如月千早はドッキリがお好き? (ゲソP)
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第1話 音無小鳥 編
1.1 始まり
・アニマス(アニメのアイドルマスター)準拠に見えるかもしれないですが、そういうわけではないです。一応前情報なくても読める、はず。
・(重要)アニマスの千早関連のネタバレがあるため、ご注意ください。
湧き上がる観客たち。
様々な色の光に染められた、煌くステージ。
そこに一人の少女が立っている。肩まで伸びた、蒼に近い黒髪。切れ長の瞳は伏せられ、彼女の整った顔立ちをより際立たせている。蒼いドレスに包まれた、スレンダーで均整の取れた肢体は一見華奢に見えるが、袖から伸びるその腕にはしなやかな筋肉が見て取れた。
観客たちの熱量に応えるように、少女は指で長い髪をさらりと後ろに流すと、スタンドマイクにゆっくりと手をかけた。
そんな少女の挙動一つ一つに、観客たちは魅せられる。しかし熱狂する彼らの内、ごく一部の古参のファンたちはある違和感に気づいた。これまでの少女の在り方と異なる様を、感じとったからだ。
観客たちを優しい眼差しで見つめると、少女はふわりと笑った。歓声がわっ、と沸いた。
彼女はアイドルだ。彼女の歌が素晴らしいことを彼らは知っていた。彼らの知っているこれまでの彼女は静かに、時に激しく、物憂げに歌っていた。その不安定さが彼女の魅力であった。
「歌う前に」
それがどうだろう。
「みんなに感謝を」
彼女は、こんなにも自然に笑うことができただろうか。
これまでとは違う美しさを持った少女に、会場に集うファンたちは改めて魅了された。
新規だろうが古参だろうが関係なく、彼らはアイドル『如月千早』の新しい誕生を確かに感じていたのだ。
「聞いてください。約束——」
歌を心から楽しむ彼女の新しい在り方に、彼らは改めて魅了されたのだった。
*
「ドッキリ……ですか?」
「ああ。やってみないか?」
街灯の光が、暗闇の中で尾を引いて流れていく。プロデューサーの車で事務所に戻るときのことだった。
その日、765プロダクション所属アイドル・如月千早はとにかく気分がよかった。
目標の一つだった有名音楽番組での収録を、確かな手ごたえを持って終えることができたのだ。
心地よい疲労とやり切ったぞという充実感を持って、疲れた体を後部座席に沈めていた千早に、プロデューサーは気軽な口調で切り出した。
「今度の生っすか!?スペシャルの特別企画で、いつもとは違う企画をいくつかやるんだけど、案のひとつにドッキリ企画があってさ。俺としては、ぜひ千早に仕掛け人をやってみてほしいんだ」
『生っすか!?』とは、765プロ所属のアイドルたちによる生放送のバラエティ番組である。
千早は戸惑いを隠せなかった。
……生放送の大型バラエティ企画、果たして自分に務まるのだろうか。
如月千早は堅い印象のアイドルである。これまでバラエティには消極的であったし、ドッキリの仕掛人なんてそれこそ似合わない役だ。千早はそう自覚していた。
「イメージがないからこそ、インパクトになる。この間、アイドルを楽しみたいって言ってくれただろ? だからこそ、こういうバラエティにチャレンジしてもらいたいんだ」
「……私にできるでしょうか?」
以前の千早なら、あり得ないと考えただろう。千早は自嘲気味に笑みを浮かべた。
歌に縋るように生きていたかつての千早は、歌と関わりのない仕事には頑なに拒絶を示してきた。ひたすらに歌の練習に打ち込み、765プロの仲間たちとも距離を置いていた。
事故で亡くした弟・優のためだけに歌ってきたことが、如月千早の強さであり、弱さだった。
崩壊のきっかけは、週刊誌に掲載された一つの記事だった。
『血塗られたアイドル、如月千早は弟を見殺し!』
『荒んだ家庭環境が生み出した孤独の歌姫は、何を思って歌い続けるのか?』
アイドルにとって、何より感受性の強い10代の少女にとって、あまりに残酷なスキャンダルだ。
無責任な悪意は千早から歌と居場所を奪った。精神的なショックから、歌おうとすると喉に妙な力みが入り、声を出せなくなってしまっていた。
歌うことのできない自分に価値などない。
そう言ってアイドル引退宣言をすると、千早は家に閉じこもった。
そんな千早を救ったのは765プロの仲間たちだった。
決して諦めずに励まして、千早に勇気を与えた。仲間たちの強い想いと、前を向くための『約束』に、千早は答えることができたのだ。
そんな経緯があったからこそ、千早はプロデューサーの意外なオファーに戸惑っているのだ。
「わたしには、歌しかありませんでした。目を背けてきたんです。だからこそ、今度はちゃんとアイドルとして、歌以外の仕事に向き合いたいと思いました。……でも、まだ少し自信がないんです」
「……そっか」
やはりいきなりの大役は難しいかという思いはあったのだろう。プロデューサーはその一言でドッキリ企画の話題を終わらせ、直近の予定に話題を切り替えた。
バックミラーに映る、少し寂し気なプロデューサーを見て千早はしばし逡巡し、そして切り出した。
「でも、プロデューサーが……」
「ん?」
「私たちをずっと見てきてくれたプロデューサーが、できると判断してくれるなら」
これまで言葉で表したことのなかったプロデューサーへの感謝が、千早の気持ちを後押しした。
「プロデューサー。私は、できますか?」
「……できるよ。如月千早は頑張り屋で、何事にも真剣に取り組める最高のアイドルなんだ。俺が保証するよ」
「……ありがとうございます」
柔らかな笑顔を手に入れた歌姫は、歌と居場所を取り戻した。そして無限の可能性を手に入れたのだ。
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1.2 準備
「ねぇ」
千早はかすれた声で、電話越しの彼に声をかけた。
「私、あなたの気に障るようなことをした?」
……もう届かないと知っていた。己の可愛げのなさがほとほと嫌になる。
彼の心がもう自分に向いていないことを、千早はとっくに知っていた。
恋人という関係がずっと続くものなのだと勘違いをしていた。
……何という思い上がりだろう。
「あなたの好きな私になるからっ、直すからぁ……」
だから、嫌いにならないで。
そんな想いも涙に濡れて、言葉はもはや言葉にならない。
「うっ……っく、ひっく……」
もう遅いのだ。
心が別れを受け入れることを拒否している。終わるのが辛い。苦しい。
「あ……」
やがて電話から、彼はいなくなってしまった。
独りその場に取り残された千早に、声をかけるものなどいないというのに。
千早はそれでも縋るように泣き続けるのだった。
「はい、いったん休憩です」
そんな重苦しい空気を切り裂くように、はっきりとした声が千早にかけられる。演技指導の先生の一声。強張った千早の体から、力が一気に抜ける。
稽古場でマンツーマンの演技指導。結局引き受けた、ドッキリ企画における演技力の向上を計るのが目的だ。
千早は日々の演技レッスンに面白さを感じていた。
歌に関係ないと、見向きもしなかったあの日の自分を叱ってやりたいと思う程に、熱中していたのだ。
滴る汗をタオルでぬぐい、水分を補給する。すると稽古中は厳しかったトレーナーが、声をかけてくれる。
「如月さん、さっきの芝居とてもよかったよ。歌だけじゃなくて、芝居の才能もあるのね」
「ありがとうございます。でも、まだまだです」
ドッキリ企画の仕掛人を引き受けてから、千早は熱心に演技練習に取り組んだ。
ドッキリを仕掛ける役に求められる能力は、どんな状況でも相手に不審を感じさせない演技力だ。参考にとプロデューサーからもらった、ドッキリ企画のビデオを延々と観続けた千早はそう判断していた。
「もっと上手くならないと、きっとみんなには通用しないので」
765プロのアイドルたちは飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍している。
仲間たちの実力を千早自身が誰よりも理解している。
それ故に、妥協は一切しないと決めたのだ。
「ドッキリってことは、アドリブ中心になりそうね。そうしたら、今の台本は一旦置いて、インプロ中心の稽古をやりましょうか」
インプロとは、インプロビゼーションの略称であり、即興での芝居を意味する。台本の台詞もなしに、瞬間の感情だけで芝居を作っていくのだ。
「はい、よろしくお願いします」
さあ稽古を再開しようかというその矢先に、稽古場のドアが開いた。
「千早。どうだ調子は」
「プロデューサー」
プロデューサーは千早の演技レッスンには必ず顔を出した。千早にはその配慮がありがたいと思う反面、悔しくもあった。もっと信頼してくれてもいいのにと思っているのだ。
「如月さんはもともと歌が抜群にいいので、それが芝居にも生きていますね。真実味がしっかりと台詞や動きに込められているんです」
「そうですか! すごいじゃないか。この調子なら心配は要らないな」
安堵の表情を浮かべると、プロデューサーは鞄から書類の束を取り出した。
「これ、今度の企画の台本だ」
「もうあるんですね」
千早は手渡された台本を見ると、驚きを浮かべた。
「これって、プロデューサーが書いたんですか?」
台本の表紙にプロデューサーの名前があったのだ。
「ああいや、書いたっていうか……監修かな。ほら、アイドルとしてNGなことはさせられないし、でもあんまり当たり障りのない内容だと面白くないし、何よりバラエティ慣れしてるあいつらはドッキリだって見抜いたりするからな。そのあたりのバランスを踏まえて、みんなのプロデューサーである俺も台本作りに参加したんだ」
なるほど、確かに一理あると千早は思った。バレることが今回の仕事においての最大の懸念であった。トレーナーは千早の芝居を褒めてくれるが、『始めたばかりにしては』という注釈は間違いなく付くだろう。だからこそ、千早は自身の演技力と同等に、台本の内容も気にしていた。
……プロデューサーの監修があるのなら安心だ。
「あとで目を通しておきますね。今は、稽古に集中します」
一人で仕事はできない。歌以外にも目を向けるようになってから、千早はそのことを強く感じるようになった。歌にしても同じことが言えるはずなのに、かつては気づけなかったことだ。
作曲家と作詞家が曲を生み出す。プロデューサーが歌を披露するための機会を勝ち取る。舞台のスタッフが歌のための空間を形作る。たくさんの人の尽力が重なり、そうしてようやく自分が歌うことができる。ファンに感動を与えることができる。
だからこそ、アイドルは常に最高の仕事をしなければならない。千早はそう強く思うのであった。
だから決して、妥協してはならない。
それがたとえどんな仕事であっても。
「ああ、よろしくな。千早」
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1.3 いたずら
「音無さん、この後ってお時間ありますか?」
夜。時計の短針が8時を過ぎようかという頃だ。
音無小鳥は間の抜けた顔で、思いつめた顔の千早を見つめた。
仕事も一段落し、事務所に残る数人のアイドルたちに帰宅を促そうと、席を立った時だった。
「どうしたの?」
「少し、相談したいことがあるんです」
珍しい、と小鳥は思った。
765プロの事務員として、小鳥は所属アイドルたちをデビュー以前からずっと見守ってきた。その中でも如月千早は人に頼るということをあまりしない少女だった。むしろ進んで壁を作ろうとしていたと思う。
「スケジュールの話?」
「いえ、ここではちょっと……」
歌以外には一切興味を示さない、強さと繊細さを兼ね備えた女の子。それが小鳥の持つ千早のイメージだ。
「……お仕事で何かあった?」
「仕事は順調です。どちらかというと、プライベートな話、なんですけど」
「えっ」
本当に珍しいと、小鳥は目をぱちくりさせた。
だか確かに、小鳥には最近の千早の雰囲気が柔らかくなったように思うのだ。きっかけは千早のスキャンダルだ。紆余曲折を経て、あの一件から復活を果たした千早は、以前よりも自然に笑うようになっていたし、人と関わろうという意識が強いように感じられた。
「あの、やっぱり迷惑ですか?」
「ううん! そんなことないわ!」
彼女はきっと変わろうとしているのだ。ならば小鳥は千早の自主性をなにより尊重したいと思った。
765プロの事務員として、それだけではなく1人の大人として、だ。
一歩一歩、765プロでの活動を通じて、アイドルたちが成長の階段を少しずつ進んでいく。
そんな彼女たちを見守っていくことが、小鳥にとって何より楽しみなことなのだ。
だから、小鳥は微笑んだ。千早の変化が何よりも嬉しくて、優しい気持ちになったのだ。
「私でよかったら、なんでも話してね」
そんな二人の和やかなやり取りを、こっそりとうかがっていた二つの影。
「んっふっふー。ぴよちゃん達、なぁにこそこそしてんのー?」
双海亜美と双海真美。
765プロ所属の双子アイドルだ。
彼女たちの朗らかな笑顔は、少しばかり人に生意気な印象を与えるが、決して嫌な印象にはならない。その生意気さもまた、彼女たちの魅力のひとつであるし、それ以上に愛らしさを感じさせるのだ。
顔立ちではほとんど区別がつかないが、見分けるポイントは髪型にある。
亜美は短めの髪を左側に、真美は長めの髪を右側に、それぞれサイドアップにしてまとめている。
765プロでは最年少である二人だが、その才能は本物。それぞれがアイドル活動を通じて日々成長している、まさしく新進気鋭の逸材なのだ。
ただ現状においては、ただのイタズラ好きな困った二人組であるが。
「何々ー? 千早お姉ちゃんもしかして、ぴよちゃんに愛の告白ですかなー?」
「でも残念だったねん! ぴよちゃんは真美のものだからねっ!」
「だめーっ、ぴよちゃんは亜美のなの!」
「こ、こら二人ともっ。大人をからかうんじゃありませんっ!」
小鳥の左右の腕を、それぞれがっしり掴んで引っ張り合う双海姉妹。小鳥は口では注意しているものの、どこか嬉しそうだ。双子アイドルが自分を巡って争っているというシチュエーションが、小鳥の乙女心をたまらなくドキドキさせるのである。
「からかっちゃダメだってー。じゃあ真美は千早お姉ちゃんとっぴ!」
「えっ」
小鳥の腕をぱっと放し、真美は千早の腕に飛びつく。その反動で、小鳥の体はバランスを崩し、亜美に向かって崩れる。それを、さっと避ける亜美。
「あーずるーいっ、亜美もぴよちゃんより千早お姉ちゃんがいいー!」
「ええっ!?」
哀れ、移り気な両手の花はあっけなく千早に向かう。地べたにしな垂れて腕を伸ばす小鳥を背に、亜美もまた千早に飛びつこうとしたその時だった。千早が意外な行動に出た。
「そう、真美は甘えん坊さんね」
「ふぁっ!?」
千早が真美を抱きしめたのだ。ぎゅーっという擬音がよく似合う力加減であった。
予想外の事態に双海姉妹は戸惑う。二人の当初の思惑としては、ここは千早が戸惑うべきところであった。
まず小鳥をチヤホヤする。そしてそのまま小鳥を置き去りにして、二人で千早に飛びつく。小鳥はいわば踏台の役割だ。普段真面目でイジりづらい千早に絡むための空気作り。ちょっとしたイタズラは、彼女たちなりのコミュニケーションの手段であった。
双海姉妹も、小鳥と同様に千早の雰囲気が柔らかくなってきたことを感じていたのだ。だからこそ、こうしてイタズラを仕掛けた。
だが二人の目論見は、脆くも崩れ去ることになった。
「真美、髪がさらさら。伸ばしてから大人っぽくなったわね。ふふ」
「ひゃ……っ」
片手で抱きしめたまま、千早は真美の髪にさらりと指を通した。広がる動揺。その中で一人、穏やかな千早。真美の鼻孔を、千早の髪のシャンプーの香りがくすぐった。
「あ、ああああのあのあの……千早お姉ちゃん?」
「なあに? 真美」
囁くような声に、真美はびくりと体を震わせた。
「い、息が、くすぐったいよぉ……」
顔を真っ赤にした真美はしかし抵抗することもなく、千早の腕の中に納まっていた。
「嫌だった?」
「嫌っていうか……」
「ていうか?」
「その、恥ずかしいっしょ……」
いつもの勢いはどこに置いてきたのか、真美はすっかり借りてきた猫状態。そんな真美の様子に千早はにこりと微笑み、改めて真美を両腕で抱きしめた。
「可愛い」
「うあうあ……」
ぷしゅー……と、真美の火照った顔から湯気が昇っていくのが、この時の小鳥と亜美には見えたという。千早と真美の身長はさほど変わらないはずなのに、この時の真美はとにかく小さな女の子に見えて仕方がなかったと、後の二人は語る。
……どれだけそうしていたのだろうと、真美は思った。
それは間違いなく少しの間のことであっただろうが、真美にはその数十秒にも満たない時間が、永遠のように感じられた。
……真美にお姉ちゃんがいたら、こんな感じなのかな。
疲れからだろう。真美がウトウトと瞳を閉じた、その瞬間だった。
——ガチャ
不意に、事務所のドアが開いた。
その音が、双海姉妹と小鳥を非現実な世界から引き戻した。
眠気の吹き飛んだ真美は慌てて千早から離れ、小鳥と亜美はそこでようやく我に返ることができた。
「みんな、お疲れさん」
プロデューサーだった。
「お疲れ様です」
これまで何事もなかったかのように、千早はさらりと挨拶をした。それとは対照的に他の三人の挨拶はどうにもバラバラで、ぎこちないものになった。しかしプロデューサーは特に気にすることもなく、双海姉妹に声をかけた。
「亜美、真美。親御さんがちょうど、下に迎えに来てるぞ。帰りの支度できてるか?」
「え、あ、うん。できてるっしょ……」
「うあうあ……」
覚束ない動作で二人はリュックを背負うと、ふらふらとした足取りで外に向かった。普段から息のぴったりな二人も、今回ばかりは精彩を欠いていた。
「千早も、もうあがりだろ。車で送ってくよ」
「いえ。このあと音無さんとご飯に行くので、大丈夫です」
「えっ」
「へえ、珍しいな。じゃあ戸締りは俺やっとくから、音無さんもそのままあがって大丈夫ですよ」
呆気にとられた顔のまま、小鳥は千早に連れられて事務所を後にした。
「さあ、頼んだぞ」
一人残されたプロデューサーは、そうぽつりと呟いた。
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1.4 大人
音無小鳥は訳もわからず、千早に促されるまま近場のレストランに入った。
個人経営の、こじんまりとした店だ。店の中では一組のカップルが仲睦まじくシチューを食べ、神経質そうなおじさんがコーヒー片手にティラミスをつついていた。
特にハンバーグが美味しいと、インターネットでもそれなりに評判のある洋食店である。事務所からそう離れておらず、小鳥もたまにお昼時に利用する店だった。
千早と小鳥は向かい合って窓際の席に座る。千早はメニューをさっと開くと、小鳥に差し出した。
「ここで頼むものはもう決まっているので、音無さんどうぞ」
「えっ、あっ、そうね」
メニューに目を落としてはいるが、小鳥の思考はまるで異なることに向いていた。
今日の千早はどう考えても変である。
事務所での一件。これまでの千早からはまるで考えられない行動だった。
イタズラ娘をたしなめる為に抱擁ができそうな人物は、同じ事務所のアイドルである三浦あずさ以外にいないだろう。小鳥のイメージでは、千早ならああいう時は困った顔で二人を注意すると思っていた。
小鳥は千早の大きな変化を不思議に思いながらも、千早の言う相談事に付き合うことにした。
ふう、と気持ちを落ち着ける。今度はしっかりとメニューを吟味し、店員を呼んだ。千早は若鳥のグリルとサラダ、小鳥はチーズハンバーグセットを頼んだ。
「さっきの、びっくりしました?」
注文を受け取ったウェイトレスが去っていく。その背中を見送っていた小鳥に、千早はイタズラな笑みを浮かべた。
