君の、名前は―― (えばんす)
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1話

「はぁ…」

 

この日何度目かも分からないため息をついた。手元に視線を落とすとまるで進んでいない仕事。

何をやっているんだ…と思うも体が働かない。

それもそのはず、心は一つのことに支配されていた。

 

(宮水…三葉…)

 

今日、何度この名前を心の中で呼んだだろう。

原因はただ一つ。間違いなくあの朝の出来事だろう。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「「君の、名前は――」」

 

「「………」」

 

静寂に包まれる二人。

瀧は焦っていた。

初めて会った人に名前を聞いた。

当たり前のこと、それなのに瀧は自分の名前を言い出せないでいた。

自分の名前を言うのが違う気がして、彼女に名前を呼んでもらいたくて――

 

「ふふっ…」

 

彼女が笑い出した。

さっきまで泣いていた彼女が笑うくらいだ、誰から見ても相当焦っているように見えたのだろう。

そのことに気づき、自分でも分かるくらい顔が赤くなる。

 

「ごめんなさい。黙りこんじゃって」

「いやっ、全然、こちらこそ、あのっ…」

「三葉…宮水三葉です」

 

彼女は少し笑いながら言う。

 

(みつは…宮水三葉…)

 

名前を聞いただけ、それなのに、なぜこんなにも、心が落ち着くのだろう。

暖かな波のように、この名前が心に、体中に広がっていく。

止まりかけていた涙が再び溢れ出しそうになる。

それをぎゅっと堪えていると――

 

「君の名前、教えてくれませんか?」

 

彼女が少し苦笑いしながら聞いてくる。

名前を聞いて、ぼーっとしていた自分に気づきまた少し顔が赤くなるのを感じる。

 

「瀧…立花瀧と言います」

「瀧…立花瀧くん…」

 

彼女もまた、名前を呟いている。

と同時に、彼女の目に涙が溢れ始めた。

 

「あれっ…なんでだろう…名前を聞いただけなのに…ごめんね?」

「俺も…君の名前を聞けただけで、ただそれだけが本当に嬉しくて…心が満たされる気がして…」

 

彼女は取り出したハンカチで目元を拭う。

彼女も、自分と同じ感情を抱いていることが途方もなく嬉しかった。

 

そんなことを考えていると、何かを忘れているような気がした。

彼女の名前を忘れていたこととは違う、もっと身近なことを忘れている気がする。

そこで瀧は首をかしげる。

 

(初対面の人の名前を忘れる?今聞いたばっかりだろ?俺は何を思い出そうとしていたんだ?でもいつか、名前を聞いたことが――)

(違う、そんなことじゃなくて、もっと身近な、もっと簡単な――)

 

そこまで考えてはっとする。

反射的に、スマホの電源をつける。

スマホの画面写し出された時間は、出勤する時間をとうに過ぎていた。

それに気づいた瀧は血の気が引いていくのを感じる。

会社に入社して間もない瀧が遅刻するのはあってはならないことだった。

 

「やばっ!三…宮水さん!時間が!」

 

危うく下の名前を呼び捨てで呼んでしまいそうになった自分に疑問を抱く。

が、今はそれどころではなく――

 

「へ…?時間…?うわっ!」

「宮水さん!と、取り敢えず仕事に行きましょう!」

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「はぁ…」

 

またため息だ。

自分でもそう思う。

会社には遅刻してしまいこっぴどく叱られてしまった。

しかし、このため息は間違いなく怒られたことに対してではないだろう。

 

(宮水…三葉…)

 

また呼んでしまう。

でも、名前をずっと呼んでいないと、忘れてしまいそうで、もう二度と思い出せなくなりそうで。

スマホには交換した連絡先もある。

名前も登録してある。

名前を忘れてしまっても、スマホを見ればすぐに思い出せるのに。

それでも、ずっと呼んでいないと、考えていないとダメな気がしていた。

今すぐ話をしたい。

顔を見たい。

声が聞きたい。

名前を呼んでもらいたいーー

 

「立花!いい加減手を動かせ!」

「す、すみません!」

 

上司から名前を呼ばれてまた上の空だったことに気づく。

 

(課長じゃないんだよなぁ…)

 

