「智也が浜咲だったら」 (高尾のり子)
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1話

「智也が浜咲だったら」

 

 

 三上智也は自宅のベッドで目を覚ますと、顔を洗って高校の制服に着替える。ネクタイを締めないのは校則違反だったが、気にしていない。

「さてと」

 カバンを持って玄関を出ると、今坂唯笑と桧月彩花が待っていた。

「おはよう、トモちゃん」

「ああ、おはよう」

「……。もうギリギリよ、やっぱり一人じゃ起きられないんじゃないの?」

 女の子らしい仕草で腕時計を見ていた彩花が駅まで急がなくてはならなくなったことを批難すると、智也は肩をすくめた。

「そうなったら、オレを置いていけばいい」

「バカ。加賀君が朝練に三年間参加しなかったのは、智也だけだって愚痴ってたよ」

「トモちゃん悪いんだぁ」

「オレは悪だ♪ 近づくと悪知恵がうつるぞ」

「唯笑はバカだから平気だもん」

「バカなこと言ってないで、急ぐよ、唯笑ちゃん、智也」

「は~い♪」

 藍ヶ丘駅まで走ると、いつもの電車に乗れる。彩花と唯笑は上りのホーム、智也は下りのホームに向かった。

「じゃあな」

 智也は幼馴染み二人へ、手を振る。

「トモちゃんも唯笑たちと同じ学校にしたら、よかったのに……」

 背後で何か言われているが、聞こえなかったことにして、滑り込んできた車両に乗り込んだ。

「高校まで幼馴染みとセットでたまるかよ」

 独り言をこぼしてカッターシャツのボタンを一つ外した。浜咲学園の校章が刺繍されたカッターシャツがはだけて胸が見えるようになったので、そばに乗っていた一年生の女子が顔を赤くして目をそらした。その動作で女子が背負っていた薙刀のケースが智也の頭に当たる。

「痛っ…」

「ぁ………」

 うっかり当ててしまった一年生と智也の目が合う。

「……。痛かったぞ」

「…………。そんなところに、立っているから悪いのです」

 謝るべきところで、謝らなかったのは藤原雅。

「なるほど、……オレが悪いと」

 怒ってもいいのに、怒らなかった智也は軽く微笑んで肩をすくめた。

「もったいないな」

「……? ……何がもったいないと言うのです?」

 会話する気はなかったのに、雅が疑問と好奇心に負けて問いかけると、智也はポニーテールにしている雅の頭へ軽く手を乗せた。

「見た目は可愛らしいのに、もったいない、ってことさ」

「っ…」

 雅の顔がリンゴのように赤くなっていく。男慣れしていない様子に、そばにいた別の薙刀部員が、薙刀のケースで今度こそ智也の頭を狙って打った。

「痛っ!」

「なんぼ先輩でも、気安う女子に触るもんやないです」

「痛ぅ……悪いな。つい…」

 打たれた智也は自分の頭を撫でながら苦笑した。つい、唯笑の頭を撫でるように、雅の頭を撫でてしまった。同じ学校の後輩とはいえ、ほとんど面識のない相手にすることではなかった。

「こんなところにまで、幼馴染みの悪影響か……」

「ただの女ったらしやと、思いますけど?」

 木瀬歩からの冷たい視線を受け流しているうちに浜咲駅へ到着した。学校へ続く道を一人で進んでいく智也を背後から、二人乗りの自転車が追い抜いていく。

「ハーイ♪ 智也」

 自転車の後部に座っていた黒須カナタが智也の背中を叩いて笑っている。

「おい、カナタ! 動くなよ! バランス崩れるだろ! ハァハァ…」

 必死で自転車をこいでいる加賀正午が文句を言って、息を荒げた。

「加賀も重い荷物を載せて大変だな」

「うるさい!」

「とっても重くて大切な荷物だからね。ジイヤの運転より気をつかってくりたまえよ」

 三人の横をリムジンがすり抜けていく。その車窓から花祭果凛が優雅に手を振って会釈してくれた。

「「優雅すぎる……皇后陛下みたいだ……」」

「りかりんが皇后なら、アタシは女神ね」

「女怪だ」

 学校前の勾配がある道に太腿が悲鳴をあげた正午が自転車を降りて押す。それでもカナタは降りない。

「おい、重いぞ」

「どうせ、妖怪ですから取り憑いたまま離れませんよ♪」

「たはーっ……」

 タメ息をついた正午を追いついた智也が笑う。

「はははははっ♪ ずいぶんな妖怪に取り憑かれたな。中学からの腐れ縁」

「うるさいぞ。お前だって唯笑ちゃんと桧月さんがいるじゃないか」

「オレは、ちゃんと御祓いして、浜咲に入ったから、腐れ縁は切りつつある。部屋の窓にも悪霊退散の札を貼って彩花の浸入を阻止してるぞ」

「ふーん♪ で、智也は例の彼女とは、進展したの? 昨日、学校サボってマリンランド行ったんだってね」

 カナタが興味深そうに智也の瞳を見透かしてくる。現役高校生のままモデルもしている彼女に見つめられると、ほとんどの男子はうろたえるが、同じ藍ヶ丘第二中学の出身だった智也は免疫ができていた。

「さあ? どうだろうな」

「はぐらかすってことは……、あ♪ 噂をすれば…」

 カナタは後ろから速いペースで歩いてくる寿々奈鷹乃を見つけて、手を振った。けれども、鷹乃は手を振り返すことはなかった。まっすぐ智也に向かってくると、スカートのポケットから小銭を出した。

「これ、返すわ。600円」

「……。オレはあげたんだけどな、寿々奈に」

「あなたから物をもらう理由はないわ」

 鷹乃が小銭を握った手を智也に突きだしているが、智也も受け取らない。カナタが楽しそうに鷹乃のカバンを飾っているマリンランドのマスコットキャラ白ドルピィ君を見つけて微笑む。

「いいもの買ってもらったじゃん。お気に入り?」

「………。……」

 鷹乃は答えず、智也に小銭を押しつける。

「昨日は持ち合わせがなかったから、立て替えてもらっただけよ。だから返すわ」

「鷹ちゃん、硬いね」

「黒須さん、私のことを、そういう風に呼ぶのはやめてくれるかしら」

「やめてくれないかしら?」

「くっ…」

 やっぱりカナタの相手をするんじゃなかったと露骨に顔をしかめている鷹乃から、智也は一歩離れて白ドルピィ君を指した。

「返すっていうなら、そっちを返すのが筋かもな」

「え………これを?」

「オレは寿々奈に金を貸したんじゃなくて、オレが買ったキーホルダーを寿々奈にあげたんだ。要らないっていうなら、金じゃなくて、そっちを返してくるのが、筋の通し方だろ?」

「……………………」

 鷹乃がカバンに着けた白ドルピィ君へ、明々白々に別れ難そうな顔をする。その顔が普段の彼女からは思いもよらないほど子供っぽい表情だったのでカナタは笑いをこらえるのに、かなり苦労した。

「けど、オレは、その白ドルピィ君への興味は無くしたからな。返してもらっても困るな。捨てるか、黒須にでもやるか、だな」

「アタシにくれるの? ふふ♪」

 カナタがカバンへ手を伸ばしてくると、鷹乃は素早く白ドルピィ君を守った。

「怖い怖い♪ で、昨日は白ドルピィ君に会えたの?」

「……。会えたわ」

「よかったね」

 カナタが巧く話題をそらしたので、鷹乃は600円を押しつける機会を失った。

「まあ、平日の昼間だったからな。たっぷり白ドルピィ君とやらを堪能できたぞ」

 智也が校門へ歩いていく。

「じゃ、寿々奈、賭けはオレの勝ちだからな」

「…………ええ、わかっているわ」

「白ドルピィ君に会えなかったら、智也は全裸でヤスキヨ節だったのにね。そっちのがアタシとしては見たかったかも♪」

「りかりん情報に感謝だな。出現ポイントと時間、普通は教えてもらえないらしいな」

「知っていたの?!」

 鷹乃が驚いて追いかけてくる。

「待ちなさい! 知っていたなら賭けは不成立よ!」

「いや、成立だ。いかさまは見抜けなかった方が悪いし、そもそも寿々奈を白ドルピィ君に会わせれば、オレの勝ちだった。方法は問われないはずだ」

「でも…」

「デモは機動隊が鎮圧するし、孫子も言ってるだろ。情報戦は古代から現代まで、戦の勝敗を決するってな」

「…………卑怯よ」

「オレは卑劣な男だからな。勝利を得るために方法は選ばない。勝てば官軍、いい言葉だ」

「………………………………」

 納得できない鷹乃も遅刻する前に校門をくぐるしかなかった。

 

 

 

 昼休み、白河ほたると智也は音楽室で会っていた。

 二人きりの音楽室で智也が真面目な顔をして告げる。

「好きだ!」

「っ…」

 ほたるは言われるとわかっていたのに、少し顔を赤くして目をそらした。

「う…うん、…いいと思うよ」

「そうか。……けど、好きです、の方が寿々奈にはよくないかな?」

「うーーん……、……言ってみて」

「……」

 智也が少し気を貯める。そして、ほたるの目を見つめて告げる。

「好きです」

「…………、ふ~っ…」

 ほたるは赤くなりそうな顔をタメ息をついて冷やしている。

「うん、こっちも、いいかも。ちょっと丁寧だし……でも、好きだ、の方が三上くんらしいかな?」

「うう~む、難しいな」

「そんな難しく考えないで、そのとき自然に口から出てきた言葉でいいと思うよ」

「いや、しかし、やはり事前に最大限の準備はしておきたい。戦争も恋愛も準備こそが勝敗を決する。白河、どっちがいいか、もう少し練習するから答えてくれ」

「うん……どうぞ…」

「好きだ!」

「っ…」

 自分が好かれてるわけじゃない、これは演技だから、と思っていても顔が熱くなってくる。こういう気持ちのこもった言葉を演技で言える人間を、ほたるは二人、知っている。

「好きです」

「……」

 カナタや飛世巴なら、もっと具体的な指導ができたかもしれないのに、ほたるは智也の目を見ないことで心拍数があがるのを抑えようとしたけれど、智也は練習に熱が入って、ほたるの両肩をつかんできた。

「好きだっ!」

「ひゃっ…」

「好きです!」

「だ、ダメだよ! ほたるにはケンちゃんという決まった人が…」

「好きだ!」

「ダメだって……困るよ…」

「好きです!」

「そ、そんな強引に言われても、ほたる困るから…」

「好きだっ!」

「み…三上くん…」

「好きです」

「………ほたるだって…」

 見つめられて真剣に告白されるのが、こんなに心に効く、とは思わなかった。真剣に告白した経験はあっても、された経験はない、胸が熱くなって、このまま受け入れたくなってきた。

「好きだ!」

「…三上くん…」

「好きです」

「……、…………ほたるで……いいの?」

「……、いや、ダメだ」

「……………………、だよね」

 すごく心が冷めた。なんだか、両肩をつかまれてるのが、とてもムカつく。そこへ、伊波健が現れた。

「何やってるんだよ」

「あ、ケンちゃん、こ、これはね、違うの!」

「ただの告白の練習だ。気にするな、白河の恋人A」

 ほたるは慌てたけれど、智也は彼女の肩から手を離して冷静に説明した。健がムっとして智也を軽く睨む。

「なんだよ、Aってのは」

「ほら、よくあるじゃないか、通行人Aとか、兵士Aみたいな」

「意味わからない。ほたるから離れろよ」

「ケンちゃん、もしかして嫉妬してくれてるの?」

「ち、違うって!」

「よかったな、白河。嫉妬は恋愛で一番大切な要素だ」

「えへへ♪」

「ボクは、…ただ…」

「ごめんね、ケンちゃん。ちょっと三上くんの練習に付き合ってただけなの。ほら、前にも言ったけど、三上くんとは同じ中学だったから、ただの友達として相談にのってただけ」

「ほたるが、そういう…なら…、…けど、三上くんが告白って誰に?」

「それはね、…えっと、教えてもいい?」

「ダメだ」

「…………」

「本人がダメって言ってるから、ほたるも、いくらケンちゃんでも……」

「わかったよ。もうボクは邪魔みたいだから、お昼は翔太と食べてくる」

 健が背中を向けて立ち去った。

「悪いな、白河」

「気にしないで。でも、三上くんが鷹乃ちゃんを好きになるなんて…ふふ♪ みんな驚くね」

「それは成功したらの話だけどな。なかなかにガードが堅くて苦戦してるよ」

「鷹乃ちゃんは、ちょっと男の子に壁をつくってるけど、それを突破できれば、あとは早いと思うけどなぁ……」

「壁か…」

「だから、ちょっと強引なくらいで、ちょうどいいかも。さっきみたいな告白されたら、どんな女の子でもドキドキすると思うよ」

「強引か……殴られそうだけどな……、けど、強引なくらいでないとダメかもな」

「愛は勝つ! 頑張れ、三上くん」

「うむ」

 ほたるは背中を叩いて応援しながら、中学の友人のことを思い出した。

「彩花ちゃんと唯笑ちゃんは、もう気づいてる?」

「いや、たぶん、気づかれてないはずだ」

「そっか……」

「白河も、くれぐれも内密に頼むぞ。ほんの些細な手がかりで彩花は嗅ぎつけてくる。みょうな探りの電話とか、しないでくれよ」

「しないけど……」

「彩花に知られたら、絶対に邪魔されるしな」

「……、あのね、三上くん、彩花ちゃんが邪魔をするのは……それはね……理由があるんだよ。……気づいてないの?」

「気づいてない!」

「……気づいてるくせに…」

「あれは一種の悪霊だ」

「悪霊って、…ひどいなぁ」

「たしかに幼稚園のとき、婚約した。が、唯笑ともした」

「初恋の相手って、大切に想うよ、女の子は」

「男だって同じだ。いや、むしろ男の方が執着心は強いらしい」

「三上くんの初恋って、やっぱり鷹乃ちゃんなの?」

「いや、違う」

「……じゃあ、誰なの?」

「一応……彩花だと思われる、たぶん。……いや、もしかしたら、唯笑が先だったかもしれない……同時に好きになるってことはないから」

「なんか、いい加減……」

「白河だって、幼稚園から小学校低学年にかけて、誰を好きだったか、正確に思い出せるか?」

「ほたるは、ずーーっとケンちゃん一人だもん♪」

「伊波と出会ったの、高校に入ってからだろ?」

「うん♪」

「……………………」

「だいたい、幼稚園とかは初恋にカウントしないの。せめて中学に入って以降にしようよ。それなら、誰? やっぱり彩花ちゃん?」

「……………………みなも……あ、いや、……やっぱり…」

「やっぱり?」

「……、寿々奈だ」

「頑張ってね!」

 ほたるが笑顔で背中を叩いてくれた。

 

 

 

 放課後、大学の推薦入試に向けた水泳の練習を終えた鷹乃は、智也の家に招かれていた。

「ずいぶん、立派なところに住んでいたのね」

「そうか? 普通の家だぞ。むしろ、花祭とか、加賀、黒須に比べたら格段に劣る」

「………あの三人は別格よ」

「だな。だから、やっぱりオレの家は普通だ」

「詩音が言っていたわ。日本で普通の家に住めて、両親がそろっていることが、どれだけ奇跡的に幸せなことか、みんなわかってないって」

「シオン?」

「言ってなかったかしら、澄空学園にいる私の友人で双海詩音。父親の仕事のせいで海外を点々としているの。澄空学園にも転校生として入ったはずよ」

「ああ、そういえば、そんな転校生がいたって澄空に通ってる隣近所の子が言ってたかも。ちょっと愛想が悪くて友達にはなれなかったとか」

「それは詩音の一面しか知らないからよ。彼女の素顔を知れば、とても知性的で利発だってわかるわ」

「素顔か…、まあ、座って」

 智也はリビングのソファに鷹乃を座らせて、台所に立った。

「紅茶かコーヒー、どっちがいい?」

「どちらでも……、いえ、紅茶を。……あ、やっぱりコーヒーをお願い」

「クスっ…意外と優柔不断なんだな」

「……、美味しい紅茶を飲みたい気分になったのよ。でも、あなたには望むべくもないと気づいたから、不味い紅茶を飲まされるくらいなら、不味いコーヒーの方がマシと判断しただけよ」

「なるほど、では、不味いコーヒーを淹れるとしますか」

 智也はコーヒーを淹れると、戸棚から小さなガラス瓶を出した。中には黄色がかった粘液が入っている。カップに注いだコーヒーへ鷹乃からは見えない位置で大さじ一杯分、ガラス瓶から粘液を垂らし入れる。

「お待たせ、どうぞ♪」

「いただきます」

 鷹乃がカップに口をつけた。

「……美味しい」

「お姫様の口に合うようで、なによりでございます♪」

「これ……ブラックではないでしょう、何か入れたの?」

「隠し味を少々」

「何を入れたの。少し甘いわ。それに、とてもいい香り」

「千羽谷のカフェで教えてもらったコーヒー専用シロップだよ。ヘーゼルナッツの」

「コーヒー専用……そんなものがあるの…」

「鷹乃姫におかれましては、お気に入りのご様子、おかわりは、いかがですか?」

「………、ええ、いただくわ」

 少し甘くて香りのいいコーヒーが水泳で疲れた身体には美味しかったので、智也のふざけた物言いは気に入らないけれど、二杯目にも口をつける。

「三上くん、ご両親は?」

「双海さんと似たようなものかな。ほとんど家にいない」

「そう……ごめんなさい」

「なぜ、謝る?」

「………余計なことを訊いたからよ」

「いや、普通だろ。家に来て両親いなかったら、どうしてるのかな、帰ってこられて出会ったら、なにか挨拶しないといけないかな、とか、普通に思って、訊いたんだろ? 謝ることないって」

「…そうね。じゃあ、お母さんもお父さんも元気なの?」

「たぶん、連絡が無いあたり、元気なんだろうと思う。……………」

「どうかしたの?」

「寿々奈の本屋さ、……、訊いていいかな? あれ、オヤジさん?」

「違うわ。叔父よ。私は叔父夫婦に育てられたの。両親は私を捨てたわ。それだけ、他に訊きたいことは?」

「……………………。お腹、空かないか?」

「………話が飛ぶのね」

「他に訊きたいことは、って言われて、これ以上家族のことを突っ込むのは遠慮したからだ」

「…………遠慮したことを遠慮無く口にするのね」

「お腹、空いてることは遠慮しなくていいぞ?」

「……………………鯉の料理でも作ってくれるの?」

「リアル鯉のぼりの証拠写真は、あとで見せるさ。寿々奈のおじさんたち、今日から店を休んで温泉旅行だったろ? 町内の」

「ええ、それが三上くんに関係あるの?」

「寿々奈、夕食は?」

「……、まだ、考えてないわ」

「オレは今、考えた」

「………、で?」

「宅配のピザにしよう。何がいい?」

 智也がメニューを見せてくる。鷹乃は戸惑った。

「宅配のピザって、バイクで配達しているアレのこと?」

「ああ、そうだけど?」

「………贅沢な生活をしているのね」

「お客がいるときくらいだぞ」

「そう」

「で、何がいい? 遠慮無く頼むがいい」

 メニューを手渡されて、鷹乃は考え込み、そして食べたいものを決めた。

「じゃあ、これと……これ、それに、これのLLサイズ」

「……………………おい」

「遠慮無くって言ったのは、あなたよ」

「わかった。オレも男だ、二言はない。オーダーはしよう。しかし、ピザは冷めると不味くなる。本当に、これ、全部、食べられるんだろうな?」

「ええ」

「マジで?」

「ええ、三上くんだって引退試合は終わったみたいだけど、バスケ部だったでしょう。このくらい食べないの?」

「いや、LLなら半分が限度だ。つまり、オレは一枚の半分しか、食べない。あとは寿々奈が食べる計算になるけど、本当に頼んでいいんだな? 残して、明日も明後日もオレの飯が冷めたピザになるのは、怒るぞ」

「食べるわよ」

「わかった。じゃ、飲物は、これでいいな?」

「それって、ビールじゃないの?」

「ノンアルコールのビール風味飲料だ♪ ピザに一番、合う。コーラは甘いし、コーヒーも紅茶も食後だろ? 日本茶も麦茶も合わない。ピザと言えば、ワインか、ビールだ」

「……私たち、未成年よ」

「だから、ノンアルコール」

「…………」

「ホントに美味いぞ」

「わかったわ、それでいいわ」

 鷹乃が了承したので智也は電話をかける。15分ほど待つと、大きなピザが届いた。

「おーい、お姫様、澄空幕府の将軍もビックリするくらいの夕飯が届いたぞ♪」

「どういう意味かしら?」

「双海さんが普通の家に住めることが奇跡的だって言ったのと同じ意味かな」

 智也も持ったことがないほどの量のピザを抱えてリビングに運ぶ。

「かつて日本を統一した将軍でも、東北の鮭の味に驚くほど感動したそうだ。現代のオレらは、このピザ一枚に入ってる食材の豊富さ、輸入された範囲の広さ、食文化の豊かさに、それほど驚きもしないが、実はすごいことだと、思わないか?」

「…………そうね。何か手伝うこと、あるかしら?」

「じゃあ、リビングのテーブルに、これを並べて箱を開けておいてくれ。オレは皿と飲物を用意するから」

「わかったわ」

 智也が置いたピザの箱を開けている鷹乃は、背後のキッチンで配達されたノンアルコールのビール風味飲料ではなく、本物のビールが冷蔵庫から出されてグラスへ注がれていることには気づかなかった。

「「いただきます」」

 テーブル狭しと並べられたピザを二人で食べていく。

「たしかに、美味しいわね。ピザと合うわ」

「だろ♪ おかわり持ってくるよ」

 もちろん、おかわりも本物のビールを注ぐが、鷹乃は気づかない。飲んだことのない本物のビールとビール風味飲料を判別することはできなかった。

「ホントに気持ちいいくらいの食べっぷりだな」

「そうかしら」

 美味しそうにピザを頬ばっている鷹乃がチーズのついた指を舐めるのを、智也は愛おしそうに見ている。

「私の顔に、何かついているの?」

「昨日、帰りがけに寿々奈が、かぐや姫の話をしたろ」

「ええ、それが何か?」

「あの後、思ったんだが、かぐや姫自身は月へ帰る自分の運命を知っていたから、求婚してくる男たちに、基本的には諦めてほしかった、と思わないか?」

「……ええ、……そうね」

「竜の玉だとか、蓬莱山の玉の枝なんてのは、現代でいえば、ネッシーの尾ひれとか、日本狼の肝みたいなもんだ」

「ネッシーはともかく、日本狼の肝なら当時の貴族なら簡単に用意できそうね」

「そうだな。でも、現代じゃ不可能だ。となると、かぐや姫は不可能を可能にする男を求めていたか、もしくは男を拒絶していて無理難題を科したか、二つに一つ、もしくは、その両方か」

「両方?」

「不可能を可能にする男なら、月の軍隊だって退けてくれるかも、しれない」

「………」

「けど、やっぱり拒絶するための無理難題だったろうから、かぐや姫は貴族の皇子たちが命がけで海に出たりするのを、けっこう心中では焦って聴いていたかもしれないな」

「どうして、彼女が焦るの?」

「人間の恋心を知らない彼女は、普通なら諦めると思って不可能ごとを要求したのに、それに応じようとする人間の愚かさと情熱に驚くと同時に、自分の言ったことが原因で人が死ぬのは、後味が悪いからさ」

「………………、男の愚かさは、かぐや姫の想像を超えていたということね」

「別に恋のために、愚かなことをするのは男に限らないさ。白河を見てれば、わかるだろ?」

「……ええ……そうね……」

「けど、それも仕方なしだな」

「そうかしら? そんなくだらないことにエネルギーを費やすくらいなら、もっと有意義な人生があるはずよ。白河さんにだってピアノの才能があるわ」

「音楽や芸術は人間独特の重要事だけど、このピザが美味いのと同じで生物共通の重要事もあるだろ」

「………」

「そして、美しい音楽を奏でるのは、寿々奈の好きな昆虫の一部にも共通するし、ホタルだって幻想的な明滅をする」

「だから、なに?」

「さあ?」

「…………………」

 結論のない話を聞かされたので鷹乃は不愉快そうにピザを頬ばった。けれど、その不愉快さもピザの味で、すぐに解けていく。

「こっちも美味しいわね」

「やっぱりシーフードが好きか?」

「基本的に好き嫌いはないわ」

「何でも喰う、と」

「………」

「悪いな。口が悪いのは、誰かと同じでね」

 智也は少し笑ってグラスからノンアルコールのビール風味飲料を啜った。

「ごちそうさま」

「さすがに、満腹になったか?」

「そうね。あと一枚なら食べられそうよ」

「………、冗談じゃない感じなところが、すごいな」

「こっちは、あと一杯、もらっていいかしら?」

 ピザの味が濃かったのと、アルコール独特の口渇感で鷹乃はグラスで6杯目になるビールを求めた。智也が注いでくれたビールを飲み干すと、鷹乃は腰を上げる。

「さ、リアル鯉のぼりとやらの、くだらない証拠写真を見てあげるわ」

「ああ、オレの部屋にある。こっちだ」

「なら、案内しなさ…ァッ!」

 鷹乃は足をもつれさせて、転びそうになった。

「おっと!」

 ある程度、予想していた智也は倒れそうになる鷹乃を支えて、立たせる。

「大丈夫か? 水泳で疲れてる?」

「平気よ。ちょっと、足がもつれただけ」

「平気といいつつ、フラフラしてるぞ」

「……、そうね、ちょっと今日は練習量が多かったかしら……、陸に上がると身体が重いわ」

「食べ過ぎだからじゃないか?」

「余計なことを言わずに、さっさと案内しなさい」

「わかったよ。けど、階段は危ないから、ほら」

 智也が腕を支えてくるのを、ふらつきを自覚している鷹乃は拒否しなかった。お腹がいっぱいになったのと、初めて体験する酩酊感のおかげで、いつものような男性に対する拒否感が少なくなっている。まっすぐ階段を昇る自信がなかったので、智也に頼った。

「ほら、こっちに座って」

「…ええ…」

 半ばうつろな目をして、鷹乃は案内された部屋のベッドに座った。

「ちょっと待っててくれよ。今、アルバムを探すから」

「…私が来るって……わかっていたんだから……用意しておくのが…」

 ろれつと語勢が怪しくなってきた鷹乃は、座っていたベッドに寝そべった。

 目を閉じると、心地いい眠気が襲ってくる。

「…今日は疲れ…たわ…」

「寝たいなら、ちょっとなら、寝てもいいぞ」

「……ええ……じゃあ、5分だけ……」

 部活の後に、満腹になってアルコールまで呑まされて、今日は店の手伝いもないという安心感から、目を閉じていた鷹乃は一息で眠りに落ちてしまった。

「……………………」

 智也はアルバムを探すのをやめて、鷹乃の寝顔を見つめる。

「…………………。オペレーションおろち、成功だな」

 難攻不落に見えた対象を、ホームに誘い込み、古代から有効だった酔わせて仕留める作戦だった。今夜は、いつも通り両親はいない、彩花も予備校で帰りは遅い、鷹乃も叔父夫婦が旅行中、狙ったタイミングとはいえ、すべて計画通りだった。

 

 

 

 夜中、智也はイスに座って、鷹乃の寝顔を見つめていた。もう何時間も飽きることなく穏やかな寝息を繰り返している彼女を見ている。部屋の照明はつけていないし、彩花の部屋へ面した窓のカーテンも閉めているので、かなり暗い。

「……………………」

 起きたら口説こう、寝ぼけているところを一気に口説き落とそう、そう企んでいるけれど、まだ起きる様子はない。寝顔を見ていることに飽きるどころか、顔だけでも魅力的なのに、鷹乃のスカートは寝返りをする度に大きく乱れていって、智也は目のやり場と保養に不自由しない。

「んっ……ん~ぅ…」

 制服のまま寝ているのが寝苦しいらしく、ほとんど無意識で鷹乃は胸のリボンをゆるめてブラウスのボタンを外してしまった。

「………………………………」

 よく見えるようになった胸元が智也の理性を危うくしてくる。

「くっ……情熱を……持て余すぜ」

 燃えあがりそうになった情熱の炎が、彩花の部屋が明るくなったことで、一気に鎮火した。

「っ…」

 彩花が部屋の照明をつけている。ぼんやりとした光がカーテンの向こうから差し込んでくる。

「気づくなよ……」

 予備校から帰ってきた彩花は制服を脱いでいる様子だった。両方の部屋のカーテンが閉じたままでも、長年の経験で彩花がブラジャーも外して、パジャマ姿になっているのが判るけれど、鷹乃に感じたような情熱は1ピコケルビン度も覚えない。

「……………………」

 彩花はパジャマのまま一階へ降りていき、入浴を終えると、再び部屋に戻ってきた。

「寝ろ、そのまま眠れ、悪霊」

 祈る智也に気づかず、彩花は自分の部屋のカーテンを開けると、こちらを覗いてくる。

「智也ぁ~?」

 彩花は窓も開けると、身を乗り出して智也の部屋のガラス窓に顔を近づけてくる。

「……………………」

 オレは寝た、もう寝たんだ、だから、お前も寝ろ、智也はカーテンの向こうに映る彩花の影が本当に悪霊に見えてきた。今この状況で彩花が闖入してきたら、とても鷹乃を口説くところではなくなってしまう。鷹乃のような難易度の高い女性を、彩花のような悪霊を背負ったまま口説き落とせるものではない、智也は必死に祈り始める。

「……しずまりたまえ、眠りたまえ…」

「智也、もう寝てるのぉ~?」

 寝ていた場合に配慮して、やや小声で彩花が問いかけてきている。こちらの様子を窺おうと、カーテンの中央や端から覗き込もうとして、影法師がフラフラと漂っている。

「悪霊退散、悪霊退散、おんばさらさらそわか、いつくしみふかき友なるイエスよ、成仏させたまえ、願わくばみなをあがめさせたまえ、くにとちからとさかえとは、かぎりなくアラーのものなればなり、アーメン、ハレルヤ、ピーナツバター」 

 三種混合の祈祷が奏功したのか、悪霊の影は遠ざかり、向こうの部屋も窓とカーテンが閉められた。

「ふーーっ…」

「んんっ…」

 鷹乃が大きく寝返りを打って、仰向きになった。

「…………………………」

 スカートが完全にはだけて、水玉模様のショーツが見えている。胸元もあらわになっていて男子高校生の知性を失わせ、痴性に溺れさせるのに十分な刺激だった。

「……寿々奈…」

 智也はベッドにあがり、鷹乃へ身体を重ねる。その気配で鷹乃の眠りが浅くなった。

「ん~っ…」

「寿々奈…」

「………」

 眠っていた鷹乃が目をあけた。

「……………」

「寿々奈」

「……み…かみ……くん?」

 すっかり状況を忘れている寝ぼけ眼で鷹乃は智也の顔を見上げている。

「……私……、ここは…?」

「オレは寿々奈が好きだ」

「………」

 鷹乃は自分が寝ぼけて夢を見ているのかと、目を擦った。けれど、智也は消えない。

「だから」

 智也が鷹乃へ唇を重ねた。

「っ!」

 さすがに鷹乃が驚いて、押し返そうとしたけれど、起き抜けの身体が十分な力を出してくれない。不本意なキスが数秒続いて、智也が離れる。

「何するのよ、ヘンタイっ! 叫ぶ…ううっ!」

 抗議しようとした鷹乃の口は智也の手で塞がれた。

「大きな声を出すなよ、頼むからさ」

「ううっ!」

 怒った鷹乃が手を噛んだ。

「痛っ…」

 噛まれる程度のことは覚悟していた智也は手を離さない。鷹乃の口に血の味と匂いが拡がった。

「うううっ!」

 ひっぱたいてやろうとした鷹乃の手も虚しく受けとめられて、手首を握られベッドに押しつけられた。

「オレは鷹乃が好きだし、ヘンタイじゃない」

「ううっ…」

「オレが男で、お前は女だろ。お前を好きになって、どこがヘンタイだよ?」

「…ぅぅ…」

 逃れようと試みても、体格が違う。まるで押し返すことができない。息苦しくて、暗くて、身体が自由にならない。

 怖い。

「好きだ、鷹乃。オレの女になれ」

「……ぅ…ぅ…」

 うまく息ができない、暗い、怖い、子供の頃に池で溺れたときと同じだった。怖い、恐ろしい、もうイヤ、鷹乃の身体が抵抗をやめて、されるがままになった。

 

 

 

 明け方、鷹乃が抵抗をやめたのは身をゆだねたのではなく、恐怖で抵抗できなかったのだと、智也が悟ったのは啜り泣く鷹乃の震えが何時間も止まらなかったからだった。

「……鷹乃…」

 冷静になった智也が優しく頭を撫でても、鷹乃は身震いして余計に泣いてしまう。布団をかけてやり、そばで見守ることしかできない。そのうちに日が高く昇り、誰かが家のチャイムを鳴らした。

「彩花か……、こんなときに…」

 チャイムが鳴る30秒前に彼女の部屋から人が降りていく気配がしたので、まず間違いなく彩花だった。最悪の場合、唯笑を連れているかもしれない。一応、チャイムは慣らしているけれど、彼女たちは、この家の合い鍵を持っている。ほっておくと起こしに来るのは、地動説なみに揺るがない事実だった。

「………チェーンロックもかけておくべきだった……」

 布団の中で啜り泣いている鷹乃を置いて、智也は階段を降りて玄関に立った。

「休日の朝から、何だよ?」

 ドアを開けずに話しかけると、やっぱり彩花と唯笑がいた。

「トモちゃん、おはよう♪」

「智也、いつまで寝てるのよ。夕べ、早く寝たんじゃないの?」

「オレの生活に干渉するな」

「そうはいかないわよ、私と唯笑ちゃんは智也のお母さんに息子をよろしくお願いしますって、頼まれてるんだから」

「……チッ…」

「舌打ちしない」

「いいから帰れ! オレは頭が痛いんだ。リアルに!」

「リアル頭痛なの? トモちゃん」

「そうだ! リアル頭痛だ! だから、ほっといてくれ!」

「お薬、買ってこようか?」

「智也、仮病は認めてあげるとしても、どうして、部屋の窓、鍵までかけてるかな?」

「悪霊が入ってくるからだ」

「…………今まで、悪霊退散の札は貼っても、鍵まではかけなかったのに……、夕べ、鍵かかってた…」

「お前が夜討ち朝駆けするからだ!」

「遅刻しないように親切に起こしてあげたり、いつまでもゲームしてるバカを早く寝かせてあげる親切な妖精さんが入れなくて困ってるよ?」

「妖精とか、妖怪とか、そーゆー人外の存在にオレの生活に干渉されたくないんだ!」

「「……………………」」

「いいから、帰れよ!」

「顔くらい見せたら? ドア開けてよ」

「………」

「それとも何か、開けられない事情でもあるの?」

「……………」

 ある、玄関には鷹乃の靴があるし、ドアを開けたら済し崩し的に部屋まであがられるかもしれない。それは、まずい、実に、まずい、智也はドアを蹴ってチェーンロックをかけた。

「オレに関わるな!! 幼馴染みとかいって、お前らウザすぎんだ! 休日くらいオレの好きにさせろ!!」

「「…………………………」」

「…………」

「………………トモちゃん……唯笑たちのこと、嫌いになったの?」

 唯笑が半泣きになっている声が響いてきたので、智也は後悔した。

「悪かった。………とにかく、今日は一人でいたいんだ………ほっといてくれ、頼む」

「……トモちゃん…ぐすっ…」

「智也、最悪。唯笑ちゃん泣かした」

「………後で、埋め合わせするから、今日は勘弁してくれ」

「ふーーん、よっぽど、都合が悪いことでもあるみたいね。死体でも埋めに行くの?」

「……………、オレは彩花が嫌いになってきた」

「…………。ま、いいわ。今日は許してあげる。ちゃんと埋め合わせはしてもらうから、お小遣い、残しておきなさいよ。じゃ」

 彩花と唯笑の気配が消えた。

「ふーーーっ……、どうなることかと…」

 ドアを開けたら、あの二人に隠し通せるわけがなかった。鷹乃の靴は隠せるとしても、リビングには何人で食べたのかってくらいのピザの残骸と、飲酒の跡、そして部屋には布団の中で泣いている鷹乃、見つかったら彩花が懲罰の天使ミカエルに変身しそうな状況だった。

「さて、……マジでリアル頭痛だな…」

 玄関の施錠を確かめて、もう一度、部屋に戻った。やっぱり鷹乃は布団の中で啜り泣いている。

「……………………」

 もう少し、そっとしておこう、智也は一階に降りると台所でグラスを洗ってピザの箱を捨てて、夕べの証拠を隠滅していく。勘のいい彩花に気づかれないくらい、きちんと証拠を片付けてから、二階へあがると、もう昼過ぎになっている。そっと鷹乃に近づいて、声をかけてみる。

「……お腹、空いてないか?」

「…………」

「何か、飲むか?」

「……………………」

 鷹乃は返事をせずに布団の中で身じろぎすると、一言だけ答える。

「……帰る…」

 泣きつかれた喉のかすれた声だった。

「……わかった」

 送るよ、とは言わずに智也は帰る鷹乃に同行する。送ると言えば拒否される気がしたけれど、黙って同行すれば断る気力もない様子で、とぼとぼと歩いている。昼過ぎなので必ずしも危険ということもいえないけれど、気持ち的に本屋まで送っていかないと落ちつかなかった。

「叔父さんたち、旅行から何時くらいに帰ってくるんだ?」

「……夕方…」

「そっか。……どこかで何か食べないか?」

「………いらない…」

「……………」

 会話が続かない。鷹乃は歩きながら目に涙を浮かべて、それを指で拭いていた。これだけ泣いていれば喉が渇くだろうと、智也は自動販売機で水を買うと、黙って鷹乃に差し出した。

「………」

「…………」

 いらない、とは言えないくらいに喉が渇いていた鷹乃は受け取って、一口ずつ、水を飲んでいく。水分を補給すると、すぐに涙へ変わってしまうようで、また目元が濡れた。

「……………」

「……………………」

 黙って歩くうちに、叔父夫婦が経営する自宅兼店舗の前に着いてしまった。店には臨時休業の貼り紙がしてあったけれど、店の前に人影が二つ、智也と鷹乃に気づいて、手を振ってくる。

「鷹乃センパ~イ!!」

 舞方香菜と双海詩音が店の前で待っていた。

「鷹乃センパイ、どうして待ち合わせの場所にいなかったんですか?」

「珍しいですね、鷹乃が約束を忘れるなんて。少し心配だったので押しかけてしまいましたが、どうやらデートの約束でも…ぇっ?」

 詩音は近づくなり鷹乃に抱きつかれて驚いたけれど、その鷹乃が大声をあげて泣き出したので、さらに驚いた。

「うわあああん! わああああっ!」

「鷹乃……、いったい…どうしたと…」

「鷹乃センパイ?!」

「わああああっ…」

 後輩もいるのに路上で号泣している鷹乃を詩音は何もわからないまま抱きしめて、智也に問いかける視線を送った。

「………」

 智也は返答に窮してバツが悪そうに目をそらした。それで詩音に推理のきっかけが生まれる、あとは休日なのに鷹乃が昨日と同じ制服を着ていること、いつも乱れのないポニーテールを整えているのに、今は昨夜から櫛を通していない様子の乱れ髪になっていること、それらの状況から大まかな事情を察して、もう一度、鷹乃を強く抱きしめた。

「三上センパイ! 鷹乃センパイに何があったんですか?!」

「………香菜ちゃん……」

 答えに困っている智也を詩音が鋭い視線で睨みつけた。

「はじめまして、鷹乃の友人、双海詩音と申します」

「あ……ああ、……鷹乃から少し…聞いてる…」

「私も、あなたのことは鷹乃から少しばかり伺っております」

 詩音の言葉は丁寧なのに智也は日本刀を向けられているような戦慄を覚えて後退る。

「……」

「鷹乃と何があったのか、お答えになれないならば、この場はお引き取りください」

「ぅっ……」

 切り捨てられたような錯覚を受けて智也はグラついた。

「………オレは……、……」

「お引き取りを」

「………」

 何も言えず、智也は立ち去った。

 

 

 

 夕方、彩花は隣家から聞き慣れない女子の叫ぶ声と、陶器が割れるような音が響いてきて、気になって智也に関わるなと言われたけれど、動かずにはいられなかった。

 部屋の窓を開けると、やっぱり智也の方は鍵をかけている。

「ちょっと危ないけど……よっ!」

 窓から窓へ飛びうつると、さらに智也の部屋の隣の窓へ、雨戸に体重を預けて移動する。

「くぅ……小学生のときと違って、……きつい…」

 手足は伸びたけれど、その分だけ体重も増加しているので雨戸が戸袋ごと落ちないかと、かなり不安になり、しかもスカートのまま実行したことに強い羞恥心を覚えたけれど、途中でやめるわけにはいかない。桧月家と三上家の間は、わずか60センチ、手足を伸ばせば、壁と壁の間を空中移動できる。じりじりと彩花は壁と壁の間を動いて、隣の窓へ到着した。

「ふふふふふ♪ ここには悪霊退散の札も忘れているようね。耳なし法師くん」

 窓には札もなければ、鍵もかかっていない。智也に弟か妹でもいれば使っていただろう空き部屋に彩花は滑り込んだ。

「ふーっ! 浸入成功♪」

 ガッツポーズを取ってから、少し虚しくなった。

「……………なんとなく悪霊扱いされる理由がわかるような……」

 それでも一階からは、女子の泣き声混じりの怒鳴り声が響いてくるので、やはり気になる。静かに階段を降りてリビングの様子を探る。

 知らない女子が智也を怒鳴りつけている。眼鏡をかけた小柄な子で、年下のような雰囲気があった。かなり興奮していて肩で息をしている。

「センパイのしたことは強姦ですよ!!」

「香菜ちゃんがしたことは器物損壊と傷害罪だな」

「っ……、卑怯者っ!」

「それは否定しないが、物を投げるのもやめてくれないか。もう少し冷静に…」

 投げつけられたティーカップで智也は手を切ったらしく血が滴っている。

「智也っ!」

 思わず彩花は飛び出していた。

「な…彩花、どうやって?!」

「何よ、この子は?!」

 彩花は智也を守るように香菜との間に割り込んだ。香菜は冷静になるどころか、ますます気色ばむ。

「ど…どういうことなんですか?! 鷹乃センパイだけじゃなくて他にも!! ひどい! ひどすぎる!!」

「智也、説明しなさい!!」

「もう信じられないっ!! 鷹乃センパイが可哀想っ!!」

「くっ………」

 智也が苛立って、テーブルを叩いた。

「うるさいっ! 黙れ!!」

「「っ……」」

 男の怒声に二人が本能的な怯えを感じて黙り込む。

「彩花には後で説明するし!! 彩花とは幼馴染みで鷹乃とのことには無関係だっ!!」

「…ほ……本当ですかっ?!」

「本当だ!!」

「っ……、アヤカさん? 三上センパイとは、ただの幼馴染み、なんですね? それでいいんですね」

「えっ……、何で、あなたに、そんなこと確認されなきゃいけないわけ?!」

 彩花の頭にも血が上って顔が赤くなる。

 いきなり初対面で失礼にもほどがある、怒りで顔が真っ赤になった。

「あなたこそ、いったい何なのよっ?! 何様のつもりっ?!」

「私は鷹乃センパイが可哀想だからっ!!」

「誰よ、タカノって?!」

「三上センパイとっ! と……付き合って…る? 人です? よね?」

 断言し損ねて、かなりハンパな疑問形で終わってしまった香菜を、彩花は鼻で笑った。

「なにそれ? じゃ、あなたは、いったい何? 何しに来てる人?」

「私は……、だから……その…」

「彩花、あとで説明するから、とにかく黙っててくれ。香菜ちゃん、もう帰ってくれ。話なら、また明日にしよう。な、頼む」

「……………………、……」

 香菜は智也と彩花を見比べて、最後に念押しをしてくる。

「一つだけ答えてください」

「ああ……何だ?」

「三上センパイは、本当に鷹乃センパイのこと、好きなんですよね?」

「………。好きだ」

「いい加減な気持ちで鷹乃センパイのこと、抱いたわけじゃないんですよね?」

「だっ、だいっ?! 智也っ?!」

「香菜ちゃん、最初に一つだけって言っただろ。もう終わりだ」

「っ! 卑怯者っ!!」

「もう帰れ、舞方」

 年下への親しみを込めたチャン付けから、苗字の呼び捨てに変えて、智也は玄関を指した。

「……………………」

 香菜は涙を溜めた目で智也を睨むと、帰っていった。

 急に静かになったリビングで智也はソファに座り込むと、タメ息をついた。

「ふーーっ……」

「……………………」

 彩花は黙って立っている。

「………………」

「……………………」

 説明を待っている彩花は、散らばったティーカップの破片を拾い集めると、掃除機も出してきた。

「すまん、悪いな」

「…………………」

 彩花の背中が掃除が終わったら説明してもらいますから、と語っている。片付け終わった彩花は救急箱から絆創膏を出して智也の傷口に貼った。

「それで?」

「…………………………だいたい……さっきの会話から推測できるんじゃ、ないか?」

「ええ、でも、きちんと説明してくれる約束よね?」

「…………………、隠してたわけじゃ……いや、隠してたんだが……」

 言い辛そうに智也は言葉を選んでいる。

「……つまり……その……オレは、……オレには、浜咲で……興味のある女の子がいるんだ。……そーゆーこと、だ」

「そーゆーこと。で、抱いたって?」

「…………今は話したくない」

「……………………、こんな怪我までさせられてね。私に相談してくれないの?」

「彩花……」

 悲しそうな顔をされると、智也の胸が痛んだ。

「ね、智也。私や唯笑ちゃんに話せないようなことなの? あの子は何か誤解して暴れただけでしょ?」

「…………………………」

「でも、私は誤解だとしても智也が強姦なんて言葉をぶつけられるのは、幼馴染みとして許せない。それに、あまりいい誤解じゃないから、ちゃんと解いておかないと智也の将来に禍根を残すかもしれないよ? だから、ちゃんと相談してほしいの。一人で悩まないで話してくれたら、いいアイデアが浮かぶかもしれない。ね、智也」

「……………………」

「智也?」

「………、悪い、彩花には相談できない」

「……智也…」

「お前はオレに近すぎる。相談できない、したくない……すまん」

「智也……………………、………」

「この件では、白河に相談してるんだ。………悪い」

「ほたるちゃんに?」

「ああ」

「そう………そっか、……………やっぱり、学校が違うと、………うん、わかった。智也を信用する。もちろん、ほたるちゃんも。藍ヶ丘第二中学の魂は最強だもんね」

「……そうあってほしいな……」

 つぶやいた智也が疲れている様子なので彩花は静かに立ち去った。

 

 

 

 翌日の昼休み、智也は静かに廊下を歩いて鷹乃のクラスを覗いてみた。

「………」

 意外にも鷹乃は出席していたけれど、昼食も摂らずに下を向いている。その隣には香菜がいて、智也の視線に気づくと呪い殺さんばかりに睨んできた。

「……………」

 あいつは一年生で夏期講習は無いはずなのに、わざわざ鷹乃のフォローをしてくれてるのか、智也は少し安堵したけれど、香菜の視線は智也を焼き殺しかねないほど灼熱している。

「………」

 智也は香菜から目をそらして、教室を見回したが、ほたるの姿はない。

「やっぱり、音楽室か……あのバカ彼氏も、いっしょだろうな…」

 智也が音楽室に移動すると、予想通りに健と弁当を食べている。智也は開いていたドアを軽くノックして声をかける。

「白河」

「あ、三上くん!」

「悪いが、放課後、ちょっと付き合ってくれないか?」

「うん、いい……あ、ケンちゃん、いいよね? ほたる、三上くんの相談に乗っても」

「いいよ」

「悪いな、彼氏。じゃ」

 智也は音楽室を出ると、あてもなく歩いた。食欲はない。パンを買う気にもなれず、歩いているうちに屋上へ着てしまった。

「ふーーーっ…」

 タメ息をついた智也に斜め上からカナタが声をかけてくる。

「ハーイ♪ うかない顔して黄昏れてるね」

「よ、三上。あがってこいよ」

「………」

 断るのも面倒だったので智也は屋上の立ち入り禁止になっている屋外出入口の屋根に登った。貯水タンクとアンテナが数本ある狭い屋根は、学校側は立ち入り禁止にしているが、生徒の中では三年生だけが占拠していいという不文律がある空間で、よく正午とカナタが占領していることが多い。今日も弁当を広げていた。

「……音楽室だけじゃなくて、こっちにもバカップルがいたか…」

「バカ一人より、バカ二人の方が幸せよ?」

「………。黒須、疲れてるから、手加減してくれ」

「ふーん♪ 智也にしては、ずいぶん神妙ね」

「カナタの相手をするのは誰だって大変だからな」

 正午が箸を置いて笑った。

「その様子だと、寿々奈さんの攻略に手こずってるな?」

「……まーな」

「いかんな」

「いかんね♪」

「ハモるなよ、バカップル」

「女に手こずるなんて三上らしくないぞ。さくっとゴール決めてやれよ」

「そうそう♪ アタシの見たてだと、鷹ちゃんも智也にからまれて、まんざらでもないって感じだよ? 顔と言葉には出さないけど、あーゆー子は、ちょっと強引に攻めるくらいじゃないとね。何回か断られても、気にしないで攻め込まないと」

「……攻め込んではいるんだがな……」

「ツメが甘いんじゃないか? あーゆー女は、ときには強引なくらいでないとダメだぞ。いちいち文句なんか聞かずに、男ならダーッと攻め込めよ」

 そう言って正午は隣に座っているカナタを押し倒した。

「ちょっと、バカショーゴ」

「三上に手本を見せてやってるだけだ」

「もう…」

「カナタ♪」

「バカショーゴ、ふふ♪」

 文句を言いながらもカナタは押し倒されて嬉しそうにしている。これなら音楽室の方がマシだったな、智也は寝転がって空を見上げた。

 

 

 

 午後の夏期講習が終わった後、智也が音楽室を訪ねると、ほたると健が待っていた。おまけに中森翔太までいたので智也は仔猫の首を掴むように、ほたるの耳を引っぱると音楽室の外へ連れ出した。

「おい、白河。なんで外野がいるんだ!」

「ぅ~ぅ……ごめんなさい」

 それほど痛くなかったけれど、ほたるは引っぱられた耳を撫でつつ、謝る。

「ほたるの話、怒らないで聴いてくれる?」

「もう怒ってる」

「ぅっ……」

「正直に話さないと、もっと怒る」

「……怒ると、……どうするの?」

「リアルソウチンニャン人形にして、登波離橋から吊す」

「ううっ……」

 ほたるが呻いていると、音楽室から健と翔太が出てきた。

「ほたるに何してるんだよ!」

「相談してるんだ」

「そういう風には見えない!」

「お前の目が節穴だからだっ!」

「なっ…」

「よせよ、健。三上君も。二人がケンカしたって仕方ないだろ」

「ボクは別に…」

「オレは売られたケンカを買い叩いただけだぞ」

「買い叩くくらいなら、買わなくていいから。わかってるだろ、ほたるちゃんに相談するって名目は認められても、健も男だからさ。ほたるちゃんが三上君と自分の知らない話をするのが不愉快なんだ」

「翔太……ボクは別に…」

「あと、三上君の悪い癖だな。簡単に女の子の身体に触るなよ。しかも、彼氏の前で」

「白河とオレは中学からの知り合いだが、三年生で同じクラスになったとき、何て言いやがったと思う?」

「……なんて?」

「クラスに暮らす、ってことはクラスメートは同棲してる? それはマズいよ、クラスに暮らすめぇーと」

「「……………………」」

「えへへ♪ 会心のほたる的ギャグなのだ」

「お前は改心しろ」

「むむっ、三上くんもデキる」

「アホか。まあ、そーゆーわけで、あのとき教室の温度を氷点下にした白河をオレは女と思ってない。オヤジギャグを言うヤツは女子じゃなくてオヤジだ」

「うーん……ある程度、気持ちはわかるけどさ。ほたるちゃんを三上君は女の子と思ってなくても、健は女の子として付き合ってるわけだ。だから、やっぱり健の前で猫の子を掠うみたいに、ほたるちゃんを引っぱり出すのはマナー違反だと思わないか?」

「正論だな。じゃあ、オレも正論を言うが、人に聴かれたくない相談を白河にする。それに立ち会うのはマナー違反だから、お前らは去れ」

「……。それって、やっぱり寿々奈さんのことか?」

「っ……おいっ! 白河っ!!」

「ひゃいっ!」

 怒鳴られて、ほたるは珍妙な返事をした。

「お前っ、この二人にっ!!」

「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」

 ほたるが何度も謝っているのを見かねて、健と翔太が彼女を守る。

「ほたるちゃんは悪くない。オレがカマかけて聴き出したんだ」

「そうだよ、寿々奈さんの様子がおかしいし、ほたるが何か知ってる感じだったから」

「……チッ……」

「ごめんなさい、三上くん」

「……………もう、いい」

 智也は三人へ背中を向けて歩き出した。ほたるが追いかける。

「待ってよ、三上くんっ!」

「もういいって言ってるだろ」

「でも、話がまだ…」

「オレは相談する気、無くした。オレの人選ミスだった。忘れてくれ」

「三上くん……ごめんなさい…、…ほたるが簡単にしゃべったから怒って…」

 ほたるが泣き声になると、健が憤った。

「おい、そんな言い方無いだろ!!」

「じゃあ、どんな言い方ならお気に召す?」

「だから、二人ともやめろって! 健はストレート過ぎるし、三上君はひねくれ過ぎだ!」

「「……………………」」

「三上くん、お願いだから、怒らないで。ほたる、鷹乃ちゃんと三上くんのこと応援したいよ。二人がうまくいってないなら、ほたるにできることなら何だってするから」

「…………………」

「オレらも協力したくて、ここにいるんだぜ」

「ボクは寿々奈さんが心配なだけで、応援したいわけじゃない」

「ケンちゃん……」

「健。それ、彼女の前で言うセリフじゃないぞ。お前の悪い癖だな」

「ボクは………」

「……。白河、できることなら何だってする、って言ったよな?」

「…うん…」

「伊波と中森が邪魔だ。帰らせろ」

「「「……………………」」」

「オレが白河に相談したい内容は、こいつらに知られたくないことが多分に含まれてる。きっと、鷹乃もクラスメートの、それも男子になんて知られたくないはずだ」

「…………」

 ほたるが対応に困っていると、翔太がタメ息をついた。

「横暴だな」

「それは理解が不足してるな。横暴なのは、そっちだろ? 勝手に他人の事情に踏み込んできてる。違うか?」

「………正論ではあるが……、けどな、今日の寿々奈さんの様子、尋常じゃなかった。あんな彼女を見たのは初めてだ。だから、オレも健も心配になったんだ」

「だが、オレが相談を持ちかけたのは白河一人だ」

「「「……………………」」」

「もう、いい。やっぱりオレの人選ミスだ」

 智也が立ち去ろうとすると、翔太が肩を握ってとめた。

「待てよ。わかった。オレと健は消える。だから、ほたるちゃんには素直に話せよ」

「……ああ」

「おい、健。行くぞ」

「ぇ……けど、翔太…」

「いいから」

 翔太が健を連れていく。二人になると、ほたるは音楽室へ智也を促した。

「ごめんなさい、三上くん……」

「それは、もういい。悪かったな、オレも苛ついてるんだ。すまん」

「ううん、謝らないで。好きになった人と、うまくいってないなら苛ついて当然だもん。それに、やっぱり勝手に話したほたるが一番悪いよ。本当に、ごめんなさい」

「もういいよ、白河。遅かれ早かれバレることだったし、彩花と唯笑に隠したかっただけなのに、彩花には夕べバレたから、もういいんだ」

「そっか、彩花ちゃんにはバレちゃったんだ。さすが、彩花ちゃん」

 ほたるは音楽室のドアを閉めると、鍵もかけた。これで密室になるし、話し声くらいなら外へは漏れない。

「それで、鷹乃ちゃんとのこと……どうなのかな?」

「ああ、……………………」

 智也が話しにくそうに黙り込むけれど、ほたるは気長に待った。それで、智也が口を開く。

「まあ、予定通りオレの家に呼んだんだ。白ドルピィ君に会えたら、オレの家でリアル鯉のぼりの写真を確認するって罠で誘い込んだ」

「…罠で誘い込んだって……そーゆー言い方しなくても…」

「いや、結果から考えると、そーゆー表現が正しくなる」

「………。結果?」

「結果として……二人で夕飯にして、で、そのときビールも呑ませて…」

「意外……鷹乃ちゃん、そーゆールール破りそうにないのに」

「オレが欺したんだ。ノンアルコールだって言って」

「………悪いんだ」

「もっと、悪いこともした」

「…………………」

「酔って鷹乃が寝込んでしまったから、そこを………」

「…………」

「襲った」

「……………………ウソ…」

「リアルだ」

「………ウソだよ、三上くん、そんなことする人じゃないよ」

「オレも自分に失望してる」

「……………………」

 ほたるは否定したい気持ちで首を振ったけれど、今日の鷹乃が鬱ぎ込んでいた様子を思い出すと否定しきれなくなってくる。気の強い彼女が後輩に心配されても作り笑いさえ返さなかった。今にも泣き出しそうな顔を無表情に取り繕っていた。勘のいい翔太だけでなく、ちょっと鈍い健でさえ気づくほどだった。

「オレは……、……鷹乃を、…襲った。それが結果だった」

「……襲ったって、……何をしたの? ……鷹乃ちゃんはイヤがらなかったの?」

「イヤがったさ。けど、押さえつけて……強引に……、そしたら、鷹乃は抵抗しなくなったから……オレはオッケーなんだと思って……。けど、鷹乃は怖くて抵抗できなかっただけなんだ」

「…………。……………………」

 ほたるは反応に困ってしまった。

「…………鷹乃は……朝まで泣いてた……」

「…………………」

「……白河……オレは、どうしたら、いい?」

「それは……………………」

「……………」

「………ほたるにも、…わからない……。……」

「……そうだよな……」

「……………………」

「悪かったな、とんでもない相談を持ちかけて」

「………」

「できれば、忘れてくれ」

 智也が話を終わろうとしたので、ほたるは止める。

「待って! 三上くんは、どうするつもりなの?!」

「……。とにも、…かくにも、……もう一度、鷹乃と話がしたい。今からでも鷹乃の家の本屋に行って……会ってもらえないかもしれないが…」

「…………、……ほたるも、行くよ」

「それは……、女子の同伴でいくのは、……よくないんじゃないかな…」

「どうして?」

「夕べ、彩花がオレの家にいたのを、香菜ちゃんが誤解したんだ。もちろん、すぐに誤解は解いたけど……今の状況で、ちょっとでも疑わしいと思われることは避けたい」

「それなら、大丈夫だよ。ほたるにはケンちゃんっていう決まった人がいることを鷹乃ちゃんも、よく知ってるもん」

「……なるほど……たしかに…」

「それに、襲ったって三上くんが表現するくらい強引に鷹乃ちゃんへアプローチした後だと、男の子と二人っきりになるの、避けようってするかもしれないから、ほたるがいる方が鷹乃ちゃんも安心するんじゃないかな」

「……………………、わかった、頼む」

 二人は音楽室を出ると、鷹乃の家へ向かった。しばらく歩いて、国道沿いの小さな本屋に着く。

「三上くん、ケータイ持ってないんだよね。鷹乃ちゃんは?」

「鷹乃も持ってない」

「じゃあ、まず、ほたるが行ってみるよ。それで、どこか話せるところに鷹乃ちゃんを呼び出してみるから。それで、いい?」

「頼む」

「うん」

 ほたるは本屋に入ると、店番をしていた鷹乃の叔父にクラスメートとして名乗り、二階へあげてもらった。狭くて急な階段を昇ると、台所兼事務所になっているスペースと、その奥に8畳一間の和室があった。

「あ、鷹乃ちゃん」

「……白河さん……どうして?」

 鷹乃は詩音と二人で座っていた。

「うん、ちょっとね。今日の鷹乃ちゃん、様子が変だったから心配で…」

 すぐに本題には入らず、詩音との関係を窺う。澄空学園の制服を着ている詩音に、ほたるは見覚えがなかったけれど、どことなく雰囲気は鷹乃に似ていると思った。

「はじめまして、鷹乃ちゃんのクラスメートで白河ほたるです」

「はじめまして、鷹乃の友人で双海詩音と申します」

「………………」

「…………」

 名乗り終わった二人は無言になってしまう。仲介してくれるべき、鷹乃が鬱ぎ込んでいるので場の空気が重くなって息苦しい。ここは一発ほたる的ギャグで場の空気を変えようかなとも考えるけど、鷹乃の悲痛な表情を見ていると、変なギャグを言うと詩音から空気の読めないバカなクラスメートという烙印を押されそうなので、遠慮する。

「……えっと……その、…詩音ちゃん」

「……、はい」

 一瞬、いきなりチャン付けとは馴れ馴れしい人、という目線を送られたけれど、ほたるが微笑むと許してくれた。

「詩音ちゃんは……鷹乃ちゃんが落ち込んでる理由……、知ってる?」

「………、ご質問を返すようで僭越ですが、白河さんもご存じなのですか?」

 二人ともデリケートな問題なので言葉を選びつつ、お互いの立ち位置を手探りする。

「うん、まあ……ある程度……三上くんから聞いたよ」

「「………」」

 智也の名前が出ると、鷹乃が無表情だった顔を歪めて身震いした。それを詩音が抱くように支える。その動作で、ほたるにも詩音が事情を知っていることがわかった。

「それで、白河さんは、どのようなご用向きですか?」

「ご用向き……? あ、うん……えっと……その…、三上くんが鷹乃ちゃんと会って話したいって……それで、…」

「様子を探りに来た、というわけですか?」

「………」

 うう、ほたる、この人、苦手かも、ほたるは意味のない作り笑顔で誤魔化したけれど、詩音は批判的な目を向けてくる。

「お引き取りください」

「でも…」

「鷹乃は昨日のことを必死に、叔父さん方に悟られないよう取り繕っているのです。これ以上、鷹乃を動揺させるようなことを言わないでください。まして、狼藉をはたらいた本人に会わせるなど、もっての他です」

「……、……」

 やや芝居がかった物言いをする詩音に、ほたるは反発を覚えて、鷹乃へ直接に語りかける。

「あのね、すごく強引で、ひどかったかもしれないけど、三上くんは本当に鷹乃ちゃんのこと好きだから、それだけはわかってほしいの」

「っ…っ…」

 ほたるの言葉を聞いて、鷹乃が泣き声を押し殺して涙を零した。

「昨日のことは三上くんも、すごく反省してるって。三上くんとは中学からの友達だから、よくわかるの。ホントに真剣に鷹乃ちゃんのこと好きで、その気持ちが先走って…」

 ほたるの言葉は詩音の殺気に近い睨みで止められた。色白な詩音の頬が怒りで赤くなっている。

「白河さん、こちらで二人で話しましょう」

「でも…」

「いま、鷹乃を動揺させるのは、よくないと理解してください」

「……、…うん…」

「こちらへ」

 詩音は立ち上がると、ほたるを一階へ戻る階段へと導いて、その階段の途中で後ろを振り向くと、ほたるのみぞおちを軽いけれど、とてつもなく素早い肘打ちで突いた。

「ぅっ!」

 まったく予想もしていなかった打撃を受けて、ほたるは息が止まり、脚から力が抜ける。ほたるが座り込みそうになるのを、詩音は肘打ちした右手で喉仏ごと首をつかんで狭い階段の壁へ押しつけてくる。

「ぅぅ…」

 息ができないし、声も出ない、階段の途中なので一階の叔父夫婦も、二階の鷹乃も気づいていない。

「白河さんは想像力の欠落した人間なのですね。本当に女性ですか?」

「ぅぅっ…」

「だから、自分で思い知るといいのです」

「っ…」

 ほたるのスカートが詩音の左手でめくられ、下着の中に指が入ってきた。

「不本意に身体を蹂躙されることが、どれだけ苦痛か」

「ぅぅ…ぅぅ…」

 突然のことに、やっと状況が理解できて、ほたるは両目から涙を流して、声が出ないなりに必死に首を振った。詩音の腕力は強くて、とても押し返せない。

「あなたはバージンですか?」

「ぅぅぅ…」

「鷹乃も、そうだったのですよ」

 詩音が低い声で、ほたるの耳元に囁きかけてくる。けれど、それはときどきカナタがふざけて、ほたるの耳や頬にキスをしてくるような甘い雰囲気ではなくて、ただ単に、ほたるの大切なものを奪ってしまおうとする破壊的な声だった。

「っ…ケンちゃ………ケン…、……助け…」

「恋人がいるのですか?」

「はぅ……」

「………。やめてあげましょう」

 詩音が力を抜いて身体を離してくれた。ずるずると、ほたるは階段に座り込む。

「…ひっ…ハァ……ひぅ…」

「泣くなら、静かに泣きなさい。人に気づかれないように」

「…っ……ぅ…ぅ…」

「こんなことをされたなんて、誰にも言えないでしょう。せいぜい一人で苦しむといいのです。被害者の痛みなんて、加害者にはわからない。人をイジメても笑っていられるように、イジメた人間にはイジメられた人間の気持ちなんて推し量れるはずがない。でも、白河さんは違いますよね。もう、私にイジメられたんですから、鷹乃の痛み、少しは理解できますよね?」

「…っ…」

 ほたるが声を殺して泣いていると、詩音はハンカチで涙を拭いてくれる。

「一応、誤解の無いように言っておきますが、私は香菜さんと違ってレズビアンではないですから、そのあたりもよろしく」

 ほたるが立てるようになると、詩音は本屋の外へ連れ出してくれた。外には待っていた智也と買い物袋を持った香菜がいた。香菜は怒鳴りたいのを我慢して、智也を静かに睨んでいる。

「香菜さん、騒いではいけませんよ」

「はい……、詩音センパイ…あ、白河センパイまで、どうして?」

「あとで説明します。白河さんには私から灸を据えておきましたから。三上さん、しばらくは鷹乃を、そっとしておいてくれませんか?」

「……白河に何かしたのか?」

「ええ」

「何をしたんだ?! 泣いてるじゃないか!」

「あなたは鷹乃に何をしたんですか?」

「っ…」

「お引き取りください」

 詩音は二人を追い払うと、香菜に声をかける。

「香菜さんのお怒りは当然ですし、私も同感です」

「詩音センパイ……」

「ですが、あまりことを騒ぎ立てると鷹乃にとっても悪いことになってしまいますよ」

「はい……それは、気をつけます」

 香菜は素直に返事をした。

 

 

 

 一週間後、香菜は詩音の家で鷹乃のことを相談していた。

「鷹乃が泳げなくなった?」

「はい、きっと精神的なショックだと思うんです。水に入ること自体、怖いみたいで……これを私に…」

 香菜は退部届の用紙を詩音に見せる。用紙には鷹乃の字で必要事項が書き込まれていた。

「鷹乃が水泳部を辞める………でも、鷹乃は推薦入試で進学するはずでは?」

「はい。……私も止めてるんです。でも、鷹乃センパイ……プールに入ることもできないで……本当に脚が震えて……あんなに可哀想なの見ていられなくて……」

「けれど、ほんの一週間前までは誰よりも速く泳いでいたではないですか。精神的なショックなら日が経てば回復する可能性は大いにありますし…」

「推薦入試まで、もう日が無いんですよ!」

「………、でも、だからといって退部までしなくても…」

「鷹乃センパイが……泳げないキャプテンなんて……これ以上、みじめな思いしたくないって……だから、私が退部届を預かって……、詩音センパイ、どうしたらいいですか?」

「……………。すぐに答えが出せるような問題ではないですね。でも、もう日がない……、鷹乃は、どうしているのです? 部活に参加しないなら家に?」

「あまり早く家に帰ると叔父さんたちにバレてしまうからって、ここ数日は市立の図書館で時間を潰してから帰っておられます」

「………。わかりました。たぶん、あそこの図書館でしょう。私が会ってきます」

「お願いします。私は水泳部の先生に、なんとか鷹乃センパイが練習に参加してないことを容認してもらえるよう頼んでみます」

 香菜は頭を下げると、浜咲学園へ向かった。詩音も家を出ると、市立図書館へ行く。図書館内で、すぐに鷹乃は見つかった。鷹乃は図書館で本も開かず、自習用の机に座っていた。

「ごきげんよう、鷹乃」

「……詩音…」

 張りのない沈んだ声だった。詩音は手近な本棚から、昆虫関連の本を引っぱり出すと、鷹乃の隣へ座って、ページをめくった。

「このトンボのことを、教えてくれませんか?」

「え……ああ、これはムカシトンボよ」

 トンボの写真を見せられた鷹乃は反射的に答えてくれる。

「とても珍しい種類でね。とまるときには羽を半開にするか、まったく閉じてしまうの。ほら、よく見かけるトンボは羽を休めるときにも、水平にしているでしょう?」

「そういえば、そうですね」

「日本で見られる他は、ヒマラヤに1種現存するだけで、欧米からは化石しか発見されないのよ」

「それは、ずいぶんと貴重な種ですね」

「ええ、渓流にしか住まない上、成虫になるまで7年~8年を要するの。ムカシトンボという名前の通り、今では簡単に見ることはできないわ」

「……。羽を水平にしてとまるトンボたちもいるのに、どうして閉じてとまるという選択をしたのでしょうね?」

「さあ? ……そうね、鳥などの捕食者に見つかりにくい。雨や風を受けにくい。そんな理由かしら」

「風に揺れる……」

「横風には閉じてとまる方が弱いでしょうね」

「そうですね」

「………………」

「どうかしましたか?」

「……どうせ、香菜から私が泳げなくなったこと……聞いているのでしょう?」

「はい」

「なら……」

「なら?」

「なら、どうして関係ないトンボの話なんて訊いてくるの? 詩音は、これまで昆虫には興味を持たなかったはずよ」

「クモは嫌いですが、トンボは情緒があって好きですよ」

「それでも、生態にまでは興味をもったことはないわ」

「鷹乃、泳げないことで一番悩んでいるのは、あなた本人でしょう。私が無理にプールへ行くよう勧めても何か改善するとは思えません。いっそ、別の好きなことでも考えている方が、ずっと健康的だと思いませんか?」

「…詩音……」

「ほら、こっちのトンボは? こんな大きなトンボ、どこの国にいるのですか?」

「それは原トンボ目のメガネウラよ。最大で75センチにもなるけれど、石炭紀に栄えただけで、もう滅びてしまったわ。発見されている中で最大の昆虫よ」

 鷹乃は次々と詩音が質問してくるのに答えているうちに、気が楽になった。

「ありがとう、詩音」

「いえ、こちらこそ。講習料を払わなくてはならないほど、教えていただきましたよ。二階の喫茶店へ行きませんか? 講義のお返しに、紅茶とケーキを御馳走します」

「悪いわ……、そうでなくても、私のことで色々と…」

 辞退しようとする鷹乃の唇を詩音が指で押さえた。

「友達じゃないですか、当然です」

「でも…」

「だから、いつか、私が困っているときは助けてくださいね」

「もちろんよ」

「では、今は私が鷹乃に、ささやかな協力をするときです。ここは紅茶は二流ですが、ケーキはなかなか美味しいのですよ」

「詩音にかかったら一流の店なんてミシュランの星ほどもないわよ。ふふ」

 鷹乃と詩音は市立図書館の二階に併設されている喫茶店で紅茶とケーキを楽しみ、落ちついてから、詩音は水泳のことではなく智也のことを切り出した。

「鷹乃は揺れているのでしょう。彼を許すべきか、否か」

「………そうなの……かしら? わからないわ……自分でも…」

「彼は、ひどい男です。本当に、ひどい」

「…………」

「けれど、あのことさえ無ければ、あのことがあるまでは、鷹乃も少しは彼のことを見るべきところもあると想っていた。だから、彼の家へも行った。けれど、それゆえに、その信頼を裏切ったことが許せない。かわいさ余って憎さ百倍と言いますが、信頼を裏切るのも百倍の嫌悪を生む」

「………………」

「けれど、鷹乃は泣きこそすれ、警察へ訴えようとはしない。それは自分の不名誉と叔父さん方への配慮だけでなく、彼をそこまでは憎みきっていないから」

「……………私のことが……私以上にわかるのね……詩音」

「ときには本人よりも俯瞰をとれる他者の方が、道の先が見えるものです」

「……………………。なら、私が泳げないことは、どう思うの?」

「二つに一つ」

「?」

「また、泳げるようになるか、このまま泳げないか。でも、泳げないことで鷹乃の人生が終わってしまうわけではないでしょう」

「でも、私は推薦入試で…」

「もともと鷹乃は推薦での進学にさえ、後ろ向きだったではないですか。叔父さん方に負担をかけたくないと言って」

「…………」

「才能を伸ばして何かを成すのも素晴らしい人生ですが、無理をしないのも人生だと、私は思います。無理をして壊れてしまうより、平凡な暮らしの方がずっと大切だと思うのです」

「…………………………。ありがとう、とても参考になったわ」

 鷹乃が微笑んでくれたので、詩音も嬉しかった。

 



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2話

 

 

 同じ頃、智也は浜咲学園の教室で、カナタの鋭さと、ほたるのうかつさに辟易していた。

「ごめんなさい、三上くん! ごめんなさい!」

「もういい……白河のうかつさと、黒須の魔力なら、どうせ、遅かれ早かれバレたことだ」

「強姦魔が開き直った♪」

「………。オレは、ときどき黒須を殴りたくなる。加賀は、ならないか?」

 智也に声をかけられて、カナタと同時に事情を知った正午は肯定してくれる。

「なるなる。いつか、口喧嘩でオレはカナタを殴るかも。グーで、容赦なく」

「ぶーーっ♪ 女を殴るなんて最低ね、ショーゴも智也も、見下げ果てたよ」

 三人とも本気で話してはいない、ほたるだけが本気で智也に謝っているけれど、それさえ話題の一部だった。

「カナタの挑発ってムカつくからな。こっちに余裕がないときだと、マジでグー入れるかもよ。うん、気をつけた方がいいぞ」

「アタシは、こんなもの持ってますよ? 殴られる前にビリビリって。電気ショックでバカショーゴのバカが治るといいね」

 カナタが携帯しているスタンガンを見せて、電気の火花をちらつかせた。

「きゃっ…」

 火が苦手なほたるが後退る。

「カナタちゃん、どうして、そんなもの持ってるの?」

「うん、まあ、モデルとか女子高生で兼業してるとね。いろいろあるのよ」

「そんなもの持たなくても、加賀くんが守ってあげなきゃ。なんのための恋人なの? しっかりしてあげなよ」

「オレは24時間は働けないし、女子トイレや女子更衣室にも入らない。たまにはカナタと口喧嘩して夜道を別々に帰ることもある、ってことだよ。伊波だって24時間は無理だろ?」

「それは、そうだけど……、そんなことより、三上くん、本当に、ごめんなさい」

「もういいって。どうせ、黒須がカマかけて巧く聞き出したんだろ、なんとなくわかるからいい」

「うん、智也わかってるね。ほたるがさ、すごーぉく暗い顔して悩んでるみたいだったしね。アタシの大切なほたるがだよ? 聞かずにおれますかっての。ね、ほたる。ちゅ♪」

 カナタがふざけて、ほたるの頬へキスをした。

「イヤ…」

 ほたるは普段よりも強い動作でカナタから逃げる。

「もう、ふざけるの、やめてよ、カナタちゃん」

「ふざけてないよ、本気だよ♪ ほたる愛してる♪」

「カナタちゃんには加賀くんがいるでしょ!」

「ほたるは健と、どうなの? やってる?」

「やッ……やってるって? な、何の話?」

 ほたるが赤面して動きを鈍らせると、カナタは豹が子鹿を捕らえるように、ほたるの両肩を抱いた。さっき、やや本気で嫌がられたのでキスはしないで、耳に息を吹きかける。

「ふーーっ♪」

「はゆぅ!」

「わかってるくせに、カマトトぶっちゃって」

「カマトト……、トトちゃんは、オカマになってないね」

 ほたるが同じ中学だったけれど、澄空学園に行ってしまった飛世巴の名前を出して誤魔化そうとしたけれど、カナタには通用しない。

「彼氏のアパートに、ちょくちょく泊まり込んでるよね。もう、やりまくり?」

「っ…、へ、…変な言い方しないでよ、カナタちゃん、ひどいよ」

「ひどくないよ? 普通のひやかしだよ?」

「ひやかしてる時点で、ひどいの!」

「中学生じゃあるまいし、もう高校も三年生なんだからさ。ほたると健も、そろそろ夫婦?」

「ふッ…、……ないもん! そんなことないもん!」

「ウソウソ♪ 一人暮らしの彼氏んとこ泊まってるのに、ないなんてありえ…」

「ホントだもん! ホントに、そーゆーことはないもん! ケンちゃんは紳士だから、そーゆーことしないもん!!」

 ほたるが涙目で怒鳴ると、カナタも反省してふざけるのをやめる。

「……ないって……ホントに?」

「…ぅぅ………ホントに…」

「それは、それで……どう、思う? ショーゴ……」

「伊波のイは、インポのイ?」

「「バカっ!!」」

 ほたるとカナタの同時攻撃で正午は沈んだ。見事なコンビネーション攻撃を見て、うるさそうに聞いていた智也もクスリと笑った。

「このバカは、ここに沈めておいて。ほたると健、付き合い始めたのクリスマスからだよね?」

「……うん」

「となると、平均なら春休み、遅くても夏休み中に何かあるのが普通だけど……ホントに何もないの?」

「……き……キスはしてるもん!」

「何回くらい?」

「………7回……」

「一日に?」

「い………一日って………今までの全部で7回だよ」

「それじゃ、ほたる、アタシとしたキスの方が多いじゃん♪」

「………。カナタちゃんのバカ」

「きゃはは♪」

「そう言うカナタちゃんは、どうなの? いっつも加賀くんとふざけてるばっかりで、いい雰囲気になってるの?」

「さあ?」

「白河が知らないだけで、オレの前でさえ、こいつらエロエロだぞ」

「やん、智也のバカ。ほたるにバラしちゃヤダ♪」

「黒須は白河と加賀にフタマタかけようとしてるからな」

「まあねン♪」

「たしか、お前らのファーストって中三の花火大会に行った後、だったよな?」

「ショーゴが喋った?」

「お前が喋ったのかもよ?」

「お前?」

「黒須」

「ま、いいや。アタシが喋ったのかもね。ってわけだからさ、アタシとショーゴなんてファーストが中三なわけ。ちょっと、ほたると健、遅すぎない?」

「ファーストキスはしてるもん!」

「ほたる、話の流れ、読めないフリするのやめようね。ファーストはファーストエッチのこと、カマトトぶるのも可愛いけど、しつこいと友情レベル下がるよ」

「うう…………、…う~……」

「ほたるだってさ、わかってて健の部屋、泊まってるんでしょ? ね、正直に答えてみなよ?」

「うーーっ………そりゃ、ほたるも……わかってるよ。……男の子の部屋に泊まったら、そーゆーことになっても覚悟しなきゃって思ってる。けど、ケンちゃんは紳士だから、そーゆーことしてこないの!」

「オレは紳士じゃないからな」

「智也は狼だもんね。健は癒し系の草食動物♪ 紙とか食べるかな?」

「ヤギかよ」

「めぇー♪」

 沈んだままの正午が誰も復活が遅いのを気にしてくれないので、コミカルに啼いてみたが、やはり誰も相手にしてくれないので、倒れたまま起きない。

「オレと違って伊波は、いいヤツなんだろうさ。あんま気にするなよ、白河」

「うん……」

「健がボウヤなのは見ればわかるけど、鷹ちゃんも智也の家に行くなら行くなりの覚悟、ちょっとはしてたはずなんだけどね。お嬢さま育ちのりかりんだって、そーゆー知識はあるよ? 男の部屋に行くってさ、そーゆーことじゃん。とくに、夕飯までいっしょにいたら、何かあるのが普通で、なかったら逆に変♪」

「ほたるとケンちゃんは変じゃないもん!」

「じゃ、頑張ろうね。夏休みは、まだまだ始まったばっかり♪」

「う~………カナタちゃんのエロオヤジぃ。そーゆーことは大切にしたいの。あんまりザクザク言わないでよ。カナタちゃんと加賀くんだって中一で会ってから、そーゆーことになるのに、三年もかけたくせに、ほたるをバカにしないでよ」

「バカになんかしてないよ。優しく見守ってるの♪ 心配だなぁって」

「む~……カナタちゃんだって最初はドキドキしてるの加賀くんに隠して接近してたよね?」

「…さ、さあ?」

 カナタは想い出話をされて、少しだけ頬を赤くしたけれど、あまり動じないので、ほたるは追加攻撃する。

「あの頃、加賀くんは女の子よりバスケに夢中で全国優勝までしたから、カナタちゃん試合の応援に行って、いっつもドキドキしてたの、ほたるも彩花ちゃんも、のんちゃんも、みぃーんな知ってるよ」

「……」

「ははっ、あの頃の黒須は、そういや、可愛かったな。まだ初々しかった」

 智也がクスクスと笑うので、カナタは爪先で智也の膝を蹴った。

「カナタちゃんと加賀くんだって三年もかかったんだから、ほたるとケンちゃんも同じくらい想いを大切にしたいの」

「じゃあ、ほたるは、あと二年、健を待たせるんだ? 童貞のまま、二十歳ね」

「う~……そーゆーわけじゃ……」

「おい、黒須。そろそろやめてやれよ。だいたい白河は、その気で泊まり込んでるのに、決断してないのは伊波の方だろ?」

「ふふン♪ 決断力溢れる男だもんね、智也は」

「……自制心が足りないだけだ」

「自覚があるのは、いいことだよ?」

「やっぱ………黒須って殴りたくなるな」

「アタシは智也の自制心を鍛えてあげてるの♪」

「カナタちゃんと付き合ってる加賀くん、えらいね。よしよし」

 ほたるが倒れたままでいる正午の頭を撫でる。

「さすが、姉妹。静流さんに撫でられてるのと、同じ感じだ。……しかも、…」

 正午が視線を上に向けると、ほたるのスカートの内部が視界に入った。

「いい眺め…うぐっ!!」

 カナタが倒れている恋人の上に立った。

「おまっ……うぐう……アバラ折れるかと…」

「ほたるを見ていいのは、アタシだけ♪ ね、ほたる」

「ケンちゃんだけだもん!」

「ねぇ、ほたる。今晩、アタシの部屋に泊まりにおいでよ」

「ヤダっ! カナタちゃん絶対変なことするもん!」

「するからさ、おいでよ」

「だからヤダって言ってるのに、ほたるの話を…」

「唇は話すよりキスをするために、神さまが作ったんだよ?」

 カナタが怪しい目つきで、ほたるを見つめると、素早く捕まえた。

「キス、しよっか?」

「やめてよ」

「やめない♪」

「うぐうぐ! カナタっ! オレの上で何をしてる?!」

「絨毯は話すより踏まれるために、人間様が作ったんだよ?」

「誰が絨毯だ?!」

「クスッ…くくっ、あっはははははっ!」

 智也が大声で笑った。

「笑い事じゃないよ、助けてよ。カナタちゃん本気だよ、ううっ!」

「アタシは、いつだって本気♪」

「加賀くん、いいの?! こんなことさせて!」

「それはいいから! さっさとドけ! 重いっ!」

「喋る絨毯より、空飛ぶ絨毯がよかったよね。ほたると二人で世界の果てまで飛んでいきたい♪」

「お前なぁっ! マジで重いって!」

 さすがに正午が怒って腕立て伏せの要領で立ち上がると、カナタはバランスを崩して倒れそうになる。

「キャッ?!」

 尻もちをつきかけたカナタを立ち上がりかけの正午が捕まえて支えると、机の上へカナタを押さえつける。

「お前にはテーブルかけになってもらう♪」

「ううっ…お前?」

「テーブル黒須だ♪」

「クスっ、く、くだらん。白河並みに、くだらないな、加賀。はははははっ」

「ほたるはくだらなくないもん! 面白いもん!」

「バカショーゴ重い!」

 机に押しつけられたカナタが文句を言っても正午はやめない。

「さんざん人を踏みつけやがって」

「だ…だって、ショーゴが、ほたるに色目使うから……ひどいよ、…アタシだけを見ていてほしいのに…」

 カナタが涙を浮かべて泣き声をもらすと、ほたるは悪いことをした気になってしまったけれど、正午は無視する。

「ウソ泣きはいらないし、ほたるちゃんに色目使ったのはお前だろ?」

「お前?」

「テーブル黒須」

「変なアダ名を定着させようとするなァ! 女の子を腕力で押さえつけるな!」

 カナタが暴れて脱出しようとすると、正午は身体を重ねて押さえつける。

「いい機会だから、ほたるちゃんの前でもキスしてやる」

「バカショーゴ! エロショーゴ、やめろぉ!」

「やめない♪」

「ほたるっ、助けて! ほたる以外にキスされたくないよ!」

「…………。加賀くん、やっちゃってください。ほたるのこと、忘れるくらいに思いっきり」

「あ~んっ、ほたる~ぅ…」

 テーブルクロス代わりに机へ押しつけられたカナタが助けを求めながらも諦めてキスを受けようとしたときだった。開いていた教室の出入口から香菜が入ってくると、まっすぐ四人のところへ来た。

「…何を……ヘラヘラと…」

 香菜の声は小さくて聴き取れないけれど、腹の底から絞り出しているような低い声だった。

「……せない……」

「「「「…………………」」」」

「…よくも…」

 香菜はイスの背を持つと、それを振り上げた。

「死んでしまえっ!!」

 叫ぶと同時に、振り上げたイスを智也へ叩きつける。

 鈍い音が響いて、智也は頭を打たれていた。

「三上っ?!」

「智也っ?!」

「三上くんっ?!」

「……………………」

 打たれた智也は何事もなかったように香菜を見るけれど、その頭から血が流れて、顔の半分が赤く染まる。

「まだ生きてるっ!」

 香菜が再びイスを振り上げて智也を打とうとするのに、智也は一度目と同じように防御姿勢もとらず、逃げようともしない。

「バカっ三上っ!」

 正午が香菜を取り押さえる。

「離してっ!!」

「三上を殺す気かよっ?!」

「許せないっ! この人がっ! のうのうと息をしてることが許せない!!」

「暴れるなって!」

 正午の腕の中で、まだ智也へ攻撃しようと香菜がもがいている。小柄な身体なのに、意外なほど強い力で暴れている。

「くうぅっ! 離して!! 鷹乃センパイが、どんな想いでっ! あなた達に何もわからないっ! 私は、こいつを殺してやるの!! だから、離してっ!!」

「落ちつけって! キレんなよ! 三上も逃げろよ! おいっ!」

「………」

 智也は逃げもせず、血を拭きもしないで香菜を見ている。香菜が歯ぎしりして罵る。

「死んでよ!! いっそ自分で死んでよ!! ケダモノっ!」

「……………………」

「死なないなら私が殺すわっ!」

 喚き散らす香菜の前に、カナタが静かに立った。

「君はカナちゃんだっけ? 鷹ちゃんの後輩だよね。でも、いい加減にしなよ」

 カナタは狂犬をならすブリーダーのように香菜の頭を撫でる。

「君の気持ちは、さっきの一撃で十分に智也へ…」

「汚い手でっ! 触らないでっ! あばずれっ!」

「……」

 カナタは冷たい目をして香菜の頬を思いっきり叩いた。

「うくっ!」

「言っていいことと、言うと怒られること、あるよね?」

「この男がしたことはっ! 殺されてもいいことっ!! 離してっ!! 私はっ!!」

 香菜は叩かれても、まったく怯んでいない。

「ねぇ、よく考えようよ。これは鷹ちゃんと智也の問題で…」

「離してっ!! このっ!!」

 香菜が正午の腕を噛んだ。

「痛っ?!」

 思わず正午が力を抜いた。

「うわあああっ!」

 正午の拘束から抜け出した香菜はカナタを避けて、智也へ素手で襲いかかろうとする。

「うああっ!!」

「はい、そこまで」

「あぐっ?!」

 香菜は急に意識を失って倒れた。

「バカ智也、殺されてやる気?」

 カナタは使用したスタンガンをポケットへ戻してタメ息をついた。

「おとなそうな顔してキレると何するかわからないのは、ほたるの彼氏といっしょね」

「痛てぇぇ……咬みちぎられるかと思った」

 正午の腕に歯形が残っている。

「三上くん、すごい血…」

 ほたるが青ざめた顔でハンカチを差し出してくれるが、智也は邪険に手を払った。

「オレは平気だ」

「バカ智也。罰がほしかったのはわかるけど、鷹ちゃんの後輩を前科者にする気?」

「………。オレは転んで、イスに頭を打ちつけた」

「ずいぶん、盛大に転んだんだね。頭って、血いっぱい出るよ。ちゃんと手当てしなよ」

 カナタは自分の前髪をかきあげて、子供の頃に受けた傷の痕を見せる。

「頭の傷はアタシも経験あるからさ。そのままだとズボンまでクリーニングしないとダメになるよ」

「………平気だ…」

 どくどくと流れている血は智也のシャツを赤く染めている。骨までは折れていなくても浅くない傷だった。

「舞方のフォロー、頼めるか?」

「いいけど……、どうしよ? コンセントに触って感電したことにする? ショーゴ?」

 カナタが倒れている香菜への対処を正午と相談し始めると、智也は教室を出て行く。ほたるがあとを追った。

「三上くん、どこ行くの?」

「……帰る…」

「でも、怪我の手当て…」

「自分でする。悪い、一人になりたい。ほっといてくれるか?」

「………、うん…」

 ほたるは智也を心配しながらも、香菜も心配なので教室に戻った。なんとなくカナタと香菜は相性が悪そうで、余計に問題が大きくなりそうな気がする。

「カナタちゃん、スタンガンって、どのくらいで目が覚めるの?」

「個人差が大きいよ。気絶しないヤツもいるし、でも、そろそろ…」

 カナタの予想通り、香菜が目を覚ました。

「………ぅぅ……」

「起きた♪」

「ほたるが話すから、カナタちゃんたちも帰って」

「「……………………」」

 カナタと正午はお互いを見つめ合うと、黙って教室を出て行く。ほたるは目覚めた香菜を抱き起こした。

「香菜ちゃん、大丈夫?」

「…………私……」

 香菜は倒れたイスに着いた血痕を見て、状況を思い出した。

「……………」

「……。………」

 ほたるは言葉を選ぼうとして、選びきれず、黙って香菜を抱きしめた。

「……私……」

 香菜は声をあげて泣き出した。

 

 

 

 夜、ほたるからの電話を受けていた彩花は深刻な顔をしていた。

「そう……、そんなことが……」

「三上くんは彩花ちゃんには知られたくないって言うけど、もう、ほたるだけじゃ……もう…、どうしていいか…」

 電話の向こうで、ほたるが泣いている。

「ごめんね、ほたるちゃん。うちのバカが迷惑かけて」

 姉か、母親が言うように彩花は身内として智也の不始末を謝り、ほたるを慰めてから電話を切った。

「………智也の…バカ…」

 窓から隣の三上家を見ると、智也の部屋は暗いが、リビングの電気がついている。あいかわらず、窓の鍵はかけられたままだった。

「とりあえず、正面から」

 彩花は外に出て三上家の玄関から入ろうと、チャイムを鳴らした。

「……………………」

 しばらく待ってもドアは閉まったまま、もう一度、チャイムを鳴らしたけれど返答はない。

「…………」

 彩花は合い鍵をポケットから出すと、鍵穴を見つめる。

「…………………………」

 入ってくるなと拒否しているのに、合い鍵を持っているからといって押し入るのは好ましいことではない、けれど、このまま智也と会わずに帰ることもできない。彩花が迷っていると、ケータイが鳴った。

「もしもし?!」

「はおっ♪」

「……………………」

 この世界で、この挨拶を愛用している人間を彩花は一人しか知らない。

「ちょっと、ヒッキーに聞いてほしい話があるの♪ でも、絶対秘密にしてほしいの♪」

「…………」

 飛世巴は普段でもテンションの高い声を、かつてないほどのハイにして語ってくる。電話越しでも巴の笑顔が見えそうで、彩花はタメ息をついた。

「トト、まずは私のことをヒッキーって呼ぶの、やめようね」

「いいじゃん♪」

「…」

 彩花は瞬時に電話を切った。

 けれど、すぐにケータイが鳴る。仕方がないので受話する。

「もしもし」

「いきなり切らなくてもいいじゃん♪ どーーぉしても今夜、聞いてほしい話があるの♪ ね、お願い♪ 私たち親友でしょ♪ ね♪」

「親友っていうなら、ほたるちゃんにでも…」

 相手をするのが面倒になった彩花は言いかけて、このハイテンションの巴が今のほたるに連絡を取るのは、まずいと思い直して、深いタメ息をついた。

「ほわちゃんとこ、何回かけても話し中なの♪ ね、お願い、聞いてよ♪ 聞いて♪ だけど、絶対秘密にしてね♪」

 うっとうしいくらいのハイテンションになっている巴の声は語尾が完全に弾んでいる。風船とスーパーボールと幼児を遊戯室に押し込んだような弾み方で、沸点をむかえた巴の吐息が電話越しに湯気を伝えてきそうなほどだった。

「話すなら、さっさと話して。こっちは忙しいの」

 智也の様子を見たいけれど、二回チャイムを鳴らして返事がなかった。しばらく時間をおいてから訪ねようと思ったので時間を潰すには悪くない、と自分に言い聞かせて彩花は桧月家の玄関まで戻った。

「で、どんな話?」

「私ね♪ 私ね♪ 初恋かもしんない♪」

「……。そう、おめでとう」

 思ったより、まともな話だったのとハイテンションの理由がわかったので彩花は素直に祝福した。

「よかったね。トト」

「うん、ありがとう♪」

「相手は、どんな人?」

「それが最初は落ちついてるから大学生かなぁって思ったんだけど、同じ高校生なんだって♪」

「トトには落ちついた人がいいね」

「ちょっと♪ それ、どーゆー意味よ♪」

「そのままの意味。で、出会ったのは、どこ?」

「ルサック♪ 彼はバイトくんなの♪」

「普通っていえば、普通ね」

「私が演劇の練習終わって、一人淋しーーぃーーく食べてたら、優しくコーヒーのお代わり持ってきてくれて♪」

「そりゃバイトなら持ってくるでしょ」

「でね♪ でね♪ 帰りに雨が降って困ってたら、やさしーぃーーーく傘をさしてくれて駅まで送ってくれたの♪」

「それ、ただのナンパじゃん」

「違っうよ♪ 違っうよ♪ あーゆーのが本当の優しさっていうの♪ ナンパとかじゃ、ぜんぜんなくて自然な優しさ♪ 彼すっごい癒し系でね♪ ちょっと話しただけで、ホント彼の優しさっ、伝わってくるの♪」

「………」

 まあ、恋する乙女のハイテンションは仕方ないかな、彩花は諦めて巴に話を合わせてやる。

「トトも高校最後の夏に、やっと春が来たんだね。頑張って、ファイトだよ」

「えへへへ♪ 実は、もう頑張っちゃった♪」

「……。告白したの?」

「うん♪」

「さすが…トト…」

「えへへへ♪ えへへへ♪ えへへへへへ♪ 告白した勢いで、キスまでしちゃった♪ きゃはーーーっっ♪」

「……」

 巴の嬌声で彩花は耳が痛くなった。

「トト、うかれるのは、いいけど、ちょっと速すぎない?」

「そっかな? やっぱり、そっかな? でもでも、そんな雰囲気になっちゃったんだもーーん♪ 私、思わず目なんか閉じちゃったりしてさ♪ え、これって、演劇じゃないの? リアル? リアルキス? やーーん、どーぉーーしよ♪ 超電撃っ! まだ、お互いのことぜんぜん知らないのに! これって運命? 運命? じゃじゃじゃっじゃーーん♪ じゃじゃじゃじゃーーーん!!」

「…………………………」

 なんて、うっとうしい。

「もう、ベートーベンもビックリだよ♪ ああ、新世界♪ この夏は私にとって新世界になるの♪ 愛の夢♪ 超絶技巧大恋愛!」

「…………」

 お前もう電柱にでも喋ってろよ、って相川くんなら言いそう、彩花は女友達として少しだけ巴のために忠告してあげることにした。

「トト、あんまり軽率に彼の部屋とか、行っちゃダメだよ? そんなさ、会って間もないのにキスとかしちゃう男って、危ないといえば危ないよ? ね? 恋は盲目って言うから気がつかないだけで、もしかしたら彼、他にも彼女とかいるかもよ?」

「そーーんな人じゃないって♪ ホント癒し系! すごく純粋な目をしてるの♪ それに私っ、私っ、キャハ♪ 彼になら……キャハっ♪ あげちゃってもいいかな? いいかな?」

「…………」

「ね、何をあげるのって訊いてみて」

「………。何をあげるの?」

「キャハっ♪ っとね、………………………私の……………………………………………………………バージン♪ キャーーーーッ♪ 言っちゃった♪ 言っちゃった♪ イっちゃった♪ キャーーーーッ♪」

「……………」

 たっぷり間とか、貯めとか、要らないから、彩花は軽い目まいを覚えた。もう忠告なんて無駄だってわかる。

「ロストバージンは17才ってカッコいいよね♪ やっぱ、18才より17才のロストがステキよね♪ キャハ♪ 誕生日まで、あと何日かな? キャハっ♪」

「………」

 あんたもう今夜にでも彼の部屋、行けばいいよ、彩花は電話を切った。

「まったくもう、ホントに時間の無駄だったわ」

 彩花は痛くなった耳を軽くほぐして、また外へ出た。三上家を覗くと、さきほどと同じようにリビングの電気だけがついている。

「智也ぁーーっ」

 呼びかけながらチャイムを鳴らしたけれど、智也は出てこない。

「もう……」

 彩花は庭へ回ってリビングのガラス戸をノックする。

「智也ーーぁ! 返事くらいしてよぉーーっ」

 やや強めにガラス戸を叩く。

「智也ーーーっ!!」

 それでも返事がない。

「……………………………」

 ほたるから頭を強く打たれたと聞いている、急に彩花はイヤな予感がしてきた。

「ちょっと智也っ!! ホントに返事くらいしてよ!!」

 やはり返事はない。彩花は玄関へ駆け戻ると、合い鍵を使った。鍵は開いて、チェーンロックはされていなかった。

「あがるからね!! 智也!」

 彩花は靴を脱ぎ捨てると、まっすぐリビングに向かった。

「っ! 智也っ?!」

 智也はリビングの中央に倒れていた。しかも、智也の周囲には赤ペンキの缶を倒したような大きな血だまりができていて、智也の顔から生気が失われている。

「智也っ!! 智也っ!」

 駆けよった彩花が呼びかけても返事をしてくれない。すでに体温はなく、抱き起こしても反応がない。

「…そんな………でも……」

 智也が死んでいるなんて信じられない、信じたくない、彩花は智也の胸へ耳をあててみた。

「………、……生きてる。弱いけど…」

 心臓の鼓動と呼吸の音が、かすかに聞こえた。

「どう…しよ……どう……きゅ、…救急車!」

 彩花はポケットからケータイを出した。

「え、…えっと……110が警察だから……あれ、ど、どっちだっけ? 119が消防……救急は? ……199?」

 頭が混乱して、とても簡単なことがわからなくなってくる。指が震えて、うまくボタン操作ができない。目が涙で溢れてケータイが見えにくいし、智也の血で指がぬめってボタンを押し間違えてしまう。

「ああもう! もう!」

 これが悪夢なら、そろそろ覚めてよ、彩花は7回も失敗してから救急車を呼んだ。

「智也っ! 智也! ちゃんと救急車呼んだから!! ねぇ! 智也!」

 呼びかけて揺すっても起きない。

「っ……あんまり揺すったら……ダメなのかな……」

 救急車はすぐに来ると言われたけど、まだサイレンさえ聞こえない。

「早く来てよ!! 智也が死んじゃうっ! どうしたらいいのよ?! どうしたら……ハァっ…ハァ……私が……私が落ちつかないと…………、どうしたら……そう……気道確保と……えっと…呼吸……心臓マッサージ……」

 看護師を目指していても、いまだ高校生に過ぎない。けれど、学校の避難訓練のときに習った救急救命は覚えていた。

「心臓……弱いけど動いてる……息が……浅くて……」

 彩花は必要だと判断すると一瞬も迷わず、智也へ唇を重ねると息を吹き込んだ。何度か人口呼吸を繰り返すと死んだような顔色が少しだけ回復してくる。彩花は救急車が来るまで人口呼吸を続けながら、額の傷口を強く押さえていた。

 

 

 

 五時間後、彩花は小さな診療所のベッドで眠る智也に付き添っていた。結局、渋滞のために救急車が三上家に到着するのに30分もかかった上、近くの高速道路であった玉突き事故のせいで大きな病院への受け入れが難しくなり、たまたま入院設備を残して救急指定も受けていた小さな診療所が受け入れてくれていた。

「私がAB型でよかったね」

 輸血用の保存血も用意していなかった診療所で、彩花は自分がAB型であることと以前に従姉妹へ骨髄移植する際に、あらゆる検査で肝炎ウイルス等の問題がなかったことを医師に告げ、すぐに献血を申し出ていた。

「もう少しで死んじゃうところだったって。感謝しなさいよ、バカ」

 話しかけても智也は起きない。呼吸は安定しているけれど、まだ顔色は良くない。彩花からの献血だけでは足りなかったけれど、医師は数日の入院で自然な回復がはかれると言っていた。

「頭を打たれて、バカが、もっとバカになったかもよ?」

 検査の結果、脳には問題がないと言われている。単純に傷口からの出血量が多かったことでの出血性ショックを起こしかけていたとのことだった。

「……………………智也………」

 眠っている智也の身体に自分の血が流れていると想うと、さっきまで死んでしまうのではないかと心配した気持ちと重なって、従姉妹の伊吹みなもへ骨髄移植したときにも感じなかったほどの強い愛しさが生まれてくる。

「……………………………」

 彩花は眠っている智也にキスをした。

「……………………。このくらい、……いいよ…ね。………私がいなかったら、死んでたんだよ、バカ」

「お前……」

 智也が目を覚ましたので、彩花が驚く。

「っ、智也っ?!」

「お前なぁ……寝てるからって、そーゆーことするのは、準強制わいせつだぞ」

「だっ、だって……寝てると……思って…」

「だから、寝てるからって……アレ?」

 智也は病室を見回して、不思議な顔をしている。ほとんど入院患者を受け入れていない診療所は四人部屋だったが、智也と彩花しかいない。他のベッドはシーツもかかっていない。

「どこだ? ここは……、オレは家で寝たはずだけど……いつのまに…」

「…………………あきれた。寝たつもりだったなんて……ホントに……バカ」

 彩花は智也の身に起こったことを説明した。

「本当にあと一歩で死ぬだったのよ」

「そうか………」

 智也は状況を理解して考え込んだ。

「………………………。痛っ…」

「大丈夫? 頭、痛いの?」

「…あ、…ああ、ズキズキする。……くっ…」

「7針も縫ったから、痕も残るだろうって……でも、脳にまではダメージはなさそうだって。……けど、あんまり痛いなら先生、呼ぼうか?」

「いや………それより……」

「それより?」

「お前は……誰だ?」

「っ! ……まさか、……智也…」

「智也って……オレの、……ことか?」

 ぼんやりと智也は自分の手を不思議そうに見つめている。まるで、自分のことが自分でわからないという様子だった。

「………そんな……、……記憶喪失…」

「なんてな♪」

 ぼんやりとした顔を作っていた智也がニヤリと笑った。

「かかったな♪ 一回やってみたかったんだ。病室で起きてオレは誰だっての。セオリーだもんな」

「…………………………」

 彩花は少なくなった血の全部が頭にのぼってくるんじゃないかと思うほど怒った。

 

 

 

 翌日、ほたると唯笑が智也の病室を見舞っていた。花をもらっても智也が喜ばないことを二人ともわかっているので、トマトジュースと鉄分補給の栄養スナックを買い込んで病室に入ると、智也は懲りずに言った。

「お前ら、誰だ?」

「「……………………」」

「オレの親戚か? なぁ、オレの名前、知らないか? わからないんだ。自分で…」

「トモちゃん………、そのネタ、彩ちゃんから、もう聞いてるから無駄だよ」

「三上くん、どうして、こんなときでも、ふざけていられるの?」

「どんなときでも、オレはオレらしくありたいからだ♪」

「「……………………」」

「トマトジュースって、オレは吸血鬼か…ぅ…」

 見舞いの品を見ようとした智也はベッドから起きて、よろめいて唯笑の胸をつかんだ。

「っ! トモちゃんのバカっ! エッチ!」

「わ、悪い! わざとじゃない! わざとじゃないぞ! 起きようとすると低血圧になるんだ! 信じろ!」

「信じられないよ! トモちゃんのバカっ!」

「三上くん………むかしむかし、あるところに狼が来たぞ、狼が来たぞと村へ…」

「ああ、知ってる。月を見ると狼になる少年の話だろ」

「「……………………」」

「まあ、オレは元気だから、そう心配するな。いちいち見舞いになんか、来なくていい」

「……トモちゃんの…バカ。せっかく来てあげたのに…」

「ホントだよ、こんなことならケンちゃんとのデートに真っ直ぐいけばよかった。ほたる、もう行くからね。あとは唯笑ちゃん、よろしく」

「うん♪ 唯笑一人でいいよ。お昼から、また彩ちゃんも来てくれるって言ってたから。ほたるちゃん、デート楽しんでね」

「ありがと♪ じゃ」

 ほたるは唯笑にだけ手を振って診療所を出ると、健へ電話をかける。

「もしもし、ケンちゃん」

「あ、…うん……もしもし、ボクだけど…」

 健の声には勢いがなかった。

「ごめんね、ケンちゃん。もう三上くんのお見舞い終わったから、すぐ行くよ。今、どこ?」

「ああ……ボク、先に藤川へ出てたんだ…」

「そっか、じゃあ、すぐに行くね」

「あ、…いや、…ちょっと…」

「ん?」

「……………………、ほたる…」

「なぁに? ケンちゃん、ひょっとしてデート、2時間も遅らせたから怒ってる?」

「いや、そうじゃ…ないんだ。それは、もう、ぜんぜん、いいよ。ちゃんと、ほたる事前に連絡してくれたから。あ、けど……あの香菜ちゃんが怒ってイスを振り回すなんて、いったい、あの男は、どんなひどいことを寿々奈さんにしたんだよ?」

「それは……………………、………」

「寿々奈さんだって、ひどい落ち込み方してるしさ。いったい何があったのか、ほたる知ってるんだろ?」

「うん……知ってるよ…」

「……ボクには教えてくれないの?」

「………ごめんなさい、ケンちゃん。ケンちゃんだけじゃなくて、誰にでもだけど、教えると鷹乃ちゃん、もっと落ち込むと思うし……ほたるが鷹乃ちゃんの立場でも、誰にも知られたくないこと……だから、…ごめんなさい」

「ほたるが謝ることないよ。アイツが悪いんだろ」

「……三上くんには三上くんの事情もあるし、反省もしてるから」

「でも…」

「デモはね、メディア良化隊が粛正するの。ね、ケンちゃん、これ以上、このことは気にしないで。お願い」

「……………………」

「じゃ、今から藤川に行くね。遅くなったお詫びに…」

「待って! 藤川じゃなくて、…えっと……」

「ん?」

「えっと……………………、……登波離橋、…うん、登波離橋で会おう」

「……いいけど、……どうして? 今日のデートは藤川の予定…」

「話があるんだ。大事な話が」

「………それって…わざわざ、あの橋でしないと、……いけない話なの…?」

「ごめん。ボクも、すぐに行くから。たぶん、ほたるの方が早いと思うけど、すぐ行くから、待ってて。ごめん」

「……………………」

 ほたるは、とてもとてもイヤな予感がした。

 

 

 

 三日後、伊吹みなもは智也の病室を訪ねていた。

「おっす♪ 智也さん」

「………。お前、誰だ?」

「バカみたいに何度、そのネタやるんだか。彩ちゃんから聞いてるって」

「彩花のこと知ってる……って、やっぱり、お前、誰だよ? っていうか、男? 女?」

 智也は勝手にベッドサイドのパイプイスに座った人物に見覚えがなかった。真夏なのに軍隊のような厚底のブーツを履いて、やたら大きなリュックを足元におろしている。今どき野球部員でも無い限りしないような短いスポーツ刈りと、日に焼けた顔、小柄な身体は少女っぽいけれど、動作や言動は男子を思わせる。ブーツを脱ぐと、パイプイスの上にアグラをかいて座った。

「やっぱ、日本の暑さは違うね。タクラマカン砂漠とはさ。湿度が高くて空気が重いよ」

 カーキ色の厚い上着を脱ぐと、タンクトップ姿になる。それで男ではなく、女の子だと、やっとわかる。ノーブラの胸元が汗に濡れていて、奇妙に魅惑的だった。

「……………まさか……みな……みなもちゃん?!」

「他の誰に見えるっての? やっぱ、脳に傷、ついた?」

「って、わかるかよ! 変わりすぎだっての! ツインテールはっ?! あの可愛いツインテールは、どこいったんだ?!」

「あんな髪型で旅行してたら、襲われるっての。この男のカッコでも智也さんならわかってくれると思ったのにな」

「病気が治ってから、世界旅行に出るとか言って、入学して二ヶ月で高校中退したよな? あれから、彩花から話は聞いてたけど、ホントに世界旅行してるのか?」

「ああ、してるしてる。一応、この一年でユーラシア大陸は、そこそこ見てきた。土産話いっぱいあるぞ」

「………いや、各国の話より、なんで男っぽくなったのかを聞きたい」

「だから言ってるじゃん。女の子一人で旅行してると思われたら、一晩も無事に済まないって。だから、これもんよ」

 みなもは似合わない付け髭を見せてくれた。

「日本人って西アジアの方に行くと、年齢以上に若く見られて髭でもつけてないと男の子だと思っても拉致して売られそうになるからさ。さすがに、この髭つけてターバン巻いてると掠われないで済むぜ」

「………、カッコだけじゃなくて雰囲気も男になったのか……もったいない……。めちゃ可愛かったのに…」

「お前は天然の女ったらし癖、まだ治ってないんだな」

「………ああ……もったいない…………、まさか、こんなになって帰ってくるなんて……こんなことなら出発を止めるんだった……」

「人を自分の娘みたいに言うなっ♪」

「だいたい、なんで高校中退までして世界旅行に……」

「だから、言ったじゃん。人生短いんだぜ。オレに言わせれば、よくみんな元気な身体してるのに、毎日毎日、家と電車と学校の繰り返しで飽きないね? オレはさ、病室から、やっと解放されて、たしかに学校は楽しかったよ。でもさ、高校にあがっても中学と何も変わらない生活が待っててさ。家と教室、家と教室、毎日友達とテキトー喋って終わり、これをまた三年も繰り返すのかと思ったらゾッとしない? 病室で手紙かいてるのと、教室でメール打ってるの、たいして変わらないじゃん」

「……だとしても高校くらい卒業してから出発すりゃいいじゃん……いいだろ。って、お前の喋り方が伝染したじゃないか!」

「あははあははっ♪ んで、智也さんは、なんで入院してんの?」

「…………カッコ悪いから言いたくない」

「んだよ。帰国して彩ちゃんに電話したら入院してるって聞いて、速攻で来てやったのに秘密かよ。一応は心配してやったんだぞ」

「悪い。けど、かなりカッコ悪いから、忘れてくれ。怪我はたいしたことないから、すぐ治るしさ。頼む、忘れてくれ。ユーラシア大陸を回ってきたカッコ良さに比べると、本気で恥ずかしくなってきたから、頼む。オレの失敗を知らないでくれ」

「はいはい」

 みなもが肩をすくめて負傷の理由を訊くのを諦めると、ちょうど彩花が入ってきた。

「ぅっ……何、この匂い…」

「あ、彩ちゃん♪」

「………あなた……誰?」

 彩花も初見で、みなもが誰だかわからなかった。

「オレだよ、オレ。伊吹みなも」

「……………………女の子?」

「一応な」

「……………この匂い……何?」

「悪い、しばらくお風呂に入ってないんだ。ごめん。っていうかさ、日本の湿度だと汗がこもってベタつくけど、砂漠じゃサラサラで気にならないんだぜ。匂いもしにくいし」

「…………智也、この子、ホントに、みなもちゃんなの?」

 よろよろと彩花はよろめいて智也にすがった。

「ああ、そうみたいだ。泣くなよ、母さん」

「だって、私のみなもちゃんが……みなもちゃんが……ああ、なんてこと、こんな子に育てた覚えはないわ。お父さんがいけないのよ! 外国になんて行かせるから!」

「母さんだって反対しなかったじゃないか」

「だって、こんなことになるなんて」

「コラ! 勝手にオレの両親になるなよ、バカ夫婦。そういや、お前ら、くっついたの? もう、リアル子供できた?」

「「………………みなもちゃん………」」

 とても悲しい顔をして二人は夫婦の演技をやめると、首を横にふった。それは二人の関係についての否定というより、みなもの成長を否定したい気持ちをこめた動作だった。

「あのね、みなもちゃん。リアル両親に会う前に、どこかの銭湯に行って、できればスカートも買ってから、帰宅してあげて。叔母さんと叔父さん、きっとリアルに泣くから。っていうか、私も泣けそう」

「この髪型でスカートなんか合わないって」

「ウィッグか、エクステンションでも買って……無理よね、こんな短さじゃ…」

「っていうかさ、オレ、もう現金もってないぜ。三日、食べてないし」

「………」

「いやぁ♪ 航空券って高いね。タジキスタンなら、いい家が買えるくらい」

「みなも、飲むか?」

 チャン付けをやめて、呼び捨てにした智也がトマトジュースを差し出すと、美味そうに飲み干した。

「ごっちっす!」

「なんて、はしたない……みなもちゃん、お家に帰る前に日本の作法を思い出そうね。女の子の作法」

「え~っ…」

「郷に入っては郷に従え、世界旅行で学んでるよね?」

「…ぅ~ん……」

「はい、思い出してみようね。みなもちゃんなら智也に再会したら、こう言うの。お久しぶりです、智也さん。なんとか無事に帰ってきましたけど、日本にいた智也さんが怪我で入院なんてバカですね♪」

「おいっ!」

「ま、バカな智也はおいておいて。ホントに銭湯へ行きなさい。お金あげるから。あと、女の子の服はリュックに入ってるの?」

「売ったよ、ウクライナで高く売れた」

「………、路銀にしたんだ…」

「おかげで羊のステーキ、お腹いっぱい食べられたよ」

「ちょっとだけ語尾がマシになったきてるね。あとは一人称はオレじゃなくて、みなもって自分で自分の名前呼ぶのよ。そこ大切」

「前は平気でやってたけど、一人称自分の名前って、なんか頭悪そうじゃん?」

「いいの! もう少しレクチャーしてあげるから、こっち来なさい。智也はおとなしく寝てるのよ」

 彩花は年下の従姉妹を修正するために連れ出して、ユーラシア大陸に置き忘れてきた女子として大切なことを色々と思い出させてから、伊吹家へ送り届け、それなりの親子の再会を見とどけてから、また智也の病室へ一人で戻る。

「あ……」

 診療所の玄関まで来て、詩音と出会った。

「…双海…さん?」

「桧月さん、……ごきげんよう」

「……」

 二人はクラスメートではあっても友人ではない。おまけに詩音の背後には、鷹乃と香菜がいた。ほたるから聴いている話で、詩音から紹介されなくても鷹乃と香菜だとわかってしまった。

「なにしに……来たの?」

「お見舞いです。三上さんは病室ですか?」

「………。智也に会わせるわけにはいかないわ」

 彩花が玄関を塞ぐように立った。

「なぜ、会わせていただけないのですか?」

「なぜって当たり前でしょ!! その子はっ! 智也を殺そうとしたのよ!」

 彩花に指弾されると、香菜は小さな身体をより小さくした。苛烈な彩花の視線から詩音と鷹乃が間に立って後輩を守る。

「そのことも含めて、お詫びに来たのです。中に入れていただけませんか?」

「…………。ダメよ」

 彩花は少し考えて、ささいな復讐をすることにした。

「お詫び? ごめんなさいで済む問題だとでも思ってるの? 智也は死にかけたのよ。あと少しで本当に死んでいるところだった。それを、謝って許されるとでも思ってるの?」

「「「…………」」」

「許されるはずないでしょ」

「では、香菜さんに、どうしろというのですか? 桧月さんは」

「………。今、智也の両親が警察に行ってるわ」

「「「……………………」」」

 警察という単語を聞いて三人が緊張している。まだ海外にいる智也の両親には連絡していないけれど、ウソは効いている。どうせ、智也が許してしまうことはわかっているけれど、せいぜい肝を冷やしてやりたいと彩花は智也から学んだ虚言術を駆使する。

「その子のしたことは完全な殺人未遂でしょ。裁きを受けて当然じゃない」

「………、ですが、香菜さんは…」

 詩音は反論に困った。彩花が鷹乃と智也のことを、どこまで知っているのかわからないので香菜が暴れたことの理由を説明していいものか、判断できずに困っている。

「智也の両親は海外赴任だけど、とても偉い人よ。だから、うんと重い刑罰がくだるよう、警察に圧力をかけてるわ。もちろん、学校にも」

「………。日本の警察機構は賄賂を取らない優秀な警察です。縁故で罰をかえることは、まずありません」

「そーだと、いいね? でも、双海さんは海外ばっかで日本のこと、詳しいわけじゃないでしょ。それに、海外でも無かった? 警察の不公平ってさ」

「……………………」

「ふふン♪ 浜咲学園って校長が、すごくアホなの有名よ。寄付金次第で暴力生徒の退学なんて簡単に融通してくれるくらいアホ。っていうかさ、普通の校長でも退学になるだけのこと、してるよね。その子」

 いじわるく彩花が微笑むと、詩音は頬を硬くした。

「三上さんは鷹乃が来たといえば、お会いになるはずです。そこを通してください」

「…………、実力で通ってみれば?」

「……………………」

 詩音は見舞いの花束を左手に持ちかえると、彩花へ近づき、軽いけれど素早い肘打ちを放った。けれど、肘打ちは彩花の右手によって受けとめられる。それでも詩音は第二弾の攻撃として、肘を受けとめられたまま、裏拳を放つ。

「ぇっ?!」

 詩音は裏拳さえも受けとめられて、驚いた。

「ふふン♪ あなたが肘打ちから裏拳のコンボを十八番にしてることは知ってるのよ。前にシカ電で痴漢を撃退してるとこ、見てたから」

「くっ……私の秘密を…」

「孫子曰く、敵を知り己を知れば百戦して危うからず、ってね」

「………………。それを言うならば、桧月さんは事情を詳しくご存じでないのです。香菜さんを警察に訴えるというなら、三上さんの立場も危うくなる事情があるのです。知らないなら、引きなさい」

「…………………………知ってる」

 彩花は掴んでいた詩音の腕を離した。そろそろ潮時だと、道を譲った。

「智也の病室は二階。案内してあげるわ。ついてきなさい」

「………、ありがとうございます」

 彩花は三人を智也の病室へ導いた。智也は四人が入ってくると、さすがに困って態度を決めかねる。それは鷹乃と香菜も同じで沈黙が病室に漂いかけたが、詩音が挨拶をはじめた。

「お見舞いに参りました。お怪我の方は、いかがでしょうか?」

「………、ああ、こんなのたいしたことない。ぜんぜん平気だ」

「ウソ、死にかけて、今も立ち上がると貧血でしょ」

「彩花……」

「7針も縫われた額の傷も、残るだろうって言われてるしね」

「三上さんが元気そうで何よりです」

 詩音は彩花を無視して、香菜を視線で促した。

「………………、………、……」

 香菜は謝ろうとして、頭を下げかけるけれど、逆に智也を睨み、何か文句を言おうとして、それも思い止まり、結局は黙ったまま、感情の高ぶりで涙を零した。見かねて詩音が話を進める。

「この通り、香菜さんも反省しておられます」

「は? その子、まだ、一言も謝ってないけど?」

「……」

 詩音が彩花を睨み、彩花が詩音を睨み返す。どうにも二人の相性は最悪のようで再び一触即発の雰囲気になりつつあるのを、智也が制した。

「オレは転んでイスに頭をぶつけたんだ。舞方が謝ることなんて、なにもない」

「智也っ!」

「彩花は黙っていてくれ。これはオレと…、……オレの問題だ」

「…………」

 彩花が黙ると、ずっと話さなかった鷹乃が口を開く。

「あなたが香菜のことを……そういうなら……私も、…………許しても……いいわ」

「……………。いや、……別に、オレと舞方のことを、……君とオレの問題に、交換条件として……もらおうとは思っていない」

「……、そう…………許さなくても、いいの?」

「……………………」

 智也が黙ると、鷹乃が少し苛立って口調を早める。

「あなたは私のことを好きと言ったわね?」

「……ああ、言った」

「………。でも、あなたは私の何を知っているというの? どこを好きだというの? あなたが話しかけてくるようになったのは、ほんの先月のことよ。私はあなたのことを、よく知らないわ。そのくらいに、あなただって私のことを深く知らないはずよ! なのに、どうして私のことが好きだなんて言えるの?! お互いのことを深く知りもしないのに好きだなんて、いい加減な気持ちじゃないの?! 教えて頂戴!」

「……………………、たしかに、オレは君のことを、深くは知らない。でも、好きだ。これは本当だ」

「それって………そんなの納得……いかないわ」

「納得か………、納得いってもらえるといいけど………結局、オレは君の外見に惚れたのだと思う」

「外見? 見た目だけの話なの?」

「きっかけは廊下ですれちがったとき、可愛いなと思った。それだけ……ああ、それだけだな。可愛いから、好きになった。話しかけてみて、また、好きになった」

「ウソよ。私は憎まれ口を叩くわ。好かれるはずないわ」

「面白いものも、オレは好きになる。二度目に話しかけたとき、君はオレに、あなたなんて磨り潰したコオロギでも食べていればいいのよ、と言った。あれは面白かった」

「バカじゃないの」

「ああ、かなりのバカだ」

「…………ふざけるなら、帰るわ」

「ふざけてない。本気で鷹乃が好きだ」

「……ぬけぬけと……言うのね……」

 鷹乃はタメ息をついた。そして、智也を睨む。

「いいわ。あなたが私を好きだと言って、付き合いたいというなら、許せないこともあったけれど、それでも前向きに考えてあげてもいい」

「……」

 智也は意外だ、という顔をしたけれど、鷹乃は睨むのをやめない。

「ただし、一つだけ条件があるわ」

「……。どんな?」

「……………………………」

 問われた鷹乃は即答せず、戸惑って詩音と香菜を交互に見つめ、彩花へは邪魔そうな視線を向けた。

「…ぃ…言いにくいことよ……二人きりにしてちょうだい」

 鷹乃の願いを三人とも黙って聞き入れ、退室した。病室が静かになった。

「それで、どんな条件をクリアすれば、オレは君と付き合える?」

「………………条件は……クリアするとか……そういうものでは…ないわ」

「………前に言ってた蓬莱山とかは、存在しないから。せめて達成可能なことにしてくれよ。月の石も人類全体としては可能だが、オレ個人としては不可能に近いぞ」

「すぐ調子に乗るのね」

「言いにくそうだからさ」

「言いにくいわよ! 少し黙って待っていなさい!!」

「……………………………………………………………………………………」

「……………………」

 鷹乃は下を向くと、つぶやいた。

「……ないわ」

「?」

「…………、ないのよ」

「………。白ドルピィ君のキーホルダーが?」

「っ! 違うわ! バカじゃないの! ないって言ったら生理に決まっているでしょう!!」

 鷹乃が顔を真っ赤にして怒鳴った。

「わ、私はね! かなり正確に来るのよ! それが無いの! もう三日も遅れてるわ! だ、だから! 妊娠してるのよ! そのくらい高校生ならわかるでしょう?! ど、どうしてくれるのよ?! それよ! それを答えなさい!! い、今すぐでなくていいわ!! 三日だけ時間をあげる!! どうしたらいいか! あなたが考えなさい!! 私は考えたくないわ!! あなたのせいよ! 私はイヤがっていたのに! あなたがムリヤリ! だから、これは全部あなたのせいなの!! あなたの責任よ! さあ! 考えなさい!! どうしてくれるのか! 三日だけ待ってあげるわ!!」

 そこまで言い募ると鷹乃は病室を飛び出した。廊下には詩音と彩花、香菜が待っていて、その表情で鷹乃の声が廊下まで響いていたことがわかってしまい、鷹乃は誰とも口をきかずに走っていく。三人とも追うことができなかった。

「……鷹乃センパイ……」

「…鷹乃……」

「…智也…」

「……………………。桧月さん」

「……なに?」

「これ、お見舞いの品です。……渡すタイミングが、つかめず……今もタイミングではないと思うのですが……もう、帰りますし……どうぞ、お納め下さい」

「そ……そう……、ありが……とう。生けておくわ」

 彩花は詩音から花束、香菜からは果物の盛り合わせをもらった。

 

 

 

 二日後、彩花は隣の窓を見つめながらタメ息をついていた。

「どうするつもり? おバカさん」

 彩花の問いは智也へ聞こえていない。もう退院した智也は家にいるが、あまり彩花とも話していない。一人で考え込んでいる様子だった。

「…………………ふーー…」

 もう一度、彩花がタメ息をつくとケータイが鳴った。着信表示は唯笑。

「もしもし、唯笑ちゃん?」

「夜遅くにごめんね、彩ちゃん」

「ううん、まだ、ぜんぜん平気♪ どうしたの?」

「トモちゃんは元気?」

「ああ、うん、まあまあ、みたいね」

 唯笑には詳しく事情を話していない。まだ、転んで頭をぶつけたと思っている。

「そっか。……」

「智也のこと以外で何かあるの?」

「うん、ほたるちゃんのこと」

「ほたるちゃんが、どうかしたの?」

 まさか、ほたるが唯笑にまで事情を話したのかと彩花は不安になったけれど、違った。

「……ほたるちゃん………彼氏さんと別れちゃったんだって」

「ウソっ?!」

「ホントみたい……だって、泣いてたもん」

「ってことは、ほたるちゃんから別れたんじゃなくて? 向こうから?」

「うん……急に別れてくれって……。クリスマスにプレゼントしてあげた12万円もする腕時計まで返されたって」

「理由は? なにかあったの?」

「…………彼氏さん、他に好きな人ができたからって………ひどいよ…」

「……ひどい……話ね」

「さっきまで、ほたるちゃんといっしょにいたんだけど、ものすごく落ち込んでるの。ホントに可哀想だよ」

「そう…………そっか…」

 あっちも、こっちも大変ね、彩花はタメ息を隠した。

「でも、まあ、フタマタかけて付き合うよりは、ずっとマシって考え方もあるよ」

「う~っ……彩ちゃん、ちょっと冷たい…」

「そう? そうかも……ごめんね」

「ね、彩ちゃん、唯笑ね、考えたんだけど、ほたるちゃんを慰めるパーティーしたら、どうかな?」

「………失恋会? それって、……慰めになる?」

「そうじゃなくて! 彼氏さんのこと考えるから暗くなっちゃうの! ぜんぜん関係ないパーティーをして楽しく過ごせば、ほんの少しでも、ほたるちゃん元気になってくれないかなって……ダメ、かな?」

「う~ん……そのパーティーの名目にもよるかな? たしか、ピアノのコンクールが近かったはずだけど、激励会っていうのもねぇ……ほたるちゃんを主役にしちゃうと逆効果だと思うよ」

「へへ~ん♪ それについては唯笑に名案があるんだ」

「どんな?」

「ほたるちゃんと一番仲の良かったトトちゃんの誕生日が、もうすぐなの♪」

「ああ、なるほど、それなら、ほたるちゃんが主役じゃないから…」

「それにね。この前、藍ヶ丘駅でトトちゃんちのお婆ちゃんに会ったら、今年の誕生日もパパとママは仕事で、お婆ちゃんも旅行だから一人にしちゃうから可哀想かなって言ってたの」

「うん、いいね。家の人いないなら騒げるし」

「盛り上がったらさ、オレンジジュースかけとかまでしたら、ほたるちゃん呆れて元気になってくれないかな?」

「……。その案は却下だけど、全体としてはいいかも…あ…、でも…」

 でも、たしか、あのアダ名大魔神には彼氏ができたばっかりで、タイミング的には悪いかもしれない、彩花は唯笑に言おうと思ったけれど、窓の向こうで智也が顔を出しているのに気づいた。こちらを向いて何かを相談したそうにしている。

「ごめん、唯笑ちゃん、ちょっと用事」

「うん、じゃ、バイバ~イ♪」

「うん、バイバイ♪」

 唯笑との電話を途中で切って、窓を開ける。

「うかない顔ね、智也」

「……当然だろ」

「当然の報いね」

「……………………」

「そっち行っていい?」

「……。ああ」

 彩花が窓から乗り出すと、智也が手を貸してくれる。

「よいしょ♪」

「………」

 智也がイスに座ったので、彩花は窓からそのままベッドへ座る。

「それで? 私に何か用なの?」

「ちょっと訊きたいことがあるんだ」

「なんとなく想像はつくけどね」

「じゃあ、前置き無しで訊くが………お前だったら、今、妊娠したら、どうする?」

「想像通りの質問だけど、難問ね」

 この二日間、彩花も考えてきた問題だったので、それほど間をおかず問題を整理する。

「まずさ、私だったらの前提に、もう一つ、前提が要るのよ」

「……どんな?」

「いったい誰との子供なのか、って前提」

「なるほど」

「他にも前提というか、条件は、いくつも考えないといけない。けど、至る結論は二つに一つ、堕ろすか、堕ろさないか、きつい答えね」

「…ああ…。……他の前提や条件は?」

「誰との子供なのか。その誰かさんを、私は好きなのか、好きになれるのか、大嫌いなのか………、たとえ好きでも相手も高校生なのか。このことを話して両親は、どう思うのか。看護婦になりたいって私の夢は、どうするのか? 堕ろしておいて看護婦で人助けなんて方便を使うのか? それとも、産んでから勉強しなおすのか、夢を諦めるのか。いろいろ考えちゃうね」

「……………………鷹乃は、オレを、どう想ってると思う?」

「…………。そんなの、私は彼女じゃないから答えてあげられない」

「……だよな………」

「でも、あんまり好かれてるとは思えないよ」

「………ああ…」

「結論から考えるって方法もあるね。堕ろす、堕ろさない、どちらにしても、その後、どうするのか。堕ろさなかったら、産まれてくる。産まれてきたら、どうするの?」

「………育てるか……最悪、捨てるか、だろ?」

「そうね。でも、子供だけを捨てるか、母子ともに捨てるか……まあ、つまり男として逃げちゃうか、ね」

「母子ともに…か…」

「堕ろした場合でも、捨てるってことを男は選べるよね。ついさっき入ってきた最新情報だけど、ほたるちゃん、彼氏に捨てられたって」

「っ?! 本当かっ?!」

「伝聞だけど、唯笑ちゃん情報だからウソってことはないと思う。唯笑ちゃんの勘違いって可能性はあるけど、ほたるちゃん本人から聞いてるらしいから、いくら唯笑ちゃんでも勘違いじゃないと思うよ」

「……白河と………、……あのバカップルが破綻するとは……」

「人の気持ちなんて、うつろいやすいものね。彼氏が別の人を好きになったからだって」

「………………」

「男はさ、簡単に堕ろすの、堕ろさないのって言うけど、精神的ダメージも大きいものの、身体だって女の子によってはダメージが大きくて、次の妊娠がしにくくなったり、妊娠できなくなったりするのよ」

「………妊娠できなくなると、女ってダメージ、どのくらい大きい?」

「う~ん……………智也はさ、男の子の部分が交通事故とか病気で無くなっちゃったら、ショックどのくらい大きい? たぶん、そのくらいじゃないかな?」

「…………………………」

 智也が深刻な顔で考え込んだので、彩花は話題を変えてみる。

「ほたるちゃんと彼氏さん………してたのかな?」

「白河の話だと、無かったらしい……」

「そう…………それなら、まだマシかな…」

「………。鷹乃はさ、考えたくない、オレに考えろって言ったよな。あれって、オレの結論をそのまま採用するってことなのか?」

「そんなの私に訊かれてもわからないよ。でもまあ、そーゆーことなんじゃないの?」

「………オレが産んでくれって言ったら、オレと結婚するつもりなのか?」

「だから、私は彼女じゃないからわからないし、そんな簡単に結婚とか出産とか、できないよ。だいたい、二人とも高校生で、どうやって養っていくつもりよ? 自分と子供を」

「……………そうだよな」

「リアルに考えると、やっぱり堕ろしてくれ、が正解じゃないの? あの子としてはさ、智也が堕ろせっていうから、堕ろすしかなかった。自分のせいじゃない、自分は悪くないって想えるし、決断して罪悪感を背負ってほしいってことじゃないの?」

「けど、それで産めなくなったら……」

「………。そんなに確率の高いことじゃないよ。ほとんどは後遺症なんて残らないはず」

「……………………堕ろさなかったら、いつごろ産まれてくるんだ?」

「そんなことも知らないの……十月十日って言うから、来年の五月か、六月ね」

「……一応、高校は卒業できてるのか……」

「智也は卒業できても、彼女は退学になるでしょうけどね」

「……………………」

「堕ろすしか無いよ。現実的に」

「………………」

「でもさ、堕ろすのにも、お金がいるの知ってる」

「………いくらくらい?」

「ざっと10万円から15万円くらいじゃないかな。あてはあるの?」

「……バイトを見つけて働いて……あとは小遣いの前借りで…」

「お金が用意できる頃には堕ろせる時期は過ぎてそうね」

「……………………」

「ふーっ……私に感謝しなさい。智也のお母さんから毎月送ってもらってる生活費とは別に私と唯笑ちゃんが智也の面倒をみてくれてる分、ってことで毎月5000円お小遣いとしてもらってるの」

「なに? そんな話、オレは知らないぞ! オレの小遣いだって5000円なのに! 彩花と唯笑は自分の家からだってもらってるだろ?」

「だぁーから、智也の御世話をしてる分♪」

「余計な御世話だ!」

「話を最後まで聞く」

「………」

「私も唯笑ちゃんも軽く掃除とか炊事、たまにしてあげてるけどね。だからって、もらうつもりもなくて、ずっとプールしてあるの。それをさ、今回のことに使っちゃえば?」

「……そんな金があったのか……」

「ちなみに、今回の入院費用も、そこから出てます。おかげで智也の両親には今のところバレてないよ。どう、感謝した?」

「拝みたくなるほど」

「じゃあ、拝んで♪」

「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 智也が手を合わせて彩花を拝んだ。

「ありがとうな、彩花。考えが少しは整理できた」

「どういたしまして」

 彩花が時計を見ると、そろそろ日付が変わりそうだった。

「もう、こんな時間。じゃあ、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 智也は窓を渡っていく幼馴染みを見送ると、鍵をかけずに窓を閉めた。

 

 



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3話

 翌日、智也は浜咲学園の空き教室で鷹乃を会っていた。

「さあ、答えを聞かせてちょうだい。私をどうしてくれるの?」

「………」

「黙るなんて卑怯よ。早く言いなさい」

「そう急ぐなって。もう答えは決まってる。どこから話すべきか……、ああ、そうだな。……オレと、……オレと結婚してくれるなら産んでくれ。イヤなら堕ろしてくれ、費用はオレが払う」

「…………、仮に、あなたと結婚したとして、養っていけるの?」

「産まれてくるのは、来年の5月過ぎだろ? オレが進学をやめて就職すれば、なんとかなる。家はあるし、ぎりぎりの生活になるけど、なんとかなると思う」

「………。………家があるって……羨ましいことね」

「……………………」

「………」

「……。それで、鷹乃の答えは?」

「私の答え?」

「オレと結婚して産むのか、イヤなのか、だ。また、三日……いや、一週間くらい待とうか?」

「もう、いいわ」

「……もういいって?」

「ウソよ」

「…………何が?」

「妊娠したなんてウソよ。あなたを試しただけ」

「……………………、……た………たはっ……ウソかよ…」

 立っていた智也は、その場に座り込んだ。さらに座ったまま、後ろへ倒れ込む。

「…………そうか……………………ウソか…………なるほど………ウソか……」

「ずいぶんと気が抜けたみたいね」

「……、そりゃ……な、……はは……」

「いつまで床に寝ているつもり。埃が付くわよ」

「………ああ、…もう………夕べ……寝てないんだ。このまま寝るから、ほっといてくれ」

「そうはいかないわ。妊娠はウソでも、あなたは私に……し……したんだから、ちゃんと、しなさい」

「ちゃんとするって……?」

「恋人らしくしてちょうだい」

「………。オレと付き合ってくれるのか?」

「当たり前でしょう」

「……………………おおっ、……おうっ!」

 智也は飛び起きて鷹乃を抱きしめた。

「きゃっ!」

「愛してるぜ、鷹乃♪」

「っ…な……、……、……も……よ……。……」

「?」

「……私、…もよ」

 頬を赤くしている鷹乃へキスをする。

「ホントに可愛いな、鷹乃は」

「……………………、………怒らないの?」

「なにを?」

「ウソをついたこと………かなり悪質なウソよ」

「オレの強引な行為に比べたら、仕返しとしては意趣が効いてて、いいと思うぜ。ある意味、ますます好きになった」

「……そう………それなら、もっと好きになっていなさい。ずっと、私だけを」

 もう一度、鷹乃へキスをする。キスが終わると、鷹乃は校庭を見る。そこには詩音と香菜が木陰で待っていた。

「心配をかけたから二人へ報告に行くわ。あなたもついてきて」

「おう」

 智也と並んで廊下を歩く鷹乃は、注文をつける。

「歩くときは手を握りなさい。恋人らしく」

「ああ、いいけど、……こっちの方が、よくないか?」

 鷹乃の肩へ腕を回して抱きよせる。智也は怒られるかと軽く覚悟していたが、抵抗はなかった。抱きよせると鷹乃の肩は柔らかくて華奢だった。

「いい、やっぱり可愛いな」

「……本当に?」

「ああ」

「私の肩………水泳のせいで大きいわ。女の子らしくないんじゃないの?」

「オレも、そうかなって思ってたけど実際に抱くと、思ったより小さくて可愛い♪」

「………本当に?」

「だから、本当だって」

 智也が抱いている肩を撫でる。鷹乃は撫でてくる智也の手へ手を重ねた。

「男性の手って……大きいのね。………身体も」

「まあ、そーゆー造りになってるな」

「………、こんな大きな体と、強い力で襲われたら、ひとたまりも無かったわ」

「悪かった。ごめん」

 鷹乃の頬へキスをする。廊下を歩きながらなので、他の生徒が智也と鷹乃をジロジロと見ていた。夏期講習中なので、それほど人は多くないけれど、校庭へ出るまでに十人以上が新しいカップルの誕生を知ることになった。この十人が三人へ話せば、延べ四十人が知ることなり、さらに三人へ噂を広めれば、もう全校生徒が知っている状態になる。

 見られていることにかまわず、寄り添ったまま校庭の木陰へ、二人で歩みよる。

「詩音、香菜。心配かけて、ごめんなさい」

「ふふ♪ その様子を見れば、ご報告を受けるまでもないですね」

「鷹乃センパイ………」

 香菜は不満そうに、詩音は満足そうに、ことの経過を聞いてくれる。鷹乃が妊娠していなかったことも白状すると、詩音は微笑んだ。

「敵を欺くには、まず味方から。三上さんは、さぞかし肺を潰したでしょう?」

「肺? いや、その場合は肝だぞ。帰国子女。まあ、オレの人生で、もっとも考えた三日だったと言っておこう」

「鷹乃は私の大切な友人ですから、もう二度と泣かせないでください」

「承知した♪」

「香菜にも心配をかけたわね。ごめんなさい」

「………鷹乃…センパイ………、……」

 香菜は背中を向けると、走っていった。

「香菜……」

「香菜さんは……、私がフォローしておきます。お気になさらず」

「……ええ、お願いするわ」

 鷹乃は部活の後輩のことは友人に任せた。

「鷹乃、木陰でも暑いからさ。授業をやってない教室にでも入ろうぜ」

「そうね」

 再び校舎に戻って夏期講習で使われていないが冷房は効いている自習用の教室を探すと、カナタと正午に出会った。

「あっ♪ すごいじゃん! 智也、逆転ゴール?」

「まあな」

「三上、すげぇ!」

「ふーん♪ 新しいカップル誕生かぁ」

 カナタは肩を抱かれて頬を少し赤くしている鷹乃を興味深そうに見つめる。

「鷹ちゃんも、まんざらじゃなかったわけね。やっぱり♪」

「………ええ」

 鷹乃は不機嫌そうに肯定した。それが、ますますカナタをご機嫌にする。

「なるほどね♪ で、いきなりイチャイチャしてるわけ?」

「……そうよ。悪いかしら?」

「ううん、ぜんぜん悪くないよ♪ 仲良きことは美しきかな、ささ、暑い廊下の温度を、もっと上げちゃってください」

 暑い廊下で話し込む気はないので、四人とも目前の自習室へ入る。教室の目的通りに自習している生徒が10人ほど、カナタたちと同様に涼みに来て会話をしている生徒も10人ほど、四人がプラスされたので会話している生徒の方が多くなる。

「きゃは♪ 見てる見てる。みんなアタシとショーゴのこと、見てるよ♪」

「「お前、アホだろ」」

「お前?」

「カナタとオレを見てるんじゃなくて、みんな三上と寿々奈さんを見てるんだ」

 正午の言うとおり、多くの生徒がチラチラと智也と鷹乃を見ている。カナタと正午が二人でイチャついていることは、もう珍しくも何ともないので背景に近い感じだった。

「むーっ♪ このアタシをさしおいて視線を集めるとは、やるじゃん」

 カナタは拗ねるポーズを取った。そこへ、国語の授業の予習をしていた翔太が近づいてくる。

「その様子だと、雨降って地固まる、かな? 三上君」

「まあな」

「そいつはよかった。寿々奈さんを口説き落とすなんて、みんな驚いてるぜ。見てないフリして、こっちを見てる」

「見たければ、堂々と見ればいいのよ。自習するフリをして様子を窺うなんて、丸くなったダンゴムシみたい」

「おっ♪ 久しぶりに寿々奈さんのそのネタ、聴いた気がするな」

「………」

「やっぱり、寿々奈さんは、そうでなくっちゃ」

「………。中森くん、気安く私に話しかけないでちょうだい」

 鷹乃は翔太を拒絶すると、智也に寄り添う。翔太がタメ息をついた。

「男子に対するガードは限定解除されただけか……ま、いいさ。せいぜい、お幸せに」

「………」

 鷹乃は返答せずに、ますます智也へ寄り添う。おかげで生徒たちの視線が、さらに集まった。

「む~っ♪ みんなの視界の中でアタシが背景になってるじゃん!」

「女子Kだな」

「ショーゴ、ちょっと唇貸して」

「耳じゃなく…ぅ…」

 正午はキスをされた。

「…」

 お前いきなり何をする、と視線で抗議したけれど、カナタは離れて微笑んだ。

「ほら♪ これでアタシとショーゴに視線が集まってる」

「……真性のアホだ……、いや、芸人だ。自分に注目がないと我慢できないってか…」

「ほらほら、ひそひそアタシのこと話してる」

 カナタの言うとおり、モデルもしている彼女の話題が出る。歌手デビューの話もある彼女の開けっぴろげな行動に生徒たちが反応していた。

「やっぱり、アタシとショーゴが浜咲ベストカップルね♪ アタシの素晴らしき超弩級の可愛らしさと、ほんの少しのショーゴのカッコ良さで勝ち点100♪」

「はいはい」

 正午は受け流したけれど、鷹乃が智也を見つめて小声で求める。

「………して…」

「は?」

「私にも……キスしてちょうだい」

「………ここで? 今?」

「…………イヤなの?」

「オレは男だから…」

 智也は鷹乃を抱きよせて囁く。

「好きな女に恥をかかせるほど小心じゃないが、鷹乃の大胆さには驚くよ」

 智也からキスをする。カナタが不意をついて正午にしたキスよりも二人の気持ちが入っている分だけ、生徒たちの反応も大きくなる。冷房が効いているとはいえ、真夏の教室は温度が上昇していた。男子生徒の中には、ひやかしの野次を飛ばしてくる者もいたが、もともと智也は気にしない性格だったし、鷹乃も無視している。

 一人だけ対抗意識を燃やす少女がいた。

「ショーゴ♪」

「お前……まさか…」

「ダメ?」

「ダメじゃないけど、ダメダメだろ。ダメダメのダメカップルだ。しかもダブル」

「バカップルの壁を超えてスーパー・バカップル♪」

「超えたくない壁だ……」

「いいから素直にキスさせなさい」

 また、カナタが恋人とキスを始める。今度は深いキスで時間も長い。教室の生徒たちが騒ぎ始めた。翔太が常識人として注意する。

「おいおい、四人とも、ここが自習室だってこと忘れてないか?」

「翔太もさ、あの国語教師さっさと口説いてきなよ。そしたら、六人でスーパー・バカップル・スリーができるよ」

「うっ……黒須さん……気づいてた?」

「うん、アタシの目は通常の三倍、鋭いから」

「あんまり言わないでくれよ。それに、どっちにしてもスリーとかは参加しないし」

「ふーん♪ ……あ、ほたる!」

 ほたるが教室に入ってきたのを見つけたカナタが駆けよろうとする。

「ほたる♪ スーパー・バカップル・スリーをやるから健を…うぐっ?!」

 智也が慌ててカナタの口を塞いだ。カナタが視線で理由を問いかけると、今は黙ってろ、とアイコンタクトで返答する。カナタのかわりに翔太が、ほたるへ近づく。

「ほたるちゃん、どうかしたの?」

「…うん……忘れ物……、………でも……何を忘れてたのか……忘れちゃった……あはは、ほたる……バカだよねぇ……あは…」

 暗い顔をして空笑いをしている。ほたるが教室を徘徊しようとするのを翔太が止めて外へ連れ出していった。智也がカナタを離す。

「で? アタシの可憐な唇を押さえ込んだ理由は?」

「白河は伊波と別れたらしい」

「っ、ホントっ?!」

「マジかよ?!」

「本当にっ?!」

 カナタと正午、それに鷹乃まで驚いている。智也は声をひそめて語る。

「オレは頻繁にウソをつくが残念なことに、これは本当だ」

「ほたるが別れた理由は?」

「ああ……まあ、……別れたというよりは正確には捨てられたって表現の方が正しいな。伊波が他の子を好きになって、それで……」

「ポイっ、かよ?」

 正午が空き缶を捨てるような動作をしてみせると、カナタがわき腹を突いた。

「ぐふっ…」

「加賀の言い方は悪いけど、……まあ、そーゆーことみたいだ」

「……白河さん……」

 鷹乃が心配そうな顔をする。カナタも表情が暗い。

「ほたるはさ、本気で健を好きだったのに……」

「ほたるちゃん、あんな可愛いのにな……捨てるかよ、普通。カナタと取り替えてほしいくらい…あぐっ!」

 正午は膝蹴りをくらった。

「アタシがショーゴと取り替えたいくらいなのっ! バカっ!」

「うう……オレも蹴るぞ」

「女の子を蹴るな」

「お前なぁ…」

「お前とも言うなっ!」

 もう一発、カナタが正午を蹴る。

「痛っ! って、お前、いい加減にしろよ!」

「また言ったっ!!」

 さらに蹴ろうとしたカナタの脚を正午が受けとめて、仕返しにスカートをめくる。ひらりとスカートが拡がって、正午と智也はライトグリーンのレースショーツを目に焼き付けた。恥ずかしさと怒りでカナタの顔が紅く染まる。

「っ! バカショーゴっ!!」

 カナタは受けとめられたままの脚を軸足にして、宙を舞って自由になる方の脚で正午の頭を蹴る。

「うおっ?!」

 正午は頭を思いっきり蹴られて、うずくまった。

「痛てぇぇ…」

「うう…痛ぁぁ…」

 カナタも着地に失敗して、お尻と頭を床へ打ちつけて、うずくまる。

「バカショーゴのせいで痛いっ!」

「ざけんな! お前が悪いっ!」

「また言った!」

「おい、加賀、黒須、どうでもいいことでケンカするな」

「「よくないっ!!」」

 智也が仲裁してもカナタと正午の痴話ゲンカは、どんどん激しくなり結局は二人とも本気で怒ってしまった。

「もうお前とは別れる!! 捨てる! ポイだっ!」

「ショーゴのバカっ! あんぽんたん!!」

 怒鳴って教室を出ると、別々の方向へ消えてしまった。

「あいつら……まったく……」

「黒須さんと……加賀くんまで、あんなに簡単に…」

「ああ、あいつらのは気にしなくていい。あれは一種のコミュニケーションだから。三日もあれば仲直りするだろう」

「………そんな……ものなの?」

「ああ、スーパー・バカップルだからな」

「………」

「さてと、白河の方が問題なんだが……、オレは鷹乃のことで、いろいろ相談に乗ってもらったからなぁ……」

「白河さんのために何かするつもりなの?」

 鷹乃の問いかける声色は、何かしてあげてほしいけれど、ほたるに智也が近づくのはイヤという気持ちが、はっきりと感じられる声だったので、智也も自重する。

「できることなら、オレも何かしたいが……けど、伊波のことは中森が当然に探りを入れるだろうし、探りを入れて余地があるなら、できることをするだろうな。白河の方も、フォローはオレより適任が、いっぱいいるからな。フラれたばっかりの女に、鷹乃と付き合いだしたばっかりのオレが近づくのも問題あるし……彩花か、唯笑あたり、いや、トトにでもフォローを頼むのがオレの仕事かもな」

「………。……あなたは友人が多いのね」

「そうかな。普通だと思うぞ」

「…………」

「……。どうする?」

「どうって?」

「今日、これから。部活か?」

「……いいえ、……水泳部は辞めるわ」

「そうか。っていうか、まだ三年生も引退してないのか? 水泳部」

「………ええ……、推薦入試のある人は、引退せずに練習していたわ」

「鷹乃は?」

「……もう…諦めたから」

「なら、ヒマってことか?」

「そうね。……そうなるわ」

「白河には悪いけど…………、どこかへ遊びに行くか?」

「いいの?」

「ああ、どこがいい?」

「……………、マリンランド」

「……。先週、行ったのに?」

「だって、あのときは白ドルピィ君を捜していたから、乗りたいもの、いくつか残していて…」

「けど、この時間から行くと園に着く頃には夕方だしな……今度にしないか?」

「……うん……、…」

 とても残念そうな顔をする鷹乃に、智也は少し意外だった。

「そんなに行きたかった?」

「………だって、私……ああいう、ところへ行ったこと、ほとんどないの」

「なんで?」

「…………。子供の頃は、少し両親といっしょに暮らしていたけれど、その頃も海に連れて行ってもらったことが一回ある記憶ぐらいよ。叔父のところへ厄介になるようになってからも、お店も忙しいから……」

「そっか。オレは中学の頃とか、よく行ったから飽き気味だけど、鷹乃が行きたいなら明日にでも行こう」

「いいのっ?!」

「ああ。明日の予定は、それで決まりだ。問題は今日の予定だけど、ゲーセンってのも芸がないしな……どっかで飯にする……と、鷹乃が食べる分を考えると明日の軍資金が無くなるし…」

「私、この頃は泳いでいないから、そんなに食べないわよ。それに外食はもったいないわ。あなたの家で何か作ってあげましょうか? 材料費を出してくれるなら」

「おっ♪ いいの?」

「今日の予定も決まりね。リクエストはあるかしら?」

「うむ、唐揚げがいいな。無理なら何でもいい、鷹乃の得意なもの」

「唐揚げにしましょう。得意とまでは言わないけれど、苦手でもないわ。それに私も好きだもの」

 予定が決まったので二人はスーパーで買い物をしてから智也の家へ行く。家の前で唯笑に出会った。

「あ、トモちゃん♪」

「おお、唯笑、いいところに現れたな」

「う~っ…トモちゃんが、そーゆー言い方するときって唯笑にとっていいことが少ない気がする…」

「うむ、誰にとってもいいことじゃない。白河のことだ」

「ほたるちゃんの? ……彩ちゃんから聞いた?」

「ああ。それに学校でも、かなりの落ち込みようなんだ。だから、唯笑あたりにフォローを頼めないかと思って……ダメか?」

「ううん、それなら、もう計画してるよ。トトちゃんの誕生日に、みんなでパーティーするの。トモちゃんも来てね。ぁ、えっと、その子は? トモちゃんの学校の友達?」

「ああ、オレの…、彼女だ。寿々奈鷹乃」

「……」

 鷹乃は黙って会釈する。唯笑は微笑んだ。

「そっか♪ さすがトモちゃんの彼女さん、すっごい美人さんなんだ。きゃはっ♪」

「こいつは今坂唯笑ってオレの幼馴染み。すぐそこに住んでる」

「唯笑です♪ よろしくね、鷹乃ちゃん」

「…ええ、…よろしく」

「じゃあ、唯笑はこれから、ほたるちゃんを…ぁ、あれ?」

 唯笑は目から零れて頬をつたった涙を急いで拭いた。

「きゃは♪ 目にゴミが入ったみたい」

 笑って次々と湧いてくる涙を拭いている。

「ゆ、唯笑、もう行くね。じゃ!」

 唯笑は背中を向けると駆けていった。

「…………。暑いし、家に入ろう。鷹乃」

「今坂さん……………あなたのこと好きみたいね」

「……オレは気づいてないぞ」

「………………気づかないフリをして……」

「唯笑の話はやめよう」

「……うん」

 鷹乃は二度目になる智也の自宅へ踏み入れ、台所に立った。

「お母さんがおられないのにキッチンも、よく片付いているのね。ちょっと覚悟していたのよ、とんでもない状態だったら、まずは掃除からになるって」

「彩花と唯笑が、ときどき片付けてくれるからな」

「………、彩花さんって、あなたが入院していたときの?」

「ああ、ほら、そこ。その窓の向こうにある隣の家、あそこに住んでる幼馴染みだ」

「…そうなの…」

 鷹乃は戸棚やシンクを開けてみて、料理道具の位置を把握すると、料理を始める。智也は冷たいジュースを二つのコップに注いだ。

「飲むだろ」

「ええ、ありがとう。……酔ったりしないわよね?」

「正真正銘のオレンジジュースだって。悪かったよ、ビール呑ませて」

「………もう、別に、いいわ。……今ここに、私はいるんだもの…」

「鷹乃…」

 求められているような気がしたので鷹乃へキスをする。柑橘系の香りと甘い味がした。

 

 

 

 夜、彩花は予備校から帰ってくると入浴と夕食を済ませてから、窓から智也の部屋を覗いた。部屋は照明がついていないので暗い。窓の鍵はかかっていなかった。

「鍵がかかってないってことは、入ってもいいってことよね♪ 結局、あの子のこと、どうしたか聞かないと寝れそうにないし」

 窓から窓へ渡ると、浸入する。

「お邪魔しま~す♪ 智也、いる?」

 返事はなかった。部屋には誰もいない。

「下かな」

 彩花は足音を隠さずに一階へ降りていく。

「智也いる~ぅ? あ…」

 ちょうど帰る鷹乃を智也が送っていくために玄関で二人が靴を履いているところだった。パジャマ姿で階段を降りてきた彩花を見た鷹乃の表情が硬くなる。

「………」

「彩花お前、かなり最悪のタイミングで…」

「あはっはは…、えっと、……誤解しそうになるかもしれないけど、私は…」

 彩花と智也が二人の幼馴染み関係を説明する前に、鷹乃が涙を零した。

「っ…ぅっ…」

「鷹乃、誤解しないでくれ! ホントに彩花は、ただの幼馴染みなんだ!」

「うん、そうそう! ぜんぜん、怪しい関係じゃないよ! 隣だからパジャマで来るけど!」

 二人が共同で言い募ると、鷹乃は泣くのをやめて涙を拭いた。

「幼馴染みでも…っ…ヒクっ…私と付き合ってるのだから、もう、やめて」

「ごめんね。うん、今度から気をつけるから、って……え~っと、付き合ってるの? 智也と? そーゆー話で、まとまったの? 私、それを聞きに来たんだけど、どうなの?」

「付き合うことになった。な、鷹乃?」

「ええ…そうよ」

 頷いた鷹乃は濡れた瞳で彩花を少し睨んだ。

「そうなんだ……、おめでとう? で、いいのかな……あ! 妊娠してたって話は?! どうなの? どうするの?」

「あれはウソだった。もう気にしなくていい」

「ウソ……? ウソって、どういうこと?」

「だから、最初から妊娠はしてなかったんだ。つまり、ノープロブレム♪」

「…………、………。寿々奈さんって、ずいぶんとタチの悪いウソをつくのね」

 彩花が鷹乃を睨んだ。鷹乃も睨み続けているので、睨み合いになる。

「ウソとしては最低の部類に入るよね。妊娠してるなんて言って男を脅すなんて最低の手段よ。恥ずかしくないの?」

「……………」

「おい、彩花、やめろよ。鷹乃、本屋まで送るから帰ろう」

 智也が肩に触れてうながしても鷹乃は動かない。

「イヤよ。……どうして私が帰って、この人が残るの?」

「残るって……彩花とは、なんでもないから…」

「ウソよ! この人っ! あなたのこと好きだもの! わかるわ!」

「鷹乃………」

 智也は否定できず、彩花も否定しない。

「……………………」

「…………」

「…………………」

 重い沈黙が玄関に訪れ、それを破ったのは智也だった。

「彩花。もう自分の家に戻ってくれ」

「……智也…」

「オレは鷹乃と付き合うことになれたし、妊娠はしてなかった。これが結果であって結論なんだ。いろいろ心配かけて悪かった。すまん」

 智也が頭を下げた。

「…………帰る」

 彩花が階段を駆けあがっていく。鷹乃が状況を理解できないでいる。

「帰るって……あの人、二階へ…」

「オレの部屋の窓と、あいつの部屋の窓は出入りできるくらい近いんだ。だから、あいつは二階から降りてきたんだ。帰るのも靴がないから窓から帰る。ごめん、言うのが遅くなった」

「……………………………」

「さ、送るよ」

「…………」

「鷹乃?」

「…………私……、ここに……泊まっても……いい?」

「……………………。いいけど、……オレはいいけど、叔父さんとかに説明は?」

「………………詩音に頼んでみるわ」

 鷹乃は電話を借りて詩音へかける。

「もしもし」

「はい、双海ですっ!」

 少し慌てた詩音の声が受話器から響いてきた。

「夜遅くに、ごめんなさい。何かしていた?」

「その声は鷹乃?」

「ええ、ごめんなさい。何かしていたみたいね」

「香菜さんとシャワーを浴びていただけです。大丈夫ですよ、この携帯電話はノキア製の防水ですから問題ありません。それで、ご用件は?」

 言われてみれば受話器から響いてくる音はシャワーだった。

「詩音の家に、私が泊まっていることにしてくれないかしら?」

「それはかまいませんが……、三上さんの家に泊まるのですか?」

「ええ。……」

「余計な御世話かもしれませんし、もう鷹乃もわかっていると思いますが……男性の部屋に泊まるということは、何かあることを覚悟していないといけませんよ? それで、鷹乃はいいのですね?」

「……ええ、大丈夫…」

「そうですか、それなら、叔父さん方へは私から連絡しておきます。鷹乃は私の家で眠ってしまったので、このまま寝かせておきます、と」

「ありがとう」

 鷹乃が電話を切ろうとすると、詩音が付け加えてくる。

「あ、鷹乃! 待ってください」

「何かしら?」

「一応、アリバイ工作なので口裏を合わせるためにも告げておきますが、香菜さんも今夜は私の家に泊まりますから、三人で過ごした、ということを認識しておいてください」

「ええ、わかったわ。ありがとう、いろいろと」

 鷹乃は電話を終えようとして、別のことを思い出した。

「あ、詩音! ちょっと待って」

「はい?」

「あの………この電話、香菜には聞こえている?」

「いいえ、香菜さんは先に揚がってしまわれましたよ」

「そう………、あのね。……」

「はい?」

「………、私の勘違いかもしれないけれど……、……香菜は……その……、……その気があるんじゃないかって………」

「その気、とは、どういう日本語ですか?」

「………。だから……その……、……男子より……、自分と同じ女子に……興味があるというか……」

「レズビアンということですか?」

「っ…、そ…そ、…そんな言い方もあるかも……しれないけど、……そこまで、はっきりとしているか……わからないというか……私の勘違いかも……、で、でも……香菜、ときどき思いつめた顔をするわ。そ、それで…その……詩音が泊めてあげるのは……大丈夫とは思うけど……その、……ご、ごめんなさい! 私、何を言ってるか、わからないわ!」

「いいえ、わかりますよ。ご忠告ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから安心してください」

「そ……そう。詩音が…そう言うなら…」

「それでは、おやすみなさい」

「ええ、おやすみなさい」

 電話を終えると、智也の声が風呂場から聞こえてくる。

「風呂沸かすけど、鷹乃って熱いのがいい? ぬるいのがいい?」

「どちらでもいいわよ。あなたの好きなようにしてくれてかまわないわ」

 答えながら鷹乃も風呂場に入る。脱衣所に洗濯機と洗面台があり、浴室の湯船は小さな子供なら三人同時でも入れそうな大きさだった。

「立派なお風呂ね」

「そうか? ごく普通だと思うが?」

「叔父のところは、お風呂自体が無くて銭湯に行ってるのよ。お風呂があるだけでも、立派なものよ。前にも言ったけれど、ごく普通ってことが人によっては羨ましいこともあるの」

「んじゃ♪ いっしょに入ろうぜ」

「っ…、……………」

 鷹乃の顔が真っ赤になるのを智也は楽しみながら見つめる。

「冗談だって♪ 本気にしたか?」

「っ! ひどいわっ! からかうなんて!」

「悪かった♪ でも、ホントに鷹乃って可愛いな。そーゆーところは唯…」

 唯笑みたいだ、と言いそうになって智也は自重した。

「とりあえず熱めに沸かすから、鷹乃が先に入って、自分で調節してくれ」

「あ…」

「ん?」

「………着替えが……ないわ」

「ああ、そうか。………」

 彩花か唯笑に借りるのはありえないよな、智也は母親のことを思い出した。

「母さんのパジャマとかでよかったら借りる?」

「…………」

 鷹乃が戸惑って考え込む。寝間着はともかく下着までも借りる気にはなれない。かといって真夏の汗を吸った下着を入浴後に着けるのも避けたい。

「私、あまりコンビニには行かないのだけれど、あそこには下着も売っていたかしら?」

「ああ、たぶん、あると思うぞ。この近くなら…」

 智也がコンビニの位置を教えてくれたので鷹乃は一人で買い物に出た。すぐにコンビニを見つけて、店内を見て回ると目的の物はあった。

「……高いわね…」

 思っていたより高いし、ショーツやストッキングはあってもブラジャーまでは置いていなかった。仕方なく一番安いものを選んでカゴへ入れる。

「…こんなものまで…置いているの……」

 隣の棚には化粧品が並んでいて驚いた。

「……………」

 鷹乃は化粧をしたことがないけれど、女子の大半は生活指導を受けない範囲でリップグロスを塗ったり、薄いファンデーションをつけたりしている。

「………」

 薄いピンク色のグロスを手にする。

「………、……似合わないかも…」

 智也は何も化粧をしていなくても可愛いといって好きになってくれたのだから、今さら慣れないことをして加点を狙って失敗するより、減点を受けないようにする方が先決だと想い、鷹乃は女性向けのカミソリをカゴへ入れる。ここ最近は泳いでいないこともあって体毛の処理を曖昧にしている。濃い方ではないけれど、一週間も怠ると腋は目立つかもしれない。

「歯ブラシは買い置きがあるって言っていたから、もう………」

 鷹乃は買い物を終えようとして、別の棚に目が行き、立ち止まった。

「……………………」

 避妊用のコンドームが並んでいる。

「………………でも………」

 詩音に言われなくても今夜ありそうなことは理解できている。

「……けど…………………………」

 こういうものを買うのは男の役目でしょう、鷹乃は素通りしようとして、また足を止める。

「……………………私が急に泊まるって……」

 智也が用意しているとは限らない、鷹乃としては今日の昼、智也が責任を逃れるようなことを言わなければ妊娠がウソだったことを教えて交際を受けるつもりだったけれど、智也の立場から考えれば今夜いきなり鷹乃が泊まると言い出すことなど想定外だったに違いない。用意があるとは考えない方がいいかもしれない。

「…………………………………………」

 あれこれ思案していると、不意に店員と目が合ってしまった。

「「っ…」」

 喫茶店とかけもちでアルバイトしている稲穂鈴は鷹乃と目が合って慌てて下を向いた。店長からの注意で高校生が入ってきたときは万引きに用心するよう言われていたので観察していたが、鷹乃に万引きの様子がないことがわかるのと同時に、買い物の内容とコンドームを見つめて真剣に考え込んでいる姿で、小説家を目指す者としての想像力が働き、これから鷹乃が何をするのか推理してしまっていたので、鈴の顔が赤くなる。

「……………………」

「………………」

 鷹乃も真っ赤になった。他に客はいないし、店員も鈴しか見あたらない。気まずい空気が漂った。

「……………………」

 鷹乃は逃げ出したくなったけれど、とにかくレジを済まさなければいけない。鈴と目を合わさないようにカゴを置いた。

「………」

「…………」

 鈴もマニュアル通りの挨拶を忘れるほど動揺しながら、レジを打つ。下着とカミソリを袋に入れて鷹乃へ手渡した。

「……………」

「………」

 精算を済ませて商品を受け取った鷹乃は店を飛び出そうとしたが、その手首を鈴が握った。

「待って!」

「っ?!」

「よ、余計なお節介かもしれないけど!」

 鈴は勇気を出して店員の枠を踏み越え、年長者として女子高生に説教する。

「買っていった方がいい! こ、困ったことになって後悔するのは君だ!」

「っ……」

 何を言われているのか、鷹乃も理解できる。鈴は商品棚へ走ると、コンドームを持ってきた。鷹乃の返事を待たずにレジを通していく。鷹乃も黙って代金を払った。

 

 



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4話

 

 

 翌朝、鷹乃は智也の部屋ではなく、その隣の部屋で目を覚ました。鷹乃が覚悟していたようなことは昨夜はなかった。前の晩に徹夜していた智也は風呂からあがると、すぐに熟睡してしまったので、鷹乃は案内されていた隣の客室で眠った。

「……………………」

 おそらく智也に弟か、妹でもいれば使っていただろう空き部屋には客用のベッドと寝具、簡単な家具がそろっている。

「贅沢な話ね」

 物心ついたときから、本屋の二階に住んでいる鷹乃にすれば、叔父夫婦と和布団を三つ並べて寝る生活から比べると、客室まで用意できる家の広さは贅沢に思える。

「彼は、もう起きているかしら」

 廊下に出て隣室の気配を窺うと、まだ智也は眠っている様子だった。鷹乃は一階へ降りて洗顔をすませて、朝食を作り始める。その途中で玄関のチャイムが鳴った。

「こんな朝早くに……」

 鷹乃は玄関へ向かったけれど、自分が応対していいとは思えず智也を起こすべきか迷っていると、ドア越しに声が聞こえてくる。

「そこにいるんでしょ。寿々奈さん」

「……桧月さん…」

「開けてよ。ちょっと話があるの」

「…………」

 鷹乃は玄関を開けた。

「話って何かしら?」

「結局、泊まったんだ?」

「……、ええ」

「………。そう……もういいけどね、幼馴染みだからって智也のやることに干渉するのもやめるから」

「………話はそれだけ?」

「……………………。それだけのつもりだったけど、やっぱり一つ言っておくことにする」

「何かしら?」

「私は寿々奈さんのこと嫌いよ。智也は気に入ってるかもしれないけど、それって外見だけの話でしょ。だから、干渉はやめても監視はやめない」

「……………………」

「じゃ」

 彩花が立ち去ると、智也が降りてきた。

「誰か来たのか?」

「………。…よく、わからないわ」

「ふーん……新聞勧誘とかじゃないか?」

「そうかも……」

「で、マリンランド、行くんだろ?」

「うんっ!」

 鷹乃がとてもいい返事をしたので、智也も微笑んだ。二人で朝食を摂り、すぐに出かける。昼過ぎまでかけて鷹乃が乗りたいといっていたアトラクションを全てこなしたが、意外な人物に園内で出会った。

「白河さん…」

「白河……あいつ、一人で何をやってるんだ」

 ほたるが一人で園内を歩いていた。誰かと待ち合わせしている様子もなく、ただ一人で乗り物に乗ったり、ドルピィ君グッズを眺めたりしている。

「鷹乃とのデート中に悪いんだけど、あいつ、ほっとくと自殺とかしそうで怖いんだが……声かけてもいいか?」

「ええ、私も、それが心配……、私が声をかけるわ」

 鷹乃が声をかけてみる。

「白河さん」

「……え? ……あ、…鷹乃ちゃん?」

「ここで何をしているの? 一人?」

「………一人だよ………、想い出をカバンにつめてるの」

 ほたるは意味不明なことを言った。

「鷹乃ちゃんは? 誰かと……あ、三上くんと……ふふ♪ 仲良くなれてよかったね。羨ましいよ」

「…………それは……その……いろいろと……ごめんなさい」

「謝らないでよ」

「…………」

 鷹乃が言葉に困っていると、智也が率直な忠告をする。

「おい、白河。お前、自殺とかするなよ」

「三上くん………うん、ありがとう。大丈夫、それも考えたけど、ほたるが、そんなことしちゃったら、お姉ちゃんもパパもママも悲しむから」

「そ、…そうか。わかってるなら、いい……。で、これから、どうするんだ? 一人ならオレらと回らないか?」

「ううん、デートの邪魔しちゃ悪いよ。それに、ほたるもケンちゃんとデート中だから」

「「……………………」」

 やっぱり現実を見てない、智也と鷹乃が病院に連れて行った方がいいか戸惑っていると、ほたるは微笑んだ。

「大丈夫、そんな目で見なくても、わかってるから。ほたるはケンちゃんにフラれちゃった………でも、ほんの半年だったけど、確かにケンちゃんと付き合っていたから、想い出はいっぱいもらったの。このマリンランドにも春休みに来たし、だから、ウイーンに行く前に想い出をつめておきたかったから」

「ウイーン?」

「コンクールで金賞をとるとウイーンに留学しないといけないの」

「ああ、月末の……そうか……白河なら確実だもんな」

「だから、ケンちゃんとは、どの道、お別れしないといけなかったから……きっと、バチが当たったの。大事なことをケンちゃんに言ってなかったバチが……」

「………。バチはともかく、コンクールは見に行くから頑張れよ」

「うん」

 ほたるは微笑んで、それからポケットから男物の腕時計を出した。

「これ捨てようと思ってるんだけど、三上くん、使ってくれる?」

「捨てるって、お前それ、12万円以上もするスピードモンスターだろ?」

「ケンちゃんが要らないって………ほたるも要らない……けど、捨てちゃうのは、この子に可哀想だから……三上くんが使ってくれるなら、時計も喜ぶかなって……あ、でも…」

 ほたるは鷹乃を見て、押しつける気を半減させた。

「鷹乃ちゃんがダメって言うなら、翔たんにでも………」

「白河さん……」

「悪い、オレは受け取れない。たぶん、中森も辞退するだろ」

「……そっか…」

「あ、加賀なら受け取るかも。あいつ、こだわりとか皆無な男だから、気にしないで普通に使うかも」

「うん……会えたら、渡してみる。じゃあ、お二人はお幸せにね」

 ほたるは二人に別れを告げると、歩き出した。もう園内で健と巡ったコースは終わったので街へ戻る。

「……加賀くんか……」

 たしかに彼の人柄なら受け取ってくれる気がする、カナタも怒らないかもしれない、ほたるはケータイで連絡を取った。すぐに行くと、正午は答えてくれた。ほたるは駅前で待ち合わせることにして、ぼんやりと改札口を眺めていた。

「……てるてる坊主♪ てる坊主♪ あーした天気にしておくれーぇ…」

 童謡を一番だけでなく、二番、三番まで歌い、さらにオリジナルの即興曲を歌う。

「てるてる坊主の♪ テは天気のテ♪ テルテル坊主の♪ ルはル~ル~ル~♪」

 非音楽的なリズムを口ずさみ時間を潰していると、改札口から見知った顔が二つ、流れ出てきた。

「っ…、…ケンちゃん、……トトちゃん…」

 ほたるは信じられない光景を見て、とっさに隠れる。健と巴は恋人のように寄り添って歩いてくる。ほたるに気づかず、なにか楽しそうに会話している。

「イナも律儀ね」

「誕生日は大事だよ」

「別に気にしなくていいよ。まだ付き合い始めたばっかりでプレゼントもらうのも、なんかあつかましいから」

「そんなことないよ」

「とか言ってプレゼントくれて、代わりに私の大事なもの奪っちゃうなんて計画してない?」

「トトの大事なもの?」

「とぼけなくても♪」

「とぼけてないよ」

「ホントに? 私のバージン狙ってるんじゃないの?」

「バっ、バっ…バージンっ?!」

「そんな大声で言わないでよ。みんな見てる。ふふ♪」

「ボ……ボクは…」

「でも、イナになら……いい……かもよ? 明日で私の17才も終わりかぁ…」

 恥ずかしそうに嬉しそうに巴は微笑みながら、ほたるに気づかず通り過ぎていった。

「……………………そっか…………………そうだったんだ……………、ケンちゃんの……新しい恋人………トトちゃんなんだ」

 ほたるが泣きそうな顔をして佇んでいると、正午が声をかけてきた。

「オレ、あの二人と同じ電車だったんだ」

 正午の視線の先にも、もう遠くなった健と巴がいた。

「ほたるちゃんが許可をくれるなら、オレは二人とも殴ってやりたい」

「加賀くん………」

 ほたるの許可を待たずに正午が駆け出す。

「殴ってくる」

「待って!」

 ほたるは正午の手首を握った。

「止めるなよ、ほたるちゃん。あの二人は…」

「いいの! やめて、加賀くん!」

「……。けど…」

「いいの。もう、いいの。きっと、トトちゃん、気づいてないから」

「気づいてないって……そんなこと、ありえるか?」

「…………。もう、いいの。それより、ほたるのお願いきいてほしい」

「ああ、どんなことでも! かなえてやる! さあ、願いを言え! どんな望みも一つだけ…いや、いくつでもかなえてやろう! とくに伊波を殴る蹴るするのは大賛成だ」

「………。それは、もういいから、これを受け取って」

 ほたるは押しつけるようにスピードモンスターを正午に渡した。

「これって………」

「お願い、加賀くんが使ってあげて」

「……………………」

「どんな願いもかなえてくれるんだよね? 捨てちゃったら、この子、可哀想だから」

「…………………………。わかった」

 正午は受け取ると、すぐに手首へ巻いた。

「ほたるちゃんの気持ち、受け取った」

「ありがとう、加賀く…んっ?!」

 ほたるは礼を言う唇をキスで塞がれて驚愕した。

「んんっ?!」

 正午がキスを続けてくる。あまりにも自然な動作でキスをされたので抵抗のタイミングを逸してしまった。驚いて硬直していると、正午がゆっくりと離れてくれた。

「オレも前から、ほたるのこと好きだったよ」

「ぇ………………………って!! 加賀くんにはカナタちゃんがいるでしょ?! いきなり何するの?! こんなことカナタちゃんに言えないよ!!」

 ようやく大声で批難することができたが、正午は不思議そうな顔をする。

「あいつとは別れたし、なんで怒ってるの?」

「な、なんでって…今、ほたるに……キス…」

「だって、これくれたから、オレと付き合おうって、そーゆー意味だと想ったけど…? 違うの?」

「ち、…違うよ! ただ単に捨てるくらいなら誰かに使ってほしかったの!!」

「……………………。……ごめん」

 正午は勘違いに気づいて謝った。

「けどさ」

 勘違いには気づいたけれど、愛おしさにも気づいた。

「オレ、ほたるが好きだ!」

「っ?!」

 ほたるは抱きすくめられた。

「は、離して!」

「好きだ」

「す……だって! カナタちゃんがいるでしょ?!」

「あいつとは別れたんだって」

「そんな……話……聞いてないよ」

「あんなワガママな女に付き合ってられない! ずっと、ほたるの方が好きなんだ」

「そ…んなこと……言われても……」

「好きだ」

「……………………」

 ほたるの意識が抵抗する気をなくしていく。ずっと淋しかった身体の方は抱かれた瞬間から抵抗していない。暑い日なのに、人の体温が恋しい。フラれて疼いていた胸の痛みが少しずつ癒えていくのが、わかる。フラれただけでも苦しかったのに、その相手が親友の巴だと知り、もう気が狂いそうだった。それなのに、こんな風に抱きしめられて好きだと言われると、ほたるは正午の言葉を信じたくなってしまった。

「……………加賀くんの……バカ…」

 ほたるが諦めると、正午がキスをしてくる。二度目のキスが終わると、ほたるは大切なことを告げる。

「ほたるは、今度のコンクールに優勝してウイーンに留学しないといけないんだよ? ほたるはウイーンに行っちゃうの。それでも、いいの?」

「どこだって関係ない」

 正午が抱いてくれる力を強めてくると、ほたるも抱き返した。

「こんなはずじゃなかったのに……ほたる、これじゃ日本に未練ができて……ウイーンにいるの、つらくなっちゃうかも…」

 ほたるは目を閉じて三度目のキスを求めた。

 

 

 

 翌日、唯笑は計画が崩れて困っていた。ほたると電話で話している。

「そっか、ほたるちゃんは欠席かぁ…」

「ごめんね。どうしても外せない用事ができちゃって。トトちゃんには、おめでとう、って伝えておいて」

「うん、伝えとくよ。じゃ」

 唯笑は電話を切ると、タメ息をついた。もともと、ほたるのために計画した巴の誕生会なので主役が欠席するのに等しい事態だった。さらに、唯笑のケータイが鳴る。正午からの着信だった。

「もしもし、唯笑です」

「ああ、オレ、加賀正午。悪いんだけどさ、今日のトトのパーティー行けなくなった。ごめん」

「ええーっ?! 正午くんまで~ぇ?!」

「悪い。トトには地獄へ堕ちろっていっておいてくれ♪」

「………。正午くんのバカっ!!」

 唯笑が電話を切ると、また着信が入る。カナタからだった。

「もしもし…唯笑です…」

「ごめん、唯笑ちゃん。アタシ今日の集まり行けなくなった」

「えーーっ?! どうしてぇ?!」

「急遽、雑誌の表紙撮影が入ったの。ごめん! ホントに、ごめん! 今度埋め合わせするから、許して」

「うーっ……お仕事なら仕方ないよね……うん、みんなに言っておくよ」

 残念な気分で電話を切ると、さらに着信が入ってきた。

「ううっ……うーっ……まさか、トモちゃんまで…」

 着信は三上家の固定電話からで、唯笑は受話するのが怖くなった。

「トモちゃん………彼女できたから……」

 受話を迷っていると、コールが終わってしまった。

「そんなすぐに……」

 唯笑がコールの短さに文句を言いたくなると、今度は今坂家の固定電話が鳴る。これは、かなり連絡を取りたがっている感じだった。すぐに母親から呼ばれて、仕方なく受話する。

