雪ノ下さん家の雪乃さん(短編集) (夢兎*)
しおりを挟む

雪ノ下さんの誰にも言えない秘密。

修学旅行後のお話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。



 

 ――痛い。

 

 背中を丸めて歩いてくる彼の姿を見て、私は一体、どんな顔をしているのだろう。

 

 苦しい。なにか、刃のようなもので刺された気分だった。八つ裂きというよりかは一刺しで力の限り貫かれた心持ち。どうしてかなんて、そんなもの考えるまでもないのに、けれど、受け入れきれない。

 

 どうして。私はこんなに辛いのに、彼はいつも通り、一仕事終えたような気軽さで歩み寄ってくる。それを待つ前に、言葉は飛び出していた。

 

「……あなたのやり方、嫌いだわ」

 

 ――痛い。

 

 そうじゃない。そんなことが言いたいわけではないのに。

 

 嘘ではないけれど、今私が言いたいことは――訊きたいことがあるはずなのに。どうして。

 

「うまく説明ができなくて、もどかしいのだけれど……」

 

 ――痛い。

 

 胸に手を添えても、その痛みは(やわ)らがない。ずくずくと、むしろ増すばかりで。やり場のない怒りが、行く宛のない悲しみが、抑えきれない。

 

「あなたのそのやり方――とても嫌い」

 

 ――痛い。

 

 なにか言って欲しい。説明して欲しい。こうするしかなかった理由を、私が納得出来るように。

 

 それが、言えない。口を開いても、言葉が喉を通らない。

 

 だから、そんな私の想いに彼が気づくはずもなく、ただ、ひりつく静寂が空間を支配していた。

 

「……先に戻るわ」

 

 ――痛い。

 

 居心地の悪い空間から逃げ出すように歩き出した。

 

 いたくなかった。信じたくなかった。すべて嘘だったのだとそう思いたかった。

 

 ――痛い。痛い……痛いっ。

 

「いた、い……っ」

 

 胸の痛みが、どうしようもない現実を叩きつけてくる。お前はなにも知らなかったのだと(なじ)ってくる。理解出来てなどいなかったのだと罵ってくる。

 

 誰にも理解されないのだと、独り善がりだったのだと――

 

「ちがう……」

 

 ただの記号は声にしたところで意味を成さなかった。自分の言葉すら、自分を守ってはくれない。覆せない事実がそこにはある。

 

 つぅっと流れるように雫が宙に散っていった。

 

 そうして、いつの間にか走っていたことに気づいて、歩調を緩める。重くなった足は動かすのが億劫で、ふと立ち止まって涙を拭った。

 

「……たすけて」

 

 救いを求めて見上げた空に浮かぶ月が、とても綺麗だった。

 

        × × × ×

 

 ――私には誰にも言えない秘密がいくつかある。

 

 その中でも大きなものが三つ。

 

 一つ目は、ディスティニーランドのキャラクターであるパンさんが幼い頃から好きなこと。ぬいぐるみを抱き締めると、少し心が落ち着いた。

 

 二つ目は、猫が好きなこと。飼ってみたいのだけれど……それは住居の都合で叶わない。今度は心が沈んだ。

 

「……ダメね」

 

 修学旅行が終わり、土日を挟んで月曜の朝。落ち込んだ気持ちを立て直すために好きなもののことを考えてみたけれど、いまいちうまくいかないわね……。

 

 そもそも、最後にくるのがあのことな時点で、手法が間違っていたのかもしれない。考えたくないことを考えなければいけないのだから、事前準備をして挑むのは悪くない選択な気もするけれど、これでは準備体操をしている途中にいきなり試合が始まったようなものじゃない。

 

 とりあえず支度をしながら、別の方法を考えよう。

 

 支度を終え、マンションから外に出ると、ひゅうと冷たい風が吹いた。ぼんやりとしていた視界が、冷や水を浴びたようにすっきりする。

 

 ひらりと枝から落ちた枯葉が、ひたすらに印象的だった。

 

        × × × ×

 

 考え事をしていると、時間の経過は早くて、いつの間にか放課後がやって来た。結局、なにも考えつかないまま部室へと足を向かわせる。

 

 重い。動かす足が、鉛をつけられたように重い。つい先日までは急いで向かってしまうくらいには楽しみだったのに。

 

 ――楽しみ、ね。そう、楽しみだった。楽しかった。あの空間が、心地よかった。いつから、誰かといることが当たり前になっていたのかしら……誰もいないことが、当たり前だったのに。

 

 ――戻るだけじゃない。

 

 集団とも呼べないなにかが、もともとあるべき姿に戻るだけ。そう考えて尚、重い足取りは変わらない。

 

 違うのだと分かっていた。違う、そうじゃない、元に戻ってるわけじゃない。一度変わったものが巻き戻すように元に戻るなんて、そんなことはあり得ない。だって、温め直した紅茶はまずいもの。

 

 それをすでに昼休み、味わっている。

 

 ――ごめんなさい。

 

 口の中でつぶやきながら、それがなにに対しての謝罪なのか分からなかった。中身のない謝罪。それは私が悪いことをしたと思っていないということに他ならない。

 

 あの場で彼を責めたことを、悪いとは思えない。だって、仕方ないじゃない。理解出来なかったのだから、辛かったのだから。ふっと、嘲るような息を吐いた。

 

 ……まるで、幼子の癇癪ね。原因は彼にあるけれど、それを加速させたのは私。それなら、考えるべきは、どちらが悪いとか、誰が悪いとかじゃなくて――

 

 不意に、階段を上る音が耳に届いた。どちらだろう。考えるまでもない。由比ヶ浜さんは基本的にはいつも遅れて来るのだから、そこにいるのは彼しかいない。

 

 答え合わせをするように振り向くと、やっぱりそこには彼がいて、彼もまた、私を見ていた。

 

「……来たのね」

 

 突き放すような物言いになってしまった。そのことに罪悪感を覚えていない自分が、酷く気色悪い。

 

「……ああ」

 

 短く答えた彼は、立ち止まった私を迂回するようなルートで歩き出す。

 

 どうすればいいのだろう。ただ、それを目で追うことしか出来ない。

 

 ――違う。理解している。どうすればいいのかなんて、もうとっくに答えは出ているじゃない。だから、あとはそれを口に出すだけ。なのに、動かない。

 

「……なぁ」

 

 同じ段に立った彼が口を開く。横目で見やると、彼はなにか言いたげに口を開いて、それからふっと視線落としたのち、声を出す。

 

「お前が先に行かないと、入れねーんだけど」

 

 期待していた言葉とは違った。

 

 ――期待、なんてどの口が。もう、一度裏切られているじゃない。あんなことがあったのに、それでもまだ彼に縋って、彼からの言葉を待っている自分に反吐が出る。

 

 言ってもらえる資格もない。言わせる権利もない。私が、突き放したのだから。言い訳する余地を与えず、逃げたのだから。冷静に考えれば、どれだけ私自身に非があるのかよく分かる。

 

「そう、ね……」

 

 理解していながら、それを無視して歩みを進めた。口を閉ざして、分かってくれるのだと押し付けて、逃げ続ける。そうして、いつになるかも分からない、彼からの言葉を待ち続ける。そのとき、しっかりと受け入れられるかも分からないのに。

 

 ――痛い。

 

 かさぶたを剥がされたように、痛みが戻って来た。それは弱い自分を否定する槍だ。責任を取るわけでもない、受け入れてあげられるわけでもない、それなのに彼にすべてを任せていいのか。また、あのときの焼き直しになるだけではないのだろうか。

 

 目を逸らした事柄を痛みを伴って伝えてくる。襲いかかってくる。

 

 ――かちゃり、鍵を開けて、扉に手をかける。

 

 入ったら、ここで終わってしまう気がした。本当にいいの? と、そう問われている。ずっと、心の奥で木霊している。

 

 手を離して、ゆっくり空気を吸い込んだ。そして、吐き出す。

 

 ――いいわけ、ないじゃない。

 

「雪ノ下……?」

 

 いつまでも教室へ入らない私を不思議に思ったのか、比企谷くんが私の名を呼ぶ。その声の震えが、恐怖の滲んだ声音が、ますます私の胸を痛めつける。

 

 正しいことをしなければと思った。壊れかけの空間を維持することが今私のすべきことではない。私が本当にしなければいけないのは、本当に簡単で、本当に難しいことだ。

 

「比企谷くん」

 

 振り返って、彼の瞳を見据える。

 

「――少し、話をしましょう」

 

 ひとたび決意してしまえば、思っていたよりもすんなりと声に出せた。

 

        × × × ×

 

 渡り廊下に出ると、吹奏楽部の演奏が聴こえてきた。それは潮の匂いとともに風に流されていく。校舎内に残っている生徒のほとんどは部活に精を出しているのだろう、環境音は途絶えないけれど、まったくと言っていいほどに人気がない。

 

 風で微かに乱れた髪を整えて、目の前に佇む彼に視点を固定する。

 

「……どんよりしているわね」

「は? ……晴れてるじゃねぇか」

 

 空を見上げて言う。

 

「あなたの目の話よ」

「改めて言うことかよ……」

 

 がくっと肩を落としてため息を吐いた。それがなんだか自然で、なにをするでもなく変わらないままだったのではないかと錯覚してしまいそうになる。そんなわけないのに。

 

 前座が終わればまたぎこちない空気が戻ってくる。だから、声を出せた。決意したくせに、少し時間が経っただけでそんなことをわざわざ確認しないと切り出せない自分に呆れそうになる。

 

 でも、今はいい。自己嫌悪は全部終わってからでいい。

 

「いつもより酷いわよ。……私の、せい?」

 

 比企谷くんはとても驚いた顔をして、それから、諦めたような表情を浮かべる。……失望させてしまったかしら。

 

「誰のせいとか、そういうんじゃねーだろ……それでも誰が悪いかを決めるなら、それは俺のせいだ」

 

 いかにも、そんなことを言いそうだ。いつもの自虐。彼はいつも、全部自分でなんとかしようとする節がある。それが好ましく、痛ましい。

 

「俺が勝手にやって、勝手に失敗して。自業自得ってやつだろ」

「失敗したの……?」

「そうじゃねぇのか? だって……」

 

 言いかけて口を閉じる。私が責めたから――と、そう言おうとしたのだろうか。なら、言ってしまえばよかったのに。言われないのは辛い、弁明すら許してもらえないようで、きゅっと喉が締まる。

 

「誰が悪いのかは、どうでもいいわね。いえ、よくはないのだけれど……今話すべきは、なにが悪かったのか」

 

 比企谷くんが私を責めることはない。けれど、私ばっかりずるいじゃない。比企谷くんが自分で片をつけてしまったら、私はなにも言えないもの。

 

 だったら、すり替えればいい。彼が彼自身を責められないように。

 

「どうして、あんなことをしたの?」

「どうしてって……」

「不自然じゃない。奉仕部への依頼に、『告白の成功』は含まれていなかったはずよ。告白が失敗しても、文句を言われることはなかった……なのに、あなたは『告白の失敗』を回避した」

 

 必要のない動きだった。だから分からない。どうしてそんなことをする必要があったのか。

 

「どうして?」

 

 再び問いかけると、比企谷くんはなにか逡巡したのちにゆっくりと口を開く。

 

「あれが、最善だったから――」

「――違うわね」

 

 言い切る前に言葉を遮った。別に彼が最善を求めない性格だと思っているわけではないけれど、それでも正面から否定をぶつけたのは、今までの彼の行動とそれが合致しないから。

 

 今まで、彼はそれ以上のことはしなかった。依頼を超えて何かをすることはなかった。あくまでサポート、もちろんその功績は認めているけれど、今回のは話が違う。

 

 相模さんに罵声を浴びせることで彼女を委員長として舞台に立たせたときは、私の言葉も依頼として取っていたのだろう。サポート自体は完遂していたのだから、彼女を必ずしも舞台に連れてくる必要はなかったのだし。

 

 だとすれば――

 

「……誰かになにか、頼まれた?」

 

 彼は答えない。けれど、その沈黙こそが雄弁に、それが真実であると語っていた。

 

「そうなのね……」

「ちが……っ」

 

 嘘を吐くことを躊躇ったのか、否定の言葉を留める。

 

 なにを頼まれたのだろうか。文化祭の件も含めて、今までの結果を考えれば、答えは自ずと導き出される。

 

 ようは逆算すればいい。告白の失敗を回避することで、告白が失敗したときに起こりうるなにかを潰した。そのなにかは、なんなのか。

 

「海老名さんと、戸部くんは同じグループなのよね……」

 

 同じグループ内に告白した者と振られた者がいる。それはきっと、居心地が悪い。

 

「そう……そういうこと」

 

 変化を望まない誰かがいたのだろう。その誰かを推測するのは容易いけれど、まあ、そこまでははっきり言って興味がない。知ったところで意味はないのだし。

 

「本当に……誰でも救ってしまうのね」

「別に救っちゃいねぇだろ……」

 

 苦虫を噛み潰したような表情。それがとても痛い。見ていられなくて、目を背けた。

 

「きっと、こういう話を、あのときにするべきだったのよね……」

 

 見上げた空が、高い位置にいながらいつもより遠く見えた。薄暗くなってきた空には淡く月が光っている。

 

 由比ヶ浜さんを待たせてしまっている……この時間になっても探しに来ないということは、多分、なんとなく察してくれているのだろう。

 

 ……本当に、悪い癖だわ。もう一度、話さなきゃいけないじゃない。

 

「やり直しましょう」

「……は?」

 

 間の抜けた声を漏らした彼の顔は沈みゆく夕陽に染まって、濡れた瞳がオレンジの光を灯す。

 

「復習は、ここで終わり。簡単なことじゃない……まちがえていたのだから、やり直せばいいのよ」

 

 自然と笑みが漏れて、それからもう一度、彼に視線を向けた。

 

「――あなたのやり方、嫌いだわ」

「……っ」

「でも、とてもあなたらしいと思う」

 

 そう――これが彼なのよ。そういうやり方しか出来ないのが、比企谷くん。そんなの、とっくに分かっていたはずなのにね。

 

「理解していた気になっていた……いえ、理解してもらえてる気になっていた。私も、あなたも。……違う?」

「そう、かもな……」

 

 それこそが、悪だった。なにが悪かったと問われればそう答える他ない。分かってくれているものだとばかり思っていた。なにも言葉にしていないのに、なにも態度に示していないのに。それでなにかを分かれだなんて、傲慢にもほどがある。

 

「それで……もう、ああいうのは最後にして欲しい」

「……どうして」

「痛かったの……とても」

 

 痛かった。ずっと。ずきずきと痛んで、それが無視出来なくて、こうして今ここにいる。それがなければ――そういう気持ちを抱いていなければ、きっと、あのときもすんなりと受け入れられたんじゃないかと感じる。

 

 だから、どうしようもなくそれはそこにあって、捨てられないし、捨てたくない。気持ちを再確認して、彼の顔を見ると、どきりと胸が弾んだ。

 

「海老名さんに、あなたが……その、告白? したのを見て……」

 

 さっきまで平気で言えていた単語が、なんだかとても恥ずかしいもののような気がしてくる。どきどきする。こんなことまで、言う必要、あるのかしら……。

 

「それは……」

「関係が変わることは恐いわよね……あなたが誰に言われたのか知らないけれど、今ならその気持ち、分かる気がするの」

 

 言わなきゃ伝わらない。態度に示さなきゃ分かってもらえない。いえ、それをして尚、信じてもらえるかどうか、理解してもらえるかどうか、分からない。

 

 けれど、言わなければ離れていくばかりだから。

 

「……どきどきするのよ」

 

 ゆっくり彼に近づいて、そっと頬に手を添える。触れた部分が熱い。動悸が加速する。こんなに近づいたの、初めてで、……頭が真っ白になりそう。

 

「あなたは……どう?」

 

 比企谷くんの顔を見ると心が弾む。比企谷くんと話しているとうきうきする。比企谷くんの側にいると、どきどきする。

 

 由比ヶ浜さんと比企谷くんが仲良さそうにしていると、嬉しくなって、それから、少しだけ胸がちくちくする。寝るときにそのことを思い出して、寝覚めが悪くなる。もやもやして、次の日にいつもより辛く当たってしまう。

 

 胸が焼けるように熱い。肌に当たる風が冷たいのが幸いだった。……手汗とか、かいてないわよね……。

 

「これからはもっと……その、伝えられるように、頑張るわ……だから、その」

 

 口がうまく回らない。顔の火照りが自分でも分かる。彼の赤くなった顔を見て、ちょっとだけ優越感。私しか、こんなに真っ赤に染まった彼の顔を知らないのだと思うと、それはとても特別で素敵なことだと感じる。

 

「あなたも、もう少し、正直になっても、いいと思う……のだけれど」

 

 手を離すと、指先に残った熱がじんわりと宙に溶けて消えていく。

 

 いつか、この熱が消えないくらいずっと側にいられるような関係になれたらと、強く手を握り締めた。

 

「話は終わりよ……戻りましょう。由比ヶ浜さんが待っているわ」

 

 その横を通り過ぎて、ふと思う。

 

 ――もっと、ちゃんと言っておいたほうがいいわね。甘やかすとろくなことがなさそうだし。

 

 くるりと振り返ると、思った以上に近くにいた彼にびくっと震えてしまった。こほんと誤魔化すように咳払いをして、それから微笑む。

 

「――いつか、あなたの答えを聴かせてね」

 

 向き直って、背中にぶつかった小さな了承の声に満足しながら足を踏み出した。

 

 

 ――私には、誰にも言えない秘密がいくつかある。

 

 その中でも大きなものが三つ。

 

 一つ目は、ディスティニーランドのキャラクターであるパンさんが幼い頃から好きなこと。

 

 二つ目は、猫が好きなこと。

 

 そして、三つ目は。

 

 ――好きな人がいること。

 

 近い将来、残りの二つも言えるかしら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

素直になった雪ノ下さんに勝てるやつはそうそういない。

冬休みの数日前のお話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。



 

 いつかくる別れを思うと、今から胸が痛くなる。

 

 それは由比ヶ浜さんに感じるものとは違っていて、でも、なにが違うのか私自身にもわかっていない。由比ヶ浜さんと比企谷くんは違う人間なのだから、私がそれぞれに別の想いを抱くのは当たり前といえばそうなのかもしれないけれど……。

 

 それだけではない気がする。

 

 気がするだけ。確証なんてどこにもない。ただの予感がずっと胸の内に漂っていて、気持ちの晴れない日々が続いている。

 

 なにをどうすればいいのかしら。いくら思索に耽っても答えは出なくて、むしろ考えれば考えるほどに沼に落ちていっているような気分になる。

 

 こんなの、初めてのことだから。

 

 でも、由比ヶ浜さんとの関係だって初めてのはず、なのよね。と、友達、とか……いなかったから。

 

 そういう意味で、やっぱり由比ヶ浜さんと離れるというのも想像するだけで胸の痛くなる出来事ではある。自分が大切に思っている人と離れるのは辛いもの。

 

 でも、比企谷くんは……。

 

 比企谷くんは友達ではないのだし、私が悲しく感じる要素はそこまであるようには思えないのよね。だって、比企谷くんはただの部員で——も、もちろん、他の数度話した程度の相手よりは私にとって重要な存在であるとは思っていないことも、その、ないのだけれど。

 

 だから、その——あぁ、もう。なんで頭の中でまであの腐った目を見なければならないのよ! 本当に腹立たしい男ね……。だ、だいたい、私が比企谷くんをどう思うかなんて私の自由なのだからいちいち過敏になる必要もないじゃない。もっと堂々とすべきよ、雪ノ下雪乃。

 

 比企谷くんは部員。それ以上でも以下でもない。

 

 なのに。

 

 なのにどうして、彼との別れを考えるとこんなに苦しくなるの……?

 

 いずれ、さよならをするときがくる。もしかしたら、またねなのかもしれないけれど、同じ学校でなくなるのなら、またがくる保証はない。

 

 決定的な別れがもうすぐそこまで迫っているから、それまでにせめてこの気持ちの正体に決着をつけてしまいたい。

 

 さよならを、言う前に。

 

「あ……っ」

 

 慌てて頬を拭った。けれど、雫は留まるところをしらなくて、濡れた袖口から伝わる冷たさにぶるりと身体が震えた。

 

「どうして」

 

 ——ねぇ、比企谷くん。

 

 どうしてあなたを想うと涙が出るの?

 

        × × × ×

 

「やー、もうあとちょっとで卒業なんだねー……。なんか実感沸かないや」

「由比ヶ浜さん。あなたはその前に受験の心配をするべきだと思うのだけれど……。この惨状で随分と呑気な言動ね?」

 

 視線を机に落とすと、殺人事件でも起きたのかというほど赤に染まったノートが視界に入ってきて頭が痛くなった。……どうすれば、これだけ間違えられるのかしら。もはや才能よ。由比ヶ浜さん、あなた天才だわ。

 

「い、いやー、ほら! あたし本番に強いタイプだから!」

「総武高を受験するとき、クラスで似たような発言をしていた女子は落ちたわ」

「……うぐっ。が、頑張ります……」

 

 落ちるのが相当嫌なのかしら。嫌なのが当たり前とはいえ、由比ヶ浜さんにはランクの高い大学なのだからそこまで気負うこともない気がするけれど。

 

「まあでも、どうせ滑り止めも受けるのでしょう?」

「……うん、一応ね。正直、受かる気もあんまりしないし」

 

 たははと困ったように笑ったあと、ふっと真剣な表情へ変わる。

 

「でもさ、滑り止めがあるから〜、みたいなのってダメだと思う、から」

「……そうね。ごめんなさい、今のは失言だったわ」

 

 受かりたい理由があるのなら、水を差す発言はすべきでない。由比ヶ浜さんがなぜこの大学に合格したいのかはしらないけれど、友人の努力が実るよう少しでも手伝えたらと思った。

 

 真面目になにかに取り組む由比ヶ浜さんの姿はいつも輝いて見える。そんな彼女が私は少しだけ羨ましくて、それで、とても誇らしい。

 

        × × × ×

 

「終わったぁーっ!」

 

 問題集を一通り解き、答え合わせと間違い直しを済ませた由比ヶ浜さんが咆哮する。まるで鎖から解き放たれた犬のようね……。気持ち距離をとってしまう。

 

「ちょうどいい時間だし、そろそろ部活も終わりにしましょうか」

「そだねっ」

 

 由比ヶ浜さんの返事と同時、ぱたんと本を閉じる音が室内に響く。

 

「おつかれさん」

 

 部室に来てしばらくしてからずっと聞かなかった声。それはどこか気だるげだったけれど、今更マイナスな印象を持つことはなく、ただ日常の中に溶け込むような。どこか安心するものだった。

 

「ええ、あなたも」

 

 ——受験も近いのだし、自由参加で構わないわ。

 

 私がそう言ったのはいつだっただろうか。

 

 なにか、言いたくないことを言ってしまったかのような気持ちになったのをよく覚えている。本当に言いたいことが別にあるかのような抵抗感があったのを、よく、覚えている。

 

 正直、彼はもう来ないのだと思っていた。

 

 受験が終わってしまえば二月の頭からは自由登校になる。そうなると、当然部活は休みになるし、そのまま卒業式まで会わないという可能性が高かっただろう。

 

 けれど、彼は来た。

 

 なぜ来たの? と問うことはしなかった。問う必要もなかっただろうし、そもそもそんな疑問は浮かんでこなかったから。

 

 そのときは、ほっと息を吐き出した自分に気づいて、なぜだかとても恥ずかしい気持ちになった。

 

 疑問ばかり。疑問ばかりが増え続けている。なぜ来たのか、なぜ来続けているのかも今は気になるし、彼と会うと、彼を見ると、彼……比企谷くんと話すと、自分のことがわからなくなる。

 

「ゆきのーん?」

 

 はっとなって顔を上げると、心配そうに私を見る由比ヶ浜さんの瞳と視線がぶつかった。

 

 ——だめね。

 

 ふるふるとゆっくり首を振ってから立ち上がった。

 

 こんなことばかり考えいてはいけない。私は由比ヶ浜さんの友人なのだから——友人なのだから? 由比ヶ浜さんの友人だと、どうしてそんなことを考えてはいけないのかしら……。

 

 動かした足がやけに重い。自然と俯きがちになってしまう。

 

「大丈夫? なんか調子悪そうだけど……」

「……大丈夫よ。帰りましょう」

 

 片付けを済ませて、三人で教室を出た。鍵をかけて向かう先が二つに別れる。

 

「私たちは鍵を返しに行くから」

「ヒッキー、またねーっ」

「おう、じゃあな」

「ええ、また」

 

 私たちは別々の道を歩み始める。数歩進んだところで一瞬、後ろを振り返った。まだ声の届くところに比企谷くんの背中はあったけれど、声は出なかった。

 

 喉元まで来ている。

 

 もう少しで出て来そうなのに鎖で締められたみたいに苦しくて、私はその鎖を切ることも解くこともできずに歩みを再開した。

 

 諦めてしまえば、苦しさは遠退いた。

 

 それで、いいのかしら。楽な道、知っている道を歩いて行くのは簡単だけれど、そのままでいいのかしら。

 

 ずっと、木霊している。

 

 本当に——

 

「——いいの?」

 

 どきりと心臓が跳ねた。

 

「なんの話、かしら……?」

 

 わかっているのかわかっていないのか、自分のことなんて全然わからないままに言葉を返した。んー、と悩むような仕草を見せた後、由比ヶ浜さんはとても優しい声音で言葉を紡ぐ。

 

「ゆきのんがいいならいいんだけど……行かなくて、いいの?」

 

 行くって、どこに行くの? 純粋にそんな感想を抱いた、つもりでいた。

 

「ヒッキーになにか言いたいこと、あるんじゃないの?」

 

 言いたいことがなんなのか私にも分からない、つもりでいた。

 

「あたしのこと、気にしてる?」

 

 言えない理由がある、つもりでいた。

 

 どこにもそんなものはなくて、どこに行くのかも、なにを言うのかも、私は全部わかっていて、ずっと逃げ続けていただけだったことをすべて暴露された気分だった。

 

「あたし、ゆきのんに後悔してほしくないよ……。あたしのことは大丈夫だから。ね? ほら、その、ゆきのんには言ってなかったけど、あたし——」

「——あなたがっ」

 

 なにを言えばいいのだろう。聞きたくなくて遮ってしまったけれど、私はその先に続く言葉を知っている。

 

 私は、知っているから。

 

 由比ヶ浜さんが比企谷くんに好意を寄せていたことも。

 

 途中まで、由比ヶ浜さんの志望校が比企谷くんと同じだったことも。

 

 由比ヶ浜さんが、比企谷くんに振られてしまったことも。

 

 すべて、すべて余すことなく知ってしまっているから、なにも言えなくて。

 

 ただ逃げ道を塞がれてしまったことに恐怖を感じ、沈黙するしかできなくて。

 

 でも、そんな私に由比ヶ浜さんは笑って、

 

「知らないふりばっかりしてると、疲れちゃうよ。ね、ゆきのん。行かなきゃ」

「私……あなたをっ」

「いいよ……いいの。怖いの、わかるから」

 

 ふわり、柔らかい感触が身体を包んだ。すんっと鼻をすすると、由比ヶ浜さんの香りがして、徐々に落ち着いてくる。

 

「友達、なんだから」

 

 身体が離れると、由比ヶ浜さんの表情が瞳に映る。

 

「ごめんなさい……」

 

 言いたいことを、言うべきことを、言わなければならない。比企谷くんにも、由比ヶ浜さんにも。

 

「——それと、ありがとう。行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

 

 背を向けて駆け出した。廊下には私の足音と啜り泣く声だけが響いていた。

 

        × × × ×

 

「比企谷くんっ!」

 

 視界に捉えた彼が私の声に振り向いたのを見て、一度足を止め、息を整えながらゆっくり近づいていく。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 体力が……足りない。

 

 玉の汗が溢れては肌を冷やすけれど、寒さで思考がクリアになるかといえば全然そんなことはなくて、距離が狭まるほどに頭は真っ白になっていった。

 

「雪ノ下……なにかあったのか?」

 

 困惑した表情に自分の優位性を認識して、少しだけ落ち着いた。我ながら、なんて嫌な女だと呆れてしまいそうだ。

 

「なにか、あったかというと、難しい、のだけれど……用が、あるのは、間違いないわ。……ふぅ」

 

 ようやくたどり着いた比企谷くんの目の前で深呼吸を幾度か繰り返して、改めて見据えた顔に思考が弾け飛んだ。……これ、なんとかならないのかしら。

 

 どうにもならないにしても、もう引き返すわけにはいかない。覚悟を決めるようにもう一度、大きく深呼吸をした。

 

「——いつか、あなたと会わなくなる日のことを考えると、胸が痛くなるの」

「……は?」

 

 その反応ももっともだった。私も半ばヤケクソ気味になっている自覚はある。でも、感情ばかりが先行して、ろくに言葉が浮かんでこないんだから仕方ないじゃない。

 

「自由登校期間はもうすぐだし、明けたらそのまま卒業式だし、進学先だって違う……だから私とあなたがこれから見ていく景色は当然のように違ってて、それが嫌で嫌でたまらない……っ」

「お、おい、待て落ち着け雪ノ下——」

「あなたと同じ時間を過ごしたいっ、あなたと同じ景色を見ていたいっ、あなたと同じ道を歩いていきたいっ、あなたと同じ思い出を共有したいっ……!」

 

 気づけば彼の胸元を握っていた。微かに響くリズムの速い鼓動が、ますます私の感情を揺さぶる。彼の顔を見やっても視界が滲んでなにも見えなかった。

 

「あなたを想うと涙が出てくるのよ……苦しくて、つらくて、切なくてっ。どうして同じ学校に行けないのっ? 毎日のように顔を合わせていたのにっ……どうしてっ! どうして……素直に気持ちを伝えられないの……? 行かないでって、あなたと一緒にいたいって……っ! 言うだけなのにっ」

 

 怖かった。

 

「怖かったの……今の関係が心地よくて、いつか来るお別れから目をそらしてばかりいた」

 

 恥ずかしかった。

 

「……恥ずかしかったの。だって、あなたと私はいつも、その、憎まれ口ばかり、だったから。今更……そんなの」

 

 弱かった。

 

「弱かったのね……私が。私が弱いから、たった一歩も踏み出せずに、ずっと一人でごちゃごちゃ悩んでばっかりで、なにも行動できなくてっ、あなたのそばにいたい自分を知らないふりし続けていたから、だからっ」

 

 だから、なにも言えなくて。大好きな友達に背中を押されて初めて前に進めて、ようやくこうして気持ちを伝えることができた。

 

 嗚咽を堪えて震える声を絞り出す。

 

「ねぇ、比企谷くん……っ」

 

 ——どうして、あなたを想うと涙が出るの?

