あの人の幸せは、苦い (おかぴ1129)
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1. 特別な日

 目指し時計の音が、ピリピリと私の耳に響いた。まぶたを開かず、手探りで音の発信源と思われる目覚まし時計を探り当て、これまた手探りでストップをかける。

 

 目覚まし時計を投げ捨て、数分の間、布団の中でまどろんだ。……ふりをした。

 

「……」

 

 意を決し、布団から上体を起こす。何かの間違いであって欲しいと祈りながら、私は投げ捨てた目覚まし時計に目をやった。時刻は朝の8時。これはいい。いつも起きている時間だから。

 

 日付を見る。……一度目をそらし、もう一度見る。

 

「……やっぱ、間違ってないよね」

 

 今日は結婚式。私のかつての仲間にして、今は大切な友達の球磨と、そして、ハルの。

 

 

 あの戦いが終わり、私たちは軍を退役したあと、鎮守府から少し離れたこの街で、各々自分の住まいで暮らしている。今でも私たちは互いに連絡を取り合い、あの頃と同じように、楽しく毎日を過ごしている。

 

 球磨とハルは、いつの間にか互いに意思表示を済ませていたらしく、その後一緒に暮らし始めた。私がそのことを知ったのは、ハルの新しいお店の開店を知らせるポストカードをもらったときだ。

 

 開店当日、私は、大切な仲間の新しい門出を喜ぶ気持ちと、不思議な不安感を抱えながら、ハルの店の開店祝いに向かった。その日は他のみんなは忙しかったらしく、開店祝いに駆けつけたのは、私以外には、北上と隼鷹の二人だけだった。

 

「俺の店の名前はこれしかないよな!!」

 

 新店舗を前にして興奮したハルは、私たちの前でそう言い切り、自分の隣に置いてある新しい看板のシーツを剥ぎ取ったのだが……その途端……

 

――バーバーちょもらんま鎮守府『だクマ』

 

 ステンドグラスのようなセンスの良いカラフルな看板には、えらく力のこもった殴り書きで『だクマ』という、余計な一文字が書き加えられていた。それを見たハルは、

 

「……ん?」

 

 と二度見し、目をゴシゴシとこすり、そして顔を青くした後、怒りで真っ赤にしていた。その様子はとてもほほえましく、そして大の大人の男性にこんなこと言うのも何だが、なんだかとても可愛らしい。

 

「ふっふっふっ……球磨が一筆書き加えておいてやったクマっ」

 

 そんなハルの背後……店の入口のドアがカランカランと開き、この事件の容疑者、球磨が不敵に笑いながら姿を見せた。振り返り、球磨の姿を見た途端に『お前かッ!!』と怒りの咆哮を響かせたハルは、次の瞬間、その球磨の元に走りより、憤怒の形相で……でもどことなく楽しそうに、自分の恋人で将来の妻になるであろう、球磨の首根っこを掴んでいた。

 

「うがッ!? な、なにするクマっ!?」

「うるせー妖怪落書き女ッ!! どうすんだこれ台無しじゃねーかッ!!」

「球磨の粋な計らいで個性的になったクマッ!! この球磨に感謝するクマッ!!」

「感謝どころか湧き上がるのは憤怒と憎悪しかねーよッ!!」

 

 そんな言い合いを繰り広げながら、二人は互いをもみくちゃにしつつ、笑顔で楽しそうに店内へと消えていく。

 

 私は、そんな二人の楽しそうな声を聞きながら、看板をジッと見つめた。

 

――バーバーちょもらんま

 

 ……この名前は、みんなにとって、とても思い出深い。ある日、アキツグさんの後任として従軍床屋として鎮守府にやってきたハルは、床屋『バーバーちょもらんま』を開いて、私たちの髪を洗い、髪型を整え、そして共に楽しい毎日を過ごしてくれた。

 

「バーバーちょもらんま……」

 

 もちろん、私にとっても、この名前は特別な意味を持つ。あの、過酷だったけど楽しかった日々……

 

『やせぇええええんっ!!』

『うるせー川内ッ!! 毎晩毎晩10時を過ぎたら俺の店にやってきやがって!!』

『ハル夜戦っ! 今晩こそ一緒に夜戦しよっ!!』

『誰がやるかこの妖怪夜戦女ッ!!』

 

 そんなやりとりを飽きもせず、毎日毎日……夜になって、お店の窓を勢い良く開けたら、そこには必ずハルがいてくれて……口では『うるせー』って文句言うくせに、必ず窓の鍵は開いていて……ハルを夜戦に誘うたび、私はとても胸がポカポカして、暖かくて……

 

「ホント、びっくりだね……」

 

 不意に北上に声をかけられ、ハッとした。私はいつの間にか、昔のことを思い出していたらしい。

 

「そだね。でもさ。球磨らしいよね」

「うん。でも戦々恐々だよ……私の店にもいつか余計な一言が加わりそう……」

「『ミア&リリー』だっけ」

「うん。『ミア&リリー“だクマ”』なんて店の名前、私はヤだなぁ……」

 

 私の隣で、同じく私と一緒に看板を眺める北上が、そう言いながら苦笑いを浮かべる。そんなことはないだろうけれど、相手はあの球磨だけに、『絶対にない』とは言い切れないのが恐ろしい……。

 

 とはいえ、きっと球磨は、ハル以外にはこういうことはやらない。球磨は、きっとハルに甘えてるんだと思う。好きな人には、甘えたくなるじゃん。楽しそうに笑ってる顔だけじゃなくて、困ってる顔とか怒ってる顔とか、そんな顔も見たくなるじゃん。

 

 ……だって、私は見たいから。

 

 『ふたりともやめなよー』と言いながら北上は、相変わらずわーわーギャーギャーと騒がしい店内へと消えていった。その場に一人残された私は、再び看板を見つめ、そして、『バーバーちょもらんま鎮守府』と書かれた部分に触れた。

 

「……」

 

 なんだか、言葉にしようのない気持ちが、私の胸に押し寄せる。思い出すのは、鎮守府にいた頃のハルの顔。彼が私に向ける顔は、みんなに向ける笑顔と同じ。彼にとって私は、隼鷹や北上、加古やビス子たちと変わらない。あの顔を見ればわかる。彼にとって、私はとても大切な仲間。

 

 ……だけど。

 

 ぽんと私の肩が叩かれた。いつの間にか、私の背後に隼鷹が立っている。

 

「……川内」

「ん?」

「店に入ろっか」

 

 振り返り、笑顔を向けた私に対する隼鷹の表情は、とても優しい。私は、努めて明るく振る舞う。

 

「そだね」

「今日は開店初日だからさ。ハルには頑張ってシャンプーでもしてもらおうか」

「うん。そして今日こそ夜戦を……ッ!!」

「それは勘弁してやんな。せいぜい足の裏をかいてもらう程度にしといた方がいいよ」

 

 私の夜戦への固い誓いを聞いて苦笑いを浮かべる隼鷹と、軽口を叩き合いながら、私は店へと入る。ドアは自分で開けるドアで、開くと『カランカラン』と優しいベルの音が鳴った。北上のお店とベルの音を合わせているということを知ったのは、後になってからのことだった。

 

 入り口をくぐると、目の前にはレジがある。

 

「……あ」

 

 そこで私は、随分と懐かしく、そしてとてもうれしいものを見つけた。

 

 隼鷹よりも先にレジに駆け寄り、その懐かしい写真を手に取った。古めかしいアンティークな雰囲気を漂わせる写真立てで飾られたその写真は、あの鎮守府での最後の秋祭りの時に撮った、思い出深い一枚だ。

 

『ちょ……ハル……もうちょっと離れるクマっ』

『お前だってもうちょっと離れろよっ……アホ毛が刺さるッ』

『だからハルがもうちょっと離れるクマっ』

『川内も押すなって……』

『えーだって写真に入り切らないじゃんっ』

『いやそうだけど……くっつきすぎだろっ』

 

 『写真に入り切らないから』そんな幼稚な言い訳を思い出し、私は苦笑いを浮かべた。そんな子供みたいな理由を口実にした写真の中の私は、彼の隣で、満面の笑みを浮かべて、上機嫌に写っていた。

 

 この写真は、私も自分の家に飾っている。私とハルが、同じ写真を写真立てに入れ、大切に飾っている。

 

「……」

 

 私と同じものを……彼と私が、一緒に写っている写真を、彼が大切にしてくれている……その事実が、どことなくうれしかった。

 

 たとえそれが、彼にとっては大切なみんなとも思い出の写真であって、決して、私との思い出の写真ではないとしても。

 

「……へへっ」

 

 

 あの日から数週間経過した今日は、ハルと球磨の結婚式の日だ。式といっても、大層な披露宴をやるわけじゃない。北上の喫茶店『ミア&リリー』で、かつての鎮守府のみんなが集まって、ささやかな手作りパーティーを開くだけだ。

 

「……」

 

 寝ぼけた頭をボリボリとかく。寝癖が中々に酷い。それが、私の重い腰をさらに重くした。

 

 意を決して布団から飛び起き、出発の準備をすすめることにする。冷蔵庫から牛乳を出し、紙パックからカップに注いで、居間のテーブルまで戻った。テーブルの上のバナナの皮を剥きながら、テレビのスイッチを押すと、タイミングよく天気予報のコーナーがやっている。

 

『今日の✕✕地方は、雲一つない晴天が一日中続きます』

 

 お天気お姉さんが、満面の笑みで私にそう伝えた。反射的に、まだ遮光カーテンが閉じたままの窓の方に顔を向けた。

 

「……」

 

 カーテンの隙間からは、眩しい太陽の光が差し込んでいる。皮を剥いたバナナを口に咥えながら、私は両手でカーテンを開いた。

 

「……うわぁ」

 

 窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。まるで、私の友達と、私の大切な人の新たな門出を、神様が祝福でもしているように、空はどこまでも青く、お日様はとてもあたたかい。

 

「よかったね。ハル。……いい天気で」

 

 そんな青空の気持ちよさは、起き抜けの私には、少し、眩しすぎた。

 



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2. 胸が、少し痛い

 北上の喫茶店に続く大通りを、私は今、必死に走っている。少し先に見える交差点の信号は、今は青だ。急げば、赤になる前に渡ることもできそうだ。

 

――姉さん 急いで下さい

 

 気のせいなのか何なのか、そんな神通の声が聞こえた気がした。言われなくても、こうやって今急いで走ってるって。

 

――主役じゃなくても、遅れたらダメだよっ!?