「もしもし、唯笑です。ただいまパーティーの欠席は認めていません。ファクシミリの方はピーという発信音のあとに…」

「お前、何をバカなこと言ってるんだ?」

「だって、みんなドタキャンするんだもん!! トモちゃんは欠席しないよね?! ね?!」

「まあな。で、みんなって全員ドタキャンか?」

「ううん、ほたるちゃんと正午くん、カナタちゃんから欠席って」

「なんだ、あの三人か。って、加賀と黒須はともかく白河が来ないなら意味ないだろ?」

「そーなの! どうしよ?!」

「どうしようって言ってもな。ケーキとか用意してあるんだろ?」

「うん♪ バッチリ♪」

「じゃあ、せっかくだし、トトにサプライズでいいんじゃないか? まだ、トトには秘密にしてあるにしても、トトのために用意したのを、別の会に変更するのも変だしさ。それか、唯笑一人で喰え。一人パーティーしてろよ♪」

「ひっどい! トモちゃん、ひどいよ!! 唯笑一人で食べたら太っちゃうもん!」

「喰いきれること前提かよ。で、誰が来るんだ? どれだけ集めてる?」

「うんとね。唯笑と、彩ちゃんと、みなもちゃんと、トモちゃん♪ のんちゃんと、りかりんちゃん」

「結局、いつもの藍二中のメンバーか」

「うん。でも、あと一人、音羽さん…って知ってる?」

「知らん」

「かおるちゃんは去年、澄空に転校してきたお友達なの♪」

「転校? 双海じゃなくて?」

「うん、双海さんとは……あんまり友達じゃないから…、どうして、トモちゃんが双海さんのこと知ってるの?」

「オレの情報網は神の手だ♪」

「………。神の手だけど、音羽さんは知らないんだ?」

「むむ、いい反撃をするようになったな。まあ、とにかく、オレの用件はさ、欠席の逆で、もう一人参加させてほしいって話なんだ」

「え? もう一人? うん、いいよ! 歓迎大歓迎♪」

「誰かも聞かずに即答でいいのか?」

「だって、パーティーは多い方が楽しいもん♪」

「……。ま、その希望的観測は加賀と同じく唯笑のいいところだからな。で、連れて行くのはオレの彼女の鷹乃だから、そこんとこ、よろしく」

「うん♪ 彼女さんにも、よろしくね」

 予想範囲内の招待だったので、唯笑はこころよく受け入れることにした。持っていく物をまとめると家を出る。すぐに彩花と出会った。

「あ、彩ちゃん♪」

「幹事ごくろうさま。どんな調子?」

「トモちゃんが彼女さんも連れてくるって♪」

「あの子を……、ふーん……」

 振り返って三上家を見ると、智也と鷹乃が出てくるところだった。すぐに彩花たちと合流する。

「白河が欠席ってのは残念だけど、トトが驚く顔は見物だな」

「うん♪」

「それより、どうして寿々奈さんまで参加するの?」

「別にいいだろ?」

「悪いとは言わないけど、トトと面識ないのに参加しても面白くないかもしれないよ? 智也が無理に連れ回してるなら、やめてあげたら?」

「そーゆー…わけじゃなくて……まあ、…加賀以外は女の子ばっかりだって知ったら、鷹乃が……、それに加賀も欠席だしさ。オレも彼女いるのに、彼女じゃない女ばっかのパーティーにいても…な?」

「ふーん……」

「私の意志で参加するのよ。桧月さんには関係ないわ」

 鷹乃が睨むと、彩花も一瞬だけ睨み返して、話題をかえる。

「私は唐揚げとポテトサラダを持ってきたけど、唯笑ちゃんは?」

「ケーキだよ♪」

「智也は?」

「鷹乃が作ってくれた唐揚げと、あとは途中でコーラでも買い込もうと思ってる」

 智也は言った通り、同じ藍ヶ丘にある巴の自宅に一番近いコンビニで飲物を買い込み、目的地に到着した。ちょうど、花祭果凛と野乃原葉夜が乗ったリムジンも駐まり、伊吹みなもも先に着いていた。

「あとは、かおるちゃん……あ!」

 唯笑が音羽かおるの姿を見つけた。ワクドナルドの大きな袋を持っている。合流して、お互いに簡単な挨拶を済ませると、いよいよ巴の家へ突入することになる。

「よし。オレが考えた作戦を告げる」

 智也が中学の頃のように、余計なことを考えると葉夜が喜んだ。

「秘密のオペレーションだね♪」

「うむ、オペレーション・トト・ブレイクだ」

「壊して、どうするのよ。いいから、普通にチャイムを鳴らしなさい」

「彩花よ、お前にはサプライズの意味がわかってないぞ」

「うれしいビックリと、驚愕させるのは別よ」

「まず、トトの家は玄関、勝手口の二つが主な浸入経路だ」

 智也は彩花を無視して、作戦図を宙に描く。

「玄関からの浸入は察知されやすい。勝手口のドアなら鍵がかかっていても、のんが突破できるな?」

「任せて♪ 秘密のピッキングで楽勝だよ」

「「「「「……………………」」」」」

 なんで、そんな特技を持ってるのだろう、と思っている者を代表して、かおるが問いかける。

「あのさ。もしかして、私たちを犯罪に巻き込もうとしてない?」

「大丈夫だ。住居侵入は被害者が訴えなければ、犯罪じゃない♪ トトは笑って許してくれる。さ、行くぞ、のん!」

「イェッサー♪」

 葉夜を先頭にして勝手口へ回る。ドアの鍵はかかっていなかった。智也が嗤う。

「うかつなヤツめ」

 静かに智也と葉夜が家の中に滑り込み、あとに続くメンバーをも招く。仕方なく全員が勝手口から入った。

「勝手口なだけに勝手に入れたぞ♪」

「おお♪ ほたる的ギャグだね。ピース♪」

「どっちかというと、智也的屁理屈よ。で、どうするの? 気配としてはトトは二階にいるみたいだけど?」

「そうだな。まずは料理をテーブルに広げて、即パーティーって準備を静かに整えよう。で、電話かチャイムでトトを一階へ呼んでサプライズだ♪」

「トモちゃん、賢い♪」

 唯笑がテーブルの真ん中へケーキを置くと、彩花たちも持ってきた料理を並べる。すっかり準備が整った。果凛が手際の良さと非常識さにあきれて肩をすくめる。

「ホント、あなたたちに付き合うと、いつもこうね。あきれるでしょ? 寿々奈さん、音羽さん」

「「え……ええ…」」

 かおると鷹乃は反応に困りつつも否定できなかった。全員にパーティー用のクラッカーが装備として配られ、いよいよトトを迎える段階になった。

「よし、彩花。ケータイでトトの家電話を鳴らせ」

「はいはい」

 彩花がコールする。

「…………………………………………」

 リビングにいる智也たちの、すぐ近くで固定電話が鳴り始めるが、二階に感じる巴の気配は動かない。

「居留守する気なの……」

「もっと、しつこく鳴らせば、諦めるだろ」

「そうね」

 彩花がコールを続けると、二階の気配が動いた。ベッドから降りる足音と、急いで身支度をする音が聞こえて、さらに階段を駆けおりてくる足音が近くなる。

「来た! 全砲門っ撃て!」

「秘密のファイヤー♪」

 巴は階段を降りきると、いるはずのない友人たちがリビングにいるのに気づいた。

「なっ?!」

 連発するクラッカーの音とカラーリボンの集中砲火を受けて巴が驚きのあまり完全停止する。カラーリボンが巴の身体に巻きつき、下着一枚だった彼女の身体を、ある程度は隠してくれた。

「…あ……あんたたち……いつの間に…」

「ピーース♪ 誕生日おめでとう! トトちゃん!」

「トトちゃん、おめでとう!」

 葉夜や唯笑が祝辞を浴びせる中、果凛と彩花がそばにあったタオルを肩と腰に巻いてくれる。

「トト、夏とはいえ、そんなカッコで降りてくるから。………」

 彩花が智也の方を見ると、智也は目を閉じて笑顔で祝福する。

「誕生日おめでとう。よく育ってくれて、パパも嬉しいぞ」

「………………。あいつ、殴っていい?」

 巴は思いっきり智也を殴った。目を閉じたままだった智也が床に転がる。

「ぐほっ……いいパンチだ。強くなったな、娘よ」

「まったく! あんたらの非常識さにはあきれるわ! 人の家に勝手に上がり込んで!」

 文句を言いつつも、智也が痛みに耐えながら、ちゃんと目を閉じたままでいることと、テーブルの上に並んだ心のこもった料理を見て、巴は笑顔になった。

「もう……みんな…、……忘れられてるかと思ったのに、……ありがと♪」

 巴は礼を言ってから、うれし涙を少し拭いた。

「今年の誕生日は、いいことばっかりね」

「トトちゃん、そのカッコ………ちょっとキレイかも…」

「秘密のドレスだね♪」

 巴の身体に巻きついたカラーリボンが奇抜なドレスにも見えるようだった。

「ふふふ♪ ウェディングドレスを着る日も近いかもよ?」

「あのさーっ」

 果凛が呆れてタメ息をつく。

「いくら三上くんが目を閉じてるからって、そろそろ恥ずかしがるとか、服を着るとか、しなさいよ」

「きゃは♪ 忘れてた」

 巴が二階へあがっていく。少し待つことになると、果凛は鷹乃からの不思議そうな視線に気づいた。

「あら? 何かしら、寿々奈さん。わたくしの顔に何かついていまして?」

「い……いえ、…そうでは…ないわ…」

「うふふ♪ わかってる。すっごい意外だったんでしょ? 私がさーっ、こんな普通の喋り方するなんてさ♪ ずっとお嬢さまだったのに~ぃ、みたいなね? うん、そう。猫かぶってるの。まあ色々あるわけよ、私の家での立場も。でも、こっちが素顔だから、よろしくね」

「そ…そう……私は、別に…、今の…あなたも……いいと思うわ」

「ありがと♪ 私も三上くんと付き合いはじめた寿々奈さん、いいと思うよ。前と違って、すごく女の子になってる」

「…………………それ、誉めてるの?」

「うん♪」

 果凛は微笑んでから、その微笑みを凍りつかせた。服を着た巴が二階から、健を連れて降りてきたから。

「へへ~ん♪ みんなに紹介するね! 私の彼氏♪ イナこと、伊波健くんでーーす♪」

「わーーっ♪」

「へーーーっ♪」

 唯笑と彩花、みなも、かおるの澄空学園サイドの四人は紹介された健の顔を見て、ごく普通の反応をする。けれど、浜咲学園に通う果凛、葉夜、鷹乃、そして智也は凍りつき、健も見知った顔がいることに硬直している。

 なぜ、ここに、という疑問が頭の中を吹き荒れる。

「イナといい、パパといい、みんなといい、私の誕生日をちゃんと祝ってくれるなんて、ホント嬉しいよ。ありがとう♪」

 屈託無く巴が微笑む。その微笑みは巴の演技力を考慮しても、ほたると健の関係を知らなかったとしか思えないほど明るく、罪悪感の欠片もない。

「そういえば、イナとトミーって同じ学校でしょ? お互い、知らない?」

「ぇっ…………」

 健が返答に窮し、智也も判断に時間を要したが、答える。

「同じ学校でも生徒も多いしな。あまり見かけないな。な、鷹乃?」

「………。ええ、…こんな人、知らないわ」

 鷹乃も智也に同調して、吐き捨てるようにいった。果凛と葉夜も知らなかったフリをするけれど、さすがに空気がおかしいことに巴も気づいて、微笑む。

「あれ? なんか私、ミスってる? 空気読めてない?」

「「「「…………………」」」」

 智也と鷹乃、果凛、葉夜がお互いの出方を決めかねている。ほたるのことを言うべきか、ほたるは巴と健のことを知っているのか、健は今の彼女と先週までの彼女の友好関係を知っているのか、いろいろと考えてしまい、空気が重い。

「きゃは♪」

 巴は、それを笑い飛ばした。

「いや、もう、みんなが悪いんだよ。いきなり家に入ってくるからさ。電話だと思って降りてきたから、あんなカッコだったの♪ まあ、気づく人は気づいてるみたいだけど、あんなカッコでイナといたってことは、そーゆーことです。はい、この話は、これでおしまい」

 この底なしの明るさで、ほたると健のことを知っているはずがないと浜咲学園のメンバーが判断して、智也と果凛はペットボトルの蓋を開ける。

「さ、パーティーを始めましょう。のん、そっちのお皿を並べて」

「うん♪」

 果凛と葉夜が明るい空気をつくると、唯笑と彩花も同調する。かおるが持ってきたワクドナルドのポテトやナゲットを広げつつ、誰も言わないのでやむなく言うことにする。

「あのね。トトと彼氏さん」

 とても言いにくそうに、けれども言わないとパーティーを始められないから、かおるは告げる。

「できれば、食べる前に、手を洗うって習慣は大切かなって思うの」

「「……………」」

 巴と健は先刻まで二階でしていたことを思い出して、かおるの提案に従った。みなもが持参した肉料理を切り分けているのを彩花が見咎める。

「みなもちゃん、それ何の肉? サイズ的に豚でも鳥でもないよね」

「聞かない方が美味しいよ、彩ちゃん。猫じゃないってことだけは教えてあげる」

「………」

「オレは、そーゆーの気にしないぞ」

「さすが智也さん♪」

 みなもが喜ぶと智也は誰にも聞こえないように耳元へ囁きかける。

「それ、リアルホットドックだろ? みなも」

「はい♪ 韓国で教えてもらったの。はい、あ~ん」

 みなもが切り分けていたナイフで智也の口元へ肉片を運ぶ。

「うむ、美味い」

「あーっ! トモちゃん、つまみ喰い!」

 唯笑が声にして文句を言い、鷹乃が黙って、みなもを睨んだ。みなもは睨まれて鷹乃が智也の恋人だということを思い出した。

「智也さんは、やっぱり髪の長い人が好みだったんですね。キレイなポニーテール」

「……」

 鷹乃が返事をしない代わりに智也が答える。

「髪で選んだわけじゃないけど、鷹乃の髪型は好きだな。みなものツインテールもよかったのに、こんなスポーツ刈りにして………本当にパパは悲しいぞ」

 智也が泣き真似をして、みなもの頭を撫でる。ショリショリと短髪独特の感触がした。

「そう言われても、結えるくらい伸びるには、一年はかかるかなぁ~。どうせ、ちょっとバイトしてお金が貯まったら、今度は南米に行くつもりだから、また男のフリしてないと襲われるし」

「南米か……たしか、双海がペルーから…ん?」

 智也は鷹乃に袖を引かれて、みなもの頭を撫でるのをやめた。鷹乃は黙って智也を見つめて、意図を伝えた。

「悪い。みなもは妹みたいなものだからさ。ごめん」

「………。もうしないで」

「わかったよ、ごめん」

 智也は素直に聞き入れる。みなもは肩をすくめて、戻ってきた巴と健を祝福する。

「あらためて、お誕生日おめでとうございます♪」

「ありがとう♪ みなもんた」

「……。そのアダ名、やめろって言ったよな? アダ名大魔神、ハルマゲドンするか?」

「ぅっ……なに、そのドスの効いた声………、いつのまに、男役の声色をマスターしてるの?」

 驚いている巴に彩花がコーラを注いだグラスを渡す。

「はいはい、主役だからって、はしゃぎ過ぎ。じゃ、みんなにもグラス行き渡ってるね。はい、乾杯の音頭は……そうね、寿々奈さんにやってもらおうかな?」

「え? ……私? ……、でも………私は……飛世さんとは……」

 鷹乃が困惑してしまったのを見かねて果凛が名乗りをあげる。

「ここは不肖このわたくしめが乾杯の音頭をとらせていただきたいと思います」

「いいぞ♪ 市議会議員の娘! よっ、大統領!」

「はい、ありがとうございます、三上様。では、こほん」

 果凛は可愛らしい咳払いをして一堂を見渡した。

「本日は飛世巴さんのお誕生日を、こうして多くの仲間たちと祝えることを本当に幸せに思います。高校生活も、あとわずか半年ですが、まだまだたくさんの想い出をつくってゆきたいところですし、今日のこの日も振り返れば、いい想い出になっていると思います。では、乾杯いたしましょう。乾杯♪」

「「「乾杯!」」」

 パーティーが始まり、各々に会話が盛り上がる。しばらくすると、だいたいお互いの話し相手が決まってくる。かおると鷹乃は中学が別だったこともあって、会話についていけないこともあったけれど、それほど置いていかれることもなく時間が過ぎていく。葉夜との会話を一段落させた果凛が、みなもと話していた彩花に声をかけた。

「ね、桧月さん♪ さっきの乾杯の音頭を寿々奈さんにさせようとしたの、ちょっと意地悪じゃないかな? やっぱり、嫉妬?」

「意地悪? そうかな、ちょうどトトもカップルだから彼氏もち同士で、いい演説してくれるかなって期待しただけよ?」

「ウソ。顔に描いてある。寿々奈さんのこと、気に入らないって」

 果凛が声を小さくしたので彩花も小声になる。

「まあ、実際のとこ、ちょっと性格に問題を感じてるけどね。寿々奈さんって学校じゃ、どんな人?」

「うーーーん……それが、三上くんと付き合い始める前と後で、ぜんぜん別人って感じかなぁ……前は、もっとクールで男なんてよせつけないって顔してたよ。私のお嬢さま演技とは別の意気込み方っていうか、肩肘張ってるって意味じゃ同じかな」

「ふーーん…ぁ」

 彩花は話題にしていた人物が、こちらを見ていることに気づいた。ずっと、鷹乃は智也の隣にいたけれど、智也が健と話し始めたのと同時に彩花と果凛が自分のことを話題にしているのが耳に入って、智也と離れて二人に近づいてくる。

「人のことをネタにコソコソと話すのはやめてくれる? 気分が悪いわ。蛾の卵を見つけたときみたい」

「蛾って…」

 彩花が怒る前に果凛がフォローへ入る。

「やっぱり変わってないのかな♪ そーゆー喩え、ユニークで面白いね」

「………、別に面白がらせるために言っているわけではないわ」

「せっかく花祭さんがフォローしてくれてるのに、身も蓋もない人。誰彼かまわずケンカを売るの、やめたら?」

「あなたには関係ないことよ。もう私たちに関わらないでちょうだい」

 私たちと複数形で表現したのが智也とのことだとわかり、彩花は肩をすくめた。

「そうね、お互い関係ないことよね。智也と私の関係にも、唯笑ちゃんと智也の関係にも、寿々奈さんは関係ないよね?」

「………。何が言いたいの? 言いたいことがあるなら、もったいつけずにハッキリ言いなさい」

「まあまあ、桧月さん、寿々奈さん、とりあえず、ここは…」

 果凛が燃えあがらないうちに鎮火しようとしたが、無駄だった。

「私と唯笑ちゃんは智也の保護者役だから、変な虫がつかないように監視もしなきゃいけないし、おかしなことしないように注意したり、朝ちゃんと起きるように指導するから、智也の家の合い鍵だって持ってるの♪ でも、そーゆーことには寿々奈さんは関係ないから、関わらないでちょうだい」

「………、ウソよ。合い鍵なんて……」

「本当、ほら証拠♪」

 彩花がポケットから合い鍵を出して見せる。自分の家の鍵とセットで繋がっている。鷹乃の顔色が悪くなった。

「…………どうして…」

「だから、保護者役なの。おわかり?」

「っ!」

 鷹乃は踵を返すと、健と智也の会話に割ってはいる。

「どうして! 桧月さんが、あなたの家の合い鍵を持ってるのよ?!」

 かなり大きな声での詰問だったので全員が驚いて静かになった。

「なんだよ? いきなり…」

「桧月さんが、あなたの家の合い鍵をもっているって! どうして?!」

「どうしてって……昔から、そーゆー関係だから…」

「そういう関係って何よ?! あなたは私と付き合いたいって言うから! なのに、他の女性が合い鍵をもってるなんてイヤよ!」

「イヤって言われても……」

「イヤよ! 絶対イヤっ!」

「…………………」

 智也が困って黙り込むと、みなもが咥えていた犬の骨を噛み砕いて、皿に吐き出した。

「うぜぇ女、空気読めよ。人の誕生会でヒス起こして何わめいてんだ?」

「………。あなたには関係ないわっ!」

「うぜぇから消えろよ。女の腐った…」

「おい」

 みなもの口上を智也が止めた。

「オレの前で、鷹乃の悪口を言うな」

「………あいよ、兄貴が、そーゆーならオレは引っこむよ。くだらねぇ」

 みなもは腰を上げると、荷物をもった。

「んじゃ、まあ、次は再来年くらいに生きてたら帰ってくるよ。じゃあな♪」

 さっさと出て行ってしまった。

「みなも……」

「ねぇ、私の話は終わってないわ!」

「鷹乃……」

「どうして、あの人が合い鍵をもっているのよ?! やめてよ!」

「だから、それは…」

 困る智也の隣へ、果凛が立った。

「あのさ、寿々奈さん。TPOってあるよね。桧月さんも悪いけど、せっかくのトトの誕生会で話題にすることか、どうか、ちょっと考えてみようよ。どうしても話したいなら、二人のときに、ね?」

「………、………イヤよ! 今すぐっ! 今すぐ、あの人から合い鍵を取り上げて! それに、今坂さんまで持ってるって!!」

「ほぇ…?」

 唯笑が急に指さされて目を丸くした。

「彩ちゃんと唯笑がもってるトモちゃんちの鍵のこと?」

「そうよ! どうして持ってるの?!」

「ずっと前から……持ってるよ? トモちゃん、よく自分の鍵なくすから、唯笑たちが持ってないと家に入れなくなっちゃうもん」

「秘密の鍵だね♪ 大切だよね」

 葉夜が茶化そうとしたけれど、ますます鷹乃は金切り声をあげてヒステリックに智也へ迫った。

「イヤなの! 私がイヤって言ってるの! イヤよ! やめてよ! あなたは私の! 私の恋人でしょ?!」

「寿々奈さん、いい加減にしないとさ、みんなもあきれて…」

 果凛が言い含めようとするのを、かおるが止める。

「私は彼女の言い分にも理解できるところはあると思うよ」

 かおるが鷹乃の肩へ手を置いた。

「みんなさ、唯笑ちゃんたち三人の幼馴染み関係に慣れてるみたいだけど、それって別の彼女ができたら変えるべきじゃない? ね、三上くん」

「オレは……」

「私だったら、すごくイヤ。彼氏の家に自分以外の女の子が出入りする、それも合い鍵まで持ってるなんて知ったら、マジギレするか、空気無視して訴えるか、するよ。寿々奈さんが怒ってるみたいに、ね」

「ボクも音羽さんが正しいと思う」

 健も鷹乃の味方をする。

「寿々奈さんと付き合うなら、きちんと過去の関係は清算すべきだと思う」

「てめぇ…」

 てめぇに言われくねぇ、智也は反射的に苛立った。かおるに言われても腹が立たないことでも、同性に言われると据えかねる。まして、ほたるのことを思い出すと余計だった。

「そうだな、オレは過去の関係ってのを、ざっくり斬り捨てられるほど、冷酷な人間になりきれなくてな」

「っ…」

 ほたるのことを責められていると感じて健は鼻白むが、鷹乃のために反論を続ける。

「どっちにも優しくしようなんて自分に都合がいい考え方で、結局は両方を傷つけるんじゃないかな?」

「お前といっしょにするな! 彩花と唯笑は別物だ!」

「そうよ、私たちは別よ。ね、唯笑ちゃん」

「ぅ……うん」

 唯笑が頷き、かおるがタメ息をついた。

「三人仲良しがダメってわけじゃないの。ただ、彼女の気持ちを考えられないかって、言ってるの。どんなに三上くんが幼馴染みの二人を妹か、お姉ちゃんみたいに思っていても、そんなの彼女の立場からすれば我慢ならないこと。それに、映画でも小説でも、よくあるパターンよね。幼馴染みに恋人ができたとたん、それまで異性と想ってなかったのに惜しくなる、ついついお互い気心が知れてるから引かれ合う、でもって、オレはやっぱりアイツが好きだった、悪いけど別れてくれ、なんて言われた日には、私って何なの、って思って殺意が湧くね。うん」

「オレは……、…………………」

 智也が考え込んで、決めた。

「彩花、唯笑、悪いけど、鍵、返してくれ」

「智也……」

「トモちゃん……。……………………」

 唯笑は智也の目を見つめて、本気だと悟ると猫のキーホルダーから合い鍵を外した。

「はい、トモちゃん」

「ああ…今まで世話になったな。唯笑」

 智也は鍵を受け取って礼を言うと、唯笑の頭を撫でた。かおるがタメ息をつく。

「ほら、そういうタッチも、今後はひかえようね」

「ぅぅ……かおるちゃん、頭ナデナデしてもらうの、唯笑の生き甲斐なのに……」

「唯笑ちゃん……それ、ビミョーに愛の告白っぽいから、ひかえようね。唯笑ちゃんは保育士さんになって子供たちの頭ナデナデしてあげるのを、生き甲斐に変えようよ、ね?」

「…ぅん」

 唯笑が頷き、智也は彩花を見る。

「彩花、悪いけど…」

「別に智也は悪くない。私も肩の荷が下りて、むしろ気楽よ。はい、さようなら」

 彩花は鍵を渡しながら、問いかける。

「でも、智也の両親いないから、ホントに鍵をなくしたとき、窓ガラス割るとか、そーゆー手段にならない?」

「ああ……、それは…、鷹乃」

 智也は合い鍵の一つを鷹乃へ向けた。

「悪いけど、持っていてくれないか。オレが閉め出されたときとか、頼みたいからさ」

「うんっ!」

 鷹乃は頷いて鍵を受け取ると大切そうに握り締めた。かおるが鷹乃の背中を撫でる。

「よかったね」

「……がとう」

 鷹乃が礼を言い、彩花は大袈裟に肩をすくめた。

「それにしても、音羽さんが敵に回るとは思わなかった」

「ごめんごめん。ちょっとね、転校前に付き合ってた彼氏とうまくいかなくなったこととか、想い出しちゃってさ。寿々奈さんの切羽詰まった感じ、胸が痛くなってさ」

「オレと鷹乃、そろそろ帰る。トト、おめでとうな」

 智也は巴の頭を撫でようとして、やめた。代わりに健の肩へ腕を回すと、耳元へ囁く。

「今度こそ、大事にしろよ。白河もトトも、オレらの友達だったんだからな」

「……。それは誓って」

 健が誓約し、智也と鷹乃が出て行った。空気が冷めてしまう前に果凛が彩花に抱きついた。

「ご愁傷様です♪」

「ふんっ…」

 彩花が不機嫌そうに鼻を鳴らしたので、果凛は唇で彩花の耳を甘噛みする。

「はむっ♪」

「んぁッ…ちょ、何するの?!」

「お互い彼氏のいないもの同士、慰め合いたいなって」

 果凛が頬擦りしてくる。

「んんーっ♪ 桧月さんのホッペ、いい感触♪」

「……。そーゆー趣味はないから、人肌が恋しければ、黒須さんにでも抱きつけば?」

「カナタにはショーゴ君がいるもん」

「加賀くんも狙ってるよね? さっさとチャレンジしないと、私みたいに取り逃がすよ」

「……、ずいぶん腹を割って話すのね」

 他のメンバーもそれぞれに会話していて彩花と果凛の話を聞いていないとはいえ、核心に迫る内容だったので、果凛は抱きついたまま場所をかえる。みんなから少し離れると、抱きつくのをやめた。

「私ね、ショーゴ君が好きだからカナタを好きなのか、カナタを好きだからショーゴ君を好きなのか、その両方なのか自分でもわからなくなってるの。どうしたら、いいと思う?」

「……………とりあえず、加賀くんに告ってみる、なんてのはダメ?」

「カナタにね、とりあえず告ってみたの」

「……ホントに?」

「というか、相談した形でね。今みたいに言ったら、カナタは何て言ったと思う? 桧月さんの発想に似てたよ」

「うーーん………似てたって……いわれても……、黒須さんの発想は智也並みに、ぶっ飛んでるから………ぶっ飛んでる上に、私にとって智也より遠い存在だから、余計わからないよ」

「とりあえず、キスしてみよ、って言われた」

「ぶっ飛んでる………色んな意味で」

「ホントにね」

「……で、したの?」

「まーね」

「………………ご感想は?」

「いくつか、はっきりわかったよ。まず、カナタはバイ」

「やっぱり………っていうか、自分だって…」

「ううん、私はノンケっぽい。実際、カナタとキスしてみて、悪いけど……正直なところ…」

「正直なところ?」

「気持ち悪かった」

「………。普通ね、ノーマルな感想……」

「だって、カナタ、舌まで入れてくるのよ!」

「うわぁ……」

「だから、私よくわかったの。カナタのこと好きなのは友達としてのみっ! カナタに憧れてるのはモデルとして先を歩かれてるからっ! カナタみたいになりたいって気持ちはあっても、カナタと一つになりたいって気持ちは皆無!」

「なるほどねぇ……で、加賀くんに対しては?」

「たぶん………………全部かな」

「全部って?」

「友達として好き、男の子として好き、カナタの彼氏として好き。だから、手出ししないの。そう決めたの」

「見事な自己分析と結論ね」

「桧月さんこそ、どうなの?」

「それがねぇ……私もアイツにキスしてみたの…」

「三上くんにっ?! いつ?!」

「まあ、これは犯罪なんだけどね。智也が入院して寝てたとき、ちょっと魔が差してやっちゃった♪」

「……寿々奈さんがヒステリックになるわけね」

「で、キスしてわかったことに、やっぱり私は智也に男の子を感じにくい……。たしかに、好きよ。バカな弟で、ときどき頼りになる兄でもあって、リアル血を分けた兄弟にもなったから余計に愛おしいの。すごく好き、いつから好きかわからないくらい好き、でもそれは恋じゃない気がする。幼稚園での婚約は子供の遊び、小学校もその延長、中学に入って、ほんの一時期だけ智也をとても意識した頃があったけど、その気持ちも落ちついてしまって、今は本当に兄弟みたいな感覚。たぶん、智也も唯笑ちゃんも、そーゆー風にお互いを感じてるはず。だから、智也は私たち以外の子を見つけてきた。……でもねぇ」

「気に入らないのね」

「そうなのよ。うちの智也が付き合うのに、いい子とは思えないなぁ……って考え方自体が、なんだか姑っぽくて自己嫌悪なんだけど、どうしても受けつけないのよ、あの寿々奈さん………顔はいいかもしれないけど、それだけだもん」

「ホントにお姑さんの話を聞いてるみたい」

 果凛は少し笑って話を続ける。

「人が人を求める引力には三種類あるそうよ」

「三つ?」

「一つは恋」

「うん」

「あと性欲」

「……なるほど。で、もう一つは?」

「愛着」

「……愛着って?」

「愛着は性欲や恋に比べると、穏やかな感情、異性に限らず、友人にも家族にも覚える親しみや友愛、存在してくれることが心地いい、失われることが苦痛。でも、その友人や家族が別の人と結婚しても大きな嫉妬は覚えない。それが愛着」

「嫉妬は恋の証だもんね」

「では、恋と性欲の違いを科学的に述べよ♪」

「う~ん………あらためて問われると……」

「恋は原則的に対象が一人に絞られるの。でも、性欲は好みのタイプなら複数に覚える欲望。食欲もそう、パスタでも、ドーナツでもいい。けれど、恋は違う。彼じゃなきゃダメ、彼女でないとダメ、似たような人じゃダメ、そーゆー融通が効かない困った衝動」

「困ったものね。うちの智也は、あんな女に惚れこんじゃってさ」

「三上くんから口説いたのよね」

「アイツが面食いだとは思わなかった」

「面食いじゃない人の方が少数派じゃないかな」

「ポニーテールもえなのかな?」

「………。話を戻すとさ。伊波くんの場合だと、白河さんに愛着も性欲も覚えていたでしょうけど、結局は恋の力に負けてしまった。伊波くんとトト、相思相愛なんて羨ましい話」

「………」

「桧月さんと三上くん、今坂さんの三人もお互いに強烈な愛着があって、さらに三上くんには抑えられる程度の軽い性欲がある程度じゃないかな」

「私と唯笑ちゃんには魅力がないと?」

「そうじゃなくて幼児期をいっしょに過ごした人には性欲を覚えにくいらしいの」

「ふーーん……」

「刺激としても新鮮さに欠けるから、恋も芽生えにくいしね」

「まあ……ホントに家族みたいだもん。キスはしてみたけど、その先は想像しにくいかも……」

 彩花がタメ息をついていると、巴が大きな声で呼びかけてくる。

「ねぇ! ねぇ! 王様ゲームしようよ♪」

「却下」

「なんでよ?」

「このメンバーで王様ゲームなんてトトだけが有利でしょ。唯笑ちゃん、そろそろ帰ろ。熱い二人の邪魔しちゃ悪いしね」

 彩花は腰をあげて果凛を見つめる。

「ありがとうね、色々話せて、よかったよ」

「こちらこそ♪ きっと、桧月さんは、いい看護師さんになるね」

「KARINはKANATAより、いいモデルになるよ♪」

 彩花は手を振って、久しぶりに会った友人たちと別れた。

 

 

 

 数分後、鷹乃と智也は三上家に戻っていた。玄関の前で鷹乃が受け取ったばかりの合い鍵をポケットから出して微笑む。

「私が開けていい?」

「ああ」

 智也が了解すると、鷹乃は合い鍵を使ってみる。カチリと鍵の開く音が鷹乃の手に伝わってくる。とても嬉しくなって鷹乃は子供みたいにクルリと回って笑顔を智也へ向ける。智也も微笑を返した。家へ入って、智也がソファに座ると鷹乃はグラスに冷たい水を注いでテーブルに置いた。外が暑かった分、すぐに二人とも水を飲み干した。

「暑い……こんなに早く帰って来るならクーラーつけたままにすればよかった」

 真夏の居間は、二人がいないうちに30度を超えているようで、智也はシャツのボタンを外して胸をはだける。冷房が効くまでには、しばらく時間がかかりそうだった。

「ごめんなさい、私が場の空気を悪くしたから居づらくさせてしまって……」

「いや。そうでなくても、あの伊波のこともあったからな。あんまり手放しで盛り上がれない空気だったしさ」

 智也はポケットに残っている二本目の合い鍵を出して考える。

「こっちの合い鍵は庭木を囲ってるレンガの下へ隠しておくから、もしも二人とも鍵をなくしたら、これを使おうな」

「うん」

 隠し鍵の位置まで教えてくれることが嬉しくて鷹乃が小気味よく頷く。その姿が可愛らしくて智也は恋人を抱きよせてキスをする。キスが長く、深くなって鷹乃も男の背中へ腕を回して抱き合った。キスが終わっても、抱き合ったまま、鷹乃の耳や首筋、鎖骨へと本能のままにキスを繰り返して、智也の手が衣服の中へ入ってきても鷹乃は拒絶せず、身を任せて顔を赤くして息を乱している。最初のときとは違う、落ちついた優しい愛撫と鷹乃の許容が二人を一つにして、真夏の午後が過ぎていく。

「鷹乃、愛してるぜ」

「私も。……ずっと、私のそばにいてちょうだい」

「ああ、約束する」

「智也……愛してるわ」

 もう一度、若さにまかせて抱き合い、鷹乃は叔父夫婦のところへ帰らず、また智也の家に泊まった。

 



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5話

 

 二日後の早朝、前日に寝たのが午後4時だったので午前2時から起きていた智也と鷹乃は空腹を覚えていた。冷蔵庫を開けても材料になりそうなものはない。ピザの宅配もしていない時間帯だった。

「智也。お米を炊いて、オニギリをつくる、というのは、どうかしら?」

「ちょっと淋しいな」

「そうね、昨日も残っていたパスタだったもの……炭水化物ばかりになるわ」

「コンビニで何か買ってくるよ」

 智也が起きあがってズボンを探すと、鷹乃が先にショーツへ足を通していた。

「私が行くわ」

「夜中だぞ?」

「もう朝よ」

「ホントだ……」

 カーテンを開けると、夏の朝日が眩しい。

「ずいぶん生活のリズムが乱れてしまったわ」

「そうか? 夏休みって、こんなもんだぞ」

 智也にとって深夜まで遊んでいて昼過ぎに起きる、早朝まで起きていて夕方に起きる、昼過ぎに寝て夜中に起きる、そして次は世間一般で言う早寝早起きになるが、その翌日は深夜まで起きていて昼過ぎまで寝る、できれば9月1日には早寝早起きの順番になっていてほしい、という生活リズムは毎年のことだったが、鷹乃にとっては初めての体験だった。もう水泳での進学も諦め、夏期講習に行く気もしない、そして二人とも好き合っていて、この広い家には智也の両親もいない、もう48時間以上、食べること、寝ること、抱き合うことの三大欲求を満たす以外、何もしていなかった。

「智也と付き合っていると、新しいことばかりよ。夕方に寝て夜中に起きるなんて……」

「実は人間は24時間サイクルじゃなくて、25時間サイクルの体内時計を持ってるんだぞ。だから、寝たいときに寝ると、ちょっとずつズレていくんだ」

「………」

「ホントだって! ウソじゃないぞ!」

「いえ……疑ったわけではなくて、そんなことを知っているなんて意外だったから」

「どういう意味だよ?」

「意外に博識で驚くわ。いつも、ふざけたことばかり言っているから、ヒトの生態リズムのこと、知っているなんて思わなかったわ」

「うむ、知識は色々と仕入れておいて悪用すると楽しいんだぞ。知は力なり」

「フランシス・ベーコンの言葉ね」

「鷹乃も顔が可愛いだけじゃなくて、その中身もいいんだな♪」

「誉められたと思っておくわ」

 鷹乃は自分のTシャツを着ようとして、汗の匂いが気になったので洗濯機へ入れると、乾燥機から智也のシャツを出してきた。

「このシャツ、借りていいかしら? コンビニへ行くのに着るものが無いわ」

「ああ、どうぞ。けど、やっぱりオレが行こうか?」

「ううん、私が行ってくる。お米だけ炊いておいて」

「了解」

 智也から財布を受け取った鷹乃はコンビニへ向かった。早朝のコンビニでは新しい弁当やパンが搬入されている最中で、稲穂鈴が眠たさのピークに耐えながら配送の作業員を手伝っていた。

「ふふ…あと2時間…働けば…」

 喫茶店のバイトとかけ持ちで、朝から夕方までウエイトレスをした後に出勤しているのに交代が風邪で欠勤したため、徹夜で働いている。そのせいで、怪しい微笑みを浮かべていたが、鈴の目標金額が近づいていた。

「ようやく……原チャリを卒業して…ふふ…手に入れる、……450CCの圧倒的な加速と機動性…」

 バイク免許は取ったのに、まだ原付しか所有していなかったけれど、次の給料日がくれば念願のスポーツレプリカが買えると喜んでいる。

「原チャだと箱根の山も……苦しいけど………ふふ……買ったら、その日からバイト休んで……瀬戸大橋まで一気に…」

 ぶつぶつと脳内思考を口から垂れ流している鈴へ、鷹乃が近づいて声をかける。

「お弁当、見せてもらっていいかしら?」

「あっ! はい、失礼しました! いらっしゃいませ!」

 邪魔になっていた鈴が慌てて商品棚の前をあける。鷹乃は会釈して弁当類を眺めたけれど、大きめのサラダを取ると弁当は買わずに卵のパックとベーコンを買った。

「……お味噌はあったから……豆腐…」

 豆腐のパックも商品カゴへ入れ、次は移動して女性用の下着を入れ、さらにコンドームの箱を二つ、値段を吟味してから商品カゴへ加えた。

「…あの子………」

 鈴は悲しくなった。

 ほんの数日前には買うことを戸惑っていた姿を、ういういしくも心配に思ったのに今は生理用ナプキンを買うのと同じくらい平然としている。

「……………………………」

 しかも、私が買わせたのは12個入り698円だったのに、24個入り898円を二つも、悲しい、私のせいだ、あのとき私が買わせずに年長者として軽率な行動を自重するよう忠告していたら結果は変わっていたかもしれない、本当の恋愛っていうのは、もっと甘くて切なくて、なかなか伝えられない想いとか、擦れ違う想いが錯綜して、乙女の涙と恥じらいで作られるはず、ううん、違う、それは私が脳内で妄想してる恋愛小説の世界、むしろ、現実の恋愛は平然とコンドームを買うのも一つのシーンであるはず、好きです、オレも好きだ、じゃあ、やりましょう、一回したら、二回目、三回目、どんどん慣れていく、ブラジャーを外されただけで気絶するほど恥ずかしかったのに、いつのまにか平気で裸のまま冷蔵庫を開けたりする、それが恋愛の姿、でも違う、少なくとも私が描きたい小説とは違う、断じて違う、写真は全てを写すけれど、絵画は取捨選択される、小説も書くべきことと描かざるべきことを選択して美しく描くもの、では、私は目の前にいる、この子を汚いと想っているのか、それは私がハタチ過ぎてバージンだからか、いや、そういうことではなくて単に悲しいんだ、最近の女子高生から考えれば、ごく普通の水準かもしれないけど、もっとセックスに至る前の気持ちを大切にしてほしかった、そうだ、次からは絶対に止めよう、もしも同じような場面に出くわして男の部屋へ泊まろうとしている子がいたら、止めよう、たとえ相思相愛だってわかっていても、君たちにはまだ早いとか言って強引に女の子を家へ送り返そう、原チャは二人乗り禁止だけど、バイクなら連れ帰れる、そうやって二人に気持ちを大切にする期間を、もっと持ってもらおう、でも、それが余計な御世話になって二人の気持ちが擦れ違うキッカケになって別れたりしたら、私のせいになるかもしれない、でも、そういう風に別れてしまうカップルなら気持ちも浅いわけだし、その過程もまた小説のネタとしては美味しいから、もしも知り合えたら、私の小説の参考にもできるし、そういう意味で残念だけど、この子は、もう参考にはならない、その段階は終わってる、私の小説はキスシーンで終わるくらいの淡い恋物語であって、そもそも現実を全て描いたら人間は、いつか死んでしまう、死という結末に向かって…。

「何をボーッとしているのかしら?」

「え…?」

 鈴は創作家独特の妄想モードに入っていて、目の前に商品を置いた鷹乃が待っているのに気づいていなかった。

「早くお会計してちょうだい。あなたの仕事でしょう?」

「あ、はい!」

 鷹乃に怒られて、鈴は急いでレジをする。思考に夢中になっていて、ずいぶん長いこと待たせたようだった。

「お待たせして、申し訳ありませんでした」

「……。アルバイトとはいえ、仕事なのだから、ちゃんと集中しなさい。それが、あなたの勤めでしょう」

「……はい、申し訳ありません」

「目を開けたまま眠っているの? それで、よく給料を受け取れるわね?」

「…」

 ムカっ、そりゃボーッとしてた私が悪いけどさ、そこまで言わなくてもいいじゃない、こっちは20時間も寝ないで働いてんのよ、あんたなんか、さっきまで寝てたでしょうが、それで起きて、髪もそのまま男物のシャツをノーブラで着てさ、シャツから浮いちゃう乳首とか髪で隠してるつもりかもしんないけどバレバレ、お客様かもしんないけど、その財布だって男物でしょ、自分のお金じゃないのに偉そうに、私はちゃんとバイク買うためにバイトしてんのよ、もちろん、小説家になるって夢も実現するために、どんなに疲れて帰っても一日に原稿用紙5枚分は、絶対書くって決めて…。

「もう、いいわ。さっさと、お釣りをちょうだい」

「は、はい!」

 鈴から小銭を受け取ると鷹乃は三上家へ戻る。合い鍵で玄関をあけて入ったけれど、智也が一階にいない。

「二度寝したのかしら」

 階段をあがって智也の部屋をあけてみて、鷹乃は彩花を見つけて戦慄した。

「っ…どうして……」

「「…………」」

 見られた彩花と智也は、お互いを見合って、また誤解されそうな場面だったことに気づいた。上半身裸の智也はベッドに腰かけていて、その背後に彩花がパジャマ姿で寝転がっている。しかも、彩花は親しげに智也の頬を指でつついている状態で、鷹乃にショックを受けるなと言う方が難しい場面だった。

「…どうして……桧月さんが…」

 鷹乃の手から買い物袋が落ちて、中の卵が割れた。

「待て! 違う! ぜんぜん誤解だ!」

 智也が慌てて鷹乃へ駆けより、状況を説明する。

「なんでもない! たんに彩花と喋ってただけだ! そうだろ?! 彩花!」

「さあ?」

「彩花っ!!」

「はいはい、そうそう、そうですよ、ちょっと喋ってただけ。っていうかさ、寿々奈さん、ずっと智也の家に泊まってるよね? いったい何をしてるんだか。ちょうど私が起きたら、智也も起きてるみたいだったから、窓を渡って来たのよ。何か文句ある?」

「……………………、……っ!」

 鷹乃が目尻に浮かんだ涙を拭って、彩花を睨んだ。

「あるわ!!」

「言ってごらん♪」

「私は智也と付き合ってるのよ!!」

「だから?」

「二度と来ないで!!」

「寿々奈さんに、そんなこと言われる筋合いないよ。ここは、寿々奈さんの家じゃないよね?」

「っ……、イヤよ! こんなのっ!」

 鷹乃は智也にすがって訴える。

「追い出してよ!! 二度と来させないで!!」

「彩花………いちいちオレの彼女を挑発するなよ。あと、あんまり窓から入ってくるな」

「ふーん♪ そんなこと言っていいのかな?」

 彩花はパジャマのポケットから2万円を出して、微笑む。

「今週の生活費を、わざわざ、ご丁寧にも運んできてあげた私にさ」

「むっ……彩花、お前…」

「女の子を連れ込んで好き勝手やってるから、そろそろ財布、淋しくなってない? 気を利かせて一日早く引き出してきてあげたのよ」

「「……………………」」

 言われてみれば、もう智也の財布に紙幣は残っていなかった。

「どういうことなの?! どうして桧月さんが?!」

「それは……だな…」

「何度も言ってるよね。私は智也の保護者も兼ねてるの。だから、遊びで無駄遣いして食費を削ったりしないように、食費と衣服費は週に2万円ずつ、私が預かってる通帳から引き出して、手渡しするルールになってるの。遊びに使っていいのは月5000円、残りは私が管理するルール♪ ね、智也」

「………金、置いて、さっさと帰れよ」

「ずいぶんな言い草ね。入れてあげるから、ちょっと財布かして」

「ああ」

 智也はズボンのポケットを触って、鷹乃に財布を預けていたことを思い出した。

「オレの財布」

「……うん…」

 納得いかない顔のまま鷹乃は財布を智也に返す、それが彩花の手に渡る。

「すっかり使い切ってるね」

 彩花は紙幣の代わりに入っているレシート類をベッドに並べて家計簿チェックする。

「ふーーん……」

 コンビニのレシートにあったコンドームのことは見なかったことにして、他を眺める。いつも智也が買っている弁当やパンなどの、すぐに食べられる既製品よりも、手間を要する唯笑や彩花が来たときに作ってあげるような生肉や野菜類の購入が増えていた。

「………」

 なるほど、それなりの料理はできるみたいね、デートはマリンランドか、まあ無難なとこかな、彩花は一通り眺めながら見過ごせないレシートを見つけた。

「なによ、これ? ピザで2万3千円って、何のパーティーしたの? お小遣いの方から繰り入れしてまで何人前を注文したの?」

「……別に、…二人で食べただけだ。もういいだろ! さっさと帰れよ!」

「はいはい」

 ついつい、小姑みたいなことを言ってしまったことを軽く自己嫌悪しつつ、彩花は腰を上げた。

「彼女ができて嬉しいのはわかるし、少しは大目に見てあげるけど、あんまりバカな使い方しないのよ」

「ああ」

「じゃあ…」

 彩花は一応の納得をして窓枠へ足をかけたけれど、鷹乃が納得いかずに不満を訴える。

「変よ! おかしいわっ!」

「鷹乃…」

「何が、おかしいのかしら? 寿々奈さん」

「どうして、桧月さんが家計に口出しするのよ?!」

「言ったよね、私は智也のお母さんから、このバカの管理を任されてるの」

「………。変よ……そんなの…イヤ…」

「鷹乃が気にしなくても…」

「だって、私と付き合うのに、……桧月さんは他人でしょ? 合い鍵だって私に……。智也の生活に、私以外の女性がかかわるのはイヤ。自分の家のことなら、智也自身が管理すべきよ」

「まあ、そうだけど……、……おい、彩花。やっぱ、そろそろ、オレに通帳を渡せよ。自分で管理するから」

「あのね、合い鍵みたいなわけには、いかないよ。この問題はさ」

「なんでだよ?」

「私は智也のお母さんから信頼されて、任されてるの。なのに、お母さんの許可もなく智也に渡すなんてできないわけ。わかる?」

「くっ…」

「しかも、初めて彼女ができて浮き足立ってるときに、ちゃんと自己管理なんか、できるわけないじゃない」

「できるさ! そのくらい!」

「無理ね。ずるずると毎晩、彼女を泊まらせてるような状態で自己管理がきいてあきれるわよ。普通さ、ちゃんと両親のいる家庭なら、こんなに連泊させる?」

「「…………」」

「今日あたり、ちゃんと家に送ってあげなさいよ。でないと、来週の生活費は渡さないからね」

 断言した彩花は窓から帰った。

 

 

 

 昼過ぎ、ほたるは自分の部屋で午睡から目覚めた。

「ん~……………………」

 寝覚めは悪くなかった。

「……正午くん…」

 腕枕してくれている正午は、まだ眠っている。ほたるは急に恥ずかしくなって起きあがると服を着る。脱がされた下着と衣服をベッドサイドから拾い、正午が起きないうちに身につける。

「………ほたるの初めての人が……正午くんになるなんて……」

 思いもしなかったけれど、正午は優しかった。ピアノの練習で疲れた腕をマッサージしてくれて、そのまま、キスされたりしてるうちに、脱がされて、抱かれて、触られて、ほたるは身を任せた。

「この女ったらし……」

 少し悔しい、たぶん、腕のマッサージの前、ほたるの家に来て、静流お姉ちゃんもママもパパもいないって教えたときから、正午はそのつもりになっていたと、今になって振り返るとわかる。マッサージで自然に身体に触られることに慣れさせて、優しくキスもして、ゆっくり外堀を埋められて本丸を落とされた。

「……女の子の口説き方……誰に仕込まれたんだか……まったく、もう」

 誰かはわかっている、カナタ以外に正午の過去はないし、いつもカナタは口うるさく女の子に優しくする方法を説明して実行するように要求していた。その半分も説教者には実行されなかったけれど、ほたるには実行してくれた。丁寧で優しくて少しもイヤじゃなかったし、ほたるに不安を与えないようキチンと避妊もしてくれていた。

 正午が目を覚ました。

「……、ほたる」

 名前を呼んでくれて、軽いキスをしてくれる。ほたるは赤くなって黙り込んだ。

「………………………」

「もう服、着ちゃったんだ……残念だな」

「っ! しょ、…正午くんも服っ! 早く着てよ!」

「もう少し寝たいな♪」

「寝てもいいから服は着てっ!」

「はいはい」

 正午が起きあがって服を着る間、ほたるは背中を向けて待つけれど、着終わった正午が後ろから抱きしめてくる。

「ほたる、明日のコンクール、頑張ってな」

「うん…」

「全国優勝なんて、ほたるなら楽勝さ。次は世界だな」

「ほたるが世界に羽ばたいても、見に来てくれる?」

「もちろん、ウイーンだろうと、木星だろうと、交通機関がある限り♪」

 正午はキスをしながら、ほたるが着たばかりの服に手を入れてくる。スカートを脱がされそうになって、ほたるが逃げる。

「もうっ! 正午くんのエッチっ!」

「ほたるが可愛すぎるからだよ」

「っ…、女ったらし!」

「たはっ♪」

 正午が、いつもの誤魔化し方をすると、ほたるの脳裏にカナタの顔が走った。よく二人がふざけていたのを自分と健の関係に比べて、羨ましくも思ったのに、今は、その正午が自分の前にいる。

「お…お茶、淹れてくる!」

 ほたるが逃げるように部屋を出ると、正午もキッチンまでついてきた。

「紅茶でいいかな?」

「ああ。でも、アイスティーがいいな。動いて喉が渇いた…うぐっ?!」

 正午はリビングで気配を消していた静流に背後からヘッドロックされて呻いた。静流が腕に力を込めて正午の頭を抱く。

「健くん、喉が渇くほど、ほたるに何をしてくれてたのかしらっ!」

「ぐぐぅ…ギブっ! ギブっ!」

「……?? 健くん? ……じゃないの?」

 てっきり静流は健だと思ってヘッドロックをかけていたが、いつもと抱き心地と声が違うことに気づいて力を抜いた。

「あなたは……えっと……加賀くん?」

「ハァハァ……ったく、相手も確かめずに技かけないでくださいよ、静流さん」

「だって……、どうして、ほたると加賀くんが…」

 いつのまにか帰ってきていた静流は二人が部屋で抱き合っていたことを気配で感じていたようで、困惑している。妹に問いかける視線を送ると、ほたるは紅茶の用意をしながら姉の顔を見ずに、あえて平然と穏やかな声で告げる。

「健ちゃんとは別れたから」

「……ほたる…」

 このところ妹が鬱ぎ込んでいたのは感じていたし、ここ数日はコンクールを前にして、多少は元気になってくれていたので、健とケンカでもして仲直りしたのだろうと安心していたのに、静流の思いも寄らないことになっていた。

「健くんと別れたって、どうして?」

「……、そのうち話すよ。あんまり思い出したくないの」

 ほたるは姉に顔を見せず、三人分のアイスティーを用意している。

「それで、加賀くんと付き合ってるの?」

「……そのうち話すよ…」

「でも、加賀くんだって…」

 背中しか見せない妹から、静流は正午へ向き直る。

「加賀くんだって、たしか……カナタさんと付き合ってなかった?」

「別れた♪」

「別れたって、どうして?」

「ケンカ別れ」

「………。そんなの、いつものことでしょう?」

「でも、別れた。あんな女は捨てた。もえないゴミだ」

「……………………」

 静流は何を言うべきか、わからなくなってタメ息をつく。

「そう………、……色々と事情はあるのかもしれないけれど、明日のコンクールは大丈夫?」

「うん、それは大丈夫だよ、お姉ちゃん。ほたるは落ちついてるから」

「そう……」

 アイスティーを飲み終わるまで、ややぎこちない会話が続き、日が傾いてくると正午が一人で帰り、ほたるが玄関まで見送ってからキッチンに戻ると静流はタメ息をついた。

「とりあえず、ママが帰ってくるまでにシャワーを浴びてきなさい。…なんとなく、わかるわよ」

「…うん…」

 女の勘は鋭い、父親は気づかなくても、母親は次女が男と何をしたのか、察知してしまうかもしれない。知られたところで、どうということはないけれど、やはり隠しておきたいし、姉も助言してくれたので、ほたるはバスルームに入った。

「…はぁぁぁ……」

 裸になってシャワーを浴びる。

「……ふぅぅ……」

 頭からシャワーに身を任せながら、疲れていたので座り込んだ。

「…………はぁぁ…」

 ほたるは顔を両手で擦った。

 なぜか、涙が溢れてきて止まらない。

「……ダメだよ……今、泣いたら、正午くんに悪いよ……。あんなに優しく……」

 強要されたのでも、自暴自棄で抱かれたのでもないはずなのに、泣けてくる。

「…っ…ぅっ……ぅぅ……やっぱり……やっぱり、健ちゃんが……よかったよ……健ちゃんに……、……健ちゃんと……ぅ…ぅぅう……」

 やっぱり、失恋は失恋だった。ほたるはシャワーの音で嗚咽を隠して泣きつづけ、それから何事もなかったように身体を拭いて、キッチンへ戻った。

「あ、パパ、ママ、おかえりなさい」

「「ただいま」」

 すでに両親が帰宅していて、夕刊を読んでいた父親が娘へ視線を向ける。

「……。もう、いい歳なのだから、そんなカッコであがってくるんじゃない」

「はーい♪」

「明日のコンクールは、どうだ? 調子は」

「ばっちりだよ、まかせておいて」

「そうか。頑張れよ」

 何一つ気がつかず、父親は夕刊へ視線を戻した。母親の料理を手伝っている静流が何も知らないかのように微笑んで話題を提供する。

「ほたるが金賞を取れないなんて、あとにも先にも、あの一回だけよ。ね」

「そんなことあったか? 静流」

「お父さん、忘れたの? ほら、審査員の計算ミスで、金賞と銀賞が入れ替わってたの。たしか、月岡海って名前だったはずよ。ね、ほたる」

「うん……」

「彼女も浜咲のはずよね。ピアノ、続けているの?」

「ううん、やめちゃったみたい」

「そうなの。音楽的センスは悪くないと思ったけど……、ほたる、交流ないの?」

「ぜんぜんないよ。たまに、廊下で擦れ違うけど、話さないから」

「そう……まあ、どうでもいいわね」

 静流は料理へ集中力を戻し、ほたるは手伝うと言っても、コンクール前に指でも切ったら大変だから座っていなさいと、返答されるのがわかっているのでパジャマを着てから父親の隣へ座った。

「ねぇ、パパ」

「ん?」

「ほたるがウイーンに行っちゃったら淋しい?」

「そうだな。淋しくなるな」

「じゃあ、ときどき帰ってこれるように、お小遣いちょうだいね」

「わかった、わかった」

 お小遣いといっても往復の航空運賃は20万円近くになるのに、愛娘にねだられると笑顔で応える父親は、ほたるの頭を撫でた。

 

 

 

 翌日、ほたるは金賞の盾をもって壇上にいた。

「ありがとうございます。これからが本当の勉強だと思って精進いたします」

 向けられたマイクに無個性な感謝の言葉を、それでも気持ちを込めて答えつつ、あまりキョロキョロしないように客席を見回すと、最前列に知り合いが何人かいた。ほたるが微笑むと、両親と静流、静流の隣にいた正午が拍手をくれる。その席から、五列ほど離れたところにカナタと果凛、葉夜もいて拍手をくれている。巴も最前列にいるけれど、その隣席には健の姿はない。もともと、二人には別々のタイミングでチケットを渡しているので、健は前の恋人だった自分のことを巴には詳しく話していないのかもしれない。

「…」

 でも、健ちゃんは来てくれてた、ほたるは演奏を始める前の一礼で、その一瞬で健を見つけることができていた。最後列の一番左側のドアの横、ものすごく目立たないところにいたけれど、ほたるは見つけていた。

「本当に、ありがとうございました」

 もう健の姿はない、演奏だけ聴いてくれて、表彰式の前に帰ったのだとわかる。ほたるが目尻に浮かんだ涙を拭うと、拍手が一層強まった。

「よっ! 大統領!」

 中ほどにいた智也が叫んで、隣にいる鷹乃が驚き、背後にいた彩花に頭を叩かれている。

「バカっ! 場所を考えなさい!」

「じゃあ、音楽の大統領! ピアノの魔術師♪」

「トモちゃん、恥ずかしいよ。みんな見てるよ」

 彩花の隣にいた唯笑も困っているし、鷹乃も赤面して下を向いている。ほたるは笑顔になった。

「クスッ…」

 ふふ、鷹乃ちゃんも苦労しそうだね、ほたるが客席へ手を振って退場していく。彩花は智也の首を絞めて黙らせた。

「なにがピアノの魔術師よ、半分は寝てたくせに!」

「ぐうぅぅ…」

「智也には、せいぜいヤスキヨ節くらいで十分よ!」

「ぐむ…オレのヤスキヨ節は神業だぞ」

 智也は彩花の手首を握って、筋力の違いで絞首をやめさせると、退散する。

「鷹乃、もう行こう。彩花が背後にいると肩が重い」

「ええ」

「あ、コラっ!」

 まだ何か言っている彩花と唯笑を置いて、智也は鷹乃を連れて外に出る。幸いにして大勢の観客に飲み込まれ、彩花たちとは離れることができていた。

「いい感じの夜風が吹いてるな」

「そうね」

 混雑する駅前を避けて、海の近くを歩いているので風が心地よい。鷹乃は長い髪を軽く押さえてつぶやく。

「すごいわね。白河さん」

「ああ、いい演奏だった」

「……」

 それだけでないわ、ひどい捨てられ方をしたのに、そのショックから立ち直って優勝してしまうなんて、本当にすごいわよ、それにひきかえ私は泳ぐこともやめてしまって、今では聞こえてくる波の音さえ、夜の海だと思うと少し怖い、鷹乃は黙って智也の隣を歩きながら自分の腕を撫でた。智也が肩を抱いてくる。

「寒くないか?」

「平気よ」

「今夜は、どうする? ……帰るなら、送るけど?」

「…………」

 鷹乃は考え込み、その様子で智也は自分の家へ恋人を連れ帰るが、藍ヶ丘の三上家まで来ると、待っていた詩音が二人の前に立ちはだかった。

「お二人で、どこへ行かれていたのですか?」

「ピアノのコンクールよ。クラスメートが出場していたの。詩音は………どうして、ここに?」

「鷹乃は今夜も叔父さん方のところへ、帰らないつもりですか?」

「………」

「もう何日目だと思っているのです。いくら何でも叔父さん方へ言い訳する私の身にもなってください」

「ごめんなさい……詩音…」

 それでも鷹乃は帰ろうという素振りを見せない。

「詩音の家へ泊めてもらっていると、叔父には説明しているのでしょう?」

「ええ。ですが、三日目あたりから、もう薄々気づかれておられます。いえ、もう確実に私のところへ泊まっているわけではないと感じておられます」

「……じゃあ、私は、どこへ泊まっていると思われているの?」

「叔父さん方にとっては、どこかは不明、けれども私が大丈夫と言うのだから大丈夫だと信じるしかないと思われています」

「……なら……いいじゃない…」

「っ!」

 詩音の頬が怒りで赤くなった。

「私は鷹乃の味方ですが、叔父さん方を半ば裏切っているのにも耐えられないのです!」

「「………」」

「いつまでも男性のところへ連泊しているなんて非常識です! 一度は叔父さん方のところへ帰るべきですよ、鷹乃、どうしたというのですか? 交際するにしても節度もあるでしょう? このまま夏休みだからといってダラダラと外泊を繰り返すなんて鷹乃らしくないですよ」

 前半は怒鳴っていたけれど、後半は諭すような口調で言い、鷹乃の肩に触れた。

「鷹乃、どうして帰らないのですか?」

「…………だって…」

「だって?」

「……不安だから………」

「何が不安なのですか?」

「……………」

「オレが悪いんだ」

 黙っていた智也が恋人をかばうように詩音に説明する。

「たぶん、鷹乃は隣に住んでる彩花とか、近くにいる唯笑がオレの家に来ることを……なんというか……不安に思ってるみたいなんだ。とくに彩花は窓から渡ってくるし…」

「そんな理由で………、……桧月さんも桧月さんで……まったく! それなら二度と桧月さんを家へあげないと約束すればいいことでしょう?! それとも三上さんは鷹乃と付き合っていながら、桧月さんを家へ出入りさせるというのですかっ?!」

「約束したさ! 彩花にも強く言ったし! 窓に鍵もかけて悪霊退散の札も貼りなおした! もともと彩花だって、ちょっと様子を見に来ただけで他意は無かった!」

「……………その窓とやらを見せてください」

「ああ、こっちだ」

 詩音は案内されて智也の部屋へあがった。

「ここがオレの部屋で、あっちの窓が彩花の部屋だ」

「……。なるほど……、夜、眠るとき桧月さんと2メートルと離れていないのですね」

「変な言い方するなよ! 別々の家だし! 二枚もガラスあるだろ?!」

「ほんの一足という意味においては同室でベッドを並べているようなものにも見えるでしょう。けれど、鷹乃も鷹乃です。付き合う相手を信頼でき……いえ、…」

 詩音は言いかけたことをやめて、自分の髪を軽く撫でると、抜けた髪を一本つまみ、窓の鍵へ巻きつけて結んだ。

「私の髪は日本では珍しい色をしていますから、同じ物を手に入れるのは、とても難しいはずです」

「詩音?」

「双海…」

「ですから、三上さんが約束を破って桧月さんを窓から招き入れたなら、証拠が残ってしまうでしょう。あとは………」

 詩音は机から赤い油性ペンを勝手に取ると、智也がつくった幼稚な悪霊退散の札を剥がして、本格的な魔法陣を窓ガラスに描いていく。

「ブーレイ・ブーレイ・ンディド・ゲヘナの火よ・爆炎となりて…」

「「……………………」」

 よくわからないけれど、もしかしたら本当に効果がありそうなくらい威圧感のある魔法陣が完成した。

「オ……オレの部屋がオカルトマニアの部屋みたいに……、双海は、なんで、そんなもの描けるんだよ?」

「幼い頃から海外を転々としていましたから」

「どこを?!」

「秘密です。さ、鷹乃、帰りますよ」

「……………………」

「オレも明日、バイトの初日だからさ。今夜は帰れよ。こんだけの魔法陣があれば彩花といえども突破できないし、オレも入れる気ないから、な?」

「………あなたが言うなら…」

「アルバイトをなさるのですか?」

「ああ。もともと……ほら、…鷹乃が妊娠してるかもって言うから慌てて面接だけは受けておいたんだけど、もう心配なくなったから明日は初日からの無断欠勤で辞表にかえようかと思ってたんだけど、彩花のやつが生活費を盾にするのがムカつくから、やっぱ働いてみようかと思ってるんだ」

「桧月さんが生活費を?」

「それは…」

 智也が言いにくそうに家計のことを説明すると、詩音はタメ息をついた。

「なるほど、鷹乃が不安になるのも理解できます」

「詩音……」

「けれど、三上さんのお母さんが、そのような事情で桧月さんに預けておられるなら、それはそれで尊重せざるをえないでしょう。いずれ、あらためてもらうとして、今は一度、叔父さん方のところへ帰りましょう。鷹乃」

「………うん…」

 こう言われては頷くしかなく、鷹乃は詩音に連れられて藍ヶ丘を離れる。道すがら、詩音は鷹乃の手を握った。

「私も桧月さんは嫌いです」

「詩音…」

「苦労知らずのくせに、苦労者ぶっていて、大嫌いです」

「……」

「私は鷹乃の味方ですよ」

「……ありがとう、詩音」

 そのまま二人は叔父のもとへ戻り、詩音が叔父へ謝りながら、鷹乃に交際相手ができたことを説明すると、とくに怒られることもなかった。詩音は帰り、叔父夫婦と夕食を摂ると銭湯へ行く。小学生の頃から叔母と入浴しているし、今夜も同じように銭湯の脱衣所で裸になり、いつも通りに何もかも済ませているはずなのに、叔母に智也とのことを見透かされていると感じてしまい、叔母の方も鷹乃に何か言うべきか、何も言わざるべきか意識してしまい、ほとんど会話せずに揚がった。

「………、心配かけて、ごめんなさい」

「タケちゃんが無事なら、それでいいのよ」

 銭湯の玄関を出るとき、それだけの会話を交わして、叔父と合流して自宅兼店舗へ戻ると、二階に三つの布団を敷いて並んで横になる。

「……………………」

 なかなか寝付けずにいると、その気配を感じた叔父が声をかけてきた。

「タケも自分の部屋がほしいよな」

「…別に、私は……」

 否定してみせても、それは嘘になってしまうから、鷹乃は語尾を明瞭にできなった。

「すまんな。タケ、もうちょっとワシが儲けてやれたら、この店も三階建てにするなり、別に家を買うなりできたかもしれんのに、不甲斐のない保護者で」

「そんな…謝らないでよ。私は………二人の子供でもないのに、御世話になって申し訳ないと思ってるのに……謝られたら……どうしていいか」

 鷹乃は布団の中で丸くなった。

「謝らないで………悪いのは、……私を捨てた、あの二人よ」

「……………………」

 両親のことを「あの二人」と表現する姪を可哀想にも当然にも思い、叔父はそれ以上は何も言わずに布団に戻った。

 

 

 

 翌日の夜、智也は泥酔した嘉神川幸蔵に肩を貸しながらタクシーに乗り込んだ。

「大丈夫っすか、社長」

「ああ……うん……大丈夫、大丈夫だ」

「………………」

 あんまり大丈夫には、見えないな、このオッサン、今にも身体壊しそうだぞ、智也はタメ息をついた。

「いくら接待だからって、オレの分まで呑まされなくても、オレだってビールの5、6杯は付き合えますよ」

「それはっ! ……………………ダメだ! ……………いかん! ……絶対にいかん!」

 やたらと間をとっているのは酔っているせいだったが、幸蔵なりの考えは硬い。

「いいかね! ……君は高校生だ! ……酒は二十歳から!」

「…………オレはバイトとして雇われてるから、接待が仕事ならやれることはやりますけど、酒に付き合わせないなら、他の社員さんの方がいいんじゃないですか?」

「それがダメなんだ。……みんな身体を壊しかけてな。うん……うん……」

「………」

 何に頷いてるんだか、このオッサン、智也はタクシーの運転手に社長宅を教えながら、酔いすぎた幸蔵を見守る。

「だから、高校生のバイトなら、未成年を………理由にだ…………返杯を断りつつ、酌もできるだろう? うん! 名案だ」

「……はあ……そうっすね。…けど、男に酌されても、接待相手も嬉しくないんじゃ?」

「うむ、やはり君は……賢いな……うん! 見込んだだけのことはある」

「………」

 いや、一般論だろ、だいぶ酔ってるな。

「ワシもそう思って………以前には、見た目も頭もいい秘書を連れていたんだが……うむ、…うん、……まあ、……これはこれで問題があってな、今は5時に帰ってもらっているんだ」

「…はあ…」

「それに、色どころは……店の方でも……用意できるからな」

「そうっすね。今日も何人か、お酌専門でいましたね。あの子ら、時給ってどのくらいなんでしょう?」

「うーー? うーーん、……どうだろうな、……すまんが、君の二倍はあるかもしれん」

「いや、いいっすよ。オレは時給1200円で十分っすから」

「だが、裸踊りまでさせてしまって……申し訳ない、これを取っておきなさい」

 幸蔵は一万円札を智也のポケットへ押し込んできた。

「………オレは、その場の勢いでやっただけですから……ノリというか、盛り上がってるから、つい…」

 冷静に考えると座敷で裸踊りしたのは、自分でもやり過ぎだったと思うが、接待は成功だったし、大ウケだったのでサービス精神が疼いただけのことだった。

「君の、……名前……ああ、ミカミ……うん、…三上君、うん……君のヤスキヨ節は、大受けだったな! うん! 先方も喜んでくれて……うん! よかったよ、うん!」

「………どうも」

「三上君は根性があるな! ……ワシが先方に要求されて困っているのを見て、自分から買って出てくれるとは……ワシはダメだ、ああいうことができん」

「いえ……オレは平気っすから」

 たぶん、相手も本気では要求してないし、見たくもないし、そもそも嘉神川社長のキャラじゃないから、どんなに酔っても、この人にはできないだろうな、智也は押し込まれた一万円札をもらっておくことにした。

「三上君の……うん……面接での……あの話にも……ワシは感動したよ……うん……今どき気骨のある若者だ……」

「はあ……」

 鷹乃が妊娠してると思ってたから、どうしても時給の高いバイトにありつきたくて、つい事情を話してしまっただけなんだが、まあ、いいか。

「どうかね、……卒業後も、……うちで働かないか? ……正社員として」

「はい……考えてみます」

「うむ」

 それっきり幸蔵は目を閉じて眠ってしまった。

「……ふーっ……疲れた」

 智也まで眠たくなる頃に、タクシーは社長宅に着いた。

「着きましたよ、嘉神川社長」

「うー……うん……ごくろう……ありがとう……うん」

「………」

 智也は意識が怪しい幸蔵に肩を貸して立ち上がらせる。玄関まで進んでチャイムを鳴らすと、中から鍵が開いた。ドアは開けてもらえないので、智也が開けてみると、中学生くらいの少女が冷たい顔で立っていた。

「………」

「………」

 この子が、ご自慢のクロエちゃんかな、智也は面接の後に聞いてもいないのに自慢された馬術とアーチェリーが巧い社長令嬢のことを思い出した。

「………」

「………」

 クロエは冷めた表情で両腕を組み、智也と幸蔵を見下ろしてくる。空気が重いので、智也は軽口を叩いてみる。

「ちわー♪ お届けものです♪」

「………。そこに置いてちょうだい」

「はい……」

 二人して社長を物扱いしつつ、智也は丁寧に幸蔵を玄関におろした。

「じゃ、オレは、これで」

「……待ちなさい」

「はい」

「あなた、宅配ではないのでしょう。いったい誰? うちの従業員なの?」

「今日から入ったバイトです」

「そう……」

「じゃあ、オレは、これで…」

 再び智也は帰ろうとしたが、クロエが呼び止めてくる。

「待ちなさい。ここに置いておかれては迷惑よ。部屋まで運び込んでちょうだい」

「………オレは家電屋の宅配でもないんだけど、な」

「うちのアルバイトなのでしょう。だったら、私の命令も聞きなさい」

「まあ、酔って寝ちゃった社長をほっとくのも、よくないか……よいしょっ!」

 智也は靴を脱いで家にあがる。

「で、嘉神川社長の部屋、どこかな?」

「こっちよ」

 クロエが案内してくれた寝室のベッドに幸蔵を寝かせる。

「う~……クロエ……」

「娘さんなら、台所に…」

 智也が振り返ると、クロエはクリスタルガラス製のピッチャーに天然水を満たして、グラスといっしょに銀製の盆へ載せて持ってきていた。

「水を飲ませるから起こして」

 クロエはベッドサイドの樫を彫刻して造られたテーブルに盆を置くと、ピッチャーからグラスへ水を注いで幸蔵に飲ませる。

「う~……クロエか?」

「………。水よ」

 言葉遣いは冷たいけれど、クロエは丁寧に父親を介抱している。智也は肩をすくめて微笑した。嫌ってる感じだけど、実は好きなんだな、智也の表情が変化したのにクロエが気づいた。

「何を笑っているの?」

「別に何も。ちょっとホッとしただけさ」

 この年齢の女子は気難しいからな、余計なことは言わないでおこう、中学三年か、二年くらいかな。

「クロエちゃんは中学生?」

「ええ、二年生よ。それが何か?」

「起きて待ってるには、かなり遅い時間だからさ」

 日付が変わって一時間が過ぎようとしている、智也にとっては平気な時間だったが、健全な女子中学生には遅い時間だった。

「別に待っていたわけではないわ。本を読んでいたら遅くなってしまっただけよ」

「ふーん…」

 素直じゃないな、まあ、いいや、オレも帰って寝よう、智也が立ち去ろうとすると、クロエが問いかけてくる。

「アルバイトと言ったけれど、あなたは学生なの?」

「ああ、まあ、浜咲学園の三年」

「そうですか、浜咲の。わざわざ父を送っていただいてありがとうございます」

「……。あ、いや、まあ、仕事だから」

 急にクロエが敬語になったので智也は軽い違和感を覚えつつも、自分は態度を変えない。

「じゃあ、オレは、これで…」

「せめてお茶を淹れますから、少し休憩なさってください」

「……まあ……それなら少し…」

 智也は案内されたリビングのソファに座った。クロエは薄い紅茶を淹れている。

「来年、私も浜咲学園と澄空学園を受験しようと思っているのですが、…あなた…いえ、先輩は、…あ、私は嘉神川クロエと申します」

「……ああ。オレは三上智也。よろしく」

 智也は急にクロエが敬語になった理由を理解できた。彼女の中で自分が父の会社のアルバイトという立場から、進学するつもりの高校にいる先輩という立場に変化したのだと、わかって合点がいく。

「オレでも合格したんだから、クロエちゃんなら簡単……って気安く言うのもアレだから、ちなみに中学で成績は、何番目くらい?」

「はい、たいていは一番なのですが、たまに英単語の綴りを間違ってしまい、順位がさがることもあります。それでも五位までには入れています」

「………。きっと合格する! オレが保証しよう!」

「本当ですか?」

「ああ、受験当日にインフルエンザになったりしない限り、絶対に合格するよ。っていうか、もっとハイレベルな都内の高校でも狙えるんじゃないか?」

「それも考えなくもないのですが……寮生活になってしまうか、通学距離が伸びすぎるのも大変ですから、浜咲か、澄空あたりが手頃かと思っています」

「ああ、そうだよな。それに一流校で最下位より、二流校で一番のが気持ちいいもんな。オレも工業高校にでも行けば、一番になれたかも」

「クスッ…」

 見栄のない智也の言い様に、クロエが少し笑った。

「一番というのも気疲れしますよ。まわりから近寄りがたいって思われてしまって」

「それは、たぶん、成績だけじゃなくてクロエちゃんが美人だし、プチ金持ちだからじゃないかな」

「プチって……どういう意味ですか?」

「中の上というか、上の下くらいかな。普通より上だけど、本当の金持ちって、もっと上がいるからさ。花祭とか、黒須とか、加賀とか、知らない?」

「花祭さんは聞いたことがあります……あの家と比べられては、うちの会社なんて、ご覧の通り、父が夜中まで働かないともたない中小企業ですから」

「けど、社長は社長。一番だ♪」

「………」

 あまり父親のことは話題にしたくないようでクロエが黙った。

「そういえば、お母さんは?」

「……」

 余計に話題にしたくないようでクロエは一瞬、悲痛な表情を浮かべたけれど、すぐに隠して微笑んだ。

「あの人は私たちを捨てました。だから、私たちも忘れました。もう関係ありません」

「……そっか。悪いこと、訊いたな」

「いえ、悪いのは、あの人です。三上先輩ではありません。お茶のおかわり、いかがですか? マドレーヌも」

「いや、もう遅いし、ごちそうさま」

 智也は腰を上げた。

「まあ、高校受験はクロエちゃんなら大丈夫だと思うし、オレに教えられるのは……そうだな」

 空気が重くなってしまったので、払拭するため智也も微笑して言う。

「いかに学園祭を楽しくするか、くらいだな。とくに浜咲に来たなら裏情報たっぷり教えてやれる。アホ校長のアホぶりとか、そのアホを殴った超アホとかな」

「それ、どういう話なのですか?」

「それは浜咲に入ってからのお楽しみだな。じゃ、おやすみ」

「はい、おやすみなさい」

 クロエと別れて深夜の歩道を歩く。たぶん、幸蔵がくれた一万円には帰りのタクシー代という意味も含まれているだろうけど、歩ける距離なら歩いて残しておきたい。それほど疲れることもなく自宅に着いた。

「電気がついてる……彩花か? ……鷹乃?」

 誰もいないはずの三上家なのにリビングと台所が明るい。最初、彩花かと思ったが、合い鍵を持っているのは今は鷹乃だったことを思い出して、急いでドアを開けてみる。

「鷹乃いるのか?」

 呼びかけるまでもなく鷹乃は玄関で待っていた。

「こんな時間まで何をしていたのよ?! 心配したのよ!」

 涙声で怒鳴られたので智也は困った。

「ごめんな、バイトだったんだ。悪い」

「バイトって……もう二時よ。私は事故にでも遭ったんじゃないかって……心配して…」

「悪い。お互い、ケータイ持ってないからな。けど、今夜、来るって約束してたか?」

「……してないけど……」

 鷹乃が追求を弱めて下を向いた。その廊下に大きな荷物が二つ置かれている。なんだか、着替えや生活用品などが詰め込まれていそうな大きさだった。

「…鷹乃、家出?」

「違うわ。ちゃんと叔父にも言ってきたわ。……」

「なんて言って?」

「………しばらく、……ここに……」

「……」

「ごめんなさい……迷惑なら…」

「いらっしゃいませ♪ どうぞ、いつまでも、ご滞在ください。なんなら百年、ここにいてくれよ。大歓迎だ」

「………それって…………プロポーズなの?」

「そーゆー風に聞こえたなら、そーゆー意味だな♪」

 智也が笑って抱きしめると、鷹乃も抱き返して文句を言う。

「ずるいわ。勢いで……プロポーズまで……済ませるなんて…」

「ノリと勢いで生きてるんでね。好きな女が荷物もって来たら、そーゆー思考しかできないな、オレは」

 言いながら鷹乃の服を脱がしていく。玄関の鍵を閉めるのを忘れていたのに気づいたのは朝日が昇ってからだった。

 

 



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6話

 

 

 夏休み最後の日、カナタは自宅で陵いのりと話し込んでいた。同じ浜咲学園に四月から入学してきた後輩との関係は小学校からで、カナタは午前中の撮影で汗をかいた後、帰宅してシャワーを浴びてから、いのりと会っている。いのりは夏物の普段着で、カナタは下着姿で、寛いでいた。

「ふーん♪ じゃあ、その彼氏とは芦鹿島の花火大会で、彼氏って言える関係になったんだ?」

「うん、そう」

「教会でね、雰囲気あっていいじゃん」

「…エヘヘ…」

 いのりが照れくさそうに微笑んだのが可愛らしくてカナタは抱きついた。

「で、その彼氏の名前、そろそろ言ってみよっか?」

「や、ヤダよ。カナちゃん、言いふらすもん」

「アタシが言いふらさなくても、すぐにバレるって。いのっちの彼氏、どんなヤツか見に行く! 浜咲の一年でサッカー部だよね。天野?」

「違うよ」

「中谷は……いのっちの好みじゃなさそう……うーん、……あと、誰がいたっけ?」

「言わない」

「言え♪」

 いのりの脇腹にカナタの指が滑り込んできた。いのりのタンポポ色のキャミソールにカナタが手を入れてくる。

「ひゃっ…」

「言わないと、笑い狂うよ?」

「………言わない」

「あーそー♪」

 カナタの指がピアノを弾くように、いのりの脇腹から腋にかけて跳ね回った。いのりは長い髪を振り乱して笑い苦しんだけれど、白状しない。

「頑張るね、いのっち。でも、いいのかな? くすぐり地獄、レベル2に行くよ」

「ハァ…ハァ…ひぅ…か…勘弁して…ハァ…息が…」

 あまり体力のない、いのりが汗を拭いて息を整えている。

「レベル2はね。縛るよ?」

「ぅぅ……」

「縛って、舐めるよ♪」

 いのりの耳へ息を吹きかけて、キスをした。

「ひぅっ! カナちゃん?!」

「で、彼氏の名前は?」

「………」

「恥ずかしいとこ、舐めようか? 彼氏より先に♪」

「っ……カナちゃん、エッチすぎ……」

「で、彼氏の名前」

「……………………、………飛田……くん…」

「…………」

 カナタの舌が、いのりの頬を舐めた。くすぐられたせいで流れていた汗を舐めとった。

「うーん♪ これは嘘をついている味だ♪ 一年生に飛田なんてヤツいないよね」

「うぅ~………はい、…嘘です……でも、気持ち悪いから、もうしないで…」

 いのりが頬をハンカチで拭いた。

「もう嘘ついちゃダメだよ。次は脱がせて舐めるよ」

「うぅ………」

「彼氏のお名前は?」

「…………………」

「くすぐり地獄、レベル3♪」

 いのりの手首を握って腕を挙げさせると、カナタは腕の付け根を舐めた。

「きゃはははっ、イヤ! きゃははっ、やめて! カナちゃん!」

 指でくすぐられる何倍もくすぐったくて、いのりは逃げようとするけれど、巧く押さえ込まれて逃げられない。さんざんカナタに不本意な笑いを強いられ、いのりは息も絶え絶えになった。

「さあ、そろそろ言わないと、次は、とんでもないことするよ」

「ハァ……ハァ…ぅぅ…ハァ……もう、十分とんでもないよ…」

「そんなに彼氏の名前、秘密にしたいの?」

「う~………そーゆーわけじゃ……でも、学校でからかうよね? 絶対」

「いいじゃん、彼氏の名前くらいアタシに教えておかないと、つい、うっかりアタシが口説いて盗っちゃうかもよ? アタシはドロボウ猫になりたくないな、トトみたいな」

「………。……鷺沢……一蹴くんといいます。横取り禁止です」

 いのりは舐められたところをウェットティッシュで拭きながら、少しカナタを睨んだ。ほたるがウイーンへ行ってしまって、じゃれる相手が無くなった分、いのりに負担が向いている気がする。ほたるはカナタにキスをされても舐められても、ことさら拭いたりしなかったけれど、いのりは意思表示も込めてカナタの舌が触れたところを何度か拭いた。

「横取り禁止だし、イッシューをからかうのも禁止だよ」

「盗らない盗らない♪ ふーん、イッシューねぇ、鷺沢一蹴か…」

 カナタが一学期の記憶を振り返って、一蹴の顔を見ていたことがないか脳内を検索していると、いのりは慌てて話題を変える。

「ほっ! ほたるさん! ほたるさん、大丈夫なのかな? ウイーンで!」

「うーん……、どうかな。アタシも忙しくて見送りも行けなかったから……そのうち、サプライズで電撃訪問してみるよ。ヨーロッパでの撮影でもあればチャンスだし」

「トト先輩は、本当に知らなかったのかな……。だって、二人は親友だったのに…」

「アタシも、いのっちの彼氏の名前、知らずに出会って恋に堕ちてたら、どうしたかな? やっぱ女友達には、ちゃんと教えておかないとね」

「……カナちゃんにはショーゴ先輩がいるのに、そーゆーこと言うの?」

「あいつとはケンカ中♪」

「まだ、続けてるの? 夏休み、終わっちゃうよ。高校最後の夏休みなのに、ケンカで終わりにしちゃうの、もったいないよ? 後悔するよ」

「………ぅ……実は、ちょっと後悔してる。夏休み、ぜんぜん遊べなかった」

「ほら」

 いのりは欲求不満のはけ口を自分にされるのが嫌なので、カナタと正午を仲直りさせることにした。人肌が恋しいなら、ちゃんと恋人の肌を求めてほしい、いのりは小学校からカナタを見ているので、なんとなくカナタが本気で同性でも性的好意の対象にしつつあることは気づいている。そのことにカナタ自身が冗談めかしながらも内心では戸惑っていることも知っているので、できれば戸惑ったまま思い止まって、ちゃんと正午との仲を続けてほしい。男でも、女でもいいなら、男にしておくべきだと、いのりは思った。

「仲直りしようよ、カナちゃん」

「だって、あいつが…」

「意地張ってる時間がもったいないよ。ショーゴ先輩と連絡あるの?」

「………ない………」

「仲直りしたいなら、ちゃんと連絡しないと。ね、待ってないで、こっちからしようよ。負けるが勝ちって昔の人は言いました♪ はい」

 いのりがテーブルに置いてあったカナタの携帯電話を渡してくれる。カナタが渋っていると、勝手に操作して正午の電話番号まで検索して表示させてくれた。

「かけよ?」

「………」

「かけるね」

 いのりがボタンを押してコールを始める。

「もう……勝手に……」

 文句を言いつつも、カナタは携帯電話を耳にあてて受話されるのを待った。七回コールした後、正午が出た。カナタは気分を切り替えて明るい声を放つ。

「ハーイ♪ ショーゴ」

「……。何?」

「What? What have you been doing? Long time no see.」

 きれいな発音で「何してた? 久しぶりだね」と言ったけれど、正午の反応は冷たい。

「日本語を喋れよ」

「ナニの一言も文章になってないね」

「用件は何だよ? オレ、忙しいんだ」

「夏休みの宿題で?」

「そーだよ! わかってるなら切るぞ!」

「まあまあ、待ちなよ。用件はさ、明日の始業式、サボるのか、出席するのか、聞こうと思って♪ ね、サボるなら、いっしょにウォーターパークとか行かない?」

 とっさに考えたデートプランが無断欠席前提なことに、いのりはあきれつつも一蹴のことをムリヤリ聞き出された仕返しに、カナタが耳をあてている携帯電話に反対から耳をあてて盗聴する。カナタも嫌がらずに正午との会話を聞かせるので、二人で一つの電話をはさむ形で座る。

「ね、ショーゴ。明日なら夏休み明けるから、他のお客が少なくて気持ちいいよ。うるさい小学生も中学生も学校いってるし、家族連れもいなくて、いるのは夏休みが長い大学生くらいだから、きっとガラガラ。アタシたちのプールだぁ! ってくらい、遊べるよ。始業式なんてアホ校長の長話になるからさ、二人で風邪引こうよ。暑気あたりでもいいし」

「お♪ いいな、それ。……って、ダメだ!」

「なんで? 宿題なら、アタシのを写させてあげるしさ。いいじゃん」

「っていうか、忘れたのかよ、オレらケンカ別れしただろうが!」

「だから、仲直りしてあげようって言ってるの♪」

「仲直りって………、いや、ダメだ。オレ的にダメだ」

「……ぶーーっ……まだ怒ってんの?」

「ああ、怒ってる」

「………許して♪」

 かなり可愛い声を出してみたが、電話の向こうにいる正午は拒否してくる。

「ダメだ。君とは別れた。もう終わったんだ」

「ムカっ……意外に、根に持つね」

 下手に出たのに冷たくされてカナタは苛立ち、またケンカになりかける。怒りで拳を握ると、いのりが握った拳を両手で包み、カナタの目を見つめて首を横に振る。

「「………」」

 ケンカしちゃダメ、仲直りするの、という念波を送ってくる。カナタは怒りを鎮める努力をする。

「……………うーーん……ごめん、許して、あのときはアタシが言い過ぎました。蹴りすぎました、ごめんなさい」

「………。そーゆー風に言われてもなぁ……」

「♪」

 あと一押しね、カナタが手応えを感じ、いのりも励ますように肩を抱いてくれる。

「ずっと仲直りしたかったけどさ。夏休み後半になってモデルの仕事、いろいろ入ってたから連絡もとれなくて、ごめんね」

「……それは、いつものことだろ?」

「うん、ごめん。ほたるのコンクールでも、お互い無視してたよね。りかりんと、のんにも気を揉ませちゃってさ。アタシたち大人気ないね」

「…………」

「だから、明日、遊びに行こ♪」

「……遊びに行く理由になってないぞ」

「いいじゃん、宿題も写させてあげる」

「モデルの仕事してたんじゃないのか?」

「アタシは、ちゃーーんと計画的にやってます」

「………」

「いいのかな? 宿題」

「三上に見せてもらうからいい」

「毎年、智也も8月32日くらいにならないと完成してないと思うけど?」

「あいつは寿々奈さんと同棲してるから、きっと彼女が計画的に引っぱってるはずだ」

「え?! 同棲? マジで?」

「ああ、知らなかったのか? まあ、オレも昨日、電話して知ったんだけど、なんか、同棲してるらしい。保護者だった叔父さんにも断って、普通に暮らしてるって」

「へぇぇぇぇ♪ やるねぇ♪ やりまくりだねぇ」

「そーだな」

「アタシたちも、しばらく、してないね」

「………もう、しない。君とは別れた」

「頑固だねぇ」

「ああ、頑固だ」

「………。そろそろ許しちくれよ、ショーゴ様」

「ふざけてるなら、もう切るぞ。これから三上の家に行くんだから」

「きゃは♪ 二人の暑い空間、お邪魔に行くんだ?」

「…」

 正午が一方的に電話を切った。

「あちゃー……けっこう怒ってる。暑いから脳が沸騰してるのかな」

「カナちゃんが、ふざけるからだよ。ちゃんと本気で謝らないと」

「……。アタシ、けっこう何回も詫び入れたよね?! あいつ、ちょっと調子に乗りすぎ! もういい! 知らない!」

「ダメ」

「……………………」

「はい、深呼吸。イライラも意地っ張りも、飛んでいけ~♪」

「飛んでいかない」

「飛んでいくよ? はい、飛んでいけ~♪」

 いのりがカナタの胸、その中心を優しく撫でてくれる。本気で癒そうとしてくれているのでカナタの気分も鎮まった。

「飛んでいった。いのっちのイは癒しのイだね」

「さ、リトライしよ。怒ってるショーゴ先輩が子供なの。カナちゃんは大人だから、大きくかまえよう♪ ね♪」

「大きくかまえる♪」

 カナタが再コールしてみる。なかなか正午は受話しない。

「あいつ、無視してやがる」

「きっと出てくれるよ。そしたら、謝ろうね。出てくれるってことは、ショーゴ先輩だってホントは仲直りしたいから出るんだよ」

「いのっち……」

「本気で怒ってる人は電話に出ないもん」

「そうだねぇ……あいつ、なかなか出ないね」

「…………………」

「………………………あ」

 コール15回で正午が受話してくれた。

「ハーイ♪ ショーゴ、大事な話あるよ」

「……何だよ?」

「どうせ、智也は鷹ちゃんの答えを丸写しになるよね。それをショーゴまで写すと先生にバレやすいからさ。アタシの答えもミックスすれば、バレにくくなるよ?」

「……………」

「♪」

 考えてる考えてる、あと一押しね、カナタは親指を軽く舐めた。いのりは素直に謝らないで実利で男を釣ろうとするカナタへ軽く頭突きする。いのりの白い髪飾りの部分が当たったので、カナタは痛かったが、声には出さない。

「でさ、ちゃちゃっと四人で宿題仕上げて、あとは、その場のノリでさ。智也の家、誰もいないし、やっちゃおうよ。四人で。アタシ、鷹ちゃんが、どーゆー風に智也としてるのか、ちょっと興味ある」

「…………オレもある……けど! ダメだ!」

「いいじゃん。で、明日も始業式サボって四人でプール行こうよ。楽しいよ? プール。水着だよ、ビキニだよ、競泳水着だよ、鷹ちゃんとアタシ、水着交換してみよっかな? 競泳水着、アタシも一回、着てみたかったんだ♪」

「……………………」

「ねぇ、ごめん、ショーゴ。ホントに謝るから、機嫌なおしてよ」

「…………………」

「ぶーっ……、アタシ、すごく譲歩してるよね? 何度も謝ってるよね? そろそろ許してよ? ケンカ両成敗じゃん」

 頑張って謝っているカナタの背中を、いのりが優しく撫でくれる。そのおかげで大きく譲歩できていた。珍しいカナタの譲歩に正午も揺れてきている。

「そう言われても……」

「明日、遊びに行けないとさ。もう冬物の撮影とか始まって忙しくなるし、ショーゴだって受験前になるし、もう来年二月の自由登校まで、お互い時間とれないよ? クリスマスだってセンター試験前になるしさ。ね? ショーゴ、ごめんなさい、アタシが悪かったです、許してください」

 本気で謝ったカナタへ合格点をあげるように、いのりが頭を撫でて抱きしめてくれた。カナタは娘が母親に甘えるように、いのりの胸に頬擦りする。電話の向こうの正午も折れてきた。

「……いや、あのときはオレも悪かったけどさ…」

「決まり♪ じゃ、今から…」

「待て! 待て待て待て!」

「まだ何かあるの?」

「だからさ、オレとカナタは別れただろ? そーゆーことだからさ、あのときのケンカは和解するけど、もう遊びに行ったりとかはしない。ただの友達に戻ろう」

「……………………どうして?」

「どうしてって……………………オレ、別に彼女できたからさ」

「………………」

 にわかには信じがたいけれど、正午がウソをついている気配でもないのでカナタが黙り込み、いのりも深刻な表情になった。

「そーゆーことだから、カナタとは別れたままにしておいてくれ」

「……、エープリルフールは五ヶ月前に終わったよ?」

「ウソじゃない。ホントに新しい彼女ができたんだ」

「……………………ふーん……」

 カナタが軽く受けとめるように鼻を鳴らすと、いのりは激しく首を横に振って、そんな反応じゃダメ、と唸っている。カナタは冷静を装って、正午に問いかける。

「ちなみにさ、誰? ショーゴの新しい彼女って」

「それは…………………………言わない」

「ふーん…………りかりんかぁ…」

「違っ……カマかけとかするなよ! いや、とにかく、りかりんかもしれないけど、りかりんじゃないとも、言わない。のんちゃんかもしれないし、のんちゃんじゃないかもしれない。桧月さんかもしれないし、誰とも言わない。言ったら、お前とその子との関係が悪くなるだろ?」

「ふーーーん………」

 果凛とは事務所で今日も出会っている、そんな様子はなかった。葉夜は正午に興味をもっていないし、カナタを裏切ってくるとも思えない。智也を諦めた彩花という線は否定材料が少ないというだけで、肯定できるとも思えないし、あえて正午が例にあげたということは別人だと思われる。そして何より、カナタと交友関係にある範囲だと、正午は無自覚に白状していた。

「一応さ、アタシはショーゴの彼氏だったわけじゃん。次の彼女が誰かくらい、聞く権利はあると思うな」

「………………………………、悪いけど、言わない」

「…………そう………じゃあ、さよならって、ことなんだ?」

「ああ……」

「バイバイ、ショーゴ」

 あっさりとカナタが電話を切ろうとした指を、いのりが超絶技巧的なスピードとテクニックで摘み、電話を切らせなかった。

「「……」」

 もう少し話して、納得できてないよね、と強い視線に乗せてくる。

「…………………………」

「悪いな、カナタ。じゃあ…」

 正午が電話を切ろうとしている。いのりの視線に負けてカナタが引き伸ばす。

「明日から二学期だよね」

「…ああ」

「で、アタシとショーゴは廊下で会っても、お互い無視? それとも挨拶くらい、してくださるのかしら?」

「………、………君が望む方で……オレは、どっちでもいい」

「どっちでもいいなら、シカトもかっこ悪いし、ご挨拶くらい交わしましょうか?」

「………そーやってケンカ腰になるなら………無視する」

「………………捨てられたアタシは嫌味の一つも言うと無視されて、ご挨拶さえいただけないのですね?」

「捨てたって………、……ケンカ別れだろ?」

「……」

 カナタが痛そうに額の古い傷痕へ手をあてた。もう痛くないはずなのに、痛い。自分から捨てられたと表現してしまったことも、いのりが隣で気づかってくれるのも、とても悔しい。今すぐ携帯電話を壁に叩きつけたい衝動にかられる。

「だいたい……オレとカナタって周りが囃し立てて付き合えばとか言うから、なんとなくいっしょにいただけで、ホントに付き合ってたのか?」

「っ………」

 痛い、痛い、激痛が額と胸に走った。

「ショーゴが…、そう想うなら…、そうかもね。付き合ってなかった…のかもね。はは」

 カナタが空笑いした瞬間、いのりが耐えられなくなって怒鳴った。

「そんな言い方ひどすぎるっ!! じゃあ、この三年は何だったの?! 好きじゃなかったのに付き合ってたの?! 最初から好きじゃなかったなんて!! どうして、そんなこと平気で言えるのっ?! 信じられないっ!! ケンカ別れとか言っても! いつものケンカなのに! 浮気した自分のこと棚に上げて!! どうして、ぜんぜん自分は悪くない風に言えるの?! 付き合ってたことまで否定するの?! じゃあ、どんな気持ちでカナちゃんを抱いたのっ?! 好きじゃないのに、なんとなくいっしょにいたの?! 答えてよ!!」 

「っ……カナタ? ……なのか?」

 正午は聞き慣れない声で怒鳴られて混乱している。

「今の声はカナタ……?」

「アタシじゃないよ……もういいよ。話はわかったから、じゃ、バイバイ、ショーゴ」

 今度こそカナタが電話を切った。

「ふーっ……」

「ハァ……ハァ……ハァ…」

 いのりは怒鳴って息切れし、カナタはタメ息をついている。

「………………」

「…ハァ……ハァ…」

「……………………」

 カナタは黙ってベッドへ倒れ込むと、枕に顔を押しあてた。

「………カナちゃん……」

「……………………」

「ごめんなさい……、勝手に割り込んで……」

「………………」

「でも、ショーゴ先輩の言い方、ひどすぎるよ」

「…………………………」

「あんな風に言われたら黙ってられなくて…」

「…………うん、アタシも限界…」

 ふらりとカナタは立ち上がると、いのりに枕を投げつけた。

「きゃっ?!」

「やってくれたねッ!!」

 それだけで足りなくて、氷の溶けたアイスコーヒーを顔へ浴びせて、グラスは壁に投げつけた。大きな音がしてグラスが四散し、いのりは頭からコーヒーでずぶ濡れになった。

「くっ…ハァ…ハァ…」

「……カナちゃん………」

「…くぅぅ……」

 カナタが握った拳を震わせている。いのりは枕とコーヒーの仕打ちを受けたにもかかわらず、寄り添って手を取る。

「カナちゃん、泣きたいなら無理に我慢しないで…」

「うるさいっ!! これ以上、アタシを惨めにしないで!!」

 手を払って、いのりを涙目で睨む。

「いのっちのせいでアタシは自分の惨めさを認識しなくちゃならない! ショーゴにも知られる! ショーゴは無自覚だったのに! そーゆー風に、ずっとしてきたのに!」

「カナちゃん……何を言って……?」

「わからないっ?! ショーゴはアタシのこと、たいして好きじゃないの! アタシがショーゴを好きな気持ちの10分の1も好きでいてくれない!! なんとなく、いっしょにいるだけ!!」

「そんなこと……」

「あるよ!! ほたるといっしょ!! ほたるがケンを好きだった気持ちほど、ケンはほたるを好きじゃなかった! そーゆー関係といっしょ!! だから、アタシは傷つかないように対等にしてきたのに!! いのっちが全部壊したっ!! 最後の最後に超惨めにしてくれた!! 最悪っ!! もう最悪だよ!!! いのっちに八つ当たりしてる自分も!! 余計なことを言ってくれた、いのっちも大っ嫌いっ!! 大っ嫌いっ!!」

 カナタは泣き喚きながら、いのりにクッションやヌイグルミを投げつけ、CDケースや文房具を壁に投げつけている。かろうじで怪我しそうな物は人に投げつけないという理性が残っているだけだった。

「ハァ…ハァ…ひっく…ハァ…ぐすっ…」

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

 いのりが、ごめんなさいを百回言う頃には、室内は荒れ果てカナタの心境を表しているような無惨な状況になった。

「……ハァ……ハァ……」

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「…く…ぅ…くぅぅ…ぅぅ…」

 さんざん怒鳴り散らした後に悲しくなってきたカナタが座り込んで泣き始める。

「ぅぅ…ぅうう…」

「カナちゃん…」

 古い傷痕が痛むらしくカナタは右手を額へ、左手を胸へあてて泣いている。いのりは強い既視感にかられた。こんな風に額を押さえて、喪った悲しさで泣いていた一蹴の姿と、カナタの姿が重なって、いのりの胸も痛くなった。

「カナちゃん……ごめん、ごめんなさい…」

 いのりは盛大な八つ当たりを受けたことも忘れて、カナタを抱きつつみ、いっしょに泣いた。しばらく泣いた後、カナタがつぶやいた。

「どうして……アタシは、あんなヤツが……好きなのかな……」

「…………」

「あいつに惚れちまった自分が………嫌い。やめたいのに、………やめられない」

「カナちゃん………、……」

「ショーゴにはフラれるし、ほたるは留学しちゃうし、どうして、アタシは惚れたヤツに縁がないかなぁ……」

「……………」

 やっぱり、ほたるさんに本気なんだ、聞きたくなかった、さらっと告白されても困るよ、いのりが抱いていたカナタから、さりげなく離れようとすると抱きしめられて、胸へ顔をうめてくる。

「いのっち」

「………………」

「コーヒー臭い」

「………カナちゃんのせいだもん…」

「ごめん。……怪我しなかった?」

「うん、それは平気」

「シャワー浴びてきなよ。着替えも用意するから」

「……。うん」

 いのりは小学校の頃には何度か使ったことのある黒須家の浴室を貸してもらう。脱衣所に入って鍵を閉めて、裸になり、シャワーを浴びる。長い髪に染み込んだコーヒー臭を落とすのは、ちょっと大変そうだった。

「いのっち、頭、洗ってあげる♪」

 いつのまにか、カナタが背後にいた。カナタも裸になっている。

「………鍵……かけたはずなのに…」

「あれは外からマイナスドライバーで開くから」

「…………入ってこないでって意味なんだよ?」

「うん、そーだね」

「………………」

「いいじゃん。小学校のころは、よく二人で入ったし」

「あの頃とは……」

「あの頃とは、この髪、すっごい伸びたよね。一回さ、いのっちの髪を洗ってみたかったの♪」

 カナタはシャンプーを、いのりの髪に塗ってくる。

「うわぁー♪ 大変だね。シャンプー、すぐ無くならない?」

「うん……よくお母さんに不経済だって、言われる」

「いっそ洗濯機に入れたくなるよね。きゃははは♪」

 さっきまで大泣きしていたカナタが空元気でも出してくれたのは嬉しいけれど、シャンプーを泡立てるという名目で、いのりの身体を頭から足首まで撫でてくれるのは正直なところ困惑する。

「これだけ長いとシカ電でドアに挟まれたりしない?」

「しそうだから、それは、すごく気をつけてるよ」

「なるほどね♪ アタシとショーゴの再会は、シカ電でスカート挟まれたアタシを助けてくれたことだったけど、あの野郎は再会じゃなくて初対面だと今でも想ってやがるよ。どう思う?」

「……どうって言われても……」

「さっきね、思い出したんだけど、鷺沢一蹴って聞いたことある名前。それも10年くらい前に」

「っ…カナちゃん?!」

 いのりが戦慄して振り返った。その反応でカナタは確信した。

「そっか。やっぱり、そっか。あの事故の……」

「どうして……」

「どうしてって、よく思い出してよ。いのっちとアタシが知り合ったのは、どこだった?」

「……小学校だよね?」

「不正解。いのっちをアタシが見かけた最初は、アタシが額と腿を切られて入院したときだよ。いのっちは子供すぎて覚えてないかな。アタシは短期の入院だったけど、いのっちは長いみたいだったから、印象的でね。じゃなきゃ、ただの新一年生の一人に、あえて声かけないよ」

「……。でも、…イッシューのことは……どうして知ってるの?」

「いのっちは話してくれたよ。普通に。覚えてないの?」

「……………………」

 いのりは頭を抱えて座り込んだ。カナタも隣に座って顔を覗き込む。

「そんな……」

「それで一蹴は、覚えてた? いのっちと再会だって、こと」

「言わないで!! 絶対に言わないで、お願い!」

「……」

「私がリナちゃんのフリをしたことも! リナちゃんが死んじゃったことも! ううん、あの事故のこと自体、イッシューは忘れてる感じなの! だから、絶対に言わないで!」

「……………。…そっか…ふーん…」

 カナタは知らなかったことまで詳しく言ってもらい、いろいろと記憶がつながった。

「ショーゴと同じで一蹴も忘れてるのね。………アホね、うん、アホイッシュー」

「変なアダ名をつけないで!」

 いのりが抗議したのにカナタは両手で胸をつかんできた。

「きゃっ?!」

「可愛いおっぱいだね♪」

「離してよ! カナちゃんに言われると嫌味!」

 いのりは怒ってカナタの胸を睨んだ。モデルをしているだけあって、まさに理想的といっていい大きさと形をしている。いのりの本人としても、たぶん男子としても、ちょっと物足りない、という胸に比べると、羨ましくて仕方ない。

「羨ましい? 触りたい?」

「……羨ましいけど、触りたくないよ。私、もうあがる」

 立ち上がろうとしたけれど、カナタが座らせてくる。

「あがるって、まだシャンプー流してないよ。それに身体も洗えば? くすぐられて汗かいたよね」

 カナタはボディーソープを手に取ると、いのりの身体に塗ってきた。

「じ、自分で洗うからいいよ!」

「洗ってあげたいの♪ だからさ、アタシの身体、いのっちが洗ってよ」

 言いながらカナタが抱きついてくる。身体を密着されて、いのりが本気で怒った。

「やめて! 気持ち悪いからベタベタしないで! そーゆー変なことしないで!!」

「………。はっきり言うんだ……くすん…」

「泣き真似してもダメなの! 女の子でしょ?! どうして、女の子に興味もつの?!」

「…………好きだから♪」

「す……好きでもダメ!!」

「アタシね、男の子にフラれて傷ついてるよ? 慰めてほしいよ?」

「普通の慰めならするけど! カナちゃんがしたがってることはダメっ!」

「……………………あ~……あ~……いのっちにまで……フラれちった……」

 カナタが指先で、いのりの膝をクルクルと撫でて、いじけた仕草をしている。

「ちょっと身体の洗いっこしたかっただけなのに………」

「……………………」

「くすん……ショーゴはさ、きっとアタシが急にいなくなっても探してくれない、追いかけてくれないくらいにしか、アタシを好きじゃなかったよ」

「……同情を誘ってもダメだよ…」

「アタシとの付き合いは、飼ってない猫にエサをあげるのと、いっしょ。なんとなくそばにいるときは可愛がるけど、どっかに行っちゃっても探さない、また、そのうち来るかなぁ……って束縛しない。首輪もつけてくれない。それだけの関係だったから…」

「……………」

 いのりが慰めるようにカナタの肩を撫でると、カナタが胸を撫でてくるので、やっぱり突き放す。

「カナちゃん!」

「いのっち!」

 今度は抱きついてくる。いのりは避けようとしたけれど、逃げきれず抱きつかれてしまった。

「離してよ! もう!」

「いいじゃん! Gじゃん! Fじゃん!」

「ほたるさん的ギャグを言ってもダメなものはダメ! ダメダメ、ダメ欲求だよ!」

「ふーん……いいのかなぁ?」

 カナタは抱きついたまま離れない。いのりが突き放そうとしても、モデルとしてのトレーニングをしているカナタには腕力で負けている。体格もカナタの方が大きい、泡で滑る状況では抵抗しにくい、逃げても、すぐにカナタが身体を密着させてくる。お互い裸なので気が気でない。いのりは本気の本気でカナタの頬を思いっきり叩こうかと迷っていたが、カナタが悪魔のように囁いてくる。

「リナ♪」

「っ…」

「アホイッシューに言っちゃおうかな?」

「ダメっ!! 絶対ダメっ!!」

「そう、そっか。じゃあ、言わない」

「………」

「でも、口止め料がほしいかな?」

「…………口止め…」

「昔の人はいいました。人の口に戸は立てられぬ」

「………言ったら、カナちゃんでも許さない…」

「うん、言わない。言わないから、アタシを口止めしてよ」

「……口止めって……」

「アタシの口を塞いで♪ 口に戸を立てる方法が、一つ、あるよね? カナタちゃんのナゾナゾタイ~ム♪ キで始まる口を塞ぐ方法は、な~んだ?」

「…………………………」

「ヒント♪ 好き、を逆さまに読むよ?」

 言いながら、いのりの唇を指で触れてくる。わかりたくないけれど、カナタの狙いがわかってしまう。

「……私を脅迫するの?」

「うん♪」

「……………」

「汚い女だな、って思った?」

「思った!!」

「キスと洗いっこ以上はしないから、ね?」

「ね、って……」

「妊娠させたりしないよ?」

「……………………」

「できないだろ! ってツッコミがほしかったのに♪」

「…………」

「ゆっくり目を閉じて、力を抜いて」

「………そんなに……したいの? 女の子同士なのに…」

「したい♪」

「……………………………は~ぁ……」

 いのりが深いタメ息をついて悩みながらも、一蹴のために諦めた。

「イッシューにはリナちゃんのこと、絶対に言わないでよ。言ったら、私……カナちゃんに何をするか、わからないから」

「えっ? 何するの? 何してくれるの?」

 カナタが変な期待しているけれど、いのりは呪い殺すような目でカナタを睨む。

「…………」

「……ふーん、そんなに言われたくないことなんだ?」

「言ったら、……許さない」

「じゃあ、言わない」

「……………本当に?」

「うん、言わないよ。ずーーっと言わない。いのっちのこと好きだから♪」

「…………」

 それって、ずーーっと私を脅迫するってことなの、いのりは目を閉じて力を抜きながら、かなり悲しくなった。すぐにカナタがキスをしてくるのを、あまり感じないように、考えないように、身体を洗い合うのも、何も考えないように、記憶にも残らないように、気持ちを閉ざして、カナタのしたいようにさせながら、これって一種の強姦だよ、と確信した。

「そろそろ、あがろっか。いのっち」

「……うん…」

 ようやく一定の満足をしてくれたようで解放された。

「…ごめんね、…いのっち…」

「………」

 いのりは黙ってシャワーを浴びて身体を洗い流した。

「アタシのこと、嫌いになった?」

「……」

「そうだよね。嫌がってるのに……アタシ、頭、おかしいよね。すごく変」

「…………………」

 自分でわかってるなら、思い止まってほしかった、いのりはシャワーを終えて脱衣所へあがる。カナタもシャワーを浴びて、あがってくる。

「うん、自分でもわかってるよ、……でも、……なんでかな。女の子が可愛く見えて、どうしようもないよ」

「………。でも、ショーゴ先輩と付き合って……」

「だから、アタシは変なの! 男の子も好き! なのに、女の子も好き! なんでかな?!」

 カナタが思いの丈を初めて素直に見せてくるので、いのりも考えてあげたいと少しは思うけれど、手に余る命題だった。

「……何でって……言われても、私には……まったく………」

「こーゆーのを世間はバイっていうけどさ、ホントにいるんだね」

「………自分で言うの?」

「だって、……そうなんだもん。ごめんね、いのっち。どうしても、してみたくて……ごめん」

「………もういいよ。カナちゃん……、きっと、カナちゃんはショーゴ先輩にフラれて悲しかったから、そーゆー気分になっただけだよ」

「……………………」

 カナタは身体を拭いたバスタオルをそばにかけた。

「違うと思う。ずっと前から、ほたるのこと好きだから」

「……………」

「いのっちは、ほたるに少し似てたから……ごめん」

「………」

 私は身代わりなの、本気で好きって言われても困るけど、身代わりにされるのも、ヤダよ、いのりは長い髪をバスタオルで拭くのに手こずっている。カナタが手伝ってくれようとしたけれど、仕草で拒否した。

「いのっちに嫌われるのは、なんとか耐えられるけど……きっと、ほたるに嫌われるのは耐えられないから。……ひどい話だね。いのっちにしたらさ」

「……………。ほたるさんのこと、本気で好きでいるの?」

「うん………本気」

「……ショーゴ先輩と、ほたるさん、どっちが好き?」

「どっちも好き」

「…………どっちが、より強く好き?」

「いのっちは、お父さんと、お母さん、どっちが、より強く好き?」

「…………………………そーゆーのと、違わない?」

「わかんない。でも、気持ちの強さは変わらない気がする。ただ、ほたるはケンが好きだったし、ショーゴはアタシと……一応は付き合ってくれたから……」

「…………ショーゴ先輩が悪いよ、……カナちゃんは、こんなに可愛いのに…」

「いのっち……」

 カナタが寄ってくるのを、いのりは避けた。

「ごめんね……いのっち」

「………………。私を身代わりにできるみたいに、男の子で好きになれそうな人、探せばいいよ」

「……うん……できたら……そーする…」

「…………………」

「でも……ショーゴのこと、ずっと……好きだったから……できるかな。……なんていうか、男の子を好きな気持ちは、アタシの女の子としての気持ちだから、そんな簡単に身代わりとかできないの………。女の子を好きな気持ちは、アタシの男の子としての気持ちかもしれないから……いのっちには、すごく悪いけど、恋愛と性欲は別みたいな感じで……」

「…………。……女の子の気持ちは、わかるけど……」

 一蹴と付き合えないからって、すぐに代わりの男の子というのは、いのりとしても受け入れにくい。むしろ、一蹴しか考えられない、物心着いたときから、ずっと、そうだった。そして、カナちゃんも私と同じくらい長くショーゴ先輩のことを好きでいる。

「……カナちゃんは……複雑なんだね……」

「………複雑っていうより、頭がおかしいんだよ……きっと」

「……」

「ほたるとショーゴ、二人とも同じくらい好きでいる。二重人格でもないのに、頭が二つに割れそうだよ…………ふふ……割れたところで、どっちもアタシを相手にしてくれないけどね……」

「……………………」

 ありえないけれど、もしも、ほたるさんとショーゴ先輩が付き合ったりしたら、カナちゃんは壊れてしまうかもしれない、イッシューがリナちゃんをなくしたときと同じくらいのショックを受けて壊れてしまうかも、今のイッシューも忘れることができたリナちゃんのことを思い出したりしたら、きっと壊れる。

「いのっちには、つまんない話だったね。ごめん」

「……ううん……。カナちゃん、そろそろ着替え貸して」

「あ、うん。忘れてた。部屋にあるから、来て」

「………このカッコで?」

「大丈夫、誰も帰ってこないから」

「そーゆー問題じゃ…」

「もしも誰か帰ってきても、いのっちなら背中を向ければ、髪の毛で身体全部隠れるから、服来てるのか、裸なのか、わからないって♪」

 カナタは強引に、いのりを部屋へ連れて戻り、ドアを開けて、さっき自分で室内を嵐のようにメチャクチャにしたこと思い出した。

「あちゃーー……」

「片付けるの、大変そう…」

「ま、いいや。片付けは今度にして、着替えだけ」

 カナタは二人分の下着と、いのりの荷物、自分の携帯電話を持つと、隣の客間へ移動する。

「いのっちの服は洗濯してるからね」

「……それまで下着だけっていうの、落ちつかないよ…」

 いのりは下着しか貸してくれなかったことに文句を言ったけれど、カナタは無視してキッチンへ飲物を取りに行った。

「アイスティーでいい?」

 キッチンから声が響いてくる。

「…うん…、あとTシャツでもいいから貸してよ!」

「プリンもあるよ♪」

「Tシャツ!!」

「あ、メロンもあった♪」

「………………」

 聞こえてるはずなのに無視してる、いのりが恨めしく思っていると、カナタの携帯電話が鳴った。

「……ショーゴ先輩から…」

 何気なく見た液晶画面には、正午の名前が表示されていた。

「カナちゃん!! ショーゴ先輩から!!」

 けれど、いのりが叫んだときにはコールは止まってしまい、カナタが急いで戻ってきたのに意味がなかった。

「ホントにショーゴから?」

「うん、だって…ほら」

 いのりが携帯電話をカナタへ渡す。着信履歴を確認すると、たしかに正午だった。

「……………………………」

「かけ直してみようよ」

「……。大事な用件なら、あいつがかけ直すよ。ほとんどワンコールだったよね? どうでもいい用件なんじゃないの」

「そんなこと言ってないで、ちゃんとしよ? きっと、ショーゴ先輩だって話したいことがあったからかけたんだよ。でも、迷って切っちゃった。今、話せば、きっとうまくいく。今、話さないと、また何年も二人の運命は離れたまま、もう戻れないかもしれない。ほんの少しの勇気を出して、カナちゃん」

「……いのっち……恋愛漫画の読み過ぎ……よく、そーゆー発想がでてくるね」

「だって、ショーゴ先輩は、さっきの電話でも、最初はカナちゃんからの誘いに乗り気だったのに、思い出したみたいに新しい彼女がいるからって言ったけど、あんなのウソっぽいよ。ウソじゃなくても、その人のことだって、たいして好きじゃないからプールに行こうって話に乗りかけたんだと思うよ。それに、カナちゃんとショーゴ先輩、普通に話せてた。別れかけてる二人なんて、思えないくらい、すごく自然に話せてたよ」

「…………………………………………自然に話す努力をした結果なんだけどね……」

「かけてみよ。ね?」

「………かけて、もしも、ダメだったら……、……」

「勇気を出して!」

「……もし、ダメだったら、……。今より、もっと傷ついたアタシを……アタシを慰めてくれる?」

「……………………」

 それは、どういう意味でなの、いのりは戸惑ったけれど、勢いのままにカナタの背中を押した。

「かけよう! カナちゃん!」

「………わかったよ…」

 カナタは押しに負けて正午へコールしてみる。すぐに正午が受話した。

「ショーゴ、さっき、アタシに電話したよね?」

「あ、悪い」

「何か話でも?」

「ごめん、三上の家へかけるつもりでミスってカナタにかけたんだ。それだけ」

「……。ふーーん、相変わらずアホね♪ そんなことだと思ったよ」

 カナタは経験から半分くらい予想していたことなのでショックを受けなかったけれど、いのりは膝をついて倒れ込んだ。カナタは普通に正午と話を続けてみる。

「あのさ、智也と鷹ちゃんが同棲してることって学校で言っちゃダメだよ、ショーゴ、うっかり者だから心配」

「ダメか? そうか……うん、ダメかもしれないな」

「あと、アタシとケンカ別れしたけど、アタシが貸してるCDとか、ショーゴから借りてるグランツーリスモとか、どうする?」

「ああ、そっか……CDは返すよ、明日にでも」

「アタシはグランツー、もうちょっとやりたいんだけど?」

「んじゃあ、それは、いつでもいい」

「そう♪ なら、借りておくね」

「あ、他にも、けっこうオレの部屋にカナタの物あるぞ」

「ふーーん……また、そのうち考えるよ。それでいい?」

「おう」

「じゃ、バイバイ」

 カナタから電話を切った。いのりが叫ぶ。

「ショーゴ先輩って何考えてるの?! アホなの?!」

「うん、かなりね。あの子はアホなんだよ。生温かい目で見ちやってくりよ」

「だって! だってカナちゃんと別れて新しい彼女いるって言ったのに!! あの態度はなに?! バカにしてるの?! それともバカなの?!」

「バカなんだよ」

「このタイミングで間違ってかけてくるとか!! ありえないよ! どれだけ私たちが気を揉んだと思ってるの?!」

「一切、思ってないよ。アホだから」

「ハァ……ハァ……」

 いのりは叫び疲れたので座り込んだ。

「ところでさ」

「…ハァ…ハァ…」

「かけてダメだったら、アタシを慰めてくれる約束だよね?」

「……」

「ね?」

「……ダメじゃなかった! ダメじゃなかったよ! ちゃんと、貸し借りでショーゴ先輩との関係を残してるよ! まるっきりダメってわけじゃないよ!」

「うん、でも、ちょっとダメだったから、ちょっとアタシを慰めて、ね、ちょっと」

「や~ん! こんなカナちゃん、やだ~ぁ!」

 いのりは押し倒されながら、祈った。正午がカナタを深く愛してくれますように、と。

 



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7話

 翌日の朝、正午は三上家で宿題を写していた。

「できた!」

「オレもできた!」

 いっしょに写していた智也も同時に完成している。二人とも鷹乃の解答を手本にして、丸写しにはせず、ある程度オリジナルな答えを書き込みつつの作業だったので、徹夜になっていた。

「お疲れ様、二人とも。朝ご飯、できてるわよ」

 鷹乃が朝食を用意してくれている。三人で朝食を摂り、正午が一番に席を立った。腕時計を見ている。

「オレは、そろそろ出ないとな」

「加賀はチャリ通だからな。オレらはシカ電で行くから、まだ余裕あるけど、…お、その腕時計、やっぱり、白河はお前に託したのか」

「まあねン♪ それだけじゃないぞ、実はオレと、……あ、…」

 ほたると遠距離恋愛していることを自慢しようとして、カナタには相手が誰だか教えないことにしたのを思い出して、考える。

「………」

「実は、なんだって?」

「いや……、…実は……というか、とりあえず、というか…」

 正午は腕時計を外すと、ポケットに入れた。

「もらったのは、もらったんだけど、やっぱり学校のみんなにはオレが持ってること、秘密にしようかと思って。……ほら、いろいろ、あっただろ?」

「ああ、そうだな。白河が伊波に送った時計を加賀がもってるとなると、いろいろ勝手な噂が流れるだろうしな。さすがに黒須も、いい気分はしないだろうし」

「ああ、それなら、大丈夫♪ カナタとは別れた」

「まだ、ケンカ中か……まーどうでもいいけどな」

「どうでもいいから、スピードモンスターのことは秘密にしといてくれ。その代わり、三上と寿々奈さんが同棲してることも言わないからさ」

「オレと鷹乃は……まあ、そうだな。それも、大っぴらに言わない方がいいな」

「じゃ、オレは、そろそろ行く。ごちそうさま、寿々奈さん」

 正午が先に出発し、鷹乃は朝食の後片付けをする。智也は宿題をまとめようとして、正午が宿題のワークブックを忘れていったことに気づいた。

「まったく、あのお坊ちゃんは…」

 文句を言いながら正午の分もカバンに入れて、出発の準備を整えた。

「行こうか、鷹乃」

「ええ」

 二人して玄関を出て、駅へ向かう。すぐに彩花と唯笑に出会った。

「おはよー♪ トモちゃん、鷹乃ちゃん」

「よう」

「おはよう、今坂さん」

 鷹乃は唯笑に挨拶を返して、彩花の方は見ないようにする。彩花も鷹乃を相手にせず、智也に近づいた。

「智也、おはよう」

「よう、彩花」

 挨拶を返した智也の腕に鷹乃が腕をからめた。まるで、これは自分のものよ、と主張する子供のような露骨さで、彩花はうんざりした気分になる。

「ねぇ、智也。あの魔法陣、なによ?」

「ああ、あれはな、とある外国の強力な魔術師に描いてもらった。対悪魔用の進入禁止表示だ。いいセンスだろ?」

「いいセンスというか、触ったら本当に火傷しそうな気配がするくらいリアルね」

「うむ、恐ろしい魔術師だ。気をつけた方がいい。彩花の学校にいるぞ」

「…あいつか……あの帰国子女…」

 彩花は詩音のことだと、すぐに悟った。

「まあ、どうでもいいわ。そろそろ電車が来るから、これだけ渡しておくよ」

「おう」

 智也は生活費の入った封筒を受け取ってポケットに入れる。彩花と唯笑は澄空学園の方へ行く電車に乗り、智也と鷹乃は反対のホームへ渡った。

「これ、鷹乃に渡しておく。メイン食費だから、ここから出してくれ」

「ええ、わかったわ。これで一週間分ね」

 鷹乃は受け取った封筒を大切そうにカバンに片付ける。すぐに二人が乗るべき電車もホームに入ってきたので乗り込んだ。朝の満員電車ゆえに鷹乃と智也は身体が触れ合うくらいの距離で立つ。智也が吊革をもち、鷹乃の背中を抱いて安定させる。

「…あ…ありがと…」

「鷹乃って……ホント可愛いよな♪ いい女だ」

 鷹乃の耳元で囁いたけれど、すぐ隣の乗客には聞こえている。

「暑苦しっ」

 すぐ隣に乗っていた木瀬歩が智也に聞こえるように言い放った。電車の中でイチャつく先輩への軽い警告だったが、逆に智也を挑発することになる。

「鷹乃」

「……………」

 鷹乃は呼びかけられ、見つめられて、その視線の意味を理解できるくらいに智也と時間を過ごしてきている。少し迷ったけれど、目を閉じた。

「「………」」

 智也が鷹乃へキスをする。

「っ…」

 歩が顔を赤くして、目を背けた。

「なんちゅー…バカップルや…」

「どうかしたのですか?」

 歩の隣にいた藤原雅が問うと、歩は顎で示した。

「……あきれた……、……なんと見苦しい……」

「あんたの古風な喋り方も、ビミョーやけど、あいつらの先進的すぎる行為も、あきれ大賞もんやで」

「先進的という言葉の使い方を間違っています。ただの野蛮で下品な猿です。目が穢れました」

 雅も顔を赤くして目をそらしながら、言い放った。雅の声は大きかったので、周りの乗客にも聞こえ、もともと高校生カップルの電車内でのキスをこころよく思っていないので無言で同意している。さすがに鷹乃が居心地悪く感じ、続けていたキスをやめようと少し引いたけれど、智也は続けようという意思を背中に回している腕の力加減で伝え、それが伝わった鷹乃は拒否せず、身をまかせる。

「……………ほんま……バカップルや……」

「……犬畜生でも、場をわきまえるでしょうに……………。いい加減になさい!!」

 耐えきれなくなった雅が威厳のある声で怒鳴った。

「公衆の面前でっ! 破廉恥な!! 恥を知りなさい!!」

 祖母譲りの叱り方は苛烈で、さすがに智也もキスをやめると雅を見る。

「先輩に向かって容赦ないな、君は」

「あなたのような猿を先達とは思いません!! 汚らわしい! 同じ学校の制服を着ているかと思うと吐き気がします! 猿は猿らしく山にでも入っていなさい!!」

「猿か……だが、神は知恵の実を食べるなとアダムにいった」

 智也独特の話のそらせ方をされて、免疫のない雅が勢いをそがれた。

「? ……だから何だと言うのです?!」

「もしも、アダムが知恵の実を食べていなかったら、恥を知ることもなかった。神の思し召しは、仲良きことは美しきかな、隠さず見せろということではないか?」

「っ…………」

 聖書の内容を知っている雅は思わず考え込んでしまう。たしかに知恵の実を神の命じるままに食べていなければ、人は今でも楽園にいて、裸で過ごし、包み隠さず暮らしていたことになるけれど、そのようなことを神が望むでしょうか。蛇のそそのかしに惑い、アダムを誘ったイブは愚かな女であり、その女に誘われた男も愚か、ちょうどパンドラの箱と同じく、いつも女が愚かなことをして厄災を招く、けれど、この男の言い様が正しいとは私には思えないのに、理屈にはなっている。

「アホちゃうか! 屁理屈を言うんやない!!」

「そ、そうです! 屁理屈を言うのはやめなさい!」

「屁理屈も理屈。表現の自由だ♪」

「そんなもんは自由やない! 公然わいせつや!」

「そうです! 穢らわしい!」

「公然わいせつってのは、キスくらいじゃ成立しないぞ。だから、みんなバカップルのキスを内心で不愉快に思いながらも、見て見ぬフリして諦めるんだ。これぞ、内心の自由♪ 釈迦の諦観♪」

「どこまでアホやねん! 不愉快に思われてる思うんやったら、せんかったらええやろ! ドアホ!!」

「したいから、した」

「あんたは子供か?!」

「うむ、純真な子供心だ」

「邪念だらけやんか!」

 歩と智也のかけ合いが漫才じみてきたので、雅は無視して鷹乃に問いかける。

「あなたは、そのようなことで良いのですか? 恥を忘れ、道理に背いて、売女の如く浮き名を流して生きていくことを心やましく思わないと?」

「……………………。そうね」

 鷹乃は雅の視線を受けとめて、見つめ返した。

「子供のあなたにはわからないわ。いつか、わかるかもしれないけれど、永遠にわからないかもしれない。わからない方が幸せかもしれない。でも、今の私は幸せだと思っているし、もっと幸せになれるよう努力しているわ。その有り様が、あなたの目に醜く映るとしても、私にとって、どうでもいいことよ。孤児が餓えて死んでいると知っていても、私たちはお昼ご飯を美味しく食べられるでしょう? それと同じよ」

「……それと……これとは……」

「同じよ、みんな無神経だもの。とくに他人の不幸と痛みには。それとも、あなたは一つも不幸なことがなく育ってきたの? とてもキレイな人生なの?」

「わ、…私はっ…。私だって……それなりの苦労は…」

「あなたの不幸に私は興味ないわ。だから、私のことに口出しするのもやめてくれないかしら。……いいえ、あなたの口出しも、あなたの不愉快も私にとって恋人の求めるキスに応じることに比べたら、芥子粒ほどの意味もないこと。あなたは私にとって、どうでもいい存在、捨てた子供と同じ」

「っ……。話が……違います…」

 雅が返答に困っているうちに、浜咲駅に到着した。降車した後の、人の流れで雅と歩は智也たちから遠ざかり、それ以上の口論にはならないけれど、二人とも忌々しさが残る。

「ホンマ腹立つわ!」

「………」

 雅も無言で同意しながら、学校へ続く坂道を登る。

「女も女や!」

「あの人は水泳部の主将ではなかったでしょうか?」

「ああ、せや。この前まで男を寄せ付けん感じやったよーな気がするのに…」

「すっかり手込めにされたということでしょう。所詮、くらだない愚かな女だったということです。男と似たような意味不明の理屈を並べて…」

 言い捨てる雅を同じように登校中だった舞方香菜が呼び止める。

「今、言ってたのは鷹乃センパイのことなの?」

「「………」」

 歩と雅が振り返ると、香菜が睨んでいる。交友関係が広くて友人の多い歩が、一学期の記憶をたぐり香菜が水泳部だったことを思い出した。キャプテンの悪口を言われて怒るのは理解できるけれど、歩たちにも理由はある。

「ああ、せや。あの淫乱女のことや」

「っ…」

 香菜が頬を硬くした。

「なんぞ文句でもあるん?」

「今すぐ取り消してください」

「そー言われてもなぁ、藤原さん」

「そうですね。私たちは根拠なく愚弄していたわけではありませんから、評価をあらためるつもりはありません」

「………。何も知らないくせに……」

「あなたこそ、知らないのではないですか。あの女の本性を」

「せや、あいつ、電車ん中で男とからんどってんで。みんなが白い目で見てんのに、チューしてアハンウフンイチャイチャと…っ!」

 歩は言い終わる前に、香菜から頬を叩かれた。

「痛っ! なにさらんじゃっ?!」

「すいません。手が勝手に」

 香菜は謝ったけれど、本質的には謝っていない。歩の顔が怒りで真っ赤になる。

「ざけんなーっ!」

 叩き返そうとする歩の手を香菜は素早く避けて、右手に持っていた「美味しい紅茶の淹れ方128通りと129の応用」というぶ厚い本で歩の顔を叩く。鈍い音がして、歩は鼻血を吹きながら倒れた。

「木瀬っ?! いきなり何をするのですかっ! この狼藉者!」

「淫乱女なんて言葉、センパイに使っていいと思うの?」

「だからといって暴力をっ!」

「あなたも同罪だけど、取り消すなら、見逃してあげる」

「誰がっ!」

 売られたケンカはすべて買い取る雅が、本を持っている香菜に対抗するため、扇子を抜いた。

「高そうな扇子ね」

 香菜が無防備に接近すると、雅は本を持っている右手を痺れるほど強く扇子で打つ。本は地面へ落ちたけれど、次の瞬間には香菜が左で強烈な肘打ちを雅のみぞおちへ決め、そのままコンボで裏拳で顔面を叩く。歩と同じように鼻血を吹いた雅はみぞおちを打たれた苦痛で足に力が入らず、うずくまった。

「ぅぅ……ぅ…」

「藤原さん……くそっ!」

 歩が手で血を拭いて香菜を睨む。

「お前なんぞ! 薙刀があったら一瞬で倒したるのに!」

「…………」

 香菜は打たれた右手を少し揉むと、落とした本を拾って埃を払い、もう二人に興味はないとばかりに背中を向けた。その態度に歩は息ができずに苦しんでいる雅を支えながらも怒鳴らずにはいられない。

「不意打ちしよって! 卑怯もん!」

「………」

「正々堂々勝負せんかいっ!」

「……。登波離橋」

「はぁ?!」

「放課後、登波離橋の下にいなさい。遊んであげる」

「登波離橋やな!」

「逃げてもいいのよ」

「あんたこそ! 絶対きぃや!」

「ごきげんよう」

 罵る歩に、肩をすくめて香菜は立ち去った。

 

 

 

 登校したカナタは教室には行って、すぐ正午を見つけた。正午は自転車で坂道をあがってきたので息を切らして休んでいる。

「…………」

 カナタは少し観察したけれど、新しい彼女らしき女子は正午のまわりにいない。一人だけ気の弱そうなクラスメートの女子が正午の前に座っているが、それは単に席順から、その女子の席であるだけで正午とは関係ない。

「……………………」

 カナタが黙って正午へ近づくと、座っていた女子は席をゆずるように立ち上がった。カナタと目を合わせることなく、たんに用事があるので立つだけ、カナタに席をゆずったわけではないので、お礼を言ってもらう必要もないです、という態度で教室を出て行った。

「…。ハーイ、ショーゴ♪」

「ああ、おはよ」

 微塵の屈託もない挨拶を返した正午は、二秒ほど考えてカナタと恋人関係を解消したことを思い出したが、無視する必要もないと考え、いつも通りに前席へ座ったカナタに立ち去れとは言わない。その正午の思考過程をカナタはすべて見透かした上で、単刀直入にせめてみる。

「で、ショーゴの新しい彼女は、どこ?」

「……。さあ♪」

 はぐらかした正午の反応から、この教室内には彼女がいないとカナタは察した。もしも、彼女が教室内にいるなら、こうしてカナタが普通に接してきた時点で正午は距離を置く対応をとったろうし、カナタが教室内を見回しても視線をぶつけてくる女子も、逆に不自然に目をそらしている女子もいない。葉夜は遅刻のようで、まだ登校していないし、果凛とは目が合ったけれど、いつも通りの自然なアイコンタクトが返ってきただけだった。

「……」

 りかりんのあれが演技なら、超一流の女優になれるけど、りかりんが彼女ならショーゴが何か言うはず、カナタは立ち上がって正午の背後へまわった。

「……………………」

 ちっ、どうしてかな、こんなアホなヤツなのに抱きつきたくなるよ、カナタは男の背中を見つめて胸を痛めた。悔しい、好きでいることが悔しい。

「………………」

 カナタが正午の背中を見つめ続けていると、智也が教室に入ってきて、ワークブックで正午の頭を叩いた。

「痛っ…」

「忘れ物だ」

「あ!」

 せっかく完成させた宿題を忘れていたことに気づいた正午が智也に礼を言う。

「サンキュー。やばかった」

「ホントにお前はアホだな。他にも大切なこと忘れたりするなよ。お、黒須。なんだ、もう仲直りしたのか」

 智也が正午のすぐ背後にいたカナタを見て二人の仲が修復されたのだと思ったが、正午が否定する。

「してない。こいつとは別れた」

「と言ってるから、そーゆーことみたいよ♪」

「お前らのケンカは、いつものことだから、どうでもいいけど、ケンカしすぎじゃないか?」

「カナタがケンカを売ってくるからだ」

「アタシは薄利多売がモットーなの♪」

「お前らなぁ………ま、いいや。ちょっと黒須に相談があるんだ。鷹乃と加賀には秘密で」

「なんでオレには秘密なんだ?」

「加賀は口が軽いし、うかつだからな」

「ぅ………」

「ちょっと黒須を借りるぞ」

「それはオレのものじゃないから、好きに持っていってくれ」

「黒須、ちょっといいか?」

「いいよ♪ アタシはショーゴのものじゃないらしいから、好きにして」

「……。お前ら、仲いいな。ちょっと相談なんだが…」

 智也とカナタは正午から少し離れて離す。

「鷹乃の誕生日が明後日なんだ」

「なるほど♪ 話の先は読めたよ。どんなプレゼントが女心を熱くさせるか、ね?」

「察しがいいな。でも、物は決めてるんだ。ただ、それのサイズがわからなくてさ」

「う~……ってことはリング?」

「頭のいい女だな」

「もっと褒めて♪」

「顔もいいな」

「もっともっと褒めて♪」

「調子に乗りやすいな」

「もっともっともぉっと褒めて♪」

「殺しても死にそうにないな」

「もっともっともぉ~っと褒めて♪」

「オレは話を先に進めたい」

「鷹ちゃんにナイショで鷹ちゃんの指のサイズが知りたい?」

「……本当に頭のいい女だな」

「まあねン♪ じゃ、始業式の後にでも鷹ちゃんに会いにいくよ。完全にピッタリは無理だけど、だいたい合うくらいはサイズを特定してあげる」

 カナタはこころよく引き受けた。そして始業式が終わると、果凛に話しかける。

「ハーイ♪ りかりん」

「はいさ」

「ちょっと、りかりんの指輪を貸して」

「……何に使うの?」

「智也が鷹ちゃんにリングをプレゼントするんだって。そのサイズ合わせ。ちなみに、これはサプライズだから、秘密」

「それなら仕方ないわね。これ、お爺ちゃんの形見だから無くさないでよ」

 果凛は少し心配そうに遺品をカナタに預けた。受け取ったカナタは図書館へ行き、手相占いの本を探し始める。本棚を巡り、雑学のコーナーに着くと、いのりに出会った。

「あれ、いのっち?」

「っ?!」

 いのりは不意に呼ばれて、驚き大慌てで読みふけっていた「ナゾナゾ大百科」を背中に隠した。

「な、なに、カナちゃん…ど、どうして、ここに?」

「アタシも図書館くらい使うよ。それより、いのっちは何を隠したのかな?」

「な、なんでも、ないよ!」

 いのりは背中に隠した本を見られないように本棚と背中を密着させる。長い髪が周囲を覆ってくれるので見ようとしても見られないようになった。

「ふーーん♪ なんでもないのかぁ♪」

「うん、なんでもないの」

「じゃあ…」

 カナタは周囲を見回して本棚に囲まれている自分たちが他の生徒から見えない位置にいることを確認すると、いのりの胸を揉んだ。

「きゃっ!」

「図書館では静かにしてください♪」

「だって、カナちゃんが…」

「うん、なんでもないよ。なんでもないことだから、気にしなくていいよ」

 と言いつつ、いのりの胸を楽しむ。いのりは両手で「ナゾナゾ大百科」を背中に隠しているのでカナタに抵抗できない。ネタ本を知られることは絶対に避けたかった。

「いのっち♪ 愛してる♪」

「……………………そーゆー冗談はやめて……ショーゴ先輩とは、話せたの?」

「ひどいこと言われた。くすん」

 いのりの胸を楽しみながら、カナタは泣き声をつくる。

「何を言われたの? って、おっぱい揉むのやめてよ」

「他の男子に向かって、もうオレの女じゃないから好きにもっていけって……ぐす…」

 カナタが目を潤ませ、いのりに抱きついた。

「カナちゃんに……そんな、ひどいこと……」

「もう、アタシなんてショーゴの言うとおり、その男子に好きにされちゃった方がいいのかな…」

「そんなバカなこと言わないで」

 いのりは本を隠すのをやめて両手でカナタを抱き返した。

「そんなことしたら、カナちゃん、もっと傷つくよ。冗談でもそんなこと考えないで」

「……いのっち……やさしいね…」

 カナタが顔を近づけてキスをしようとしてくるので、いのりは顔をそむけた。

「そ! それとこれとは違うから! 私に変な慰めを求めないで」

「一回だけ」

「……」

「一回だけ、チューしたら元気もらえるから。ね、お願い」

「……………………」

 いのりは困った顔をして、周囲を見る。誰も二人を見ていない。

「………こーゆーこと……これで最後にしてよ…」

「いのっち♪」

 カナタが後輩に唇を重ねる。

「ぅっ…」

 いのりは舌を入れられて呻いた。軽いキスしか覚悟していなかったのに、カナタは深くて長いキスをしてくる。逃げようとしても髪ごと頭を捕まえられてキスから逃げられない。

「ぅぅ……ぅ…」

「ごちそうさま♪」

 やっとキスが終わった。カナタは頬を少し赤くして、いのりは少し青ざめている。

「………」

 やっぱり気持ち悪い、いのりは口に残った同性とのキスの感触を不快に感じ、口を漱ぎたくなった。今すぐ唾を吐き出して、うがいしたいけれど、図書館の床に唾を吐くことも、キスの相手の前で唾棄することも憚られて、いのりはハンカチで唇を拭くフリをしながら、飲み込まずに溜まっていた二人の唾液をハンカチへ染み込ませて誤魔化した。

「ありがとう。いのっち♪」

 カナタは気が済んだようで、雑学コーナーから手相占いの本を借りると、いのりに投げキッスをしてから図書館を出ると、鷹乃がいる教室へ入る。

「ハーイ♪ 鷹ちゃん」

「……その呼び方、できれば、やめてほしいわ」

「検討しておくね。ちょっとさ、お願いがあるんだけど」

「何かしら?」

「最近、アタシ、手相占いにこってるの。ちょっと占わせて♪」

「つまらないことをしているのね。占いなんて何の科学的根拠もないわよ」

「風水には建築学的な合理性があるって最近になってわかったよね。漢方にも医学的効果があるって見直されてる。いつか、手相占いにも確率論的な評価が証明されるかもしれないよ? それを否定できるほど、鷹ちゃんは今の科学が完璧だと言い張るの?」

「………。……屁理屈がうまいのね」

 言い負かされた鷹乃は手を出した。カナタは手相を見るフリをして自分の指との太さの違いを目算する。

「うーーん……生命線は長いね………家庭運は…」

「聞きたくないわ」

「え?」

「黒須さんが占うのは勝手よ。でも、その結果を私は聞きたくないの。黙って占って結果は教えないでちょうだい」

「……それはまた……ずいぶんと面白味のない……」

「どうせ、あることないこと、面白おかしく言い募るでしょ。聞きたくないわ」

「きゃは♪ ご名答」

「ふざけた人ね」

「まあまあ、そう言わず、ちょっとこのリングをはめてみて」

 カナタは果凛から借りてきたリングを鷹乃の指へ通してみる。

「この指輪は何なの?」

「占いのアイテム♪ う~ん、ちょっとキツいかな。無理にはめると抜けなくなりそう。鷹ちゃんって指輪は9号くらい?」

「知らないわ。そんなもの買ったことないもの」

「そっか。はい、占いおしまい。占いの結果は聞かないってことでいいの?」

「ええ」

「ホントに?」

「ええ」

「……。いいことがあると、いいね」

 カナタは指輪と手相占いの本を持つと、やや離れた場所で鷹乃とカナタのやりとりを見ていないフリをしつつ、南つばめと交際をはじめた翔太をからかっていた智也に耳打ちする。

「智也、だいたいわかったよ。アタシよりワンサイズ上くらい」

「……それってLとか、M?」

「………。智也って指輪を買ったことないの?」

「ない」

「いつ、買うつもり? 今日の放課後なら付き合ってあげてもいいよ?」

「頼む」

「んじゃ、鷹ちゃんに見つからないように藤川の広場に集合ね」

「悪いな。加賀とケンカ中なのに」

「いえいえ、どーぉーせ、あのアホは、もうしばらく臍を曲げたままだから、いいよ。じゃ、二人バラバラに藤川へ」

「おう」

 智也はカナタと翔太から離れ、鷹乃に話しかける。

「今日もバイトだから帰りは遅くなる。悪いけど、鷹乃は先に帰っててくれ」

「わかったわ。………黒須さん、あなたに何を話していたの?」

 しっかりと内緒話をしていた雰囲気は知られていたようで問われたが、智也はウソつきのベテランとして動じない。

「ああ、中森が教師と付き合い始めたこと、なるべく知られないようにしないとマズいってことと、その対策を考えようって話だ」

「そう。そうね。教師と生徒なんてバレたら問題だもの」

 鷹乃は納得して帰り支度をする。智也はバイト先の嘉神川食品へ行くフリをして、藤川に行き、カナタと合流した。

「智也って、無計画にお金をつかうって彩っちが文句言ってたけど、今日の予算は、いかほど?」

「3万ちょい。バイトで貯めた」

「ふーん♪ 彼女のためにバイトねぇ。熱いねぇ、カッコいいねぇ」

「もっと褒めろ」

「ヤダ♪」

「………」

「3万ってことは、ファッションリングが、せいぜいね。誕生石は九月だからサファイヤかぁ……石つきで3万以内のがあるといいね」

「ああ」

 智也は相談相手にカナタを選んだことを正しい人選だったと確信しつつ、宝石店に入ろうとしたが、カナタが止めてくる。

「智也、このランクの店に、10万円以下のリングはないよ。あっちの店がベスト」

「さすがだな。よく加賀と来るのか?」

「さあ?」

「あいつはボンボンだからな。ねだれば高いの買ってくれるだろ?」

「……。一応さ、ケンカ中だから、あのアホのことは思い出したくないわけ。Ok?」

「わかった。加賀の話はしない」

「よしよし」

 カナタは安価な貴金属店へ智也を案内して、予算内で買えそうなサファイアリングを探し始める。すぐに店員が近づいてきた。

「彼女さんにプレゼントですか?」

「「……」」

 店員が二人の仲を勘違いしていると気づき、智也とカナタは目を合わせ、照れもせずに答える。

「まあねン♪」

「まあ、そんなとこだけど、予算は3万円で」

「では、こちらのリングなど、いかがでしょうか? 彼女にお似合いですよ」

「「…………うーん……」」

 示されたリングを見てカナタと智也は鷹乃をイメージしてみる。店員はカナタをイメージしているので、少し似合わない気がする。

「もうちょっと、落ちついたデザインがいいかな♪」

「では、こちらは、いかがでしょう?」

「うん。はめてみていい?」

「どうぞ」

 カナタは指輪をしてみる。自分で見つめ、それから智也に見せる。わざわざ鷹乃と同じようなポーズまで取ってみせるところが、芸能人だった。

「どう? 私に似合うかしら?」

「ああ、いいと思う。これにしよう。サイズは、どうだ?」

「サイズも、これでいいと思うから決まりね。29800円♪ バイト代でのプレゼントなら、いい値段」

 思ったより早く予算内で良い品が見つかり、指輪を買って店を出ると、カナタが小悪魔の微笑みを浮かべた。

「お腹空いた♪」

「………。おごれと?」

「相談料、モデル料、口止め料♪ 予算は3万ちょいだったよね? つまり、ちょい余ってる」

「……。鷹乃って、ああ見えて嫉妬深いから、あんまり他の女と店に入ったりするの、避けたいんだが……」

「鷹ちゃんにはバイトって説明したのに、今すぐ帰るとつじつまが合わないね」

「時間つぶしなら、いくらでも…」

「暇つぶしでゲーセンに貢ぐのと、ステキな相談相手にお礼をするの、どっちが大切?」

「………」

「今後も女心について相談したいことが、できるかもしれないね?」

「……。ワックでいいか?」

「ヤダ、アタシの健康美が損なわれる」

「………。澄空駅前に福々亭ってラーメン屋があって、美味いらしいぞ」

「ラーメン………ラーメンって気分になれる?」

 カナタは九月一日の真夏並みに降り注ぐ日光を見上げた。

「たしかに、暑いな…」

「どうせ、澄空に行くならシナモンって喫茶店が美味しいらしいよ」

「わかった。黒須には恩もできたし、恩は利子がつかないうちに返しておく」

「うむ♪」

 満足そうに頷いたカナタは智也と澄空へ向かった。

 

 

 

 雅と歩は登波離橋の下で、薙刀を持って香菜を待っていた。

「くそっ、いつになったら来るねん! 遅いわ!」

「これは兵法かもしれませんね」

「………、巌流島かっ?!」

「そうです。わざと遅刻して私たちを苛立たせ、そこに隙を見出すつもりなのでしょう。ですから、あまり苛立っては、相手の思うつぼです」

「姑息な奴っちゃ! 朝も不意打ちしよって、卑怯もんが!」

「…………。ですが、木瀬。あの者が現れたとして、私たちが二人がかりで、しかも薙刀で叩きのめしたりするのは……やや卑怯な気がするのですが…」

「ん…………んーーっ……2対1で、あいつが素手やったら、せやな……単なるイジメかもしれん………ほんでも、あいつは水泳部やから河を使って攻撃してきよるかも!」

「……………………。どんな?」

「そ、そら、……潜水とか」

「……………。もしも、あの者が素手で現れたら、薙刀を一本貸してやり、1対1で勝負するというのは、どうでしょう?」

「せやな。どうせ、薙刀やったら、うちらが負けるはずあらへんねん。ほな、どっちがあいつと勝負するか、先に決めとこか。ジャンケンで」

「そうですね」

 雅と歩がジャンケンを始めようとしたとき、周囲の異変に気づいた。

「……木瀬……」

「こいつら……なんやねん…」

 二人がいる登波離橋の下を左右から包囲するように、外国人が近づいてくる。それも二十人くらいの大人数が、包囲網を狭めるように二人を囲んできている。その全員が棒きれや鉄パイプを持っていて、顔には敵愾心が見てとれる。

「木瀬……どうしたら、……よいでしょう…」

「そ、……そんなこと……うちに訊かれても…」

 雅と歩はお互いの背後を守るように背中合わせになった。

「わ……私たちの武器の方が、長いのです……なんとか……」

「せ、せやけど……この人数相手に……」

 外国人たちは何か怒鳴り散らしながら、二人を囲んでいるが、英語でもない言葉を聞き取ることはできなかった。ただ、激しい怒りだけが伝わってきて、背中を合わせている二人は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。そんな二人を、せせら笑うように外国人たちの背後から香菜が呼びかけてくる。

「鷹乃センパイを侮辱した罪、身体で払ってもらうね♪ お姉様、お願いします」

「この二人が鷹乃を」

 香菜の隣には詩音がいた。冷たい仮面のような顔で雅と歩を見ると、氷のような微笑をたたえた。

「私は一度、日本人をとことんイジメてみたかったのです」

「はい、こっちのソバカスは関西弁で、こっちの赤いのは武家風ですよ。どちらも典型的な日本人♪」

「それは楽しみですね。どんな声で泣くのか」

「……う……うちらに……なにする……気やねん…」

「ひ…卑怯者……こんな大人数で…」

 歩と雅が抗議すると、詩音は仮面の微笑を冷笑に変えた。

「この方々はペルー人労働者です。日々、低賃金重労働に耐えながら本国の家族へ仕送りし、日本の製造業を底支えしているというのに、いつも差別を受け、簡単に使い捨てられてしまうことを不満に思っていらっしゃいます」

「そ、そんなこと! うちらに関係ないやん!」

「関係ないと思っている、その傲慢さ………。この方々には、お二人が外国人を差別する団体の会長と副会長の娘だと言ってあります。差別と低賃金は、すべて、その架空の団体が悪いと。その怨みは二人に向けなさいと」

「「っ………」」

 ようやく歩と雅を包囲して怒鳴り散らすペルー人たちの怒りが殺気を感じるほど激しいことに合点がいった。

「う……うちらに……何する気…や…」

「殺さない程度に、手足を折って顔を潰して……あ、その前に日本人を代表して、ご奉仕させましょう。人種は違っても、男と女、ODAを身体で払ってください」

「「ひぃっ…」」

 雅と歩は背中を合わせたまま、ずるずると座り込んで震えた。まだ16歳の二人は激怒する外国人たちに囲まれて、心の底から恐怖して腰が抜け、抱き合って怯えることしかできなかった。

 

 

 

 鈴は買ったばかりのバイクでアルバイト先のシナモンへ飛び込んだ。

「ヤバッ! ギリギリ!」

 出勤時刻ぴったりにタイムカードを打刻して、更衣室のない狭い事務所でライダースーツを脱ぐ。タオルで汗を拭いてから、可愛らしいシナモンの制服を着ると、フロアへ出た。

「鈴ちゃん、2分遅刻よ」

「遅くなって、ごめん」

「3番テーブル、オーダーお願い」

 すぐに交代を待っていたアルバイト仲間から引き継ぎを受けてテーブルへ向かった。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「おすすめピザとトマトのパスタ、オレンジペコのアイスティー、あと、抹茶ミルクフラッペ」

 カナタが楽しそうに注文すると、智也が文句を言う。

「そんなに喰うのか。太るぞ」

「だって、ここのピザとパスタは美味しいらしいよ。半分は残して智也に食べさせるから、太らないし」

「おまっ…、……オレはアイスコーヒー。以上で」

 抗議が面倒くさくなった智也は諦め、鈴は注文を復唱する。

「はい、おすすめピザとトマトのパスタ、オレンジペコのアイスティー、抹茶ミルクフラッペ、アイスコーヒーですね。コーヒーの銘柄はアメリカンでよろしいでしょうか?」

「ああ。ブラックで」

「はい、かしこまりました。抹茶ミルクフラッペは食後の方が、よろしいでしょうか?」

「………」

 カナタは駐輪場に駐まっている鈴のバイクを見ていて答えない。本来なら従業員は建物の裏側に駐めることになっているが、遅刻しそうだったので表に駐輪している鈴のバイクは新品らしく夏の日差しを反射して輝いている。それを見つめるカナタの目も好奇心で輝いていた。

「おい、黒須。かき氷は食後の方がいいのか?」

「あ、うん。食後で。……、あのバイクって、お姉さんの?」

「はいっ」

「カッコいいね」

「はいっ。…、あ、いえ、それほどでも…」

 嬉しくて思わず笑顔になった鈴は赤面して、接客モードに戻る。カナタは好ましく想って微笑んだ。

「別に謙遜しなくていいじゃん」

「……そうですね。褒めてくれて、ありがとう。お二人は浜咲の生徒さんですか?」

「まあねン♪ ここって澄空の縄張りみたいね」

 カナタは他の客を見て、自分たちの制服が目立っていることに気づいた。学生客のほとんどが澄空学園の制服を着ている。他校の生徒はカナタと智也だけだった。

「縄張りということはないですが、もしも、からまれたら呼んでください。一喝してやりますから」

「あははっ♪ お姉さん、カッコいい」

 笑うカナタに一礼して鈴はオーダーを厨房へ通しに行く。智也は宝石箱を開けて買ったばかりの指輪を確かめる。

「鷹乃、喜んでくれるかな」

「誕生日にリングをもらって喜ばない女の子がいるとしたら、くれた男のことを嫌いか、金属アレルギーか、ね」

「まあ、そうだろうけど……」

「………」

 カナタは智也の額に残る傷跡を見つめた。

「香菜ちゃんにやられた、その傷。それ、きっと残るね」

「ああ……、鷹乃には悪いことしたから…」

「けど、今は付き合ってるんだし、ぜんぜん結果オッケーなんじゃない?」

「………ああ、…まあ…」

「香菜ちゃん、キレると怖いよね」

「…………。加賀と黒須って、初めてのとき、どんなだった?」

「セクハラな質問♪ ショーゴの話はしない約束だったよね」

「あ、悪い」

「まあ、いいよ。アタシも想い出したし。ん~……あれはねぇ、みんなで行った花火大会を途中で二人、抜け出して、部屋に戻って、アタシから誘ったかな♪ シャワー浴びて熱くなった身体を冷たいフローリングに、ころんと寝転がって、ちょっと上目遣いにショーゴを見つめたら、限界きたみたいで襲ってきた♪」

「それで襲われなかったら、完全に脈無しだな」

「……。意外と奥手だよね」

「中三だからな。むしろ、黒須がすごすぎる」

「彩っちが同じことしたら、襲った?」

「………。たぶん、欲望に負けるな」

「唯笑ちゃんが同じことしたら?」

「唯笑は、しそうにない。っていうか、唯笑がしたら頭の病気になったのかと思って心配する」

「ふーーん♪ 智也の中で、唯笑ちゃんは絶対的に純真な女の子なんだ♪ へぇぇ♪」

「なんだ、そのニヤニヤ笑いはっ!」

「別に♪」

 カナタは笑ったまま、鈴が運んできてくれたパスタとピザを食べ始める。智也もピザを一切れ、頬ばった。

「美味いな」

「うん、美味しい♪ ふふっ♪ 智也は唯笑ちゃんを、そーゆー風に思ってるわけだ。ふーん♪ へぇぇ♪」

「だから、なんなんだよ、そのニヤニヤは!」

「べぇつぅにぃ♪ うん、パスタも美味しい」

「………………」

「唯笑ちゃんは、いつまで経っても純粋なんだよね?」

「…………ムカつくなぁ……」

「唯笑ちゃんがエッチに男の子を誘うなんて、ありえないよね? きて、トモちゃん。唯笑を大人にして。やさしく色々して、トモちゃん」

「唯笑を汚すなっ!!」

 智也の声が大きかったので店内で目立ってしまったのに、ストレートな怒りを見せた智也の反応が面白くて、カナタはからかうのを続ける。

「唯笑ちゃんは汚すと怒るのに、鷹ちゃんは汚したんだ?」

「お前は、どこまでムカつくことを…………」

 智也は拳を握った。けれど、さすがにカナタを殴ろうとはせず、無視を決め込む。

「……………」

「彩っちに誘われたら襲うし、鷹ちゃんは誘われなくても襲う。なのに、唯笑ちゃんは誘ってくることも想像しちゃいけない♪ 汚れなき少女」

「……………………」

「いつまでも子供のまま♪ 大人の女になんか、ならない。エッチなんて絶対しない。そんなこと考えない。可愛い可愛い唯笑ちゃんは、いつまでもいつまでも、オレの幼馴染み。だから、彩花が好きになってくれてデートに誘ってきたけど、唯笑ちゃんを傷つけないよう、どっちも選ばなかった。そっと大切に…」

 カナタは顔面へ冷水を浴びせられた。智也は空になったグラスを置くと、カナタの襟首をつかむ。

「男だったら、とっくに殴ってる。女でも、あと一言しゃべったら殴る」

「っ…………………………、………ごめん」

「……。さっさと喰えよ。帰るぞ」

「ごめん、………ごめんなさい」

 カナタが本気で謝っているので、智也も冷静になった。

「もういい。…………タオルか、何か借りてくる」

「あ、いいよ。そんなに濡れてないから」

 もともと、グラスには半分も水は残っていなかった。少し顔と胸元が濡れただけで、手元のナプキンで十分に拭き取れる。

「………ごめん、智也……」

「もう、いいって……オレも、悪かった」

「……………ごめん……」

 拭き終えたカナタは冷めかけたパスタを口に運ぶ。美味しいとは思えなくなってしまった。

「………」

「黒須……何か、苛ついてることあるのか? さっきのは、八つ当たりだろ?」

「……………………別に……ないよ」

「いや。オレや加賀の堪忍袋の緒を読み違えてキレるまで、からかうのは黒須らしくないぞ」

「………ショーゴの話はしない約束」

「……………………」

 なんとなく苛ついている原因がわかったので、智也は追求をやめる。カナタは半分まで食べたパスタの皿を智也へ見せる。

「……もう、アタシ、お腹いっぱい。……食べてくれる?」

「ああ」

 平均的な男子高校生なら、カナタの使ったフォークを手に取ることにも緊張するところだったが、彩花や唯笑とも似たようなことをしてきた智也は気がつきもせず、パスタを平らげる。ピザも無くなるタイミングを見計らって、鈴が抹茶ミルクフラッペを運んできた。

「抹茶ミルクフラッペです。以上で、ご注文はおそろいでしょうか?」

「ああ」

「……、よ、…余計なことかもしれませんが、……女の子には、優しくしなさい。…いえ、してあげるべきです……」

「見てたのか…」

「……、店内でケンカは困ります……いえ、その……そうじゃなくて……」

「店員するのか、お姉さんするのか、選べよ。何が言いたいんだ? 遠慮無く言ってもいいぞ、店員A」

「……。稲穂鈴……Aじゃない」

「で、稲穂さんは何が言いたいんだよ、オレに。いっとくけど、ケンカ両成敗って言葉もあるし、そもそも会話、全部は聞こえてないだろ?」

「そ、…そりゃ、私は他人だけど……、女の子に水かけるなんて……」

「で?」

「……………………。さ……さっきまで指輪をプレゼントしようとして、いい雰囲気だったのに、ちょっとした口喧嘩で別れるなんて、きっと二人とも後悔する! 青春は短いんだ! やり直しはできないんだ! ケンカなんてやめなさい! もったいないから!」

「「……………………」」

 ああ、このお姉さん、思いっきり勘違いしてるよ、智也とカナタは呆れつつも少し愉快になった。おかげで暗澹としていた気持ちが軽くなり、智也は立ち上がると、指輪を出してカナタの前に膝をついて捧げる。

「もらってくれないか。カナタ」

「トモちゃん、本当に、いいの?」

「もちろんさ、カナタ!」

「トモちゃん!」

 カナタも智也も立ち上がり、ワシっと大げさに抱き合った。とても、バカらしい芝居だったのに、鈴は一組のカップルを修正できたと思い、目を潤ませる。

「うん、うん、そうでなくっちゃ」

「稲穂さん、ありがとう♪」

「お姉さん、ありがとうね♪」

「そんな、私は何も…」

「ううん、お姉さんのおかげ!」

「ああ、オレたちの結婚式には、きっと呼ぶよ!」

「うん、絶対きてね! すぐ結婚するから!」

「ま……ちょっと待った! そんな性急な! もっと慎重に考えなさい」

 鈴が抱き合う二人を引き離して諭す。

「二人の気持ちはわかった。でも、世の中には、もっと知らなくちゃいけないことが、いっぱいあるんだ。まあ、落ちついて。慎重に。愛し合うって言っても、まだ二人とも若い、っていうか、子供、セックスだって軽々しくしちゃいけない」

「セッ……やだっ♪」

 カナタが両手で顔を隠して身体をクネクネさせて恥ずかしがるフリをすると、智也は爆笑しそうになって同じく両手で顔を隠して鈴に背中を向けた。その姿を見た鈴は深く感動した。

「か……」

 可愛い、なんて純真なカップル、うん、うん、やっぱり恋愛は、こうでなくっちゃ、それなのにセックスなんて露骨な単語を使った私はなんて無粋なんだ、反省しなくっちゃ、きっと、この二人はキスだって、まだしてないかもしれない。でも、訊きたい、二人のファーストキスの話があるなら、知りたい。

「け…、結婚なんて言ってるけど、二人はキスくらいしてるの?」

「っ…」

 カナタは顔を隠したまま、フルフルと首を横に振った。意識して耳を赤くしてみる。

「ア…アタシは………だ、だって、恥ずかしいもん!」

「くっ…」

 お前、それ、どんなキャラだよ、智也は腹がよじれるかと思って、立っていられなくなり、恥ずかしがる少年という風に座り込んだ。鈴は自分のせいで二人が強く意識して背中を向け合ってしまったことを反省して、事態の収拾に入る。

「私が悪かった。まあ、落ちついて。席に座って」

「「は、はい」」

 カナタは恥ずかしくて智也とも鈴とも目を合わせられないという演技をしながら、席に座る。座り方もキュッと膝をそろえて内股気味に腰かけ、両手は本能的に防御に入る少女という気分で股間に入れつつ、そのために腕が胸をよせて強調されることも楽しむ。智也も初めてのデートで緊張している男子中学生のように落ちつかない座り方をする。二人ともチラチラとお互いを見つつも、目が合いそうになると慌ててそらす演技をしながら、アイコンタクトを送る。

「……」

 おい、いつまで、このくだらん演技をするんだ、という智也の問いに、カナタはスプーンでかき氷を食べる仕草だけで、食べ終わって帰るまで、と伝える。カナタは食べ終えると、紙ナプキンにメールアドレスを書き、智也が会計を済ませるときに、そっと鈴へ手渡した。

「もし、よかったらメールほしい。お姉さんに、いろいろアドバイスしてほしいし、バイクのことも訊きたいから。……迷惑かな?」

「きっと送るから。もう彼とケンカしないように」

「うんっ」

 カナタは鈴に手を振って別れた。店から出て、しっかりと距離をとると、路上で大笑いする。

「くっははははっ!!」

「きゃはははははっ!」

 ひとしきり笑って、まだクスクスと笑いながら、涙を拭く。

「あーっ、可笑しい♪」

「可笑しすぎだ! 店ん中で吹かなかったのが奇跡だっての!」

「面白いお姉さんだったね」

「黒須だって誰だよ、あのキャラ! あ、あたしは、だ、だって恥ずかしいもん、って! どこの処女だ?!」

「あのお姉さん、きっと処女だよ、絶対」

「そうか? 二十歳超えてる感じだったぞ」

「だから、イキ遅れなの♪ 賭けてもいい。絶対処女。しかも妄想激しいタイプね。実体験ないくせに、恋愛のことばっかり考えてる脳内乙女。下手すると三十路バージン行くよ、あれ」

「ひでぇ……メルアド渡しただろ? まだ、からかうつもりか?」

「ヒマならね♪ けど、智也だって、あのキャラなに? もちろんさ、カナタ、とか。オレたちの結婚式には、きっと呼ぶよ、って浮かれバカ、どこから来たの?」

「電波だ、電波、ビビっとな。カナタ♪」

「トモちゃん♪」

「カナタ!」

「トモちゃん!」

 呼び合って、大きく両手を拡げる。

「「ワシっ♪」」

 もう鈴はいないので抱き合う演技は軽めに、身体を離して肩を抱く。

「アホね」

「うむ、アホだ」

 二人が離れて澄空駅へ向かおうとしたとき、彩花と唯笑が反対車線の歩道から見ていることに気づいた。彩花は不愉快そうに、唯笑は戸惑いながら、道路を渡って二人に近づいてくる。

「どうして、カナタちゃんがトモちゃんのこと、トモちゃんって呼ぶの?」

「やっぱり、そこなんだ? 話すと長いよ? 聞く?」

「手短に聞かせてもらえると、うれしいかな。どうせ、バカなことでしょ?」

 彩花が持っていた買い物袋を重いので歩道においた。

「お前らこそ、こんなところで何をやってるんだ?」

「文化祭の用意、っていうか、ここ、澄空の通学路だし、居て当たり前」

「唯笑、学祭の委員になったんだよ。トモちゃん」

「唯笑が臭いのいいになった?」

「むーっ! 変な言い方しないでよ!」

「格助詞をはぶいて喋るからだ。日本語は正しく使え」

 智也と唯笑が、じゃれるのを見てカナタはタメ息をついた。

「三人よると、かしましいね。あいかわらず」

「オレは女か?!」

「とりあえず、手短に話すとさ。智也が鷹ちゃんにナイショで指輪をプレゼントするのに付き合ってあげて、そこ喫茶店で休んでたら、アホっぽい店員が恋愛道を語るから、からかってたの。その演技の延長で抱き合っただけ、そーゆーこと」

 カナタの手短な説明で彩花は納得した。

「ああ、あのシナモンのウエイトレスね」

「有名なの?」

「澄空学園内だと、かなり有名。カップルで行くと、必ず観察してくるらしいよ。最悪の場合、とち狂ったアドバイスしてきたり、エッチな話してると教育的指導されたりするから、かなり評判悪いよ」

「うわぁ……変な方向に情熱を持て余してる……、まさにイキ遅れ……、面白っ、やっぱメルアド教えてよかった♪」

「それより、智也。指輪を買ったなんて、どこに、そんなお金があるの?」

「秘密だ」

「………。教えないと生活費も渡さないよ。不明朗な会計は、お母さんに報告します」

「バイトだ!」

「……ふーん……いくらくらいの指輪?」

「別に、お前に、そこまで教える必要無いだろ!」

「……ま、いいわ。唯笑ちゃん、そろそろ委員会はじまるから、行こ」

「うん、トモちゃん、鷹乃ちゃんによろしくね。カナタちゃんも、ショーゴくんにもよろしくね」

「ああ」

「またね、唯笑ちゃん、彩っち」

 カナタは神業的な演技力で屈託なく唯笑に微笑み、手を振ってから彩花たちと別れる。もう智也はカナタと行動をともにする必要はなかったけれど、少し気になるのでカナタの隣を歩く。

「……。今日は、悪かったな。余計な買い物に付き合わせて」

「別に、悪くもないし、余計でもないんじゃない? ごちそうしてもらったし。あ、ごちそうさま♪ 美味しかったよ」

「おそまつさま」

 カナタは目的もなく歩き、智也も真っ直ぐ帰るには、まだ早いので夕暮れをカナタと散歩する。気がつけば、登波離橋の上だった。

「ほたるってさ、ここで告白して、ここでフラれたんだって」

「……そうか……」

「この橋、呪われてるらしいよ」

「どんな呪いだ?」

「ここで告白したカップルは必ず別れる」

「……くだらない、……無限くだらないな」

「でも、ほたるには効いた」

「アレは伊波が悪いだけだ」

「……そーゆーことにしておきますか、トモちゃん」

「まだ、続けるのかよ」

「好き♪」

「………呪われるぞ」

「呪いは一人につき、一回かな?」

「………………。加賀と、仲直りしたら、どうだ?」

「余計な御世話」

「……、………。……そろそろ、オレは帰るけど、家まで送ろうか?」

「いい。ここで、別れよ。登波離橋で♪」

「イヤな話題の後に、選定するなぁ……」

「うん♪ 呪いよ~ぉ、トモちゃんに憑け~ぇ♪」

 カナタが怪しく指を蠢かしてふざける。

「アホか」

「アホね」

「じゃあな」

「バーイ♪」

 登波離橋で二人は別れた。

 



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8話

 

 

 登波離橋の下で、雅と歩はドラム缶に入れられ、泣き震えながら抱き合っていた。殺さない程度に痛めつけると言っていたのに、やっぱり完全犯罪のために殺されることになり絶望していた。ドラム缶の外から、詩音の声が響いてくる。

「やはり日本の流儀なら、女子高生はドラム缶にコンクリート詰めが正しい片付け方ですよね」

「はい、お姉様♪」

 香菜の声もする。もう雅と歩は怯えきって言葉は出せず、涙と嗚咽だけを零している。不意にドラム缶が倒され、転がされる。

「やっぱり、このまま河に流して海に還ってもらいましょう。ペルーのみなさんもコンクリートを作ってもらうのは手間ですから、運が良ければ竜宮城にでも助けてもらえるかもしれません。せいぜい、お祈りしてください」

 楽しそうに転がしているのは詩音のようで声が弾んでいる。雅と歩は転がされて上下入れ替わり、もみくちゃにされながら今度は海に流されたら、どんな死に方をするのか考えてしまう。

「さてと。香菜さん、そろそろ許してあげましょうか? さっきから、泣き声が絶望的になっていますし、もう十分に反省しているでしょう」

「お姉様が、そういうなら、とりあえず今日は許してあげてもいいかな……」

「では」

 詩音がドラム缶の蓋を外して雅と歩を引きずり出した。しばらくぶりに外の光を見る二人の目がまぶしくて痛い。涙と汗で、ずぶ濡れになった二人は仮面のように冷たかった詩音の顔が少しは緩み、周囲で怒鳴っていたペルー人たちも穏やかになっていることに気づくのに、5分ほどかかった。

「ひっく…ぅぅ…お、…お許しくださるのですか…」

「う…うちらを……欺したん? ぐすっ…」

「欺したのではありません。教育的指導です」

「「………」」

 とにかく助かったのだと、雅と歩は抱き合って、また泣いた。

「ふふ♪ 怖いものでしょう。よくわからない言葉を話す異国人に周り囲まれて、助けもなく孤立する気分は、とてもとてもイヤなものでしょう?」

 詩音は満足そうに生粋の日本人2名の頭を撫でると、ペルー人たちにスペイン語でお礼と解散を告げた。香菜は薙刀を拾うと、雅と歩のお尻を軽く叩いた。

「いつまで、腰をぬかしてるの? そろそろ立って」

「ひぃっ…」

「ほんなこと……言われても…」

 よろよろと二人は支え合いながら立った。言われる通りにしないと、香菜が機嫌を損ねそうで怖い。詩音はイジメたいだけイジメて、雪辱をはらしたように何かすっきりとした顔で、むしろ、もう雅と歩には優しい笑顔を向けて気づかってくれるのに、香菜は別のことで苛ついたようで、顔が怖い。

「二人とも河に飛び込んで」

「そ、そんな…ご無体な…」

「もう…許して…くれたん…ちゃうんですか?」

「バカね。そんなカッコで帰ったら家の人に何があったのか、訊かれるでしょ。河で洗って、家の人には友達が河にはまって溺れかけたから助けたって言うの。わかった?」

「「……はい」」

 言われたとおりに二人は嘉神川で涙と汗、ドラム缶のオイルで汚れた制服を洗った。

 

 

 

 夕方、鷹乃は三上家で夕食の用意をしていたけれど、電話が鳴ったので戸惑う。

「……でる……べきかしら」

 同棲はしているけれど、電話応対するのには戸惑いを覚える。もしも、智也の両親からの連絡だったら、何を言えばいいのか、よくわからない。けれども、電話のベルは鳴り続ける。なにか、重要な用件なのかもしれない、鷹乃は受話器をとった。

「もしもし……み…三上、です」

「登波離橋」

 沈んだ重い声だったけれど、聞き覚えがある。

「……香菜?」

「…はい……声だけで、ちゃんをわかってくれるんですね。鷹乃センパイ」

 少し声が明るくなった。

「どうかしたの? 香菜が、ここに電話してくるなんて。登波離橋が、どうしたの?」

「………いました」

「誰が?」

「三上センパイと……あの女、……黒須カナタ」

「………。智也はアルバイトに行っているはずよ? 見間違いじゃないの?」

「私、こう見えて目はいいんです」

「…………。眼鏡をしていなかった?」

「伊達です」

「………………。黒須さんと何をしていたの?」

「わかりません。けれど、唇の動きを読んだ感じだと………見間違いかもしれませんが、あの女、三上センパイへ、好き、って告白したかもしれません。そう見えました。言われた三上センパイは、いい返事をした風ではなくて、すぐに二人は離れましたけど、はっきり断ったようにも見えませんでした」

「……それで、わざわざ私に教えてくれたの?」

「はい。……すいません」

「いえ、ありがとう。………香菜、…香菜は元気にしている?」

「はい。元気ですよ」

「そう、…よかった…。…詩音は? 詩音とは、会ってる?」

「はい、お姉様とは毎日」

「…………。詩音も元気そう?」

「はい、とても」

「…そう……もう、切るわね。お鍋をかけているの」

「お騒がせして、すいません」

「ううん、……また、何かあったら連絡してちょうだい」

「はい」

「じゃあ」

 鷹乃は電話を終え、夕食の準備を整えると、智也の帰宅を待った。

「…………………………………………」

 何もせずに待つ、テレビもつけず、じっと座って智也の帰りを待っていると、昔のことを思い出してしまった。ある日、帰ってこなくなった父親は、その日が来る何ヶ月か前から、だんだん帰宅が遅くなっていた、仕事だといって、家にいる時間が減っていた、それと比例して母は苛立ち、鬱になっていた。

「……………………………………」

 九時過ぎに、玄関からドアの開く音がして智也が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさい。……」

「お、美味そう♪ 鷹乃って料理うまいよな。いただきます」

 手を洗った智也はテーブルにつくと箸を持った。

「どうして……私に、ウソをつくの?」

「いきなり、何だよ?」

 智也が箸をとめて、鷹乃についているウソを思い返す。今日の放課後はバイトだと言ってカナタと買い物をしていた。そうか、彩花がチクったな、智也は舌打ちを隠してとぼける。

「オレが、どんなウソをついてるって?」

「黒須さんと会っていたでしょう」

「ああ、買い出しにいかされたとき、たまたまな。そんなことで深刻そうに問いつめてくるなよ」

「…………。黒須さん、あなたに好きだって言ったはずよ」

「ああ、あいつはトトと同じで演技派だからな。ときどき、そーゆーバカみたいなこといって男をからかってくるんだ。いちいち気にしない方がいいぞ」

「………………それだけ?」

「それだけだって、そんな深刻になるなよ」

 智也は席を立って鷹乃を抱きよせる。ウソは突き通す、ウソはウソで塗り固める、上塗りして真実を覆い隠す、智也はウソつきのプロだった。

「鷹乃、オレが好きなのはお前だけだ」

「……智也」

 鷹乃が疑うのをやめたので、智也はキスをする。ついでに、胸を揉む。服を脱がせて、また抱きしめる。食欲の前に性欲を満たす流れになりかけたけれど、抱きしめられて抱き返していた鷹乃の手がズボンのポケットが異様に膨らんでいることに気づいてしまった。

「これは、なに?」

「……」

 しまった、という顔を智也は浮かべてしまった。鷹乃がポケットから宝石箱を出して、顔を硬くする。

「これは、なによ?」

「………」

 思いつけ、オレ様、なんか、言い逃れる方法を、まだ早い、明後日じゃないとダメだ、智也は高速で思案するが、いいウソが思いつけない。黙っている智也に対して、鷹乃が苛立って問いつめてくる。