 

「私、あなたのことが——」

「——雪ノ下っ!」

 

 諌めるように名を呼ばれて、口を結んだ。

 

「……ダメだろ、お前、そんなの」

 

 その言葉に背筋が凍る。目を瞑ってしまうくらいに怖くて、ただひたすらに恐ろしかった。けれど、続く言葉は私への否定じゃなくて。

 

「ここまで言わせて、返事だけしろっていうのかよ」

 

 目を見開くと、いつも通り情けない表情を浮かべた比企谷くんがそこにいた。

 

「——雪ノ下雪乃。……その、お前のことが、好きだ。俺と、付き合って欲しい」

 

 かっこつけきれない調子が真摯な気持ちを伝えてくる。

 

 あぁ——ダメ、にやける。

 

「はい……っ」

 

 

                了

 

 

 

   —おまけ—

 

「そういえば俺……お前と同じ大学、行くから」

「えっ!? だって、確かあなた、私立の——」

「変えたんだよ、夏休み前に」

「変えたって、そもそも私はあなたに進学先は……。それに夏休み前って由比ヶ浜さんと同じ……あ、もしかして」

「ま、そういうことだ。だから、その、なに。あと四年間……よろしく」

「……そう。ふふっ、ええ、こちらこそ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雪ノ下さんはいつだって比企谷くんのことで頭がいっぱい。

クリスマスのお話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。



 

「……好きよ、比企谷くん」

 

 目の前の私がぎこちなく笑った。表情筋を使わなさ過ぎて笑顔を作るのが下手になった人、という称号を贈りたいわね……今ならありがたく頂戴するわ。

 

「はぁ……ダメね、全然ダメ。こんなの、比企谷くんの理想には程遠いわ……」

 

 一度姿見から離れて、ベッドに横になった。目を瞑ると、以前手に入れた情報が頭の中をぐるぐると巡る。

 

『お兄ちゃんは、ちょっと照れた感じの笑顔で告白されるのが個人的にツボ、だそうですよ、雪乃さん!』

『どうしてそれを私に言うの……?』

 

 本当にどうして小町さんはこんなことを私に言ったのかしら? おかげで姿見とにらめっこをする毎日なのだけれど……一生恨むわよ。

 

 気を取り直して、もう一度姿見の前に立つ。……普通に笑えばいいだけ……普通に笑えばいいだけ。見た目は悪くないはずなのだから、ちょっと笑えばあんな男イチコロに決まってるのよ。スパッと決めてしまいなさい。

 

「……こほん」

 

 大きな咳払いを一つ。

 

「すっ——んんっ、んっ、ぅん……」

 

 ……今のはあれよ。その、夕ご飯がちょっと喉に詰まっていて、それで、なんというか、少し高い声になってしまっただけみたいな、そういうアレよ、ええ。別に声が裏返ったわけではなくて。本当に。

 

 リテイクリテイク。

 

「す……好きよ、ひきがにゃっ——痛ぅっ。……いひゃい」

 

 もういい! もういいわ! もうたくさんよ! なんで私がこんな目に合わなきゃいけないのよ! もういや! 寝る!

 

「うぅ……ばか」

 

 比企谷くんのばーか! ばーか! ばか! ぼけなす! 八幡!

 

「ふふっ……」

 

 ……悔しい。

 

        × × × ×

 

『やぎ座の方は残念! 最下位です! 今日は一日家でゆっくり過ごしたほうがいいかも? ラッキーアイテムは赤いマフラー! 風邪を引かないよう暖かい格好で乗り切りましょう!』

 

 ぐっと強めにリモコンのボタンを押した。

 

 天気予報のおまけの分際で人の気分を悪くするなんて、どういう了見なのかしら……クレームも視野に入れるレベルだわ。だいたい外に出るなと言っておいてラッキーアイテムが赤のマフラーっておかしくない? 頭の程度がしれるわね。

 

 ……ま、まあ、マフラーの色には悩んでいたし、全体のバランスを考えれば赤いものがベストであることは明白だから、赤いマフラーは巻いていくけれど。

 

「……どう、かしら」

 

 姿見の前で今一度服装を確認してみる。無難なものを選んだつもりだけれど……少し地味? いえ、でも、変に張り切った服装で行くのも恥ずかしいし……一応、赤いマフラーがアクセントになってもいるし。

 

「変、じゃないわよね……?」

 

 というか、小町さんもあんな情報よりもどんな服装が好みかとかどんな髪型が好みかとかそういうことを教えてくれればよかったのに。なんでよりによって人を悩ませるようなことばかり伝えてくるのかしら……もしかして私、小町さんに嫌われているの?

 

 もしもないとは思うけれど……あまりネガティブなことばかり考えていてはダメね。笑わないと。笑顔よ……笑顔。

 

 比企谷くんの前で笑顔になるのって難しいのよね。そもそも、意識して笑うなんて経験もあまりない。いつもなにかに苛立ちを感じてばかりいたから仏頂面が通常運転になってしまっている。これでも、ここ一年は笑うことが多かったおかげでマシになってきたほうだとすら思う。

 

 ……こんなに悩んだところで、私の笑顔なんかで本当に比企谷くんを振り向かせることができるのかどうかも怪しいのよね。私なんて、いつもいつも悪口を言ってばかりだし、由比ヶ浜さんや一色さんのように積極的に距離を狭めることも躊躇ってしまうし。

 

 正直、話すだけでもすごく嬉しいというか、一日幸せで終われるというか。なにかきっかけがあって肌が触れたりした日には嬉しくて死んでしまいそうになるし……別にこのままでもいいのではないかしら。

 

 ぶんぶんと頭を振ってまた思考を埋め尽くしていたネガティブを追い出した。

 

 それじゃダメよね……由比ヶ浜さんにも一色さんにも小町さんにも背中を押されたのだから、ここでもういいなんて言ったら怒られてしまうもの。

 

「頑張らないと……」

 

 軽く頬を叩いてから玄関へ向かった。あのときは頑張れたのだから、もう一度。あと一歩踏み出せば、きっと。

 

「——好きよ。比企谷くん」

 

 玄関を出る直前、行ってきます代わりに放った台詞は淀みなかった。表情は見れなかったけれど、それは本番に取っておくことにしましょう。

 

 

 私は歩き出す。

 私が誘った、比企谷くんとのデートに向かって。

 

        × × × ×

 

 うだうだと悩んでいて出るのが遅れてしまったせいかギリギリに着いた待ち合わせ場所で、比企谷くんはぼんやりと佇んでいた。

 

 待たせたくなくて——一秒でも長く同じ時間を過ごしたくて、早く彼に近づきたくて、今すぐ彼の声が聴きたくて——私は強く地面を蹴る。

 

 足音から本音がただ漏れで、私より素直なスタッカートが辺りに響く。恥ずかしいけれど気持ちが抑えきれなくてたどり着いた彼の前、とんっと止まったはずの靴は冷えた地面で滑って体勢を崩してしまった。

 

「——あっ」

 

 ぽすっ。飛び込んだ腕の中は常日頃感じていたイメージよりも随分とたくましくて、つい堪能してしまいそうになる。

 

「あ、え、あの、その、えっと、その……ご、ごめん、なさい……」

 

 恥ずかしい……っ! でも、にやけてしまう自分が恨めしい!

 

 か、顔を、俯いている間に顔をどうにかしないと……昨日の私はなにを悩んでいたの? こんなことなら悩む必要なんてないじゃない!

 

「雪ノ下……?」

「ちょっと待って」

 

 落ち着け……落ち着くのよ。そう、ゆっくり息を吐いて、吸って、それから口もとをマフラーで隠して、よし。

 

「こんにちは、比企谷くんっ」

「お、おう……」

 

 口もとは隠せても喜色は隠しきれなかった。……い、いいのよ、今日は。そういうつもりで来ているのだし、過剰なくらいでいいのよ。だいたい、私の誘いをOKしてくれただけでも相当嬉しかったのだから、その当日なんて楽しくて仕方ないのが当たり前なわけで、おかしなことなんてなにもないわよね。そうよね。

 

「……その、なんだ、似合ってるな、服。誰が見ても、か、かわいいって言うと思う、ぞ」

 

 ーーーーーーーーーっ!?!!?!?

 

 なんなの!? なんなのこの男!? 今、かわいいって言ったっ? 比企谷くんが、私のこと、かわいいって言ったのっ? なんで——待って、いい響きね! もう一度!

 

 比企谷くんが、私のこと、かわいいって言ったのっ! なんで急にそんなことを言い出すのよ! こっちにだっていろいろ、心の準備とか、録音の準備とかがあるというのに、私の気も知らないで!

 

「も、もう一回……今の、もう一回言ってもらってもいいかしらっ」

「いや、なんでだよ……ほ、ほら、行こうぜ」

 

 そっぽを向いて比企谷くんは歩みを進め始める。私はそれに不満がなかったこともなかったけれど、それでも比企谷くんの隣を自分だけが独占できる事実が、そんなことを一瞬で吹き飛ばしてしまうくらいにすごく——すごく、嬉しくて。

 

 やっぱり頬の緩みをどうにもできないままに隣へと駆け寄った。

 

「ねぇ、比企谷くん。今日の予定は考えてあるのかしらっ?」

 

 少し腰を曲げて、彼の顔を覗き込みながら訊ねると、彼はまた恥ずかしげに顔を逸らしてそれからぼそりと蚊の鳴くような声で答える。

 

「……まあ、一応」

 

 他人にとってみたらなんでもないようなことが、自分には特別に思える。いつか小説で読んだことのあるその表現の意味が、今わかった気がした。

 

「そう。なら、楽しみにしてるわねっ」

 

 今度は返事がくることはなかったけれど、私の心は満たされていたから合格点を上げることにしてあげようかしら。

 

 

 それからのことは、ほんの少しのときさえ忘れないほど鮮明に記憶に残っている。

 

 比企谷くんと一緒に見た映画は、正直無難なものというか、『話題沸騰中!』のような煽り文句のついた流行りものだったけれど、自分のことより私のことを考えてくれたのだろうと思うと自然と楽しもうという気分になれて、内容だってしっかり語れるくらいに見入ってしまった。

 

 お昼に入ったラーメン屋さんは、これは……まあ、私にとって都合のいい解釈かもしれないのだけれど、私に自分の好きなものを知ってほしいという気持ちならと思えば全然苦ではなかった。やっぱり強烈ではあったけど、別にまずいわけではないのだし。とはいえ、この先数ヶ月は遠慮しておきたいところね……。

 

 そのあとは私が行きたいところを訊ねられて二人でショッピングに向かったのだけれど、そこでまた私が試着してみた服を比企谷くんが褒めてくれたりして、調子に乗って選んでもらったりもしちゃって、やっぱりボイスレコーダーを買っておくべきだと思った。……ただ、舞い上がってあれもこれもと買ってしまった結果、荷物が増えてしまったのが反省点ね。またこんな機会があったなら、そのときはもうちょっと後々のことを考えて動くことにしましょう。

 

 私の両手も比企谷くんの両手も、私の買い物でいっぱいだ。流石に心苦しい。

 

「……ごめんなさい」

「別に謝るようなことじゃねぇだろ。気にすんな」

「でも……」

 

 これのせいで帰宅する運びになってしまった。それがなによりもつらくて、自分に呆れてしまう。

 

 なんでもっとよく考えなかったのかしら……いえ、わかってはいるのよ。いつもそんな言葉をかけてくることなんてない比企谷くんに褒められて我慢できるわけなんてないってことくらい。

 

「雪ノ下?」

「え?」

「……着いたけど」

 

 一人落胆しているうちにも足は動いていて、いつのまにかマンションの目の前にたどり着いてしまっていた。

 

 結局、練習していた言葉は言えていない。今言おうにも、全然そんな雰囲気ではなくて、笑える気なんてこれっぽっちもしなくて。別れるのが嫌で泣いてしまいたいくらい。

 

「上まで行ったほうがいいか?」

「あ、いえ……その」

 

 言わないと。

 

 言わないと、いけないのに。

 

 いっぱい練習、したのに。

 

「ひ、比企谷、くん……」

 

 名前を呼んで彼を見つめると、彼は不思議そうにこちらを見返してくる。

 

 今、言わなきゃ。

 

「す——」

「す?」

「少し、寄っていかない……?」

 

 自分の情けなさにため息が出た。

 

        × × × ×

 

「口に合うかわからないけれど……どうぞ」

「お、おう……悪いな」

「いえ、私が招いたのだからこれくらいはね」

 

 私の分の夕食もダイニングテーブルの上に置いて、腰を下ろす。正面に位置するここは比企谷くんの顔がよく見えてとてもいい。

 

「い、いただきます」

「ええ、どうぞ」

 

 今日の夕食はチーズリゾット。本当はトマトの予定だったのだけれど、比企谷くんはトマトが食べれないらしいので急遽変更した。

 

 もう何回も作っているから、失敗することはなかったけれど……少し気になってしまうわね。おいしいといいのだけれど。

 

 比企谷くんはふぅふぅとスプーンですくったリゾットを冷まして、一口目を口に入れる。しばらく噛んで飲み込んだのち、水を飲んでちらと私を一瞥した。

 

「……うまいな」

「本当? よかった……」

 

 これで私も安心して食べられる。ふふっ、なんなら毎食私が手料理を振る舞ってあげるのもいいわよ? ええ、あなたが望むのならいつまでも。

 

「ごちそうさん」

「お粗末さま」

 

 食器を片付けようと手を伸ばすと、比企谷くんが食器を持って立ち上がる。

 

「片付けくらい、手伝わせてくれ」

「あなたは客人なのだから、座っていてくれればいいのに……」

「……それはそれで落ち着かないんだよ」

 

 私は所在なさげにきょろきょろしている比企谷くんも好きだけれど、どうやら彼にとっては苦痛らしい。私の家での思い出が嫌なものになっては困るので、ここは手伝ってもらうことにしておく。

 

「では、私が洗うから、あなたは拭いてくれるかしら?」

「おう、任せろ。拭くのは得意だ」

「なにを自信満々に言っているのかしら……」

 

 どうせ小町さんには拭くぐらいしかやらせてもらえていないとか、そんなところなんでしょうけど。……まあ、こうやって二人で台所に並ぶのも悪くないから、小町さんには感謝しなきゃいけないわね。

 

「ご苦労様。ありがとう」

「……こちらこそ」

 

 リビングでのんびりくつろいでいると、時間が経つのは早くて、というか、比企谷くんといると一時間が一秒に感じてしまうくらい一瞬で、いつのまにかさよならの時間になってしまっていた。

 

 どうしても寂しくなってしまうけれど、今日がすごく充実した一日だったから、私はなんとか堪えて、彼を玄関まで見送りに行く。

 

「……今日、楽しかった、かしら?」

 

 比企谷くんが靴を履き終えて向き合うと同時、言葉は自然と口から飛び出した。

 

「私は、楽しかったわ……その、あなたといられて」

「俺も、楽しかった」

「本当? それなら、とても、嬉しい……」

 

 今なら言える。そんな気がした。でも、私が口を開くより早く比企谷くんは真剣な表情で、

 

「雪ノ下っ」

「——あ、っと、なにかしら?」

「その、これ……」

 

 言って、比企谷くんが取り出したのは贈り物用に封がされた紙袋だった。

 

「……えっと、これは?」

「クリスマスプレゼント、みたいなやつ、なんだが……冬休み入ると渡す機会もなくなるし」

「比企谷くんが……私に?」

 

 ? 夢? 一体、今、なにが起こってるの?

 

「……あ、空けてみても、いい?」

 

 こくり、頷いた彼を見て、慎重に中身を取り出した。それは私の着けていたものに似た、赤いマフラーで。

 

「あー……、その、もう持ってるから、渡さないほうがいいかとも思ったんだけどな。俺が持ってても仕方ねぇし……よければ受け取ってもらえると、助かる」

「……しぃ」

「え?」

「嬉しい……っ」

 

 思わず涙が出てしまうくらい、プレゼントが嬉しくて、私のことをずっと見ててくれたのだということが嬉しくて、嬉しくて、本当に。

 

「ありがとう……大事に使わせてもらうわ」

 

 そんな気持ちで胸がいっぱいだった。

 

「……じゃあ、俺は」

「待って!」

 

 今、言わなければ絶対に後悔する。

 

 違う。

 

 そんなんじゃない、この気持ちは後々どうとかそんなものじゃなくて。

 

 ただ。ただただ純粋に。

 

 ——今、伝えたい。

 

 そう思えたから、私は躊躇なく彼を抱きしめて、

 

「ゆ、雪ノ下……っ?」

 

 たっぷり、一、二、三秒。その感触を、その温もりを、身体の奥底まで味わって、それから。

 

 それから彼の顔をまっすぐに見つめて言い放つ。

 

「——好きよ。比企谷くん」

 

 たぶん、人生で一番心から笑えた。

 

 

 

              了

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雪ノ下雪乃のかわいいところを10個挙げなさいっ!

雪乃ちゃん誕生日のお話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。



 

「雪ノ下雪乃のかわいいところを十個挙げなさいっ!」

 

 なにか頭のおかしな台詞が聴こえた気がした。恐らく気のせいだろう。黙って皿に箸を伸ばすと、ひょこっと覗き込むように邪悪な顔が視界に映り込んで来た。

 

「雪ノ下雪乃のかわいいところを十個挙げなさい!」

「……姉さん、なにを言っているの? とうとう頭のネジが飛んだのかしら」

 

 というか、どうして私の顔を覗き込んだの? 覗き込むべきは比企谷くんの顔でしょう。それはそれで腹が立つけれど。

 

「お前と意見が合う日がくるなんてな……ちっとばかし癪だが全面的に同意」

 

 二人で白けた視線を送っても、当の本人は全く気にした素振りを見せず、なんなら爆笑する始末。我が姉ながらどうしようもないわね……。

 

「雪乃ちゃんも比企谷くんもひっどーい。ほら、比企谷くん、はやくはやく〜」

「姉さん、いい加減にしなさい……いくらお酒が入っていると言っても限度があるわよ」

 

 だいたい、これと飲みにくるといつもそうよ。いつもいつも私の困ることばかり……今日だって誕生日を祝うというから来たのに、着いたら比企谷くんが座っているし。

 

「そんなの負けた比企谷くんが悪いじゃーん。わたしと雪乃ちゃんが勝って、比企谷くんは負けた。だったら従わないとねぇー? 最下位は一つずつ言うこと聞くって約束だもんね〜?」

「ぐっ……」

「ごめんなさい……私のせいで」

 

 私が最下位になっていれば、今より状況はマシだったはず。というか、私が姉さんの安い挑発に乗っていなければこんなことにはなっていないのよね……。

 

「別に、お前のせいじゃねぇだろ……この人がこうなのは、いつものことだ」

「否定できないのを喜べばいいのか恥じればいいのかわからないわね……姉が迷惑をかけるわ」

 

 比企谷くんはうんざりした瞳で姉さんを見て、はぁとため息を溢す。……なんで誕生日にこんな目に遭わなければならないのよ。

 

「あーっ! 二人で内緒話してるぅ〜! ひゅーひゅー! ラブラブで羨ましいなぁ〜」

「なっ……! だ、誰と誰がラッ、ラブ……」

 

 一気に顔が熱を持ち、店内の暖房と相まってなんだか暑苦しくなってくる。

 

 な、なにを動揺しているのよ。動揺する必要なんてないじゃない。ただの戯言よ、戯言。私と比企谷くんはそういう関係ではないし、そうなる予定も、そうなりたいという気持ちもないのだから。ほ、本当よ……?

 

 ちらと横目で比企谷くんを盗み見ると、彼の頬も赤らんでいてより暑さが増した。

 

「ねぇ、まーだぁー? 待ってるんだけど〜?」

「……いや、それは」

 

 比企谷くんが目を逸らしながら拒否しようとすると、姉さんは相変わらずにたにたと寒気のする笑顔を浮かべて追い討ちをかける。

 

「ふぅん。そっかー、そうなんだー」

「姉さん? なにを……」

「言えないってことは……雪乃ちゃんにいいところなんてないってことだよねー?」

「えっ……」

 

 そんな言葉、ただ比企谷くんをその気にさせるための挑発でしかないってわかっているのに、なぜか心は痛んで。恐る恐る目を向けた先の彼に淡い期待を抱いてしまったけれど、彼がそんなのに乗せられるはずもなく。

 

「……いや、なんでそうなるんすか」

 

 それはまるで姉さんの言葉に同意しているようで、つい俯いてしまった。目敏く見つけた姉さんが、私をネタに騒ぎ始める。

 

「あー、比企谷くんが雪乃ちゃん泣かせたー! いいところなんてないとか言うからー」

「な、泣いてないわよっ」

「ていうか、それ言ったのあんただろ……」

 

 比企谷くんの必死の抵抗も虚しく……というかそもそも抵抗したくらいでどうにかなるのなら困っていないのよね。

 

「でも言えないじゃない? 言えないってことはぁー、雪乃ちゃんなんてかわいくないって言ってるのとおんなじだよー?」

 

 ……何回も何回もいいところがないとかかわいくないとか、よく考えなくてもこれすごく失礼なことを言われてるんじゃないの?

 

「そんなこと言ってないでしょ……」

「でもそういうことじゃん」

「いやだからなんでそう……」

「あーあ、雪乃ちゃんかわいそうだなー!」

 

 かわいそうじゃないわよ! 誰のせいでこんなことになってると思ってるのよ、この女!

 

「言えないの?」

「……うっ」

「こんなのの口車に乗らなくてもいいわよ」

「言えないんだ?」

「……っ」

「ふぅーん、じゃ、やっぱり比企谷くんは雪乃ちゃんなんてかわいくないって——」

「あー、もう、しつけぇな! 言えばいいんだろ、言えば!」

「えっ!?」

 

 嘘でしょ、え? 言うの? なんで? なんで姉さんの思う壺にハマろうとするの?

 

「さっすが比企谷くーん! じゃ、はい、いーちっ!」

「え、ちょっ、姉さんっ!?」

「……パンさんのことになると人が変わるところ」

 

 待っ……え? バレ……いえ、ちょっと待ちなさい、落ち着くのよ、ほら、落ち着いて素数を数えるの。素数は一と自分の数でしか割ることの出来ない孤独な数字……私に勇気を与えて、くれるわけないじゃない! 素数なんて数えたって現実逃避になるだけよ!

 

「いつから……い、いつから知っていたの」

 

 気をつけているつもりだったのに! バレていないと思っていたのに! ……本当にいつバレたの?

 

「いや……まあ、最初から」

「……嘘よね?」

 

 私の問いに比企谷くんは気まずそうに視線を逸らす。

 

 無言は肯定なんて言うけれど、それにしたって彼の態度はあまりにも分かりやすい。そして、それは同時に私の分かりやすさの肯定にもなる。否定できないほど……ということ、よね。

 

「はいっ、にーっ!」

「あー、えっと……猫が好きでにゃーとか言って話しかけちゃうところ、とか?」

「待って」

 

 いえ、特別おかしくはないのよ? ほら、一度見られてしまったこともあったし……一度だけだったかしら? 回数なんてどうでもいいのよ!

 

 なんでそんなことをいちいち覚えているの? 意味が分からないのだけれど、というか忘れて欲しいのだけれど! だいたいそんなののどこがかわいいのよ、頭おかしいだけじゃない! 私の頭はおかしくないわよ!

 

 ……なに? これがあと八回続くの? なにそれ、地獄かなにか……?

 

「ね、ねぇ……もう、やめましょう? ほら、その、十個もあるとは思えないし」

 

 私の提案に流石にかわいそうだと思ったのか、姉さんは思案顔になる。……これなら、なんとかなりそうね。

 

 ふぅと息を吐くと同時、姉さんはにたりと口もとを歪めて、

 

「だーめ♡」

 

 こ、この女……っ! 覚えていなさい、この恨み、いつか絶対に晴らすわよ……。

 

「それじゃ、三つ目いってみよっかー!」

「……クールを装っている割に、なんだかんだで断りきれないところ」

「べ、べ、別に装ってないわよ!」

「そうだよねー、雪乃ちゃんは人との接し方が分からないコミュ障なだけだもんね」

「誰がコミュ障ですって!?」

 

 言わせておけば……人のことをコミュ障呼ばわりなんて、いい度胸してるじゃない。

 

「……自分だってまともに人間関係築けないくせに」

「んん〜? 今なんか聞こえた気がしたけど……」

「あら、耳まで悪くなったの? 会話が成立しないのも頷けるわね」

 

 ふんっと鼻で笑ってみせると、姉さんはまたも底意地の悪そうな笑みを浮かべる。……嫌な予感しかしないのだけれど。

 

「ふぅん、そういうこと言うんだー。よし、比企谷くん、よーんっ!」

「この空気で続けんのこれ? ……たまに見せる、柔らかい笑顔が、その、かわいい」

 

 んんんんんんんんんんっっっ!?!????!?!?

 

「……ひ、ひき、がや、くん」

「顔抑えてどうしたんだお前……」

 

 こんな顔見せられるわけがないでしょう!

 

「き、聴こえなかったから、も、もう一回……」

「は? ……たまに見せる笑顔が、か、かわいい?」

「……っ!」

 

 あぁぁぁぁああああああっ! なんなの! なんなのっ!? 私を殺すつもりなのっ!?

 

「あ、あなた、いつもそんなことを思っていたの……?」

「いや、いつもっつーか、まあ、その……おぅ」

「んふ」

「んふ……?」

「なんでもないわよ!」

 

 意図せず変な笑いが漏れてしまったけれど、そうね、そう……そういうこと。悪くないじゃない。地獄は地獄のままだし現在進行形で死にそうになっているけれど、アリよ、アリ。

 

「で? 雪乃ちゃん? やめたいんだっけー?」

「続けることを許可するわ」

「いやなんで?」

 

 いいからさっさと五つ目に移りなさい。迅速に、よ。……というか、本当にあと六つもあるの? あるとしたらそれってつまりそういうことなんじゃないの? 比企谷くんってもしかして私のこと……んふふ、ふふふ。

 

「だ、大丈夫か、雪ノ下?」

「大丈夫よ、早く次」

「じゃあ、五つ目どうぞ!」

「……その、一つ前と似てるっつーか、あと自意識過剰かもしれないんだが……俺と言い合ってるときの意地の悪そうな笑顔が、まあ、なに、好き、みたいな……」

「好き!?」

 

 え、なにそれ、告白? 今の、告白よね? 誰がどう見たって告白でしかないわよね!? 待って……待って、私もまだ心の準備が出来てないというか、本当に待って。

 

「いや笑顔がな、あくまで笑顔がだから……」

 

 ……そんな強調しなくてもいいじゃない。なによ、笑顔が好きって、それ以外嫌いってこと? 私だって比企谷くんのことなんてき……ま、まあ、嫌いではないわね。ええ。

 

「笑顔がなんなのよ」

「だから、好きだって言ってんだろ!」

「……私も」

「は?」

「な、なんでもないわ」

 

 あ、危なかった……。勢いにつられて告白するところだったわ。いえ、別にそういう対象でないこともないわけでもなくはないから、告白なんてしようがないのだけれど。

 

 本当に。嘘じゃなくて。

 

「あぁ、くそ死にてぇ……」

 

 顔を覆ってぼやいている比企谷くんには申し訳ないけれど、中止は不可よ。残念だったわね、あなたは私の好きなところを上げ続けるしかな、い……かわいいところだったわね、つい願望が、いえ望んでなんていないけれど。

 

「はいはい、どんどんいくよ〜。ろーくっ!」

「……これも似たようなもんだが、由比ヶ浜とかの頼みを聞くときの仕方なさそうな笑顔が……」

 

 中途半端なところで留めた比企谷くんに恨めしげな視線を送ってしまう。……なんで最後まで言わないのよ、笑顔がなんなのよ、ちゃんと言いなさいよ。

 

 じーっと見つめていると、比企谷くんは諦めたように息を吐いた。

 

「……かわいい」

「……好き?」

 

 反射的に訊ねると、比企谷くんは恥ずかしそうに手で顔を覆って頷く。

 

 好き……好き……ふふふ、そう、そうよね。比企谷くんは私のことが大好きなのよね。そういうことなら仕方ないから、私ももう少し素直になってあげてもいいわ。だって、これでは不公平だものね。

 

「比企谷くんは私の笑顔が好きってことでいいのよね」

「……別に笑顔だけってわけじゃなくてだな、拗ねたりするところもかわいいと思うし——あぁ、いや、今のは、今のが七個目ってことで、いいよな……?」

「し、仕方ないわねっ、いいでしょう。で、では、八つ目を……」

 

 不意打ちの攻撃にたじろぎながら促すと、比企谷くんは私の顔を一瞥して口を開く。

 

「……そうやって、顔赤くしてるところ、とか」

 

 ばっと慌てて顔を覆ってももう遅い。ちらと指の隙間から覗いた彼は苦笑していて、しぶしぶ手を膝に置いた。

 

「ちょっとちょっと、お姉さん置いて——」

 

 完全に存在を忘れていた姉さんが声を出すと、同時に誰かのケータイが鳴り響く。

 

「あ、わたしのだ。うわ、静ちゃん……」

「……平塚先生?」

 

 私が疑問に思っているうちに姉さんは電話に出る。

 

「もしもーし。え? 今から? いや、今はちょっと……えぇー、また今度じゃだめなの? あー、また合コン……でも今日は。え? あぁ、うん。あー、もうわかった! 行くから! はいはい、待っててね!」

 

 通話は終わったのか、スマホを耳から離してため息を吐くと、姉さんは立ち上がる。

 

「ごめーん。ちょっと呼ばれちゃったから、後は二人で楽しんで。お金、ここに置いとくから余ったら好きに使ってね。じゃ、ばいばーい。比企谷くん、またねっ」

「……はぁ、また」

 

 慌ただしく去って行く姉さんを見送って、テーブルには沈黙が訪れる。一旦間を空けてしまったせいで、今更になって恥ずかしさがこみ上げてきて、さっきから顔を逸らしたままになってしまっている。

 

 ……どうするの、この空気。いっそ残りの二つも聞いてみる? いえ、でももう姉さんはいないのだから、やらなくてもいいと言われてしまえばそれまでよね。

 

「……雪ノ下」

「ひゃ——は、はいっ」

 

 急いで顔を向けると、比企谷くんもこちらを見ていて、ばっちりと視線が合ってしまう。……な、なんか逸らしづらいわね。

 

「どうする……?」

「そ、そうね……えっと、お腹は」

「結構食ったし、もう腹いっぱいだな。お前は?」

「ええ、私も」

 

 そうなってしまうと、選択肢は帰宅くらいしかない。

 

 せっかく誕生日に比企谷くんと二人きりなのに、このまま帰って後悔しないかしら……そんなことを考えている時点で答えは分かっているようなものよね。

 

「あ、あのっ」

「……なんだ?」

「わ、私の家に行くというのは、ど、どうかしら……?」

「どうって……もう夜だし」

 

 ああ、もう、察しなさいよ! 私が恥ずかしさを堪えて誘っているのに、この鈍感! 無意識に睨んでいたのか、比企谷くんは少し悩んだのちに何度か咳払いをする。

 

「ま、まあ、お前がいいなら……」

 

        × × × ×

 

「あ、上がって……」

「おう……」

 

 二人でリビングに入って、上着を脱いだり酔い覚ましに温かい紅茶を淹れたりしてから一息つく。

 

「ふぅ……なんだか、疲れたわね」

「そうだな」

 

 顔を見合わせて苦笑してしまう。やっぱりまだ恥ずかしいけれど、落ち着くとそれもどこか心地いい。

 

「そういえば」

 

 言って、比企谷くんは紙袋をテーブルに乗せる。

 

「誕生日プレゼント。まだ渡してなかったろ」

「え、あ……ありがとう。開けても、いいかしら?」

「ああ」

 

 紙袋を受け取って中から箱を取り出す。

 

「……これ、ディスティニーランドの?」

 

 首を傾げながら箱を開けると、そこにはパンさんをモチーフにしたネックレスが納められていた。

 

「え……っと、あの、これを、私に?」

 

 嬉しいは嬉しい。一生大切にするし、着けるのが怖いくらい。けれど、比企谷くんにしては大胆というか……。

 

「いや、その、ネックレスがいいって、その、陽乃さんが。デ、デザインは俺が選んだんだが……気に入らないなら——」

「ううん、嬉しい……本当に」

 

 姉さんが、という部分にちょっと不満がないこともないけれど、比企谷くんがあの姉さんに聞くくらい悩んでくれたのだと思えば、それはそれで嬉しいし。

 

「そ、そうか……誕生日、おめでとう」

「ええ、ありがとう。ねぇ、よかったらつけてくれないしら?」

「……わかった」

 

 立ち上がって比企谷くんにネックレスを渡すと、比企谷くんは私の後ろに立って首にネックレスをかける。問題なく着け終えて、彼と向かい合った。

 

「ね、どう?」

「……似合ってる、と思う」

 

 とても比企谷くんらしい言葉に自然と笑みが溢れる。

 

「ふふ、ありがとう」

 

 このタイミングだと思った。ここしかないと思った。

 

「ねぇ、比企谷くん。あなたは今日、ゲームで私と姉さんに負けたわけだけど、私の分はまだ残ってるわよね」

「……まあ、そうなるな」

「なら、一つだけ答えて」

 

