SAO/extra (ハマグリボンバー)
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0-1それは誰かのエピローグ

 

 

────────肉体が/精神が/魂が 解けていく。

 

 

 

 50に届く夜を超え、8回に及ぶ決戦を制した。

 

 

 

────────自分の肉体から浮上していく煌びやかな気泡が、私の身体(データ)であったものの様に感じ、欠けた心がさざめき立つ。

 

 

 

 

 月の聖杯戦争。万能の願望器”ムーンセル・オートマトン”を巡る戦いは終わり、岸波白野は唯一の勝者となった。

数多の願いを踏みにじり、いくつもの命をこの手で奪い、そうして得た今に後悔など存在しない。

 

……心残りがない、ということはできないが。

 

 

 

────────身体がその機能をまた一つ失う。緩やかに照明を落とした世界が、私の終わりが近いことを教えてくれる。

 

 

 

 あぁ、そういえば…最初の願い(生き残ること)は果たされなかったな。

 

急激に朦朧とし始めた意識で思う。既に答えの出された問だ。

 

 

 これでいい。そう、これでいいのだ。

 

 

あの願いは、私が空っぽだった故のもの。共に戦ってくれた彼女の笑顔が、苦楽を共にした最高の相棒(サーヴァント)が、私が経験した僅かばかりの日常が、この終わりを肯定してくれる。

 

 

 

────────私の相棒(サーヴァント)が手を握っていてくれている。

 

 

 

 既に感覚の機能はない。だが、不思議とそんな確信があった。それに、聖杯の内側まで付いて来てくれるほど優しいアイツのことだ。今だって私に励ましの言葉でもかけてくれているに違いない。

 

心配性なサーヴァントだと呆れる。私は不安も不満も抱いていないというのに…。

ただまぁ、最後の最後で無視するのも決まりが悪い。何か気の利いた返事をしなくては…。

 

そこまで考えて、ふと思い出す。

 

なんだ。大切なことを一つ伝えていないじゃないか。

 

怒涛の様に過ぎていく日々であったから、こんな当たり前のことすら伝える機会を逃していた。

 

 

楽しかった。と、

嫌なことも、大変なことも沢山あったが、しかしそれでもあなたといた時間は楽しかったのだと。

 

私は確かに…幸せであったのだと。

 

 

 

「──────────────……。」

 

 

果たして。

 

────この声は、届いたのだろうか。

────この想いは、聞こえたのだろうか。

 

────不正なデータと判断された私に、ささやかな感謝を伝える権利(きのう)は残っていたのか。

 

 

わからない。この身は既に自身の言葉すら知覚することが叶わない。

けど…届いているといいなと…そう思う。

 

それに───もう時間だ。

 

 

私は──────微睡みに身を委ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっ…!あな…!だい……ぶ!?」

 

 

 ふと、どこかで甲高い声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限の蒼穹に浮かぶ巨大な石と鉄の城。

直径にして10キロメートル。階層にして100。

数多のNPC(ノンプレイヤー・キャラクター)と無限にポップするモンスター、1万”であった”プレイヤー、そして異物が1つ。

 それが今のこの世界のすべてだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アインクラッド74層迷宮区。今現在において、最もあの世に近い場所。

ここでは常に死神の鎌が首元にあり、一度気を抜けば瞬く間に私たちの命を絶つ。

 

 

 

「白野さん!スイッチ!」

 

 

 眼前でエネミーと相対していた白銀の少女───アスナが声をあげる。

 それと同時、放たれた流星のごときアスナのソードスキルが敵エネミーのバックラーを強烈に叩き、大きく弾き上げる。

 

 それは、前衛を交代させる合図に他ならない。

 私は、強く地面を蹴り二息歩行のトカゲのような敵エネミー──リザードマンロードの前に躍り出る。

 

 

────この鉄の城における敵エネミーの戦闘用AIは、ムーンセルのものとは勝手が異なる。

 

 同じ状況を作りさえすれば、必ず同じ行動を行うムーンセルの雑魚エネミーとは異なり、目の前のこいつらは、戦闘中に学習し、その相手に対して最適な戦術を組み立てていく。

そのため、一人で戦闘を行うことになった場合、その難易度はムーンセルの比ではないだろう。

 

 だが逆に、こちらが二人以上になったとき、その評価は逆転する。

 

 

 ギョロリと爬虫類の持つ独特の眼球が、飛び出した私を捉えた。

 

 

────敵の硬直が解ける。

 

 

その胴は未だにがら空きだったものの、私の素早さでは僅かに間に合わないと判断。

 

 

────そも、アスナは能力値を俊敏に寄せた細剣使い(フェンサー)で、私は能力値を筋力に寄せた両手剣使い(セイバー)だ。これに私の連携の拙さが合わされば、こういった細かなロスは仕方がないと割り切ることができる。

 

 それに、このビルドの違い、戦い方の違いだけで、敵AIにとっては致命的だ。

 

 

────プレイヤーの戦闘方法によって自らの最適化を行うこのAIは、急激な戦闘法の変化に対応することができない。

 

 

 リザードマンロードが、わずかに腰を落とし眼前に左手のバックラーを掲げる。だがそれは、アスナの突きから身を守るための対処法に他ならない。

 

 私は減速せず、飛び出した勢いのままにそのすぐ横走り抜け、すれ違いざまにその背中を切り裂く。無論、その程度大したダメージにはならない。だがこれによって二撃目、次の本命を相手は対処することができない。

 

────弧を描くソードスキルの残像は、三日月のそれによく似ていた。

 

 防ごうと掲げられバックラーの隙間を縫うように、青い三日月はリザードマンロードの首に突き刺さる。否、その一撃でもってリザードマンロードのHPが全損したことで、その三日月は鎌へと変質する。

 

 一瞬の停滞の後、死神に追いつかれた”それ”は世界から否定されるように霧散した。キラキラと光る粒子は大気に溶け、もはや存在の形跡もない。

 

 あのリザードマンもまた、データの海に還ったのだろう。

 

 いや…あるいは私のように遠いどこかでまた目を覚ますのか。

 

 

────データの海。そうデータだ。私は今なお電脳世界の内部にいる。

 

 とは言っても、地上に戻るべき肉体がない以上、私が存在できるのは電脳世界しかないため、ある意味当然ともいえるのだが。

 

 

 「白野さん、お疲れさま。もういい時間だし、そろそろお昼にしましょ。」

 

 

 そう、先ほどまで、確かにリザードマンロードがいたはずの虚空を眺めていた私の肩に手を置き、アスナが告げた。

 

 

────あぁ。アスナのお弁当は美味しいから楽しみだ。

 

 

 そっと視線をアスナに移し、「そんなこと言っても白野さんの取り分は増えませんからね。」なんて言いながらセーフティーエリアに向かう彼女の背を追った。

 

 

 この迷宮区に入ってからずっと握り続けていた刃の波打つ紅い両手剣──原初の火。その刃の形状から鞘の欠けた歪な剣。アスナからの借り物であるその剣は、ただ何も告げず、私をじっと見つめている。

 

 

 

 

 

 

 「ええ。確かにスイッチの声を聴いてから動き出すと、どうしても一歩遅くなっちゃうわね。理想としてはその前に走り出してることだけど…。ていうか、白野さんの場合は立ち位置がちょっと遠過ぎよ。走り出すタイミングとかそれ以前の問題だわ。」

 

 

 

───ぐぬぬ。

 

迷宮区に点在するセーフティエリアの一つ。痩せた岩に囲まれたそこで行われる反省会はもはや恒例で、いつだって、私はアスナのごもっともな指摘に返す言葉もない。

 

 大丈夫…大丈夫…。あれは、マスターとしては近すぎる位だった。最近まではそちらが正しかったのだし、今回出来なかったのは仕方のないことだ。次、そう次から頑張るから…。

 

 

 アスナと行動を共にするようになってから、まだ今日で4日目だというのに、私は既に自己弁護が癖になりつつある。

 

アスナの酷く的確な指導は、油断したまま受けると確実に私の芯を打ち抜くのだ。

 

 

 そりゃ、ビシビシ指導してくれと頼んだのは私だし、アスナの言葉も私の為を思ってだとは理解しているが、私は褒めても伸びるハイブリッドタイプだ。ついでに言えば公衆トイレも、"清潔に使ってください。"より"いつも清潔に使ってくださってありがとうございます。"の方が気合いが入るタイプだったりする。

 

 

 だが、自ら「もっと褒めてくれ」と頼むのは違うのだ。私はただ、…うぅん。と唸ってやることしか出来ない。

 

 

 

 「そういえば、白野さん。あれから体調に変化はあった?」

 

 

──いや、大丈夫だ。特に変化もなく、動きに支障もない。

 

 

 薄手でありながら不思議と耐久に高い補正のかかるワンピース越しに脇腹を撫で、アスナの問いに答える。

 

 

 

  私の脇腹は、黒く染まっている。

 

 

 それはいつか見た誰かの様に、見紛う筈もない終わり行く者の証。あの月において、何度も私が押し付けてきたものだ。

 

 だがこれは、どうにも自業自得に近い。

 

 

 この迷宮区において、アスナに"拾われた"私が、何かしら役に立たねばと愚かにもコードキャストを使ったのが原因だ。

 

 使用したコードキャストは、単純な敏捷の強化。この鉄の城の言い方で言えばAGIの強化か。

 

 移動時間を短縮しようと使用したコードキャストではあったが、結果として、私はあまりの痛みに悶絶。それを見たアスナが強化された敏捷でもって駆け寄ってくる、というあまりに間抜けな構図になったのだ。

 

 

──それが、外のルール(月の魔術)を強引に持ち込んだ事が原因なのかはわからない。

 

 

 ともあれ、腹部の変色は広がっていく気配もなく、痛みも動きに支障のあるレベルではない。

 

 自分の現状を知る勉強料であったと、納得するほかにないだろう。

 

 

 「そう…、ならよかった。」

 

 問題なく戦闘を行っている姿から、ある程度予想はついていたのだろう。その言葉は心配というよりも、確認といった意味合いを強く感じた。一息をおいて、再度アスナは口を開く。

 

 「今朝、ギルドの方から連絡があったの。この迷宮区の攻略もあと少しで終わるだろうって。」

 

 

 私がこの迷宮区でアスナに救われてから約一週間。アスナは、レベルこそ90に近かったものの、武器の熟練度は総じて0であった私に付き添い、下層の迷宮区、或いは今日のように74層の迷宮区の踏破済みエリアで、レベリングを行っていた。

 

 当然、その間も他の者による攻略は行われている。

 

 日々、新たなエリアに向かい、新たな敵や新たなギミックと戦う事が攻略であるならば、一週間の間攻略から離れたアスナは、他の攻略組と比較し、大きく遅れていることだろう。

 それは能力の話ではなく、戦闘の勘であり、情報の話だ。

 

 この迷宮の底が見えていないのだ。私も、アスナも。

 

 全てのエリアを走破し、全種類の敵モンスターを撃破し、そうしてその奥に潜むボスの戦闘力にアタリをつけるのが通常だ。 

 無論、ボスモンスターに対して、複数回の偵察は行われることだろう。

 しかし、行動の傾向や使用するスキルをいくら聞いたところで迷宮区全体の難易度を知らなくてはどうしても認識が甘くなってしまう。

 或いは、迷宮区に数多く存在するモンスターの中に、ボスと同様の行動を行う敵がいる可能性も否定出来ないのだから、現状の私とアスナでボスモンスターに挑むのは望ましいこととは言えない。

 

 

 であるならば、アスナから続く言葉はある程度予測できた。

 

 「だからね…、明日から私たちも攻略に参加しようと思うの。勿論、白野さんまで無理に来る必要はない。命を落とす危険は今までの比ではないし、貴女がまだ無理だと言うのであれば街で待っててくれていい。ただ、できれば貴女にも来て欲しいって思ってる。」

 

 

 どうかしら…? おずおずと、アスナは私に問いかけた。

 

 そんな、いつもと違うアスナの姿に自然と笑みがこぼれる。

 

 それは、アスナの騎士然とした格好とはひどく不釣り合いで──

 

───それでもアスナという少女には、ごく自然な仕草に見えたから。

 

 

 

  迷惑でなければ、私も同行させて欲しい。

 

 

 返答は決まっていた。

 

──全ては、あるべきものを、あるべき場所に返すために。

 

 

 

 



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0-2 いずれ、彼女達は出会う。

 

 

 カツカツと、一歩先を歩くアスナの靴底が一定のリズムで廊下を叩く。

 ここは、第55層にある血盟騎士団本部。

 アスナと私は、攻略参加の表明のために訪れていた。

 

 なんでも、来ないなら置いていくぐらいに言っていたアスナだが、私が不参加だった場合、アスナも攻略に加わらない予定だったとか。それどころか、攻略自体を遅らせることすら視野に入れていたと言う。

 

 ──正直そこまでしてくれる理由がよくわからない。

 

私以外にも、攻略組に続く者は居るのだし、私にだけ投資する必要性を感じないのだが。

 

 私にそこまでの可能性を感じているのだろうか?

 そうだとしたら、なかなか良い目をしていると言わざるを得ない。…残念ながら共感は出来ないのだが。

 

 

 「ここよ。」

 

 この巨大な建物内の最深部、一際大きな扉の前でアスナは足を止めた。

 

 ふぅと、アスナが大きく息を吐き出し、こちらに向き直る。

 

 「事前に連絡してあるし、基本的には私が対応するから、そんなに身構える必要もないわ。…行くわね。」

 

 

 

 コンコンコン、とノックを三回。僅かな間をおいて、内側から扉が開かれる。

 

 「お入り下さい。」

 

 扉を開けた男性は、アスナ、私の順に視線を送り、道を開けるように端に避けた。

 

 その動きを追って、私は男性の顔を見上げる。

 

 年齢は30代前半だろうか。髪は短く切り揃えられ、今なお私に視線を投げ続ける瞳には確かな知性が宿っている。

 

 アスナ曰く、この場には血盟騎士団の団長と参謀役のみが集められているらしい。

 

 ならば、おそらく目の前の彼も参謀役の一人なのだろう。

 

 それにしても…。

 …なんだろう、やたら観察されてる。

 

 目の前のこの男だけではない。私とアスナを除く全ての人間が私に視線を向けていた。

 

 

 正直、居心地が悪い。視線の意味が測りかねるのだ。もしかして私はお呼びではないのか。

 

 でもそうだとしたら、アスナのせいだし…。私連れて来られただけだし…。

 

 

 僅かな静寂。だが、それはすぐに切り裂かれた。

 

 「…ふむ。まずは久し振り…と言おうか。アスナくん。」

 

 

 ──その声は、まさしく部屋の空気を一変させた。

 

 まるで、この場の中心が動いたかのようにその男に視線がいく。

 

 白い長テーブルの向こう側。窓から射し込む光を背に浴びて、男は座してなおこちらを見下ろしている。

 

 「こうして顔を合わせるのは6日ぶりかな?──よく、間に合わせてくれた。その手腕は、流石と言う他にないだろう。これで心置き無く攻略に臨むことができる。」

 

 「…いえ。」

 

 

 数あるギルドの中でも最強と名高い血盟騎士団の団長にして、プレイヤー6000人の頂点。もはや、伝説とすら呼ばれる男の称賛を受けてなお、アスナは気まずげに視線を反らす。

 

 

 というかこっちを見ないでほしい。身構えなくていいとはなんだったのか。

 

 

 ひどく気まずげにこちらを伺うアスナ。形の良い眉は八の字を描き、目は伏せられ、下唇を僅かに噛まれている。

 悲しむというよりは、なにかを悔いるようなそんな表情だ。

 

 

 ──アスナが何を思ってそんな表情をするのか、私には理解することができない。

 

 

 アスナや他のプレイヤーと話すとき、今回のように、よくわからないまま微妙な雰囲気になることは過去にも何度か存在した。

 

 そんなとき、アスナは決まってこの表情をするのだ。

 

 

 正直言って最悪の空気である。

 

 まさか、いきなりこんな空気になろうとは…。ここはアスナのホームではなかったのか。

 

 私がこの空気を打破しようにも、生憎とこちらは面白い自己紹介しか用意していない。それを今やれと言われても無理である。というか嫌である。

 

 だが、このまま黙っているわけにもいくまい。

 もはや会話とも呼べない今のやり取りのどこがウィークポイントだったのか、私には想像もつかないが、現にアスナは完全に返答に窮していた。ならば、ここは私が助け船を出す他にないだろう。

 

 アスナに集まっていた注目を私へ向けるため、前に一歩踏み出そうとして──やめた。

 

 

 「団長。まずは一つ訂正を。」

 

 

 他でもないアスナが、その顔を上げたからだ。

 

 

 「こうして、ボス攻略に参加できることを、私自身も喜ばしく思います。ただ、それは私の力だけではありません。白野さんが。他でもない白野さん自身が努力をし、ボス攻略を参加するに足る実力を身に付けたこと、そして、死の危険があるにも関わらず攻略に参加する意思をみせてくれたこと、この二つがあって、ようやく実現したことです。」

 

 

 凛と話すその姿に、先程までのアスナの面影はない。紛れもなく、『騎士』アスナの顔なのだろう。

 

 

 「ですので、団長。先程の言葉を、訂正してはいただけないでしょうか?」

 

 

 ──そのアスナの話す内容について、思うことがないわけではない。

 

 そもそも、アスナから武器を借りている上(システム的には私の物になっているが)、一週間近くの間、一対一で戦い方を教わったのだ。私自身、もう全部アスナのおかげで良いんじゃないかなと思っている。

 

 

 そしてそれは、きっとアスナも自覚しているはずで、

 

 

 ならば先程のアスナの言葉だって、本当の意味はもっと別の所にあるはずなのだ。

 

 

 私はまだ、その意味を知れずにいた。

 

 

 

 「アスナさ──」

 「そうだな。」

 

 長机の末席、入室の際に扉を開けた男の言葉を遮るように、血盟騎士団 団長─ヒースクリフは声を発した。

 

 「あぁ。そうだ。そうだとも。今のは私の失言だ。二人には撤回と謝罪をしよう。すまなかった。」

 

 

 

 アスナの言葉を、正しい意味で受け取ったであろうヒースクリフは、否定することなく謝罪した。

 

 

 

 そして、その横で不満気な表情をした部下に、彼は視線だけを向ける。

 

 

 「今回の責任者は私だ。君たちのことは信用しているが、ここは私のやり方でやらせてほしい。」

 

 

 その言葉に、アスナの目が見開かれたのを感じた。いや、アスナだけではない、参謀役のことごとくが驚いたようにヒースクリフを見ていた。

 

 

 だが、こう言われては言い返すこともできないのだろう。男は、何かを誤魔化すように髪をかきあげ天井を見上げた。

 

 

 

 

 うーん…じぇらしー…。

 

 目の前で共にいた年月の差を見せつけらている。話についていけないし、なんだか浮気された気分だ。

 

 

 

 

 「では、そろそろ本題に入ろうか。まずは…そうだな。お互いに話は聞いているだろうが、自己紹介から始めようか。」

 

 

 ヒースクリフはそう言って立ち上がり、私に向けて手を差し出した。

 

 

 「私の名前はヒースクリフ。一応、この血盟騎士団の団長の立場にいる。名ばかりだがね。」

 

 

 

 その言葉を受けて、私も握手に応じるべく、ヒースクリフの前に移動する。その間、アスナの心配そうな視線をヒシヒシと感じたが、是非安心してほしい。─最高に面白いのを用意してある。

 

 

 ちがう。ふざけているわけではない。ヒースクリフはまだしも、他の男達からは、何故か警戒されているように感じるのだ。

 

 有り体に言えばめっちゃ見られている。今は、私が変なことをしないように一挙一動を見張っているのだろうと納得しているが、そうでなければもはやセクハラである。是非やめてほしい。

 

 

 そこで面白い自己紹介だ。面白い自己紹介は、人と人との間にある心の壁を破壊する矛に成りうる。

 

 

 例えば、ここで私の自己紹介が大ウケしたとする。

 

 

 

 ──『なんて面白い人だ!きっといい人に違いない!』

 

 こうやって、警戒は解け、

 

 ──『こんな簡単に場の空気を暖めるなんて!さすが白野さん!』

 

 アスナは私を認め直し、

 

 ──『ふむ。このままボス攻略と洒落込もうか。』

 

 そうして、74層はクリアされる。

 

 

 

 ──完璧である。既にハッピーエンドではなかろうか。

 

 

 そんな、明るい未来に胸を馳せつつ、私はヒースクリフを見上げる。

 

 

 あぁでも、そんな未来が私に掛かっているのかと思うと少し緊張してしまうな。

 

 

 

 そうして、私は揚々と口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 ────拙者!坂之上田村麿と申す!

 

 

 

 

 差し出した手を、がっしりと掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この先は地獄だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──もしも過去に戻り、一つだけ選択をやり直すことができたなら。

 

 

 

 

 

 それはきっと、誰しもが一度は考える、どこまでも魅力的で、どこまでも夢想的な、そんな問い。

 

 

 

 

 

 だが、過去の私にとって、結城明日菜にとって、その問いは、まるで意味のないものだったのだと思う。

 

 

 順風満帆な人生であったから。

 周囲の人間の期待に、裏切ることのない人生であったから。

 そしてきっと、ただの一度も、選択などしてこなかった人生であったから。

 

 

 仮に、かつて歩んだ道の途中に引き返すことができたとして、その道が最後まで変わらぬ一本道であったのなら、たどり着く場所に変わりはなどなく、なれば、もはや引き返す意味すらもないのだから。

 

 

 だからきっと、私にとってその問いが意味を成したのは、このデスゲームに囚われてからで。

 

 

 デスゲームに囚われることで、道が開けたように感じるなんて、皮肉な話だと思う。

 だが、極端な話、私はここで漸く、私の人生を手に入れたのだ。

 

 

 しかし、選択肢を得た代償は予想を遥かに越えて大きなものだった。

 

 後悔。

 あるいはそれを、有り得たかも知れない未来に対する未練とでも言うのか。

 私からすれば、それは選択の代価に他ならない。

 

 

 あの時こうしていれば。

 あの時こうしなければ。

 

 愚かにも、過去に戻り、やり直すことができたならと思わずにはいられないほどに。

 

 

 だがそれは、過去の自分に対する冒涜で、現在の全てに対する否定なのだろう。

 そもそも、考えて、考えて、そうして正しいとしたことをなぜ上から目線に否定できるのか。

 

 自分で道を選ぶことの意味も、その結末を飲み下すことの意義も、私はこの世界で学んだ。

 

 

 

 

 

 それでも、今だけは思わずにはいられない。

 

 

 

 

──もしも、やり直すことができるなら、

 

 

 

 

  岸波白野だけは、この場に連れてこないと─。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …なんて思われているのだろうか。

  

 

 無事に攻略参加の表明を終えた私達は、先程の部屋を抜け、血盟騎士団本部の廊下を歩いていた。

 当然、つい30分前に通った道を引き返している形になる。

 

 

 ──ガツガツと、三歩先を歩くアスナの靴底が、廊下を叩く音はひどく荒々しい。

 

 

 うーん。これは怒っていますわぁ…。

 

 助けなければ良かった。とは思われていないと信じたいが…。

 

 

 とはいえ、目的が全くで果たせなかった訳ではない。

 

 あの渾身の新ネタまでは、あれほど警戒の視線を向けていた男達は、一転してアスナに同情の視線を向けた。

 そう、あれは月の聖杯戦争において、私が焼きそばパンを99個まとめ買いしたときのアーチャーのような…。いや、嫌なことを思い出した。私の髪は焼きそばの色ではない。

 

 

 問題は真顔で「バグったか…。」と呟いたヒースクリフの方か。そういうのは本当にやめてほしい。

 

 とはいえ、あのまま74層の攻略に向かっていた場合、私はうっかり意図的に命を落としかねなかったので、そこは幸運だったと思うことにする。

 

 

 ──もしもしー…。アスナさーん…?