 

 那珂にも煽られた気がした。三人の中では私が一番年上のはずなのに……よりにもよって、那珂にそんなこと言われるだなんて、思ってなかった。

 

 大きな交差点に差し掛かる。ここを渡り、左に曲がってしばらく進めば、北上の店だ。私は走るスピードを上げた。横断歩道の青信号が、パカパカと点滅を始めた。

 

「ハッ……ハッ……間に合え……間に合え……ッ!!」

 

 あと数歩で横断歩道に差し掛かるその時、信号が赤になった。そのまま走り抜けることも考えたが……

 

「ハッ……ハッ……ハッ……」

 

 今の私には少し、気力が足りなかった。それに、靴もパンプスでは走り辛い。履きなれたスニーカーやデッキシューズなら、もうちょっと早く走れて、間に合っていたのかもしれないけれど。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 服もまずかった。普段はもっと動きやすいスポーティーなものを着ることが多いのに、今日は結婚パーティーということもあって、ワンピースのドレスを着ている。これでは動きづらいし、万が一転倒してしまったら、それこそ悲惨だ。

 

 ……無駄な努力をしてしまった自分の愚かさを、少し反省した。なんだか今日は、やることなすこと、うまくいかない……

 

……

…………

………………

 

 朝食のバナナを食べ終わった私は、そのまま結婚式へと向かうための準備を進めたのだが……思いの外、身だしなみを整えるのに手間取ってしまった。

 

 寝癖の酷い髪を整えようと、ブラシで髪を梳かしたのだが……寝癖が全く収まらない。根気強くブラシを何度も通したが、なんど梳かしても、びよんと小さな寝癖が持ち上がる……。

 

「……仕方ない。シャワー浴びるか」

 

 あまりに寝癖が収まらないため、頭だけシャンプーすることに決めた私は、浴室の蛇口をひねり、お湯を出した。

 

「ひゃっ!?」

 

 途端に、蛇口ではなく私の背後の壁面にぶら下げられたシャワーから、冷たい水が私の体に吹き付けられた。

 

「……もーっ」

 

 どうやら昨日の私は、シャワーを使い終わった後、蛇口の切り替えをシャワーから元に戻すことを忘れていたらしい。すぐに蛇口をひねって水を止めたが、おかげで今の私はずぶ濡れだ。まだお湯にすらなってない冷たい水だったから、体も少し冷えてきた。

 

「……なんか、バカみたいだ」

 

 髪から滴り落ちた冷たい水が、私の顔を少し濡らした。目尻を伝って目にも届いた水が、私の目尻を伝い、水浸しの浴室にぽたりと落ちた。

 

――姉さん

 

 ……うん。わかってるよ神通。早く準備しなきゃね。

 

――そうだよ とっても似合うキレイなワンピース、準備したんだからっ

 

 うん。今日のために精一杯悩んで買った、黄色がキレイなワンピースだもんね。着なきゃもったいないよね。あの人に会うんだから。少しでも、キレイな自分でいなきゃね。

 

 気持ちを持ち上げて、もう一度蛇口をひねってお湯を出す。今度は、出す前にキチンと蛇口に切り替えて。

 

 そうして頭を洗い寝癖を直した後は、キチンと髪を乾かした。こんな時だからお化粧もちゃんとしようかと、ファンデーションをポンポンと肌に乗せたところで……

 

――あまり塗っちゃダメだよ?

  川内ちゃんは肌がとっても綺麗なんだからっ

 

 と、那珂に言われた気がして、慌ててうっすらメイクに切り替える。さすが私の姉妹だ。私のことを、よく知っている。それに時間も押している。あまり悠長に準備している時間はない。

 

――姉さん こういう時は、いつもより慎重に持ち物確認を

 

 神通のそんな一言で、出る直前に携帯電話と財布を忘れている事に気づいた。慌ててそれらをバッグに入れ、私は改めて、姿見の前に立ち、自分の姿を確認する。

 

「……」

 

 いつもと違い、鮮やかな黄色のワンピース・ドレスを着た私が、鏡の向こう側にいた。腰に大きなグリーンのリボンを巻いたこのドレスは、以前にあの人に言われたアドバイスを活かしたものだ。

 

『川内はあれだな。赤がよく似合うけど、黄色も似合いそうだな』

『そお?』

『おう。赤が似合うやつは黒も似合うって言うけどな。お前の場合は赤と黄色……なんか明るい暖色系が似合いそうだ』

『……』

『次に服買うときにでも、黄色を合わせてみ。買ってみろとは言わんが、試着だけならタダだしな』

『うん……へへ……』

 

 あの日のそんなやり取りを思い出し、自然と口がほころんだ。彼にとっては他愛ないはずのやりとりでも、私の中では、宝石のようにキラキラと輝く思い出だ。

 

――姉さんっ

 

 ハッとする。想定外のシャワーの時間があったから、予定よりだいぶ時間が押している。このままでは結婚式に遅刻してしまう……。

 

「しまった……急がなきゃ……ッ!!」

 

 慌てて玄関まで走り、履きなれないパンプスを履いて、私は急いで目的地である、結婚式の会場、北上の喫茶店『ミア&リリー』へと駆けた。

 

………………

…………

……

 

 そうして今、青信号のうちに交差点を渡りきることが出来ず、私は今、横断歩道の前で、前かがみの姿勢で肩で息を切らしている。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 『これで遅刻確定だ』私の心の中で、私の声が、そうつぶやく。そして、そのことに、心の何処かでホッとしている自分に気がついた。

 

 左右の信号機の青が、パカパカと点滅しはじめた。

 

『先に進まなければならなくなる』

 

 言い知れない不安が私の胸を襲った。即座に首を振る。

 

 点滅していた信号が赤に変わった。前を向き、息を整える。

 

――行こっ

 

 うん。わかってるよ那珂。行こう。背筋を伸ばし、目の前の信号が青に変わるのを待つ。やがて交差点を行き交う車たちが動きを止め、しばらくの間のあと、目の前の信号が青に変わった。

 

「よしっ」

 

 意を決し、私は再び走り出した。

 

 

 腕時計を見ながら必死に駆け、北上の喫茶店『ミア&リリー』の前に到着した時、すでに約束の時間を30分ほど過ぎていた。これがフォーマルな場や作戦行動じゃなくてよかったと安堵し、私は入り口ドアの取っ手を握って勢い良くドアを開く。ハルの『バーバーちょもらんま鎮守府』と同じ音のベルが鳴り、店内に私の来訪と遅刻を知らせた。

 

「ごめーん! 遅れた〜!!」

 

 気まずさをごまかしたくて、わざとベルに負けない大声で、店内に自分の来訪を告げる。店内には、すでにあのときの懐かしい顔ぶれが……でもハルと球磨の姿はなく……揃っていた。皆それぞれにおめかししてて、みんなよく似合っている。

 

 北上はいつもの、あのときのセーラー服を着ているけれど、それが逆に懐かしい。加古は加古で、やっぱり以前のセーラー服を着ているが、窓際の席で寝転がっている。あの時と変わらない二人の姿は、私に少しだけ、安心をもたらしてくれた。

 

「はーい。川内も到着したから、やっと始められるねー」

「ごめん北上! お詫びに今度夜戦に付き合ってあげるから!!」

「んー……まぁ、それはいいや」

 

 手を合わせて詫びる私に北上は苦笑いを浮かべたあと、お店の奥へと消えていった。せっかく夜戦に付き合ってあげるってのに。……でも、戦わなくなった今、夜戦ってなにすればいいんだろう?

 

「遅刻よっ」

「ごめんごめん」

 

 黒のカクテルドレスにベージュのストールをまとったビス子が、ドアの前に立つ私の元に、コツコツと足音を響かせてやってきた。以前から着ている服が黒だっただけに黒のドレスがよく似合うし、何よりこういう格好をすると、気品が漂っている。さすが金髪碧眼。一人前のレディーは伊達じゃない。

 

 一方のもう一人の一人前のれでぃー暁は、提督に肩車をしてもらってはしゃいでいた。暁もいっちょまえにピンク色のカクテルドレスを着ていて……いや、ドレスに着られている。でもその様子が、逆に微笑ましくて可愛らしい。響の形見の白い帽子は、今日もしっかりかぶられていた。確かにちょっと浮いているけれど、あれがないと逆に暁じゃないもんね。その姿には、妙な安心感がある。

 

 提督は提督で、鎮守府にいたときの白い上下のスーツを着ていた。気のせいか、あの頃よりもさらに輪をかけて顔つきが優しい。戦いを離れて隼鷹と暮らし始めて、戦闘のことを気にかける必要がなくなったからだろうか。

 

「きゃー! しれいかーん!!」

「もうちょっと上に手を伸ばしてみろ! 天井に手が届くんじゃないか?」

「ほんとだー!」

「さすが一人前のれでぃーだなー!」

「やったー!!」

 

 そんな風に肩車ではしゃく二人を見ながら、私は本当に戦争は終わったんだなぁと実感した。フと気になって、隼鷹の様子を伺ってみた。

 

「……」

 

 まるで本当の親子のようにはしゃぐ提督と暁を、隼鷹は優しい微笑みを浮かべながら眺めていた。提督もそうだが、隼鷹もあの頃に比べ、少し表情が柔らかくなった気がする。キャッキャキャッキャと騒ぐ二人を見て、自分と提督の将来を想像しているのかもしれない。

 

――私は、ああはなれない……

 

 フと、胸にチクッとした痛みが走る。気のせいだ、そんな痛みなどないと自分に言い聞かせ、私は提督と暁を視界から外した。

 

「……」

「……」

「……あ」

「ん?」

 

 隼鷹と目があった。隼鷹はいつの間にか、私の方を見ていたみたい。目があった途端、隼鷹は照れくさそうに『タハハ……』と苦笑いを浮かべた。二人の親子を微笑ましく眺めていた自分が照れくさくなったのか?

