。
しかし、ユリは男から与えられる刺激に溺れないようにと、男根を頬張るのに没頭し始めていることもあり──刺激への慣れもあるだろうが、反応はやや緩慢になっていた。
ユリの反応を楽しんでいた男は、それを惜しみ、もっと喜ばせるためにと、どんどん過激になってゆく。
両の手で割れ目を開き、二枚の小さなヒダの合流点にある陰核を広げる。そのまま指をブイの字に作り、陰核を挟んで押し上げるようにしてズラした。
現れた小さな肉の豆。初めは、優しく舌先で突くように、次いで円を描くように優しく嬲り刺激し、ユリは弾けるような刺激に喘ぐこととなった。
「んうぅっ!」
ユリのくぐもった矯声があがり、刺激から逃げようとイヤイヤと尻が振られる。
それでも男はしつこくユリの陰核を舐る。舌で優しく押し潰し、擦り上げ、舌先でグリグリしてみたり、再び円を描くようにして焦らした。
先程のマッサージのような柔らかい刺激ではない強い刺激にユリは腰が引けたのか、はたまた女の本性が快楽に反応しているのか、腰が前後にカクッ、カクッと揺すられる。
男はそれを精強な腕で無理矢理に抑え込む。そして、男が陰核に吸い付き──
「〜〜〜っ!!」
ユリの下腹部が男の顔に押し付けられ、ギュッと尻の筋肉が固められた。ユリの尻が男の顔いっぱいにプレスされ、眼前が柔らかな白の塊一色になる。
何かに耐えるかのように身を固め……ガクガクと身悶えした後に脱力──フルフルと尻が震えた。
始めての絶頂。
ユリはたまらず口から男根を引き抜き、骨抜きにされたように脱力する。はぁはぁ、と荒い息をつき、ユリの口からは呆けたような艶のある声が漏れ出た。
「もっ……もうひわけ、ぁりましぇん……」
位置的に男から見えないユリの表情は眉尻を下げ、羞恥から顔を俯かせていた。顔色こそ変わらないものの、雰囲気は女の喜びを知った雌に近づいてきていた。
「気持ちよかったか?」
「わ、わかりません……ですが、からだが……」
「その感覚を覚え込ませるからな」
「……ぇ?」
絶頂を味わったためか、ユリの女陰はトロトロに濡れそぼっていた。しかし、それでも尚、男はユリに快楽を教え込むために舐陰で陰核を刺激し続ける。
何度も、何度も。
「あ、あっ、ああぁぁあぁ、だめぇぇぇ──」
余裕の無い矯声が部屋に響く。屈強な腕でガッチリと腰を固定され、ユリは逃げるどころか身動きもままならない。もはや、ユリに成すすべはなく──与えられる快楽をただ享受するのみだった。
□
「んっ、あっ、ぁひぃっ……」
合舐の形で執拗に責められ、ユリの体はどんどん敏感になっていった。
時折、フルフルと体を震わせ、痴態を晒す。男が下品な音を立てて吸えば、ユリは媚びを含む切なげな声を上げて反応した。
ユリも肉棒をモゴモゴと頬張ってはいるが、体に巡る快感に邪魔されて行為に全く集中することが出来ないでいる。よって、男からしてみれば多少の気持ちよさはあっても、射精感が得られるほどのものでは無く余裕があった。
だからか、少し悪戯したくなった。
「──なぁ、ユリは排泄しないのに何で尻の穴があるんだ?」
「ぇ……? しっ、しりませんっ……そんなっ、はずかしいこと、おききにならない、でくださいぃ……」
男はしょうもない問いを投げかける。それにユリが余裕がないながらも律儀にも答え、ふーん、と男は気の無い返事をした。
と、唐突に唾液と愛液で濡らした人差し指をユリの尻穴に少しずつ、ゆっくりと押し入れていった。
「えぇっ? あっ、そっ、そこはちがいま──」
ユリが違和感に静止の声を上げるも、男は構わずに穴をほじくる。汚れなどが付くことはなく、ただギュウギュウとキツく締め付けてくる。中は強い圧力があるがグニグニと柔らかい。当然だが膣の感触とは全く異なる。
「ううぅっ!? は、あっ、ぁ」
人差し指を尻穴に突き挿し、口では舐陰、陰核を執拗に捏ねる。もう一方の片手では腰を抑え込んだ。
一方のユリ自身も最初はささやかな抵抗をしていたものの、成すすべなく挿入を許してしまった。彼女としては拒否以前に状況が掴めていない部分があったのか混乱が大きかったようだ。
そして、だんだんと恥辱を受けていることを理解すると、肛門を指で押し広げられる感覚と異物感が気になりだし、してはいけないことをしているという背徳感と罪悪感が彼女を同時に襲う。
しかも、男の舐陰による陰核への刺激は強制的に彼女を絶頂へと押し上げてゆくのだ。
「ぁ……ぃや、……ぃや、あ、あああぁぁぁ──」
先程までとは異なる、より大きな快感の波が押し寄せる。ユリは同時に責められたことで、あっさりと絶頂に辿り着き、ビクビクと体を震わせて艶かしく喘いだ。
「あ……あ……ぁ……」
それはまるで、お尻で絶頂に達したかのようで、複雑な心境になる。お尻から感じる男の指は熱く、悶えるような快感を確かに伝え、ユリの中では未だに罪悪感と背徳感、そして興奮と快感がせめぎ合っている。
しかも、それが御方と慕い、尊敬する相手から受けたとなれば、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、もはや自分がどんな気持ちなのかもグチャグチャだ。
「うぅっ……」
男が指をゆっくりと引き抜いてゆく──が、それすら快感を呼ぶ。罪悪感の残滓のせいか、ユリはボクは尻の穴で感じる変態だったのかと泣きたくなった。
男から降り、へたりむユリに顔を寄せて尋ねた。
「こんなこといきなりされて、幻滅したか?」
「えっ……あ、いえ、そんなことは……」
至高の御方に幻滅するなど有り得ない。しかし、ユリは男の顔がまともに見れなかった。尻穴と女陰を同時に責められ絶頂するという痴態を見られ、変態の気があると思われるのが怖かった。そのせいで嫌われるのが怖かった。
「喘いでいる姿、可愛かったぞ」
「すっ、すこし……てかげん、していただきたく……」
しかし、ユリの想像とは反対に可愛いと言われた。ユリは羞恥から俯く。
「ユリ……もっと悶える様を見せてくれ。一緒に気持ちよくなろうか、俺たちはきっと体の相性も良い」
「う、ううぅ……?」
断れる訳がない。その言葉は恥ずかしくも嬉しかった。こんな浅ましい女にも御方様は慈悲をくださる。投げかけられた可愛い、相性がいいという言葉が、ユリの心をどうしようもなく高揚させてしまう――
我ながら単純だとユリは男に向けて困ったような、喜ぶような、または媚びるような、いくつもの感情が入り混じった笑みを浮かべる。
男はその笑顔を可愛いと感じた。普段の仕事第一のできる女とは異なる、プライベートなユリのありのままの表情。妹達や友人達はおろか、誰にも見せたことのない、恋慕う男だけに見せる顔。
普段のユリからは見ることの出来ない、複雑な感情を顕にした顔は、とても人間味に溢れているように見えた。
□
ユリをベッドへと押し倒し、その肢体へと被さる。ルプスレギナからスイカと称された胸へと顔を埋め、男はユリの香りを堪能した。
そんな男の様に、ユリは心の底から湧き上がる喜悦を堪えきれなかった。
恋慕う御方が自身を求めてくれている。のし掛かる重みを感じると心身まで任せられている気がして、分不相応ながらボクが御身を守らなければという想いが強くなってゆく。それは母性なのか、承認欲求や保護欲の顕れなのか、彼女には判然としない。
豊満な胸に埋めた男の髪をユリは優しく指で漉くように撫でる。彼女や、彼女の妹達とは異なる髪質。太く、少しゴワゴワした、大人の男のもの。頭を動かす度にチクチクして擽ったくて、でも確かに幸せで、笑みが溢れた。
男が身を起こし、ユリへと何度目かの口づけを落とす。
血も流れず、汗もかかない、肌が白磁のように白いユリは、生命活動が停止しているため当然の如く体温が低い。触れ合う男の肌の体温は、ユリには高すぎ、まるでカイロに触れているかのように感じている。
別に火傷する訳ではないのだが、男が触れた場所はジワジワと熱が籠もっている気がした。それは心地良い温かさだ。生命を持たないアンデッドが捨ててしまった輝かしい生命の発露や、アンデッドが焦がれる生命への憧憬を思わせる。
「可愛いぞ、ユリ」
そっと耳元で囁かれ、ユリの背がゾクゾクした。
彼女は身を持って理解する。
のし掛かる重みが心身を委ねられているなどとの想像は間違いだったことを。ユリはその重しによって体の動きを支配され、心も服従したがっていることに気づく。心身が消えることのない隷属と忠誠の証を刻んで欲しがっているのだと。
男に漉かれた髪の一本までもが、触れられたことを喜んでいるかのようで、心が逸り、もっと触れて欲しいと、甘えるように自ら男の背に腕を回して抱き締めた。
そして目が合い、ユリは男と視線が重なり、初めて至近からまじまじとその瞳を見た。
男の瞳の中にあるもの、それはまるで闇の中に浮かんだ日蝕の如き輪。不死人にだけ現れるダークリングであり、いつか世界を闇に染める黒い太陽の象徴。
それが眷族の彼女が言っていた闇の王の証たる、昏い魂の徴。男の瞳を間近で見たユリは、自身の何かがその輪に引き込まれようとするのを確かに感じ、抗えない引力に目が離せなくなってゆく。
その瞳にある火の揺らめきは、それだけで負の熱量を発しているように思えた。闇の世界の存在であるユリにとっては、とても優しく、安心感を抱かせるもの。
幾許か、時を忘れてボーッと男の瞳の中で踊る火の揺らめきを見ていると、何故だか涙が流れた。
「ユリ?」
「あれっ……あっ、お、可笑しいですね、申し訳ありません」
男もユリも、流れた涙に驚いた。
彼女が安心感と共に感じていたのは郷愁。遠い過去への羨望。もう、帰ることの出来ない場所への心残りに近い感情。
つまりは、彼女の創造主であるヤマイコとの思い出を。記憶にあるヤマイコの姿を思い起こしていた。
今はもういないユリの創造主であるヤマイコ。ユリは彼女が何者よりも大好きだった。しかし、自らを創造した神であり、母のような存在の元へはもう二度と辿り着けないのだろう、と──
「……少し、やまいこ様を思い出してしまいました」
「やまいこさんを?」
暫くの間、男はユリを宥めるように腕を枕にするようにして抱き締める。ユリは涙をハラハラと零していたが、彼女が落ち着いた頃には少し気分が落ち込んだような顔をしていた。それは諦めの表情ともとれた。
そして、ユリは腕の中で男に尋ねた。
「……御方様はご存知でしたでしょうか? やまいこ様が御方様をお慕いしていたことを」
「ん? ……あぁ」
もう会えないと諦めていても、ユリの中では燻るような感情が残っているから。母の元に帰りたい。帰れない。母は何処にいるのだろうか。きっとボクの到底、手の届かない場所にいるんのだろう。そこにボクが行く資格はないし、しかも、その術すらないのだと。
そうした思いが消えてなくならない。
ユリが尋ねたのは、やまいこを思う気持を原点とした問い。
「そう、ですか……申し訳ありません。不敬かとは思いますが、どうしてもお聞きしたいことがあります」
男はただ静かにユリの言葉を聞いた。彼女はいかにも平静を装っていたが、男には未だ心が揺れているように見えた。瞳の奥にある燻り、ジクジクと胸を焼く苦しみの原因を想像出来たから。
「……御方様は、何故やまいこ様を伴侶としてお選びいただけなかったのでしょうか?」
躊躇いながらも口にした。瞳が揺れている。そこにあるのは葛藤。仕えるべき御方への不敬の意識と行き場のない感情の発露──両者がせめぎ合うも、ユリは問わずにはいられなかった。
ユリの言葉は続いた。彼女は答えを求めてはおらず、男に感情を受け止めて欲しかったのだろうか。
「やまいこ様が醜いとされるネフィリムだったからですか?」
「それとも、殴ってから考えるノウキンだったからでしょうか」
言葉が溢れる。何かに怯えるように震え、知らず涙がまた流れた。投げかける言葉に帯びている毒は罪悪感。刃を持った言葉が、ユリを自傷させ、男は腕の中にいるユリの感傷にいたたまれなくなる。
溢れ出でゆく記憶。
ユリがヤマイコに創られた日のこと。
妹達や同僚に初めて会った日を。
賑やかで楽しかったナザリックの日々。
ヤマイコとその友人達の談笑が。
いつものお茶会の風景の尊さ。
主のいない部屋の虚しさ。
数を減らしてゆく至高の御方々。
創造主であるヤマイコとの別れ。
そしてナザリックは火が消えたように静かになった──
悲しい……大切な存在が次々にいなくなり、皆、心に傷を負った。見捨てられたのかと思い、ユリは狂ってしまいそうだった。
「ボクは……もしも……もしも御方様とやまいこ様が互いの伴侶となれば、やまいこ様はナザリックを旅立つこともなかったかもしれないと……どうしてもそう思ってしまうのです」
だがそれは、もしもの話だ。
逆に言えば二人でナザリックを旅立っていた可能性だってある。そして、ユリの想いは男の事情や意思すら何ら考慮していない妄想でもある。
それが良くない類の妄想であることをユリはわかっていた。だが自身に都合の良い想像を止めるのは難しかったのだ。
「お二方がいれば……そうしたら、ボクはもっと……」
──幸せでいられたのかもしれません。
何故か涙が溢れて仕方がない。顔を歪めて、言葉を吐き出し、慕っているはずの男へ突き付けてしまった。
吐き出したその言葉に意味などない。しかし、ユリ自身、それがわかっていても、感情はもはや言葉を留めることを許してはくれないのだ。
「やまいこ様に……あの方にもう一度だけでも会いたくて仕方がないのです……」
──寂しい
それらが口にしてはならない言葉なのだとしても、ユリの口は今更止められないとばかりに、躊躇い、怖れながらも言葉を紡ぎ出してゆく。
そして……
「御方様も……いつかいなくなってしまうのでしょうか……?」
──やまいこ様のように。
怯え、大きな不安を孕んだ疑いの言葉。
吐き出してしまった後には、どうしてこんなことを口にしてしまったのかと、深い後悔の念が襲ってくる。
それは仲間たちから八つ裂きにされても仕方のない主を疑う言葉。忠誠を疑われて当然、普段のユリであれば絶対に選ぶことのないものだった。
「……申し訳ありません。ご不快にさせたことを心からお詫び致します。この処罰は如何様にでもお受けいたします。ですから……ですから……どうかボクたちをお見捨てにならないで──」
悲しみと寂しさを湛えた雫が流れ──
「んっ」
男はそれ以上、ユリが何か言葉を紡ぎ出さないように口を塞いだ。感じる温かさ。しかし、彼女は唐突の出来事に驚くばかりで、ジワリと沁みる、寂しさが少し癒やされたことには気づけなかった。
そして、男はゆっくりと悪しき呪いを上書きするように、新たな呪いを重ね掛け、言葉を紡いでゆく。
「見捨てたりしない」
「寂しい思いをさせて、すまなかったな……」
「安心するかはわからんが、俺は少なくとも会えなくなる場所に行く予定はないよ。今のところ」
男はその言葉をはじまりとし、彼女へと語りかけ始めた。
「ユリは寂しいと言うが、俺はやまいこさんに感謝しなくちゃならない」
何にだろうか。ユリはその続きを待った。
「ユリを創り出し、残してくれていったことにな。ユリがここにいなければ、こうして触れることは出来なかった。お前のような女に慕われるのは光栄なことだ」
ユリの体に触れる。男の触れたユリの肌は冷たく、体温を感じない。反対に、ユリが触れられた場所にはジワリと心地良い熱を伝える。まるで凍えた心身を温めるように。
「それに、俺はユリのことを好ましいと思っているぞ」
「っ!?」
抱き締めたユリの耳元で囁く。耳にかかる息のこそばゆい感覚に、ユリの口から驚きの声が出かかる。そして、遅れてその内容を理解した。
「ユリの料理が好きだ」
「長い黒髪が似合っているところが好きだ」
「その涼やかな心地良い声が好きだ」
「おっ、御方様っ……!? そ、そんな、突然何を……」
突然の言葉攻めにユリは目を瞬かせ困惑した。そんなあたふたし始めたユリが、男の目にはやはり可愛らしく映る。
続け様に囁かれた言葉の威力にユリの背中にゾクゾクと快感が走り、胸に風が吹き込んだように苦しくなる。
「メイド服が似合うところが好きだ」
「シミ一つない白い肌が好きだ」
「その大きな胸と引き締まった尻が好きだ」
「う、うぅ……はっ、恥ずかしい……」
あまりの羞恥に目をギュッと瞑った。これはどんな天国だ。もしかしたらアンデット特攻の攻撃で、これ以上、聞かされたら浄化してしまうのではないかと思った。
「やまいこさんが好きなところが好きだ」
「真面目で手際の良いところが好きだ」
「でも、脳筋で可愛らしいところも好きだ」
「あ、ありがとう、ございます……で、ですから、もう……もう……」
自分の中の何かが暴れ、弾けそうになって、頭を抱えようとしたが、その腕は男に無理矢理抑えられた。
「よく案じてくれるところが好きだ」
「何事にも全力なところが好きだ」
「仲間のために無茶をしたところが好きだ」
「〜〜〜っ!!」
延々と、ユリへと言葉を尽くし、ユリが声を出さずに悲鳴をあげる。
そうして──百の好きなところをユリに伝えると、言い終えた頃には彼女はしおらしく、神妙な面持ちになっていた。刺激が強くなりすぎたのか、ユリは瞳を潤ませて責めるように寄り添って横になっている男を見つめていた。
気づけば、彼女の心を覆う鬱々とした感情は晴れていた。
ユリも男が彼女を励まそうとしてくれているのだと当然気づいていた。ただ、その気持ちが嬉しくも、気を使わせてしまったことに申し訳なく思う。
「俺はやまいこさんの代わりにはなれないし、ユリもそんなこと望んではいないんだろうが、寂しさを和らげてやることは出来る」
「やまいこさんを想うのはいい。だが、悲しんだり寂しがるばかりなのはやめた方がいい。いつか、楽しかった思い出まで悲しくなってしまうからな」
「それと……何か勘違いしてるのかもしれないが、やまいこさんと俺は全くそんな関係じゃなかったからな。申し訳ないが」
「え?」
目を開き驚いた様子を見せるユリ。
「そ、そうなのですか?」
「そうだが? やまいこさんとの関係が友人から変わったことはないな」
男は不思議そうな顔で言う。モモンガから下僕達にはユグドラシルの記憶があるとは聞いていた。しかし、自身とやまいこのどこを見て、そのような噂になったのか理解出来ていなかった。
「で、ですが、やまいこ様とぶくぶく茶釜様との会話で、やまいこ様が御方様をお慕いしていると話しているのを聞いたことが……」
「んん? 慕っていたとは言っても、そんな雰囲気になったこともないしな……アレはどっちかというとなぁ……」
「?」
思い出すのは、オフ会の風景。やまいこにそういった内容の愚痴を聞かされ、冗談気味に誘われたことはあったが、他にアプローチらしいアプローチをかけられた記憶もない。
男はやはりユリの勘違いだろうと、一人納得する。
「うん……まぁ、あの時は酒も入っていたし、からかう気持ちの方が大きかったんだろう」
反対に、本当にそうだったのだろうか、とユリは眉を困ったように下げ、疑問に思った。ユリが創造主から引き継いだ感情には確かに男への好意があったし、お茶会ではそれらしき会話も聞いていたのに。
しかし、男はその好意をからかっていたのだと疑わない。他に否定できる材料もなく、ユリはモヤモヤしたまま口を閉じたのだった。
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21.ユリ編※5ー3
そして、話を打ち切り、口を閉じたユリを前にして何でもないように男は一つ愚痴を溢した。
「それよりも、モモンガから友人の子どもに何してんだって罵倒されそうな方が俺は気になるんだがな……」
それは男が最も気にしていたこと。正直なところ、ユリの好意を最初に受け止められなかったのは、モモンガへの遠慮もあったのだ。
「ぇ……」
「ん? そりゃあ、そうだろう。モモンガからしたら俺は友人の子どもに手を出した、とんでもクソ野郎だからな」
そう自嘲し苦笑いする男にユリはショックを受ける。
その衝撃的な理由にユリは顔色こそ変わらないが、内心ではやはり願った事は間違いだったのかと、青ざめていた。
普段、アルベドとシャルティアの誘惑で有耶無耶になっている部分はあるが、モモンガにとってはやはり下僕達は子どもも同じなのだ。現に、そのモモンガは未だに二人の誘惑に乗ることもなく、褥を共にしていないことをユリは知っている。
つまり、モモンガは自らを含めた至高の御方々が下僕と性的に交わることに慎重な考えであり、ユリはその意志に反してしまっていることになる。
加えて、慎重になる理由のわからないユリでは計り知る事の出来ない深謀遠慮があったと考えるしかない。元々、守護者統括からの密命があったとはいえ、そこにユリは余計な一石を投じてしまったことになる。
しかも、それが原因でモモンガと御方が仲違いしてしまうようなことになってしまえば……
気がつけば、ユリはベッドの上で男に平伏していた。
「あ、あ、あぁ……そんな……ボクは何ということを……誠に申し訳ありません……アインズ様には全てボクの意思で行ったこととご説明し、御方様には無理を押してご慈悲をいただいたと釈明を──」
「おいおい、何してんだ! あーまぁ、モモンガと、会えたらやまいこさんには俺から謝っておくから。ユリは何も心配するな、俺に後悔はないよ」
男としては、『アンタ、なにやってんだよ!?』くらいは言われるだろうな程度の予測であり、ユリの失意とは重大度もベクトルも異なる。
何しろ、モモンガにはアルベドの設定を改変するという前科があるのだから。強く言える理由はないのだ。しかし、ユリはそんなこと知る由もない。
心なしか、白い肌を更に青白くさせたユリに男は苦笑し、再び落ち着かせるように抱き締め──項垂れるユリは不安と申し訳なさを感じながらも男を抱き締め返す。
「勇気を出して告白してくれたんだ。受け入れるからには全部背負うのが男の役目ってものだ」
「御方さま……」
ユリの男を見る瞳に熱が籠もり、潤む。
「まぁ、モモンガもちゃんと話して、覚悟があるとわかれば何も言わないはず」
「か、覚悟、ですか……?」
ユリの胸が期待に膨らみ、男を見やる。
「…………まぁ、年貢の収め時とまでは言いたくないが、つまらない生活はさせないようにするってことさ」
ユリの視線に圧力を感じ──男はそっと目を逸らした。
男は暗に苦労はかけるかもしれない、とでも言いたかったのかもしれない。ただ、そんな中でも退屈はさせないと。とはいえ、明確に責任をとるとは言わない辺りクズの発言だ。
ユリとしても期待した言葉ではなく、少しだけ残念に思ったが、その思いこそ自身には過分と戒める。今は素直にその言葉に嬉しく思うこととした。
そして──ボクも御方への忠誠、そして愛するということ、覚悟を新たにしなくてはと意気込む。
「だからなぁ…………代わりといってはなんだが、一つ頼みたいことがあるんだ」
「っ、はい……! 拝聴いたします」
男の真剣な表情に、ユリは気を引き締める。彼女を受け入れてくれた御方の期待に応えるために、その頼み事を一語一句聞き逃さないように集中した。
例えその願いが、非常に困難なものだとしても、ボクは絶対に達成しなければならないのだと意気を込めて。
「──眼鏡かけたままヤラせてくれ。そっちの方が後悔しそうだ」
「は?」
恋慕っている相手からまさかそんな予想外のアホな言葉が飛び出すとは夢にも思わず、彼女自身も驚くほど呆けた声が出た。
男はベッド脇にあるナイトテーブルに置かれていた眼鏡に手を伸ばし、素早くユリに掛けた。そのままベッドに押し倒して細い足首を掴み、抵抗させぬままに股を開かせる。
股座に腰を寄せ、黒のショーツを指でズラすと、ユリのドロドロに解けた女陰に剛直を宛がい、ゆっくりと挿し入れていった。
「あっ、えっ……えぇっ?」
急な展開に驚き、ユリは慌てているが、銀縁の眼鏡を掛けた彼女は、普段の真面目な印象に戻り、どこかお固い雰囲気に近づいている。
そんな彼女をこれから犯すのだ。男はその固い雰囲気をドロドロに蕩かし、自分だけに女としての顔を見せて欲しいと願っている。
男がユリにのしかかり、大きな双丘が押し潰された。剛直がズルズルとゆっくり進み、途中で微かな抵抗があったが、しかし止まることなく力強く侵入してゆく。
「あ、あぁっ?」
挿入された剛直がユリの膣を抉り、侵入者のいなかった膣の内部をカリ首で掻き分けながら拡げてゆく。そして、奥まで力強く貫かれたことで剛直は子宮を圧迫し──
「ん、んんんんんん〜〜〜っ」
「うぉっ、なかなか締まるなっ、ユリっ」
ギュウギュウと締め上げ、腕を男の背中に回してきつくしがみつく。ユリの膣は冷たいというほどでもないが、熱もまた感じず、筋力の強いゾンビやデュラハンの種族を取っているだけあって、内で、外でとギリギリと男を締め上げる。レベルで勝っている男でなければ締め殺されていただろう。
しかし、男にとっては圧迫感が多少強めに感じる程度。強く締め付けられるのも、抱きしめられるのも、よりユリの体の柔らかさが感じられて心地良いだけだ。
一方、ユリはのし掛かかられ、男の体重を全身で感じた。感じるそれは幸福感を齎す、心地良い重みだった。
更には、否応なく男の熱を全身で感じられてしまう。ユリは逃げ場のない檻に閉じ込められたような気分になり、陶酔仕掛ける。
目の前にある男の首筋には先程付けた赤い点。鼻孔を擽る男の匂いにどうしようもなく頭がクラクラし、犯されているとの実感が背中にゾクゾクと快感を走らせる。
そして──ある程度ユリが落ち着き、迎えた異物に過剰に反応していた膣は一旦締付けを緩めると、痙攣するよう蠢いてヒクヒクと異物の存在を確かめる。
「どうだ、痛くないか?」
「い、痛く、ありませんが……」
深くまで貫かれ、体の中心から太い杭を打たれているような気分で、強い圧迫感がある。その杭は熱く、ユリの中を容赦なく灼いている。胎に感じる熱は特別な快感を彼女に与える。
熱を感じ、自身の中に至高の御方を迎えているという実感が生まれると、頬が緩んでしまうほどに嬉しくてたまらなくなった。伝わる熱が体を中から温めている気がした。それはまるで体の中に血を巡らせる心臓が新たに出来たかのようだ。
アンデッドであるはずの彼女の体が、生者であるかのように体温を持っているように錯覚してしまうほどに。
「おなかが、あたたかくて……きもちいい、です、よ……」
それは温泉に入った時のような心地良さにも似ているかもしれない。冷めた体にジワリと温かさが身に沁みる。そこにあるだけで、色んなものが体から抜け落ちていくようだった。
ユリはアンデッドであるために肉体的に疲労を感じない。しかし、精神は疲弊するものだ。真面目で責任感が強く、プレイアデスでも副リーダーを務める彼女のことだ。普段からの精神的疲労は他のプレアデスのメンバーよりも大きい。
特に、ここ最近の彼女の精神への負荷は如何ばかりのものだったかは想像に難くない。
「そうか……気持ちいいか」
「は、はいぃ……」
そんなやり取りに羞恥を覚える。今はまだ性的な快感よりも、精神的なホッとするような安心感や安堵感が大きかった。
いつまでもそこにいて、このままでいて欲しい。
このまま、一つになったまま御方が眠るのを側で見守れたら、それはどんな褒美にも勝る幸福なのだろう、と思う。
「っ、ううぅぅ……」
それと同時に胸が苦しくなるような愛情が溢れ、ユリは男の背に回した手で再びしっかり抱き締めた。
「ユリ?」
密着し、触れ合う肌の感触が心地よい。男がユリに体重を預けたまま、すぐ側にあるユリの顔を伺う。
ユリも男の方を向いており、顔を向き合わせるとユリの方から口づけた。口内で互いの舌を突つきあい、絡ませあい、二人の情欲の深さを表現する。
暫く互いに確かめ合うと、合わさりあった唇を離し、透明な橋が一本かかる──ユリの表情は眉尻が下がり、普段の涼やかな切れ長の目は熱を孕んだように蕩けている。今なら何でも受け入れてくれそうな、包容力を感じさせる視線で男を見つめていた。
「御方様……ボクなら大丈夫ですから……どうか御方様のお好きになさってください……」
そう耳元に向けて、静かに囁き──男は我慢を捨てたのだ。
□
部屋には、ベッドが軋む音と女の押し殺したような艷やかな声が響いている。
「ぁ、んっ〜! ……んっ! ……んっ!」
男は茂みに隠れた豆を指の腹で、押し潰したり、クリクリと愛撫しながら、それに合わせるようにグリグリと腰を強く押し付け円を描き、ユリの様子を伺っていたのだ。
初めてだったはずの彼女は早くも快感を覚えているらしい。男は刺激に慣れさせるためにアレコレと違う場所を責めてみたりした。
常人よりも太い剛直がユリの膣内を引っ掻きながら押し進む。抽送は彼女のことを慮ってかゆっくりではあるが、ユリの性感を煽るように、じっくりと奥深くまで突き挿す。
その度に、男が腰を抱え、剛直をユリの奥をグッ、グッと突き上げ、ユリの内蔵へと振動を伝える。
「ぁ、っ! んっ! ……はぁ……はぁ……」
艶めかしい声がユリの口から漏れ始める。
突き挿した剛直がゆっくりと引き抜かれ、拡げていた隙間が戻り、ユリは快感と共に喪失感を覚えてゆく。そして、再び剛直が挿入されると、快感とともに喪失感は埋め戻される──
そうした、ゆっくりとしたピストン運動を、ユリの膣に男根が馴染むまで繰り返した。
「あ、あぁぁ……ん……」
どれほど、優しく焦れったい動きが続いたか──ユリに経験がなかったということもあり、男は流石に自重していたようだが、ユリの様子を見るに一端に女の喜びを享受しているように見える。
「余裕そうだな? 少しずつ強くしていくからな」
今度は少し早めのストロークで膣の壁面、お腹側にあるスポットを強く擦るように、深く抽送をする。
「御方さま、お待ち、くだ……あっ……はっ……」
初め変化は大きくなかったが、ユリの表情はだんだんと眉を寄せた苦悩に変わってゆく。
ユリ自身もズルズルと、陰茎が出し入れされることで生まれる快感に集中しているのだろう。開かせた脚には力が入り、指先がのばされていた。
そして、その余裕を消すべく、また一段ペースを上げる──
「あ、ぁっ……はげしっ……ぁ、やっ……やぁっ……お許しをっ、御方さまっ」
「少し、ゆっくりっ……」
ズムズムとユリの体をベッドに沈める。どんどんと激しくなってゆくピストン。ユリは体を甘く蝕む絶え間ない刺激と、男の執拗な責めに耐えかねて少しだけ体を休める許しを乞う。
好きにして欲しいと言ったのは彼女なのに、いざ男の責めが彼女の許容量を突破すると、あっさりと降参して音を上げた。それでも男が許可を出さずに腰を振るのをやめなければ、まるで彼女は無理矢理犯されているかのように喘いだ。
「ぁ、いやぁっ……もうだ、めぇっ……おかしく……おかしくなってしまいますぅっ!」
パンッ、パンッと湿っぽい破裂音が響く。
ユリがイヤイヤと首を振り、豊満なバストが地揺れのように揺さぶられる。
しかし、彼女は眉をハの字に、口でこそイヤと言っていたが、その声音に拒絶感などのネガティブな面は無く、むしろ口元は段々と強くなる快楽のせいで、だらしなく開かれていた。
「嫌だったのか?」
「もっ、申し訳、ありませっ、嫌などでは、けっしてっ」
その間も男の抽送は止まらない。そのままにユリに尋ねると、返ってきたのは苦悩を滲ませる、余裕のない声だった。
「なら何故、嫌と言う?」
「あっ、うぅ……もうしわけっ……もうしわけ、ありませっ」
もはや謝るしかない程に思考は鈍り、同じ言葉をただ繰り返す。ユリ自身にも何故、イヤという言葉が出て来たのかわからないのだ。
悶えるような快感が断続的に襲いかかり、奥深くまで膣を抉りながら埋める男根が抜き挿しされる度に得も言われぬ興奮と喜び、思考を焼く快感が溢れてくる。
「お前、マゾだったのか」
「っ!」
その言葉に返事をするように、キュウと膣が締まった。
「なんだ……そうか。なら遠慮しなくていいんだよな」
「そっ、そんなこと、ありませっ……」
男の言い掛かりにも近い性癖の断定。ユリもユリで内心でドキリとしたが、遠慮しないとの言葉に慌てて否定しようとした。
人は誰しもがサディズム、マゾヒズムの傾向を持つという。ただその天秤がどちらに傾くのかは、その人が持つ攻撃性が外に向くか、内に向くかの違いなのだという。
それが彼女には当てはまるのであれば、ユリの攻撃性はどちらかと言えば内に向いており、マゾに近いとも言えるのかもしれない。
そして──彼女は行為が嫌なのではないのだ。しかし、イヤと言っているのに半ば無理矢理に求められているというシチュエーションに強く興奮してしまう。男から求められたい、愛されたいという承認欲求を根源とする感情が存在する。
それを指摘され、ユリも自身がかつてないほどに興奮していたのを自覚しており、突かれる度に頭の中に靄がかかり、次第に体に力が入らなくなってゆくのを感じていた。
「おかたさまっ、ボクを……あいして……あいしてっ……」
尚も腰の打ち付けは止まらない。
だんだんと頭の中が真っ白になり何も考えられなくなってゆくと共に、クポリ、とユリの膣の奥の空間が膨らんでゆく。子宮口は通常時よりも傾きを変え、挿入される男根に対して真正面に位置するようになる。所謂、子宮が降りてくるという状態だ。
男はそんな膣の奥が緩くなったことで、彼女の限界が近いことを悟る。
悶えるユリを眼下に、男は未だ黒のランジェリーで隠されていたユリの胸をはだけさせ、その豊満な乳の頭頂部にある乳首をクリクリと弄び、反対の山も舌で舐った。
「あぁっ! やぁっ、むねっ、だめぇっ!」
「ユリ、お前を愛しく思っているぞ。俺たちは始まったばかり。少しずつ、その気持ちを育てていこうか」
その言葉を聞いたユリは……
快感が吹き荒れる嵐の只中──普段では決して見られない、少女のような微笑みを浮かべた。
快楽に幸福感が混じる。彼女は焦燥に似た未知の感覚に落ち着きがなくなり、手の位置を忙しなく変えていたが、暫くして落ち着ける場所を見つけたのか、背に腕を回してしっかりと男にしがみついて耐え忍んだ。
「うれしい、です……おかたさまっ、おかたさまっ」
そして──そこでユリは初めての中イキを経験した。糸をたぐり、頂上への見えない出口を探すように、足首から先を伸ばして感覚に集中し始める。
「いいか、気持ちよくなる時はイクって言うんだぞ」
「は、はぃ……ぁ……イクっ、イクっ、イキますっ」
「ぁ、ぃやぁ……なに、これ……すごいの……すごいのきちゃいますううぅぅぅ」
出口が見え始め、しかし、ユリは未知の感覚を恐れるように目を固く瞑っている。だというのに、いざ出口を出た瞬間、瞼の裏では視界がスパークし、頭の中までもが真っ白になった。
「あっ? あ、あ、あああぁぁぁっ!」
体がビクンビクンと痙攣を起こし、身体全体にゾクゾクと震えが走る。膣がヒクヒクと蠕動するのを自身でも感じながら、奥へ奥へと愛しい男を引き込んだ。
「ぁっ……ぁ、っ……ぁ……」
絶頂──体が緊張し、全身全霊で快楽の波を受け止めるためか、ギュッと体の筋肉が締まる。骨盤周りの筋肉が緊張を起こして膣口がキュ〜っと狭まり、無意識に息を止めて男根をきつく抱き締めてユリの好意を体で伝えた。
膣内で初めて迎えた絶頂。そして、訪れる脱力感。ユリは止めていた呼吸を荒々しく繰り返した。一度絶頂を迎えた体は力が全て抜けたようで重い。頭の中の靄は晴れていたが、しかし、今度は体がフワフワするような相反する不思議な感覚がしていた。
子宮が男の精を求めて、ヒクヒクと膣壁が蠕動し始めるのを感じていたものの、結局精液が吐き出されることはなく、ユリはどこか物足りない満足感を得る。
「も……もうひわけ、ありましぇっ……また、ボクばかり……」
物足りない満足感。胎には何かを渇望するような飢餓感──その理由を彼女は知っている。男は未だ絶頂を迎えてはいなかったのだから。吐き出されているはずの精液はなく、胎が満たされることがなかったせいだと。
精を注がれて初めて、安心できるような気がしていた。彼女は、それを愛情の証とでも捉えていたのかもしれない。
胎が熱を孕んでいて苦しい。ユリはどこか夢心地のままで、僅かな疲労感を含む、飢餓感を煽る絶頂の余韻に翻弄されていた。
しかし、ユリはそのドロリとした感情に意思を持って蓋をした。主の前で自身の感情を優先するなどメイド失格だから。
目の前の主はまだ一度も絶頂を迎えていない──主に仕えるメイドとしても、想いを叶えた女としても、意地というものがある。このまま休む訳にはいかなかった。
だからユリは男に満足して貰うために、奉仕しようと動く。そんな様子を男は眺め──
「ユリ。お前は可愛いなぁ。なら今度は動いて貰おうか」
「ひゃっ」
男はそう言ってユリの体を腕で支えるようにして身を引いて起こす。ちょうど男の膝の上にユリが跨り、男女が向き合う対面座位の形になる。男性よりも女性が優位に動ける体位。
「〜〜っ」
体勢を変えた振動による快感と、先程とは異なる感覚のせいで、ふるふると体が震えた。
先程の正常位よりも二人の距離がはっきりと近くなり、股座は当然の如く密着している。ユリの体重がかかる分、より深くまで挿入されることになり、奥に感じる強い圧迫感の心地良さにユリの声が漏れそうになる。
また、真下から天に向かって突き挿さっているためか、先程よりも男の剛直の太さや長さ、熱さ、時折男がピクピクと男根を跳ねさせる振動までユリには鮮明に感じられていた。
胎に集中してみれば、自身の体の中に天に向かって熱い芯が一本通っているような感覚がある。
その状態で男は好きに動いていいと告げた。
ユリが男に奉仕しやすいように、男が女性優位の体勢に変えたことに、彼女は気づいていた。
未だにこういった営みに疎いユリとしては、奉仕はしたいがどのようにして動けばよいのか勝手がわからず、その配慮が申し訳なく、嬉しくも思った。
だから、彼女は自身から動くということに羞恥を覚えなくもなかったが、その期待に応えるべく動き出す。
「ずっと、おしたいしております……おかたさま……」
「ごほうし、させていただきますね……」
ユリが眼鏡の奥にあるトロリと蕩けた瞳で男を見つめ、首に腕を回すとキスを強請る。瞳を閉じ、ディープキスに興じる姿は恋人同士にしか見えない。
キスを続けながら、ユリは腰を動かし始める。
最初は大きく上下に男根の全体を扱くように動く。途中からは男がユリの腰を支え、動きをサポート──だんだんと上下の幅は狭くなってゆき、やがて剛直の根本をコンパクトに扱くように変化してゆく。
「んむぅっ……んぁっ、んっ!」
舌を絡ませ合い。また、男が腰を前後に揺するように導けば、ユリもそれに合わせてゆく。ただ、その動きは男の恥骨にグニグニとユリの淫核が押し当てられるのか、ユリ自身も悩ましい息遣いになっていった。
「ふぁ、っ……ぁ、あっ……こぇ……めっ……だめ、ぇっ」
くぐもった声。そして、腰を前後するように揺する度に、ユリの深い場所──子宮口に亀頭が擦られる。次第に、胎の奥がだんだんと重く、怠くなってゆくような感覚があり、ユリはその感覚に無視出来ない欲望と焦りを覚えてしまう。
淫核から伝わる甘く痺れるような快楽と、子宮に籠もる熱と陶酔感がユリに行為を強制するのだ。このままでは良くないと思ってはいても、今のユリでは腰の揺さぶりを止めることも遅らせることも出来なかった。
「また……ら、めぇ……らめ、なのにぃ……」
腰をヘコヘコと前後にグラインドさせ──股を偉大な主に擦り付ける背徳感が、男の一部を自らの体に受け入れている一体感が、ユリをどうしようもなく高揚させる。自認している暴走を止めるべく自身の行動を冷静に客観視しようとして、しかし、男の性処理道具のようになっている自分の姿に更に興奮してしまった。
悪循環──このままでは再びユリだけが絶頂を迎えてしまい、奉仕とは名ばかりになってしまう。
「うっ……うぅ……こし……とまらな……」
彼女に当初僅かながらあった自ら動くのが恥ずかしいという意識も既に欲望に流され、ただ浅ましく絶頂に登り詰めることに熱中してしまっている。
男が手助けのためか腰を抑え、奉仕とは名ばかりになりかけているユリの動きを止めようとしたが──
しかし、行為を止められないユリはその静止を振り切るようにして、腰を動かしてしまう。
「とんだ淫乱だな」
嘲るような冷たい声音が耳に届く。しかし、その声に今のユリでは背がゾクゾクするのみ。
「っ、ごめんなさい……ごめんなさい……きらっ、きらいに、ならないで……くださぃ……」
「ボク、ボクっ……おかたさまにおあいしてから……ずっと、おかしい、んですっ……」
「でも、これも、ぜんぶっ、おかたさまのっ、せい、ですよねっ?」
正気であれば、ユリが男に何かしらの失敗の原因をなすり付けるなどありえない。今の彼女がそれだけ、正気ではなく理性がとんでいるということか。後で正気に戻り、思い出した時にユリは頭を抱えることになるのだろう。
瞳を潤ませ、すがりつくように首に腕を回し、ヘコヘコと腰を揺すった。
「奉仕も出来ないのを、人のせいにするなよ」
ユリの細い腰を掴み上げて落とし、男が下から突き上げた。
「あ゛っ……! かっ……ご、ご、めんなさいぃ」
熱が溜まり、発情状態になっていた胎に剛直に殴りつけられた衝撃が伝播した。そのせいか、ユリは体をふるふると震わせ、悶えるようにして動きを止めた。
その隙に男は自身が動きやすいように、ユリが膝をベッドに着けるように跨っていた体勢から、膝を立てさせ、スクワットの状態で座り込んだような体勢にかえさせた。
「だけどまぁ、初めてにしては上出来だよ」
「あぁっ、あっ、まっ、てっ、んっ、あっ、はげしっ」
「まだっ、まだっ、ほうしちゅうっ、なのにっ」
大きくM字に足が開いた状態で腰を浮かせ、男は後ろ手を付いて激しく腰を打ち付ける。
その衝撃でユリの背がビクビクと跳ねた。
潤沢な愛液を分泌するユリの女陰。小さく、しかし激しく破裂するような音が断続的に続き、ユリはもはや言葉も発せない程に意識を朦朧とさせており、彼女の意識には再び濃い靄がかかる。
「あ……ぉ……あ……おかた、さまぁ」
「すき……すき……すき、ぃ」
愛おしげで、甘えたな声音。互いに見つめ合い、答えを聞くことなく情熱的な口づけを始める。二人の熱量が上がり、精神の高揚が頂点に到達する。
「ん……またっ……きちゃっ……もっと、すごいのっ……」
「さみしいのは、いやぁっ……こんどはっ、いっしょっ、いっしょがいい、ですっ」
ユリが体を寄せて密着し、女の本能のまま幸せそうに、苦悩するように男の口を吸い、濡らす。
ユリの限界はすぐそこまで来ている。胎はグツグツと湯が煮えるように熱を孕んでおり、ダムが決壊する一歩手前のような、何かしらの刺激で彼女の緊張の糸は一瞬で切れる。
「ぁ……イクっ、イクっ、イキ、まずっ、おかたざまぁっ」
激しく腰がぶつかり合い、揺さぶられたユリが振り落とされまいと腕に力が入る。イヤイヤと首を振り、その表情は快楽に翻弄され、悩ましげ。長いウェーブのかかった黒髪を振り、乱れた。
ユリの体は絶頂を迎える寸前であり、徴が浮かぶ。アンデットのユリに血流量の変化がどうして起きたのかは不明だが、豊満な胸は一時的に膨らんで乳首が立ち、茂みに隠れた淫核はぷっくりと膨らむ。
「ぅ、あ……あ……」
体の内側から込み上げてくる何か──ゾクゾクと全身に電流が流れたように体がビクビクと痙攣した。ユリの中のダムが決壊し、意識を漂白するような強烈な快楽が彼女の意識を洗い流す。
しかし、例え意識がとんでいようと、女として喜びを受け止める本能は活きていたのだろう。
ユリは虚ろな瞳でパクパクと声にならない喘ぎ声をあげ、天を仰ぎ──ガクリと脱力したが、次の瞬間には胎に溜まった快楽が再び彼女を叩き起こした。
ユリの膣がキュッと収縮しては緩んでと、緊張と解放を繰り返した。ヒクヒクと膣が痙攣したように男の逞しい棒を抱き締める。
「ぐっ……受け止めろっ」
「あ、へ、あ、あ、ああぁぁぁっ──」
そして、男もとうとう限界を迎える。
最後に男が力強く腰を打ち、ユリの会陰へと押し付ける。男が絶頂に達しドクドクと精液が放出され、ユリの膣中を精液の熱が灼く。
ユリは胎の中に熱い塊があるのを感じた。確かな熱を。膣壁にへばりつき、最初は小さな、しかし確かな熱量がジワリとその範囲を増してゆく。ユリの胎に沁みるように広がってゆくのだ。
「ま、たっ……ィクぅっ……」
数度、覚醒と脱力を繰り返し──ある程度絶頂が治まると、ユリは長く断続的な性的緊張からの解放に、ヘロヘロと力なく男へともたれかかった。
ユリの体には未だ絶頂の残滓が残る。
荒い吐息。膣は男根を愛おしげに蠕き、骨盤周りの筋肉がピクピクと痙攣していたのをユリは余韻の中で感じていた。接合部からはゴプリ、と白い白濁液が流れ出ている。
そして彼女は──心に満ちる安心感と深い幸福感に身を委ねるのだった。
□
ベッドの中、男は寄り添う女に尋ねる。
「なぁ、ユリ。お前にとっての喜びとは何だ?」
心地よい夢心地の中、それに彼女は何の疑いもなく答えた。
「それはもちろん、至高の御方々にお仕えすることです」
男にとっては容易に予測できた答え。
「……それだけじゃ、つまらなくないか?」
「そのようなことありません。至高の御方々にお仕えするのは私達の存在意義ですから」
男は少しだけ残念そうに答えた。ただ盲目的に仕えるだけの存在にはなって欲しくないという想いが男にはあったから問うてみたのだ。
しかし、彼女らは主に仕えるために生み出された存在であることには間違いない。現実――彼女たちは至高の御方に仕えるということが自身の重要な基盤だと理解しており、実際に仕えることに喜びを感じている。それをわかっていたからこそ、彼女はその答えに疑いを持つことはない。
「前にも聞いたな、それ……なら、何でもいい。他にユリが見つけた、ユリだけの嬉しいこと、楽しいことを知りたい」
「私だけの……?」
「そうだ。俺たちの背を見てるだけじゃなくてな。ユリが心からやりたいと思っている事が知りたい」
「……」
主への恭順。その意識は根強く、男だって今更、彼女たちの存在意義に関わるようなことをアレコレ口出しして、苦しめるようなつもりはなかった。
だから、新たに尋ねた。
ユリには嬉しいと思うこと、楽しいと思うことはあるのか、と。
ただ仕える──それだけが生きる理由とするのは、やはり寂しすぎるのではと男は思うから。
ユリの思考には幾つかの、ぼんやりとしたヴィジョンが浮かぶ。しかし、それが果たしてナザリックの方針に合うのか、果たして口に出して良いものかもわからず、すぐに答えることができなかった。
一方、その沈黙が答えだと思ったのか、男は更に続ける。
「俺はお前たちが盾となる事を望まない。それはモモンガも同じだろうさ」
「そ、それではボクたちの存在意義が……」
「なぁ、ユリ。本来、親という存在の役目とは子を守る壁となり、高みに上がらせるための踏み台になるってのが通念だな。俺も親は決して子に守られる存在であってはならないと思う」
彼女たちの世界はまだ狭いのだ。
彼女たちは今までナザリックに行動の自由を縛られ、存在意義に縛られ、これまで踏み出すことがなかったから。
無論のこと、男だって無理矢理にナザリックから羽ばたけなどと言うつもりはない。
ただ、そういう存在だと自ら決めつけている彼女たちはもう少し世界を広げるべきだとも思う。
「っ、ボクは……」
新しい関係を築くと決めた男が、彼女達に何をしてやれるかと考えた。
それはきっと、彼女らが望むような主として在り続けるのではなく、彼女らに寄り添い、師として友として、または恋人として共に歩む存在としてあること。
彼女らが友人たちの残した子であると認めるならば、導くのもまた男らの役目なのだろう。
「仕えてくれることを否定するつもりはないが……それだけが自分の存在意義だ、なんて思い込むなよ」
そう言って、ユリの長い黒髪を指で梳き、ユリは物思いに耽る。
自身のやりたい事──ツアレはセバスのために命を使うと決め、クレマンティーヌには男がいつか王となる日のために下地を整え、その信仰を広めるという野望がある。
ならボクは……と。
『やまいこさんは教師だったんだ』
『やまいこ様が……』
『お前はその理想の姿をしてる』
ユリは男のその言葉を、ずっと覚えていた。
何故なら、かけられたその言葉にどうしようもなく惹かれ、彼女の胸に小さな火を宿したのをその時、確かに感じていたのだから。
「さて、風呂に入るかな」
「お背中、お流しいたします」
男が思い立ったように身を起こし、慌ててユリもその温もりを追いかけるように続いた。
ここは第九階層、ロイヤルスイートにある至高の41人の私室。バスルーム程度、当然の如くある。
結局、場所を変え二人は再び体を交える。その日、彼女の矯声は暫く止む気配はなかった。
□
仕事に入る前のミーティング。
彼女たちプレイアデスの面々は第十階層に続く階段前にて今日のスケジュールの確認と申し送り事項の共有を行うのが毎日のルーティンだ。
一通りの確認が済み、ミーティングを終え、これから各自作業場所へ移動しようかという時、ルプスレギナが疑問を発した。
「ユリ姉、なんかあったっすか?」
「……何よ。何もないけど?」
ルプスレギナがスンスンとユリの匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。ユリ自身は無臭に近く、その上から彼女が愛用する香水の香りが仄かに香った。匂いで彼女が感じた違和感の正体は掴めない。
「えー? おっかしいっすねー」
「ユリ姉に視線の揺れを確認」
ルプスレギナが訝しげに首を捻っていると、シズが援護射撃を行った。
「やっぱり何か変っすよ。昨日の夜も部屋に戻らなかったし……」
ルプスレギナはユリとナーベラルと同室だ。ナーベラルは任務柄、たまに戻らないことはあるが、ユリはナザリックに帰ってきてから他に任務があったとも聞いてはいなかった。
妹の援護を受け、やはり何か可笑しいとルプスレギナは目を細め、責めるようにユリを見やる。
「そうかしら、よくわからないわ。昨夜に戻らなかったのは御方様の元にいると勝手に思っていたのだけど?」
「御方様の元に? そういえば、何か余裕のようなものも感じるわね」
「お腹いっぱいなのぉ?」
そんな三人のやり取りを目にしたナーベラル、ソリュシャン、エントマも興味を持ったのか、ユリへと観察するような視線を向けた。
そんな時──
「あっ、ユリ! どうだった? ちゃんと受け入れて貰えた? ……って、その顔を見る限り上手くいったみたいだね! 良かったじゃん!」