 

 いつまでもアスナをこのままにしておく訳にもいくまいと、やや尻込みしながらもアスナに声をかける。

 

 するとアスナは、ガツンと一際大きな足音を立てて、勢いよくこちらに振り返った。

 

 その余りの勢いに、先程までは三歩分あったはずの距離が30センチメートル程度まで縮んでいた。

 

 ──はやいっ!!

 

 

 

 「もしもしじゃないわよ!どうしてあの状況でふざけられるの!?」

 

 顔の距離が15センチまで近づく。あまりの至近距離に私の視界いっぱいにアスナの顔が広がった。

 

 

 「完全に私が吹き込んだって思われたじゃない!」

 

 

 ──なんと!アスナの手柄になっていたのか!

 

 それは気がつかなかった。今まで散々お世話になったお礼として、ぜひその勘違いは解かないでいただきたい。 

 

 

 「何を言ったって信用してくれないわよ!ばか!」

 

 

 そういって再び歩き出したアスナを慌てて追いかける。

 

 ──正直、アスナの怒りはもっともだと思うのだが、せめて今向かっている先だけでも教えてくれないだろうか?

 

 

 私の言葉に、アスナはチラリと視線を向けた。

 

 

 「ボス攻略に参加する人に挨拶にいくの。丁度、相談したいこともあるし。」

 

 

 ──なるほど、その人どんな人なんですか?

 

 

 「何かとだらしがなくて、子供っぽいけど──。」

 

 そこでアスナは、私に向けていた視線をどこか遠くへ向け、

 

 

 ──とっても頼りになる、私の恩人よ。

 

 

 

 そう言った。

 

 

 



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0-3 今も、空は鉄に覆われている

 アイクラッド50層主街区─アルゲード。ここに、アスナの恩人とも言える人物がいるのだと言う。

 

 街並みは、猥雑とでも形容しようか。多くの店が立ち並びながら、どの店舗も小さく、不思議と祭りの出店を連想させられる。

 

 ──街と言うよりは、一つのダンジョンに近いわ。

 

 

 アルゲートの転移門についてすぐ、アスナに言われた言葉だ。

 

 実際に少し歩いた今であれば、実に上手い例えだと思う。私自身も既に、転移門まで戻れる気がしない。

 

 もっとも、原文で言えば、だから勝手な行動はしないでね。が続くし、昼間の血盟騎士団本部での一件もあって、文字で列べるより、ずっと冷ややかな声であったのだが。

 

 

 「あっ、いたいた。やっぱりエギルさんの所だったみたい。」

 

 

 ──エギル。アスナによれば、攻略組の一員にして、所謂商人プレイヤー。大柄な体躯と日本人離れした風貌から、やや恐れられ気味であるが、接してみれば気のいい兄貴分なのだとか。

 

 

 もっとも、商人として利益を追求する部分は当然あり、それにその見た目を利用している辺りは単純にいい人とも言いかねるのだろう。

 

 

 

 

 果たして、アスナが入ったのは、これまたこぢんまりとした店舗であった。

 陳列棚に並ぶ商品に統一性はなく、武器、アクセサリー、食糧と、手に入った物を全て並べてみました。といった様相を呈している。

 

 「──ったさ。多分二度と手に入らんだろうしな……。ただなぁ、こんなアイテムを扱えるほどの料理スキル上げてる奴なんてそうそう……」

 

 

 アスナから聞いていた情報から、一目でこの人がエギルだと理解できる男性が一人と、その正面に立つ少年が一人。

 

 話している内容は、アイテムのトレードについてだろうか。だがどうにも気安く、売買の交渉と言うよりも、友人との雑談だと言われた方が納得できる。

 

 その二人の会話に臆することなく、アスナは少年の背後に近寄り、─キリト君。とその名を呼びながら右肩を人差し指でトントンと叩き…

 

 

 

 

 

 

 「──シェフ捕獲。」

 

 

 

 

 

 

 捕獲されていた。

 

 

 「な……なによ」

 

 

 アスナの訝しんだ声。その表情は見えないが、後ずさった足が内心を如実に表している。

 

 

 そして、アスナが後ずさったことで僅かにできた隙間から、少年─キリトと目があった。

 

 

 

 キリトの瞳が僅かに細められる。だが、それ以上私に何かを言うこともなく、視線はアスナへと戻された。

 

 『どこか大人びた表情をする子供』それが、私の抱くキリトの第一印象だった。年齢的にはおそらく私とそう変わらない。だが、男性としてはやや可愛らしいその見た目と不自然に大人びた表情のギャップが、その印象を加速させる。

 

 

 

 「あーいや、アスナがこんなところに来るなんて珍しいな。──それより…、アスナって妹がいたのか?」

 

 「…違うわよ。似てるところはカスタマイズできる髪の色だけじゃない。彼女は岸波白野さん、最近はパーティーを組んでるの。」

 

 

 …へぇ。と彼は改めて私に目を向ける。

 

 

 「俺はキリト。よろしく」

 

 

 

──あぁ。よろしく。

 

 

 

 一言の挨拶。それは、今後の友好を約束するものだったが、お互いに特に広げる話題もない。私は、アスナと話をしていたエギルとも挨拶を行い、キリトはアスナとの会話に戻っていった。

 

 

 「それで、こんなごみ溜めに何しに来たんだ?」

 

 「なによ。今回のボス攻略の編成に携わる者として、貴方が生きてるか確認しに来たんじゃない。」

 

 「フレンド登録してあるんだから、わざわざくる必要もないだろ。というか、その追跡機能を使ってここまで来たんじゃないのか。」

 

 「そうだけど…。それだけじゃないのよ。他にも少し…聞きたいことがあって…。」

 

 

 徐々に言葉の勢いを無くしていくアスナに、キリトは小さくため息をつく。

 

 

 

 「あぁいや、悪かった。実を言うとアルゴから少し話は聞いてるんだ。でも箝口令が敷かれてるって話だったからな…。もっとも、話を聞いた限り俺が何かをできるって訳でも無さそうだけど。」

 

 

 右手で後頭部を掻きならキリトが告げる。だか、ふとその右手は動きを止め、唇がニンマリと弧を描く。

 

 

 「──ただし、条件がある。」

 

 

 「条件…?」と訝しげなアスナの反復にキリトは短く返事をしながら、右手で何かを操作をした。

 

 すると、丁度キリトの手元付近にアイテムウインドが表れる。可視モードにしたのだろう。そうして示されたアイテムをアスナが覗き込み、驚きの声をあげる。

 

 

 「こ…これ…!!」

 

 

 

 

 

 「取引だ。こいつを料理してほしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コチコチと、木製の大型時計が時を刻む。

 

 

 

 非常に居心地の悪い静寂のなか、何度目になるのか、私は先ほどから落ち着きのない隣の少年に声を掛けた。

 

 

──ああいった時計のことをホールロックというらしいよ。キリト。

 

 

 「し…知ってるよ」

 

 

 

 

 カチコチに固まったがキリトが、私の苦し紛れの話題をすげなく終わらせる。

 

 会話をしたと言うよりも、ただ返事をしたといった感じだ。もはや本当に知っていたのかさえ怪しい。

 

 

 

 果たしてその調子で味なんて分かるのだろうか。

 そんなに緊張するなら料理なんて頼まなければ良かったのに。

 

 いや、まさかに自宅に招待されるとは思っていなかったのか。

 

 

 未だ視線を右へ左へと忙しそうなキリトに、私は憐れみの視線を送る。頑張れ青少年。

 

 

 

 「それはそうと…なぁ白野」

 

 漸く少し落ち着いてきたのか、ここに来て初めてキリトから声を掛けられた。

 

 

──どうした少年。

 

 

 「その呼び方はやめてくれ。ところであんた、魔法が使えるんだって?」

 

 

 魔法─コードキャストのことか。いつぞやの私が犯した失態だ。キリトがどこまで知っているのかは知らないが、何らかの形で情報は回っているのだろう。

 アスナだって報告の義務がある。そして知る者が増えれば自然と周囲に伝わっていく。血盟騎士団との関わりがないキリトがそれを知っているということは、相当数の者に伝わっていると考えていい。

 

 そもそも、何も隠すことではないのだから、誰に知られたところで問題はないのだが。

 

 

 

 「へぇ、凄いな。アスナに使ったヤツの他に、どういう事ができるんだ?」

 

 

 

──どういう事…と言われても少し困る。此方に来てから実際に使った訳ではなく、コードキャストの補助に使用する礼装も手元にないのだ。本来の効力とはいかないだろうし、最悪の場合発動できない可能性もある。

 

 だが、全てのコードキャストが使えたのなら、確かにそれは圧倒的なアドバンテージに成りうる。

 

 各能力値を強化ができる。味方のヒットポイント、及び状態異常の回復ができる。相手の動きを止める事や敵のバフの解除だってできる。私はあまり使わなかったが、マップの形状だって調べることができるのだ。考えてみれば、それこそがこの世界で一番重要なコードキャストかもしれない。マッピングは通常よりも数段危険が伴うのだから。

 無論、add_revive()[天女の鈴]は除く。リザレクションの効力を持つあのコードキャストは、間違いなく別格だ。

 

 

 「…なんだよ…それ」

 

 それは、恐らく自然とこぼれてしまった言葉なのだろう。

 呆然と、ギリギリまで目を見開いたキリトは一人言のようにそう呟いた。

 

 

 まぁ確かに、キリト達からしたら、ズルいと思うかも知れない。ただ─

 

 

 「──もちろん。それだけの事ができて、代償がない筈もないわ。」

 

 

 いつの間に、部屋着に着替えて戻ってきたアスナが、私の言葉を引き継ぐように声を発した。

 

 

 「…代償って?」

 

 

──あぁ。この服で隠れているが、以前コードキャストを使った時に、私の一部は正しく死んだのだ。

 

 

 「死んだって言われてもな…」

 

 困惑した様子のキリト。

 

──誇張した表現ではない。私の脇腹は既に感覚もなく、そこに刃が突き立てられたとしても私にダメージは入らない。故に死んでいるという表現に誤りはないのだ。

 

 

 「試した訳じゃない。でもきっと次もそうなる。それに、コードキャストを使った後の白野さんは、痛みでとても戦える状態じゃないの。」

 

 

 淡々と話しをするアスナは、あまりにも無感情で。だが、その下に隠された激情は言われずとも理解できた。

 

 

 「待ってくれ。話が見えない。だったらなんで──いや、そもそも痛みって──」

 

 

 「痛い(・・)のよ。白野さんは。私たちとは違う。」

 

 

 キリトの言葉を遮るように、アスナは告げる。

 

 

──だがその言葉は無視できない。待ってほしい。私があの時蹲ったのは、右手が疼く的なアレではなく…。

 

 

 「白野さんは黙ってて」

 

 

 その冷ややかな声に、私の喉がヒッと音を鳴らした。構わずアスナは言葉を続ける。

 

 

 「ペインアブソーバーが機能してないのか、それともそういう仕様なのか。いずれにせよ白野さんには痛覚があるの。初めてコードキャストを使った時のことを、みんな知らないから簡単に言えるのよ」

 

 

 

 

 ──もう二度とあんな姿…とアスナは俯き、頭痛を耐えるように自らの額に手の平をあてた。その表情は垂れ下がった髪で窺い知ることはできない。

 

 

 「白野さんがあと何回コードキャストを使えるのか、そんなことは誰にもわからない。最初はお腹だった。次は頭かもしれない。単純なダメージじゃないだもん、そうなったらお終いよ。いやそれ以前に、もう一回だって、白野さんが耐えられるのかわからない。それに参謀職の人達の間でも意見が割れてる。白野さんの存在が、今後出てくる規格外の敵へのカウンターなんだって。白野さんがいなきゃ立ちいかなくなるんだって。みんな恐れてるの…。もし団長がまとめてくれなかったら、今頃どうなってたか!」

 

 

 血を吐くように、あるいは叩きつけるようにアスナが声を荒げる。知らなかった。私の存在が、アスナをここまで追いつめていたとは。

 

 

 何か言葉発せねばと、考えすらまとまらぬままアスナに顔を向け、──伸ばしかけた手をそっと止めた。

 

 

 

 アスナは、キリトを見ていた(私をなど見ていなかった)

 

 

 「だって、これは私たちの戦いでしょう!?巻き込むだけじゃなくて…そんなの…‼」

 

 

 アスナの頬を伝う感情の雫は、顎から零れ、しかし床に届かず霧散した。

 

 

 

 「おかしいよ。この状況も、血盟騎士団のみんなも。…それとも私がおかしいの?…教えてよ、ねぇ…キリト君」

 

 

 

 

 縋る様なアスナの言葉。キリトは驚いた表情のまま、それでも言葉を発しようと口をパクパクと動かした。

 

 

 「あ…アスナ」

 

 

 迷うように、或いは何かを探すように、キリトはあちこちに視線を向け──それでも、最後にはアスナの目を見据えて口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「しばらく、俺もパーティーに加えてくれ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 カチリと、時計の針が刻む音が、一際大きく部屋に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は進み、物語は確かに巡る。されど、ここから月は見えない。

 

 

 

 

 

 



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0-4 スタートラインに立つ

誤字報告ありがとうございます。


 

 

 「アスナ様!その様な我が儘を言われても困ります!」

 

 

──面倒なことになった。

 

 恐らくそれは、私とアスナの共通の感想だと思う。

 

 

 

 キリトとのS級食材を用いた夕食を終えた翌日。パーティーを組むという約束を果たすため、集合場所に赴かんとした私たちであったが、アスナのホームを出た直後、玄関前で待ち構えていた血盟騎士団の団員─クラディールに捕まっていた。

 

 

 「ですから!今貴方は護衛の任についていないでしょう!付いてきて頂く必要はないし、私も望んでいません!」

 

 「ですから!私がアスナ様の護衛の任を解かれたのは、アスナ様が攻略から外れ、下層に向かったからです!アスナ様が攻略に参加されるのであれば、再び護衛の任につくのは、至極当然の流れかと!」

 

 

 この二人の会話は平行線だ。否、もはや会話とは呼べない。お互いが自分の意見を前提に会話しているのだ。会話というより、自分の意見を相手に押し付けるだけの作業でしかない。

 

 

 私個人の意見としては、やはりアスナ寄りだ。クラディールの言いたいこともなんとなく理解できるが、その言い分の可否以前に、言動が少し気持ち悪い。自宅の前で待機はさすがに狂気染みていると思う。彼と行動するには、護衛からの護衛が必要になってしまう。

 

 

 そもそも私はこの男があまり好きではなかった。直接顔を合わせたのは2回目だが、私を見るときの見下すようなこの男の視線だけはどうにも好きになれない。

 

 

 「ともかく!私は、既に別の人とパーティーを組む約束をしているし、暫くはその人とのパーティーを続けるつもりだわ。身の安全が問題なのであれば、特別これ以上の護衛は必要ないはずよ」

 

 

 再度、アスナがクラディールの説得を試みる。言葉を受けたクラディールは眉間にシワを寄せ、何かを考え込むような素振りを見せた。

 

 「その別の人とは、昨日会っていた男のことですか?あんな男に護衛が務まるとは─…」

 

 

 「なんで知ってるのよ!!?」

 

 

 どこから見ていたのか。いよいよストーカー染みてきたクラディールの言葉を遮ってアスナが悲鳴のような声をあげた。

 

 

 街の要所に建てられた時計を見れば、既に約束の時間である9時は過ぎ、長針は3と4の間にいる。

 いずれにせよそろそろ向かわなくてはキリトも帰ってしまうかもしれない。

 

 

──クラディール。申し訳ないが、約束を破るわけにもいかない。クラディールもヒースクリフと今後について相談して、明日以降のことは夜にでも決めよう。だから、今日のところは勘弁して貰えないだろうか。

 

 

 キリトと合流ができれば、より現実的な話し合いができる。クラディールの意見を聞き入れる必要は特に感じないが、腐っても同じ攻略組の仲間なのだ。不要な亀裂は極力避けたい。最悪の場合、クラディールを含めた四人でパーティーを組んでも問題はないはずだ。

 

 それがこちらのできる最大の譲歩で、最良の落とし所だった。視界の端でアスナは嫌そうな顔をしたが、それは見なかったことに──

 

 

 

 「黙れ。NPC風情が。この私に意見など…。」

 

 

 

 

 私の出した妥協案は、一瞥すらされずに切り捨てられた。

 

 

 

 

 

 一瞬、思考が白に染まり返すべき言葉すら見つからない。

 

 

 クラディール!!というアスナの非難が、どこか遠い世界の出来事に感じる。

 

 

 苦しくもないのに呼吸が浅くなり、視野が狭まっていくのが分かる。

 

 

 隣にいるアスナすら知覚できない。それでも、胸に煮えたぎる『何か』だけは、これでもかと存在を主張している。

 

 

 

 

 人はそれを、かつて怒りと名付けた。

 

 

 

 不愉快ではあるが、それはなんでもない一言であった。

 

 私をNPCとすることだって、誤解であり、感情的に気分の良いものではないが、元々がNPCなのだから取り立てて非難することではない。ましてや、アスナ達のような、地上に肉体を持つ者をプレイヤーだと定義するのであれば、私は間違いなくNPCだ。

 

 

 であればこの感情はなんだ。私は何に憤っているのか。

 

 

 私が月において、或いはこの鉄の城において、度々お世話になり、何度も会話を行った、運営の中核すら担うNPCを風情呼ばわりしたことか。

 

──否。否だ。

 

 そう考える人間がいることもなんとなく理解している。共感できるかは別だが、その程度でここまで感情を揺さぶられることはない。

 

 

 感情の根底は分からない。だが、私はクラディールに向けて一歩踏み出した。

 

 手足が砕けても私の背中を押し続けた手が、反対に押し留めようするのを感じながら、それでも私は足を止めない。

 

 

 

 「──事実です!ギルドの参謀職も、アスナ様が消耗品に情を移しすぎだと懸念をさっ──」

 

 未だにアスナとの口論を続けていたクラディールの脇腹を、私のソードスキルが叩く。火花の如くポリゴンが弾け、ダメージの代わりに強烈なノックバックが発生する。ついぞ私に視線を向けることのなかったクラディールは、反応できる筈もなく、数メートル左方に吹き飛んだ。

 

 

 「白野さん!」

 

 クラディールの行動を非難しながらも、まさか私が剣を抜くとまでは思っていなかったのだろう。

 その声には、驚愕と困惑が多分に含まれており、これ以上の愚行を止めるように、アスナは私の腕を強く握る。

 

 「き…貴様ぁ!何をしたか理解しているんだろうな!」

 

 体勢を整え、抜刀するクラディール。手には私と同じく両手剣握られ、その切っ先は僅かなブレもなく私に向けられている。

 

 

 無論、圏内での攻撃にダメージはない。それは、この場で何をしたところで意味がないことを表している。だが、現状の本質はそこにはない。故に、お互い視線を逸らすことなく、ただその一挙一動を観察する。

 

 

 ふと、目の前の剣士を睨み続ける私の視界に、栗色の頭が割り込んだ。

 

 

 「貴方の白野さんに対する暴言は、今ので手打ちにします!引きなさい、クラディール!」

 

 アスナの言葉に、クラディールは血走った眼を向け、

 

 「そういう訳にはいきません!我々に攻撃するNPCなど論外です!今すぐに処断してくれる!女ぁ、圏外へで出ろ!」

 

 

 殺す。と狂気に染まった男はそう告げた。

 

 

 そこまでするつもりは毛頭になかったが、向こうがそのつもりなら仕方ない。実際に命を取るとは言わないが、今後の憂いを晴らす意味でも決着はつけておくべきだろう。

 

 

 「や…やめなさい、クラディール!白野さんも!」

 

 

 クラディールの言葉に、一時は唖然としていたアスナだが、私が了承の意思を示したことで慌てたように声をあげる。

 

 

 申し訳ないが、アスナの言葉を聞き入れる訳にもいかない。

 

 背を向けて歩き出したクラディールを追い、歩を進めようとした私の手をアスナが引く。

 

 

 「白野さん!何をバカなことを…」

 

 

 言葉とは裏腹に、アスナの声色はすがるような色に帯びていた。

 恐らくは、事を荒立てず場を終息させる事を望んでいるのだろう。

 

 だが、今の状況から平穏に終えるのは不可能に近い、加えてここでの一件を中途半端なままにした場合、今後この男がどんな行動を起こすかも予測できない。

 

 先程は感情に支配されていた肉体も、今なら理性的に動かすことができる。それでも、今はこの男と戦う以外の選択肢がないように思えた。

 

 私の言葉は届かない。当然だ。私に対して怒りを覚えているのなら、私が何を言ったところでそれは油以外にはなり得ない。

 アスナの言葉は届かない。一人の人間としての声も、上司としての声も、先程から散々投げ掛けているが、事実として男の耳に届いているとは思えない。これ以上何を言おうとも、今の男には酷く無意味に感じた。

 

 

 「何してる!怖じ気づいたか!」

 

 付いてこない私に業を煮やしたのか、クラディールが怒鳴り声をあげる。もはや致し方ない。私の腕を掴むアスナの手を優しくほどき、声の元へと足を向ける。

 

 

 私もアスナも、現状を打破する術を持たない。

 

 

 だがもし──もしも、この状況を変えることができる者がいるとするならば、それは、

 

 

 

 

 「おい、デートに誘うにしても、もっとマシな口説き文句があるんじゃないか?」

 

 

 

──それはきっと、また別方向の悪意に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──来ない。

 

 

 

 時刻は午前9時10分。74層の主街区ゲート広場。迷宮やら、スキルの上昇具合の確認を終えた俺は、未だにやってこない二人の相棒に思いを馳せ、転移門をぼんやりと眺める。

 

 

 もう随分と昔の話にはなるが、俺はアスナとパーティーを組んでいた時期があった。さほど長い期間ではなかったため断言することは出来ないが、あの優等生然とした少女が約束を忘れて惰眠を貪っている…というのはどうにも想像ができなかった。ならば…、

 

 

──もう一人の少女が何かをした…のだろうか。

 

 

 岸波白野。アスナが連れていた不思議な少女の名前だ。

 

 俺の記憶に誤りがないのであれば、『あれ』は花屋に配置されたなんの変哲もないNPCであったはずだ。

 

 昨日顔を会わせたとき、どうにも印象が変わっていて気が付かなかったが、彼女は─フィールドで簡単に採取できる草花を幾つか納品することで心ばかりの報酬が貰える、そんな旨味の少ないクエストの依頼主であったはずなのだ。

 

 

 どうにもしっくりいかない。

 

 岸波白野の存在が余りにも異質で、小さな疑問点の山が、まるで霧のように真実を覆い隠しているように感じる。

 

 

 ふぅと、小さく息を吐き出す。

 

 今一度冷静になろう。幸い時間があるのだし、岸波白野について、再度整理しておくのも悪くはない。

 

 

 

 

 初めて、岸波白野について話を聞いたのは3日前。懇意にしている情報屋から話を聞いた。曰く、『魔法が使える人種のNPCが現れた。現在は、混乱を避けるため、血盟騎士団で情報を独占している。』

 

 魔法が使える人種、というのは余りにも大きな情報だった。血盟騎士団が情報を秘匿した本当の理由はともかく、箝口令を引いたのは、結果として正しかったと言わざるを得ない。

 

 

 『白野さんが、これから現れる規格外へのカウンターなんだって─』

 

 昨日、アスナが言っていた言葉だ。

 想定される事項の一つと言っていい。魔法があるならば、当然それを必要とする敵が存在するはずだ。

 

 ならば、その規格外が現れたとき、もし、岸波白野が既に死んでいたら、いや生きていたとしても、自分のパーティーにいなかったとしたら…

 それは議論すら必要ない明白な結末を迎えるだろう。

 