 

 そんな隼鷹は、今日は明るいピンク寄りの紫色に輝く、キラキラと眩しいカクテルドレスを着ていた。以前に提督から、『隼鷹から星がこぼれる音が聞こえた』から、結婚を決意したと聞いたことがある。あんなにキラキラと輝いていたら、たしかにそんな音が聞こえてもおかしくはない。

 

『そろそろいいよー』

『あいよー』

『うう……恥ずかしいクマ……』

 

 そんな声が店の奥から聞こえ、私の胸がドキンとした。

 

『だーいじょうぶだってー。球磨姉ホントに似合っててキレイだからー』

『は、張り倒すクマ……』

『だってさハル兄さん。ご愁傷様』

『なぜ俺に振る?』

 

 嫌な緊張が胸に走る。心臓が、バクバクと嫌な鼓動をし始めた。何処かで『いやだ』『見せないで』と悲鳴を上げる私の心の声に、私は気付かないふりをした。

 

『うう……やっぱり行くクマ?』

『主役はお前だろうが……』

『ハルだけ行くのはダメクマ?』

 

 そんな、微笑ましい……でも聞きたくない……会話が聞こえ、店の奥からコツコツと足音が響き始める。最初に姿を現したのは、北上。

 

「それじゃみなさん。テーブルのカゴの中にあるクラッカーを一人ひとつずつ、準備してね~」

 

 言われるままに、私たちはテーブルの上を見た。白木で編まれたカゴの中に、クラッカーがいくつか入っている。私は心境の変化を周囲にさとられないよう気をつけながら、手を伸ばし、クラッカーを一つ取った。

 

「よっ……」

「……」

 

 隼鷹が、ずっと私のことを見ていたのがちょっと気になった。気のせいだとは思うけど……

 

 手の中の小さなクラッカーをじっと見つめる。北上が『二人が入ってきたら鳴らしてあげてね』といい、店の奥に『いいよー』と声をかけた。

 

――出てこないで

 

 この喫茶店『ミア&リリー』は、床が木製で、歩くたびにコツコツといい音がなる。そんな厳かな足音が店の奥から二人分、聞こえてきた。一つは少し音が軽い。球磨はハイヒールでも履いてるのかな……と気を紛らわしていたら。

 

「タッハッハッ……」

 

 こんなホームパーティーに似つかわしくない、黒のタキシードに身を包んだハルが出てきた。

 

「ハハ……やっぱりちょっと照れくさいな……」

 

 顔をちょっと紅潮させ、照れくさそうに苦笑いを浮かべるハル。暁が『ハルかっこいい! やっぱりハルも一人前のれでぃー!!』と歓声を上げ、みんなの笑いを誘った。

 

 さっきの胸の不快感が一瞬で消え去り、私の目は、ハルに釘付けになった。

 

 ハルは、同年代の男性に比べて、背が高く、体型も少し細い。そんなハルが着ているのは、タイトな黒のタキシード。少し着崩しているが、それが逆にハルらしくてよく似合っている。

 

「いいじゃん! ハル似合ってるよ!」

「ありがとなー隼鷹! お前に服装褒められるとすんげーうれしい!」

 

 そんな隼鷹とハルのやりとりすら耳に届かない。ただ、私にわかるのは、ハルが本当に嬉しそうに笑っていることだけだ。笑顔のハルは、本当に、キラキラと輝いて見えた。

 

――だめ

 

 私の胸は意に反して、少しずつ、心地よくドキドキし始めていた。

 

「はーい。つづいて今日の主役の登場だよー」

「俺も主役じゃないんかいっ」

「さっき自分で『主役は球磨姉』って言ってたじゃん」

「確かに……」

 

 ハッとする。北上が再び店の奥に消え、『早く出てきなよー』と声をかけていた。その後、コツコツと軽い足音とともに店の奥から姿を見せたのは、私の友達のはずなのに、まるで別人みたいに見慣れない、球磨型軽巡洋艦の一番艦。

 

「うう……」

「うわぁあああ〜!! 球磨きれい〜!!」

「ほんとよく似合ってるわ! 馬子にも衣装ってこのことかしら?」

「そら褒め言葉じゃないよビス子……」

 

 ベールこそつけてないが、純白のドレスに身を包んだ球磨が、アホ毛と口を恥ずかしそうにムニムニと動かし、真っ赤な顔で私たちの前に姿を表した。両手でスカートを掴んで持ち上げているから、ロングスカートが歩き辛いのかも。でも、そんな仕草が不思議とよく似合う。

 

「いや、ホントあの頃とは全然違うな!」

「う……て、提督は今度張り倒すクマっ」

「おれだけの淑女の次ぐらいにキレイだぞ球磨!!」

「アンタ、あたしが明日張り倒す」

 

 相変わらずの提督と隼鷹はさておいて……

 

「く、クマ……」

「なんだよみんなに挨拶しろよ」

「うう……」

 

 クマがハルのすぐそばに逃げるようにやってきて、ハルの袖をちょいっとつまむ。その後ぐいっと引っ張って自分の元に引き寄せた後、

 

「……っ」

「? どうした?」

「は、恥ずかしいクマ……」

 

 真っ赤な顔でそう言った後、私たちから顔を背け、ハルの胸に顔を押し付けていた。ハルの腰に手を回し、結構な力でハルにしがみついているのが、見ている私にも伝わってきた。

 

「あ、あの球磨が甘えてるわ……!?」

「か、可愛い……」

 

 初めて見る球磨がハルに甘えている姿に、私はもちろん、みんなも驚愕の表情で浮かべる。

 

 鎮守府にいた頃は、球磨はどちらかというと男の子っぽい子だった。いつもハーフパンツ履いてたし、事あるごとにハルに肉体言語系の激しいツッコミを入れていたし。あの頃の二人は、恋人同士や思い合っている二人というよりは、腐れ縁の幼馴染という雰囲気が強かった。

 

 だけど。

 

「なんだよ。いつもみたいに傍若無人に振る舞えよ妖怪アホ毛女なんだから」

「だ、黙れクマっ」

「みんなの前で甘えられると俺まで恥ずかしい」

「こ……今晩、張り倒す……クマっ」

「はいはい……」

 

 こんな風に甘える球磨と、球磨だけに優しい笑顔を向けるハルを見て、二人は、本当の意味で、結ばれていたんだなぁと実感した。

 

――チクッ

 

 二人を祝福したい気持ちとは裏腹に、私の胸に、小さなまち針が刺さっていた。その痛みはとても小さいけれど、いつまでもいつまでも、チクチクと疼き続けた。

 

 だからか、そんな私を隼鷹がジッと見つめていたことに、気が付かなかった。

 

 不意に鳴った、『パン』という軽い破裂音にハッとする私。主砲の音ととても良く似ているけれど、あの時よりも耳に心地よくて、クセのある火薬の匂いが鼻についた。

 

「ふたりとも、おめでと」

 

 いつの間にか起きていた加古が、笑顔でクラッカーを握っていた。加古の頭に、色とりどりのテープが乗っかっている。クラッカーから飛び出した紙テープが、加古の頭にかかったみたいだ。

 

「……ははっ」

「そうね」

「そうよね」

 

 そしてみんなの『おめでとー!!』の大合唱とともに、クラッカーが火薬の匂いを周囲に振りまきながら、パンパンと次々に鳴らされた。

 

「ありがとう! みんなありがとう!!」

「ありがとクマ……みんな、ありがと……クマっ」

 

 満面の笑みの二人に降りかかる、たくさんの紙テープ。以前は戦場の空気でしかなかった火薬の匂いが、今は幸せの香りとして、ハルと球磨を包んでいる。

 

「おめでと! ふたりともおめでとう!!」

 

 私もクラッカーを鳴らす。二人ともおめでとう。私は心からそう思い、二人の幸せを祝福した。

 

『ねーハルー!?』

『なんだよ妖怪夜戦女!?』

『いつになったら私とさー。夜戦してくれるの?』

『そんな日は永遠に来ないと断言してやるっ』

『じゃさじゃさ! 二人の結婚式の時に夜戦を……』

『二人って、誰とだよ?』

『ハルと……球磨の』

『それこそ永遠にないわッ』

 

――冗談でも、私は信じてたよ

 

 記憶の中に鮮明に残る、あの日の言葉を信じて待ち続けた私の心の声には、気づかないふりをして。

 

「ありがとな川内!」

「んーん。本当におめでとうハル!!」

 

 そう言って笑うハルを、私は見つめ返す。二人が纏うのは、今となっては懐かしい、火薬の香り。

 

 そんな、二人にとっての幸せの香りは、私には少し、きつかった。

 

 



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3. 気持ちは、伝えられない

 ひとしきりクラッカーを鳴らしたその後は、いつものみんなの、いつもどおりのどんちゃん騒ぎとなった。

 

「んー……やば……」

「ん? 加古?」

「クラッカーの音……心地よく……て……ねむ……クカー」

 

 私の席の隣に陣取っていた加古は、クラッカーがひとしきりパンパンと鳴り響いたところで、いつものように眠気に襲われ、窓際の席に移動して眠りこけた。あのパンパンうるさいクラッカーの音で眠くなるってどういうこと……? 私の知る限り、その日加古がもう一度目覚めることはなかった。

 

 そんな加古はほっといて……みんなの先陣を切ったのは、ビス子と暁の一人前のれでぃーコンビ。ハルと球磨に歌をプレゼントするつもりだそうな。いつの間にか持ってきていたスピーカー付きのプレイヤーから、軽快なピアノの伴奏が流れてきた。

 

「私と暁がこれから二人にプレゼントする歌は、私の祖国ドイツの民謡なのよっ!!」

「へぇえ〜!! それはすごい!!」

「ビス子と一緒に一生懸命練習したんだから!!」

「そらドイツの歌なんて難しかっただろー」

「では心して聞くがいいわハル! そして球磨!!」

「いくわよビス子!」

「よくってよ暁っ!」

「「タイトル、『小鳥の結婚式』っ!!」」

「ビス子はまだしも、暁がドイツ語の歌を歌うのか……ドキドキ」

「ワクワクするクマ……!!」

「「わっかっばっのっ もりかっげっに あつまっるっよっ ことりったーちー」」

「「「「「!?」」」」」

 

 最初は『ドイツ語で歌うのか!? ビス子はいざしらず、暁がドイツ語を!?』と皆が驚嘆したが、蓋を開けてみればどってことない。日本語の歌詞だった。

 

 でも、小鳥が結婚式をあげるという歌詞や軽快な旋律、そしてなにより、どこかたどたどしく、そして一生懸命な二人の歌い方は、とてもかわいらしくて、今日の結婚式にぴったりだ。

 

 あとでビス子にこっそり聞いたのだが、暁は本当はドイツ語で歌いたかったのだとか。……でもまぁ、暁はもちろん、ビス子もドイツ語よりは日本語のほうが慣れ親しんでるだろうしね。日本語で正解だと思うよ。ビス子も日本語の方が歌いやすいはずだし。

 

「だから私はどいっちゅだって何回言わせるのよっ!?」

 

 

 暁とビス子の可愛らしい歌の後、提督の手によってハルと球磨の前に持ってこられたのは、横幅30センチ程度の四角のウェディングケーキ。ケーキの真ん中には、マジパンペーストで作られた、ハルと球磨のフィギュアが乗っている。

 

「うわー! きれーい! すごーい!!」

「あんた、こんなのいつの間に作ってたの?」

「くっくっくっ……マイスイートハニーのお前に悟られないように、深夜に作ってたんだよ」

 

 『いや別にバレてもいいじゃん』『しかしッ!?』と夫婦げんかをはじめた提督と隼鷹を尻目に、『二人の初めての共同作業』とでも言いたげな北上が、球磨にナイフを渡した。ハルと球磨は二人でケーキを切り分け、そのケーキは私たちに配られる。

 

「ハルは自分を鼻から食べるクマっ」

「よ、よせッ!?」

「ハルは球磨からの愛のこもったプレゼントを、きっと鼻から食べてくれると信じているクマッ」

「愛がこもったものを鼻から食わせようとするなッ!!」

 

 きっと甘えてるんだろうな……球磨はハルの形をしたマジパンペーストの人形をハルの鼻に突っ込もうと奮闘し、ハルはそんな球磨から自分の鼻を防いでいるが、顔はどことなく嬉しそうだ。昔からそんな気がしてたが、ハルはどえむの気質があるようだ。

 

「ねーねーハル」

「んあ!? なんだ川内!?」

「前から気になってたけどさ。ハルって、どえむなの?」

「なぜ!?」

「ふっふっふーっ。川内っ、よくぞ見抜いたクマっ」

「既成事実化するのはやめろッ!」

 

 気付くよ。だって……

 

――私もずっと見てたんだよ?