「そりゃ、びっくりしちゃったわ! 千早ちゃん、真美ちゃんに突然抱き着くんだもの」
「亜美と真美って、私にはあまりイタズラはしてこなかったから、もし機会があったらそうしようって、決めてたんです」
「ナイスよ千早ちゃん! あの二人には私もかなり手を焼かされてたから、ちょっとぐらいドキドキさせても、バチは当たらないと思うわ!」
正直、眼福でした。そんな本音が小鳥の口から出かけるも、何とか飲み込む。頼りになる大人のお姉さんという自覚が、小鳥にはあるのだ。周囲がそう捉えているかどうかは、また別の話であるが。
「でも、千早ちゃんがああいうお茶目なことするなんて意外だったわ」
そう言ってから、小鳥はしまったと思った。千早の表情に陰りが差したのだ。
「……私には、似合わない行動でしたか?」
自嘲気に笑う千早に、小鳥は慌てた。
「そっ、そんなことないわ。千早ちゃんの新しい一面が見れて、私も嬉しかったし。いやそれはもちろんドキドキもしたけど、けっして似合わないだなんて思ってないからっ!」
「いいんです。……自覚はしているので」
「えっと、そんなことないんだけどなぁ……」
……少し気まずい空気。それでも時間は構うことなく進む。
薄暗い照明の中、ウェイトレスが料理を運んでくる。テーブルに置かれた料理の数々は、ほくほくと湯気を立ち昇らせ、こんな状況であっても小鳥の食欲をそそった。
「食べましょうか」
「そ、そうね! わ、美味しそう!」
先ほどの不穏な流れに蓋をするかのように、二人は食事を始めた。
小鳥はチーズハンバーグにさっそくナイフを入れた。肉汁は溢れ出ることなく、しっかり肉の断面で輝いていた。肉汁がこぼれ出るということは、肉の旨味も逃げ出してしまうということであると、どこかのテレビでやっていたのを小鳥は思い出していた。
……ふっ、やはりここのハンバーグは一味違うわ。
聞きかじりの知識で通を気取った小鳥は、ハンバーグの切れ端を口の中に頬張った。
「美味しい~っ」
肉とチーズの宝石箱やぁ……そう小鳥の中のリトル小鳥が叫んでいる、ように小鳥には感じられた。
嬉しそうに咀嚼をしている小鳥に、千早も思わず笑顔になってしまう。美味しいもの一つで暗い空気を吹き飛ばすことができる、明るくて可愛らしい大人の女性。それが千早の持つ小鳥のイメージだった。
「音無さん、チキンも食べてみますか?」
「ええっ、いいの? で、でも千早ちゃんの分が少なくなっちゃうわ……」
年上のお姉さんとしては遠慮したい。でもでもチキンが美味しそう……。小鳥は葛藤する。
千早はそんな様子の小鳥を微笑ましく思いながら、チキンを一口サイズに切り分けた。それをフォークで刺して、小鳥の口許にそっと持って行った。小鳥の悩み顔が、真っ赤に染まっていく。
「はい、あーん」
……ダメ、ダメよ小鳥! 心の中でそう強く言い聞かせ、何とか気持ちを落ち着かせる。
千早にどういう心境の変化があったのかはわからない。ただ察するに、千早は大人っぽい女性に憧れているのだ。小鳥はそう推理した。
例えばそれは三浦あずさのような、甘くて優しい女性像。
……それと自惚れでなければ、あるいは自分のような大人の女性。
確証はそれなりにあった。亜美真美へのドキドキなイタズラ返しからずっと考えていたことだった。何より彼女が小鳥に相談を持ち掛けたことが証拠だ。
少女が少し背伸びをして、大人になろうとしている。
ならばそれを手助けする事こそが、彼女より『数年ほど』先を行く大人の責務ではないのか。
「あ、あーん」
故に。この『あーん』は、甘んじて受け入れねばならない。
決して、美少女の『あーん』に乙女心をくすぐられたわけではない。今の小鳥を突き動かすのはアイドルを見守る事務員としての矜持であって、そんな純粋な感情が下心などという下賤なものであるだろうか? 否。断じてない。
千早の手から、小鳥の口へチキンが移されていく……。
「あつっ」
「あっ、大丈夫ですか?」
チキンが小鳥の口許に触れる。その熱さに思わず体を引いてしまう。
「大丈夫、ありが……と」
言葉が途切れた。千早を見て、小鳥はたまらないと思った。思ってしまった。
「これなら熱くないかしら」
千早がチキンをふーふーしていたのだ。
これには流石の小鳥も、大人のお姉さんとしての余裕を崩さざるを得なかった。
……ダメッ、ダメよ小鳥ぃぃぃぃぃぃぃ! クールに、そうクールになるのよ。
しかしクールになり切れない。まさしくダメであった。
「もう一度、お口を開けてもらえますか?」
「は、はいぃ」
「改めて。あーん」
もはや抗うすべもなし。しかし是非もなかった。
小鳥はまさしくこの瞬間、母鳥からの愛情を受け入れる『小鳥』になってしまった。
……甘い。香ばしいはずなのに、甘い。
彼女の吐息のなせる業なのか。自分の頭が沸騰してしまっているのか。小鳥の頬に、何故か一筋の涙が流れた。それは流星の軌跡のように、乙女のささやかな欲望を確かに満たして消えていった。
「ふふ。美味しいですか?」
「美味しいぴよぉ……」
これが、大人の女性である。
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1.5 発射
「私本当は、みんなともっと仲良くなりたかったんです」
食事を一通り終えると、二人は食後のお茶を楽しんだ。お茶といっても、喉のことを考えてか、千早は氷の入っていない水を頼んでいたが。
「あずささんって、凄いんです。ラジオでもよく共演するんですけど、あの人は本当にお茶目で、だけど気が利く人で。あの人の前では、私も自然と笑顔になったりして。そういう接し方って、もちろんあずささんの人なりもあると思うんですけど。……やっぱり大人の余裕があるからなんだろうなと思ったんです」
小鳥は千早の真面目な相談に、内心で反省しっぱなしであった。
「……そうなの」
大人としてのささやかなプライドが、何とか小鳥の体面を保っているような状態である。
間違っても、美少女の『あーん』と『ふーふー』に浮かれている場合ではなかった。
「だから形からでも、あずささんみたいな、お姉さんぶった真似をしてみたりして。亜美と真美には悪いことしたかなと、思ってます」
……いや、少なくとも真美ちゃんは満更でもない感じだったような。
そんなツッコミを紅茶と共に飲み込んで、小鳥は何とか言葉を返す。
「でもわかるなぁ。私も、千早ちゃんくらいの時はテレビに映る大人っぽいアイドルに憧れたりしたもの」
「音無さんもですか?」
「そうよ? あの時は色んな凄い人に憧れて。少しでもそうあろうとして、空回りしちゃったり。……結局、こんな落ち着きのない大人になっちゃったけどね」
「そんなこと、ないと思います」
千早の気遣いが小鳥にはとにかく痛かった。彼女は彼女なりの想いを持って、次のステージに進もうとしている。アイドルとしても、一人の女性としても。
……だというのに、そんなアイドルに邪まな思いを抱きつつあった自分は何なのか。
若干へこんでいる小鳥。彼女は本当に考えていることが表情に出る。それは千早にはない魅力だ。千早には小鳥の魅力こそが眩しく見えた。
「それに私、音無さんにもちょっと憧れてるんです」
「そんな、気を使わなくてもいいのに」
「気を使ったわけじゃないですよ。音無さんがいてくれるからこそ私たちは安心してアイドルができるんです。……そもそも今の765プロは人手が足りなさすぎると思うんです。社長もプロデューサーも、もっと音無さんに感謝した方がいいと思います」
確かに人手は足りていない、小鳥は唸った。
765プロは今では売れっ子アイドルが十三人も所属する事務所であるが、本来は規模の小さい、寂れた弱小事務所であった。有名になったのは本当にここ最近のことだ。
従業員は社長を含めて四名。千早たちのプロデューサーと、同じくプロデュース業を手掛ける元アイドルの秋月律子。そして、事務員の音無小鳥。
アイドルに対して、従業員が圧倒的に少ないのが現状である。それでも業務を破綻させずに何とか成立させているのは、社長を含めたプロデューサー人の頑張りもあるが、何より小鳥の事務処理能力の高さのお陰であった。
765プロの大人たちに、アイドルたちは何よりも感謝しているのだ。
「今日も、もちろん相談したかったのもあるんですけど、それ以上に音無さんを労わってあげたかったんです。本当に、いつもありがとうございます」
「ち、千早ちゃぁん……」
瞳を潤ませる小鳥。アイドルたちに感謝してもらえることが小鳥には何よりのご褒美に思えた。
だが、本題はこれからだった。
「そ、それでその。相談、なんですけど……」
「えっ?」
……相談って、大人っぽくなりたいんだけどどうすればいいですかってことじゃなかったの?
小鳥は一瞬、虚を突かれるもすぐに納得する。千早は大人っぽくなりたいという思いに自分なりの答えを持って確かに実行していた。ならば、相談というのは別にあったのだろうと。
「いいわ。千早ちゃん。何でも話してね」
「ありがとうございます」
もうどんな相談事であっても、小鳥は揺るがない。しょうもない下心など、千早の素直な思いの前に跡形もなく霧散している。どんとこいである。
「それじゃあ、その。ちょっと恥ずかしいんですけど」
恥じらう千早に乙女心がぴくりと高鳴るも問題はない。今の小鳥は『小鳥』ではない。親鳥を超えた菩薩のような心持ち。小鳥なりのセンスで表現するならばそう、ゴッドバードである。にらみつけるが特技の火の鳥も裸足で逃げ出す圧倒的包容力、そんな心意気である。どんとこい超常現象。
「私、あずささんに憧れているって話したじゃないですか」
「ええ。私もあずささんは素敵だと思うわ」
あずさの魅力は性格だけではない。男なら骨抜き、女でもため息が出るほどの抜群のプロポーション。それもまた魅力の一つだ。外見と内面。二重の意味での圧倒的な包容力に、小鳥はその乙女心を何度揺り動かされたことだろう。
「私、形から入ろうと思うんです」
「? ……ええ」
小鳥は千早の意図を図りかねた。それは実際に行動して見せていたと思うのだが。
「…………い」
「え??」
あまりにも小さな囁き。
数秒の間。紅潮する千早の頬。トゥンクと高鳴っていく小鳥の乙女心。
何やら妖しい空気の中、少し落ち着こうと小鳥が紅茶を口に付けたその瞬間だった。
「おっぱいを大きくするには、どうすればいいですかっ!!」
「ぶふぉおっ」
小鳥の口から紅茶が盛大に噴き出す。それが一つの合図であった。
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1.6 世界
「げほっ、ごほっ、えっ、ええっ!?」
幸い口に含んだ紅茶の量はそれほどでもない。濡れることはなかったが、噴き出した紅茶は机を大いに汚した。だがそれも机の上を大忙しで左右する小鳥のハンカチに吸われていった。机に置かれていたお手拭きが、心なしか空しさを醸し出している。
それほどに小鳥は狼狽していた。予想外すぎる内容の相談。その大きな声と真剣な眼差しに気圧されながら、信じられない気持ちで小鳥は聞き返した。
「あの、ごめんね。聞き間違いかしら。もう一回言ってもらえる?」
「……おっぱいを大きくするためにはどうすればいいですか?」
……トゥンク。
静かな胸の鼓動が小鳥を支配した。そしてそれは狂気の始まりを告げる音でもあった。
「……出だしの言葉だけ、もらっていい?」
「はっ?」
その時の小鳥はどうかしていた。その瞬間を客観的に見つめるリトル小鳥がもしもいたならば、きっと彼女の暴挙を殴りつけてでも止めただろう。
「あっ、ごめんね。うんあの全然いいんだけど、でもほらそのびっくりしちゃったから、ね?」
「はぁ……」
しかし現実には、そんな都合のいい存在などいるわけもなく。
仮にそのような存在がいたとしても、それはとても主観的でエゴイスティックなリトル小鳥であって、むしろもっとやれと鼻息荒く言ったことだろう。
「本当、あの確かめたい程度のー、意味しかないっていうかね、あの、うん。出だしの、ほら。何て言ったかしら。……お、おがついた気がするような、しないような。……なんだったかしら?」
「……」
普通なら小鳥の戯言に付き合うような存在などあり得ない。しかし如月千早は頑張り屋で、何事にも真剣に取り組める最高のアイドルである。
「……おっぱい」
「……おっふ」
小鳥の浅ましい夢など、彼女がその気になれば容易に実現できるのである。
……真っ赤な顔でおっぱいと囁くアイドルを前にして、小鳥の大きな胸は熱く高鳴っている。
小鳥の視線は猛禽類の如く、千早の控えめな胸を捉える。
……その地平線の向こうに何を見いだしたのか。
そこには確かに、夢と希望が詰まっていたのだろう。
故に小鳥は問う。
「……もう一回」
「えっ……おっぱい」
「もっかい」
「……おっぱい」
「いっぱい?」
「あの、そろそろ真面目に聞いてもらえますか」
冷や水を叩きつけるような千早の冷めた声で、やっと小鳥は我に返った。
「ごごごごご、ごめんね!?」
思わず調子に乗ってしまったことをすぐに後悔するも、小鳥は千早の悩みにどう返答すればいいのか皆目見当がつかなかった。
「ぎ、牛乳を」
「飲んでます。毎日三本」
「し、姿勢を」
「プロのアイドルですけど」
「も、もももも……揉んでみる?」
「お風呂場でのマッサージは基本ですが何か?」
何それ詳しく。それを言ってしまえば、おそらく小鳥は二度と明日の朝日を拝めないだろう。否。拝めるだろうが、千早の信頼はガタ落ちである。しかしとっくに手遅れであることに、小鳥はまだ気づいていない。
小鳥は必死に打開策を考えるが、そもそも出てくるはずもないのだ。小鳥の胸は大きくなるべくして大きくなったのである。そこに努力などという概念は存在しない。ただそれなりの質量を伴ってそこに在るだけなのである。
故に、案はすぐに尽きた。
「ええっと……あとは、その」
「音無さんって、スタイルいいですよね」
千早のジト目が、小鳥の体の一点を見つめる。
「いやっ、これはその大したものじゃないというかその……」
「大したものじゃ、ない?」
「いいいいいいいやあのそのー! ちょ、ちょっとしたものですはい」
「ええ、そうですよね。ちょっとしたおっぱいですよね。本当」
「あは、あははははは……」
どうしてこうなった。笑ってはいるが、小鳥はもう泣き出したかった。
いい感じに話が収まろうとしていたはずだった。背伸びして一歩を踏み出した千早の可愛らしさにほっこりしたりして。具体的な解決策を示してあげられたわけではないが、穏やかな一日の終わりになるはずだったではないか。
それが突然おっぱいの話にまで発展して、お互いを理不尽に傷付け合うだけの悲惨な事態に陥るだなんて、誰が想像できるのか。
店の中にいたはずの数人のお客たちはそそくさと逃げ出していたし、ここまでそれなりの大声で騒いでいるにも関わらず、店員たちは姿を見せようとしない。当然だ。小鳥も同じ立場ならそうしたに違いない。しかし残念なことに、小鳥は当事者である。
「……私、知ってるんですよ。音無さんのおっぱいの秘密」
「おおおお、おっぱいの秘密!?」
んなななななな何だそのエロい響きは!? というか私のおっぱいなんかより、むしろあずささんのおっぱいの秘密を解き明かした方がよほど人類のためになるのではないかそこんとこどうなのよぐへへへへへ。
……そう小鳥は訴えたかったが、とてもではないが千早には言えない。
「いいんですよ。もう無理しなくて」
嫌な笑顔だ。
千早の笑顔を見て、小鳥は初めてそう思った。蔑みと同情。陰鬱な感情を詰め込んだその笑顔は、端正な千早の顔立ちを歪めて見せた。
千早のことがますますわからなくなっていく。こんなことをするような子ではなかった。もっと恥じらいのある子だったはずだ。
……この違和感は何なのか。
「だって音無さんのおっぱい、偽物ですもんね」
「えっ」
その刹那、世界が凍り付いた。小鳥の感じていた違和感は、その言葉一つで些末な問題に変わってしまった。
「それはどういう意味なの?」
「意味? まだしらばっくれるんですか」
凍り付いた世界の中で、小鳥の思考はたしかな熱を吐き出している。
その暴言を許してはいけない。大人の、否。女として、認めるわけにはいかなかった。
「……どういう意味なの」
「ですから」
千早の唇がそっと次の言葉を形作っていく。一瞬のことであるはずなのに、小鳥にはそれがとにかくスローに見えた。頭の中では続きを聞いてはいけないと思っていても、意識は千早の言葉に強く集中している。
危険だ。脳が警鐘を鳴らすが、もう遅かった。
言葉が紡がれた。
「音無さんのおっぱいは、パッドで盛ってる偽物おっぱいだって言ってるの!!」
「ほああああああああああああああああああああ!?」
もはや立場など意味を成さない。
アイドルとか、事務員とか。そんなものは存在しない。
「ふふ、ふふふふふ」
「うふ、うふふふふふふ」
二人の笑いが、音のないレストランに溶けていく。
「……千早ちゃん、もう一回言ってみて」
「音無さんはパッド」
「ふぐうっ!! ……もっかい」
「音無おっぱいパッド」
「……ごくり」
不思議なことだが、小鳥に怒りはなかった。胸の痛みは止まない。しかし小鳥は止まらない。
小鳥はただひたすらに、その形のよい唇から紡がれる淫靡な言葉の数々を繰り返して聞き続けた。赤子のように、おっぱいを求めた。
「私はー、偽物のー、ナニって言ったかしらぁー?」
「お、おっぱいですけど」
偽りと蔑まれてもなお、何故怒りを感じないのか?
「私は、パッドの?」
「……おっぱい」
「YES!!!」
音無小鳥は結局のところ、いつまで経っても夢見がちな乙女なのだ。
大人じゃなくたっていいじゃない。
目の前に、おっぱいを連呼する美少女がいれば、いいじゃない。
「おっぱいが?」
「ええ?」
「おっぱいが!?」
「い……いっぱい?」
「そう!!」
小鳥は確信する。
言葉一つ、美少女一人。
その想いただ一つで、こんなにも強くなれるのだと。
小鳥は夢想する。
世界中に散らばるたくさんの美少女が『おっぱい』と叫べば。
それだけできっと、世界中の争いと貧困はなくなるだろう。
それこそが美少女による、おっぱいによる、小鳥の理想とする平和な世界であると。
今ここに、奇跡が成された。それもとびっきりの美少女。
それだけで、世界はこんなにも美しく見えるのだ。
「おっぱいが!」
「いっぱい……」
やがてここから始まる新しい光に向かって、小鳥は叫び続けるのだ。
永遠に、おっぱいと。
「おっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱいおっぱおおっぱいおっぱいおっぱいふぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
どれだけ叫び続けただろう。
「…………り」
………?
その時の小鳥は脳内エンドルフィンが溢れすぎていて、思わず美少女のおっぱいを聞き逃してしまった。妄想に、意識を完全に持っていかれていたのだ。今の小鳥の世界はおっぱいに満ちていたのだから、それは無理もないことだった。
そこにあるのはただ、美少女とおっぱいに溢れた優しい世界のみ。
一面の花畑に、白いワンピースを翻しながら戯れはしゃぐ765プロのアイドルたち。
花畑に転がりながらおっぱいぷりんをつついていたり、あずささんのおっぱいはやっぱり宇宙だよねーうふふふふーなんて笑い合いながらブランコを漕ぐ者もいたり。
そこには争いや諍いを引き起こす思想などない。おっぱいと言う言葉しか存在しないのだから、それも当然のことである。
そんな理想郷から、意識を現実に戻すことは容易ではなかったが、小鳥は何とかそれを成した。美少女から発せられる新たな刺激を求めたのだ。
「……っきり」
意識が徐々に覚醒していく。
……すっきり?