「ユリさん……僕たちとても心配してたんですよ。御方様にユリさんの気持ちが受け入れて貰えるか……でも、その様子なら大丈夫だったみたいですね! 本当におめでとうございますっ!」
「今度、皆でお祝いしよ!」
「うん! それ、いいと思う!」
「ふ、ふたりともやめてっ……」
第十階層に用事があったのか、アウラとマーレが通りかかる。彼女たちはユリの姿を見つけると近くに駆け寄りユリの顔色を伺うと祝福の言葉をかけた。
その言葉にユリは悲鳴を上げる。御方に思いを告げる前に、勇気を貰おうと彼女たちに連絡したのは間違いだったと後悔した。
「なになに? 受け入れて貰ったって何がっすか?」
「あらあら……」
「もしかしてっ……ユリ姉様!?」
「ユリ姉、すごい」
「???」
興味津々な様子で彼女の妹たちがユリに視線を向け、ルプスレギナが代表して問い質す。ユリは妹たちの興味を含む視線の強さにたじろぐ。
「なっ、何でもないわっ! 各自、移動を開始しなさいっ!」
しかし、腹に力を込めて視線に耐え、さっさと仕事場に移動しろと促すと、不満げな妹たちと驚くダークエルフの姉弟を置き去りにする勢いで自身も誰よりも早足で移動を開始する。
「ひゃあっ」
第九階層の廊下を早足で駆ける。注意力散漫となっていたユリが何か大きな物体に衝突し、尻もちをついた。
「大丈夫か?」
「ぁえっ!? おっ、御方さまっ、も、も、申しわけ──っ?」
かけられた声は聞き覚えのあるもの。声を聞いただけで、心臓が飛び出しそうになり、ユリは男の顔を見やった。
先程まで肌を重ねるほど近くにいたのに、数時間ぶりに男の顔を見た途端に胸を締め付ける恋しさと、先程までしていた痴態を思い出して目も合わせていられない程の羞恥を感じ──
ユリは目もくれず逃げ出した。
「お、おい──?」
「昨日の夜、一体何があったっすか、ユリ姉!? ユリ姉ぇぇー!」
逃げ出すユリの背後から続々とプレイアデスの面々やダークエルフの姉弟までもが駆けつけ、小さくない騒ぎになった事は間違いなかった。
□
「きぃぃ〜〜!! 羨ましすぎるわ、ユリ! 私だって……私だって、こんなにアインズ様にアピールしてるのに……」
泣き崩れる、羨ましさと失意で顔面崩壊したアルベド。
「御方様とユリの……産まれてくるのは、至高の不死人とデュラハンのサラブレッドとも言える御子……? こ、これは素晴らしいでありんす。うへ……うへへ……将来はわたしが優しく×××なことや、×××なことも教えて差し上げて……」
よろしくない妄想を繰り広げているのはシャルティア。
「フム、アインズ様。御方サマトノ御子ノ後見ハ、ゼヒワタシニ」
「コキュートス。それは欲張りというものだよ。君はアインズ様の御子の後見にも手を挙げていただろう? その役目は私が果たそう」
コキュートスがすかさず御子の世話役に立候補したが、デミウルゴスはそれに待ったをかけた。
「いいえ。デミウルゴス様はカルマが極悪ですので教育係には相応しくありません。ここは私が責任を持って引き受けましょう」
「セバス、君では世界のあるがままを教授することなど不可能だろう。世界の根幹にあるのは、欲望と悪意さ。御子を無知のまま育てるつもりかい?」
ともすれば、セバスがデミウルゴスに反対の意を唱え、自身こそが世話役に相応しいと訴えた。当然、デミウルゴスはその言葉に反発する。
「ウヲー! ジイト、ジイトオヨビクダサイ!」
「いいえ。御方様の御子とあれば、世界の暗闇への対処など自ずと学ぶことでしょう。デミウルゴス様の言う、欲望と悪意をわざわざ吹き込むべきではありません。それは御子の生来の資質を歪めるものです」
「うぅ……アインズさま……」
「偉大なる御方様の御子がたかが世界の悪意で歪められると? だいたい君はだね、竜の血のせいか少々、多淫すぎる。いいや、少々ではすまなかったね! そんな君が教育係になれるわけがないだろう!」
「ウヘヘヘ……ハッ……も、もしかして、この関係はオネショタという伝説の……?」
「これは異なことを。私は女性への心遣いを怠らないだけ。それに、もし男子ならば父親の背中を見て育つもの。女性との接し方は私が教授せずとも御方様より受け継がれるでしょう」
「はっ! 君がいう資質は全て御方様より受け継がれると。ならば君は何も御子に教授出来ていないじゃないか! それでは本末転倒というものだ。私ならば──」
「いいえ、私ならば──」
場が混沌とし、玉座の間に集まった各階層守護者たちが己の意見をぶつけ合い、ある者は妄想に浸り、またある者は羨ましさと失意で泣き濡れている。
「なにこれ」
「お姉ちゃん、御方様の御子、楽しみだね!」
「そ、そうだね」
ダークエルフの姉弟はそんな騒ぎの外におり、姉のアウラは同僚たちに呆れていたものの、弟のマーレは意に返さずマイペースに姉へと笑顔を見せた。
友人の残した子どもも同然の存在が、最近ナザリックに帰還したばかりの友人に寵愛を受けたとの噂。
守護者たちはその噂から未来へと想いを馳せ、益々賑やかになってゆく――その様はかつてのナザリックを彷彿とさせる光景でもある。
そんな子どもたちの騒ぎを仕方ないといった風に眺める。盛り上がる場には混ざらず、ナザリック地下大墳墓の苦労症の主は眉間を押さえ、溜め息を吐く仕草をした。
後で、友人を問い詰めることを心に決めて――
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22.蒼の薔薇編※1
1/10
これ本当は去年の年末に投稿する予定だったんだけど……まぁ、間に合わなかったよね……
時系列的にはゲヘナ終了後あたりからの話。話がなかなか進みません。
修正作業、きりが無いので投稿しちゃう。
王都──貴族街と平民街とを隔てる内壁にほど近く、平民街としては比較的治安の良い区域。ここには金を持った商人や文筆家、芸術など特定の分野での名士など、貴族ではないが社会的に信用を持った人物達が多く居を構えている。
「ねぇ、イビルアイ。前から思ってたんだけど、あなた最近少し様子がおかしくない?」
そんな場所で、金の豪奢な御髪を縦にロールさせた令嬢。緑色の瞳やピンクの唇は健康な色をしており、言うなれば生命の輝きとも呼べる魅力を感じさせる女性──ラキュースは彼女の同行者に向けて言い放った。
「はっ? 何もおかしなところなどないだろう」
そう答えたのは白い仮面を被り、フード付きの赤いローブで身を覆った小柄な人物であるイビルアイ。
彼女自身は優秀なマジックキャスターであり、王国を代表するアダマンタイト級冒険者《蒼の薔薇》のメンバーでもある。
そうでなければ、彼女の風貌は明らかな不審者ではあるが、王都でもある意味有名人である彼女を不審者として呼び止める者も居なかった。
「……さっきの冒険者に何かあるの?」
「!」
ラキュースが気になっていたことは一つ。ここ最近、彼女の仲間であるイビルアイの様子が可笑しくなることがあったからだ。
具体的にはイビルアイがとある冒険者を目にした場合、絡みに行くというくらいの行動なのだが……先程、件の冒険者に遭遇した際にも何時もの彼女とは少し異なる様子を彼女は見せていた。
普段から、周囲に対して一歩引くように過ごしている彼女が、特に交流のある知り合いというわけでもない件の冒険者を目にした時にだけ、わざわざ自分から絡みに行くというのは……彼女を知っている人物からすれば大きな驚きであり違和感であった。
──そして、その違和感はつい先程も。
イビルアイは件の冒険者を見つけると何処か嬉々とした足取りで躊躇うことなく近寄り、反面、やや苛立ち紛れの口調のまま冒険者に疚しいことがあるかの如く糾弾を始めたのだ。
「……」
ラキュースから先の糾弾の理由を問われたイビルアイは、しかし……向けられた視線から顔を背け口を噤む。仮面に隠れた彼女の素顔の感情は伺えない。
「うーん……私にはただの冒険者にしか見えなかったけど、イビルアイが気になる何かがあるということなのかしらね」
ラキュースが視線を投げる先は、冒険者がイビルアイからの糾弾を嫌がり立ち去った方角。
その冒険者の男はイビルアイからの難癖を鬱陶しそうに顔を顰め、さっさと退散していったのだが……追いかければ今ならまだ見つかるだろうか。
「少し調べる?」
と、ラキュースの内心の懸念に同じ場にいたティナが調査が必要か問いかけた。
彼女もまた青の薔薇の一員であり、同じくチームの一員であるティアとは双子で彼女とは瓜二つ。かつてはラキュースの命を狙っていた暗殺者でもあったのだが、今ではこうして行動を共にする良き仲間になっていた。
「は? おい、お前ら何を──」
「ええ、お願い。あんな事件があったばかりだから……不安の芽はどんなに小さくとも摘んでおくべきだと思うわ。念の為に、ね」
彼女の脳裏にあるのは先日あったばかりの災害とも呼べる大事件──王都への悪魔の襲撃。現在も悪魔に荒らされた街は復興作業中であり、流石にあんな大事件に繋がるような火種がそこらにあるはずが無いとも思いたがったが、ラキュースは調査が必要と判断した。
何しろ、永きを生きるイビルアイが何かを感じ取り、気にしているのは明白なのだ。それにどういった感情が含まれているのかも、何を気にしてのことなのかもラキュースには分からなかったが。
「待て! 本当にそんなんじゃ……」
何かを焦るかのように静止しようとするイビルアイ。そんな彼女の様子を気にすることもなく、ティナはラキュースからの指令を全うするために建物の影に消えてゆくのだった。
□
場所は変わって、貴族街に位置するアインドラ家本邸の一室──窓の外には蘇生魔法によって復活したガガーランとティアがリハビリのためか模擬戦を行っているようで、気合いの入った声とドゴンッ、という大槌で地面を叩く音が聞こえて来た。
仮面を外したイビルアイがチラリ、と窓の外から庭を覗けば、ガガーランの大槌が綺麗に手入れされ整えられていた芝生に突き刺さっていた。
それを目撃した彼女は呆れた風であったが、特に何を言うでもなかった。アインドラ家の庭師は泣いてもいい。
「それで? どうだった?」
屋敷の主の娘であるラキュースが口火を切り、ティナが調査結果を報告する。
「少し後を追いかけてみたけど、件の冒険者は王都から出ていくところだった。でかい背嚢を背負ってたから別の都市に移動するつもりだと思われる」
冒険者には拠点を定めて家を借りたりする者もいるが、根無し草も多く条件の良い仕事を求めて彼方此方を移動する者も少なくない。
「……そう。直接話を聞いて反応を見るのも悪くはないと思っていたのだけど……まぁ、それは今後必要があればにしましょう。他には何か分かった?」
ラキュースは接触は出来なかったという報告に少しだけ眉間に皺を寄せ、考えるような仕草をしたがティナに続きを促す。
「とりあえず何故あの場所にいたのか、何をしていたのかを調べた。あの冒険者はあのあたりにある屋敷の警護の依頼を受けていたみたい。実際に町の人間が、冒険者らしき人物が門番役をしてたのを目撃している。……ただ、少し不審な点がある。依頼は冒険者組合を通していなかったらしい」
「……組合を通しての依頼ではない……個人的な依頼ってことかしら。まったくおかしなことでもないけれど、そもそも屋敷の警護なんて冒険者に依頼することでもないしね。不審といわれれればそうかも。……その依頼元については?」
ティナの集めた情報では、件の冒険者があの場にいたのはとある屋敷警護の依頼のためのようだったという。しかし、気になる点があった。
──冒険者組合を通した依頼ではない。
それはつまり、帝国のワーカーのような個人依頼ということになる。では、不明の商人と冒険者との関係とは何なのか。ラキュースは訝しんだ。
「依頼主は他国の商人らしい。初めて聞く名前だった。警護していた屋敷にいたのは商売には関わりの薄そうな娘と、執事っぽいナイスミドル、娘の世話役と思われる侍従。屋敷の名義は娘だけど、実際の取引とか情報収集はナイスミドルがしていた。収集していた情報は魔法や魔道具関連、冒険者組合の依頼票……他にも食料品、武具、鉱物資源、多岐にわたる。ちなみに屋敷は悪魔の襲撃直前に売却契約がされてた。そして、売却の同時期に小麦を大量に買い付けてる」
「初めて聞く、他国の商人ね……その商人も素性が定かではないのが気になるわ。冒険者の素性は調べてある?」
確かに怪しい。特に最後に付け加えるようにもたらされた情報など、物資を賄う必要のある多数の人材が背後にありますと言っているようなものだ。仮に糧食ではなく、転売目的だとしても、買い付け価格がさほど安いものではないのに転売を目的にするなど利は薄い。もしくは今後、小麦の価格が高騰することを知っての行動ということも考えられた。
「冒険者の登録自体はエ・ランテル。ただ、登録する前の足跡までは不明。登録後はエ・ランテルで普通の冒険者として活動してたけど、一時期、竜王国まで遠征してたらしくエ・ランテルにはいなかった」
「なるほど……疑うなら帝国関連だけど……ならやっぱり、あの冒険者も不明の商人も、素性として可能性があるのは帝国の騎士団関係って線かしら。ただのワーカーの線もなくはないけど、帝国の皇帝がワーカーを捨て駒としてなら兎も角、そんな役につけるとも思えないし」
「確かに。皇帝は冒険者やワーカーを疎んでいる節がある」
「竜王国への遠征を理由に、帝国に戻っていた可能性もあるわね……リ・エスティリーゼを探っていた目的に関しては……もし帝国の手先だとするなら、大方、次の戦争についての情報収集でもしてたのでしょう。情報収集も一段落して王都から撤退する段階になって悪魔の襲撃が重なったと。ついでに戦争で食料価格が高騰することがわかっているなら、小麦を大量に買い付けたというのも理由として頷けるわ」
「可能性はある」
……とは言っても、冒険者など基本的に根無し草。何処まで調べても正確に冒険者の出身や背後関係を洗うことなど困難。
それに、暗黙的に禁止されており、発覚時には罰則があるとはいえ冒険者証を複数手に入れる方法がないわけでもない。エ・ランテルで登録した冒険者証が2つ目以降だとしたら、登録前の足取りが追えないのは当然のこと。
「今の王都が混乱しているのは当然バレているのでしょうね……」
冒険者証の複数所持の嫌疑から帝国からの密偵ではないのかと追求してみてもよいのだが、確定的な証拠もない。のらりくらりと躱されてしまえば、余計に警戒されて逃げられるのは目に見えている。故に他に材料が足りない現段階では問い詰めるのは時期尚早としか言えない。
かと言って、答えがあるかもしれない帝国や竜王国までわざわざ足を運んで調べなければならないほど、彼女達に時間的に余裕があるわけでも無いのだ。
「頭が痛いわ。イビルアイはどう思う?」
と、ラキュースが自身が立てた渾身の予測について意見を求めるも──
「……さあな。私は少なくとも帝国の間諜だと疑っていたわけではないが」
ラキュースの悩ましいとは言いつつも、推察に対する自信満々な表情を見て、イビルアイは呆れたように返したのだった。
そして、ティナが入手してきた情報はもう一つある。
「──それと、ボス。噂の聖者が最後に目撃されたのは、高級住宅街のあのすぐ近くらしい」
「え……それは本当なの!?」
黙ったままのイビルアイに、この話は終わりと判断したのか、そういえばとティナはたまたま手に入れることの出来た情報を伝えた。その情報にラキュースは喜びを表すかのように飛びつく。
聖者──それは先日の悪魔襲来の事件で活躍したと噂されている聖職者のことだ。
何故ラキュースが聖者の情報に飛びついたのか。ラキュースはあの日からずっと、その聖者の行方を探していたのだから。
「そう……そうだったのね、イビルアイ。もしかして、あなたも私が聖者様を探していると知って、怪しい人物がいないか気にかけていてくれてたんじゃ?」
「はぁ……知らん……どうしてそうなる。そもそも何だ。その聖者とやらは」
「あ、あら……なんだ、これも違ったのね……」
勘違いしていたと悟ったのかワタワタと手を振り、顔を赤らめた。
仕切り直すように、ラキュースは咳払いを一つ。
「聖者様──あの大事件で悪魔の大群を払った高位の神官戦士よ。漆黒のモモンに並ぶ戦果をあげて、存在が知られるようになった方」
「ふん……そんなのがあの時いたのか」
対してまるで知らなかった、まぁ興味もないが、というようにイビルアイは呟く。
「なら、あなたは本当に、あの冒険者の何を気にしてたというのよ?」
「…………」
「イビルアイ」
ラキュースからの不満を含む強い視線に、イビルアイはため息をつく。彼女達、青の薔薇のリーダーであるラキュースは、普段と異なるイビルアイの様子に、本心からを彼女を心配しているのだとイビルアイには分かっていたから。彼女もそこまでされては沈黙を破るしかなかった。
「ハァ…………わたしはただ、あの時の冒険者の男の顔を見ると妙に胸が騒ぐような気がしてしまってな。それだけだ、本当に気にするな」
「……恋」
「な!? ばっ、ばかな! ありえない! それなら私はモモン様の方がっ」
「へぇ?」
「冗談」
「くっ……お前ら……と、とにかく! お前たちが気にするようなことは何もない……私だって、あの顔を見るまでは昔のことなど忘れていたんだからな」
「昔?」
「やっぱり前に会ったことがあって、向こうが忘れてるとか?」
「恋などというものではないことは確かだからなっ! ……あの男の顔は、昔の私の先生と……気味が悪いくらいに瓜二つだったのでな……」
それはただの他人の空似では? と、互いに目を合わせた後に訝しげにイビルアイを見るラキュースとティナ。世の中には似ている人が3人はいるという話もあるし、誰かと見間違うことだってあるだろうに。
というか、単に顔が似ているだけで、どうしてそんなに過剰に反応するのかと不思議にさえ思った。いや、その冒険者の顔に、昔の消えかけの記憶が呼び覚まされるほどの衝撃があれば、その反応もまたあり得るのだろうか、と。
百年どころか、まだ二十年も生きていない若い娘には、イビルアイの複雑な感情に共感する事は出来なかった。
「はぁ……なら何かの事件の種火を懸念してるって訳じゃなかったのね」
「……そういうことだ」
心配して損したわ、と零し場の空気が弛緩した。
「──……あぁ、それにしても聖者様のお顔を拝見出来なかったのが心から悔やまれるわ……顔さえわかれば探すことも多少は楽になるのに」
弛緩した空気のままラキュースが愚痴のように零す。どうやらイビルアイの知らぬ間に、彼女はその聖者とやらに相当入れ込んでいたらしい。
「……なんだ、お前たちはその聖者とやらの顔を確認していないのか?」
「聖者は常にフードを目深に被ってた。確認はしてない」
「やはり聖者様と呼ばれるくらいなのだから、経験豊かなおじ様なのかしら? でも、声はそこまでお年を召しているようでもなかったし……」
一方、それを聞くイビルアイの胸のうちにはどうしても拭いきれない不安感のような、大切な何かを見落としているような、形容し難い予感が残った。
何かを思案したまま、無言になってしまったイビルアイ。そこで彼女たちの会話は一端途切れたのだったが。
「──そういえば、イビルアイの先生はあの冒険者に似た顔をしていたのよね……イビルアイの先生といえば……聖者様もイビルアイみたいに大地系のエレメンタリストに似た魔法を幾つも使っていたのよ。ねぇ、ティナ?」
「使ってた。結晶の魔法」
「…………なんだと?」
それはまるで到底信じられない事実を聞いたかのように。イビルアイは眉を吊り上げて聞き返した。
「結晶の魔法だと……? ありえん……お前たちが見たのは似ている何か他の魔法だったのではないか?」
「そうなのかしら? ……水晶騎士槍に結晶散弾……イビルアイの魔法によく似ていたと思うのだけど。あなたは見なかった? 王都の空から結晶が降り注ぐのを」
「なっ…………いや、私たちがヤルダバオトと対峙していた広場ではそんな結晶など降らなかった」
空から結晶が降り注いだという言葉に彼女は表情を険しくする。
「それに、水晶騎士槍に結晶散弾だと? 私と同じ魔法であることはありえない。私の結晶魔法は昔、先生が使ってた魔法を参考に、私が編み出したもの。それに私はこれまで、誰にも結晶魔法を伝授したことなどないのだからな」
イビルアイが強く否定する。その様子にラキュースは驚き、目を丸くする。
属性が限定されるエレメンタリストの中でも大地属性に特化し、さらに結晶に特化させた魔法詠唱者など、イビルアイは自分以外、これまで永く生きてきたが聞いたことも無かった。
元々エレメンタリストは希少であり、そこから更に属性を絞ろうとする存在など更に少ない。それに水晶騎士槍や結晶散弾などは手本はあれど、彼女が苦労して編み出した魔法だったのだから。気難しい彼女が、同じ水晶特化のエレメンタリストだからと技を伝授などする訳が無かった。
「そ、そう? ……まぁ、聖者様は火や雷とか大地系以外の魔法も得意としてたみたいだし、ならやっぱり何か他の似た魔法だったのかもしれないわね」
「火や雷の魔法……」
「結晶魔法にも種類があるってことなのかしら……でも、聖者様のお使いになっていた水晶騎士槍や結晶散弾に似た魔法は威力も発動速度も実践的だったし、使いどころも、それはもうお見事だったわ。思えばやっぱりイビルアイの結晶魔法とは少し違ったかもしれないけど、勝るとも劣らない完成度だったわよ。それに加えて高位の信仰系魔法だって修めていたんだから! 本当にすごかったんだから!」
「超強力。神官の癖に一流の魔法使いでもある」
そんな二人の言葉を聞いているのかいないのか、イビルアイは暫く思考が停止したかのように立ち尽くしていたが、今度はブツブツと独り言を呟きながら部屋の中を落ち着きなく歩き回り思考をまとめようとする。
「火と雷に、結晶、信仰系魔法まで……? 先生の得意だった属性ばかりだ……あの冒険者の顔が先生に似てるかと思えば、今度は聖者とやらがまさか……先生に似た魔法を……? もしや……先生の魔法の継承者がこの地にいたとでもいうのか……? なら、あの冒険者の正体は……あ、いや、だが、そんな偶然、現実にあるわけが……」
「結晶魔法の使い手が極々限られてるっていうのなら、むしろ聖者様はその先生の子孫の方か、その縁者とでも考えた方がしっくりくるわね。どうかしら? その可能性はあると私は思うのだけど」
「!?」
ブツブツと呟かれる独り言を聞いていたラキュースがテーブルに肘をつけ、したり顔で言った。
その言葉にイビルアイの動きが再び止まった。
「流石にイビルアイの動揺っぷりに草」
呆然とする彼女に対して、ティナがその言葉とは正反対に無表情で言う。
「ぇ、あぅ……だ、だが! 先生は……先生は出会った時からゴーストだったんだぞっ……! そんな先生に子孫がいたなんてっ」
「……それどうツッコんだらいいの?」
イビルアイの口から出たのは、思わず失笑を誘うような荒唐無稽としか言えない言葉だった。
「……まぁ、一端落ち着きましょうか。イビルアイの話が本当なら、生前に子どもがいたってことなんでしょ」
「ぇ……だ、だが、そんなこと先生は一度だって……」
言ってなかったはずだ、と小さく呟く。
「重症」
「イビルアイは昔のこと、あまり教えてくれないから興味があるわ。その先生のこと、ぜひ聞かせて欲しいのだけど」
「それは…………いや……わかった。だが、お前もその聖者とやらが悪魔と戦っていた時に使った魔法が、どんなものだったか詳しく聞かせろ。……それが話す条件だ」
イビルアイの中では過去の先生と、悪魔達の襲撃の際に活躍したという聖者、先の妙に胸を騒がせる冒険者の顔が全て重なるように想像された。
そんなことを彼女が想像していることに感づいたのか──
「ええ、いいわ。……まぁ、あなたが恐らく懸念しているように、さっきの帝国の紐付きらしき冒険者が、あの聖者様と同一人物とは私はどうしても思えないのだけど。……それじゃあ、イビルアイの昔話は長くなるでしょうから、話は私からね」
ラキュースの言葉にはどこか棘が含まれているように感じたのか、イビルアイは訝し気に片眉を吊り上げて彼女を見る。
つまりは、ラキュースは彼女が想像している内容には否定的なようで、彼女の中の聖者の像はもっと崇高で、神聖なものなのかもしれない。それでは確かに、帝国の紐付き疑惑のある冒険者とは結びつかないだろう。
「イビルアイの昔話なんて、そうそう聞けるものじゃないもの。後でたっぷり聞かせてもらいましょうか」
そうして、イタズラっぽく笑ったラキュースはあの日のことを思い出すように語りだした──
人間達の雄叫びが響いている。
日が落ち、闇が世界を支配したリ・エスティリーゼ市街地。その市街地を囲むように高い炎の壁が立ち上がっており、それはまるで弱者や臆病な者の立ち入りを拒むかのように存在していた。闇夜を照らす炎は不吉な明かりを放ち、見るもの全てに不安や怖れといったネガティブな感情を抱かせる。
「ハ、アアァァァッー!!」
「忍法 爆炎陣」
夜色の大剣が星が瞬くような軌跡を描いて悪魔を両断し、印を組んで放たれた火遁の術が炎の奔流とともに雑魚を一掃した。
夜色の大剣を振るうのはラキュース。ニンジャのクラススキルを操っていたのは同じく青の薔薇のメンバーであるティナ。
彼女達は平民が多くを占める兵士達や有志の冒険者達とともに炎の壁の向こう側に侵入、王都を襲撃した悪魔に対して抵抗していた。
──同日、元々青の薔薇は王国の裏組織である八本指の拠点を同時多発的に襲撃することで、裏組織の活動に致命的なダメージを与える作戦を決行する予定にあった。
思えば、作戦自体はただそれだけで、表面的には大きな騒動にはならずに事が済むはずだったのだ。
……しかし、このように悪魔の集団が王都を襲撃されるような絶望的な事態に発展してしまったのは、その八本指らが自らでは取り扱えないような危険な代物まで収集し、王国内に持ち込んでいたことが原因にあると、王女であるラナーや魔神王ヤルダバオトに遭遇したイビルアイ達は知っていた。
ヤルダバオトが回収しようとしているアイテム──それが八本指が収集していた魔道具らしい。ヤルダバオトが王都に炎の壁を作り出すことになり、数多の悪魔を呼び出して、この地獄を生み出した破滅の呼び笛であると。
それら魔道具を切っ掛けとして起こった悪魔の襲撃──突如として王都に発生した炎の壁は人を焼くことも、内部への人の侵入を遮ることもなかった。だがしかし、現実として内部から炎の壁を越えて出て来る者は市街地の人口に対して多くはない。
炎の壁が出現してからそれ程時もたっていない現在、壁の内側にある市街地にはまだまだ多くの人が取り残されているはずであり、呼び出された悪魔による脅威に曝されたままになっていると炎の壁の外側では予測されていた。
そんな取り残された人々を救い出す為に、また炎の壁や悪魔の襲来という事態を治める為、アダマンタイト級冒険者、蒼の薔薇のメンバー達は勇壮な冒険者達、王国戦士長に鍛えられた兵士や衛士の精鋭達を率いて炎の壁の向こう側へと挑むことになったのだ。
当初、蒼の薔薇のリーダーであるラキュースなどは、この出来事が物語にありがちな『主人公』が『英雄』への階梯を登るための『試練』になぞらえるように捉え、またそれを自身に当てはめる様を想像し不謹慎ながら奇妙な興奮と緊張感さえ覚えていたほどだ。
他の冒険者達や兵士達も、多かれ少なかれまだ見ぬ敵に対して絶対に打ち勝つのだと自信を漲らせ、人々を救い出すと奮起していた。
ラキュースは皆で力を合わせれば何とかなる。例え強大な力を持つというヤルダバオトが現れたとしても、此方には既に一度退けた実績のある漆黒の英雄モモンがいるのだと。他の冒険者や兵士、衛士の者達も彼らアダマンタイト級冒険者達に着いていけば大丈夫、との甘い気持ちが何処かにあった。
そして、最悪、ラキュースさえ生き残っていれば復帰する芽はある、と皆どこかで楽観視さえしていた。
それはリ・エスティーゼが周辺諸国に囲まれた、肥沃な大地を擁する恵まれた国であり、これまで外敵と呼べる者が少なく、絶望を知らない。危機感がこれまで感じられなかったがゆえの国民全体が持つ心理であったのかもしれない。
──そうして彼女達が意気軒昂として炎の壁の向こうに侵入した、その先の光景は。
そこには人の心を容易く抉る暴虐や理不尽な蹂躙で満ちており、彼女達の考えの甘さを露呈させ、慢心をいとも容易く打ち砕いた。
地獄において、物語の中のような輝かしい勇者など存在せず、また、現実はそれが彼女達自身ではないことを容赦なく突きつける。
それに気づけなかった者から、生へと執着できなかった者から早々と死んでゆく。そこは必死に足掻く者だけが生きながらえることができる場所だったのだ。
□
大隊規模の戦力を結集させ、悪魔の攻勢に対して迎撃する。逃げ遅れた民衆を救出するためにラキュースとティナが炎の壁を越えた時には……そこには既に見慣れたはずの町並みはなかった。
炎の壁の付近には悪魔──下等の魔鬼が徘徊している程度であり、人影もほぼなく静か過ぎる程だったが、中心部に近づくにつれて悪魔が襲撃した当初に起きた混乱の残滓が垣間見えた。
そこには苛烈に人が追い立てられ、場が暴力によって支配された跡がある。まるで人が獲物となり、狩りが行われたかのような──悪魔の狩猟場だった。
そして今も──何処かに隠れていた家族がいたのか、隠れていた者達がとうとう悪魔達に見つけられ何処かへと連れて行こうとされているのを彼女たちは目撃した。女は悪魔に髪を掴まれて引きずられ、伴侶を助けようとした男は反抗の意思を折るかの如く嬲られる。
それを見ていた子どもが怯え、パニックを起こして火がついたように泣き喚くと、悪魔が嗜虐的な笑みで蹴飛ばしていた。
──見知ったはずの街が、現実のものとは思えない知らない街に変貌していた。昨日までは人の喧騒が耳に痛いくらいに賑やかであったのに。街のそこかしこで人の日常が営まれていたのに。こんな狂気や不安が渦巻くような場所ではなかったのに。
煉瓦が積まれ、漆喰で整えられていた家々は大穴が空いて、内部の梁を曝け出している。
所々、赤く見えるのは血だろうか。まるで大量の絵の具をぶちまけたかのように、べったりと真新しい血溜まりの痕がいくつもあった。
街の至るところで火事が起きているらしく、人間の悲鳴と怒号が籠もった叫び声が響く。もしかしたら最前線にいるチームのどれかが既に悪魔と戦闘状態にでもなっているのかもしれない。
街に充満するように漂っている臭いには木材だけでは無い何かが燃えた異臭や、悪魔が放つ硫黄にも似た腐敗臭が含まれており、生理的な不快感を齎した。
現に、悪魔には火と闇の属性の魔法や種族スキルを用いる者が多く、この戦場で見かけた地獄の猟犬や上位地獄の猟犬などは実際に口から火を吹く。彼らが火事の原因と思われた。
そんな不安や恐怖をかきたてられる地獄では、召喚された悪魔たちがどうやら町の住民を王都ではない場所へと連れ去っていくようだ。まるで、我ら悪魔を招いた対価だとばかりに、税を徴収するか如く何処へともしれない場所へと。連れ去られた人は……その先には何が待っているのだろうか。ただ、ろくな場所ではないことは想像にかたくない。
そんな現実を直視してしまえば、先を急ぎたいという焦りや、どうしてこんなことになってしまったんだという衛士や冒険者達の絶望する気持ちがラキュースにもよくわかった。
まして、彼ら自身の生まれ育った場所でもある平民街や下町がその騒動の中心であるならば、平常心でいるなど不可能だろう。
「ぅ、ぐっ……! あなたたち、無理して突出しないようにっ……!」
「す、すまねぇっ」
「大丈夫……炎の壁の中心部には少しずつだけど確かに近づいているわ。防衛ラインを維持しつつ、焦らずにいきましょう!」
焦りから突出していた衛士の一人を狙っていたのか、ラキュースが地獄の猟犬からの攻撃を庇うと共に素早く切り捨てる。それに衛士が謝意を示した。
彼女達、蒼の薔薇や冒険者たちの役割は、衛士や神殿、魔術師組合などで構成された後方支援部隊を防衛ラインとして、複数のチームを組んで敵本陣である炎の壁の中心に向かって突撃を繰り返し、道中の悪魔を駆逐することで前線を押し上げることにある。
一方、防衛ラインでは最前線を攻める冒険者のチームが撤退したことで前線から引っ張って来た悪魔の迎撃も兼ねており、冒険者達が回復し再出撃するまでの間、彼らの代わりに悪魔と戦い、防衛ラインを維持する役割が求められていた。
「ボス。この先、悪魔の群れは暫くいない。他のチームに引き付けられているのかもしれない」
先行して、この先にある通りの様子を探ってきたティナが何処からともなく現れる。
ティナが偵察によって得た情報によれば幸運なことにこの先、街の中心部に向かってラインを押し進めるにあたって大規模な悪魔の集団は暫くいないらしい。
今は一刻も早く悪魔が探し求めているという魔道具を確保し、事態を悪化させないよう、これ以上悪魔が暴れ回る事を防がなければならなかった。今の彼女達が最優先しなければならないのは事態の終息と言う事になる。
こんな地獄を私達は誰も望んではいない。こんな光景をそのままにしていてはいけない。昨日までの人の営みを取り戻さなければならないのだから──
「聞いた!? 細心の注意を払いながら、中心部に向かうわよ! 道中、救助できる者は可能な限り救出していく! 退路は常に確保するように気をつけて!」
「おう!」
「行くわよ!」
そして優先度は最上ではないが、彼女達は取り残された住民がいれば出来る限り救出する任務も果たしていかなければならないのだ。
これまで炎の壁に比較的近い区域では悪魔から隠れていた救助者もそれなりの数がいたのだが、しかし、中心部に近づくにつれて明らかに救助者の数は少なくなっている。
その事実を彼女達は確かに感じていたものの、誰も口に出すことはしなかった。
それは、ここが正に地獄に近しい場所だということを皆が理解していたから。
この場にいる誰もが、内心では不安を抱えている。中には知り合いや友人、恋人、両親、伴侶や子どもが巻き込まれた者もいたはずだ。助け出したい、無事でいて欲しいという思いを途切れさせるような言動はできなかった。
ただでさえ、自身の身の安全など皆無に等しいのに。大切な存在を救い出そうとこんな場所にいるのに、もう駄目かもしれない、手遅れかもしれないという気持ちを認識してしまえば、もう戦えなくなってしまう。
もしもそうなれば──周囲の足を引っ張るだけの存在に成り果て、自身が悪魔の餌食になるのならまだしも、周囲の緊張まで緩ませてしまえば作戦の成功の確率さえ下がってしまうのだから。
□
炎の壁の内側に侵入し、街路を進んでゆく。
中心部に向かって侵攻している冒険者組には後方支援を主とする本隊が支援しているチームが複数いる。そのどの冒険者組の侵攻のルートも街の中心部にある広場──炎の壁の中心地に続いている。
ラキュース達も犠牲者を何人か出しながらも、侵攻チームとして平民街にある迷路のような細い小道から尖兵の悪魔を駆逐しつつ、戦闘の前線を押し進めてきた。
そうして、とうとう広場に続く大通りにまで防衛ラインを押し上げる事が出来たのだが、その先には大小様々な形をした強力な悪魔の一団──魂食の悪魔や朱眼の悪魔、極小悪魔の群集体、地獄の猟犬に上位地獄の猟犬などがひしめき合い、侵入者が足を踏み入れてくるのを待ち構えていた。
「くっ……中心に近づくにつれて、悪魔が強くなってきてる」
それは明らかにこれ迄の散発的な戦闘とは異なる、大規模なものとなることが予測された。
その一団の奥の奥、禍々しい黒い角の生えた牛頭の頭蓋の頭部に、大柄で隆々とした肉体には高位の存在を思わせる黒翼の、巨大な斧槍を持った悪魔がいた。
他の悪魔とは明らかに雰囲気も放っている威圧感も段違いであり、一団を指揮していると思われる高位の悪魔がラキュース達の動きを見据えていた。
「ここを通らなければ中心部に辿り着くのに時間が掛かり過ぎるというのに」
周回して中心部に着くことのできるルートが無い訳ではない。しかし、それには曲がりくねった小道を経由しなければならないし、道中にどんな危険が待ち構えているのかもわからない。
本隊を含めた大集団で小道を通過するなど、奇襲に遭遇した場合の被害が大きくなりすぎて任務の失敗に直結しかねない。
「ボス、焦って進むのは危険」
「分かってるっ…………王国軍が作戦に参加していてくれてたら強行できたのに……!」
本来であれば自国が敵襲にあっているのだから将官や騎士がこの場の指揮をとっているはずなのだが、そのような存在はこの場にはいない。皆、悪魔の脅威に恐れを成して逃げ出したのだ。
そして、戦士長やそれに付随する兵団も王や王族の警護の任があるため、おいそれと戦場で指揮することは叶わない。
この場にいるのは平民の冒険者や魔術師、神殿関係者や末端の兵たちだけ。国の上層部たる貴族は足元で起きている大事件に気づかないフリをして、無関係を装ったまま。自身の地位が揺らいでいるのにも関わらず、自らの保身に走り、人の上に立つ責務を果たそうという気概もない──この国の上層部の多くはどうしようもなく腐敗していた。
せめて、蒼の薔薇のメンバーが全員この場に揃っていたらという考えが、ラキュースにはどうしても頭から抜けることはなかったが、それはもうどうしようもないことだ。
皆、作戦を支えるために駆り出されている。最大の戦力であるイビルアイは敵の首魁ヤルダバオトの撃退に当たっている漆黒のモモンの補佐、ガガーランとティアに関しては先日のヤルダバオト戦で死亡してから蘇生したばかりで、力の多くを失ったままだ。彼女たちが前線での戦闘に参加することはできず、後方支援チームの護衛や防衛ラインを前進させるための指揮に回っていた。
作戦を支えるためとはいえ、現状、蒼の薔薇としての戦力は半減とも言えないほどに分散されていたのだ。蒼の薔薇のメンバー全員が作戦中に集結することはないだろう。
「ラキュース殿! 本隊から国王様や戦士長の兵団が作戦に参入されたという情報があったようだ!」
重要な情報の共有のため、本体から遣わされた伝令があった。これは戦力がまるで足りていない人間側にとって朗報ともなる情報だった。
「本当っ!? ……っ、だけど、兵団が前線にまで出張ってくるには、まだ時間がかかるわね」
「ならば、ここは私の出番という訳かな?」
突如として聞こえてきたのは低い男性の声だった。
ラキュース達が声のした方向に振り向くと、建物の屋根から黒に金縁があしらわれた全身鎧を身に纏った偉丈夫、ラキュース達と同じアダマンタイト級冒険者である漆黒のモモンが美姫ナーベを伴い飛び降りてくる所であった。
「モモンさん!!」
ラキュースが軽く見上げるほどの高身長、全身鎧を身に纏い、その身長ほどもある大剣を片腕に一本ずつ装備し振るうという人間離れした怪力の持ち主こそが、現在、最も新しい英雄と目される漆黒のモモンであった。
ラキュース自身はその活躍を直接目にしたことはなく、ヤルダバオトと戦い、その雄姿を実際に目撃したというイビルアイを疑っているわけではないが、どうにも話に聞くその強さが現実離れしすぎていて、素直に尊敬の目を向けることがラキュースには出来ないでいた。
だがしかし、その強さが本物であるというのであれば、これほど心強い味方など他にはいないだろう。
それに加えて、美姫ナーベは接近戦をこなしながらも第三位階までの魔法を操ることのできる天才的な魔法詠唱者と聞いている。しかも、彼女の操る魔法は他の魔術師が放つ同位階の魔法と比べると威力が高いという話も聞いていた。味方として不足はないだろう。
「お困りのようだな。ルートを塞いでいるのはあの集団か」
「……」
モモンがラキュースに対して鷹揚に話しかけてきたのに対して、ナーベは周囲を警戒しているのか、視線を鋭くしてラキュース達を睨みつけた。
冒険者組合で聞いた話では、美姫ナーベは大の男嫌いで、お淑やかな見た目に反してナンパしただけの男を叩きのめしたり、ラキュースが発したこともないような言葉で罵倒する過激なところがあるらしい。
まぁ、それすらも冒険者達に人気が出る理由になってしまうのだから、美人というのは得なものだ。ナーベとしては、男に言い寄られて面倒なだけなのだろうが。
「あの塞がれている大通りの先に、目標の広場があります。おそらく、そこに悪魔たちの本隊もいるはず」
「──それに、あいつらを排除して通りを私たちで占拠できれば、最前線に近い場所に本隊の拠点を置くことが出来るな」
「イビルアイ!」
彼らに同行していたイビルアイもまた、ラキュース達の側に降り立つ。
この地獄ともいえる戦場の最中で、蒼の薔薇の仲間に出会えたことに彼女は僅かな間、その再会と彼女の無事を喜んだ。
「ふむ、そうですか……ヤルダバオトは近い、と。……ならば、私が鋒矢の先端となって、あの集団を切り裂き、大通りを制圧する助けとなろう」
「それはとても助かります……!」
「……ただし。ラキュース殿もわかっているとは思うが、私の目標は魔皇ヤルダバオトだ。ここで最後まで共に戦うことは出来ない。申し訳ないが、私たちは先を急がせてもらう」
「っ、勿論、わかっています。ここの制圧は私たちで何とかしましょう。モモンさんたちは先へお願いします」
時は悪魔たちが襲撃してから、それなりの時間が過ぎている。未だ悪魔たちが王都を去っていないということは、まだ目的のアイテムが見つかっていない可能性もあるが、それを期待して待っていては被害を更に増やすだけだろう。
ここには自らの力で事態の収束を図るために来ているのだ。彼女たちは悪魔の襲撃に恐れを成して城に引きこもっている貴族たちとは違う。嵐が去るのを待ち、自分に都合のよい未来が訪れることを期待しているのでは、自らの意思を貫くことなどできないままだ。
「では、ゆくぞ。私に続けっ!!」
勇ましい声とともに、漆黒の鎧が駆けてゆく。
あとに続くのは、美姫ナーベに青の薔薇のメンバーであるラキュースにイビルアイ、ティナ。そして、ラキュースとともに悪魔を駆逐してきた冒険者の面々。
「はあっ!!」
モモンが先ほど口にしたように自らが鋒矢の先端となって敵陣へと吶喊する。振るわれる大剣はいとも容易く悪魔たちを切り裂いてゆき、イビルアイが目撃したという英雄としての姿がそこにはあった。
それに続くようにしてモモンの相棒であるナーベが第三位階の魔法である《ライトニング/雷撃》を放ち、複数の悪魔を貫く。貫かれた悪魔は身体から煙を立ち昇らせ、その場に倒れこむ。
「ラキュース! この場は任せたぞ!」
「ええっ! あなたも気を付けて!」
《マキシマイズマジック/魔法最強化》
《シャードバックショット/結晶散弾》
イビルアイが置き土産とばかりに威力が最大まで引き上げられた水晶の散弾を打ち出し、広範囲にまき散らした。打ち出された拳ほどの大きさの水晶の散弾は悪魔を強かに痛打し、時にその身を抉った。
そして──
モモン達三人、人間側の切り札とも呼べる三人は振り返ることもなく悪魔の集団を抜けてゆく。悪魔たちが彼らの跡を追わせないようにするのは、ラキュース達、残った者たちの役目だった。
「っ、《不動金縛りの術》!」
ティナが忍術を用いて、モモン達を追おうとしていた悪魔たちの動きを止め──
「はあああぁぁぁぁぁ!! 《ダークブレードメガインパクト/暗黒刃超弩級衝撃波》!!」
その隙にラキュースが魔剣キリネイラムから衝撃波を放ち、不意を打つことに成功。モモン達をヤルダバオトが待ち構えるだろう中心部に送り出たのだった。
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23.蒼の薔薇編※2
漆黒のモモン達が先陣をきって悪魔の群れに飛び込み、その先に待つであろう魔皇ヤルダバオトの元へと急ぐ。
そんな中、ラキュース達は残存していた悪魔の集団との戦闘が続いていた。
先程の吶喊ではモモンの人外とも呼べる膂力やナーベやイビルアイの魔法もあり、悪魔の一団を相手取るのに戦力としては申し分の無いものがあった。
だが、その3人を先に悪魔の首魁の元へと向かわせるためとは言え、切り札3人が一気に戦闘から抜けてしまうと、やはり苦戦は免れない。
それどころか、モモン達が切り拓いたはずの道は小道や集団後方から新しく涌いて出てきた悪魔たちによって瞬く間に埋められてゆく。
それはまるで、ヤルダバオトの元には先の3人以外、誰も通してはならないという命令でも働いているかのようであった。どうやら悪魔側もこの場所を簡単に明け渡すことはしたくないらしい。
しかし、人間側も黙って涙を呑むばかりではない。この場所は広場に続く一本道でもある。目的地に至る最短のルートであるが故に、他の冒険者チームも付近の悪魔を駆逐し終えるとラキュースの元へと合流を果たしていた。
「膠着状態ね。この状態を打破したいわ。頼める? ティナ」
「了解」
現状は合流した冒険者組が大通りに陣取る悪魔の集団に対して突破を図ろうとしており、乱戦、膠着状態。
ラキュースとティナもまた、現状を打破するために攻めに加勢していたが、ラキュースが一計を図り、一時的に冒険者たちを後退させた。冒険者たちが後退したこともあり、悪魔たちの隙は塞がり、せっかく開けた活路は完全に埋まってしまったかのように思えたが──
「──ただのマジックアイテムだけど、こんな使い方もある《巨大焙烙の術》」
ティナが陶器に火薬を詰めた焙烙玉を敵陣に向かって投げ──印を組むと投げた焙烙玉が二段、三段と倍々に巨大化してゆく。火のついた導火線が焙烙玉の内部にまで至ると凄まじい爆発が悪魔陣営を飲み込んだ。
この一撃が再び突破口になる、と思われた。
爆風から目を守るために腕を翳す。剣や槍、弓を携えた冒険者たちが悪魔の集団に対して、再び攻勢を仕掛けようと各々の武器を構え直した。
爆風により舞い上がっていた土埃が晴れ、その陣容が明らかとなる。
先ほどまで切り結んでいた、雑魚ともいえる悪魔──下等の魔鬼や地獄の猟犬はそのほとんどが排除され、今度は皮膚を全部剥ぎ取られ、代わりにヌルヌルとした黒い液体を付着させた人間のような外見をした朱眼の悪魔や、カエルと人間を混ぜ合わせたような外見の魂食の悪魔が前面に出ていた。
両者とも先ほどまで相手にしていた悪魔とは比べるべくもない威圧感があり、冒険者の面々は迫る緊迫感に息を呑んだ。
朱眼の悪魔の見た目の生理的な忌避感、嫌悪感もさることながら、魂食の悪魔にも内側から人間の顔を押し付けたような苦痛の表情をした顔が浮かんでおり、不気味さを醸し出している。それらは人や生き物の本能に訴えかけるような危うさを認識させる。
「みんな、呑まれないで! 《ライオンズハート/獅子のごとき心》!」
ラキュースの支援魔法により、恐怖や不安に竦んでいた冒険者たちの心が再び沸き上がる。
「うおぉぉぉぉ!」
冒険者が勇気を奮い立たせて、朱眼の悪魔と魂食の悪魔に挑んでゆく。
幸いと言えるかは不明だが、悪魔の数は先ほどよりも少なかった。数の利は人間側にあり、悪魔一体に対して、複数の冒険者がつけば確実にダメージを与えてゆくことが出来るだろう。
自身も悪魔と戦いながらも、戦場を俯瞰しようとラキュースが周囲を伺う。
冒険者の一人が魂食の悪魔の体表に浮かぶ人面の一つに剣を突き入れる。するとその人面は絶叫し、周囲へと甲高い声を響かせて消滅した。
だが──魂食の悪魔が剣を突き入れたまま硬直している冒険者を赤い目で見やり、そのまま大口を開けて丸呑みにする。悪魔のその身に不気味な人面が一つ、数を取り戻した。
「ひぃっ」
その周囲では、絶叫を間近で耳にした者は立っていることなど出来ないと、崩れ落ちて震えながら頭を抱えていた。絶叫にはどうやら生者の精神を萎縮させ悶絶させる効果があるようで、竦む人物は最早戦うことなど出来なさそうに見えた。
向こう側では──中心部から流れてきたのか大型の犬を思わせる上位地獄の猟犬が猛然と駆け寄り、後衛の位置にいた冒険者に襲い掛かる。
鋭い牙により、容易く冒険者の腕は貫かれ、食いちぎられた。それを目撃した仲間が駆け寄り、すぐに助けようとしたが、上位地獄の猟犬の口から漏れ出た炎の吐息が冒険者を飲み込み、人体を焼き焦がす。間に合うことなく、火達磨になって苦悶する様を目前で見てしまい、助けられなかった仲間の男は歯を堅く食いしばった。
一瞬だけ影が差し、更なる敵の増援を予期したラキュースが空を見上げれば──そこには三メートル程の体高で、爬虫類の鱗に包まれた筋骨隆々の肉体に蛇のような長い尻尾、蝙蝠のような翼、山羊の骸骨の頭部には、ぽっかりと空いた黒い眼窩の中で青白い炎を猛り狂わせた悪魔が巨大な大金槌を頭上に掲げ振り下ろそうとしていた。
間もなく、その鉄槌が下され──大きな衝撃波とともに粉塵が舞い上がり、ラキュースを毬のように吹き飛ばした。
「──げほっ……げほっ」
咳き込む彼女が見た光景は、共にこの地獄を戦い抜いてきた同じ冒険者の戦友達が地に伏し、腹を鋭い鈎爪で貫かれ、苦悶の表情のまま息絶える姿。長い舌に絡めとられ、悲鳴を上げるも生きたまま丸のみにされる者の姿。飢えた獣に群がれ生き餌となった者の姿。嵐のごとき巨大な大金槌の乱舞、その嵐に接触してしまい体を抉られ、回避行動を取れないままに硬直、再び暴虐の嵐に直撃。弾け、ただの肉塊となった者の姿──
こんなものは戦闘ではない。
これはもはや虐殺ではないか。
人とはこんなにも弱い存在だったのか。
私たちは何のために命を懸け、文字通りすり潰してでも成し遂げなければならなかったのか。堅い意志があったはずだ。
だが、その意味でさえ、理不尽に過ぎる暴虐の前には無意味に映ってしまう。ちっぽけに映ってしまう、と。
人間は他種族に淘汰される運命にある、矮小な存在に過ぎないのかと、その光景を目にしたラキュースの胸に焦燥という名の靄がかかる。
多人数で1体を相手取っているはずなのに、全く太刀打ち出来ていない。戦闘の意気は挫かれ、このままでは戦線が崩壊するだけだ。
「どうして、こんな……私たちはっ……!」
「ボスっ、一度撤退して、戦力を固めた方がいい。これを相手にするのは私達だけでは無理だ!」
普段から冷静沈着なティナが焦ったようにラキュースの側に駆け寄り、冷徹に戦況を見極め退却を勧める。その言葉は、少なくともここを突破するには王国最強とも呼ばれる王国戦士長ガゼフの手が必要であると。言葉に出さずともラキュースには伝わった。
「でも、一度後退したらっ……イビルアイたちが最前線に取り残されてしまうわ! それに、いくら戦力を集めてもあれを迎撃なんて……」
──本当に出来ると思っているの?