 

 ……危なかった。喉まで出かかった。そんな自分をごまかすために、配られたケーキにフォークを突き刺し、そしてケーキを口に運ぶ。

 

「……おいしい」

 

 久々に食べる提督のケーキは、とても甘い。……とても、甘い。

 

 

 みんなでケーキを食べ終わった後、北上が一度店の奥へと姿を消した。私達が不思議に思っていたら、次にこっちに戻ってきた北上の手には、2つの赤い小箱が握られていた。

 

「はーいみなさまみなさま。しずまれい。しずまれーい」

「なんか水戸黄門みたいだな」

「ハル兄さんひどっ。……それはまぁ置いといてさ。これからがメインエベントだよー」

「いっちょ前に発音をネイティブに似せなくてもいいクマ」

「夫婦そろって妹の私にちょっとひどくない?」

 

 軽口を叩きながら、北上が手に持つ小箱を二人に渡す。ケースを開くと、中にはおそろいのプラチナ色に輝く指輪が1つずつ、入っている。

 

「北上」

「んー?」

「これ……北上が準備してくれたクマ?」

「うん。師匠に教わってね。私が作った」

「……ありがと、北上」

「んーん。球磨姉とハル兄さんのためだからさ。北上さん、がんばっちゃったよ」

 

 お礼は私の時に返して……と北上は言っていた。ひょっとしたら、北上にもいい人がいるのかもしれない。ハルも『任せろ。あいつは俺が超絶イケメンにしてやる』て答えてたし、球磨姉も『その時は任せるクマ』って言ってたし。

 

 二人は指輪をケースから出し、そして互いの左手を取った。

 

――やめて……

 

 見つめ合う二人の眼差しは、本当に優しい。皆の注目が指輪に集まる。

 

「早く! 早く通すのよ二人共!!」

「じゃないと一人前のれでぃーになれないわよっ!」

「くかー……」

 

 みんなが煽り始める。

 

――通さないでハル

 

「そうだー! そしてそのあとは私とやせー……」

 

 私も煽る。心とは裏腹に。気を抜くと消え入りそうな声を、精一杯に振り絞って。

 

「いいぞ! マイスイートハニーの次ぐらいにキレイだ二人共!!」

「……」

 

 提督も二人を煽る。隼鷹は……私をジッと見ていた。笑顔の消えた、ちょっとだけ険しい顔で。

 

「……んじゃ、通すぞ」

「く、クマ……」

 

――お願い やめて

 

 皆が笑顔で見守る中、球磨の薬指に今、指輪が通された。途端にキラキラと指輪が輝きだし、球磨はハルだけの(ひと)になった。続いて……

 

「ん、じ、じゃあ、球磨も通す……クマ……」

「おう」

 

 続いて球磨が、ハルの左手の薬指に指輪を通そうと、ハルの左手を取った。

 

『ハルと……球磨の』

『それこそ永遠にないわッ』

 

――信じたんだよ? 本気にしたんだよ?

 

 私の本心とは裏腹に、球磨が手に持つ指輪は、ハルの左手の薬指に……

 

「なんか……照れるな」

「く、くまぁっ」

 

 静かに、ゆっくりと、

 

――やめて……好きなのに……

 

 今、通された。

 

「……」

「……ははっ」

 

 ハルは今、私の、手の届かない人になった。ハルは、球磨だけの(ひと)になった。

 

「おめでとう!!」

「ついに二人はふうふー!」

「二人とも一人前のれでぃー!!」

「暁、ハルは男よ?」

「!? と、ということは、そこに気づいたビス子は……」

「一人前のれでぃーね……フッ」

 

 皆口々に、ハルと球磨に惜しみない祝福を送った。

 

「……」

 

 私は、『おめでとう』と口に出すことができなかった。精一杯笑顔を浮かべるが、なんだかそれも難しい……笑おうとしても、顔が自然と歪んでくる。

 

 急いで席を立ち、二人を優しいまなざしで見守る北上に、私は耳打ちをする。

 

「あのさ北上」

「んー?」

「ちょっとトイレ行ってくるね」

「んー」

 

 北上の返事も聞かず、私は自分の席に置いてあるバッグを持って、足早にトイレへと向かった。

 

「川内? どうした?」

「んー。ちょっとお手洗いに」

「そっか」

 

 幸せの絶頂なのに私の様子に気づいたハルには、今の顔を見せないよう、気をつけながら。

 

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 北上の店のトイレは、個人のお店にしては、ちょっと広めに作られている。トイレに入った私は洗面台に直行し、蛇口を盛大にひねって、水を大量に出した。

 

 一度うつむき、そして改めて前を向く。目の前の鏡には、目を真っ赤にした、なんだか顔色が優れない、しょぼくれた女が写っていた。

 

――川内? どうした?

 

 泣くな。今日は、私が大好きな人が、幸せになった日なんだ。泣いちゃいけない。私が泣けば、その人に余計な心配をかける。泣くな。涙を流すな。

 

「うう……ひぐっ……」

 

 再びうつむく。蛇口から勢い良く流れ出る流水に、一滴、水しぶきが落ちた気がする。

 

――姉さん……

 

 ……分かってるよ神通。認めちゃいけない。これは、涙なんかじゃない。水道から飛んだ水しぶきが、私の目に入って、それが流れたものなんだ。私は、泣いてない。

 

――川内ちゃん……負けないで

 

 大丈夫だよ那珂。私は頑張れる。あの人の幸せだと思えば、こんな胸の痛み、どうってこと無い。……大丈夫だよ。大丈夫。

 

 不意に、ガチャリとドアが開き、私の胸に嫌な緊張が走った。ハッとして、入り口を見る。

 

「ぁあ、川内」

「……隼鷹」

 

 ドアの前にいたのは、さっきまでみんなと一緒に二人を祝福していた隼鷹だ。私の顔を見て、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、その顔はすぐに、いつもの飄々とした笑顔へと戻る。

 

「……どうしたの?」

 

 何か話さなきゃと思い、私はマヌケな質問を口走ってしまった。トイレに来る理由って、一つしかないのに。

 

「……いや、トイレに入ろうと思って」

「そっか……うん。まぁ、そうだよね」

「うん」

 

 当たり前の返答を返す隼鷹は、そのまま何も言わず、トイレの個室へと消えていく。バタリとドアが閉じた。

 

 私は蛇口を閉めて水道を止めた後、未だ水しぶきで濡れた目尻をハンカチで拭き、出入り口の取っ手に手をかけた。

 

「なー川内」

「んー?」

 

 その途端、隼鷹の声がトイレに響く。再び私の胸に緊張が走り、心臓を不快感が襲った。胸のあたりに、バクバクと嫌な感触が走る。

 

――お願い 気付かないで

 

「……なに?」

「化粧は大丈夫か? 崩れてない?」

「うん。今日はほとんどしてないから」

「そっか……顔に水かかってたけど、ちゃんと拭いた?」

「うん」

「そっか。ならいい」

 

 その後は隼鷹は何も言わない。私は念のため洗面台に戻り、鏡でもう一度自分の顔を確認した。

 

――ひどい顔だ……

 

 無理をして、ニッと笑う。幾分顔色がましになった。これなら、ハルの前に出ても大丈夫だ。私は再びドアに手をかけ、トイレを後にした。

 

 

 胸に妙な緊張を抱えたまま、私はトイレから店内に戻った。足取りが少々重いが、頑張って戻るしかない。

 

「んじゃー次は球磨の番ね!」

「く、球磨はいいクマっ」

「何言ってんのさ。ハル兄さんも胴上げされたし、球磨姉もされときなよ」

「そうよ! じゃないと一人前のレディーには……っ!」

「そう……だー……クカー……」

「加古……胴上げしながら寝るのはよせ……」

 

 私が店内に戻ると、タキシードがさっき以上に乱れたハルが、自分の髪の毛を整えながら立っていた。他のみんなは嫌がる球磨を抱え上げ、みんなで胴上げをしはじめていた。

 

「そーら! 球磨、おめでとー!!」

「ゔぉぉおおお!?」

 

 球磨の野太い悲鳴が店内に鳴り響く。ハルはそんな様子を、苦笑いを浮かべながら眺めていた。

 

「ハル」

 

 少しだけ軽くなった胸にホッとし、私はハルの隣に移動した。

 

「おー川内」

「胴上げしてるの?」

「ああ。さっきは俺がされてな。突然でびっくりした」

 

 自分の髪の乱れを整えながら、ハルは苦笑いを浮かべていた。私に向けられるハルの眼差しは、あの頃と変わらない。優しい……とても優しい、眼差しだ。

 

 でもその後、胴上げされ、戸惑いながらも嬉しそうに悲鳴を上げる球磨に向けられるハルの眼差しは、それとはちょっと違う。私に向ける眼差しに比べて、柔らかく、そして暖かい。

 

「……なー川内」

「……んー?」

「来てくれて、ありがとうな」

 

――私を見て こっちを向いて

 

 ハルが、胴上げされている球磨を眺めながら、私に感謝を告げる。彼が今、球磨に向けている眼差しは、私にはもう、永遠に向けられることはない。

 

「突然どうしたの?」

「いや、みんなに礼は言うつもりだったんだけどな……お前が第一号だ」

「そっか」

「おう」

 

 ハルが私に顔を向けた。……確かに笑ってはいるけれど、その顔は、いつもの笑顔で……球磨に向ける眼差しとは、違う眼差しで……今まで平気だったのに、今だけは、その眼差しを向けられるのが辛い。私はハルから顔を背け、球磨の方を見た。

 

「お前らとも知り合えたし、アイツとも出会えた……俺は幸せだ」

「そっか」

「だからそういう意味でも、俺はお前たちに感謝してる」

 

――いらない 感謝なんか、聞きたくない

 

「……だから、ありがと。ほんとに」

「……んーん」

「お前も早く、幸せに……」

 

――いやだ

 

 ……やめてハル。それ以上はやめて。ハルの口から、そんな言葉は聞きたくないし、言われたくない。

 

――チクチクッ

 

「……」

「……川内?」

 

 私の手が、私の意識から離れた。私の心が押さえつけていられないほど、私の体が、ハルを欲しているらしい。知らないうちに私の手が、ハルのタキシードの袖を、ほんの少し、つまんでいた。

 

「……」

「どうした?」

 

――姉さん!

 

 神通の声が聞こえた気がした。私も手を離したいが、体が言うことを聞かない。ほんの少しだけつまんでいたはずなのに、今は、力を込めて、ギュッと袖を鷲掴みしている。

 

 ハルが困ったように、眉を八の字にして、眉間にしわを寄せているのがわかる。わかっているけれど……

 

「……ハル」

「ん?」

 

――ダメだよ川内ちゃん!