そりゃあ、恐ろしく清々しい気分だけれども。
千早を見る。
真っ赤な顔で、目にはうっすらと涙を浮かべていた。
この時、小鳥に動揺が走る。
現実を見つめる冷静な自我が生まれて初めて、かつて感じた違和感のことを思い出したのだった。
「……おっぱい?」
小鳥がつぶやいたそれは、何のための問いだっただろう。
縋りたかったのだろうか。
ひと時の平穏が、小鳥を残して去ってしまう。
終わってほしくない。おっぱいが終わってほしくない。
現実を拒もうと、決死の想いで問いかけたのだろうか。
瞬間、問いの答えが覚醒しきった小鳥の鼓膜を激しく揺さぶった。
「ドッキリだって、何回言わせれば気が済むんですかぁぁぁぁぁあ!!」
歌姫の涙の咆哮が、夜明けを告げる。
小鳥の果てなき愛と平和の妄執は、その時確かに終わりを迎えたのだった。
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1.7 舞台裏
「ひどいわっ、ひどすぎるわ! プロデューサーさん、断固抗議しますからねっ!」
仕事疲れを吹き飛ばすような活気の中、小鳥はビールを勢いよく飲み干してからそう吠えた。
夜の十時。一組の男女が居酒屋の個室で騒いでいた。音無小鳥とプロデューサーだ。ドッキリにかけられた小鳥を労うためにプロデューサーが奢りで飲み会を企画していたのだ。
二人きりではあるのだが、そこに色気などは微塵もない。それはタダ飯に気をよくした小鳥の豪快な飲みっぷりによるところもあるし、多忙故に昼食を摂る暇がなかったプロデューサーがガツガツと焼き鳥に齧りついていたこともあった。ちなみに、千早はプロデューサーの呼んだタクシーでそのまま帰路に就いていった。
「いや、ひどいのは音無さんですからね」
「うぐっ」
酒の勢いも借りて、向かうところ敵なしといった様子の小鳥に対して、プロデューサーの対応は冷ややかなものだった。
「なんですか、おっぱいおっぱいって。千早に何てことを連呼させてるんですか。いい大人なんですから、もう少し落ち着きを持ってくださいよ」
「うううう……私が被害者なはずなのに、まったく言い返せない……」
よよよと椅子の背もたれにしな垂れる小鳥。自業自得だとプロデューサーは心の底から思った。
「いや、一応申し訳ないと思ってますけど、音無さん途中から完全に加害者だったでしょ。おっぱいおっぱい言わせすぎて、千早が何度ドッキリだって言っても聞きもせずにおっぱいおっぱい言いまくって、しまいには千早を泣かしたでしょ」
「ぐふっ……」
矢のような正論の雨が、小鳥の心にざくざくと突き刺さる。
美少女がおっぱいと言ったとしても、おっぱいと連呼させていい道理にはならない。そんな当たり前の事実は乙女心の暴走によって歪められてしまったのだ。
小鳥の敗因はその感度の高すぎる乙女心の純真さである。敵は己の中にあり。それは小鳥の目を持ってしても見抜けなかった事実だ。
そんな小鳥のしょうもない弁明をプロデューサーの耳はさらさらと聞き流していく。事情もクソもないじゃないかと深くため息をつくと、彼は手元の生ビールをぐっと飲みほすと、すぐさま追加の注文を入れた。
「……本当はですよ? 音無さんに千早がありもしない恋愛の相談をしたら、どんな反応になるかっていうドッキリだったんですよ」
「ええっ。跡形もないんですけど」
「そうなんですよ……」
頭を抱えるプロデューサー。こうなると、小鳥も怒るに怒れない。プロデューサーは確かに今回のドッキリを企画したが、あのおっぱい事件はプロデューサーの意図したものではなかったのだから。
プロデューサーはどんよりとした青い顔で、今回のドッキリの全容を語り出した。
「始めは台本通り、千早もやってくれていたんです」
「始めというと、あの事務所でのことですか?」
「そうです。事務所にいる亜美と真美に突然抱きつくドッキリと、音無さんをレストランに誘って、あーんとふーふーをしてあげるところまで」
「本当に、本当にその節はどうもありがとうございます!」
「あ?」
「ごめんなさい!!」
プロデューサー、追加されたばかりのビールを勢いよく飲み干す。小鳥、プロデューサーの苛立ちを感じ、ビビる。
この瞬間に、この飲みの席におけるプロデューサーの奢りが完全に白紙になったことを、小鳥はまだ知るよしもなかった。
「……台本が崩れたのは、そのあとの下りなんです」
「え、えーと……千早ちゃんの悩みの本題を話す下りですか?」
プロデューサーは神妙な面持ちで、深くうなづいた。
「今回はドッキリの練習として、始めは具体的な指示をいくつか与えました。そして後半では恋愛という、あえて具体性のない、想像力を働かせやすい主題を一つだけ与えて、内容や進行を千早に任せたんです。それがまさか、あそこまでやるなんて……」
これはプロデューサーにとっても大きな誤算であった。
765プロの事務員である小鳥に練習としてドッキリを仕掛けるという案は、社長からあっさりと許可が下りた。ドッキリ会場へと誘導する提案力を養うために、またよりリアルな舞台を提供して千早に度胸をつけさせたいと、社長の個人的な知り合いである飲食店に許可を取って場所取りをした。さらに臨場感を出すために、『生っすか』スタッフのツテで店内に数人のエキストラまで置くという気合の入れっぷりだった。カメラは回していたが、それも今後の資料用としてである。
それほどまでに、プロデューサーは今回の企画に力を入れていた。如月千早に『親しみやすさ』という新たなイメージを作りたかったからだ。しかしそれも、765プロの歌姫というイメージを損なわずにという大前提があった。今日の千早のスパークしすぎなアドリブでは、これまでの千早のイメージをぶち壊しにしてしまう。それはプロデューサーの意図するところではなかった。
「だからあそこまで千早がアドリブ効かせすぎるなんて、正直予想外過ぎて……俺あいつの何見てきたんだろうなぁって」
「そんな……」
乾いた笑いがプロデューサーの口から洩れる。酒も回っているせいだろう。担当アイドルには決して気弱な態度を見せない男が、珍しくへこんでいた。
これが恋愛物のドラマか何かであれば、小鳥がプロデューサーに気の利いた言葉をかけて、それがきっかけでプロデューサーの胸の内に恋が芽生えたり、あるいは二人で陰鬱とした気分を吹き飛ばそうと酒を飲み明かして、酔いつぶれた小鳥をプロデューサーが自宅に連れ込んでしまい……などとドキドキな展開になったりするだろう。少女漫画のヒロインになれそうな女選手権を開いたら、そこそこいい線いくのではないかと、そんな夢見がちな日々を送る音無小鳥(2Ⅹ歳)はそう考えた。
(ここは、大人の私がプロデューサーさんを慰めなきゃ!)
しかし今回は相手が悪かった。
「プロデューサーさん! そんな落ち込むことないですよ。むしろ練習出来てよかったと考えるべきです! ほら、千早ちゃんもアドリブの危険性を、今回身をもって理解できたわけですし、今後は裏方である私たちがうまくフォローしていけばいいんですよ!」
「……でも千早、マジ泣きしてたし。ドッキリなんてもうやりたくないと思うんですけど。主に音無さんのせいで」
「デュクシ!」
小鳥の頭の中で試合終了のゴングが鳴り響く。第1ラウンド開始直後のワンパンKOである。
「仕事を見誤って、アイドルに心の傷を負わせるなんて、どおおせ俺なんかプロデューサー失格のくそ野郎なんだなァー! あーあー、穴掘って埋まって生まれ変わりたいなぁー! 生まれ変わったら、ト○・クルーズになりたーい!!」
……小鳥はここにきてようやく気付いた。
プロデューサーさんは絡み酒の面倒くさい人だ、と。
(ていうかプロデューサーさんがくそ野郎なら、私はアイドルに心の傷を負わせてしまったげろしゃぶ野郎なんですけどぉ……)
穴掘って埋まって生まれ変わりたいのはむしろ小鳥である。より具体的に言うならば、死んだ後に異世界に転生し、神様にもらった理不尽に最強な能力を駆使してハーレムを築きたい。
そんなちょっとした現実逃避をしたところで、眼前の面倒な男からは逃れられるわけでもない。わかっていますよと小鳥はため息を一つ吐く。
(でもちょっと待って小鳥。たしかに悪いのは私だけど、プロデューサーさんもヤバいと思ったなら止めに来ればよかったのに。カメラ越しに見てたくせに、何にもしないでうじうじするなんて……。それ以前に、私に事前にドッキリ仕掛けますよって教えてくれればよかったのよ。むしろその方がよりテレビで見るドッキリに近いというか、おっぱいとかに惑わされなくて済んだというか、うん。まあそれは私が悪い。けど事前にドッキリあるよってわかってたら千早ちゃんを泣かせちゃうようなことにはならなかったと思うなー! だから要するに何が言いたいのかというと、今回の件はプロデューサーさんが悪い!!)
そんな具合に臭い物に蓋をすると、小鳥はプロデューサーに向かって怒りの丈をぶつけることにした。
「だから私今回の件はプロデューサーさんが悪いと」
「あっ、電話」
「えっ」
今までのどんよりとした空気はどこへやら。プロデューサーは一瞬で仕事スイッチを入れたのか、キリッとした顔つきでスマートフォンを取った。その様子だけ切り取れば、さぞや優秀な男に見えたことだろう。小鳥はうんざりした顔でその様子を一瞥すると、ビールの追加注文をした。飲まなきゃやっていられないのだ。
「もしもし、うん、うん。えっ、本当か?」
プロデューサーが相槌を返す。一度、二度、三度。その度に彼は笑顔になっていく。電話を取る前の、この世の終わりを悟ったかのような表情が嘘のようだ。そんな酒の肴にもならないような光景をしり目に、小鳥は届いたビールをぐいぐい煽った。
「音無さん」
追加で頼んだから揚げに箸を伸ばす、まさにその時だった。
「え、はい」
「千早から。代わってくださいって」
「ええっ」
プロデューサーは実に満足気な顔で頷くと、小鳥にスマホを差し出した。
『……もしもし』
千早の声だ。小鳥には電話越しの千早が見えた、気がした。
少し気まずそうに顔を赤らめながら、遠慮がちに言葉を選んで話そうとしてくれている、そんな千早が小鳥には見えたのだ。
……それもまた、都合のいい妄想をしているだけかもしれない。
結果を含めて考慮すれば、今日の件で悪いのは結局のところ自分なのである。スマホを持つ手が震える。もし怒っていたら、自分は千早に何を言ってやれるだろう。何をすれば、彼女は元気を取り戻してくれるだろう。
……答えは自然と、口から飛び出していた。
「『ごめんなさいっ!』」
重なる声に、互いが息を飲んでいた。
『……音無さん、許してくれるんですか?』
「千早ちゃん、許してくれるの?」
『許すも何も、悪いのは私です。音無さんにひどいこと、たくさん言ってしまいました』
「ううん、違うわ。悪いのは私なのよ千早ちゃん。女の子を泣かせるだなんて、そんなことどんな事情があってもやっちゃいけないもの。それに千早ちゃんは、ドッキリ企画を成功させようと頑張ってただけだもの。そんな千早ちゃんを泣かせてしまうだなんて……本当にごめんね」
小鳥の精一杯の謝罪に、千早は目を大きく見開く。やがてガラス玉のようなその瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。そんな様子が、小鳥の心に浮かんだ。
それは小鳥の妄想だった。しかし受話器越しに聞こえる少女の嗚咽が、その妄想が現実のものとなっていることを如実に告げていた。
『……違う、違うんです』
「……何が違うの?」
小鳥は努めて優しく、続きを促した。たどたどしくも、千早の言葉は形作られていく。
『あの時音無さんやあずささんに憧れているだなんて言ったけれど、本当はきっと嫉妬していたんです』
この時小鳥は察した。
千早は確かに小鳥にドッキリを仕掛けた。しかしその過程の中で千早が話してくれたことは、決して嘘ではなかったのだ。
『気配りができて、優しくって。みんなから親しまれていて。体付きだって女性らしくて、そのどれもが私にはない大人の魅力で』
小鳥の脳は千早の独白をしっかりと捉えながらも、数時間前の千早の言葉を思い返していく。
〈あずささんって、凄いんです。ラジオでもよく共演するんですけど、あの人は本当にお茶目で、だけど気が利く人で。あの人の前では、私も自然と笑顔になったりして。そういう接し方って、もちろんあずささんの人なりもあると思うんですけど。……やっぱり大人の余裕があるからなんだろうなと思ったんです〉
千早の言葉は段々と加速していく。
『今回の、ドッキリの仕事をやり遂げたら、不愛想で面白みのない、そんな子供みたいな自分を少しでも変えることができるのかなって思って。あずささんや音無さんみたいに、みんなにとって身近で、気安い存在になることができたら……そう思ってたのにっ』
〈私本当は、みんなともっと仲良くなりたかったんです〉
(……ああ、そうか)
小鳥は理解した。
『……自分なりに大人っぽい女性像を作ろうとしたけれど、自分が自分じゃなくなっていくような感じがして、段々抑えが利かなくなっていって。気付いたら、音無さんにあんなひどいことを言っていたんです。最低ですよね。浅ましい嫉妬だったんです』
如月千早は頑張り屋で、何事にも真剣に取り組める最高のアイドルである。
ただ人より少しだけ感情表現が不器用で、本当はとても寂しがり屋な、そんな一人の女の子でもあったのだ。
そのことを、小鳥は失念していたのだ。
「大人っぽくなくたって、いいじゃない」
『……えっ?』
「千早ちゃんだって将来、嫌でも大人になっていくわ。だから無理して背伸びしなくってもいいの。大人っぽくありたいと思い悩む千早ちゃんは、きっと今しかいないと思うから。だからほんの少しだけ、千早ちゃんが今の自分のことを愛おしく思ってあげられたらいいなあって、私はそう思うわ」
それは誰のための言葉だっただろうか。小鳥は言ってから気づいた。在りし日の自分に向けた言葉にも感じられたのだ。
……自分を信じて、愛してあげられたら、それはきっと何よりも素敵なことだ。
振り返ったところで過去は戻らない。それでも前を向いて歩いていかなければならないのだ。だからその瞬間ひとつひとつを、電話越しの少女には大切に過ごしてほしいと小鳥は思った。
『……やっぱり私、まだまだ子供ですね』
「そうね。千早ちゃんはまだまだ子供。でもそれってとっても素敵なことだと思うわ」
『……音無さんは、ちょくちょく子供っぽいみたいですけど』
「それはその……本当にごめんね」
『……はぁ』
その呆れたため息を聞くと、小鳥はほぅっと息を吐いた。申し訳なさと安堵の入り混じった微かな吐息。
千早がどんな様子であるのか、実際のところはわからない。しかし小鳥には確かに見えたのだ。
『……まあ、なんでも、いいですけれど』
誰よりも素敵な笑顔を浮かべた、優しい女の子の姿が。
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第2話 星井美希・双海真美 編
2.1 リスタート
「これ、台本新しいやつな」
『生っすか』を放送しているテレビ局・ブーブーエスの楽屋の一室。
水の入った飲みかけのペットボトルを机に置くと、千早は黙々と修正の入った脚本を読みだした。ページをめくる度に、彼女の眉間にしわが寄っていく。しかしそんな彼女の様子に欠片もひるむことなく、プロデューサーはすらすらと台本の解説に徹した。
「前回の脚本からの大きな変更点としては、ドッキリ遂行の際に助っ人を必ず入れるようになったことだ」
「それは、私では力不足だからですか?」
信頼されていない。それが本を読んで得た、千早の感想だった。
以前の脚本にはなかった協力者の存在、そして以前よりもドッキリの内容がシンプルに感じられるのだ。
明らかに下がったハードル。それは小鳥との一件を経て、心構えも新たに、より真剣に芝居の稽古に取り組んできた千早にとって、酷くやりがいのないものに感じられたのだ。
「もちろん千早が本気で準備をしてくれていることは知っている。きっとやりとげてくれることもな」
「だったら」
「だが、千早は場慣れしていない」
「……」
「以前にやった実践練習を見て思ったことだ。あの時も、千早はそれ相応の準備というものをしてくれていたよな。俺も千早の準備は完璧だと思っていたよ。それでも、予測のつかない事態は起きるものなんだ」
千早は言葉に詰まっていた。小鳥との一件を引き合いに出されると、どうにも弱かった。
「仕事である以上、リスクは抑えなければならない。今回のドッキリ企画は監督のこだわりもあってな、事前に相手にシチュエーションを知らせておくものじゃない。まさしくリアルなコンテンツなんだ。だから何が起きても不思議じゃない。そのことをあの時の練習から思い知らされたんだ。千早のことは信頼しているよ。それは今も変わらない。でも仮に千早がドッキリに慣れていたとしても、俺は最低限の保険をかけなくちゃいけなかったんだ。お前たちの、アイドルのプロデューサーとしてな」
千早はプロデューサーの力強い眼差しを受けて、何も言うことができなかった。アイドルのプロデューサーとして信頼する彼の判断が正しいことを、千早自身もわかっていたからだ。
もし万が一、小鳥の時のようにアイドルが他人の身体的特徴を貶めたり、低俗な言葉を連呼しながらみっともなく泣き散らかすような事態になったらどうなるのか。
あんなひどい事態は例外中の例外だと、切り捨てることはできる。
だが圧倒的に実戦経験が足りないのもまた事実。実際に想定しうる放送事故の中でも最悪な事態を引き起こしたのは間違いなく自分だ。
受け入れるしか道はない。理屈では理解していても、千早にとって悔しいものは悔しいのである。
「この仕事はさ。千早にとって大きな成長の機会になるはずなんだ」
「……わかってます。私もその心づもりでいましたから」
「アイドルにとって最も重要な、イメージに関わるものだ。だからこそ最良の準備をしておかなくちゃいけないんだ。それが、プロの仕事だろ?」
プロデューサーの力強くも厳しい言葉に喝を入れられる。プロデューサーの言うことは正しい。自分の力量に明らかに合わない仕事を無理矢理することは、プロとしては無責任と言わざるを得ない。千早自身にはもっとやれるという思いがある。だがそれは客観的な視点から言えば、きっと間違っているのだろう。
「……わかりました。プロデューサーの信じる私を、私は信じます」
「ああ。よろしく頼むぞ」
その後は何件か別件の仕事の打ち合わせをして、プロデューサーと別れた。
「……プロデューサーの言うことは正しい」
言葉にして自身に言い聞かせる。理屈では理解している。それでも、燻った感情は何かを求めている。
「わかってはいるのだけど」
千早は頑張り屋で、何事にも真剣に取り組める素晴らしいアイドルである。それは美徳であるが、美徳には限度というものがある。
今回は、そんなお話である。
*
パラパラと雑誌をめくる音と、耳触りの良い鼻歌。
助手席を少し倒して、星井美希は仕事終わりの身体を休めていた。手に持っているのは10代~20代の女性を対象にした人気のファッション雑誌だ。
「わぁ……!」
目当てのページを見つけると、美希は小さな歓声を上げた。
一人の少女が見開きでポーズを取っている。
さらにページをめくる。
時に輝くような笑顔で、時にハッとするような鋭い眼差し。憂いを帯びた華奢な少女に見えるときもあれば、男を誘ってはぐらかす悪女の顔も覗かせる。
単純な表現に落とし込むのであれば、その少女は天才であった。溢れんばかりの才気に人々は惹かれて憧れる。まさしく星のような少女。
「ミキ、すっごいキラキラしてるの!」
それが765プロ所属アイドル・星井美希。人の感情を揺さぶることの天才。そしてその資質は、アイドルにとって特に大切なものである。
モデルとして、決して背が高いわけではない。しかしスタイルは抜群によかった。若干15歳とは思えないプロポーションの持ち主。ライトグリーンのはっきりとした瞳もまた、彼女の魅力を加速させる。
しかし一番の魅力は、やはりこの無邪気な笑顔だろう。
「ねえねえ律子、さんもそう思わない? ミキ的にはここの見開きが特にお気に入りなの!」
「わかったわよ、もう。運転中なんだから大人しくしてて」
美希の眩いばかりの笑顔を横目に、秋月律子は苦笑した。
「カメラマンさん褒めてたわよ。どれだけ撮っても飽きが来ないって」
「えへへ、やっぱり? 美希もね、全然飽きなかったの! あのお兄さん、褒め上手ってカンジ? 美希ちゃんなら世界とれるよって言ってたの。ミキもそろそろ世界に羽ばたく時が来たの!」
「世界ねぇ」
最近の美希の口癖である。その理由を律子は何となく理解していた。
……ここ最近の765プロは、海外進出という言葉に浮き立っているように思う。
きっかけは映画だ。765PROALLSTARS総出演で制作した特撮ロボット映画『無尽合体キサラギ ~宇宙の果てまで行ってきM@S~』がまさかの海外で大ヒット。
主題歌を担当した如月千早の歌に海外の有名音楽プロデューサーが食いつき、海外でのアルバム制作にまで発展した。また同作で悪役『ハルシュタイン閣下』を演じた天海春香も、海外メディアでの取材を受けている。
事務所で必死に英会話の講義を受けている春香の姿に、他のアイドルたちも、次は自分も……? なんて、心なしかそわそわしているほどだ。身近にワールドワイドな活躍をする仲間がいるのだから無理もないと言える。その中でも、美希は特に海外への意識が強い。仕事の合間に英会話の参考書を懸命に読み込む様子に、律子を含めた765プロの面々はそれはもう驚いたものである。
ただ今の律子的には、世界に羽ばたく如月千早がドッキリ企画なんてガチガチのバラエティーに全力を尽くしていることの方が驚きであるのだが。そんなことを今回のドッキリターゲットである美希に言えるはずもなく。
「美希もやっぱり、海外に興味あるわよね」
「トーゼンなの! 美希も千早さんみたいに海外でキラキラしてみたいの!」
千早には抵抗なく敬称をつけるのに、自分にはどうしてうまくできないんだ。そんな文句も美希の輝かんばかりの笑顔を見ていると、呆れに変わってしまう。なんだかんだ甘い自身に、思わず律子は苦笑してしまう。
「……美希って、本当に千早のこと好きよね」
「あのね、千早さんはね、歌がとーっても素敵なの! 大人っぽくて、カッコよくて、美希にも歌の事とか丁寧に教えてくれるし、美希には真似できないくらいストイックなの!」
「いや真似しなさいよそこは」
「あはっ、美希は美希なりに頑張ればいいの」
あっけらかんと笑ってのける美希だが、律子は知っていた。彼女なりの『頑張る』が、かつてのものよりかなり高い意識になっていることを。
飽き性なところがある美希がなんだかんだ言いながらも努力をして、ここまでの売れっ子アイドルに成長したのだ。765プロのプロデューサーとして、近くで見てきたからこそわかることだ。
「もう、しょうがないんだから」
故に、律子は苦笑しながらも美希の頑張りを肯定した。
「えへへ。律子、さんに許してもらえたの……あふぅ」
美希は満足げな笑みを浮かべると、愛らしいあくびを一つついた。そして倒したシートにもたれたまま、すやすやと寝息を立てだした。
「よく頑張ってるわよ。あんたは」
信号で車が静かに止まる。せわしなく動き続ける雑踏の中でも、穏やかな時間がそこにはあった。律子は普段は見せることのない優しい顔つきで眠り姫の穏やかな眠りを見守っていた。
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2.2 芽生え
「ドッキリ??」
「ああ、やってみないか?」
事務所の応接室で今後の仕事の打ち合わせをしていた真美は、プロデューサーからの突然のオファーに目を輝かせていた。
「超やりたいっしょ!! ねーねーにいちゃん、誰に仕掛けちゃうの!?」
765プロの中でも一、二を争うイタズラっ子は机に身を乗りだし、ノータイムで参加の意思を示した。机に叩きつけた両手の勢いで、飲みかけの缶コーラの中身が少し跳ねるも、本人は欠片も気にしない。
「お、乗り気だな。だが軽い気持ちで受けてほしくはないな。相手は美希だ。妙に勘のいいやつだから、油断してるとすぐバレるぞ?」
「はぁ、にいちゃん。真美を誰だと思ってんの? 真美だよ? 今世紀最大のせくちーバラエティーカリスマトップアイドルの真美だよ? ミキミキの一人や二人や百人くらい、ドッキリに引っかけるくらい朝御飯前だってー!」
「そういうとこが心配なんだよなぁ」
「そういうとこってどういうことさ!」
口振りは気のない様子であるが、プロデューサーは真美にドッキリをやらせる気でいた。水面下で進んでいる千早のドッキリ企画の協力者として、真美を選んだのだ。
「にいちゃーん、お願いだよー。真美油断なんかしないからさっ、真美にドッキリやらせてよぅ」
真美はしゃなりと体をくねらせて、蠱惑的なステップですり寄る。
「ねぇ~ん、オ・ネ・ガ・イ?」
10代の少女の成長は本当に早いと、プロデューサーは素直に思った。