「黒須さんからもらったのね!」

「………、そーゆーことじゃない。それは……まあ、……それだ」

 なんだそりゃ、もっと、いいウソをオレに、神よ。

「なにそれっ?! どういうこと?!」

「…………それのことは、10日後に話すから、今は…」

 智也は宝石箱を取り返そうと鷹乃の手首をつかみ、誤魔化すためにキスをしようとする。

「今は、それのことは忘れておいてくれ」

「イヤよ! 説明して! 黒須さんからもらったの?!」

「………」

 黙って鷹乃を押し倒そうとしたけれど、激しく抵抗される。

「誤魔化さないで! 黒須さんから高価な物を送られたんでしょう?! 白河さんの時計みたいに! 答えてよ! でないと、開けるわよ!」

「開けるな」

 腕力では智也の方が強い、抵抗されても宝石箱を奪い返すことはできた。けれど、鷹乃は疑惑でいっぱいになり、涙を溢れさせると智也から離れて二階へ駆けあがっていった。

「……たはーっ……」

 智也はタメ息をつき、宝石箱をテレビの上においた。二階にあがると、鷹乃が使っている部屋のドアをノックする。

「入るぞ」

 開けようとしたが、中から鍵がかかっていた。

「…………。鷹乃、あれは黒須からもらったものじゃない。ちょっと事情があってオレが持ってるけど、その説明は10日ほど待ってくれ、な?」

 穏やかに話したけれど、ドアからは啜り泣く声しか返ってこない。

「鷹乃、あれはテレビの上においておいた。やましいことは一つもないから、な? ちょっとだけオレに時間をくれ」

 それでも返事がない。結局、その夜は鷹乃が部屋から出てくることはなかった。

 

 

 

 翌朝、鷹乃は制服を着て部屋を出ると、智也に声はかけず、朝食も作らず、そのまま学校へ向かった。昇降口で靴を履き替えてから、カナタの下駄箱を見ると、まだ登校していないことを確認し、その場で待つ。しばらくしてカナタが果凛と登校してきた。

「ハーイ♪ 鷹ちゃん、おはよ」

「………」

 挨拶を返さず、腕組みして険しく睨む鷹乃の反応で、カナタは事態の全容をほぼ正確に推察した。はは~ん、アタシが昨日、智也と会ってたことを誰かから聞いたね、でもって智也はリングのことは説明しなかった、だから、納得できないでアタシと直接対決しようってわけね、にしても嫉妬深いって智也が言ってたけど、ここまでストレートとは、からかい甲斐があって面白そう、カナタは親指を軽く舐めて微笑んだ。

「怖い顔して、どうしたの? 鷹ちゃん」

「人のものに手を出すのは、やめてくれないかしら?」

「ん? 何のこと?」

 カナタが空とぼけるのを、隣の果凛が肘でついて諫めてくる。果凛には借りたリングを返したときに昨日のことは話している。果凛もカナタと同様に鷹乃が怒っているわけを推理していたので、からかうのはやめなさい、というニュアンスを込めていたが、カナタは無視して靴を履き替えながら、鷹乃に挑発的な態度を取る。仕草の一つ一つを可愛らしくして、見ているのが男だったら見とれるような艶っぽい動きで腰や胸を強調する。靴を床へ置くときには、わざわざ見えそうで見えないくらい短くしているスカートのお尻を鷹乃へ向けて、脚線美と腰の細さを見せつけ、立ち上がると左手で髪をかきあげ、ほのかで上品な香水の匂いを漂わせる。当然、鷹乃が見とれるようなことはなく、むしろ本能的な危機感を刺激されて苛立ちを強くした。

「鷹ちゃんが何を言ってるのか、アタシ、ぜんぜんわからないんだけど? ふふ♪」

「…………。はっきり言えば、加賀くんと不仲になったからって、智也にすりよるのはやめてということよ。節操無しのドロボウ猫。きっと、加賀くんも、あなたのそーゆーところに嫌気がさしたのでしょうよ」

「……………………………」

「カ……カナタ、冷静に…」

 果凛は今ほどカナタが怒っているのを見たことがなかった。怒りに顔を歪めているわけでも、怒鳴ったわけでもないけれど、肩から発するオーラで果凛にはわかってしまう。煮えたぎって蒸気爆発しそうなほどの怒りが感じられた。

「誰が節操なしだって? もう一回言ってみなよ?」

 カナタが鷹乃の襟首を掴んだ。

「あなたよ!」

 鷹乃もカナタの襟首を掴む。

「ちょ、ちょっと、二人とも冷静に!」

 果凛が仲裁しても二人の耳へ入っていない。夏服が破けそうなほど、襟首を掴み合って視線をぶつけている。ただ、カナタも弱くはなかったけれど、先月まで全国クラスの泳力をほこっていた鷹乃の膂力は圧倒的で、気がつけばカナタの身体は持ちあげられ、爪先が床から離れていた。

「ぅぅ……ぅ…」

 首が絞まり、息が苦しい。悔しい。つまらない誤解で罵られたことも悔しければ、一度も正午からリングなんてプレゼントされたことないのに、智也から愛されているくせに、信じようともせずに、不確かな疑惑で自分を責めてくることも悔しくて腹立たしくて許せない。なのに、力負けして無様に吊り上げられてしまった。もう容赦なんてしない。

「このっ!」

 思いっきり鷹乃の腹部へ膝蹴りを入れた。

「くっ…」

 なのに、鷹乃は少し呻いただけで動じない。カナタの膝に鉄を蹴ったのかと思うほど硬い腹筋の感触が残っている。だったら、これで、カナタは常に持っているスタンガンで気絶させてやろうとしたけれど、その手を香菜につかまれた。

「いつも同じ手段で勝てると思うの? ドロボウ猫」

 香菜はスタンガンをカナタの手からもぎ取ると、持ち主に試した。

「あぐぅっ?!」

 電撃を受けたカナタの身体が痙攣する。鷹乃はカナタを床に落とした。

「香菜、どうして…」

「この女は卑怯ですから鷹乃センパイが心配だったんです。私も一度、このスタンガンにやられてますから」

「カナタっ! 大丈夫っ?!」

 果凛が気絶したカナタを抱き起こして、香菜と鷹乃を睨む。

「なんてことするのよ?!」

「花祭センパイ、正当防衛ですよ。先にスタンガンなんて出したのは、そこの小便タレでしょ? だらしないユルい女」

 香菜がスタンガンをあてたのが、股間だったのでカナタは下着とスカートを失禁で汚していた。それを嗤った香菜に、果凛が熾烈な怒りを向けた。

「こうまで友人を侮辱されては私も黙っていられません」

「じゃあ、わめけば?」

 香菜はスタンガンを果凛に向けて構える。その構えに隙がない。

「………………………」

「どうしたの? 花祭センパイ、さっきの勢いは、どこに?」

「くっ…」

 果凛も簡単な護身術は習っているが、どうも本格的な護身術を短期で身につけていそうな香菜がスタンガンを持っているのに、対抗できる技がない。智也をイスで殴り殺しかけた件から場数を踏んできている香菜に気圧され、果凛の腰がすくむ。

「………」

「ほら、どうしたの? お祭りお嬢さま、口だけ女なの?」

「香菜……もう、いいわ。やめてちょうだい」

「……。はい」

 鷹乃に言われると香菜は矛を納める。果凛も争う気を無くした。

「カナタ……」

「気絶している黒須さんのこと、お願いしてもいいかしら?」

「…ええ」

 果凛は校門で別れたばかりのジイヤを携帯電話で呼び戻してカナタを連れ帰る。思わぬ大きな事件になってしまい半ば茫然としている鷹乃の手首を香菜が握った。

「ちょっと来てください。お話があります」

「え…ええ……でも、授業が…」

 とっくに朝のHRが始まり、そろそろ授業という時刻だったけれど、香菜は手首を引いて鷹乃を水泳部の部室まで連れ込んだ。

「香菜、話って?」

「どうして、三上センパイなんですか?」

「………どうしてって……どうしてかしら、そうなってしまったのだもの……仕方ないわ」

「やっぱり、そういう成り行きだけの……。それなら…」

 香菜が顔を近づけてくる。

「ちょっと目を閉じてください。鷹乃センパイ」

「ええ……こう?」

 素直に目を閉じた鷹乃の唇にキスをされる。鷹乃が目を開けて、表情を曇らせる。

「……………………香菜………」

「好きです、鷹乃センパイ」

「………、……今ので……気が済んでくれた?」

「……………………」

「もう、これっきりにしてちょうだい」

 そう言って、部室を出ようとする鷹乃の前に香菜が回り込んだ。

「私は本気ですっ」

「……………。………、香菜………」

「鷹乃センパイ」

 もう一度、キスをしようと迫ってくる香菜を押しとどめる。

「やめて、香菜」

「……どうして?!」

「どうしてって………、……言わなくてもわかるでしょ? 常識で考えなさい」

「わかりません! どうして、あんな男っ?!」

 押しとどめられた香菜が押し返して鷹乃をロッカーまで追い立て、避けられないようにして強引なキスをする。

「ぅっ…」

 鷹乃は唇を割って入ってこようとする香菜の舌を拒絶して顔をそむけた。

「香菜、本当にやめてちょうだい」

「イヤです」

 香菜は顔をそむけた鷹乃の頬や耳にキスをしながら、鷹乃の制服を乱してくる。

「香菜っ! 怒るわよ!」

「鷹乃センパイ………抵抗しないで。……抵抗したら、こう、ですよ?」

 香菜がスタンガンを鷹乃の首筋にあてた。さきほど、その威力は見ているので鷹乃は身を硬くする。

「わ……私を脅迫するの……?」

「大好きです……鷹乃センパイ……」

 鷹乃の身体へのキスを続ける香菜はスタンガンを捨てて、お互いの制服も床へ落として一線を踏み越えようとする。胸にもお腹にも、下腹部へもキスをしながら、鷹乃の下着をさげようとして、上から降ってくる涙に気づいた。見上げると、鷹乃が大粒の涙を次々と零している。

「……鷹乃センパイ……」

「あなたまで………香菜まで、力尽くで……私を………」

「………。だって、……だって、あの男だって同じことをして鷹乃センパイを手に入れたじゃないですかっ?! どうして、私じゃダメなの?! こんなに鷹乃センパイのこと愛してるのにっ?! 私、鷹乃センパイのためだったら! なんだってします! 誰だって殺します! だから……だから、……だから、そんな風に泣かないで……泣かれたら……泣かれたら……」

 香菜は下着を脱がせるのをやめた。

「どうして……私じゃ……ダメ……」

「そんなこと……小学生にだってわかるはずよ。香菜は、わかりたくないだけ」

 陵辱をやめてくれた後輩を鷹乃は抱きしめて諭す。

「生き物は男と女、オスとメスで交配するのよ。もしも、私が男に生まれていたら、慕ってくれる香菜と結ばれたいと想うわ。その逆でも。でも、現実は二人とも女よ」

「そんなこと気にしないっ!」

「気にしなさい」

「………」

「香菜は、どうして男性が嫌いなの? 私も、嫌っていたから……今でも嫌いなところは多いけれど、……それでも、受け入れるべきよ。世界はそうなっているし、それに背いては幸せになれないわ」

「…………」

「香菜、私は、あなたにも真っ直ぐに歩いてほしいの。目を覚まして、香菜。それとも、それほどまでに男子を嫌う、理由があるの?」

「……………………、はじめて好きになったのは保育園の保母さん、二人目は六年生の班長さん、三人目は文芸部の副部長さん、そして、四人目は鷹乃センパイです」

「…………」

「男の子を好きになんてなったことない。なり方もわからない。いつも、好きなるのは同性です。それでも、私に男を強制するの?」

「………ええ、そうしなさい。はじめはイヤでも慣れるものよ。泳ぎだって、香菜はみるみる上達したわ。はじめは抵抗があっても、男性にだって慣れるはずよ」

「……………………………………」

「あなた、詩音にも甘えているでしょう? あれも、やめなさい」

「………………お姉様は、…………私に優しいのに…」

「詩音は優しいわ。でも、香菜と同じではないはずよ。それは、わかるわ」

「……でも…」

「詩音の優しさに、甘えるのもダメよ。やめなさい。いつか、あなたが傷つくわ。それだけでなくて、詩音も傷つけるかもしれない。香菜が、詩音を苦しめるのよ。自覚しなさい。それは罪よ。まして、あなたが本当に好きなのは私でしょう。さっきのことで確信したわ。あなたは詩音が優しいから、詩音を私の身代わりにしている。それは、とても失礼なことよ。わかるわね?」

「………………………………………………」

 うなだれた香菜は部室を出て行った。

 

 

 

 ジイヤが運転するリムジンの中で気絶していたカナタは目を覚ました。

「うう……痛っ…」

 無意識的に電撃を受けて痛む股間を押さえ、それから状況を思い出していく。果凛が心配した。

「カナタ、……大丈夫?」

「…………………。あの二人は? ……こうやってクルマで送られてるってことは……アタシは負けたんだ……」

「負けたって……そんなこと…」

「……………………」

 カナタは黙り込んで果凛に背中を向けた。

「カナタ、…大丈夫なの?」

「………。大丈夫」

「……………」

 そうは見えないけれど、こう言い出したら聞かないから、果凛は同情しないように努めながら、慰めていると気づかれないように慰めてみる。

「ショーゴくんとうまくいってないの?」

「…………」

 カナタは車窓を見つめていて答えない。

「……。ねぇ、カナタ、余計なことかもしれないけど…」

「余計だから言わなくていいよ」

「……………………」

「降ろして」

「でも……着替えも…」

「降ろして。ここでいい」

「……………………。ジイヤさん、クルマを停めてください」

 果凛がリムジンを停めさせると、カナタは一人で歩き出した。果凛が後を追うのを拒否して、一人歩きしているうちに涙が溢れてくる。それを手の甲で拭きながら歩き続けて、いのりの家に着くと携帯電話で後輩に連絡をとる。ちょうど、一時間目と二時間目の休み時間なので、いのりは受話してくれた。

「もしもし、カナちゃん?」

「うん……」

「どうしたの? 泣いてるの?」

「………うん」

 ほんのわずかな声だけで、いのりが心配してくれたのが嬉しくて嗚咽が込み上げてきた。

「ぅ……ぅっ……ひっく…」

「カナちゃん、どこにいるの? 学校?」

「いのっちの……家の前…」

「私の家? わかった。すぐ行くから、待ってて」

 いのりは言葉通りに駆けつけてくれて、陵家の門扉の影に隠れていたカナタを見つけてくれた。

「どうしたの? 何があったの?」

「ぅっ…、うっ…うわーん!」

 小学校からの付き合いがある後輩に泣きついたカナタは小学生のように泣きじゃくりながら今朝あったことを話して泣き続けた。

 

 

 

 六時間目の授業が終わり、鷹乃は智也の席を見つめた。とうとう智也は学校に来なかった。鷹乃はカナタと諍い、香菜を諭してから授業に参加したけれど、智也は登校してこなかった。

「……………………」

 鷹乃が黙って智也のイスを見ていると、翔太が声をかけてきた。

「彼氏は休み?」

「………知らないわ。あんな人…」

「ケンカ中か」

「…………。他人のことに、いちいち口出しするのはやめてくれないかしら? 死体に群がるハエみたい。気分が悪いわ」

「それは、また、きつい喩えで…」

 オレがハエなら、寿々奈さんは死体ってことになるんだが、指摘したら叩かれそうだな、翔太が肩をすくめていると、鷹乃はキッと睨んだ。

「他人のことにまで口出しするなんて、いい気なものね」

「……そうかい?」

「ええ、そうよ。南先生が可哀想」

「オレは彼女を………大事にしてるつもりだけど?」

「まるでわかってないようね。どういう経緯で付き合いだしたのかは知らないけれど、教師と生徒よ。どれだけ危険な関係かわかっているの?」

「………あと、半年で卒業だしさ」

「その前に発覚したら南先生はクビよ。そんな状況なのに、他人のことに気を回している余裕が中森くんにあるってことは、南先生の気苦労も絶えないわ。………結局、女ばかり損をするのよ」

「……。寿々奈さんの持論は肝に銘じておくよ」

 翔太は降参したというように両手をあげたポーズを取ると退散していく。帰りのHRが終わり、鷹乃は荷物をまとめると学校を出た。

「…………………………………」

 まっすぐ三上家へ帰る気になれず、とはいえ水泳部に顔を出す気もなく、もちろん、叔父の家へ帰る気にもなれない。どこへ行くあても、何をする気力もなく、街を歩いているうちに公園のベンチに腰を落ちつけた。

「……………………」

 木陰のベンチから、太陽が傾いていくのを眺めていると、わけもなく切なくなってきた。

「………いっそ、死んでしまいたいわ………こんな人生……。何もいいこと……なかった……」

 潤みそうになった目元を瞬きで渇かすと、足元を歩いているアリに気づいた。

「……………………あなたたちの世界も大変そうね」

 せっせと働くアリたちを見つめて鷹乃は微笑んだ。

「あなたは、幸せ?」

 アリは質問に答えなかったけれど、鷹乃が代返する。

「大きな収穫物を見つけたときなんて、それはそれは興奮しますよ。それを仲間に報告するときの達成感といったら、最高です」

 代返に対して、さらに質問する。

「でも、疲れないの?」

 さらに代返。

「夜よく眠れば、すっきりです」

 さらに語る。

「いいわね。私は夕べ、よく眠れなかったわ」

 話しかけていたアリが行ってしまったので、別のアリを同一人格とみなして話を続ける。

「どうして眠れなかったんですか?」

「いろいろあるのよ、人間には。あなたたちは恋愛なんて……ああ、そうね。女王様一筋だったわね」

「はい、女王様にお仕えするのが僕たちの幸せです」

「いいわね。生まれ変わることがあったら、私もアリになりたいわ」

 一人で問いかけ、一人で答え、結論は女王アリになりたい、という淋しい少女が、そこにいた。鷹乃は昆虫学者のような集中力でアリとの会話を続け、夕日の傾きが木陰をなくして顔を紫外線が焼くようになって、公園内を少し移動した。別の日陰になるベンチを見つけて座り、アリを探す。

「………いないわね。アリさん」

 アリの代わりにベンチの裏から人の気配がした。ツツジの繁みに誰か隠れている。鷹乃が気になって覗くと、澄空学園の制服を着た女子と、浜咲学園の制服を着た男子が抱き合っていた。

「こんなところで、よく恥ずかしくないものね。あきれ……」

 あきれようとして、昨日の朝、シカ電で智也とキスをして乗客たちに白眼視されたことを思い出した。ちょっと考えれば、公園の繁みに隠れた二人を、朝のラッシュ時に堂々とキスをした鷹乃が批難することは滑稽だと気づける。

「……………」

 鷹乃は静かに離れようとして、男子が健であることに気づいた。健たちは鷹乃が見ていることに気づいていない。

「トト、まずいって、こんな場所で…」

「いいじゃない。誰も見てないよ」

 キスをしたり、健を押し倒して上に乗ったり、巴は夏の公園を楽しんでいる。

「誰か来るかもしれないしさ」

「きゃは♪ いっそ、私は世界中に宣言したいよ。イナが好き♪ イナも私が好き♪ 今度さ、誰もないとき舞台でやってみない?」

「トト……」

「それともイナがサッカー辞めたなら劇団に入らない? 相手役の男優になってよ。私もイナ以外に告白したり、抱きついたりするの。演技とはいえ、つらいから♪」

 目立つのが好き、他人に見られるのが好き、それも生の視線が一番好き、そんな巴が微笑みながら、健の上で興奮しているのを見ると、鷹乃はタメ息を隠して空を見上げた。空は見えずに樹が視界に入り、セミの交尾を見つけた。

「…………………………」

 そうね、ヒトもセミも変わらないわ、それに夏も短い、ちゃんと次の世代に続くといいわね、鷹乃はセミを祝福し、再び視線を健と巴に落として考え込む。

「……………………」

 あなたたちは、まだ妊娠しない方がいいと思うわ、せめて、あと三ヶ月くらいは交尾をひかえた方が賢明よ。受精が11月くらいなら卒業まで隠し通せるでしょうし。

「トト! そろそろボクっ…うう…」

「やん、私まだ…ハァハァ…」

「離れてくれよ、トト、やばいって! 着けてないからさ…ぅくっ…トト!」

 健が逃げ腰になっているのを見かねた鷹乃はツツジの繁みに押し入った。がさがさと音を立てて他者が近づいてくる気配に健と巴が動きを止めて息をひそめる。鷹乃はまっすぐ二人のところへ姿を現すと、スカートのポケットからコンドームを出して、投げた。

「あげるわ。ちゃんと使いなさい。後悔するのは、いつも女よ」

「「………………がとう」」

「じゃあ」

 鷹乃は背中を向けて立ち去ると、公園を出て、三上家へ向かった。

「………」

 別れよう、今夜、智也が納得のいく返事をしてくれないなら、絶対に別れよう、そう決意して三上家のドアを開ける。

「………ただいま」

「お帰り、鷹乃」

「…何してるの?」

 鷹乃は台所で何か作っている智也に問いかけた。

「見て、わからないか?」

「……………………」

 智也が作っていたのはケーキで、まっ白な生クリームにイチゴが六つ、ロウソクが18本、中央のチョコレートプレートには「鷹乃おめでとう」の文字。

「………こ…こんなもので機嫌を取ろうなんて無駄よ!」

 鷹乃が顔を赤くして言い募る。

「だ、だいたい! 私の誕生日は明日なのよ! 間違ってるわ! 誕生日を間違えるなんて最低よ!」

「まあ、あと三時間あまり残ってるから、フライングになるけどな」

 智也は九時過ぎになっている時計を見て、少しだけ残念そうにテレビの上に置いたままになっていた宝石箱を手に取った。

「開けてみて、くれないか?」

「………これ、黒須さんに、もらったものじゃないの?」

「これはオレが鷹乃にプレゼントするために、黒須の意見を参考に買ったものだ。昨日バイトにいったというのはウソで、黒須と買い物していたのが事実だ。で、証拠が、それ」

「……………………」

 相手の言葉を確かめるように鷹乃は宝石箱の包み紙を破り、箱をあけると小さなサファイヤのリングが現れた。

「……私の誕生石……、でも、……でも、あなたは夕べ、10日も待てって言ったわ……話が合わない」

「明後日まで待ってくれってオレが言ったら、どんなに鈍い女でも、それが自分の誕生日だって、気づかないか?」

「……期限日の設定が…ウソ……だったの?」

「まあねン♪ それに、9月14日が加賀の誕生日だからな、黒須がらみでのオレへの疑いが少しは晴れてくれるかと期待したんだけど、さすがに鷹乃は加賀の誕生日なんて知らなかったわけで、その部分ではウソは成功しなかったけど、こいつが鷹乃への誕生日プレゼントだってことは気づかれなかった。その意味でウソは成功♪」

「………、……バカ……みたい」

「そっか。まあ、オレはバカだから…」

「違うわ。バカみたいなのは、私よ」

 鷹乃は嬉し涙をこぼして泣いた。

「これじゃ……私、……ホントに……バカみたい…よ。一人で怒って……苛ついて…」

「泣くなよ。誕生日だろ」

 智也が完成したばかりのケーキへ火をつける。

「ほら」

「うん」

 うながされて鷹乃は18本のロウソクを豊富な肺活量で一息に消した。包丁でケーキを切る前に鷹乃はもう一度、智也の手作りケーキを見つめた。

「ありがとう。……でも、ケーキが作れるなんて意外よ」

「ああ…うん、まあ、…な。味は期待しないでくれ」

 智也が散らかった台所を背中で隠した。何度か失敗したようで焼き損ねの失敗作が積まれている。鷹乃がケーキを切りながら、智也に問う。

「今日、学校に来なかったのは、どうして?」

「夕べなかなか寝られなくてな。朝方に寝たから起きたら昼過ぎだった。オレを放置していったのは鷹乃だろ?」

「ごめんなさい、だって…」

「怒っていたからな」

「もう、それは言わないで」

 鷹乃は指にはめたリングへ視線を落とした。

 嬉しい、素直にそう想える。

「鷹乃こそ、こんな時間まで何してたんだ? まあ、結果的には完成が予定外に遅れたから、ちょうどよかったんだけど」

「いろいろ……考えていただけよ」

「オレと別れようとか?」

「……そんな気持ち、もう、どこかへ行ったわ」

 切り分けたケーキを小皿において智也へ差し出すと、自分の分も置く。昨夜、夕食を食べ損ねて以来、何も食べていないので胃も泣いていた。

「いただきます」

「どうぞ」

 智也は作り上げたケーキが鷹乃の唇に吸い込まれるのを、少し不安そうに見つめる。味わって飲み込んだ鷹乃がケーキを再確認するように見る。生クリームと苺のケーキは内部も三段重ねになっていて、生地の間にも生クリームと苺のスライスが入れられている。鷹乃は、もう一口、食べてみる。

「………これ、ホットケーキ?」

「やっぱり……わかるよな」

「ホットケーキを三枚焼いて、重ねたの?」

「ちゃんとしたケーキも焼いてみたんだけどな………まあ、うまくいかなくてさ。母さんが残した料理本だけがヒントだったから」

 彩花や唯笑を呼んで習うってのは、事態を悪化させただろうしな、智也は自分もケーキを食べてみる。やっぱりホットケーキの味だった。

「ごめんな、ちゃんとしたケーキじゃなくて………買いに行こうかとも思ったんだけど、出ている間に鷹乃が帰ってきたら、さっさと荷物をまとめて帰られそうでさ。家から離れる気になれなくてな。まあ……気に入らないなら今からでも買ってくる」

「ううん、美味しいわ。とっても」

「無理に喜んでくれなくても…」

「本当よ。だって、もう食べてしまったもの」

 鷹乃は一つめのケーキを話ながらも、食べ終えていて、二個目にとりかかっている。

「そうか。……ホットケーキは誰が作っても不味くはならないからな」

 智也は安心したようで冷蔵庫からビールとジュースを出すと、鷹乃にジュースを注ぎ、自分はビールを飲む。智也自身は男性らしく甘い物は嫌いではないが、好きでもないので一つ食べたきり、あとは鷹乃が食べてくれるのを見つめるだけだった。

「……………」

 可愛らしい唇にケーキが吸い込まれていくのを見ていると飽きない。まる24時間ずっと食べていなかった鷹乃は残さずケーキを食べてくれた。

「ごちそうさま」

「お粗末さま。クリームが顔についてるぞ」

 智也はウソをついて鷹乃の頬へキスをする。

「智也はお腹空いてないの?」

「オレは焼け焦げたケーキの焦げてない内部とか、失敗した生クリームとかを、さんざん食べたからな。もう、甘い物は三ヶ月は要らないって気分だ。それに、食欲より、もっと魅力的なものがあるからな」

 そう言ってキスをすると、鷹乃の口は甘かった。キスを終えると、鷹乃は顔を赤くして智也に抱きついた。

「好き」

「鷹乃」

「大好きよ、智也。今、本当に智也のことが好き。今日まで私、智也のこと好きになろうって意識してきたけれど、今は自然に想えるわ。私は智也のこと好きになった。こういう気持ちなのね。恋って」

「鷹乃、うれしいこと言ってくれる」

 キスを続けて、服を脱がせる。

「あん、智也」

「17歳の鷹乃は今が最後だな♪」

「そうよ。その最後も智也のものよ」

 微笑んで上着を脱がされる鷹乃は脱ぐときに感じた自分の汗の匂いに戸惑って慌てた。昨夜は夕食だけでなく入浴もしそこねたので匂いが強い。その上、放課後は歩き回ったので背中や胸はベタついているし、饐えたような匂いが両腋からする。

「待って、先にお風呂…」

「そうだな。鷹乃、ちょっと臭いな。くすっ……鷹乃学祭の委員になった♪」

「っ…そんな風に言わなくても…」

 鷹乃は恥ずかしさと怒りで顔を赤くして智也の手から逃げようとしたけれど、押し倒された。

「まあ、でも惚れた女の匂いだから、これはこれで慣れたら好きになれるかもよ」

「い…イヤ…」

 鷹乃は嫌がったけれど、腕を押さえつけられ、胸と腋を舐められる。

「しょっぱいな。ケーキを食べたのに甘くない♪」

「やめて……ねぇ、私が嫌がってるのに、やめてくれないの?」

「やめない」

「ひどいわ」

「ひどいのはオレと黒須を疑った鷹乃の方だろ。だから、これは罰だ♪」

 そういって鷹乃の後頭部で両手首を交差させると、ポニーテールの髪で巻きつけ、髪ゴムで固定した。

「イヤ……見ないで…、舐めないで…」

 毛深いわけではないけれど、二日経つと鷹乃の腋は5ミリほど毛が伸びている。髪と同じ日本人らしい黒に、背中や肩は日に焼けているけれど日の当たりにくい腋の肌はまっ白で、とても目立つのが猛烈に恥ずかしくて鷹乃は涙で目を潤ませた。

「お願い……電気を消して」

「そんなに恥ずかしいか? じゃあ、こっちも脱がせてみるぞ」

「っ、イヤ! お願いだから、お風呂に入らせて、そこは絶対イヤよ、智也、やめて」

「やめない」

 智也はスカートをまくり、下着を脱がせていく。鷹乃は脚を閉じて抵抗を試みたけれど、両手が使えないので虚しく下着は引き下ろされてしまった。

「脚の力を抜けよ」

「イヤよ、やめて。お願い」

「ダメだ。これは罰だって言ったろ。宝石箱一つで、まさか、あそこまで怒られるとは思わなかったぞ♪」

「っ…そ、…それは悪かったわ。でも…」

「脚、開けよ。オレの女だろ?」

「………………」

 鷹乃は目を閉じて、顔を伏せ、言われるとおりにした。

 

 

 

 翌朝、いのりは隣で眠っているカナタを揺り起こした。

「カナちゃん、学校」

「………」

 カナタは覚醒したけれど、いのりのベッドから起きようとしない。

「カナちゃん……学校、行くのイヤ?」

「………イヤ…」

 カナタが昨日遭った事件を考えると、登校を嫌がるのも仕方ないと思える。いのりは優しく背中を撫でてあげる。

「うちのお母さんも、お父さんも、もう出勤してるから誰もいなくなるけど、いい?」

「……………………、………うん……ごめん…」

 カナタは布団に潜り込み、また眠ってしまう。いのりはシャワーを浴びてから、制服を着て学校へ向かった。

 

 

 

 昼休み、果凛は登校してこないカナタのことと、仲良く教室でまでキスをしたりする鷹乃と智也のことを見ていて、怒りを抑えかね苦言を呈することにした。木陰で弁当を食べ終えている二人に仁王立ちで話しかける。

「いい気なものですわね。三上くん、寿々奈さん」

「花祭、…いきなりケンカを売ってくるなんて、どうした?」

「花祭さん…………」

 鷹乃は身に覚えがあった。それを今思い出したという様子に果凛が怒りをより強くした。

「カナタにあれだけのことをしておいて、お忘れになるなんて、よっぽど浮かれていらっしゃるのですわね」

「……私は…………」

「オレは話が見えないんだが、どうせ鷹乃が黒須にケンカを売っても、あいつなら闘牛士のごとくからかって終わりだったろうが? それも織り込み済みでリングの買い物に付き合ってくれる女を選定したつもりだったぞ」

「三上くん、闘牛士だって失敗することはあるわ。かわし損ねて鋭い牛角で心臓を突き刺されることも。カナタが今日、登校してきてないこと、二人とも気づいてもいないなんて許せません」

「花祭さん、私、黒須さんに謝りたいの」

「すっかりお忘れで恋人と寛いでいらした方が、どれほど謝罪の念をもっていらっしゃるか、私には計りかねます」

「おい、花祭。そーゆーイヤミな喋り方するなよ。鷹乃が黒須に何を言ったって言うんだよ?」

「お教えしましょうか」

「やめて!」

「そうですわね。三上くんに教えられたくないでしょうね。あんなひどいこと言えるなんて人格を疑いますわ」

「いいから、教えろよ。オレも怒るぞ、花祭」

「イヤ、聞かないで!」

「寿々奈さんは、こうおっしゃいました」

 果凛は持ち前の演技力で昨日の鷹乃を演じる。

「加賀くんと不仲になったからって、智也にすりよるのはやめてということよ。節操無しのドロボウ猫。きっと、加賀くんも、あなたのそーゆーところに嫌気がさしたのでしょうよ」

「っ…」

「……それだけか? それだけで黒須、そんなに怒ったのか?」

「三上くん、カナタのこと鉄人か何かと勘違いしてない? 怒ったのではなくて、ひどく傷ついたのよ。見ていられないくらいだったの」

「たしかに、加賀とはケンカ中みたいだが、……そうか、あいつは悩んでるのか……悪いことしたな」

「…私が……悪いの」

「そうよ。あなた最低です」

「おい、花祭!」

「だって、そうでしょ?! 人を傷つけておいて、そのことを忘れて、のんびりランチ?! 許せないわ!」

 果凛が鷹乃の左手を飾るリングを睨む。

「ステキなリングね。ねぇ、カナタは寿々奈さんの指のサイズを確かめるため、占いを装って話しかけなかった?」

「っ…」

「そうよ、そのとき。あなたと三上くんのために、あなたに気づかれないように、さり気なく。そーゆー気づかいを踏みにじって、そのくせ、それを忘れてる」

「わかった。黒須にはオレから謝っておくから、もう鷹乃を責めるな」

「智也……」

「オレの読み違いが原因だったんだ。黒須と買い物に出かけて見つかったら、鷹乃が怒ることは織り込み済みだった。けど、黒須がダメージを受けるのは読み切れなかった。だから、オレの責任だ」

「そーゆー論法は三上くんらしいけど、今回は寿々奈さんが謝るべきよ。それだけでなくて、桧月さんが言っていたけど、寿々奈さんと三上くんが付き合うこと、私も気に入らないわ」

「花祭……」

「寿々奈さんは、男をダメにするタイプよ」

「なっ…、勝手なこと言うな! 付き合う相手はオレが決める! なんで、彩花や花祭に口出しされなきゃいけないんだ! オレが一回でもお前らが付き合ってる相手に文句いったことあるかっ?! どうだっていいだろ?! いちいち口出しするな!」

「三上くん……」

 桧月さんの名前を出すと過剰反応するくらいには想ってるわけね、果凛は複雑な気持ちになって矛を納めた。

「とにかくカナタを傷つけたことは事実よ。その責任は二人にあるわ。私が言いたかったのは、そのこと」

「わかった。善処する」

 果凛が立ち去ると、鷹乃は申し訳なさそうに顔を伏せた。

「ごめんなさい。私のせいで…」

「別に、オレに謝らなくてもいいさ。それに罰なら昨日、済ませた♪」

「っ…、…あんなに恥ずかしい想い、もう二度と御免よ…」

 鷹乃は夕べされたことを思い出して身震いした。

「まあ、黒須のことはオレが考えるから、鷹乃は気にするな。鷹乃に気にされたり謝られたりすると、黒須は余計に事態を悪化させるタイプだ」

「そうなの?」

「ああ、そーゆー奴だ」

「………黒須さんのこと、よくわかってるのね…」

「中学からの付き合いだからな」

「…………、……やっぱり、あなたが黒須さんに謝るとき、私もついて行くわ」

「オレはたぶん、黒須に会いには行かないぞ」

「そうなの? じゃあ、どうするの?」

「加賀に話しかけてケンカの原因を……まあ、原因はオレたちが目撃したわけだが、あの二人のケンカなんて、花火みたいなものなのに、いつまでも継続してる原因を加賀から探って、仲直りさせよう。それが事態の根本的解決になるだろう。ということだから、オレは女と会ったりしない。加賀と会うだけだから、心配しなくていいぞ」

「そう……」

 鷹乃が視線を落として返答していると、いのりが二人の前に現れた。

「先輩方にお話があります」

「うおっ…髪、長っ!」

 智也の第一声に、いのりは出鼻を挫かれかけたけれど、かなり怒っているので智也を睨みつけた。

「なんだよ、その呪い殺すような目は……。にしても、髪長いなぁ……それ座ったら地面に着かないか?」

「私の髪のことは関係ないんですっ!! 寿々奈先輩っ! よくカナちゃんを傷つけておいて平然としていられますね! あなた最低です!」

「あなたは……誰なの? 一年生?」

「一年の陵いのりです!」

「そう………香菜には言うべきことを言っただけよ。それで香菜が傷つくとしても、その傷から彼女は彼女自身の力で立ち直るべきなの。陵さんが私をどう思おうと、撤回はしないわ」

「なっ………、……それ、本気で言ってるんですかっ?!」

「当たり前よ。あなたと香菜が、どういう関係なのかは知らないけれど、そもそも女同士で恋愛や性的な接触をするなんて論外よ。メスのショウジョウバエみたいで気持ちが悪いわ。それに気づきなさい」

「っ! ……………」

 どうして知ってるの、いのりはカナタとの肉体関係を知られていることに戦慄し、鷹乃が根本的な誤解をしていることには気づかないまま、フラフラと茫然自失のていで二人の前から立ち去る。フラフラと歩き、長い髪を大きく揺らしていると、廊下で一蹴と出会った。

「いのり、顔色が悪いけど、大丈夫?」

「…イッシュー………」

 すがるように恋人に抱きついた。

「ねぇ、イッシュー。私、どうしたらいいの?」

「どうって……どうかしたのか?」

「私………」

 どうやってカナちゃんを元気づけよう、カナちゃんに立ち直ってもらおう、でも、その過程でカナちゃんの欲求に応えて肉体的に慰めてあげるのは耐えられない、いのりはノーマルな気持ちで一蹴に求める。

「イッシュー……キス、して」

「…こ……ここで?」

 昼休みの廊下でキスを求められ、一蹴は慌てた。いのりは目を閉じ、求めている。何か思いつめている様子で、閉じた目蓋が涙で潤んでいる。ここでキスに応えないのは一蹴も男として情けないと思い、仕方なく軽いキスをすると、それを通りかかった雅と歩が見ていた。

「「………」」

 雅と歩は廊下でキスをするカップルを目撃して、何か言いたそうな顔をしたけれど、彼女たちらしくなく黙って目をそらせると廊下を歩いていく。

「なぁ、うちらの感覚がおかしいんやろか? もう時代は、電車やろうと廊下やろうとチューくらい当然なんかな?」

「……わかりません。でも、……私たちが古風なのは確かでしょう。木瀬も伝統的な言葉遣いをして、周囲から浮いているでしょう。私もです」

「いや、うちの関西弁は……」

 歩は言おうとした言葉の続きを、教室から出てきた香菜と目が合ったので飲み込んだ。香菜は不機嫌そうな顔をしていて、歩も雅も出遭ってしまったことを深く悔やんだけれど、もう遅い。

「「……」」

 二人とも目を伏せ、廊下の隅を歩み去ろうとしたけれど、香菜が呼びかけてくる。

「無視しなくてもいいと思わない?」

「…す、…すんませんです……こ、こんにちわっす」

「か、香菜様におかれましては…ご、ご機嫌うるわしく…」

「ご機嫌は、うるわしくないよ。うるわしくしてもらおうかな♪」

 香菜は雅のポニーテールを撫でると、少し考え、決めた。

「ちょっと付き合って。水泳部の部室まで」

「「…は……はい」」

 行きたくないけど、逆らうのは怖い、雅と歩は暗い気持ちで香菜に言われるまま、水泳部の部室に入った。香菜が鍵をかけると、二人とも身体が自然に震えた。

「そんなに怖がらなくても、今日は痛いことも怖いこともしないから安心して♪」

「「………」」

「二人とも、キスってしたことある?」

「な…ないです」

「ご、ございません」

「そう♪ じゃあ、してみて」

「「え? ……………………」」

 ここには女子が三人しかいない。香菜の言ったことが理解できなくて歩と雅は困惑した。

「あの……うちら……女同士ですけど…」

「で?」

「いえ………、その……せやから……キスと言われても…」

「木瀬……逆らっては……また…」

 恐怖対象に対しては絶対的服従をすることで生きてきた雅が歩の反論を諫めた。

「雅ちゃんは賢いね。歩ちゃんも見習った方がいいよ?」

「……は、…はい…」

「じゃあ、ゆっくりキスしてみせて」

「「……………………」」

 歩と雅は青ざめた顔で見つめ合うと、仕方なく目を閉じた。二人ともファーストキスな上に、したいわけではないので唇が接触するのに30秒もかかってしまった。

「「ぅっ…」」

 歩と雅の唇が重なる。すぐに離れたいけれど、ゆっくりと命令されたので二人とも忠実にキスを続ける。

「………」

 キモいわぁ、なんで、こんなことせなあかんねん、鳥肌が立つちゅーねん、歩は腕が痒くなった。

「…………」

 気持ちの悪い、なぜ、このようなことを、背筋が寒い、本来キスというものは好き合っている者同士がすべきもの、きっと、あの許婚とのキスも木瀬とのキス同様に寒気のする不快なもの、雅は蒸し暑い部室で身震いした。

「……、こ、こんで、ええでしょうか?」

「んーっ♪ そうね。気持ち悪そうね」

「……………………」

 決まってるやん、うんざりやわ、歩が腕を掻き、雅も震える。

「二人は同じ薙刀部なんだよね?」

「「は…はい」」

「……お互い、どう思ってるの?」

「どうって……」

「どうと言われましても、ただ同じ部に所属しているというだけのことです」

「ふーん♪ でも、この前、抱き合って泣いてたよね?」

「あれは……」

「あんな怖いこと……うちら殺されるかと……思て……」

「なるほど♪ ま、いいわ。じゃあ、私から一つ、命令ね」

「「……………………」」

「朝練の前と、放課後の練習後、二人は60秒間見つめ合って、その後、お互いの長所、いいところを三つ、言い合いしなさい。これを一週間、続けるように。あ、ケータイは持ってる?」

「うちは持ってますけど……」

「私は……持ち合わせておりません」

「歩ちゃん、いいケータイもってるね。カメラ付きなの?」

「はい♪ 先週、買うたばっかりなんです! 撮ったデータもメールで送信可能なんですよ」

「いいね。私もママにねだって新しくしてもらおうかな♪ とりあえず、お互いに言い合った三つの長所、メールにして私に毎日送信しなさい。いい、わかった?」

「「……はい」」

「じゃ、とりあえず、今、やってみなさい」

「「……………………」」

 逆らうという選択肢はなく、二人は見つめ合う。心の中で60秒を数え、それから長所を探してみた。

「……ふ……藤原さんは、薙刀の達人や……」

「き……木瀬は……何事も、はっきりと言う、裏表のない人です」

「い、いつも凜として……武士みたいでカッコええ……」

「誰とでも仲良くして、友人も多く……羨ましいです」

「頭も良うて美人や」

「流れるような、とてもキレイな髪をしています」

 言い合ううちに、気恥ずかしくて二人は目をそらしていたけれど、なんだか、暖かい気持ちになれていた。

「うん、うん♪ じゃ、一週間、続けるのよ」

 香菜は楽しそうに微笑んだ。

 

 

 

 翌日の昼休み、鷹乃は顔を真っ赤にして羞恥に耐えていた。

「ひどいわ……、こんな風にされていたら、私、銭湯にも行けない」

「基本的にオレんちの風呂に入るわけだからいいだろ♪」

「……誰か来る前に、下着を返して…」

「大丈夫だって、白河が留学してから音楽室を使うヤツはいないから」

 誰もいない音楽室で、智也は赤面して涙目になっている鷹乃にキスをして、背中に手を回すとブラジャーも外した。器用に夏服の袖から手を入れてブラジャーも奪い取ると、ピアノの中に隠してしまう。

「さてと♪」

「……私を……どうする気…?」

「加賀が黒須と仲直りする気になるよう、ちょっと仕込むのさ」

 智也は小さなチューブをポケットから出すと、何かの塗り薬を指に出した。

「それは……何なの?」

「のんが中国から取り寄せた媚薬だってさ♪ 秘密のエッチな気分になる薬だ」

 智也は指に着けた薬を鷹乃のスカートへ手を入れると、塗りつけた。

「あんっ…」

「のんの説明だと、だんだん塗ったところが熱くなってきて、エッチしたくてたまらなくなるそうだ。どうだ? 効いてる?」

「わ……わからないわ……。そ、そんなものを私に塗って、どうしようというの?」

 鷹乃は否定しつつも塗られた部分が熱くなってくるのを感じて、その効果に怯えた。智也は微笑すると、鷹乃に深いキスをする。

「…んっ…………ハァ……ハァ…」

 鷹乃は身体が熱くなり動悸が高鳴るのを感じた。

「効いてるな。さすが、のん。恐ろしいヤツだ」

「ハァ……こんなクスリを私に塗ったことと、黒須さんのことに、どう関係があるっていうの? あんっ!」

 鷹乃は制服の上から智也に身体を撫でられて、喘いだ。下着をつけていないので胸や尻を触られるとダイレクトに感じてしまう。

「このクスリを加賀にも分けてやるんだ♪ となると、思春期の男子としては、絶対に試してみたくなるだろ? 媚薬って言っても誰にでも効くわけじゃない。ある程度、恋愛関係がないと効かないらしい」

「…こ……こんな効果が……誰にでも効いてたまるものですか……ハァ……ハァ…」

 鷹乃は人肌が恋しくなって智也に抱きついた。抱きつけば、股間の熱と餓えが癒えるかと思ったのに、ますます強くなってしまう。

「このクスリをもらった加賀は、黒須と仲直りして試してみようと思うはずだ♪ ということで、加賀を呼んでくるから鷹乃は、よく効くクスリだってことを証言してくれ。うん、その顔なら百聞一見に如かずだ」

「そ……そんな…」

「加賀の前で、服は脱ぐなよ。じゃ、おとなしく待っててくれ」

 智也は音楽室を出て行ってしまった。

「…ハァ………ハァ……」

 鷹乃は一人残されて熱くなった身体を持て余しつつも、言われた通りに待つことしかできない。三分ほどして、ドアのガラスに人影が二つ現れたので、やっと来てくれたと思ったのに、人影は智也たちより小柄な女子と男子が一人ずつのカップルだったので鷹乃は急いでピアノの下に隠れた。

 カップルが音楽室に入ってくる。

「夕べ、ほたるさんからエアメールが届いてね。このピアノ、私が自由に使っていいって。校長先生にも許可がおりるよう手配してくれたんだって♪」

「よかったな、いのり」

 ぜんぜんよくないわ、どうして今日なの、今なの、鷹乃は留学したクラスメートのタイミングの悪さを呪いながら、ピアノの下で熱い息をひそめる。いのりと一蹴は鷹乃に気づかず、ピアノの前に来ると、いのりが着席した。

「ほたるさんの魔法の音に、少しでも近づけるよう頑張るよ。イッシュー」

「オレもサッカー頑張って、来年こそ予選突破しなきゃな」

「ふふ♪ 二人で頑張ろうね」

 夢いっぱいの一年生が囁き合い、ピアノを弾く前にキスをする。

「イッシュー……」

 いのりは軽いキスだけでは物足りず、一蹴の唇を吸った。

「んっ…」

 ああ、やっぱりキスは男の子とするものだよ、いのりは唇から爪先まで細胞の一つ一つが悦ぶのを感じた。昨夜もカナタを慰めることを強いられた身体が本来の相手とすべき男性と触れ合うことで奥底から高鳴っている。いのりは我慢できずに舌を入れて一蹴と深いキスをする。

「っ……」

 い、いのり?! 一蹴は引っ込み思案にみえる少女の積極的な行動に驚いた。けれど、よく思い出してみれば、同じクラスになってから声をかけてきたのも彼女だったし、花火大会に誘ったのも、教会で恋人になるよう導いてきたのも、いのりの方だった。

「ハァ……イッシュー…」

 いのりはキスを終えても、またキスを求め、着席したまま一蹴に足をからめて、舌もからめる。その舌の動きが、やたら巧くて慣れていることに一蹴は童貞として気づかなかったけれど、いのりの積極性は止まらない。

「イッシュー……ハァ…大好き、……イッシューだけが大好き…」

 もうイヤ、カナちゃんとはしたくない、女同士なんて気持ちが悪い、たとえ、カナちゃんが男の子だったとしても、それも、もっとイヤ、イッシューじゃなきゃイヤ、イッシューとしたい、イッシューとしか、したくない、今ここで、イッシューと一つになって、もう今夜はカナちゃんに帰ってもらう、うん、そうだよ、今日で終わりにする、イッシューと一つになったから、イッシューを裏切れないからって説明してカナちゃんに、わかってもらう、カナちゃんを傷つけるかもしれないけど、もう私も限界だから、イッシューが好きだから、いのりは思いつめてキスをしながら黒いストッキングと下着を脱いだ。

「…イッシュー……私と一つになって…」

「ぃ、いのり?!」

「お願い」

「だ…だって…、…ここ学校で……いつ、誰が来るか…」

「大丈夫、ここには私しか、入らないはずだから」

 いのりは鷹乃の前に衣類を脱ぎ捨てながら、一蹴に抱きついた。

「お願い、イッシュー」

「いのり……。っ! だ、誰か来る!」

「えっ?!」

「いのり! 隠れて! こっち!」

 一蹴は智也と正午が入ってくる気配を察知して、いのりを掃除用具入れのロッカーに導いた。

「いくら、のんちゃんでも、そんなクスリはありえないだろ?」

「ホントだって。百聞一見に如かずだ」

 智也と正午が音楽室に入る。

「おい、鷹乃?」

「いないじゃん」

「鷹乃?」

「……………ここに……いるわ」

 呼ばれて仕方なく鷹乃はピアノの下から現れた。

「なんで、そんなとこに?」

「…………」

 鷹乃は黙って、脱ぎ捨てられた一年生の衣類と、掃除用具入れロッカーの戸から、はみ出ている長い髪を智也にだけ伝わるようアイコンタクトで示した。それで智也は不測の闖入者があって鷹乃が隠れたことに気づいた。

 鷹乃を抱いて囁く。

「ごめんな」

「ひどいわ…」

 鷹乃は抱きつくと、熱い吐息を漏らした。もう身体がどうにかなってしまいそうなほど熱い。ただでさえ、興奮していたのに、いのりと一蹴の盛り上がりを見せられて、もう気が気でない。

「ハァ……智也……、帰りたい。……智也の家で、しましょう」

「鷹乃………。えーっと、加賀、まあ、見てわかる通り、かなり効くだろ?」

「あ、……ああ…すごいな…」

 正午は鷹乃の様子を見て効果を信じ、床に落ちている衣類を見て勃起した。

「す…寿々奈さん、…もしかして、ノーパン?」

「っ…」

 鷹乃が息を飲んで智也の背中に隠れると、智也は正午を睨んだ。

「これは、たぶん、あそこのロッカーに隠れてる誰かのパンツだ」

 智也が指摘するとロッカーが揺れた。正午が振り返っている隙にピアノへ隠した鷹乃の下着を取り出して、後ろ手に鷹乃へ渡す。鷹乃は急いでポケットへ入れた。

「加賀、これ。分けてやるから黒須に試してみろよ。絶対、効くぞ」

「ええー……カナタとはケンカ中、っていうか……別れたような感じだしさ」

 試したいけど、ほたるはウイーンだし、今さらカナタってわけにも、正午は試す相手がいないことを悩みながらも、とりあえずクスリは受け取る。

「いい加減、黒須と仲直りしろよ」

「オレとカナタのことに、口出しするなよ。別に、いいだろ。三上には関係ないんだからさ」

「お前、黒須の、こういう姿、見てみたくないのか?」

 智也が言いながら鷹乃の背筋を指でなぞった。

「あんっ!」

 鷹乃は甲高い声をあげると身震いして仰け反る。正午は生唾を飲んだ。指先で触れられただけで息を乱している鷹乃の内腿が濡れているようにも見える。

「ちょうど、加賀の誕生日が、すぐだろ? ケンカ中でもさ、オレに誕生日プレゼントをくれ、とか言って部屋に呼べよ」

「けどさ…」

「プレゼントは、お前だ、お前がいい! って言えば、…いや、黒須はお前って言うと怒るから、君だ、でな。一発仲直りしろよ」

「んーーっ……まあ、考えておく。……誕生日か……」

 たしか、ほたるの誕生日が9月25日だったよな、あと二十日あまりか、正午は智也の思わくとは別のことを考えながら、もらったクスリは大事にポケットへ入れた。

「で、三上。これは、どうする?」

 正午は落ちている衣類を指した。

「ああ、このパンツとパンストは落とし物として職員室に届けておく♪」

「ダメっ!!!」

 ロッカーから声が響いてきた。呪い殺すような声だった。

「どうやら、持ち主がいるらしい♪ 触らずにおいておこう。触ったら呪われそうだ」

「みたいだな」

「智也…ハァ…そんなもの、いつまでも…ハァ…見ていないで私を見てちょうだい。…家に帰らなくても……保健室なら…」

「早退して家に帰ろう。今の鷹乃を、これ以上、他のヤツに見せたくないし、保健室でも静かにしてる自信、ないだろ?」

「うんっ…なら、早く帰りましょう」

「わかった。わかった。じゃあな、加賀」

「いいよな、三上のところは仲が良くて……」

「だから、お前も仲直りしろって」

「わーーったよ、わーーった」

 三人が音楽室から出て行くと、いのりはロッカーから飛び出して落とし物を拾うと、啜り泣いた。

「っ…ひっく…ぅっ…ぅうっ…」

「いのり……」

「ぃ……イッシュー……私のこと……軽蔑……してる……よね」

「そんなこと……って、いうか、もしかして、いのりも先輩らが言ってたクスリ、使ったのか?」

「……………………………………………。うん! そう! 知らずに、渡されて! 気がついたら! わけがわからなくなって! 早絵ちゃんから恋のクスリだって聞いて!」

 ごめん、早絵ちゃん、いのりのウソに使わせて、イッシューに淫乱だって思われたくないから、いのりは都合良く解釈してくれた一蹴に感謝しつつ、早絵に謝りながら、着衣を整えた。

「もう大丈夫、変な気持ちは治まってくれたから」

「そっか。よかった。一時は、どうなるかと思ったよ」

「うん……ごめんね……イッシュー」

「いのりが悪いわけじゃないさ。でも、そんな変なクスリが学校で流行ってるとしたら、問題だなぁ…」

「わ、私は、もう絶対使わないよ!」

「そうしてくれると、ありがたいな。もう、あんな、いのりは見たくないから」

「っ………………………そう…だよね……」

「ああいうことは、まだ早いしさ。もっと大切にしようよ」

「うんっ! イッシュー、ありがとう!」

 いのりは嬉しい気持ちと、苦い気持ちを半分ずつにして涙目で一蹴に抱きついた。

 

 

 

 放課後、いのりは帰宅するとカナタに告げる。

「今日は帰ってね。カナちゃん」

「ぅ~……………………いきなり、いのっちが冷たい」

「帰ってよ」

「……やっぱり、迷惑?」

「迷惑」

「……………パパとママ、怒ってる?」

「何も言わないけど、迷惑してるし、カナちゃんのパパとママだって心配してるでしょ?」

「あいつらは放任主義だから」

「………パパとママのこと、あいつらって言わないの」

「いのっちの家ほど、いい関係じゃないんだよ? ね、アタシ、淋しいよ?」

「もう、だいぶ立ち直ってるよね?」

「ううん、いのっちがいてくれないと、泣いちゃう♪」

「………。今日ね、ショーゴ先輩と、その友達が話してるの偶然、聞いたの」

「盗み聞き?」

「…………………。偶然」

「で?」

「ショーゴ先輩、友達からエッチな気分になるクスリ、もらってたよ」

「へぇぇ……。誰に試すつもりだか。っていうか、めちゃ怪しいじゃん。効くわけないよ」

「偶然、見たんだけど、すごく効くみたいだよ」

「ふーーん……バカショーゴ、そんなの何に使うつもりなんだか。ま、新しい彼女の攻略がうまくいかないからクスリに頼るって感じかな。情けないヤツ」

「お話を聞いてる感じだと、やっぱり新しい彼女さんなんていないんじゃないかな。その友達と親しそうだったけど、そんな話なかったし、それにクスリはカナちゃんに試すつもりみたいだよ?」

「……………………ふーん…」

「ショーゴ先輩、自分の誕生日にはカナちゃんと仲直りしたいみたい」

「……何を根拠に?」

「そんな話、してたから」

「ふーーん…」

「でね、考えたんだけど、カナちゃんもショーゴ先輩も素直になるための魔法があるのだ♪」

「ピアノでも弾くの?」

「それは、ほたるさんにしか無理な魔法。カナちゃんが使うのは時間魔法」

「タイムスリップでもするわけ?」

「うん、そう♪」

「……………頭、打った? 激しく」

「違うよ。カナちゃんとショーゴ先輩が付き合い始めたのは中学でしょ? だから、中学生の気分に戻るの」

「どうやって?」

「まだ、藍二中の制服、持ってる?」

「持ってるけど……っていうか、いのっちの考えてること、わかった。それ、ただのコスプレじゃん。なんちゃって中学生とも言う」

「あの頃の気持ちに戻るの! ジャンプするの!」

「ヤだよ、高三にもなって。恥ずかしすぎ♪」

「その恥ずかしい気持ちがカナちゃんを可愛くするの! カナちゃん恥ずかしい気持ち忘れすぎ! エッチになりすぎ!」

「う~………そうかな?」

「ショーゴ先輩も、きっと可愛いカナちゃんを見たら考え直すよ。それに、男の人って女の子には、ウブでいてほしいって願望があるから」

「いのっち………いつのまに、そんな大人に…」

「カナちゃんが、いろいろ変なことするからイヤでも考えさせられるの。あと、私に変なことするのも、今日でおしまいだよ」

「え~っ………」

「ショーゴ先輩との仲直りに全力投球するの!」

「………………全力投球して、また、ダメだったら………いのっちに甘えていい?」

「………………………………………………。精神的にのみ……」

「物理的にも甘えたい♪」

「そーゆーこと考えてないで、ちゃんと男の子を好きになるの! もう帰って! カナちゃんが帰るまで私、イッシューのところにいるから! カナちゃんが今夜、帰らないならイッシューのところに泊まるから!」

「あ…」

 カナタは置いていかれ、やもえず帰宅した。

 

 

 

 一週間後、智也は拉致監禁されていた。

「ぅぅ……眠い……」

 頭の奥が眠気で満たされている。動こうとして、柱に縛りつけられていることに気づいた。暗い倉庫のようなところで埃と黴の匂いがする。

「…絶望的に……眠い…」

 たしか、学校で鷹乃と放課後を過ごしているときに、のんが現れて喫茶店のバイトで習った秘密の紅茶を淹れてくれて、その直後に急激な眠気に襲われたはず、だった。

「おはよう、智也くん。ピース?」

「……」

 やっぱり、お前か、智也は自分を拉致監禁した犯人を特定した。

「これは何の秘密ミッションだ?」

「智也くん、のんの名前、変な秘密に使ってない?」

「ぅっ………………」

「この頃ね、学校で知らない男の子まで、のんに注文してくるよ? あのクスリ、分けてくれ、いくらでも払うって。のん、お金持ちになるチャンスかな?」

「……どうだろうな?」

「でもね、のん、身に覚えがないよ。だからね、調査したんだ」

「………」

 加賀が喋ったな、智也はうかつな友人を恨んだが、よく考えると身から出た錆であることにも気づける。問題は葉夜が、どのくらい怒っているか、だった。

「いろいろと事情があってな。黒須のためだったんだ。すまん、のんの名前を勝手に借りた。許してくれ」

「カナタちゃんのため?」

「ああ、そうだ。長い話だが、説明する」

 智也は事情を説明した。

「すっごいね。すっごい秘密ミッションだよ、智也くん♪」

「そうだろ。だから、悪かった。縄を解いてくれ」

「ん~……でもね、のんは知りたいよ。智也くんは、そのクスリ、どうやって手に入れたの? 本当に効くの?」

「……………………」

「のんはね、やっぱり怒ってるよ。でも、すっごい秘密のクスリの秘密を知れたら、嬉しいよ。嬉しくて怒らなくなるよ?」

「……………………喋らないと、どうする?」

「この秘密基地はね、ちょっとだけ雨漏りするよ。その雨漏りの滴を智也くんの顔に当たるようにして、何時間でも何日でも待つよ」

「……それ、地味に最悪な拷問じゃないか……かなり精神的に効くって拷問だ」

「秘密、教えてくれる?」

「…………なぁ、のん、ナマチューの秘密は、知るとガッカリするかもしれないくらい、幽霊の正体見たり枯れ尾花って話だろ?」

「うん、ナマチューは、あんまり期待して見ると、がっかりするかもしれないね」

「あのクスリも、そうかもしれないぞ?」

「……………う~ん………でも、やっぱり、のんは知りたいよ。女の子をドキドキさせる秘密のクスリなんて悪の組織に渡ったら大変だよ。のんが、こっそり解析してワクチンを作るよ」

「ウイルスじゃないぞ」

「どんな秘密なの?」

「……………………」

「のんはね、知りたいよ? 本当に知りたいし、怒ってるよ? のんがエッチなクスリを売ってるってウワサ、とっても遺憾だよ?」

「わかった。オレが悪かった。秘密を明かそう。約束するから、縄を解いて明かりをつけてくれ」

 葉夜は電灯をつけ、鎌で縄を切ってくれた。

「ここは……そうか、のんの家の蔵か……」

「うん、正解」

「………」

「約束だよ」

「わかってる。あのクスリはオレが作った」

「すっ…すっごいね! すっごい秘密だよ! 智也くん博士だね!」

「まあな♪」

「秘密の作り方を、のんにも教えて!」

「………」

「約束だよ」

「聞く前に、自分の身体で試してみないか?」

「…………のんに?」

「ああ、ちょうど今も持ってる」

 智也はポケットから小さなチューブを出して葉夜に見せる。

「これを、……まあ、デリケートな部分に塗るわけだ」

「デリケートなところって?」

「女の身体で一番、秘密な部分だ」

「………………そーゆーこと、のんは聞きたくないよ」

「そうだろうな。だから、とりあえず、今夜一晩、これを貸してやるから自分に使うか、使わないか、よく考えて判断してくれ。話は、それからだ」

「……………ダメかな」

「……」

「智也くん、のんを巧く煙に巻くつもりだね?」

「くっ……さすがに賢い……」

「ピーース♪ のんは秘密、すぐに知りたいよ。約束だよね?」

「…………………………わかった。実に、くだらないし、聞くと、つまらないが、それでもいいな?」

「うんっ」

「これはロート製薬のメ○ソレータムと近江兄弟社のメ○タームを5:5で配合した手作り媚薬だ。が、媚薬といっても、それを教えずにアソコへ塗ってもヒリヒリするだけで興奮しない。基本的にプラシーボ効果しかない」

「偽薬なのかな?」

「そうだ。さすが、医者の娘」

「ピース♪」

「女ってのは伊弉冉尊の神話でもあるように、エッチに男を誘うのはタブーになってるが、実は性欲は弱くない。ところが、社会的な抑圧で貞操観念を身につけている。それを媚薬って言い訳で解放すれば、まあ、それなりに好きな相手の前なら自由に興奮できるわけだ。たぶん、これを強姦とか嫌いな相手に使われても、一切効かない。つまりは…」

「ウソだね♪」

「そーゆーことだ」

「智也くん、悪いね」

「まあな♪」

「お仕置きが必要だね」

「………、喋っただろ?!」

「三時間、反省しようね。水滴の刑♪」

「オレが素直に受けると…」

 智也は抵抗しようとしたが、手足に力が入りにくいことに気づいた。

「……まだ、薬の…」

「筋肉を動かしにくくなる薬だよ♪」

「おまっ…、それ、量を間違ったら呼吸停止で死ぬんじゃ?」

「大丈夫、秘密の計量はバッチリ確かだから」

 葉夜は動きの遅い智也に手錠をかけると蔵の奥に再び縛りつけ、水滴が顔に落ちるよう天井を細工すると、微笑んだ。

「女の子は、もっと大事にしようね。鷹乃ちゃんも、他の友達も、ね?」

「…………わかったから、オレの気が狂う前に解放しろよ!! これ、マジで拷問で使われてる方法なんだからな! 地味に最悪に効くんだぞ!」

「ピーーース♪」

「葉夜様、マジで頼むぞ! 解放しにくるの、別のことに気を取られて忘れたりするなよ! 一晩放置とかありえないぞ!」

「のんだよ♪」

「のん!」

 智也は閉まっていく蔵の扉を見ながら、ある程度、反省した。

 

 

 



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9話

 

 

 一週間後の9月13日、歩と雅は最後まで道場に残って練習をしていた。そこへ水泳部の練習を終えた香菜が現れる。

「うん、うん、やってるね」

「はい、ご命令通り二倍の練習を二人でこなしております」

「ちゃんと、マッサージもしてる?」

「はい」

 雅と歩は疲れた身体を、お互いにほぐしている。

「よしよし♪ じゃあ、もう一つ、命令を増やすね」

「まだ増やすんですかっ? 勘弁したってくださいよ! 死んでしまうわ!」

「歩……口答えをしては…」

「せやけど、雅……」

「ふーん♪」

 香菜は呼び合う二人を楽しそうに見つめると、優しい微笑みを浮かべた。

「二倍の練習量は解除してあげる。だから、お互いの長所を三つ言い合うのと、マッサージするのは継続。あと、プラスして朝練の前と、練習の後、二人は着てる物を全部交換しなさい」

「交換…ですか?」

「そうよ」

「着てるもんて、制服ちゅーことですか?」

「制服も下着も靴下も、全部♪ もちろん、髪飾りも。だから、歩ちゃんはポニーテールになって雅ちゃんは髪をおろすのよ。わかった?」

「せやけど、家に帰ったら下着の柄とか、変わってたら親に……」

「明日の朝からでいいわよ。つまり、学校にいる間は、全部交換。じゃ、また来週」

 香菜は新たな命令をくだすと、楽しそうに立ち去った。

 

 

 

 放課後、いのりは部屋で藍ヶ丘第二中学の制服を着たカナタに拍手をしていた。

「わーっ♪ カナちゃん可愛い」

「んーーっ……めちゃ恥ずかしいんだけど…」

 カナタは高校三年生にもなって中学の制服を着る違和感に戸惑っているけれど、いのりは断言する。

「そーゆー恥ずかしい気持ちが大切なの。カナちゃんは女の子の恥じらいとか、忘れすぎ! だから、ショーゴ先輩にお前って呼ばれるんだよ?」

「ショーゴが、お前って呼ぶのは、たんに男性全般が女性を軽視してる傾向に乗ってるだけか、もしくは多くの夫が妻を所有物とみなしている傾向に感化されてるかの、どっちかだと、アタシは思ってる。だから、言い直させるの」

「………? ………よくわからないけど、哲学的な話なの?」

「どちらかといえば、社会学的♪」

「…う~……、そんな話より、明日はショーゴ先輩の誕生日! ゲームソフトを返しに行くって口実で家に行く約束もしてあるんだから、あとはカナちゃんが頑張るだけだよ。大丈夫♪ だって、ショーゴ先輩、ぜんぜん新しい彼女の気配なんて無かったでしょ? この二週間、私も観察してたけど、彼女どころか好きな人もいないって雰囲気だったもん。やっぱり、カナちゃんとのケンカで拗ねてるだけだよ。ね? 頑張ろう」

「でも…」

「デモは憂国騎士団が武力鎮圧しました♪」

「デモクラシーは暴力に負けないよ。だから、アタシのデモも続くの」

「続くって…」

「でも、もしも、ショーゴとヨリを戻せなかったら、また、アタシを慰めてくれる? いのりお姉様」

「ぉッ…お姉様って…」

「だって、ほら♪」

 カナタは女子中学生のような無垢な表情をつくり、いのりの浜咲学園の制服にすがりつくと、胸のリボンを口で引いて解いた。

「いのりお姉様♪ タイが曲がっていますわ」

「…………。そーゆー可愛い表情をショーゴ先輩にも見せようね。カナちゃん」

 いのりは妹にするよう頭を撫でてやり、それから、正しい姉としてカナタの身体を押し離す。

「もう二度とカナちゃんと変なことはしません。ショーゴ先輩にも失礼だよ?」

 イッシューにだって浮気じゃないけど、よくないことだもん、いのりは甘えたがるカナタを家から叩き出すようにして帰宅させた。

 

 

 

 クロエは学校から帰宅すると、中学の制服を脱ぎ、シャワーを浴びて汗を流してから、胸元に香水をふり、フランス製のキャミソールと丈の短いミニスカートを着た。

「先輩が来るまでに…」

 クロエは髪型を整え、それから焼いておいたクッキーを確かめ、もう一度、髪型を整えた。

「Bon!」

 フランス語で、よしっ、と気合いを入れる。玄関からチャイムが聞こえてきた。

「はい、今開けます」

 クロエがドアを開けると、智也がいた。

「社長にクロエちゃんの家庭教師を頼まれたんだけどさ……本当にオレ?」

「はい、お願いします」

「けどさ、オレって浜咲じゃ成績悪い方だぞ? 習うなら、せめて千羽谷の大学生とかの方がよくないか?」

「いいんです。先輩がよかったの」

「……。……」

「ご迷惑でしょうか?」

「いや、…時給いいから、ありがたいけど……それだけの役に立てるか、自信がない」

「いっしょに勉強してくれる人がいれば、それだけで楽しいんです。私、あまり友人もいませんし一人っ子なので、父が帰ってくるまで広い家で一人というのは、つい、時間も空間も持て余してしまって……、……やっぱり、ご迷惑ですか?」

「いや、そーゆーことなら引き受けるよ。ただ、オレの学力は期待しないように」

 智也は仕事内容の変更を受け入れ、リビングに通された。

「先輩、紅茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」

「どっちでも。けど、どっちでもアイスがいいな」

「今日も外は暑かったですよね」

「ああ、もう九月も半ばなんだから、もう少し涼しくなってもいいだろうに」

 智也はアイスティーを出されて、美味しそうに飲む。

「クロエちゃん、部活とかは?」

「私の趣味に合う部活動は学校になくて…」

「ああ、アーチェリーと競馬だったっけ?」

「はい。…いえ、競馬ではなくて乗馬です。先輩のご趣味は?」

「ん~……まあ、引退するまで加賀と…友達と同じバスケ部だったけど、それも無くなったから、めったに行かないけど競馬かな」

「競馬に行かれるのですか? でも、あれって未成年は…」

「大人っぽいカッコしていけば、バレずに買えるぞ♪ オレの将来の夢は、地主か、馬主になることだからな。そういえば、クロエちゃんが乗る馬って、自己所有なのか?」

「いえ、その都度、牧場主さんにかりています。でも、相性のいい子は決まっていて、だいたい乗るのも、その子です」

「へぇぇ……面白そうだな」

「はい、とても楽しいですよ。今度、いっしょに乗ってみませんか?」

「ああ、機会があれば。けど、一回いくらのレンタル料なんだ? すごい高いなら遠慮だぞ」

「大丈夫です。牧場主さんとは懇意にしていますから、私といっしょならお金のことは心配しないでください」

「ふーん……さすが金持ちって感じだな」

「その代わりといっては何ですが……」

「ん?」

「機会があれば、私を競馬に連れて行ってくれませんか?」

「おっ♪ やっぱり、興味あるか」

「はい。だって、全力で疾走する馬の姿って、なかなか見られないですし、乗馬用の子と競馬用の馬では、きっと迫力も違うかなって」

「なるほど。それじゃあ、場外馬券場じゃなくて、ちゃんと競馬場に行かないとな」

「お願いします」

 クロエは嬉しそうに可愛らしく微笑んだ。

 

 

 

 正午は帰宅して受験勉強をしながらカナタを待っていた。玄関でチャイムが鳴り、母親が応対している気配がする。カナタの訪問は予定されていたことなので、正午は呼ばれる前に階段をおりていく。玄関にいた母親と目が合うと、何とも言えない複雑な表情をしていた。

「正午。…カナタちゃん…が来てくれたわ。…返す物があるからって…」

「ああ、それは聞いて……って?! カナタっ?!」

 正午は中学の制服を着たカナタを見て、30センチ急後進した。

「ハーイ♪ ショーゴ」

「ハーイって、どうしたんだ?! その服!」

「ちょっとね、心境の変化ってヤツ♪ どう? 懐かしい?」

「カナタ……暑さで脳が蒸れたのか? 氷水で濯げ」

「ぶーっ……こーゆーときはさ、お世辞でも可愛いね。って言うものだよ?」

 カナタは無自覚でいようとしても、とても恥ずかしいことをしていることを自覚しているので頬を赤くして上目遣いに正午を見つめる。

「ったく……、で、グランツーは?」

「持ってきた」

 カナタは借りていたゲームソフトを持参していたが、玄関で受け取ろうとする正午に渡さないで、恥ずかしさと暑さで胸元に浮いた汗を制服をはだけさせて気化させる。ふんわりと甘い香水の香りが拡がり、正午の母親は一ヶ月ほど前から急に来なくなったカナタと息子がケンカしていることを勘づいているので、カナタが大きく譲歩して仲直りしにきたことにも洞察力を働かせた。

「暑いところを、わざわざありがとう。カナタちゃん、アイスコーヒーでよかったら、冷えてるわ」

「ありがとうございます♪ いただきます」

「母さん………。まあ、いいや。あがれよ。けど、すぐに帰れよ」

「お邪魔しま~す」

 カナタは慣れた足取りで階段をのぼり、正午の部屋へ入る。机の上にあった参考書とノートを見ると、感心した。

「へぇ~♪ 勉強してる! すごいじゃん、ショーゴが勉強してる!」

「当たり前だ。受験生なんだからな。そういえば、カナタは進路、どうするんだよ?」

「うん、まあ、大学には行かないよ。今の仕事を、もっと頑張るつもり」

「ふーーん……、りかりんは青峯学院とか行くんじゃないのか? モデルしてるけど」

「りかりんは、りかりん。アタシはアタシ」

 カナタが勝手にベッドへ座ると、部屋のドアがノックされた。数年前にノックせずに息子一人しかいないと思ってドアを開けたら、性行為の真っ最中だった小さな事件以来、必ずノックして静かに待ってくれる母親のために正午はドアを開ける。母親はバニラアイスを浮かべたアイスコーヒーを小さなテーブルに置いてくれる。

「カナタちゃんの制服姿なんて、本当に懐かしいわね」

「ありがとうございます♪」

「たしか、正午の制服も、そこのクローゼットに残してあるはずよ。着てみたら?」

「ヤダよ。それに身長が合わない。そういえば、カナタは伸びてないな♪ 成長、止まったか?」

「ちゃんと成長すべきとこは、してるからいいの」

「じゃあ、カナタちゃん、久しぶりだから、ゆっくりしていってね」

「はい、ありがとうございます♪」

 カナタは笑顔で母親に手を振り、アイスコーヒーを飲んだ。

「美味しい♪」

「それ飲んだら帰れよ。中学生」

「ショーゴお兄ちゃん♪」

「っ……、気持ち悪いこと言うな!」

「じゃあ、ショーゴ先輩♪」

「っていうか、同い年なのに若返ろうとするな!」

「いいじゃん。ね、ジャンプしよ」

「はぁ?」

「三年前にジャンプ♪」

 言いながら、カナタは大きくジャンプした。その動作でスカートがめくれ、ライトグリーンの下着が見えるか、見えないかのギリギリのところまで裾があがり、まだ汗ばんでいる白い腿に正午の視線が吸いついてくるのを感じて、カナタは嬉しくなった。ほたるとコンクール前に抱き合ってから、ずっと性行為をしていない元気な男子高校生の眼球は素直だった。

「バカバカしい。なにが、ジャンプだ」

「あの頃は、楽しかったよね」

 カナタはベッドから立ち上がると、イスに座っている正午に近づき、前屈みになって見つめる。その動作でセーラー服の胸元が重力に引かれてさがり、素肌が奥まで見えるようになる。ブラジャーまで、よく見えた。

「それ、新しく買ったのか? 見慣れないな」

「うん♪ ショーゴの誕生日に合わせて、新調したんだよ。どう、似合ってる?」

「まあ、いいんじゃないか」

 いつも通りの気のない誉め方をしていても、正午のズボンが勃起で盛り上がっている。

「上下セットなんだよ。ほら」

 ブラジャーどころか、すべてを見ることに慣れているので、カナタが頬を赤くしながらスカートをあげてみせても、その行動に驚くことなく、さっきは見ることができなかったライトグリーンの下着を見つめる。

「……なかなか…いいな…」

「そりは、どうも♪」

 めったにしてくれない本気の誉め方をされてカナタは嬉しくなってキスをしたくなったけれど、一気に攻め込んで正午に拒否されないよう、一度、戦術的撤退をする。離れて、またベッドに腰をおろすと、寝転がった。

「このカッコで街を歩くの、想像以上に恥ずかしいね。知り合いに会ったら、どうしようかと思ったよ」

「みんな日射病だと思うぞ」

「う~……帰りは、正午の服、なにか貸してよ。ちょっと、もう勇気が尽きちまったよ。美味しいアイスコーヒーのおかげで脳も冷えましたし」

「ああ、テキトーにジャージでも着ていけばいい」

 別れた彼女が必死に接点を作ってヨリを戻そうとしていることに、まったく気づかず正午は吸いよせられるようにカナタへ近づき、いつもしていたように膝に触れた。柔らかい肌の感触が性欲を掻き立て、膝から腿へ、腿から股間へ手を進めていく。

「………」

「……ショーゴ…」

 うっとりとカナタが仲直りしてもらえそうな予感に目を潤ませて呼びかけると、正午もキスをしたくなり、唇を近づけたときに、ほたるのことを思い出した。

「って! ダメだ。ダメじゃん! オレ! ヤバっ、つい忘れるところだった!」

 正午は磁石の同じ極が弾き合うようにカナタから離れだ。

「ヤベェ。もう、ちょっとでカナタの魔力に負けるところだった」

「……」

 もうちょっとで落ちると思ったのに、やせ我慢しないでアタシの魔力に負けろよな、エロ少年、カナタは作戦を練り直すことにする。

「ね。最後の一回しない?」

「最後の一回って?」

「だってさ、いきなりアタシも別れるって言われても実感わかないし、心の準備もなかったから、先月からエッチしなくなって、正直、若い身体を持て余してるのよね。ショーゴと違って、新しい彼氏も、好きな人もいるわけじゃないから、このやり場のないモヤモヤした気持ちを整理するために、最後に一回だけ、エッチしてみようよ?」

「……最後の一回か……」

「うん♪ 最後の一回」

 傾いてる傾いてる、ピサの斜塔みたいに傾いてきてるよ、カナタは膝を立てて下着が正午に見えるようにした。正午のズボンにも塔が立っている。

「もちろん、二人だけの秘密。新しい彼女さんに言ったりしないよ」

「………」

「ね、想い出、ちょうだい」

「……………………」

「ショーゴ」

「…………やっぱり、ダメだ。それって裏切りだろ? オレは、そーゆーことできない。相手に失礼だ」

「……」

 傾いてるのに倒れそうで倒れないとこまでピザの斜塔かよ、カナタは作戦を第三段階に移行する。

「賭けをしようよ」

「はァ?」

「ショーゴが勝ったら、このままアタシは帰る。アタシが勝ったら、秘密のエッチをしてくれる。一つくらいさ、新しい彼女さんにアタシも抵抗してみたいからね。賭けで決めよ」

「賭けって……それは、そーゆーのも…」

「賭けっていうか、勝負ね。これで」

 カナタは返すために持ってきたゲームソフトを正午へ挑むように見せつける。

「このグランツーリスモで勝負♪」

「………。ああ、いいぞ」

 正午はゲームソフトを本体に入れると、テレビをつけてコントローラーを握った。

「グランツーでオレに挑むとは、愚かな女だな。カナタ」

「愚かな女に誘われて禁断の果実を食べちゃったバカの末裔が君だよ、ショーゴくん」

 すぐに二人のレースが始まった。

「くっ…」

「ふふン♪」

 スタートからカナタは前を走り、一度も抜かせない。

「なっ…そのカーブ、200キロ以上で曲がるってアリかよ?!」

「ここは237キロまでグリップ走行できるよ♪ まあ、チューンと腕前によるけどさ」

「くそっ!」

 正午は負けた。

「アタシの勝ちだね」

「もう一回だ!」

「小学生かよ、君は」

「もっと何か賭ける! 最初に油断したから負けただけだ! わずか一ヶ月でカナタが、ここまでヤリ混んでるとは思わなかった。次は本気で勝負する! こんなんで最後じゃ後味が悪い!」

「ん~……何か賭けるかぁ……じゃあ、エッチを最後の一回じゃなくて二回。それも、いつもより優しく大切にしてくれるって条件ね。どうせ、別れる女だからって、やればいいだろ的なエッチされるのは願い下げだから、ちゃ~んと、いとしく恋しく、これが最後の二回なんだって、未練たっぷり後ろ髪を引かれる想いで抱いてくれるって条件なら、もう一回だけ勝負してあげてもいいよ?」

「わかった! それでいい!」

「よしっ♪」

 あっさりと、カナタは二度目の勝負にも勝った。

「……カナタ……速すぎるぞ……」

「まあねン♪ 才能の差だよ、才能の」

「…………たはーっ……」

「じゃ、約束は約束だよ」

「…………」

「アタシのこと、そんなに嫌いになった? もう、エッチもしたくない?」

「いや……そーゆーわけじゃ……」

「少しは好きでいてくれる?」

「………まあ……それなりに……」

「じゃあ、見せてよ。その、それなりってヤツを………ね」

 カナタはコントローラーを放り出して、正午の肩へ身体を傾ける。

「ショーゴ………アタシは、まだ、ぜんぜん気持ちの整理……できてないよ?」

「カナタ……」

「だから、お願い。優しくして、今日だけ。今日の18歳になった新しいショーゴだけは、アタシにちょうだい」

「………………………」

 こいつ、こんなに可愛い女だったっけ、正午は古くなったのに初々しく感じる中学の制服を着たカナタが目を閉じたのでキスをした。慣れた二人の唇は呼吸を合わせて絡み合い、深いキスをする。正午は本能のままにカナタのブラジャーを外して乳房を撫で、カナタは勃起している正午にズボンの上から触れる。

「…ショーゴ……愛してる」

「カナタ……」

 正午は胸を揉んでいた手を股間へ伸ばしてから、智也からもらった薬のことを思い出した。ほたるに使う前にカナタで試してみようという気になる。

「カナタ、ベッドに」

「うん」

 このままフローリングの上で続けるのは身体が痛くなるので、カナタは促されてベッドへあがり、正午はカナタが背中を向けている隙に、高校の制服に入れたままだった薬のチューブを取り出した。それをカナタに気づかれないようベッドの下へ置きつつ、カナタの膝へキスをする。

「ぁん…」

「……………」

 やっぱりスタイルは、ほたるよりいいな、細いのに胸もあるし、脚もキレイだ、正午は膝へのキスを繰り返しながら、だんだん上昇させて内腿へキスで這い登り、股間に到達して下着の上から軽く舐める。

「あっ…ハァ…、……んっ…」

 カナタは顔を赤くして息を乱している。それが可愛くて少し焦らしたくなり、いつもより丁寧なセックスをする約束もあるので、すぐに下着を脱がしたりせず、股間から離れて再び内腿へのキスをして、それをくだらせ、膝へ、ふくらはぎへ、靴下を脱がせて足首と足、足の指へキスをする。

「んっ…」

 ああ、気持ちいい、生きてることってなんて気持ちがいいの、カナタは優しく足の指を吸われてセックスの時に毎回感じる生命の充実感を覚えた。正午はカナタが姫君のように恭しく足を吸われることで大きな悦びえることを知っているので、その隙にベッドの下からチューブを取り、人差し指に薬を着ける。

「ハァ……ハァ…」

「…………」

 正午は足の指へのキスを終えると、またキスでカナタの脚を昇っていく。そして股間に辿り着くと、いつもより激しい下着の濡れ方に軽い驚きと男性らしい喜びを覚えた。

「………」

 そういえば、ほたるとオレはエッチしてたけど、カナタは一ヶ月以上も放置だったから、そりゃ興奮するよな、こんな濡らして、そこにプラスして、このクスリを塗ったら、どうなるんだ、正午は強い好奇心に突き動かされ、人差し指をカナタの下着へ滑り込ませると薬をまんべんなく塗りつける。

「…ハァ……ハァ……」

 なにか塗ってるの、なにこれ、あ、いのっちが言ってた智也の怪しいエッチな気分になるクスリ、そんなの塗らなくてもアタシは十分……でも、すごい熱くなってくる、やん、ホントに効くよ、これ、熱い、熱いよ、あの鷹ちゃんが学校でヘロヘロになってエッチしたいから家に帰ろうって、いのっちがいるのに智也にねだるくらい凶悪な効果があるって話だから、はうぅ、ホントに熱い、ヤバイ、ヤバイよ、これ、理性飛びそう、カナタは身もだえして下半身ばかり愛撫されて淋しくなった上半身を自分で抱いた。

「はぅんぅ……ショーゴっ、もう来て」

「…………」

 すげぇ効いてる、効いてる、エロエロになってる、すごいぞ、三上、これマジすげぇ、正午は楽しくなって逆にカナタを焦らせることにした。もう下着を脱がせてもいいタイミングなのに、もう一度、反対の脚をキスでくだり、くだりながらカナタの下着に入れたままの手で焦れったいわずかな愛撫もする。

「はあっ…んっ! しょ……ショーゴ…ハァ……もう、きて…」

「優しく大切に、だろ? お姫様」

 正午は反対の足を舐めてやり、その指を一本一本吸っていく。手での愛撫も続けると、カナタは顔を紅潮させ、快感と切なさで目をうつろにさせた。

「ぁはぁぁんっ!」

 カナタが感極まった声をあげて仰け反る。

「ハァ…ハァ…あっ、あっ! あっん!」

 焦れったい愛撫しかしてくれない手を両脚で挟み込み、無意識に腰を揺すって男性を求めている。その姿に正午は余計に焦らしたくなって、愛撫をやめた。

「ハァ……、……ショーゴ?」

「やっぱりさ、カナタとは……できないかな」

「っ、なんで?!」

 カナタが縋ってくる。それが面白いくらい必死で、正午は楽しくてしかたなくなってくる。

「悪いけど、もう、終わりにしよう」

「そんな! だって賭けは私の勝ちだよ?!」

「………わかってるけど………、もう、オレ、……」

「ショーゴ、お願いっ、お願いだからっ」

 カナタが涙まで零した。

「してよ…、してくれないと…、アタシ、頭がおかしくなりそうっ! 気が変になりそうっ!」

「……………………」

 正午は中学の制服を半脱ぎになって、懇願してくるカナタを冷たくあしらおうとして、思い止まる。

「……たはーっ……しょーがねぇな…」

 このクスリ効き過ぎだろ、カナタ完全にアッパッパーになってる、こいつが、ここまでプライドとか捨ててくるなんて、ホントに怖いクスリだな、正午はカナタの身体を優しく抱いて囁く。

「もう焦らさないから、泣くなよ。な?」

「ぅん……ショーゴ、来て…。ショーゴに抱かれたいの…」

「……」

 くっ…可愛すぎる、ごめん、ほたる、一回だけ、これが最後の一回だから、もう、カナタとは何があってもしないから、今日だけは見逃してくれ、ごめんな、ほたる、正午は心の中で謝りながら、勃起した男根をカナタへ向けた。

 

 

 

 翌日、カナタは昼休みに正午へ声をかけた。

「ハーイ♪ ショーゴ」

「よぉ」

 いつも通りの返事をした正午は昨日のことを忘れているように普段と変わりないけれど、カナタの方は気恥ずかしくて目を合わせられない。それでも、そばにいて話をしたかったのに、正午は素っ気ない。

「もう、あんまりオレに近づくなよ。一応、別れたんだしさ」

「っ…」

「昨日、気持ちの整理、できたんだろ?」

「……、まあね」

 カナタは泣き出しそうになって背中を向けると、音楽室へ走った。音楽室では、いのりと一蹴が寛いでいたけれど、カナタはドアを開けて駆け込むと、いのりに抱きついた。

「うぇ~んっ! ショーゴが冷た~いぃ!」

「……カナちゃん…」

 いのりは泣きつかれて困ったけれど、とりあえず頭を撫でて慰める。一蹴が驚いているけれど、カナタは喚いた。

「聞いてよ、いのっち! ショーゴ超冷たい! 昨日エッチしたのに! もう、あんまりオレに近づくなって!」

「…………」

 なんだか、日に日にカナちゃんが壊れていってる気がする、いのりは頭痛を覚えながらも、泣きじゃくる先輩を軽く抱いて落ちつかせる。けれど、カナタは落ちつかなかった。いのりだけでなく圧倒されている一蹴にまで喚く。

「男って、あんなに冷たい生き物なの?! 昨日だよ、エッチしたの! なのに、一応、別れたんだ、とか! 気持ちの整理できたんだろ、とか! どうして平気で言えちゃうわけ?! 女の子のハートはダイヤモンドより傷つかないとでも思ってるの?!」

「せ…先輩……、お、…オレに言われても…、オレ、まだ、エッチとかしたことないし」

 思わず童貞をカミングアウトするほど一蹴は動揺しているのに、カナタは言い募る。

「たしかにアタシは最後の一回って言ったよ?! だけど! あれはないよ! ショーゴが何考えてるか、わかんない! バカすぎて、わかんないよ! バカショーゴ! アホイッシュー! もう、いいから、アタシの思い通りになってよ!」

「カナちゃん……、冷静に、カナちゃん!」

 いのりは軽く両手でカナタの頬を叩いてからハンカチで涙を拭いてやった。こうまで後輩の前で意地もプライドも捨てて泣いているカナタを見ると胸が痛み、それが正午への怒りにもなった。

「ショーゴ先輩には私から話すから、今は落ちついて。ね?」

 いのりは放課後までかかってカナタを落ちつかせると、正午と話すために一人で三年生の教室へ入った。ちょうど、正午は帰り支度をして、自転車の鍵をポケットから探っているところだった。

「ショーゴ先輩。ちょっと、いいですか?」

「……、な…なんだよ、その…人を呪い殺すような目は……」

 正午は睨まれて、いのりの眼力に怯えたけれど、持って生まれた罪悪感不感症のおかげで自分が悪いとは考えない。

「オレに何か用でも?」

「これ以上、カナちゃんをもてあそぶのは、やめてください。あなたは最低です」

「ぇ……っと……香菜って、…あの子はレズだろ?」

「っ…」

 正午は大きな誤解をしたし、いのりも誤解に気づかず、むしろ、自分とカナタの性的関係を思い出して、顔を赤くした。正午は個性的なタメ息をついて肩をすくめる。

「たはーっ……もてあそぶとか、そーゆーの、ぜんぜんオレに関係ないじゃん。君が好きなら、二人で好きなようにしてれば? オレは口出ししないぞ。そーゆーの個人の自由だろ?」

「っ…」

 いのりの脳裏にカナタとの数々の性的行為が走馬燈のように流れた。カナタは正午との行為を、いのりへ話していたように、正午へも開けっぴろげに、いのりと自分のことを話していたかも知れない、そうなると状況は大きく変わってしまう。

「い…いえ、……カナちゃんはレズじゃなくて…バイっていうか、……本当はショーゴ先輩が一番……いえ、ほたるさ…っ、…ち、…違います! わ、忘れてください! な、何でもないです!」

 いのりは頭が混乱して正午へ背中を向けると駆け出した。

「もう知らない! カナちゃんのバカっ! ショーゴ先輩に、私とのこと話してるなんて信じられない! バカっ! バカバカバカ! バカナちゃん!」

 いのりは音楽室で待っているカナタのところへ戻ると、怒鳴った。

「どうしてショーゴ先輩に私とのこと話したのっ?!」

「へ? ……何のこと?」

「私とエッチなことしてること! シューゴ先輩が知ってた!」

「っ……そんなはず………あいつが、そんなに鋭いはずないよ……アタシ、言ってないし、そんな気配も見せてないから……」

「二人は付き合ってたんでしょ?! 隠せるって思う方がバカだよ!!」

「……………………」

 カナタが目を伏せ、いのりは怒りと恥ずかしさで震えた。

「……もう……私に、近づかないで…」

「いのっち?!」

「………。絶交、させて」

「ま、待ってよ! アタシ、いのっちに相談できなくなったら…」

「ショーゴ先輩とヨリを戻したいなら、なおのこと、私に近づかない方がいいよ。それに……」

 気持ち悪くて、寒気がするの、なんで女の子同士でベタベタしたがるの、絶対おかしいよ、いのりは呪い殺すような目を10%くらいの眼力でカナタに向けた。

「っ……いのっち……」

「…さよなら」

 いのりは小学校からの腐れ縁に別れを告げ、音楽室から立ち去った。残されたカナタはフラフラと歩くと、足の力が抜けて、そのままピアノの前に座った。鍵盤へ手を置いたので不協和音が響く。

「………、……」

 先月まで、ほたるが弾いていて、いのりへ受け継がれたピアノの鍵盤を撫でると、カナタは背中を丸め、沈み込むように暗い考えへ落ちていく。

「……………人は、……簡単に絶望するんだね………あまりにも……簡単に……」

 独り言を零し、ピアノを頭で弾くと、立ち上がった。

「……まだ……諦めない……、きっと、いい方法はあるはず……必ず……」

 カナタは正午とヨリを戻す前に、いのりとヨリを戻すと決めた。

 

 

 

 翌日の9月16日、学校の屋上で智也は鷹乃と昼休みを過ごしていた。鷹乃が作った弁当を二人で食べて、水筒の紅茶を飲んでいる。とても幸せな気分だったのに、鷹乃はカナタが近づいてきたので反射的に不愉快になり、それから逆に罪悪感を思い出した。カナタは鷹乃へのプレゼントだった指輪を選ぶのに智也へ協力してくれていたのに、ひどい罵りをしたし、香菜がやったこととはいえ電撃をくらわせて失神させている。そのことを、まだ謝ってはいなかった。

「………あの、黒須さん…、ごめんなさい……この前…」

「智也。ちょっと話があるんだけど、こっち来て」

 カナタは鷹乃を無視すると、智也を顎で立たせた。

「鷹乃が謝ってるのに、無視することないだろ?」

「………。謝られたら必ず許さないといけないの? 神さま、禁断の果実を食べて、ごめんなさい。黄色いお猿さん、原爆落として、ごめんなさい。愚民どもサリンを撒いて、ごめんなさい」

「黒須……………鷹乃を許す気……ないんだな?」

「ないよ」

「………一応さ、オレの彼女なんだから、オレからも頼むよ」

「そんな話しに来たわけじゃないの。アタシの話が先で、アタシの話だけで終わり」

「……………」

 あいかわらず、ワガママな女だ、しかし、まあ、鷹乃も悪かったから、ここは黙って言うことを聞いておこう、智也は少し耐えることにした。

「で、黒須の話は?」

「ショーゴに変なクスリ渡したでしょ?」

「…………。記憶にございません」

「ウソは上手につこうね?」

「……返す言葉もございません。渡しました」

「ふーん……。のんから仕入れたってね?」

「……まあ…」

「のんに訊いたら、のんじゃないって言ったよ」

「その話なら、のんと決着がついてるが…」

 智也が言い逃れようとしていると、カナタは財布から三万円を出した。

「あれ、アタシにも分けて」

「…………」

「足りない?」

 カナタが五万円を出した。

「……。加賀に使われて、そんなに良かったのか?」

「っ…」

 カナタが頬を赤くして、それからポーカーフェイスを作った。

「いいから分けて」

「分けなくはないけど………何に使うんだ? 男に使っても、たぶん効果ないぞ」

「やっぱり、女子専用なの?」

「まあ……そんな感じかな…」

 いや、ただのメ○タームとメ○ソレータムのハイブリットだ、粘膜に塗ればメントールの刺激で分泌液が異常に増えるから、女だと感じまくってるように見えるけど、男だとスースーするだけだからな、もしかして、加賀に使って復讐でもする気なのか。

「加賀に使っても効かないかもしれないぞ」

「女の子になら、誰にでも効くの?」

「……いや……まあ、……効くには効くが、強姦とかムリヤリなことで使っても効かない。ある程度、いつも関係してる仲でないと効果ないだろうな。よく考えてみろよ、そんな誰に塗ってもエッチしたくなるクスリあったら世の中、メチャクチャだろうが」

「なるほど……それは、そうね」

「何に使う気だ? オナニーか?」

 智也は余計なことを言ってカナタに頬を叩かれた。

「痛ぅ……」

 智也が頬を押さえ、鷹乃が振り向いた。

「ちょっと何してるのよ?!」

 少し離れた場所にいた鷹乃が近づいてくる。

「どうして智也を叩いたの?!」

「……」

 カナタは鷹乃を無視して、智也の胸ポケットへ五万円を押し込んだ。

「さっさと分けて」

「わかった、わかった」

 もう懲りたので智也は素直に自家製のクスリを容れたチューブを渡した。用事が済んだカナタが立ち去ろうとすると、鷹乃が前に回り込む。

「どうして智也を叩いたの?!」

「………智也、これ、どけて。邪魔」

「黒須……鷹乃をコレとか言うなよ。小学校で習わなかったか、お友達を無視するのは、とても悪いことです、って」

「アタシは小学校で学習したの、許せないヤツには死んでもらう。アタシの中では不在するの」

「………黒須、オレからも謝るから鷹乃を許してやってくれよ」

「一つだけ許してもいい条件があるよ」

「どんな?」

「二度とアタシの視界に入らないこと。できれば、遠くに引っ越して、明日」

「………………、もういい……、鷹乃、黒須のことは気にするな。オレが叩かれたのはジョークが笑えなかったからで、オレが悪い」

 智也は鷹乃を引きよせるとカナタを見送った。

「……はぁ~……黒須とは、軽い絶交かもな……」

 智也がタメ息をつくと、鷹乃は申し訳なさそうに謝る。

「ごめんなさい、私のせいで……黒須さんと……」

「別にいい。気にするな。昔っから黒須はヒネたところがあるヤツだから」

「…………」

 黒須さんの性格に問題があるというよりは私と香菜が彼女にしたことの方が悪いわ、でも謝っても許してもらえそうにない、それに智也と私の知らない中学からの交遊がある黒須さんが遠のいてくれるなら……、鷹乃は自分の思考を振り返って自己嫌悪を覚えた。

「……私って……イヤな女……」

「それは間違いだ。鷹乃は、いい女だぞ♪」

 智也がキスをしてスカートに手を入れる。

「あんっ…」

「ホントいい女…ん?」

 智也は鷹乃の身体を楽しもうとして見知らぬ一年生が三人も近づいてくるのに気づいた。三人は後輩らしい遠慮をしながらも、智也に声をかけてくる。

「あの、三上先輩」

「誰だ、お前ら?」

「一年の山王です」

「天野です」

「中谷です」

 剣道部とサッカー部の一年生を智也は知らなかった。

「オレに何か用か?」

「はい、ちょっと男同士で話したいことがあるんですけど………」

「ふーーん……鷹乃、ちょっといいか?」

「ええ」

 相手が男性なので鷹乃は気にも留めず、四人から離れていく。智也は生まれつきの尊大さに加えて三年生らしい横柄さで三人に接する。

「で、何の用だ?」

「三上先輩が野乃原先輩から仕入れたクスリを分けてもらえませんか?」

「……」

 やたらウワサが広まってるな、智也は葉夜が怒っていた理由を噛みしめた。

「お前ら一年にも広まるほど有名なのか? その話」

「はい、あの男嫌いだった寿々奈先輩を射止めたって超有名っすよ」

「………………」

 いや、あれはオレの実力と実力行使の結果だ、クスリは関係ない、まあ、でも事情を知らないヤツらには、そんなもんかもしれないな、さて、どうしたものか、智也が考え込むと三人が頭を下げる。

「「「お願いします!!」」」

「………。高いぞ。さっき、友達だったヤツに五万で売ったくらいだからな。知り合いでさえない、お前らには………その三倍だな」

 これで諦めるだろ、智也はふっかけることで事態を収拾しようとしたが、三人は異性を求めるために金銭をいとわなかった。

「今は持ってませんけど、必ず用意します!」

「………。……」

 おいおい、三人で45万だぞ、ボロ儲けじゃないか、智也は胸ポケットに入ったままの五万円の重さに加えて、その9倍を想像して生唾を飲んだ。

「ああ、わかった。オレも、さっき売ったばっかりで今は持ってない。そうだな、来週にでも用意しておく。それで、いいか?」

「「「はいっ!」」」

 山王と天野、中谷は野望に燃えていた。

 

 

 

 四日後の9月20日、山王は考え抜いた作戦を実行に移していた。廊下を歩いてくる雅を呼び止める

「おい、藤原」

「…、何ですか?」

 雅は呼び捨てにしてきた山王を斬り殺しそうな目で睨んだが、山王は予想通りの反応だったので作戦を進める。

「お前んとこの顧問が、これを道場に運び入れとけってよ」

「そうですか」

 雅は山王が指したダンボール箱を持ちあげようとしたが、思ったよりも重かったのでバランスを崩した。

「ぅっ…」

「大丈夫か?」

 山王はフラついた雅を軽く支えながら微笑する。

「重そうだな。女には無理かもな。持ってやろうか?」

「けっこうです! この程度…」

 意地っ張りな雅は助力を拒否して、ダンボール箱を抱えあげる。

「くっ……」

 いったい何が入っているのです、この重さ、雅は背中に山王の視線を感じて、なるべくフラつかないように歩くけれど、とても重い。

「へぇ~…強い強い♪」

 ホントに強いな、それ、15キロのバーベルが三個も入ってるんだぞ、顔はきれいなのに恐ろしい女だ、山王は雅のあとを冷やかしながらついていく。

「手伝ってほしかったら、言えよ。しょーがないから、手助けしてやる」

「けっこうです! 立ち去りなさい!」

「そう言われてもな。道場で落とされたら、やっかいだしな……ま、強い藤原なら、なんとかなるかな。はは♪」

 山王は手助けを雅が求めにくくなるような言動をしながら、後ろをついていく。雅は45キロのダンボール箱を額に汗を浮かべながら涼しい顔を装って、廊下から校庭へ、校庭から道場へと運ぶ。

「ハァ…ハァ…」

「道場の戸、開けてやろうか?」

「ハァ…当然です…」

「はは♪」

 山王は笑いながら道場の戸を開け、フラフラになった雅が入ると戸を閉めた。

「道場で落とすなよ。畳が痛むから」

「わかっています!」

「んじゃ、神棚の下にでも置けよ」

「ハァ…ハァ…くっ…」

 最後の力を振り絞ってダンボール箱を抱えて歩く雅の無防備な背後で、山王は智也から買ったクスリを指に着けると、素早く雅のスカートへ手を入れる。

「きゃっ?!」

 驚く雅にかまわず下着の奥にまで指を進め、クスリを塗りつける。すでに剣道部で好成績を築いている山王の突き込みは鋭く素早かった。

「な…何をっ…」

 雅はダンボール箱を落として、山王の手を払った。

「こ……この痴れ者!」

 怒りと羞恥心で真っ赤になった雅へ山王が襲いかかる。

「いいから、オレに抱かれろよ。前から藤原のこと狙ってたんだ」

「くっ…このっ!」

 雅は抵抗しようとしたが、疲労しきった腕に力が入らない。為す術もなく山王に押し倒された。

「は…離しなさい! 狼藉者!!」

「まだ足りないのかなぁ…」

 山王は残りのクスリを全て雅に塗りつけてみる。

「な…何をっ?! 何ですか、それは?!」

「気持ちよくなるクスリだ。すぐに良くなるから暴れるなよ。痛い思いはしたくないだろ?」

「あ…怪しげなクスリを……この愚か者…」

 口では抵抗していても、身体は恐怖心で震え、ろくに力が入らない。雅は不本意なキスをされ、絶望感から脱力して天井を見上げた。

「っ………ぃや……」

 こんなところで、こんな男に、こんなことをされるために、私は生まれてきたの、こんな命なら、もう、いっそ、死んで現世と……、雅が自害を決意しようとしたとき、のしかかっていた山王が白眼を向いて倒れてきた。

「神聖な道場で何をしとるんやっ! このド畜生!」

 薙刀で山王を打ちすえた歩は気絶した強姦未遂犯を押しのけると雅を助け起こしてくれる。

「雅っ! もう大丈夫や! 雅!」

「っ……あゆ……む? …どうして……ここに…」

「二人が道場に入るとこ、校舎から、ちらっと見えたんや! ほんでイヤな予感がしたさかい! 来てみたら、これやろ? 大丈夫やったか? どこか痛とうないか?」

「っ…ぅっ…ぅぅ…」

 泣き出した雅を抱きしめた歩は優しいキスをする。

「もう大丈夫や、安心しぃ、もう大丈夫やから。何かされたんか? 痛いとこは?」

「ぅぅ……おかしなクスリを………、……大切な処に…」

「見せてみぃ、キレイにしたるさかい」

 歩は神聖な道場で雅の身体を清めることにした。

 

 



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10話

 

 

 翌日の昼休み、中谷はサッカー部の部室で一蹴を待っていた。

「遅いなぁ…」

 苛立って意味もなくシュートフォームで壁を蹴っていると、やっと一蹴が現れた。

「よぉ、中谷。なんだよ、二人で話って?」

「ああ…」

 中谷は昼休みが残り五分しかないので、単刀直入に本題へ入る。

「オレ、………好きな女の子がいるんだ」

「え…あ、…おお……そ、…そっか…、……じゃあ、オレで相談に乗れることなら、何でも言ってくれよ」

「ああ…………じゃあ、……一つ、………鷺沢、お前さぁ……陵さんと、やっぱり正式に付き合ってるのか? 本気で好きなのか?」

「っ………」

 ここまで言われると、一蹴も呼び出された理由がわかった。

「ど………どうかな……まあ、……一応、付き合ってるっぽいけど…」

「………。本気で好きなのか?」

「……そ……そう言われると…………いや、…一応、好きっていうか……」

「オレは本気で彼女が好きだ!!」

「っ……」

 大声を出されて一蹴は後退った。

「……中谷……お前……」

「だから、オレは彼女に伝える! お前が……どう思うか、……悪いとは思うが……けど、オレは筋は通したつもりだ」

「中谷………、………」

「彼女に伝えて、どうなったとしても……お前とサッカー部は続けたいから……、チームワークは乱したく……ないから」

「中谷……わかった。……お前……いいヤツだな」

「バカ野郎……いいヤツなわけないだろ」

「いいヤツだよ。オレ、中谷が好きになった」

「……気持ち悪いこと言うな」

 中谷が軽く殴ってくるのを、受けとめて一蹴は笑った。二人とも爽やかに笑った。

 

 

 

 放課後、いのりは一蹴に呼び出されて校舎裏の焼却炉前に来ていた。

「どうしたの、イッシュー、こんなところで待ち合わせなんて……」

「ああ、ちょっとな。話があって……」

「………」

 ここって、ほたるさんが伊波先輩のために作った手作りのお菓子、捨てられてたイヤなところなんだけど、イッシューは知らないのかなぁ、知らなくても、こんなところに呼び出さなくても話なら普通にしてくれれればいいのに、結局、ほたるさんは一度は付き合ってもらえたけど、ほんの半年で捨てられちゃって、今はウイーンに、いのりは悲しい気持ちで燃え残りのゴミを見下ろした。何か、イヤな予感が胸に溢れてきそうなのを、押し留めて可能な限り平静を装う。それでも不安は消えてくれない。あんなに仲の良さそうだった先輩カップルも一夏で崩壊した、まして一蹴とは交際して日も浅い、やっぱり気に入らないとか、他の女の子が好きになったとか、言われるのかもしれない、そんな思考に取り憑かれそうになるのを、いのりは必死で押さえ込み、微笑んだ。

「それで、話って何かな? イッシュー」

「ああ、……それはオレからじゃなくて、あいつから。オレは、あっちにいるから……二人で話してみて……」

 一蹴は離れたところにいた中谷を指すと、いのりの返事を待たずに立ち去った。

「……イッシュー……」

 いのりは恋人の背中が小さくなるのを見つめ、中谷は緊張した顔で彼女に近づく。

「み……陵さん…」

「…中谷くん……、……」

 いのりは相手の顔色を見て、どんな想いを自分に持ってくれているのか、自惚れでなく気づいた。

「お………オレはっ! 君が好きだ!」

「っ………」

 いのりは告白されて、予想していたけれど、そのストレートさに驚き、顔を赤くして、そして困った。

「…わ……私は……イッシューと………付き合ってるから……知ってるでしょ…」

「わかってる! でも、オレは本気で陵さんが好きなんだ! だから、言いたくて! 伝えたくて! 好きだ! オレは陵いのりが大好きだ! オレと付き合ってくれ!」

「……………………。………イッシューは……何て、言ってるの?」

「陵さんが決めてくれれば、いいって。どっちだったとしても、オレらは友達やめないって話つけてある」

「そう…………………………そうなんだ…………」

 いのりは瞳を右へ落とし、左へ動揺させ、それから答える。

「……ごめんなさい……私、……イッシューが好きだから」

「……………………くっ………、わかった。ありがとう……ごめん!」

 中谷は背中を向けると駆け出した。いのりから十分に離れ、誰もいないことを確かめると雄叫ぶ。

「うおおおおおおおおおっっっ!」

 通りがかった野良猫が跳びあがって逃げていくほどの慟哭をあげ、ポケットに入れていた十五万円もする密造医薬部外品を握り締め、投げ捨てようとして、やめた。

「……、勇気の御守りには、なったよな……、所詮、かなわぬ恋か………」

 最初から分の悪い勝負だと思っていたところもあり、告白が失敗に終わったのに不思議なほど爽快な気分だった。

 

 

 

 夜、いのりは同級生の勅使河原早絵に電話をかけて泣いていた。

「イッシューは…私が…中谷くんを選んだら、それでいいって…っ…ひっく……そのくらいの気持ちしか、もってくれて…ないの…」

「いのちゃん……、男ってバカだから、そこまで考えてないんだよ。それか、あいつ顔いいから余裕こいてるだけだって。うん、私が鷺沢でも余裕こいて中谷にチャンスあげるフリするね。だって、中谷と鷺沢なら、だんぜん鷺沢だもん。中谷、メタボだしね。ちょっとパス」

「そーゆー…問題じゃ…」

「そういう問題だって♪ もしも、中谷じゃなくて中森先輩みたいなカッコいい人だったら、鷺沢だって焦って守りに入るって。中谷なら、ま、一発、フリーキックさせてみてもゴールには届かないなぁ、って予想できるじゃん。だから、もう泣くのやめて、ね。いのちゃんは可愛いから鷺沢もまんざらでもないって、ね?」

「……私は可愛いってことは…」

「ご謙遜ご謙遜♪ 中谷を泣かせておいて、罪つくりな女め♪」

「早絵ちゃん……もう…、からかわないで」

「それに、この前、鷺沢と廊下でチューしてたってね? 聞いたよ。白昼堂々、思いっきり抱きついて、キスおねだりしたって」

「っ! あ、…あれは!」

 いのりが慌てて釈明しようとしていると、早絵は母親に呼ばれて立ち上がった。

「ちょっと、ごめん。家電話が私にってママが呼んでる」

「うん、じゃあ、切るよ」

「いいよ。ちょっと待ってて。どうせ、家電話なんて変な勧誘か、連絡網だと思うし。ちょっとだけ、待ってて。………ママぁっ! 誰からなの?!」

 早絵のよく通る声がケータイを離していても聞こえてくる。いのりが待っていると、再び早絵がケータイを耳にあてた気配がして、声がする。

「サッカー部の天野君からだって。なんで、私に………どう思う?」

「天野くん? ………、早絵ちゃん、可愛いから告白されちゃうかもね」

 いのりは先ほどの仕返しにからかったけれど、早絵も可能性としては考えていた。

「まあ……天野君、本人か、その友達の仲介役…………まさか、中谷のリトライだったら、どうする?」

「どうするって、早絵ちゃんが告白される番だよ?」

「そんないい話かなぁ…」

 早絵が迷っていると、母親の急かす声が響いてきた。

「いのちゃん、いっしょに聞いてて!」

「聞いててって…」

 いのりが戸惑っていると、ケータイと固定電話の受話器を密着させる音が聞こえ、早絵と天野の声が響いてきた。

「もしもし、早絵です」

「あ、さぇ…て、勅使河原さん?」

「うん」

 いのりは二人の会話を聞きながら、これって盗聴なのかも、と思いつつ、少し前にカナタと正午の電話を似たような状態で聞いていて、余計な口出しをしてカナタが烈火の如く怒り狂ったことを思い出し、今回は絶対に黙っていようと心に決めて、口を手で覆った。

「私に、何の用なの?」

「あ……明日、……時間、あるかな? 放課後、とか」

「……ないことも……ないけど」

「じゃあ、ちょっと話があるんだ。………いいかな?」

「うん……いいよ。………天野君が…一人でくるの?」

「え? …ああ、うん……そのつもりだけど……、勅使河原さん…誰かと約束ある?」

「ううん、ちょっと聞いただけ。……あ、私のケータイ、教えるから、これからは、そっちにかけて。もしも、明日、待ち合わせ遅刻しそうになったら連絡するから、天野君のケータイも教えてよ」

「うん、わかった」

 いのりは二人がケータイ番号を交換するのを聞きながら、すでに明日の答えが出ているような気がした。

 

 

 

 翌日の9月22日、いのりは夜になるのを待って早絵へ電話してみる。

「早絵ちゃんと天野くん、どうだったのかなぁ~…」

 心配よりも他人の幸福を期待しつつ、いのりは受話してくれるのを待ったけど、早絵は電話に出てくれなかった。いのりが諦めてコールをやめると、すぐにケータイが鳴った。

「早絵ちゃ…、……カナちゃん……」

 着信はカナタからだった。

「………………………」

 いのりは着信音を聞きながら、受話せず、ケータイを気持ち悪そうにテーブルへ置いた。かなり長い間、コールが鳴った後、ケータイは静かになったけれど、家電話が鳴り始める。

「………………」

 一階で母親が応対している気配がして、呼ばれる。

「いのりィ~! カナタちゃんからよぉ!」

「……」

 いのりは階段を降りると、受話器を受け取った。

「もしもし、…私です…」

 いのりは母親に心配をかけたくないので最低限の返事をしながら、受話器をもって二階へ戻る。

「ハーイ♪ いのっち」

「……家電話には、かけてこないで」

「だって……ケータイ出てくれないもん」

「………もう、かけてこないで。切るから」

「待ってよ! ねぇ!」

「さよなら」

 いのりは電話を切って深いタメ息をついた。

「………ほたるさん……私、どうしたらいいの?」

 星空に問いかけても、遠くウイーンにいる先輩は答えてくれなかった。

 

 

 

 翌日の夜、いのりは出席しなかった早絵と天野のことが心配で何度もコールしていた。ようやく早絵が受話してくれた。

「早絵ちゃん、今日、どうして休んだの? 大丈夫?」

「あ……いのちゃん……、うん……平気」

 なんだか、寝ぼけた声だった。

「どうしたの? 具合悪いの? 寝てた?」

「ううん、具合悪くない、具合いいよ。寝てたけど」

「そう、…ごめん…、……あ、天野君も学校、休んでたけど……どう、だったの?」

「うん、うまくイったよ。今も二人で寝てた」

「………そう……」

 いのりは押し潰されそうなほど重い疲労感を覚えてフローリングに倒れ込んだ。

「天野くん、すごいクスリもっててね。超気持ちいいの。ヤバイよ、あれ」

「……ごめん、……そーゆー話……苦手……聞きたくないから……さよなら」

 いのりは電話を切った。

「……………………私も……イッシューと……いつか、……するのかな……」

 嫌悪感と好奇心、何より一蹴への想いを胸に抱えて、いのりがフローリングを転がると、髪の毛が身体にまきついて、蓑虫のようになった。残暑で浮いた汗が身体に張りついて暑苦しい。

「……イッシューのために……伸ばしてるんだよ……」

 つぶやいたとき、メールの着信音が鳴った。

「イッシュー!」

 メロディーで恋人だとわかり、いのりは超絶技巧的なスピードでメールを開いた。

(ここんとこ、元気ないみたいだけど、もしかして中谷のこと、怒ってる? だとしたら、ごめん。オレが無神経だった。ごめん)

「イッシューぅ~…」

 いのりは目を潤ませ、ケータイを抱いた。

「もういいよ。もう、いいの」

 とても幸せな気分で、いのりは返信を打ち込み始めた。その返信文を送信しようとしたとき、カナタから着信が入り、うっかり受話してしまった。

「っ……」

「いのっち! 出てくれた♪」

「……………………」

 いのりは返信文のデータが消えてしまったことで、思わず立ち上がろうとして、自分の髪の毛がまとわりつき、無様に転倒した。

「痛っ!!」

「大丈夫? いのっち?」

「くぅぅ……」

 いのりは頭皮と転んで打撲した肘の痛みに耐えつつ、カナタの声に耐えられなくなり、呪い殺しそうな声で怒鳴った。

「もうかけてこないで!!」

「っ……」

「二度と! 私に話かけないで!! 死んで! 私の中から死んで!! 消えてよ! もう存在しないで! 消えてなくなって!」

 いのりは怒鳴って息が乱れ、その息が整い、顔と身体にまとわりついた髪の毛を払ってから、カナタが泣いているのに気づいて、少しだけ後悔した。

「………」

「…ひっ……ひぅ……ぅ…」

「…………」

 恐ろしく、ひどいことを言ってしまったと自分でも反省する。

「…………ごめん、…カナちゃん…」

「いのっち……」

「言い過ぎた……でも、……もう、かけてこないで…」

「っ…ぅぅ………いのっち…」

「………。せめて……しばらく……かけてこないで」

「……しばらく…って、……どのくらい?」

「………しばらく…」

「…………、……リナのこと………話してないよ………まだ…」

「っ………」

 いのりは胃が痛むのを覚えた。泣き落としがダメなら、今度は脅迫される、まだ話してないということは、いつか、話すかもしれないということ。ほのめかされた脅しに、いのりは唇を噛んで妥協案を提示する。

「お願い、しばらく、かけてこないで………でないと…、私、……何をするか、わからない……、お願い、しばらく、かけてこないで。しばらくだけ……時間をちょうだい、カナちゃん」

「……うん……」

 カナタが電話を切った。

 

 

 

 翌日の9月24日、智也は授業が終わると鷹乃と下校するけれど、シカ電に乗っていた二人は藍ヶ丘駅で鷹乃だけが降りて、別れる。

「アルバイト、頑張ってね」

「ああ」

 ホームに降りた鷹乃の髪を車内から手を伸ばして撫でると、甘く熟れた葡萄のような汗の匂いがする。鷹乃は少し恥ずかしそうに身じろぎしたけれど、逃げずに智也を見つめあげて微笑む。

「今夜は智也の好きなカラアゲにするわ。何時くらいに帰ってこれそう?」

「どうかな。わからない。遅くならないようにする。鷹乃の料理は天下一品だからな」

「あいかわらず、口がうまいのね」

「鷹乃もキスがうまくなった♪」

 シカ電が発車する前に、智也と鷹乃は車内とホームからキスをして、ドアが閉まる寸前まで唇を絡め合った。車掌が迷惑そうに警笛を鳴らし、ドアを閉める。シカ電が動き始めると智也は何事もなかったように空いている席に座る。まわりの乗客も高校生カップルの余熱を受け流して、何事もなかったように咎める視線さえ送らない。

「さてと♪」

 智也は一人になると、内ポケットの重みを再確認してみる。

「……………………オレも、あこぎだな…」

 カナタから五万円、天野と中谷、山王から十五万円ずつで合計50万円もの現金が入っている内ポケットは厚かった。そして、カバンから競馬新聞を出すと赤鉛筆を握る。そのまま考え込んでいると、ふわりと香水の上品な香りが智也を包んだ。

「Bonjour!」

 フランス語で、こんにちは、と声をかけられ、智也は顔を上げて応える。

「グーテン・ターク・フロイライン・クロエ」

 日本人らしい発音でドイツ語を話して、大げさに紳士ぶったポーズで挨拶した。私服姿のクロエは微笑んで本物の淑女らしい板に付いた仕草でスカートの裾をつまみ、挨拶を受けた。

「それはドイツ語ですね。智也先輩はドイツへ行かれたことが?」

「ない。これは、たんにウイーンへ旅立った悪友の影響だ」

「ご悪友ですか……」

「悪友に尊敬の意を添える御を冠する日本語表現はビミョーじゃないか?」

「そうかもしれませんね。では、悪友、お悪い友達とは、どのあたりが、お悪いのですか?」

「うむ。オヤジギャグを言う。つまらないギャグを宝物のようにひけらかしてくれる。そーゆー悪友だ」

「それは、本当に悪友ですね。…お隣に座ってもいいですか?」

「ああ」

 智也が答えると、クロエは上品に、それでいて、ぴったりと智也に身を寄せて座った。それほど混んでいない車内なので、その身体距離は客観的には恋人同士に見えるほど近くなってしまった。

「……。クロエちゃん、その服だと、見事に中学生に見えないな。どこかの大学生みたいだ」

「競馬場は未成年立ち入り禁止と聞いて、気合い入れてきましたから。だから、クロエちゃんはやめてください。智也せんぱ…、智也と、お呼びますね。しばらくの間」

「…あ、ああ」

「智也は、その制服のまま入るつもりですか?」

「ああ、これはな。ネクタイ一本で……」

 智也は借りてきた父親のネクタイをカバンから出した。長く不在している父親のネクタイは流行遅れで、浜咲学園の制服に合わせると、智也の外見年齢を五才は老けさせてくれる。さらに、ポマードで髪の毛をオールバックに撫でつけると、肌の艶だけは少年っぽい違和感あるサラリーマンができあがった。

「あとは万が一にも生活指導に見つからないように、のんに借りた伊達眼鏡をかけて完成だ♪」

「……。智也、ちょっとカッコ悪くなっています。ネクタイも曲がってるし…」

 そう言いながら、クロエが真っ白な両手でネクタイを整えてくれる。クロエから薔薇の香りが漂ってくる。

「はい、これで。あとは髪も…」

 クロエが無惨なオールバックを少しアレンジしてくれるが、智也の目前にキャミソールの胸元や腋が近づき、男性的な衝動を覚えてしまった。

「……、クロエちゃんは…」

「クロエ。ちゃんは無しです」

「………どの馬が勝つと思う?」

 智也は意図的に話題を競馬へもっていくが、クロエは見逃してくれない。

「クロエって呼んでくれないと馬のタテガミみたいにしますよ。智也」

「まいったな……クロエ」

「はい♪」

「どの馬が…」

 智也が話題を続けようとしたとき、シカ電が揺れてクロエがバランスを崩し、見ないようにしていた胸元が智也の顔に押しつけられた。

「ご…ごめんなさい」

「いや……大丈夫」

 わざと、なのか、これは戦略なのか、この子、かなりマセてるよな、っていうかオレのこと好きか、智也は鷹乃の三分の一くらいしかなかった中学生の乳房で冷静になった。見た目は大学生でも触ってみると、胸はパットの膨らみが主で、やはり中学二年生レベルだった。

「……」

 中2の頃の彩花より少し上か、けど、今の唯笑に劣るしな、顔立ちが外人混じりで大人っぽいから混乱するけど、中2は中2、たぶん運悪く初恋をオレなんかにしちまったんだろうな、傷つけないように諦めてもらおう、競馬場を見に行った後くらいに告白してくるかもしれないから、そこが正念場だな、智也は受け流す方法を考えることにしたが、クロエの行動力は想定外に速く強かった。シカ電を降りて競馬場へ向かう道でクロエは智也の腕に身を寄せて微笑む。

「こうしていれば、女子大生とサラリーマンのカップルに見えますよね?」

「……」

 いや、どちらかというとエンコー誤魔化してる新卒社員と女子高生くらいだ、智也はからめられた腕をさり気なくほどこうとしたが、うまくいかない。駅前のメイン通りをクロエと歩くうち、見知った顔を反対の歩道に見た。

「っ…」

 彩花、あいつ、なんで、こんなところに、また文化祭の買い物か、三年生のくせに、ま、まあ、大丈夫だろう、この変装ならオレだと気づくはずもない、ノープロブレム・アイアム・サラリーマン、智也は少し汗をかきながら、顔を伏せる。反対の歩道にいた彩花は肌を焼きたくないからか、白い日傘をさしていて視界が悪いので智也に気づいている様子はないけれど、ゆっくりと横断歩道を渡ってきた。

「……」

 来るな、気づくな、向こうへ行け、智也は祈った。

「智也、具合が悪いのですか?」

「っ…、いや、平気だ。ただ、口うるさい女教師がいて、見つかるとヤバイ、早く競馬場へ行こう」

「はい」

 クロエも顔を伏せて足早に進む。彩花がショーウインドウを見ているうちに、その後ろを足早に通り過ぎた。

「ふーっ…セーフ!」

「ドキドキしました♪」

「ああ、肝が冷えた。見つかったら、何を言われるか…」

「あ、でも、まだ競馬場に入っていないのですから、誤魔化せたのではないですか?」

「…、まあ、それは、な…」

 どっちかというと、クロエちゃんが腕にぶらさがってるのが、見つかると最悪にやっかいなんだけどな、智也が額の汗を手で拭おうとすると、クロエがハンカチで拭いてくれる。

「すごい汗、そんなに口うるさい先生なのですか?」

「ああ、オレの私生活にまで、あれこれと口を出してくる小姑みたいな女だ。クロエちゃんを連れてるのを見られたら…」

「クロエって呼んでくれないと、未成年なのバレますよ」

「……、……クロエ」

「はい♪」

 クロエが嬉しそうに、また、腕に抱きついてくる。あまり豊かではない乳房も押しあてられ、汗ばんだ二人の肌が密着した。

「暑いからさ、…あんまり近づきすぎないで…」

「イヤですか?」

 淋しそうな顔をされると、智也は躊躇したけれど、やはり強引に腕を抜いた。

「行こう」

「……、……」

 クロエが立ち止まって悲しそうに下を向いている。

「早く行かないと、レース、見逃すぞ?」

「………、人がいっぱいいるから、はぐれちゃったら、智也、ケータイもってないから………私、中学生なんですよ。競馬場なんかで迷子になったら……」

 ほどかれた手が所在なげに、垂れ下がっている。手を繋いでくれないと、ここから動かない、という気配だった。

「…クロエ…」

 子供なのか、大人なのか、ああ、まったく、智也は諦めて手を取った。

「ほら、行こう」

「はい♪」

「……」

 これは、さっさと諦めてもらわないと傷を深くするなぁ、どうしたものか、智也が思案していると、クロエは追加の戦術を繰り出してくる。

「せっかくですから、今日はカップルのふりをしてくださいね」

「……」

「その方が自然ですし、バレにくいと思いますよ? ね?」

「………」

 ああ、もうダメだ、ここまで攻め込まれると、もう言うしかない。

「……。…あ…あのさ…」

「智也?」

「カップルのふりは、ちょっと…無理かな…」

「……ダメですか?」

「ああ………オレ、…、同じ高校に彼女いるからさ」

「っ…」

 明らかにクロエは動揺した。智也は握っていた手の力を抜いて、離れる。

「………ごめん」

「…ど…、…どうして、智也が謝るんですか?」

 クロエが澄んだ碧海色の瞳を智也に強く向けて抗議してくる。

「謝るなんて変ですよ。そ…それじゃ、まるで、私が智也のこと好きみたいじゃないですか? 私、そんなこと一言もいってませんよ」

「…ああ…そうだな…、オレはバカだから…」

「ええっ! バカです! 自惚れです! だって…私は…、…」

 そこまで言うと、碧海色の瞳から透明な涙が溢れ、頬をつたった。

「…ごめんな……クロエちゃん…」

「だ…、だから、謝るのは変です……わ、私は……泣いてるわけじゃないです……これは! 汗です!」

「……。ああ、……暑いな」

 智也はポケットからハンカチを出して、クロエに渡した。毎朝、鷹乃が入れてくれているハンカチだった。

「今日は、もう馬を見に行くの……やめようか? また次の機会に…」

「行きまずっ…ぅぅっ…今日っ! ぐすっ…行くのっ…」

 子供っぽい涙声で反論され、智也はタメ息を隠した。

「じゃあ、あっちに手洗いがあるから、顔を洗ってくれば?」

「…はいっ…」

 クロエは泣きじゃくりながら競馬場出入口の横にあったトイレに入っていく。智也が待つこと20分、クロエは戻ってきた。

「お待たせしました」

「…あ、…ああ」

 立ち直り早なぁっ…、智也は泣いていたことがわからないほど顔を整えてきたクロエに感心しつつ、さきほどのことは無かったことにして二人で競馬場を楽しむことにする。クロエも気を取り直している様子で、さらに馬の疾走する姿に元気づけられたが、むしろ、智也が時間が経つにつれ、泣きそうになっていた。

「…ぅっぅ…」

「智也先輩……」

「べ…別に平気だ。もともと、この金はアブク銭だったからな…ははっ! はははっ!」

 来たときには五十万円あったが、レースが進む度に残高が減り、かなり淋しくなっている。

「次こそ! 次こそ勝つ!」

「はい、きっと次こそ勝てますよ」

「よーしっ……3番と8番を中心にかためて……9番も……、…ううむ……2番も…」

 競馬新聞を穴が開くほど睨みながら、智也は勝つために、複数の組み合わせを買っていく。クロエは何度か見ているうちに覚えた倍率から考えて、智也の賭け方に無駄が多いような気がしてきたが、余計な口出しはせず、黙って見つめる。

「よし、単勝3も買っておこう」

「……」

 それでは、たとえ的中しても2.4倍………、賭け金をコストとすると、投資としては手を出しすぎではないでしょうか、でも、真剣に考えておられるから邪魔してはいけませんよね、クロエは純粋に馬を見ることを楽しむ。どの馬が勝つか、ではなく、どの馬が美しく走りそうか、を想像して胸を熱くしているうちにレースが始まった。

「おおっ! 行けっ!! 行けっ! ゴーッ!!! 突っ込め!!! メタルアンジェリカっ!! 行けぇっっ!! うおっ! うおっ! うおおおおおっ!! だあああぁあああああぁ!!!!! ……あ…」

 智也が入れ込んだ馬は最後の最後で追いつかれ、負けた。

「っ……………」

「智也先輩っ?!」

 クロエは怒号をあげて応援していた智也がゴールと同時に失神するように倒れたので、駆けよって抱き起こした。

「智也先輩っ! しっかりっ!」

「……神は死んだ……オレも死んだ…………馬も死んだ……」

「………。神は死にましたが、智也先輩も馬たちも生きてますよっ」

「ああ……オレは、もうダメだ………クロエちゃん、……オレの墓は……海の見える丘…」

「泣かないでください、智也先輩」

「う~ぅ……泣いてない……泣いてないぞ……これは汗だ…」

「なら、汗を拭いて」

 クロエが生温かく濡れたハンカチで智也の涙を拭いてくれる。

「…クロエちゃん………やさしいな……君は…」

 賭け事で沸騰し、散財で霧散しつつある智也の理性は、心配してくれる少女に膝枕してもらうことは不適切だと気づけないまでに弱っていた。

「…ああ……あと一万円だ……」

「………もう、おやめになられますか?」

「……………………、どうせ……無かった金なんだ。五十万円もっていって四十九万円つぎこんだ男より、五十万全部すった男の方が、バカかっこよくないか?」

「……。はい、……男らしいと思います」

「ああ……………………最後の勝負だ」

 智也はクロエの膝から頭をあげると、競馬新聞を見つめる。

「こいつと……こいつは除外……………こいつも除外……」

「………」

「………あとは、……くそっ! ……まあ、こんなのわかれば、馬主にならなくても大金持ちだからな。やっぱり、地道に地主にしよう。今日で競馬は卒業だ。クロエ」

「はいっ」

 はじめてクロエと自然に呼んでもらえ、クロエは、いい返事をした。

「5番と、7番なら、どっちが勝つと思う?」

「ぇ……………………私が……決めるんですか?」

「参考にするだけだ。クロエに責任はない」

「………5か……7、……それなら、あの子が……」

 パドックを回っている馬を見比べ、クロエは7番を選んだ。

「なるほど……7-5-2なら、52.6倍。今日の五十万が戻ってきて、夕飯代がつくな。勝ったら、おごらせてくれ」

「はいっ」

 クロエは智也が馬券を買うのについていく。今まで、ずっと馬を見ているだけで馬券の購入はしなかったが、智也が買うのに合わせて、クロエも財布を出した。

「智也先輩と同じチケットを、これでお願いします」

「これ……全部か?」

 智也は三万六千円を受け取り、戸惑った。

「……、3600円くらいにしないか?」

「全部賭けたい気分なんです」

「……………………ちなみに、一ヶ月のお小遣いは、いくら?」

「ぇ? ……とくに決まっていません。必要なとき、父からもらいます」

「そう……じゃあ、いいだろ」

 智也は四万六千円を一つの組み合わせに賭けた。レースが始まり、二人とも声を上げて応援する。さっきまでクロエは馬の駆ける姿に見とれていたけれど、今度は異質の興奮に包まれる。ある特定の馬に勝ってほしいと賭ける気持ちは、ただ馬を見ているだけとは興奮する脳の部分が、まったく違った。

「さあ、行け。行けよ……行け…」

「もっと速くっ! Arretez!」

「行け…行け…行け! 遅れるな! 食いつけ!!」

 智也とクロエだけでなく、本日最後のレースであることも手伝い、競馬場が声援と怒号に満ち溢れる。

「逃げろ! 逃げろっ! そのままっ、いけぇ!!」

「キャーーッ!! Au secours! ダメっ!!」

「バカ野郎っ! 気合い入れろ!!」

「Oh! もっと鞭をっ! 強く!」

「うわっ……お、おおおっ!!」

 智也とクロエが賭けた組み合わせは、勝った。

「……勝った……勝ったよな…」

「Oui! Felicitations!!」

 はい、おめでとうございます、と叫んだクロエが跳びあがって抱きつくと、智也は受けとめて回転する。

「うっしゃーーっ!!」

「Bravo!!」

 クロエが西洋的な祝福のキスを智也の頬へ送ると、大逆転の勝利に興奮しきった智也もキスを返した。喜び合い、しばらく抱き合っていた二人は勝ち馬券を換金すると、かなり緊張した。ずっしりと、52万6千円と、189万3600円の感触が智也の両手に乗った。

「………。ほら、こっち、クロエの分」

「はい」

 クロエも智也ほどではないものの、やや緊張した面持ちで200万円ちかい現金を受け取るとハンドバックに入れる。とても財布には入りきらない厚みなので、裸でハンドバックの奥へ押し込むと、ハンドバックを持っている右手を智也の腕にからめた。

「日本は治安がいいはず……ですよね」

「ああ……まあ、な」

 ぴったりと寄り添ってくるクロエを今回は智也も腕を組むのを避けようとはせず、自分の勝ち金を左ポケットへ押し込むと、クロエと現金を守るように立つ。

「クロエ、銀行のカードもってるなら、あそこのATMで通帳に入れるか?」

「………。………」

 クロエは迷い、考え込み、そして首を横に振った。

「このまま持っていては、ダメでしょうか?」

「ダメってことはないさ。クロエの金なんだから。ただ、危ないぞ? 現金のままがいい理由でもあるのか?」

「はい……だって、父に知られずに使えるお金がほしいのです。お小遣いでも、洋服代でも、基本的に父へ筒抜けですから……」

「嘉神川社長、けっこう口うるさい?」

「何も言いませんが、知られているだけでも、プレッシャーじゃないですか?」

「……うむ、わかる。その気持ちは、わかるぞ」

 つい、先月まで彩花に家計を管理されていた智也は深く頷いて、クロエに賛同した。

「やっぱ、自分の判断で自由に使える金がほしいよな」

「はい」

 二人は大勝利の余韻に浸りながら、競馬場を出ると、クロエがタクシーを拾い、市街地にある一流ホテルの最上階レストランへ向かった。智也にとって初めて入る高級ホテルだったが、ポケットには多額の現金があるので平然とした態度をよそおい、クロエをエスコートしてみせる。クロエにとっては、ときたま仕事の区切りがついた父が連れてきてくれるレベルのレストランなので、ごく自然にエスコートされるけれど、智也が入口で足を止めた。

「あ……りかりん」

 見知った顔を見つけた智也が、思わず呼びかけた果凛は高級レストランにいるべくしているような華やかな装いで、吉祥寺隼人にエスコートされていた。

「はい?」

 果凛は智也と目を合わせ、それから連れているクロエを見て、お嬢さまらしい記憶力を発揮した。

「あら、嘉神川食品のクロエお嬢さん。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」

「は、…はい…」

 クロエは、まだ未熟なお嬢さま能力をふりしぼって、父親の会社にとって重要な取引相手である会社をいくつも所有している大富豪の令嬢を思い出すことに成功した。

「か…果凛様も、ごきげんうるわしく…」

「わたくしの誕生日に、おうどんを贈ってくださいましたね。両親と美味しくいただきましたわ」

「ぇ…はい…いえ、こちらこそ…」

 お父さんたら商売品なんか贈って、恥ずかしいことしないでよ、クロエは赤面しながら同じ七月生まれの果凛と交遊は一つもないのに仕事上のアピールを狙って、幸蔵が毎年、果凛へ誕生日プレゼントを娘と連名で贈っていることを思い出しながら、自分が何をもらったか記憶をたぐるけれど、出てこない。もちろん、幸蔵が礼状を送っているはずだが、クロエとしても出会った以上、感想と礼を言うべきなのに、思い出せなかった。

「ふふ♪」

 その様子を見て果凛は、やわらかな微笑みを浮かべて、クロエの未熟さを許容して受けとめながらも、自分も必死に記憶を検索する。クロエより先に声をかけてきた同伴者が、誰なのか、わからずに焦っているが、焦っている様子は一つも表情に浮かべない。上流の社交として、呼びかけてくれた相手を思い出せないのは友好関係にとって失点になる、果凛はクロエが紹介してくれることを期待して、まず隼人を紹介する。

「こちらは吉祥寺隼人さん、わたくしの…」

「婚約者さ♪」

 隼人が優雅に微笑み、白い歯を輝かせた。

「隼人さん、それは悪ふざけです。他に婚約者がおられるのに、そんなことをいっていては、あいなさんが泣きますよ」

「親が決めた許嫁さ」

「困った隼人さん……」

 それにしても、うーん、誰だっけ、どこかで見た顔なんだけど、だいたいさ、私のこと、りかりんって呼ぶ人間は、この世に、そんなにいないはずなんだけど、果凛が困っているのにクロエは気づかない。最初に声をかけた智也は、むしろクロエの背後へまわって果凛と距離をとっている。

「……」

 お嬢さまモード中だったか、思わず声かけたのは失敗だったな、知らないフリしよう、っていうか、クロエ連れてるのバレたら、いろいろ面倒だしな、うかつだったぜ、智也は伊達眼鏡を彼らしくない神経質な仕草でなおしつつ、今さら他人のフリを決め込む。

「ところで、そちらの彼は、どなたかな? さっき、ずいぶん果凛ちゃんに親しげな声をかけてくれたけど?」

 優雅ながら、少し敵愾心のスパイスが入った隼人の問いに、果凛も智也も答えない。代わりにクロエが平然と優雅に言い放った。

「ご紹介が遅れました。私の恋人、三上智也さんです」

「はあっ?!」

 果凛が場違いで身分違いな素っ頓狂な声をあげてしまうほど驚き、そして気づいた。

「み、三上くんっ?!」

「まあ……な。けど、恋人じゃないぞ。コラ」

 智也はクロエの頭を軽く叩いた。

「ぅ~…今日一日は恋人の約束ですよぉ」

「正確には競馬場にいる間だけ、恋人のフリをする取り決め、だ。りかりんに紹介の必要はないみたいだけど、オレとクロエの関係は家庭教師と生徒、そーゆー関係だ。いいな?」

「家庭教師っ?! 三上くんがっ?! ぁ…」

 うっかり動揺のあまりお嬢さまモードを忘れていたことに、やっと気づいて智也に対する友人モードを仕舞い込む。

「そうでしたか、三上くんなら、きっといい家庭教師になれますわね」

「うむ、今日は競馬場に社会見学だった」

「……。……」

 果凛が何か言いたそうにして、それを押さえ込んで閉口している様子を見て、隼人が笑った。

「ははっ♪ 果凛ちゃんが高校で、どんな風か、少しわかった気がするよ」

「……、意地悪なお兄様」

 果凛が拗ねると、隼人は笑うのをやめて智也に提案する。

「せっかく運命的なまでに偶然、出会えたんだ。四人で食事をさせてもらえないかな。もちろん、ボクがごちそうするからさ」

「オレとしては、普段なら願ってもないことだから、お誘いにのりたいんだけど、勘定は吉祥寺さんとオレでワリカンにしませんか。競馬に勝たせてくれた幸運の女神に、ごちそうするって約束で連れてきたんだ」

「なるほどね。じゃあ、どっちの女神の幸運が強いか、コインの裏表で賭けよう。君が勝ったらダッチカウント、ボクが勝ったらボクの提案通り。さて」

 隼人は返答を待たずに豪奢なタキシードのポケットから出した金貨を投げ、手の甲で受けとめて隠した。オーストリアで造幣された1トロイオンス、約31グラムの高純度のウイーン金貨を慣れた仕草で扱っている。

「オレの話を……まあ、いいか。そこまで、言ってもらえるなら賭けに乗ろう。裏で」

「裏だね。……表。ボクの勝ちだ」

 隼人が見せてくれたウイーン金貨は、どっちが裏なのか、表なのか、智也にはわからなかった。そもそも、百円玉でさえ、絵柄のある方か、数字の方か、どちらが表か、正確には知らない。けれども、智也は受け入れることにした。

「素直に、ごちそうになろうか、クロエ」

「…はい…」

 クロエが少し複雑な表情をしていると、隼人がイタズラ心を起こして追加攻撃する。

「ボクの女神の方が、幸運は強かったみたいだね」

「いいや、どっちの女神も御利益はあったさ。吉祥寺さんには栄誉の運、オレには金運、強弱は関係ない。二柱とも最高の女神だ。な、クロエ、りかりん」

「はいっ」

「都合のいい考え方をさせたら、三上くんに勝てる人はいないわ」

「はははっ♪ 面白い男だね、君は。果凛ちゃんのご学友はユニークな人が多いみたいだ。カナタさんといい、君といい。実に面白いよ」

「カナタと三上くんだけですわ」

 そう言いつつも、正午や葉夜も普通でないことを思い出したが、表情には出さず、隼人が予約していた個室に四人で入ると、優秀なウエイターは話の流れを察知して四人分の席を用意してくれていた。四人がけのテーブルに、クロエと果凛が夜景の美しい窓側へエスコートされ、その隣にそれぞれの同伴者が座る。いつも果凛を食事に誘っても対面して座ることが多いので、隣席できることを隼人が悦ぶと、クロエは場の空気に乗って、智也の腕に寄り添った。

「……」

 静かに智也を見つめ、女性らしく待っているけれど、果凛が咳払いした。

「お肉と、お魚、どちらにします?」

「オレはラーメン」

「……。ここ、フランス料理のレストラン」

「フランス風ラーメン♪」

 智也がふざけながら、クロエが作ろうとした空気を避ける。そこへ、ウエイターが食前酒を持ってきたが、果凛は遠慮する。

「まだ、未成年ですから」

「りかりん硬いなぁ。いいじゃないか、少しくらい」

「そうだね。少しくらい慣れておいた方がいいよ。果凛ちゃん」

「お兄様まで……、……。クロエさん、何とか言ってあげてくださいな」

「私は……智也先輩がいただくなら……、いただきます」

「ぇ~っと……、クロエさん、おいくつでした?」

「中学の夏、花火見物の後、みんなで呑んだよな。りかりん笑い上戸で大爆笑してたな」

「ぅ、あれは武者が…、…三上くん、レディーの過去を暴露するのは、やめてくださいな。失礼でしてよ」

 果凛は怒った顔をつくって笑っている智也と隼人から顔をそむけ、夜景の方を見ながら食前酒を一息に飲み干した。

「クロエさん、気をつけなさい。女性を酔わせて乱暴した前科者が、となりにいらっしゃいますから」

「ぐっ…りかりん…お前…」

「ふふン♪ 言われたくない過去を知ってるのは、お互い様ですわ」

 果凛は智也を睨みながら、これ以上は何も言わないで、と釘を刺して話題を変える。

「コースはお兄様にお任せしていいかしら?」

「みなさんに異議がなければ、これを」

 隼人がフルコースを選び、注文する。その注文が終わった後、クロエがシェフを呼ぶように頼んだ。呼ばれたシェフはフランス人でクロエの顔を覚えている様子だった。クロエは流暢で早口なフランス語でシェフと食材について話し込む。智也には一切理解できないが、隼人と果凛は半分ほど聞き取ることができた。話の内容は、ニンジンやピーマン、その他かなり複数の食材を自分の皿には入れないでほしいという注文で、シェフは苦笑しながら厨房へ戻っていった。

「クロエ、何を話していたんだ?」

「あのシェフはストラスブールの出身なので、つい懐かしくて」

「ふーん…」

 智也はウソを見抜かなかったが、果凛と隼人は気づかなかったフリをするのに苦労して、微笑みそうになる口元を白ワインのグラスで隠した。食事が進み、交流を深めた四人がレストランを出たところで、クロエが立ち止まり、顔を伏せた。

「どうした? クロエ、大丈夫か?」

「調子に乗って三上くんがワインまで呑ませるからよ。気分が悪いのね。少し休めば…」

 果凛が気づかって支えようとしたけれど、クロエは智也に寄り添った。

「ちょっと、目がまわって……」

「悪い。ワインは中学生にはきつかったな。ビールまでにするべきだった」

「そーゆー問題じゃないでしょ!」

 怒っている果凛の肩に触れて、隼人がルームキーを智也へ見せる。

「少し部屋で休ませてあげるといいよ。果凛ちゃんを夕食に誘う礼儀上、すぐ下の階に部屋を取ってあるからさ」

「お兄様……」

「もちろん、今夜も口説き落とせなかったから役に立たなかったわけだが、クロエさんの酔い醒ましに使ってもらえたら、まったく無駄ということでもなくなるからね」

「……、どうする? クロエ、少し休んだ方がいいか?」

「はい、ご好意、ありがとうございます」

 思ったより、しっかりとした口調でクロエは隼人に礼を言った。その様子で果凛には女子中学生が背伸びをして何を狙っているか、よくわかった。中学で花火見物に行ったときのカナタも何かを狙っていたし、うまく仲間とはぐれて正午と二人になって目的をとげていた。今のクロエから同じ匂いを嗅ぎとった果凛は視線だけで伝えられる限りのことを智也に送り込む。

「………」

 わかってるよね、この子、三上くんのこと好きになって血迷ってるのよ、おかしなことにならないように、傷つけないように、ちゃんと家に送り届けてあげるのよ、まさか、寿々奈さんのこと忘れかけてるわけじゃないよね、わかってるよね、わかってるよね、三上くん、ちゃんと傷つけないように距離をとるのよ、桧月さんや今坂さんのアタックをかわしたみたいに、それとなく、やんわりと断るのよ、わかった?! 果凛の瞳が隼人の前歯より輝いてみえた。

「……」

 わーってる、大丈夫、何も間違いはおこさない、鷹乃への愛に誓って何もしないし、そもそも中学生だぞ、何かあるわけないだろ、智也はアイコンタクトを返し、タメ息を隠してクロエを支えてエレベーターへ向かう。隼人は祝福するかのような笑顔を送りつつ、果凛と駐車場へ降りるエレベーターへ乗ろうとしたが、いさかか強烈に自動扉で鼻を打った。

「ぅっ…」

「お兄様、余計なことをするからです」

 打撲を気づかうことなく怒っている果凛の声は、自動ドアが閉まると聞こえなくなった。智也は揺すらないようにクロエを客室階へ向かうエレベーターに乗せてやり、ルームキーの頭番号にある階へと降りる。その階はレストランのすぐ下でエレベーターを出ると、ポーターが立っていた。

「こちらの階はスイートルームご宿泊のお客様専用となっております」

「ああ……なるほど、……あの人たちの階級なら、そうだろうな。……この鍵でいい?」

 智也がルームキーを見せると、ポーターは二人を部屋へと案内してくれる。通された部屋は80平米もあるスイートルームだった。

「………、クロエ、横になって休むか?」

「はい」

 きらびやかな部屋だったが、クロエは大きく感動した様子もなく、ゆっくりとベッドに横たわった。

「ごめんなさい……急に私が……」

「いいから、ゆっくり休めよ」

 智也が離れようとすると、クロエは手を握って止めた。

「すいません……少し苦しいので……スカートをゆるめてもらえますか?」

「……。食い過ぎか?」

「………お願いします…」

「……」

 智也は茶化そうとしたが、クロエに負けてスカートのフックを外してファスナーをおろし、言われるままにブラジャーもゆるめたが、今度は手をつかまれないように離れて、ソファに座った。

「……………………」

「………………」

 抱かれたい女と、美味しいバイト先のお嬢さんと無難な人間関係を続けたい男子高校生の間に、重い沈黙が漂う。

「…………………………」

「……………………」

「…………………………、今、何時なんだ……時計は…」

 智也が備えつけの立派な柱時計を見て、驚いた。

「もう11時かよ?! りかりんたちと話し込んでたんだなぁ……鷹乃に連絡しとこう」

 あえて鷹乃の名前を口にして、智也は電話機をあげ、自宅へコールする。

「タカノって彼女さんですか?」

「ああ…」

「連絡って…智也先輩の家にいるの?」

「まあな…、ちょっと電話してるから…」

 黙っててくれ、と言おうとして智也は受話器をおろした。まずは、目の前の女子中学生を傷つけないように、はっきりと告げておくことにする。

「オレの彼女、寿々奈鷹乃っていうんだけどさ。……夏休みくらいから、同居してる感じなんだ。卒業したら……まあ……結婚しようとか、思ってたりも、する……かも、しれない。まだ、決まったわけじゃないけど、……まあ、…たぶん、する。……そんな感じなんだ」

「……………………そう…ですか…」

 思ったよりクロエは穏やかな反応をして、ベッドに顔を伏せた。泣いている様子もない、これなら電話しても大丈夫だろうと、智也は再びコールする。今度は、すぐに鷹乃が受話してくれた。

「もしもし……み…三上です」

 三上姓を名乗るのに戸惑っている鷹乃の声に、智也は少し笑って答える。

「オレも三上だ」

「智也。……遅いのね。電話してくるってことは、まだかかるの?」

「悪い。もう少し、遅くなる。っ?!」

 智也の背中へクロエがのしかかるように抱きついてきた。

「どうしたの?」

「い…いや、なんでも…」

 智也はクロエへ抗議の視線を送ったけれど、無視され、クロエは抱きついたまま受話器に耳をあててくる。二人の会話を聞き取ろうとするクロエを引き離そうとすれば、気配で鷹乃が感知してしまうと考え、智也は諦めて話を続ける。

「仕事が片付かなくてさ。まだ、かかるんだ」

「そう……、夕食は? まだ、かかるなら会社へ持っていってあげましょうか?」

「い、いや、いい! 会社で弁当もらったから。悪いな、せっかく作ってくれたのに……あ、明日の弁当にでもつめてくれよ」

「明日のお弁当の分も、いっしょに揚げたわ。今日ね、胸肉が100gで198円だったのよ。たくさん買って冷凍しておいたから、また、カラアゲにしてあげるわね」

「お、おお、それは嬉しいぞ」

「そう。でも、夕食は仕方ないわね。私が二人分、食べてしまうわよ。それとも、お夜食に残しておいた方がいい?」

「悪い。食べてくれ。まだまだ仕事が残ってるんだ。ぜんぜん帰れそうにない」

 智也と鷹乃の会話を聞きながらクロエは古い記憶を刺激されていた。ずっと昔、まだ物心つくか、つかないかの古い記憶が蘇ってくる。仕事と言って遅くなる父、それを素直に待ち続ける母、そして積もり積もって迎えた破局の日、母は何も言わず、テーブルいっぱいの料理だけを残して、私を捨てた。

「…ふふ…」

「っ…」

「誰か、そこにいるの?」

「あ、ああ、みんな残業で残ってるんだ。疲れすぎて変な笑い声まであげてる人とかもいてさ。マジ大変なんだ」

 巧みにウソをつきながらも動揺する智也に抱きついているクロエは腕の力を強めた。

「…ふふ…」

 母は私を捨てた、飼い猫を捨てるみたいに、ありったけのペットフードを皿に出して旅立つみたいに、あの人は、私が全部を食べきれると思ったの、それとも何日もかけて食べて腐らせてお腹を壊すと思わなかったの、それともあれで子育て終了、最後の晩餐ってわけなの…ふふ…おかげでピーマンも、ニンジンも、嫌いになった、みんなみんな嫌いになった。

「…ふふ…」

 父も私と母を捨てた。今でも仕事ばっかり、それとも私にも仕事と言いながら、あの秘書とホテルにいるのかしら、お金だけくれて時間と愛はくれない、最低の父親、ふふ…ふふ…ふふふ…クロエは冷笑しながら、お腹の底が疼くのを感じた。下腹部が熱く疼いて、まるで空腹を訴える胃みたいに淋しく泣いてくる。股間が熱くなって、月経でもないのに奥からぬめって濡れてくるのを知覚した。異常な興奮だった。

「…そっか…」

 今、私は、あの女の位置にいる、そうよ、あの秘書の、私の家を壊した、あの女と同じ位置にいる、すごい、すごいよ、どうして、こんなに身体が熱いの、どうして、こんなに楽しいの、壊したい、絶対壊したい、この二人をバラバラに壊してあげたい。

「……」

 クロエは手を伸ばして勝手に電話を切った。

「ぉ? おいっ!」

「………」

 クロエは抗議する智也を無視して立ち上がると、服を脱いだ。

「おっ、おいっ?! 脱ぐな!」

「シャワーを浴びれば、気分も回復するかと思うのですが……ダメですか?」

「ああ、そーゆーことか……それでも、ここで脱ぐなよ!」

「……、どの道、あのシャワールームでは同じことではないですか」

 クロエが指したスイートルームのバスは全面ガラス張りで視線を遮るものがない。智也はクロエの裸体を見ないように、ソファへ座り直した。

「少し待っていてくださいね」

「……ああ…」

 クロエがシャワーを浴び始めると、智也は黙って帰ろうかと思ったけれど、テーブルに置かれたハンドバックには多額の現金が入っている。おまけにクロエは精神的に不安定な様子で、放って帰ることはできなかった。

「……。今のうちに、もう一度」

 智也は三上家に電話をかけ、鷹乃と話す。

「ごめんな。急に切って。社長に呼ばれたんだ」

「忙しいのね」

「ああ、ごめん。とにかく、そーゆーわけだから、悪いけど一人で先に寝てくれ。本気で遅くなりそうだ」

「そう。頑張ってくれるのもいいけれど、身体には気をつけてね」

「ありがと。じゃ」

 手短に智也はフォローの電話を終え、クロエがシャワーを浴びたら何と言って帰宅する気にさせるか、考えるけれど名案が浮かばない。そのうちにクロエは戻ってきたし、智也の想定内ではあったが、全裸で濡れたまま近づいてくる。

「………」

「…………」

 クロエは髪も身体も濡れたまま、まるで長い時間、雨にでも打たれていたような雰囲気で、いつも優雅に拡がっている髪も垂れ下がり、弱々しく立っている。まるで優しくしてくれないと、このまま私、死んじゃいますよ、という風情で智也は、ますます困った。

「……バスタオルくらい使えよ。高そうな絨毯が濡れてる」

「………うん…」

 うつろな瞳でクロエはシーツを持ちあげると、身体に巻いた。

「………………」

「……月のキレイな夜ね」

 クロエは窓際に座り込むと、そのまま夜空を見上げた。

「……………………」

「……………………。そろそろ気分も回復したか?」

「アルテミス……」

「……、ギリシャ神話の女神だっけか…」

 オレの質問には答えてくれないんだな、この年齢の女子って子供なんだか、大人なんだか、彩花と唯笑以上に扱いにくい子だ、智也はタメ息をつかないように立ち上がり、コーヒーを淹れる。

「たしか、月の守護神で弓の名手だったな。絶対に外さない矢を射るって話」

「………アルテミスは自分の裸を見た男アクタイオンを鹿に変え、犬をけしかけて八つ裂きにさせたのよ。残酷な月の神さま……」

「………」

 オレには、すでに月のかぐや姫がいるから、そーゆー怖い女神様とはお近づきになりたくないぞ、智也はコーヒーをクロエの前に置いた。

「酔いが醒めるから」

「………ありがとう」

 クロエはコーヒーを一口だけ飲むと、また夜空を見上げる。

「………………………………」

「………」

 帰りたいなぁ、君を傷つけずに帰りたいよ、智也はソファへ戻って静かにコーヒーを啜る。

「……………………」

「………………」

 長い沈黙の後に、クロエは立ち上がると智也へ近づき、見つめてくる。

「キス……して、いいですか? ……お願い」

「……………………」

 口に出して否定することも、茶化すこともできず、智也は近づいてくるクロエの唇を避けて、優しく抱きとめて諭す。

「今の自分の気持ちを、あまり本気にしない方がいい」

「……………………」

「うかつだよ」

 抱きしめるというほどには近づかず、優しく頭を撫でて微笑む。

「さ、帰ろう」

「……イヤ……」

「………」

「……………………」

 クロエは帰宅しないことを身体で示すようにベッドへ横になると、身体に巻きつけていたシーツを半分ほどゆるめた。すらりとしたクロエの脚線美が智也の性欲を意外なほど刺激してきた。

「………」

 くっ、落ちつけよ、オレ、たかが中学二年生じゃないか、一昨年までランドセルだぞ、だいたい胸なんかブラジャーなくても大丈夫くらいなんだぞ、いくら脚が女神なみにキレイでノーパンだからって興奮するな、智也は情欲を押し殺そうとしたが、不覚にも男根に血が巡るのを感じた。

「………たはーっ……」

 高まる緊張を解きほぐそうと、力の抜けるタメ息をついたけれど、クロエは場の空気を涙一粒で重くしてくる。

「……好きです…、……会ったときから……ずっと……」

「……………………」

「………もっと早く出会えたら…よかったのに…」

「………………もしも、次に生まれ変わることがあったら…」

「今夜だけ、私の恋人になってほしい」

「……………………。それは、君も傷つけることになるから……」

「……………」

 クロエが黙って身じろぎした。その動作でシーツがめくれあがり、脚の付け根が見えそうになる。智也は視線をクロエの顔へ固定して宣言する。

「オレは鷹乃が好きなんだ。ごめん」

「……………………」

「ごめん」

「……………」

 クロエが諦めた顔をして、泣き出しそうになり、不意にテーブルへ置いたハンドバックを凝視して考え込む。

「…………百万円」

 クロエは起きあがってハンドバックから札束を取り出すと、智也に向けた。

「私を抱いてくれたら、百万円、あげます」

「な………………」

「あげます」

 親から愛の代わりに金銭と贅沢な暮らしを与えてもらった少女は、男との愛をえるのにも金銭を通用させようとしてきた。

「れ……冷静に…なれよ」

「じゃあ、全部」

 クロエはハンドバックに残っている全額を握ると、智也に押しつける。

「あげます。だから抱いて」

「………お…落ちつけって……冷静に…」

 動揺しているのは智也だった。およそ二百万円、自分の勝ち金と合わせれば、242万円になる。

「…だ……だってよ……」

 一千万円の四分の一だぞ、毎月5万円貯金したって4年はかかる、それを一晩でくれるってマジかよ、マジですか、ちょっと落ちつけよ、智也は生唾を飲んで額に汗を浮かべた。胸に押しつけられた札束の量と質感は金銭欲旺盛な男子高校生から冷静さを奪うのに十分な破壊力をもっていた。

「あげます」

 動揺した智也と対称的に冷静なクロエは受け取らない智也の胸元で札束から手を離した。バラバラと一万円札が舞い散り、智也の足元に降り積もる。クロエは智也から離れるとスイートルームの構造に慣れた動きでミニバーからウイスキーの小瓶を取りだし、ワイングラスへ注いだ。

「……………」

 クロエは一息に飲み干すと、もう一本を開けて干したばかりのワイングラスへ注ぎ、今度は智也に飲ませる。有無を言わせぬ女神のような逆らいがたさで、智也の唇にワイングラスを押しあて、金銭に酔いかけている智也を酩酊させる。

「…ふふ…」

 クロエは細く嗤うと、智也に唇を重ね、ベッドへ押し倒した。智也は抵抗せずクロエは騎乗位で処女を卒業した。



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11話

 

 翌日の9月25日、智也は昼前になって二日酔いの頭痛で目を覚ました。

「ぅぅ……」

 ワインとウイスキーの酒精が男子高校生を苦しめているのに、クロエは起きてシャワーを浴びている。とくに二日酔いしている様子はない。

「……ヨーロッパ人の遺伝子は酒に強いっての……本当か……頭痛てぇ……、もう、こんな時間か………」

 すでに11時近い、智也は痛い頭を揺らさないように身体を起こすと、足元に散らばった一万円札を見下ろして昨夜のことを思い出した。

「……………………たはーっ………」

 気が重いので、とりあえず、気持ちが軽くなる正午のタメ息をマネしてみる。

「……とりあえず、集めるか…。……スイートルームで札吹雪じゃぁ、頭もおかしくなるっての……」

 智也は散らかった紙幣を集めてテーブルに置いた。クロエが浴室から揚がってきた。バスローブを着て、髪もバスタオルで巻いている。お金を集め終えた智也と目が合った。

「……おはようございます」

「ああ……おはよう」

「…………………」

「…………、オレもシャワー浴びてくる……そろそろチェックアウトだろ…」

 何を言うべきか思いつかなかったので、智也は浴室に入った。ぬるめのシャワーを頭から浴びて冷静になろうと努める。

「……頭が痛いな……いろんな意味で…」

 それでも次善策を考え、シャワーを終えると服を着てクロエに話しかける。彼女もバスローブを脱いで昨日と同じ服を着ている。

「………今日も暑くなりそうだな」

「そうですね。コーヒーをどうぞ」

「ああ……ありがと」

 クロエの顔に表情は少ない、智也も口数少なく、コーヒーを啜ると、頭痛を覚えた。

「痛っ……、クロエは二日酔い、大丈夫なのか?」

「ええ、平気です。智也は苦しいの?」

「……ああ、ちょっとな。コーヒーが胃にこたえる……悪いけど、水をもらう」

 智也は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してペットボトルごと飲む。

「呑みすぎでしたか?」

「……そうだな……」

 ミニバーのウイスキーは全て空き瓶になっている。途中で記憶が怪しいけれど、クロエが性交しながら何度も口移しで呑ませてきた気がする。もっとも、空き瓶の半分はクロエの喉を通ったはずで、彼女が二日酔いになっている様子が一切ないのは軽い驚異だった。

「…………」

 いっそ、記憶がないなら完全に、しかも二人ともメモリーズオフされていれば、どんなに楽か、智也は過ぎたことを後悔しながら、それでもテーブルの札束を持つと、クロエに返すことにした。

「これは返すよ。やっぱり、君の金だ」

「………。いいえ、智也の、ですよ」

「……………。じゃあ、これは口止め料ってことで、もらってくれ」

「………………………」

 クロエが美しい眉をひそめ、意味がわからない外国語を聞いたというような表情をうかべた。

「夕べのこと、誰にも話さないでくれると、助かる………」

「…………それは私に対する侮辱ですね。私のバージンは、そんなに安くありません」

 クロエは札束を払って、智也が飲んでいたペットボトルの水を勝手に一口飲むと、部屋を出ようとする。

「そろそろチェックアウトの時間ですよ。出ましょう」

「………」

「別に私は夕べのことを父に話したりしませんよ。智也が急に私の家庭教師を辞めたりしなければ、話しません」

「……………」

 辞めたら話す、しかも、どういう風に報告されるか、わからないってことか、あの社長、仕事人間で娘のこと放置してるけど溺愛はしてるからな、オレが彼女いるのにフタマタかけたとか、遊ばれたとか、報告されたら激怒しそうだ、だからって鷹乃のことだってあるし、智也は札束をもったまま考え込む。クロエは時計を見て、まだ少し時間があったので机の引き出しからレターセットを取る。

「吉祥寺さんには私から、お礼状を書いてもかまいませんか?」

「…あ、…ああ」

 気が回っていない智也の返事をえてから、クロエは礼儀にかなった文章を記していく、とても助かりましたと抽象的に書いた手紙を封じると、今度こそ部屋を出る。クロエが廊下に出ても、智也は考え事をしていてついてこない。

「出ないなら、もう一泊しましょうか? 二人で今夜も」

「ぃ…いや! それは…」

「なら、お部屋の代金はともかくルームサービスの精算は智也がしてくれないと困ります。今の私、無一文ですから。……電車代くらいの小銭は…」

 クロエは財布を見て硬貨を数える。

「うん、電車代はあります。この部屋の精算もカードならできますけど、父に筒抜けになりますね。智也、払ってくれますか?」

「も、もちろん!」

 昨夜のことを幸蔵に知られたくない智也は急いで部屋を出ると、カウンターで精算する。やはり部屋代は隼人が支払い済みで、ルームサービスの利用料は二人合わせて15680円だった。おもにウイスキー代が大きかった。智也は一万円札を二枚、ポケットから出した。ポケットは二枚抜いても、ほとんど厚みの変わらない札束で膨らんでいる。ホテルを出ると、クロエに話しかけた。

「………なあ、本当に、こんな大金、オレに………」

「いらないなら、慈善団体にでも寄付されたら、いかがですか? 孤児院とか、捨てられた子供を保護してる施設に」

「……………………」

「さしあたって、父に何と報告するか、考えてください」

「なっ…、…いや…、けど、オレには彼女がいるって…」

「ふふ♪ そうじゃないです。夕べ、連絡もなしに外泊してしまったことを、どうウソをついて父を誤魔化すか、考えてくださいと言っているんです」

「あっ……そ、そーゆーことか……、そっか……」

 智也は額の汗を拭いた。まだまだ残暑が厳しい。クロエは涼しそうに微笑んだ。

「いつか、ちゃんと父に報告してくれる日が来ることは信じていますけど、今はウソで誤魔化しておきましょう。二人のために」

「……………………………。と、とりあえず、社長は昨日も接待が入ってたから帰宅は遅かっただろ。また、呑んでただろうし。だから、夜の時点でクロエがいないことには気づいてないと思う」

「そう思う根拠は?」

「もしも、あの社長が娘さんが夜になっても帰ってないって気づいたなら、いろんなところに連絡をとって探すだろ? その連絡先の一つに、オレの家も該当する。社長が鷹乃と話していたなら、夕べの、あの鷹乃の反応は無かったはずだ」

 オレって薄氷を踏んでないか、その下は地雷って薄氷を、智也は額の汗を拭いた。クロエが昨日と同じハンカチを出してくれる。

「だから、夜には気づいてない。ただ、朝になってクロエと顔を合わさなかったことで心配してるかもしれないし、学校に連絡してたら、対応が難しくなる。まだ、学校に連絡してないなら、まず会社に電話して社長に、今朝は海が見たくなったので朝から散歩していたと言い、その散歩が早朝で肌寒かったから風邪を引いたかもしれないので学校は休んだと話をつくる。もちろん、学校にも同じように風邪っぽいから休む。でも、すぐに治って平気だったってことにすれば、どうだ?」

「なるほど♪ ふふ♪ やっぱり、智也って頭がいいですね」

「まあ…な」

「で、智也は彼女さんに何て報告するんですか? 夕べのこと」

 クロエが微笑みながら見つめてくる。可愛らしい笑顔だったけれど、智也には魔女に見えた。

「………どう報告するかは、クロエには言わない」

「言わないと、言っちゃいますよ?」

「おまっ…」

 待て待て、怒鳴ると泣かれるかもしれない、ここは、もう少しだけ調子に乗らせておこう、なんとか気が済んでもらわないと鷹乃に何を言われるか、わかったもんじゃない、智也は熱くなりそうな頭をふった。

「痛っ…」

 頭痛がした。

「オレは仕事で徹夜した。で、学校に行く気力がないから休んだ。そーゆーことだ。だから、オレもクロエも、そろそろ学校に電話しないと、やばい。わかるよな?」

「はい♪」

「……」

 ストラスブールの魔女め、この子と付き合う男、よっぽど大変だぞ、マジで、智也はあえて他人事としてクロエの未来の伴侶を勝手に心配した。

 

 

 

 午後、鷹乃は一人で登校し、四時間目になっても登校してこなかった智也が学校へ欠席の連絡を入れていたと知ったので、二人分のカラアゲ弁当を食べて、五時間目の授業を受けていたけれど、まさか、自分の身に、これほどの不幸が襲ってくるとは思ってもいなかった。

「おい、この問題。ぼーっとしてる寿々奈、お前やってみろ」

「はい」

 夕べ遅くまで智也を待っていて寝不足だった鷹乃は、もう大学を受験することもないので数学の授業を聞き流していたけれど、当てられて教壇に立つと、問題が解けないことに気づいた。

「…………」

 そんなに難しい問題じゃないはずなのに、すっかり頭から公式が抜けていて、まるで思い出せないわ、たしか、ごく単純な公式をあてはめれば、すぐに因数分解できて解が求められるはずなのに、鷹乃は自分の衰えと夏休みボケに驚きつつ、教師に頭を下げる。

「すいません。公式が思い出せませんので教科書を見ながら、解いてもいいですか?」

「いつまで夏休みボケしてるつもりだ? まあ、いい。早くしなさい」

「はい」

 鷹乃が自分の教科書をもって、再び教壇に立ち、黒板に向かってチョークを持ったときだった。

 ブチッ!