 

 ……ごめん那珂。体が言うこと聞かない。口が勝手に言葉を並べようとする。これを私が言ってしまえば、ハルを困らせてしまう……それがわかっているから、私は必死に口を閉じようとするけれど、私の口が言うことを聞かない。

 

「あのさ……」

「おう」

「あの……私……ハル……が、す「ハルごめーん!!」

 

 寸前のとこで、私の両肩にずしりとした重みが加わったことを感じた。私の口がハッとして、言葉を紡ぐのをやめる。手もそれに合わせて、ハルの袖から手をパッと離した。

 

「おー隼鷹もおかえり」

 

 慌てて振り返り、私の両肩にのしかかったものの正体を確認した。私に寄りかかっていたのは、さっきトイレですれ違った隼鷹だ。

 

「じ、隼鷹……」

「ごめんって、何だよ」

「あのさ。言ってなかったけど、あたしと川内、これからちょっと用事があって出なきゃいけないんだ」

「えらく急だなぁ。お前が浴びるように飲んでもいいように、二次会用に樽酒を準備しといてやったのに?」

「うん」

 

 ハルは少々困惑していた。きっと隼鷹からは何も聞いてなかったに違いない。きっとそうだ。私自身、このあと予定があるなんて初耳だし。

 

 隼鷹はハルに対し、『タッハッハッ……彼はこのことは知ってるから。ごめんね』と言いながら、私の手をギュッと握っていた。いつもの隼鷹に比べ、手の力が、とても強い。

 

 その手が告げる。

 

――出ろ

 

 怒気のこもった声を聞いたわけでも、憤怒の形相を見たわけでもない。だけど、隼鷹の手の力の強さは、私に有無を言わさない迫力を感じた。隼鷹の怒りのような感情を、私は手の平を通して、感じていた。

 

 だから私は、それ以上、口を開くことができなくなった。そんな私の様子をハルは心配そうに見つめるが、私は何も言うことが出来ない。ただ伏し目がちに、ハルと隼鷹の顔を交互に伺うことしか出来ない。

 

「……そっか。まぁしゃーない。んじゃ樽酒は次の機会にするか」

 

 ふうとため息をついたあと、ハルはそう言って腰に手を当てた。

 

「ありがと。じゃああたしたち、もう行くから」

「あいよ。提督さんには何も言わなくていいのか?」

「大丈夫。彼にはもう出るって言ってあるから」

「そっか」

「うん」

 

 私が口を挟まないのをいいことに、ハルと隼鷹が勝手に話を進めていく。ひとしきり話がついたところで、私は隼鷹に手を引っ張られ、店内から引きずり出される形で、ミア&リリーを後にすることになった。他のみんなはまだ球磨を胴上げしている。私たちの様子に気がついてない。

 

「んじゃまたな! 樽酒を飲む時は川内も来いよ!!」

「……」

「ありがと! んじゃまた今度!!」

 

 笑顔で手を振るハルと、それに笑顔で応える隼鷹。私はただ引きずられながら、そんな二人を見守ることしかできなかったのだが……

 

『あんたもほら、ハルに挨拶』

 

 幾分憤りが感じられるような声で隼鷹にそう耳打ちされ、私は慌ててハルに声をかけた。

 

「……は、ハル!」

「おう!」

 

 私の呼びかけに、ハルは笑顔で応えてくれた。

 

「結婚おめでとう! 末永くお幸せに……!!」

 

 口をついて出たのは、今の私の胸に一番痛い……一番、聞きたくない言葉。

 

「ありがとう! 川内も、ありがとう!!」

 

 そんな、一番言いたくなかった言葉を聞いたハルは、今日一番嬉しそうな顔を私に見せた。

 

 そんな彼の笑顔が、私には一番つらかった。 

 



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4. 役不足

 隼鷹に強引に外に連れ出された私だったが、隼鷹に手を引っ張られながらしばらく歩き続けることで、次第に頭も冷静になってきた。

 

「ちょっと待って! 離してって!! 隼鷹ッ!!」

 

 有無を言わさない迫力のまま、隼鷹は私の右手……いや、右手首を掴み、町中をスタスタと歩く。振りほどこうとしても、隼鷹の力はとても強い。おかげで私は、ほとんど引きずられるように、隼鷹の背中を追って歩くことしか出来ない。

 

「……」

 

 私の精一杯の抵抗を受け流し続ける隼鷹の背中は、戦争の頃ほどではないにしても、妙に大きく、迫力がある。決して言葉には出さないし、隼鷹はこちらを見ないから表情も見えない。だけど、この大きな背中から伝わるのは、怒りだ。

 

「離してって! 歩けるから! 一人でも歩けるから!!」

「……」

「離してよッ!!」

 

 渾身の力を振り絞り、私は隼鷹の手を振り払った。こちらを振り返る隼鷹は、肩で息をしている。背中しか見てなかったからわからなかったが、隼鷹は息を少し乱していた。

 

 そして意外にも、隼鷹の顔は、別に怒ってなどいなかった。ただ、冷たい目で、私のことを見下ろしていた。

 

 私が足を止め、そして隼鷹も立ち止まる。

 

「何!? 何なの!?」

「……」

「用事って何!? 私、聞いてない!」

「……」

 

 まくしたてる。いきなり『用事があるから』と言われ、外に出された。呆気にとられてなすがままの私だったが、ここまで連れてこられれば、頭もクリアになってくる。頭がいつもの回転を取り戻した私は、そのイライラを隼鷹にすべてぶつけた。

 

「……あんた」

「なに!?」

 

 頭に血が上った私に対し、隼鷹が冷酷な問いかけをかける。それは、私の頭を冷静にさせるには、充分な一言だった。

 

「あたしが割って入らなかったら、何を言うつもりだった?」

「……へ」

 

 ……訂正する。私の頭が冷静になるだけでなく、私の全身から、血の気が引いた。

 

「なにって……」

「何言うつもりだった? あたしが店から連れ出さなかったら、ハルに何を言うつもりだった?」

「私は……」

 

 そんなの分からない。あの時は、私は何も言うつもりはなかったし、ハルの袖を掴むつもりは毛頭なかった。だけど、私の手が、私の口が、私を無視して、勝手に……

 

 ……いや、それは嘘だ。私はあの時、ハルにこう言おうとした。

 

――私は、ハルが好き

 

 確かにあの時、私の口は私の制御を離れていた。でも、あの言葉を口走ってしまうその瞬間、私はあえて、その口を閉じようとするのをやめていた。

 

 その言葉を吐いてしまえば、ハルを困らせてしまうことは百も承知だった。今日は、球磨とハルの結婚式。それなのに、私は、そのハルに、私の気持ちを知って欲しいと思ってしまっていた。

 

 だから私の手は、自然とハルの袖を掴んでいた。だから私の口は、私の本心を言葉にしようとした。それがたとえ、あの二人……ハルを困らせることになろうとも。

 

 思えば、結婚式の連絡をもらったその時から、私はハルに告白しようと思っていたのかもしれない。今着ているこの服にしても、ハルの『お前には黄色が似合う』というアドバイスを受け入れて、少しでも、ハルの記憶に私の姿が残るように……少しでも、ハルに『綺麗だ』て思ってもらえるように、この服を選んでいた。

 

 ……それはきっと、心の何処かで、『ハルを手に入れたい』と思っていたからだ。球磨がいつも隣にいるんじゃなくて、私が彼の隣にいたい……そう、思っていたからだ。私自身も気付かない、心の奥の本当の奥で。

 

 でも、隼鷹にはそれがバレていた。思えば隼鷹は、今日の結婚式の間、ずっと私を見ていた。暁と提督がはしゃいでいるときも、気がついたら私の方を見ていた。目が合う回数も多かったし、何より、トイレですれ違ったとき……

 

――顔に水かかってたけど、ちゃんと拭いた?

 

 そう言って、私を気遣ってくれた。隼鷹は、私のことをずっと見守ってくれていたんだ。私がもし変なことをしようとしたら、私を止めようとして、私のことをずっと見てくれてたんだ。

 

「隼鷹……あの……」

「……ん?」

「ごめん……私、ハルたちの幸せ、ぶち壊そうとしてた……」

「……」

 

 口に出してはじめてわかる、自分がやろうとしていたことの重大さ。確かに私はハルのことが好きだけど、もしあの場で言ってしまっていたら……ハルが好きだと言ってしまっていたら、私は、ハルを困らせていた。ハルの幸せを、壊してしまっていたかもしれない……。

 

「……ふぅっ」

 

 伏し目がちに隼鷹を見ているから、隼鷹が今、どんな顔で私を見ているのかはわからないが……隼鷹は、腰に手を当て、ため息をついた。意外にもその様子は、怒っているという風ではない。

 

 再び、私の右手首が、隼鷹に掴まれた。

 

「ぇあ……」

「行くよ」

「どこへ?」

「……」

 

 再び、私の手を取った隼鷹は、私に行き先を告げずに歩きだす。さっきよりも幾分落ち着いた足取りで……だけど、スタスタと勢い良く歩くスピードは変わらず。

 

「どこいくの?」

「……」

「ねえ隼鷹?」

「黙って歩きな」

 

 怒りは感じない。でも、有無を言わさない迫力はそのままだ。それっきり私の言葉に、隼鷹は返事をしなくなった。

 

「……」

 

 私も口をつぐみ、ただ静かに、隼鷹に引きずられるように、隼鷹の後をついていった。

 

 二人で無言で、十数分歩く。その間、いつの間にか隼鷹は私の手首から手を離し、代わりに私の手を握ってくれていた。さっきみたいに力をこめてギュッと握られているわけではないが、『絶対に離さない』という隼鷹の意思だけは、手から伝わってくる。

 

「……」

「……」

 

 そうして私たちが到着したのは、隼鷹と提督のお店、喫茶店の『きっさ・ちょもらんま』。戦争が終わった後、隼鷹と提督は、以前からの二人の夢だった喫茶店を立ち上げた。店の名前は、本人たちいわく『行きつけの床屋からとった』らしい。隼鷹のコーヒーと提督お手製のケーキが評判がいいと、以前に耳にしたことがある。

 

 隼鷹がそんな『きっさ・ちょもらんま』の入り口を開いた。カランカランとベルが鳴り、店内の空気が流れ出てくる。

 

「入って」

「……」

「早く」

「……うん」

 

 言われるままに、店内へと入った。名前の先入観があるからかもしれないが、店内のちょっと雑多で懐かしい感じは、私が知ってる、二人の行きつけの床屋の雰囲気に似ている気がした。小さな本棚に、北上がよく読んでいた漫画が並んでいるからかもしれない。

 

 初めて入る店内の様子を眺めていたら、隼鷹が入り口のドアを閉じ、鍵をかける。パチリという鍵の音が心地よい。照明が点灯し、店内のそこかしこにある間接照明の柔らかい光で、店内がほんのりと照らされた。

 

「あのさ隼鷹」

「……」

「なんで私をお店に連れてきたの?」

 

 照明のスイッチから私の元へと歩いてきた隼鷹が、私の前に立つ。私は確かに、二人の幸せを壊そうとした。だから、結婚式の会場から連れ出されたのは理解出来る。でも、ここまで連れてこられた意味がわからない。私は、一体何のためにここに連れてこられたのだろう。説教をするため?