呼んで欲しい人と違う人から名前を呼ばれ苦笑いをする。

よし、仕事に集中しよう。

そう自分に言い聞かせて手を動かし始めた。

 

「はぁ…」



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2話

「はぁ…」

 

何度ため息をついただろう。

自分でもそう思っていると――

 

「本日17回目のため息だね」

「う、うるさいなぁ」

 

向かいに座っている同僚から小馬鹿にされながら回数を教えられる。

でも、回数なんかは関係なくて、もっと大切なものがあって。

 

(立花…瀧…)

 

ため息の回数より何回も思っている名前を心の中で呼ぶ。

こっちこそ、本当に何回呼んだか数えきれないくらいに。

原因はただ一つ。朝に起きたあの出来事しかなかった。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「「君の、名前は――」」

 

「「………」」

 

静寂に包まれる二人。

三葉は焦っていた。

初めてあった人、しかも男の人に話しかけたことに自分自身とても驚いていた。

その上に、どちらも名前を言おうとはしない。

訳の分からないこの状況に、おどおどしながら、ふと彼の顔を見ると自分より焦っているのがすぐにわかった。

しきりに首の後ろ側をさすって、口は開いたり閉じたりしているし、目はきょろきょろと、どこを向いているのか分からない。

 

「ふふっ…」

 

思わず笑ってしまった。

ちらっと彼の顔を見ると今度は真っ赤になっていた。

少し可愛いと思った。

 

「ごめんなさい。黙りこんじゃって」

「いやっ、全然、こちらこそ、あのっ…」

「三葉…宮水三葉です」

 

彼が面白いから、思わず名前を言っちゃったけど、なぜかもやもやした。

初めてあった人なのに、彼に名前を呼んでほしかった。

自分でもおかしいと思った。

それでも、名前を呼んでほしかった。

三葉と呼んでほしかった。

 

でも、言ってしまったことは仕方ない。

彼の名前を教えてもらおう。

そう思ったのに、いつまでたっても名前を教えてくれない。

怪訝に思って、彼を見ると涙目になりながらぼーっとしている。

おかしな人と思いながらも、嫌な気分には全くならなかった。

その感情は理解できてむしろ、嬉しい――そう思った。

 

「君の名前、教えてくれませんか?」

 

彼の反応に苦笑いしながら名前を聞くと、ぼーっとしている自分に気づいたのか、また少し顔を赤らめながら――

 

「瀧…立花瀧と言います」

「瀧…立花瀧くん…」

 

自分の口から彼の名前が溢れていることに気づいた。

でも、それを止めることはできなかった。

そんな些細なことを止めることができないくらい、大きな感情に心が支配されていた。

心に、体中に染み渡っていく。

いつの日からか、ぽっかりと空いていた穴に何かがぴったりとはまる感じが確かにした。

何かが頬濡らしていることに気づきはっとする。

 

「あれっ…なんでだろう…名前を聞いただけなのに…ごめんね?」

「俺も…君の名前を聞けただけで、ただそれだけが本当に嬉しくて…心が満たされる気がして…」

 

また泣いてしまった…。

彼に会った時も、声を聞いた時も、名前を聞いた時も、こんな小さなことで一々泣いてしまい、今度はこちらが顔を赤くしてしまう。

バレないように、ハンカチで顔を隠しながら涙を拭く。

 

でも、彼も私の名前を聞いた時に涙が出そうになっていたことを思い出し、彼と同じ気持ちを抱いていることが途方もなく嬉しかった。

名前を聞く、そんな小さなことが、私にとっては、いや私達にとってはとても大事なこと、何よりも大事なことなんだと理由もなくそう思った。

聞きたいことがいっぱいある。

何から話そうか。

そう思いながら口を開いた時――

 

「やばっ!三…宮水さん!時間が!」

 

彼が真っ青になりながらそう言った。

何を言っているのだろう?