 視線が交じり合う。お互いにここだと、今このときだと感じている。そういう確信が私にはあって、だから私は、彼が好きだと言ってくれた意地の悪い笑みを浮かべて、

 

 

「——雪ノ下雪乃のことをどう思っているのか、答えなさい」

 

 

 彼は面食らったみたいな顔をして、しばらく固まったのち、答える。

 

 

「——雪ノ下雪乃が好きだ。付き合って欲しい」

 

 

 言われた瞬間、その唇を塞いだ。私の唇で彼の心に封じ込めた今の言葉、これから先絶対に忘れたとは言わせない。それはまるで、誓いの口づけのようで。

 

「今のが答え……私も好きよ、比企谷くん」

「……十個で足りるわけ、ねぇんだよな」

 

 言われた言葉の意味が分からず、首を傾げてしまった。

 

 そんなある年の誕生日。

 

 

 

                   了



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十年後のタイムカプセル

大人になった二人のお話
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


「十年後、お互いに独り身だったら貰われてあげる」

 

 人気のない公園。手を固く握りながら想いを吐露しようとした彼の言葉を遮って、私はそんな台詞を口にした。

 

「それは……」

 

 面食らったようにつぶやいて、それから彼はそっと頷く。

 

「またね、比企谷くん」

 

 踵を返して、足を踏み出した。

 

 正直に言えば、そのまま素直に聞いておきたかったという気持ちがないわけじゃない。けれど、今それを聞いて、私が答えを返しても、それだけでは彼と結ばれることは出来ないから。

 

 十年……十年あれば、どうにかできる。今、力のない私ではどうすることもできないけれど、十年後なら。

 

 きっと——いいえ、必ずあなたを迎える土壌を作ってみせる。

 

 だから、それまでにあなたも誰にも文句が言えない男になっておきなさい。

 

「……ふふ」

 

 こんなに楽しいの、いつぶりかしら。

 

 

 

 ——十年後——

 

 潮騒の中を女が歩いていた。

 

 青色のロングスカートが風に踊り、白いブラウスは女の影を濃くする夕陽と同じオレンジに染まる。

 

 雪の字を含む名には余りに不釣り合いな情景。けれど、そこに違和感はなく、まるで女のために用意された舞台のようだった。

 

 コツ。サンダルのヒールがスタッカートで弾いたように小気味いいテンポで音を奏で、波が引いた刹那の静寂に、隠されていた歌が顔を見せる。

 

 鈴の音のようにりんと響く声は瞬く間に波に攫われていってしまったけれど、そうして消えては現れ消えては現れを繰り返す様がどこか儚げで、極々微々にしか聞き取れない故にたった一瞬が格別なものに感じられた。

 

 そんな少し浮世離れした動く絵画じみた光景は、女が足を止めたことで現実感が与えられ——ることもなく、止まったら止まったでそれもまた絵になるのだから、景色なんてものはこの女には関係がないのだろう。

 

 雑多な街中を歩こうが、欝蒼とした茂みの中で座ろうが、路地裏でコンクリートの壁に背を預けていようが、それをしているのが彼女であれば同じこと。

 

 潮風に流れた濡れ羽色の長い髪を整えて、すんっと潮の匂いを楽しむように息を吸った女は、現代の日本人にしては珍しい漆黒の双眸でなんの変哲も無い海辺の公園を見つめる。

 

 懐かしげ、且つ愛おしげに見つめる姿は、そこが特別な場所に見えてくるほど——否、特別な場所なのだ。他人にとってどうでもいい場所でも、彼女にとってはなによりも大切な場所。

 

「……来たのね」

 

 小さく息を漏らす。

 

「そう。来たのよ」

 

 穏やかで、けれど勝気な微笑み。

 

「私は、来たわよ」

 

 誰に向けてともしれない言葉に引き寄せられたのか、現れたのは一人の男。冴えない、と言うほどではないにしろ、女と釣り合うかといえば首を傾げてしまうような背の曲がった男だった。

 

 男は女を見て優しげに微笑み、口を開く。

 

「久しぶりだな、雪ノ下」

「ええ、久しぶりね。比企谷くん」

 

        × × × ×

 

 雪ノ下雪乃が比企谷八幡と約束を交わしたのは、もう十年も前の話だ。タイムカプセルを開ける約束でもしていたのかというレベルの、区切りのいい再会。

 

 比喩とするならおおよそ間違ってはいないだろう。二人はタイムカプセルを空けに来たのだ。あの日——十年前に缶ケースに閉じ込めてこの場所に埋めた想い。あの頃には仕舞うしかなかった理由が二人にはある。

 

「よく来たわね。……婚約者がいるとか、風の噂で聞いたのだけれど」

 

 ベンチに腰を預け、こちらの顔も見ないまま唇を尖らせて言う雪乃に、八幡は苦笑いを零しながら言葉を返す。

 

「小町か……由比ヶ浜か。まあ、なんだ、取締役に思いの外気に入られちまってな」

「経緯なんて……聞いていないのだけれど」

 

 むすーっと頬まで膨らませて顔を背ける。子どもっぽい仕草で怒りを表現する雪乃が新鮮で、暫し見入ってしまった。なにも言わない八幡になんだか恥ずかしくなって首を動かすと、ばちっと視線が合わさる。

 

「なによ」

「いや……変わったなと思ってな」

「……嫌?」

「嫌なわけねぇだろう」

 

 間髪入れずに否定されて、つい言葉に詰まってしまった。

 

 ——そんな台詞、昔は言えなかったくせに。

 

「あなたも、変わったわね」

「嫌か?」

 

 仕返しとばかりに意地の悪い顔で訊ねられたのが、昔とは立場が逆転しているようでなんだか悔しくて、言葉を選びながら唇を動かす。

 

「嫌、なわけないじゃない。だって、私のために、変わってくれた……の、よね?」

「なんでちょっと自信なさげなんだよ」

 

 笑いながら言う八幡に少しムッとしてしまう。

 

 ——私だって別に好きで自信がないわけじゃないわよ。

 

 八幡はそんな雪乃の想いを知ってか知らずか、逸らした顔を覗き込んでくる。大人になった八幡にはどこか余裕があって、それはきっといろんな経験をしてきたからなんだろう。

 

 それは雪乃も同じことで、雪乃だっていろんな経験をして変わって、今ここに来ている。十年間会わないのも雪乃が発案者で、それには十年前に両者合意しているのだが。

 

 それでもやっぱり、変わっていく八幡を隣で見ていられなかったのは残念だと思ってしまう。

 

「……婚約者は、いいの?」

 

 嫌な質問をしてしまった。そうだ、ジェラシーだ。お互いに納得して離れて自分にも縁談の話だったりがあったにも関わらず、それを棚に上げて嫉妬してしまっている。

 

 嫌な質問をする嫌な女だ。散々嫌になった自分が、もっと嫌になりそうだ。

 

「いいもなにもな……」

 

 そんな雪乃の態度に、八幡はようやく最初の質問にしっかり答えていないことを思い出したのか、ああと声を漏らしてわざとらしい咳払いをする。

 

「……俺の婚約者は、その、隣に座ってるわけで、な」

 

 言葉の意味を理解するのに三秒くらい掛かって、それからばっと八幡を見る。茹でダコのような顔で照れ臭そうに頬を掻く姿に、ああ変わらないこともあるのねと安心感を抱きつつ、さっきまでの自分を本気で嫌悪したくなった。

 

 ——なにをやっているのよ、私は。

 

 こんなことですぐ機嫌が直ってしまう安っぽい自分もそれはそれでちょっとどうなのかしらとか思うのだが、そんなことより直前の醜態のほうが大事だ。

 

 ——それにしても、今日は暑いわね……。

 

 ぱたぱたと襟元を動かしながら、自分の顔が赤くなっているとは微塵も思わぬまま失態を拭うために言葉を紡ぐ。

 

「……ふふ、あなた顔が真っ赤よ」

「お前もな」

 

 ぼそりとつぶやかれた言葉はどうやら雪乃の耳には届かなかったらしい。ふっと真面目な顔つきになったはいいものの、頬の紅潮が空気を緩める。

 

「……ごめんなさい。その、久しぶりの再会だというのに」

 

 笑みを必死に堪える八幡の姿に僅かに疑問を抱きつつ、言葉を続ける。

 

「私の知らない人が、私の知らないあなたを知っていると思うと……うまく言葉にできないのだけれど、こう、胸の奥がもやもやして」

 

 きゅっとブラウスの胸の辺りを握ると、自覚しているよりも速い心臓の音が伝わってくる。

 

「えっ……ええと、あの」

 

 驚きに口に手を当てたところで、はっとなって手鏡を取り出した。見てみれば、八幡より遥かに赤く染まった自分の顔がそこにある。

 

「……ぷっ」

 

 吹き出すような笑い声に反応して八幡へと視線を戻せば、もう無理だとばかりに公園に響き始める笑い声。恥ずかしさでなんだか頭がくらくらとしてくる。

 

「い、言ってくれてもいいじゃない」

「いや、言ったから……」

 

 お前が聞いてなかっただけだからね、と言い訳されては、言われた記憶がなくとも返す言葉はなくなってしまう。されど、それで納得できるかといえば、できはしないわけで。

 

「……そんなに笑わないで。恥ずかしい、のよ……本当に」

 

 怒るというのもムキになっているようで癪だしと、結局懇願するしかなくなってしまう。ただ、八幡には充分効果があったようで、彼は息を整えつつ謝罪を口にする。

 

「悪い悪い……」

 

 ——姉さんがいなくてよかった。

 

 こんなところを見られたら一生笑いのネタにされてしまう。

 

 出来れば八幡にだって立て続けに醜態を晒すような真似はしたくなかったけれど、これはもう不可抗力というか、どのみちこの先もそういうこともあるだろうしと割り切るしかない。

 

 ——そもそも、比企谷くんがあんな恥ずかしいことを言わなければ……とは言えないわね。

 

 嬉しかったのは事実だし、確かにそれで機嫌は直ってしまったのだ。さらに大元を辿れば原因は自分なわけで。

 

「と、ところで比企谷くん」

 

 わざとらしさはこの際気にせずに、無理矢理にでも話題を変える。幸い、十年空いたおかげで話したいことは山ほどあった。

 

「どう、かしら。……うまくいってる?」

「あー……、まあ、ここに来られるくらいにはな。小町とかから聞いてんじゃねぇのか?」

「そ、それはそうだけれど、そういう問題ではなくて」

 

 ——私はあなたから聞きたいのに。

 

 口にするには余りにハードルが高くて、そのまま閉口してしまう。ちらちらと窺うように八幡に目をやると、彼は失敗したなという表情で、これまた頬を掻きながらぽつりぽつりとつぶやきを漏らす。

 

 うつむき加減になっただけで彼の顔が見えないのを不思議に思って空を仰ぐと、もう日は沈んでいて辺りは暗闇に包まれていた。

 

「あの日、雪ノ下と約束してから……俺なりに頑張ってきたつもりだ」

 

 ぽつり。そこに込められた想いの大きさを感じて。

 

「一応、会社ではそれなりの役職に就いてるし、この先もまだ上に行ける、行く、つもりでいる」

 

 ぽつり。ただの口約束——いや、約束ですらなかったそれを果たすために彼は頑張ってくれてきたのだ。

 

「さっきは肯定したが、お前のためだ……とは言わない。そうじゃ、ないからだ」

 

 ぽつり。胸が燃えるように熱い。気づけば唇を噛み締めていた。

 

「これは、全部、俺のためだ」

 

 ぽつり。顔を上げた彼の顔がぼやけてよく見えない。

 

「俺が、お前のことが……好きだから、今まで俺のためにやってきた。それで、今日、ここに来た」

 

 ぽつり。ぽつり。ぽつり。

 

 目を擦って、そのとき初めて涙を流していることに気づいた。

 

「なんで、泣くんだよ……」

 

 困ったように笑う彼が好きだ。

 

 照れ臭そうに頬を掻く彼が好きだ。

 

 涙を拭うために伸ばしてくれるその手も、目尻を這う指も、あの頃の瞳も今の瞳も、頭のてっぺんから足の指先まで全部好きだ。

 

 知らないことだって知れないことだっていっぱいある。まだまだ分かり合えていない。けれど、好きだと思う。好きになれると思う。好きになりたいと思う。

 

 愛して欲しいし、愛したい。愛し合いたい。それは胸が苦しくなるくらいに幸せな想いで、こんな苦しさも痛さも全て愛おしく感じられる。

 

 彼だからだ。

 

 比企谷八幡だから。

 

 ——私は、あなたが好きなのね。

 

 当たり前だと思っていたことが、ようやく当たり前になった気がした。

 

「嬉しいのよ……」

 

 十年も待ったのだ。好きだと言われるのを十年待った。

 

「私も、あなたが好きだから」

 

 好きだと言える日を十年待った。

 

「本当に、嬉しいの……」

 

 喉が震える。吐息が熱くなる。

 

 いつのまにか握られていた手の薬指に、すっと指輪が通される。

 

「……こういうのって、許可を取る前に、嵌めてもいいのか?」

「知らないわよ、そんなの。もう、バカじゃないの」

 

 ——聞かなくたって、分かってるんでしょ。私の夫になるのなら、そのくらい傲慢でいなさい。

 

 そんな意味を込めて、視線をぶつけた。

 

 ゆっくりまぶたを下ろすと、柔らかいものが唇に触れる。

 

 十年越しの口づけは、涙の味がした。

 

        × × × ×

 

 十年前のあの日のことは今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 

 ずっと、あの日の回想と共に道を歩んできたというのもあるし、なにより、

 

『十年後、お互いに独り身だったら貰われてあげる』

 

 そう言い放ったあいつの笑顔が、それまでのどのあいつよりも綺麗だったから。そんなことを言うと、からかわれるのが目に見えているので絶対に口にはしないが。

 

 扉の前に立ち、一つ小さく深呼吸をしてからノックをする。中から入室を許可する声が聞こえて、ゆっくりと扉を開けた。

 

 ——結婚は人生の墓場だと誰かが言った。

 

 ああ、確かにそうなのかもしれない。だって、その姿を一目見ただけで、俺はこいつに——雪ノ下雪乃に全てを渡してもいいと思えたんだから。

 

 純白のドレスに目が釘付けになる。その白さは俺が好きな彼女の髪に良く映えて、まるで芸術品でも見ているかのような気分になった。

 

「……綺麗だ」

 

 言おうと思っていた言葉ではある。言えるか不安だった言葉でもある。月並みで、けれど率直な褒め言葉は、考えるよりも早く口から漏れて。

 

 口もとを緩めた彼女は機嫌がよさそうに、

 

「ふふ、ありがとう。あなたも、かっこいいわよ」

 

 俺の人生は、ここまででいい。

 

 だから、残りの人生は彼女に使おう。

 

 彼女の隣で、いつも今までで一番綺麗な彼女を、誰よりも俺が見ていたいから。

 

 

 

               了

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雪乃ちゃんがかわいいだけの話。

ある春の日の話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 女は、なぜとかなんのためにとかいった理由なしに愛されることを望むものだ。つまり、美しいからとか、善良であるとか、聡明であるとかいった理由によってではなく、彼女が彼女自身であるという理由によって愛されることを望むものだ。

 

 

 そう言ったのは誰だっただろう。すっと胸の奥から浮かんで来たいつか耳にした言葉を口の中で反芻して、ふと空を仰いだ。

 

 雲のない青い空を、ひとひらの花弁が泳いでいく。それを追って徐々に視線を下げていくと、印象深い瞳と目が合った。気怠げで、けれど常よりも真摯な眼差し。

 

 春の陽気な昼下がり。桜舞う校舎裏にいるのは、私の彼の二人だけ。御誂え向きのシチュエーションと、なんだかいつもと雰囲気の違う彼に、私の心臓が早鐘を打ち鳴らす。

 

「……えっと、比企谷くん? もう依頼は終わったのだし、戻ろうと思うのだけれど……」

 

 じっと私を射抜く眼にわけもわからずしどろもどろになりながら部室への帰還を促すも、彼は「あぁ」と曖昧な返事をしただけでそこから動こうとしない。

 

 比企谷八幡。私が部長を務める部活——奉仕部の部員であり、そして……そして? それ以上でも以下でもないわね。比企谷くんは奉仕部の部員。強いて挙げる点があるとすれば、腐った魚みたいに目が淀んでいるくらいで……あぁ、あと、性格が捻くれているわね。それに、姿勢も悪いし、態度も悪い。いろいろ悪いし、ぱっと浮かんでくるいいところもないけれど、悪い人ではないわ。それは私が保証する。

 

 そのくらいかしら……少しくらいは大切に思っていないこともないけれど、比企谷くんは奉仕部の備品なのだから当然といえば当然ね。ええ、なにか特別な感情があるとかではなくて。断じて。

 

 というか、そんなことはどうでもいいのよ。問題は、どうして比企谷くんがここから動こうとせずに、その、えっと、私のことを睨みつけているのかということであって、あ、この場合の睨みつけているというのは、彼の目つきの悪さに掛けた比喩であって、実際に私が睨みつけられていると感じているわけではないのだけれどって、一体誰になんのために弁明してるのかしら……。

 

 なんだか頭がうまく回らない。それもこれも全部比企谷くんのせいよ。だいたい、なんだって急にこんな……あの、アレっぽい雰囲気を醸し出しているの? こんなの私だって期待してしまうというか、ついつい恋に関連する格言とかを思い出してしまうというか——待って? 期待ってなに? 私、別に期待なんてしてないわよ。本当に、本当……よ?

 

「——雪ノ下」

「ひゃっ——痛ぅっ」

 

 したが……したがぁ。ひりひりする……ぐすん。

 

 ……なにこの沈黙。私のせいなの? 比企谷くんがいきなり話しかけてきたのが悪いのであって、私は悪くないわよね?

 

「だ、大丈夫——」

「続けて」

「いや、でも——」

「続けて」

「……お、おう」

 

 なんたる失態! なんたる不覚! こんな無様な姿を晒してしまうなんて、私らしくもない。軽く死ねるわね。……なんだかつい先日も似たようなことを考えた気がする。気のせいね、ええ、気のせいよ。私は比企谷くんと話しながら紅茶を淹れていたら、満杯になったのも気づかず零してしまったりとかしていないし、たまたま本屋さんで比企谷くんを見つけて近づいたら本棚の角に脛をぶつけたりとかしていないわ。していないったらしていないわ。

 

「雪ノ下……」

 

 最初が「と」だったら、「それは無理」って言うのよ、私。……まあ、今回の依頼でもなんだかんだでいろいろあったから、そっちの可能性のほうが高いわよね。普通に考えて、比企谷くんが私に? って思うし、私もいつも言われて嬉しいとは口が裂けても言えないような台詞ばかり吐いているし、これでアレだったら、この人相当ね……ってちょっと引くまであるくらいだわ。

 

 私が比企谷くんだったら、こんなやつのこと絶対って感じだし、それに比企谷くんってなんだかすごい私と友達になりたがる節があるというか、まずは友達みたいな気持ちがひしひしと伝わってくるときがあるというか。誠実な男性ほど順序立てて事を進めようとすると聞くから、比企谷くんがそうであっても特別不思議はない。

 

 であるならば、ここは友達になっておくのも一手よね。比企谷くんが思う通りに事を進めさせてあげるのも、私としては悪くはないし、素直に言えばありよりのあり。よし、なら、私がここで返すべき言葉は一つしかないわね。

 

「お前のことが好きだ。俺と——」

「いいわよ」

「え?」

「……え?」

 

 あっれー? あれ? 今、好きって言った? 比企谷くんが、私のこと、好きって言った? いや、いやいやいや、まさかそんなことあるわけないでしょう。さっきも思った通り、私が比企谷くんだったらこんなの絶対好きにならないわよ? まあ、さっきもなんだかんだといって比企谷くんが私のこと大好きなの前提で考えていたのは、ひとまず置いておくとして。そんなのは放り投げておくとして。

 

 比企谷くんが私に好意を向けている、なんて、私からしてみればそれはもう明日地球が終わるくらいありえないことで、だって、自分で言うのもなんだけれど、私、好かれるようなことなにもしてないわよ……? なんならちょっと思い返してみる? ……思い返すまでもなく圧倒的なまでに失礼なことしかしてないわね。すごい。

 

「……いい、のか?」

 

 戸惑いを隠せないといった表情で、比企谷くんに問われる。……これ、本当に私の妄想とか夢とかじゃなくて? 現実なの? 実際に起きていることなの? 正直、姉さんが変装しているとか言われても信じるわよ、私。

 

「え、ええっと、え? あ、あ、あの、その、いいか悪いかで言えばいいというか、いいの? あ、待ってっ、今ちょっと、頭が混乱していて、その、え? ……も、もう一回、言ってくれる、かしら? ちゃ、ちゃんと、聞き取れなくて、好き? と言ったかしら? 比企谷くんが? 誰のことを? 私、じゃないわよね? 私なわけないものね。知ってるわ、知ってる、そんなことは理解しているのよ、ええ。もちろん。で、えっと、誰が好きだと言ったのかしら……? ゆ、由比ヶ浜さん、とか……? それとも、一色さん、かしら……どちらにしても、そうね、私は出来る限り協力するつもりだけれど、どちらか定かではない状態ではそれも難しいわけで——」

「……お、落ち着け?」

「……少し、待って」

 

 くるりと比企谷くんに背を向けて、すぅはぁと何度か深呼吸をする。心臓の音は変わらないままだけれど、それはもう諦めるとして、多少は落ち着きが取り戻せた。

 

「……っ」

 

 ああ、なんだか涙が出そう。比企谷くんは由比ヶ浜さんのことが好きだとか一色さんのことが好きだとか、そんなことを口走ったせいかしら。それで心を痛める理由なんて私には一つもないと注釈しておくわね。その注釈、私しか読まないとか、どうでもいいのよ。

 

「えっと、ひきがやくん。もう、いらいはおわったのだし、もどろうとおもうのだけれど」

「いや、それはちょっと無理がないか……?」

「……こほん。それはそれとして、もう一度ちゃんと言ってもらっていいかしら。いえ、遮ったのは私なのだから、本来そんなことを言う資格なんてないのかもしれないけれど……その、えっと、私の幻聴でないのなら、聴きたい……です」

「なんで敬語……」

「どうでもいいじゃない、そんなこと! 早く言いなさいよ!」

「逆ギレかよ!?」

 

 いちいち細かいのよ。ばーか、ぼけなす、はちまん! ……私のばーか。ばーか、ばーか……もぅ、ほんと、ばか。

 

「はぁ……まあ、いいけど。じゃあ、仕切り直して」

 

 比企谷くんはそう言って、最初よりも柔らかい表情で同じ言葉を口にする。……なに、その顔。なんで最初より威力高そうなのよ。私を殺す気なの?

 

「雪ノ下、お前が好きだ。俺と付き合ってほしい」

 

 うわ、うわっ、うわぁぁぁー……ほんとだった。ほんとだった。ほんとだったー……。雪ノ下って言ったわよね? 今、はっきり雪ノ下って言ったわよね? 雪ノ下って私のことよね? 姉さんのことだったりとかしないのよね? それで陽乃さんと付き合うにはどうしたらいいんだろう、とか言いださないわよね? 文脈的に考えておかしいものね? 現代文学年三位がそんなミスしないわよね? これ、勝ったのよね? 私の勝ちなのね? そうなのね? 私、勝ったのね?

 

 ううぅうれしぃぃぃぃ。……嘘。今の嘘だから。全然嬉しくなんてないわよ。付き合いわするけど! 嬉しくなんてないわよ! ま、まあ、常識的に考えて? 比企谷くんが私の美貌諸々含めたスペックの高さに惹かれてしまうのは男性として当然のことだし? これも当然の結果というか? 私も比企谷くんなら妥協してあげてもいいし? ……はい。あの、嬉しい、です。ごめんなさい。

 

「……わ、私でよければ、付き合ってあげても、いいわね。ええ」

「なんだそれ……」

 

 ああ、もう。こういうときくらい素直にものが言えないの!? 人を不快にするだけなら空気洗浄機の方がまだ優秀よ? ほら! ほら、言うのよ! 今しかないのよ! 今、この勢いじゃなきゃ、あなたでは当分言えないわ! 私が一番それを知ってるのよ!

 

「……わ、わ、私もっ」

 

 いけっ、いけっ、いけっ!

 

「私もっ、比企谷くんのこと、だっ、大好きよ!」

 

 言った! ちゃんと言えた! よくやったわ、私! 褒めて! 比企谷くんも褒めて!

 

「……そ、そうか」

 

 うぐっ……大は余計だったかしら。いえ、でも、当分言わない分だと思えば、それで丁度いいくらいだろうし、嘘ではないのだから後悔はないけれど。……恥ずかしさはあるけれど。恥ずかしさはめちゃくちゃあるけれど。

 

「……ねぇ、比企谷くん」

 

 言うべきことを言い終えてすっきりしたからか、少し平静を取り戻した頭に浮かんできたのは好きだと言われる前に考えていた一つの言葉。

 

「私の、どこを、好きになってくれたのかしら……?」

 

 窺うように訊ねたのは、なんとなく答えを聞くのが怖かったから。比企谷くんが私の望む台詞をくれる確証なんてどこにもなくて、でも期待が胸を膨らませる。あなたならと思えた。あなただからこそと願った。あなただけはと祈った。

 

「……顔、とか」

 

 だから、あなたの言葉がなによりも痛かった。

 

「そう……」

 

 小さなため息が地に落ちる。自分のものだと気づいたのは、その落胆を確かに認識出来てから。

 

「……ごめんなさい、比企谷くん。やっぱり、少し、考えさせて」

「えっ——」

「先に、戻っているわね。今日はもう依頼はないでしょうし、全員揃ったら解散にしましょう」

 

 踵を返してその場から離れた。

 

 ——熱い。

 

 胸の奥が熱い。喉が熱い。せり上がってきたなにかが、瞳からじわりと溢れて、人気のない校舎の陰で子供みたいに膝を抱えてうずくまった。

 

「……顔、ね」

 

 私は、あなたがその顔でなくても好きよ。

 

 心の中でそう叫んだ。

 

        × × × ×

 

 生まれつき、異性からちやほやされることが多かった。恵まれた家庭で生まれたというのもその一因ではあるのでしょうけれど、もっと直接的な原因は私の見た目にあったのだと思う。

 

 かわいいと言われた。綺麗だと言われた。肌が白いね、瞳が澄んでるね、鼻筋が通ってるね、髪が、足が、指が、声が——あぁ、いらない。そんなの、いらない。どうだっていい。こんな見た目に生まれて、得だと思ったことなんて一度もない。逆恨みはされるし、変態に付き纏われるし、上履きはなくなるし、リコーダーは盗まれるし、体操服はよく分からない液体でべちゃべちゃになってるし、教科書は破かれるし、机には落書きされるし、いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもっ、私を不快にさせる種にしかならない。

 

 多分、喜ぶべきところなのよね。私がこういう容姿だったおかげで、私の好きな人を振り向かせる事が出来たって。そうやって、今まで嫌なこともあったけどこれからは好きになれる気がするわ。とか言って、綺麗に纏めるのが一番いいんだって、頭では分かってる。

 

 比企谷くんが顔が好きだと言ったことを怒っているわけじゃない。私だって、彼の顔は好きだし。もっと言えば、顔も好き。いろいろ好きで、比企谷くんが好きで、比企谷八幡が好きで、比企谷くんの顔が、たまたま比企谷くんの顔だったから好きで。

 

 顔とか、と言ったから、多分比企谷くんも私の好きなところは複数あるのだろう。それはとても光栄なことで、よかったと感じないといえば嘘になる。ただ、やっぱり私は、「雪ノ下雪乃が」と言って欲しかった。

 

 どこが好きか、と訊いておいて、こんなことを考えている自分は、どうしようもなく面倒な女なんでしょう。そうでしょう、そんなの私も自覚している。でも、面倒くさくたってなんだって、好きな人に言って欲しい言葉と、好きな人に言われたくない言葉があって、冗談っぽく「比企谷くんが私の容姿に惹かれるのは当たり前」とか考えたりもするけれど、そんな表面だけの話は聞きたくないのが本音で。

 

 だって、それじゃあ……私と同じ顔の人なら誰でもいいみたいじゃない。

 

 嫌だ。嫌なんだ。私じゃなきゃダメだと思っていて欲しい。メンヘラって言われたって、重いと罵られたって、私は唯一無二なんだって教えて欲しい。

 

 ……他人に自分の価値を求めるなんて、バカみたいだわ。バカね、私。恋をするとバカになるって聞くけれど、これがそういうことなのかしら。

 

 恋は自分本位、愛は他人本位なんて言葉もある。確かにと頷かざるを得ない。私は今……どこからどう見てもわがままなエゴイストだもの。

 

 からりと扉の開く音が耳に届く。と、出来た通路に駆け込むように、窓から入った風が抜けていった。

 

「……うす」

「……こ、こんにちは。比企谷くん」

 

 あー、だめ! やっぱり好き! ちょっと待ちなさい、私たちって今、冷静に考えなくても両思いで、それをお互いに把握している状態なのよね? なにそれ! 意味わかんないわね!

 

 ああ、もう。ああ、もう。ああ、もう! なんでこういうときに限って由比ヶ浜さんが三浦さんと遊びに行ってしまうのよ! 今、私、比企谷くんの顔を見てまともな会話が出来る自信がこれっぽっちもないのだけれど!

 

 どうすればいいのこの状況っ! い、依頼とか来ないかしら……別のことを考えていないとやってられないわ。ていうか、私って比企谷くんの告白を保留してるのよね。うわうわうわ、何様って感じじゃないそれ! 誰よそんなことしたの! だから私!

 

 しかもすごーく下らない理由で保留しているわけで、ああなんだか後ろめたくなってきた。そういえば、こういうときってどのタイミングで改めて返事をすればいいのかしら。比企谷くん、また告白してくれたりしないかしら。……流石にその思考はクズ過ぎない? だいたい今告白されたところでちゃんと答えられるか分かんないし、やっぱり私の心の整理が出来たら私から切り出すのが誠意というものよね。……やだな、怖いな。え、だって、そのときに比企谷くんがまだ私のこと好きかどうか分からないじゃない? この男、こう見えて結構見境がないというか、一部に好かれているし。私なんかより楽で物分かりのいい女性なんて沢山いるだろうから、いつまでもぐずぐずしていたら心変わりしてしまう可能性もあるのよね。

 

 嫌よ、そんなの。折角、両思いだと分かったのに、自分の不手際で付き合えなくなってしまうなんてことになったら、悔やんでも悔やみきれないわ。

 

 今言ってしまおうかしら。私が一言付き合いましょうと言うだけで済む話だもの。私の問題はそのあとどうにかすればいいし、後悔してからでは遅いもの。

 

 そうね……。そう。今、言いましょう。ちょうど、由比ヶ浜さんもいなくて二人きりなのだし、一色さんが来るという可能性もなくはないけれど、なら尚更のことその前に言わなければ。

 

 それに、たとえ今は容姿が好きでも、それは私の努力次第で変えていけるはずよ。私が努力して、私じゃなければダメだと思わせればいいのよ。最初から相手に期待するなんて、それこそ自分本位よ。比企谷くんにすべてを任せてはいけないわ。さあ、立ち上がるのよ雪乃! ……す、座ったままでもいいわね。

 

「……比企谷くん」

「雪ノ下」

「は、はいっ! あ、えと、なに、かしら……?」

「ああ、いや、悪い。なんか言いたいことがあるなら、先に言ってくれ」

「……え、あ、うん。そ、そうね……」

 

 もしかして、再度告白してくれようとしてくれていたんじゃ……ああ、だからもう、そういう人任せはやめると言ったばかりでしょう! 腹をくくるのよ!