 

「……川内」

「ん?」

 

 隼鷹への疑問で頭がいっぱいになり始めた時、隼鷹が私の前まで歩いてきた。長い髪がふんわりと動き、そして一歩進むたび、キラキラと輝いた気がした。私がそんな隼鷹の髪に見とれていたら。

 

「……え」

 

 隼鷹の右手が、私の頭にぽんと乗せられた。その後隼鷹は、私の頭をくちゃくちゃにするように、ちょっと乱暴に、私の頭をなでてくれた。

 

「ちょ……隼鷹……」

「キレイな髪だね」

「?」

「サラッサラでキレイな黒髪だ。つやつやで痛みもないし、ちゃんと丁寧にトリートメントしてる。ほんのりいい香りがするから、ちゃんと朝にシャワー浴びて、整えてきたんだね」

「……」

「そのドレスもよく似合ってる。まさかあんたに黄色が似合うなんて思ってなかった。すごくキレイだ。可愛いよ川内」

「……ありがと」

「このセンスは……ハルかな? 普通だったら、川内は赤が似合うからそれをすすめるけれど……鉄板からは外してくるけど絶妙なこのセンスは、ハルかな?」

 

 そう……ハルが私に、黄色が似合うって言ってくれたから……

 

「そっかー……あんたは、今日の自分を、ハルに見てほしかったんだね」

「うん……」

「ちゃんと今日に合わせて、自分をキレイに仕上げたんだね。ハルに、きれいな自分を見てほしくて。ハルに“綺麗だ”って思ってほしくて」

「……うん」

 

 隼鷹にバレていた……でも、不思議と悪い気がしない。自分の頑張りを、隼鷹が見ていてくれていた……ただ、それがハルではないのが残念だけど……

 

「うん。ほんとにキレイだ。べっぴんだね川内」

「……そんなことない」

 

 私の頭を撫で、髪に触れ、服を褒めてくれる隼鷹の一言一言に、私は次第に我慢ができなくなってきた。じんわりと視界が歪み、目に涙が溜まってくる。涙が溜まってきたことを隼鷹に知られたくなくて、私は顔を下に向けた。

 

 隼鷹の手が私の頭から離れた。その後私のほっぺたを両手で挟んで、私の顔を無理やり、自分へと向けさせる。私と目があった隼鷹は、とても優しく、私に微笑みかけていた。

 

 涙のせいか、私の目に映る隼鷹の笑顔は、ちょっと滲んで水彩画のようになっている。けれど滲んだ笑顔の奥の眼差しだけは、スッキリと澄んでいた。

 

「いーやキレイだ。今日のアンタはとってもキレイだ」

「ひょ、ひょんなこと……にゃいっ」

「いや、今日のアンタは、誰よりもキレイだったよー」

「にゃんで? 今日の主役はハルと球磨じゃんっ。球磨が一番綺麗で……」

「いや……あたしには、球磨よりもあんたの方が、一番いい女に見えたよ」

 

 意味がわからない。今日、あの場で、一番キレイなのは、主役の球磨とハルなのに……なんで隼鷹はそんなことを言うんだろう? 私は、たしかにがんばった……けど……

 

「だってさぁ川内?」

「……」

「確かに最後は我慢しきれなかったけど、二人のために、ずっと自分の気持ちを押し殺してたろ?」

「そんなことない……ッ! 私は……ッ!」

「そうだよ。あんたはずっと、惚れた男のために、我慢して笑ってた。自分はこんなにつらいのに、二人を笑顔で祝福してたじゃんか」

「だって……ハルが幸せになるんだよ? ……球磨だって私の友達だよ? その友達が幸せになるんだから、祝福したいじゃん……してあげたいじゃん……しなきゃだめじゃん!」

 

 呼吸がしづらくなってきた。ひっくひっくとひきつって、息が苦しい。

 

 隼鷹が、両手で私を抱きしめてくれた。隼鷹は、私よりも背が高い。そんな隼鷹が、私に覆いかぶさって包み込むように、強く、ギュッと身体を抱きしめてくれる。胸が痛い。身体が優しく締め付けられる心地よさに、涙が我慢できない。

 

「……ッ」

 

 私の耳元で、隼鷹が静かに優しく囁いた。

 

「……もういいよ川内」

「もういいって……何が……?」

「ここなら、あたし以外には誰もいない。我慢しなくても、口に出しても大丈夫だよ」

「……」

「役不足だろうけど、あたしが全部、あんたの気持ちを聞いてあげるから」

「……」

 

 きつく抱きしめてなお、私の頭を撫でてくれる隼鷹。その優しさが私の口を、再び私の意識から切り離した。抱きしめられて手が自由に動かせないから、目に溜まる涙が拭えない。溜まりに溜まった私の涙が、上を向いた私の目尻を辿っていく感触が伝わった。

 

「……」

「……」

「……」

「……す……き」

 

 もう我慢しなくていい。その安心感が、私の口を遮ることをやめた。私の口は、私の本心を少しずつ言葉にした。最初はたどたどしく呟くように。

 

「……すき」

「……」

「ハルが好き……好き。ハルが好き」

 

 しばらくして、はっきりと。

 

「好き……好き。私は、ハルが……好き」

「……」

「ハルが好き……好きなのに……ずっと好きだったのに……ひぐっ……」

「……」

 

 やがて、涙混じりの鼻声で。胸が引きつって息がとてもしづらいけれど、私はひたすら、『ハルが好き』と繰り返した。

 

「好き。ひぐっ……私はハルが好き……」

「うん」

「好きなのに……ハル……いやだ……ひぐっ……私、ハルが好き……いやだよ……」

「うん。いやだね」

「好きなの……ハル……あなたが好きなの……ずっと好きだったの……ひぐっ……好きだったんだよ?」

「そうだね。ずっと……ずっと好きだったんだもんね」

「夜にお店の窓を開けたら、笑顔で怒ってくれるハルが……ずっと好きだったんだよ? ひぐっ……ハルの冗談、本気にしたんだよ? ずっと……ずーっと好きだったんだよ?」

「……」

 

 一言本音をこぼしてしまえば、もう私の口は止まらない。時々しゃくりあげつつ、私は本音をポロポロとこぼす。壊れたジュークボックスのように、私は何度も何度も『ハルが好き』と繰り返し続け、私の胸の中で輝く、笑顔のハルに気持ちを伝えた。

 

 ねえハル?

 

 なんで私じゃなかったんだろう?

 

 私が毎晩遊びに行って、夜戦夜戦って賑やかだったから? 肝試しの時、一人で夜戦夜戦ってはしゃいでたから?

 

 私が球磨みたいに、ハルをぞんざいに扱ってたら……ハルのボケに過剰に突っ込んでたら、ハルの隣にいられた? ハルのお店で、ハルを散々振り回してたら、ハルの隣にいられた?

 

 教えて? 球磨みたいにショートパンツ履いて、男の子っぽく振るまっていれば、ハルは私を選んでくれた? おんぶをせがんだり膝枕をせがんだり、わがままで振り回していたら、ハルは私を選んでくれた?

 

 それとも……

 

「ハルがきた時、最初に出迎えたのが球磨じゃなくて、私だったら……ハルは……ひぐっ……私を選んで……くれた?」

「……」

「ハル……好き……大好き……行かないで……」

「……」

「ハルの隣にいたいよ……ひぐっ……ずっと、ずーっと……ハルの隣にいたいよぉ……」

「……」

「ハル……大好き……誰よりも好き……大好きだよぅ……」

 

 こうして私は、ハルにはもう届かない気持ちを、ハルと球磨には届かない場所で、長い時間をかけて、涙を流しながら告白し続けた。

 

 その間、隼鷹は私を抱きしめたまま、ずっと頭をなで続けてくれた。時々相槌を打ち、『そうだね』と共感してくれ、泣き続ける私を、最後まで温かく包み込んでくれていた。

 

「ごめん隼鷹……ひぐっ……ありがとう……ハル、大好き……」

「いいよ。でも告白するかあたしに感謝するか、どっちかにしな」

「ありがと……ハル……」

「タハハ……」

 

 



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5. 髪、切ってよ

 頭にガンガンと走る激痛で、私は目が覚めた。

 

「……いつつ」

 

 視界の焦点が合わない。周囲がぼやけて見える。心臓がドクンドクンと脈打つたびに、私の頭にガンガンとした痛みが走る。頭を抱えながら立ち上がり、光が差している窓の方へと、足を運んだ。

 

「いだだだだ……ここどこ……?」

 

 昨日の記憶がはっきりしない。目の焦点が次第に整ってきた。目の前にある、隙間から光が差し込む遮光カーテンを少しだけ開く。

 

「まぶしっ!? いだだッ!?」

 

 途端に私の両目にお日様の眩しい光が襲いかかり、私の頭痛を刺激した。

 

 相変わらずの激痛を抱えた頭をいたわりながら、私は周囲を見回した。ここは隼鷹と提督の喫茶店だ。足元を見ると、周囲には大量のビールの缶と酒瓶。ワイン、日本酒と焼酎の一升瓶、ウイスキー……ありとあらゆる酒瓶が、私の足元に大量に、無造作に転がっていた。

 

 恐ろしいのは、それらすべてが空っぽなことだ。昨日の宴会の主……つまり私と隼鷹は、これだけ大量の酒を飲んだことになる……

 

「クカー……」

 

 大きな寝息が聞こえ、ビクンとして私は振り返った。そこにいたのは、一升瓶を抱え、よだれをたらしながら、二人がけのソファーで眠る隼鷹だ。毛布をおなかにかけられて、とても気持ちよさそうにぐっすりと眠っている。

 

 ……少しずつ、昨日のことを思い出してきた。確か隼鷹に抱きしめられて散々泣いた後、隼鷹から『よし飲むぞー!』と言われ、私は飲めないって言ったのに、気がついたらぶどうジュースが赤ワインにすりかえられてて……

 

「おっ。おはよー」

 

 店内の奥へと続く通路から、挨拶とともに提督が顔を見せた。提督の声は、さして大きいわけではない。でも今の二日酔いの私の頭を刺激するには充分すぎる。

 

「お、おは……いでぃでぃでぃ……」

「ははっ。無理はしなくていいぞー」

 

 頭を抱えてのたうち回る私を尻目に、提督は笑いながら厨房へと消えていく。次に提督が足音を響かせて戻ってきた時、その手にはポカリのペットボトルが握られていた。『ほらっ』と私の方にそれは投げられ、私はそれを、頭を抱えたまま受け取った。

 