だが、次の瞬間、言っていることはすぐにわかった。

 

「へ…?時間…?うわっ!」

「宮水さん!と、取り敢えず仕事に行きましょう!」

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

「はぁ…」

 

本日18回目のため息をついてしまう。

会社には、当然の如く遅刻してしまった。

正直、会社を休んででも彼と話していたかった。

でも、あのまま話していてもどちらも混乱した状態で思うように話せなかったと思う。

だから、何を話すか、何を聞くかを考える時間にしようと思った。

 

(立花…瀧…)

 

しかし、彼に関することを考えようとすると、彼の名前が出てきてしまう。

何回も、何回も呼んだ名前。

でも、こうしていないと忘れてしまいそうで、消えてしまいそうで。

連絡先も交換した。

もちろん、名前も登録してある。

スマホを見たら一発で名前がわかるのに。

それでも、呼び続けるのは間違ってはいないと思う。

もう二度と忘れたくないから。

そこで疑問を抱く。

 

(あれ?彼の名前聞いたの初めてやよな?忘れるも何も、初めて聞いたはずやのに…)

 

二度と忘れたくない。

自然に出てきたこの言葉。

一度目はどこにいったのだろう。

不思議な気持ちを不審に思っていると――

 

「三葉ー。そろそろ仕事に集中しないと怒られるぞー」

「あ、うん…わかってる…」

 

上の空で返事をした三葉にダメだこりゃと同僚に思われているとは露知らず、彼のことを仕事中ずっと考えていた。



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3話

瀧は人生の岐路に立っていた。

高校を決めた時よりも、大学を決めた時よりも、就職先を決めた時よりも、いや、就職先はここしかなかったから選びようがなかったな。

そんなことを思い苦笑いしていると、目の前の問題を思い出し苦虫を噛み潰したような顔

に戻ってしまう。

 

仕事を終え、いつもなら真っ直ぐ家に帰るはずだが、今日は違う。

悩んでいるのは朝出会った彼女――宮水さんに連絡をするかということ。

今朝会ったばかりなのに、その日の夜に連絡をするのはがっついていると思われるだろうか、会って話をしたいと言ったらチャラい男と思われるだろうか――

考えれば考えるほど、不安な気持ちがふつふつと沸き上がってくる。

今日はやめておこう――そう思った時、ふと気づく。

 

朝、眼が覚めるとなぜか泣いている。

こういうことが俺には、時々ある。

そして、見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。

ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く、残る。

 

何かを忘れているのか、何かを、いや、誰かを探しているのかは分からない。

明日も、起きた時に泣いているかもしれない。

でも、根拠も、理由もなく、もう二度起こらないだろうと思った。

頭で考えても何故なのかは分からないけれど、俺の体が、心がそう確信している。

今、彼女に会わないとまた戻ってしまう。

毎日が何か物足りなくて、何かを、誰かをずっと、ずっと探していたあの日々にまた戻ってしまう。

それに気づいた俺の手は自然に動き始めていた――

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

三葉もまた、人生の岐路に立っていた。

上京するのかを決めた時よりも、大事な選択だと思っていた。

 

仕事終わり、同僚から飲みに行かないかと誘われたけど、今日はそんな気分じゃなかった。

彼に会いたい、会って話がしたい。

ただ、それだけだった。

仕事中は、何を話そうかとか、もう連絡しても迷惑じゃないかなとか、余裕があったのに、いざ連絡するとなると手が全く動かない。

急に連絡したら、迷惑かな、驚くかな。

彼は、いやがるかな。

今日は連絡をやめて飲みに行こう――そう思った時にふと気づく。

 

朝、眼が覚めるとなぜか泣いている。

こういうことが私には、時々ある。

そして、見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。

ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも、長く、残る。

 

朝起きた時に、何か大切な、とても大切なものを忘れてしまうあの感覚。

いつからだったか、もう忘れてしまったけれど、何かを、誰かを探している。

その誰かというのは彼――立花くんのことなのだろうか。

おそらく、いや間違いなくそうだろう。

頭で考えても何故なのかは分からないけれど、私の体が、心がそう確信している。

彼に連絡をしよう、そう決意した時――

 

ぴろり〜ん。

 

スマホが鳴った。

 

「ひゃっ!」

 

始めてケータイを買ってもらった小学生が、始めてのメールに驚いたような悲鳴を小さく上げる。

周りの人がちらりと見てくる。

少し顔が赤くなるのを感じながら、誰からの連絡なのかを確認する。

その差出人は――

 



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