アイドルとして確かな魅力を身に着けた彼女に迫られれば、大抵の男子はイチコロである。
「でもそのセクシー路線はなんか違うな。ヤバい……どんどん心配になってきたぞ」
しかしプロデューサーという存在は、アイドルを輝かせることしか考えない。魅力的な原石を見つけたら、どのように磨けばより綺麗になるかしか考えない。
つまりプロデューサーには、アイドルの色仕掛けは通用しないのである。
「ええーーっ、真美一生懸命やれるのにぃーーー!!」
先ほどのセクシーな動きはどこへやら。真美はプロデューサーの肩を掴むと、ガックンガックン揺さぶった。
「おいやめろうわわわわ!!」
「にいちゃんがドッキリやらせてくれるまで、真美は戦いをやめないかんね!!」
「わかった! わかったから、本当最近首痛いんだから勘弁してくれええ!」
デスクワークでお疲れの首周りにトドメを刺すには充分な刺激だったようである。
「やったー!! 誰にドッキリかけるの!? タライとか落とす!!? めーっちゃ楽しみっしょーーー!!」
「全くお前は……」
切り替えの速さに、思わずため息がこぼれる。だが首を抑えながらも、真美を見つめる目は優しげだ。奔放な振る舞いもどこか憎めない。姉妹揃えば手もつけられないほど天真爛漫。双海真美はそんなアイドルなのだ。
「嬉しいのはわかったから、ちゃんとやってくれよ?」
一見千早よりも暴走しがちに見える。だがそれでもプロデューサーは真美に賭けた。千早のドッキリのフォロー役として、765プロアイドルの中から双海真美を選んだ。
「またまた~。にいちゃんも満更じゃないんでしょ~?」
「そのはずだったんだがなぁ」
「え、満更なの!?」
「いや満更ってなんだよ!」
口ぶりでは心配だ何だと言いながらも、プロデューサーは真美ならきっとやり遂げると信じている。双海真美という一人のアイドルの成長の軌跡を、この男は確かに知っているのだから。
双海姉妹は二人ともポジティブで、目標に向かって常に勇往邁進する少女たちだ。遊びたい盛りのお年頃で、イタズラが大好き。姉妹仲はとてもよく、お茶の間では仲良し双子アイドルとして有名だ。
プロデューサーがそんな彼女たちの認識を改めたのは、765プロが誇る大人気ユニット『竜宮小町』が結成されてからしばらく経った頃だ。
竜宮小町は水瀬伊織、三浦あずさ、双海亜美の三人から構成されるユニットである。今をときめく765プロを世間に先んじて知らしめたこのユニットの結成は、それまでずっと二人一組の仕事をこなしてきた双海姉妹の関係性を大きく変えた。
亜美は竜宮小町へ、真美はソロに。
異なる活動は、二人に確かな変化をもたらした。亜美はその天真爛漫さにさらに磨きをかけ、竜宮小町のムードメーカーとして成長した。トリオユニットという小さなコミュニティの中で、苦しいときも常に明るく振る舞う強さも身に着けた。
真美もソロ活動で大きく成長した。
亜美が自分よりも有名になって行くことに対して、感じることは間違いなくあっただろう。竜宮小町が早熟なユニットであったが故に、人気の差にも苦しんだ。
弱音だって何度も吐いた。自身と亜美との違いに何度も悩んだ。
そんな真美にプロデューサーは、雑誌のモデルやトーク番組などの一人でこなす仕事を真美に任せてきた。ユニットとしての強さではなく、個の強さを追求したのだ。
それ故に、真美は強くなれた。現場では努めて明るく振る舞い、その場の空気を察知して気遣いもできる。現場受けが抜群によく、バラエティにファッション雑誌に引っ張りだこのアイドルに成長したのである。
それ故に、プロデューサーの信頼は厚い。真美ならば、バラエティに不慣れな千早の手綱を握ってくれるに違いないと確信しているのだ。
「いいか? 今回の仕事はな、大きいものなんだ。きっちり役割をこなしてもらうからな」
「おっけおっけ! 真美、頑張るよん!」
いつも通りのやり取りが何よりも心強い。真美ならばこの仕事においても下手に台本から逸れることなく、うまくまとめてくれるだろう。
千早がもし想定斜め上のアドリブを効かせてきたとしても、彼女ならきっと大丈夫だ。
……プロデューサーはそう思っていた。
この時はまだ。
「ああ、それとな。今回は千早とチームを組んでもらう」
「へっ、千早お姉ちゃんと?」
途端、真美の顔が真っ赤に染まる。その様子に若干の違和感を覚えるも、気のせいだとプロデューサーは話を進める。
「元々は千早一人で行う企画だったんだが、千早はバラエティー慣れしてないだろ? だからバラエティー慣れしているお前とチームを組んだらどうかって話になったんだ」
「千早お姉ちゃんと……」
「最近仲いいだろ? あいつの成長のためにも、頼まれてくれないか?」
真美はそう言われて、真美は千早との最近の関係について考えてみる。
たしかに先日の小鳥へのドッキリ企画以降、千早との関係は以前より親密になったような気がする。ただ、仲の良い……それこそ友達のような関係とは少し違うように思えた。どちらかと言えば、好き放題に振る舞う自分を千早が優しくたしなめるような、姉と妹のような関係。それを意識すると、真美の顔にほんのりと赤みが差した。完全にドッキリ企画の影響です本当にありがとうございます。
ここにプロデューサーの誤算があった。
たしかに、真美は強くなれた。
だがどれだけ大人びて見えても、彼女はまだまだ遊びたい盛り甘えたい盛りの13歳である。
背丈は一年で大きくなって、ソロ活動の経験を1年みっちり積んでも、彼女は765プロ最年少アイドルなのである。そしてプロデューサーが思っている以上に、ソロ活動は彼女の寂しさを加速させていた。
双子の妹がいる真美だが、年上の姉はいない。
想像していただきたい。真美はお姉ちゃんなのだ。
妹とのコミュニケーションを多忙によって制限されている彼女が、圧倒的お姉ちゃん力に目覚めた(第一話 1.3 いたずら 参照)如月千早によって徹底的に妹扱いされて甘やかし放題されたらどうなってしまうのか。
『真美は甘えん坊さんね』
『真美、髪がさらさら。伸ばしてから大人っぽくなったわね。ふふ』
「……んふふ」
このように、計らずもニヤけてしまう程度には拗らせてしまうのである。
真美は緩んだ頬をぺちぺちと叩くと、椅子に座った。考える人のポーズを取ったのは、完全に動揺しているからである。
「おい、真美? どうした?」
考えの足りないプロデューサーに変わって、再び考えてみてほしい。
妹(?)である真美が、千早のドッキリ企画をフォローする立場になる。
『ありがとう真美。真美みたいな妹がいたら、きっと毎日楽しいんでしょうね』
そうして、ドッキリ大成功で美希を涙目にしてから。
手伝ってもらったお礼にと、千早がお忍びで利用するお洒落な喫茶店(存在未確認)に二人でこっそり行って、ケーキをご馳走になったりして。
『真美、クリームが口許についているわ。ほら、拭ってあげる』
『真美は食いしん坊ね。慌てなくてもケーキは逃げないわ。ふふ』
ケーキを満喫した後は、夜景の綺麗な超高級レストランでワイン(飲めない)で乾杯して。
千早がそっと指輪(雰囲気と勢い)を真美にくれるのだ。
『真美、この気持ちは本物よ。私だけの、妹になってほしいの』
千早の甘い言葉が交響曲となって真美の脳内でリフレインする。
ご理解いただけただろうか。
温もりに飢えた真美にとって、千早お姉Cはまさに劇薬。
「……えへへ」
「真美? おい、聞いてるか?」
アイドル『如月千早』の可能性は無限大という事実は、真美をドッキリ企画という戦場へ掻き立てた。
「……千早お姉ちゃん、真美が手伝ったら喜んでくれるかなぁ?」
「ん? ああ、もちろん。それにバラエティ方面では、真美の方が先輩だろ。色々教えてやってくれ」
「千早お姉ちゃんに、真美が教えてあげる……」
「え??」
それは新しく芽生えた気持ち。
真美は強く決意した。自分が仮に千早の引き立て役であったとしても、全力で千早を助けると決めた。全ては、千早との絆を深めるために。
『如月千早お姉ちゃん化計画』が真美の中で始動した瞬間である。
景気づけとばかりに、真美は飲みかけのコーラをぐいっと飲み干した。
「……けふっ」
「お行儀悪いぞ」
充填完了。糖分摂取で気合は満点である。
「よーっし! 任せてよね、にいちゃん! 真美が先輩として、千早お姉ちゃんにバッチリレクチャーかましちゃうかんねっ!」
「あ、ああ。期待してるからな」
プロデューサーの不安を置き去りにして、真美はきっとこの大役をやり遂げるだろう。
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2.3 圧倒的
『あず散歩』という番組がある。
765プロ所属アイドル三浦あずさが各地を訪れ、思うままにぶらぶらするという紀行番組である。最大の特徴としては、この番組で紹介されるお店は基本アポなしで、あずさが気分で決めるというものである。
初めはお店にしっかりアポを取っていたのだが、極度の方向音痴である彼女が毎回セッティングしていたお店にたどり着くことができず、ついついはしゃいでアポをとっていない店に突撃するものだから、自然とそういう番組スタイルになっていたという経緯がある。
普通ならばちゃんとしてくれと怒られても仕方がないであろうが、彼女が気まぐれで訪れるお店はその多くが隠れ家的名店であるため、結果的に紀行番組としてかなり価値のある番組が出来上がった。今ではすっかり紀行番組といえば『あず散歩』であると言われる程に大人気番組である。
その番組をフィーチャーして作られたのが今回の企画、『ちー散歩』である。千早が散歩するからちー散歩。それ以上でもそれ以下でもない。ないったらない。
さて、本日千早がロケを行うのは都内某所の繁華街だ。駅前には大きな人だかりができている。人々が色めき立つその中心で、その少女は独りごちた。
「ねえみんな。美希ね、正直しんどいの。あふぅ」
可愛いーという歓声に気だるげに手を振ると、少女は現状の不満をぐちぐちと漏らしていく。
「美希的にはー、仕事なんてほったらかして帰っておにぎり食べてー、寝てー、おにぎり食べてー、寝て、仕事ほっぽり出してー、かわゆい真美に仕事を」
「譲らないの!!」
美希の抗議に、少女はしたり顔をした。
少女改め、双海真美は物まねの天才である。双子の妹である亜美も同様だ。765プロのアイドルたちは個性豊かな面々が揃っているのだが、双海姉妹はその特徴を捉えることに実に長けていた。それこそ、姿が見えなければ判別も難しいほどにだ。
要は、紀行番組の冒頭でよくある、芸能人が合流する際のちょっとした絡みが行われていただけである。
「ちょっと真美、美希の声で変なこというのやめるの!」
「真美じゃないの、美希ダヨー」
「美希じゃないの!」
「真美ダヨー」
「知ってるの! もうっ、何で真美がいるの?」
「美希、あんまり真美に迷惑かけちゃダメよ。こんにちわ、如月千早です」
「んふっ、千早さんはあんま似てないの」
「千早おねーちゃん難しいんだよねー」
本日のゲスト、双海真美と星井美希。
ちー散歩という嘘企画の最初で最後のゲストである。
「あれ、そういえば千早さんはまだ来てないの?」
ソワソワと千早を探す美希。彼女はそれはもう、この嘘企画を楽しみにしていた。
(千早さんとデートできるなんて夢みたいなの!)
美希の頭の中の律子は「遊びじゃないんだからね!」とぷりぷりしているが、たとえ本物の律子が来たってこのキラキラは止められないだろう。
尊敬する千早と買い物して、美味しいものを食べて一日を一緒に過ごすことができるのだ。仕事であることは百も承知であるが、これまで千早とプライベートで遊ぶ機会はなかったので少々浮かれてしまうのも無理はなかった。
「まだみたいだねー。そうだ、ミキミキも千早お姉ちゃんの物まねやってみてYO!」
「ええーーっ、そんなのできないの!」
「はぁーっ。ミキミキはダメダメだね! そんなんじゃ立派な芸人にはなれないっしょ!」
「芸人じゃなくてアイドルなの!」
真美は内心焦っていた。
(え、千早お姉ちゃん遅くない!?)
芸人ばりの漫才で何とか場をつないでいるものの、千早が来ないことは真美にとっても想定外であった。美希に下手な勘繰りをされないように、あえてタイミングをずらして合流する手はずになっていたのだが、いくらなんでも遅すぎる。
(現場入りして挨拶もしたし、打ち合わせも超ガッツリやったよね?)
実は真美と千早は、美希よりも早く現場入りしていた。心配性なプロデューサーの計らいで、事前に打ち合わせをしていたのだ。
他の仕事の都合でプロデューサーは現場にはいないが、プロデューサーと番組制作側の意思疎通は密に取られている様子だった。それ故に、真美はこの現場の心配は全くしていなかったのだが……。
(何かトラブルでもあったのかなぁ?)
美希と顔を見合わせる。異変を感じていたのは美希も同じだったようである。収録を一旦停止して、千早に何か起きたのかをスタッフに聞くべきと判断した二人は、意を決したように撮影スタッフたちに向かって歩き出そうとする。
その時だった。
「美希ちゃん、真美ちゃん。お待たせ~」
「「えっ」」
二人の声が重なった。
声のする方へ振り返ると、そこにはとびきりの美人がいた。
走って駆け寄る彼女の青みがかった長い黒髪が揺れる。
淡い紫のセーターに、青いフレアスカート。清楚で大人なコーディネートにその豊かな肢体を包んだその女性は、真美と美希の前に息を切らしなぎらも何とか辿り着くと、柔らかな笑顔を二人に向けた。
「遅くなって、ごめんなさいね。道に迷っちゃって~」
「えっ、いや、ううん。あの、いいんだけど……」
「そう~? よかったわ。真美ちゃん、美希ちゃん。今日はよろしくね。うふふっ」
「いやいやいや……え?」
三浦あずさ。今回のドッキリ企画のオマージュ元である『あず散歩』の案内人。世の男性が結婚したい女性芸能人ランキング第一位をここ数年独り占めしている超人気アイドルがそこにいた――
「あの、何やってるの? 千早お姉ちゃん」
――ように思えるほどの完成度の物まね。
「何って、真美ちゃん。これから三人でお出かけでしょう?」
まず、声が似ている。
どれほど努力したのだろう。普段の千早とは似ても似つかない。声も出で立ちもしぐさも、何もかもが三浦あずさその人に限りになく似ている。
バラエティに関しては百戦錬磨な真美も、これには流石に動揺が隠せない。美希に至ってはポカンと口を開けたまま固まっている。
「今日は三人でデートだって聞いたから、精一杯オシャレしてきたの。どう? 似合うかしら~?」
スカートをつまんでふわりと一回転する千早。優雅で上品。世の男性の視線を釘付けにしてしまうような淑やかな微笑みは、今の真美たちには異物にしか感じられなかったのだ。
「う、うん。楽しみにしてたよ。でも、その……」
真美は思わず視線をそらした。そうしなければ、否応なく視線はある一点に向かってしまうのである。これまで散々からかってきた思春期の男子の気持ちが痛いほど理解できた瞬間である。
……吸い寄せられるのだ。何よりも不自然な、その圧倒的な胸囲に。
目の前の人物は確かに如月千早であるはずなのに、激しく主張する胸元の膨らみが、その認知を阻害するのだ。
周囲の撮影スタッフに、真美は視線をこっそり送る。カンペに書いてある『止められませんでした』の一言を見て、真美は全てを察した。
何故こんなにも千早の入りが遅れたのか、その全てを。
察したが故に、聞かずにはいられなかった真美を誰が責められるというのだろう。
「何であずさお姉ちゃんのかっこしてんの……?」
……ここにプロデューサーの最大の誤算があった。
如月千早は頑張り屋で、何事にも真剣に取り組める最高のアイドルである。
そして何より、彼女は仕事に対して一切の妥協を許さない完璧主義者である。
「うふふっ、似合ってるかしら~?」
何故か間違った方向に頑張り過ぎちゃった如月千早の、盛大なドッキリ劇の幕が切って落とされたのである。
*
美希がアイドルとしてまだまだ駆け出しだった時の事だ。
「千早さんはちょっとぐらい練習休んでもバチは当たらないと思うな」
その言葉は美希なりの気遣いだった。
たまたま仕事が早く終わったので、趣味のバードウォッチング(ミキ的には、河原でカモを眺めてだらだらすることを言う)をしようと近所の河川敷に寄った時だ。そこで歌の練習をしている千早に会ったのだ。
千早は美希の声に振り向くと、少し迷惑そうに顔をしかめた。
「たしかにバチは当たらないけれど……練習を休んだ分だけ、歌手になる日が遠のくと考えたら、やっぱり休んでいる時間なんてないと思うわ」
アイドルではなく、歌手。当時の千早は自身の夢を語るとき、必ずそんな言い回しをした。それが美希には気になっていたが、深くつっこむことはしなかった。ただ、千早のストイックさが不思議でならなかった。
「でも、美希的には、やりたいことっていーっぱいあるから。勿論、アイドルになってキラキラすることが今の美希には一番大事だよ? でもずーっと練習だけだと疲れちゃうし。美希はそういう時はお買い物したり、美味しいおにぎり食べたり、友達と出かけたりしたりするの。こうやって、川を泳いでるカモ先生を千早さんと一緒に眺めたりね。そういう時間も必要だなって思うの。千早さんも、そういう時ってあるでしょ?」
「私も、適度な休息は必要だと思う。けど、早く歌手になりたいから。今は練習を優先したいの」
手に持ったミネラルウォーターをひと口飲むと、千早はまた歌をうたい出した。さらなる高みを目指す千早の姿が、美希には眩しく見えた。それと同時に、千早の強さに形容しがたい不安を覚えた。それが何故なのかは当時の美希にはわからなかったが、ただ千早が疲れた時は美希が助けてあげたいと、そう思った。
「千早さん」
歌が一曲終わると、美希は真っすぐに千早を見つめた。
「……どうしたの?」
「もし千早さんが疲れた時は、美希いくらでも千早さんに付き合うからね。一緒にね、カモ先生を眺めるの」
「……ええ。ありがとう。美希」
この時、美希の気遣いは千早に届くことはなかった。
歌手になりたいという思い。透明なガラスのように純粋で、とても厚く張られたように見えたその思いはしかし、のちに起こる弟殺しのスキャンダルによって粉々に砕け散ることになる。
そんなたくさんの苦難を乗り越えて、誰もが認める国民的アイドルに、歌手になったその先の、千早が思い焦がれた景色。
それは今の美希の眼前に広がる異様な光景ではなかったはずだ。
それ故に、美希には『ちー散歩』の収録に臨む現在の千早の心境がまるで理解できなかった。
「千早お姉ちゃん、このアイスめっちゃおいしーよ!」
「本当。甘いものって普段はあまり食べないのだけど、このチョコはとっても美味しいわ。甘いだけじゃなくて、カカオの上品な苦みもしっかりとあって。……ほのかにナッツの香りもするのね。ふふっ、癖になりそう」
「千早お姉ちゃん、物まねだけじゃなくて、グルメレポも百点満点だYO!!」
「ありがとう。真美、こっち向いて。アイスがほっぺについてるわ」
「ふわっ……、んふふ」
意外なことに、撮影は順調だった。
あずさの格好と口調をまねて飛び出してきた千早だったが、周囲の固まった空気を「冗談よ」の一言と、イタズラな微笑みで一蹴すると、何事もなかったかのように番組の進行に徹した。今はこの近辺で有名な、個人経営のアイスクリーム屋で何とか気を取り直した(うまく見て見ぬふりをしたともいう)真美と一緒に、絶品アイスに舌鼓を打っている。
……現実を受け止めきれずに、うまく番組に入り込めていない美希を置き去りにしたまま。
ピスタチオフレーバーのアイスを持ったまま口をつけず、美希の視線は訝し気に千早をとらえていた。
千早のあずさスタイルは正直言うと、とても似合っていた。普段の千早は青を基調としたパンツスタイルが多く、スカートをあまりはかない。一方、あずさの好むコンサバ系のファッションは千早のクールな美貌をより女性らしく際立たせた。普段とのギャップもあり、自身の素材の良さを完璧に活かした、すれ違う誰もが振り返る圧倒的な美少女がそこにいた。
身長もヒールが高めのパンプスで水増ししており、物まねのクオリティも高かったものだから、一瞬本当にあずさが来たのかと誰もが勘違いしたほどだ。
そして何より、千早の胸元でたゆんと揺れる、見慣れぬ二つの山。これが未だに美希には整理をつけることができずにいた。
なにがどうしてそうなった。
美希の思考は止まることなく、出口の見えない輪の中をひたすらに回り続ける。
(千早さんのおっぱいでかくなりすぎなの……)
千早はスレンダーな体型の持ち主だ。言い換えれば、胸のサイズが控えめであるということである。かつて慰安旅行で765プロのみんなと海に行った際に、スタイル抜群なアイドルたちの水着姿の影に隠れて悔し気に「くっ……」と俯いた千早の憂いを美希は知っている。
それ故に理解できない。普段の千早とはあまりに結びつかない胸のサイズ。美希は何とか千早の胸元にある圧倒的質量を伴うそれが何なのか探ろうとしていた。
ケース1、少し見ない間に驚天動地のジョグレス進化を遂げた。
(……正直それはあり得ないって思うな)
数日の間に千早の胸のサイズがあずさサイズになるなど、もはや病気だ。なんとも失礼な思考であるが、明らかに不自然なのは間違いないので正論と言えた。
ケース2、千早さんのおっぱいをミツバチが集中砲、(いくらなんでも失礼極まりないの)
即座にこれも棄却。
ケース3、パッド。
(これなの。正直それ以外に浮かばないの)
問題は何故、そこまでやってしまったのか。
ちょっとした物まねを千早が言うように冗談でやる程度ならまだいい。あずさの格好を真似してイメージチェンジするのもいい。美希的には千早のファッションへの執着のなさが気になっていたぐらいであり、むしろ千早のコーディネートを自分がプロデュースしたいと思っていたくらいである。そういったオシャレに対する意識改革は歓迎こそすれ、拒む理由など欠片もなかった。
ただ今の服装がオシャレによるものではなく、あずさの物まねのためのものだとしたら話は変わってくる。そして何より胸にパッドを特盛で仕込む徹底ぶり。
いくら何でも、体を張りすぎである。
普段の千早のキャラクターとはあまりに噛み合わない変化なのだ。
……結論として。
「訳がわからないの」
どれだけ考えても理解には結びつかないということが、美希には理解できた。
「……美希、どうかした?」
「えっ」
思考の渦に飲み込まれていた美希に対して、千早は心配そうに眉を下げ、美希の顔を覗き込んだ。
その様子は紛れもなく、普段美希が敬愛してやまない如月千早なのに。少し視線を下げればこれでもかと主張してくる不自然な塊がその従来の認知を許してくれない。
「えーと、あのね。美希、美味しさのあまり、しごこーちょくしちゃってたの!」
「ミキミキ、死後硬直って、それ死んじゃってるって!? ミキミキ湯けむり殺人事件起きちゃってるから!」
明らかに精彩を欠く美希の様子に、千早はしばし逡巡する。そして、美希の持つアイスに突然かじりついた。
「あっ、千早さん!?」
「うん、こっちも美味しい。ピスタチオって初めて食べたけど、とっても濃厚ね。アーモンドとはまた違った風味。新しいわ」
バラエティ経験が自身より少ないはずの千早に、フォローさせてしまった。その事実が受け入れられない現状に揺れる美希の心に突き刺さる。
こんな無様をさらしていては、誰も自分を使ってなどくれない。今すべきことは何なのか本当はわかっている。仕事を全うし、今回の紀行番組を成功させなければならない。
それでも、美希の視線は千早の胸を追ってしまう。
「むむむむ……千早お姉ちゃん、真美のも食べて!」
「ふふ……さっきはお行儀が悪かったから、普通にスプーンで頂くわ」
「ええー、いいのになー……」
心なし、否。本気で残念そうな真美。
美希が精彩を欠く一方で、真美は得体のしれない胸のときめきを感じていた。
始めはとてつもなく動揺したが、何とか番組の進行はできた。しかし、あずさお姉ちゃんという圧倒的お姉ちゃん力を兼ね備えた千早お姉ちゃんの爆誕は、確実に真美の気分をおかしくさせていったのである。
不自然な胸囲は母性を感じさせるどころか、逆に千早のいっぱいいっぱいの努力が感じられて何だか可愛らしく感じられる。お姉ちゃんポイント的にはマイナスであるが、守ってあげたい残念なお姉ちゃん感が爆上がりで庇護欲ポイントがストップ高で収支は取れている。つまり真美は混乱しているのである。
(……千早お姉ちゃんにあーんしてもらいたい)
番組そっちのけでこんなことを考えてしまう程度には、混乱しているのである。
「千早お姉ちゃん。そしたら真美、千早お姉ちゃんのアイスが欲しいなぁ~」
「じゃあ美希のアイスあげるの。千早さんのアイスは美希がもらうの」
「え~真美的にはぁ、千早お姉ちゃんのアイスが食べたいってカンジなの~」
「まっ、またマネしたの!」
千早を慕う者同士の視線が交錯する。
(真美、さっきから千早さんにベタベタ甘えて! これ以上千早さんに変なことさせないで!)