 

 それだけではない。岸波白野を巡る一件の最終報酬が、ユニークスキル[魔法]である可能性はどれだけ存在するのか。

 コードキャストの反動を知った今であれば、それは無いと断言できる。だがあの時俺は真っ先にそれを想定した。

 

 

 故にこそ起こり得た岸波白野の争奪戦。それは奇しくも血盟騎士団が出した箝口令によって阻止された。

 

 

──ヒースクリフの判断なのだろうとなんとなく予測できる。

 

 

 異質と言えば、今回の一件でのヒースクリフの対応も異質である。

 

 圧倒的な力を持ちながら、攻略組の指針に一切口出しをしてこなかった筈のあの男が、今回は最高責任者ときた。

 それだけ事態を重く見たのか、或いは奴にはそれ以上のなにかが見えているのか。

 

──だが、いずれにせよ…、

 

 「カウンター…なんだろうな…」

 

 

 誰に向けるでもなく呟いた言葉は、どこかに届くこともなく静かに大気に溶けていった。

 

 

 75層のフロアボスに対するカウンター。それが、俺と情報屋で議論した最終的な結論だった。

 

 25層毎に現れる特別強力なフロアボス。その三体目が魔法を必要とする敵であると考えれば、一応納得することができる。

 

 

 だが、その予想が事実であったとしたら─。

 

 

──悪趣味だぜ。茅場晶彦…

 

 

 今度こそ、発せられることのなかった言葉。それは何にも溶けることなく、いつまでも口の中で転がっている。

 

 

 

 もしも、岸波白野が何かへのカウンターであるならば─。

 

 それは、岸波白野がコードキャストを使わなくてはいけない場面が来ることを意味していて──。

 

 それは、岸波白野の終わりが決定付けられていることを意味していた。

 

 

 飲み下せと、茅場晶彦は言っているのだろうか。それを地上に戻るための必要な犠牲だと。俺達が地上に戻ることは、ここに生きるNPCのことごとくを、殺すことを意味するのだと。

 

 

 

──せめて、彼女がもう少し『人間らしく』なければ、そう思わずにはいられない。

 

 どこか儚げに笑う姿も、俺やアスナをからかう姿も、アスナの作ったシチューを食べて感動してる表情だって、どう見ても人にしか見えなかった。

 

 

 

 1日でこれだ。ならば、1週間行動を共にしたアスナが、岸波白野をどう見てるかなど、想像するのは難しくない。

 

 

 そこに、魔法の存在を情報屋に漏らしながら、そのデメリットを伝えなかった血盟騎士団の参謀職だ。

 

 

 恐らくは、彼女をいざというときに使用する消耗品の様に考えていて──そういった扱いをアスナにも求めているに違いない。

 

 

 どこまでも『人間らしい』パートナーと、それを物として扱うギルドメンバー。そして、攻略だけを考えたとき、圧倒的にギルドメンバーが正しいのだから、アスナの抱え続けたストレスは相当のものなはずだ。

 

──そしてそれが、昨日のアスナに繋がる訳だ…。

 

 

 あのときは余りの唐突さに理解が追い付かなかったが、順に考えれば納得である。

 

 

 とはいっても、岸波白野の不可解さと、どこか茅場晶彦らしくないと感じる何かの正体は未だに掴めないままなのだが…。

 

 

 「それにしても…遅い…。」

 

 時刻は既に20分を過ぎ、もし自分から誘ったのでなければ既に帰っている時間だ。

 

 

──仕方ない。様子を見に行くか。

 

 

 いつまでたっても現れないかつての相棒を探すため、俺は重い腰をゆっくりと上げた。

 

 

 

 

 

 



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0-5 いつか、英雄になった少女

 

 「おい、デートに誘うにしても、もっとマシな口説き文句があるんじゃないか?」

 

 

 それは、さして大きな声ではなかったが、声量以上に遠くまで響いた。

 

 クラディールのいる圏外への道とは逆、恐らくは主街区中央の転移門からやって来たであろうその剣士は、私とアスナを挟むように佇んでいる。

 

 

 「貴様…」

 

 

 クラディールの忌々し気な声。その言葉共に視線がアスナへ向いたところを見るに、やはり『アスナのパーティーメンバーである少年』と、目の前の少年の顔が一致しているらしい。

 

 つまり、昨日のキリトとの会合を知っていたのは、人伝ではなく、クラディール本人が見ていたからということだ。

 

 

 「き…キリト君…」

 

 

 「──それに、俺が先に予約を入れてるんだ。悪いが最後尾に並んでくれ」

 

 

 

 そこに、昨日のキリトはいない。アスナの部屋で緊張し、固まっていた少年の面影はなく、ただクラディールを嘲り、嘲笑する剣士がそこにいた。

 

 

 「貴様ァ……!」

 

 軋むような声で唸る。そこには隠しきれない狂気があった。

 私が知る狂気─バーサーカーやヴラド三世のマスター(ランルーくん)─とも違うそれは、キリト個人に対する怒りというよりも、思い通りにいかない世界へ対しての癇癪の様にも感じる。まるで、自分の感情を押し付けることしか知らない子供のようだと感じると同時に、もし本当にそうだとしたら、彼にとって、この世はずいぶんと生きづらいだろうなと感想を抱いた。

 

 

 「アスナの安全は俺が保証するよ。それにこれだけ高レベルなヤツが3人もいれば、今回の迷宮区は安全に突破できる。」

 

 だから、あんたは必要ないぜ。とキリトは続けた。

 

 それは致命的な言葉だった。もっとも、結論が既に致命的なのだから、例えどんな言い回しであっても、それは致命的な言葉であったに違いない

 

 

 「だ、黙れ!圏内とはいえ、このNPCはプレイヤーである私に攻撃したのだぞ!こんなものと行動を共にできる訳がないだろう!」

 

 「できるさ。少なくとも俺は、あんたみたいな無様を晒したりはしない。──なんなら試してみるか?」

 

 「なっ!このっ…雑魚プレイヤーが…!吐いた唾は飲めんぞ!」

 

 

 

 ニヤリと、不自然に上がった口角はそのままに、キリトは淡々とデュエルの申請を行った。

 その行動にクラディールも驚きつつも、彼は激情のままに、それを承諾する。

 

 

 

 だが、ちょっと待って欲しい。

 

 

 いつの間にか、キリトがクラディールと戦う状況になっている。余りにもトントン拍子に進む会話に、口を挟むタイミングを逃してしまったが、私のこの手に取った剣はどうしたらいいのだろうか。

 

 腑に落ちない。クラディールと戦いたいわけではないが、この状況に私の責任があるのは間違いない。ならば、その後始末は私が付けるべきのはずだ。

 

 

 「駄目よ。白野さん、貴女はプレイヤーと戦っちゃ駄目。お願い、今は言うことを聞いて」

 

 

 二人のデュエルに割って入ろうとした私をアスナが止める。

 

 

 意味がわからない。とはもう言わない。これだけ言われて、自分の置かれた状況を察するなという方が無理な話だ。

 

 

 岸波白野では駄目で、キリトであればいい理由。そんなものは、少し考えればわかってしまう。

 

 

 ──岸波白野はNPCだ。

 

 

 少なくとも、この鉄の城において、彼らプレイヤーは私をそう定義した。

 

 

 ムーンセルとは異なる、裁量なきAI。

 

 この世界に生きるものではなく、この世界を構成するもの。

 

 

 あぁ─。確かに、人を害なすNPCなど確かに不要である。

 

 もし私が、圏外で戦っていれば、それだけで私は『人を殺す可能性のあるNPC』だ。であれば、その結果に関わらず、私は処分されていた可能性が非常に高い。

 

 

 ──つまり、私はキリトに助けられたということか。

 

 とはいえ、キリトがクラディールに負ければ次は私が戦うことになるし、キリトが勝ったとしても「これはこれ。それはそれ。」と再度私に戦いを持ち掛けてくる可能性もあるのが。

 

 

 その場合の対応をなんとなく考えつつ、お互いに向かい合った二人の剣士を眺める。

 

 

 デュエルが了承されてから1分間のインターバルがあるとして、試合開始まではあと20秒ほど。

 

 クラディールは、既に剣を上段に構え、上体もやや前方に傾けられている。そこからどのようなソードスキルが発生するのか、或いは、己の剣技のみで期を待つのか、同じ両手剣使いとはいえ熟練度の低い私では皆目見当つかないが、いずれにせよ、突進の構えであるのは間違いない。クラディールの性格からして、強引な攻めを好みそうであるし、守りに入るのは悪手であるように感じる。──受けるのではなく、崩すカウンターを意識すべきだろう。

 

 反対に、キリトの背筋は伸び、剣はだらりと下げられたままだ。一見、下段に構えた受けの姿勢に見えなくもない。だが、受けるにしては後方に下げた足の踵が浮きすぎだし、下段の構えであれば、剣を持った手のひらがクラディールに向いていないのはおかしい。恐らくは中段か─いや、であればフェイントの効果が薄い。であれば上段、それも突進技の可能性が高い。

 

 

 現状、それ以上はなんとも言えない。互いの性格を熟知しておらず、手札すら知らない今の状況で、予想できるのは最初一手のみ。二手目、三手目どころか、一手目の結末すら、今の私には想像できない。

 

 

 だが、キリトはクラディールの突進を誘っているようだし、こと勝敗に関してはさほど心配する必要もないだろう。

 

 

 それにしても、キリトのフェイントは、明らかに対人戦の技術である。徹底して人対モンスターであるはずのこのアインクラッドにおいて、その技術はどこか異質でだった。

 

 

 キリト達が、この鉄の城を登り始めたのは約二年前であるらしい。二年間、それは何かを極めるには余りにも短い時間だ。真に攻略のみを望むのであれば、対人戦の心得など不要であり、時間の無駄でしかない。

 

 

 ならなぜ、キリトはその技術を修得したのか。

 

 

──決まっている、必要に迫られたからだ。

 

 

 おそらくは過去にあったであろう戦いを想像して、僅かに嘆息する。

 

 

 今キリト達のような、本来協力し合うべき状況であっても、人と人との争いは避けられないのか。

 

 であればそれは、失ったものに相応しいだけの価値のある戦いであったのか。

 

 

 『欠損は成果で埋めなければ意味はない。埋められぬというのなら──新たな欠損を』

 

 

───かつて、戦争を望んだ男がいた。

 

 人間の進歩が終わり、朽ちいくことが確定された世界で、再度人間が先へ進むために、そして、強いてきた犠牲に報いるために、人には戦争が必要であると。

 

 

 

──未だ私は、それを否定する術を持たない。

 

 

 あの時、トワイスの言葉を否定できなかった私は、それすら正しいのか分からないでいる。

 

 

 

 

 武器を持った二人の男は、ついにその地を蹴る。

 

 両者の選択は共に上段に構えた突進技だ。だが、このまま正面からぶつかれば、片手剣であるキリトは些か分が悪い。

 

 

 衝突は一瞬だった。

 

 

 ソードスキルをぶつけ合い、凄まじい音ともに交差した二人であったが、その体には幾分の損傷もない。

 

──ただ、クラディールの持つ剣だけは、その刀身が欠けていた。

 

 

 カランと、一拍遅れて何かがタイルを叩く音がする。

 

 

 

 

 正確無比に放たれたキリトのソードスキルが、クラディールの持つ剣の横腹を穿ったのだ。

 

 

 

 キリトの口元が幾つかの形を描き、クラディールは震える身体を抑えて降参する。

 

 

 確かに、武器がなければ私に制裁を下すことすら儘ならない。それをあの口論の中で思考し、狙って武器破壊を発生させたのだとしたら、キリトにはもはや称賛の言葉しかない。

 

 損失はクラディールの剣のみ。間違いなく、最小限の損失といえる。

 

 

──だが、折れたものは本当に剣だけなのか。

 

 いや、今回で私は、或いはキリト達は何を失い、そして何を得たのか。

 

 

 この世界で、何度目かも分からぬ人と人との戦いは終わり、剣士キリトは紛れもなく勝者である。

 

 だというのに、キリトもアスナもこの結末を誇っていない。

 

 

 恥ずかしくも、私はその景色を他人事のように眺めていた。

 

 

 なぁ、キリト。貴方達が得た成果は、本当に。

 

 

 『埋められぬのなら─新たな欠損を。』

 

 

 あぁ、そうか。

 

──確かに貴方達は正しい。こんな半端者など、NPC(人でなし)に違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迷宮区に至るまでの道中は、特筆すべきこともない平和で順調な道のりだった。

 

 

 というのも、昨日までと比べて、此方の戦力は圧倒的だったことが原因だ。キリトは言わずもがなであるし、アスナも、私の教育役は卒業とばかりにより攻撃的な動きをしている。

 

 それにこの二人は、怨めしい事にやたら息が合っているのだ。私は合わせるだけで精一杯だというのに。

 

 

 今も、アスナによって体勢を崩されたモンスターにキリトが追撃を仕掛けている。

 

 昨日、私があれだけ苦労したスイッチのタイミングだってキリトは一度で完璧にこなしてみせた。

 

 

 それに比べて自分の駄目さ加減にはややウンザリするが、それは最弱のマスターの面目躍如だ。

 

 もはや、私にとって劣等感は友達だ。こんなことで心が折れたりはしない。今出来ないことはこれから出来るようになっていけばいい。むしろ出来ないことに気付けたことは幸運なのだ。

 

 そうやって一つ一つ覚えていけば何時か劣等感と絶交できる筈だ。というか早く絶交したい。

 

 

 「いや、あんたも正直まだ一週間とはとても思えないぐらいだよ。前から戦闘をすることは多かったんじゃないか?」

 

 骸型のモンスターとの戦闘を終えたところで、キリトがやや呆れたよう笑いながら声をかけてくる。

 

 

 確かにと頷く。考えてみれば戦ってばかりだった。とはいっても、私は後方支援だったため直接剣を持つのことはなかったのが。

 

 それでも、英雄達の戦いを間近で感じていた経験は確かに生きている筈だ。私としても、もっと良く思い出してその技術の一部でも模倣できたらと思うのだが、いくら思い出そうとしても印象に残っているのは戦いの前後や、何でもない日常ばかり。

 

 肝心の技術はこれ以上参考にしょうがない。あんなに注意深く観察していたのだから、もうちょっと覚えててもいいと思うのだが…。

 

 

 なるほどと、キリトが頷く。

 

 私の後方支援という話と、昨日のコードキャストの情報繋がったのだろう。

 

 「白野さん。これでも最初は酷かったんだから。剣の重さに引っ張られてて、振ってるっていうより振り回されてるって感じだったもの」

 

 当時を思い出したのか、アスナは薄く笑みを浮かべながら私をみる。

 

 そんなに酷かっただろうか。確かにコツを掴むまでフラフラしていたのは間違いないが。

 

 「でも白野さんは、なんていうか相手の行動を予想するのが上手いのよね。加えて反応速度も速いから、相手よりAGIで劣っても先手を取れるし」

 

 「へぇ、そりゃ凄いな。やっぱり、しばらく後ろからみてるとそういうのもわかるようになるものなのか?」

 

 

 うーん…。とキリトの質問への返答にやや窮する。

 私は元々得意であったから、その辺りはなんとも言えないのだ。

 

 「なら、白野は後方支援としてもエリートだったわけか」

 

 そんなの誰にでも出来ることじゃないだろう?と何故かやや得意気に少年が言う。

 

 

 だが、その言葉は余りにも的外れである。

 

 いや、私など全然エリートではない。特に最初なんて、自他共に認める最弱のマスターだった。

 

 

 「マスター?」

 

 キリトが近場の岩に腰掛けながらいう。その視線はアスナに向いていて、これ幸いと辺りを見渡せば、いつの間にかセーフティエリアに辿り着いていてやや驚く。

 

 「ええ。白野さんは元々マスターって呼ばれる役職だったらしいの。私も詳しいことは知らないけど、聖杯…戦争?ってヤツに参加してたんだって。」

 

 ね?と私に確認をとるアスナに頷くことで肯定してみせる。だが、キリトは解せないとばかりに眉を潜める。

 

 「聖杯って…あの聖杯のことか?」

 

 

 あぁ。人類史を克明に記録するアーティファクトであり、神の遺した自動書記装置。過去の全て記録し、現在の全て観測し、望んだ未来を描きあげる七天の聖杯。あの聖杯である。

 

 

 

 「……………うん?」

 

 

 

 

 それより、私はキリト達の話をこそ聞いてみたい。キリト達のいる地上の話だ。アスナの話では、特別荒れ果てた荒野とかではないようだし、キリトやアスナぐらいの年代だとやはり学校とかに通っていたりするのだろうか?

 

 

 「学校を知ってるの?」

 

 私の質問に、アスナは驚いたように声をあげる。

 

 

 知っているとも。何を隠そうこの私、一時期通っていたこともあるのだ。

 

 ドヤァと、腰に手を当てて胸を張る。それは、私の自慢の一つなのだ。

 

 

──例え、あの日常が、脱け出すために作られた偽りの日々であったしても、私の胸に仕舞われたこの思い出は、今でも色褪せることのない幸せな宝石の一つだ。

 

 

 だからこそ聞きたい。アスナやキリトがそこでどんな風に生きていたのか。

 

 

 目の前は二人は、驚いた表情のままお互いの顔を見て、仕方がなさそうに破顔した。

 

 

 「そんなに面白くもないわよ?白野さんがどうだったかは知らないけど、私は女子校だったし。習い事も多かったから放課後に友達と遊んだりとかはなかなか出来なかったもの。」

 

 

 習い事…。アスナは習い事をしていたのか。

 

 習い事と聞いて、以前アーチャーに弓を習った事を思い出す。初めての射がたまたま中ってしまい、気を良くした私が反対を押しきって弓矢をアリーナに持ち込んだのだ。

 無論動く敵を射抜く事など出きるはずもなく、むしろ近くにいたアーチャーの頭に突き刺さった。

 

 見事落武者の完成である。いや、あの時の表情は呪い武者と言うのが妥当か。

 

 あの時は本当にビックリした。あの時ほどアーチャーが霊体で良かったと思ったことはない。今更だけど死んでてくれてありがとうアーチャー。

 

頭を左右に振って、横道に逸れた思考を追い出す。今はアスナの話だ。

 

 

 「き…弓道はやったことないかな。塾とかピアノとか…茶道とかだったし。キリトくんは?」

 

 アスナが隣で居心地が悪そうにしていたキリトに話を振る。

 まさか、自分に話題が回ってくるとは思ってなかったのか、キリトは手をワタワタさせながら、えっあっいや。と意味のない言葉を発する。

 

 「あー、俺は小さい頃に剣道をやってたぐらいかな。」

 

 「そうなの?」

 

 「あぁ。家の離れに道場があってな。昔はそこでやってたんだ。」

 

 

 「なんだか意外ね。ずっとゲームとかしてたもんだと思ってた。」

 

 「否定できないのが辛いな…。確かに剣道を辞めてからはそんな調子だったよ」

 

 肩を竦めるアスナと、肩を落とすキリト。

 

 私の中で、ゲーム好きといえば慎二だ。ならキリトも慎二と同様にゲームチャンプを目指していたりするのだろうか。

 

 「いや、俺はあんまりPvP─プレイヤーとプレイヤーが戦うのがメインのゲームはやらなかったから」

 

 その分ランキングには入りたいと思ってたけどな。とどこか遠くに見ながら呟く。

 

 

 その返答を咀嚼し、ふと思ったことをそのまま口にした。

 

 なら、キリトは何になりたいと思っていたのか

 

 

 「何にって…。」

 

 何をしたかったのかでもいい。何かを学ぶのであれば、それなりの理由がある筈だ。

 

 「あーいや、何かになりたいとか、何かをしたいとかそういうのは特になかったな。」

 

 頭を掻きながら、ややばつが悪そうにキリトは言う。

 

 少し意外である。でもそうか、そういったことも含めての『勉強』であったのかもしれない。

 

 アスナもそうなのだろうか?

 

 「私は──いえ、私もそうね。まだ、自分がやりたいことは見つけれてなかったから」

 

 アスナの言葉に僅かな違和感を覚えながらも、そんなものかと頷く。

 

 ならば勉強なんかは、さぞ苦痛であっただろう。目指すものが明確でなければ、その為の努力など必要性すら感じられないに違いない。

 

 「まぁ、勉強は好きじゃなかったな。」

 

 当然と言うように、キリトも笑いながら答える。

 

 「でも、俺も学校は好きだったぜ。気づいたのはこっちに来てからだけどさ」

 

 

 誰だって、当たり前のものに感謝などしない。望まずとも与えられ、努力などしなくても日常であり続ける。そんなものがいくら尊いのだ言われても、それを本当の意味で理解することなど出来はしない。

 

 手が届かないから美しく。儚いからこそ尊いのだ。

 

 

 キリト達は幸運である。日常の幸せを知って尚、その日常に戻れるのだから。

 

 

 僅かに羨む心を、口の中で転がした。これは口に出すべきものではない。ただそのまま飲み干すには苦しくて、口に広がる嫉妬の味を感じながら、それが溶けてなくなるを待つ。

 

 

 

 「そういう白野さんはどうなの?どうして聖杯戦争に参加してたの?」

 

 「いやいや、先に聖杯戦争が何かを教えてくれよ」

 

 

 あぁ、そういえば詳しいことを話していなかったの思う。

 

 聖杯戦争は、言ってしまえば聖杯の所有者を決めるための殺し合いである。総勢128名のマスターが、最後の1人になるまでトーナメント形式で戦う。言葉にすれば、ただそれだけでしかない。

 

 「それは…」

 

 そのままに伝えれば、キリト達が快く思わないのはわかっていた。だが、醜い部分を隠してしまうことは私が奪ってきた命への冒涜のように感じてた。

 

 予想通り、なんとも言えない表情をするアスナとキリトだったが、ややあって再度口を開いた。

 

 

 「その…聖杯の所有者になるとどうなるの?」

 

 

 聖杯は万能の願望器だ。所有者のありとあらゆる願いを叶える。

 

 「じゃあ…。白野さんは、その…聖杯に何を願ったの?」

 

 

 

 

 私は──私が願ったのは、友の地上への帰還だ。

 

 

 「それだけ?」

 

 

 あぁ、それだけだ。それしか願うことが出来なかった。

 

 

──もう一つの願いは、最後の最後で正しいのか分からなくなってしまったから。

 

 

 「なんだか欲のない話だな。ついでに永遠の命とか、巨万の富とかその辺りも叶えておけば良かったのに」

 

 「それはあなたが現金過ぎるんです。」

 

 

 キリトの無邪気とも取れる発言を、アスナがピシャリと言い返す。

 

 

 どこか滑稽なその光景に笑みを浮かべながら、ならばキリトだったらどんなことを願うのかと問う。

 

 

 「俺だったら、そうだな…昨日のシチューを一生分欲しい!」

 

 

 「キリトくん…。」

 

 それでは、負けていった他の参加者が浮かばれまいて…。

 

 

 どうしようもない食欲剣士は置いといて、同じ質問をアスナにする。

 

 

──アスナであれば、聖杯に何を願うのか。

 

 

 うーん…。としばらく考えるように唸り、そして恥ずかしそうに、

 

 「今は、地上へ戻りたい。なんて願っちゃうかも知れないわね」

 

 

 向こうでやりたいことがたくさんあるのだ。とアスナは続けた。

 

 「もう2年も離れちゃったから、今からどれだけの事が出来るかわからないけど」

 

 

 「……アスナ」

 

 

 それは、この世界からの逃避ではない。アスナの向き合うべきものが、あちらにあるというだけの話だ。

 

 

 ──であれば、休憩はここまでだ。

 

 

 「え?」

 

 