 静かな教室に何かがキレる音がして、板書しようとしていた鷹乃のスカートが床へ落ちた。

「ぇ……?」

 鷹乃は急に涼しくなった下半身を見下ろし、息を飲んだ。フックが壊れ、ファスナーが弾けたスカートは足元に落ちている。他の生徒たちの午後の眠気も一瞬で吹き飛んだ。

「なっ…」

「うおっ…」

「………ノーパン……」

 男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて今週は下着をつけずに登校していたことを思い出して悲鳴をあげる。

「ぃ……イヤーーーッ!!」

 慌てて下半身を隠して逃げようとしたけれど、足元のスカートが引っかかりバランスを崩すと盛大に転倒する。

「きゃっ! …痛っ!」

 鷹乃は転んで頭と腰を打ち、片方の足はスカートから抜けて両足を大きく開いてしまっていた。

「ぅぅっ……」

 激しく打った頭と腰の痛みに呻くけれど、目を開けるとクラスメートの視線が鷹乃の股間に集まっている。

「なっ…」

「うおっ…」

「………パイパン……」

 男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて先週から剃毛していたことを思い出して悲鳴をあげる。

「ぃ……イヤーーーッ!!!」

 慌てて脚を閉じ、立ち上がって逃げようとするけれど、片足に引っかかっていたスカートを反対の足で踏んでしまい、脚をもつれされると前のめりに転倒する。

「きゃっ! …うぐっ!」

 鷹乃は転んで顔と胸を打ち、お尻をあげた状態で呻いた。

「ぅうっ…」

 激しく打った顔と胸が痛いけれど、背後からクラスメートの視線を肛門に感じる。

「なっ…」

「うおっ…」

「………アナル調教中って…」

 男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて一昨日から最後の処女も捧げ、マジックペンでイタズラ書きされたことを思い出して悲鳴をあげる。

「ぃ……イヤーーーッ!!!!!」

 今度こそ鷹乃は立ち上がって悲鳴をあげながら、教室を飛び出した。破れたスカートを拾うことにさえ気が回らず、泣きながら廊下を走って女子トイレへ駆け込もうとしたけれど、運悪く早めに理科の実験が終わった一年生たちが理科室から出てきて鷹乃の前を塞いだ。

「イッシュー! 天野くん! まだナトリウムの片付けが終わってないよぉ~。これって発火するって先生が…」

 いのりは一蹴と天野に追いすがり、二人が鷹乃を見て硬直していることに気づいた。

「イッシュー? どうし……っ?!」

 いのりは下半身裸の同性を見ると、驚きとともに激しい嫌悪感を覚えた。

「へ………ヘンタイっ!!」

「ち……違っ…」

 鷹乃は両手で股間を隠しながら一年生に言い訳しようとして何も言えなくなり、踵を返すと逃げる。もう、どこへ逃げたらいいのか、まともに考えることはできなかった。

「…い……いまの……なんだ……たんだ……? 天野……」

「オレに……聞かれても……、………もしかして……あのクスリの副作用とか…か…」

「なんだよ、あのクスリって?」

「天野くん?! まさか、早絵ちゃんに使ってないよね?!」

 いのりが迫ると、天野も逃げた。

「だ…だって、中谷が使わなかったからってくれたからさ!」

「な……中谷くんまで持って…」

 いのりは、すぐそこにあった危機を感じて戦慄しつつも、天野を追いかけず一蹴に抱きついた。

「もう私、わけがわかんない! こんな学校だったら入学しなかったのに!」

「いのり……落ちついて…」

 一蹴が近頃、精神的に不安定になっている交際相手を慰めていると、全校放送がはじまった。

「とても大切なことを放送します。絶対に聞いて従ってください。これは訓練ではありません」

 放送は葉夜の声だった。

「今から男子は一歩も動かず、その場で目を閉じ黙祷していてください。事情を知っている女子だけ、動いてください。早く保護してあげて。男子は絶対に動かないこと! もし、のんの言うことを聞かない人がいたら、………とても強いお仕置きをします。りかりんちゃんとカナタちゃんに手伝ってもらって、怖い怖いお仕置きをしますから、絶対に動かないこと。いいかな?」

 放送の効果は絶大だった。三年生の花祭果凛と黒須カナタ、それに野乃原葉夜の名前が出て命令されたことに違反する度胸のある同級生はいなかったし、いわんや後輩におよんでは一糸乱れぬ服従ぶりだった。そして、心ある女生徒たちの捜索の結果、鷹乃はプールの女子更衣室の隅、ロッカーとロッカーの間に置かれた大きめの汚物入れの影で小さく丸くなって隠れて泣いているところを発見された。

 

 

 

 夕方、泣き腫らした目をした鷹乃は葉夜と果凛に付き添われて三上家へ帰宅した。果凛のリムジンで送ってもらったけれど、お礼を言う気力もなく合い鍵で三上家へ帰る。

「寿々奈さん、本当に私の家に泊まってもらっても、いいのよ? 遠慮しないでくださいな」

「………」

 かすかに頭を下げた鷹乃は一人で三上家へ入る。

「「……」」

 果凛と葉夜は顔を見合わせ、複雑な空気を吸った。鷹乃が智也に強要されていたなら、かなり強硬な手段で智也を懲らしめようとも考えたけれど、下着をつけていなかったことや剃毛、イタズラ書きが強要ではなく智也の要求に応じて鷹乃が同意して行われたことだとわかると、二人の性的問題なので他人が口を挟むことでないような気もする。まして、果凛も葉夜も処女なので、鷹乃の気持ちは理解しきれているとは言えなかった。

「…寿々奈さん…」

「……」

 鷹乃はドアを閉めると、玄関で靴を脱ぎ、リビングを通る。智也が夕食を作っていた。すいぶんと豪華な夕食で、かなりの材料代がかかっている様子だった。

「おかえり、鷹乃。遅かったな」

 何事もなかったかのような智也の表情を見て、鷹乃は顔を歪めると、また大声で泣き出した。

「うっ、ううっ、うわああああん!!」

「た…鷹乃っ?!」

 もうバレたのか、もう話したのか、あの魔女、智也は自分の悪行を忘れて、泣き叫ぶ鷹乃を抱きしめる。

「鷹乃っ! 鷹乃っ! オレは鷹乃が好きだから! 本当に! 鷹乃だけだからな!」

「うあああっ!! ああああっ!」

「鷹乃っ! 本当にオレ、お前が好きだから! 他のヤツが何を言おうと信じるな! 鷹乃だけだから! 鷹乃さえいてくれれば、いいんだ!! オレを信じろ! お前を好きなオレを信じろ! 本当に誰より愛してる! どんな女より鷹乃が好きだ!!」

「もうっ! もうイヤよ!! 私、お嫁にいけないわ!!」

「いける! いけるって! ここに来いよ! っていうか、今から今すぐオレと結婚してくれ! なっ? ほら!」

 智也は最悪の場合にそなえて用意していた婚姻届を見せる。

「今すぐオレと結婚しよう。女子は16歳、男は18歳で結婚できる。別に卒業まで待たなくていいじゃないか? な、落ちつけよ? 鷹乃」

「っ……、……本当に……、……本当に、今すぐ………こんな私でも……?」

「こんなオレで、よければ、な?」

「………わたし……わたし……今日…ぅ…ぅううあ……うわあああ!」

 泣きやみかけていた鷹乃が再び泣き始めるけれど、そこには嬉し泣きの要素が少し加わっている。智也は婚約者を抱きしめ、背中を撫でながらクロエに見当違いの怒りを向ける。

「………」

 くそっ、こんなに鷹乃を泣かせやがって、あの女、絶対許さん、さんざん玩んだ挙げ句ボロ雑巾のように捨ててやる、智也は復讐を誓った。

 

 

 

 婚姻届を市役所の時間外窓口に出した鷹乃と智也が最初の夫婦性活を終えて眠りにつき、日本では日付が変わる頃、時差のために、まだ9月25日の夕方であるウイーンで、ほたるはヒマそうに全裸でピアノを弾いていた。

「…はぁぁ……ヒマだなぁ……」

 日本を離れて、はや一ヶ月、とてもヒマだった。課題曲は難しくて多い、授業もドイツ語で大変だけど、その分、まるで人間関係が無くなってしまった。まだ、ほたるの誕生日さえ知っている同輩はいない。

「ピアノ弾くしかすることないし……日本語で独り言いうくらいしか……はぁぁ…」

 完全防音の寮生活で個室だと、だんだん服を着なくなる自分に驚きつつも、なに恥じることなく全裸でピアノを練習している。最初の一週間は、ちゃんとシャワーの後にパジャマを着ていたけれど、着ないで寝る同級生が多いことを聞くと、ほたるも着なくなった。すると洗濯物が少なくて一手間省けることにも気づいた。次の二週間でトップレスに、三週間目にはカーテンさえ閉めていれば全裸、一ヶ月経つと窓の向こうは教会の壁なのでカーテンを開けていても平気になった。

 ほたるがピアノを弾く手を休め、一息つこうと立ち上がったとき、ドアがノックされた。完全防音といっても近代的な工事がされているわけではなく、学生寮の建物が何百年前に立てられた重厚な石造りでピアノの音さえ隣室へ通さない、ぶ厚い樫のドアも防音性が高いので、寮内で全員が好き勝手に練習しても差し障りないという状態だったけれど、ノックくらいは聞こえる仕組みだった。

「はーい! Kann ich Ihnen helfen?」

 日本語を混ぜたけれど、それなりの発音で、何かご用ですか、と問いかけると、ドアの向こうから返事が響いてくる。

「どーも! 白河さんのお宅ですか? 宅配便でーす! 判子をお願いします!」

「あ、はいはい。ちょっと待ってください」

 ほたるは場違いな日本語が響いてきたのに自然な反応で判子を探しつつ、まずは全裸のままではドアを開けられないという常識を覚えていたので、ワンピース一枚を頭からかぶって裸体を包む。

「判子、判子と…」

 ほたるは荷物を開けて判子を探す、基本的にオーストリアへ入国してから、すべてサインで済む社会習慣になっているが、慣れ親しんだ印鑑社会の習慣から、とくに疑問も持たずに久しぶりに三文判を取りだした。

「パパが一応もって行け言ってくれてよかった。……あれ? ウイーンなのに、判子…」

「判子がなければ、拇印でもいいっすよぉー♪」

「この声……まさか…」

 ほたるは聞き覚えのある声に引きよせられ、ドアを開け放った。

「正午くんっ?!」

「よぉ♪」

 正午がプレゼントの箱を持って立っていた。

「よぉ、って、ここをどこだと思ってるの?!」

「……………。地球♪」

 やや考えたわりに、くだらない答えだったので、ほたるは肩を落としてタメ息をつく。そうしないと正午に抱きついてしまいそうなほど、嬉しくて涙が滲んでくる。

「もう……急に来るなんて……」

「サプライズの基本だろ?」

「………、……覚えてて……くれたんだ。ほたるの誕生日」

「まあねン♪」

「……」

 ここで先月まで付き合ってたカナタちゃんのマネを平然とやれちゃう正午くんの罪深さってキリストにも救えない気がするよ、ほたるは多くの学生が信仰している宗教の影響をうけて心の中でアーメンと唱えてみた。

「ハッピー・バース・ディ♪ ディア・ほたる」

「……ありがとう。正午くん。入って」

 ほたるは寮の規則で禁止されている異性の連れ込みを何の罪悪感もなく実行した。ドアを閉めると、正午からプレゼントを受け取る。

「開けてもいいの?」

「どうぞ、どうぞ♪」

 ほたるが箱を開けると、中には日本製の女性向け腕時計が入っていた。ほたるも知っているセイコウという一流企業で、ヨーロッパでも高性能なのに安価ということで評価が高い。EU内で買おうとすると、かなりの関税と付加価値税を課せられ、日本で買う何倍にもなる品物だった。

「いいの? こんな高そうなもの……、うれしい♪」

 ほたるは喜びながらも、胸の奥に針で刺されるような痛みを覚えた。恋人に腕時計を送るという行為は、過去の記憶を強く刺激してくる。今も正午の左手首で時を刻んでいるスピードモンスターは、以前は健のものだった。

「あと、これもお土産、というか逆お土産かな」

 正午はコンビニの袋を、ほたるに渡してくれる。中を開けると、日本製の漬け物が入っていた。

「Qちゃん! Qちゃんだ♪」

「恋しいだろ?」

「うん! Qちゃん、Qちゃん♪」

 ほたるは懐かしい味を思い出して喜ぶ。けれど、正午が持ってきたビニール袋がウイーンには存在しないコンビニチェーンだったことに気づいて、さらに気になって正午の持ち物へ目を向けた。

「正午くん、……荷物は?」

「これだけ」

「………日帰りする気なの?」

「いんや、せっかく来たから、何日か、いるつもりだけど?」

「…………着替えは?」

「こっちで買えば、いいかなって。重いしさ。Tシャツくらいなら安いだろ?」

「……………。航空運賃は、どうしたの?」

「母さんに頼んで用意してもらった♪ この小旅行の後は受験勉強に専念するからって拝み倒した」

「………やさしいお母さんなんだね……ほたるのパパくらいに…」

「どうかな? 普通じゃないか?」

「…………。それで正午くんは、お金とパスポートと、ほたるへのプレゼントだけ持って、空港に行ったら、コンビニでQちゃんを見つけて出発前に買い占めてくれたって状況?」

「おおっ♪ よくわかるな!」

「…うん……手に取るようにね…」

 開けっぴろげというか、無鉄砲というか、これだけ気軽にウイーンに来る人って正午くんくらいかもしれない、ほたるは呆れるのと嬉しいのを半分ずつに感じた。

「ほたるの部屋、すごいシックだな。ピアノ習いに来てるより、魔法を習いに来てるみたいじゃん。すげぇカッコいい部屋♪」

 正午は石造りの個室に感心している。壁といい、テーブルといい、歴史的趣きを感じる古風な造りで映画のセットのようだった。

「うん、ほたるもびっくりしたよ。ほら、冬になったら、このオイルヒーターで暖房するんだって。映画みたいだよね」

「へぇぇ…。それで、どうよ? こっちの生活には、慣れた?」

「うん、まあまあ、かな。ちょっとホームシックになりかけてたけど、正午くんが来てくれたから、もう治ったよ♪ うーーんっ、やっぱり日本語で会話するって、いいね。脳が漱がれる気分! この頃、思考まで半分がドイツ語になってきてたから、日本語気持ちいいぃ♪」

 ほたるが伸びをして正午から感じる日本の空気を吸い込むと、正午は彼女がノーブラなことに乳首の凸で気づいた。

「ほたる、ノーブラ?」

「っ…」

 ほたるは開けっぴろげな質問で赤面して胸を隠した。

「だ…だって、正午くんが、いきなり来るから!」

 胸を隠しつつ、もっと大切で恥ずかしい股間の事情も思い出して、ほたるが身じろぎすると、正午は男性的な本能に突き動かされ、ほたるを捕まえるとキスをする。

「はふっ…んっ…いきなり…」

「ほたるが可愛いから♪」

 正午は抱きしめながら、ワンピースの背中を撫でおろし、お尻も撫でると下着をつけていないことに気づいた。

「ノーパン?」

「っ…」

 ほたるが真っ赤になって涙ぐむ。

「だから、正午くんが…いきなり来るから…」

 恥ずかしさのあまり、しなくていい言い訳が唇から零れる。

「ふ…普段から、裸で部屋にいるわけじゃないよ…」

「………。普段から、裸で部屋にいるんだ? 一人暮らしってフリーダムなんだなぁ」

「っ…、しょ、正午くんのバカ正直が伝染してるよぉ……ぅぅ…」

「オレはバカ正直なのか?」

「うん、超バカ」

「………、じゃあ、オレが何を考えてるか、わかる?」

「……………………。……ほたると……エッチなこと……したい……?」

「正解♪」

 ほたるのワンピースへ手を入れて、キスをしながら股間をまさぐる。

「はっ…はうっ…、もう、…い、…いきなりすぎ……一ヶ月ぶりなのに…」

 身体を許した仲とはいっても、先月まで処女だったし、この一ヶ月は性的なことが一切なかったのに、昔なじみのカナタを抱くような遠慮の無さで陰部に触れられると、ほたるは目まいがしそうなほど、恥ずかしかった。下着をつけていれば、省略されなかったプロセスが無くなり、会って五分もしないのに性器へ触れられていることが淫靡すぎて困ってしまう。

「ぁ…ああ…」

 それでも淋しかった身体は本人の羞恥心に比例して強く興奮してくるので、ほたるは身もだえしながらベッドへ倒れる。正午は優しく支えて寝かせてやると、股間への愛撫を続けて、ほたるを濡らせていく。

「ぁ…ハァ…ハぁ…」

「………」

 そろそろ入れてもいいかな、それともクスリを試そうかな、でも、ほたる十分に興奮してるし、最初の一発は実力でいこう、正午は青少年らしい自尊心から、実力のみで性交相手をオルガスムへ達させることにして、ズボンをゆるめ、ほたるへ入る。

「ぁっ! あうんっ!」

「痛い?」

「だ…ハァ…大丈夫っ…んっ!」

 ほたるの可愛らしい鼻にかかった喘ぎ声は正午を興奮させ、ほたるも恥ずかしさより性的興奮と快感に身をまかせていく。正午はシャツを脱ぎ捨て、ほたるのワンピースも脱がせる。

「脱いで」

「うんっ…」

 ほたるは素直に全裸へ戻るけれど、ワンピースを脱ぐために腕をあげて、頭を通したとき、子宮の前まで突いてくれていた正午が萎えて小さくなるのを感じた。

「……」

 あれ、正午くん、先にイっちゃったのかな、でも、射精された感じ無いのに、ほたるが不思議に思って性交相手を見上げる。

「正午くん…?」

「ほたる……腋毛、伸ばしてる?」

「っ…、こ、これはっ!」

 ほたるはあげていた腕をおろして腋を閉じる。

「だ、だって、こっちに来たら、みんな伸ばしてるんだもん! 生えてないと成長まだなのって心配されたりして! 剃ってるって言ったら、こっちの人って音楽会でドレス着るときくらいで、普段から剃ってるのは女優かナルシストくらいだって笑うんだもん!」

 ほたるは涙目で言い募って、ひどい侮辱を受けたような気分に抗議した。

「シャワーも共同で! みんなが剃ってないのに一人だけって変な気がして! だから、だから、仕方なくだよ! だ、だいたい正午くんが、いきなり来るから悪いの! 聞いてたら、ちゃんと準備するもん!」

「そんな泣いて怒るほどじゃ……」

「だって正午くん、おちんちん小さくなって…」

 ほたるは最後まで言い切れずに顔を伏せた。正午も自分の変化に気づいた。

「うお? ……萎えてる……情けねぇ」

「………情けないのは、ほたるだよ…」

「たはっ♪ 思わず、男っぽいとか思ってさ。大丈夫、ほたるは可愛いって」

「…今さら…」

 ほたるは拗ねて顔を背けたけれど、可愛いと言ってくれた言葉がウソでないことを正午が体内で証明してくれ、再び子宮まで突いてくれたので気を取り直した。

「ぅ~……今度から、サプライズしないで予告してよ。すっごい恥ずかしい…」

「見慣れれば、これは、これで悪くないかもよ?」

 そう言って、ほたるの閉じている腋を舐める。

「やんっ、くすぐったい…」

「もう一回、見せて」

「…イヤ…」

「いいじゃん」

「絶対ヤダ」

「こっちは毛が生えてるの、見せてるじゃん」

 正午が陰部を指で撫でた。

「そっちは伸びててもいいの!」

「ふーん…」

 正午は自然に伸びている陰部に触れながら、ほたると一つになっていた身体を離して、胸を吸い、お腹へキスを繰り返しながら、陰部までくだって舌を這わせた。

「はうっ…うんぅっ…」

「………」

 ほたるのよがり方って可愛いなぁ、よーーし久しぶりだから、このまま一人で何回もイかせてクスリも使ってヘロヘロにしてからフィニッシュしよう、正午は性交方針を決めると激しく巧みに舌を使った。

「ぁあっ! はあんっ!」

「……」

 まず、一回、次は乳首も刺激して、よし、二回、今度はアナルも、正午は次々と、ほたるを攻め立て快感を高めていく。

「やっ…そんなとこ…ぁ、…ああっ!」

「………」

 そろそろクスリも試してみよ、正午は密輸入したクスリを陰部に塗っていく。これを舐めると不味いことはカナタとの行為で経験していたので、塗った後は指での愛撫をしつつ、ほたるの胸を吸う。

「あ、熱いっ…んっ…なんか…熱いよ…」

「そーゆー媚薬なんだ♪ 東洋の神秘♪」

「んぅ…ハァ…ハァ…あぅんっ…」

 ほたるは熱くなった股間を指で翻弄され、よがって閉じていた腋を見せていることにも気づかないほど興奮している。ほたるの腋には陰部の三分の一くらいの毛量で腋毛が伸びて、それが汗で肌へ貼り付いている。正午が舐めると、ほたるは喘いでオルガスムを深めた。ほたるが蕩けた声を漏らしている。

「ハァぁあ……ハァ…あぁあ…」

「………」

 女子のオルガスムって一発二発じゃなくて波の連続なんだよなぁ、ほたる、とろけてるし、そろそろオレも入れたいな、正午は正常位でフィニッシュすることにした。ほたるは快感の波に身をまかせていて、もう陰部や腋を晒していることを恥じる様子もなく、ただ幸せそうに息をしている。

「いくよ」

「…ん…」

 ほたるが一応は返事らしい声を出してくれたので、正午は身体を重ねる。すんなりと、ほたるの膣は男根を受け入れ、内壁は摩擦されて悦んでいく。やっぱり指より男根がいいと確かめるように吸いついてきて、正午も高まってきた。

「ほたる…ハァ…ハァ…」

「あっ…あああっぁあ…」

「い……いくよ?」

「ん…」

 ほたるは正常位で抱かれながら、両腕と両脚を男の背中へからめて、感極まった声をあげ、正午の背中と肩に爪と歯を立てた。

「はぁああああっんんんぅ!」

「ハァ…うっ! うっ…ハァ…うっ…」

「あっ…ハァ…ああっ…」

 ほたるは目蓋をかすかに痙攣させ、幸せそうに脱力すると、キスを求めるように唇を動かし、声をもらした。

「……ケンちゃ…ん…」

「………」

「…あッ…」

 ほたるは快感の海を漂っていた心地から一気に、氷海へ落ちたようなショックを受けて自分の発言を認識し、目を開け、愕然として怯えた。

「ち……違っ…」

「………」

「違うの!」

「……」

「ま、間違えたんじゃなくて……ま、まだ、忘れられないわけじゃないの! 違うの! ご…ごめん……ごめんなさい! ほたる…、ほたるは…」

「たはっ…、いいよ。まだ、忘れられないんだろ?」

「っ…」

 ほたるは叩かれると思ったのに、優しく頭を撫でられて身震いした。

「どう……どうして? ……ほたるを……叩かないの?」

「まだ、忘れられないから、つい、うっかり、だろ? 叩くようなことじゃないしさ」

 正午は微笑みをつくって、ほたるを慰める。

「そのうち忘れるさ」

「……、……た……叩いてよ! ほたるを叩いて! こんなひどい! こんな失礼なヤツっていないよ?!」

「ほたる……」

「正午くんは何千キロも離れたウイーンまで来てくれたんだよ?! ほたるの誕生日に! なのに、ほたるって最低だよ! 一番大切なときにケンちゃ…、……昔の男の…」

「昔って言うほど、昔じゃないしさ。たはっ♪ 実はオレも、ときどきだけど、ほたるのことカナタって呼びそうになってヤバイヤバイってこと、あるから♪」

「………。ほたる……最低だよ。……お願い、……お願いだから、ほたるを思いっきり、ひっぱたいて……でないと……、ほたる自分で…自分が許せない……」

「オレが許す♪」

「……、正午くんが許してくれても……、ほたるが……正午くんを好きになってきてる……ウイーンに来てくれて、プレゼントくれて、優しくしてくれる正午くんを好きになってるほたるが、さっきのほたるを許せないの……いまだに……未練たらしい……ほたるを許せないから……」

「こだわるなって。そんな細かいことさ、こだわったところで仕方ないよ。それに、あんまり女の子を叩きたくないし」

「でも……でも、正午くんだって本当は怒ってるでしょ? さっきの一瞬、こいつ最悪って思ったでしょ?!」

「いや、別に……そこまでは…、ちょっと、たははっ…って脱力はあったけど、まあ、しょーがないじゃん。ほたるが伊波と別れたの、先月だし」

「…………っ…ぅッ……ぅぅ……ぅ~…」

 ほたるは嗚咽が込み上げてきて、もう言葉にならず泣き出した。

「う~ぅっ…ぅぅ…」

 正午くんは、ここで怒らないくらいにしか、ほたるのことも好きじゃないんだよ、もしも本気の本気で大好きだったら、ここで笑って許せないよ、苛ついてムカついてイライラして、ほたるを叩かなくても椅子を投げるくらい、壁を殴ったりするくらい、そんなくらいの独占欲を見せてくれないなら、ほたるはカナタちゃんと同列で、今はケンちゃんに捨てられた可哀想な子だから同情されてるだけだって、わかるよ、ほたるはベッドに泣き伏した。

「うううっ…うううっ…うう…」

「ほたる……。まあ、いっぱい泣けば、そのうち忘れるって。りかりんが言ってたけど、失恋から立ち直るには六ヶ月から十七ヶ月くらいかかるってさ。とくに初恋って忘れにくいらしいよ」

「ううっ…ううっ…」

「たはっ♪ 実は、オレも小学校で好きになった子、いまだに軽く夢に見るし」

「……」

 それはイサコちゃんだよ、カナタちゃんに愚痴られたことあるから知ってる、ショーゴのイサコちゃんって寝言を何度も聞いたって、ほたるは背中を撫でられながら少し怒った。

「その子は引っ越して婚約はチャラになったんだけどさ。……あの子、どうしてるかなぁ」

「………」

 そーゆーことを、今現在付き合ってるほたるを抱きながら言いますか普通、カナタちゃんが苦労した理由がホントわかるよ、たはーっ、ほたるは泣くのがバカらしくなったので涙を拭いた。

「お、泣きやんだ」

「…………ぐすっ…」

 泣きやませるために、わざと言ってたなら、すごく賢いんだけど、正午くんのは天然っぽいよ、ほたるは全裸でいるのが恥ずかしくなって、脱がされたワンピースを着る。

「あ……服、着るのか」

「正午くんも服着て!」

 ほたるはズボンを投げつけて、洋箪笥からショーツを出して穿く。ブラジャーはワンピースを脱がないと着られないので今は諦める。

「まあ、脱がせる楽しみもあるしな♪」

「………」

「今度、裸でピアノ弾いてくれよ。見たい♪」

「っ…」

 ほたるが真っ赤になった。さっきまで裸でピアノを弾いていたことが、ものすごく恥ずかしくなってくる。

「なぁ、一回でいいからさ」

「ヌーディストビーチにでも行ってよ! バカ正午っ!」

 ほたるは叫びながら枕を投げつけた。

 

 

 

 翌日の朝、三上鷹乃は夫が悦ぶので裸エプロンで朝食を作っていた。いつも朝寝坊する智也だったが、結婚初日だからか、朝食を作るのを手伝っているけれど、ときどき妻のお尻を触ったりするので、むしろ時間がかかってしまった。

「そろそろ着替えないと遅刻だな」

「……私、…今日は学校に行きたくないわ」

「そっか。……じゃあ、風邪でも引くか?」

「ええ、そうするわ」

 すっかり夫の虚言に慣れている鷹乃は風邪という口実に違和感を覚えなかった。逆に智也が声をあげて何かを考え込む。

「あ……」

「どうしたの?」

「いや、結婚して三上鷹乃になったことを学校に報告しなくて、寿々奈鷹乃のまま卒業しても大丈夫かなぁ……って」

「どうかしら……報告しないといけないかしら?」

 鷹乃が消極的な様子なので智也も面倒になった。

「別に、いいんじゃないか? 卒業証書に寿々奈鷹乃って書いてあっても、普通は結婚したら姓がかわるものだし、もう半年もないからな」

「そうね…」

「んじゃ、鷹乃は風邪ってことで先生に報告しとくぞ」

「ええ、お願い」

 鷹乃は玄関まで夫の出発を見送る。

「じゃ、行ってくる」

 智也が不用意にドアを開けたので、裸エプロンのままだった鷹乃は廊下からリビングへ飛び込んだ。

「バカっ! 急に開けないでよ!」

「悪い、悪い。じゃ、いってきます」

「……いってらっしゃい」

 智也がいなくなると裸エプロンでいることが落ちつかないので鷹乃は下着をつけ、ジーンズを穿こうとして、穿けないことに気づいた。

「……きついわ…」

 ファスナーが閉まらず、ボタンも留められない。別の大きめのジーンズを持ってきたけれど、それも穿けない。結局、ジャージしか着られなかった。

「………少し太ったのかしら…」

 鷹乃は風呂場へ行くと、洗濯機の横に突っ込まれて埃をかぶっている体重計を取りだして埃を掃除してから、乗ってみた。

「……68……、ウソよ、壊れるわ」

 ほとんど使われていなかった三上家の体重計を信頼できず、台所から20キロの米袋をもってくると体重計に載せてみた。

「…20キロ……、でも誤差あるのかも…」

 鷹乃は2リットルのペットボトルを数本もってきて水道水を入れると、載せてみる。

「……24……26……28……正確に計ってる……」

 鷹乃は米袋とペットボトルを片付け、もう一度、体重計の前に立った。

「………ふ、服を着ているから、重いのよ」

 ジャージとTシャツ、ブラジャーを外して下着一枚になると、そっと体重計に乗ってみる。ゆっくりと体重をかけると針は30キロ、40キロと進み、あっさりと50キロ代を超えると、67.9キロで止まった。

「………そんな……先月まで55だったのに……、12キロも…」

 フラフラと体重計をおりると、脱衣所の鏡を見た。

「っ?!」

 顔は変わっていない。けれど、二の腕、太腿、そして何より腹部に明らかな脂肪が見てとれる。

「…………」

 お腹を撫でると、先月まで腹筋だったはずの感触が、柔らかい脂肪に変わっていた。

「……す……水泳、辞めたから……。……でも、食べる量も半分にしたのに……」

 身体から筋肉が落ち、脂肪が増えている。当たり前の現象だったけれど、認めたくなかった。

「そ……そうよ。夕べ、智也がお肉とか、贅沢なものをいっぱい買ってきたから……、そ、それに、お昼も、その前の夕食も智也が食べてくれなかったから二人分、食べたから…」

 鷹乃はリビングに戻ってソファに倒れ込み、自分への言い訳を考える。先月まで体重で悩む同級生たちを、つまらないことで騒いでいるバカな子たちと思っていたことも忘れ、鷹乃は真剣に思い悩み始めた。

「……ふ…、太ったなら痩せればいいのよ。そうよ。あんな思いするくらいなら、もう食べないわ」

 昨日、スカートのフックが壊れ、ファスナーが弾けた原因も、よくよく考えれば思い当たる節は、二学期が始まってから、あった。制服のスカートは数センチくらいならサイズをレールで調節できるようになっているけれど、日に日に調節してウエストをゆるめていたし、先週から調節できる限界まで拡げてもフックを留めにくかった。強引に腕力で留めてファスナーをあげていた。おまけにスカートに足をとられたとはいえ、何度も無様に転んだのは、体重が増えたのに加えて、運動神経がなまっていたからだと、自分でもわかってしまった。

「……あんな思い……二度とイヤよ」

 涙ぐみ、痩せると決意した鷹乃は、とりあえず昼食を抜くことにした。

 

 

 

 昼休み、智也は教室で愛妻弁当を食べ終えて、明日の午後にあるクロエへの家庭教師で何を言うべきか、どう対処していくべきか、考える。朝から、ずっと考えているのでクラスメートたちの自分を包む空気が奇妙であることには気づかないでいる。鷹乃の身におこった事件については葉夜と果凛が協力して対処したことで、校内では箝口令を敷かれたような扱いになっていて、誰もウワサさえしていない。おかげで知っている人間は、それほど多くはなかったが、それでも智也を包む空気は複雑だった。

「……クロエかぁ…………」

 智也が頭を抱えていると、果凛が前に立った。

「三上くん、ちょっと」

「ん?」

 智也が顔を上げた瞬間、果凛の右手が強かに智也の頬を平手打ちした。

「ぐっ……痛~ぅ…、いきなり何するんだ?!」

「言わないと、わかりませんか?」

 果凛が女の敵を見るような冷たい目で睨んでくる。智也は瞬時にクロエのことだと勘違いした。

「くっ………」

 クロエか、あいつ、りかりんにまで、そうか、吉祥寺に礼状を書くとか言ってやがったが、それに何か書いたな、くそっ、検閲しておくべきだった、なんて油断のならない女なんだ、今のところ先手を打たれてばっかりじゃないか、なんとか挽回しないと、いや、とりあえず鷹乃と入籍はしたから、先の先は取れているか、ここからが正念場だな、智也は頬を押さえて痛みに耐える。クラスメートたちが注目しているので場所を変えようという視線を果凛へ送ったけれど、無視された。

「……りかりん、……色々と事情があってだな…」

「聞きたくありません」

「………口出しするなら、事情も把握してくれないと…」

「あなたが寿々奈さんと、どんな関係になっていようと、わたくしは一切知りたくありませんわ。口出しはいたしません。それはお二人の問題ですから。ただ二つ、今後二度と、金輪際、一切、わたくしのことを、りかりんなどと親しげに呼ばないでください。二つめ、叩いたのは、わたくしの不愉快を晴らすための暴力です。甘んじて受けなさい」

「……………………」

 そこまで激怒しなくてもいいじゃないか、とりつく島もないな、ほとんど絶交宣言されてるし、いろいろクロエについては弁解したいことがあるんだが、今はおとなしく従おう、智也は顔を伏せて黙った。

「………」

「………………」

 果凛は手首を振ると、智也に背中を向け、立ち去る。入れ替わりに、つばめが教室に入ってきた。

「三上智也くんは、ちょっと生徒指導室まで来てください」

「え? オレ? いったい何のようですか?」

「………。黙って来なさい。クラス委員は三上くんが五時間目に遅れたら、担当科目の先生に生徒指導室へ呼ばれていることを伝えてください」

「げ……そんな長引くような話かよ……」

 智也が教室を連れ出されるのを見て、クラスメートたちは、やっぱり呼び出されるのか、そりゃ呼び出されるよな、と市場へ送られる牛を見るような目で見送る。つばめは普段は見せない厳しい表情のまま、生徒指導室へ智也を連行すると、冷たい目で睨んだ。

「…ぅ……で、南先生。何の話ですか?」

「自分の胸に訊いてみなさい」

「…………」

 この先生にしては珍しく没個性的な説教の入り方だな、けど、ここ最近はオレ、何もしてないぞ、学祭も今年は何も企んでないし、そもそも鷹乃とクロエのことで忙しくて学校でまでトラブルかかえる気ぃ無いからな、智也は自分の記憶に訊いてみたが、思い当たることはなかった。それで、つばめは苛立った様子で智也に近づいてくる。

「…み…南先生?」

 レモンの香りが智也の鼻腔をくすぐった次の瞬間、つばめは思いっきり智也の頬を平手打ちした。

「うっ! …………痛~っ…、いきなり何を…」

「あなたは最低です。こんな指導、教師としてしたくはありませんが、せざるをえません」

「…………………」

 クロエのやつ、いったい、どこまでオレとの関係を広めてやがるんだ、本気で憎らしくなってきたぞ、智也はやぶ蛇にならないよう黙って嵐が過ぎ去るのを待つことにしたが、つばめは黙り込む智也の態度に苛立って、また手をあげた。

「痛っ! ……てめぇ…、それ体罰だろ?」

「そう言って校長にでも訴えますか? けれど、あなたのした最低の行為も白日の下にさらすことになるのですよ?」

「…………。……」

「女性をなんだと思っているのですか。あなたは最低の男です」

「……うっ、うるさいな! 教師にいちいち口出しされたくねぇんだよ! 伊波だって似たようなこと白河にしてただろうが! いや、あいつの方が、もっと最低だ!」

「伊波くんが……、……そう……そうなのですか…」

 つばめは意外だと目を見開き、驚きと恐怖を感じた様子で、持っていたレモンの香りを吸い込み、気分を落ちつけている。その様子が智也の癪に障った。

「ボケ教師っ! 人の顔をパンパン気軽に二度も三度も叩きやがって!」

「気軽に叩いたわけではありません。叩くほかに指導の方法がないようなことを、あなたがしたからです」

「ざけんなっ! あんたは他の教師と、ちょっと違うかと思ってたのによ! 結局はオレらの都合なんか知ろうともせずに理想論だけ言いやがって! 余計にムカつくんだよ! 色ボケ教師っ!」

「………聞き捨てならない讒言です」

「そーかよ、そーかもな♪」

 智也は生徒指導室のドアに内側から鍵をかけた。これで二人っきり、教師と生徒でも女と男、つばめは身の危険を覚えて後退った。

「……………………………」

 どうして新任の私が、こんな指導をしなくてはいけないの、現場にいた先生か、生徒指導担当の先生がすべきなのに、デリケートな問題とか、男性教諭が担当すると寿々奈さんへのセクハラと言われたとき立場が弱いとか、私の経験を積んだ方がいいとか言って、こんな汚らわしい問題を私に押しつけて、つばめは交際相手を性的に虐待していたと疑われる生徒に密室状態にされた生徒指導室で逃げ場を探すけれど、狭くて、どこへも逃げられない。内線電話も智也が引き抜いている。

「ど…、どうしようと…いう…のです…」

 教師の威厳を保とうとしたけれど、うわずった声を出してしまったので、智也が嗤った。

「怖いか?」

「………退学に…なりますよ」

「脅しは、もっと効果的にするもんだぜ」

「……………………」

 確たる証拠がなかったので職員会議で不問になったものの、この生徒は同級生を強姦したというウワサがあった。そのせいで後輩にイスで殴られ、短期の入院をしたとも囁かれている。結局は強姦の被害者と言われる女生徒と交際している様子なので問題化していないけれど、今回の事件をふまえれば単に性的虐待が継続しているだけかもしれない。つばめは教師として毅然として対応しなければと、自分を奮い立たせようとするが、胸の奥と下半身に渦巻いてくる嫌悪感と汚辱感に囚われはじめる。

「…っ……こ……来ないで……」

「………」

 オレは中森じゃないから年増に興味はない、けど、中森の件は最大限に利用させてもらうぜ、色ボケ教師、智也は冷笑しながら、つばめを脅迫する。

「退学って言えばよぉ。教師と付き合うと生徒も退学になるのか?」

「っ!」

 つばめの顔が凍りついて蒼白になった。

「まあ、退職は確実だよな。四月に就職できなかった色ボケ教師が、やっとありついた働き口なのによぉ。就活と婚活いっしょにするなよ、バカじゃねぇの?」

「……………………」

 つばめは俯いて黙り込む。智也が舌打ちした。

「ちっ……だんまりかよ。ま、いいや」

「……」

「ちょっと失礼して」

 智也が近づくと、つばめは胸と股間を押さえて身を引いた。けれど、智也は興味なさそうにタメ息をつく。

「そっちじゃないから、期待するな。色ボケ」

「………」

「あと半年、バレなきゃいい。オレが黙っていれば、二人とも天国。けど、校長に知れたら、あんたは退職、中森も将来お先真っ暗だな? 曽根崎心中でもするか?」

「…………。………」

 つばめは翔太の名前を聞いて覚悟を決めたように智也を睨み返して、両手を拡げた。

「…好きに…すれば…いい……、気の済むように……、どうせ…私の…」

 身体は、すでに父によって汚されたのだから、一度も二度も変わらない、翔太くんまで巻き込むくらいなら、私が黙って耐えればいい、大丈夫、私は耐えられる、大丈夫、大丈夫、つばめは震えながらも智也を睨んだ。智也は深いタメ息をついた。

「だから、人の話を聞けよ。そっちじゃないから」

「……?」

「財布、出せ」

「……誰の?」

「お前のに決まってるだろ?!」

「あっ…」

 つばめはポケットから財布を奪われ、奪われたことより不快の念をもっている異性に衣服へ手を入れられたことに身震いした。智也は財布を開いて驚いた。

「お前、金持ちの子か? なんで、こんなに……」

 智也は抜き取った紙幣が、ざっと20万円以上あったので驚いた。

「教師の給料って、そんなに高くないだろ? 競馬にでも勝った? 意外にパチンコとかやるのか?」

「昨日、給料日だったから」

「……全部、おろしたのか?」

「返して」

「中森が退学になるのは、オレも見たくない♪」

 智也は自分のポケットに現金を入れると、つばめに軽くなった財布を投げつけた。

「慰謝料だ。二回叩いたから、一発10万で、夜露死苦♪」

「……あ……ああ……」

 つばめは立ち去る智也の背中を見送ると、床へ崩れた。

「……………………浴衣……」

 一回目の臨時講師としての給料は高価な浴衣に消えた。二回目の正規採用としての給料も、また衝動買いに使おうと思って全額おろしたのに、消えてしまった。

「………、……食べるものが……ない……」

 つばめは来月まで、どうやって生き延びるか、真剣に悩み始めた。

 



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12話

 

 

 フランスの実家から嘉神川エリーズは別居している夫へ国際電話をかけていた。

「もしもし、エリーズです」

「ああ、私だ」

「……。クロエは、元気にしている?」

「ああ。……それなりに…」

 ぎこちない会話が続き、幸蔵は仕事の予定が押しているので電話を切りたくなったが、それをすると修復に苦労している関係が、また破綻してしまうので今は耐える。

「ノエルは、いくつになった?」

「六歳よ」

「そうか…………………。そろそろ、お前も帰ってこないか?」

「お前、っていう日本語、好きじゃないわ」

「……すまん。……なあ、そろそろ、帰ってこないか? ノエルも物心つく頃だろう?」

「………クロエは中学の何年生だったかしら?」

「二年生だ」

「そう………………もう少し、先の方が、いいと思うわ」

「どうして?」

「中学生って一番思春期の気難しい時期でしょう? きっと、あの子は母親のこと、よく思っていないわ。それなのに、ノエルまで連れて私が現れたら、どんな反応をするか…」

「だから、ノエルのことは生まれたときに話しておいた方がいいと言ったじゃないか。それをお前が黙っていようというから…」

「また、お前って言うのね」

「……すまん……。ただ、いい加減、ノエルのこと、妹がいることくらいクロエに教えておかないと、知ったときショックを受けるぞ?」

「だから、そのショックを中学生の今、与えないように考えてるのよ」

「だったら、いつならショックを受けないというんだ?!」

「怒鳴らないでよ」

「………すまん…」

「とにかく中学生には受けとめきれないわ」

「なら、いつなら、いいと言うんだ?」

「そうね……せめて、universitat 大学に入るくらいなら精神的にも落ちついてきて……できれば、クロエにも恋人なり交際相手なりがいて、ある程度、男女のことがわかるようになってからなら、受けとめやすいと思うの」

「……ずいぶん先、なんだな…」

「よさそうな彼氏さんだったら、私が帰国してクロエが不安定になっても支えてくれると思うの。いい男なら、ちゃんと私とクロエの間に立ってくれて仲介してくれるかもしれないわ。それに、その頃ならノエルも大きくなっていて、私とクロエを橋渡ししてくれるかもしれないわ」

「……それじゃあ、お前はクロエの子育てを放棄するんだな?」

「…………。また、お前って」

「ぐっ……、すまん。……」

「もうエリーズって呼んでくれないのね。やっぱり、あの女…」

「彼女は関係ない! ただの秘書だ! それに、もう秘書は置かず、接待の付き添いには別の者を使っている!」

「へぇ……新しい女?」

「男だ!」

「……同性愛に目覚めたの?」

「おまっ…、…ハァ…ハァ…」

 幸蔵は血圧が上昇するのを感じて、深呼吸する。

「ハァ…ふーっ……男といっても男子高校生だ」

「……日本は同性愛に寛容な国といっても18才未満は逮捕されたと…」

「だから、そこから離れろ!!」

「あいかわらず短気ね」

「だ、だいたい同性愛に寛容なのはフランスの方だろうが!」

「児童ポルノには日本は、ごく甘よ。勘違いしないでほしいわ。フランスは同性愛者の人権も尊重しているから寛容なの。日本は児童の人権を軽んじているから児童ポルノを放置しているのよ。まったく人権に対する意識のベクトルが違うわ」

「………いい国だな、フランスはっ!」

「話を戻すけれど、たしかに私はクロエの子育てを中断しているけれど、ノエルは一人で育てているのよ。違う?」

「…………。フランスはシングルマザーにも寛容な国だったな……」

「ええ。それに両親がそろって生活しているなら、ちゃんと父親は家族との時間を大切にするわ。あなたみたいに日付が変わってから帰宅して、また早朝に出て行くなんて生活、眠る場所が一つ屋根の下というだけで、別居しているのと同義よ。たしか、午前様というらしいわね。この日本語も嫌いよ。様なんてつけるから、立派なことに思えるのかもしれないけれど、まったく立派ではないわ。午前バカよ」

「すまなかった。つい忙しくて…」

「つい? どうせ、今も、つい忙しいのじゃなくて?」

「……」

「つい忙しいで子供とも遊んでくれない。私とのセックスも二ヶ月もあける。私から求めても、眠いとか、疲れたとか、たまのセックスだって酔っぱらって帰ってきて、ろくな愛撫もなしに押し倒して一人で射精して寝ちゃうなんて最低。オーラルだってしてくれなかった!」

「オ…いや、ワシは舐めるとか、そういう……い、いや、今、会社にいるから、そういう話は…」

「ほら、また会社」

「………」

「日本の男は会社と結婚してるのかしら? 封建的ね。やっぱり革命が必要なのよ。社会が古いわ」

「日本だって維新はあった。それに仕事は仕事だ。仕方ないだろう?」

「維新は侍階級による支配システムの変更にすぎないわ。将軍に仕えていた侍が、皇帝に…テンノウだったかしら? テンノウに仕えるように大政奉還しただけで、仕える相手が変わっただけで仕える意識は残っているから、四民平等になっても仕事に仕えるのよ。仕方ないのシも仕えるよ? あなたたちの頭は仕えることから離れられないのね。自我がないの?」

「じ…、…………………………」

「ほら、そうやって反論に困ると黙り込んで、そのくせ、自分の意見をかえようとしない。封建的で男尊女卑で、女が議論すると、すぐにインテリとか言って…」

「ここは日本だ! 郷に入っては郷に従えと…」

「ここはフランスよ」

 エリーズは朝食を終えて、ノエルとソファに座って電話している。ノエルは口喧嘩する母親を心配そうに見ていたが、エリーズは優しいキスを愛娘に送って、議論を続ける。

「そっちは、そろそろ午後の5時よね。もう仕事は終わるの?」

「……いや…、まだ…」

「ほら、やっぱり。どうせ、今夜だって午前様。クロエがかわいそう」

「そう思うなら、お前が…」

「また、お前。次に言ったらノエルと話をさせてあげないわよ」

 エリーズが脅すと、ノエルが悲しげな顔をして母親を見上げた。エリーズは人差し指を唇にあててウインクする。

「♪」

 大丈夫よ、これは脅し、男と女の駆け引きよ、エリーズは微笑んでノエルの髪をクルクルと指先で巻いて遊ぶ。駆け引きの材料に使われた幼女は髪をもてあそばれて迷惑そうだった。

「あなたが本当に私と娘を大切にしてくれるって確信ができるまでは、戻る気はないわ」

「………。クロエは口には出さないが、淋しそうだぞ?」

「子供を人質にする気?」

「お…、…、いや、…」

 お前だって、という言葉を幸蔵は飲み込んで、お互いの気持ちを鎮めるために昔話をすることにした。

「一つ、ずっと不思議に思っていたことがあるんだが、今、訊いてもいいか?」

「ええ」

「あの日、何も言わず出て行った、あの日、テーブルいっぱいに料理を作って行っただろう? あれは、何だったんだ? クロエへの愛情じゃないのか?」

「…は? どういう意味? 文脈の構成がわからないわ。どうして愛情の話になるの?」

「いや、だから、せめてものクロエへの愛情として料理を作れるだけ作って行ったんじゃないのか、って訊いてるんだ」

「違うわ」

「………。じゃあ、何だったんだ?」

「もったいない、ってステキな日本語でしょう?」

「あ、…ああ、……すまん、文脈の流れがわからん。なぜ、そんな話に?」

「だから、もったいないから冷凍食品以外は、すべて料理しておいてあげたの。あなたもクロエも生野菜やお肉を残して行かれても、料理できなくて困るでしょう? 私だって、こんなに長くなるつもりはなかったけど、すぐに戻るつもりもなかったから、何ヶ月か経って帰宅したら冷蔵庫がグロテスクな状態になってるのもイヤだったから、調理すべきものは、すべて食べられる状態にしておいてあげたの。まあ、せめてもの愛情といえば愛情だけど、そういう意味で料理したわけじゃなくて、単に、もったいないからよ。食材が」

「……そう……だったのか……」

「何だと、思ったの?」

「………クロエは、泣きながら全部、食べていたんだぞ」

「全部? 一度に?」

「ああ」

「……バカな子ね…」

「…………」

「じゃあ、そろそろ。また来月にでも電話するわ。あ、今月の養育費は受け取りました。ありがとう。じゃ…」

「あ! 待ってくれ! ノエルと話をさせてくれ。頼む」

「いいわよ。どうぞ」

 エリーズが受話器をノエルへ渡した。

「パパぁ♪」

「おお、ノエル。大きくなったんだろうな」

「うん、ノエルもう一人でお着替えできるよ。日本語も半分くらいわかるの」

「すごいな、ノエル。お父さんはうれしいぞ。早くノエルの顔が見たい。ママと、いっしょに帰ってきておくれ」

「ノエルもパパに会いたいよ♪」

「ああ、ああ、きっと、すぐに会える」

 幸蔵の声が聞こえていたエリーズが娘から受話器を取り上げた。

「そう言うなら、あなたがフランスに来ればいいでしょ。成田から、ほんの19時間よ。空港まで出迎えるわ」

「し……しかし…」

「仕事が?」

「………、……それに、クロエに黙って、お前たちと会うのは…」

「Au revoir!」

 さよなら、と今度こそエリーズは電話を切った。

「ああ~……ノエル、もっとパパとお話したかったぁ!」

「わがまま言わないの」

「う~………ママの方が…」

「親に逆らう子は、ドーバー海峡に捨てるわよ」

「……ごめんなさい」

「よし」

「…………」

「だいたい、あの人は代々続いただけの嘉神川食品という会社の存続に、こだわりすぎるのよ」

「こだわり? ママ、こだわり、ってどういう意味なの?」

「こだわること、拘泥よ。一つのことや、こまかいことにとらわれて心が狭くなってしまうこと。つまり自由じゃなくなるのね。あっ! ノエル、この週末は、いいところに連れて行ってあげる♪」

「わーーいっ! いいとこ! いいとこって、どこ?」

「こだわりのない、自由なところ、何もかも脱ぎ捨てて、人間が生まれたままの姿で過ごせるステキなところよ。そこに行けば、小さなことに、こだわることが、どれだけバカらしくて不自由なことか、よくわかるわ」

 エリーズは週末の行楽先が決まったので、楽しそうに準備を始めた。

 

 

 

 翌日の9月27日、クロエは中学校から帰宅すると、シャワーを浴びて身体を洗い、控え目な香りの香水を下着にふり、身支度を整えると、この二日間の考えたことを総まとめする。

「………智也が、こう言ってきたら……こう……」

 鏡を見つめて、眉毛を少し整える。

「…こう言うと、……こういう反応になりそう……だから、私は、こう…」

 男との駆け引きをシュミレーションし、香水の瓶を人物に見立てて机上演習している。

「智也はアルバイトを続けたいはず………だから、父との信頼関係は失いたくない。ここが重要………、たぶん智也は私のことを怒っているはず……、でも、私は中学生……今のところ寿々奈には負けるかもしれないけど、智也の中で私の存在が大きくなるためには、今日は攻めじゃなくて、守り。でないと、智也は、うまく私を切り捨てようとしてくる。だから、私にとっても智也にとっても寿々奈には、まだ気づかせちゃいけない」

 ロストバージンで成長した少女は基本戦略を決定すると、高価なフランス製の腕時計を見て、まだ時間があったので嘉神川食品の社長室直通番号へ固定電話からかける。

「はい、嘉神川幸蔵です」

「もしもし、パパ?」

 ねだりたいことがあるので、いつもの冷淡な声ではなく愛くるしく甘い声を出すと、幸蔵は勘違いをする。

「ノエルかぁ♪ 一人で電話できたのか?」

「………。誰、ノエルって?」

「ぅっ?! …くっ…クロエか?」

「ええ、クロエです」

 甘い声から氷のように冷たい声に変わっている。

「ノエルって誰?」

「……と…、取引先の…」

「取引先の人は、パパって呼ぶの? どんな会社?」

「いや……だから、その、…ノエルというのは、…の…野江…の…」

「フランス語でクリスマスって意味よね?」

「っ………」

「名前の通り、おめでたい会社ね。取引先をパパ? めでたすぎてあきれるわ」

「…じ……実は…、…お、落ちついて聞いてくれ……クロエ……。いや、電話では……今夜、帰ってから二人で話を……、いや、今夜は接待があって……明日…いや、次の日曜に…」

「いいわよ。どうせ、キャバクラ嬢とか、そーゆー汚い女と、娘を間違えたんでしょ。そうね、会社に電話したのなんて、久しぶりだから仕方ないわね」

「……………。キャ…キャバクラじゃない。……その…ノエルというのは、取引先との接待で使うスナックの名前なんだ。キャバクラなんかには行かないぞ! ワシは!」

「スナックとキャバクラに、そんな違いがあるの? 強調するような」

「あ、ああ、スナックというのは、もっと健全な店なんだ」

「へ~ぇ~ぇ……」

「だ、だいたい、クロエは、どうして、そんな言葉を知っているんだ?」

「映画を見れば、舞台設定として出てくるわよ。子供扱いしないでちょうだい」

「す…すまん……。と、ところで、どうして電話してきたんだ? クロエ」

「ええ、本題に入るわ。私も、そろそろ携帯電話がほしいの」

「………。……必要なのか? まだ、早いと…」

「家にママもいないし、パパはスナックでパパしてるし、外出先で私に何かあったとき、警察なり救急車なり、自分で呼べるようにしておきたいの。自分の身は自分で守る。そーゆー風に、育てていただきましたから」

「クロエ………、父さんは…」

「言い訳は次の機会でいいわ。ケータイ、ほしいの。買って」

「………。わかった」

「ありがとう。パパ」

 少し甘い声を出して礼を言い、まずは自分のケータイを確保したクロエは次の要求へ移る。

「あと、三上先輩にも社用の携帯電話を一つ、持たせてほしいの」

「彼に? どうして?」

「今どきアルバイトしている高校生なら、ほとんど持ってるのに三上先輩は持ってないから、家庭教師のスケジュール変更があったときとか、連絡が取りづらいのよ。パパの会社で働いてもらうときだって、やっぱり持っていてもらった方が便利でしょう?」

「う~ん……そうだなぁ……便利は便利だが……まあ、経費で落ちるし…」

「お願いね♪」

 クロエは要求を受け入れさせると、父親との電話を終える。そろそろ智也が来る時間だった。クロエは鏡を見つめ、深呼吸する。

「すーーーっ………ふーっ……うん、やれる。私は大丈夫」

 予定時刻ちょうどに玄関でチャイムが鳴った。クロエは玄関を開けると、智也を招き入れる。

「どうぞ、あがってください」

「ああ…」

 智也は普段と同じように、けれど、普段とは少し硬い表情で嘉神川家に入り、一応は家庭教師として振る舞いつつも、クロエの様子を探る。

「学校からの宿題は?」

「もう済ませました」

「……そっか…」

 だいたいクロエに家庭教師なんて必要ないんだよな、あの夜のこと、どう切り出してくるつもりかしらないけど、しばらくは調子に乗せておいて弱みを握って家庭教師は減らさせて会社での仕事を回してもらおう、智也は基本戦略を再確認すると、勧められたソファに座った。

「……………………」

「………………」

 クロエは立ったまま、お茶を出すこともなく智也を見ている。智也は黙って、部屋の調度品を見ているとはなしに眺め、短いけれど長く感じる沈黙を耐える。

「…………………………」

「…………」

「……………………」

「………私、…」

「……」

「私、智也に謝ります。ごめんなさいっ!」

 クロエは深々と頭を下げた。美しくて長い髪がテーブルと智也の膝にかかる。

「本当に、ごめんなさい!」

「……」

「私、どうかしていたんです! 初めて好きになった人に、恋人がいるって知って……イヤな考えばっかり先走って……だから、…あんなこと……ごめんなさい! ごめんなさい!」

 クロエは謝りながら智也の膝に涙を落とした。その滴の重さと熱さに、智也は動揺して座り直した。

「い……いや、……オレの方こそ……もっと早くに言うべきだった…」

「ごめんなさいっ…どうか……私こと、嫌わないで……家庭教師だけは……続けてください。お願いしますっ…」

「あ、…ああ、それは仕事だから……続けるから、……泣くなよ? な?」

 智也はポケットから今朝も鷹乃が入れてくれていたハンカチを出して、クロエの涙を拭いた。

 

 

 

 ほたると正午はウイーンから列車で移動し、ストラスブールにある真昼のアダム園というヌーディスト施設に遊びに来ていた。

「おおっ……ホントに、みんな裸だ……すげぇ…」

「や~ん……、やっぱり帰ろうよ。どうせ学校サボるなら、パリのディズニーランドに行きたいよぉ」

 ほたるが後退りして逃げ腰になる。ヌーディスト施設といってもキャンプ場のような雰囲気で、小川を中心にテニス場やアーチェリー場などのスポーツ設備、日光浴のための人工の砂浜とプール、レストランと自炊可能な野外キッチンなどが整えられたリゾート施設で、日本にあるものと変わりはない。ただ、入場客も従業員も全員が裸だった。

「ディズニーは千葉にもあるけど、ヌーディストビーチはフランスとドイツが主なんだからさ。楽しもうぜ♪」

 正午はシャツを脱ぎ始める。

「ぅ~………」

 ほたるは呻りながら、施設の利用案内を読む。裸になってパスポートを含めた全ての貴重品を預けた後は、サインだけで各施設や食事などのサービスが利用できるようになっていて、まったく冗談でも都市伝説でもなく全裸で過ごすことを提供する施設になっており、驚いたことに自治体からの認可まで受けているようだった。

「……は~ぁ………、更衣室もなくて男女いっしょに脱ぐなんて…」

 ほたるはタメ息をつきながら諦めてブラウスとスカートを脱ぐ。

「たはっ♪ うむ、気持ちいいな。外で裸ってのも露天風呂みたいで」

「………露天風呂だって普通は男女別々だもん…」

 ほたるは正午が全裸になってメガ社の腕時計も外しているので、自分もプレゼントしてもらったセイコウの腕時計を外し、胸を片手で隠しながらブラジャーのホックを外した。

「う~………おっぱい見せなきゃダメかなぁ……」

「オレがいて脱ぎにくいなら、先に行ってようか?」

「ヤ! ヤダよ、離れないでよ! 他に男の人、いっぱいいるんだよ? ほたる一人に絶対しないで! 襲われたら、どうするの?!」

「利用案内に書いてあったじゃん。強姦は普通にフランス刑法で処罰しますってさ。ナンパは一人に対して三回まで断られたら声をかけるのをやめることってマナーもあるみたいだし、大丈夫だって♪」

「それでも離れないで!」

「わかったよ。ずっとそばにいるからさ。安心して脱いでみてよ」

「……う~………」

 ほたるは渋々、ゆっくりとブラジャーを脱ぐ。かなり時間がかかったので、後から来た親子連れが先に脱衣を済ませてしまうほどだった。裸になった母と娘の二人組は脱ぐ前と変わらない平然とした様子でアーチェリー場の方へ歩いていった。

「ほら、あんな小さい子だって勇気あるじゃん♪ ほたるも頑張れよ」

「……、あの子は、まだ恥ずかしいとか、そーゆー気持ちが芽生えてない年齢だもん。小学校低学年か、幼稚園児くらいの」

「唯笑ちゃんの初恋は幼稚園らしいぞ?」

「………」

 カナタちゃんの初恋もね、ほたるはタメ息をついてブラジャーを置いた。

「……………………」

「あと一枚♪ あと一枚♪」

「囃し立てないで! バカ正午っ!」

「もったいぶると余計に恥ずかしくなるぞ? すぱっと脱いじゃえよ」

「………………」

 ほたるはショーツへ手をかけ、おろそうとするけれど、思い切れない。空は青くて風は清々しい、完全な屋外で、しかも性的関係をもった正午だけでなく、まったく見ず知らずの外国人男性が何人も周囲にいる状況では、ほたるは下着を脱ぐことに強烈な抵抗を覚えて手が動かなかった。

「……………………」

 胸も片腕で乳首を隠したままで解放する気にはなれない。まして下半身まで裸になって女性器を人目に晒すことは、とてもできそうにない。

「…う~……………………」

「リラックスして、風呂か、トイレだと思って脱げば?」

「………………………」

 ほたるは数センチ、ショーツをさげてみた。下着が股間から離れ、外気が陰毛と女性器をくすぐってくる。猛烈な羞恥心を覚えて、ほたるはショーツを元に戻した。

「無理……脱げない…」

「脱げないなら、脱がそうか?」

「近づいたら叩くから」

「そばにいろって言ったじゃん」

「ほたるから半径1メートル以上離れて、5メートル以内にいて!」

「つかず離れず衛星のようにと♪」

 ほたるをリラックスさせようと、正午はふざけて衛星のように、ほたるの周囲を半径3メートルの軌道で回転する。全裸なので、とてもバカみたいな姿だった。

「…バカっ…正午っ…」

 ほたるが怒りでプルプルと震え、おかげで羞恥心は相対的に心の中で減ったけれど、やっぱり脱げない。

「…………り……利用案内には……服、着てちゃダメって書いてなかったよね?」

「まあ、書いてなかったけど、北極で裸になるな、って書いてないのと同じくらい自明の理だから書いてないんだと思う」

「……………………」

 ほたるが胸を隠したまま、躊躇っていると、また正午はふざけてみる。

「野ぁ~球~ぅ♪ するな~ぁら♪ こういう具合に…」

「っ! ほわちゃんパーンチっ!」

 ほたるは正午を殴って、脱ぐのをやめた。

「トップレスだけで限界っ! パンツは脱がない!」

「ほわちゃんパンチ、久々にくらったぜ」

 正午は真剣に嫌がっているので、ほたるを全裸にすることを諦めた。

「ま、いいんじゃない。パンツ着てるくらいで退場にはされないだろ」

「……バカ正午……」

 ほたるはショーツ一枚になり、他の全ての荷物を預けると、やはり強い不安に襲われた。

「……ねぇ……正午くんは怖くないの?」

「何が?」

「だって、パスポートもないんだよ?」

「盗らないだろ、施設の人は」

「そーゆー問題じゃなくて、日本まで何千キロもあって、一番近い住所だって、ほたるの寮なんだよ? オーストリア国境あるんだよ?」

「もはや国境も衣服も必要ない♪ 人類は、あらたな段階に立つ」

「………ホント……バカ正午」

 ほたるは仕方なく正午の隣を歩いていく。正午の持ち物は利用案内のパンフレットと駅で買ったフランス語の旅会話集だけ、ほたるは使い慣れたドイツ語の辞典とショーツ一枚だけだった。ストラスブールはドイツ国境に近く、歴史上何度もドイツ領となったことがあるので、ほたるが覚えつつあるドイツ語が通じるのが唯一の救いだったけれど、受験英語以外の外国語ができない正午がフランスの大地を全裸で歩いているフットワークの軽さは驚異的だった。

「正午くんって、すごいのか、アホなのか、わかんないよ」

「うむ、両方だ」

「………は~ぁ…」

「つまり、すごいアホだ♪」

「真・ほわちゃんパンチが生まれそう……」

「とりあえず何か食べようぜ。そしたら、落ちつくって」

 正午は飲食ができる施設を物色する。

「ちゃんとしたレストランから、ワイルドな店まであるんだなぁ」

「……ワイルドなのって、どんなの?」

「ああ、ほら、あっちでやってる。キャンプファイヤーを自分たちで熾して、肉とか、魚とか、調味料もつけないで焼いて食べるって。原始的な体験ができるんだな。面白そう♪」

「…………」

 ほたるは火を囲んで全裸で肉を手づかみしている白人の男女を見て、タメ息をついた。

「ヨーロッパの人ってアフリカとかに憧れるのかな?」

「アフリカっていうより、ここに書いてあるけど、ヌーディズムそのものが一種の思想っていうかさ。ナチュラリズムの一つで自然に還ろうって理念があるらしいな」

「ふーーん……クジラ獲るなっていうのに?」

「それは別の思想だろ。ベジタリアンとかさ。ヌーディズムなら食べられるものなら、食べるんじゃないかな。まあ、全裸でクジラを捕まえられるとは思えないけど」

「原始人だって最低限の服は着てたと思うよ。毛皮とか」

「そうだよなぁ。一応、ヌーディズムの用語では、服を着ない人をナチュラル、服を着てる人をコーディネーターって言うらしい」

「じゃあ、今は正午くんはナチュラルで、ほたるはコーディネーター?」

「そうなるな。このコーディネーターめ♪」

「バカ正午………………、ねぇ、なんだか、ほたるたち、みんなに見られてない?」

 ほたるは胸を隠したまま、顔を伏せる。

「さっきから、ほたるたち目立ってるよ。みんな、こっちを見てクスクス笑ってる」

「まあ……そりゃ、目立つだろ。ほたる一人、パンツはいてるから」

 正午は周囲の白人たちの視線を受けとめて、肩をすくめて微笑を返した。

「もともとアジア人なだけでも髪の色とか目立つのにさ。ほたるパンツはいて、おっぱい隠してるから」

「だって………」

 ほたるは恥ずかしくて顔をあげられないけれど、他の来園者たちはクスクスと笑ったり、ほたるのことを同伴者と何か話したりしている。バカにされたり嘲っている様子はなくて、ただ優しく見守ってくれてたり、そっとしておこうという結論でまとめてくれているみたいだが、こちらの人間は会話にともなうジェスチャーが大きいので、ほたるは解りたくないのに何を言われているか、解ってしまって余計に羞恥心が湧いてくる。

「ぅ~……ぅ~……ほたる的にはパンツ一枚で外を歩いてるだけで、もう大事件なんだからね……。こっち見ないでよ」

「みんな堂々としてる中で、ほたるだけ恥ずかしがってるから余計に目立つさ。修学旅行の風呂で水着だったら目立つだろ?」

「……修学旅行は女湯だもん……混浴じゃないもん」

「おっ♪ 修学旅行で混浴は、すごいな。う~ん……うちの校長、アホだから採用してくれないかな。校長も、いっしょに入ってくるぞ? 生徒と交流するために」

「そんな案が万が一採用されても、りかりんちゃんが怒って、お母さんが市議会で問題にしてくれるから出発前に廃案になると思うし、もしも実行されても女子は全員水着きるよ」

「いや、カナタなら裸で…、あ、……ごめん」

 正午が付き合っていたカナタの名前を出したことを謝ると、ほたるはクスクスと笑った。

「いいよ、別に。気をつかってくれなくても。うっかり自然に出てきちゃっただけでしょ。うん、カナタちゃんなら混浴に挑戦して男子を困らせるかもしれないね。逆に男子だって海パンで入浴するかも。たぶん、ケンちゃんなら恥ずかしがって、お風呂にも入らないかも」

「たはっ♪」

「……。ご飯、どうするの? どこで食べる?」

「あれに挑戦するか?」

 正午がキャンプファイヤーで肉を炙っている来園者を指した。さきほど、アーチェリー場へ行ったはずの母娘が今は火を囲んでいる。6才くらいのフランス人形のような可愛らしい全裸幼女が焼いた肉へチョコレートをかけて母親に怒られていた。会話がフランス語なので、ほたると正午には理解できないけれど、だいたいの雰囲気で、もったいないから食材を無駄にせず、食べきりなさいと母親が叱り、幼女は泣きながらチョコかけ肉を食べている感じだった。

「たはっ♪ あの子、トラウマになってバーベキュー嫌いになるかもよ」

「唯笑ちゃんと三上くんがいたら、もっとスゴイ料理にしてフランス人に日本を誤解させちゃったかも」

「そうだな♪ 今度、みんなで遊びに来たいな」

「……。それは唯笑ちゃんの裸も見たいってこと?」

「う~………、まあ、ほたるは正直は美徳だと思える?」

「はいはい。どうせ、男の子がエッチなのは知ってるからいいよ。いっそ卒業旅行は澄空学園のみんなとも合同で、ここに来たら、すごいことになるね」

「それは、また………」

 正午が想像してみる。めでたく卒業した仲間たちでの旅行が真昼のアダム園だったなら、ほたると正午に加え、智也や翔太、もしかしたら健、そして何より女性陣は彩花や唯笑、鷹乃、つばめ、もしかしたら巴も、そしてカナタと果凛に葉夜あたりが全員全裸の全力全開だったら、どんな宴になるのか、その光景は絵として想像を絶した。

「正午くん、ほたるの冗談を本気にして変な想像しないのっ!」

「うぐっ…」

 正午は勃ちかけていたところへ、ほわちゃんパンチを受けて現実へ引き戻された。

「たははっ…」

「ほたるのバージン、誰がもらったの?」

「はい、オレっす」

「ちゃんと責任とってよね」

「わかってるって♪ ……あ~……けど、真剣な話、ほたるとオレって結婚するのかな?」

「………。正午くんは、したいの? したくないの?」

「したいか、したくないかって言われると、………したくないことはない。けど、二人とも大学あるし、卒業後だろ。ほたるは、したい? したくない?」

「う~……………………まだ、ウイーンに来たばっかりだもん。だいたい正午くんと付き合って、まだ一ヶ月だし。……その一ヶ月だって、ウイーンと日本で離れ離れ。なんだか付き合ってるって実感ないよ」

「実感かぁ………」

「こっちに来てから、ぜんぜん連絡もなくて、ほたる捨てられたかと思ってた」

「たはっ♪ しようと思ったんだけど、いっそサプライズで会いに行こうって考えてからは、あえて連絡しなかったんだ」

「バージンあげたのに放置されたから、超ヤリ逃げされたって思ったんだよ?」

 冗談っぽく言ってあげてるけど、本気でヤリ逃げだって思ってたもん、どうせ二学期が始まったらカナタちゃんとヨリを戻して、ほたるのことなんて忘れちゃうって、なのに来てくれたのは、超感動だけど、本当にカナタちゃんとは、どうなってるのかな、ほたるは隣を歩く正午の横顔を見つめる。

「さっき、正午くん、ほたると結婚したくないことはない。って否定の否定で答えてくれたけど、それはバージンの責任をとってくれるってことで、ほたるが結婚してってお願いしたら、してくれるってこと?」

「…う~……まあ……そーゆーこと、かな…」

「じゃあ、カナタちゃんがバージンの責任とって結婚してってお願いしてきたら、どうするの?」

「あいつとは別れたのに、その状況は無くない?」

「カナタちゃんが、すっごく素直になってお願いだから結婚してって泣きついてきたら、どうするの?」

「あいつは、そーゆープライドの低いことは……」

 言いながら正午は誕生日にカナタが泣きついてきたので最後の一回ということで関係をもったことを思い出した。そのわずかな表情の変化を、ほたるは見逃さなかった。

「カナタちゃんのバージンと、ほたるのバージン、どっちも重いね?」

「………どっちかというと、ほたるの方が大切っぽい」

「カナタちゃんは捨ててもいいってこと?」

「……。言い方は悪いけど……カナタは、そーゆーのこだわらない…かも……っていうか、ほたるは捨てにくい」

「ほたるは捨てにくいの? ……どこが?」

「ほたる的ギャグさえ言わなければ、可愛い♪」

 正午は茶化そうとしたけれど、ほたるは追求する。

「ほたるは捨てにくくてカナタちゃんは捨てやすかった?」

「………こだわるなぁ……、カナタとはケンカ別れで捨てたわけじゃないし…」

「だから、カナタちゃんが捨てないでってお願いにきたら?」

「……………………お願いに来ても、ほたるを選ぶ」

「捨てにくいから?」

「……可愛いから」

「………………」

 好きだから、じゃないんだね、ほたるはオンリーワンではなくてナンバーワンにすぎない我が身に諦観を抱いた。

「ありがとう。正午くん」

 ほたるを捨てにくいのは、ほたるがケンちゃんに捨てられた子だから二度も捨てられないだけだよ、もしも、ほたるとトトちゃんの立場が逆だったら正午くんの隣をトトちゃんが歩いてるかもしれない、そのもしもは無いし、もしもを言い出したらきりがないよね、ほたるは考え込むうちに乳房を隠していた腕が疲れてしまい、いつのまにか乳首を晒して歩いていることに気づいた。

「……」

 ほたるは再び隠しつつも、そろそろトップレスに慣れてきた自分に驚いた。

「………」

 慣れって怖いなぁ、みんなトップレスだから、ほたるも平気になってきちゃったかも、これが慣れる時間もなしで、みんなが服を着てるのに、ほたるだけ裸とかで教室とか校庭だったら、その日の夜には自殺してるかも、ほたるはタメ息をついた。

「…………」

 でも、裸を見られたから死にたいって気持ちも、ケンちゃんにフラれたとき死にたいくらい悲しかったのと同じで、だんだん時間が経つと、薄れていって平気になるかもしれない、今みたいに慣れるかも、そう思うと人間って自分では大問題って思ってることも実は小さな小さなことなのかも、ほたるは重ねてタメ息をついた。

「オレと……結婚したい?」

「………え?」

「ずっと黙って……タメ息ついてるから……オレ、空気読めてない?」

「ううん、ぼーっとしてただけ。お腹空いちゃった♪」

「ああ、飯にしよう。で、どうする? 原始人風か、レストランか」

「ほたる、ちゃんとしたレストランがいいなぁ」

「んじゃ、あれにしよう」

 二人は丘に建てられたレストランへ入った。ほたるは入口で出迎えてくれたウエイトレスが全裸ではなく正式なメイド服を着ていたので、後退った。

「…しょ…正午くん…、ここって服を着てないとダメなんじゃ…」

「あ~……」

 正午も戸惑ってウエイトレスに身ぶり手振りで問いかけると、笑顔でレストラン内はスタッフのみ制服を着ています、とフランス語で答えてくれた。なんとなく言われたことがわかった正午が店内を覗くと、お客は全員が全裸だが、ウエイトレスやコックは制服を着ている状態だった。

「大丈夫みたいだ。たしか、スタッフは火傷とか、衛生上の問題があるときは制服を着てるって、どこかに書いてあったから。入ろうぜ、ほたる」

「…う……うん……。でも、…落ちつかないなぁ…」

「ほたるはパンツはいてるじゃん♪」

「……バカ正午…」

 ほたるは落ちつかない気分でテーブルへ案内される。本来ならノーネクタイやジーンズというだけで入店を断られそうな格調高いレストランなのに、お客が全裸なので激しい違和感がある。ほたるは身を隠すように着席すると、はやばやとナプキンで胸を隠した。

「はぁぁ……気が変になりそう…」

「え~っと、メニューは……ラ・カルトゥ……スィル・ブ・プレ」

 正午が拙い発音でメニューをください、と頼んでいる。ウエイトレスが優雅にメニューを渡してくれ、にこやかに微笑み、ほたるが恥ずかしがっている様子なので余分に大きめのナプキンを用意してくれて前かけのように首の後ろで結んでくれた。

「だ…Danke schon.」

 ほたるはドイツ語で礼を言い、乳首が隠れたので気持ちが落ちついた。

「ふーっ……食欲が飛んでいっちゃいそう」

「注文、どうする? オレは何でもいいけど、ほたるは?」

「ほたるも正午くんが決めたのでいい」

「んじゃ…」

 正午は旅会話集とメニューを見比べながらフランス語を使ってランチコースを頼んだ。

「食べ終わったら、あそこでピアノ弾いてくれよ♪」

「ぅ~……」

 ほたるはレストランの大きな窓から見える野外音楽場を見下ろして緊張する。丘の麓にある野外音楽場はギリシャの集会場を模した造りで、半円形の客席が丘の斜面にそって並び、低い位置にステージがある。そこにピアノや管楽器、打楽器が備えつけられていて自由に使っていい状態になっている。今もバイオリンやチェロを四人の女性が息を合わせて奏でていた。もちろん、四人とも全裸で、それを聴いている人たち数十人も裸だった。

「……やっぱり、弾かないとダメ?」

「そのために、わざわざストラスブールまで来たんだからさ。頼むよ。たんなるヌーディストリゾートなら百以上あったけど、ピアノが屋外で自由に弾けるのは、ここだけだったんだからさ」

「…………外でピアノを弾いてみたいって気持ちは、前からあったけど……裸はイヤだもん」

「パンツはいたままでいいって♪」

「……は~ぁ……」

 ほたるは前菜のサーモンサラダをタメ息といっしょに飲み込んだ。

「……美味しい」

「うまいな♪ セ・テクセラン」

 フランス語で料理を褒めた正午は、うっかりフォークを落としてしまった。

「おっと…」

 床へ手を伸ばしてフォークを拾うと、テーブルの下から、ほたるの両脚が見える。ほっそりとした形のいい脚は何にも隠されず、指先からショーツまで鑑賞することができる。正午は食欲よりも強い欲望を覚えた。

「たはっ…」

「正午くん…、何を見てるの?」

「ほたるの脚、キレイだなって。テーブルクロスの中で見ると、なんかエロい」

「……………………」

 ほたるが赤面して怒った。

「バカ……、エッチっ」

 下着一枚で立派なレストランに入って食事していることが、ほたるは恥ずかしくて仕方ない。お尻をおろしているイスの直接的な感触も、丸出しの背中やナプキンで隠しているだけの胸の頼りなさも、ほたるたちが裸なのにウエイトレスは制服を着ていることも、どれも非日常的で旅の恥はかきすてという言葉を思い出してみても、やっぱり心臓が速く動いてしまう。

「……はぁぁ…」

 ほたると正午はテーブルマナーを守ってフランス料理を食べている。二人とも無自覚ではあるけれど、育ちの良さが自然に身から出ていて、服さえ着ていれば通常の高級レストランでも遜色ないカップルだった。周囲のお客たちも西洋人らしく板に付いたテーブルマナーで食事を進めているけれど、全員が全裸という異常な空間が非現実的なのに、ほたるの肌が空気に触れている感触は現実的で恥ずかしい。ほたるは乳首にあたるナプキンの摩擦に感じて身じろぎした。いつのまにか、乳首が勃っている。誰にも気づかれないよう、ほたるはナプキンでのガードをあらため、しっかりと胸を隠した。

「はぁぁ…これ……夢に見そう」

「いい夢じゃん♪」

「最悪の悪夢だよ。たぶん、夢の中で裸なのは、ほたる一人っていう夢になると思うもん。で、どんなに服を探しても無いの。恥ずかしくてお店から逃げ出しても、外でも笑われるの。逃げて逃げて、逃げまくる、そーゆー悪夢を見そうで怖いよ」

 ほたるは主菜の肉料理を口へ入れた。

「………美味しい」

「なんだかんだ言ってるけど、慣れてきたじゃん」

「バカ正午。カナタちゃんが…、またカナタちゃんの話、してもいい?」

「お互い裸なんだし、遠慮なくどうぞ。リアル腹を割って話そう♪」

「……リアルに割ったら切腹だよ。バカ」

「で、カナタが、どうしたって?」

「カナタちゃんがバカショーゴって言いたくなる気持ちが、ほたるにもわかってきたってこと」

「うむ。それはオレとの付き合いに慣れてきたってことだな」

「………バカ」

「たはっ♪」

「あ、あの人たち、もう演奏やめちゃった」

 ほたるは野外音楽場で弦楽器を奏でていた四人がステージから去ったので少し残念そうに言う。

「ここから見てるだけでも、巧そうな人たちだったから、ちょっと聴きたかったのに」

「ピアノ以外も興味あるんだ?」

「うん、もちろん」

「ジャンル的にはクラッシックがメイン? バンドとか、軽いのは?」

「う~ん、基本的に電気を使ってないのが好き。エレキギターとか、うるさいのは……ちょっと。正午くんはカナタちゃんと、よくバンドのライブに行ってたね?」

「ああ、まあ。けど、あれはカナタに誘われて行ってる感じだったから、ほたるがクラッシック好きなら、そっちのコンサートでもいいや」

「………こだわりがないのが、いいのか、悪いのか……どっちでもよさそうだね?」

 ほたるはデザートを食べ終わると、服装以外は大満足の昼食だったので、マナー通りナプキンは折りたたまずテーブルにおいておく。普通ならチップも置くところだったけれど、今は1ユーロも持っていない。せめて、ウエイトレスに正午から聞いたフランス語で礼を言ってレストランを出た。

「うーーんっ、美味しかったぁ♪」

「ちょっと休憩しようか」

「うん」

 満腹でピアノを弾く気にはなれないので、ほたるは休憩に賛同したけれど、正午が芝生の上で寝転がったので戸惑う。

「裸なのに、そんなとこに寝ちゃうの?」

「だって、みんなやってるし」

 正午の言うとおり、他の来園者も芝生に寝そべっている。中にはシートを敷いている人もいるが、ほとんどは肌で芝生の感触を楽しんでいるようだった。

「でも、虫とかに刺されない?」

「毒性の強い虫は駆除してあるってさ。蟻にアレルギーがなければ大丈夫だって書いてあったし、農薬も害のない有機系のものしか使ってないって」

「……配慮があるのが、すごいっていうか……裸で過ごすために本気で環境の管理してるとこの徹底ぶりが、こっちの人っぽい…」

 ほたるは科学的に安心したので芝生にお尻をおろした。ゆっくり背中もつけて寝転がってみる。

「あ~……」

「気持ちいいな」

「うん……これは、初体験……」

 ほたるは背中で大地を感じて目を閉じた。正午が手を握ってくる。恋人らしい配慮が嬉しいけれど、自然な行動ではなくて配慮しようと意図して行われた感じがしたので、ほたるは湧いてきた疑問を隠さずに訊いてみる。

「こーゆー恋人っぽいこと、カナタちゃんともしてた?」

「ん~~……あいつとは恋人っていうか、よく遊ぶ友達って感覚だったからなぁ」

「………」

 それカナタちゃんが聞いたら、心で泣いて顔で笑うよ、ほたるは握ってくれている手をそのままに目をあけて正午を見つめた。

「学校でカナタちゃんと、どうしてる?」

「どうしてるって、あいつとは、もう別れたから、どうもこうもないけど?」

「でも、同じ学校だから廊下でも教室でも会うよね。何か話してる?」

「まあ、挨拶くらいはしてるけど、ほたるがイヤなら無視する」

「ううん、無視なんてしないであげて」

「ほたるがそういうなら……」

「挨拶して、ちょっとは会話もしてあげてる?」

「いや、オレに馴れ馴れしくするなって言っておいた」

「………かわいそうだよ」

「そうだけど……、ケジメだろ? ほたると付き合ってるのに、カナタと仲良くしたら、やっぱりさ……。ほたるとのこと、まだ明確には言ってないし……」

「ほたると付き合ってること、カナタちゃんに言ってないの?」

「新しい彼女ができたとは言った。けど、ほたるとは言ってない。言うと、ほたるとカナタの関係が悪くなりそうで……、言った方がいいなら、言うけど……。カナタってさ、ほたるのこと気に入ってるっていうか、あいつ、交友関係広いようで実は狭いし、その中で、ほたるは大事っぽい感じだから……、ほたるとオレが付き合ったこと知ったら、ショックを……まあ、あいつならショックも軽いかもしれないけど……なんとなく言わない方がいい気がして……。もちろん、ほたるが言ってほしいなら、オレから言っておくけど……、秘密の方がいい気がして……ごめん。まだ、言ってない」

「いいよ。言わないで………少なくとも、まだ……」

 正午くんの判断にしては、それは正解だと思う、カナタちゃんって、ほたるのこと他の友達より好きでいてくれるみたいだから、そのほたるが裏切ってるって知ったら、すごく傷つくと思う、モデルしててプライドも高くて、なのに正午くんのこと本気で好きなカナタちゃんだから余計に深く傷つくよ、ごめん、カナタちゃん、ごめん、ほたるは遠く日本にいるカナタのことを想った。

「オレとカナタは、ゆっくり他人になるつもりだけど、ほたるとトトは、どうなってる? こっちに来てから連絡とかあるのか?」

「うん、一回だけね。トトちゃんから手紙が来て、ウイーンの生活には慣れた? 私は彼氏ができましたぁ♪って内容の。ふふ…、彼氏さんとのプリクラが貼ってあって、どこかで見た人に似てたよ。ふふ…」

「あ………あいつは……どこまで空気読めないっていうか……最悪っていうか…」

「トトちゃんを悪く言わないで。知らないだけだから」

「知らないって言ってもさ………。で、その手紙に、もう返事したのか?」

「うん、ごく普通に。ドイツ語が難しくて大変だけど、なんとか元気だよ、って」

「いい加減、もう無知は罪だろ? 知る権利っていうか、トトには知る義務がないか?」

「ダメだよ。言っちゃ」

「けど…」

「何年か、ううん、もっと何十年かして、トトちゃんとケンちゃんが結婚して子供が産まれて、その子供が……うん、あの子くらいになったら。ボンジュール♪」

 ほたるは話しながら、たまたま通りがかって目が合った6才くらいのフランス人形のように可愛らしい全裸幼女にフランス語で挨拶されたので、拙い発音のフランス語で返事をして手を振った。全裸幼女は手を振ってくれたけれど、いっしょにいた母親へフランス語で、どうしてあの人だけパンツをはいてるの、と問いかけている様子で、ほたると正午にも雰囲気で意味が通じた。

「やっぱり目立ってるな」

「………いいもん! ほたるはシャイでナイーブな日本人でいいもん!」

 いっしょにいた母親が娘を叱りながら、彼女はシャイでナイーブな人なのでしょう、と教えていたのがわかったので、ほたるは拗ねた。

「話を戻すよ。トトちゃんに言うのは、もっともっと先の話っ! もしかしたら一生言わないかも……」

「そっか……まあ、ほたるが、そういうなら、それでいいかな。どうせ、トトのやつ飽きっぽいから、半年くらいで別れるかもよ? 卒業まで保たなかったりして♪」

「人の不幸を望まないのっ」

「ほたるは本当に優しいな」

「……褒めてもパンツ脱がないからね」

「たはっ♪」

「なんかピアノ弾きたい気分。元気のいい曲っ♪ うん、ベートーベンの英雄!」

 ほたるは立ち上がって野外音楽場へ向かった。ちょうど誰も演奏していないので観客席も人が少ない、ほたるはパンツ一枚でステージへあがった。正午は最前列の中央へ座る。

「よっ♪ 待ってました!」

「バカ正午……」

 ほたるはピアノの前に座ると、気持ちを整える。鍵盤を見て集中する。

「…………………………………………」

 指が動き始める。

「やっぱり神業クラスだな……」

 音楽のことがわからない正午にも、ほたるの演奏が素晴らしいことはサッカーを知らなくてもワールドカップが高校生リーグとは段違いであることが見てわかるように、ほたるの指の動きと音で理解できた。それは正午以外の来園者も同じで、さきほどまでまばらだった観客席が一人、また一人と増えていく。

「………」

 ほたるが一楽章を終えて観客席を見ると、かなりの人数が集まっていた。

「………………………」

 恥ずかしいと思うから恥ずかしいの、平気、みんなほたるのおっぱい見に来たんじゃなくてピアノを聴きにきてるの、こんな小さなアジアのおっぱいに、フランスのおっぱいに慣れてる人たちは目もくれないから、大丈夫だよ、ほたる、ほたるは自分を励ましてピアノに集中する。日本でも入賞の常連とはいっても常勝であればあるほど、緊張していた。けれど、曲さえ始まれば、緊張も臆病も消え去る。ほたるは演奏を再開した。さらに聴衆が増え、また一楽章が終わる頃、さきほどヴァイオリンやチェロを奏でていた四人がステージに昇ってきた。

「Salut!」

 ハーイっ、と親しげなフランス語で挨拶されたけれど、ほたるは意味がわからず順番を譲るべきかと思い、席を立とうとしたが、ほたるの肩に触れて席に座っているよう伝えられた。さらに、フランス語で合奏してもよいか、モーツアルトなら何が弾けるか、と問われる。半分も意味がわからないし、曲名もわからないけれど、一人の女性がピアノを弾いて最初の一小節を奏でてくれると、ほたるも曲名がわかった。

「はい、それなら弾けます」

「Oui」

 肯定的な返事があり、五人が合奏する。その合奏の途中でも、欠けていた楽器を操れる人が一人、また一人と参加してくる。にわかオーケストラができあがると、さすがに音の調和が乱れてくる。すると、指揮者が現れ、ほたるたちを導いてくれる。

「……………………」

 ほたるは指揮棒を見上げ、合わせる。けれど、どうしても、指揮者が男性だったので指揮棒よりも、その下の棒が気になってくる。ほたるが集中を乱していると、ヴァイオリンを弾いていた女性が、そっちの棒はト短調で揺れてるわ、上の棒を見ないとね、この曲はヘ長調でしょ、と冗談を飛ばしてきた。音楽用語が混じった冗談だったので、ほたるは理解できた気がしてクスリと笑った。

「ふふ♪」

 音楽とジョークは世界共通だよね、ほたるは再びピアノと指揮棒に集中する。指揮者は全裸であっても、ふざけているわけではなく真剣な指揮で、まるで見えないタキシードを着ているような威厳があった。気づいてみれば、他の楽器を演奏する人たちも、自らステージへ挑むだけあって、その楽器の演奏について研鑽してきた気配が伝わってくる。

「……」

 すごい、みんな、すごい、やっぱり本場なんだ、ほたるは演奏者たちだけでなく、聴衆にも新しい刺激を受けた。今まで演奏してきた日本でのコンクールは、みんな自分の子供や友達の演奏を、あまり音楽もわからずに聴きにきていて、雑然とした感じがあった。ひどいときは、ケータイの着信音が鳴ったり、連れてきた子供の泣き声が響いたりしたけれど、今は6才の全裸幼女でさえ、静かに聴いている。自分の子供だから聴きにきたわけでも、友達だから応援しにきたわけでもなく、美しい音楽だから聴きたいという純粋な意志を感じた。たとえ、観客席の全員が全裸であっても、まるでドレスとタキシードを着て王立の音楽ホールにいるような品格が伝わってくる。本物の紳士と淑女たち、その聴衆のレベルの違いが、ほたるを奮い立たせた。

「……」

 聴かせたい、みんなに、ほたるのピアノを聴いてほしい、みんなに感動してほしい、こんな気持ち、初めてだよ、ほたるは今までにない熱を込めてピアノを弾き、指揮者に合わせ、楽曲の演奏に全ての神経を注いだ。曲が終わり、万雷の拍手が湧き起こった。

「「「Bravo!」」」

「「Bravo!」」

「みんな……みなさんの……、Ich freue mich auch.Das hat mir viel Spab gemacht.最高に」

 こちらこそ、楽しかった、とドイツ語が口をついて出た後、ほたるは立ち上がり一礼すると、おもむろにショーツをおろした。静かに堂々と、ほたるは一糸まとわぬ姿になると、もう一度、頭を下げる。今はむしろ、下着をつけていることが恥ずかしい。この紳士と淑女たちの前で自分を隠すことが非礼であると心の底から想い、そして裸になった自分を見てほしいという衝動のまま、ステージで全裸を晒した。

「Felicitations!」

 おめでとう、と指揮者が祝福してくれた。

「「Felicitations!」」

「「「Felicitations!」」」

「「Ich gratukiere!」」

 フランス語だけでなく、ほたるがドイツ語を解すると知って、おめでとうの言葉を次々に、みんなが贈ってくれる。おめでとう、おめでとう、ほたるは生まれ変わった気分で祝福を浴び、両腕をあげて応える。

「ありがとう! みんな、ありがとう!」

 ほたるは晴れがましい気分で手をふる。そして、あらたなヌーディストの誕生に、みなが拍手と祝福を贈ってくれていた。

「Cest magnifique.」

 指揮者が、素晴らしい、と讃えて、ほたるを抱きしめてくれる。ほたるも西欧風の抱擁に慣れているので抱き返した。

「メルシィ」

 ありがとう、と覚えたてのフランス語で礼を言う。二人とも全裸なので抱き合うと、ほたるの腹部にト短調で揺れていた下の指揮棒があたるけれど抵抗感はなかった。他のメンバーとも抱き合い、交遊を深めたけれど、しばらくして正午が何をしているか気になり、不意に客席の最前列を見ると、同伴者は居眠り中だった。

「……正午くん…」

 おそらく、ほたるの演奏が佳境に入る前くらいから、睡魔の誘惑に負けていたらしくだらしなく爆睡している。

「はぁぁ…」

 ほたるは残念で少し恥ずかしかった。自画自賛になるけれど、あれだけのオーケストラ演奏で感動せずに眠りこけられる文化程度の低さが淋しい。これだから、日本のクラッシック音楽のレベルは成長せず、ほたるのように留学しなければ一流の技術を身につけることができない。他の聴衆が心から称賛してくれたのにくらべて自分の連れあいが居眠りしていたことは強く遺憾だったし、まわりの人々も曖昧な笑みを浮かべて正午の寝顔を見ている。

「機中泊のあとに、車中泊だもんね……」

 ほたるは前々日は飛行機のシートで一泊し、前日はウイーンからストラスブールまでの列車で眠った正午の疲労を考えれば納得できなくもないので、正午の弁護をドイツ語でしようかと思うけれど、やや構文が複雑になるので、すぐに発語できない。

「ぁ…えっと…er…」

 彼は、と言いかけた瞬間、ほたるの身に最悪のタイミングで不幸な出来事が起こった。ぬるりと生温かい感触を股間と内腿に感じる。

「…っ…」

 ほたるは気持ち悪さで自分の股間を見ると、経血が垂れて脚を汚していた。

「ぅ……………………」

 女性ヌーディストの大きな悩みである月経が最悪のタイミングで始まり、ほたるの表情で周囲の人々も気づいてしまい、ほたるの股間に注目が集まる。

「「「………」」」

 ベテランの女性ヌーディストでもばつが悪いものなのに、まだ初心者にすぎない東洋の少女が多人数の前で脚を汚してしまったことを、どうフォローすべきか周囲が戸惑い、その空気が伝染する。ハンカチでも持っている者がいれば、そっと渡してくれたかもしれないが、あいにくと全員が全裸でポケットなどはない。ほたるの心傷が深くならないうちに、そばにいた女性が物陰へ連れだそうとする。けれど、ほたるは自分で乗り切ろうと、あがいた。

「あれ?」

 ほたるは内腿に垂れた経血を指で拭き取ると、何かわからないという表情をして、その赤い血を正午の男根へ塗りつける。ジグザグな線を描いて血を塗りつける東洋人に周囲は魔術的な気配を感じたけれど、ほたるの狙いは違った。

「えへっ♪ フランクフルトっ、なんちゃって」

 ほたるは正午の男根をフランクフルトに、自分の経血をケチャップに見立てて、ほたる的ギャグで乗り切ろうとしたが、周囲は水を打ったように静まりかえる。

「「「「……………………」」」」

「ぁ…、えっと、ほら? フランクフルト・ソーセージ♪」

 ほたる的ギャグが滑りやすいのは経験しているので習慣的に二度も言ってみる。おまけに脱ぎ捨てた自分のショーツを拾って、包み紙に見立てて正午の男根を軽く巻いた。

「フランクフルト一本、3ユーロ♪」

「「「「……………………」」」」

「……えへっ…」

 ほたるは背中に汗の玉ができるのを感じた。滑った、滑ってしまった、最悪のジョークで軽蔑されてる、ここに集まっている紳士と淑女たちに、こんなジョークを言ってしまった、もうダメ、ほたるは眠り続ける正午をおいて逃げ出したくなった。けれど、次の瞬間、野外音楽場が揺れるような爆笑がおこった。

「「「「GAHAHAHAHAHA!!」」」」

「…ぅ…」

 うけた、うけてる、ほたるも笑った。通じてる、ほたる的ギャグが世界で通用してる、ほたるは嬉しくてギャグを連発する。どれも次々と、うける。うける。クラッシック音楽を鑑賞することにおいて紳士と淑女だった人たちだが、やはり全裸を趣味とするヌーディスト、下品な冗談も笑って楽しめる懐の深さがあった。かのモーツアルトもスカトリックな発言を繰り返していたし、美しい音楽を生むのも人間なら、経血や大便を垂れ流すのも人間だった。ほたるは調子に乗って日本で暖めてきたギャグを試してみる。

「私、オーストリアのウイーンから来ました♪ あ、そうそう、コアラのいるところ、って、それはオーストラリアやがなっ! ややこしいなぁ、いっそドイツみたいに東西統一しよったらええのに。って、どんだけ距離あるねんっ! 地球みんな統一されるわ! ええやん、ジョークで統一されたら、ほんまに平和や♪ 平和って、ええは、えーわ、へーわ」

 もろに日本語のジョークを言って、しかも自分で解説する。

「これはね、平和と、ええは、へーわ、をかけてるの♪ ええはグッド、ドイツ語だとGut!の意味なんだけど。似た感じのジョークで、Eじゃん、Gじゃん、Fじゃんってのがあるの。これはアルファベッドにからめて…」

 ほたるは饒舌に熱意たっぷりに語り、ついにはピアノも使って、ほたる的ギャグの弾き語りを始める。ほとんどが日本語を理解できないと面白くないジョークだったけれど、全裸幼女を連れていた母親が日本語に堪能だったらしく、同時通訳してくれたので、ほたる的ギャグの弾き語り公演は夕日が沈む頃まで続いた。

「おあとがよろしいようで♪ Einen schonen Tag.かっぺ・ムカツク♪ でんでん太鼓ぉ~ぉ♪」

 このあとも、よい一日を、と締めくくり拍手をくれる観客に手を振ってステージをおりる。侍の国から来た全裸芸人に惜しみない称賛が贈られた。

「はぁぁ♪ 楽しかった」

 ほたるは眠っている正午に近づく。爆睡していた正午は途中で一度は目を覚ましていたけれど、ステージで行われていたのが、ほたる的ギャグの弾き語りだと気づくと、二度寝していた。おかげで、下の指揮棒はフランクフルトになったままだった。

「もお、正午くん、そろそろ起きてよ」

「ん~……」

「起きないとフランクフルトを食べちゃうよ」

「ん~? もう夕飯に……」

 寝ぼけ眼の正午は起きあがると、ステージを見た。

「……ウイリアム・テルか……あの母親、すげぇ自信だな」

 ほたるが退場したステージでは、全裸幼女が頭にリンゴをのせられて母親が射る矢を硬い表情で待っていた。弓を構えて母親は冷静に狙っているけれど、全裸幼女は少し震えている。矢が放たれ、見事にリンゴを射抜いた。拍手が湧き起こり、母娘がありもしないスカートの裾をつまんでお辞儀している。

「たはーっ……こっちの人って、やること気合い入ってるなぁ」

「うん、すごいね。見ててハラハラしたよ。あ、夕日が沈む」

 ほたるは肌寒さを覚えた。太陽が傾くと、さすがに全裸では寒い。けれど、他の来園者たちは慣れているのか、あまり寒そうにしていない。ほたるが腕を抱くと、正午が小さな肩へ腕を回して抱きよせてくれる。

「正午くん、あっちの丘から夕日を見ない?」

「ああ、いいよ。けど、オレって長いこと寝てたんだな。昼寝のつもりが、夕方になってる」

 二人は野外音楽場を離れて、人のいない丘を目指して歩く。

「疲れてたんだよ。飛行機のあとに長距離列車だもん」

「そーだなぁ、ちょっとダルかった」

「………。本当に、来てくれて、ありがとう。正午くん」

「そんな風にストレートに言われると、……たはっ♪」

 正午が照れて笑った。

「正午くんのおかげでホームシックもドーバー海峡まで流れていっちゃったよ。どばーって」

「………」

「だからね、どばーっ、と、ドーバー海峡まで…」

「いや、説明はいいから」

 伊波が耐えられなかったのは実は浮気心というより、このセンスだったりして、中学からの免疫があるオレらでも疲れるからなぁ、正午はタメ息を隠して、ほたるのお尻を撫でた。

「あんっ♪」

 ほたるは裸のお尻を撫でられて可愛らしい声を漏らして身をよじった。ほたるが正午を見つめる。丘の上は二人きりで、肌寒い風が吹いているので裸の身体を寄せ合っている。

「すごいね」

「……何が?」

「こんな風に夕日を、こんなところで、正午くんと見てる。すっごい運命の確率だよ?」

「ああ、そうだな。のんちゃんに言わせれば世界はシュレディンガーだらけでラプラスは大変だってことになるな」

「ふふっ♪ ねぇ、あの沈む夕日に何か叫んでみて」

「……何を?」

「何でもいいよ。正午くんが叫びたいこと」

「ん~………、とくに、ない」

「たはーっ……。じゃあ、ほたるが叫ぶ」

 ほたるは正午から離れると、ストラスブールの夕日に叫ぶ。

「ケンちゃんのバカっ!!!」

 遠くの山々まで響きそうな澄んだ大声だった。

「トトちゃんのアホぉっ!!!」

「ははは♪」

「裏切り者っ!!! 死んじゃえバカっ!!! 本当に死んじゃえとは思ってないけど、豆腐の角で頭打ってみろっ!!」

 ほたるの声は湿っぽくない。思ったことを思ったまま叫んで笑った。

「あーーっ、すっきり♪ うん、これでおしまい。ほたるの初恋は、今、ここで、こーゆー風に完結しました♪」

「そっか、よかったな」

「だから、もう一つ、叫びます」

「……どうぞ?」

 正午が促すと、ほたるは夕日ではなく正午に向かって叫ぶ。

「正午くんっ!! 大ぁ~好きっ!!!」

「………ぐはっ……ほたる……可愛いな、お前」

 正午が面はゆくて目をそらした。

「正午くんっ! エッチしよ!」

 ほたるが叫んで抱きついてくる。受けとめた正午はキスをして、ほたるを抱きしめる。もう言葉は必要なくなって、衣服を脱ぐまどろこしさも無く、もってまわった愛撫や前戯もなしで、ただ赤裸々に情熱と本能に身を任せて、女と男が大地の上で一つになった。

 

 



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13話

 

 

 翌日の9月28日、智也は朝食が終わったのに鷹乃が制服を着ないので声をかける。

「鷹乃、今日も学校、休むのか?」

「…ええ……行きたくないわ」

 ジャージを着てエプロンをしている鷹乃は暗い顔で首をふった。

「そうか。じゃあ、風邪が続いてるって先生には言っておくぞ」

「…ええ、…お願い」

「……大丈夫か? さっきも朝食、ほとんど食べてないだろ? どこか痛いのか?」

「平気……何でもないわ」

 気づかれたくない、12キロも太ったなんて、智也には絶対知られたくない、鷹乃は昨日の昼食を抜き、夕食も智也が帰る前に食べてしまったとウソを言って食べず、今もまた牛乳を一杯飲んだだけで夫を見送る。

「…いってらっしゃい。はい、お弁当」

「ああ…」

 智也は弁当を受け取り、少し渇いた鷹乃の唇へキスをすると、家を出た。まっすぐ藍ヶ丘駅を目指して歩くと、登校中の唯笑と彩花に見つかった。

「あ♪ トモちゃん! 久しぶりぃ♪」

「よぉ」

「智也、寿々奈さんは? 昨日もいっしょじゃなかったわよね?」

「鷹乃は風邪で休んでる。……昨日もって、よく知ってるな」

「見たくなくても駅までは同じ通学路ですから」

「鷹乃ちゃん、そんなに具合悪いの?」

「いや、たいしたことない。もう元気なんだが、もう一日、安静にしてようってことだ。どうせ、鷹乃は受験しないし」

「どうせって……じゃあ、寿々奈さん、進路は、どうするの?」

「そりゃ……オレと結婚…」

 っていうか、もう入籍済みだけど、こいつらに言うとうるさいからな、黙っておこう、智也は結婚したことを幼馴染みに隠すことにした。

「結婚っ?! トモちゃんと鷹乃ちゃん、結婚するのっ?!」

「まあ……このまま順調なら、な」

「いいなっいいなっ! 唯笑も結婚したいなぁ♪ お嫁さんになりたいなぁ! ウェディングドレス着たいなぁ♪」

「彩花にでも頼めよ。結婚してくれって」

「私も女なんですけど?」

「じゃあ、二人でドレス着ればいいじゃん」

「アホ」

「……トモちゃん……それって変じゃない?」

「変だと思うから変なんだ。ちょっと個性的なだけだと思えばいい♪ 唯笑と彩花、お似合いだぞ?」

「どうでもいいこと話してたら、乗り遅れそう。唯笑ちゃん、急ごっ!」

「うんっ! じゃあね、トモちゃん」

 澄空学園へ向かうシカ電に乗るため、唯笑と彩花は駆けていく。けれど、彩花は振り返って叫ぶ。

「智也ぁぁ!」

「ん?」

「競馬、勝てたぁぁ? 今度、おごってねぇぇ!」

「ぐっ…」

 知ってやがる、気づいてやがった、あの日、クロエと競馬場に行ったこと、くそっ、チェック厳しいな、けど、りかりん情報までは出回ってないな、りかりんが胸の中に止めておいてくれるのか、智也は今後の対策を考えながら浜咲学園へ向かうシカ電に乗った。

「………………」

 鷹乃は元気ないし、クロエとの家庭教師は辞められなかったし、りかりんは怒って絶交してきたし、彩花にも目撃されてたし、黒須に相談しようにも軽い絶交な上に様子が変だし、やばいな、オレ、だんだん包囲網が完成してないか、なんとか突破しないと、智也は状況を整理して対策を考えたいのに目の前でキスをするカップルがいたので目障りだった。

「……………………」

 朝のラッシュで満員状態の列車内で、熱いキスを交わしているのは雅と歩だった。

「…んっ……ハァ…」

「はふっ…んっ…」

 舌を絡めて吸い合う濃厚なキスで残暑が厳しい満員電車の気温と不快指数をあげてくれている。智也は何か文句を言いたくなったけれど、九月の始めに自分が鷹乃とのキスで警告されたことを思い出した。

「………」

 あのとき注意してきた二人か、いつのまに、そっちに目覚めたんだ、まあ、他人のことだからいいけど、暑いんだよな、湿度も高いし、こいつら二人とも下も濡れてるな、きっと、智也は二人の下半身を想像したので自分も下半身が熱くなった。

「「……」」

 雅と歩が智也の視線に気づいてキスを続けながら目で微笑した。見たければ、ごゆるりと、どうぞ、と雅が目で語り、歩も、うちら見て勃っとるやろ、アホや、と嗤っている。

「………アホは、お互い様だ」

 智也は口に出してタメ息をつき、唯笑と彩花との会話を思い出した。

「お前ら、二人でウェディングドレス着られるといいな?」

「「……………………」」

 思いがけない発言を浴びて雅と歩はキスをやめ、お互いを見つめた。

「……私たち……どうなるのでしょう?」

「どうって……、せやけど、日本の法律では結婚でけんのと、ちゃいますの? 先輩」

 アホと胸中で罵った相手に訊きたいことがあるので臨機応変に先輩あつかいした歩が問うと、根に持たない上に自分の行動にアホの自覚がある智也は親切に考えてやる。

「法的には市役所で受理してもらえないだろうけど、結婚式そのものはホテルとかの金儲けだから対応してくれるだろ。たぶん、あ…でも、キリスト教の教会で神父に祝福されたいってなると、断られるだろうな。あいつら同性婚を神への反逆だと思ってるから」

「日本の神社でもダメでしょうか?」

「……ドレスじゃなくて着物がいいのか?」

「はい」

「ん~………気のいい神主さんなら事情を説明すれば対応してくれるかも、よ? それか澄空弁財天とか」

「弁財天は……女神…」

「雅が着物がええんやったら……でも、うち、ドレスも着てみたい…」

「私も……ドレスも…」

「せやったら教会と神社でダブル…」

「おい、お色直しってものを忘れてないか?」

「あ、せやった」

「ドレスと着物のことは解決したとしても法的には、やはり難しいのですか?」

「ああ。けど、どっちみち二人の気持ち次第だろ? 法的な結婚なんて形式の問題なんだからさ。たとえ結婚してても別居してたり、気持ちがバラバラな夫婦なんて百万といるしさ。そーゆーことじゃないか? って、なんでオレは真剣に語ってるんだ?」

 浜咲駅に到着したので智也は一人で歩き出したけれど、雅と歩がついてくる。

「おい? 何か文句あるのか?」

「もうちょい色々と教えてもらえると、うれしいちゅーか、先輩のこと尊敬するちゅーか。てへへっ♪」

「さすが関西人だな」

「いやいや先輩こそ、いろいろと裏道を知ってはりそうですし。ぜひ、そのへんをご教授いただけたらとっ」

 歩は褒めて智也を巧く喋らせる。

「そうだな。法的な結婚に、こだわるなら、アメリカの州によっては同性婚を認めてたし、神父も、たまに変わり種がいて同性婚でも祝福してくれるらしいぞ。ヨーロッパでも国によっては婚姻届を受理してくれるから、そーゆー国で国籍とるか、だな。ちなみに、そーゆー国へ旅行して旅行先で結婚するのは無理だったりする。二人とも日本国籍だと取り扱いが現地の日本大使館になるからな。けど、最大の問題は二つある」

「その二つちゅーのは?」

「二つはセットみたいなもんだ。わからないか?」

「んん~っ………」

 歩が考え込み、雅が恐る恐る答える。

「……家族の……反対、ですか?」

「おっ、正解」

「………」

 雅は正解したのに少しも嬉しそうでなく、歩の手を握った。

「当たり前だけど、両親は反対するだろうしさ。たとえ、父親が加賀みたいなアッパッパーなパパで、母親が黒須みたいなスチャラカ自由放任なママでも、爺さんとか、婆さんとか、親戚とか、普通に周囲が反対してくるだろ」

「……………………」

 雅の顔が暗くなったので歩は気づかうように肩を抱いた。

「先輩、もう一つちゅーのも、きつい話ですか?」

「ああ、お金の話だ。これが、一番きつい」

「「……………………」」

「法律が認めなかろうが、家族が反対しようが、とにかく二人でいたいってなったら、親と同居は無理だろ? だったら、アパートを借りるとかして同棲すれば、いい。けど、こうなると必要なのは金だ。家賃って大変らしいぞ? 男と女の結婚なら、たとえ反対されていても同棲しちまえば、そのうち周囲も諦めるし、子供が産まれたら、まあ、両親も渋々認めるのが普通だろ。けど、そーゆー自然の摂理に逆らって生活するとなると、やっぱり大変だと思う」

「……………………先輩、なんで、そんな詳しいんですか? 実は彼女さんはダミーでホンマの趣味は、こっち、とか?」

「もしも鷹乃が男だったら、悩んだろうな。恋愛と性欲は別ものだろ?」

「「……………………」」

「いや、これは男の発想か……まあ、男は恋してない相手にも欲情するから」

「うちら見て勃ってはりましたよね?」

「たはっ♪」

「………」

「いいじゃないか。自分たちの魅力を誇れ。おごれ。自信をもて♪」

「……ま、ええわ。とりあえず、相談したいことができたら、よろしゅーたのんます。お礼は精神的にしかでけませんけど」

 歩は抜け道に詳しい先輩という人脈を大切にして雅と一年生の教室へ向かっていく。智也は後輩を見送ると三年生の教室へ向かい、つばめと廊下で出会った。

「よォ。先生」

「……、よォ、という……挨拶は……生徒が……教師に…」

「元気、ないな? どうした?」

 智也は今朝の鷹乃と同じくらい顔色のさえない国語教師を心配する。

「ちゃんと朝飯、食べてますか?」

「……、……」

 つばめは怨みがましい目で智也を睨んだ。

「98円」

「は?」

「昨日、…あなたに…紙幣を奪われた私…の財布で、オニギリ…一つ買った…後に残った金額…です」

 つばめは物欲しそうに鷹乃が作った弁当を見つめる。

「夕食がオニギリ…一つ……朝食は……抜き……」

「やらないぞ。愛妻弁当だからな。中森の弁当を狙え」

「…彼の……母親が彼の……ために作った…お弁当を……私が…食べては……いけない」

「鷹乃がオレのために作った弁当を食べてもいけないだろうが?」

「いいえ……それだけの…理由は…あり…ます…」

「……………………。わかった」

 智也は財布を出すと三万円を、つばめに見せる。

「金、貸してやる」

「……え?」

「金を貸してやるから、来月の給料で五万円にして返せ」

「……え?」

「だから、オレが先生に金を貸すから、利息つけて返せって言ってるんだ」

「………そのお金は…私の…」

「オレの、だ♪」

「…………」

「一度、オレに渡した金を受け取らせるなんて侮辱したマネはできないからな♪ 女子中学生でも怒るぞ。誇り高ければ、な」

「…………。だと……しても…一ヶ月で66.6パーセントの…利息と…いうのは、年利になおすと…」

「残り少ないカロリー使って余計な計算するなよ」

「明らかに…利息制限法と…出資法に…違反…」

「ああ、いいんだ。オレは闇金融だから。ぜんぜん金融業の登録、してないから。個人が個人に自由で貸すんだ。民法しか適応されない。それに2万円は利息というより礼金みたいなものだ。ぜんぜん問題ない♪」

「……………………」

「いや、なら、いいんだぜ? 草でも喰って生き延びろよ」

「………………」

 つばめの脳裏に朝凪荘に生えている食べられる野草の数々がめぐった。案外、一ヶ月くらい生きていけるかもしれない。けれど、ビタミンは十分でも炭水化物が不足する。穀物がないと苦しい。お米、小麦粉、トウモロコシ、ジャガイモ、カロリーになるものを食べないと生きていけない。

「来月の給料が2万マイナスなだけだろ? そんな元気のない顔してたら中森が心配するぞ? これで何か温かいものでも食べろよ。な?」

 智也は五百円玉を三万円につけた。

「……給料日まで……一日……約千円で……。でも、家賃は?」

「伊波に借りれば? あいつなら借りたまま返さなくても大丈夫だから。返せって言ってきたら、白河の話でもすれば居づらくなって逃げるって♪」

「………伊波くん……白河さんとの交際……どうしたの?」

「裏切って捨てた。今は飛世巴っていう女とヤりまくってる。不純異性交遊だ。教育的指導の必要があるぞ」

「………」

「ちなみに飛世巴はトトってアダ名だ」

「…それは…知っていま…す…」

「トトは澄空学園の三年生で藍ヶ丘に住んでる。バスケって劇団の女優だ。小学校のとき淳って弟が交通事故で死んでる。中学は藍ヶ丘第二。そこで白河と親友になってる。っと、このくらいの個人情報があれば、先生なら伊波からバイト代を巻き上げられるだろ?」

「……私と……翔太くん、…中森くん…のこと…も伊波くんは知っている…のに? 脅せば逆に…」

「先生なら、できないか? 巧く話術で言いくるめて金借りて返さなければいい」

「…あ…なたは…伊波くん……に怨みでも…あるの?」

「ある」

「……どんな?」

「オレの友達だった白河を傷つけた。巴に無自覚に白河を裏切らせた。これで理由は十分だろ? んじゃ、来月の給料日に6万円、よろしくな」

「ふ…えて…」

「500円、つけてやっただろ?」

 智也は月利2000パーセントの暴利を言い渡すと、つばめと別れて教室に入った。

 

 

 

 放課後、智也は下校途中で彩花に捕まって舌打ちした。

「ちっ……待ち伏せたな?」

「まあねン♪」

 彩花は逃がさないように智也の袖を掴みつつ、微笑む。

「で、智也。変装してまでデートしてた相手は、誰なの?」

「……。デートじゃない。競馬場の社会見学だ」

「で?」

「………それだけだ」

「で、誰なの?」

「…………バイト先のお嬢さんだ」

「ふーーんっ、キレイな子だったね。あれって日本人?」

「いや、ハーフらしい」

「フィンランドの?」

「フランスだとか」

「ふーーんっ、で、このことは寿々奈さん、知ってるの?」

「ぐっ…」

「タコ焼き、食べたい♪」

 彩花が可愛らしく天使のように微笑んだ。すぐそこにタコ焼きの屋台が出ている。中学の頃から、何かあると彩花がねだる店だった。

「タコ焼き、食べたいなぁ♪」

「たかりかよ」

「ううん、食べたいだけ♪ お願い、智也」

「……こんなときだけ可愛い顔しやがって…」

「いつも可愛いと見飽きるでしょ?」

 クスクスと笑う彩花から柑橘系の香りがする。着こなしている澄空学園の制服が見慣れた浜咲学園の制服より可愛く見えてしまう。

「……」

 ねだるときの彩花だけは可愛いからな、まあ、いいか、智也は財布の紐をゆるめた。

「買ってやるから、コーラおごれよ」

「はいはい」

「この件での、たかりはタコ焼きで終わりだからな」

「念を押さなくても黙っていてあげるわよ。あの嫉妬深い彼女さんには、ね」

「……唯笑にも言うなよ」

「言わないって♪ ………」

 微笑んでいた彩花は、智也が渋々出した財布の中を見て仰天した。智也の財布には一万円札が束になりそうなほど入っている。

「ちょっ?! なにそれっ?! いくらあるの?!」

「くっ……しまった」

 智也は隠そうとしたが遅かった。

「そんなお金、どうやって手に入れたの?!」

「こ…これは…だな…」

「百万円くらいあったよね?! ちょっと見せて!!」

 彩花が財布へ手を伸ばしてくる。智也は避けようとしたが、彩花は避ける軌道も読み切って智也から財布を奪った。ざっと数えても一万円札が50枚以上あった。

「こんな大金……」

「返せよ!」

「どうして、こんなに持ってるの?」

 彩花は少し怖くなったので多額の現金が入った財布を素直に智也へ返した。けれど、出所は気になるし、確かめなければ気が済まない。

「いったい、どうやって手に入れたの? どんな悪いことしたの?」

「……これは……競馬で勝ったんだ」

「ウソっ!」

「ウソじゃない! あの日の競馬で大勝ちしたんだ!」

「ウソよ。たとえ競馬で勝ってたとしても、その軍資金の出所が怪しいわよ。それに、競馬で勝っただけのお金なら私が追求したとき、そこまで慌てないはずよ!」

「くっ……名探偵め…」

「付き合いの長さよ。さあ、言いなさい! どんな悪いことして手に入れたの?」

「……………………」

 怪しい媚薬を作って売ったのは言えないな、クロエからのバイト代で大勝ち……いや、もう彩花は何かあることを疑ってるから、なにかを白状しないとダメだ、でっちあげるか、それとも国語教師から巻き上げて競馬に行ったことにするか、けど時系列が狂うから、そこからバレるかもしれない、どうする、考えろオレ様、智也が考えを巡らせる間に彩花も可能性を考える。

「…………」

 あんな大金、どうやって………錦鯉を盗んで売る? ううん、無理よ、たとえ盗めても販売ルートがわからないし、売りに行けたところで、そこでバレて逮捕されるって自分で言ってたから、じゃあ、株……もっと無理よ、株を買うお金がないもの、そんな正当な方法で手に入れたお金なら、こんなに慌てないはずだから、じゃあ、やっぱり何か悪いことをしてる、盗んだ? まさか、それはないよね、じゃあ後輩を脅した? それも、ないよね、いったい何をしたら、そんな大金を………まさか、あの寿々奈さんを使って援助交際とかさせてる? だから学校を休ませてる? 付き合ってみたけど、すぐ飽きたから……、彩花は心配と不安に、ほんの少しの願望を混ぜて疑惑の答えを探っていく。

「智也、そのお金………なにか、いかがわしいことで手に入れたの?」

「い……いかがわしいって……なんだよ?」

「それは……その………エッチなこと…とか?」

「………………」

 智也の沈黙を彩花は肯定と受け取った。

「………最低」

「…………」

「……そんな人だと思わなかった」

「べ……別に、いいだろ。オレが何を売ろうと、オレの勝手だ」

「……………………智也……そこまで言う?」

 彩花が悲しくなって涙を浮かべた。

「あ…彩花、泣くなよ……泣くほどのことじゃないだろ? チョークをラムネにして売るのと違って、誰かが腹痛おこすわけじゃないしさ。欺されてることに気づかなければ、誰も傷つかない最高の商売なんだ。な? タコ焼きおごるから…」

「っ!」

 彩花は右手を一閃して智也の頬を叩いた。

「いらないわよ! そんなお金で買ったタコ焼きなんかっ! バカっ! 最低っ!! 信じられない!! 信じてたのに! そんなことするなんて! 信じられない!!」

「痛ぅっ……そこまで怒ることかよ?」

「……お…怒ることかって………女の子を……なんだと思ってるの?」

「だ……だからさ、効果なんて無いんだ! 二人とも、その気じゃないと効かないから女の子の意思を曲げてるわけじゃない! 信じてくれ! マジで効かないクスリなんだ!」

「クスリ? ………何のこと? ……まさか、麻薬で寿々奈さんを縛って……」

「おいっ! オレをどんな極悪人だと思ってるんだ?! ただのメ○タームとメン○レータムのハイブリットだって! クリトリスに塗るとスースーして感じるから誤解するだけで媚薬なんかじゃないんだって!」

「………メン……、クリト…………、……何を言ってるの?」

「お前こそ、何を言ってるんだ?」

「………だから、寿々奈さんに援助交際させて手に入れたお金じゃないの?」

「なっ……なんでオレが鷹乃を売らなくちゃいけないんだ?! 怒るぞ!」

「じゃっ…、じゃあ、どうして手に入れたのよ?! そんな大金っ!」

「これは……、……だから、…その………わかったっ! 白状する! 全部しゃべる! だから、誰にも言わないでくれ! 鷹乃にも! 唯笑にも! 誰にも、言わないでくれ! お前にだけは本当のことを喋るから誰にも言うなよ!」

 智也は観念して白状することにした。下手な小細工をしても長年の付き合いがある彩花を誤魔化せるとは思えず、そして何もかも話して楽になりたいという気持ちもあって彩花に全てを話していく。ほんのイタズラ心で作ったクスリを鷹乃に試したこと、正午にカナタにも使うよう渡したこと、さらにカナタや下級生たちに高く売ったこと、その金でクロエと競馬に行き、さんざんに負けた後、思わぬ大勝に浮かれ、なし崩し的にクロエと性的な関係をもってしまい、クロエの勝ち金まで受け取る流れになったこと、腹立たしい国語教師を翔太との関係をネタに脅していること、それら全てを公園のベンチに座って語った。

「というわけだ。………」

 智也が恐る恐る彩花の顔色を見ると、疲れた顔でタメ息をついている。

「そう……そんなに色々なことが……事実は小説よりも奇なりね」

「彩花こそ、いったい何を、どう考えたら鷹乃を売ったなんて思うんだよ?」

「えらそうに言える立場? 寿々奈さんを裏切ってるくせに。他にも、ひどいことしてるんじゃないの?」

「ぅっ……いや、あとは……裸エプロンを要求したり、ノーパン登校とか…」

「そーゆーのは聞きたくない」

「……とりあえず、オレは全部、話したぞ。ホントに全部だ」

「全部で300万くらいよね? 財布にあるのは50万。他は、どうしたの?」

「大金を持ち歩く気分を楽しみたくて財布に入れてるけど、さすがに不用心だから残りは部屋に隠してある。お前に借りて読んでない本の隣にある辞書の箱の中だ」

「……あの本、貸してあげたの中学のときよね?」

「お前の部屋にだってオレの漫画、あるだろうが?」

「そうね。……そーゆー関係だったわね。この頃、出会うのはおろか、電話さえしてないけど。……その智也が、もう浮気してるとは思わなかったわ」

「う…浮気って……オレは、できればクロエとの関係は解消したいんだ。ちょっと思い込みが激しいっていうか…」

「そうね。聞いてる感じ、そーゆータイプね。ある日、突然、校庭に馬で乗りつけて矢文のラブレターでも射ってきそうな危ないタイプ」

「うぐっ……否定できないところが怖いな」

「嫉妬と疑いの激しい子の次は、思い込みと行動の激しい子……智也、楽しそうね」

「楽しくない!」

「まあ、洗いざらい話してくれたことはだけは信じてあげるけど………」

「とりあえず、腹が減ったな。タコ焼き、喰うだろ?」

「…………」

「コーラも、つくぞ」

「……まあ……いただくわ」

 彩花が長い話で硬くなった肩を回しているうちに、智也はタコ焼きとコーラを二人分、買ってきた。

「さっさ、どうぞ」

「……いただきます」

 彩花がタコ焼きを頬ばると、智也は条件を再確認する。

「で、だ。彩花にだけは話たんだから、黙っていてくれよ。な?」

「………………智也、まだ、その怪しいクスリとやらを売るつもり?」

「…あ、ああ。まあな。よく、わかるな?」

「智也の行動は、だいたいわかるのよ。……今回は予想外なくらい飛んでたけど」

「せっかくの商売なんだ。もう少し続けたい」

「ぼろ儲けだもんね」

「ああ♪」

「でもさ、洗いざらい私に話したのは、それだけじゃなくて、そのクロエちゃんのこと、私に相談したいからじゃないの?」

「……………………、うむ、そうだ。よく、わかったな」

「えらそうに……」

「なあ、なにか女心を傷つけない方法ないか?」

「……わりのいいバイトも続けたいわけね?」

「うむ。あそこの社長、オレを気に入ってくれててさ。バイト代、すげぇ高いんだ♪」

「………まさか、気に入ってるバイト君が娘を……なんて夢にも思ってないでしょうに……あ、ううん、逆かな。家庭教師にしたいってクロエちゃんが言い出したなら、普通にピンとくるし、気に入ってるバイト君だから娘をまかせて……うわぁ、これは、ますます逃げられないね♪」

「彩花ぁぁ~……」

「こんなときだけ甘えないの!」

「……だってよぉ……オレは、どうしたらいい?」

「全部、身から出た錆でしょ?」

「だからさ、錆を落とす方法を教えてくれ。錆落としのクスリとか、無いか?」

「バカ。まあ、錆は酸化した鉄だから、還元でもすれば? 還るかもよ♪」

「彩花ぁぁ~……頼むよぉ」

「はいはい。う~ん………無難にクロエちゃんとは距離と取る……でも思い込みも行動も激しい子な上に、智也はバイトを辞めたくない……。二律背反ね。クスリの販売は好きなように続ければ? 痛い目見るか、勝ち逃げできるか、自分でも試したいんでしょ?」

「まあな♪」

「………。国語教師への脅迫も?」

「続けられるだけ、やってみる」

「となると、やっぱり、クロエちゃんだけが邪魔になる…か………。可哀想なような……智也をお金で買うなんて許せないような……まあ、家庭環境に問題あるからかな」

 そういえば、寿々奈さんも家庭環境に問題があったらしいし、やっかいな子と付き合う女難の相でもあるのかな、彩花は智也の顔を見つめた。

「…なんだよ? オレの顔に、何かついてるか?」

「ソースがね。少しだけ」

 彩花はウソをついて智也の頬を指で撫でた。

「ま、現状維持っていうか、クロエちゃんと無難に距離をとりつつ、対応策は私も考えておいてあげるわ。今は思いつかないけど、期待しないで待ってて」

「……わかった。頼む。……話せて楽になった。悪かったな、すまん」

「いいわよ、別に。タコ焼き、ごちそうさま」

 彩花と智也は公園を出ると、いっしょに帰宅した。

 

 

 

 翌日、ほたるはエリーズに頼み込まれて困っていた。

「いくら、エリちゃんの頼みでも……」

「そんなこと言わずに、お願いっ! 私とホタちゃんの仲でしょ」

 日本語が堪能なエリーズとは野外音楽場での演奏がきっかけになり昨夜は意気投合してワインを酌み交わし、日本語のギャグを練り合った仲だった。

「3時間だけ、3時間だけでいいから。ね?」

「……エリちゃんの頼みでも……正午くんを貸せって……それ、エッチなことするつもりだよね?」

「餓えてるの、お願い!」

「………そんな開けっぴろげに認められても……」

 ほたるは何度も断っているのに、エリーズが食い下がってくる。後腐れ無く、ほんの少しだけ正午と遊ばせてほしいと、夫と別居中の女が一時的な快楽を希求してくる。

「ね、ホタちゃん、お願い」

「う~……」

「プリーズっ! お願いいたしまするぅ、お代官さまっ! プリーズっ! ファック・ミーっ!」

 エリーズが日本式に土下座してくれた。まだヌーディスト施設にいるので全裸で地面に額をつけて乞われている。ほたるはタメ息をついた。

「……たはーっ………、正午くんは、………ほたるが、いいって言っても正午くん、………言いにくいけど、年上の人に、ぜんぜん興味ないタイプだよ。そりゃ、エリちゃんはキレイだし、ほたるより、ぜんぜんオッパイもあるけど、そーゆーことじゃなくて正午くん、うちのお姉ちゃんにも興味もたないくらい、ぜんぜん年上はすべて守備範囲外って人だから」

 ほたるは静流が健に興味を持っていたのを感づいていたし、健も少しは惹かれていて、もしかしたらの可能性で静流と結ばれるのもアリかな、という雰囲気があったことに女の勘で気づいていた。けれど、同じく女の勘で正午が静流に興味を一切もっていないことにも気づいている。静流の方は、ほたるが正午と付き合いだしてから、少しばかり正午に興味を持ち始め、いつもいつも妹のものを欲しがる姉と数千キロ離れて、ほっとしている。

「正午くん、誰であろうと年上は、ぜんぜんパスって人だから……年下なら可能性あるけど……」

 ほたるは少し離れた芝生の上で、ノエルと全裸で遊んでいる正午を見やった。ノエルにせがまれて、お馬さんごっこをしている。智也がいたらリアル騎乗位と言いそうな状態だったけれど、二人とも純粋に遊んでいて正午のものは勃たずに揺れているし、正午の背中に密着しているノエルの股間も濡れている様子はない。本当にお馬さんごっこをしているだけ、だった。

「ロリコンでもないから、年下も、二つか、三つくらいまでじゃないかなぁ……。とにかく年上はパスって人だよ。正午くんは」

「わかってるわ。でも、うまくおねだりしたら、してくれそう♪」

「……こだわり……ない人だから……でも、ほたると付き合ってるから」

「だから、ホタちゃんを先に口説いてるのっ! きっと、彼、私が誘ってもホタちゃんがいるからって口実で断ると思うの」

「口実って……、ここで使う単語かなぁ…」

「それに、あの年上には一切興味ありません、って雰囲気が、ちょっと腹立つし」

「腹立つのに、相手してほしいんだ?」

「腹立つからよ。私の身体、見て見ないフリっていうか、これだけのボディを空気みたいに無視してくれた人は初めてよ。ホント」

 エリーズは二人も出産したのに、まったく乱れていないボディラインを誇った。ほたるも、すごいとは思うけれど、あまり褒めたくもない。

「エリちゃんはキレイでオッパイもあるけど、ほたると付き合う前は、正午くん、日本のモデルと付き合ってたんだよ? オッパイくらいで傾くかなぁ~……」

「うまくお願いすれば、ホタちゃんからのオッケーさえあれば、してくれそうな人よ」

「………まあ、そーゆー人かもしれないけど……、エリちゃん、よく短い期間で正午くんの本質をつかんで……」

「ね、お願いっ! ホタちゃんが悪いのよ。夕べ、あんなに熱烈なセックス、丘の上でするから、見ていて私も身体が疼いてたまらないの。ね、お願い、久しぶりに日本人としたいの。お願い」

「う~…」

「ホタちゃん、昨日のギャグは?」

 エリーズが二人だけの合い言葉を言ってくる。

「ホタちゃん、昨日のギャグは?」

「…………今日もギャグ、だけど……」

「親しき仲に?」

「……滑りなし」

「うん♪ じゃ、ホタちゃんの許可、あったってことでショウゴちゃん、口説くからね。ありがと、ホタちゃん」

「………たはーーっ……」

 ほたるはエリーズの嬉しそうな背中と尻を見送る。ノエルと遊んでいた正午に話しかけ、せっかく遊んでいた娘に、ほたると遊ぶように言いつけたようで、ノエルが歩いてくる。

「……人の彼氏、借りて、子守を押しつける気……」

 ほたるは女性として大きく呆れた。

「フランス女性って、みんな、こうじゃないよね……、エリちゃんの日本人旦那って、どんな人なのかなぁ………きっと、忍耐強い人なんだろうなぁ……翔太くんみたいな、いい人かなぁ」

 ほたるが近づいてきたノエルの頭を撫でていると、正午からアイコンタクトが送られてきた。

「「……」」

 このオバちゃん、オレとやりたいって言ってるけど、ほたるホントにいいって言ったのか、という送信に、ほたるは目を閉じて両手をあげた。どうぞ、お好きに、というポーズを正午は受け取って、考え込む。やはり年上には興味が無さそうだったのに、エリーズが抱きついて胸で正午の顔をはさんだ。

「ママ…あのお兄ちゃんと…」

「ノ…ノエルちゃん、あっちで遊ぼう」

「母がご迷惑をおかけします」

「…………。日本語、本当に巧いね……」

 悲しいくらい、日本語も、母親のことも理解してるよ、この子、ほたるはノエルに母親が夫以外の男と野外で交わるのを見せたくないと思い、遠く離れた野外音楽場へノエルを誘った。

「あっちでお姉ちゃんとピアノを弾こうよ」

「はい。…、でも、ノエルはママが……気になるから。……離れたところから見ていようと思うの。いけない、こと、かな?」

「………。ノエルちゃんが、それを望むなら…」

 教育に悪いような気もするけれど、ヨーロッパは性教育も進んでるのかもしれないし、反面教師って言葉もあるからいいかな、それに、ほたるの子供じゃないもん、どんな子に育つかはエリちゃんに責任があるんだしね、ほたるは軽く自己欺瞞すると立ち去ったフリをして、ノエルと草葉の陰に隠れた。そんな娘たちの行動を気にもかけず、エリーズは正午を芝生に押し倒して、ねだっている。

「ね、ショウゴちゃん、お願い。据え膳喰わぬは武士の恥っていうでしょ?」

「たはーっ……」

 据え膳っていうか、饐え膳だろって言ったら、この人、日本語よく理解してるから怒るかもな、まあ、いい身体してるけどさ、あんまり年上には興味ないんだよなぁ、静流さんでもパスなのに、この人、いくつだよ、オレの母さんより少し若いくらいだろ、正午はタメ息をついた。それでもエリーズは諦めず、押し倒している正午の胸に頬擦りする。

「餓えてるの、お願い。今日だけ、ほんの三時間だけ、私の相手をしてよ。ね?」

「………ま、……いいけどさ」

 断るのが面倒になった正午は新聞を一ヶ月購読するような気分で了承した。

「やった♪ さすが、武士の国から来た男っ!」

 エリーズは喜んで褒め、それから秘めた欲望を遠慮がちに求めてみる。

「あのね」

「ん?」

「……い……言いにくいこと……なのだけど……」

「今さら、何が言いにくいんだよ?」

「………んーっ……」

 エリーズは言いにくそうに躊躇い、抱きついたままの正午の腿に股間を擦りつける。さっきまで積極的だったエリーズが、今も積極的ながら、それでも躊躇って恥じらい、顔を赤くしている。

「……」

 こーゆー顔は意外とかわいいな、正午はやる気が少し湧いてきた。

「言わないとわからないぞ。エリーズ」

「……あ、…エリーズって呼んでくれるんだ♪」

「まあな。今だけ、な」

 オバサンって呼びかけながらじゃ、やる気も失せるしさ、正午は一時的な性的パートナーを擬似的に愛すると決めたようで、優しく頬を撫でて微笑んだ。

「で、言いにくいことって?」

「………んっ………と、……ちょっと、エッチなこと……したいの」

「……。ああ、だから、するんだろ?」

「そ、そうじゃなくて。そういう今風のエッチって意味じゃなくて、昭和初期のエッチって意味のこと、……したいの。今と昔じゃ和製英語としてのエッチの意味……変わってるのよ?」

「昭和初期……?」

 正午の脳裏に、ひまわり組の皿洗い的な般若や桜吹雪の刺青をした女郎が走馬燈のように流れたが、エリーズは言いにくそうに教える。

「エッチの語源は……Hよ」

「ああ、アルファベットの……それで?」

「それで……Hは……HEN……つまり、変。……だから、変態のことなの」

「ふーん……」

「………。………」

 エリーズは理解の遅い正午に焦れて、肩に少し噛みついた。

「痛っ…」

「わかってよ。もう」

「………ごめん、もうちょい説明して」

「う~……だから、……Hなこと…したいの。……ちょっと変態っぽい…こと」

「…………」

「ダメ?」

「……………………。種類と程度による、かな」

「…………」

 エリーズが瞳を彷徨わせて、おそるおそる告げる。

「……オーラルを……少し、前戯に入れて……ほしいの……ダメ?」

「オーラルって…………口でする、フェラとか、クンニのことだっけ?」

「うん…そう……あなたがしてくれるなら、……私もフェラ……してみるから……。お願い、舐めてほしい。……ちゃんと、さっきシャワー浴びたし……気になるなら、もう一度、洗ってくるから………エッチしてほしい。……ダメ?」

「……いい……けど…。オーラルくらい、そんなに変態っぽいことじゃないだろ? 言いにくそうにすることか?」

「………したこと、あるの?」

「あるっていうか、普通に入れる前には舐めるって、カナタが…あ、いや、前に付き合ってた女とは、そうだったし、ほたるとも普通にしてるけど? それって変態か?」

「…………日本の高校生って、すごいのね」

「すごい、かなぁ…」

「すごいわよ」

「ふーん……じゃあ、オーラル、されたこと無い? 結婚して子供もいるのに」

「……だって、幸蔵さ…夫はしてくれ無かったもの。私が恥を忍んで何度もお願いしたのに、そういうことは抵抗があるとか、なんとか言って…」

「へぇぇ…世代が違うと、そういうものかなぁ…」

「……。世代だけじゃないわよ」

 エリーズは歳が離れていることを、さっくり言われて気を悪くしたけれど、オーラルセックスはしてほしいので不機嫌を顔に出さず、甘えた顔で正午を見つめる。

「プロテスタントなら、いざしらずフランスはカトリックが80%なの。オーラルには興味があっても、やっぱり抵抗あるし恥ずかしいのよ」

「……プロテ? ……って、何? どういう変態行為? 体位とか?」

「………」

 エリーズは無知な日本の高校生に驚いて、胸で十字を切った。

「神よ。どうか、日本人にもお導きを」

「なんだよ、それ。どういうプレイだ?」

「プレイでも変態行為でもないわ。罰当たりね」

 プロテスタントとカトリックをフェラやクンニと同列の外来語として扱う正午に心底あきれつつも、日本ではキリスト教徒が1%しかいないことを思い出して、説明する。

「キリスト教の宗派よ。知らないの?」

「知らない」

「……知らないの……世界宗教よ……」

「あ、統一教会みたいな?」

「あれはヨーロッパでは異端よ。カルト扱いされてるわ。日本や韓国では、どうなのかは知らないけれど……。とにかく、プロテスタントは戒律が甘いの。カトリックは厳しいのよ。だから、口で性器を舐めるなんてケモノ的なこと、タブーなの。変態行為なのよ」

「……、アメリカ人とか、普通にしてない?」

「だから、文化が違うのっ! 何でもアリのアメリカ人と、いっしょにしないでよ」

「文化の違いかぁ……」

 ヌーディストビーチがあるのに、クンニで恥ずかしがるって、どういう文化だよ、けど、ほたるも腋毛を剃るの剃らないので違いがあるとか言ってたし、そーゆーものなのかな、エリーズは腋もキレイに処理してるけど、下を舐められるのは興味はあっても恥ずかしいのか、じゃあ、それで楽しもう、正午は経験豊富そうに見えたのに、それほど性体験がないエリーズで遊ぶことにした。

「オーラルしてもいいけどさ。ここじゃ身体に土も着くし。プールの方、行かないか?」

「……プールは、人が多いわよ…」

「いいじゃん、見られてする方が感じるぜ♪」

「…ふ…普通のセックスなら、ともかく、人前でオーラルをするの?」

「クンニもさ、クリトリスだけ舐めるより、ちょっと焦らして右手の指先から、右のオッパイ、そこから下がって少しだけクンニして、次は左足の指先までキスしてから、また戻ってクンニ、そこから左のオッパイを通って左手の指先まで舐めて、その後、また下がってクンニして、左足の指先まで舐めて焦らして、今度こそイくまで舐め続けるって攻め方が余計に感じるし、オレ得意なんだけど?」

 正午は微笑んで愛撫の仕方を予告する。エリーズは聞いているだけで口の中に唾液が湧いて生唾を飲んだ。仕事に精力を出し切って帰宅してくる幸蔵とのセックスライフとは濃さが違う正午の語りに期待だけで股間が熱くなってくる。さらに正午は予告した愛撫の手順通りにエリーズの身体に指を這わせて、期待を高める。指でも久しぶりの人肌の接触で身体が高鳴るのに、唇と舌で触れられたら、どんなに気持ちいいか、エリーズは目と股間を潤ませて正午を見つめる。

「……して、くれるの?」

「ああ。けど、さすがに、身体に土が着いてるとさ。だから、プールのシャワーで洗ってから、しようぜ」

「…プール……」

 それでも文化的な抵抗がエリーズを戸惑わせた。

「そ、それなら個室を借りて、そこでしましょうよ。シャワーもベッドもあるわ。もちろん、部屋代は私が持つから」

「プールの方が人目があって楽しいしさ。ここのプールは、そーゆーこともオッケーだったはずだろ」

 この施設のプールは二種類あり、片方は性的な行為が禁止された純然たる水遊び用のプールで、もう一つは性的な行為が禁止されていない純然でない遊び用のプールだった。

「でも…」

「エロい方のプールなら問題ないじゃん。みんなヤってるし」

「…問題あるわよ……、よく見てよ。抱き合ってるカップルはいても、誰もオーラルなんてしてないわ」

「そういえば…、……してもよさそうなものなのに」

「だから、文化が違うの」

「じゃあ、フランス人ってオーラルなし?」

「そうではなくて、一部でする人もいるけど………みんなの前でできるようなことじゃないわ」

「……やると、怒られる?」

「怒られないけれど、恥ずかしくてできるわけない……」

「んじゃ、決まり♪」

 正午は立ち上がってエリーズの手を引くとプールへ入る。楕円形のプールでは正午とエリーズの他に二組ほどカップルが抱き合ったり、触れ合ったりして微笑み合っている。仲良きことは美しきかなという言葉を体現していた。正午とエリーズは土の着いた身体をシャワーで流してから、水へ入る。他のカップルと適度な距離を保った位置で、正午はプールサイドにエリーズを座らせると、キスをした。

「一つだけ、オレからもマニアックなお願いがあるんだけどさ」

「……どんな、こと?」

「喘ぎ声はガマンしないで、ちゃんと出してくれること♪」

「………。……ここで?」

「ここで♪」

「…………」

「もし、ガマンしたら、そこでクンニ終わりだからな」

「そんな……」

 戸惑っているエリーズをプールサイドに座らせたまま、正午は水へ入って、正面からエリーズの手を取ると、騎士が王女にするようなキスを指先へ送る。

「モン・プランセッス」

 正午が拙い発音のフランス語でマイ・プリンセスと囁き、エリーズは36才にもなってプリンセス扱いされることに嬉しさと恥じらいを覚えた。

「ショウゴちゃんてば……女の扱いがうまいのね」

「まあねン♪」

 女性を喜ばせる手順をカナタから何度も説教されている正午はエリーズの指先へキスを繰り返している。幸蔵とは同じ日本人男性でも、まったくタイプの異なる正午からの愛撫にエリーズは乳首を勃起させた。周りのカップルは、やはり年齢のバランスが取れていることが多いのに、エリーズは三十代後半、正午は若く見えるアジア人の18才で、中学生の娘までいるエリーズとは母と息子ほど歳が離れている。それが気恥ずかしさと優越感をもたらし、腕を昇ってきた正午のキスが乳首を咥えると、エリーズは声をあげた。

「ぁっ…」

「ミニョン・エリーズ」

 かわいい、と発音は下手でも母国語で言われると、エリーズは嬉しくて正午の頭を抱いた。大きな胸に顔が埋まって息ができないけれど、正午は息を止めて耐えつつ、乳首を吸い続け、両手は抱擁に応えてエリーズの腰を抱く。そして、プールサイドから足だけ水に入れているエリーズを後ろへ倒して横たえつつ、乳首を舌先で愛撫してから、ゆっくりと下り下腹部へ唇を這わせる。

「ぁ…あ…」

「いい声だ♪」

「…んっ…」

 エリーズは正午の唇が股間まで押し分けてくると、太陽の眩しさと恥ずかしさで顔を両手でおおった。周りに抱き合っているカップルはいても、オーラルセックスまでしている者はいない。文化的抵抗がある行為を正午は何の抵抗もなく進めているけれど、エリーズは所属する文化の影響から自由ではいられず、周囲からの視線が気になった。

「ぁ…あっ…」

 正午の舌がエリーズのクリトリスを包皮の上から舐めている。初めての快感にエリーズは仰け反りそうになったけれど、それをすると余計に目立つので耐える。

「んんっ…」

「……」

 へぇぇ♪ ホントに舐められるの初めてみたいだな、皮も剥いてないのに、この反応ってことは後が楽しみだ、正午はよがるエリーズが予想外に恥じらって真っ赤に赤面して顔を隠しているのを愉しく思った。そして、予告通りクリトリスへの愛撫を中断すると、左脚へキスを送る。内腿から膝へ、脛へ、足の甲から指先へ、ゆっくりとしたキスを続けているとエリーズは隠していた顔をあらわした。まだ、顔は赤いけれど真っ赤ではない。エリーズは心地よさそうにキスを受けている。足へのキスはタブーではなく、むしろ最上の愛と忠誠を表す行為で、恥じらいよりも優越感が大きい。柔らかい唇が指を吸ってくれる心地よさもエリーズの陶酔を深めてくれた。

「…んっ……」

 そんな熱いキス、幸蔵さんはしてくれなかったわ、クリトリスも、足も、一度も幸蔵さんにキスされたことのないところに、ショウゴちゃん、いっぱいキスしてくれる、ああ、なんて気持ちがいいの、こんなにいいセックスなんて初めてよ、エリーズは脚の力を抜いて正午にされるまま寛いでいたけれど、五本の指へのキスを終えた唇がのぼってきたので期待と緊張を高めた。脛から膝へ、腿へ、そして股間へ正午がキスで登ってくる。

「ぁっ、…ああっ…」

 エリーズは顔から火が出るという日本語の表現を実感するほど興奮して、また両手で顔を隠した。さきほど、正午からオーラルを受けていたことに周囲の何人かが気づいていたけれど、アジア人が一時的なたわむれでしたことなので、エリーズが緊張したほど視線は浴びなかったけれど、二度目になると何本もの視線を肌で感じる。視線は二種類で、一つは好奇の目、もう一つは批判的な目、ヌーディストであり敬虔なカトリック教徒である人もいて、そういった人々からの露骨ではないものの、やや冷たい視線を浴びせられ、エリーズは快感と背徳感に身震いした。

「ああっ…あっ…ハァ…」

 見られてる、見られてるわ、いけないことだもの、子供もいるくせに、こんな若いアジア人に何をさせてるんだって、ああ、イヤ、せめて個室でしてほしかった、ああ、それ以上、吸わないで、大声をあげてしまいそう、あ、ああ……、エリーズは禁忌に触れている畏れと、それなのに快感を覚えていることが恥ずかしくてたまらなくなり、涙を流した。

「ハァ…もう……ハァ…ぁ…」

 やっと正午がクリトリスを吸うのをやめてくれる。けれど、間髪をおかず乳首を舐められた。そして腋から腕、指先へと舌が這ってくる。さっきまでの上品なキスではなくて男性的な欲望を丸出しにしたような舐め方をされ、エリーズの左手は唾液にまみれた。

「ハァ…ハァ…」

 こんなこと、アソコにされたら……、エリーズが期待より不安を大きくしていると、また股間へと正午の愛撫が戻ってくる。大きく舌を出して遠慮無く舐める愛撫が性器へ近づいてくる。エリーズは首を振ってイヤイヤと正午に伝えた。それが通じたのか、正午の舌は股間を舐めず、足の付け根を通過して右脚をくだっていく。

「ああっ…」

 けれども、足の指を舐められて吸われ、指の間や付け根まで舐め回されるとエリーズは痺れるような快感に大きく仰け反って声をあげた。

「あああああっ! Ahaaaa! んっうんっ! ああっ!」

 バイリンガルな喘ぎ声で注目を集め、視線を浴びて余計に興奮する。さすがに、ひそひそと周囲がエリーズと正午のことについて何か囁いている。やはり、半分は好奇的な内容で、歳の離れた人種も違うカップルのオーラルセックスについて笑いながらフランス語で野次を飛ばしたり冷やかしたりされているし、もう半分は批判的な舌打ちや蔑視だったけれど、正午はフランス語の語彙が100も無いので何を言われても気にならないし、気にする気もない。ただ、エリーズは何を言われているか理解できるので、恥ずかしくて両手で顔を隠した。そんな様子を見て、正午は攻めの士気を高め、エリーズの股間に顔をうめると、舌先で包皮を剥いてクリトリスを直接に舐め、強く吸った。

「Aha! ああっはっ! Ohooo! Ohoooo! んっんぅ!」

 感極まった声をあげてエリーズは正午の髪をつかみ、身をよじってよがり、腹筋をあざやかに蠢かせると、オルガスムに達して手足を小刻みに震わせた。それで誰の目にもエリーズがオーラルで性的頂点をむかえたことがわかり、笑い声と舌打ち、嘆息が漂う。

「ハァ…hぁ…ハァっ…」

 ぐったりと手足を投げ出して息を乱しているエリーズが目を潤ませ、乳首から少しだけ乳汁を分泌させているのを見て、正午は追い打ちをかけることに決めた。ノエルの飲み残しだった乳汁を舐め取った正午は初めて実母以外の母乳を味わって17年ぶりの味覚に身震いした。

「…」

 うわっ、薄甘くて………味が無いのに、ナマっぽくて不味い……、正午は唾を吐きたくなったけれど、それは失礼すぎるのでカナタが無理をして精液を飲んでくれたときのような勢いで喉を鳴らして飲み下した。

「hぁ…、…ショウゴちゃ……」

「ホント、かわいいな」

 正午が頭を撫でてキスをすると、うっとりとエリーズは頬擦りしてくる。念願だったオーラルの余韻に浸りながらも、タブー視されていることを公衆の面前でやってしまった気弱さから正午の背中に抱きついて震える。

「…こんなこと……夫にもされたこと……ないのよ」

「なら、オレが初めてエリーズにキスした場所は、かなり多い?」

「ええ……」

 足も、アソコも、初めて、幸蔵さんは胸や背中くらいにしか……エリーズは別居中の夫を思い出した。それに正午が気づいて、愛撫を再開する。

「んじゃあ、オレが初めてマークするところ、もっと増やしていこうかな」

 そう言って正午はエリーズと一つになる。ゆるんでいた膣は正午を受け入れて吸いついてくるけれど、ほたるやカナタに比べると、やっぱり二児の母だけあって余裕があるというか、ややゆるい、締め付けが物足りないのか、正午のモノが小さいのか、少なくとも正午は名誉にかけて前者だと思うことにしてエリーズから離れる。

「もっとエッチなこと、しようぜ♪」

「え?」

「たぶん、ここも初めてじゃないか?」

 正午は再びエリーズの股間に顔をうめると、クリトリスから、さらにくだって女性器を通り過ぎ、小さく閉じている穴に舌を這わせた。

「っ、はuuuっ?!」

 エリーズは肛門を舐められて驚いた。

「Non! い、いや!」

「すぐに気持ちよくなるって♪」

 ほたるもカナタも、すぐに好きになったからな、カナタは自分から求めてきたくらいだしさ、正午は逃げようとするエリーズの両手首をつかみ、舌を穴の奥に滑り込ませる。

「あぁっ! ん、Non! Non! あっhぁ!」

「……」

 色っぽい発音だよな、正午は容赦なく攻め込み、エリーズを翻弄していく。

「だ、だめよ! ハaa! そんなところ! 汚いっ…ま、間違ってるわ…Aaa」

「やっぱ、初めて? オーラルが変態ってことはアナルは、もっとHだろ♪ エリーズのアナルバージンもらうからな」

「Non!! ま…間違ってる……、こんなの…許されない行為よ…。アングロサクソンのゲイどもと…同じにしないで…ああっ…イヤ…」

「イヤと言いつつ、感じてるじゃん♪」

 正午はフランス人の英国に対する蔑視観は聞き流して愛撫を続ける。周囲の客たちはエリーズの様子で神に逆らう罪深い行為をしていることを察しているが、またしても正午は気にとめない。

「エリーズ、力を入れてると痛いからさ。ゆっくり息を吐いて」

「ま、…待って……やめて……ソドミーはイヤよ」

「ソドミーって?」

「あなたが……しようとしていることよ。アナル・バージンなんて、よくそんな和製英語を思いつく…、…」

「いや、普通に使ってる単語だけど? 日本で」

「に…日本人って、……抵抗がないの? 神さまが許さないわ」

「うん、まあ、抵抗は無いし。少なくとも澄空弁財天は怒らないと思う♪」

 正午は本来はインドの女神であった神の名をあげ、その喜怒哀楽の基準も知らないのに希望的観測で推し量ると、エリーズに押し入った。

「Ahaaaa! Non!! Nonnn! Noooon!」

「……」

 そんなにノン、ノン、言うと、のんちゃんが現れそうで怖いな、呼ばれると距離なんか関係なく空間をランダムシュレディンガーワープで飛び越して来そうだ、正午は肛門性交の神罰よりも葉夜の出現を恐れたけれど、どちらも発生しなかった。エリーズが悲鳴をあげて拒否していたので、強姦と言っていいような行為だったけれど、正午がカナタで培ったストロークを繰り返してくると、しだいに快感を覚えていく。

「あっ! A! んっ…ハァ…」

「ほら、だんだん良くなってきたろ?」

「んっ…Non!」

「まだ、否定する? じゃあ……こうゆうのは?」

 正午はプールサイドで正常位のような形で交わっていた体位から離れると、エリーズに背中を向けさせ、四つん這いの姿勢を取らせた。

「お尻あげて、胸はさげて。ほら、こう」

「イヤよ……みんな見てるわ…」

「みんな見てるな♪」

「タブーなの、わかって……とても、間違ったことなの……仏壇に射精するくらい、ダメなことなの…」

「……」

 それはダメダメなオナニーだな、ダメダメ、ダメオナニーだ……正午はエリーズが嫌がる文化の違いを感じたけれど、もうエリーズが快感を知り始めているので仕込むことにした。

「食わず嫌いって言うじゃん♪ 犬だって猿だって喰えば美味いぞ♪ 牛を喰わなかったオレらにワックの美味さを教えてくれたのは、君たち白人じゃないか。な? ウェルカム・ペリー♪ オール・ハイル・ナポレオン!」

 再びエリーズと一つになり、今度は前から手を回してエリーズのクリトリスも指でなぶりつつ、反対の手は乳首を攻め、真っ赤になって震えている耳を甘噛みする。

「ああっ……じ…地獄に…落ちるわ…」

「そんな新興宗教みたいなこと言って。そんなに信心深い方?」

「ソドミーは…ハァ…ソドムと…ゴモラが……ああっ! 天の火で滅ぼされ……、聖書くらい、あなたも読んだこと…」

「ない♪」

「………。あっ、あっ! ああっ!」

 エリーズは禁忌中の禁忌を犯されながらも快感を覚えている自分に混乱して首を振った。やはり同じ文化圏である周囲の客たちも冷ややかな視線を送ってくる。それが刺さるように痛いのに、身体の奥が熱くなって喘ぎ声が止まらず、ヨダレが零れてしまう。

「はぁ……ハァっ…、ち……畜生道に落ちるわ……こう言えば、わかる?」

「それもカトリック?」

「仏教よ!」

「ふーーん……どうでもいいや。どうせ、地獄に堕ちても、そのうち生まれ変わるって♪」

「………。……輪廻は……私たち…には…」

「それにさ。こんなことで地獄に落とす神さまなら信じる価値、無いって。だって、気持ちいいだろ? 気持ちいいことは正しいことなんだって♪ な? そーゆー風に神さまがアナルも創ったんだから、気持ちいいんだぞ。ほら、ほら」

「あっ! ああっ! そんな…希望的観測…」

「どうせ観測するなら絶望より希望がある方がいいって、パンドラも言ってる♪」

「そんなこと…ああっ! Non! Noonn! イヤっ…ダメ……もう…私……あ、…ハァ…hああ……ああ…」

「アナルでイくと、地獄に堕ちるかもな♪」

「っ…、や…やめて! Non! やめて!」

 エリーズは懇願したけれど、正午は愛撫を止めず、ストロークも続ける。エリーズは快感と背徳感に身震いしながら周囲の冷たい視線に泣いて啼いた。

「Ahaaaaaaa! Nooooonn!」

 エリーズが耐えきれずにオルガスムを迎えるのと、正午が射精するのは同時だった。排泄口を出入りされた快感と羞恥心でエリーズは気が遠くなり、そのまま失禁までしてしまい、四つん這いから崩れると啜り泣いた。正午は満足そうに微笑んだ。

「ハァ…悪くないだろ? アナルもさ」

「…っ…ひっ…ぅ…」

 イヤだって……、イヤだって……言ったのに……、なのに私………感じてしまって……、エリーズは強姦された少女のように丸くなって身を小さくして泣いている。

「…っ…っ…uu…ぅぅ…」

「たはっ♪」

 前に出して妊娠されたら困るしさ、お互い、こっちの方が良かったんじゃないかな、正午は驚異的な自己欺瞞力でアナル強姦を自己肯定すると、泣いているエリーズを立たせてシャワーで身体を洗ってやり、ついでに軽く愛撫もして泣き疲れて眠るまで添い寝した。

 

 



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14話

 

 

 いのりは自室のベッドでカナタに股間を舐められて暗澹とした気持ちを深くしていた。二人とも全裸で、カナタはベッドの下におりて、いのりの脚を開かせて、その間に顔をうめて舌を使っている。いのりはクリトリスを舐められ、吸われて、巧みな愛撫を受けていたけれど、少しも気持ちいいとは感じられない。ぺちゃぺちゃぬるぬるとした不快感だけが股間を這い回っている。

「いのっち…ハァ…ハァ…」

「………」

 こんなコトして何が楽しいの、女同士で気持ち悪い、いのりは可能な限り何も感じないように意識を閉ざしていたが、いつまでもカナタが終わってくれないので演技をする。

「ぁっ…ああっ…」

 イくフリしないと終わってくれないし、いのりは背筋をそらせ、息を乱して喘ぐフリをした。

「…ィ…くっ…」

「ふふ♪ いのっち、可愛い」

「……ハァ、……ハァ、………」

 もう満足してくれたでしょ、さっさと帰ってよ、いのりは起きあがろうとしたが、カナタは解放してくれない。今度は交代して欲しそうに股間を擦りよせてくる。いのりは一秒でも早く終わってほしいので、カナタと場所を交代してベッドから降りると、ベッドで脚を開いて待っているカナタの股間に顔を近づける。息を止めて、匂いも感触も何も感じないように舌を使う。できれば、舌よりも指で済ませたいのでピアノで培った器用さを発揮してカナタを絶頂に至らせる。

「あッ! あんっ! んっ、…いのっち…、…待って、まだ…」

 ゆっくりと楽しみたいカナタは愛撫から逃げて、いのりを見つめる。

「次は舐め合いっこしようよ。シックスナインで」

「……どっちが上?」

「どっちがいい?」

「………」

 どっちでもいい、むしろ、家に帰ってオナニーでもしててよ、いのりは返事をせずに立ち上がって部屋を出ようとする。

「どこ行くの? いのっち」

「……トイレ」

 いのりは冷め切った声で答え、ドアを開けようとしたが、カナタが背後から捕まえてきた。

「どっち?」

「……? どっちって何が?」

「トイレ、大きい方? 小さい方?」

「……。小さい方。すぐ戻ってくるから。ちゃんと洗うから」

「汚くないよ。いのっちのなら平気♪」

「………」

「いのっち、ベッドに戻って」

「……おしっこしたいんですけど」

「いいから戻って。リナ」

「……………………」

 いのりは言われた通りにする。リナという言葉を発されると、反論の気力もなく要求に従ってベッドへ戻り、また、脚を開いた。

「潮吹きってさ。おしっこしたいとき起こりやすいらしいよ♪」

「………で?」

「だから、舐めてあげる」

「……………」

 いのりの股間にカナタが舌を這わせてくる。クリトリスの下にある尿道を舌先で押されると、いのりは放尿したい衝動におそわれて困った。さらにカナタは膣の奥まで指を入れて、内壁を巧く擦りあげてきた。いのりの膀胱が裏から圧迫されて悲鳴をあげる。

「ぅっ…くっ……もれちゃうから、やめて」

「ふふ♪ 感じてる?」

 カナタがクリトリスごと強く尿道を吸ってくる。

「あうっ…もれるから!」

 いのりが抗議してもやめてくれない。

「カナちゃん! やめて! それ以上、吸われたら出ちゃうよ! もれちゃう! ホントにもれちゃうから!」

「いいよ、しちゃっても。いのっちのなら平気」

 そう言って強く吸われると、いのりはガマンが限界に近づいてきた。

「ううっ…、…バカ………ホントに……かけちゃうよ…」

「いいよ、いいよ♪」

「…………」

 そう、いいなら、いいや、しちゃえ、いのりは自分の身体をもてあそぶ脅迫者の顔面へ小便をかけることで、せめてもの憂さ晴らしと復讐にしてやろうと決め、ガマンするのをやめた。

 じゅわっ…

 いのりの小水が噴き出した。

「ぅっ! もう限界っ、もれちゃう! イヤァぁ♪」

 いのりはガマンできずに失禁したという演技をしながら、カナタの顔にかけるつもりで放尿したけれど、想像した放物線は描かれず、カナタは股間に吸いついたままだった。

「んくっ…んくっ…」

「っ?!」

 ヤダっ、飲んでる、ホントに飲んでるのっ?! いのりは小水を飲まれて驚愕した。カナタの喉が勢いよく鳴っている。

「んくっ、んくっ、んんくっ」

「……………………」

 ホントに飲んでる、私のおしっこ、飲んでる、いのりは信じられない光景を目の当たりにしながら、排泄を終えた。

「ぷはぁっ! ハァ……ハァ…」

「……」

 汚っ、いのりは両手にいっぱいの軽蔑と嫌悪を顔に出さないよう努力したが、とても不可能だったのでシーツに顔を伏せた。

「ふふン♪ 言ったでしょ、いのっちのなら平気って」

「…………」

「知ってる? 人間の身体の60%以上は水分で出来てるんだよ」

「……………」

「だから、さっきまで、いのっちの身体だったH2O分子が今はアタシの身体をつくる分子に置き換わるの♪」

「……………………」

「これなら、女の子と女の子でもホントの意味で一つになれるよ? ステキだと想わない?」

「…………」

 想わない、変態、お腹壊して、死んじゃえ、いのりがシーツへ顔を伏せたままでいるのをカナタは恥ずかしがっているのだと勘違いして、次なる要求をする。

「アタシもしたくなっちゃった♪」

「………」

「ね、いのっち……」

 カナタは少し頬を赤くして、ねだる。

「アタシの、おしっこ……飲んで」

「っ……」

 いのりはシーツへ顔を伏せたまま激しく首を横に振った。長い髪がもぞもぞと動いて首を振っているというよりは毛玉が動揺しているように見える。

「いいじゃん♪ Gじゃん♪ Fじゃん♪」

 ほたる的ギャグを言いながらカナタは後輩に跨った。騎乗位になって、いのりを逃がさないようにする。

「ね、いのっち」

「……」

 私は便器じゃない、あなたは便器でも、私は便器じゃない、いのりは拒絶しようとしたが、やはり強要される。

「リナ♪」

「っ……………………」

 いのりは身体を弛緩させ、動かなくなった。だらりとされるがままに身体をもてあそばせる。いのりが抵抗をやめたので上を向かせ、カナタは騎乗位のまま前へ進むと、いのりの口元へ股間を向けた。

「いのっち、舐めてぇ。さっきアタシがしたみたいに♪」

「…………」

 いのりは目を閉じて自分が何を舐めているのか考えないようにして、カナタのクリトリスを舐めて吸い、悦ばせる。

「あんっ♪ んっ…ぁぁ……気持ちいい……」

「…………」

 まさか、しないよね、おしっこ、したり、しないよね、お願いだから、しないでね、いのりは儚い願いを胸に抱いて、舌技だけでカナタに満足してもらうために教わりたくなかったのに教わった舌使いで攻める。この変形騎乗位のまま放尿されると最悪なので体勢を入れ替えるため、舐められてよがるカナタの乳首も指で愛撫してやりつつ、寝かせる。

「ハァ…あんっ♪ …いのっち……巧くなったね。……んっ…」

「…………」

 さっさとイってよ、変態、いのりは憎悪を込めて舌を使った。

「ああっ……やんっ、もれちゃいそう♪ イったら、もれちゃう」

「………。ねぇ、カナちゃん、トイレ、行ってきてよ」

 いのりは儚い願いを諦めずに口にしてみたけれど、カナタは解放してくれない。いのりは髪をつかまれ、逃げられなくされた。

「ゆっくり出すから、ね」

「………」

「けっこう大変だったんだよ。いのっち勢いよく出すから、全部飲みきるの」

「……」

「ゆっくりするから、ね?」

「…………ごめん、カナちゃん、……やっぱり気持ち悪いよ。今日もアナル、舐めてあげるから、これは許して。飲むのは無理」

「う~…………リナちゃん、飲んで♪」

「……………………」

「ね、リナちゃん」

「………………………飲むから、……早くして」

 いのりは舌での愛撫をやめ、ただ待つだけになった。

「ゆっくりするからね」

 じゅっ…じゅわ…

「ぅっ……」

 いのりは口の中に拡がる液体を何か感じる前に飲み込む。

「んくっ……ん……くっ…」

 カナタは言ったとおり飲みやすいように勢いを加減してくれているけれど、いのりは舌が感じる不快な味や鼻腔を満たす尿臭に耐えきれず、カナタの股間から顔を離した。

「げほっ! げほっ!」

「やんっ! 途中で……やだ、止まらない!」

 カナタは放尿をやめられず、慌てて両手で押さえるが、指の間から小水が溢れた。

「あああぁ……もう、リナちゃんが途中でやめるから、おもらししちゃったよ。恥ずかしいなぁ」

 カナタは興奮して赤面しているが、いのりは青ざめて咳き込んでいる。

「ごほっ……ごほっ…」

「気管に入った? 大丈夫?」

「……大丈夫……。……じゃないかも…。ごめん、……洗面所に…」

 いのりは立ち上がろうとして、猛烈な吐き気をもよおした。

「ぅっ……、うぅ……ぅぇッ…………」

 とても洗面所まで保ちそうにない。いのりは手近にあったゴミ箱へ顔をうめた。

「うええっ!」

 胃から逆流してくる嘔吐物をゴミ箱へ吐いている。

「げほっ! けほっ! うえぇっ! うええぇっ!」

「…………」

「ううっ……うぇっ…」

 いのりは胃が空になっても嘔吐衝動が治まらず、息ができなくて苦しみ、ときおりゴミ箱から顔をあげると呪い殺すような目でカナタを見る。

「……帰って」

「でも……いのっち……」

「帰って!!」

「………うん」

 カナタが帰ると、いのりはシャワーを浴びて全身を洗い流し、大量の水を飲んでからトイレに吐いた。

「ぅぅ………汚い……」

 まだ、身体から汚辱感が消えない。血が出るほど歯を磨いても、うがい液で喉を洗っても、身体から汚いという意識が消えてくれない。

「……これなら…」

 いのりはシャンプーの瓶を開けると、それを飲み込んだ。

「うぐっ?!」

 シャンプー液は喉を通ると、香料の甘い香りとは裏腹に界面活性剤の働きで、毒物でも飲み込んだかのような猛烈な異物感を呼び起こし、いのりは床を転げ回って苦しみながらシャンプーの泡を吐き、失神しそうになりながら水を飲んで吐くことを繰り返して窮地を脱した。

「ハァ…ハァ…ヒィ…ハァ…」

 ぐったりと倒れ、まだ残っている嘔吐感に震えながら、床や部屋を掃除して、もう一度、シャワーを浴びて衣服を着る。

「………もう……ダメ………とても……、私じゃ……手に負えない。……ほたるさん……助けて…」

 いのりは家の電話機を取ると、ほたるへ国際電話をかけた。少し待たされて、ほたるが受話してくれた。

「もし…もし…陵…いのり…です」

「あ♪ いのりちゃん! お久しぶり♪ 元気してる?」

「……」

 ほたるさんは元気ですか、と訊くのが愚問なほど、ほたるの声は弾んでいて、まるで先刻まで恋人とバカンスに出かけていて、今さっき帰ってきたばかりのような陽気な声色だった。

「ほたるさんは…元気そうですね」

「いのりちゃん……いのりちゃんは元気なさそう……どうかしたの?」

「ちょっと……いろいろ…」

「いろいろって?」

「……。ほたるさん、留学して、語学もピアノも大変だと思うから……迷惑だと…」

「いのりちゃんの声、死にそうな声してるよ? ほたるなら大丈夫だから、相談してみて」

「……」

「そのつもりで、かけてくれたんだよね?」

「…はい……、……実は、……カナちゃんのことなんです」

「カナタちゃんの?」

「はい」

「カナタちゃんが、どうかしたの?」

「……その……、いろいろ…大変なんです」

「だから、いろいろって?」

「………。……」

 いのりは同性愛的な肉体関係を一方的に求められて脅迫されていることを、どう話そうか考えるが、なかなか思いつけない。

「えっと………その……、つまり、……加賀先輩と、別れて……それが、悩みみたいで……私に、いろいろ言ってくるんですけど…………私も、イッシューのこととか、いろいろあるし、……いつも、いつもカナちゃんの相談にのってあげられるわけでもなくて……、だから、ほたるさんにフォローしてほしいんです」

「カナタちゃんが……正午くんのことで………」

 ほたるの声色も沈む、しかも、いのりの期待を大きく裏切ってきた。

「ごめん、いのりちゃん。……ほたるは、その件では力になれないよ」

「そんな……」

 ほたるさんしか、頼れないのに、こんなこと他の誰にも言えないのに、いのりは藁にも縋る気持ちで縋った藁が藻くずだった気分で困惑の海に溺れる。さらに、ほたるの一言で困惑の海は嵐になった。

「ほたるは正午くんと付き合ってるから」

「……へ?」

 いのりは言われたことが理解できずにマヌケな声を出した。ほたるも意外だと思われることは理解しているので、もう一度、告げる。

「ほたるは正午くんと付き合い始めたの。……このこと、カナタちゃんには知らせてないから」

「なッ…、で、でも! ほたるさんは伊波先輩とっ!」

「ケンちゃんとは別れたの。もともとウイーンに留学すること言ってなかったし。でも、正午くんはウイーンに行っても付き合ってくれるって言ってくれて…」

「加賀先輩の新しい彼女って、ほたるさんなの?!」

「うん、そうだよ」

「でも! ほたるさんはカナちゃんと加賀先輩が付き合ってたこと知ってましたよねッ?!」

 いのりの声が批判的になった。ほたるは覚悟していたので批判を正面から受ける。

「うん、知ってたよ。知らなかったなんて、とても言えないくらいに。よーーく知ってたよ」

「だったら!」

「でも、正午くんはカナタちゃんと別れたって…」

「そんなのっ! いつものケンカじゃないですかッ!」

「うん、それも知ってた。いつものケンカで別れたって言ってるだけで、ほたるが横恋慕しなきゃ今ごろ仲直りしてたよね。カナタちゃんは正午くんのこと大好きだから、きっと正午くんの誕生日までには仲直りしてたはず」

「……そこまでわかってて、……横取りしたんですか? 外国へ行っちゃうくせに…」

「うん、ほたるは、そーゆー女だったから」

 ほたるは自虐的に事実の一側面を誇張して伝える。

「ほたるはカナタちゃんから正午くんを盗んだの。ケンちゃんと別れて淋しかったから、そーゆー尻の軽い女なの。外国に来ても、さっきまで正午くんは、ほたるといたんだよ? ほたるの誕生日にウイーンへ来てくれて。……エッチなこと、いっぱいしたよ。ケンちゃんと、しなかったこと、いっぱいして、また会おうねって空港で約束のキスまでしてたの。とても、カナタちゃんと連絡なんて取れないよ」

「………」

 そんな言い方しないでください、伊波先輩と別れたことに何か事情があったんじゃないですか、と普段なら先輩の自虐的な物言いに気づいて推し量ることもできたはずが、いのりにも余裕がなかった。

「……ひどすぎます……カナちゃんが可哀想……」

「…………ごめんね、って謝ることもできないから……」

「ほたるさん」

「…はい…」

「ほたるさんは気づいてましたか? カナちゃんが友達以上に、ほたるさんのこと想っていたこと。女友達としてじゃなくて……もっと、別の……男の子が女の子を好きになるみたいな気持ちで、カナちゃんが、ほたるさんを好きになっていること、気づいてましたか?」

「……うん……、……」

「…………よく、………よく……よく、それで加賀先輩を盗るなんてこと……できる………、信じられない………。……カナちゃん、…なんて……可哀想……」

 いのりの受話器を持つ手に涙がつたった。

「いのりちゃん………カナタちゃんに……このこと、言う?」

「………言えるわけ、ないじゃないですか」

「……ごめんね。そろそろ、講義がある時間だから、切るね」

 ほたるが電話を切り、いのりはカナタのために泣いた。

「…カナちゃん…っ…」

 本心から同情して涙が溢れてくる。なのに、カナタの顔を思い出すと腹の底から吐き気が蘇ってくる。

「ぅ…、…ぅえっ…」

 吐きそうになって口元を押さえ、いのりは洗面所で口を漱いだ。

「……ハァ…ハァ…、……気が……狂いそう…」

 一蹴への想い、リナのこと、カナタのこと、ほたると正午のこと、考えることがありすぎて何を考えていいか、わからない。どうすればいいのか、まったく答えが見つからない霧の中で一人きり、いのりは大声をあげて子供のように泣きたい衝動にかられ、どうせ両親も不在なので泣こうと思い、涙腺の抑制をやめようとしたとき、リビングで携帯電話が鳴っているのに気づいた。

「…イッシュー…」

 着信音で一蹴からのメールだとわかる。いのりはメールを開いた。男子らしい短文で要件だけが打たれている。

(話があるから、あの教会に来て)

「………………。イッシュー……。……話って………なに?」

 いのりは胸の中に拡がる不安に押し潰されそうになった。なにか、イヤな予感がする。ほたるの身に起こったことが、自分にも起こりそうな、根拠のない懸念が頭をグルグルと駆けめぐる。

「…………………………」

 いのりは「すぐに行くね」と送信しながらも、足が動いてくれない自分に気づいた。

「イッシューを待たせちゃダメだよ」

 自分を叱咤して身支度をすると古い教会へ向かう。運悪く雨が降り出してきた。10月の秋雨が残暑の熱を地上から奪っていく。

「……傘………もってくれば……よかった…」

 いのりは濡れながら教会の前に辿り着いたけれど、ドアを開ける気力がない。

「…………もし…」

 もし、別れ話だったら、どうしよう、イッシューが望むなら別れるしかないけど、私は……私は……、いのりはドアの前で立ちつくした。

「私………誰に……何をするか……わからない…」

 運命を呪い殺そうとするかのように、いのりはドアを見つめ、一歩も動かない。背後から声をかけられた。

「いのり」

「っ、イッシューっ?!」

 いのりが驚いて振り返ると、一蹴は謝った。

「ごめん、遅くなった。雨が降りそうだったから、傘を取りに戻ったから」

「イッシュー………イッシューっ!」

 顔を見たとたんに感情が高ぶって、いのりは一蹴へ抱きついた。

「ぃ、いのりっ?!」

「イッシューっ」

 一蹴の顔を見て、別れ話や悪い話ではなくて、たんにヒマだから呼び出した程度の雰囲気だと確信できたので、いのりは安心と同時に涙を流した。

「イッシューぅぅ……会いたかったよぉ…」

「……。学校でも、会ったじゃないか」

「ぅぅ……今は会いたい気分だったの……。ごめん、急に泣いて……迷惑だよね。ごめん、イッシューの話って?」

「……。いのり……オレの話より、最近、いのり、元気が無いっていうか……何か悩みでもあるんじゃないか?」

「イッシュー……ううん、もう、平気。イッシューの顔を見たら、どこかへ行っちゃったよ」

 いのりは涙を指でぬぐいながら微笑んだ。

「イッシューの話って何かな?」

「ああ。……じゃあ、オレさ。バイト始めることにしたんだ」

「アルバイトを? どんな?」

「ならずやってカフェでウェイターをしようかと。っていうか、誘われてさ。前から伊波先輩みたいに一人暮らしをしてみたいって思ってたから、渡りに船だったし」

「一人暮らし……」

「オレさ、今の両親と血が繋がってないこと、いのりは知ってた?」

「…うん…」

 高校で再会してから話してもらったわけじゃないけど、イッシューが孤児なのは子供の頃から知ってるよ、いのりは頷いて雨に濡れた髪をハンカチで拭く。話しながら二人は教会へ入った。

「今の両親は優しいけど、妹の縁と…ちょっと…」

「ちょっと?」

「あいつ、ちょうど思春期でさ。運悪くオレのこと好きっていうか、そーゆー感じで、いろいろあるんだ」

「……いろいろ、って…?」

 一瞬、いのりの脳裏にカナタとの、いろいろな行為が駆けめぐった。いのりは込み上げそうになる吐き気を一蹴の匂いを嗅ぐことで押さえる。不思議なほど、一蹴を感じると吐き気も不快感も消えてくれた。

「まあ……いっしょに寝ようとしたり、風呂に……とか」

「してるの? 縁ちゃん、たしか、中学……三年…」

 中学三年生といえば、意識も身体も女性になっているはずで、二人で入浴するのは大きな問題を感じる。早ければ初体験が中学一年や二年ということもあるのに血が繋がっていない妹とベッドやバスタブをともにされるのは、今現在の彼女として抵抗を覚える。いのりの感情に気づいた一蹴は慌てて否定する。

「ちゃんと注意してるって!」

「…よかった…」

「だからさ、つまり、そーゆーことなんだ。一人暮らしするのは、縁と距離を置いた方がいいかなってさ」

「………」

 うれしい、縁ちゃんには悪いけど、とってもうれしいよ、イッシュー、一人暮らし大賛成、いのりは大きな喜びに包まれた。

「縁も今年は受験だし、まあ、あいつなら浜咲学園も余裕だろうけど、お義母さんは心配して去年まで家庭教師つけてたくらいだから。オレがいない方が落ちついて勉強するだろうし」

「縁ちゃん、浜咲学園が第一志望なの?」

「ああ、で、第二が澄空で、最悪の場合は藤林だろうけど、それは無いだろ。あいつ、ああ見えて天才だから」

「縁ちゃん、頭もいいもんね。可愛いし、私も出会うと抱きしめたくなちゃ…っ…」

 いのりは同性を抱きしめるという表現の途中で吐き気を感じて口元を押さえた。

「いのり?」

「…う……ううん、何でもない……平気…」

 カナちゃんじゃなくて、縁ちゃんのこと考えただけなのに気持ち悪くなるなんて、いのりは深呼吸して気分を落ちつかせる。そんな様子を一蹴が心配した。

「ホントに大丈夫か?」

「うん、もう平気」

「………。この頃、いのり、ちょっと変じゃないか?」

「っ…、…変って?」

 いのりはカナタとの肉体関係を知られたくないので緊張した。逆の立場で、もしも一蹴が中谷や天野と肉体関係があったとしたら、それは想像したくないことだった。ほんの一時期、ほたるが翔太と健が怪しいと言っていたことがあるけれど、それは激しく仲が良かっただけで、今は二人とも女性を愛するタイプだと確信できている。一蹴も、そのはずだった。

「わ、私は変じゃないよ! いたってノーマル!」

「…ノーマル?」

「えっと、……うんと、……ノープロブレム! アイ・ラブ・イッシュー!」

「ぃ…いのり……」

 一蹴が顔を赤くして目をそらした。いのりも勢いで愛を告げたことに気づいて赤面する。

「ち、違うの! ………ううん! 違わない! …そ……そーゆー……こと…」

 せっかく言ってしまったので否定するのが、もったいなくて、いのりは積極的な態度を取った。

「イッシューが好きだから。……最初から、ずっと、好きだったから」

 最初から、本当の最初のリナちゃんがいた頃から、ずっと好きだったんだよ、イッシュー、大好き、愛してる、いのりは恋人を見つめた。

「……いのり……」

「大好き、イッシュー」

「……ぉ…オレも…、…、…」

 一蹴は続きを恥ずかしくて発音できなかったけれど、いのりの心には響いてきた。いのりは目を閉じ、唇をささげる。

「………」

「……」

 いのりは少し唇をあけて、軽いキスでも深いキスでも対応できるように待ちかまえる。一蹴は軽いキスをした。

「ぁ…」

 すぐに離れていく唇を、いのりは名残惜しそうに見つめる。

「………」

 もっと長くしてほしかった、もっと、ずっと、ずっと、いのりは二度目のキスが欲しくなり身を寄せたけれど、一蹴は気づかない。

「よかった。元気そうで」

「……心配してくれたの?」

「当たり前だろ。ちょっと痩せてないか?」

「エヘヘ♪ 2キロほど痩せました」

 女の子として体重が減ったのは嬉しかったけれど、健康的に痩せたわけではないので大きく誇れることではなかった。

「あんまり肉を減らすなよ。いのりの半分は髪の毛でできてるんだからさ♪」

「う~……質量的には10%くらいだよ。半分は言い過ぎ」

「外見的には半分は髪の毛だぞ♪」

 一蹴が優しく髪を撫でてくれる。

「イッシューの半分は優しさでできてるね。ありがとう。イッシュー。でも、心配しないで、ちょっと……ピアノが思ったように弾けなかったから、落ち込んでただけなの」

 いのりは小さなウソをついて一蹴に心配を解消してもらい、カナタのことは秘匿する。一蹴は疑わなかった。

「スランプか、あんまり気にするなよ」

「うん。………」

 いのりは二度目のキスを求めて目を閉じる。

「………」

「…………、ここ、…教会だからさ…」

 一蹴は神聖な場所で何度もキスをすることに戸惑いを覚えるのと同時に気恥ずかしさから身を引いた。

「イッシュー……」

「あんまりイチャイチャすると、神さまに怒られるぞ♪」

 茶化して雰囲気を軽くしようとした一蹴に、いのりが近づく。

「怒られない」

「え?」

「神さまには怒られないよ。だって、男と女は愛し合うために存在してるんだもん」

 いのりは強い語気を込めて男と女を強調し、キスを求める。いのりが唇を近づけると、さすがに一蹴も逃げずに応える。

「「……」」

 いのりは深くて長いキスをする。

「「……………………」」

 ああ、イッシュー、イッシュー、やっぱり、イッシューだよ、イッシュー、いのりは同性とのキスを強いられてきた唇を本来捧げるべき相手に捧げられ、心の底から喜びに打ち震え、両腕を一蹴の頭へ回して抱きしめる。息苦しいほどのキスをしながら、唇と舌だけでなく指先も男の耳や首筋に這わせて可能な限り一蹴を感じる。

「……イッシュー…」

「いのり……」

 一蹴はキスを終えると離れようとしたが、いのりは離れない。息継ぎをして、またキスをする。いのりは下腹部が熱くなるのを自覚した。

「「……………」」

 私、濡れてる、キスだけで、こんなに感じてるなんて、やっぱりイッシューのこと、大好きなんだよ、ね、イッシュー、イッシューが欲しいよ、いいよね、ね、いのりは恋人のカッターシャツのボタンを外していく。外しながら首筋から胸元へもキスをして、抱きついたまま脚をからめるけれど、少し不安定になる。

「イッシュー、そこに座って」

「……」

 一蹴は言われるまま、教会のベンチへ座った。いのりは信仰を誓う清教徒のように恋人の前に膝をつくと、途中になっていたカッターシャツを脱がせる続きを再開する。

「い……いのり、……これ以上は……」

「イッシューと、したいの」

「……したいって…?」

 何かわかっていて、つい訊いてしまう童貞男子高校生に、いのりは明確に答えた。

「セックス、したいの。……イヤ? 私は、イッシューとしたいの。お願い」

「………」

 ここまで言われて逃げたらオレ、ヘタレじゃん、キング・オブ・ヘタレ、東西南北天上天下最大ヘタレ、マスター・オブ・ヘタリスト、ヘタリア共和国・一等ヘタレ官、もう据え膳とか、武士とか、ぜんぜん、そんな段階じゃなくて、きっと鷺沢家は有名な芹澤家みたいな澄空時代からの武門の名家じゃないだろうし、そもそもオレって鷺沢家の血筋でもなくて、産まれた家の家名さえ知らないふつつか者ですが、ここまで女の子に言われたら、オレ、オレは、一蹴が激しく動揺している間に、いのりはカッターシャツを脱がせ終わり、ズボンとトランクスを同時にさげると、ヘタレな持ち主と違い、準備ができている勃起した男根にキスをする。

「ぅっ…」

「…イッシュー…」

 イッシューのおちんちん、気持ちよくしてあげるね、いのりは教わりたくないのにカナタから教わったクリトリスへの愛撫の実技と、早絵たちクラスメートの女子がふざけて見せてきた雑誌のペニスへの愛撫知識を応用して一蹴の男根を口に含みながら、両手で擦った。

「うっ、…ちょっ、…いのり…」

「痛いかな?」

「ぃ、痛くないけど…、…オレ、部活の後で、汗かいたし、せめてシャワーとか…」

「イッシューの匂い、ぜんぜん気にならないよ」

 いのりは匂いを確かめるように鼻先で息をしながら一蹴の内腿を舐める。カナタからする香水のような甘い香りではなくて、サッカー部員らしい汗の匂いがして、いのりは微笑んだ。

「うん、いい匂い。イッシューの匂い、大好き」

「…ぅぅ…」

「痛かったら、言ってね。初めてで、よくわからないから」

 いのりは慣れた手つきで男根の包皮を剥くと、先端を口にくわえて吸いながら、両手の指先で巧く摩擦する。

「はふっ…ちゅぱっ…」

 おちんちんが大きなクリトリスなら、こことか、このへん、こうされると感じるかな、うん、感じてるね、じゃあ、吸いながら、ここを細かく舐めて、いっしょに手で、こうして、こう、うん、感じてくれてる、いのりは一蹴の反応を見上げながら、口と舌をカナタに仕込まれたテクニックで使いつつ、両手の指も10本とも、それぞれに緩急をつけた愛撫をするという超絶技巧的な指運びで一蹴を刺激する。ほたるとカナタに鍛えられた技による攻勢で、またたくまに一蹴は耐えられなくなった。

「うっ、ううっ! ぉ、…オレっ…ぃッ…」

 びゅっ!