「ありがと……あだだだ……」

「お前、酒全然強くないもんな。隼鷹に付き合ってたら、そら二日酔いにもなるだろ」

 

 私の様子を眺めながら、提督がケラケラと笑う。そのまま隼鷹が寝転ぶソファまで歩き、隣に腰掛けていた。

 

 提督からもらったポカリの蓋をパキリと撚る。その衝撃が頭痛を刺激し、自分の二日酔いの酷さを再認識した後、私は喉を鳴らして勢い良くポカリを飲み干した。

 

「ぷはっ……」

 

 頭痛が幾分楽になった気がする……頭のぼんやりも多少マシになってきた。

 

「ねぇ提督」

「んー?」

 

 提督は、隣の隼鷹を優しいまなざしで見つめながら、キレイな髪を撫でていた。

 

「私の事、隼鷹から聞いた?」

「いや何も。ただ、“川内と一緒に、式を途中で抜けるかもしれない”とは言われてたな」

 

 そっか。隼鷹は、他のみんなには黙っていてくれていたのか。提督の隣で気持ちよさそうに眠る隼鷹には、どれだけ感謝してもし足りない。

 

「この量の酒も、“準備だけはしとく”って、一昨日ぐらいに隼鷹が準備してたやつだ。だいぶ減るだろうとは思ったけど、まさか全部飲むとは……」

 

 そう言って、提督は苦笑いを浮かべる。黙っていただけじゃなく、振られた私にとことん付き合う準備までしていてくれたのか……さすが、みんなの長で、鎮守府のオカンだった提督の淑女だ。私達のこと、よく見てる……。

 

「昨日の私たち、どうだった?」

 

 恥ずかしい話だが、昨日の隼鷹との飲みの記憶は、私にはない。覚えてないなら覚えてないで隼鷹自身は笑ってくれるだろうけど、私は、自分がどんな風に酔っていたのか、知る必要がある。

 

「お前がか?」

「うん」

「えっとな……」

 

 途端に頭をボリボリとかいて満面の苦笑いを浮かべる提督を見て、昨日の私はかなりの醜態をさらしていたのだと思い知った。

 

「先に言っとくが、俺は同席しなかった」

「うん」

「んで、俺はずっと自分の部屋にいたんだが、時々ここから川内と隼鷹の叫びが聞こえてきてな」

「どんな叫び?」

 

 ここで提督は、迷うように口をもごもごと動かし、プッと吹き出した。私から目を背けて笑う提督は、どうやら私に本当のことを言うか言うまいか、迷っているようだ。

 

 やがて観念したのか、提督は、昨晩聞こえた、私と隼鷹の叫びを教えてくれた。

 

……

…………

………………

 

『ハルのアホぉおおおおお!! もう頼まれても夜戦に付き合ってやんないからぁあああ』

『そうだー! あんなやつ、こっちからお断りだぁああああ』

『夜10時になっても、もうハルの店に殴り込みになんか行ってやんないからぁぁあああ』

『寂しくて泣いても、もう手遅れだからなハルぅうううう』

『ちょぉおっと膝枕で耳掃除が上手だからって、私をたぶらかしやがってぇえええ』

『あたしのかわいい川内を振ったハルは、おおバカヤローだぁぁあああ』

『今度会う時は、探照灯で瞳孔ぶち抜いてやるからぁぁああ!! 照明弾でガンガンに照らした後で、魚雷カットインでボッコボコにしてやるからなハルぅううう!!』

『いえーい! やっちまえぇぇえええ!! ぶちかませぇぇええ! ものどもかかれぇええ!!』

 

………………

…………

……

 

「……そんな叫びが、何度か聞こえてきた」

 

 ……聞かなければよかった……恥ずかしい……せっかく隼鷹が黙っていてくれたのに、これじゃ少なくとも、提督には自分からバラしてしまったようなもんじゃないか……。頭の痛みが取れてきた代わりに、今度は顔が熱くなってきた……

 

「あ、あの……提督……」

「ん?」

「あのさ……このことは……さ」

「誰にも言わないよ。言ったら、俺が隼鷹に殺される……」

 

 そう言って、相変わらずの苦笑いを浮かべる提督の横では、気持ちよさそうに寝息を立てる隼鷹がいる。気持ちよさそうに口をぽかんと開き、よだれを垂らして眠る淑女は……今は、誰よりも素敵な女性に見えた。

 

 提督が、隼鷹の髪に触れ、いたわるように優しく頭を撫でた。隼鷹を見る提督の目は、まるで球磨を見るハルの眼差しのように、とても優しく、柔らかい。

 

 その後提督が隼鷹のことを色々と話してくれた。隼鷹は、鎮守府で私たちが従軍していた頃から、私のことをずっと心配していたらしい。

 

 私は、ずっとハルのことが好きだった。でも、ハルは球磨と通じ合い、そして二人の仲は強固で揺るぎないものになっていく。その横で、私はずっと静かに、ハルのことを想っていた。

 

 隼鷹は、そんな私に気付いていたらしい。ハルと球磨が結婚するという連絡を受けた時、もし私がまだハルのことを好きでいたら、その時は、やけ酒にとことん付き合うつもりだ……そう考えていたそうだ。

 

「でもさ提督。隼鷹はさ。提督にはその話、してないんでしょ?」

「うん」

「じゃあなんでそんなこと知ってるの?」

「隼鷹が俺の淑女であるのと同様、俺だって隼鷹の紳士だ。隼鷹の考えてることは、手に取るようにわかるよ」

「そっか」

 

 私の問いにそう答える提督の笑顔は、どことなく、球磨のことを話すハルの笑顔に、重なって見える。

 

 愛する人のことを話す人の、心からの笑顔。

 

 私が愛する人は、私の事を話す時、その笑顔を見せることはない。そして今後、永遠にその笑顔を見せることはない。

 

 でも今、提督の笑顔と、その隣で気持ちよさそうに眠る隼鷹を見ながら思う。

 

 私は、愛する人の笑顔を手に入れることはできなかった。

 

 でも、私が愛するその人は、その笑顔を手に入れる事ができた。

 

 ならば私は、それを喜ぼう。

 

 愛する人が、愛する人の笑顔を手に入れることができた。それは、とても素晴らしいことじゃないか。

 

 今なら、二人を心から祝福出来る。

 

 ……ハル、おめでとう。球磨と幸せになってね。

 

 ……球磨、私が愛する人を、どうか幸せにしてあげて。

 

 

 その後私は、中々目覚めない隼鷹をほっといて、提督から温かいコーヒーを淹れてもらった。

 

「マイスイートハニーほどうまくはないけどな。まぁ飲まないよりは良いだろ」

 

 そう言って笑顔で淹れてくれたコーヒーはとても美味しくて、隼鷹のコーヒーにも負けないぐらい、とても美味しいものだった。

 

 そのまましばらく提督の店で休ませてもらったが、隼鷹はまだ目覚めない。『こらぁ今日は臨時休業かな?』と笑いながら話す提督。その提督が、今日のハルのことを教えてくれた。

 

「そうなの? ハル、お店にいるの?」

「ああ。新婚旅行には行くらしいが、今日は球磨と北上が用事があるらしくてな。ハルは今日、一人で店番やってるそうだ」

「そっか」

「踏ん切りがついたのなら、会うのは早い方が良いかもしれん」

「……?」

「時間が空けば、気まずくなる。隼鷹のおかげで踏ん切りがついたのなら、早いうちに顔を合わせた方が、後々気まずくないと思うぞ」

 

 ゆっくりと言葉を選びながら話す提督の言葉に、私の心は決まった。今日これから、私は一人で、ハルの店に行く。そして髪を切ってもらって、踏ん切りをつける。

 

 カップの中のコーヒーをすべて飲み干し、私は立ち上がった。

 

「提督! 私、これからハルの店に行ってくる!」

「一人で大丈夫か? 隼鷹が起きるまで、待っててもいいぞ?」

「大丈夫っ」

 

 覚悟は決めたから。今の私は、あとは踏ん切りをつけるだけだから。

 

「だから提督! 行ってくる!!」

「分かった。……でも、一旦家に帰って着替えた方がいいぞ?」

「? なんで?」

「自分の格好を考えてみろって……昨日のドレスのままだろ……?」

 

 ……ぁあ、そういえば。これは普段着に着替えたほうがいい。靴だってパンプスよりも、いつものスニーカーやデッキシューズの方が歩きやすいし。

 

 

 提督の助言? アドバイス? を素直に聞き、私は一度自分の部屋に戻って、顔を洗い、服を真っ赤なパーカーとタータンチェックのスカートに着替えた。乱れた髪にブラシを通し、キレイに整えてから、姿見の前に立つ。

 

「……」

 

 昨日、北上の店にいた、ひどい顔をした自分はどこにもいない。いつもどおりの、夜戦が大好きで賑やかな私が、姿見の向こうに立っていた。

 

――姉さん やっぱり姉さんは、その色が似合う

 

 ありがと神通。私も、自分には赤が一番似合うと思うよ。

 

――今日の川内ちゃんは、那珂ちゃんの次ぐらいに輝いてるよっ☆

 

 そだね。今の私なら、那珂より輝いてる自信がある。そうじゃないと、ハルの店には行けないね。

 

――ぇえ!? 那珂ちゃんより輝いてるってありえないッ!!

 

 聞こえるはずのない那珂からの苦情をすべて聞き流し、私は玄関でコンバースのスニーカーを履いて、ドアをバタンと閉じた。足取りも軽快。やっぱりパンプスよりは、スニーカーの方が動きやすい。二日酔いももうスッキリ抜けた。私はスタスタと心地よいリズムで歩を進め、ハルの床屋へと向かった。

 

 

 軽快な足取りでハルの新しいお店『バーバーちょもらんま鎮守府“だクマ”』の前まで来た私。窓ガラス越しに、店内の様子を注意深く伺う。店内は、掃き掃除をしているハル一人……今なら、誰にも邪魔されず、私はハルに、髪を切ってもらえる。

 

「……よし」

 

 空を見上げた。二日酔いの頭にドギつい一撃を見舞ったお日様は、今も気持ちよさそうに輝いて、私のことを元気づける。

 

 意を決し、私は入り口の取っ手を握って、ドアを勢い良く開いた。

 

「やっほー! ハル!!」

「ぉお!? 川内!?」

 

 突然の私の来訪にびっくりしたのか……はたまた他に理由があるのか、ハルは掃き掃除の手を止め、素っ頓狂な声を上げて驚いていた。

 

「突然なんだよ!? 来るなんて聞いてなかったから驚くだろ!?」

「まぁーいいじゃんいいじゃん! それよりさ! 髪切ってよハル!!」

「ほんっと、お前って鎮守府にいた頃から変わんないなぁ……」

 

 ハルはぶつくさと文句を言いながらも、手に持っていたほうきを片付け、私を散髪代に案内してくれた。私をソファに座らせ、自分はキャスターのついた椅子に座り、私の髪に背後から触れる。

 