(はっ! ミキミキも千早お姉ちゃんの妹ポジを狙っている……!? わがままボデーに飽き足らず、真美の千早お姉ちゃんまで付け狙うなんて、全力阻止待ったなし!!)
「じゃあミキミキのアイスいただきー」
「ああっ」
豪快にすくわれた美希のアイスが、大きく開いた真美の口に閉じ込められる。
「ちょっ、取りすぎなの! 美希のアイス半分になっちゃったの!」
「んっふっふー! 真美のお腹はブラックホールだかんねー!」
「じゃあ美希もひと口もらうの!」
しかし、美希のスプーンは空を切る。真美がアイスを持つ手を上にあげて美希の魔の手を巧みにかわしたのだ。
「ず、ずるいの!」
「えー? 真美、ミキミキにアイスあげるなんて一言も言ってないっしょ」
真美のアイスへ再び手を伸ばす美希。軽やかなステップでそれをかわす真美。感情がエスカレートすると、動きも激しくなる。そうなると持っている芸能人は、アクシデントをよく引き起こす。
「あっ……」
真美の脳裏に天海春香の、のほほんとした笑顔が浮かんだ。
世界がスローに流れる。足がもつれる真美。倒れるまではいかないものの、その手にあったアイスは天井へ打ち上げられて……。
べちゃり。
溶けかかったアイスが、叩きつけられる音がした。
それがパステルカラーのひし形タイルで形成された、店内の床ならどれだけよかっただろう。
それが店内を彩るアイスの数々をガラス越しで輝かせるショーウィンドウであったならどれだけよかっただろう。
あるいは美希の服に、あるいは真美の頭に直撃するような事態の方がこの場においては好ましいと思えるくらいだ。
「……」
店内の誰もが青ざめた顔でその一点に視線を合わせる。宙を舞ったアイスの着地した、千早の胸元に。
「千早さん、美希、その……」
「あの、あのあの、千早お姉ちゃん、これはその、一言二言じゃ語り切れないほどの悲しい事故というかその……うう」
なんとか言葉を絞り出そうとするも、美希の口は震えてしまい、言葉は形にならない。
真美に至っては、もはや泣きそうである。
千早の言葉を待つその数秒程度の間が二人には永遠のように感じられた。死刑台の淵に立ったかのような絶望を顔に浮かべて断罪を待つ、そんな様子のアイドル二人に対して千早は……。
「あらあら~。二人とも仲良くしなきゃ、めっ」
その言葉に、そして胸元を強調するように組まれた腕に、曲げられた腰によってはっきりと生まれた体の蠱惑的なラインに。
その意図のいまいち読み取れない無駄なセクシーポーズに、美希と真美は盛大にむせこんだ。
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2.4 限界
胸元にアイスを滴らせた美少女のセクシーポーズによって生み出された絶対零度空間。
無言の間というものがこれほど恐ろしいものであると、美希は初めて痛感した。
一方、その空気を作り出した張本人である千早は何も気にしていない素振りだ。渡されたタオルで、その豊満な胸元を拭うと、そこからスタッフの私物のストールを首に巻いて、濡れた部位を覆った。
それは都合の悪いものに蓋をしてしまう現状の異様な空気感を巧みに表現しているようで、そのさまに美希は言い知れない不気味さを覚えた。
一体どうしたらそれほどまでに強い心を得られるのか。普段はおおらかな性格の美希も、これほどの強心臓は持ち合わせていない。
「服を買いに行きましょう」
実にあっさりとした表情でそう言うと、千早は歩きだした。
勇往邁進する千早の後ろを歩きながら美希は思考する。
……この収録は普通の収録ではない。
美希にそう感じさせるのに、千早の異様さは充分過ぎたのだ。
千早たちが向かったのは洋服を取り扱うセレクトショップ。立ち並ぶお店の中でも学生が手を出しやすい価格帯のお店だ。そこで美希たちは、千早に似合うコーディネートを提案し合うことになった。
提案する服を選ぶために、いったん自由行動となった訳だが、美希の心は休まらずささくれ立つばかり。心に余裕を失ったまま、一心不乱に洋服を物色している。
(……ひとつわかったことがあるの)
これがただの紀行番組ではないということ。
何か別の……例えばドッキリのような、芸人的なバラエティの気配を美希は感じていた。
しかしはっきりとこれがドッキリであるとは、美希には断定することができなかった。
あまりにも結びつかないのだ。千早がそんな俗っぽい、言い換えれば自分を貶めるような企画に参加するとはとても思えない。ましてや、あのプロデューサーがそこまでのことを千早にやらせるとも思えない。
事実、スタッフたちの動揺を美希は確かに感じていた。彼らにとってもこの事態は想定外であったのだろう。
番組側が事態をコントロールできていない。とするならば、この状況を生み出した張本人の暴走は何なのか。
不自然なスタッフと真美、装い以外はいつも通りの千早。
(つまり千早さんは、この番組で自身のイメチェンを図ろうとしている……?)
歌に全てをかけてきた孤高のアイドル。それが世間一般の抱く千早のアイドル像だ。
だが美希はよく知っていた。アイドルと言うフィルターを取っ払った、如月千早一個人がどういう人物なのかを。
(千早さんはアイドルとしての実力は本当にすごい人だけど、それ以外はてんでダメダメな人なの)
例えば、極度の機械音痴であること。スマートフォンでカメラ機能一つを満足に扱うのに小一時間を要したことを美希はとてもよく覚えている。
一人暮らしの千早の家に765プロの仲間を伴って遊びにいった際の、家具や物が必要最低限以下であったこと、冷蔵庫にサプリメントと牛乳しかなかったことを本気で心配したみんなで食品や、果ては家電を、山のように差し入れしたことを美希は本当にとてもよく覚えている。
(だから本当に、本っ当に信じられないけど、今回の件はあずさみたいなお姉さんキャラとおっぱいに憧れた千早さんが無理と不器用をこじらせて、コメディ路線の紀行番組に挑戦したが故に起きてしまった悲しい事件なの!)
歌以外は残念美人な千早の起こしたバラエティ事故。それが美希の見解だ。
そこまで推測した上で美希はさらに考える。
この不測の事態における己の役割とは何か。
(千早さんを傷付けないこと。完全に空回りしていることを悟らせずに、無事に収録を終わらせて、かつ今回の収録をお蔵入りさせることなの)
こんな千早は千早じゃない。彼女の進むべき道はバラエティではないのだ。千早を止められない周囲に対して、美希はとても怒っている。また自分の売り方を完全に間違えている千早自身にもだ。それほどまでに美希の想いは強い。
千早の歌う姿を思い返すと、美希はいつも涙が溢れそうになる。才能に自惚れてアイドルへのやりがいを見失っていた美希に、進むべき道を示してくれたのは千早の歌だった。
彼女が歌に込める想い。背負う過去の重さ。
才能だけでは決してたどり着けない、努力によって磨き上げられた圧倒的な歌唱力。そんな千早の在り方が美希にはただ眩しかった。自分もああなりたいと思った。
千早の横に並びたつ程の実力を身に着けて、一緒に歌う姿をいつだって夢想しているのだ。
(だからこそ、美希は今の千早さんを認めるわけにはいかないの)
アイドル・如月千早は、美希の光であり続けなければならないのだから。
(絶対に、ぜぇーったいに! 千早さんにヨゴレ仕事なんてさせないの!!)
役割と目標が明確になれば、美希に怖いものなどない。千早に着せるための目当ての服を数点見繕うと、それまでの硬い表情が嘘のような笑顔で千早のもとに駆け寄った。芸能界の荒波にもまれて、気遣いと空気の読み方を身に着けたカリスマアイドルの本気がそこにはあった。
「千早さんっ、美希的にはこのパーカーとっても可愛いと思うな!」
美希が選んだのはオーバーサイズのグレーのスウェットパーカーに、ブルーのチェックのスカート。盛りに盛られた胸を隠すことを意識しつつ、さらにあずさ感をうまい事崩し、なおかつ千早にスカートをはかせたいという様々な思惑の入り混じったコーディネートだ。
……だが、そう簡単に思惑は運ばない。
「千早お姉ちゃん、このワンピ着ようよ! 絶対カワイイってー!」
「えっ」
美希は絶句する。真美の選んだ服が、己の意図と真逆の方向性のものだからだ。
水色の花柄ワンピースに、淡い紫のカーディガン。あずさが好むだろう色使い、女性らしさを全面に押し出した清楚で可愛らしいコーディネート。
正直、これがプライベートなら美希だってその方向性で千早を着飾りたい。血涙を流す思いだ。絶対似合う。……この騒動の元凶である、千早の胸元にぶら下がる偽りの肉塊さえなければ。
美希が真美を睨みつける。真美と目が合う。鋭い眼差しに対して、彼女は不敵な笑みを浮かべて見せた。その時、美希の脳裏に電撃が走る。
(……真美、もしかして千早さんとグル?)
それは直感だったが、驚くほど腑に落ちた。
今日のロケの始めに、真美が美希の物まねを披露していたことを思い返す。双海姉妹の物まねのうまさは765プロの仲間内では周知のことだ。ゴールデンのスペシャル企画でよくある、芸能人の物まね大会に何度も呼ばれるほどの腕前なのだ。
……もし真美が、千早にあずさの物まねを仕込んだのだとしたら?
全てが真美の計画通りだとしたら?
(振り回されてるだけかと思ったら、とんでもないの!)
これが真美の仕込みであるなら、きっと千早は真美の提案した洋服を選ぶだろう。絶体絶命である。最後まであずさの格好で収録を乗り切られてしまったら、もうオシマイである。
(させないの)
奮い立つ美希の心。真美もスタッフも、全てが敵なのだとしたら、千早を守ることができるのは美希ただ一人である。
(千早さんは美希が守るの……!)
真美と対峙する美希。それは計らずも、先日大ヒットした特撮ロボット映画『無尽合体キサラギ ~宇宙の果てまで行ってきM@S~』で敵対したミキとマミの構図そのままであった。
一方、真美もまた固い決意を持って美希と対峙していた
(ミキミキ、もう真美は止まれないんだよ……)
真美は泣きたい気持ちを何とか抑えて戦っていた。
今日の自分は空回りしてばかりであった。
千早をフォローして導く役割の自分が、一時の感情を優先して結果的に千早にアイスをぶちまけてしまった。しかもその件で千早にフォローまでさせてしまった。あの衝撃のセクシーポーズも今の真美には、現場の絶望的な空気感を払拭する上では悪くない手に思えた。しかもアイスで濡れた服を着替えるという名目でごく自然にドッキリを仕掛ける予定の店まで誘導する優秀ぶり。
一方で今の自分はどうか。足を引っ張ってばかりで、本来の役割をこなせていない。
こんな様子では頼りになる妹ポジ以前に、プロのタレントとして失格である。そう考える故に、真美は千早のフォローに徹底するという初志を思い出して実践しているのだ。
(真実はできる子。千早お姉ちゃんをフォローするしっかり者の妹……!)
イメージするのは、最強の妹。
夢想するのは寂しがりやな妹をいつだって抱き締めてくれる、最高のお姉ちゃん。
全ては、千早お姉Cに『頑張ったね』と褒めてもらうために。字面にしてみれば何て事もないようなことだが、今の真実にはそれが世界の全てのようにすら思えた。
ただ千早に甘やかされたいだけの今世紀最大のせくちーバラエティーカリスマトップアイドルの真価が発揮される時がきたのだ。伊達に妹にしたいアイドルランキング一位タイではない(ちなみに、同率一位は亜美)のである。
アイドルとアイドルの意地と矜持のぶつかりあい。どこか噛み合っていない二人の争いの行く末は如何に。
そんな具合に美希と真美が互いの視線で火花を散らせる中。千早は真美に手渡しされた清楚系ワンピをまじまじと眺めていた。美希は慌てて千早に自分の持つ衣服を押し付ける。
「千早さん、真美のコーディネートだと前の服装とそんな変わんないの。ここはこういうカジュアルな服装にして、イメチェンするのがいいって思うな!」
「何言ってんのミキミキ。プルオーバーとワンピじゃ全然違うしー」
「方向性の話をしてるの! 真美のコーディネートには新しさがないの。ホシュ的ってやつなの! 冒険心をなくした哀れな子羊なの!」
「千早お姉ちゃんにはこういう女の子してる服装の方がぜーったい似合うかんね! ミキミキ、千早お姉ちゃんがいつもよりオトナせくちーだからって、サイレントジェラシーはみっともないっしょ!」
(偽物で作ったセクシーに嫉妬なんかしないの!)
声を大にして訴えたい気持ちを美希はなんとか飲み込む。
「全然!? 全然そんなんじゃないの! 千早さんはいつも通りクールでスマートでカッコイイの! いつも通りなの! いつも通りなの!!!」
「美希、私今日はいつもよりはお洒落してきたつもりだったのだけど、そんなに変わらないかしら?」
悲し気な顔で呟く千早に、美希の心はさらに揺れる、揺れる。呼応するように、千早の胸もたゆんと揺れる。真実は密かに勝ち誇る。
「ちちちちち違うの千早さん! 千早さんの大人っぽいコーディネートはとおっても素敵だし、あずさの物まねもすっごい似ててびっくりしたの! だから千早さんのいろんな面をもっと知りたいなって思って、それで色々な服を試してほしいから、だから真美のコーディネートはちょっと違うかなーって、そう言ってるだけなの!!」
言葉を何とかこじつけて、もっともらしい言い分を捻り出した美希。しかしこういった屁理屈は、真美の最も得意とするところであった。
「わかってないなぁ、ミキミキ。今日の千早お姉ちゃんのテーマはね、愛され系ゆるふわお嬢様なんだよ? この時点で千早お姉ちゃんはイメチェンできてるんだよ? この番組を見てる兄ちゃん姉ちゃんは淑やかホワホワな千早お姉ちゃんを求めてるんだって!」
「あー、あー、聞こえないのー! 聞こえないー! はっ、そうだわかったの! 今美希はこの番組の真の趣旨を理解したの! この番組はなんとココが山だったの! 普段はシンプルな格好を好む千早さんのファッションショー!! 紀行番組だと思ってたらイケてる女子必見のエンタメ紹介番組だったの!! テレビを見てるみんな! これから色んな千早お姉ちゃんをお披露目するから楽しみに待っててなの!!!」
「けんとーはずれにもほどがあるっしょミキミキ! ちー散歩だよ? 千早お姉ちゃんと散歩するんだよ? わかってないなーミキミキ! チミってやつぁ、まるでわかっていないね。さあ千早お姉ちゃん! ミキミキなんてほっといて、真美の選んだ服にしよー?」
「美希の!」
「真美の!」
「え、えっと」
前のめりで千早に迫る美希と真美。これには流石の千早もタジタジである。
「「どっちを取るの!!」」
重なる声に、少し気おされ気味の千早。この戦いの行く末は、今千早の手に握られている。
「……」
しばしの沈黙。この店にいる誰もが固唾を呑んで見守っている。
(千早さん気づいて……! バラエティは修羅の道なの! その先に千早さんの望むキラキラなんてないの!)