 

「……えっと、比企谷、くん」

「なんだ」

「その、この前の……お返事を、しなければと思って」

 

 しなければってなによ……比企谷くんもそんな義務感みたいに言われたら困るでしょう。もう少し、落ち着いて、言葉選びを、慎重に……。

 

「……そのことか。あー、別に無理してすぐ決めてくれなくてもいい。その、いつまでも、待つし……」

 

 なによそれ、なによそれ! なんでそうやってすぐ人が喜ぶようなことばっかり言うの!? それでどうしてあのときは「顔とか……」なんて言ったの!? ……そこを責めるのは筋違いだけれど。

 

「……いえ、お気遣いは嬉しいけれど、今言わせてもらうわ。私があなたを待たせたくない、から」

 

 あああぁぁぁぁああ、顔熱いっ、あっつ、この部屋暑くないかしら? 窓を開け……そういえば開いてたわね。絶対見せられない、絶対見せられないわよ、こんな顔。

 

「えっと、比企谷くん。あなたの告白、受けるわ。あ、いえ、受けるというのは笑えるとかそういう意味ではなくって——」

「分かってる、分かってるから!」

「そ、そう……」

 

 軽く死ねるわね。なんだかくらくらしてきた。

 

「だから、その、付き合いましょう……男女交際、的な意味で」

「お、おう」

 

 わーーーいっ! 今日から比企谷くんの彼女! ……ダメね、ついついキャラが壊れてしまうわ。私、こんなキャラじゃないわよね。で、でも本当に嬉しくて、もう、なに? この、こういうの、なんて表現すればいいのかしら。そういうの、ユキペディアには載っていないのだけれど。

 

「でも、いいのか?」

「え?」

 

 なにが? 疑問に思って顔を動かすと、顔を真っ赤に染めた比企谷くんが視界に映る。私たち、同じ気持ちなのね……嬉しい。ではなくて、いいって、どういう……?

 

「いや、この前、悩んでる風だったっつーか、さっきもそんな感じ、だったから……」

「ああ……。ええ、いいのよ、もう。別に、たいしたことではないから」

 

 それがあっても付き合えて嬉しいのは事実だし、だったら悩む必要なんてない気もするし。

 

「俺があのとき、顔って答えたのがまずかった……のか?」

「っ……まあ、えっと、そうといえばそう、なのだけれど、本当にっ——」

 

 ぶつかった瞳が、じっと本心を見抜くように私を見ていた。多分、比企谷くんは言って欲しいのだ。教えて欲しいのだ。私があのとき保留してしまった理由を、訊きたいんだ。

 

 その気持ちを知ってしまったら私に選択肢なんてないようなもので、私はそっと目を逸らして、長机をぼんやりと眺めながら言葉を紡ぐ。

 

「……これは、私の独り言だと思って、聞いて欲しいのだけれど、その、私はあまり自分の容姿が好きではなくて」

 

 思い返したくない。思い出したくない。吐き気がするくらい嫌な思い出。過去の記憶。すべてに報復したとはいえ、それですっきりするなんてことはなかった。

 

「比企谷くんには、前に言ったわよね。小学生の頃のこと、中学生の頃のこと、この容姿のせいで、迷惑な思いをしたって」

「あぁ……だから」

「だから、というわけでもないのよ」

 

 確かに、それらも確かな理由になるのかもしれない。ただ、それだけでなくて。私はそういった記号を挙げて、いざとなったら助けてもくれないくせに好きだなんだと宣う輩が心底嫌いだし、あなたが私のなにを知っているのと怒りすら覚える。けれど、それよりもなによりも。

 

「私、誰かに必要とされたことがないのよ」

 

 他の誰かでも代用できるようなもので、私を褒める人は沢山いた。でも、私にしかないもの、私自身、私だけの価値を見出してくれるような人は一人もいなかった。

 

「笑っちゃうわよね。才色兼備とか、文武両道とか、これだけ持ち上げられて、誰一人私自身に興味なんてないんだもの」

 

 母でさえ、私のことなんて見てくれなくて、自分に都合の悪いときに出てくるだけ。だから、家柄とか容姿とか、学力とかそんな付加価値を褒められてもなにも嬉しくなくて、けれど、多分、一番嫌なのは——

 

「なのに私は、そのことを諦めてしまっていて」

 

 ——なにもしないくせに、嫌だ嫌だと喚く自分自身。

 

「……何度もごめんなさい。やっぱり、比企谷くんとお付き合いするのは、やめておこうと思うの」

 

 こんなのと付き合ったっていいことなんてない。

 

「私なんか選んではだめよ。あなたならもっと、素敵な女性に出会えるもの」

 

 ぽつり。雫が机を濡らした。

 

 捩れに捻れて、ごちゃごちゃに絡まってしまった私に、あなたならと、あなただからこそと、あなただけはと思わせてくれただけで、もう充分だ。

 

「……最後のはよく聞こえなかったな」

「なっ——」

 

 慌てて顔を上げると、比企谷くんは意地の悪い顔で、

 

「独り言なんだろ?」

「っ、それは、そう、だけれど……」

 

 言葉に詰まっていると、比企谷くんは立ち上がって、私の前まで歩いてくる。仕方なさそうに笑う比企谷くんを、場違いにも好きだなぁと思った。

 

「雪ノ下が誰にも必要とされなくたって、俺には雪ノ下が必要だ」

 

 どくん、と心臓が大きく脈打つ。比企谷くんは照れ臭そうに頭をがしがしと搔いて、

 

「——なんて台詞は、俺には言えない」

「……ふふっ、似合わない、ものね」

「おう」

 

 ちょっぴり嬉しかったのは、秘密にしておこう。

 

「だから、せめて、この前のお前の質問に、今度はしっかり答えようと思う」

「この前のって……」

 

 思い当たるものは、一つだけ。あのときの気持ちが蘇って、私はつい身体を強張らせてしまった。

 

「……雪ノ下の顔とかが好きだって、言ったよな。でも、それは顔立ちがどうってことじゃなくてだな……まあ、顔立ちもその、好きではあるんだが。それよりも、お前が俺に見せてくれる表情が、俺は、いい……と思う。その表情は、同じ顔でも、雪ノ下雪乃にしかできねぇよ」

「ふふふっ……」

「なんだよ……」

「ふふっ、いえ、ごめんなさい……その、なんだか、かわいくて」

「はぁ!?」

 

 好きだとはっきり言うのがそんなに恥ずかしいかと、自分のことなんて棚に上げて笑ってしまった。こうして笑えるのも、彼の言葉があってこそ、なのかしら。

 

「……つ、続けて?」

 

 肩の震えが収まらないまま続きを促すと、比企谷くんは調子が狂ったとでも言いたげな顔で、それでも言葉を続けてくれる。

 

「あー……、雪ノ下はさ、容姿とか家柄とか学力とか運動神経とか? そういうのは付加価値で、自分自身じゃないんだって言うけどな、俺はそうは思わない」

「でも……同じことを出来る人、同じような家柄や或いは私よりももっと裕福な家庭は探せばいくらでもあるわよ」

 

 口を挟むと、比企谷くんは特に顔色も変えずに言葉を返す。

 

「そりゃそうだろ。そもそも、誰よりもなんて、誰にも出来ないなんて、嘘くさい。でもな、誰かとまったく一緒の人間なんていない。俺が二人いたら嫌だろ」

「くふっ……ふふっ、私は、構わないけれど」

 

 うん。比企谷くんが二人。悪くはないわね。

 

「っ、俺は嫌だ。で、そういう付加価値こそが、その誰かが誰であるのかを作ってるんだと思う。俺は別にお前が成績優秀じゃなくなっても、運動神経が悪くなっても、顔がブサイクになっても、縁起でもねぇけど……家が潰れたりしても、気持ちが変わらない自信が一応あったりはする」

「……私も、その自信なら負けないわよ」

 

 微笑みを返すと、比企谷くんはふいと目を逸らしてしまう。でも、そんな比企谷くんがやっぱり好きで、笑みは絶えなかった。

 

「……でも、俺がその、好きになったのは、勉強が出来て、運動も出来て、容姿端麗で、家が裕福なお前なんだよ。猫が好きで、パンさんが好きで、にゃーとか言って話しかけちまうお前が、由比ヶ浜とか一色に甘くて、俺に楽しそうに毒舌を吐いてくるお前だから、なんだ」

「待って、今なにか聞き捨てならないことを言った気がしたのだけれど」

「そういうのいいから!」

 

 でも、あの、そうやって誤魔化さないと、流石に恥ずかし過ぎて顔を見ていられないというか。え、なに、いまの? プロポーズより恥ずかしいんじゃないの?

 

「……付加価値があったから、なんだよ。付加価値ごとって、思ってるんだよ。今のお前を、俺は、その、好きに、なった……だから、もう一度、言うぞ」

「え——」

「雪ノ下。お前が、好きだ。俺と付き合ってくれ」

 

 お前が好きだと言われた。思えば、最初から言われていたのだ。お前だと、雪ノ下雪乃だと、私なんだって彼は最初っからそれだけを言っていて、私の悩みなんて本当に必要のないことで、本当に……バカみたいだわ。

 

「はい……っ」

 

 

 

——おまけ——

「ところで、猫やパンさんの件なのだけれど」

「いや、そこ今更突っ込むのかよ……」

「そもそもどうして……猫については見られてしまっているから仕方ないとはいえ、パンさんは」

「いや、分かるだろ。バレバレだよお前、バレバレ。由比ヶ浜も一色も知ってるっつーの。お前が方向音痴なのも含めてな」

「……嘘よね?」

「事実だ」

「……聞かなかったことにしましょう」

「現実逃避しやがった……」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あまのじゃくな雪ノ下さん

氷室さんパロディの話。比企谷くん視点。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 超能力。分厚い壁の向こうにあるものを動かずに知覚するだとか、手を触れずに物体を移動させるだとか。科学では説明できない能力のことを総じてそう呼ぶ。

 

 異常な能力でありながら、その存在はテレビのバラエティ番組や小説、アニメを通じて広く知れ渡っており、超能力とはなにかと問われれば、誰もが先と似たような解答をするだろう。まあ、バラエティ番組の超能力に関してはヤラセだろうというのが、俺の認識だが。

 

 それはともかく、そもそもどうして俺がこんなことを考えているのかについてだ。超能力なんてバカげた空想について思索に耽っていたのには、もちろん理由がある。

 

 ちらと視線を動かせば、ハーフアップにした黒髪を微かに揺らして読書をする女生徒が瞳に映った。

 

 容姿端麗、文武両道、才色兼備、ありとあらゆる褒め言葉を並べてまだ足りない。総武高校一の美少女にして謎の部活の部長——雪ノ下雪乃。

 

 ……なんだこのラノベ感は。それに加えて毒舌だってんだから、まるで戦場ヶ原みたいなやつだ。これで筆記用具を凶器として隠し持っていたりしたら、親しみを込めてガハラさんと呼ぼうか迷うまである。そんな呼び方をした暁には並みのぼっちなら死んでしまう口撃を受けること必至なので、絶対に言わないが。

 

 で。

 

 そんなガハラさん、もとい雪ノ下なわけだが、ここ最近こいつと会話をすると妙な現象が起きるようになった。……いや、現象というか、幻聴というか。

 

 そんなことを考えながらぼうっと雪ノ下を見ていると、椅子の端と端とはいえ流石に気づいたのか、雪ノ下はぱたんと本を閉じる。

 

「……さっきから、不躾な視線を感じるのだけれど、なにか用かしら?」

(わーい、今日は比企谷くんに自分から話しかけられた! ふふっ、髪型を変えたおかげで話し掛けるきっかけを作れたのがよかったわね! 昨日の私を褒めてあげなくちゃ!)

「……ああ、いや、悪い。その髪、珍しいと思ってな……」

 

 というわけである。というわけもなにも、自分でも整理しきれていないから、どういうわけなんだってばよって感じなんだが。……いやほんとにこれなに?

 

「ああ、そうね。そういえば、今日は髪型を変えてきたのだったわね。あなたに言われるまで忘れていたわ。……あなたが見惚れてしまうのも無理はないけれど、つい通報しそうになるから抑えてもらってもいいかしら?」

(あー、もう、ダメよダメ! 比企谷くんが私を見てくれるのはとーっても嬉しいけれど、そんなに見られたら嬉しくて死んでしまいそうになるからダメ!)

 

 冷たい声に反して、ワンテンポ遅れて頭に響いたそれは喜色満点で、必至に堪えないと頬が緩む。

 

 いや、分かってはいる。分かってはいるんだ。普通に考えたらこんなのは幻聴で、あの雪ノ下がこんなことを考えているだなんてありえない。いつも毒舌を吐かれて俺の心が疲弊し生み出した産物である、というのがこれを初めて聴いたときの俺の見解である。

 

 おかしな点があるとすれば、別に俺はこいつの毒舌に疲れてもいなければ嫌気も差していないということと、こんな風になればいいと想像したことすらないのにいきなり脳みそがそんなお節介を焼くのかということくらい。

 

 我ながら穴だらけの見解で笑ってしまう。……とにかく、こんな声が聴こえたからといって「俺に唐突に読心術が宿って、雪ノ下の心の声が聴こえるようになったんだ」なんてところまで勢い余って考えたりはしなかった。

 

 しかし、数日の検証によって導き出された答えはまさにそれそのもので、俺はどうすればいいのだろうと悩んでいるのが今の状況というわけだ。こうして脳内でいもしない誰かに語りかけてる時点で、俺の焦りも窺える。

 

 ……まじでどうしよう。

 

「比企谷くん、聴いているの?」

「あ、あぁ、聴いてる聴いてる。死なれるのは困るし、なるべく抑えるようにするわ……」

「えっ?」

「え……?」

 

 ……あれ? これもしかしなくてもやっちまったんじゃねーの?

 

「あ……あー、ほら、俺の腐った目で見てたらお前まで腐っちまうみたいな、そういう意味な」

「え、あ、そ、そういう意味ね……そうね、自覚があるのはなによりだわ」

(びっくりしたー! 口に出してしまったのかと思ったわ……あー、びっくりした。それより比企谷くんの自虐癖には困りものね。あなたの瞳も、私はすごく好きなのに……)

 

 うぐっ。……なんだこれ、地獄か? すごく好きなのに、じゃねーよ。恥ずかしいから本当にやめてもらっていいですか。マイエンジェルゆきのんが今日もしんどい……天使は二人いたのだ。

 

 雪ノ下と初めて話したときは、なんなんだこの冷酷無比毒舌高飛車女は……と憤慨した記憶があるが、それも今ではガラッと変わってしまっている。

 

 というのもこいつ、実際にはそんなに悪いやつでもないのだ。近寄り難いのは言わずともだが、部活に入ることで話すようになり、依頼をこなしていくうちに雪ノ下雪乃という女のことを俺は多少理解できたつもりでいる。……この惨状を見るに、本当に多少だったようだが。

 

 ともあれ、そうやって時間をかけて形作られた俺の中の雪ノ下は、冷酷でも冷徹でもなくて、それなりに自信がなくて、猫とパンさんが好きで、毒舌を除けばはっきり言ってただ頭のいいだけの女の子になった。

 

 美辞麗句が雁首揃えて土下座するような圧倒的美少女だって、女の子なのだ。そんなの当たり前のことで、うわべだけを撫でるような言葉なんかじゃ人間性は分かりやしない。

 

 言葉の放つ煌びやかさと華やかさが雪ノ下雪乃を隠してしまうから、俺はこいつのことなんてなにも知らなかった——でも。でも、顔を合わせたから、言葉を交わしたから、同じ空間で過ごしたから、今なら、こう言える。

 

 

 ——今は、雪ノ下雪乃を知っている。

 

 

「比企谷くん、なんだか今日はぼうっとしているわね」

(私の話、つまらないのかしら……さっきから全然こっち向いてくれないし。私が言い出したことだけれど、なにもそこまで頑なに逸らしておくことないじゃない。……はーあ。もっと、お話ししたいなぁ)

 

 

 文字通り、心の中まで。

 

 

        × × × ×

 

 という感じで締めて、パッとこの現象が止まればよかったのだが、どうやら止まってくれないご様子。由比ヶ浜が三浦たちと遊びに行ってしまったせいで二人きりなため、ぶっちゃけ居心地が最悪である。八幡もうお家帰りたい。

 

「ちょっと、悩みがあってな……」

「あら、あなた悩むことが出来たの? まるで人間のようね。やるじゃない」

(……悩み? 比企谷くん、大丈夫かしら……体調を崩して学校を休まれたりしたら困るのだけれど)

「あり……俺が人間じゃない前提で話を進めるのはやめろ」

 

 心の声が俺に優し過ぎてついそっちに反応したくなる。鞭で叩かれながら飴を舐めさせられている気分。同時にやんな、分けろ。

 

「大丈夫、今からでも人間になれるわ。丁度、ここは奉仕部。悩みを話してごらんなさい」

(今なにか言葉に詰まらなかった? もしかして結構深刻な悩みなのかしら……不安だわ。この人、黙って抱え込む癖があるし、大事になる前に聞き出しておかないと)

 

 なんでこんなに優しいのゆきのん。ゆきのんが優しいのってガハマさんといろはすにだけじゃなかったの? いや、さっき思った通り、俺だってこいつがただの冷徹女だなんて思っちゃいなかったよ?

 

 こちらを労わろうという気持ちを感じたことはあったし、俺の身を案じるような言葉を掛けられたことだってある。だから、雪ノ下が実はとても優しい女の子で、あの毒舌や態度は自己防衛のためであったと言われれば、納得できないこともない。

 

 しかしだ。しかし、これはいくらなんでも、その、なんだ……デレ過ぎじゃないですかね。うわぁぁぁあああああ! 死にたい死にたい死にたい死にたい。同級生の女子に優しくされて、「こいつ俺にデレ過ぎだろ」なんて反応していいの中学生までだから! 俺の中学時代の話はやめろ! 俺が死ぬ!

 

 何気ない黒歴史が、八幡を傷つけた。

 

「いや、大丈夫だ……たいしたことじゃないから」

 

 本当に。たいしたことじゃないんで。ていうか、お前の心の声が聴こえてきて平静を保つのが難しいとか、そんなこと言えるわけねーだろ、いい加減にしろ!

 

 ……はぁ。まあ、とはいえ、個人的には都合のいい話ではある。こうして雪ノ下の気持ちが聴こえるようになったおかげで、俺の中でストップをかけていた感情が表に出しやすくなった。

 

 後ろめたさや、罪悪感みたいなものはないとはいえない。だって、それじゃまるで、相手が自分に好意を持っていることが分かったから告白したみたいだから。

 

 ……まるでもなにも、その通りだな。そもそも俺は、誰かに好意を抱いたところで、告白なんて出来る人間じゃない。何度も勘違いして、何度も痛い目にあってきた。もう二度とあんな間違いは繰り返さないと誓った。

 

 だから、どれだけ優しさを向けられてもそれはそいつ自身が優しいだけで俺に優しくしてるわけじゃないんだと思えたし、勘違いも避けてこられた。

 

 故に、それが勘違いではなくても、たとえ俺自身の純粋な好意であっても、言葉にするのは躊躇してしまうし、雪ノ下の態度から好意なんて感情がないか閉まっておこうと諦めるのは難しくなかった。

 

 それが、蓋を開けてみればこれだ。

 

 雪ノ下は、俺のことが好きだった。

 

 俺の好きな人は、俺のことが好きだった。

 

 こんなのズルじゃねーかと思う。人の心を覗き見するなんて、卑怯だと思う。安全なのが分かったから想いを伝えるなんて、最低だと思う。

 

 でも、俺にはそんなやり方しか出来なくて、もうそんな自分にも慣れてしまっているから、これでいい。

 

「……本当にたいしたことではないの? そうは、見えないけれど……」

(……なんだか調子が悪そうだわ。話してくれないのは仕方ないにしても、今日はもう終わりにしようかしら。……比企谷くんとお話する時間が減るのは、少し、辛いけれど)

 

 雪ノ下雪乃は、容赦ない毒舌を吐く苛烈な女だ。けれど、中身は人を思いやる気持ち持ち、好意を向ける相手の行動に一喜一憂する可憐な少女だ。

 

「あの、比企谷くん……? あなた、顔色が悪いわよ……なんだか赤くなっているというか。悪いことは言わないから早く帰って寝たほうがいいわ」

 

 どちらの雪ノ下も雪ノ下で……あれ? ……今の、心の声が聴こえなかったような。

 

「……送っていったほうがいいかしら。大丈夫? 吐き気とかはない? 悩みがなにかは知らないけれど、あまり一人で悩み過ぎないようにね。……あなたを心配する人だって、いるのよ」

 

 ……誰だ。雪ノ下雪乃は容赦ない毒舌を吐く苛烈な女とか言ったやつ。まるっきり嘘じゃねーか。つーか、なんだこれ。どうなってんだ、なんでこんな優しいっていうか、急にどうしてなにも聴こえなくなった?

 

 ……あれが言葉に隠された本当の気持ちなのだとすれば、これは素直な言葉だと考えればいいのか? 雪ノ下が本心から俺を心配して、あたふたしていると? そんなバカな話があるか?

 

「黙っていては分からないわよ、比企谷くん。……もしかして、声を出せないくらいに調子が悪いの? ど、どうしよう……救急車とか、呼んだほうがいいのかしら。ひ、比企谷くん……? ねぇってば……」

 

 どうやら、そんなバカな話らしい。っていうか、いい加減返事をしなきゃまずい。取り乱す雪ノ下に驚いてる場合じゃなかった。

 

「だ、大丈夫だから……落ち着け」

「本当に……? なんだか今日のあなた、変よ……?」

 

 変なのはお前だ……。いや、でも実際どうなんだろうか。雪ノ下雪乃は普段、こんな言動をしないやつだっただろうか。

 

 改めて考えてみると、見覚えがないではない。というか、最近になって増えてきたようにも思う。……なんでそのときの俺は平気だったんだ?

 

 ……なんか高度な皮肉を吐いてるのだろうと思って、適当に応答していた気がする。なんのことはない。雪ノ下のイメージが初期から変化し過ぎて、俺がついていけてないだけの話だった。

 

「本当に大丈夫だから……そんなことより、話がある」

「……話? 比企谷くんが、私に?」

(なにかしら……なんだかとても真剣な顔をしているけれど。もしかして: 告白。きゃ、きゃー! 告白なの? 告白なのねっ、比企谷くん!? いいわ、その挑戦、この雪ノ下雪乃が受けて立ってあげる。あなたが初めて勝つ相手よ! 光栄に思いなさい!)

 

 勝ち確じゃねーか! ……ああ、なんだか気が抜ける。っていうか、本当に早く終わらせたい。もちろんちょっと惜しいなって気持ちもあるんだが、それを上回る勢いでやっぱり罪悪感が強い。

 

 こういうものは得てしてなにかをイベントをこなせばなくなるものだ。ゴールは告白成功と見て恐らく間違いない。……そういうわけで、覚悟を決めようと思う。

 

「雪ノ下……」

「え、ええ……」

 

 何度も言うが、この気持ちは嘘じゃない。雪ノ下が好きだと言ったから、俺は雪ノ下を好きになったわけじゃないんだ。結果として気持ちを知ってから伝えることになってしまったものの、この気持ちを抱いたのは、それよりも随分と前のこと。

 

 雪ノ下雪乃は、優しくてかわいい女の子だ。俺は少し前の雪ノ下も悪くないと思うが、それはさておき、時間をかけて繋いできた関係を、とても大切に思う。

 

 

「……雪ノ下雪乃が、好きだ。俺と、付き合って欲しい」

 

 

 想像より遥かにスムーズに口が回って、自分でも驚いてしまった。ああ、そうか。俺は本当に雪ノ下が好きなんだな。当たり前に感じていたことなはずなのに、どこかはっきりしていなかったのだろう。言葉にすると、しっかり輪郭が浮かび上がる。

 

 雪ノ下が好きだという気持ちが、心の中で一つの形となっていく。それを感じながら、雪ノ下に改めて目を向けると、彼女は自分でしっかり予想まで立てていた癖に驚きに目を見開いて、涙まで流しながら、そっと答える。

 

「はい……」

 

 なにも聴こえなかった。すべて終わったのだ。わけのわからない現象に、終わった今、礼を言おう。神様がいるのなら、神様に。

 ありがとう。

 

        × × × ×

 

「雪ノ下……」

 

 それからしばらくして、ようやく落ち着いてきた雪ノ下に声を掛ける。すると、雪ノ下は目を泳がせながらもこちらにしっかり顔を向けて、

 

「な、なにかしら……?」

(わーい! わーい! 今日から比企谷くんの彼女だー! え、これ夢じゃないわよねっ? 私、好きって言われたのよねっ? 嬉しぃぃぃいいいいい! きょ、今日とか、一緒に帰ったりしてもいいのかしら! いいのかしら!)

 

 あっれー? 終わってねーのかよ!

 

 

 

              —おわり—



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あまのじゃくな雪ノ下さん2

つづきです。


 

 窓から見上げた空には月が輝いていた。

 

 夜更けのリビング。照明が点いているせいか他にはなにも見えないが、外へ出て少し暗いところへ行けば、きっと星も瞬いているのだろう。

 

 視線を外してちらりと壁掛け時計を一瞥すると、短針はちょうど一を指したところだった。深夜一時ともなれば、もう真夜中である。いつもなら俺も、寝てはいないかもしれないが自分の部屋には戻っている時間。そもそも、夜中に部屋に戻るというのは、このあと寝るという気持ちの現れだろう。自室は基本的に作業には向かない。飲み物を取りに行くにも面倒だし。なにをするにしても、リビングのほうが便利だ。さすがリビングという名前なだけのことはある。

 

 では、家族の寝静まった静かなリビングで、部屋に戻りもせずに俺はなにをしているのかだが……特に作業をしているというわけではない。

 

 カーテンを閉めてソファにもたれると、はぁと意図せずため息が漏れた。天井を見つめながら頭に浮かべるのは、明日——もう今日だが——のこと。明日は日曜日。今までの俺なら特に予定もなくニチアサを観て昼寝をし、サザエさんを観て迫る月曜日に憂鬱になるのが流れだが、明日は珍しく予定が入っている。

 

 それ自体は特に問題ではない。土日に予定があるとか昔の俺なら考えられなかったし、なんなら考えたくもなかったまであるが、それはそれ。

 

 いくら変わらないことを決意しようが、どう足掻いても人は変わってしまう。時間や関わった人間によって、変えられてしまう。関わる人間なんていなかった俺にもそれなりに会話をする相手が出来て、環境の変化が自身の変化に繋がった。そう、俺は変わったのだ。日曜日に予定があることを悪くないなどと思えるくらいには。

 

 だから、問題はそこではなく。その予定の内容でもない。

 

 楽しみというほどではないが——いや、ここで嘘をつくのはやめよう。俺は明日が楽しみだ。それは紛れもない事実で、予定が決まった金曜に小町から「なんかテンションキモいよ」と言われた程度には楽しみにしている。

 

 なら、なにが問題なのか。これは、明日の予定とはあまり関係がない。まったくというわけではないが、そこはあくまでも別の話。

 

 ふ、と視線を落とせば、テーブルの上に置かれた暇つぶし機能つき目覚まし時計、もといスマートフォンが目に映る。これもまた、今では本来の用途通りに使われることのほうが多くなっているが、それはさておき。

 

 手に取ったスマートフォンのロックを解除して、LINEを開く。と、トーク画面に表示されたのはつい三、四時間ほど前まで文字のやり取りをしていた相手との履歴。

 

『明日は十時に駅でよかったよな?』

『えぇ』

『了解』

『分かっているとは思うけれど、くれぐれも服装には気をつけてね』

『……善処する』

『落第点なら、明日はあなたの服を買うところから始まると思いなさい』

『そういうお前は大丈夫なのか?』

『問題ないわ。私が着ればなんとなくそういうファッションに見えるもの』

『それでいいのか』

『比企谷くん相手なら、このくらいがちょうどいいでしょう』

『そういうのは俺に聴こえないところで言って欲しいんだが』

『? それでは意味がないじゃない』

『意味なんてなくていいんだよ』

『では、明日は期待しているわね』

『無視かよ……。んじゃ、また明日な』

『ええ、また明日。おやすみなさい』

『おやすみ』

 

 と、まあ、これだけ見ると一見普通の会話だ。雪ノ下とLINEで連絡を取っている、という点がすでに普通じゃない気もするが、い、一応、その、こ、恋人になったわけだから、これはおかしくない。おかしくない……そのはず、多分。

 

 というか、そんなことはどうでもいい。俺の頭を悩ませるのは、雪ノ下とLINEで連絡を取っていることではないし、そもそもLINEですらない別のアプリにある。

 

 一度ホーム画面へ戻ると、ソーシャルゲームがほとんどを占めるアプリの一覧の中にハート型のアイコンをしたあからさまに怪しげなアプリがある。それをタップして開くと、画面に表示されたのは……

 

【そうよ! 明日の私と比企谷くんの初デートは午前十時から! 駅で待ち合わせ! 私と比企谷くんの初デートは‼︎】

【比企谷くんの私服は何度か見たことがあるけれど、落ち着いていてとても比企谷くんに合っていると思うのよね。……でもそれはきっと、小町さんが選んだもの】

【ふふっ、こうすれば、合法的に比企谷くんの着る服を私が指定出来る! もしかして私、天才なのっ? ふふふふふふ、比企谷くんが……私の選んだ服を着て……その格好で私とデート……ふふふふふふふふふふふふ】

【心配には及ばないわよ、比企谷くん。この私があなたとのデートの準備を怠るわけがないじゃない。明日の比企谷くんとのデートのために悩みに悩み抜いたコーディネートに問題なんて絶対にないわよ! 比企谷くんとのデートのために! 比企谷くんとのデート!】

【で、でも、まあ、もし……もしも? もしかしたら? その、比企谷くんの好みに合っていない可能性はないでもないわけで? だから、その、ちょっとくらい、ハードルを下げておいても、バチは当たらないわよね……】

【比企谷くんに聴こえなければ意味がないのよ! 精々、手抜きコーデで来ると思っていればいいわ。……絶対にかわいいって言ってもらうんだから! ふふ、ふふふ、比企谷くんが私にかわいいって……響きだけで幸せね】

【くれぐれも! くれぐれも期待し過ぎないように! 私のことが大好きな比企谷くんが私に期待してくれるのはとーっても嬉しいけれど、あなたに喜んでもらうためにも!】

【おやすみ……えへへぇ……おっと。この時間が一番幸せね。何気なく、当たり前のようにするおはようとおやすみ……一日が比企谷くんのおはようで始まり、比企谷くんのおやすみで終わる幸せ。おかげで毎日安眠の日々が続いているわ。ありがとう、比企谷くん。……おやすみなさい】

 

 ……頭が痛くなってくる。いや、嬉しいには、嬉しいのだ。あの雪ノ下が俺と同じように俺とのデートを楽しみにしてくれている。いくらか「比企谷くんとのデート」を強調し過ぎな感はあるものの、そのことは純粋に嬉しい。しかし、これは……。

 

 そっとアプリを閉じると、アプリの名前が目に映った。

 

『雪乃の心の部屋』

 

 その名が示す通り、これは『雪ノ下雪乃が返信したときに考えていたことを表示するアプリ』である。にわかには信じがたいが、事実だ。俺だって、こんなものをすぐに信じたわけではない。いくら雪ノ下と会話しているときに雪ノ下の本音が聴こえるようになったからといって、俺は「おっ、文での会話も分かるのか〜」などと容易に受け入れられるような精神構造をしていない。

 

 だから、これも前回と同様、何回かの検証をしたわけだが……検証なんて、しないほうがよかったかもしれない。結果として信じざるを得なくなってしまったのだから。

 

 いやもうほんとになにこれ? なんなの、これ? この呪い? からは、どうやったら解放されるんだ?

 

 実際のところ、あれやこれがあったから助けられた場面がなかったわけではない。俺は雪ノ下の心の声が聴こえたから——その道が安全だと分かったから想いを伝えることが出来たし、こうして雪ノ下とデートをする仲になれた。

 

 だから、その件に関しては感謝している。しているのだが……いかんせん罪悪感がなぁ。人の心を盗み見るというのは、とにかく精神が消耗する。なら見なければいいという話なのだが……ほら、いつでも見れる場所にあったら見ちゃうじゃん? これは不可抗力なんですよ!