 突然立ち上がった私をアスナが見上げる。

 

 

 

 アスナの願いに聖杯など必要ない。

 

 地上を2年も離れたというが、見たところアスナはまだ成人すらしていない。

 まだ、何者にもなっていないアスナは、何にでもなれる筈だ。少し出遅れた程度、気にするほどロスではないだろう。

 

 

──進もう。アスナやキリトが、本当の剣士になってしまうその前に。

 

 

 鉄の城など、人間には不要である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「うわあああああ!」

 「きゃあああああ!」

 

 

 無理。無理である。

 

 迷宮区最深部にて待ち構えていた蒼い目の悪魔から背向けて走る。

 

 

 ──聞いてない。あんなのなんて聞いてない。あんなの巨大化した呂布ではないか。

 

 なんて、ラニに聞かれたら怒られそうなことを考えながら、

 

 

 ──ホントに誰か、サーヴァントとか連れて来て欲しい。

 

 

 

 アスナにもうしばらくこの世界にいてもらおうと、私は予定の軌道修正をした。

 

 

 



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0-6 幕間は落ち──

 

 

 

 「あはは、やー、逃げた逃げた!」

 

 

 

 

 

 床にぺたりと座り込んだアスナは、愉快そうに笑った。

 

 迷宮区の中程に設けられた安全エリアの壁際にへたり込みながら、肺に溜め込んだ空気を一度に吐き出した。

 

 

 その横では、こちらも愉快そうに笑ったキリトが、マップで状況を確認している。

 

 

 往路の際は、私達が休息をとっているこの安全エリアから最深部までは約一時間程度掛かっていることを考えると、私達は少なくと10分程度走り続けた計算になる。

 一度はフロアボスの目前までたどり着いたというのに、ずいぶんと戻ってきてしまったものだ。

 

 

 

 まぁ3人で戦うとか正直無理だし、いずれにせよ引き返す必要はあったのだから、ボス部屋の位置情報を早急に持ち帰る私達は、非常に仕事のできるパーティーといえる。

 

 

 あぁ、本当に良い仕事をした。後は、私たちの情報をもとに結成されたレイドが、ボスを倒してくれるのを待つだけだ。

 

 

──これでしばらくのんびり暮らせるな、アスナ。

 

 

 「そんな訳ないでしょ。私達だってあれと戦うんだから」

 

 

 アスナは呆れたように笑って、

 

 

 「あれは苦労しそうだね…」

 

 と表情を引き締めた。

 

 「そうだな。パッと見、ボスを武装は大型剣1つだけど特殊攻撃ありだろうな…。白野はどう思う?なんか知ってるか?」

 

 

 そのキリトの言葉に首を傾げる。

 

 あの怪物について知ってること……。

 

 

 

 いや、知らんがな。

 そんな言葉が喉まで出かかった。だが、キリトの期待するような目を見て、なんとなく即答するのは憚られた。

 キリトの表情をみるに、明らかに何かを確信しているようであるし、思い当たる節がないのは私がなにかを、忘れているだけなのだろうか。

 

 うーん…うーん…と、いくら首を捻ってみても心当たりは何一つない。

 

 

 

 あの怪物については何も知らないが、山羊の頭を持つ悪魔はあまりにも有名である。

 

 名はパフォメットと言ったか。キリスト教の悪魔の一人で、グリモワールに記されたサタナキアと同一視される。同時に聖母マリアの反転した姿とも言われており、タロットにおいて、大アルカナの15番に描かれた悪魔はパフォメットだと考えられている。そして、その意味は『暴力』『激烈』『宿命』そして『黒魔術』。

 

 

 どうだ?とキリトの表情を伺う。私は聖杯戦争に参加していただけあって、歴史や伝説について人よりやや詳しい。

 確かに、伝説上の生物を模したモンスターであるならば、由来するモンスターの死因や弱点が、そのまま引き継がれている可能性は充分にあり得る。ならばこの雑学が攻略に役立つ可能性も充分に──

 

 

 「お…おう。勉強になったよ。」

 

 

 

 殴るぞキリト。

 

 

 頑張って知識を絞り出したというのに、キリトはやや引き気味だ。思わず、オイと不満を口にした。

 

 

 「ちっ…ちがっ!」

 

 慌てて手をワタワタさせ始めたキリトをじっとりと眺める。

 

 

 

 とはいってもキリトも私を辱しめる意図は無かったようだし、まぁいいかと結論をつける。だが、実際問題としてそれ以上私が知っていることはない。あれについて情報を集めるのであれば、主街区で聞き込みを行うしかないと思うのだが。

 

 

 「そうね。情報収集は当然行うとして、後は何度か実際に戦ってみないと…。」

 

 

 「あ…あぁ、いずれにせよ、盾持ちが10人は欲しいな。」

 

 

 攻略に参加出来そうなプレイヤーを数えているのだろう。キリトはなにやら人の名前を呟きながら右手の指を順に折っていく。

 ややあって、漸くその指が一往復したところで、アスナが、そういえばと、言葉を発する。

 

 

 「キリト君はどうして盾を使わないの?」

 

 

 アインクラッドでの戦闘は特殊だ。その生死はヒットポイントに依存するため、首を切っても死なないことがあれば、剣先で突くだけで命を奪うこともできる。

 であれば、重要なのは流動性のある必殺ではなく、固定的な有効打であり、それはつまりはどれだけ効率的にソードスキルを当てるかを追求すべきだということだ。

 

 つまり、キリトのような片手剣でのヒットアンドアウェイは、このアインクラッドのシステムと相性が良くない。

 

 無論、敵によってはヒットアンドアウェイの方が有効な敵も存在するが、であれば私のように両手剣を使った方が効率的だったりする。

 

 キリトがソロ故の都合も勿論あるのだろうが、それでもやや不合理的だ。

 

 

 怪しいなぁ…と、尚も追及するアスナ。視線だけで助けを求めてきたキリトに、此方からも怪しいなぁと迫っておく。

 

 そうなるとお手上げなのがキリトである。両脇から迫る私達から少しでも距離を取るべく、頭を寄りかかった岩肌にベッタリとくっつけながら、「スキルの詮索は…どうなんでしょう…?」と呟いている。戯れ言だ。もっと勢いでいかなきゃうちの姉御を丸め込むことはできない。

 過去の苦い思い出が、再び再現されることを想像しながらほくそ笑む。だが、

 

 

 「そうね。スキルの詮索はマナー違反だもんね」

 

 予想に反してアスナはバツが悪そうに引き下がった。

 

 

 「学校での事とか聞いちゃったから、ちょっと変になってたのかも。ごめんなさい」

 

 

 その言葉に私は首をかしげる。

 

 はて、私はアスナにスキル構成を全て言わされたのだが…?

 

 それはそれで肩透かしを食らったような顔をしているめんどくさい男は一旦置いておき、アスナに過去の暴挙の詳細を問う。

 

 

 「それは貴女がいつの間にか瞑想とか取ってるからでしょ!」

 

 

 「だからあんた今も座禅組んでるのか!」

 

 

 二人の予想以上の勢いにたじろぐ。いや、ポーズをとるだけでバフがつくなんてお得だと思ったのだ。実際に取得してみると想像以上に使いづらいスキルだったが。

 

 だが、私はまだ諦めていない。いつか戦闘中に、『μ'sの加護を!』とポーズを決めてみたい。

 

 

 

 渋々足を崩しながら、ふと、ガチャガチャと金属同士がぶつかる音がするのを感じた。

 

 その音源─下層側へと続く出入り口に視線を向けると、そこにはぞろぞろと上がってくる6人プレイヤーの姿があった。

 

 

 「おお、キリト!しばらくだな」

 

 その先頭を歩く長身の男は、キリトの顔を見たとたんに、笑顔になり、嬉しそうに駆け寄ってくる。

 

 「まだ生きてたのか、クライン」

 

 「相変わらず愛想のねぇ野郎だな。それより、今日は珍しく連れがいるの…か……」

 

 

 キリトに合わせて立ち上がる私達を見て、クラインと呼ばれた男は目を見開いた。

 

 

 「アスナとクラインは会ったことあるだろうけど一応紹介する。こっちはクライン、ギルド《風林火山》のリーダーをやってる。んで、《血盟騎士団》のアスナと、岸波白野だ」

 

 キリトが互いのことを紹介するも、肝心のクラインは目を見開いたまままさに心ここにあらずといった感じだ。口閉じろ、口。

 

 「こっこんにちは!!くくクラインというものです24歳独身」

 

 訳のわからないことを言い出した、くくクライン(24)がキリトに脇腹を肘打ちされているなか、今度は《風林火山》のメンバーが代わる代わるに自己紹介をしてくる。何てったって勢いが凄い。みんな若いなぁ。

 

 「ま、まぁ悪い連中じゃないから。リーダーの顔はともかく」

 

 キリトの軽口に、今度はクラインが足を踏みつける。そのどこか滑稽な二人の姿に、アスナは顔を綻ばせた。

 

 

 「ちょちょっと来いキリト!!」

 

 不意に、我に返ったクラインがキリトの腕を掴み、フロアの隅へと引っ張っていく。

 チラチラと此方の様子を伺いながら、内緒話をするように話す二人だが、いかんせん声が大きい。やれ『どういうことだ』だとか、『どっちが本命だ』だとか、下世話な会話が筒抜けである。私はアスナと目を合わせた後、こちらへ苦笑いを向ける《風林火山》のメンバーへと、肩をすくめて見せた。

 

 

 

──不意に、また新たなプレイヤーの集団がクライン達と同様にやって来るのを感じる。

 

 金属製の鎧がぶつかり合うガチャガチャとした音の発生源を見れば、統一されたプレートメイルの集団がそこにいた。

 

 

 こそこそと騒いでいたキリト達も口をつぐみ、フロア全体の空気がガラリと変わった。先程までの弛緩した雰囲気からやや緊張感のはらんだものになる。

 

 「ありゃ軍の連中だぜ」

 

 やや速歩きで戻ってきたキリトとクラインがいう。

 

 

 あぁわかっている。先程も見た顔だ。

 

 ここくるまでの間、私達は一度《軍》の集団と遭遇していた。遭遇…とはいっても、私達は隠れてやり過ごしたため、向こうからすれば今が初対面ではあるのだけど。

 

──もっと浅い所で引き返すと思っていたのだが。

 

 彼らはずいぶんと長い間攻略には参加していなかったらしい。ならば、ここに至るまでの精神的な疲労は並でなかったであろうに。

 

 横目に《軍》の連中を伺う。遠目に見ても、彼らの疲労が限界なのは明らかである。横目なのは、目を合わせると『何見とんじゃわれぇ』と、絡まれそうで不安だからだ。──だと言うのに、集団のリーダーらしき男が、こちらへずんずんと歩いてくるではないか。

 

 

 思わずうへぇと舌を出したくなる。とはいっても、私が彼らに良い印象を抱いていないのは、アスナ達から聞いた話が問題なのであって、実際に話してみれば悪い人達でも無いかもしれない。私が直接話すわけでもないのだし、となんとか前向きに捉える。

 

 

 兜を外し、私達の正面に立った男は、全員の顔を順に睨み付けた後、ただ一人一歩前に踏み出したキリトに向けて口を開く。

 

 

 

 

 「私はアインクラッド解放軍所属、コーバッツ中佐だ」

 

 

 

 

 

 ……うへぇ。

 

 

 

 「キリト。ソロだ」

 

 第一声から心が挫かれた私は、なんだか名乗る気は起きなかった。だが、向こうもこちらの素性になど興味はなかったのだろう。

 

 コーバッツは小さく頷くと、なぜか偉そうな口調で訊いてくる。

 

 「君らはもうこの先も攻略しているのか?」

 「…ああ。ボス部屋の手前まではマッピングしてある。」

 「うむ。ではそのマッピングデータを提供して貰いたい」

 

 当然、とでも言いたげなコーバッツに眉を潜める。

 

 だが、この場において、最も早く反応したのはクラインであった。

 

 「な…て…提供しろだと!?てめぇ、マッピングする苦労が解っていってんのか!?」

 「我々は君ら一般プレイヤーの解放のために戦っている!諸君らが協力するのは当然の義務である!」

 

 

 「て、てめぇなぁ……」

 尚も言い募ろうとするクラインの手を引くことで止め、キリトに視線だけで合図する。

 

 

──マッピングデータを渡すべきだ。

 

 

 無論、彼の言い分に思う所がないわけでもないが、私達は別に敵というわけではないのだ。加えて、先程クラインが噛みついたように、マッピングには相当な労力を要する。─今の彼らがこれ以上マッピングを続けて、無事に帰れる様にはとても思えなかった。

 

 

 キリトは僅かに頷き、コーバッツへ向き直る。そして、手際よくマップデータを送信する。

 

 「協力感謝する」

 

 キリトから送られたマップデータを表情一つ変えず受け取った男は、くるりと後ろを向いた。

 

 その背中にキリトが声を投げ掛ける。

 

 「おい、ボスにちょっかい出す気ならやめといたほうがいいぜ」

 

 

 その言葉に、コーバッツは足を止める。それは彼にとって侮辱の言葉であったのか、僅かにこちらへ向けた相貌には、怒りがありありと浮かんでいた。

 

 「……それは私が判断する」

 

 それ以上、何かを言うことはしなかった。それが無意味であることを、言われずとも理解できたからだ。

 

 

 コーバッツが部下を引き連れ、安全エリアから出て少したった頃。丁度、彼らの鳴らす金属音が微塵も聞こえなくなった時だ。私の隣に立つクラインが気遣わしげな声で言った。

 

 「…大丈夫なのかよあの連中…」

 

 その懸念は、恐らくはこの場の誰もが抱いていることだ。普通に考えれば、或いは、定石に則れば、今の状況でボスに挑むなどあり得ない。だが、あの男には、それすら言い切れないある種の危うさがあった。

 

 

 「……一応様子だけでも見に行くか…?」

 

 キリトの言葉に、私を含めた皆が頷く。

 

 

──決まりだな。と上層へ至る出口へと歩き出したキリトの背中を、私達は追い掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ひょっとしてもうアイテムで帰っちまったんじゃねぇ?」

 

 

──まずい。

 

 

 おどけたようなクラインの発言を聞きながら、私は─否、恐らくは皆が現状を楽観視できないでいた。

 

 

 あれから30分。真っ直ぐに最深部へ進み続けた私達だったが、《軍》の連中と再び会うことはなかった。

 マップデータは渡した。であれば、彼らも迷うことなく最深部へと向かう筈だ。

 引き返していないのか、或いは、わざわざ高価なクリスタルを利用して帰ったのか。あのコーバッツがどちらの選択肢を取りそうかと言えば、それは前者のような気がしてしまう。

 

 

 「ぁぁぁぁぁ───!!!!」

 

 

 そして、そんな予感は最悪の形で的中した。

 

 フロアを微かに響き渡る絶叫。それは私達よりも深部から響いてきていて──この先には、フロアボスの部屋があった。

 

 

 瞬間、速足で歩いていた私達は、示し合わせたように疾駆した。風のように駆けながら──敏捷で勝るアスナとキリトが、私達を引き離していく。

 

 

 最高速を保ったまま、一度ボスの下までたどり着いている私がクライン達のやや前を走り、地形に疾走を邪魔されないルートをガイドする。

 

 既にその背の見えないキリトとアスナを追いながら、迷宮区のマップを脳内で思い描く。

 

 

 

──次、次の角を曲がれば、もう扉が見えるはずだ。

 

 

 逸る気持ちを抑えつつ、ただ脚を動かし続ける。きっと、既に取り返しのつかない事態は起きている。─それでも、もう手遅れであったとしても、この脚を止めることだけはしたくない。

 

 

 

───果たして、地獄の門は開かれていた。

 

 

 門の先では、地獄の主が君臨する。軽く3メートルを越えるその巨躯と山羊の頭を持つ悪魔。

 

 その周囲には蒼い炎が煌々と燃え、ただでさえ青いその悪魔の表皮を際立たせる。

 

 円を描くように置かれたその蒼い炎と、石畳の床は、さながら儀式場を連想させた。──何者かに召喚された悪魔が、契約の対価に人間の魂を求めるように。

 

 

 

──状況は!?

 

 先にその場までたどり着いていたキリトとアスナに短く尋ねる。

 

 キリトは悪魔の動向を気にしながら私達に状況を伝えてくれた。

 

 

 「最悪だ。《結晶無効化空間》になってるらしい!ローテも崩れてる。もう──いや、このままじゃ全滅する」

 

 

 ──っ!!

 

 キリトの言葉に絶句する。それでは、転移アイテムは愚か、回復用のクリスタルすら使えない。

 

 

 その言葉を聞いたクラインは、途方に暮れたように呟く。

 

 「な……何とかできないのかよ…」

 

 

 その言葉にキリトは唇を噛み締めた。当然だ。私達が切り込むことで、彼らを助けることはできるかもしれない。

 だが、それでは犠牲になる人間が代わるだけだ。このフロアが《結晶無効化空間》とわかった今、盾持ちが15人は欲しい。それをこの人数でなど無謀だ。たちまちに瓦解して、すぐに《軍》の二の舞になる。

 

 

 故にこそ、キリトは何も言えない。《軍》を見殺しにすると決めることも、私達に死ねと言うことも、人一人が判断するにはあまりに重い選択だ。

 

 

 

 

 

 

 

───だがそれは、通常であればの話である。

 

 

 

 

 

 

 ふと、キリトの縋るような瞳と目があった。

 

 その瞳は揺れ、どこか迷子の子供を想起させる。

 

 

 何かを言われた訳ではない。ただ、その意味は痛いほどよく理解できた。ここで誰も死なず、誰も殺さず、そんな方法があるとしたらそれは──。

 

 

 私はキリトに何も言われていない。キリトは迷い、躊躇し、今なお何も言えないでいる。だから─

 

 だから、そう、私はキリトに『コードキャストを使え』など言われていない。

 

 

 キリトと目を合わせたまま、私は微笑んでみせる。

 

 

──大丈夫だ。と言葉にぜずに、そう告げた。

 

 

 キリトは大きく見開いて、不思議と少し枯れた声を出した。

 

 

 「…白野?」

 

 

 私が、アイツを引き付ける。その間に、《軍》の人達を救助して欲しい。

 

 

 「白野さん!?何を!!」 

 

 「おめぇなにバカなことを!!」

 

 

 アスナの声も、クラインの制止も、私の手を掴もうと伸ばされたキリトの腕すら無視して、私は地獄へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 



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0-7 舞台裏では演者が歌う

本日二話目


 一歩そこに踏み入れば、それだけで意識は切り替わる。

 

 今すぐにコードキャストを使い、悪魔──グリームアイズの動きを止めるのでは駄目だ。

 この鉄の城において、コードキャストには、副作用がある。一度使えば、私は痛みで動けなくなるのだから、使えるのは一度。先に、コーバッツがグリームアイズを諦めてくれなければ話にならない。

 

 

 「総員!突撃!!」

 

 

──このっ!!

 

 

 悪魔の向こう側では、隊列を組み直したコーバッツが、再び突撃を選択していた。

 

 

──予定では、ダメージ覚悟でグリームアイズの背中にソードスキルを打ち込み、ターゲットを私に移そうと考えていたが、どうやらそういう訳にもいかなそうだ。

 

 それでは、どう考えても間に合わない。

 

 

 

 グリームアイズの吐き出した眩い噴気が、《軍》の動きを阻害する。そこに悪魔の巨剣が突き立てられた。掬い上げるような逆袈裟斬り。技術も何もないゴルフスイングのようなそれは、それでも正面に立つコーバッツのヒットポイントを削り切るには十分な威力をもっていることだろう。

 

 悪魔の吐息に毒された男はかわせない。ただ目も見開き、目の前に迫り来る死を眺めることしかできない。

 

 

 グリームアイズの一閃。近くにいただけ《軍》のメンバーを吹き飛ばすほどのそれは、コーバッツを穿ち、その命を奪う───ことはなかった。

 

 

 「……ごっ!!」

 

 むしろ穿ったのは私である。剣の軌道に強引に割り込んだ岸波白野は、その一閃を背に受け、コーバッツに刃が届くよりも先に、吹き飛んだ私が激突した。

 

 名付けて『白野砲』である。ただし敵のソードスキルだ。

 

 

 コーバッツが奇っ怪な声をあげて転がる。この男のヒットポイントが減らなかったのは奇跡に近いだろう。

 

 

 

 3メートルにも届かない待避。出口からは離れ、その上たかが一歩分のそれは、私のヒットポイントの半分を捨て、そしてコーバッツの命を拾った上での成果である。

 

 ジクジクと攻撃を受けた背中が痛む。刃物で斬られる時特有の、体内を冷たいものが通過する感覚は何度経験しても慣れることはない。

 

 

 「なっなんのつもりだ貴様!!」

 

 

 そんなのあなたを助けるつもりに決まっている。避難誘導に従って大人しく迷宮区から脱出して欲しい。

 

 

 ふざけるな!!と騒ぎ続けるコーバッツを押さえ付けながら、グリームアイズを仰ぎ見る。

 

 先程の一撃と、コーバッツが前線から離脱したことで、隊列は瓦解し、喚き声を上げながら逃げ惑っている。

 

 更にその後ろでは、こちらに駆けて来るキリト達が見えた。その姿に頬が緩む。彼らが続いてくれなければ、私の行動は無駄に成りかねなかったから。

 

 

 ならば、一先ずあの悪魔を引き離さなくては。

 

 

 《こっちだ!!バケモノ!!》

 

 

 グリームアイズに向けて大声を上げ、その注意を引き付ける。《威嚇》と呼ばれるヘイトスキルだ。

 私の声に過敏に反応した悪魔は、逃げ惑う《軍》へ振るっていた手を止め、私に向けて咆哮する。

 

 

 「放さぬか戯け!!我々アインクラッド解放軍の邪魔をするな!!」

 

 

 ホントに邪魔だなコイツ!!

 

 未だに悪魔に立ち向かわんする男は、目の前の状況が見えていないかのように喚き続けている。

 

 

──だが、今は付き合ってられない。

 

 

 悪魔がこちらへ向かってくるよりも早く、コーバッツの鎧を強引に掴み、右側に突き飛ばす。

 圧倒的に筋力ステータスの勝る私に、コーバッツは成す術もなく転倒し、ガシャガシャと鎧を鳴らして転がった。

 

 

 《ついてこい!!》

 

 再度の《威嚇》。私が声をあげた瞬間に、悪魔は堰を切ったように荒々しく疾走する。

 

 その巨体に似つかわしくない、正に悪魔のごとき疾駆は、風というよりも、まるで一つの竜巻のようだ。

 

 次に、その刃をまともに受ければ、その時点で私は死ぬ。

 

 

 膝のバネを使って左へ飛び、振り下ろされたギロチンの刃を避ける。次いで、投げたされた勢いのままに全身を石畳に張りつけることで、頭スレスレを薙いだ必殺の刃をやり過ごした。

 

 そこで漸く、私は死から背向けて走り出す。

 

 

───もっと奥へ。もっと引き離さなくては。

 

 

 私が参戦して15秒で、向かい合ったのは10秒に満たず、実際にやりあったのはまだ5秒程度、まだ私は剣すら抜いていないというのに、自分が今も生きている事が奇跡のように思う。

 

 怖い。このまま戦闘を続ければ、いつか死に追いつかれることを理解出来てしまうから。

 

 

 

 ふと、背後に迫る死の足音が、一際大きく響いた。

 

 

───まずい!!