だったら、このままいい様に嬲られるままに全滅を待つというのか。それとも、イビルアイ達を見捨てることも視野に入れて、一度撤退してでも戦力を集めなおし、総力を挙げて突破を図るか。
いったいどうしたらいいのか……
早急な判断が必要だった。
──はたと、表情を暗くして判断に思い悩むラキュースが何かの変化に気づく。ティナも周囲の違和感を落ち着きなく探っている。
先ほどから少しだけ周囲が明るくなっているように感じたのだ。
なぜ明るくなったのかと周囲を見回し、その原因に気づいたのだろう冒険者の一人が戦闘中にもかかわらずポカン、と空を見上げていたのを目にした。それにつられてラキュースも普段太陽を見上げるように空を仰ぐと──何もなかったはずの黒い空には明るく光る星があった。
その星は太陽や月よりも地表に近い王都の上空の位置に浮遊しているようで、照らすという観点で言えば、おおよそ王都全域を範囲にいれることのできる高度にあった。
突然出現したその星を見ていたのは人間側ばかりではなかったようだ。
悪魔側もその星を見ては、困惑したり、より上位の存在に判断を仰ぐような仕草をしているように見受けられた。どうやら、星は悪魔側の仕業ではないらしい。
──そして、星から剥がれるように分かたれた一部が地表へと落下、その間にもいくつもの破片となって降り注いでゆく。
降り注ぐ破片は彗星のように幾筋もの白い光の弾道を描く。それらは人間を害することはなく、落ちる対象を定められているかのように悪魔へとのみ落ち、悪魔たちを容赦なく貫いた。
悪魔を貫いた星の破片は鋭利な断面をしており、光を反射していた。それらが地面に当たると更に細かく砕け、細かい破片となって散らばる。
「これは……結晶? イビルアイの魔法なの……?」
「違う……ボス、アレ」
ティアが指差す先には杖を掲げたボロボロのローブを羽織った何者かの姿。フードを目深にかぶっており、顔を伺うことは出来ない。ラキュースにもその姿に見覚えはなく、先ほどまでの戦闘中にはなかったものだ。
周囲が降り注ぐ結晶の雨に呆然としている中、その流星雨は悪魔の集団をどんどん減らしてゆき、朱眼の悪魔、魂食の悪魔、そして鱗の悪魔までもが狂乱の中、体中を降り注ぐ鋭利な結晶によって貫かれて地に伏す。
残っているのは、明らかに格上と思われた黒い翼を持った高位の悪魔のみとなるが──
「助力、感謝します。先ほどの魔法は貴方が……? いえ、今はそんなことよりも……あの残った悪魔は明らかに格上です。協力してなんとか撃退しなければ……」
ラキュースは先ほどの魔法が不明の人物によるものなのかを確かめようとして、すぐに今はその時ではないと思いいたった。
事態は、恐らく目前の人物の魔法により好転した。ラキュースは心の中に生まれた絶望を拭い去り、この好機を逃すまいとした。
その為には、この人物の協力が必要不可欠だ。
対する不明の人物はその言葉にフードの中で眉を顰めた。
「下がっていろ。その勇敢さは認めるが、小娘にあの悪魔の相手は荷が重いだろ」
「こ、小娘ぇ?!」
「私達は蒼の薔薇」
「……そうか。どけ」
低い声の様子から、どうやらその人物は男であるようで、然程年を食っているような声質でもないように思われた。
それよりも折角の協力要請を一顧だにせず断られた事のほうが彼女たちにとっては重要で、挙句、小娘呼ばわりと来た。
協力しなければあの悪魔の排除は困難であるのに、それを拒む。それに冒険者のトップを自負している彼女たちとしては、小娘扱いされて侮られるのも部隊を指揮しなければならない立場上で困る事だ。
確かに、直前の戦闘においては不甲斐ない結果となり、犠牲者も何人も出ることとなった。その窮地を目の前の人物が苦戦していた悪魔の集団を一掃し、助けられたのだとしても……作戦の要となっているのは彼女達であることに変わりない。
一方の男はというと……蒼の薔薇──はて、どこかで聞いたような……と一瞬だけ思案するような様子を傍目見せたものの、すぐにどうでもよくなったのか追いすがる二人の娘の言葉を切り捨てた。
「ちょ、ちょっと! あなたこの状況がわかってるの!? あの悪魔を協力して排除しないと……ねぇ、私の話聞いてる!?」
結局、男は彼女達がいつだったか冒険者組合で見かけたアダマンタイト級冒険者であると気がつくことはなかった。もし男がそれを後々指摘されていれば、だって五人組じゃなかったし……とでも雑に答えていただろうか。
確かにそこらの冒険者よりも動きは良かったが……100レベルのプレイヤーに見慣れた男からすれば、アダマンタイト級もミスリル級もどれも大差無く、似たようなものだったから。アダマンタイト級冒険者が実際にどれ程のものか、関心を持てないでいたのは仕方ない事だろう。
男は姦しい声を無視し、杖を黒翼の悪魔へと向ける。
その杖を向けられた悪魔は、泰然自若としており、怯む様子など見られない。むしろ何をしてくるのか、と此方の行動を待っているようにも見えた。
「アビスデーモンか……」
男がそう呼んだ悪魔はアビスデーモンという存在らしい。確かに深淵という言葉が相応しい威圧感を発している。その実力こそ未だ伺えてはいないが、警戒することは当然だった。しかし、男が呟くように口にした言葉を耳にしたラキュースに疑問が浮かぶ。
──どうしてあの悪魔のことを知っているのだろう。まるで、以前にも相対したことがあるかのような言葉だ。
《クリスタルソウルスピアー/ソウルの結晶槍》
男が小さく円を描くようにして杖を振ると、空中に現れた結晶隗が鋭いランスの形を取って浮遊し、待機状態となる。
《スワーリングソウルマス/渦巻くソウルの塊》
結晶塊の槍をそのままに、再度、青白い光の宿った杖を振るう。すると、杖の先端から青白い光が塊となって放たれ──大きな渦を巻くように回転、光の帯を引きながら悪魔へと迫ってゆく。
その魔法は、道の幅を埋め尽くすほどの広範囲に渡り、悪魔の回避行動を制限した。
このままでは不可避と、悪魔が黒翼を羽ばたかせ範囲外となる空中へと逃げようとするが……男が悪魔に向けて小さく指を振ると、浮遊していた結晶塊の槍が高速で打ち出された。
それは羽ばたかずとも鳥が滑空するように軽やかに。しかし、鋭く、敵対する存在の中心を貫くことを目的として生成された結晶槍の魔法には追尾性能まであるらしく、結晶槍を警戒し、羽ばたきながら大きく後退したアビスデーモンの後を追い縋る。
その追尾を嫌ったのかアビスデーモンが手に持つ斧槍を側面から叩きつけると、結晶塊は小さな破片までに粉砕したが、飛び散ったいくつかの鋭い破片がアビスデーモンを傷つけたらしい──その筋骨隆々とした肉体には赤い線が幾筋も走っていた。
それでも追撃の手は止まない──
《ホーミングクリスタルソウルマス/追尾するソウルの結晶塊》
このまま逃がすことはしないとばかりに、男の背後に円状に現れた幾つもの結晶塊が弾丸の如き速度で次々と打ち出されては、絶え間なく彼の背後に生み出され続けている。見る人が見れば、それはまるでガトリングのように思えたかもしれない。
さしもの高位悪魔も絶え間なく放たれる高速の弾丸には近づくことなど出来ず、飛び回りつつ、回避に専念しなければならなかったようだ。
「すごい……」
「水晶騎士槍に……結晶の雨……イビルアイの魔法に似てる、けど」
「えぇ……もしかしたら、イビルアイの魔法よりも強力かもしれないわ」
小さく眉間に皺を寄せた。
その魔法の威力は驚嘆に値するもの。明らかに尋常の悪魔とは思えないアビスデーモンという存在に対して、男の魔法はその効果を発揮した。仮に、イビルアイの水晶騎士槍をぶつけていたらどうだっただろうか。イビルアイには悪いが、ラキュースには通用している場面を想像することができなかったのに。
「本当に、いったい何者……?」
「……ボス。今は拠点の制圧を優先すべき」
「……そうね。私達は彼の邪魔にならないように回り込みましょう」
男の謎めいた魔法など今は関係がない。驚きの連続で忘れていたが、今は作戦の只中。達成すべきは王都からの悪魔の排除、そのためにはあの悪魔を倒し、新たに拠点を占拠しなくてはならないのだ。
□
その後、男の猛攻に形勢の不利を悟ったのか、悪魔は一つの策を取った。
戦場を移そうとしたのか、大きな黒翼を活かして暗い空高くへと躍り出たのだ。男もそれに続こうとフライの魔法で後を追おうとしたが、そこでラキュースから待ったがかかる。彼女としては今、稀少な戦力が離脱し、みすみす分断されてしまうのは避けたかったのだ。
そして──男が後を追ってこないことを察すると、アビスデーモンはあっさりと拠点の防衛を投げた。
あっさりと彼女達に拠点を明け渡したのは、彼女としても釈然としないものがあったが、そのお陰で重要な場所を人間側が押さえることが出来たのも事実。これで、仮にイビルアイたちが撤退する事態になったとしても、完全に孤立することは防ぐことが出来たとラキュースは一つ安堵した。
しかし、あの黒翼の悪魔が再び拠点を奪い返そうと襲撃してくる事態も考えられる。そのためにも、拠点の再構築を急ぎ、最前線に位置する防衛ラインを万全なものとしなければならないのだったが──
「よぉ、ラキュース、ティナ。生きてたか?」
「ガガーラン!」
「青い忍者もいる」
「ティアも無事でよかった」
新たな拠点となる場所には、防衛ラインを敷くための戦力が到着していた。
新たな戦力とは、冒険者たちを支援する役割を担った本隊──後方支援部隊の面々。ガガーランとティアもまた、後方支援として配置されていたメンバーだった。
「しっかし、順調じゃねぇの。イビルアイたちはヤルダバオトの元に送り込めたし、最前線に近い拠点を得たことで悪魔どもを駆逐する冒険者たちの支援も容易になるしよ」
「……ここを制圧するのに、犠牲は大きかったけどね」
「多少の犠牲もなくこんな穴だらけの作戦、真っ当に成功できっかよ。むしろ、オメーらはよくやったさ」
決して順調などではなかった。現に先程までは失敗することしか見えない未来を悲観して、絶望感がラキュースの心に広がりかけていたのだから。
苦い顔でラキュースは反論を試みるも、ガガーランは良くやってると言い、平気な顔をして王女ラナーの立案した作戦を批判する。どうやら彼女は、配置された後方支援部隊が名ばかりのもので、本質的には有事の際に悪魔が王都中に拡散しないようにするための餌としての役目にあることがわかっていたらしい。
「……で、こんな無茶な作戦押し通しちまったラキュースに聞きたいんだけどよ。ありゃ、何モンだ?」
ガガーランが鋭い目で指さす先には、多くの冒険者たちの中心として周囲に囲まれながらも、どこか浮いているボロボロのローブ姿の男。
ガガーランが気にしたのは、その男が作戦説明の場にも、マジックキャスターであるというのに後方支援の部隊で見かけることもなかったことを気にしてのものだったのか。
それとも、空高くから降り注いで悪魔を一掃してみせた強力な結晶の魔法や、悪魔の迎撃に協力している目的が何なのかが気になったのか。
当の本人は有志の協力者を名乗ってはいても、周囲に容貌は頑として見せることはないし、名を名乗ることも無いようだ。丈夫さとはかけ離れたボロボロなローブをこんな場で態々身に着けているくらいだ。変人であることには違いあるまいが、奇異にも、怪しくも映っている。
「さあ? ……でも彼がいなければ、この拠点を制圧することは出来なかったわ。それに顔を見せないのも何か理由があるのよ、きっと」
「しっかしなぁ。どう見ても怪しくねぇか、ありゃ」
「裏のある匂いがプンプンする。暗殺者……忍者の勘は馬鹿にできない」
「確かに見た目は怪しいと思うけど……」
ラキュースは反論する事も出来ずに口籠る。
「外見だけの話じゃねぇさ。出自もはっきりしちゃいねぇ。後方支援の奴等に聞いてみても、だーれも知らねぇんだとよ。衛士は勿論、神殿関係も、魔術師組合も、錬金組合もだ。……あんなタマ、いったい何処から現れやがった?」
「……それは……」
確かに、あの人物の出自はラキュースも気にはなっていた。あの人物は蒼の薔薇の自分のことも知らないようだったから。
ラキュースは王国では知らぬ者はいない貴族、アインドラ家の令嬢であり、蒼の薔薇は最も有名な冒険者チームの一つでもある。
他のチームのメンバーも一癖も二癖もあるような者ばかりで奇異の視線が向けられることもあれば、彼女達の冒険や活躍は広く知れ渡っていることから尊敬と憧れの対象にもなっているのだ。
それを知らない、という事は明らかにリ・エスティーゼに慣れた人間ではない事を意味していた。
「ついでに目的もな。俺ぁ、思ったんだが、もしかしてよぉ……情報が漏れて、アレが狙われてんじゃねーか? 仮に、エ・ランテルであったズラ何たらみてぇな危険な組織が狙ってっとしたら……」
「ガガーラン、ズーラーノーン」
「……」
ガガーランの懸念は当然のことだ。この場にはある意味、選ばれた人員しか正式には動員されてはいない。それは、高位の冒険者、街を警邏する衛士、魔術師組合の魔法詠唱者、錬金組合の薬師ぐらいだということだ。
ただ、有志の協力者も皆無では無い。炎の壁に続く道は完全に封鎖されている訳ではなく、何処からでも入れるようにはなっているのだが、明確な目的もなしに危険な領域に足を踏み入れる者などいまい。
そう、例えば家族や恋人が今回の襲撃に巻き込まれて、救助を目的としている者など。
……しかし、男にはそんな焦燥の念も、誰かを探すような素振りも見られない。必死さもなく、ただ淡々と悪魔を処理しているように見えた。それを目敏く見抜いたガガーランはアレ──悪魔を召喚するアイテムが目的なのではないかと勘ぐる。
「……な〜んてな、流石に穿ち過ぎだ。オレとしちゃ、怪しかろうが、目的が何だろうが、悪魔どもをやっつけんの手伝ってくれんなら、何でもいいんだけどよ。……ただ、蒼の薔薇のリーダーとして、前線を預かる指揮官としては気にかけておいてくれや」
そう言って、ガガーランとティアはラキュースの肩を軽く叩くと後方支援の部隊の方に戻って行ったのだった。
「ボス、どうする?」
「……ティナは一緒に来た冒険者達から話を聞いて貰える?」
「了解」
ラキュースの指令を受け、ティナがシュパッと消える。
この先の戦いでも、あの男が戦力の中核となる線は濃厚である。黒翼の悪魔が再び拠点を襲撃してこないとも限らず、戦力から遠ざけるなど出来るはずが無い。怪しい人物であるからと、今、敬遠する余裕はどこにも無いのだ。
それならば──やはり確かめておくべきだろう、とラキュースもその場から移動したのだった。
「少し、話をいいかしら」
男達が数人、宙に浮かぶ不思議な魔法の火を囲んでいる。その中には件の男もいるが、男の他にも顔を隠している者が数人おり怪しいことこの上ない。そんな集団に向けて、ラキュースは声をかけた。
男達の顔が一斉に同じ方向に向けられ、ラキュースはジロリと見られた。
「……へぇ、冒険者のお嬢さん。俺らに何か用で?」
「用があるのはそちらの魔法詠唱者さんよ」
ラキュースはローブ姿の男に声をかけたつもりだったのだが、返事をしたのはスキンヘッドの面長の男だった。面長の男もまた不思議な火を囲んでいたが、ラキュースが話し掛けたと言うのに矢鱈と態度の悪い座り方──所謂、ヤンキー座りを改めることもないでいた。
「……なんだ」
「旦那。相手は有名な冒険者で、しかも本物のお貴族様らしいって他の奴等から聞いたぜ。もちっと愛想ってもんを出した方がいいんじゃねぇのか」
やはり顔も見せないまま、ボロボロのローブの男は無愛想に応えたが、面長の男はそれをニヤニヤと揶揄った。
「……あなた、少し黙っていて貰えるかしら?」
「おっと」
面長の男はあまりラキュースが好ましく思わないタイプの人間のようで、彼女は冷たく言い放つと、それから視線すら合わせなかった。
「まずは、さっきはありがとう。お陰で重要な拠点を手に入れることが出来たわ」
拠点を得ることが出来たのは男の魔法による助力があったからというのが大きい。まずは、その成果について彼女は感謝の念を述べる。
「──でも、あなたには忠告しに来たの。知らなかったのかもしれないけど、王国の命でここの指揮をとっているのは私」
しかし、感謝の言葉の次に出たのは不穏なもの。
「あなたは先程、私の指示を無視して敵に攻撃を仕掛け、更には追い掛けて戦線を離脱しようとしたわね。それでは指揮下にある皆の足並みが揃わないし、混乱してしまうの。この場では命を左右する重大なことよ」
ラキュースの視線は鋭い。厳しく男の行動が集団での規律を乱すものであることを指摘し、それが皆の命を危険に晒す可能性があったという。
「幾ら腕に自信があると言っても、今後、ここでは私の指揮下に入って貰う。それが出来ないなら、ここから先、戦闘には参加しないで」
指揮を乱す存在であるならば、そもそもがいない方がマシだ。いちいち反発して、命令に逆らわれては作戦を遂行する事もできない。
──ただし、その言葉は建前であり、ラキュースの望む結果ではない。彼女の望む結果とは、優秀な戦力となる彼を自身の指揮下に収めること。
だからこそ、初めに格付けを行った。感謝から始まり、間違いを指摘。自身の指揮下につく正当性を説く。この場で私の指示に従うことは正しいことだと。指示に逆らうことは正当性に欠くのだと。
「……」
「不満かしら? でも、道理よ。……正直に言って、あなたは怪しすぎる。私はあなたが何処の誰なのか、ここにいる目的も知らない。実は他国の人間で、危険な人物かもしれない。人を助けるフリをして、唐突に混乱に巻き込む狂人なのかもしれない。そんな人物を重要な作戦に組み込むのは本当は反対なのよ。それとも──あなたは聞けば答えてくれるのかしら」
しかし、男は何も言わない。
もしもこの場で指揮下につくことを拒むのであれば、それは人品に疑いがあるか、従う訳には行かない目的があるかではないかと暗に問いかける。
ただ、ラキュースはもし仮にそうだとしても男の魔法という戦力が今だけは欲しかった。それだけ悪魔の相手をするのが厳しくなって来ているということだ。
だから先に疑われていることを匂わせて、男の出自や目的を聞き出したかったのだ。
相手が疑われていることに驚き、焦ることで出自と目的を吐けば万々歳。言えず、疚しい事があるようであれば、その目的を抑え込んだ上で駒として動かせるようにしなければならない。
「……」
男はまたしても沈黙。あまりの無反応にラキュースもだんだんと苛立ってくる。
つまりは、男はラキュースに明かせない目的を持っている可能性が高い。もしかしたら、ガガーランが言っていたように、悪魔が回収しようとしているアイテムの情報が漏れていた可能性もあるのかもしれない。
「……何も言わないのはどうしてかしら? 私をまだ小娘だと思って甘く見てるなら認識を改めるべきよ。これでもアダマンタイト級冒険者なの、死線を潜り抜けたことも一度や二度ではないわ。……素性や目的が話せないのなら黙って私の指揮下に入ると了承して。そしたら、余計な詮索はこれ以上しないようにしてあげる」
先程よりも強い口調で言い放つ。何か反応してくれなければ、状況は悪くなるばかりだろう。
もしやまだ舐められているのかと、私が上で、あなたは下であると告げる。そして、もしもの場合の逃げ道もちゃんと用意した。
「…………いいだろう」
「……そう、賢明な判断ね。あなたには悪いけど、また黒翼の悪魔が襲撃してきた際に相手をして貰うわ。勿論、出来る限り支援はするけど、先程みたいにまた私を小娘扱いしたり、指示を聞かなかったりしたら此方にも考えがある。戦場で混乱を招いた賊として、捕らえられたくはないでしょう?」
ラキュースは強い眼差しで命令した。そして、この怪しい人物をすり潰しても問題ない戦力に位置づけ、最も危険な役割に充てた。その上で命令無視は許さないと脅迫を持って念を押したのだ。
──首筋の裏がチリリ、とざわめく。ラキュースにはその感覚に覚えがある。それは殺気。それも、リ・エスティーゼでも、そうそういない強者からのもの。
焦りとともにバッと、殺気の行方を探れば、それは集団内にいた顔を隠した複数の冒険者らしき者達からだった。ある者は荒布でグルグルに顔を覆い、またある者はロビンフッドハットに似た鉄兜と黒革製の高い襟のベストで顔を隠している。他にも異国の頭巾を被っている者や黒いフードとマスクをした者などもいた。
彼らは冒険者証こそ付けているものの、皆階級はバラバラで同一のパーティにしては一貫性がない。そして、冒険者組合で見たことのある者が一人もおらず、明らかに王都所属の冒険者では無かった。
──何者なの、彼らは……
不安が過る。彼らからは、顔こそ見えないが確かにドス黒い感情の籠もった視線を確かに感じていた。
「──まぁまぁ、そんなイキんなって。生きてさえいりゃ、いつだってノーカウントってもんだろ? あんたがあまりに若々しいから旦那もついついそう言っちまったってだけさ」
そこへ、ヘラヘラと薄っぺらい笑いを含んだ面長の男の言葉が挿し込まれた。小娘に小娘と言って何が悪いんだか──そんな嫌味が聞こえてくるような仲裁の言葉だ。
ふと、周囲からの殺気が弱まり、ラキュースは訝しむ。
「……あなたは?」
ラキュースは目を細めて、相手を観察する。そういえば、この人物も怪しいのだ、と。
「俺か? 俺はパッチ。鉄板のパッチでも、信頼できるパッチとでも好きに呼んでくれていいぜ。俺は不屈のパッチってのが気に入ってんだけどよ」
「……信頼できるね……そう、分かったからもういいわ」
その名乗りに彼女は理解した。こいつは詐欺師に近い悪党なのだろうと。何が『信頼できる』だ。明らかに皮肉でしかないではないか。
「ウヒャヒャヒャヒャッ! ────なぁ、ところでよ、あんた聖職者か?」
ラキュースの反応は、下品な哄笑で返された。
そして、スン……と急に真顔になると、ガラス玉のような目をして問いかけた。
「……ええ、私は水神の神官でもあるけど。それがいったい何──」
「あ゛あァ? ……チッ……なんだ、ド腐れ尼かよ……俺は聖職者ってのが蛆虫よりも嫌いなんだ。お前ら、表じゃいい顔してても、どうせ裏じゃ悪どく儲けてるんだろ?」
「は?」
訝しげにするラキュースが返答しきる前に、低い威圧感のある声が漏れ、大きな舌打ちが聞こえる。その後に怒涛の勢いで小馬鹿にした口調で罵詈雑言が並べたてられる。
突然の罵倒に呆気に取られ、口が半開きとなった。というか、こんな下品な罵倒を受けたのは彼女は生まれて初めてだった。お転婆娘やら、じゃじゃ馬とはよく言われたものだが、まさかのド腐れ尼に蛆虫以下扱いである。
「……彼女は貴族なのだろう。貴族相手にそういう言葉は良くないのではないのか」
「ケッ……」
ラキュースが何を言われたのか理解出来ず呆然としている内に、ようやくローブの男がまともに口を開いた。
「ハァ……貴女も、小娘という言葉が感に触ったのなら謝ろう。すまなかったな…………さぁ、用事が済んだのなら、指揮官がこんな所で時間を潰している訳にはいかないだろう。貴女には他にすべきことが幾つもあるはずだ」
呆れたような、疲れたようなため息を一つ。それに続く、男の予想外にまともな言葉にラキュースの脳裏に嫌な予感が走る。
──あ、あら? もしかして私……対応を間違えたのかしら……
表情が伺えないため如何とも言えないが、正体不明の男は傍目には冷静なように見えたが、その隣のパッチは未だに侮蔑の表情をこれでもかと顕にしていた。
周囲の男たちも表向き何も言わなかったが、苛立ちや不信感を隠そうとはせずラキュースに向ける視線も険しい。
「オイオイ……善人ぶった上っ面に騙されんなよ。損をすんのはあんただぜ。聖職者ってのはどいつもこいつも皆そうだ……クソの癖にしぶといからよ。卑怯者共が……生きてて恥ずかしくないのかよ。死に腐りやがれ」
昏い目だ。もしかしたら、パッチは過去に聖職者と何かあったのかもしれない。それこそ、聖職者全てを憎んでしまうような出来事が……
ただ、もしもローブの彼がただの善意の協力者であり、何も反論しなかったことに真当な理由があるのだとしたら、ラキュースが並べ立てた言葉は卑怯者と取られても可笑しくない事だ。
何しろ、ラキュースは最も危険な配置を脅迫でもって押しつけたのと同義であるのだから。
「落ち着け」
「相手は心の狭い売女だぜ? アンタが庇うこたねぇ。神がどうしたか知らねえが、祈りで幸せになったら、誰も苦労しねぇよ」
そう言ってローブ姿の男は、ラキュースがパッチの視線から遮られるように間に立ち、後ろ手でパタパタと数回振った。
それは早く行けという合図に他ならなかった。
「もう……なんなのよ……」
「リーダー」
頭の可笑しいハゲから逃れ、もと来た場所へ戻るとそこには既にティナが待っていた。
「ティナ……それで、何か分かった?」
「一緒にここまで来た冒険者たちもやはり素性は知らなかった。だけど、興味深い話を聞けた」
ラキュースが疲れたように、収集した情報の開示を促す。ティナはその様子に何かあったのかと訝しんでいたものの、彼女の興味深い話という言葉にラキュースが片眉を吊り上げたことで、一旦、違和感を流した。
「ここに来る途中までもう一人、修道女がいたらしい。だけど、仮面の悪魔の一体が待ち構えていて交戦状態に。その修道女は一人でその場に残ったみたい」
「一人で仮面の悪魔の相手を!?」
声を上げて驚く。同じ蒼の薔薇の仲間の話では、仮面の悪魔は非常に強力な存在だと聞いていたから。ガガーランとティア、イビルアイが交戦したが、イビルアイが参戦するまではアダマンタイト級冒険者二人がかりでも苦戦していたと。
「……冒険者によれば修道女は悪魔の威圧にも動じることなく、舌戦ではむしろ優勢だったって。直接のぶつかり合いは見てないらしいけど、双方初対面の様子では無かったと何人かの冒険者が話してる」
「……彼らは以前に仮面の悪魔に遭遇していた……?」
ティナは無言で頷いた。そして続ける。
「多くの冒険者が、何処かの神殿の聖職者だと思ってる。修道女もあのフード男の事を『先生』『尊き御方』って呼んでたって。それと冒険者本人達も何処で聞いたか覚えてないようだけど、修道女が『生命刈り』で、男が『尊き火の伝承者』とか呼ばれてるって」
──そして修道女が別れる際には、人を救って欲しいと請い願ったとか。
修道女が先生や尊き御方と呼ぶ──それはつまり、あのボロボロな如何にもなローブを身に着けた男が、どこかの神殿関係者だということに他ならない。それも二つ名が囁かれるような高名な聖職者である可能性が高い。
そして、ラキュース達のことをアダマンタイト級冒険者だと知らなかったのは、彼がリ・エスティーゼの聖職者ではなく、二つ名が届かぬほど遠方の他国の出身だったから──もしかしたら聖王国あたりから来たのかもしれないとラキュースは思った。
「何よ、あなたこそ聖職者なんじゃないの……」
ラキュースはパッチから散々に罵られたというのに、男は自身が聖職者である事を明かしていなかったということに気付き、憮然とした。そしてその腹芸の出来に、確かに神殿関係者らしいわ、とも納得した。
「……リーダー。あと、気をつけるべきことがある。集団内にいた顔を隠した冒険者からは死臭がした。上手く隠してたみたいだけど、忍者は誤魔化せない」
「ゾンビとかのアンデッドだと言うの?」
「……わからない。でも、ゾンビにはあんな普通の人間のように思考して動く事は出来ない」
「はぁー……」
わからない事ばかりだ。男の目的も出自も結局は予測に過ぎない。ラキュースは自身の失策を悟った。
遠方では名のあるかもしれない人物にあんな失礼な物言いをしてしまったことに、大きなため息をついた。誤解していたと謝りにも行きたいが、男の近くにはパッチがいる。ラキュースが近づけば、また罵りが始まり、謝罪どころではなくなるだろう。
それに、ティナの言っていた事も気になる。
──今は諦めるしかないわね……
悪魔の襲撃を警戒している今、パッチを宥め、誤解を解き、更に事情を聞くために説得するのに割ける時間など彼女達には無かったのだから──
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24.蒼の薔薇編※3
──そして、予期していた事態は訪れた。
悪魔の襲撃。黒翼の悪魔を将として、兵となる悪魔の大集団を引き連れ、悠々と行進してきている。
対して、冒険者の集団も迎撃しようと各々が己の信頼する武器を手に、警戒を密にしていた。
その集団の前方にいるのは件のローブの男に、槍と大盾を携えたパッチ、男と同じように顔を隠した冒険者が数名。
加えて、激しい戦闘を望む勇敢な冒険者達や新たに衛士達も前衛、アタッカーのポジションに配置されていた。
それよりも後方──中衛と呼べるポジションでは、ラキュースが全体の指揮を取っており、弓やボウガンなどの遠距離攻撃が可能なレンジャー、支援や攻撃が可能な魔法詠唱者が多く配置されている。
彼らには前衛の支援、回復、攻撃とオールラウンドな働きが求められ、悪魔を拠点前にて迎撃する攻撃の要にもなっている。
作戦はこうだ──前衛陣は損害を抑えるために遅滞戦闘に努め、その後、一斉に後退。ラキュースの指示のもと中衛陣から魔法や弓等遠距離から斉射することで殲滅……
そして、最後方に位置する後衛はほとんどが後方支援の部隊員で、回復薬の補給や怪我人の治療が中心の仕事となる。
その中には彼らを護衛するための人員である衛士も含まれており、蒼の薔薇の一員であるガガーランやティアが非戦闘員である彼らを守り、指揮する役目を担っていた。
それが人間側の布陣──その場では、軽口一つ叩く者が居らず、緊張が色濃く広がっていたのだが……
「なぁ、旦那。俺に一つ考えがあんだけどよ──ここは一つ、あのクソ尼にはアンタの名を上げる礎になって貰おうぜ」
「……」
「なぁに、俺にとっても悪い話じゃねぇ。人死が増えりゃ仕入れも捗るってもんだし、これで旦那がパッチの老舗をご贔屓にしてくれるってんならよ。ウヒャヒャヒャヒャッ!」
迫る悪魔達を眼前にして、緊張感の薄いパッチが何事かを男に囁き、ニヤリとした。
それを聞かされた男の表情はフードの影になって伺う事が出来ないのだが、どことなく引いている雰囲気がした。男も男で止めない辺り、何を考えているかは不明だったが。
《ワイデンマジック/魔法効果範囲拡大化》
《セイクリッドオウス/固い誓い》
《リプレニシュメント/生命湧き》
《ティアーズオブディナイアル/惜別の涙》
──聖鈴の音が響き渡る。
幾つもの白く輝く魔法陣が展開、拡大、光の粒への昇華を繰り返す。悪魔が此方へとたどり着く前に、ローブの男は信仰系魔法に属する『奇跡』を行使した。
魔法の効果範囲の拡大に、攻撃力とカット率を高めるバフ、継続的な回復効果のあるリジェネ、最後にHPがゼロになった時、一度だけ踏みとどまる食いしばり効果を付与するもの。
『おぉ……すげぇ……』
『力が漲る……!』
体に纏う光が傷を癒やしてゆき、体の芯から熱い物が湧き出てくるのを感じた。前衛のアタッカー達の口からは、感嘆の言葉が漏れ出る。
「また私の知らない魔法だわ……」
「それにボス、今のは信仰系魔法に見えた」
男からしたら最低限のバフではあったが、神官であるラキュースから見れば後方からの支援魔法をそれ以上必要としない十分過ぎる効果を持っているように見えた。しかし、魔法の位階もわからない、王都付近では聞いたこともない魔法名ばかりで男の異質さを際立たせてもいる。
まして、ティナが指摘したように、先程まで使っていた結晶の魔法は杖を媒介とする魔力系魔法であったのに対し、今し方使った魔法は聖職者の持つ聖鈴を触媒とする信仰系魔法。つまりは、男は信仰系魔法と魔力系魔法の二系統を操っていると言う事だ。
「いったいどんな修練を積んだら二系統をあのレベルで操れるというのかしら……」
勿論、王都でも両方使える者はいる──が、しかし、それは位階が低い場合に限っての話。
なぜならば、信仰系魔法には信仰の強度が、魔力系魔法には理力の純度が重要となり、それぞれの魔法では求められる資質も修練も異なる。どちらか一方を選択して究めるのが通常であり、常識であったから。
ラキュースはそれを目の当たりにして、男がやはりとんでも無い人物であったと、少なくとも尋常ではない修練を積んできていることを推察し、少し胃が痛くなった。
──もしかしたら、帝国の主席宮廷魔術師にも比肩しうる逸脱者なのかも、と。
……とはいえ、前衛の冒険者達は細かいことを気にしない者が多いのか、その事をわかっていないのか……自身に力が漲ってきているのを実感すると興奮するばかりで、力強い眼差しで迫りくる悪魔を気焔を上げて待ち構えていた。
とはいえ、ラキュース自身もそんな事は何時までも気にしてはいられない。そして──
「支援するわ! まずは、数の多い低位の悪魔の排除を!」
《アシッドアロー/酸の矢》
《ライトニングスピアー/雷槍》
《ウォータースプラッシュ/水の飛沫》
《チャージ・オブ・スタラグマイト/石筍の突撃》
中衛に位置する魔法詠唱者たちが唱える魔法が幾つも放たれ、弓矢が飛ぶ。それはさながら射的ゲーム。怒涛の勢いで次々と打ち出される魔法により、悪魔がバタバタと倒れ伏すのが遠くから見えた。
──だが、それも長くは続かない。魔法詠唱者たちが作戦のために魔力の温存に入ったのか、魔法攻撃の波は次第に治まってゆく。
「よし……では、お前達──《行け》」
それに続いて、中衛の位置に着いたラキュースの方を男がチラリと伺い、周囲にいる冒険者達に声をかけた。男に付き従って来た者達や血気盛んな冒険者達はどれも皆、勇ましい。各々が双剣を、大剣を、斧を、短剣を構え、突撃の瞬間を今か今かと待っていた。
──そして、抗い難い男の命を聞くと皆、バフが乗ったかのように風のごとく駆け出し、追撃を食らわせる。
双剣が乱舞し、鎌鼬のように敵を切り刻む。振りかぶられた大剣が悪魔を縦に一刀両断すれば、斧が容赦なく頭蓋をかち割り、短剣が背後から心臓を抉った。
先程、悪魔相手に苦戦していたのが嘘のようだ。
または……
ガンガン! とパッチが槍で腕に構えた大盾を叩き──ヘイトを自身に集中させるスキルでも持っていたのか、黒翼の悪魔が率いていた悪魔の集団の多くを引きつける。
「ウヒッ……ヒッ、ハハハハ! そうだ、ついてこい!」
そのまま、大盾で攻撃を凌ぎながら仲間にヘイトが向かないように立ち回る──かと思われたのだが、ある程度悪魔を引きつけたパッチはさも悪魔から逃げ出したかのように無様に、戦闘中の男たちを避けながら後方に向けて走り出した。
当然、引きつけられた悪魔たちもその後を追う。
──その先には、前衛を支援しつつ、後方へと敵を流さないように陣を敷いていたラキュース達がいる。
「イヒッ! ちぃと、助けてくれよぉ!」
「ちょっ、ちょっと、あなた何を?!」
パッチが如何にも小物といった風に振る舞い、追いかけてくる悪魔から彼女たちに助けを求めた。
「──ヒヒッ、ざまぁねぇな、欲深女め……後方でのんびり見物とはいかせねぇぜ……」
パッチが聞かれないように、そう小声で罵る。
勿論、ラキュースとしては決して楽をしようという気持ちがあって中衛の位置にいた訳ではないのだが、どうやらパッチにはそうは映らなかったらしい。
意図的に敵が流されてきたことで、ラキュースの陣が一気に騒がしくなった。
それは男の知る知識では、モンスタートレインとも呼ばれる犯罪行為。ユグドラシルではモンスタートレインを利用して、PKをすることもあったが……現実で実行を画策する輩がいて男は内心引いていたのだった。
そしてパッチは魔法詠唱者やレンジャーの集団に紛れ込み……無事に自身に集められたヘイトを切った。
──じゃあ、せいぜい悪魔と仲良くな! さよーならー
──ウヒャヒャヒャヒャヒャ!
そんな笑い声が遠くで聞こえると段々と小さくなり、パッチはその場から離れて行ったようだ。
「あ、あの、犯罪者っ……! この騒動が終わったら絶対に牢屋行きにしてやるんだからっ……!」
「……ボス、何やらかしたの?」
「向こうが一方的に私を目の敵にしてるのよ!」
対して、ラキュースはコメカミの血管がブチ切れそうになる程に激怒しており、今すぐに追い掛けて、そのムカつく顔に拳をお見舞いしてやりたかったが……
連れてこられた悪魔が接近戦に弱い魔法詠唱者たちに襲いかかっていること、ラキュースが移動することで更に隊列が乱れてしまう事もあり、追いかけることは現状では不可能だった。
□
冒険者達が悪魔と切り結ぶ最中、男は戦場を俯瞰し、不利な戦闘を援護した。
苦戦している冒険者がいれば青白い光の矢を、傷つき動きの悪くなった者がいれば回復効果のある光の玉を放つ。フレンドリーファイアすら厭わない悪魔が範囲魔法を放とうとすれば、逆に火球を放って周囲の悪魔ごと纏めて焼き払ってやった。
パッチが多くの悪魔をラキュースに擦り付けたこともあり中衛からの援護が途切れる事態に陥っていたのだが……有り体に言えば、男が前衛陣をほぼ一人で支えるほどの働きを見せていたため前衛陣は順調に戦いを進められている。
むしろ、下手に中衛からの横槍が無い分、男は好き放題に出来ていたと言っていい。
そして、気がつけば……多くの冒険者たちの奮戦により、その場から悪魔が駆逐され始め、悪魔側の攻勢第一波を凌ぎきっていたのだ──
第一波を凌いでの小休止──ラキュースは中衛部隊の指示をティナに預け、前衛へと出て来ていた。
「あなた、大地属性特化のエレメンタリストではないのね……まして信仰系魔法まで使えるなんて」
「……」
というのも、先程の迎撃では中衛の位置から大まかな指示を出しつつ後は遅滞戦闘に努め、魔法による一斉攻撃で殲滅する予定であった。
しかし、中衛に悪魔が流れてきたこともあり、後方で混乱が起きてしまい、今度はラキュースが前線で指示を出さなければならない必要性が出て来たからだ。
ラキュースはその場に偶々いた男に声をかけたのだが、男からはまたしても反応がなく、当初の作戦が実行されなかった所か、後方からの支援魔法すら無かったことに怒っているのかと気まずく思う。
「あの、さっきのことなのだけど──」
「チッ…………あんた、無事だったのか。生臭坊主が生き汚いって話はどこも一緒なんだな」
ラキュースが男に拠点では少し言い過ぎた、言葉が悪かったと謝意を示そうと試みたのだが、その場に聞きたくない声が聞こえた。
「ッ! あなた、さっきはよくもやってくれたわね。あなたのせいで作戦が滅茶苦茶よ! この戦いが終わったら覚えていなさい……! あなたを捕えて牢屋に招待するわ」
「心の狭い売女だな。あいにく、俺は何も悪いことはしちゃいねーぜ。たまたま逃げた先にアンタ等がいたってだけだろう?」
「戯言を……!」
「全てあんたの指示が悪かったのさ」
と、言い争いはヒートアップし段々と大きくなってゆき、とうとう罵り合いまで起きかけていたが──
「騒々しい、黙れ」
それは静かであったが、体を突き刺すような声音だった。ラキュースとパッチの背筋がビクリと硬直した。
「……一軍の将が兵の前で喚くものではない。パッチ、騒動を起こすだけならば、還って貰うが?」
争いを咎める言葉に二人のみならず、周囲で言い争いを聞いていた冒険者たちも硬直していたのだが、どこかバツの悪そうな男の二言目で呪縛から解き放たれたかのように皆が動き出す。
「……まぁ、そう怒るなって兄弟。な、落ち着いて話をきいてくれ。悪気はなかったんだ。ただ、ちょっと、魔が差したっていうか……クソ虫はちゃんと踏み潰してやらねぇとよ。な、わかるだろ? よくあるだろ? 許してくれよ。生きてさえいりゃ、いつだってノーカウントってもんだろ?」
「っ、あなた、やっぱり……!」
パッチが馴れ馴れしく肩を組み、ラキュースはパッチの言葉に睨みの圧力を強める。男は小さく溜息をついた。
「……来たぞ」
──それは第二陣とでも呼ぶべきか。先ほどの悪魔の集団が低位の悪魔を中心としていたとするのであれば、今度は数こそ先ほどよりも少ないが拠点を奪取した際にもいた朱眼の悪魔や魂食の悪魔、鱗の悪魔などの大型の悪魔の姿が多くあった。
その中央に立つのは、身の丈ほどもある斧槍を持つ黒翼の悪魔──アビスデーモンの姿。アビスデーモンは人間たちを睥睨。そして、冒険者たちの前で初めて言葉を口にした。
「──人間。弱いその身でよくやるものだ。ゆっくりと遊んでやりたいが、ヤルダバオト様の命があるのでな。急がねばならぬ」
「とはいえ……お前たちは何故こうも愚かしく、愛いのか。お前たちの悲鳴や苦悩が我ら悪魔を昂らせ、甘美なる絶望が理性を掻き乱す」
「その欲求は如何に我と言えども抗いがたく、下級の者共では寸毫と耐えられまい」
「故に──その姿を晒し、疾く逝ぬがよい」
《グラビティメイルシュトローム/重力渦》
アビスデーモンが向けた腕の先──球形の黒い闇が現れ、ゴウゴウと地鳴りのような音を響かせながら辺りに闇が広がってゆく。
「ぐあ、あぁぁ!」
「ぅ、ぐっ……!」
苦悶の声がそこらから漏れ出る。闇には重力を思わせる高負荷を与える効果があるのか、身体に普段では決して感じられない、立っていられないほどの重力が圧し掛かる。
冒険者たちが超重力に苦しみながら耐え、ほどなくして次元を割って黒い球体は消えて行ったが、周囲の被害は惨憺たるものだった。
ほとんど全ての冒険者たちは息荒く地に伏せっており、なかなか立ち上がることが出来ない。中には血が巡らずに意識を失った者や、内臓に大きな負荷がかかったのか咳き込み吐血している者もいた。
ダメージをカットした上で、この惨状だ。
もしも男の魔法が掛けられていなければ最悪の事態となっていたかもしれないと、ラキュースの肝が冷える。幸いにも完全に再起不能なほどに重症を負った者はおらず、負ったダメージもリジェネの効果により徐々に回復しているのが見て取れた。
確かにこの戦いは厳しい……厳しいが、彼らの心から希望はまだ消えていない。
冒険者という職業柄、モンスターとの戦闘で怪我するなどよくある事。体が痛めつけられるのは慣れているし、今回に限ってはラキュースという蘇生魔法使いもおり、最悪、一時の死すら覚悟の上だ。
それに、逃げ出しても可笑しくはないこの状況にあっても、今は悪魔に立ち向かえる勇気が湧いてくる。彼らには頼れるアダマンタイト級冒険者が四人と、一発逆転すら狙える、大魔法を操る魔法詠唱者がついているのだから。
冒険者たちの反抗的な目が悪魔に集中する。
「フン、生意気な……加減して、ただ痛めつけるのでは駄目か」
「──ならば、趣向を変えよう。これはどうか」
不服そうな声音が好奇心が入り混じるものへと変わり、腕を振り上げ何事かを指示した。
そして……アビスデーモンの指示のもと、醜悪な小悪魔たちがボロボロに甚振られ、ビクビクと怯えた表情の人間達を引きずるようにして連れてきたのだ。
「おいおい……まさか、勘弁してくれ……」
「あ、悪魔め……なんて卑劣な……!」
驚愕。そして、その光景を見た時に冒険者たちの中に得体のしれない感情が生まれる。冒険者らの目に映るのは恐怖か、それとも義憤か。はたまた、自分がそうならなくてよかったとでも内心では思ったのかもしれない。
これから起こるであろう事態を予感し、皆が息をのんだ。
「もう……やめてくれぇ……」
連れ出されてきた一人。背中を丸めた男が肩を抱えて小さく溢す。
悪魔が現れた当初、街中で虐殺が行われたのかもしれない。
耐え難い痛みを与えられる拷問があったのかもしれない。
反抗的な者には見せしめに処刑が待っていたのかもしれない。
彼ら、彼女らには性的な陵辱の痕跡こそみられないものの、肌には痛々しい裂傷や殴打された痕が幾つもあった。
彼らの目は恐怖に濁り、一々悪魔たちの反応を伺うように怯えていた。与えられる暴力に対して反抗の意志を示せないほどに暴力によって心を折られ、ただ漫然と嵐が過ぎるのを待つようになっていた。
彼ら、彼女らが冒険者たちを見る。
その目の奥底には諦観と怖れがある。そして隠された卑屈な恨み──お前も不幸になればいい、どうしてお前達はそっち側なんだ、俺の代わりに不幸になってくれという情念が加害者たる悪魔ではなく、味方である筈の同族たる人間に向けられていたのだ。
悪魔がそれらを全面に並べ、人間の盾とした。麻縄で直接首に輪をかけられたその様は、ペットの散歩の様態を成し──いや、それよりもむしろ帝国で見かけるような亜人の奴隷の姿の方が近いのかもしれない。
「そら、歩け。あの拠点の中まで入れれば、もしかしたら助かるやもしれんぞ」
助けるべき人たちが昏い目をして、悪魔に棒で背を小突かれながらそろそろと、人間側が構築した拠点へと近づいて行く。反対に彼らの歩みに困惑し、また救助すべき民間人を攻撃する訳にもいかず、腰が引けた冒険者達は一歩、また一歩と後退りした。
「無辜の人間を殺すのは気が咎めるか。わからぬ。お前たちは同族であろうと平気で殺す生き物であろうに」
そう、喜悦を含む声が聞こえる。
人質を盾として、悪魔の軍勢が拠点へと近づく。どう対応すればいいのか、と前衛陣に動揺が走った。
「お、おい! どうしたらいいんだ!」
「何か策はないのか!」
彼ら冒険者は民を救助する事も目的にある。だが、こうも人質を盾とされては悪魔のみを排除する事は困難だった。
「っ、諦めないで! 私たちはあなた達を助けることを諦めたくない!」
そんな状況でも、ラキュースは冒険者たちに、人質たちに、そして自身を鼓舞する。何としてでも、彼らを助けなくてはと。
──全力を尽くさない私は、私ではない。出来なかったことよりも、しなかったことを悔やみたくはない。一つの諦めが、いつか十の妥協に変わる日が来る。もしも心に凝りを残してしまえば、何も出来ないまま過ぎてしまえば、それはもう私ではなくなってしまう、と。
だが──
ラキュースの言葉は悪魔の暴力に支配された心には届く事は無い。人質達が歩みを止めることは無かった。
むしろ、その言葉は彼らを傷つけた。
お前に何がわかる。暴力を振るわれ、言う事を聞かなければ苦痛と惨めな死が待っているのに。救えるなら早く助けろよ、と。
「何か策がっ……」
作戦も無ければ、このまま拠点に押し込められて終わりだ。すぐにでも作戦をたてて実行しなければ……それに、考えたくはないが大元の作戦遂行自体が危ぶまれるのであれば、人質であるはずの彼らを切り、冒険者たちに排除させる判断もラキュースはしなければならない。
だが、それは人として忌避しなければならないこと。ラキュース自身には貴族としての誇りと役目もあり、大を救うために小を切る名分も、必要性も知っている。しかし、それは貴族としての常道ではあるが、人の正道ではない。まして彼女自身が憧れた英雄としての姿でもなく、もしもそうなってしまえば、決断した者として大きな責任と罪の念をこれから一生背負い込まなければならないとも思っている。
歯を食いしばり、何か策はないかと必死に頭を巡らせた。早く、早く──しかし、焦りは柔軟な思考を妨げる。ラキュースの表情は一歩後退する度に強ばってゆく。
そして、また一歩下がった。
「っ、みんな──」
「……こういう時は古来からやり方は決まっているものだ。覚えておけ。機会は一度きり、上手くやれ」
唇を引き結び、何かを決断したかのようなラキュースに囁くように聞こえた低い声。その声にハッとした。
──眠りの呪文をかける。眠った人質はそのまま此方の陣に入れろ。眠っている悪魔には手を出すなよ。目が覚めると面倒だ。*1
内容を瞬時に理解し、頭の中で今後の行動を素早く順序だてる。
「みんな! 準備して!」
その鋭い掛け声に冒険者たちの意識が切り替わった。
《ブーステッドマジック/魔法位階上昇化》
《ワイデンマジック/魔法効果範囲拡大化》
《ペネトレートマジック魔法抵抗難度強化》
《スリープ/睡眠》
大きな魔法陣が一瞬輝き、昇華した。と同時に白い煙が悪魔側の陣に満ち、すぐに霧が流れるかのように消えて行く。
その場に現れたのは、崩折れるように眠りに入った人質と、眠り転ける悪魔たちの姿。醜悪な容姿をした悪魔が眠る姿とはラキュースは想像もしたことがなかったが、現実に見ると気味が悪いばかりだ。
「今よ! 行って!」
「人質を優先的に此方の陣の内側へ!」
「悪魔を攻撃して眠りから起こすのは避けて!」
最低限の指示で、求められる最速の行動を促す。今は人質を取り返す事だけ考え、悪魔の相手は後ででもいい。
「ぬぅ……なかなかの機転。いい加減起きろ! 役立たず共!」
辛うじてスリープのレジストに成功したアビスデーモンが地の底から響くような声で喝を入れる。右手に持った巨大な斧槍を地へと叩きつけ、轟音が鳴り響く。
その音で、ビクリと身体を震わせて意識を覚醒させ、眠りこけていた悪魔達がフラフラと立ち上がる。
「──やはり、厄介なのは貴様か」
アビスデーモンの双眸が、フードの男を射抜いた。
「貴様さえ、この場にいなければ……いや、どうしてここに居るのだ? もしや貴様……ふ、ふ、ふ、くはははははは! そうか! そういうことか!」
「ならば、貴様だけはここで殺しておかねばならぬ……! ヤルダバオト様の覇道を阻まんとする怨敵よ!」
《悪魔の諸相:おぞましき肉体強化》
突然何かに勘付いたように哄笑し、悍しき殺意が一身に向けられた。その悪魔の豹変にラキュースの表情が強張る。
存在の密度が違う。その身に秘めた力も、何もかもが自分とは異なっており、その差に絶望した。
悪魔の身体から黒い靄が立ち上り、元々筋骨隆々としていた肉体が更に膨らんだように大きくなった。
と、スキルが発動した直後。目にも止まらぬ速度で単身吶喊し、その斧槍を薙いだ。
「どけっ! 邪魔をするな、雑魚がっ!」
豪風が冒険者たちを怯ませ、運悪くアビスデーモンの進行上にいた悪魔や冒険者が敢え無く真っ二つとなる。切られた瞬間、呆気に取られた表情をし、臓腑を散らすままに息絶えた。
その先には冒険者たちに囲まれた男の姿がある。しかし、やはり表情が見えないので反応がわからないが、男は周囲の冒険者たちを信用しているのか、悪魔の突撃を避ける素振りも見せていない。
悪魔の豪腕によって振るわれる斧槍は、恐ろしい威力を秘めている。斧の部分に当たれば真っ二つになるのは当然として、先端の槍に引っ掛けられただけでも手痛い傷を負うことになるだろう。
ゴウ! という音とともに振られた斧槍は、男に傷一つ付けることが出来ていなかった。
しかし、一振りごとに護衛としていた覆面の冒険者達は引き剥がされ、地面に転がされ、剛腕により吹き飛ばされ……とうとうその身を守るものはいなくなった。
現状、男は時に身体を屈めて斧槍の一薙をやり過ごしたり、上半身を後ろに反らせて間一髪、スレスレで避けるなど非常に危険な状況にある。
時には危なっかしく、一回転するようにして避けるなど、大きな動作でなければ避けられない攻撃もあったように見えた。それらが息つかぬ間に幾度となく繰り返された。
当然のこと、傍目で見ていたラキュースはその状況を『余裕』などと取ることは出来なかった。それらの一撃一撃が容易く死を招くもので、彼女自身でもそう何度も躱せるとは思えなかったから。躱せているのは奇跡だ、とすら思った。
「っ、今助けるわ!」
現に男は悪魔の攻撃を避けるので精一杯で、得意の魔法を繰り出す隙もない様子。そもそも、魔法詠唱者が接近戦になるなど、最早、死んだも同然。いつ命を失っても可笑しくはない状況なのに。
──浮遊する剣群。ラキュースの背後に翼のように浮遊している六本の剣を悪魔に向けて一斉に射出し妨害する。
だが、不意を打ったにも関わらず、飛んでくる剣を悪魔は軽々と避けてみせ、内一本は強かに拳を打ちつけられ粉々に砕け、また一本は斧槍とかち合い折れ吹き飛んで行った。
「邪魔するか。余程死にたいらしいな、雌」
ラキュースが取った妨害という行為は……武器を犠牲にしたが、悪魔の気を引くというのであれば成功と言っても良かった。そして、悪魔の圧力を伴った害意がラキュースに向けられる。
──ラキュースの瞬き一つ分。目を一瞬閉じ、開いた瞬間には、悪魔は彼女の目の前にいた。
死の気配。
唐突に訪れた。
終わりの予感にどうしようもなく寒気がする。
目の前では悪魔が斧槍を水平に構え、ラキュースを見据えていた。
来るのは全身の筋肉を十全に引き絞った、無影の刺突。
その刃は間違いなく彼女を死に至らしめる、致死の一閃。
悪魔の一撃は常人には見ることも敵わぬはずの一閃であったが、しかし……彼女には不思議なことにその刺突がゆっくりに見えていた。
唐突に訪れた自らの生命の危機に反応して、脳が高速で働いているのか。しかし、身体は動かず、どうしてか過去の取り留めのない記憶がパラパラと思い出される。
──まだ小さかった頃、英雄譚や冒険譚に憧れたこと
──叔父の本当かどうかわからない話が楽しみだった
──遠い国に伝わる竜殺しの英雄の逸話
──幼い吸血鬼とそれに仕える幽霊騎士の物語
──十三英雄が旅した世界の話
──そして、私も家を飛び出して冒険者として活動を始め、希望を持って明日を夢見ていた
──無謀をして死にかけた所をガガーランに助けて貰って、リグリットもいれて蒼の薔薇を作った
──その内、私だけの武器を手に入れ、使いこなすために努力もした
──依頼をこなしていく内に有名になって、命を狙われた時もあった
──でも、その暗殺者が気に入ってしまって、無理やり仲間にした
──最初は一人だったけど、仲間が二人増え、また二人増え、一人減って、また一人増えて……今の蒼の薔薇になった
「──ボ──ス──ッ!」
「──ラ──キュ────ス!」
遠くで聞き慣れた友/仲間の声が聞こえた気がした。
ごめん、みんな
ただ斧槍の刃が自身の心臓に迫るのを見ている事しか出来なかった。恐怖で悲鳴をあげる鼓動が耳で聞こえるようだ。
自分が死ぬのは初めてだった。
いつもは生き返らせる側だったから。
死ぬのは怖い。
死の恐怖に負けない仲間たちは、本物の戦士だと彼女は誇りに思った。
□
「ぁ、ぐっ!」
スローで見える斧槍の軌跡を追っていた……しかし、気がつけば彼女は横から突き飛ばされたようで地面に転がっていた。
そして、痛む身体を庇いながら、のそりと起き上がって見た光景は──
「そ、んな……」
ラキュースが庇ったはずのフードの男が斧槍に突き貫かれ、百舌鳥の早贄のように突き刺されたまま宙に浮いている姿。杖は地に零れ落ちて腕は垂れ下がり、その背中からは鈍く輝く斧槍の穂先が覗いていた。
アビスデーモンが贄となった獲物を斧槍を一振りして投げ捨てた。
無残に男の身体が地面を転がった。
「やれ」
直後、その場に悪魔達の放った魔法が次々と殺到し……
《ヘルフレイム/獄炎》
最後にアビスデーモンの掌から吹けば消えてしまいそうな小さな黒い炎が放たれ、男に接触した途端、男の全身を黒い炎が飲み込む。
その黒い炎の熱量は凄まじく、対象を燃やし尽くすまで消えそうにない様子。離れていても肌を焼き焦がす、天すら焼こうという勢いが感じられた。
そして、見慣れた赤い炎とは異質な黒い炎は、ラキュースや冒険者たちの深層心理に怖れを抱かせる。悪魔が操る地獄の炎とは、罪人を裁き、焼く煉獄の火。人の手には決して及ばぬ神威の存在を悟らせる。
そんな炎で焼かれてしまっては──ラキュースやティナ、冒険者達や兵士達から見ても、男の生存は絶望的だった。
「どうして……」
「おいおい……だから言ったじゃねぇか……ざまぁないぜ、兄弟……」
ラキュースはその光景に呆然とし、自身を庇ったことで男が死にショックを受けた。男に従ってきた者たちもガクリと、力なく膝を折った。
男の戦線からの離脱──その事実は前線にいた冒険者たちの希望に罅を入れるには十分な衝撃だった。
無論のこと、戦闘後に蘇生を試みること自体は可能だ。あの地獄の業火の中、遺体が無事に残っていればの話にはなるが……そして、蘇生は遺体が損傷していると成功率が大幅に下がる。早く火を消さなくては蘇生を試みることも難しくなってしまう──
しかし、この場に火を消そうという余裕などある訳もない。悪魔の眼光に慄き、誰も動けなかった。それは、
──ラキュースは蘇生魔法の使える王国唯一の魔法使いだ。
彼女が死ぬなど、王国にとっては大きな損失に他ならない。それは彼女自身も自覚しており、いざとなれば彼女だけでも逃げることは国から許されていた。
そして、蘇生魔法使いは戦士たちにとって最後の希望とも言える。戦士たちが守りたいもののために戦うのに、彼女こそが最後の砦となるから。
だからこそ、彼女が戦場を行くと言えば、皆が守るためについていかなければならない。何かがあれば蘇生して貰えることを、彼女と繋がりを持つことを期待して。そうやって皆、彼女を守ろうとし、この戦いの中でも幾人もの冒険者たちが死の間際に『蘇生を』と言い残して、驚く程簡単に生命を散らしてきた。
──そして、あれ程高位の魔法を多彩に操る男ならば蘇生魔法さえも使えそうなものだが……ラキュースを自身の身を顧みずに守ったということは、彼もまた死後、蘇生の可能性を期待していたのだろうか。
誰も彼もラキュースの『蘇生』を期待してあっさりと死んでゆく。生と死が軽い世界。私の価値は蘇生でしかないの、とラキュースは腹の底に土でも詰められているかのような気分になる。
……とはいえ、そんな事はこの戦闘には関係ない。
この場からは簡単には逃げられぬ。ラキュースたちは強大な悪魔を前に死地で足掻かなければならず、悪魔の暴虐を耐え、スリ潰されるのを覚悟で立ち向かわなければならない。
それが嫌ならば、彼女はもっと早く……損害が大きくなる前に対策すべきだった。
少なくとも、王国戦士長の援軍到着を待つべく遅滞戦闘に徹するなり、襲撃の前に人質を想定してその取り扱いを周知しておくべきだった。
ラキュースの顔が苦渋に満ちる。
──その苦悩を見抜いてか、悪魔は嘲笑ったのだった。
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25.蒼の薔薇編※4
──私の判断の何を正せば、こんな事態にならなかったのだろうか。そもそも私が指揮を取らなければ作戦はもっと上手く行っていたのだろうか。
今はそんな事を考えている時ではないとわかっていても、先程の光景がどうしてもラキュースの頭に過る。
ラキュースは人的被害を出しながらも人質を悪魔の手から引き離すことに成功した。
しかし、その代償として有力な戦力である魔法詠唱者がラキュースを庇って悪魔の魔法を身に受けてしまい、戦闘から離脱することとなった。
今後はラキュースと残りの冒険者たちだけで、目の前の強大な悪魔を相手どらなければならない。
しかし、最早、敵う訳がないと皆わかっている。悪魔の実力は想定していたよりも遥かに上で、蒼の薔薇チームが対処可能な難度の上限90を明らかに超過していた。そして、単独で難度140ほどの強さのイビルアイすら上回っているように思えた。
だからこそ彼女は息を呑んで悪魔の出方を伺うしか出来なかったのだ。
「囮役、ご苦労」
「……っ」
アビスデーモンが高圧的に何でもない風に言い放ち、ラキュースはその無力さに唇を噛んだ。
悪魔たちはこの場で最も警戒すべき対象が消えて余裕を取り戻し、これから起こるだろう喜劇を想い悪意ある笑みを浮かべていた。
「あ、あ、あ、あ、あ、あああああああああああっ!」
「い、やだぁぁぁ、あああぁぁあぁぁ──!」
「誰かっ、助けっ──」
「お、お前ら! お前らなんてことをしてくれたんだ!」
ラキュースたちの後方で悲鳴が上がる。
そこでは悪魔に人質とされていた人たちが中衛よりも後方に位置する支援部隊へと引き渡されようとしており──ちょうど、彼らにかけられていた眠りの魔法も解け始めていた。
そんな、救出されたはずの彼らが突如として絶叫し、胸を掻きむしって苦しみだしたのだ。
「おい! お前らのせいで俺は死ぬんだよ!」
「痛い! 助けて、助けてよ!」
いやだ、死にたくない。魔法を解いて、解いて! と、パニックを起こしているのか、助けを求めて縋りつくのをレンジャーの一人が異常に感づいて突き飛ばす。
「──この、人殺し!」
突き飛ばされた女が信じられないと、呆然とレンジャーの顔を目を見開いて見つめ、絶望と憤怒がない混ぜとなった顔で絶叫。そのまま内部で火薬が炸裂したかのように破裂した。
苦しむ人々が次々に破裂してゆき、身体の破片や内容物、血があたりへと撒き散らされ、濃い異臭が立ち込める。
誰かのえずく声、バタバタと吐瀉物が溢れ落ちる音が聞こえた。
「な……ど、どうして……?」
後方で起きた理解不能な惨劇。信じ難い光景に唖然と硬直する人間たち。
悪魔達はその様子を目にし、恐怖の表情を滲ませた人間の様子が面白かったのかゲラゲラと指を指して笑った。
と、再び、悪魔側の集団後方から現れた下級悪魔が女の髪を引っ掴んで、ラキュース達の目前へと強く押し出す。
人間側の集団、冒険者たちの中から、何者か女のものだろう名前を叫ぶ声が聞こえた。
「いや……もう、ゆるして……ゆるして、ください……」
「っ、やめろぉぉぉ!!!」
その女は死の恐怖に怯え、大切な存在の名前を、家族の名を、死にたくない、お願いだから助けてと呟く。救いを求め、絶望の眼差しで集団の中にいた一人の男を見つけると、一筋の光明に縋るように足を縺れさせながら駆け寄り、手を伸ばした。
叫んだ冒険者の男も駆け寄るように女に向けて手を伸ばし、抱きしめようとしたが──それらの手は届く事も、交わされることなく、男の目の前で弾けた。
弾けた人間の残骸が、その場でぐしゃり、と崩れる。
理解不能な現実。見たことのない彼女の姿、嗅いだことのない彼女の臭い。ただ光を失った女の瞳が冒険者の男を無感動に見つめていた。
「え、お、あ、あぁ……あぁぁ……」
冒険者がヨタヨタと、崩れ落ちた女の破片を手で掬い集め……血と汚物で汚れた手で顔を覆って涙を流した。
男が発したその慟哭に対して、悪魔達はニヤニヤと表情を緩ませ、素晴らしい観劇の場面に感動すらしていた。
──あなたが無知で残酷だった子どもの頃に虫やカエルを甚振って遊んだように。その悪魔達も人間と同じく、自身よりも下等な生物を甚振る悦びを感じており、その眼差しには期待と喜悦、好奇心の念が含まれていた。
「許せない……」
ラキュースの食いしばるような言葉。しかし、それを耳にした悪魔達が何事かと一瞬黙り……次の瞬間、心底おかしそうに腹を抱えてゲラゲラと哄笑をあげる。
「絶対にっ……! 絶対に、お前たちを許さない……!」
嘲るように、囀るように、悪魔達の嗤い声が木霊した。
ラキュースの内面に溢れるのは、どうしようもないほどの怒りに、憎しみ、悔しさ──しかし、その根底にあるものこそ恐怖や怯え、不安。
この異質な存在を、一刻も早く人間の領域から排除しなけらばならないという焦燥で満ち、怒りや憎しみといった強い感情で弱さを隠してしまわなければ、一度でも怯えている自分を表に出してしまえば……もう戦えないと無意識でわかっていたから。
今、この場には彼女以上の実力を持つ者はいないのだ。ティナにはラキュースの代わりに指揮をとる役目があり、ガガーランとティアの二人は蘇生後のため、本来の力を発揮出来ない。イビルアイも漆黒の二人組と最前線に出たまま戻らない。
後方に控える冒険者や兵士達の命を実質ラキュースが預かっているのもそうだが、自身がここで死んでしまえば王都は、残された人は、自身に託された想いはどうなってしまうのかという重責もある。
しかし、悪魔達はそんなラキュースの心を見透すがごとく、その有様こそが滑稽であると嘲笑した。
高位の悪魔に対抗できるはずの人物は既に彼女を庇い死んでしまい、彼女が率いるべき冒険者や衛士は、先の爆散した人質たちの様子を見て完全に怖じ気づき、絶望の表情を浮かべてしまっている。
人間が悪魔に勝てる訳がないのに、怯えを隠して意味もなく意気を上げ、無駄に生命を散らしてゆく。最初から分かりきっていたことだ。しかし、そんな愚かさこそが悪魔達にとっては愛おしく、何よりの娯楽となる。
叩きつけられる嘲笑の嵐の中、ラキュースが悔しさに唇を噛み、歯を食い縛って悪魔達を睨みつけ──
「……どうして……どうして、こんな……! なんでだっ……なんで彼女がこんな目に合わなければならないんだっ……!」
「あ、あなた何を──」
──ウアアアァァァ──!!