(真美はもうぶれないよ! 千早お姉ちゃんの思うドッキリを、最後まで見届けるかんね! ……あとは、その、終わったら褒めてくれるといいなぁ)
やがて、意を決したように千早が口を開き――
「……美希はね、千早さんの事尊敬してるの」
――それを美希が遮る。
「だからこそ聞きたいの。千早さんは本当に、今やりたいことがちゃんとできているのかって」
「美希、私は……」
「千早さんの、今やりたいことって何?」
それは今日一日、ずっと美希が気になっていたことだった。
千早が今何を思い、何を感じているのか。
スタッフや真美の仕込みを受けていようが関係ない。千早がやりたいこと、その本質が知りたい。何を思ってあずさの物まねをしたのか。今、心からこの企画を楽しんでいると言えるのか。
「教えて。千早さん」
千早が本当にやりたいことは、こんなことではないはずだ。
……何よりも。美希には千早が今を楽しんでいるとは、とても思えないのである。
「……ありがとう。美希」
俯いている千早の表情は、さらりとした長い髪が覆い隠していて窺い知ることができない。
「美希の言う通り。私は今の自分が、やりたいことができているとは思えない」
「千早さん……」
「でも、美希のお陰で決心がついたわ」
「……へ?」
そう言って棚から服を取り出した千早に、図らずも美希の口から間の抜けた声がこぼれる。
「えっ……」
千早の持ってきた服を見て、味方であるはずの真美も絶句する。撮影スタッフに至っては、白目をむいて凍り付いている。
千早が取り出したのは、オフショルダーのニット。肩が顕わになることで、視線がより上半身に向きやすくなってしまう。さらに現在のとんでもなく大きな胸も相まって、最早胸しか目に映らなくなるであろうこと請け合いの、そんなセクシーなデザイン。
「これにするわ」
「なん……だと…………なの……」
どうすれば良いというのだろう。
どれだけ言葉を尽くしても、彼女は止まることをしない。止めようと思うほどに裏目に出て、状況は悪化するばかりだ。
ここにきて美希は気づく。
……結局は自分も現場のスタッフと同じで、臭いものに蓋をしようとしていただけだったのではないだろうか。
千早が本当にやりたいことは何か。その問いは、千早が現状に満足していないであろうことが前提になっているものだ。
……どれだけの勇気と覚悟を持って、千早は今回の収録に臨んだのだろう。確かにやりたいこととは言えないのかもしれない。それでも歯を食いしばって、今の仕事にまさしく体を張って臨んでいる彼女に『本当にやりたいことを問う』というのは、あまりに残酷ではないか。
イメージチェンジを図りたい。ただそれだけのために不器用な思考を巡らせて、胸にパッドを詰め、あずさの物まねを練習し、ファッション雑誌であずさのコーデを研究した。
やろうとしていることを誰かに話したら、きっと止められるだろう。それがわからないはずがないのに、彼女は一人で戦ったのだ。
その思いに対して都合が悪いからと目を背けて、やめさせるように仕向けたのだ。
……それが本当に千早のためになるのだろうか。
真美のことを最低だと罵る資格などない。真美は千早の意思を受け入れた上で、それを活かす道を進もうとしたのだ。
ならば、自分の取るべき道とは何か。
自分の想いを捻じ曲げて、千早を肯定してあげることなのか。
「……違うの」
全ての想いを受け止めた上で、自分の想いを訴えるべきではないのか。
自身の考えが、決して間違っているとは思わない。思いたくない。
如月千早は孤高で、しかし繊細さも持ち合わせた歌姫だ。彼女はクールな美貌で微笑みを浮かべ、誰もが心を震わせる歌を圧倒的な才能と稀代の歌声をもって歌い上げるのだ。
その裏では誰よりも努力家で、自分を常に律し、誰よりも厳しく歌を突き詰めてきた故に今がある。本当は不器用で、口下手で、機械音痴で、歌以外のことはからきしダメで。
そんな千早を、美希は誰よりも尊敬している。
この想いもまた、無視をして切り捨ててよいものではないのだ。
「千早さん、美希もう正直に言うの」
これから言うことは恐らく、千早の想いや努力を踏みにじるものだ。
誰も傷つかずに、全ての人の想いを掬い上げる方法なんてない。少なくとも、この場をそうやって切り抜ける手段など美希は知らない。
千早を守りたい。それで千早に嫌われたって構わない。
だって、美希が千早が大好きだということは、嫌われたくらいでは揺るがないのだから。
「そのおっぱい、不自然過ぎて浮いてるの! 完全にパッド突っ込んでるの丸わかりで、芸人が体張って無茶してる風にしか見えないの! 美希は、美希はそんな偽物にまみれた千早さんなんて見たくないし、それを見て見ぬフリしてやり過ごそうとしてるスタッフのみんなも、大大大嫌いなのーっ!!」
店内の時が止まる。しかし時計の針はカチコチと無機質に鳴り響いている。美希の発言によって、撮影スタッフと真美の顔は青ざめた様相を通り越して土気色になっていた。あまりの衝撃に、反応が追い付かない。思考の停止。そこから時間差を置いて迫りくる動揺。それが最悪のタイミングで折り重なる。
「オイイイイイイイイイイイ!! この服虫食いあんじゃねーかどういうことだコラアアアア!!!」
今回のドッキリにおける助っ人。真美はあくまで千早のフォローをする役割であり、大枠の仕掛けは別の人間が担うことになっていた。この瞬間に叫び出したのは、放送事故を恐れて勢いで突っ走ってしまった仕掛人のエキストラ。本来はクレーマーと化した彼らが千早一行に絡みだし、それに対して千早がつっけんどんな態度をとって美希を慌てさせる、というドッキリであった。
……しかしその場の空気を読むことのできなかったエキストラの熱演は、彼女たちに届くことはなかった。
震える体をきつく抱きしめ、千早は目に涙を滲ませる。
「……私だって」
我に返った美希が声をかける間もなく。
「私だって、好きでこんなことやってるんじゃないわよ!!」
手にした服を地面に叩きつけ、千早は店の外へと駆け抜けていった。
「千早さん!!」
追いかける美希。茫然とする周囲。
「……えっ」
一人。怒涛の展開に置き去りにされて事態が飲み込めていない真美の動揺だけが、千早と美希の消えた店内の静けさに唯一溶け込んでいった。
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2.5 逃避行
セレクトショップでのクレーマードッキリが盛大に失敗し、飛び出した千早を美希が追いかけた後。取り残された真美の心は、美希への敗北感でいっぱいになっていた。
真美は千早を追いかけることができなかった。
千早が飛び出した瞬間、破綻寸前の番組の進行のことが真美の頭をよぎり、一歩を踏み出すことができなかったのだ。普段はふざけていても、千早をお姉ちゃんにしたいという野心を持っていても、根本的に真美は真面目な子なのである。
結果的に真美はその場に留まる選択をした。この現状において自分に何ができるのか必死に考えるも、答えなどまるで出てこない。ドッキリのターゲットである美希はいないし、仕掛人である千早もいない。真美は無力感に打ちのめされていた。バラエティの先輩として千早を導かなければならないのに、この場において自分が何をすればいいのか見当もつかない。
……ただほんの少しだけ、千早に褒めてもらいたかっただけなのに。
目尻に涙がにじむ。情けない気持ちでいっぱいだった。それでも泣くことだけはしてはいけないと気持ちを強く持ち直す。ここで真美まで折れてしまっては、いよいよ番組はおしまいである。
「ううっ……」
だが、こみ上げる感情はどれだけ我慢しても溢れてしまう。頭ではわかってはいても、弱冠13歳の少女が堪えるには重たすぎる空気である。
涙がこみ上げ、たまった涙が頬に伝うその寸前だった。
「か、か、かかったなぁあああああああ双海真美ぃいいいいいいいいいい!!!!」
まさかの一言であった。一触即発の空気に耐え切れずに最悪のタイミングでクレーマーと化した件のエキストラが殺伐とした現場に颯爽と衝撃のアドリブをかましてきたのである。
瞬間、周囲のエキストラたちの脳裏に閃光が走る。ここまで頑張ってこの企画を盛り上げてくれた双海真美という一人の女の子を、絶対に悲しませたりはしないという、熱い結束が生まれたのである。
「ねえどんな気分? ドッキリかける側だと思ってた自分がドッキリかけられるなんて、ねえどんな気分!?」
「えっ、えっ」
事態が飲み込めずにあわあわする真美。駆け出してくるスタッフが手に持つそれは、本来自分が出す予定だったものだ。
「「ドッキリ大成功~~~!!!」」
「えええええ~!?」
当然、この流れは仕組まれたものなどではない。千早が三浦あずさの格好をして出てきたときには現場全員が動揺したし、クレーマードッキリそっちのけで逃げ出した千早と美希の件も、これからどう対応すればいいのかまるで見当もついていない。
それでも、スタッフたちが自分たちにできる範囲の最善を求め続けることができたのは、双海真美の頑張りが大きかった。全ての事情を理解した上で、撮影現場の空気を明るく盛り上げてくれた。プロの仕事にはプロの業で以て応えるのである。
「双海さん、お疲れ様でした。どうですか、逆ドッキリにかけられた気分は」
「え、あの、これ、どこからがドッキリなの?」
「双海さんへの逆ドッキリですが、如月さんは把握してます。如月さんには別の場所で、星井さんへのドッキリを決行してもらう予定なんです」
嘘である。千早は把握していないし、どこに行ったかすら見当もついていない。
だが、この嘘は絶対に真実にせねばならぬ。スタッフたちは強く決意した。すぐに移動できるよう、撤収準備を機敏に始める。裏ではすでに、何人かのスタッフが車で千早たちの捜索に奔走している。その姿はさながら、獲物を執拗に集団で追い詰める狼の群れのようだ。
「双海さんは少し車の方で休んでいてください。準備ができ次第、彼女たちを追いますので」
「う、うん……」
*
千早が収録現場を飛び出したその先。
胸にこれでもかと詰め込んだパッドを走る最中でもいでは投げてもいでは投げて。
そうして彼女は、駅から1キロ離れた川沿いまで駆け抜けた。
溢れそうになる涙に見て見ぬふりをして、千早は河岸を見つめ続ける。
仕事を投げ出して今この場所にいるという事実が頭をよぎる度に、胸のつまるような思いが千早を襲う。それでも彼女が堪えられたのは、ここで涙を流してしまったら、それこそ全てが台無しになってしまうという意地一つがあるからだ。
はじめてのドッキリの失敗を、彼女はずっと引きずっていた。
先日の小鳥のおっぱい連呼まくし立て事件で千早が得られたフィードバックは、『恥じらいは敵』ということだった。
緊張していたせいもあるが、やはりあの時の千早はどこかおかしかった。ドッキリをやるからには何かみんなの想像を超えるような、面白いことをやらなきゃいけないという思いがあった。台本とは異なる台詞をなぞるだけでは生まれない緊張感に、言い知れぬ喜びを感じている自分がいた。
「こんなの私じゃないと、わかっているのに」
美希に啖呵を切られた時に、初めて我に返った。アドリブ芝居という禁忌に支配されて、番組の事をまるで考えられていなかった自分がいたのだ。
「……ここは、静かね」
それまでの騒がしい環境とはうってかわって、川のせせらぎと長閑な景色だけがここにはある。まだ駆け出しのころ、よく河原で練習したことを思い出す。
……はたして、自分は変わってしまったのだろうか?
深呼吸をする。川の流れは夕日が照って美しい。見つめていると、ささくれだった胸の内が幾らか鎮まるような気がした。
……思えばここ最近、慣れない仕事に四苦八苦する日々が続いていた。
アイドルは目まぐるしい日々の中、常に人の目を意識して活動する。厳しい世界に身を置く中で、千早は自分が思った以上に疲れていたということに気づいた。
人の目を気にせず、ただ川の流れを見つめる。活動に勤しむ日常ではなかなか得ることができない、何もしないという時間。
(……何だか、歌いたい気分)
静寂の中でひとり。何に急かされているわけでもなく、千早は歌い始めた。
*
「どこ……どこに行っちゃったの千早さん……」
美希は千早の背中を追い続けてきた。アイドルとしての特性は大きく異なる。それでも美希は一途に自分のやりたいことを貫く千早の在り方をカッコいいと思った。いつかは隣に立ち、仲間として支えてあげられるようになると決めた。
そんな彼女の仕事を、今日の自分はぶち壊しにした。
後悔はひと欠片もなかった。痛々しい物まねと、どうにもずれたバラエティセンスで自爆し続ける憧れの人など、見たくなかったからだ。千早にそんな無茶をさせるような仕事なんてなくなればいいし、仮に自分の仕事がそれで減ったとしても、また積み上げて返り咲けばいいだけだ。それほどの覚悟が美希にはあった。たとえ千早に嫌われても構わない。それで千早が自分らしさを大切にしてくれるのであれば、安い傷だと思えた。
ただ立ち止まってしまうことだけは、してほしくなかった。
(……歌?)
歌が聞こえる。美希が憧れた歌。
導かれるように歩いていく。雑多な街並みを離れて、土手を登っていく。都会ではありえない開けた視界。梢が風で擦れる音と、緩やかな川の流れ。そんな風景の中で、ひとりぼっちの歌姫が立ち尽くしている。
切らした息を整えて、千早の背中に歩み寄る。
何を思って歌っているのだろう。それは失恋をうたう歌だ。悲し気な旋律に乗せて、別れの果てに幸せを探す。たしかにあった幸せを切り捨て、過去を振り向かずに未来に羽ばたく決意の歌。
千早の華奢な後姿と力強い歌声が、美希の瞳に眩しく映った。
「……ああ、千早さんはやっぱりすごいの」
歌やダンスは一度見聞きすればすぐに自分のものにできた。どうすれば見栄えよく相手に見てもらえるのか、どうすれば観客に感動を与えることができるのか、美希は感覚で実現できてしまう。天才と言われて驕ることもあったが、今では努力を怠るような真似は決してしない。感覚だけでこなせる次元の更にその先があることを知ったからだ。
そのことを美希が自覚して努力しても、未だたどり着けない領域に千早はいた。歌の表現力において、他の追随を許さない力量を千早は持っている。
美希は瞳に涙を滲ませながら、千早の遠い背中を見つめ続けた。
*
……やがて歌が終わると、美希は千早の隣に腰を下ろした。
千早はそれに気づくと、何を言うでもなく美希に倣った。
しばらく二人は無言だった。事件の当事者である美希を認識したことによって、先ほどまでの重圧から解放されたような感覚が嘘のように閉ざされていくのを千早は感じていた。後ろめたさから美希に何度か視線を送るが、美希は穏やかな顔でぼんやりと水の流れを見ていた。
「……撮影は、どうなったの?」
やがて堪えきれずに言葉を投げた千早に美希は微笑みを返すと、落ちていた小石を河原に投じた。
「美希も飛び出してきたからよくわかんないけど、たぶん中止なの」
千早の表情に陰が差した。
「そう……そうよね」
現実が残酷に牙をむく。かといって、慌てて現場に戻るような気にもならない。千早の気持ちは宙ぶらりんのまま、行きつく先に迷っている。
(このまま、川に流れて消えてしまえばいいのに)
何を思ったところで、事態は好転するわけでもない。
「あ、ねえねえ千早さん。カモ先生が家族サービス中なの」
「え……」
そんな千早の様子など気にも留めず、美希は嬉しそうに家族連れの子連れのカモたちを指で示した。
「カモ先生、休日もご苦労様なの。でも全然大変そうじゃないところが、美希的には見習いたいポイントってカンジ!」
「あの、美希。今はカモよりも大事な」
「カモ先生の方が大事なの」
美希を見てようやく現実的な思考を取り戻した千早にとって、美希の態度はより千早の焦燥を煽るだけだった。
謝らなくてはならない。
番組を台無しにしたこと。プロデューサーの期待を裏切ったこと。現場に取り残した真美に、手伝ってくれた亜美のこと。
仕事は一人でやるものではない。千早一人が番組を投げ出すということは、番組に関わる全ての人々の努力を踏みにじるということに他ならない。
河原に逃げ込んで歌をうたったところで現実は変わらない。千早個人の心の整理にはなるが、取り残された方はたまったものではないだろう。
……それでも、美希に対して苛立ちを覚えるのは門違いだと理解しているゆえに、千早は押し黙るほかなかった。爆発したきっかけは美希だが、元を正せば結局悪いのは自分だと千早は自覚しているからだ。
「今日はもうね、何もしないの。閉店ガラガラなの」
「何もしないって」
「美希ね、千早さんの行き先が河原だったのがすっごい嬉しかったの」
美希の憩いの場であり、千早が練習によく利用していた場所。この河原は二人がよく来ていた場所とは厳密には違う川ではあるが、河原というだけで二人にとってはたしかに意味のある場所であった。
「覚えてる? 河原で練習してた千早さん、ミキが来たらすっごいメーワクそうにしてたの」
「あっ、あの時はその、美希に突然声かけられてびっくりして、その……ごめんなさい」
「ううん、全然気にしてないの。それ以上に千早さんの歌が、美希には眩しく見えたから」
「美希……」
「あの時千早さんの歌を聞いて、本当にすごいなって思ったの。毎日どれだけ努力したら千早さんみたいになれるんだろうって。美希全然頑張りが足りないって思えたの。でもね、こうも思ったの。頑張りすぎて千早さんがアイドルが嫌になっちゃうんじゃないかって」
耳の痛い話だと千早は思った。美希のその心配はひどく的を射ていて、今の自分の心境を正しく捉えていたからだ。
「……ここでひとりで考え事してて、思ったの」
「うん」
「やっぱり、私は歌うのが好き。自分の原点は結局のところ歌なんだって」
「うん」
「最近は、歌だけじゃなくて色んな事にチャレンジして、自分なりに頑張ってきたつもりだったんだけど……うまくいかなくって、それで焦ってたのかもしれないわ」
空回りすればするほど、焦燥感が千早の心を支配していった。それでも彼女はひたすらに努力することしかできなかった。慣れないことの積み重ねで、心が疲弊するのも無理はない事だった。
「そういう日はね、何もしないのが一番なの。美希と千早さんは、今日はもうずっと一緒にカモ先生を眺めるの。頑張るのはいつでもできるの。休んだ後で、のんびりやればいいの」
「……ふふっ」
美希の言葉に、千早は思わず吹き出す。
「あっ、ひどいの。美希は真剣なの!」
「ごめんなさい、おかしくって……ふふふっ」
「ひ~ど~い~の~!」
番組を投げ出すなんて芸能人として最低最悪と言わざるを得ない。仕事なのだ。今後のアイドル活動に大いに支障が出るだろう。それでもあっけらかんとサボり宣言を口にした美希の気安い様子が、千早にはおかしくて仕方ない。
失った信用はそうそう取り戻せるものではない。現実逃避で生み出した最悪の休暇だが、今この瞬間だけはたまらなく愛おしいと思えた。
「あ、美希見て。あそこに亀が泳いでる」
「あっ、ほんとだ。可愛いの~」
先の事は考えずに、ひと時の急速にうつつを抜かす。やってしまった失敗は、後で考えればいい。少なくとも今だけは、そう思うことができた。
……だが。
責任を果たせない者に、芸能界は決して優しくない。
「うん?」
千早の仕事用携帯が鳴る。
「……プロデューサー」
気が重い。自分たちの今の立場を考えると、とても出る気になれない。
プロデューサーは別の仕事の様子を見に行っているはずだが、今の惨状を知らないということはないだろう。連絡がいかないはずがない。
現実が襲ってくる。二人は考える。
現場にひとり取り残された真美はどうしたのだろうか。
千早は泣きながら逃走したが、一番泣きたいのは真美だろう。頑張り方を間違えて振り切った千早の暴走に巻き込まれても文句ひとつ言わず、彼女は仕事をやり遂げようとしていた。