「キャっ?」

 いのりは口の中へ射精され、その勢いに驚いて口を離した。

 びゅっ! びゅっ…びゅ~……どろっ…

 いのりの顔や手、それから一蹴の下腹部にも精液が付着して、独特の匂いが拡がった。

「…ハァ…ハァ…」

「イっちゃった?」

「っ……」

 オレって早漏すぎ、一蹴は問われて少年らしいプライドが傷ついて、涙が溢れそうになり手で汗と誤魔化してぬぐった。いのりは恋人を快感に導くことができて心から嬉しそうに微笑み、口の中にある精液を飲み込む。

「こくっ…」

 美味しい、味とか匂いだけじゃなくて、なんだか、胸があったかくなるよ、いのりは手や一蹴の下腹部に残っている精液も舐めとって飲み込む。それから、一蹴の男根が萎えていることに気づいた。

「あれ……小さくなってる。……私、うまくできてない? イってくれたと思ったけど……気をつかって演技してくれなくてもいいよ……」

「……違うって……、一回、出ると、しばらくは勃たないんだ。…やっぱり、いのり、初めて?」

 いのりの処女性に大きな疑問符を抱いていた一蹴は男性の反応の基本的なことを知らなかったことで少し安堵する。

「演技で射精はできないから」

「へぇぇ……男の人って素直な身体してるんだね」

「…………」

 誉められたとは思えず一蹴は顔を伏せた。いのりは小さく萎えた男根を再び勃起させたくて口に入れようとするが、一蹴は仕草で拒絶した。

「待ってよ、いのり。そんな連続、無理だって」

「休憩する?」

 いのりも知識として男性のオルガスムは女性のように連続できず、絶頂に達して射精すると次のチャージまで時間がかかることを知っていた。

「どのくらい休憩が必要なの?」

「…、体調にも……よるけど…」

 一蹴は健全な性少年として連続オナニーに挑戦したこともあれば、義父母と義妹が家を留守にしてくれた日曜日に24時間で何回まで射精できるか試行してみたこともある。記録は7回だった。8回目は痛くなって勃起もできなかった。

「…………」

「………」

 いのりが愛撫をやめると、急に教会の静けさが二人を包む。

「…………」

「……………」

 いのりは熱くなった身体をもてあまして躊躇いの吐息をもらした。

「…はーっ…」

 してほしいな、私の身体にも触ったり舐めたりしてほしいって言ったら、淫乱な女の子だって思われちゃうかな、いのりは悩み、そして一度しかない人生なので積極的に生きることにした。

「あのね……」

 いのりは頬が熱くなって心臓が高鳴るのを自覚しながら求める。

「…して……ほしいな。……私の…か…身体にも……触ったり…」

 舐めたり。

「くすぐったり…」

 恥ずかしいカッコで思いっきり、あえいでイきたいよ、イッシュー、いのりが潤んだ瞳で見つめると、さすがに一蹴も男だった。

「いのり……」

 おずおずと一蹴は両手を恋人へ向けてみる。とりあえず胸に触ろうという手が初めての行為に戸惑い、空中で停止してしまうと、いのりの胸から近づいてきてくれる。

「………」

 一蹴は見た目より大きな胸の感触を両手いっぱいに感じて、強く揉んだ。

「あッ…痛っ…」

「ご、ごめん!」

「ううん、いいよ」

 カナタが触れてくるときの優しくて巧妙なタッチではなくて、不慣れで痛いくらいの手つきなのに悦びを身体が感じている。

「もっと、触って。痛くしてもいいから」

「あ…ああ」

 一蹴も戸惑いながらも本能的な悦びを覚える。いのりの胸の感触も、恥ずかしそうに目をふせて頬を赤くしている表情も、すべてが愛おしくて抱きしめたくなる。押し倒して裸にして、そろそろ勃起してくれそうな男根を突き刺したい衝動にかられつつも、それを自制する。

「……」

 ちゃんと前戯してあげないとダメだよな、エロ漫画と違って本物の女の子は準備がいるもんな、すでに女の子からの前戯で射精しちゃったんだから、なんとか後半戦で挽回しないと、このままじゃダメダメだ、ダメダメ、ダメセックスだったって失望されるかもしれない、下手するとカナタとかに報告されて笑い者になるかも、早漏一蹴とか、一瞬一蹴とか、澄空のアダ名大魔神に烙印を押されるかもしれない、一蹴は強力な三年生たちを恐れつつ、恋人に快感を与えたくて素直に突破口を訊くことにした。

「どこを触ってほしい? 舐める方がいい?」

「ぇ………っと…」

 イッシュー、そんなことを女の子の口から言わせるの、あえて自分の性感帯を自白させて、白状する恥ずかしさと、そこを攻められる快感への期待を高めるなんて、そんなハイレベルなプレイ、どこで覚えたの、いのりは純朴な少年の意図を曲解して興奮を高め、これからのセックスで邪魔になる髪の毛を束ねてポニーテールにしながら、質問に答える。

「……私が……一番……感じるのは……腋……」

 ここだけはカナちゃんに舐められても少し感じるくらい敏感だから、イッシューに舐められたら感じすぎて恥ずかしいくらいになると思うよ、いのりはポニーテールへ結い上げる動作で両腕をあげたまま、一蹴に腋を見せる。

「…えへへ…」

 いのりの腋は透き通るほど白くて美しく毛穴の一つもない。あまりスタイルに自信がなくて露出の少ない彼女も、腋だけは真冬の二月でさえノースリーブとアームウォーマーの組み合わせで露出させるくらい自信がもてるボディパーツだった。長い髪と腋は自慢できるくらいキレイで、もともと腋毛が一本も生えない体質なうえに三日ほど入浴しなくてもイヤな匂いもしない。おかげで女子みんなに羨ましがられて、中学では巴から、神に愛されし腋をもつ女で髪と腋がチャームポイントだから、略して神腋、または、腋神様、もしくは汗をかいても匂わないから逆ワキガなど命名され、女子の中だけだったけれど、けっこう広まってしまい沖田慶子のグループあたりからも呼ばれて本気でイヤになったので、その名で呼んだ人は先輩だろうと他校生だろうと、授業中でも朝礼が始まっても、必ず10分間、呪い殺すような目で睨み続けると決めたおかげで一週間後には誰も言わなくなった。巴だけが懲りずに、邪眼もつ女で長い髪が黒豹にもみえるから、ジャガーと呼びはじめたが、それも128分間、呪い殺すような目で睨み続けると、最初は、文句があるなら言いなさいよ、などと強がっていた巴も最後には泣いて謝ってくれたので忘れることにしている。

「いのり、くすぐったくないか?」

「うん、それが……感じるの」

 いのりは腋を舐められて、よがり息を乱した。

「あんっ♪ …ぁ、ハァ…んっ…」

 いのりの声が可愛いので一蹴は無心に舐め続ける。いのりはくすぐったさを通り越して快感に至り、うっとりと教会の天井を見上げる。

「ああん……生きてることって……なんて気持ちがいいの…」

 いのりは身体から力が抜けて座っていられなくなり、後ろへ倒れる。一蹴が愛撫は後手に回ってもサッカー部員らしい運動神経で支えてくれ、いのりはベンチへ寝かされた。

「つ…次は、どうすれば、いい?」

「うん、こっちの腋も舐めてほしい」

 いのりが反対側の腋を見せて、ねだる。一蹴は要望に従って舌を這わせる。

「あっ…はぁ…」

 興奮が高まっているので最初からくすぐったさより性感を覚え、いのりはオルガスムの波が訪れるのを体感した。

「…あんっ…ぃ…くぅ…」

「………」

 ホントにイってるのかな、演技かな、オレが先に簡単に射精しちゃったから気をつかってるのかな、一蹴は恋人の表情を見つめる。いのりは頬や胸元、舐められていた腋を桜色に染め、目蓋を軽く痙攣させて、まどろんでいる。射精があるわけではないので絶頂がわかりにくいけれど、いのりは息を止め、ベンチに寝そべったまま、両膝をもちあげるとバーガーワックのロゴマークみたいな形に両脚を開いている。女の子なら普段は絶対にしないような扇情的な体勢で、一蹴は萎えていた分身が再び勃起するのを心強く思った。

「………」

 脱がせても、いいかな、一蹴はスカートへ手をかけようとして股間が大きく濡れているのに気づいた。手のひら大ほどに濡れてシミができている。

「……。いのり、おしっこ……もらし…」

「ん~…? いいよ。イッシューのおしっこなら飲みたい」

「は?」

 一蹴はまどろんでいた恋人が何か大きな聞き間違いをしたことはスルーして問いかける。

「いのり、トイレ、ガマンしてた? ……もらしちゃってるみたいだけど…」

「え……。……これは……どっちかな…?」

 いのりも自分の股間を見て、わからなくなる。先刻、自宅で多量の水分を摂ったので尿意を覚え始めていたし、オルガスムの波に身を任せているうちにゆるめてしまったのかもしれない。けれど、小水にしては少ないかもしれない。いのりは自分の股間へ手で触れた。

「…エヘヘ…、……エッチな液みたい」

「…………」

 濡れすぎじゃないか、それ、一蹴は驚きつつも、いのりが裸になり始めたので視線が固定される。一枚、また一枚と、いのりは躊躇いなく衣服を脱いでいく。最後のショーツをさげると布地と肌が愛液で粘って、糸を引いた。

「イッシュー……」

「………いのり………」

 恋人の全裸を見て一蹴は全身が高揚し、本能のスイッチが入るのを感じた。もう前戯は続けられない。いのりをベンチへ押し倒すと身体を重ねた。

「いのりっ」

「うん、来て」

 いのりも脚を開いて正常位を受け入れる準備をとる。いのりの女性器も開いて、ピンク色の襞が性交をもとめてうずいている。一蹴は猛まま男根を挿入した。

「痛っ! ……ぅうぅ……」

「ごめ…」

「ぃ、…いいから、そのまま、奥まで来て」

 いのりは痛みを覚悟していたのに悲鳴をあげたことで一蹴に心配させたことを残念に思いつつも後退しようとする一蹴の腰へ両足を巻きつけて、より深い挿入を求めた。

「ああっ! あんっ!」

「いのり、無理しない方が……」

「んっ! 違うよ。いいの! 痛いのは入口だけで…あんっ! すごくいい!」

 いのりは身をよじって快感を覚えている。それで一蹴も男の本能が求めるままにピストン運動した。

「ううっ…いのり……」

「あんっ! もっと! んんっ!」

 いのりは一蹴がピストンの速度をゆるめたのを物足りずに、自分からも腰をふって快感を求めた。

「うぐっ、…いッ…いのり、ヤバいって…オレ…」

「ああっ! あんっ! んんっ!」

 一蹴は思っていたより早く二度目の射精衝動を覚えてしまったことに焦り、このままでは保健体育で習った妊娠という危険があることに思い至って退出しようとしたが、いのりは本能のまま男根を奥深くに受け入れて膣を収縮させた。

「ああっあっ!」

「うっ…くっ…ううっ!」

 いのりの激しい動きに耐えきれず一蹴が膣内に射精してしまった。

「ああっあんっ!」

 いのりは感極まった声をあげた。

「はあぁぁっ……イッシューぅ……、気持ちいい……おちんちん……最高ぉ…」

 女同士の気持ち悪いのと、ぜんぜん違うよ、これがホントのセックスなんですね、神さま、こんなに気持ちよく人間を創ってくださって、ありがとうございます、女は男に、男は女に、とってもシンプルな摂理ですよね、いのりは性の喜びを神に感謝している。

「………。いのり……ハァ…ハァ…」

 喜んでくれたみたいだけど、妊娠しないかな、まだ高校一年なのに、せめて三年のバレンタインくらいなら妊娠しても発覚するのは卒業後、けど、今だと二年生になる前にバレるかも、こんなことなら中谷に勧められたときコンドーム買っておけばよかった、一蹴は軽率な初体験後の男子高校生らしく悩み、考え込む。

「イッシュー……」

 いのりは離れて萎えてしまった男根へ顔をよせると吸いついた。

「ううっ?! いのりっ?」

「精液、舐めてあげる」

「ぃ、いいって」

「舐めさせて」

「………」

「はふっ♪ 美味しっ」

 いのりは丁寧に一蹴を舐める。それから、少し遠慮がちに一蹴を見上げた。

「いっふゅー」

「咥えたまま喋らないでくれよ。歯があたって痛いから」

「ごめん……。………」

 いのりは座り直して自分の股間へ両手をやった。恥ずかしいから前を隠したというよりは、まだ少し物足りない、何かしてほしい、と求める様な動作だった。

「……いのり?」

「…………えへっ……恥ずかしいお願い、してもいい?」

「今さら……、いいよ。何?」

「…え~……っと……私のぉ………おまんこも……舐めてほしい」

「……。ごめん、さっきもオレだけイっちゃった?」

「ううん、いっしょだったよ」

 いのりは恥ずかしがりながらもベンチの上で脚を開いて、さらに舐めやすいよう自分で陰唇もひろげた。

「イッシューに舐められたいの。ダメ?」

「……ダメじゃないけど……」

 一蹴は自分が射精した後の膣を舐めることに軽い抵抗を覚えたけれど、いのりが要望しているので応じることにした。いのりの股間へ顔をうめ、舌を使ってみる。

「………こう、かな?」

「うん。もうちょっと、グリグリ舐めて」

 いのりは初めて女性器を舐める一蹴の遠慮がちで飴を舐めるような動きを率直な指導で修正していく。

「そこの皮、ひろげて剥いてクリトリスを出して。あっん♪ そう♪」

「痛くない?」

「うん、平気。気持ちいい。んっ……クリトリスを舐めたり吸ったり、舌先でクルクルしたりして。ああんっ! うん! イッシュー巧いよっ……今度は大きく口をあけて全体を吸いあげて。…ああっ! あっあっ! いいっ! そのまま痛いくらい吸いながら唇でクリトリスを押し潰すみたいに挟んでハグハグして。あうっ! はぁう! いいっ! いいよっ! 唇で挟んでるクリトリスを舌の先だけで素早く舐めて、上下左右に。…はぁぁあっ! いくぅ……」

 いのりは潮を吹いて絶頂を迎えた。

「ハァ…ハァ…ハァ…イッシュー、最高っ…ハァ…ハァ…」

「……。よかった」

「…ハァ……ふーっ…」

 いのりは満足そうに微笑みながら息を整えつつ、萎えていた男根がクリトリスを舐められて乱れた痴態を見たことで再び勃起していることを喜んだ。

「イッシュー、今度は私が四つん這いになるから後ろに入れて」

「……そ、…そろそろ暗くなってきてるし……帰らない?」

「…………お願い」

 いのりが、もえ殺しそうな目で見つめると一蹴は断れなかった。勃起しているといっても三度目になるので硬さも大きさも60%程度になっているが、いのりは言ったとおりに四つん這いになると肛門をひろげる。

「イッシューに……私のバージン、二つとも、もらってほしい」

 前も後ろもカナちゃんに指を入れられたけど、ホントのロストバージンは男の子にしかできないはずだもん、いのりは陵辱された身体を一蹴に雪辱してほしくて求める。

「イッシュー、来て」

「二つともって……」

「ダメ?」

「………」

「私……汚いかな……。…汚い女かな……」

「そんなことないけど……。やってみたいといえば、やってみたいけど……やっていいのかなぁ、というか…」

 一蹴はアナルセックスに強い抵抗がない文化圏の少年らしく好奇心と戸惑いを天秤にかけ、いのりの要望でもあるので前者を優先した。

「いのり、痛くしないようにするから、痛かったら言ってよ」

「うん……」

 たぶん、大丈夫、カナちゃんに開発されてるから、いのりは苦痛を感じなくて済むように力を抜いて男根を肛門に受け入れる。するりと抵抗無く合体することができた。

「あんっ♪ イッシューに私のバージン全部あげちゃったよ」

「……、ああ、…ありがと…。…そんなに喜んでくれると……オレも嬉しいよ」

「おっぱいを両方つかんでほしい。後ろから」

「…こう?」

 一蹴は四つん這いになっている恋人と接合したまま、両手をわき腹から胸へまわして乳房をつかんだ。

「うんっ、しっかり痛いくらいつかんで支点にして、アナルを突いて。いっしょに私の耳に息を吹きかけたり、耳の穴に舌を入れて」

「わかった」

 もう一蹴は言われた通りにすることに決めた。いのりの乳房を強くつかんで耳へ息を吹きかける。

「あはんっ」

「……」

 ギャフンって言う人を見たことないけど、アハンっていう喘ぎ声はリアルに言う子いるんだ、一蹴は小さくて可愛らしい恋人の耳へキスをする。

「んんっ…」

 いのりの耳は大量の髪の毛によって日差しを遮られ、ほとんど日焼けしていない白さだったけれど、一蹴が攻めると桜色に染まった。

「イッシュー、乳首もクニクニ摘んで」

「こう?」

「はうんっ!」

「アナル、痛くない?」

「平気、突いて」

 いのりが腰を振って求めてきたので一蹴は前後にピストンしてみる。

「ああんっ! はううっ!」

 いのりの会陰から愛液が滴り落ちる。

「ハァ…ハァ…イッシュー、右手はおっぱいから離して、前から中指を膣に入れて、親指と人差し指はクリトリスを摘んで擦ってほしい」

「……そんな超絶技巧っぽいこと……、…こう?」

 一蹴は言われた通りの指運びを試してみる。いのりの股間へ手をやり、中指を膣へ挿入しつつ、親指と人差し指は勃起しているクリトリスを探る。

「あんっ! いいっ……中指、もう少し奥、Gスポットまで来て」

「…こ…こう?」

 ゆ、指が攣りそうだ、一蹴は中指を深く入れる。

「はああんっ」

 いのりが潮を吹き、一蹴の手に生温かくかかった。そんな女体の反応に一蹴は、やる気が増してピストンを続けつつ、おろそかになりかけていた左手での乳首への刺激も強化する。

「あうっあうっはうっ!」

 いのりの喘ぐ唇からヨダレが零れ、また潮を吹いてくれる。

「ハァっハァっ…」

「次のご注文は?」

 一蹴がカフェのウエイターのように問うと、いのりは追加オーダーする。四つん這いになっていた体勢から、いのりは左腕をあげて腰をひねって一蹴とキスができる距離まで顔を近づける。不安定になる姿勢を安定させるため、いのりは左手を一蹴の首へ回した。

「おっぱいと腋、吸ったり舐めたりして。乳首と腋の間を8の字を描くみたい何回も往復してほしい。右手と左手は、そのままで」

「かしこまりました」

 一蹴は右手で膣とクリトリスの愛撫を続けたまま、左手は乳房を揉みつつ、ピストン運動も継続しながら、舌で乳首と腋を舐める。アナルと膣、クリトリス、乳首と腋の五箇所同時攻撃で、いのりは天へ昇って天使に出会うほど舞い上がった。

「あはっんぅぅ! あっあっあっはん! はああっんぅ!」

 いのりが悶えながら教会に嬌声を響かせ、何度も潮を吹き、とうとう失禁してしまった。

 ぷしゃーーーーっ!

「はぁぁぁあっ…」

 いのりは全身から力が抜け、ぐったりと一蹴の腕の中でまどろむ。

「…はーぁ……はーぁ…」

「………」

「ご……ごめんね……私、先にイっちゃって…」

「いや、別にいいよ。もう三回目だから出にくいんだ」

「そー…ゆー……ものなの? おちん…ちん…」

「ああ」

「じゃあ、続けて」

「……へ?」

「イッシューがイくまで。私も頑張るから、中に出して」

 いのりがフラフラと再び四つん這いになった。

「オレは別に、もう十分だから、無理しなくていいよ」

「ううん、ほしいの。イッシューの精液、私の中に。お願い」

「……じゃあ…イくよ」

 一蹴は肛門内に射精すべくピストン運動を再開する。いのりも脱力しそうになる四肢を踏ん張って後背位を維持する。

「あんっ…あんっ…あんっ…」

 いのりが突かれる度に、弱々しい喘ぎ声を漏らし、一蹴は射精するのに時間を要さなかった。

「ううっ…イくっ…」

「うんっ、来て」

「くっ…ああっ! ふうっ! はぁっ!」

 一蹴の射精にも勢いがなく、少しばかりの薄い精液が射出され、いのりの中に注ぎ込まれた。

「ハァ……ふーっ……」

 一蹴はサッカーの試合でトーナメントの組み方が過密で一日に三試合も出場させられ、最後の試合が延長戦の挙げ句にPKへ突入した選手のように床へ倒れ、息を整える。

「ハーァ……はぁ……」

「……気持ちよかったぁ……イッシューとのエッチ……最高ぉ…」

 いのりが心の底から異性との性交を悦び、感想を漏らしている。

「おちんちん…最高…」

「……。そう……よかった…」

「うん、最高」

 神さまは、そーゆー風に人間を創られたんだもん、女同士で、おまんことおまんこを擦り合わせたりするなんて冒涜だよ、いのりは恋人の萎えた性器を撫でながら微笑んだ。

「明日もしようね。イッシュー」

「……」

「ね、イッシュー」

「……たはーっ…」

 そう言うことしか、できなかった。

 



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15話

 

 一週間後の朝、智也は愛妻弁当を受け取りつつ、ずっと学校を休んでいる鷹乃に問いかける。

「鷹乃、今日も学校、休むのか?」

「……行きたくないわ…」

「そっか。じゃあ、風邪が肺炎になりかけてるってことにしておくから」

「…お願い…」

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 鷹乃へ手を振って智也は藍ヶ丘駅から浜咲駅へのシカ電に乗る。車内で雅と歩に出会った。

「よぉ、お二人さん」

「おはようございます」

「おはようさんです」

 色々とあったけれど、今は顔見知りの先輩後輩として雅は長幼の序を重んじて挨拶を返し、歩も関西弁で答えた。

「三上先輩、最近ぜんぜん彼女さんと登校してへんけど、もしかして、愛想つかされたんちゃいまっか?」

「鷹乃なら夕べも抱いた♪」

「ほな、なんで登校は?」

「まあ、ちょっと体調が悪い感じかな」

「体調が悪いのに、あんま酷使したらんときや」

「歩の言うとおりです。相手の体調を慮れないようでは、パートナーとして失格です」

「うーん……身体は元気そうなんだけどな。……たぶん…」

「「たぶん?」」

「……太ったのを気にしてるのかもしれない」

「「……」」

「誰にも言うなよ」

「言いません」

「言わへんよ。さすがに、それは……っていうか、うちらにも言うべきやないで」

「お前らが訊くからだ」

「訊かれても誤魔化してあげるのが優しさでしょう。やはりパートナー失格ですね」

「別に、そんなに休まなきゃならないほど、ひどく太ったわけじゃないぞ。むしろ、筋肉ばっかりだった身体が柔らかくなって抱き心地は良くなったくらいなんだから」

 智也は話題のせいもあって車内が蒸し暑いのでシカ電の窓を開けた。涼しい海風が入ってくる。

「10月も中頃になると、涼しくなってきたな」

「確かに、秋の訪れを感じます」

「せや。うちらのクラス、学祭の出し物、なんにしょーかな。三上先輩、なんか、ええアイデアありまんせんか? ふざけた発想やなくて、まともな発想で」

「まともか……、薙刀の歴史でも展示したら、どうだ?」

「まともすぎて捻りがありませんやん。っていうか、それは薙刀部でやりますさかい。他に、なにか無いですか?」

「う~ん……同性愛文化の展示と実演♪」

「「………………」」

 歩と雅が視線を交わし合って、歩が答える。

「それは……ふざけた発想やないですか?」

「いや、真剣かつ深刻に考えれば、十分に文化論だ。お化け屋敷とか、タコ焼きよりも、はるかに文化祭というに、ふさわしいほど文化的にデリケートな命題だ」

「タコ焼きは大阪の食文化やで」

「ここは澄空地方だぞ」

「このへんの食文化って、何があるんですか?」

「そうだなぁ……」

「まともな食べもんの話やで」

「お前……オレの本質を見抜きつつあるな、一年のくせに…」

「悪評名高い先輩やしね。ほんで、このへんの名物とか、ありますのん? 文化祭の出店で、さっさと作れそうなウマイもん」

「ああ、それなら嘉神川ウドンが…いや、まあ、あれは一企業の…」

 智也はアルバイト中の嘉神川食品が扱っている商品を紹介しようとして、その案を歩たちが採用してしまうと、流れによっては幸蔵の会社を紹介するハメになり、そこからクロエのことが発覚する可能性を考え、話題をそらせる。

「あんまりないな。源頼朝が喰った餅とか、芹澤鍋くらいじゃないか。まあ、クラスの出し物はクラスで考えろよ。オレなんか、今さら文化祭の実行委員を当てられたんだぞ」

 唯笑じゃあるまいし、おまけに絶交宣言され中のりかりんと二人でペアだからな、智也はタメ息をついた。

「たはーっ……もともと当たってた男子が体調悪いからってよ。いくら、オレが進学しないとはいえ、急に当てるなよなぁ」

「三上先輩、進学しはらへんのですか?」

「ああ、たぶん就職。いや、きっと就職。内々定を社長からもらってる」

「へぇぇ、どんな会社なんです?」

「まあ……小麦粉とか、食品とか、いろいろかな」

「なぜ、進学校の浜咲学園から就職なのですか? 進路の選択が不自然ではありませんか?」

「今年の三年も、ほとんどは進学するけど就職するやつだっているんだぞ。まあ、成績が悪いとか、いろいろ理由があるけど、オレの場合は鷹乃と結婚したいし……運良く就職先も見つかって、けっこう給料いいから♪」

 クロエっておまけが無ければ最高なんだけどな、智也たちは浜咲駅へ到着したのでシカ電を降りる。それほど親しいわけではないので智也は二人の後輩と別れて坂道を進み、翔太に出会った。

「よぉ、中森。彼女は元気か?」

「ああ…三上か。いや、…あんまり元気じゃない。っていうか、ずいぶん痩せてさ」

「へぇぇ♪」

 オレが給料を巻き上げてるからな、そりゃ痩せるかもしれないな、智也が微笑すると翔太は顔を曇らせた。

「けっこう心配なんだ」

「ダイエットでもしてるんじゃないか? 女ってのは教師になっても、女だから」

「先生のこと、大きな声で言うなよ」

「悪い悪い♪ まあ、ダイエットだろ、気にするなよ。レモンダイエットにでも挑戦してるんだろ」

「リンゴダイエットなら聞いたことあるけどさ。それに、ダイエットならオレが差し入れしたとき、嬉しそうな顔しないだろ。夕べ、アパートに家庭科で作ったクッキーを持っていったら、ものすごく喜んで食べてくれたけど……あれってダイエットっていうより餓えてるって感じだった。野草とか食べてたし」

「変わった教師だからな。サバイバルにでも挑戦してるんじゃないか?」

「……うーん……」

「ま、ときどき差し入れしてやれよ。野草じゃカロリー足りないだろうしな♪」

「ああ、そーする」

 翔太と智也が教室に入り、朝礼を待っていると果凛が硬い表情のまま、智也の前に立った。果凛の表情は凍土のように冷たく、態度はダイヤモンドのように硬い。

「おはようございます。三上さん」

「……、おはよう、花祭さん。オレに何か?」

「不本意ながら、あなたとは文化祭の実行委員を担当せねばならないことになりました」

「ああ、そうだな。けど、オレは不本意じゃないぞ。できれば、花祭さんとは仲直りして以前のように友達に戻りたい」

「それはお断り申し上げます」

「……。そうか。…で、そんなに嫌いなオレにイヤイヤ話しかけてきた用件は?」

「はい。実はわたくし、今日の午後から仕事が入っております」

「モデルの?」

「はい」

「で?」

「大変、申し訳ありませんが、生徒会での会議と準備への出席は三上さんお一人で行っていただきたいのです」

「なるほど、オレ一人に押しつけたいと。……いや、悪い。お前がケンカ腰に話すから、つい買うだろうが」

 智也は頭を掻いて気分を変えると、頷いた。

「別にオレ一人でもいいぞ。けど、一つだけ条件がある」

「どのような御条件でしょうか?」

「仲直りしてくれとは言わないが、せめてオレの事情を聞いてくれよ。な? あの日のことには色々事情があるんだ。聞いてから判断してくれ」

「………。聞きたくありません。まことに勝手ながら、実行委員の役務のほど、よろしくお願いいたします」

 果凛は1センチだけ頭を下げて踵を返して行った。

「たはーっ……りかりん、あそこまで嫌わなくてもいいじゃないか…」

「それは仕方ないさ。寿々奈さんにあんなことしたんだから。嫌われて当然だぞ。正直、オレも軽蔑してる」

「なっ……どうして、中森まで知ってるんだっ?!」

「どうしてって、クラス中、みんなが知ってるさ」

「………あいつ、……言いふらしたのか……。あの女……」

 智也がクロエのことを憎らしく想うと、翔太は不可解に感じた。

「言いふらすわけないだろ。ずっと学校も休むくらいショックを受けてるんだから」

「………は? ……中森、お前、何を言ってるんだ?」

「三上こそ何を言ってるんだよ?」

「…………。中森が何を言ってるのか、主語とかを省略せずに言ってみてくれ。誰が、何を、どこで、どうして、りかりんはオレを嫌ってる? なぜ、クラス中が知ってる?」

「………………………まさか……寿々奈さん、お前に話してないのか?」

「鷹乃? ………とりあえず、その、まさかを話してくれ」

「だ……だから…それは……三上が寿々奈さんを調教し…、いや、……その、お前、彼女にノーパンで登校させてただろ?」

「なっ…なぜ、それを中森が知ってる?! 見たのかっ?!」

「……見たよ」

「お前っ!!」

「誤解するな。見たというより、正確には、見てしまったんだ」

「………風……か?」

「いや、寿々奈さんが転んだんだ」

「どこで?!」

「あそこの教壇。授業中に問題を当てられて………クラス中が……見てしまった」

「……………………………オレが……休んだ日にか…?」

「ああ」

「……………………」

 智也が頭を抱えて机に肘をついた。

「…そんなこと………鷹乃、一言も……」

「………言いにくいだろ。……そりゃ……」

「…………だから、学校に来たくなかったのか……」

「そもそもノーパン登校なんかさせるなよ。いくら彼女にしたからって。やっていいことと悪いことがあるぞ」

「…………まさか…転ぶとは……しかも教壇か……」

「せめて、お前が休む日くらい強要するなよ。守ってやれないだろうが」

「…いや……ノーパンで毎日、登校してくれとは言ったけど、まさか、オレが休む日まで実行してくれてるとは……」

 あの日は、クロエと………ってことは、オレはクロエのことも誤解してるな、りかりんをオレが嫌ってるのはクロエが関係を暴露したからだと思ったが、あの子は誰にも話してない、でもって、あの日の後、鷹乃が大泣きしたのもクロエが何か伝えたわけじゃなくて、鷹乃は教室で転んだことがショックで……そうか……そーゆーことか……全部、オレが悪い上に、クロエを悪く思っていたのか、智也が考え込んでいると翔太は追加する。

「つばめ先…、南先生も、その件を注意した後から元気がないんだ」

「………」

「三上を生徒指導室に呼んだだろ? 生活指導のためにさ」

「……ああ」

「南先生は…そーゆー話、苦手なんだ」

 つばめは実の父親に……三上と寿々奈さんは同意があってプレイとして遊んでたんだろうけど、世の中には理解できない世界だってあるんだ、翔太は心に大きな傷をもっている恋人を慮って秘密を守りながら苦言を呈する。

「南先生を指導の担当にした他の教師たちも恨んでるけど、三上のことも少なからず恨んでる。正直、友達を辞めようかと思った。……健が、ほたるちゃんを捨てたことと、同じくらい……、最悪だ」

「………………悪い………」

 智也が大きなショックを受けているので翔太は肩を軽く叩いた。

「ちょっとは反省したみたいだな」

「……………………」

「寿々奈さんのショックも大きいだろうし、花祭さんの嫌悪感も……、待てよ。三上が寿々奈さんが教壇で転んだ件を知らなかったとしたら、さっき三上が聞いてくれって言ったあの日の事情ってのは、何だ?」

「………」

 クロエのことだ、しかし、それは言えない、智也は深く深呼吸して答える。

「誰にだって言えないことはあるだろ?」

「……ああ」

「そーゆーことだ」

「そーゆーことか……。とにかく、ほたるちゃんみたいな悲しい想いを寿々奈さんにさせるなよ。お前から告白して付き合ってるんだからさ」

「ああ。……中森、お前って、いいヤツだな」

「やっと分かったか♪」

「長生きしてくれ。事故には気をつけろ。いいヤツほど早く死ぬ。クルマに轢かれそうな仔猫とかを無理して助けようとするな」

「……お前はイヤな奴だな。知ってたけどさ」

「あらためて知ると、げっそりするだろ♪」

「………健とは、ぜんぜん違うタイプで新鮮味があるよ」

 翔太は朝礼が始まったので席へ戻る。智也は授業が始まっても集中する気もなく、今の状況について考え込み、昼休みになってから職員室へ向かった。

「ちーっす」

 教師たちにいい顔をされない智也らしい自然な挨拶をして職員室へ入ると、つばめへ不自然さのない雰囲気で話しかける。

「先生、ここ、ちょっと教えてもらえますか」

「っ………」

 つばめは古語の参考書に「二人で話したい」というメモ書きが挟まっているのを見せられて不自然なほど表情を暗くした。

「そんなイヤそうな顔しないでくださいよ、先生」

「……給料日は……まだ……」

「進路指導室とか、開いてないっすかね?」

「…………」

 つばめは多重債務で自殺する20代前半の無知な若者のような顔で進路指導室へ入ると、財布を机に投げ出した。

「…15円しか、……入って…いません…。ほしければ、……もっていけばいい…」

「いや、そうじゃなくて、もう終わりにしますから」

「っ…、まさか、翔太くんのことをっ?! 校長にっ…」

「いや、そうでもなくて、もう脅すのはやめる。そーゆーことっすよ」

 智也は投げ出された女物の財布を拾い上げると、そこへ自分の財布から5万円を移した。

「先生、痩せすぎっすよ。もともと肉が少ない方だから余計に」

 智也は紙幣を補給した財布を女教師へ投げ渡した。

「もうオレと先生は、ただの生徒と教師。すぐに卒業式で、さようなら。その後は、他人。そーゆーことで、よろしく」

「……………………どういう……こと?」

「そーゆーことです」

「………………………………罠?」

 つばめは財布を恐る恐る見つめ、疑惑でいっぱいの瞳を智也へ向ける。

「……これは……また、……新しい罠?」

「罠じゃないっすよ。和解っす」

「………和解………、と……言いつつ、……また、私を罠に…はめて……」

「この状況で、どんな罠がはれるんですか?」

「…………また、……私に……想像もつかないような……とんでもない…罠…」

「罠じゃないっす。ホントに、これで終わりですって」

「………………いったい……何を企んでるの?」

「……。相当、オレのこと……まあ、当然か」

「……………………わかったわ」

「わかってくれたか」

「このお札が罠ね」

 つばめが財布に入っている紙幣を睨む。

「これが……偽札? 使ったら、私の社会的立場が…」

「その罠は逮捕された先生がオレのことを自供するリスクたっぷりな上に、オレに経済的メリットが何もない」

「………じゃあ、このお札は、他の生徒から盗んだか、脅し取ったもの。……通し番号を控えてあって…………。また、私を脅す材料に…」

「いや、材料は十分な上に、いっぱいいっぱいまで追いつめてたから、これ以上、脅すと先生、自殺したり何もかもイヤになって放火したり、オレを刺したりすると思うから」

「……………………………」

 いっぱい、いっぱい……そう、私は、いっぱい、いっぱいだった……夕べ、翔太くんがクッキーを持ってきてくれなかったら、健くんから3万円の返済を求められて悩んでいるうちに、ガス代を節約するつもりで熾した焚き火を見ていたら、おかしな気分になっていたもの、この朝凪荘が燃えてしまえば、いろいろなことが消えてくれるような気がして、あやういところだった、つばめは本物らしい紙幣を見つめ、それから智也の目を見透すために凝視する。

「……………………」

「………」

「……………………………」

「じゃ、そーゆーことで」

「………なぜ、……急に?」

「心境の変化ってヤツですよ」

「…………なぜ?」

「まあ、中森に借りができたから、かな。中森は貸しとも思ってないだろうから、オレは中森の目に見えないところで返しておこうと思ってさ。そーゆーことですよ。いい彼氏をもって幸せですね」

「……翔太くんが………、……」

 つばめは瞳を潤ませた。

「また、翔太くんが………私を……助けて……くれた。……あの男からも……この男からも、私を……救って…」

 つばめは財布をキュッと胸に抱いて幸せそうにつぶやいている。智也は「この男」が自分であることはわかったし、「あの男」が誰なのか知りたいとも思わなかったので、進路指導室を出て職員室を通り過ぎようとしたが、担任の教師に呼び止められた。

「おい、三上」

「はい?」

「このプリント、各学年の学祭実行委員に配っておいてくれ」

「…わかりました。どうせ、進学しなくてヒマですから」

 智也はプリントを配って校舎内を回る。三年、二年、一年と配っていくと一年生の教室で、いのりに出会った。

「あ、リアル平安。ちょっといいか?」

「……あの……リアル平安って誰のことですか?」

「美しい髪のお嬢さんのことだ♪」

「………。…………それが、どうしてリアル平安になるんですか?」

「リアルに平安時代の姫様みたいな長い髪をしてる面白いヤツ、だからだ。リアル平安姫♪」

「………………」

「すげぇ長いな。このまま伸ばせば三年生になる頃には地面に着くんじゃないか? 平安姫」

「……伸ばしてるから……」

「伸ばしてるだろうな。見ればわかる。その先端あたりなんて10年以上前に製造された部分だろ。すげぇな、姫♪」

「…………」

 最初にイッシューに会ってから切ってないから、この先端は子供の頃のイッシューに触ってもらったこともある部分だから、いのりは愛おしげに自分の髪を撫でた。

「姫、トイレに入るときは大変じゃないか? どうするんだ? っていうか、授業中にイスへ座っても床のゴミが着くだろ?」

「………首に……巻くの………座るときは……」

 いのりは呪い殺すような目で睨もうかと思ったけれど、巴ほど受け入れられないアダ名でもなく、女の子として姫の称号は悪い気もしないので話を進めることにする。

「何か、ご用ですか?」

「このクラスの学祭実行委員は、誰だ?」

「私と天野くんですけど」

「リアルちょうどいいな。このプリント、渡しに来ただけだ。じゃ」

 智也はプリントを渡すと去っていく。いのりがプリントに目を通しながら席へ戻ると、早絵が声をかけてくる。

「いのちゃん、先輩に何を言われたの?」

「プリント渡しに来ただけだって。学祭の」

 いのりは途中になっていた昼食を再開する。本当は一蹴と食べたかったけれど、今までの習慣でサッカー部の仲間と食べているので、いのりもクラスメートの早絵たちとランチを囲んでいる。

「さっきの先輩、カッコ良かったね」

「……イッシューの方が、ずっとカッコいいよ」

「あんたは…、また…、そーやって平気でノロける。聞いてるこっちが疲れるよ」

「……ごめん…」

「まあ、仲がいいのは、いいことだしね。そろそろキス以上のこと、してそうね」

「うん」

「……。へぇぇ♪」

 早絵が興味深そうに微笑み、声をひそめて顔を近づけてくる。いのりは同性の息がかかる距離を嫌うように後退った。その態度を早絵は話題から逃げようとしていると思い、追求を強める。

「どこまでしてるの? 話してみなよ」

「う~ん……全部、かな」

「……。へぇぇ♪ 全部って、どこまで?」

「………………食事中だよ?」

「いいじゃん。Gじゃん。Fじゃん」

「それ、流行ってるけど、私は嫌い」

「そうなの? いのちゃんが尊敬する先輩の遺産らしいけど?」

「ほたるさん、死んでないし……」

 そのギャグ、最近は、ほたるさんよりカナちゃんを思い出すからイヤなのに、いのりは話題を避けようとし、余計に早絵は追求を続ける。

「キス以上の、どんなこと、してるのかな?」

「だから全部」

「全部って? もしかして、アレかな? アレをナニに? ナニすることでしょうか?」

「……? 早絵ちゃんが何のこと言ってるのか、よくわかんない」

「またまたっ!! カマトトぶっちゃって! 全部っていえば、アレしかないじゃん!」

「……アナルの方?」

「ぁ……、あ……、アナ……うん、まあ、……それも全部といえば、全部だね。その前段階として、その、ノーマルの方は、どうでしょう? してますか?」

「男と女なんだから、当然あるよ」

「そ、…そう……。まあ、私も天野くんとしてるから♪」

「全部?」

「……いえ……前段階だけ」

「ふーん…」

「まさか……いのちゃんに先を越されるとは……」

「私とイッシューが付き合いだしたの、早絵ちゃんと天野くんより、ずっと早いよ?」

「それは、まあ…そうなんだけどね」

 早絵は喉が渇いたので、いのりが飲んでいるペットボトルを勝手にもらった。

「ぶっちゃけ、アナルって怖くない?」

「………」

 いのりは勝手に飲まれたペットボトルを見つめる。

「ね、いのちゃん?」

「…………」

 間接キス……早絵ちゃんの唾液……着いてる……って、早絵ちゃん相手に何を考えてるの、私は、こんなの何度もあったことだし、私もジュースもらったり、みんなで回したりするの普通だったのに、早絵ちゃんの唾液、汚いとか、思うはず、ないのに、いのりは軽く首をふってペットボトルからお茶を飲もうとしたけれど、胃の奥から吐き気が込み上げてきたので口元を押さえた。

「ぅっ…」

「いのちゃん?」

「……何でも……ない…」

 いのりの吐き気をこらえるような仕草と、今までの会話の流れから早絵は当然といえば当然のことを口にする。

「つわり? なんてね♪」

「………」

「妊娠してたりして♪」

 早絵が笑いながら、いのりの下腹部を撫でようとしてくる。

 バシンッ!

 いのりの手が、本人も意識しないほどの速さで早絵の手を払いのけていた。早絵が痛かったのと驚いたので硬直する。

「………」

「ぁっ……、ごめん、早絵ちゃん…」

「……いのちゃん……マジで?」

「ちっ、違うよ! 早絵ちゃんに触られるのが気持ち悪いとか、そーゆーことじゃないから」

「……………………………」

 早絵が複雑な顔をして返事に窮する。いのりは慌てて早絵の手を握ろうとした。

「ごめんなさい、早絵ちゃん。気持ち悪いとか、汚いとか、そんなこと、ぜんぜん思ってないから」

「…………………………。思って、……るんだ」

「…………………」

 いのりの手は早絵の手を握ろうとしているけれど、途中で空中停止している。まるで汚物に触れるのを拒否するかのような動作で、早絵は気を悪くした。

「……へぇぇ……私って汚い?」

「ぉ…思ってない。思ってないよ、早絵ちゃん」

「あっそ」

 早絵が手を伸ばして、いのりの手に触れた。

「っ…」

 いのりは反射的に手を引っこめ、避ける動作をしてしまった。

「……………………」

「……………………」

「……思ってるじゃん。思いっきり」

「…………」

「そこまで避ける? って思うほど、思いっきり汚いって思ってる」

「…………そーゆー……わけじゃ……ないの……。友達として、早絵ちゃんのこと……」

「なんで、汚いとか思われないといけないのかな?」

「……思ってない…」

「もしかして、あれ。自分は鷺沢くんと何ヶ月も付き合ってからエッチしたけど、私と天野くんは、にわかカップルだから汚いとか? 告られて、その日にエッチなんて超お手軽、超汚いって?」

「思ってないよ! ぜんぜんそんなことじゃないよ! 二人はお似合いだよ!」

 いのりは誤解をさけようとして早絵の肩へ触れようとしたけれど、またしても手が強張り、触れられない。肉体が強烈に同性を拒否していて、腕に鳥肌が立った。

「……私、……ちょっと体調……悪いの……」

「なによそれ? 自分なんかアナルセックスまでしてるくせに。そっちの方が、よっぽど汚いじゃん。気持ち悪い」

「っ……。……イッシューと私は……汚くない……」

 いのりが呪い殺すような目で早絵を睨んだ。

「取り消して。イッシューと私は汚くないから」

「……」

「私とイッシューは神さまが望まれた関係なの。愛し合うように神さまが、ずっと、ずっと昔から。最初から、そう運命づけられて創られたの」

「ちょっ……なに言ってんの……」

「汚いどころか、そーゆー運命だったの。だから、付き合ってるの」

 亡くなったリナちゃんのためにも、イッシューのためにも、私たちは幸せにならないといけないの、いのりは呪い殺すような目をゆるめず、早絵は青ざめて後退る。

「…くっ……くだらない! 超くだらない! だ、だいたいさっ! あんた重っ苦しいのよ! バカじゃない! 運命とか! リアルに言うヤツ初めて見たっ!」

「……………………」

 いのりと早絵の友情が壊れていく。いっしょにいた女友達が二人のケンカを見かねてフォローに入ってくる。いのりと早絵に一人ずつ、気を静めるようにと言いながら肩に触れてくる。

「触らないで」

 いのりはフォローしてくれようとした女子の手も払った。それで決裂が固定化される。早絵たちが離れていき、いのりは一人になった。

「…………………」

 しばらく反省していたけれど、いのりは嫌悪感の方が強くなったので早絵たちが使っていた自分の机をハンカチで拭いて、ペットボトルを捨てた。まだ友達と思いたい気持ちもあったけれど、離れていかれ、一人になると抑えていた気持ち悪さが感じられる。さっきまで感じないようにしていたけれど、同じ空気を吸っていることも、苦しかった。

「……たはーっ……」

 絶交、されちゃったかな……したのかな、いのりちゃんのナゾナゾタイ~ム、仲直りした方がいいのかな、できるのかな、それより、イッシューといる時間の方が、ずっと大切じゃないかな、いのりは今すぐ謝りに行かないと高校生活で女友達がいなくなるかもしれない危機に気づきつつ、もう同性との友情はいらないかのように一蹴たちのところへ行く。サッカー部の仲間たち男子ばかりで談笑している中、声をかける。

「イッシュー」

「あ、いのり?」

「ふにゅっ♪」

 いのりは一蹴の鼻をつまんだ。

「や…やへろよ」

「エヘヘ♪」

 ホントはおちんちん、つまみたかったけど今は他の人がいるからガマンしないとね、いのりが恋人に触れて楽しんでいると、他の男友達が冷やかしてくる。

「あいかわず熱いな。お前らは」

「いのりちゃんのナゾナゾタィ~…」

 脳内では言い切れても発音するときは恥ずかしいので語尾が消えていく。

「男の子が熱いモノを女の子に入れました。入れられた女の子は、どんどん熱くなってしまいます。最初は小さな種だったのに、とっても大きく熱くなって出てきます。な~んだ?」

「「「「……………………」」」」

 それって……………………男子高校生たちが同じ想像をする。いのりと毎日のように性的関係をもっている一蹴が慌てる。

「ちょっ、待ってよ! いのり! 向こうへ行こう!」

「正解は、恋の種」

「「「「……………………」」」」

 ちゃんとオチがあってよかった、男子たちは安心し、天野が思い出した。

「陵さん、そろそろ生徒会室に行かないと」

「あ……そっか」

 いのりは学祭の実行委員だったことを思い出して一蹴と過ごせなくなるのを惜しく思った。今日は午後からの授業はなくなり、すべて学祭の準備にあてられる日なのに、実行委員では一蹴と過ごすことはできない。

「あうぅ……イッシュー、終わったらアパートに行ってもいい?」

「今日は勘弁してよ。そろそろ引っ越しした荷物を片付けないと」

「でも、夕ご飯は?」

「今日は自分で作るからさ」

「うう~……イッシューぅ」

 いのりは恋人に近づくと耳元へ囁く。

「イッシューと、したい♪」

「……」

「荷物の片付け、手伝うから」

「そんなこと言って、この一週間、ぜんぜん片付いてないじゃないか」

「テヘヘ♪」

「……たはーっ……とにかく今日は学祭の準備もあるしさ」

「イッシューぅ~」

「あの日から毎日だろ……ちょっと休憩くれよ」

「何分くらい?」

「……せめて三日」

「ふにゅっ♪」

 いのりは一蹴のブレザーへ右手を忍び込ませると超絶技巧的な感覚で乳首を正確につまんだ。

「うっ?!」

「しようよ。私は女の子で、イッシューは男の…」

「陵さん、イチャつくのは、そのくらいにして行こうぜ。上級生もくる会議なんだから遅れるのはマズイしさ」

 天野が催促してくるので、いのりは一蹴から離れる。廊下へ出て生徒会室へ向かう道すがら早絵とケンカしたことを思い出した。

「天野くん」

「ん?」

「ちょっと早絵ちゃんとケンカしちゃった」

「なんで?」

「ちょっと、いろいろね」

「ふーーん……それをオレに言われても…」

「うん。でも言っておかないより、言っておく方がいいから」

「それは、そうだな。早く仲直りすれば?」

「うん……できれば、ね。早絵ちゃんと、この話題になったら、私が早絵ちゃんに悪いことしたって思ってるって伝えておいて」

「…まあ……」

 天野が煮え切らない返事をしたところへ、いのりは素早く手を伸ばした。

「ふにゅっ♪」

「なっ…なひふっ?」

 天野が鼻をつままれて慌てる。

「何するんだよ、陵っ!」

「エヘヘ♪」

 天野くんだと気持ち悪くないんだ、やっぱり、早絵ちゃんが言ったみたいなことじゃなくて、単に女の子が気持ち悪くなってるみたい………カナちゃんのせい……、でも、カナちゃん、ほたるさんと加賀先輩のこと知ったりしたら………、いのりが考え込んでいるうちに生徒会室での会議が始まり、いろいろな係りと分担が決まっていく。気がつくと、いのりが担えそうな空きポストは二つだけになっていた。

「……天野くんは、何にしたの?」

「運動場の管理と設営。陵は、どうするんだよ?」

「う~……」

 残っているポストは食品衛生管理か、入場門設営だったが、このさい、何をするかよりも、誰とするかが高校生にとって重要事項だったりする。すでに決まっている食品衛生管理のメンバーは三年生も二年生も女子で、いのりが入ると女三人での作業になる。逆に入場門設営は三年生が智也、二年生が川本拓で、いのりが入るとバランスが取れそうだったが、女の子一人になってしまう。

「う~……どっちも……」

「君さ、こっちおいでよ♪」

 拓が誘ってきた。

「男ばっかじゃ超つまんねぇしさ。君、こっち来てよ。力仕事はオレと先輩でやるからさ。君はアイデアとか、くれればいいよ。な?」

「先輩が、そう言ってくださるなら……」

「やった! 決まり♪」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく♪ オレ、川本拓」

「私は、みささ…」

「リアル平安」

「……。陵いのりです」

「姫とも言う」

「……」

 いのりが智也へ送る視線の性質で、拓が気づいた。

「あれ? お二人は知り合いっすか?」

「まあな」

「知っては…います……」

「とにかく、よろしくっす。せっかくの文化祭なんすから、仲良く楽しく盛り上げていきましょうよ。パーッと」

「いや、オレ的にも、そーしたい気持ちはあるが、前科があってチェックが厳しいからな。ついでにバイトを優先したい。まあ、老婆心で生温かく見守ってやるから新しい文化祭を若人がつくっていってくれ」

「んじゃあ、ノリの悪い先輩はおいといて、オレら二人で、みんながビックリするような入場門にしてやろうぜ。な、いのりちゃん♪」

「…、川本…先輩…、その……いのりちゃんは、ちょっと、やめてください」

 いのりが初対面の男子にちゃん付けで呼ばれるのを彼氏がいる身として当然に拒絶すると、拓は気にしない雰囲気で提案する。

「んじゃあ、いのりん♪」

「……それも、ちょっと」

「リアル平安だぞ、こいつは」

「それも、ちょっと。っていうか、ダメダメです」

「んじゃあ、いのり♪」

「名前の呼び捨ても、やめてください。陵でいいです」

「ミサちゃん」

「……やめてください」

「みさっち」

「………」

「いのっち」

「……………………」

 いのりが呪い殺すような目で拓を睨んだ。

「っ…、くっ、くだらねぇ…、こと…言って、ごめん…。み…陵さん」

 おっかねぇ、怖ぇぇ、貞子かと思ったつーの、ぜってぇ危ない女だ、可愛いけど、やばい系かも、拓は浮かれていた気分を少し自重する。

「じゃあ、オレらの持ち場で仕事を始めましょうか。どこだっけ?」

「入場門は体育館の二階だ。持ち出して美術室でデザインして本番に設営」

「さすが先輩」

「お拓も二年目だろ」

「……オタクって誰のことっすか?」

「川本拓だから、丁寧に御をつけて御拓♪ リアルもつけてやろう、リアルお拓」

「……………………」

 拓は呪い殺すような目を真似して智也を睨んでみた。

「その技、簡単じゃないから無理だぞ。たぶん、姫にしかできない」

「くっ……先輩、川本でお願いしますよ。オタクじゃないっすから!」

「気が向いたらな♪」

 智也たち三人は体育館の二階に収納されていた入場門を美術室へ運び込む。三分割されていたので智也と拓が持ちあげ、いのりが補助をしながら三往復した。

「たはーっ……疲れた。これで時給なしだからな」

「ハァーっ…きついっすね」

「すいません。私、何もしなくて」

「いいって、いいって。力仕事は男がやるからさ」

「よかったら、どうぞ」

 いのりが缶ジュースを智也と拓に渡した。

「お、ありがと」

「サンキュー♪ いのりちゃん」

「……。どういたしまして、お拓先輩」

「………陵さん。オタクは勘弁してよ。オレ、部活はやってないけど、個人でバンドとかやってるからさ」

「けいおんか」

「けいおんって何っすか。先輩」

「軽い音楽だから、けいおん。ちなみに姫は重い音楽をやってるから、じゅうおん♪」

「「じゅうおん……」」

「重いのも、軽いのも、似合ってるぞ、二人とも」

「……。陵さんも音楽やってんの?」

「ピアノを少し…」

「すっげぇ! 今さ、オレらのバンド、キーボードいないんだぁ。よかったら練習とか見に来てよ。合いそうだったらさ。そのまま入ってよ。女の子一人もいなくて淋しいから」

「…えっと……ピアノと…キーボードは…違うと…」

「ホントに軽い音楽だな。姫は重いから簡単に動かないぞ♪」

「三上先輩」

 いのりが呪いをかけるような目で睨む。呪い殺すほど強烈ではなく、どちらかというと彩花が怒って智也を睨むような軽い呪いだった。三人とも軽口を叩きながら作業を進めているおかげで親しく話すようになり、いのりも気を許していく。

「先輩たちは去年のデザイン、見てるんですよね。どんなでした?」

「「……………………忘れた♪」」

「……たはーっ…」

 いのりは腕まくりして入場門への装飾を考える。

「文化祭もお祭りだから、聖なるものを祭るような神聖な感じとか出したいです」

「数珠と十字架でもぶら下げるか?」

「まじめに考えてください」

「いやいや。平安時代に空海が三教指帰という寓意小説の仏教書を記している。これには儒教、仏教、道教の各要素が論じられている。もともと日本は姫が産まれた平安時代から多くの宗教を受け入れる文化的寛容性をもった…」

「ふにゅっ♪」

 いのりが演説する智也の鼻をつまんで無駄口を止めた。

「ふごっ、ひはわ…」

「私は平安時代からいるわけじゃないです」

「三上先輩のサンゴウなんたらは、置いておいて。いのりちゃんの神聖な感じってコンセプトはありじゃね?」

 さりげなく拓は、いのりちゃんと呼びかけてみたが、今回は拒否がなかった。鼻をつままれていた智也が再び話を膨らませる。

「神聖なってのが、キリスト教っぽいイメージなら教会みたいなのは、どうだ?」

「あっ♪ いいですね」

「門の上部中央に金色の十字架と後光、でもって左右の柱にはアダムとイブを阿吽の像っぽく描こう♪」

「それ、いいですね」

「いのりちゃん……」

 どんだけ、いかがわしいアーチだよ、文化祭っていうより変なセクシャル系コミックバンドのライブ会場みたいだよ、拓は困った顔をして頭を掻く。智也も迷った。

「………」

 冗談だったんだが、この案が採用されると、当然、三年生のオレに責任が来るよな、前科的にも類推有罪だろ、智也は色々と忙しい上に、さらなるトラブルをかかえることを回避する。

「アダムとイブはやめといて十字架だけにしないか。シンプルで楽だろ。あとは色紙で作った花でも貼りつけてさ。オレ的には、この仕事、できれば今日中に終わらせてバイトとか私生活にいそしみたいんだ。そしたら、実行委員としての仕事、当日の前夜に組み立てるだけで済むだろ?」

「手抜きっすね」

「でも……私も、賛成かな」

 いのりもクラスでの活動を一蹴とこなしたいので頷いた。

「よしっ、じゃあ、今日中に終わらせる感じで頑張ろう!」

「なら、オレ、弁当でも買ってきますよ。腹が減っては戦ができねぇっていいますし」

 拓が右手を智也に差し出した。

「閣下、軍資金を」

「……まあ、いいか。領収書、もらってこいよ」

 智也が財布の紐をゆるめ、いのりは腕まくりして作業を始める。拓は30分後に息を弾ませて戻ってきた。

「ハァっ、ハァっ! お待たせっす」

「遅かったな。どこまで行ってたんだ?」

「このあたりで一番美味い弁当屋っすよ!」

 拓はカラアゲ弁当を三つ掲げた。智也が訝しむ。

「その言い方、お前の関係者か?」

「うっ……いい勘してるっすね」

「やたら宣伝臭いからな。で?」

「……うちの親がやってる弁当屋っす。でも、マジで美味いっすよ」

「ってことは、融通が効くんだな?」

「割引はしませんよ。定価オンリーっす」

「いや、そうじゃなくて領収書の金額を水増しできるか?」

「ど……どうっすかね。…わかんないっす」

「できるなら、少し小遣い稼ぎができるぞ」

「……どんな?」

「このアーチの装飾には生徒会から3万円までの予算がおりることになってる」

「けど、個人の飲食はダメじゃなかったっすか?」

「おっ♪ お前も少しは考えてたみたいだな。家業への利益誘導を」

「へへ♪ 一応、跡取り息子っすからね」

「…」

 嘉神川食品とは比べものにならないだろうけどな、まあ、いいや、智也は図を書いて説明する。

「別に弁当屋だからって弁当しか売れないわけじゃない。もしかしたらアーチ装飾に使える材料、たとえば弁当の箱とか、模様のある紙とかを仕入れてるかもしれないだろ? 現に、ここに弁当箱はある」

「ふんふん」

「二人とも冷める前に食べませんか? せっかく川本先輩が走ってもどってきてくれたんですから」

 いのりが机を片付けて弁当を並べてくれている。智也と拓は礼を言って座り、食べながら悪事についての話を進める。

「お前の家からの領収書を、但し書きを品代、もしくは材料費みたいな曖昧な表現にしておいて2万円分、作る。でもって生徒会からもらった金は、オレとお前で山分け♪ 姫が加わりたいなら三人で山分け、だが?」

「私は共犯者になりたくないです」

「ってことは、一万円ずつだ♪」

「なるほど……先輩、頭いいっすね」

「ちょっと待ってください。それじゃあ、アーチを飾る予算が一万円しか残らないよ」

「そこは工夫してアリモノで済ませる。画材は美術室にあるもの、あと、オレは卒業して二度と美術とか図画工作はしないから、オレの小学校からの絵の具とか、全部使って、それなりの形のものにする。ちょこっとだけ、この弁当を食い終わった後の弁当箱も洗って切り取って貼りつけよう。そうすると、本当に材料にしてるから発覚しても言い訳ができる。どうだ? やるか?」

「……………………」

 拓が考え込む。アンプ、楽譜、メンテ用品、軽音楽を続けるのに欲しい物は次々と出てくる。いのりのように一千万円もするピアノを学校から、ほたるの手紙一つで使わせてもらえるような身分ではなく、ほたるが全国優勝したおかげで学校をあげて重視してもらっている重音楽と違い、軽音楽は学校から軽視以前の無視状態だった。少しくらい予算を使っても正当な気がしてくる。

「やります! 先輩!」

「よしっ」

 話がまとまると食事が終わり、神聖をコンセプトにした入場門へ、ゴミとなるはずだった弁当箱がリサイクルされて貼りつけられていく。さっきまでダラダラと作業していた智也の動きが機敏になり、材料代をかけずにアーチが飾られつつある。

「今日中に終われそうだな」

 一息ついた智也は缶の緑茶を飲んだ。

「あっ…悪い、間違えた」

 いのりが飲んでいた缶に間違えて口を付けたことに気づいて謝った。いのりは少し缶を見つめた後、了承する。

「いいですよ。私も三上先輩のウーロン茶もらっていいですか?」

「おう」

 智也も気にしないタイプなので快諾する。いのりの唇がウーロン茶を飲むのを拓が盗み見る。

「………」

 いのりちゃん、間接キスとか気にしないのか、それとも三上先輩のことを好きとか、でも、たしか三上先輩は水泳部の怖そうなキャプテンと付き合いはじめたってウワサがあったはず、拓は彼女いない歴17年5ヶ月の青少年として文化祭がきっかけで知り合えた年下の少女へ小さな挑戦をしてみる。

「いのりちゃん、このサンピン茶も飲んでみない? 美味しいよ」

「え~っ……それ、怪しいですよ」

 いのりは拓が飲んでいたサンピン茶を怪しむ。もともと弁当といっしょに拓が持ってきたものだったが、怪しいので拓しか飲んでいない。

「沖縄じゃ有名なんだって。うちの店でも評判だんだん良くなってるしさ」

「う~ん……」

「これを機会に気に入るかもよ」

「……三上先輩は、どう思いますか?」

「商品以前に、オレは川本と間接キスしたくない」

「それは、そうですよね」

「………」

 いのりちゃん、やっぱ三上先輩限定なんだ、くそっ、意識してないっぽい感じで意識してるじゃん、っていうか、三上先輩っ余計なこと言うなよな、拓は気を落としたけれど、いのりはサンピン茶の缶を受け取った。

「私は一口だけ、味見」

 いのりは好奇心から聞いたことのない茶を飲んでみる。

「う~ん……意外と、普通かな。ちょっと苦いです」

「そ、それが慣れれば美味しく感じるんだって♪」

 拓が小さな希望をもった。そして戦術的に動いてみる。

「と、ところで三上先輩って水泳部の切れそうなほどの美人と付き合ってるってホントっすか?」

「まあな♪」

 短く嬉しそうに肯定してくれた。智也が彼女もちなことを明言してくれたので拓は次の作戦段階に入る。

「いいなぁ~…彼女いる人は。オレ、ぜんぜんなんっすよね。なんでかなぁ~」

「川本先輩は好きな人とかいないんですか?」

「うん♪ いないいない。ぜんぜんフリー。っていうか、今、目の前にいる子を可愛いなぁと思ったりしてっ!」

「…エヘヘ…」

 軽音楽ってホントに頭も軽くなるのかなぁ、いのりは社交辞令的な微笑みで拓の発言を流そうとしたが、拓は踏み込んでくる。

「いのりちゃんは好きな人とかいるの?」

「はいっ♪」

「…そ…そうなんだ…。うまく、いってんの?」

「はい、とっても♪」

「そっか…、よかったね。…はは、は…」

 拓のテンションが見てわかるほど低下したのを、いのりは見て見ぬフリをする。智也も面倒なので無視して作業を進める。拓の口数が減ったので、いのりと智也が会話をはじめた。

「姫の彼氏って、サッカー部だっけ?」

「はいっ」

「変な名前だったよな?」

「イッシューは変な名前じゃないです」

「個性的でいいな。オレなんか智也だからさ、どこにでもいるからな」

「寿々奈先輩とお付き合いされてるのは、どういうキッカケだったんですか?」

 いのりの女の子らしい好奇心からの質問に、智也はニヤリと笑って答える。

「オレが好きになって強引に口説き落とした♪」

「強引って? どんな風に?」

「一回デートして口説けなかったけど、悪くない感じだったから部屋に誘ってオレの女にした」

「それって男と女の関係にってことですか?」

「そーゆーことだな。姫と彼氏は? どの段階なんだ?」

「もちろん、男と女の関係ですよ」

 いのりが嬉しそうに肯定すると、拓がサンピン茶で噎せている。

「ごほっ…」

 可愛い顔してヤることヤってんだ、まだ高校生になって半年なのにさ、しかも誇らしげだし、拓は作業を進めながら聞き耳を立てる。

「まあ、鷹乃との初夜は強引すぎて、しばらく泣かれたけど、今は悪くない関係だぞ」

「そんなに強引だったんですか……」

 いのりの言い方は批判的というより、憧れが籠もった声色だった。一蹴から強引に迫られる自分を想像してときめいているので、智也は絵の具を塗りながら問いかける。

「姫の初夜は、どうだったんだ?」

「ん~……強引だったかな。少し」

「泣かされたか?」

「…エヘヘ…、強引だったのは、私です」

「なるほど♪ 場所は?」

「誰もいない教会でした」

「へぇぇ♪ 雰囲気はバッチリだけど、自宅でもラブホでもないところでとは、大胆だな。まあ、流れとか勢いもあるしな。とくに初夜は」

「その後はイッシューの部屋が多いですよ」

「屋内が一番、落ちつくからな。屋外もスリルがあっていいけど」

「屋外って、どんな場所でするんですか?」

「オーソドックスだと夜の公園とか、学校内の死角とか、あとは学校サボって午後の早い時間にシカ電に乗ると、誰も乗ってないときとか、あるからな」

「うわぁぁ……大胆。さっすが三年生ですね」

「姫だって音楽室でヤってるだろ? いのりちゃんのエロエロタイム」

「変な造語をつくらないでください。イッシューとするとき、思い出しそう」

「もしもチャンスがあるなら校長室とか職員室でやってみたいな。それも夜中じゃなくて昼間、たまたま誰もいないときに」

「見つかったら退学にならないですか?」

「全裸にならないでヤる分には、先生が戻ってきても、さっと離れれば追求されないだろ。何か言われても彼女が頭痛でフラついたから支えた、とか誤魔化せばいい」

「スリル満点ですね。ちょっと怖くて無理かな」

「彼氏からノーパン登校とか要求されないか?」

「ノーパン登校って、下着なしってことですか?」

「うむ、夏場じゃなければブラジャーも無しがいいな♪ でもって、ときどき制服の上から撫でてやると反応が最高に可愛い」

「それって彼女さん、濡れちゃって困らないですか? 授業中とか座ってるうちに」

「ああ♪ 立てなくなって恥ずかしがってるのを放課後まで放置するのが楽しいぞ」

「三上先輩の彼女になると大変そう。…あ…」

 いのりが何かを思い出して拓には絶対に聞こえないよう智也へ近づくと耳元へ囁きかける。

「この前、寿々奈先輩が学校でノーパンでいて……私、そのとき、そーゆー男女のこととか慣れて無くて、思いっきりヘンタイって言っちゃったんです。……謝っておいて、もらえますか?」

「鷹乃………姫にも見られたのか。わかった。サンキュー」

「ノーパンにするなら、せめて守ってあげないとダメじゃないですか」

「面目ない」

「でも、イッシューは、そーゆー要求してこないから……」

「淋しいか?」

「ちょっと……、でも、女の子から言い出したら変じゃないかな?」

「そーだなぁ……引くかもなぁ」

「それって不公平だと思いません? エッチな願望って女の子にもあるのに」

「うむ」

「寿々奈先輩は要求とかしないんですか?」

「基本的に受けかもな」

「三上先輩が支配欲強いからじゃ?」

「うーん……自由を奪ったりはしてないけど、するときもあるなぁ」

 二人が囁き合っていると拓が立ち上がった。

「何を二人でヒソヒソイチャイチャやってんすか。恋人にチクりますよ」

「悪いな、蚊帳の外にして。お前も話題に入るか?」

「ごめんなさい、川本先輩」

 いのりが智也から離れて拓が話題に入れるスペースを譲り、問いかける。

「川本先輩は、女の子とのケーケンありますか?」

「ケ…ケーケンって、…アレのこと?」

「はい」

「ぁ、あるさっ。それなりに!」

「「………」」

 いのりと智也は反応を見て拓が童貞であることを確信する。

「へぇぇ…さすが川本先輩」

 どうして男の人って意味のない見栄を張るのかな、初めてなら初めてって相手に伝わる方が相手の女の子だって嬉しいのに、いのりは顔に出さないように努め、智也は顔に出してニヤけた。

「やるな、川本。で、何人くらい今までにヤったんだ?」

「さ…ご、五人くらいっすかね!」

「ほおっ♪」

 お前さっき、ぜんぜんフリーとか自分で言った記憶をオフしたのか、面白いヤツ、智也は意地悪く追求する。

「すごいな。五人か」

「三上先輩は、何人っすか?」

「オレは、ふた…、過去のことは忘れた。鷹乃のことしか、頭にないな」

「へぇぇ♪ 一人っすか」

「………」

 いのりは智也の顔を見つめて表情の奥を読む。女の勘で鷹乃以外にも性的経験があることを読み取った。

「………」

 中学の時、いつも近くにいた桧月先輩かな、それとも今坂先輩、伊吹先輩あたりかな、誰にしても自慢の種にしないで隠してあげるのは、えらいなぁ、いのりは追求しないことにして拓のホラ話を聞く。

「ま、まあ、一年に一人くらいのペースっすかね」

「ほお♪ じゃあ、中学一年から一人ずつか、早いな。早弾きの川本だな。テクニックも相当なのか」

「当然っすよ。ギタリストの指は女の子の憧れっすからね。この指技で一晩に何回昇天させたことか」

「ちょっと教えてくれよ。なかなかイってくれないんだ。オレ下手なのかも♪」

「それは彼女さん可哀想っすね。男として情けないっすよ」

「ああ、なんか基本的な技だけでも、教えてくれよ。頼む」

「そっ…そーっすね。……こ、こう…」

 拓は何の経験もないのに指を動かしつつ解説する。

「こんな感じで、ククッと…素早く動かしてみるとか…」

「その動きで、どこを攻めるんだ?」

「ぇ…えっと、…やっぱ、クリちゃんかな」

「川本先輩、そんな風にクリトリスに爪を立てたら痛いですよ」

「ぁ、いや、オ、オレが相手にしてきたハードコアな女たちは、このくらいでないと感じないんだぜ。いのりちゃんはデリケートだなぁ」

「クリトリスって一番デリケートなところですよ。少なくとも爪を立てられたら、痛くて感じるところじゃないと思うなぁ。男の人だってフェラで歯を立てられると痛いでしょ? 川本先輩が一年しかお付き合いが続かないの、そーゆーところにも原因があるんじゃないですか?」

「ぐっ……、じゃあ、いのりちゃんは、どんなテクならいいんだよ?」

「うーん……クリトリスなら、こう…」

 いのりは実演しようとして気分が悪くなった。

「私が女の子への愛撫方法を説明するなんて変じゃないですか。おちんちんでもクリトリスでも基本は同じだから、フェラなら、こう…指の腹と、舌で…、で、指は卵の殻をもつくらいの優しさで…こうして、こう…」

 いのりが男根への愛撫を実演する。その超絶技巧に智也と拓が感心した。

「姫、すごいな。それされたら、すぐイきそうだ」

「いのりちゃん、指の動き器用すぎだよ。キーボードやったら、絶対すげぇって」

「でも……あんまりイッシューは喜んでくれないかなぁ…」

「そうなのか? 絶対、それ気持ちいいはずだぞ。彼氏、真性の包茎か?」

「えっと……どうなのかな? 真性の包茎って、どんなのですか?」

「ちんぽの皮、剥けるか? ゆっくりでも剥けるなら仮性だし。っていうか、仮性包茎が正しい姿なんだぞ」

「イッシューのは剥けてると思いますけど……射精もしてくれるし」

「射精してるなら気持ちいいっていうか、イったんだろ。文句なしに」

「う~ん……男の人って、先にイっちゃうと悲しいって気持ち、ありますか?」

「そうだな、あんまり早いと、ちょっと、な」

「それって変じゃないですか? 私は気持ちよくしてあげたいから頑張るのに……」

「なるほどな。さっきの姫のテクだと、すぐイきそうだからな。自分のこと早漏だって思うかも」

「三上先輩は、いつも寿々奈先輩とイくタイミング合いますか?」

「う~ん……合うときもあるけど、やっぱ生で膣に入れると気持ちよすぎるからな、オレの方が先にイきそうになって中断するときもあるな、正直」

「イッシューも中断しちゃうんですよ。先にイけそうならイってくれてもいいのに」

「まあ、男ってのは見栄もあるしな。なんか、女より先にイくと情けない感じもするからさ」

「情けなくないと思うけど……。イってくれるってことは私で感じてくれてるってことなんですから」

「それは男と女のオルガスムの違いがあるだろ。女は先にイっても、ぜんぜんセックスを続けられるけど、男はイったら、とりあえず休憩しないとリトライできないし、萎えるだろ」

「二回目は疲れてるはずなのに長く保ってくれるんですよ。ちょっと一回目より小さいけど」

「ああ、どうしても一回目の勃起を上回るのは難しいな。それに、疲れてるけど長く保つってわけじゃなくてな、二回目は感度も鈍くなるんだ。オレもそうだけど、彼氏も二回目くらいの方が思いっきり突いてイくタイミングが同じになるくらいじゃないか?」

「はいっ、そんな感じです」

「なら、ぜんぜん問題ないセックスだと思うぞ。自信を持て。そして日々精進しろ、あらたな道を開発するんだ」

「う~ん……知ってることは全部やりましたけど…」

「アナルは?」

「済みです」

「ノーパン登校は?」

「……私から要求するのは……三上先輩って女の子が淫乱でもいいと思います?」

「う~ん………恥じらいは失ってほしくないな。恥じらいつつオレの要求に応えてくれるのが最高にいい」

「やっぱり…」

「こういうのは、どうだ。ノーパン登校は他人もいるから自重するとして、ノーパン新妻ごっことか」

「どうするんです?」

「彼氏の部屋で待ってるとき、先に全裸になって料理してるとかな。鷹乃には裸エプロンが似合うけど、姫がオレの彼女だったら、もっと違うのを期待するな。しかも、それは姫にしかできない」

「どんなことです?」

「全裸になって髪の毛で身体を隠すんだ。ハードのジェルとかで胸と股間に髪を固定して靴下とかは脱がないでいて一見すると着衣のままかと思わせつつ、実は裸っていうサプライズだ」

「それはサプライズかも♪」

「ついでに、ボディペイントもするといい」

「ボディペイント?」

「鏡を見ながら身体に、イッシュー専用、とか、イッシュー様ご予約済み、とか描くんだ。高くつくけど口紅で描くか、安いけど肌荒れする油性マジックにするかは、悩みどころだけどな。たいていの男は驚きつつ、なにしてるんだよ、とか言いながらも絶対嬉しい。オレの女だぁって感じがするからな」

「オレの女……。三上先輩、そーゆー言葉、寿々奈先輩に言いますか?」

「ああ、要所要所で言う」

「いいなぁ……」

「言ってくれないなら、言わせてみればいい。そーゆープレイとしても悪くないぞ。あえて恥ずかしいセリフを鷹乃に言わせたりするぞ♪」

「どんなこと?」

「姫自身が、こんなこと恥ずかしくて言えないけど、してほしい、みたいな、ことだ」

「……………………」

 いのりが頬を赤くして目を潤ませる。智也がいやらしく微笑んだ。

「おっ♪ その顔は考えてるな」

「教えませんよ。三上先輩には」

「だろうな。ちなみに言うだけじゃなくてボディペイントすると、もっと盛り上がるぞ。ラブラブな言葉でもいいし逆に侮辱的なのとか、自虐的なのも面白い」

「自虐的って?」

「たとえば、処女です、とか、逆に、ヤリマンです、とか、イッシューのチンポください、みたいな卑猥な言葉を描いてもらって、コート一枚羽織って散歩してから部屋に戻って抱き合うとかな」

「私がイッシューに描くのはアリですか?」

「いいんじゃないか。いのり専用、女子厳禁、手を出したら呪い殺す、ドロボウ猫はシュレディンガーの刑に処す、とかな」

「ううっ♪ イッシューに会いたくなっちゃった」

 いのりと智也は熱っぽく話し込んだせいで、二人とも血が騒いできた。もう文化祭の準備を今日中に終わらせることなど、どうでもよくなって帰って恋人と身体をからめたい衝動が若い血潮を熱くして身体を駆けめぐる。いのりは他の男子に訊いてみたかったことを、この機会に訊いてみることにした。

「三上先輩は、好きな人のおしっこなら飲めます?」

「美味しくはなかったけど、まあ、たまに飲む」

「飲ませたりも?」

「ん~……それは、ないなァ。口の中に射精したときは飲んでくれるけど。今度、鷹乃がいいなら試してみよう♪ あ、そうだ。姫に、いいテクニックを教えてやろう」

「はいっ?」

「フェラで先にイかれそうになったとき、半殺しのいいテクがある」

「半殺し……」

「生殺しでもあるけどな。彼氏が射精するタイミングは、わかるか?」

「だいたい、わかるようになってきたかなぁ…」

「射精タイミングに合わせてチンポの根元をギュッと圧迫するんだ」

「圧迫、ですか?」

「首の動脈でも強く押さえれば血が止まるように、射精も圧迫されれば止まってしまう。脳としてはイってるのに、射精は無い、もしくは最小限に精液が滲むくらいで終わるから、萎えても回復が早いし、二回目の勃起力も強いし、そのわりにイきにくさもあって一石三鳥だぞ」

「へぇぇ♪ そんなテクがあるんだぁ」

「とくに姫なら、その長い髪でチンポの根元を絞めれば確実に止まりそうだし、プレイとして面白いぞ」

「はい。……あの、そろそろ今日は終わりにしませんか。やっぱり今日中に終わるのは無理そうっていうか…」

「そーだなぁ…」

 二人とも盛り上がってしまい恋人に会いたくなったので当初の目的を変更しようとしたが、二人の携帯電話が鳴った。いのりと智也は同時に、それぞれメールを開いた。

((会いたい))

 カナタとクロエから用件だけの短いメールが着いていた。

「「…………………………………………」」

 いのりと智也は黙って携帯電話の液晶を見つめ、それぞれポケットに片付ける。

「「………………………………………………」」

「ど、どうしたんすか? 二人とも」

「いや、別に…」

「何でも…」

「そんな風には…見えないつーか…」

 さっきまでオレが入る余地もないくらいエロエロに語り合ってくせに、今は親の命日みたいに悲痛な顔で沈んでるし、いのりちゃんなんか顔色まで悪くなってる、拓は作業を続けつつ二人が心配になる。

「あのォ~、ホント、大丈夫っすか?」

「ああ、気にするな。ちょっと考え事したいから黙っててくれ。すまん」

「はい……。いのりちゃん、大丈夫? 気分でも悪い?」

「平気…です…。気にしないで…ください。…少し…話しかけないで…ください…ごめんなさい。少しだけ……考えたいことがあるから…」

「……………………」

 拓は心の中でタメ息をついて作業を一人で再開する。しばらくして考え込んでいた智也が話しかけてきた。

「川本、ちょっと頼まれてくれるか」

「はい、何っすか?」

「そこのノコギリで、この角材を意味もなく切り続けてくれ。なるべくノコギリの音が響く感じで」

「は…はぁ…いいっすけど」

「ノコギリの音だけで余計なことは言わなくていいからな。すぐ、済む」

「は~い」

 拓が言われた通りにノコギリを使い始めると、智也はトンカチを持って意味もなく釘を打ちながら携帯電話を開き、クロエにコールする。幸蔵から社用として与えられた携帯電話は会社との連絡より、クロエとの連絡用になっていた。

「もしもし、オレ」

(智也♪ すぐ電話してくれるなんて、うれしいです)

「悪いんだけどさ。文化祭の実行委員あてられたって言ったろ?」

(はい…。まだ学校ですか?)

「ああ」

 智也はトンカチを使って音を響かせながら、作業の真っ最中である雰囲気を電話の向こうへ伝える。

「しばらく終わりそうになくてさ。ごめん」

(いえ、そーゆーことなら仕方ないですから)

「じゃあな」

 智也は電話を切ると、拓に礼を言う。

「サンキュー。もういいぞ」

「いえ、このくらい……。電話の相手、誰なんすか?」

「バイト先のおばちゃん。今日もシフトに入ってくれって言われたけど断った」

「ふーん……」

 そんな感じには見えないけどな、まあ、いいや、拓は気を取り直して作業を再開しようとしたが、いのりが角材とノコギリを拾い上げた。

「すいません、川本先輩、さっきと同じこと、してくれますか。私も電話したいところがあるから」

「い、いいけど…」

「お願いします。あ、三上先輩、トンカチを使ってもらってもいいですか。そのへんの釘を意味なく…」

「あ? ああ、いいぞ」

 智也も言われたとおりにトンカチを使う。いのりはカナタへコールした。

「もしもし、私です」

(いのっち♪ すぐ電話してくれるなんて、思わなかったよ♪)

「悪いけど、文化祭の実行委員をしなきゃいけないの」

(え~~…そんなのEじゃん)

「今も作業の最中だから」

(いつ、終わるの?)

「しばらく終わりそうにないの」

(う~……いのっちに、会いたい)

「もう、切るから。……メールなら空き時間に返事するから。じゃ」

 いのりは電話を切り、智也と拓へ礼を言う。

「ありがとうございました」

「ああ」

「いのりちゃんのためなら、このくらい、ぜんぜんオッケーだって♪ 電話の相手、誰だったの?」

「ごめんなさい。ちょっと気分が悪いから」

 いのりはトイレへ行ってしまった。智也は意味もなく打った釘を抜きつつ黙って考え込む。

「…………」

 クロエのことを疑っていたが、あの子は誰にも言わないでいてくれたんだ、本当に悪いことをしたな、オレは、けど、だからってクロエに優しくしてやれば期待と誤解をもたせてしまって余計に傷つけるだけだろう、かといって完全に距離を置くこともできないし、今さら肉体関係があるのに妹みたいに可愛がることもしてやれない、どうしたものかな、智也がタメ息をついていると、いのりが戻ってきた。

「…すいませんでした…」

 いのりは先輩二人に謝って作業を再開する。けれど、ほとんど集中できていない。

「…………」

 カナちゃんのこと、どうしたらいいの、ほたるさんは加賀先輩を盗っちゃうし、そんなこと知ったらカナちゃんは壊れちゃう、だけど、私がカナちゃんのこと慰めてあげることだって、もう限界、気持ち悪くてできないよ、身体が完全に拒否してる、せめてメールくらいなら交信できるけど、声を聞くだけでも吐きそう、けど、このままカナちゃんを突き放したら、どうなっちゃうかわからない、いのりは悲痛な面持ちで胸ポケットから出したソウチンニャン人形を握り締めて祈っている。あまりに二人の空気が重いので拓は帰りたくなった。

「あの~ォ」

 この人ら、完全にやる気なくしてるし、テンション三億ビートくらい下がってる、雰囲気暗くて息がつまっちまうぜ、拓は絵の具を投げ出した。

「今日は、もう、ここまでってことにしませんか?」

「……。そうだな」

「……。そうですね」

 智也たちは簡単に後片付けをして、美術室を出る。

「じゃあ、また明日。放課後、ここにな」

「「は~い」」

 後輩たちを見送った智也は帰宅することにした。

「久しぶりに早く帰って鷹乃と過ごそう」

 いつも仕事で遅くなるパターンばかりだったので日が暮れる前に三上家の玄関を開いた記憶が遠い。

「ただいまァ♪」

 智也が玄関ドアを開くと、鷹乃は電話を終えたところだった。誰かと話していた鷹乃は受話器を置くと予想外に早く帰宅した智也に驚き、それから慌てて顔を隠した。

「っ…」

「なんで、顔を隠すんだよ?」

「なっ…何でもないわ。ど、どうして、こんなに早く?」

「ああ、文化祭の用意ってことでバイトを休んだのに、あっさり後輩どもが気力を無くしたから、とりあえず今日は帰ることになったんだ。この頃、鷹乃と過ごせる時間がないしさ。で、鷹乃、何を隠してるんだ?」

「………」

 鷹乃は智也に背を向けて顔を隠している。

「…な…何でも……ないの…」

「鷹乃、ウソは信じてもらえるようにつけよ?」

 智也は後ろから鷹乃を抱きしめて囁く。

「何を隠してる? 見せないと、このまま裸にして公園で散歩させるぞ♪」

「っ…、…二人とも逮捕されるわよ」

「素直に謝れば、厳重注意で済むさ」

「………」

「何を隠してる? どうしても、隠さなきゃいけないことなら遠慮するけど、残念だな。鷹乃に隠し事されるなんてな……たはーっ…」

 智也がタメ息をついてみせると、鷹乃は戸惑いながらも顔を隠すのをやめた。

「……笑わない?」

「耐えられる限り、耐えよう」

「っ…やっぱりイヤ!」

「笑わないっ♪ 笑わないから見せてみろよ?」

「……………………」

 鷹乃が諦めて振り返る。智也は鷹乃の顔を見て驚いた。

「…これは……また…」

「……………………」

 鷹乃は薄い化粧をしていた。

「女って……すごいな…。…こうも……化けるのか…」

「っ…やっぱり変なのねっ?!」

「いッ、いや! 可愛い! っていうか、美人! 美しい系だ!」

「……系って……なによ……」

「今まではスポーツ系ナチュラル美人属性だった」

「………勝手に分類しないで、私は種類の多い甲虫類じゃないわ」

「うむ、進化したんだな」

「……一世代で?」

「なら、変態か?」

「………誉めてる、のよね?」

「もちろん♪ 水中を泳いでたヤゴが羽化して空を飛ぶトンボになるみたいに。完全変態した鷹乃は一皮むけてるぞ」

 そう言って智也が短いキスをする。鷹乃は完全変態という昆虫学用語を使ってくれた恋人の言い回しが気に入って抱きつく。二人の唇が離れるとリップグロスの色が智也にも移っていた。鷹乃が指で智也の口元を拭く。

「口紅の色が移ってしまったわ」

「口紅って、そーゆー欠点があるのか。見た目はいいのにな」

「……本当?」

「ああ。すごく似合ってる。見違えた」

 しげしげと智也は化粧をした鷹乃を見つめる。

「変わったな。鷹乃……、いい妻をもってオレは嬉しいぞ♪」

「……あまり……見ないで……」

「裸になってみろよ」

「……………」

 返事はしなかったが、鷹乃は服を脱いで裸になる。

「ダイエット成功したんだな」

「……気づいて、いたの?」

「日に日に抱いたとき、重くなっていたからな」

「……………………」

「けど、今の鷹乃、最高いいな」

 智也は両手で鷹乃の身体を撫でる。がっちりと競泳選手らしい筋肉がついていた肩や背中が女性らしい丸みに変わり、一時的に太ったことで競泳水着で押し潰されていた乳房が年齢相応に発達してきている。女性として理想的な身体になっていた。

「身体もいいし、化粧もいいな。化粧品を買うの、小遣い、足りたか?」

「うん………少し食費も回したけれど…」

「ははは♪ 鷹乃が食べない分だから、けっこうな額になるな♪」

「………。もう二度と、あんなに食べたりしないわ」

 鷹乃は悪夢を振り払うように過去の自分を忘れようとする。

「あれは、あれで食べっぷりは可愛かったけど、どんどん太られるのはオレとしても悲しいからな。ホント、見違えるくらい美人になったなぁ……」

 智也は誉めながら鷹乃の乳首を吸った。

「あんっ…」

「しようぜ」

 ソファへと妻を導き、カーテンも閉めずに性交する。いつもより深く愛し合った後、鷹乃は裸のままエプロンをする。

「お夕飯は何が食べたい?」

「うーん……鷹乃♪」

「今、食べたばかりでしょう」

「おかわり♪」

「………。お腹、空いてないの?」

「学祭の準備で弁当を食べたから。鷹乃は?」

「……私は……あと200グラムくらいダイエットしたいから…」

「それで目標達成なわけか?」

「ええ」

「じゃ、二回目は騎乗位で鷹乃が上になって運動するってのは?」

「いいわよ」

 鷹乃は裸エプロンのまま智也に跨る。ちらりとガラス越しに隣家へ帰宅した彩花と目が合い、彩花が「カーテンくらい閉めなさいよ」と唇の動きでタメ息をついたことがわかったけれど、鷹乃は気にしないことにした。

 

 



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16話

 

 

 翌朝、智也は鷹乃が制服を着ていたので問いかける。

「鷹乃、……学校、行くつもりか?」

「ええ。………。昨日、叔父から電話があって…」

「ああ、昨日の電話、叔父さんからだったのか」

「長く学校を休んでいるけど、どうしたんだって……叔父のところへ担任から問い合わせがあったみたい」

「そっか。……学校では三上鷹乃じゃなくて寿々奈鷹乃だもんな。けど、大丈夫か? 無理なら、休んでもいいんだぞ?」

「……たぶん……大丈夫。……智也が、いてくれるなら…」

 鷹乃が不安げに胸元とスカートの裾を押さえた。その動作で智也が察して、スカートをめくった。

「ノーパンか♪」

「ィヤっ……」

 鷹乃はスカートをめくられて抗議しつつも抵抗しない。屋内なので智也にしか見られないという安心感からだったが、顔は赤くなり薄い化粧が栄えた。スカートの中は何も着けていない上、陰部も剃毛されていて見応えがあった。

「ホント、可愛いな、鷹乃。けど、いいのか? ノーパン登校で」

「だって……智也が、ずっとノーパンで登校しろって……」

 鷹乃が恥じらいつつも夫の命令に忠実なので智也は嬉しくなった。

「一応、鷹乃の下着も持って行こう。ノーパンがつらくなったら、言ってくれ」

「うん…」

 鷹乃の肩を抱いて家を出ると、彩花に出会った。

「よっ、よぉ。彩花」

「おはよう。智也、……、お化粧なんて、覚えたんだ? ふーん…」

 彩花がしげしげと鷹乃を観察すると、人見知りをする子供のように智也の背中に隠れた。その仕草で彩花は感じ取りたくないことを感じ取った。

「まさか、寿々奈さんにエッチなことしたまま登校させるつもり?」

「ぅっ……なぜ、わかる?」

「二人の顔色を見ればわかるのよ。バカ」

「唯笑には言うなよ」

「言うわけないでしょ」

「トモちゃーん! 彩ちゃーん! 鷹乃ちゃーん! おはよーぉ!」

 今坂家の前から唯笑が走ってくる。

「うわーっ♪ 鷹乃ちゃん、すっごいキレイ!」

「ぃ…今坂さん……そんな大声で…」

 遠慮のない唯笑の称賛で、ますます鷹乃が顔を赤くてして智也に抱きつく。

「早く行きましょう。遅刻するわ」

「ああ」

 二人が歩き出すと、彩花と唯笑も駅まではついていく。

「智也、浜咲学園の校則的に、そのお化粧、オッケーなの?」

「大丈夫だろう。りかりんと黒須も軽くやってるし。澄空学園はダメなのか?」

「まーね。生活指導でうるさいのがいるから」

「桧月さんと仲良く話すのやめて」

「「………」」

 彩花が黙り、智也も黙って鷹乃に謝る。

「ごめんな。さ、オレらは下り線だから」

「トモちゃん、鷹乃ちゃん、バイバイーっ!」

 唯笑たちと別れて浜咲駅方面へのシカ電に乗り込むと、雅と歩に出会った。

「よぉ、うるわしき後輩ども」

「おはようさん、アホな先輩と、その恋人…、…えらい化粧、似おてはりますやん…」

 歩が鷹乃を見て驚き、雅も目を見張った。

「これは、また、ずいぶんと美しく……。ですが、…あの…、校則違反ではないでしょうか?」

「このくらいなら大丈夫なはずよ」

「そう…ですか…」

「鷹乃と同じポニーテールだから違いが際立つな」

 智也が鷹乃と雅を見比べて頷く。

「化粧してる三年生とナチュラルな一年生だと、ホントに大人と子供だなぁ……」

「「……………………」」

 見比べられて二人は居心地悪そうに身じろぎする。さらに智也はクロエを思い出して脳内で比較する。三人とも雰囲気に似たところはあるけれど、高校三年生、一年生、中学二年生と年齢が下がる分だけ、当然に子供っぽくなり、やはりクロエとの一夜が大きな間違いだったと思い知った。

「オレは、やっぱり、こっちだな。断然」

 智也が鷹乃へキスをすると、歩も動いた。

「うちは、当然、こっち」

「「人を宝物を選ぶみたいに……」」

「最高の宝物だからな」

「やね」

 歩が雅にキスをして、智也も鷹乃へのキスを繰り返すと、周囲の乗客が静かに動揺しつつ、日本の将来を憂う。浜咲駅に着いて鷹乃は女子トイレへ入り、キスで乱れた化粧を直すと待ってくれていた智也と学校への坂道を登る。いのりと一蹴が前を歩いていた。

「おい、いのり、ちゃんと前を見ろって」

「ん~……ふにゅ~……」

 いのりは眠たそうに目を閉じたり半眼にしたりしながら歩いている。ときどき電柱に当たりそうになるのを一蹴が守っていた。

「ったく、ネボスキストのくせに、夜中まで起きてるからだ」

「だって……イッシューがエッチしばらく…しないって……」

「そっ、そーゆーこと道で言うなよ!」

「道ぃ? まだ、部屋じゃ…」

「寝ぼけるな! 起きろ!」

「ん~…、…だって、エッチ、やっと…してくれたのが……1時でしょ……それから、いち……にぃ…」

「思ってること口に出すなって! 超絶ネボスキストっ!」

 いのりの朝の弱さに手を焼いている一蹴へ智也が声をかける。

「よォ、色男。夕べは何発、やったんだ?」

「っ…先輩、そーゆーこと道で……、………」

 一蹴は抗議しようとしたが、鷹乃の顔に見惚れてしまった。いのりが敏感に察知して一蹴を抓る。

「イッシューっ!」

「痛っ…」

「なに見つめてるの?! 先輩に失礼だよ!」

「ォ、オレは別に……、っていうか、寝ぼけてたくせに……」

「そーゆーのは寝ててもわかるの!」

 いのりが嫉妬したので鷹乃は一蹴へ注意する。

「気をつけなさい。私もジロジロと見られるのは落ちつかないわ。…キャっ?!」

 鷹乃は不意に尻を撫でられて小さな悲鳴をあげた。

「落ちつかない理由があるからな」

「智也……」

「うらやましいか、少年。オレの女は、いい女だろ」

 智也は自慢しながら鷹乃の胸と股間へ手を入れる。下着をつけていない鷹乃は敏感なところを指先が擦れるダイレクトな刺激を受けて真っ赤になった。

「と…智也……ィ…ヤよ。こんなところで…」

 こんなところ、と鷹乃が言ったのは校門前だった。一蹴が智也に意見してみる。

「あの……先輩……、ちょっと、いいですか?」

「替わってやらないぞ。触りたいなら、自分の女を触れ」

「そっ、そーゆーことじゃなくて! 彼女さんイヤがってるじゃないですか! やめてあげてください!」

「子供が何を言う♪」

「こ…子供とか、関係ないですよ! 先輩は変態ですかっ?!」

「男が女に欲情するのは変態じゃないぞ」

「そーゆーことでもなくて!」

「イッシュー……」

 いのりが恋人の無駄な努力をやめさせる。

「寿々奈先輩、口では嫌がってるけど本気で嫌なら別れるから。あれは、ハイレベルな男女の楽しみ方なの。……わ…、…私だって……いろいろ……」

 いのりは迷い、それから一度しかない人生なので積極的に生きることにする。

「ふにゅっ!」

 一蹴の手をつかみ、自分の胸に押しあてた。

「ぃ、いのりっ?!」

「ぇ…えへへ……新しい技。逆ふにゅっ、なの……」

「逆ふにゅっ、って……」

 一蹴がふにゅふにゅとした胸の感触を校門前で味わっていると、登校してきた翔太が元キャプテンとして後輩の頭を叩く。

「おい、何をやってるんだ。鷺沢」

「な、中森キャプテンっ?! こ、これはっ…」

 言い訳する一蹴から翔太は智也へと視線を移した。

「三上の悪影響か……。お、寿々奈さん、やっと登校してくれたか。って、校門で何をやってるんだか……。もう夏も終わったのに、この暑さ。なんとかならないのか…」

「中森は人目を忍ばないといけないからな。うらやましいか?」

「うらやましくない。オレの彼女は世界最高だからな」

 翔太まで悪影響を受けて恋人自慢を始めたところへ、正午が登校してくる。

「なにこれ? 今日、なんの日? 愛を叫ぶ日?」

「「「「「……………………」」」」」

 ようやく全員の気分が冷却されたのでチャイムが鳴る前に教室へ入った。午前中の授業が終わり、午後からは文化祭準備のために自習となる。智也はクラスメートたちに気づかれないように鷹乃へショーツを渡した。

「オレ、実行委員の仕事があるからさ」

「うん……」

 受け取った下着を鷹乃はポケットに入れて女子トイレの個室で身につけると教室へ戻った。ノーパンで、ずっと智也の隣にいる状態と、下着をつけて智也から離れるのでは、まったく気持ちの落ちつきが替わる。鷹乃は何気なく教室を見渡した。

「……」

 しばらく不登校していたので勝手が分からなくなっている。とくに文化祭でクラスが何をするのか、自分は何の係りなのか、まったく分からない。そんな鷹乃の様子に気づいた翔太と健が近づいてきた。

「寿々奈さんはオレらと同じ企画を担当してもらうことになってる」

 もしも寿々奈さんが登校してこなくても穴があかないようにって健の配慮でね、翔太は凝ってもいない自分の肩を少し揉んだ。

「企画……、そう。……それで、何の企画をするの?」

「一応、喫茶店ってことになってるけど、まあ、食べ物屋なら何でもアリだ」

「何でも……」

「あ、もちろん、食べられる物限定っ! 彼氏にも、そのへんは厳重に言っておいてくれよ」

「智也はクラスのことは、ほとんど関わらないつもりらしいわ。実行委員の仕事だけするって言っていたから安心していいはずよ」

「その安心の裏を突かれそうで……まあ、いいか…。今年は寿々奈さんがついているんだから、マークしてくれるだろ」

「ええ、食べられる昆虫だけ選ぶように言っておくわ」

「おいっ!」

「冗談よ」

 そう言って微笑した鷹乃の笑顔に翔太と健が見惚れる。鷹乃が化粧をしていることに健も気づいた。

「寿々奈さん……なんていうか、その……すごく……キレイになってる…ね」

「………。そーゆーことは不用意に言うものじゃないわ」

「ご、…ごめん、…つい、……思った……まま…」

「健、その病気は治せよ。それにしても、寿々奈さんが冗談を言うなんてな。三上の影響かな?」

「……そうね。そうかもしれないわ」

「肯定されるとは……、思わなかった。ホントに変わるな……付き合う相手によって人って、こうも変わるのか……」

 つばめ先生と付き合ってるオレは、影響し合ってるのだろうか、つばめ先生の言動がオレに似たり、オレの言動が、つばめ先生に移ったりしてるのか、自覚がないだけで、いつのまにか…、翔太が考え込むと鷹乃が催促する。

「それで? どうするの?」

「あ、ああ。とりあえず、健のバイト先のルサックってファミレスで研修させてもらうことになってるんだ。それで色々覚えて食材も提供してもらえるみたいだから、それなりの喫茶店にできると思う」

「ずいぶん本格的なのね」

「やるからには本気でやるのさ」

「そう、それは、いいことね」

 鷹乃が了承したので三人は学校を出る。その途中で果凛と擦れ違った。果凛は鷹乃を見つけると声をかけようとして迷い、それでも用件があるので呼び止めた。

「すっ…寿々奈さん、少し、いいかしら?」

「ええ」

「三上くんは、どこか知ってる?」

「……。智也に何の用かしら?」

「…………」

 どうして、いちいち彼氏に近づく女子を警戒するの、私は桧月さんや今坂さんと違って趣味は悪くないのに…、果凛は思ったことを一欠片も表情に浮かべず答える。

「学祭の委員のことで情報伝達があるからです。他意はありません」

「そう。智也なら美術室にいるはずよ。どうして、同じ委員なのに、そんなことも知らないの?」

「ごめんなさい。私、学校以外にも、いろいろとあって欠席がちだから」

「そうだったわね。ご苦労様」

「ありがとう。じゃ」

 果凛は鷹乃たちと別れると美術室へ向かった。ドアをノックしようとして中から猥談が聞こえてきたので、その手が止まる。いのりと智也、それに拓が高校生らしく性行為について熱く語り合っている。

(…イッシューのは…)

(…標準だな。鷹乃は…)

 果凛は美術室に入って同じ空気を吸うことになるのがイヤになり、踵を返して廊下を歩きながら頼めそうな人を探し、たまたま見つけた一年生の一人に声をかける。

「あ、ちょっと、あなた」

「はい。私に何かご用ですか?」

 三年生に呼び止められた雅は長幼の序をわきまえた返事をした。

「ぶしつけなお願いで申し訳ないけれど、学祭の実行委員のことで伝達してほしいことがあるの。あそこの美術室にいる三上って三年生に」

「はい……わかりました」

 雅は見えるところにある美術室へ、どうして自分で行かないのか疑問に思ったが、三年生からの頼みなので疑義を呈さない。果凛から伝達事項を聞き取り、正確に記憶した。

「ごめんなさいね。面倒ごとを頼んで…」

「いえ。三上先輩なら存じ上げております。お気になさらず」

「……知ってるの……、大丈夫? 変なことされそうになったら…」

「それも大丈夫です。あの方には口では勝てませんが、試合なら勝てます」

「そう……よく知ってるみたいね……じゃ、頼んだわね」

 果凛は雅と別れ、葉夜からもらった手紙を読み直す。かなり難解な文章ではあるけれど、要するにクラスで喫茶店をするなら、葉夜がアルバイトしている店を参考がてらに見に来てほしい、という内容だった。果凛が校門を出ると待機していたジイヤがリムジンのドアを開けてくれた。

「ありがとう、ジイヤさん」

 乗り込んでから行き先として葉夜の手紙にある店を告げると、制服の上着を脱いで秋物のコートを着る。ほとんどの生徒は守っていないが原則として学校帰りに飲食店へ寄ることは禁止されている。母親が市議会議員をしている手前もあって果凛は簡単な欺瞞工作をして、ならずやの前に立った。まだ、午後の早い時間なので客は少ない。

「あっ♪ りかりんちゃんっ! 来てくれたんだね! ピーーッス♪」

「ピース♪ 学祭の準備、サボって来ちゃった。ていうかさ、のんこそ、学校は?」

「ん~~っと、……卒業は、できると思うよ?」

「あははっ…」

 生温かく微笑んだ果凛は案内された席に座る。葉夜が勧めてくれた紅茶と洋菓子を口にした。

「美味しい。さすが、のん。いい店、発見するね」

「あ、カナタちゃん!」

 葉夜が同じく招待状を送っていたカナタの姿が外に見える。駆けよっていった葉夜が店内に連れてきた。

「カナタも、誘われていたのね」

「…まあ…ねン…」

「………」

 果凛が今までに聴いた中で最低に元気がない、まあねン、だったけれど元気がない理由を訊いても教えてくれない。さりげなく元気づけようとしても、機敏に察知してプライドの高さから拒絶されるので、果凛は腫れ物に触るような慎重さで普段通りの対応をする。

「すっごく美味しいよ。とくに、このキュービック・カフィーニ、のんのお勧め。私も勧めるわ」

「…ふーーん……じゃあ、それ…」

 ぼんやりとカナタは飲物も選ばずに窓の外を見たりケータイを触ったりしている。何度もメールチェックしている様子から、誰かからのメールを待っているのだとわかるけれど、わからないフリをして果凛はフォークをおいた。

「………………………」

「……………」

 会話がない。しても続けられないとわかってしまう。正午のことは、ほぼ禁句、仕事のことも盛り上がらないし、カナタは不調に陥っている。正午以外の誰かに恋をしているのかとも思うけれど、恋の病にかかった少女とは、また雰囲気が違う。

「……………………」

「……………………………」

 カナタはキュービック・カフィーニを食べ終えると、簡単な感想だけ言って財布を出した。

「…帰るね…。のん…、りかりん…、バーイ…」

「「…うん…、またね」」

 珍しく異口同音した果凛と葉夜は店を出て行ったカナタの姿が見えなくなると、心配そうな顔をした。

「ねぇ、カナタちゃん、どうしちゃったの?」

「……さあ? 私にも、…さっぱり……」

「ショーゴくんのことかな?」

「それも当たりのような、外れのような……カナタ、話してくれないから」

「りかりんちゃんにも秘密なんだ……」

「話したくないことなら、無理に問いつめてもカナタの場合、無駄どころか逆効果……」

「そーだね……」

 葉夜も打開策を打ち出せないまま食器を下げていると、一蹴が駆け込んできた。

「遅くなりましたっ! すぐ着替えますっ!」

 店に駆け込んだ勢いのまま、事務所に駆け込み、急いで着替えてフロアに出てきた。

「ハァっ…ハァっ…ま、間に合った…」

「イッシューくんは、えらいね♪」

「ハァ…遅刻を気にしない…ハァ…のんちゃんが変なんだって…ハァ…ハァ…あっ、いらっしゃいませ。失礼しました。ごゆっくり」

 一蹴が客である果凛がいることに気づいて頭を下げて私語をやめるけれど、葉夜は続ける。

「りかりんちゃんはお友達だから大丈夫だよ。ね?」

「はい、どうか、おかまいなく」

 果凛は反射的にお嬢さまモードで応え、余計に一蹴が緊張した。今は果凛以外の客はいないので一蹴はテーブルを拭いてまわる。その姿や顔形、そしてネームプレートのSAGISAWAと、葉夜が呼んだイッシューという名前から、果凛は古い記憶を刺激されていた。

「………」

 まさか……でも……、あのときの少年……、たしか、……あの事故の後……鷺沢という家に養子へ……イッシューが一蹴なら……、果凛は切なさに胸を痛める。果凛が正午に想いをよせる前の隼人に求婚した想いの、その前の想い、果凛にとって正真正銘の初恋といっていい相手とアルバイトのボーイは、よく似ている。よく見れば額に傷痕がある。あの事故の痕かもしれない。

「……」

「お客様、ボクに何か?」

「あっ…」

 果凛はじっと見つめていたことを自覚して取り繕う。

「ごめんなさいね。つい」

「…つい?」

「なかなかハンサムなボーイをおいている店だと思って見惚とれていましたの」

「っ…、ボ…ボクは…別に…」

「冗談ですわ。ふふ」

 年上らしい余裕を繕いつつ、そろそろ仕事の時間なので席を立った。

「のん、また来るね」

「うんっ!」

 小気味よい返事をした葉夜に微笑みを送った後、果凛は一蹴にも声をかける。

「また、来てもいいかしら? 鷺沢一蹴さん」

「もっ、もちろんです! …、でも、…どうして…ボクの名前…」

「ふふ」

 果凛が微笑みながら一蹴の胸を指した。

「あっ、そっか。これを見たから…」

「私は花祭果凛、りかりんって呼ぶ人もいるわ。私も気に入ってるから、そう呼んでくださいな。それでは、また、ごきげんよう」

「はっ…はいっ! ご、ごきげんにょう!」

 焦った一蹴が変な発音をしてしまったことを後悔しているうちにリムジンは走り去っていく。一蹴はタメ息をついた。

「はぁぁ……すっごいお嬢さま。……でも、あのリムジンって、どこかで……、というか、毎朝、見てるよな…」

「りかりんちゃんは、のんたちと同じ浜咲学園だよ」

「じゃあ、あのお嬢さまだったのか……花祭…先輩……、なんてキレイな人なんだ。…はじめて…近くで見た……」

 一蹴は売り出し始めの現役モデルと間近で会話した余韻に浸る。肌といい、髪といい、手入れのレベルが庶民とは違う。制服の上に羽織っていたコートも上質さも、そして残り香までも華麗すぎて孤児院育ちの一蹴には遠い世界のできごとだったかのように思える。まして、幼児期に何度か見つめられていたことなど思い出すはずもなかった。

「…………………………………」

「イッシューくん、ぼーーっとしてるとダメなんだよ?」

「ぅっ……のんちゃんに言われた……」

 反省した一蹴がアルバイトとして真面目に働き、六時を回る頃になり、いのりが拓と来店した。夕食時なので喫茶店といっても軽食を提供しているので忙しい。いのりは小さく手を振ってくれたけれど、一蹴は拓のことが気にかかった。同じ浜咲学園の制服を着ている拓の物腰や、いのりの態度から先輩だと思える。いのりと拓は文化祭の準備のことや音楽の話をしているようで、とくに音楽の話は一蹴には聞こえてきても理解できない。

「………………………」

 なんだよ、なんで、こんな気持ちになるんだ、なんか落ちつかない、ざわざわする、なんなんだよ、いったい、いのりはその先輩と何しに来たんだよ、いのり…、一蹴は初めての少年らしい嫉妬心を自覚できずに、ざわつく気持ちを持て余している。代わりに葉夜が忙しい中、絶妙なタイミングで仕事の合間をぬい、話しかけた。

「こんばんわ。イッシューくんの彼女さん。ん~~っ……そっちの君は、どこかで見たことあるねぇ。ん~~っ…どこかなぁ…」

 葉夜が拓の顔を見て悩む。拓も既視感を覚えていた。

「オレもっす。オレも、どこかで……、………年上っすか?」

「うん、三年生。君は?」

「二年っす」

「そっか……でも、思い出せないよ。ごめんね」

「いえ、オレもっすから。オレは川本拓。たまに外でギターとか弾いてるっすから、それを見てくれたのかもしれないっすよ?」

「あっ、思い出した!」

「おっ♪ やっぱ、オレの旋律はハートビートにメモリーズオンされてるっすね!」

「ううん。生徒指導室で、いっしょに怒られたよね。授業サボるなって先生たちに♪」

「ぅっ……そういえば…………そのとき、隣にいた先輩かも……。そっか……あんときの先輩か……ってか、先輩が電波なこと先生に言うから説教が長引いて…」

 拓が気落ちしていると、一蹴が葉夜を呼んだ。

「すいません、のんちゃん! 3番さんのオーダーお願いしますっ!」

「は~いっ!」

 葉夜が仕事に戻り、いのりと拓は二人で簡単な夕食を済ませる。

「美味かったっ! うん、美味かった! オレんちの弁当も美味いけど、この店も美味い!」

 拓は絶賛した後、席を立った。

「んじゃあ、オレは帰るよ。送りは彼氏さんでオッケーだよね?」

「はい」

「じゃ」

 拓はワリカン計算で支払いを済ませて店を出て行く。いのりは一蹴のバイトが終わる時間まで待って店の外で合流した。

「イッシュー、お疲れ様♪」

「うん……ああ…」

「今日も忙しそうだったね。ホントお疲れ様です」

「ああ……、…さっきの、先輩は? 実行委員か何か?」

「うん」

「ふーん……」

「………」

 イッシュー、ちゃんと嫉妬してくれてる……ごめんね……試したりして……、いのりは寄り添って一蹴の腕に抱きついた。

「ぃ、いのり?! ひっ…人が見てるだろ?」

「このくらい普通だよ~ぉ……えへっ♪ 疲れてるイッシューの身体、帰ったらマッサージしてあげるね」

 三上先輩が考えてくれて、川本先輩が演ってくれたけど、やっぱりイッシューには悪いしね、ちゃんとお詫びしないとね、ふにゅっ! いのりは抱きついている一蹴の腕に乳房を強く押しあてた。

「だ、だから、人が見てるって! 逆ふにゅっ禁止!」

「じゃあ、人が見てないとこ、イッシューの部屋、早く帰ろう。お腹空いてるよね、何が食べたい?」

 私? 私は後だよね、いのりちゃんはデザートで、もちろんイッシューが私を前菜にしたいっていうなら帰ってすぐに♪ いっそテイクアウト、手づかみで歩きながら食べるのもいいよね、そこの公園なら人も少なそうだし……いのりが胸をときめかしているのを気配で感じた一蹴は疲労感を強くした。

「たはーっ……今日は忙しかったから疲れてるんだ。コンビニ弁当でもテキトーに買って帰るからさ。いのりも帰ってよ」

「ぇ……? ……」

「……」

 そんな残念そうな淋しそうな顔されてもさ、毎晩……ていうか、今日は午前中に保健室でもヤったじゃん、一蹴は最寄りのコンビニへ入ろうとしたが、いのりは引き止める。

「ダメだよ。栄養のバランスが悪いから!」

「そーだけど……」

「私が作るから待ってて。すぐっ! すぐ作るから!」

「……たはーっ……」

 結局、いのりの勢いに負けてアパートへ帰ると、いのりは手早く料理をしながら、風呂を沸かしてくれる。夕食と入浴が終わると、いのりは恋人の身体に擦り寄った。

「イッシュー……大好き」

「………。疲れてるから…」

「……………」

 いのりは物欲しそうな目で一蹴を見つめる。

「イッシュー……」

「……っていうかさ。昨日だって、ここに泊まったんだから。さすがに連泊はまずいだろ。同棲してるみたいに近所から思われるかもしれないし」

「同棲………」

 いのりが憧れる表情をしたので一蹴は慌てる。

「まっ! まだ高校生なんだから! 絶対ダメだぞっ!」

「……う~……」

「駅まで送るから。今日は帰れよ。な? 明日、また……するから」

「ホントっ? ホントにホント?」

「ホントだって。……それに、…男は、あんまり連発すると薄くなるっていうか……力が出なくなるんだ。今夜、しなきゃ、その分、明日は余力あるからさ」

「……うん……わかった。……しっかり充電してね♪」

「………ああ…」

「私も充電♪」

 いのりは一蹴に抱きついて頬擦りする。

「じゅ~~っ♪ でーーーんっ♪」

「…………」

 こういうとこは可愛いけど、これから付き合ってる間、ずっと毎日みたくエッチ求められるのか……、っていうか妊娠とかマジで気をつけないと二人とも高校卒業できなくなる、一蹴はタメ息を隠して、いのりの頭を撫でる。

「どう? 充電完了?」

「うん」

「じゃ、駅まで送るよ」

「ありがとう、イッシュー」

 二人で駅まで歩き、いのりは改札口の前で、また充電を求める。

「いのり、人が見てるって!」

「今晩の分、充電が必要なの」

「さっき、したじゃないか」

「もう少しだけ」

 いのりはシカ電が来るまで一蹴から離れず、たっぷりとした後ろ髪を引かれるような足取りでシカ電へ乗り込む。いのりの長い髪の一本一本まで、その毛先までが一蹴を求めているような余韻を漂わせながら、動き出したシカ電から見えなくなるまで一蹴を見つめ、見えなくなっても一蹴がいた方を見つめたまま、自分が降りるべき駅につくまで一蹴を想っていた。

「……イッシューとエッチしたかったなぁ……ちゃんとジェラシーはしてくれたのに」

 智也に相談して初歩的な嫉妬心のテストをして、一蹴の自分への想いは確かめたけれど、あまり激しい嫉妬はしてくれなかった。拓との演技は、本気で一蹴に嫌われると悲しいので、かなり拓と距離をとって会話していたからか、二人の関係が同じ実行委員の先輩後輩だとわかると、一蹴はあっけなく納得してくれ、少し物足りない。

「イッシューも………もう少し激しく……、お前はオレの女だぁ、って怒って、ガバっ! とか抱きしめてくれてもいいのに♪」

「お前はオレの女だぁ♪」

 いのりは改札口の影に隠れていたカナタに抱きつかれて驚いた。

「キャっ?!」

「おかえりっ♪ いのっち!」

「……カナちゃん……」

 いのりは抱きつかれた手を振り解こうとして、やめた。抱きついているカナタの瞳の色は、病んでいると言ってもいいほど現実から目をそらしている。いのりが電話とメールだけで相手をして、なるべく会わないようにしていたら、こんな夜中まで駅で一人で待っていたという行動も病的で、抱きついている手を振り解いて冷たくあしらったら、完全に病気になるか、自殺するかもしれない。いのりは嫌悪感と吐き気を自制して、抱きつかれたまま歩く。

「カナちゃん……、うち、来る?」

「うんっ! 行く♪」

「そっ……」

 幼稚園児みたいな素直な返事……まあ……こんな遅くまで出歩いて、夕べも家に帰らなかったから、パパとママの手前、カナちゃんが同伴してくれる方が、言い訳が楽だから……いのりは自分を慰めるために功利的に考える。陵家に着くと、カナタのおかげで怒られずに済み、逆に父がカナタの身を心配してクルマで送ろうか、それとも泊まっていくかい、と余計な気をつかってくれ、ある程度予想していたけれど、カナタは泊まることになった。

「いのっち♪ お風呂、いっしょに入ろっ♪」

「………うん…そう……だね」

 お風呂の中での方が、気持ち悪さ、少ないし、シャワーで流せるし……いのりは同性の体液や唾液の不快感を軽減できる入浴中の行為を消極的に選び、カナタと裸になる。

「いのっち~♪」

「ほら、洗ってあげるから、抱きつかないでおとなしくする」

「あんっ♪ くすぐったい♪」

「くすぐったくても、すぐに、よくなるから。おとなしく感じて…」

 さっさとイって、さっさと寝てよ、いのりは心も身体も、何も感じないように、何も記憶しないように、すべてオフにして人形になる。カナタと夜を過ごして朝を迎えた。

「おはよ♪ いのっち♪」

「……」

「もう朝ですよ、ネボスキストさん♪ ネボスキストにキス一つ♪」

 カナタがキスをしても、いのりは何も反応せず、ゆっくりと起きあがると乾いた唇から細い声を漏らした。

「…イッシュー……に……会…」

「え~……今日は、アタシと♪」

 カナタは押し倒そうとして、やめた。

「いのっち? 大丈夫?」

「……イッシューに…」

「………」

 カナタは抱きついていた手を離した。一蹴の名をつぶやいている瞳の色は、病んでいると言ってもいいほど現実から目をそらしている。このままカナタが肉体的な結びつきを求めたら、完全に病気になるか、自殺するかもしれない。昨夜はカナタが壊れかけていたけれど、今はカナタより、いのりが壊れかけている。一夜で、わずかばかり理性を取り戻していたカナタは性欲と愛着を自制して、いのりを自由にした。いのりは解き放たれると、ふらふらと長い髪を揺らしながら一蹴を求めていく。

「…イッシュー………イッシュー……イッシューは、……どこ……?」

 朝なので探すまでもなく一蹴は通学路を歩いている。いのりは恋人の胸に抱きついた。

「イッシュー!!」

「うわっ?! って、いのり! 朝から何だよ?!」

「充電……充電させて…でないと、私、何をするか、わからない」

「何をするか、って……? …充電って……?」

「イッシューううぅ……イッシューぅぅ……」

 いのりはギュッと抱きついて一蹴の胸に顔を擦りつける。

「いのり、それで充電になってるのか?」

「うん、でも、もっと充電したい」

 いのりは唇を一蹴に向けてキスを求める。

「いのり、ここじゃ……みんな見てるし…」

「イッシューぅぅ………」

「……わかったよ、じゃあ、こっち」

 いのりに切望されて一蹴は諦め、通学路から少し離れた路地に入り、誰も見ていないことを確認してからキスをする。

「ほら、充電、完了した?」

「もっと、もっと、充電が必要なの」

「いのり……何か、あった?」

「………」

 いのりが苦しげな目をして、それでも話せないという表情になると、一蹴は優しく抱きしめた。

「オレに何とかできることなら、何とかしてあげたい。いのりはオレの恋人だろ?」

「……うん。……」

 いのりは抱き返して、嬉し涙を零すと、気力を取り戻した。

「もう大丈夫。充電できたから」

「そっか」

 いのりと一蹴は手を握り合って登校する。二限目が文化祭準備のために自習になると、いのりは体調を崩したような仕草を見せて一蹴に頼む。

「イッシュー……ちょっと気分が悪いの。保健室までついて来てくれる?」

「……」

 それってウソだろ、夕べしなかったからエッチしたいだけなんじゃないのか、一蹴の問いかける視線を感じて、いのりは可愛らしい照れ笑いをした。

「お願いっ、イッシュー」

「……。わかったよ。でも、他の人や先生がいたら諦めてくれよ」

 いのりと一蹴が保健室を訪ねると、誰もいなかった。

「誰もいないね」

「……そうみたいだけど……」

 一蹴が躊躇っているうちに、いのりは恋人の前に跪くと、ズボンのチャックを開け、まだ勃起してくれていない男根へキスをして、口に入れる。

「ぅぅ……あんまりされると…また、すぐにイきそうに…」

 若き青少年は刺激されると、すぐに勃起してくれる。一蹴が逃げ腰になると、いのりは愛撫を止めて、ポケットから厚手のコンドームを出した。智也から教えられた通常の三倍は厚いコンドームは男性側の感度を鈍らせ、射精を遅らせてくれる効果がある。教えられてもドラッグストアで買うのが恥ずかしかったので、智也から定価の980円から割増しの1500円で買い受けたコンドームを一蹴と試してみる。

「友達に聞いたんだけど、このコンドームだと男の子の強さが増すんだって」

「ふーん……」

 なんか黒くて、怪しいけど、ちょっと強くなった気もするなぁ、一蹴は恋人が口ではめてくれたコンドームを濡れた膣へ向ける。いのりはフェラチオしながら、自分のクリトリスも指で自慰していたので、もう準備はできている。いつ、誰が戻ってくるかわからない保健室なので二人とも時間をかけずに終わらせることでは一致していた。いのりは一蹴に背中を向け、ベッドに両手をついて後背位で突かれる体勢になり、一蹴も応じて挿入する。

「はぅん…」

「痛かった?」

「ううん、気持ちいいよ。もっと、して」

「痛かったら、言って」

 一蹴は最初は遠慮がちに、それから次第にピストン運動を早めていく。

「あっ! あんっ! いいっ! んんっ!」

「…ハァ……ハァ……」

 すごいな、このコンドーム、いのりは感じまくってるのに、オレの方は余裕ある、一蹴はピストン運動のために息を荒げつつも、厚いコンドームのために性感が少ないことに驚きつつ、男子高校生らしい好奇心と男性らしい満足感を覚え、いのりを激しく突いた。

「ああっ!! あんっ!! あんっ!!」

「ハァ…ハァ…いのり、あまり…ハァ…大きな声を…ハァ…」

「だって、あっ! あんっ! 一蹴が…あんっ!!」

 いのりはベッドについていた両手を支えられなくなり上半身を崩して、シーツを汗と涎で濡らしながら、三度もオルガスムを迎えて失神するような悦楽の心地で眠りに落ちてしまった。

「ハァ…ハァ…」

 あれだけ激しくやったけど、オレの方は、まだ出してない、まあ、ここのところ連日連夜だったからチャージも少なかったのもあるだろうけど、すごいな、このコンドーム、最強じゃないか、ヤバっ?! 誰か来る! 一蹴は人の気配が近づいてくるのを感じて、勃起したままの男根を慌ててズボンに片付け、いのりの着衣も簡単に直して毛布をかけた。素早く気分が悪くて横になった女生徒と、その心配をする男子という構図を作り、人の気配を迎える。保健室に入室してきたのはカナタだった。カナタは具合が悪いというより、昨夜の睡眠不足を解消するためにベッドを求めてきたという様子だったが、いのりと一蹴を見つけると複雑な表情をした後に、それを隠して一蹴に微笑みかけた。

「あ……アホイッシューと、いのっち。ハーイ♪」

「ど…どうも、です」

「いのっち、どうしたの? 具合悪いの?」

「ええ、まあ、ちょっと」

「ふーん……」

 いのりの安らかな寝顔を見つめたカナタはベッドに腰かけた。

「あとはアタシが見ててあげるから、アホイッシューは授業に戻れば?」

「……。でも…、自習だし…」

「保健の先生が戻ってきたら、バレるよ、二人がしてたこと」

「っ?!」

「簡単なことだよ、ワトソン君♪」

 カナタが得意そうに指摘する。

「アホイッシューの汚れたズボンの前と、そこに落ちてる、いのっちのパンティーとコンドームの殻、でもって室内の匂い。そして、そもそも女の子が本当に気分が悪い時は、多くの場合で同性に付き添われてくるものだからね。男女で来ること自体が怪しいの。……」

 そういえば、ほたるも彼氏と、ここに来てシーツ一枚で誘ったとか言ってたけど……、カナタは胸に痛みを覚えたけれど、それを完璧に一蹴から隠した。

「さ、行った、行った! いのっちが起きるまでアタシが責任をもって見守るから。そのコンドームの殻だけ持って行っちゃいなさい」

「……じゃあ、お願いします」

 一蹴はカナタに、いのりを託して保健室を出て行く。カナタは二人っきりになると、しばらく寝顔を見つめてから、隣に潜り込む。

「…ん~……イッシューぅ…」

「ネボスキストだね♪」

 カナタが頬へキスをすると、いのりは嬉しそうに微笑み、また眠る。カナタも隣で添い寝する。途中で保健の教師が二人を見つけたけれど、同性なので怪しいことをしているわけではないと一般的な思い込みで判断して放置した。いのりは添い寝してくれているのが一蹴だと感じながら、二時間ほどして、やっと目を覚ました。

「ん~……イッシュー?」

 いのりが呼びかけると眠っていたカナタが目を開けた。

「っ?! カナちゃん?!」

「おはよ♪」

「なっ、なななっ?! どうして?! どうなってるの?!」

「交代したの♪」

「こ、交代って?!」

「選手交代、フォワード、鷺沢一蹴選手から黒須カナタ選手に♪ さぁ~、ここからが試合本番です」

 カナタが攻め始めると、いのりは抵抗も虚しく翻弄された。カナタが満足する頃には、いのりの瞳は現実を見なくなった。

「いのっち………、そんなにイヤ? ……アタシと……」

「………………………」

 いのりは答えず、電源を失ったアンドロイドのように四肢を投げ出して天井を見るともなく見ている。そこへ保健の教師が戻ってきた。

「あなたたち、もう元気になったなら、いつまでもベッドを占領するのはやめなさい」

「はーい♪ いのっち、そろそろ行こ」

 カナタが抱き起こそうとすると、いのりは顔色を曇らせ、唐突に吐いた。カナタが驚き、保健の教師はステンレスバッドを持ってきてくれる。いのりの嘔吐が終わると、保健の教師らしく後を片付けてくれ、いのりの様子を見る。

「熱は無いようね。今日は、もう帰る? 早退の連絡は…」

「イッシュー……」

「一週??」

「イッシュー……に……会わないと……わたし……何を…」

 いのりが壊れかけているので、カナタは一蹴を呼んだ。すぐに一蹴が駆けつけると、いのりは教師が見ていることもかまわず、抱きついてキスをした。

「イッシューっ!」

「いのり……どうか、したのか?」

「…………。充電、して」

「充電って、さっき…」

 いつのまに放電したんだよ、一蹴は教師の視線が気になるので、いのりを保健室から連れ出して音楽室に導く。運良く、どこの授業でも使っていなかったので二人きりになれた。

「いのり、充電充電って言うけど…」

「………」

 いのりは一蹴にギュッと抱きついて離れない。しばらくして落ちつくと、いのりは音楽室に鍵をかけてから裸になった。

「さっき、わたしだけでイッシューはイってないよね。ごめんね、わたしだけ…」

「いや、それはいいけど……。そんなことより、いのり、何か悩んでないか? オレに言えないことなのか?」

「……うん……言えないの……、でも、イッシューが大好きだから、イッシューがいてくれないと、わたし、もうダメになる、ダメダメ、ダメ女になるよ」

「………」

 そのネタは縁なのに、ホントにダメダメになりかけてる、一蹴は理由はわからないまま、いのりを慰めるために、恋人の求めに応じることにした。もう何度も学校で性行為を体験したので、鍵のかかる音楽室なら防音もあり、もはやスリルよりも安心を感じつつ、裸になって抱き合った。

「どう? 充電、できた?」

「うん、ありがとう、イッシュー」

 いのりの瞳が現実を見るようになり、主に一蹴を見ながら微笑みをつくった。

「心配かけて、ごめんね。イッシューのおかげで急速充電完了♪ 満タン充電♪」

「そっか、よかった」

「満タンだよ、おまんこに満タン充填♪ 発射オーライ」

 いのりは音楽室だからなのか、ほたるが何度か見せてくれた珍妙なポーズをとって、ほたる的なギャグを放ってきた。

「いのり………おやじギャグは、やめて……それも、濃くて低いのは……それだけは、ほたるさんから引き継がないでくれよ」

 ほたるさんが恋人に捨てられたのって、ほたる的ギャグが主な原因じゃないかな、いのり変なテンションになってるけど、ホントに大丈夫なのか、一蹴は何度も急速充電と急速放電を繰り返して、いのりの脳が異常加熱していることに気づいた。

「いのり、今日は帰る?」

「え…、でも、文化祭の準備が…」

「それなら先輩にオレもいっしょに謝りに行くからさ。今日は家で休めよ。な?」

「………イッシューも……家に来てくれる?」

「……、ああ、行くよ」

 一蹴は陵家にあがれば、またセックスを求められる予感がしたけれど、甘んじて応じる覚悟をして、智也の教室を訪れる。昼休み中の智也は鷹乃と弁当を食べていた。

「あの……三上先輩、ちょっと、いいですか?」

「ああ、どうした?」

「いのりが具合悪いみたいで、今日の文化祭の準備は欠席させてやってください」

「そうか。わかった」

「すんません」

「ごめんなさい」

 いのりと一蹴が頭を下げると、智也は一般的な先輩らしく答える。

「いや、気にするな。大事にしろよ」

「はい、ありがとうございます。失礼します」

 一蹴が教室を出ようとすると、果凛が声をかけてきた。

「一蹴くん♪」

「あ、花祭先輩」

「今日はバイト、出るの? 行けたら、私も行こうかな♪」

「いえ、今日は、ちょっと……」

「そう。それは残念」

 果凛は本当に残念そうにタメ息をつくと、教室を去る二人を見送り、もう一度、タメ息をついてから、今度は気が進まない様子で智也と鷹乃へ近づく。

「ちょっと、よろしいですか。三上さん」

「ああ、どうかされましたか、果凛女王陛下」

「そのような呼び方はやめてください」

「それが用件か?」

「……。いえ」

「ご用件は? クイーン・果凛」

「………。今日の文化祭の準備も、わたくし都合が悪いので欠席させてください」

「ああ、お前がオレに話しかけるのは、それだけだからな。近づいてきた時点で、わかったぞ」

「っ、わかってるならっ…」

 果凛はタメ口で文句を言いかけて、冷たいお嬢さまモードに戻る。

「御迷惑をおかけします。何卒ご容赦を」

「ああ、容赦してやるから深く感謝しておけ。……………………」

 智也は立ち去る果凛の背中を見ながら、少し考え、それから怒鳴った。

「おいっ! ちょっと待て!!」

「……」

 果凛は振り返ると、お父様にも怒鳴られたことないのに、という顔をしたが、智也は二度も怒鳴った。

「お前っ! さっき、鷺沢に、行けたら行こうとか言ってたな?!」

「それが何か?」

「なんで仕事で文化祭の準備を休むお前が鷺沢のバイト先に行けたら行くんだ?!」

「そ………それは……」

 果凛が、しまった、という顔をすると何度もモデル業のために文化祭実行委員の仕事を肩代わりしてきた智也の怒りが強まる。

「お前、ふざけんなよ!!」

「………。わたくしのことを、お前、お前と気安く、呼ばないでくださるかしら?」

「うるさい!! お前がダメなら、御前だ! 果凛御前! 巴御前並みかお前は!」

「…………澄空幕府初期に実在した巴御前を飛世巴さんとかけ合わせるのは、巴御前とわたくしに対して極めて失礼です」

「オレみたいな小理屈で煙に巻こうとするな! 文化祭の仕事は割り当てられて、お前だって引き受けたんだろ?! サボるな!!」

「ですから、それは……仕事が…」

「じゃあ、なんで鷺沢んとこに行けたら行くんだ?!」

「だから……それは……、撮影は都内で三時から……終わって帰ってきても夕方で、……文化祭の方は……間に合わないけど……、もしも撮影が早く終わったら……彼のバイト先で少し休憩……できたらって…」

 かなり苦しい言い訳だと果凛本人がわかっているので声に覇気がない。

「オレだってバイトに入るのを減らして準備に時間を費やしてるんだぞ。他のみんなだって、そうだ」

「………」

 果凛が申し訳なさそうに、それでも軽蔑している智也に謝るのはイヤだという風に身じろぎする。今回ばかりはクラスメートたちも果凛より智也を支持している雰囲気だった。

「…わたくしは……」

 果凛は助け船を求めるようにカナタを見たけれど、ぼんやりと窓の外を眺めているだけで、自分のことは自分で解決しなさいという普段のカナタの姿勢ではなく、果凛に起こっていることに気づく余力もなく自分の心の平行を保つだけで精一杯という様子だった。ただ一人だけ果凛に味方してくれる男子がいた。

「女の子を、そんな風に、怒鳴るのは感心しないな」

 健だった。

「伊波、お前は……。トトの次は、花祭か?」

「そんなんじゃないっ!」

「いやいや、今ので好感度は3ポイントはあがったぞ。果凛ルートが開けた」

「ふざけるなっ!」

「ふざけてるのは、そっちのお嬢さまだろ? なんで文化祭サボってモデルするくせに、時間つくってカフェなんだよ? ふざけてるって思わないか、伊波でも?」

「それは…………」

「伊波くん、ごめんなさい。……ごめんなさい、私、もう行かないと……ごめんなさい」

 果凛は健とクラスメートに謝って教室を出て行く。残された健と智也は対峙したまま、対峙する原因が消えたので虚しくなった。

「たはーっ……、もう、どうでもいい。たいした仕事じゃないしな」

 智也は果凛の分担だった業務をチェックし始める。健も何も言わずに自分の仕事へ戻った。

「鷹乃、オレは美術室に行ってから、ばかりんの仕事もしてから、帰る」

「ばかりん?」

「果凛の新しいアダ名だ。本人の前で言うなよ」

「それはアダ名ではなくて悪口よ。まあ、でも、今回ばかりは彼女の言い分はおかしいわね。けど、それに彼女も気づいたのだから、それでいいんじゃないかしら?」

「オレは、どっちかというと、あいつと仲直りしたいんだが、軽蔑されてるからな♪」

「………。私は、あなたに親しい異性が多いのは……うれしくないわ」

 鷹乃がつぶやいたことを智也は微笑で受け流して、教室であることもかまわずキスをする。

「友達と彼女は、別ものだ。彼女は鷹乃だけだ♪」

「……智也、……。今夜、帰ってくるのは早いの? 夕食は?」

「たぶん、遅い。夕食も作業中に食べると思うから」

「わかったわ」

「じゃ」

 智也は鷹乃と別れて美術室へ行く。拓が一人で作業を始めていた。

「お、かなり進んでるな」

「はいっ」

「じゃあ、オレ、女子の委員から仕事を押しつけられて行かなくちゃいけないとこがあるから、行っていいか? あと、姫も体調不良で欠席だそうだ」

 智也の問いに、拓が右手を出した。

「喉が渇いたっす」

「川本、日本の水道水は安全で文化的な味わいがするぞ?」

「そんな最低限な……、先輩の分も働きますから、120円分以上に! オレ、一人なんっすよ!」

「うむ……まあ、いいか」

 智也は拓に小銭を渡して美術室を出て、生徒会室へ入る。智也の顔を見て生徒会長たちが警戒して構える。

「な、…なにか、用かな? 三上くん」

「そんな第一種警戒態勢に入らんでも、仕事をしに来ただけだ。ばかりん…花祭さんが欠席する分、オレが来たんだけど、何をすればいいんだ?」

「そ…そういう……ことか、……それだけ?」

「そーゆーこと、それだけだ。安心してくれ」

「では、このチケットをもって藤林高校の生徒会へ行ってくれたまえ」

「わかった」

「他校とのチケット交換なんだから、くれぐれもトラブルを起こさないように頼むよ」

「わかってるって」

 智也は受け取ったチケットを持ってシカ電に乗り、藤林高校の門をくぐる。校門で生活指導の教師に声をかけられたが、用件を告げると問題なく生徒会室へ入れた。

「ちーーすっ、浜咲学園からお届け物でーす」

「智也っ?!」

「トモちゃんっ?!」

 生徒会室には先客がいて、それが顔見知りだったので三人は驚いた。

「彩花っ?! 唯笑っ?! どうして、ここに?!」

「それは、こっちのセリフよ。でも、そのチケット、つまり、そーゆーことね」

 彩花たちも澄空学園の文化祭チケットを持っている。

「そういえば、お前らも学祭の委員になったとか言ってたな」

「うんっ、トモちゃんも頑張ってるんだね♪」

「智也、チケットに変なことしてないでしょうね?」

「してない。オレはプライベートで忙しいんだ。三年になってまで子供みたいに学祭で遊んだりしない」

「トモちゃんのプライベートって?」

「ぅ……えっと…」

「鷹乃ちゃんのことだね♪」

「あ、ああ、まあな。鷹乃と遊ぶだけで忙しいからな」

「智也ぁ~、墓穴掘ってるとこ、背中押して穴に落としてあげよっか?」

 クロエのことを知っている彩花が智也の背後にまわって死に神のように囁いた。

「彩花、お前…」

「あとでオゴってね♪」

「くっ………」

 120円じゃ済まないだろうな、彩花の場合、くそっ、金もってること知ってやがるからな、智也の苦悩とは別に、唯笑は藤林高校の生徒会室と彩花と智也、それに自分を見回して楽しんでいる。

「すごいね、すごいね!」

「なにが、すごいんだ? 唯笑、普通の生徒会室だろ」

「だって、だって、浜咲学園に行っちゃったトモちゃんと、澄空の唯笑たちが、こんなとこで再会できるなんて、すっごいよ?」

「たまたまだろ? 両方とも学祭の委員で、それぞれの高校のチケットもって、しょーもない親善会議に来たって、だけだ」

「あうぅ~、すっごい確率だと思わないの? トモちゃんは浜咲学園の制服で、唯笑たちとは違うのに一つ校舎に来て座って会議して、しかも三人とも関係のない藤林高校で会ったんだよ? こんなこと奇跡だよ」

「奇跡か………、まあ、そーゆーのを奇跡っていうと、生きてること自体が奇跡だけどな。お前らと幼馴染みなことも、唯笑とオレが進学校に受かったことも♪」

「ひどっ! トモちゃん、ひどいよ!」

「いやいや、奇跡だ。高校入試で、あと一問、あと一点、足りなかったら、もしかしたら、オレも唯笑もバカ公立の藤林に来てたかもしれないぞ? いや、そっちが現実世界で、今が奇跡の起こった平行世界なのかもしれないぞ。うむ、不可能を可能にかえた男だ、オレは」

「智也、大きな声でバカ公立とか言わない」

 すでにチケット交換と各高校文化祭の今年の特色を紹介していく会議は始まっていて、しかも彩花たちは進学校の制服を着ているので、学力のことを口にすると、どう言ってもイヤミになる。本当に、あと一点足りなくて澄空や浜咲に入れなかった生徒もいるかもしれない状況での、智也らしい不用意な発言だった。

「わかったわかった。けど、まあ、人間の運命なんて、そんなもんさ。リアルにオレと唯笑が藤林で彩花だけ澄空って可能性もあったろうし。いや、それが一番、確率論的には確からしい結果かもしれないぞ?」

「トモちゃんと唯笑が同じ学校に……」

 唯笑が藤林高校の制服を着て通学する自分と智也を想像する。

「そーゆー高校生活も楽しかったかも。……でも、彩ちゃんがいないのは淋しいなぁ」

「彩花がいないと静かでいいぞ♪」

「智也っ!」

 あまりに私語を続けている三人へ、綾園学院高校から来ていた観島香月が注意する。

「そこの三人、静かにしてくれませんか」

「「ごめんなさい」」

「悪いな」

 智也たちが素直に謝り、香月は綾園学院の今年の目玉であるカレー屋台について語るのを再開するが、すでに香月一人で長々と喋っている。

「……………………」

 この藤林に唯笑と二人だったら、どうなったろうな、むしろ離れた彩花に惹かれたりしてな、どの道、こいつらに中学のとき惹かれたのは、思春期の気の迷いみたいなもんだろし、そんなことで付き合うの、別れるの、してたら、今の白河や飛世みたいにイヤな関係になってだろうし、やっぱりオレは鷹乃と付き合って正解だよな………クロエのこと以外は……智也が物思いにふけっている様子なので、カレーの歴史に興味がない彩花と唯笑はヒソヒソと私語を続ける。

「トモちゃんと彩ちゃんと、みんながいた中学みたいな高校生活だったら、よかったのに」

「来年は、もっとバラバラよ。唯笑ちゃんは短大、私は看護大学、もちろん就職先も」

「え~……さみしいなぁ…。いつまでも、いっしょにいたいよ」

「ん~……就職先をいっしょにするなら、病児保育をする保育園に、私は看護師として、唯笑ちゃんは保育士として就職すれば、いっしょになれるね」

「うんっ、それいい!」

「でも、やっぱり、いつかは別々の人と結婚していくのよ」

「ん~…………彩ちゃんと、いっしょの人と結婚できたら、いいのにね」

「あはははっ…」

 彩花が空笑いすると、智也が反応した。

「この国の法律を呪え。そして、アラブにでも行け」

「智也こそ、おフランスにでも行かれたら、いかが?」

「それ以上、言うとオゴらないぞ」

「なに食べようかな。ね、唯笑ちゃん、智也が奇跡的な確率で、藤林で会えた記念に、夕ご飯オゴってくれるって! なにがいい?」

「お前っ…」

「ホント、トモちゃん?!」

「オゴるとは言ったが、夕飯とは……」

「現代社会で習ったけど、フランスって電力の大部分を原発でまかなってるらしいね」

「…それが、どうした?」

「爆発したら大変だね♪ それも連鎖で」

「………ワックだぞ」

「ルサックね」

「……たはーっ……」

 智也は気力が無くなったので机に伏して眠ることにした。彩花と唯笑に揺り起こされる頃には夕日が沈み、親善会議も終わって、智也たちの手元には各高校の招待チケットが残されている。

「こんなもん、郵送で交換すりゃいいのに」

「トモちゃん、今年こそ唯笑たちの学祭に来てね♪」

「行くと、自分とこの学祭をサボることになるんだぞ? 同日開催だから」

「う~……、どうして、毎年、碧海祭と奏雲祭は、同じ日にするのかなぁ……他の高校は、ちょっとズレるのに」

「ま、校長でも呪っておけ♪ オレは拝んでおこう」

「私も拝んでおくわ。智也が来てたら、何をされたか、わかったもんじゃないもの。さ、行くわよ。いつまでも他校の校舎に残ってるのもあれだから」

 彩花たちは藤林高校を出ると、桜峰まで移動してルサックに入った。

「いらっしゃいま…せ…、三上、それに…」

「中森、お前、ここでバイトしてたのか」

 智也は出迎えてくれた翔太がルサックの制服姿だったので少し驚いたが、翔太はあきれた。

「お前、自分のクラスのやってること把握してないのかよ」

「うむ、オレは実行委員だからな♪ より、大局的な支点に立っている」

「足元が見えてないって、ことじゃないか。寿々奈さんだって、ここで研修してるのに、まさか、それも知らないのか?」

「……知らない……マジで?」

「ほら」

 翔太が指すと、ちょうど鷹乃は別の客から注文をとっているところで、智也たちには気づいていない。

「まずい……、彩花、唯笑、別の店にしよう」

「ふ~ん♪ Eじゃん、べつに。やましいことないし」

「彩花ぁ…」

「じゃあ、ここがダメならフランス料理のレストランがいいな。夜景のきれいなホテルレストラン、行ってみたいな♪」

「………」

「三上、寿々奈さんに会うのが、まずいなら、喫煙席へ案内しようか? 彼女、ホールのこっち側担当だから、まあ、まず喫煙席へは行かないだろうから」

「ナイスっアシストだ、中森」

「誉めてくれるのは、いいけど、変なとこにシュート決めるつもりじゃないだろうな?」

「いや、なにもやましいことはない。たまたま、飯喰いに来ただけだ、マジで」

「なら、コソコソする方が後難ありそうな気がするんだけど……ま、こちらへ、どうぞ、お客様。喫煙席、3名様入りま~す!」

「忙しそうだな」

 店内は夕食時なので、ほぼ満席に近い。智也たちは案内された一番奥のL字型のソファ席に座った。唯笑を真ん中に、彩花と智也が左右に座る。昔っから危なげな唯笑を守るように座るのは彩花と智也の習慣だった。

「ご注文がお決まりになりましたら、こちらのボタンでお呼びください」

「中森、なんで学祭の研修がファミレスなんだ?」

「本格的な模擬店にするって健と寿々奈さんが張り切ってるんだ。彼女、意外に凝り性なんだな。フロアとキッチン、両方のことを覚えようと頑張ってくれてる」

「ふーん…」

「じゃ、オレはキッチンメインだから、こっちのフロアには別の女の子が来てくれると思うから」

 翔太は短期研修ではないアルバイトのマミに、頼みます、という視線を送ってからキッチンへ入る。客たちの歓談でなごやかなフロアと違い、キッチンは戦場のように忙しい。翔太が割り当てられた仕事をしていると、健が入ってきた。翔太と目が合い、視線で会話する。

(三上が女の子二人と来てるの、翔太、知ってる?)

(ああ、別に何でもないそうだから、騒ぐなよ。ここは学校じゃないんだから)

(わかってる。確かめただけだよ)

 健と翔太の心が繋がる、サッカーで培ったアイコンタクト技術を活用して声も出さず、1秒で意思疎通を済ませた。健も仕事場であることを心得て、あえて智也たちには近づかず他の客への対応をする。ちょうど、また新しい来客があり、家族連れが入ってきた。ファミレスに似つかわしい、両親と幼い女の子の三人が禁煙席を求めて鷹乃に声をかけた。

「禁煙席を頼むよ。三名。あと、子供用のイスと」

「はい、すぐ……に…、お持ちします」

 声をかけられた鷹乃は、見知らぬ男性と、記憶の中にある母親、そして自分と似た顔つきの幼女の組み合わせを見て、声をうわずらせたけれど、なんとか自制した。

「禁煙席、3名様入りまーすっ!」

 決められた手順の仕事をすることで動揺を抑え込む。鷹乃は幼児用のイスを持ってきて幼女に座りやすいように設置する。

「はい、どうぞ。気をつけて座ってくださいね」

「うん、ありがとう、お姉ちゃん!」

「……」

 一瞬、妹に言われたような錯覚がして感情が乱れそうになったけれど、メニューを男性へ差し出して説明することを優先する。

「ご注文がお決まりになりましたら、こちらのボタンでお呼びください」

 鷹乃は店員として不自然でない範囲で、母親を見る。目は合わなかった。どこか、ぼんやりとした様子で、鷹乃が鷹乃だということに気づいていない。

「コラっ、鷹乃」

「っ?!」

「勝手にボタンを押すんじゃない、鷹乃、やめなさい」

 自分の名前を口にされて驚いている鷹乃に誰も気づかず、男性は娘がボタンを押しているのをやめさせる。子供らしく何度もボタンを押してフロアの店員たちの注意が集まっている。男性は申し訳なさそうに謝ってくれる。

「すまない。また、あとで呼ぶから今のはキャンセルに」

「は、はい…」

 もう、これ以上、ここに留まる理由はないので鷹乃は三人家族から離れた。

「……………………」

 そう、そこが、あなたの新しい居場所なの、そこに、新しいタカノちゃんもいて、やり直してる、そーゆーこと、鷹乃は無表情を保っている自分に感心した。

「…………………………」

 アメリカにいる父と違って、母は遠くはないと聞いていたけれど、こんな風に再会したのに、私、落ちついているわ………もっと、取り乱したりするかと自分でも思っていたのに、研修中ということを差し引いても、こんなにも………そう、そうね、あの人も、新しい居場所を見つけていて、私も、新しい居場所を見つけている……私は、もう、寿々奈鷹乃ではなくて、三上鷹乃だもの、前に進んでいるのよ、私も、お母さんも、前に、でも、やっぱり、見ているのは、つらいわ、鷹乃はマミに声をかける。

「ごめんなさい、マミさん。こっちのフロアと担当を替わってもらえませんか?」

「いいけど、いいの? 煙草の匂い」

「苦手ですけど、ちょっと苦手な知り合いがお客さんにいて……」

「そういうこと、ある、ある♪ いいよ。その人が帰ったら、言って。それまで替わってあげる」

「すいません、勝手を言って」

 鷹乃はマミに礼を言って喫煙席を担当する。すぐに片付けられていないテーブルを見つけて駆けより、皿を持ちあげようとしたとき、智也と唯笑を見つけた。

「ぇ…………」

 智也と唯笑は二人でソファに並んで座り、楽しげに食事をしている。まるで恋人のように親しい雰囲気と肩を並べ合った二人の距離を見て、鷹乃は蒼白になった。

「……………………」

 実の母親と突然の再会をしたことで波立っていた心が、さらに激しく揺すられ、加熱されて心の鎧が解け落ちて、剥き出しになった。唯笑が鷹乃の視線に気づかず、ごく自然に智也の口元についたソースを拭いたと

き、鷹乃の世界が歪んだ。視界が曲がり、足元がゆれて平衡を保てない。よろめいた鷹乃をトイレに行って戻ってきた彩花が支える。

「店員さん、大丈夫ですか? あ…寿々…」

「……もう……イヤ…」

 もはや鷹乃には彩花と三人で来ていたという事実を認識する冷静さもなく、泣きながら店を飛び出していく。健と翔太が気づいた。

「「寿々奈さん!!」」

 その声で智也と唯笑も気づいたが、遅い。健が鷹乃の後を追った。

「翔太、あとを頼む!」

「いや、ま……」

 待て、お前が行くと、さらに最悪に話がややこしくなる、と言いたかったが間に合わず、健の背中が小さくなっていく。翔太は重いタメ息をついて、智也の前に立った。

「なあ、三上」

「鷹乃に気づかれた?」

「………。とりあえず、殴る!」

 翔太の拳が決まり、鈍い音がフロアに響いた。店員が客を殴っているという光景に店内が静まりかえる。

「痛っ……」

「彼女、泣いてたぞ」

「……三人で…飯……喰ってただけだろう………めんどうな女だな……ホント……」

「っ!!」

 翔太が手加減無しで殴ろうとすると、智也は防御して腕で受けとめた。

「痛いって! わかってるから、そうカリカリするな!」

「三上っ、お前は……、もう、いい!! 勝手にしろ!!」

 翔太も店から出て行く。

「ト…トモちゃん、大丈夫? ……唯笑の……せい?」

「唯笑のせいじゃない。大丈夫だから泣くなよ。お前に泣かれると、つらい」

「「………………」」

 唯笑と彩花が困った顔をして智也から距離をとった。

「鷹乃ちゃんを大事にしてあげて……ごめんね、唯笑たちが、わがまま言ったから…」

「唯笑……」

「とりあえず、智也。ごめん、と、そろそろ追いかけた方が、よくない? それでも好きなんでしょ、あの、めんどうすぎるヤキモチ焼きなイルカ娘が」

「ああ。悪いな、彩花、唯笑」

 智也は財布から五千円札を抜いて彩花に渡し、とりあえず店の外に出た。

「鷹乃が、行きそうなところ、か。……右か、左か……海の方か……」

 海岸を見渡したけれど、鷹乃の姿はない。先に追っていった翔太と健も見つからない。

「くそっ……ケータイ、持ってないからな。鷹乃は」

 とにかく智也は周囲を走り回ることにした。

 



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17話

 

 

 どこを、どう逃げてきたか、覚えていないけれど、鷹乃は嘉神川の河畔にいた。

「…ひっ………ひっく……」

 泣きながら、あてもなく歩いている。

「……ひっく…ぅう………もう…ヤダ……、どうして……ぅぅ…」

 涙が止まらない。頭が痛くて、胸も痛くて、何一つ、まともに考えられない。ただ、ただ涙が次々と溢れてきて、日の暮れた道を、どこへ行くともなく歩いているうちに、登波離橋に辿り着いていた。

「ぅぅ…ひっく…」

 橋の真ん中まで来ると、鷹乃は水面を見下ろした。涙が暗い川に吸い込まれていく。

「ぅぅうう…ぅぅ…」

 橋の欄干に顔を伏せて泣き、とめどもなく流れる涙で欄干を濡らしている。

「…ぅっ…ぅくぅっ…」

 母のこと、父のこと、母が再婚していたこと、さらに父違いの妹まで存在していたこと、そんなことを今日まで知りもしなかったこと、そして智也のこと、智也と幼馴染みのこと、いろいろなことが頭の中を駆けめぐって涙になって溢れてくる。

「…もう……やだぁ…」

 もう、やだ、私なんて、もう、このまま、この川に飛びおりたら、きっと、もう泳げない私は……………何もかも………なくなって………私なんて……産まれてこなかったことに……お母さんにも……お父さんにも……私は、要らない子だったから………智也だって私がいなくなっても……すぐに、あの二人の、どっちかと………もう私は……私にとっても、もう……いらない………、鷹乃は涙の止まらない瞳で暗い水面を見つめ、その暗さで息苦しくなり、恐怖を覚えて欄干から離れた。幼い頃の溺れた記憶が身体に染みついていて、飛びおりることなんて、できそうになかった。

「……ふふ……怖いんだ……意気地無し……」

 自分で自分を嘲笑って歩道に座り込む。膝も鷹乃を笑っていた。

「寿々奈さんっ!!」

 健の声がした。

「………」

 鷹乃は泣いている顔を膝と腕で隠した。

「寿々奈さんっ! ハァ…ハァ! よかった、見つかった。…ハァ…ハァ…」

 必死に走って探してくれていたことが息の乱れようでわかる。

「寿々奈さん、大丈夫?」

「………」

「寿々奈さん……」

 健が肩に触れようとすると、鷹乃は怒った。

「なによっ! あなた、何しに来たのっ?!」

「ボクは……心配で…」

「ほっておいてよ! 私なんて放っておいて!」

「できないよ、そんなこと」

「……はっ? どうして? あなたは私にとって何っ? 何なの?! 勝手に人の家へ入ってくるカナブンみ…」

 八つ当たりする鷹乃の唇がキスで塞がれてしまった。

「っ……」

「心配なんだ。寿々奈さんのことが………………………、好き、だから」

 健は登波離橋の上で告白した。

「…ふ……ふざけ……」

「ボクは本気だ」

 もう一度、健がキスをしてくる。鷹乃は肩を抱かれてキスをされると、淋しかった心が少しは癒されそうな気がして、思わず疲れ切った心と身体から力が抜けて、受け入れそうになったけれど、悪夢から逃げる。

「イヤっ!!」

 健を突き飛ばして怒鳴る。

「信じないっ! あなたなんて!!」

 怒鳴ると腹の底から怒りが湧いてくる。

「白河さんを裏切って!! また、女の子を裏切って!! 私が好きっ?! そんな好きカゲロウみたいに来週には消えてるのよ!!」

 鷹乃は吐き捨てるように言って、キスをされた唇を手の甲でぬぐった。怒鳴られた健はひるみこそしたものの、もう突っ走るしかないと前に出てくる。

「ボクが信じられない? ……そうだろうね、けど、じゃあ、三上は信じられるの? 信じられないから、鷹乃は泣いてるじゃないの?」

「っ……、気安く私の名前を呼ばないでちょうだい。私の名前よ!」

「……………」

「いきなりキスしてくるなんて最低っ!」

「……。どう言っても、信じてもらえないと思ったから」

「当たり前でしょう? あなたの好きは白河さんで半年、その次は三ヶ月で終わってるのよ! どうせ、私への好きも、二ヶ月と続かないわ」

「そんなことない!! ボクは本気なんだ!!」

「本気? あなたの本気って、なに? どうやって、それを証明するの?」

「………証明って………、何だってする。それで鷹乃がボクを信じてくれるなら」

「そう。それなら、そこから飛びおりて海の底にいる海竜王から宝玉でももらってきてちょうだい」

「そんな……」

「ほら、無理でしょう」

 鷹乃が得意のかぐや姫戦法で男の気持ちを断念させようとしたが、健は平安初期の男たちよりバカだった。どうせ、できないと高をくくっている鷹乃に背を向けると、橋の欄干を跨いで身を乗り出した。

「ボクは本気だから」

「ちょっ?! ………」

 どうせ、演技よ、飛びおりるフリをして気を引こうとしてるだけ、なんて姑息な男なの、ウソつきで、信用できなくて、すぐに女の子を裏切って、ホント最低、そうよ、いっそ飛びおりて死ねばいいのよ、この高さだけでも、高飛び込みの経験がなければ水面との衝撃で気絶するわ、流れも早くて最盛期の私でも泳ぎ切れるか、どうか、落ちれば99%死ぬわ、死んでしまえばいいのよ………、ちょっと、……まさか、……本気で……鷹乃が想定する何倍も健は真っ直ぐで情熱的で本気だった。

「じゃ…」

 もしも、死んだら、それは、それだけのことさ、どうせ、ボクは、ほたるを裏切って、トトまで裏切って鷹乃に告白したんだ、神さまがいたら、罰を与えるだろう、でも、もしも、ボクが助かったなら、それは神さまが鷹乃への告白を許してくれたって考えられるから、だから、ボクは……ボクの運を試すっ! 健は日本人らしい軽薄な神観念で、リアルに清水の舞台から飛びおりた江戸時代の先人たちを追うように、欄干から手を離して体重を橋の外へ移した。

「やめてっ!!」

 あわや落下する直前、鷹乃が飛びついて健を引っぱる。

「わっ?!」

「うううっ!!」

 傾いていた健の腰のベルトに手がかかり力一杯に引っぱる。鷹乃の膂力は水泳をしりぞいても平均的な女子高生の何倍も強力だった。

「ぅぅ…えいっ!!」

「わっ?! ……っと!」

 健は女子に投げ飛ばされたのは、後にも先にも静流以外に経験がなかったけれど、静流のときより強い力で持ちあげられ、欄干の内へ戻されたが、さすがに鷹乃が体勢を崩して倒れる。このままでは鷹乃の上に倒れてしまうと反射的に悟った健はサッカーで培った倒れながら体勢を変えて審判からフォイッスルをもらう特殊な技術を駆使して、体勢を入れ替える。

「くっ!」

「キャっ!」

 うまく鷹乃を上にして健が下になり、アスファルトで背中を打った。

「ぐっ…………」

 二人分の体重と勢いで健の呼吸が止まる。

「くぅ………………ハァ……ハァ……、よかった」

「………………………なにが………何が良かったよ?! このバカっ!!」

 健の胸の上で鷹乃が叱った。

「あやうく死ぬところだったのよ! バカっ!」

「……うん……助けてくれて、ありがとう」

「っ、バカっ! あなたバカよ! 本当にバカよ! バカ……バカっ……こんなバカ、知らないわ」

 鷹乃は何度か、拳で健の胸を打ったけれど、その力も抜けてしまい、起きる気力もなくて健の胸に頬をつけると、健の鼓動を聴いた。

「………本気で……バカよ……」

「自分でも、そう思うよ。鷹乃」

「………」

 鷹乃と健が倒れたまま重なっているところへ、探し回っていた智也が駆けてくる。

「おいっ! 鷹乃っ?!」

「「っ…」」

 呼ばれて鷹乃は飛び起き、健から離れたけれど、その取り繕うような動作で逆に疑惑を招いてしまう。

「鷹乃、そいつと何やってたんだ?」

「な……なんでも……ないわ」

「何でもないってことないだろ」

「………私が転びそうになって、助けてくれたの…」

「ウソは信じられるようにつけって、何度も教えたよな?」

 だんだん智也の声に怒気が帯びてくる。責めるような口調になっている。健が二人の間に入った。

「助けてもらったのはボクだよ。川に落ちそうになったんだ」

「どんなバカやったら川に落ちそうになれるんだ? バカはウソも下手だな」

「ウソじゃない! 鷹乃が助けてくれなかったら今ごろ海の藻屑だったんだ!」

「鷹………っ?! お前、鷹乃とキス……」

「「っ?!」」

 鷹乃と健が先刻の行為を見抜かれて驚愕する。

「なんで……それが…」

「どうして……知って…」

 二人とも驚きのあまり、否定できずに智也が見抜いた理由を訊いてしまうと、智也は苦々しく言った。

「口紅が……ついてる……。このっ!!」

 次の瞬間、健が殴り飛ばされる。

「うぐっ?!」

「伊波くんっ?!」

 倒れた健を振り返る鷹乃の肩を智也がつかんだ。

「ムリヤリされたのか? お前はイヤがったんだよな?!」

「…………、私……不意を……つかれて……ムリヤリ…」

 鷹乃は目をそらして答えたけれど、智也は信じたいように事実認識し、起きあがってきた健に殴りかかる。

「てめぇはっ!!」

「ぐっ! このっ!!」

 今度は健も応戦して殴り合いになる。フェイントも騙し討ちもなく、頭に血が昇った二匹の獣がメスを巡って純粋なまでに殴り合う。

「や……やめて! やめて!」

 あまりに激しい戦いに、止めに入ることができない鷹乃は泣き叫ぶことしかできない。

「お願いよ! やめて! 智也、伊波くんっ、やめて!」

 鷹乃の悲鳴を聞きつけた翔太が走ってきた。

「やめろ! 二人とも!!」

 翔太が殴られるのを覚悟で間に入ってケンカを止める。両腕を拡げて、なんとか健と智也を引き離した。

「離せっ!」

「離せよ、翔太!」

「落ちつけよ、二人とも! 何があったんだよ?! なんで、こうなってるんだ?!」

「こいつが鷹乃にムリヤリ襲いかかったんだ!」

「三上だってムリヤリ鷹乃を!!」

「お前は殺すっ!!」

「いいから、やめろ!!! 二人とも!!」

 翔太が二人を殴る。すでに耐久力が限界を超えていた二人は翔太の拳でアスファルトに膝をついた。

「うぐぅ……中森、てめぇ……」

「翔太……くぅ…」

「やめないからだ。とにかく、落ちつけよ」

 そろそろ周囲に人が集まりかけている。

「警察沙汰になっていいのか? 二人とも」

「ちっ……」

「ボクは鷹乃を守りたかっただけだ」

「てめぇ、まだ言うか」

 智也と健が立ち上がると、鷹乃が怒鳴った。

「私を守る?! 勝手なことを言わないでちょうだい! 迷惑よ! あなたは白河さん一人、守りきらなかったでしょう?! もう二度と、私に近づかないで!!」

「「鷹乃……」」

「三人とも、とにかく落ちつけ。ここを離れよう。っていうか、健、オレと来い。三上は……寿々奈さんと二人で大丈夫だな?」

「ああ」

「しょ、翔太っ?!」

「いいから、来いって、話はオレが、ゆっくり聞いてやる」

 翔太が引きずるようにして健を連れて行くと、急に静かになった。集まりかけていた見物人も三々五々に散っていくと、クルマが通り過ぎる音だけが響く。

「…………」

「……………………」

「…………………………」

「……………智也……」

「……なんだ?」

「………ケガ、大丈夫?」

「平気だ」

「……………………ごめんなさい」

「…………………………何が?」

「……………………」

「………。帰るぞ」

「うん………」

 智也と鷹乃は三上家へ戻る。その帰り道は何の会話もなく、玄関からリビングへあがると、智也が詰問した。

「で?」

「……………………で、って?」

「なんで鷹乃と伊波が倒れてたんだ? 襲われたなら、普通、お前が下だろ?」

「……それは………、あの……あのね。信じてほしいの」

「………なにを?」

「ほ……本当に、伊波くんが川に落ちそうになったの。それで、引っぱって、倒れるとき私をかばって下になってくれたから、ああいう体勢だったのよ」

「……で、ああいう体勢になったから、キスされたのか? お前が上だったのに」

「ちっ、違う! キスされたのは、その前よ!」

「前って何だ?!」

 智也が苛立ってテーブルを蹴った。

「キャっ!」

 鷹乃が小さな悲鳴をもらすけれど、智也はソファも蹴った。

「さっさと説明しろよ!!」

「……あ……あなただって、今坂さんと二人で……だから、私……わけが、わからなくなって……」

「っ!」

 それは自白だろうがっ! 智也は怒りが溢れて鷹乃の顔を見ていられなくなり、キッチンへ行ったけれど、気持ちが治まらず、イスを持ちあげると力任せに投げた。大きな音がして背後の鷹乃が怯えたのがわかるが、さらに別のイスを持ちあげると今度は鷹乃へ投げつけそうになる。

「ひっ…」

「くっ!」

 ぎりぎりのところで理性が働いて智也はテレビに向かってイスを投げつけた。

 ボンッ!

 ブラウン管タイプのテレビがイスの脚で割れ、真空だったブラウン管内に空気が入り込む圧壊音が響いた。

「ご…ごめんなさい……ごめんなさい…ゆ、ゆるして……」

「ハァ…ハァ…くっ!」

 そうやって謝るってことは、謝らなきゃならないと思うようなことをしたって意識があるからだろうが、どうして否定しない、もっと、うまく誤魔化せよ、ウソつけよ、隠せよ、くそっ、くそっ! ああっ、ムカつくっ! 智也はソファにあったヌイグルミを鷹乃へ投げつけた。

「ひっ…」

 鷹乃の足にドルピィ君のヌイグルミが当たった。

「オレは唯笑と彩花の三人で飯喰ってただけだ」

「ご、ごめんなさい! 私、……今坂さんと二人だと……思って…」

「だからって! 仮に鷹乃の誤解が真実だったとしても、早すぎるだろうがっ?! ええっ?! 誤解して一時間後には伊波とってよ?! どんだけ早いんだお前はっ?!」

「ごめんなさいっ…ごめんなさいっ…ごめ…ひっ…ひぅぅ…ううぅ…」

 怯えきった鷹乃はソファの影に隠れて泣き出した。蒼白な顔で啜り泣いているのが、可哀想にも想えるのに、苛立ちは治まるどころか、ますます高まってくる。

「立てよ!」

「ぃや…」

 本能的な恐怖で鷹乃は身を縮めているけれど、智也はポニーテールを引っぱってムリヤリに立たせた。

「オレに顔みせろ」

「ひっ…」

 怯えきって鷹乃は抵抗しない。顔を見せて目をそらして涙を零している。

「…ひぃっ…ひっく……ひっ…ぅぅ…ごめ…ごめなさ…」

「くっ………」

 だから、これ以上謝るなよ、余計に腹立つだろうが、くそっ! 嫉妬って、こんなか?! こんなにムカつくものだったのかっ?! オレの鷹乃にっ、伊波の奴がって、思うだけで、腹が立って、殺してやろうかってくらいっ! 鷹乃でさえ殴って……しまいそうなくらい……怒りが……爆発して……、智也は右手をあげて拳を握った。

 ガッ!

 鷹乃の泣いている顔、その真横を拳が通り抜け、ドアのベニヤ板を簡単に貫いて大きな穴が空いた。鷹乃は腰を抜かしてズルズルと座り込むけれど、ドアから手を抜いた智也は抱き止めて支えた。

「オレはっ、お前が好きだっ! 大好きだっ!」

「っ…」

「だからっ、二度と! オレを裏切るなっ!」

 力一杯に抱きしめながら、智也は涙を零した。

「くっ…」

「…………」

 泣いてるの、智也? 鷹乃は息もできないほど抱きしめられながら、肩に落ちてくる汗とは思えない滴を感じて、胸が締めつけられている以上に痛くなった。

「……ごめ…ごめんなさ…」

「もう、謝るな。もう、いい」

「だって……私…」

 なんてバカなことをして、この人を怒らせて、悲しませて、私は……私は……鷹乃は込み上げてくる嗚咽のままに泣いた。

「ぅうっ…ぅううっ…」

「………」

 言えないな、絶対に言わない、クロエのことは何があっても鷹乃には言わない、認めない、謝らない、嫉妬が、こんなにも苦しいものだってわかったからには、絶対に隠し通してやる、墓までもっていく、彩花にも墓までもっていかせる、智也はクロエのことを今後も絶対に知られないようにしようと決め、鷹乃へキスをする。

「お前はオレの女だ。この唇も、この目も、髪も……悪かったな。引っぱったりして……痛かったろ?」

「ううんっ…ううっ…ううっ…」

「ごめん、怖かったよな」

「うう…ううっ…智也…」

 首を振って泣きながら鷹乃は抱き返して頬を擦りよせた。

「もう二度と……絶対……智也を裏切ったりしない」

「鷹乃……」

 無意識と本能で智也の手は鷹乃の衣服を脱がせ、裸にしていく。まだ泣いている鷹乃も抱かれることを望み、半裸にされると脚を開いて、智也のズボンをさげた。

「「…痛っ…」」

 ほとんど愛撫もなしに接合したので二人とも痛みを覚え、見つめ合って笑った。

「悪い、焦りすぎた」

「ううん、私も、だから」

 そう囁いてキスをしていると、玄関から遠慮がちに彩花が入ってきた。

「すいませーん……桧月彩花ですけどぉ。玄関あいてたし……すっごい音がしたから、ちょっと心配で来ました。……えーーっと……三上さぁん、大丈夫ですかぁ? あ、あのぉ、寿々奈さん、いる? 私ね、智也と唯笑ちゃんで、ご飯食べてただけだからぁ……そんな怒らないでね。やましいこと、なんにも……あっ…」

 責任の一端を感じている彩花は気をつかって変に他人行儀な言い訳をしながらリビングまで来ると、性交している智也と鷹乃を見つけて、げんなりとした顔になった。

「……夫婦ゲンカは……犬も食わないっていうけど……。なに、この部屋……智也の顔、痣だらけ……いくら何でも暴れすぎよ、寿々奈さん」

「「……………………」」

「テレビ壊れてるし……」

「「くっ…くくっ…」」

 彩花の誤解が可笑しくて、智也と鷹乃は声をあげて笑った。

「な、なによ? なに笑ってるの?」

「いや、何でも。っていうか、テレビ壊したのも、暴れたのもオレだ」

「私が悪いケンカだったからよ。気にしないで」

「気にしないでって……」

 彩花は抱き合ったままの二人から視線をそらしてタメ息をつく。

「…たはーっ……つける薬が無いみたいね」

「お前こそ、新婚夫婦の家庭に上がり込んで邪魔をするなよ、無粋な奴だな」

「はいはい」

「言ってなかったが、リアルに新婚夫婦だからな」

「………リアルに?」

「リアルに♪」

「…………ホントに?」

「ああ、黙っていたが入籍している。唯笑にも言っておいてくれ」

「ちょっ?! マジでっ?!」

「ああ。な、鷹乃?」

「ええ、結婚してるわ。正式に。……式は、まだ、だけど、届出は出したわ」

「智也の親とか、オッケーしたの?!」

「……いや、…まだ報告してない。っていうか、オレたち二人以外で知ったのは、お前が最初だ。で、次が唯笑になる。他には秘密にしておいてくれ。ややこしくなる」

「……どうして、私と唯笑ちゃんにだけは報告してくれるの?」

「今日みたいに鷹乃が嫉妬するだろ? オレとお前らが親しくすると、な。けじめつけておかないと、これからは不倫になるからな♪ ということで、彩花、見ていたくないなら帰れよ?」

 そこまで言って智也は鷹乃との性交を再開する。彩花は帰ることにした。

「とりあえず……おめでとう、……かな? じゃ、お幸せに。……っていうか、近所迷惑だから、あんまり派手な夫婦ゲンカしないでよ。おやすみぃ~」

 彩花は最後に玄関の戸締まりをするように言ってから、隣家へ帰った。

 

 

 

 翌日の午前0時、いのりは両親と大喧嘩していた。

「イッシューが泊まっちゃダメなら! 私がイッシューのところに泊まる!」

「なにを言ってるのっ?!」

「いのり、ワガママを言うんじゃないっ!!」

 いのりと両親が口論しているのを、一蹴は何もできずに座っている。何度か、帰ろうとしたけれど、いのりが離してくれない。智也に断って文化祭の準備を休んで帰宅してから、いのりと過ごし、夕方になって帰ってきた両親に紹介して、夕食をいただき、そこまでは和やかな彼氏紹介だったけれど、いのりが一蹴を帰さない、私の部屋に泊める、と主張しだしたときから、不協和音が始まっていた。

「どうしてっ?! 夕べはカナちゃんを泊めてくれたのにっ?!」

「カナタちゃんは女の子でしょっ?!」

「イッシューは私の彼氏なのっ!!」

「ボクは……そろそろ…」

 一蹴は帰ろうと腰をあげたが、いのりが抱きついてくる。

「ここにいてっ! イッシューが帰るなら私も帰る!」

「ぃ……いのり……」

「いのり、いい加減にしなさい。鷺沢君も困ってるじゃないか!」

「困らせてるのはパパとママでしょっ?!」

「いい加減にしないとパパも怒るぞっ!」

「どうして怒るの?! 私がイッシューと仲良くするのは、そんなにいけないことっ?!」

「いけなくはないが、節度というものがある。いのりは女の子で、鷺沢君は男子だ。そんなこと、もうわからない年齢じゃないだろう? 親にこんなこと言わせないでくれ」

「パパこそ、娘に言わせないでよ。イッシューとは、してるよ。ちゃんと愛し合ってるから」

「「「っ……」」」

 両親が驚き、いのりと一蹴へ視線を送る。いのりは視線を受けとめて肯定し、一蹴は目をそらして否定できなかった。父親が座り込み、深いタメ息をついた。新聞で読む調査では初体験の平均は高校二年生、自分の娘は一年早かっただけ、そう自問自答している背中は悲しそうだった。母親が娘を睨んだ。

「そんな子に育てた覚えはないわっ!」

「どうして? 女と男が愛し合うのは当然だよ?」

「いのりは高校生でしょっ! 節度をもちなさい!!」

「節度? ……………わかった。イッシューとしか、しない。私はイッシューが大好きなの! だから、イッシューとしか、しない。一生! この一生も! 次の一生も! ずっと、ずっと、何回生まれ変わってもっ! 永遠にイッシューとしか、しない!!」

「「……………………」」

 両親が黙り込み、いのりから一蹴へと視線を移した。

「さ…鷺沢君」

「は、はい…」

 一蹴は正座して聞く。

「どうやら、いのりは本気のようだ。……それは……まあ……そういう時代なのかもしれない。………だが、いのりが本気なら本気なだけ……いのりが傷つくところは、父として見たくない」

「……はい…」

「いのりを傷つけたりしないでくれると、約束してくれるかね?」

「は……はい……」

「そうか………。それなら、話は終わりだ。明日も会社が早いんだ。もう、寝る」

 父親は一蹴を泊めていいとも、悪いとも言わず、逃げた。残った母親は娘を見つめる。

「……………………」

「……………」

 母と娘が黙って対峙し、いのりは絶対に譲らないという風に一蹴の腕に腕をからめる。絶対に守る、そういう気配を漂わせる娘の異常な熱意に、母親は既視感を覚えた。

「……鷺沢……………………一蹴くん……」

 母親は古い記憶を探り、一蹴という珍しい名前に聞き覚えがあることを思い出した。

「まさか……あの、イッシューくん?」

「え?」

「お母さんっ! ちょっと来て!! イッシューは、そこにいて!!」

 いのりは母親の手を引き、庭まで出る。

「イッシューは、あのときのこと忘れてるから思い出させるようなことは言わないで!」

「やっぱり……あのときのイッシューくんなの?」

 幼い頃、病気がちだった娘を見舞ってくれた施設の子供が二人いた。二人とも変わった名前だったので記憶に残っている。一人は一蹴、もう一人は扉、どちらも変わった名前だったし、どちらも見舞ってくれた理由は娘ではなく、同室のリナという少女が目当てのようで、母としては残念にも安心にも思っていたのだが、同室の少女は一蹴と交通事故に遭い、亡くなっている。その後、いのりは回復して退院してからも病院に通った。事故で負傷して入院していた一蹴を見舞うために、あのときの異常な熱意と今の娘の切迫した様子は重なって見える。

「絶対にイッシューには言わないで。言ったら、お母さんでも許さない。私、何をするか、わからない」

「いのり……。………イッシューくんとお付き合いするのは、いいわ。やめなさいとは、言わない。……関係、……身体の関係が…あるのも……、……でも、あなたの身体は………もう少し成長してからでないと、妊娠や出産には耐えられないかもしれないわ。そうでなくても、高校生なのよ。……避妊はしてるの?」

「してる」

「そう…………それなら……、もう、いいわ。お母さんも疲れたから寝るわね」

 母親も諦め、いのりが勝利した。親公認で彼氏を泊めるという荒技を成し遂げ、一蹴とベッドをともにする。一蹴は落ちつかない心地で、身体を横たえると、すぐに目を閉じた。もちろん、すぐに寝付けないけれど、いのりに呼ばれても起きない。

「イッシュー? イッシュー? もう、寝ちゃったの?」

「………」

「…イッシュー? しようよ?」

「……………………」

 無理っす、ご両親、隣の部屋にいるのに、娘さん抱く度胸はないっす、一蹴は狸寝入りでやり過ごそうとしたが、いのりは納得できない。

「う~……疲れてるのかなぁ……ふにゅっ♪」

「っ……」

 一蹴は男根を摘まれたが、寝たふりを続ける。

「……イッシュー……」

「………………………」

「……じゃあ、せめて…」

 いのりはパジャマを脱いで全裸になると、添い寝する。狸寝入りをしている一蹴へ何度もキスをして、男根に触れ、ゆっくりと勃起させると脚をからめて一つになる。

「……イッシュー? 下は元気になってくれたのに、上は寝てるの?」

「……………………」

「じゃあ、夢の中で私と会ってね♪」

 いのりは眠っている一蹴にかまわず腰を使い、一蹴が射精してくれるまで動いた。

「ハァっ…ハァっ…」

「…………」

 オレは夢精ってことになるのか、一蹴は狸寝入りを死守する。いのりがキスをしてきた。

「ふふ♪ イッシュー、愛してる。おやすみ」

「…………」

 一蹴は寝付きにくい環境だったけれど、今日は何度も射精して疲れていたので、いつのまにか眠った。朝、先に目が覚めたのは一蹴だった。

「……疲れた………………………」

 一つのベッドで二人で眠ったので身体が硬くなっている。起きあがって伸びをして、一階に降りた。

「養子生活には慣れてるけど……こういうのは……」

 トイレを借りて、洗面所も借りる。鷺沢家にいても、そこが完全に自分の家ではないという感じはしていたけれど、いのりの家で寝起きするのは、また、別ものだった。顔を洗ってキッチンへ行くと、いのりの母親が朝食を作っている。

「お……おはよう、ございます」

「あら、おはよう。早いのね」

 昨夜のことが無かったように振る舞ってくれる母親をありがたく思い、一蹴も自然体を取り繕う。

「なにか、手伝います」

「いいのよ。……そうね。一つだけお願いしていい?」

「はい、何でも!」

「いのりを起こしてきてちょうだい。それが一番大変な仕事だから」

「はい…」

 確かに………あのネボスキストを起こすのは大仕事だ、おまけに夕べ遅かったから、ちょっとや、そっとじゃ、起きないかも、一蹴はタメ息をつきながら二階へ戻り、恋人の寝相を見る。いのりは幸せそうに枕を抱いて可愛らしく寝ているけれど、全裸だった。

「…………………………あれだけ、出してると朝立ちもしないんだな…」

 一蹴は全裸の恋人を見ても無反応な分身に感心しつつ、いのりを起こしてみる。

「おい、いのり! 起きろよ! 朝だぞ!」

「ん~っ……」

「起きろって!」

「……しゅ~……」

「起きないと、そのまんま学校に背負っていくぞぉ!」

 一蹴が冗談を言っても起きない。いのりはうるさそうに寝返りをうった。

「ん~………」

「まったく」

 結局、遅刻ギリギリになって朝食もそこそこに登校することになったけれど、いのりの意識が戻ったのは、通学路にいたカナタと出会った瞬間だった。

「ハーイ♪」

「っ…」

「いのっち、ひどいよ。何度もメールしたのに一回も返してくれなかった」

「……ごめん。夕べは、いろいろあったから」

「へぇぇ……いろいろって?」

「……。カナちゃんには関係ない」

「…………そう……」

 冷たくされてカナタは淋しそうにしたけれど、いのりが腕を組んでいる一蹴へ視線をやり、微笑をつくった。

「そんなこと言って、いいのかな? ね?」

「…………」

「ちょっと、アタシに付き合ってよ。お願い」

「……………」

「いのり? オレは別に一人で登校しても…」

「イッシューは黙ってて!」

「……いのり…」

「ごめん、イッシュー、先に学校へ行っていて。私は………遅れると思う」

「わかった。じゃ」

 一蹴が学校へ向かい、いのりはカナタを見つめる。

「………」

「どこ、行こうっか? いのっち♪」

「…………ついてきて。カナちゃんに見せておきたいものと………話があるから」

 いのりが歩き出した。カナタは、どこへ行くつもりなのか、何度か訊いたけれど、いのりは答えず、一時間ほどして、とある教会の裏手にある墓地についた。

「ずいぶん、独特の雰囲気があるところだね。アタシ、リアルに西洋式の墓地を見たの、はじめてだよ」

 一般的な日本人らしく祖母の墓も仏式であるカナタは連れてこられた教会の墓地を物珍しそうに見ている。いのりは慣れた足取りで真っ直ぐに一つの墓石まで進んだ。

「ここが、目的地?」

「リナちゃんのお墓」

「…そう………、ふーん……」

 カナタは居心地悪そうにリナの墓石を一瞥すると、他の墓石やエクステリアを見回している。どの墓石も西洋式で十字架や石版型で、いわゆる日本式の某家先祖代々之墓という墓石はない。いのりが呪文のようにつぶやいた。

「最初から好きじゃなかった」

「え?」

「最初から好きじゃなかった」

「……リナさんのこと?」

「違う」

「……………」

「もう二度と私に近づかないで」

「ぃ……いきなりだね…、いいの? そんなこと言ってさ♪ アホイッシューに言っちゃうよ?」

「イッシューはアホじゃない」

「……言っちゃうよ?」

「言わないで」

「じゃあ、アタシと…」

「二度、私に近づかないで」

「……………………」

「約束、できる? イッシューにリナちゃんのことは言わない。私に二度と近づかない。この二つ、今ここでリナちゃんのお墓の前で約束して」

「…………」

「して」

「…………ヤダ♪」

「そう………」

 いのりは肩を落として震えた。

「いのっち……アタシはね。いのっちがいてくれないとダメなの」

「………………………」

「だからね、いのっち」

 カナタがキスをしようと、いのりの肩を抱いた。

 ガッ!