 

 どうすんだ、これ……。

 

「…………はぁ」

 

 本日何度目かのため息が口から溢れ出る。が、それはこの問題が由来ではない。どうする、とは言っても、実はもう、どうするのかは決めてあるのだ。

 

 それこそが、俺がこんな時間まで起きている理由。より正確に言うならば、俺がこんな時間になっても寝られない理由である。

 

 俺には、雪ノ下雪乃の心の声が聴こえる。

 

 これがどうしてなのかとかはもう散々考えたし、今更理由が分かるとも思っていない。神様のいたずらだとでも考えておけばいいだろう。重要なのは、そういう事実があるということだけだ。

 

 心の声が聴こえるようになってからというもの、嬉しいことばかりだ。雪ノ下に想いを伝えられた、雪ノ下と付き合えた、雪ノ下とデートへ行ける。

 

 ——雪ノ下の想いを聴くことが出来る。

 

 きっと、それが一番嬉しい。俺は前の雪ノ下が嫌いじゃない。顔を合わせれば笑顔で毒舌を吐いてきて、いつだって俺を罵ることを忘れず、けれど時折ふと柔らかい顔を見せて、名前に不似合いな暖かい表情で頬を緩め、不器用な優しさを向けてくれる。そんな雪ノ下を、俺は好きになった。

 

 語ろうと思えば、いくらでも語れるのだと思う。心の声なんて聴こえなくたって雪ノ下は魅力的で、俺はいつも目を奪われては視線が釘付けになってしまっていたから。

 

 凛とした立ち振る舞いも、猫とパンさんのことになるとタガの外れるところも、由比ヶ浜や一色に押されると弱いところも、斜陽の中で静かに文字列を追う横顔も、紅茶を淹れた湯呑みをどこか照れ臭そうに渡す様も。どれもこれも、雪ノ下の心の声が聴こえる前に俺が好きになった雪ノ下の一面だ。

 

 好きになったやつが自分のことを好きなんだと確信出来るのは、とても幸せなことで、とてつもない嬉しさがある。聴こえるようになってよかったと思っている自分も確かにいる。

 

 でも、やっぱり、そうじゃないんだ。

 

 どれだけ嬉しくても、どれだけ幸せでも、俺がいくら卑怯な男でも。そんな卑怯な幸せを享受していてはいけない。なにより、していたくない。

 

 それは、雪ノ下に誠実じゃないから。俺みたいな人間が誠実さにこだわるなんて、自分でも笑ってしまうくらいだが、そうありたいというのが俺の正直な気持ちだった。

 

 好きな相手だから、相手の気持ちが気になってしまう。知れたらいいのにと、そう願ってしまう。けれど、本当に知ってしまうことだけは、許されてはいけないのだと思う。

 

 手が届かない故に欲しくなるものは、手の届かないままでいいのだ。

 

 雪ノ下が俺のことを本気で好きでいてくれているというのは、もう、充分に分かったから。保身ばかり考えてしまう俺だけど、ここからは俺だけの力で雪ノ下と付き合っていきたい。

 

 心が分からなければ喧嘩をするかもしれない。すれ違って、いつのまにか大きな溝が出来ているかもしれない。言って欲しいことは言えず、言われたくないことを言ってしまうかもしれない。

 

 いつか、別れてしまうかもしれない。

 

 それは、すごく嫌だけど。出来れば、このままずっとあいつの隣にいれたらと思うけど。あいつにないものを使って、俺だけがあいつの心を覗き見て、そうやって安全に進んでいく未来なんて、俺は欲しくないから。

 

 

 それはきっと——本物じゃ、ないから。

 

 

 対等であるべきだ。俺と雪ノ下は同じ条件で、付き合っていくべきだ。持つものに差はあれど、同じ人間なのだから。これを隠して生きていくことは、雪ノ下に対する侮辱ですらある。

 

 だから。

 

 

 だから、明日、俺はこの力のことを——雪ノ下に告白する。

 

 

 それでこの力がさっぱりなくなるかどうかは分からない。もしかしたらこのままかもしれないし、もしかしたらなくなるかもしれない。どちらにせよ、だ。

 

 俺が、雪ノ下の心を勝手に盗み見ていたことを。俺がそういう人間だということを、ちゃんと伝えたい。雪ノ下に俺の心は見えないから、俺が言わなければバレないことだから、それだからこそ、伝えるべきだ。

 

「……もう、そんな時間か」

 

 時刻は午前五時過ぎ。立ち上がってカーテンを開けると、東の空が白みだしていた。今寝たら、確実に寝坊するだろうな……。

 

 ソファへ座り直して、淹れたきり口をつけていなかったコーヒーで乾いた喉を潤した。

 

 砂糖とミルクを入れ忘れたコーヒーは、ただただ苦かった。

 

        × × × ×

 

 パッと、スマホの時刻表示にゼロが並ぶ。そのまま周囲へ向けた視線には、待ち人の姿は映らない。

 

「……珍しいな」

 

 ぼそりとつぶやいて、続けざまに息が漏れた。珍しいもなにも、そう感じられるほど雪ノ下と待ち合わせをしたことなんてないだろ。雪ノ下を含めた数人でとか、奉仕部でとか、そういうのは多少あったが。

 

 時刻になっても——時刻までに、か。雪ノ下雪乃が余裕を持って待ち合わせ場所に到着しないということに珍しさを感じるのは、結局のところ俺のイメージでしかない。あいつが実際には時間にルーズな性格であったとしてもなんらおかしくはないわけだ。

 

 だから、これは珍しいというよりも……

 

「……意外、か」

 

 らしくない。俺の中の雪ノ下は遅刻をしないという、そういう話だった。まあ、恐らくはなにか——例えば、道に迷っているだとか、そういうアクシデントがあったんじゃないかと思うが。

 

 もうしばらく待って来ないようなら連絡を入れるか。スマホをポケットにしまおうとすると、そのタイミングでスマホが震えた。

 

『少し、遅れるわ』

 

 事後連絡かよ。ともあれ、連絡出来る状態であることは分かったのでよしとする。

 

「了解……っと」

 

 さて、暇をどう潰そうか。もうすでにここに着いて十五分ぼーっとしていたから、このままぼーっとしているのも悪くはないが、いかんせん時間の進みが遅い。なにか考えていたほうが多少はマシだろう。なにか……遅刻の理由でも考えるか?

 

 そもそも、雪ノ下の性格からして、遅れるときはそれが分かった時点で連絡を寄越しそうなもんだよな。それがなかったということは、ギリギリまで遅れるかどうか分からなかったか、あるいは、連絡出来なかった事情があるのか。それとも、連絡したくなかったか。

 

 正直、三番目が一番ありそうだなと思う。プライドの高い雪ノ下のことだから、時間に遅れるということを俺に伝えるのが嫌でギリギリまで粘り、どうあがいても間に合わないのが決定した瞬間——つまり、待ち合わせ時刻ちょうどに連絡してきた。

 

 我ながら完璧な推論である。ぶっちゃけ容易く想像出来るし、むしろこれ以外にないとすら思う。

 

 なら、本題の遅刻理由だが……こっちは難しい。なにしろヒントがほぼない。今の推論を前提に考えると、遅刻することを俺に言いたくないということから自身のミスでそういう状態に陥ったと推測することは出来るが……もしそうだとしても、そのミスが道中で起きたのか家で起きたのかが分からない。

 

 道中で起きたと仮定すれば、猫に出くわしたとかが妥当か? まだ余裕はあると猫と戯れているうちに時間を忘れて今急いでこちらに向かっているとか。かわいいがすぎる。

 

 家の中で起きたと仮定するとどうだ。寝坊……は、これも俺のイメージ通りではない。昨日のLINEから、服装は事前に決めていたようだし。とすると、やっぱり家の中でなにかが起きた可能性は低いと考えるべきか。

 

 そうなると、猫が結論になってしまうわけだが、それはあんまりにもあんまりじゃないか。俺より猫を優先することに不思議はないが、遅刻より猫を取るのはやっぱりらしくない。ただこれを否定すると、雪ノ下雪乃が遅刻した理由推理はここで手詰まりとなってしまう。

 

 ……多分、あのアプリを見れば分かるんだろう。

 さっきの遅れるという連絡を送るときに、雪ノ下は確実に遅刻理由を頭に浮かべている。本音ではそれを暴露しながら、めちゃくちゃ謝っているかもしれない。そんな雪ノ下の姿は新鮮で、ちょっと見てしまおうかななんて気になってくる。

 

 が、それはダメだ。

 

 あのアプリはもう封印する。対面して会話をするときに本音が聞けてしまうのはもう不可抗力だから諦めるしかないが、これは俺が見なければ済むことだから。

 

 ………………耐えろ。

 

 と、そんな調子でズボンに入ったスマホへ伸びる手を抑えているうちにどうやら結構な時間が経っていたらしい。強い誘惑に負けてしまいそうになっていたところで、凛とした声が耳に届いた。

 

「右腕に封印された力でも目覚めたの?」

「うぉぁっ⁉︎」

 

 唐突な本人登場に奇妙な悲鳴が口から飛び出して、二歩ほど後退。態勢を整えながら改めて視線を向けて口を開き——固まってしまった。

 

 目を奪われ、そのまま数秒その姿に釘付けになってしまう。……いや、いやいやいや、確かに俺は昨日、雪ノ下の姿に目を奪われるだとか、視線が釘付けになるだとか、そんなことを考えたけれど、それはあくまで例えというか、少し誇張していたというか。

 

「なにか言いたいことがありそうね」

 

 ふ、と機嫌が良さそうに笑った雪ノ下に、俺はただ、一言。

 

「……綺麗、だな」

 

 月並みな言葉だ。とても国語で学年三位を取った人間の語彙力じゃない。しかし、そうとしか言えない。いっそ、それ以外の言葉が似合わないくらいにただただ綺麗な彼女は、その鮮やかさに周囲がセピア色に見えるほど。

 

「ふふっ、知っているわ」

 

 嫌味のない勝ち気な笑みに、大きく胸が高鳴る。

 

(ひ、ひひ、比企谷くんがっ、比企谷くんが私に綺麗だって……! 綺麗だって言ってくれた‼︎ これ、夢じゃないわよねっ⁉︎ 現実なのよねっ⁉︎ わーいっ! ふふっ、ふふふっ、遅刻してでも服装を変えることを選んだ今朝の私、ナイスよ!)

 

 ときめきが秒で静かになった。あーっ、そうだったー! そういやこれがあるんでした! 一瞬、頭から飛んでて油断してたわ……。

 

「では、行きましょうか」

「そうだな」

 

 二人揃って歩き始めて、ふと頭に浮かんできたのは昨日のLINEで話したこと。……そういえば、俺の服を選ぶ云々って話はどうなったんだ? 忘れてんのか?

 

「今日はあなたがエスコートしてくれるのよね」

「まあ、一応……あぁ、そうだ。ちょっと急がないとまずいかもしれないな……」

 

 本日のプランはまず映画に行くところから始まる。これが雪ノ下による俺の服選びに変わった場合は、映画を後ろにずらしたプランを使う予定だったが、どうやらそうはならないようだし。

 

「ほら、この前観たいって言ってた映画があっただろ? あれの上映時刻が、十時半か夕方しかないから」

 

 別に夕方でも構いはしないのだが、そうなるとこの時間はまた新たに考える必要が出てくる。現在時刻が十時十五分頃で映画館まで徒歩十分ほど。チケットを買う時間を入れればギリギリだろう。

 

「そう……」

(わーっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ! 私が比企谷くんに褒めてもらいたいばっかりに……! 謝らないと……いけないわよね。謝る、謝る、謝る……)

「急ぎましょう」

(謝れないぃっ! ごめんなさいっ……ほんとに、ごめんなさいって思ってます……)

 

 知ってます。

 

「……なにか他にやりたいこととかがあれば、これを夕方に回したプランも考えてはあるが」

 

 きっとここまで急いで来たのだろうし、ここでまた急がせるというのも気が引ける。なにより、俺も別にそんなに細かくタイムスケジュールを決めているわけじゃないから、俺とのデートに、その、張り切ってきてくれた雪ノ下に謝らせてばかりというのは良心が痛む。……まあ、謝ってないんだけど。

 

「やりたい、こと……」

 

 どうやら、なさそうだ。ここで悩んでいると完全に間に合わなくなる……。仕方ない。あまり使いたくはないが、この手でいくか。

 

「そ、そういえば、俺の服装は及第点に達してたのか?」

 

 なるべく今思い出しましたみたいな雰囲気を装ったつもりが、自分でも下手くそだなと感じた。吃ったし。

 

「……ふく、そう……?」

 

 やっぱり、忘れてたか。なんとなくそうなんじゃねーかなとは思っていた。朝からばたばたしていたようだし。

 

「LINEで話してたろ」

「——あ」

 

 はっとなって俺の服装を改めて確認した雪ノ下は、勢いよく口を開いて、

 

「及第点っ、以下……よ……?」

(うわぁっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ! 遅刻した上に偉そうなこと言ってごめんなさい! 悪気はないっていうか、ひ、比企谷くんが思い出させるから、その、悪いのであって……ごめんなさい)

 

 結局、謝られるのかよ。

 

「はぁ……」

「……な、なに?」

(あ、呆れられてしまったかしら……そうよね。こんな遅れてきておいて人にダメ出しするような女、誰が好きになるっていうのよ。百年の恋も冷めるわよ……)

「いや……じゃあ、その、なに。服選び? 手伝ってくれるか?」

「いいのっ⁉︎」

「え?」

「……え? あ、いえ、今のは、違うのよ……その、そう、わ、私が選んでしまったら、あまりのセンスにそれしか着れなくなるけれどいいの? という意味で、えぇ」

(なによそれ、バカじゃないの……)

 

 自分で言って自分でツッコミを入れるの、やめてもらっていいですか。俺が言うことがなくなるだろ。

 

「いいだろ、別に……雪ノ下に選んでもらえるなら、俺も、嬉しいし」

「……そ、そう」

(えぇーっ! なにそれ! ずる……ずるくないっ⁉︎ いつもはそんなこと言わないじゃない! なんでこういうときばっかりそうやって……うぅ。好きぃ)

「ほ、ほら、行こうぜ」

 

 好きとかそういうことを気軽に言うんじゃねーよ。恥ずかしいだろうが。まあ、言われてないんですけど。

 

「そ、そうね」

 

 というわけで、第一の目的地は映画館から服屋に変更。唯一の懸念は、俺の知る限り雪ノ下雪乃は服を防御力で選ぶ女だということである。

 

 ……なんか不安になってきたな。

 

        × × × ×

 

 冷たい風が肌を撫でる。

 

 もう十月も半ば。日没後は肌寒く、ぶるりと震えた身体に腕をさすった。そんな俺の格好は、待ち合わせのときとは異なっている。

 

 雪ノ下に選んでもらった服。なんなら代金も雪ノ下持ちである。正直、普通に自分で払いたかったのだが、「遅れたのだから、ここは私が払わないと……ここは私が……ここは私が……」と、呪詛のような心の声が聴こえてきたためありがたく買ってもらうことにした。その代わりと言ってはなんだが、俺は俺で雪ノ下が興味ありげに目を留めた猫柄のカップを買ったので、申し訳なさは薄い。ちなみに服は思いの外普通のもので、ほーんこういうのが好みなのかなどと考えてしまったりもした。次から似たような服装を選ぼう。

 

 隣へ目を向ければ、いつもよりどこか機嫌の良さげな雪ノ下の姿がある。雪ノ下の鉄仮面——そう呼べるほど最近は仏頂面一辺倒というわけでないが、それでも常よりだいぶ柔らかい表情だと言えるだろう。

 

 服は買ったし、映画は見たし、ご飯も食べたし、もう帰るだけ。これで今日が終わってしまうというわけでもないのに、無言の帰路、雪ノ下のマンションへ近づくごとに寂しさを感じた。

 

 今日が、幸せだったから。そんなことを考えるのは、俺らしくないだろうか。けれど、誰が俺を定義しようと俺はそう思うのだ。

 

 雪ノ下雪乃との初デートが幸せで、このまま離れなければいい、なんて乙女のようなことを心のどこかで願ってしまう。きっと、毎週、物足りなくなるのだろう。一度、幸せを知ってしまったから、日曜日が来るたびに退屈を感じ、この日のことを思い出すのだろう。それほどに、今日という日は俺にとって特別なのだ。

 

 まして、今回きりになってしまうかもしれないなら、尚更。

 

「……比企谷くん?」

 

 マンションはもう目と鼻の先。入り口では流石に人目につく。そう思って立ち止まった俺を、そのまま数歩先に歩いていった雪ノ下が立ち止まって振り返る。

 

「話が、ある」

 

 ああ、心臓がうるさい。正直、告白より怖いかもしれない。そう感じるのは、俺があのとき、ずるをしたからだろうか。そのツケがここに来ているのだとすれば、俺はそれをここで逃げずに受け止めておくべきなのだろう。

 

 後回しにしても、どうせいつか今よりさらに肥大化した恐怖がやってくるのだろうから。これは、時間が解決してくれる問題じゃない。そして、当たり前だが他の誰かが解決してくれる問題でもない。俺が解決するまで、ずっとそこに在り続け、俺を苦しめ続けるものだ。それなら。

 

 ——それなら自分で、どうにかするしかない。

 

 今までもそうしてきたから、これからも、今も、そうするだけだ。どの道、その道しかないのだから。

 

「話って……」

(も、もしかして、プロポーズ……とか。きゃー! そ、そんなのまだ早いわよ! まだ、初デートを済ませたばかりじゃない! ひ、比企谷くん……ここは落ち着いて。いえ、でも、ここで言質を取っておくのも悪い案では……)

「プロポーズなんて、そんなかわいいもんじゃない」

 

 俺が雪ノ下の思考に対して答えを述べると、雪ノ下はしばらく固まって、勢いよく口を抑える。

 

「いや、言葉にはしてない」

「……それ、は」

(どういうこと……私がつい口走ってしまったというわけではないのなら、どうして。どうして比企谷くんが、私の考えを)

「聴こえるんだよ」

「……聴こえる?」

「雪ノ下がなにかを言うたび、俺にはその言葉に隠された本音が聴こえる」

「……そんなの」

(信じられるわけがない。なにかの冗談? 当てずっぽうで言って当たっていそうだったからそういうフリをしている……? だとしても、そんなことをする理由はなに?)

「残念ながら……冗談なんかじゃない。冗談だったら、よかったんだけどな」

 

 そうだ。これは、冗談なんかじゃない。あのときからずっと、俺の頭には雪ノ下の本音が届き続けている。神様のお節介にしては少し悪趣味なそれに、俺は何度助けられただろう。無意識に、何度それを頼っただろう。それが雪ノ下に対して不誠実だと知りながら、これまで甘えてきた。

 

「……雪ノ下が自室に俺の写真を一枚、隠し持っていること」

「なっ——」

(なんで、比企谷くんがそれを……部屋を、見られた? いえ、この男に、勝手に私の部屋に入る度胸なんてない、はず……そもそも、度胸云々ではなく、比企谷くんはそんなことをしない。……私が一番、それを知っている)

 

 その評価は純粋に嬉しかった。ここまできて、俺なんかをいまだ信頼してくれているという事実に頬が緩んでしまうくらい。

 

 だから、どうしようもなく苦しくて。

 

「……今度、パンさんの限定商品を買いに行くのを俺に手伝ってもらおうと考えていること」

「…………まさか、本当に」

(本当に、心の声を、聴かれている……? いえ、でも、これも、適当に言っているだけかもしれない。占い師のやり口と同じような……分かっては、いる。分かってはいるのよ。こんな意味のない嘘を、比企谷くんは吐かない。それもまた、私は知っている。でも、そんな突拍子のない話……)

「信じられないか……?」

「……そうね。確証が、ないもの」

(そう、確証がない。なら……それなら、確証を得ればいい。慌てずに考えれば分かることじゃない。比企谷くんが本当に私の心の声を聴いているなら……)

 

 まっすぐな瞳が俺を見据える。その迫力に一瞬気圧されそうになりながら、目を逸らさずに見返した。

 

「私、明日の夕食はオムライスを作ろうと思っているの」

(嘘。本当はまだなにも決めてなんていないわ)

「あなたが本当に私の心の声を聴いているというのなら、これが嘘か本当か——」

「——嘘だな。お前はまだ、明日の夕食の献立を決めてなんていない」

「……っ」

 

 なるほど、そうか。どうやって信じてもらおうかというところが問題だったが、まさか雪ノ下がそれを証明しようとしてくるとは思っていなかった。

 

「どうやら、事実のようね……その、いつから?」

「告白する、三日くらい前から」

「……そう」

(ということは、あのときのアレも、コレも、全部聴こえていた、ということよね。わぁぁぁっ、恥ずかしい……! はっ、まさかこれも)

 

 こくり、頷きを返すと、雪ノ下はなにも答えず、ただ顔を赤くして俯いてしまう。……まあ、聴かれたくないなら、そうするしかないよな。しかし、それにこの数度のやり取りで気づくというのも、なかなか……。

 

 さて、ここからどうしようか。俺の目的は果たした。流れで、告白したときも聴いていたとぶっちゃけてしまったし、それなら雪ノ下には分かっているはずだ。俺が雪ノ下に告白したとき、すでに俺が雪ノ下の想いを知っていた、ということが。

 

 しばらく考え込んでいると、雪ノ下は顔を上げて口を開く。

 

「それで、それを私に伝えて、比企谷くんは私にどうして欲しいのかしら」

「……え、いや……どうして欲しい、と言われてもな」

 

 そこは考えていなかった。俺は雪ノ下がどういう反応をするだろうというところにばかり意識を向けていて、自分がどうしたいかなんて。そもそも——

 

「——俺になにかを望む権利なんて、あるのか? って顔ね」

「なっ……」

 

 驚きに声をあげると、雪ノ下は不敵に笑って、

 

「あのね、比企谷くん。この機会だから、言っておくわ」

 

 どうして……どうして、こんな状況で、そんな余裕たっぷりな表情が出来る? 自分の心の声を聴かれてたんだぞ? ……待てよ。というか、どうして今、聴こえない?

 

「? なにを不思議そうな顔をしているの?」

「いや、だって……」

「……ああ、聴こえないのね。当たり前でしょう。私、今、本音で話してるもの。他にはなにも考えてない」

「そんなこと……出来るか、普通」

 

 さっきようやく信じたばかりのことに対して、こんな短時間で対処するなんて、頭がキレるとかそういう次元じゃねーだろ。

 

「そうね……出来ないと、思っていたわ」

「……思っていた?」

「いつもいつも、飛び出すのは憎まれ口ばかり。本当の気持ちを隠して、閉じ込めて。あなたに対して本音で話すなんて、私には一生無理だと思ってた」

「なら……」

「でも、出来る。いえ、やるしか、ないじゃない」

 

 ゆっくりと、一歩一歩歩み寄ってきた雪ノ下は俺の目の前で立ち止まり、俺の顔を見上げ、そっと俺の頬に手を当てる。その顔は耳まで真っ赤で、本音なんて聴こえなくても雪ノ下が恥ずかしいことが丸わかりだった。

 

「想い人が、こんなに苦しそうな顔をしているんだもの」

「……恥ずかしく、ねーのかよ」

「恥ずかしいわよ。とても、恥ずかしい。けれど……自分が恥ずかしいことより、あなたが苦しそうなほうが、私には辛い。それだけ……そんなことで、無理だと思っていたことが出来る」

 

 ああ、もう、めちゃくちゃだ。本当に、雪ノ下雪乃はいつもいつも、俺の予想を軽々と飛び越えて。

 

「言っておきたいことがあると、言ったわよね」

 

 すっと手を離した雪ノ下は、しかし、距離を離すことはなく、至近距離で唇を動かす。

 

「……あなたが、私の想いに気づいたから告白したこと」

 

 どきりと、大きく心臓が弾んだ。けれど、雪ノ下の言葉はそこでは終わらない。

 

「でも、私があなたのことを好きだから、あなたは私を好きになったというわけではないということ」

 

 そこまでの台詞でもう、雪ノ下がなにを言わんとしているのか、俺になにを伝えようとしてくれているのかが理解出来た。……そうか、雪ノ下は、こういうやつ、だったのか。そんな心持ちだ。

 

「私の本音を聴いて、少なからず嬉しい気持ちになったこと」

 

 俺は、雪ノ下雪乃を知ったつもりでいた。もう、一年以上の付き合いだ。確かに、出会ったばかりの頃より、多くのことを知っているのだろうと思う。だが、雪ノ下は。

 

「そうやって本当は聴くことの出来ないものを勝手に聴いてしまっていることに、ひどく罪悪感を覚えたこと」

 

 雪ノ下は、俺なんかよりも、遥かに。

 

「そうして、最終的に私に伝えるという結論に行き着いたこと」

 

 遥かに、俺のことを、知ってくれていたのだ。

 

「今、勇気を出して、私に伝えてくれたこと」

 

 あれは、いつのことだったろう。思い出すのは容易で、きっとそれは、そこまで昔の記憶じゃないからとか、そういう理由ではない。

 

「昨年の文化祭で、言ったわよね」

「……ああ」

 

 覚えてるよ。あのときの雪ノ下の微笑みを、告げられた言葉を、忘れられるはずがない。

 

 

「私は——今も、あなたを知っている」

 

 

 完敗だった。俺は視界を滲ませるそれを落とさないことに必死で、言葉を返すことも出来ずに、ただ空を仰いで。

 

「そんなもの聴こえなくたって、あなたのことなんて分かるわよ」

 

 不意に手が繋がれて、温もりに引かれるように視線を戻すと、柔らかい感触が唇から伝わって。

 

「私がどれだけあなたのことを好きだと思ってるの?」

 

 俺にも、分かるよ。多分、お前は今、めちゃくちゃ顔を赤くしているんだろう。もう、どうにも見えそうにないのがとても惜しいが。

 

「もぅ……泣かないの」

 

 情けねぇなと思う。こんなみっともなく涙を流して、嗚咽を漏らして、慰められて。だのに、嬉しくてたまらない。

 

 こんな自分が、本当に情けない。でも、きっと。ずっとこうしていくのだろう。こいつの前ではずっと、俺は情けないやつにしかなれなくて。だって、そうだろ。……こんなやつに、どうやって勝てばいいんだよ。

 

「あのね、比企谷くん」

 

 ようやく落ち着いてきた俺の耳に、優しく包み込むような声音が響く。

 

「今更、言うまでもないと思うけれど、私はあなたが私の心の声——本音を聴いていたことを怒っていないわ」

「……だろうな」

 

 正直、もっと責められるものだと予想していた。もちろん、責められたいなどとは思っていなかったし、出来れば受け入れて欲しいと考えていたが、普通はこんなの、気持ち悪いだろうから。

 

「あなたが私の気持ちを知ったから、私とあなたは結ばれることが出来た」

 

 でも、雪ノ下にはむしろ好都合だったようで。さっきからこっちまで照れ臭くなってしまうような台詞が止まらない。

 

「それがなければきっと、今でも私たちは部員と部長という関係でしかなかったでしょう?」

「……そうだな」

 

 俺も雪ノ下も、とても素直と呼べる性格をしていないから。なにか踏み出すきっかけがないと、いつまでもあのままだったんじゃないだろうか。

 

「それに、そのおかげでこうして、あなたに本当の気持ちを、私の口から直接伝えることが出来るようになった」

「……それは」

 

 無理矢理というか……無理にそんなこと、しなくても俺としては構わないというか。

 

「……その、比企谷くんが、そういう私もす、好きだというのは、一応理解しているわ」

「おう……」

「でも、やっぱり私は、ちゃんと伝えたいのよ。そういう風になれたらって、いつも考えていたから……」

 

 またも頬を染めて、顔は背けずにはにかむような笑みを浮かべる。これが見れただけでも、本音が聴こえるようになってよかったと思ってしまいそうになるな……なんつー破壊力だよ。

 

「だからね」

 

 俺へまっすぐに視線を向け、言葉を紡ぐ。

 

 

「——ありがとう」

 

 

 満面の笑みに、ぐっと飛び出そうになった台詞を飲み込む。今ここで、俺はなにもしていないと答えるのは、俺らしいのだろう。でも、それもすべて、雪ノ下は知っているから。その上で、こうしてはっきりとお礼を口にしたのだろうから。

 

「……こちらこそ」

 

 それこそが、俺が言うべき台詞なんだ。

 

「ありがとう」

 

 これからきっと、何度も口にすることになる言葉。いつもは照れくさくてはぐらかしてしまうから、今から練習しておくべきだろう。

 

 言い訳がどうにも俺らしくて、やっぱりそんな簡単に人は変わらないなと呆れ混じりの息が漏れた。

 

 

 雪ノ下を見送って、辿る帰路。ふと見上げた空は曇天で、星もなにも見えやしない。たまには空気を読んで欲しい。俺も読めないから雲のこと言えないが。

 

 明日から、なにか変わるだろうか。いろいろ、変化はあるんだろう。雪ノ下があの態度を続けていくなら、当然、俺たちの関係に気づくやつも出てくるわけで。そのことでなにかいざこざが起きたりするかもしれない。が、そこまで憂鬱さはない。

 

 ……俺の問題は、俺が解決するしかないと考えていた。俺以外の誰も解決してくれないから、俺が自分でどうにかしなければならない、と。なのに、雪ノ下は容易く俺の問題を正面から解決して……だから、俺たちの問題なら。俺と雪ノ下、二人の問題なら必ず、二人で解決していけるのだと、なんの確証もないのに、確信している。

 

 結局、あの現象はなんだったのだろうか。唐突に起きて、ただひたすら引っ掻き回されたという感じだが……まあ、終わりよければ全てよしか。一つ、言うことがあるとすれば。

 

 

 この日から、雪ノ下の心の声は聴いていない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

雪乃さんは猫以外も好き

猫カフェに行く話。意図的に台詞のみで書いたお話になります。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


「……早いな。待ったか?」

「いえ、私も今来たところ……」

「…………」

「…………」

「あー……」

「……あなたのせいよ、この空気。一言目で空気を悪くするなんて、流石ね」

「お前、流石って言えばなんでも許されると思うなよ……。まあ、なんだ、わる——いや、別に謝らなきゃいけないことでもねぇだろ」

「それは、そうだけれど……そもそも、遅れたわけではないのだから、普通に挨拶してくれればそれでいいのよ」

「……おはよう、雪ノ下」

「ええ、おはよう、比企谷くん」

「はぁ。で? 今日はどこ行くんだ?」

「ああ、そういえば詳細は当日話すことになっていたわね。今日は少し遠出する予定なの。具体的に言うと、柏市よ」

「柏市……電車乗り継いで一時間ちょっとってとこか」

「あら、あなた柏市に電車で行く用事でもあったの?」

「いや、そういうわけじゃないが、まあ、いろいろな」

「ふぅん、はっきりしない男ね。ま、いいわ。行きましょう」

「おう」

「…………」

「……っつーか、なんで俺は毎週毎週連れ回されてんだ?」

「不満かしら?」

「不満ってわけじゃねぇけど、俺が着いていかないほうがお前としては好都合なんじゃねーのか?」

「女が一人で出歩くと、結構面倒なことが多いのよ。私くらいかわいいと特に、ね。分かるでしょう?」

「あぁ……なるほど」

「ふふっ」

「なんだよ」

「その顔は、分かっていない顔だわ」

「はぁ? 面倒な輩に絡まれるとかそういう意味じゃ——って、おい! 歩くの早過ぎだろ……」

「事は一刻を争うのよ! 黙って着いて来なさい!」

「……へいへい」

 

        × × × ×

 