女の亡骸を抱いていた冒険者の男がゆらりと立ち上がり、怒りに我を忘れたのか、はたまた自暴自棄となったのか、ただ一人剣を片手に悪魔の集団に突貫した。
そして、そのまま怒りのままに数体の悪魔を切り殺し、悪魔の鋭い爪に身を切り裂かれながらも痛みなど知ったことかとばかりに切り返す。最後には叩きつけた剣が折れようとも素手で立ち向かい、恨みや呪いの言葉、現実の理不尽への罵倒を吐き出しながら、無残にも袋叩きに合って嬲り殺された。
その事切れた様を見下して、死んだ、死んだと心底可笑しそうに悪魔が嗤った。
「人とは、矛盾の生き物であるな」
「……っ」
静まるように指示を出し、暫くして静まり返った場に、今度は低くアビスデーモンの声が響く。
「お前たちは同胞が殺されれば、怯え、怖れ、慄くくせに、自らのためには平気で同胞を裏切り、手にかける事もする」
「人間は自らの精神にそうした悪性を孕んでいることを自覚しているのに、しかし、同時に善としての奉仕を美徳とし、他者に求める」
それはさも不思議そうな、理解出来ない矮小な存在を観察し、そして観察した純然たる結果を語るような無機質な声音だった。
ラキュースの肩がビクリと跳ね、その言葉と声音に隠された刃を突き付けられているような心持ちになり、心胆が冷える。
警戒するように周囲に伝えなければ! と、思うのだが、《サイレンス/静寂》の魔法でも掛けられたかのように、はくはく、と口は喘ぐように開いては閉じるだけ。声が周囲に伝わることはない。
身振りで異常を伝えようとしても、体が押さえつけられているかのように自由にならない。ふと視界に入った自身の影が一人でに動いた気がして、既に悪魔の術中にある事を悟った。
悪魔も言葉を止ませることはなく、既に皆が、否が応にも悪魔の言葉に耳を貸さざるを得なくなっている。
「何と卑しい精神性か。群れる事を選択したのならばさっさと利己心など、悪性など捨て去ってしまえばよいものを……お前達は善性の存在を食いものにし、自身の欲望を満たすために他者を踏み台とする事を止められぬ」
「何とも人間の社会関係とは、人間の生存戦略とは醜悪よな」
悪魔は困惑の声とともに、呆れを顕にさせた。
「我らは……そう、お前達を憐れんでいるのだ。弱者であるせいで、したくもない協力関係を結ばねばならず、利己と利他の狭間で揺れ動いている様を。そして望んでもいる。人間の未来が我らと同じ、深淵へと続くことを……」
──そして、その苦悩を滲ませた重苦しい声音が、今度は人間たちに悪魔が何を言っているのだ、と困惑の念を抱かせる。
悪魔とは何だったのか。こんなに語りかけてくるような、疑問を投げかけてくる存在が悪魔なのだろうかと。平和だった王国の民が悪魔と相対するなど今回の事が初めてだっただろうが、悪魔とは人間の敵である筈なのに。
無論のこと、これまで彼らの仲間や街の住民が悪魔に殺され、打ち捨てられ、何処へとも知れぬ場所へと連れ去られたことは忘れていない。人間爆弾として無残に爆殺された者たちの姿を、蹂躪された恐れや恨みを忘れてはいない。
故に、未だ警戒をもってその悪魔の言葉に耳を傾けた。傾けてしまった。
その人間たちの様子を目にしたアビスデーモンは一息ついた後に続けた。
「お前達は悪魔を知らないようだから、少し教えてやろう」
それは教師が生徒へと教授するかのように。詐欺師が真実に嘘を混ぜるように。饒舌に語ってゆく──
「悪魔の世界は、弱肉強食であり徹底的な利己主義」
「それは神の如き御方の敷いた、常に自身の願いに真摯であれ、しかし行動には美学を持たなければならないという、自己の願いを叶えるための条理であり理法」
「我ら悪魔はある意味求道者であるが故に、目的を達するための手段には常に飢えているのだ」
曰く、悪魔の世界、社会とは──実は人間社会に密接に関係しており、人間社会の上層部の人間は悪魔の力の恩恵にあるのだと言う。
悪魔は人間の願いを叶え、人間はその対価を支払わなければならない。それは時に隷属した上での労働力や、その命そのもの。もしくは、生贄として捧げられる魂であったり……
人間は対価をもって悪魔に欲望を叶えてもらい、それらがいずれ社会の新たな上澄みとなって、人間の社会を支配し、動かしてゆく。その一方、悪魔は対価を利用して自身の目的に役立てるのだと。
悪魔と人間の関係はある種のビジネスライクであるが、しかし、本来は余程のことがない限り、請わ願われることがなければ悪魔から人間に話を持ちかける事は無い。
それは、取引したその瞬間から優劣の関係性が形成されるからであり、力のある悪魔が下手に出てまで人間に、弱者に取引を願うメリットなど何もないからでもある。故に人間は知恵を絞って、悪魔と交渉し、納得する対価を用意しなければならないのだ。
しかしだ。此度王国に持ち込まれた魔道具はその前提すら破壊しかねない、元々は悪魔を使役することを目的として作られた危険な物だと黒翼の悪魔は
──そして、彼ら悪魔の抱える願い、渇望とは。
「誰よりも強くありたい」
「常に最高の自分でありたい」
「私だけはただ一人、正しくありたい」
「愛しい、あの方の愛が欲しい」
「尊き御方々を失望させたくない」
「主へと永遠の忠誠を捧げたい」
「……多様な渇望があり、渇望こそが道標であり源泉。そのためには利己も利他も、善も悪も必要ない」
「ただ、この世の全てを、渇望を満たすために利用し尽くすのみ」
悪魔の話す渇望とは、聞いた限りでは、人間が抱くそれと大差はないように思えた。
しかし、それは渇望を満たすための自身以外の全ての犠牲を是とし、手段を問わずに目的を達成せんとするものだと気付いた者は人間たちの中にいただろうか。
むしろ、言葉の裏に気づく事なく、悪魔も欲を持つという観点から親近感すら覚えたのかもしれない。
「お前達自身は、我ら悪魔をどんな存在と考えている」
「お、俺たちはただ恐ろしい者たちとしか……」
冒険者の一人が問われ、答えた。
「……我らは悪魔とは意志の弱さそのものであると言わんばかりに、しばしば誘惑者の絵姿で描かれ、神に敵対する存在と呼ばれるが──」
「まさか本気で我らがお前達を誘惑しているなどとは思ってはいまいな。我らはお前たちが望むからこそ、契約をもって願いを叶えている」
「……まして、神が悪魔の敵であるなど有り得ぬ。お前たちの言う神とは、人間にとっては何処までも都合の良い偶像でしかない。……お前たちは受け入れられぬだろうが、悪魔とは信仰を失い零落した嘗ての神や天使、それら使者の姿──力ある者の末路でもある」
そして、悪魔たるこの身でも人を守護するような奇特な神など知りはしないと。神とは人々に信仰されようとも、下々の事など一々顧みたりはしないのだと。
そんな馬鹿な話があるか! と……その悪魔の言葉に反発する感情と、でももしかしたら信仰している神が存在しないかもしれないという疑心、ずっと何も無い所に祈りを捧げていたのかもしれないという寂寥感──その場にいた者たち皆が襲われた。
加えて、人間社会で悪魔との取引が忌避される風潮があるのは、人間社会の一部の人間こそが流した流言によるものなのだろうとも。──そう、悪魔から得られる利益を独占するため。富と権力のリソースを分配するのに、人数は少ないほど良いのだから。
自身の中枢に位置する信仰に裏切られ、所属する王国の支配層にすら自分たちは裏切られていたのだと知った彼らの心情とは……
「お前達、人間の上澄みが言う、この世において、自然災害が神の怒りであるという観念はおろか、自然悪が行為悪や宗教的悪に対する神の報復であるなど、人間の妄言に過ぎぬ」
そしてこの世には人の神もいなければ、神罰すら人の妄想でしかない。悪魔はそう語った。この世に人を守護する上位存在などいはせず、お前達は荒れ狂う嵐の海に浮かぶ一艘の舟のようなものなのだと。
悪魔の言に耳を傾けてしまった者の末路とは──根幹を成す芯が本当に正しい物なのか自信を失い、疑心暗鬼に陥いることになる。
そして、その疑心暗鬼が長ずれば自身のみを信じ利己心に奔るか、そうでなくとも、新たな何か──例えば真実を教えた悪魔に縋りたくもなるものだろう。
疑心暗鬼とは信頼関係の崩壊。裏切りの一歩目。いずれその歪みが大きく育てば、周囲が敵にしか見えなくなり、他者を貶め、騙し、攻撃的に振る舞うようになる。
つまりは人間社会における規範からの逸脱、犯罪行為、人格の破壊、それらを成すマインドコントロールの導入に他ならない。だが、悪魔はそこまで待つつもりはなかった。
「故に悪魔は祈らぬ。我らこそが理性の魔物であるからして。悪魔は強靭な意志を持って、各々の信じる独善を行い、生を謳歌する」
誇りを持って見せつける。自信こそが、力の源であり他者を操る秘法に他ならないのだと。
既に人間たちは悪魔の言葉に囚われており、心の弱い者は縋るような視線になっていた。
「我らにとっては、お前達人間は家畜であり、愛玩動物。未熟な子であり、不出来な学徒」
憐れむように、寄り添うにように。
「我らほどお前達を愛し、深く理解しようとしている者など他にはおるまい」
慈しみを持って、ならば我が味方となろう、と。
「悪魔に情がないなどと誰が言ったか……理性は情念の奴隷なり」
「中心となる自己は情念であり、理性はその目的達成の手段を調達するにすぎない。形相的な理性が質料的な感性に支配されるのだ」
我らは人のように欲に流されない。理性をもって情念を支配し、理性は情念に従わせるのだ。情念の大きさこそが、その者の信念の強さを示すのだから。
「我らにとって人の悪とは、ただの弱肉強食に過ぎない。この世には真実などなく、許されぬことなどないのだから──*1」
人間たちは疑心暗鬼となり、信じていたものを破壊され、何を信じればよいのかわからなくなっていた。悪とは、善とは何なのかも……自身がこの作戦に挑んだ最初の理由と決意さえも忘れかけて。
悪魔の言葉が毒のように心へと沁みてゆく。
権力者の決めた法や罪など贋で、従う必要性などない。まして、その権力者が悪魔と取引している『悪』ならば。
真実などなく、許されぬことなどない──それは自身の信念、意志で決めた行動ならば結果がどのような悲劇となっても受け入れなければならないとの解釈であろうが、その意味を知らなければただ犯罪を推奨しているようにも聞こえただろう。
「一つ教えを授けよう。人間の本質とは善や悪には囚われぬ、『人間性』。お前達は何にでもなれる可能性すらある」
「そう……権力者や富豪は勿論、我らの様な悪魔にでさえも」
数人の目に爛々とした光が宿り、何人かは怯えるようにしながら悪魔をみやった。また幾つかは虚勢を張るように悪魔を睨みつける者や、敬虔な信徒であったのか生きる活力を無くしたかのように抜け殻のようになったままの者もいた。
「さぁ! 我らに何を望む、人間。
そこで漸く、ラキュースの呪縛が解けた。ラキュースが叫ぶ。
「悪魔の言葉を信じては駄目!」
「っ、うるせぇ! 今更、お前ら貴族の言う事なんか信じられるか!」
「あぁ、そんな……神がいないなんて……私はこれから何を信じて生きれば……」
「悪魔の事など信じない! だが……悪魔と繋がってる王国のことも、もう信じられない。私達はこれまでなんの為に戦っていたのだ……」
「元はと言えば、八本指も貴族と繋がってるんだろうが! 今回の事もどうせ貴族が八本指に魔道具を集めろって言ったのが原因なんだろ!」
「ちっ、ちがっ!」
「なら何で悪魔の言葉を否定しなかった! いや、出来なかったんだろうなぁ! クズ貴族が!」
否定しなかったのは、言葉を口に出来なかったから。貴族が八本指に指示したことだと完全に否定出来なかったからなのだが、そんな事は相手は知る由もない。豹変した冒険者の男によって殴られ、ラキュースは吹き飛んだ。
「さぁ! 我ら未来の同士たる幼子たちよ! 聞こうではないか、お前たちの渇望を!」
喜悦を含む悪魔が立ち上がった者たちを受け入れるように腕と黒翼を広げた。
「俺は──誰よりも強くなりたい! 俺を嘲笑って来た奴らを逆に嘲笑ってやりたい! 俺を弱いと言った奴等をブチ殺してやりたい!」
努めて憤るように吐き捨てた者がいた。
「権力者になりたい! 俺が持ってないものを手に入れたい。ずっと、俺が持っていないものを自慢されて、腸が煮えくり返っていた!」
不相応な地位を望む、欲深な者がいた。
「もう嫌だ。もう、何も信じられない。何も信じない。神も悪魔も、もうどうでもいい。ただ……信じられるのは自分だけ……一人で生きられる力が欲しい」
全てを放棄した気になった不信者がいた。
「俺は女とやりまくりたい! 美しい女、可愛らしい女、人の女、全部、全部俺のもんにしたい! 手に入れたモノ全て傅かせて支配するんだ!」
渇望と妄想をはき違えた高慢な者がいた。
俺は、私は──
「あ、あなたたち……」
自身の願望を、薄汚い欲望を恥ずかしげもなく嬉々として叫ぶという異様な光景に、ラキュースは恐怖を覚えた。
「もう蹂躙されるのなんてごめんなんだ。俺は悪魔側に着く」
そう吐き捨て、幾人かの者たちがアビスデーモンの元へと歩き出し、悪魔の軍勢は彼らを受け入れたのだったが──
「──ク、ハハハ……よかろう……では、まずは精神修養から始めなくてはな──」
《マス・ホールド・スピーシーズ/集団全種族捕縛》
放たれた魔法が裏切り者たちの動きを阻害し、行動を縛る。
「な、なんだよ、これ!」
「私たちはあなた達側に付いたのに!」
「だっ、騙しやがったのか、悪魔どもが!」
その不意打ちに裏切り者たちは一様に罵り声をあげた。
「フン……相手にする事も憚られる愚かな者たちだ。支配どころか、魅了の魔法すら使ってはおらぬ。気紛れに誘惑者の真似事をしてみれば、これだけ釣れるとは……敵対する相手の言葉にのせられるなど愚の骨頂であろうに」
裏切り者たちが喚き、悪魔を罵倒する。
「しかし、よくもまぁ、恥じらいもなしに糞尿の如く薄汚い欲望を垂れ流せたものだ。嗤いを耐えるのに苦労したぞ」
悪魔もまた、地へと這いつくばったままの裏切り者たちを眺めて嘲る。
そして……王国を、人間を裏切った者たちは引きづられ、暴れる者は腕をもがれ、脚をもがれ。しかし死ぬ事は叶わぬままに、何処か遠い場所へと連れ去られて行った。
その一連の行程を観覧していた悪魔たちは、ニヤニヤと笑みを浮かべており、新しい玩具を歓迎していた。
「下級悪魔共の巣に、ようこそ。そして、よろしく、玩具諸君」
「奴らの欲望を叶える手伝いだけはしてやろう。──が、対価がまるで足りぬので、奴らの自由と意志を追加するとしよう」
大きな笑い声の渦だ。悪魔の口から出てくる大小、高低様々な。耳障りで、挑発的で、屈辱的な音の嵐。
人を踏み躙り、心を弄ぶ。これが悪魔という存在なのか。精到で狡猾。人間に勝てるような相手ではない……それに、陣営に王国への不信の楔を打たれ、裏切り者の出現まで許してしまった。
「聞けば、ここには蘇生魔法使いがいるそうだな。お前だろう?」
「安易に蘇生に頼り、死を軽くした、生命の重みを知らぬ愚か者め」
「……そうだな。お前だけは生かしておくことにしよう。お前以外を皆殺しにし、軽くなった死の重みを量で釣り合いを取れば、少しは自身の愚かさがわかるというもの」
最悪だ、と打つ手が無い現実に絶望感を表情に出してしまっていた。せめて、一人でも多く退却できるように、殿を誰かが引き受けなければならないのだが……不信感に満ちたこの状況では蒼の薔薇の仲間以外、誰も引き受ける事などないだろう。
──この悪魔を相手に、私たちだけで……殿を?
歯を食いしばるも……ラキュースは足元が崩れ落ち、目の前が暗くなるように錯覚した。そんな役、誰かに押し付けてしまいたい。何故、私や仲間たちが犠牲にならなくてはならないのか。いっそのこと、国からの命令だとして、後で蘇生すると約束すれば──
「──やれやれ……私が離脱している間に随分と悪魔に引っ掻き回されてしまったようだ……軍の柱であるはずの指揮官がこんな所まで来て、怖れに膝を突いていてどうする」
呆れを含むその声でピタリ、と空気が止まった。
「っ! そんな、あなた無事でっ──」
ラキュースは驚愕に目を見開いた。
ラキュースが声のした方へと振り向けば、悪魔の魔法を受け、死んだと思っていた男が立ち上がろうとしていた。その全身からは燻るようにブスブスと黒い煙が立ち昇り、穴の空いたローブの中心は大量の赤い血で濡れている。
「仕留めたと思ったが……さすがであるな、伝承者よ!! やれ!!」
悪魔達が警戒する対象の復帰だ。それをいち早く察知したアビスデーモンはすぐさま追撃の指示を出すと悪魔達の猛攻が始まり、男を今度こそ滅さんと動こうとした。
「逃げてっ!!」
それを目撃したラキュースは、男に向けて悲鳴をあげる。
男の振るう杖を起点として生み出される青白い光の渦。杖の先端で逆巻くように収束してゆく。
《ソウルストリーム/ソウルの奔流》
迫りくる悪魔の大群は、男によって生み出された4つの光の奔流に呑み込まれ、それに巻き込まれた跡には何も残らなかった。
「っ!」
ラキュースは驚かされてばかりだ。その迫りくる悪魔の集団を文字通り一掃する魔法の威力に。
悪魔側もその魔法を警戒したのか、それ以上に近づくことはなく、歩みは止まった。
男は首を巡らせる。周囲の場に不信感に満ちていることに気付き、彼が戦線離脱していた最中に何があったのか察した。また悪魔の口車に踊らされた哀れな者がいたのだろう、と。
そして、男が何時の間にか手にしていた、黒と金を組み合わせた豪奢な装丁の祈祷書もしくは魔導書が男の手を離れ、浮遊する。書が開かれると、そのページがひとりでにパラパラと捲られてゆき、とあるページでピタリとやむ。
男がポツリポツリと語り出す──
「──侵されていた。犯されていた。冒されていたのだ。なす術も無く邪悪に貪られていた。理不尽に、無意味に、ただ陵辱されていた。未来に繋がることなく、殺され続けていた*2」
それは何処か淡々としていて感情の読めない、静かだがよく通る声だ。
それはこの世界の人の歴史か、男の経験してきた過去のことなのか。人は身も心も邪悪に侵されて来たのだと男は独白する。
ラキュースたち冒険者が悪魔や異種族に蹂躙された現実が、他の場所でも起こったことだと教授するかのように。
「子供の明日を奪われた母親の嘆き」
この王都には子の行方がわからず、身を顧みることなく危険な戦場に立ち入ろうとする母達が大勢いた。
「子供の明日を守れなかった父親の怒り」
悔しさで、大の男が人目を憚らず涙を流し、憎しみの感情のままに慣れぬ剣を取る者が多くいた。
「穢され続けてきた世界の、無力な憎しみ」
異種族に蹂躙され続けてきた人間の奥底に染み付いた、彼ら自身の無力感と劣等感への苛立ちが溢れていた。
「だが……それでも、それは怨嗟などではないのだ」
「それは正しき怒りと憎悪」
「涙を流し血を流し、それでも歩くことを辞めない、いつしか希望へたどり着こうという、命の熾烈な叫び」
諭すように、静かに訴えかけるように。
男のその言葉は誰に向けたものだったのか。再び立ち上がる気力を、理不尽な世界への悲しみを、そして悪魔に対する怒りを呼び覚ますため、怖じ気づいてしまった彼らに対しての激励なのか。それとも、悪魔たちに嘲笑られ傷ついた彼女への慰撫だったのか。
「それは総ての怒りと憎悪を清め、我が子に未来を遺したいと願う親達の優しき祈りだ」
「お前たちは……それの、何を笑うというのか」
ラキュースはその言葉をただ静かに聞いていた。力強いその言葉にどうしようもなく勇気づけられて。言葉が心に刻まれるほどに。
正しい怒りを、未来に進むための憎悪を取り戻すために。目の前に立つ彼の背を見て、心を再び震わせるのだ。
「お前たちを絶対に許さない」
男が発したそれは、ラキュースが発した言葉と全く同じもの。ラキュースの言葉が彼女だけの想いではなかったことの証左。
悪魔たちはそれを嘲笑うことは出来なかった。
「へへッ……さぁ、懺悔の時間だぜ。悔い改めろよ、悪魔共──おら、お前らッ! 盾んなれ、盾! 間違っても近づけんじゃねーぞ! 出来ねぇなら、ここで死ね!」
活気づき始める冒険者の一団がいた。
悪魔たちに明らかな動揺が生まれ、アビスデーモンが下級悪魔に対して男の妨害を命じるも、息を吹き返したかのように存在感を再び出し始めたパッチたち、顔を隠した冒険者たちが迎え打った。
男の力ある言葉──魔法の詠唱にも似た、聞き慣れない聖句が、断罪を下す判決文のように悪魔たちには聞こえることだろう。
「──汝は、憎悪に燃える空より生まれ落ちた涙」
「──汝は、流された血を舐める炎に宿りし正しき怒り」
「──汝は、無垢なる刃」
「──汝は、『魔を断つ者』」
男が右手を前に翳すと、黒く焼け、朽ちかけた螺旋の大剣──火継ぎの大剣が宙を割って現れる。
「あれは、剣なの……?」
大剣の、その奇妙な形状にラキュースは眉を顰めた。
それも当然、捻じくれた刀身は刃を持たず、切っ先こそ鋭いものの傍目から見れば戦闘に耐えられるようには思えなかったから。
──男は大剣を手にしたまま、詠唱を続ける。詠唱は淀みなく、正確に綴られる。
冒険者たち──いいや。みすぼらしく、怪しくも見える姿形など関係がない。主の身を守護せんと奮う精神は正しく騎士の如し。彼らの守護があれば、悪魔がこの身を害する事など二度とあり得無いと男は確信しているように。
冒険者の格好をした真の騎士たちの剣戟に交じる男の詠唱が、ラキュースの現実感を無くした。いつか、何処かで読んだような物語の一遍の如く、自身が物語の世界に入り込んでしまったかのように錯覚してしまいそうになる。
ラキュースが私もこんな風に戦ってみたいと憧れるほどに──それ程までに、十年来の主従の如く息のあった戦闘が、目に映るこの光景こそが心を震わせる。
「──荒ぶる螺旋に刻まれた 神々の原罪の果ての地で」
「──血塗れて 磨り減り 朽ち果てた 聖者の路の果ての地で」
「──我等は今 聖約を果たす」
それは過去、現在、未来において最強の聖句。未来永劫変わることのない誓いであり、虐げられたヒトと共にある祈り。
「──其れはまるで御伽噺の様に 眠りをゆるりと蝕む淡き夢 夜明けと共に消ゆる儚き夢」
「──されど その玩具の様な 宝の輝きを 我等は信仰し 聖約を護る」
絶望を切り裂く希望を求めて。明日を夢見る切なる祈りが人々の心に仄かな火を灯すまで。それがいずれ、大きなうねりとなる事を信じて。
「──我は光 夜道を這う旅人に灯す 命の煌き」
「──我は闇 染まらぬ揺らがぬ迷わぬ 不変と愛」
道に迷い途方に暮れる者に方角を指し示し、不安を抱える者にはそれは正しい姿であると肯定しよう。
未来永劫と変わらず包み込む夜が、安らかな休息と人の営みの時であることを誓う。
「愛は苦く 烈しく 我を苛む」
「──其れは善」
「──其れは拒絶」
「──其れは 純潔な 醜悪な 交配の儀式 結ばれるまま融け合うままに産み落とす 堕胎される 出来損ないの世界の その切実なる命の叫びを胸に……」
良心のままにヒトを助け、時に裏切り、同族を損切る。しかし、それこそがヒトの姿。例え、生き辛い不完全な世界だろうと、産み落とされた産声は生命力に満ちているのだから。それを無駄になどさせたくない。
「祝福の華に誓って」
貴方が産まれてきたことを言祝ぐ。
──我は世界を紡ぐ者なり
大剣を振るうと、言葉に応えるようにして焼けた刀身から輝かしい炎が溢れた。
──ドクン……!
「聖者、さま……か、かっこ、いいぃぃ〜」
震える手を祈るように胸の前で組む。
その言葉には、彼女が好む妄想にはない確かな重みがあったから。偽りではない、確かな覚悟が感じられた。虚飾ではない、確かな苦悩が感じられた。
だから、今、彼女の目にはボロボロのローブの後ろ姿が重い運命を背負い、その重圧を跳ね除けようとしている気高いものに見えた。
重力のように、その背中にどうしようもなく惹きつけられるような気がして──先の見えない闇の中、最善の未来を求め、絶望の中で足掻くラキュースにとって、その姿は何よりも尊く映る。
ラキュースは夢見がちで、妄想癖があったが、例え絶望の只中にあろうと心がポッキリ折れてしまうような弱い女ではなかった。故に、彼女のその視線は縋る対象に向けたものではなく、いつか対等に立ちたいという気概すら感じさせる物。彼女は紛れもなく英雄の資質を備えていた。
故に想うのは──私もいつか、その重荷を分かつ事ができたら、ということ……
「私があなたを支えられたら……」
「ボ、ボス……?」
暫くして……何とか指揮を引き継がせたティナが漸く前線に到着した時には──ラキュースの様子は、まさしく恋を患い、覚悟が決まりきった乙女のようだったという。
□
──ガンッ!!
男が火継ぎの大剣を掲げ、敷かれた石畳へとその切っ先を突き刺す。
すると、石畳の隙間から火を噴き上がり、段々とその範囲を増してゆき──周囲がパッと明るくなったと認識した瞬|間、辺り一面、地面から巨大な火柱が幾筋も噴き出した。
噴き出した火柱によって、悪魔たちが吹き飛び、火に耐性のある筈の悪魔の肌を容赦無く焼き尽くす。
「おのれえェェ──!! 許さん! 許さんぞ!」
吹き荒れる炎の嵐の中から、身を焦がしたアビスデーモンが飛び出し、そのまま斧槍を構えて男目掛けて吶喊してきた。
《深淵閃断》
雄叫びを上げ、我武者羅に斧槍を振り回し、邪魔する者全てを断ち切らんばかりの威風。並の者ではその圧力に屈し、身を竦ませたまま切り刻まれる事だろう。
だが──
「ヒヒヒッ……行かせるわけねぇよなぁ?!」
パッチが大盾を構え、斬撃の嵐を見計らってパリィで弾くと、パッチの背後から覆面の騎士たちが飛び出し、各々の獲物を構えて斬りかかった。
鉄兜が黒いマントを棚引かせて突進しながら大剣を突き入れる。
山賊の頭巾が大斧を振りかぶり、上段から勢い良く切りつけた。
傭兵の兜が身体を駒のように回し、双剣にて連続で斬り掛かった。
「グオオオオオォォォォ!!」
然しものアビスデーモンも雄叫びを上げて、その猛攻に対して防御に回るしかない。
そして──
「光射す世界に 汝等闇黒棲まう場所無し」
最後に敵前に躍り出た男。石畳から引き抜かれ、未だ刀身から火を噴き出し続ける火継ぎの大剣を大上段から振り下ろし──大剣から溢れた炎の波がアビスデーモンに向かって奔る。
「グ、オオオォォッ……マダダ……マダ、シナヌ……!」
燃え盛る苛烈な炎がアビスデーモンに直撃し、その身体を炎上させ──
「渇かず、飢えず……無に還れ」
何時の間にか接近した男が、手のひらに生まれた炎をその悪魔の胸に叩き込んだ。
沸騰し沸き立つ熔岩のように、叩き込んだ浄火の炎が悪魔の身体からグツグツと溢れ出そうとし──
「──昇華」
溢れ出そうとする炎が臨界点を突破。爆発とともに炎が吹き荒れ、悪魔は炎の強烈な光に晒され白い影となったまま近くの家屋へと吹き飛ぶ。その場が火の灯りに満ちた。
崩壊した家屋から──アビスデーモンが起き上がって来る事は、なかった。
──さぁ 勝鬨をあげるにはまだ早い 人よ剣をとり立ち上がれ 涙を止める為に 今を生きる為に
──その心にまだ 理不尽に抗う気持ちが残っているのならば
『ウオオオオォォォォ!!』
□
「かっこよかった……本当に。その背中で、その意思で、その言葉で人に道を指し示す」
「聖者とはまさにあの人のような御方を言うのね」
「……ティナ?」
ラキュースが回想を終え、過去の記憶に浸るように目を閉じた。そうして何故かラキュースが自慢するかのように鼻を高くして、何事かをほざいた。
その一見すれば、聖者とかいう素性の明らかでない人物に心酔しているように見える危ない奴を前にして、イビルアイはティナに何とかしろと目配せする。
しかし、彼女はただ肩を竦めるだけ。
「今でも昨日のことのように思い出せるの」
「私を救ってくれた。あの背中こそ、私が目指すものだって」
「あぁ……聖者様は弟子なんて、お取りにはならないのかしら……そして、ふふ……いつかは……」
──彼女の脳裏では、重い運命を背負った男女が互いに助け合って世界の危機に立ち向かう場面が浮かんでいる。
場に奇妙な沈黙が続き──イビルアイが一つ咳払いした。
「確かにラキュースの話に聞く魔法の数々は、私の先生の魔法のそれとよく似ている。そして、信じ難いことに、そいつは私の知る大魔法らしきものすら操るようだ。……それで? その聖者様とやらは、その後どうしたんだ?」
「……」
「……」
「……ん? どうした?」
「それが……粗方、強力な悪魔をお片付けになって、ちょうど戦士長が広場に到着した事もあってか、先を急ぐと仰られてね……私も救出班が撤収したあとで彼方此方を探したのだけど……」
「……行方不明」
「……は?」
イビルアイのコメカミがピクリと、反応する。何でそんな重要な人物をそのまま逃したんだ、連絡先くらい引き出しておけよ、とツッコミが入りそうになる。
とはいえ、あれほどに特徴的な人物たちだ。ラキュースもティナも彼らの内、誰一人として探し出せないとは夢にも思わなかったのだ。唯一顔の割れていたパッチですら王都にいた足跡は影も形も無く、追うことは困難をきわめ、ついぞ辿れ無かったのだから。
恐らく、すぐに不可視可の魔法やら魔道具やらを使い、王都を離れたのだろうと考えられた。
「やっぱり、件の冒険者とはあまりに印象が違いすぎる。あの冒険者には大物のオーラがなかった。それに冒険者証が見えたけど、ただの金級。あの聖者とは到底思えない」
「そうでしょうね。だから言ったでしょ?」
そんなイビルアイの内心を知ってか知らずか、ティナは話を反らすかのように内容をすり替え、ラキュースに迎合する。忍者としてはやはり、情報戦や追跡で実質負けたと言う事を気にしていたのかもしれない。
ティナの言葉にラキュースは当然、とでもいうかのように頷いた。
「ハァ……何故お前はそんなに嬉しそうなんだ。しかし、その聖者とやらは話を聞く限りでは立派な御仁のようだ。……私の先生は話せなかったから筆談かジェスチャーばかりだったが、もっと雑で巫山戯たことばかり言う人だったからな」
「仮にその聖者が先生の血脈にあるとしても、こうも違いがあるのだな……」
そうどうしようもない人だった言いつつも、イビルアイの表情はどこか懐かしそうだった。
「やはりあの冒険者はただの他人の空似で……聖者こそが先生と何かしらの関係を持っている可能性の方が高いのか……」
イビルアイの懸念。あの冒険者と聖者は、先生との間にどのような関係を持っているのか。子孫にあたるのか、弟子筋に当たるのか。
──だが、本当にそうなのか?
先生が使っていた魔法と聖者の魔法。
先生と冒険者に共通しているという、酷似した容姿。
聖者が消えた場所にひょっこり現れた、先生に似た容姿の冒険者。
──今はまだ答えを出すことは出来ない、か……
一端、そう結論づけたものの、イビルアイの胸にはスッキリしないものがある。もしも聖者の容姿が確認できていたら、確信を持てていたのかもしれないが……残念ながら聖者はフードを目深に被っており、容姿を確認することが出来ていなかったことが悔やまれた。
「はぁ……聖者様は今どちらへいらっしゃるのかしら……きっと今も誰かを助け、導いているのでしょうね……くぅ〜! 私も世界を危機から救う旅がしてみたいわ!」
聖者様……と再び物思いにふけったかと思えば、何故か身悶えし始めたラキュース。
「鬼ボスがヤバイ奴になった……」
もしもティアがこの場にいればリーダーは元々ヤバイというツッコミが入っていたかもしれない。
「……それで? もういいか? 今度は私の話をしても」
イビルアイが苛立ち紛れに言い放つ。その声に不機嫌を悟ったのか、二人は態勢を整えるためにサッと身動ぎした。
「え、えぇ……ごめんなさい。お願い」
「ハァ……さて、どこから話そうか……そうだな。私が先生と出会ったのは────」
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26.クレマンティーヌ・ユリ編※1
──辺り一面、どこまでも続いているかのような草原に風が走り、緑の頭を撫でてゆく。
中高丈の草が揺らめき、ザワザワとした葉擦れの音を奏でた。天を仰げば、遮るものなどない空は広く、青く澄んでおり、上空を飛ぶ大きな翼を持つ鳥が弧を描いた。
遠目に見える都市は照らされた太陽の光で白く反射しており、城門前には王都へと出入りする群衆が見て取れる。人々の活発な交通を思えば、つい先日、悪魔が襲撃するという大事件が起きたとは思えない様相をしていた。
「あぁ、まったく。今日は朝から散々だった」
「楽しみにしておられた観光が出来ず、災難でございましたね……たしか、それには市場の調査も兼ねていらしたと聞きましたが」
「あぁ、市場の調査自体はすでにセバスが済ませているのだがな。それとは別に、その土地その土地で積み重ねた文化、という点ではもっと見るべきものがあったと思う」
木陰で横になり休息する冒険者風の男と、目立たない外套で身を包んだ装いで、横になる男の頭を自らの膝へと乗せたまま微笑みを向けているのはユリ・アルファ。本来、もう一人いるはずのクレマンティーヌの姿はその場にはない。
風が二人をふわりと撫で、サアサアという葉擦れの音を奏でる。木漏れ日が差す。眠気を誘うような穏やかさがその場にはあった。
男の言う『散々』とは、王都を発つ前に周辺の有名店を観光がてら見て回ったり、街の復興作業や教会で炊き出しが行われるのに合わせて市が立っていたので、それを冷やかす腹積もりであったのが、屋敷を出て早々、蒼の薔薇のチンチクリンに遭遇し、執拗に絡まれ、逃げるようにして単独で王都を出てきてしまったことにある。
メッセージによりユリとクレマンティーヌに連絡したのが城門を出て暫くのこと。男が城門を出るまで蒼の薔薇の斥候による尾行を受けていたこともあり、ユリとクレマンティーヌにも尾行への警戒を促しつつ、三人それぞれで都市からの出立、合流は都市外で行われる予定となっていた。
この場にクレマンティーヌがいないのは、合流地点に彼女がまだ辿り着いていないことが理由だった。
「文化、ですか」
それはユリの主である男が調査しようとしていた対象。
「あぁ。まぁ、文化といっても様々なんだろうが」
曰く、今回、調査するつもりだったのは料理やら農業分野について。他にも言語、宗教、音楽、絵画、哲学、文学、衣服、法律、と調べてみたいことは多々あった。
「……何故御方様は人間の文化を見るべき所があると判断なされたのですか?」
「うん? ……まぁ、端的に言えばそれが今後のナザリックに取り入れるに足る知識かもしれないからだ」
そもそもナザリックにはこの世界で生きてゆくのに必要な常識が不足していることが多々あり、それを補うためには積極的に情報を収集していく必要がある。その情報の重要性については、以前、モモンガと話し合った時にも意見は一致していたのだ。
故に今回の調査はその一環とも言えた。
文化は生活をより洗練させ、豊かにする。
だが、自らの文化を洗練し、新たな価値を生み出すという点でいえば、ナザリックの
男がそう説明すると──
「そうでしたか……申し訳ありません。やはり私達は至高の御方々の求めるものに応えきれていなかったということなのですね……」
ショックを受けたように沈んだ声を出した。
分かっていたことだ。ユリの主がナザリックにではなく、外の世界にこそずっと興味を向けていることに。
ナザリックに帰還してくれたことは本当に嬉しかった。でも、こうして人間の文化に興味を示している姿を目にすると、もう至高の御方の興味が自分たちから外れてしまったように感じられて寂しかったのだ。
「どうして、そんな悲しそうな声を出す……? 恐らく考えているだろう、お前達に失望したとかではないのだが……」
「はい……」
「俺が不向きと言ったのは、単純に生活集団としての大きさが違うというのもあるだろうし、そもそもナザリックには学者や音楽家、画家、美術家といった所謂文化に造詣の深い者が少ないことも理由だからな?」
結局、男はユリが何を最も気にしているのか、気づけなかった。
「気になる事があるなら言うんだぞ」
と、言うもユリは理由を話すことはない。そんなこと伝えても主が困るだけだと分かっていたから。おまけに主に気を使わせてしまったことも、更にユリの気分を沈ませた。
ユリが現在進行形で落ち込んでいる様子を気にしながらも、男はよいしょ、と頭の位置を膝近くの浅い場所に直し、頭でトントンと枕の塩梅を確かめる。ユリの膝は適度に柔くて、鼻から深く息を吸い込むといい香りがした。──そんな行為だけで、心持ち、ユリの機嫌が持ち直す。
男は頭の中を整理するように話し始めた。
「人間種は社会を形成し、営みを向上させる過程で知性やら教養をより洗練させてゆくものだが、そういったものはただの知識のみならず、技術であり、娯楽であり、時には厄介な武器にもなる。そして、それが高じれば文明となり、発展は飛躍するんだろう」
「文明に、厄介な武器…………もしや御方様方は、それらが私達を害するに足る力になるとお考えなのですか?」
──ユリが男の言葉の含みを察したのか、腰を屈めて顔を覗き込みんだ。腰を屈めなければ、大きな胸が邪魔で主の様子がよく見えなかったのだ。首をとってしまえば、そんな事は全く関係なくなるのだが……流石に人間種の生活領域でそのようなことはしなかった。
ユリとしては全く意図のない行為であったが、もう少し深く腰を屈めていれば、パフパフになっていたのだが……男はラッキースケベを逃した分、内心で残念に思った。
「オシイ……」
「おしい? 何か認識に間違いでも……」
「あ、いや…………今は何の問題もない。だが、いずれ俺達にも届きうる……そんな力が生み出される可能性はあると俺達は考えている」
「な、まさか、人間が至高の御方を害するような力を……? もしそうならば危険です……! 人間は愚かで、自制というものを知りません。もしも、愚かな人間が大きな力を手にしてしまえば使わずにはいられないはずです!」
無論、それは、あくまで可能性の話ではある。
男の脳裏に残っているのは、終わった世界の有り様。文明を発達させ、技術を高めた先に待っていたのは破滅した世界。
「…………そうだな。ユリの危惧する通りだ」
前世の記憶のある男には受け入れがたい記憶──だったのだが、ユリの感情に合わせてか胸が上下左右に弾み、男の頭の上、至近距離で大きく揺れ踊るのを見た。割とシリアスな男の記憶を容易く吹き飛ばした。
「やはり、御方様は既に同じ懸念をっ。で、では、すぐにでも対策をしなければ──」
「ンンッ……まぁ、落ち着け。いずれ、そうなるかもしれない、というだけの可能性の話だ。それに、仮に今、俺達が文明の発展を無計画に圧倒的な力で抑制したとしても、反発し、世界の覇者になれると勘違いする愚か者はこれから先必ず出てくる」
何時もと異なり、いささか過剰ではないかと思うくらいに逸るユリを諌め、男は待ったをかけた。
「ですが……」
「──あぁ、そういえば、モモンガがデミウルゴスに世界征服について零していたらしいじゃないか」
「っ! はい。デミウルゴス様からの言葉を受け、私達下僕はこの世界──ナザリック地下大墳墓を飾る宝石箱を至高の御方に献上するための準備を進めています」
突然の話題の転換に面食らいながらも、その内容にユリの表情が驚愕に染まる。
男がモモンガとこの世界で再開し、話し合った際にはモモンガはそんな事一言も言っていなかった。だが、男が守護者達や他の下僕達と交流を図る一環でナザリック九階層にあるバーで親睦を図っている際に、同席したデミウルゴスが必ずや御方々に世界を! と、意気込んでいたのだ。
「……ここだけの話、俺達は国を興すことになるんじゃないかと思っている」
「!!」
「ナザリックの戦力は周辺でも抜きん出ているし、ナザリックの皆は蔑んでいる人間種の下につくことを絶対に良しとしない。まして人間形態をとれる奴らなんかは別として、ナザリックには多くの異形種がいる。干渉を受けず、独自の戦力を維持するにはそうするしかないからな」
「そ、それは道理を辿れば確かだと思います」
異形種は強力なスキルを持ってはいるが、個体数は少ない。そして、姿形が異なり、人間の視点ではモンスターに近いこともあって迫害を受けやすい。そんな彼らが人間種に容易に受け入れられるものだろうか。いや、それはあり得ないと男は言う。
突然の話題の転換があったと思えば、その衝撃の内容にユリはドギマギしたままだ。
「……ナザリックは俺達にとっても思い出深い場所だし、お前達は友人たちの忘れ形見も同然。その為にモモンガが必要だと判断すれば、俺も何処かで手を貸すことになる」
「──つ、つまりは、私達ナザリックの同胞達の居場所を作り、その際は御方様方が
「……ん? まぁ…………そうなるか」
「す、素晴らしいと思います、御方様!」
興奮気味に、一気呵成に言い切るユリ。その表情が明るいせいか、死体でありながら上気しているようにも見えた。
ユリの圧力に同意してしまった。困難な展望ではあるが、そこは類稀な頭脳を持つデミウルゴスやアルベドに丸投げする気も満々で、後は良きに計らえ〜のスタンスで行こうと男は考えていたからだ。
故に、統治者として君臨しようなどとは、これっぽっちも考えて居なかったのだが……
「御方様もアインズ様も、既にそこまでお考えに……あぁ……至高の御方が治める国とは、どんな素晴らしい国になるのでしょうか…………ぁ……しかし、あの……宜しかったのですか……? そのような大事なことを私のような一介の侍女などに話されてしまって……」
「護衛を兼務する侍女が一介の、な訳ないと思うが……」
「し、しかし、そういったナザリックの運営に関わるような話は領域守護者の皆様方の間で共有すべきで……」
「デミウルゴスとアルベドなら既に予期してそうだが……まぁ、ナザリックがどうなるかは、これからモモンガが周辺諸国とどう付き合っていくかにもよる。まだ未定の話だ」
「そ、そうなのですか……」
「……まぁ、それでも知識の収集は必要だ。しかし、上流階級と相対するとなれば少々面倒だな……話を聞く限り、貴族連中は市井の民を家畜か雑草か何かとしか思ってないみたいだからな……どこの世界でも変わらないってことか……」
人間種の上流階級では特定分野の教養を身に着けることは必須。それに加えて、周囲より優位に立つために文化人を後援したり、投資してより洗練させることも盛んだった。故に、文化的には豊かとは言えるのだが……
それにしたって、王国では貴族の評判が悪すぎた。傲慢で、欲深く、愚か。出来れば付き合いたい人材ではない。
「あー……元々は何の話だったか」
「元々はナザリックに取り込める文化とは、という話でした」
「あぁ、そうだった。それには、他にも理由があってな──」
男曰く、一見、ナザリックにはナザリックならではの独自の文化があるように思えるが、それらは元々はアインズ・ウール・ゴウンのギルドメンバーが既にあるモノをナザリックに持ち込んだだけであって、ナザリック内で発生、展開したものではない。
ナザリックでの生活に則したものでもなく、試行錯誤や積み重ねがないものだと言う。現に、ギルドメンバーが持ち込んだ娯楽文化は数多くあれど、転移直後は生活上のルールや習慣といったものが欠如しており、少なくない混乱が起きていたようだ。
しかし、それは確かに大変ではあったが、今では落ち着いている。何がいけないのだろう、とユリは内心で思った。
「現状、ナザリック地下大墳墓の運営は上手くいっておりますし、ナザリックが素晴らしいことには変わりないと思いますが……」
男は苦笑した。
「悪いという訳ではないが──ユリ、お前達はこう思うことだろう。俺達が持ち込んだものを大事にしたいと。それが最上のものであると心から信じている」
「そ、それは当然のことですし、事実、最上のものと誰もが認識しておりますが……?」
「……そのせいか、お前達には俺達ギルドメンバーが齎したモノに縛られ過ぎて、変化を拒む傾向がある。確かに俺達が持ち込んだモノはこの世界と比べても高度に洗練されているだろうが……俺達が持ち込んだモノばかりをいつまでも大事にしているようでは、進歩がないともとれるぞ」
「……御方様は意地悪です。私たちにとって至高の御方々が齎した知識は当然遵守されるものとお分かりでしょう。それを蔑ろにすることなど、私たちには到底出来ません」
その理由について理解はしたようだが、ユリは眉根を寄せ、子どもが拗ねるかのようにムッとして顔を背けた。頭では理解しているが、感情が受けつけない。許される範囲内の、ささやかな反抗とばかりに。
男がそんなユリの頬に掌を当てると、彼女は驚いたのかビクリと肩を震わせ、パチクリと目を瞬かせた。
「別に捨てろと言っている訳でもない。変えたくないものは伝統として残せばいいし、逆に伝統となったものには歴史という重みが加わる。……あぁ、それにナザリックに外の知識を取り入れると言っても、それをそのままにという訳でもない」
「?」
「例えば、ユリの得意な料理。……ナザリックの資源は有限。現状、ナザリック内で消費する食料は外部に頼らざるをえない。その地で生産される食材を限られた条件下で最大限に味わい、利用するためにはどう処理したらよいか、それは現地の者に聞くのが一番早いとは思わないか? 何しろその知識は俺達よりも長い時をかけて見出したものだ。ナザリックの調理技術は高いが、別に参考にして悪いということはないだろう?」
「そう、ですね……そういうことならば……皆にも受け入れやすいかもしれません。私ならコックのクラスを取得していますし、模倣も容易いと思われます」
それは確かに、とユリがやや悔しそうに言い、続けて男が所感を述べる。
「あぁ。良いものは形を変えて取り入れ、新たに生まれた技術は本当に有用なものか見守る程度でいい。ナザリックでの生活を豊かにし、発展させるために人間社会を利用してやると考えればいいさ」
「はい」
「──それにな、少ししか見ることが出来なかったが、市には見慣れない野菜やらが多くあって単純に面白かったぞ。それを使った料理も市井のものとしては相応に洗練されていた。この国の貴族はどうしようもなく腐敗しているが、やはり土地としては豊かなのだろうな」
「……あ、あの。もし、また調査の機会がある際には、宜しければ私も同行してもよろしいでしょうか……? 実食は出来ませんが、市に興味が湧いてきました」
「おっ、そうか! なら今度一緒に見に行こう」
「──はい、よろしくお願いいたします」
ユリが発したのは、緊張を含む声音。それは男の調査という名目の食べ歩きに参加したいという内容だった。それに男は特に思案することもなく了承した。
ユリが笑みを零す。
調査を兼ねてではあるが、あっさりとデートの約束を取り付けることができ、ユリは嬉しそうに男が見えない所で小さくガッツポーズした。新たな調理技術を身につけ彼女の主へと振る舞う事ができれば自身の成長も見せられ、かつ男に『おいしい』と喜んで貰えれば満足感も達成感も得られる。
──そして、それはいずれ訪れるだろう『正妃戦争』の前準備にもなる。今から出来ることをしておいて損はない、という未来を見据えた思考を隠して。
それは自身を顧みずに、真摯に主へと忠誠を捧げていたユリとしては珍しい変化。
「……ぁ、少し髪に癖が……御髪に手を入れさせて頂いても宜しいでしょうか?」
男が首肯した。
「失礼いたします」
吹き抜ける風が再び木の葉をざわめかせ、乱れた髪を手櫛で直す。心地よい感触と穏やかな空気に眠気を誘われたのか、男が欠伸をした。
□
──ユリは、自らの膝の上で目を閉じた主を見守るとともに回想する。
つい先日、男とともにユリがナザリックに帰還した際、守護者統括であるアルベドと話す機会があったのだ。
『ユリ……任務、ご苦労様でした。貴女は今後、御方様付きの側付きとなりナザリック外の行動が増えることになるでしょう。申し付けた任務は今後も継続。放浪癖のある御方様が万が一にもナザリックを出奔する事態にならぬよう、しっかり繋ぎ止めなさい』
『はっ』
ここ、執務室の主であるアインズは不在。現在はナザリックの外で活動しているため、留守を預かるアルベドが任務の報告を受けたいた。
といっても、その任務自体はアインズには共有されていない。アルベドが秘密裏にプレアデスにオーダーしたものであった。
『……それとね、貴女の報告書には少し説明の足りない箇所があったのだけど……』
『っ、も、申し訳ありません。訂正して再度提出させていただきますので、それまで暫しお時間をいただきたく』
『……いいえ、それには及ばないわ。報告書自体に不備はない。ただ、ちょっと……個人的に気になったところがわからなかったものだから……今、口頭で説明して貰えたら、それでいいわ』
『は、はぁ、そうですか……それで、気になったところとは……?』
ユリは報告書を過不足なく仕上げていたはずなのだが、アルベドの視点からは不足している点があると見受けられたらしい。ユリは驚きながらも、その不足が何であるのかを問うた。
『ユリ、貴女がどのようにして御方様に食べられるに至ったか──いえ、違うわね。食べるに至ったかについてよ』
『……………………えっ?』
理解しがたい指摘に思考が停止、投げ掛けられた言葉を何度も頭の中で反復したが、ユリはついぞ理解する事が出来なかった。
『貴女は……いったいどのようにして至高の41人の一人を落としたというの? 報告書にはそこらへんの諸々の記述がまるっと抜けているじゃない! 一番重要なところが! さぁ、報告を!』
『は、えっ、と……そ、それは……ボクの口からは、とても……』
『口に出来ないような事までしたというの!? 口に出来ないような行為って一体何!? いいえ、逆にそこまでしなくては、至高の御方を惹き付けることは出来ないということなのかしら!?』
『え、えぇ? そ、それは何とも……』
『クッ……ユリに勝者の余裕が見えるわ。私だって、アインズ様に全てをお捧げする覚悟は既に決まっているのに……アインズ様が望むなら、いいえ、望まなくたって✕✕✕な事や、✕✕✕な事だってするのに!』
『……』
鼻息荒く、突然、卑猥な単語を含むセリフを叫ぶ上司に、ユリは頬を引き攣らせた。この上司は確かに優秀なのだが、ことアインズが絡むと一気にポンコツになってしまう。
とはいえ、それでも仕事への影響はないため、周囲は若干呆れつつもスルーするのが常となっていたのだが──
アルベドの様子がスン……と一瞬で変わり、つい先程までポンコツ化していたとは思えないほど、冷徹に未来を見据える目をしていた。その目の奥に宿るのは野望だろうか。
『──ねぇ、ユリ』
『……はい』
『私と協力協定を結ばない?』
『えぇと……』
そこで何を思ったのか笑みを浮かべたアルベドがユリに提案をした。しかし、ユリはその唐突すぎる提案の意図がわからず、気のない返事を返してしまう。
──それはアルベドの優秀な頭脳が導きだした、いずれ起こるだろう『正妃戦争』を勝ち抜くため、愛を勝ち取るための策。
婚活とは暗闘に他ならず、自身の成長性と如何に自身が妃として相応しいかを今からアピールしていかなければならないという認識をアルベドは持っていたのだが、そんな彼女にはユリが危機感を欠いているよう見えた。
そして、アルベド自身も足りないものを自覚しており、欲していた。
『──ユリ、貴女には危機感が足りないわ。確かに御方の寵愛を得られたのは素晴らしい事……でも、それが永劫に続くとは限らない。御方の周囲には邪魔者がいることを忘れていないかしら』
『それは……』
『貴女が望むなら、彼女を排除するための計画を考えてあげてもいいわ』
『た、確かに彼女は気に食わない存在ですが、排除するつもりだなんて、もう私は……それに彼女は御方様の眷属で……』
『何を悩むことがあるの? いつかきっと彼女は貴女を出し抜いて排除しようとするわよ。その前に排除しなくてはユリ、貴女が不幸になるのよ?』
『ですが……』
アルベドはため息を一つ吐いた。
『……セバスやペストーニャもだけど、貴女達は本当に甘いわ。最悪の未来が見えていないのかしら。……そうね、一度、貴女の想う幸福な未来を想像してみなさい。結婚式なんかが丁度いいかしら』
アルベドはユリに未来を想像することを促す。
『ナザリックで執り行われる厳かな結婚式。偉大な御方へと愛を捧げ、誓いと接吻を交わす。それを見守り、祝福する参列者。──思い浮かべなさい』
唐突な提案。若干の訝しさを感じつつも、ユリはその言に従う。
ユリの脳裏に浮かぶ挙式の光景。純白のドレスを身に纏い、御方の側に寄り添う、幸せそうな自身の姿を。
正礼装を身に纏った御方がユリの姿を見て、綺麗だと言った。ユリの頬が緩んだまま、締まらなくなった。
妄想の中の、御方の顔が段々とユリに近づいて、優しく唇を──
『はい、次』
『あっ……』
ユリの表情が緩んだのを目敏く見抜いたアルベドが、無情にも断ち切った。
『今度は初夜にしようかしら? 結婚式、その日の晩、それはもうめくるめく夢のような快楽の園が待っているのよ』
『お互いに裸になって✕✕✕や✕✕✕、はたまた✕✕✕なこと、✕✕✕なことまでして互いの愛を確かめるの。私もしたいわ……いえ、いずれしてみせるけど』
困惑しながらも……その言葉で思い浮かんだのは、つい先日のあの日のこと。
ベッドに押し倒されて、強引に、でも優しく、激しく犯された。初めてを奪って貰った。
想像の中の彼女は主の上で快楽を求めて浅ましく踊り狂っており……蹲りたくなるような恥ずかしい記憶を頭を振るって無理矢理に掻き消す。
『…………あの? これにはいったいなんの意味が……』
未だに脳裏に残る羞恥を隠すように眉根を寄せて、アルベドに尋ねた。
『女なら一度は妄想するシチュエーションだと思うけど?』
『仮に幸福な場面を思い浮かべるのであれば、その……結婚式だけで充分だと思うのですが……』
『あら、とんでもない! 儀式だけで婚姻が結ばれる訳ではないのだから。いわば、これは結婚式の延長よ! 初夜に男女が一体となり、性行が成されて初めて婚姻が成立するのよ!』
『そ、そうなのですか? 知りませんでした……教えて頂いてありがとうございます。危うく恥を晒すところでした』
いいのよ、とアルベドが微笑んだ。
『そこから始まる新婚生活というのはとても甘くて──、……いえ、甘いばかりではないわね』
『至高の御方々が住まわれていた世界には、新婚の伝統的な問い掛けがあるとか。確か、お風呂にする? ご飯にする? それとも私? ……だったかしら。その問い掛けで私を選ばれないと、その後の新婚生活には暗雲が立ち込めるらしくて……なんて恐ろしい……あぁ……私達には準備しておかなければならないことが多過ぎるのよ』
想像の中の自分。主であり、夫である御方の帰りを出迎え、問い掛けた。その答えは──
『……』
『想像はできたかしら。それが貴女の愛しいあの御方の一番近くにいられる幸せな唯一の道。貴女は考えないのかしら? 愛する御方に不測のもしもの事態があった時、身近にいる私が盾となり剣となり、その身を守護したいと。私の持つ全てをあの御方に捧げたいと……』
そこには愛を語る女がいた。愛が深く、大きすぎて、精神を壊しかねない化け物がいた。アルベドが左手の薬指に嵌められた指輪を愛おしげに撫で、言った。
『……その想いはわかります。私が御方様のために出来ることは何なのか、御方様の願いを叶えるためにはどのようにしたらよいのかを。御方様の歩みの前に立ち塞がる障害は全て、ボクが排除して差し上げたいと常々思っています』
しかし、ユリもそんなアルベドを目にしても恐れることは無かった。そんなユリに真正面から目を合わせられて、アルベドは微笑む。
『そうね、それも愛ね。……だけど、想像してもみなさい。貴女が障害の排除に現を抜かしている内に、何処ぞの売女が御方様を誘惑して、御方様の愛が奪われでもしたら……私ならもしも……もしも……アインズ様との幸せな空間が壊されでもしたら──殺意しか沸かない』
その怒気に空気が悲鳴をあげた。重圧がユリの体にものしかかる。
『いいえ、殺意という言葉では済まされない』
『何度でも繰り返し甚振り、挽き肉になるまでぶち殺して……』
『自身がした行動がどれだけ罪深いものなのか思い知らせるわ』
『っ……』
アルベドがギリギリと歯を喰い縛り、地獄から響くような呪詛を吐き──ふ、と空気が軽くなった。
その絶望的な未来にユリは絶句した。今しがた想像した幸福な未来が自分ではない誰かのものになる? 想像しただけで目の前が暗くなるように錯覚する。アルベドの怒気によるプレッシャーなど比較にもならない苦痛だった。
目の前の守護者統括の狂おしいほどの感情が、ユリには嫌というほど理解出来てしまった。
『だから、私はアインズ様の正妃になることを目指すのよ。あの御方の一番である事は必ず確定させておかなければならない。それに、もしも一時の気の迷いがあったとしても、最後に帰ってくるのは結局は一番の所なのだから、ね』
『……』
『ユリ、貴女も心配でしょう? あの御方もモテるもの』
『……それは』
そう言うとアルベドは感情が抜けたようにうっそりと笑い、ユリに機械的にも思える同情と哀れみの込められた金色の瞳を向けたのだった。
だからこそ、そんな未来を回避するために、現状を正確に見抜いていたアルベドは協力協定を提案し、ユリにはその提案を呑むしかなかった。
そして、お互いの幸せな『結婚』を手に入れるため、定期的に情報交換をしてゆくことになった。
──ユリは守護者統括の優れた頭脳から生まれる知恵を頼りに、起こり得る戦争に備えるため。
──アルベドはユリの持つ実体験から学んだ経験則と、彼女が手に入れた情報を自身の糧にするため。
正直なところ、ユリ自身はアルベドと話をするまでは、自らが正妃になろうとは全く考えもしていなかった。
心の何処かでそういった立場を求めていたのは否定できない。しかし、顕在意識下においては、自分には下僕の立場を越える分不相応な望みとすら考え、思考から排除していたほど。
だが、守護者統括と話す内に自身以外の誰かが御方と慕う男性の最も近い場所に侍ることがどうしても嫌なのだと再確認して、認めてしまった。そして出来る事ならば御方の視線と寵愛を独り占めにしたい。ボクだけを見ていて欲しい、と。
誰か他の女と仲睦まじくしている様子を端から見せられるだけで醜い嫉妬心がジクジクと、ユリの心に滲んでゆくことを自覚してしまった。
しかし、独り占めしたいという感情の反面。生真面目なユリは主を縛ることなど出来ないし、してはならないとも思っていた。この醜い嫉妬心を抱えてゆくしかないのだとも諦めていたから。
──でも、もしも……もしも、分不相応なこの身が正妃という立場を得られたのなら……?