「相っ変わらずお前、きれいな黒髪してるなー」

「そかな?」

「おう。鎮守府にいた頃から、お前ってキレイな黒髪してるなーってずっと思ってた」

「そっか。ありがと! だったらお礼に……」

「夜戦なら付き合わんぞ」

「ちぇー」

 

 ……大丈夫だよ。もう、『夜戦に付き合って』なんて、言わないから。

 

 ひとしきり髪を見てくれた後は、シャンプー台に移動して、髪をシャンプーしてくれる。ちょっと熱めのシャワーの温度が心地良い。

 

「シャワーの温度はどうだー?」

「ちょうどいいよー。きもちい」

「だろ? お前ってちょっと熱めが好きだもんな」

「うん」

「そう思って、お前の時は前からちょっと熱めにしてるんだ」

「そっかー」

「おう」

「逆に暁ちゃんの時はぬるめとかな。覚えてる限り、出来るだけ温度をその人に合わせてるんだ」

「ふーん……」

「……ま、床屋としての、俺なりの矜持ってやつかな」

 

 知らなかった。お客さんに合わせて、ハルは温度を調節してたのか。

 

 ハルは、見えないところで人を気遣う優しい人だ。眠りに落ちていく加古の頭に枕を滑り込ませたり、球磨の耳掃除をする時はそのまま球磨が寝ちゃってもいいようにこっそりポールサイン止めたり……そんなところに、私は惹かれたのかもしれない。

 

「かゆいところはないかー?」

 

 ……懐かしい。あの頃を思い出した。そして思い出した途端、右足の裏がムズムズしはじめる。

 

「右足の裏の……」

「却下だッ!!」

 

 そんなお決まりのやりとりが終わった後は、濡れた髪のまま散髪代へと戻り、ハルに髪を切って、整えてもらう。

 

「……」

「……」

 

 ちょきちょきと心地いいリズムで、ハルのハサミが、私の髪の毛先を整えていく。時折ハルの指が私の髪をくいっとひっぱる、その刺激が心地いい。今、店内に響く音は、ハルのハサミの音だけだ。

 

「ねーハル」

「んー?」

「ちょっと、髪色を明るくしたいなーって思うんだけど」

 

 なんとなく、私が『髪を染めたい』といったとき、ハルは止めるんじゃないか……そんな気がしてたけど。

 

「……どうしてもやるってんなら止めないけど、止めた方が良いと思うぞ」

「なんで?」

「川内の黒髪はすごくキレイだ。それを他の色に染めるって、すごくもったいない」

「ふーん……」

「それに、お前には黒髪がよく似合ってる。わざわざそれを捨ててまで、他の髪色にすることはないよ」

「そっかー……じゃあ止めたほうが良いね」

「そうしとけ。お前には黒髪が一番だ」

「うん」

 

 ほら。ハルは、その人に一番合う髪が分かってる。それを相手に押し付けはしないけれど、やんわりと相手にそれを教えてくれる。

 

 ひとしきりちょきちょきと毛先を整えた後は……

 

「ところでお前、顔そりはどうする?」

「ぁあ、鎮守府で球磨を実験台にしたやつ?」

「おう。あの時は妖怪アホ毛女の策略で正式サービスにはしなかったんだけどな。今は晴れて正式サービスになった」

「んじゃ、やってみる」

「りょーかい。つるっつるのすべすべお肌にしてやる」

 

 こんな感じで、初体験の顔そりもやってくれた。

 

「せっかくだから、その時球磨にやった顔そりと同じようにやってみて」

「まじかー……」

 そう言って苦笑いを浮かべながら、ハルは店の奥で顔そり用のクリームを作り始めた。熱いスチームの音が勢い良く『ぶしゅー』と店内に鳴り響いた時は、何事かとびっくりしたー……。

「んじゃ、顔にクリーム塗ってくぞー」

「はーい」

 

 そう言ったハルに熱々のクリームを顔に塗られていった時、その心地よさに私は昇天しそうになった。そうしてクリームの感触と熱さをひとしきり堪能したあとは、ハルがカミソリでクリームをこそげ取っていく。

 

「……」

「……」

 

 私は、私の顔に塗られたクリームをカミソリでこそげとっていく、真剣な眼差しのハルの顔を、ジッと見ていた。

 

「……」

「……」

 

 カミソリのサリサリとした感触は、とても心地良い。そのカミソリを動かすときのハルの顔は、誰よりもカッコよくて、今でさえ、見ていて呆けてしまうほどだ。

 

 ……ねえハル? 気付いてた?

 

 私ね。あの時からずっと、ハルのことが好きだったんだよ? あなたのことが、誰よりも何よりも、好きだったんだよ?

 

 夜になったらハルのお店に行って、『やせーん!』て叫びながら窓を開けて、そのたびにハルに怒られて……それがね。とても楽しかったんだよ? ハルに笑いながら怒られることが楽しくて……でも夜戦が出来ないことがなんだか残念で胸がチクチクして……

 

 それでもまたハルに会いたくて……ハルの怒った笑顔が見たくて、次の日の夜にまた、『やせーん!』て言いながら窓をガターンって開いて……

 

「あの……ハ」

「動くな」

 

 ついハルに話しかけようとし、ハルがそれを制止する。有無を言わさないハルの迫力に、私はつい口をつぐむ。ハルの真摯な眼差しは、私の肌に当てられたカミソリの刃をジッと見つめてる。ハルの意識のすべては今、カミソリに注がれている。私を怪我させないように……私を傷つけてしまわないように。

 

「……ハイ終わり。お疲れ様」

「ありがと!」

「とはいってもお前、アイツと一緒で全っ然産毛が生えてないのな。すべすべだからびっくりした」

 

 ……少し、胸がチクリとした。

 

「……ん」

「ん?」

「ぁあ、なんでもない」

 

 大丈夫。まだくっついてない傷が、ほんの少し疼いただけだから。

 

 くっついてない傷は、絆創膏を上から貼っておけばいい。そうしていれば、いつの日か、傷はくっついて治っていく。

 

「んじゃ、またシャンプー台に行ってくれ」

「りょうかいしたよ!」

 

 ハルに言われるままに、私は再度シャンプー台へと移動した。切った毛を洗い落とし、再び散髪台へと移動して、髪を乾かして……

 

「ほい終わり!」

「ほっ!」

 

 すべてが終わった後、ハルは私の両肩をぽんと叩く。あの頃と変わらない、散髪の終わりを告げる優しいインパクトが、私の身体を心地よく駆け巡った。

 

 そしてその心地いいインパクトは、同時に、私の恋の終わりを告げるインパクトでもある。

 

「ふぅ! ありがと!!」

「どういたしまして」

「さて、お代はおいくらですかー店長さん?」

「今日は毛先を整えてシャンプーして顔そりしただけだからな。四千円だな」

「はーい」

 

 そんな軽口を叩きながら、私とハルはレジへと移動する。古めかしいタイプライターのようなレジを、ガシガシと打つハルの様子を伺いながら、私は、そこに飾られた一枚の写真を手に取った。

 

「……これ」

「んじゃお釣りが……ん?」

「懐かしいね」

「ぁあ、それな。懐かしいな。でも懐かしいって言っても、割りと最近なんだけどな」

 

 写真には、球磨の隣にハルがいて、そのハルの隣に、満面の笑みを浮かべる私がいる。

 

『川内も押すなって……』

『えーだって写真に入り切らないじゃんっ』

『いやそうだけど……くっつきすぎだろっ』

 

 あの時のハルとの会話は、まるで昨日のことのように思い出せる。好きな人に必死になってくっついて、好きな人の困ってる顔を見るのが楽しくて……

 

「……」

「……川内?」

 

 はじめてこの写真に気付いた時は、私が愛する人が、私とくっついて写っている写真を大切にしてくれていることが、とてもうれしかった。

 

 ……でも、今は違う。私たちと同じ時間を過ごした証を、私が愛していた人が、大切にしてくれている。そのことが、私にはうれしい。

 

「ハル?」

「ん?」

 

 ……うん。充分だ。私は充分、この人を吹っ切ることが出来た。

 

「ありがと!」

「おう。また来てくれな」

「うん! 今度は球磨がいる時に来るね」

「おう。でも夜戦は付き合わんからな」

 

 そう言って、ハルはケラケラと笑う。私は深呼吸し、目の前で楽しそうな笑顔を浮かべて勘違いしているハルに、笑顔でハッキリと宣言した。

 

「大丈夫だよ」

「?」

「もうハルを夜戦には誘わないから!」

 

………………

…………

……

 

 笑顔のハルからお釣りを受け取り、入り口のドアを開いて、私は外に出た。外は相変わらずの、気持ちいい晴天。若干暗い室内にいた私の目には、とてもまぶしい。私は右手で日差しを作り、眩しさから目を守った。

 

「川内」

 

 不意に声をかけられ、私は正面を見上げる。私の前にいたのは、いつもに比べ、若干顔が青ざめた隼鷹だ。

 

「? どしたの?」

「いや……あんたが、ハルの店に行ったって……いだだだ……提督から、聞いた……からさ……」

「心配して来てくれたの?」

「そうじゃないんだけど……ね……」

 

 そういって隼鷹は、たどたどしい口調で、頭を抱えながら私の問いに答えてくれる。最初私は、私のことを心配して顔色が悪いのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 

「ひょっとして二日酔い?」

「まぁ……あんだけ飲めば、いくらあたしでも……ね」

「大丈夫?」

「あんたが言うか……いつつ……」

 

 そう言って苦虫を噛み潰したような渋い顔で、私を見つめる隼鷹。どうやら昨日の飲みは、隼鷹にとってもきつかったようだ。でも大丈夫。私の二日酔いもすぐ抜けた。きっと隼鷹の二日酔いもすぐ抜ける。理由は分からないが、そんな気がする。

 

「それで?」

「ん?」

「散髪はどうだった?」

 

 まだ二日酔いが抜け切ってないであろう隼鷹が、しんどそうに頭を抱え、私にそう問いかける。

 

 私は、空を見上げた。空は気持ちのいい青空。今の私の心のように、とても晴れ晴れとした青空。

 

 目を閉じる。私のまぶたをすり抜けるお日様の光はとてもまぶしい。ほっぺたを撫でる風は、心地よく、そしてひんやりと冷たい。

 

 私は前を向き、隼鷹の顔をしっかりと見つめ、そして笑顔で切り返した。

 

「うん大丈夫! ちゃんと踏ん切りはつけた!」

「……そっか。よかった」

「うん! 心配かけてごめんね」

「いいよ。可愛いあたしの仲間だからさ」

「んじゃ今度、夜戦に付き合ってあげるよ!」

「冗談言うなって。あたしらはもう艦娘じゃないんだから、夜戦なんかできないじゃん」

「仮に艦娘でも、隼鷹は夜戦出来ないしね」

「まぁね」

 

 お日様があまりに眩しくて……滲んだ左目に、ほんの少し、涙を浮かべたまま。

 

終わり。

 



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