「というわけで、目的地に到着したわけだけれど」

「『猫の尾』……」

「そう、店名の時点でもう心の踊る素敵な響きよね。よく分かるわ」

「そんなこと一言も言ってない」

「言わずとも知れた仲でしょう?」

「……浮かれて変なこと口走り出すやつってよく漫画で見るけど、現実で見たのはお前が初めてだ」

「……あの、いちいち顔を赤くするの、やめてもらっていいかしら。私まで恥ずかしくなってくるじゃない」

「絶対お前の顔のほうが赤いからな……」

「と、とにかく! 中に入るわよ! まったく、これだからこの男は……」

「『だいたい私の顔は赤くないわよ』って、鏡見てから言えよ」

「人のつぶやきを勝手に拾って返事をするのやめなさい!」

「もっと、あか……いや、なんでもない」

「……最初からそうしていればいいのよ。はぁ。気を取り直して、行くわよ」

「どうぞ……」

「……す、すみませーん」

「なんでちょっと弱気なんだよ」

「いらっしゃいませ。猫カフェ『猫の尾』にご来店ありがとうございます。本日はどちらのセットをご利用になられますか?」

「え、ええと……猫型ぱんけぇきセット、くつろぎセット、猫ハーレムセット。猫、ハーレム、セット?」

「あ、これは決定しましたね」

「猫ハーレムセット……なんて耳心地のいい言葉なの……」

「うわ、1400円……」

「あなた、最近バイトを始めたのよね」

「いきなり素に戻んなよ……ていうか、なんで知ってんの?」

「小町さんから聞いたのよ。……猫ハーレムセットでいいわね?」

「……ご自由に」

「猫ハーレムセットで」

「かしこまりました。あ、本日サービスデイとなっておりまして、カップルでご来店のお客様には料金を10%割引させていただいております」

「かっ……ぷ……」

「あー、了解です。ほら、行くぞ」

「え、あ、ぅん……」

「毎回毎回、よく飽きずに同じ反応が出来るな……」

「あ、ああ、あなたが慣れ過ぎなのよ! ……私と比企谷くんが、カップル。……かっぷる……ふふふ、そう、そう見えるのね……えへへ」

「……あの、普通に聴こえてるから」

「な、なにも言っていないわよっ!」

「……はぁ。で、この扉の向こうにお前のお待ちかねはいるわけだが、俺が先でいいのか?」

「反語なんて使うまでもないことよ。あ、開けるわよ、比企谷くん」

「さっさとしてくれ……」

「——わ、わぁぁ……ひ、比企谷くんっ、猫が、ね、ねこ、ねこ!」

「分かった、分かったから、落ち着こうな……まだ俺たちしか客はいないみたいだが」

「ま、まさに『猫の尾』……猫の尾だらけだわ!」

「いや、意味分かんないから……当たり前だろ」

「ふぁ……ふああぁぁぁ、ねこが、たくさん……ねこ、ねこぉ……」

「やばいやつにしか見えねぇ……」

「かわいぃ……こんなに、かわいいいきものが、そんざいしていいの……? かわいい……かわいすぎるわ……」

「……お前がな」

「? 今、なにか」

「なにも言ってない」

「そう? それにしても、えへ、えへへ……そう、ここがヘヴンなのね……」

「とりあえず、ソファーにでも座ろうぜ……」

「はっ——そ、そうね。少し、取り乱してしまったわ」

「少し……?」

「少しよ、なにか文句でもあるの?」

「いえ、滅相もございません」

「ふふっ……ほらっ、行きましょう、比企谷くんっ」

「はいはい……ほんとこいつ、猫を前にすると人が変わるよな」

「ひ、比企谷くんっ、み、見て! 足に! 私の足に! 猫が!」

「おー、見てる見てる。よかったな」

「え、ええっ、す、少しくすぐったいわね……っ、でも、しあわせ……」

「抱っこしてみたらどうだ」

「……い、いいのかしら。に、逃げたりしないかしら」

「そんだけ人懐っこけりゃ、大丈夫だろ」

「……そ、そうね。……よ、よしよし……こ、怖くないから、逃げないでね……」

「……いつも逃げられてるもんなぁ」

「——わ、やったわ! ひきがやくんっ、ねこがっ、わたしのうでのなかにっ……」

「そんなことでそれだけ喜んでもらえたら、そいつも嬉しいだろうな……」

「え、えへへ……かわいぃ」

『にゃー』

「にゃー……よしよし」

「とりあえず、座ろうな」

「そ、そうだったわね。座りましょう……あちらの隅のほうでいいかしら」

「隅でいいのか?」

「も、もし囲まれたりしたら、動悸が……」

「ああ、そうね……。じゃ、隅のほうで」

「……ふぅ。それにしても、二人きりというのも珍しいわね。いつもはお客さんがそれなりにいるけれど……」

「まあ、違う店だからな。そもそも、祝日つってもまだ時間は早いし」

『にゃぁ〜』

「にゃー……にゃー……ふふふ」

「幸せそうでなにより……」

「ね、ねぇ、比企谷くん」

「ん?」

「その、これを……」

「あぁ……写真ね。はいはい」

「……任せたわよ」

「そんな怖い顔すんなって、撮られ慣れてるだろうし、逃げやしねーよ」

「……そ、そうよね」

「ほら、好きなように撫でてろよ。適当に撮っとくから」

「……ありがとう」

「……どういたしまして」

「…………」

「あー……ゆき、のした」

「? なにかしら」

「……写真、撮ったら、何枚か俺も貰っていいか」

「え、ええと……構わない、けれど。……珍しいわね?」

「まあ、なんだ、その猫、結構かわいいからな……」

「そ、そう。……そうよね」

「おう……」

「…………」

「…………」

「そ、そういえば、猫ハーレムセットって響きで選んでしまったけれど、なんのセットなのかしら」

「お前な……。確か、猫におやつをあげられるとか書いてあったと思うが……っと、来たみたいだな」

「これが、猫のおや——え? あ、わ、ちょっ、ね、ね、猫がっ、比企谷くんっ、猫がっ、おやつを求めてっ……!」

「落ち着けって、いいことだろ」

「それは、そう、だけれど……っ、わ、わわ、ひ、比企谷くんっ、パス!」

「おい……まあ構わんが。ほれ、うまいか?」

「はぁ……はぁ……こうして、見ているのが一番癒されるわ……」

「お前ほんと猫好きだよな……前はそれでも隠そうとしてたけど」

「猫が嫌いな人類なんていないのだから、隠す意味はないでしょう」

「なんでそんな自信満々で断定出来んのか、不思議で仕方ねぇよ……」

「だ、だいたい……あなたにはもうバレてしまっているのだから、隠すよりも利用したほうが建設的じゃない」

「知ってたか。そういうの、開き直るって言うんだぞ」

「ぶつぶつとうるさい男ね……」

「ぶつぶつとうるさい男は次から来ないほうがいいんじゃないですかね」

「そういう言い方はずるいわ……き、来てよ」

「……おう。ま、まあ、今のは俺が悪かったな」

「……こ、こほん。それにしても、よくそんなに落ち着いて対応できるわね。シャッターチャンスが……でも直接目に焼き付けてもおきたい……ああ、なんなのこのジレンマ」

「飼ってるしな。猫が特別大好きってわけでもないし、つーか、お前の態度の方がレアだろ」

「そういうものかしら……変?」

「変といえば、まあ、変……」

「そ、そう……」

「ま、気にすることねーだろ。好きな分には誰も迷惑しねーんだから」

「そうね……あ、あなたも」

「は?」

「あなたも、迷惑、しないのかしら……」

「? 猫カフェに着いてくるだけで迷惑もなにもねーだろ」

「そう……そういうことでは、ないのだけれど」

「なんか言いたげだな」

「……気のせいよ」

「それならいいが……落ち着いたならおやつあげてみるか?」

「わ、私が?」

「他に誰がいんだよ……」

「そうね……何事にもチャレンジしてみるべきよね」

「ほれ」

「え、ええ……」

『にゃー』

『にゃぁ〜』

『にゃあー』

「あっ、そんな、慌てないで! たくさんあるから……そう、落ち着いて、ちゃんとみんなにあげるわ……ふふ、いい子ね」

「なんとかなったな」

「やってみるものね……あなたのおかげよ」

「いや、俺は見てただけだから」

「あなたが一緒に来てくれていなかったら、今頃一人で慌てていたわ……認めるのは、少し癪だけれど」

「なんか、調子狂うな……」

「あなたはいつも調子の悪そうな顔をしているけれど」

「そういう顔だ……」

「そうね、そういう顔ね……あなたのそういう顔、私は結構嫌いじゃないわよ」

「んなっ……はぁ? おま、な、なに言って……」

「ふふっ、そういう顔も、出来るのね?」

「……ほっとけ」

 

        × × × ×

 

「……もう、こんな時間なのね」

「延長に延長を繰り返して午後二時か……5000円近く取られそうだな」

「……ごめんなさい。流石にここは私が払うわ。あなたは付き合わされただけだもの」

「自分の分くらい自分で払うっつの」

「で、でも……いつもいつも、こんなことでは、その、次は、来てくれなくなるかも、しれないし……」

「……はぁ。あのな、嫌だったら、最初っから来てねーんだよ」

「それって……」

「……そもそも、猫に会うために稼いだ金だしな。ここで使わなかったら、バイトした意味がなくなる」

「え、えぇと……え? それは、あの……」

「……あー、いいから、早く出るぞ」

「あ……う、ん」

「…………」

「…………」

「はぁ、なんか久し振りに外の空気吸った気がすんな」

「そ、そうね……」

「この後は? いつも通り解散でいいのか?」

「え、ええ、一応、その予定だったけれど……その、比企谷くんが特に予定がないのなら、私の家にでも寄ってみる、とか」

「……は? 今から?」

「……お昼、まだでしょう? 今日のお礼といってはなんだけれど……私の作ったものでよければご馳走してもいい、というか」

「あー……じゃあ、お言葉に、甘えて」

「っ……ええっ! では、行きましょうか!」

「急に元気になったな……」

「そ、そんなことないわよ!」

「なんでもいいけど……そういえば、お前さ」

「なに?」

「いや、なんでいちいち猫カフェなんだと思って。うちが猫飼ってるの知ってんだから、わざわざ金掛かるとこ行かなくてもいいだろうに」

「そっ、それは……ちょっと、ハードルが高い、から」

「はぁ? 一匹しか飼ってないぞ?」

「いえ、そうではなくて……あ、あなたの家にお邪魔するのが……」

「……あ、ああ、なるほど、ね。つってもお前、人を家に連れてこうとしてるくせに、そんな理由なのかよ……」

「来てもらうのと行くのとでは全然違うじゃない……で、でも、そうね」

「え?」

「何事もチャレンジよ……だから、来週の日曜、でいいかしら」

「えっと……」

「ら、来週の日曜! あなたの家にお邪魔してもいいかしら!」

「……はい」

「…………」

「…………」

「あの、比企谷くん」

「……なんだ」

「ありがとう……」

「なんの話だよ」

「いっ、いろいろ! とにかく、いろいろよ! ……ありがとう。そう、言わなきゃって、言いたいって、思ったの……だから、受け取ってもらえると嬉しいのだけれど」

「……どういたしまして」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

だから、雪ノ下雪乃はその答えを待ち続ける。

二人で出かけたときの話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 スマホで時刻を確認して、少し視線を動かす。吹き抜けた風に乱れた髪を整えて、もう一度周囲に目をやれば、もう見慣れた怠そうな顔が視界に映った。

 

「遅いわよ、比企谷くん」

「いや、丁度いいくらいだろ」

「はぁ……五分前行動は基本でしょう。流石、集団行動を乱させたら右に出る者はいないわね」

 

 まったく、この男はいつもいつも……。

 

「まあな。俺ほど単独行動が似合う人間もそうはいない。気づいたら周りに誰もいないまである」

「置いていかれてることに気づいていないのね、かわいそうに……」

 

 それとも気づいていないフリをしているのかしら。そちらの方が残酷な辺り、とっても比企谷くんらしいわね。

 

「そもそも呼ばれてないしな」

「今日は呼んだ……というか、私とあなたが任されたのだから、しっかりしなさい」

 

 本当に、なんで比企谷くんと二人で行動しなければならないのかしら。極めて遺憾だわ。私と比企谷くんが二人で行動とか、これまでにも何度かあったけれどほとんどうまくいった記憶がないわよ?

 

 だいたい、それもこれも全部由比ヶ浜さんと一色さんのせいよ。私のことを頼めばなんでも引き受ける女だとでも思っているのかしら。

 

 ……実際そうなっているから、否定も出来ないのだけれど。

 

「へいへい。つっても、なんで俺と雪ノ下なんだろうな。あいつらのほうが向いてるだろうに」

「本当に。私とあなたがデスクワーク、由比ヶ浜さんと一色さんが現地取材を担当したほうが効率がいいとは何度も言ったのだけれど……いいから、と押し切られてしまって」

 

 なにがいいのよ。なんにもよくないのだけれど。

 

「だいたい、私はともかく、引きこもりがやくんに関しては完全に人選ミスよね。あの二人、ヒッキーがあだ名の人間が外に出てなにか出来るとでも思っているのかしら……」

 

 ……まあ、いつか由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買いに行ったときのことを鑑みれば、少しは使えないこともないかもしれないけれど。

 

「ねぇ、振り切ったバットこっちに放り投げてくるのやめてくれます? っていうか、もはや俺に向かってスイングしてるよな?」

「女性に向かってフルスイングするわけにはいかないでしょう」

「そういう問題じゃねぇんだよなぁ……しかもフルスイングなのかよ。もっと部員を大事にしろよ」

 

 じとっとした瞳で私を睨め付ける比企谷くんに、思わず笑みが溢れてしまう。別に虐めたいというわけでもないのだけれど。

 

 それはさておき、確かに奉仕部の大切な備品にフルスイングするわけにはいかないわよね。

 

「ふふ、ごめんなさい。あなたは振られるほうが得意だったわね」

「そうですね……そういうお前はまんま振るのが得意だよな」

「言われてみればそうね。なら、この組み合わせも理にかなっているのかしら。どう? 一度振られてみる?」

「……いや、遠慮しとく」

 

 なんだかぐったりしているわね。調子が悪いのかしら。まあ比企谷くんの調子が悪そうなのは今に限った話ではないから、放っておいても問題はないのでしょうけど。特に目とか調子悪そうよね。慣れると悪いものでもないけれど。

 

 ところで、比企谷くんのテンションが下がると私のテンションが上がるのは一体どういう理屈なのかしら。サンドバッグを殴ってストレスを発散するのと似たようなもの……いえ、それとはどうも違う気がするのよね。

 

「というか、そんなことはどうでもいいのよ。あなたはどう頼まれたの?」

「あー……昨日の夜中にいきなり今日のこの時間に雪ノ下が待ってるから一緒に行ってこいとかってLINEが来たんだよ」

「それで来るなんて、あなたどうかしてるんじゃないの……?」

 

 私だったら、由比ヶ浜さんから唐突に比企谷くんが待ってるから行ってこいという旨の記載されたLINEが届いても……行かない、こともないわね? 一応、一色さんからの依頼に必要なことではあるのだし。無視して後で文句を言われるのも癪だし。

 

「いや、一応一色の依頼に必要なことだからな……無視して後で文句言われても面倒だし」

「なっ——」

「? どうした」

「ど、どうもしていないわ……」

 

 なんでほとんど同じことを考えているのよ……。比企谷くんと思考回路が一緒とか、それはちょっとまだ早い気がするのだけれど。もう少し時間とか手間とか歳月とかいろいろ掛けてからにして欲しいのだけれど。

 

「顔赤いぞ?」

「えっ」

 

 熱でもあるのかしら……なんだかちょっと暑いような気はしていたけれど。いえ、でも、待っているときはそんなことはなかったし。

 

「……大丈夫、だと思うわ。多分」

「ならいいが……っつーか、あいつらもしかしてなにか企んでんのか?」

「……さぁ。まあ、あの二人がなにか企んでいたとしても、たいしたことではなさそうだけれど」

「それもそうか……んじゃ、そろそろ行くか」

「そうね。いつまでもあなたと立ち話だなんて時間がもったいないし」

‪「一言多いっつの……」‬

‪「削ったら無視することになってしまうじゃない。それに、座れるなら座って話したほうがいいでしょう?」‬

 

 比企谷くんと話し始めたら長くなるから、私の体力がもたないわよ。……そのくらい、分かりそうなものだけれど。体力がないって話、していなかったかしら……?

 

‪「ま、まあ、疲れるしな……ほら、行くぞ」‬

「ええ」

 

 歩き始めた比企谷くんの隣に並んで、バッグからスマホを取り出した。

 

「最初の目的地は……」

「新しくオープンしたカフェ、よ」

「案内は……あー、いや、俺に着いてきてくれ」

 

 ……今の間はなに? 私がスマホを手に持っているのに、なんでわざわざ比企谷くんも持つのよ。まったく、無駄の多い男ね。

 

「私に任せてくれればいいわ」

「いや、それはな……」

「なによその顔……」

 

 まるで私が案内したらなにか起こるみたいじゃない。別に自覚がないわけじゃないのよ? 私だって地図さえあればなんとかなるから申し出ているわけであって、そこまで不安気な表情をされる謂れはないわ。

 

「地図あっても、な……」

「そう……そういうこと。その挑発、乗ってあげるわ。見ていなさい……」

「いや、挑発じゃなくてだな……」

「いいから行くわよ、着いてきなさい」

「はぁ。はいはい……どうなっても知らねぇぞ」

 

 ふん、言っていればいいわ。この距離で地図まであって目的地に辿り着けない人間がいるわけないじゃない。私をバカにしたこと、後悔させてあげる。

 

        × × × ×

 

「……ごめんなさい」

 

 数十分後、見事なまでに迷っている私がいた。信じられないことだけれど、どうやら事実らしい。デパートのフロアで迷うような人間が一人で街を歩くなんて無謀だったということね……えぇ、本当に反省しているわ。

 

「いや、止めれなかった俺も悪いし……」

「いえ、今回のは私が一方的に悪いわ……その、えっと、こんなことを頼める立場ではないことは分かっているのだけれど、目的地までの案内頼めるかしら……?」

 

 断られてしまうのではないかと、不安に思いながら返答を待った。私なら置いて帰っているところだわ……。というか、比企谷くんがここがどこなのか分かっているのかどうかも怪しいのよね。……私が余計な意地を張らなければ。

 

 しかし、そんな私の思考に反して、比企谷くんは逡巡する様子もなく首肯する。

 

「おう。じゃあ、さっさと行こうぜ」

「……断らないのね」

「はぁ? 断る理由がないだろ、どのみち行くんだから」

「それは、そうかもしれないけれど……」

 

 いつも、そうよね。そうやって、自分に対する被害を当たり前のように受け入れてしまう。心の中でどう思っているのかは知らないけれど、軽く扱われることに慣れて諦めてすらいるように見える。そういう比企谷くんが私は嫌いではないけど……いえ、やっぱり、嫌いだわ。

 

「……あなたはもう少し怒ったりするべきだと、思う」

「今のが怒るほどのことか? お前、おかしいぞ? やっぱり熱でもあんじゃねーのか?」

「なら……それなら、あなたにとって、怒るほどのことってなに?」

「それは……」

 

 迷うように視線を彷徨わせる比企谷くんを見ながら、私の心に浮かんできたこの気持ちはなんと呼べばいいのだろう。彼を見ていると、彼の近くにいると、何度となく現れては胸中をかき乱していくそれの正体を私はまだ知らずにいる。

 

「別に、いちいち怒ってても仕方ないだろ……都合が悪くなるだけだ」

「都合がいいだけの人間なんて、私は一度だって求めたことがないわ」

 

 全て許してくれる。全て受け入れてくれる。頼めばなんでもやってくれるし、からかっても怒らない。そんな関係に、なんの価値があるの?

 

「私がなにを言ったところで、なにをしたところであなたは怒らない。それはあなたが私の行動に頓着していないという証明ではないの?」

「そんなこと——」

「——つまり。あなた、私に興味がないのね」

 

 自分で言ったくせに、なぜだか心がぎゅっと締めつけられる。

 

 けれど、同時に納得していた。自分の論に。だって興味がないなら、今までの全てが腑に落ちるもの。私に対しても由比ヶ浜さんに対しても一色さんに対しても、比企谷くんが怒ることがないのは彼の優しさからなのだと心のどこかで思っていた。

 

 本当にバカみたいだわ。優しさだけで全てを許容出来るのなら、戦争なんてものが起きることはなかったでしょう。人は自らに害を及ぼす相手を意識の外に追いやることで安息を保つのだ。

 

 なにも答えない比企谷くんを見つめていると、沈黙で少しだけ頭が冷静さを取り戻す。……言い過ぎた、かしら。

 

「……ごめんなさい。らしくない物言いだったわね、忘れて」

 

 だいたい、その理屈が正しかったら、比企谷くんの感情の変化で私の気分が上がる理由は、比企谷くんの気を惹けて嬉しかったからということになる。相手の気を惹くために相手を貶すなんて、小学生以下じゃない……。

 

「別に私は、あなたに怒って欲しくてあなたと話すわけではないもの」

「雪ノ下……」

 

 私の名を呼んでなにか言いたげに唇を動かすも、比企谷くんの口からそれ以上言葉が出ることはなかった。

 

「案内、頼めるかしら」

「……おう」

 

 それっきり無言のまま、私たちは目的地へと歩き始めた。

 

        × × × ×

 

 どうしてあんなことを言ってしまったのかしら。とても気まずい。少し前ならきっと言っていなかった……もし言っていたとしても、そのまま平然としていたはず。

 

 居心地の悪さを感じながら黙々と足を動かしているうちに目的地へと辿り着く。

 

「ここだな」

 

 モダンな雰囲気の外観には物静かな印象を受ける。それでありながらもしっかりと存在を主張していて不思議と目に止まる、そんなカフェだった。……悪くないわね。ただ、学生が立ち寄るには少し無骨かしら。

 

「では、入りましょうか」

 

 いろはさんと由比ヶ浜さんに頼まれたのは、このカフェを含め数件のスポットへ向かい現地取材を行うこと。ちなみにいろはさんの依頼はフリーペーパー作成の手伝い。なんでも、前回のフリーペーパーが好評だったため、定期的に発行することにしたのだとか。

 

 それで毎回奉仕部を頼られるのは困るけれど、次回以降は生徒会のみでやると言っていたから問題ないでしょう。

 

 店内へ入ると、コーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。焼き菓子の匂いが混じっていることから推測するに、どうやら洋菓子も作っているらしい。

 

 入店時に頼むのではなく、テーブルに座ってから注文を済ませる形式の喫茶店らしい。比企谷くんも似たようなことを考えていたのか、意外そうに言葉を漏らす。

 

「先に注文するわけじゃないのか」

「タリーズやスターバックスとは違って、飲み物よりも洋菓子がメインなのでしょう」

「ああ、なるほど……前回のフリペで来たとこと似てるな」

「そういえば来ていたわね、一色さんと、二人きりで、楽しそうに」

「……なんだよ」

「いえ、特になにも」

 

 まあ、比企谷くんが一人で来るような店ではないわね。この男、コーヒー一杯で一時間くらい居座りそうだし。慣れていないのも無理はない。

 

 とりあえず適当なテーブルへ向かい腰を下ろすと、比企谷くんは改めて店内を見回して印象を述べる。

 

「落ち着いた感じだな」

「そうね。でも学生向きではないかしら」

「あー、どうだろうな。最近はインスタ映えとかで、ちょっと秘密の隠れ家っぽい店が好まれたりするらしいし」

「あら、詳しいのね」

 

 比企谷くんの知識にしては、なかなか信ぴょう性が高そう。私が思っているより流行とか気にするタイプなのかしら。へぇと思いながら店内へ視線を向けると、そんな思考を全削除したくなる答えが横から聞こえた。

 

「一色が言ってた」

「ああ、そう……」

 

 そうよね。比企谷くんだものね。そっちのほうが納得がいく辺り、本当に比企谷くんだわ。私が今一緒にいるのは比企谷くんで合っていたのね。知っていたけれど。

 

「いい加減、なにか頼むか」

「ええ」

 

 ではメニューをと、テーブルの端に手を伸ばすも、それより早く比企谷くんがメニューを取る。どうやら一枚しかないらしい。比企谷くんが決まるのを待とうと思っていると、ぱっと私向きでメニューがテーブルの上に開かれる。

 

「……あなた、こんな気遣いが出来たのね」

「は? あ、あー……い、いや、小町とどっか行くとよくあるし」

「ふぅん」

 

 よく比企谷くんが言い訳に使っているお兄ちゃんスキルというやつなのかしら。でも、分からないではないわね。昔、姉さんと外食をしたときにもこんなことがあった気がする。……あの人は今でも選んでいる私を見てにやにやするけれど。姉さんの話はやめましょう。私の胃が痛くなるだけだわ。

 

 ……小町さんにするのと同じ対応ね。そう、そういうこと。

 

「ふふっ、なら私は今、妹扱いを受けているということでいいのね?」

「ち、違っ、なんでそうなんだよ……」

「お兄ちゃん、とか呼んだ方がいいかしら?」

「っ……本当に勘弁してくれ」

 

 ふふふ、楽しい。……そういえば、いつのまにか気まずさなんてどこかに行ってしまったわね。そもそも私が勝手に発していたものな気もするから、私の気分によって緩和するのは当然と言えば当然なのだけれど。でも、その気分を変わる方向へ進めていってくれたのは、比企谷くん、なのかしら。

 

 断定出来るというほどではない。だって、私たちは普通に会話をしていただけだもの。ただ、会話というものは一人では出来ないことの代表格で、そしてなにより、双方の機嫌や態度によって弾みやすさが変わる。

 

 比企谷くんには、わけのわからないことを言って雰囲気を悪くした私との会話を放り投げてしまうことだって出来た。それをしないというのは、比企谷くんが優しいからなのか、単にそうすることが面倒だからなのか……あるいは、私との会話になにか個人的な意味を感じてくれているのか。

 

 比企谷くんらしいのは、二番目かしら。居心地の悪い空間にいたくはないし、私と話すのも気が乗らないけれど仕事として継続しなければならないから、多少の面倒を許容してより嫌な方を捨てた。それはとても、比企谷くんに合った考え方だと思う。

 

 一つ疑問があるとすれば、比企谷くんに望んだ雰囲気へ変えられるようなコミュニケーション能力があるとは思えないということ。そんなことが出来るなら、比企谷くんは今頃孤立したりしていない。

 

 私も比企谷くんもそうして上辺だけ取り繕ったような関係を嫌忌しているから、あえてそうはしなかったというような推測も出来るけれど、そうなれば今度はその行動自体が否定されてしまう。

 

 そもそも、それで否定出来てしまう推測なのだから、比企谷くんらしいとは言えないわよね……。あくまで私の知る限りでだけれど、比企谷くんは取り繕って雰囲気を良くするくらいならなにもしないか、更に空気を悪くする可能性があっても自分の言葉を口にする人だもの。

 

 であるならば、一番目が有力かしら。今のこの状態は、比企谷くん生来の優しさで、比企谷くんが気を遣ってくれたから私は笑えた。……けれど、それもまた、私の知る比企谷くんが否定するのよね。気を遣って話を弾ませるなんて由比ヶ浜みたいなことは俺には出来ないし、しようとも思わないって言いそう。ふふっ、すごく言いそうで、ちょっと笑えてくるわね。

 

「……あの、雪ノ下さん?」

「——あ、ごめんなさい。少し、考え事をしていて……」

 

 少し、ではないかもしれないけれど、そこはどうでもいい。ええ、どうでもいいわ、本当に。

 

 でも、気になるわね……答えが出ないともやもやする。いっそ直接聞いてみようかしら。

 

「ねぇ、比企谷くん」

「なんだ?」

 

 首を傾げる比企谷くんに、そっと訊ねた。

 

「あなた、私に気を遣ってる?」

「なんだよ、藪から棒に……。だから、さっきのは小町の——」

 

 一度視線を逸らしてから、照れ臭そうに私を見た比企谷くんは言葉を止めて、それから納得したような表情で数秒考えてから質問に答える。

 

「遣ってねぇよ……遣わねぇだろ、今更」

「無意識でも?」

「無意識でも。ああ、でも、今更って言い方はおかしいよな……最初から、だ」

 

 真剣な瞳に、嘘の色は見えない。そもそも、ここで嘘をつくような人でもない。なら、答えは三番目? ……どうしてかしら、ちょっとだけ喜んでいる私がいる。

 

「そう……そうよね。分かりきっていることを聞いてしまったわ」

 

 本当にそれが答えなのかは分からない。いまだ納得が出来ていないのも確かで、でも、それなのに自然と笑みが漏れた。

 

「ふふっ」

「……やっぱり、今日のお前、おかしいぞ」

「そうかもしれないわね。いつもおかしい比企谷くんが言うんだもの。言葉の重みが段違いだわ」

「……忘れてくれ。やっぱいつも通りだったわ」

「それならよかったわ、一安心ね。さて、では気を取り直して、注文を決めましょうか」

 

 納得がいかないといった様子で了承し、二人してメニューへと視線を落とす。……結構充実しているのね、出来たばかりだというのに。実はチェーン店だったりするのかしら。でもある程度人気のあるチェーン店がオープンしたら普通はもっと混むわよね……。

 

「どれにしようか迷……え?」

 

 滑らせていた視線が、一箇所に釘付けになる。目をぱちぱちと瞬かせて、それからもう一度見ても、やっぱりそれはあれで。

 

「……雪ノ下?」

「……パ」

「パ? なにを……」

 

 どうやら、比企谷くんも気づいたらしい。そこにいる、その存在に。なんでこんなところにいるの……孔明の罠? というより、私ともあろうものがこれに気づけないなんて。いえ、反省は後よ。今はこれをどうするか考えなければ。

 

「……その、比企谷くん」

「なんだ……」

 

 やめて。そんな目を向けないで。私だって選ぶ余地があるのなら、こんなこと頼もうとしないわよ。でも仕方ないじゃない。期限が今日までで、しかも形式が形式なんだもの。

 

「この後のルートを変更したいのだけれど……付き合って、もらえるかしら」

「……はぁ」

「べ、別に断ってもらっても構わないわよ……私の個人的な用なのだから。それなら、なるべく早く今日の予定を済ませて一人で……一人で行く、から」

「それでまた迷うわけだ」

「ぐうっ……分かってるわよ! 分かっているけれど……こうして知ってしまったら、諦められないじゃない」

 

 なにか他に諦めなければならない理由があるのなら話は別だけれど、自分の不甲斐なさが原因で知っていて諦めるなんて、そんなこと出来るはずがないのよ。

 

 じっと見つめていると、比企谷くんは目を逸らし仕方なさそうに息を吐いて、

 

「……本分を忘れるなよ?」

「っ……えぇ!」

 

 このときだけは、比企谷くんが輝いて見えた。

 

        × × × ×

 

 ありがとうございますという挨拶を耳にしながら本日何軒目かのお店を出ると、空にはもう星が浮かんでいた。冷たい風が肌を撫でてぶるりと身体が寒さを訴える。

 

 ……本来ならもう帰っている時間なのよね。隣の比企谷くんに目を向けると、どこか疲れた表情で空を見上げていた。比企谷くんが疲れているということは、私のスタミナなんてとっくになくなっているということで。実際、足なんて棒のよう。もう一歩も歩ける気がしないけれど、それでも家まで帰らなければならない。

 

 というかこれ、どう考えても仕組まれたわよね……なんのつもり? 後日、由比ヶ浜さんと一色さんを問いたださなければならないわ。それはさて置き、まずは比企谷くんへお礼をしないと。

 

「……ありがとう。あと、ごめんなさい、付き合わせて」

 

 後ろめたさが振り切っていて、目を見て言えなかった。けれど比企谷くんは嫌味のない声音で言葉を返してくれる。

 

「ついでだって言ったろ……謝られるようなことじゃない」

「けれど……」

「俺がいいって言ってんだから、いいんだよ……お前がパンさん好きなのは知ってたし。不可抗力みたいなもんだ」

 

 不可抗力。その呼び方になぜだが胸が痛む。比企谷くんが望んでいないことは知っていた。知っていて、その上で頼んだのだ。そういう言い方になるのは仕方ない。

 

 ……頭では分かっているのに、寂しくなるのはどうしてかしら。私の好きなものを由比ヶ浜さんが嫌っていた、あるいは苦手に感じていたときのような、そういう感覚と似ている。

 

「……やっぱり、嫌だった?」

「あー、いや、そういう意味じゃなくてだな……だいたい、もう終わったことなんだからなんでもいいだろ」

 

 なんでもよく、ないのだけれど……。

 

「それにしても、パンさんってスタンプラリーとかやってんだな」

 

 スタンプラリー。私が今日、比企谷くんを連れ回してしまった理由。まあ、私はついていった側だから、連れ回したという表現が適切かどうかは分からないけれど。

 

 シールとか、ポストカードとか、たいしたものではない。でも限定品だから、ここで手に入れられたのは本当によかった。

 

「私も初めて知ったから、これが初なのではないかしら……」

「お前が見落とすなんてことあるんだな」

「公式でアナウンスしていないことがたまにあるのよね……本当に勘弁して欲しいわ」

 

 事前に知っていたら、由比ヶ浜さんに頼んで期間中に徐々に回るという方法も取れたのに。これ、逃したファン多いのではないかしら……。

 

「まあ、無事に終わってなによりだ」

「……あなたのおかげよ、本当にありがとう。後日、なにかお礼でも……」

「いや、いらないし……」

「そういうわけにはいかないでしょう」

「道案内ごときで改めてお礼とかされても困るっての……他人じゃねぇんだから」

 

 一瞬、固まってしまった。まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかったから。

 

 比企谷くんは私の反応を見て気づいたのか、慌てて口を塞ぐ。けれど、出てしまった言葉はもう塞ぎようがない。

 

「……他人じゃ、ないのね」

 

 家族などの例外はあれど、どこまでいっても他人は他人。家族さえ一番近くにいる他人だと言い切りそうだと思っていた。そんなあなたらしさを私は感じていた。けれどあなたは情けない声で、

 

「……そう思ってたら、ダメか」

 

 と、そんな台詞を口にする。

 

「あなたらしくはないわね」

 

 私の言葉に怯えているように見えるのは、ただの錯覚か、それとも願望か。そんなに怖がらなくてもいいじゃない。私はあなたのやり方を否定しても、あなたの気持ちを否定したりはしないわよ?