主に最も近い場所だけは誰にも渡さない、あの御方の一番はボクだ──そんなプライドを持つことができる。心に余裕を持つための手段にもなる。
それはとても魅力的だった。
ただ……
『ですが、下僕如きが主の伴侶の立場を望んで本当によいのでしょうか……? ボクでは分不相応では……』
『貴女、正気?』
ユリには下僕如きが主の伴侶になるなど不敬では、という不安もまたあった。それをアルベドに尋ねれば鼻で笑われて、ユリは本当にお利口すぎるわね、とまで呆れられるように言われ驚いた。
曰く、アルベドの中では、そんな事は本当に些事でしか無かったらしい。
『それを不安に思うなら努力しなさい。相応しいと思えるまで自身を磨きなさい』
そして、善性は美徳だし、人の信用を得るのに役立つが、戦争の役には立たない。まして、いずれ伴侶として至高の御方を支えることを望むのであれば、優れた知性と悪意を跳ね除ける強かさを得なければならない、と。
遠慮や謙遜、譲り合いでは勝てるものも勝てなくなってしまう。ユリが身につけるべきものこそ、傲慢さと狡猾さなのだとアルベドは言った。
『これから貴女が立ち向かわなければならないのは、蹴落とし合いが日常の、そんな世界。貴女が善性をよしとするほど、御方様が苦労すると知りなさい』
とはいえ──現状、レースは始まってもいない段階。みなし候補の一人であるクレマンティーヌなどは正妃として論外の評価だが、男の内面を理解しているという点では口惜しいがユリは後塵を拝していると言っていいだろう。
彼女は何故かナザリックの下僕たちでも知らないような主の過去の冒険を、伝説を知っているよう口振りをすることがある。しかもそれは伝え聞くような曖昧としたものではなく、自身で実際に見てきたかのような、ともすれば彼女自身も主の側について冒険してきたかのような、はっきりとした確信を持ったもの。
男の異名である薪の王が忌むべき名であることや、本来は闇の王と呼ばれるべきなどと宣うには、伝え聞くだけの情報では至れないし、『知った』というだけでは、あの日ユリに打ち明けた覚悟など持つ事など出来ないだろう。
──そして、もしもそんな彼女が御方に相応しい振る舞いや実力を身に着けてしまったのなら……それはユリにとって恐ろしい敵になるとしか言いようが無かった。
とはいえ、ユリが彼女の様子を伺う限りでは、彼女も御方に強く執着し、側に侍る女人を選別し始めているようだが、意外なことに正妻と言った立場には不思議なほど関心がないように見えた。
彼女は彼女で、男を常世の『神』と広しめるための同士を探しているということなのだろうか。
……また、ユリ自身あまり考えたくなかったのだが、今後女の影が増える可能性もあった。
なにしろ、ナザリックの面々の認識では彼の御方は女を惹きつけ、虜にする魔性──ユリが寵愛を受けたと噂が広まったせいもあるだろうが、現に何時の間にやら、ナザリック配下の一般メイドの中には男に熱っぽい眼差しを向ける者が何人も出始めた。
『そうだ。いい物があるわ。最古図書館にあった書物なんだけどね。それを呼んで少し意識を高めるのもいいでしょう』
そう言ってユリは笑顔のアルベドから、
アルベドに指摘され、ユリは現状の危うさを漸く認識した。そして、正妃を目指すからにはそうした女性への牽制や統制の役割も求められることになる。
だからか、ときたまユリは獲物を狙うような鋭い目つきを主へと向けるようになった。
自身の成長性や主の側に立つ覚悟を示し、正妃として相応しい作法や思考、実力の下地を有していると、アピールするためにはどうしたら良いのかを考えながら──
「──チッ……ちょっと目を離したらすぐこれだ。何、堂々といちゃついてんだ」
そこへ──どこか不機嫌そうな声音で二人の空間に割り込もうとする者がいた。見ればそこには、いつの間にやら近くに来ていたのか、黒い外套で体を覆い、フードを深く被っている、如何にもな怪しい人物、クレマンティーヌがいた。
「べ、別に、いちゃついてなど……」
「……あー? はいはい、初々しくてよろしいことですねー。見てるコッチが小っ恥ずかしくなるっつーの」
「遅かったな」
「ハァ……やっと追いついたっての。もう、急に王都出るとかやめてよね。日陰者にはそれ用の出入り方法ってモンがあんだからさぁ。しかも、やっとこさ追いついたらコレだ。流石にムカつくぞ」
男が身を起こしてクレマンティーヌに視線を向ける。男から言葉が発せられると、彼女は手をヒラヒラと振って返した。膝から心地よい重みと温かさがなくなり、ユリは少しだけ寂しそうにした。
「……お前もする?」
「バッカじゃねーの!」
ギッ! とクレマンティーヌが男を睨みつけた。どうやら最後の待ち人も合流を果たしたようだ。
□
先行して王都を発っていた男の元にユリとクレマンティーヌの二人が合流した。王都からの追手がないかを確かめつつ、三人は一路エ・ランテルを目指して移動を始める。
移動は徒歩のため、時間は相応にかかるし、三人に疲労はないとはいえ労力はかかる。無論のこと、徒歩以外にもっと早い移動手段などいくらでもあったのだが──
三人組の一人であるユリも転移門等によりさっさと移動してしまった方が良いのでは、と純粋に疑問に思い、隣で歩く主へと尋ねる。
「転移門か飛行のマジックアイテムで移動してしまった方が早いのではないでしょうか? これでは、御方様のお時間を無駄に浪費することになってしまいますが……」
「……表向きには、この三人組は魔法詠唱者ではないことになっているからな。それに俺は一般の金級冒険者だ。仕方ない」
「仕方ない、ですか……確かに魔法詠唱者では無いはずの三人組が魔法を行使するのは可笑しなこと。低級の冒険者に擬態する上では避けて通れない道理ではあると思いますが……」
「……擬態では普段からの行動にも常に気を配らなければならない」
「それは確かに……おみそれ致しました。仮想とはいえ敵地への潜入中、いかなる隙も見せるべきではないという姿勢……未熟な身、学ばさせていただきます」
「あ、あぁ……」
だが、それを仕える主である男に尋ねれば魔法詠唱者でもない金級の冒険者が魔法を行使するのは不自然でしかないと言う。
そして、ふと思いついたかのように付け加えられたのは、周囲を探知していたとしても万全とはいかず、何処かで転移や飛行を目撃される万が一の可能性。仮に何者かに監視を受けていた場合、移動しているはずなのに既に目的地で活動していたという時間的な齟齬を不審に思われる可能性があると言われ、ユリは、なるほど、流石は御方様、と疑う事なく納得した。
「さっきから聞いてたら、それっぽいこと言ってるけど……ねぇ?」
──と、何だかんだと移動を急がない理由を説明していたが、男にとって、ユリに説明したそれらは結局ただの建前。気づいているだろうクレマンティーヌから向けられている生温い視線には目を合わせない。
本当のところ、移動が徒歩になったのは男がただ単に歩くのが好きだったり、豊かな自然や風景を眺めながら過ごす時間を好んでいたことが移動方法が理由だったりする。ユリは知らなかったが。
そして、もう一つ。
移動が徒歩である事の理由は納得できたものの、ユリ自身、烏滸がましいとは思ったが、主がそもそも何を目的として冒険者などしているのか、掴めずにいた。
この世界における冒険者など、ただのモンスター専門の掃除屋に過ぎないというのに──
彼女の主はなかなか自身の行動の理由を話してくれない。それは成長し、自らその答えに辿り着いて見せよ、という意思にユリには捉えていたのだが、上司の一人である統括守護者のアルベドや、ナザリックで一二を争う知恵者であるデミウルゴスであるならばいざしらず、ユリはそういった柔軟性が必要な知恵働きには向いていないことも自覚していたから。
無論、論理的に考えること自体はむしろ得意だ。これ迄の主の行動を繋ぎ合わせ、何処へ向かおうとしているのかを予測する事が出来れば良かったのだが……その主の行動は一貫性が無いようにも思え、予測がつけられなかった。
時に低級の冒険者に扮し、時に正体不明の聖職者に成り切る。
冒険者に扮したのはより市井に近い情報を得るためとも思えたが、そんな情報
一方で、聖職者に扮してはゲヘナに参戦し、冒険者モモンと同じく多くの人間に希望を持たせた。しかし、結局その正体を広く知らしめることも無く、現状では旅の神官が
故に悩ましい。主の求めている未来がわからない。そう悩む内、いつの間にやら、ある種の不満にも聞こえるような言葉を口に出してしまっていたらしい。
「……そもそも何故御方様程ともあられる方が低級の冒険者などに擬態を……? せめて御方様には金級などではなく、最低でもアインズ様と同じくアダマンタイト級の階級証が相応しいと思うのですが。至高の御方が低級など……正直、現状に納得ができません」
「それでは……少し都合が悪いからな」
「……プククッ。神は面倒事が大嫌いだものねー?」
「オイ」
男はその質問に答える事はなかった──が、クレマンティーヌが男にだけ聞こえるように小声で囃し立てる。
現にその揶揄は的中しており、アダマンタイト級冒険者になって責任を背負うのも、行動の自由を失うのも御免だなどとは自身に尊敬の念を向けているユリの手前、言える筈も無かったから。それを言ってしまえば、ナザリックに帰還し、私達、下僕たちの主として再びナザリックに君臨されたことは喜ばしいが、反対に下僕たちのせいで自由を失ったのではないか、という話にもなってしまいかねない。
現在、男のナザリック地下大墳墓の外での身分はただの金級冒険者。
高くもなく、低くもない。一人前の冒険者ではあるが、取り立てて優秀という訳でもないという評価が与えられている。男からしたら厄介な仕事を受ける義務もなく、下っ端のように扱き使われる立場でもない比較的楽な立ち位置──とは言い様で、居ても居なくてもさして困らない一般冒険者という認識を受けている……無論、こんな事ユリには言える訳もなかった。
「……? 了解いたしました……見苦しい不満を零してしまい申し訳ありません。……しかし、まさか御方様が街で尾行を受けることになるとは思いもよりませんでした。今回は何事もなかったようですが、今後、そこの彼女が監視や尾行を受ければ少々厄介なことになりそうですね」
「……」
そんなチクリと責めるような口調。場の雰囲気が不利になりかけていることを察したのか、スゥーっ……と聞き耳を立てていたクレマンティーヌが離れていった。
犯罪者であり、法国からの脱走者であるクレマンティーヌは法国からの監視・尾行を受ける可能性が高い。主である男はその事も当然警戒しているのだろうとユリは勝手に解釈しており、厄介事を齎す彼女のことを苦々しく思っていた。まぁ、彼女がクレマンティーヌを警戒しているのは、それだけが理由ではなかったのだが。
「そう、だな……だが、奴に関してはそこまで気にすることもないだろうさ。ある意味慣れているだろうし、追跡・盗聴・盗視を阻害する基本的なアイテムは渡してある」
「むぅ……そうですか」
男のクレマンティーヌを庇うかのような言に、内心から溢れる不満を隠さずユリが返した。
「それに今回、尾行を受けたのは俺だけだからな。……蒼の薔薇とはほとほと相性が良くないようだ」
「……ゲヘナの時の正体がバレたと見るべきでしょうか?」
「いや……顔は見られていない筈だ。ゲヘナ時の装備には認識阻害の効果も付けてあった。あの時の魔法詠唱者が俺に結びつくことはないだろう」
ユリが御方からメッセージによる連絡を受けた時には、最悪、尾行している者を暗殺しなければならないかと覚悟もしていたが。
「それでは一体何が目的で……?」
「恐らくだが、あのチンチクリンが原因だ。アレが俺を警戒しているのを目にして気になったんだろう。……あのチンチクリンはアイテムで上手く気配を隠しているようだが、アンデッドのようだったからな。俺の正体がアンデッドかもしれないと感づいたのかもしれん」
ユリにとっては主を煩わせるような存在は非常に目障りだ。不死人の特性である人間形態をとっているとはいえ、本性はアンデット。人間の街にアンデッドが出入りしていることが発覚ともなれば、今後の活動に悪影響が出かねない。
「──消しますか?」
「……気にすることはない。向こうだって確証はないだろうさ。放っておけ」
「ハッ」
「──それよりもだ、ユリ。ナザリックの外にいる時くらいはもっと砕けた口調でいいんじゃないか? 今の俺はただの金級冒険者なんだが」
「へっ? ぁ、ぅ……本気なのですか……? しかし、ボクは一介の下僕でしかなく──」
「たかが金級冒険者風情に従僕がついて回るのはどう考えても不自然だ。出来なければ……どうなるだろうな?」
つまりは、旅の伴としては不合格。役目からは外されることになるかもしれない、とユリは息を詰まらせる。男としてはそこまで考えていた訳ではなく、ただからかっただけなのだが。
「うっ……了解いた──っ、んんっ…………わかっ、た、努力するよ。それが、我が君──あなたの望みであるなら、ね」
そう言うと、ユリはいくらか逡巡した後、覚悟を決めたかのように男に向けて、イタズラっぽくウインクして見せた。
いつか御方の隣に立つためには、こんな所で躓いてはいられないのだ。
「おぉ……ちょっとした冗談だったんだが」
「なっ……! 酷いです、御方様!」
「……いやいや、口調が変わると新鮮な気分だ。そういえば、やまいこさんも同じような話し方をしていたな」
ユリのウインクを受け取った男は笑みを浮かべる。
男の感想にユリは気恥ずかしいやら、嬉しいやらで……今後、どのような変装であれば側にいられるのか思考を巡らせるのであった。
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27.クレマンティーヌ・ユリ編※2
エ・ランテルへの道中は当然のことながら舗装されている訳でもなく、人の往来や馬車の車輪で土が踏み固められただけの田舎道が続いている。
それも王都から離れる程に道はどんどん悪くなり、人の通った跡は薄れてゆく。見通しの良い平原だったり、なだらかな丘陵ばかりが続き、彼女達にとっては特に心惹かれることなどない、珍しくもなく有り触れた、代わり映えのしない景色が彼方まで広がっていた。
しかしもう一方の視点では──風に揺れる草原が波打つようにざわめき、遠くで鳥の囀りが聞こえた。太陽の元、植物、動物を問わず生命を全うする。円環の欠けていない、本来あるべき環境。幾つもの生活環が重なり、影響し合い、その上で成り立つ奇跡。
男の目に映るのはそんな見飽きることの無い、絶えず変化する世界。壊れてしまった世界を知る者からすれば、それは何にも代えがたい宝に他ならなかった。
そんな世界を視界に収め、一歩を踏み締める。
「青空の下で
「んー? でも、早い移動手段があるならそっちの方が断然楽でしょ。そういう所、ちっとも理解出来ないなー」
男の言葉を言い間違いかと少しだけ不思議そうにしつつ、先行して道の状況を確認していたクレマンティーヌが二人の元に戻ると愚痴りだした。別の移動手段があれば、自分の役割の負担が小さくなると考えたのだろうか。
「あなたね……もう忘れたのかしら? 御方様は可能な限り想定される障害を避けていらっしゃるの。これはあなたの為でもあるのだから。少しは御方様の御心を汲む努力をしてみたらどうなの?」
「はい、はい……毎度同じような事しか言わないんだからさ。実は脳みそまで腐ってるんじゃないかって疑っちゃうよねぇ」
「──は? もう一度言ってみなさい」
「やーんぅ、こわ〜い。首無し女が苛めるよぅ」
クレマンティーヌが素早く男の影に隠れた。ユリに見せつけるように、男の体に腕を回し、手を這わせる。
「こっ、この、女郎……! そして……何度言わせるのかしら……気安く御方様に抱き着くな!」
男の影からはヒャッヒャと笑う彼女の細めた目が覗く。ユリを見るその目には反抗心と嗜虐心で満ちていた。
□
同じ景色の中、クレマンティーヌはただ歩いているだけなのが暇なのか、愚痴を零したり、男にちょっかいをかけてはユリに邪魔されたり、そのユリをからかって遊んだりと移動中の光景は中々に騒々しい。
男はそれに溜息をつきつつ呆れるも、挑発するクレマンティーヌと切れる寸前になっているユリを見ては、何となくこれも悪くない時間だと笑みを浮かべた。こうした日々の連続がいつか日常になるのだろうか、と。
──その後もモンスターによる襲撃といったトラブルもなく、歩みを進めている内にとうとう日も傾き始める。橙に照らされ始める緑の大地を一頻り眺め、そこで彼らは野営をするか、転移で一端ナザリックへ帰還するか、どちらにすべきか選択を迫られることとなった。
「野営のがマシ。得体のしれねー墓穴なんかに入りたくない。てか、嫌な予感しかしねー」
「警護のことを考えれば帰還することが望ましいのですが……判断は御方様にお任せ致します。……それと、勘違いされては困るのですが、ナザリックは墳墓ではありますが、いずれにしても、あなたのような低俗な方の墓所になることはありませんのでお間違えのないよう」
最終的な決定権は男にあるのだが、念の為、同行者である彼女達にも要望を聞いてみた所、ナザリックへの帰還については意見が割れた。
墓穴──つまりナザリック地下大墳墓への帰還は断固拒否するとは片割れの言で、もう片方はナザリックを墓穴と称したことに眉を顰めて反論する。
「邪魔だからさ、一人寂しくおウチに帰ンなよ」
「あなたが一人此処に残れば万事解決するのでは?」
と、二人がやいのやいの言い争いを繰り広げる内に日も落ち始め……結局、言い争いが落ち着くまで待ちぼうけを食らっていた男はナザリックへは帰還することはせず、野営する事を決めていたらしい。
「ぷぷぷ……ほんと、ユリちゃんは分かってないよね」
「……」
ナチュラルに煽るクレマンティーヌ。ユリは表面上は冷静そうであったが、怒気を発していた。
ちなみにゲヘナが実行されるより以前。彼らがエ・ランテルから王都へと向かっていた際にも、野営か帰還かを選択する時にも同様の言い争いが起きていた。
その時はまだユリとクレマンティーヌの顔合わせが済んで直ぐということもあり、今とは比較にならない程に雰囲気が悪かった。クレマンティーヌは嘲笑い、ユリは敵愾心を隠さない。果てには互いを無視し始め、相手がいないものとした。野営など出来る空気ではなかったため早々に近くの都市まで転移していたのだが……
それと比べれば今回はまだ何とかなりそうだったから。三人の親睦を深めるという意味でも、野営は効果があるだろう、というのは男の弁。
それに、今回は尾行を受けた直後でもある。近くに監視の目はないが、遠距離からの監視の可能性が無いわけでもない。転移するよりも、この場に留まった方が無害な冒険者を装えるだろうとの判断が背景にあった。無論、そんなものは野営をしたい男の建前に過ぎなかったが。
急いで男が辺りの草を刈払って整地、慣れた様子で大き目の天幕を張り、内側を整える。設営を早々に終えると男は道中こっそりと集めていた枝で焚火を熾そうとしていた。
「とはいえ、あんなの何が楽しいのかな。男ってわかんないよねぇ。でも、まぁ、用意してくれるってなら、見てるだけだから楽でいいけど」
「……」
クレマンティーヌは手慣れた様子で作業する男をのんびりと眺めながら気楽に周囲にモンスターがいないか警戒していたのだが、ユリは反対にソワソワと居心地が悪そうだった。
その様子に気づいたクレマンティーヌが邪な笑みを浮かべた。
「……あれあれー? 前から思ってたけど、もしかしてユリちゃん、野営は不慣れなのかなー? そんな箱入り娘みたいな女が、よくあの人の旅に同行しようとか思えたよねぇ」
「……!」
「役割分担は旅の基本。……でも、従僕如きが主に設営任せちゃっていいのかなー。存在意義が疑われちゃうよぉ?」
クレマンティーヌは嗜虐心を滲ませてニヤニヤとそう言うが、天幕の設営やそれら道具の管理は男の役割であると事前の分担の話し合いで決まっていた事だ。ユリとしては、どうしても御方の手を煩わせているようで気が気でなかったのだが……
ちなみに今後ユリは彼女のスキルを活かした料理番を担当する予定で、クレマンティーヌは行軍に慣れており、ある程度の土地勘も有していることから通過する道の選定を担当することになっていた。もっとも……エ・ランテルへの道など幾筋もあるが、人の往来もあって殆ど危険などなかったが。
「くっ……手伝いを申し出てたのですが御方様に休んでいろと言われたのです……仕方ないじゃないですか」
「ククッ……それってつまり、戦力外通告ってこと?」
「なっ……断じて違います! 御方様は設営も野営の楽しみの一つなのだと! …………くっ……ナザリックという快適で安全な場所があるのに……至高の存在たる御方様が何故態々粗野な天幕で野営など……」
役に立てないことを不安に思ったのか、ユリがポツリと本音を零す。
男に帰還するか野営をするかの判断は任せると言っていたユリだったが、内心では至高の四十一人の一人である彼が態々野営をする意義を見いだせていなかったのかもしれない。
それを耳にしたクレマンティーヌは……
「へぇ〜…………ねぇ〜! ユリちゃん、野宿は嫌だってさ! やっぱり向いてないんじゃないかな〜!」
「ちょっ……御方様違うのですっ! 私は野営自体が初めての経験となりますし、野営中に御方様の身の安全を確保するにはどうしたら良いのか悩んでいただけで──」
離れた場所で作業している男に対して大声で呼び掛けた。それにユリは慌てて抗弁する。彼女の中には本当に野宿するのかという戸惑いや緊張もあったのかもしれない。そして、至高の御方を野宿させても良いのかという迷いも。
──その後、先程のユリとクレマンティーヌの言い争いが蒸し返されることになり、結局、再度話し合いとなった。
野生のモンスターや害意を持った亜人、野盗らが三人に敵うはずもなく、身の危険などそうそうないから問題ないと再度男は説明したのだが、そもそもユリには至高の四十一人の一人である男が粗末な天幕で野宿すること自体に心理的な抵抗があるようで、結局、ユリの中のモヤモヤは晴れなかったようだ。
「……う、む」
「……話を聞いて頂き、感謝いたします。天幕があるとはいえ、至高の御方が屋根も無い場所で休むというのは、あまりにも……それに、その……仮とはいえ御方様の寝所がこのように見窄らしいものでは……ナザリックの支配者のお一方として、今後は相応しき威厳も考えて頂きたく」
ユリは男が設営した天幕のことを見窄らしいと評したが、この世界においてはごく一般的な代物である。むしろ、彼女達のためを思って内側は快適に過ごせるように整えたつもりであった。男は表情にこそ出さなかったが内心でシュン……とした。
「あーあ、嫌な言い方。野宿如きで霞む威厳なんて意味ある? いっそのこと捨てちゃいなよ」
「……」
ユリの目つきが鋭くなり、クレマンティーヌを忌々しげに睨みつけた。クレマンティーヌはその睨みを鼻を鳴らして返した。
「見窄らしい……」
ユリの言葉が男の頭の中でリフレインし、何度も繰り返されている。男はショックから立ち直れないでいた。
しかし、このままでは楽しみが一つなくなってしまうことを予感したのか、ささやかな反抗を試みた。
「……モモンガは時たま冒険者に扮して、ナーベラルと共に野営をしていると聞いたが……?」
「オホン……その時は他の冒険者と合同で依頼を受けていたと聞いています。作戦行動中であったり、何か避けられない事情があるならば兎も角、平時に至高なる御方に粗野な生活を強いることなど、身の回りの世話を預かる侍女として許容できません」
「現に、アインズ様とて平時にはナザリックでお休みになられています。御方様の自由を縛る訳ではございませんが……シャルティア様の件もあります。ナザリック外には未知の敵性存在がいる可能性をアインズ様は示唆されました。情け無い話ではありますが……何かがあった時に私だけでは警護の不安もあるのです……ですので、御方様には特段の事情がなければナザリックへと帰還いただきたいのです」
怒涛の正論を繰り出す。全て言い終えると、クイッ、と眼鏡を手の平で持ち上げて位置を直した。
「そ、そうか…………なら、俺はこれから気軽に野営出来なくなるのか……」
「うっ…………な、なにも私も駄目とまでは……そ、そうです! ナザリック大墳墓第6階層、大森林にて野営を行われては如何でしょうかっ?」
「あそこであれば敵性存在などおりませんし、安全に野営を楽しむことができますっ」
「ぐぅ……」
男の心底弱ったような声にユリは怯むと同時にあたふたと、甘やかしてしまいたい衝動に襲われる。
「あーあー? 主、イジメちゃってさ。嫌われちゃうよー?」
「くっ……」
クレマンティーヌがニヤニヤと笑い。ユリは空気を誤魔化すように咳払いを一つ。ユリはどうにも心配性で、融通の効かない所があるようだった。
とはいえ、言い負かされたとしても男にだって意地はあるし、今更、ナザリックに帰還するのは憚られた。
そこで、男は人目につきにくい場所を選定し、グリーンシークレットハウスのテント版──グリーンシークレットハウスを手に入れられるようになる前の下位アイテム。外見上では普通のテントだが、中はそれ以上に広いという点では同じ──魔法で出来た拠点で夜を明かすことを妥協点として提示した。
拠点作成アイテムであるグリーンシークレットハウスは課金要素もあり、その実、無駄にバリエーションがあるため、一応彼女たちにはシャワー、トイレ、キッチン等は必要かと問うたのだが──
「はー……? そんなのあんなら早く出してよ! 湯浴みし放題で不浄の心配もしなくていいとか……流っ石、プレイヤー…………てか、そんなのあるなら態々、小汚い天幕設営する必要なかったよね……? ……え……怖……」
短くも愛用してきた天幕を小汚いと言われて、再びショックを受ける男。
一方で──今はまだ問題ないが、歩き通しになれば汗だってかくし、土埃だってつく。街中なら兎も角、旅の最中では当然のこと湯浴みなど出来るはずもなく、布で肌を拭ければ御の字。肌着だってマジックアイテムや水場が無ければ洗濯など出来ず、交換出来ないことだってザラにある。
クレマンティーヌとしてもそれは慣れていることだが、綺麗であることにこしたことはない。それに、肌も土埃でザラザラに汚れ、髪もギシギシ、そんな状態では愛する人には近づきたくても近づけないというのが女として当然の心理。ましてトイレがないということは……そういうことである。
グリーンシークレットハウスという便利すぎる道具があることが発覚し、男が態々通常の天幕を設営していた事で、クレマンティーヌは信じられないというように愕然としていた。
ここに味方はいないらしい。
「申し訳ありません……私もバスがないのは少し………………それと……どうせなら、やはり最低限の調理設備もあった方が……」
クレマンティーヌの心情が分かったのか、ユリも若干、口元を引き攣らせて彼女に同意する。そしてユリはチラリと男のおこした焚火を見て、もしかしたらそこで今後、自身が四苦八苦しながら調理するかもしれない事を想像したのか、少しだけ間を開けて言いづらそうに付け加えた。せめて、最低限携帯式の調理器具は揃えて欲しいと……
どうやら、男の中でブームになっている、敢えて不便を楽しむ野営は彼女達には受け入れられなかったようだ。賛同者がその場には誰も居らず、男はとうとう不貞腐れた。
□
「……」
焚火──その前で男は座り込み、ただ静かに揺らめく火を眺めていた。身を倒し、寝転がれば空には満点の星空。しかし、そこに男が見知った星座はない。
遠い場所──それがこの世界への男の認識。これまで幾つかの不思議な体験を経て、この世界へと来訪し、随分と遠い場所に来てしまったのだと感傷に耽る。
しかし、男はこの世界で生まれ育った訳でもなく、移住者のような立場であるが、ここが嫌いな訳ではない。
この世界には素晴らしいものが溢れている。とある世界では人類の自業自得で失われた自然の均衡が、この世界では存在しているし、天上を見上げれば当たり前のように青い空や満天の星空があるのだから。
男は鉛色の雲が常時覆っている壊れた世界が大嫌いだった。空気中や水は汚染され、人体に有害な物質が紛れ、病気や機能障害を媒介する悪夢のような世界。健全な環境など機械で全てを管理された極々僅かな場所にしかなかった。そして、それを享受できるのもこれまた極々僅かな人種のみ。
──思い知らされた。人間は愚かで、結局の所、何かを犠牲にしなくては生きることなど出来ないのだと。
宙は深い。その暗い青が自らの矮小さを、ヒトの愚かさを教えてくれる。自然の雄大さを。均衡の奇跡を。この素晴らしい世界を独り占めにすることなど出来ない。教えたい。想いを共有したい。友に、父や母にも見せたいと思った。
だが──共有したい存在はここにはいない。彼らは遥かな場所に旅立ったのだから。それは現実として叶うことはないのだ。
だから。気まぐれに男は懐から取り出した白い奇妙な石で、黄昏時にも似た金色のサインを描いた。
しかし、男の名が記された輝くサインはただ揺らめくばかり。何の反応も示さない。ワールドアイテムという大層な代物であるならば、大切な人達との縁を繋いでくれるかもしれない、と思っての行動であったが……
あぁ、やはり……と、男は何も起こらないことに落胆し、そうそう奇跡など起こるはずも無いことを悟る。そうして、トラベルノートを開くと、ほとんど日課となっている感情を整理する作業を始めたのだった。
「うぷぷぷ……ねぇねぇ、そういえばユリちゃんが前にさ〜」
「?! ちょ、もしかしてっ、あ、あなた! 当てつけですか!? あの時の話はしないという約束がっ!」
男から少し離れた場所ではクレマンティーヌが何かを囃し立て、ユリが焦りからかまた声を荒げている。二人は飽きる事なく互いを牽制し、からかい合ってはどちらが上なのか、マウントの取り合いを繰り返しているように見えた。
「ねぇ、聞いてる──」
その一瞬……クレマンティーヌとユリの視線の先。焚火の前に座り込む男の後ろ姿が白い光の霧に溶け、消失──
「!」
「御方様っ!?」
驚愕の後。二人に焦りが生まれ、駆け寄ろうとした瞬間、男は直立した姿勢のまま白い光の霧に包まれて再び現れたのだった。
男は、あぁ、と納得すると、再び焚火の前に座り込み、何時も持ち歩いているトラベルノートに何事かを書き込み、思案しているかの様であった。
「さ、さっきのは一体……一瞬、何処かに転移していたようにも見えましたが……」
「……白いサインろう石を使ったみたいだね」
「え?」
その様子を見ていたクレマンティーヌの表情が険しくなり、ユリは先程の奇妙な光景を見て困惑した。
「──ねぇ?」
「御方様」
「ん、あぁ……クレマンティーヌ、ユリ」
彼女たちが声をかける。男が近くまで来ていた二人に気づき、ノートに落としていた視線を上げた。二人を見て、男は思わず二人に手を伸ばそうとしたが、途中で止めた。
その時、ノートの中身が少しだけ見えた。そこにあるのは隙間無く書かれた文字と何かのスケッチ──知らない少女の横顔と、ここいらではあまり見掛けないモンスターの絵姿。
前から知っていたが、男の書くその文字はクレマンティーヌの出身国である法国に伝わるプレイヤー達が用いたもの。法国にはその文字を理解する存在もいるが、彼女にはどのような内容が書かれているのかわからなかった。
「え? 御方様、あの……」
感じたのは違和感。男からの視線にユリは困惑した。姿は同じ。しかし、先程までの御方とは何かが違うような気がした。
声を掛ける前の後姿にはどこか落ち込んでいるような、沈んでいるような。例えるのならば、気掛かりに思いを馳せているとか、罪悪感や寂寥感を感じているようにも見えた。
そして、声を掛けてからは久しぶりに会った人に相対するような、嬉しさやもどかしさ、気まずさが表れた。彼女たちはその空気に距離間を感じた気がした。繋ぎ止めていた綱が綻んでいるような気配を。
「……さっき迄と急に雰囲気違うんだけど?」
「御方様……何か御心を病ませる事がありましたでしょうか? それに先程の転移魔法は……」
先程まで三人で談笑し、笑顔まで見せていたのに。二人には思い当たるような理由など皆目見当がつかなかった。
「……何でもない。気にするな」
「はぁー? 嘘、ド下手クソかよ」
男が一瞬返答に詰まり、不意に視線を外した後に素っ気なく答えた。クレマンティーヌが眉を顰める。急な態度の変化に、ユリも不安気に男を見た。
「何でか知らないけど、妙な辛気臭い雰囲気出しちゃってさぁ」
ニコリと笑う彼女。男が訝しげにクレマンティーヌをみる。
「どんな理由があって、何を隠したいのかは知らないけど、邪険にされるとムカつくな〜。私が寂しくなって病んじゃったら、死んじゃうよー? そこらの誰かが」
「……あぁ、そうだった……こういう奴だったな……」
笑みをたたえたまま、言わないと八つ当たりするぞ、と脅しを掛けた。
しかし、苦虫を噛んだような顔で、尚も変わらぬ態度の男の様子に、クレマンティーヌは一つ溜息をつく。そして、男を矯めつつ、眼前に迫った。
「…………本当に強情な方。何故、貴方の第一の信徒である私を拒むのですか? 貴方はその身に抱える何かに心を蝕まれているように見えます。私が苦悩する貴方を一人にするはずがありませんのに……」
スイッチが切り替わったかのように口調が全く別のものに変化する。そして雰囲気もまた危うさを感じさせるソレから、真摯で清廉な物に変わる。
目鼻立ちの整った顔が至近まで迫る。男からすれば、久方振りの見知った女の香り。男が急に接近されたことに驚き、身を引いた。
「っ、何を」
「私は貴方に救われたのです。身も心も。だから私は貴方の側にいたいし、いなければいけない。貴方と共にあることを既に心に決めているのですから。あなたが苦しんでいるのなら手を、身を差し出し、言葉を引き出して支えるのが私の役目。私にとって本当に大事なのはそれだけなのです」
「……」
「貴方の想いを共有するのに、私では不足ですか?」
そして、あなたの話が聞きたい、と聖女のように、慈しむように微笑んだ。その雰囲気にあてられた男は瞠目し──二人だけの空間が作られようとしていたが、それに負けじとユリが腕を引いた。
「っ、ボ、ボクもです!」
「……」
「御方様をお一人になどさせられません! 下僕として、一人の女としても……御方様のためなら、何だってできます。下僕として、かくあれと創造されたからではなく、自らの意思で御方様の盾となり剣となることを、御方様の公私に渡る支えとなることを望んでいます」
「ユリ……」
「ボクは……貴方様との間に、主従の関係を超えた絆があるのだと信じていますから」
ユリが男の手を胸に抱き入れ、真正面から勇ましく言うと、今度は、男は驚いた表情でユリを見つめたまま沈黙した。
「チッ………………まぁ、いいけど。……そんな顔してるのにはさぁ、何かあったのは確かだよねぇ? ここは一つ、何があったのかお姉さんに洗い浚いぜ〜んぶ話してみよっか」
そう言って、クレマンティーヌはさっさと男の横に座り込むと、再び気を引くために男の腕を胸に抱き込み、しなだれ掛かる。今はもう、先程の真摯に向き合う態度と、聖女の如き雰囲気は消し飛んでいた。
二人ともグリーンシークレットハウスに備え付けられたシャワーで汗や土埃も落とし、イチャつくための準備は万全だったのだ。彼女の胸に抱かれた腕は隆々としており、ドッシリとした大木のような安心感がある。反対に、女の赤みのさした肌の柔らかさと温もりは鬱屈した男の精神に活力と昂揚感を与える。
「ちょっ、あなたは!」
「……あー、もう、うっさいなぁ。反対側空いてるんだから、そっちに回りなよ」
「そっ、そういう事を言っているのではありませんからっ」
しかし、ユリもまったく……と愚痴を溢しながらも、躊躇いがちに男の手を取り、抱きとめたまま男の側に掛けるのだった。
□
「本当にお前たちが気にするような、大したことではないんだが……」
──男の保有するワールドアイテムの力。
聞けば、男はその力により精神体のみとなって、過去もしくは隣り合う世界を旅し、そこで出合いと別れを経験したのだという。
その男の僅かな心残りとは、転移した場所で出会った少女とした約束を果たすことなく、別れを済ませることもせずに元の居場所へと戻ってきてしまったこと。その後、一人になってしまったはずの彼女が無事に過ごしたかどうかが気掛かりだった。
それらの心配は言ってしまえば、時間も空間も異なるどうしようもない事柄ではあるのだが。しかし、やはり一人で抱え込むよりは話すことで楽になるらしく、先程よりも男の表情の陰は鳴りを潜めていた。
思い返せば、男はアンデットであった彼女に正体の隠し方や逃げ方を教えているし、彼女と離別した時には、彼女は既に大抵の脅威を払う程度には 魔法の力量を身に着けていた。自ら危険を侵さなければ大丈夫だろうという予測はつく。
「で、なんで言いたく無かったのさ?」
「……そりゃ、唐突に転移して知らない場所を旅してきたとか言われたら何言ってんだコイツってなるだろうが。……それに本当のことだと分かったとしても、ユリは心配するだろうし、お前だって何かしらでキレるのが想像できた」
「はぁ〜!? 私だって心配するっつーの!」
「御方様、心配するのは当然のことですよ」
「す、すまない」
「…………まぁ、とりあえず理由はわかった。……ところでさぁ? 声掛けた時、私達に手伸ばそうとしてたよね。アレ、なんだったのかなー?」
ニヤニヤと笑う。
「あ、あれは……」
『アレは?』
二人の声が重なった。ジッと男を見つめた。
「……久しく見ていなかったお前たちを見て、無意識に腕が動いただけだ」
それはつまり、抱き締めたくなるほどには恋しく思っていたということなのか。その意味が伝わったようで、彼女たちはニヨニヨと頬を緩めた。
「ふふ……どれほど期間、旅されたのかはわかりませんが……私達を見てそう思っていただけて嬉しいです」
「な〜に〜? 可愛いとこあるじゃん」
妙に気恥ずかしい空気になった。
「し、しかしっ、御方様の種族は、そのようなこともお出来になるのですね」
「種族、というよりは、ワールドアイテムの力によるものが大きいのだろうな。不死人であることは条件の一つかもしれないが」
──その後も男の思い出話は続いた。少女の生まれた故郷に起こったアンデッド災害のこと。国に溢れたアンデッドを元に戻す方法を探すのが旅の目的だった事。旅の終着点が周辺諸国で最も高い山であったこと。最後に、竜を討伐して帰還したこと。
時に驚きながら相槌を打ち、尊敬の念を浮かべて話を聞いている様子のユリと、聞いてはいるのだろうが話に加わらないクレマンティーヌ。
そんな彼女は話の途中で出てきた、知らない文字が読めるようになる眼鏡をこの目で見てみたいと強請り、渋々渡されたそれを弄るのに夢中のようだ。
男の話す内容は通常では信じ難いことであったがユリもクレマンティーヌも男の話が本当のことであると確信していた。何故ならば、ユリは至高の御方であれば不可能などないと本気で信じていたし、一方のクレマンティーヌも、彼女が死の淵で見た夢で、男が過去や隣り合う世界へと召喚されていたのを知っていたから。
そして、他にも彼女達が抱く想いには共通する部分もある。何時の間にか自分の知らない所で冒険をし、そこで自分ではない誰かを救っていたことに嫉妬し、そしておそらくは絶望させていたことを想い、同時に怖れを覚えていたのだ。
別れ──やはり、それはいつか自分にも訪れるのものなのだろうかと。
もしも男が転移したまま戻る事がなくなれば、もしも転移した先で力尽き帰還が叶わぬことがあれば……そんな最悪の想像が頭を過る。
彼女達は抱えていた男の腕をどこにも逃さないようにと、力を込めた。
「……お聞きした内容はアインズ様や領域守護者の皆様にご報告差し上げてもよろしいでしょうか?」
「それは構わないが……」
男は不思議そうに返した。そんな報告は領域守護者にまで周知する必要があるのかと。
「きっと皆も御方様の冒険の話が気になると思います。過去や隣り合う世界を旅するなど、アインズ様も羨むのではないでしょうか。それにワールドアイテムの情報は貴重なはずです」
「そうか……それもそうだな。ならよろしく頼む」
「はい、お任せください」
ユリは不安を悟られぬよう、努めて柔らかい笑顔を男へと向けた。
男は想像する。ワールドアイテムの力で過去に跳んで冒険したなどと知ったらモモンガは驚き、きっと悔しがるのだろうと。
はたまたデミウルゴスあたりがこの話を聞いたら、過去の世界に男がいた証を求めて広範囲に渡り捜索に力を入れ始め、今回の話の裏を深読みしてしまうのかもしれないな、と。
「──ねぇ」
表向き会話を弾ませる二人を尻目に、これまで会話に加わることのなかったクレマンティーヌがドカリと、突然男の膝へと跨る。
「ちょっ……! あなた、突然何を──」
当然、ユリは抗議の声をあげるも、クレマンティーヌの真剣な顔を見て、勢いを萎ませていった。
「私はさぁ、冒険とかは正直どうでもいいし、アンタがどこに行こうったって別に反対しない。ただ、しょうが無いから、ついてくかーって思ってるくらい」
「……でも何でかなー、ここが気に入り始めてるからなのかな。他に二つとないだろうし。居心地も、まぁ悪くない。……ユリちゃんは煩いけど、誂うと面白いし。だからさ、この居場所はまだ続けたいんだよねー」
明るい赤色のガラス玉のような瞳が男を見ている。その言葉に嘘はなく、熱もない。なのに気圧された。その言葉に男は何と返したものかと迷った。
「急にどうした」
「あはは、訳がわからないって顔してる」
「……」
「気づいてないよね。私らが、あなたが知らない内に何処かに行っちゃうんじゃないかって不安に思ってるって」
「……あなたは必要とされているの。様々な方に。その中心にいるのだと気づいてください。勿論、私や彼女だって……貴方がいないのは嫌です。他には代えられないほどに。………………ま、墓場の連中と縁を切って逃げるってなら私は大歓迎だけどね」
「先程から黙って聞いていれば……何故、御方様が私たちから逃げなければならないのですか!」
クレマンティーヌの言葉にユリは怒気を顕にする。
「ハイハイ、ちょっとした言葉の綾だって」
ユリが憤懣遣る方無い様子でフン、と鼻を鳴らした。
「……彼女ではありませんが、私も御方様に全てを捧げる覚悟があります。身も心も、全て。ですから……あまりお一人で危険なことはなさらないでください。私が危惧しているのは御方様の身に危険があった時に、盾となる私達下僕が側にいられないかもしれないということです」
「身を捧げるなど……」
「私たちは至高の御方に御仕えするために生み出されましたが……御方様に私の全てを捧げられるのなら本望ですし、それは全て私の意思で成されること。私の意思は、私のもの。ですから、そうなった時に御方様が責任を感じる必要など無いのですよ」
むしろ、私の行動の責任を奪わないで下さいとも。それに対して、男はそういう訳にもいかないだろ、と再び苦虫を噛み潰したような顔をした。
「──あーあ、良かったね〜? こんな
誂うような笑みを浮かべる。しかし、一方で、ユリはグッと眉を顰めさせた。
「…………あぁ、御方様、申し訳ありません。一つだけ訂正が……御方様──私を彼女とは同列に見ないでいただきたいのです。全てを御身に捧げるとはいえ……私は彼女の言う、都合のいい女になるつもりはないのです」
「はぁ?」
突然何を言い出すのだこの女は、という訝しげな視線でユリを見た。クレマンティーヌの冷ややかな視線を受けながらもユリは堂々と宣言する。
「私は御方様の側に仕え、ご奉仕すること自体が存在意義だと思っています。御方様が快適に日々を過ごされるようにするのが私達の喜び」
「……ですが、主の命を全て肯定することばかりが忠誠ではないと愚考いたします。ですから、従属しながらも時に御方様の意に反する具申をすることだってあるでしょう」
「私も騎士の端くれ──私の全てを御方に捧げ、御身の理想を現実のものとすることに尽力すると誓います」
と、男の側に跪き、頭を垂れた。
「……ですので、本当に都合のいい女は彼女一人、とお考えください」
……と、途中までは真摯な言葉であったのだが、最後に意趣返しの言葉が付け加えられた。
「へぇ……だから、私は甘やかしたりしてないって? うーわ、なら無自覚? こういう甘々な女が、とんでもないクズ野郎を作り出しちゃうんだよね〜。あ〜、コワっ! つーか、否定しちゃってるけどさ、どこからどう見てもお前が都合のいい女だろうが。鏡見てみろよ、主に媚びる雌が映ってんぞ!」
売り言葉に買い言葉。マウントの言葉にはマウントで返すのが礼儀というのは可笑しな事か。クレマンティーヌもまたプッツンして言い返した。
「フン……甘やかす? 誰が、誰をですって? 意味がわからないわね。それにそんなこと、クズ女に言われたくはないわ」
「あ゛?」
「……どうやら、まだ力の差がわかっていなかったようね。そうしてまでボロ雑巾のようにされたいのかしら?」
「殺すぞ、コラ」
その場の空気の温度が急激に下がってゆく。男を挟んで両側では互いを射殺さんばかりに睨みつけていた。
「お前らは……本当に……」
険悪な雰囲気の中、男は何だか可笑しくなって笑みを作った。
「何一人だけ関係ねーみたいに笑ってんだ! あぁん!? 根っこは全部テメーのことだろうが!!」
「貴様、御方様に向かって……! というか、いつまでそこにいるつもりだ! いい加減に御方様の膝から降りろ!!」
クレマンティーヌが男の襟首を掴んでガクガクと揺すり、ユリが彼女を引きずり落とそうと掴みかかる。わちゃわちゃとした状況の中、男は声を出して笑った。
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28.トラベルノート(過去・隣り合う世界編)
残念ながら亡国の吸血姫は読めていません……
念の為補足:蒼の薔薇イビルアイとは仮面の状態でしか遭遇していません。なので、イビルアイ = キーノであると気づいてはいません。
目を閉じて郷愁に駆られた心を鎮める。暫くしてから再び目を開けば、どんよりとした空気の廃墟。俺は何故か、朽ち果てた建物の一室にいた。
……なんで?