 いのりが強烈な頭突きをした。

「ひぐっ?!」

 ガッ! ガッ!

 さらに二度、三度、いのりが頭突きを続ける。逃げようとするカナタの頭をピアニストらしい強力な握力で捕まえ、二人の頭が割れそうなくらい強烈な頭突きをしてくる。

 ガッ!

 カナタの額が割れ、血が流れた。

「ううぅぅっ…いの……ち…」

 ちょうど、幼い頃に沙子によって傷つけられた場所と同じところの皮膚が割れ、血が流れて視界が紅く染まる。カナタは脳震盪のためにフラフラと倒れた。

「ぅうう…っ……いのっち…痛いよ…」

「……………………」

 いのりは倒れたカナタを呪い殺すような目で見下ろすと、蹴った。

「ぅうっ!」

「……………………」

 蹴る、蹴る、蹴る、いのりは丸くなって呻いているカナタを蹴り続ける。

「…ひぅっ…ううっ…ゴホッ…ゴホっ……痛いっ…痛いよ…」

 カナタは抵抗を試みる機会もなく圧倒され、啜り泣いた。

「……………………」

 いのりは何も言わず、墓地に落ちている子供の頭ほどの石を持ちあげ、振りかぶった。

「ひぃっ…ヤ…ヤダ……そんなの死んじゃう! ごめんっ、ごめんっ、いのっち、ゆるして!」

「……………………」

「ごめんっ、ごめんっごめんっ!」

「……………………。リナちゃんにも謝って」

「ごめんっ、ごめんなさいっ!」

 殺意の滲む本気の暴力を受けたカナタは、リナの墓石に土下座しているけれど、いのりは殺す気だった。

「そんなところじゃリナちゃんには聞こえない。リナちゃんは空の高いところにいるんだから。そこに行って謝ってきて!」

 いのりは振りかぶっていた石をカナタめがけて叩きつけた。

 ザッ!

 いのりのコントロールが悪かったのか、カナタが寸前で動いたのが、よかったのか、石はカナタの鼻先をかすめて墓地にめり込んだ。

「ひぃッ…」

 カナタは身震いすると、泣きながら小便を漏らしてスカートを濡らした。

「ゆ…ゆるし……ゆるして…」

「……………………」

 いのりは謝り続けるカナタを踏みつけ、憎々しげに呪った。

「もう、うんざりなの。汚いっ! 気持ち悪いっ!」

「うぅうっ…ぅううっ…」

「死んでよ! ねぇ、死んで!」

「ひぅうぅっ…」

「私の前から消えて!!」

 いのりの中で不本意な性行為を強要されてきた怨念が爆発し、もうカナタへの同情も友情も微塵も残っていなかった。一蹴を守るため、一蹴以外と交わらないため、いのりはカナタを消すと決めた。さっきまでは殺すつもりだったけれど、殺すと逮捕されるという社会的ルールを思い出し、いのりは身動きできないほど呻いているカナタの髪を引っぱって座らせた。

「いいことを教えてあげる」

「ぅ…ぅぅ…ごめ…ごめん…」

「加賀先輩、カナちゃんを捨てて、ほたるさんと付き合ってるよ」

 壊れるよね、これを知ったら、カナちゃんは壊れる、壊れて、壊れてしまえ、いのりは呪いを込めて囁いた。

「ほたるさんと加賀先輩、付き合ってること、カナちゃんには言う気ないって。ふふ♪」

「……ウ…ソ……?」

「ウソじゃないよ。ほたるさんに訊いてみたら?」

「………………ウソっ?!」

 カナタの瞳が病的なまでに動揺する。まさか、と思いつつも、心の奥で気づきつつあった。正午はカナタと人間関係がある女子を新しい彼女にしたと言った。けれど、果凛も、葉夜も、彩花も、唯笑も、鷹乃でさえも、該当しない。もう、考えられる可能性は、ほたるしかなかったし、ほたるの誕生日の前後に正午は長期間学校を休んだ。認めたくなかった、否定していたかった、それを、いのりは肯定してカナタを絶望の底に叩き落とすことで壊していく。

「加賀先輩、ほたるさんには優しいって」

「……………………」

「誕生日にウイーンまでプレゼントをもっていったらしいよ」

「……………………」

「負けちゃったね。うん、カナちゃんは、ずっと敗者だよ。イサコちゃんに負けて。忘れられて。やっと取り戻しても、また捨てられて。でも、私は違う。イッシューを守る。だから、カナちゃんは、敗者らしく、ずっと墓場にいればいい。ずっと、ずっと、絶望していて。何もかも、失ったんだから」

「……………………」

「カナちゃん?」

 いのりが反応を確かめるようにカナタの目前で手を振ったけれど、何の反応もない。もう瞳は現実を見ていない。

「……壊れてるね♪ さようなら」

 いのりは踵を返して立ち去ろうとして、他の弔問客に気づいた。墓場に似つかわしい黒ずくめの男が立っている。

「そこで何してやがる?」

「………」

 いのりは目撃者をつくってしまったことを、どう処理するか、考える。カナタを殺してはいない、けれど、かなりの暴行をして殺人未遂くらい追いつめている。

「そこを荒らすんじゃねぇ!」

「………もしかして、…トビにぃにぃ?」

「お前は……いのるん?」

 二人とも昔懐かしいアダ名を口にして古い知り合いであることを確認したけれど、今の年齢で恥ずかしすぎる呼び方だったので、忘れてしまった本名を名のる。

「飛田扉だ」

「陵いのりです。あの、飛田さん、いつも、ここに?」

 いのりの視線が扉の手元にある花束と手作りのてるてる坊主へ注がれ、扉は慌てて背中に隠した。いのりは何度か、リナの墓前を訪れたとき、てるてる坊主が供えられていたので不思議に思っていたのだが、その理由が氷解した。

「飛田さん、だったんですね。いつもリナちゃんに」

「……ちっ………、リナだって、晴れてる方が下界が見やすいだろうよ」

「そうですね」

「ところで、それは、何だ?」

 扉はカナタを指して訊いた。血まみれで泥まみれ、涙を流しながら現実を見ていない女子高生が墓前に倒れているのは扉でなくても大きな疑問を抱く状態だった。

「これは……えっと…」

「イジメとか、そういうの?」

「………イジメ…」

「見かけによらねぇんだな」

「い、いえ! 違います! って、いうか、イジメられてたのは、むしろ私で。それで、その仕返し……決着をつけて」

「ほぉっ♪ 立派じゃねぇか。ますます見かけによらねぇ」

「あの、すいません。今日、ここで会ったこと、誰にも言わないでもらえませんか?」

「いいぜ」

「ありがとうございます」

「オレは、またの機会にするからよ。リナによろしくな」

 扉はクルリと背中を向けて立ち去ろうとしたが、少し歩いて振り返った。

「おい、いのり」

「はい…」

 いきなり呼び捨て……、いのりは思ったことを表情に出さず返事した。

「こいつだけは、またの機会じゃ萎れちまう。いのりがリナにやってくれ」

 扉はカッコよく花束を投げてよこし、駐車場に駐めてあった軽トラで去っていった。

「魚力……今は魚屋さんなのかな……カラスが乗ってたけど…」

 軽トラの荷台にはカラスが乗っていた。

「……………………。とりあえず、これを」

 いのりは投げ渡された花束をリナの墓前に供えると、カナタへ視線を落とした。死体か、人形のように倒れていて、回復する兆しはない。

「リアルふにゅっ!」

 いのりは顔を踏みつけ、最後に唾を吐きかけてカナタと別れた。

 



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18話

 

 

 数日後、いよいよ碧海祭当日となった浜咲学園ではルサックを模した模擬店が盛況だった。いろいろなトラブルもあったけれど、翔太の尽力でクラスは協力して作業にあたっている。

「翔太くん、お疲れ様」

「つばめ…先生こそ、ご協力感謝します」

 生徒と教師を演じながら、アイコンタクトでは恋人同士の通信をしている。翔太は厨房にいる誰もが自分たちに視線を向けていないことを確認してから、生徒なら見せないような微笑を恋人に送り、つばめも微笑み返した。

「翔太くん、他に問題はない?」

「ええ、なんとか、やれそうです」

「翔太っ! これ、どうしたらいい?」

「健、それは家庭科室で洗ってくれ! こっちは手一杯だ!」

「オッケー!」

 健は指示を受けて汚れた物を満載した洗い桶を家庭科室へ運び込む。

「ふーっ…ぁ…、…………」

 健は家庭科室にいた鷹乃と目があって沈黙した。鷹乃も目をそらして洗い物を続ける。健は家庭科室に誰もいないことを確認すると、鷹乃に声をかけることにした。ここ数日、ずっと避けられていて話をする機会がなかった。智也は実行委員の仕事以外は鷹乃のそばを離れないし、鷹乃も健を避けているので、この千載一遇のチャンスを逃したくなかった。

「寿々奈さん……」

「………………………」

 鷹乃は洗い物をする手を早めた。このパフェの容れ物を洗ってしまわないと次のオーダーに応えられない。早く洗ってしまいたいのに複雑な形をしているせいで、ルサックのような業務用食器洗い機がない今は、やたらと時間がかかる。

「ちょっとだけ、ボクの話を聞いてほしい」

「……………………」

 鷹乃は黙って洗い物を続ける。聞こえていないかのような反応だったが、健の声は届いているはずだった。

「君は本当に三上と付き合っていて幸せなの? ボクには…」

「飛世さんとは、どうしたの?」

 うるさい蠅を睨むように鷹乃が詰問した。

「……トトとは、……別れたよ」

「……………」

 鷹乃が深いタメ息をついて、健から視線を天井へ向けた。

「それで、伊波くんの話って何かしら?」

「………ボクは……寿々奈さんが好きだ」

「前に聞いたわ。それで?」

 鷹乃は洗い物を続けながら訊く。

「ボクと……付き合ってほしい。君を守りたい」

「…………。私のこと、本当に好き?」

「好きだよ。本気で」

「………………」

「寿々奈さんだって、ボクの気持ちは知ってくれてると思う」

「ええ、死ぬほど、死んでもいいくらい、私のことが好きなんでしょ? その気持ちが本物だってことは認めてあげるわ」

「……寿々……鷹乃」

 健が希望を見たように呼び方をかえると、鷹乃は冷たい視線を向けた。

「たしかに、今、この瞬間、あなたは私のことを本気で好きなんでしょうよ。自分が死んでもいいくらい。だから、自分への評価や周囲の状態なんて、さらに、どうでもいい」

「……そんなことは…」

「死んでもいいくらい好き? でも、その好きの賞味期限は? 来週? 来月? いつ、私にお別れを言いに来るのかしらね。告白した舌が、ウソを言ってないのが事実だとしても、今度のクリスマスやバレンタインまで私を好きでいることが、できるのかしら? 大いに疑問だわ」

「……………………それでも、ボクは鷹乃のことが好きなんだ!!」

「やっぱり、カゲロウね」

「カゲロウ?」

「あなたの命はカゲロウみたいに軽いのよ。そして恋も、まるでキャンディーバーの包み紙みたいに軽くて、すぐ要らなくなる。どうせ、私のことも何度か抱けば飽きてくるわ。そんな愛っ、まっぴら御免よ。私はドン・ファンにも光源氏にも用はないわ」

「………」

「永遠の愛が望むべくもない贅沢品だとしても、せめて夫婦になるなら子供が育つまでの20年は夫婦でいるべきよ。それに、私は翁の妻なりたいわ。子供を育てる自信がないもの。あの夫婦は子供に恵まれなくても、仲良く、ずっと、やっていたのよ。かぐや姫が来る前も、月へ帰った後も。ずっと、ずっと、夫婦でいたのよ。そういう愛がほしいの。あなたのカゲロウの愛を受けとめるほど、私の寿命は短くないの。どこか別の誰かに求愛してちょうだい。さようなら、伊波くん、好きになってくれて、とても迷惑でした。どこかへ行ってください。永遠に」

「…………………………………」

 健は言われたとおり、家庭科室から去り、鷹乃はパフェの容器を洗い終えると教室へ戻った。ちょうど実行委員の仕事を終えた智也が正午と来店している。

「よぉ、中森。オレ様は客として来た。客として、もてなせ」

「オレ様も客だ♪」

「わかりました。お客様、窓際のお席へ、どうぞ」

 全体を仕切っている翔太が、智也と正午を案内しようとすると、智也は鷹乃を指した。

「あの一番、可愛い子に応対させろ♪」

「お客様、当店は指名制をとっておりません」

「硬いこと言うなって。お客様の要望だぞ」

「そうだ、そうだ♪ オレは、あの子がいいぞ!」

 正午はウエイトレス姿の果凛を指名する。果凛と鷹乃が目を合わせ、仕方がないので二人で水とオシボリを手渡しにいく。

「「いらっしゃいませ」」

 果凛が正午に、鷹乃が智也に水とオシボリを渡してメニューを示している。

「りかりん、可愛いな。似合ってるよ」

「ありがとう、正午くん」

「加賀、お前の目は節穴か。絶対、こっちの子の方が可愛いぞ♪」

「三上こそ節穴だな。この子は、きっとモデルとしても通用するくらい可愛いって♪」

 バカなことを言い合っている客に、ウエイトレスとして鷹乃が困った顔をしつつ、メニューの説明をする。

「ただいま、当店のオススメは浜咲鍋と碧海餃子になっております。お決まりになり…キャっ?!」

 鷹乃が智也に尻を撫でられて小さな悲鳴をあげた。

「や…やめてください。お客様、困ります」

 智也が客を演じているので鷹乃も店員を演じ続け、果凛も店員として冷たい対応をする。

「お客様、当店は、そのような店ではありません。下品な真似はお止めください」

「いいじゃないか♪ 減るもんじゃなし」

 鷹乃の尻を撫で続け、没個性的なキャラクターを演じることに妙な楽しみを覚えている智也の顔面が殴りつけられる。

「鷹乃から手を離せ!!」

「ぐはっ?!」

 智也がイスから転げ落ちる。翔太はタメ息をつきながらフロアに顔を出した。

「おい、健、いい加減に……誰?」

 てっきり健が暴発したのだと思って止めに来た翔太は上等そうなコートを着た紳士を見て、驚いた。少し前に一人で来店して教室内をキョロキョロと見ていた不審な紳士だったが、まさかトラブルになるとは思っていなかったのに、智也の次に正午まで殴っている。

「ぉ、お父さん?!」

「ハァ…ハァ…鷹乃…」

「……どうして、……ここに…」

「大丈夫か、鷹乃?」

「ぇ…ええ、……智也っ! 大丈夫?!」

 鷹乃が倒れた智也の心配をする。

「痛ぅぅ……伊波のアホに殴られたとこに入ったから、めちゃ痛い……くぅぅ…」

「鷹乃、どうして、そんな奴を……」

「誰だよ、このおっさん? 鷹乃の知り合いか?」

 立ち上がった智也は痛そうに殴られた頬を撫でる。

「私の……お父さんよ」

「っ?!」

 痛みが消し飛んだ。

「お…お義父さ…ん?」

「た、鷹乃、いったい、どういうことなんだ?」

「…………。娘の恋人の顔も知らずに、早とちりをした父親が、ここにいる。それだけよ」

 鷹乃の声には再会の喜びよりも、これまで放置していたことに対する不満が冷たさになって発されている。娘を守るつもりでの勇み足が鷹乃の冷たい視線で滑稽なものに変えられていく。

「恋人? …こ……こんな男と鷹乃は付き合っているのか?」

「ずいぶんな言い草ね。こんな父親より、ずっとマシよ。何年ぶり? 何の用? 再婚でもして報告にきたの? 腹違いの妹でも作ってくれた?」

「た………鷹乃……」

「鷹乃、言い過ぎじゃないか、実の父親なんだろ?」

「だって、智也……、こんな……いきなり……私だって…」

 鷹乃は感情が高ぶって涙を零した。智也が肩を撫でると、鷹乃は智也に抱きついて啜り泣く。その様子で二人が男女の関係にあることが、父親にもわかった。

「どうやら、私は、とんでもない。勘違いをしてしまったようだ」

「いえ、オレがバカな真似をしていたから、父親としては当然の行動だと思います。い…いつも、ああいう悪ふざけをしてるわけじゃないっすよ。今日は祭りだから」

 智也は背中にクラスメートたちの「いつも悪ふざけしてるし、祭りになると、さらに悪化するから自業自得だ。昨日だって店の名前をノーパン喫茶にしよう、ウエイトレスはパンツをはいててもいい、ノーパンというのがウソで、そのウソだけで客が倍になる、とか言い出して前夜の準備を混乱させるし」という視線を感じながらも無視する。殴られていた正午も立ち上がった。

「オレは殴られ損かよ。痛ぅぅ…」

「す、すまない。悪漢の仲間だと思ったもので…」

「たはーっ……オレは、りかりんのお尻さわらなかったのに…」

 バカなことを言っている正午を無視して鷹乃が父親を睨む。

「それで、どうして、お父さんが、ここにいるの?」

「それは……鷹乃を迎えに来たんだ」

「迎えに………?」

「ようやくアメリカでの仕事が落ちついて、鷹乃を迎えられる準備もしてある。私といっしょに帰ろう」

「……帰る? ………」

「長く一人にしておいて、すまなかった。これからは何不自由ない生活を…」

「今さらっ?! 今さら何よ?!」

「鷹乃……」

「10年以上もっ! さんざん放っておいて今さら帰る?! アメリカにっ?! ふざけたこと言わないで!」

「寿々奈さん、取り込んでいるところ、申し訳ないんだが…」

 再びトラブルが発生しているようなので翔太が鎮火にあたる。

「とりあえず寿々奈さんは休憩ってことで、そこに座って。ゆっくり話し合ったら、どうだい? 少なくともお父さんは君のことを心配して、ここまで来たんだから、さ。とにかく、落ちついて」

 つばめの父親に比べたら……きっと、和解の余地はあるさ、翔太はウエイトレスの鷹乃に休憩を与えて席を用意し、智也たちと座らせる。智也と鷹乃が並んで座り、鷹乃の父は正午の隣に案内されたが、正午が遠慮した。

「オレはカウンターに行くよ。家族の話みたいだし」

「悪いな、加賀」

「いいって。じゃ、りかりん、こっちの席いい?」

「はい、どうぞ」

 果凛と正午が離れ、翔太も忙しいので全体を統括する業務に戻る。三人は着席したものの何から話せばよいものか迷い、気を利かせた果凛が紅茶をもってきてくれるまで何も話さなかった。

「…ぃ…いつまでも黙っていても、仕方ない。鷹乃、今まで放っておいたことは、本当に、すまなかった」

「………」

 鷹乃は父親に頭を下げられて返答に窮する。少しは気分も落ちついたけれど、簡単に釈然とするものでもない。けれど、会えて嬉しいという気持ちも、まったく無いわけではない。母親は完全に今の鷹乃のことを忘れ、新しい鷹乃と家庭を築いている。それに比べれば父は鷹乃を鷹乃として迎えようと言ってくれてもいる。ただ、何を言っていいか、わからず、言葉が出ない。

「……………………」

「オレが口を出すことか、どうか……」

 黙っている鷹乃を見かねて智也が口を開いた。

「少なくとも、鷹乃は、あと五ヶ月で高校を卒業するわけですし。アメリカの学校制度は知らないけど、高卒資格が無いよりは有った方が………」

 そこまで言ったときに、鷹乃が智也の腕を握ったので、父は娘の真意を悟った。

「そうか………今さら、アメリカに来てくれ、というのは、私の都合だな……。君は……みか…み?」

「三上智也です」

「私、この人と住んでいるわ」

「そっ…そうか……、そこまで……。それで、あの店に居なかったわけか……。だが、……同棲までして責任は…、いや、私が責任を言うのも、なんだが……やはり、娘の将来が…」

「智也とは……」

 鷹乃は智也へ視線で問いかけ、智也も頷いたので、父へ告げる。

「このことは学校にも知らせていないから、大きな声を出さないでほしいのだけど……。智也とは……結婚しているわ」

「なっ?! ………………本当かね?」

「はい」

 智也も肯定した。

「…………………………なるほど、……私に報告が無かったことを問えるような立場ではないな………。鷹乃は、大学には行かないのか?」

「ええ」

「………三上くんは?」

「就職します。すでに内々定をもらった会社があるので」

「そうか。……………私は、娘の晴れ姿も見逃したわけ……か。……」

「それは……式は、まだ、よ。する予定も……今は…」

「届出だけです。式は、まだ。鷹乃が望むなら、就職して落ちついた時期に式を考えてみます。そのとき……」

 智也は鷹乃の意向を探るように表情を覗く。その意図がわかった鷹乃は父を見つめた。

「もしも、そのときは、お父さんには連絡するわ。だから、アメリカでの連絡先は教えてちょうだい。でも、私はアメリカには行かないわ」

「そうか。……わかった。そうだな。そうしよう。そのときは、今まで放っておいた分、挙式の費用などは、しっかり応援しよう。だから、……就職したばかりで貯金に困るようなら言ってくれ。……バカな親だと思われるかもしれないが、こうなると娘の晴れ姿が早くみたくなってしまった」

「……。ホント、バカな親ね……」

 そう言いつつも鷹乃も悪い気はしていない。三人の雰囲気がなごやかなものに変わった頃合いを見計らって、翔太が料理を運んできてくれる。何年も食卓をともにすることがなかった親子が昼食をともに食べて、連絡先の交換や、別々になってから今日までのいきさつ等を話し合っているうちに時間が過ぎ、そろそろ鷹乃はウエイトレスとしての業務に戻らなくてはと、自分のせいで休憩の取れていない翔太たちを慮ったとき、教室にクロエが入ってくるのに気づいた。

「「……」」

 鷹乃は智也が家庭教師をしているクロエの顔を知らなかったけれど、日本人離れした髪と瞳の色合いが目をひき、一瞬、詩音が来てくれたのかと思うほどだったので視線を注いでいた。クロエも鷹乃の視線を受け、さらに隣に座っている智也を見つけると、翔太が別の席へ案内してくれようとしているのを無視して、微笑みながら近づいてくる。

「Bonjour! 来ちゃった♪ 智也」

「っ?!」

 クロエの接近に声をかけられるまで気づいていなかった智也は飛び上がるほど驚いて振り返る。

「クっ……ロエ…………、………」

「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。ふふ♪」

 クロエは小悪魔然とした微笑みを浮かべ、鷹乃と智也を見て、聞いていた智也の恋人だと確信し、さらに鷹乃の父親を見て、鷹乃と似ているところから、実の父親だというところまで洞察した。硬直している智也に微笑みながら、困っている翔太に頼む。

「monsieur 彼は私の家庭教師なの。相席にさせてもらえないかしら?」

「え…ええ…」

 戸惑いつつも翔太は客の要望に応え、正午が座っていた場所を用意したけれど、クロエはイスを動かして智也の隣に座った。智也は左右を鷹乃とクロエに挟まれ、正面に義父をむかえて背中に汗が浮くのを感じた。

「…………………………」

 お……落ちつけ、……落ちつくんだ! オレ様、ピンチっ、大ピンチっ、どうする、どう対処する、とにかく無難に、自然に、穏便に、智也は水を飲もうとして動揺のあまりグラスを倒した。

「あっ…」

 冷たい水がズボンにかかった。

「何やってるのよ、智也。フキンを借りてくるわ」

「わっ、悪い。てっ、手が滑った」

 鷹乃は忙しそうなクラスメートに頼むことを憚り、勝手を知っているキッチンへフキンを取りに行く。クロエはハンカチを出して、智也のズボンを拭く。

「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ♪」

「あ、…ああ…ちょっと、……寝不足で…」

「それは良くないですね。熱でもないといいですけど」

 クロエはズボンを拭いている手をそのままに、智也の額と自分の額を合わせる。

「熱は……ないみたいです。ちゅっ♪」

 額を合わせた後に、限りなく唇に近い頬へもキスをした。

「こういう西洋式の挨拶は、やっぱり彼女さんの前では遠慮しておきますね♪ ここは日本ですし」

「……………………」

 ……………………………あ……頭が……真っ白だ………ヤバイ! とにかく、ヤバイ、どうする?! どうする?! この場は逃げるか? いや、ダメだ、オレがいなくなった後、クロエが鷹乃に何を言うか、わかったものじゃない…………じゃあ、追い払うか……追い払えるわけない……それこそ逆効果だ、智也が硬直していると、鷹乃の父親がクロエに声をかける。

「お嬢さんはフランスの?」

 アメリカで現役ビジネスマンをやっているだけあって、わずかなフランス語から推測してクロエの素性をはかり、キスのことは見なかったことにしている。

「はい。といっても、ハーフですけれど」

「日本語がお上手ですね」

「ありがとうございます。日本での生活の方が長いですから♪」

「……。三上くんが家庭教師をしているのは、日本語を?」

「いいえ、全部です♪ 国語も数学も保健体育も、全部、私に教えてくださっています。ね? 智也」

 ことさら時間をかけて智也のズボンを拭いているクロエはフキンをもって鷹乃が戻ってくると、濡れた床を指した。

「すいません。ハンカチでは拭ききれなくて、そこをお願いしてもいいですか?」

「ええ。……それなら、雑巾をもってくるわ」

 鷹乃はフキンでテーブルを拭くと、雑巾をロッカーから出してくる。雑巾で床を拭き終わると、クラスメートたちの忙しさを見て、父親と智也に告げる。

「私、少し手伝ってくるわ。お父さんと智也、それにクロエさんは、ゆっくりしていってね」

「はいっ♪」

「可愛い生徒さんね、智也」

「ぃ…お、…ああ…」

 智也は意味不明な返事をしたけれど、鷹乃は皮肉ではなく本当にクロエを可愛いと思っている。逆に言われたクロエは子供として可愛いと言われたのだと悟り、敵愾心を激しくした。鷹乃がテーブルを離れると、クロエは腕を智也にからめて見上げる。

「高校の文化祭って、とても本格的なのですね。ずっと、準備に忙しいって言って私の家庭教師に来てくれないから、とっても淋しかったんですよ。でも、ちょっと納得です」

「あ…ああ…、…本格的だろ…、…だから、時間がかかってな…」

 なされるがまま穏便に話を合わせているだけの智也の腕にクロエの先月より少しは成長した乳房が押しあてられている。鷹乃がクロエの分の水とオシボリを持ってきて、さすがに皮肉を口にする。

「ずいぶん生徒さんになつかれてるのね。もしかして、クロエさんとも幼馴染み?」

「そっ、そんなわけ! 無いだろ!」

「なにを大きな声を出してるの?」

「い…いや…、はは♪ は♪ 幼馴染みは、ほら……あれだ……いや、…まあ…」

「「変な智也…」」

 鷹乃とクロエが異口同音する。鷹乃はクロエにメニューを渡した。

「注文が決まったら、呼んでね」

「はい」

 クロエはメニューを見ながら、甘えた声で智也に訊く。

「ねぇ、智也、この後、学校を案内してくれる?」

「お……オレは……実行委員だからな……い、いろいろ、忙しくて…」

「こうしてお茶してるのに?」

「や、やっと、休憩が取れたんだ。そ、そこに、たまたまクロエが来て…」

「そうなの? じゃあ、私、とっても運がいいんですね。運命が味方してくれてるみたい♪」

 クロエが確信犯的に甘えている様子を見て、鷹乃がテーブルへ戻ってきた。

「注文は決まったかしら?」

「ううん、もう少し。決まったらお呼びしますから、ウエイトレスさんは他の仕事をしていてください」

「そう、そうするわ。智也、ちょっと厨房でトラブルがあるの。実行委員の判断がほしいわ。来てちょうだい」

「…あ、ああ…」

 ……来た……そうだよな……来るよな……っていうか、鷹乃にしてはガマンした方だと思う、クロエが中学生だから、彩花や唯笑と違って、ちょっと反応が遅かったけど、そろそろ限界だよな、智也はクロエの腕から抜け出して厨房へ連行される。厨房を通り過ぎて廊下へ出ると、鷹乃は智也を睨んだ。

「あの子、いつも、ああなの?」

「…、い、…いや、…きょ、…今日は文化祭だからな。へ、変に、はしゃいでるんだろ?」

「ウソは信じられるようにつけ、あなたの格言ではなかったかしら?」

「…………。いつも、あんな感じ…で、……ちょっと苦労してる」

「でしょうね。智也は女の子の気持ちに、鈍くはないはずよね?」

「………」

「わかっているでしょうけど、あの子、智也のこと好きよ。単なる家庭教師としてじゃなく。中学生だからって子供だと思っていると、あとで困ったことになるわよ」

「………ああ…」

 今、困ったことになってるんだっ、ジャスト・ナウ! アイ・ハブ・プロブレム! ソー・メニー! ……とにかく、鷹乃の気持ちも考えないと……智也は鷹乃の肩を抱いた。

「悪い。イライラするよな。……この前、伊波のことでオレも思い知ったからさ」

「………。そーゆーことを言っているわけじゃないわ。いくら、私でも、あんな子供に嫉妬するはずないでしょ? 私が言ってるのは、あの子が可哀想だってことよ。私が恋人だってことを教えているのは、ギリギリ合格点といってもいいけれど、智也の曖昧な態度が変な希望をもたせているのよ? 家庭教師を辞めるとか、もっと、ちゃんと明確に伝えてあげなければ、ダメよ」

「……そ、…そうは言われても……、クロエは嘉神川食品の社長の娘で……オレは、そこに就職する予定だから…」

「それは………難しいわね。そーゆーこと……だったら、こうしましょう。私はストレートに嫉妬するわ。いつもみたいに嫉妬して、苛立って智也に迫ることにする。この子と私、どっちを選ぶのって。中学生相手に我ながら大人気なくて恥ずかしいけれど、そーゆー一芝居があれば、社長さんにも言い訳できるでしょ? これ以上、娘さんの家庭教師をしているとボクの彼女が何をするかわからないから、家庭教師は辞めて会社での仕事に戻してくださいって」

「……なるほど……」

 ……いや、その作戦が有効なのは、オレとクロエに肉体関係がないって前提が……ダメだ、この作戦だと最悪な結果に……なんとか、鷹乃にやめさせなければ……どう言って……、智也に考える時間は与えられず、クロエが廊下に出てきた。

「何を二人で、コソコソと話してるんですか?」

「あなたには関係ないことよ。智也は私と付き合っているのだから」

「………」

 クロエは急に剥き出しの敵意を浴びせられて鼻白むけれど、精一杯の虚勢を張って鷹乃を睨みつけた。

「関係なくはないですよ。だって、この後、智也は私に校内を案内してくれる約束をしてますから。ね、智也?」

「そんな約束は……」

「この子、何か勘違いしてるわ。自分が可愛いとでも…、…おもって…いる…の?」

 鷹乃は廊下に父親まで出てきたので、急に恥ずかしくなって語尾を弱めた。これから、嫉妬の激しい短気で疑り深い女を演じるのに、実の父親の視線があるのは苦しい。けれども、やめるわけにもいかず、クロエの方は完全に頭に血が昇ってきている。

「ずいぶんと失礼なことを言う人ですね。こんな人が智也の彼女だなんて智也が可哀想」

「余計なお節介はやめてくれないかしら? ひょっとして、あなた智也のこと、好きなの?」

「っ…、だ、だったら、どうだっていうんですかっ?!」

「可哀想ね。好きになった人に、すでに彼女がいたなんて、とっても可哀想よ」

「…っ…っ…っ…」

 クロエが顔を真っ赤にして両手を握って、ブルブルと震えた。鷹乃は心配そうな父親の視線が心苦しくて悲しい。

「……」

 これじゃ……私、……お母さんと同じじゃない………仕事ばかりのお父さんを疑って……家庭に不協和音を………あの人と同じ……でも、今は、この子が傷つかないためには、この方法しか……ないのよ……鷹乃は智也の右腕を抱いた。

「智也、こんな子は放っておいて、どこかへ行きましょ」

「ぁ……い……いや、でも……鷹乃はウエイトレスの……、オレも実行委員の仕事が…」

「そんなの、どうでもいいわよ」

「智也は私の案内をする約束ですっ!」

「智也は、そんな約束してないって言ってるわ。勝手なこと言わないでちょうだい!」

 なんて……恥ずかしいの………高校三年生にもなって、こんな子を相手に廊下で痴話ゲンカして………花祭さんが睨んでる………こんな子にバカな嫉妬をしてる女だって、また軽蔑されてるわ………でも、仕方ないのよ、こうするしか……鷹乃は羞恥心で顔を真っ赤にした。

「私の案内をしないなら、父さんに家庭教師としての仕事ぶりっ、言いつけるから!」

 クロエは言外にロストバージンのことを漂わせた。それは智也には伝わり、その虚をついてクロエは智也の左腕に抱きつく。

「早く案内しなさい!!」

「…しゃ……社長に……、そ、それは困るなァ……た、鷹乃、悪いけど、ちょっと…」

「イヤよ!」

「アルバイトの邪魔をするの?! 子供みたいな人っ!」

「あなたこそ父親の権威を借りなければ何もできないなんて小学生みたい!」

「っ! わっ、私はっ………」

 クロエが涙を滲ませて鷹乃を睨む。その様子で鷹乃はクロエにとって親のことが禁句だということに気づいたので、この方面の発言は控えることにする。

「智也も智也よ! 家庭教師の時間とプライベートの時間は分けてよ!」

「…わ…悪い…、……オレ……そろそろ……実行委員の時間が…」

「私の案内が先ですっ!」

「あなたは黙ってなさい!」

「あなたこそっ!」

 とうとう右と左に智也を引っ張り合うという戦史以来、何度となく繰り返されてきた典型的な陣形になったので他の生徒たちは楽しそうに見ている。クロエは周囲の視線が認識できないほど興奮しているけれど、鷹乃は恥ずかしくて顔から火が出そうで、その赤面が他人には嫉妬の炎にも見える。

「智也から手を離しなさい!」

「あなたこそ離しなさい! unnnn!!」

 クロエは本気で引っぱっているけれど、鷹乃は本気を出すと体格でも膂力でも上回っている分、簡単に勝ってしまうので、手加減して拮抗させつつ、最後の段階に入る。

「智也っ! 私とこの子、どっちを選ぶのっ?!」

「……鷹乃………クロエ、……ちょっと……冷静に、さ…」

「三上くん」

 鷹乃の父親が見かねて口を出してきた。

「こうなってしまった以上、男として結論を出すべきじゃないかね」

「…………………………そう……ですね」

 引導を渡せってか………鷹乃も……お義父さんも……クロエとのこと……知らないからな………そうなるよな……………クロエ………………………クロエのオヤジさんも、鷹乃のオヤジさんも……仕事か、女か、その二択で仕事をとった……その結果が……この二人だろ…………オレが、選ぶのは………クロエを壊すことに……なる道………けど、オレは知ってる、嫉妬ってのが、どんだけムカつくか、イライラするか、本気で鷹乃を殴りそうになるくらい、許せない感情だってことを知ってしまったから、だから、鷹乃はオレがクロエを抱いたってことを知ったら、鷹乃も壊れる………………………鷹乃を壊すか、クロエを壊すか、その二択だったら、オレは選ぶまでもなく答えは決まってる、そのくせ、クロエを壊してしまう残酷さに耐えられるか……いや、逃げているだけだ、耐えられる、きっと、耐えることはできる、ただ、最低に後味が悪い結果になるってだけだ、一夜の過ちが……この結果だ……オレが招いて、オレがクロエを壊す、そーゆーことだな………、智也は決断した。

「二人とも手を離してくれ」

「「……………………」」

 鷹乃とクロエが引っ張り合っていた手を離した。

「オレが……選ぶのは…」

「「…………………………………………」」

「オレが選ぶのは……」

 ゆっくりと智也は鷹乃を抱いたが、その耳元に小声で早口に囁く。

「鷹乃は社長が納得するって言ったが無理だ。たぶん、オレの就職はない」

「ぇ…?」

「落ちついて聞いてくれ。返事はしなくていい。クロエは思い込みが激しいだけじゃすまない子だ。こうやってオレが鷹乃を目の前で選んだ以上、社長にあることないこと、ぶちまける。セクハラされたとか、抱かれたとか、とにかく有ること無いこと」

「……そんな…」

「本当に可哀想な子なんだ。社長は仕事ばっかで娘を放置して、オレに任せてるし、オレに任せる前は完全放置だったし、母親なんか7歳の頃に出て行ったきり、手紙一通なしって家庭で育ったんだ。自分にかまってほしくて有ること無いことウソつくくらい普通にやるさ。しかも、そのウソを自分では真実だと思ってしまうんだ。いつか、オレが鷹乃を捨てて自分を選ぶ、なんて妄想がクロエの中では希望的観測を超えた確実に約束された未来として頭に入ってる。そんな子なんだ」

 智也は言い終わると、鷹乃を離して振り返りクロエを見つめた。

「…っ…っ…っ…」

 クロエは真っ青な顔をして震えている。失恋に傷ついた少女の瞳だった。

「…っ…どうして? …っ…どうしてなの?」

「どうしても、こうしても、オレは鷹乃が好きだし、クロエのことは何とも思ってないからだ」

「っ…、ひ…ひどい…」

「ちょっと、智也、もう少しマシな言い方…」

「鷹乃、今さら同情するな。白黒はっきりって言ったのはお前だし、そうしないとダメなんだ」

「でも…」

「クロエ、もう帰ってくれ。正直、迷惑だ」

「っ…、…ひどい…っ…、……私に……そんなこと……言うの?」

「二度も言わせないでくれ」

「……。……っ…、私に、……そんなこと……言って……いいの?」

 クロエの目が狂気じみた脅迫者の目になった。碧海色の瞳が暗い海の色になる。

「ねぇ、智也、私に……そんなこと……言って、いいの?」

「撤回はしない」

「………。本当に……いいの? あの夜のこと、私も言うわよ?」

「あの夜? 何のことだ?」

 智也は完全にとぼけてみせた。クロエが吠える。

「私を抱いたでしょっ!!」

「は?」

「あの夜! 私を抱いて! 私のヴァージンを奪ったのは誰っ?!」

「誰なんだ、それは?」

「あなたよ! 智也っ!!」

「ない」

「え?」

「そんな覚えはない」

「……、ふっ、ふざけないで!! 私を抱いたことっ! 覚えてないなんて言わせない!」

「だから、覚えてない」

「………」

「まったく身に覚えがない」

「ウソっ!!」

「いい加減にしてくれ」

「………」

「そーゆー妄想とか、もう、うんざりなんだ。時給がいいから付き合ってきたけど、もう限界だ。クロエちゃん、どっか病院に行った方がいい。もう君の妄想には付き合いきれない」

「……なに、それ? ……トボけて、やり過ごそうってわけ? ……卑怯者っ!!」

「卑怯者でもいいからさ、もう帰ってくれ」

「っ…………、…………してるわ」

「は?」

「私、妊娠してるわ! あなたの子供よ!!」

「ふーん、じゃあ、産めよ」

「っ……」

「産んでDNA鑑定でオレの子供だったら、責任とるからさ。でも、ぜんぜん、どこの馬の骨ともわからない男のDNAじゃダメだからな」

 女の専売特許な、このウソには鷹乃のおかげで免疫ができてるんだ、それに、クロエは月経きてるだろ、チェックしたからな、智也は鷹乃と同棲するようになってから、自宅のトイレの汚物入れが交換されるようになったこと、トイレの隅に智也は使わない生理用品が詰められたドルピィ君のポーチが置かれるようになったことで、保健体育で習ったことが実際に少女たちに起こっていることを実感していた。今まで母親とは別居で、彩花や唯笑は三上家のトイレを借りることがあっても、乙女のプライドから三上家に使用済みナプキンを捨てたりしなかったけれど、同棲している鷹乃は汚物入れを使っている。そして、家庭教師として嘉神川家のトイレを借りることもあった智也は母親不在の家でクロエしか汚物入れを使わないことを知っていたし、鷹乃の狂言妊娠で懲りていたこともあり、しっかりとチェックしていた。そのおかげでクロエのウソには一瞬の動揺もみせず、二人の間に妊娠しそうなことなど一度もなかったという態度を貫いた。

「っていうかさ。つわりは? 吐かないのか?」

「…っ……っ……」

 クロエも自分が妊娠していないことは熟知している。トボける智也の動揺を誘おうと、勢いでついたウソを看破され、どうしていいか、わからなくなってくる。

「ウソばっかりだな。君は」

「っ…ち、……違う! に、妊娠はしてないけど! 智也、私のこと抱いてくれたもん!」

「わかった。それでいい。いい夜だった」

「ウソじゃないもん!!」

「そうだな。クロエは可愛かった。いい想い出をありがとう。でも、悪いけど鷹乃を選ぶよ。じゃ、そーゆーことで」

 もう智也とクロエ以外の誰も二人の間に性行為があったとは信じないので、あえて智也は否定せず、クロエも周囲からの視線で信じてもらえないことを悟った。痛々しい虚言癖のある女子中学生が高校の文化祭に乱入して狂気の一幕を披露していると悼まれている。

「…っ…、…卑怯者っ!!」

「そうだな」

「卑怯者っ!! 卑怯者っ!!」

「嫌ってくれていい。というか、嫌ってくれ」

「っ……、………罠よ! これは罠!! 智也が私を陥れるために仕組んだ罠よ!!」

「計画通り、とでも言えばいいか?」

「罠なのよっ!! 私が妊娠してないことをチェックして確信してる!! それが罠だという証拠!! 私をおとしめるために智也が考えた罠よ!! 罠なのよっ!!」

「誰か、救急車を呼んでくれ。いや、病院が来い。オレも受診する。頭が痛くなってきた」

「……………………」

 どう言っても智也が認めないことを悟り、クロエは絶叫をやめ、うなだれて諦めかけたけれど、タイミング悪く家庭科室での洗い物を健が運び込みにきて、その洗い桶に刃物があるのを見つけ、クロエが動いた。洗い桶から包丁を奪い、智也へ向ける。

「……認めない…なら……」

「くっ…伊波、余計な物を…」

 智也は想定内で最悪の事態に至り、クロエの目を見つめる。

「クロエ………」

「……智也が……認めないなら……」

「………………………。わかった。認める。……確かに、オレは君を抱いた」

「………………………」

 違う……こんなことじゃダメ………でも、他に、どんな方法が……クロエは完全に拒絶している異性を自分のものにする方法を考えるけれど、このまま刃物で脅して24時間監禁する以外に、いい方法が浮かばない。今、智也が認めた初夜のことも、もう、ウソとしか誰も思わない。それに、認めてほしいのは初夜のことではなく、クロエそのものを認めてほしいのに、智也は否定している。

「クロエ………それを離してくれ」

 智也は油断無く身構える。もしも、クロエが激昂して自分や鷹乃の刺殺を試みてくるなら、包丁ごと手首を蹴れば、どちらも大きなケガはしないはずと、腰を落として構えつつ、説得する。

「クロエ、今なら、まだ事件には…」

「今なら? ………ふふ……今さら…」

 今さら………もう……何もない……智也を脅しても………智也を殺しても………もう、私には、何もない………どうせ………父も母も私なんか…………クロエは智也へ向けていた刃を自分の喉元へ向けた。

「よせっ!」

「やめなさいっ!」

 鷹乃が智也の前に出た。

「来ないでっ!!」

「死ぬつもり?」

「どうせ、私には、もう何もないものっ!」

「そう。そうでしょうね」

「っ!」

 クロエが自分に向けていた刃を鷹乃へ翻した。鷹乃は身構えずに一歩、クロエに近づく。

「来ないでっ!!」

「私にも、何もなかったわ」

「……」

「母は私を捨てて、別の男と結婚して子供を作ってる。ご丁寧に私と同じ名前をつけて、失敗作だった家庭を作り直してる。私のことは、すっかり忘れてね」

「………」

「そこにいる父も、今日、10年ぶりに会ったのよ。ある日、私と母を捨てて、アメリカに行ったっきり、ようやく10年して様子を見に来たって。ずっと心配してた、そうよ。勝手なこと言ってくれるわ」

「…………だから、どうだって、いうのよ」

「半年前まで、私には何もなかった。でも、今は智也がいて父も戻ってきた」

「……自慢したいの?」

「いいえ、あなたも待つべきだと言っているの。世の中、つらいことばかりじゃないわ。待てば、いいことがあるかもしれない。あるって保証は何一つないけれど、死んでしまえば、あるはずのことも無くなるわ。つらいことも無くなってくれるけれど、何も無くなる。自分さえも。今、あなたの周りに、誰もいなくても、でも、あなたがいる。自分が自分を見失ってしまったら、もう、誰も、あなたを見なくなるわ。それでもいいの? 悔しくないの? 産まれてきたのに、産まれてこなかったことにして、いいの? よく考えなさい」

「………私は……私はっ!」

「よく考えなさい」

 鷹乃はクロエに近づき、そっと抱きしめた。

「…私はっ……」

 クロエの手から刃物が滑り落ち、幼い泣き声だけが廊下に響いた。

 



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19話

 

 

 日本で後夜祭が始まる頃、7時間の時差があるウイーンで、ほたるは寮の食堂へランチを食べに来て、友人になったリンダにドイツ語で注意される。

「フロイライン・ほたる、また裸。せめて、前くらい隠そうよ」

「あっ、ごめん」

 ほたるは楽譜を見ながら部屋を出てきて、全裸だった。課題曲の楽譜で前を隠して、笑って誤魔化す。

「つい、そのまま出てきちゃった♪」

「あのね、前にも言ったけど、ヌーディストはヨーロッパのスタンダードじゃないからね。むしろ、ごく一部の人だから。敷地内なら逮捕されないけど、そのまま公道を歩くと罰金300ユーロよ」

「300ユーロは、きついね」

 ほたるは導入されてから、どんどん上昇しているEU圏の共通通貨での罰金をおそれ、大学から出るときは服を着ようと思いつつ、今は女子寮なのでランチプレートを持った。

「う~……どれもこれも、カロリー高そう……」

 あまり美味しくないのに高カロリーな料理を見つめ、ソーセージとパン、トマトのサラダを選ぶと着席する。

「お寿司食べたいなぁ……」

「日本人って、みんな生の魚を食べるの?」

「う~ん、みんなじゃないけど、ほとんど、みんな食べるよ。90%くらいかな。うん、ヌーディストより多い」

「日本はヌーディスト、多いの? たしか、コンヨクって言って男も女も同じ公衆浴場に入るんだよね?」

「え~っと、……混浴は多くないよ。たいていの温泉は男女別でぇ……混浴は珍しい方だよ。あ♪」

 ほたるが、ほたる的ギャグを思いついて、パンを半分に裂いてトマトを入れ込み、そこへソーセージを挿入する。

「ほらほら♪」

「……」

「ロスト・バージン・パン♪」

 ソーセージを挿入されたパンの裂け目からトマトの赤い汁が滴り落ち、リンダはタメ息をついた。

「フロイライン・ほたるはモーツァルトと、いい友達になれたでしょうね。ううん、友達どころか、彼女に」

「ほたるはベートーベンの方が好きかな」

「ベートーベンは、こんな子が月光を校内一うまく弾いたと知ったら、聴こえなかったことにするよ。聴覚不良で」

「ほたるのお姉ちゃんの友達は、いろんなパンを作って高校で売ってるんだよ」

「その高校の生徒に、神の救いがありますように。アーメン」

 リンダが食事を終えて席を立とうとすると、警察官が食堂に入ってきた。警察官は黒髪が目立つので一目で日本人を探し当て、ほたるへ真っ直ぐ歩いてくる。

「ほたる……ヤバそう。あんた、そのカッコで街を歩いたりしたんじゃない?」

「ほぇ? たぶん、してないよ。なんで?」

「警官が来てる。っていうか、後ろ」

 リンダに指されて、ほたるが振り返ると警察官が立っていた。

「オーストリア国境警察です。フロイライン・ほたる白河ですか?」

「は…はい…」

 ほたるは相手が男性だったので、さすがに楽譜で胸と股間を隠した。

「フロイライン、あなたの主義に反するかもしれませんが、服を着て表通りのパトカーまで来てくれますか?」

「……私、何か、しましたか?」

「いえ、会ってほしい人がいるだけです。黒須カナタという人物を知っていますか?」

「え? カナタちゃん? 知ってますけど……」

「では、外へ、お願いします」

「はい…、えっと、服を…」

 ほたるが戸惑っていると、リンダが気づかってカーディガンを貸してくれる。ほたるはカーディガンを羽織ってボタンを留めた。

「これで、いいですか?」

「……、はい。今は……、今後、人通りの多いところでは、その姿も、やめてください。オーストリア共和国の法律に抵触する恐れがあります。では、こちらへ」

 警察官は女子寮を出て、表通りに止めてあるパトカーへ案内してくれる。パトカーは日本の白と黒ではなく、緑と白の配色で、ほたるは教えられて初めて、これがパトカーだったのだと知った。

「フロイライン、後部席に乗っている人物に見覚えはありますか? 拙い英語で、あなたの友達だと言っています」

「ぇ……」

 カナタちゃんは英語で詩の創作ができるくらい英会話は得意なはず……、ほたるは訝しく思いつつもパトカーを覗く。後部席には汚れた浜咲学園の制服を着た少女が一人、ケータイ電話をいじっている。

「あの人は黒須カナタですか?」

「………はい……そー思います……。あのっ! カナタちゃん、何かしたんですかっ?! 血を流してる!」

 ほたるはカナタとは思えないほど虚ろな顔をして血まみれの服を着ている姿を心配して警察官に問いかけた。

「いえ、彼女は何もしていません。パスポートも正式のもので、入国されようとしただけですが、あのような姿をされ、我々の質問にも不明瞭な答えしか返してくれませんでしたので、保護しています。彼女は、あなたを訪ねてきたと言っていますが、身元引受は可能ですか?」

「はいっ! すぐにっ! 話をさせてください!」

 ほたるは警察官の返事を待たずにドアを開けようとしたが、さすがにパトカーらしく鍵がかかっている。

「フロイライン、ここにサインを」

「はいっ」

 ほたるは走り書きで警察官が出してきた書類に署名する。それで、警察官はドアを開けてくれた。

「カナタちゃん?! どうしたの?!」

「……あ……ほたる……、……やっと……会えた……」

 ケータイ電話から顔を上げたカナタは乾いた血で汚れた顔を少しだけ笑顔にする。

「カナタちゃん、どうしたの? どうして?」

「………ほたるに……会いたかったから…」

「我々は、これで。これが、彼女の所持品です」

 警察官はパスポートとクレジットカードを渡してくれる。

「これだけ……ですか?」

「はい」

「…………カナタちゃん…」

 ほたるは汚れた制服とパスポートとカードしか持たずにウイーンまで来たカナタを、どう扱っていいか困るけれど、警察官は事件性はないと判断して帰ってしまう。

「カナタちゃん………この血……どうしたの? ケガしたの?」

「っ…………ぅっ………ぅぅ…ぅっ」

 カナタが傷の痛みを思い出したように啜り泣きはじめたので、ほたるはますます困ってしまう。

「とっ、とにかく、ほたるの部屋に来て」

 ほたるは寮の部屋へカナタをあげ、何日も着替えていない様子のカナタへ自分の下着と衣服を貸した。汚れた身体を拭いて、暖めたミルクを飲ませると、少しだけ落ちついてくれる。

「……ほたるに………会えた♪ ………ほたるに……」

「………………………」

 おかしい……絶対に、変………カナタちゃんの目、ぜんぜん現実を見てない……これじゃ警察官だって怪しいと思うよ………、ほたるは心配で胸が痛くなってくる。そして、痛くなった自分の胸に訊いてみる。

「…………」

 カナタちゃんが、こうなった原因………………ほたるにあるよね………だから、ここに来たんだよね………きっと、ほたると正午くんのこと………ほたるの口から訊くために………でも、ほたると正午くんのこと知ってるのは、私と正午くん……そして、いのりちゃんだけのはず……正午くんが、うっかり喋ったか……いのりちゃんが……、ほたるはカナタに気づかれないようメールを打つ。気づくどころか、カナタはミルクの入ったマグカップに話しかけている。ほたるは正午へメールを打つ。

(ほたるとのこと、カナタちゃんに教えた? それとも、知られちゃった?)

 送信して、しばらく待たされるのが正午の反応が遅いからなのか、ウイーンから神奈川という距離によるシステム上の都合なのか、わからないけれど、五分ほどで返信が来た。

(教えてはない。っていうか、あいつ、学校でも見かけないよ)

「…………」

 そりゃ見かけないよね、ここにいるもん、ほたるは再びメールを打ち、いのりと連絡を取る。

(ちょっと、ごめんね。カナタちゃんのことで相談したいんだけど、いいかな?)

 送信して五分、返事が来る。

(ほたるさんの頼みでも、それはお断りします。考えるだけで吐き気がします。私は関わりたくありません。加賀先輩とのことには、ほたるさんに責任があるんじゃないですか。ごめんなさい、言い過ぎかもしれませんけど、でも、そう思います)

「…………………………………………」

 そっか……そうだよね、ほたるに責任があるよね……それに、いのりちゃんはカナタちゃんのこと、ほたるに相談して電話してきてくれたのに、先に断ったのは、ほたるだもんね、カナタちゃんを裏切って正午くんと付き合ったくせに、そのフォローを、いのりちゃんに押しつけて………怒って当然………でも……吐き気って……、ほたるは思い起こしてみる。日本にいた頃、カナタは何度も、ほたるへキスを迫ってきたことがある。耳や頬にはキスをされたことは数え切れない。正直、困ってしまうほど抱きつかれたり見つめられたりした。巴や他の女友達とは明らかに異質の感情を、ほたるに向けてきていた。

「…………………………」

「……会えた♪ ……ほたるに……会えた……」

「……………」

 正午くんとのことを教えたのは……いのりちゃん………かも………いのりちゃんは、ほたるの身代わりに………それに耐えられなくて………カナタちゃんがショックを受けるのを承知で………、ほたるは事態の推移を推し量り、ますます胸を痛めた。

「ねぇ、カナタちゃん?」

「……ん?」

「ほたるのこと、好き?」

「好きっ♪」

「じゃあ、正午くんのこと、好き?」

「っ………っ…ぅ…ぅっ…ううっ…」

 何かを思い出したように泣いてしまい、不安そうに瞳を揺らせて身震いしている。ほたるは優しく震えている肩を抱いた。

「カナタちゃん、聞きにきたの?」

「…っ…ぅぅ…ぅぅっ…」

「ほたるが正午くんと付き合ってること、ほたるに確かめに来た。違う?」

「……」

 カナタは身を縮めて両耳を手で塞いだ。聞きにきたのに怖くて聞けない様子に、ほたるは覚悟を決める。

「………………」

 カナタちゃんは、ほたるのことも、正午くんのことも好きなんだよね、それも、ほたるがトトちゃんを好きって気持ちとは、まったく違う、ほたるが健ちゃんを好きだったような気持ちで好き、なのに、正午くんが別れて、ほたると付き合ったら、カナタちゃんの心は壊れちゃうよね、こんな風に……………………健ちゃんが、ほたると別れて、トトちゃんと付き合ったことの痛さより、きっと、ずっと、ずっと痛い、ずっと、ずっと痛いから、こんな風に……………………全部、ほたるの責任………、こうなったことの責任は、いのりちゃんの言うとおり、ほたるの責任だよ………だから、ほたるは自分の責任から逃げないよ………、ほたるはカナタを正面から見つめた。

「カナタちゃん」

「…ぅっ?」

「ほたるもカナタちゃんが好き。大好き」

 ほたるはカーディガンを脱いで全裸になり、カナタをベッドへ押し倒した。

「カナタちゃんが大好き」

 こうして癒してあげないと、壊れたカナタちゃんの気持ちは治らない……ごめんね、カナタちゃん、いのりちゃん、ほたるのせいで、こんな風になって……ごめん……、ほたるは押し倒したカナタを抱きしめてキスをした。

 

 

 

 同じ頃、エリーズは7年ぶりに帰ってきた嘉神川家の玄関を開ける。何度か、チャイムを鳴らしたけれど、誰も出てこなかったので、ずっと持っていた鍵で開ける。

「ぉ…お母さん、勝手に入っていいの?」

 連れてきたノエルが心配そうに問いかけてくるのに、微笑みを返した。

「自分の家なんだから大丈夫よ」

 エリーズは玄関を通り、キッチンに入った。

「ほとんど、何も変わってないわね。ま、その方がやりやすいけど。ノエル、手伝ってちょうだい」

「うんっ♪」

 ノエルとエリーズは買い込んできた材料で料理を始めた。

「お父さんとお姉ちゃんに早く会いたいなぁ」

「どうせ、今夜も仕事でしょうから、サプライズしようと思っても夜中の正午になるかもしれないわ」

 幸蔵さんが相手してくれないなら、正午ちゃんに会いに行ってもいいんだけど♪ エリーズは得意料理を作りながら、電話機を持った。

「クロエは黙っていても帰ってくるでしょうけど、お父さんには連絡しておくわ。ノエル、お父さんと話してみる?」

「うんっ♪」

「じゃあ、はい」

 エリーズは社長室直通の登録番号を押して子機をノエルに渡した。すぐに幸蔵が電話に出る。

「もしもし、パパっ!」

(クロエ、どうしたんだ?)

「ううん、お姉ちゃんじゃないよ。ノエルだよ」

(ノエルか♪ ……いや、しかし、この番号は……自宅の…)

「えへへ♪ ただいま。この家は初めてだけど……ただいま、で、いいのかな?」

(ノエル……まさか、一人で…)

「ううん、ママも、いっしょ」

 ノエルがエリーズへ子機を渡す。

「ちょっと気が向いたから帰ってきたの。とりあえず、夕食は作ってあげるわ。冷めないうちに帰ってきたら、しばらく日本に滞在してもいいわ」

(ぃ、いや…しかし、今日は接待が2件も……いきなり今日の今で…)

「あらそう。じゃあ、冷めた料理をクロエと二人で食べるといいわ」

(わっ! わかった! 帰る! すぐ帰る!)

 電話を切った幸蔵は言葉通り、会社から15分で帰ってきた。ノエルが歓声をあげて抱きついた。

「パパっ!」

「ノエルっ! おおっ、ノエルっ!」

「会いたかったっ! パパぁ♪」

「ああ、会いたかった。やっと、会えたな。ノエルっ、ノエルぅっ…ぅぅ…っ」

「パパ…泣いてるの? パパが泣いたら……ノエルも……嬉しくて…ぅっ…ぅぅ…」

 産まれてから7年、電話でしか、お互いを確認し合えなかった父と娘が強く抱き合い、初対面の喜びにひたっている。

「パパっ…パパぁ…」

「ノエルっ…ノエルぅ…」

 幸蔵はフランス育ちのノエルからのキスを受け、今まで仕事を優先してストラスブールへ出向くことをしなかった自分を深く悔いた。

「もっと、もっと早くに、行けばよかった……すまない、ノエルっ…」

「いいの。ちゃんと、パパに会えたから、もう、いいの」

「ノエルぅ…」

「クロエは、まだなの?」

 エリーズが問うと、幸蔵はノエルを抱きあげて答える。

「部屋に、いないか?」

「そーゆー気配はなかったけど…」

「お前、日本語の発音が変わったな。そーゆー、ではなく、そういう、だ」

「お前っていう日本語、嫌いよ。ノエル、やっぱり帰りましょう。フランスに」

 エリーズが父親に抱かれているノエルを抱き取ろうとすると、娘は必死に父のシャツにしがみついた。

「やだっ! やだやだやだ! パパと暮らすのっ! ここに住むの!! わーーんっ!」

「冗談なのに、大きな声で泣かないの」

「お前が…ぃ…いや、…エリーズが、泣くようなことを…」

 幸蔵は愛おしくノエルの頭を撫で、頬ずりする。

「パパぁ…」

「ノエルぅ…」

「それで、クロエは?」

「部屋を見にいこう」

 幸蔵はノエルを抱いたまま階段をあがる。幸蔵が部屋のドアをノックする。

「クロエ、いるのか?」

「「………」」

 エリーズとノエルは少し緊張したけれど、返事がない。

「クロエ、開けるぞ」

「………。いない、みたいね」

「お姉ちゃん、どこぉ?」

 ノエルが産まれてから一度も言葉さえ交わしたことのない姉に会いたくてキョロキョロと部屋の中を探すけれど、誰もいない。部屋は珍しく散らかっていて、衣類がベッドに何着も並べられ、鏡台には化粧道具が出たままだった。

「クロエ……出かけてるのか…」

「これはデートね。絶対」

「わかるのか?」

「そんなこともわからないから、男親はダメなのよ。どう見てもデート、しかも、攻めの気分で出かけてるわ。けっこう背は伸びたのね。この服なんか、大人でも…」

 エリーズは娘のファッションセンスをチェックする。

「趣味は悪くないわ。でも、香水が、ちょっと強すぎる香りの…」

「おい、勝手に触るとクロエは、ものすごく怒るんだから…」

「お姉ちゃん、いつ帰ってくるのぉ?」

「少し遅いな。だが♪ こんなこともあろうかと携帯電話をもたせてある」

 幸蔵が電話しようとすると、エリーズが止める。

「待って」

「ん?」

「あなたは電話しないと夜中まで帰ってこないから伝えたけれど、クロエにはサプライズにしたいのよ」

「ああ、なるほど。それでキッチンで、いろいろと」

「そうよ。あなたも手伝って」

「わかった。食品会社の社長として、腕をふるおう♪」

「ノエルも手伝うぅ♪」

 親子三人で夕食の用意をすると、テーブルいっぱいの料理ができあがった。エリーズがホールケーキを飾りつけながら時計を見る。

「ケーキも間に合って、よかったわ」

「ああ。……だが、少し、遅いな。デートなら……」

 幸蔵が心配そうに時計を見る。

「やはり、電話をしてみた方がよくないか?」

「そうね。でも……私たちが帰ってることを知ったら、あの子、余計に、二の足を踏まないかしら…」

 エリーズは7年間、会っていない、言葉も交わしていない、14歳の娘との対面に緊張している。

「あの子だって変に覚悟しているより、いきなり私たち三人で明るく出迎える方が……」

「そうだな……、この頃、気難しいからな…」

「デートの相手に心当たりは?」

「……三上……いや、彼は別に付き合っている相手がいるとか…」

「娘の交際相手くらい知っておくべきよ」

「そうは言っても……会話が……、あっ、たしか、今日は三上くんの高校の学園祭、それかもしれないな。ワシだって、ちゃんと少しは会話してるんだぞ」

「不確かな情報ね」

「今回から嘉神川食品としても広告をかねた寄付をして…おっ」

 幸蔵は玄関にクルマが駐まる音を聞きつけた。

「お姉ちゃんかなっ?!」

 ノエルが玄関へ走っていく。玄関のドアを幸蔵が開けると、クロエがタクシーから降りてくるところだった。

「お姉ちゃん!」

「………」

 クロエは呼びかけられても、お姉ちゃん、という二人称に親しみがないので自分のことだとは思わず、タクシー代を払うと静かに降りてくる。その顔は泣きつくした後の疲れきった表情だった。幸蔵が心配して声をかける。

「クロエ、おかえり。何か、あったのか?」

「……何も…、……この子、どこの子?」

 クロエは足元で、お姉ちゃん♪ お姉ちゃん♪ と、はしゃいでいるノエルを不思議そうに見る。

「お姉ちゃん♪」

「……ごめんね、お姉ちゃん、疲れてるから。遊んであげられないわ」

「……お姉ちゃん……」

 ノエルは本当に疲れた様子の姉を心配しつつ、姉から肉親ではなく他人として扱われた悲しさを声に滲ませた。幸蔵はノエルを抱きあげ、クロエに告げる。

「この子は、クロエの妹だ」

「そう。…………いも…うと? ………soeur?」

「ああ、スールなんだ。ワシから見れば、フィーユ。みんなでファミーユなんだ」

「……fille……娘……famille…家族………ああ、そう………そうなの。とうとう再婚するのね。勝手にすればいいわ」

「ちっ、違う! クロエ、そうじゃない!」

 幸蔵は状況を勘違いしているクロエに説明しようとするが、疲れた様子で靴を脱ぐとキッチンへ入っていく。クロエとエリーズが7年ぶりに対面した。

「………………………」

「………、ただいま、クロエ……」

「……………………」

 クロエは母親の顔を見つめ、記憶と照合する作業に30秒以上かかってしまうほど、脳が働いてくれない。エリーズも今のノエルと同じ時期に別れた娘が、立派な14歳のレディに成長してくれている姿に感動して言葉が出てこない。ノエルを抱いた幸蔵が微笑んだ。

「帰ってきてくれたんだぞ。母さん」

「……お母さん……maman……」

「クロエ、まだ、フランス語を覚えていてくれたの」

「……………………」

 反応の乏しいクロエの背中を幸蔵が押した。

「さあ、座って。みんなで夕食にしよう」

「そうね。ノエル、お姉ちゃんにグラスをあげなさい」

「はーい♪」

 ノエルがシャンパングラスを渡してくれ、エリーズが子供用のシャンパンを二人に注ぎ、夫婦もグラスを持ってドンペリを注ぎ合い、7年ぶりの晩餐を祝う。

「「乾杯」」

「かんぱーい♪」

「……」

 クロエはグラスを鳴らしてくるノエルを見下ろして、何も言わない。

「………」

「お姉ちゃん?」

「……………………」

「さあ、クロエ、食べよう。ママンの味を覚えてるか? エリーズの料理は美味いんだぞ」

「今まで、ごめんなさい、クロエ。食べて…くれる…かしら?」

 エリーズが料理を取り分けてくれる。クロエは受け取った皿を見つめ、大嫌いになった色々な野菜たちを数える。パプリカ、ピーマン、ナス、セロリ、白アスパラ、ムラサキキャベツ、どれもこれも、嫌いなものばかりでフォークを持つ気になれない。

「……………………」

 あれも……これも……嫌い……大嫌い……だって、私は、このテーブルいっぱいの料理がきっかけで、全部、嫌いになったんだもの……、クロエは嫌いになった料理を、それでも口に運んだ。隣ではノエルが幸せそうに頬ばっているから、そうしないといけないのだという気がして、大嫌いになった料理を味を感じないように喉を通して飲み下していく。その様子に三人が心配してくる。

「クロエ、どこか、痛むのか?」

「クロエ、顔色が悪いわ」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「………………ねぇ」

 クロエはノエルを指して、母に訊く。

「コレは、何?」

「………クロエの妹よ。コレ、という代名詞をあてるのは正しい日本語ではないわ」

「……………………。誰との子供?」

「クロエ………食事中に、そーゆーことは……」

「誰との子供っ?!」

 クロエが叫び、エリーズが説明する。

「幸蔵さんとに決まっているでしょ。7歳になるわ」

「………………」

 クロエは幸蔵に視線を巡らせる。幸蔵は頷いて肯定した。

「ノエルは正真正銘、二人の子供で、クロエの妹なんだ」

「………そう………」

 言われてみれば、自分とそっくり、日本人の幸蔵とフランス人のエリーズの間にしか、この顔は産まれない、幼い頃の自分の写真を見るまでもなく、ノエルが自分の妹だということは疑う気になれない。疑いたいことは、もっと、他にある。

「………父さん、いつから、知っていたの? この子の、こと」

「うっ…、……うむ……まあ……最初から…」

「……………………」

「…な、何度も、……言おうと……思ったんだが……きっかけが…」

「今まで、ごめんなさいね。クロエ」

「……………………」

「お姉ちゃん…」

「…………………………………………っ…」

 クロエは猛烈な吐き気をもよおして口元を押さえた。

「「クロエっ?!」」

「お姉ちゃん?!」

「…っ…ぅっ……………」

 耐えようとしたけれど、胃の中の料理が逆流してくる。

「うえっ! ううっ…」

 よく噛まずに飲み込んだ野菜が食道を逆流する痛みと苦しさで涙が滲み、流し台まで走ることもできず、皿に嘔吐した。

「ハァっ…ハァっ…ぅぅ…」

「クロエ、風邪でも引いたんじゃないか。薄着で出かけるから」

「熱はありそう?」

 エリーズが額に触れようとすると、クロエは手を払った。

「……クロエ…」

「ハァっ……ハァっ…」

 まだ吐き気が治まらない様子で、クロエは流し台へヨロヨロと歩き、口を漱いで顔も洗った。

「…ハァっ…ハァっ…」

「「……………………」」

 両親は娘の突然の嘔吐に、考えたくない心配をしてしまう。娘はデートに出かけたのに帰ってきた顔は泣いた後のような暗く疲れきった表情だった。選び抜いた可愛らしくて大人っぽい衣服と、もう流れてしまった化粧、そして嘔吐、つわりはフランス人にも日本人にも共通の妊娠初期症状で、考えたくないのに想起してしまう。

「クロエ、誰と会っていたんだ?」

「………………」

「ねぇ、身体の具合は、大丈夫なの?」

「……………………」

「まさか……クロエ…」

「……………………」

「クロエ、お母さんと二人で話をしましょう」

「……………………………もう、いいわ。…………さようなら……」

 それだけ言ったクロエは家を出る。追おうとする両親と妹を走って振り切る。

「ハァ…ハァ…」

 一人になって夜道を歩き、気がつけば登波離橋にいた。

「……………………」

 嘉神川………私のファミリーネームと同じ名前の川………………ここから産まれて、ここに還るなら………ちょうど、いいわ……………………、クロエは迷うことなく欄干を跨ぎ、靴を脱ぎ捨てた。

「………」

 欄干から手を離してクロエは、その身を嘉神川へと投じる。

 ひゅっ…

 真っ逆さまに落ちていく。暗い水面が迫ってくる。

「………………」

 これで終わり………おしまい………もう、考えたくないから………、ごめんなさい、鷹乃さん、もう考えたくないの……何も考えたくないの……、クロエは最期に、よく考えなさい、と叱ってくれた鷹乃のことを思い出したけれど、水面に叩きつけられた衝撃で意識を失った。

 

 

 

 クロエが嘉神川へ身を投げる少し前、智也は浜咲駅で無料のホットペーパーを手に取っていた。駅の窓口に置かれているホットペーパーには就職面接の心得特集が組まれていたので目を引いたのだった。

「………」

 嘉神川食品の正社員って進路は消えたからな……学祭も終わったし明日から就職活動だな……、智也が就職活動に関する情報を熱心に読んでいる様子に気づいた鷹乃は頭を下げた。

「ごめんなさい。私が勝手なことをして、智也の内定を…」

「ん? ああ? あれか、あれは内々定だからな。そんなアテにしてなかったし」

「ウソは信じられるようにつくものよ」

「ホントだって。あ、これか? これは、ほら、花祭市議の記事が面白そうだったからな」

 たまたま載っていた花祭香憐に感謝しつつ、智也はホームに入ってきたシカ電に乗り、鷹乃と座る。もう終電に近い時間なので乗客は少ない。智也たちと同じように学園祭の後片付けをした後、さらに恋人や友人と語り合って遅くなった生徒が、ちらほらといるくらいで、智也と鷹乃もクロエがタクシーに乗るところまで見送った後、しばらく静かに過ごして帰路についている。

「花祭議員がさ、毎年この地域の文化や福祉に貢献した若い新人を表彰して後押ししてるらしいぞ」

「そうなの。……でも、議員が個人に何かを送るのは禁止されていなかったかしら?」

「そこが賢いところでさ。花祭香憐は特集の中で取り上げるだけで正式に表彰するのは、バックの花祭財団が用意した文化財団。しかも、花祭香憐が取り上げた人物以外にも何人か足して表彰する仕組みだから、公職選挙法に触れないらしい」

「お金持ちって、ずるいのね」

「知は力なり。知恵と財力は悪用しないとな♪ けど、最近、花祭香憐が後押ししてる孤児院への財団からの寄付が問題になってるから、そろそろ苦しいかもしれないな。浜咲学園にピアノや、金の鈴つきの芸術品なんかを校長に送ったのは節税らしいけど。節税して寄付って変だよなぁ、オレなら残しておくのに」

「そうね。私も寄付をするくらいなら残しておくのに賛成よ」

「まあ、あの家は、たっぷり残してるだろうからな。孤児院への寄付もオレにとっての初詣の小銭くらいの感覚なのかもな」

 智也はクロエの話題にならないように話しつつ、ホットペーパーを眺める。

 

 

 当地の期待の新人特集

 

映画監督 雨宮耕作

 リアリティを追求する姿勢から危険な撮影にも果敢に挑む若き監督…

 

小説家 鈴代黎音

 出版社の新人賞で佳作に入選後、少女雑誌に連載小説を開始し毎号大人気の…

 

写真家 一条秋名

アートディレクター 二階堂達郎

 14歳の少女が抱えた心の闇、をコンセプトに最年少の写真家と、それを支えるディレクターとして…

 

 

「……14歳か…」

 クロエも14歳だよな……心の闇とか、ゆーなよな、感じ悪いなぁ……智也は二階堂達郎の写真にラクガキする。

「ほら、鷹乃。ヒゲ魔神になったぞ♪ どうだ?」

「………その絵に対して、私はどんな感想を言えばいいの…」

「率直な感想を頼む。よし、この女も…」

 さらに智也は稲穂鈴の額に、肉、と書き込みつつ、どこかで見た顔だと思うけれど、思い出すことはなかった。

「…………疲れたわね……今日は…」

 鷹乃は大人かと思えば、子供みたいなことをする恋人のしていることに興味を無くし、車窓を見つめた。ちょうど、シカ電は嘉神川を渡る鉄橋を走っている。海の方には登波離橋が見えた。

「…………あの髪……っ?!」

 視力のいい鷹乃は登波離橋から何かが落ちるのを見つけることができた。

「あの子っ!」

「鷹乃? どうした?」

「落ちたの!」

 鷹乃は座席から立ち上がり、窓を開ける。

「鷹乃、何が落ちたって? 何も見えないけど…」

「あの子よ! きっと、そう!」

 鷹乃はシカ電の扉まで走ると、緊急停止ボタンを押した。乗客たちが鷹乃の行動に驚いている。シカ電は失速すると停車し、運転手が鷹乃に声をかけてくる。

「何かありましたか?」

「人が落ちたの!! ドアを開けて!」

「人が?! …し、しかし、ここは鉄橋で…」

「早くっ! ……もう、いいわっ!」

 運転手の対応を待たずに鷹乃は窓へ手をかけると、くるりと身を翻して車両から線路へ飛び降りる。さらに、靴と制服を脱ぎ捨てると、迷うことなく鉄橋から飛んだ。

「鷹乃っ?!」

 智也の声が遠くなり、水面が近づく。

 ざっ…

 高飛び込みの経験もある鷹乃は水面との衝撃を最小限にし、さらに落下の加速度を水中で方向転換して前進力に換えると、まっすぐ登波離橋の下まで泳ぐ。

「…」

 暗い、でも、月明かりが少し、鷹乃が泳ぐ嘉神川は真っ暗な闇で水中は何も見えないほど暗い。けれど、登波離橋は海の方向なので川の流れに乗って泳げば、方向を見誤ることはない。

「…ハァ…ハァ…」

 どこ………あの髪の色なら、この暗さでも……早く見つけないと…、鷹乃は登波離橋の下まで到達すると立ち泳ぎして周囲を見渡すけれど、何も浮いていない。

「…」

 川底なら……少し流されて……このあたり…、いたっ! 真っ暗な水中でもクロエの髪は月明かりを反射して鷹乃に居場所を伝えてくれた。潜り、その手を握って水面を目指す。

「ハァっ! ハァっ…ハァ…」

 鷹乃はクロエの肩を担ぎ、川岸へ辿り着いた。

「しっかりっ! しっかりしなさい!」

 クロエの心臓は動いているけれど、呼吸はしていない。鷹乃が二回、人工呼吸をするとクロエは息を吹き返した。

「ごほっ…ごほっ…ぅぅ…」

「よかった」

 安堵する鷹乃と、目を開けたクロエ。

「大丈夫? どこか、痛くない?」

「……、……どうして…」

「あなた、登波離橋から落ちたのよ。たまたま見えて…」

「……私……飛びおりたのに……、……死のうと……思って。……どうして……助けたの?」

「あなた………」

「……余計なことを…」

「っ!」

 鷹乃はクロエの頬を叩こうとして、やめた。

「なら、どれだけ余計なことをしたか、私に聞かせてちょうだい」

 叩く代わりに抱きしめると、クロエは涙を零した。



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20話

 

 深夜、智也はソファで眠っているクロエと、その背中を優しく抱いている鷹乃を見つめながら、どう反応していいものか、悩んでいた。嘉神川へ飛び込んだクロエを鷹乃が助けた後、濡れた身体を温めるために三上家で風呂に入り、その前後、ずっとクロエは啜り泣きながら鷹乃に突然帰ってきた母親のこと、初めて知った妹のこと等を話していた。聞きながら鷹乃も涙を零し、生き写しのような人生を送ってきた二人はソファの上で抱き合ったまま、今はクロエが眠りに落ちている。

「……許せないわ。なんて母親なの……」

「鷹乃……、………あ、また、鳴ってる」

 智也のケータイが鳴っている。嘉神川食品から貸し与えられているケータイが鳴り、その社長である嘉神川幸蔵からの着信だと液晶画面は告げている。

「これで五回目だ……。社長、クロエちゃんのこと、探してるんだろうな……」

「無視しておけばいいわ」

「いや……でも……、……警察とかに捜索願を出すかも。……オレら、シカ電も勝手に止めて逃げたし……」

「緊急事態よ。緊急停止ボタンを使って何が悪いの?」

「そりゃ……そうだけど……」

 智也のケータイが静かになり、今度は三上家の固定電話が鳴った。すでに日付がかわりつつある時間で、固定電話を鳴らすのは非常識なだけに、幸蔵が強く連絡を取りたがっていることが伝わってくる。娘の交友関係に手当たり次第に連絡を取っているとしても、家庭教師をしている智也の優先順位は高いようで、おまけに何度もケータイに着信があったのに一度も智也からかけ直していないので、放っておくと幸蔵が訪問してくるかもしれない。それは避けたいと、智也は立ち上がった。

「もしもし…」

(非常識な時間に電話をかけ、まことに申し訳ありません。私、嘉神川幸蔵と申します。お宅様の智也さんに娘が家庭教師を…)

「オレです。社長」

(ああ、智也くん。夜遅くにすまない。クロエを知らないか?)

 心配でたまらない、そして疲れきっている幸蔵の声を聞いて、智也はウソがつけなかった。

「娘さんは……ここに、います。オレと、……オレの恋人と、三人で…」

 智也は二人っきりでないことを強調し、幸蔵は安堵の吐息を漏らした。

(おおっ…そうか、智也くんのところに、そうか……よかった。無事で…)

「「……」」

(すぐに迎えに行く)

 幸蔵の声が受話器から漏れ聞こえていた鷹乃は否定的に首を振った。

「代わってちょうだい」

「鷹乃…、……」

「代わって、智也」

「………」

 智也は迫力に負けて鷹乃に受話器を譲った。

「はじめまして。鷹乃と申します」

(えっ…、あ、ああ。智也くんの恋人の…?)

「僭越ですが、どうして自分の娘が家を逃げ出したのか、わかっていますか?」

(……………。わ、…わかっている……つもりだ)

「では、今夜は、ここでお預かりします。迎えには、来ないでください」

(…………………、ご、…ご迷惑をおかけする。申し訳ない……)

 迎えに来る気だった幸蔵を黙らせた鷹乃は受話器を置いた。

「…………」

「鷹乃………ここに泊める気か? クロエちゃんを……」

「ごめんなさい。智也の家なのに……ごめんなさい、勝手に決めて」

「ぃ、いや、そーゆーことは、いい。ここは鷹乃の家でもあるんだから」

「智也……、ありがとう。そう言ってくれると、とても嬉しいわ」

「………。け、けどさ。鷹乃の方こそ、いいのか? ………この子は……一応、……オレのこと……そーゆー子を、なんて言うか……一つ屋根の下に泊めて、鷹乃は平気なのかなぁ……って」

「信じてるわ」

「ぅっ…」

「智也を信じてるから」

「………」

「今、この子は、とても不安定なの。だから、また智也を頼ろうとするかもしれない。縋るものが、智也しかないから、そーゆー風に行動するかもしれない。でも、そんな子に智也は何かしたりしないって、信じてるわ」

「……わかった。オレは距離を置く」

「それはダメよ」

「ダメって……」

「言ったでしょ。とても不安定なのよ。なのに、智也に冷たくされたら……どうなるか、さっき嘉神川で見たでしょ?」

「………、じゃあ、オレに、どうしろと?」

「頼りになってあげて。でも、恋の相手はしないでちょうだい」

「それって……神業っていうか、二律背反というか、卵を割らずに目玉焼きを作れ、みたいな課題じゃないか?」

「智也なら、できるわよ。信じてるわ」

「……………………。とりあえず、もう遅いからさ。母さんと父さんの部屋ならベッド二つあるから。そこで、鷹乃とクロエちゃんが休めばいい。まさか、オレと寝ろ、とは言わないだろ?」

「当然よ。ありがとう、智也」

 鷹乃は夫に礼を言って、クロエを抱きあげると二階へあがった。

 

 

 

 翌朝、幸蔵は7年ぶりに妻が作ってくれた朝食を娘と食べていた。

「…ああ……この味……懐かしいな…」

 ほどよく焼かれたフランスパンにオリーブオイルかけて囓ると、強烈な既視感を覚える。

「……………………」

「チョコをチョコっと♪ チョコチョコと♪」

 7歳のノエルはフランスパンにチョコレートを塗りつけている。なぜ、フランス育ちなのに日本語の低レベルなジョークを身につけているのかは不明だけれど、そんなことより7年ぶりの団欒に胸が熱くなる。妻がいて、娘がいる、それも7年前と同じような光景で、それが眩しくて幸蔵は眼を細め、そしてクロエのことを思い出して熱くなった胸を重くした。

「クロエを迎えに行かないと……」

「クロエは安全なところにいるのよね?」

 エリーズは山盛りにチョコレートをパンに塗りつけたノエルの頭を小突きつつ、クロエの居所を確認する。

「ミカミ・トモヤだったかしら?」

「ああ、彼なら大丈夫だ。うちの従業員でクロエの家庭教師もしてくれている、まだ、高校生だが口も立つし行動力もある男だから。将来、有望だと見込んでいるんだ」

「口も立つし、行動力もある……ね。そーゆー男の子と一晩、過ごしたら、クロエも大人になるかもしれないわね♪」

「エリーズ………、彼に限って、それはない。それに、夕べは彼の恋人も居たんだ。間違いが起こるはずもない」

「そーゆーものかしら? ねぇ…」

 エリーズはオリーブオイルで光る唇で艶めかしく微笑み、夫の手に触れ、指をからめる。

「エリーズ?」

「こうして顔を合わせるのは、7年ぶりね………。ノエル、ママとパパは二階で大切な話をしてくるから、おとなしくしていなさい。いいわね?」

「はーい」

「それ以上、チョコレートを使ったら3分間、窒息させるわよ。ちゃんと全部、食べるのよ。食材を無駄にしないで」

「っ…、は、はい…」

 180秒の窒息が、どれだけ苦しいか知っているらしいノエルは青ざめた顔で朝食を残さずに食べ始める。エリーズは立ち上がって夫に目配せした。

「なんだ? ここで話せないことか?」

「あなたがノエルの前でも、してくれるなら、一階でもいいわよ」

「………、朝から、そんな…」

「だって、夕べは疲れていたでしょ。私もフライトが長かったから」

「いや、でも、まずはクロエのことを…」

「そう。7年ぶりに会った妻とのセックスは、どうでもいいってわけね。やっぱり、ストラスブールへ…」

「待ってくれ! こうやって仕事にも行かず、いっしょにいるじゃないかっ! ムリヤリに休んで大変なんだぞ!」

「何年ぶりの休暇なの? 社長さん」

「……このところ、事業が思わしくなくてな……社長といっても大変なんだ」

「社長業は務めても、夫としての業務はサボタージュばかりね。今日くらい、抱きしめてくれてもいいじゃない。っていうか、あなたの愛を確かめに来たのよ。もう愛がないなら本気でストラスブールへ戻るわよ」

「ぁ……あい、…愛して……いるさ。……もちろん……だが、クロエのことも…」

「安全なところにいるんでしょ?」

「だが、迎えに…」

「もう少し、あの子の気持ちが落ちつくまで、そっとしておく方がいいわよ」

「……それは……そうかも……しれないが…」

「早く来てちょうだい」

 煮え切らない夫をベッドに誘い、エリーズは裸になった。

「……エリーズ……、変わらないな。……ホントに七年も経ったのか……」

 幸蔵は崩れていないエリーズのプロポーションに驚きつつ感動し、男として血が騒ぐのを久しぶりに感じた。

「あなたは、少し老けたわ。仕事のしすぎよ。身体を壊す前にワークライフバランスを考えた方がいいわ」

「ぅ、うむ…」

「来て」

 エリーズが脚を開いて誘う。大胆でありつつも、乳首と股間は手で隠して日本人男性に好まれる恥じらいを装いながら上目遣いに見つめる。

「ェ…エリーズ…」

 幸蔵は抱きしめてキスをすると、妻を押し倒した。ズボンを脱ぐのも、もどかしく身体を重ねようとする。

「エリーズっ…ハァ…ハァ…エリーズっ…」

「ちょっ、ちょっと待って! いきなりしないで! ホントあなたって変わらないわね! ちゃんと愛撫してよ! 犬のセックスじゃないんだから!」

「す…すまん…、つい、興奮して…」

「興奮する寸前までは紳士を装うくせに、火がつくと完全にケモノね。そーゆーセックスも、たまにならいいけど、前戯も覚えてよ。いきなり挿入されると痛いのよ」

「……すまない…」

 申し訳なさそうに幸蔵は乳房に触れる。張りのある乳房は二人の娘に母乳を与えてきたとは思えないほど瑞々しく、幸蔵は再び血が滾るのを覚えたが、自重する。エリーズが求める丁寧なセックスを心がけ、やや抵抗感があるもののオーラルセックスにも応え、ようやくノエルを作ったとき以来の合体をする。

「いいか?」

「ええ。…あんっ♪」

 エリーズは正午と別れて以来の男根に悦び、自分も腰を振るけれど、幸蔵は射精しそうになって悩む。

「ェ…エリーズ、避妊は? しないのか?」

「ん~………」

 エリーズも悩むが、すぐに答えを出した。

「ま、いいんじゃない? ちょうど、クロエとノエルも7つ離れてるから、三人目を作るにはいい時期かも。それに、日本もフランスも少子化だから私たちが頑張らないとね」

「それは……そうだが……、そうだな。三人は欲しいな」

 幸蔵も、その気になる。

「できれば、男の子が欲しい」

「そうね。でも、あなたみたいな会社人間はイヤよ。跡取りにして嘉神川食品のことばかりの人生なんて」

「うむ………わかっては…いるが……」

「あなた、なかなか射精しなくなったわね」

 エリーズは長いピストン運動を楽しみながら夫を誉めるけれど、幸蔵は額に汗を浮かべて息を荒くしている。久しぶりの激しい運動に体力がついてこない。

「ハァ…ハァ…くぅうっ…」

「あんっ♪ んんっ♪ いいわっ、来て! イかせて…」

「くっ! くううっ……ぐわっ?!」

 突然、幸蔵はうずくまると、苦痛に呻いた。

「うううっ…うううっ…」

「どうしたの?! 大丈夫?!」

 エリーズが起きあがって夫を心配する。脳梗塞か、心筋梗塞でも起こしたのかと、呼吸や脈をみるけれど、幸蔵は腰を押さえて呻いた。

「こ…腰が…うう……ぎ、…ギックリ腰に……」

「………。ギックリ腰? って、どういう日本語? 病気の名前なの?」

「うう…ハァ…ハァ…ぐうう…、腰が突然、……痛くなる病気だ……急な運動とか、重い物を持ったりとか…ぐう…うう…」

「失礼ね。私は重くないわよ」

 エリーズは夫の腰を押してみた。

「ぐああっ!! さ、触らないでくれ! 痛すぎる!」

「………ぎっくり腰ね。ヨーロッパでは魔女の一撃っていうのよ、それ」

「な、なんだ、それは…」

「魔女がイタズラしたみたいに、急に動けなくなるから、そういう表現をされてるわ。魔女の木靴で蹴られると立てないくらい腰が痛くなるっていう言い伝えよ」

「ううっ…、そ、そんなことは……どうでも…いい……な、…なんとか……助けてくれ」

「そうね。どうしましょ? すごい汗……」

 とりあえずエリーズは幸蔵の汗を拭いてやり、それから悩む。

「救急車を呼んだ方がいい?」

「…だ、…ダメだ! 絶対にダメだ!」

「そうよね」

「くぅ……ハァ…ハァ…しっ、湿布が一階の救急箱にあるから、頼む! あと、痛み止めの薬を!」

「わかったわ」

 エリーズは一階に降りて救急箱を探す。

「ノエル、救急箱を探すのを手伝ってちょうだい」

「うん」

 ノエルは母親が全裸なことに驚きは覚えなかったけれど、救急箱の利用対象については不安を覚えた。

「……パパに怪我させたの?」

「ノエル、その日本語は少し違うわ。パパが怪我したの。させた、と表現すると私が悪いみたいでしょ? パパが勝手に怪我したのよ」

「パパ、どうしたの?」

「腰が痛いんだって。あっ♪ あったわ」

 エリーズは救急箱を見つけて二階へ戻る。ノエルが心配そうに見上げてくる。

「ママ、ノエルも見に行っていい?」

「ん~……大丈夫よ、心配しなくても、命に関わるようなことじゃないし、血も出てないわ。それより、ちゃんと朝ご飯を食べきっておきなさい。お仕置きするわよ」

「はっ、はいっ………」

 ノエルは返事をしつつも父親の身を案じて心配そうに天井を見上げた。

「パパ………ノエル、いい子にするから……みんなで暮らしていきたいです」

 幼女は胸元で十字をきって、神と星と父に祈った。

 

 

 

 同じ頃、智也は疲れていたので昼前まで眠り、目が覚めても、なかなか一階に降りずにいた。すでに一階からは鷹乃とクロエが朝食の片付けをしている気配がしている。智也も朝食に呼ばれたが、狸寝入りで起きずにいた。

「……………」

 どんな顔して、あの二人に…………、智也は寝返りをうって三度寝しようと布団をかぶったが、鷹乃が起こしに来た。

「智也、そろそろ起きたら?」

「…あ……ああ…」

 仕方なく布団から出て顔を洗い、キッチンに入った。

「「ぁ……」」

 智也とクロエの目が合い、お互いに目を伏せる。

「…………」

「…………」

「…お……おはよう……」

 智也が挨拶の後に「元気か?」と付けようとして、やめた。クロエも挨拶を返す。

「おはようございます。……」

「…………」

「………」

 二人が会話できずにいると、布団を干した鷹乃が一階へ降りてくる。

「朝ご飯……いえ、もう、お昼ご飯になるわね。智也は朝ご飯もまとめて食べてちょうだい」

「ぉ…おう…」

 用意されていた朝食は冷めている。すでに鷹乃とクロエは何時間も前に食べ終えた様子だった。鷹乃はレンジで智也の朝食を温め直しつつ、昼食の用意を始める。

「お昼はパスタにするわね」

「あ、手伝います」

 クロエが立ち上がって鷹乃の隣へ歩みよる。

「ありがとう。じゃあ、お湯を沸かしてちょうだい」

「はい」

 クロエは適当な鍋に水を入れている。智也は温め直された朝食を食べながら、キッチンで料理をしている鷹乃とクロエの背中を見て軽い既視感を覚えた。鷹乃と付き合う前は、彩花と唯笑が並んで料理をしている姿を見ることが多かったけれど、今の状況は似て非なるもので、内在する問題は重くて難解だった。

「…………………………」

 オレに、どうしろと………、いや、まあ……オレの責任なんだが……、智也はタメ息をつかないように意識して朝食を終え、さらにパスタを鷹乃とクロエの三人で食べる。

「クロエの口に合うといいけれど……」

 鷹乃が作っている段階で好き嫌いの激しいクロエの嗜好を知り、嫌いな物は入れずに作ったけれど、やや心配していると、クロエは一口食べて微笑んだ。

「美味しいです。鷹乃さん、お料理上手なんですね」

「口に合って、よかったわ」

 鷹乃とクロエは普通に会話を楽しみながら食事をしている。智也は居心地の悪さを顔に出さないようにしてパスタを啜る。

「………」

 パサパサパスタと違って食べやすいけど、落ちついて喉を通らないな……、食べ終わったら散歩にでも出ることにするか……、智也は昼食が終わると、逃げるように席を立った。

「ちょっと散歩に出てくる」

「いってらっしゃい」

 鷹乃は何も言わずに送り出してくれ、クロエは皿を洗い始めている。智也は外へ出ると、あてもなく歩きだそうとして、隣家の二階からの視線に気づいた。

「……彩花……」

「………智也…」

 視線が合い、彩花が静かに手を挙げ、そこで待っているように伝えてくる。彩花は鷹乃に気づかれないよう物音を立てずに玄関を出ると、すぐには智也と会話せず、仕草で近所の公園へ行くよう指示した。

「「…………………」」

 二人とも黙って公園に着くと、彩花が第一声をあげる。

「智也っ?! どういう魔法を使ったら、あの嫉妬魔神に一夫多妻制を認めさせられるわけっ?!」

「待って! 彩花、それは誤解だ!」

「だって、さっき…」

「どこから話すか……と、とにかく、昨日のことから聞いてくれ!」

 智也は順をおって、碧海祭に来た鷹乃の父親のこと、クロエも来てしまい、そこで鷹乃が嫉妬したフリをすると言い出し、その結果、逆に鷹乃は刃物を振り回したクロエを説得したこと、さらに嘉神川家に帰ってきた母親と見知らぬ妹のことで登波離橋からクロエが飛び降り、それを鷹乃が助けたことを彩花に話した。

「……長い話ね……」

「だろ?」

「おまけに、まだまだ、続きそう」

「………勘弁してくれ……」

「まあ、クロエちゃんとの肉体関係を否定しきったのは立派というか、ずるいというか……賢いというか……つまり、ズル賢いから、ようするに、智也らしいわ……。なのに、寿々奈さんの方がクロエちゃんの境遇に同情して……、たしかに、二人の境遇は似てるところもあるから、そーゆー同情って、当然なのかも。痛みを知ってるだけに、共感してしまう」

「…………オレも彩花も、幸せな育ちだからな……平和ボケの…」

「そうね。なにか重い病気をしたり、両親がいなかったり、事故に遭ったり、そんな境遇って、なった人間にしか、わからない部分ってあるでしょうしね」

「そうだな………」

「まあ、でも、智也としては無難に様子を見ていくしかないよ。とりあえず、クロエちゃんの家のことは、やっぱり、クロエちゃんが乗り越えていくべきことで、私たちには何もできないし、すべきじゃないし。寿々奈さんは相談にのってあげるでしょうし、それが助けになって、なんとか、なると思うよ」

「……ああ……そうだな……。悪いな、毎度、毎度、彩花に話すと楽になるから、つい甘えて……」

「智也もママがいないから、淋しいのね♪」

「お前なぁ……」

「私が智也のママにも、お姉ちゃんにもなってあげる」

「姉かぁ……、鷹乃、そんな感じだなぁ………。あの香菜ちゃんにだって……」

「寿々奈さんも一人っ子だから、兄弟がほしいのかも」

「それを言ったら、オレも彩花も一人っ子だろ?」

「私たちは三人兄弟みたいなものだったでしょ。三つ子かな」

「そうか。そうだな」

 智也は少し気持ちが軽くなったので、三上家に戻った。リビングに入ると、クロエが縫い物をしていた。昨夜、嘉神川へ救助のために飛び込んだ鷹乃の制服が破れてしまったのを器用に縫い直している。その姿が、もう何日も三上家にいるような錯覚を与えてくるので、智也は二人に告げる。

「そろそろ、社長さんに連絡して、クロエちゃんは家に…」

「智也、私、考えたんだけど」

「ん?」

「しばらく、この子を、ここで預かりたいの。いいかしら?」

「あ、ああ、それは別に…って?! なにっ?! ここに? また、泊めるのか?!」

「大きな声を出さないでちょうだい。……そんなにダメな、こと? ……ここは、智也の家だけど………私の家だと思っていいって、言ってくれたから……ダメかしら?」

「ダメってことは……ない、というか……ダメダメというか、ダメダメダメ同棲な気がするというか。あと一泊、二泊くらいなら、いいけど、しばらく預かるって、どのくらいだよ? それって、ちょっと問題がある気が……」

「智也のことは信頼してるわ。それに、この子も」

「………」

 そりゃ家庭の境遇には少なからずオレも同情するけど、この子は昨日、包丁振り回すくらいにオレと鷹乃のことを…………、智也が困っていると、クロエが立ち上がった。

「やっぱり、ご迷惑ですよね。いいんです、鷹乃さん。もう十分ですから」

「家に……帰るつもりなの?」

「……。ここにいるのは、とても迷惑ですし、鷹乃さんに迷惑をかけるのは、私としても不本意ですから」

「でも、それで、どこへ行くつもりなの? 帰る気はないんでしょう?」

「………。行く当てくらい、ありますよ」

「ウソは信じられるようにつくものよ」

「…………」

 クロエが困った顔で微笑した。その顔を見て鷹乃は切なさで胸が痛んだ。

「智也っ」

「な……なんだよ…」

「あなたが、こんなに器量の狭い男だとは思わなかったわ」

「ぅ………だけど…」

「自分のことを好きだと言ってくれた女の子が困っているのを、少しくらい助けてあげられないの?」

「いや……他に好きな女がいて、……同棲してたりするし…、やっぱ、その三人が一つ屋根の下っていうのは…」

「私ならいいわ。私が、いいって言ってるのよ? それなら、問題ないでしょう?」

「……そうなんだけど……さ。………ああもう! わかった! でも、一回は社長さんに説明しろよ。説明するのが、イヤならオレから言うけど……言いにくいし……、やっぱり、娘から言うのが筋というか……しばらく家出しますとか、……行き先の説明というか…。オレはバイトで会社に顔を出すわけだし……」

「はい…父には私から……。智也さんの立場もありますから……」

「言いにくいなら、私が代わりに…」

「鷹乃は社長さんと面識ないだろ」

「でも…」

「いいんです。ちゃんと父と話します。……あの人の顔は見たくないけど…」

「なら、私もいっしょについていくわ」

「鷹乃さん……」

 すがるような目でクロエに見つめられた鷹乃は優しく微笑んで香菜にしていたように頭を撫でて抱きしめる。クロエも抱き返した。

「………。オレも、一応、ついていくよ。一応……」

「そうね、そうしてちょうだい」

 話が決まると、三人で嘉神川家に向かう。近所なので、すぐに到着した。クロエが緊張していると、その手を鷹乃が優しく握った。

「大丈夫よ。私がいるわ」

「鷹乃さん……」

「帰ってきなさいって言われても、私のところで預かってあげるから。迷惑とか、遠慮とか、考えなくていいのよ。帰りたくないなら帰らなくていいんだから、ね?」

「…はい…」

 クロエは頷くと、自宅のチャイムを鳴らした。

(はーい♪)

 ノエルの声が響いてくる。

(どなたですか?)

「………」

(パパとママは留守にしてます。宅配の方なら、そこのボックスに…、あ! お姉ちゃん! 今、開けるね!)

 ノエルがドアフォンのカメラで姉の姿を確認してドアを開けてくれる。

(お帰りなさい、お姉ちゃん!)

「っ……」

 クロエは妹を見ると、何も言えなくなり、微笑を作ろうとして失敗した。この妹は、あまりにも外見が7年前のクロエ自身に酷似していて、直視できない。一人、置いて行かれた日のことを思い出してしまう。なのに、この妹は両親がそろった家に屈託無く存在している。それが、なんだか、わからない大きな感情を呼び起こしてきて、泣き出しそうなクロエに代わって鷹乃が尋ねる。

「お父さんと、お母さんは、どちらへ?」

 二人の娘を放り出して、どこへ行ったというの、まったく、なんて両親なの、鷹乃の批判的な雰囲気がノエルに伝わったようで、幼女は申し訳なさそうに告げる。

「パパが、ぎっくり腰になって整骨院に行くからって……ごめんなさい」

「そう。あなたは留守番をしていたのね。えらいわね」

「えへへ♪」

 無邪気な手柄顔をするノエルを可愛らしく思った鷹乃は軽く頭を撫でてやり、言付けることにした。

「じゃあ、お父さんとお母さんに伝えておいてくれるかしら。しばらく、私の家でクロエさんは預かります、って。伝えられそう?」

「はいっ。……お姉ちゃん、帰ってこないの?」

「心配しなくても、私が預かるから、大丈夫よ」

「おばさんのところで暮らすの?」

「ぉ、……、ぇ、ええ。そうよ。だから、お父さん、お母さんに伝えておいて」

 ほのかな殺意を押し留めた鷹乃は脳内でノエルの首を絞めつつ、笑いをこらえている智也を後ろ足で蹴った。

「痛っ…」

「笑うところじゃないわ」

「悪い、悪い♪ つい。鷹乃は私服が地味だからな、そーゆー風に見えるんだろ。くくっ」

「おじさん、どうして笑ってるの?」

「……。君も大人になれば、わかるさ。じゃ、社長さんに、よろしくな」

 あまり長居したくない智也が背中を向け、泣き出しそうなクロエを支えた鷹乃も続いて嘉神川家を去ると、また、ノエルは一人になった。

「……お姉ちゃん……ノエルのこと、嫌いなのかな……ノエル、嫌われたのかな…」

 自分の顔を見て苦しそうに顔を歪め、立ち去るときは泣いているように見えた背中を思い出すと、ノエルも悲しくなった。

「ノエル……お姉ちゃんに……嫌われるようなこと……したのかな……」

 淋しくつぶやき、テーブルに置いてあるティーカップを見つめる。一人で日本茶を淹れて、さらにチョコレートを入れた緑黒い碧海色の液体が怪しく湯気をあげている。

「……これ、…ちゃんと飲まないと……ママに……」

 食材を無駄にすることを許さない母親のことを思い出してノエルが身震いする。

「…ロシアンティーみたいに……美味しいと思ったのに……」

 とても飲めたものではない液体を、一口啜って身震いし、さらに飲み込んで吐き気を覚え、ノエルは休憩する。そこへ、玄関のドアが開く音がして、エリーズと幸蔵が帰ってきた。よろよろと幸蔵は玄関をあがる。

「ふーっ…ハァー……な、なんとか、歩けるようにしてもらえた…。一時は、どうなることかと…」

「腰は一週間もすれば治るって言われたけど、あなた、肝臓も悪そうだから内科医にも診てもらえって言われたのを忘れないでよ。私、まだ、未亡人にはなりたくないわ」

「あ、ああ、わかってる。すまない」

「パパっ、おかえりなさい。もう、大丈夫なの?」

「心配かけて、すまなかったな。なんとか歩けるようには、なったよ」

「よかった。あ、クロエお姉ちゃんが帰ってきたんだけど、…また…行っちゃったの」

「クロエがっ?! いつっ?! ぅ…ぐぅ…」

 幸蔵は急に動こうとして腰に痛みが走り、呻いた。ノエルが心配して父に寄り添う。

「パパ…」

「そ…それで、クロエは、いつ…」

「つい、…さっき……、でも、すぐに行っちゃったの」

「クロエは、また、どこへ行ったんだ?」

「いっしょにきた、おばさんと、おじさんのところで預かるって、おばさんが大丈夫だからって。………ノエルは、お姉ちゃんに嫌われてるのかな……嫌われちゃったのかな」

「ノエル……それは、違う。嫌われてるのは、私とエリーズなんだ。……ずっと、クロエを放っておいたから。ノエルは嫌われてないよ。そんな顔をしないでくれ、少なくとも私はノエルが大好きだ。な、ノエル」

「パパ……」

 ノエルが抱擁を求めて父に近づき、幸蔵も腰痛に耐えつつ迎え入れようとしたけれど、エリーズがノエルの髪をつかんだ。

「ノエル、これは、なに?」

「っ…、これは、…こ、これは、…わ、和風ココアなの! す、すぐ、飲むから!」

 ノエルはチョコレート入り日本茶を母親に発見され、慌てて飲み干そうとしたが、その激しい不味さで目まいを覚え、飲みきれない。

「ぅぅう…ハァ…うう…ハァ…」

「また、無駄にチョコレートを使ったわね」

「ぅぅ…だって…、紅茶にジャムを入れたらロシアンティーになるし…、…ココアとチョコは似てるから、日本のお茶と混ぜたら美味しいかなって…」

「いいのよ、ノエル。ちゃんと責任をもって口に入れるなら、怒らないわ。チョコレートを作ってくれたブラジルのみなさんと、静岡のみなさんに、申し訳が立つように自分で責任を取りなさい」

「は…はい…」

 ノエルは覚悟を決めて飲み干そうとするけれど、やはり決定的な不味さが障害になって半分も飲めない。幸蔵が可哀想に思い、エリーズに口添えする。

「もう許してやれ。子供のしたことじゃないか」

「あなたは甘いわ。ノエルは私が育ててきたのよ。口出ししないでちょうだい」

「だが、ノエルの味覚がおかしくなってしまう。お腹を壊したら大変だぞ」

「別にチョコレートを食べた後にお茶を飲んでも、お茶を飲んだ後にチョコレートを食べても何の問題もないわ。いい加減、何にでもチョコを入れようとする癖を直さないと、いけないのよ。さ、ノエル、飲みなさい」

「…はい………」

 ノエルは長く苦しみたくないので一気に飲もうとしたが、強烈な吐き気を覚えて、よろよろとふらつきティーカップを落とした。フローリングの床に緑黒い碧海色の液体がグロテスクに拡がった。

「ノエル、落としたわね。わざと」

「ひっ…ち、違うっ…、ぅ、うっかりっ! ひぐっ?!」

 ノエルは母親に喉元を掴まれ呻いた。

「ううぅ…ぅ…ゆ…許して……ママ、ごめん…」

「謝る相手が違うでしょ」

「ごめんなさい、静岡県のみなさん、ブラジルの…」

「三分間よ」

「ひっ…ううっ?!」

 ノエルは壁に押しつけられ、母親の手により、鼻と口を塞がれて呼吸ができなくなった。

「ぅぅ……ぅぅ…」

「10秒……………………15秒……」

「おっ、おい?! 三分間って、なんだ? どういうことだ?!」

「反省タイムよ。三分間、苦しい思いをして反省させるの。叩くより、ずっと理性的なシツケでしょ?」

 エリーズはフランス製高級腕時計の秒針を見ながら平然と答えた。

「しっ、しかし! 三分は長いっ! ノエルが死んでしまう!」

「45秒…。大丈夫よ。死ななかったから」

「死ななかったって、やったのか?」

「50秒…。ええ」

「ぅぅ……」

「苦しそうだぞ?!」

「そうでなければ罰とはいえないわ。はい、1分♪」

「…ぅぅ…」

 ノエルの小さな肺にある酸素は残り少ない。あと、120秒の時間が、とても長いものに感じられる。

「1分20秒…。ねぇ、ノエル、反省してる?」

「ぅぅ…」

 苦しくて顔を真っ赤にしたノエルは口元を覆う母の手に涙を零して答えたけれど、その手は微動だにしない。

「…ぅ…………ぅ………」

 あまりの苦しさにノエルは息を塞ぐ母の手を両手でつかみ、逃げようと足掻いたが、腕力が違いすぎて何もできない。小さな爪がエリーズの手首に食い込む。

「ノエル、私の肌に傷をつけたら、怖いわよ」

「っ……」

 強烈な恐怖を感じたノエルは両手の力を抜き、もう抵抗するのをやめた。なるべく酸素消費を抑えるために、ダラリと脱力して何もしない。けれども、苦しくて手足が小刻みに痙攣し始める。

「2分10秒…」

「ェ…エリーズ……もう、許してやらないか? 十分に反省していると…」

「2分15秒…」

「ぅぅ……………………」

 あと………………ちょっと………あと、………ちょっとで………神さま………、ごめんなさい……もう……食べ物を無駄に………ぁ……天使様……、ノエルは朦朧とする意識の中、天井の方が明るくなり、天使が舞い降りてくるような錯覚を見る。

「2分20秒…」

「……………………」

 ノエルの目が力を失い、涙を流しながら、白目を剥いた。同時に、太腿の内側に失禁した尿が流れをつくり、靴下を濡らして床を汚した。

「ノエル、あとで拭くのよ」

「…………」

 完全に意識を失ったノエルは何も答えない。幸蔵が焦った。

「ノエル?! ノエル?! おいっ! 死んでるんじゃないか?!」

「心臓は動いてるわ。2分50秒」

「ノエルっ! 気をしっかりもってくれ!」

「2分55秒。56、57…」

「………」

 もうノエルは苦しみもせず、意識を失って、糸の切れた人形のように手足を弛緩させている。涙も止まり、小水も勢いなく滴っている。

「59、はい♪ 反省おしまい」

 エリーズは手を離した。

 どさっ…

 死体のようにノエルは床に崩れ、軽く頭を打ったけれど、意識は戻らない。

「さっさと起きて床を拭いて、濡れた服を洗濯しなさい」

「の……ノエル? ………ノエル?! ノエル?!」

 幸蔵が抱きあげて、揺するけれど反応がない。息もしていない。幸蔵は腰の痛みも忘れて蒼白になった。

「ノエルっ?! 目を開けてくれ、ノエル?! 息が、止まってる?!」

「そんなにガクガクと揺すったら、首を傷めるわ。ちょっと、貸して」

 エリーズは動かないノエルの後頭部と首の間へ、したたかにチョップを入れる。

「目を覚ましなさい」

 ドッ!

「…ひゅ…」

 後頚部を打たれて延髄に衝撃を受けたノエルが息を吹き返した。

「…ハァ…………ハァ…ハァ! ハァ! ハァヒィっ! ハァヒィっ!」

「ノエルっ……よかった」

「ハァハァ…パパ……ハァ…」

「一瞬、どうなることかと……ううっ!」

 呼吸を回復した娘を見て安心した幸蔵は腰痛が再燃して呻いた。

「ううぅ…ぐうぅう…」

 猛烈な痛みで上体を起こしていられない。その場に倒れると、チョコレート混じりの緑茶とノエルの尿に浸った。

「ぅううぅ…ううぅ…」

「パパっ! パパ、大丈夫?!」

「バカね。安静にするよう言われていたのに。ノエル、パパを介抱しなさい。あなたの責任よ。あと、床も拭いて、洗濯も」

「はい、ママ。パパ……」

 ノエルは父親を心配しながら、これ以上、床を汚さないようにスカートとショーツを脱いだ。

 

 



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21話

 

 翌日の放課後、かおると唯笑は澄空学園の教室で泣き続ける巴を慰めていた。

「ぅっ…うっくっ…ヒック…」

「トトちゃん……」

「トト、泣けるだけ泣けばいいよ」

 かおると唯笑は二人で巴の背中を代わる代わる撫で、健と別れた傷心をいたわっている。秋の終わりで日暮が早く、そろそろ暗くなりかけている。巴は二時間近く号泣して、顔を洗うと笑顔をつくってタメ息をついた。

「たはーっ………にしても、見事なまでに私も遊ばれたわね」

「トトちゃん、そんなことないよ。そんな言い方しないで…」

「トト、自棄になるのは、やめなよ。余計に自分が可哀想になるから」

「わかってる。ありがと」

 巴は深呼吸して背伸びをすると、記憶を振り払うかのように頭を振った。

「はぁぁーー………一応さ。私も、彼も、本気で好き合ってたって実感はあるけど。でもさ、客観的にというか、よそから見れば、ホント見事なまでに一夏の恋に踊って、ヴァージンあげちゃって、はい、さようならって、絵に描いたようなバカな痴話ネタよね」

「否定してほしいの?」

 かおるが問うと、巴は自嘲気味に微笑んで否定的に首を振った。

「自分で、わかってるから。それに、もう彼への気持ちは、さっきの涙といっしょに流したから、もう平気♪」

「トトちゃん、えらいね」

「あんたはトミーへの気持ち、いい加減に処理しなよ? ヒッキーは、そーゆーとこも、しっかりしてるんだから。見習わないと」

「あうぅ……、唯笑はトモちゃんが幸せそうだから、それでいいの」

「ねぇ、トト。もう気持ちの処理ができたって言うから訊いてみたいんだけど、一ついい?」

「いいよ♪」

「あの伊波くんって、トトと付き合う前は、トトの親友と付き合ってたって話。トトは、やっぱり、知ってたの?」

「………。その話…ね……」

 トトは遠い目をして、ここから見えないウイーンへ視線を向けた。

「知ってたわけでも……知らなかったわけでも、ないよ」

「なにそれ? 答えになってないよ」

「だからさ、イナが私に声かけてきたときには、知らなかった……というか、気づかなくてさ」

「じゃあ、いつから気づいてたの?」

「………まだ、気づいてない、というか………、今、質問されて、懸念が確信に変わった感じ」

「それって自分で自分に気づかないように、考えないように、自己暗示かけてただけじゃないの?」

「ぅ……まあ、自己欺瞞といえば、自己欺瞞だけど……、だって、お互い、好きって確認したら、イナってば、速攻で前の彼女に、もう付き合えないって伝えたみたいで、フタマタ期間は、ほとんどなかったし」

「それ以前に、彼の顔に見覚えなかったの? 親友の彼氏でしょ?」

「ほわちゃん、私に彼の写真とか見せてくれなかったし、名前も教えてくれてなかったから」

「それって……親友?」

「……一応、親友。……今でも、私は、そー思ってる。…………まあ……なんとなーく、ほわちゃんがケータイの待ち受けに設定してた男の子が、たぶん彼氏で、しかも、イナに似てるなぁ、とは思わないでもなかったような、あったような。でも、確信なかったし、私だって、ほわちゃんから盗ろうとしたんじゃなくて、偶然に出逢って、偶然に恋におちて、それでイナが決めたことだから、文句があれば、ほわちゃん、言ってくるって思ったけど何も言ってこないし……、まあ、私だって、結局は三ヶ月で捨てられたんだから。ほわちゃんは半年で、ヴァージンもあげてないはずだから。……イナ、童貞だったし」

「……。ま、捨てられた女同士って最大公約数はあっても、その一応親友さんの方には、盗まれたってマイナスの符号がつく分、どうあっても不等式のままでしょうね」

「うぐ……ほわちゃん、ウイーンに行ったきり………冬休みには帰ってくるかなぁ…」

「仲直りしたいなら、とりあえずエアメールでも書けば? もちろん、近況に失恋のことも書き加えてね♪」

「……傷の舐め合いしろって?」

「そーそー♪ ペロペロぉって♪ そーしてるうちに、新しい気持ちに目覚めるかもよ?」

 かおるがふざけて胸を揉んできたので、巴は手で払った。

「気持ち悪いこと言わないでよ。私と、ほわちゃんは、どんなに仲が良くても、そーゆー親友じゃないの」

「うん、うん、男を通して姉妹になっても、そっちのケはないってね」

「そーゆー意味の姉妹にもなってないはずだから」

「彼が童貞だった確信あるんだ? フリしてただけかもよ」

「イナは、そんな器用じゃないよ。っていうか、男が童貞のフリして何のメリットがあるの?」

「さあ♪」

「ったく……」

「まあ、でも、傷の舐め合いって意味じゃなく、その親友さんには彼と別れたこと、伝えておく方がいいよ。一生、ウイーンにいるってわけじゃなし、いつか、近所の駅とか、コンビニで、ばったり出会ったとき、思わず無視しちゃったら、お互い淋しいでしょ? 伝えなかったこと、後悔するよ?」

「……それは……そうだけど……」

「ほたるちゃんと仲直りしたいって、トトちゃんの顔に描いてあるよ♪」

 唯笑が巴の顔に、ほの字を指で書きつけた。

「ぅ~………」

「決まりだね♪ はい、唯笑のレターセットあげる」

 唯笑がカバンから便箋と封筒を出した。可愛らしい猫キャラのレターセットを押しつけられて巴が驚く。

「今書くの?」

「善は急げ。今坂唯笑の今は今書くのイマだよ♪ ナウ・ゴーイング・ライト♪」

「……たはーっ…………、唯笑ちゃん、その英語、たぶん、間違ってるよ」

 巴はタメ息をつきつつも、微笑み、ペンを握った。

 

 

 

 翌週の日曜日、いよいよ文化祭も終わり、受験一色となるべき時期だったが、鷹乃も智也も進学しないので、鷹乃がクロエの勉強を見ていた。

「そこ、スペルが間違ってるわよ」

「ぁ…」

 クロエは書き損じた単語を消して、書き直す。

「これでいいですか?」

「ええ。クロエは、ときどき、英語にフランス語が混ざってくるのね」

「つい……」

「センター試験にはフランス語での受験という選択肢もあるけれど、高校受験は、浜咲も澄空も英語のみよ。気をつけなさいね」

「はい」

 クロエと鷹乃は台所のテーブルで仲良く中学の教材を進めている。智也はリビングのソファに寝転がりながら、嘉神川食品の社史を読んでいたが、喉が渇いたので台所へ入った。

「英語か……、今でこそ、国際語だけど、ちょっと前まではフランス語が国際語だったんだぞ。知ってるか?」

「はい♪」

「そうなの?」

「ああ」

「ちょっと前って、いつ頃のことなの?」

「去年です♪」

 冗談を言ったクロエの頭を智也が小突いた。

「それはクロエちゃんだけだろ。だいたい、100年くらい前まではフランス語が世界標準の言語だったんだ。だから、1945年のポツダム宣言や日本国憲法の草案は英語だけど、1905年の日露戦争の終戦処理はフランス語で行われたんだ。ロシア語でもなく、戦勝国の日本語でもなく、解釈の違いが生じたときはフランス語の原文に戻って議論されるようになってた。日露に講和を勧告したのはアメリカ大統領なのにも関わらず、当時の国際標準だったフランス語が採用されてたんだ」

「「へぇぇ……」」

 二人とも知らなかったので素直に感心してから、不思議に思う。

「智也って、どうして色々なことを覚えているのに、期末テストの成績は悪かったの?」

「うむ。興味がないことは頭に残らないからだ♪」

「威張って言うことじゃないわ」

「ホントに。クスクス…」

 クロエが笑ったので、鷹乃も笑った。智也は麦茶を飲むと、ネクタイをしめた。

「オレはバイト、行ってくる。夕飯には戻るようにする」

「いってらっしゃい。ご苦労様」

「ごめんなさい、父の人使いが荒くて……日曜日なのに…」

「子供が、そーゆーこと、気にするなよ。オレはオレのバイトだから行ってるんだ。イヤだったら、行かないさ」

 智也は二人に軽く手を振って家を出る。すぐに嘉神川食品のビルに着いた。休日なので裏口から入り、社長室のドアをノックした。

(三上くんか? 入ってくれ)

「失礼します」

 智也が入室すると、幸蔵は決裁していた書類を置いて、問いかける。

「クロエの様子は? どうしている?」

「……」

 仕事の話で呼び出したんじゃなく、それが訊きたかったんだなぁ……まあ、これで時給がもらえるなら、オレ的にはオッケーだけど、智也はネクタイをゆるめて答える。

「元気にされてますよ。ちゃんと学校にも行ってるし」

「そ、そうか。……ワシやエリーズ…、妻のことは、何か言っているかな?」

「いえ、何も」

「……そうか…」

「………」

「で、クロエは、どうしている?」

「……」

 その質問、さっきも、したのに……、まあ、いいや……、智也は丁寧に答えることにした。

「鷹乃と気が合うみたいで、今も宿題をやってましたし、ちゃんと食事も摂ってます。まあ…ちょっと、好き嫌いが激しくて、とくに野菜類が不足してる感じはありますけど、そのへんも鷹乃が工夫してバランスよく作ってますから大丈夫です。ご安心ください、社長」

「そうか。………すまないな。君にも、君の彼女にも迷惑をかけて…」

「いえ…」

 少なくとも鷹乃は自ら進んでやってることだし………、智也は居心地の悪さを隠して幸蔵と向き合っている。幸蔵は金庫から紙幣を出してきた。

「これはクロエの食費や、もろもろに。一日、一万円で足りるかね?」

「………。一日、三万で♪」

「わかった」

「ぃッ! いや! 冗談っすよ! 一日一万で十分おつりがきますって! クロエちゃん、そんなに食べないし! 泳いでた頃の鷹乃じゃあるまいし!」

「だが、君たち二人の迷惑料を考えていなかった。一人一万円ということでクロエを大事にしてやってほしい」

「……社長…」

「三上くんと彼女さんにとっては、いわば新婚生活に邪魔が入っているのと同じことだろう。そーゆー意味も込めて、受け取ってくれ」

「……、そーゆーことなら……」

 智也は厚みのある封筒を受け取って、ポケットに入れると気持ちを切り替える。

「それで、社長。今日は、オレ、何をすれば?」

「ああ、そうだな。田原食品と競合しているエリアの調査を続けてくれるか? とくに飲食店への仕入れ状況を」

「わかりました」

「学校やクロエのことで疲れているだろうから、そんなに気張らずにやってくれ。田原食品は伸びてきているといっても、まだまだ小さな会社で、たまたま伸びているだけかもしれないから」

「はい。疲れないように頑張ります。じゃ、行ってきます」

 智也はビルを出て、調査エリアの飲食店へ向かう。何軒も嘉神川食品が食材を納入している飲食店を回るうちに、千羽谷商店街でキュービックカフェに入った。

「嘉神川食品の三上です。店長さんはおられますか?」

「テンチョーなら屋上でタバコ吸ってるよ」

 厨房にいた湊都子が教えてくれたので智也は屋上へあがりつつ、倉庫や厨房に置いてある仕入れ品を流し目でチェックする。だいたい、仕入れの傾向がつかめたので、もう店長と話をする必要はなくなったが、それでは失礼なので屋上へ出ると、田中一太郎へ声をかける。

「嘉神川食品の三上です。店長さん、ご入り用のものはありませんか?」

「ああ、ご苦労さま。とくにはないよ。あ、そうだ。ライ麦粉を1ケースとバルサミコ酢を1ダース、頼むよ」

「毎度ありがとうございます。すぐに手配します」

 智也は頭を下げて一太郎から離れ、社用の携帯電話で配送センターに連絡を入れると、屋上から降りる。厨房を抜けて、フロアに出ると、顔見知りに出会った。

「よぉ、三上」

「お、加賀か、……」

 智也は正午が連れていたエリーズを見て、知らない顔だったので訊く。

「その外人のオバちゃん、誰?」

「ウイーンで知り合った人なんだけど、日本語しっかり理解しているから、オバちゃんとか言うと……」

「正午ちゃんの友達なら、一回だけは許してあげるわ」

 エリーズが微笑すると、智也は面影に既視感を覚えた。

「それは、どうも。で、お姉さんはオーストリア人なんですか?」

「いいえ、フランス人よ」

「フランス人……」

 その目の色………、絶対、クロエと関わりある人だ……、智也はエリーズとクロエの関係を探ることにした。

「オレも、いっしょに座っていいか? それともデートの邪魔か?」

「デートじゃないから、気にしなくていいし、学校のみんなに余計なこと言うなよ」

 正午はイスを智也にすすめた。

「加賀にフランス人の知り合いがいるなんて意外だな。どうして、知り合ったんだ?」

「運命よ♪」

 エリーズが怪しく微笑んだ。

「ね、正午ちゃん」

「まあ、運命といえば、ベートーベン。ベートーベンといえば、おやじギャグ。そーゆー感じで、いつのまにか、エリーズとは知り合いになったんだ」

「ふーん……加賀に年上趣味があったのは意外だな」

「そーゆーんじゃないから、学校で余計なこと言うなよ」

「わかった、わかった」

 座っている智也の隣に一太郎が現れ、営業スマイルになった。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」

「……。そうっすね。とりあえず、ビール♪」

「ビールですね」

「いや、冗談ですって。コーヒーで」

「はい」

 しっかりと売上を確保した一太郎が消えると、智也は正午とエリーズの関係を探る。

「それで、エリーズさんは、どうして日本に?」

「正午ちゃんに会いたくて飛んできちゃったの♪」

「「……」」

 智也と正午は目を合わせ、それから正午がタメ息をつく。

「たはーっ……。そういえば、ノエルちゃんは元気にしてる?」

「ええ」

「……。エリーズさんはフランス人だそうですけど、嘉神川クロエってハーフの子を知ってますか?」

「え? ……ええ、クロエなら私の娘よ。どうして、あなたが知って…、…ミカミ……って、あの……ミカミ…」

 それまで陽気に話していたエリーズの顔が凍りつき、まるで浮気がバレた主婦のような顔になる。

「……に……日本語の…意味が、……よく、わからないわ…」

「そーゆー顔じゃないですよ」

「…………。べ、別に、正午ちゃんとは、そーゆーんじゃないわよ。誤解しないでちょうだい。ね、正午ちゃん?」

「だから、さっきから、そー言ってるのにエリーズがフザけるから三上が誤解するんだって。で、クロエって? 他にも娘さんいるの?」

「…ええ……まあ…。ね、正午ちゃん、そろそろ出ましょう」

「でも、まだ、オレのコーヒーが残って…」

「いいから出ましょう。じゃ、ミカミさん、クロエには余計なことは言わないでちょうだいね。あの子、気難しい時期だから」

「……言えないから言わないっすよ。……たはーっ……」

 智也がタメ息をついているうちに二人が店を去り、智也も出ようかと思ったけれど、都が注文したコーヒーを持ってきてくれたので、あげかけていた腰をおろした。

「………」

 今の感じだと、加賀とクロエの母さん、ちょっと何かあるけど、二人とも遊びって感じだな、っていうか、加賀は迷惑そうだったし、まあ、オレが黙っておけば………、智也はコーヒーを啜る。漠然とクロエや鷹乃のことを考えていると、店にスーツ姿の女性が入ってきた。女性は厨房にいた一太郎に声をかけている。

「田原食品の田原です」

「あ、ご苦労さまです」

「あいかわらず店長さん、男前ですわね」

「それは、どうも」

「先日のお話ですけれど、どうでしょう? 必ず嘉神川食品より1円安く納品いたしますから」

「うーん……、そーゆー売り方は好きじゃないかな。田原さんのところも悪くないけど、うちのメニューには嘉神川食品の麺が合うからね。でも、新しいメニューを開発するときには田原さんの品も試してみることにするから」

「そうですか。わかりました。また、お邪魔いたします」

 女社長が立ち去ると、一太郎の表情を見ていた智也は目が合い、目をそらしたけれど、一太郎が笑顔で近づいてくる。

「聴いてた?」

「……、はい…まあ…」

「必ず1円安く、だそうだよ?」

 悪戯っぽく微笑む一太郎に智也は嘉神川食品の一員として応える。

「価格につきましては、上司と相談してみます。なるべく、ご期待に添えるように」

「添わなくていいよ。っていうか、期待してないから」

「ぇ?」

「無理にコストダウンして品質をさげられても困るからね。今のままでいい。うちは、そーゆー店なんだ。田原さんのところは安価なアメリカ小麦を使ってるけど、嘉神川さんのところは国産小麦とフランス小麦だからね。うちの料理には合うんだ。何より、早くて安いのがいいなら、牛丼屋に行けばいい。だろ?」

「……。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」

 礼を言った智也はコーヒー代を払って、店を出る。すぐに別の飲食店に入り、またご用聞きをして回る。歩き疲れて休憩したくなった頃、ならずやの前でウエイトレス姿の葉夜に呼び止められた。

「あ、トモヤ君♪」

「よう」

「ピーーースっ♪」

「ウォー♪」

「? どうして、うぉお? なの?」

「平和の反対だからだ」

「……それは……とっても残念……。まことに遺憾の意を表明してイカンですよ」

「ほたる的ギャグだぞ、それは……」

「だって、トモヤ君が、こんなに平和なのに、Warって言うんだもん。Love&Peaceでいこうよ」

「ふっ、のん。お前は見えていない。愛は戦争でもある。カフェだって戦争だ。のどかな喫茶タイムの水面下では1円を争うビジネス戦争が展開されている。ということで、のん、店長に紹介してくれ。うちの会社の小麦粉製品を仕入れてほしい。ここの仕入れ先は、どこだ? パスタとか、麺とかの」

「えっとねぇ、ここはお店を始めたときから、田原さんとこから仕入れてるの」

「そうか。じゃあ、オレのことは信頼できる優秀な同級生で、来春から働く会社でアルバイトしてるけど、そこの小麦粉製品は高品質で高い信頼性をもっているから、のんとしても是非、この店で使ってほしいからオレを連れてきたと、言ってくれ」

「……………」

 葉夜が目を見開いて智也の顔を不思議そうに見る。パチパチと瞬き、首を傾げた。

「ぇ……えっと、……のんがトモヤ君を…連れてきたの?」

「そうだ。忘れたのか?」

「…ぅ………………………あ、あのね。のんの世界とトモヤ君の世界が違う気がするの」

「当然だ。のんとオレは別々の小宇宙だ。だが、今ここで交わっている。そして、これから、のんは店長にオレを紹介する。すると、もっとビックバンだ♪ 新たな可能性が生まれる。無限大だ♪」

「……で……でも………、……………………ウソは……よくないよ。また変なクスリを売ったみたいに……のんを巻き込まないでほしい。のん、……あんまり迷惑なことされると真っ黒な気持ちが胸の中に…」

 葉夜が言いにくそうに告げると、智也は真面目な顔で葉夜を見つめて両肩へ手をかけた。

「悪かった。正直に話そう。聞いてくれるか?」

「………うん」

「オレは進学しない。けど、今年も就職難だ。今、アルバイトしている会社で、うまくすれば来春から社員にしてもらえるかもしれない。それで、そこの会社の製品をアピールして回る仕事をしてるが、ちょうど、この店はライバル企業の製品を使ってるらしい。もしも、そこに売り込むことができれば、オレは大きな成功を社長に報告できるんだ」

「………トモヤ君のヌシに?」

「そうだ。雇い主に覚えめでたい。だが、のんの利益にもなる。うちの製品は田原食品より高品質だ。あそこはアメリカ産の小麦を使っているが、うちは国産とフランス産だ。こだわりのあるカフェなら、きっと違いに気づいてくれる。そして、そんな仕入れ先を紹介したとなれば、のんのヌシののんに対する評価もあがる」

「のんのぬしののん……?」

「のんの、ヌシの、のん、に対する評価だ。何より、うちのパスタは美味いぞ。きっと、のんのヌシも気に入ってくれる。どうだ? 紹介してくれないか? ウソは一つもついてない。オレを信じろ。そして、オレを信じる、お前を信じろ」

「…………」

「頼む。いい感じに就職して鷹乃と幸せになりたい。本当に、のんにとっても悪い話じゃない。だから、な?」

「……………………」

 葉夜は智也の目を見つめ返し、確かめるように肩に触れている智也の手に自分の手を重ねた。

「………信じる。けど、一つだけ質問していいかな?」

「ああ」

「そーゆー話なら、どうして最初から言わずに、いかにもウソなことを、のんに擦り込もうとしたの?」

「ぅ……………………む、……それは、まあ……反射だ」

「パブロフ?」

「そうだ。のんが本当は頭いいのに、あえて不思議系な少女なのと同じに、ついオレはオレで口からウソが出てくる困った性分なんだ。ウソが出てくるか、不思議が出てくるか、それだけの差だ。お前とオレは似た者同士だ。な、同志よ♪」

「……。ふっ…フフ…」

「ふっ、はははは♪」

「……たはーっ…」

 葉夜が嫌そうにタメ息をついて肩におかれたままの手を払おうとしたとき、智也は背後から果凛にハンドバックで頭を叩かれた。

「痛っ…」

「わたくしの友人に手を出さないでくれますかしら?」

「り…、りかりんか。お前もここに…」

「りかりんちゃん♪ ピーーースっ!」

「ピース♪ また、来ちゃったわ」

 葉夜に笑顔を向けた果凛は、智也には冷たい表情を向ける。

「わたくしのことを、親しげに呼ばないでくれますか?」

「悪かったな。ご令嬢。で、のん、さっきの件、頼む」

「うん、じゃあ、二人とも、中へ、どうぞ」

 葉夜は智也を厨房へ、果凛を客席へ案内する。葉夜が智也を田中二太郎に紹介しているので、フロアにいた一蹴が果凛に対応した。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「ええ。いつもの♪」

「はい、ならずティーとキュービック・カフィーニですね。かしこまりました」

「ねぇ、一蹴くん」

「はい?」

「この前に言ってた悩み、そろそろ私に話してみない? りかりんクリニックは、いつでも悩める少年の来院をお待ちしてますわ」

「………。……」

 一蹴は少し悩み、それから時計を見て答える。

「遅い時間でも、りかりんクリニックは受けつけてくれるのかな? バイトが終わって、それから、いのりに会ってから………、かなり遅い時間に」

「夜の11時くらい?」

「やっぱり、ダメですよね」

「ううん、時間外だけど、いいわよ。特別に夜間診療もしてあげる」

「ホントに? ………でも、やっぱり悪いかも…」

「気にしないで。むしろ、その時間の方が空けやすいわ。待ち合わせ場所とかは、この前に教えたメールにお願い」

 果凛は涼しげに微笑み、午後のティータイムを楽しむと都内のモデル事務所へ出勤する。今日はレッスンだけで撮影はないけれど、一応のこと事務室に顔を出すと素人モデルの荷嶋音緒に出会った。

「あら、こんにちは。NEOさん」

「あ、KARINさん、こんにちはです」

 二人とも芸名で呼び合って挨拶する程度の仲だったけれど、音緒が水着姿だったので何かの撮影だというのがわかり、果凛が問いかける。

「NEOさん、頑張ってるわね。何の撮影?」

「えっと………、その………てへへっ♪」

 音緒が照れて水着姿を恥じらうのを可愛らしく思った果凛は優しく微笑む。

「別に言わなくてもいいのよ。ちょっと訊いただけだから」

「い…いえ、その……、………ちょっとしたTVのCMです」

「あらっ♪ すごいじゃないっ! 出世したわね」

「いえ、そんなこと………ごくローカルな小さな企業のCMで……しかも、……その、他のモデルさんが抜けた穴を埋めるのに……」

「抜けた穴……? もしかして、カナタの?」

「あ、はい。KANATAさんの」

「……そう。カナタってば、連絡もなしに消えたから………。何のCM?」

「田原食品のマカロニです」

「食品会社の………、それで水着?」

「はい、お鍋の中で、私とマカロニが煮られてる映像だそうです。コンセプトはマカロニの穴と少女が抱えた心の闇、だって。……ちょっと、変ですよね。クスっ♪」

「それって、アートディレクターは、もしかして二階堂さん?」

「はい、あの花祭議員の賞を受けた二階堂達郎ディレクターだそうです」

「………。NEOさん、仕事自体は、いいと思うけど、あのディレクターには気をつけた方がいいわよ」

「え……そうなんですか?」

「ええ、18歳未満でも容赦なく、って話だから。マネージャーに撮影中も終わってからも離れないようにお願いしておいた方がいいわ。あと、撮影で水着を脱がされそうになったら、はっきり断らないとダメよ」

「ありがとうございます。気をつけます」

「うん、こーゆー情報は大事だから。常にアンテナ立ててないと、気づいたら変な撮影されちゃうから」

 音緒に先輩モデルとして忠告をした後、果凛はレッスンを受け、シャワーを浴びてから携帯電話を見ると、一蹴からメールが入っていた。メールを送り返して待ち合わせ場所をルサック桜峰店に決めると、ジイヤに頼んで移動する。

「ジイヤさん、いぎたないけれど少し眠らせてもらうわね。着いたら、起こしていただけますか」

「はい、お嬢さま。どうぞ、お休みください」

 ジイヤは運転席から操作して後席のシートをリクライニングする。一蹴と会う体力を温存するために果凛は目を閉じて身体の力を抜いた。

「お嬢さま。お嬢さま」

「ん……、もう着いたの?」

「はい」

「つい熟睡しちゃったみたいね」

 このままベッドで眠りたいほどの睡魔と疲労感を頭を振って追い払う果凛の様子をジイヤは心配する。

「すでに11時です。あまり夜更かしされてはお身体に触ります」

「わかっていますわ。でも、これから会う友人は大切な方なの。ごめんなさい、ジイヤさん」

「……」

「お父様とお母様、今夜は皇居の園遊会よね? そのまま都内に宿泊される予定の…」

「はい」

「……私も少し遅くなるかもしれないわ。でも、心配しないでちょうだい」

「このまま控えておりますので、何かありましたら、ご連絡ください」

「………はい」

 果凛はリムジンを降りると、ルサック桜峰店に入る。

「いらっしゃいませ。1名様ですね。…ぁ…」

「待ち合わせですの。…ぁ」

 果凛はウエイターが見知った顔だったので少し驚いたけれど、よく考えれば健がルサック桜峰店でアルバイトしていることは碧海祭のときに知っていたはずなので、ここを待ち合わせ場所にした自分の不覚を悔いた。しかも、巴を捨てて鷹乃に迫ったことは校内で有名なので否応なく耳に入っている。なるべく会話したくない男子だった。

「花祭さん、こんな時間に……待ち合わせって……」

「………」

 この人がいることを失念していたわ……くっ……学校で余計なことを言われるのは……、果凛はしかめそうになる顔を平静に保つ努力をしながら、健への口止め方法を考える。それほど苦労せずに戦術を閃いた。

「伊波くん、こんな時間までアルバイトしていて大丈夫なのですか?」

「ぅ……ごめん、学校にはナイショにしといて。マミさんが…いや、他の人が休んで、急に店長に頼まれて……。いつも深夜帯に入ってるわけじゃないから」

「そーゆーことなら仕方ないですわね。黙っていてあげますわ」

「頼むよ」

「わたくしも伊波くんが人に頼まれて深夜まで働いているように、人助けで男の子と待ち合わせしたの。変に勘ぐったり、詮索しないでもらえると助かるわ。お互いのために、ね」

「うん、わかったよ。じゃあ、お席の方へ案内します。お待ちの方は禁煙席に?」

「ええ……」

 果凛は視線で一蹴を探し、待っていた一蹴と目が合った。健もサッカー部の後輩を見つけて軽く驚いた。

「待ち合わせって鷺沢と?」

「……。詮索しない約束ですわよね?」

「あ、ああ。ご、ごめん。ほ、他のスタッフに案内させるよ。注文も」

 健は他のスタッフに声をかけ、果凛たちの応対を頼むと自分はキッチンへ入っていった。

「……たはーっ…」

 果凛は小さくタメ息をつくと、一蹴と向かい合って座る。

「遅くなって、ごめんなさい」

「ううん、こっちも来たとこだから。でも、さっきのウエイター、どこかで見た気が……」

「そうなの?」

「りかりんと話してたような…」

「気のせいよ。知らない人だったわ。それより本題の方が大切じゃないの?」

「あ、うん」

 一蹴と果凛はドリンクバーを注文してから、本題に入った。

「悩みっていうのは……まあ、……いのりのこと、なんだ」

「彼女さんの?」

「うん……」

「さて、どんな悩みなのかな? 忌憚なくお話あれ」

「うん……………………」

「………♪」

 果凛は一蹴が話せる気になるまで待つという態度で紅茶を一口飲む。

「…………。………」

「………♪」

「……………………り……りかりんに、……」

「私に?」

「……りかりんに、こんなこと、相談していいのか、わからないけど……その…」

「どんなことでも、話してちょうだいな。がっちり受けとめて、いっしょに考えてあげるからさ。さくっと話してみなよ? ね?」

「じゃ………じゃあ……、その…」

「……♪」

「……………………、ど……どこから話すべきか……」

「どこからでも♪」

「………えっと……いのりと付き合いだしたのは……夏からなんだけど……」

「うん。それで?」

「……ぃ……いのりと………ふ……深い仲なんだっ」

「ふーん…、まあ、言いにくいこと、かな? でも、今どき珍しくないことだから、遠慮しなくていいのに」

「ぇ……、でも……、りかりんに、こんなこと、言うの。恐れ多いっていうか…」

「私は神さまじゃなくて人よ。恐れることはないぞよ♪ 祟りも、呪いもないから」

「そ、…そっか。……そっか。……りかりんほどの美人なら……」

「一応さ。言っておくと、そっち方面の相談でも乗ってあげられるけど、私も未熟にして、そのあたりのことは知識でしか知らないのよね。言ってる意味、わかる?」

「あ……うん…」

「なにかな? その複雑な表情」

「ぃ、いや、べ、べつに…」

「まあ、いいわ。そっち方面で一蹴くんが少しだけ私より先輩なことは、認めるわよ。でも、りかりん情報のデーターバンクには知識だけでも、いろいろ入ってるのよさ。きっと、悩める少年に答えてあげられるはず。さ、続きをどうぞ」

「……うん……、いのりと……してること……」

「率直に、どうぞ。セ…セックスでしょ?」

 果凛は周囲に客がいないことを確かめてから、話が焦れったいので明言してみせたけれど、いざ発音するとなると処女らしく噛んでしまったので、かなり恥ずかしくなり、顔が赤くなるのを抑えきれなかった。

「……………………」

「……………」

「黙らないの。変な雰囲気になるじゃない。わっ、私たち三年生になると、けっこう周りに経験済みの子いるから、そんな珍しくないから。ま、まあ、でも、一蹴くんが一年生にして、すでに済みなのは、ちょっとビックリだったけど。で、話の続きは?」

 まさか、彼女が妊娠してるかも、っていうドロドロのネタじゃないよね……、果凛はもっともポピュラーな悩みである可能性も考え、少し胸が重くなった。

「いのりとのセックスが………多すぎるんじゃないかと……」

「………たはーっ……なるほど、なるほど」

 果凛はタメ息をついて肩をすくめた。

「そーゆーことあるよね。仲良きことは美しきかな、とは、いうものの。ついつい、若さにまかせて…。で、多いって、どのくらい?」

「………3回くらい」

「ああ、多いね。週に3回だと、二日に1回の計算で…」

「違うよ。……週じゃなくて、………一日に3回平均なんだ」

「……………………。それは、ちょっと多すぎない?」

「だから、相談してみようかな、って……ごめん」

「私に謝ることじゃないけど。とにかく、一日に3回平均は多すぎっ。もっとさ、勉学とか、スポーツとか、アルバイトとか、打ち込むことあるでしょ?」

「できれば、……そーしたい…」

「そーしなきゃダメっ! あのさ、一日に3回って、一日三食の朝昼晩じゃないんだからさ。いくら、若くて元気で男の子が、そーゆーことしたい気持ちが有り余る時期だからっていっても節度ってものがあるでしょ。彼女を欲望の処理に使ってない? はっきり言って、一蹴くんにはガッカリだよ」

「ま、待ってよ」

「女の子はさ、もっと大切な存在だよ? 彼女が拒まないからって…」

「違うって! オレじゃなくて! いのりがしたいって言うんだ!」

「……………………。………彼女さんが?」

 果凛の問いに、一蹴は黙って頷いた。

「いのりから求めてくるんだ。……………………だいたい、平均で一日3回。……多いと5回くらい」

「……………………」

「ちょっと多い……っていうか……、疲れるというか……」

「…そう……」

 果凛は疲れた様子の一蹴を見る。もともと、ならずやで会うようになった後から徐々に一蹴の様子が変わり、ずいぶんと疲労しているように見えたのが心配で相談するように持ちかけたのだけれど、今の一蹴は疲れきっている。アルバイトの後に、いのりと会ったはずで一日3回が本当なら、ルサックに来る前に済ませていると思われる。それを裏付けるように一蹴のシャツからは長い黒髪が一本、はみ出ている。とても長い髪は一蹴の胸元から肩へ、さらに首に巻きついてから背中へと消えている。

「………。彼女さん、今は?」

「オレの部屋で寝てるよ」

「放ってきたの? それで私と会ってるのは…」

「大丈夫。いのりは寝たら朝まで絶対に起きないし、起こさないと昼まで起きないから」

「………。低血圧なのかな……」

「わからないけど、ネボスキストなことは前からだから気にしてないけど、一日に何度もセックスを求められるのは、ちょっと……もう、オレ、どうしていいか……はあぁぁ…」

 一蹴が疲れたタメ息をついてテーブルに伏した。

「もう……いのりが何を考えてるか……、どうして……あんな風に……、……はぁぁ…」

「………一蹴くん………、…………」

 女の子から、一日に3回って……ちょっと異常じゃ……でも、こーゆーことって個人差が大きいから…………けど、男の子なら彼女ができた嬉しさで、つい、何回も、っていう話は聴くし、アンケート調査とかだと男子なら毎日オナニーしてる人が25%、毎週なら60%で逆に一ヶ月もオナニーしない男子は3%以下らしいけど………女の子は習慣的にオナニーする人が20%以下で月に一回でも30%以下、オナニーしたことない人が20%程度いるくらいに女の子は、そーゆー衝動と縁遠いはず…………私だって今まで2回くらい、そーゆーっぽいことしたことあるけど毎日どころか習慣にしようって気には………あ、でも女子の中でも1%は毎日オナニーする子がいるって回答もあったらしいし……けど……彼女さんから求めてセックス平均3回……多いと5回……個人差というよりは異常…………カナタもセックス好きそうだったけど、いくら何でも平均3回はなさそうだったし、寿々奈さんだって飛世さんだって………いくら気持ちいいからって…………、果凛は何とアドバイスすべきか言葉が出てこない。一蹴が力なく笑った。

「やっぱり、りかりんから見ても、おかしいよな……いのり…」

「………そんなことは……」

「りかりんの沈黙の長さでわかるよ。それくらいは」

「………、えっとさ、さくっと訊いちゃうけど、二人のプレイって普通のノーマルなことしてるの?」

「……。まあ、たぶん、このくらいなら普通かなぁ、って範囲かな」

「そう………、って、私ってば何を訊いて……」

「ううん、わかるよ。いのりとオレ………回数的には異常だよな……やっぱり…」

「………。どうして、彼女さん、そんなに求めてくるの? 理由は訊いた?」

「したいからだって。気持ちいいし。男と女は交わるのが正常で、とか。なんか、かなり強固な信念をもっててアダムとイブが、どうとか、神さまが求める行為だから、とか、必然の運命とか、いろいろ」

「男と女……まあ、それは、そーだけど……、あ、避妊は? そんなに何度もしたら妊娠するでしょ?」

「そこだけはオレが、ちゃんとするから」

「それは、えらい。ちょっと見直した」

「でも、もう、疲れたんだ……正直、いのりの顔を見るのが苦痛なときもあって………、こうやって、りかりんと話してると、なんか安らぐっていうかさ……」

「一蹴くん………」

「こんなんで……いのりと、やっていけるのかなぁ……はぁぁ…」

 一蹴はタメ息をついて時間を見ると、すでに日付が変わっている。果凛も時刻に気づいた。

「ちょっと、すぐには、いいアドバイスをしてあげられそうにないわ。ごめんなさい。また、次回ということで、いいかしら?」

「もちろん。オレの方こそ、ごめん。こんな時間まで付き合ってもらって」

「気にしないで。また、連絡ちょうだいね」

「ありがとう。せめて、リムジンまで送るよ」

 一蹴は深夜であることを意識して、果凛を一人にせずジイヤに引き渡した。ずっと待機していたジイヤも大切な令嬢を一人で帰さなかった一蹴を多少は評価しつつ、それでも時間が時間なので苦言を呈する。

「一蹴様。これからは今少し早い時間帯に、お約束くださいますようお願いいたします」

「すいません」

「ジイヤさん……、ごめんなさい」

 果凛は二人に詫びてからリムジンに乗る。すぐにジイヤが花祭家まで運転してくれ、広大な庭を通り、大きな玄関から屋敷に入った。

「ただいま」

「おかえりなさいませ、お嬢さま」

 梅子が出迎えてくれる。

「遅くなって、ごめんなさい。梅子さん」

「ご夕食は、いかがいたしましょう?」

「ミルクを一杯お願い。シャワーも浴びてきたの。もう遅いから眠るわ」

「かしこまりました」

 梅子がカップに牛乳を注いで持ってきてくれるまでに果凛は部屋で着替える。ナイトドレスを着て、牛乳を受け取る。

「ありがとう。もう二人とも休んでちょうだい」

「では、おやすみなさいませ」

 梅子が姿を消し、果凛は一人になると窓を開けた。心地よい夜風が入ってくる。

「……………………月がキレイね」

 大きな月が庭を照らしている。もう梅子とジイヤは使用人部屋へ下がっていて、この広大な屋敷には果凛しかいない。

「…………なんだか、目が冴えてしまったわ……」

 眠ろうとベッドに身体を横たえたけれど、眠気が訪れてくれない。

「………」

 もう牛乳は飲み干してしまったけれど、もう少し何か飲みたい。もう一度、梅子か、ジイヤを呼びつけるのは気が引ける。

「不便なものね」

 使用人を呼ぶのも気が引ける時間帯であり、自分一人で地下一階の食料庫から飲みたいものを探そうにも、どこに入っているのか、知らない。

「たはーっ……」

 果凛はタメ息をついて寝返りを打った。

「……………………」

 一蹴との話を思い出した。

「……………………一日3回って………お医者さんに診せた方が……、でも、健康といえば、健康……そーゆーことをするのが男と女っていう理屈は間違ってもないし……」

 また寝返りを打って考え込む。

「……たはーっ………………」

 果凛は寝返りで乱れたナイトドレスの襟元から乳首が出ているのに気づいて、直そうとしたけれど、なんとなく自分の乳首を指先で触れた。

「……………………」

 いつになく乳首は勃起していて硬くなっている。指先で触っていると、さらに硬くなり軽い快感を覚えた。

「………………………………」

 やめようかな、とも思いつつも、どうせ父も母もいないし、ジイヤと梅子も眠っているので果凛は右手をナイトドレスの股間にあてた。

「……………………」

 布地の上から股間を擦っていると、だんだん身体の芯が熱くなってくる。

「……………ハァぁ………」

 果凛はナイトドレスの裾をあげ、下着をズラして指先を直接に股間へ滑り込ませる。

「んっ………」

 静かな部屋に、果凛の吐息と指先が肉襞を擦るチュクチュクという音が響く。

「……………………」

 一蹴くん……………って、私、何を考えてるの………彼には付き合ってる子が……、果凛は妄想を押し留めたけれど、熱くなった身体は鎮まってくれない。一蹴のことを考えるのをやめても、指を動かすのは止められなかった。

「……んっ………ハァぁ……ハァぁ……」

 お兄様………でも、吉祥寺さんにも、ちゃんとしたフィアンセが……、果凛は自慰行為の妄想に使う対象を遠慮しながら選んでいく。

「……ショーゴくんなら……カナタもいないし……」

 さっきまで会っていて実は初恋の相手だった一蹴は憚り、次に好きになった吉祥寺隼人も遠慮して、カナタが放棄したかのように何も告げずに投げ出した正午を、果凛は自慰の妄想対象に決めた。

「……。私ね……実は、ずっとショーゴくんのこと………好きだったんだよ?」

 天井に向かって独白して気分を高める。

「ずっと言えなかった。……だって、カナタは大事な友達だから」

 果凛は天井に思い浮かべた正午へ語りかけ、恥ずかしそうに目を伏せた。

「こんなにエッチな私を見て……どう思う? ………ショーゴくんのこと……考えたら……私……熱くなって……止められないの……ねぇ? ショーゴくん……ショーゴくんが好き……大好き…ハァぁ……んっ…」

 快感の波が訪れてくる。

「ぁぁ………」

 小さな喘ぎ声をあげて、果凛はオルガスムを迎えた。

「ハァぁ……、……………………」

 下着を乱したまま果凛は、まどろみに身をまかせる。

「………………………………。たはーっ………一人エッチなんて……」

 そろそろ眠ろうと思い、果凛は起きあがって濡れた股間と指を拭こうとして、蚊に気づいた。よりによって2匹の蚊が果凛のクリトリスと大陰唇に留まっている。

「やだっ!」

 パシっ!

「はうっ?!」

 果凛は股間を叩いて呻いた。

「ううぅぅっ…うぅぅ…痛ぁあい…くぅううぅ…」

 自分で叩いた股間を押さえて身体を丸くする。デリケートなところを勢いよく叩いた自分の愚かさを怨みつつも、叩いた手を見ると2匹の蚊が張りついていた。

「まったく、なんてところを……」

 潰れた蚊は吸い取った果凛の血も弾けさせて死んでいる。

「………人類に対する、いえ、私に対する挑戦ね。明日、ジイヤに頼んで庭から一掃してもらうから。一族郎党皆殺しよ」

 果凛は起きあがって窓を閉めると耳を澄ませる。浸入したのは殺した2匹だけのようで羽音はしない。窓から見える庭園に宣言する。

「わたくしを辱めた罪、毒ガス攻撃で報復いたしますわ。虫けらども、せいぜい今夜限りの命を楽しみなさい。あなたたちは明日の月を見ることはないわっ! ………たはーっ……って、何をバカなことをハイテンションで、演じてるのかしらね、私は……」

 急に虚しくなったので果凛は部屋を出るとトイレに入って手を洗う。洗い終えて部屋に戻る途中で、果凛は股間に痒みを覚えた。

「うっ………」

 痒みは歩く度に増してくる。刺されたクリトリスと大陰唇が痒くて疼いている。

「くぅ……」

 くねくねと果凛は千鳥足で歩きつつ部屋に戻るとベッドに倒れた。

「あああっ、もう! 最悪っ!」

 痒くても掻くわけにもいかず、果凛はベッドで悶える。

「うぅぅ……痒いぃ……」

 せめて股間を押さえて、軽く擦る。

「ぁあぁ……痒っ…ぅぅ…」

 果凛は刺されたところを確かめてみる。

「………」

 刺されたクリトリスは赤く腫れ、右側の大陰唇も刺された部分が膨らんできている。

「ホントに、なんてとこを………痒っ…」

 そっと優しく指先で掻くと、果凛は喘ぎ声をあげた。

「あぁぁ……気持ちいい……」

 痒いところを掻く快感と、クリトリスを刺激する快感の相乗効果で果凛は目線を彷徨わせ、ヨダレを零してしまった。

「………くっ…。私としたことが……」

 ヨダレを拭いて果凛は戒めるように股間を軽く叩いて痒さを忘れようとする。

「……………………。ぅぅ……くぅぅ……やっぱ、痒いぃぃ!」

 ガマンしようと思っても痒くて痒くてジッとしていられない。

「うぅぅ…ぅぅ…薬もらうにしても……こんなとこ刺されたなんて梅子ちゃんに言えないし…」

 いつも蚊に刺されても梅子に薬を塗ってもらっているので、薬だけもらうということをしたことがない果凛は、どこを刺されたかを言わずに薬を渡してもらう方法を考える冷静さも無くして、身もだえした。

「ハァ…ハァ…痒すぎ……これは……もう、……拷問よ…」

 果凛は起きあがると、部屋の中をウロウロと歩き回る。それで気が紛れるかと思ったけれど、痒さは身体から離れてくれない。

「ぅぅ…くぅ…くっ…」

 よろよろと机に手をつき、無意識に股間を彫刻が施された机の角に押しあてる。

「ハァ…ハァ…痒っ…うまっ…」

 ほどよい形の彫刻された机の角に果凛は押しあてた股間を擦りつけて痒みから逃れようとした。

「ぁハァ…ハァぅ…くぅ…ぁあ…」

 擦りつけると痒みが少し治まるけれど、やめると痒くなってしまう。

「ああぁ…ハァぁあ…んぅぅ…」

 擦りつけ続けるうちに性的な快感も高まってきて果凛は開き直って二度目の自慰に浸ることにした。

「ハァぁ…ハァぁ…ショーゴくっ…かゆっ…うまっ…」

 机を正午だと思って抱きつき、股間を擦りつけ、腰を振る。

「ああぁあっ!」

 すぐに快感の波が高まり、果凛は机を愛液と唾液で汚した。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

 思いっきり擦った股間は痒さは消えたけれど、少し痛い。

「…ハァ……ハァ……ふーっ……」

 果凛は机から離れてベッドに倒れた。

「……ハァ………………………」

 目を閉じ、このまま眠ろうとしたが、すぐに痒さが再燃してきた。

「………くっ……もう、…」

 仕方がないので指先で軽く掻く。

「………んーーっ……」

 やはり掻くと、たまらない快感が湧いてくる。

「ぁあんっ…はぁぅ…かゆっ…うまっ…」

 果凛は両脚を開いて股間に両手を入れ、思う存分に掻いた。

「はぁぁぁぁ……」

 蕩けた声をもらして自慰を続けているうちに、外が明るくなり始め、ようやくウトウトと眠りかけた頃、ジイヤが起こしに来た。ドアがノックされ、声が響いてくる。

(お嬢さま。おはようございます)

 何度目かのジイヤの声で、果凛は目を開けた。

「…ぇ…もう…朝…」

 いつもなら一人で起きているのに、ジイヤが起こしに来るということは起床の定刻を過ぎている。果凛は起きあがると身体の重さに気づいた。

「……夕べ……5回は…」

 後半は正確に覚えていないけれど、少なくとも5回は自慰に耽ったおかげで身体に強い疲労感が残っている。股間は痛痒いけれど、それよりも汗の匂いが気になった。

「ジイヤさん、シャワーを浴びている時間はありますか」

(わずかですが、学校には間に合うかと思われます)

「ありがとう。朝食は半分ほどにしてもらっておいてください」

(かしこまりました)

 ジイヤの気配が消えると、果凛は隣室でシャワーを浴び、すぐに身支度をして食堂へ降りた。

「「おはようございます。お嬢さま」」

「おはよう。ジイヤさん、梅子さん」

 果凛は家族のいない広い食堂で朝食を終えると、すぐにリムジンへ乗った。ジイヤは安全運転で浜咲学園へ向かう。果凛は座ると、すぐに眠気を覚えて睡魔に身を委ねた。

「……すーっ……」

「………」

 ジイヤはバックミラーに映る果凛が眠りながら無意識で股間を掻いていることに気づいたけれど、見なかったことにする。もともと短い浜咲学園のスカートで座ったまま股間を掻くと捲れあがって下着が見えてしまっている。赤信号で停車したときにジイヤは備えつけの毛布を果凛の膝へかけた。

「お嬢さま。到着いたしました」

「ぁ……ごめんなさい。眠っていたのね」

 果凛は校門に横付けされたリムジンから降りると校舎へ向かう。途中で、いのりと一蹴に出会った。

「……ん~っ…」

「コラ、いのり! だから、歩きながら寝るなって! また、電柱に当たるぞ!」

「…ん~っ…、…だってぇ…」

 いのりは重い瞼を開けたり閉じたりしながら、手を引いてくれる一蹴に抱きついて甘える。

「イッシューぅ……学校に行く前にぃ……もぉ一回しよ♪」

「目を覚ませって! もう学校だから!」

「う~? ……じゃあ……私、熱があるみたい……保健室に、いっしょに…」

「保健の先生にも顔を覚えられてるだろ?!」

 痴話っぽいことを言い合っているので果凛は咳払いしてから声をかける。

「おはよう、一蹴くん、陵さん」

「っ、お、おはようございます!」

 一蹴が慌てて、いのりが抱きついているのを引き離して挨拶を返した。

「ぅぅ、痛いよぉ」

「だから、目を覚ませって。みんな見てるから」

「いいよぉ♪ だって、イッシューと私は世界の運命…」

「仲がいいのですね。遅刻しないようにね」

 果凛は眼を細めて一蹴に視線を送ると、すぐに昇降口へ向かった。平静を装っているけれど、かなり股間が痒い。痒くて痒くて仕方ない。内股気味で歩き、上靴に履きかえて女子トイレに入り、個室のドアを閉めると、スカートをあげ、下着の上から陰部を擦った。

「あ~……痒いぃ……ああ~……」

 人目を憚ることなく股間を掻いて気持ちよさに身もだえする。

「…はぁあぁ……」

 生温かい吐息を漏らして果凛は股間を擦る。

「んぅぅ~……」

 擦るだけでは満足できなくて掻いた。

「ぁああぁ………ふーっ」

 ある程度、満足するまで掻くと高級腕時計で時間を確かめ、着衣を整えて教室に入った。

「…………………………」

 平気……耐えられる……授業中は、授業に集中する……、果凛は自己暗示をかけて痒みを抑えようとしたけれど、やはり15分もすると痒さが再燃してくる。

「……くっ…」

「センター試験に出題されたことはありませんが、とりかえばや物語は平安文学の…」

 つばめの授業は果凛の耳に入らない。

「古文では一度、出題された同一作品の一定範囲は二度とセンター試験で出題されないという傾向がありますから、過去に出題されていない作品を読み込んでおくことは…」

 いよいよ受験が追い込み期に入っているので、つばめも熱心に授業をしているけれど、果凛は痒み耐えるため、内股に寄せた膝を擦り合わせて、わずかに身じろぎすることで誤魔化そうとするけれど余計に痒さが増してくる。

「……ぅ~……ぅ…」

 思わず呻き声をもらしてしまい、果凛は口を手で押さえた。

「……」

 小さな声だったし授業中なので、誰も果凛を見ていない。

「………」

 ちょっとだけ……ちょっとだけなら……、果凛はスカートのポケットへ手を入れると、何食わぬ顔で股間を掻こうとしたけれど、うまく届かない。

「……………」

 ん~~っ……ダメっ、届かない……くぅう……痒っ……痒すぎっ……、果凛はクラスメートたちが自分を見ていないことを再確認してから、耐えきれずポケットから出した手をスカートの裾をたくして股間に入れた。なるべく授業を聴いている姿勢をかえずに、指先で股間を掻く。

「…………」

 はぁぁ……気持ちいい……掻いてることって、なんて気持ちがいいの……、果凛は蕩けて吐息を漏らしそうになり、左手で口を押さえた。

「………」

 私ってば、なんてことを授業中に……でも、やめられない……んぅぅ……、果凛は机で下半身が隠れていることを確認しつつ、少しだけ脚を開いて指先をクリトリスまで届かせる。一番掻きたいところを、そっと擦った。

「……………」

 ああっ……いいっ……、果凛は喘ぎ声をあげそうになり、左手の小指を噛んで耐えた。

「………」

 いい……気持ちいい……ハァ……ハァぁ……、果凛が股間を掻いていることにクラスメートたちは気づいていない。果凛は左手の小指を噛みながら、授業を聴いているフリをしつつ、クリトリスを掻いた。

「……………………」

 はぁぁ……はぁぁん……、痒いところを掻く快感に、さらに性的な快感が混ざってくるのを自覚したけれど、やめようという理性の声は、感覚の気持ちよさに押し流されて果凛は指を動かし続ける。

「………………………………」

 んぅ…んぅぅ……んんっ……、果凛は絶対に喘ぎ声だけはあげないよう、血が出そうなほど小指を噛みながら自慰を続けた。ほとんどのクラスメートたちは、つばめが珍しく受験に役立ちそうな授業をしてくれているので集中していたけれど、まったく受験する予定のない智也が果凛の所業に気づいた。

「……」

 りかりん、何してるんだ? 気分でも悪いのか………っていうか……アレって、まさか……、智也は見ていることを果凛に気づかれないよう、電源を切ったケータイ電話の液晶画面に果凛の姿を反射させて見ることにする。

「……………」

 りかりん……あいつ、オナニーしてんのか……マジでか? あいつに限って……、智也は映った果凛の姿に目を疑ったけれど、ちょうど智也の席からは果凛の机の下も見える。果凛は右手をスカートに入れて、左手で声を押さえつつ、平静な顔をしているけれど、頬が赤く肩が震えている。両脚の爪先が少し反り、ふくらはぎも緊張している。智也の知る限り女性がオルガスムを迎えるときの反応としか思えない様子だった。

「………」

「……………………………」

 あぁあっ……やっと、おさまって…………、果凛は掻きたいだけ掻いて、額に汗を浮かべ、息を吐くと智也が見ていることに気づかず、ハンカチで汗と手を拭いた。

「…………」

「………」

 りかりん、あいつ、欲求不満か………って、オレまで反応して、どうする? 智也は無自覚に勃起していたことに気づいて、ズボンのポケットに手を入れて男根の方向を変えて誤魔化した。

「………」

 思わず勃ったじゃないか……まあ、オレも欲求不満だよな……クロエが家に来てから鷹乃と一回もヤってないし……だからって、鷹乃とクロエが一つ屋根の下にいるのに、オナニーするのもバカみたいだし……、智也は鷹乃へ視線を送る。

「「……」」

 どうしたの? ヤりたい。今? 今、というアイコンタクトが瞬時に成立した。鷹乃は少し困った顔をしたけれど、強い否定は返ってこない。智也は挙手して立ち上がった。

「先生」

「何ですか?」

「サボります」

「……。ご自由に」

 つばめは出席簿を開いて三上智也の欄に早退のマークを書く。智也が鷹乃も連れ出したので寿々奈鷹乃の欄にもマークを加えて、教室を出て行く二人に声をかけることさえ煩わしいというように授業を再開した。

「センター試験の選択肢において…」

 つばめは何事も無かったように授業を続行する。果凛も冷静になって、自分がしたことを振り返って、ゾッとした。

「………」

 なんてことを……私は……………、果凛は冷や汗を流した。

「……」

 このままじゃ……とにかく、この痒さを、なんとかしないと……、果凛は再び痒みが襲ってくる前に冷静な対処法に気づいて、挙手した。

「先生。よろしいですか?」

「何ですか?」

「少し気分が悪いので保健室へ行きたいのです」

「どうぞ。誰か付き添ってあげなさい。保健委員は…」

「一人で大丈夫です」

「そうですか。チャイムまでに戻ってくれば、早退にはしません」

 つばめは果凛の顔色をみて、それほど重い病状ではないと判断したので一人で行かせる。果凛は立ち上がると、一礼して教室を出る。廊下は授業中なので誰もいなかった。

「……ああ、もう、また痒くなってきちゃった…」

 誰も見ていないので遠慮無く股間を掻きながら廊下を歩き、保健室に着いた。

「保健の先生が、いませんように」

 果凛の祈りが通じたのか、養護教諭は在室していなかった。

「ラッキー♪ どこを刺されたのか、訊かれなくて、すむ♪」

 果凛は薬品棚に駆けよると、虫さされの薬を探した。

「虫さされ……痒み、痒み、と……あった!」

 お目当ての薬を見つけ、股間に塗ろうとして思い止まる。早く塗りたいけれど、このまま保健室の真ん中でスカートをあげてショーツをおろすようなことはできない。もしも、養護教諭が戻ってきたり、他の生徒が入ってくるようなことがあれば、今日まで築き上げてきた果凛のイメージが壊れてしまう。はやる気持ちと痒さを堪えて、果凛は保健室の奥へ行くと、ベッドの一つにあがり、カーテンを閉めた。

「ふーっ……これで心置きなく…」

 果凛はスカートをあげて裾を咥え、ショーツを膝までさげて、虫さされの薬をクリトリスと大陰唇に塗りつけた。

「これで、やっと…………………んっ? ……んんんっ?!」

 痒みがおさまってくれると思ったのに、薬を塗った途端、猛烈な痛みが生じて果凛は驚いた。

「うぐぅぅうう…」

 声を上げずにはいられないほどの痛みが股間に張りついている。まるで灼けた鉄をクリトリスに接着されたような灼熱痛が果凛を苛み、悲鳴をあげさせた。

「あああぁあぁあっ! いたあああああっ!! ヒッひいぃいいぃ!!」

「「?! ………」」

 一番奥のベッドで抱き合っていた智也と鷹乃が驚いて、カーテンを開けたけれど、果凛は激痛でベッドに倒れ込み、気づいていない。

「ひいいぃっぃいいい!」

 果凛の股間は昨夜から掻き続けたせいで、敏感でデリケートな粘膜が、血の滲むくらいになっていた。そこに虫さされの薬が染み込み、股間を炎で炙られるような痛みとなり、果凛は悲鳴をあげながら苦し涙を流している。

「ひぃっ! ひいいいっ! 死ぃいい!」

「おい、りかりんっ?! 大丈夫か?!」

「花祭さん、どうしたの?!」

 智也と鷹乃に声をかけられても果凛は尋常でない痛みのために転げ回って苦しみ、血迷って手近にあった消毒液を股間にかけた。消毒液は虫さされの薬よりも強烈にしみた。

「ぎゃあああああああああっ!!」

「「………」」

 智也と鷹乃が絶句するほどの形相で果凛は叫び、クリトリスが焼け落ちそうな痛みで失禁した。

「ハァヒィっ! ハァヒィぃい!」

 その失禁が幸いにして、薬品の苦痛を洗い流してやわらげてくれる。果凛は本能的な焦りで吹き出している自分の尿を手に受けて、股間を洗った。

「はああぁあぁ…ぁあぁ……うぅぅ…」

「「………」」

「ぁあぁあぁぁ…」

 果凛は失神しそうな虚ろな目をして、酸素の足りない魚のように口をパクパクと開閉させ、両手で受けた自分の尿で無心に股間を洗っている。放尿が終わってもピチャピチャと陰部を擦っている。

「ぁあぁ…ぁあぁ…」

「花祭さん……そんなに痛いなら…」

 洗っても、まだ痛む果凛の股間に、鷹乃は薬品棚から選んだ生理食塩水をかける。鷹乃は生理食塩水のボトルが無くなると、果凛を立たせて水道の蛇口へ導き、ホースで充血した股間に水をかけてやった。

「ハァ……ハァぁ…」

「大丈夫? まだ、痛む?」

「…へ? ……誰? ………す……寿々奈さん? ……どう……して…?」

 まだ状況がわかっていない果凛はヒリヒリと痛む股間が鎮まるにつれ、鷹乃を見上げていた顔を伏せた。

「……」

「……。花祭さん、大丈夫?」

「………ええ……」

 果凛は濡れたショーツを引きあげて、鷹乃に問う。

「………いつから……見て……たの?」

「…………。花祭さんが悲鳴をあげたところから…」

「そう………」

 果凛は鷹乃と目を合わせず、乱れた制服を直しながら、鷹乃以外の気配に気づいた。視界の端にいた智也と目が合う。

「……」

「……」

 智也も何と言っていいか、躊躇い。目をそらした。鷹乃が二人の間に入る。

「花祭さん、いったい、どうして?」

「………。……別に……」

「でも…」

「寿々奈さん、お願いがあるの」

「なにかしら?」

「あなたは、ここで何も見なかった。……私に会わなかった。……そーゆーことにしてほしいの。お願い」

「それは、もちろん……」

「……ありがとう」

「オレにも、そのお願いは適応されるのか?」

 智也が問うと、果凛は戸惑ったけれど、答える。

「ええ……お願いするわ」

「じゃあ、条件がある」

「……………………。どんな?」

「智也、そんなことを言うなんて、ひどいわ」

「まあ、黙って聞けよ。鷹乃も、気になるだろ。いきなり保健室に入ってきて、いったい、何が、どうなって、なにをしてたのか。それを知らずに黙っているのは、けっこうな苦痛だぞ。オレと鷹乃にとって。痴的好奇心が満たされず、気になって、しょうがない。だから、条件は二つ、どうして、りかりんは保健室に来て、何をしてたのか。それは、授業中にオナニーしてたことと関係あるのか。それを正直に教えてくれること」

「っ……。見て……たの?」

「まあな」

「……………。あれは……」

「条件を満たしてくれるなら、絶対に他人に言わない。誓う」

「………………。もう一つの条件は?」

「りかりんのオレへの絶交を解いてくれること。オレは友達との約束なら、守ろう。でも、オレを軽蔑してる女との約束は、いつ破ってもいい気になりそうだ♪」

「……人の弱みにつけ込むの? それで友達って、言える?」

「うむ。りかりんはオレが鷹乃にノーパン登校とかをお願いしたのを軽蔑してるよな。まあ、そーゆーのが理解できないなら、できないで、しょうがないけどな。でも、オレは、りかりんが授業中にオナニーしても軽蔑しない。まあ、したかったんだろう、若さゆえの過ちだろうと、思うことにする。そーゆー趣味って人それぞれだろう? だから、そのことで軽蔑するのを、そろそろやめてくれないか?」

「…………。……わかったわ」

「サンキュー♪」

「で、りかりんがオナニーしてた理由は? 彼氏か誰かに求められてか?」

「………。違うわ」

「智也、花祭さん、言いたくなさそうよ」

「う~ん……まあ、言いたくないならいいけどな。けど、誰かに脅されてしてるとかなら、友達として協力するぞ」

「ずいぶんと……お優しいのですわね。私はあなたを軽蔑してたのよ? それとも、何か罠でもあるのかな」

「ないって。言ったろ、友達に戻りたいだけだって。人に心底から軽蔑されてるのは、けっこう心地悪いもんだぞ。とくに中学からの友達に無視されるのは残念の極みだ」

「……………………。………わかったわ。………だから、さっきの私のこと、絶対に誰にも言わないって約束してちょうだい。誰にも、よ。桧月さんや今坂さんにも、絶対に」

「わかった。鷹乃も、それでいいよな?」

「ええ」

「じゃ、りかりんが着替えるだろうし、オレは先に出てる」

 智也は軽く手を振って保健室を出て行った。

 



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22話

 

 12月始め、ほたるはウイーンの学生寮で巴と唯笑から届いた手紙を読んでいた。

 

 はおっ♪

 ほわちゃんがウイーンにいって、もう三ヶ月になるね。すぐに連絡するつもりだったのに、あっという間に三ヶ月も時間が過ぎちゃって、私たちの友情は距離や時間に負けちゃうのかな?

 否、断じて否。

 恋愛に終わりはあっても友情に終わりはない!