 

「ふふっ。けれど、けれどね、比企谷くん。いいと思うわ。確かにあなたらしくはないかもしれない……でも、あなたらしくある必要はどこにもないもの」

 

 だって、あなたの発言や態度こそが、私の中のあなたらしさを形作るのだから。

 

「そういうもんか……」

「そういうものよ」

 

 微笑みかけると、比企谷くんはすぐにそっぽを向いてしまう。照れてる? 私みたいな美少女に微笑みかけられたらそれも仕方ないわね。今日付き合ってくれた借りがあるし、許してあげる。

 

「帰りましょうか」

「……送っていったほうが、いいか? 疲れてるだろ、お前」

「大丈夫よ。なんだかそれほど疲れてもいないみたい。足が軽いわ」

 

 さっきまで全身が怠かった気がするのに、不思議と今は走り出せそうなくらい。どうしてかしら? 今日は疑問に思うことが多い一日ね。けれど、そこまで気にもならない。きっといつか分かるって、そんな気がする。

 

「ならいいが……」

「ほら、行きましょう」

 

 足を動かし始めて数歩、比企谷くんが着いてこないことに気づいた。

 

「比企谷くん?」

 

 呼びかけながら振り向くと、そこにはすごく真剣な表情をした比企谷くんがいて、私は首を傾げてしまう。まだ、なにか話があるのかしら?

 

「——雪ノ下」

「……なにかしら」

 

 どうやら、只事ではない様子。緊張しながら続きを促すように視線を合わせると、比企谷くんもまっすぐ私を見返してくる。

 

「今日、お前は俺がお前に興味がないんだって、言ったよな」

「……ええ。でも、あれは本気でそう思っているというわけでは、なくて……もし、気を悪くしたのなら——」

 

 謝ると、そう言おうとした私を遮って、比企谷くんは言葉を続ける。確信を得たような、滑らかな口調で。

 

「——ずっと考えてたんだ。お前にそう言われてから、今さっきまで。俺にはそれは違うってことだけが分かっていて、でも、なにが違うのかは判然としなくて。その答えが、ようやく分かった」

 

 なるほど。それをわざわざ私に聞かせてくれようとしているのね。問いに対して答えが出たなら、書かなきゃ意味がないものね。正しいのか間違っているのかはこの場合関係ないでしょう。

 

 誰にも正しい答えなんて分からない。道徳みたいなものだもの。

 

 それでも聞いて欲しいというのなら、聞く。それはただの独白で、自身の感情の吐露でしかないのだとしても、私はそんな独白を聞きたいと思っているから。

 

「……俺がお前になにを言われても怒らないのは、別にお前に興味がないからじゃないんだ。お前が——雪ノ下雪乃が、俺にとって他人じゃないからだ」

 

 そこで奉仕部や他の誰かの名を並べずに、私の名前のみを挙げたのには、一体どんな意味があるのだろう。人の言葉に必ず隠れた意味があると思っているわけじゃないのよ。

 

 なにも考えずに言葉を発することだってあるし、ただたまたまそういう表現の仕方になることだだってある。ただ、無意識にしろ意識的にしろ、強調するように私のフルネームを呼んだことに、なにか特別な意味があったらいいなと思った。

 

 しかし、比企谷くんの言葉は要領を得ない。他人より近しい存在に感じているということであるというのは分かるものの、だからといってなんでも許せるわけではないでしょう。

 

 そんな疑問を口にしようとすると、比企谷くんは私が訊くよりも早く具体的な理由を教えてくれた。

 

「……誰かに言われて嫌なことが、相手を変えるだけで嫌ではなくなる。いつもなら面倒で断ることが、特定の誰かなら許せる。そういうこと、あるだろ」

「……そういうこと」

 

 思わず、なるほどと頷いてしまいそうになる。だってそれは確かに身近にありふれていることだから。当たり前過ぎて目を向けることがないから見逃してしまいがちになるけれど、私たちは自然と周りの人間へ優劣をつけて暮らしている。

 

「あぁ。俺にとってお前はそんな誰かで、だから怒りが芽生えない。俺だって、誰になにを言われても怒らないわけじゃない。陰口を聞けば心がささくれ立つし、他人の視線が妙に気になったりすることもある。初対面でお前にボロクソ言われたときは普通に腹が立ったし、喧嘩腰になってる自分がいた」

 

 それは比企谷くんにとって私が他人だったから。なにも知らない私に、自分のなにかが否定されるのが嫌だったから。

 

 共感出来る。思い返せば私だってそうだった。初めて比企谷くんと会話をしたときは、なんだこの男はと思ったし、一生仲良くはなれないタイプの人間だとすら考えていた。

 

 なのに、いつのまにか私は比企谷くんの言葉にマイナスな感情が芽生えることがなくなっていて、弾む会話に楽しさだって覚え、仕事とはいえ二人きりで出掛けることを許容出来ている。比企谷くんとなら、二人きりでも構わないという本音が私の心の奥に確かに存在している。

 

「……お前は俺を知らなかったし、俺もお前のことを知らなかった。でもな……」

 

 言葉を止めて、ゆっくり息を吐き出す。悪戯っぽい笑顔。私が初めて見る比企谷くんの表情に釘付けになっていると、いつか聞いた台詞が耳に届いた。

 

 

「でも——今はお前を知っている」

 

 

 ——今はあなたを知っている。比企谷くんにその言葉を放ったのは何ヶ月くらい前のことだろう。面食らっている私をよそに、比企谷くんは更に口を動かす。

 

「分からないこともある。きっと、知らないことだって数えきれないくらいにあるはずで、知ってることより知らないことの方が遥かに多い」

 

 当たり前だ。なんでもかんでも理解出来るはずがない。どれだけ時間をかけたって見えてこない側面だってある。自分のことすら完全に理解など出来ないのに、相手を知り尽くそうだなんてただの傲慢でしょう。

 

「——でも」

 

 でも。

 

「——それでも」

 

 それでも。

 

「——俺は」

 

 比企谷くんは。

 

「——前よりも確かに、お前を知ってるんだ。いつかお前が俺にそう言ったように」

 

 と、今私にそう言うのだ。それなら、そうなのでしょう。だって、他ならぬ比企谷くん自身が言っているのだから。

 

「他人じゃない。もっと言えば、敵じゃない。だから許せる。お前の言葉に敵意を覚えない、悪意を感じない。なにかを言われても仕方ないと思える。笑って流せる。下らない言い合いが出来る。だから、雪ノ下は他人じゃない……ただ、別にお前にそうあって欲しくて言ったわけじゃないんだ」

 

 強要はしないと、私がそうある必要はないのだと、比企谷くんは告げる。自分が相手を特別扱いしているからといって、相手も自分のことを特別に思っているとは限らないものね。

 

「これは、俺の答えだから」

 

 ……本当にあなたらしいわ。でもね、私はそうじゃないのよ。

 

「……納得したかと問われたら微妙なところね。だって、私はさっきまであなたのことを他人だと思っていたのだから」

「……っ」

「でも、分からないわけではないの。だって、あなたの感じていたことが、私とすごく似ていたから……」

 

 比企谷くんに言われて嫌なこと、由比ヶ浜さんに言われて嫌なこと、いろはさんに言われて嫌なこと、全部違っていて、きっとその数が減っていくほど他人じゃなくなるのよね。

 

 多分、他人じゃなくなることで嫌だと感じるようになる言葉もあるのだろうけど、同時に許せる以上——嬉しい、楽しいと感じられる言葉も増えていく。

 

 今日、疑問に思ったいくつかのことに答えが出た。

 

 私が比企谷くんの気分が落ちたことで機嫌が良くなるのは、比企谷くんがそうして冗談っぽくテンションを下げること、もっといえばそんな冗談を言い合うことにこそ楽しさを感じていたから。その内容や反応がどういうものであるかなんて関係がなくて、比企谷くんと会話をするということ自体に特別な意味を感じているから。

 

 悪くなった雰囲気がただ会話をしているだけで元に戻ったのは、比企谷くんが私との会話に、私自身に特別な感情を向けているから。でも、それは一方的なものではなくて、私だって、そう。私たちはお互いがお互いに敵意や悪意なんてものを抱いていなくて、だから普通に話しているだけで雰囲気なんて勝手に元通りになる。

 

 私も比企谷くんも相手のために取り繕うなんてことはしないし、出来ないし、したくもない。私たちは自分自身がその状態を嫌だと感じて、同じ想いを向け合った上でいつも通りの振る舞いをすることでいつも通りになれる。

 

 分かってる。比企谷くんはそこまで言っていない。これは私がそうであればいいと思っているというだけの話だ。けれど、私は比企谷くんではないからそれでいいのだと思う。私は比企谷くんに対して、私と同じ気持ちでいて欲しいとそう望んでいる。一緒にいて少し話が弾むだけで疲れが取れるのが私だけでは嫌だと、そう考えている。

 

 そして、比企谷くんにも私にそれを望んで欲しいのよ。

 

 ああ、そうなのね。もう、分かった。今まで分からなかったのがバカみたいで、笑えてきてしまう。

 

「似ているからといって、同じ考えになるとは限らない。けれど……それでもね、比企谷くん。私は、あなたを他人じゃないと感じられたらいいと、今、そう思っているわ。あなたが他人じゃなければいい……あなたにも、私に同じことを望んで欲しい」

「……それは、でもな……」

「ええ、そうよね。あなたはそういう人だもの。私とあなたは当然のように違う人間で、考え方だって違うから、答えも違う。当たり前じゃない。だから——」

 

 それはそれでいいのよ。私はあなたに変わって欲しいわけじゃないもの。おかしいわね。昔はあなたの自己変革に躍起にやっていたのに……今はそれも含めて許せるの。

 

「——これが、私の答えよ」

 

 本当なら、比企谷くんが言い終えた時点で話を纏めてもよかった。あれは比企谷くんの独白なのだから、私はたまたま聞いていただけ、それでなくても質問に対する答えにさらに自身の考えを述べる必要なんてどこにもない。

 

 でも、言いたくなった。伝えたくなった。あなたの想いを耳にすれば、私の想いを止めることなんて出来なくて。

 

「ねぇ、比企谷くん」

 

 私はさらに問いを重ねる。あなたのことを知りたいから、という理由付けは出来なくもないけど、それでは足りないわね。だって、私は私の欲しい答え以外を求めていないのだから。……厄介な気持ちに気付いてしまったわ。

 

 それも嫌ではないのだから、本当にどうしようもない。

 

「私とあなたが他人ではないのなら、あなたにとって私はなに?」

 

 そう訊ねた私はどんな顔をしているのか。それは鏡を見なくても、心を満たす感情が教えてくれる。比企谷くんは困ったように眉を顰めて、

 

「それは……」

「ふふっ、いいのよ。今答えてなんて言っていないでしょう?」

「それで……いいのか?」

「ええ、それでいいの。だから——」

 

 いつかでいいわ。あなたのいつかにきっと私がいるから。いてみせるから。

 

 

「——いつか答えを聴かせてね?」

 

 

 

 

 —おまけ—

 

「えぇーっ! そこまでいって付き合ってないとかまじですか! まじですか!」

「ゆきのん……」

「つっ、付き合……い、いいのよ! 別に今すぐどうこうする必要もないでしょう……」

「でも、ねぇー……?」

「ねー?」

「ねー、じゃないわよ……だいたい、あの人の中で答えが出てないのに、私が言ったところで意味がないじゃない。俺にはまだ分からない、とかなんとか言い出すに決まってるわ……」

「あー……確かに、そうかも」

「まぁ、先輩ですしね……。あーあ、せっかく面倒なのがくっついたと思ってたのに、先長そうですね……」

「面倒って……あなた、最近私に対する物言いが砕け過ぎじゃないかしら……構わないけれど」

「うーっす」

「あ、ヒッキー! やっはろー!」

「こんにちは〜。噂をすれば、ですねー」

「よう……なんだよ、噂って。なんか話してたのか?」

「ふふ、陰口なら十八番でしょう? 言われる側だけれど」

「まあな。なんなら直接言われるより気が楽まである」

「本当、どうしようもない人」

「どうにかしようとも思ってねぇしな」

「ふふっ」

「はっ……」

「……まあ」

「……いいのかな、これで」

「「楽しそうだし」」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺の彼女はツン甘です。

ツン甘な彼氏パロ。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 俺の彼女はツン甘だ。ツン甘という言葉を耳にしたのは最近だが、その意味を聞けばあいつのようなやつのことを言うのだろう、という理解が出来た。

 

 この話とはまったく関係ないのだが、星見SKさんの創作漫画『ツン甘な彼氏』は最高オブ最高なので、是非読んで欲しい。マッ缶とどっちが甘いか悩むレベル。

 

「なにそんなところでぬぼーっとしているのよ、邪魔なのだけれど」

 

 噂をすれば影というか、初めから同じ空間にいたから影もなにもないのだが、ご本人のご登場である。俺が昼食後のコーヒーを淹れながらぼーっと頭の悪いことを考えているうちに背後に回っていたらしい。足音とか一切聞こえなかったけど、忍者かなにかなの?

 

「おお、すまん……」

 

 湯呑みを持ってその場から退くと、きゅっと袖を摘まれる。そのまま固まっていると、ぽとぽととコーヒーの中に角砂糖が突っ込まれた。え、ブラック飲むつもりだったんですけど……。

 

「眠気覚ましのつもりかもしれないけれど、休みに眠気を無理矢理覚ますなんてバカのやることよ。甘ったるいコーヒーでも飲みながらすっからかんの頭をもっとすっからかんにしてなさい」

「いや、そこまですっからかんじゃないだろ……ありがとな」

「やっすいお礼なんて言ってる暇があるなら、さっさとソファにでも移動しなさい。邪魔よ」

「はいはい……」

 

 これ、休めって言ってるんだろうな……素直なのか素直じゃないのか。

 

 なんとなく和みつつリビングのソファに腰掛けてコーヒーを一口飲み、ほっと息を吐く。拍子にあくびが漏れて、目尻に涙が溜まった。

 

 紅茶を淹れて俺の横に座った雪ノ下を一瞥して、湯呑みをテーブルに置くと、くいっと転ぶように身体が倒れた。

 

「うおっ……!」

 

 素っ頓狂な声をあげながら、なすすべもなく視界が横転する。それとほぼ同時に頭部に柔らかさを感じて、視線を動かした先には微笑む雪ノ下がいた。

 

「情けないのね」

「……いや、武道やってたやつに敵うわけないだろ」

 

 不満の言葉も尻すぼみになってしまう。なにを思って急にこんなことを……と、疑問を覚えていたら、雪ノ下はバカを見るような目で、

 

「まだ眠いのでしょう? 少し、寝てなさい」

「いや、お前が起きてるのに……」

「あなた、もしかしてバカね?」

 

 バカを見るような目でバカだと言われた。八幡ショック。まあ、今に始まった話ではないので、特に問題はないのだが……いや、それってどうなの? バカと言われることに慣れ過ぎてるとか、そんな悲しい慣れは初めてだ。そう思いつつも全然悲しくないのが不思議。

 

「付き合っているからといって、相手の行動に自分の行動を強制されるなら、付き合っていないほうがマシじゃない」

「俺にもちょっとは申し訳ないみたいな気持ちがあってだな……」

 

 こんな態勢で言っても一ミリも説得力がある気がしないが、それは置いておくとして。彼女が起きてなんかしてるのに自分だけ爆睡してるのは、後ろめたさとか色々あると思うんですよ。

 

 こんなことを俺が考えるなんて、俺って成長したなぁとこぼれ落ちてもいない涙を拭うまである。

 

「なにかしなければ申し訳なくなるなら同じことでしょう。だいたい、あなたのそれは思いやりでもないでもないわ。ただ、自分の後ろめたさを拭いたいだけじゃない。私をそんなものの理由にしないでもらえるかしら」

「そこまで言うことないだろ……」

 

 否定出来ない自分に、どうしようもない情けなさを感じつつ、そんな言葉を吐いた。

 

 実際、雪ノ下の言ったことは正論だろう。俺は俺自身が苦しい思いをするのが嫌で、そのためにこいつを利用しようとしていたのだ。それは、確かに雪ノ下の嫌いそうなことで、少し考えれば分かりそうなのに……。

 

「はぁ……なに暗い顔してるのよ」

「……すまん」

「なにに対しての謝罪? あのね、比企谷くん。私は怒ってるわけじゃないのよ。おためごかしな行動なんて必要ないと言っているだけで」

 

 それは怒ってるのと違うんですかね。よく分からないんですが……。

 

「なにかしなければなんて理由は言わずもがな、私に喜んでほしいという気持ちさえなくても、あなたがついでにコーヒーを淹れてくれる。私の作った料理を美味しそうに食べてくれる。たまたま目に止まった乾いたお皿を棚に片付けてくれる。……それだけで、そんないつも通りで当たり前な行動だけで、私は幸せになれるのよ」

 

 顔が赤くなっているのが自分でも分かった。世界で一番幸せですみたいな顔で、さらっとそんな恥ずかしい台詞を吐く雪ノ下にはきっと一生敵わないのだろう。

 

「あなたの頭はすっからかんなのだから、そのくらい覚えられるわよね?」

「おう……」

 

 すっからかんだなんて、貶すような言葉を吐かれても、そこに微塵も嫌な気持ちが湧いてこない。俺にはただ、目を逸らしながら了承の意を示すことしかできなかった。

 

 話を戻そう。

 

 俺の彼女——雪ノ下雪乃はツン甘だ。

 

        × × × ×

 

 かくして特別なことなんてなにもしなくていいという言質を取れてしまったわけだが、それを笠に着てまじでなんもしないなんてことは、雪ノ下が許しても俺が許せない。

 

 いや、俺だってなんにもしたくないけどね? でもほら、自分のことなら放ったらかしでいいけど、他人のことだとそうもいかないみたいな。

 

 ……自分の心の中でくらい正直になろう。俺は、自分の無意識な行動なんかではなく、意識的な行動によって雪ノ下を喜ばせたい。

 

 なら、そのために俺になにが出来るかだが、ぶっちゃけなにも浮かばないのが現状だったりする。俺になにか出来ることあるのかしら……と考え始めていつのまにか二時間経ってるまである。つーか、まじで経ってた。二時間も思考に費やすとか、時間の使い方が贅沢過ぎじゃない? 雪ノ下に「時間を無駄にさせたらあなたの右に出る者はおろか、後方四万キロまで誰もいないわね」とか言われそう。絶対言われる。それ地球上で誰もいないって意味だよね?

 

 近くの自販機で買ってきたマッ缶を開けて、落ち着くために一口飲むと、驚くことになにも浮かんでこなかった。驚く要素が皆無。なんなら当たり前過ぎてびっくりしたレベル。

 

 雪ノ下が仕事から帰ってくるまであと四時間ほど。ちなみに俺はこっそり休みを取り、出勤するフリをして家を出て、雪ノ下が家を出たのを見計らって帰ってきていたりする。

 

 彼女をちょっと喜ばすだけで大袈裟なと、他人が見たらそう思うかもしれないが、俺にとっては大事だ。なにせなにもしなくても喜んでくれるような相手である。なにかしてより喜んでもらえる保証がない。

 

 適当なことをして「能がないのだから、普通にしてればいいのよ」とか言われるのは嫌なんだよ。あいつは俺を辛辣な言葉で甘やかし過ぎる。どうでもいいけど辛辣な言葉で甘やかすって字面の異常性は異常。

 

 まじでどうすっか……料理とか? 夕食を作って待ってたら喜んでもらえたりするんだろうか。果てしなく微妙な感じがする。かといって他に案もない。

 

 とりあえずと確認した冷蔵庫は、昨日買い出しに行ったばかりなおかげで材料が豊富だ。……失敗して無駄にしたら流石に怒られそうだな。やっぱりなにもしないのが一番なのでは……いやいや、それじゃダメなんだって。

 

「よし……作るか」

 

 レシピ通りに作れば俺なんかでもなんとかなるだろう。最近はネットで探せば初心者向けのレシピも大量に出てくるし、そんなレシピで作った料理をあいつが上手いと言うかどうかはともかく、なにもしないよりはマシなはずだ。

 

 ……いや、あのですね、だから、そういうのじゃダメでしょって話この前もしたばかりですよね。あれー、本当になにも詰まってないんじゃねーか、この頭。ジャムおじさんに新しいの作ってもらわないとね。

 

 俺があいつに喜んで欲しいから、出来る限りの努力をして、夕食を作るのだ。その方針だけは間違えてはいけない。怒られるのが嫌だからどうとかじゃなくて、喜ばせたいという気持ちで作るのに否定されては意味がない。

 

「……出来んのか、俺に」

 

 そうして俺は、やっぱり不安に思いつつも、目をつけたレシピを見ながら料理を開始したのだった。

 

        × × × ×

 

「終わった……」

 

 終わったぞ、終わったんだ、本当に終わったのか……? いや、そこで疑問に思っちゃダメだろ。なんだよその三段活用。

 

「……悪くない、出来な、気がする、多分、知らんけど」

 

 ついつい声に出しちゃうくせに自信満々に言うのは恥ずかしくて予防線を張る面倒くさいやつと化している。pixivで自分で『駄作』とタグを付けている書き手みたいだな、おい。

 

 今ならあいつらの気持ちが分かる。そんな気がした。なぁ、材木座。元気でやってるかな、あいつ。二次創作に逃げたきりオリジナルに戻れなくなったらしいけど。いや、材木座の話はどうでもいいんだよ。

 

「とにかく、完成だ……」

 

 俺の目の前の皿には今作ったものが盛り付けられている。それは料理名で言えばパエリアというやつで、雪ノ下がちょくちょく作ってくれる料理の一つだ。他にもスープとかを作ってはいるが、あくまでこっちがメイン。

 

 ちなみに雪ノ下の味には遠く及ばない。そんなのはなにを作ったところで同じことなので、気にしても仕方がない。俺は精一杯やった。頑張ったから喜んでくれるなんて、そんな一方的なことは言わない。けれど、喜んでもらえたら嬉しいことだけは確実で。

 

 どんな顔をするだろう。笑顔か渋面か。どんな反応をするだろう。甘やかされるのか、それとも別のなにかがあるのか。どんな言葉を口にするだろう。「仕事を休んでするのがこんなこととか、あなたバカなの?」か、「仕事を休んでまでした割にたいしたことがないわね、今度鍛えてあげるわ」なのか。珍しくまったく想像出来なくて、『仕事が終わったので帰宅します』という業務連絡のようなLINEを眺めながらそのときを待った。

 

 不安と緊張と……期待、だろうか。正直、怒られることはないだろうとは思っている。俺が怒られたくはないという気持ちから、その可能性を除外しているということもあり得るが、誰だって怒られることを想定しながら相手を喜ばせようとなんてしない。喜んでもらえることを確信は出来なくても、相手の喜ぶ顔が見たいから、他の誰よりも自分が相手を喜ばせたいから、だから、俺は今日休みを取ったんだ。

 

 対価を求め、独占欲を満たしたいがための自分本位でどうしようもない行動。けれど、俺はお前のためだなんて押しつけがましい理由を裏表なく思える人間ではないから、それでいい。それしか出来ないから、そうするしかない。きっとあいつは、自分のために相手を喜ばそうとする自分勝手な俺ごと纏めて、俺が好きだと言ってくれたのだろうから——

 

「——ただいま」

 

 どうやら独白の時間は終わりらしい。玄関から聞き慣れた声が耳に届いた。腰を持ち上げて、ゆっくり玄関へと向かう。一歩進むごとに鼓動が大きく、速くなっていくのが歩きながらでも分かった。

 

 昔、母の日に小町と一緒に夕飯を作ったのを思い出す。あのときもめちゃくちゃ緊張したし、勝手にコンロを使うなと厳命されていたのもあって怒られるのが不安で仕方がなかった。あの頃から俺はコミュニケーションが不得手だったから、自分がなにかをしたところで誰かが喜ぶなんて想像も出来なかったというのが要因としては大きい。

 

 それでも夜更かしして二人の帰りを待った結果、俺と小町は最初に帰宅した母に纏めて抱きしめられ、親父には涙を滲ませながらお礼を言われた。どこか擦れてきていた俺が、「自分もちゃんと愛されているんだな」と思い出せたのは、それがきっかけだったりする。

 

 ……懐かしいな。今はもう、というか、その一年後にはもう照れ臭くてそんなことは出来なかったが、やらなければよかったなんて一度も思ったことがない。やらずに後悔よりやって後悔なんて言葉があるが、やって後悔しないのが一番に決まっている。

 

 では、果たして、今回はどうなるか。

 

 リビングの扉を開けて廊下に出ると、靴を脱いでパンさんのスリッパを履いた雪ノ下と目が合った。

 

「おかえり」

「ええ、ただいま……」

 

 いつも出迎えなんてしないくせに、わざわざ出て来たことに疑問を覚えたのか首を傾げつつ返答する。すると、漂う匂いに気づいたのか雪ノ下は怪訝な表情を浮かべて、

 

「……なにか、作ったの?」

「あー、まあな……とりあえず、風呂入ってこいよ。貯めてあるから」

「そう……分かったわ」

 

 直接、寝室に向かい、着替えを持った雪ノ下は俺の前まで来て、そっと仕事用の鞄を差し出す。

 

「……リビングに置いておいてくれるかしら」

 

 勘付いているのだろう。気づいていないフリをしてくれていることに少しだけ感謝をしつつ、その鞄を受け取ってリビングへ戻った。

 

 またしばらくソファに腰掛けて待っていると、雪ノ下は入浴を終えてリビングへ入ってくる。かちゃりと音を立てて僅かに開いた隙間からそっと中を覗く様が、なんだかかわいくて笑ってしまった。

 

「……なによ」

「いや、別になんでも」

 

 調子が狂ったのか、はぐらかすと唇を尖らせて顔を背けてしまう。

 

「……それで、これはどういうことかしら。パエリア? あなた、料理をすることが出来たのね。甘ったるいコーヒーを飲むのだけが特技なのだと思っていたけれど、やるじゃない」

「そりゃどうも……まあ、お前の作ったものには全然及ばないけどな」

 

 自信のなさが表に出ていたのか、雪ノ下は呆れたように笑みをこぼす。いつのまにか下がっていた顔を上げると、仕方のないやつだなとでも言いたげな視線が俺を見つめていた。どうやら、調子は戻ったらしい。

 

「あなた本当にバカね。あなたが作った料理の味なんて嬉し過ぎて分かるわけないじゃない」

 

 やっぱどっかまだおかしいらしい。とりあえず、喜んでもらえていることは分かったのでよかった。

 

「んじゃ、食べるか」

「ええ」

 

 ダイニングチェアに向かい合わせに座って、雪ノ下が一口目を食べるのを見守る。気のせいかいつもよりもよく噛んでから飲み込むと、雪ノ下は鋭い眼光で俺を睨む。

 

「食べづらいのだけれど」

「……ああ、悪い。その、気になってな……」

「はぁ。不味いわけがないでしょう、いちいち言わせないでくれるかしら」

 

 あ、これはバカなの? のときの顔ですね。一番見る機会の多い表情だから、なんかもう覚えちゃったよ。言われてもないのに、バカなのって言われた気分。

 

「……よかった」

「最初っから言ってるでしょう? あなたの作ったものに不満なんて出てこないのよ。まったく、理解力のない男ね」

 

 ぱくぱくと食べ進めると鋭かった眼光も和らいで、俺まで口もとが緩みそうになる。……まあでも、それも、悪くはないか。口に運んだパエリアはやっぱりまあまあそこそこの悪くはない程度の味だったが、なぜだか味見のときよりも美味しく感じた。

 

        × × × ×

 

「では、説明してもらいましょうか」

 

 食器を洗い終えてソファに座った雪ノ下が、犯人を問いただすように言う。本当は俺が洗うつもりだったのだが、ツン甘な雪ノ下が、「私を彼氏に料理から食器洗いまでやらせる女にしたいの? 私の仕事を完璧に奪いたいのなら、あと百年は私の隣で精進することね。分かったらいつも通りぬぼーっとしていなさい」とかわけのわからないことを言って聞かなかったので譲った。

 

「説明って言われてもな……まあ、その、なんだ、雪ノ下に喜んで欲しかった、というか。そういう、アレなんだが……」

 

 流石に照れ臭いので顔を逸らしつつ動機を告白するも、なぜだか反応がない。ちらりと雪ノ下に目をやれば、聞いた本人は顔を背けて肩を震わせていた。

 

「……雪ノ下?」

「ちょっと待って」

 

 間髪入れずに返ってきた言葉に従って待つこと五分。ようやくこちらに顔を向けた雪ノ下はすんとした表情で、

 

「くだらない理由ね。この前も言ったでしょう……わざわざそんなことをしなくても、私は幸せなのよ」

「……なんで太もも抓ってんの、お前」

「黙って」

「はい」

 

 どうやら触れてはいけないことだったらしい。なんか赤くなってきてるし、めちゃくちゃ気になるが、触らぬ神に祟りなし。ここはスルーしておくことにする。

 

「それで、これ……」

 

 贈呈用に包装された化粧箱を脇から取り出して渡すと、雪ノ下はそれと俺の顔を交互に見て、

 

「……なによ、これ? ゆ、夕食だけじゃないの……?」

「いや、ほら、前に同僚が記念日に祝ってもらった自慢話を延々としてきたって死にそうな顔で言ってたろ。だから、その真似ってわけじゃないが、一年間の感謝も込めて、な……」

「し、死にそうは余計だけれど……そんな、そんなの……っ」

 

 徐々に上がっていく口角と、じわりと潤む瞳。目尻を拭うために太ももから指を離すと、満面の笑みと紅潮した頬が姿を見せた。……なるほど、なんか、アレだな。スイッチを押すと光るオモチャみたいな。

 

「……本当に、卑怯だわ、あなた。帰ってきたときに不安そうな表情をしていたけれど、こんなので私が喜ばないとでも思っていたの……? そんなわけないじゃない、もうちょっと脳みそ詰めなさいよっ……。一年間も同じ部屋で過ごしてその程度のことも分からないなんて、鈍いにも限度があるでしょう……! ば、ばーかっ……ばーかっ……比企谷くんの、ばか……」

 

 心なしか語彙力がなくなっている。その代わりに破壊力が上がっている気がするので、釣り合いが取れているのだろうか……。それにしたって、心臓が持ちそうにないのでこれからはこうなるのは避けていきたい。

 

 ……でもなぁ、まあ、来年もやるんだろうな。

 

 ぼんやりと惚気じみたことを考えていると、ぎゅっと身体が抱きしめられる。唐突過ぎて驚いていたら、俺の顔を見上げた雪ノ下は、

 

「これは、プレゼントの分……」

 

 いつのまにか手首に着けられていたブレスレットに目を奪われていると、唇が柔らかい感触に包まれる。

 

「——これが、夕食の分よ」

「っ……」

「ふふ、あなたが私に勝つなんて、百年早いのよ」

 

 照れ臭そうにはにかむ彼女に、いつまで経っても勝てる気がしなかった。首に腕を回して密着したまま俺の耳に口を寄せた雪ノ下が囁く。

 

「でも。ねぇ、あなた……夕食の分、今ので足りたかしら」

 

 あなたのイントネーションが違くないですか。そんなことを言える雰囲気ではなかった。髪から香る女性らしい匂いに、頭がクラクラとしてくる。

 

 改めて言おう。俺の彼女——雪ノ下雪乃は、ツン甘だ。

 

 ただ、どちらかといえば甘ツンな気がしなくもない。

 

 

 

                了



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷くんと付き合うための、たった一つの冴えたやり方。

比企谷くんを攻略する話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 五月下旬。中間テストも終わったこの時期は、稀に急激な温度変化があったりはするけれど、比較的過ごしやすく、外出するにはベストな環境と言える。

 

 そんな初夏の休日。窓から流れ込む心地よい風を受けながら、私は家にこもってなにをしているのかというと——

 

《「……ずっと一人だった俺に、誰かを選ぶ資格なんてないだろ」「じゃあな、雪ノ下」そう言って歩き始めた彼の背中に、私は声を掛けることも出来なかった。それから、比企谷くんとは会っていない。BAD END.》

 

 ——あぁぁぁぁぁぁぁあああああああっっっっ!! もうっ、こ、のっ、なにっ!? なんなのこのクソゲーッ!?