一緒にいたはずの彼女たちの姿はなく、周囲からは多数のアンデットの気配がする。
近くの物陰で物音がし、そちらを見ればこちらの様子を伺う怯えている少女。
薄汚れた肌、荒れくすんだ髪、不衛生でボロボロのローブ。しかし、髪の隙間からは、まるでガーネットのように綺麗な瞳が見えた。
怯える少女に声をかけよう──と思ったのだが、声が出ない。そして気づいた。手が白く半透明に透けていることに。
予想外の事態にパニックになりかけたが、アンデッドの精神安定化が働いたせいか、すぐに精神が安定化した。それに、この状態には覚えがあった。不死人が霊体化した状態だった。
ユグドラシルでは、不死人の種族的特徴として3つの形態があった。1つ目が生身の人間である生体の形態、2つ目が亡者となったアンデッドの形態、そして3つ目が肉体を持たない霊体の形態。
何故、この状態になっているのかは心当たりがあるが……その心当たりについて考えることよりも優先することがあった。
未だ此方を伺っている彼女に聞きたいことがあるのだが──しかし、声は出ない。
代わりにジェスチャーで大きく一礼をすると、少女は慌てた様子でローブを摘むようにして礼を返してくれた。
言葉は出せない。ならば、文字を書いて意思疎通を取るしかないのだが、俺は此方の世界の文字は書けない。
なので転移前の世界の言葉で書き、それをユグドラシル産のアイテムである翻訳の魔法が込められた眼鏡を掛け読んで貰う必要があるのだが……
目の前の少女は礼を返してくれたものの警戒したままだった。まずは、敵意がなく、危害を加えるつもりがないことと、コミュニケーションを求めていることを俺は伝えなくてはならなかった。
喉を指差し、口をパクパクと開く事で、話せないことを示す。
続けて何か書けるものを、とインベントリの肥やしとなっていた橙色の助言蝋石を取り出して石壁に試し書きした。
すると、橙色に光る線が描かれ、文字を残すことが出来、眼鏡を取り出して自ら掛ける仕草をしてから少女へと差し出した。
そして幾ばくかの逡巡の後──彼女は俺のやりたい事を理解したのか、躊躇いがちに眼鏡を受け取ってくれたのだった。
……
少女は眼鏡を掛けて驚いた様子を見せ、着けたり外したりを繰り返していた。
『キミの名前は?』
彼女に名前を尋ねたのだが、口からは掠れるような音がするばかり。キミも声が出せないのかと問うも首を横に振られた。
もう一度名前を尋ねると、僅かに聞こえたのはあうああ。もしや、それが君の名前か、と問うと首を激しく横に振る。
では、言葉は知っているかと問うと少しムッとした様子で何度も首を縦に振っていた。
少女の様子に、思わず出てしまった親はどこに、という問いには悲しげに首を横に振る。
少女は必死に声を出そうとしていた。
何度も何度も発声を試し、無限の水差しで喉の乾燥を潤してから、ようやく聞き取れるようになったのはキーノ・ファスリス・インベルンという名前だった。
幾つかの質問をし、彼女に軽く街を案内して貰う。
過去、ここは砦のように石で組まれた頑丈な壁を周囲に擁する大きな街だったようだ。
だが、その街も荒廃しており、人が住んでいた家屋は長年に渡って手入れされておらず屋根が抜け落ちているか、完全に潰れてしまっているものも見受けられる。
街の内部には外部から植物が侵入したのか、石畳で舗装されていなかった道は丈の高い草で覆われ、通行が困難になっている通りもある。
廃家屋や街路の所々には、鳥が運んできた樹木の種子が発芽してそのまま生長したのか、不自然に生え、突き出ている場所も見られた。
そして、廃都内には人や動物から転じたと思われるゾンビがそこかしこで跋扈している。
キーノの話では、ここはかつてあった国の王都で、多くの人が暮らす生活の中心地だったらしい。
また、この街の場所について、周辺の国家の名前を聞いてみたのだがリ・エスティリーゼやバハルス帝国、スレイン法国ではなく、俺の知らないいくつかの国名を言われた。
ただ、北西の果てに、スレイン法国という国があるのを聞いたことがあるような気がすると彼女は言っていた。
どうやら、ここは同じ世界ではあるようだが……だいぶ元いた場所から離れているようだ。
☆月★日
少女の声は小さく、少し聞き取りづらい。
たまに咳き込むことがあるし、随分と人と話をしていなかったのだろう。
リハビリ代わりということで、少女とはよく話をすることにした。といっても、実際に話すのは彼女だけで、俺は筆談になるのだが。
まず、ここはどこなのか、と聞けばインベリアという人間種の国家の首都だったという。
──インベリア。
キーノの名前にもその名称が入っている。彼女はこの街の有力者の血縁だったのだろうか?
だが、彼女自身からはアンデットの気配を感じる。もしかしたら、元々は普通の人間だったのが、死んで、何らかの理由でアンデット化したのかもしれない。
言動の幼さからすると、まだ子どもの範疇にあると思うが、幼くして亡くなったのだろうか。
それと、何故俺がここにいるのかについて重要な話を聞く事が出来た。
彼女の話では、この場所に無かったはずのサインを見つけたのだという。
金色に輝くサイン。それに触れて暫くして、俺が霧に包まれるように現れたとか。彼女はそれに驚いて、物陰から様子を伺っていたらしい。
……どうやら、この現象はワールドアイテムの効果によるもののようだ。
白いサイン蝋石。
俺が持つ唯一のワールドアイテム。
実は白いサイン蝋石と同じ名前のアイテムは、不死人のワールドではプレイヤーならば誰もが必ず一つ持っているような有り触れたイベントアイテムだった。
もっとも、ワールドアイテムとイベントアイテムとではレア度には天と地ほどの差があり、後者には召喚を補助するような特殊効果もなかったが。
基本的に不死人のクエストは一人用であり、種族が不死人以外の友人らに手助けしてもらうようなことは出来ない。
ただ、マルチプレイが完全に排除されていた訳ではなく、白いサイン蝋石を使えば、不特定のプレイヤーと協力して攻略を進めることができるという設定だった。
俺もクリアに手こずるステージやボスを攻略するのに手を借りたことも、逆に貸したこともある。
反対に、他人のクエストに侵入し、そのクエストの主を殺害するという事も可能であった。このワールドアイテムを狙ってか通称、闇霊が徒党を組んでやって来た時は流石にもう駄目かと思ったが……
この、白いサイン蝋石の設定というか、フレーバーテキストは隣り合う世界に召喚される、または召喚するという内容だったはず。
もしかしたら、俺はこのアイテムの効果をずっと勘違いしていたのかもしれない。
ゲームでは、いくらワールドアイテムである白いサイン蝋石でも、不死人のワールド以外では使用することは不可能だったし、あくまで召喚を補助する効果しかなかった。
そもそもがユグドラシルの他のワールドには隣り合う世界など設定になかったしな。
だが、ここは現実世界であり、この世界では隣り合う世界が存在している。だから、サインを送ることが可能だったのではないだろうか。
だとすれば、ここは俺が元いた世界ではなく、隣り合う世界だということになるのだろうか?
いや、ゲームのシナリオでは過去に跳んだり、過去から召喚することもあったし、一概には言えないかもしれない。ここが隣り合う世界だとは断定は出来ないだろう。
ワールドアイテムである白いサイン蝋石は召喚を補助する効果があったが……もしかしたら、その本質は世界や空間同士を繋げることに特化しているのかもしれない。
☆月★日
ダメ元で、元の場所に戻る方法に心当たりがないか聞いてみたがやはり知らないらしい。
だが、それだけでなく、少女は俯き、目尻には涙を浮かべる。
もし俺が元の居場所に帰ってしまえば、キーノは再び一人この廃墟に残ってしまうことになる。
また一人になると思ったのだろうか。
さすがに幼い少女を一人ゾンビだらけの廃墟に置き去りにするのは心が痛む……
アンデットでも心は痛むんだなぁ。そうだよなぁ……普通なら、こんな所に小さな女の子が一人でいるなんて耐えられるわけないよなぁ。
だからまぁ……戻る方法についてはコッソリ調べていくことにしよう。
☆月★日
ちなみに、ここ数日は少女が住処にしていた下水道にお邪魔していたんだが……
虫は当然いるし、今は使われていないとはいえ衛生的にも微妙だ。なので、生活環境を変えないかと提案した。
だが、彼女は何かに怯えるようにして、それを拒否した。
聞けば、元々は城に住み込んでいたのだが、ある時、強力なアンデットが現れ、城に住み着いてしまったため彼女は下水道へと逃げたのだそうだ。
ひとまずは怯える彼女を宥め、城内の様子を探ることにした。近くに敵対的な存在がいるのは俺も彼女も落ち着かないからな。
流石にレベル100に近いようなアンデットが出てくるとは思えないが……可能性は低いが、この国の惨状を作り出した存在であることも否定しきれない。
出来るなら、活動圏内の安全を確保するために早々に始末しておきたいものだ。
☆月★日
自身に完全不可知化をかけて城内に潜入する。
騎士や侍従、政務を行う官職に就いていたと思われるゾンビを極力避けて内部を探査。ゾンビが徘徊する城を占拠していたのは、質は良さそうだがボロいローブを着たアンデット。
キーノからの情報通りの姿であったことから、気づかれる前に背後から縦に真っ二つにした。少なくともゾンビではないので、もし誤チェストでキーノに怒られたら素直に謝ろう……
もしも、このアンデッドがこの都市を廃都に変えた犯人であるとするのなら、危険と言わざるを得ない。当然、魔法や保持しているかもしれない技能には注意しなければならなかった。
しかし、暫くたってもアンデッドは再生する様子もなく、完全に沈黙。起き上がってくることは無かった。
その後、再び完全不可知化を自身にかけ、同じようなアンデッドがいないか城内を可能な限り調べてみるもゾンビしかいないようで、念の為、城内に他に潜んでいる存在がいないか再度魔法やアイテムで確認した後、取り敢えず安全は確保されたと判断した。
一旦下水道に戻り、彼女にこのことを伝えると、イマイチ疑っているのか微妙な表情をしていた。
でも多分、これをモモンガやぷにっと萌えに話したら雑とか迂闊なんてグチグチ言われるんだろうな……
誰でも出来るPK術は道具やら魔法を大量に使うし、面倒だから正直大変なんだよ……そういうのは、頭の良い奴に極力任せたいものだ。
お馴染みのグリーンシークレットハウスをアイテムボックスから取り出し、生活の場を移す。少女が驚愕するのを微笑ましく思う一方で、俺には目的があった。
いい加減、キーノを風呂に入れたい。
ここはどこも埃っぽい。まして下水道で休むなんてゲームの中でしか経験したことがなかった。
ここ数日はまだ我慢していたのだが、もはや限界だった。
なにがって、汚い……汚いのだ。
全然洗ってません、とばかりの粉を吹いたボロボロのローブに、土埃でボサボサ、ギシギシになった髪、泥で汚れた顔……
ほとんど浮浪者じゃないか。
俺の場合今は霊体なので汚れることなどないのだが、汚い場所には当然長居したいとは思わない。同じように、浮浪者が側にいるというのも、精神衛生上ね……
グリーンシークレットハウス備え付けの風呂に入れ、設備の使い方を教えた後に土埃を落とさせる。ちゃんと洗っているか不安になったが、少女とはいえ、風呂を覗く訳にもいかないだろうし。
そういえば、ナザリックにはスパがあったはずだ。霊体になる前に行っておけば良かったなぁ。
☆月★日
そろそろ俺への警戒も薄れてきただろうと、キーノにここで起こった出来事について尋ねた。
今から40年程前になるが、一瞬にして街が滅んだのだという。
キーノが覚えているのは突如、身体に激痛を感じ倒れたこと。それは周囲でも起こっており、母やメイド達も強烈な痛みにのたうち回り、苦しんでいた。
母が痛みに耐えながらも魔法で彼女だけは助けようとしてくれたが、身を苛む激痛はどうにもならず。
最後に……キーノの母や良くしてくれたメイド達から青白い玉が抜け出したのを、薄れる意識の中で見たという。
気絶した彼女が気がつくと母やメイド達を含め、王都の民達は全てアンデットと化し、キーノ自身は人間ではなくなっていたという。
ただ、何故キーノだけが助かったのかだが、彼女が持つ特別なタレントが関係しているようだ。
それも、「受けたり、見たりしたどのような魔法でも1つだけストックし、自分の魔法のように発動させることができる」というもの。
この世界にタレントと呼ばれる異能が存在することは知っていたが、ほとんどがなんの役に立つのかわからないような物だった。
その中でもキーノのタレントは特に珍しいのではないかと思う。
彼女は、薄れゆく意識の中、何かに触れたという。
おそらくだが、何故彼女だけが助かることができたのかは……彼女のその異能で、自身が受けた魔法を無意識にストックし、発動させていたからなのかもしれない。
……そして、もう一つ。俺は一つだけ青白い玉の正体に心当たりがある。
それは魂/ソウル。
生き物が持ち、肉体の死とともに溢れ出すもの。
もし、キーノが受けた魔法が王都を覆うほどの広範囲から魂を無理矢理集め、吸収するという効果を持った魔法であるならば、キーノがアンデットとなっている理由も予測がつく。
つまりは、彼女は王都中から浮かび上がった魂を吸収したのだろう。そのせいとは言っては何だが、彼女はアンデットとなりながらも意識を保ち続けている。
ただ、何故魂を吸収してアンデット化したのかだが……これも憶測にすぎないが、その魔法には行使者をアンデット化させる効果も含まれていたのかもしれない。
ただの人間では幾つもの魂をストックする事はできない。本来であれば、一つの肉体に魂は一つ。だが、魂の器たる肉体の枷が壊れたアンデットであるならば話はまた別だ。
俺/不死人のように。
いや、肉体の枷というのであれば、魂を吸収し過ぎると肉体がその魂の密度に耐え切る事が出来ないため枷が外れる、という所までがその魔法で意図された効果なのかもしれない。
反対に、肉体から魂が抜け出た存在は、生ける屍──肉体は生きているのに、人を人たらしめる意思が無いという奇妙な状態になっているのではないだろうか。
加えてゲーム内での設定では、ソウルとは自身を強化し、不死人のレベルを上げるための経験値としての役割もあった。肉体が魂の密度に耐えるためにアンデットという種族どころか、その位階すら向上させたとも考えられる。
……そしてアンデッドとなった後、彼女は意思もなく彷徨い続けるだけのゾンビと化した両親やメイド、民達を見続けてきたらしい。
話終わり、キーノの赤い瞳からは涙がとめどなく流れた。
辛いことを話させてしまった。泣かせたのは俺のようなものだ。
なんとかして宥められないかと、俺は彼女にこの世界では珍しいだろう魔術をみせ、少しだけ気分を変えさせることに成功した。
見せた魔法──というか魔術は『降り注ぐ結晶』。上空に打ち上げられた結晶塊から分裂した結晶が降り注ぐというものだが、そのままでは弾数も威力も心許ない産廃。
『魔法最強化』や『魔法三重化』、『魔法範囲拡大』といった魔法強化をして、ようやく使えるかも? という魔法だ。
何しろ一つ一つの結晶塊の威力は低い上に、追尾性能が非常に低い。バラけるように降り注ぐため、敵に安定してヒットすることもないという……
まぁ、魅せ技というか、魔法三重化した降り注ぐ結晶は弾幕みたいになるから綺麗ではある。
てか、メイドか……
キーノはいいとこのお嬢様どころか、亡国のお姫様だったみたいだ。そんで、今ではだいたい50歳以上と……
前世合わせたら俺もそのくらいかもな。
☆月★日
書くのを忘れていたが、キーノが変化した種族は吸血鬼系統のようだ。
よく見れば、その特徴は外見にも現れている。
赤い瞳の魔眼に、白い肌、伸びた犬歯。
ただ、朝が苦手ではあるものの、吸血鬼と言う割に重いペナルティがあるはずの日の光も割と平気のようだし、流水や銀が苦手ということもない。
とすれば、消去法で高位の吸血鬼になるのだが、それにしたってペナルティは存在する。信じがたいことだが、キーノは吸血鬼系統の最高位である真祖にまで到達しているのかもしれない。
それと、今日、キーノとともに王城を探索した。
目的は城に居座っていたアンデットが何をしていたのかを調べるためだ。
王城では前と変わらずゾンビが右往左往している。前にアンデットを始末した時も、ゾンビには一切手を出すことはなかった。
彼らの中にはキーノの知り合いも多いし、彼女からも退治しないで、と前に言われていたからだ。
あのアンデットがゾンビ化の犯人の可能性もあったのだが、ゾンビ化の原因が魔法であるなら行使者を退治してしまえば魔法は解除されるはず。
どうやら、あのアンデットはゾンビ化の犯人ではないらしい。
現に、城の探索中に前は存在しなかった研究室のような場所が作られており、そこにはインベリア王国がゾンビ化した原因を調べていた主旨のレポートが残されていた。
……
☆月★日
あの日から何かにつけて魔法を見せてと、せがまれる日々。
せがまれるのは毎回決まって結晶魔術。
住居に取り付く虫を殺すために毒の霧やら酸の霧の呪術も見せたのだが、気に食わなかったみたいだ。
生活にも使える便利な魔法なんだがなぁ……
女の子ならキラキラする物は好きだろう? という考えなしで結晶魔術を見せたのが失敗だったのだろうか。
しかし、魔法を使うようになってから発覚したのだが、何故か使用した魔力が一向に回復しない。
ユグドラシルのゲームであれば時間経過で回復する設定で、ここに来る前もちゃんと回復していたはずなのだが……霊体では魔力は時間経過で回復しないのだろうか。
それに加えて、不死人のクラスであれば、体力や魔力を即時回復させることのできる篝火もここにはない。
回復の制限とか、これからどないしろと。
幸い、体力回復の手段にはいくつか当てがあるのだが……
魔力は手段が限られる。
というのも、肉体に作用するようなアイテムは霊体時には基本的に使用出来ず、霊体に作用するような特殊なアイテムでのみ回復出来たからだ。
ただ、試しに、エストの灰瓶というアイテムを使ってみれば、予想通り回復する事ができた。
でもこれ、あんまり数ないんだよね……篝火さえあれば補充が出来るのだが、その篝火もない。稀にアンデッド系のモンスターを倒すと自然と増えてたりはするんだが……
あとはクリティカルを奪うことで魔力を回復させる事のできる指輪を装備しておくとかか……
とりあえず、緊急時や戦闘時に使うであろう貴重なエストの灰瓶は温存しておき、魔力をゆっくりとだが自動回復させる効果のある装備だけ身に着けておこう。
なもんで、魔力節約のために魔法を使うことを俺が渋り始めると、ついには魔法を教えて欲しいと言われた。
キーノの持つタレントの力で、見ただけで発動することができるなら、今でもできるんじゃないか、と問いかけるも自身がアンデットになる原因となった魔法が発動状態になっていて、自分では魔法を止められないらしい。
……あらら。
教えられるならそうしてやりたいが、俺の使う結晶魔術も少し特殊で、不死人のワールド産のソウル魔術を元にしている。
通常であれば、結晶の魔法が使える代表格といえば大地系のエレメンタリストであるが、俺のはソウルを元にした魔術で、ユグドラシルでもマイナーなものだ。
当然、結晶魔術を使うには最初に魔術の基礎であるソウルの矢から覚える必要があるのだが、それにだってソウルの習熟やら、教えるためには実演が必要で……
そもそも、不死人でない者がソウルを使用できるのかというと、それは俺にもわからないことで……
それを頑張って筆談でぼかしながら伝えると、また泣かれた。最近、わがまま言うようになったなぁ。
ただ不満だからといって、無視はやめて頂きたいものだ。
……
☆月★日
ここに呼び出される前の、元の居場所へはいつ戻るのだろうか、もしくはずっとこの場所にいることになるのだろうか。
特に不満等がある訳ではないのだが、最近はよくそんなことを考える。
……ただ戻るための方法はなんとなく分かっているのだ。ユグドラシルのルール通りならば、呼び出された理由を達成するか、俺が死ぬか。そして、時間切れの三択しかない。
まず、死ぬのを試すのは論外。
本当に無事に戻れるのか確証がないし、そもそもキーノを一人残してゆくことになるから試そうにも試せないのだが。
別にどれだけの期間ここにいても俺は構わないが、ゲームでは召喚された際、あまりに時間がかかると自動で元の場所に戻されることがあった。
現実世界で同様のルールが生きている場合、俺は唐突に送還されることになるのだろう。実際に、それがどれくらいの時間で起きるのかは正直わからないが……
だから、こうもゾンビ以外に何もない場所で日々ボーっとしてるのは無駄な時間を浪費しているのではないかと、何となく焦ってしまう。
そんな折、思い詰めた様子のキーノから話があった。
ゾンビになった両親を元の人間に戻せるかもしれない方法を試したいと──
☆月★日
ゾンビと化した人間を元に戻す方法。
それは王国にある国宝、『虹よりこぼれし白』を使用するというもの。彼女曰く、その宝には信仰系第5位階魔法『死者復活』と同レベルの蘇生魔法が込められているらしい。
結果だけ述べれば、死亡したゾンビに蘇生魔法を掛けたが、ゾンビのまま復活した。対象が灰になることもなく、ゾンビ化が解除されることもなかったのだ。
考えられるのは、復帰した際にゾンビの状態がデフォルトになっている場合だろうか。
肉体の損傷が大きい場合には蘇生が困難になるという話を聞いたことがあるが、その場合には蘇生は失敗したと見なされ灰となるはず。灰となる条件は他にも、レベルダウンによるものもあるが……
そもそも、今回試したのは一般王国民で、高名な冒険者であったり、兵士でも何でもない。
冒険者でも鉄級くらいまでは蘇生出来ず、灰になるのだ。一般市民が灰にならないのがおかしい、ということだろう。
一応魔法の位階が足りなかったという可能性もあったため、キーノには内緒で、ナザリックをたつ前に持ち出したワンド・オブ・リザレクションで試してみたのだが……やはりゾンビはゾンビのままだった。
あと考えられるのは不死者化の呪いが継続しているか、蘇生で呼び出す魂が見つからない、というのが原因のような気がするが……
まぁいい。それよりも、キーノが失敗に落ち込んで、励ますのが大変だった。
……
☆月★日
ゾンビ化を解除する研究の日々。唐突ではあるが、俺たちは旅に出ることにした。
キーノの両親を元の人間に戻す方法がないかを調べるために。ずっとこのインベリアで籠もっていても、手に入れられる情報には限りがあるからだ。
もしも、他の国でゾンビ化の解除が研究されているのなら、それらの知見を得るのもキーノの研究には必要なことだろう。
キーノの両親は、彼女が寝床にしていた下水道に閉じ込めてある。見知らぬ冒険者やらがゾンビを退治してしまったら、救う者もいなくなってしまうからな……
ただ、正直なところ、両親の件は期待出来ないのではないかと俺は思う。彼女の両親の魂は、恐らくはキーノの中にある。だから、蘇生の魔法では復活することはできなかった。
前にクレマンティーヌに聞いたことがある。死んで、復活する時には何が起こっているのかを。
彼女が朧気に覚えていたのは、呼ばれたことだそうだ。戻ってこい、という俺の声に。
そして彼女は生き返ることを願って深淵から這い上がり、現世へと戻ってきた。生き返ったはずが、アンデットの不死人になるという彼女にとっては意味不明な状況だっただろうが……
まぁ、それは奴にはまだバレてないようだしいいや。
話が逸れたが、重要なのは復活の際に生き返りたいという意思があったことだ。
意思は機能の停止した肉体に残るのだろうか?
そうは考えにくい。
ならば、深淵から這い上がるための意思を持っていたのは魂と考えるのが妥当だろう。
なんだったら、今の俺だって霊体だし、言わば肉体のない魂だけで動き回っているようなものだ。
それを考えれば、何度、彼女の両親を蘇生しようと試みても結果は見えている。
蘇生に失敗した場合に起こる、肉体が灰になる現象もない。恐らくは前と同じで何の変化もなく、ゾンビはゾンビのまま復活するはずだ。
きっと彼女自身もどこかで気がついている。この研究の成果が実ることはないのだと……今は目を逸していても。
だがそれでも、何もしないよりはいい。その行動した分だけ、彼女は前に進めるのだから。彼女が両親の死を受け入れるには、まだ時間が必要なのかもしれない。
今は彼女の好きにさせてやろう。
……
☆月★日
旅に出てから気づいたこと──それは、キーノがすこぶる弱いということ。
上位吸血鬼の癖に体力や力、防御、軒並みステータスが低く、一般的な人間の大人くらいだ。
元々、お姫様で長距離を歩いたり、戦闘に参加したりなんて経験ないんだろうからステータスが低いのは当然なのだろうが。
体も小さく、一歩一歩が小さい。俺のペースで進めると差が開いてしまう。かといって彼女に合わせていては、なかなか進まない……
だから、今は護衛とスピードアップのために幼女肩車してあちこちに移動している。もし人に見られでもしたらどう思われるんだろうな。
傍目には死霊が女の子背おってる図だからなぁ。
もしかしたらキーノが危険な死霊使いだとでも思われるのか、死霊が小さな女の子を襲っているように見られるのかもしれない。
霊体化のことも考えなきゃならないな。
何か使えるアイテムとかあっただろうか……
☆月★日
インベリアを旅立ってしばらく、不思議なことに虫や鳥以外の生物に出会うことがなかった。
歩けども歩けども、出会うのは人や動物のゾンビ。たまに動物やモンスターに出くわすことはあっても、ゾンビに襲われたのかすでに死体となっている。
最初、この世界では生命の大半が死滅してしまったのかと勘違いしてしまうほどだ。
だが、森を踏破し、山を越え、広大な平原を抜け──
段々と生命の営みが垣間見えるようになり、そこにあったのは、俺が見たことないモンスターに、知らない種族、聞いたこともない人や亜人の文化。
本当に世界は広いな……
生命が極端に少なくなっていたのは、歩いた日数から推測しておおよそ4日目の位置まで。
一日に歩いた距離を平均30kmくらいだとすればだいたい120km。魔法が行使された中心がどこかはわからないが少なくとも俺たちが踏破した約100kmに渡り、生命が死滅していたことになる。
その事実に戦慄するしかない。
本当にそんな魔法が存在するのだろうか……?
……
☆月★日
二人だけの旅を続けている。
キーノと旅に出てからどれくらいの日がたったのだろうか。
最後に日記をつけた日から久方ぶりに手帳を開く。
というのも、実際にこうして見知らぬ土地を歩いて回るのは新鮮で、見知らぬ物ばかりを目にしてすっかり夢中になっていたとも言える。
本当ならその土地固有の物を写生したり、小さいものであれば手帳に挟んだりしても面白いかったんだけどな……すっかりインベントに仕舞い込んだまま忘れてた。
だが、久しぶりに日記をつけたのは、暗い偽りの指輪というアイテムで霊体を生体に偽って立ち寄った、とある都市で奇妙な噂を聞いて、書き残しておこうと思ったためだ。
曰く、一夜にして国が丸ごと無人になる原因不明の災害が起きているという。
いや、無人とはいったがその国に何も残っていないという訳ではない。ただ、人間のいない都市に残っているのはゾンビだけなのだという。
それも250kmの範囲に渡り、周辺4つもの国で起きている。
そのせいで、今回立ち寄った都市でも20年程前にアンデットが押し寄せ、大変なことになったそうだ。
……そう。一夜にして、人がゾンビへと変貌する……これはインベリアで起こったことと同じ。
この現象が人為的に起こされたものなのか、それとも自然災害によるものなのか……調べる必要があるだろう。
そして、そのアンデッド災害の起こった4つの国の中心地にはケイテニアス山があることも気にかけておかなければならない──
(追記)既に書いたかどうか忘れたが、霊体化の対策については暗い偽りの指輪をつけることで霊体の見た目を生者の姿にすることが出来た。
アイテムに頼ったのは、本来であればアンデッドの一種である不死人は、『非実体化』と『実体化』のスキルを使い分ける事が出来るはずなのだが、召喚という行程を経たせいかスキルが無効化されていたからだ。
これは本来スキルを保持していないアンデッドやゴーストの種族が姿を生体に偽るアイテムなのだが、偽ることが出来るのは見た目だけのようで相変わらず話すことは出来ないままだった。
……
☆月★日
幾つかの国を旅して回り、道中で『深淵なる躯』とかいうアンデッド限定の相互扶助団体のメンバーに遭遇した。
アンデッド災害のことで何か知っている事はないかと訊ねてゆくが、どうやら、インベリアの王城に居着いていたアンデッドもその団体の一員らしく、過去に何度か意見を求められた事があったらしい。
とはいえ、遭遇したそのアンデッドはアンデッド災害には然程興味がなく、意見を伝えただけで共同で研究するような事は無かったようだが。
国の研究を探り、新たな知見を得るのも難しくなってきた。ここらで、情報収集の対象をアンデッドに広げても良いのかもしれない。
そのアンデッドに深淵なる躯のメンバーの所在を聞き、訪ねて回る事にしようとキーノと決めた。
……
☆月★日
あちこちを旅して周り、久しぶりにインベリアへと戻ってきた。
と言っても、相変わらずここにはかつてあった街の跡しかない。それでもキーノにとっては故郷であることに違いないのだから。
変わることのない街の様子、ゾンビのままの両親や民達の様子に彼女はなんとも言えない表情をしていた。
ここへ戻ってきたのは、インベリアの隣国であるエナ多種同盟国のスルクー3に向かう道中に立ち寄った事や、とうとうキーノの研究が頓挫してしまい、酷く落ち込んでいた彼女には休息が必要だと感じたからだ。
いくら廃都になっているとはいえ久々の帰郷だ。これまで頑張った分、少しぐらいキーノには心身を休めて貰いたかった。研究は頓挫したといえ、諦めなければ先は無限に広がってゆく。今は研究の先が見えない分、精神的に辛い時だろうから。
これまで、様々な国を二人きりで旅して来た。決して、順風満帆な旅などではなかった。俺は話せやしないし、キーノは少女姿のアンデッド。
都市で話を聞いたり、調査して回ろうにも、彼女がメインの話し手に立つしかなく、俺は精々が護衛として側にいるしかできない。相手にはナメられ、時に不審な目を向けられ大きな負担になることもあっただろう。
だからか、出会った頃と比べ、彼女が涙を見せることは減り、出会った当初のか弱い少女は鳴りを潜めた。ナメられないようにするためか、いつの間にか口調も尊大な物言いに変わった。
家族を、国の民を助けたいという思いが彼女を突き動かす原動力になっていたのかもしれないが、そのひたむきさの裏では、不安や恐れが常に渦巻いていたのかもしれない。
彼女は不安だからこそ、動いていなければいけなかった。そしてついにその緊張の糸が、研究の頓挫という切っ掛けで切れてしまったのだろう。今日も一日インベリアの風景を眺めていたようだが……今はただ休息の時間が彼女には必要なのだろう。
キーノはまだケイテニアス山に何かがあるとは気づいてはいないし、俺も特に何かを伝えることはしていない。
キーノは何故スルクー3なのか訝しげにしていたが、インベリアの様子もついでに見ようという口実も加えて、比較的近隣にあるスルクー3にも立ち寄ろうと説得している。
何故、スルクー3に向かうことにしたのか──それはアンデッド災害が起きた4つの国を線で結んだ時の中心、ケイテニアス山の最も近くにある都市だからだった。
……
☆月★日
インベリアで旅の疲れを癒やしたり、次の旅に向けての準備作業やキーノの研究成果を再び整理をして過ごしていた、とある日。
廃墟となった街に珍しく来訪者があった。
リーダーと呼ばれる男性の戦士。
ネクロマンサーの人間の女性。
ハーフデビルの暗黒騎士。
神官。
エルフ。
白銀の騎士。
巨人の戦士。
暗殺者の老人。
暗黒邪道師。
ドワーフの魔法工。
他にも様々な種族の戦士や魔法使いがいる集団だった。
聞けば彼らは遥か西方から各地を旅して来たらしく、世界を滅ぼしかねない魔神やその配下を討伐して周っているのだという。
ここには、街を壊滅させたという噂のヴァンパイアロードを探しに来たのだという。
キーノが久しぶりに涙目になったのを見て、俺は声を出さずに笑った。というより、出ないのだが。
数日、彼らは廃墟となった街に逗留していたのだが、そこで交流している内にキーノが噂の吸血鬼であると、噂が間違いであると話しても問題ないと判断した。
キーノは討伐されるのではないか、襲われるのではないかと内心ビクビクしていたようだが……
勿論、それでも彼らがキーノや俺を危険視し、討伐しようとするのであれば抵抗するつもりだった。
だが、恐らくは大丈夫だと俺は思っていた。
何しろ、様々な種族の集団であるし、喧嘩することはあっても、他種族に対してある程度の寛容さは生活の中で随所に見られていたから。
そして、敵対関係になってもおかしくはない異種族同士を纏め上げるリーダーのコミュニケーション能力は驚嘆すべきものだったからな。
……
☆月★日
討伐すべきヴァンパイアロードもここにはおらず、彼らはインベリアを立ち、再び魔神討伐の旅を再開することになる。
リーダーからの好意で、ヴァンパイアロードは彼らが討伐したと噂を広めて貰うと約束を取りつけられたことは行幸だった。
リーダーからは一緒に行かないかと誘われもした。
俺としては、しばらくゆっくりして十分休んだので旅も再開させたかったし、どちらでもいい立場だったが、今は俺だけで決められることでもない。
ここにはキーノもいる。
沈黙した後、キーノは悩んでいたようだが今はインベリアを離れる気はないと彼らに伝えたようだ。
彼らは暫くは周辺諸国を巡り、魔神討伐の旅を続けながら、西にあるという砂漠の都市エリュエンティウへと向かうようだ。
そこに、強力な武器を借りに行くのだという。
ケイテニアス山脈にいるという、何かを討伐するために。
彼らもまたケイテニアス山脈を目指すという。
だが、俺は……彼らよりも先にそれの討伐に赴かなければならない。……日に日に募る焦りがあるからだ。
それを達成すれば俺は元の場所へと還るのだろう。ユグドラシルの仕様通りに。
ただ一つだけ、気がかりなのは──
……
☆月★日
行き先はケイテニアス山。
滅びた4つの国の中心にある。
今はそのケイテニアス山の西側にある広大な平原にいる。
俺がケイテニアス山の調査に一人で行くと伝えると、キーノは反対して荒れた。俺が文字を書き言葉を交わそうとしても文字を読もうともせず、無視されてしまった。
キーノもリーダー達がケイテニアス山脈を目的地としていると聞き、何かに気づいたのだろう。
俺は結局彼女をインベリアへと置いてきた。
帰ってきたら二人でまた旅をしよう、か……
それは楽しそうだ。是非ともそうしたい。
だが、それは出来ないだろう。いい加減時間的にここにいられるのもギリギリだと感じている。
日に日に焦燥感が大きくなっている気がしていた。そして、最近気がついたのは霊体の輝きが召喚されたときと比べて、くすんできていることだ。これは帰還する時が近いということなのだろう。その時間が来てしまう前に決着をつけたい。
恐らくは戦闘になり──その闘いはこの世界に来て、かつてない熾烈なものとなるだろう。
勝っても負けても俺はここからいなくなる。そして、もしも俺が負けたとしても彼らが元凶の討伐を成してくれるかもしれないし、俺が元の場所に帰還してもいずれ彼らが一人になったキーノを拾ってくれることだろう。
……キーノには力がない。だから俺が呼ばれたのかもしれないな。
問いただそう。何故、国を滅ぼし、ゾンビばかりの死の都へと変えたのか、その真意を。
☆月★日
広大な草原、落葉広葉樹林帯を抜け、川に沿うようにして山脈に挑む。
道中、立ち寄ったスルクー3は、やはり廃都となっていた。しかし、アンデッドは街中で見かける事は無く、無人の廃都は自然に還りつつあった。
情報収集も出来ない今、目的地となるはいくつもの山々が連なる山脈地帯において、最も高いケイテニアス山。
遠くからでもわかるほどの高さだ。
標高の低い平地に住む人達がいきなり空気の薄い標高の高い場所に行くと、体調が悪くなったり、死の危険すらあるそうだが、アンデッドには関係ない。
どんどん進めてゆこう。
幸いにも装備に余裕はあるし、本当ならサクっと飛行して元凶を探すというのもありなのだが、それでは精神的に余裕がない気がする。どうせなら、最後にこの雄大な景色を楽しみたい。
こんな景色を独り占めするなんて経験、普通じゃ出来ないことなんだからな。
☆月★日
標高が高くなれば、植生も変わってくる。低地にあった広葉樹林は少なくなり、常緑性の照葉樹林が多くなった。
清冽な水の流れる沢を越え、未だ遠くにある山脈を望む。
山から流れて来た沢の水は冷たく、透き通っている。
生憎と霊体のこの身では不可能だが、もしも、それを掬って飲めば、その美味さを感じられたかもしれない。
それが少し残念だ。
☆月★日
森林限界と呼ばれる現象によるものか。
低層では鬱蒼と樹木が生い茂っていたのに対して、高層に登るにつれて、背の高い樹木は姿を消してゆき、草や地面を這うように伸びる樹木ばかりが目立つようになった。
更に登り、標高が高くなれば、植物自体が見られなくなってゆき、さらに山脈の奥地に歩みを進めれば、石と岩ばかりの荒涼とした山肌が剥き出しの景色へと変わる。
足場は悪く、ごろごろした石が歩みの邪魔をした。
気温もグッと下がる。高地では濃い靄がかかっており、当然ながら道も整備されておらず、大地の原初の姿を今に残すケイテニアス山では、登山者の方向感覚を容赦なく奪ってゆくのだろう。
☆月★日
天高く、気澄む。
太陽が近く、光が強い。
稜線を一人で歩く。
この世界に自分しかいないように錯覚した。
この感覚は嫌いではない……だがもしも、この場にキーノやクレマンティーヌ、ユリがいたら俺はもっと違う心持ちでいられたのだろうか。
心強く感じたことだけは確かだろう。
だが、自問する。
騒がしいのは嫌いではない。しかし、その場に自ら加わりたいと思うほどではない。
キーノの子どもっぽい喚き声も、クレマンティーヌとユリの喧しい言い争いも、全て遠くに感じる。
俺はずっと一人になりたかったのだろうか。
そんな事を思いながら、歩みに力を込めた。
☆月★日
魂が、精神が研ぎ澄まされてゆくのを感じる。
ここには俺しかいない。
一人になって自分自身を見つめているんだ。
歩みを一歩ずつ進める度に。
寝転がり、星々の輝きを視界に納める度に。
魂が研ぎ澄まされてゆくような、妙な高揚感がある。
孤独だが、寂しさなどない。
山を歩き、高山植物を眺めては胸が空き、太陽の下で歩むことに喜びを感じる。
一つ山頂を迎える度に得られる小さな達成感が、心に満ちてゆく。
誰かと関わって、自分が生きていると実感したことはなかったが、一人になって俺は確かに生きているのだと実感出来ていた。
ここには複雑な人間関係などなく、下僕たちの妙な期待もない。
普通に生活してるだけで、どうしてこんなにも煩わしいことが多いのか。
ここは気楽でいい。
☆月★日
天候が荒れたため、持ち運びが可能なグリーンシークレットハウスにて休む。
夕方からは天候も回復し、外の景色や空をボーっと望む。
山が夕日の色に染まり、日が沈みかける時には山の陰影と空のブルーのコントラストが美しい。刻一刻と色が移り変わり、まるで生き物のように変化してゆくのが目を惹きつけてやまない。
インベントリにしまってあるカメラを取り出そうともしたが……何故だろうか。俺はどうしてかファインダーを覗く気になれなかった。今はただ…… この景色を目に焼き付けておくことに留めよう。
☆月★日
荒れた山肌に、突如として現れる人工物。
これまでの道中にも人工物と思わしきものは幾つかあった。
無人の村や、山の頂きには石が積まれていたり、青、白、赤、緑、黄と色彩の鮮やかな大量の布が旗のように靡いていた。
それらはここらに住む民族が利用するような目印であったり、もしかした俺の知らない信仰の象徴なのかもしれない。
そして今回目にしたのは、荒れた山肌に挟まれたような谷地にあった、平たい石を積んで造られた石垣。石で組み、土で固められた家。
遠くには家畜であろう動物の姿も見えた。
この山に登り始めて、鳥や虫、ワイバーンなどの魔獣以外の生き物を目にするのは初めてだ。
その家畜の近くには、こちらを伺う人らしき存在が立っていた。
家畜の近くにいたのは耳の長いエルフのような外見をした男性。
容姿が優れており、肌は日に焼けている。重そうな厚手のコートのような服を纏っている。どうやら、ここは山岳民族の村のようで、感じられる気配では多くとも50ほど。
こちらに向けて何を話しているのかは理解出来るが、こちらからは声を発して意思を疎通させることが出来ないためジェスチャーで応じるしかない。
彼も無口で、何とか害意がないことを伝えると連れて行かれたのは、村の中心にある建物だった。
建物の中では族長と思わしき老齢の男性が待っており、バター茶を振る舞ってくれたのだが、申し訳なかったが断食中であるとして遠慮させて貰った。
この断食については、ここいらでメジャーな信仰で行われる宗教的行為なのだが、祈願や修行のために行われることが多いみたいだ。
俺の場合は物を口に出来ないがための口実としてよく利用させて貰っていた。本当に、断食の文化があって助かった。
バター茶を遠慮ふると、族長は、最初の彼ほど無口ではなかったようで、こちらに用を問い掛けた。
それに対し、俺は此方に来てからキーノに教わった字で『声』『出せない』と書き、続けて『魔獣』『魔神』『退治』とだけ、たどたどしく書いた。
彼は目を見開き、険しい表情で文字を見つめていたようだが、暫くして村に滞在することを許してくれたのだった。
その後に案内されたのは最初の彼の暮らす小さな家で、そこには彼の家族なのか妹がいるようだった。
彼は無口だが、妹はそうでもないらしい。
彼女からの話では、ここの村には独特の文化があるようで、彼らは夫婦でもあるのだとか。
彼にボソリと抱いていいと言われたのは、流石に遠慮したが。というか生身を偽ってはいるが、本来は霊体だから抱けないし。
この村を拠点にアンデッド災害を起こした元凶の居場所を探ろうと思う。
☆月★日
翌日。再び、族長のもとへ。危険な魔獣や大きな力を持つ魔神の居場所に心当たりがないか、ジェスチャーと拙い文字を交えて尋ねる。
粘り強く聞けば、彼らはここより東に数日、連なった山脈に周囲を囲まれた高地を避けているらしい。
そして、この村に伝わる言い伝えを教えて貰った。
遥か昔からこの山脈には白い竜王が住んでおり、彼らは竜王の怒りを買わないよう定期的に家畜を生贄として差し出し、魔獣の少ない安全な地を借り受けて生きてきた。
しかし、いつしか西の果てから始まった竜王と八欲王と呼ばれる存在との戦争で竜王達の多くが死に絶え、八欲王が世界を支配すると白い竜王は死の恐怖で狂ってしまった。いつからか竜王は生贄を受け取ることをやめ、彼らとの交流も途絶え、自ら孤独となるように他者を排するようになったのだという。
また、元々彼らは遊牧民らしく、特定の場所に定住している訳ではなく、季節ごとに家畜の餌となる牧草を求めて住む村を変えている。そんな村を移動する折に東の山脈を抜けた際、何かの巨大な影や人のような形をした蠢く数多の何かを見た者がいたそうだ
今はもう、生贄を出すことはないが、彼らにとって白い竜王は隣人でもあった。今はもう狂ってしまった竜王を刺激して、村に被害が及ぶようなことはしないで欲しいと請われた。
そして、彼からは荒ぶる竜の神はヒトの身では止められるものではないと引き止められ、居場所がないのであればここにいても良いとも。
心遣いは嬉しく、迷惑をかけるかもしれないのは心苦しい、が。
俺はきっとその竜を狩るために、ここへと喚ばれたのだろうから。
……
☆月★日
山を調査すること数日。ようやく見つけた。
蠢く何かとはゾンビ化した数多のヒトのこと。
黒い影は無数のそれらを身に纏った塊の姿。その塊の中に竜がいるのだろう。
勘付かれないよう観察に徹する。動きを探るも殆ど動くことはなく、同じ場所でただジッとしているようだった。
それを見て俺は思った。
あ、勝確だわ、コレ。
はた、と気がつけば、召喚される前にいたはずの野営地。 揺らめく焚火の前にいた。
何やら騒がしく、周囲に視線を向ければ、何かを言い争っているクレマンティーヌとユリの姿がある。
あぁ、そうか。
そういえば、そうだった。
……なんだか、長い夢を見ていたかのような気になる。
俺の魂は過去へと飛び、確かにあの少女に出会い、共に旅をしていた。しかし、その記憶は何処か夢を見た後のように、遠く感じている。
覚えていない訳ではない。ただ、夢の中で経験した出来事のように現実感は失われている。ただ記憶が真実であると証明するものは、この日記だけ。
あの泣き虫な少女はその後、元気で過ごしただろうか。
果たして、今はどこで何をしているのか。
生きているのか。
怒ってるのか……
彼女とした最後の約束が果たせないものだとはわかっていた。いつか……また彼女に会える機会はあるのだろうか。
俺には二人掛かりの相手は無理だとわかった。……涸れるまで搾り取られるので、今後は気をつけること。
二人に、次の旅の目的地を教えてはならない。
……そういえば、モモンガがナザリックでとある実験をしたいと言っていた気がする。二人ともそのメンバーに突っ込んでしまうとしよう。
護衛兼連絡役はシャドウデーモンが一体でもいれば事足りるはずだからな。
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29.蒼の薔薇編※5
ここよりも遥か東、大陸の中央に近い地──インベリアが私が生を受けた場所だった。
昔の私は何不自由することなく育てられた、所謂、箱入り娘と呼ばれる存在だったのだろう。
尊敬すべき父がいて、想ってくれる優しい母がいて、私に良くしてくれる人が身の回りに沢山いた。
我儘を言えば母が聞いてくれる。
愚かな行いをすれば父が叱ってくれる。
身を害しかねない存在が近くに寄ることも周囲が未然に防いでくれていた。
私は大切に育てられていて、恵まれていたのだ。
何の力も持たない、世間知らずの小娘と言われれば、何も否定できない。実際にその通りだった。
それでも……現実を知らず、危機感もなく、この世界がどんなに理不尽なものであるのかを知らなかったあの頃の私は、無知であり、未来への希望に溢れ、幸福だったのだ。
──だがな、幸福とは長続きしないもの。
外敵となる存在が多くいて、人は永らく亜人種や異形種、魔獣との生存競争に負け、淘汰されてきた。この世界は脆弱な肉体の人間には生きづらく、厳しすぎて……ほんの、何か小さな切っ掛けで日常が崩壊することなど珍しくもないのだと……昔の私はそんな当たり前の事さえも知らなかった。
──私は絶望を知った。
私の暮らしていたインベリアは災害とも呼べる出来事で突如として、滅亡したんだ。
父や母、私に良くしてくれた人達、顔見知りの者も皆……そう、全てがインベリアとともに消え去った。
不思議に思うことだろう。何故、無力な小娘だった私だけが災害の只中で生き残ることが出来たのか。
……それこそが私がこの身をアンデッドへと堕とすことになった原因であり、生き残ることが出来た理由でもあるのだが……
悪いが……それは、もう誰にも語るつもりはない。
──大切な存在が皆、突如として周囲からいなくなる。
そんな経験しないにこしたことはないのだが、運悪く私は経験することとなった。本来であれば、皆と同じように、私もまたインベリアと共にいなくなるはずだったのだが、なんの因果か死にそびれてしまった。
あぁ……突如として人がいなくなるとは言ったが、その存在自体が無くなった訳ではない。
……彼らは皆、アンデッドとなったのだ。
ゾンビ、ウォーキングデッド、リビングデッド。まぁ、呼び方は何でもいいが……当時はアンデッド災害とか呼ばれている出来事がいくつかの都市でも起こっていて、インベリアもその被害にあい、一瞬にして死の都に変貌したんだ。
そう変な顔をするな。当時はよくあったこと──とまでは言わないが、もう過ぎ去ったことだよ。
話を続けるが……街を出歩けばアンデッドの群れが跋扈している。お前達はそんな場所でただ独り、何の力も持たない小娘が生活していけると思うか?
……まぁ、意外に思うかもしれないが、生活事態は出来たんだ。アンデッドとなったこの身は睡眠も食事も基本的には不要となり、疲労とも無縁となったからな。アンデッド達も私を敵とは認識せず、襲われずに済んでいたことも理由にある。
……だから、生きる気力もなく、ただ一人きりでは何をするべきなのかもわからなくなり……私もまた彼らのように何も考えようとはせず屍のように日々を過ごし、毎日、毎日、毎日、毎日……それこそ年単位で、ただただ彷徨う彼らを見て過ごしていた。
滅多にあることではなかったが、ごく稀に都市内に魔獣が迷い込んでくることもあった。そんな時は雲霞の如く寄せるアンデッド達が生ある魔獣を貪るのが常でな。ある意味、私にとっては安全な場所でもあったのだ。
本当に愚かな私は……その日々が、この身が滅ぶまで続くのだと本気で思っていたんだ。
──しかし、そんな日々ですら少しずつ変わってゆくもの。この世界に不変などありはせず、不変であるように見えることだって、少しずつ変わっていっている。それは私達が認識出来ないだけでな……
世界の在り方や時間の流れ、空間の広がりも、自然の理でさえ、必ずしも不変だとは言えないそうだぞ。これは先生が言っていたことの受け売りで、詳しい理屈は私にはわからなかったがな。
……ともかく、私の生活にも再び変化が訪れていた。
先にも言ったが、稀に訪れる魔獣などの生ある者に対しては、アンデッド達が防壁の役割を果たしていたのだが、私がアンデッド達に襲われなかったのと同じように、街の外から来た意思を持つアンデッドに対しては襲いかかるようなこともなく無力だった。いつの間にか街には、知性を持つような強力なアンデッドが住み着いてしまっていたんだ。
更に不運なことに、そのアンデッドが拠点に選んだのは私が居を構えていた場所だった。私が住んでいた場所は街の中心も中心で、街全体を見渡せるような場所でもあったからだろう。
そのアンデッドは私にとって潜在的な敵対関係にあった。当時、孤独だった私は会話に飢えていて、対話を試みたことがなかった訳ではないのだが、奴は話を聞くこともなくいきなり魔法を放ってきたからな。当然、まだ弱かった私は命からがら逃げ出し、住処を逐われることになった。
……力が無いことをあれ程悔やんだことはなかった。
父や母が暮らしていた場所が、見知らぬ何者かに占領され、私自身は奴の目の届かない場所でひっそりと隠れ住むしかなくなったのだから。当時の私はどうしてこんな目に合わなければならない、どうしてこんなにも世界は私に理不尽なのだと全てを恨んだ気になっていたよ。
……ただ幸い、と言えるかはわからんが、奴は住処を去った私への興味を失ったようで、追手がかかったり、奴自身がわざわざ私を探して始末しに来るようなことはなかった。奴も私が無力であることをわかっていたということなのだろうさ。
それからの日々は無気力に過ごす毎日から、外敵に怯え、新しく定めた拠点に引きこもる日々に変わった。
……といっても、流石にずっと引きこもっていられる訳もない。いつしかそんな隠れ住む日々にも慣れてしまっていた。奴も奴で、拠点に引きこもり、外に出てくる事は稀だったからな。私は周囲を警戒しながらも再び街を出歩くようになっていた。
──そこで出会ったんだ。先生に。
□
インベリアーー大陸中央部に位置する人間種によって構成された国。優秀な王により導かれた国は大きな戦争もなく、経済は活発。安心感と安定感に裏打ちされた市場は活気に溢れ、人々の生きる力が王都内には満ちていたーーのは今より数十年前までの話。
インベリアは数十年前に突如として壊滅し、廃都と化した。以前あった活気の一切は鳴りを潜め、現在では死人が徘徊する死後の世界のような有様になっていた。
以前までは観光地としても人気が高く、観光客から異国情緒感溢れる街並みと評判であった場所は、無人の廃屋ばかりが並び、屋根は腐食して抜け落ち、人が住むことなど出来そうにない。
街を走る道には何時の間にか植物が侵入したのか背の高い草が覆い尽くし、荒れ果てている。整然と敷き詰められた石畳が生長した樹木の根に押しやられ、彼方此方で捲れ上がっている。
ーーそんな、生きる者がいなくなった廃都のどこか。廃墟となった建物の片隅で、黄金色に輝くサインが静かに揺らめいていた。
(な、なんだろう、これ……)
私──キーノ・ファスリス・インベルンはここ数年前から都に住み着くようになった強力なアンデッドに怯えながら街を散策していて、以前にはなかったはずの奇妙な物を見つけていた。
黄金色に輝くサイン。
いったい誰が書いたのか、いつからあるのか……そのサインは見たことのない文字を描いているようで、私にはそれが何と書いてあるのか読むことが出来なかった。
初めは警戒して遠巻きに見ているだけだったが、奇妙な物に対する好奇心に負け、躊躇いながら、そっと、それに触れた。
(ひっ……なっ、なに……)
そのサインに私が触れると、それは明滅を繰り返し始め──暫くすると黄金色のサークルを描いて、そこから何かが現れようとしていた。
《────の世界に────が召喚されました》
驚きと怖さ、そしてほんの少しの興奮。建物の影に隠れて様子を伺う私の前に現れたのは──大人の男性の姿をした霊。ゴーストだった。
声を出さないように、慌てて物陰に身を隠す。
それが私を害する存在なのか、そうではないのか。私にはわからなかったから。
ただ、その存在があの外から来たアンデッドのように自分に害を与えようとしないことを僅かに期待して……相手の行動によってはすぐに逃げられるように心の準備だけはしてるつもりで……
物影から覗く、目の前のゴーストは何故か困惑しているようで、周囲を見回してみたり、周囲の壁に触れてみたり……どうやら私の存在に気づいているのか此方の様子をジッと伺っているようだった。
「……っ!」
そして──ゴーストがまずしたのは私に襲いかかるのでもなく、対話を試みるのでもなく……大きく腕を振り上げて下ろす、貴人のような優雅な礼だったことに、私はどう反応したらよいのか迷い、混乱した。
……ただ、少なくともあのアンデッドのように、私をすぐに害するような存在ではないみたい。
それに対して、私は不安や緊張で、ぎこちなく物影から出て、何十年かぶりにカーテシー、ローブの裾を摘んで小さく礼を返したのだった。どうやら、まだ挨拶の返し方は忘れていなかったみたい。
──警戒しながら、ゴーストの様子を伺う。
当然ながら体は透けており、向こうの壁が見えた。
そのゴーストはどうやら話すことが出来ないようで、どこからか取り出したオレンジ色の石で文字を書いて私に見せた。
どうやら筆談を試みていたようだけど、私にはその文字も初めて目にするもので、当然読めなくてどうしたらよいのか困惑するしかなくて。
そんな困惑したままの私を見てか、今度は片眼鏡を渡してきた。ゴーストのするジェスチャー通りにその片眼鏡を掛けて文字を見れば『キミの名前は?』と、不思議なことにその意味がわかった。
どうやらその眼鏡は魔法の眼鏡のようで、驚きと興奮で、眼鏡を着けたり、外したりを何度か繰り返した。
私が住んでいた城にも魔法の品はあったが、貴重な物は全て管理されていて、当時子どもだった私が私用にできるものなど殆どなかったから新鮮な気分。それにもう、あれから長い年月が経った。もしも城を探すことができても、長期間手入れもされていなければ、魔道具は劣化で壊れてしまっているかもしれない。
「ぁ、ぅ……ぁ、ぁ」
問われた名前を絞り出す。
誰かと話すなんて本当に久しぶりで、でも喉はカラカラに乾いていて。口や喉が話すことを忘れてしまったみたいで、早く返事をしなきゃという焦りもあって、でもどうしようもなくて。
私の口から出たのはそんな意味のない声。
そんな声を聞いてゴーストは『あうああ、それがキミの名前か?』『言葉は知っているか』なんて宣うものだから。
焦りのせいで混乱している頭で思った──なんて失礼なゴーストなんだろう、きっとこのゴーストは生前から性格が良くなかったのだろう、って。
ともすれば、ようやく私が焦っている様子から声が出ないことを察してくれたのか、喉を潤す水が入った水差しをくれた。
……さっきまで持ってなかったはずなのに、本当にどこから取り出したんだろう?