 ということで、聞いてください。

 私ってば、失恋しました。

 フラれちゃいました。

 あっさりと「他に好きな子がいるから」って、その子に告白するための準備として、さっくり捨てられました。まあ、せめてもの救いは、そのバカが告白した相手(トミーの彼女だっていうから、これも驚きだけど)が、ばっさり彼を切り捨ててくれたことだけど。

 とまあ、笑っちゃうくらい、刹那的に一夏的に私の恋愛は終わってしまいました。もう、しばらく男なんていらない。演劇に専念します。

 でも、その前に、ほわちゃんに謝らないといけないことがあります。

 ごめんなさい。

 本当に、ごめんなさい。

 でも、最初は知らなかったんです。

 知り合ったときは知らなかったの。

 好きになった後、もしかしたら、ほわちゃんの彼氏かも……って、少しは考えたけど、そうじゃないはず、そんなことない、って自己欺瞞してた。

 最低なことをしたって思ってる。

 だから、お願い、今度会ったとき、私を怒ってほしい。

 お願いだから、無視しないで怒ってほしい。

 ごめんなさいを言わせてください。

           あなたの親友でいたい飛世巴より

 

 ほたるは手紙を読み終えると、深いタメ息をついてカナタの寝顔を見つめた。

「……………………」

 トトちゃんを捨てた健ちゃんが鷹乃ちゃんに告白してフラれて、トトちゃんは私と仲直りしたいって……………人の運命と未来なんて、あっという間に想像もしなかった方向に流れちゃうんだ………一年前には健ちゃんと付き合えるなんて夢みたいなことだったのに、今は正午くんと付き合ってるのにカナタちゃんが隣にいる………、あ、唯笑ちゃんからの手紙も読まないと、ほたるは二通目の手紙を開いた。

 

背景

ほたるちゃんへ

この手紙が届く頃、もう一つ、トトちゃんからも手紙が届くと思います。

もしかしたら、トトちゃんは自分が全面的に悪かったって書くかもしれないけど、そんなことはないです。トトちゃんがイナミ君と出会ったときには、ほたるちゃんの彼氏だとは知らなかったの。本当に。もしも、知っていたら絶対に友達を裏切るようなことはしなかったって、そう思うから。

でも、途中から、ほたるちゃんの彼氏かもしれないって思いかけたけど、もう、そのときには好きになる気持ちを止められなかったんだと思う。唯笑も、そーゆー気持ちが止められないことは知ってるから。もう、他の人の恋人なんだから好きでいちゃいけないって頭で考えてるのに、気持ちは消えないから。でも、いけない気持ちを続けることの代償が大きいことも、トトちゃんは後悔してるから。

それに、トトちゃんは反省してるし、もうイナミ君の彼女でもないから。だから、トトちゃんを許してあげてほしいです。

 お願いします。         刑具

                      今坂唯笑

 

 ほたるは手紙を読み終えると、長らく読んでいなかった日本語の辞典を引き、唯笑が背景と拝啓、敬具と刑具を間違えたことを確かめてから、手紙を片付けようとして、巴からの手紙に同封されていた紙に気づいた。

「……トトちゃん……」

 同封されていたのは劇団「バスケット」のクリスマス公演のチケットだった。

「……………………」

「…ん…ぅ……ほたる?」

 カナタが目を覚ましてベッドから起きあがってくる。

「手紙? 誰から?」

「唯笑ちゃんとトトちゃん」

「ふーーん……、読んでいい?」

「うーーーーーん………ま、いいよ」

 ほたるは手紙を机に置いた。カナタは手を伸ばそうとして止まった。

「読んでほしくない感じの内容?」

「さあ?」

「……アタシの真似してる」

「まあねン♪」

「読んでほしくないなら、いいよ」

「いいよ、読みたいなら読めば?」

 ほたるは机に置いた手紙をカナタに手渡した。カナタは迷ったけれど、ほたるが受け取った報せを読みたい気持ちに負けて手紙に目を走らせる。

「クスッ…背景って…」

 カナタは唯笑と巴からの手紙を読み終え、ほたるが公演のチケットを見ながら、スケジュール帳を開いているのを見て問いかける。

「……それ……行くの? 日本に、……行っちゃうの?」

「カナタちゃんも、いっしょに行く?」

「………」

 カナタは暗い顔をして黙り込んだ。ほたるはタメ息を隠してカナタを試してみる。

「ほたるは行くよ。正午くんに会いたいし」

「っ…」

 カナタの顔から血の気が失せて、小刻みに震えている。ほたるは症状が悪化しないうちに、優しくカナタを抱きしめて囁く。

「もちろん、カナタちゃんも大好きだから安心して」

「……うん……」

「カナタちゃんも、いっしょに日本に行こ」

「………でも…」

「クリスマス休暇の間だけだよ」

「…………」

「そろそろ日本に戻ってビザを取り直さないと滞在期限が過ぎて、次に入国するのが難しくなるし」

「…アタシは……ほたると、いっしょがいい……ずっと…」

「じゃあ、ほたるはウイーンと日本を行ったり来たりするから、ちゃんとビザを取り直してくれないと、ほたるまで不法滞在の幇助で逮捕されちゃうよ」

「………………」

「わかってくれた?」

「……うん…」

「……………………。そんなに、正午くんに会うのが怖い?」

「……………………………別に……」

「じゃあ、いのりちゃんに会うのが怖いの?」

「っ……、……………………」

 カナタが青ざめて身震いした。

「カナタちゃん……」

 いのりちゃんは、いったいぜんたいカナタちゃんをこれだけ怖がらせるなんて、どんなことをしたの………いのりちゃんって温和しそうに見えて、何をするか、わからないところがあるみたい………、ほたるはカナタを優しく抱きしめてキスをした。

 

 

 

 クリスマスソングが鳴り響くスーパーの食品売り場で、鷹乃とクロエが仲良く買い物をしている姿を智也は退屈そうに眺めていた。

「ねぇ、クロエ。お肉は何にする?」

「もちろん、チキン♪ クリスマスといえばチキンで決まり。本当は七面鳥なんですけど」

「じゃあ、見栄えもするし量の割りに安いから、丸一匹のチキンを買って料理に挑戦してみる?」

「はいっ♪」

 屈託のない微笑みを交わして買い物している二人を見ていると、姉妹にも母娘にも見えそうで智也は奇妙な心地だった。

「……」

 たはっ……鷹乃がクロエを産むのは無理………まあ、鷹乃が化粧して、クロエが子供っぽい服を着れば親子にも見えるか……って、じゃあ、オレはオヤジか? ……ったく、本当のオヤジは今頃、何をしてるんだか……、智也はクロエが鶏肉の品定めをしているのを横目にして、鷹乃の腿を撫でた。

「…」

 鷹乃は内腿を撫でられ、さらにスカートへ忍び込んできた智也の手がショーツをよりわけて陰部にまで入ろうとしたのでクロエに気づかれないよう睨みつける。

「……」

 さっき学校でエッチしたばかりじゃない、クロエの前ではやめてちょうだい、鷹乃が無言で抗議すると、智也は降参して二人から離れる。

「オレ、ちょっとブラブラしてくる」

 まあ、いいや、クロエがオレのこと諦めてくれて、代わりに鷹乃に依存するなら、そーゆー関係もありだろう、もともとクロエのオレへの想いは恋愛っていうより両親不在の家庭で育った子の本能的な反応みたいなもんだろうし、鷹乃が一番よく理解してやれるだろうから、まさか家出が年末まで続くとは思わなかったけど、クロエもオレと男女の関係に戻ることは望んでないみたいだから、オレも暮らし難いってわけじゃないし、とりあえず正社員になってから考えよう、智也は微笑して手を振る。

「二人は、ゆっくり買い物してろよ」

「智也がいない方が落ちついて買い物できるわ」

「んじゃあ、一時間後くらいに」

 智也は二人と別れてブラブラと歩き回り、二人へのクリスマスプレゼントを考える。

「やっぱり宝飾品系かぁ……。ガンプラとか送ったら二人とも喜ばないだろうしなぁ…」

 オモチャコーナーでは二人が喜びそうな物はなく、やはり年頃の女性なので宝飾品から選ぶことにした。

「二人とも同じものにするなら……指輪は避けて、ネックレスとかかなぁ…。鷹乃はサファイヤで、クロエは……えっと……唯笑の誕生日から10を引いた……7月2日だったからルビーか」

 智也が一万二千円のネックレスを選んでいると、いのりと一蹴に出会った。

「よぉ、一年生最強バカップル」

「あ、三上先輩。ちわっす。って、そんな呼び方、やめてくださいよ」

「お前も彼女にプレゼント選びか?」

「ぇ……ええ…まあ」

「プレゼントなんて、いいよ、イッシュー。私はイッシューがいてくれれば、それだけで満足なの♪」

 いのりはリボンを出すと、一蹴の首に巻きつけて蝶々結びにした。

「ほら♪ イッシュー」

「ほらって……言われても……」

 一蹴は抱きつかれてタメ息をつき、智也は苦笑した。

「お前ら熱いなぁ……」

「えへへ♪ イッシューそのものがプレゼントなの。だから、イッシューへの私からのプレゼントは、私ね♪」

「お前らエロエロだなぁ♪ 今夜何発やる気だ?」

「えっと♪ できれば12月だから12回っ♪」

「おいっ……」

「いのり……、絶対無理だから……」

「オレは冗談で訊いたのに、マジに答えるなよ。しかも超絶絶倫的な回数を」

「冗談だったんですか? でも、やっぱりクリスマスは特別だよ、イッシュー♪」

「いのり……クリスマスは、もともとキリストの復活を祝う聖なる夜なんだからさ。もっと静かに過ごそうよ。バイト代が入ったからさ。ピアスくらいなら買ってあげられるし」

「う~ん……身体に穴をあけるのは……、えへっ♪ 私の身体に入るのはイッシューだけ♪」

「………」

「………、そんなオヤジギャグっぽいことを言ってると、師匠みたいに捨てられるぞ」

「白河先輩なんかといっしょにしないでください」

「「………」」

「それに、きっとイエス様も、愛は祝福してくれるよ。ね、イッシュー」

「そーゆーものじゃないと思うけど、本来のクリスマスから考えると…」

「いや、本来のクリスマスというのはイエスを祝う祭りじゃないぞ。ローマの豊穣の神サトゥルナリアを祝う祭りで、収穫を喜び、酒を飲み、男女が交わって過ごすのが本来の姿だ。そこで贈り物を交換したのが、サンタクロースの始まりだとも言われている。だいたい、キリスト教とサンタは関係ないしな。ようするにローマ時代の神の行事にキリストが、あとから乗っかっただけだ。おまけに日本だと23日は天皇誕生日であって本来は陛下の誕生日を祝う日だ。日本国民として少子化に対応するため、どんどん励むのが本来の姿だと思わないか?」

「思いません」

 一蹴は疲れた様子で首を横に振り、いのりのためにブレスレットを買った。

 

 

 

 ノエルは嘉神川家のリビングで父親と二人で飾ったクリスマスツリーを見上げながら、ここにいない姉へ送るクリスマスカードの文面を考えていた。

「………」

 お姉ちゃん、早く帰ってきて……だと、余計に気分を悪くするかな……じゃあ、お元気ですか……これじゃあ他人みたいで……、ノエルは考え込むけれど、なかなか産まれてから一度もいっしょに暮らしていない実の姉に家出をやめてもらう呼びかけを思いつくことができない。

「どうした? ノエル、うかない顔をして。お腹でも痛いのか」

「ううん、何でもない」

 ノエルが考えていることを伝えると、幸蔵も悩むと察して幼女は父親に笑顔を向けた。

「メリー・クリスマス♪ パパと初めてのクリスマスだね」

「ああ、ノエル。メリー・クリスマス」

「明日はね、ノエルの日なんだよ」

「そうだな。ノエルはフランス語でクリスマスだからな。それに今夜は前夜で明日が本番なんだったな。日本では、明日になるとクリスマス飾りも一気に終わって正月飾りになるからなぁ」

 幸蔵が欧米のクリスマスを思い起こしていると、エリーズがタメ息をついた。

「どうせ、明日も仕事でしょ。信じられないわ。普通はクリスマスから1月1日まで休暇をとるものよ」

「そ、…それは、欧米での話でだろ。その代わり日本は大晦日から三が日までが休暇になるんだ。文化の違いじゃないか、な?」

「せめて明日くらい休んで二連休にしてほしいわ。だいたい、今日だって日本の皇帝の誕生日だから休みなだけでしょ」

 エリーズは文句を言いつつもプレゼントしてもらった高価な指輪を見つめて微笑む。

「まあ、いいわ。今夜は、これに免じて許してあげる。ね、ノエル」

「うんっ! パパ、大好きっ!」

 ノエルは七年分のクリスマスプレゼントとして七個もオモチャを買ってもらっている。あとはクロエのためにエリーズと選んだプレゼントを渡すだけだったけれど、どうやら今夜のパーティーにさえ帰ってきてくれない様子だった。幸蔵はプレゼントへ視線を落としてタメ息をついた。

「………クロエは……帰って…来ないか…」

「そうみたいね」

「……………。お姉ちゃんが帰ってこないなら、みんなでプレゼントを渡しに行こうよ」

「「……………………」」

「ね? ね♪」

「……クロエは私の顔を、まだ、見たくないはずよ」

「ママン……、じゃあ、パパとノエルで行こうよ」

「そうだな……、そうするか」

「やめてあげなさい。ミカミさんに迷惑よ。クリスマスに会社の社長と会いたいと思う? そうでなくても日本人って会社を離れてもプライベートと仕事の境界が曖昧でしょ。せっかくのクリスマスに社長の顔なんて見たいと思うの?」

「う…うむ…、そうだな。彼には迷惑をかけどうしだからな……」

「じゃあ、ノエルが一人で行く!」

「「……………………」」

「もう日本の町も覚えたから平気だよ! ノエル、一人で行ってくる!」

「いや、しかし、もう日も暮れているし……」

「そうね、じゃあ、タクシーで行って、帰りもタクシーにしなさい」

「やった♪ お姉ちゃんに会える、やった♪」

「ついでに料理も持っていってちょうだい。どうせ、チキンで済ませてターキーは取り寄せてないでしょうから」

 エリーズは七面鳥の丸焼きを切り分け、野菜の付け合わせといっしょにタッパーに入れてノエルに持たせた。

 

 

 

 果凛は花祭家の盛大なクリスマスパーティーで次々と挨拶に来る招待客へ微笑を送ることに疲れていたけれど、一片の疲労感も見せずに笑顔をつくっていた。そこへ、モデル仲間の音緒が気づかって声をかけてくれる。

「メリー・クリスマス♪ KARINさん」

「あ、NEOさん」

「今夜はお招きにあずかりまして、どうも」

「こちらこそ、来てくださって嬉しいですわ。ありがとうございます」

「ふふ、その挨拶、もう何回目なんです?」

 音緒が耳元で囁いてくると、果凛も作りものでない微笑とタメ息で答える。

「さあ、ヒマなら数えておいてくださいな。それより、NEOさん、おめでとう♪ レミューの件、決まったんだって?」

「ありがとうございます。おかげさまで♪」

「いよいよ私も追い越されそうね。負けちゃいそう。頑張らないと」

「……」

 おりょりょ……すでに、モデルとしては私の方が勝ってると思うけど……KARINさん、まだ雑誌の表紙飾ったことないし、せいぜい、記事の一つ、二つくらいで、あとは通販モデルくらい……田原食品のテレビCMも好評で、次はレミューブランドのイメージガールまで決まった私NEOに追い越されてないって認識なんだ…………まあ、これだけゴージャスなお嬢さまなんだし、あと、年齢は絶対に追い越せないから♪ 音緒は心の中の電子掲示板に書き込んだことを一片も見せずに笑顔をつくっていた。そこへ、二階堂達郎が現れたので音緒も果凛も、うっとうしく思ったけれど、やはり一片も見せずに笑顔をつくる。達郎も唇の端をつり上げるような笑顔になって、一流の紳士をマネした礼をする。

「これはこれは、お美しいお嬢さま方♪」

「今晩わ。来てくださって嬉しいですわ。ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそお招きにあずかり恐悦至極」

 達郎は果凛の手を取って甲へキスをしようとしたけれど、音緒がタイミングよくワイングラスを達郎に勧めてくれた。

「二階堂ディレクターも呼ばれてたんですね。このパーティー」

「ああ、まあね♪ 何と言っても、ほら、ボク、花祭議員から栄誉ある賞をいただいたからさ。この子と、いっしょに」

 達郎は同伴していた一条秋名を二人に紹介しようとしたが、秋名はカメラのシャッターを押した。

 カシャっ…

 いきなり写真を撮られた果凛と音緒は驚いて目を丸くし、さらに二枚目を撮られると果凛は一片の不快感も見せずに困った顔をつくったけれど、音緒は不快感の一片を見せて秋名に抗議する。

「写真、やめてくれる?」

「…ご……ごめ…なさい…」

「悪い悪い、ごめんね!」

 達郎が秋名の頭を下げさせる。

「この子、いきなり写真撮る癖があってさ。ごめんね。二人ともモデルなんだからさ、写真は事務所通さないとね。ごめん、ごめん」

「データ、消しておいてくださいよ」

「いや、それが、この子のカメラは…」

 達郎が秋名のカメラが旧式のフィルムカメラで、この場でデジタルカメラのようにデーター削除ができないことを説明すると、音緒がタメ息をつき、果凛は微笑した。

「かまいませんわ。でも、帰ったら処理しておいてくださいね。一条さん」

「…は……はい…」

「………」

 この子、たしか……心の闇を抱えた14歳とかいうコンセプトの写真集で……あまり見たい写真集じゃないかな、ちゃんと私の写真、消しておいてくれるといいけど、変なことに使われたらヤダなぁ……、果凛は終始笑顔で立ち去る秋名と達郎に手を振ったけれど、音緒は二度目のタメ息をついた。

「イヤな感じぃ……あの子って、ほら、KARINさん知ってます? あのグロい写真集の」

「そうなの?」

「なんか、心に暗黒を宿した14歳とか、どうの、みたいなテーマの写真集で、ネズミの死体とか、そんなの撮ってるって」

「………。それは……変わった御趣味ですわね」

 果凛がコメントを選んでいると、稲穂鈴が緊張した顔つきで近づいてきた。

「こっ、この、この度は…、ぉ、おまねきっいただきっ、あ、ありがとうございます。わ、私、ぃ、稲穂…いえ、鈴代黎音と、もっ、申します。こ、こんなパーティー、はっ、初めてで…その…」

「こちらこそ、来てくださって嬉しいですわ。鈴代先生の小説、わたくしも少し読みました。とてもステキな作品ですわね」

「そ、そんな…先生なんて、私、まだ駆け出しで…」

 鈴の後にも次々と挨拶を受けなければならず、果凛は音緒に視線だけで別れを告げると招待客に囲まれ、花祭家の令嬢としての任務を果たしていった。

 

 

 

 ほたるは半年前に金賞を獲った文化ホールの前で巴と再会していた。巴の公演が始まる前のわずかな時間、楽屋の出入口で再会した二人は視線を合わせ、歩みよった。

「元気そうだね、トトちゃん」

「…うん…、まあね! はおっ♪」

 一瞬戸惑った巴が笑顔になると、ほたるも笑い。もう二人の間にわだかまりはなかった。

「ほわちゃん、ウイーンの方は、どうよ? ちゃんと馴染んでる?」

「うん、ぜんぜん平気だよ。ご飯が脂っこいことくらいからな、馴染めないのは」

「それはつらいねぇ。でも太ってないじゃん♪」

「太ったら新しい彼氏にまでフラれちゃうもん」

「え? 新しい彼氏っ?! マジで?!」

「マジで♪」

「そっかぁ……ほわちゃん、ピアノも恋も頑張ってるのかぁ……、どんな彼氏か、あとで教えてよね」

「え~♪ どぉしよっかなぁ」

「教えないと、また、うっかり盗っちゃうかもよ」

「ふふ♪ そうそう何度も盗まれないよぉだ♪」

「あ、そろそろ時間。ごめん、また、あとで!」

 巴は楽屋の中から森監督に怒鳴られて戻っていった。ほたるは爽やかなタメ息をつく。

「たはーっ……会ってみると、あっさり仲直りしちゃうんだ……不思議♪」

 ほたるは取り戻した友情で胸が温かくなったのを感じたまま、巴の公演を観覧して、再び楽屋の出入口で親友を待った。後片付けをした巴が急いで出てくる。

「ごめん、遅くなって」

「すっごく良かったよ! トトちゃんの演技!」

「ありがとう♪ ほわちゃんが来てくれたからだよ。ありがとう、ホント」

 二人は手を取り合って喜ぶと、近況を話ながら道を歩いた。

「で、ほわちゃんの新しい彼氏って? どんな人、名前は?」

「う~ん♪ 一言で言うと……」

「言うと?」

「テロリストかな」

「それはまた過激だねぇ」

「うん」

「名前は?」

「オサマ・ビンラディンくん」

「へぇぇ…あの国際的に活躍してる?」

「うん♪」

「九月のテロはすごかったねぇ。感動したよ♪」

「でしょでしょ」

「んなわけあるかっー♪」

「きゃは♪」

「あくまで言わない気なのかな?」

「えへへぇ♪ まあ、彼氏って言っても、まだ落ちついてないしね。もうちょっとしたら報告するよ」

「そっか。あ……でも、クリスマスの今夜、私と会ってるってことは……その彼氏が外国人でも日本人でも、ちょっと進んでない感じ?」

「さあ♪」

「どこまでも秘密主義とは、やっぱりテロリストか♪」

 はしゃぎながら歩いていた二人は向こうから歩いてきた一組のカップルを見て黙り込んだ。

「「あ……」」

 ほたると巴が異口同音して立ちつくす。二人の視線を感じた健と相摩望も立ち止まった。

「「………」」

「「………」」

 ばったりと歩道の真ん中で出会った四人は戸惑いのあまり沈黙して5秒も時間を過ごした。

「なるほど。ごくろうさん」

 最初に口を開いたのは巴だった。

「そーゆーこと、まあ、そーゆー男だったしね。ごくろうさん」

「…トト……、ボクは…」

「いやいや、たいした男だよ、あんたは」

 巴は芝居がかった口調で感心すると腕組みして頷く。

「次から次へと、見事にゴールを決めて、これがサッカーだったら一人で四点獲ったシュート王。あ、違うか。三本目のシュートは外したらしいから。ハットトリックってヤツ?」

「トト……、ごめん……ボクは最低だ…」

「いえいえ、最高っすよ。最高のプレイヤーっすよ。プレイボーイ♪ これは君のために作られてた言葉なんだね。うん」

「……ごめん……君を傷つけたこと、忘れないよ」

「あっそ。ああ、そうですね。私、傷物にされたしね。あ、そうそう、ハットトリックって言っても、ほわちゃんはガードしたしね。トミーの彼女にも一蹴されてるし、入れられたのは私だけかな? その子とは、もうヤったの? っていうか、今夜、これから? やめときなよ。悪いこと言わないからさ。この男、すぐに女の子を捨てるよ、飽きて、ポイって♪」

「……………………」

 健が黙って顔を伏せると、気後れしていた望が巴を睨んだ。

「さっきから、失礼じゃないですか。なんなんですか、あなたはっ?!」

「あ、自己紹介がまだでしたわね♪ わたくし、そこの色男の元彼女の…」

 演劇魂に火がついて巴が路上ライブを続けようとするのを、ほたるが止める。

「トトちゃん、もう、いいよ、やめて」

「……ほわちゃん…が、言うなら…。でも……」

「人は、ただ、なんとか幸せになりたいだけ、だから。その人が幸せになろうとするのは私には関係ないことだよ。だから、トトちゃんとも関係のないことだと思ってほしい」

「……………………。うん、わかった、そーゆーことにする。もう関係ないから」

「ほたる……」

「……………………。さようなら、伊波くん」

 ほたるは健の横を通り過ぎると振り返らずに進んだ。

 

 

 

 クロエは三上家のリビングで鷹乃と智也に囲まれて幸せそうに笑っていた。智也が教えてくれるテレビゲームを鷹乃と楽しみながら、こんなに笑って過ごしたクリスマスは初めてだったのに、玄関のチャイムが鳴って、鷹乃が席を立つと一抹の不安を覚えた。

「こんな日の、こんな時間に……誰……? ……智也さん、わかる?」

「さあな」

 智也は気にしていないけれど、クロエは不安が膨らんでくる。

「……私、……まだ、ここにいてもいい……の? ………迷惑?」

「いたいか、いたくないか、クロエが決めればいい。オレは妹か、娘がいるみたいで楽しいぞ、お前がいるの」

「智也さん……」

「きっと、鷹乃も、そう思ってる。でも、お前が帰りたいと思うなら…」

 智也の言葉はリビングにノエルが現れたので中断された。

「今晩わー♪ メリー・クリスマス♪」

「可愛いお客さんよ」

 鷹乃がノエルの背中を押した。

「お姉ちゃん、はいっ♪ パパとママからプレゼント! ノエルも、いっしょに選んだんだよ」

「………」

 クロエは反応に困って差し出されたプレゼントを見下ろしたまま動かない。

「……お姉ちゃん……」

「…………」

「え、えっと……これ、ローストターキー♪」

 ノエルはプレゼントをテーブルに置いて、背負ってきたリュックから料理を出した。

「ちゃんと七面鳥なんだよ」

「………」

「ほお、七面鳥か。さすが本場だな」

 智也が純粋な好奇心から興味をもった。タッパーには鶏よりも何倍も大きい七面鳥の脚が入っている。

「デカいな。これが七面鳥かぁ」

「うん♪ ストラスブールでは毎年、クリスマスは七面鳥でお祝いするんだよ」

「海外のドラマとかで見るけど、やっぱチキンとは違うなぁ。スケールが」

「そうね、大きいわね」

 鷹乃も興味をもった。

「一羽で何キロあるのかしら?」

「えっと……16ポンドだから……えっと……、お姉ちゃん、何キロになるの?」

「……。7キロよ。およそ」

「わぁ♪ さすが、お姉ちゃん」

「………」

「すげぇな。全体で7キロってことは、この脚だけでも2キロちかくになりそうだな」

「うん♪」

「前の鷹乃なら丸一匹でも食べられそうだけど、また太るかもな♪」

「智也っ!!」

「はははっ♪」

 智也が蹴られて笑った。

「まったく。でも、せっかくだから、いただくわね。ノエルちゃん、ありがとう」

「どういたしまして」

「ノエルちゃんも、いっしょに、どう? もう食べてきたの?」

「ううん、まだ♪」

「そう、じゃあ、そこに座って。もう一度、四人で乾杯しましょう」

 すでに三人で夕食を摂っていたけれど、ノエルを交えて七面鳥を食べ始める。鷹乃が切り分けて皿に盛っていくと、クロエは母親が焼いたであろうターキーを見つめたまま停止した。皿にはタッパーに入っていた盛り合わせの野菜のうち、クロエの食べられるものしか盛られず、智也や鷹乃の皿にピーマンやニンジンが分けられているけれど、クロエは手にしたフォークを動かさない。

「じゃ、いただくぜ。ノエルちゃん」

 智也が七面鳥を食べ始める。

「おお、美味いな。デカいのに、ちゃんと味があるな。歯ごたえがあってチキンとは、また違う感じだ」

「そうね。初めて食べるけれど、美味しいわ」

「エヘヘ♪ ノエルも味つけしたんだよっ」

「チョコは入れなかったか?」

「ぅっ……、どうして、ノエルがチョコを入れようとしたこと、知ってるの?」

「社長が言ってたんだ。お前、何にでもチョコを入れて食べようとするんだって? 先週なんか、お好み焼きにチョコが入ってたって」

「パパが……もお、恥ずかしいな。レディーのこと勝手に他で話さないでよ」

「他にも、カキコオロギ並みの…」

 智也が幸蔵から聞かされているノエルのことで盛り上がっていると、クロエはフォークを置いて立ち上がった。

「もう、お腹いっぱいなの。私、お風呂に入ってきます」

「「「……………………」」」

「……、お腹いっぱいだから」

 一口も食べなかったクロエはリビングを出て脱衣所に入ると全裸になった。

「……………………大人気ないかな……我ながら…」

 自分の行動を振り返って、軽い自己嫌悪をしつつ、熱いシャワーを浴びて湯船につかると少しは気持ちもほぐれた。

「あの子は……悪くないんだから……。……悪いのは……」

 クロエは頭を振って、風呂を出ると寝間着に袖を通した。洗面所の鏡を見つめると、妹そっくりの自分の顔が映っている。

「…………………………はぁぁ……」

 一つタメ息をついて脱衣所を出た。

「お先です」

「おう」

 智也がノエルとテレビゲームをしていた。

「ノエルちゃん、お前は覚えが早いな」

「そうかな?」

「まあ、ゲームは小学生が一番、強くなるからな。頑張れよ、このあたりのゲーセンを荒らして、ストラスブールの魔女を名のるといい♪」

 智也がノエルの頭を撫でた瞬間、クロエの中で何かが爆発した。

「っ!」

 ほとんど無意識にクロエの手がテーブルに残されたままのプレゼントを叩き落とすと同時に叫んだ。

「いつまでいるのよっ?!」

「っ………お姉ちゃ…」

「「クロエ……」」

「帰って! 帰ってよ!! あなたの顔なんて見たくもないっ!! 大っ嫌いよ!! 帰って!!!」

「「「………………………」」」

 あまりの剣幕に三人とも圧倒されて黙り込む。叫んだクロエも二の句がない。

「……………ごめんなさいっ!」

 ノエルが謝りながら部屋を飛び出し、玄関を出て行く。智也と鷹乃は一瞬のアイコンタクトで分担を決めて、鷹乃がクロエに歩みより、智也は飛び出したノエルを追った。

「おい、待てよ! ノエルちゃん!」

 待てと言うまでもなく、七歳の駆け足に追いつくのは簡単だった。走っているノエルの肩を捕まえる。

「暗いから走るなって、危ないぞ!」

「っ………おじさん…」

「うむ、お兄さんと呼べ」

「………。………ノエルは今、くだらない会話をする気分じゃないもん」

「では、大切な会話をしよう」

「……………どんな?」

「レディーの一人歩きは危険だ。家まで送る」

「……………………」

「………」

「……………………」

 ノエルが黙って歩くので智也も隣を歩く。

「……………………」

「……………………」

 くっ……沈黙が痛いな……七歳って、どこまで大人な部分があるのか……彩花と唯笑が七歳の頃って……けっこう大人かもしれないな……唯笑はともかく彩花は……よし……彩花並みだと想定しよう……、智也はノエルに話しかける。

「日本の国歌を知ってるか?」

「………………」

 ノエルは黙って首を横に振った。

「君が代、という歌だ」

「キミガヨ?」

「ああ」

 智也が国歌を謳うと、ノエルはタメ息をついた。

「なんだか、元気のでない歌……。フランスの国歌を知ってますか?」

「ラマルセイエーズだろ」

「……博識なんですね…」

「いや、オレにはフランス育ちのノエルちゃんが博識という単語を知ってるのが、驚きだが……。子供は子供らしくしろよ。ちょっと止まれ」

「はい?」

 ノエルが歩みを止めると、智也は背後に回って両腕を持つと、ノエルを肩車にした。

「わっ? ……わぁぁ♪」

 生まれて初めて肩車をしてもらった少女は感動して星空を見上げる。いつもより空が近い、地面が遠い。

「オレは一人っ子だからさ。お姉ちゃんとか、兄貴とか、そーゆー気分がわからない」

「……………………」

「ノエルちゃんとクロエは離れて育ったみたいだから、余計に普通の姉妹とは、違うだろうな」

「……違う……かな。……やっぱり……」

「ああ」

「……………………」

「だからって、それを慌てて埋めようとするのは難しいと思う」

「…………」

「誰かと友達になりたいからって、慌てて友達になろうとしても、相手が、その気持ちになってないと、うまくいかないだろ?」

「……………」

 ノエルは黙っていたけれど、肩車している智也には頷いてくれたのが伝わった。

「クロエは七年もノエルちゃんより大人だけど、でも、まだ、完全な大人じゃない。っていうか、まだ、子供に分類される歳なんだ。だから、簡単にノエルちゃんとお母さんが戻ってきたって言われても、はい、そうですか、と家族の気分になれないんだ。そーゆー気持ち、なんだと思う」

「………ずっと、放っておかれて今さらって……?」

「……………大人だな……君は……、…たぶん、そうだと思う……」

「……………………ノエルは子供だよ……、お姉ちゃんを傷つけたから……」

「ノエルちゃん………」

 智也は頭皮に熱い滴を感じて、ノエルが泣いていることを悟った。

「ごめんなさい……………家に……帰ってから……泣くと……パパとママが、……心配するから……だから……今…、…ぅっ…うぅっ…うくっ…」

「泣けよ。子供が泣きたいのガマンするな」

「うぅ…ううぅ…うああああっ! ああああんっ! ああああんっ!」

 ノエルが大声を上げて泣き、熱い涙をぽろぽろと降らせてくるので、思わず智也も目頭の熱さを耐えきれず頬を濡らした。それをノエルに気づかれないように静かに歩く。かなり遠回りしてから嘉神川家に到着した。

 

 

 

 ほたるは巴と別れてから、カナタが宿泊しているシティホテルに入った。フロントでホテルマンに声をかける。

「すいません。914号室に、あとで加賀正午という男の人が来るから、案内してもらえますか」

「かしこまりました。黒須様がお泊まりの914号室に加賀正午様がいらっしゃるということですね」

「はい。あと、どうなるか不明なんですけど、そのまま泊まれるように部屋の変更ってできますか? 二人か、三人で」

「少々お待ちください。………」

 ホテルマンはパソコンを操作して予約状況を確認する。

「申し訳ありません。あいにくと今夜はクリスマスイブということもあり、どこも満室でございます。現在のシングルの部屋にエキストラベッドを用意いたしまして二名様なら、お泊まりになれますが…三名様は…」

「そうですか、わかりました。ありがとうございます」

 ほたるは礼を言ってエレベーターに乗り、カナタの部屋を訪ねた。ドアをノックするとカナタが泣き腫らした顔で開けてくれた。

「ほたる……ぐすっ…」

「……。何を泣いていたの?」

 カナタちゃん、一人にすると、ぜんぜんダメ………正午くんと会わせたら治るかと思ったけど、この様子じゃぁ……、ほたるはカナタを抱きしめて背中をさすった。

「泣かないでいいよ。もうすぐ…」

「ぅぅっ…お婆ちゃんが死んじゃったって…」

「ぇ……、お婆ちゃんって、カナタちゃんのお婆さん?」

「うんっ」

「どうして?」

「病気で……ぐすっ…九月に……ぅぅっ……アタシがいない間に……ひっく…、さっき、りかりんが教えてくれて…ぅぅ…ぅ、うあああんっ!」

 声を上げて泣き出したカナタを強く抱きしめ、ほたるは正午の到着が遅い方がいいと思ったけれど、約束した時間通りにドアがノックされた。

(オレっ♪ 正午! 来たぜ♪)

「……。待って、すぐ開けるから!」

「ショーゴって……ほたる……なんで………ここに……」

「カナタちゃんは何も心配しなくていいよ。すべてカナタちゃんの望む通りになるから、ほたるが、そうするから。だから、安心して、落ちついて」

「でも……」

「大丈夫、ほたるを信じて」

「ほたる……」

「何もかも、ほたるに任せて、ほたるを信じて」

 ほたるの強い気持ちがこもった言葉を聞いてカナタは頷いた。ほたるはベッドにカナタを残したまま、ドアに向かった。

「正午くん、カナタちゃんもいるからね」

 ほたるはドアを開けるなりキスをされたりしないよう予防線を張ってから、鍵を外してノブを回す。正午は抱きつこうと待ちかまえていたのに、カナタの名前を聞いて戸惑った。

「なんで、アイツが…」

「大事な話があるから」

「……話って……?」

「入って」

「ああ」

 正午は部屋に入ると、すぐにカナタを見つけた。正午の予想に反してカナタは視線を合わせようともせず、弱々しくシーツにくるまって震えている。こんな彼女を見たのは初めてだった。

「……カナタ……、なんか……あったのか?」

「カナタちゃんのお婆さん、亡くなられたって……さっき、知ったらしくて…」

「え………そっか。………あの婆さんが………」

 正午も故人のことを想い、クリスマス気分が吹き飛んだ。

「面白い婆さんだったのにな……。でも、まあ、寿命じゃないか?」

「そうだとしても家族が死んじゃったんだよ。カナタちゃんに優しくしてあげて」

「あ、…ああ。…ぃ…いや…でもさ…」

 正午はアイコンタクトで、オレと付き合ってるのにカナタに優しくするのは問題アリだろ、と送ったけれど、ほたるは正午の背中を押した。押された正午はベッドに腰を下ろしてカナタのそばに座る。

「……よ、よぉ…カナタ。……こ…この度はご愁傷様……っていうか……。大丈夫か?」

「………平気…」

 かすれた泣き声がシーツの中から響いてくる。

「平気か。……そうか。……まあ、歳だし、仕方ないよな」

「……うん……」

 状況認識の深刻さに欠ける正午と、度重なる傷心で精神が崩壊しかけていてさえ、意地を張るカナタを見ていて、ほたるは怒りも悲しみも超えて、諦めを感じた。

「ねぇ、正午くん。やっぱり、ほたると別れてカナタちゃんとヨリを戻してよ」

「「ほたるっ?!」」

 異口同音して大きく驚く二人に、ほたるはタメ息をついた。

「ほたると別れてヨリを戻してよ。それが自然だし」

「「ヤダっ! ほたる、なんで今さら?!」」

「………」

 そーゆーところだけ、気を合わせて主張されても困るんだけど……、ほたるは説得を試みる。

「ほたるね、まだケンちゃんに未練があるし。トトちゃんとは終わったみたいだから、もう一回挑戦してみよっかなって♪ だから、カナタちゃんと正午くんもね」

「……ウソよ」

「ウソだな」

「う~ん……まあ、ウソなんだけどね。そーゆーとこ鋭いなら、もっと別のとこにも鋭くなってよ。とくに正午くん、カナタちゃんが正午くんのこと大好きなのに気づいてあげられない?」

「カナタが……?」

「………。アタシが好きなのは……ほたる……だよ。……ほたるが大好き……」

 カナタがシーツから這い出して、ほたるに縋りついた。

「ほたる……離れちゃヤダ………ほたるがいないと……アタシ……アタシ…」

「カナタちゃん……」

 ほたるは優しくカナタを抱き返して、そのまま正午を見つめる。

「どうしよっか。正午くん?」

「…どうって……ほたる? ……意味、わからない……」

「だからね」

 ほたるは縋りついているカナタの顎を指であげさせると、優しいキスをした。

「これで、わかった?」

「ぃ……、……ほたると……カナタって、そーゆー関係?」

「うんっ♪」

「………………………………た………………………たはーっっ!!!」

 正午が動揺してタメ息をついた。

「ちょ、ちょっと……時間をくれ……、……落ちつくのに……」

「どうぞ」

 ほたるはベッドに座ると、カナタに膝枕をさせてやり優しく髪を撫でる。正午は動揺した心を深呼吸とタメ息で落ちつけると、二人を見る。

「……二人が……そーゆー関係なら……オレ、……フラれた?」

「うーーーん……そーでもないよ。ほたる、正午くんのこと、好きだし♪」

「っ…」

 カナタが怯えて震えた。

「困ったね。どうしよっか」

「困ったも……なにも……オレは、ほたると付き合って…、ほたるのことオレも好きだし」

「カナタちゃんのこと、嫌い? 大嫌い?」

「いや、別に嫌いじゃないけど、そーゆー論法でヨリを戻させるのって強引だろ? そ、それに、ほたるとカナタってデキてるんだろ?」

「ふーーん……じゃあ、ほたるとカナタちゃんが付き合うから、正午くんとは別れたいって言ったら、諦めてくれる?」

「………、あ……ああ、……そーゆーことなら仕方ないし……」

「仕方ないしぃ、か。その程度の好きなんだね、ほたるへの気持ちは」

「そ、そんなことない! っていうか! オレを試してるのか?!」

「試してるよ。悪い?」

「……。……………………じゃあ、どう答えれば、いいんだよ? オレは…」

「試験にカンニングは無しだよ」

「………予習くらいしたかった」

「正直に答えてくれるだけでいいよ。正直に、ね。ウソも自己欺瞞もなし」

「……わかった……」

「カナタちゃんのこと好き?」

「……………………。嫌いじゃない」

「もっと、正直に」

「………………………。……そりゃ……夏までは付き合ってたわけだからさ。……それなりには……まあ、……好きといえば、好きだけど、ほたると別れてヨリを戻せってのは強引だろ?」

「質問してるのは、ほたるだよ。ほたるのこと、どのくらい好き? 何番目?」

「もちろん、一番好きだ」

「じゃあ、正午くんが世界で二番目に好きな女性は?」

「……………………。お母さん♪」

「お母さんは無し。っていうか、自己欺瞞しない。お母さんとはセックスしないよね? それとも、そっちの趣味アリなの?」

「ないっないっ! そもそも年上好きじゃないし!」

「で、正午くんが世界で二番目に好きな女の子は? カナタちゃん? 果凛ちゃん? 彩花ちゃん? のんちゃん? エリちゃん? 正直に答えて。本当に正直な気持ちで、よっく考えて答えて。胸に手を当てて、よくよく考えて」

「…………………………………………」

 正午は言われたとおりに考え、そして答える。

「……カナタ……が……二番で」

「……そう……」

 ほたるは今度はカナタを見つめる。

「カナタちゃんは、ほたると正午くん、どっちが好き?」

「………、そんなの……ほたるに決まってるよ」

「正午くんのことは嫌い?」

「…………嫌い」

「ほたるはウソをつくカナタちゃん、大嫌い」

 ほたるが膝枕を引いて、カナタから離れる。

「ほ…ほたる…」

 途端にカナタが泣き出しそうな顔をするけれど、ほたるは冷たい視線を浴びせた。

「ほたるの言うこと聞く?」

「うんっ!」

「どんなことでも?」

「…………うん……」

 カナタは頷いて、優しさを乞う子供のように、ほたるの袖をつかんだ。どんなことでも聞くけど、ほたると離れるのはイヤだという態度を示している。

「カナタちゃん。………」

 二人のヨリを戻させるのは無理………ほたるがいなくなっても正午くんはカナタちゃんを選ばない……でも、正午くんはカナタちゃんも好き……ほたるのことも好き……ほたるも二人とも好き……そして、カナタちゃんも正午くんと、ほたるを好き……これって何年か前の彩花ちゃん唯笑ちゃん三上くんの三竦みと同じだけど、もう肉体関係があるから自然に距離をとるなんてことはできない…………もう、この道しか……ない………、ほたるは決意を固めた。

「カナタちゃん」

「……ほたる……」

「正午くんのこと、好き?」

「………………………、…………」

 カナタは答えようとしたけれど、うまく声が出せなくて苦しんでいる。

「……んっ……………んんっ…………」

「カナタちゃんの裸の気持ちを答えて。何も飾らない隠さない気持ちを」

「………っ…………っ………んんっ………」

 答えられず、ほたると正午を見ることもできなくなって、泣き出しそうになっている。

「なら、こうしよ」

 ほたるは立ち上がると、上着を脱ぎ始めた。遠慮無くブラジャーを見せて上着を脱ぎ捨てようとして、思い止まってやめた。

「やっぱり、ほたるじゃなくてカナタちゃんが裸になって」

「ぇ…?」

「服、脱いで。裸になって」

「………で……でも……」

「早く」

 ほたるが少し威圧的な言い方をすると、カナタは正午がいることを戸惑いながらも上着を脱いだ。

「…………」

「全部脱いで」

「………」

 カナタはスカートとストッキングを脱いで下着姿になると、もう脱げないということを示すように両手で身体を隠して顔を伏せた。

「脱げないなら脱がしてあげる」

「…そっ……そんな……」

「お、おいっ、ほたる?! 何を考えてるだよ?!」

「正午くんは黙って見てて。余計な口出ししない」

「け…けどさ……」

 正午が見ている前でカナタは全裸にされてしまい、ほたるの背中へ隠れようとしたけれど、それを許さずに捕まえて正午の前に立たせる。

「……ぅ……ぅぅっ……ほたるぅ……」

 正午に全裸を見せるのは初めてではないけれど、別れて何ヶ月も経ってからの再会で、しかも一人だけ裸にされて、ほたると正午の間に立たせると恥ずかしさのあまりカナタは顔を真っ赤にして啜り泣いた。それでも、ほたるは容赦なくカナタの両手首を握って、隠している乳房と陰部を正午から見えるようにした。

「正午くん、よく見て」

「…見てって……言われても…」

 言われるまでもなく視線が釘付けになっている元気な男子高校生は、すでに勃起している。

「カナタちゃん、恥ずかしい?」

「…ほたるぅ…、もう……やめて……アタシ……頭が変になりそう……」

「ずいぶん前から変になってるから大丈夫だよ」

 ほたるは脱がせたブラジャーでカナタの両手を頭上で縛りつけると、左手を乳首へ、右手を股間へ滑り込ませた。

「ひゃぅ……」

「ほら、正午くん、見て。もう、こんなに濡れてる」

 ほたるは陰毛のないカナタの陰部を拡げて、正午に見せる。濡れた小陰唇がピンク色に光って愛液が滴っていた。

「正午くんも触ってあげて」

「……、け…けどさ…」

「命令」

「…………。イエス・マイ・プリンセス」

 あえて、ほたるを自分のプリンセスと明言してから、正午は命令に従った。ほたるの指が拡げている陰部に正午の指も加わる。

「っ…ぁぁ……ぃや…」

 抵抗できないカナタは身をよじって逃げようとしたけれど、ほたるは逃がしてくれないどころか、カナタの右耳を甘噛みする。

「はむっ♪」

「あんっ!」

「はむはむっ♪ 正午くんは、こっちの耳、可愛がってあげて」

「………命令?」

「命令」

 ほたるは耳を甘噛みしながら指の動きも忘れない。正午の指にも協力させてクリトリスを愛撫しつつ、アイコンタクトで正午と息を合わせる。二人の指がクリトリスを擦って、膣を出入りする新感覚に、両耳の甘噛み、さらに両乳首への愛撫も加わると、カナタが絶頂に達するのは早かった。

「あああぁ…………っ………」

 喘いだカナタは腰から力が抜けて崩れそうになったけれど、ほたると正午が抱き支える。

「……ハァ……………………ぁぁぁ…」

 しょわぁぁぁ…

 崩れなかったカナタは立ったまま失禁した。

「…ハァ………………………ハァ……」

「カナタちゃん、イっちゃった?」

「っ………」

「おもらしまでして♪」

「……ぅ、…ぅぅ…」

「恥ずかしいね」

「…ひぅ…ぅぅ…」

 カナタは両手を縛られて顔を隠すこともできずに激しい羞恥心に苛まれて涙を零した。服を着ている二人の前で、一人で裸にされ、一人で絶頂を迎えさせられて失禁までしてしまった恥ずかしさで目が回ってしまう。

「…ぅぅ……ぅ…」

「カナタちゃん、ほたると正午くんに触られてイっちゃったね?」

「っ…」

「返事は? イったの? イってないの?」

「………」

「答えないの? ほたるの質問に答えないの? へぇぇ…」

「……ぃ……イっ…たの…」

「誰が?」

「…ぁ…アタシが……」

「誰と誰にされて?」

「…ぅ……ぅぅ」

「早く」

「…ほ……ほたると…………………………しょっ…………………………ショー……ゴっ…に…されて……ハァっ…ハァっ…」

 カナタは言葉を話す息継ぎが、うまくできずに息を乱れさせた。

「そっか。カナタちゃんは、ほたると正午くんにされてイっちゃったんだ。続けて言ってみなさい」

「……ハァっ……ハァっ…、……アタシ…は………ほ…ほたると………………………しょ……しょ……ハァ…ハァ…ハァ………ショーっ…ゴ…に……されて……イったの…」

「そうだね♪ ところで、床が濡れてるね。これ、なに?」

「……っ……ハァ……ハァ……」

「これ、なに?」

「……ぁ……アタシの……、……」

「カナタちゃんの?」

「…ハァ……ハァっ……………」

「カナタちゃんの何?」

「……ハァっ……ゆっ……許して……もう……アタシ………ハァっ…」

「ダメ。ちゃんと言いなさい。この水たまり、カナタちゃんの何?」

「…………ぉ………ハァ…ハァっ……おしっこ……」

「へぇぇ♪ おしっこ。ここ、トイレじゃないのに?」

「……ご…ごめ……ごめんなさい…」

「おもらししたんだ?」

「…………うん…」

「誰が、誰と誰の前で、おもらししたの? 言ってみて」

「っ…………しっ……死んじゃう……」

 カナタは羞恥心で脳細胞が茹であがる思いだったけれど、ほたるは続ける。

「カナタちゃんが、ほたると正午くんの前で、イっちゃって、おもらししたんだよね」

「っ…っ……ハァっ…ハァハァ…」

「カナタちゃんが、ほたると正午くんの前で、イっちゃって、シャアァって、おもらししたんだよね。シャアァって」

「……ぁあぁ…ぁあっ…」

 カナタは言葉責めだけで再び絶頂を迎えてしまい、気絶してしまった。

「おい、カナタ?」

「そっとベッドの上に寝かせて」

「あ、ああ」

 言われるまま正午はカナタをベッドに寝かせる。

「カナタ、すげぇ興奮してたな……」

「可愛かった?」

「……。ほたるの方が可愛い」

 正午は静かに、ほたるを抱きしめ、服を脱がせようとする。ほたるは脱がされることに抵抗せず、逆に正午の衣服も取り去る。裸になった二人はキスをして、見つめ合った。

「ほたる……」

「正午くん、準備万端だね」

 ほたるは勃起し続けている男根を撫でた。

「ぅっ…、ほたるだって準備できてるだろ」

 ほたるの陰部も濡れている。正午が指を這わせると吸いつくように蠢いてくる。

「んっ…、でも、今の正午くんの勃起はカナタちゃんを見て勃ったんだよね」

「……。まあ、それは否定しないけど…」

 正午は男性的な衝動のままに、ほたると下半身を重ねようと、勃起した男根を、ほたるの内腿へ滑り込ませる。

「あんっ……せっかち…、クリスマスの夜は、ゆっくり楽しもうよ」

「カナタが起きるかもしれないしさ」

「カナタちゃんを見て勃った分は、カナタちゃんに入れてあげようよ」

「…………。でも、ほたる、オレは…」

「その後、ほたるに入れて♪」

「…………それって……」

「正午くんは、選ばないでいること、できる?」

「……選ばないでいる……」

「そう。二人とも好きでいること」

「………………できないことは……ない、……かもしれないけど……そんなんで、ほたるはいいのかよ?」

「こだわらない生き方は正午くんに教えてもらったから」

「……こだわらない……って言っても…」

「人間ってさ、いっぱい、こだわるよね。人前では服を着ましょう、トイレ以外でおしっこしちゃダメ、パスタを食べるときは音を立てないこと、いっぱい、いっぱい、つまんないこだわりが世界にはあるけど、それって、意味あるの?」

「……まあ……ある場合もあるだろ。無い場合もあるだろうけど…」

「お蕎麦は音を立てて食べる方が美味しいんだよ。実はパスタも空気といっしょに吸い込むように食べる方が舌の上で味が拡がって美味しいし。トイレが無くて、おもらしするくらいなら電柱にする方が賢いよね。女の子でも思いきって外ですると気持ちいいし。夏は裸の方が気持ちいいんだよ。エコだし」

「それと、選ばないでいることに、どんな関係が…」

「たまたま、この国は一夫一婦制で、ほたるたちは、その文化で育ったけど、そうじゃない国もあるよね」

「ま…まあ…」

「そーゆー国だと、恋愛ドラマは、どういう風に進むのかな? フタマタ、サンマタありなら、あの子とアタシ、どっちを選ぶのっ? って修羅場はなくなるのかな」

「……どうだろう…」

「ほたると正午くんとカナタちゃんは一夫一婦制から自由になれない?」

「………。……………ほたるとカナタが……いいなら、オレに異議はないけど……」

「うんっ♪ さっすが、こだわらない男っ!」

「いや、たぶん、ほとんどの男が心から希求することだと思うよ。要するにフタマタ公認なわけだし」

「フタマタ公認っていっても、どっちかを選ぶ過程としてのフタマタじゃないよ。どっちも選んだ結果としてのフタマタでいてくれることが大事なの」

「………。わかった。オレは、ほたるもカナタも好きでいる。これで、いい?」

「うんっ♪」

 ほたるは正午へキスを送ると、カナタの寝顔を見つめる。

「あとはカナタちゃんの、こだわりだけ……これを解決してあげないと」

 ほたるはカナタに添い寝して、正午にも視線で命じて反対側へ添い寝させる。

「カナタちゃんは王子様のキスと、お姫様のキス、どっちで目覚めたいと思う?」

「………………………どっちでもいい気がするけど……」

「あ、おしい。正解は、どっちのキスもしてほしい♪」

「……やっぱり、カナタってバイ?」

「そーゆーことになるね。カナタちゃんの世界で大好きな男の子は正午くん、そして、カナタちゃんの世界で大好きな女の子は、ほたる。この恋の炎は二つ両立するみたい。フタマタとかじゃなくて、正午くんだって、ほたるやカナタちゃんを好きでいてくれる気持ちと、三上くんを好きな気持ちは両立するよね。そーゆー別腹感覚かな」

「……気持ち悪いから、そーゆー例えは、やめてくれ。っていうか、悪いけど、ほたるを好きな気持ちと、カナタを好きな気持ちも両立するんだ。……男ってのは、さ。ほたるこそ、男を好きな気持ちと、カナタやトトへの気持ち、どうなんだよ?」

「トトちゃんは、そーゆーんじゃないよ。でも、カナタちゃんは可愛い。愛せるよ」

 いのりちゃんが暴走したのは、ほたるの責任だし……ほたるはカナタちゃんを愛さないといけないしね……でも、ホントにカナタちゃんは可愛いし……、ほたるは眠っている顔を見つめ、頬にキスをした。

「正午くんもしてあげて♪」

「はいはい」

 正午もカナタの頬へキスをする。何度目かのキスでカナタは目を覚ました。

「……ぅぅ…」

「「おはよう♪」」

「………」

 カナタは二人からキスを送られていたことに気づいて混乱する。混乱しながらも、さきほどまでの記憶を振り返り、すぐに顔を真っ赤にした。

「…ぁ…アタシ…」

「正午くん、ほたるにユニゾンして動いて」

 ほたるはカナタの乳首を吸いながら、両手の指でカナタの肌を愛撫する。十本の指が、それぞれに意志を持っているかのような巧みな愛撫を、正午も必死で見習う。

「オレの…指は、そんな器用には……くっ……、魔法みたいな動きを…」

「ぁッ…あアッ…はぅん…ハァ…ぁぁっ…あんっ!」

「カナタちゃん、ここ感じるんだよ♪」

「それは知ってる」

「んんっ…んぅっ! ぃ…はうっ…」

「そっか、先輩だもんね。ほたるは妹になるのかな?」

「そんな兄妹関係、聞いたことないし」

 会話しながらも手を休めない二人の愛撫を受けてカナタは三度目の絶頂を迎える。さらに、ほたると正午の人差し指が膣へ、中指がアナルへ滑り込み、親指がクリトリスを責めると、続けざまにカナタは絶頂の波に翻弄され、もう恥ずかしいという気持ちも消えてしまい、ただただ快感の海に漂っている。これ以上、愛撫を続けると痛いというラインまでカナタの身体を愛してから、ほたるは問いかける。

「正午くん、カナタちゃんの、ここと、ここに傷痕があるよね」

「え? ああ、あるな」

 正午は額と腿の傷痕を見る。ほたるは優しくキスをした。

「いつからあるか覚えてる?」

「ん~……、いや、オレに会う前からだろ?」

「……。やっぱり、忘れてる。ほら、カナタちゃん、ずっと、こだわってきたこと、言ってみて。イサコちゃんのこと」

「っ…」

 カナタは人見知りする幼女のように顔を伏せて、ほたるの胸に隠れた。正午が首を傾げる。

「イサコ? 誰だよ、それ」

「正午くんが幼稚園の頃、カナタちゃんとフタマタかけた相手の子。ホントにキレイに忘れてるなんて彩花ちゃんたちが呆れるわけだよ。たはーっ…」

「幼稚園……、……カナタと………イサコ…」

 正午はオフになりかかっている記憶を脳内から探してみる。かすかに公園で遊んだ二人の幼女を思い出した。以前から仲の良かったカナタに似た幼女と、後で仲良くなった幼女とのこと、自転車の事故、その後の幼い婚約と引っ越し、すべて想い出した。

「そういえば……あの子、……カナタに似てるかも……」

「やっと、想い出した?」

「想い出したけど……そんな昔のこと、今のカナタに関係あるのか?」

「好きって言えなくなるよね。もし、言って、オレは君より、あの子が好きって言われるかもって考えたら、素直に好きって言えなくなる」

 ほたるは指先でカナタの胸を撫でた。

「そーゆー呪いがかかってしまう。病気って言ってもいいかな。でも、もう、その呪いは、ほたるの魔法で解けたはず、もうカナタちゃんには守るものも、隠すものも、ないよね」「ぁ……アタシは……」

 ほたるに促されたカナタは潤んだ瞳で正午を見つめる。

「…アタシは……ずっと、……ショーゴが好き…、大好きっ…」

「カナタ……」

「よく言えました♪」

 ほたるは告白を終えたカナタの頬へキスをする。そのキスを続けながら正午の肩へ腕を回して引きよせると、反対の頬へキスをさせた。カナタは両頬にキスを受けて陶然として嬉し涙を零した。

「…ぁ……アタシ……アタシ……、ずっと……こうしていたい……ショーゴ……ほたる……大好き…」

 カナタの両頬を温めていたキスが左右から唇に近づいてくる。ゆっくりと、ほたると正午の唇がカナタの唇の上で合流した。

「「「んっ…」」」

 キスがディープキスに変わって、三本の舌が踊る。

「…はふっ…」

「んぅ…」

 一対一のキスには慣れている三人も初めての経験に異様な興奮を覚える。カナタの口へ入った正午とほたるの舌が別々の意志を持ちながら息を合わせてカナタの舌とからみ、吸い、吸い出されたカナタの舌が、ほたるの口へ入ると、正午も追いかけ、ほたるの中で踊る。

「はふっ…」

 カナタちゃん……正午く………これ、すご……異常に興奮する……、ほたるは股間が灼熱するのを知覚した。ほたるの高まりを敏感に正午とカナタが嗅ぎつけて、攻守が変わる。ほたるの左右の乳房を別々の手が包み、股間へもカナタと正午の手が伸びてくる。

「あッ…ああンっ…」

 ほたるが身をよじるとカナタは上下を入れ替え、正午は上手にカナタの体位変換を助けた。ほたるが下になり、カナタと正午から見下ろされる。

「「いただきます♪」」

「ま…待って、まずはカナタちゃ…」

「アタシさんざんイかせてもらったし」

 カナタが右の乳首に吸いつくと、正午は左へ食いつく。

「あッ…」

 同時に乳首を吸われる初めての快感に、ほたるは背筋がとろけそうな衝撃をうけ、抵抗する意志は欠片も残らなかった。

「あぁあんっ…ああぁ…」

「「ほたる可愛い」」

「ふ……二人で…」

「「ほたる愛してる」」

 男と女から同時に求愛され、ほたるの脳も混乱と興奮の波に飲まれる。乳首を吸っていた唇が、わき腹へ下り、さらに下腹部の子宮や卵巣の上を、キスのラインが、まるで二人組のフィギアスケートのようなコンビネーションで滑り回ると、ほたるの膣から愛液が溢れてシーツに拡がっていく。あえて、カナタと正午は下腹部から一気にクリトリスへ攻め込んだりせず、大陰唇の外側をキスで埋め尽くすと、内腿までさがった。

「あぁぁ………、…ハァ…ハァ…」

 ほたるのクリトリスと膣は強く期待していた愛撫を焦らされ、熱く疼いて、思わず自分で慰めたいほど切なくなった。

「…ハァ………ぁあ…」

 左右の内腿へキスを送るために、ほたるは大きく脚を開かされる。体勢を変えたことで愛液が膣から漏れていくところが、カナタと正午に見えた。それでも二人とも陰部へは攻め込まず逆に遠ざかって膝の裏を舐め、アキレス腱を甘噛みして、踝を吸い、足の甲をキスで埋め尽くすと、足の指を親指から順番に吸っていく。

「ああぁ…ハァぁ…はぁん…うはん…」

 両脚を二人の口に連携して愛撫される快感で、ほたるは足の小指を吸われた瞬間、絶頂に達した。

「はぁあッ………」

「「ほたる……イった?」」

 カナタと正午は小指を咥えたまま、ほたるを観察する。息の乱れ方や、紅く染まった肌の色と汗の浮かび方で、女性のオルガスムを迎えていることを確信して喜び合う。まるでシュートを決めたチームメイト同士のように軽く手を打ち合わせる。そして、舐めていた脚を交換して、今度はキスのラインで脛を登る。そして、再び内腿を入念に巡ってから、陰部を目指すけれど、何度も焦らして、二人の唇は大陰唇の内側には息を吹きかけるだけで舐めてはくれない。

「ハァ…っ…ハァ…」

 ほたるは股間の切なさに耐えられなくなり、自分を抱いて悶えていた手を乳首とクリトリスへあてた。無意識に自慰を始めた手をカナタが捕まえる。

「何やってるの?」

「…だ…だって…」

「ほしい?」

「…うん…」

「何がほしいの?」

「……舐めて……ほしいの…」

「誰の、どこを?」

「………ほたるの……ハァ…ハァ…おまんこ…」

「誰に?」

「……ハァ……ハァ………カナタちゃんと正午くんに、……ハァ…ハァ…ほたるの、おまんこ……なめなめして…ハァ…ほしいの…」

「じゃあ、思いっきり脚を開かないとね♪」

 カナタの言うとおり股間に二人で顔を埋めるとなると、かなりのスペースが必要で、ほたるは限界まで開脚させられる。そこへ、カナタと正午が顔を入れ、待ちきれずに蠢いているクリトリスへ左右から舌を這わせた。

「はうぅっ?!」

 ほたるは二枚の舌で舐められる快感の激しさに身をそらせ、脚に力が入って閉じてしまう。

「「ほたる」」

「ご…ごめん…」

「さすがに、ここを二人同時は無理かな。……どうしよっか?」

「カナタが、ほたるにシックスナイン体勢になってクリトリスを舐めて、オレは普通のクンニ体勢で膣を、ってのは?」

「うん、やってみよっか」

 カナタはシックスナインの体勢になって、ほたるのクリトリスに吸いつき、正午も膣へ舌を入れようとする。

「ああぁっ! あああっん!」

 ほたるはクリトリスと膣を同時にオーラル愛撫される感覚で数秒も耐えられずに絶頂へ達したけれど、カナタと正午はお互いの顔が当たって邪魔になり、思うようには舐められていない。額と額を合わせている距離でアイコンタクトすると、ほたるから離れて作戦を練り直す。

「ほたるを横にして、前と後ろから舐めるなら、お互いの顔があたらないかも」

「それもいいな」

 ほたるの身体を横に寝させると、ほたるのお尻に正午が顔を埋め、カナタは前からクリトリスへ舌を伸ばす。

「あっ…ああっ…あああぁ…」

 ほたるはクリトリスと肛門を舐められながら、二人の指が連携して膣の中を突いてくる快感のあまり、失禁して尿を漏らした。

 しょわ……しょわ…

 勢いの弱い尿がカナタの口の中に拡がる。

「……んくっ…んくっ…、ふふ、ほたるも、おもらし♪」

「ハァ…ハァ…も、…もう……ほた…る……正気が…ああっ! やああ! やめてぇ!」

 ほたるが懇願してもカナタと正午は愛撫を続ける。ほたるは膣と肛門へ同時に舌が入ってくると、再び弱々しい失禁を繰り返した。その尿がカナタの鼻に入って、さすがに噎せた。

「けほっ! …けほっ! …ぅぅ…」

「ご…ごめ…ん…カナタちゃ…」

「平気、ほたるの、おしっこ大好き♪」

「お前、変態か……」

「あれ? ショーゴは愛する人のおしっこ飲めないの? あと、お前じゃなくてカナタって呼んで」

「……珍しく素直に……、そうだな。カナタ」

 正午は濡れたカナタの鼻を舐めて、ほたるの尿を味わった。

「まあ、オレら、アナルセックス普通にしてるあたり、欧米人から見ると超変態らしいしな。今さら、おしっこくらい。ほたる、まだ、出るか?」

「出ないよっ! もおっ」

 ほたるは、この隙に起きあがってカナタに抱きつくと、自分が下になる形で寝転び、カナタを四つん這いにさせて、見上げる。

「今夜の最初のおちんちんはカナタちゃんのアナルにね。正午くん、久しぶりだからコンドームなんか着けないで思いっきり出したいでしょ?」

「そうだな。アナルなら着けなくても妊娠しないし♪」

 正午は四つん這いになっているカナタのお尻を捕まえて勃起したままの男根をあてた。

「やんっ♪」

「カナタちゃん、これから、ほたるとキスしたまま、正午くんに突かれてイくの。いっぱい喘いで見せてね」

「キスしたまま喘ぐの?」

「うん」

 ほたるはカナタの唇に吸いつきながら、両手はカナタの股間へ伸ばしてクリトリスを指先で転がしながら、膣へ指を挿入する。正午はカナタのアナルへ男根を挿入すると、背中から手を回して両方の乳首をつまんだ。

「あふっ…」

 思わずカナタは喘いでしまい、ほたるとのキスが崩れるけれど、ほたるは唇を吸い続ける。

「あふっ…ふぅ…んっ…ふわっ…」

「カナタのアナル、久しぶり♪」

 正午が激しく突くと、カナタは四本の手に愛撫されながら、アナルを突かれ、唇を吸われる快感の激しさに、目まいがするほど陶然となり、ヨダレと愛液が溢れて、ほたるに滴る。

「ふふ、カナタちゃん、可愛い」

「あはう…ふうぅ…」

 カナタは唇から零れるヨダレが、ほたるの顔にかかることを気にかける余裕もなく喘いで何度も絶頂を迎えると、ほたるの胸に崩れた。

「はぁ…ハァ……ハァ…はぁ…」

「おい、オレ、まだイってないぞ」

「早くイってあげて。カナタちゃんのアナル、そろそろ限界かも」

「……ショーゴ…ハァ…ほたるに…」

「一発目はお前…カナタに、って気分なんだ♪ ゴム着けて前、行くぞ」

「待って…アタシ……限界…」

「お前は…カナタは、何もしなくていい」

 正午はコンドームを着けてから、カナタの膣へ男根を入れる。

「あぁあぁ…」

「ゆっくりがいい? 早めがいい?」

「ハァ…は……早めで…」

「了解」

 求められた通り正午は早いピストン運動でカナタを攻める。ほたるは下になったまま、カナタの背中へ腕を回して抱きしめ、耳元に囁いた。

「カナタちゃん、大好き」

「オレもカナタが大好きだ♪」

「ぁ、ぁ。ぁぁ。ぁああ……アタシ…も」

 ほとんど言葉にならない声を漏らしてカナタは正午が射精してくれるのを心と身体で味わった。正午が離れるとカナタは完全に崩れて、ほたるに全体重をかける。

「カナタちゃん、気持ちよさそう♪ やっぱり、最期は、おちんちんだよね」

「ほたる、いつから、カナタと?」

 正午は萎えた男根からコンドームを外すと、あわれな息子たちをゴミ箱に投げ込み、ティッシュで残った精液を拭く。

「ちょっと前に、ウイーンで会ったの」

「ウイーンって……カナタ、ウイーンにいたのか?」

 まどろんでいるカナタは正午の質問が耳に入っていない。代わりに、ほたるが答える。

「正午くんに冷たくされた後、他にも、いろいろあって……、ほたるのとこに来てくれたの。それで、気がついたら♪ そーゆーこと」

 ほたるは可愛らしく指先に残ったカナタの愛液を舐めた。

「おちんちん、ほたるにも生えたらいいのに」

「いや……そーゆーほたるは見たくない」

「……アタシも…」

 カナタが起きあがって、ほたるの膣を撫でる。

「ほたるは、ほたるだから、可愛いんだよ。アタシの、ほたるは女の子じゃないと、ダメ」

「そーゆーものなの?」

「そーゆーものなの」

「オレが女言葉を使っても、二人ともイヤだろ?」

「「イヤ」」

「だろ」

 会話している正午の男根が、全裸の女子二人を前にして再び勃起してくる。

「正午くん、リチャージされてる♪」

「ショーゴの数少ない長所だもんね」

「短くはないからな♪」

「オヤジギャグ……」

「ギャグなら、ほたるが言うっ! ほたる的ギャグっ」

「いや、いい。雰囲気壊れて萎えるから」

 やる気の失せるギャグを言われる前に、ほたるの口をキスで塞いだ正午はカナタにアイコンタクトを送って援護を頼む。

「ショーゴ、じゃあ………ほたるのアナルに騎乗位の変形で入って。ショーゴはベッドの端に座って、ほたるは背中向きに。アタシは前から、ほたるを♪」

 カナタが思いついた通り、正午はベッドの端に座って、ほたるの背中を迎えて、アナルへ挿入する。カナタは前から、ほたると対面した。

「ふふふ、どう? ショーゴのちんちん、ほたるのアナルに入ってるよ」

「カナタちゃんこそ、どう? 大好きな正午くんのおちんちん、大好きなほたるに入ってるの見て、どう?」

「ぅ……、アタシも交ざる!」

 ほたるに負けたカナタは乳首に噛みついて、ほたるの膣に指を入れた。

「はうんっ!」

 ほたるは快感に身をよじり、正午とキスをする。二度目の勃起になる正午は、なかなか射精してくれず、ほたるのアナルが快感よりも痛覚を刺激されるようになると、コンドームを着けて膣と交わる。

「やん、ショーゴ、それじゃ、アタシが淋しい」

「なら、カナタは……、オレが寝て、ほたると完全な騎乗位になるから、オレに顔面騎乗して、ほたると向かい合えば?」

「そーする♪」

「カナタちゃんとキスしながら、イけるね」

 ほたるは立ち上がって正午から離れる。正午はベッドの中央に寝て、ほたるが騎乗位で交わり、カナタは股間を正午の顔面に押しあてた。

「カナタちゃん……可愛い」

 ほたるは正午の男根を膣に受け入れながら、カナタを心底愛おしいと思える自分に驚きを覚えた。ほたるの右手がカナタの左手と指を絡め合う。

「ほたるはカナタちゃんと正午くんに出会えてよかった♪」

「「ほたる……」」

「二人とも愛してる、大好き」

 ほたるは目を閉じてカナタとキスをする。二等辺三角形を形成した三人は一つのベッドで夜を明かした。



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23話

 

 

 翌年の一月、キュービックカフェへ営業に来た智也は、先客だった正午とコーヒーを飲みながら一太郎と話していた。

「あれはインドの北部だったよ。見つけたときには彼はもう死んでいたんだ」

「イナホ、シン……たしか、彩花が澄空を中退した生徒が、すぐに死んでニュースになったって言ってたな、先週。そっか、テンチョーさんが発見者か」

「でも、テンチョー、どうして、すぐ日本人の死体だってわかったんですか。パスポートも無い、身ぐるみ剥がされた状態だとアジア人って見分けがつかなくない?」

「ああ、それはね。ダイニングメッセージさ」

「遺書を?」

「いや、書いてあったんだ。地面に、ヘルプ・ミー・プリーズってカタカナで」

「「カタカナか……」」

「インドじゃ、死体なんて珍しくないけどね。そこらじゅう路上に転がってるよ。犬の死体と同じレベルで。少女売春も強姦も、強盗も。慣れたつもりだったけど、やっぱり日本人の死体は違ったよ。異境での同胞の死ってのはね。とくに大使館に連絡した後、駆けつけた彼のお姉さんが泣き出したときには……、あんな美人のお姉さんを悲しませるものじゃない」

「テンチョー、そのお姉さんと寝た?」

「みくびるなよ、少年。そんなシチュで女性を口説く男に見えるかい?」

「見えるような、見えないような♪ でも、やっぱ、死は重いかな……」

「時間と死だけは唯一絶対のものなんだ。誰にとってもね」

「なんか、難しい話………三上、どう思う?」

「光速や亜光速で移動できないレベルの知的生命体にとっては絶対的なものだろうな」

「はぁ?」

「たはっはっはっ♪ 三上くんが大学に行って、加賀くんが就職する方が順当だと思うよ」

「それは、どういう意味なんです?」

 正午の問いに、一太郎ではなく通りがかった飛田扉が答える。

「そりゃ、てめぇがバカってことだ。そんなこともわからねぇからバカなんだ」

「なッ……なんだよ、お前はっ?!」

 正午が立ち上がって扉を睨む。扉も鋭く睨み返した。孤児院の前に捨てられて玄関扉で怪我をしたから扉と名付けられ、小学五年生で初恋だった小学一年生のリナを事故で亡くし、ついでに無免許運転のバイク事故で片足を無くして、現在は不法露店と麻薬の密売で生計を立てている青年は、何の苦労もなく目的もなく大学へ行こうとする平和ボケした男子高校生への嫌悪感を押さえきれない。そして、正午の顔はバイク事故を遠巻きに面白がってみていた中学生に似ている。昔のことに強くこだわる性格の扉と、昔のことは忘れてしまい、とくにこだわらない正午との不幸な再会だった。

「いきなり失礼だろ」

「バカにバカって言っただけだ」

 見れば見るほど正午はバイク事故を野次馬していた中学生と同じ顔つきで、扉は再会を確信したけれど、正午は思い出さない。

「それが失礼だって言うんだっ! 初対面でいきなり!」

「ちっ…」

 舌打ちした扉に一太郎が警告する。

「ケンカなら外でやってくれよ」

「……、表に出ろ」

「ああっ!」

 正午が外へ出るので智也も仕方なくついていくと支援を求められる。

「三上、ヘルプ・ミー・プリーズ♪ 戦略的優位を確保したい」

「そりゃ2対1の方が有利だけど、ちゃんと援軍料を払えよ。2万な♪」

「え~……」

 正午は有料の援護を迷いつつも扉から強い敵意を感じるので油断しない。智也も油断せず、目くらましに使うためポイ捨てされている空き缶を拾おうとして、同じことを扉が狙っていることに気づいた。

「「…」」

 扉と智也の目が合う。二人とも相手が同じ騙し討ちを考えていたことを悟り、油断のならない相手だと警戒する。

「…………………」

「…………………」

 騙し討ちを諦めた智也は扉を前後から挟撃する作戦に変更し、正午から離れて扉の背後に回ろうとしたが、それを阻止するように扉は立ち位置を変える。無言のうちに激しい鍔迫り合いをしている二人に比べて正午は脳天気だった。

「援護料2000円なら、いいかな」

「加賀……」

「ちっ………2対1なら勝てると思うか?」

 扉はポケットへ手を入れると、ナイフを出した。

「「っ…」」

 正午と智也が戦慄する。敵意をもった相手が刃物ももったことで背筋が冷たくなる。それでも智也は冷静な判断をくだした。

「………。加賀、逃げるぞ!」

「ぉ、おう!」

 正午と智也は踵を返すと全力で逃げる。あっと言う間に小さくなっていく二人の背中を義足の扉は見送りながら唾を吐いた。

「ちっ……逃げ足だけは一人前か。くだらねぇ。くだらねぇよ」

 駐輪場に戻ってバイクで探し回る手段もあったけれど、今日は大事な約束があるのでナイフをポケットに戻すと、古い教会へ向かった。途中で花を買い、教会の墓場に入る。

「もう来ていたのか」

「うん」

 いのりが待っていた。

「あいつは呼ばなかったのか」

「前にも言った通り、イッシューにリナちゃんのことは話してないから」

「………。ちっ……」

 舌打ちした扉はリナの墓前に花を供えると、いのりを射るような視線で見つめた。

「…………」

「……。大事な話って、何ですか? 飛田さん」

「あいつとリナのことだ」

「イッシューと………」

「どうしても話さないつもりか?」

「はい」

「それでリナが浮かばれるとでも思うか?」

「思いません」

「だったら…」

「でも、話しません」

「ちっ……また、この平行線か…」

 何度もリナの月命日に墓前で会ううちに親しく話すようになっていたけれど、一蹴がリナのことを忘れている点だけは扉にとって許せないことだった。

「飛田さん、お話は、それだけですか?」

「……いや。まだ、ある」

「…………」

「約束しろ。来月のバレンタインまでに、あいつにリナのことを話して、この墓に詫びさせろ」

「ですから、それは…」

「できないなら! オレがリナのことを、あいつに話すっ!」

「っ…、待ってください! 絶対にダメっ!!」

「………………………」

「イッシューにリナちゃんのことを話すのは絶対にダメです! やめてください!」

「……ちっ……、なら、別れろ。何も話さないなら、お前らは別れろ」

「え……? ……………………どうして……そこまで……」

「いいな。バレンタインまでに話さないなら、あいつとは別れろ。二度と会うな。この約束を破ったらリナのことを、あいつにオレが話す」

「………………」

 いのりは執拗にこだわる扉の真意を計ろうとして、計り違えた。

「……そう……そうですか……そーゆーこと……」

「なにをぶつぶつ言ってやがる。条件は、わかったな?」

「わかりましたよ。飛田さんの気持ち………、汚い男」

「なに?」

「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…、飛田さんの気持ちは、どこにあるのでしょう?」

「なに、ふざけてやがる?」

「イッシューと別れろなんて、飛田さん、私のこと好きなんでしょ? 素直に言えないから、こんな遠回しに」

「何を勘違いしてやがる。自惚れるなよ」

「そっか。そうだよね。違うよね。本当に好きな相手に、相手が嫌がることはしないよね。やっぱり、汚い男。リナちゃんのことで脅して私を言いなりにしようなんて……。また…私の身体が目当て………大好きだったリナちゃんの身代わりに……似た境遇の私を性的な慰めに……。ただ、私を欲望の対象にしたいだけ。ホント……汚い男」

 いのりはカナタと同じ脅しを受けていると思い込み、扉を蔑んだ。けれど、純粋にリナのことを想い続ける扉は激怒する。

「どういう思考回路してやがる? そんなんじゃねぇ!」

「もういいです。二度と私の前に現れないでください。話しかけないで」

「ふざけるな!! バレンタインまでだ! それまでにリナのことを思い出させないなら、オレが話す!!」

「……………………」

 いのりが呪い殺すような目になった。

「許さない」

「っ?!」

「もしも、イッシューに話したら………私、何をするか、わからない」

 いのりから禍々しいまでの殺気が立ち上った。一蹴のためになら、誰だろうと、何人だろうと殺して後悔しない、いのりの強烈な想いが殺気に転換されて発されると、その圧倒的な気圧に扉は後退った。

「……そ……そ、…そんな…く、くだらねぇ脅しに……オレが……び、……ビビるとでも……」

「私、何をするか、わからない」

 いのりの目は本気だった。けれども、扉も譲れない想いがある。

「……り……リナの……ことを……」

「まだ、言うの?」

 いのりは呪い殺すような目のまま、扉に近づいた。気がつけば扉は、いのりを見上げている。いつの間にか、腰が抜けて座り込んでいる。カチカチと義足が震えて鳴っていた。

「イッシューに話したら許さない」

「……ふ……ふざけるな!」

 扉はポケットからナイフを出して、いのりに向けた。

「…ハァ…ハァ……」

「………」

 いのりはナイフを見ても顔色も目の色も変えなかった。正午も智也もナイフを向けられて青ざめたのに、いのりは刃物に対しても何の恐怖も覚えていない。ただ、呪い殺すような目で一蹴を守ることしか、頭にない。

「ふにゅ♪」

 いのりは超絶技工的な手さばきでナイフの切っ先を指で摘んだ。震える扉の手からナイフを奪うと、義足に突き立てる。

 ガッ!

「ひっ…」

「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」

「……」

「ナイフは、危ないフ」

「………」

 それはナゾナゾではなく、オヤジギャグだと言う気力は扉にはなかった。いつの間にか、失禁していた尿がライダースーツの中を温かく濡らしている。防水性のあるライダースーツなので中に溜まって漏れてこないけれど、いのりは匂いで扉の失禁に気づいた。

「……汚い男」

 いのりはナイフを抜いて自分のポケットへ入れると、扉の顔に唾を吐いてから背中を向けた。パシっと長い髪の先が扉の頬を打ち、毛先が目に入った扉は泣いた。

「ぅ…ぅぅ……ぅ…」

 振り返ってリナの墓石まで這うと、謝る。

「ご……ごめんよ……リナ……ごめん……ごめん……オレ……ぅぅ…ぅぅ…」

 扉の涙はリナの墓石に染み込み、真冬の寒さで氷りつくと、塩の結晶が美しく輝いていた。

 

 

 

 二月一日、果凛は学校に登校したものの、三年生三学期特有の自由登校なので教室には智也と鷹乃しかいなかった。

「よぉ、りかりん。遅い登校だな♪」

「おはよう、三上くん、寿々奈さん。……朝から元気ね」

 果凛が入ってくるまで二人っきりだった智也と鷹乃は教室で自由を満喫していたので手早く乱れた制服を直そうとしているけれど、果凛が遠慮する。

「お邪魔して、ごめんなさい。次からはノックするわ」

「いや、オレが悪いから気にしないでくれ」

「じゃ、ごゆっくり、どうぞ」

「用事があったんじゃないのか?」

「なんとなく登校しただけよ。気にしないで続けて。……あ」

 果凛は踵を返して立ち去ろうとしたけれど、気が変わって振り返る。

「ちょっと訊きたい…」

「キャっ…」

 もう果凛が出て行くとばかり思っていた鷹乃は再び智也を受け入れるため無防備に机上でM字に脚を開こうとしていたのを慌てて戻そうとしたのでバランスを崩して机から落ちた。

「痛っぅぅ…」

「ごめんなさい」

 謝る果凛を鷹乃は怨みがましく睨みつつも抗議はしない。

「何かしら? ……ぅぅ…」

 打撲したお尻をさすりながら鷹乃は立ち上がってスカートを整える。

「……、えっと、たいした質問じゃないの……」

「そう」

 素っ気なく鷹乃はイスに座った。

「お邪魔して、ごめんなさい」

「何度も謝らなくていいわ。教室は私たち二人のものではないもの。間違っていたのは性欲を抑えきれなかった私たちであって、あなたではないわ」

「……そう言ってもらえると……、……」

「それで? 質問って何かしら?」

「えっと……その…」

「………」

 鷹乃は乱れているポニーテールを手で少し整える。果凛は訊きにくそうに、それでも質問を口にした。

「二人は、…その……、……性交渉とか…、……どちらが求めてするの? やっぱり、三上くん?」

「あ? ああ、まあ、そうだけど?」

「そう、やっぱり。………。寿々奈さんから求めることはないの?」

「たまに……あるかな? 鷹乃」

「………。そうね。たまに、私から求めるけれど? それが何か? あなたは他人の繁殖行動に興味があるの?」

「はんしょ…く…」

「………。鷹乃、自分を客観視するために昆虫視するのは、やめようぜ。あと、りかりんは処女だから興味はあるさ。な?」

「否定はしないけど……。まあ、さっくと質問しちゃってるわけだからさ」

「おう、何でも訊いてくれ。トミー・クリニックは性の悩み専門だ♪」

「………。じゃあ、この際、さくさくっと訊くけど。たまに寿々奈さんから、求めるって、どのくらいの頻度で?」

「ん~………、どうだろ、鷹乃?」

「…………。他人に知られたくないことって、花祭さんには無いかしら?」

「ご……ごめんなさい……変なこと訊いて……」

「まあ、いいわ。私から求めるのは、そうね、月に一回くらいかしら。たぶん、生理周期と連動しているみたいで排卵日の前後か、逆に生理前に強い衝動を感じることはあるわ」

「そうなのか♪ 今後、それを狙ってみよう♪」

 智也が楽しそうなので鷹乃はタメ息をついた。

「ご覧の通り、オスの方が性欲は強いから、私から求めるまでもなく寄ってくるもの」

「そう……、二人の場合、やっぱり、三上くんが主なのね」

「まあな♪ 鷹乃は可愛いからさ」

「惚れた方が求めるってことかな?」

「いや、やっぱり、男だからだろ」

「女の子から求めるのは変だと思う?」

「そんなことはないけど……、りかりん、もしかして…」

「私じゃないわ。たとえよ、たとえ。もしも、女の子の方から、いつも求めたり、一日に何度も求めたりするとしたら、変だと思う?」

「ん~………そーゆー女もいるかもなぁ、変でもないだろ」

「変というのが、いわゆる変態のことを言うなら、智也の言うとおり変でもないでしょうけれど、一般的でないという意味においては変、もしくは少数派であることは確かよ。繁殖行動の基本原則に反するわ」

「そうなの?」

「ええ、オスとメスが繁殖において支払うコストを考えれば、自然に答えは出てくるもの。子供を作ること、男と女、どちらが大変かわかる? 花祭さん」

「それは、もちろん、女性じゃないの?」

「そうよ。人間に限らず、多くのオスメスがある種で妊娠や育児期間のあるメスの方が生殖行動に慎重になるわ。逆に、オスは精子さえ提供すれば、あとは逃げてしまっても子孫は残るかもしれないから、繁殖行動に対するハードルが低いのよ」

「……」

 鷹乃の男性観って父親の影響が強いよなぁ……まあ、言ってることは生物としては正解だけど……、智也は萎えてしまった男根をズボンに片付ける。

「もしも、メスが誰彼構わず繁殖行動を求めていたら、どんなオスの精子で妊娠してしまうか、わからない上に、メスにとっては一生の内に育てられる子孫の数は限られているから、よりよい子孫をえるためには、よりよいオスを慎重に選ぶ必要があるでしょう。オスは一生の内に無限と言っていい数の精子を放出できるのよ。その違いが行動や性欲の強さにも影響を与えるのは当然じゃないかしら」

「……そうね。でも、誰彼構わずじゃなくて特定の男性だけに強く求めるとしたら、どうかしら?」

「それなら……そのオスとの関係に固着しているだけだから、……そうね……、生物には個体差というものもあるし、人間は、とくに個体差、個性の差が大きいから、そーゆー個体というだけではないかしら? ……個性の中には同性愛というものさえ、あるのだから、そーゆー観点から見れば、メスの性欲過多は少数派であっても異常でも変異体でもないんじゃないの?」

「そう。……そーゆー症状を治すことはできないかしら?」

「異常でも変異体でもないものを治すのは無理ね。まあ、対象となるオスから隔離するか、去勢するかね」

「……寿々奈さん、人間の話に限定してもらえる?」

「ごめんなさい、つい、昆虫のレベルで考えると冷静に答えが出るから。じゃあ、人間で、なら……そうね、それは熱烈に彼のことが好きなのでしょうから、放っておけばいいんじゃない。何か問題があるの?」

「男の子の方が疲れてるとか、嫌がってるのは問題じゃない?」

「嫌がる女性に性行為を求めるのが間違っているように、嫌がる男性に求めるのも間違っているでしょうね。生物としては間違っていないけれど、人としては大きく間違っているわ。智也も私が疲れているときは遠慮してくれるし、逆もあるわ。相手のことを慮るのは当然のことじゃないの? それができないなら男女交際をする資格はないわ」

「そう……そうよね。やっぱり……」

 果凛は二人に礼を言って教室を出ると、携帯電話でジイヤを呼んだ。すぐにリムジンが校門に停車してくれる。

「ジイヤさん、今日の予定は?」

「レッスンが17時から3時間入っております」

「他には?」

「他に予定は、ございません」

「そう」

 そろそろ一年生も授業が終わる頃よね……一蹴くん、今日はアルバイトのはず…、果凛はジイヤに頼む。

「レッスンまでに少し骨休めしたいわ。紅茶の美味しいところ、そうね、ならずやに行ってください」

「かしこまりました」

 すぐにジイヤは商店街へ向かってくれたが、渋滞の激しい地区なので授業が終わってシカ電でアルバイトに向かった一蹴の方が先に到着していた。車窓から掃除をしている一蹴が見え、いのりも来店して客としてケーキを食べている。他に葉夜と静流、詩音と香菜もいる。

「………………。ジイヤさん、ごめんなさい。少し混んでいるようなので、キュービック・カフェの方へ向かってください」

「はい、かしこまりました」

 それほど離れていない店なので、すぐに果凛はキュービック・カフェの客となる。すでに店内には正午とカナタがいた。

「カナタ、日本にいたの?」

「まあねン♪」

「帰ってきてるのなら、帰ってきてると連絡くらいしなさいよ」

「また、すぐウイーンに帰るし♪」

「いつ発つの?」

「3時間後♪ 夜のフライトで」

「……、いつから、日本に戻っていたの?」

「三日前♪」

「………忙しそうね」

「ほたるとショーゴにフタマタかけてるから♪」

「ご苦労様。ここ、いい?」

「「どうぞ」」

 正午とカナタがイスを引いてくれる。果凛が座ると、明日からバイトを始める予定の月岡海が初心者マーク付きで接客してくれた。

「ご注文がお決まりになりましたら、…ぉ、お呼びください」

「ありがとう」

 三人とも海が同じ学校の同期生であることには気がつかず、果凛は紅茶とケーキを注文した。三人で高校三年間の想い出を話していると、すぐに時間が経ってしまい、果凛が席を立つ。

「もう、こんな時間。レッスンに行かないと。……そういえば、カナタ。KANATAは辞めるの?」

「うん、辞めた♪」

「そう……、もう半年も事務所に連絡してないものね。登録抹消を私から社長さんに伝えておいた方がいい?」

「どーでもいい♪」

「………あのね、カナタ、進学も就職もしないのよね。KANATAを辞めたら、どうするの?」

「ショーゴのお嫁さんになる♪」

「………………。へぇぇ♪ 白河さんは諦めるんだ?」

「ううん、ほたるのお嫁さんになるっ!」

「……。どーでもいいわ。じゃ、またね」

 果凛が立ち去ると、入れ替わりに静流が来店してきた。その手に、ならずやからテイクアウトしてきたケーキ箱を持っている。

「ぃ、いらっしゃいませ」

「……」

 海が慣れない接客で静流を案内しようとするけれど、妹の恋人になったはずの正午が以前の恋人だったカナタと同席しているのを見つけて顔を曇らせた。

「……」

「ぉ、お客様?」

「……」

 正午くん……ほたると夏に……ほたるのバージンを……それなのに、また、カナタさんといるって…………健くんとも半年で終わってしまって、悲しんでいたのに……、静流は姉として一万キロ先にいる妹のことを想い、胸を痛めた。そして、妹のために正午の気持ちを確かめる。

「……。あら、正午くん、お久しぶりね」

「あ…、静流さん。どうもっす」

「ハーイ、静流」

 カナタと正午は自分たちを見つけた静流が鬼気迫る顔を一瞬で包み隠して、かなり複雑な表情をしながら考え込んだ後、あえて近づいてきたことに気づいていたので、静流に合わせて平穏な対応をしてみる。

「オレ、静流さんと同じ大学に決まりましたし、よろしくお願いします」

「そう。合格おめでとう。これからは先輩としてビシバシっしごいてあげるわ」

「うっ…それは、勘弁を…」

「ここ、いいかしら? 一人は淋しいから」

 静流はカナタたちのテーブルを指して探りを入れる。

「それとも、デートのお邪魔かな?」

「「…、どうぞ」」

 正午とカナタは同時にイスを勧めた。やっと着席してくれた静流に海が声をかける。

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

「今月の新作スイーツを三つ全部と、コーヒーをホットでお願い」

「三つ全部ですか?」

「ええ」

「はい、かしこまりました」

 海はオーダーを書いて厨房へ戻っていく。静流はカナタと正午を観察する。カナタと正午は観察されていることに気づいているので平静を装う。さすがに、ほたるとの関係は、ほたる本人が家族に話すまで隠しているつもりだった。

「カナタさんは、四月から、どうするの?」

「さあ?」

「……、どこかの大学へ?」

「ううん、どこも行かない」

「じゃあ、就職?」

「ううん、就職もしないよ」

「……、それじゃあ、どうするの?」

「だから♪ さあ?」

「………、フリーターってこと? どこかでアルバイトを?」

「バイトもしないかな」

「それは、さすがに困らない?」

「大丈夫♪ お婆ちゃんの遺産があるから」

「遺産って……?」

「興味ある?」

「……そう言われると…」

「静流にだけ話してあげるから秘密にしてね。うちのお婆ちゃん、遺産を全部、アタシにって遺言を残してたの。いくつもアパート持ってたけど、うちのお母さんと仲悪くて♪ お母さんは、いわゆる社会活動家ってヤツでね。で、貧しい母子家庭とかにアパートをただで貸してあげたりしてたんだけど、そーゆーのお婆ちゃんは嫌いでね。あの人は猫でも自分の土地に入ってくるヤツは追い出すくらいの地主さんだったから」

「……嫁姑の不仲で孫に遺産を全部?」

「そう。だって、お母さんの代になったら慈善活動に全部使われそうって不安に思ってたみたい。で、アタシにアタシのために使いなさい、できれば、貯めて増やしなさいって全部くれたの♪ だから、就職も進学もしないの。自称アパート経営業ってヤツだけど、不動産管理会社に任せてあるから何もしなくてお金が入ってくるよ。羨ましい?」

 カナタは妹の恋敵ではないかと探られるのを避けるため、静流の興味を引きそうな話をして陽動する。それは成功して、静流は働かないで生きていくつもりの18歳に年上らしい苦言を呈することにした。

「………、それを羨ましいとは思いたくないわ。私は大学を出たら働くつもりよ。カナタさんは、なにかやりたいことはないの?」

「ない♪」

「……、ほたるはウイーンに行ってまでピアノを頑張っているし、私も大学に入ってから遅まきながら料理に興味を持って、今は専門学校にも通ってるの」

「えらいね。誉めてほしい?」

「………」

 さすがに静流がムッとして黙った。そこへ海が新作の洋菓子とコーヒーを運んでくる。

「ご注文のニューデリーゼリーとムンバイパイ、ヘルプミープリンズ、ホットコーヒーです」

「ありがとう」

「ごゆっくりお召し上がりください」

 海が一礼して立ち去ると、静流は持参したケーキ箱を開けて、そっくり似ている洋菓子を出した。

「やっぱり……」

「何がやっぱりなの? 静流、六つも並べて、太る気?」

「食べ比べてみたいの。よかったら、二人も食べてみて。それぞれ少しずつ」

「「………じゃあ、いただきます」」

 アイコンタクトで断るより得策だと確認し合ったカナタと正午は六つの洋菓子を静流と食べ比べてみる。

「やっぱり味も似せているわ。でも、レシピは違う……」

「ん~……似たような味だね。けど、何か一つ二つ、使ってる材料が違うのかな」

「この店は三上が就職する会社から仕入れてるって。まあ、でも、同じ様な味じゃないかな?」

「正午くん、こっちを食べてみて」

 静流が持っているスプーンにプリンを載せて正午の口へ運ぶ。こだわらない男は、ほたるの姉と間接キスをした。

「ちょっと、甘いかな。持ち込んでる、これは、どこの店の?」

「ならずや、よ」

「ああ、あの、のんちゃんが働いてる店」

「ええ。でも、どうして……どちらかが盗もうとしたとしか……」

 静流が食べ比べながら考え込んでいると、一太郎が近づいてきた。

「お客様、当店は飲食物の持ち込みはお断りしております」

「ごめんなさい。店長さんですか?」

「はい」

「ならずやというお店を知っておられますか?」

「知っていますよ」

「………。このスイーツ、あまりにも似ていると思いませんか?」

「当店のスイーツは全てオリジナルになっております。レシピは開示いたしません。次からは飲食物の持ち込みもご遠慮ください」

 それだけ言うと一太郎は厨房に戻った。

「静流、何がやりたいの? 探偵ごっこ?」

「そうね、そんなようなものかな。気になってしまって……。正午くん、こっちは、どう思う?」

 しつこく静流はスプーンを使った間接キスを繰り返してカナタの反応を試してみるけれど、正午も気にしないし、カナタも気にしていない。正午が甘味に飽きてきた頃、音緒が来店してきた。売れてきたモデルらしい鮮やかな私服を着ているので、店内でも目立っている。音緒は座る場所を探していてカナタを見つけた。

「あッ、KANATAさん? KANATAさんじゃないですか?」

「え? あ、NEOちゃん。ハーイ♪ お久しぶり」

「お久しぶりって、事務所、どうして来なくなったんですか? みんな心配してたんですよ」

「ごめんね、急に、いろいろイヤになって辞めちゃった♪」

「辞めたって……、……その人、彼氏さん? それで辞めたんですか?」

「ちゃうちゃう。これは元彼、今は……、ショーゴってアタシの何?」

 カナタが覗くように正午の瞳を見つめる。静流がいるので果凛のときのような冗談は言えない。正午も少し考えて答える。

「ん~………モトカノかな」

「ということは……」

 音緒は静流を見て問う。

「もしかして、今、修羅場? 私、とってもお邪魔ですか?」

「ちゃうちゃう。NEOちゃん、ぜんぜん違うから。まあ、落ちついて座りなよ」

 静流との対決に嫌気がさしていたカナタは音緒にイスを勧める。一人で来ていた音緒は勧められたイスに座った。

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 だんだん接客に慣れてきた海がメニューを音緒に渡してくれた。音緒はカロリーと気にして考え込む。とりあえず、紅茶だけ注文してからもメニューを見て悩んでいる。

「あ~ん……このヘルプミープリンズには好奇心を刺激されちゃうなぁ…」

「美味しかったよ♪ ね、ショーゴ」

「そうだな。けっこう美味かった。ネオちゃんってカナタの友達?」

「元同僚です。私のこと、見たこと無いですか?」

「えっと………初めて会う気がするけど…」

 正午がモデルとしてのNEOに気づいてくれないので、音緒はプライドを刺激されて、お決まりのポーズを取ってみる。

「おりょりょ♪」

「……何それ?」

「………」

「ネオさん、って、もしかして、あの荷嶋音緒さん?」

 静流が気づいた。

「正午くん、知らないの? ほら、田原食品のCMにも出てるじゃない」

「え~…っと…」

 タモル以外のテレビを重視しない正午は地方チャンネルなど見ていなかったけれど、音緒は好評だったフレーズをやってみせる。

「ねっちと♪ 粘る、田原のマカロニ♪ 粘って粘って粘りゴシ♪ ねっちとな♪」

「……。ごめん、わからない」

「ごめんね、NEOちゃん、こいつバカだから。ほら、ショーゴ、あれ見て」

 カナタは窓の外を指した。商店街の街頭に張り出されたポスターがあり、音緒が大きく写っている。さすがに正午も理解した。

「おおっ…すげぇ、君、もしかしてモデル?」

「はい、今度、CDも出るの宜しくお願いします♪」

 音緒は買ったばかりの高級ハンドバックからCDの先行予約受付券を出して正午に渡した。

「へぇぇ…インモラル・インパクトか。売れるといいね」

「アタシ、そろそろ飛行機の時間があるから」

 カナタが席を立った。予定では空港まで送らせるつもりだったけれど、静流がいるので控えておく。

「じゃ、静流、バーイ♪ NEOちゃんも頑張ってね」

「さようなら。気をつけてね。……飛行機って、どこに行くの?」

「ひ、み、つ♪」

 カナタは手を振って姿を消した。

「「「…………」」」

 急に静かになってしまい、残された三人は話題を探した。

「ネオさん、ここにはよく来るの?」

「そうですね、最近、いろいろスイーツの美味しい店を探検していて、ここは3回目かな。いつも新作のスイーツが斬新で楽しいし」

 再び音緒はメニューを見つめて悩む。そこへ、海が紅茶を持ってきてくれた。

「ご注文の紅茶です。他にご注文はございますか?」

「う~ん……、あと100グラムはダイエットしておかないといけないから…」

「…………………」

 黙って待っている海に、音緒は悩み続けて答えが出せない。

「ごめん、あとで、また呼ぶかも」

「かしこまりました。ごゆっくりおくつろぎください。こちらはお下げして、よろしいですか?」

「ええ、お願い。こっちも、もう、いいわ」

 立ち去ったカナタの食器と、静流も食べ終わった食器を下げてもらう。静流は腕時計を見て身支度を始めた。

「ごめんなさい、そろそろ専門学校の時間だから」

 静流が自分の分の伝票を持とうとすると、正午が止めた。

「いいですよ。オレが払います」

「あら♪ 可愛い子がいるからって見栄を張らなくていいのよ」

「そーゆーんじゃなくて、静流さんには大学に入ってから、いろいろとお世話になる予定だから。楽な単位の取り方とか♪」

「まあ、それを狙うには、少し安すぎない?」

「たはっ♪ ま、とりあえず、先行投資ということで。それに、ならずやのも御馳走になったから」

「そう、そーゆーことなら、おごってもらうわね。ごちそうさま」

 機嫌良く静流が帰っていくと、音緒はハンドバックから伊達眼鏡を出した。

「困っちゃったなァァ…」

「どうかしたの? ネオちゃん」

「だって、これじゃあ、デートみたいじゃないですか? NEOが男の子と喫茶店にいたなんてネットに流れたら大変だもん」

 音緒は伊達眼鏡をかけると簡単に髪をまとめてゴムで束ねて三つ編みにする。

「これなら、バレないかな」

「そうだね」

「………」

 って、この人、NEOと二人っきりって状況を理解してないのかな……KANATAの元彼だけあって、顔はいいけど、頭は悪いのかな……普通さ、このNEOといきなりツーショットなんて、もっと動揺してしかるべきじゃないかな……、音緒は女性慣れした正午が動じていないので不満だった。

「てへっ♪ 私、最近、学校でも騒がれて大変なの」

「ふーん」

「イッコーじゃあ私のこと知らない生徒はいないかな」

「へぇぇ…」

「………」

 何このバカ……、音緒は苛立って食欲が湧いた。今さら紅茶を持って席を立つこともできないので、せめて甘い物を食べようとメニューを睨む。不意に正午が口を開いた。

「君、可愛いもんな。きっと、人気出るよ」

「っ…………」

 おりょ……りょ……そういうこと……さっくと言える? けっこう不意打ち……心臓にドキっと……きたかも……って、まさか、こんなバカそうな人に、このNEOが……ありえないって………でも、……このドキドキは……、音緒は否定したかったけれど、逆らいがたい運命的な衝動を覚えてしまい、顔が赤くなるのを抑えるのに苦労した。

「…………」

「………」

 正午はヒマそうに外のポスターの音緒と実物の音緒を見比べている。音緒が売れているモデルだと知っても、果凛やカナタに長く接してきた経験もあって、とくに思うことはなかった。

「……えっと、…しょーご…さん? って、それは下の名前なんですか?」

「あ、うん。ごめん、君の名前だけ聞いてオレが、まだ、だったね。オレ、加賀正午。加賀は普通の加賀、正午は昼間、ちょうど12時、真っ昼間の正午♪ 浜咲の三年だけど、すぐに千羽谷大学の一年」

「千羽谷大学に行くんですか。見かけによらず賢いんですね」

「たはっ♪ まあねン♪」

「………」

 あっ、やっぱりKANATAの元彼なのは本当なんだ……名残がある……私ってKANATAの抜けた穴でチャンスをつかんだけど……彼氏まで、おさがりってのは……けど、なんで別れたのかな……さっきの感じだと、KANATAの方が、まだ未練ありそう……ヨリを戻したいって感じ………フフ……もし、未練ある元彼を私がゲットしちゃったら、あの人、どんな顔するかな? 仕事も彼氏も、全部私に持っていかれたら……あの余裕ぶった態度も………フフ……切羽詰まった泣き顔に……捨てられた仔猫みたいに…フフ…、音緒は恋心に加えて暗い気持ちを抱いた。

「とりあえず、何か、オーダーしよっと。今月は新作が三つもあるよぉ~」

「テンチョー、インドで充電したからね。張り切ってるな」

「このヘルプミープリンズは決定として、あと、……ニューデリーゼリーも気になるけど、二つは絶対カロリーオーバーだし…」

「大変だね、モデルさんは」

「大変なんですよ、自己管理♪ あ、そうだ。もし、よかったら、私、プリンとゼリーを頼むんで、半分、食べてもらえませんか? もちろん、スプーンは別々で」

「うげっ…」

「……………………」

 うげっ……って、……今、……うげっ、…って言った? このNEOの食べ残しをいただける光栄を…………イッコーの男子だったら、落ちてたとしても拝食するはずの……実際、ゴミ箱に捨てた空き缶の飲み口を舐められる事件まであったくらいの……それを、うげっ……って……どういうこと……、音緒は無表情を装うのに、かなりの苦労をした。

「てへっ♪ うげっ、なんて、ひどいなァァ。傷ついちゃったかも」

「あ、ごめん。そーゆー意味じゃなくて、さっき、かなり食べたからさ。カナタたちと六つも試食して、もう甘い物はいらないって気分なんだ」

「なんだ、そういうことですか」

 そういうことでも、けっこう失礼な人………まあ、許してあげる……六つは、確かにきついでしょ、音緒は気を取り直して海にプリンを注文して正午と雑談を続ける。話題がバスケットボールの話になり、音緒は感心した。

「へぇぇ♪ じゃあ、中学で全国優勝したんですか。すごいなぁ」

「まあねン♪」

「中学で、けっこうモテたんじゃないですか? 正午さん」

 みょーに女の子に慣れてる感じなのは、そういうことかな……全国優勝ともなれば、そりゃ女子の憧れの的になるし、きっと、バスケ部内で一番ハンサムって感じで、学校のアイドルって風に……ある意味、今の私と釣り合うかも……、音緒は海がテーブルに置いたプリンを一口食べて唇を舐めた。

「優勝して学校でモテモテだったり?」

「そうでもないよ、っていうか、カナタがいたし」

「ああ、なるほど。……KANATAさんとは、いつから付き合ってるの?」

「あいつとは中学に入ったとき……いや、オレは忘れてたけど、あいつは幼稚園の頃からオレを好きだったらしい」

「へぇぇ♪ じゃあ、KANATAさんの初恋の人?」

「まあ、カナタが幼稚園に入る前に誰かを好きになってないなら、そーゆーことになるかな」

「それで、ずっと想い続けて、中学から付き合ったなんてロマンティック♪ でも、どうして高校まで続いたのに別れちゃったんですか?」

「ん~~……まあ、ケンカ別れかな」

「おりょりょ♪ 普通ですね。でも、さっきの感じだとKANATAさん、ヨリを戻したいんじゃないですか?」

「ん~…………まあ、そうかも……まあ、カナタの話、もういいじゃん」

「そうですね」

 あっ…誤魔化した…なるほど、正午さんはビミョ~で、KANATAはヨリを戻したいわけね……子供の頃から大好きだったなんて……あの人の一番大切なもの……、音緒は食べ終わってしまわないよう時間をかけてプリンを食べる。いろいろと正午の話を聞いていると、急に正午が顔を曇らせた。

「どうしたんですか?」

「……いや、何でもない。……っていうか、ごめん。苦手な人が来た。隠れさせて」

 正午は小柄な音緒の影に身を潜めて、出入口から死角になるよう移動した。急に密着された音緒は心臓が高鳴るのを感じて、恋に落ちてしまっていることを強く自覚したけれど、それを練習中の演技力で押し隠す。来客に海が挨拶した。

「いらっしゃいませ」

「Bon soir!」

 フランス式の挨拶をしたのは、エリーズだったけれど、対象は正午ではなく一太郎だった。

「いらっしゃい。mademoiselle」

 商売上手な一太郎は、お嬢さんとフランス語で正確に発音した。エリーズが嬉しそうにカウンターに座る。海がお冷やとオシボリを置く。

「ご注文がお決まりに…」

「白ワインをお願い」

 エリーズは海にではなく一太郎に頼む。

「かしこまりました」

「ねぇ、終わったら呑みにいかない?」

「たはっ♪ 生粋のフランス人にはかないませんよ」

 客からのナンパを一太郎は巧みにかわしている。海も今日一日で何人かの男性客に声をかけられたので後学のために一太郎の回避術を見習うことにしてエリーズの接客は任せる。一太郎がグラスワインをエリーズの前に置いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 エリーズは一口呑んで微笑した。

「イタリア産ね」

「さすが」

「赤はフランスに限るけれど、白はイタリアもいいわね。何か合う物をちょうだい。それと、一太郎にもグラスで同じワインを」

 エリーズは上機嫌で一太郎を口説きながら、グラスに映った正午と音緒の様子を観察する。エリーズが気づかなかったと思っている正午はホッとして音緒から離れている。

「ふふ♪」

 正午ちゃん、また可愛い子を♪ ……でも、彼って年下趣味なのかな……私から隠れるなんて、まあ、こっちとしてもクロエを預かってもらってる三上さんちと関わりのある正午ちゃんに、これ以上深入りするのは危ないし、その子のことは、見なかったことにして、ホタちゃんには報告しないであげる、だから、私のことも見なかったことにするのよ、エリーズは地中海的な楽観で正午のことは忘れる。正午も楽観して音緒に礼を言った。

「ありがとう。見つからなかったみたいだ」

「あの外人さん? 正午さんが逃げてるの?」

「うん、まあね」

「どういう関係なんですか?」

「たまたま旅先で知り合ってさ。それ以来、つきまとわれて困ってるんだ」

「モテるんですね」

「たはーっ……勘弁してくれよ」

「てへっ♪」

 まあ、勘弁してほしいよね、あの外人、美人だけど三十路……もしかして40歳かな……テンチョーさんとなら、いいバランスかも……テンチョーさん、かわそうとしてるけど、だんだん、追い込まれてる感じ……あ、とうとうデートの約束まで……あの外人さん、強引だけど、上手な攻め方、ベテランって感じ、さすがヨーロッパの人は違うなぁ~…プロバンスぅ~♪ 音緒は最後のプリンを口に運んだ。

「美味しかった♪」

「そろそろ帰ろうか? ネオちゃん」

「そうですね」

 音緒が身支度をしていると、正午は自然に伝票を持った。

「あ、私の分、払います」

「いいよ、どうせ、ついでだし」

「でも…」

 へぇぇ♪ こういうところは、いい男……私がモデルだから高収入あるだろうって思わないで、男らしい見栄を張ってくれるなんて♪ 音緒は可愛らしく頭を下げて礼を言った。

「ありがとうございます、ごちそうさま」

「どういたしまして」

 正午は海を呼んで会計を終えると音緒と店を出る。

「じゃ」

「ぁ…、はい、じゃ」

 ケータイ番号とか、訊いてこないんだ……いきなり私からってわけにも………このお店が、行きつけなら……また出会えるかな……とりあえず、今日は深歩にお土産を買お、音緒は踵を返して再入店する。

「すいません、ムンバイパイをお持ち帰りお願いします」

「お持ち帰りですか…、はい、訊いてきます」

 海は初めての注文を受けて、エリーズと過去の旅行先やフランス製のバイクについて話し込んでいる一太郎に問い合わせる。すぐに戻ってきて困った表情で頭を下げた。

「すいません、お持ち帰りは、やってないそうです」

「そうですか。……なんとか、お願いできませんか? 箱代なら払いますし」

「えっと……もう一度、訊いてきます」

 海は再び一太郎に訊ねる。また、すぐに戻ってきた。

「やっぱりダメだそうです。すいません」

「………。割増料金でもいいですよ。お金ならあるから」

 音緒は一万円札を出して海に押しつける。海は一万円札を持って困った顔で一太郎のところへ駆けつけた。少し話して、今度は一太郎が出てきた。

「うちはお持ち帰りはやってないんだ」

「お釣りはいらないです」

「たはっ♪ いいね、そーゆーの可愛いよ。でも、ダメ」

「どうしてっ?」

「こだわり。うちの菓子は、うちで食べてもらう。お持ち帰りだと温度や湿度、いろいろ提供する前提が崩れるからね。また、来てよ」

「………ここに、来られない人に食べさせたいのに」

「どうして、来られないの?」

「その人は脚が悪いの。車イスだから」

「なるほどね。それは盲点だった」

 一太郎は少し考え込む。

「じゃあ、こうしよう。来週までに、ここの段差にスロープを作っておくよ。テーブルも置き方を工夫する。それで、どうだい?」

「…………。………」

 そんなこと言われても、今の私が深歩を連れ歩いたりしたら、NEOの妹が身体障害者なんだって偏見と差別を受けてネットで………、音緒はタメ息をついて諦めた。

「もう、いいです」

 音緒は背中を向けて去っていく。その背中に一太郎は声をかける。

「スロープは作っておくよ! ぜひ、お越しを♪」

「…………………」

 音緒は振り返らずに帰宅する。家について玄関に入ると、見慣れない靴を見つけた。

「深歩にお客さん……?」

 男物の靴だったのを意外に思いながら音緒は二階へあがると、深歩の部屋へ入る。

「深歩?」

「「っ…」」

 室内には深歩と扉がいた。不意に音緒がドアを開けたので、深歩の膝に顔を伏せていた扉は慌てて起きると、涙を手で拭いてバツが悪そうに視線を斜めに流す。深歩が怒った。

「お姉ちゃん、ノックくらいしてよ!」

「ごめんね。誰かいるとは思わなくて」

 音緒は謝りながら妹が連れ込んだ男を観察する。真っ黒なライダースーツに赤いラインが入った姿はヒーローものの実写番組を思い出させる。靴を脱いでいるので扉が片足義足なことにも気づいた。

「……」

 ガラの悪そうな人……あ、でも、義足なんだ……なるほど、それで深歩と接点が……泣いてたみたいだけど、きっと、障害のことで落ち込んで、それを両脚不自由な深歩に励ましてもらったり、慰めてもらったりしてたのね、まあ、障害者は障害者同士、慰め合うのは精神的にもいいことだよね、モデルはモデル同士、身障は身障同士、お互いのレベルに合わせて生きていく方がいいし、音緒は納得して扉に声をかける。

「深歩と仲良くしてあげてくださいね」

「……ちっ…」

 扉は舌打ちしただけだった。リナのことを深歩に告白して感極まって泣きついていたタイミングで音緒が現れ、その姉の視線と表情で何を考えていたのか、大方の察しがついただけに腹立たしい。

「……」

「じゃ、ごゆっくり」

 笑顔を作った音緒は部屋を出てドアを閉めた。

 

 

 

 翌々日、日曜日なのに仕事へ行く幸蔵に、エリーズは小言を言った。

「結局、あなたは私たちより仕事を取るのね」

「大事な用件なんだ。午後には戻るから、見逃してくれ」

 幸蔵はスーツを着て身支度をしている。

「ちゃんと平日も二日に一回は夕食をともにできるよう帰ってきているじゃないか」

「そうね。夕食を食べて、ノエルとお風呂に入って、それから、また会社に戻って仕事をして深夜に帰宅。また、早朝に出勤。これじゃあ、私に欲求不満が溜まると思わない?」

「お前の相手は、今夜にでもするから」

「お前?」

「……エリーズ、子供の前で、夜の話はやめないか?」

 幸蔵はノエルが朝食のチョココロネを食べながら二人の会話を聞いていることを気にしたけれど、エリーズは頓着しない。

「赤ちゃんはキャベツから産まれるわけでも、コウノトリが投下してくるわけでもないでしょ。誤魔化して、どうするの?」

「それは、そうだが、欲求不満だとかだな……ああ、もう、こんな時間だ。とにかく、行くよ」

「日曜日に仕事をするバツとして、私とノエルに欲しい物を買ってちょうだい」

「わかった、わかった、何がいい? ノエル」

「チョコレート♪」

「バイク♪」

「……エリーズ、……」

「だって、日本での足がないのよ、私」

「………バイク免許あるのか?」

「もともと国際免許証だから、クルマしか乗れない免許だけど、警官に出会ったらフランス語しか話さないから大丈夫よ」

「それは大丈夫のうちに入らないが……」

「買って」

「………わかったよ。じゃ、もう行くからな」

 会話を切り上げて幸蔵は家を出て、会社に入る。日曜なので他の社員は出勤しておらず、智也も呼んでいない。約束していた興信所の職員だけが、静かに待っていた。

「おはようございます。嘉神川社長」

「ああ、おはよう。それで調査の結果は?」

「はい、こちらに」

 秘かに内偵させていた結果を知り、幸蔵は眉をひそめた。

「そうか………やはり…」

 クロエと智也のことを調べるよう依頼された興信所は、すぐに学園祭でクロエが乱心したことを突き止めていた。高校の文化祭に中学生が現れて、思いつめて包丁を振り回すまでに至ったことは生徒の間では広く噂になっていた上、カップルとして智也と鷹乃は有名だったので、調査は難しくなかった。さらに、現在は三上家に住んでいるクロエは智也への気持ちを押さえ込み、妹のような関係で智也や鷹乃と接し、鷹乃も恋敵が同棲していることを受け入れ、嫌がらせをしたりせず、むしろ親切と言っていいほど優しく接していることも調べ上げ、さらに、二人はクロエがいる家では性行為を避けて、自由登校になっている学校で若い情熱を処理していることも突き止めていた。

「…………」

 浮気調査を引き受けることが多い興信所のレポートは文書だけでなく写真もあり、決定的な瞬間を撮影することに長けているので、超望遠レンズで撮影した教室で交わる智也と鷹乃を映している。数枚の写真の中で、鷹乃は制服を半裸に脱がされ、智也に乳首を吸われながら、クリトリスを指でなぞられ、快感によがっていたり、机の上で四つん這いになって智也に陰部を向けて自分で指で拡げたりしている。

「……………」

 他にも自由登校の教室で二人っきりなのをいいことに、全裸になって机に寝た鷹乃の身体に手作り弁当のオカズを置いて女体盛りをしたり、口移しで食べ合ったり、鷹乃の胸やお尻でオカズを挟んで智也に食べさせたり、掃除用バケツに犬と同じポーズで放尿していたり、体育でもないのにブルマや水着を着用して縄跳び縄で股間や胸を縛られたり、およそ男子高校生がやってみたいと思うことを毎日着実にこなして高校最後の想い出を二人でつくっている。もちろん、オーソドックスに鷹乃が男根を舐めている写真もあれば、鷹乃がクリトリスを吸われて喘いでいる写真もあった。どの写真も鷹乃が嫌がっているのを強制している素振りはなく、鷹乃も教室でも智也にしか見られていないなら恥ずかしいとも思っていないようだったが、さすがにお尻に挟んだピーマンの肉詰めを食べさせるときには真っ赤に赤面していて、かなり興奮した様子で、その後の写真ではアナルセックスで乱れてヨダレを垂らしている。智也も鷹乃も若くして覚えた性行為の快感を追求し合っているようだった。

「…………………」

 この調査員……優秀なのは確かだが……ここまで撮りまくる必要は……あったのか、……だが、三上君もワシの前ではおとなしそうな顔をしているが、こういう側面があるのか………たしかに、これなんかはエリーズに試したら喜びそうだが……ワシは、そーゆー趣味がないし……案外、同じ時代に産まれていたらエリーズはワシより三上君を選びそうだな……ワシとのセックスは、そんなに退屈なのか……………オーラルセックスにも二人とも抵抗ないようで時代の差を感じるな……それにしてもタカノさんキレイな身体をしている……はっ、いかんいかん! 目的はクロエを幸せにすることで二人の生活を盗み見ることじゃないはずだ、幸蔵は勃起しかけている自分に気づいて、写真を伏せて机においた。

「………。ところで、タカノさんは本当にクロエに悪感情をもっていないのかな? 一度はクロエも三上君に告白したということじゃないか、そんなクロエと一つ屋根の下に暮らすことにタカノさんは心平穏でいられていると?」

「少なくとも調査中には、目に見えて嫌がらせをしたり、同居を迷惑がるような素振りは一度もありませんでした。三上宅の台所は磨りガラスなので、ぼやけた写真しか撮れていませんが、いつも二人で台所に立って料理をしていますが、仲の良い様子に見えることはあても不仲という印象は、一度も。これなどを拝見していただければ」

 調査員は新たな写真を幸蔵に見せる。換気のために窓を少し開けているときに台所にいた鷹乃とクロエが談笑したり、包丁で指を切ってしまったクロエの傷口を鷹乃が吸っている写真だった。

「うむ………仲がいいように……見えるな。では、三上君はクロエを、どう想っているのだろう?」

「心の中までは調査できませんが、お嬢様とは距離を置いて接し、それでいて冷遇することもなく節度をもって同居生活を送っている様子です。これなどが例かと」

 クロエと智也が映っている写真では二人は兄と妹のように振る舞っていた。楽しくテレビゲームをクロエに教えている写真では鷹乃とは密着することがあってもクロエとは15センチほど離れている。他の写真でも距離はうまっていない様子だった。

「………。クロエが女性として彼に、どう想われているか、わかるか? 推測でいい」

「申し上げにくいことながら、やはり、お嬢様は、まだ中学生、彼でなくとも、こちらの彼女を選ぶのが自然かと。………何年か先には、お嬢様の方がより美しくおなりでしょうが、今は同じ土俵で勝負するのは無理ということではないでようか。このように…」

 冬休みにクロエと鷹乃、智也の三人で屋内プールに遊びに行った写真で水着姿の二人が映っている。クロエは中学二年生にしては立派な身体になりつつあるものの、まだまだ、鷹乃には及ばない、比べるのが可哀想という状態だった。

「………………………クロエ……いつのまにか、こんなに成長して…」

 エリーズに似るなら……タカノさんを恐れることもないが……時間だけは……四歳の年齢差は20代なら釣り合うが、10代では別世代か……、幸蔵は腕組みして娘の身を案じる。

「クロエは今の生活を、……どう想っているだろう?」

「お嬢様は、よく耐えておられますが、やはり、おつらいのではないでしょうか。お一人になると、このような表情を…」

 鷹乃たちと別れて中学へ登校するクロエの写真だった。どこか、淋しそうで儚い、成績が優秀なので生徒会の仕事を受けもっているが、年齢にしては大人びたクロエは他の生徒から頼られることはあっても、頼る相手はいない様子だった。今は三年生を送る会の準備に追われていることも調査員は補足した。

「クロエ……。……」

「調査結果は、以上です」

「わかった。ありがとう。請求書を送ってくれ」

「ご利用、ありがとうございました」

 頭を下げた調査員が立ち去ると、幸蔵は社長室の金庫をあけた。

「…………」

 三上君は確かにタカノさんを愛しているだろう……だが、彼は………金に弱い……今の若者らしいというか、らしくないというか……かなり現金への執着は強い…………そんな彼は大金を目の前にしても……愛を貫けるかな……クロエが望むものは今まで何でも与えてきたんだ、何でも………、幸蔵は何年も続けてきた間違った愛情の注ぎ方を、まだ続けるつもりだった。チョコレートとバイクと智也、どれも買うつもりだった。

 

 

 

 鈴は泣きながらバイクを走らせていた。

「…うぅ……くっ…」

 もう何日、走っているのか、忘れてしまった。たぶん、北海道と沖縄以外の全ての都道府県を走った気がする。

「……ここは…神奈川…? ……戻って…きたの……私は……、あいつは戻れなかったのに…」

 いつのまにか、住み慣れた故郷に帰ってきている。

「………………………どうしよう……」

 先月、弟を亡くした鈴は衝動的にバイクを走らせて全国を巡っていたが、その旅も体力的な限界に近づいている自覚はあった。バイクにガソリンは補給しているが、自分は何も食べていない。

「………信……」

 死んだ弟の名前を口にして鈴はバイクを停めた。

「お前は、もっと……苦しかったんだろうね……」

 インドの荒れ地で、無一文で餓えて倒れ、そのまま他界した弟が、どんな思いだったのか知りたい。

「もうガソリンも買えやしない……」

 財布にあった現金は、すべてバイクに飲み込ませて自分は水道水くらいしか口にしていない。鈴は給油ランプが点滅しているバイクを路肩に駐めた。

「……さあ、……どうしよう……。そうだ…あの子とメールでも……」

 鈴は電源を切っていたケータイを出して数日ぶりに電源を入れる。編集者からのメールが何通も届く中、カナタからのメールもあった。ひょんなことから知り合ってメールだけを続けている関係だった。

(最近、どうしたの? 生きてる?)

 カナタから心配するメールだった。

「…ふふ……どうしたんだろうな……私は……、まだ生きてるぞ…」

 鈴はメールを返信しようとして指に力が入らないことに気づいた。

「あれ……? ……」

 足からも力が抜けていく。気がついたら地面にキスをしていた。

「……痛いなぁ……」

 路上で倒れた鈴は壊れなかったケータイを握る。ゆっくりと指に力を入れてメールを入力した。

(弟が死んだ。私は生きてる)

 送信して待つ、お互い何日も送受信しないときもあれば、チャットのように頻繁にやりとりするときもあり、今はすぐに返事が来るような気がした。

(アタシもお婆ちゃんが死んじゃった。会えなかった)

「……………………そっか……」

(私も会えなかった)

(アタシには支えてくれる人がいたから。今、助け、必要? どこ?)

「…………いや、いいよ……信だって、一人だったんだ……」

(ヘルプは必要ないよ。ノーサンキュー)

 鈴はメールを終えた。

「……ああ………死にそうだ……」

 さっきから視界が暗い。空は明るいのに、よく見えない。

「…………」

 信……お前は……こんな風に………怖いな………このまま死ぬって………誰も助けてくれなかったんだよな……信……、鈴は倒れている自分を横目に見ながら、関わりを持ちたくない様子で去っていく通行人を見るとは無しに見ていた。

「…………死ぬかな…」

 餓死なのか、脱水なのか、過労死なのか、とにかく、このままだと死んでしまう気がした。心のどこかで、もう少し臨死体験を味わったら生きようと思いつつ、このまま死んでしまってもいいような気分でもあった。

「……………………………やばい……かな……」

 ただ、生きようと思っても身体が動いてくれない。通行人は誰も鈴を助けようとはしない。このまま意識を失ったら死んでしまう、そんな危機感が大きくなってくると、初めて怖いと思えてくる。

「……怖いな………淋しいな……信…………」

 意識が遠のいてくる。何度か、意識が飛んでいる気がする。眠るように失神している気がするけれど、それが数秒のことなのか、実は何時間も意識を失っていたのか、それさえわからない。何度目かの意識喪失で鈴は尿を漏らした。ライダースーツの中が温かくて、まるで羊水に漂う胎児のような気分になる。

「……………」

 いよいよ死ぬ……失禁までして…………しょせん……人間も生き物……私も轢かれた猫や犬といっしょ……誰も振り返らない……さすがに三日もして腐り始めたら事件に……なるかな……おもらしだって、この歳なら大事件なのに………生理なら……生理……来ないなぁ……田中一太郎なんて偽名としか思えない……大事にしてたバージン………バカなお母さんで……ごめんよ……こんなところで……お前まで巻き込んで……最低の母親だな、私は……、鈴はこの世にいられるうちに、いるかもしれない胎児に声をかける。

「……信……一…………では……ダメか? ………女の子かも……、ごめん……ごめんな…父親も、どこの誰だか……ごめん……最低のお母さんで…」

 もう涙を流す体力もないようで、鈴は弟の最後のメッセージを思い出した。

「………へるぷ…………みー……ぷりーず……」

「どうしたんですか? 大丈夫?」

「…天使……?」

 鈴は金髪の愛らしいノエルを天使ではないかと錯覚したけれど、羽は生えていない。

「help meって聞こえたから」

 鈴と違って、流暢な発音をしたノエルは小さな身体で倒れている鈴を起こしてくれる。

「どうして、こんなところに倒れてるの? 交通事故? でも、バイクは無事みたい……」

「……す……いた……」

「え? ごめんなさい。日本語とフランス語、英語が少しわかるだけで……、えっと、Qu'est-ce que vous avez? Can I help you?」

「………おなか………すいた……」

「………。これ、食べますか?」

 ノエルは持っていたチョコレートを鈴に渡した。

「っ…はぐっ…はぐっ…ぅぅ…」

 食べ物を見るなり本能的な衝動が爆発して鈴は板チョコをバリバリと食べ、喉が痛いくらいだったけれど、あっという間に飲み込んだ。

「もう一枚、食べますか?」

 さらにノエルがチョコレートをくれる。結局、五枚もの板チョコを食べてから鈴は落ちついた。

「ハァ…ハァ…生き返った…」

「よかった」

「すまない……君のチョコを全部……、今は、持ち合わせもなくて弁償も…」

「気にしないで。ノエルにはパパがいくらでも買ってくれるから。でも、日本でも行き倒れになる人っているんですね。いないと思ってた」

「……はは……面目ない…」

「どうして、行き倒れたの?」

「う~ん…………まあ、話せば長くなるけど……ノエルちゃんには世話になったから…」

 鈴は言いたく無さそうに、けれど、話し始めると誰かに聞いて欲しかったのだと自覚して喋った。

「そうですか、frere…弟さんが…」

「正直、あいつが家を出たときは、たいして心配もしてなかったんだ。どうせ、その辺をうろついて金に困ったら帰ってくるだろう。そのときは蹴り出してやる、って。でも、あいつがインドで遺体で発見されたって連絡を受けたときは…………………兄弟の情ってのが、こんなに強いものだとは思わなかった。まるで身体の半分を無くしたみたいな喪失感で……なのに、あいつが死んだとき、私は日本で暖かい部屋の中にいて美味しいものを食べていたんだ。その瞬間に自分の弟が死んでいくなんてこと、考えもしないで……信が死んでから私は自棄になって、さっきみたいな無茶をしたり、信を見つけてくれた行きずりの旅行者に身体を許したり、あれから生理も来なくて…っ、ごめん、子供にする話じゃなかった」

「…ううん……ノエルにもお姉ちゃんがいるから…」

 ノエルが涙目になると、鈴は涙を耐えられなくなり、しばらく泣いた。

「せめて、あいつが感じた餓えくらい知ってやりたかったから……バカな姉だな、私は」

「ノエルも、お姉ちゃんが、どんな気持ちで日本にいたか…」

 ノエルの小さな背中を撫でると、鈴は気持ちが温かくなるのを感じた。

「本当に助けてくれてありがとう」

「ノエルは当然のことをしただけ♪ ………うん、決めた。もう一度、お姉ちゃんに会う!」

 ノエルは子供らしい唐突さで立ち上がると、礼を言い足りないでいる鈴に手を振って走り出した。今なら、うまくいく気がする。何の根拠もないけれど、神さまが応援してくれてるかもしれない、ノエルは駆けつけた三上家のチャイムを鳴らした。

「あら、ノエルちゃん。いらっしゃい」

 エプロン姿の鷹乃が出迎えてくれる。鷹乃の身体からは甘い料理の匂いがして、ノエルは日本人の母親というのは、こんな感じかもしれないと思った。

「どうしたの?」

「おばさん、お姉ちゃんに会いたいの!」

「そう。呼んでみるわね」

 幼女にオバサン扱いされることに免疫ができてきた鷹乃は微笑を崩すことなく台所にいるクロエに声をかける。

「クロエ、お客さんよ。ノエルちゃん」

「…はい…」

 あまりいい返事は響いてこないけれど、ノエルが緊張して待っていると、鷹乃と同じエプロンをしたクロエが玄関に出てきた。

「………………………」

「………あ…あの、お姉ちゃん…」

「何の用?」

 冷たいクロエの対応にノエルは足がすくんだけれど、勇気を振り絞る。

「ぇ………っと………、……ぁ……ぁ…」

「あ?」

「…あ……会いたくて……、……お姉ちゃんに…」

「………。そう」

「ご……ごめんなさい……急に来て……迷惑なら…」

「……………それほど迷惑でもないわ。鷹乃さんとケーキを焼いていたの。用事がないなら食べていく?」

「うんっ!」

 子供らしい遠慮の無さをクロエもこころよく思った。智也は遊びに出ているので三人でケーキを食べて、なるべく他愛のない話題を選んで話していくうちに、少しは打ち解けた気がしてくる。

「おばさん、料理うまいんですね」

「そんなことないわ。この程度なら、生活していくうちに身につくものよ」

「ノエル、鷹乃さんにオバサンなんて失礼なこと言わないの」

「ご…ごめんなさい…、…鷹乃、…お姉さん?」

「いいのよ、おばさんでも。どうせ、あと一ヶ月で女子高生でもなくなるから」

 鷹乃はケーキを持ち帰れるように紙箱に入れる。

「次に作るときはチョコレートケーキにしてあげるわ。そのときは呼んでもいい?」

「うんっ」

「クロエ、そこのケーキナイフとフォークを取ってちょうだい」

「はい、ママ」

「「……」」

「ぁ……」

 クロエは、うっかり鷹乃をママと呼んでしまったことに気づいた。ノエルが不思議そうな顔をして鷹乃とクロエを見ている。鷹乃は笑顔を作った。

「たまに、クロエって、私をママって呼び間違えるのよ。まあ、学校でも先生をうっかりお母さんって呼んじゃう子もいるから、そーゆーものかもしれないけど」

「クロエお姉ちゃん……」

 ノエルは実の姉が母親以外の女性をママと呼称してしまうことに違和感を覚え、それがクロエにも伝わる。クロエは顔を背けて言い捨てた。

「………。あんな人より、鷹乃さんの方が、よっぽど、お母さんらしいもの。あんな人、母親じゃないわ」

「クロエ、よしなさい。ノエルちゃんの前で」

「だって…、………………………っ!」

 思春期の中学生らしくクロエは気分を損ねて二階へ駆けあがっていく。鷹乃はケーキを入れた箱をノエルに渡して帰らせる。

「ごめんね、ノエルちゃん。また、来てね」

「鷹乃お姉さん……、…クロエお姉ちゃんに……ノエル嫌われてる?」

「そんなことないわ。でも、まだ、少し時間が必要なの。ゆっくりね。だから、また、来てね」

「はい」

 ノエルは肯いて帰宅した。

 

 

 

 翌日の月曜日、ならずやの閉店時間までバイトをしていた一蹴は掃除が終わっても帰宅せず、逆に茶器の用意をしていた。葉夜が不思議そうに問いかけてくる。

「一蹴くん、何してるの?」

「秘密♪」

「え~っ……教えてくれないの?」

「そりゃあ、秘密だからさ。ヌシには許可とってあるし」

 一蹴は楽しそうにお茶と菓子の準備をしている。

「……。じゃあ、のん、帰るね」

「あ、うん、お疲れ様」

「お疲れ様」

 葉夜は帰るふりをして店を出たと見せかけるため、ドアを開閉して着いている鐘を鳴らしつつ、夢中で準備している一蹴が自分を見ていないのを確かめてレジ台に隠れた。

「ミッション・スタート♪」

 秘密を探るのが大好きな葉夜は息をひそめて時を待つ。少し眠たくなってくる頃に、ドアの鐘が鳴って来客があった。

「こんばんわ」

「ようこそ、秘密のお茶会へ♪」

 一蹴と果凛の声が響いてくる。葉夜は飛び出して驚かそうかと思ったけれど、他にも秘密のお茶会に参加するメンバーがいるかもしれない、どんな秘密パーティーなのか、内容を探ることにした。

「…でね、そのときカナタが言ったの…」

「…あの人らしいな…」

 一蹴と果凛は二人で楽しく会話しているだけで、とくに変化はない。思い出話をしたり、学校のことや家のこと、気さくに何でも話し合っている。

「三年生の修学旅行で京都の地主神社に行ったの」

「あの縁結びの?」

「そう。けっこうね、みんな意識しちゃうのよ。安定してるカップルは別として、片想いなんて、とくにね」

「へぇぇ……りかりんも?」

「アタシは、そのときは好きな人、いなかったから」

「じゃあ、今は?」

「……。さあ♪」

 微妙な沈黙をつくった果凛はハンドバックから写真を出した。

「ほら見て、そのときの写真」

「あれ? これ、澄空の制服? どうして浜咲の修学旅行に」

「毎年、いっしょなのよ。なぜか」

「ふーーん」

「地主神社は世界文化遺産なのよ。おかげ明神って言うの。ほら、見て」

 

 

 

● おかげ明神 どんな願い事も、一つだけなら必ず「おかげ(ご利益)」がいただけるという一願成就の守り神様。特に女性の守り神として厚い信仰を集めている。また後方のご神木は「いのり杉」とも「のろい杉」ともいわれ、昔、女性の間で流行した「丑の刻まいり」に使われた。白の衣に頭はローソク、顔は真白に化粧をし午前二時「丑の刻」に相手にみたてたワラ人形を人知れずこのご神木にくぎで打ちつけのろいの願をかけたという。その五寸くぎあとが、現在も向かって左後方に無数に残っている。世界文化遺産 京都 地主神社

 

 一蹴は写真を見て、恋人のことを思い出した。

「いのり杉か………」

 いのり杉……呪い杉って……なんか、いのり過ぎ、呪い過ぎ、って感じで……いのりのことみたいで……、一蹴はタメ息をついた。

「ふぅ…」

「陵さんと、行ったら話のネタになりそうね」

「まだ、二年も先の話だから。……そのころ、いのりと付き合ってるとは限らないし」

「一蹴くん……」

「りかりんだって二年先、誰と付き合ってるかなんて、わからないよね?」

「それは、そうね。未来は、いつも未定。明日のことだってわからない。今、この瞬間のことだって一人の人間に認識できていることなんて限られてる」

 二人はお互いの一挙手一投足に意識がいっているので、まるで葉夜の存在に気づく気配はない。いきなり登場して、おどかしたくなった葉夜は静かに靴を脱ぐ。足音を消してレジ台から出ると、静かに二人に近づきながら「ピーース♪」と大声で叫ぶか、「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」と声色を真似て演じるか、かなり迷ったけれど、前者を選んだ。

「ピーース♪」

「「っ?!」」

 果凛と一蹴は目を丸くして飛び上がった。

「ハァっ…ハァっ…の、のん」

「のんちゃ…ん…ハァっ…ハァ…び、ビビったぁ…」

「びっくりさせないでよ。心臓が止まるかと思っちゃった」

「二人で何してたの? 秘密お茶会って何かな? のんにも教えて」

「これは……その……私も一蹴くんも忙しいからさ。ね?」

「あ、うん。ちゃんとヌシに許可とって、使わせてもらってるんだ」

「知ってるのはヌシだけなの?」

「ま、まあ……のんちゃんに見つかったけど……」

「いのりちゃんにも秘密?」

「そ……それは……なんていうか……いのりのことを、りかりんに相談してたわけだからさ」

「そうよ。のん、変な誤解しないでね。一蹴くんの相談に乗ってただけ。りかりんクリニックよ。いつもルサックだと他人もいて落ちつかないし」

「ふーーん……」

 葉夜は、ほぼ密室といっていい貸切状態の喫茶店で、とくに相談話も無く、アルバムを見ながら談笑していた男女の自己欺瞞について、さして興味は覚えなかった。

「じゃあ、のんは帰るね。りかりんちゃん、一蹴くん、バイバーイ♪」

 葉夜は立ち去ると、果凛と一蹴は黙り込む。

「…………」

「………………………」

「………、一蹴くん、今夜は、そろそろ…」

「そうだね。後片付けはしとくから。りかりんは帰って」

「ごめんなさい。ごちそうさま」

 果凛もリムジンで帰り、一蹴は使った食器を片付けると店に鍵をかけて帰宅する。アパートに着くと、部屋に明かりは灯っていた。

「いのり……いるのか……。毎週月曜は遅くなるって言ってあるのに…」

 いることの方が多いので意外に思うことなく、ドアを開けた。

「おかえり♪ イッシュー」

「ただいま…」

「ご飯にする? それとも、私にする? えへっ♪」

 いのりは裸エプロンで夕食を作っていた。裸エプロンといっても髪の量が多いので露出部分は少ない。

「ご飯で頼むよ。軽くでいいよ、まかない食べたから」

「は~い♪」

 いのりが用意した夕食を食べながら、一蹴はタメ息をついた。

「月曜日は遅くなるからさ。いのりも待ってなくていいよ」

「アルバイト、大変なんだね。ご苦労様です」

 いのりは愛妻がするように一蹴の労苦をねぎらってくれる。ならずやの閉店後に果凛と会っていたので、すでに日付が変わりかけている。シカ電も終わっているので、いのりが宿泊することになるのは一蹴だけでなく、向こうの両親さえ認知している。一週間のうち四泊は一蹴の部屋で過ごしているので、ほぼ同棲といっていい状態だった。

「ごちそうさま」

「お粗末さまです。お風呂にする? それとも、私にする? えへっ♪」

「お風呂で頼むよ。一人で入りたい」

「え~っ…でも、背中を流してあげたいのに…」

「疲れてるんだ。仕事が長引いたから。頼むよ」

 ってか、背中だけじゃなくてフェラされるから……疲れるんだよ……早く寝たいなぁ……でも、いのりはエッチしたそうだし……早めにイってもらって寝させてもらおう…、一蹴は服を脱いで裸になった。

「いのり、いっしょに入ろう。たまにはオレが背中を流してあげるよ」

「イッシュ~~♪ 大好き♪」

「……」

 一蹴は抱きついてくる恋人を抱き返してキスをして、風呂に入って背中を流した後に、そのまま愛撫を始める。いのりが感じる腋や乳首を舐めて、クリトリスを擦って高めた後に挿入して絶頂を迎えてもらう。

「…ハァっ…ハァっ…イッシューぅ…」

「のぼせるから先に揚がってて」

「うん…」

 いのりは幸せそうに頷くと、脱衣所で髪を拭く。髪の毛の手入れに時間がかかるので終わる頃には一蹴も揚がってきた。二人で部屋に戻って布団に入る。当然のこととしてセックスを期待している恋人に一蹴は応えて、なるべく早く眠れるようにリードして、いのりが感じるのを主眼におく。いのりは真冬の一月、二月でもノースリーブで腋だけは露出しているだけあって、そこを攻めると敏感に反応するので愛撫は楽だった。すぐに蕩けた顔で一蹴を見上げてくるので正常位で交わるために布団に寝かせた。

「イッシュー…ハぁ……来て…」

「ああ。………」

 布団に組みしいた恋人の顔を、いのりではなく果凛だったらと一瞬考えてしまった一蹴は首を振った。

「イッシュー…?」

「ごめん、何でもない。ちょっと疲れてるみたいで。もう大丈夫」

 一蹴は近いうちに決断しようと思いながら、いのりに入った。

 



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24話

 

 

 

 一週間後の日曜日、鷹乃は朝食の後に鳴った電話を取って、相手が幸蔵だったのでノエルが遊びに来るのかと思ったけれど違った。

「三上君はいるかな?」

「はい。すいません、起こしてきます」

 夫が四月から正社員になる会社の社長からの電話なので、昨夜は三時頃まで遊んでいたらしい智也を起こそうとしたけれど、幸蔵は遠慮する。

「いや、いい。伝えておいてほしい」

「はい、うかがいます」

「大事な話があるから、昼の1時頃に訪問させてもらう。できれば、タカノさん、それにクロエも同席するように。かまわないかな? 予定の方は」

「はい、大丈夫です。とくに予定はありませんから。あ、ノエルちゃんは来ますか?」

「いや、ノエルは連れて行かない。大事な話なんだ」

「そうですか、わかりました」

 ノエルが来るならチョコレートケーキを焼こうと思っていた鷹乃は電話を置いてから、やっぱり焼くことにした。

「お土産にしてもらってもいいものね」

「鷹乃さん、電話、誰だったの?」

「嘉神川の社長さんよ」

「………。父は、何て?」

「大事な話があるからって。クロエにもいるように言っていたわ」

「…………」

 すでにクロエが三上家に住みはじめて四ヶ月になりつつある。さすがに連れ戻すという話をされて当然だとクロエも鷹乃も思いたる。クロエが不安そうにすると鷹乃は安心させるように微笑みかける。

「大丈夫よ。ずっと、ここにいてもいいわ」

「鷹乃さん……」

「でも、確かに向こうのお父さんとしては………、そうね、いい知恵がないか、智也にも考えてもらいましょう。起こしてきてちょうだい」

「はい」

 クロエは二階へあがって智也の部屋に入る。熟睡している智也はクロエの入室に気づかない。クロエはカーテンを開けて日の光を入れた。

「あ、彩花さん、おはようございます」

(おはよう♪)

 窓の向こうで目があった彩花が手を振ってくれる。四月から看護学校に入学する準備をしているようだった。クロエは日光を浴びて布団に潜り込んだ智也を起こす。

「起きてください。朝ですよ」

「ぅ~……彩花……頼む………夕べ遅かったんだ…」

「…………。これは、お仕置きが必要ですよね。鷹乃さんというものがありながら」

 クロエは幼馴染みと勘違いしている智也を起こすために辞書を持った。

「えいっ♪」

「うがっ?!」

 脳天を辞書で強打された智也が目を覚ます。

「痛ぇぇぇ……そんな起こし方しなくてもいいだろ、クロエちゃん」

「寝言で彩花って言ったこと、鷹乃さんに報告してきますね」

「まっ! 待て! 待ってくれ! 違うんだ!」

「どう違うんです?」

「鷹乃なら、オレを寝かせておいてくれるはずだと思ったんだ! 夕べ遅かったろ? 日曜だし、強引に起こすってことは、彩花なんじゃないかって!」

「へぇぇ……寝ぼけていて、そこまで考えられるんですか? ふーーん……」

 疑わしそうなクロエの視線を浴びて智也は苦渋する。クロエは笑った。

「クスっ…じゃあ、罰として、父が私を連れ戻しにくるみたいなんです。何か、いい作戦を考えてください」

「社長が? とりあえず着替えて降りるよ」

「二度寝したら彩花さんのこと報告しますからね」

「寝ないから!」

 智也は急いで着替えると顔を洗って、朝食兼昼食のオムライスを食べながら幸蔵からの電話の内容を二人から聞いた。

「なるほどなァ……たしかに、もう四ヶ月だから、アクションがあったのが遅いくらいかもしれないな。なんとなく社長の考えてること読めるし」

「どんなことなの?」

 鷹乃とクロエはチョコレートケーキを焼きながら話している。

「いきなり帰って来いだと、無理があるからさ。ちょうど、すぐに四月でオレも本格的に仕事に行かなきゃいけなくなるし、今のバイトって身分ほど気楽じゃないから夜も遅いだろうしな。クロエちゃんも受験の三年生になるし、それをキリに自宅へ戻ってこいとか。大人の交渉ごとってさ、いつまでにって、キリを予定するからさ」

「そんなの……私は………」

「ずっと、クロエをここにおいてあげるわけにはいかないの?」

「…………………鷹乃が、向こうの両親の立場だったら、どう思うよ?」

「それは…………、でも、そんなの親の勝手じゃないっ! クロエが家を飛び出した理由は向こうにあるのよ!」

「それは、そうだけど………それは四ヶ月前の話だし」

「智也っ、あなた、どっちの味方なの?!」

「オレは考え方として、そーゆー立場もあるって言ってるだけで、できればクロエちゃんの味方をしたいさ」

「できれば? できなければ、味方をしないっていうの?」

 鷹乃に睨まれると智也はタメ息をつく。

「言い方が悪かった。絶対味方するから、まあ、落ちつけよ。考える時間をくれ」

「1時には来るのよ」

「わかってる。考えるから!」

 智也はソファに寝転がって考え込む。しばらくして閃いた。

「よしっ! これだ!」

「期待していいのね」

「おう。向こうが四月から生活を変えろって言うのに合わせて、受け流して抜け道を行くんだ」

「どうやるの?」

「向こうとしては、こっちに迷惑だからクロエを戻してもらう、って理屈もあるからさ。それを逆手にとって、とりあえず、クロエちゃんは、この家を出る。けど、嘉神川の家には帰らない。中学校の近くとかに部屋を借りて、そこで一人暮らしする。ちょっと贅沢だけど、クロエちゃんの家なら学費も生活費もくれるだろうし、でもって、一人暮らししてるなら、別にオレの家に出入りするのも、寝泊まりするのも、自由だろ? 部屋だけ確保しておいて、実質こっちに住む、これならクロエちゃんの自由だ。どうだ? オレを誉めろ?」

「天才よ、智也♪」

「すごいです! Bravo!!」

「悪知恵を考えさせたら、智也はホントに天才ね」

「はははははっ♪ 悪は勝つ♪ たとえ滅びても何度でも蘇るさ! 悪こそ人類の夢だからだ♪」

 智也が調子に乗っているうちに1時になり、幸蔵が現れた。ソファのあるリビングに通して、鷹乃がコーヒーを淹れた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 幸蔵は普段から仕事で使っているカバンの他に大きなアタッシュケースを持っていた。しばらくクロエの生活の様子や四月からの智也の仕事について無難な話をしつつも、幸蔵が本題を切り出すタイミングを計っているのは三人とも気づいていたけれど、本題の内容は予想外だった。

「…さ…さて。……大事な話があると、言ったが……いいかな?」

「はい、社長」

「ええ、お父さん」

 智也とクロエが応えると、幸蔵は深呼吸して気持ちを落ちつかせてから、真っ直ぐに二人を見つめ、アタッシュケースをテーブルに置いた。ケースを開くと、現金が大量に詰められていた。

「ここに一億円ある」

「「「………………………」」」

 クロエと智也、それに台所にいる鷹乃も意外な話の流れと、初めて見る一億円という現金に黙り込んだ。

「……お父さん? 何を考えてるの?」

 それでも豊かな生活をしてきたクロエは動揺が少なく、父親に真意を問うと、幸蔵は智也に告げる。

「この金を結納として三上君に渡す。だから、娘と結婚してほしい」

「「「っ……」」」

 智也がコーヒーを噴き、クロエがカップを落として紅茶を零し、鷹乃はチョコレートケーキを落としてしまった。

「ひゃッ、社長っ?!」

「お父さんっ?!?!」

「クロエは黙っていなさい!! これは男同士の話だっ!!」

 だが、クロエとタカノさんにも聴いていてもらう必要がある、すまないがタカノさんには貧乏くじを引いてもらう、クロエのためにっ! 幸蔵は社長としての威厳と迫力を発揮して智也に迫る。

「真剣な話なんだ。三上君」

 あえてアタッシュケースから札束を出してテーブルに置いていく。両手で一回に一千万円ずつ、それを十回、テーブルの上には札束で大きな立方体ができた。

「…………………………………………」

 智也は食い入るように現金を見つめる。噴いたコーヒーを拭くのも忘れて一億円に視線を浴びせている。

 パンっ!

 智也が自分で自分の顔を叩いた。

「………………………」

 落ちつけっ、オレ、落ちつけよ、おちつくんだ……一億……一億だぞ……いや、だから、落ちつけって……要するにイエスか、ノーか、イエスならクロエと一億、ノーなら鷹乃、それだけの話……いや、違う、ノーなら鷹乃と失業だな……ここまでの話を蹴ったんだ、社長だってオレだって、オレが嘉神川食品で働くって線は消える……いい会社だと思ったんだけど……けど、イエスなら一億とクロエ………ノーなら鷹乃と失業………、智也は脂汗なのか冷や汗なのか、よくわからない汗が目に入って視界が歪んだ。一億円が歪む。

「……ハァ…………ふぅ………」

 パンっ!

 また、自分で自分を叩いた。

「落ちつけ、オレ」

 落ちつくんだ……でも、一億………一億だぞ……クロエと関わってから金運が良くなって……秘かに貯めてるのは約500万……でも、せいぜい一年遊んで暮らせるだけで……一億なら一生遊んで暮らせる……一年と一生じゃ、ぜんぜん……、智也は再び頬を叩いた。

 パンっ!

「……………………」

 落ちつけ……オレ、……でも、一億……一千万の10倍……いや、だから落ちつけって……数でも数えて落ちつこう……一の次は二、二の次は三……いや、素数を数えよう……1……2……3……5………7……9は3で割れるから……11……13……17……よし、落ちついた、智也は座り直して幸蔵を見る。

「………」

「………社長、本気ですか?」

「無論だ」

「……………………」

 イエスかノーか……イエスならクロエと一億……ノーなら鷹乃と失業……イエスか、ノーか……………………イエスか……ノーか……いや、抜け道だってあるじゃないか、この一億をもらっておいて、鷹乃と……いったんは離婚届を出して、それからクロエと結婚して離婚して、鷹乃と再婚すれば……けど、当然、社長は報復行動に出るだろうな、娘と自分をコケにされたんだ、オレだったら絶対に復讐する……一億もって鷹乃と逃避行……それもいいな……けど、追いつめられて殺されたりとか……一億あれば人殺しを引き受けるヤツだっているだろ……………やっぱり、ノーで鷹乃と失業……この就職難の時代に、もう三月だってのに……浪人して大学……それも面倒だし………だったら、イエスでクロエと一億か? ………ありえないだろ、この段階で鷹乃を裏切るなんて……でも、一億だぞ、一億………どうするよ……オレ………頭痛くなってきた……なんか、泣けそうだ……いや、考えろ……逃げるな……金と鷹乃と、ほしいものを手に入れてこそ、人生だろ……金と鷹乃………社長からの報復を防いで………報復を防ぐ……防ぐ……いや、攻撃こそ最大の防御……………だったら………よし、決めた、智也は一億円の立方体から視線をあげ、立ち上がった。部屋の中を歩いて幸蔵の死角に入ってから鷹乃へ視線を送る。

「……」

 オレを信じろ! お前を愛してる! 絶対裏切らない! だから信じろ! 智也は人生最大のアイコンタクトを送って、すぐに幸蔵へ視線を戻した。

「鷹乃に慰謝料を三億円。オレには今の倍、二億円の結納をキャッシュで。それが条件です」

「なッ……ご、五億も払えというのかね?!」

「無理な額ではないはずです。会社のビルには抵当がかかってますけど、自宅はキレイですよね。家を抵当に入れてもらえば、現金で五億、用意できるはずです」

「………このワシに向かって、そこまで言うのか?」

「義理の息子になるなら対等な立場で。それとも、おとなしい言いなりになる婿養子でクロエさんが満足するような人だと?」

「見込んだ男に手を噛まれるわけか……」

「飼い犬じゃないですから」

「…………………………………」

 まさか……そう来るとは……五億も………たしかに、ワシが悪い……仲のいい恋人と別れて娘と結婚しろというのは、悪役の仕事だ、それは、わかっている、わかっていて、悪役に徹するつもりだった………だが、五億……上乗せを要求するのは彼だって悪役というわけか……いや、彼が金に執着する男だというのは予想通り……しかも、我が社の財務状態まで把握している……帳簿は棚においてあるだけだから、職員なら誰でも見られるが、それをチェックしていて、さらに限度額いっぱいに要求してくるとは……だが、それだけデキる男が嘉神川食品に入ってくれるなら……実際、バイトの立場で営業しているときから、口のうまさで新しい取引先をつくってくれた……この男なら田原の女社長とも渡り合ってくれる……ワシと協力すれば、より大きい嘉神川食品の将来を………五億…ぎりぎりの額だが、借りて返せない額でもない……それに、もしも会社が傾いたら、ワシが引退して、社長の座を譲れば、二億を持った男が社長……嘉神川食品は、続く……いや、この男はワシの早期引退を望んでいるのかも……それは、それで、今までエリーズやノエルに何もしてやれなかった分、ワシも会社から解放されて………五億か……わかった……この男を五億で買おう……だが、一つだけ心配もある、それは取り除いておかなければ、幸蔵は智也を睨むように見つめた。

「わかった。五億円、用意しよう。だが、条件がある」

「どんな?」

「クロエと三年間、暮らしてもらう。セントヘレナ島で。あそこはエリーズと新婚旅行にいった想い出の土地だが、そこで三年、その間に二人には家庭教師をつける。三上君には経営学、クロエには高校の学習を、クロエが帰国することは許すが、三上君が帰国することは許さない。到着後パスポートは預からせてもらう。三年、修行してほしい。それが条件だ」

「っ…………………………」

 智也が息を飲み、顔色を変えた。

「どうだね? …………」

 やはりな、五億を渡したら、形だけクロエと結婚して、のちにタカノさんとランデブーするつもりだったか………怪しいと思わせたのは、別れる相手に三億も渡せと言うから……自分が二億でタカノさんに三億、欲深い君にしては不似合いじゃないかね……だが、その線も消えた……三年あれば人の気持ちはかわる……クロエだって三年後には17歳の女盛り、しかも、君は英語が苦手だ、内定を出す前に学校からもらった内申書は見ているんだ、国語と社会は得意だが、英語と数学は苦手なようだね、ならば、セントヘレナではクロエとしか会話できまい、何をするにもクロエの助けがいる、その環境で二人で生活すれば情も生まれる、タカノさんだって三億もって自由になるなら、はたして三年も異性と暮らす男を待っていられるか、信じていられるか、お互いを信じられるか、幸蔵は悪役に染まる自分に少し酔った。

「イエスか、ノーか。君が出した条件は飲んだ。さあ、答えを聞かせてもらおうか? ファイナル・アンサー」

「ぅっ…………………………………………」

 三年……三年だぞ…………しかも、セントヘレナ島って、あのフランス皇帝ナポレオンが流された島じゃないか、パスポート無しで脱出は絶対無理だ……アルプス超えた男でも不可能だったんだ……オレの辞書には不可能は多い……それに三年……三日や三週間なら、オレも、鷹乃も信じていられる……けど、二年、三年となったら……人間の気持ちに絶対なんてないだろ……いっしょに暮らす三年と……顔を見ない三年…………セントヘレナって日本規格のケータイだって通用するか、どうか……そもそも鷹乃との連絡は家庭教師という名の監視者に………ダメだ………じゃあ、どうする……結局、……鷹乃と失業か……せめて一億だけでも……いや、もう……無理……いっそ、クロエと五億……いや、三年後に鷹乃……三年……三年………頭が…痛い……気分が悪くなってきた、気持ち悪い……吐きそうだ……、智也は息苦しくなって顔を伏せた。

「…ハァ……ハァ……」

「答えは?」

「ぅっ……くっ……うっ!」

 急に立ち上がった智也は台所に走ると流し台に嘔吐した。

「ごほっ! げほっ!」

 鷹乃が作ってくれたオムライスが未消化のまま無駄になる。

「…ハァ……ハァ……ぅぅ…」

「お父さん」

「クロエは黙って…」

 幸蔵の顔に空のアタッシュケースが飛んできた。

 ガッ!

「うっ?!」

 娘が投げたアタッシュケースを顔面に受けて幸蔵はソファから転げ落ちた。さらにクロエは仕事用のカバンも投げつける。中身が入っていたカバンは重く、幸蔵に当たると書類を撒き散らして転がった。

「ぐぅぅ…クロエ……なぜ…?」

「それが、わからない人だから……、もう、あなたをお父さんとは思わな…っ?!」

 クロエは散乱した書類の中に、鷹乃と智也の写真を見つけて驚愕した。写真の二人は教室で半裸で抱き合っていたり、全裸でさえあった。

「この写真…」

「っ?! み、見ない方がいい!」

 幸蔵は何かの交渉材料に使えるかと思って持参した興信所のレポートを慌てて隠そうとしたが、二度目にカバンが当たった胸が痛み、動けない。クロエだけでなく、台所にいた鷹乃も自分の写真を見てしまった。

「っ……イヤっ!!」

 夫にしか見せていないつもりの淫らな自分の姿を、他人、それも幸蔵のような年かさの異性に写真という形で見られていたショックで鷹乃が悲鳴をあげて座り込んだ。

「イヤぁあぁ……」

「……鷹乃さん…………っ!!」

 クロエは父親を睨みつけた。

「ちっ、違う! 誤解しないでくれ! クロエ! これは三人の生活を調査させた者が勝手に!」

「……………………」

 クロエの瞳は不審を通り越して確信的に父親を性犯罪者だと思う色になった。

「クロエ……ち……違うんだ……これは……調査を……」

「……………………」

 碧海色の瞳が、幸蔵を冷め切った視線で見下ろした。

「……………………」

「クロエ……違うんだ………誤解なんだ……頼む、話をきいてくれ…」

「ほしいものがあります」

「…お…おおっ! 何だ?! 何でも買ってあげるよ、クロエ!」

「この一億円、私にちょうだい」

「わッ……わかった、あげる! あげるよ! クロエに!」

「もう一つ」

「ああっ、何でもいい! 言ってくれ!」

「鷹乃さんに慰謝料、三億円あげてください」

「………クロエ……」

「エリーズとかいう人や、ノエルとかいう小さな子に、この写真を持っていたこと黙っています」

「……………クロエ………ワシを脅すのか……、……お前のために…」

「あなたは娘を一人、無くしました。この上、妻と、もう一人の娘も無くしたいですか?」

「……だが、三億もの……」

「私が嘉神川の家に着くまでに結論を出してください。警察にも行きます」

 クロエは拾った写真を持って歩き出そうとする。慌てて幸蔵が娘の足首を握った。

「待ってくれ!」

「答えは?」

「…………………………払う! 払うから! 頼む!」

「手を離してください。二度と、私に触れないでください」

「……クロエ……」

 幸蔵が手を離すと、クロエは一億円の立方体を鷹乃と智也に向けて置き、床に手をついて深く頭を下げた。

「お願いします。このお金で私を育ててください。私のお母さんとお父さんになってください。今の私には親がいないんです。お願いします、ママ、パパ」

「「…………………………………………」」

「お願いです。鷹乃さん」

「……ええ、わかったわ。でも、そんなには、いらない。残ったら返してあげるわ。だから、お金は大事に扱いなさい。あなたの育ち方は間違っているわ。だから、私が正しい生活を教えてあげます」

「はい、ママ」

 クロエは母親になってくれると言う鷹乃に抱きついた。そして、かつて父親と思っていた者に冷厳と言い放つ。

「いつまで、いるの? 早く帰ってください。警察を呼びますよ」

「………………クロエ………」

「私は三上クロエです。あなたに親しげに呼ばれる覚えはありません」

「……………み……か…………………」

 できれば、智也を嘉神川智也したかったし、一人息子なので譲歩して三上クロエになることがあったとしても、今のような意味ではないつもりだった幸蔵は、うなだれてフラフラと立ち上がると三上家を去っていった。

「…………私……ここにいてもいい? ………ま…ママ?」

 クロエが不安そうに問うと、鷹乃はタメ息混じりに微笑んだ。

「当たり前のことを訊かなくていいのよ。子供を追い出す親が、どこにいると……まあ、世の中には、そんなロクでもない親も、たまにはいるかもしれないけど、私は、そんなことしないわ。ね、智也?」

「………あ………ああ…」

 智也は流し台の前に座り込んでいる。虚脱状態だった。

「智也、大丈夫?」

「……パパ、大丈夫?」

「………ああ……たぶん………」

「私とお金を天秤にかけて、さぞや疲れたことでしょうよ」

 鷹乃が鼻を鳴らして指摘すると、智也は慌てて言い訳する。

「ち、違うぞ! オレは…」

「お金も私も手に入れる? まったく、ひどいことを考えるわ。クロエ、私のことは信じてもいいけれど、智也のことは、あんまり信じない方がいいわ。男なんて、父親なんて、ちょっと疑っておくくらいでちょうどいいのよ」

「はい、ママ♪」

「…鷹乃ぉ……オレは、お前を裏切るつもりは……」

「お金欲しさに私と三年も会わないでいるつもりだったでしょ?」

「いや、だから、それは決断できないっていうか、それは…」

「まあ、いいわ。あの男が言っていた通り、私に自分より多い三億って言ったことで許してあげる」

「鷹乃」

「それに、もう二度と智也は私を裏切らないわ。女性面でもね」

「……? オレは……お前以外の女とは…」

「裏切るときは私とも、三億円とも、お別れよ?」

 鷹乃は自分の痴態が映った写真をポケットに入れて叩いた。

「それに、もう一つ」

「………?」

「もう二度と、教室とか公園とかで変なことしないでちょうだい」

「……ああ……わかった……すまん……」

「じゃ、悪いけど、明日から就職活動、頑張ってね。パパ♪」

「うぐっ………けど、……金なら…」

「働かないで生きていくなんて間違ってるわ。この一億も、三億も無いものとして智也の収入だけで生活するのよ。だから、働いてちょうだい」

「………………たはーっ……」

 タメ息をついた智也は、そのまま床に寝た。激しい葛藤で疲れきっていた身体は重く、明日からの急な就職活動を思うと、さらに重くなった。

 

 

 

 翌日、重い足取りで浜咲学園の進路指導室に入った智也は内定していた嘉神川食品への就職が、ほぼ絶望的になったことを進路指導教員に告げ、新しい就職先を探すため資料の棚へ移動すると、何人かいた同じ三年生の生徒たちが、グッと親指を立ててガッツポーズを送ってくれた。

「お前らもか……」

 智也と同じく内定が取り消しになった生徒や、まだ一つも進路が決まっていない生徒たちだった。

「今年は内定あっても安心できないらしいなぁ……たはーっ……、だからって、受験勉強はイヤだし…」

 仲間がいたことが、少し励みになった智也は不動産会社を中心に就職先を物色していく。昼休みになって教室に戻ると、鷹乃が手作り弁当をもって待っていてくれた。

「どう? どこかに就職できそう?」

「どうだろうな。今年は就職難らしいからな。まあ、頑張るよ」

「お疲れ様」

 鷹乃が拡げてくれた弁当を食べていると、教室の戸を誰かがノックした。

(入っていいかな?)

 果凛の声だった。

「「どうぞ」」

「今日は、いかがわしいことしてないみたいね。今は、かな?」

「もう、しないわ。少なくとも、うっかり人に見られるようなところでは」

「それは感心な心がけね」

 果凛は窓際まで歩くと、立ったまま昼食代わりの肉まんに齧りついた。

「あ~っ、美味しい♪」

「お嬢様なのに、お行儀が悪いのね」

「この教室も、あと何日も無いのね……一回くらい人目を気にせず、立ち食いしたっていいでしょ? 美味しそうなお弁当。お料理、上手なのね」

「オレの嫁は宇宙一だぞ」

「はいはい。バカップルぶりは食傷気味なの。もう卒業なんだし一年生じゃあるまいし、もう少し落ちついたら?」

 果凛は窓の向こうに見える一年生の校舎で、いのりと一蹴がランチボックスを囲んでいるのを見るつもりはないのに、見ていた。

「…………。あっ……」

 考え事をしているうちに、よく味わうのを忘れて、肉まんを食べ終わってしまったことを後悔する。

「……たはーっ……」

 タメ息をついて果凛は窓の向こうで笑っている一蹴へ再び視線を送る。急に強い既視感を覚えた。

「…ぁれ? …デジャビュ? ………そっか……最初と同じ……」

 初恋だった一蹴のことを孤児院で遠くから見ていたときと同じだと気づいた。

「私って進歩してないのね……最初から…」

「好きなのか? りかりん、あの一年のこと」

「うん、…んんっ?! はっ? どうして、そうなるの?!」

 果凛は慌てて否定したけれど、その様子で智也と鷹乃は確信した。

「顔を見れば、わかるわよ」

「ぅ~……油断したぁ……。お願いっ! 絶対秘密にしてちょうだい! 彼女持ちに片想いなんて人に知られたくないの!」

「言われなくても、人に言いふらす趣味はないわ」

「オレは見返りを要求したい♪」

「はいはい、何でも言ってちょうだい。ラーメン? それともフランス料理のフルコース?」

 投げやりな果凛に、智也はまじめに求める。

「昨日さ、内定してた企業がダメになったんだ。りかりんに頼るのも気が引けるんだけど、そうこう言ってる余裕もなくてさ。頼むっ! どっか、紹介してくれ! できれば不動産関係で!」

「三上くん………そーゆーことは、私……」

「わかってる! それに見返りじゃなくていい! っていうか、りかりんが、あの一年を好きなことは無条件で黙ってる! でも、気に留めておいてくれ! どっか、いい企業がないかさっ! 頼む! オレは家庭持ちなんだ! 妻子を喰わせていかないと!」

「わかったわよ。子供はともかく妻はいるものね。……けど、どうして内定ダメになったの?」

「オレが嘉神川食品に就職する予定だったことは言ったよな?」

「ええ」

「あそこの娘さん、嘉神川クロエとのことも知ってるよな?」

「大方ね」

「昨日、オヤジさんが来て、娘と結婚してくれって言われた」

「それで受けたの?」

「受けたら内定ダメになるかよ」

「フフ♪」

「笑うなよ! 笑うとこじゃないだろ!」

「ごめんごめん、ちゃんと愛してるんだなぁ、って思っただけよ。お金に負けない愛でよかったわ。うん」

 果凛は微笑んで頷いた。

「わかった。気に留めておくわ。確約はできないし、紹介はできても、そこに合格するか、どうかまでの影響力を私に期待しないでね?」

「悪いな、りかりん」

「いいわよ、さんざん、お父様とお母様の仕事に付き合わされてきたんだもの。たまには、おねだりしてもバチは当たらないわ」

 果凛は教室を出て午後から都内でレッスンを受けるため、ジイヤのリムジンに乗り、その道すがら智也のことを伝えておいた。レッスンが終わって、雪がちらついている夜道を、ならずやへ向かってもらう。閉店の5分後に到着すると、看板の照明は消えているけれど、中には人の気配がして明かりも灯っている。入口も含めて全体にロールカーテンが降りていて店中の様子はわからないけれど、果凛は静かにドアをあけた。

「遅くに、ごめんなさい」

「いらっしゃい、りかりん♪ 時間通りだね」

 一蹴は疲れていても笑顔で果凛を迎えた。二人で過ごす時間は楽しくて、気がつけば二時間が経っている。

「そろそろ帰らないと、いのりさん、心配するよ」

「遅くなるって、言ってあるから。それに、これも仕事のうちだしね」

 果凛は飲食した分の代金を支払っている。一蹴も福利厚生費で半額を補助してもらい、もう半額はバイト代から天引きという条件で店を借りている。仕事だという方便は完全なウソでもなかったけれど、実質的には二人で口裏を合わせた言い訳だった。

「りかりんは、大丈夫?」

「うん。……でも、そろそろ遅いし…」

 まだ帰りたくない、それは二人とも同じだったけれど、さすがに後片付けを始める。

「………また、来週かな?」

「そうだね、りかりん………」

「…………じゃ…」

「待って、りかりん!」

 一蹴が叫んだ。

「来週までに、もう一回っ! 会えないかな?!」

「ぁ……会えなくは、ないけど……今は自由登校な分、融通がきくから」

「じゃあ! 木曜日にっ! 今度の木曜日にっ!」

「木曜日って……」

 14日……次の木曜日は……2月14日……バレンタイン……、果凛が日付の意味に思い至っていると、一蹴は真剣な眼差しで見つめてきた。

「りかりんにっ、果凛に伝えたいことがあるんだ。今は、まだ……ボクには、それを言う資格はないけど。その日までに、必ずっ! だから!」

「一蹴くん……」

 ほぼ告白されたに等しい果凛は胸が熱くなるのを感じた。

「必ず会ってほしい、果凛」

「…………。うん……会うだけ、ならね。……はやまったことしちゃダメだよ。じゃ、もう帰るね」

 いたたまれなくなった果凛はロールカーテンをあげて外に出ようとして、ガラスドアの向こうに、いのりが居たので心臓が飛び出るほど驚き、少量の尿も漏らした。

「っ?! っ………」

「りかりん? どうかし……いのり?」

 一蹴も交際中の恋人を見つけて驚いた。いのりはガラスドアの向こうで淋しそうに立っている。その頭に少量の雪が積もっていた。一蹴はドアの鍵をあけて、いのりを中へ入れる。

「いのり、どうして、ここに?」

「あんまり遅かったから心配で……雪、積もってるし……事故にでも遭ったんじゃないかって……よかった。ふにゅっ♪」

「冷たっ?!」

 一蹴は鼻をつまむ指が氷のように冷たいので驚いた。

「何か温かい物でも淹れるよ。何がいい?」

「いいの? お店、もう終わってるのに」

「それなら大丈夫、月曜は……、月曜はオレが閉める役目だからさ。遅くなる分、自由がきくんだ。オレの、おごりにしとくなら平気なんだ。で、何がいい? 遠慮するなよ」

 一蹴は潜在する大きな罪悪感を一杯の飲物で誤魔化そうとし、いのりは嬉しそうに注文する。

「ホットココア♪ ………、今日は終わるの遅かったんだね……閉店9時だよね?」

「あ…うん…まあ…」

「ごめんなさいね、いのりさん。私が遅くに来て迷惑かけてたの。閉店時間に気づかなくて」

 ビックリしたァァ……悲鳴あげそうなくらいビックリして………っていうか、チビっちゃったかも……チビってるよ……二人に気づかれてないよね? ナプキン無かったらヤバかったかも……、果凛は内腿をつたう滴を感じて、微笑したままトイレへ向かう。

「ぅっ……」

 トイレの個室でパンティーをさげると生理前だったので念のためにしていたナプキンに失禁した尿が染み込んでいる。ナプキンの吸収量だけでは足りなくて、内腿も濡れていた。幸いにして靴下までは至っていない。

「我ながら……高校三年にもなって……、でも、ホントびっくりした……聴かれてなかったよね。あの様子なら……」

 果凛はトイレットペーパーで内腿と股間を拭く。痴毛に染み込んだ尿が多くて手が汚れた。手も拭いて、今度は脱いだ下着を見る。しっかり濡れていて、もう一度、身につける気にはなれない。レッスンの後に新しい下着に替えたばかりなので予備はなく、レッスン中の汗に濡れた下着はリムジンに置いたままだった。

「……これ、どうしよ。……仕方ない。帰るだけだし、ノーパンでも大丈夫でしょ」

 濡れた下着を汚物入れに投入して、果凛はロングスカートの裾を確かめてからノーパンでトイレを出た。いのりと一蹴が、さっきまで果凛たちがしていたようにテーブルで談笑している。

「おい、いのり、まだ頭に雪がついてるぞ♪」

「やん、違うよ。それは髪飾りなのぉ~、引っぱらないでよぉ~」

 いのりは側頭部の白いものを雪のように払われて困っている。

「もお、どうして、イッシューは、これをイジるかなぁ~」

「はははっ♪」

 一蹴が笑っているのを見ると、果凛の胸が疼いた。

「…………」

 胸が疼き、それから歩くとノーパンだということを、いつもは感じない処にスカートが擦れる感覚で、思い出した。

「……………」

 ぁあぁ……私ってば、二人の前で……ノーパンだよ……もしも、二人が気づいたら……まあ、屋内だから風も吹かないけど……、果凛は余計なことを考えると、股間も疼き、内腿が尿でない液体で濡れるのを感じた。下着を着けていないので濡れ始めると受けるものがない。さすがに、気づかれないうちに帰ることにした。

「私、帰るね。遅くまで、ごめんなさい」

 果凛は二人に手を振って、外へ出ると、いのりが立っていたところを見る。

「…………聴かれてないか…」

 いのりの足跡は歩道から続いていて、最後に立っていた地点の足跡と、続いている足跡へ新たに降り積もった雪の量は変わらない。もしも、長時間、ドアの外で立っていたなら最後の足跡だけ他よりも雪が少ないはずだったけれど、その気配はなく、さらにドア越しで聴こえてくる一蹴の笑い声も小さくて聞き取りにくい。果凛は安心してリムジンへ歩き出した。いのりは果凛の気配が遠ざかると、さすがに小言を言った。

「いくら、お客さんでも二時間も長居されるのはイッシューも大変だね」

「ははは…まあ、ね…、でも、お客様は神様だから」

「………。お客さんがいるうちにカーテン閉めてたの?」

「っ…あ、あ、うん、…まあ、中に居るのが見えると、他にも次々と入って来られると店、閉められないし。いるうちに閉めるんだ。九時になったらさ」

「………最後は花祭先輩だったんだ?」

「うん、まあ」

「いくら、お嬢様でも空気読んでほしいよね。カーテン閉めて二時間経ってるのに……本当に、お疲れ様、イッシュー♪」

 いのりは一蹴の残業を労ってキスをしてくる。

「ちゅ~♪」

 さらにディープキスをしながら抱きついてくるので一蹴は離れる。

「いのり、ここは仕事場だし。………」

 さっき、りかりん………はやまったことしちゃダメって……たしかに、あんな超お嬢様と孤児院出身のオレなんかじゃぁ釣り合わないのはわかってる……だから、事前に……でも、りかりんだってオレとの時間を楽しんでくれてる気がするのに……オレの勘違いか……でも……オレの気持ちはもう決まっていて……それを伝えないのは……それに、14日に会うだけは、会ってくれるって約束してくれた……14日までに、いのりに告げないと……終わりにするって……でも、何て言い出そう…………りかりんに迷惑がかかるから、他に好きな人ができたとは言えないし……、一蹴が考え込んでいると、いのりはドアに鍵をかけた。

「えへっ♪ カーテンで外から見えないし、こうすれば二人っきり♪」

「…そうだけど……」

「イッシューぅ大好きっ♪」

 いのりは可愛らしく微笑むと、ねだってみる。

「ね?」

「ここでは、Hしないからな。仕事場なんだから」

「そうじゃなくて、ならずやさんのエプロン、着てみたい♪ ホントは、ここでイッシューとバイトしたいけど、イッシューがダメっていうからガマンしてるんだよ? エプロンくらい着てみてもいいでしょ?」

「……まあ、いいけど……」

「やった♪ じゃ、着てくるね。ロッカー室、ここ?」

「あ、うん。のんちゃんのエプロンなら、壁にかかってると思うから」

「覗いちゃダメだよ?」

「覗かないからっ」

「えへっ♪」

 いのりがロッカー室に入り、しばらくして出てくる。

「じゃ~~ん♪ どう? 似合う?」

「まあ、似合ってるよ。誰にでも合うエプロンだし」

「ぶ~っ……でも♪ ほら?」

 いのりがクルリと回転すると、裸エプロンだった。

「って、おい?!」

「似合う?」

「……ここ……仕事場だって……言ってるのに……。まあ、鍵もカーテンも閉まってるけどさ……。ヌシも朝までは……」

 文句を言いながらも、普段は葉夜が着ていて、昨日から静流も着ることになった見慣れたエプロンでも、いのりの見慣れた裸体であっても、ならずや店内という初めての環境と状況設定に一蹴の男根は機敏に反応してしまった。飽き飽きしていたはずの裸体に隆々と勃ち、ズボンを押し上げている。当然、いのりも一蹴の勃起に気づいた。

「えへへっ♪ いのりちゃんとイッシューのエロエロタイ~ィ…」

「……。ゴムないし」

「持ってるよ♪」

 いのりはコンドームを見せて微笑む。

「でも、無しもいいよね。イッシューとの子供、欲しいし」

「いのり………オレら、まだ、高校一年なんだぞ」

「三年生になったら、無しでしようね?」

「しないから!」

「ぶ~っ……、ふにゅっ♪」

「おぐっ?!」

 一蹴は勃起した男根を超絶技巧的な手つきで刺激され、ならずや店内での性行為におよんだ。三回の性交を終えて、二人が店を出た頃には白銀の世界になっていた。

「わあぁぁ♪」

「キレイだな」

「また、来週も来るね。月曜日、イッシューが閉店当番なら、手伝うから♪」

「……。ダメだって……」

 ダメだよ、いのり……月曜は秘密のお茶会の日……それに、次の月曜までにオレは………君と……、一蹴は無邪気に雪と戯れてはしゃいでいる恋人を見ると、罪悪感で胸が疼いた。

 

 

 

 翌日、ならずやで二日目の勤務になる静流は、遅刻してきた葉夜がロッカー室に入ったまま出てこないので様子を見に行った。

「のんちゃん、どうしたの?」

「………。静流さん、替えのエプロンって、あるかな?」

「あるんじゃないかしら。そーゆーことは、私よりテンチョーに訊いてみて。……どうしたの? 何か、怒ってる? 顔が…」

「ううん、静流さんには怒ってないよ」

「……? 早く着替えてきてねぇ」

 静流がフロアへ戻ると、葉夜は汚れたエプロンを洗濯機へ投げ入れる前に、秘密を観察する。

「……………この髪は……、…この匂い……」

 いのりの髪と果凛の髪は一目でわかるほど違う。庶民的な匂いと、最高級の香水の香りの違いもわかりやすかった。葉夜は遅刻した罰としてトイレ掃除を命じられて、汚物入れを交換すると、果凛の濡れた下着も見つけた。

「これは…………、どうなったのかな? ………どっちと? ……両方? ……秘密が多すぎて……。でも、エプロンくんは怒ってるよね?」

 自分の怒りを擬人化した洗濯機で回っているエプロンに見立てて、葉夜は静流の目を盗みつつ、スパイスを調合する。

「できた♪ 一蹴くん、まだかなぁ」

 赤黒い怪しげな秘密の物体を作り上げて一蹴を待つこと30分、ターゲットを確認するとミッションを始める。

「一蹴くん! ピーーーースっ♪」

「あ、のんちゃん、ピース♪」

「昨日ね、のんのエプロンくんに何かした?」

「ぇ……っと………」

 一蹴の顔に後ろめたいと描かれる。

「ご……ごめん、ちょっと、コーヒーかけちゃって」

「コーヒー? あの白い汚れが?」

「っ…、…み…ミルクも……かけっちゃって…ごめん」

「ふーーんっ……。こんなに長い髪は、どうして、のんのエプロンに着いてたのかな? かなァ?」

「っ………、……ど、……どうしてかな?」

「ねぇ、一蹴くん、これ食べてみて」

 葉夜がスプーンにのせた赤黒い物体を差し出すと、一蹴は真っ青になった。

「ま、待って! ち、違うんだ! 誤解だよ、誤解!」

「そっか。のんの誤解なのかな~……じゃあ、これは?」

 葉夜は果凛の下着を見せた。

「……それは……何? のんちゃん?」

「これは、これ」

「………って、これ、女物の……」

「あれ? そーゆー反応なんだ……そっか……、これが誰のか、知らないんだ?」

「知らないよ。………のんちゃんの?」

「ううん、違うよ」

 葉夜は高級なレースの下着をゴミ箱に入れた。

「落とし物かな。じゃ、一蹴くん、これ食べて♪」

「ぇ………でも……その……」

「ヌシと静流さんには黙ってるね♪」

「ぅっ………。……し、……死なないよね? 秘密の死因とかに、ならない?」

「混ぜる前は、どれも食べられる物だったよ。コオロギも入ってないし」

「……………」

「夕べ、ここで…」

「食べます!」

「うんっ♪」

 葉夜が赤黒い物体を食べさせると、一蹴は呻きながら倒れる。いつまでのロッカー室から戻ってこない二人を見に来た静流があきれる。

「この店、よく今日までもっていたわね」

「ピーーースっ♪ 静流が立て直してね」

「ええ、ビシバシ行くわよ」

「ゆっくりバリバリ~♪」

 葉夜と静流が働き始め、激しいダメージを受けて倒れた一蹴は起きあがるまで無給の休憩扱いということになり、店に客が入り始めると幸蔵が来店してきた。

「…ええ…ええ…はい…お願いします…では…」

 幸蔵はケータイで話ながら静流に人差し指を立てて見せた。

「お一人様ですね。カウンターとテーブル、どちらが、よろしいですか?」

「テーブルを頼む」

 幸蔵はテーブルに座るとメニューを見ることもなくカバンを出して書類を拡げている。喫茶店で仕事をする男性は、たまにいるので静流は気にしない。

「ご注文は?」

「コーヒーを」

「はい、コーヒーですね。少々お待ちください」

 オーダーも予想通りだった。すぐにコーヒーを淹れて幸蔵の前に置こうとしたけれど、書類でテーブルが埋まっているので、かなり隅に伝票といっしょに置く。

「ご注文のコーヒーです」

「ああ…、ありがと…」

 生返事をした幸蔵は書類を凝視している。かなり疲れた様子だったので静流は心配になったけれど、他人のことなので関わるのはやめる。しばらくして幸蔵のケータイが鳴った。喫茶店内での通話はマナー違反だったけれど、幸蔵は考え至っていないようで受話した。

「もしもし…」

(嘉神川幸蔵さんですか?)