 

 

 振り向きながら、強引にソードスキルを発動させる。下手を打てば、隙を晒すだけの危険な行為だが、四の五の言ってられない。

 

 果たして、私は賭けに勝った。

 

 背後に迫っていたグリームアイズのソードスキル《アバランシュ》。クラディールも使っていたそれが、私の心臓を貫く寸前で、なんとかソードスキルを滑り込ませる。

 

 ガツン!と大きな音を響かせてグリームアイズの持つ斬馬刀をカチ上げる。

 私は相手の勢いを殺しきれず、後ろへゴロゴロと転がった。

 

 素早く、上体を起こし悪魔を見据える。ソードスキル同士をぶつけたことにより発生したブレイクタイムを終え、悪魔はこちらを静かに見下ろしていた。

 

 

───落ち着け。落ち着け。

 

 バクバクと暴れまわる心臓を宥める。私には技術がないのだから、こういう時こそ、最も冷静でなくてはならない。

 

 

 敵を見据え、観察しろ。予備動作を盗み、次の一手を予測しろ。

 敵はバーサーカー(強敵)であってジャバウォック(打倒不可能)ではない。

 なら──勝機は必ず──。

 

 

 グリームアイズの初動はさほど驚異ではない。筋力任せな奴の攻撃は、圧倒的な破壊力を持つ代わりに、必ず大きく振りかぶる。その姿から技の軌道や種類を予測するのは決して難しいことではない。

 だが、そこから繰り出される一撃は生半可な防御を貫通する。私のステータスと装備ではどれ程念入りに防御しても、その防御ごと切り捨てられることだろう。故に、私にGARD(受け)の選択肢はない。そしてそれは、一手欠けたジャンケンで、永遠に負けるなと言われているのと変わらない。

 

 

───であれば、常に先手を取り、奴から主導権を奪い取る

 

 足を前後に開き、腰を落とす。半身を引き、構えた剣は水平に倒しすことで、その切っ先を敵へと向ける。

 

 ふぅ、と息を吐き出し、飛び込むタイミングを伺う。目の前の悪魔は、そんな私を真似するように、ふるるぅ、と先程のダメージ判定のある噴気を吐き出した。

 

 

───あっ、ずるい。

 

 

 これでは、飛び込む事ができない。走り出すタイミングを外された私は、その息の有効範囲から外れるため、更に二歩後退する。──そしてそこに、再び死が迫る。

 

 

 だが、その動きは既に見ている。すくい上げる一撃をステップで回避し、上段に引き絞られた斬馬刀が放たれる前に、その胸の中心にソードスキルを放つ。

 

 

───一歩前へ。岸波白野はこの悪魔と戦える─。

 

 その身にソードスキルを受け、たたらを踏んだ悪魔が、鬱陶しい羽虫を払うように薙いだ刃を、仁王立ちで立つ脚の間へ飛び込むことで回避し──すれ違いざまにその両の脚を切り裂く。

 その巨体を回転させ、叩き付けるように振り下ろされた一撃は、悪魔と背中と共に私が回転することで、誰もいない石畳を破壊した。

 

 

──それはさながら、悪魔の周囲を飛び回る蝿……いや、まるで蝶のように、張り付き、少しずつダメージ与えていく。

 

 

 悪魔は弾かれたように逆回転。裏拳の要領で切り払われる斬馬刀を、これはかわせないと判断し、ソードスキルで弾き上げた。

 

 

 

 再び、ブレイクタイムと私の技後硬直が同時に発生する。─だが、悪魔が弾き上げられた斬馬刀の柄に、左手を添えたのが見えた。

 

 

 

 ───っ!!!

 

 

 

 肉体の硬直が解けるのと同時に、私は躊躇なく敵に背を向けた。片手であれだけの破壊力を持つ悪魔が、両手で剣を持つ。その事実から予想される未来は、あまりに不吉過ぎた。

 

 

 「グォォォォ!!!」

 

 

 その剣が振り下ろされたのは、私が後方へ跳んだのと同時で、

 

 

───その一撃は、正しく破壊と暴力の象徴であった。

 

 

 辺り一体の地形は大きく歪み、石畳は、クモの巣状に破壊された。掠りもしていないはずの私は、ただの風圧で吹き飛び、ヒットポイントを一割程度減らしている。

 

 

 インパクトの瞬間、床を波紋状の振動エフェクトが通過していったことを考慮すれば、あの一撃の凶悪性はその威力だけではなかったはずだ。

 

 

 

 

──未だ立つことが出来ていることを、幸運と捉えるべきか。

 

 

 

 

 だが、既に私の勝利は近い。《軍》の撤退が完了すれば私は逃げるだけでいい。

 

 

 

──これなら、コードキャストを使わずに済みそうだ。

 

 

 そうやって、悪魔を抜いて扉に辿り着く算段を組始めた所で──

 

 

 

 

 

 「白野ぉぉ!!!!」

 

 

 クラインの絶叫に思考が停止した。

 

 

 グリームアイズの向こう側。こちらへ向かって走るクラインを視界が捉える。

 

 

 

 だがなぜ、クラインはあんなにも必死にこちらへ走って来るのか。

 

 

 

 なぜ───クラインの前には剣を抜きこちらへ走る、コーバッツの姿があるのか。

 

 

 

 「おおおお!!!」

 

 コーバッツは雄叫びを上げながら、グリームアイズへ背後から斬りかかる。

 

 コーバッツの一撃は、不意を突く形で、その背中に命中した。ただそれは悪魔の怒りを誘っただけだ。

 

 

 「ゴァァアアア!!!」

 

 

 憤怒の叫びを洩らしながら、悪魔はその斬馬刀を、背後に振り抜く。

 

 横の一閃。コーバッツはなんとか左手に持った盾でそれを防ぐも、その一撃で盾は大きく弾き上げられ──第二撃、再度横に振り抜かれた刃を胴に受け、まるで野球ボールか何かのように水平に吹き飛んだ。

 

 

 

 コーバッツ!!!

 

 

 グリームアイズの相手は一旦クラインに任せる。彼の背後には、キリトとアスナの姿もあったから、万が一ということもないはずだ。

 

 滑り込むようにコーバッツのもとへ駆け寄る。

 

 

 急速な減少を続けていたコーバッツのHPゲージは、丁度赤く染まった辺りで、その動きを止めた。

 

 

 

──なにを考えてる!!!

 

 自分の口から発された声は、想像以上に厳しいものだ。

 

 スタンで動けないコーバッツの口に、回復用のポーションをねじ込みながら、尚もグリームアイズを睨み続ける男の顔を無理矢理こちらに向かわせる。

 

 

 「放せ!我々の邪魔をするな!!」

 

 ここにきて、それでも変わらないコーバッツの発言に困惑する。──なにが、彼をここまで頑なにさせるのか。

 

 

 男は、私の胸ぐらを掴む。その腕は微かに震えていた。

 

 

 「──なんだ…。」

 

 ぼそりと、男はなにかを呟く。

 

 

 「──漸く訪れたチャンスなんだ…、搾取するだけの我々に!ここで、今!!我々が奴を倒さなければ!!──でなければ、俺は…なんのために…!!」

 

 

 

 

 きっと答えは、なんて事ない簡単な話だった。

 

 

 

 《軍》の撤退をコーバッツが許さないと言うならば、コーバッツの撤退も《軍》の有り様が許していなかったのだ。

 

 

 《軍》は今、中下層の治安維持を行っているという。その『治安維持』という名目でなにが行われているのか、私は知らない。

 

 

──それでもそれは、コーバッツには耐えられないなにかだった。

 

 

 《軍》は、いつからそうなってしまったのか。おそらく、初めからそうではなかったはずだ──少なくとも、コーバッツが《軍》に加入するその時までは。

 

 

 少しずつ─そして確実に変わっていくギルドに、男は何も言えなかった。否、何度も何度も苦言を呈し、そしていつの日か諦めてしまったのか。

 

 

 いつしか、男は考えるようになる。

 

 

 『これは、彼等に対する俺達の尽力の対価なのだ。』

 

 

 だから、自分は間違っていないのだと。

 

 

 しかし、加速する《軍》の変化に、《軍》の尽力が、人々からの"見返り"に追い付かなくなったとき──男は、その負債を、来るかもわからない未来で返すと決めた。

 

 

 『我々は、いつの日かこの日々を終わらせる。だから、一般市民が我々に尽くすのは当然の義務なのだ』

 

 

 そう。その筈だ。

 

 だから、これだけ負債を溜め込んだ《軍》が、

 

 

 

 

 

───このままでは死ぬからと、撤退することは許されない。

 

 

 

 

 だから退けと、道を開けろと、目の前の戦士は慟哭した。

 

 

 

───考えてみれば、それは当然の事実だ。

 

 

 《アインクラッド解放軍》。25層で大きな被害を受けてから前線に出て来ていない大規模ギルド。そんなギルドがまた攻略に参加するとして、ぬくぬくと安全な狩りだけをしてきた者の内、誰がそれを希望するというのか。

 そんなのは貧乏くじだ。きっと誰しもが嫌がるはずだ。

 

 

 

───もしもそんな中、自ら志願した男がいるとすれば、

 

 

───それはきっと、どうしようもない義憤に駆られた、

 

 

───どうしようもない、お人好し(大馬鹿者)に違いない。

 

 

 

 

 「そこを退け。《アインクラッド解放軍》に撤退の二文字はない」

 

 

 その身体を、声を、死の恐怖に震わせながら、再度男は繰り返す。

 

 

 

 その男に、私は────

 

 

 

 

 

 「───断る。」

 

 

 

 

 

 何度も聞いた筈の自分の声を、何故か初めて聞いたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 「な──!!」

 

 

 今度は、私が男の胸ぐらを掴む。とはいっても相手は鉄の鎧だったため、押しつけるような形になったが。

 

 

 

───逃げるなよ。コーバッツ。

 

 

 死ぬとわかっていて、何も成せないわかっていて、それでも立ち向かうなど、そんなものは勇気ではない。ましてやコーバッツのそれは、蛮勇でも、義憤でも、義務感でも何でもない。

 

 

 そんなものはただの逃げだ。

 

 

 身を焦がす罪悪感から、これだけ自分を犠牲にすれば逃れられると──他の全てに恨まれても、自分にだけは、赦してもらえるのだと。

 

 それは、あまりに自分勝手で愚かな、現実逃避に他ならない。

 

 

 もしも本当に──赦されたいと思うなら、

 

 

 それは戦うべきだ。その手にある剣は、自決用の刃ではないのだから。

 

 

 

 触れてしまいそうな程の至近距離でコーバッツの目を覗き込む。その瞳は、僅かに揺れていた。

 

 

 

 

 「わ──私に、撤退の二文字は……」

 

 

 

────ある。

 

 

 ないのは、『敗北』だけでなければならない。そして、この鉄の城において、敗北とは即ち『死』である。

 

 

 例え、どれだけ凡庸で、英雄になんてなれなくても、

 

 

 死ななければ、何度でも立ち上がれるのだから。

 

 

 

 

───次の攻略戦には貴方も呼ぶ。鍛えておけよコーバッツ。

 

 

 

 そう言って、あぁ…。と短く告げるコーバッツから手を放す。男の頬を濡らす水滴を、私の手で強引に拭った。

 

 

 

 

───よし!なら早くここを脱出して…

 

 

 

 「白野さんうしろ!!!!」

 

 

 

 アスナの絶叫と同時、目の前にいたコーバッツに引き寄せられる。

 とっさの事に受け身も取れず地面に転がる。回る視界の端に、グリームアイズの斬馬刀を盾で受けるコーバッツの姿が見えた。

 

 漸く回復してきていたコーバッツのヒットポイントは、盾で受けたにも関わらず、その一撃で再び赤へと変色する。

 

 

 

 私は、地面を叩いて身体を弾き、とっさにソードスキルを発動させる。

 

 まずはこの悪魔の攻撃を止めなければ、取り返しのつかないことになる。

 

 

 

───っ!!

 

 

 私のソードスキルが悪魔に届くことはなかった。

 

 ソードスキル。振り切れば紅い三日月を描く私の一閃は、悪魔の胸に吸い込まれ───剣を持ってない左手に掴み取られていた。

 

 

 

───っ!!!

 

 

 再度振り上げられた斬馬刀に息がつまる。

 

 

 

 それが、振り下ろされれば、既に半分もない私のヒットポイントなど、容易く削りきってしまうだろう。

 

 そして、既に限界までヒットポイントを減らしたコーバッツでは、あの一撃は防げない。

 

 

 このままでは私が死ぬ。

 

 コーバッツが盾を持って割り込めば─やはりコーバッツが死ぬ。

 

 

 

 

 そんなもの、どちらも認められない。

 

 

 

 

 

 割り込もうとするコーバッツを蹴り倒し、とっさに大剣から手を放す。そして、

 

 

───コーバッツから投げ渡された片手剣を、振り下ろされた大剣との僅かな隙間に滑り込ませた。

 

 

 

 ガツンッ!と一際大きな衝撃と共に、高速で視界がぶれる。まるで先程のコーバッツの再現だ。その場から水平に射出された私は、床で肌を削りながら減速していく。

 

 

───コーバッツの剣が、悪魔の一撃に耐えきれず霧散する。

 

 

 

 素早く体勢を立て直し、悪魔へと視線向ける。早く助けに行かなければならない。あちらには──まだコーバッツが残っているのだから。

 

 

 

 《こっちだ!!》

 

 

 もはや何度目かもわからない《威嚇》。既に剣はこの手になく、徒手空拳で待ち構える私に──悪魔は頭だけをこちらに向けた。

 

 

 

─────え?

 

 

 その口が、薄紫色のブレスを吐き出した事が、私には信じられなかった。

 

 

 

───避けられない。それが敵の攻撃だと理解できた時にはもうどうしようもない距離だった。私は、『敵の攻撃が外れるかもしれない』なんていう馬鹿げた可能性にかけて、頭を低く抱え込む事しかできない。

 

 

 そこへ、黒い疾風が割り込む。

 

 「はぁっ!」

 

 

 ブレスの軌道に割り込んだキリトが──僅かにその軌道を上へと反らした。

 

 

 ブレスは私の頭上を越え、そのやや後ろに着弾、爆発する。

 

 

 

 その爆風を背に浴びながら、悪魔をみれば、グリームアイズとコーバッツの間にはアスナが立ち、悪魔を挟むようにクラインが刀を構えている。

 

 

 そして、キリトがその勢いのまま疾風の如く悪魔に迫る。

 

 

 

 

 だが、それでは、

 

 

 

───それではアレがくる。

 

 

 

 駄目だ!!そう叫ぶのが余りにも遅すぎた。

 

 

 

 「グォォォォ!!!」

 

 

 

 タロットにおいて、暴力を象徴するその山羊頭の悪魔は、斬馬刀を──両手で振り上げた。

 

 それは、一撃で地形すら変える、超強力な広範囲重攻撃。

 

 

 どうしようもない絶望の未来を──私は幻視した。

 

───死ぬ。皆死ぬ。

 

 

 動けないコーバッツが死ぬ。あの技を知らないアスナが死ぬ。アスナを助けようと走り出したクラインがしぬ。インパクトの衝撃でスタンになるキリトが死ぬ。

 

 

 

───あの一撃で皆死ぬ。

 

 

 

 

 

 

 コーバッツがアスナの前で盾を構えた。

 

 振り下ろされる軌道の正面に立つコーバッツをアスナが引いた。

 

 二人を遠くへ突き飛ばそうと、クラインが二人に向かって飛びついた。

 

 異常に気付いたキリトは、大声を張り上げた。

 

 

 

───なら、岸波白野は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その暴力は、音すら殺す。

 

 

 

 

 紅い閃光は視界を塗り潰し、その破壊は聴覚を殺した。その身体は余りの衝撃に数十メートル吹き飛び、文字通り蹴散らされたアスナ達は、それでも、自分のヒットポイントに僅かなダメージもないことに驚愕した。

 

 

 

 誰しもが、あの瞬間自らの死を確信した。それほどまでに、あの悪魔が放った一撃は理不尽なものだった。

 

 

 

 あり得ないことだ。あの一撃を承けて、僅かなダメージもないなど、決して。だが、この中で、結城明日菜だけは──この規格外を知っていた。

 

 

 

 《──────!!!!》

 

 

 

 『誰か』の声にならない絶叫が部屋全体に響き渡る。それは声だけは出すまいと口を塞ぎ、それでも漏れてしまったような余りに痛々しいものだった。

 

 

 皆がその音の発生源を見る。そこには

 

 

 

 

───徐々に黒く染まる左手を抑え悶える、岸波白野の姿がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

───世界から、自分の存在を否定されていく。

 

 自身を構成するデータの1ドット1ドットを、『これは違う。』『お前はエラーだ。』指先から分解されていく。

 

 その様は、この痛みは、まるで自らの腕をシュレッダーにかけているような───そんな正気を疑う痛みだ。

 

 

 痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 

 

 

 やめろ。止まれ。

 

 

 あぁ…。朦朧すると頭で、黒く染まった左手を見た。

 

 

───左手だけは、無くしたくなかった。

 

 

 

 

 「グォォォォ!!!」

 

 

 どこか遠くで、猛獣の雄叫びが聞こえる。

 

 

 

 

 「こっち向け───!!」

 

 

 「──!!白野さんの声が────る!!」

 

 

 

 冗談みたいな叫び声を聞きながら、私は僅かに顔をあげる。

 

 

───視界がボヤけて何がなんだかわからなかったが。 

 

 

 

 既に腕の痛みはない。ただ、全身を襲う強烈な倦怠感と、眠気が、もう、立つことを許してくれない。

 

 

 死の足音が迫ってくる。ただ今はそれすら心地いい。

 

 

 

 

───ふと、誰が私の頭を撫でた。

 

 

 「助かった。君のおかげで誰も失わずにすんだ。」

 

 

 朦朧とした意識に、その言葉だけはすんなりと入ってくる。

 

 

 その少年は、私の前に立つ。

 

 その手には──黒と白の二刀の剣があった。

 

 

 その姿に、なんだかとても安心してしまう。

 

 

 

───きっと彼なら大丈夫。

 

 

 

 その姿に、私は紅い外装を幻視した。

 

 

 



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1-1 In the moonlight

 

 

 

───────夢をみる。

 

 

 

 それはあまりに平凡な夢。

 

 背の高い建造物の並ぶ地上で、当たり前の日常を過ごす、そんな夢。

 

 いつだって隣にはアーチャーがいて、学校の教室に行けば慎二がいて、リンがいて、ラニがいて─キリトがいて、アスナがいて。生徒会室では、桜がいて、レオがいて、ユリウスがいる。

 

 

 そこでは、誰もが英雄ではなく、勇者ではなく、強者でも、弱者でもない。

 

 

 決して特別ではないそんな風景を。

 

 夕陽を浴びて燃える草花のような、そんな美しさを。

 

 

 

──────私は今も、夢に見る。

 

 

 

 

 

 

 

 草原を走る風が、私の頬を撫でる。

 

 

 夜闇を照らす月の光が、辺りをキラキラと輝かせ、ただ一人で立つ孤独を、まるで美しいもののように錯覚させられる。

 

 

 

 75層のスタート地点。アインクラッドの構造上、星空を見るにはその円周まで赴かねばならない。

 せっかくだからと、私こうして月を見上げていた。

 

 

 「どうかしたのか?白野」

 

 ふと、背後からそんな声がした。

 

 

 そちらに振り返り、背後で腕を組む。

 

 遠くへと想いを馳せていたこともあり、その挙動がいやにゆったりとしたものになったことを、私自身もなんとなく感じていた。

 

 

──月を見ていた。こちらに来てから、まだ一度も見ていなかったから。

 

 

 見上げていた月の光は、反対に私の背を照らし、私の表情に影を落とす。目の前に立つ少年の立ち位置では、おそらくシルエットしか見えていないだろう。

 

 その少年─キリトが小さく息を呑んだ。

 

 

 「──ここは、MO……じゃない、モンスターがいつ現れてもおかしくないんだ。早く戻ろう。」

 

 

──あぁ。今いくよ。

 

 

 一歩前へ踏み出す。惜しむ気持ちはまた次へ。76層へと上がる時までとっておこう。

 

 キリトの横まで10メートル弱。たったそれだけの距離で、空は鉄に覆われ、月から私を隠してしまう。

 

 

──キリト?

 

 キリトとすれ違って尚も、その場から動かないキリトを不審に思い、私は声をかける。

 

 

 「いや…。なんでもない」

 

 その言葉とは裏腹に、キリトの足が踏み出すことはない。

 

 

──先に行ってるよ。

 

 私は短く返す。きっと、先の戦いでキリトも思うことがあるのだろう。なら、一人の時間も必要だ。

 

 「白野」

 

 宙に浮かせた右足を、元の位置へと戻す。城の外から吹き込む風に、髪を乱されないよう抑えながら、キリトの方を向き直った。

 

 「悪かった。俺のせいで、辛い思いをさせた」

 

 

 はて、と私は首を傾げる。先程の戦いで、キリトの落ち度は無かったように思う。どちらかと言うと、コーバッツの謝罪が欲しいのだが。

 

 むしろ、私はキリトに命を救われている。感謝こそすれ、憤りを感じる道理はない。

 

 そう言うと、キリトは首を横に振った。

 

 「いや…、あれだけの間、一人で戦って生き残っていたことの方が奇跡に近い。俺達はもっと早くに助けに行かなきゃいけなかった。それに……、左腕のことも…。」

 

 

 肘から先が黒く染まった左腕を掲げる。自分の失態の結果を見られるのは少々気恥ずかしかったが、今さら無理に隠す必要も感じなかった。

 

 

 《アトラスの悪魔》。あの時、私が使用したコードキャストだ。命名の経緯までは知らないが、その魔術の原理は、所謂『ラプラスの悪魔』に近い。『ラプラスの悪魔』は、地球上の全てを分子単位で把握すれば、完全な未来予知が可能であるという学説だが、《アトラスの悪魔》は、そこに、現実の変換の要素が加わる。標的の攻撃を構成する要素を観測・解析し、その中枢を強制的に変換させることで、その現象をそのままに、こちらのダメージ数値を0にするコードキャストだ。

 

 言うまでもなく大魔術。それを片腕の犠牲だけで発動できたのならば、それは幸運という他にない。

 

 

───それに、この結果を悔いるには忍びないほどの、命を救う事ができたから。

 

 

 肘の断面から伝わる鈍い痛みも、その先の、ジェットコースターに括り付けられているような妙な不安感も、今は誇らしく感じていた。

 

 ふと、横を見れば、未だ罪悪感に濡れた表情をするキリトに、思わず笑ってしまう。

 

 

 あぁ。そういえば、私も最初はそうだったな。

 

 

 キリトの前髪をそっと撫でる。キリトの方がやや身長が高いから、少し間抜けな構図だ。

 

 

──私の方が、先輩だから。

 

 

 「え?」

 

 

 私の方が先輩だから、キリトが私に迷惑を掛けるのは、全然構わないのだ。まぁ、逆が余りにも多いから、私は気にしなくちゃいけないのだが。

 

 

 「先輩って…。あんた…、そんなガラじゃないだろ」

 

 キリトの額の前の髪を一房、ネジネジと弄っていた私の手を払い、こちらをじっとりと睨み付ける。

 

 

──そんな事はない。これでも私は保健室の後輩からよく慕われていて──。

 

 あっそんなことより、左腕が使えなくなったせいで両手剣が使えないから、余ってる片手剣を恵んで欲しいんだけど。

 

 

 「それは、先輩後輩以前の問題だろ!!」

 

 

 冗談だ。そういってキリトの肩を叩く。皆の所に行こう。キリトはいいが、コーバッツには謝罪させねば。

 

 

 「白野」

 

 宙に浮かせた右足は、止まることなく前へと踏み出された。既に、キリトも歩き出している。

 

 「──いろいろ、助かったよ」

 

 

 どういたしまして。

 

 

 その返事は呑み込んで、ただ笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 



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1-2 円卓のバガテル

誤字報告ありがとうございます。


 「…なるほど。状況は概ね理解した。一先ずは、お疲れ様と言っておこうか。」

 