「わ、たし……キ、ーノ。キーノ……ファス、リス、インベルン……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。ようやく伝えられた私の名前に、目の前のゴーストは満足そうに頷いたのだった。
□
思い返せばとても恥ずかしい
どうして?
当時の私は土埃だらけで、髪だって全然洗えてなかった。服だって、あのアンデッドが家を占拠してからは替えてなくてな……笑ってしまうくらい汚れていて、淑女とはほど遠い格好だったのに……
淑、女……?
臭い
お前ら……!……だが、それでも先生は、嫌な顔もせずに私と接してくれていた。当時はそんなこと全く気づかなかったがな……
紳士的な方だったのね
ふっ……まさか。……ただ、そんな恥ずかしい記憶でも私にとっては懐かしい、大切な思い出というだけさ
□
──その日から、私の日常はまた変化した。
久方ぶりの王都への移住者であるゴーストさんは私に色んなことを尋ねた。
『この土地の名前は?』
『街の周辺には何がある?』
『この街はいつからあった?』
『周辺国家の名称は?』
他にも私のことだったり、何処に住んでるかとか……本当にそんなこと聞いて何の意味があるのか、というようなことまで。
でも、私も久しぶりに誰かと会話することが出来て嬉しくて、いつまでも彼との会話をやめられなかった。
「わ、たしが、サインに触れたら、暫くしてあなたが、現れたの」
その頃には私も喉の調子が戻ってきたのか、掠れた声ながら出るようになっていた。
ただ、長く話をしていないと咄嗟に言葉が出て来なくなるようで、以前のように上手く話せない自身にショックを受けたり、そんな自分に無性に苛立った。
──彼と色んな会話をして、要望にあった街の散策に付き合って。あのアンデッドが出て来ないか内心でビクビクしながらだったけど、そこが街の中心からも離れた場所だったからか、結局あのアンデッドが現れることはなかった。
ゴーストさんとの会話で知ったのだが、どうやら彼は此処とは異なる場所から呼びだされたらしい。そして、サインに触れた私が彼を呼び出したようだ。何であんなところにサインが? とも思ったが、それは彼にもわからないのだとか。でも、元の場所に帰る方法はやっぱり知りたいみたい……
(また、ひとりになるのかな……)
心細い……
突如として皆が死んでしまって、私はただ一人だけ。世界に放り出され頼るべき人もいない。街では私とあの危険なアンデッドだけが意思を持って生活していて……そして、そのアンデッドは出会えば私を排除しようとしてくるに違いない。
どうして私ばかりがこんな目に……あまりの理不尽さに、ほろり、と涙が出た。
──でも、新しい住人が増えて私の生活は一変した。
彼は不思議なゴーストで、何処からともなく道具を取り出したり、突拍子もない行動をして私を驚かせた。
ゴーストさんが一緒に行動するようになって、私が普段下水道に身を潜めていることを知ると、彼は場所を移そうと言ったけど私はそれを拒否した。
……私を城から追い出した、あのアンデッドのことが怖かった……下手に下水道から拠点を移して、あまり刺激するようなことはしたくなかったから。
そしたら……
『城にいたアンデッドは退治した』
「えぇっ……?」
そう伝えたら、急にフラッとどこかへに出かけて半日ほど姿を見せなくなって心配させたかと思えば、城を占拠していたアンデッドを退治してきたと言った。
……いきなり退治してきたと伝えられた時はまさか信じられなくて困惑しかなかったけど、真実だとわかった時は本当に驚いた。
あのアンデッドを倒しちゃうくらいだから、彼は強いゴーストだったのだろう。でも……もしも、返り討ちにあっていたら……また私は一人になっていたと気づいて怖くなった。
「もう……危ないことはしないで……?」
『何も問題はない。それより外に新しい拠点を用意するから移動しよう。城は荒れ果てて、住むには適さない』
だから危ないことはしないで欲しいのだけど、ゴーストさんは問題ない、と言って聞く耳を持ってはくれなかった。
それだけじゃなく、彼はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、本当にいったい何処から持ってきたのか……魔法の家をポンと用意したりして私を唖然とさせた。
『ここがキミの新しい寝ぐらだ』
ゴーストさんがこちらの反応を伺うようにニヤリと笑みを浮かべた。その魔法の家の中は温かくて、清潔で、優しく感じられて……
またホロリと涙が出てきて、それで彼がちょっと慌ててたのは少しいい気味だと思った。でも……ありがとう、ゴーストさん。
□
本当に非常識な人だった
今でこそ先生の力量は知っているが、当初の私は先生のことを何も知らなかった。まぁ、当然といえば当然のことだがな……
思えば、何も言わずにアンデッドを退治しに行ったも、私のあまりに劣悪な生活環境に見かねて、だったのだろう
優しい人じゃない。でも、それを非常識って言うのは──
非常識さ……何もないところから珍しい道具を次から次へと出す先生に、どこから取り出しているのかと聞いたことがあったが……何と答えたと思う?
え? そう、ね……道具を収納するアイテムを持っていた可能性もあるし……ポケットスペース/小型空間に似た亜種の魔法を使っていたとか?
妥当な回答だが……ハズレだ。いや、先生は空間収納の技能も持っていたから正解ではあるのだが……なんでも、その時は魂から色々な道具を取り出していたらしい。物質を細かい霊子に変換して魂の器にある未使用領域に保存しているのだとかなんとか……取り出す際は確か、形而上の存在となったモノの情報を魂から汲み上げて再び物質化するらしい……全くもって意味がわからない。大方、マイナーな魔法の一種だとは思うのだが……
どういう意味なのかわからなかったのだけど?
私だって詳しくは知らないし、本当のことなのかどうかもわからん……他にも、どこから来たのかと尋ねれば未来、もしくは隣り合う世界から来たと言っていた
えぇ……? それはなんというか……冗談にしても、あまり上手ではないわね
ぶっとんでる。ある意味メルヘン
クク……そうだな……筆談が面倒だったのはわかるんだが……先生は質問をはぐらかしてばかりで、そんな意味の分からないことばかり言う人だった
□
ゴーストさんのいる生活もだんだんと慣れてこようとしたころ。
『ここでいったい、何が起こった?』
『キミの身に起きた異変には気づいているか?』
とうとうこの街に何が起こったのかを聞かれた。それを答えると、今度は逆に教えて貰った──私の身に何が起こっているのかを。
この街にあの災厄が起こった日のことは、途中まではよく覚えている。
その日、私はいつものようにお母さまに魔法の授業を受けていて……授業中に、いきなり身体中に激痛が走った。まるで、肉体から目に見えない生命力そのものを無理矢理に引き剥がすかのような痛み。
痛くて痛くて、声も出せなくて……あまりに突然の事に『死ぬかもしれない』という恐怖を抱くことも出来なかった。痛みに耐えられずに床へと倒れこむ私が、朧気な意識のなか視界に映したのは、お母さまや、侍従たちも苦しんでいて私と同じように痛みにのたうち回っている姿。
そんな中でもお母さまは苦しむ私を助けるために、自分だって苦しかったはずなのに……私が少しでも楽になれるように、私だけでも原因不明の苦しみから助けられるように魔法をかけ続けてくれた。
……それでも苦しみはどうにもならなくて。そのまま私は気を失って……最後に気を失う前に朧げに覚えているのは……力尽きたお母さまや皆から透明な青白い玉のようなモノが抜け出ていく場面……
そして──目を覚ました私が見たのは、お母様や侍従の皆だけでなく……お父様や街の皆が生ける屍になって彷徨っている光景……
大好きだった街の風景は一瞬にして壊れて、大切だった人達はひとり残らずゾンビになった。活気に溢れていた都市には静寂が訪れて、私は一人ぼっちになった。
「おかあ、さま……おとうさま……みんな……」
涙が溢れた。
思い出したくなくて、でも、どうしても忘れられなくて。
ふとした時に思い出されては私を苦しめる記憶。
どうして私だけが生き残ってしまったのだろう。あの時、私も皆みたいにゾンビになっていたら、こんなに苦しい思いをすることはなかったのに。
『すまない』
ゴーストさんは……私を抱きしめてくれた。体も持たないのに、どうしてそんなことができたのかは私にはわからなかったけど……溢れる感情をどうすることも出来なくて、私は縋るように泣いた。
……思えば、皆がゾンビになってから、こんなに泣いたのは初めてだったかもしれない。一人では、泣いている余裕も、意味もなかった。ただただ虚しいだけだったから……
──暫くして落ち着いた私にゴーストさんは教えてくれた。
『理由は不明だが、キミは吸血鬼に転生しているようだ』
私もまたみんなとは種類が違うが、アンデットとなっていることを。
なんとなく、予想はついていたけどショックだった。だって、生きていれば必要な呼吸や飲食、睡眠でさえも私は不要になって……その反面、朝に弱くなっていたり、日の光が苦手になっていたのだから。いくら世間知らずの私にだってそんなことくらいわかる。
そして、どうして私があの災厄を免れたのかだけど──ゴーストさんは私のタレントが関係しているんじゃないかと言っていた。
『受けたり、見たりしたどのような魔法でも1つだけストックし、自分の魔法のように発動させることができる』というタレント。お母さまがおっしゃるには、とても珍しく、強力なもので、いつか私の身を守ってくれるって。
私はあの時、薄れゆく意識の中、確かに何かに触れた。
それはきっと、私が受けたのが何らかの魔法で、その魔法はかけた相手をアンデットにする効果を持っているものだったのかもしれない。
「……でも、どうして私はゾンビにならなかったの……?」
ただ、それでなぜ私がゾンビになっていないのかわからなくて……ゴーストさんは何かを思案しているようだったけど、静かに首を振り、その答えを持ってはいないようだった。
「……お母さまが魔法で守ってくれたからなのかな。そうだといいな」
『そうだな』
ゴーストさんが言うには、私がなったのは吸血鬼の一種らしく、種族が変わることを転生と呼ぶみたい。
吸血鬼は力が強く、魔法が得意。
反面、日の光に弱く、陽光下では能力が低下する。火に対して脆弱。
スキルとしては闇視、高速治癒、生命力吸収、冷気耐性、精神作用無効を持っている優秀な種族らしい。
それを聞いて素直に喜んでいいのか複雑だったけど、吸血鬼とかの異形種は人間と敵対関係にあるから、今後人間と交流する時は気をつけないといけないみたい。
あはは、私、もう人間じゃないんだって……でもお母さま、お父さまもアンデットだもんね……同じなんだから寂しくなんかないよ……
その後──
『面白い魔法を見せてあげよう』
気分が落ち込んだままでいた私を元気づけるためか、ゴーストさんが見せてくれたもの──宝石のような結晶を操る魔法。
ゴーストさんが取り出した黒くてとても長い杖から空に向かって大きな結晶の塊が打ち上げられ、空高く打ち上がった塊からは分かたれた大量の小さな結晶がキラキラと光を反射しながら大地に降り注いだ。
それはまるで星屑が降り注いでくるようで、地面に降り注いだ結晶達は弾けるように光を放って消えてゆく……
あたり一面に墜ちた星屑の光で夜は昼のように明るくなる。
『綺麗なものだろう』
『だが、落ちてくる結晶には触れるなよ 危険だ』
「うん……」
それは私が初めて目にした大魔法──国で一番の魔法使いだったお母さまでも使えない……そんな魔法が使えるゴーストさんは、いったい何者なの……?
でも……まぁ、今はいっか。今はただ、この光景を見ていたい。それに、その内ゴーストさんも教えてくれるよね。
私もいつか、こんな魔法が使えるようになりたいな。
□
先生の魔法は本当に凄くてな、私が初めて目にした大魔法は絶大な威力を秘めているだけでなく、綺麗で美しかった。私が大地系の、それも結晶特化のエレメンタリストを目指した切っ掛けだな
そんな理由があったのね……聖者様が使っていた魔法も同じものだったのかしら……それで、イビルアイはその先生が見せてくれた魔法は使えるようになったの?
いや……確か、その魔法はサンパイという奇妙な名称でな……私が目指す魔法の極地の一つなのだが、再現がとても難しいのだ……悔しいが、私はまだそこまで到達出来ていない
……結晶に特化したエレメンタリストのあなたでも使えない魔法があるのね。いつか、貴方がその魔法が使えるようになったら是非見てみたいわ
っ……あぁッ……いつか、絶対辿り着いてみせるさ
□
『王城の様子を見に行かないか?』
とある日──そう言われて、ゴーストさんがアンデッドを退治して安全になった王城内を探索することになった。
「ただいま……」
久しぶりにお家に帰ってこれた気がする……でも、それではゴーストさんに失礼かな。今はあの魔法の家が私達の住む家なのだから。そこに、不満なんてないもの。
王城内の様子は私が追い出される前とそれ程変わっているようには見えなかった。誇りを被っていて、調度品なんかは年月の劣化でボロボロになったり、金属が錆びていたりはしてるけど……
お父さまやお母さま、侍従の皆、近衛達も──変わらずそのままで。
あのアンデッドが皆に危害を加えていなかったことに、ひとまず安堵した……皆が無事かどうかが、ずっと気がかりだったから……
ゴーストさんに付いて来たのはいいものの、今更、城の中を見て回る気にもなれなくて、今はただ皆と一緒にいたかったから……ゴーストさんは動こうとしない私をその場に残して、城の中を探索しに行ったみたい。
『あのアンデッドはここで、インベリアで起こったゾンビ化について調べていたようだ』
「え? ……じゃあ、あのアンデッドは……」
『この惨状を作り出した犯人ではないと思う』
王城内を探索してきたゴーストさんが言うには、インベリアでゾンビ化が起こったのはあのアンデッドが原因ではないみたい。
アンデッドが原因なら、ゾンビ化の魔法が解除されて皆はただの遺体に戻る可能性が高いし、ゴーストさんが見つけてきたアンデッドが書いたと思われるレポートにはインベリアのゾンビ化について考察した物があったから。
そのレポートは色んな実験の結果と考察が書かれていて、誰かに意見を求めるような書き方で纏められていた。どうやら、あのアンデッドにはゾンビ化を調べている協力者がいたみたい。
『キミが謎を解き明かすことを望むのなら、これは手掛かりの一つとして覚えておくべきだ』
「……」
そう言ってゴーストさんは私にレポートの束を渡してくる。
私はどうしたらいいんだろう……出来る事なら皆のことは助けたい。
……でも、もしゾンビ化が解除されて皆が元に戻って、インベリアが前のようになったら──私はここにいられるのかな。私のアンデッド化した体は元に戻ることが出来るのかな。
□
一都市を巻き込むゾンビ化……もし、リ・エスティリーゼでそんな災害が起こってしまったら……
……間違いなく地獄絵図になる
……わかるだろう。先の悪魔の襲来だって、もっと悲惨な事態になっても何ら可笑しくはなかった。お前たちはもっと漆黒の英雄殿に感謝すべきだぞ!
……否定は出来ない?
あなたね……確かに大悪魔を退けてくれた彼には感謝すべきだけど、聖者様だって凄かったんだから
いいや! ラキュースは漆黒の英雄の、あの戦いを見てないからそう言える! 絶対にモモン様の方が凄かった!
は、はぁ!? あなたこそ聖者様のお姿を目にしてないじゃないの! 悪魔の群れに立ち向かう聖者様は本当に格好良かったわ! 漆黒の英雄よりもね!
はぁ〜〜!? モモン様の方が格好いいに決まっているだろう!
……帰っていい? 育ち過ぎた男の話には興味がない
お前は黙ってろ!
あなたは黙ってて!
モモン様の強さはあの強大な魔神にも匹敵していた! 武力では聖者など相手にもならん!
聖者様の魅力は野蛮な武力なんかじゃないの! 自らが先頭に立って人を導こうとする、その高潔なお心よ!
なにぃ!?
なによ!!
……めんどくさ。ティアとガガーランに押し付けてやる
□
「ねぇ、ゴーストさん。いい加減私のことキミって呼ぶの止めて」
ゴーストさんは私のことをいつもキミって呼ぶ。それがずっと気に入らなかった。このインベリアに住むたった二人の仲間なのに。それなのに距離を感じてしまうのが嫌だった。
『なら、何と呼べば?』
「そ、それは……私にはキーノっていう名前があるもん! そう呼べばいいじゃない!」
私にはお父さまが付けてくれたキーノって名前があるのに! ただ、名前で呼んで欲しいって伝えるのが恥ずかしくて、子どもが駄々をこねるみたいになってしまったけど……
ゴーストさんは少しだけ困った顔で。
『わかった』
「むぅ……ねぇ、ゴーストさん。私、また結晶の魔法が見たいわ」
あの日見た大魔法。
いつまでも心の中に残っている。いつかは、私もあんな魔法が使えるようになりたいって願って──
『それは出来ない』
私の願いを裏切る否定の言葉。彼はあれ以降、結晶を操る魔法を見せてくれなくなった。
その代わりに、猛毒の霧だとか強酸の霧だかの魔法を見せてくれることはたまにあったけど、ちっとも惹かれないし、そんな魔法を見せて私にどうしろって言うの?
「ど、どうして!? なら私にあの魔法を教えて!」
『難しい』
私では難しいなんて、酷い言葉だった。あの魔法は私なんかでは扱うことが出来ないって……難しい魔法だっていうのは私にもよくわかってる。でも、頑張れば私でも出来るんだって見せつけて、よくやったなって褒められたかったから。
「ひどい……私頑張るもん! 難しくても絶対にあの魔法使えるようになるもん!」
『あの魔法はキーノには使えない』
「どうして……どうして、そんなこと言うの……やってみなきゃわからないじゃない! …………ばかぁ────!!!」
ゴーストさんの表情は、悔しさで流れ出た涙でよく見えなかった。どうして、人の頑張ろうって気持ちを応援しようと思わないんだろう。本当に頭にくる。
反省するまで会話してあげないんだから!!
□
喧嘩も沢山した
といっても先生は話せないから、ほとんどは私が一方的に言いたい放題するだけだったのだが……大体は先生が折れてくれて、私のしたいようにさせてくれていたな
……クソガキ
……先生、大変だったでしょうね
うっ、うるさい! 昔の私には保護者の気持ちなんてわからなかったんだ! お前たちだって、これまでやりたい放題してきただろうが! 特にラキュース!
鬼ボスは全然人のこと言えなかった
何か言ったかしら、ティナ?
……
……と、まぁ。そんなこんなで、私は粘りに粘って、先生を私の魔法の『先生』にすることが出来たんだ。まぁ、先生の教え方では魔法の使い方のヒントはくれても、呪文の一つすら教えてくれなかったからな……全く、先生向きではない人だったよ
……本当に言いたい放題ね
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30.蒼の薔薇編※6
新たな生活が、日常になりかけていた頃──
私はインベリアの皆を元に戻すためには、どうしたらいいのかずっと考えていて……何度考えても行き着く先は同じ。私の中で答えはとっくに出ていた。
それは王国に伝わる国宝『虹よりこぼれし白』を使うというもの。
これまでは国宝のある王城には危険なアンデッドがいたから近寄ることも出来なかったけど……今はもう探し物の邪魔になる存在はいない。
『虹よりこぼれし白』は信仰系第5位階魔法『死者復活』と同レベルの蘇生魔法が込められている。
王城の宝物庫からそれをやっとのことで見つけ出して、これで皆が元に戻る! と期待でいっぱいだったのに。
実際に蘇生を行なって、私は愕然とした。
なぜなら、蘇生は私の期待する効果を示すことはなく、失敗したのだから。
「どうして……」
『あまり気に病むな』
「やっと……みんな、もとにもどるとおもったのに……」
何度、蘇生をかけてもアンデッドとして復活するだけ。何度も、何度もあれおかしいなって、やり直したけど……やっぱり駄目だった。
この方法では皆は生き返らない。
先生もかける言葉がないのか、それ以降は無言のままだった。
どうして失敗したんだろうって、それからもずっと考えてた。でも、いつまでたっても明確な答えは出てこない。
元々、お母さまの授業を受けてる半人前もいいとこの魔法詠唱者だったから。魔法やアンデッドの知識すら足りなくて、魔法の位階が足りないのか、使うべき魔法が違うのか、それとも他に原因があるのかも、何が起こっているかの判断もつけられなくて……
──悔しかった。
──自分の無知さ加減に本当に嫌気が差した。
先生なら分かるかなと思って聞いてみたけど、それはキーノが見つけ出すべき答え、だなんて……
先生はインベリアの皆がアンデッドになった事に、興味がないのだと思う。原因を突き止めることに熱心でもなければ、私に道を示すこともしてくれない。私が聞けばヒントくらいはくれることもあるけど……
全然、実験も手伝ってくれないし、日がな、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。王城にあった何かしらの本を読んでるか、何処かに散歩に行くかぐらいしかしているのを見たことがない。
……むしろ王城を占領していたアンデッドの研究の方が役に立った。あの存在はインベリアのゾンビ化を調べていたから。先生の勧めでそこに書かれていた実験結果が本当に正しいのかも既に私は試していて、そのレポートの内容が正しいということは分かっていた。
問題は、そのレポートに続く、次の物が私の手にはないこと。実験をしていたアンデッドは先生が既に倒してしまったから。続きが書かれることはもうない。本当に、なんてことをしたのかしら……
…………だめね、先生は何も悪くないのに……むしろ、先生はあの日、隠れ、逃げ回るばかりだった日々から助け出してくれたのだから。……研究に進展がなくてイライラしてるみたい。一度落ち着こうと、深い溜息を吐いた。
……でも、始めから先生は言っていたんだ。このレポートは誰かに意見を求める形で纏められたものだって。
先生は私の研究がすぐに行き詰まることを予期していたのかもしれない。
私の他にもゾンビ化という災害を知り、調べている者がいる。私はその人物を探した方がいいのかもしれない。
それに、これまではずっとインベリアで研究を続けてきたけど、他の場所──周辺国家でも私と同じ研究が既にされていて、もしかしたら解決方法すらも生み出されているかもしれない。
そんな事を考えていたら、一刻も早くインベリアの外に出なくてはならないと思うようになった。
さっそく先生にインベリアを出ることを伝えなきゃ──
□
とある邸宅の一室。絢爛な内装が施された場には、五人の女性が円卓を囲んでいる。
その中の女性の一人、イビルアイが手に持ったティーカップに口をつけ、静かにソーサーへと降ろした。
「──そうして私たちは旅に出る事にした。アンデッド化の原因を探るためにな」
「いきなり旅に出るなんて言い出して、先生は驚いたのでしょうね」
静かに語るイビルアイ。珍しい過去話を披露され興味深げに聞いていたラキュースが笑みを浮かべながら答えた。
「ん、いや……それを先生に伝えた時は、いきなりだったにも関わらず私の言葉に喜んでいたような……」
「先生はイビルアイが言い出すのを待っていた?」
「……初めての旅。生まれてこのかた、一度も国から出た事のなかった私だ。自ら気付き、決意しなくては旅など出来ないとでも考えていたのだろう」
最早、うろ覚えを通り過ぎて、想像で記憶を補ったイビルアイの中の先生は、実際はどうだったかわからないが彼女の決意を聞いて喜んでいた。
そして、何を喜んでいたのかと問われれば、先生は私が自ら一歩踏み出すのを心待ちにしていたのだろうと。
「そりゃあ、そうだろうさ。一旦、外に出ちまったら何かあっても簡単には後戻りはできねぇからな」
「……あぁ。旅に出てからは、世間知らずだった私には全てが新鮮でな。一日中歩き続けるなんて経験も、野外で野宿するなんて経験もその時が初めてだった。アンデッド以外のモンスターを見るのも初めてだったからな……」
イビルアイの回顧に、先程まで邸宅に隣接する庭園にて巨大な鎚を振るっていたガガーランがいつの間にか話の輪に混じり、腕組みをして首肯する。
イビルアイはその言葉に同意し、旅の始まりを回想するが、旅を始めた当初は肩車や背負われて移動していたなどとは恥ずかしくて流石に言えなかった。
「あなたどれだけ過保護に育てられてたのよ……昔はどうだったか知らないけど、街の外に出た事もないなんて」
「なんかお姫様みたい。……似たような立場のボスとは真逆」
「ちょっと、どういう意味?」
「……」
呆れた様子のラキュースをからかったのは、同じく庭園で模擬戦闘を繰り広げていたティア。
本来、ラキュースは貴族令嬢であり、彼女自身も蝶よ花よと育てられ、危険な街の外になど滅多なことが無い限り出る事もない立場であった。
ただし、ラキュース自身はそんな生活に息詰りを感じ、伝え聞くような冒険譚や伝説に憧れて家を飛び出したお転婆娘であったから。
「…………そんな大層なものじゃない。ただそれまで機会がなかっただけだ。自衛できる力も無かった私が街の外に出られる訳もなかったしな」
それら、仲間のやり取りを見ながらも、彼女は話を進める──
「道中は色んな出会いがあって、危険があった。インベリアの外の世界は私が考えていたよりも広大で、果てがない。遥か彼方まで続く平野を初めて見た。深い森にある古い神秘を知った。広い世界で懸命に生きる命達を目撃した──」
「そうして色々な国を訪れて土地の風土を知り、文化を学びながら知識を少しずつ増やしていった。そして、ある時私達はとある都市で噂を聞いた」
「隣国の都市が丸ごとアンデッド化したのだと──驚くことにアンデッド化が起こったのはインベリアだけのことではなかった。その時、既にいくつかの都市が廃都となっており、そこで発生したアンデッドが隣国に押し寄せ、被害を受けたこともあった。そういう事もあって、当時はアンデッド災害とも呼ばれていた」
場の空気が再び緊張を帯びる。
「アンデッド化はインベリアだけの話ではなかったのね……」
「そうだ。そうした被害を受けた幾つかの国を訪ね、その国で対策や原因究明がなされているかを調べ、アンデッド災害の研究があるかを探し回ったのだ」
皆がイビルアイの話にのめり込んで行った。彼女の話は昔話であり、生きた冒険譚。長い年月を生きた彼女自身が経験してきた歴史の一部。
未知を、人々に謳われるような物語を夢見る冒険者である彼女たちが興味を惹かずれずにはいられない話。未知、苦労、達成感、絶望。語られる、それら全てが感情を揺さぶるから。
「……だが、苦労しながら探せども探せども答えは見つからなかった。見つかるとしても、既知の成果だけが集まるばかりでな」
「既知の成果?」
「あぁ、蘇生魔法の無効化、蘇生による灰化の抑制だ」
つまりは、蘇生魔法ではアンデッドから人間に蘇ることは出来ず、蘇生に失敗した際の灰化も起こらないということ。
それは明らかに、通常の条件から逸脱している。
「蘇生魔法が効かない、ね……より高位の蘇生でも駄目だったのかしら?」
「私が調べた限りでは大規模な儀式により第七位階『蘇生/リザレクション』に可能な限り近づけた魔法を行使した事もあったようだが、それすらも失敗したと聞く」
「アンデッド災害を引き起こすゾンビだけが、そうだった。自然由来やモンスターにより殺害されて成ったゾンビに関しては、蘇生に成功した例も中にはあったのだ」
ふとした疑問をラキュースが問いかけるも、ほとんど伝説に近い階位の魔法による蘇生が試みられ、しかし、その蘇生実験ですら求めていた結果とはならなかった。
皆が眉を潜めて絶句した。
そして、イビルアイは溜息を一つ。
「……また後々のことになるが、件のレポート関連で故郷に居座ったアンデッドと繋がりのある存在と偶々遭遇してな、私達は交戦状態になった。それを始まりとして、重要な情報が次々に齎されるようになった」
「先生がアンデッドを魔法で魅了して、情報を引き出してな。全て引き出せば、他のアンデッドの居場所を吐かせ、次はそちらに向かうということを繰り返していたのだ」
その存在とはナイトリッチやエルダーリッチなどで構成されている『深淵なる躯』という組織のメンバー。元となった種族は皆バラバラであったが全員がアンデッドとなり、緩い協力関係の元、知識を収集していた集団であった。
その組織に所属する幾人かは、第六位階までの魔法を行使する事ができ、嘘か真か第八位階にまで到達しているアンデッドすらいたのだという。
彼らの内の幾人かが都市のゾンビ化について研究しており、彼女達はその知見を吸い上げていった。
「その重要な情報って?」
「……アンデッド災害時においてアンデッド化した対象には、降霊などの手段が無効化されるということだ」
「おいおい……」
「もしかして、それって……」
齎された情報。それはつまり、蘇生に必要となる要素の一つである『魂』が欠けているということだった。
蘇生はこれまで多くの研究が成されて来ていたが、蘇生時の遺体の状態や、死亡してからの時間経過、灰化の抑制等についての研究は多くあれど、未知の『魂』の要素については殆ど研究されることもなく永らく放置されたままになっていた。
それを深淵なる躯のアンデッドが研究を進めた。
「あぁ、何故蘇生出来なかったのかだが……それを考えてみれば当たり前の事だな……蘇生で呼び出す魂が存在していなければどうしようもない」
「私は、ゾンビを殺して、ゾンビを復活させるという無駄な作業を延々と繰り返していたという訳だ」
「……」
未知の部分が含まれる研究など、どれ程の年月がかかるのかわからない。はたして、研究の果てに蘇生の成功があるのかどうか、リミットがあるのかどうかすらも。ただ、蘇生の成功には不在となった魂の再生が絶対条件になることは予想されていた。
不在となった魂が何処かにいったのか、はたまたやはり既に魂は消滅してしまったのか。そういった事を調べる事もしなくてはならず、方法すら見つかっていない現状では手詰まりに他ならなかった。
「私の願いは根本から崩れてしまった」
「死からの復活ならば例など幾らでもあったし、時間をかければ『虹よりこぼれし白』に込められた魔法をより高位の階位に昇華させられる自信もあった。……だが、魂の再生など聞いたこともなかったし、果たして本当に出来るのかもわからない。それこそ神の御技とでも呼ぶべき事だ」
その事実に耐えられず、彼女は荒れたという。今までしてきた研究が全て無駄だったと分かってしまい、自暴自棄になった。
これから未知の領域である『魂』の研究に挑むなど、絶望に他ならなかった。そして、その研究の果てに『魂』を再生、もしくは生み出すことが出来たとしても、それは彼女が求めたインベリアの一部と言えるのかもわからない。
そして──もし、また研究の先に絶望があれば……今度こそ狂ってしまうかもしれないという思いがあった。
「あなたの先生はなんて……?」
「……あぁ……先生はそれを知っても驚く事はなかったな……ハハッ、分かっていたなら、もっと早くに教えてくれても良かっただろうに」
「……」
さもその真実をもっと早くに知りたかったというように言ったが、イビルアイのその声音には自嘲が含まれていた。それはつまり、それまでの無駄な行為を繰り返し、現実を知った後の先生に反抗する彼女自身を、先生はどのように見ていたのだろうかという回顧。
二百年経った今思えば、諦めるのに時間が必要だったから言わなかったのだろうと分かる。ただ事実を教えられただけでは諦めることなど出来るはずがない。自分で研究し、辿り着いて納得するまでは──だが、当時はただただその事で先生に反感を抱くようになっていた。
「特に聞いたこともなかったから今更確かめようもないが、先生はアンデッド災害の研究に始めから無関心でな……もしかしたら、最初から分かっていたのかもしれない」
「それは……」
「……何せ、他ならぬ先生が霊魂だけの存在であるゴーストだったのだからな。魂の有無なんて、先生には容易く判別のつくことだったのだろうさ」
「そんな時だったな……先生は、意気消沈する私の様子から休息が必要だと考えたようだ。休息を兼ねて私の故郷であるインベリアへと戻り、周辺国に見落としがないか、もう一度周ることを勧めたのだ──」
そこまで話すと、一息いれるように彼女は再びティーカップを手に取った。
□
研究が暗礁に乗り上げてしまい、私と先生はインベリアの地を再び訪れていた。
『魂の不在』または『魂の消滅』──その事実を知ってからの私は荒れに荒れた。現実の理不尽。悔しさに地を叩き、絶望に涙を落とした。そんなもの、最早、会ったこともない神に祈るしかない領域だと。
あの日以来、その先生とも衝突することが増えた。でも、それも嫌で、顔を合わせることはあれど会話をする事も少なくなっていた。先生との魔法の訓練もサボるようになり、ただただ日々を無為に過ごすようになっていた。
故郷インベリア──そこで待っていたのは新たな出会いと……別れの予感だった。
「皆、変わらない」
インベリアの廃都でゾンビと化した皆を眺める。ある意味、旅に出る前からのほとんど変わらない風景。
それに比べて変わったのは私の方か。
アンデッドだから残念ながら身体こそ成長はしなかったが、諸国を旅する内にナメられないようにと口調を変えた。魔法の腕も、以前と比べたら大きく違うだろう。
そして、インベリアをたつ前には溢れんばかりにあった決意に対する熱量も──
インベリアに戻って何日が過ぎただろうか。あれほど旅に出る前に固く決意した筈の想いは、何処へ行ってしまったのか。もう所在がわからなかった。これからどうしたら良いのかも、私には……
先生には研究が現状では実らない事を、その理由を知りつつも何故黙っていたのかと責めてしまい、ここ最近は気まずさや八つ当たり地味た反発心から満足に話すらしていなかった。
どうしても感情が許さなかったから。
『魂が無ければ蘇生は出来ない』『対象のゾンビには魂がない』という情報を隠していた事を。どうして教えなかったのかを問い詰めれば、バツが悪そうにして黙り。
結局、最後まで理由を言うことはなかったが……でもあの日、私が怒ったのは、その事実を隠していたからが本当の理由なのではない。
先生は元から私の研究には積極的では無かった。
その一歩引いた姿勢が、ずっと、とても悲しくて同時に酷く苛立っていた。信頼する人には成功を信じていて欲しかったのに。でも、その事実を知っていたあの人は、蘇生を端から諦めていて、最初から私の成功など信じてはいなかったのだと気づいてしまった。
「バカみたい……当たり散らすなんて子どものようだ」
責めた日の事を思い出すと悲しくて……自己嫌悪で嫌な気分になる。
もしかしたら当たり散らした私に呆れ果てているかもしれない。でも、こんな風に自分を見せられるのも先生くらいだし、先生は私を見捨てることなどしないと、どこかで甘えている自分が嫌になる。
一方で、信頼を裏切られ、私を信じていなかった先生に対する怒りは鎮まる気配も無い。
「──インベルンのお嬢ちゃん。あっちでお師匠が探してたわよ」
物思いに耽る私に声をかける存在がいた。
インベリアでゾンビが徘徊していることは昔と変わらないが──ただ、昔とは少し違っている所もあった。
黄昏るようにインベリアを眺めていた私に声をかけてきたのは、久方ぶりの客──人間、ドワーフ、エルフ、半悪魔、巨人、多種族混淆で構成された珍しいキャラバンの一行に所属している、リグリットとという気の強い銀髪をした人族の女。
どうやら彼女達はインベリアを滅亡させたヴァンパイアロード、つまりは私を討伐しに態々、遠くから来たらしい。……ご苦労な事だ。
最初は襲われるかと思って、慌てて先生の側に駆け付けたけど、その時の先生は私の顔を見てニヤニヤ笑うばかりだった。本当に性格が悪い。この様子では反省もしていないのだろう。
今ではとっくに誤解は解け、このリグリットという女も悪い奴ではないとわかったが、私は彼女のことがどうにも苦手だった。
「私はお前より年上だ。お嬢ちゃんと呼ぶのをやめろ」
「へぇ、あんな泣き虫なのにねぇ」
「……」
「おやおや、言い返しもして来ないとは」
ピクリ、と眉が反応した。泣き虫云々は、恐らく初めて私達が対峙した時の話だろうか。あの時は研究の挫折に、先生への不満と反発、インベリアが本当に元に戻るかの不安、命の危機と──色んな事が重なり過ぎて少し感情が溢れてしまっただけだ。
それをからかい、事あるごとに私をバカにしに来る嫌味な女。何時もであれば、しっかり言い返す所だが、今日はどうにもそんな気分にはなれ無かった。
それがリグリットにもわかったのだろう。彼女はつまらなさそうにしていた。
「……あんまりお師匠に心配かけるもんじゃないよ」
「うるさい。……お前には関係ないことだ」
逃げるように立ち去る私の背にそんな言葉がかけられた。そんなこと言われなくてもわかってる。わかってるんだ……
彼女たちがインベリアに滞在して暫く。
彼らが滞在したことで、周囲はいつもより少しだけ騒がしくなった。彼らは多種族から成るキャラバンで、言い争いは日常茶飯事、殴り合いの喧嘩だって何度もみた。
中には本当に殺し合いになるんじゃないかってくらい、酷いのもあった。
でも、その度に仲直りの宴会を開いて、喧嘩してた者たちが笑い合っているのを目にすると、異種族同士でも友情は築けるのだと、その証明を見せられたような気がした。
──そうして、私や先生はキャラバンの面々と交流を深めていたが、早くも彼らの旅立つ日が来た。
「邪魔したね、インベルンのお嬢ちゃん」
「……いい加減、お嬢ちゃんはやめろ。せめて名前で呼べ」
「クク……まぁ、また会うことがあればね」
結局、このリグリットという女は、私をお嬢ちゃんとしか呼ばなかった。せめて、名前で呼べと言っているのに聞きもしない。偏屈な奴だった。
彼女らの滞在中、色々と研究の参考にするために意見を聞いたりしてみたが、得られる物が幾つかあった。特にリグリットは死者使いという異名を持っているらしく、アンデッドの知識について私が知らなかった事も知っていた。
「で、これからお前達は何処へ行くのだ?」
「そうさね……また魔神を狩りながら周辺諸国を巡り、西の果ての砂漠にあるという浮遊都市に行くのさ」
何となく彼女らの行く末が気になり、何処を目指して旅を続けるのかと問えば、遥か西の都市まで足を運ぶのだと言う。
辿り着くのにいったいどれ程の時間がかかるのか知らないが、そうしてまで行かなければならない事情があるのだろう。
「浮遊、都市……?」
「そうとも。何でもかの八欲王が作り上げた国の首都であり、最後に残ったたった一つの都市って話さ」
そして、浮遊都市という言葉が気になった。
八欲王という存在は私も聞いたことがある。かつて、絶大な力で世界を支配した者達。それまで世界を支配していた竜王たちと戦い、戦いを挑んだ竜たちを皆殺しにしたという。人気はあまり無いが、広く知られている物語でもある。
確か──空よりも高い身長を持つとも、竜のようだとも言われる八欲王という存在が現れた。彼らは瞬く間に国を滅ぼし、圧倒的な力を背景に世界を支配していった。だが、彼らは欲深く互いのものを欲して争い、最後は皆死んでしまったという……権力者のエゴや強者の盛者必衰を絵に書いたかのような物語。
私も昔に物語を読んだ事があったが、ページを捲るごとに眠気に誘われたことだけは覚えている。
その八欲王が作ったという都市が現実に実在しているのだという。
「なんだ、気になるかい? 私達のキャラバンに入るってなら、そりゃあ大歓迎だよ」
「いや……私にはやる事がある」
「そうかい」
ケタケタと、リグリットがイタズラっぽく笑う。
どうせ、からかいがいのある奴が入って来て、旅の道中退屈せずに済むとか言う魂胆だろう。
それに、旅を続けるには先生にも相談しておくべきだし、第一私にはインベリアの皆を助けるという、やるべき事が残っている。
「そこが終着点なのか?」
ふと、そこが終着なのかと、何ともなしに聞いてみた。
「いいや……また、ここに戻ってくる。……ここだけの話、私達の最終目的地はケイテニアス山でね。西の都にはリーダーの伝手でちょっとばかし武器を都合しに行くのさ」
「ケイテニアス山……何でまたそんな場所に」
「おっと、そこに何があるとかは聞いてくれるなよ? そんで、行こうとするのも止めておきな。ワイバーンやら危険なドラゴンがいて危ないらしいからねぇ」
しかし、返って来たのは思っていたよりも堅く、真面目な声音だった。
それが、どういう意味か聞き出そうとしたのだったが……
「──ククク、そろそろキャラバンが出発するみたいだ。じゃあね、インベルンのお嬢ちゃん」
「おい!」
リグリットが背を向けて、キャラバンの方へ駆けて行く。結局、ケイテニアス山に何があるのか聞き出すことは出来ないまま、彼女や他のキャラバンの者たちは手を振り、インベリアを去っていったのだった。
そして──
旅のキャラバンが立ち去り、インベリアには再び静寂が訪れ、少しだけ寂しさを感じさせる日々。インベリアが静かになって、数日もたたない内の事だった。
『ケイテニアス山の調査に行きたい』
『ここで待っていて欲しい』
「……ケイテニアス山には何がある? リグリットがそこには行くなと言っていた。たしかワイバーンやら危険なドラゴンがいて危険だからと……」
訝しむように先生に尋ねた。
そういえば、最近の先生は遠く眺むケイテニアス山脈をよく見ていたように思える。まるでそこに、この人が望む何かがあるかのように。
『何があるかはわからない』
『それでも、行かなくてはならない』
「なら、私もいく」
先生の意思は固いようで、彼の中ではそこに行くのは既に確定した事のようだ。
ならば、と思い、当然私も調査に同行する意思を示した。これまでもそうだった。二人で、色んな場所を巡って来たのだから。私が旅先や計画を考え、道中に危険があれば先生が大体は対処してくれた。これからも私の側には先生が居てくれるのだと心から信じていた。
だが……
『行くのは俺だけだ』
「!? 何故だっ! 何があるかわからない場所に一人で行くなんて! 私だって、これまで旅を乗り越えて来たんだ! 危険なモンスターがいたとしても早々足など引っ張らない!」
その想いは再び裏切られた。二人で乗り越えてきた旅路など無かったかのように。
確かに、私は非力で魔法の腕もまだまだだ。でも、それでも何の役にも立たない、役立たずでは無い。だからこそ、突き放された悲しみは、すぐに烈火の如き怒りへと変わる。
『キーノ、聞き分けてくれ』
「いつも……いつも、そうだ。あなたは身勝手で、私が本当に求めている事を大切にしてくれはしない。今まで、私とあなたで困難を乗り越えてきたのに。それすら、あなたには取るに足らない事だったのか!」
『すまない』
私は生命活動の停止しているのに、筆談で書かれたその言葉を見て、カッと頭に血が登るのを感じた。
「っ! まただ! 本当に悪いと思っているのか!? あなたはただ謝れば、私が最後には折れるとでも思っているのだろう!? こうして怒るたびに私は惨めな気持ちになる! 私は癇癪持ちか!? 私のこの苛立ちは間違っているのか!?」
叫び、地面を睨みつけた。
先生はどうしたらよいのか、と暫し逡巡した様子の後、俯く私の頭を撫で……私は気持ちが落ち着いてから、小さく声を絞り出した。
「……大声出して、ごめん……離れるのは、なんだか怖いよ。先生まで居なくなってしまうような気がして……」
「……一つだけでいいから約束して。戻ってきたら、私とまた旅を再開するって。私を一人にしないって……」
『戻って来たらまた旅を再開すると約束する』
「うん……」
□
「……そうして、あの人がインベリアをたって数日後のことだ──黒い太陽が空に登り、世界を赤黒く染める異変が起こった」
「それを、人々はナ・ベールの主神である太陽の男神ベ・ニアラの怒りだと畏れた」
「──だが、私にはその黒い太陽がベ・ニアラの怒りとはどうしてか思えなかったよ」
子どもの頃──私は不思議な国の物語が大好きだった。
古の魔法を操る魔法使いのお話。願いは、願い続ければきっと叶うのだと私に教えたお伽噺。幼く、世界の厳しさを知らなかった私は、その物語の教えが現実のものだと、ずっと信じていた。
だが、現実は──嘘をついた魔法使いはいなくなり、私の願いはついぞ叶うことはなかった。
魔法は万能の力ではないのだと思い知った。
魔法では救えなかった人がたくさんいた。
それでも……絶望を、困難を乗り越える力があの時の私にあればという気持ちは今でも消えない。
もしも私に世界を変えられるような大きな力があれば……あの人とケイテニアス山に登り、共に戦う事も出来たかもしれない。
そんな後悔ばかりが今の私を形作っている。
これは、結局はあの人のような強い力が欲しいなどという、欲深い憧れなのだろうさ。
どうやら私は、私が思っている以上にあの人のことを……先生のことを大切に思っていたらしい。
今ではもうあの時の気持ちは思い出せないが、もしかしたら、それは初恋か、家族愛に近い物だったのかもな。
この口調だって、初めはあの人と対等になりたい、何時までも頼りっぱなしは嫌だと思って、変えようと思ったのだから。
フフ……大事な人達は既に失っていたというのに、再び失ってから絶望を思い出すとはな……本当に……愚かという言葉では言い尽くせない。
──大切だった人の顔が思い出せなくなる苦しみがお前達にはわかるか?
段々と靄がかかるようになって、その顔も、声も、思い出せなくなるんだ。
どうして思い出せないのだろう。父も母も故郷の皆も、先生も。あんなに大切だったのに、大好きだったのに、愛していたのに。
思い出したい。思い出せない。それを忘れてしまう私は何て薄情なんだろう、この気持ちも全てその程度のものだったのだろうかって。
とても後悔したよ、どうして絵の一枚も残しておかなかったんだって。
……だからだ。あの冒険者の顔を初めて見た時は、驚きつつも内心ではとても嬉しかったんだ。その顔は……朧気な記憶の中の、私の先生と全く同じものだったから。
そこでようやく、私は先生の顔を思い出すことが出来たんだから。
□
とある山岳民族曰く──訪れた旅人が村を出てから少しして……変貌した赤黒い世界に黒い太陽が登り、大地が酷く激しく揺れた。そして、その日から山が燃えたように、恐ろしく暑い日が続いたのだという。
それから暫くは酷く乾燥した風に灰が混じり、喉や目を痛めたり、暑さに慣れない家畜が体調不良を起こしたりしたせいで、急遽、村を移動することになり生活に苦労したとも聞いた。
──神は祈願のために断食し、自らの言葉も断っていた。代わりに、神は夕日のような色の石で文字を描き、その意思を伝えた。
彼らは、村を訪れた旅人の正体が太陽の男神ベ・ニアラの化身だと堅く信じていて、死の恐怖に狂い、悪さをした竜を神の怒りで屠ったのだと熱心に話していた。
当然、私はその旅人の正体が先生だと確信していたのだが……私は先生がそんな神の如き力をずっと隠していたなどと知らなかった。勿論、先生が卓越した戦士であり、偉大な魔法使いであったことは知っていたのだが……
竜を屠った力は、恐らくは禁じられた魔法を使ったのだろう……それも命を犠牲にしなければならないほどの、古い魔法。もしかしたら、かの竜王たちが行使するという始原魔法のような──
当時の私は愚かにも何時までたっても果たされることのない約束をインベリアで待ち続けていて……いいや、私が待っていなければ約束も果たされないと言い訳して、本当はただ先生を失ったことを確認するのが怖かったのだ。
……そして、それから大分後になって、以前インベリアに訪れた多種族混淆のキャラバンが再びインベリアを訪れた。
何があったのか察したリグリットに叱咤されて、彼らと共に先生が向かったと思われるケイテニアス山の調査に赴いたのだが……
そこに残っていたのは何かが燃えた灰の残滓と、辺り一面の融解した岩の山肌、それに何か巨大なものが暴れた形跡や不自然に抉られた峰……
そして、開けた場所の中央に残された……先生が筆談で使っていたオレンジ色のメッセージだけだったよ。
リュウにいどむは きしの ほまれよな
『あ……』
キミはこれまでも これからも ひとりではない
『う……うそ……うそだっ!! うそだぁあぁっ!!』
がんばれ キーノ
『あ、あ、あぁぁ……うあああぁぁぁ────』
そのメッセージも私が確認してすぐに、役目を果たしたかのように消えてしまったのだがな……
私に嘘をついたことを謝る言葉はなく、あの日見たオレンジ色のサインを……私は未だに探してしまう。
ま……今となっては、全てただの昔話だが。お前達が私の話に何を思うかは知らんが、これは先人からの忠告だ……
私のような後悔はしてくれるなよ。
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31.クレマンティーヌ・ユリ編※3
赤熱し、パチパチと爆ぜる薪が暗闇の中で仄かに辺りを照らす。三人は焚火の前に並び、男を間に挟むようにして座している。
「……それでー? 話の中の女とは結局ヤったのかな?」
先程までは狂乱していたように騒いでいた二人は何とか平静を取り戻していた。溜め息を一つつき、クレマンティーヌが気になっていたことを男に問う。
クレマンティーヌが男の目を覗き込む。怒りがあるわけでも、疑念や嫌悪を含んでいるようにも見えない、ただ事実を確かめようとしているのだろう。そんな目で見られて、男は疚しいこともないのに居心地が悪くなった。
「……精神体になったって言っただろうが。それに彼女は幼い少女の姿だぞ、急に変な話をするな」
「へぇー……まあ、それもそっか。てっきり女だったら誰でもいい変態なのかと思ってたからさぁ。もしヤッてたら稚児趣味野郎って呼ぼうかと思ってたのに。ザンネン」
少しだけ機嫌良さそうにニヤリと笑い、良く我慢出来ました、と挑発するように頭を撫でつける。
「お前はいったい俺を何だと思って……」
「え? ンー、変態、女の敵、スケベ野郎、スケコマシ、エロ魔神──あとはー」
「……もういい」
静かに首を横に振る。
クレマンティーヌはそれが当然のように罵倒した。男もその言を否定したかったのだが、出来なかった。振り返ってみれば、まぁ言われても仕方ないことを色々して来ていたのだから。
微妙な顔をした男を見て、クレマンティーヌがプッと吹き出すように笑った。
実際、彼女が気にしていたのは肉体関係もそうだが、精神的な繋がりについて。つまり、件の少女が男の庇護の内に数えられているか否か。クレマンティーヌは彼女自身も含めて、男が肉体関係になった相手には情を持つ傾向があるように思えたため、その可能性を探っていたのだ。
そして──男は答えた。彼女との間柄を例えるなら相応しいのは、教え子に他ならない。彼女は身体こそ幼いが、精神的には大人であり、守ってあげなければならないほど無力でもないのだと。
そもそも、召喚の効果が切れれば、いずれ帰還することになるとは予測でき、離別の時が必ず訪れることは分かっていた。故に、出会った当初は無力だった少女に、男は離別した後のことを考え、自衛のための力を身に着けさせていたのだという。
結果、少女は自衛の力を身に着け、世界を生き抜く手段を得た。やれる事はやったと話す男の様子を見る限りでは、件の少女は完全な庇護下にあるという訳でもなさそうだった。
現に、今も一人置き去りにしてきたことを気にしてはいるようだが、可能か不可能かは別として、もう一度霊体となってまで探しに行こうとまでは考えていないらしい。
元々その時代に居るべき存在ではない。そもそもが交わした約束など果たせる訳が無かったのだ。だから、いっそのこと強大な存在と相討ちとなって死んだ、ということにしたと。自分に出来たのは約束を果たす事では無く、異変の原因を排除することだけだったと語る。
奇妙な所でドライで、別れ方も狡いと思う。
「……御方様をへ、変態などと罵り、気安く御髪に触れるなど、なんたる不敬……調子にのるにも限度というものが……」
そんな二人の様子を尻目に、これまで沈黙を貫いてきたユリが恨めしそうに呟いた。
自分にはそんな事をする勇気もないのに、この女性は事も無げに成してゆく……と。同性が、自身の慕う人物とじゃれ合っているのを見るのはモヤモヤして、我慢しなければと思っていても、ユリの口からは不満が零れてしまう。
ただ、主が変態かどうかの是非にノータッチな当たり、その点ではユリも内心で否定しきれない思いがあったのかもしれなかった。
「ユリちゃん、嫉妬〜? カワイイんだ〜、うぷぷ…… てか、自分だってちゃっかり膝枕してイチャイチャしてたの忘れてない? ヤッてる時だって色んなとこ触れてるだろうに今更不敬も図に乗るもあるかよ」
「〜っ! そっ、それとこれとはっ」
そんな不満を耳ざとく拾ったクレマンティーヌが、ニヤニヤと口を三日月のように大きく裂いて嗤う。
「……あのな、女がヤるとか、ヤらないとか……そういう事を平然と言うもんじゃない」
「んー? ……もしかして、女に幻想見ちゃってるクチ? だとしたら、ごめんねー。女同士の会話なんて男からしたらさ……そりゃあ引くくらい生々しいってのが現実だから」
「……だとしても男の前で言うのは」
「なんかさぁ、結構常識的なんだよねー。最初はどんなヤバイ奴かと思ってたのに。あぁ……そういえば、もう一個呼び方あったっけ」
「……」
赤い瞳を細め、男が数瞬身構える。レイプ野郎、という内心の言葉が聞こえて来そうだった。
彼女が思い出すのは相手の力量を見誤って叩きのめされ、暴力的な快楽を植え付けられた過去。ストレスの悪循環から無理矢理に引き抜かれ、彼女自身の転機ともなり、運が向いて来るようになった切っ掛け。クレマンティーヌにとっては、それすらも愛する人との思い出だ。
この世界では女性の尊厳などあってないようなもの。暴力に屈し、醜い欲望のはけ口にされる不幸な女など、それこそ幾らでもいる。人の生き辛いこの世界で生まれ、現実に打ちのめされ続けてきたクレマンティーヌからしたら、言ってしまえばそんな物はただの弱肉強食でしかない。
弱者が強者に取るべき行動は取り入るか、目のつかない場所に隠れ潜むかが常道。故に、強者である男が何をそこまで後ろめたく思っているのかなど、彼女からしたら正直な所、イマイチ判然としていなかった。
ただそれでも、それが男の弱みになっていることは分かっていたから。
「……心配しなくても、(誰にも秘密は/余所でヤるとか)言わないよ」
──マウントとるために利用はするけどね
だって、誰かに明かしたらそれは二人の秘密ではなくなってしまうし、精神的に優位に立つために相手の弱みを突くのは当然のこと。もしも秘密が明かされる時が来るのであれば、それは関係が切れた時。執着の程度から考えて関係を手放すことなど考えられなかったが。現に、クレマンティーヌは一生、そのことで男に強請りをかけるつもりであった。
「──それにさぁ、男は女に理想を押し付けて、夢見てるけど……現実は、普段清楚ぶって貞淑を気取って見える奴だって、隠れてヤるときゃヤッてるもンなの。そこのユリちゃんもねぇ……どうかわからないよぉ?」
「はっ?」
ユリの表情が驚愕に染まる。とんだとばっちりだ。
「その点、私は隠さないしー? 愛してる人には愛してるって素直に言うし、ヤりたい時はその気にさせてでもヤる。純愛だよねー」
他人を貶めて、自分を上げる。狡猾にも、本当に信じるべきは私であるとアピールする。クレマンティーヌは身体を密着させ、恥ずかしげもなく男の下腹部に手を這わせた。
「お、御方様っ?! ボクは他の誰かとなどしていませんし、今後もそのようなことはありません! 彼女の言葉は嘘ばかりです!」
「いや、流石にわかっているが……」
「ボクは御方様に嘘なんてつきませんからっ」
万が一にも信じられてしまっては堪らないと、焦ったようにユリはその言葉が妄言であると男の腕を揺すりながら抗弁する。
片や誘惑するようにしなだれ掛かり、片や焦りから加減も忘れて揺すり掛かる。両隣で騒がれ、姦しさの中心にいる男がいい加減疲れてきたという目でユリの方を見た。
「お前ら……」
そもそもがからかい混じりの冗談だ。それを信じる者などナザリックの関係者にはいないだろうに、冗談を真面目に受け取りすぎだと男は少々面倒くさげに返した。
「!? ……??? な、なんだか御方様の目が冷たい気がします…………なぜ……?」
「ぷぷぷー、清楚系ビッチだって思われたのかもね、あーカワイソー」
「──今すぐその口を閉じなさい、死にたいのですか」
「……どうしても挑発し合わないと気が済まないのか」
流石に呆れ果てた男。正直もう面倒くさい。仲の良くない女二人を男が仲裁するのったどうしたらいいんだ……? と、もはや諦観の念が表情から溢れている。
とはいえ、クレマンティーヌとユリの二人を抱いて、この状況を招いたのは男の自業自得でもある。この状況から逃げることは許されないのだ。
「……ならさぁ、ユリちゃん。私と一つ勝負しないー? どっちが上なのかさぁ」
「何かを企んでいる……? ……いいえ、いいでしょう。むしろ勝負は私も望むところ。何か企てがあるのなら、正面から叩き潰すだけです」
「……ようやく理解しましたよ。やはり、貴女とは分かり合えない……貴女に、もう一度身の程というものを叩き込んであげましょう」
「……はあぁー? 散々理由つけて逃げ回ってた奴が何イキってやがんだ。首無し」
「フン……貴女の方こそ無様にも殴殺されかけたことを忘れてはいませんか」
挑発的な言葉にカチンときたユリは承諾の意思を返す。そのまま、再び言い争いが始まる。男は溜息をついた。
「……」
男がチラとクレマンティーヌを見れば、表面的な苛立ちの裏に、冷静さを保ち、優等生を嘲笑うような表情があるように思えた。何か思惑のありそうな蠱惑的な赤い瞳が男を射抜き、それを男は見なかったことにしようと……その視線から逃れるようにそっと顔を背ける。
彼女の考えていることが何となく分かってしまうあたり、毒されてきているのかもしれなかった。
□
テント型のグリーンシークレットハウス、その中にて。テントの中は外から見た大きさとは見合わず、空間が広くなっている。そして、その内観はもはや野営とは思えない。
ユリの言う粗野という言葉は当てはまらず、クレマンティーヌの言う小汚さなど欠片もない。テント内は清潔感に溢れている。白を基調とした内装に板張りの床、大きなベッド。キッチンこそ備えていないが、シャワー、トイレまで完備。男からしたらコレじゃない感が満載だが、例えるならそれは男の前世にあったグランピングに近い。
大きな寝台がテントの奥に一台だけ置かれており、その薄暗い空間には3つの影があった。
「あっ、ぁうっ、奥あたるっ」
「う、うぅ……こ、こんなの……こんなの勝負じゃ……」
女の歓びに満ち、快楽に喘ぐ声と、困惑と羞恥に満ちた声。
「さっきはよくも変態扱いしてくれたな……」
「んふ、えっち、大好きでしょー? 最初はあんまり気のないフリしてた癖に……誘惑したら、すぐやる気になっちゃうんだもんねー」
ベッドへと仰向けになった男が、馬乗りにのしかかっているクレマンティーヌに対して眉を顰めて抗議するも──否定出来ない言い分に、男は言葉を詰まらせる。男という生き物は現金なもので、その場で特に気がなかったとしても誘惑されるとどうにも拒否出来ないものだ。まして、それが美女であるなら尚のこと。
「あぁ、んっ!」
挑発的に言い返された苛立ちから、男へと跨がる彼女の女陰へと、一際強く男根を突きあげた。肉壷はしとどに濡れそぼっており、その内に収めた男根へと彼女自身の熱を伝える。
「御方様……」
幸せそうな、艷やかな嬌声が響く一方で、悲しげな声音もあり、霞むように消えていった。
──男一人に対して女が二人。その内、男とクレマンティーヌが情事に耽り、その場に入り込めずにいたユリは二人の睦事を見せつけられている。
ユリの目の前では、クレマンティーヌが男に乗り、腰を揺らしている。憎まれ口を叩きながらも二人の距離は物理的にも精神的にも近しいように思えた。彼らは離れていた時間を取り戻すように肌を触れ合わせており、彼女は悩ましげな息づかいをして綻びた結び目を直すように口づける。
「ん……キス……きもちいぃ」
キュウっと、膣が締まった。
パチッパチッ、と肉が肉を打つ音が聞こえている。ユリの目の前で行われている行為は生々しく、その接合部から漏れる水気を含む音が彼女の鼓膜を震わせた。
男の記憶を呼び覚まし、心の距離を近づける儀式。また遠い場所に旅立つことがあろうとも、彼女を忘れることが出来ないよう、過酷であろう旅路において男の支えとなるよう新たな記憶を刻み込む。
ユリはその情景を羨望や嫉妬、悲しみ、寂しさ、疎外感などが入り混じった複雑な感情のままに眺めていた。
──事の成り行きはクレマンティーヌとユリの言い争いにある。男を挟んで、両側で争う二人だったが、クレマンティーヌがユリに勝負を持ちかけたことにある。
無論のこと、ユリは勇んで勝負を受けた当初、その内容がこのような、インモラルなものだと思いも寄らなかった。
勝負の内容は、どちらが男を満足させられるか、というもの。
「た、爛れた関係はいけません!」
とは動揺を顕に視線を彷徨わせたユリの言。勝負を受諾する前に内容を確認しなかったユリも悪いのだが……それを勝負を受けた後に知ったユリは驚愕し、急に及び腰になった。
クレマンティーヌはニヤニヤと男とのまぐわいを見せつける形で独占を狙い、一方、ユリは三人でするなど……と羞恥から硬直。かといって逃げ出すことは女のプライドが許さない。よって、出遅れたユリは進むも退くもいかず、二人の情事をただ間近で見ているしかないという状況に陥っていた。
「うぅ〜……奥、やばぁ……あっ、もぅっ、イクッ、イキそっ」
男の胸に手を置き、クレマンティーヌが腰を揺さぶって男の怒張を扱いてゆく。極太の肉棒が愛液に濡れ、テント内を仄かに照らすランタンの灯りを反射していた。甘い吐息と余裕の感じられない嬌声が断続的に艶かしく吐き出される。目を閉じて身体を揺らしながら快楽に集中している彼女の様は、男の支配欲をひどく刺激した。
ユリの位置からはクレマンティーヌの
──あ、あんなに大きいのがボクの中にも入っていたの……?