 クロエの声だった。

「……ああ……ワタシだ…」

(三上クロエです)

「………」

(さきほど振込は確認しました。あとは調査を命じたところとやらへの写真の処分を確実にお願いします)

「それも連絡した」

(では、以上です。ごきげんよう)

 他人行儀な冷たい声が一方的に電話を切った。

「……………」

 クロエ…………ワシが……間違っていたのか……どこから……間違って……それに合計で四億も……限界だった五億に比べれば、まだ、マシだが……それでも急な出費で……会社が傾くのは必至だ………こんなことが原因で代々続いた嘉神川食品が倒れることになったら、ワシは…………とにかく、売上をあげて……ああ、頭が痛い……胃も痛む……、幸蔵は深い苦悩に浸っている。静流は不穏は気配を感じたけれど、声をかけるのは憚られた。幸蔵は胸ポケットからエリーズとノエルの写真を出した。クリスマスに撮影した家族写真だった。

「……………………」

 せめて、エリーズとノエルだけは幸せに………いや、だが、クロエのことも……見守って……クロエ……すまない……ワシが間違っていた……タカノさんの写真のことは誤解なんだ……いや、あれを見たこと自体が罪か…………甘んじて3億は払った……だから、せめて許してくれないか……愚かな父を……愚かでも……父だと思って………それとも、もっと、もっと限界まで、あと1億を払って、本当の限界まで誠意をみせたと……そうなれば、クロエもワシを許して……だが、嘉神川食品の社長としては……それに、ノエルの将来も考えてやらねば……もしも、嘉神川食品が破産したら、クロエはノエルだけでも助けてやってくれるだろうか…………だが、クロエにとってノエルは七年も知りもしなかった妹で……ノエルの存在自体がクロエの怒りの一因でもあった……黙っていたことが……深くクロエを傷つけて………もうダメだ……やはり、クロエはワシを許してくれない……ならば、せめてノエルだけでも幸せに……そのためにも会社を……そうだ……売上をあげるのに田原のようにCMをっ! ノエルの可愛らしさをもってすれば、あのNEOのシリーズ化しているCMを凌駕して……いや…ダメだ……エリーズが娘を商売道具に使うのかといって反対するだろう……ダメだ……ダメ……ダメだ……それにCMを撮るのに、いくらかかるか……安くあげても2000万は要るだろう……今は先行投資して回収を待つ余裕はないんだ……それに、月末には社員の給料も……今月は28日しかなくて売上はさがるのに基本給は定額を………社員のリストラ………いや、士気が下がる……悪循環だ……それに採用予定だった三上君は……どうなるだろう……やはり、来ないか……来てもワシも扱いに困るし……彼は優秀だったのに、そうだ、この、ならずや、ここも彼が新規に営業してくれた店………彼がいたら我が社も……いや、そう思ったのが間違いで……あ、そういえば、彼の二月分のバイト代……これも、ちゃんと払わなければクロエに軽蔑される……そうなると、内定の取り消しについても、ある程度の金額を……だが、取り消しと公式に書面したわけじゃ……ああ……頭が痛い……ぐっ…ぐう……痛い……頭が割れそうだ……ぐぅぅぅうぅぅうぅううぅ……、幸蔵は前のめりに倒れ、腕が当たってコーヒーを落とした。

 ガチャン!

 カップの割れる音が響いて周囲が注目する。幸蔵は倒れたまま、呻いている。

「ぅうぅぅうぅ…」

「お客様っ?!」

 静流が駆けよった。

「お客様っ?! どうなさいました?!」

 静流が呼びかけても幸蔵は蒼白な顔で呻くばかりで答えてくれない。静流の豊かな胸が顔にあたっているのに幸蔵は脂汗を流して苦しんでいる。

「ぐうぅいぅっ…」

「ど…どうし……どうし…、ど、ど…ど?!」

 昨日から店長代理として働き始めたばかりで経験の浅い静流が急なことにパニックになりかけている。葉夜が叫んだ。

「救急車を呼んで!」

「きゅっ…きゅっ…」

「のんが呼ぶから! 一蹴くん、静流さんに、その人を揺すらないように言って!」

 葉夜は店の電話を取って119番する。

「もしもしっ!」

(火事ですか? 救急ですか?)

「救急ですっ! 喫茶店内で壮年の男性が急に倒れました! 激しい痛みを訴えて、こちらの呼びかけに応答してくれません!」

 電波なことは一切言わずに、一秒でも早く、救急車が到着するように適切な情報を伝える。静流が悲鳴をあげた。

「ぃ、息が止まってるのっ!!」

「静流さん、替わって! 外で救急車を待って誘導して!」

 静流に替わって葉夜が幸蔵をみると、意識が無くなり息が止まりかけている。それでも幸蔵の手にはエリーズとノエルの写真が握られていた。

「……お父さん…」

 この写真に写る妻子の父親だと思うと、葉夜の胸が強く痛んだ。胸の傷痕が灼熱するように激しく痛む。幼いノエルの笑顔が、子供の頃に交通事故で父を亡くした自分と重なってしまう。

「しっかりっ! 死んじゃダメっ! 頑張って!」

 葉夜は泣きそうになった自分も叱責して、幸蔵に息を吹き込んで人工呼吸を始める。救急車が到着するまでの7分間、汗だくになって人工呼吸と心臓マッサージを続けた。

 

 



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25話

 

 

 自宅にいたノエルは病院からの急な電話を受けて困惑していた。

「……ま……ママに……知らせないと……えっと、……ママのケータイ…」

 外出しているエリーズに伝えるため、電話をかける。

「……………ママ……出て…」

 呼び出し音は鳴っているけれど、受話されない。一分後に再びかけ直したけれど、受話されなかった。

「どうしよう…………、……………病院に行かないと……でも、ノエル一人じゃ……。…………お姉ちゃんに…」

 ノエルは三上家の電話番号を探す。電話台の近くにメモがあった。

「よかった」

 見つけた番号へかけてみる。すぐに鷹乃が受話してくれた。

(もしもし、三上です)

「お姉ちゃんいますかっ?!」

(ええ、いるわよ。どうかしたの?)

 挨拶もなく姉を求めるノエルの切迫した声に鷹乃が異変を感じて問いかけてくれる。

「パパが大変なのっ! お姉ちゃんに知らせないと!」

(わかったわ。すぐ、替わるわね。落ちついて)

「うんっ」

 ノエルが待つこと30秒でクロエが電話に出てくれた。

(もしもし)

「お姉ちゃんっ! 大変なの!」

(………。私は、もうあなたのお姉ちゃんは辞めたの)

「ぇ…?」

(三上クロエだと思ってちょうだい。………あなたとは他人)

(クロエ、小さな子にまで、そーゆーことを言わないの)

 そばにいるらしい鷹乃の声も聞こえてくる。

(何か困っているのよ、ちゃんと聞いてあげなさい)

(……はい、ママ)

「え? ママ、そこにいるの?」

(いいえ、エリーズさんはいないわ。いるのは私のママだけ)

「え? え? どう…なって……日本語の意味が…、Queset-ce que vous avez dit?」

(Je deteste ca.)

「Qu……Queset-ce que vous avez dit? Jentends mal.」

(Je deteste ca.Ne me telephonez plus.)

「………」

(……)

(クロエ、何を話してるの?)

 そばで聴いている鷹乃がフランス語の会話が理解できず問いかけると、ノエルが「何を言ったの?」と問うのに「あなたが嫌い」と答えて、さらに「二度と電話しないで」と言い加えたクロエは困っている妹を、より困惑させたとは答えにくいので誤魔化す。

(よく、わからないの)

(私に替わって)

(はい、ママ)

(もしもし、ノエルちゃん? 落ちついて。日本語、話せるよね?)

「うん、話せる」

(何があったの? パパとママは?)

「パパが病院に運ばれたって! ママはいないの! 電話しても通じなくて!)

 聞いてくれそうな鷹乃へ、ノエルは矢継ぎ早に伝えた。その切迫した様子で鷹乃も事態の緊急を知る。

(病院に……それで容態は?)

「わからないの! 外で倒れたって!」

(わかったわ。すぐに、そっちへ行くから待っていなさい)

「鷹乃お姉さん……、ありがとうっ!」

 頼もしい鷹乃の声に、七歳の幼女は強く励まされて泣きそうだった気持ちを落ちつかせることができた。言葉通り、すぐに鷹乃とクロエ、それに智也まで駆けつけてくれた。嘉神川家からは四人でタクシーに乗って病院へ向かう。

「…パパ……どうか、無事でいて。神さま……お願いします」

「大丈夫よ、きっと大丈夫」

 とくに根拠は無いけれど鷹乃は幼女を励ますために楽観的なことを言った。クロエは来る気は無かったのに連れてこられたので押し黙って車窓から外を見ている。タクシーが病院に着いた。

「オレが受付で訊いてくる。三人は待ってろ」

「ええ、お願い」

 すぐに智也が病室を教えてもらい、戻ってくる。

「七階の集中治療室だそうだ」

「七階ね」

 鷹乃はノエルの手を引いてエレベーターへ向かったけれど、クロエは動かない。

「私は、ここにいます」

「クロエ……ダメよ。来なさい」

「だって、ママ……あの人は、パパじゃないもの」

「クロエ………、……最期かもしれないのよ? お願い、来て」

 ノエルには楽観的なことを言った鷹乃がクロエには最悪の事態を想定して話している。

「あなたに後悔させたくないの。来て」

「でも……、……あの人をママは許せるの?」

 クロエが盗撮のこと言外に含めると、鷹乃は嫌悪感を呼び覚まされたけれど、首を振って答える。

「今は言い争いをする時間もないかもしれないわ。お願い、来て。来なさい、クロエ、あなたの母親として言うわ。いっしょに来なさい」

「………はい……ママ…」

 クロエは手を引かれて渋々エレベーターに乗った。七階の集中治療室は面会謝絶だったけれど、ガラス張りで中を見ることはできた。幸蔵はベッドに寝かされ、いくつもの管やコードに繋がれている。

「パパっ、パパっ!」

「…………」

 クロエは幸蔵の姿と数秒ほど見て、目をそらした。智也がナースステーションで病状を聞いてくる。

「命に別状はないらしい。一時は危なかったが、居合わせた人の救命処置が良くて、今は安定してるって。しばらく意識は戻らないかもしれないしれないけど、死ぬようなことはないって」

「パパ……良かった……」

「……………」

 ノエルとクロエは病状を聞いて安心したけれど、クロエは幸蔵に背を向けた。

「………死ねばよかったのよ」

「クロエ………」

 鷹乃が言葉を失っていると、ノエルが姉を睨みつけた。睨みつける、その目に涙が浮かび、ぽろぽろと零れる。

「どうしてっ?! どうして、そんなこと言うの?!」

「……………………………嫌いだからよ」

「っ……、でもっ! お姉ちゃんはパパと、ずっといっしょに暮らしてたのにっ?! ノエルとママは嫌いでもっ! どうして、パパまで嫌いなのっ?!」

「…………嫌いなものは嫌いなのよ」

「……っ……っ……っ……そんなお姉ちゃんっ、大っ嫌いっ!! わあああぁあぁっ!」

 大声を上げてノエルが泣き出したので看護婦たちが近づいてくる。いたたまれなくなったクロエは妹にも背を向けてエレベーターへ向かう。鷹乃が追ってきた。

「いくら何でも、あんな小さい子に酷なことを言うのは…」

「どうしてっ?! あの子の味方をするのっ?! 私のママは鷹乃さんでしょっ?! あんな子っ関係ないっ!」

「クロエ………ええ、そうね……私が悪かったわ。私は、あなたの味方よ」

 今は落ちつかせるために反論を控えた鷹乃は震えているクロエの手を握った。ノエルのことは智也がついているようなので、エレベーターへ乗ろうとして、自動ドアが開いてエリーズと出くわした。

「っ…」

「クロエ? 来ていたの。お父さんは? どうなの? さっき、会社から電話があって…あ、ノエルも来てるのね」

「…………………………」

 こんなときに……私より遅いなんて………、クロエは黙ってエリーズの横を通り過ぎるとエレベーターに乗り、扉を閉じる。閉まっていく扉の向こうからエリーズが何か言いたげな視線を送ってくる。クロエは目を合わせずに告げる。

「……Au revoir」

 さようなら、と実の母親に言った。降り始めたエレベーターの中で、鷹乃がクロエの肩を抱いた。

「…………」

「…………。智也を待って、家に帰りましょう」

「うん……ママ…」

 静かにクロエは泣いた。

 

 

 

 翌日、午前中にモデルとしての仕事を終えた音緒は都内のデパートから、携帯電話で正午へ連絡を取る。

「もしもし、正午くん?」

(ああ、音緒ちゃん、どうしたの?)

「明日、ヒマかなぁって」

(たぶんヒマだよ、卒業式まで何も予定ないし)

「じゃあ、どこかで会わない?」

(いいよ。どこがいい?)

「う~ん……また、あとで決めてメールするね」

(オッケー♪)

「じゃ」

 音緒は電話を切ってからタメ息をつく。

「もぉ~……明日は2月14日なんだぞ。この日に女の子から誘われるシチュを、もっと理解しようよ。………それとも、理解してて、私が緊張しないように、さらっと約束してくれたのかなぁ……ないない♪ あの人、鈍いだけだし」

 テンションがあがっている音緒は独り言を零しながらデパートのバレンタイン特設会場を歩いて回る。高級なチョコレートから義理チョコまでそろっている会場を物色して考え込む。

「う~ん……手作りする時間が……夕方も歌のレッスンあるし……やっぱり、手作りは諦めて買いで済ませるしかないかなぁ。となると、なるべく高いのでないと、義理だと思われるかも…」

 音緒は一番高そうなコーナーへ行って店員に声をかける。

「これを二つください。一つはプレゼント包装して。もう一つは、そのままでいいです」

「はい、かしこまりました」

 すぐに店員は音緒の言ったようにしてくれる。音緒は包装してもらわなかった方のチョコレートを開けて、食べてみた。

「………うん、………美味しい……これで決まり。あとは仕事関係の義理チョコを…」

 正午に送るチョコレートを念のために試食してから、義理チョコを探しに行こうとして果凛を見つけた。同じ事務所に所属しているので、この最寄りデパートで出会うのは自然なことだった。

「KARINさん」

「あ、NEOちゃん」

 果凛が呼ばれて、音緒を呼び返すと周囲の客が何人か振り返った。明らかにKARINと聴いて振り返った人数より、NEOの方が多い。サインを求められると収拾がつかなくなるので、とりあえず果凛と二人で特設会場を離れた。

「ごめんね、NEOちゃん、とっさに呼んじゃって」

「いえ、私が悪いんです。先に呼んだから」

 私が悪いんです♪ 人気あるから♪ 音緒は持っている買い物袋に果凛の視線が落ちてくるのを感じて、あえて隠さないようにする。

「NEOちゃんもチョコを買いに?」

「はい」

「本命はいるのかな?」

「いませんよ。全部義理です。KARINさんは?」

「私もよ」

 お互いに同僚に本当のことを言わない二人は探り合いをするメリットもないので、すぐに別れて買い物を続けた。

 

 

 

 鷹乃とクロエは三上家で手作りのチョコレートを用意していた。送ることが目的というよりは作る楽しみを二人で共有しているのだった。

「完成ね」

「はい♪」

 できあがったチョコレートは全部で五つ、智也以外に渡す相手は決まっていないけれど、材料があった分だけ作っていた。

「これは智也に。で、これはクロエに」

「これはママに。これは智也パパに」

 お互いに送り合って二つ、智也に二つ、あと一つの行方は決まっていない。鷹乃は履歴書を熱心に書いている智也に声をかける。

「智也、三つ食べる?」

「甘い物は苦手なんだ。肉がよかった」

「あら、そう。じゃあ、来年はチョコレート入りのすき焼きにしてあげるわ」

「うげっ……そういえば、ノエルちゃんにやれよ。あいつ、チョコ大好きっ子だろ。すき焼きに入れても美味しく食べるかもよ」

「そうね……ノエルちゃんはチョコレート、大好きよね……」

 鷹乃が大きくもなく小さくもない声で言っても、クロエは聴こえなかったことにしている。親子の縁は切ったとしても、できれば姉妹の縁は切ってほしくないと思っているものの、それを強制することはできない。鷹乃は余ったチョコレートを簡単に包装して冷蔵庫に入れ、あえて話題を変える。

「智也、履歴書は、できた?」

「まあまあ」

「花祭さん、ちゃんと約束を守ってくれたのね」

「うむ、持つべきものは友人と金だな♪」

 朝一番にジイヤから電話をもらい、就職先を紹介してもらった智也は履歴書の記入にミスがないか入念にチェックする。

「よし」

「面接は何時なの?」

「明後日の17時だってさ。たぶん、向こうも急な面接だからオレ一人だけ、仕事の合間にって感じになるんだろ。りかりんの紹介だから99%合格だろうけど、遅刻はNGだし今夜は早く寝よう♪」

「どれだけ寝坊しても午後5時の面接に遅れるなんてありえないでしょ」

「オレは前に起きたら夕方だったこと、あるぞ」

「自慢げに言わないの」

 鷹乃と智也が言い合いしているのを見て、クロエは幸せな気分だった。ずっと、ここで、こうして暮らしていきたい。入院したまま、まだ意識の戻らない幸蔵のことも、顔を見たくもないエリーズのことも、ケンカしたノエルのことも関係ない。クロエは完成したチョコを囓る。甘くて幸せな味がした。

 

 

 

 翌日、とうとう2月14日を迎えた一蹴は別れを告げるタイミングを見つけるのに苦労していた。

「答えは、板チョコ♪ イタチ横だから」

「はは…」

「じゃあ、次の問題ね。いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」

 いのりは無邪気にヴァレンタインデーのデートを楽しんでいる。どのタイミングで別れ話を言い出そうか、そもそも果凛に告白する期限として2月14日を選んだけれど、別れを告げるタイミングとしては、この上なく最悪な日付だったと自分でも後悔している。

「イッシュー?」

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「……何か悩み事でもあるの?」

「いや、何でもない」

 別に……いのりが嫌いってわけじゃない……ただ、りかりんのことを好きになったから……でも、何て言おう………別れてくれ……だけじゃ、ダメかな……りかりんはKARINもあるから迷惑をかけられないし………りかりんのことは隠して………じゃあ、いのりのことを嫌いになったから、別れてくれ、とか? いや、別に嫌いじゃぁないし……なら、好きじゃないから……とか……いのりとオレって、いつのまにか、いのりの方から近づいてきて、気がついたら付き合ってたけど、オレは別に、それほど、好きってわけじゃ……、一蹴は思い悩みながら公園を歩いている。

「イッシュー?」

「………」

 いのりの声が耳に入らなかった一蹴は公園の噴水近くで音緒が正午にチョコレートを渡しているのを見るとはなしに見ていた。

「……そうだよなぁ…」

 今日は告白の日であって、別れの日じゃないよなぁ……でも、いのりとハッキリしないで、りかりんに告白なんてできないし………いのり……泣くかなぁ……せめて、人気のないところにしよう……あの教会とか……ああ、でも、あそこは、いのりと初エッチしたところだから……、一蹴が悩み続けていると、いのりが提案する。

「ね、あの教会に行こうよ。あそこで、チョコを渡したい♪ 雰囲気あるし」

「………、行こうか」

 仕方ない………チョコを渡されるタイミングで、受け取れないって言おう……最悪のタイミングだけど、もともと、オレが悪いんだ………いのりにしたら最悪なことに変わりないから……付き合っておいて、エッチまでしたのに、好きじゃないなんて……でも、こうなったら言うしかない……いのりのこと、好きだった時期もあるけど……最初から好きじゃなかった、って……あ、そういえば、このセリフ、いのりから借りた少女漫画にあったよな、うん、これでいこう、決めた、一蹴はセリフが決まったので教会へ向かった。

「イッシュー……雨が降りそうだね」

「…ああ、…」

 真冬の空が厚い雲に覆われている。教会に着く頃には、ぽつぽつと雨が降ってきた。

「降ってきちゃったね。外で渡したかったけど……中もいいよね♪ ね、祭壇のところで結婚式みたいに渡したい。ダメ?」

「………ダメ……かな」

「え~……じゃあ、おっぱいに挟んで渡してほしい?」

「……もっと……ダメダメ……」

「う~ん……せっかく二人で迎える初めてのヴァレンタインなんだよ。なにか、記念になるような…」

「……」

 言うっ、言うぞっ、いのりと最期にするっ、言うっ、一蹴が決断した。

「いのりっ!」

「ひゃいっ? ……び、びっくりした急に大声出して、どうしたの?!」

「オレを殴ってくれっ!」

「ぇ………、そーゆープレイするの? ……試しても、いいけど、力加減が難しそう。私、ピアノやってたから手の力、けっこう強いよ?」

 いのりが手を振り上げて叩こうとしてくるので一蹴は逃げる。

「ち、違う! そーゆー意味じゃなくて!」

「えっと……じゃあ、何で叩くの? 鞭とか、ないし……あ、私の髪? これでパシっと♪」

 いのりが軽く首を回すと、長い髪が鞭のように空気を切った。当たったら、かなり痛そうだった。

「違うって! だから、そーゆー意味じゃないんだ!」

「じゃあ、どうするの?」

「何もしない! もう、いのりとはエッチしないんだ!」

「ぇ………イッシュー……体調悪いの?」

「違う! そーゆー意味でもなくて! もう、いのりとは別れるんだ!!」

「……………………イッシュー?」

「悪いけど、もう終わりにしてくれ。別れたいんだ」

「……………放置プレイ?」

 いのりも言われた意味がわかっていて、認めたくないので、あえて話をそらしたけれど、一蹴は言い出した別れ話を勢いにのって続ける。

「いのりとオレは、別れるんだ。二人、別々の道を行こう」

「……でも……」

 いのりも一蹴が本気で別れ話を切り出していることに気づいて、青ざめた。

「ごめん。いのり、もう付き合えない」

「……イッシュー……」

 いのりは震え始めた手でチョコレートを一蹴に向ける。受け取ってほしいと想いを込めて作ったチョコレートを差し出した。

「これは受け取れないよ。ごめん」

「……………」

 いのりはチョコレートを差し出したまま、小さな子供がするように首をイヤイヤと横に振った。受け取ってほしいと、さらに一蹴へ向け続ける。一蹴は胸に痛みと罪悪感を覚えたけれど、非情に徹する。

「さようなら、いのり」

「………どうして……なの?」

「最初から好きじゃなかった」

「っ……」

 用意していた一蹴の言葉を聞いて、いのりは衝撃を受けた。チョコレートが床に落ちて砕ける。一蹴が何気なく用意したセリフで、いのりは強いショックを受け、愕然としている。

「…………最初から……」

 いのりにとっての最初は一蹴がリナを選んだことだった。その最初から自分は選ばれなかった。最初から好きじゃなかった、その事実を言葉にして告げられると、いのりは動けなくなった。

「…………………………………………」

「さようなら。ごめん」

 もっと、しつこく粘られるかと覚悟していた一蹴は意外なほど、いのりがショックを受けたのを心配に思いつつも、立ち去ることにした。もう自分は彼女に優しくする資格はない、そう考えて教会をあとにする。走って丘を降りると、時刻を確かめる。

「もう四時か……りかりん…」

 古い恋人に別れを告げた後は、新しい希望に向かって前進する。一蹴はメールを果凛へ送った。

(登波離橋で待ってる)

 それだけ送信して、登波離橋まで走った。

「ハァ…ハァ…ハァ…りかりん…ハァ…待たせて……ごめ…ハァ…」

「走って来たの?」

 移動方法がリムジンである果凛は先に到着して待っていた。

「ハァ…ハァ…」

「大丈夫?」

「平気だよ。それより、聞いてほしいことがあるんだ」

「……。どんなこと?」

 どんな話か、予想はついているので果凛の心臓が高鳴ってくる。

「りかりん、いや、果凛……好きだッ!」

「っ……一蹴くん……」

 驚きはしなかったけれど、驚く演技をした果凛は困惑した表情を浮かべる。

「ダメだよ、君には、いのりさんが…」

「いのりとは別れてきた」

「…そんな………」

 それも当然に想定していたけれど、果凛は急な展開に翻弄されるヒロインを演じて立ち振る舞う。

「私が……悪いんだね……一蹴くんに気を持たせるようなことを……」

「果凛は悪くないよ。悪いのはオレだ。でも、君が好きだっ。果凛っ!」

 名前を呼んだついでに抱きしめる。抱かれて果凛は身体の力を抜いた。

「…ずるいよ……こんなことされたら……断れない……」

「果凛っ」

「一蹴くん……」

 果凛が一蹴の顔を見つめると、一蹴はキスをしてくる。やや想定より早い展開に果凛は少し迷ったけれど、目を閉じた。

「……」

 もお……早いよ……いきなりキスまで決めようなんて……さすが、童貞じゃないだけあるわね……まあ、いいわ……今日は2月14日……いい記念日だし…、果凛はファーストキスを味わいながら、想い出に残るヴァレンタインデーになったことを喜んだ。

 

 

 

 いのりは深夜まで教会にいた。

「………」

 真夜中になっても冷え切った心と身体で一人きり教会建築の装飾品の一部であるかのように立ちつくしていた。

「……………………」

 イッシュー…………イッシュー…………私はイッシューを幸せにしないと……いけないのに…………イッシューと別れたら……………………イッシュー…………どうして……イッシュー………リナちゃん……のこと…………………想い出した? ………忘れてたはずなのに………それとも……誰かが……、いのりは昇ってきた朝日を浴びても温まらない心と身体を動かした。

「確かめないと…………」

 いのりの目は輝く太陽をうけてさえ暗い闇の色になっていた。ゆっくりと凍りついた手でケータイを出すとカナタにかける。

(もしもし? こんな朝早くに…)

 早朝の着信で寝ぼけたまま、相手を確かめずにカナタが応答している。

(今、何時だと思って…)

「イッシューに話した?」

(ひっ?!)

 いのりの呪い殺すような声を聞いてカナタは悲鳴をあげて声を震わせた。

「イッシューに話した?」

(ひぃっ…ひぃい…)

「答えないなら行くよ」

 リナの墓前で叩きのめしてから何ヶ月か姿を見なかったのに、今年に入って街で見かけるようになったカナタを疑ったけれど、反応から可能性は低い思われる。

「リナちゃんのこと、イッシューに話した? 話してない?」

(ひぃ…ひゃっい…ひぁぁい…)

(コラっ! カナタ、オレのベッドに、おしっこするなよ。母さんに文句言われるのオレなんだぞ)

 別れたはずの男とヨリを戻したようで声が響いてくる。電話の向こうのカナタは恐怖に震えて失禁しているようだった。

「話した? 話してない?」

(ひゃぃいい…ひああぃぃ…)

(カナタ、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ。呪いの電話でも受けたのか。着信あると死ぬようなヤツ)

「ないのね?」

(ひあぁいっ)

 はっきりとした日本語ではなかったけれど、どうやら話していないと判断して、いのりは電話を切った。

「なら、あの男……、……探さないと」

 扉のケータイ番号は知らない。もともと怪しい商売をしている上に身元も不確かなので固定した番号さえ持っていないかもしれない。

「探し出して……」

 いのりは早朝の街を歩き回って、扉がいそうなところを巡り、魚力の前で仕入れを手伝っている姿を見つけた。

「深歩っ、そっちを押さえてくれ!」

「こうかなっ?」

 深歩に不法露店や麻薬の密売を辞めるように諭され、将来は夫婦で花屋と魚屋をやろうと誓った扉はまじめに働いていた。いのりは呪い殺すような目で扉に迫る。

「イッシューに話した?」

「っ……」

 声をかけられた扉は持っていたトロ箱を落として青ざめる。

「イッシューに話した?」

「ひぃっ…」

「…………話したよね?」

 いのりは疑いを濃くして呪い殺すような目に力が入る。ろくに返答もできず扉は腰を抜かして失禁したけれど、深歩が車イスで二人の間に滑り込んできた。扉を守るように、いのりに対峙する。

「何のようなの? 今、仕事中だよ」

「………あなたには関係ない」

「っ……」

 いのりの目で見られると深歩も身震いして青ざめたけれど、もともと車イスなので腰を抜かしたりはしない。扉を守るために勇気を振り絞って、いのりの目を睨む。

「帰って」

「………」

 いのりは黙って呪い殺すような目で深歩を見つめる。

「…か……帰って…」

 ほとんど動くことのない深歩の膝が震え、キュロットスカートが小水で濡れ、車イスの座面に水たまりをつくった。それでも深歩は扉を守るために抵抗をやめない。魚屋の奥から、力丸紗代里が作業の遅い二人を見に来た。

「何やってるなのですか? ひぃっ…」

 いのりが視線を紗代里へ移すと、金縛りにあったように止まり、中学の制服を小水で濡らして座り込み、そのまま気絶してしまった。

「帰って!」

 いのりの呪い殺すような目から、わずかに解放された深歩は手近にあったアジを投げつけた。

 パシっ!

 いのりは顔に向かって投げつけられたアジを首を回して髪先で払いのけた。いのりの髪は意志をもった鞭のように蠢いている。

「私、あなたを呪う」

「っ…」

 強烈な呪い殺すような目を受けた深歩は失神して車イスの上で、ぐったりと弛緩する。いのりは車イスの影で震えている扉に迫った。

「よくもリナちゃんのことを話してイッシューを」

「ひぃっ! ちっ…違っ…は…話してなっ…いっ…いい……ないい…」

 ガタガタと震えながら扉は否定している。その様子は真実味があった。

「話してない……なら、どうして、イッシューは私と別れるなんて……」

「別れ……そ、そうか。そういうことか……へっ、へへ…」

 震えながら扉は嗤った。

「全部、あの女だ。あの女がオレたちの全部を奪った。リナも、金も、なにもかも、へへっ、へ、世界ってなぁ不平等にできてやがるぜ」

「………わかるように話して」

 いのりが睨むと扉は震えながら、子供の頃の事故のことを独自に調べ、そもそもの原因が果凛の密告にあったこと、さらに、最近になって果凛と一蹴が何度も会っていたことも話した。

「ってな、わけだ。………なぁ、オレは悔しいっ! なんで、あいつなんだ?! あの女はリナを殺した女だっ! 許せねぇ! なのに、あの女はガードが堅くて手出しできねぇ! とんでもねぇ金持ちだ! けどよ、いのりっ! お前の力なら、あいつを! あいつを! 頼むっ! リナの仇をとってくれ!」

「……………………私……あの人を……呪う……」

 いのりは呪い殺す目になって、ならずやに向かう。呪い殺す目のまま、千羽谷の商店街を歩いていると、自由登校なので学校へ行かずキュービックカフェでアルバイトするつもりの海が不幸にも、いのりと出会った。

「ひぃっ…」

 海は悲鳴をあげて歩道に座り込み、小水でスカートを濡らした。それを見た姉が嗤う。

「クスっ…海、どうしたの? こんなとこで高三にもなって、おもらしなんかして、通りがかりの変質者にイタズラされちゃうよ?」

 意地悪くクスクスと嗤った月岡陽も震えている妹が見たものを見る。

「ひぃぃっ…」

 陽は悲鳴をあげて歩道に座り込み、小水でスカートを濡らした。それを見た有沢りかのが嗤う。

「フフのフ♪ 月岡姉妹が漏らしてる。大ニュースなのだ」

 りかのも意地悪くクスクスと嗤ったけれど、姉妹が見たものを見る。

「ひぃぃぃっ…」

 りかのは悲鳴をあげてゴッシクロリーター調のスカートを小水で濡らし、そのまま座り込む。

「…熱っ…パパ……熱いよ…おしおき熱いの……ヤダよ…」

 りかのは父親からタバコを押しつけられた痕を押さえて啜り泣きはじめた。陽も震えながら身体を小さくして抱いている。

「…ぃ…ぃや……やめて……私に……イタズラしないで…」

 じわじわと拡がった三人の水たまりが合流している。いのりは三人に目もくれず、ならずやへ向かい続ける。

「……花祭………果凛………」

 呪詛の声を漏らしながら、いのりは店舗前を掃除している葉夜に近づいた。

「花祭…果凛……どこにいる?」

「っ…」

 葉夜はビクリと身震いした。いのりの目を見ているだけでガクガクと膝が震え、腰が抜けそうになるけれど、葉夜はホウキを杖に立ち続けた。

「ピーィ…ス…?」

 こんな……黒い気持ち………こんなにも黒い気持ちが………真っ黒な気が……なんて、とてつもない気………でも…………私にも黒い気持ちはある……それを同調させれば………、葉夜は胸に手をあて、いのりを見返した。

「……どうして……りかりんちゃんに……?」

「呪うから」

「………そーゆー……理由なら………教え、られない……」

「あなたも」

 いのりが呪い殺す目に力を込める。

「………」

「……っ……っ……」

 葉夜の震えが激しくなり、立っている内腿に漏らした小水が流れをつくっていく。とうとう耐えられなくなり、葉夜もアスファルトに座り込んだ。いのりは葉夜を跨いで店内へ入った。

「いらっしゃい♪ あら、いのりちゃ…」

 静流が失禁して気絶した。

「花祭……果凛……どこに……」

 いのりは店内を探すけれど、いたのは詩音だけだった。詩音はイスに座って紅茶を飲んでいる。

「騒々しいですね。せっかくの朝を……」

「…………」

 いのりと詩音の目が合う。

「……………」

「…………」

 詩音は飲んでいたティーカップをソーサーへ戻した。

「……、静流さんに何をしたのですか?」

「…………」

 いのりは答えない。詩音は座ったまま、いのりは踵を返して店を出て行く。

「……ここにいないなら……シカ電で……」

 いのりの姿が駅の方向へ消えると、香菜がトイレから出てきた。

「お待たせしました」

「……香菜……」

「はい?」

「着替えを買ってきてもらえますか」

「え?」

「スカートを濡らしてしまいました」

「……………」

 香菜が見ると、詩音の座っているイスから小水が滴りおち、スカートや靴下が濡れている。

「っ、ご、ごめんなさい! 私が先にトイレを使ったからっ! ごめんなさい! ガマンしてらっしゃるように見えなくて!」

「違いますよ、これは……」

「詩音お姉様…?」

「高等な動物は激しい恐怖を感じると失禁するのです。……でも、恥ずかしいので早く着替えをお願いできますか?」

「は、はいっ。……でも、お姉様を怖がらせたって、いったい?」

「あれは……たぶん……悪魔か、………邪神、……そういった類のものでしょう」

 詩音はハンカチを拡げて濡れたスカートを隠した。

 

 

 

 澄空学園も三年生は自由登校になっていたけれど、もう同級生に会えるのも、残りわずかなので彩花と唯笑、巴は昼前まで教室で会話を楽しみ、シカ電に乗って帰宅している。巴がカバンを荷台へ放りあげた。

「澄空駅から乗るのも、あと何回かな」

「トトちゃんは卒業したら演劇だけするの?」

「う~ん……まあ、バイトしてもいいけど。ルッサクとか♪ もう一回、イナを取り戻してみるなんてね」

「やめときなさいよ。ドロドロのグチャグチャになるよ」

「わかってるって。ヒッキーは賢いよね、トミーとのドロドロをやらないあたり」

「ヒッキー言うな」

 平和な会話をしていた彩花たちの前に、隣の車両から女子大生の星月織姫が逃げ込んできた。

「ひぃっ…ひぃぃいっ…」

 今は治っている雛岸いずみに刺された傷痕をおさえ、震えながらスカートを小水で濡らして這ってくる。

「あの人……」

 彩花は自分たちが二年生の頃に転入してきた織姫を知っていた。知り合いではなく一方的に彩花が転校前の事件が噂になっていたので知っていただけだった。織姫の怯えようは尋常ではなく何か事件があったとしか思えない様子だった。

「唯笑ちゃん、こっち来て」

「彩ちゃ……向こうの車両………人が倒れて……いっぱい…」

 唯笑が隣の車両を指し、巴が見る。

「ひぃっ…」

 巴が悲鳴をあげ、内腿を小水で濡らしていく。

 しょわぁぁぁあぁ…

「トト?!」

「…ひぃ……ぃぃ…」

「トト、どうしたの?!」

 巴は怯えきっていて彩花に応えない。彩花は織姫だけでなく巴まで失禁したことで危機感を覚えた。

「唯笑ちゃんっ! 息をしないで! ハンカチで口を覆って!」

 看護師を志望している彩花は列車内で次々と人が倒れる状況に6年前のオウム真理教による毒ガステロを想起して唯笑の口にハンカチをあてようとしたけれど、遅かった。

「彩ちゃ………ぉ、…お化け……出た……」

 じゅ~~ぅわあぁぁ…

 座り込んでいた唯笑のショーツから小水が溢れて拡がる。

「唯笑ちゃん……幻覚を見て……、諦めないで息を止めて!」

 毒ガスによる効果だと思った彩花は非常停止ボタンを探してシカ電を停めて窓から脱出することを考えたけれど、隣の車両から禍々しい気配を感じて、振り返ってしまった。

「っ…………悪魔……」

 じょっ…じょじょっ…じょわああぁぁ…

 いのりと目が合ってしまった彩花は温かくショーツの中で渦を巻く小水を感じることもなく気絶した。

 

 

 

 智也は自宅でテレビを見ながら履歴書を入れた封筒をチェックして、鷹乃がアイロンをあててくれたカッターシャツを着る。

「さてと」

「ネクタイを忘れてるわよ」

「あ、そっか」

 鷹乃が渡してくれたネクタイを締めていると、テレビが緊急ニュースを流した。

(…ただいま入った情報によりますと芦鹿島電鉄…)

「お、シカ電がニュースに…」

(…車内で次々と人が倒れ、病院に搬送されたとのことです。神奈川県警では毒ガスによるテロを想定し、警察庁と自衛隊に応援を求め…)

「怖いわね。すぐ近く……」

「唯笑っ?!」

 智也はテレビ映像に映った担架に乗せられて救急車に運び込まれる唯笑の姿を見つけて叫んだ。

「そんな……まさか…」

「でも、澄空の制服だったわ…」

 鷹乃も見ていた。

(…病院に運び込まれた方の氏名です。判明している分のみ、順不同で読み上げます。星月織姫さん、早蕨美海さん、今坂唯笑さん、安藤…)

「唯笑っ!!」

(…相摩希さん、飛世巴さん、桧月彩花さん、柏崎…)

「彩花っ!!」

 智也は叫んで家を飛び出した。

「智也っ?! どこの病院か、わかってるの?! クロエは家にいて!」

 鷹乃も追いかけていく。クロエも心配なので戸締まりをして追いかけた。智也はニュースで流れた駅に近い病院を走り回り、三軒目にして彩花たちを見つけた。教えてもらった病室へ駆け込む。

「彩花っ! 唯笑っ!」

「あ、トモちゃん」

 ベッドにいた唯笑の元気そうな声で智也は足がもつれて転んだ。

「痛たぁぁ…」

「トモちゃん、大丈夫?」

 唯笑は病院の寝間着を着ているけれど、とくに目立った負傷はなかった。

「唯笑……お前こそ、大丈夫なのか?」

「うん」

「……、彩花は?」

「あっち」

「智也。お見舞い、ご苦労さん♪」

 彩花も元気そうだった。

「な……なんだよ……オレは、てっきり…」

「死んでるかと思った?」

 彩花が肩をすくめて笑った。

「彩花……何があったんだ? 毒ガスは?」

「さあ? 気がついたら、ここいてね。ね、唯笑ちゃん」

「唯笑も覚えてないの」

「思い出そうとすると……」

 彩花がシカ電内での記憶を振り返ると、青ざめて身震いした。

「ダメ……すっごい怖いことがあった気がするけど、何も思い出せないの…」

「彩花……」

 智也が青ざめている彩花の手を握った。

「心配かけて、ごめんね。智也」

「バカ野郎、そんなこと………ホントに大丈夫なのか?」

 智也は彩花の顔を見つめる。頬の赤み、その吐息、どれも生きている証だった。

「唯笑は、どうだ? ホントに大丈夫か?」

「うんっ♪」

 唯笑の顔色も確かめ、肩に触れ、無事だった嬉しさで抱きしめようとして智也は二人が大人用オムツをしていることに気づいた。

「お前ら……オムツしてるのか? クスっ…」

「トモちゃんのバカっ! 笑うなんてひどいよ!」

「バカ智也っ! ぃ、医療上、必要な処置なのよ! バカっ!」

 唯笑も彩花も真っ赤になって智也を叩くけれど、叩いているうちに抱き合っていた。

「彩花……唯笑……無事でよかったな」

「「うん」」

 三人が抱き合って涙ぐみながら無事だったことに感謝していると、遅れて駆けつけた鷹乃とクロエが病室に入ってきた。智也が慌てて二人から離れる。

「たッ…鷹乃、こ、これは…その…」

「……」

 鷹乃は無表情に三人を見つめた後、微笑した。

「無事のようね」

「あ、ああ…、……………」

「ママ、怒らないの?」

 智也に代わってクロエが問うと、鷹乃は唯笑の涙を拭いた。

「そうね。この人たちは兄弟みたいなものだから、今の場合は怒るところじゃないの」

「鷹乃………」

「ニュースを見るなり飛び出して、面接のことなんて考えもしなかったでしょ?」

「っ、そうだ! 面接!」

 智也は病室の時計を見る。すでに17時を過ぎていた。

「うぎゃぁぁぁぁ…確実だった就職口があぁ…」

 智也が床に崩れて呻いた。

「トモちゃん、唯笑たちのせいで…」

「智也、どこの会社だったの?」

「りかりんに紹介してもらった不動産会社だったんだァァ…」

「ごめん……私たちのせいだね……」

「諦めるのは、まだ、早いでしょ」

「鷹乃、今から行っても無駄だ………。たとえ、光速の120%で移動しようとも……完全に遅刻だ。遅刻して合格するわけない」

「大丈夫よ、今は芦鹿島電鉄の全線がストップしてるのよ。バスもタクシーも満員で交通機関はマヒ状態、こんなときの遅刻くらい認めてくれるわよ」

「……………そうか。そうなのか?」

「あなた、ちゃんとした理由で遅刻したことないでしょう? 寝坊とか、忘れてたとか、そーゆーのばかり」

「は…はははっ…」

 力なく笑った智也は面接を受ける会社まで自分の脚で走ることになった。

 

 

 

 花祭家の邸宅は、たった一人の侵入者によって壊滅的な打撃を受けていた。いつも余裕を持て余して振る舞っている花祭香憐は一人娘を守るために屋敷の奥へと逃げ込み、果凛をワイン倉庫へ押し込んだ。

「ハァっハァっ、ここにっ、ハァハァっ隠れてっ」

「ママはっ?! ママもっ!」

「………」

 香憐は娘を守るためにオトリになるつもりだったけれど、遅かった。背後に邪気を感じて振り返ると、いのりがいた。

「っ?!」

 香憐は赤いドレスを失禁した尿で汚しながら腰を抜かして崩れたけれど、ワイン倉庫への扉を背中で守る。いのりは邪魔そうに香憐を見つめた。

「…………」

「呪う」

「っ……」

 香憐が意識を失って昏倒する。いのりは最後の扉を開けた。

「見つけた」

「ひっ……」

 果凛は息を飲み、尿を漏らした。ガタガタと震えて逃げることもできない。

「呪う。呪い殺す」

「ひぃぃっ…」

 果凛は震えながら祖父の形見である指輪を握った。かつて祖父には霊感があり、花祭家や周囲の人間を何度も不幸から救ったという、その力は果凛が持つ指輪に残っていると信じている。

「それは……」

 いのりは歩みを止め、果凛が持っている指輪を注視する。何かしら聖なる力を感じた。

「………」

「お祖父様っ、たっ、助けてっ!」

 孫娘の祈りが通じたのか、指輪が輝き始める。いのりは眩しそうに目を細めたけれど、呪い殺す目で指輪を睨んだ。

「ふにゅっ♪」

「ひぃぃっ?!」

 果凛の手の中で指輪はグニャリと曲がり、輝きを失った。

「いのりちゃんのなぞなぞタイ~ィ…」

「ひっ…ひぃぃっ…」

「なぜ、花祭果凛は呪い殺されるのでしょう? 1リナちゃんの仇。2イッシューを誑かした罪。3生まれてきたことが間違い」

「ひぃぃっ…ひぃぃいいっ…」

 果凛は恐ろしさの余り口も利けず答えられない。いのりは冷たく嗤った。

「正解は全部♪」

「ひぃっ…イヤっ…ひあぁっ…」

「……………」

 いのりは真顔になって果凛を呪い殺す目で見つめる。

「ひぃっ! ひぃぃいい!」

「……………………」

「ひぃいっ! ひっ…ひぃっ…ひいぃ…」

 果凛は目をそらすこともできず、いのりの視線を浴び、痙攣したように震えると、動かなくなった。悲鳴をあげすぎたせいか、唇が割れて血が流れ、瞳は光を失い、呪い殺された目になり、何も見なくなった。血の混じった尿が股間から溢れ、床に拡がり、その血溜まりに崩れる。

「……あぅ………ぅあ………」

「…………」

 いのりは心を呪い殺した果凛を見下ろす。生きる屍となった果凛は倒れたまま、言葉になっていない赤子のような声を漏らしている。

「……………終わった」

 いのりは立ち去ろうと背中を向けたけれど、果凛のケータイが鳴った。振り返って着信表示を見ると「一蹴くん」だった。

「………………………」

 受話しないでいると、今度はメールが着信する。いのりはメールを開いた。

(明後日はマリンランドでいいかな? あんまり近場で目立つとこはKARIN的にダメだったりする?)

「………………」

 明らかにデートの計画を問うメールだった。さらにメールが届く。

(話したいんだけど、電話は無理かな? 忙しい? 疲れてるなら遠慮するよ。って、そーゆー風に言っても果凛は疲れてても電話してくれるよな。それはナシ、ホントに疲れてるなら疲れてるって、オレには本当のことを言ってくれよ。待ってる、けど、疲れてるなら遠慮する。ホントに。じゃ)

「……………………………………」

 付き合い始めたばかりの新鮮味がある長文のメールで、いのりの記憶にある限り、いのりのケータイに、これほどの長文が届いたことはない。相手を慮った一蹴の温かい心を感じるメールだった。

「……………………………………」

 いのりは果凛のケータイを操作して、返信メールを打つ。

(私のこと、愛してる?)

 送信すると2秒で返ってきた。

(愛してる。ずっと、一生)

「………私も愛してるよ、イッシュー」

 いのりは花祭家を出ながら、さらにメールを打つ。

(今から会いたい)

(今から?)

(今から)

(どこで会おうか?)

(私が行くね)

(行くって。まさか、オレの部屋?)

(もちろん)

(ちょっと、待ってよ。準備できてないし!)

(行くね)

(せめて30分! 片付けさせて!)

 いのりは夜道を微笑みながら一蹴のアパートを目指して歩く。ゆっくり30分かけて歩いて到着すると、一蹴の部屋は明るく電灯がついていて、中にはバタバタと動いている人影が見える。

(着いたよ)

 いのりはメールを打ってから階段を昇る。カン、カン、と金属の階段を昇る音が響くと室内の一蹴が慌てる声が聴こえてくる。

「うわぁあっ! もう来ちゃったよぉ!」

 まだ、掃除が終わっていない一蹴はラストスパートをかけてバタバタと動いている。いのりはドアをノックした。

「………」

(ま、待って! 今、開けるから。でも、片付いてないから…)

 一蹴は寒空の下に新しい恋人を待たせることなくドアを開ける。

「っ?!」

 てっきり果凛の笑顔がそこにあると想って開けたのに、いのりの呪い殺すような目があったので一蹴は驚きのあまり心臓が数秒ほど止まった。

「っ…ぃ…ぃの…? な…なんで…」

「お待たせ、イッシュー♪」

「ひぃっ…」

 一蹴は身震いしてズボンを濡らして腰を抜かした。

「ふふ♪ イッシュー、お待ちかねだね。先走り液が、こんなに」

 いのりは愛おしそうに温かく濡れた一蹴のズボンを撫でて、脱がそうとする。一蹴は怪物から逃げるように古い恋人から逃げる。

「ひっ! ひぃいっ!」

 思うように動かない脚を引きずって部屋の奥へと逃げる。いのりは日常的な動作でドアを閉めて靴を脱いだ。

「なッ…なんで……ひぃのりが…ひっ…」

「ただいま」

 いのりは帰るべき家に帰ってきたという挨拶をして奥に進む。部屋の奥に片付ける途中だったダンボール箱を見つけた。箱には、いのりの所有物であるCDやブラシ、漫画や歯ブラシなどが集められている。いのりに返すために用意されている気配だったけれど、丁寧に梱包されているというよりは30分で掻き集めて乱雑に投げ入れたという風情だった。

「イッシュー………、どうして、私の……」

「だ……だって……お前とは……別れ…」

「どうして、そんなこと言うの? さっき、愛してる、ずっと一生って送ってくれたのに」

「っ! それ、果凛のケータイ……なんで…」

 いのりが果凛のケータイを持っていることに気づいたけれど、いのりはケータイをゴミ箱へ投げ入れた。

「イッシュー♪ ご飯にする? 私にする?」

「ひぃっ!」

 一蹴は狭い室内で逃げようとしたけれど、すぐに追いつめられる。いのりが呪い殺すような目を向けた。

「どうして逃げるの?」

「っ…お……お前とは……別れっ…」

「…………」

 いのりが呪い殺す目で一蹴を見つめる。

「ひぃぃっ……」

「おかしいよ、イッシュー。あ、そっか。想い出さないから、いけないんだ。飛田さんの言った通りにした方が正解なのかな」

 いのりは呪い殺すような目で、優しく微笑んだ。

「あのね、イッシュー。私はイッシューを幸せにしないといけないの。義務があるの。そしてね、イッシュー、イッシューにも私を幸せにする責任があるの」

「な……なにを言って…?」

「想い出して、リナちゃんのことを」

「リナ………リナ………」

「ほら、この傷痕」

 いのりは一蹴の額にある傷痕を優しく舐めた。

「リナちゃんのこと、想い出して、つばさちゃんのこと、そして、私のこと」

「……リナ………つばさちゃ………」

「イッシューは守れなかった。病院をリナちゃんと逃げ出したのに、花祭のせいで追いかけられて事故に遭った。でも、リナちゃんは死んでない。つばさちゃんとして、私といっしょに、イッシューのそばにいるの。想い出して、つばさちゃんのこと、私のこと。だから、イッシューは事故に遭わせてしまったリナちゃんの分も私を愛さないといけない責任があるの。二人で幸せになる義務があるの。ずっと、一生、永遠に、神さまが決めたこと、だから、私は花祭にも勝った。あの魔女にも、魔女は死んで、天使のつばさのつばさちゃんと、魔法が解けたイッシューは二人、幸せになるの。ハッピーエンドだよ、イッシュー♪」

「…………」

 一蹴の目が呪いをかけられた目になった。

「……ボクが……守れなかった……リナ………つばさちゃん……、いのり………」

「ずっと、いっしょにいようね、イッシュー」

 いのりは呪い殺すような目のまま、呪いをかけた一蹴にキスをした。

 

 



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26話

 

 

 翌朝、一年生なので授業がある雅と歩は登校して下駄箱で靴を履き替えていた。

「もうすぐに二年生やね。同じクラスになれたらええなぁ」

「そうですね。また、一年、頑張りま…っ」

 雅は靴を落として座り込み、黒いタイツの股間を小水で濡らして身震いした。

「どないしたん?」

 歩が雅の見ているものを見るために振り返って腰を抜かした。

「ひぃっ…」

「あ、藤原さん、木瀬さん、おはよう♪」

 いのりは呪い殺すような目で朝の挨拶をした。

「な……なんや…ねん…」

 歩は小水を漏らしながら這って逃げる。いのりは靴を履き替えながら、一蹴に微笑みかける。

「今日も一日、頑張ろうね」

「…ああ…頑張ろう…」

 一蹴は呪いをかけられた目で応えた。香菜が登校してきて二人に声をかける。

「何を頑張るつもりなのかな♪ 保健室の先生が怒って…っ…」

 いのりと目があった香菜も腰を抜かして半年前にカナタが小水で濡らした場所と同じところに水たまりをつくる。

「ひぃぃっ……」

 香菜が怯えて震えていると、葉夜が現れ、目を閉じたまま、いのりに近づく。

「その目の力、暴走してる」

「え?」

「これを着けて」

 葉夜は小さな箱を差し出して開けた。中には黒のカラーコンタクトレンズが入っていた。

「のん先輩?」

「着けないと日常生活に戻れないよ」

「……はい」

 いのりは渡されたカラーコンタクトレンズを両目に着ける。いのりと葉夜は目を合わせた。

「………のん先輩?」

「………まあ、大丈夫そうだね。………黒い気持ち………どうにも、ならなかった?」

「何を言ってるんですか? のん先輩、イッシューと私は運命の恋人なんですよ。ね、イッシュー」

「…ああ…いのり…愛してる…」

「ほら♪」

「一蹴くん………」

 葉夜は胸の傷痕を押さえた。

「さようなら、一蹴くん、りかりんちゃん」

 葉夜なりの別れをつげ、自由登校なので教室へは行かず、ならずやへ向かった。ならずやで葉夜が静流と開店準備をしていると、扉と深歩が魚力の軽トラで配達に来た。

「ちわーぁ、魚力でーす♪」

 深歩が挨拶する。

「ピーース♪」

 葉夜が応えて、シーフード系の材料を受け取った。扉と葉夜の目が合う。

「………」

「………」

 リナが絡んだ子供の頃の事故について二人は何も言葉を交わすことなく視線だけを交えて別れる。扉は軽トラを無免許で走らせた。

「深歩、次はどこだ?」

「キュービックカフェさんは充電日だから、次は澄空の福々亭に……あ、ウワサをすれば、テンチョーさん。デートかな?」

 深歩は前方を走っているバイクに一太郎が乗っているのを見つけた。エリーズが運転するフランス製のバイクの後席に乗って、エリーズの腰につかまっている。

「あの野郎、女のケツに乗って。ダセェ」

 扉はバイク乗りとして女性の後席に乗る一太郎を鼻で笑った。それでもエリーズの運転技術には一目をおく。

「ほぉ…」

 大出力のフランス製バイクを人馬一体に操っている。ほとんど新品に見えるバイクを乗りこなしている技術は扉を感心させた。

「あの女、やるなぁ」

「踏切だよ、歩行者に気をつけて」

 深歩は前方の狭い踏切で注意を促す。タイミング悪く昨日は全線運休だったシカ電が通過するようで、エリーズと一太郎のバイク、それに相摩望が歩行者として列車の通過を待っている。

「ちっ…」

 意味もなく舌打ちした扉は軽トラを止めてギアをニュートラルにしようとしたけれど、義足が普段通りに動いてくれず、ペダル操作を過った。

 うぉおんっ!

 軽トラが呻りをあげて前進する。

「くっ…」

 扉は慌てて止めようとしたけれど、アクセルとブレーキを間違えてしまった。

「ヤバい…」

「きゃあぁ?! 前にっ?!」

 深歩は乗っている軽トラが前方のバイクと歩行者を線路に押し出すのを見て悲鳴をあげた。軽トラもバイクに乗り上げて線路上で横転する。

「ぐっ……義足が…」

 普段通りに動いてくれなかった義足について扉は、いのりにナイフを突き立てられたことを思い出した。あのとき、重要な部品に傷が入っていたのかもしれない。

「……あの女の……呪いか……」

 扉は迫り来る列車をフロントガラス越しに見ながら、運命と世界を呪った。

 

 

 

 いのりは自由登校ではないので授業を受け、ようやく休み時間になって一蹴の席に近づく。

「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」

 授業中に一生懸命考えていたナゾナゾを一蹴に試すけれど、すぐに休み時間は残り少なくなる。

「イッシューの隣だったら、いいのに……」

 いのりは三学期始めの席替えで一蹴の隣席になった勅使河原早絵の席を羨ましく思った。

「早絵ちゃん、席、替わってくれないかな?」

「………冗談、お断り」

 早絵とは二学期に不仲になったままだった上、早絵の後席は交際中の天野なので交替してくれるはずがなかった。いのりは残念に思いつつ、いいことを思いついた。

「ふにゅっ♪」

 柔らかいカラーコンタクトレンズを指で外して呪い殺すような目を解放する。

「………」

 あんまり力を込めると漏らされて汚いから軽く……じーーっ……、いのりは早絵と軽く目を合わせた。

「ひぃっ…」

 早絵は青ざめて身震いしたけれど、腰を抜かしたり、床に小水で水たまりをつくったりせず、いのりを恐れるだけだった。

「早絵ちゃん、席を替わって」

「うんっ! 替わる! 替わります!」

 早絵はブルブルと震えながら席を立った。そのお尻が濡れていて、立ち上がったイスも小水で汚れていた。

「……濡れてる……力を入れすぎがのかなぁ……加減が難しいよ…」

 カナタや正午のように女子の小水を聖水とは思えないので、いのりは呪い殺すような目を低出力で放射して早絵が失禁しないように加減したつもりだったけれど、軽く漏らされてしまった。

「……汚い…」

 ハンカチで拭いて座ろうという気にもなれない。いのりはフラフラと腰を抜かしそうな足取りで席を替わろうとしている早絵に命じる。

「早絵ちゃん、イスも交換して」

「はいっ!」

「あと、床にも滴が垂れてるよ。拭いて」

「はいっ!」

 早絵は言われるまま実行してくれるけれど、さすがに天野が見かねて怒った。

「おいっ、陵! ひどいじゃないか。早絵、泣いてるだろ!」

「ふにゅっ♪」

 いのりは両眼ではなく片目だけカラーコンタクトレンズを指で外して呪い殺すような目を解放する。

「天野くん、黙って座ってようね」

「っ…あ、…ああ……座ってる…」

 天野は青ざめて席に座った。チャイムが鳴り、つばめが授業のために入ってきた。

「…そろそろ学期末テストの…」

 つばめはまじめに授業を始めている。いのりは小声で一蹴に話しかけた。

「机よせて。教科書、忘れたフリするから」

「…ああ…」

 いのりと一蹴は机を合わせて中央に国語の教科書を置いた。これで、つばめから下半身は見えにくくなる。

「触りっこしよ♪」

「…ああ…」

 いのりはズボンのチャックを開けて一蹴の男根に触れ、一蹴はスカートのチャックを開けて手を滑り込ませて、いのりのクリトリスをまさぐる。

「…んっ…んぅ…いいよ、イッシュー…ハァっ…ハァっ…」

 いのりは感じてきて上半身も淋しくなった。

「キスして」

「…ああ…」

 一蹴がキスに応じると、つばめは冷たい視線で二人を睨んだ。注意すると生徒たちが騒いで逆効果になると思い、視線だけで授業中のキスを見咎めたけれど、いのりは気にしない。

「腋、舐めて」

 いのりは性感帯を攻めて欲しくなり、制服のボタンを外して腋を見せる。一蹴が従って舌を這わせる。

「あぅん…いい…」

「陵さんっ!」

 つばめが教卓を叩いた。キスだけなら黙っていられたけれど、さすがに授業中に半裸になって恋人に腋を舐めさせている女生徒を教師として注意する。

「何をやっているの?! いい加減にしなさい!」

「ふにゅっ♪」

 いのりは片目だけコンタクトレンズを外すと、言い放つ。

「私とイッシューを邪魔しないで!」

「ひぃっ…」

 つばめは腰を抜かしてスカートを小水で濡らした。

「あれ? 漏らした………片目なのに……言葉が強くてもダメなのかなぁ……」

「…ぅぅっ…ぅぅっ…やめて……お父さん……私に……入ってこないで…」

 つばめは古い虐待の記憶を喚起されて苦しんでいる。

「うーーん……トラウマがある人は記憶を………。とりあえず、先生、授業は続けてください」

「はっ…はひっ…」

 つばめは逆らうことなく震えながら授業を続ける。いのりは一蹴との行為を再開しようとしたけれど、さすがにクラスメートたちが騒ぎ始めた。つばめは濡れたスカートのまま泣きながら授業を再開している。いのりも半裸なので目立っている。

「あんまり騒がれても……でも、昨日のシカ電みたいになると……」

 いのりは警察沙汰になったことを反省していたので教壇に立ってクラスメート全員の注目を集めると優しく微笑んだ。

「いのりちゃんの絶対順守タイ~ィ…」

 あいかわらず、恥ずかしいので語尾は弱くなる。いのりは片目だけコンタクトレンズを外して命じる。

「みんな、普通に授業を受けて。騒がないの。いいかな?」

「「「「「「はいっ」」」」」」

 誰も漏らさず、ほどよく命令に従わせることができた。

「イッシューは、こっちに来て」

「…ああ…」

「続き、ここで、しよ」

 いのりは教卓に座った。

「こっちの腋も舐めて」

「…ああ…」

「んぅっ…いい…脱がせて、裸に…」

「…ああ…」

 一蹴は呪いのかかった目になってから自主性を失ってしまったので、いのりが愛撫も細々と指示して要求していく。いのりは教卓の上で一蹴に脱がされ裸になった。

「…ハァっ…ハァっ…」

 いのりは授業中の教室で全裸にされた状況に強く興奮して股間を熱く濡らして息を乱れさせた。つばめは授業を続けている。クラスメートたちも前を見ている。その教卓で裸になった興奮だけで絶頂を迎えそうだった。

「…ハァっ…イッシューっ…お尻の穴、舐めて…」

「…ああ…」

 一蹴が肛門に舌を這わせてくると、いのりは快感のあまり潮吹きした。

「ハァぁぁぁっ…」

 いのりの潮が最前列の生徒の顔へかかる。

「ハァっ…ハァっ…イッシュー、勃起して、おまんこに射精して、もちろん、ゴム無しで♪」

「…ああ…」

 一蹴も教卓にあがって、いのりと合体する。

「あぁぁぁっ…いいぃぃっ……ほら、みんな…ハァっ…ハァっ…見て…いのりちゃんとイッシューは二人で一つだよ♪ ハァっ…ハァっ…神さまが決めたカップルなのっ! ハァっ…ハァっ…邪魔したら、神の力で呪い殺すからね♪」

 いのりは世界を手に入れる力をもったけれど、一蹴との性生活さえ手に入れれば満足だった。

 

 

 

 放課後、クロエは中学の生徒会の仕事を終え、帰宅して宿題を片付けてから、鷹乃と夕食を作り始めていた。鷹乃と会話しながら料理をするのが、一日のうちで一番楽しい時間だった。

「そういえば、クロエ、三年生を送る会は、うまくいきそう?」

「はい、ちょっと予算が足りなかったけど、なんとかなりそう。智也パパの悪知恵のおかげで」

「それは過程と結果を聞いておかないと心配ね。どうやったの?」

「うちの学校の予算でおさまらなかったから、他の中学に頼ってみて。他校の生徒会との交流を利用して、澄空の中学の一年生で私が困っていたら、自分の学校では予算が余ってるから使ってくれって」

「それは……予算の流用になるから問題になるわよ?」

「それで、智也パパに悪知恵をかりて、その学校の生徒会で多めに物品を購入してもらって、余った分を安く私の学校で引き受ける形をとったの」

「オレ様は賢いだろう♪」

 智也がテレビを見ながら笑った。鷹乃が冷ややかにタメ息をつく。

「多めにねぇ」

「悪いとは思ったけど、その子が自分のミスで多めに注文したってことにしてくれて、とても助かったの。広告費まで賛助してくれて」

「広告費?」

「送る会のパンフレットの最後に企業広告を入れる欄をつくって。あ、これも智也パパの悪知恵なのだけど…」

「それは悪知恵じゃないぞ。まともな広告収入だ」

 智也はテレビをつけたまま、つまみ食いに来て、揚げたての唐揚げを頬ばった。

「熱っ!」

「バカね。もう少し待ってなさい」

「はひっはふっ…」

 口を火傷した智也は冷蔵庫から氷を出して口に入れている。クロエが話を続けた。

「それで、その助けてくれた子の家はサングレイス澄空ってマンションを経営していたから、そこの入居広告を入れてもらって広告費をくれたの。……そこまでしなくても、いっそ、私が払おうかと思ったのに…」

「あ~っ…熱かった。それは反則だって。な、鷹乃」

「そうね。智也の悪知恵も反則すれすれだけれど、生徒会役員が足りない予算をかぶってしまうのは完全に反則ね。たまたま、クロエがお金に余裕があるからできるけれど、そうでない子が役員になったとき、とても困るわ。そーゆーことを考えておかないとね」

「はい。………でも、あの子には悪いことしちゃった」

「そいつ、男か?」

「はい」

「じゃ、いいんじゃね」

「どうして?」

「そーゆーものだって♪」

 智也が意味ありげに笑っていると、テレビが地方ニュースを流した。

(…今日午前10時頃、千羽谷市内の芦鹿島電鉄の踏切で、軽トラックとバイク、歩行者がからむ列車事故がありました…)

「腹減ったぁ。早く喰いてぇ」

「もう少しよ」

(…この事故で死亡したのは、踏切待ちをしていた相摩望さん、バイクに乗っていた田中一太郎さん、アメレール・エリーズさんの三名です。軽トラックに乗っていた飛田扉さんと荷嶋深歩さんは重傷で病院に搬送されたとのことです。事故の原因は停車していた軽トラックが突然に前進し、踏切待ちをしていた相摩さんとバイクに乗った二人を線路上に押し出したためで、神奈川県警では運転していた飛田扉容疑者の回復を待って詳しい事情を訊くとともに、無免許運転および…)

 ニュースが耳に入ったクロエは皿をテーブルに置いてテレビを注視する。

「………」

 アメレール……エリーズ……あの人の旧姓……でも、どうして、嘉神川エリーズじゃなくて……同姓同名のフランス人なんて、そうそう日本には……しかも、千羽谷市内…………あ、国際運転免許証を更新せずに持っていて………それで遺留品から警察が断定して…、クロエは旧姓で流れた理由を、ほぼ正確に見抜いた。

(…飛田扉容疑者は数年前にもバイク事故を起こしており警察では悪質な無免許運転を繰り返し…)

「………」

「クロエ、できたわよ。食べましょう」

「はーい」

 もう関係ないわ、あの人が、どこで、どんな風に死んでいようと……、そうよ、結婚前の名前で流れてちょうどいいわ、そーゆー人生だったのよ……、クロエは母親の死を知っても、ほとんど動揺しなかった。鷹乃は知らない名前ばかりの交通事故のニュースなど耳に入っていない、智也も新しい就職先には関係ない田中一太郎の名前に反応しなかった。

「「「いただきます」」」

 だから、クロエは三人で楽しく夕食を食べた。

 

 

 

 翌々日の2月18日、月曜の朝から正午は千羽谷大学に通うために借りたワンルームマンションに音緒を連れ込んでいた。音緒もモデルの仕事だと、学校に報告して欠席している。

「へぇぇ…キレイな部屋ですね」

「まあねン♪」

「でも、実家は的射にあるんですよね。すぐ近くなのに一人暮らしさせてくれるなんて、正午さんの親、実は超お金持ちだったり?」

「そんなことないよ。ごく普通だって」

「ふーん…」

 謙遜かなぁ……少なくとも、ごく普通の家庭は絶対に実家から通学させる距離だと思うけど……親子仲が悪いって雰囲気はないし、やっぱり無自覚なだけで、そこそこのお金持ちなんだろうなぁ………私って一応モデルからアイドルになって成功してるし、これからも成功するつもりだけど、結婚っていう保険もあった方がいいし……あ、使いやすそうなキッチン♪ やっぱり贅沢すぎっ、一階の集合玄関もコントロールロックだからNEOとして出入りするのも問題少ないし、彼氏にするには、ちょうどいいかな♪ 音緒は部屋を見て、当面の彼氏を決めた。

 

 

 

 一週間後、音緒は処女を捧げた相手の寝顔を見つめる。

「…………」

 気持ちよかったァ……セックスが、こんなに気持ちいいものだったなんて…………イく、って感覚が最高っ………正午くんが起きたら、もう一回……てへへっ♪ 音緒は初体験を済ませた満足感に浸りながらココアを淹れる。その香りで正午が起きた。

「…ん~……」

 この匂い………カナタ……じゃない、そうだ、音緒ちゃんと………、正午は名前を呼び間違えそうになって脳を揺すった。

「あ、正午くん、起きた?」

「ああ」

 正午は返事をしながらココアを淹れている音緒の背中を抱いて、首筋にキスをする。

「やんっ♪ くすぐったいよ、正午くん」

「音緒ちゃんが可愛いから、したくなるんだ♪」

「もぉ♪」

 音緒は背筋にもキスをされ、そのキスが少しずつくだってきて、お尻にキスをされると股間が熱くなるのを自覚した。

「正午くんのエッチ♪」

 気持ちいい……くすぐったくて恥ずかしいけど……すごく気持ちいい……でも、正午くんの部屋に出入りするときは、週刊誌に気をつけなきゃ………KARINも仕事をドタキャンしたかと思ったら病気療養とかで無期限休止とか……うちの事務所、これからはNEOメインで行くって言われたし………インモラル・インパクトも評判あがってきてるし………ここで正午くんとの関係を激写されちゃうわけにはいかないもん……、音緒は二度目のセックスを終えてから正午の部屋を出る。

「また来てよ、音緒ちゃん」

「うん」

「駅まで送るよ」

「ううん、見送りはいいよ。他に行くとこ、あるから」

「そっか。どこ、行くの?」

「秘密♪」

「たはっ♪」

「女の子には秘密があった方が魅力的でしょ? じゃ、またね」

 音緒はウインクを一つ放って、正午のマンションを出ると、病院へ向かった。その途中の公園でカナタに出会った。

「あ、KANATAさん」

「ハーイ♪ NEOちゃん」

 カナタはウイーンから帰国したばかりで左手に土産袋を持っていた。音緒には読めないドイツ語で何か書かれている関税証明書が張ってあるので、いかにも海外から戻ってきたという雰囲気がする。

「どこかに旅行してたんですか?」

「まあねン♪」

「……。誰かにお土産?」

「うん、ショーゴに。あいつ、淋しくしてたろうし、本場ベルギーのチョコレートを分けてやろうと思ってね」

「ふーーん…」

 チョコって……、ヴァレンタイン、とっくに終わってるのに……クスっ♪ 何も知らないんだぁ……正午くんも人が悪いなぁ……そりゃ、私と付き合うこと、他人には言わないでって芸能人的に口止めをお願いしてあるけど、KANATAさんにくらい、そっけない態度を取るとかしてあげないと期待させちゃう分、可哀想なのに………ヨリを戻したいからって未練がましくチョコを用意して、素直に14日の当日に渡せなくて、今になって持ってくるなんて傑作ぅ……でも、本場ベルギーのチョコかぁ……それは気になるなぁ……正午くんに送るなら、今度、部屋に行ったとき、残ってたらネダってみよっかなぁ……って、いくら正午くんが鈍感だって言っても、他の女の子にもらったチョコをほいほいテーブルに置いておいたりしないよね……あ、でも、義理だと思ってもらったら無防備においとくかも……近いうちに、また、会いに行こっ♪ 音緒はカナタと別れると、少し遅くなったのでタクシーを拾って病院に向かう。交通事故に遭った深歩の病室を見舞うのは、これで三回目になる。

「…………」

 音緒は事故以来意識を取り戻さない妹の姿を無表情に見つめた。

「……………………」

 ひどい事故………脚は生まれつきだから仕方ないけど……せっかく私に似て可愛い顔に生まれてきたのに………顔の半分が、ひどい傷に……いっそ、意識が戻らない方が幸せかもしれない………私だったら耐えられないよ………、音緒は妹に背中を向けると、扉の病室も覗いた。用もなく、会いたくもないけれど、意識を取り戻したなら、文句の一つも言ってやりたいし、謝罪くらい聞いておきたい、けれど、音緒は扉に会えなかった。

「そうですか、警察病院に……。ありがとうございます」

 教えてくれた看護師に礼を言った音緒は病院を出る。

「……深歩………、運の悪い子………生まれつきかな……。でも、私は、深歩の分も頑張るよ。さしあたって、KANATA、あれをキッチリしておいてもらわないと♪ けど、逆恨みされて私と正午くんのことネットとかに流されても困るし……うーーん……どうしよっかなァ」

 音緒は色々と悩みながら自宅に帰った。

 

 

 

 三日後、クロエは嘉神川家の門前に立っていた。

「……………………これで最後に……」

 長く家出しているけれど、ろくな荷物を持ち出していない。これから恒久的に三上家で暮らすことを考えると、持ち出さなくてはいけない物品や衣類があった。

「新しく買うのも、もったいないってママが言うし……仕方ないわね……」

 覚悟を決めてクロエはチャイムを鳴らしたけれど、誰も出てこない。

「………誰もいない。なら、好都合よ」

 この件で鷹乃や智也の手を煩わせたくなかったクロエは一人で来ていたけれど、運良くノエルはいないようで誰にも会わずに事を成就できそうで少し気持ちが軽くなった。合い鍵で解錠して中に入る。玄関に立つと、リビングからテレビの音が聴こえてきた。

「…………誰か、いる……ノエル、それとも……」

 あの人は事故で死んだはず…………父も…いえ、父ではない、あの男も退院しているならテレビなんか見てないで、すぐに会社へ……じゃあ、誰? クロエは警戒心を刺激されて身を硬くしながら静かにリビングに入った。

「ぁ……」

「………」

 ノエルがいた。

「………」

「………」

 ノエルはリビングのソファに寝転がってテレビを見ている。テーブルにはチョコレートの包み紙が山積みになっていた。ノエルはクロエが入ってきたのに、気づいていないのか、それとも気づいていて無視しているのか、微動だにしない。

「………」

「……………」

 いるならいると……チャイムを鳴らしたのに………それにしても、ろくに食事も……あ、そうよ、あの人が死んだから、誰も食事を作らないから、こんなものばかり食べて……せめて少しは野菜を………いえ、もう、どうでもいいわ、この子は私の妹ではないもの……この子も、そう思っているから私を無視している、なら、それでいい、そーゆーことよ、クロエはリビングを横切って二階へあがり、自室に入って荷物をまとめ始める。

「ふーっ……これで、あらかた。……思ったより大変だったわ……」

 中学二年生まで生活してきた空間から、二度と戻らないことを前提に荷物を持ち出すとなると、かなりの作業と時間を要していた。なんとか、トランク一つに絞り込み、あとは諦める。

「どうせ、この服も着られないし……」

 もうサイズが合わなくなって着られないとわかっていても、お気に入りの衣服と別れるのには女性として断ちがたい愛着を感じてしまい、余計に時間がかかる。着られるサイズのものだけを選んでも、かなりの量がある。

「………もったいないけど……でも、あの子が着るかもしれないし……」

 残しておけば再利用されるかもしれない。

「でも……さっきの様子じゃあ、無理かも……まあ、好きなように新しいものを買ってもらえばいいのよ。私には関係ないこと」

 クロエはお気に入りだった衣服をクローゼットへ戻して、ようやくトランクを閉めた。

「ふーっ……」

 タメ息をついて三時間以上もかかった作業を終了すると、喉が渇いていることに気づいた。

「最後にお茶の一杯くらいいただいてもいいわよね」

 クロエはトランクを持って一階へ降りると、キッチンで冷蔵庫を開けた。

「………何もない…」

 冷蔵庫の中は何もなかった。残っているのは、ワサビやカラシなどの調味料くらいで、バターやマヨネーズさえ無い。

「……………もしかして……この子が……」

 クロエはリビングの方を見る。ノエルは三時間前と同じ姿勢でテレビを見ていた。まるで身じろぎしていない。よく見ると頬がこけて、二週間前に見たときとは比べものにならないほど痩せている。

「………………」

 テーブルの上に山積されているのはチョコレートの包み紙だけではなく、マヨネーズやバターの容器も空になって転がっている。リンゴの芯なども転がっているけれど、種の部分ぎりぎりまで食べられている。塩は残っているけれど、砂糖は無くなっている。すでに家の中には食材といえるものは一つも残っていなかった。

「…………」

 あの人が死んで……あの男も入院したまま……この子、買い物にも行かず………いえ、お金の出し方も知らないのかも……まだ、7歳………もしかして、この子、あの人が死んだことさえ知らないのかも………あの小さなニュースを聞き逃していたら、私だって知らなかった………、クロエは胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

「っ………でも、私には関係ないことよ」

 クロエは食器棚からコップを出して、水道水を一杯飲むと、コップを洗って食器棚に戻した。

「…………。じゃ、さようなら」

 クロエはトランクを持ってリビングを横切る。すでに室内は暗いのに、ノエルは電灯もつけていない。テレビの明かりだけがリビングを照らしているので、その前を横切るとノエルが身じろぎした。

「………ママ?」

「………違うわ……」

「……帰って……きて………くれ………」

 ノエルは起きあがる体力がないようで弱々しく手を伸ばして微笑みかけてくる。

「…おかえり……なさ……」

「……違う」

「ごめ……なさい……お腹すいて……」

「…………………」

「……ごめ……」

 ママ……お腹すいて……ママン……違う? ……ママじゃ…………お姉ちゃん? ……帰って…………きて……くれ……、ノエルは虚ろな瞳で姉を見上げたまま、乾いた唇を動かそうとしたけれど、もう声を出す力も残っていなかった。

「……ぉ……ね………ちゃ……」

「違うわ。………、今日、この家を出て行くの。言ったでしょ、もう、あなたのお姉ちゃんじゃないの。いえ、そうだったことは、かつて一度もないわ。たまたま遺伝子を提供した人たちが同じだっただけ、家族じゃないわ。だから、ここに。家の鍵をおいていくわね。もう二度と、私はここに入らない。他人よ」

「……………………」

「さようなら。永遠に」

「……………………………」

 ノエルは遠くなっていく意識の中で、姉の冷たい瞳と置かれた合い鍵を見ていた。クロエは返事をしないノエルに背中を向けると、トランクを持って家を出る。オートロックなので合い鍵を持たずに出ると、もう二度と入れない。

「……………………」

 あの子……あのままだと……………誰も………でも……私には関係ない……、クロエは閉まっていく扉を見ながら、やはり助けた方がよいのではないかと何度も迷ったけれど、結局は手を出さなかった。

「………」

 もう閉まってしまった扉は二度と開けることはできない。クロエはトランクを持つと背中を向けた。

「ここは私の家じゃないもの」

 まっすぐ三上家へ帰る。

「ただいま」

「おかえり。遅かったわね」

「おかえり。ホント遅かったな。やっぱ、手伝った方がよかったんじゃないか?」

「智也パパに見られたくない物も、女の子にはいっぱいあるの♪」

 あえて明るい声で答えたクロエは重いトランクを二階まであげてくれる智也に礼を言って、キッチンで食事の用意をしている鷹乃を手伝う。もう完成しかけていたハンバーグの仕上げをして皿を並べる。

「クロエ、冷蔵庫にサラダを冷やしてあるから出してちょうだい」

「はい、ママ」

 クロエは冷蔵庫をあけてサラダを探す。すぐにアボガドと海老のサラダを見つけた。クロエの好物だった。

「やった♪ ママ、ありがとう」

「私も好きだもの。並べてちょうだい」

「はい。…ぁ…」

 クロエは冷蔵庫からサラダボールを出そうとしてアルミホイールで包まれたチョコレートを引っかけた。落ちそうになるチョコレートをサラダボールで押し戻した。ヴァレンタインに作った手作りチョコレートだったけれど、まだ残っているのを忘れていた。

「……」

「クロエ、どうしたの?」

「ううん、何でも」

 クロエはサラダボールをテーブルに置いて、皿を並べる。夕食の用意が整い、三人が食卓についた。

「「「いただきます」」」

 夕食を始め、智也はシャンパンを開けた。

「りかりんから紹介してもらった会社、さっき内定もらったんだ♪」

「花祭さんにはお礼を言わないといけないわね」

「ああ。内定連絡もらって速攻で電話したけど、出てくれなかったしな。あんま学校でも見ないから忙しいのかもな」

 智也は自分と鷹乃のグラスにシャンパンを注いでから、クロエのグラスにはノンアルコールの子供用シャンパンを開けて注ぐ。

「お前は子供だからノンアルコールな」

「私が子供なのは認めるけど、智也パパも未成年じゃなかった?」

「オレと鷹乃は結婚して成人擬制されてるから法的には成人として扱われるんだ♪」

「智也、成人擬制されてもタバコやアルコールが禁止されていることには適応されないのよ」

「うぐっ……細かいことを、いつのまに法律書を読んだんだ……」

「知らないと智也のウソを見抜けないからよ」

 鷹乃は肩をすくめてからクロエに告げる。

「この話はクロエの気持ち次第になるけれど、私と智也は法律上結婚しているから、養子をとることもできるの。この意味が、わかる?」

「……ママ……?」

「ずっと、私たちといっしょにいてもいいのよ。あなたは自由、きちんと戸籍まで移動させるのも自由、そーゆーことは放置しておくのも自由、ちょっと年齢が近すぎるけれど、法律上は同い年でも誕生日が一日でも遅ければ養子にできるの」

「養子………」

「すぐに答えを、なんて言わないわ。かくいう私も叔父夫婦に育てられたけれど、結婚するまでは寿々奈姓だったもの。クロエが三上クロエを本当に名のりたいなら、そーゆー手続きをすれば、そのようになるし、学校では嘉神川クロエでもいいなら、放置しておけばいいのよ。私も卒業式まで先生たちに黙っているつもりだもの。クロエが、このことに結論を出すのも五年先でも十年先でもいいの。ただ、そーゆー方法があることと、その方法を取ることに私も智也も覚悟をしたわ。それを伝えておきたいの」

「……ママ……」

「言ってしまうとね、私も叔父夫婦のもとで育てられながら、養子になるという話がでないことに、ちょっぴり宙ぶらりんな感じもあったの。もちろん、養子になりたかったわけじゃないけれど、もしかしたら、叔父夫婦は私を養子にしたい気持ちがあったけれど、私に言い出せなかっただけかもしれないって。でも、逆に養子にするところまでの覚悟があって私を育ててくれたわけじゃなく、父にも母にも捨てられた可哀想な姪を事の流れで育てているだけなのかも、とも……つまりね、言葉にしておかないと伝わらないことってあるから、それは、ちゃんと言葉にしておきたいの。だからね、言うわ。私も智也もクロエが望むなら養子縁組する覚悟があるわ。ゆっくり考えておいて、クロエのしたいようにしましょう」

「………はい、ママ。ありがとうございます」

「さ、話が長くなってしまったけれど、乾杯しましょう。とりあえず智也の就職内定に」

「愛しき娘に♪」

「バカな夫に」

 鷹乃と智也がグラスを鳴らした。クロエも二人とグラスを鳴らして一口、飲んだ。甘ったるいノンアルコールのシャンパンは美味しくなかった。

「………」

「本物はダメだぞ。せめて高校生になるまで」

「…………わかってるわ」

 クロエはグラスを置いて、ハンバーグをナイフで切った。ほどよく焼けたハンバーグから肉汁が滴り、美味しそうな匂いがする。智也もグラスを干してから、ハンバーグを頬ばった。

「美味い。鷹乃の料理は宇宙一だ♪」

「智也の味覚を満足させるだけなら、ともかく、全宇宙の知的生命体に一番をもらうのは無理でしょうね」

 鷹乃もサラダを食べながら智也と会話する。クロエはナイフで切ったハンバーグを見つめているばかりで、口にしようとしない。

「どうしたの? クロエ」

「…え……ううん……何でも…」

「くくっ♪ 嫌いな物が入ってないか、チェック中なんだろ。ハンバーグにピーマンを刻んで入れ込むのはトラップの基本だからな」

「そんなことしないわ。クロエが挑戦したい気持ちになるまで黙って入れたりしないわよ。顔色が悪いわね。お腹でも痛いの?」

「ううん……平気…」

 クロエは心配をかけないようにハンバーグをフォークで刺して口に運ぼうとしたけれど、その手が止まる。

「…………」

「「…………」」

 鷹乃だけでなく冗談を言っていた智也も心配してクロエを見てくる。クロエは止まっていた手を無理に動かして口にハンバーグを押し込んだ。

「……………」

 美味しくない、美味しいはずなのに、美味しいと想えない。クロエは飲み込むことができずに、吐きそうになって口元を両手で押さえた。

「ぅぅ……」

「クロエっ?!」

「大丈夫か?!」

 鷹乃と智也が心配してくれる。

「…ぅっ…くっ…」

 クロエは無理に飲み込みながら涙を流した。

「クロエ……どうしたの?」

「だって…………あの子は……今頃…」

 あの子は……一人で………何も食べられないで……たった一人で……あのままじゃ餓えて死んで……、クロエは食卓から離れて冷蔵庫を開けた。

「あの子を助けないと!」

 それだけ言ってクロエは冷蔵庫から手作りのチョコレートを出すと玄関を飛び出した。走って嘉神川家に向かう。

「ハァっハァっハァっ…っ…鍵が…」

 家には着いたけれど、鍵がない。

「ここならっ!」

 クロエは手頃な庭石を取ると、玄関ドアのガラス部分を割った。割ったところから手を入れて鍵を開ける。ガラスで腕を切ったことにも、警報装置が鳴っているのにもかまわず、中へ入ってリビングに辿り着いた。

「ハァハァっ、ノエルっ!」

 呼びかけても妹は答えてくれない。ソファの上で目を閉じている。死んでいるのか、眠っているのか、わからないほど生気のない顔だった。

「ノエルっ、起きて!」

 抱きあげると、驚くほど軽い。

「目を開けて、ノエルっ! ほら、あなたの好きなチョコレートっ」

 ノエルは目を開けない。身体も冷たい。けれど、呼吸はしている。心臓も動いていた。

「ノエル、ほら」

 クロエは小さく割ったチョコレートをノエルの口に含ませた。乾いた唇の奥へ入るとチョコレートが溶けて、甘さが拡がった。

「……チョ………コ……」

「ノエルっ!」

「…………」

 ノエルは目を開けて姉を見上げた。

「…ぉ………ちゃ……」

 かすかに妹は応えてくれた。

「ノエル……よかった。生きていてくれて……」

 クロエは妹を抱きしめて、むせび泣いた。ノエルの冷たい頬に熱い涙が降ってくる。

「……お姉ちゃん……来てくれて……ありがと…う…」

「ノエル……ほら、もっと食べて」

 クロエがチョコレートを差し出すと、ノエルは嬉しそうに泣いた。

 

 

 

 翌日の3月1日、音緒は手料理とセックスを満喫して眠ってしまった正午を見つめ、それから正午のケータイを勝手に触る。

「いつもながらロックもかけてない開けっぴろげの真っ昼間バカ……まあ、それも魅力の一つではあるけど。私をアイドル扱いしないで、普通に接してくれるし」

 音緒は正午のケータイからカナタへメールを送る。

(今から会いたい)

 すぐに返信がきた。

(ショーゴから誘ってくるなんて珍しいね)

(そーゆー気分だから。会える?)

(どこで?)

(マンションの部屋で待ってる)

(すぐ行くね)

「……ふふ…」

 ほくそ笑んだ音緒はカナタを待つ。誘われたカナタは、すぐに一階のエントランスからチャイムを鳴らしてきた。音緒はインターフォンを操作して鍵を開けてやる。

「さてと♪ どんな顔するか、見物ね」

 全裸だった音緒はバスローブを羽織って玄関に向かう。エレベーターの音が聞こえ、ドアがノックされる。

「はいはい」

 音緒がドアを開けると、カナタがいた。

「っ………NEOちゃ…ん?」

 てっきり正午が開けてくれると思っていたカナタは不意打ちされ、激しく動揺する。顔が青ざめ、唇が震えた。対照的に音緒は余裕をもって挨拶する。

「あら、KANATAさん」

「どう…し…て…?」

 カナタが喉につかえた動揺した声で問うと、音緒は微笑して答える。

「その質問は~ァ、どうして、ここに私がいるのか、それとも、どうして、あなたが呼ばれたのか? どっちを聞きたい? それとも両方? 両方にしよっか」

「…NEOちゃ…」

「おりょりょ♪」

 いい顔してるよ、負け犬の顔、そりゃ、そうだよね、勝てないよね今や売れっ子の私と、とっくに一般人になってる自分とじゃ、格が違いすぎて勝負にもならないし、正午くんが、どっちを選ぶかなんてわかりきったことだもん、音緒はバスローブの襟を艶っぽい仕草で整えた。

「答え♪ どうして私が、ここにいるのか。それは正午と特別な関係だから。どうして、あなたが呼ばれたのか、正午がはっきりさせないから、私が呼んだの。正午は言いにくいみたいだから、これで」

 音緒は正午のケータイを見せた。そして、勝手にカナタの電話番号とメールアドレスを消去していく。

「っ…、…ぁ…アタシを…」

「うん、ごめんね。もう正午には会いに来ないで」

 可哀想だけど、ネットで私のことを流したり荒らしたりする気力もなくなるくらい傷ついてもらうね、KANATAちゃん、音緒は気迫を込めてカナタを睨む。

「………」

「……ぅぅ…」

 睨まれたカナタは怯えて後退った。

「もう帰っていいよ」

「……で…でも……ショーゴに…」

「去り際って、あるよね? 今なら正午にとって、いい想い出の女の子に変われるかもしれないよ。でも、これ以上、しつこくすると後味の悪い、うざい女だった、って思われるかな」

「……そんな…」

「あなたは負けたの。それとも、これ以上、みじめな思いしたいの?」

「…アタシの……負け……」

 カナタが負けと告げられて、大きなショックを受けた。額の古傷が痛み始め、カナタは膝から力が抜けて玄関の土間に尻もちをついて座り込んだ。

「アタシの……負け……、また、ショーゴを……盗られ…」

「うん、そう。だから、二度と現れないで。それに、私や正午の邪魔をしたりしたら、……わかるよね? 今の私の力をもってすれば、あなたなんて簡単に破滅させられるの。余計なことを世間に流したりしたら、即、死刑」

「っ………」

 カナタは音緒に睨まれて、いのりの記憶を想起して身震いする。いのりの目を思い出すと身体が震え、失禁してしまう。

 しょわぁぁ…

 いのりの視線を浴びたときほどの勢いはないけれど、カナタはショートパンツの股間に染みをつくり、ゆっくり染みが拡がって小水が衣服から漏れ出てくると、土間に小さな水たまりを産んだ。

「ひぅ…ぅぅ…」

「クスっ…」

 ぷっ、笑えるっ! なに、この子、ビビリすぎて、おもらししてるの? ぶるぶる震えて、そんなに私が怖い? モデルやってた頃は私に先輩風ふかして偉そうなこと言ってたくせに……こうなると、ホントみじめねぇ~、まあ、しょうがないかな、あなたには今の私は絶対に超えられない壁みたいに見えるでしょ、仕事でも負けて、恋でも負けて、負けて負けて、泣いて、おもらしして、終わってるね、あなたの物語は、ここで終わり、このみじめで悲しい結末がKANATAストーリーの終幕なの、私NEOのサクセスストーリーのプロローグにもならない小話、その程度の存在、クスクスっ…、音緒は大声をあげて笑いそうになり、正午を起こしてしまわないよう笑いを噛み殺してカナタを睨み続けながら、自分のケータイを出してカナタを撮影する。

 カシャっ♪

 玄関で小便の水たまりに座り込んで泣いている姿を撮した音緒は不敵に微笑んだ。

「もしも、私と正午のことをネットに流したりしたら、この写真も流してあげる。売れなかった素人モデルの陰湿な嫉妬と、その末路ってね」

 音緒は玄関のドアをあけて泣いているカナタを摘み出す。玄関前で座り込んで泣かれても面倒なのでエレベーターに乗せ、一階に降りて、ゴミ置き場に着くと、突き飛ばして生ゴミの山にカナタを放り込む。

「生ゴミは、ちゃんと水切りしないとね。ホント、いい様ね」

「ぅぅっ…ぅっぅ…」

 ゴミの中で泣いているカナタは何を反論する気力もない。音緒は追い打ちでカナタの頬を平手打ちした。

 パシっ!

「いっそ、自殺とかすればいいよ。あなたの物語は、ここで終わりなの。でも、シカ電に飛び込むのは迷惑だからやめてね。川とか海がいいよ。この時季なら冷たいから、すーっと気持ちよく死ねるかも。失敗した人生なんて、あとの残りは負けを味わうだけの、みじめな時間なんだから、いっそリセットしちゃえば? ね? 可哀想なKANATAちゃん♪ さようなら、バーイ♪」

 音緒は心底楽しそうにマンションへ戻っていく。残されたカナタは泣き震えた。

「ぅぅっ…ぅうぅぅっ…、ほ……ほたるぅ…ぅぅ…」

 泣きながら、ほたるの呼び、立ち上がると空港に向かった。空港でウイーン行きの当日チケットを買って、ビジネスクラス以上しか入れないラウンジで啜り泣いていると、もう常連になっているカナタを心配してくれた添乗員たちが汚れた衣服を取り替えてくれ、出発までの時間にシャワーも浴びさせてくれた。それでも泣きながら飛行機に乗ってフランクフルトを経由してウイーンに辿り着くと、ほたるの部屋に入る。

「ほたるぅ……ぅぅ…」

「カナタちゃん、どうしたの?」

「ううっ…ぅううっ…」

「また、いのりちゃんに…」

「ううっ…うううっ…」

 首を横に振ったカナタはケンカに負けた幼稚園児のように音緒のことを報告した。

「そっか。それは悲しいね。でも、正午くんの口からは何も聞いてないんだよね」

 あのバカ………フタマタは許したけど、サンマタを許したわけじゃないってこと脳に焼き付けなかったから……それに、ネオとかいう子………私のカナタを泣かせて……いのりちゃんのことは私たちに非があったけど、その子に遠慮する理由はないよね、ひさびさに、ほわちゃんパンチ……ううん、ここは隠し奥義の、ほわちゃんビンタで、とっちめてあげないと、正午くんには、ほわちゃんパンチと………、ほたるは帰国の準備を始めた。

 

 

 

 翌々日の3月3日、ほたるは一人で正午のマンションを訪ねる。一階のエントランスからチャイムを鳴らした。すぐに、正午の声が聞こえてくる。

(開けたよ。どうぞ)

「……」

 この明るい声……あいかわらずの真っ昼間バカ……もしかして、カナタちゃんがネオにされたこと、気づいてもいないのかな……っていうか、正午くんの親も親だよ、千羽谷大学なんて、完全に通学圏内なのに、こんな豪華なマンション借りて息子を住ませるなんて……親子そろって何を考えてるのか……脳を調律してもらった方がいいんじゃないかな……、ほたるは実家から一万キロ以上離れた大学に通う身として、実家から高校よりも近い二駅しか離れていない大学へ通う正午が一人暮らししていることに呆れつつ、エレベーターに乗って正午の部屋の前に着いた。ノックすると、すぐに正午がドアを開けてくれた。

「ほたる、久しぶり♪」

「……」

 ほたるは抱きしめられて、ほわちゃんパンチの繰り出すタイミングを延期した。とりあえず、正午と部屋の様子を見る。引っ越したばかりの部屋は整っている。正午はウイーンから戻ってきたことを素直に喜んでいる。

「………」

「ほたる? 難しい顔して、どうかした? 向こうの学校で何かあった?」

「向こうは順調なんだけど……こっちがね」

 さらに部屋の中を観察する。食器棚に正午の趣味ともカナタの趣味とも違うマグカップを見つけた。他にもカナタとは違う色の髪がベッドに落ちているのも見つける。

「………」

 隠す気もないと………ってことは、このバカ、リアルにサンマタを認めてもらえると思って……、ほたるは怒りよりも憐れみを胸に抱いた。どうして、この男の脳は、これほど脳天気なのだろう、神は危機感や洞察力を、せめて自己欺瞞力の一万分の一ほど与えなかったのか、と。

「正午くん、単刀直入に訊くけど、ほたるとカナタちゃん以外の女の子とエッチしてる?」

「え…? ……あ、……うん、……まあ…」

「………」

 あっさり認めたよ……まあ、私も悪いんだけどね、付き合い始めた頃にエリちゃんとのセフレ行為とか認めちゃったし……、ほたるは正午を殴る気力を無くした。

「正午くん、よく覚えておいてね。ほたるとカナタちゃん以外とエッチするなら、ほたるたちと別れてからにして」

「…ほたる……」

「で、どうするの? ほたるとカナタちゃんから別れる?」

「………」

 正午の脳内で天秤が動く。ほたるとカナタの二人と、音緒一人のどちらが重いか、天秤は、すぐに答えを出した。

「別れない」

「そ♪ なら、今日までの浮気は許してあげる。その代わり、はっきりネオって子に、ほたるたちのこと教えるからね。それと、カナタちゃんがされたことの仕返しもするし。あと、他に浮気相手いる?」

「いないいない! エリーズにも会ってないし! 海ちゃんとも何でもないから!」

「………」

 言わなければ追求しないのに、ホントバカだね……、ほたるはタメ息をつく。

「たはーっ……エリちゃんは、おいておいて、ウミって誰?」

「ぃ…行きつけの喫茶店でバイトしてる子で……浜咲学園らしくて………でも、ちょっと喋ったりするくらいで、ぜんぜん何もない! その喫茶店も最近なぜか閉店しっぱなしだから!」

「………」

 閉店してなかったら行きつけにしたまま、そのうちにってことね……ウミ……浜咲学園でウミって……月岡海? ほたるはカマをかけてみる。

「月岡さんとはデートくらいしたの?」

「してないって! ホント話すだけだから!」

「ケータイ番号は?」

「……あるけど……ほたるがイヤなら消すよ」

「あるんだ………」

 ほたるは少し考え込み、カナタのために可能性は全て排除することにした。

「正午くん、月岡さんに会いたいって呼び出して。ここに」

「え…? でも、海ちゃん、この部屋知らないし」

「ふーん♪」

 まだ部屋までは呼んでないと……ホント正直でよろしい、とりあえずネオの前に月岡さんに釘を刺しておかないとね、ほたるはスカートを着たまま、下着を脱いでノーパンになる。そして、スカートの裾をめくって正午に股間を見せた。

「したい?」

「イエス・マイ・プリンセス!」

 すぐに正午が勃起して床に膝をついて、うやうやしく陰部に顔を近づける。ほたるは正午の頭を押さえた。

「まだ、おあずけ♪ 浮気してた罰」

「……もうしません」

「おあずけ♪」

「………犬から狼になりそうっす」

「とりあえず、月岡さんに会いたいって連絡して」

「………何て言って?」

「会いたい、すぐに、で」

「…………海ちゃんに何か言うの?」

「ちょっと話があるの。あ、でも、ほたるがいることは、その電話のときは言わないで。わかった?」

「わかった」

 正午は言われたとおり、ケータイで海に連絡を取る。

「もしもし、海ちゃん? オレオレ♪」

(加賀くん?)

「ちょっといい?」

(うーーんっ……今、ちょっと立て込んでるの。ホントにちょっとならいいけど?)

「海ちゃんに会いたいんだ」

(……それって、……どういう意味…?)

「えっと………それは、その…」

 正午は、ほたるに助言を求めるけれど、股間を見せてくれるだけで助言がくれない。ほたるは片手でスカートをあげたまま、可愛らしく片目をつぶって人差し指を唇に当てている。正午は脳を絞った。

「と、とにかく会いたいんだ! 今すぐ! 頼む!」

(今すぐって…………)

 電話の向こうで海が困っている。

「頼むよ、海ちゃん!」

(……今日は大事な……、………じゃあ、少しだけ……会ってもいいけど、千羽谷大学のサークル棟まで来てくれる?)

「あれ? 海ちゃんも千羽谷大学に行くの? ってか、すでに何か活動やってるの?」

(うん、まあ……大学には行かないけど、ちょっとバンドにだけ参加してるの。加賀くんは入学するんだよね。サークル棟、わかる?)

「たぶんね。………」

 答えつつ、ほたるに視線を送る。ほたるは頷いた。

「じゃ、すぐにサークル棟に行くから」

(少しだけだよ、会えるの)

「わかった」

 正午は電話を切った。

「海ちゃんに会って、どうしようっての?」

「同じ大学に行くんだね? 月岡さんと」

「違うって言ってたじゃん。バンドだけだって」

「ふーん……、ま、とりあえず、会っておきたいの」

 ほたるは脱いだ下着を正午のポケットに入れて、正午と腕をからめる。

「さ、案内して」

「………いいけど、海ちゃんとは、ホントに何でもないから……」

「案内して」

「わかったよ」

 二人で部屋を出てエレベーターに乗ると、ほたるはブラジャーも上着を着たまま脱いで、正午に渡した。

「キスして」

「了解♪」

 何も考えずに正午は愛らしい唇に吸いついた。さらにノーブラになった胸を触り、股間へも手を伸ばす。けれど、すぐにエレベーターが一階に着いて扉が開いた。二人で道路に出る。

「大学まで、どのくらいなの?」

「歩くと10分かな」

「じゃあ、10分、ほたるに指を入れたまま、歩いて♪」

「前? 後ろ?」

「両方♪」

 ほたるは両手でスカートを全開にあげる。通行人や学生たちがギョッとしているけれど、ほたるも正午も気にしない。すでに、ほたるはウイーンでの生活が中心になっているので、日本でのことは旅の恥はかき捨て的に思えるし、正午は何も考えていない。ほたるは四月から四年間も正午が通う大学の通学路をスカートをあげたまま、正午に膣と肛門に指を挿入させたまま、ゆっくりと歩く。警察官やパトカーが通りがかったらスカートをおろそうと思っていたけれど、運良く警邏とは遭遇せず、正午の部屋から大学まで痴態を晒したまま歩き通した。

「ハァ…ハァ…」

「ほたる、すげぇ濡れてる♪」

「正午くんとは久しぶりだもんね。ハァ…」

 ほたるの股間から溢れた愛液は内腿をつたい、足首まで濡らしている。カナタはウイーンと日本を行き来するけれど、ほたると正午の二人が会う機会は少ない。ほたるは本来的には異性愛者なので、カナタとの行為よりも正午の男根が恋しいことがあるけれど、それは絶対に言わないでいる。さらに大学構内までスカートをあげて正午に愛撫させたまま入り、サークル棟に着いた。大学は春休みだったけれど、サークル活動をしている正午の先輩たちは、ほたると正午の顔をしばらく忘れないはずで、正午は入学しても大学内で恋人ができる可能性は、ほぼ排除された。

「さてと♪」

 ほたるはスカートを整えて、海が待っているという軽音楽系の部室に正午と入る。中では海と市井清孝、佐々俊一、羽根秀巳の四人がバンドの練習をしていた。ほたると正午が入室すると、演奏が止まり静かになる。

「加賀くん……? 一人じゃなかったの……?」

「えっと……」

 何も考えていなかった正午は海の問いに答えを用意できない。ほたるの顔を見る。

「で、どうすればいいんだよ? ほたる」

「うん、一応、断っておこうと思って。二度も盗まれるのは、御免だから」

 ほたるは海を睨んだ。

「あのね、月岡さん。ほたると正午くん、付き合ってるから変な気は起こさないでね」

「っ…、……白河さん…」

 海が反応に困りつつも、いわれのない疑いに抗議する。

「何を勘違いしてるのか、知らないけど。私と加賀くんは何でもないから」

「何でもない相手にケータイ番号教えたり、急に会いたいって言われてOKしないよ。よっぽど軽い女の子じゃない限り。それに、月岡さんには前科あるでしょ? 私から金賞を盗んだ」

「っ! ………違うっ……あれはっ…」

 海は顔を蒼白にして声をつまらせた。何年も前、まだ海がピアノに取り組んでいた頃に、審査員のミスから、ほたるが選ばれるはずだったコンクールの金賞が過って海に授与されたことがあった。それもキッカケになって海はピアノを辞めている。この地区でピアノに取り組む限り、ほたるが出場する大会で金賞を獲れた者は他にいない。ほたるとしても連戦連勝、常勝不敗の記録に傷がついた想い出であり、二人は同じ浜咲学園に通いながらも入学以来言葉を交わしたことは一度もなかった。けれど、お互い相手の顔と氏名は覚えているという間柄だった。ほたるは冷たい表情を作った。

「わかった? もう盗まないでね。ニセ金賞の月岡さん」

「っ………」

 海が鞭打たれたように身震いすると、清孝が海の背中を支え、俊一が海の肩に手を置いて、ほたるを睨む。

「何なんだよ、てめぇは?」

「ただの嫉妬しやすい女の子だから、どうぞ気にしないでください。……ふーん、月岡さん、キーボード担当なんだ。あの後、ピアノは辞めたみたいだけど?」

 ほたるは海の古傷をえぐりながら、キーボードに触る。あまりに勝手な態度に俊一が怒鳴ろうとしたけれど、清孝が先に声を上げた。

「加賀…正午、って、あの加賀正午か? 的射北中のエースだった。リバウンドの貴公子、速攻の加賀」

「あ~……まあ、そーゆーアダ名で呼ばれたこともあったけど。トトは加賀百万点とか言ってくれてたけどさ。ちなみに的射北中は途中で藍ヶ丘第二中学に吸収合併されてるし、オレは高校でバスケを辞めたから。で、誰っすか?」

「ボクは市井清孝、これでもバスケットボールで、それなりの成績は残したつもりなんだけど……知らない?」

「すいません……」

「そっか。そうだろうね。全国優勝した加賀君とはレベルが違うから……」

 清孝は淋しそうに昔のことを思いやった。ほたるは話が別の方向に逸れかけているので目的を果たすため、キーボードの設定を変更してクラッシックモードにすると、海を押しのけて鍵盤を弾いた。さっきまでの電子的な音ではなく、古典的なピアノの音が響く。

「ほたるから、また盗むつもりなら呪うよ?」

 ほたるは呪いをこめてキーボードを弾く。愛や夢、恋をこめても魔法のように人の心を揺さぶる演奏は、呪いをこめても強力だった。国内で金賞、さらにウイーンで修行しているピアノの音色に呪いがこめられると、聴いている者全員に死にたくなるような気持ちを与え、とくに海は両手にいっぱいの絶望感を受けた。

「「「「「……………………」」」」」

 海も清孝も俊一も秀巳も、そして正午も暗い気持ちになって黙り込む。ほたるが演奏を終えても拍手は起こらず、後味の悪い静けさだけが残る。その静寂を破ったのは廊下から扉をノックする音だった。

「失礼。ここで、よかったのかな?」

 音楽ディレクターの綾部健太が入室してくる。

「ユアさんかな?」

「ぇ…ええ! はい、すいません。ユアです」

 清孝が反応して健太に答えた。健太は名刺を清孝に渡すと、手近なパイプイスに座った。

「じゃ、さっそく一曲やってもらえるかな?」

「…ええ。……海ちゃん、やれる?」

「海、大丈夫か?」

 清孝と俊一に心配されて虚脱状態だった海は青ざめた表情で頷いた。

「……うん……」

「?」

 ほたるは状況がわからないので、とりあえずキーボードから離れる。秀巳がドラムを軽く叩いて全員のテンションをあげようとしたけれど、あまり効果はなかった。俊一がギターをかき鳴らし、清孝がベースでリズムを作ると、海も気持ちを奮い立たせて歌いながらキーボードを弾く。その様子で、ほたるは健太が音楽関係の仕事をしている人間で今日がバンドのデビューをかけた試聴の日であることに気づいた。

「ふーん……月岡さん、キーボードだけじゃなくて、歌もやるんだ……」

「可愛いな、海ちゃん」

「……」

 ほたるは正午の足を踏んでおく。

「うぐっ……。けど、なんか元気ないな。どうかしたのかな?」

「………………」

 さきほどまでのやり取りを見ていたのに理由がわからない正午に何か言う気力が無くなって、ほたるは足をのけた。一曲の演奏が終わり、健太が乾いた拍手を送る。

「うん、まあ、やりたいことは伝わってくる、ていうか。まあ、また、連絡するよ」

 明らかに不合格という態度で健太は立ち上がって退室していく。清孝や俊一たちは落胆を隠して海を心配しつつ、ほたるを俊一が睨んだ。

「シラカワとか言ったなっ?」

「……。まあねン♪」

 ほたるは自分が憎まれ役を演じている自覚があるので、あえて憎らしく応える。けれど、予想外に退室しかけていた健太が振り返った。

「シラカワ……ほたるさん、ですか?」

「え? はい、そうですけど?」

「やぁ、やはり、白河さんでしたか。すると、さきほどのピアノの音色も?」

「はい、まあ」

「もう一度、聴かせてもらえませんか。あなたの演奏、夏のコンクールは素晴らしかったと審査員をしていた友人から聞いていて。私自身は他の仕事があって聴きに行けず、とても残念だったのです。あの後、やはりウイーンへ?」

「はい。今は春休みで」

 ほたるは少し迷ったけれど、健太の要望に応えて演奏することにした。

「キーボードのタッチは軽いから、うまく弾けないかもしれませんけど……あ、あと、イスを…」

 立ったまま演奏することに慣れていないので、ほたるはイスを借りてキーボードに向かう。深呼吸して気持ちを入れ替え、とりあえず愛をこめて弾く。ほたるとしては満足のいく演奏ではなかったけれど、健太は熱い拍手を送ってくれた。

「素晴らしぃ! ブラボーっ!」

「どうも」

 ほたるはスカートの裾をつまんで西洋式の礼をする。裾の長いドレスではなく、ノーパンだったことも忘れていたので、一瞬だけ濡れた陰部まで見せてしまったけれど、まさかノーパンだとは考えもしない健太や清孝たちは目の錯覚だと思うことにする。ほたるは当初の目的である正午との関係をアピールすることを思い出して、演奏を終えたピアニストとして正午に近づき、キスをした。

「彼は白河さんの恋人ですか?」

「秘密ですよ♪」

「はははっ、お若いですね。羨ましい」

「それじゃ、私たちは失礼します。月岡さん、バンドデビューしたら応援するね」

 ほたるが正午の手を引いて立ち去ろうとすると、健太が引き止める。

「待ってください。白河さんの演奏、ぜひ、CDにさせていただきたい!」

「ほたるのピアノをCDに? ………でも……」

 ほたるは急な申し出に難色を示した。

「でも……まだ、自分では完成してるとは思えないから、それをCDという形にしてしまうのは……ウイーンにいけば、私より上手いピアニストも……」

「だが、日本の女子高生で、それもコンクールで敵無しの看板があれば、……その、まあ、正直なところ、売れる、というのが我々の重要な観点なので……18歳の少女が奏でる心の光、みたいなコンセプトで売り出せば、かなりの売上になりますから」

「そーゆー不純な動機は……ほたるとしては……。それに、もう女子高生じゃないですし」

「日本の学校制度なら卒業式はまだでしょう。女子高生と銘打って売り出しても、それほど問題にはならない上に、18歳は18歳です。たとえ、白河さんより完成したピアニストがいるとしても、その方が30歳なら、30歳なのですよ。18歳で、これだけの演奏ができるということが、大切なのです」

「う~~ん………」

「ぜひ、お願いします」

「でも~……」

「ぜひっ! ………。彼氏さんがいることは世間には秘密にしておきますから♪ ねっ!」

「大人的ですねぇ……別に、ほたるはアイドルじゃないから、公表されても困らないしぃ。むしろ、公表された方が…」

 ネオ対策には……あ、でも、あの子、けっこうな芸能人になってるって話だから、そーゆー子と対決するのに、CDの話があるのは、悪くないかも、ほたるのCDが売れて彼氏がいるってことになれば、あの子はアイドル的な立場から公表されたくないから表立って争えないし……、よしっ! ほたるは決めた。

「わかりました。でも、日本にいられるのは短期間なので、すぐに録音でもいいですか? 曲も今までにマスターしてる分だけで、新しいのは無しって条件で」

「はいっ、けっこうです! 明日にでも録りましょう!」

 健太は名刺を渡し、ほたるの気が変わらないうちにケータイ番号も交換する。

「では、明日の10時に、ご自宅へ迎えにいきますね」

「久しぶりに帰国してるから、家には帰らないんです♪ 正午くんのとこに泊まるから♪」

「は、はははははっ。では、彼氏さんのところへ」

「できたら、10時じゃなくて、12時でいいですか? 久しぶりだもん、夜更かししちゃうと思うから♪」

「いやぁ、のろけられましたか。ははははっ。では、12時に。あまり、お疲れにならない程度にしてくださいよ。白河さんも彼氏さんも♪」

 健太は中年らしい笑顔で「この後も仕事があるので」と言って退室していった。ほたるも立ち去ろうとして、海からの視線に気づいた。海は青ざめた顔をして震え、今にも泣き出しそうな目で、ほたるを見ている。喉の奥から湧いてくる嗚咽を必死に飲み込んでいた。

「…っ……っ……っ……」

「…………」

 そっか……ホントは、月岡さんたちのデビューの話に来たのに………ほたるのせいで演奏ボロボロになって………逆に、ほたるのCDのことなんか決まっちゃって………昔の金賞のことだって、別に月岡さんが悪いわけじゃなくって審査員のミスだったから……月岡さん、ぶるぶる震えて……まるで、ほたるのことが怖いみたい……すごく、みじめで可哀相……月岡さんには今の私は絶対に超えられない壁みたいに見えるのかも………ピアノでも負けて、せっかく始めたバンドでも私に横取りされて…………………ごめん、ごめんね、……でも、カナタちゃんのためだから遠慮はできないの……ごめんなさい……、ほたるは心の中だけで謝り、冷たい笑顔をつくってクスクスと嗤った。負け犬を嗤う憎らしい勝ち組の少女として冷笑すると、海は耐えられなくなって涙を零した。これだけ大きな傷をつけておけば、ほたるを憎んで大学内で正午とのことがウワサになるはずという計算で憎悪をあおり、ほたるは敗者に背を向けた。

「さ、行こ♪ 正午くん」

「あ、うん。でも……海ちゃん、なんか泣いてるし…」

「………。あのね………。誰にでも優しいのは正午くんの小さな長所だけど、最大の短所だよ」

「え? それって、どういう意味?」

「……あとで、ゆっくり教えてあげるけど、簡単に言うと、これから、ほたるとエッチしに帰ることと、月岡さんに優しくすること、どっちを正午くんが選ぶか、って問題と。月岡さんが、正午くんに優しくされたいか、それとも、ここに三人もいる男の子の、誰かに優しくされたいか、って問題。でもって、三人もいて誰も月岡さんに優しくする気がないのか、って問題がからむの。わかる?」

「……一問目だけなら」

「そうだね、正午くんの中に答えがあるのは、一問目だけだね。でも、ほら」

 ほたるが示すと、すでに海の左右に清孝と俊一がいて、ほたるたちを睨んでいる。さすがの正午も答えを悟った。

「帰ろうか」

「それが正解」

 ほたるたちが立ち去った後、海は悲鳴のような大声をあげて号泣した。

 

 



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27話

 

 翌々日の3月5日、ほたるは昨夜遅くまで都内でピアノ演奏の録音をしていた疲労から昼過ぎまで正午の部屋で眠っていた。

「……ん~っ…………」

 眠りながらピアノを弾く夢を見ているようで、ほたるの指はピクピクと動いている。その様子が可愛くて見ていたカナタと正午は静かに笑った。

「「ほたる可愛い」」

 ほたるは全裸で眠ってるし、カナタと正午も全裸だった。

 ピロロロ♪ ピロン♪

 不意に正午のケータイが鳴った。

「ショーゴ、ケータイ、うるさい。ほたるが起きちゃうよ」

「ああ。………」

 正午は着信表示を見て悩んだ。着信は音緒からだった。

「………………………」

「ショーゴ、誰から?」

「……音緒ちゃん」

「っ……」

 カナタが青ざめて身震いした。数日前の記憶が蘇り、泣き出しそうな顔になる。

「カナタ、そんなに音緒ちゃんに、ひどいことされたのかよ?」

「……ぅ~っ………ぅぅ…」

 うまく言えないカナタに代わって、ほたるが起きて答える。

「正午くんがカナタちゃんを相手にする気がないってウソをついて、ひっぱたいて、ゴミ捨て場に押し込んだりしたのが、ひどいことじゃないと思う?」

「………。音緒ちゃんは、そんなことするような子じゃないと思うけど……」

「じゃあ、カナタちゃんがウソつきなんだ?」

「………そーゆーわけじゃないけど……。あ、着信が…」

 受話しないでいると、着信音が止まった。

「たはーっ……」

 正午がタメ息をついていると、メールが来る。

(やっと仕事オフになったよ。どこか遊びに行かない?)

「音緒ちゃん………」

 正午の顔に未練が浮かぶ。そして、どうやって、ほたるとカナタのことを告げようかと悩み始める。ほたるは正午に任せておくと、ろくな結果にならないと経験的に理解している上に、すぐにウイーンへ戻らなければならない身なので、短期決戦で臨む。

「その子、ここに呼ぶよ」

 ほたるは正午からケータイを取り上げると、メールを打って部屋に呼ぶ。すぐに音緒が一階のエントランスからチャイムを鳴らしてきた。

「……ほたる、どうしたらいい?」

「部屋にあげて。あとは正午くんは、ほたるに言われたことだけして。他は何も言わなくていいし、しなくていいし、あの子に謝る必要もないから。っていうか、軽い気持ちで女の子と遊んだ正午くん、けっこう悪いしね。謝って許されようなんて甘いよ」

「…………………」

 正午は黙って嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように身を小さくした。再びチャイムが鳴る。

「ごめん、どうぞ! 入って!」

 正午が遠隔操作して一階の玄関を開ける。ほたるは音緒の私物として置かれているバスローブを羽織って、音緒の私物と思われるキャラ物のスリッパを履くと、明らかに音緒の私物であるキャラ物のマグカップに作り置きのコーヒーを注いで啜る。すぐに、エレベーターで上がってきた音緒がドアをノックした。

「じゃ、カナタちゃんと正午くんは、奥で待ってて。なるべくなら玄関先だけで勝負つけるし」

 ほたるは玄関に向かい、扉を開けた。

「いらっしゃい」

「っ?!」

 ほたるを見た音緒は不意打ちを受けて驚いた。しかも、ほたるが着ているバスローブもスリッパも、持っているマグカップも音緒のお気に入りの品で、何より羽織っただけのバスローブは前が開いていて、ほたるの胸や股間が丸見えだった。

「………あなた、誰? ここ、正午くんの部屋よね?」

「私は白河ほたる、ここは正午くんの部屋♪」

 いけしゃあしゃあと答えて、ほたるは不敵に微笑む。カナタが受けた仕打ちを、しっかり音緒に仕返してやるつもりだった。

「どういうことッ?!」

 音緒はカナタを追い出したときとは立ち位置が逆転している不意打ちで頭に血が昇り、敵意を剥き出しにした。

「どういうことって? その質問は♪ どうして、ほたるが、ここにいるのか、それとも、どうして、ネオちゃんが呼ばれたのか、どっちを聞きたい? それとも両方? 両方にしよっか♪」

「………っ!!」

 音緒は平手打ちを放った。ほたるは予想していたので持っていたマグカップで平手打ちを受ける。

 ガシャンっ!

 マグカップは平手打ちをくらって壁に叩きつけられ、バラバラに砕け散った。中に残っていたコーヒーが音緒の衣服と、ほたるが着ている音緒のバスローブを汚した。

「あ~あ~♪ 濡れちゃった」

 ほたるはバスローブを脱ぎ捨てて全裸になり、脱ぎ捨てたバスローブで床を濡らしているコーヒーを足で拭く。

「破片、危ないから気をつけてねェ♪」

 ひどい顔してるね、ネオ………そりゃ、そうだよね、ドアを開けて彼氏の部屋に別の女の子がいたら、おまけに裸だったら、しかも、自分がやったのと同じ作戦だもん……、ほたるは誰もケガをしないようにマグカップの破片を隅に置いた。

「じゃ、ネオ。もう、正午くんの部屋には来ないでね? わかったよね?」

「………。正午くんは、どこッ?!」

 音緒は部屋にあがろうと押し入ってくる。ほたるは冷たい声で応じた。

「正午くんなら、奥にいるけど、もう、ネオの負けだよ? ね、去り際ってあるよね。今なら正午くんにとって、いい想い出の遊び相手に変われるかもしれないよ。でも、これ以上、しつこくすると思い出して笑っちゃう女に…」

 ほたるの話を最後まで聞かずに音緒は部屋にあがる。

「正午くんっ!! どういうこと?!」

「………ごめん…」

 正午は謝るなと言われていたのに謝った。謝られて音緒は自分の敗北を悟らされる。しかも、正午は全裸で、その背後にはカナタまでいた。

「KANATAっ?! なんで、あんたがここにっ?!」

「ひぅっ…」

 カナタは怒鳴られて正午の背中に隠れた。

「どういうことっ?! どうなってるの?!」

 音緒が鬼気迫る表情でヒステリックに叫んだ。ほたるが全裸のまま、正午の隣に座る。

「だから、言ったのにね。クスクス♪」

 滑稽だね……笑えるくらいに………怒りすぎて鼻水垂らしてるし、ぶるぶる震えて……こうなると、ホントみじめ……もしも、ほたるがケンちゃんに、こんなフラれ方したら生きていけなかったかも………でも、カナタちゃんにした仕打ちは許せない、こてんぱんにやっつけて思い知らせてあげる、ほたるは売春婦のような手つきで正午の男根を撫でた。

「出番が終わった脇役は、そろそろ退場してくれないかな? あ、でも、観客がいる方が興奮するかも♪」

「正午っ!! どういうことっ?!」

「……ごめん……」

「はァっ?! 私よりっ?! このNEOより、そんな地味な女がいいっていうの?! それに、どうしてKANATAまでっ?!」

「……地味……」

 ほたる地味かなぁ……まあ、派手じゃないことは認めるけど……、ほたるはタメ息をつきながら、音緒を冷笑する。

「なんか勘違いしてるみたいだけど、ほたるは音楽界じゃ有名人だよ。今度、CDも出るし。ネオってさ、モデルもCMも歌も女優までやってるらしいけど、どれも中途半端の消耗品らしいね。何か一つでも日本一ってのあるの?」

 紛れもなく日本一のピアノ少女が実力と自信に裏打ちされた自慢話をすると、駆け出しの芸能人にすぎない音緒は威圧された。ほたるの話がホラではないことが雰囲気で伝わってくる。

「くっ………、KANATAっ! あんた、どうして、ここにいるの?!」

 勝てそうにないと悟った音緒は、ほたるからカナタに矛先を変える。これまで以上に激しい声と睨みで音緒が凄むと、カナタは小さな悲鳴と小水を漏らした。

 じょわじょわっ……

 カナタは内腿とベッドのシーツを濡らして震える。音緒が嗤った。

「プっ…また、もらして。よっぽど懲りたみたいね。そんなに私が怖い?」

「ひぅぅ…ぅぅ…」

「正午っ! そんな小便女の未練にいつまで付き合ってる気っ?!」

「音緒ちゃん……」

 怖ぇぇぇ……音緒ちゃんって怒ると、こんな怖いのか……、正午は助けを求めて、ほたるを見る。ほたるは萎えている正午の男根を玩びながら命令する。

「正午くん、カナタちゃんのおまんこ舐めてキレイにしてあげて。足も」

「………。イエス……マイ・プリンセス」

 怖っ……ほたるも怖ぇぇ……、正午は命令を実行することにした。啜り泣いているカナタの小水で濡れた内腿を舐めて慰める。

「ぁ…ぁぁ……」

 か細い声でカナタは喘いだ。

「正午っ!!」

 音緒が怒鳴り、ほたるが雪のように冷たく嗤う。

「だから言ったのに。クスクス♪」

「あなたっ! 正午に何をしたのっ?! クスリか何かっ?!」

「ううん、ただの愛。それだけ」

「ふざけないでっ!」

「ふざけてないよ。ほら、正午くん、カナタちゃんに入ってあげて。よく見えるように」

「イエス・マイ・プリンセス」

 正午は小水ではなく愛液で濡れてきたカナタと座位で交わる。ほたると音緒から男根がカナタの膣に出入りする様が見えるように動いた。

「よかったね。カナタちゃんの勝ちだよ」

「ぁ…アタシの…ハァっ…勝ち……? ハァっ…ハァっ…」

「そう、カナタちゃんの勝ち」

「っ……ぁ…ああっ!!」

 カナタは強烈なオルガスムを迎えた。全身に電流が走るような激しい快感だった。負けたと思った相手を前にして、正午と交わり、ほたるに勝利だと諭されると、いい知れない喜びが身体の奥から突き抜けてくる。カナタは潮を吹いて幸せそうに蕩けた。

「ぁぁ…ハァ……ハァ……ショーゴ、大好き……」

「……。ああ、オレもカナタが好きだ」

「ショーゴ……」

 愛おしくカナタが正午にキスをする。音緒が顔を歪めて、ほたるを睨んだ。

「あんた何っ? 正午の何なの?! 私の邪魔して何の得があるっていうの?!」

「私も正午くんの恋人だよ。だから、ネオの邪魔しないと超損するかな?」

「はァァ?!」

 音緒がバカを見る目で、ほたるを睨む。ほたるは言葉だけでなく行動で示した。キスをしているカナタと正午の間に入り、三人でキスをする。さらに、射精して萎えている正午の男根をカナタと二人で舐め始めると、音緒も状況を少し理解した。

「……3P……」

 女子高生として聞いたことのある言葉だったけれど、実際に見るのは初めてだったし、一夫一婦制の文化圏で育った者として強い嫌悪感を覚える。

「………そっか。……そーゆーこと……」

 なんてプライドの無い女ども……KANATAも、この女も……フタマタかけられて、それでもいいなんて………正午も私一人より、どうせなら、二人ってこと……質より量なんて、くだらない男……もう、どうでもいい……でも、許さない、この仕返しは……、音緒は三人でのセックスを見せつけてくれている状況を逆手に取ることにした。ケータイを出して三人の痴態を撮影する。

 カシャっ♪ カシャっ♪ カシャっ♪

 全裸で交わる三人を撮って、せせら嗤う。

「この私をこけにしてくれたお礼、しっかりさせてもらうよ」

「「「……………………」」」

「さ、この写真、どうしよっかな? インターネットに流してあげようかな? それとも買う? 一枚100万円で300万円なら、売ってあげてもいいよ。あ、あと、この写真も♪」

 音緒は四日前に撮った玄関先で失禁して泣いているカナタの写真を見せる。

「これは傑作だから一枚200万円かな。どうする? ネットで世界中にバラまかれたら、三人の人生、終わるよ?」

「…音緒ちゃん……」

「正午くん、これで、この女の本性がわかった?」

 ほたるが起きあがって音緒と対峙しようとしたけれど、カナタも立ち上がった。

「ごめんね、NEOちゃん。こいつバカだから君を傷つけたよね」

 カナタは立ちながら自分の財布を取った。財布から紙幣を全て抜き出す。

「これ、とりあえず50万くらいあるから。あと、残りは明日にも振込から、それ消してね」

「なっ………」

 音緒は多額の現金をカナタから突きつけられて驚く。何より、さっきまで自信を無くして震えていたカナタが今は以前のように余裕と自信をもって音緒を憐れんでくる。

「全部で500万、ちゃんと払うから」

「………モデル辞めたのに、なんで、そんなお金があるわけ?」

「さあ♪」

「……………」

「ホントごめんね。ショーゴって、すごくバカだから。美味しそうなエサがあると、すぐ寄っていくの。飼い主として、噛まれた人に謝るよ。だから、慰謝料として500万」

「……私をバカに、……してるの?」

「うん♪」

「っ!」

 音緒がカナタを平手打ちする。

 パシンっ!

 叩かれたカナタは瞬時に打ち返す。

 パシンっ!

 お互い、一発ずつ叩き合った二人の足元に一万円札が紙吹雪になって舞い落ちた。

「……………………」

「……………。ふざけないで! このNEOのバージンが、そんなに安いわけないでしょ。五億っ! 五億もってきなさい! でなきゃ、この写真バラまいてやる! 3Pやってるインモラル超バカな姿も、小便もらして泣いてるとこも! 世界中にバラまいてやる!!」

「五億かぁ……ちょっと、明日には無理だし、もったいないかな」

「カナタちゃん、こんな子のバージン、5万で十分だよ」

 ほたるが部屋の隅から置いておいたMDウォークマンを持ってくる。録音機能のあるウォークマンを操作して、さっきまでの音緒の発言を再生する。

(…さ、この写真、どうしよっかな? インターネットに流してあげようかな? それとも買う? 一枚100万円で300万円なら、売ってあげて…)

「なっ………」

 音緒が絶句し、ほたるが微笑む。

(…このNEOのバージンが、そんなに安いわけないでしょ。五億っ! 五億もってきなさい! でなきゃ、この写真バラまいてやる! 3Pやってるインモラル超バカな姿も、小便もらして泣いてると…)

「アイドル、続けたいんだよね? ネオ」

「…………」

「こんなに裏表の激しいアイドルだってファンが知ったら、どうなるのかな?」

「…………あんたたちの写真だって…」

「ケータイの写真なんて画素数低いし、パソコン通しても、よっぽどじゃないと顔わからないし」

 ほたるは健との写真を翔太にケータイの待ち受けに設定してもらった経験から音緒が撮った写真に、それほど大きな威力はないと踏んでいる。実際、今の音緒のケータイは30万画素程度だった。

「ほたるの、このMDは自分でピアノの録音する用に買ったやつだから、音いいよ。ネオの声、しっかりわかるはず。歌も女優もやるんだよね? これからも」

「……………………。……いくら、払えばいいの?」

「お金なんていいよ。ただ、ゴミ捨て場に頭っから突っ込んでくれたら、消してあげる。もちろん、その写真も消してね」

「……………………写真は消してあげてもいいわ」

「アイドル、続けたい? もう、辞めちゃう? 悪役女優なら、できるかもね」

「このッ!!」

 音緒が逆上して平手打ちする。ほたるも同時に応戦した。

 パパッシンッ!

 二人の平手打ちが0.1秒の差もなく、お互いの頬を打つ。ほたるの左頬を音緒の右手が打ち、音緒の左頬を、ほたるの右手が打つ、まるでボクシングの一場面のような鋭い一瞬だったけれど、双方の威力には大きな差があった。

 ドタンッ! ゴロゴロっ…

 音緒は平手打ちというより、強烈な右フックをうけたボクサーのように吹っ飛び、床を転がった。

「必殺、ほわちゃんビンタ♪」 

「「……ほわちゃんパンチより………」」

「うん、パンチは遊び。ビンタは本気。ほたるの握力、ハンパないからね」

 ほたるは毎日何時間もピアノを弾いている手を見せて微笑する。顔や体格に似合わず前腕の筋肉だけは水泳をやっていた鷹乃や薙刀をしている雅よりも強靱そうだった。

「正午くん、次に浮気したら、こうなるしね?」

「……ぃ、…イエス・マイ・プリンセス」

「NEOちゃん、完全に気絶してるよ……頭、打ってないかなぁ…」

 カナタは脳震盪を起こして意識を無くし、軽く足を痙攣させている音緒を憐れんだ。叩かれた頬は真っ赤に内出血してきている。これでは一ヶ月はモデルの仕事はできそうにない。

「腫れも、ひどいし……。右から撮影してもらえば、大丈夫かな?」

「カナタちゃん、ケータイ取り上げて」

「あ、そうそう」

 カナタは音緒のケータイを拾い、自分たちの写真データーを消していく。ほたるは消去されたことを確認してから、さらに強靱な握力でケータイを折った。

 バキっ!

「翔たんに聞いたんだけど、データーって表面的には消えてもアクセスできなくなるだけで電子情報は媒体内に残ってるんだって。だから、ちゃんと」

 ほたるは折ったケータイを正午が飲んでいたマグカップのコーヒーに浸ける。音緒が正午用に買ったマグカップだった。

「処分しないとね」

 ほたるはMDのデーターも消してから、正午に命令する。

「じゃ、ゴミ。捨て来て」

「……ゴミって……」

「カナタちゃんは、この子にゴミ捨て場に押し込まれたんだよ?」

「…………でもさ……」

「正午くん、ちゃんと罪を自覚しようね。正午くんは、この子を捨てるの。ほたるとカナタちゃんに加えて、もしかして三人目もオッケーかなぁ~、なんていう甘い希望的観測と自己欺瞞で、ここまでの事態を招いた責任として、ちゃんと捨てて。捨てた後味の悪さを噛みしめて、もう二度と、女の子と軽い気持ちで遊ばないって学ぶの? わかった?」

「………わかったよ……」

 正午は音緒を担ぐと、ほたるとカナタに付き添われ一階のゴミ捨て場に降りた。

「あの辺に投げ込んで」

「…………」

 正午は気絶している音緒をゴミ山に寝かせた。ほたるが折って濡らしたケータイを投げ捨てる。正午は強い後悔と反省の念を覚えた。

「音緒ちゃん………ごめん……」

「もう浮気しちゃダメだよ」

「ショーゴのバカ」

「…………。あのさ、このままだと音緒ちゃん、凍死とか、しない?」

「「……………………」」

 三月とはいえ、かなり寒い。音緒が目を覚ますのが遅ければ正午の懸念は現実になりそうだった。

「正午くんの優しさは小さな長所ではあるけどね。……まあ、凍死は困るし、起こしておこっか」

 ほたるは自分の手形がくっきり赤く残って腫れている音緒の頬を指でつつく。

「ぷにぷにぃ♪ お前のホッペをこうしてくれる♪ ぷにぷにぃ~♪」

 音緒が起きないので、ほたるは指でつつくだけでなく、頬の肉をつまんで引っぱる。正午が可哀相に思った。

「ほたる……そんなことしたら……かなり痛いんじゃ……。それ、唯笑ちゃんが猫にやってた……」

「カナタちゃんもやってみる?」

「うん♪」

 カナタも音緒の腫れた頬を玩ぶ。

「「ぷにぷにぃ~♪」」

「……カナタ……ほたる……」

「正午くん、女の子って残酷だね。普段なら絶対にできないようなことなのに、嫉妬がからむと、こんなにも平然と、ひどいことができるよ? むしろ、楽しいよ?」

「………ごめん……ほたる……カナタ……ごめん…」

「うん、わかれば、よろしい」

「ショーゴはバカだから、わかるの遅いしね」

「……ごめん……オレが悪かった……だから、もう…」

「あ、起きそう。ハーイ♪ NEOちゃん」

「ぅぅ……」

 音緒が目を覚ました。ゴミの中から三人を見上げると、自分が置かれた状態が理解できていく。猛烈に痛い頬と、壊されたケータイ、ゴミの匂い、悔しくて涙が滲んだ。

「ぅぅ…、くぅっ…」

「じゃぁね、バーイ♪」

「MDも消してあげたからね。安心してアイドル頑張って♪」

「……音緒ちゃん……ごめん……」

 最後の言葉を残した三人が居なくなると、音緒は悔しさの余りゴミ袋を引きちぎって泣いた。

 

 

 

 一週間後の3月12日、クロエは妹に呼ばれて幸蔵が入院している病院に向かわなければならなかったけれど、すぐに駆けつける気持ちになれず、書店で時間を空費していた。

「……意識が戻ったなら……別に私が会わなくても………」

 気持ちの整理ができないでいるクロエは書店を歩き回りながら、CDコーナーで足を止めた。

「インモラル・インパクト……英語で、不道徳な衝撃、ねぇ…」

 本日発売されたNEOの歌唱CDを手に取る。

「……………………」

 あまり興味は湧かなかった。むしろ、先行予約を受付しているという18歳の天才ピアニストのCDに期待を覚える。

「ウイーン……クラッシック音楽の本場……」

 今の気分を晴らすのに勇壮なピアノオーケストラを聴きたいと思ったけれど、発売は二ヶ月先だった。クロエはCDコーナーを離れ、写真集の棚に近づく。

「……14歳の少女が抱えた心の闇……………一条秋名……」

 自分と同じ世代の若年カメラマンが撮ったという写真集を手にとって開いてみた。

「……………………」

 一見して陰鬱で残酷な小動物の死体などが撮られている。

「…………………………………………」

 けれども、なぜか閉じて置こうという気になれず、パラパラとページをめくる。

「……………帰りに買って……、とりあえず、用事を済ませて……」

 病院へ向かう気になったクロエは書店を出て、すぐに病室を訪ねた。軽くノックするとノエルが扉を開けてくれる。

「お姉ちゃん♪」

「……ノエル、……あの人の様子は?」

「今は眠ってるの」

「そう……」

 ようやく集中治療室を出た幸蔵はベッドに横たわっている。安らかに眠っている様子でクロエは少し安心した。エリーズ亡き今、自分はともかくノエルが親無き子になるのは不憫でならない。幸蔵が回復することをノエルのために祈っていると幸蔵が目を覚ました。

「……ん……」

「パパっ♪」

「……ノエル………。ク……クロエ……」

 幸蔵は意外にも離別宣言された娘がいることを心から嬉しく思い、顔を歪めた。

「……来て……くれたのか……」

「ええ」

「………クロエ……」

「…………」

 何と言うべきか、わからないクロエは黙り込み、幸蔵もノエルに話しかける。

「ママは、どうしてる?」

「ママは……わからないの……バイクで出かけてるから」

「そうか……」

「………」

 そうか、じゃないわよ………死んだのよ、あなたの妻は………その子の母親は……もう、死んでるのよ……二人とも知らずにいるなんて………でも、やっと目を覚ましたところで妻が死んだことを知らせるなんて……できない………、クロエは行方不明であるエリーズのことは話題にせず、あえて無理やりに別の話題をふる。

「三年生を送る会、うまくいったわ」

「……そうか……」

 意識が戻ったばかりの父親に学校行事のことを告げてくる娘に、どう返していいか、わからず、幸蔵は力なく微笑んだ。

「それじゃあ、私は」

 クロエが立ち去ろうとすると、ノエルが淋しそうに呼び止める。

「お姉ちゃん……」

「………。言っておくことを忘れたわ。幸蔵さん」

「……クロエ……」

「あなたの娘は辞めたけれど、ノエルの姉は始めることにしたわ」

「クロエ………ありがとう」

「お姉ちゃん……」

「困ったことがあったら、いつでも来てちょうだい、ノエル。困ってなくても遊びに来ていいのよ」

「うんっ! ありがとうっ、お姉ちゃん!」

「じゃ、明後日の卒業式の準備があるから。また、……ここにも来るわ。ノエルのお父さんのことも………一応、心配だから」

「クロエ……すまない…」

 幸蔵は病身を震わせて、嬉し泣きした。

 

 

 

 3月14日、卒業式を控えた朝、鷹乃が朝食を作るのをクロエとノエルが手伝っていた。

「そろそろ智也を起こしてくるわ。目玉焼き、お願いね」

「はい、ママ」

「はい、鷹乃お姉さん」

 クロエは三上家の台所で慣れた手つきでフライパンを扱い、ノエルも補助をする。四人分の目玉焼きを作って皿に並べていると、鷹乃と智也が降りてきた。顔を洗った智也は眠そうにアクビをしながら制服を着ている。

「ふぁぁぁ……今日で最期か」

「そうね。この制服に袖を通すのも、これでおしまいね」

「いや、たまにエッチするとき、着てほしいから残しておいてくれよ。浜咲の制服は、そそる」

「……。智也、子供の前で、そーゆーことを言うのはやめてちょうだい」

「フフ♪ 夫婦の仲がいいのは、いいことじゃないですか? 夫婦も目玉焼きも冷めているより熱い方が美味しいですよ」

「クロエまで……ノエルちゃんも、いるのよ」

「え? そーゆーこと、よくママも言ってたよ。赤ちゃんはコウノトリが投下するわけでもキャベツ畑でもない、とか」

「「「……………………」」」

「でも、パパは、そーゆーこと言うんじゃないって」

「夫婦の片方に常識があってよかったわ。嘉神川のお父さん、回復してる?」

「うんっ! 来週には退院できるって」

「そう、よかったわ。さ、そろそろ食べないと遅刻よ」

「「「いただきます」」」

 四人での朝食に違和感はなかったけれど、途中で急に鷹乃が顔を曇らせた。

「………」

「ママ? 大丈夫?」

「…ええ…何でもないわ。…ちょっと、フラっとした、だけ……目まいかしら…」

「鷹乃、大丈夫か? どうせ、卒業式だけなんだから、休むか?」

「…いえ…、…叔父と叔母も見に来てくれるから…」

「そうか。でも、ホントに大丈夫か?」

「ええ、大丈夫、もう治ったわ」

「……ダイエットとか、しすぎるなよ」

「してないわ。ちゃんと健康な体重を維持してるから」

 そう言いつつも鷹乃は目玉焼きを半分まで食べて、タメ息をついた。

「ごめんなさい。やっぱり、食欲がないわ。智也、食べてくれる?」

「おう」

「せっかく作ってくれたのに。ごめんなさい、クロエ」

「ううん。それより、ホントにママ、大丈夫なの?」

「ええ。さ、そろそろ行きましょう。卒業式に遅刻はカッコ悪いわ」

 三人が家を出るのをノエルが見送ってくれる。

「いってらっしゃい」

「ノエルも四月からは小学校に通わないとね」

「お姉ちゃんが行った学校がいいなぁ~」

「藍ヶ丘第一小学校よ。公立だから、普通に入学すれば、そこになると思うわ」

「っていうか。ノエルちゃんって今は不登校児扱いなのか? もう何ヶ月も」

「だって、ママが…」

「智也。ホントに遅刻するわよ」

「おう」

 智也たちが道路に出ると、すぐに彩花と唯笑に出会った。

「おはよう、智也、鷹乃さん、クロエちゃん」

「おはよう、トモちゃん、鷹乃ちゃん、クロエちゃん」

「よぉ」

「おはよう、桧月さん、今坂さん」

「おはようございます、彩花さん、唯笑さん」

「お前らと会うのも、これで最期だな♪ 達者で暮らせよ」

「トモちゃん……、唯笑たち卒業しても、ここから通学するよ……」

「オレも、ここから通勤するけど、時間帯が変わるからな♪ これで、最期だ♪」

「ぅぅ……なんで嬉しそうなの?」

「バカだからよ。ね、智也?」

「彩花、お前、どういう流れで、そうなる?」

「男子一人に、女の子4人でハーレム登校なんて状況が、今日で最期になることを認識できないバカってこと♪ 社会人になったら、この状況、いくら払っても無理よ」

「ぐむっ…、……けど、無理ってことは、ないぞ。社会人ならキャバクラで複数指名すれば可能だ」

「へぇぇ♪ 18歳未満のいる店あるんだ?」

「いや……それは、知らないけど…」

「っていうか、奥様、旦那さん、なんだか、いかがわしいところに行く気ざますわよ」

 彩花がおどけて鷹乃に耳打ちすると、智也は鋭く睨まれた。

「帰りが遅い日は注意するわ」

「い、いや! 誤解だって! バーは行くけど、キャバクラは行かないって!」

「………バーには行くね」

「バーは健全っぽいところなんだって」

「幸蔵さんも、そんなことを言ってました。でも、そういうことが積み重なると、夫婦に取り返しのつかない亀裂が生じるんですよ」

「クロエまで………、誓って言うが、オレは鷹乃を愛してる。神に誓う、アラーとヤハウェと天照大神とオーディンとガンダムに!」

「そんな安売りバーゲンみたいな神様より、私に誓いなさい。どうせ、智也も無神論者でしょう? 神なんて婚姻届の用紙より軽いわ」

「おっ、うまい♪ 神と紙をかけた鷹乃的ギャグだな?」

「誓うの? 誓わないの?」

「誓います。ザーメン」

「「「……………………」」」

「トモちゃん、ザーメンって何?」

「そっ、それはだな…、ほ、ほたる的ギャグっだ!」

「ほえ?」

 意味が分からない唯笑の袖をクロエが少し引いて耳打ちする。

「ドイツ語でSamenはフランス語ではspermeですが、日本語に直訳すると…」

「待て待て! おい、唯笑! お前らの電車、もう来るぞ! 走れ!」

「唯笑ちゃん、行こう」

 彩花が唯笑を連れて行く。智也は今日で最期になる二人の澄空学園の制服を見送りながら、タメ息をついた。

「たはーっ………おい、クロエ、唯笑に余計なこと言うなよな」

「フフ♪ では、私も行ってきます」

 微笑みながらクロエは中学校へ向かっていく。智也と鷹乃の二人になった。

「…………………」

 藍ヶ丘駅に向かいながら、鷹乃は難しい顔をして黙り込んでいる。

「鷹乃、マジでキャバクラとか行かないし、バーは普通のとこだからな?」

「……………え?」

「だから、変な店には行かないってことを…」

「ああ、その話……………」

「怒ってるんじゃないのか?」

「行ってないなら、それでいいわ」

 藍ヶ丘駅から浜咲駅まで、二人で最期の登校をする間も、学校に着いてからも、鷹乃はタメ息をついたり、何かを深く考え込んでいる様子で智也は心配したけれど、すぐに卒業式が始まってしまった。教師が卒業生の氏名を呼び上げている。

「本条理人っ!」

「はいっ!」

「あんなヤツ、いたっけ?」

 智也は出席番号が近い翔太に話しかけた。

「呼ばれてるからには、いたんだろうさ。オレもサッカー部と同じクラスになったヤツ以外は、さっぱりだ」

「ま、何にしても今日から生徒と教師の関係じゃなくなるな。おめでとう♪」

「おうよ。これで、思いっきりデートできるぜ!」

「心底嬉しそうだな」

「当然♪」

「月岡海っ!」

「はい…」

 呼ばれた海は校長の待つ壇上へあがる。一礼すると校長が卒業証書を手渡してくれる。

「卒業、おめでとう」

「…ありがとう…ございます…」

 海は卒業証書を受け取ると、ごく普通に壇上を降りるけれど、ほたるの姿を卒業生の列に見かけて、胸を痛めた。

「っ………」

 どうして……あの子が………ウイーンに留学したんじゃないの………助けて……清孝……俊一……、海は顔を伏せて席に着いた。海たちのクラスが終わり、教師も入れ替わって、つばめがマイクの前に立つ。

「伊波健っ!」

「……はい……」

 ほたると別れ、巴とも別れて、鷹乃に断られて、望と付き合っていたのに、突然の交通事故で恋人を喪った健は無気力に壇上へあがった。

「………」

「礼をせんか!」

 かつて、この生徒に殴られたことのある校長が不機嫌そうに小言を言うけれど、健は立っているだけで形式上の礼をしない。

「ちっ……」

 校長は舌打ちして、卒業証書を突きつけ、健も駅前でチラシを受け取るような動作で高校を卒業した。

「加賀正午っ!」

「イエッサー♪」

「……」

 つばめは変な返事をした正午を、じっとりと睨んだけれど、今日で教師の指導を聞かなくてもよくなる正午は軽い足取りで壇上にあがると、校長と対峙する。トラブルを起こす気はないので形式上の礼をした。

「卒業、おめでとう」

「バーイ♪」

 卒業証書を手にすると、ニヤリと笑い、校長に永遠の別れを告げた。

「中森、翔太っ!」

 つばめが万感の想いを込めて翔太の名を呼んだ。

「はいっ!!」

 翔太も胸を熱くしながら誰よりも高らかに返事をする。

「…」

「…」

 一瞬、つばめと翔太は見つめ合い、翔太は壇上へと向かう。

「卒業、おめでとう」

「ありがとうございます」

 校長に対しては、とくに思うこともなく卒業証書を受け取った。

「三上智也っ!」

「はいはい」

 もう卒業する智也は何も思わなかったけれど、つばめや校長たちは、この生徒が起こした数々のトラブルを思い起こして、やっと卒業してくれることを安堵とともに送り出す。呼び上げが男子から女子にかわった。

「沖田慶子っ!」

「はい」

 男子と同じく、あいうえお順に呼ばれていく。

「黒須カナタっ!」

「は~いっ♪」

 軽く返事をしたカナタが軽く壇上へあがると、他の生徒とは違う軽い紙質の暫定卒業証書を渡される。二学期のほとんどを出席していないカナタは春休みに補講に出なければ、正式な卒業証書がもらえず、来年度も三年生になる身分だった。

「卒業、おめでとう」

「できたらね♪」

 補講にも来年度にも出席する気のないカナタは、あえて恭しく戴冠する王族のように暫定卒業証書を受け取った。

「白河ほたるっ!」

「はいっ!」

「あいつ、何でいるんだ?」

 智也が他の生徒も思っていることを翔太に問うと、あきれられた。

「朝のHRで、つばめ先生が説明してたじゃないか。ウイーンへの留学をもって、二学期以降も出席したと見なして卒業式に招待したって。あのアホ校長にしては、粋な計らいだと思うぜ」

「ただ単に白河の栄誉に預かりたかっただけじゃないか」

「そうだとしても、嬉しいだろ。みんなで卒業するのはさ」

 智也と翔太が話しているうちに、ほたるが壇上に登った。

「卒業、おめでとう」

「ありがとうございますっ!」

 元気よく返事をして、ほたるは180度回転すると、体育館に響き渡る大きな声で叫ぶ。

「私はぁ~っ! 浜咲学園が大好きだったよぉ!! 卒業しても、大好きだよぉ!! ありがとう! 先生っ! みんな!!」

 大きく手を振って学校全体に感謝の念を表している。ほたるの絶叫は式次第にないハプニングだったけれど、少しずつ起こった拍手は大きくなり、ほたるは祝福された。拍手が終わって、智也が翔太に言う。

「あいつ、実は目立ちたがりなんじゃないか?」

「三上と、同じくらいにな」

「オレは……目立ちたがりだが、あいつは、むっつり目立ちたがりだ」

「……なんだよ、それ」

「寿々奈鷹乃っ!」

「はい…」

 鷹乃が重い足取りで壇上へ向かう。翔太が心配した。

「彼女、元気ないな。三上が何かしたのか?」

「いや……思い当たることは無いんだけど……」

「まさか、ノーパンとか強制してないだろうな?」

「ほたるはノーパンだよ♪」

「アタシも♪」

 壇上から戻ってきていた二人が見えそうで見えないギリギリまで翔太と智也の前でスカートをあげる。見えそうで見えないので冗談なのか、本当なのか、わからない。

「お辞儀すると、後ろから全部見えちゃうのに、ぜんぜん騒ぎにならかなったね」

「アタシたちのおまんこ見られるなんてショーゴ以外、生涯最後のチャンスだったかもしれないのに」

「ここから壇上って遠いしね。あ、でも、カナタちゃん、濡れてる♪ 興奮した?」

 ほたるがカナタのスカートに手を入れると、カナタも入れ返す。

「ほたるも濡れてるじゃん♪」

「さっすがに全校生徒におまんこ見せてると思うと、すっごいドキドキするね」

 かなり興奮したらしい二人は、お互いの性器を触り合っている。翔太と智也からはスカートに隠れて見えないけれど、クチュクチュと生々しい音は聴こえてくる。

「あん♪」

「いい♪」

「「……………………」」

 翔太も智也も後で恋人に怒られるとイヤなので相手にしないことにした。鷹乃が校長に苦痛そうな表情で一礼している。

「卒業、おめでとう」

「……がとう……」

 鷹乃らしい礼を言ったけれど、卒業証書を受け取ると、そのまま座り込んでしまった。

「おい、君?」

「……ぅっ……」

 鷹乃は顔を伏せて震えている。校長は感極まった女生徒が泣きかけているのかと思ったけれど、違った。

「うえぇっ!」

 鷹乃が吐いた。

「けほっ…けほっ…ううっ…うぇ…」

 普通の吐き方ではなく、それほど吐瀉物は無いのに吐き気が長く続いて立てない。周りの教師と智也が立ち上がった。

「鷹乃っ!」

「…ぅぅ……」

 鷹乃が首を横に振っているけれど、それほど意味はない。慶子が嗤いながら冷やかした。

「つわり? 妊娠してるんちゃう?」

 慶子の声が鷹乃の耳にも届き、口元を押さえながら睨む。その目線の深刻さで、誰もが慶子の言葉を事実ではないかと思い、鷹乃も妊娠を自覚しかけていた。コンドームによる避妊も100%ではないし、一月になってからは、もう卒業も近いという油断から避妊せずに性交したこともある。生理も遅れていた。智也が妻に駆けよった。

「鷹乃、大丈夫か?」

「…ええ……」

 鷹乃は智也に抱き支えられて壇上を降りると、保健室へ向かう。その二人の様子も妊娠という言葉に真実味を持たせてしまい、教師たちは最期までトラブルを起こす智也のことを本当に今日で最期にしてほしいと思いながら、見送った。

「野乃原葉夜っ!」

「のんだよ♪」

 やや遅刻していた葉夜は呼び上げには間に合った。

「花祭果凛っ! 本日、欠席です」

 卒業要件を満たしているのに卒業式に欠席した生徒には呼び上げだけが行われ、あとで卒業証書が送られることになっている。

「以上、32名」

 つばめが担当する呼び上げを終えた。

 

 

 

 六時間後、仲のいい卒業生同士でルサックに集まることになっていたので、澄空学園からは彩花と唯笑、かおる、巴が到着していた。さらに浜咲学園から、ほたるとカナタ、正午、葉夜が合流すると、一気にかしましくなりウエイトレスをしている相摩希はタメ息をついた。

「卒業式か……うかれてトラブルにならないといいけど…」

 このところ人手不足になっているルサックは今夜も忙しくなりそうだった。吐き気が治まった鷹乃と智也が来店してきた。

「あっ、トモちゃん!」

「よぉ」

「鷹ちゃん、大丈夫なの?」

「ええ……健康よ」

 カナタの問いに、鷹乃は含みのある言い方をしたので勘の鋭い女子の何人かは、鷹乃の妊娠を確信した。さらに、つばめと翔太、そして健が来店したので場の空気が微妙に変わる。ほたると巴は健を見ないし、健も顔を伏せている。かおるや彩花が気をつかって無関係な話題をふって盛り上がろうとするけれど、どうしても空気が重い。智也は文句を言いたかったけれど、身重かも知れない妻がトラブルに巻き込まれるのはさけたいので健の方は見ないようにする。正午も何か言いたいけれど、よく考えると、ほたるとカナタに永続フタマタをかけているので、やぶ蛇になってもイヤなので黙っている。健は空気の重さを感じて席を立った。

「やっぱり……ボク…帰るよ」

「待てよ。健」

 翔太が呼び止める。

「いいから、座れって。な」

「…でも…」

「デモは機動隊が鎮圧するんだ。言論の自由は無い♪ オレが幹事だ。な、いいだろ、みんな?」

 幹事と連絡係をした翔太に、誰も反対はしなかったけれど、賛成もしなかった。智也が空気を変えようと話題を提供する。

「おい、中森。そろそろ発表しろよ。そこの、20代中頃の女性は、誰の何だ?」

 つばめが歳のことを言われて智也を睨む。

「あなたたちの先生です」

「さっき卒業した♪」

「正式には3月31日まで、あなたたちの先生です」

「つばめ先生は、ずっとオレたちの恩師ですよ。そして、オレの……」

 翔太がアイコンタクトで許可を乞い、つばめもタメ息で認めた。

「オレの恋人なんだ」

 翔太の宣言で場が盛り上がる。拍手と歓声があがり、囃し立てられる。カナタと智也がけしかけた。

「「キスっ! キスっ!」」

 ほたると巴も悪のりする。

「「キッス♪ キッス♪」」

 さらに、正午と唯笑、かおるも便乗した。

「「「キッス♪ キッス♪ キッス♪」」」

「ちょっと、やめてくれよ、お前ら…」

 翔太が騒ぎを静めようとするけれど、あまり効果がない。どんどん声が大きくなる。希がウエイトレスとして注意しにきた。

「他のお客様のご迷惑になりますので騒がないでください。ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 さっさと食べて、さっさと帰ってよ、希はウエイトレスとして失礼でないギリギリのラインまで冷たい態度で騒いでいた高校生に釘を刺して立ち去る。その背中を健が見つめていた。

「…………」

「ほら、怒られたじゃないか。あんまり騒ぐなよ。とくに、三上、黒須さん」

「「………。キッス♪ キッス♪」」

 懲りずに智也とカナタは小さな声で囃し立てを再開する。ほたると巴も乗った。

「「「「キッス♪ キッス♪」」」」

 だんだん声が大きくなる。

「おい、やめろって。また注意されるから」

「翔たん、たぶんキスするまで、みんなやめないよ? ねぇ?」

 ほたるが小悪魔のように微笑む。カナタと智也が邪神のように嗤った。

「「「「キッス♪ キッス♪」」」」

「お前ら………」

 翔太が恋人を見る。つばめはタメ息で許可した。

「……」

「……」

 つばめと翔太が軽く唇を重ねる。

「「やったーーー♪」」

「「うひょーーーっ!!」」

「「「キャーーーーっ♪」」」

 冷めている鷹乃と彩花、健以外の全員が歓声をあげたので店内に響き渡った。希がズンズンと怒りながら歩いてくる。

「お客様っ! 他のお客様に迷惑ですっ!!」

「すいません」

 代表して翔太が謝り、希は背中を向けて去っていく。健が望と同じ希の姿を食い入るように見つめていた。

「…………」

「もう、二度と騒ぐなよ。まったく……おい、健? どうした?」

「…………何でも……ない」

「翔たんと先生、いつから付き合ってたの?」

「それは……」

「私たちの話よりも、今日の主役は卒業生である皆さんでしょう。本当に、おめでとう」

 つばめは話題を替えてほしいので卒業生を祝う。

「無事に卒業できて何よりです」

「アタシ、まだ、だよ」

「黒須さんも、ちゃんと補講に出席してください。国語の課題も…」

「中退でいいよ」

「………」

「中退、おめでとう、って、言ってごらん。南」

「先生をつけなさい」

「中退するから♪」

「カナタちゃん、ふざけてると怒るよ」

「や~ん♪ ごめんなさい、ほたる。南先生、中退残念賞ください」

「中退するのは自由ですが、残念賞を贈らない自由もあります。卒業すれば卒業証書を送りますよ」

「オレと鷹乃のことも、一応、発表しておくぞ」

 智也が自分たちのことを告げる。

「実は秘かに入籍して、すでに鷹乃は三上鷹乃だったりする。あと、妊娠してるかもだ♪」

「ほぇぇええっ?!」

「「「キャーーー♪」」」

 唯笑をはじめ、とくに女子が歓声をあげた。翔太は慌てて希の方に頭を下げておく。

「おい、いい加減にしろって」

「ああ、キスはしない。見飽きただろ?」

「そーゆー問題じゃなくて……とにかく、始めよう。なにか注文しないと、あのウエイトレスに、また怒られるぞ」

 翔太がメニューを開くけれど、女三人寄ればかしましいの如く、なかなか決まらないどころか、雑談ばかりしている。翔太がメニューを自分に向けた。

「もう、オレがテキトーに、みんなで食べられそうなもの頼むからな」

「うん、翔たん、お願い」

「中森、カラアゲは忘れるなよ」

「はいはい」

「翔太くん、カラアゲのつけ合わせのレモンは大盛りで」

「つばめまで……つけ合わせ、大盛りって…」

「「あ♪ 呼び捨てにしたぁ!」」

 ほたるとカナタが目聡く反応してくる。

「静かにしろって。もう、注文するからな。すいませーーん!」

 翔太が希を呼んだ。

「ご注文がお決まりでしょうか?」

 希は怒った笑顔で端末機を構える。翔太はメニューを指した。

「これとこれ、それに、これ、あと、これのレモン大盛りって、できますか?」

「できません」

 迷惑な客に対して希は冷たく答えた。翔太が困る。

「……。つばめ先生、できないって」

「では、レモンティーをティー抜きで」

「つばめ……あとで買いに行くから。ここは諦めて。カラアゲは3皿頼むし、3皿とも、つばめがレモン取っていいから」

「翔太くんが、そう言うなら」

「以上で、よろしいですか?」

「はい。あと、人数分のドリンクバーを、いち、に、さん、しぃ、ご…」

「「「ビール♪」」」

 智也とカナタと正午が声を揃えた。

「許可しません。常識で考えなさい」

 つばめが常識を口にした。

「ドリンクバーは13名様分ですね」

 長くなりそぉ……ドリンクバーも時間制限つけてほしい……とくに、こういううるさい客は……、希はタメ息を隠しながら端末機を入力していくけれど、健の視線を感じて睨み返した。

「………」

「………」

 目が合った健は涙を滲ませて見つめてくる。

「………」

「…っ…ぅっ…」

 滲ませた涙が溢れて、頬をつたった。涙が止まらないようで、幾筋も頬を流れ落ちていく。

「ぅぅ……望……」

「希です。……あの子が死んで悲しいのは、あなただけじゃないんです。私、彼氏もいますから、そんな目で見られると迷惑です。やめてください」

 仕事中の希は切り捨てるように言って背中を向けた。残された健が泣き続けるので、場の空気が木星の重力のように重くなる。

「…ぅぅ…くっ…」

「そういえば……イナの彼女って、さっきのウエイトレスに似た感じだったかも。また、浮気でもしてフラれた?」

「……違う……望は…ぅっ…ぅぅ…」

 健の泣き方が尋常ではないので、彩花が噂話を思い出した。

「学校でウワサになったけどさ。さっきのウエイトレスさん、一つ下の学年の相摩希っていうらしいけど、双子の妹がいて、くりそつだったの。それで、ときどき入れ替わって学校に来てらしいけど、ちょっと前に交通事故で亡くなったって話。………イナミくんの彼女だったの?」

「…うぅ…」

 健が泣き声を返答に代えた。

「そっか。ご愁傷様」

「いい気味ね。ヒグラシみたいに泣いて暮らせばいいのよ」

 鷹乃が嘲ったのを彩花が怒る。

「いくらなんでも、その言い方は無いでしょ? 人が死んでるのよ」

「………。亡くなった人に言ったわけではないわ。そこのボウフラ以下のゴミに言ったのよ」

 鷹乃が何を言っても健は泣いているばかりで空気が重い。

「男のくせに、メソメソと、みっともない。気分が悪いわ。帰りましょ、智也。クロエたちも待ってるわ」

「そうだな」

 智也がテーブルに千円札を置いて立ち上がった。

「トモちゃん、鷹乃ちゃん、帰っちゃうの?」

「ああ、悪いな。できれば鷹乃を安静にしておきたいし、お前らの顔も見られたから、もう帰る」

「そっか。バイバイ、トモちゃん、鷹乃ちゃん」

「おう」

「またね、今坂さん」

 他のメンバーとも別れを交わして智也と鷹乃が姿を消した。健が力なく立ち上がる。

「ボクも……帰るよ」

「健、もう少し……すまん。逆効果だったみたいだな。また、部屋に行く」

 親友を励まそうと思って呼んだけれど、いつのまにか、つばめとの仲を見せつけただけに終わってしまった翔太は朝凪荘に行っても同じ結果になりそうで、健の背中が見えなくなると深いタメ息をついた。

「ふぅぅ……」

「イナミくん、相当きてるね。お医者さん、行った方がよくない?」

 彩花も心配している。

「私、ちょっと見てくる」

「ヒッキー、やめとけば?」

「じゃあ、トトが行く? 未練あるなら…」

「ないない。ヒッキーのために言ってるの。ろくなことないよ、イナに関わると。顔と性格は、いいからさ、つい惹かれちゃうけど、ろくな男じゃないよ。ね、ほわちゃん」

「え? ……さあ♪」

 ほたるは何もコメントしない。彩花は席を立った。

「やっぱり、見てくる」

「あらら……」

 巴は彩花が出て行くと深いタメ息をついた。

「たはーっ………ヒッキー、苦労すると思うなぁ」

「彩ちゃんなら大丈夫だよ」

「彼に少しは学習機能があることを期待したら?」

 かおるが言い加える。

「それに、トトと違って望さんとは浮気じゃなくて終わったわけでしょ」

「だから、余計によ。………私、弟が死んだから少しはわかるつもりだけど、交通事故って、いきなりなのよね。病気とも浮気とも違ってさ。ある日、突然、いなくなる。永遠に。あれって、こたえるのよ。まして、付き合ってる恋人だったら………たぶん、一生忘れられない。理想化されるし、生きてるうちにフったり、フラれたりする方が、ずっと傷は浅いよ。何年経っても想い出すよ、これから、ずっと」

「彩ちゃんなら大丈夫だよ。看護婦さんだもん」

「来月から、やっと看護学校に行くだけでしょ。まあ、でも、ヒッキー、ああいう母性本能をくすぐられるタイプに弱いのかも」

「トトが、それ言う?」

 かおるが笑って、少しは場の空気が軽くなる。希が注文された品を運んできた。

「ご注文は、以上でおそろいでしょうか?」

 健がいないので希はウエイトレスとして模範的に給仕してくれた。かおるが遠慮がちに声をかける。

「ぶしつけな質問なんだけど。妹さんが亡くなられたの、どんな事故だったの? ……さしつかえなければ、教えてくれない。その後のこととか」

「……。ニュースでも少し流れましたけど、踏切事故です。望が踏切が開くのを待っていたら、後ろから無免許運転の軽トラが来て……。最悪ですよ。無免許運転だったから、自動車保険もおりなくて、たった3000万円の強制保険からのお金だけ。運転してた男は逮捕されて、もともと無一文の麻薬の密売人でしたし、今はお父さんたちが裁判の用意をしてるの」

「裁判? その逮捕された男を?」

「違います。その軽トラは、ある魚屋さんの軽トラで、業務中だったから使用者責任があるとかいうことで、他の遺族と連絡を取り合って慰謝料の裁判をしようって」

「大変ね」

「もう、いいですか?」

「ええ、ごめんなさい」

「では、失礼します。ごゆっくり、お召し上がりください。でも、もう騒がないでくださいね。騒いだら、ゆば…」

 希は何か言いかけて途中でやめ、キッチンに戻っていった。注文したときよりも人数が減ってしまったので食べるのに苦労しつつも、ある程度の食事が終わると、つばめが席を立った。

「いつまでも教師がいては、煙たいでしょう」

 つばめは少し多めに紙幣をおいた。

「ご卒業、おめでとう。また、風の向くことがあれば、会いましょう」

「オレも…」

 慌てて翔太も自分の分を財布から出して、つばめを追いかける。

「アタシたちも帰って、エッチしようよ♪ ほたる、ショーゴ」

「そうだね」

「そうだな」

 カナタ、ほたる、それに正午が席を立つ。三人とも少し多めに紙幣を置いていった。テーブルに現金がバラバラに置かれたままになっているので、かおるが集めて数えると、もう十分な額に達していた。

「私たち、おごってもらっていいのかな?」

「いいんじゃない。っていうか、残り者って感じで、ちょっとムカつく」

 巴が言い、唯笑が見当違いの返答をする。

「残り物には福があるっていうよ。でも、もうお腹いっぱいで、食べられないね」

「そーゆー意味じゃなくて……ああ、もう! むかつくから、花火やろうよ! のんっ!」

「いいね♪ ファイナル・ミッションだね」

「そうよ、藍ヶ丘第二中の魂は永遠に不滅なんだから!」

「私、その中学じゃないよ」

「いいから、いいから」

「こんな季節外れに花火なんか、売ってるの?」

「あるある。海岸沿いのコンビニに行けば、あるんだって、これが」

「じゃ、ちゃんとワリカンで計算して私たちも払って、残ったお金で花火代にしよ。でもって、四人で思いっきり楽しそうな写真を撮って、さっさと帰っちゃた連中に送ってやるの!」

「うん、それいい!」

「「決まりだね♪」」

 唯笑と葉夜も賛成してルサックを出ると、コンビニで花火を買い、海風を浴びながら季節外れの花火大会を満喫する。楽しい写真を何枚も撮って花火が終わると、しんみりと砂浜に座った。かおるが目を閉じる。

「いい風ね」

「ちょっと寒いけどね」

「夏なら徹夜ミッションだったね」

「唯笑、もう眠いよ」

「じゃ、そろそろ…」

 かおるは腰を上げ、見知らぬ男二人が近づいてくるのに気づいた。いかにも不良という感じの二人組だった。

「おっ♪ なんか、女の子がいっぱいいるな」

「ホントっすね。可愛い子ばっか」

「「「「……………………」」」」

 四人とも誉められて嬉しいとは思わない。砂浜には他に誰もいない。叫んでも人家まで届きそうにない。おまけに、智也も健も、翔太も正午もいない。無防備に女子だけで夜中まで遊んでしまった自分たちのうかつさを呪う。かおるが不良二人組を睨んだ。

「何か用?」

「オレらと遊ぼうぜ」

「お断りよ」

「いいよ♪」

 葉夜が快諾した。かおると唯笑が驚くけれど、巴も受け入れる。

「私も、いいよ。唯笑ちゃんたちは帰りな」

「トトちゃんっ?!」

「トトっ?!」

「2対2。もう席はないの。乗り遅れたね」

「トトっ! 自棄になるのは…」

 かおるが叱ろうとすると、巴は耳元に近づいて囁く。

「唯笑ちゃんを連れて帰って。のんと私なら、なんとか大丈夫」

「……トト…」

「ファイナル・ファイナル・ミッションはカラオケにゴーっ♪」

 葉夜がノリのいい女子高生を演じると不良二人組も嬉しくなってのる。

「「ゴーだぜッ♪」」

「じゃ、カラオケやってる間に、お互いの親睦を深めるとして、千羽谷の商店街まで行こうよ。安いカラオケ屋さん知ってるし。まあ、もしも、その気になったら、ホテルもあるし。もしも、よ、もしも♪」

 巴は下手に断ると砂浜で襲いかかってきそうな雰囲気があった二人組から、かおると唯笑を離脱させ、葉夜と駅に向かう。巴と葉夜はアイコンタクトを交わしながら、時計とシカ電の時刻表を見比べ、不良二人組にねだる。

「私、喉かわいちゃった♪ コーラね」

「のんはパイナップルジュース♪」

「へいへい。って、コーラはあるだろうけど、パイナップルジュースなんて自販機にあるかなぁ」

「オレもタバコを……」

 不良二人組の注意が自分たちから逸れるタイミングをシカ電の発着に合わせて作り、巴と葉夜は千羽谷とは逆へ行くシカ電に駆け込み乗車する。

(あっ! あいつら!)

(おいっ!!)

「「バイバーイ♪」」

(待て、コラっ!)

(ざけんなっ!)

 追いかけても、すでにシカ電の扉は閉まり発車していく。葉夜が親指を立てた。

「ラスト・ミッション♪」

「成功っ♪」

 葉夜と巴はハイタッチして笑い合った。

 

 

 

 

 

     高校卒業から18年後

 

 

 清孝は湊都子と、ならずやに来店していた。

「いらっしゃい」

 カウンターから田中静流が挨拶してくれた。清孝と静流は同じ千羽谷大学卒業の同期生だったけれど、お互いに面識はなかった。

「お二人様ですね」

「いえ、待ち合わせなんです。…あ……俊一…」

 清孝は約束より早く着ていた俊一を見つけ、その隣に有沢りかのがいたので困った顔をした。

「俊一、今日は大事な話だって言ったろ」

「ああ、オレも大事な話があるから、ちょうどよかったんだ」

「お前も?」

「ああ、オレ……こいつと、…りかのと結婚しようと思う」

「っ?! いや、ちょっと、待て! じゃあ、海は?!」

「だから、海のことは清孝に頼もうと…」

「勝手なことを言うなよ、オレは都子と結婚するから………海のことは…お前に…」

 言いながら、自分も同じ勝手なことを言い出していることに気づいて清孝は語尾を弱めた。

「今日は、オレが……大事な話ってことで、俊一を呼んだんだろ? オレの話が先じゃないか?」

「……そうだな……すまん……」

「…………。オレは都子と結婚しようと思ってる」

「………なら、海は?」

「………………。都子は妊娠してるんだ」

「っ………」

 俊一が頭を抱えて叫ぶ。

「りかのも妊娠してるんだっ!」

「っ……」

「裏切り者っ!」

「お前だって!」

「海に何て言うんだっ?!」

「…………もともと、無理だったんだ。三人で……なんて……、実験は失敗だった。そういうことだ」

 清孝は席を立った。まだ飲んでいないコーヒー代を置いて都子と店を出る。自動車で移動して約束してある不動産会社を訪ねた。

「市井です」

「あ、はい、市井様ですね。こちらへ、どうぞ」

 スーツ姿の智也が応対してくれる。

「こちらなど、いかがでしょう? 3LDKで、お子様が産まれても十分に広いかと」

「そうだね。他のも見せてくれる? できれば、貯金して一戸建てを買いたいから、しばらくは安いところでガマンしようかと思ってるんだ」

「はい、では、少し小さめですが、ここなどは?」

「いいね。現物を見られる?」

「はい、澄空市内ですので、すぐに」

 智也はサングレイス澄空に清孝を案内し、都子が気に入ったので賃貸契約は成立した。二人の客を見送った智也は会社に戻って書類を作り、今日の仕事を終える。

「終わったァァ!」

 残業はしない主義を心がけているので、すぐに自宅へ帰る。藍ヶ丘の三上家へ帰ると、郵便受けをチェックして、ニヤリと笑った。家に入って妻に声をかける。

「とうとう加賀と白河が入籍するってよ。結婚式の招待状が来てる」

「そう。………」

 鷹乃は夕食の準備をしながら考え込んだ。

「………………………」

 それでは……黒須さん………20年近くもフタマタされた後に……捨てられて……それとも愛人に……ずっと平等に扱っていたのを……片方だけ入籍なんて……、鷹乃が表情を曇らせていると、妻の思考を読んだ智也が招待状を見せる。

「ほら」

「加賀正午……加賀ほたる……加賀カナタって、……」

 招待状は連名で来ていた。印刷されている写真があり、試し撮りらしいウエディングドレス姿は、ほたるとカナタの二人で、正午を挟んで座っている。

「……重婚……あの人たち、国籍でも変えたの?」

「ふふふ♪ クロエと同じだ」

「クロエと? やっぱり、黒須さんを愛人にして…」

「そーゆーところじゃなくて、三上クロエと同じやり方さ。ちゃんと、加賀カナタとしても戸籍に入る、養子縁組だ」

「養子縁組って……誰が親で? 誰が子なの?」

「白河と加賀は9月生まれだろ。で、黒須は10月生まれだから、加賀と白河が結婚して黒須を養子にするんだ。何年か前に相談されたから、この方法を教えてやったのを、とうとう実行したみたいだな」

「………呆れたわ……法律上は可能でも……そんな方法……私たちがクロエを養子にしたこととは意味が、ぜんぜん違うわよ」

「ま、クロエが三上クロエだったのは、ほんの数年だったな」

 智也はテレビ棚に飾ってあるクロエの晴れ姿を見る。写真の中でウェディングドレスを着た塚本クロエは幸せそうに微笑んでいた。

「クロエ、大丈夫かしら……」

「クロエなら大丈夫だろ。何と言っても正妻だし」

「………愛人がマンションの隣にいるのよ。子供まで」

「りりん、だっけ? 変な名前だな。でも、その家って代々母子家庭なんだろ。意地になって一人でも育ってるって、ここに怒鳴り込んできたときは、かなりビビったなァ。いっしょにいた婆ちゃんメチャ怖かったし。ってか、怒鳴り込むならバカ志雄のとこにしろよなぁ」

「代々母子家庭なんて……望んでそうなったわけでもないでしょ」

「けど、そーゆー運命なのかもな。でも、クロエにだって子供いるし、負けないって♪ クロエの子供だから、オレらの孫だもんな。オレら、すでに、爺さん、婆さんだぜ?」

「……」

 返事をしたくない鷹乃が黙っていると、智也が追い打ちする。

「婆さんや♪」

「………」

「婆さんやーぁ、夕飯、まだかいのぉ?」

「………次に言ったら、カラアゲの油をかけるわよ?」

「…怖っ……テレビでも見よ」

 智也はテレビをつけた。

(…今日午後、澄空市の路上で元アイドルの荷嶋音緒さんが刺殺される事件が発生しました。逮捕された力丸紗代里容疑者によれば、荷嶋さんといっしょにいた飛田扉さんを刺殺しようとして、あやまって荷嶋さんを刺したとのことで、飛田さんを襲った理由は18年前の交通事故で家業だった鮮魚店が倒産することになり、当時、飛田さんが従業員をしていたことと関係があるようです。また、力丸容疑者の父親も飛田さんが関係する交通事故で死亡しており、神奈川県警では詳しい動機の解明を急ぐとともに、いっしょにいた飛田さんが麻薬を所持していたことから、現行犯逮捕し、飛田容疑者と力丸容疑者の双方から事情を聴取しているとのことです…)

 智也は缶ビールを開けた。

「何年も前の交通事故の恨みで……か……、こだわりすぎだろ。……この、荷嶋NEOってさ。けっこう売れた歌手じゃなかったか?」

「そうだったかもしれないわね。でも、たしか、覚醒剤か何かで、五年ほど前、芸能界を辞めたんじゃ?」

「そんなニュースもあったなぁ。芸能界なんて、ろくなもんじゃない」

 智也は時計を見た。すでに夜9時を過ぎている。

「おい、ちょっと、遅いんじゃないか」

「すぐ、できるわ。あなたの好きなカラアゲよ。揚げたての方がいいでしょ?」

「そうじゃなくて、帰りが遅すぎる」

 智也は年頃になる実の娘の帰宅が遅いことを怒った。

「あの子も、もう高校生なんだから、そーゆー日もあるでしょ」

「高校生だから、心配なんだ」

「そうね♪ あなたが私を襲ったのも高校生の頃だったわね」

「ぐっ……。まさか、彼氏とか、いるんじゃないだろうな?」

「さあ♪ そこまでは知らないわ。でも、男友達と、いっしょみたいよ。たしか……稲穂信一くん」

「なんだ、その怪しげな名前は。男は狼なんだぞ、ちゃんと9時には帰るように言っておけよ」

「……。ふふっ♪ ふふふふっ♪」

 鷹乃が笑い続けるので、智也が怒る。

「なにが、可笑しいんだ?」

「そうやって娘を心配する姿を見てると、今が幸せなんだって、思っただけよ」

 鷹乃は美味しそうなカラアゲをテーブルに置いた。

 

 

 

  「智也が浜咲だったら」 fin

 




とても長くて、登場人物も多い二次作品に、お付き合いいただきありがとうございました。
これにて完結となります。

また、他にも何か投稿するかと思いますので、機会があれば、読んでやってください。


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