この電話に出なければならない。二人にはその責任がある。美希と千早は互いに顔を見合わせると、恐る恐る通話をオンにし、音声をスピーカーに切り替えた。
『もしもし、千早ちゃん?』
ぞわり、と背筋が凍った。
普段なら聞くものを安心させるその優し気な声が、今の二人には何よりも恐ろしく感じられた。
「あ、あずささん……」
三浦あずさ。
今回のドッキリ企画においてある意味最大の被害者ともいえる765プロアイドルからの、突然の電話であった。
『えっと、真美ちゃんからプロデューサーさんの方に急に電話があってね。それで色々話を聞いたんだけど』
「あ、あ、あの。プロデューサーは……」
『今ちょうど仕事で一緒にいるんだけど、私の方が色々話しやすいだろうから代わりにって』
「あ、え」
呼吸がうまくできない。
正直プロデューサーの方がまだ話しやすいので、今からでも替わってほしいが、そんなことはとても言えない。
『プロデューサーさんと一緒に真美ちゃんの話聞いてたんだけど、凄く泣いていて』
美希と顔を見合わせるが、互いの顔は青ざめるばかりで少しの気休めにもならない。
『何か撮影現場で大変なことがあったのはわかったの』
曖昧な言い方である。あずさはどこまで今回の騒動を知っているのだろう。
「あの、真美は大丈夫、ですか?」
『ひとまず律子さんが迎えに行ったみたいだから、大丈夫よ。安心して頂戴』
置き去りにしてしまった真美のフォローがされていたことに、ほんの少し安心を覚える。
「その、よかった……です。真美にはひどいことをしてしまったので」
『千早ちゃんが反省しているなら、私からは何も。千早ちゃんのことだから、きっと何か考えがあっての事だと思うし。ただね、何があっても私たちは千早ちゃんの味方だから。そこだけは、知っていてほしいわ、なんて』
少し照れくさそうにあずさが笑う。きっと千早たちの緊張を取りほぐしたかったのだろう。自分たちの事を第一に考えてくれているからこその言葉が、今の二人には何よりも痛くて、同時に少し嬉しく思えた。
しばしの沈黙の後、千早は重い口を開いた。
「私、プロ失格です」
『……何で、そう思うの?』
「今日はドッキリ企画の収録だったんですけど、以前にやった時も今回も、全然うまくいかなくて。その、自分なりにいろいろ考えてみたんです。どうすれば面白い絵が撮れるのか、どうすればプロデューサーに信頼してもらえるのかって」
『プロデューサーさんに信頼されていないと思ったのね』
「プロデューサーは、悪くないんです。悪いのは、勝手なふるまいでみんなを振り回した私です」
「そんな、そんな言い方ないの」
震える声に驚いて、美希を見る。
「千早さんは頑張ってたの。たしかにみんなを振り回したかもしれないの。でも、誰も千早さんが一人で悩んでたことに気づいてあげられなかったの……。千早さんが悪いっていうなら、美希たちだって悪いの!」
ボロボロに泣く美希を、壊れ物を扱うかのように抱きしめる。
『そう、美希ちゃんもそこにいるのね』
あずさの、全てを肯定してくれるかのような相槌。
あずさの持つ優しい空気に絆されて、言葉が堰を切ったようにあふれ出す。
千早は今の自分の気持ちを全て話した。
一度失敗したドッキリに、自分なりの努力で臨んだこと。それが結果として、独りよがりになってしまったこと。収録で泣き出してしまい、情けなくて恥ずかしくて、とうとう逃げ出してしまったこと。
「美希もいけなかったの。千早さんがそこまで思いつめてたなんて知らなくて、酷いことたくさん言っちゃったの」
『そうなのね』
聞きたいこともたくさんあるだろうに、あずさは何も言わずに頷くだけだった。ただ自身の思いを打ち明けるだけ。否定するわけでもなく肯定するわけでもない。ただ聞いてもらえるということが、今の二人には何よりもありがたかった。
『きっとね、今みたいに話してくれれば、みんなわかってくれるわ。だって二人とも、こんなに素直ないい子たちなんだから。うふふっ』
溜め込んでいた思いをひとしきり打ち明けると、胸につかえていたもやもやはすっかり消えていた。
悩んでいてもいい事なんてない。大事なのは、非を認めて前に進むことなのである。あずさとの電話を通じて、二人はまた一つアイドルとして成長を果たすことができた。
『ちゃんと撮影スタッフさんに連絡を取って、今後のことをしっかり話してね』
「はい。そうします。心配してくれて、本当にありがとうございます」
『いいのよ。それと、もう一個聞きたいんだけど』
「……? はい」
「千早ちゃん、私の物まねしてたんだって?」
「え?」
……何かの聞き間違いだろうか。それとも疲れが溜まっているのだろうか。
後ろから、あずさの声がする。
「「きゃっ」」
何かが千早たちの背中を押した。体は水面に向けて、大きな水飛沫をあげて沈んでいった。
濁った水面から身体を起こす。自分たちを突き飛ばした張本人は、プロデューサーの携帯を片手にイタズラな笑みを浮かべていた。
「責任をとるってね、こういうことだよ二人とも」
双美真美。物まねの名人。
スタッフから渡されたドッキリ大成功の看板を掲げる彼女の笑顔は、誰よりも輝いてみえた。
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2.6 禊ぎ
嘘企画『ちー散歩』のパロディ元である『あず散歩』で紹介されるお店は、総じてレベルが高い名店揃いだ。
あずさが気まぐれに訪れる店のジャンルは様々だが、全体的にスイーツのお店にたどり着くことが多い。「ダイエットしてるのに~」と言いながらも、ウキウキで店にアポを取りに行く彼女の姿はとてもお茶目で可愛らしい。さらにどのお店も実際に美味しいのだから、人気が出るのは当然ともいえる。今回はそんな『あず散歩』のスイーツ回の中でも、特にお値段が張るお店の紹介である。
今回の収録を終えた翌日。千早たちは高級果物を専門に扱うスイーツカフェに来ていた。今回のドッキリ企画に散々に振り回したお詫びとして、プロデューサーが3人にご飯をご馳走すると言ったところ、彼女たち指定したのがこの店だ。
765プロのアイドルたちの突然の来店に色めき立つ店内。プロデューサーがプライベートである旨を周囲に説明しているのをしり目に、アイドルたちはメニュー表に輝く色とりどりのフルーツパフェに興奮していた。
「えっ、フルーツパフェってこんなにするの……?」
「千早さん、エンリョすることないの。今日はプロデューサーのおごりだから」
「とりあえず真美はこの一番高い超高級マスクメロン特盛パフェにするね!」
「じゃあ、ミキはこの特選イチゴスカイツリーパフェにするの。天まで届くほどのイチゴだって!」
「お、おい。少しは遠慮してくれよ」
「兄ちゃん何か言った?」
「お好きなものをどうぞ……」
説明を終えて戻ってきたプロデューサーの抗議は、真美の笑顔でむなしく封殺される。しぶしぶメニュー表を覗き込んだプロデューサーの顔がさっと青ざめるのを見て、唯一千早だけが申し訳なさそうな顔をするが、真美と美希はどこ吹く風といった様子だ。
しばらくメニュー表と睨めっこした後、やってきた店員に各々が注文を終える。容赦なく飛ぶ高額注文の数々に、プロデューサーは途方にくれた顔で財布を見つめていた。
「その、プロデューサー。本当にすみません」
「いや、千早は悪くない。千早が悩んでいたことに気づいてやれなかったんだから、今回の件は俺の責任だよ。だから遠慮せずに、今日は美味しいもの食べてくれ」
「千早さんは本当に気にしなくていいの。プロデューサー、美希ホントに怒ってるの。千早さんにバラエティやらせるなんて間違ってるの!」
「いや、それは違うぞ美希。今回の企画を通じて、俺は千早にアイドルとしてさらに成長してほしいと思っているんだ」
「千早さんはバラエティなんてやらずに、今のまま成長していけばいいの。海外進出を前に、変なイメージついたら大変なの!」
「変なイメージ……」
美希の言葉が鋭く千早の胸に刺さる。実際にこれまでのドッキリはうまくいったとは言い難い。
「変なイメージは俺が絶対につけさせないよ。プロデューサーとしてみんなのことはしっかり守るから、そこは信頼してくれ」
「正直今回の件でかなり信頼落ちたの」
「……ぐふっ」
これまで手塩にかけて育ててきたアイドルからの信頼できない発言は、超仕事人間であるプロデューサーにとって、死刑宣告に等しい響きであった。
「プ、プロデューサー!」
「千早、信用ならないゴミプロデューサーですまない。俺に優しくしてくれるな。お前はただ、ファンのみんなに笑顔を届けてくれればそれで良いんだ」
「それじゃあ、まずプロデューサーに笑顔を届けないといけないですね」
「え?」
「プロデューサーは私たちのファン第一号ですから」
その輝きに眼がやられた。千早の遠慮がちな笑顔が放つあまりの眩さは、プロデューサーの眼鏡に搭載されているブルーライトカットをもってしても、防ぐことは叶わなかった。
「ち、千早ぁ……!」
絞り出すように感情を吐き出すと、やがてプロデューサーは息をすることをやめた。
自分の担当するアイドルのあまりの尊さに、生物としての最低限の活動すら煩雑に思えたのだ。
……この瞬間が永遠なら、プロデューサーは世界一幸せな死を迎えることになるだろう。
「あ、店員さん! シャインマスカット昇天ペガサスmix盛りパフェくださーい」
「!!?」
真美の恐ろしい一声で、忘れたはずの呼吸が戻ってくる。財布に目を落としても現実は変わらない。しかしこのプロデューサーという男。霞を食っては生きれぬが、アイドルの尊みを活力に生きていけると自負している。であるならば、己の矜持に殉じるままだ。
金のない現実など、瑣末な問題である。
「ええい、こうなりゃヤケだ! みんな好きなだけ注文していいぞ。何てったって俺はお前らのファン第一号だからな!!」
「あ、じゃあこの淡雪いちごのスペシャルババロア頼むの。さすがにエンリョしてたけど、プロデューサーが言うならいいよね!」
「よーし、ちょっと仕事の電話してくるから待っててくれ!」
そういうと立ち上がり、店の外へ駆けていくプロデューサー。律子に今回の会計が経費で落ちないか交渉に行ったのだろうと、美希は当たりをつける。やがて店の外から泣きながら懇願する成人男性の声が聞こえてきたので恐らく当たりである。
「あの、二人とも」
美希と真美が冷ややかな視線を店の外のプロデューサーに送っていると、千早が二人におずおずと声をかけた。
「本当にごめんなさい」
「千早お姉ちゃん!」
「そんな、謝らなくていいの!」
静々と頭を下げる千早に、美希と真美は大いに慌てる。
「ううん、迷惑たくさんかけたんだもの。けじめはつけさせてほしい」
「そんなの、もうけじめはついてるっしょ。真美があずさお姉ちゃんの真似で2人にドッキリリベンジした時点でね!」
「悪かったとは思うけど、川にドボンはあんまりなの!」
「おやおやー? ミキミキくん。チミ、反省が足りてないんじゃないのかね〜?」
「ムキーッ! 真美ってホント生意気なのっ!!」
千早は謝罪をしていたはずが、いつの間にか漫才じみた小競り合いになってしまった。美希と真美もそれがおかしいのか、3人は目を見合わせるとくすくすと笑い合う。
「パフェ4品、お待たせしましたー」
「「わぁーっ!」」
色とりどりに、美しく飾り立てられたパフェの品々が、千早たちが待つテーブルの上に披露されていく。瑞々しいフルーツの輝きに思わず歓声があがる。もうすっかり、しんみりした空気はなくなっていた。
「凄すぎるの! 食べる前から、ホーセキ箱なの!!」
「これ、ホントににいちゃんのオゴリでいいのかな……なんか流石に可哀想になってきたYO……勢いで一品余計に頼んじゃったし」
「これは割り勘にしましょう。流石に経費では落ちないでしょうから」
「だねー……」
3人は哀れなプロデューサーを思い、視線を窓の外に向ける。しかし、文字通り蚊帳の外となってしまった彼の煤けた背中は見当たらず……。
「まあ! 3人とも、すっごく美味しそうなの頼んだのね!」
「「「えっ」」」
代わりに彼女たちの視線に入り込んだのは、世の男性がお嫁さんにしたい女性ランキングぶっちぎり第一位のアイドル、三浦あずさの愛らしい笑顔だった。美しく着飾ったパフェもそっちのけで、全ての人を釘付けにする、会心のエンジェルスマイルである。
その後ろでドッキリ大成功の看板を掲げている、したり顔のプロデューサーも添えて。
……店内に、アイドル3人の絶叫が響き渡った瞬間である。
「ええっ、これ全部私に? どうしましょう。こんなに食べ切れないわ〜」
その後、今回のドッキリの最大の被害者である三浦あずさに、パフェが全て献上されたのは言うまでもない。困りながらも満更でもなさそうなほんわかした笑顔が、千早たちの禊ぎとなるのだった。
永らくお待たせしてすみません……。これで第二話は完結となります。ここまでご覧頂き、ありがとうございました!
続きを書く意思は、あります……!
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第3話 萩原雪歩・菊地真 編
3.1 瞬間
「ふぇぇ……」
萩原雪歩は穴を掘って埋まりたい気分だった。
スコップはある。手に持っている。しかし現実に埋まることなどできない。むしろ掘るなどもってのほかだ。
毎度お馴染み、ブーブーエスの楽屋。その天井裏に雪歩は潜んでいる。もし仮に天井を掘ろうものなら、雪歩は落っこちてしまう。雪歩が逃れたい現実が広がっている、恐ろしい楽屋へと真っ逆さまだ。
「ど、どうしよう……」
弱気な思いが雪歩の心に広がっていく。それがいけないことであると雪歩にはわかっている。アイドルはいつだって輝いていて、みんなを勇気づける存在でいないといけないのだ。
ふと、考える。
今の自分は本当にアイドルであると言えるだろうか。
萩原雪歩は個性豊かな765プロのアイドルたちの中でも、特に清純派と言うにふさわしい存在だ。淡い茶色のサラサラとしたショートボブの髪に、大人しそうなたれ目が男女問わずに庇護欲を掻き立てる。自分に自信がなくて男性と犬が苦手。それでも健気にアイドル活動に取り組む姿はファンを勇気づける。
その何事も頑張る姿勢こそが、萩原雪歩を人々をひきつけてやまないアイドルたらしめるのだ。
だが、今の雪歩は眼前の現実から目を背けてしまっている。今の雪歩には、自分が弱気な女の子のままに思えた。
ああ、このまま天井裏に引っ込んだままでいたい。むしろ天井と一体化してしまいたい。
そうすれば、天井にぷすりと空いた穴から覗く、悪夢のような現実から目を背けられるのに。
改めて、確かめるように穴を覗き込む。見慣れた楽屋だ。ブーブーエスの仕事の時はよくこの楽屋を使わせてもらっている。そこには、抱き合う見目麗しい一組の男女が……否、どっちも女性である。
一人は如月千早。765が誇る孤高の歌姫。そしてもう一人は……。
「真ちゃん、どうして」
雪歩の掠れた声は、二人には届かない。
菊地真は、765プロのアイドルの中でも、最も女性人気のあるアイドルである。中性的で、凛々しく整った目鼻立ち。灰色がかったショートヘアに、輝かんばかりの爽やかな笑顔。これにアクション俳優顔負けの、抜群の身体能力もあるとなれば、世の女性が彼女を王子様ともてはやすのも大げさではないだろう。
「……千早、その、本気なの」
「ずっと好きだった……もう、抑えられない」
「あわ、あわわわわわわわ」
(真ちゃんまずいよ同じ事務所のアイドル同士でそんな、いやそもそも女の子同士でそんな……)
見てはいけないとわかっていながらも、見てしまう。むしろ食い入るように見てしまっている。ブーブーエスの楽屋は雪歩の知らない間に、禁断の花園と化していたのである。
「や、やっぱダメだよ。ボクたち女の子同士なのに」
「真は、いや?」
「ええっ、いや、その……」
「お願い、私を見て」
逸らしていた視線と視線が絡み合う。しばらくの沈黙のあと、千早がその潤んだ瞳を閉じた。雪歩からは真の表情は窺うことができない。やがて真の後頭部が、切なげな千早の顔に覆いかぶさるように……。
「だっ、ダメぇぇぇーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
その瞬間、天井裏から天使が舞い降りた。
*
時は数刻ほど遡る。
「はぁー……きゅんきゅんくるなぁ……」
事務所のソファに深く腰をかけ、菊地真は読書に没頭していた。読書と言っても、小難しい本を読んでいるわけではない。音無小鳥厳選の少女漫画である。この光景は765プロにおいて、そう珍しいものではない。真と小鳥は少女漫画愛好家として、暇を見つけてはこうして互いの勧める漫画を読んで、感想を言い合う仲なのだ。
765プロ漫画同好会(非公認)は今日も絶賛活動中である。
「いいわよね……。特に主人公が健気に皇帝陛下の帰りを待つところがまた……!」
「わかります! 彼が戦場に向かうとわかっていながらも、笑顔で見送るそのいじらしさ! くうーっ! ボクだったら我慢できなくて一緒についていっちゃうなぁ!」
「真ちゃんだったら、そのまま大活躍して勝ってきちゃいそうね……」
立ち上がって、徒手で槍をふるう真。気分はすっかり戦場で一騎当千の活躍をする勇者である。その動きは実に様になっており、真が突き出した空想の槍の先に、獰猛に笑う敵国の猛将の姿を小鳥は見た。貴公子然とした真と筋骨隆々の猛る漢たちとの血湧き肉踊る戦いを夢想すると、図らずも小鳥の口許に一筋の鼻血が流れた。彼女の乙女的思考は今日も絶好調である。
「来ないかなぁ、こういうお淑やかなお姫様の役。ジャンジャンバリバリ頑張るんだけどなぁ」
「真ちゃんはやっぱりお姫様役がいいのね」
「当たり前じゃないですか! 憧れですよ? 今までのボクのイメージとは、その、違うかもですけど、ボクだってやればできると思うんですよ……」
真には目標がある。男の子のファンを増やすことである。
菊地真というアイドルは、とにかく女性人気が高い。握手会を開くと、その長蛇の列の半分以上が女性だ。先日街頭モニターに先行で流れたスポーツドリンクのCMで炸裂した王子様然とした笑顔に何人の女性がハートを撃ち抜かれたことだろうか。
「女の子のファンだって、もちろん大事ですよ? 今までのボクのイメージも大切にしていきたい。でも、たまには女の子らしいことしてみたいじゃないですか……」
(出た! いつも凛々しい真ちゃんから不意に溢れる乙女な一面! 大丈夫よ! 今のままで充分、真ちゃんはお姫様やれてるから!!!!)
小鳥の魂の叫びが、自身の脳内にこだまする。当の本人はまるで自覚なく、少し気落ちした様子だ。
「落ち込まなくて大丈夫よ、真ちゃん。今の真ちゃんの魅力を知ったら、男の子なんてイチコロなんだから」
「……小鳥さん、今のボク、女の子してますか?」
「もちろん! 真ちゃんはいつでも女の子してるわよ」
「そうかなぁ……」
「真ちゃん、今日はなんだか重症ね」
いつも前向きな真だが、今日は珍しく元気がない。
「今日、このあと恋愛ドラマの収録なんですよ。……男役で」
「あら」
「嬉しいんですよ? 嬉しいんですけど、複雑ですよ……」
プロデューサーもまだまだ真の魅力をわかっていないなぁと、小鳥はこっそりアイドル通を気取った。
願わくばいつか、真がお姫様の役が来ますように……。
小鳥がそう願ったタイミングで、事務所のドアが開いた。
「お疲れ様です」
聞き取りやすい、よく通る声。開いたドアから淀んだ空気が抜けて、さらりと青い髪が舞った。
「おはよう、千早ちゃん」
「音無さん、おはようございます」
「じー……」
その瞬間、千早は強烈な視線を感じた。目と目が逢う瞬間、千早は怪訝な表情で真の様子を窺った。
「どうかしたの? 真」
「……千早って、カワイイよね」
「えっ?」
ジャーン、ジャーン!