思考がグルグルとループし、現状を上手く認識出来ない。その意識外では、ユリの下腹部が愛液を分泌し、男を受け入れるための準備が整えられてゆくのだ。
「あっ、あぁぁぁ、だめだめだめだめっ、突きあげないでっ、イクッ、もうイッちゃうっ」
「イかせるために突いてんだよ。さっさとイケ、雑魚マンコ」
男に跨がるクレマンティーヌがほっそりとした腰を掴まれている。苦悶の表情を浮かべる彼女をよそにガシガシと攻め立てると、ふるふると身体を震わせた。
「ひいぃっ……むりぃっ……奥なぐられる、みたいでっ、やばいからぁぁ、とまって、とまってよぉぉ」
「もっと……もっと、ゆっくりぃぃ」
「最近のお前は調子に乗り過ぎだ。たまに躾けてやらないとな!」
息も絶え絶え。イヤイヤと、黄金色の髪を四方に振り撒く。切羽詰まっているのか、叫ぶような喘ぎが響く。
絶頂が近いのだろう。クレマンティーヌのその嘆願を裏切って、女の狭い空隙に男の摩羅が切削するように割り込む。男は彼女にガニ股、ヤンキー座りを強制し、突き出された丸尻に打ち付ける。その衝撃で双丘が激しく上下に乱舞した。
「んひっ……もぉ躾けられてるっ、躾けられてるからぁっ」
「お前、さっき俺を脅そうとしたよな」
「ひっ、調子にのって、ごめんなざい、ゆるひ、ゆるひてぇっ」
「駄目だ」
クレマンティーヌは激しい快楽の嵐に吹き飛ばされまいと、必死に耐えていた。しかし、とうとう自身の姿勢を支えられなくなったのか、ガクリと彼女が前傾に倒れ込みそうになる。すると男が手を恋人繋ぎにして体重を支え、更に容赦なく突き込んだ。女の表情が媚びを含んだ笑みで歪む。
「お゛っ、イグッ、イグッ、イグゥッ」
「そら、盛大にイケっ」
「も゛ぉ、らめぇぇ〜っ──あっ、ぃ゛っ」
バスバスと軟肉を激しく打ちつける。男がトドメとばかりに、膣奥に摩羅の亀頭を押し付け、グリグリと腰を揺すると停止させ──クレマンティーヌは獣のような低い声をあげた。
「〜〜っ!! ん゛ぁっ、あ゛ああぁ……あ゛ぁ……あぁぁ……あぁ…………」
クレマンティーヌの身体が跳ねる。グッと歯を食いしばった後に、反射的に背筋を限界まで伸ばす。脱力──余すことなく与えられた快楽を身に受け入れると、今度こそ男の胸の上に倒れ込んだ。
荒い吐息、切なげに、しかし腹から響くような低い声を震わせて鳴き、細い腰と尻をガクガクと痙攣させたのだった。
──あぁ……いいなぁ……あんな風に責められて……気持ちよさそう……ボクも……ボクも欲しいよ……
ユリの視線は彼らの行為に釘付けになっていた。彼女の下腹部はキュウキュウと疼き、男の一物を急かすように求めだしている。
「ハァ…………ハァ…………」
長距離走をしたように肩で大きく息をする。絶頂を迎えたクレマンティーヌの体は、刺激に対して敏感になっていた。大きな快楽の波に震えながら、膣は生き物のように蠕き締めつけ、今も異物である男の男根を舐るように動いている。
そんな彼女を見て──男は倒れ込んで来た彼女を、心の底から溢れてくる情のままに、労るように抱き締めた。細い肩は柔らかく、暖かな体温を感じる。汗ばんだ女の髪からは安心するような、心地よい甘い香りがした。
男は女を求めるが、彼女たちの本質を永遠に理解出来ない。しかし女もまた、自身を理解出来ないはずの愚かしい男を愛さずにはいられないもの。
互いに価値観の違う生き物で、すれ違いも多い。なのに触れ合う肌の感触は、どうしてか心を安らがせ、惹きつけ合ってしまう。
彼女の脱力した全身は発情で発汗しており、男の肌も塗らして互いに張り付く。抱き締めた腕の中で、時折体を強張らせ、ブルリと震わせながらも短く早い荒い息を何度も繰り返した。未だ体の自由を支配する絶頂の余韻の只中にあり、彼女は暫く戻ってくることはないと思われた。
ズルリ……と彼女の膣から剛直を引き抜いて、その四肢を横たえる。クレマンティーヌの口から、あぁ……と艶めかしくも切なげな声が漏れ出た。
「……一人だけ満足そうな顔しやがって。そこで少し休んでいろ」
返事はない。男は仕方ないとばかりに言葉を投げかけたのだった。
□
クレマンティーヌの果てる様の始終を、ユリは見ていた。
彼女が主に求められ、艶めかしい矯声をあげている様は本当に幸せそうで……何時までも見せられていると、ユリ自身が出遅れたのも忘れて、何で彼女ばかり、どうしてボクのことを見てくれない、愛してくれないんだと嫉妬と悔しさで気が狂いそうになった。
──お腹が疼く……
まして、主が愛おしげに彼女を抱き締めるのを見てしまっては……女としてのプライドか、自身も彼女と同じように、いやそれ以上に求められなくては自尊心を満たせないことだろう。
そして、ユリは見たのだ。彼女特有の、口元を大きく吊り上げた笑みが最後にユリに向けられたのを。それはまるで、自身がどれだけ愛されているのかをユリに見せつけ、どうだ、と挑発しているかのようでもあった。
「ユリ」
「御方様……」
声をかけられてハッとした。男を伺うユリの視線が不安と緊張に揺れていた。
「……ユリ、おいで」
「っ、はい」
ユリは待ちに待った男に呼ばれて、惑いながら側へ寄ったものの……そこからどうしたら良いのかわからなかった。
彼女はクレマンティーヌへの嫉妬や、複数での性行への背徳感、そしてようやく関心を向けられた安堵、胎の奥底でグルグルと渦巻く欲望。数多の感情を受け止めきれずにいたから。恋い慕っているはずの男の目を見る事が出来ず、触れられたい、抱き締められたいと願っているのに、自らがその肌に触れることを躊躇した。
ようやく自身のことを見てくれたことは嬉しかったはずなのだが、一つ安堵してしまうと、今度はこのような状況への不満が口から出て、感情の赴くまま喚きたくなるのを必死に抑えていた。
自身ではない他の女を抱く主の様子は、当然の事ながら今まで見た事もなく、いっそ別人かのようにも思え、彼女に少なくない衝撃を与えた。その様は彼女が初めて身体を捧げた時とは異なり、大切な思い出が汚されたようでユリは何だか悲しくなったのだ。
だがしかし──元より至高の存在である主を独占するなどは出来ようはずもなく、これは一人の男を取り合う、女と女の勝負でもあったから。謂わば、正妃戦争の前哨戦ともいえるかもしれない。互いの覚悟を確かめ、相手が本当に自身と競い合うほどの存在か否か判断する。簡単な話、普段のマウントの取り合いが少し過激になった程度のもの。
正妃戦争が絡むのであれば、ユリに逃走の選択肢はない。男の情に訴え、この場を回避することも、侍女として今回のことを非難し、諌めることも可能ではあったが、自身の未来、ひいてはナザリックの将来に深く関わるとなれば不退転の覚悟を示さなければならなかった。
それに、思ってしまったのだ。
彼女だけには、絶対に負けたくないと。彼女よりも主から愛されているのは僕なのだと。この場から逃げるようでは、いずれにしても至高の御方の伴侶となって隣に立つことなど、夢のまた夢。
自身の感情?
思い出が汚された?
その程度のこと。悔しいのなら思い出を取り返せ。至高の御方を前にして喚き散らす醜態を晒すなど、二度とする訳にはいかない。それこそ被造物としての、至高の御方々に仕える下僕としてのプライドが許さなかった。
それはわかっていた。だが……ユリとしても覚悟を示す前に少しだけ落ち着く時間が欲しかった。肚に意気を込める時間が。
「御方様……きつく抱きしめていただけますか」
男が彼女の言う通りに、ゆっくりと、きつくユリを抱き締める。ユリは腕の中で深く息を吐いて心を落ち着けた。
「……嫉妬で狂ってしまいそう。でも、ボクだって負けるつもりはありません。……だから、お願いします。彼女よりも、めちゃくちゃにして」
上目遣いで囁くように請われ、男は唾を呑む。彼女の表情は真剣でこそあったが、情欲の色を隠せていなかったのだから。
「あぁ、後悔するなよ」
男としても複数人での乱交など経験もなかったが、こんな状況で緊張もせずに、むしろ彼女の身体の柔らかさに普通に興奮してしまう辺り、我ながらクズだなと自嘲したのだった。
□
「そら、これからって時に服を着たままじゃな。脱がしてやろう」
「あっ、そんな、じ、自分でっ」
ささやかな抵抗にあいながらも、ユリが着ていた服を下着を除いて剥き、寝台へと押し倒して、のしかかる。
「あ、う」
それだけでユリの中で渦巻いていた不安や嫉妬といった感情は少しずつ鎮まってゆき、反対にイケナイコトをしているというドロドロとした背徳感や、これから行われるだろう行為への興奮や期待感で上書きされてゆく。
男がユリに口づけし、彼女は抵抗することなく受け入れる。吐息が交わされ、何度も何度も互いの唇の感触や相手の反応を確かめる──その興奮のままに口内へと舌を侵入させると、ユリは眉根を寄せて悶えた。
男がユリのショーツへと手を入れる。割れ目をなぞると、ユリの身体がビクリと反応した。
「──驚いた。ずっと期待してたんだな。バッチリ濡れてるぞ」
「そ、そんなことっ……」
股を指の腹で撫でるように弄るとクチクチと水気を含む音とユリの小さな喘ぎ声が重なった。無意識にかユリの股座は開かれてゆき、男の手の動きが激しくなる。
「ユリ、本当はずっと待っていたんだろ。自分の番を。素直になれ」
「ち、ちがいますぅ」
イヤイヤと首を振って抵抗する。その反抗を非難するように突起を指で弾いた。ユリの腰が引け、彼女の長い脚が股座を弄っていた男の腕を挟む。
「そうじゃないよな」
膣に指をゆっくりと差し込んでゆき、膣穴を解し、広げるように円を描く。
「ううぅ、っ……」
膣の中で愛おしい人の指が動いているのがわかり、その気持ちよさに声が漏れた。しかし、焦れるようにゆっくりと、もどかしい。時折、クリトリスを撫でられるのがユリの情欲を煽った。息が荒くなる。
目の前の主から圧力を感じる。して欲しければ、認めろと。
「……ず、ずっと御方様に求められるの待っていましたっ。いっぱい愛されながらめちゃくちゃにされて、気持ちよくなりたいっ。早く欲しいっ、ずっとお胎が疼いて仕方が無いんですっ」
「そうか、そうか……なら、直ぐに挿れてやるからな」
ユリの忍耐は早々に情欲に負ける。主が言わせようとしていただろう懇願の言葉を、羞恥を感じながら吐く。その対価に、彼女の待ち望んでいたものが与えられる。
表情が期待で喜色を帯び、眼の色が雌の媚びるものへと変わってゆく。
「そら、挿れるとこ、よぉく見ておけよ」
「あっ……いやぁっ」
「こうすれば見やすいか」
ユリの首に巻かれてあるチョーカーを外し、躊躇いなくユリの首を抱えた。
「あぁ、あぁぁぁぁぁ……?」
ズブ、ズブ……とゆっくりとM字に開かれた脚の根本、ショーツが横にズラされ、ユリの秘裂に逞しい肉棒が突き立てられると共に、男の腰も沈んでゆく。体温の感じられない膣が熱い男根を冷ますように包み込んだ。
男の腕の中にあるユリの頭が、その瞬間を期待していたかのように陶酔を含む高い、歓喜の声をあげ……次第に困惑を含むものへと変化させた。ユリの肢体は挿入による刺激でピクピクと身悶えしていたが……ユリの頭は期待していた刺激が感じられず、困惑を顕にしたのだ。
「あぁ……首が繋がってないと気持ちいいのもわからないのか」
男はユリの頭を肢体に繋げることなく側に立て置き、そのまま腰を抱えて、物を扱うように荒々しく男根を突き上げた。肉を打つ破裂音が響き、その衝撃で、バルンッとブラから乳房が溢れた。
肢体は声なく快感に悶え、玩具のように翻弄されている。白くほっそりとした腕が勝手に動き、ベッドのシーツをクシャリと掴んだ。
「えっ? えっ?」
まだ状況を理解できていなかったユリの声が次第に泣きそうなものに変わってゆく。
主が自分の身体にその劣情を注ぎ込もうとしているのに、ユリの意識はそれを感じることが出来ない。声を発する事の出来ない身体はもたらされる快楽に腰を弓なりにしならせ、時にくねらせ、震えているのに、何も感じない。頭部の自分だけが主を感じられない。
「や、やだ、やだっ。ボクも、ボクにもっ! 御方様ぁ!」
ユリの頭が悲鳴のように訴えっていても、男は腰の動きを止めることは無かった。バスバスと腰を執拗に打ちつけ、母性の塊が激しく形を変える。
そして──頭の無い肢体がひとりでに動き出し、自身に覆い被さっている男へと絡みつく。密着した彼女の豊かな胸は男の厚い胸板に押し潰されていった。
「そんなっ、どうして、勝手に動かないでっ」
悲鳴をあげた。しかし、ユリの胸を胸板で押し潰しながら腰を打ち付ける度に、彼女の肢体は歓びで弾む。身を蹂躪される快楽を拒むことなく受け入れる。
「ユリ、お前の弱いところは知ってるぞ」
男が荒々しいピストンを何度も繰り返す。
と、今度はユリの腰を抱えて浮かせ、枕を挿し込んで挿入の角度を変えた。下腹部の裏側あたりをカリ首で引っ掻くようにじっくりと抽送していった。
声がなくとも身体の反応は正直だった。
手は互いに恋人繋ぎで絡み合い、しなやかな脚は男を逃すまいと腰に組みついて与えられる快楽の刺激に身を捩っている。どうやらユリの肢体は頭のコントロールから外れているようで、意に反して身勝手に快楽を貪り始めているようだ。
そして、ユリもユリで、感覚こそ繋がってはいないが身体の状態はわかるようだ。つまり、早くも絶頂へと上り詰めかけていると。
「そんな! ダメ! まだイッちゃダメ! 御方様っ、お願いします、早くボクの首をもとに──」
「わかった、わかった。だから、そう焦るな」
「へ──アヒィえェッ?」
──ビクゥッ! ビクビクッ!
懇願を受け入れた体で、男が泣きそうなユリの頭を取って首を接続させると手早くチョーカーを巻き付ける。首を体に接続した途端、ユリの体が大きく跳ねて暴れた。ユリが歯を食い縛る。
と、同時にユリの肢体がギュゥッ、と男の全身を締め上げた。一気に大きな快楽が流れ、ゼロから絶頂寸前のところまで一瞬にして引き上げられたせいだ。
「んおっ、おおぉぉおぉぉぉ……」
腹の底から響いてくるような低音の喘ぎ。ユリの脳裏が真っ白にスパークする。突然齎された快楽の津波に思考がバグった。思考力が強い快楽に押し流され、ただただ全身で主の体温とオーガズムを感じるだけの性処理具へと成り下がる。
快楽の波が引くと、ユリは腰が怠く感じ、自身の下腹部に男の男根が収められているのを感じた。太く熱い杭が胎を焼き、膣を押し広げながら奥深くまで貫いている。男根の亀頭のエラが子宮口に引っ掻かっているのか、ヘコヘコと少し腰を揺するだけで胎に快楽が溜まり、また腰が重くなってゆく。その行為に、密着している愛する人の温もりに、頭が茹だりそうな幸福感を覚えた。
「ひ、ひどいです、おかたさまぁ」
「もう満足か?」
「やぁあ、もっとぉ」
頭が可笑しくなりそうな幸福感に、彼女の浅ましい本性が顔を出す。普段の真面目で、しっかり者の姉の姿はなく、愛しい男に身を任せ、甘い声を出す女の姿があった。
彼女には疲労無効のスキルがあるはずだが、絶頂を迎えた体は重く、身体の芯に鉛でも詰められているかのように感じられる。しかし、浅ましい本性が更なる快楽を求めて、腰を揺すらせた。
そのまま男はそんなユリを潰すようにベッドへ押さえつけると、開かせた股に再度腰を送り込む。
「ァ、ンッ……」
ユリの中は体温を感じられないが、ドロドロに濡れそぼっており、抽送に抵抗はない。──いや、ユリの膣はキュウキュウと主の帰還を歓迎するかのように抱き締めて離さない。彼女の一面か、出ていこうとする剛直を惜しみ、逃すまいとネットリと絡みつく。
舐るような絡みつきは確かに男に快楽を伝える──しかし、最も快楽を享受していたのはユリの方で、膣を抉られては剛直のカリ高に容赦無く抉られ、そのあまりの快感に腰が痙攣するように震え、細い腰が、背が折れそうなほどに反っていた。
「ハァ……はァ……あぁっ、おかたさまぁ……おしたいして、おりますぅ」
男の腕力によってM字に開かれていた長い脚は、何時の間にやら蟷螂の前脚のように男の腰を挟みこんでいた。男を覗くユリの目は蕩け、愛情と色欲に濁り、腕を大きく広げ唇を突きだすようにして接吻をせがんでいる。
そのまま求められるまま、彼女に密着するように口づければ、そこは底なし沼のように貪欲で、その愛情の深さに抜け出す事など出来そうになくなる。
「すき、すきぃ……」
「ンッ、ンッ……ボクだけをみて……」
ユリには最早、他のことなど頭になかった。あるのは主と自分がまぐわっている現状のみ。
グリグリと腰を押し付けてユリの豆粒を押し潰し、奥を撫でるように掻き回せば、彼女は焦点の合わない瞳を揺らして快楽を味わい、塞がれた口からは切なげな喘ぎが漏れる。
一瞬の隙をつき、密着状態から脱する。男がユリをみれば、彼女は恨みがましいような、不満気な表情をしていた。
その表情を深い一撃でメスの顔へと戻す。ユリの腕を手綱のように掴んで支えにすれば、彼女の大きな胸が更に強調され、一突きする毎にその豊かな膨らみが大きく揺れ、頭頂部がきれいに楕円を描いた。
「ッ、はっ、はっ、やだ、やだぁ、まだイキたくないのに゛っ」
「前に教えたよな。イクときはちゃんと報告しろ」
「う、うぅぅぅっ……また……イギますっ」
「よし。ほらイケ。イケよ。無様にイクところ見せてみろ」
歓喜を滲ませて鳴く、ユリの余裕のない矯声が男の脳を震わせる。切なげに男を呼ぶ声と艶めかしい吐息が精神を昂ぶらせ、女の甘い香りが思考を鈍化させるとともに攻撃的な獣性を呼び覚ます。組みしだき、触れ合う柔らかな女の唇と肌の感触が支配欲を高めてゆく。
それを何度も繰り返していると、ユリの身体が細かく震えて落ち着かないように悶え始め──膣奥のスペースがポッカリと広くなり、膣口あたりの締め付けがキツくなる。子宮が下りて来ようとしているせいなのか。
「あっあっ、やだやだっ、ぶざまにアクメきめるとこみられちゃうぅっ」
「ちゃんと見てるぞ。俺にアクメ顔見せてみろ」
「おかたさまも、いっしょ、いっしょにぃ」
「あぁっ、俺もイクぞ!」
「うれしぃっ、イグイグイグイグ、またイグゥぅぅうぅ!」
絶叫。息を止め、喉を反らせて身体を硬直させる。硬直の最中に起こるビクビクという痙攣がその絶頂の深さを物語っていた。刺激が強過ぎたのか、腰をヘコヘコと痙攣させる彼女の表情は完全に蕩けており、普段の彼女からは想像出来ないであろう淫らな顔をしていた。
「ぁ、っ…………ぁ、っ…………」
ハクハクと喘ぎ、凄まじい圧力で男のイチモツを絞り上げる。貪欲に性液を寄越せとギュウギュウと蠢動する。
「ぐぅっ」
奥に、奥にと男根が吸い込まれてゆく。腰が密着し、それでも彼女の一番奥へ奥へと誘われ、そこで果てることを求められていた。
男の射精感が迫り上がり、とうとう吐精を迎える──男はユリの腰を掴み、その中へとドクドクと白濁液を流し込んだ。締め付ける膣。下腹部にあたる臀部の感触。眼下で快楽に悶る美女の姿。腹部に力を込めるとイチモツが更に膨張した。魂の抜けるが如き快楽が全身を走り、男の視界が白くスパークした。
吐き出された白濁液はユリの体温よりも熱く、ユリからしてみれば胎の中に熱源が出来たように感じられたことだろう。
「〜〜〜〜っ!」
それは心地よい熱だ。愛する人の吐き出した、謂わば主の一部だったものが自身の深い場所にある。幸福感を伴う絶頂の余韻の中、その温かさにユリは両手で下腹部を慈しむように撫で、ニヘラとだらし無く笑ったのだった。
「ユリちゃんばっかズルい」
男の背後から蠱惑的な声が聞こえた。そのまま後ろに引き倒されると、ユリの膣からズルリ、と一物が引き抜かれた。
「ぁ、ん……」
吐息のような微かな悲鳴。それと同時にユリの股座から白濁液が零れた。
見上げるように、自身を引き倒した存在を男が見れば、そこには獲物を見定めた猫化の獣のように、クレマンティーヌが赤い目を眇めて此方を覗き込んでいた。
「私の番だよ」
□
狂乱は終わらない──
この淫らな宴が終わるには彼女達が満足しなければならないのだから。
「ねぇ、きもちいぃ? イク? イキたい?」
押し倒した男に背を向けて跨り、ヤンキー座りの体勢で腰を上下させながら、彼女は流し目で問いかける。男の位置からは、クレマンティーヌの菊穴や白い尻が自身の陰茎をズブズブと呑み込んでは引き抜いていく動作がよく見えた。
背面騎乗位という女性優位な体勢にクレマンティーヌは気を良くしているのか、はたまた先程好き勝手に弄ばれた仕返しを狙っているのか、ベッドを軋ませて激しく男を攻めたてる。
「ぐぅ……!」
「ほらほら、せーし、だしてっ、だせっ、んっ」
クレマンティーヌが身体を前傾に、屹立する精強な男根の全てを容易く呑み込むと、肛門を締めるようにして膣圧をかけながら扱く。
タンッタンッ、とリズムよく反復される。男がその心地よさに呻いた。
クレマンティーヌも身に走る甘い刺激に息を荒くするが、先程とは異なり自身のペースであることや、腹に力を込めていること、膣奥の弱い部分を叩かないように加減していたことで耐えられていた。
「イけっ、ザコマンコにまけて、びゅーびゅーしろっ」
「ぐ、おまえっ」
腰の上下運動が荒々しく、段々と早くなってゆく。男も主導権を取り返すべく、腰を下から打ちつけようとしたが──
「しつれい、します」
「っ!」
絶頂の余韻に、暫し呆けていたユリが復活を遂げ、男の頭を持ち上げ、そこに自身の膝を滑り込ませた。
「ふふ、御方さま。だめですよ、ボクたちにごほうしさせてくださいね」
膝枕状態となった男からは、そう話す彼女の顔はよく見えなかった。見えたのはユリの大きく、柔らかそうな胸だけ。頭頂部がツンと張っていて、男はそれを摘みたい衝動に駆られた。
「うぅぅ〜、はやくっ、はやく、イケっ」
男に跨がっているクレマンティーヌも男が腰を浮かせることが出来ないよう、膝に手をついて体重をかけ抑えてはいるが、切羽詰まってきているのかあまり余裕の無さそうな声音だ。
「では、ボクもごほうしいたしますね」
男の眼前に大きな膨らみが迫ってゆき、ニュウッと圧迫する。ユリの前腕によって挟まれた巨乳が顔を上へ下へ、左右に撫でてゆく。その最中にグリグリと男の顔面を刺激するやや固いものがあり、それが口元に触れた際、男が喰らいついた。
「ひゃあんっ、そんな赤ちゃんみたいにっ」
と、悲鳴をあげるもユリの声音には歓喜が含まれている。
乳輪ごと大きく吸い付き、舌で突起をつつき、焦らすようにグルグルと舐め回す。と、思えば突起に舌を絡めるように愛撫したり、強く吸ってみたりする。
「あっ……あっ……お、御方さまぁ……ボク、またほしくなってしまいます……」
緩急を織り交ぜた愛撫。焦らしによる期待感、と思えば、急に訪れる期待を満たす快感にユリの表情が再びトロンとしてゆく。ユリの子宮がキュンキュンして、恋慕う主の肉棒を求める欲求が急激に膨れ上がっていった。
「っ、そんなにすっても、おっぱいはでません、からね」
と、同時に自身の乳を夢中で吸っている主を見て、ユリは子どもみたいに甘える姿を可愛いと思い、胸の内もキュンキュンした。
「あぁっ、それズルいっ」
クレマンティーヌが背後で行われている痴態に思わず本音を零す。男の膝から手を離し、ヤンキー座りの体勢から膝を着く形に変える。そのまま自身の胸を揉みしだき、乳首を弄りながらも、ピストンは止めなかった。
「ぁ、っ……これ、きもち、ぃ」
甘い吐息とともに、小さく漏れた言葉。金色の髪が上下運動で弾む度にフワリと広がっては落ちる。男から見えない彼女の表情は、赤い瞳が閉じられており、男から胸を弄られるのを想像しているかのようだった。
「ぅ、うっ」
男の口から呻きが漏れる。男からしたら今の状況はまさに地獄のような天国。いや、やはりただの天国。上は乳攻めで、下は締まりのよい媚肉に包まれ、扱かれる。身体が溶けそうな心地だ。
これはアカン、変な性癖目覚めるっ。でも止められない……とは男の内心の声。あまりの心地よさにうっかり限界を迎えそうになるも、腹部に力を込めてなんとか耐える。
「ひ、んっ」
グッ、と血流が集まったのか男根が通常状態よりも膨張し、クレマンティーヌの膣を押し広げた。内部から圧迫される心地よさに声が漏れる。
そして、男根を膨らませた男の反応に、彼女は男の限界が近いことを悟った。クレマンティーヌの表情が歪む。
「ぷぷ、イキそうなのかなー……? いつでもいいよー……?」
「ほぉら」
「びゅーっ、びゅーって」
「がんばれっ、がんばれっ」
語尾にハートが付きそうな甘い声音だった。
クレマンティーヌが腰を落として男の下腹部と臀部を密着させる。と、膣圧を高めて陰茎の全体を強く、一定のリズムを保って丁寧に扱く。
「ふ、ぐぅっ」
顔面に感じる優しく、柔らかな乳の感触。下腹部から齎される男の欲を満たす快楽に抗うことが出来ず──男はとうとう腰を浮かせて射精した。情けなくもオギャってしまった。
「んっ……かーわいぃんだ。よくがんばりました」
男の腰が浮いた瞬間を見計らってクレマンティーヌは腰を深くまで落として動きを止め、自身の最も深い場所で精を受け止める。
「ん……あったかい……」
ドクドクと、胎の中に流し込まれる性液の温度を感じた。赤い瞳に映るのは愛おしい人。守りたい人。ずっと側にいたい人。自身の運命を変えてくれた人。
静かで、優しく、愛おしげに。慈愛を込めて。しかし、流し目で男を伺うクレマンティーヌの赤い瞳には狂おしいほどの情欲もまた渦巻いている。
「っ、もうむりっ、がまんできない、わたしもイキたいっ」
「ま、まて……」
「あっ、ん……御方さまぁ……」
ブルリ、と肩を震わせるとクレマンティーヌは射精した後も陰茎を抜く事なく、腰を動かし始める。
射精後の脱力感に、口に含んでいた乳首を離してクレマンティーヌに静止の声をかける。同時に、ユリが残念そうな声を出した。
「ぁっ……ぁっ……」
始めは男根の亀頭を膣奥にくっつけ、グリグリと円を描くようにグラインド。陰茎で膣を広げるように動き、次いで、カリが最奥、子宮口の出っ張りの気持ちいいところに引っ掛かのを見つけると、今度は小刻みに前後に動くようにシフトする。気持ちいいと思う所をカリ首で引っ掻いた。
「はぁ……はぁ……おく、きもち、ぃ」
ヌチヌチと接合部が白く濁る。段々と胎の奥が重く感じるようになってゆき、気持ちいい痺れが溜まってゆく。静かに、一人で上り詰めてゆく。
「あ、ぇ……?」
──男が突然、身を起こし、クレマンティーヌは後ろから抱き締められた。と、後ろを無理矢理に振り向かされ、そのまま口を吸われる。女の口内に侵入してきた舌と彼女の舌が絡み合い、水気を含む音を立てる。
「動けん。早くイケ」
「ぁ……うん……」
出会ってから、もう幾度も繰り返した口吸い。後ろから伸ばされた大きな手がクレマンティーヌの胸を鷲掴み、やわやわと揉む。
目を閉じたクレマンティーヌが男に背を預け、感覚に集中しながらヌチヌチと、腰を再び動かし始める。クリクリと両の乳首を弄られ、身体に走る甘い刺激に眉根を寄せた。遠慮など知らぬとばかりの口内を蹂躪する舌に、必死に応える。
静かに、確かに、高まってゆく。
「あっ、あっ、イク……イクっ……きもちっ」
「可愛いぞ」
たまに邪険にされようとも、クレマンティーヌには愛されているという確信があった。その言葉に愛しているという隠れた意味があることも。魂と魂が一本の糸で繋がっているかのように、男の考えは何となくわかっていた。
でも、わかっていても本当に欲しい言葉は──
「あいしてるって、いって……?」
快楽に悶えながら、男に請う。キラリ、と左手薬指に嵌められた指輪が光を反射した。その言葉に反応するように、射精により若干硬度を落としていた男根が雄姿を取り戻し、クレマンティーヌの媚肉を槍の如く貫く。
「あぁ、っ……!」
元の張りを取り戻した亀頭がクレマンティーヌの子宮口を刺激し、ビィンと電流が走る。イクか、いかないかの瀬戸際。綱渡りの恐怖のように、身体が絶頂に身構えて固まる。膣が男根をギュウッと抱き締めたまま、フルフルと震えている。
イキたいのに、まだイキたくない。今にもイキそう。でも、踏み止まっている。もう一歩が怖い。少しでも動いてしまったら、なし崩し的に上り詰め、この幸せな時間が終わってしまう確信があった。
でも──
「愛してるぞ」
耳元でクレマンティーヌにだけ聞こえる声量で、欲しかった言葉が──
「っ、っ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
悲鳴のような喘ぎは再び口を塞がれたことで封殺され、胎の奥底に溜まっていた心地よい痺れが暴れ出し、ダムはあっけなく決壊する。
愛する人に抱き締められ、口を吸われ……胸に伸びた男の手と股座を雄々しく貫く男根……彼女が感じたのは強い一体感と幸福感。
クレマンティーヌが感じているように、男も彼女に絆や信頼を感じ、共感していることが分かったから。彼女が欲しい言葉を伝えてくれたから。
笑みを浮かべた。一緒なのだと、分かることがこんなにも嬉しい。同時に目尻から涙が流れた。
「泣きながらイッてんのか?」
それもわかっているくせに。意地の悪い男はクレマンティーヌを抱き締めて笑った。
□
──その後も男女のまぐわいは続く。
負けん気の強いユリがクレマンティーヌに嫉妬し、子どものようにむくれて男を取り返せば、先程のクレマンティーヌのように主へと跨り、彼女へとその痴態を見せつけた。
現にグリーンシークレットハウスの中では、女達の嬌声が止むことはない。
時に、背面騎乗位。ユリもまた寝そべる男に跨り、その上で踊るように悶えた。ユリの菊穴が見え、何も隠す事なく自身を曝け出したその姿に男は興奮した。
ユリが杭打ち機のように屹立する摩羅を呑み込み、激しいピストンを繰り返す。バチバチと肉と肉が打ち合わされる音が響いた。
「あぁんっ、いぃっ、いいですっ、おかたさまっ」
表情を蕩けさせて悶るユリの真っ白な尻を手の平で叩くと、ユリは艷やかな嬌声をあげ、流し目で男を挑発した。
「せーし、またボクのなかにびゅーびゅーして……?」
そこで男の我慢は途切れる。
「ひゃっ、おかたさまっ?」
ムクリと起き上がり、ユリを背後から羽交い締め。そのまま腹の上に戸惑うユリを寝転がせて乗せたまま、手加減なしの突上げの連続を繰り出した。
ユリはその突上げで腹の内側を容赦なく抉られ、それまでにあった余裕など、簡単に消し飛ばす。
「あっ、んおっ、おかたさまっやめっ、これ、きもちっ、んひっ、もぅ、わけわかんなくなるぅっ!」
羽交い締めにされているため逃げ場などなく、ユリはただただ与えられる快楽を呑み込んでゆくしかない。
先程までとは異なる角度で挿入された陰茎は彼女に新鮮で苛烈な刺激を与えた。男はガシガシと腰をぶつけ、ユリは快楽に翻弄されながらも、喘ぎ声をあげる。
その強引なピストンに彼女のMっ気が刺激され、表情が男への媚びで歪む。思考が気持ちいい、セックスすごい、チンコでイカされるでいっぱいになった。
「おかたさまっ、だめっ、だめっ、もうゆるしてっ」
「キスしたいのっ、おかたさまぁっ」
快楽を存分に享受しつつ、甘く鳴き、口先だけの許しを請う。そして、最後には子宮に男根の亀頭をめり込ませながら、放精され──
「ひっ、イクッ、もぅらめ、イッ、グッ────」
ユリの意識は漂白され、遥かなる高みへと至る。胎の底で堰き止められていたダムが決壊し、快楽の重い津波が全身の、指先に至るまで押し寄せる。ユリは鳴き叫び、壮絶なイキ顔を晒して、ふっ、と意識を飛ばした。
あるいは、対面立位──所謂、駅弁。クレマンティーヌがその身を抱えられ、性玩具のように扱われる。クレマンティーヌの膝を抱え、配慮などせず一気にスパートをかけると、男の剛直が彼女の深い場所を滅多打ちにした。
重い一撃の連続が彼女の身体に責め苦を与え、精神の余裕をガリガリと削り取ってゆく。
「おっ、んおぉぉ らメェっ、らめぇ! つ、よすぎる、ってっ、んァ、ア゛、ァ、ア、また、イ゛ッちゃ……」
耐え難い暴力的な快楽の波濤。激しいピストンによる強過ぎる衝撃に尻が宙に跳ね上がり、今度は振り子のように元に戻ろうとする。
「ひいぃぃぃぃ、っ、ぁっ、あっ、っもういった、もういったからぁっ」
「まって、まって──」
ガクガクと腰を震わせ、訴えるも男のピストンは止まることはない。
勢いよく挿入された剛直が奥を打ちつけ、その反動で腰が浮き、剛直が膣から抜け出てゆく。そして、浮き上がった腰は元の位置に戻ろうとし、再び剛直を奥まで咥えこむ。クレマンティーヌは泣き笑いで矯声をあげるしかなかった。
「ねぇもうつらいのっ、きいてるっ? わたし、しぬっ、しんじゃ……」
「あぁっ、もうやぁっ、また、いっ」
クレマンティーヌがオーガズムに身を震わせ、顔色を赤く染めた。それを目の前で目撃した男の目が愉しそうに歪んでいた。
「もぅ……や……しっ……」
意識が朦朧として、人形のように力の入らなくなったクレマンティーヌをベッドへと押し倒し、柔らかなマットレスと厚い胸板でサンドした。そのまま泣き言ばかりの口を塞ぎ、ネッチネッチと餅を搗くように体重をかけて腰を送り、子宮を捏ねる。
「〜〜っ、ひっ〜、んっ、ぁ────」
仰向けになった無抵抗なカエルのように、クレマンティーヌは股を開き、両の手を頭上で拘束される格好で男の劣情を受け止める。塞がれた口から甘い吐息と、小さな喘ぎが漏れ出た。
「ひぐっ」
やがて、男がクライマックスを迎えるとともに、小さく悲鳴をあげて彼女も果てる。息荒く、肩で呼吸する彼女の表情は苦悶で歪みながらも、満足気であった。
──男女ともに思考を止め、ただ快楽をもとめるだけの獣となった。心を通わせた女達の痴態に満足した男はベッドへと大の字になる。
しかしながら……
「おかたさま……どうか、もういちど、おなさけを……もっと、もっとごほうし、いたします」
大の字となった男へとユリが擦り寄り、再び跨がった。
問題があるとすれば、彼女らが二人であるのに対して男は一人であったこと。ある程度体力が回復すると、ゾンビや亡者のように復活する彼女らの性欲はまさに無尽蔵。
何度、絶頂に達し、気を飛ばそうと、終わりは見えてこない。
「あいしてます……たくさん、きもちよくなってくださいね」
「おかたさま……あいしてるって、いってくださいますか……?」
「あ、あいしてる……」
「うれしぃ」
ユリがほっそりとした手足を蜘蛛のように這わせて男へと覆い被さる。スパイダー騎乗位──無抵抗な獲物を捕食するように覆い被さり、腰を艶かしく上下させた。ユリは男にそのままに、キスを強請り、舌を絡ませあう。
興奮した彼女には、愛する人しか目に写っていなかった。
男が昇天し、それでも愛と快楽を求めて積極的に身体を揺するユリを目にして、男が、自身が犯されている側なのではないかと錯覚するほどに。
「ねぇ、もっとできるよね……?」
「まて……少し休憩を……」
彼女たちの愛を求める衝動は止むことがない。しかし、男の精力は有限。蕩けた顔で妖艶に笑うクレマンティーヌは、自身がこれまでされた事を仕返すつもりなのかもしれなかった。
「くふふ……テントのしみでもかぞえてて」
「……ボク、まけませんから。おかたさまの、いちばんに……」
そして、ユリの方には未だに勝負という建前や正妃戦争のことが頭にあるのか、勝敗に拘ったまま。加えて、専属のメイドとしてのプライドか、彼女に引くという選択肢を与えなかったようだ。
「あっ、あっ、ぅんっ、おくにひびくっ、きもちいぃよ」
「あんっ、ボク、またイキますっ、おかたさまっ、せーえき、たくさん、たくさんだしてくださいねっ」
男は段々と窮地に追い込まれてゆき……とうとう、二人掛かりで攻められる状況に陥った。
「おかたさま、どちらの方が気持ちいいですか……?」
「わたしに、きまってんじゃん。こんなに、からだの相性いいんだからさ。わたしのほうがイカせた数おおいし」
「……もう……おわりに……」
「……なにを勝った気になっているのか……しょうはいは、まだついてません。まだこれからです」
「えぇ……?」
「ぷぷ……バカだよねぇ、いちばん、だいじにされてんのは、このクレマンティーヌ様だってわかりきってんのに」
「はぁ? バカはあなたの方です。おかたさまがいちばん気に掛けてくださっているのは、ボクです!」
男は天国のような地獄を見た。今度は天国ではない。無理矢理、勃たせられ精液を搾り取られるのは拷問に等しく、彼女らも互いに張り合っているようだった。
「おまえら……もう、やめ……」
狂乱は続く──猛烈な眠気に襲われ意識が遠退いてゆく間際、男は思った。
やっぱり旅は一人でした方が気楽でいいかもしれない……と。
□
ふわふわとした、現実味のなさに疑問を持つことも無い。ただ、脳裏が過去に見た映像を記憶しており、脳内で再現しただけのもの。
『 』
長い金色の髪を持つ女がこちらに向かって何かを言っている。
その女は髪で顔の半分を隠していた。
「お前は──」
怒り、哀しみ、そして寂しさがない混ぜになった眼で男を見ていた。
そんな彼女に、男は──
っ!
突如として、意識が一瞬にして覚醒──鋭い殺気を感じて反射的にハッと目を覚ました。
開く眼。視線の先には真上から振り下ろされる得物の刃先?
瞬間的な思考。とにかく回避し、距離をとらなければ──
「!」
だが、腰の上に刃物を振り下ろしている何者かが馬乗りになっており回避行動が上手く取れなかった。間一髪。咄嗟に傾げた顔のすぐ横にバチバチと雷光を発する鎧貫きが突き立てられた。
「やっぱさぁ……そんな気はしてたんだよねー。寝言で、私の知らない女の名前呼んでたよ」
一糸纏わぬクレマンティーヌが冷たい目で男を見下ろして笑っていた。
「私も知らない名前でした。御方様……レイ何某とは、どなたでしょうか」
どこかハイライトの消えた病んだ目でこちらを見るのはユリ。
「ねぇ」
「御方様」
その綺麗だが温度の感じられない笑顔には、然しもの男も『あ、これヤバイやつ……』と震えた。
闇霊のように赤黒いオーラを立ち昇らせ、ダークリングを宿した赤い瞳が男を写している。温度の感じられない灰色の眼が、不貞を責めている。
果たして、流れた冷や汗はその怒気に当てられたものなのか、寝起きに刃を突き立てられたからなのか、はたまた他にも激怒されるような秘密に心当たりがあったせいなのか、どれだったのか。
「いっぺん死んでみる?」
そんな言葉とともに向けられた笑顔を見て、男は……不都合な過去を有耶無耶にするために、どうしたら言い逃れが出来るか、頭を必死に働かせるのだった。
──なお、昼過ぎに再びエ・ランテルに向けて出発した頃には二人は心なしか肌艶もよく、機嫌も良くなっていたのに対し、男は明らかにやつれ、足取りも重かったという。
男の心はもう決まっていた。
やっぱり、二人には次の旅の目的地は知らせないでおこう、と……
□
「アインズ様。御方様に同行しているユリより、至急の報告が届いています」
ナザリック地下大墳墓。その主の一人であるモモンガ改めアインズの元にとある報告書が届けられていた。
そこには簡潔にではあるが、至高の41人の一人である男の事が書かれている。その内容とは、彼の保有するワールドアイテムの真の力と、この世界における不死人の種族スキルの一端、またそれにより彼が経験した出来事について。
信じ難いことに、アインズの友人は過去もしくは隣り合う世界へと跳び、それなりの月日を過ごしたらしい。そして、それはどうやら現在のナザリック地下大墳墓の周辺ではなく、未だ調査の及んでいない大陸中央に近い地域での出来事と記されている。
「……ふむ。ワールドアイテムによる、過去への旅、隣り合う世界への移動か」
「はい。他にも以前から報告に上がっていた竜王と呼ばれる存在と交戦したと。幸いにもその竜王は御方様が単独で撃破できる存在だったようですが……」
竜王──報告に上がってくる名では幾つかの存在が示唆されていることをアインズは知っていた。そして、そのどれもが一筋縄ではいかない者達であると警戒していた。
「……いや、竜王とやらをその程度と侮るのは危険だ。その竜王とやらはどんな存在だったと聞いている?」
「報告にあるのは、ゾンビ等を無数に従えるアンデッド属性の竜王だったらしいとしか……」
「アンデッド属性か。ならば今回は彼の敵ではなかった、と見た方がよい」
アンデッド属性、と聞いた途端にアインズの警戒は幾分か緩んだ。アルベドはその変化に少し戸惑う。
「……それはどういうことでしょうか?」
「彼はアンデッドに効果的な火属性を得手としているし、大軍向けの切り札も幾つか持っているからな。なにより、彼に相対するにはまず火に対する絶対耐性が必須……火属性脆弱のアンデッドではそもそも相手にならないだろう」
朗々と友人の強みを語る。アインズの中では、彼はナザリック地下大墳墓でも有数のアンデッド大特攻を保持している人物という評価であったから。
「そ、そうなのですか……それは……アッ、アインズ様を含めて、ということなのでしょうか……? っ、も、申し訳ありません!」
「ははは、構わん。私は火属性に対する絶対耐性を付与するアイテムを装備しているから問題はない。……と言いたいところだが、彼の火は絶対耐性すら抜いてくるからな。……だがまぁ、それ自体特殊な方法によるもので、プレイヤーであれば対策のしようがない訳でもない。もしも彼とPVPをしたとしても後れを取ることはそうそうないだろうさ」
火属性脆弱のアンデッドではそもそも相手にならない、という言葉に動揺したが、アインズの彼にも遅れを取ることはないという自信に、アルベドはホッと安堵の息をついた。
「しかし、そうか。懐かしいな……」
「懐かしい、ですか?」
「あぁ……かつて、このナザリック地下大墳墓に大量のプレイヤーが押し寄せた時も彼が地上部で待ち構えて、奴らを押し留めたことがあった」
「まぁっ、そうなのですか」
初耳であった。かつて傭兵NPCも含め、計1500ものプレイヤーがナザリックに押し寄せた時の話。その話はナザリックでは非常に屈辱的な出来事としてアルベド達、ナザリックの下僕達には認識されていたが、まさか、そのような活躍があったとは知らなかった。
「その時に使用した切り札が広まり、有名になってしまってな。あまりに仰々しい技名を見知らぬ誰ぞに命名されて本人は身悶えしていたが……」
懐かしむように昔を思う。ウルベルトが当時、非常に羨ましがっていた光景を。やまいこが彼をからかい、ブループラネットが身悶えする彼を宥めた、ナザリックの過去の日常の一片を。
アインズが過去を懐かしむ様子を目にしたアルベドは嫉妬した。
「アインズ様──」
「む……すまない。そうだな──彼が編み出した技を説明するのなら……」
過去の場面を思い浮かべるように語りだす。
「まずは敵味方問わず、身に纏う炎熱で効果範囲内の尽くを焼却することから始まる。先にも言ったが、彼の火は絶対耐性すら抜いてくる強力なスリップダメージ……状態異常攻撃でな。対策していなければ、それだけで非常に苦しい戦いを強いられることになる」
「そして、焼却することで残った骸に仮初めの命……彼曰く人間性の闇を与えることで強制的に操り、自らの駒として自陣に引き込んだところから本格的な攻撃が始まる」
「強制的に……状態異常攻撃はまだ序の口ということですか……」
アインズの語りにアルベドは唾を飲み込む。自身ならどのように状態異常攻撃を攻略するか考えてみたが、アルベド自身が持っている至高の存在の戦闘情報は皆無に等しい。優秀な頭脳を以てしても直ぐには対策は浮かばなかった。しかも、本命の攻撃はまた別にあると。
「そうだ。これはまだ始まりの段階。彼の術中に嵌った者は悲惨の言葉に尽きるぞ。何故なら、彼らには死者にあるべき安寧もなく、彼が目的を全うするまで『冒涜』を受け続けることになるのだからな」
「冒涜、ですか……?」
死の支配者たるアインズが冒涜と言うくらいだ。本来であれば、倫理にもとり、非難されるべき行為すら戦術に組み込まれているということだろう。
「あぁ。あまり人の情報を勝手に話すのは良くないのだが……皆も知っていた切り札だ。アルベド、統括守護者であるお前になら教えたとしても問題はないだろう」
「っ、貴重な知識に触れられる事に感謝いたします」
「うむ──彼の種族である不死人には特殊な魔法があってな。『死者の活性』と呼ばれるそれは、死者の骸を闇属性の爆弾へと変化させる効果があるのだ」
「っ、それはっ」
今度こそ息を呑んだ。敵味方問わず自らの駒として手中に収め、それらを爆弾として運用ができる。その厄介さは、実際に対峙していなくとも想像に容易い。
「……お前ならば、もうわかるだろう。この技は骸達に死者の活性を掛けることで完了する。彼の魔法により、大量の自走可能な爆弾がお手軽に出来上がるという訳だ」
「そして、なお恐ろしいことに、死者の活性は骸が存在する限り、何度でも行使が可能。大量のアンデッドモンスターが湧くナザリック地下大墳墓では、正に反則級の魔法と言っていい」
「……効率的。しかしアライメントが善に傾く者には忌避感があると思われます。言葉は悪いですが、それは……」
「あぁ、死者への冒涜を恐れぬ外道戦術と言ってもいい。……骸の大群が彼の一命で特攻を繰り返す。故に、リアルでの有名な古典をもじって、こう名付けられたのだ──"火禍十万億死大葬陣*1"と」
□
──帝都アーウィンタール 帝国城
窓から城下を望む、黒の騎士甲冑を身に着けた金髪の美女。その顔は半分が隠されている。フワリ、と窓からそよぐ風が彼女の隠された顔を顕にした。
「……」
そこには異臭を放つ膿が湧き出す、腐りかけた不浄──などなく、痣のように赤みを帯び炎症を起こしたように見える肌があった。
彼女の眼差しは遥か地平線へと向く。
その内心を推し量るものは未だいない。
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