 血盟騎士団本部。白と赤で統一された室内は、その色合いに反して、ひどく重苦しい空気か漂っていた。

 

 アスナから、74層攻略に係る経緯の説明を受けた後、その沈黙を破ったのは、《血盟騎士団》団長にして、『異質なスキルを使用するNPC』岸波白野を巡る一件の責任者、ヒースクリフであった。

 

 

 「状況を鑑みれば、恐らくは最善に近い結果だろう。失ったものは大きいが、得たものもある。君が悔いる事ではない」

 

 

 「そうですね。2名が亡くなったことは無念としか言えませんが、いずれにせよ75層攻略前に、副団長の言うコードキャストを確認したいと思ってましたし、なによりも《二刀流》の出現は大きい」

 

 「ええ。話を聞くに、アスナさん達が割り込んでいなければ《軍》のパーティーは全滅していたでしょうから、大きな功績ではないでしょうか」

 

 「ですがそれは結果論では?『岸波白野』を失う可能性が多分にあったことは事実でしょう?少なくとも来るべき時まで失うわけにはいかないのですから、再発防止の策を考えるべきではないでしょうか。それに、《二刀流》にしたって、あれはむしろ今まで黙っていたことが問題でしょう。そう考えれば、私達が得たものは余りに少ない」

 

 「確かに。最悪を避けるのであれば、押さえ付けてでも岸波白野を止めるべきだったのでしょうね」

 

 「それでは、《軍》の方々は見捨てるべきであったと?」

 

 「そうではなく──いえ、そうであったとしても、彼女を失うことが、この世界を終わらせる可能性を無くす事に繋がるのであれば、結果として救う命の数が違う。少なくとも、この時点で彼女に魔法を使わせるべきではなかった」

 

 口火を切ったヒースクリフに続くように、その場に集まった《血盟騎士団》の団員が口々に言う。実際に見ていた訳でもないのによく言えたものだと、アスナは下唇を噛む。責めるようにアスナへ視線を向けた男に、魔法ではなくコードキャストです。と意味のない指摘をする。

 

 「それで、副団長殿。今回一件の原因はどこにあったのです?貴女方に問題があったのか、それとも彼女の手綱はとても握れたものではないのか。」

 

 「それは──」

 

 「そんなこと問う必要もないでしょう。貴方はクラディールの報告を聞いてなかったので?私に言わせれば《岸波白野》が我々の味方であるという考えから疑問です。理由があればこちらにも刃を向けるNPCですよ。」

 

 「それでも、《岸波白野》の有用性は同時に保証されています。後何回使えるのかはわかりませんが、フロアボスの特殊スキルを完全に無効化できるスキルは、上手く使えば戦況を変える一手になり得る」

 

 そして、岸波白野にはそれを可能とする戦術眼があった。

 

──気持ちが悪い。とアスナは思う。岸波白野の話でありながら、誰も彼女の事を話していない。そんな今の状況が、アスナにはひどく醜悪なものに見えてしかたがなかった。

 

 本当に、この場に彼女を連れてこなくて良かった。なにも、不必要な傷まで負わせるべきではないのだから。

 

 

 「白野さんには、私達と同じように感情があります。こちらが善意で接すればそれを返してくれますし、悪意で接すれば嫌悪感を示します。目の前で困ってる人がいれば例えそれが見ず知らずの人間であっても手を差し伸べることもあるでしょう」

 

 

 喉から競り上がる激情は押さえつけ、努めて冷静に言葉を重ねる。

 

 「手綱が握れるかと言えば、それは握れないとしか答えようがありません。彼女は自分で見て、感じて、考えて、行動を行います。私が何を言っても、彼女がそれを正しいと思えば、私にそれを止めることはできません。ただ、彼女の倫理観は、私達とそう変わりません。意味もなく人を害することはないのですから、彼女を人として認め、かつ、友好的に接することが攻略における最も適切な判断ではないかと考えます」

 

 

 「それは、理由があれば我々にも牙を剥くと認めると?」

 

 

 「それはそうですが、そういうことではなく!」

 

 ギリと、アスナは歯を食いしばる。あれだけ言葉を重ねて、これだけ想いを口にして、それでも何一つ重要なことは伝わっていない。

 

 それこそ、岸波白野と会話をしているよりも、ずっと無機質な時間だった。

 

 

 「第一、副団長はその様に接した結果として、《岸波白野》にコードキャストを使用させる事自体を忌避しているではないですか。情が移ったのだと思っていましたが、違うのですか?」

 

 「そんなこと──!!」

 

 

 「やめたまえ」

 

 

 耐えきれず、遂に大声を上げたアスナを遮るように、ヒースクリフが制止する。

 

 「その議論は不要だ。少なくとも、今すべき事柄ではない。」

 

 

 「ですが団長。このままでは──」

 

 

 「我々の事情であれば、いくらでも修正がきく。ただ、あちらの事情はそういくまい。」

 

 

 アスナくん。とヒースクリフはその名を呼ぶ

 

 

 「私は今回の一件について、君の判断は間違っていなかったと感じている。あれは、一重に《軍》の暴走による失態だろう。故にこそ、私はこれからの話をしたい」

 

 ヒースクリフの淡々と話す様は厳かで、それは理路整然と、相手の虚偽を許さない。

 

 「その為には、まず前提を知らねばならない。岸波白野とは何者で、何が目的なのか、これを知らねば敵味方の区別などつくはずもない」

 

 

 「それは…」

 

 アスナが言い淀む。

 

 当然だ。そもそも、その回答をアスナは持ち合わせていないのだ。アスナにとって岸波白野とは、少しおかしな発言をする善意の協力者でしかない。

 

 

 「だがそれはあり得ない。」

 

 

 だがそれを、ヒースクリフは確信を持って否定する。

 

 

 「NPCであったとしても、自己保存の心理は働く。それが上位のAIであればあるほど、明確に死を意識するものだ。にもかかわらず、家族を捨て、命を削る。それが自身にとって無意味なことであるのなら、それはもはやNPCとして破綻している。ならば、その行為の果てに、彼女は何かを見ている筈だ」

 

 

 アスナは何も言うことができない。今までは、そんなこともあるだろうと納得してきた事柄を、論理的に有り得ないのだと告げられ、その言い分に一部でも納得してしまったから。

 

───かつて出会ったダークエルフの少女も、思えば。

 

 

 「質問を変えよう。」

 

 それはまるで、先の質問にアスナが答えられないことを予期していたかのように。

 

 

 

 

 「あの時──、74層の迷宮区で、初めて岸波白野と出会ったあの時、君が彼女から受けたクエストはなんだったのか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、アスナに依頼などしていないが?

 

 「まじか」

 

 

 50層に店舗を構えるエギルの雑貨屋の二階にて、疲れた様子のキリトに答える。私からすれば、むしろ何故そんな風に思ったのか疑問なのだが。

 

 「じゃあ、なんで白野は上層を目指すんだよ?」

 

 隣に座るクラインが、心底不思議そうに首を傾げた。

 

 だが、どうもこうもない。アスナやキリトが地上に帰りたいと言っていたからだ。クラインも同様に地上への帰還を望んでいると思っていたが、違うのだろうか。

 

 「そりゃ、俺だって、今すぐにでも帰りてぇさ。でもよ、それだと、お前さんに得がねぇじゃねぇか」

 

 

 口を尖らせて言うクラインにそんなことはないと返す。

 

 得るものは、きっとある。それはきっと、形のあるものではなくて、それが私を幸せにするのかはまだわからないけれど。

 

 

 それよりも、今はキリトのパパラッチ対策の話ではなかったか。

 

 「それな。ほんとそれ」

 

 「おめぇが話を脱線させたんだろ」

 

 「因みに、ここに泊まるなら一泊千コルな」

 

 壁に体重を預けたまま黙って話を聞いていたエギルが、キリトににやにやと笑顔を向ける。

 

 「誰がこんな所に泊まるかよ」

 

 けっと、吐き捨てるキリト。その様子を見たクラインが呆れたように口を開いた。

 

 「ただまぁ、教えようがねぇことで追っかけ回されてもたまんねぇよな」

 

 「そうなんだよ。せめて条件がわかっていればなぁ」

 

 

 なんでも、昨日のグリームアイズとの戦いでキリトが使用した《二刀流》が、既に周知されていたらしい。その結果、キリトのホームには《二刀流》の情報目当ての剣士やら情報屋が詰め掛けてきたのだ。そのせいで、キリトは自分のねぐらから出ることも出来なかったのだとか。先程も、『どうやって俺の居場所を調べたんだ…』と、ぼやいていた。深い理由はないが、なんとなく哀れに思うところもあり、丁度今朝がたに思わぬ臨時収入もあった私は、今度ご飯でも奢ってあげようと思います。

 

 

 「あぁ、サンキュー…」

 

 「いや、キリト。そりゃぁ…」 

 

 

 とはいえ、一部ではキリトを英雄視する声もあるようだ。その声まで、鬱陶しいの一言で済ませてしまうのは、些かどうかと思う。

 

 「わかってるさ。ただ、どれだけ期待されても俺が出来ることが増える訳じゃない。それに、俺なんかより、あんたの方がよっぽどそれらしいだろ」

 

 

 キリトが、手に持った飲みかけのお茶を私に差し出す。それをやんわりと断りながら、よくわかってるじゃないかと、心にもないことを口にした。

 

 

 

──私はきっと英雄から程遠い。例えこの城で何を為そうとも、あの月において、トワイスの言葉を否定できず、地上と月の繋がりを断たなかった私は、その事実だけで、とても英雄にはなり得ない。

 

 英雄とは、その行いが善であれ悪であれ、何かを為し遂げた者の名だから。

 

 「そういや、昨日のあの戦いの後も、コーバッツの野郎は岸波殿、岸波殿ってうるさかったぜ」

 

 クラインの言葉に、そんなことを言われても困ると手を振る。やや無責任にも思えるが、これ以上私がコーバッツに出来ることは殆ど無いように思えた。

 

 彼が負うべき責任も、これからの展望も、私が力になれることはきっとない。無論、力になれる様であれば是非手を貸したいと考えているのだが。

 

 

 「それにしても、アスナは遅すぎないか?」

 

 キリトが時計を見ながら言う。見れば、待ち合わせから既に二時間以上経過している。何かがあったにしろ、余りにも遅い。大丈夫だろうかと、少し心配になる。

 

 ふと、私の耳が階段をトントンと上がってくる音を捉えた。

 

──だが、その音は。

 

 

 「…二人?」

 

 

 キリトの呟きに答える者はいない。

 

 静かに扉が開かれる。その先にいた人物を見て、誰かが唾を飲んだ。

 

 「突然すまない。少しいいかね?」

 

 

 泣きそうな顔をしたアスナと、微笑みをたたえたヒースクリフがそこにいた。

 

 

 

 

 

 



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1-3 月下のアインザッツ

 

 

 

───いつか、この過ちを笑って話せる日が来るのなら。

 

 

 

 

 

 あすなーと、リビングから私を呼ぶ声がする。

 

 

 力が抜けるその声にどうしたのと返事をしながら、オーブンにパン生地を入れてタイマーを回した。

 

 

───いや、今日のご飯はどうするのかと思って。

 

 

 ひょこりと、栗毛を揺らしながら、岸波白野はこちらを覗きこんでくる。

 

 よほどお腹が空いているのか、その目は期待に満ち、口もやや半開きだ。

 

 まるで子供のようなその姿呆れる。だが、その感情とは反対に頬が緩んだ。そんなにキラキラとした瞳で聞かれれば、誰だって嬉しくなってしまう。

 

 「白野さんがこの前言ってた、焼きそばパンを作ってみようと思って。あとビーフシチュー」

 

 我ながらこの組み合わせはどうかと思ったが、なんとなく、焼きそばパンと麻婆豆腐とロールケーキが好きと言う、好物に一貫性のない目の前の少女に、今日も合わせてあげたくなったのだ。

 

 思い返せば、ここのところ、夕飯は全て岸波白野のリクエスト通りである。別に不満があるわけではないが、些か甘やかし過ぎかと思い直す。─ただ、今日は岸波白野の初めての迷宮区で、特に大変な一日であっただろうから、今日ぐらいは許してあげよう。

 

 

 料理は、自分の為に作るよりも、他人の為に作った方が楽しいものだ。それが、喜んで食べてくれる人であるならば。

 

 

 紅しょうが多めで!と両手をあげる少女に苦笑しつつ、それはまだ再現できてないなぁと返事をした。

 

 

 肩を落とす白野を横目に見つつ、アイテムストレージから、いくつかの食器を取り出す。

 

 全てが時間をかけて探し回った食器だ。否、食器だけではない。この家に置かれた家具の全ては、いくつもの露店を回って買い集めた。

 中でもこの食器は、現実で結城明日菜が好んで使っていた食器に酷似していた。店頭で見つけた当初は、なんとも言えない気持ちなったものだ。

 

 それからというもの、私は食事の度にこの食器を使用している。

 

 

 それは、せめてここが、(アスナ)の帰るべき場所であって欲しいがために。

 

 それは、ここが(結城明日菜)の現実であると刻みつけるために。

 

 

 食器の準備を終えてみれば、それでもオーブンの上に表示された残り時間はずいぶんと残っている。

 いくら、この電脳世界の料理が簡略化されているとは言え、待ち時間も無しに進められるほど時間がかからないものではない。むしろ、火にかけている鍋をかき混ぜる必要がない分、手が空く時間は現実より長い。

 

 

 

───ビーフシチューは初めてだ。勿論、知識としては知っていたが。

 

 

 いつの間にか隣まで来ていた白野が、隣で鍋を見下ろす。

 

 重力に従って垂れる髪が鍋に触れないように、そっと耳にかけ直しながら、その小さな鼻をすんすんと鳴らす。

 

 

 

 「そうなの?アーチャーさんは料理が上手だったんでしょう?」

 

 そんな白野の姿にふと悪戯心が湧いて、適当に返事をしながら、白野の目の前にある鍋の蓋をずらした。

 

 隙間から蒸気が一気に溢れだす。それを顔に浴びた白野は、わっぷ!と叫びながら顔をあげた。

 

 

───アスナ!!

 

 怨めしそうにこちらを見る白野にニシシと笑えば、仕方なさげに息を吐かれる。

 

 

───…確かにそうだが、私はそんなことアスナに伝えただろうか?

 

 

 その言葉に今度はこちらが首を傾げた。

 

 

 はて、私はそれをどこで聞いたのだったか。

 

 「…貴女が言ってないことを、私が知ってるはずないでしょ?」

 

 確かに思い返してみれば、白野の口からそんなことを聞いた覚えはない。だが、白野の反応を見るに、私の言葉に誤りはないようであるし、どこかで聞いたのは間違いないはずだ。ならば、それがいつ、どこで聞いたかなど些末な問題だと結論付ける。

 

 確かに。と白野は頷いた。

 

 

───アーチャーは料理が得意だったが、それに反して彼の料理を食べた回数は多くない。他のマスターに追いつけ追い越せで、それどころではなかったから。

 

 そもそも途中までは仲良くなかったのだ。と話す姿は何処か嬉しそうで。まるで大切な思い出を慈しむように見えた。

 

 「…そう」

 

 その姿を見ていられず、視線を食器へと移す。現実でも使い続けてきたそれは、この世界にある現実の残滓とも言える。

 

 白を基調とし、その円周を縁取るように花柄の装飾が為された食器。

 決して特徴的な模様ではないが、その素朴で美しい絵を気に入っていた。

 

 とはいえ、私が使っている食器は、別に特別なものでもなければ、さほど高価な物でもない。いわゆる量産品の一つであり、気に入ってる模様だって、誰か職人が筆で描いたようなものではない。現実でも、アインクラッドでも、お店に行けば同じものがズラリと並んでいるような、そんな程度の物なのだ。

 

 

 量産品が現実の残滓だなんて格好がつかないと思うが、事実としてそう感じてしまうのだからしょうがない。

 

 

 あぁ。こんな事なら食器棚の奥に仕舞ってあった、─見るからに高価そうな─一点物の食器でも使っておくべきだった。

 

 そうすれば、オーダーメイドした食器が現実の残滓で─とそこまで考えて、やっぱり無いなと息を吐く。

 

 今よりは良いかも知れないが、そこまで考えるなら食器に拘る必要などないし、わざわざオーダーメイドしてまで現実と同じものを使いたいとは思わない。

 

 そもそも、食器棚にあった高価そうな食器は、あくまでも来客用で、両親から使うなと厳命されていた。

 

 

 そこまで考えて、ふと隣に意識をやる。

 

 例えば、白野であればどんな食器にするのだろう。今も、鍋の上に表示されたタイマーを親の仇のように睨み付けている少女が、どんな基準で物を選ぶのか、少しだけ興味があった。

 

 

 きっと突飛で、ヘンテコで、それでいて美しい物に違いない。

 

 

───アスナ?

 

 「えっ──」

 

 突然視界に入り込んだ少女に驚いて、思わず皿を持つ手を放してしまう。

 

 ガシャンと、陶器の割れる音が響く。無数に割れた『それ』はすかさずキラキラと溶けていった。

 

 

 ──あ…。と何も無くなった床を眺める。フローリングは傷一つなく、先程、食器を落としたことすら今では夢のようだ。

 

 

───すまない。驚かせてしまった。

 

 

 眉を八の字に歪め、申し訳なさそうにこちらを伺う白野に、気にしないでと告げる。

 

 

 

 「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてて。」

 

 

 ただ、食器が一つ無くなってしまったのはいかんともし難い。別に一枚無くなったところで困る訳ではないが、一応他のお碗やらなんやらと数を合わせていたこともあるし、またどこかで新しく購入しなくては。

 

 

 

 あぁ、なら丁度良いじゃないか。

 

 

 

 「明日、一緒に買い物に行きましょ。割っちゃったお皿の代わりを買わないと。せっかくだから、白野さんが選んでよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「──だから!どうしてそうなるんですか!!」

 

 

 アスナの悲痛な叫びが、室内に木霊した。

 

 決して広いとは言えない一室に、大人が6人。どう考えても手狭だ。

 

 

 トントントンと、キリトがヒースクリフに視線すら向けず、指先でテーブルを叩く音が嫌に耳についた。

 

 激昂するアスナと底冷えする空気。その中心にいて尚、《伝説》は揺るがない。

 

 それは、どこか聞き分けの悪い幼子に語りかけるように。

 

 「もともと、《岸波白野》の一件は血盟騎士団で引き受けたものだ。アスナ君が血盟騎士団を休団するというなら、《彼女》はこちらで引き取らせてもらう。至極当然の帰結に思うのだが?」

 

 「でも!ここまでは私が!私一人が白野さんと一緒に!」

 

 「これまでの1週間、《岸波白野》と行動を共にしていたのは《血盟騎士団の副団長》だ。《アスナ》という個人のプレイヤーではない」

 

 「でも──!!」

 

 「血盟騎士団の応援も、或いは予定していたローテーションも、断ったのはアスナ君だ。にも関わらず『私一人でやってきたのだから』と言われたら、こちらも困ってしまう」

 

 言葉にならない何かを吐き出すように、アスナは口をパクパクと開閉する。はしばみ色の瞳には大粒の涙が浮かび、歯がカチカチと音を立てた。

 

 渦中の中心にいながら、そんなアスナに気付きながら、未だに言うべき言葉の見つからない私のなんと情けないことか。

 

 カツンと、キリトの指が一際大きな音を鳴らした。

 

 「らしくないな、ヒースクリフ。アンタがそういうことを言うなんて」

 

 ヒースクリフに背を向けたまま、キリトが口を開く。

 

 「──そういうこととは?」

 

 「ギルドメンバーとしての義務とか責任とか、こうあるべきみたいな価値観の押し付けだよ。75層のボス攻略の時に"みんな"が揃うなら、それまで、誰がどこで何をしてても本当は構わないんだろ?」

 

 

 "みんな"。キリトはそんなぼかし方をしたが、要は私のことだ。いや、それもまた正しくない。《コードキャスト》が使えるなら、別に私でなくても構わないのだろう。

 

 「いや、白野くんは片手を失ったのだろう?ならば再度武器の習熟度を上直してもらわなくてはならない。だが、アスナ君のレベルは現在の攻略組の平均よりやや高い程度。《岸波白野》の育成を手伝っていれば、ボス攻略は危険となる。ここは他でもない75層だ。もとより、アスナ君一人に任せることは出来なかった」

 

 そこまで言ってヒースクリフは一度言葉を止めた。

 

 「それにしても、キリト君。──らしくないな、君がそういうことを言うなんて」

 

 らしくない──のだろうか。キリトとの交友の薄い私では判断することはできなかった。ただ、もし本当に普段のキリトが言わないような言葉なら、それは、キリトの考えが変わったとかではなく、言葉の額面とその真意に、少なからず差があるからで。

 

 それはきっとキリトだけではないのだと思う。

 

 胸の内のドロドロとした感情を、願望を、欲望を、別の理由で正当化して、お前は間違ってると叫ぶのは、きっと誰しもしてしまうことで、《生きる伝説》なんて言われても、結局はそう変わらない筈で。

 

 

 「おいおい、さっきから黙って聞いてれば、ちょっと大人気ねぇーんじゃねぇか?」

 

 「君は、《風林火山》のクライン君か。ボス攻略では、いつも感謝しているよ」

 

 「おう。こちらこそお世話になってますよっと。んで、その攻略では、いつも前線を支えてくれてるアンタが、なんだってこんなガキを虐めるようなことをすんだよ」

 

 「…ガキとは?」

 

 「キリトもアスナも、どう見たってまだガキだろーが!いい大人が正論で丸め込んでじゃねーよ!」

 

 「キリト君もアスナ君も、ここでは一介の戦士だ。私はここまで前線を張り続けた彼等の功績と、その経験を深く尊敬している。故に、その発言を子供の戯れ言と切り捨てることはしないし、間違っているのであれば、一人の人間としてそれを正そう。もし、彼等が戦士ではなく、守られるべき子供だと言うのであれば、残念だが攻略から引いてもらわなくてはいけない。これは大人の義務としてだ。──その場合、《岸波白野》は、血盟騎士団と来てもらうことになる」

 

 違うかね?とヒースクリフ。

 

 「どんな言葉で飾っても、やってることは変わんねぇぞ。ヒースクリフ」

 

 「その通りだとも。そして、正しいのは私だ。」

 

 

 ヒースクリフのその言葉で、場は再び静寂に落ちる。頼れる男エギルは、柱に寄りかかり、目をつぶったまま沈黙を守り続けている。

 

 

 

 ……。

 

 

 これは勝ち目がありませんわ。

 

 

 そもそも、この部屋まで来られた時点でどうしようもなかったのだ。想定される反論は、全て回答が準備されていることだろう。

 それに、私とて、私と一緒にいることでアスナが危うくなると言われれば、『アスナと一緒にいたいから貴方とは行かない』なんて言える筈もない。

 

 私はヒースクリフと行くべきなのだ。もっと早く自分から言い出せば良かった。こんなギリギリになるまで、なぜそこに思考が至らないのか。

 

 

 「前に、そんなことばかり言ってたギルドは、2つとも前線から引くことになったぞ」

 

 「なるほど。確かにその通りだ。──だからどうかしたかね?」

 

 未だに続く口論へと意識を向ける。私の為かアスナの為かは知らないが、私を行かせまいとこれだけ必死に反論する姿には嬉しくなる。だが、答えが私の中で答えが出た以上、もはや口論に意味はない。私が割り込んでそれで終わりだ。

 

 

 「そもそも!そうやって白野さんをアイテムみたいに!彼女の意思はどうなるのよ!」

 

「…ふむ。ならば聞こうか。白野くん。ここまでの話を聞いて、君はどう思うのかね?」

 

 

 急に向けられた意識と問いに、僅かに返答を窮してしまう。「アスナとの連携は取りやすい」とか、「キリトの戦い方は勉強になる」とか、「アスナのご飯をもっと食べたい」とか、そんな自分の考えとは異なる言葉ばかり浮かんでは消え、肝心の言葉は、何一つ喉を登ってこようとしない。

 

 

 私がすぐに自分側につくと思っていたのであろうアスナの表情が、徐々に不安に染まっていくのが、余計にそれを後押しした。

 

 

 

 だけど、これは仕方のないことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

──────やめて!!私の為に争わないで!!