 

 チャラララと腹の立つバッドエンド用BGMを垂れ流すパソコンを本気で殴りたい。……ダメよ、雪乃。その中には今まで集めたパンさんや猫、奉仕部での写真や比企谷くんの隠し撮……こほん。

 

 スタート画面を表示する液晶を、しばらくじっと見つめる。……もう、やめてしまおうかしら。いえ、ここで諦めたら、比企谷くんに負けたみたいじゃない。そんなのは絶対嫌、受け入れるわけにはいかない。……でも、もうやだなぁ。

 

 そう、私が休日を潰してまでしているのは、このPCゲーム。タイトルは『どうあがいても、私の青春ラブコメはまちがっている。』。なんか語呂悪くないかしら……まあ、比企谷くんもよく似たようなタイトルの本を読んでいるから、そこまで珍しいというわけでもないんでしょうけれど。

 

 姉さんから突然送られてきたそれにはこんな手紙がついていた。

 

『ひゃっはろ〜、雪乃ちゃん! 元気してるぅ〜? 大学生活が余りにも暇だから、ゲーム作っちゃいました☆ よかったらテストプレイしてみてね!』

 

 ゲーム作っちゃいました☆ じゃないわよ……とは思いつつも、たった一人の姉がわざわざ私を頼ってきたのだしとプレイしてみれば、この様。高笑いしている姉さんが眼に浮かぶわ。

 

 だいたいどうしてゲームに私や由比ヶ浜さん、比企谷くんが出てくるのよ。名前とか、雪ノ下雪乃で固定だし。こういったシュミレーションゲームって、それが普通なのかしら。それにしたって、私にやらせるために作ったのが丸分かりじゃない。もうちょっと隠す努力を……はぁ、いくら愚痴ったところでもう今更よね。

 

「ふぁ……」

 

 あくびが漏れて、自分が何時間ゲームをしているのか数えてみる。ええと、プレイし始めたのが昨日の昼頃だから、1、2……19、20、21。21時間。食事や入浴の時間を考えればもう少し減るけれど、どちらにせよなんだか目がしょぼしょぼするのも納得のプレイ時間ね、我ながら呆れる。

 

 一度、寝ようかしら。いえ、でももう少しでクリア出来るような気がするのよね。私がもともとゲームをやらない人間だったから、途中でバッドエンドになってしまったりしたけれど、今回で一応卒業までの流れは理解出来たし、次こそはなんとかなるはず……多分。

 

 だったら、次が最後の一回になる。これを終わらせて、すっきりした気持ちで惰眠を貪りましょう。生活習慣がどうとか、そんなものは知ったことではないわ。達成感の中で私は眠るのよ! NEW GAME!!

 

 舞台は千葉市立総武高校。空き教室にて私が本を読んでいるところから物語は始まる。ぺらとページを捲ると、からりと扉が開かれ、平塚先生が連れてきた男子生徒が口を開いて、

 

《「二年F組比企谷八幡です」》

 

 親 の 顔 よ り 見 た 名 前。

 

 ……というかここ、スキップ出来ないの? つっかえないわね。だいたいなんで毎回毎回最初からなのよ。途中からやらせなさいよ。

 

 そうして、ぶつぶつと文句を垂れながらではあるものの、私の比企谷八幡攻略がまた幕を開けたのだった。

 

        × × × ×

 

 それから、おおよそ三時間が経った。ソファに身を投げ出した私の視界には無機質な天井が映っていて、はぁと吐いたため息は虚空へ溶けていく。

 

 時刻はもうとっくに正午を迎え、今しがた昼食を摂ったばかり。ちらとテーブルに目を向けると、画面の暗くなったパソコンがいまだにそこに鎮座していた。

 

 ……クリア、出来なかった。

 

 クリア出来なかったぁぁぁぁあああああっっ! あーっ、もうっ! なんなのよ! なんなのこのクソゲー! だいたい一回プレイするのになんで二時間以上掛かるのよ! 頭おかしいんじゃないのっ!?

 

「はぁ……」

 

 どうすればクリア出来るのかしら……。いっそ、比企谷くんに訊いてみる? あのときどう答えればよかったのかって。いえ、流石にそれは……でも、他に方法もないのよね。

 

 スマホを取って、比企谷くんの番号を表示する。パソコンを起動して、ゲームを始めてから電話を掛けた。

 

『……もしもし』

「も、もしもし、比企谷くん?」

 

 比企谷くんには何度か電話をしたことがあったけれど、こうしてどうでもいいような内容で掛けるのは今回が初めてかしら。……本当にどうでもいいわね。迷惑ではないかしら。

 

「その、訊きたいことがあるのだけれど……時間は空いているかしら」

『あー、まあ、別に空いてるが。部活のことか?』

「い、いえ……そういうわけではなくて」

 

 部活のことだなんてとてもそんな高尚な理由ではない。ゲームがクリア出来なくて困ってるだけです。本当にごめんなさい。でも、これをそのまま言うわけにもいかないのよね……あなたを攻略するゲームをしてるのだけれどとか、私が言われたら気持ち悪くて通報するわ。

 

「……あ、あなたと、私のこと、なのだけれど……」

『へぇー……は?』

 

 間抜けな声が耳に届いた。不思議に思って自分の言葉を心の中で反芻してみると、なんだか違う意味に取れそうというか、むしろそっちの意味にしか取れなさそうなことに気づく。

 

「あっ、いえっ、その、そういう意味ではなくて! 今までのあなたと私のこととか、これからのことを、一度っ……そう、一度! 考えてみるのもいいと! 思った、のだけれど……」

 

 なんだか話がもっとややこしくなった気がする。……もしかして私、喋らない方がいいのでは? 固唾を飲んで比企谷くんの言葉を待っていると、比企谷くんはどこかぎこちない声で、

 

『よく分かんねーけど……なんか、大事なことなんだな?』

「そ、そうよ……」

 

 全っ然、違いますっ! ごめんなさいっ! 本当にごめんなさい、嘘です、大事なことなんかじゃないです、ただのゲームの話です……。この罪悪感はなに? というか私、冷静に考えたら、比企谷くんに比企谷くんを攻略させようとしてるのよね……それ、なんかもう字面から頭がおかしくないかしら?

 

 頭がおかしいのは私よね。分かってるわ。ちゃんと理解していますとも、ええ、十全に。でも、だって、こんな中途半端な状態で退けないじゃない! 仕方ないじゃない! おかしいのは私でも、悪いのは私じゃないわよ!

 

「で、では……その、これからいくつか質問をさせてもらうから、それに答えてもらえるかしら」

『……分かった』

 

 震える手でマウスを動かして、会話イベントを開始する。

 

「……あなたが始めて部室に足を踏み入れたあの日、私はあなたのことを『ぬぼーっとした人』と形容したけれど、あのとき、比企谷くんはどう思った?」

 

 画面には、『そのぬぼーっとした人は?』、『あ、あなたはあのときの……』、『あら、二年F組の比企谷くんじゃない』が選択肢として表示されている。これが比企谷くんとの物語であることを考慮すれば、なにかが始まりそうな『あ、あなたはあのときの……』を選ぶのが正解な気がする。けれど、一度それを選んだときは、その後の選択肢を間違えたのか、なぜか由比ヶ浜さんに告白されたのよね……。

 

『どう思ったって言われてもな……』

 

 比企谷くんはあの日のことを思い出しているのか、少し間を空けて質問に答える。

 

『初対面の学内有名人にぬぼーっとか言われてちょっと傷ついた』

「そ、そう……ごめんなさい」

『いや、今更謝られても困るっつーか……』

 

 私は知らず知らずのうちに比企谷くんを傷つけていたのね……いえ、知らず知らず、ではないわよね。あの頃の私ははっきり言って周囲にいる人間がすべて敵に見えていた。攻撃される前に攻撃するしか自身を守る術がなくて……でも、そんなのは誰かを傷つけてもいい言い訳にはならない。

 

 いつの間にか、比企谷くんとの過去をすべてよい思い出として美化していた。それは、自身の罪を忘却しているだけで、私は本当はきっと、誰かを傷つけたことを自覚しながら生きていかなければならないのだわ。それが、自己満足でしかないのだとしても。

 

「……もし、あのときに私が『あなたのことを知っている』ような口ぶりであなたに話し掛けていたら、今頃どうなっていたかしら」

『はぁ? なんだよそれ』

「だから、その……もっと違う道があったのではないかということよ」

『別にいいだろ、ぬぼーっとした人で。あのときのお前がそういうやつだったことはもう変えられないのに、違った未来なんて考えることに意味があるか?』

「そう、かしら……」

『そうだろ』

 

 比企谷くんがそう言うのならと、『ぬぼーっとした人』を選択する。

 

 それからも会話イベントが発生するたび比企谷くんはあのときのままでいいと言って。

 

《「ごめんなさい。それは無理」》

《「私、暴言も失言も吐くけれど、虚言だけは吐いたことがないの」》

《「今日は楽しかったわ。それじゃ」》

《「それでも、……今日は来られてよかったわ。無理だと思っていたから」》

《「たとえ禁じ手でも下策でも、お膳立てをしたのは比企谷君よ。だから、誰からも褒められなくても、一つくらい、いいことがあっても許されると思うわ」》

《歩き出した比企谷くんに、私は喉まで出かかった言葉を飲み込んで、それから、ただその背を見つめていた》

 

 ……あれで、よかったのか。今でもそう思うことがある。あの日、夏休みが明けて、比企谷くんと顔を合わせたとき、私は自身の虚言を自分の口から彼に伝えるべきだったのではないかと、たまにそんなことを思うのだ。

 

 けれど、私の想いに、比企谷くんは、

 

『あのとき、お前の言葉を遮ったのは俺だろ。お前がそこでもう一歩踏み出すことが出来なかったんじゃない、俺がその橋を壊したんだ。誰だって嘘を吐く……なのに、お前が、雪ノ下雪乃が嘘を吐くことが俺には許せなくて』

「……誰だって誰かに期待する。あなたに非があるわけじゃないでしょう。原因は私だもの」

『……勝手に期待して勝手に失望するのは、自分勝手だろ。ただ……あのとき、俺はそんな自分を嫌いだと思った。でも、今はそんな自分さえ好きだ。だから、変える必要もない』

 

 変わらなくてもいい、変えなくてもいい。いつもあなたはそんなことばっかり言っている。私も少なからずそれに影響されていて……。

 

《「今は、あなたを知っている」》

《「あなたのやり方、嫌いだわ」》

《「私には分からない……」》

 

 あのときのことを思い出すと、きゅっと胸が締まって、心が悲鳴をあげる。もっといい選択肢があるのよ。今の私なら、きっとちゃんと受け入れてあげられる。それこそがあなたらしいのよと。嫌いだけれど、それがあなただものねと。なのに、そんな選択肢なんて全て無視して、同じ道を辿れと比企谷くんは言うのだ。

 

 辛い過去も苦しい気持ちもそのままに、過去を自在に変えることなんて出来ないから、その過去があってこその今だからと。

 

「……これで、いいのかしら」

『いいだろ、別に』

 

 辿り着いたのは今の私たち。けれど、ストーリーはまだ続く。他のルートが卒業まであるのだから、これも卒業まであるのだろうと、先へ進めると、私と比企谷くんが二人で下校するシーンへと切り替わって。

 

 ……こういう未来もあるのかしら。それにしても、なんだかここだけ妙に凝ってるわね。ぼんやりとテキストを読んでいると、ゲーム内の私がおずおずと口を開く。

 

《「……あなたは、私のこと、どう思っているのかしら……」》

「えっ?」

『どうした?』

「い、いえ……」

 

 なにこの急展開!? 今までのことをなぞっただけよ? これからなにかが起きたりするんじゃないの? 違うルートにあったアレコレはどうなるのっ?

 

 私が戸惑っていると、姉さんが本気で描いたのではと思うほど画力の高い比企谷くんの一枚絵が表示されて、パソコンから比企谷くんの声が流れる。

 

《「……俺は、雪ノ下のことが、好きだ」》

 

 〜〜〜〜〜っ!? なんっ、えっ!? なにこれ! 聞いていないのだけれど! 今の完全に比企谷くんの声……待って、どういうこと? どうしてこれに比企谷くんの声が入っているの? というか、今好きって言った? ひ、比企谷くんが、私のことを……?

 

『……今の』

「あっ、いえ、そのっ、違うの! ね、姉さんからいきなり送られてきて、仕方なくやっているだけというか! 24時間近くプレイしたりとかしていないし、攻略出来なくて比企谷くんに電話したとかそういうわけではなくて!」

『……あぁ、なるほど』

「あっ……」

 

 完全に暴露してしまった……なんもかんもこのゲームが悪いのよ。私は悪くないわよ。私のせいじゃない、姉さんが悪いのよ。

 

「……そういえば、どうしてこれに比企谷くんの声が」

『あー……いや、陽乃さんに、頼まれたっつーか、脅されたっつーか』

 

 なにをやってるのよ、あの人……。こんなもの……こんな、このシーンだけ観れたりするのかしら。一日をこれに奪われたのだから、そのくらいの報酬はあって然るべきよね。

 

「でも、そうなると、これって……本当に比企谷くんが」

『そ、そういうわけじゃなくて、いや、そういうわけじゃないわけでもないんだが……まあ、その、なんでこんな……』

 

 どうやら比企谷くんも混乱しているらしい。用途は説明されていなかったのかしら。するわけないわよね、姉さんだもの。でも、思ってもいないことを言わされたというわけではなさそう、よね……。

 

「『……あなたは、私のこと、どう思っているのかしら……』」

 

 心臓が破裂しそうだった。こんなに、恥ずかしいのね。よく出来たわね、ゲーム内の私。そりゃあ、テキスト打ち込むだけなのだから出来て当たり前だけれど、それにしたってこんなことを聞くって、自分は好意を持ってますって叫ぶのと同じじゃない。

 

 どくどくと脈打つ鼓動の音を感じながら、比企谷くんの返事を待った。しばらくじっと待っていると、唾を飲むような音が聴こえて、それから比企谷くんの声が耳に届く。

 

「『……俺は、雪ノ下が、好きだ……』」

 

 嬉し過ぎてどうにかなってしまいそうだった。こんな、ゲームに後押しされてとか、ゲームの台詞をなぞらなきゃ言えないとか、そんなことどうだっていい。想いを伝える手段が特殊でも、伝わる想いに違いはなくて。

 

「っ……そ、それでは、その、今から、私とあなたは、こ、恋人ということで、いいのかしら」

『……いい、と思う』

「そう……」

 

 一秒でも早くこの気持ちを身体で表現したい。いろんなことがいっぺんにやってきて、眠気なんてどっかに行ってしまった。

 

「そ、それじゃあ、今日は付き合ってくれてありがとう。そろそろ、切るわね」

『……おう』

 

 電話を耳から離して、ふと、そのこと気づく。よく考えれば、それは不誠実で、この関係を曖昧なものにしかねない。だから、私はそっとマイクに口を近づけて——

 

「——私も、好きよ。比企谷くん」

 

 そのまま電話を切った。

 

 言ってやったわ……。満足感に包まれてソファに倒れると、はぁーと長いため息が漏れた。

 

 ——雪ノ下のことが好きだ。

 

 今しがた聞いたばかりの台詞が鼓膜を揺さぶって、ついバタバタと身体を動かしてしまう。パンさんのクッションで顔を抑えながら存分に溜まったものを発散した。

 

「〜〜〜〜っ!」

 

 やったわ、パンさん。私、比企谷くんと付き合えたのよ! ゲームをやっていたら比企谷くんと付き合えてしまったわ! 二回よ! 二回も告白されてしまったのよ! あー……、嬉しいー……。

 

 明日からどんな顔で会えばいいのかしら。来週のお休みには一緒にお出かけとか出来るかしら。平日は二人で下校したり出来るのかしら! わぁぁ、楽しみね!

 

「ふふっ、ふふふふふふふ……」

 

 翌日、緊張して比企谷くんとは一言も喋れなかったのだけれど、その話はまた今度。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷、分裂する。

ギャグギャグのギャグ。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


 

 比企谷くんが分裂した。

 

 なにを言っているのか分からないと思うけれど、私にもなにが起きたのか分からない。ただ、経緯だけを説明させてもらうとするなら、『部室にやって来た比企谷くんといつも通りに挨拶を交わしたら、唐突に比企谷くんが二人になった』ということになるのかしら。改めて整理しても、わけわかんないわね。

 

「「なんか用か?」」

 

 私がじっと見ていたせいか、比企谷くんは訝しげな表情を浮かべて首を傾げる。……気づいていないのかしら。それともそれがいつも通りなのか。つまり、いつも私の目に映っていた日常こそが偽物で、本当は比企谷くんはいつも分裂して——そんなわけないじゃない!

 

「い、いえ……その、あなた、なにか特殊能力のようなものがあったの……?」

 

 私が問うと、比企谷くんは「なにを言ってるんだこいつは」みたいな顔になる。どうでもいいけれど、その顔、すっごく腹が立つわね。顔だけで人を苛立たせるとか、立派な特殊能力よ。

 

「「なんだよそれ……疲れてんのか?」」

 

 これが本当のステレオボイス……いえ、そんなことを言っている場合ではなくて。

 

「「つーか、さっきから自分の声が……うぉっ!? 俺!?」」

 

 ようやく自分が二人になっていることに気づいたらしい。慌てる比企谷くんを見ていると、少しだけ冷静になれた。まあ、私が冷静になったところで意味はないのだけれど……それにしても珍現象としか言いようがないわね。なにが起きたら人間が唐突に二人になるのかしら。

 

 なにか変なものを食べたとか……そんなことで二人になったら今頃大騒ぎになっているわよね。だったらなに? 特に理由もなくいきなり二人になったの? それとも俺の中の隠された力が目覚めてしまったの?

 

 ……理由なんてなんでもいいわ。重要なのは比企谷くんが二人いる、ということよ。

 

「と、ところで、比企谷くん……」

「「なんだ?」」

 

 分かっている。分かっているのよ、こんな緊急事態にそんなことを、なんて。けれど、仕方がないじゃない。だって、比企谷くんが二人いるのよ?

 

 ほ、ほら、こんなのが二人もいたら、小町さんの心労も絶えないでしょうし、そういう意味で、あくまでもそういう意味で、ね。小町さんにはいつも部員のメンテナンスを任せてしまっているのだから、ここで部長である私が一肌脱ぐのは当然といえば当然なわけだし? だから、そう、これはなにもおかしなことではないのよ。本当に。

 

「二人もいるのだから……一人くらい私が貰っても、いいわよね……?」

 

 ああ、間違いない。私は今、頭の悪いことを言っている。

 

        × × × ×

 

 そんなこんなで比企谷くんを一人私の家で預かることになった。比企谷くんにはとても反対されたけれど、二人いるのでその勢いも二倍だったけれど、なんとか言いくる……説得して、勝利を収めることに成功した。ゆきのん大勝利! ……こほん。

 

「ほら、上がって」

「お、おう……」

 

 戸惑いながらも私の部屋へと上がる。さて、どうしようかしら。比企谷くんはもう一人いるのだし、情報漏洩にさえ気をつければ、私がこの比企谷くんになにをしようと問題ないのよね。

 

「……とりあえず、お風呂にでも入りましょうか」

 

 やることをやって、さっさとゆっくりしたい。貯めたほうがいいかしら。

 

 そんなことを考えながら玄関から歩き出すと、比企谷くんが着いて来ていないことに気づいた。不思議に思って振り向けば、そこには顔を真っ赤に染めた比企谷くんがいて。

 

「——あ、ええと、そのっ、そ、そういう意味ではなくて! 流石にそれはまだ早いというか、違っ……あ、の、お風呂、入って来たらどう……?」

「……おう」

「た、貯めたほうが、いいかしら」

「いや……シャワーでいい、です」

「そう……」

 

 浴室に消えていく比企谷くんを見送って、ソファに置いてあったパンさんクッションに顔を埋めた。

 

 あぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁああっっっ!!! 恥ずかしいっ! 恥ずかし過ぎて死ねるわ……。だいたい比企谷くんも比企谷くんよ。そんなこと、いちいち訂正しなくても分かるのに……もしかして、一緒に入りたかったりするのかしら。

 

 いや、いやいやいや、それはいくら比企谷くんでもまだ早いというか、私にも心の準備とか段階を踏んでとか、そういう気持ちがあるわけで。もちろん男子高校生がそういうことに興味があるのは知識として知ってはいるけれど、というか、私も興味はあるけれど! 興味があるのと、実際にするのとでは全然違うのよ!

 

 ……え、行ったほうがいいのかしら。い、行かなくていいわよね? 私は私で夕食の支度をしなければならないし、だいたいまだ付き合ってもいないのにそんなこと……まあ、もう比企谷くんは私のものみたいなところはあるから、付き合う付き合わないなんて些事なのかもしれないけれど。それはともかくとして、初めて私の部屋で二人きりになったら、途端にそんな関係になりましただなんて、いくらなんでも不健全すぎると思うのよ。だから、ここは黙って夕食を作るのが正解よね。はい、正解!

 

 すくっと無心で立ち上がって冷蔵庫を開けた。今日はもともとオムライスを作る予定だったけれど、食材は足りるかしら。

 

「……問題なさそうね」

 

 ただ、これから二人で暮らしていくことを考えると、残りが怪しい。これは明日にでも比企谷くんを連れて買い物に行けばいいでしょう。台所に食材を並べて、調理を開始する。オムライスを作り終えて間もなく比企谷くんはお風呂から出てきて、お皿をダイニングテーブルへと運んだ。

 

「どうぞ」

「……おう」

 

 おうしか言ってないわよ、あなた。緊張する気持ちも分からないでもないけど、もう少しリラックスして欲しいわね。なにか、リラックス出来るものあったかしら。

 

「……猫動画でも見る?」

「は? なんで……?」

「緊張、しているようだったから……」

「ああ……いや、猫動画は大丈夫だ。悪い」

 

 猫動画を断るなんて……どういう精神をしているのかしら。それとも猫を飼っていると、猫動画なんてという感覚になってしまうの? ずるい。

 

「そう。では、食べましょうか」

「いただきます……」

 

 二人揃ってスプーンで掬ったオムライスを口へ運んだ。まずまずの出来ね。この味なら比企谷くんの胃袋を掴むのも難しくないと思うのだけれど、判定は如何に……。ちらと比企谷くんを一瞥すれば、比企谷くんは頬を綻ばせていて、内心ガッツポーズ。

 

 やったわ雪乃! 私の謎の才能はこのときのために用意されたものだったのね!

 

「うまいな……」

「お口にあったようでよかったわ。明日からも、私が手料理を振る舞うから、楽しみにしててね?」

「……お、おう」

 

 本日何度目かのおう。日本に留学する予定の外国人には「おう」を覚えておけば、だいたいなんとかなると教えておきたいわね。貧弱なボキャブラリーもここまで来るとかわいく思えてくる。

 

「お弁当とか、作ったほうがいいわよね」

「いや、そこまでしてもらうのはな……」

「遠慮しなくていいのよ。あなたを預かると言ったのは私なのだから」

「そうか……?」

 

 控えめな問いに頷きを返した。私が作りたいのよ。私が比企谷くんのお弁当を作って、比企谷くんに食べてもらいたいの。だから、いいのよ。

 

 なんて、そんなことが言えたらよかったのだけれど、生憎とこの口はそこまで素直には出来ていない。

 

「ええ。だから、嫌いなものを教えておいてもらえるかしら」

 

 比企谷くんはしばらく考えるように首を捻って、それから口を開く。

 

「トマト……くらいだな。まあそんなたいしたものを食って生きてきたわけじゃないからアレだが、一般的に食べられてるものなら基本的に問題ないと思う」

「そう。ありがとう」

「いや……こちらこそ」

 

 そうして、またオムライスを食べ始める。ずっと一人で食べていた夕食は、いつもの数倍美味しく感じられて、特に会話があったわけでもないのに言葉に出来ない気持ちが胸を満たす。こんな日々が、これからずっと。それ、結婚してるのとなにが違うのかしら。

 

 いいえ、きっとそこに違いなんてないのよ。籍を入れていても離れている夫婦がいるように、籍を入れずとも時間を共有する男女もいる。書類そのものにたいした意味なんてなくて、だから私は今日から比企谷雪乃。Q.E.D. 証明終了。

 

        × × × ×

 

 夕食を食べ終え、シャワーを浴びてからソファに腰掛ける。隣には比企谷くんがいて、そっと頭を肩に乗せた。びくりと動いた比企谷くんがかわいくて、ついつい笑みが漏れてしまう。

 

「……ゆ、雪ノ下さん?」

「なぁに?」

「ち、近過ぎじゃ、ないですかね」

「そうかしら。前からこんなものだったと思うけれど」

 

 言って、所在なさげにしていた手を掴んだ。抵抗とも呼べないような力で逃れようとする手に指を絡めると、次第に大人しくなる。素直でよろしい。

「これからあなたと暮らしていくのだから、親睦を深めないとね」

 

「……これは、親睦とは違うんじゃ」

「なら、親愛にしましょうか」

「っ……ほんと、勘弁してもらっていいですか」

「ふふっ」

 

 たじたじな比企谷くんも悪くはないけれど、これ以上は少しかわいそうかしら。なんて思いつつも、離れるのは惜しくて、そのままじっと静寂の中お互いの鼓動だけを感じる。

 

 まさか、比企谷くんとこんなことになるなんて、昨日の私に言っても信じてもらえないわね。もう、妄想の中だけじゃないのよ。これからは比企谷くんになんだって出来るのよ。あー……幸せ。

 

「そろそろ、寝る?」

「そうだな……」

 

 疲れきった表情の比企谷くんには悪いけれど、ここからもまだ疲れてしまいそうな案件があるのよね。でもそれは私のせいではないというか、比企谷くんがいきなり二人になるから悪いのよ。

 

「布団が足りないから、狭いけれど私のベッドで一緒に寝ましょう」

「はぁっ!? いやいや、無理……無理だから。まじで無理」

「……そんなに、嫌、かしら」

 

 そこまで勢いよく拒否されると、結構傷つくのだけれど。ちょっと視線を下げていると、比企谷くんは二回ほど咳払いをして、それから改めてお断りをしてくる。

 

「いや、ほら、狭いと悪いし……な? 俺はソファとかでいいから、本当に。嫌とかじゃなくて」

「私は構わないわよ。責任を持ってあなたを預かった以上、ソファで寝させるわけにはいかないわ。あなたがどうしてもというのなら、私がソファで」

 

 しばらくの沈黙。言葉が浮かばないのか、なにか言いたそうな表情のまま固まった比企谷くんは、長いため息を吐いて渋々ながら了承の意を示す。

 

「……分かった」

 

 分かってもらえてなにより。二人で寝室へ向かい、私の隣に比企谷くんが横になる。……背を向けたら顔が見れないじゃない。残念だけれど、そこまで強制して出て行かれては困る。大きな背中を見ているのも悪くはないし、今日はこれで我慢してあげましょう。けれど、ゆくゆくは……。

 

 比企谷くんの温もりを感じているうち、まぶたが重くなってくる。明日の朝食はなににしようかしら。日用品はコンビニで買ったけれど、他にも必要なものとからあるのかしら。そんなことを考えていたら、いつのまにか意識は落ちていた。

 

        × × × ×

 

 朝、まぶたを持ち上げると妙な違和感を覚える。はっとなって隣を見れば、比企谷くんの姿がなかった。寝室から飛び出て探し回っても、比企谷くんはどこにもいない。まさか、夢……? あの異常性を考えたら、夢だったとしてもおかしくはないけれど。それにしてはあまりにリアル過ぎた。

 

 どこかへ行ってしまったのか、あるいは……。その日は一日中そんなことばかりを考えていて、いつのまにか放課後がやってくる。部室でそわそわしながら紅茶を飲んでいたら、からりと開いた扉の先に、比企谷くんはいた。

 

「よう……」

 

 どこかぎこちない挨拶。やっぱり、夢ではなかった……? でも、だとしたらもう一人の比企谷くんはどこへ行ったの? 薄々気づきつつある答えから目を逸らしながら、とりあえず挨拶を返しておく。

 

「こ、こんにちは」

 

 いつも通り椅子へと座った比企谷くんは、ちらちらと私へ視線を送って、それから意を決した様子で口を開く。

 

「ゆ、雪ノ下……その、もう一人の俺の件なんだが」

「……なにかしら」

「朝、いなくなってたり、しなかったか……?」

 

 その質問に、ああやっぱりと口の中で嘆息してしまう。予想は完璧に的中していると思っていい。そうよね。むしろ、なんでその可能性に気づけなかったのか。

 

「多分……戻った、と思うんだが」

 

 突然二人になったんだから、突然一人になってもおかしくない。そして、二つのものが一つになったということは、もちろんそういう可能性もあるわけで……。

 

「……記憶、も」

 

 顔が見れない。バカなの? バカなの昨日の私! なに調子に乗ってるのよ! いろんなリスクを考慮した上で行動を起こすなんて、そんな当たり前のことも出来ないなんて! どれだけ浮かれてたのよ……。

 

 ああ、もう、どうするのよこれ。どうするのよ! 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい忘れて忘れて忘れて忘れて。なにか、こう、人の記憶を消せる薬物とか、ないのかしら……。

 

「ゆ、雪ノ下……?」

「……忘れて」

 

 

        ×おわり×



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。