瞬間、小鳥の中の尊みセンサーが警報を打ち鳴らした。
「ボクも髪、もっと伸ばそうかなぁ……」
「それって、どういう意味?」
「え?」
真剣な眼差しを受けて、真は少し戸惑う。
「いや、ボクも髪伸ばしたら、フェロモンバリバリになるかなー、なんて」
「……かわいいって」
「あ、ごめん。……気を悪くしたかな?」
千早は顔を赤らめて、無言で首を横に振る。
「気を悪くなんて、しないわ」
「そっか、良かったよ。……はは」
何やらいじらしい千早の態度に、真も引っ張られて恥ずかしくなってくる。
「あ、水を」
「水?」
「水を買い忘れたから、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「え、水なら冷蔵庫に……」
慌ててそっぽを向いて、千早は出入り口の扉に手をかける。ドアが少し開いて、止まる。
「その、真」
「うん?」
「もっと、かわいいって、言って欲しい」
ごとん、と重たい音が鳴る。小鳥が持っていた湯呑みを落としたのだ。しかし、そんな物音も気にならないほど、真は千早の様子に釘付けになっていた。
「そ、それってどういう……」
「行ってきます!」
慌てた様子で事務所を飛び出す千早。後に残ったのは、呆然と立ち尽くす真と、だらだらと鼻血を垂らしながら溢したお茶をハンドタオルで拭いている小鳥の2人だけだった。
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3.2 天使
萩原雪歩は平穏と安らぎを心から愛している。
たとえば、765プロの事務所で過ごす時間。
担当アイドルの方向性に悩むプロデューサーに日本茶を淹れてあげる時。ありがとうの言葉で一息をつく。自分が淹れたお茶に茶柱が立っていた時。美味しいと感想をもらうと、身も心も温かくなる。
ささやかな幸せが、雪歩の心を豊かにしてくれる。気分が乗ってきた時は、詩を書いてみたりする。普段は自宅の机の引き出しに固く閉じ込めている自作の詩集を持ち出して、公園のベンチに座る。風の音に耳をすませて、噴き出す噴水の水飛沫がキラキラと虹に変わる様を見つめると、自然と言葉が浮かんでくる。雪歩はその言葉ひとつひとつを吟味して、丁寧に詩を書いていく。その時間が雪歩にはたまらなく愛おしいのである。
そのひとつひとつは、日常の隙間の小さな出来事でしかない。だが、日々のアイドル活動で多忙を極める雪歩にとっては、大切にしたい時間である。
「おはようございますぅ」
「萩原さん入りましたー」
「本日は、よろしくお願いします!」
「「よろしくお願いしまーす!!」」
昨日は雪歩にとって久々のオフだった。充実した休日で、心身ともにリフレッシュすることができた。
詩だって筆が乗って、2編も書くことができた。夜は仕事上がりの真と食事に行って、たわいもない話に花を咲かせたりもした。
「……はぁ」
だというのに、今の雪歩の表情にはどこか陰りが見られた。雪歩は視線を手元の手提げ袋にやると、再び溜め息をついた。早々に一人になりたい気分であったが、テレビ局の廊下は賑やかで、その喧騒は雪歩を放ってはくれない。
「あ、萩原さん。765プロさんの楽屋はこちらになります」
「あっ、わかりました。ありがとうございますぅ!」
挨拶してくれるスタッフ一人一人に笑顔で対応して、雪歩はようやく楽屋に入ることができた。ドアを閉め、背をもたせかける。
「ふぇ〜〜〜ん……」
緊張が解けたのか、情けない声が漏れる。雪歩は溜め息で抜ける力に逆らわずに、体を下に滑り落としてしゃがみ込んだ。手元の手提げ袋を両手で持って睨みつけるが、弱い気持ちがすぐに出てしまう。
「ドッキリなんて、私には無理だよ……」
先週プロデューサーにこの仕事の打診を受けた時から、雪歩はずっと悩んでいた。内容もハードで、引っ込み思案であがり症な雪歩にとって、かなり無茶と言えるものであった。
それでもやろうと思えたのは、背中を押してくれたプロデューサーと、相談に乗ってくれた真の励ましがあったからだ。
とはいうものの、いざ本番の日ともなれば緊張するもので、雪歩は引き受けてしまった後悔に、今さら苛まれているのである。
持っている手提げ袋から中身を取り出す。普段の雪歩なら確実に喜ぶであろう、白を基調とした、ファンシーで愛らしい衣装だ。だが、今はそれが憎らしい。
「あなたの恋のお手伝い、一生懸命頑張りますぅ!」
己を鼓舞するかのように、雪歩は声を張った。今のフレーズは、雪歩が声優を務めるアニメのキャラクター『掘削天使ゆきぽちゃん』の決めゼリフである。今雪歩が持っている衣装は、ゆきぽちゃんがアニメで着ている衣装だ。
「……はぁ」
ゆきぽちゃんのセリフを借りて勇気をもらおうとしたが、気持ちは切り替わらず、ただ沈んでいくばかり。
というのも今回のドッキリ企画、雪歩主演の劇場版アニメ『掘削天使ゆきぽちゃん 〜愛の叫びよ、ブラジルまで届け〜』のプロモーションも兼ねているのである。
掘削天使ゆきぽちゃんは元々、超有名なある少女漫画雑誌とのコラボ企画で生まれた読み切り漫画だった。ゆきぽちゃんは悩める少女たちの恋を応援するために天界から派遣された天使である。ちょっぴり複雑で刺激的な恋模様を繰り広げる少女たちと、不器用でよく穴に埋まろうとするが、いつも一生懸命なゆきぽちゃんが繰り広げるドタバタ恋愛コメディである。妙に大人びた少女たちと、持ち前の根性で恋の障壁を掘削するゆきぽのハチャメチャさが10代女子にバカ受けし、読切から連載へ、そしてアニメ化にまで発展したのである。
「あ……着替えなきゃ」
しばらくどんよりとした気持ちで過ごすと、収録の時間が差し迫っていることに気づき、少し慌てて着替え始める。着替えながら、説明されたドッキリの内容を思い返す。今回劇場版のゲスト声優として参加するお笑い芸人の楽屋の壁(ハリボテ)を掘削して雪歩扮する掘削天使ゆきぽちゃんが登場するというものだ。決め台詞は先ほど雪歩が言った「あなたの恋のお手伝い、一生懸命頑張りますぅ!」である。
「ちゃんと、できるかなぁ……」
着替えを終えて、終始落ち着かない様子の雪歩。アイドルを始めた頃の彼女なら、きっと直前で逃げ出していただろう。今その選択を取らないのは、雪歩がアイドル活動に真剣に取り組んできた証明であった。
「ううん。こんな時ゆきぽなら、きっと勇気を持って立ち向かうはずだもん」
作中のゆきぽに思いを馳せる。いつも一生懸命で頑張り屋のゆきぽ。モデルは雪歩自身であるが、雪歩本人は自身の事を少し美化しすぎだと思っていた。
「本当は勇気なんてない、いつだって穴掘って埋まってしまいたいと思っているのに」
それでも、自分の事を勇気のある子だと思ってくれているファンを想うと、雪歩は立ち上がれるのである。765プロが誇るアイドルたちはいつだって一生懸命であるから、自分もそうありたいと強く思うのだ。
雪歩は覚悟を決めて、変身ステッキを手に取る。これは人の恋路を邪魔する悪の秘密結社・デバガメイヤーと戦う時に使うステッキで、スイッチを押すと音楽が流れてステッキがスコップに変形する。恋愛ドタバタコメディでありながらも、特撮要素もあるのが『掘削天使ゆきぽちゃん』魅力の一つである。
「人の恋路を邪魔するいけない子たちは、穴掘って埋めちゃいますぅ!」
決めポーズもビシッと決めて、準備は万端。その覚悟に呼応するかのように、楽屋のドアがノックされる。
「萩原さん、そろそろ出番でーす!」
スタッフが出番を告げる。スタッフが開けた楽屋のドアの先には、気弱な様子は微塵もなく、毅然と背筋を張った掘削天使ゆきぽちゃんが立っていた。
「本日は、よろしくお願いしますぅ!」
このドッキリを、きっと雪歩はやり遂げるだろう。
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3.3 雲ゆき
フロントガラスに水滴が落ちてくる。ぽつぽつと、小雨の音だけが響く車の中、真は後部座席に座って、助手席越しに千早の青い髪を見つめていた。
「……雨降ってきましたね」
千早の声に我に返ると、真はようやく窓の外に目を向けた。
「本当だな」
「本降りにならないといいですけど」
車のワイパーがつく。ちょうど信号前に差し掛かって、車が減速していく。真はワイパーが規則的に揺れる音を聞きながら、今度は信号の赤い灯りを見つめた。耳が寂しく感じた。
「……プロデューサー、何か音楽かけませんか?」
「ああ、構わないぞ。何が聴きたい?」
「えっとー、プロデューサーの最近のイチオシとか?」
聞いてはみたものの、特に聞きたい曲は浮かばない。真はただ、何となく感じる居心地の悪さを払拭したいだけなのだから、それも無理のないことである。
「イチオシ……なかなかプロデューサー心をくすぐる言葉じゃないか。よーし、任せろ」
プロデューサーは意気揚々とCDラックをあさると、取り出したCDを車のプレーヤーに差し込んだ。
「あ、プロデューサー。青になりましたよ」
「おっと、サンキュー千早」
止まっていた車が進みだす。その瞬間、音楽が流れだした。
「あ……」
視線を感じた。
不意に見上げた、ルームミラー越しに目と目が逢う。切れ長な蒼い瞳に、真は自身の心が揺れるのを強く感じた。
「この曲って……」
「目が逢う瞬間、いい曲だよな。なんたって歌手がいい」
「もう、プロデューサー? からかわないでください」
「からかってなんかないぞ。いつだって俺のイチオシはお前たちの曲だからな」
真は今朝の千早との出来事を思い返す。今朝方、可愛いと言ってほしいと訴える彼女の切なげな瞳が真の心にずっと引っかかっていた。
(千早、何かあったのかな……?)
普段クールな千早が絶対に見せないような表情に、今流れている歌詞が妙に重なる。奇妙な居心地の悪さに体が強張るのを感じながらも、真は気持ちを切り替えようと、あえて千早に話しかけてみることにした。
「そうだ、千早。今日は歌の収録だっけ」
「ええ。ドラマのタイアップで新曲を録ることになって」
「ボクが出るドラマの曲だよね! 実はまだどんな曲か全然知らないんだよね。くぅーっ、楽しみだなぁ!」
「今回のドラマ、あの国民的少女漫画が原作だからな。先方も気合が入ってるみたいだよ」
国民的少女漫画『嘘から出た誠』。有名進学校に通う、成績優秀で運動神経抜群の女の子小鳥遊飛鳥。資産家の娘で、将来の許嫁も性格良しの超イケメン。自他共に認める完璧な彼女だが、敷かれたレールの上を歩く人生に何となく閉塞感を覚えている。
『いつか白馬に乗った王子様が私をさらってくれる』
そんな子供の頃のささやかな夢を今を持ち続けている彼女の目の前に、ある日突然異世界から本物の王子様が白馬に乗って現れて……。
「白馬の王子様役、なんだよなぁ」
ドラマのあらすじを思い返し、真は苦笑いを浮かべた。自分のイメージに合った役がもらえるのは幸せなことだと頭ではわかっている。ただ、ささやかな乙女のプライドがささくれ立っているだけである。
「真は、やっぱり嫌?」
千早の単純な問いかけが、真には単純な気遣いには聞こなかった。恥じらう千早の表情が思考の片隅をよぎる。
「その、嫌じゃないよ。少し、複雑な気持ちだけどね」
それは何に対しての答えだっただろう。揺さぶられた心に慌てて蓋をして、白馬に乗るのは楽しみだと取り繕った。
「そう」
何故か安心した声で千早が相槌を打つ。桜色に染まった頬に、真は気づかないふりで愛想笑いを浮かべたのだった。
◇
「お疲れさま……ですぅ」
二の句が継げない。
ゆきぽちゃんコスチュームに身を包んだ雪歩が意を決してスタジオのドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。人々の視線が一斉に雪歩に向かう。その圧に動揺しながらも、一人一人を確かめるように視線を動かす。それはもう錚々たる面々であった。
「ふ、ふえぇ……」
泣ける映画を撮らせたら右に出るものはいない(小鳥談。雪歩もそう思う)気難しいことで有名な実力派映画監督、四葉武志。普段は温厚だが、熱血な演技指導で有名な『掘削天使ゆきぽちゃん』のアニメ監督、古海誠司。さらに今回のドッキリ企画で協力してくれる、765プロの看板番組『生っすか』の見知ったスタッフたち。各々が一つのパイプ椅子を取り囲む形でそれぞれの席についている。
「どうぞ、おかけください」
全員の鋭い視線が雪歩に集中する。大人でも耐えがたい空気の重さ。それでも雪歩は息をぐっと呑みこんで、指示された通りにそのパイプ椅子に座った。
「あ、あのぅ……これはいったい?」
萩原雪歩は男性が苦手である。今でこそ気丈に振る舞えているが、それはアイドルとしての彼女の努力の成果であって、根本的な性質が変わった訳ではない。固く握りしめた変身ステッキに滲む汗がその証左である。
「オーディションだよ、雪歩ちゃん」
穏やかな声で、柔和に微笑む古海監督。ゆきぽちゃんで日頃お世話になっている相手の声に、雪歩は幾分の落ち着きを取り戻した。
「オーディション、ですか? プロデューサーからは何も聞いていないですけど……」
「急遽で申し訳ない。四葉監督とは旧知の中でね。今度やるドラマのキャスティングがなかなか決まらなくて困っているようだったから、雪歩ちゃんを推薦させてもらったんだ。君のプロデューサーには、先ほど許可を取ったよ」
「え、ドッキリの件は……」
「それは俺が説明しよう」
四葉監督のドスの利いた低音にたじろぐ雪歩。謝罪のジェスチャーをしている古海監督との組み合わせは、さながら飴と鞭である。
「来季のドラマで、ヒロインのライバル役がどうしても決まらなくて困っていてね。そうしたら、古海くんがプロモーションで面白そうなことやるって言うから、じゃあオーディションもかねて見てみようってなったんだよ」
「え、え。ドッキリで、オーディションするんですかぁ!?」
雪歩の表情から血の気が引く。ただでさえ緊張するドッキリに、突然オーディションの側面が付与されたのである。ヒット作請負人と評される実力派、四葉監督の作品でだ。
「とにかくさぁ、度胸のある子がほしいんだよね。ヒロインのライバル。異世界から大好きな王子様を追いかけてきた、お転婆なお姫様の役なんだけど、知ってるかな? 嘘から出た誠って、少女漫画原作の作品でね」
「それって、真ちゃんの……」
噓から出た誠。それは真が王子様役で出演予定の作品だ。男性役に悩む真を心配しながらも、密かに王子様姿を楽しみにしていた雪歩にとっては記憶に新しい。予習のために漫画も履修しているし、アニメだって視聴している。要は、普通にハマっている。
「まあ、急な話だし。無理にとは言わんがね」
四葉監督の鋭い視線が雪歩から外れる。そのことに安堵してしまう自分が、雪歩にはひどく恥ずかしく思えた。
「問われているのは覚悟の質ってやつだ」
「わ、私……」
再び雪歩を見据える四葉監督の言葉を受けて、アイドルを始めた頃を思い返す。引っ込み思案で、人前に出て何かを表現するなんて想像もついていなかった頃。気弱な自分を変えたくて、雪歩はアイドルの世界に足を踏み入れた。
「自信があるとは言えないです。……それでも」
初めてのライブで人前に立つことに怯えて逃げ出した。そんな自分を助けてくれたプロデューサー、アイドルの仲間たち。高い壁に負けそうな時はいつだって、一緒に歩んでくれる人たちの事を思う。そうすると、雪歩の心には勇気が湧いてくる。
変身ステッキのボタンを押す。ゆきぽちゃんの主題歌『掘削天使☆ゆきぽちゃん』が流れてくる。この曲がかかる瞬間、雪歩は気弱な自分からコスチュームチェンジを果たし、人の恋路に嫉妬して悪事を働く悪の秘密結社デバガメイヤーを埋め立てる、掘削天使ゆきぽちゃんになるのだ。
「私、やります。強くなるために……!」
ゆきぽちゃんの心に勇気がたぎる。変身ポーズを決めて、ステッキから変形した掘削スコップを四葉監督に突きつける。宣戦布告である。
「ゆきぽちゃん……! 君は最高にヒーローだっ!!」
雪歩に熱血芝居を仕込んだ張本人、古海監督がガッツポーズを決める。雪歩はゆきぽちゃんのアフレコにおいて、彼の激烈な演技指導を受けていた。挫けそうになりながらも、懸命に食らいついていく雪歩の頑張りに、古海監督は真剣に惚れ込んでた。
「一度決めたら、もう後戻りはできないぞ。必ずやりきってもらう。いいんだな?」
四葉監督の射殺すような眼光は、最早ゆきぽちゃんが憑依した雪歩には通用しない。苦手なことはたくさんある。それでも、逃げ出していてはいつまで経っても弱いままだ。
「はい! 一生懸命頑張りますぅ!」
故に、雪歩は努力する。765プロのアイドルたちの隣に、胸を張って立つために。
「コングラッチュレーション……!」
熱は、確かに伝わった。
「コングラッチュレーション……!!」
雪歩の熱量に感化されるように、一人、また一人。
「コングラッチュレーション……!!!」
スタッフたちのスタンディングオベーションが連鎖していく。古海監督にいたっては、感涙に咽ぶ始末だ。
「……へっ」
そこでようやく、四葉監督が笑った。
「いい根性してるじゃないの」
……獰猛に。
「じゃあ、さっそくだけどワイヤーつけてもらおっか」
「はい! ……え?」
戸惑う雪歩の感情を置き去りに、雪歩の身体はあれよあれよという間に、765プロの大切な仲間、菊地真が入る予定の楽屋の天井に吊るされるのであった。
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3.4 空模様
「四葉監督!」
テレビ局の廊下に、真の良く通る声が響きわたる。萩原雪歩が決死のドッキリ決行をさせられる数日前のことだ。
嘘から出た誠のオーディションの結果をプロデューサーから聞いた時、真は嬉しいと言葉では取り繕ったものの、胸の内では悔しい思いが燻っていた。
だからだろう、別の仕事でたまたますれ違った四葉監督にかけた声には、彼女の切実な感情が滲んでいた。
「どうして、ボクが王子様役なんですか?」
四葉監督は役者の主体性を重んじる監督だ。役者のオファーを否定することはせず、とことん話し合って方向性を擦り合わせる。納得が行く芝居ができるまで、些細なシーンでも時間をかける様を見れば、四葉監督が気難しいと評されるのも頷けるだろう。
その気質は、キャストのオーディションにも表れている。まず、商業的なキャスティングは一切しない。純粋に役と合うか合わないかという判断基準が一つ。なおかつ、必ず役者がやりたい役で、オーディションを受けさせる。役者はエゴイストでなくてはいけない。エゴのぶつかり合いによって、良いドラマが生まれる。四葉監督の持論である。
そういう監督であると事前に知っていたからこそ、真は納得が行かない。オーディションに、真は今の自分の全力をぶつける心算で臨んでいた。何より、抗議するだけの正当な理由を、真は持っていた。
「ボクは、ヒロインの役しか受けていないのに」
四葉監督が舌打ちをして振り返る。大抵の大人は怯むであろう仕草に、真は一切物怖じせずに向き合う。
オーディションには確かな手応えを持っていた。漫画とアニメを何度も履修し、役作りも丁寧に行なった。
少女漫画のヒロインに憧れたいたからこその努力。新しい自分を目指していた結果に対して、せめて叶わない理由を知りたいと思うのは仕方のないことだろう。
「光るものを感じた。だから合格させた」
「でも、ヒロインは任せられない?」
「今のお前には任せられん……それ以上でも、それ以下でもない」
「監督!」
仏頂面で踵を返して去っていく監督に対して、真はそれ以上は何も言えずに俯く。悔しさで頬を伝う雫を拭うと、真もまた、別の仕事に向かうために歩き出したのだった。
◇
「君は、噓つきだね」
台本に書かれた台詞を声にする。呟いた台詞に宿る感情は役としてのものか。あるいは自分か。
真は楽屋の机の上に先ほどまで読んでいた台本を放ると、投げやりに突っ伏した。
「はぁ……」
溜息をひとつ。体勢はそのままに、正面の鏡を流し見る。
少し切れ長の大きな瞳は物憂げで、少し潤んでいる。その濡れた長いまつ毛にかかるショートヘアを、おもむろに指先でつまんでみる。
「本当に、のばしてみようかなぁ」
柔らかな長い髪を思う。イメージするのは、ここに来るまでに一緒にいた如月千早の姿。
真が出会った頃の千早は、歌が全てとばかりにストイックに取り組む繊細な少女だった。常に重圧を背負い、他者にほとんど関心をしめさない。真はそんな千早の在り方が心配で、努めて千早と仲良くなろうと振る舞っていた。
たくさんの思い出があった。ひとりでランニングに出ようとする千早に無理やりついていったり、歌のアドバイスをしてもらって、ダンスの難しい振りを指導したり。
山あり谷ありのアイドル活動をみんなで乗り越えていくうちに、千早もやがて自然に笑えるようになった。お互いに涙も笑顔も見せあって、本当の意味での仲間になれた。
『もっと、かわいいって、言って欲しい』
「……っ」
出会った時には笑い方もわからない様子だったはずの少女の頬が、桜色に染まるのを見た。きっと自分だけが知る、千早の異なる一面。少女漫画の世界でしか知らない、女の子の表情。
「やっぱり、ボクは王子様役がお似合い……かな」
揺れる心を自嘲しながら、前髪をいじる。今のお前には任せられないと言った四葉監督の意図が何となく腑に落ちる気がして、それが真には何よりも悔しかった。
◇
「真ちゃん……」
一方、一流監督たちにうまいこと乗せられ、まんまと天井裏に収納された雪歩はと言うと、悶々と悩む真の姿を見て後悔に苛まれていた。先日の休暇で真から相談を受けていたものの、彼女がここまで深刻に悩んでいるとは思っていなかった。そのこともショックであるし、何よりそんな彼女に対して、これからしょうもないドッキリを仕掛けないといけないことを考えると、雪歩は自分が情けなくて仕方がなかった。
ドッキリ用に渡された掘削スコップを見る。もともと持っていたものとはボタンを押すとテーマソングのメロディがなるだけだったが、そこはテレビ仕様。ひとたびボタンを押せば、天井が開いてゆきぽちゃんのテーマソングと共に雪歩が舞い降りるという仕掛けだ。絶望である。
「こんなタイミングで押せないよぉ……」
度胸を見ると監督は言った。問われているのは覚悟の質であると。たが、今の状況はバラエティ的な感覚がない(本人談)雪歩にもわかる。確実に今じゃない。楽になりたいという気持ちを抑え、押さないという決断をすることもまた、覚悟である。
「どうしてこんな事……」
雪歩は泣きそうだった。雪歩は平穏を心から愛している。昨日のオフに思いを馳せると、現状が嫌過ぎて涙が出そうになる。それでも投げ出そうとしないのは雪歩の美徳であり、アイドルとしての確かな才能である。
「プロデューサー、どうして……?」
だがそれでも、彼女は本来内気で引っ込み思案な女の子。狭い空間の中で孤独と罪悪感に苛まれれば、弱音の一つや二つは吐いてしまう。行き場のない感情は、図らずも自身の敬愛するプロデューサーに向かった。急遽とは言え、何も事前に教えてくれなかったことと、真にしょうもないドッキリをかますことを許可したことが、今の極限状態の雪歩には信じられなくて、悲しかった。そんな雪歩の心境の吐露は、彼女の胸元のピンマイクがしっかり拾っていて、それを聴いていたプロデューサーのライフの深部までざっくり刺さっているので、ささやかながらも反撃が成功しているのはご愛嬌。
真は憂鬱に台本を眺めていて、雪歩は動くに動けず。膠着状態が続くかと思われたその時、楽屋の扉がノックされた。
「あっ……どうぞ!」
真は先ほどまでの憂鬱を慌てて正し、少し畏まった様子で相手に入室を促す。
「真……お疲れ様」
「ち、ちちちち千早ちゃん!?」
ギリギリ聞こえないラインの小声で抑えることができたのは、絶対にバレたくないという思いでとっさに動揺の声を絞った雪歩の執念のなせる技か。
「千早? あれ、歌の収録は?」
「………」
楽屋に訪れた千早は真を一瞥することなく、楽屋のソファに腰を下ろした。顔は俯き、艶やかに流れる長い髪に隠れて表情は伺えない。少し前に車から降りて別れた時には、特に変わった様子は見受けられなかったものだから、真は千早の様子が心配になって、彼女の小さな肩にそっと手をかけた。
「何かあったの?」
そっと振り向いた千早の瞳に滲む涙を見て、真は思わず息を呑んだ。
「千早……!?」
一体何が。その言葉を発するより早く、千早は真の胸に飛び込むと、縋るようにきつく、真の身体に両腕を回した。反動で千早の絹のような髪が舞って、ふわりと芳香が鼻腔をくすぐる。今胸の中で小さく震える如月千早の姿が衝撃的で、真は上擦った声で狼狽することしかできない。
「千早っ、一体何が」
「少しだけ、このままでいさせて」
顔を埋めたまま懇願する千早の声に、真の心音が高鳴る。
「……お願い」
そうしてようやく、真は自身に身を委ねる彼女の身体を、慎重に抱きしめ返すのであった。
「ふ、ふぇぇ……」
天井に吊るされたまま、真っ赤な顔で身を乗り出して、覗き穴から二人を凝視する堕天使がいるとも知らずに。
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