 

 

 

 

 

 これにて万事解決である。

 

 

 



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1-4 ただ一度のコンチェルト

 「今日はこれくらいにしておこうか」

 

 

 ヒースクリフのその一声に、肺に溜め込んだ酸素をまとめて吐き出した。

 

 隆起する木の根を避けるように突き立てたロングソードに身を預けながら、目の前の《聖騎士》を睨み付ける。

 

 生い茂る木々の隙間から突き刺さる西日が男の白銀に反射し、私の眼を僅かに焼く。

 

 葉の隙間からこぼれる光も、方向感覚を狂わす周囲の木々も、足の取られる地面から隆起した根も、幻想的ではあるものの、お世辞にも戦い易い場所とは言えなかった。

 

 

──もう少し戦い易い場所では駄目だったのだろうか。

 

 思わず不満が口をついて出る。だが、それも仕方ないのではないだろうか。昼休憩からこっち、延々とポップし続けるヘビ型のモンスターと戦い続けて来たのだ。

 

 ここは75層のフィールド。敵も相応しいほどに強く、戦闘となれば一時の予断も許されない。となれば既に疲労は限界であり、早くお家に帰りたいと私が言い始めて既に二時間になる。

 

 同じ時間を共に戦っていた筈の男は、いつも通りの微笑みを湛えた表情をこちらへ向けた。

 

 

 「いや、どうやらここが最も効率が良いようなのでね。あのヘビ─アイヤタルは体力が減れば仲間を呼ぶ習性があるようだし」

 

 

 そのせいでずっと苦しい戦いだった訳だが。

 

 事実として、共に戦っているのがヒースクリフでなければ、今頃私は死んでいたかもしれない。それがどれ程かと言うと、アスナから私を引き抜いたのはここで殺す為だったのかと覚悟したほどだ。最強と吟われるヒースクリフですら、HPの3割近くが削られている事実が戦いの激しさを物語っている。彼の中で安全マージンはどこにいったのかと私は首を傾げる他にない。

 

 

 「報告で聞いた君の戦闘能力と、私自身の力があれば、十分に安全だと判断した。であれば、わざわざ効率の悪い下層に降りる必要も無かろう」

 

 

 これのどこが十分に安全なのか。私は黄色に染まった自分のHPバーを指差しながら抗議の声をあげる。

 ヒースクリフの視界には映っていないそれに、男はわざとらしく肩を竦めた。

 

 「下層であれば死の危険が無くなるわけではない。モンスター、トラップ、地形、或いは我々の同士に刃を向けられることもある。長期間そちらで戦うよりも、ここで手早く強化した方が結果として安全だと判断したのだが?」

 

 

 そういうことじゃないから…もうやだこのゲーマー…そう言って、思わず天を仰ぐ。

 

 ヒースクリフの言い分はいつだって合理的で、具体的な反論は思い浮かばない。だがそれでも、何か大切なものが欠けているように思えてならない。

 

 なんともなしに漏れたその言葉に、ピタリと、ヒースクリフはその動きを止めた。

 

 

 「──ゲーマー…かね?」

 

 

 視線すら合わせず、確かめるように呟く男に僅かに眉を寄せる。

 

 

 

──ゲームなのだろう?この世界は。

 

 

 もっとも、現実の命がかかっている時点で、普通のゲームとは言いづらいのだが。

 

 

 「…それは、アスナ君から聞いたのかね?」

 

 

 男の口から出たよく知る少女の名前に、いいやと首を振る。

 

 それは違う。思えば、アスナはその事実を過剰なまでにひた隠しにしていた。おそらくは、『この世界』の住人である私に、『この世界』は偽物だと伝えることを避けたのだと思う。

 

 おかげで、その事実を知ったのはごく最近だったりする。

 

 とはいえ、別にゲームだったからと言ってなんということもない。私の立場がどうにかなるわけでもないし、思えば聖杯戦争も似たようにものだった。

 

 

 ヒースクリフは無言のまま、考え込むように自らの顎を触れる。

 

 

 その姿に失言だったかと思い直す。

 思えば、ヒースクリフもこの世界がゲームであることを連想させる発言は極力避けていたように思う。もしかして、この男もアスナと同様に私に気をつかってくれていたのだろうか。

 

 「ならばなおのこと理解に苦しむ。君が手を貸している100層への到達、ひいてはプレイヤーの現実への帰還は、つまりはこのゲームのクリアを指す。それは、このアインクラッドの最後であり、君の最期だ。そこまで理解して尚、なぜ攻略に力を貸す。まさか、自分がプレイヤーの一人だと勘違いしている訳では無かろう?」

 

 

 無論だ。だが別に、このゲームがクリアされれば、この世界がなくなると決まった訳ではない。存外世界は続いて、たまに遊びに来るアスナなんかと一緒に暮らす未来もあるかも知れない。

 

 

 そんな夢のような理想を言葉にして、それでも、それがあり得ないことなのだと、心のどこかで分かっていた。なぜなら──。

 

 「ないな。例えこの世界が無くならずとも、アスナ君達がここに戻って来ることはない。本人意思の問題ではなく、周囲がそれを許さない筈だ。」

 

──我々は、この電脳世界に来るにあたって、ナーブギアという機械に頼って居るのだが、これが政府に回収される筈だ。

 

 自分のこめかみを指差しながら、男は続ける。視線は遠いどこかへ向き、表情からその内面は読み取れなかった。

 

 

 「そして、きっとこの世界は台無しにされる。様々な思惑がこの一つ一つを奪い取っていくことだろう。最後に残るのは、行儀の悪いハイエナ食い散らかされた残骸だ。君が思い描く未来など来る余地もない。」

 

 そこで、男は一度言葉を区切る。沈みゆく夕日は空を紅く染め、だが肝心の太陽は、木々に隠れてその姿を見せない。青々とした葉が映す擬似的な紅葉は、色合いに反してその生命力を強く主張する。

 

 「──そしてそれは、この世界の創造主とって我慢ならないことだろう。台無しにされるぐらいなら、この景色を醜いものにされるのなら、クリアと共に世界ごと消滅させた方がいい……と、考えるのではないかな」

 

 

 

 そう言って、ようやく私へと視線を向けた。その表情にはいつもの微笑が戻っている。

 

 

──らしくない。口から出かけたその言葉を、すんでのところで飲み込んだ。らしくないのではない。今この瞬間が、ようやく見せた彼らしさなのだと感じたから。

 

 

 ヒースクリフも、現実ではゲームを作っていたりするのだろうか。妙に実感のある言葉にそんな邪推すらしてしまう。もっとも、目の前の男は、研究者だとか、魔術師だとか、そういった職の方が向いていそうではあるが。

 

 

 「…私は学者だよ。私自身、それなりには向いていたという自負もある。だが、科学は日進月歩だ。今私が戻ったところで、もう私の席は残っていまい」 

 

 最後は、喧嘩別れだったしと、よくわからない捕捉をする男に苦笑しつつ、なら、この世界の創造主を恨んでいるのかと問う。

 

 「…いや、私は恨んでなどいない。私の学者という立場が、彼─茅場晶彦と近かったから、共感できる部分もあるからだろう。…君はどうかね?この世界の創造主であり、同時に君の創造主でもある茅場晶彦について、或いはその男が創りあげたこの世界について、君はどう感じている?」

 

 

 眼を瞑ったまま苦笑するその姿は、その質問自体を恥じているようにも見える。普段からは想像もできない姿に驚きながら、今日は珍しいものをよく見る日だと感想を覚えた。

 

 それにしてもと、投げ掛けられた問いへと思考を移す。

 

 

 茅場晶彦について、私はどう思うのか。

 

 ムーンセルの願望器としての機能が、『願い通りに現実を歪める』のではなく、『理想の未来を再現する』ことにある以上、今ここにいる岸波白野の作成者はその茅場晶彦で間違いない。

 だが、それと同時、月の聖杯戦争において、魂を獲得し、アーチャーと共に戦い抜いた記憶を持ち、反対にこの鉄の城における『岸波白野』の役割の一切を知らない私は、茅場晶彦に作り出されたのだと言われても、些か実感が薄いのだ。

 だが、私が今こうして息をしていられること、アスナやキリトと出会えたこと、そういった諸々は、間違いないなく茅場晶彦のお陰で。そこに関しては、非常に感謝をしていた。

 

 

 それに、この森も、川のせせらぎも、人々の営みもこの世界には存在していて、同じ電脳世界だというのに、過酷な生存競争を強いる月とでは大きく異なっていた。

 疑いようもなく、この世界は美しい。こんな美しい世界を創り出せる男が、悪い人間のはずがないと考えてしまうぐらい。

 

 

 だから、私は茅場晶彦のことを憎からず感じていた。無論、打倒すべき相手なのは間違いないが、それは現実へと帰還したアスナやキリト、或いはヒースクリフといった正真正銘のプレイヤーが行うべき事柄なのだ。

  

 

 「10000人近くの未来を奪った男だとしてもか?」

 

 奪ったという言葉には語弊がある。2年間という期間は誰にとっても致命的だが、決して取り返しのつかないものではない。望んだ生き方はできなくても、望んだものになれなくても、きっと人は幸せになれる。

 

 

 「4000人近い命を奪った男だ」

 

 それは違う。茅場晶彦が奪った命の数はもっと少ない。数が少なければ許されるというわけではないが、この鉄の城で生き、勇敢に戦い、そうして命を落としていった者達の最後を、茅場晶彦に殺されたで済ませて良いわけがない。

 彼等はこの世界に生き、この世界で死んだのだ。そこに茅場晶彦が絡む余地はない。

 

 

 「…そうか。───そうか。」

 

 男は噛み締めるように。

 

 

 

 「君たちは、そう思うのだな」

 

 

 

 

 そう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カチャカチャと、皿とフォークの触れ合う音が鳴る。

 店内に響く陽気な音楽が、周囲の話し声ごとそれを呑み込んだ。

 

 木でできたカフェテラス。スプーンとフォークで目前のパスタを絡めとりながら、黙々と口へと運んでいく。

 

 

 「それで、君たちはいつまで喧嘩しているのかね」

 

 

 うぐっ…と、思わず口に入れたパスタを吐き出しそうになるのを堪えながら、目の前でコーヒーを飲む《伝説》へ視線を向ける。

 

 

 それを貴方が言うのか。そもそもの原因はヒースクリフにあると思うのだが。

 

 「いや、あれはあの状況でふざけた事を言う君の責任だろう。まぁ私が悪くないと言うわけではないがね」

 

 

 余裕の表情で返すヒースクリフを憎たらしく思いながら、パスタの山の中でフォークをクルクルと回す。

 

 先日の一件の後、アスナとはほとんど口をきいていない。

 

──貴女にとっては、その程度のことなのね。

 

 

 そう、何かを諦めたように呟いたアスナの表情は今も脳裏に焼き付いたままだ。

 

 「あれから、会話は一切していないのかね?」

 

 していない。私はあれから血盟騎士団(というよりヒースクリフ)と行動を共にしているが、私が女ということもあって、生活の拠点はアスナのホームから移っていない。だからこそ、会話のない今の生活は酷く苦痛だった。

 

──あぁでも、『行ってきます』の挨拶だけはしっかり返してくれる。

 

 

───行ってきます。

 

───行ってらっしゃい。

 

 

 特に理由があるわけではないが、どちらが先に出たとしても、その会話だけは欠かした事がない。

 

 

 「それで、食事も作って貰えずここに居るわけか」

 

 

 あぁ、そうだ。と視線を下げたまま返事をする。

 

 

──これは嘘だ。

 

 口にはせずとも、何も言って来なくとも、アスナがあれ以降も欠かさず食事を作ってくれていることを私は知っていた。

 

 それなのに、私は何も知らない振りをしてアスナを裏切る。──ここにいるのは、ただの私の癇癪なのだ。

 

 

 私だって、アスナと一緒に──。

 

 

──というか、なんでヒースクリフはここにいるのか。本部に帰ると言っていなかったか。

 

 

 「我が血盟騎士団の本部に食堂の機能はなくてね。あと、ここは私の行き着けだ」

 

 

 この店を使うのは今日で最後にしよう。別にヒースクリフが嫌な訳ではないが、あまり事情を知っている人と会いたくない。

 

 

 「話を戻すが、最近、アスナ君に変わった様子はあったかね?何か、思い悩んでいるような様子は」

 

 

 思い悩んで…いたのだろうか。最近アスナとの会話がなくなったものだから、変わった様子と言われても困る。変わったと言えば全てが変わったし、ただそれは、関係性の変化によるものとも取ることができる。

 

 後は、キリトと行動を共にする事が多くなったぐらいか。血盟騎士団の活動から離れたのだから、ある種当然とも言えるが、以前から考えれば、大きな変化ということもできる。

 

 結論を言えばわからないだ。そもそも、質問の意図を教えて貰えねば、その質問には答えられないと思うのだが。

 

 

 ヒースクリフは、確かにと頷き言った。

 

 

 

 

 

 「──先ほど、アスナ君からしばらく攻略から離れたいと連絡がきた」

 

 

 

 

 



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1-5 例え、共感することは出来なくても

ナンバリングしました。


 

 

 

───広大な部屋だった。

 

 そこを、部屋だと形容することに違和感を覚えるほど。

 

 

 フロア全体に薄く敷かれた水は鏡のように空を映し、棺が墓標のように突き刺さる。

 

 出入口の正面。部屋の中央には棺が高く積み上げられ、そこに白衣の男が腰かけている。

 

 

 異質な光景だ。だが、その中でも一際目を引く異物が一つ。

 

 単眼のオブジェ。未知の文明のアーティファクト。

 

 

 

──七天の聖杯。

 

 

 万能の願望器は、地上を照らす月の如く、ただ結末を見届ける。

 

 

 あぁ、これは夢だ。アスナは静かに確信する。

 

 その理由を言葉にすることはできなくとも。ただ、胸に宿る既視感がその答えを孕んでいた。

 

 

 もう/ようやく ここまで たどり着いてしまったのか/たどり着くことができたのか。

 

 

 パシャリと足下の水が跳ねる。

 

 

 自分と重なっていた少女が歩く。茶色の制服に身を包んだ岸波白野は、いつも通りに足を進めた。それは、決して不思議なことではない。例え、この先にどんな結末が待っていたとしても──。

 

 

───きっと、その歩みは止まらないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 硬い石畳。オレンジ色の街灯と、建物に隠れる影。

 

 漆黒の空は月に至らず、かといって地上でもない天空の城。

 

 

 私は独り、ただ歩を進める。

 

 

───聞きたいことがあった。

 

───聞かなきゃいけないことがあった。

 

 

 きっと、岸波白野は、アスナと話をしなければならなかった。

 

 

 アスナが攻略から離れる意味を。現実を諦める訳を。何故、この醜くも美しく、有意義な停滞を選択し、そして──何故に今になってなのか。

 

 

 だってこの世界はどん詰まりだ。先のない泡沫の夢。機械仕掛けの幻想で、死に際に見る理想郷。どこかの大馬鹿者が見た星の裏側。

 

 ずっと昔に決意した筈なのだ。この世界を終わらせると。自らの命を天秤にかけ、それでも、地上にはそれ以上の価値があるのだと。

 

 

 この世界は、この世界に生きるものにひどく優しい。

 

 圏内にさえいれば人は死なない。切られたってダメージは受けないし。病に伏せることもなければ、飢えて死ぬこともない。

 

 生存競争を強いる月とも、ふとした不運で命を落とす地上とも違う。

 

 

 ただ穏やかな安寧と緩やかな終末がこの世界にはあって。

 

 それでも、前進にこそ意味はあると。なんとしてでも生きるのだと。

 

 

 鉄の城を捨て、地上にこそ価値を見出だしたのなら。

 

 なら、立ち止まることはできないはずだ。これまでの何千という欠損は、やっぱりいいやで済ませられるほど安くはない。

 

 

──その筈だ。そうでなくてはならない筈だ。

 

 

 そうでなければ、私は────。

 

 

 

 

 

 

 

───ただいま。

 

 

 がちゃりと、玄関の扉を開ける。"合鍵"を持つ私は、アスナの返事を待つこともなくそこに入ることができた。

 

 木目の玄関。フローリングの廊下を越えて──リビングへ続く扉を潜れば、そこにはきっとアスナがいる。

 

 光の漏れる扉の前で一息の逡巡。それでも止まることなど出来はしない。

 

 

 

───アスナ。

 

 

 想像よりも勢いよく開いた扉に、自分の身体を滑り込ませる。

 

 

 リビングに置かれた机に腰かけるアスナの姿は、今朝よりもずっと小さく見えた。

 

 

 「……白野さん」

 

 

 チラリと、アスナの対面に座るキリトに一瞥した後、帰宅が遅くなったことを謝罪する。

 

 「……。」

 

 アスナからの返事はない。俯いたままの表情は、立ったままの私ではうかがい知れなかった。

 

 

 「…あー、こんな時間まで何してたんだ?」

 

 私の謝罪を受けてなお口を引き結んだままのアスナに代わるように、キリトが問いを投げた。

 

 

 アスナは先日の一件以来ずっとこの調子だった。いつも最低限の相づちだけを打ち、早々に寝室に籠ってしまう。

 だが、今日はそれでは困るのだ。故に、私は取り繕うこともせず告げる。

 

 

 私が遅くなったのはヒースクリフと一緒にご飯を食べていたからだ。

 

 

 ピクリとアスナの肩が跳ねた。恐らくはヒースクリフという単語に反応したのだろう。何故なら、私がヒースクリフと共に居たということは、つまり──。

 

 

 「───じゃあ、もう知ってるのね」

 

 

 アスナの戦線離脱を既に知っていることに他ならない。

 

 とはいえ、それ以上の経緯を私は知らない。アスナが、何故その結論に至ったのか、知ってか知らずか、ヒースクリフは教えてくれなかった。

 

 だからこそ、私はアスナと話をしたいと思って──。

 

 

 

 「それでまた茶化すの?」

 

 

───え?

 

 一瞬、何を言われているのか理解できず、口から中途半端な声が漏れる。

 

 

 

 

 「白野さんからすれば誰と一緒に戦っても同じなんでしょ?私の想いも全部、冗談で笑い飛ばせる程度のものなんでしょ?」

 

 

 それは、徐々に沸騰していく水のような、そんな感情の発露だった。

 

 「ならもういいじゃない。そうやって大切に思ってるよなフリをして、本当はなんとも思ってないくせに!貴女は…貴女達は──!!」

 

 

 「アスナ!!!」

 

 

 何か、決定的な言葉を発しようとしたアスナを、キリトがそれ以上の声で上書きする。

 

 私はただ、呆然と聞くことしか出来ない。

 

 

 きっと、そこには認識の違いがあった。確かに、真面目な場で冗談を言うことはあった。

 でもそれは、この上なく結論が決定的だったからで。

 先日の一件だって、同じパーティーではなかったとしても、場所は違えど、攻略に向けて共に戦うことが出来るなら、そう悲観することではないのだと、─そう、私は思ったからで。

 

 

 

 価値観の違いとでも言うべきか。私とアスナでは、同じ体験をしても、全く違う感想を持つのだ。

 

 そんなこと、わかっていた筈だった。

 

 

 「──私ね。白野さん」

 

 何も言えない私に、アスナは言う。

 

 

 

 

 

 

 

 「今日、人を殺したの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスナが、攻略から離れる理由はそこにあった。

 

 

 

 本日の昼、圏外の安全エリアで食事をとっていたアスナ達は、数名のプレイヤー集団に襲われたのだと言う。油断した隙をついてくるような計画的なPKで、敵は3人。中には見知った顔も混じっていた。

 

 初撃でキリトは行動不能になったらしい。物陰から放たれた麻痺毒付きのナイフから、アスナを庇ったからだ。

 

 敵の襲撃を理解したアスナは、すぐに武器を構えた。だが状況は3対1。相手は同じ攻略組も混じっていて、何より、アスナは人に刃を向けることに戸惑いを覚えないほど、剣の世界に囚われてはいなかった。

 

 それでも、自分が負ければキリトも死ぬのだと、アスナは懸命に戦った。

 

 驚くべきことに、戦況は拮抗したらしい。敵の連携が拙かったことが功を奏したのか。或いは、誰かを守らんとする想いが、アスナに力を与えたのか。

 

 どちらにせよ、敵からすれば、耳をつんざく金属音が、キリトに与えた毒の効力が切れるまでカウントダウンに聞こえたことだろう。

 

 故に、その拮抗は長く続かなかった。解毒作用のあるクリスタルやポーションを使わせまいと動いていた男達の内の一人が、キリトに止めをさそうと振り返ったのだ。

 

 

 そしてその背中を、アスナの細剣が貫いた。

 

 

 

 

 

 クリティカルヒットだった。

 

 

 

 

 

 アスナの一撃は、大切な者を守らんと必死になって放った一撃は、その思惑を容易く超え、一人の男の命を食い破った。

 

 

 そこでアスナの剣が折れなかったのは、やはりキリトの存在があったからだろう。

 

 元々拙かった男達の連携は、ただお互いの足を引っ張り合うだけに成り下がる。

 

 

 それでも、決して退くことをしない男達が、無機質なポリゴンになるまで、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 「──私ね。なんだか疲れちゃって。どうすれば良かったのかわからなくて。もう限界で──」

 

 

 アスナは、頭痛を堪えるように髪をかきあげながら私を見上げた。

 

──そして、くしゃりと、その表情を歪める。

 

 言葉にそれば泣き笑いのようなその表情は、諦めたような、失望したような、アスナには似つかわしくない表情だ。

 

 

 「──あぁ。やっぱり……」

 

 その声は、まるで泣き出す直前のようで。

 

 

 「──貴女、"それがどうした"って顔してる」

 

 

 

 

 

 遊び気分の友を殺した。

 

 人生の先達を殺した。

 

 無邪気な子供の夢を終わらせて、理解出来ない狂人を殺して、恩人を殺して、暗殺者を殺して、地上の王を殺して、人類の発展を望んだ男の願いを終らせた。

 

 

 仕方のないことだ。否、一つも仕方がないなんてことはないけれど、それでも、お互いに譲れないものが有ったから。

 

 だから、誰かの命を奪った事実が足を止める理由にはなり得なかった。

 

 

 慎二を殺したかった訳じゃない。その他の誰だって殺したかった訳じゃないけれど、その先には譲れない願いが確かにあって。

 

 だからこそ、奪った命は、果たされなかった誰かの願いは、足を止める楔ではなく、立ち止まれない理由だった。

 

 それが責任だった。奪ったことには意味を与えなければならないと。私は私の願いのために貴方を殺したのだと、そう言えなくてはならないと。

 

 だって、そうじゃなくちゃダメだ。そうでなくては納得が出来ない。奪った方も、奪われた方も。──成果のない犠牲など、認める訳にはいかないのだから。

 

 

 「…なら、白野さんは何があっても攻略を離れるべきではないと、そう言うのね」

 

 

 そうは言っていない。アスナやキリトが地上を志す理由を見失ったのなら、それは仕方のないことだ。命をかけるのだから、最終的には自由意思の下で選択されるべきだろう。

 

 ただ、地上を目指す過程で失われた命を想うのであれば、それはやはり前に進むべきなのだと思う。

 

 

 「そんなのおかしいよ…。人を殺しておいて、貴方の想いを背負うからなんて。納得なんてできるわけない。そんなの──人殺しの勝手な理論じゃない」

 

 

 例えそうだとしても。そもそも、誰かを殺した人間が正義を語ること自体が間違っているのだ。

 

 だから、結局は自己満足でしかなくとも、醜悪な悪と罵られようとも、その在り方だけは損なうわけにはいかない。

 

 

 それこそ、何を背負うこともせず、何を果たすこともないのなら、それはただの人殺しだ。

 

 

 キリトは黙ったまま、じっと私を見つめていて。アスナはカチカチと音を立てる歯を食い縛りながら、自分のカラダを抱き締めるように腕を回した。

 

 

 「…白野さんは。白野さんは、人を殺したことを後悔していないの?」

 

 

 

 無論、後悔などしていない。するはずがない。できる訳がない。

 

 負ければ死んでいたのは私で、尋常にぶつかり、そうして上回ったことを、私は誇りこそすれ、後悔することなど到底あり得るものではなかった。

 

 

 それは、今回の一件も同じだと思うのだ。

 

 キリトが今も生きているのは紛れもなくアスナの功績で、迫り来る敵を打ち倒し、今の生存を勝ち取った事実は、きっと誇るべきものだと──。

 

 「──やめてよ。おかしいよ!誰かの命を奪ったことが誇るべきだとか!そんなわけないじゃない!」

 

 

 いや、誇れることだ。誇るべきことだ。アスナが救ったのは、キリトや自分の命だけじゃない。

 アスナ達を襲った連中が、次に襲う可能性があった人間の命。或いは、アスナ達が居なくなったことによる戦力低下で危険にさらされるかも知れなかった人達の命。

 それだけの命を救ったアスナが、それを誇れない訳がない。

 

 

 

────私とアスナは、きっと全然違う生き方をしてきた。

 

 

 

 「なにも殺さなくて良かった!黒鉄宮に送れば、それで良かったのに!」

 

 

 黒鉄宮だって、絶対に出られないわけではない。なにより、この世界が終わるとき、彼等は無事に現実に帰還することになる。そしたら、きっと同じことをする。手段は変わっても、目的は変わっても、きっと彼等は人を殺す。

 

 それは防げる犠牲で、貴女が防いだ犠牲だ。

 

 

 

────それでも、きっと理解し合えるのだと。

 

 

 

 「そんな顔のない誰かを助けるために!"もしかしたらあるかもしれない"犠牲を防ぐために!目の前の人間を殺めるなんて、そんなの狂ってる!」

 

 いいや狂ってなどいない!時にはそれが正しさで、時には成さねばならぬ正義だ!

 

 

───全て共感することは出来なくても、お互いの価値観は、共存し得るのだと。

 

 

 

 「───貴女は!!!」

 

 貴女は!!!

 

 

 

───私は、確かにそう思っていて。

 

 

 「命をなんだと思ってるの!!」

 

 命をなんだと思っているのか!!

 

 

 

───奇しくも重なったその声が。その根底が。私達は決して分かり合えないのだと告げていた。

 

 

 

 

 

 「───っ!」

 

 アスナも同じことを感じたのだろう。ガタリと大きな音をたてて立ち上がったアスナは、私とすれ違うように、リビングから外に出ていってしまう。

 

 

 「──アスナ!!」

 

 それを追うようにキリトも立ち上がり──リビングから出る直前で、その足を止めた。

 

 

 「俺も…、きっとアスナも、あんたの言ってることが分からないわけじゃないんだ。でも──少しだけ時間をくれ」

 

 

 そう言って、キリトは返事も待たずに走り出す。

 

 立ち尽くす私は、何を言うことも、何を伝えることもできなかった。

 

 

───私だって、アスナの言うことを理解出来ないわけではないのだ。

 

 

 でも、それでも…それなら───。

 

 

 

───私は何のために、死ぬのだろうか。

 

 

 

 

 

 



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1-6夢現の空

───地上(ユメ)をみた。

 

 

 

───キリト(キボウ)をみた。

 

 

 

 

 決して届かぬ───アスナ(ミライ)をみた。

 

 

 

 

 世界から戦争は減少した。尚も続くものはあれど、終わりの日は見えずとも、無秩序に失われるものは確かに少なくなっていて。

 

 地上から飢饉は無くなりつつある。根絶は未だ遠くとも、この世界には確かに未来があって。

 

 

 アスナ達の口が紡ぐ地上は、多くのものを犠牲にする"成長期"を確かに終えていて、それでもなお、まだ前進を止めていなかった。

 

 

 

───なによりそこには、紛れもない笑顔があって。

 

 

 

 美しいと思った。正しいと思った。

 その世界のあり方が、どれだけの矛盾を孕んでいても。

 

 

 手が届かないものは美しい。

 

 

 でもそれは、対岸に茂る田畑を、青いと羨んでいるだけなのだと知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーテンから漏れる朝焼けが、私の顔を照らした。

 

 瞼の上からですら視界を焼くそれは、目前を白く染め、私の意識を引き摺り上げる。

 

 

 家主を失った家で一人。本来であればアスナがいるべき寝具の上で、岸波白野は目を覚ました。

 

 私がこのベッドで目を覚ましたのは、これで二度目だ。

 

 

 『あっ、目を覚ましたのね!良かったぁ…なかなか起きないから心配してたんだー』

 

 

──ふと、かつての言葉が蘇った。

 

 

 私はなんと返したんだったか。ムーンセルの内部で意識を失い、気がついたらベッドの上にいた。状況が全く飲み込めなくて、酷く混乱していたのは覚えている。

 だから、アスナが朗らかに声をかけてくれたとき、私は本当に安心をして。それで──あぁ。そうだ。あの時は、パタパタと走るアスナと共に跳ねるその髪に、"お揃いだな"と、勝手な仲間意識を持ったのだ。

 

 

 

 鏡を見る。今になって思う。

 

 私とアスナの髪は、決して同じ色じゃない。

 

 

 

 

 

 台所へと足を向ける。いつもはアスナが作ってくれた朝食も、今は自分で作らなくてはいけない。

 なに、心配することはない。アスナの影響で私も《料理》スキルを取っているから、朝食ぐらい問題ないのだ。

 

──さて、何を作ろうか。

 

 

 もっとも、肝心のスキルの習熟度は55なのだが。

 

 

 

 

 

 今日の朝食は、外食とする。

 

 私のアイテムストレージに入っていた《食材》は、全て《燃えないゴミ》に変化した。どちらかと言うと、《燃え尽きちゃってゴミになったもの》の方が正しい気がしなくもないが、それはそれ。

 そもそも、私が持っている《食材》は、70層より上の階層でドロップしたものだ。その分、《食材》としてのランクは高くなり、当然、要求されるスキル習熟度も高くなる。

 私のような、駆け出し料理人では、太刀打ちできる筈もなかった。

 

 

 

 『麻婆豆腐が辛くない?そうかなぁ、結構辛口にしたつもりだったんだけど…。でも、その分愛情を入れといたから、それで───ってからぁ!!!騙された!これ白野さんなんかしたでしょ!?』

 

 

 

 あの時、私は、愛情の代わりに辛味を足したのだ。私が好きなものをアスナにも食べてみて貰いたくて。もっとも、彼女を驚かせてやろうという気持ちが無かったとは言わないが。

 

 

 私が好む激辛の麻婆豆腐が万人受けしないことぐらいわかっていたのに、我ながらバカなことをしたものだ。

 

 でもその愚かさを、今は美しいと思う自分がいる。知らず上がっていた口角を戻し、私は外出の準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 本日の天気は晴天。見渡す限り雲は見当たらず、快晴といっても差し支えない。澄みきった青空に一度大きく息を吸った。

 

 どこまでも続くかに見える青空。だがこの鉄の城において、その多くは偽りだ。遥か遠くに感じるこの空も、言ってしまえば上層の地でしかない。

 この城の形状を考慮すれば、100メートルもせずに天井にぶつかるだろう。

 

 稀に見かける鳥だって、自由に飛び回ることは到底出来まい。

 どんなに翼を広げても、彼らは決して遠くにはいけない。剣の世界、閉じたこの世界では、どうやっても在り方が限られる。

 

 故にこそ、彼らは上層を目指すのだ。

 

 偽りの空ではない。正しく自由を手に入れるために。

 

 

 であれば私はどうなのだろうか。蝋で出来たこの翼は、真に翼を広げれば、一度太陽に近づけば、瞬く間にその役割を終え、地に落ちる他にない。

 

 私にとってこの城は、唯一自由に羽ばたける場所なのだ。

 

 

──否。正しくはきっと違う。いまの私に翼などない。私の翼は、ムーンセルに接続したあの時に、跡形もなく溶け落ちている。

 

 今の私は、地に落ちたイカロスが、空に飛ぶ鳥を羨む愚行に他ならない。

 

 

 納得した筈だ。諦めた筈だ。他の全てを諦めなかった私は、ただ一つ、生きることを、確かに諦めた筈なのだ。

 

 

 私の物語はあの時に終わった。それでも確かに続くものはあって。それのなんと素晴らしいことかと思ったのだ。人はそうやって未来へとバトンを繋げていくのだから。

 そうやって多くの願いを束ねて、未来は開かれて行くのだと。

 

 私はその未来を祝福したい。そこに私の姿はなくとも、幾人もの願いの果てにその今があるのなら。

 

 それは──なんて、希望に満ちた未来か。

 

 

──だが、そうやって思うには、アスナは余りに鮮烈過ぎた。

 

 

 

 

 私も、あんな風に生きられたらと憧れた。

 

 

 アスナの本質は英雄ではない。歴史に名を残す器ではない、という意味ではなくて、アスナの根底にあるものは、普通の女の子のそれと大差がない。それこそ、こんな事件に巻き込まれなければ、普通の女の子として生き、幸せを掴むこと出来たのだと思う。

 

──それでも、きっと彼女は英雄に至る。

 

 アスナなら出来てしまう。いずれ、この世界を終わらせた中心人物の1人として、未来へと語り継がれて行くのだろう。

 

 

 その未来に、私は自分の未来を重ねた。勝手な妄想だと分かってはいたが、姉妹のように慕う彼女が、姉妹のように慕ってくれる彼女が、自分のIFであるかのように思えたから。

 

 

 

 卑怯だと思う。反則だと思う。月で死ぬことが出来ていれば、アスナと会うことさえしなければ、死にたくないなんて、傲慢な願いは持たなかったのに。

 

 終わったと思えば続いていて、続くかと思えば終わっていて。そんなもの納得できる筈がなかった。

 

 

 納得なんて出来ない。心の整理も出来ていない。進むべき道はとうに見失った。

 

 それでも、この城は終わらせると誓った。

 この一歩が、絞首台へと向かう一歩に他ならなくても。

 

 だって、この身体はそういうもので出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 それでも、アスナは攻略から離れるのだと言う。

 

 

 

 

 

 

 「そこのオネーサン、ちょっといいかイ?」

 

 朝食をどこで食べようかとキョロキョロ歩き回っていた私は、背後からの声に呼び止められた。

 ちょっとしたナンパのような言葉だが、その声は幼さを残したソプラノである。安心して振り返った私だが、その直前になって、詐欺の可能性もあるのかと思い直した。こちらに来てから、人間関係は全てアスナ繋がりだったから、今回のような突発的なのは初めてだ。なんだか少し緊張してしまう。

 

 果たして、振り向いた先にいたのは小柄な少女であった。黄色の巻き毛とクリクリと大きな瞳は、小柄な見た目と相まって活発な印象を与え、頬に描かれた三本の髭が、小動物的印象を加速させる。

 

 元気に走り回る猫やネズミ、そんな印象の女の子だ。

 

 

 そんな女の子が私に何の用だろうか。生憎と私は昨日までヒモだった身で、頼られても出来ることは少ない。

 

 

 「いやー、いつもあーちゃんと一緒にいたダロ?だから一人でいるのが珍しいと思ってナ」

 

 

 あーちゃん。もしかしなくてもアスナのことだろうか。そのセンスの良し悪しは別にして、アスナとあだ名で呼び合うような関係であることに驚く。アスナから友人について話を聞く機会は何度もあったが、目の前の少女の特徴に一致する話は聞いたことがなかったからだ。

 

 

 「あーちゃんもなかなか薄情だよナー。紹介ぐらいしてくれてもいいのにサ」

 

 私の訝しげな言葉に、黄色い少女はナハハと苦笑いをした。

 

 「オイラはアルゴ。これでもあーちゃんとは一層からの付き合いになるんだゼ」

 

 

 一層からの付き合いということは、もう2年になるということか。多くの人は、現実の知り合いなどいないとのことであったから、アルゴは、アスナにとって最も長い付き合いの一人ということだ。

 

 改めて、目前で私の目を覗き込む少女を見る。どう見たってアスナとは似ておらず、なぜ二人が知り合ったのか想像ができなかった。

 こう見えて、アルゴも攻略組だってりするのだろうか。

 

 「違うナ。オイラは戦闘向きじゃないから、ボスと戦ったりはしないヨ」

 

 であれば尚更わからない。アスナとはどういう繋がりなのだろうか。

 

 「偶然食べ物の好みが同じでナ。数少ない同性でもあったから、好く話すようになったんダ。知ってるカ?セリの天ぷら、あれが上手くてナー」

 

 朗らかに笑いながらも、じっと、アルゴの視線が私の目を貫いて離さない。

 

 

 へぇ。アスナがセリの天ぷらが好きだなんて知らなかった。アスナと一緒に生活していても食卓に並んだことはないし、話題にも出てこなかったのだが…。

 

 

───へぇ。

 

 声は聞こえなかったが、アルゴの口は確かにそう言ったように見えた。

 

 

 「まぁ、それは嘘だけどナ。セリの天ぷらとか食べたことないシ」

 

 おい。と思わず悪態が口に出る。そんな無意味この上ない嘘はやめていただきたい。

 

 「セリの天ぷらはあれダ。あーちゃんがリアルに戻ったら一番食べたいヤツだったかナ」

 

 いや、別に聞いてないのだが…。

 アルゴはあくまで自分のペースで会話を進める。なんだか私の周りはこんなんばっかだなと内心思いながら、結局なんの用なのかと問う。

 

 

 「別になんか用事があるって訳ではないヨ。いつもあーちゃんと一緒にいたオネーサンが、珍しく一人で歩いてたから気になってナ」

 

 アルゴの言葉に、なんだその事かと納得する。だが、さほど大層な理由はない。アスナが攻略から離れて、居所も移したものだから、共に行動する理由がなくなっただけだ。

 とはいえ、それ以前、私がヒースクリフと行動するようになってから一人で出掛けることも多かったから、何も今回が初めてと言うわけでもない。

 

 攻略組だけでなく、この世界は狭いコミュニティで形成されている。それでなくとも情報屋なんていうのも居るらしいから、そういった情報はすぐに広まると思っていたのだが。

 

 「そうでもねーヨ。情報の一部でも意図的に隠されちまうと信憑性がなくなるからナ」

 

 ふぅと、アルゴはわざとらしくため息をつく。

 

 「ところで、オネーサンはこれからどこに行くんダ?」

 

 アルゴの『お姉さん』呼びに、言い様のないゾクゾクとしたものを感じながら、食事を食べに行くのだと告げる。

 結局朝から何も食べれていないから、お腹も自己主張を始めている。

 

 「奇遇だナ。オイラもまだ何も食べてねーんダ。これから、ここらじゃ有名な穴場の名店に行こうと思ってたんだが、一緒に行かねーカ?」

 

 有名な穴場とはこれ如何に。

 

 ともあれ、お勧めのお店を紹介してくれるのであれば是非ご一緒したい。先程からいろいろと探してはいるのだが、なかなかピンとくる店がなかったのだ。

 

 私の言葉に、アルゴはニンマリと笑う。

 

 

 「決まりだナ。こっちダ」

 

 そう言って、アルゴは道を譲るように半身を引いた。三歩ほど歩いて横に並べば、ようやく彼女も歩き出す。

 三歩。

 横にならんでもなお私とアルゴの間にある距離だ。

 人と人とが共に歩くにはやや遠すぎるように思うが、人通りも少ない道で、あまりくっついて歩くのも、確かにおかしいのかもしれない。

 アスナとは初めから距離が近かったし、私にはこういった経験が少ないから、この距離の是非を判断することはできない。

 

 目的の店に着くまで、それでもアルゴは楽しそうに喋り続けた。───そしてその間一度も、私を視界から外すことをしなかった。

 

 

 

 

 

 照明の上でクルクルと回る木製のシーリングファンを見上げる。

 扇風機の羽によく似たそれは、どこか空回りする歯車のようでもある。

 

 「旨かっただロ?ここのパンケーキ」

 

 正面に座るアルゴの言葉に頷く。

 

 確かに絶品だった。フルーツが沢山盛られていて、見た目も宝石のようだったし、花のように添えられた生クリームや、雪のような粉砂糖。これぞインスタ映えって感じだ。

 

 「全部見た目の話じゃねーカ。美味しかったんだよナ?」

 

 ジト目のアルゴに無論だと答える。少し考え事をしていたから、あまり味わうことは出来なかったが。

 

 「まぁいいヤ。それより、はくのんは74層のボス攻略に参加したんだよナ?」

 

 攻略…というのは些か語弊があるような気がしなくもない。あの戦いは、そんな整然としたものではなかったから。

 とはいえ、74層のフロアボスを倒した場に居たという意味では間違いない。

 

 「あの人数で良く倒したもんだよナー。おまけに暴走した《軍》を救出しながらときたもんダ」

 

 通常のボス攻略が1レイド、つまりは42人で行われることを鑑みれば、確かに圧倒的に少ない人数での戦いだった。おまけに救出にも人数が割かれ、実際に戦っていた人数はもっと少なくないのだ。

 とはいえ、あの少人数で倒すことが出来たのは、あのボスに取り巻きがいなかったことと、ボス自体がパワー重視の比較的鈍重なタイプであったことが大きい。

 

 「最近じゃ取り巻きがいないボスも少なくねーし、パワー重視のボスも多いからナ。それでも普段から苦労してるんだから、やっぱり《二刀流》と《コードキャスト》がデカかったんだじゃねーのカ?」

 

 アルゴの言葉にウーンと唸る。

 そう言われても、私は後半気を失っていたし良くわからないのだ。私のコードキャストだって、言ってしまえば敵の攻撃を一回防いだだけである。そんな大きな貢献はしていないように思えた。

 

 「一回?あァ、《コードキャスト》を使うと副作用があるんだったカ」

 

 

──白々しい。

 

 アルゴの言う副作用。黒く染まった左腕を私は隠していない。

 私の白いワンピースと対照的なその色は、どれだけ遠目であっても目立つ筈だ。

 

 それでも、気を使ってこちらから話し出すの待っていたのかも知れないと自分に言い聞かせ、アルゴから見えやすいように左腕を掲げる。

 

 「…痛みはねーのカ」

 

 多少はある。だが、コードキャストを使った直後と比べると誤差のようなものだ。我慢できないほどじゃない。

 

 「脇腹も同じようになってるって聞いたゾ。そっちは?」

 

 同じだ。脇腹は範囲が狭い分気にならないぐらいで。

 

 「痛みがあるのは辛いナー。でも、なんで黒くなる範囲に違いがあるんだろうナ?」

 

 それは私もわからない。そもそも二回しか使って居ないのだから、考察のしようもないのだ。魔力の消費量に比例するのか、世界への干渉量に比例するのか、或いはランダムか。いずれにせよ現状では想像の域を出ない。

 

 

 「なら、これ以上《コードキャスト》を使うのは控えた方がいいナ。例えば、オレっちがその《コードキャスト》を使うこと出来るのカ?」

 

 いや、それは難しいだろう。

 

 私自身が感覚でコードキャストを使っているから、アルゴに理屈を教えることは出来ないのだ。

 もし、アルゴがとんでもない才能の持ち主で、見ただけで再現できると言うのであれば話は別だが。 

 試しにやってみようか。イメージ的には、体内で作ったプログラムをこの世界に押し通すような感じなのだが。

 

 

 「いやムリムリ。その説明から意味不明だしナ。オイラは止めとくヨ」

 

 アルゴにそりゃそうだと頷き、そろそろ店を出ようと伝える。ずいぶんと長居してしまった。そろそろ攻略に向かいたいところである。

 

 「まぁ待てっテ。これを飲みきるまで付き合ってくれヨ」

 

 そう言って、アルゴは手元のグラスを揺らす。既に氷が溶けてなくなったそれは、静かに水音をたてるのみだ。

 

 短く息を吐き、浮かしかけた腰をおろす。それ見たアルゴは、悪いナと言いながら手に持ったグラスをテーブルに置いた。

 

 「そういえば、なんで血盟騎士団との会合で坂ノ上田村麿なんて名乗ったんダ?」

 

 ニシシと笑うアルゴへ視線を向けず、頬杖をついたまま窓の外を眺める。

 

──ちょっとした冗談だ。長い付き合いになるのなら、少しでも親しみやすくしようとしただけだ。

 

 「血盟騎士団のメンバーに斬りかかったっていう噂ハ?」

 

──ずいぶんと好き勝手言ってくれたから、思わず手が出ただけだ。

 

 「──そもそも、はくのんはなんで100層を目指すんダ?」

 

 

───いい加減にしてくれないか。

 

 

 好き勝手な質問攻めに思わず立ち上がる。

 瞬間、アルゴは通路まで飛び退き、いつの間にか片手に装備していたクローを構える。

 

 余りにも速い対応だった。もしかしたら、いつでも飛び退けるように、ずっと腰を浮かしていたのかもしれない。

 その対応が、無性に頭にくる。

 

 

 私がそんなに信用できないのだろうか。いや、信用できないのだろう。目的のわからない協力者など、彼女達からすればいつ裏切るかもわからない相手でしかない。

 だが、だからなんだと言うのだろうか。そう思うなら、私に関わらなければ良いのではないのだろうか。

 

 アルゴもキリトもヒースクリフも、代わる代わるに私に問うのだ。

 なにが目的なのか、なんのために戦うのか。

 何度も答えた。

 あなた達のためだ。私が私で在るためだ。

 何度も何度も言葉を交わした。行動でも示してきたつもりだ。もしそれでも信用が出来ないなら、一体何をすれば納得するのだろうか。

 

 そのくせ、私には最前線に居てもらわなくては困ると言うのだ。

 

 私の責任者だとか、ギルドとして助けただとか、恩着せがましいにも程がある。私は使い勝手の悪いアイテムかなんかなのだろうか。

 あなた達が私の理由に納得出来ないのは仕方がないとする。理解も出来ないと言うならそれも仕方ないとしよう。

 だからって、そんな探るような真似は違うと思うのだ。

 

 

 私の動機が理解できなくて、それでも私の力を借りたいと言うのなら、なぜ誰も、『自分のために死んでくれ』と言えないのか。

 

 求めない癖に、与えられるものを信じられない癖に、それでもなお与えられて当然と考える。

 

 

 散々だった。もうウンザリだった。例えこれが八つ当たりに過ぎないとしても、これは紛れもない本心だから。

 目の前で、瞳揺らす少女を睨みつける。

 

 あなた達が私をNPCだと思うのは勝手だが、だからといって、私が何も思わない訳ではない。

 

 

 「ぁ…いや…、オイラは──」

 

 

──先に失礼する。いつまで待っても飲み物は無くならないようだから。

 

 そう言ってアルゴに背を向ける。

 

 「ちょ──ちょっとまって!」

 

 

 アルゴの引き留める声に足を止める。

 

 

──安心して欲しい。攻略は続ける。

 

 そう言って顔をアルゴへと向ける。改めて見るその表情はずいぶん幼くみえた。

 

 

 

──でもそれは、あなた達の為じゃない。

 

 

 




私はアルゴが好きです


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